ゲームチェンジャー (のなもちとちみ)
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第1幕 GAME0 序章
序章


前書き★

ストーリー上(作者の脳みそ上)の混乱を避けるため、西暦和暦の表示に関してかなり曖昧のまま強引に進めてまいります。
細かい月の表示など若干のズレはご勘弁下さい。


方言、言語等にはあまり拘らない予定です。
雰囲気が崩れない程度に気は使いますが、ストーリー上(作者の脳みそ上)で特に影響が無い難しい言語は使わないつもりです。


第1幕の中盤まで、歴史に全く触れません。


誤字脱字は随時修正していますが、永遠に発見されてくるので直し切れてません。ご指摘頂けると幸いです!

以上、感想、評価を頂けると喜びます。

どうぞごゆっくりとお楽しみください。


それでは本編へどうぞ~



 人生に価値を見いだせなかった者は【生きる事を諦め】て、半ば投げやりにそれに挑んだ。

 

 最愛の人を失った者は【生きる理由】さえも見失い、変化を求めそれに挑んだ。

 

 平凡な日常に疲れてしまった者は【そこから逃げ出す】ため、全てを捨ててそれに挑んだ。

 

 退屈な日々に埋もれていた者は、【莫大な賞金】を求め、生き方を変えるそれに挑んだ。

 

 

 十人十色と言えば聞こえはいいが、其れ等は全て命がけであり、事実多くの命を奪い去っている。

 

 

 その群像は多くのドラマを生み、多くの悲劇を生み、多くの感動を生み、多くの惨劇を生んできた。そんな群像と隣り合わせの場所で産まれた稀有な愛情の証しは、遠く離れた時間の先に取り残され、孤独と闘いながらもバランスを失い、自覚の無いままに壊れかけている。

 

 不安定な【時代の狭間】でいくつもの命が失われ、【正しい時代】で失われた命もまた、脆く儚い群像へと飲み込まれていく。

 

 人は生き方を選ぶのは難しい。けれども同様に、死に方を選ぶ事もまた、難しい物なのかもしれない。

 

 

 

――――――――――――――――

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――――――

――――

――

 

 

 

 

■西暦2336年

ゲネシスファクトリー 日本支部

 

 

 未来への夢は過去に託す。

 過去への第一歩こそが、未来への第一歩である。

 

 

 

『タイムズトンネル、開きます』

 

 

 人は過去を知る事は出来ても、未来を知る事は出来ない。

 

 未来は創造する物であるが、その方法は必ずしも【未来】にあるとは限らない。

 

 未来を過去に託すため、その準備が着々と行われている。それは一つのテーマを隠れ蓑に、一部の者が多くの者を欺く形で秘密裏に進められており、それを多くの者が知るのは遠い未来であるが、知る場所はおそらく過去であろう。

 

 

『転送準備開始、各員、候補者リストからの参加者回収に全力を上げよ』

 

 

 時代の狭間を行き来する事も、彼等には決して難しい事ではない。しかしながら、それは自由気ままに楽しめるような話しでもない。

 

 

『執行部よりサポート部各員へ、今回は我々からの推薦で新人3名が参加している、特にサポートリーダーは各員との連携に努めてもらいたい、以上だ』

 

 

 送り込む者も、送り込まれる者も、その殆どが【欺かれている者】であり、装われたテーマに疑いを抱いている者は少ない。

 

 

『時空域最高管制室より各員へ……転送準備完了、これより転送を開始します!』

 

 

 《ィィィィリリリリリ》

 

 空気を無理やりに捻じ曲げたような甲高い電子音が一帯を包み込むと、待機していた8名の身体が渦巻き状の空間に吸い込まれていった。

 

 

『転送完了を確認……通常監視モードに移行します』

 

 

 ここにまた、新たな物語が始まろうとしている。



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第1幕 GAME1 【未来からの使者】
第1話 思い立ったが吉日?


■西暦2015年

 岐阜県 □□町

 

 

――思い立った。

 

(そうだ、やめてしまおう)

 

 仕事に行くのを諦めた俺は、駅とは逆方向にフラフラと歩いてる。行けば行くほど寂れた景色が広がり、田舎と言うよりも廃村に近い状況になってしまう。

 

 

 こんな長閑な田舎町に住む俺にも、妖怪月曜日は容赦なく襲い掛かってくる。特に天気のいい月曜の朝に襲ってくる妖怪は、何故かやたらと強敵だ。戦うこっちは本当に憂鬱になる。

 

 無駄に明るい太陽に八つ当たりをしたい気分にさえなってくるが、太陽と喧嘩しても勝てる気がしないのでやめておく。

 

 

「はぁ……」

 

 ため息しか出ないと言うべきか、ため息ならいくらでも出せると言うべきか。

 

 

(めんどくさい……やめちまおう)

 

 前々から考えていた事ではあったが、やっぱり実行に移す事にしようと思う。

 

 

「春かぁ」

 

 当たり前の話しであるが、春である。

 

「あったかいな」

 

 

 思わず漏れた独り言がおかしくて、一人でニヤリと笑ってしまった。さっきは憎らしかった太陽も、ちょっと心持ちが変われば気持ちがいい物だ。

 

 

 ここは確かに山里ではあるが、割としっかり整備された国道が通っている。

 

 そしてこの国道が通る渓谷は、四季折々の風景を楽しめるちょっとした名所らしい。特に紅葉を楽しめる秋には沢山の人が訪れるのだが、桜が散ってしまった後のこの時期は閑散としていて人がいない。山向こうの街まで荷物を運ぶトラックが通る程度なのだが、今の俺にはそのほうが都合がいいのだ。

 

 

 人がいない、車もほとんど通らない。

 

 もちろん、そんな場所には警察さんも滅多に来ない。だからこそ、たまに通る車はどれも結構な速度で走り抜けて行く。

 

 

(よし、やめちまおう)

 

 

 改めて決意なんて必要ない。

 

 もう、ずっと前からそのつもりだったから。

 

 

 国道沿いの歩道に立ち右方向を観察、お目当てのソレが来るまで待っている事にした。

 

 

 時折吹き抜けていく春の風は、少しだけ夏の匂いを運んで来ているようだった。

 

 

 あまり長い時間は待たなかったと思う。

 

(来た来た、いい感じ)

 

 積荷をたっぷり積んでいるであろうトラックが、かなりのスピードで走ってくる。

 

 

(一瞬だろうな)

 

 

 一瞬の躊躇が時間を止め、待ち望んでいたお目当てのトラックが轟々と風をまき散らしながら目の前を過ぎた。

 

 迷いは無かったはずなのに。

 

 

(情けなっ……俺ってショボッ)

 

 

 足が動かなかった。

 

 未練っていう物がいったい何を指すのかよくわからないが、そんな物を持ち合わせているつもりはない。生きる価値など皆無なのだ。

 

 

 

――そこそこイケメンに産んでくれた母には、感謝している。

 

 中高生の頃はそれなりに楽しんだし、社会人になっても同期の中ではモテたほうだったと思う。いい思いもしてきた。

 

 

 でもある時、唐突に全部が面倒になって実家に戻り、悠々自適な引き篭りライフも早3年が過ぎた。

 

 

 気が付けば、俺はこの3年で多くの物を失っていた。都会で出来た友達からの連絡はついに一切来なくなり。地元の幼馴染達も、大半が大阪や名古屋や東京で立派な社会人を演じている。

 

 完全なる引き篭りに、両親も愛想を尽かしたようだったし、昔はあんなに可愛かった弟と妹も、たまに実家に戻ってきては俺を冷たい目で見る。

 

 

 そして何より、僅かばかりの貯蓄が底を付いた。

 

 

 よくあれだけで3年も持ったと自分を褒めたくなるけれど、あくまで両親の提供してくれた部屋と食料があっての話だ。

 

 

 自由になる金が尽きたのと、そろそろ社会復帰のリハビリにと思ってアルバイトをしようと面接を受け、たまたま人手不足だった企業に就職できちゃう事になり、幸運だと思ったりもしたけれど。

 

 初日から、人手不足の理由を痛感させられるひどい会社だった。両親は俺の再就職を喜んで応援してくれていたけど。

 

 

 あれは。

 

 上手くいけば厄介者を追い出せるかもしれない、という期待がさせる応援だろう。

 

 

 本当に全部、嫌になった。

 

 

 それでも俺なりに決意はあったんだ。再就職をする前に身辺のヲタクグッズはあらかた処分したし。たまっていたエロ本もエロDVDも、PCの履歴も処分した。

 

 

 で、再出発してみたはいいけど、やっぱり。

 

 

(お……また来た)

 

 

 視界に入ったトラックは、さっきのよりも速そうに見える。

 

 

(生きるのって、めんどくさいよ)

 

 

 俺は持っていたカバンを地面に置き、短距離走に挑むアスリートのように両の太ももをバシバシと叩く。

 

 

(いけるっしょ)

 

 

 幸か不幸か、身辺整理も出来てしまっているわけだ。迷いも、未練も、無いはず。

 

 しいて言うならば、歴代彼女が全員揃って貧乳だった事くらいか。

 

 

(天国に巨乳天使ちゃんいたらいいな)

 

 

 距離感ばっちり。数歩駆け出せばすべてが終わる。

 

 

 3歩駆け出して道路に立ち、正面はさすがに怖いから横向きに立って目を固く瞑った。

 

 

《プッ!! プーーーー!!》

 

 

 右耳の鼓膜がやぶれそうな警笛。

 

 

《キィィィィィィィ!!》

 

 

 

(クラクションとブレーキ音……お約束だ)

 

 次はドーンと音がするのか。それとも俺は死んじゃうから、その音は聞こえないのか。右半身が怖くて意識が集中して、なんだか熱いような気がする。

 

(あれ、もう死んだかな?)

 

 

 

 <ガチャ>

 

 

 

(ん?)

 

 

「あっぶねぇな! 死にてぇのか! ふざけんな!」

 

 

 

 恐る恐る目を開く。

 

 

(ん? ん?)

 

 そこには、何故か俺の左手前方に停車しているトラックがある。反対車線にはみ出して停車し、運転席から出てきたおじさんが俺に向かって叫んでいるのだ。

 

 

(あれ?)

 

 状況がよくわからないので運転手さんに聞いてみる事にする。

 

「今……俺をすり抜けました?」

 

 

 自分でも分かるほど声が震えていた。たぶんボリュームも小さくて、おじさんの所まで届いていないと思う。

 

 

「死にたきゃそこから飛び降りて死ね! あほか!」

 

 

 川に掛る大きな橋を指差して怒鳴ると、そのままトラックに乗り込み走り去ってしまった。

 

 

(なんで……?)

 

 

 死ぬはずだった。

 

 右から来たトラックに撥ねられて。

 

 なのにトラックはそのまま左方向に走り抜けたらしい。

 

 ブレーキが間に合う距離じゃなかったし、あの速度で避けれる距離でもなかったはず。

 

 

(すり抜けたんかな?)

 

 自分の現状がさっぱり理解不能である。

 

 

 首をかしげて突っ立っていると、不意に後方から女の子に声をかけられた。

 

「おにーさん、これからどうするの? 言われた通りに飛び降りる?」

 

 

(な、だれ?)

 

 この辺りの子ではなさそうである。何せ人口の少ない町だ、年頃の女の子なんて数える程しかいない。

 

 

 声が出ていない事に気付いた俺は、ちょっと慌てて言葉を探す。

 

 

「……あ、いや、その……あの……」

 

 

 気の利いた台詞は思い浮かばなかったが、その原因は色々だ。

 

 

 なによりまず、自分の体が面白いほどに言う事を聞かない。どうにか車道から歩道に戻った足は、カクカクと震えていた。そんなに怖いならやらなきゃいいと、自分に突っ込みを入れたくなる。

 

 死のうとは思っていたが、痛いのとか怖いのは嫌な自分に情けなくなった。

 

 そして、二つ目。

 

 それは目の前にいる存在。少し年下にも見えるが同世代にも見える女の子だ。パッチリ二重の大きな瞳で、俺をじっと見つめているのである。

 

 緊張しているのは、見つめられている所為もあるけれど。

 

 

(ヤバ……すげぇ可愛い……!)

 

 

 男から見れば当然ながら、たぶん女から見ても、オネェから見ても、誰が見てもどう評価しても同じであろう。兎にも角にも、とんでも無く可愛いいのだ。

 

 

 それともう一つ、これは趣味趣向の世界なのだが。

 

 

(やや巨乳……デカイ!)

 

 

 割とピッタリ目のワンピースは、女の子のボディラインを無駄に強調している。どう表現しようとしても、それは抜群のプロポーション以外の何物でもない。

 

 

 女の子はすらっとした長い脚を一歩二歩とこちらへ踏み出し、不思議そうな表情で話しかけてきた。

 

「お兄さん、あのね、私の日本語、わかります?」

 

 憎らしいほどのいい天気、お日様に照らされて淡い茶色に光る髪の毛が、春の風に優しく舞った。

 

 

「はあ……はい、わかります!」

 

 美しいセミロングに見とれていた俺がようやく答えると、女の子は安堵の表情を浮かべる。

 

 

「焦った……よかったです、びっくりさせないで下さい♪」

 

 そう言って、左手に抱えていたタブレット端末を操作し始めた。

 

「えーっと、ちょっと待ってくださいね」

 

 

 見慣れないタブレット端末だった。薄さや大きさは俺が知っている物と大差ないが、立体映像みたいな物が画面上に出現しては、クルクルと回ったり、吸い込まれたり、俺の知らない機能が搭載されているようだった。

 

 

「あったあった、これこれ」

 

 女の子は、興味があるのか無いのか曖昧な声を発すると、改めてこちらへ向きなった。

 

 

「おまたせ!」

 

 笑顔で俺を見つめるその女の子は、どこかのアイドルグループでは全く敵わない程に、可愛い。

 

 

「石島洋太郎 24歳」

 

 

 突然、名前を呼ばれた。

 

(あれ? 知り合い?)

 

 返事をしない俺にイライラする様子で、女の子はまた一歩近付いて問い詰めてくる。

 

 

「で、あってますよね?」

 

 

 

「へ? あ……はい」

 

 ちょっと間を置いた割に間抜けな返事になってしまったけど、それ以外に思い浮かばなかった。

 

(大き過ぎず、でも大きい)

 

 そんな破廉恥な事を考えている俺にはお構いなしに、女の子は話を続けた。

 

 

「少年時代はサッカーに没頭するも特に目立った活躍なし

 小中での学業成績は中の下

 岐阜県立〇〇高校に進学

 学業成績は中の下

 大学進学を諦め都内の企業に就職し上京

 営業部門に配属され、営業成績は中の下」

 

 

 そこまで言うと「ここまで普通を貫くのも才能ね」なんて小声で漏らし、端末を触りながら話を続ける。

 

 

「特にモテる訳でもないのに女癖は良いほうではなく

 同期の同僚と女性関係のトラブルを起こす

 入社3年目に突然の退職

 その後は地元に戻り自室に引き篭り

 好きな食べ物はお好み焼き

 趣味はアニメ鑑賞

 好きなアイドルはA〇B48」

 

 

(な、なんで……)

 

 ほとんど誰にも話した事の無い趣味まで言い当てられる。あの端末にはいったい何が、どんな情報が入っているというのだろう。

 

 

「ま、他にも色々あるけどこんなトコか」

 

 一気に俺の紹介を言い終えた女の子は、満足気に俺を見つめなおした。俺は完全に動揺している。

 

 

「ちょっ! なんで!?」

 

 何からどう聞いたらいいのかさっぱり分からない。

 

(聞くのか? 苦情を言うのか? どうしたらいいんだ?)

 

 

「スペックはともかく、死のうとしてたみたいだし条件は悪くないって感じね」

 

 盤面と俺を交互に見ながら、女の子は何やらウンウンと頷いていた。

 

 

 俺はパニック状態で挙動不審になっていたと思う。完全に不測の事態ってやつだ。

 

 そんな俺を見て、その子はさらに言葉をぶつけてくる。

 

 

「データ通りね、危機管理能力は低そう、決断力も」

 

 ため息まじりにそう言うと、俺の低評価が記載されているであろう端末を再び操作し始めた。

 

「なんでお兄さんみたいな人がゲームチェンジャー候補者リストに入ってるんだろ」

 

 

(え……なに? ゲーム?)

 

 

 たぶん、俺は口をポカンと開けて間抜けな顔をしていたんだろう。

 

 

「あ、お兄さん、私まだ新人だからね、何から話したらいいかよく分からないんだけどさ」

 

 

 状況はどうあれ、目の前の女の子がとびっきり可愛くて、スタイルが良いという事実は変わらない。

 

「あ、はい」

 

 こんな時、男って生き物は無抵抗になるものだと言い訳を思い浮かべてみた。

 

 

「先にこっちから質問しちゃうね? いい?」

 

 

 また一歩近づいて尋ねてくる。

 

 女の子の背はそんなに高くない。身長170cmの俺でも、ヒールを履いた女の子より目線はずいぶん高かった。近くで見ると、割と大きな胸に似合わず、その体はずいぶんと華奢である。

 

(守ってあげたくなるタイプってこんな感じなのかな……)

 

 

 これはもう、一目惚れなのだろう。

 

 

「えっとね、まず……」

 

 女の子はタブレット端末に目を落としながら質問してきた。

 

「頻繁に連絡を取り合っている友達や、恋人はいますか?」

 

 

 いると見栄を張りたいところだが、普通にいない。

 

「いませんが……」

 

 

「はーい」

 

 女の子からは、全く興味のなさそうな返事が返ってくる。

 

 

 さらに一歩近づくと、上目使いに尋ねてきた。

 

「相対性理論を勉強したことはありますか?」

 

 

(は? あるわけがない)

 

「ない……ですけど?」

 

 

 相対性理論なんて、名前は知っていても一般人は勉強するような物じゃない。

 

 

「ですよねぇ」

 

 

 特に落胆した風でもなかった。聞く前から俺の答えを知っている感じである。

 

(だったら最初から聞くなよ……)

 

 トップアイドルも顔負けなくらい可愛いいしスタイルも抜群だが、話した印象はあまりよろしくない。

 

 

「おっかしいなぁ、ヒアリング項目どこいったかなぁ」

 

 端末を操作しながら1人で作戦会議中らしい。自分のペースを崩さないあたり、いまどきの女の子って感じがする。

 

「うーん……困った、おっかしいなぁ」

 

 次の質問をどうするか考えを巡らせているのだろう。可愛い視線が宙を舞った。

 

 

 その瞬間。

 

 《ッッツツー ッッツツー》

 

 辺りは聞きなれない電子音に包まれた。

 

 

「え? 嘘でしょ? 真面目に?」

 

 慌てた様子でキョロキョロと周囲を見回す女の子。大人びた見た目に反して、その動作には子供っぽさが満開だ。

 

 

「前の人で時間使いすぎた感じ?」

 

 左手に持った端末を忙しく操作する。

 

「タイプだったし仕方ないよね、うん」

 

 などと独り言を漏らす間に、端末の操作が終わったらしい。

 

 

 また一歩、二歩と接近してきた女の子は、もう俺の目の前だ。

 

 吹き抜けてく春の風は、美しい髪をふんわり浮かせ、いい香りが届いてきそうな距離まで来ている。届いてきそうなだけで届いてこないわけだが、届いてきそうな気がするからには、必要以上に鼻から息を大きく吸ってみる。

 

 

「確認なんですけど、お兄さん、今さっき死のうとしてましたよね?」

 

 

(おお、こ、これは)

 

 大きく息を吸い込んだ俺の嗅覚ではなく、極上のソレを捉えたのは俺の視覚だ。

 

「うーん、まぁそうだね、死のうと思った」

 

 一応、質問には答えたけど、今の俺はそれどころではなかった。

 

 

 この田舎町は、山間の谷に人が住み始めて集落になったような物が始まりだと思う。そんな地元を決して好きではないが、特に嫌いでもない。いくつかの渓谷があり、思う存分に自然を満喫できるのだ。

 

 谷の情景は美しく、季節毎に四季折々の色に染まる。そんな美しい地元のどんな景色も、今、俺の目の前にある極上のソレには遠く及ばない。

 

 

「じゃ、死んだつもりで行きますか!」

 

 

女の子がどこかへ誘ってくれているらしい。

 

(死んだつもりでも、いや、死んでもいいさ)

 

 ちょっと興奮気味なのに、頭がぼーっとして言葉が出てこない。

 

 

「どうします? 説明してる時間が無くて申し訳ないんですけど……」

 

 

(行っちゃうか)

 

 何処へ行くかは、正直気にならなかった。と言うか、それを考える余裕がなかった。

 

 

「ねぇ、お兄さん、聞いてます?」

 

 

(返事……しないと)

 

 

 

「……谷間」

 

 

 俺の口から出た言葉は、自分でも信じられない言葉だった。

 

 

 あんまり目の前まで来られたもので、目線を少し下げ気味にしたら視界を奪われたんだ。柔らかそうな谷間に。

 

 もうそこから視線が動かせなくなっていた。

 

「へ?」

 

 不思議そうな顔をしている女の子に、俺はさらに慌てた。

 

 

「い、いいよ!行く!」

 

 

「やった♪ 思い立ったが吉日って言いますからね! 今すぐ行っちゃいましょう!」

 

 本当に嬉しそうに喜ぶ女の子の表情は、俺にはもう天使そのものだった。

 

(あ……天使か、俺ホントは死んだのかな?)

 

 俺は、再び端末の操作に取り掛かった女の子をぼんやりと見つめた。

 

(会えたんだ、巨乳天使に)

 

 なんて思っていたら。

 

 《ッッツツー ッッツツー》

 

 辺りはまた奇妙な電子音に包まれた。

 

 

「はいはーい、わかってますよ、ちょっとまってねぇ~」

 

 端末に語りかけながら操作する姿もまた可愛らしい。電子音が続くなか、端末の操作を一旦やめてこちらを見る。

 

「ふふっ……巨乳作戦♪ 大成功~です♪」

 

 電子音の中で、女の子はそう言ってイタズラな笑みを浮かべた。

 

 

(え、見てたのバレてたか)

 

 これから天国に連れて行かれるのだろうか。

 

 

「残念なお知らせがあります♪ これほぼ偽物です! 詰め物いっぱいでかなーり寄せて上げてますので、残念でした~♪」

 

 女の子は自分の胸を指差してにっこりと笑って見せた。

 

 

(な、なにー! 騙された!?)

 

 

「それじゃ、転送しますね!」

 

 

 《ィィリリリリリ-》

 

 

 電子音が急に速度を上げたというか、高音になって体に纏わりついてくる。

 

 

「初転送だとちょっと気持ち悪いかもしれませんが、健康上の害はないのでご心配なく!」

 

 

(体が……ねじれる?)

 

 

「そいじゃお先に~♪」

 

 天使だと思った女の子が、今度は悪魔に見えてきた。

 とびっきり上等な小悪魔に。

 

「お兄さんもよい旅を~♪ なんてね、一瞬ですよ!」

 

 手を振る女の子が、渦巻き状の何かに吸い込まれて行ったように見えた直後、ものすごく気持ちが悪い感覚に襲われた。別に痛くはない。体がねじれて、裏返しになって、伸びていくような感覚。

 

 

「――ちょ!? これ……なん……」

 

 

 視界が歪み、体中がねじれていく。

 

 一瞬真っ暗になったかと思うと、今度は急に光に包まれた。

 

 

「イテテ……きもちわるっ」

 

 強烈な吐き気に襲われた。

 

 一瞬で【転送?】されたその場所は、白を基調とした生活感の無い狭い部屋だった。気分が悪く立っていられないので、床に這いつくばる。

 

(なん……なんだよ)

 

 どれくらいの時間、床とお友達になっていたのだろうか。この部屋の床はとても綺麗に清掃が行き届いており、硬過ぎず、柔らか過ぎず、冷たくも熱くもない。寝っころがっている分にはとても心地の良い床だった。

 

 

 ようやく少し落ち着いてきた時。

 

 

 《ビーーーーーー》

 

 警報に近い音と共に、ガシャっと何か金属音がした。その方向を見ると重厚そうな扉があり、自動ドアなのか徐々にスライドし開き始めている。

 

 扉が開くと、そこから飛び込んできたのは多くの人の話し声で、視線を向けるとかなりの人数がワラワラと集まっているのが見えた。

 

「おーい、32番、こっち来いよ~」

 

 体格のいい男が、俺のほうを見て手まねきをしている。

 

 

(32番って、俺の事か?)

 

 

 もう、わけがわからない。そもそも、面倒だから死んでしまおうと思ったはずなのに、巨乳美女に釣られ、さらに面倒な事に巻き込まれた予感がする。

 

 いや。

 予感ではなく。

 巻き込まれたのだろう。

 

 しかも。

 

 偽の巨乳に騙されて。

 

 

 フラフラとした足取りで部屋を出ると、そこには30名くらいの人たちが特に整列するでもなく、パラパラと集まっていた。とりあえず広間まで出た俺は辺りを見渡してみる、やはり32番と呼ばれたのは俺のようだ。

 

「あの、すいません、ここ……」

 

 

 《ドンッ》

 

 

 俺を呼んだ男に質問しかけた刹那、広間の照明が落ち真っ暗になった。それまでザワザワと話し声がしていたが、照明が落ちると同時に静まり返った。

 

 聞こえてくるのは人の呼吸だけ。

 

 なんだかとても緊張し、自分の心臓の音が聞こえてくるようだった。

 

 

『ようこそお集まり頂きました!』

 

 部屋全体に響く、凛とした女性の声。恐らくスピーカーを通して全方位から流されているのだろうと気付く。

 

『只今より、ゲームチェンジャー候補者選考会の開会式を行います!』

 

 《バンッ》

 

 広間に照明が燈った。

 



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第2話 一緒にすんじゃねーよ

 まったく意味がわからなかった。突然に選考会とか開会式とか言われ、割り振られた番号通りに整列させられた。

 

 選考会とやらの定員は本来は40名だそうだが、今回は35名。実際この場にいるのは32名で、3名ほど到着が遅れているとの事。

 

 とにかく不思議なのは、俺以外は全員がこの状況を受け入れている事だ。俺一人だけ、挙動不審になってオロオロしている。

 

(なんだよこの状況……)

 

 自分の心配をしているのは俺だけで、他の皆はある事に夢中だった。手元に配られた資料に見入っているだ。

 

 本当によくわからない。

 

 

――歴代ゲームチェンジャーの偉業

 

 そう題された配られた資料をペラペラと開いてみたが、まったく意味が分からない。じっくり読んでいないので詳細は不明だが歴代ゲームチェンジャーとやらの紹介ページを見る限り、どうやら本当にゲームのようだ。

 

 それぞれのページの見出しを見てみると。

 

 ・エジプト文明で議員制度の導入に成功

 ・劉備の大陸統一から漢王朝の復興に貢献

 ・コロンブスよりも早くアメリカ大陸を発見

 ・イスパニア海軍の敗戦を阻止

 ・西郷隆盛の九州統一に軍師として貢献

 ・アヘン戦争に勝利し清国の東南アジア進出に貢献

 ・ライト兄弟よりも早く有人飛行を実現

 ・古代ローマ帝国で生命保険業を開業

 

 などなど、あまり歴史が得意ではない俺でも「そりゃねーだろ」と思うような内容が記載されている。しかも、西郷隆盛の所以外は、ゲームチェンジャーが日本人ではなかった。

 

 

 資料の何処かに、この資料の制作元が記載されていないかを探してみる。

 

 

(これか……【ゲネシスファクトリー】……知らないな)

 

 他にも探してみたが、それっぽい記載は見当たらない。

 

 それ以上、意味不明な資料をじっくり読んでいられるほど、俺は平常心を保てていない。とにかくあの偽巨乳美女を探そうと思った。

 

 

 並んでいる列の中に、あのワンピースは見当たらない。どうも偽巨乳美女は参加者ではないようだ。列に並んだ人以外にも、運営側なのか何なのか、資料を配っていた人達が数名いた。

 

(あいつらに聞いてみるか)

 

 まずはこの状況を理解したかった。人間という物は、理解できない状況に置かれると不安でどうしようもなくなるんだと痛感している。

 

 資料を配っていた人に話を聞こうと思って一歩踏み出すと、タイミングよく、また照明が落とされた。

 

 

 《ドンッ》

 

 

『それではこれより、班分けを発表しまーす』

 

 

(あ、この声!)

 

 広間全体に響くスピーカーから発される声に、聞き覚えがあった。

 

(偽巨乳美女!)

 

 

『わたくし、班分けの司会を務めさせていただきます、佐川優理と申します』

 

 

(さがわ、ゆうり……か)

 

 

『まだ新人ですが精一杯努めますので、皆様宜しくお願いいたします♪』

 

 

(説明させなきゃ!)

 

 と思ってみたものの、この状況で大声が出せるほど、俺は凛とした性格を持ち合わせていない。小心者なので、とりあえず偽巨乳美女がここにいるって事と、名前を知れたって事で満足するわけだ。

 

 

『照明が燈りましたら、自分の番号が書かれているボードの前にお集まりください♪』

 

 

 《バンッ》

 

 

 照明が燈った。

 

「いちいち付けたり消したりすんなや……ったく」

 

 俺の後ろで待機していた金髪の男が、なんだか楽しそうに苦情を言ってのける。そんなに大きな声じゃなかったけど、静まりかえった広場では皆に届いてしまった。

 

 すると、あちこちから「そーだそーだ」とかガヤガヤと援護する声が聞こえてきた。でも、どれも本気で怒っている声ではないとすぐにわかった。

 

(なんでこの状況で、そんな……冗談ぽい事が言えるんだよ)

 

 

『ちょっとした演出です! 文句言わない~』

 

 佐川優理のおどけた声に、ハハハッっと乾いた笑いが広場を包む。和やかなムードで班分けが進行していく。

 

 

(なんなの! まじでナンナノ!)

 

 本当に発狂しそうなくらい不安なのに、大人しく班分けされて誘導に従っている俺は、根っから小心者なんだろう。よくも自分から命を絶とうなどと思い、実行に移せたものだと我ながら感心する。

 

 今更だけど気付いた事は、参加者として班分けされている人間は全員が男だって事だ。

 

 

『はい! それでは皆様に試験概要を発表しまーす』

 

 

 偽巨乳美女【佐川優理】は、俺と話していた時とずいぶんキャラが違うように感じる。

 

 

(ちっくしょう、誰に聞いたらいーんだよ)

 

 

 班分けに使用されたボードが突如発光し、各班のボードからは幾つかの立体映像が飛び出した。

 

「おおう、すっげぇ!」

 

「どーなってんだこりゃ」

 

「科学技術は進んだんだなぁ」

 

「あれ? いまココって何年なんだ?」

 

「ずいぶん綺麗に映るもんだなコレ」

 

「これで裸ギャル映したらリアルだよな!」

 

「一つの映写機から立体映像とは.……」

 

 各班からドっと感嘆の声が上がった。

 

 俺も当然びっくりしているのだが、それ以上にこの状況が気になって仕方ない。

 

 

『徳、知、武、謀』

 

 

 それぞれの立体映像は、偽巨乳美女が読み上げた漢字を浮かび上がらせていた。

 

 

『今回のヒストリーに重要なカテゴリーを4文字で表してみました!』

 

 立体映像とは思えない程、物体がそこにあるようにしか見えないクオリティーだ。

 

『続いて、今回、見事に合格したゲームチェンジャー候補者の方々に……! 挑んでもらうヒストリーを発表します!』

 

 

 《ブウウウウウウウウウゥゥウウウウ》

 

 

 すごい音だった。

 

 モーター音に近いけど、それよりもう少し上品というか、粗さが無い感じ。

 

 

《シュウウウウウウウウウゥゥゥウゥ》

 

 

 数秒すると音は鳴りやみ、さっきまで普通だった広間の天井が、ちょうど半球型のモニターになっていた。

 

 

(え? いつの間に!?)

 

 驚いたのはもちろん、俺だけじゃない。あちこちから驚きの声が上がったが、それ以上に、映し出された映像に歓喜の雄叫びが上がっていた。

 

 

「きたーーー!」

 

「待ってました!」

 

 ワイワイガヤガヤと広場が騒々しくなった。

 

 

(これって……なに?)

 

 映し出されていたのは、日本の武者らしい人たち。鎧を身に着け槍を持ち、ある者は騎馬と思われる小さ目の馬に跨り。ある者は軽装な鎧に刀や弓を持ち、カラフルな登り旗を背負って戦っている映像だった。

 

 特に歓声が上がったのは、鉄砲隊と思われる集団が一斉射撃をする映像だった。

 

 

「ほら! きたろコレ!」

 

「まちがいねぇ! 戦国時代っしょ!」

 

「こりゃ死んでも悔いねぇ! ラッキーだぜ♪」

 

「江戸がよかったなぁ……幕末とか」

 

「俺は源平合戦がよかったけど、まぁ仕方ないっか」

 

 

 モニターの映像を見た感想を、それぞれが勝手に口にしている。

 

 

(いやいやいや、なにが良い? え? どうなるのこれ!)

 

 俺にはさっぱり、どうにもこうにも理解不能なだけだ。

 

 

『はいはーい、お静かに』

 

 偽巨乳美女の声で広間にまた静寂が戻る。

 

『もうお分かりですね? 今回挑んでもらうヒストリーは……』

 

『日本の戦国時代です!』

 

 《オオオオオオォォォォ》

 

 広間は大盛り上がりだ。まるでサッカー日本代表が得点を決めたかのような、そんな歓声に包まれた。

 

 

『実際にゲームチェンジャー候補者として転送されるのは』

 

 偽巨乳美女が説明を開始すると、再び広間に静寂が戻る。

 

『選考会で優秀と認められた15名です』

 

 

 ほんの少し、またザワザワとした。

 

 

『その15名の方には、改めて正式なゲームチェンジャー候補者としてヒストリーに挑んで頂きます』

 

 

(なんのこっちゃ……? 早く話を聞かなきゃやばい)

 

 この先、どう考えても「楽な方向」に進まないって事は間違いないだろう。なるべく早く詳しい話を聞いて、辞退しないと面倒な事になるに決まっている。

 

 

『選考会は、ボードから出力されている徳、知、武、謀といった、乱世を生きるには欠かせないカテゴリーで競われます』

 

 なんやかんやと説明が続く。要するに、その乱世に欠かせない能力とやらを身に着け、試験に挑めって話だった。その試験は班毎に行われるらしい。

 

 

(めんどくせー、てかトイレ行きたい)

 

 

 長かった偽巨乳美女の説明が終わり、30分ほど自由行動が宣言された。自由と言っても、広間と各自の部屋は扉1枚で仕切られた直結で、それ以外の場所は立ち入り禁止になっている。行く場所なんて特になかった。

 

 でもトイレに行きたい気持ちでいっぱいだったから、勇気を振り絞ってトイレの場所を聞いた。

 

 もらった答えはろくでもなかった。

 

「あ? そんなん自分の部屋にあるだろ」

 

 なるべく人の好さそうなお兄さんを選んだつもりだったが。

 

(うわ、最悪だわコイツ)

 

 意外な対応に腹が立ったが、文句を言えない俺。

 

「すいません、ありがとうございます」

 

(それが分かってたら聞かないっての)

 

 

 どの部屋の入口も同じに見えたものだから、自分が転送されてきた部屋の区別などつくわけがない。わりとどうでもいい話だったら、ここで諦めるところだけど、トイレを諦めるわけにはいかなかった。

 

 

(この際、もう誰の部屋でもいーか)

 

 他人の部屋でもかまわずトイレに入る覚悟を決めて、部屋の入り口が並んでいる壁面に向かって歩き出す。

 

 

「お、32番さんどうしたの? 困り事?」

 

 優しい声をかけてくれたのは、同じ班になったお兄さんだった。

 

 他人の部屋でも構わず入る覚悟は決まっていたものの。怖い人だったら嫌だから、なるべく優しそうな人の部屋を、とか、結局そんな小心者全開だった俺は、かなり挙動不審に見えたのだろう。

 

「あの、自分の部屋って何処見たら区別つきますか?」

 

 

 同じ班とはいえ、まだ会話もした事がない。それに、見た目からして年上だろう。失礼ながらろくな挨拶もせず、目的の質問だけぶつけてしまった。

 

 

「あー、そっか、さっきココ来たばっかりか」

 

 納得するようにウンウンと頷きながら。

 

「ま、ちょっと難しいだろうからさ、えーっと……」

 

 

 お兄さんは入口が並んだ壁面を眺め、何かを数えるような雰囲気を出していた。

 

「あそこだ、32番さんの部屋」

 

 

 お兄さんが指さした部屋、そこが俺の部屋らしい。

 

 

「ありがとうございます!」

(もれるーーーーー!)

 

 お礼もそこそこに、急いで部屋に戻ってトイレに駆け込み、溜まったそれを解放しながら、一つ気付いた事があった。

 

 

(人に親切にされたの何年振りだろ)

 

 3年間引きこもっていた俺には当たり前の話かもしれないが、よく考えてみると、もっと前から他人に親切にされた記憶が無い。

 

(同じ班だし、あとでちゃんとお礼言わなきゃかな)

 

 

 面倒な事はお断りと思いながらも、徐々にこの場所のペースに巻き込まれている自分がいた。

 

 

『それでは、4日後の選考会へ向けて、これから3日間は班別に行動して頂きます』

 

 自由行動時間が終了し、偽巨乳美女からの案内が再開される。

 

『各班にはわたくし佐川を含めまして、それぞれ担当の女性サポートが付いて、選考会まで共に生活致しますので、皆さんどうぞ宜しくお願い致します♪』

 

 どんな子が付くのか気になる男たちは、当然のようにザワザワしはじめた。

 

『あ、ほとんどの方がココへ転送された時の担当ですよ♪ 班分けは担当毎に行われていますので!』

 

 

(俺の班の担当は佐川優理か、よし、文句言ってやろう!)

 

 

『それでは各班、割り当てられた居住区へ移動をお願いします!』

 

 

 自由行動時間中にいくつか分かった事がある。もちろんトイレだけじゃなく、情報収集をしたのだ。

 

 まず、班は全部で8個、各5名が割り当てられている事。今回は総参加者が35名なので、4名の班が5個あるという事。更に、3名の到着が遅れているため、実際に5名いる班は現在存在しない事。

 

 要するに8班、各4名の総勢32名がいて、俺はその32番目らしい。

 

 俺の所属は第6班。部屋を教えてくれたお兄さんは、伊藤さん。とびっきりではないものの、割とイケメンの部類に入る人種だ。特筆すべきは、とにかく優しそうな表情で「良い人」オーラが出まくっている。

 

 その上、素敵なメガネ男子ときたもんだ。スーツを着ているが、全くチャラくない、大人スーツだ。そこそこイケメンで、優しそうで良い人そうで、メガネ男子で大人スーツ。

 

 これで二人っきりの時にちょっと強引に、しかも壁ドンで迫られたら、メガネ&スーツが好き女子は100%落ちるだろう。別にメガネ&スーツが好きじゃなくても、彼氏のいない女子ならばだいたい落ちる気もするけど。

 

 そんな伊藤さんと挨拶は済ませたけど、まだそれほど打ち解けてはいない。他の二人ともまだ会話も出来ていないまま、居住区とやらへ向かっている。

 

 

 俺たちは【6】と表示された扉の前に立った。重厚な扉を抜けると、居住場所とやらに入れるらしい。扉は自動で開き、俺たちは順番に中へと足を踏み入れる。

 

 

 《プシューゥゥゥゥ》

 

 扉が大げさな音を出して閉まった。

 

 

 

 《バンッ》

 

 照明が燈る。

 

 

(お、いいね、広いじゃん)

 

 小学校の教室くらいの広さがあるリビングに入った。色合いやデザインは相変わらず無機質な白を基調としており、一瞬の静寂が白い世界に反射する。

 

 各自に割り当てられているであろう寝室に続く扉は、それぞれ色やデザインが異なっていて区別のつきやすい物だった。家具はどれも高級そうで、なんだかウキウキしてしまう。

 

 

 先頭を歩いていた小太りの中年が、部屋に入るなり声を上げた。

 

「ほぉ~、こりゃ広いな」

 どこから見ても普通のおっさんである。

 

 続いて、2番目を歩いていた金髪の男が口を開いた。

「ほんじゃ、ま、自己紹介でもしますか」

 

 そんなわけで、それぞれの自己紹介タイムが始まろうとしている。男4人で自己紹介タイムは、どうもむさ苦しい雰囲気だ。どこかの研修にでも来たような気分になった。

 

 でも、この時間が俺にとっては重要な意味を持つ事になりそうだと感じている。自己紹介タイムでは、氏名年齢に加えて【なぜ参加すると決めたのか】を発表するというルールになったからだ。その理由をちゃんと聞いていれば、そもそもコレが、ココが、何なのかわかるかもしれない。

 

 

 周囲の雰囲気を見ればわかる。

 

 何も知らないのは俺だけなのだ。

 

 リビングのテーブルを囲むように座り、ほんの少しの照れくさい間が発生する。

 

「あ、ごめんごめん、その前にさ、ちょっといいかな?」

 自己紹介を最初に始める予定だった伊藤さんが、別の話題を切り出した。

 

「優理ちゃんから頼まれててさ、石島くんだっけ? 君に色々説明しないとなんだよね」

 佐川優理の名前に、自然と椅子から立ち上がってしまった。

 

 

「あいつを知ってるんですか!? どこにいますか!?」

 

 

「取りあえず落ち着こう、な?」

 

 伊藤さんは困り顔で「まぁまぁ」と俺をなだめる。

 

 

(落ち着いていられるかよっ)

 

 別に伊藤さんが悪いわけじゃないから、なんだか申し訳ないような気もしたけど、我慢が出来なかった。

 

「落ち着いていられません! あいつは何処なんですか!?」

 

 

 問い詰めてみたものの、今の居場所までは伊藤さんもわからないそうだ。俺は諦めて、伊藤さんの説明を聞く事を了承する。

 

 そうして、自己紹介タイムの前に、伊藤さんから現状についての説明会が行われた。伊藤さんが主に説明し、たまに中年男が口を挟んでくる。俺の質問に中年男が答えたり、伊藤さんが答えたり。金髪男も知らない事が多かったようで、途中から質問に参加したりしていた。

 

 なんとなく、わかってきた。

 

 でも、理解は出来なかった。理解できないというか、信じられなかった。

 

 俺たちは今、タイムスリップして数百年後の未来にいる。

 そこではタイムマシンみたいな物があり、過去から参加者を連れてきている。参加者は、選考会でゲームチェンジャー候補者に選ばれると、歴史上重要なポイントに飛ばされる。飛ばされた先で、大きな歴史的変革を起こすと、ゲームチェンジャーと認定されて莫大な賞金が授与される。

 

 本当にゲームのような話だった。タイムスリップについても、いくつかの説明をもらえた。タイムスリップで心配されていた、タイムパラドックスが発生しない方法が発見されたそうだ。結果的に、過去の事象をどんなに変えても、現在には何の影響も及ぼさない。とはいえ仮想空間ではないので、タイムスリップ先で死亡した場合は当然戻ってこれない。

 

 

(もし本当だとしたら、佐川優理は未来人って事か?)

 

 タイムスリップの方式にも手法が何通りかあって、どうのこうのと説明をしてくれたけど、俺には理解不能だった。そんな説明を聞いただけで、それを他人に伝える力をもった伊藤さんという人は、たぶん頭がいいのだろう。

 

 

「ちょと、頭が混乱中ですスイマセン……」

 

 

 一気に受けた説明に、俺は混乱というより、納得がいかない思いで腹立たしくなった。

 

 

「ま、難しい話はココまでにしよか」

 

 伊藤さんはそう言って中村さんに自己紹介をするように求めた。

 

 それから2時間ほどかけて、自己紹介や簡単な質問がなされたり、話を聞いたり、話したり、皆がお互いの事を知ることができた。

 

 

 中年男は、中村さん47歳独身。

 普通のサラリーマンが嫌になって【現実から逃げる】ために参加したとの事だった。モテないオーラ満開なものの、モテないキャラを楽しくプラスに演じられる大人の男だ。

 

 

 金髪男は、金田さん31歳独身。

 金髪なのは強がっているだけで、実は根っからの小心者だそうだ。退屈な日々に嫌気がさしたらしい。参加の目的は【莫大な賞金】がお目当て。本当に明るく陽気な人で、自分が小心者であることさえ笑いに変えてしまえる人だ。

 

 

 伊藤さんは、35歳、バツイチらしい。

 参加理由は【面白そうだったから】というなんとも軽いノリである。友達も少ないし、家族もいないらしい。なんだか仙人のような、生きている目線が他人とは違う雰囲気だった。

 

 

「でよ? 石島ちゃんはこれからどうすんだ?」

 

 

 金髪の金田さんが質問してきた。

 当然、俺の自己紹介も終わっていた。名前や年齢。簡単な経歴。

 

 

 それと。

 

 死のうとしていた事。

 

 死ねなかった事。

 

 佐川優理から何の説明も受ける事が出来ないままに、ここへ来た事。

 

 

「説明受けてないんじゃな、今からやめるってのもアリじゃねーか?」

 

 

(そう…やめちゃおうか)

 

 俺の感情は【不安】や【恐怖】といった種類の物から、【怒り】に近い物へと変化し始めている。考え込んで答えない俺に、金田さんはさらに続けた。

 

 

「だいたいさ、前の人で時間使っちゃったからあなたには説明する時間がありません! とか、そりゃクレーム付けていいレベルだぜ?」

 

 

(ほんと、そんな勝手な理由で俺は説明を受けれなかったんだ)

 

 すると、キッチンでコーヒーを入れてきた伊藤さんが、思い出したようにつぶやいた。

 

 

「ん? あー、ごめん、その前の人って俺だ、たぶん」

 

 

『え?』

 

 俺と金田さんの「え?」がシンクロした。

 

 

 そんな俺と金田さんの反応をよそに。

 

「どうぞっ」

 

 俺と金田さんの前に入れたてのコーヒーを置くと、自分の分と中村さんの分を取りにキッチンへ戻っていった。

 

 

「あざーーっす」

 

 金田さんがコーヒーに手を付けながら、キッチンにいる伊藤さんに届くように、大きな声で訊ねる。

 

「伊藤さん、けっこうゴネたんすか?」

 言いながら半笑いだった金田さんは、伊藤さんの返事を待たず。

 

「自分はけっこうゴネましたけどねっ」

 と、ニヤニヤしながら継ぎ足した。

 

 

(そうだよな……素直に来るほうがどうかしてるよ)

 

 

 伊藤さんからコーヒーを受け取った中村さんも、会話に参加してくる。

 

「順番に転送されてるみたいだからな、伊藤くんの次に、一日あけて石島ちゃんが来たね、ギリギリだったけど」

 

 手にしたコーヒーカップを品定めするように、色々な方向から眺めながら状況を説明してくれた。現実から逃げるために来たという中村さんは、どうやらこのメンバーでは最初に来たらしい。

 

 実際に付帯されている番号は「9番」とかなり若い。

 

 

「中村さんはすんなりOKしたんすか?」

 俺の聞きたい事は、だいたい金田さんが質問してくれるので楽だった。

 

「俺はだいたい3時間くらいかな、話を聞いてから決断するまでの時間な」

 

(ウソだろ、おれ3分くらいだったぞ)

 3時間という余裕に驚いたのは、俺だけだったようだ。

 

「自分も同じくらいっすねー」

 金田さんは、納得だと言うように相槌を打っている。

 

「ま、こっちに来るまでは信じてなかったけどな」

 まだコーヒーカップが気になるらしい中村さんは、そう言いながら指でコツコツとカップを突き始めた。

 

 

「砂糖とミルク、いる?」

 一人で重たい空気を発していた俺に、伊藤さんが優しい声で砂糖とミルクを勧めてくれた。

 

 

(この人はどうして来たんだろう)

 

 俺から見たら、他の二人にくらべてずいぶんと立派に見える。

 

 見た目は20代に見えるけど、35歳ってだけあっていい感じに落ち着いているし。若い見た目で、きっとモテると思う。さえない中年のオッサンと、いい歳して金髪のあんちゃんとは大違いだ。

 

 

「伊藤さんは、なんで参加したんですか?」

 

 もらった砂糖とミルクをかき混ぜながら、気になって仕方がないこの人の話を【もっと詳しく聞いてみたい】という衝動に駆られた。

 

 

「んー、さっきも言ったけど面白そうだったからなんだけど」

 そう言ってコーヒーを一口、口に運ぶと続きを話し出す。

 

「特に金持ちになりたいとか、有名になりたいとか、何がほしいとか、何処に行きたいとか、そうゆうのが一切無かったんだよね」

 中村さんも金田さんも、黙って伊藤さんの話に耳を傾けていた。どうやらこの二人にしてみても、気になる存在は伊藤さんのようだ。

 

「簡単に言うと理由がなかったんだよね、生きる理由ってゆうのかな、そんなだから面白そうなこの話に乗っただけかな」

 軽い理由だ、そしてその軽い理由を本当に軽い言葉で表現する。疑問とか、疑念とか、そういった感情を全く持っていない様子だった。

 

 

 でも、よく考えたら理由については俺もほとんど同じだ。

 

 つまらなくて、面白くなくて、めんどくさかったから。人生をやめる選択をした。

 

 そんな状況だったから、偽巨乳美女に「行こう」とか言われて思わず了承してしまった。

 

 

「俺も同じようなもんです」

 ポツリと呟いてみる。

 

 

 さっき、自分が死のうとしてた事を話した後、3人揃ってその事には触れてこなかった。きっと気を使ってくれているのだろう、と思っていたのだが。

 

 

――――少し沈黙が流れた。

 

 

さっきまで優しさ満開だった伊藤さんから、ちょっと怖いオーラが沸き出した。

 

「おい」

 

 いきなり乱暴な呼び方をされて少し驚いたが、こちらが反応する前に伊藤さんの言葉が続いた。 

 

 

「一緒にすんじゃねーよ」

 

 

 口調はそれほど汚くないのに、肌に感じとれるほどの威圧を受けた気がした。



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第3話 お説教と偽巨乳

《ピピピピッ》

 

 伊藤さんの一言と、ほぼ同時だった。

 

 電子音に続いて機械音が響く。

 

 

 《カシャ》

 

 扉のロックが解除された音がする。

 

 

 《ガシュウゥゥゥゥ》

 

 

 入口の扉がゆっくりと開いた。

 

 

 

「皆さん! 300年ぶりです!」

 元気よく入って来たのは偽巨乳だ。

 

 

「おぉ、優理ちゃーん♪」

 だらしのない声を上げたのは中村さんだった。俺の倍近い年齢の中年男性の猫なで声に、同じ男として嫌悪感を抱かずにはいられない。

 

 

「300年ぶりかー、相変わらずお美しい」

 金田さんも続いてだらしのない声を上げる。

 

 

(ナイスタイミング! 今ちょっと怖かった!)

 

 さっきの伊藤さんの凄味、もしかしたらアレは、覇王色の覇気だったかもしれない。

 

(この人はなんだか普通じゃないよな)

 

 

 このタイミングで偽巨乳が入ってこなかったら、けちょんけちょんに説教されていた可能性もある。

 

 

「改めまして! 佐川優理です♪ 宜しくお願いします♪」

 偽巨乳に挨拶に、中村さんと金田さんは顔も声もだらしなく返事をした。伊藤さんは、コーヒーを飲みながら片手を少し上げ「よっ」と簡単に済ませている。

 

 

「それでは、明日からのスケジュールについて説明しますね」

 

 

(明日から? ふざけるなよっ)

 

 俺は一息ついて、自分の言いたい事をしっかりと確認してから言葉を発した。

 

「ちょっと待って! 挨拶とか今後の事とかどうでもいい! まずは俺にしっかり説明してくれ!」

 

 言ってやった感はあったが、ちょっと大きな声を出し過ぎたかな、と反省した。偽巨乳は、まるで先生に叱られている子供のような顔で、伊藤さんに助けを求めている。

 

 

「あ……伊藤さん、あの……」

 

 

 伊藤さんは軽くため息をつく。

 

「説明はしたよ、4人で色々と話たし」

 

 そう言って俺の顔を見ると、言葉を続けた。

 

「でも、それと納得がいくかどうかは別だと思うよ」

 

 

(そうだよ!)

 

 伊藤さんの援護をもらった俺は元気が出た。逆に、伊藤さんから援護が貰えなかった偽巨乳は元気を失ったようだ。

 

 

「納得なんて出来るわけないですよ!」

 

 俺は一歩前に出る。

 

「直接しっかり説明してくれ!」

 

 そこから30分近くかけて、おれは偽巨乳の説明に聞き入った。

 

 

 説明を聞いた結果、さっき伊藤さんと中村さんがしてくれた説明がほぼ全てだった。という事実を知るだけだった。

 

 全員がテーブルを囲んで座っている。

 

 俺の言葉を待っているのだろう。待たれても困る、そもそも納得するつもりなんて無い。

 

 

(まぢでわっかんねぇ、やっぱ帰ろう)

 

「佐川さん、悪いけど俺帰るわ」

 

 やろうとしている事は命がけらしい。別に死にたくないってわけでもないけど、命がけで何かに取り組むとか面倒すぎる。

 

 

「困りました……途中棄権はさっきの広間でしか認められていませんので……」

 

 

 俺は立ち上がり、テーブルに「ドンッ」と手を付いついた。

 

「そんな事、そっちの都合だろ! 説明もなしに連れて来ておいて、今更それはねーよ!」

 

 もう全部が嫌だった。

 

 帰ったところで何も変わらないだろうが、自分の理解が及ばない状況に、だだひたすら我慢がならなかった。

 

 

 困り果てた偽巨乳を見かねてなのか、俺がテーブルに勢いよく手をついたのが気に入らなかったのか、それともさっきの「一緒にすんじゃねーよ」の続きなのか。またもや怖いオーラを発している伊藤さんが口を開いた。

 

「石島洋太郎くん、君、死にたいなら戦国時代で死になよ」

 

 

「え?」

 

 覇王色の覇気に備えて身を固くしていた俺は、想像していた切り口と大分違ったので少し戸惑っていた。

 

 

「元の場所に戻るべきじゃないわ、人様に迷惑かけたり、傷つけたりしようとする輩は、どうぞ戦国時代へお行きになってお好きな死に方をお選びください」

 

 冷たかった。発された言葉じゃなくて、その声が、ものすごい冷たかった気がする。

 

 だから、ちょっと腹が立ってしまった。

 

(何言ってんだよこの人!)

 

 何を反論すべきかを考える余裕など有りはしない。俺の口は怒りに任せて勝手に言葉を選んだ。

 

 

「俺は! 誰も傷つけようとしていません!」

 

 かなりムキになっている自分に気付いた。どうせ俺が死んだって、家族はそれほど悲しまないだろう。

 

「こんな俺が死んだところで、悲しむ人もいませんし!」

 

 伊藤さんに向かって言ってみたけど、反応したのは中村さんだった。

 

 

「そんなわけないだろ!」

 

 中村さんは、今にも殴りかかって来そうな勢いで怒鳴った。

 

「子供が死んで悲しくない親がいるわけない!」

 何か過去にトラウマでもあるのかと思ったが、今の俺にそんな事は関係が無い。

 

 

「中村さん、ねぇ、落ち着こう? ね?」

 そんな中村さんの怒気を鎮めようと、偽巨乳が駆け寄る。

 

(何を平凡な事ぬかしてんだこのオッサン!)

 

 色々な思いが交錯して、抑えようもなく怒りが沸いてきたが、この場の空気と俺の怒りは、伊藤さんによって一瞬で冷却される事になった。

 

 

「おっさん、うるさいよ、黙っててくんない?」

 

 

「え……」

 

 伊藤さんの言葉に思わず声を漏らしたのは、偽巨乳だった。完全に目が泳いでいる。言われた中村さん本人は、伊藤さんの凄味に押し負けて反論できずにいた。

 

 

(でた、覇王色か!)

 

 怒気を発していた中村さんを一蹴した伊藤さんは、俺に向きなおると言葉を続ける。

 

 

「あのさ、石島洋太郎くん、ちょっとは考えてみようか」

 

 

(完全にバカにされてんな)

 

 そう思ったけれど、俺も反論できそうにない。

 

 

「傷つけようとしてないとか自信満々に言っちゃってるけどさ、それ大きな間違いだから」

 

 そう言い切ると、さっきまでそれほど話すほうではなかった伊藤さんが、ずいぶんと饒舌に語り始めた。

 

「君がトラックに轢かれて死にました、すると誰が大変な思いをするのか、考えてみなよ」

 

 

 最初に浮かんだのは両親の顔だった。中村さんが言うように、悲しむのだろうか。

 

 ところが。

 

 

「自分でトラックに飛び込むんだ、君の家族が悲しいなんてのはどうでもいい話さ」

 

 

(え?)

 

 どうでもいい、とはずいぶんな言い方だと思った。

 

 

「どうでもいって、そりゃ言い過ぎじゃないっすか?」

 

 ここで金田さんが口を挟むが、伊藤さんは返事はおろか顔さえむけなかった。

 

 

「24歳の青年を、轢き殺してしまった運転手さんはどうなりますか?」

 

 

(運転手……)

 

 

「目の前に飛び込んでこられる映像は一生トラウマだろうな」

 

 中村さんが感想を述べた。そんな中村さんを、伊藤さんは睨むようにチラ見する。

 

「すまん、黙っとくよ……」

 

 

 この二人、年齢は一回り違うのに、完全に上下関係が逆転している様子である。言おうとした事を中村さんに言われたからなのか、少し考えてから伊藤さんは付け足した。

 

「轢いた時の感覚、握ったハンドルから伝わってくる衝撃」

 

 想像したら、なんだかちょっとゾっとする。

 

「その運転手さん、いい歳まで運転手一筋で他の事なんて出来やしないのに、君のせいで運転恐怖症だよ、困ったね」

 

 伊藤さんはそのまま続ける。

 

「運転手さんが仕事が出来なくなって、ご家族は大変だ、まだ高校生の御嬢さんがいるのに、大学進学はもう絶望的だね」

 

(え、運転手さんの事知ってるのか?)

 

「それだけじゃない、運ぶ予定だった積荷がすごく重要で、届かなかったせいで設立したばかりのベンチャー企業が倒産だよ、莫大な借金を抱えてね」

 

(あのトラックの積み荷、そんなに重要だったのか?)

 

「設立間もないベンチャー企業とはいえ、従業員は5人、その家族も含めて20名近い人が君のせいで収入を失うんだ」

 

(この人、何を……)

 

「さらには、その企業の社長をやってた人、借金を苦に自殺だ、だけど保証人はそれじゃ救われない、借金を肩代わりだよ可哀相に」

 

コーヒーを口に運び、さらに続ける。

 

「大変だよ、沢山の人達を傷付け、悲しませ、人生を狂わせたんだ、君は」

 

 

(俺が何をしたって? 俺は自殺できたの?)

 

 

「ま、ここまで俺の勝手な想像ね?」

 伊藤さんはそう言って、コーヒーカップをテーブルに置いた。

 

 硬く張りつめた空気が緩んだ気がする。

 

「えー、なんだぁ、びっくりしちゃったよ!」

 真っ先に反応したのは、やっぱり偽巨乳だ。

 

 そんな偽巨乳の驚きを無視するように、伊藤さんは俺に向きなおると言葉を続けた。

 

「だからさ、ここまで考えて、それでも他人に迷惑かけないってなら、どうぞ戻って死んでください」

 

 ここで、黙って話を聞いていた金田さんが口を挟んだ。

 

「これから死ぬって時にそこまで考えるんすかねぇ」

 

 

(そうだよ、そんな冷静な分析できっこない)

 

 

 金田さんの質問に、伊藤さんはウンウンと頷いて。

 

「出来ないと思うよ~。だからさ、戻って死ぬって言うなら」

 

(言うなら……なんだよ)

 

「俺が阻止するから、迷惑をかけられる他人代表としてね」

 

 

「他人代表って……ぷぷっ」

 

 空気読め!って言いたくなるよなタイミングで、偽巨乳が吹いた。

 

 

「そりゃそうだろ、石島くんの人生の主人公は石島くんだからさ、俺達はその他大勢の他人さん連合だよ」

 

 

「あ、運転手さんと同じ立場って事っすね、そんじゃ自分は他人Bって感じっす」

 

 

「Bってなんだ?」

 

 本気でわかってない中村さんを見て、伊藤さんも偽巨乳も、金田さんも笑っていた。

 

 空気なんて読む必要はなかったらしい。俺が思ってるほど、この場の空気は悪くなかったようだ。

 

 

「だけどさ、石島洋太郎くん」

 

 さっきと打って変わって、伊藤さんは優しい表情で、優しい声で語りかけてきた。

 

 

「ここにいる3人にしてみたらさ」

 

 ここまで言って一瞬止まると、人数を数えるように指を回す。

 

「あー、優理ちゃんも入れて4人か」

 

 偽巨乳を入れた人数に言い直した。

 

「君にとっては他人かもしれないけどさ、こっちの4人にとって、君は他人Aとかじゃ済まないからよろしくね?」

 

 

(どうゆうこと?)

 

 金田さんも続いた。

 

「そうっすね、石島ちゃんって名前あるし!」

 

 

 偽巨乳は笑顔でウンウンと頷き終わると、伊藤さんに向きなおる。

 

「今わたし抜きましたよね? わざとですか? その手のイジメはけっこうグサっとくるのでやめてください」

 ずいぶんと楽しそうに、ニコニコしながら伊藤さんに絡み始めている。

 

 

 中村さんは、【B】を理解する前に出現した【A】に戸惑っていた。

 

 

 その後、俺は泣いた。

 

 嬉しかったわけじゃない。たぶん、悔しかったんだ。

 

 伊藤さんの深さが。

 

 偽巨乳の素直さが。

 

 金田さんの陽気さが。

 

 中村さんの実直さが。

 

 結局4人に励まされ、勇気づけられ、なんやかんやと話しているうちに、何故か選考会に挑む事になってしまった。その日は、リビングに併設された各自に割り当てられた部屋に入って就寝した。

 

 

 一夜明け、俺達は選考会に向けた講義を受けている。最初の講義は、当時の文化や習慣についてだ。これから二日間、当時の政治の事や謀略についてや、武芸のお稽古まで目白押しとなる。

 

【人は生まれながらにして知ることを欲する】

 

 なんてよく言ったもんだ。新しい知識は勇気をくれる。

 

 

(やり直すにはいい機会かもしれない)

 

 

 そう思っているうちに、あっとゆうまにお昼休憩になった。

 

 

「おっ昼~♪ ごっは~ん♪」

 

 新しい知識を植え付けられて頭がパンパンだというのに、偽巨乳はすっかりご機嫌だ。

 

 

「ねぇ、佐川さんて元からこんなキャラだったの?」

 

 用意された弁当をツツキながら、あの時は大人びた雰囲気だった偽巨乳を想像してみた。

 

 

「石島さんの時は特別です♪」

 

 特別って言葉に反応したのは中村さんと金田さんだったが、やーのやーのとくだらない会話に、俺は興味が無かった。

 

 チヤホヤされて喜んでいる偽巨乳が言うには、俺のデータを見て短時間で落とす方法を考えた所、ちょっと大人っぽい巨乳が効果覿面と判断しただけだそうだ。どんなデータが蓄積されているのか、あの端末の中身が気になって仕方がない。

 

「モデルは美紀姉ぇです♪」

 

 まだゆっくりと話した事はないが、別班のサポート係の子をお手本にしたらしい。それにしても、してやられた気分だ。

 

 

「佐川さん、見てたよね? 俺が轢かれそうになるとこ、あのトラックどうやってすり抜けたの?」

 

 ずっと引っかかっていた疑問だ。偽巨乳は恐らく、あの現場の唯一の目撃者である。

 

「ん? ふひふへへはんはひはへんほ?」

 チキンを頬張りながら何か言っているが、全く理解不能だ。

 

(子供かっ)

 

 呆れると同時に。

 

(でたな! 必殺「天使のモグモグ」!)

 

 

 その可愛さに言葉が詰る。

 

 どうやってモグモグ語を理解したのか、通訳してくれた上に、真相予想まで付けてくれたのは伊藤さんだった。

 

「【すり抜けてなんかいませんよ】ってさ、ABSが稼働して避けれただけじゃないの?」

 

 

「ABS……?」

 聞いたことはある。

 

(なんだっけそれ)

 

 

「アンチロック・ブレーキ・システム ね」

 俺の疑問に答えたのは中村さんだった。

 

 

「へー、中村さん車に詳しいんですか?」

 

 たまには褒めてあげようと思って、中村さんに質問をしたのが間違いだった。休憩時間が終わるまで長々と聞かされた車の話は、午後の講義が終わった後もひたすら続いた。

 

 興味の無い話題なのに愛想よく相槌を打ってしまう俺の弱さが、人生をつまらなくしている原因なのではと思い始めるほどに。とにかく中村さんの話はつまらなかった。

 

 

 その日の夕食後、会話の中心は珍しく金田さんだった。実は金田さん、自称ではあるが戦国時代マニアらしく、誰が何処でどうなったとか、色々と話してくれていた。

 

 俺は登場人物の名前さえほとんど分からない状況で、中村さんはメモまで取りながら聞いている。伊藤さんは、キッチンで煙草を楽しんでいるようだ。

 

 戦国時代の話に興味がないのだろうか。

 

 金田さんの話は、織田信長の生涯についてに移っていた。どうやら戦国時代に行くことになりそうなので、聞いておいて損はないはずである。中村さんの話に比べれば、何十倍も面白く聞けた。

 

 が、それにしても難しい。俺の隣で聞いていた偽巨乳は「へー」とか「え、すごい!」とかいちいち反応していた。

 

 

――2時間ほど経過していた。

 

 話し通した金田さんが、シャワーを浴びに自室へ戻ると、伊藤さんが入れ替わるようにリビングに現れた。いつの間にか自室に入っていたようだ。

 

 普段のスーツ姿ではなく、一応用意されていた寝間着っぽい緩めの服に着替え、並んで座っている俺と偽巨乳に声をかけた。

 

 

「てか昨日も思ったんだけどさ、ココのシャワーすっげぇよね」

 

 子供の様に目をキラキラさせ、両手で状況を再現する。

 

「両側からこうさ! びゅわ~! ってさ!」

 

 どうやら本気でシャワーに感動している様子だった。

 

 

(いい大人だろうっ! 子供かっ!)

 

 心の中で突っ込んでみたが、その気持ちは分からなくもない。確かにシャワーがすごい。ここが未来だと信じさせてくれる数少ないアイテムの一つに、間違いなく【シャワー】を上げる事ができる。

 

 

「なんですか『びゅわ~』って、アハハハッ♪」

 

 伊藤さんのコミカルな動作に、偽巨乳はたまらず笑い転げた。ちょっと悔しかったけど、とても楽しそうな「天使の笑顔」にドキドキしてしまう。

 

 

「それにしてもさ、ベッドルーム何にもなくて暇だよね」

 

 湯上り伊藤さんは、言いながらキッチンの方へ向かうと、備え付けの戸棚をゴソゴソと物色し始めた。

 

「おっ」

 

 何かを手に取ると今度はリビングの中央へ移動し、そのままソファーに寝ころぶ。その手の中でカチカチと音を立てていたのは、暇つぶし用に置かれているルービックキューブだった。

 

「こんなん出来るヤツの気がしれん」

 楽しそうに言いながら、小さな四角系の物体と戯れている。

 

 そんな伊藤さんを眺めている偽巨乳の瞳は、これぞまさしく【熱い視線】ってヤツで、妙に色っぽく見えた。別にヤキモチを焼くような間柄ではないのだが、どことなく胸がチクっとした。

 

 

 興味をこちらに引き戻そうと、会話を作る努力をしてみる。

 

「佐川さん結構ちゃんと聞いてたよね、金田先生の話」

 偽巨乳は視線を俺に移すと、優しい笑顔で答えてくれた。

 

 

「ん? 一応は勉強してあるしね、知らないエピソードとか聞けて面白かったよ?」

 そういって右手でピースサインを作って微笑んだ。

 

(や、やっぱ可愛いな……)

 

 必殺「天使のピースサイン」に心を奪われながら、どうにか平常心を保ち会話を続ける。

 

「それ、金田さんに言ったら泣いて喜ぶよきっと」

 

 そこそこいい感じに、軽い笑いが漏れる会話を始める事ができた。別に口説きたいとか、そうゆう感情はまだない。俺にとって本物の、リアル女の子と話をするのは久しぶりで楽しかったし。

 

 

 なにより可愛いし。

 

 

「えー、やだなー、泣かれたらちょっとメンドクサイから言わないでおこーっと♪」

 

(コイツ……)

 

【自分がかなり可愛い】と自覚しているんじゃないだろうか。ころころと変わる表情は、どれも魅力的で、見せ方を知っているのではないかと疑いたくなる。

 

 男を口説く訓練でもしてあるのかと思えるほどに、俺の心は容赦なく引きずり込まれっぱなしである。男を惑わすの魔性か、それともとびっきり上等な美女か。

 

 心にグサっと刺さるような、そんな魅力を放出しておきながら。不思議なことに、わざとらしさは微塵も感じない。実際、偽巨乳の視線や行動は、隙だらけでとても訓練を受けてきたようには思えなかった。

 

 今も、そう。

 

 たった二言の俺との会話を終えると、偽巨乳の視線は再び、あのソファーに釘付けになっている。

 

(分かりやすいなぁ)

 

 悔しいけど、伊藤さんと張り合っても勝てる気がしないのは事実。若さとイケメンっぷりじゃ負けてないと思うけど、人として、大人の男として、総合的には勝てない自信がある。

 

「伊藤さんは15名の候補に残りそうだよね」

 ちょっと小声で、偽巨乳に話しかけてみる。

 

「うん……残るよ、絶対」

 偽巨乳も、ちょっと小声で返事をする。

 

 ただし、ソファーでルービックキューブと格闘する伊藤さんを見つめたまま、こちらを向かずに頷いていた。

 

 

 翌日は朝から武芸の稽古が始まったのだが、とくに大変だったのが馬術だ。新しい居住スペースからさらに上層階に、室内ではあるがまるで牧場のような区画があった。そこで実際に馬に乗るわけだが、初体験の乗馬は想像以上に大変で、なかなか上手く出来ない。

 

 

 午前中に、遅れていた3名が最終的には不参加になった事が伝えられた。

 

 パッカパッカと馬に揺られながら、気になった事がある。ゲームチェンジャー候補15名に選ばれなかった場合、残った人間はどうなるのだろうか。元の時代に無事に帰してもらえるのだろうか。

 

 今は今でけっこう楽しくて、別に帰りたいとか思っているわけではないけれど、疑問に思い始めたら気になって仕方がない。

 

 

 この疑問が解決したのは、その日のお昼休みだった。

 

「あれ、この説明忘れてた? ごめーん」

 

(クッ……必殺「天使の舌ペロ」かっ)

 

 両手を顔の前で拝むように合わせ、ペロっと舌を出して謝られてはもう何も言えない。

 

 可愛い女は、それだけで世の中を渡っていけると聞いた事があるが、それは本当だと痛烈に実感している。

 

「えっとえっと、ちょっと待ってくださいね」

 

 例の端末を忙しく操作しながら、説明資料を探している様子だ。

 

 

 この魔性の偽巨乳は、昨晩はあれだけ伊藤さんに熱い視線を送っておきながら、今日の馬術の講義中はもちろん、昼休憩も俺と過ごしている。伊藤さんは、別の班の人と楽しそうに昼食中だ。

 

(伊藤さんは社交的なんだな……)

 

 伊藤さんの姿を目で追いながら、偽巨乳の説明が始まるのを待つ。

 

「あった! これ見てください」

 

 偽巨乳が立体映像混じりの資料を展開しながら、俺が投げ掛けた疑問についての説明を開始する。

 

 説明を聞いた結果、戻れないって話だ。戻るのにかかる費用を、俺たちは持っていないからだ。なので、まずは候補者になるために何度も選考会を受けるしかない。

 

 今回選考会に参加している32名のうち、8名は前回やそれ以前から選考に参加している人たちだそうだ。

 

 最多の人で、今回で6回目になるらしい。

 

(ここにいる全員、戻れない事まで了承してココに来ているのか)

 

 そんな事を考えつつも、目の前にいる天使の美しさに見とれながら昼食を取った。

 

 

 元の時代に戻るには、ゲームチェンジャーとして莫大な賞金を獲得しないといけない。戻ろうとするならば、まずはゲームチェンジャー候補者になる事が第一条件になってくる。

 

 大きな変革を作れなかったら、それが死に直結するわけではないという事もわかった。転送された時代から戻ってくる事も出来るらしい。今回は不参加が決定した遅れていたという3名が、それに該当するそうだ。戻ってまた参加する予定だったが、メディカルチェックの結果しばらく入院になったらしい。

 

 

 午後も少し馬に乗り、その後は剣術や槍術、さらに弓術まで基礎を学んだが、数時間で出来る事など限られていた。

 

 タイムスリップした先で特殊な能力が与えられて、一気に出世してドーンと派手に歴史を変えてしまう。なんて事にはならなそうな雰囲気だ。

 

 ホントに、一人の人間として。ちっぽけな存在として戦国時代に飛び、歴史の変革に挑むらしい。

 

(なんのために?)

 

 そうだ、そもそもコレ、誰がなんの目的でやっているのだろう。

 

 

――夜になって、自室に戻る寸前の偽巨乳にチラっと聞いてみた。

 

「それ、けっこう疑問なんですけど、誰も知らないんですよね」

 

 本当に知らない様子だった。誰も知らない物は、いくら考えても正しい答えは出てこないだろう。

 

 たまたま通りかかった伊藤さんに、偽巨乳が今のやり取りを説明し意見を求めてみた。

 

 

「答えの出ない事で悩む時間ほど、贅沢な時間はないけどね、同時に無駄な時間だね」

 

 

「???」

 

 偽巨乳は首を傾げた。頭の上に「?」が見えるくらい、不思議そうな顔をしている。伊藤さんは背中で挨拶すると、そのまま自室に戻ってしまった。

 

「じゃ、おやすみ~」

 

 

「おやすみなさい!」

 

 俺も自室向かって歩き出す。まだ頭に「?」が出ている偽巨乳を放置して、俺も寝る事にした。

 

 

「え? なんで? えー、おやすみなさーい」

 

 不満そうな偽巨乳の挨拶を心地よく聞きながら自室の扉を開ける。明日はいよいよ、講義の最終日である。

 

 

 講義の最終日は、初日と二日目の復習から始まり、最後の課題は夕食後、各班のリビングにてディスカッション形式で行われている。

 

 

 が、空気が重かった。

 

 

【チームで一名を選び、候補者として推薦】

 

 15名の候補者のうち、8名はこの推挙で決まるという事だ。立候補か、無記名投票か、それとも別の方法か。考えただけで、決めるのは気が引ける内容だ。中村さんが、かなり遠回しに「自分を推薦してほしい」雰囲気は出していたけれど、当然ながら会話は進まなかった。

 

 重苦しい静寂を破ったのは偽巨乳。

 

「ねぇ、一つ気になってる事があるんだけど、いい?」

 右手を小さく上げて発言した。

 

 司会進行は自然な流れで中村さんがやってくれている。

「ああ、どうぞ」

 

 

「この中で、候補者になりたくないって人いる? 命がけだからさ、やっぱり無理強いはしたくないんだ」

 

 

(こんな所に連れて来ておいて何を……)

 

 今更、勝手な話だと思った。そんな事を思うなら、最初から連れて来なければいい。

 

 

――しばし沈黙が訪れた。

 

 

「おーい」

 伊藤さんが、俺を呼ぶ。

 

「優理ちゃん、石島くんに言ってるんだよ? こっちの3人はさ、そんなリスクは承知の上で、自分の意思でここに来てるんだし」

 

 伊藤さんの言葉に、偽巨乳はちょっと涙目になる。

「そうゆうわけ……じゃ……、いや、そうです、ごめんなさい!!」

 

 椅子に座ったままの態勢ではあったが、精一杯頭を下げて俺に謝罪した。

 

 

「いや、いいよ、大丈夫」

 思いがけない真面目な謝罪に、こっちが恐縮してしまった。

 

 こういう時、中村さんと金田さんは本当に頼りない。沈黙を破ったのは、やはり伊藤さんだった。

 

「石島くんがいいなら、いいけどさ」

 

 伊藤さんは少し考えてから、偽巨乳に向きなおると意外な質問を投げ掛けた。

 

「優理ちゃん、そろそろ教えてよ」

 

 

(教える?……なにを?)

 

 伊藤さんが何を言っているのか、俺はよくわからなかった。当然、中村さんも金田さんもわかっていない様子だ。

 

 伊藤さんの言葉に、偽巨乳が急に緊張したのが伝わってくる。頭を下げた態勢のまま、微動だにしない。動かない偽巨乳に向って、伊藤さんの言葉が続く。

 

「サポートしてくれてる女の子達って何者なの? 何を抱えてるの? それって言える事? 言えない事?」

 

 

 それでも、偽巨乳は固まったまま動かない。堪え兼ねた中村さんが割って入り、伊藤さんに突っかかる。

 

「ちょっとまって、どうゆうこと?」

 

 

 伊藤さんは答えず、じっと偽巨乳を見つめていた。

 また、沈黙が訪れた。

 

(何かあるって事か……)

 

 その沈黙は暗に、彼女達に何かしらの事情がある事を物語っている。

 

 

「伊藤さん、なんか気になる事でもあるんっすか?」

 

 伊藤さんは、金田さんの問にも答えない。

 

(伊藤さん、何に気付いたんだろう……)

 

 固まったまま動かない偽巨乳に、何も隠し事が無いとは思えない。それは金田さんも感じているだろうし、中村さんも当然同じだろう。

 

 

「いや、悪かった、いいや、大丈夫」

 

 沈黙を破り、伊藤さんがこの話題の収拾に回ろうとした。自分で振っておいて、とは思ったが、ここは話題を変えるのが正解だとも思う。

 

 すごい気にはなったけど、このままでは偽巨乳が可哀相に思えたし、この沈黙はちょっと辛かった。俺は伊藤さんの意図に沿う形で、話題を戻そうとした。

 

「俺は大丈夫なんで、普通に候補者の選考試験も受けたいと思ってますから」

 

 

「まって……!」

 

 偽巨乳はもうすでに泣いており、声は震えていた。

 

「言うね……言える……範囲の、事は」

 

 何か、どことなく、決意のような物を感じる言い回しだ。少しの沈黙が流れた。

 

 それでもなかなか切り出せない偽巨乳の、すすり泣く声だけが響いている。これほど決意を込めないと言えないような事が、いったい何なのか俺は知りたい。

 

 普段は偽巨乳にベタ甘の中村さんも、金田さんも、それについては聞きたいようで「ゆっくりでいいぞ」なんて言いながら、話すのを促していた。

 

 

 人間とは、なんでこうも違うのだろうか。伊藤さんはいつもいつも、俺や中村さんや金田さんとは反応が違う。

 

「いや、君が話そうと思った範囲の半分くらいでいいよ」

 

 なんだか抽象的な言い回しではあったけど、意味は理解できた。

 

 

 その伊藤さんの言葉を受け、偽巨乳は嗚咽を漏らすほどに、更に泣き始めた。この反応は、もう明らかにおかしかった。

 

(なんだよ……いったい)

 

 その時、俺の頭にはあの資料の制作元が浮かび上がった。

 

(ゲネシスファクトリー……)

 

 

 それを口にすべきか否か、俺は迷うばかりで沈黙を続けていた。

 偽巨乳が少し落ち着くのを待って、伊藤さんが続ける。

 

「やっぱりやめよう、そんな決意は持つべきじゃない」

 

 そう言って、一度キッチンに行くと、何かを持ってすぐに戻ってきた。伊藤さんが手にしていたのは、俺の時代にもある普通のキッチンペーパーだ。顔をぐしゃぐしゃにして泣いている偽巨乳のために持ってきたらしい。

 

「大丈夫、泣くなっ」

 

 そう偽巨乳に声をかけると。

 

「なーに突っ立ってんだよっ」

 

 偽巨乳の傍らに立って慰める係をしていた中村さんに、半分笑いながらキッチンペーパーをロールごと丸々放り投げた。

 

「言い方が悪かったね……ごめん、別に疑っているわけじゃないよ? ただ、もし共有できる部分があるとしたら、教えてほしかっただけ、でもやっぱりやめとこっか」

 

 優しい声でそう語りかけると、元いた自分の席に戻った。

 

 

 直後、金田さんが突然立ち上がる。

 

「やっべえええええ、先輩! 男前っす」

 

 そう興奮気味に言うと、突然叫びだした。

 

 

 

 

 

「惚れてまうやろぉぉぉ!」

 

 

 

 

 

(おいおい……)

 

 

 完全に、空気を読み違えていると思う。待っていたのは当然ながら、痛い程に寒い沈黙である。

 

「あれ?」

 

 滑った事実をどうにか受け入れた金田さんは、そのまま着席する。顔に「ごめん」って書いてあるように見えた。

 

 

 沈黙を打開する役はもう、伊藤さんだと思っている俺は、本当に自分が頼りない。しかし、予想に反して沈黙を破ったのは偽巨乳だった。

 ぐしゃぐしゃの状態で泣きながら、金田さんに向かって叫んだのだ。

 

 

「がべだざんどばがー!」

 

 偽巨乳の鼻水が飛び散った。

 

 

 とても可愛い女の子のこの醜態を、どう収拾してあげたらいいのかなんて、俺にはわからなかったし。モテない中村さんにも当然わからないはずだ。

 

 今の叫びはたぶん【金田さんのバカー!】だろう。それは全員がわかったようだ。

 

 偽巨乳はこの状況の所為か、飛び散った鼻水の所為か、はたまた伊藤さん質問のせいか。とうとう声を上げて、子どものようにわーわー大泣きし始めた。

 

 

「優理ちゃん、大丈夫だからね?」

 

 

(変態中年め!)

 

 偽巨乳を慰めるふりをしながら肩や背中をさすっている中村さんが羨ましい。

 

(……俺と交代しろ! 代われ!)

 

 俺の心に沸いた邪な欲望を掻き消してくれたのは、伊藤さんの大爆笑だった。なにが可笑しかったのか、一人でゲラゲラと笑ってお腹を抱えている。

 

 

「泣きすぎだって! お腹いてぇえギャハハハハ!!」

 

 伊藤さんはまだ笑っている。俺と金田さんはその状況を口を開けて見ているだけだ。

 

 

「笑わないでくだざいおー、だっでぇ……」

 

 もう収拾がつかない状態になっている。

 

「なんでかでだざんが言っちゃぶんでずが~」

 

 

(ガキだなこりゃ、完全にガキだ)

 

 

 部屋中に響く偽巨乳の鳴き声と、いいオッサンの大爆笑。

 

「鼻水飛ばしてやんの! ギャハハハ」

 本当に可笑しそうに大笑いしていた。

 

 

 可愛い女の子が顔面をぐしゃぐしゃにして泣いて。つまらないギャクにキレて怒って鼻水を飛ばした。それを憧れの人に目撃されて大笑いされるという状況、想像しただけで可哀相になってきた。

 

「だいたい金田くんさ、惚れてまうやろって、ここ300年後で通じてないからっ」

 そう言って、またゲラゲラと一人で笑う伊藤さん。

 

 

「あー、そうっすね、自分のギャグはもう遺跡発掘レベルっすね」

 

(なにその例えわかりにくっ)

 

 金田さんは陽気で明るいが、ギャグのセンスは理解しかねる。

 

 ようやく笑いの収まった伊藤さんは、金田さんをからかいながら席を立つ。改めて中村さんの傍らに置いてあったキッチンペーパーを手に取ると、偽巨乳に優しく声をかけた。

 

「可愛いお顔が台無しだぞ、シャワーでも浴びておいで」

 

 まるで子供をあやす様な言い回しで偽巨乳を促すと、テーブルに飛び散った鼻水を掃除し始めた。



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【GF】 ゲネシスファクトリー1

■ゲネシスファクトリー 日本支部

   選考委員会 監視部モニタールーム

 

 

 世界各地に幾つかある支部の中でも、日本支部が担う責任は特に重大であり、全ての支部を統括する【総統本部】は、ここ日本支部に併設する形で設置されている。ゲネシスファクトリーの歴史を紐解けば自然と理解しえる話しであるが、それはまた別の物語である。

 

 ゲームチェンジャー候補者選考会が行われている期間中、この部屋では24時間体制の過酷な任務が行われている。

 

 その部屋には無数のモニターが設置されており、交代制ではあるが常時8名の女性監視員が配置されている。選考会参加者達は、個人に限定されるプライベート空間を除き、ありとあらゆる場所でこの部屋からの監視を受けている。

 

 右から数えて6人目の監視員が、監視している部屋の異変に気づき上司に報告した。

 

「監視部長、第6班なのですが……」

 

 監視部長と呼ばれた男は、女性監視員の後ろに立ってモニターを覗き込み、モニターの中で行われている会話に表情を硬くした。

 

「看破される……かもしれんな」

 

 

 別モニターを監視していた監視員もそのやり取りに注目しはじめている。監視部長は、腕組みをして少し考えると指示を出した。

 

「守秘レベル2までの漏洩に関しては目をつぶれ、今回のサポート選出には執行部からの推薦が絡んでいる」

 

 

「執行部が!?」

 

 女性監視員は目を丸くして驚いてみせた。

 

 

「ああそうだ、我々にはよくわからん、まずは顧客に迷惑をかけない事だけを考えろ、それが仕事だ」

 

 

 女性監視員は頷き、無言で監視に戻った。

 

 彼等の仕事はゲネシスファクトリーにとって「不利益」になりかねない情報の漏洩を防ぐ事にある。仮に漏洩が発生した場合、その拡散を防ぐ手段はお世辞にも人道的とは言えない手法がとられる事もあった。

 

 

「あ、監視部長、この場面なのですが、この部分も通訳部に依頼しますか?」

 

 何かに気付き、監視部長に確認を求める。

 

 監視部長は少しばかり、面倒だとでも言いたげな表情をしながらも、再び6番のモニターに見入った。

 

「少し戻しますね、この場面です」

 

 戻して再生した場面では、金髪の男がなにやら叫んでいる場面だった。

 

 

「――なんと言った?もう一度再生を……」

 

 監視部長は女性監視員に対し、もう一度再生を促す。

 

「音も上げてくれ」

 

 女性監視員は映像の音量を上げた。

 

 

 

『惚れてまうやろぉぉぉ!』

 

 

 

 監視室の空気が一瞬固まった。

 

「こ、これを通訳するかどうか……」

 

 女は悩んでいる様子だが、監視部長に迷いはない。

 

 

「しろ、しなければ【この金髪は何と叫んでいたのだ】と問い合わせが殺到する……」

 

「はい、了解しました」

 

 了解した女性監視員も、指示した監視部長も、通訳部が字幕になんと記載するべきか大いに頭を悩ませる事になろうとは、この時点では考えてもみなかった。



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第4話 泣くほどの

■ゲネシスファクトリー 日本支部

   選考会居住区 第6班リビング

 

 

 偽巨乳は伊藤さんに促された通り、シャワーを浴びるため自室に入って行った。

 

 

(何を隠してんだよ)

 

 その間リビングで待っている俺は、偽巨乳に対する疑念を膨らませている。俺だけではない、中村さんも金田さんも、ふさぎ込むように思案にふけっていた。

 

 

――30分ほど経過しただろうか。

 

 

 重苦しい沈黙に似合わないほど、普通のテンションで伊藤さんが口を開いた。

 

「ねー中村さん、これってやっぱコツとかあるんですかね? 知ってます?」

 

 伊藤さんの言動は本当に読めない。この沈黙の間、昨日やっていたルービックキューブとの格闘を再開していたのだ。

 

 中村さんの表情は「こんな時に何を」と言いたそうではあるが、伊藤さんとのやり取りは極力避けたいのだろうか。

 

「俺もそれ苦手なんだよね」

 苦笑しながら、そう答えるに留まった。

 

「そうですか、これ案外難しいんですね」

 

 そう言いながら金田さんを見たが、見られた金田さんは慌てて首を横に振って「出来ませんアピール」をしてる。当然俺も出来ない。

 

 伊藤さんが俺にも聞こうという態勢に見えた時、中村さんが「よし!」と自分で気合を入れると、伊藤さんに質問をぶつけた。

 

「伊藤くん、優理ちゃんに何があるって思ったの? で、それに気付いたのはいつなの?」

 

 

「ん? さぁ?」

 伊藤さんは完全にはぐらかそうとしている。

 

 この反応に、中村さんとしては珍しく、伊藤さんに対して矢継ぎ早に言葉をぶつけていく。

 

 

「だって、絶対なにかあるでしょあの反応、あそこまで聞いといて【無かったことに】とかないでしょ」

 

 

「うーん……」

 

 言おうとしない伊藤さんに、中村さんは少しイライラし始めた様子だ。

 

 

「伊藤くんの予測でもいい、何かを感じているなら教えてくれないかな、俺達だって知りたいんだ」

 

 そういって金田さん俺に「なぁ、そうだろ?」と、同意を求める。無意識ではあったが、俺は頷いて同意を示していた。もちろん、金田さんもだ。

 

 

「知りたいって言われても、俺は何も知らないよ?」

 

 知らないのは本当だと思う、でも何かを感づいている。そしてそれが何なのか、この人はきっと想像しているに違いない。

 

 

「予測でいいんだよ、俺達にも教えてくれないかな」

 

 伊藤さんを相手に交渉である。俺も金田さんも頷くばかりで、言葉を発する事をためらっていた。

 

(頑張れ中村さん!)

 

 金田さんもそんな思いで見守っているに違いない。

 

 大きなため息ついた伊藤さんは、少し嫌そうな顔を見せる。

 

「俺は何も知らないし、これからも知りたくない、彼女から何も聞かないし、聞こうとも思わない」

 

 その嫌そうな顔のまま、自分で撒いた種にもう関わらないと言い切った。けれども、それではこっちの3人が納得できない。

 

「なんでだよ、隠すのか?」

 

 中村さんが食って掛かると、少しイラっとした様子の伊藤さんから怖いオーラが出始めた。

 

 

「ったく……」

 

 先程より更に険しい顔をして、三人を見回しながら話し始める。

 

「あの反応見たろ? お前らさ……」

 

 言葉に詰まった様子である。何だか不思議な事に.伊藤さんの険しい表情は一瞬、少しばかり泣きそうな表情にも見えた。

 

「突っ込まれて泣くほどの秘密なんて持ったことあるか!?」

 

 

(……ない)

 

 言うとおりだ、誰かに突っ込まれて泣くほどの秘密なんて、持っている人間のほうが少ないんじゃないだろうか。

 

 

 伊藤さんはまた一つ大きなため息をつくと、一気に言葉を並べ立てた。

 

「俺がここで話した予測がもし当たってたら?彼女が自分からその秘密を話始めちゃったら?それがどんな結果を生むのかとか、考えないわけ?」

 

(どんな結果……か)

 

「あんな反応だぞ? 最悪、もしかしたら彼女の命にかかわるような……そんな話かもしれないじゃない」

 

 

「まぢ?」

 

 金田さんが驚いて、顔面を引き攣らせながら声を上げる。俺も中村さんも言葉にならない、伊藤さんの思慮深さには頭が下がる思いだ。

 

(ゲネシスファクトリー……)

 

また思い浮かぶが、あの資料の出元くらい、伊藤さんも知っているだろうから黙っている事にした。

 

 

言葉を続ける伊藤さんは、珍しく話し方に力が入っていた。

 

「命にかかわるってのは大げさかもしれないけど、きっとすごい大事な何かなんだよ! そんでそれは本来、俺たちに知られていい話じゃないんだよ! だから俺は聞かない、お前らも聞くな!」

 

 

 その直後、偽巨乳の部屋の戸がガチャリと開いた。

 

「聞こえ……ちゃった」

 

 すっかり肩を落とし、か細い声になってしまった偽巨乳。今の伊藤さんの台詞を聞いていたらしい。それを正直に言える所は偽巨乳が素直な証拠であり、それはあの子の長所だと思う。

 

「チッ」

 伊藤さんは軽く舌打ちをすると、全員に向って話し始めた。

 

「俺の推薦は石島君だ、俺は推薦なんていらない、自分で選考会を突破する」

 

 

 その言葉に驚いたのは俺だ。

 

「ちょっと待って下さい、俺は……」

 

(推薦されたら、戦国時代に行くのが決まるのか?)

 

 

 少し戸惑う俺に、目をキラキラさせた金田さんが問いかける。

「どうした? 行くっしょ? 戦国時代に!」

 

 この場面で首を横に振れるほど、俺の意思は強くない。雰囲気に呑まれて頷いてしまった。

 

「よっしゃ、んじゃ自分の推薦も石島ちゃんで! 自分も伊藤さんに負けずに自力で突破してみせるっす!」

 

 

(金田さんまで!)

 

 

 偽巨乳が慌てて端末を手に取った。

 

「お二人とも……推薦理由を教えて下さい」

 

 まだ元気は戻っていないようだ。

「理由かぁ」と漏らした伊藤さんは、ニヤリと笑う。

 

 

「とても残念な担当が理由もろくに説明しなかったせいで、ココに連れて来られてから説明を受けるというハンデを背負いながら、ゲームチェンジャーになるという決意をした立派な若者だからです!」

 

 伊藤さんにしては、いつになく明るい声だった。それを聞いた金田さんが「あひゃひゃひゃ」と彼独特の笑声を上げる。おれも乾いてはいたが「ははは」と笑うしかなかった。

 

 

 偽巨乳は、そんな意地悪を言った伊藤さんを正面から見つめている。

 

「ありがとう……伊藤さん」

 

 また涙目になりながら優しく微笑み、ちょっと震えた声でお礼を言った。リビングの空気は、先程とは打って変わって優しい温もりに包まれている。

 

 シャワーを浴びた直後の偽巨乳は、当然ながらすっぴん。普段から薄化粧なのだろう、すっぴんでも全然変わらなくて、すごく可愛い。濡れ髪ですっぴん、涙目で潤んだ瞳、普段よりずっと色っぽさが増してヤバイ。

 

 中村さんは話の内容など頭に入っていないのだろう。天使の魅力に圧倒されて、口を開けて偽巨乳を見ていた

 

 

「――ん? なにが?」

 

 伊藤さんは「何のお礼かわからない」そんな風を装いながら偽巨乳に笑顔を見せた。

 

「そんじゃ、ま、俺は石島くん推薦ってことで! もう寝るわおやすみー」

 

 伊藤さんが偽巨乳から逃げるように背を向けると自室に向と、偽巨乳は何かを吹っ切るように自分で頷き、伊藤さんの背中に向って声をかけた。

 

 

「推薦理由は【ゲームチェンジャーになる決意を固めた立派な若者だから】でいいですね!?」

 

 既に自室に半身入りかけていた伊藤さんは、その態勢のまま部屋から顔だけを出すと、優しい笑顔と一緒に返事をする。

 

「こら、前半部分どこいった?」

 

 

「なんの事かわっかりませーん♪」

 

 偽巨乳はおどけて言って舌を出した後、笑顔で「おやすみなさい」と小さくお辞儀をした。

 

「冷凍庫に氷入ってるから、目ぇ冷やして寝ろよ~」

 

 伊藤さんはその言葉だけ残して部屋に入り、その日はもう出てこなかった。二人のやり取りは、俺を含む取り残された3人に気恥ずかしさを残していった。

 

「こりゃダメだ、そりゃ先輩モテますよねぇ~、かなわねっす」

 

 金田さんはゆっくりと席を立ち、偽巨乳に近づいていくと。

 

「自分も石島ちゃんを推薦で! 理由は先輩と同じでいいっす!」

 

 

「はい、金田さん、ありがとうございます」

 

 偽巨乳は笑顔で返事をするも、金田さんはニヤニヤしながらそれを揶揄した。

 

「やめてちょーだい営業スマイル、もーね、金髪金田さんはフテ寝しますから後はお任せしまーっす」

 

 歩きながらそう言うと、さっさと自室に戻ってしまった。

 

 

「ま……そうゆう流れ……だよな、俺も自力で行こう」

 

 中村さんは少し心残りがある様子ではあったが、「推薦は石島くんで」と言い残して自室に入ってしまった。

 

 残されたのは俺と偽巨乳。

 

 しかも偽巨乳は今、風呂上りで色気ムンムンだ。3年間も引きこもっていた俺に、この「天使の湯上り」は猛毒すぎる。本当なら、喜ぶべきシチュエーションだろうし「頑張れ俺!」って思う場面なんだろうけど。

 

 伊藤さんとのあのやり取りを見せつけられた後じゃ、そんな気にはなれなかった。

 

 

「お茶、入れるけど石島さんもいる?」

 

 

 残された俺と偽巨乳の間に、数秒間の沈黙が流れたが、口を開いたのは偽巨乳からだった。

 

 

「あ……うん、もらうよありがと」

 

 キッチンへ向かう偽巨乳の背中を眺めながら、俺が抱えている事の小ささを実感していた。つまらない、メンドクサイ、そんな小さな悩みで死のうとしていた自分のバカさ加減に、無性に腹が立つ。

 

(あの小さな体でどんだけ重い物を背負ってるって……?)

 

 伊藤さんの言葉が頭から離れない。

 

【突っ込まれて泣くほどの秘密なんて持ったことあるか?】

 

 

 そんな秘密、想像もつかない。

 

 

(そういえば……)

 

 泣きながら「話す」と言った偽巨乳に、伊藤さんは「そんな決意持つべきじゃない」と言っていた。その伊藤さんの言葉に、偽巨乳はさらに泣いていた。

 

(どんな決意だったんだろう、伊藤さんはそれを感じ取れたんだ)

 

 俺なんかが心配したところで、どうにもならないくらい重い何かを抱えているのだろう。

 

 

「おまたせ~♪」

 

 偽巨乳が入れてくれたのは、たぶん「ほうじ茶」だと思う。朝飯も、昼飯も、夜飯も、お茶も、300年後でもそれほど変化が無い事は驚きだ。

 

 俺は、そんな内容の事を話していたと思う。偽巨乳からしてみれば昔話になるのだろうか。

 

 

「……つめたっ」

 

 偽巨乳は話の途中で、伊藤さんに言われたとおり氷を持って来て袋に入れると、目を冷やしながら話を聞いてくれていた。

 

 

(やっぱり俺に気を使ってるのかな)

 

 

 それよりなにより、伊藤さんを筆頭にみんな自室に戻るのが早すぎだ。俺はまだ全然眠くないし、偽巨乳もそれは同じようで「まだ眠くないし、今日は寝れるか微妙~」とか言っていたので、けっこう話し込んでしまった。

 

 話している途中、気になって仕方がない様子の中村さんがやってきて、用もないのにキッチンに行っては「早く休めよ」なんて声をかけて自室に戻るという行動に3回も遭遇した。

 

 本当に気になって仕方がないのだろう。

 

 偽巨乳は、俺の話はそれなりにしっかり聞いているものの。どこか落ち着きがなく、誰かを待っている様子だった。それが誰かは聞かなくてもわかる。

 

(ほんとわかりやすいな)

 

 

 結局、他愛もない会話だけが進み、いつもの就寝時間を過ぎてしまっていた。

 

「わたし、そろそろ寝るねっ」

 引き留めたかったが。

 

「ああ、おやすみ」

 代わりに、出来るだけ笑顔でおやすみを言うように心がけた。

 

 

(まいったなぁ)

 

 話してみたら、とびっきり可愛い、だけじゃなかった。ホントに良い子なんだ。

 

(惚れてまうやろ~)

 

 部屋に入る偽巨乳の背中に向って心の中で叫び、無理やり冗談ぽくする事で、自分の気持ちを、ごまかした。

 

 この場所、この時代、この施設、ゲネシスファクトリー、俺は知らない事が多すぎる。

 

(どうせ死ぬなら、戦国時代を見にいこう)

 

 抱き始めた偽巨乳への想いを振り払うように、俺は戦国時代へ行く覚悟を決めた。そんな覚悟を決めちゃったら、目が冴えちゃって眠れなくなってしまった。外に出てみようと試みたが、リビングの入口のドアは全く反応してくれない。

 

(朝は普通に開くのになぁ)

 

 夜間は稼働しないらしい。手動で動かないか試してみたけれど、重厚な扉はピクリともせず、開くどころか動く気配さえ感じなかった。そんな扉を手のひらでペシペシと軽く叩く。

 

(これもう壁だね、扉じゃなくて壁)

 

 

 俺は外出を諦めて、講義の時に配布された資料を見ながら眠りにつこうと自室に戻る。偽巨乳や他のサポートの女の子達が持っているような、あんな端末が配布される事を期待していたのに、手元にあるのはずいぶんとアナログなペーパー資料だ。

 

(300年後ってどんな世界なのかなぁ)

 

 これから過去へ飛ぼうとしている俺は、今いるこの世界が気になり始めていた。それは単に新しい物への興味なのか、偽巨乳がいるからこその興味なのか、自分でもわからずにいた。



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第5話 新しい友

 翌日、選考会へ参加予定の人間は広間に集められていた。どの班にも、サポートの女の子は同行していない。

 

「どんな試験なんだろうな」

 

 そう言いながらやる気満々な表情の中村さんは、誰にでもなく言葉を続ける。

 

「やってやるさ……行ってやるよ、戦国時代に!」

 

 

『お待たせいたしました! これより、選考会委員長より皆様に発表があります!』

 

 今日の司会は佐川優理ではないらしい。

 

 別の班から「おっ」と反応があったので、おそらくその班のサポートの子なのだろう。スピーカーから発される声は、その後ほどなくして男性の物に代わった。

 

『参加者の諸君、選考会お疲れ様でした』

 

 

 《ざわざわ》

 

 その男の言葉に場内がざわついた。

 

(選考会お疲れ様でした?え?)

 

 

『察しの良い方はお分かりでしょうか、選考は昨日をもって既に終了しております』

 

 

「どうゆうことだ聞いてねーぞ!」

「だましたのかよ!」

「あー、このパターンか」

 

 

『お静まりください』

 

 広間に静寂が戻る。

 

『選考は、昨日まで行われていた講義の成績、同班及び他班の参加者との交流状況、人望、また各サポートとの会話、居住区リビングでの過ごし方を元に行われました』

 

 

(なんだよ、準備とか言っといて油断させて監視してたのか)

 

 リビングでの過ごし方、という事は当然ながら監視カメラでも設置してあったに違いない。

 

 

「優理ちゃんに秘密をしゃべらせなくて正解だったっすね」

 

 金田さんの言葉に驚いた。伊藤さんばかりが目立っていたが、この人もなかなかに頭が切れるようだ。

 

「そうですね……内容によってはヤバかったかもしれませんね」

 

 この施設、この組織がどんな物か全くわからない。もしかしたら佐川優理は、秘密を話す事で本当に危なかったかもしれないのだ。

 

「伊藤先輩、この事知ってたんっすか?」

 

 金田さんが言う「この事」が何を指すのか、俺には分からなかった。

 

 

 伊藤さんはすっとぼけた感じで答えた。

 

「んなこと知るかよ、ただ、色んな可能性は考えてたけどね」

 

 

(色んな可能性を考える……か)

 

 俺たちの会話を遮るように、スピーカーからの言葉が再開される。

 

 

『昨日各班より推薦された参加者については、予定通り候補者と認定致します』

 

 

(そっちは予定通りなのね)

 

 この三日間の過ごし方で評価される選考に、通過するかどうかを気に病む必要が無くなった推薦を受けた8人は、檀上へ呼ばれた。もちろん、俺もだ。

 

 ステージに上がると、そこは皆がいる広間より2メートルほど高く、圧倒的に見下ろす形になった。各班から推薦された俺を含む8名は、特に会話をする事もなくステージに上がり並ばされた。

 

 

「がんばれー!」

 

「むらかみ~! がばんれよ!」

 

「ヨシオ! 変革起こして来いよ!」

 

「石島ちゃん! ふぁいと~」

 

「お土産よろしくなー!」

 

 飛び交う応援の中に、金田さんの声が混じっているのを聞き取れた。

 

 

『続いて、選考結果を発表します』

 

 広場にまた、静寂が戻る。

 

 

『第1位通過 得票数439票』

 

 

 場内が大きくどよめいた。

 

 

(得票数? なんだよそれ、439って、そんなに選考する人間がいるってことか?)

 

 俺とと同じ疑問を持った人間もいる様子であるが、この選考発表を既に経験している人間は疑問ではなく驚きを表していた。

 

「439票って、とんでもねぇな」

 

「ああ、俺初めて聞いたわ」

 

 俺の横に並んでいた、推薦候補者同士の会話が聞こえてきた。

 

(選考基準はよく分かんないけど、1位通過のヤツはとんでもないってことか)

 

 

『選考会参加回数 1回』

 

 場内が再びどよめいた。

 

「初参加で439票って、化け物クラスだな」

 

「んだな、出るかもな、ゲームチェンジャー」

 

 俺の横に並ぶ候補者2名は、どうやら初参加ではないようだ。

 

 

『第6班』

 

 《ざわざわ》

 

 

 

(うちの班だ!)

 

 

 

『伊藤修一』

 

 《おおお~》

 

 場内が沸きたつ。

 

(伊藤さんだ、やっぱり化け物クラスなんだ!)

 

 

「ぐはー、俺かと思ったのに!」

 

 残念な声を上げる金田の横で、伊藤さんがこちらを見ているような気がした。

 

 

『伊藤修一さん、檀上へ』

 

 一瞬、伊藤さんと目が合った気がした。

 

(行くんだ、一緒に……)

 

 これ以上心強い味方はいないと思っていたけど、それは間違いじゃなかったらしい。伊藤さんは選考する側からも高い評価を得ている事になる。伊藤さんが檀上へ上がる途中、ゲネシスファクトリー側のスタッフと思われる人達が通り道に駆け寄った。

 

 

「伊藤さん! 今の心境はっ!?」

 

「伊藤さん! お写真を撮らせて下さい!」

 

「一位通過の感想は!? 伊藤さん! お答えください!」

 

 

(うわ、報道陣? なに?)

 

 

 伊藤さんはそんな声に軽く右手を上げて躱しながら、無言のまま檀上へ登るとそのまま候補者の列に並んだ。

 

 

『続いて、2位通過』

 

 伊藤さんが到着する前に、次の通過者の発表が始まった。

 

『得票数 116票 選考参加回数1回』

 

 また場内がざわつく。横の二人の話を盗み聞きしたところ、どうやら初参加のワンツーフィニッシュは珍しいらしい。

 

『第6班 金田健二』

 

 

(金田さんが2位!)

 

 

「キターーーー!」

 

 金田さんの雄叫びが場内に響いた。

 

 

『第3位 得票数74票 選考参加回数4回』

 

 確かにすごい差だ、これは圧勝である。1位が439票に対し、2位が116票で、3位が74票。初参加の439票で場内が大いにどよめいたのも頷ける。

 

『第2班 須藤剛』

 

『第4位――――…………

 

 

 

 7位までの発表が終わった。7位の人の得票数は僅か9票だった。そこまで偏るほど、伊藤さんの得票数が高かった事になる。

 

(圧倒的一番人気……か)

 

 そう思ったとたん、自分の頭に嫌なイメージが浮かんだ。

 

(賭け? もしかして、これって賭け?)

 

 過去からテキトーな人間を連れて来て、面白そうな歴史のポイントに放り込み、大きな変革を起こすのが誰かを当てる、そんな賭け。

 

 参加者を殺し合いのステージに送り込み、生き残りを当てる賭けが行われ、富豪たちがその殺し合いを楽しむ。

 

 そんな映画があったような気がする。

 

(これって、そうゆうやつなのか?)

 

 

「ま、なんでもいいじゃん、普通に生きてたら絶対に体験できない事が出来るんだし」

 

 結果発表が終わると、俺の心を読みとったのか伊藤さんからそんな声をかけられた。

 

 

(それくらい楽に考えないと……ちょっと無理だよなこれ)

 

 そう思いながら、俺はある人を探すために忙しく目線を動かしていた。少し慌てているのは、急いで探さないといけないからである。

 

 

 中村さんを。

 

 

 簡単に言うと、中村さんは落選した。

 

「ま、しゃーないっすよ、俺たちは死ぬ事を了承した連中だから」

 

 金田さんは「挨拶する時間なんてもらえない」と漏らし、中村さんを探そうともしない。

 

 

 中村さんへの挨拶を急がなければならない理由は、落選者はそのまま居住区への移動が言い渡されたからてある。それに対し、通過した15名はこれから上層階に個別の居住スペースが与えられると言う。

 

 質問を許されたのでしてみたが、今後は選考会参加者とゲームチェンジャー候補者が交流する場は無いと言う。

 

(まだ挨拶とかしてないのに)

 

「そんなに会いたきゃ、無事に生き残って帰ってこいよ」

 

 俺と同じ推薦で通過した人に、そう声をかけられた。

 

 

「生きて帰れたりなんて、ほんとに出来るんですか?」

 

 俺はその事を全く信用してない。変革を起こせなければ全滅って落ちなんじゃないのかと思ってる。

 

 

「そりゃ戻れるさ、俺は1回戻ってきてる」

 

 

(いるんだ、生還者!)

 

 

「ほら、いくぞ」

 

 名前もしらないその生還者に促され、俺は中村さんへの挨拶を出来ないまま、上層階の居住スペースへと向かった。

 

 

(昨日の感じだと、夜に部屋を抜け出すとかも無理なんだろうな)

 

 昨晩、ぴくりともしなかった重厚な扉を思い出し、自分たちが管理されている身である事を実感した。

 

 

 上層階の居住スペースは、先程の広間の半分くらいのスペースに隣接している。下層の広間と大きく違うのは、各自の部屋が判別しやすいようになっている事と、部屋に入るとそれなりに広くて過ごしやすいって事。

 

 

 広間で簡単な説明を受けると、一度各自の早へと移動するように言い渡された。基本的に出入りに制限は無いそうだが、やはり夜間は出入り不可らしい。班別で過ごしていた部屋ほどは広くないが、一人で使うには贅沢な広さのリビングがあり、ベッドルームは倍くらいの広さがあった。

 

 

 この上層の居住区に案内されたのは、推薦者8名が各班から。選考会通過者7名のうち、2名は6班の伊藤さんと金田さん。残る5名は、1班、2班、4班、7班、8班とバラバラだった。

 

 明日、昨日までサポートに付いていた女の子がこちらへ回ってくるらしい。佐川優理は鼻が高い事だろう。なんせ6班からは3人がエントリーだ。しかも選考会では異例のワンツーフィニッシュ。伊藤さんに至っては「化け物」扱いされる程の圧倒的勝利だ。同じ班にいたってゆうだけなのに、何故だか俺まで誇らしい気持ちになる。

 

 

 明日からの予定は、3日間かけて徹底したメディカルチェックが行われるらしい。

 

 その後は、タイムスリップの条件が整うのをひたすら待つ事になるそうだ。翌日にはくるかもしれないし、場合によっては数ヶ月先になる事もあるという。

 

 俺は心のどこかで、佐川優理と数か月間、この場所で過ごせる事に淡い期待を抱いていた。

 

 

 その日の夕方、俺は伊藤さんに一つの質問をぶつけてみた。俺が感じたイメージ。この場所や、やろうとしている事が、全てイカレタ大富豪の賭け事になっているんじゃないかってゆう事。その可能性をどう考えるかっていう話を、伊藤さんに聞いてみた。

 

「十分ありえるんじゃない? だってさ、俺たちのいた時代にも賭け事ってあるじゃん。例えば競馬とか。馬券って言ってるけど正確には【勝ち馬投票券】だからね、あれ投票なんだよね」

 

 

「自分は116人に投票された二番人気っすね!」

 

 伊藤さんと話す時は何故かセットの金田さんが語り出す。

 

「でも面白いっすよね、そうやって投票で人気順を付けておきながら、そこらへん関わりのない【推薦】って方法でダークホースを混ぜ込んでる。これは確かに盛り上がると思うんすよね」

 

 広間でそんな会話を交わしていると、自然と周りに人が集まってきた。

 

 

(邪魔だなぁ……これじゃあまり変な話できないな)

 

 

 ここにいる人間は、全員がゲームチェンジャーとして偉業をなしえるためにはライバル関係である。けれども、見知らぬ時代に飛ばされるわけで、心強い味方にもなりえる。

 

 ここに集められた人は、それを十分に理解しているのだろう。味方にもなるかもしれない存在に、圧倒的1位通過をしてのけた伊藤さんを選びたいって本音があるはずだ。

 

 伊藤さん自身は、特に分け隔てなく会話に応じている。にこやかに会話に応じ、握手まで求められて、それに応じているが。

 

(話しながら何を考えてるんだろうな、この人はホントにわからないからな)

 

 

 夕方になると、食事は各自の部屋に届けられると通達があった。ご飯を食べながらの団欒は許されていないそうだ。ここから先は、全員がライバルだという意識を持たせたいのだろうか。食事の時間が近づくと、各自バラバラに自室へと戻って行った。

 

 

(……門限かよ)

 

 

 一人で広間にいても仕方がないので、俺も当然、自室に戻って夕飯が届けられるのを待つ事にした。

 

 

 《ピピピピピピ》

 

 もう聞きなれた電子音だ。

 扉や施錠が開く時になる音。

 

 《ガシャ》

 

 

(ん?夕飯にはちょっと早いような)

 

 

《プシューゥゥゥ》

 

 

 強烈な油圧式のロックでも掛かっているのだろうか、班毎に過ごしていたあの部屋にある扉と同じ音だ。

 

 要するに、夜は外に出れない事を意味している。

 

 

「やっほー♪」

 

 

 入ってきたのは佐川優理だ。

 

(あれ?)

 

 佐川優理だけではなかった。

 

 

「は、ハジメマシテ」

 

 佐川優理の後ろで、ずいぶん緊張した様子の女の子がお辞儀をしている。

 

 

「なにガッチガチになってんの!? 唯が来たいって言ったんじゃん!」

 

 佐川優理は二歩下がると、その女の子のお尻を叩いてコロコロと楽しそうに笑っていた。

 

「ほら、自己紹介しなって!」

 

 言っている佐川優理はすごく楽しそうだが、言われている「唯」と呼ばれた子は耳まで真っ赤だ。

 

 

(なに……これ、小学生の時にあるよねこうゆうの)

 

 

「あ、阿武唯と申します! 宜しくお願いします!」

 

 【あんのゆい】と名乗ったその子は、佐川優理ほどではないが十分すぎるほど可愛い女の子だった。

 

「この子ね、第2班の担当の子なんです、3位通過の須藤さんがいる班ね!」

 

 

「あ、はい……」

 

 もう、なんと言ったらいいかわからない。

 

 

「一応ね、明日からのメディカルチェックとか、待機期間中のレセプション関係とか、2班と6班は大忙しなのです! なのでだいたい一緒に行動するからよろしくね♪」

 

 佐川優理が言うレセプションが、どういった物になるのか予想がつかなかったものの、2班と6班がいれば今回の通過者上位3名が揃ってしまうのだ。

 

 なにをするにも2班と6班がいれば事足りるだろう。

 

 

「でね、唯がね、石島さんの事、かっこいいって!」

 

「え!? なんで言っちゃうのバカ優理~!」

 

 完全に小学生に戻った気分だった。お互い大人なのだ、だったら今日一晩、この部屋に泊まっていけと言いたくなる

 

 

「ま、そんな感じで! あとよろしくぅ~♪」

 

 佐川優理は何故かやたらとテンションが高く、元気よく挨拶するとそのまま部屋を出ようとする。

 

「え? ちょ、○☆ДИ~」

 

(言葉になってねぇ)

 

 阿武唯は、言葉にならない訴えを佐川優理に向けるも。

 

 

「そりでわ♪ わたくしは伊藤様のお部屋にいってまいりまーす♪」

 

 

 佐川優理は阿武唯を相手せず、ハイテンションのまま笑顔で部屋から出て行ってしまった。

 

 

「え?! 嘘でしょ?! 待って! ゆうり~~」

 

 佐川優理を追うように、阿武唯も出て行った。

 

 

(ガキか……)

 

 

 静かだった部屋は二人の登場で急に騒々しくなり、二人が去った事で痛いほどの静寂を取り戻していた。

 

 それから数分後。

 

 

 《ピピピピピピ》

 

 扉が閉まる音と一緒に、阿武唯の声が聞こえてきた。

 

「あ、あの、失礼しました!明日ま《ガシャ》

 

 

《プシュゥゥゥゥゥゥ》

 

 

(天然か?)

 

 

 閉まりかけた扉の向こうから声をかけてきた阿武唯の声は、そのまま扉に遮断されて途中で途切れてしまった。

 

 結局、時間通りに部屋に届いた夕食を一人で食べ終えた俺は、シャワーを浴びながら阿武唯を思い出してみた。

 

「阿武唯ちゃんかぁ、まぁまぁ可愛かったけど貧乳だな」

 

 近くで見たわけでも触ったわけでもないが、明らかに佐川優理のほうが大きな膨らみをお持ちだ。

 

「ちきしょう」

 

 貧乳が、ではない。

 

(なんで、伊藤さんの部屋に行くなんて言うんだよ!)

 

 伊藤さんに敵わないのはわかっている。

 でも、やっぱり悔しい。

 

(まだいるのかな、何してるんだろう)

 

佐川優理の事が頭から離れないのだ。

 

「ああがぁっぁあ、もう! 俺はバカか!」

 

 3年間の引きこもりの後遺症はでかい。女の子の存在に完全に舞い上がってしまっている。しかも相手は超絶スペシャル天使だ。天使過ぎるサポート女子だ。

 

 そしてその天使が憧れているのは、この選考会を他の追随を許さない圧倒的一番人気で通過した、注目の化け物だ。

 

(なんでこんな場所で働いてるんだよ、人気アイドルとかなれちゃうだろ)

 

(伊藤さんもだよ……普通に出世して金持ちになれちゃうだろあのレベル!)

 

 300年後のすごいシャワーでも、心のモヤモヤまでは洗い流せないようだった。

 

 

 翌日からのメディカルチェックで、俺は新しい友を手に入れた。第3位通過で2班の英雄となった須藤剛(すどうつよし)君だ。

 

 何故、もうすでに友と呼べるのかと言うと、趣味が完全に一致したのだ。

 

 きっかけは、佐川優理と阿武唯のどちらが好みかという話題からだった。

 

 詳細は割愛するが、須藤くんが好みのタイプとしてボソっと口にした名前が、俺が大好きなアニメに登場する子の名前だったのだ。

 

 ピン! ときた。

 

 須藤君、いや剛くん、いや、つーくんは、同意した俺に最初は驚いていたが、すぐに意気投合し、俺達は強い絆で結ばれた。

 

 

 3位通過とはいえ、1位が伊藤さんじゃもう抜かして考えていいに等しい。ってことで実質2位みたいな物だ。金田さんは戦国マニアだった事が、選考に大きなアドバンテージを持てた原因だったとすると、その点を除外すれば、つーくんが実質1位みたいなものだ。

 

 そしてつーくんも「1位と2位が出た班から推薦されているって事は、実際はそれより上位だ!」と言ってくれている。

 

 

 俺達が敬愛する同志の間では、たとえ仲間であっても、たやすく名前の頭文字だけで呼んではいけないという常識がある。しかし俺とつーくんは、「よーくん」「つーくん」と呼び合う。

 

 俺たち同志にとって、心の底から信頼している相手だけを名前の頭文字で呼び合うのは、血よりも濃い絆の証なのである。

 

 

 同じ趣味を持たない、同志ではない人間には理解できない事だろう。3年間の引きこもりも無駄じゃなかったと、感慨深い思いだ。

 

 

 数日間のメディカルチェックを受ける間に、俺たちの間には合言葉のような物が出来た。

 

【歴史は 俺たちが 作る】

 

 そう、俺たち二人は力を合わせてゲームチェンジャーとして必ずココに戻ってくるのだ!



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第6話 【聞きたくなかった】

 メディカルチェックが終わった後、【安定した「タイムズゲート」】とやらが確保できるまで待機になる予定だった。しかし、そのゲートは予定よりずいぶん早く用意できたとの事。

 

 通常は良くて予定通りか、ほとんどのケースで遅れるらしいから、今回は特に運がいいと説明を受けた。これはきっと、俺たち二人を戦国時代が手まねきしているからだろう。

 

 

 つーくんと出会って、俺は色々と吹っ切れた気がしている。そう、佐川優理の事だ。

 

 佐川優理と伊藤さんの関係がどうなっているのか、俺は知る由も無かったけど、知りたいとも思わなかった。むしろ知りたくなかった。

 

 伊藤さんは十分すぎるほど大人だ。

 佐川優理だって子供じゃない。

 

 二人の間が進展するとすれば、それは子供のようなプラトニックな関係ではないだろうと思うから。そんな状況になっているって事を、知らない方が幸せだと思う。

 

 

 

「まじっすか!? なんでっすか! もったいねぇ~」

 

 出発を告げられて集合している中で、金田さんがヘラヘラと笑いながら、伊藤さんに小言を言っているようだった。

 

 

「もったいねぇってなんだよ、戦国時代で出世したら一夫多妻だぞ?」

 

 伊藤さんも若干ニヤニヤしながら、金田さんとの会話を楽しんでいる。

 

 

「いやいやいや、そうは言ってもっすよ先輩、あのレベルの女はそうそういませんって!」

 

 

 佐川優理の事を言っているのだろうか。なんとなく、気になって聞き耳を立ててしまう自分が悔しかった。

 

 

「あーね、確かにいないね、それはわかるよ、うん」

 

(そう、いないと思う)

 

 まるでアニメの世界から出てきたような、リアル天使だ。

 

 

「だったらなんで、って、あ、もしかして隠してるだけでホントは……」

 

 金田さんの会話から推察するに、佐川優理が伊藤さんに告白でもしたのだろうか。何故か心臓がバクバクしている自分に気付く。

 

 

「無いってば……おじさんにはまぶし過ぎるんだよあの子、真っ白すぎて汚い手じゃ触れねぇよ」

 

 

 そう言う伊藤さんの表情は、どこか寂し気というか、哀愁が漂っている感じがした。

 

 

「くぅぅうぅう、たまんねぇっす! 先輩、出世したら絶対呼んでくださいよ? 自分なんでもしますから! 家来にしてください、絶対っすよ!」

 

 金田さんは伊藤さんの事が大好きらしい。通過1位と2位がこの調子なので、他の候補者もなかなか伊藤さんに近寄れずに数日が過ぎていた。

 

 

「金田くんが先に出世しても呼ばないでね? 毎日金田くんと話してたら疲れるから」

 

 

(うお、すげー事言うな)

 

 冗談だとは思うが、どこか本気とも取れる言い回しが伊藤さん独特で怖い。

 

「うお、すげー事言うっすね!」

 

 

(か、かぶった)

 

 言わなくてよかったと思った。伊藤さんと金田さんはその後も二人の世界で会話を続けている。

 

 

「よっ!」

 

 ぼんやりしていた俺を気遣ってくれたのか、笑顔のつーくんがやって来た。

 

 伊藤さんと金田さんのやり取りに雑念を抱かされていた俺は、つーくんの登場に救われた気がする。

 

「よーくん、いよいよだな!」

 

 

「つーくん、絶対やってやろうぜ!」

 

 隣に来てくれていたつーくんに気合を込めた言葉をかけた。

 

 

「おう、よーくん、絶対な!」

 

 そう言ったつーくんは、右手を前に出し。

 

 「歴史は~」と掛け声をかけた。俺は空かさず、その右手に自分の右手を重ね。

 

 「俺たちが~」と続ける。

 

 そして二人同時に、その右手を高く突き上げながら声を合わせた。

 

『つくる!』

 

 息もぴったり、掛け声もぴったり決まった。

 

(決まった)

 

 よーくんもそう思っているであろう、満足した表情を浮かべている。

 

 

「ふん、遊びじゃねーんだよガキが」

 

 わざと聞こえるように嫌味を言ってきたのは、4班の候補者で選考5位の大森さんだ。けっこう毎度の事なので、この人の相手はしない事に決めている。

 

 

『みなさん、お待たせして申し訳ありません』

 

 今日のサポートの女の子達はいつもと雰囲気が違う。ちょっと近未来っぽいお揃いのユニフォームを着て、インカムのような物を右耳に装着していた。そのインカムは拡声器にもなるようで、8名いるサポートの代表がこれからの説明を行う。

 

 彼女は8名の中で最も年長者である栗原美紀さんだ。

 年長者と言っても26歳、俺とそんなに変わらない。

 

 栗原美紀さんから色々と説明を受けたが、全てが一度聞いている物だった。タイムスリップの方式と、その性質上の留意点についてだ。

 

 この施設で使用できる方式は大きく2種類。

 

 一つは「タイムズゲート」と呼ばれる簡易式の物で、これが一般的に使われている物だそうだ。一度つなげば、一旦閉じる事ができ、再度開けば同じ世界につなぐ事ができる。

 

 しかし、一旦閉じるではなく、切り離してしまった場合。切り離した過去と同じ世界に再度つなぐ事は、理論上は可能であるにも関わらず、成功した事がなく、事実上は不可能に近いらしい。

 

 この方式で繋いだ過去をどんなに変更したところで、この時代には一切の影響を及ぼさない、いわゆるタイムパラドックスとやらが起こらない方式として採用され、タイムスリップの主力になっているそうだ。

 

 

 もうひとつの説明はココでは行われなかったが、佐川優理から受けた説明の中にはあった。

 

「タイムズトンネル」という方式で、「ゲート」よりも安定性があり、安全性については保障されているレベルなのだが、「ゲート」に比べて強い関連性が発生する方式だそうだ。

 

 この方式でも繋いだ過去においてもタイムパラドックスと言えるほどの事態は起きないが、過去の事象を変える事で、少なからずこの時代にも影響が出るらしい。

 多少の事ならばそれで良いが、大きな変革が起きてしまった場合の影響は想像がつかないとの事で、頻繁に使われる方式ではないという説明が付け加えられた。

 

 その「トンネル」は一度つないだらそう簡単に封鎖する事が出来ず、また影響力も強い事から、ゲームチェンジャーを送り込む際には使われないとの事。

 

 しかし、佐川優理が俺たちを誘いに来た時に使ったのは安全性を考慮された「タイムズトンネル」だそうで。ゲームチェンジャー候補者リストには、未来に極力影響を及ぼさない人間を徹底的に調査した上で掲載するそうだ。

 

 そうだとすれば、俺も、注目の的になっている伊藤さんも、あのまま普通に過ごしていとしたら、何一つ残さないで死んでいく運命だったって事になる。

 

 

『全員の用意が出来次第、タイムズゲートをオープンします。候補者は各担当サポートの指示に従ってゲートを抜けて下さい』

 

 

(どこにあるんだろ)

 

 ゲートらしき物を探してみたが、それっぽい物は見当たらない。

 

 

『それでは、各担当は候補者の所へ。候補者は担当の所へ集まってください、特に第6班は多いので速やかに行動をお願いします』

 

 

「んじゃ、よーくん、戦国時代で!」

 つーくんの挨拶がかっこよすぎるから、俺もマネした。

 

「おう、つーくん、戦国時代で!」

 言ってはみたものの、実感は全く沸かない。

 

「それでは、説明しますね」

 阿武唯が第2班に説明を開始している様子が見えた。

 

 

「おーい、石島ちゃん、こっちこっち!」

 金田さんが俺を呼んでいる。

 

「あ、すいません、今行きます!」

 急いで第6班が集まっている所へ向かった。

 

 伊藤さん、金田さん、佐川優理、そして俺。期間にしたら僅か8日間。この間、俺は人間としてずいぶん成長した気がする。いや、成長させてもらった気がしている。

 

「伊藤さん!」

 

 俺は真面目に伊藤さんに向き合った。

 

「この数日間、本当に有難うございました!」

 

 深々と頭を下げた。こんな風に人にお礼を言い、深々と頭を下げるなんて、生まれて初めての経験だ。

 

 

「なーに言ってんの、でも、男前になったなぁ、いい顔してるよ!」

 

 そう言って俺の肩をポンポンと叩く。

 

 

「男児三日あわざれば括目せよ! って言うっすからね!」

 

金田さんも俺の肩をポンポンと叩き始めた。

 

 

「俺、子どもじゃないですよ」

 

 金田さんとこんな風に冗談を言い合えるのが、あと何日続くのだろう。もしかしたら、最後かもしれない。

 

「金田さんも、ほんとお世話になりました! ありがとうございます!」

 

 一応、金田さんにも頭を下げてお礼を述べておいた。

 

(気持ちいいもんだな、お礼を言うって、めっちゃスッキリする)

 

 

「なんだよ、照れるじゃねーか」

 

 いつもの調子でニヤニヤしながら照れている金田さんの後ろから、佐川優理が顔を出し近づいてきた。そのままグイっと腕を引っ張られ、伊藤さんと金田さんから少しだけ離される。

 

 

 佐川優理に触れられたのは初めてだ。

 

 手の平の感覚が服越しに伝わってくる。自分の着ている服が恨めしかった。

 

 そして、顔を近づけてきた。

 

 

(え、まさかっ)

 と思ったが、全然まさかの事態にはならなかった。佐川優理は俺の耳元で「ねね、唯とはどうなの?」と、小声で尋ねてきたにすぎない。

 

(なんだよ、期待しちまったじゃねーか)

 

 

 よく考えると、いや、よく考えなくても、俺に期待する要素など無い。期待した俺がバカなんだと反省した。

 

「どうもこうも、こないだ来た日から話してねーし」

 俺はありのままの事実を伝えた。

 

「え? こないだ来た日って、私が連れて行った日?」

 佐川優理はそのまま俺の目をじっと見る。

 

「そうだけど……」

 

(いい香りだ……やばい)

 

 この距離で佐川優理に見つめられて、下心を抱かない男などいるはずがない。たとえ80歳でも、90歳でも、男ならちょっとくらいは抱くはずだ。もちろん、そんな俺は止めどなく下心が溢れてくる。

 

 俺への行動が、親友の恋路を邪魔している事に気付かないのだろうか。

 

 

「あの日、唯はゆっくりしていったの? 忙しくてあの後ちゃんと話出来てないんだよねぇ」

 頭をぽりぽりと掻く仕草をしながらぼやいている。

 

「佐川さんの後を追って出て行ったじゃん?」

 俺は記憶をたどりながらあの日の事を思い出してみた。佐川優理も、記憶をたどりながら話しているようだ。

 

「でもその後もどったでしょ?石島さんの部屋に」

 確認するように聞いてくる。

 

(戻ってきたところまでは知ってるのか)

 

「一瞬ね、閉まりかけてた扉の外からなんかしゃべってて、途中で閉まってそれっきり」

 これも事実だけを伝えた。

 

 

「はぁ? それっきり? 信じらんないっ!」

 

 佐川優理は、がっくりした様子を隠そうともしていない。

 

「石島さん、それじゃモテないわ、その顔もったいないから金田さんと交換したほうがいいよ」

 

(な、こいつ!)

 

 とんでもない悪態をついた癖に、クルッと伊藤さん金田さんのほうに向きなおる、もう笑顔満開だ。

 

 

(小悪魔め……)

 

 そんな小悪魔に夢中になってしまう前に、早く戦国時代に飛ばしてもらわないと危ない。

 

 

「ごめんなさい♪ お待たせ~♪」

 

 佐川優理は先に二人の所に戻ると、俺に早く来いという仕草をしている。

 

(自分で離したくせに)

 

 佐川優理は、阿武唯を俺の部屋に置き去りにして伊藤さんの部屋に向った。慌てた阿武唯は佐川優理を追いかけたものの、何かを言われ俺の部屋に戻ってきた。

 

 そう、そこで佐川優理と何かしらのやり取りをしているはずだ。じゃないと、一度出て行った阿武唯が再び戻ってきた事を、伊藤さんの部屋に向った佐川優理が知っているのは不自然になる。

 

(邪魔だから戻れとでも言われたのだろうか)

 

 あの時の阿武唯を思い返してみる。

 

(それと、さっきの金田さんと伊藤さんの会話も……)

 

 気になっちゃって、佐川優理が進めている最終段階の説明をろくに聞いていなかった。

 

 

「って、石島さん聞いてます? 今度はしっかりと説明してますからね? 聞いてないとか無しですよ?」

 

 

「ん、あ、んん、大丈夫、大丈夫!」

 

 慌てて大丈夫と言ってしまったが、ホントはあまり大丈夫じゃない。

 

 

「石島くんは説明を聞かない主義なんだな」

 真顔でそんな事を言いながらウンウンと頷く伊藤さん。

 

 ニヤけ顔の金田さんも続く。

「そのほうがスリルありますもんね! 石島ちゃん実はドMなんっすね」

 

 

「あー、もう、ごめんなさい! ちゃんと聞きます!」

 

 これ以上いじめられたらたまらないので、素直に謝って説明をしっかり聞くことにした。

 

 別に難しい話しではなかった。佐川優理の目の前にいればいいだけだ。あとは佐川優理が転送してくれる。

 

 こっちへ来る時に使ったトンネルと違い、ゲートの方はあの嫌な感覚、ねじれ感とでもいうのか、あの感覚が少ないという説明を受け、少し安心した。

 

 

 ここにいる全員を転送するのには、かなりの時間がかかるらしいのだが、不思議なことに、現地に出現する時間はほぼ同時だそうだ。

 

(その間、転送中の人の存在はどこへ?)

 

 などと質問してみたら、佐川優理は真面目なのかわざわざ先輩である栗原美紀さんに聞きにいってくれた。

 

 しかし、帰ってきた答えはろくでもなかった。知りたいのであればまず、無事に帰ってくること、そして。

 

「ココの技術部門への就職をお勧めする」

 

 という内容だった。

 

 詳細を説明されても理解できる自信がなかったので、少しホッとする返事でもあったが、よく分からないものはよく分からないでそのまま使うのがこの時代の常識なのだろうか。

 

 

《ッッツツー ッッツツー》

 

 

「あ、この音!」

 

 思わず声を上げてしまったが、そこかしこに同じ反応をしている人がいた。

 

 栗原美紀さんが説明をしてくれた。

『この音は転送装置の起動準備を告げる警報です。安全性を考慮して付帯されている物なのでご安心ください』

 

 

(起動するってことは、転送が始まるって事だな)

 

 いよいよだ、第1班から転送が始まる。

 

『それでは、タイムズゲートを開きます! 皆様、700年前で再会致しましょう!』

 

 

《ィィィィィィィィリリリリリ》

 

 

(この音もだ)

 

 こっちに転送される直前に体に纏わりついてきた音。

 

 

「おおおおお~」

 

 誰かが声を上げた。

 

 渦巻き状の何かに吸い込まれるようにして、1人目が転送されたようだ。

 

 

『最後の高音は転送時に発生する物です、これでも改良に改良を重ねてだいぶ静かになったそうです』

 

 1人目が転送されると、それまでと打って変わって広間に緊張が走った。どうもついさっきまで実感が沸かず、どこか他人事のようにさえ感じていたタイムスリップ。

 目の前で一人が転送されると、これが修学旅行のような簡単な話じゃないって事を改めて実感させてくれる。

 

 

 一人転送するのに約10分を要する。

 

 今ここに残っている人達は、かれこれ1時間待機している。緊張の為か、候補者達も、サポートの女の子達も無口だった。

 

 

 俺の番までまだ少しかかりそうだ。

 

(転送される前に、さっきの仕返ししとくか)

 

 

 俺は佐川優理の隣に移動する。

 

 

《ッッツツー ッッツツー》

 

 幸い、辺りは警報音に包まれていて、ちょっと離れた所での話し声は聞こえない。

 

 

「ん? どうしたの?」

 ふとした瞬間、この不意打ちのような天使の笑顔は反則である。

 

「い、いやさ、さっき俺に阿武さんの事聞いてきたけどさ」

 仕返ししてやろうと思ってココに来たのに、いざ目の前に来ると、自分から言うのに数秒かかった。

 

 

「そ、そ、そっちはどうなんよ」

(言った!)

 けど、大分省略してしまった。仕返しどころか、核心部分を聞くのが怖い俺は、やっぱり未だに小心者である。

 

「あれ? わたし石島さんに話したっけ?」

 なんとも不思議そうな顔をして聞き返してくる佐川優理。

 

(ちぎしょー、可愛いぜ)

 

「いや、でも見てたらわかるって」

 ここらへんで「私の事見てくれてるんだぁ~」とか言い出したらチャンス!なんて思っていたけど。

 

 

「だよね? やっぱりそう思うでしょ? 怪しいんだよね~」

 

(あれ?)

 会話が完全に噛みあっていない事に気が付いたが、時既に遅しって感じである。

 

「だからさ、ちょいちょい伊藤さんの部屋に行ってガードしてるんだけどね? わたしがいる時は来ないんだ〜」

 

(あらら? なんか話が?)

 

「ま、それも今日までの心配だけどね」

 

 

(よくわからないけど、その点だけは同意だ)

 

「んだね、ちょっと寂しい気もするよ」

 その俺の台詞が、佐川優理に突き刺さるのが見えるような気がした。佐川優理は露骨に寂しそうな顔を見せたのだ。

 

 

(お? なんだ? 読めない……困った)

 

「るいちゃんさ、見た感じお淑やかだし、実際ホントに純粋でさ、あんだけ可愛くて」

 

(え、るいちゃんて誰?え?)

 

「その上スタイル抜群で、おまけに本人がかなり積極的な性格してるんだよね、ほんと羨ましいよ」

 

(お淑やかで積極的って、両立するのかそれ)

 

 

「でも、ひとまず今日までは守り切れたと思う、たぶん」

 

 そう言ってガッツポーズを作って見せた。

 

 天使のガッツポーズは最高だったが、自制心を保ちどうにか耐えきった。

 

「おう、よかったな!」

(話が全然わかんないけど、ここは同意しとこ)

 

「でも転送終わったら、るいちゃん泣いちゃうだろうなぁ」

 今度はその子の心配をし始めた。

 

「だってね?「私の初めての人は伊藤さんにする!」とか宣言しちゃったもんだからさ、サポートの中では応援する派の人と、候補者と恋してもろくな事がないぞって反対する派の人と、大騒ぎだったんだよ」

 

(初めての人って……アレですよね)

 こんな話聞いてしまっていいのだろうかと、不安になってきた。

 

 

「るいちゃんの気持ち、分からなくもないんだけどさ」

 

(わかっちゃう……のか)

 

「なんたって美紀姉ぇが反対派筆頭だからね、第6班担当として責任を持って阻止しろ~! なんて言われたらやるしかないよ」

 

 美紀姉ぇというのは、栗原美紀さんの事だろう。凛としてスマートな、まさに「美女」って感じのお姉さまだ。佐川優理も阿武唯も、その栗原美紀さんにだいぶお世話になっているらしい。

 

(そうか、それで伊藤さんの部屋にちょいちょい行ってたのか)

 

 なんだかほっとした。安心しすぎて言葉に詰まってしまった。

 

「佐川さん個人としては……どっち派なの?」

 会話が続かないのを恐れただけだった。

 

 

「えっ? 私……?」

 

 別に踏み込むつもりなんて、これっぽっちも無かった。なのに、俺程度の話術レベルでどうにかこうにか話を続けようとした結果、こうなってしまっただけだ。我ながら情けない。

 

 

「私はね、えっと……」

 

 ちょっと考え込んでから、何故か少しだけ潤んだ瞳を、此方に向けた。

 

「内緒だよ?」

 

 

(ぐお!)

 やられた。

 

(必殺【天使の「内緒だよ?」】は完全に反則だ、レッドカードだ! 鼻血出そうだよ!)

 

 

「るいちゃんホント良い子だし、相手が伊藤さんじゃなかったら応援してたと思う、だって実際に唯の事は応援してたじゃん?」

 

 潤んだ瞳との合体必殺技【天使の「内緒だよ?」】で、完全に舞い上がった次の瞬間、一気に叩き落された。

 

(伊藤さんはダメでも、俺なら問題ないって事ね……)

 

 

 自分でこっちの方向に話を持って行っておいて、なんだけれども。そもそもこの話を聞きに隣に来ておいて、アレなんだけれども。

 

 

聞きたく……

 

 

なかった……



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第1幕 GAME2 【天使の片想い】
第7話 戦国時代へ


 次々と転送されていく人を見送る。半数以上が転送され人が疎らになった広間では、殆どの人が緊張の面持ちで無言だった。

 

 俺と優理は、転送ゲートを開くポイントから少し離れたベンチに並び、一見仲良く腰かけている感じになっているのだが、もうかなりの時間、何も話していない。

 

 サポートの子達は、自身の班の候補者を転送し終わると、自らも転送されて戦国時代に向っている。現地での最終オペレーションがラストミッションだそうだ。

 

 

 もう、最後になるかもしれないのだ。

 

 

《ィィィィィリリリリリ》

 

 甲高い音と共に、5班の候補者の転送が終わった。約10分後、5班のサポートの子が転送されたら、次は俺たち第6班の転送だ。

 

 色々な思いが込み上げてくるが、転送された現地でも挨拶くらいは出来るだろうし、さっきしっかりとお礼も言えた。

 

 伊藤さんも金田さんも、今はそれぞれ別々の場所でひたすら無言を貫いている。そんな中、5班のサポート係の子が伊藤さんの所へ向かっていく姿が目に入った。

 

 優理もその様子に気付いたようで「あっ」と一瞬、声を漏らし立ち上がる。けれども、何かを考え込むように、そのまま腰を下ろした。

 

 

《ッッツツー ッッツツー》

 

 

 転送装置の起動準備を告げる警報に邪魔されて、伊藤さんとその子がどんな会話をしているのかわからない。

 

 優理は下唇を噛み、下を向いて顔を上げようとしない。両の手は膝の上で硬く握られて、二人の様子を見ないようにしているのがわかる。

 気になって仕方がないのに、どうにかこうにか我慢しているような感じだった。

 

(今から男女の関係に発展するような時間はないけど……)

 

 5班のその子が転送されるまでの数分間、その子がずっと伊藤さんの近くにいたら、優理は数分間、俯いたままの状態を貫くつもりなのだろうか。

 

(最終日だからって黙認しなくてもいいだろ)

 

 恋敵の行動を堂々と邪魔するような豪胆さは、俺は持っていないが、優理なら出来てしまいそうな気もする。

 

(元気良く割り込んで、思う存分ガードしたらいいのに……)

 

 とは言え最終日、最終も最終だ。

 

 それを黙認する優理の優しさというか、遠慮する奥ゆかしさがちょっと意外で、俺の心臓がドキドキした。

 

 転送され、最終オペレーションとやらが終わったら、お別れなのだ。

 

 再会するためには運よく戻ってくるか。

 ゲームチェンジャーになるしかない。

 

【硬く握られた優理の手に、俺の手をそっと添えて握ってあげる】

 

 そんな事が自然に出来るほど、俺は大人の男じゃない。

 

(手を添えて勇気をあげたい)

 

これは一遍の曇りもなく、純粋に思えるが、(手を触るチャンス!)とか、(ここで優しさ見せて大逆転!)とか、邪な感情が捨てきれなかった。それが捨てられないでいると、マイナスイメージに勝てない。

 

(さりげなく手どけられたらどうしよう)

 

 とか。

 

(触るんじゃねーくらい言われたら立ち直れないな)

 

 とか、そんなマイナスイメージが邪魔して何も出来ずに手をモゾモゾさせていた。

 

 意気地の無い俺と、俯いて動かない天使。二人をあざ笑うかのように、5班の子はとても幸せそうに、そして楽しそうに伊藤さんとの会話を弾ませているようだ。

 

 

《ッッツツー ッッツツー》

 

 

 辺りに響く警報が、俺と優理を虚しく包み込んでいた。

 

 

 数分が経過した頃。そろそろ転送が始まるのだろう、5班の子は伊藤さんに手を振る、何故か小走りに俺たちの目の前までやって来た。

 

 

「るいちゃん……」

 

 その存在に気付いた優理は、顔を上げるとその子の名前を呟いた。

 

(やっぱりこの子が、るいちゃんか)

 

 るいちゃんと呼ばれたその子は、優理と比べても遜色のない程に可愛いく、優理よりもやや巨乳だ。

 

「優理先輩、有難うございました!」

 るいちゃんは突然頭を下げて礼を述べた。

 

「ん、いいよ、だってもう、さい……」

 優理は言葉に詰まった。

 

 きっと「もう、最後かも」とか、そんな続きだったのだろう。自分が口にしようとした「最後」という言葉に、自分自身が苦しくなったようだ。

 

 そんな優理に向かって、るいちゃんが突然に抱き着いた。

 

「え? なになに? ど~したのるいちゃん」

 優理は戸惑っていたが、拒否している様子ではない。

 

 

「わたし、優理先輩のコト大好きです!」

 

(うわ、混ざりたい、どっちでもいいから交代してくんないかな)

 

 相変わらずどうしようもない俺の目の前で、るいちゃんはパッっと優理から離れる。

 

「でも!」

 

 ちょっと大きなを出すと、顔と体は優理のほうを向いたままで、右手の人差し指を伊藤さんに向けた。

 

「ぜっんぜん諦めてませんからね♪」

 

 こんな台詞を笑顔で言える純粋さが、るいちゃんの魅力なのだろうと思った。

 

 

 

《ィィィィィィリリリリリー》

 

 るいちゃんが転送され、いよいよ俺たち第6班の順番が回って来た。

 

 

「さぁーってと、いきますか!」

 

 金田さんが気合を入れた。普段のだらしがない表情ではなく、目つきにも表情にも鋭さがあり、2位通過に相応わしいというか、なんだかカッコよく見える。

 

「っと、その前にトイレ! とか、ありかな?」

 

 さっきの気合はどこへやら、突然トイレと言い出す。

 

 そんな金田さんに、優理が不満そうな表情を向けた。

 

「なに言ってるんですか?さっきまであんなに時間あったじゃないですか!」

 

 俺達の転送を準備する優理にも、緊張の色が見て取れる。

 

 

《ッッツツー  ッッツツー》

 

 

「まだ数分あるしトイレくらい大丈夫っしょ!」

 

 そう言うと俺の腕を掴んで強引に引っ張った。

 

「ほら、石島ちゃんトイレいくっす!」

 

 

 俺を引きずって行く金田さんは、右手を優理に向けて親指を上に立てると。

 

「優理ちゃん……グッドラック」

 

 独り言なのだろう。小声すぎて優理には届きそうもなかった。

 

 優理はというと、「ハッ」とした様子で何かに気付き、金田さんに向けて右手を突出し、親指を立てて同じポーズを返していた。

 

 

 天使のスマイルで。

 

 

 

――トイレに到着した俺と金田さんは、いわゆる【連れション】中だ。

 

「いやー、天使のスマイルって感じだったなぁ」

 

(金田さんにも天使に見えるのか……)

 

 二人で横に並び、この時代最後になるかもしれない便器と向き合っている。

 

 

「石島ちゃん、優理ちゃんの年齢知ってたっけ?」

 俺は最後の一滴を出し終えて便器と離れながら聞き返す。

 

「いえ、金田さんは知ってるんですか?」

(そういえば……気にしてなかったな)

 

 

「知ってるよ~? 石島ちゃんと優理ちゃん仲良いから知ってるんだと思ってたさ」

 

 金田さんも用を終わらせ、今度は二人で手洗い場に仲良く横並びになって手を洗う。

 

「17だってさ、見えないっしょ?」

 

 

「は!? ホントですかそれ!?」

 

 正直、冗談だと思ったけど。ニヤニヤしている金田さんが、洗面台の鏡越しに語りかけてくる。

 

「ここが300年後って考えると、本当なのかもって思うんだよね、発育が良いっていうか?」

 

 

(発育……か)

 

 俺の頭の中では、優理と出会った日のあの【谷間】がフラッシュバックしていた。

 

 

「石島ちゃん、いまエロい事考えてたっしょ?」

 ニヤけ顔の金田さんは楽しそうだ。

 

「からかわないでください、さ、いきましょ」

 俺はそんな金田さんを放置して戻ろうとしていた。

 

「ちょーっとたんま、何言ってんのさ」

 俺の腕は、また金田さんに掴まれる。

 

 

「ちょっとくらい時間あげなよ! って話だよ石島ちゃん」

 

(やっぱりそうか)

 

 分かってはいた。金田さんの意図を優理も理解したのだろう、だから親指を立てて返事をしたのだ。

 

(誰のために?)

 

 俺にとっては、逆に【作ってあげたくない時間】なのだ。俺のそんな気持ちを知ってか知らずか、金田さんは「落ち着けよ」と俺を宥める。

 

 

「勝負するなら今じゃないって、今の石島ちゃんじゃ先輩と勝負しても勝てっこないっ」

 

 そう言い切ってドヤ顔を作ってみせた。

 

 勝てないと言い切られたのは面白くなかったけど。同時に【今じゃない】という言葉に救われた気がする。

 

 俺がゲームチェンジャーとして戻ってくるには、色々な条件が必要だろう、その殆どを今は知る事ができない。でも、一つだけ確かな事がある。

 

 俺自身、もっともっと成長しないとダメだという事。

 

(今よりずっと男前になって、ゲームチェンジャーとして成功して正面から勝負してやろう)

 

 自分自身の成長を、自分自身が望む。

 こんな状況を、俺は人生の中で初めて経験している。

 

「今よりずっと男前になって戻ってきなよ、そんで正面から勝負するなら勝ち目もあるかもな! なんせ石島ちゃんは若いしイケメンだし!」

 

 そう言う金田さんも、きっと同じ事を考えていたのだろう。

 

「金田さんって、たまに俺と考えてる事かぶりますよね」

 

 

「ん?」

 

 

 金田さんは一瞬、何かを考えるよう視線を泳がせると、満面のニヤリ顔を作って言い放った。

 

 

「……『一緒にすんじゃねーよ』か?」

 

 トイレには俺と金田さんの笑い声が響き、そんなトイレから俺達が出た時には転送の時間が迫っていた。

 

 

 広間に戻ると予想外な状況になっていた。伊藤さんと優理が話をしていると思っていたのだが、優理は転送ポイントで突っ立ったままで、伊藤さんは少し離れた場所に腰かけている。

 

 

「あちゃ~、ダメだったのかなこれは」

 

 俺にしか聞こえないように金田さんが呟いた。

 

 トイレから出る直前、金田さんは今の二人の関係を少しバラしてくれた。

 

 優理が好意を寄せている事にある程度気付いている伊藤さんは、かなり露骨に優理を避けるように生活していたらしい。るいちゃんから守るという事を口実に、優理が伊藤さんの部屋を訪れていても、伊藤さんは優理を放置してベッドルームから出なかったそうだ。

 

 それはベッドルームに来いという意思表示なんじゃないのか? って思ったけど、どうやら鍵までかけて閉じこもったらしい。

 

 そんな状況で元気の無い優理を、金田さんが元気づけて色々と応援しているそうだ。

 

 

《ッッツツー ッッツツー》

 

 

 警報の響く中、俺達の戻りに気付いた伊藤さんも転送ポイントへ向かうため立ち上がる。

 

 金田さんは小走りに優理に駆け寄ると、小声で何やら質問した。金田さんの問に、優理は口を開くことはなく、ただゆっくりと首を左右に振るだけだった。

 

 

 伊藤さんも転送ポイントへ到着した。

 

 

『では、第6班、転送を開始してください』

 

 栗原美紀さんの声が響く。

 

 

「じゃ、金田さんから行きますね」

 

 優理は優しく微笑むと金田さんに転送ポイントの中央に立つように促した。

 

 

「おっし! 先輩、石島ちゃん! お先にっす!」

 

《ィィィィィィリリリリリー》

 

 金田さんが渦巻き状の何かに吸い込まれていった。

 

 

(いよいよか)

 

 順番が回ってきた事で、俺にも緊張が走った。

 

《ッッツツー ッッツツー》

 

 

 次の転送準備に入った事を示す警報が鳴り響く。

 

 

 

――しばらく無言だった。

 

 

 数分間、だったはずだ。

 

 

 でも、その数分、俺にはものすごく長い時間に感じた。たぶん優理には、何時間にも感じたに違いない。

 

 

「じゃ、伊藤さん、前にお願いします」

 

 優理は、暗い表情を見せないように必死だ。

 

(なんでそんなに伊藤さんなんだよ……)

 

 

 転送直前まで、俺は伊藤さんの事をちゃんと見る事が出来なかった。

 

 

《ッッツツー ッッツツー》

 

 この不可思議な電子音も、今ではもう聞きなれた音になってしまった。そんな警報に包まれて、伊藤さんが転送ポイントの中央に立つ。

 

 

「いつでも」

 それだけ言うと、伊藤さんはその場で両目を閉じてしまった。

 

「はい、転送します」

 優理が端末を操作する。

 

 

《ィィィィリリリリリー》

 

 

 伊藤さんも、渦巻き状の何かに吸い込まれていった。

 

 サポートの子も現地へ行くのだから、そこまで感傷的にならなくてもいいような気もする。とはいえ、転送という節目にどうしても感情が昂ぶってしまうのだろうか。転送が終わると、優理はうつむいたまましばらく動かなかった。

 

 

《ッッツツー ッッツツー》

 

 

「……あのさっ」

 

 沈黙に耐え切れなくなった俺は、何を話すか決まらないうちに声をかけてしまった。

 

 

「ん?」

 

 優しくこちらを向いた優理の両目には、今にも零れてしまいそうな涙を浮かべている。かける言葉が見つからなかった。

 

 

「いや……なんでも、ない」

 

 

 優理は少し肩を震わせながら、大きくため息をついた。

 

「あーあ、やんなっちゃう」

 

 わかる気がする。俺も優理の事を考えると、そんな独り言しか出てこない。

 

 

 優理は大きく息を吸い込む。

 

「伊藤さんのバカーーーーーー!!!」

 さっきまで伊藤さんが立っていた場所に向って、思いっきり叫んだ。

 

(うわ、必殺「天使のバカー!」だ、めっちゃ可愛いけど……)

 

 この状況じゃ、無邪気に可愛いなどとは言っていられない。全然応援したくないけど、あの伊藤さんの態度を見るとやるせない気持ちになって、伊藤さんに「もっと優理を見てあげて下さい!」とか言いたい気分になってくる。

 

 

 必殺「天使のバカー!」は、当然ながら俺だけではなく、順番を待っている7班と8班の面々にも聞こえていた。

 

 

『優理! お前それ以上深みにハマるなよ?!』

 

 8班担当の栗原美紀さんが、拡声器モードのまま優理を叱咤した。

 

「そうだそうだー」

 

「ちょっと得票数多かったからって調子に乗ってんじゃねーって言ってやれ!」

 

「あんなスカしたメガネ野郎なんて忘れちゃいな!」

 

 人数の少なくなった広間は、全員が優理の味方だった。

 

 

 そんな声援を受けた優理は、その場でクルッと回って声援のあったほうに向きなおり。

 

「スカしたメガネ野郎って言ったの誰ですか! 怒りますよ!」

 

 伊藤さんを悪く言った声に、子供のように反論する。けっこうムキになって、本気で怒っていた。一瞬の盛り上がりを見せた広間は、警報だけが響く世界に戻ってしまった。

 

 

 

《ッッツツー ッッツツー》

 

 

『優理……』

 

 警報が鳴り響く中、まだ拡声器モードのままの栗原美紀さんが優理の名を呼ぶ。

 

『これ終わったら説教だからな~? 覚えとけよっ!?』

 

 怒ってはいなかった。愛情たっぷり、愛嬌たっぷり、俺より年上の女性とは思えない可愛い口調で、優理を優しく叱っている感じだった。

 

 

「ひえええぇぇ~、それは嫌だぁぁ! お許しを~」

 

 美女と天使のこのやり取りに、広間はまた少し、楽しい空気に戻ったようだった。

 

 

 

 

――そうこうしている間に、転送の準備は整ってしまった。

 

「よし! それじゃ石島さん、いきますね!」

 

 

 優理は端末を片手に俺に合図する。俺はもう、転送ポイントの中央で準備万端だ。

 

 

「おう、行こう! 戦国時代へ!」

 俺はさっきの金田さんのように、右手の親指を立てて見せた。

 

「はいっ♪」

 優理もにっこりほほ笑んで、同じポーズを取ってくれた。

 

(きたー! 「天使のグッドラック♪」!!)

 

 幸せな気分に満たされた。

 

 

 

 だが、幸せな気分は長くは続かず。

 

 

《ィィィィィィリリリリリー》

 

 

 直後に最悪な気分に変わった。

 

 

 体がねじれ、裏返り、伸びていく。

 

 

 

(こ、れ、きもちわるっ……)

 

 

 自分が渦巻き状の何かに吸い込まれていく感覚に襲われる。自身に何が起こっているのか分かってさえいれば、そんなに恐怖感は無いだろうと、安心しきっていた俺は、甘かった。

 自分の体が原型を留めない状況になって、真っ暗な世界に吸い込まれていく。これは恐怖以外の感情が沸いて来ないほど恐ろしかった。

 

 

 真っ暗な世界へ飛び込むと、一瞬にして明るい世界に飛び出した。

 

(イテテ……)

 

 

「うぅぅ、最悪だ」

 

「きもちわるっ」

 

 

 男連中の情けない声が耳に入る。

 

 俺は「きもちわるい」と言う声を出す余裕もなく、地面に引っくり返っていた。

 

(なにがトンネルより優しいだよ、違いが全然わからん)

 

 その場所はなだらかな斜面になっている。大きな木は少ないものの、一面に広がる景色は緑一色だった。

 

(どっかの山の中か?)

 

 転送された先が何処なのか、見当も付かないでいた。

 

 

「あらあら……ゲートなのに情けない、半分くらい引っくり返ってるわね」

 

 俺の頭上から、女性の声が降ってきた。地面に仰向けに引っくり返ったまま、声の主を見あげてみる。

 

 

(おおおお、もうちょい)

 

 少し高い位置に立っていたのは栗原美紀さん。もう少しでパンツが見えそうな角度だったから、このまま引っくり返っている事にした。

 

 

「やはり三半規管の訓練も取り入れるべきじゃないでしょうか」

 

 栗原美紀さんの近くに寄ってきた阿武唯が、そんな事を言いながら引っくり返っている連中を見渡している。

 

(ぉ、唯ちゃんのも見えそう! もうちょい右向いて!)

 

 残念ながら、俺の欲望をぶった切るように、栗原美紀さんが怒鳴り始めた。

 

 

「候補者の皆さん! これから最終説明に移ります!」

 

 そこまで言うと、更に大きく息を吸い込んだ。

 

『シャキッとしろぉぉぉ!!』

 

 吸い込んだ勢いのまま、引っくり返り組みに罵声を浴びせた。

 

 

 ピーンと空気が張りつめた。別に怒られるような立場じゃない気がするんだけど、美人上司に怒られたような気分になった。

 

 これでは流石に地面とお友達になっているわけにもいかず、しぶしぶ立ち上がる、俺を含めた引っくり返り組。そんな引っくり返り組が立ち上がり切る前に、以前にも聞いたことがある笑い声が聞こえてきた。

 

 

「ギャハハ♪ おなかいてえぇえぇ、美紀ちゃんコワっ!」

 

 伊藤さんだ。いい大人のくせに、あの時のようにゲラゲラと大笑いしている。

 

 栗原美紀さんは結構怖い。

 メディカルチェックを受けている間も、列がどうとか、順番がどうとか、私語を慎めとか、あれこれ指摘してくるキッチリ派の美女なのだ。そんな栗原美紀さんの怒鳴り声に、爆笑で返事をするとは恐ろしい事をする。

 

「伊藤さんっ! 茶化さないで下さい!」

 

 

 凛としたその姿勢は、笑われたくらいでは勢いを失わない。

 

(やっぱ怖いは栗原さん!)

 

 俺は正直びびっちゃう方だ。

 

 

「いや、だって、いやいや、ごめんごめん」

 

 そういって一旦笑を収めた伊藤さんだったが。

 

「ぐぷっ!……ご! ごめ、ぐははは、だめだぁ、ギャハッハ」

 

 思い出し笑が堪え切れない様子で吹き出すと、またゲラゲラと笑い始めた。

 

 

(この人、考えてる事も笑いのツボも、全く理解不能だ)

 

 でも一つ分かったのは、この笑で張りつめた空気が緩みつつあった事だ。

 

(あの時もそうだったな……)

 

 ぐしゃぐしゃに泣いていた優理を思い出すと同時に、俺の目線は優理を捉えていた。栗原美紀さんのすぐ横で、るいちゃんと呼ばれていた子と並んでいる。

 

 優理と、るいちゃん、二人の表情は、完全に、必死になって笑を堪えている様子だった。栗原美紀さんも、そんな優理とるいちゃんに気付いた。

 

「優理、瑠依、お前ら後でお説教だからな!」

 

 

 「えー」とか「げぇ~」とか言いながら嫌がる二人。

 

 その様子を見ていた伊藤さんが、もうほとんど笑いながらの状態で二人をかばった。

 

 

「いやいや、美紀ちゃんごめんごめん、俺が悪いから二人は許してやって!」

 

 笑ながら言う台詞でもない気はしたが、別にそんな深刻な話でもないのでお説教もどうかと思う。

 

 そんな事より気になったのは、伊藤さんが栗原美紀さんの事を「美紀ちゃん」なんて親しげに呼んでいる事だ。

 

 

「もう……伊藤さんもいい加減に笑うのやめて下さい! 最終説明が進みません!」

 

 俺を含む候補者は、もうすでに栗原美紀さんの前に集まっている。静かだな~と思って金田さんを見てみたが、青い顔でげっそりしていた。

 

「ごめんなさい! 美紀ちゃんがあんまりにも可愛かったものでさぁ……ぐぎっ、ぐばははは、ダメだ、ちょっとタイム! お腹痛い死ぬ!」

 

 

 何がそんなに可笑しいのか、この「化け物」の笑のツボに完全にハマりこんだらしい。

 

 

「なっ!? か、かわっ*шД☆Ю???」

 

 栗原美紀さんは耳まで真っ赤にして、最後は言葉になっていなかった。

 

 

 そんな栗原美紀さんの様子に真っ先に反応したのは、るいちゃんだった。

 

「だーーーー! だめですよ!? だめだめ! 絶対だめです! ダメです! 本気でダメです!!」

 

 そういって栗原美紀さんと伊藤さんの間に割って入る。

 

「はいはい、伊藤さん早くこっちで並んでお話し聞いてくださいね!」

 そのまま、まだひーひー言いながら呼吸を整えていた伊藤さんの腕を掴み、栗原美紀さんから遠ざけた。そんなるいちゃんと伊藤さんの様子を、優理は唇を尖らせて観察している。

 

(うわ~、出ました必殺「天使の拗ね口」! いいわ~)

 

 

「石島ちゃ~ん」

 

 青い顔の金田さんが幽霊のような声で話しかけてくる。金田さんも優理を見ているようだ。

 

「やっぱ、先輩と勝負するの無理っすかね」

 

(ホントだよ、なんだろうあの人は……)

 

 俺は返事こそしなかったものの、完全に同意してしまっていた。

 

 

「伊藤さーん、うちのサポートまで落とさないでくださいよ」

 第8班の人から伊藤さんをからかう声が上がった。

 

「いやいや、そうじゃなくてさ、ごめんごめん、美紀ちゃんどうぞ! 最終説明とやらを初めてください!」

 

 笑顔でペコペコ謝っている姿は、別に卑屈さもなければ横柄さもない。この人の自然体が織りなす見事なまでの雰囲気は、男から見ても魅力的な部分だ。

 

《ごほんっ》

 

 栗原美紀さんはまだ頬を赤く染めながら、わざとらしく大きな咳払いをする。

 

「そ、それでは始めます、各候補者の皆さんにはこの説明が最後になりますので、しっかりと聞いてください!」

 

 気を取りなおしてそう語りかけると、場の空気が引き締まった。

 

 

 この説明が最後になる。その実感が、いよいよ高まってきた。一人で緊張していた俺は、突然右から肩をガッツリと組まれた。

 

「……!? つーくんか、びっくりした」

 つーくんだった。

 

「最後の説明、一緒に聞こうぜ相棒!」

 俺もつーくんの肩をガッツリと組み返した。

 

「おう、相棒!」

 右手に感じる心強い相棒を実感しながら、俺の視線は優理に釘付けになっていた。



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第8話 追跡

 説明の前半部分は、今まで説明された事のおさらい程度。後半部分は、これからの事についてだった。

 

 

 まず、現在地について。

 

 ここは優理たちの時代でいう【岐阜県北部】に該当するらしい。この時代では【飛騨】という国名で、山を南に下ればすぐに【美濃】という国に入るそうだ。【飛騨】は人口の少ない山岳地帯で、人目に付かずにタイムズゲートを開くには好都合との事。

 

 地理の授業もあまり得意ではなかったが、流石にこれは理解できた。何故なら、飛騨は俺の地元だからだ。

 

 

 次に、年代。

 西暦で1567年との事。

 

 この1567年という数字は、俺が学校で習った年号に近しいものは無かった気がする。それ以上の説明は無かった。

 

 

 次に、俺達の事、これにはちょっと驚いた。

 

 タイムズゲートを利用して転送された先では、何故か年を取らないそうだ。身体的な成長は、トレーニングによる成長はあっても、加齢による成長はしないらしい。これは人間だけでなく、植物や動物を転送した場合でも同じで、ケガや病気をすればもちろん治ったりするが、成長や老化といった種類の事が殆ど起こらないそうだ。

 

 原因は、未解明らしい。

 

 

 次に、今後に行動について。

 

 現地点には既に先行してスタッフが転送されており、半径5kmまでは人家が無い事が確認されている。

 

 ここから少し山間を抜けた目立たない場所に、期間限定で簡易キャンプが設置されているが、それは4日後に解体となる。サポートの子達は簡易キャンプの解体後、すぐに元の時代に戻るらしい。

 

 その間、簡易キャンプにいれば寝る場所の心配はなさそうだ。

 

 しかし、半径5km圏内を一歩でも踏み出した場合、簡易キャンプに戻る事は認められておらず、そこから先は全て自己責任で行動しなければならない。

 

 支給品は、この時代に適した服装と、この時代の単位で500文という通貨、それと携行食5日分が手渡されるとの事だ。まだ数日、優理と過ごせるかもしれないと思って安心した。

 

 

 次に、このヒストリーの終了について。

 

 4日後にスタッフとサポートの女の子は元の時代に転送されていく。その後、ゲートは一度閉じられる。ゲートは閉じるが監視は出来ているそうで、この中の誰かが大きな変革を引き起こせた場合、ゲートを解放してその時点での生存者を元の時代に回収するとの事だ。回収方法は様々だが、あまり気を使わずに強引に回収する可能性が高いと告げられた。

 

 

 逆に、変革を引き起こす者が出なかった場合。

 

 ここの地点の年代にして1618年、1月1日を持って生存者を回収するとの事。50年も与えられているだ。しかも歳を取らないのであれば、時間はたっぷりとあるように感じた。

 

 次に、監視方法と歴史の変革について。

 

 この時代の監視は直接的なリアルタイムではなく、ある程度の変革が発生する事で生じる「時空の歪み」のような物を感知する事で、間接的に行われるとの事。その歪みを感知し、その事象を確認し、選考委員がそれを変革と認めるかどうかの投票が行われる。

 

 ここで認められれば、ゲームチェンジャーだ。

 

 

 最後に、回収される「元いた時代」について。

 

これが、衝撃的だった。俺は、よく考えれば当たり前の事に気付いていなかった。むしろこの説明は、その「当たり前」よりは俺に希望をくれる物だった。

 

 この地点と、元いた時代では、時間の経過が恐ろしく違うそうだ。過去の実例を挙げると、最も誤差が生じたケースで、転送先で120年の経過が、元の時代ではわずか95日間だったそうだ。

 

 今回はリミットが50年。早ければ1ヶ月、遅くても1年くらいで戻れる事になるらしい。

 

 リアルタイムで50年も経ってしまったら。俺が戻る頃には、優理はもう67歳だ。いい人と結婚して、孫までいるかもしれない。今の優理と会えないなんて辛すぎるから、この説明は俺を救ってくれた。

 

 

 質問タイムが設けられたが、俺は特に聞く事がなかった。

 過去に受けた説明と、今回の最終説明で十分だったからだ。

 

 とはいえ15名もいると、いくつかの質問がなされた。他の候補者からの質問の中には「聞かなくてもわかるだろ!」と思う質問も散見された。与えられた情報から、自分で答えを導き出す。

 ちょっと前までの俺に、そんな力は無かったと思う。

 

 伊藤さんや、金田さんの影響を受け、俺も少しは思慮深くなったのかもしれない。

 

 一つだけ、面白い質問があった。

 

それは「この時代で子供を作る事ができるか?」という質問だった。

 

 

 結論、答えは「ノー」だ。

 

 

 転送先で細かい実験が出来ていないので明確な答えは無いそうだが。男女共に、転送された者の精子や卵子については、年を取ったり成長したりしない俺達本人と同じように、それが出来ないのではないか。というのが有力な説になっているとの事。

 

 

 気付けば、一つも質問をしなかったのは5人だけだった。

 

 俺とつーくん。

 金田さん、伊藤さん。

 

 そしてもう一人、あの嫌なやつ。大森さんだ。

 

 

 一度、候補者として転送を経験しているはずの生還者の質問は、この時代で生き抜く上で欲しい情報を取ろうとするものだった。しかし、それは変革を起こすのに必要となる情報の部類に入るそうで、回答は与えられなかった。

 

 一通りの質問が終わると、簡易キャンプへの移動が行われた。

 

 

 まだ日も高くなりきらない午前中。季節は春なのだろうか、過ごしやすい陽気だった。

 

 簡易キャンプでは、15個の候補者用のテントが設置されていた。サポートの子は、急造されたとみられる少し大きめの小屋に泊まるようだ。

 

 

 候補者15名は支給品を受け取ると、一度テントに入り、着替えを行った。

 

 粗末な服だ、コンセプトは「修験者」らしい。

 

 俺にはその「修験者」とやらが何なのか分からなかったが、時代劇に出てくる「山伏」のような雰囲気の見た目になった。

 

 

 候補者は既に、何処へいって誰の家来になろうとか、誰に接触してみようとか、最初の目標についての話に花を咲かせている。

 

 

「金田さんはどーするんですか?」

 

 この戦国マニアの目標は、すごく気になる所だった。

 

「ふふふ、聞いちゃう? 俺に聞いちゃう? まぁ聞きたまえ」

 

 両目をギラつかせた金田さんの話が長くなりそうな気がしたので、ここは聞いておかないと駄目だと思った。なので俺はつーくんを連れて来て、横に座らせてから、金田先生の講義を受ける。

 

 

「いま、この年代のこの場所では、大きな事件がある!」

 

 おれもつーくんも、正直歴史は詳しくない。

 二人ともつばを飲み込むようにして聞き入る。

 

「織田信長が、美濃へ進出して稲葉山城を落としたのがこの年だ」

 

(織田……信長……か)

 

「それが8月だからさ、今が春だとすると数ヶ月後だ、そして場所はここから近い、二日もあれば行ける距離なわけよ」

 

 それが何を意味するのかまでは、今の俺には理解が出来てない。反応したのはつーくんだった。

 

「んじゃ、稲葉山攻略に一役買えれば、織田家に入りこめるかもしれないって話ですね!」

 

 つーくんの反応に、金田さんは満足そうな顔で頷いた。

 

「けっこう急ですね、一役買うって簡単なんですか?」

 俺は間抜けな質問をしたのかもしれない。

 

 俺のその質問に答えてくれたのは、つーくんだった。

 

「よーくん、そりゃ簡単じゃないけどさ、変革を望むならまず、出世して力をつけないといけない」

 

 とても当たり前な事を言われたと思ったけど、すぐにそれは浅はかだったと知る。よーくんの言葉を補足した金田さんの説明に、すごく納得させられたからだ。

 

「そう……出世するには、だ。組織の急拡大でもないと、新参者にチャンスは来ねぇ、となると、絶賛急拡大中で、今後もドデカくなる織田家以外に考えらねぇって事!」

 

 

(なるほど、急拡大か)

 

「それにこの場所、飛騨なら好都合だ、一日二日歩けば美濃に入れる! まずは美濃に入って、稲葉山の城下町へ行く所からだな」

 

 

(美濃へ、稲葉山の城下町へ……か、よし)

 

 

「金田さん、俺達も一緒に行っていいですか?」

 俺よりも早く、つーくんが金田さんに同行を申し入れる。

 

「そりゃ歓迎さ、てか皆そうだと思うぞ?この年代、ココからスタートなら、どう考えても織田家に仕官できるかどうかだ」

 

 そんな話をしているところへ、修験者の服に着替えた伊藤さんがやってきた。全員同じ格好をしているとはいえ、普段スーツ姿の伊藤さんの変貌っぷりに笑が出た。

 

 

「笑うなって! まぁ、俺は人に笑うなとか言えないか」

 

 そういって頭をポリポリとする仕草は、本当に35歳とは思えない可愛さがある。

 

 

「先輩! 先輩はどうするんすか? これから!」

 

 金田さんは美濃に行って稲葉山。

 俺達もそうだが、どうやらほとんどの参加者がそのつもりらしい。

 

 

「俺? 俺はね、とりあえず」

 

 

 簡易キャンプはそれほど広くない。俺達の会話は勿論、他の候補者やサポートの子達に届く距離だ。あちらこちらの会話も、当然ながら俺達に届いている。

 

 この状況で、伊藤さんの行動が宣言されようとしているのだ。ほぼ、全員の耳がダンボのように大きくなっているだろう。

 

 そして、さっきまでガシャガシャと会話や物音がしていた簡易キャンプに静寂が走る。

 

 聞こえてくるのは鳥の声だけだった。

 

 

「ちょ、静まりすぎじゃね?」

 

 伊藤さんが半笑になるが、誰も何も言わない。伊藤さんのこれからの予定を、聞き逃すまいと無言でいる。

 

「まぁ隠す事でもないし、いいけどっ」

 

 もう全員が聞き耳ではなく、顔も体も伊藤さんに向けていた。

 

「もらった食料が5日分じゃさ、ココでのんびりしちゃったら遠くに行けないからね」

 

 そう言って、伊藤さんは携行食の入った袋を肩に担ぐ。

 

「まず、お金を稼ごうと思うんだ、商売はなにより人口が多くないと勝ち目がない!」

 

 そう言って、支給された500文が入った麻袋を、一度ふわっと放り上げて、落ちてきた所をパシッっと掴んだ。

 

「これっぽっちじゃさ、なんもできないし」

 

 掴んだ麻袋を懐に入れると、今度は右手を大きく上げる。

 

「んなわけで、俺、京都いくわ、んじゃね!」

 

 

(京都か……って、え?)

 

 

 俺もだが、全員が理解出来ていなかった。

 

 京都に行く事を、ではない。

 

 最後の「んじゃね!」を、だ。

 

 

 伊藤さんは怪訝な顔をしたが、「まぁいっか♪」と笑顔に戻る。

 

「おのおのがた! 命あらばまた会おうぞ! わーっはっは!」

 言い終わると同時にくるりと背を向け。

 

「なんちゃって! ばいび~♪」

 そのまま後ろ手にヒラヒラと手を振って歩き始めた。

 

 

(え? 行っちゃうの?)

 

 

「先輩!!!」

 

 金田さんが立ちあがって叫んだ。

 

 伊藤さんが立ち止り、顔を此方へ向ける。

 

 

「自分! 織田家に仕官して絶対に出世してみせるっす!」

 

 そう言って、例のあの、右手の親指を立てるポーズを見せた。

 

 あれだけ一緒に過ごしていたのに、少しも伊藤さんに依存していない金田さんが、すごく頼もしく見えた。

 

 

「おう! ま、俺の事は気にせずがんばれ!」

 

 その言葉だけを残すと、スタスタと足早に歩きだす。

 

 

 その直後、悲鳴に近い叫び声が上がった。

 

「まってよ!!!」

 

 優理ではない、るいちゃんだ。

 

「そんなに急いで行くことないじゃん!!!」

 

 既に泣いていた。可愛い両目からは止めどなく涙があふれ、両の拳は固く握られている。

 

 

「あ~、瑠依ちゃん! 生きて戻れたらお土産持っていくから、いい子にしてるんだぞー!」

 

(完全に子ども扱いされてるね……)

 

 

 伊藤さんの行動に衝撃を受けているのあh瑠依ちゃんだけではないだろう。

 皆が、あと3日くらいはここで一緒に過ごせると思っていたはずだ。稲葉山までは2日もあれば到着するようだし。ここで3日過ごしても、食料事情的には十分だったからだ。

 

 でも、京都となれば話は別だろう。5日分の食糧でも心もとない。途中で500文も底をつくかもしれない。

 

 

「最寄じゃなくて京を選択か、流石だな」

 

 大森さんの独り言を掻き消すように、瑠依ちゃんのわんわん泣く声が簡易キャンプに響いていた。

 

 俺はただ、じっと伊藤さんの背中を見送っている。この山の中では、10分もしないうちに伊藤さんの背中は見えなくなってしまった。

 それでも伊藤さんが去った方を見つめていた俺の肩にに、つーくんが軽く手を置いて励ましてくれた。

 

「どんな風に成功を収めるか楽しみだね、俺達も負けてらんないな!」

 

 そう言うと、俺の肩をポンポンと叩き。

 

「まぁ、今日はしっかり打ち合わせしよう」

 

 そう言って簡易キャンプの中央に俺を連れ戻した。

 

 

 

 携行食を一つ取り出し、昼食を済ませる。携行食は元いた時代から搬入したようだ、この時代には絶対にありえないような真空パックのような方式が用いられている。

 

 瑠依ちゃんは、まだひっくひっくと背中を震わせていたが、女の子達に励まされてどうにか泣き止んだようだ。

 

 そんな中、候補者の一人が立ち上がった。

 

「こりゃ余裕こいてらんねーな、行き先変更だ、なぁヨシオ」

 すると、もう一人が頷いて立ち上がる。

 

「んだな、とりあえず稲葉山! とか言ってられねえな」

 そう言って立ち上がると、携行食の入った袋を担ぎあげた。

 

「んじゃ俺達も行きますわ、俺達の目的地も一応言っとくぜ」

 ヨシオと呼ばれた人は、一歩前に出ると、金田さんに向き合った。

 

「あんたらも、俺らも、お互いに上手く仕官できたら、ぶつかるね」

 

(ぶつかる? 何に?)

 

 

 その言葉を聞いて、金田さんの右眉が引き攣った気がする。

 

 ヨシオと呼ばれた人の相方さん、確か村上さんだったと思う、この人も一歩前に出る。そして、二人は肩を組むと、こう告げた。

 

「俺達の行き先は、甲斐だ、武田に仕官しようと思っている」

 

 この二人は、俺と同じ推薦で通過した二人、あの生還者コンビだ。

 

 

 二人は気になる存在だったが、俺の視線はその二人の向こう側に奪われていた。

 

 

 膝を抱えて小さくうずくまり、小刻みに肩を震わせている優理から目が離せなくなっていた。

 

 声も上げず、ただ、ただ、耐えていた。

 

 その姿に、俺の胸は何かに突き刺されたような痛みを覚えた。

 

 

(なんだよ……ホント、バカじゃねーの!?)

 

 

 俺は無意識のうちに叫んでいた。

 

「あああああ! もう! ばっかじゃねーの!」

 

 

 一瞬、自分達に言われたのかと驚いた生還者コンビだったが。その言葉は自分達ではなく、優理に向けられた言葉だという事にすぐに気付いてくれたようだ。

 

 

「ったく、青春ごっこかよ」

 

 そうボヤきながらも、二人は俺と優理の間からどいてくれた。

 

 俺と優理の間に、障害物は何もない。

 

 

 

 

 一瞬、迷った。次に取る行動を、どうするべきか。

 

(考えるな! 感じろ!)

 

 どこかで拾ってきたような台詞で自分を叱咤し、優理の所へ駆け寄った。

 

 

「なにやってんだよ! いくぞ!」

 

 もう、怒鳴り気味だった。言うなり強引に優理の手首を掴んで、立ち上がらせる。

 

 

「イタッ!? 何すんのよ!」

 

 優理にしてみれば、いまある感情の置き場が無いのだろう。俺の手を無理やり振り払うと、食って掛かってきた。

 

「石島さんには関係ないでしょ! 「いくぞ」ってなに!? 何様!?」

 

 投げかけられた「関係ない」とか「何様」って言葉にちょっと傷ついたけど。言いながらボロボロと涙をこぼしている天使に、俺は言葉を失ってしまった。

 

 

 

優理の声は震えていた。

 

「お願い……余計な事……しないでよ……」

 

 そのまま両手で顔を抑えると、また地面に丸くなり、動かなくなってしまった。

 

(困った……)

 

 伊藤さんがいたらきっと、どうにでも助け舟を出してくれるのだろう。でも、もう、いない。

 

 となると、栗原美紀さんに助けてもらいたい。

 

 ところが、栗原美紀さんは何かの箱に腰掛け、腕を組み、俺たちを見つめたまま動かないでいる。事の行方を見守っているようだ。

 

 次の瞬間。

 

 

「どいてっ!」

 

 突然立ち上がった優理に弾き飛ばされると、俺は地べたに尻もちを付いて引っくり返った。視界には、木々に囲まれた狭い空が映る。

 

 

「優理! まてっ!」

 

 栗原美紀さんの声が聞こえる。

 

「ゆうり~!」

 

 阿武唯の声が聞こえる。

 

 

 俺も慌てて優理の飛び出していった方向を探す。

 

 (追って行くのか……)

 

 伊藤さんも、そんなに遠くへは行っていないはずだ。走ったら追いつけるかもしれない。

 

 

「明日香! 唯! 更紗! 必ず5キロ圏内で食い止めろ!」

 

『はい!』

 

「優理の身体能力は十分頭に入ってるな!? いけっ!」

 

『はい!』

 

 三人の女の子が優理の後を追う。

 

 

「瑠依! 緊急回線開けっ! 急げよっ!」

 

 さっきまでわんわん泣いていた瑠依ちゃんも即座に反応した。

 

「あ、はぃっ!」

 

 

「瑞穂! 佳織! 緊急回線が開き次第、先行スタッフに状況を連絡! 連携して優理の確保に全力を上げろ!」

 

『はい!』

 

 瑠依ちゃんと、その他2名の女の子が小屋に駆け込んだ。

 

 

「候補者の皆さん、私からお願いがあります!」

 

 栗原美紀さんは俺達に向きなおる。

 

「5キロ圏内を出た場合、私たちも戻る事を許されません、どうか、あのバカを……優理を止めて下さいお願いします!」

 

 最後のほうは、少しだけ声が震えたいた。

 

「そんな大げさな事か? スタッフさんとやらに応援も頼んでるし、今3人も追って行ったじゃねーか」

 

 興味のなさそうな言葉を投げ返したのは大森さんだった。

 

 

「はい、他の子ならそれでいいんです、ただ……」

 

 栗原美紀さんは一瞬、言葉を詰まらせる。

 

「優理の身体能力はズバ抜けています、あの子達じゃたぶん追いつけない……」

 

 言いながら悔しそうだった。

 

 

「よっしゃ! 任せろ! 俊足の金田って呼ばれてたんだ!」

 

 言うなり金田さんは走り出していた。

 

(行動力あるな~、はえ~)

 

 

「おい、お前が余計な事したんじゃねーのか、お前いけよ」

 

 生還者コンビの言葉でハッっとなった。

 

 

(そうだよ、行かなきゃ)

 

 俺は返事もせずに走り出した。

 

(行けとか言っちゃったの俺だ)

 

 

 金田さんはホントに早い、俊足は嘘じゃない感じだ。見える背中はどんどん小さくなっていく。

 

 

(バカなのかな俺、なにやってんだよ俺!)

 

 

 5キロ圏内、それがどのくらいの距離なのかんなんて、こんな山の中じゃさっぱり分からなかった。

 

 

(たぶん金田さんもわかってねーぞ)

 とはいえ、優理を見捨てるなんて事は絶対に出来ない。

 

 

 どこをどう逃げたのか、俺達の追跡は失敗に終わった。夕刻まで探し続けたが、誰も優理の姿を発見する事が出来なかったのだ。

 

 

 金田さんは伊藤さんに追いついて、この件を伝えたらしい。

 かといって伊藤さんは戻ってくるでもなく、何かをぶつぶつ言いながらそのまま京都へ向かったそうだ。

 

(薄情者め、いい人そうな顔してその程度かよっ)

 

 夜間捜索は危険なので、一旦簡易キャンプに集められた。俺はもっと探したかったが、完全に負傷していた。けもの道を通って探し回っていたら、そのまま沢に落ちた。2メートルくらいの高さから落ちたと思う。

 

 小一時間その場にうずくまって痛みが引くのを待ち、どうにか歩き出した所で、同じく捜索に出ていた栗原美紀さんに拾われた。肩を貸してもらって簡易キャンプまで戻ったのだが、帰りの道中で散々な言われようだった。

 

 どうにか戻ってきた俺は、けが人として早々に自分のテントへ押し込められ、自分の無力さに腹が立って涙を流していた。

 

「優理……」

 

 

 小屋では忙しく、無線のような物でスタッフさんとのやり取りが続いていた。もう、すでに深夜だ。

 

 

 誰もが疲労の色を見せ始めている時。

 

 

 大騒ぎしたのがバカらしいほど、事態はあっさり解決した。

 

 

「シーッ」

 

 突然戻ってきた伊藤さんは、優理を背負っていた。

 

「昨日、寝てないんでしょこの子、わんわん泣いてそのまま寝ちゃったよ」

 

 

 背中の優理を起こさないよう、小声で栗原美紀さんに状況を説明していた。俺もテントから顔を出して、その様子を眺めている。捜索に出た面々も続々と集まって、優理の無事に安堵していた。

 

「皆、優理への文句は明日にしよう、こんな可愛い寝顔見せられちゃ起こす気になれん」

 栗原美紀さんの苦笑交じりの提案に、みんな無言でうなずいていた。

 

 

 優理を小屋に寝かしつけた伊藤さんは、栗原美紀さんと金田さんに事情を説明。その後、金田さんは俺にもちゃんと教えてくれた。

 

 優理が京都への経路に先回りすると踏んだ伊藤さんは、5キロ圏内から出る前に優理に接触するため、優理が通るであろう先回りのルートへ針路を変更したそうだ。

 

 そして途中で優理と接触、5キロ圏内ギリギリの所で優理を止めるのに成功するも、その場で散々に泣かれ、罵られ続けて夜になったそうだ。

 

 どんな会話がされたのか、気にならないと言えば嘘になるが。

 

 

 伊藤さんの背に揺られ眠っていた天使の表情は、とても幸せそうに見えたから、今回はそれが最善の結果だと思う事にした。



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第9話 因果応報

 翌朝、かなり頑張って早起きした。理由は簡単、伊藤さんが出発する前に話を聞きたかったからだ。

 

 昨日、優理が逃走劇を展開している間に、薄情な何人かは伊藤さんを追うように出発してしまった。生還者コンビと、大森さんだ。

 

「おはようございます、石島さん」

 

 簡易キャンプ一帯は深い霧に包まれている。朝靄の中から優しい声をかけてくれたのは、唯ちゃんだった。

 

 

「おはよう」

 

 

 どうも照れくさいというか、自分に好意を寄せてくれていると分かっている子と、普通に話すのは難しい。受け入れる気があるなら別だけど。流石に、優理の友達に手を出せるほどクズじゃない。

 

 

 挨拶がてら、何かいろいろと話かけてくると思っていたけれど。意外にも唯ちゃんはさっさと行ってしまった。

 

 

(ん……諦められたかな?)

 

 

 俺の優理への態度を見ていたら、そうなってもおかしくない。優理という存在が無ければ、どう考えても唯ちゃんだ。俺にはもったいないレベルで普通に可愛い。貧乳は可愛さと差引してお釣りがくるレベルだし問題ない。

 

 

(俺……最低だなほんと)

 

 優理という存在が無ければ、とか、そんな事を考えた自分が情けなくなって、簡易キャンプの中央に設置されているテーブルに両肘をついて項垂れていた。

 

「お、石島ちゃん早いっすね」

 

 金田さんだ。

 

「あ、はい、伊藤さんを逃がさないようにと思って!」

 

 すると返事は金田さんからではなく、真後ろから降ってきた。

 

 

「誰が逃げるって?」

 

 すごく驚いた。

 

 俺の真後ろに伊藤さんが立っていた。

 

 俺達3人は、朝靄のかかる中、テーブルを囲んで携行食を取り出す。朝食を取ろうという事になり、他愛もない会話に花が咲いた。俺は伊藤さんと話がしたかった。優理の事ではなく、今後の事について伊藤さんの考えを少しでも聞いておきたかったのだ。

 

 優理の事は、昨日の一件の影響か、一晩明けたら驚くほどスッキリしてしまった。伊藤さんに背負われていた、あの幸せそうな寝顔が、俺の心に強い意志をくれたようだ。

 

「伊藤さん、やっぱり京都に行くんですか?」

 

 とにかく話題を今後の事にセッティングして、伊藤さんに喋って貰いたかった。

 

 

「行かないかな~。時間も食料もロスったし、とりあえず稲葉山にって感じだね」

 

 

「じゃあ一緒っすね!」

 

 金田さんが嬉しそうな反応を見せる。もちろん俺も嬉しい。

 

「それにしても石島くん、1日でずいぶんいい顔するようになったね」

 

 

 伊藤さんは俺を見て「凛々しくなったな、なんかあったの?」と楽しそうに聞いてきた。

 

 

 あるにはあったが、言いたくなかった。

 

(半分はあなたのせいですよ伊藤さん)

 

 

 そんな俺の心境を察したのか、はたまた本気なのか、金田さんは右手の甲を左頬に当て、妙なオカマ口調で怖い事を言い出した。

 

「石島ちゃん、気を付けた方がいいわよ、伊藤さんコッチかもしれないから」

 

 小声ではあったが、あえて伊藤さんに聞こえるように言った。

 

「え? まじですか?」

 

 ここは一応、冗談って事で受け取っておこうと思った。

 

 

「ほっほーぅ」

 

 伊藤さんは優しい笑顔でテーブルの上に身を乗り出すと、金田さんと、何故か俺も、二人とも腕を掴まれた。

 

「知ったからには、きっちり相手してもらいますよ?」

 

 目を細めて俺達を見た。

 

 

「ええええ?」

「んなっ!?」

 

 

 俺は慌ててのけ反って身構えてしまった。

 

 《ドサッ》

 

 金田さんはのけ反りすぎて、椅子から落ちて派手に引っくり返った。

 

「せせ、せ、先輩! いくら先輩を尊敬しててもそれは無理っす! 勘弁してください!」

 

 引っくり返っている金田さんの所へ、伊藤さんがゆっくりと歩いてく。尻もちを付いた状態のまま、後ずさりする金田さん。

 

 見下ろす状態の伊藤さんは、いつもより妙に優しい口調で言う。

 

「いやぁ、最初は皆、無理って思うんだよ、でも、すぐ慣れるさ、慣れたら良いよ? 最高だよ?」

 

 

(おおおちょっと、朝からなにこれ!?)

 

 

 金田さんは完全に固まってしまった。蛇に睨まれたカエルとはこの事か。

 

 このまま進むと、腐女子の喜びそうな展開か?と思ったが、そんな事にはならかった。腐女子の皆様で期待してしまった人がいたら、俺から謝りたい。

 

 

「ギャハハハ♪ ばーか、俺をからかうとは100年早いわ♪」

 

 

 伊藤さんは楽しそうにテーブルに戻ると俺に向って言った。

 

「金田くんと、とかないない、それなら切腹するね、切腹! ギャハハハ♪」

 

(じょ、冗談か……焦った……)

 

 

 俺も一瞬焦っただけに、迫られていた金田さんは今どんな心境なのだろうか。

 

 

「んんんんもおおおお、先輩、今のはダメっす! やったらダメな冗談っす!」

 

 

 そう言いながらお尻を叩いて砂埃を払うと、またテーブルに戻った。

 

 

「え? 誰が冗談って言った?」

 

 伊藤さんが、急に真顔で答えた。

 

 

「え……?」

 席に着いた直後の金田さんが、再び固まった。

 

 

 

 

――しばし沈黙。

 

 

 

 

「ま、冗談だけどね~! ギャハハハ♪」

 

 

(やっぱり冗談か……ふぅ)

 

 

「やられたっす、二段構えで完全にやられたっす、降参っす、ごめんなさい、勘弁して下さい」

 ややフテくされながら、金田さんから降伏宣言が発せられた。

 

 

「よいぞよいぞ♪」

 

 伊藤さんは本当に楽しそうに、金田さんをお殿様風にペシペシ叩きながらいじめていた。これから命がけで戦国時代に挑むような、そんな人達の風景には見えなかった。

 

 

 朝食を取りながら、思い出したように金田さんのジョークを問い詰めた。

 

「だいだい金田くんさ、なんでそんな話になったのよ」

 

(けっこう根に持つタイプか……な?)

 

「だって先輩、瑠依ちゃんに迫られて断れるとか、男としておかしいっすよ? 自分だったら断るほうが難しいっす」

 

(あ、そうか、あの時の会話は瑠依ちゃんの事か)

 

 転送の前に二人が交わしていた会話の真相が見えてきた。

 

 

「あのね、俺らの時代じゃ女子高生だぞ? 捕まっちゃうぞ、逮捕だタイホ!」

 

 そう言った伊藤さんの目には、そんな理由以上の優しい温もりが感じられた。

 

 

「冗談きついっす、どうせ『俺はこれから死ぬかもしれない人間だから』とか考えちゃってるんっすよね、そんくらいはこの金田健二でもお見通しっす!」

 

 

 言いながら、金田さんは朝食の残った最後の一欠けらを口に入れ、ろくに噛まずに飲み込んだ。

 

「先輩、もうちょっと手加減してくれねーと、男前すぎて勝負になんねーっすよ」

 

 

 いつものニヤけ顔ではなかった。本気でそう思っているのだろう。

 

「しょんべん垂れてくるっす」

 

 そのままトイレに行ってしまった。

 

 

「金田くんてホント面白いよね」

 

 そう言った伊藤さんは何故か、金田さんではなく朝靄のかかる空を見上げていた。

 

 

「なんだか朝から楽しそうですね♪」

 

 声をかけたのは唯ちゃんだった。

 

 俺にではなく、伊藤さんに。

 

 

「ん、おはよう唯ちゃん」

 

 優しく挨拶をする伊藤さんが、右手に持っていた携行食をテーブルに降ろすと、そのまま無言でゆっくり立ち上がる。

 

「いいよ、大丈夫、なんも言わなくていい、大丈夫、ちょっとあっち行こうか」

 

 唯ちゃんは頷いて、伊藤さんに誘導されていく。俺の座っている場所から、唯ちゃんの表情は見えなかったけど、きっと何かあるんだろう。

 

 

「石島くんごめん、ちょっと行ってくるね」

 伊藤さんはそう言い残し、唯ちゃんと一緒に朝靄のかかる森の中へ入ってしまった。

 

 

「ありゃ? 先輩は?」

 

 戻ってきた金田さんは周囲を見回していた。

 

 俺も釣られて見回してみると、起きて来たサポートの子達や、候補者達が朝食の支度に取り掛かっている。仕度と言っても、携行食を広げる程度だが。

 

 俺は金田さんがトイレに行っている間の事を説明した。

 

「やっぱり敵わないですかね」

 苦笑交じりに呟いてみる。

 

「それはちげぇな石島ちゃん」

 金田さんはそこまで言うと、テーブルに着き、少し考えてから口を開いた。

 

「その感じ、多分だけどさ、そうゆう時は【相談】だな」

 

(相談……か)

 

 黙っている俺に、金田さんは続ける。

 

「石島ちゃんはホント、イケメンなのにもったいねーな、女心がわかってないとゆーかさ」

 ニヤニヤしながら俺を観察するようにした。

 

 

(んな事言われてもなぁ……)

 

 

「女は喋る事で安心を得る生き物なんだぜ?話を聞いて貰えるだけでも十分なのさ」

 辺りを見回す金田さんは、誰かがいない事を確認しているように、また小声で。

 

「まぁ先輩の場合、それ以上の安心ってゆうかさ、なんかアドバイスとゆうか、そんなん貰えそうだけどね」

 

 

 同感だ。

 

(ホント、俺も伊藤さんに色々相談してみるかな……)

 

 

「確かにそうですね、伊藤さんは特別な感じがします」

 

(優理の事は相談できそうもないけど)

 

 なんて思いながら、俺も最後の一欠けらを口に放り込んだ。

 

 

「ったく、ホントわかってるか? 大丈夫か?」

 分かっているつもりながら、金田さんの問の意味までは理解できずにいると。

 

「相談相手ってな、一番落ちやすい相手なんだぜ?」

 いつも以上のニヤケ顔で、そんな誰でも知っている事を言う。

 

 

(唯ちゃんに関しては、そのほうが楽かな)

 

 

 不思議な味の一欠けらを、飲み込んでから答える。

 

「それくらい知ってますよ」

 なんだかちょっと子供扱いされた気がしてならなかった。

 

「だめだ、分かってねぇ、石島ちゃん、もっと先まで考えを巡らせようぜ、じゃないとこの先、命がいくつあっても足りねぇよ?」

 ニヤケ顔が消えた。

 

 

「先まで……ですか?」

 ホントに分からなかった。

 

 

「言わすのか、まぁ言わせるよね、そうだよね」

 軽いため息をつく金田さんは、またニヤケ顔に戻ると。

 

「さて、ここで問題です!」

 

(クイズかよっ)

 

 何か企んでいるというか、そんなニヤケ顔でクイズを出題してきた。

 

「優理ちゃんが先輩の事で相談している相手は誰でしょうか!?」

 

 

(優理が相談……?)

 

「んぁ! ちょっと! 金田さん!?」

 

 

 それから1時間ほど経つと、簡易キャンプは残っている候補者と、サポートの子達が集まっていた。特に何をするでもないが、思い思いに過ごしている。

 

 美紀さんと優理と瑠依ちゃんは、まだ小屋から出てきていなかった。

 

 金田さんはあの後「イケメン相手にバラしちゃうなんて、俺は男前だな! あひゃひゃひゃひゃ」なんて言いながら席を立つと、「ま、フェアにいこうやイケメン!」そう言って朝靄の中に消えて行った。

 

(フェアにいこうも何も、あと二日でお別れじゃないか)

 

 

 伊藤さんと金田さんが戻ってきたのは、朝靄が晴れてからだった。

 

「ありがとうございました!」

 

 元気よく伊藤さんにお辞儀をした唯ちゃんは、俺をチラッと見ると優しく微笑んだ。

 

(お?)

 

 微笑んだけど別に声をかけてくるでもなく、そのまま別のサポートの子と合流し、朝食を取り始めた。

 

 

「まったく、隅に置けないねうちの相棒も」

 

「や、やめてよ、おはよう!」

 

「おはよう!」

 

 朝食を済ませたつーくんが隣に来た。戻ってきた金田さんもテーブルに着く。

 

「さて、ちょっと真面目に話しますか、先輩も混ざってもらってもいいすか?」

 

 唯ちゃんを見送った伊藤さんは、小さく頷いてテーブルに着く。

 

 

「む? 断る理由などござりませぬ」

 

 何故か武士語になり始めた伊藤さんも参加してくれた。

 

 俺とつーくん、テーブルを挟んで伊藤さんと金田さん。4人で今後の作戦会議が始まった。

 

 

 今後と言っても、遠い先の事は誰にもわからないので、まずは稲葉山城に近い【井ノ口】という町に行く事に決まった。俺達の時代では【岐阜市】のあたりらしい。

 

「え? 先に言ってくださいよ、だったらもっと簡単に理解できたのに」

 

 稲葉山城というのは、ようするに岐阜城だそうだ。

 

 

「――ここまではいいっすね、で、こっからが大事っす。変革について、受けた説明をどう理解して、俺達はどんな変革を目指すべきかって話っす」

 

 話を続ける金田さんの表情は、2位通過の凛々しい物に変わっていた。

 

 

 3人で色々と思う所を出し合ったが、伊藤さんだけ黙ってそれを聞いている。つーくんは、そんな伊藤さんに少々不満そうではあったが、俺と金田さんは全く気にしていない。参加してくれている以上、最後には思っている事を言ってくれるだろう。タイミングは任せる事にした。

 

 

 信じていい人だ。この人が考えている事や、やる事は意味不明な事が多いが、意味不明なのは、俺の考えが伊藤さんの考えに遠く及んでいないからなのだと思っている。

 

(たまにホントに分からない事もあるけど、爆笑とか、ルービックキューブとか……)

 

 

 それは置いといて、ここまでハッキリと負けを認めるのも、伊藤さんが相手ならば清々しい。追いつけるか分からないが、いつか追いつきたいと思う。

 

 

 3人の会話が行き詰った。

 

 それは【最も単純に最短距離で歴史の変革を狙った場合】について、つーくんが出した仮定に対して結論が出てこないのだ。

 

 その仮定とは【今すぐ尾張へ向かい、後の豊臣秀吉である木下藤吉郎を殺害したら、歴史の大きな変革になるのではないか】という物だ。

 

 現時点での木下藤吉郎は、身分がそれほど高くないらしく、家来も少なく警護もさほど厳重ではないだろう。殺害という手法にはかなり抵抗があるけれど、やるやらないは別にして、可能性だけの話としては十分にありうる。

 

 

 伊藤さんをチラ見してみる。

 

 

 黙ったまま口を開く様子がない。

 

 

 金田さんを見てみる。

 

(あれ? 金田さん答えにたどり着いた?)

 

 

 俺と目が合って、ニヤリと笑ったのだ。

 

 

 でも何も言わない。その意図を俺はすぐに理解した。

 

(さっき言われたんだ、もっと考えろって)

 

 

 つーくんもまだ、考える事を辞めていない様子だ。俺もまだ考えてみよう。

 

 

(変革の条件か……)

 

 

「あっ」

 

 つーくんが声を上げ、伊藤さんと金田さんを交互に見る。

 

「なーんだ、お二人揃ってとっくに気付いてるって感じですね」

 

 

 そんなつーくんに、金田さんがドヤ顔を見せる。

 

「その通りだよ3位通過くん、これくらいは自分で気付かないとね、ですよね1位通過先輩」

 変な呼び名になったつーくんは、別に悔しがるそぶりもなく。

 

「ですよね、流石です、2位通過先輩」

 そう言って、また何かを考え始める。

 

(乗るのね、これ乗るんだ)

 

 

 こちらも変な呼び名になった伊藤さんは。

 「左様、精進いたせ」

 まだ武士語がブームらしく、ウンウンと頷いていた。

 

(なんか危機感沸いてこないな~)

 

 このテーブルには1位~3位の通過者が揃っている。候補者最強の組み合わせだ。

 

(俺、ちょっとレベルが違うのかな……)

 

 この3人の余裕たっぷりな感じに、少しだけ自分に不安を感じてしまった。

 

 

 ま、そうは言っても俺だってそこまでバカじゃない。いや、バカかもしれないけど。それでもつーくんが相棒に選んでくれた男だ。趣味だけじゃない、ちゃんと能力や人となりまで見てくれての選択のはずだ。

 

「んー。先輩はもう、その先の解説までたどり着いてる感じっすね、結論出たって顔してますよ」

 

 金田さんが隣に座る伊藤さんの顔を覗き込む。

 

 

「あ、そう? って、やっと気付いたか、しゃべっていい?」

 

 どうやら、解説を求められるまで待っていたようだ。伊藤さんの解説を聞くのが一番早いのは分かっている。俺の思考回路では、伊藤さんの考えている場所にたどり着くのに何日かかるかわからない。

 

 ついに伊藤さんが口を開こうとしている。

 

 金田さんは俺に「いい?」と、口には出さずに目で聞いてきた。もう、いいも悪いも無い、俺は頷いた。

 

 

「むっ? たわけめ、ようやく気づきおったか、申してもよいのか?」

 

(え? 武士語に言い直した!!)

 

 

「ぶっ! 言い直しましたね?! あひゃひゃひゃ!」

 

「アハハハッ!」

 

 笑いは、このテーブルには収まらなかった。

 

「ブフッ」

 

 所々で、釣られて吹き出す音が聞こえる。クスクスと堪えながら笑う女の子の声もする。

 

 

 それはそうだ。このテーブルでの会議は、この簡易キャンプ中の注目を一身に集めているのだから。

 

「あーもうやめやめ、普通に話しますごめんなさい」

 そんな伊藤さんの言葉に、笑の輪が広がっていった。

 

 

「……で、真面目に話すけどさ……」

 

伊藤さんが話始めると、ピーンと張りつめた静寂が戻る。

 

 

(これ、カリスマってやつかな)

 

 

「先輩、カリスマすぎっす」

 金田さんが小声で呟く。

 

 

(言わなくてよかった……)

 

 

「ゲームチェンジャーに認定されるには、大きな変革が必要だ、ゲームチェンジャーに認定される出来事を仮に【ゲームチェンジ】と呼ぶとしよう」

 

 

 そう切り出すと話を続けた。

 

「その【ゲームチェンジ】は誰が決めるのか、説明にあったでしょ、選考委員が投票で決定するって」

 

 もう、簡易キャンプ全体が聞き入っている。

 

「てことはさ、選考委員が「そんなの面白くない!」とか思っちゃったら、それは【ゲームチェンジ】に該当しないと思うんだよね」

 

(そうか、確かにそうだ)

 

「で、ここまでは分かってたでしょ? 金田くんと須藤くん」

 

(そ、そうか、そうだよね)

 

金田さんとつーくんは、黙って伊藤さんに頷いていた。

 

 

 金田さんとつーくんが望んでいたのは、この続きだ。

 

「歴史上重要な人物をどうにかしたところで【ゲームチェンジ】は発生しない事になる、でもこの議題の怖さはそこじゃないんだよね、本質的にもっと重要な問題がある」

 

 皆が聞き入る中、伊藤さんの視線が小屋の方に移った。

 

 俺も釣られて見てしまう。

 

 

 そこには、優理が入口から出た所で立っていた。

 

 

 視線は、完全に伊藤さんに行っている。俺は伊藤さんのすぐ近くにいるから、俺を見ている可能性もゼロではないはずだけれど、そうではない事がハッキリわかるくらい、伊藤さんを見ていた。

 

 

 

「おはよう、優理、よく寝れたかな?」

 

 

(こ、この「優しさ爆発スマイル」と戦うのはやっぱり無理か?)

 

 

 昨日の事なんて全く気にしていない、そんな笑顔でちょっと遠目から優理に声をかけた。

 

 

 優理の事を心配していたのは伊藤さんだけじゃない。俺も当然心配したし、今このキャンプに残っている人は全員、優理の捜索に少なからず参加した人たちばかりだ。

 

 でも、誰も優理に声をかけなかった。そんな野暮な事するようなバカは、一人もいない。

 

 

「おはよう、伊藤さん……」

 俯きながら答えた優理を見て、伊藤さんがテーブルを離れる。

 

「みんな、ちょっとごめんね」

 別に全員に向けて話してたわけではないが、全員が聞いていたからなのだろう。話を中断するため、この場の全員に謝罪。

 

 伊藤さんはそのまま優理の所まで歩くと、右手を優理の頭の方へ差し出した。

 

 

(ナデナデしちゃうの!? イイコイイコしちゃうの!? それはずるい!)

 

 

 そんな事されたら、もう完全に勝負がついてしまう。

 

 

(終わったか、やっぱり完全敗北なのか……)

 

 

 

その時だった。

 

 

 

〈ピシッ〉

 

 

 

 可愛い衝撃音が小さく響く。

 

 

「イタッ!?」

 

 一瞬、この場の全員が何が起きたのか理解不能だった。

 

 

 当の優理は、額を抑えて目を丸くしている。

 

 

(デコピンしたのかよ!)

 

 

 もちろん、十分に手加減したと思われる。

 

 

「いったぁ~~~~~、何するんですか!? 寝起きですよこっちは、ね・お・き!」

 

 

 自分の額に両手を重ね、痛がる優理。その目は、必要以上に涙を浮かべている。

 

 

「ほら、まずは皆さんに「ゴメンナサイ」しなさい、話はそれからです」

 

 

(まるで先生と生徒だなこりゃ)

 

 

「ふふふっ」

 

 笑ったのは唯ちゃんだ。俺と同じ感想でも持ったのだろうか。

 

「もう、唯ぃ~、笑うなし」

 

 口を尖らせて文句を言う優理。

 

 

 

〈ピシッ〉

 

 

 今度は側頭部にデコピンが飛んだ。

 

「イダッ! いたあぁぁぁぁい、もう! 暴力反対~! やめてください泣きますよ!? いたたたー」

 

 

「ほら、ごめんなさいする!」

 

 

 伊藤先生に叱られて、デコピンが着弾した側頭部をさすりながら、優理が皆の方を向いて改まった。

 

 

「みなさん! 昨日は、本当に申し訳ありませんでした!」

 

 綺麗な角度でピシっとお辞儀をして謝罪した。

 

 

「あらあら、そもそも原因はどちら様でしたっけ~? ねぇ皆さん♪」

 

 小屋から出てくるなり、ずいぶん楽しそうな声を上げたのは美紀さんだ。

 

(え? お、俺か?)

 と思ったけど、残念ながら俺は、蚊帳の外だった。

 

 

 美紀さんはそのまま優理と伊藤さんの所まで行くと「あれ? 伊藤さん頭にゴミ付いてるよ」そう言って伊藤さんに「ちょっとちょっと」と、少し屈むように促した。

 

 

「ん?」

 

 

 伊藤さんは素直に少しだけ屈む。

 

 

 

 次の瞬間。

 

 

 

〈バチッ!〉

 

 

 美紀さんの右手から、強烈なデコピンが炸裂した。

 

 

 

「ぐおいでえぇぇぇ!? 俺なの!? そうなの? イッテーぇぇぇ」

 

 

 いい大人が、美女のデコピンをまともに食らって悶絶している。

 

 

「私の可愛い妹達を泣かせた罰です♪」

 

 言ってる内容と、口調や表情がだいぶかけ離れている。美紀さんは何故だかとても楽しそうだ。

 

「ほらほら、優理も一発いれたれ! 仕返し仕返し♪」

 

 美紀さんが優理をけしかける。

 

 

「やれやれ~!」

 

 

「やっちまえ優理ちゃん♪」

 

 

「避けるなよメガネ~!」

 

 1位通過の化け物に対するデコピンの刑に、簡易キャンプは大盛り上がりになってしまった。

 

 

「ちょっと、なんで伊藤さんが! なんで!?」

 けしかける声援をやめさせようと、あたふたとする瑠依ちゃん。

 

「よぉ~し!」

 腕まくりをする優理。

 

 

「な、おま、手加減しろよ? しろよ? な?」

 そのデコピンを大人しく受けようとする伊藤さん。

 

 

 

〈ピシィィィ〉

 

 

 美紀さんのデコピン程ではなかったが、そこそこいい音がした。しかも、美紀さんのデコピンと同じ個所に命中したようだ。

 

 

「いでぇぇ……んん」

 伊藤さんは両手で額を抑えると、そのまましゃがみこんだ。

 

 

 デコピンを連続で受けた事がある人間にしかわからないだろう。あれは同じ個所で受けると、痛さが何倍にも増するのだ。

 

(うわ、痛そう~)

 

 と思いながらも、気付いたら俺も笑っていた。

 

 簡易キャンプはヤンやヤンやの大騒ぎだ。悶絶する伊藤さんの横では、優理が勝利のポーズで声援に応えている。

 

 

「もぉぉぉぉぉ、伊藤さん大丈夫ですか?」

 瑠依ちゃんが伊藤さんに駆け寄る。

 

「大丈夫! だいじょぶう!」

 伊藤さんは額を抑えながら立ち上がる。

 

 

「あら? 全然大丈夫みたいだね、なら、瑠依、お前も一発! 入・れ・た・れ♪」

 

 またもや美紀さんがけしかける。

 

 

「な……ちょっ!?」

 まだ片手を額に当てている伊藤さんは少し後ずさりする。

 

「え? え?」

 状況を理解出来ていない瑠依ちゃん。

 

 

「泣かされたんだろ~! やっちゃえよ♪」

 

「るい~! ふぁいとぉ♪」

 声援にはサポートの子達の声まで混ざり始める。

 

 

「ん? じゃぁ~仕方ないね!」

 やけくそ気味の瑠依ちゃんも腕まくりをする。

 

「何だかみんな楽しそうだし! わっかんないけどいっくよぉ!」

 

(いいなぁ、俺もあの3人からだったらデコピン大歓迎なんだけどなぁ)

 

「お、おのれぇ、因果応報とはこの事かっ」

 

 伊藤さんは諦めて腰を屈める。

 

「もはやこれまで、好きにいたせっ!」

 武士語で言いながら腰を屈め、瑠依ちゃんがデコピンしやすい高さまで頭を下げてあげているだ。

 

 

(子供扱いしてるだけだとは思うけど、伊藤さん瑠依ちゃんにベタ甘だな……)

 

 

「ふっふっふ……念仏は唱え終わったか? ゆくぞ♪」

 

 どこで覚えたのか、瑠依ちゃんも妙に時代劇風な台詞を口にすると、デコピン発射体制に入った。俺の妹もあれくらい可愛かったら、ベタ甘な兄になってしまうだろうと思う。

 

(まぁ、仕方ないか)

 

 

 

 

<ピッ>

 

 

 

 

 瑠依ちゃんのデコピンは、これ以上ないくらい可愛く不発に終わった。

 

 

 盛り上がったデコピンの刑も一旦終演となり、美紀さんが全員に昨日の件について礼を述べた。もちろん、優理も改めて全員にお礼を述べる。

 

 

 特にかしこまった重苦しい空気ではなく、優しく温かい気持ちで優理の謝罪やお礼を聞けたのは、伊藤さんと美紀さんのお蔭だと思う。

 

 瑠依ちゃんは、不発に終わったデコピンを「もっかい! ねっ!? お願いもっかい~♪」と伊藤さんにおねだりしていた。

 

 状況次第じゃ、とんでもなくエロいお願いだ。

 

(いいなー、俺もあんなモテ大人になりたいなぁ)

 

 瑠依ちゃんは、デコピンなんて事をやったのが人生初だったそうで「次は上手にするからっ!」と目からキラキラビームを発射しながらお願いしていたが。

 

「上手にならんでいい! もうおしまい!」

 

 伊藤さんは全力で拒否していた。

 

 

 2発の強烈なデコピン+不発1発を食らった伊藤さんの額は、しばらく赤くなっていた。

 

 自分でけしかけたくせに、そんな伊藤さんの額を必要以上に心配していた美紀さん。どうも、美紀さんの行動も怪しい。

 

 そういうのはどちらかと言うと、女の子のほうが敏感に感じるんだろうと思う。伊藤さんの額を気にする美紀さんに纏わりつき、絶対に二人だけにしない瑠依ちゃんには感服した。

 

(その調子で優理の監視もお願いしまっす!)

 

 俺は心の中で精一杯、瑠依ちゃんに声援を送っていた。

 

 

 美紀さんと瑠依ちゃんが伊藤さんに纏わりついている間、俺は幸せ真っ盛りだった。

 

 昨日、捜索中に間抜けにも落下して負傷した左足。別に大したことは無い。普通に歩けるし、歩く程度なら特に痛みもない。

 

 けれども、昨日の泣き過ぎのせいか、少し腫れぼったい目の天使が、俺を必要以上に心配してくれて、何度も何度も謝っている。

 

「ごめんね、ほんとにごめんね」

 

 

「大丈夫だってば! そんなに何回も謝らなくていいって♪」

 

 優理はぶるんぶるんと首を横に振る。

 

 

「ひどい事も言っちゃったし……ケガまでさせちゃってさ……」

 

 

 そう言うと、俺の手軽くを握る。

 

「ごめんね、ほんとにごめんね……」

 

 ちょっと涙声で謝罪し、そのまま俯いて何も言わなくなってしまった。俺の手を軽く握ったままで。

 

 優理の手は柔らかく、温かく、なんだか俺まで少し、涙ぐんでしまった。



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【GF】 ゲネシスファクトリー2

■ゲネシスファクトリー 日本支部

   時空域最高管制室

 

 

「ジャパンゲート第719号、検体候補者15名並びに臨時検体8名の転送を完了」

 

「転送完了を確認、監視モードに移行」

 

 監視モードへ移行した事を知らせるパネルが点灯する。

 

 

「監視モードへの移行を確認、指示を待って特別隔離モードへ移行します」

 

「了解、特別隔離モードへの移行準備開始」

 

 複数の管制官が復唱する中、モード移行を表示するパネルが異常を知らせる点滅を開始する。

 

 

 

「すまんな、佐川……」

 どこか遠くを見るようにして呟いたのは、時空域最高管制室の責任者である。

 

 

「自らの娘よりも、古き友の忘れ形見の心配ですか、美しい話だ」

 そう声をかけた副官は、責任者よりも多少年嵩で、初老に差し掛かっている男だ。

 

 

「貴様はいいのか」

 責任者は副官を見ることなく、言葉だけを返した。

 

 

 副官はニヤリと笑って答える。

「技推からの要請にある検体の必要数は最低6体、候補者の数を考えれば臨時検体が選択される可能性は低いですからな」

 

(自分の娘の性格を分かっていないな、哀れな男だ)

 

 責任者の傍らに立つ副官には、自分の言葉に応えない上司を気にする素振りは無い。

 

「それにしても技推の力も弱くなりましたな、レベル3の超極秘ミッションすら、選考委員会に非公開で行えないとは・・・」

 

 技推とは、技術推進室を指している。

 

 

「予算が無いのだろうよ、とにかく選考委員会に悟られるなよ」

 責任者はそれだけ言うと、再び口を閉じる。

 

 副官の言葉は続いた。

 

「技推も我々も運が悪い、今回は選考委員会がかなり注目しておりますからな」

 

 責任者は管制室のメインモニターを睨んだまま微動だにしない。

 

「初参加で439票とは……もっと別の使い道もあるというものだ、コヤツ、検体にはもったいない」

 

 

(よく喋る男だ)

 

 

「伊藤修一といいましたかな、コヤツが戻らなかったら顧客が大騒ぎしますな、委員会が黙っていませんぞ」

 

 

 責任者は、この饒舌な副官の事を心底気に食わないと思っている。副官も同様に、無口で本心の知れない責任者を快く思っておらず、無意識のうちにその言葉に嫌味が混ざり込んだ。

 

 

「今からでも延期に出来ますが」

 

 少しの間を置くと。

 

「それでは室長のお立場が危うくなりますね」

 

 副官はククッと嫌らしい笑いを漏らす。

 

 

(貴様のほうがよほど危うい)

 

 責任者は感情を出さず、無言を貫いている。

 

 

「では、予定通りに」

 

 副官の催促に対し、責任者は返事の代わりに右手を軽く上げて合図する。副官はその合図に小さく頷くと、管制室に響き渡る声で指示を飛ばした。

 

「1018(ひとまるひとはち)時、現時点を持って極秘ミッション第61号のプロテクトを解除。特別隔離モードに移行、ミッションの速やかな遂行に移れ!」

 

 管制官の各モニターに、「LevelⅢ」の表示と共に極秘ミッションの概要が公開される。

 

 

「レベル3……!? りょ、了解、ミッションの速やかな遂行に移ります」

 女性の管制官が一瞬、苦虫を噛んだような表示を見せる。

 

「そんな顔をするな、これも発展のためだ、くれぐれも悟られないようにな」

 管制官を諭す副官は、怪しい笑みを浮かべていた。

 

 

「室長、本当に、よろしいんですか?」

 管制官の中では、一番若い男が責任者に問いかける。

 

 責任者は沈黙を破り、若い管制官に聞き返した。

「お前はどうなんだ」

 

「嫌ですよ、当たり前じゃないですか」

 若い管制官の語尾には、震えが混じっていた。

 

「すまんな、だが私情は抜きだ、お前達も、俺もな」

 責任者の言葉に、若い管制官は小さく頷いて目の前の操作パネルに手を伸ばす。

 

「分かっていますよ、それに、俺は信じてますから」

 

 そう言って、決意を込める様にパネルの操作を開始した。

 

「室長を、父さんを、美紀を、それと……自分の腕も!」

 その若い管制官の言葉に、副官はまたニヤリと笑みを浮かべる。

 

 

《ピュイピュイピュイピュイピュイ》

 

 

 最高管制室に甲高い警報が鳴り響く。

 

 誰にも慌てた様子はない、故意に起こしている事態なのだ。

 

「特別隔離モードに移行します! 移行完了まで1200秒!」

 

 メインモニターに表示された「1200」は、1秒毎にその数を減らしていく。

 警報が鳴り響く中、若い管制官は誰にも聞こえない声で呟いた。

 

「例え検体に志願したとしても……俺が必ず見つけ出してやる」

 

 

「残り1100秒!」

 女性の管制官が特別隔離モードまでの残り時間を叫ぶ。

 

 

 その時、責任者が立ち上がった。

 

「ようし、お前ら! 一芝居打つぞ! 悟られるなよ!」



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第10話 美樹の決断

■西暦1567年 飛騨国

    山岳地帯 簡易キャンプ

 

 

「よくそこまで考えが回るものね」

 

 関心の声を上げたのは美紀さんだった。

 

 

「さっすが先輩っす、目の前がスッキリした感じっす」

 

 

 デコピン伊藤さんは、自身が仮定した【ゲームチェンジ】に伴う危険性について、中断していた解説を再開し、一通り話し終えた所だ。

 

 

「うむ、ゆえに各々方、歴史の変革には十二分なる慎重さを持って当たるように、よいな?」

 

 解説中は普通だったくせに、終わると再び武士語に戻った。

 

 

 この武士語、つーくんは大好きなようで、喜んで乗っかる。

 

「して殿、殿は、いったいどの時期を変革のポイントと捉えておられるのですか?」

 

(つーくんって、面白いな)

 

 そんな余裕たっぷりな相棒を、頼もしく思う。

 

 

「ぽい!? ぽいんととな!? それは何じゃ剛左衛門!」

 

(ごうざえもんっっ)

 

 俺は笑が込み上げてきた。

 

「あひゃひゃひゃ」

 金田さんは手を叩いて大爆笑していた。

 

 

「え? あ、なんていうんだろう、変革の……好機!?」

 

 

「ふむ、それは某にもわからぬ」

 

(それがしっっ)

 

「あひゃひゃひゃ」

 

 つーくんとデコピン伊藤さんの武士語寸劇は、何故かとにかく大真面目で、見ているこっちはただただ面白かった。

 

 

「クスクス」

 

 唯ちゃんも笑っていた。

 

 

「伊藤さん変! アハハッ♪」

 

 優理も笑っていた。

 

 

「俺達の知らない方向に歴史が動かないようにしておくのも、ゲームチェンジャーになるには大事な要素って事っすね!」

 

 金田さんがまとめる。

 

 デコピン伊藤さんは、そんな金田さんを見て。

 

「正直に言うとさ、一応考えてるポイントはあってさ」

 

 そう真面目な感じで切り出す。

 

「俺はそのタイミン《ピュイピュイピュイピュイピュイ》

 

 

(な、なに?)

 

 

《ピュイピュイピュイピュイピュイ》

 

 

 警報にかき消されて聞こえなかったし、多分、伊藤さんも最後まで言っていないと思う。

 

 

 

「優理! 瑠依! 緊急回線準備! 先行スタッフに連絡を取れ!」

 

『はいっ!』

 

 

 美紀さんの反応はすごく早い。こうゆう人を「危機管理能力が高い」と言うのかもしれない。

 

 

「明日香! 更紗! 時空域測定!」

 

「はい! やってます!」

 

 二人の子は、美紀さんの指示の前にやるべき事を察知して動いていた。

 

 

(かっこいいなぁ)

 

 俺はそんな感じで他人事のように眺めていたが、候補者の中にはこの警報に慌てている人もいる。それでも当然のように、俺の周りの3人は余裕たっぷりだ。

 

 

《ピュイピュイピュイピュイピュイ》

 

 

「瑞穂! 佳織! 唯! 万一に備えて転送準備急げっ!」

 

『はい!』

 

 

 警報は鳴りやまない。

 

 しばらくして、明日香ちゃんが叫んだ。

 

「時空域干渉レベル2! 肥大しています!」

 

 

「レベル2……!? そんな…ゲート肥大? なんで……更紗!」

 

 

 直後、更紗ちゃんが悲鳴に近い声を上げる。

 

「少し待ってください! 計測完了まで残り8秒!」

 

 

「6!」

 

 

「5!」

 

 

「4っ」

 

 

「3」

 

 

「にぃ」

 

 

「い……ち?」

 

 

 カウントダウンする更紗ちゃんの顔が、徐々に青ざめていくのがわかった。

 

 

「更紗!」

 美紀さんが叫ぶ。

 

「は、はい! ゲート周辺に別の時空域が発生中です! このままではゲートごと融合します!」

 

 

「別の時空域!? なんで……」

 美紀さんの顔も青ざめている。

 

 

《ピュイピュイピュイピュイピュイ》

 

 

「これって、大変なんすかね?」

 小声で尋ねた金田さんに、伊藤さんは特に興味が無さそうな感じに返答した。

 

「だろうねぇ、忙しそうだし」

 

 そこまで言うと、チラッと金田さんのほう見た。

 

「なんかさ」

 

 そう続けた伊藤さんは、金田さんに向って。

 

「これって【武田信玄が動いたぞ~!】って感じだよね」

 

 なんて笑いながら、俺には分からない冗談を言ったようだ。金田さんの表情はパッっと明るくなった。

 

 

「先輩!? いける口じゃないっすか! まさにそんな感じっすね!」

 

 そこまで言うと、何かを思い出したように。

 

「てか、なんで今まで黙ってたんすか! かなりいける口っすよね!?」

 真面目にびっくりしている様子で、伊藤さんに食いついていた。

 

 

《ピュイピュイピュイピュイピュイ》

 

 

「美紀ねぇ! だめ! つながらない! もうコッチにいないみたい!」

 小屋から飛び出してきた瑠依ちゃんが叫んだ。

 

 

「いない? なんで!?」

 

 

 

 美紀さんは数秒考えたが、すぐに結論に達したようだ。この速さ、俺もこんな風に高速回転で考えを巡らせたい物だと、妙に感心していた。

 

 

《ピュイピュイピュイピュイピュイ》

   《パーッ パーッ パーッ パーッ》

 

 甲高い警報に、何か別の音が混じった。

 

 

 ほぼ同時に明日香ちゃんが叫ぶ。

 

「さらにゲート肥大! レベル3に到達します! このまま融合したらトンネル化します!」

 

 明日香ちゃんの叫びを聞いた美紀さんは、自らの端末を起動した。

 

「更紗! 融合までの時間は!?」

 端末を操作しながら美紀さんが問いかける。

 

「約900秒を表示していますが正確には測れません! 測定レベルMAXですが最大誤差150秒程かと思います!」

 更紗ちゃんの返答も迅速で、このやり取りは聞いてて気持ちがいい。

 

 

《ピュイピュイピュイピュイピュイ》

   《パーッ パーッ パーッ パーッ》

 

 

「どうにか10分以上、ありそうだな」

 美紀さんは苦しそうな表情を見せると、端末を忙しそうに操作し始めた。

 

《パルパルパルパルパルパルパルパル》

 

 美紀さんの端末が今まで聞いたことの無い音を発した。

 

 

「こいっ……頼む……こいっ!」

 

 美紀さんは端末に向って祈るように声をかけている。

 

 

 

《ピュイピュイピュイピュイピュイ》

   《パーッ パーッ パーッ パーッ》

 

 

「こりゃただ事じゃねーっすね」

 この緊迫感に、流石の金田さんも表情を硬くした。

 

「にしてもコレ煩いね、もうわかったっての」

 ひたすら鳴りやまない警報に、伊藤さんがケチをつけてみる。

 

 

 

<ピー ピピピピピピ>

 

「きたっ!」

 美紀さんの端末からあの施設のドアが開くときのような音がすると、美紀さんが歓喜の混ざった声を上げた。

 

 

『――ガーガー……ピピッ「リンク完了、こちら最高管制室、現状報告は不要! ケースレッド発令中! 繰り返す! ケースレッド発令中!」』

 

 

「うそでしょっ!??」

 

 端末から発された声に、美紀さんの顔から血の気が引いていくのが伝わってきた。

 

「瑠依! 明日香! 更紗! 優理!」

 

 

『はい!』

 

 俺達にはよく分からない、この緊迫した状況に、瑠依ちゃんは少し泣きそうな顔で応答していた。

 

 

(優理は……)

 

 小屋から飛び出してきた優理は、その表情に緊張の色を見せてはいたものの、なにか使命感のような物に取りつかれている感じがした。

 

「私の端末以外は全て転送準備を開始! 急げよっ!」

 

 

『はい!』

 

 

 

『……「サポートリーダー、応答願います!」』

 

 美紀さんの端末から声がする。

 

「はい! サポートリーダー栗原です!」

 

 美紀さんは端末に話しかけている。

 

 

 

「あれって、元の時代と話してるんっすかね?」

 ちょっと緊張の面持ちの金田さんが、見れば分かりそうな事を言う。

 

(らしくないな、そうに決まってるじゃん)

 

 そう思ったけど、伊藤さんと金田さんの会話は、俺の脳内とは少し次元が違う。

 

「だと思うよ、リンクしたとかなんとか言ってたし、コッチとアッチの時間経過の差が今は無いんじゃないかな」

 

(そうか、時間の経過に差があったら、会話なんて出来るはずがないんだ)

 

 

 つーくんも二人の会話に混ざる。

 

「問題は全員を転送できるかどうかって話ですよね」

 

(え?)

 

 伊藤さんは黙って頷く。

 

 

《ピュイピュイピュイピュイピュイ》

   《パーッ パーッ パーッ パーッ》

 

 

「――――そんな事……出来ません!」

 

 こっちの会話に気を取られていて、美紀さんと端末の会話をちゃんと聞いていなかった。

 

『・・・「美紀、つらいのは分かる! でもやらないと駄目だ!」・・・』

 

「兄様、でも……」

 

 いつの間にか、美紀さんはお兄さんと話をしていたようだ。

 

 

『・・・「かわれ……美紀! 迷うな! サポート8名と候補者8名を帰還させろ、それでいい!」・・・』

 

 端末の中の声が別の男性の物に変わった。

 

 

「お父様……出来ません、そんな……」

 

 

『・・・「甘えるな! その地点をトンネルで繋ぐわ」ピッピー・・・・ガーガー・・・』

 

 言葉が途中で切れた。美紀さんが慌てて端末を再操作する。

 

『・・・ピッピー・・・ガガ・・・「リンク完了、回線不安定です、サポートリーダーへ通告します! ケースレッド発令中、時空域切除まで残り800秒!」・・・』

 

 再度接続されたと思われる先から、なんだか緊迫した状況が伝えられる。

 

「くっ……」

 美紀さんの拳は固く握られている。

 

 

『・・・「美紀、良く聞け」・・・』

 

 端末の中身は、美紀さんが「お父様」と呼んでいた声の主に戻った。

 

『・・・「これは時空域最高管制室の副官として、緊急事態条項第8条3項に基づき下す命令だ、サポート8名と候補者8名を帰還させろ、候補者の選択は選考上位を優先、いいな、急げ」・・・』

 

 この状況を聞いていれば、バカでもなんとなくわかるだろう。今まさに、急いで帰らないといけない状況で。でも、全員は帰れないって事。

 

(どうなっちゃうのこれ……)

 

 

「明日香! ちょっと来てくれ!」

 

 美紀さんは、明日香ちゃんを呼んだ。明日香ちゃんは、比較的美紀さんと歳の近い女性だろう。たぶん、俺と同じくらいか。

 

 なにか小声で話している。

 

 明日香ちゃんは一瞬、唇を噛んで表情を歪め、次の瞬間には美紀さんを強く抱きしめていた。

 

「美紀ならそう言うと思ったよ……何年一緒にいると思ってんの? わかった、その決断の辛さ、覚悟の重さ、私も逆の立場で背負う!」

 

「有難う、明日香……」

 

 二人の瞳は潤んでいた。

 

 

 美紀さんは端末を手に取りなおすと、凛と透き通った声で呼びかけた。

 

「サポートリーダーより時空域最高管制室へ! 阿武室長! 応答願います!」

 

『・・・「阿武だ、すまんな、719号のトンネル化は阻止せねばならんのだ」・・・』

 

今度の男性の声は太く優しかった。

 

「わかっています、予定通り時空域を切除してください」

 

 そこまで言うと、明日香ちゃんと目を合わせ、互いに頷きあった。

 

「室長、申し訳ございません」

 

 

『・・・「なんだ」・・・』

 

 

「緊急事態条項第12条1項【偶発的事由よる不可避な緊急時における自己判断の鉄則】に則り、ジャパンゲート第719号サポートリーダーの権限を以って【ケースパープル】を発令、以後の指揮系統を栗原美紀が統括します!」

 

 

 俺には何の事かさっぱり分からなかった。

 

 少しの間を置いて端末から返答がされる。

 

『・・・「確かに偶発的事由による不可避な緊急時だ、我々管制室に拒否権はない、以後の事は任せよう、但し、ここまでゲート肥大が進むと当然だが強制回収は出来ん、状況は変わらんぞ」・・・』

 

「わかっています、転送の受け入れだけお願いします」

 

『・・・「わかった」・・・』

 

 端末の中の男性が、俺にはよくわからないナンタラカンタラの鉄則で【ケースパープル】がナンタラを了承したようだ。

 

 

(阿武室長って……唯ちゃんのパパだったりするのかな?)

 

 

『・・・「ふざけるな! 美紀! ケースパープルなど認めんぞ!」・・・』

 美紀さんのお父様が端末の中から叫ぶ。

 

「お父様、申し訳ありません、ケースパープルの拒否権はそちらには帰属しておりません、時間もありませんので、ご一任ください」

 

 強い口調で言うと、お父様の返事を待つことなく。

 

「兄様、信じています」

 

 そう端末に語りかけた。

 

 美紀さんの言葉には、何か強烈な決意が込められている気がする。

 

『・・・「美紀くん、阿武だ」・・・』

 

 端末の中身は、再び阿武室長に変わった。

 

 

「はい、室長」

 

 

『・・・「これ以上、ゲートに不可はかけられん、転送を考えるならばこの通信が最後だ」・・・』

 

 

「はい」

 

 

『・・・「これは室長としてではない、一人の父親として頼む、本人の意思を尊重してやってくれ」・・・』

 

 

「大丈夫です、私にとっても愛する妹だと思っていますから」

 

 

『・・・「すまない、では、幸運を祈る」・・・ピピピピ・・・・』

 

 

 なんだか、死に別れする二人の挨拶のような気がして、心の中がざわついた。

 

 

 端末との会話を終えた美紀さんは、全員を集めた。

 

「細かい説明をしている時間が無くて申し訳ありません、間もなく現地点とゲネシスファクトリーの時空域接続が切断されます」

 

 警報音は美紀さんの指示で停止され、簡易キャンプは静寂を取り戻していた。

 

「最終説明にもあった通り、一度切断したゲートと同じ地点への再接続は、理論上は可能ですが実現した事がありません」

 

 候補者の誰かが声を上げた。

 

「戻れないってことか? 元の時代に戻れなくなるのか?」

 

 

 美紀さんは本当に申し訳なさそうに答える。

 

「はい、この時代に残れば、戻れる可能性は極めて低くなると思って頂いて結構です、それは同時に、変革を起こしてもゲームチェンジャーに認定される事も無くなるという事です」

 

 

(ちょ……それじゃ何のためにココに来たのかわからないじゃないか)

 

 もう少し詳細説明を聞きたい所ではあったが、とにかく時間が無いらしい。

 

 

「すぐに返答をお願いします、戻りたい候補者を優先して転送します、名乗り出て下さい」

 

 数秒の沈黙が訪れた後、誰かがボソっと呟いた。

 

「候補者は上位から転送されるんだろ、そしたら俺達は残るしかないじゃないか」

 

 そんな声に、伊藤さんが答える。

 

「戻りたい人は名乗り出ろって言われたろ、聞いてたか?」

 

 

 すると、別の候補者が右手を上げた。

 

「お、俺……戻ろうかな」

 

 

 刹那。

 

「明日香っ!」

 

 美紀さんが叫ぶように明日香ちゃんを呼んだ。

 

 

 泣いていた。

 

 

「お別れじゃないんだから! 泣かないでよ!」

 

 明日香ちゃんも泣きながら叫ぶと、戻ると言った候補者に接近し腕を掴み、皆がいる場所から少し離れた場所に引っ張っていった。

 

 

「美紀、待ってるからね!」

 

 言うなり、美紀さんの返答を待つ事無く。

 

 

《ィィィィィィリリリリリリー》

 

 

 一人の候補者と共に、渦巻き状の何かに吸い込まれていった。

 

 

 そんなやり取りを見ていた伊藤さんが、小声で呟いた。

 

「やるねぇ、大したもんだ」

 

 

 全員が戻れるわけじゃないって事、この場の全員が理解している。だから、誰が帰るとか、ここに残るとか、もう少し何かあると思っていたのだけれど。

 

 

「俺も戻る!」

 

 また一人、候補者が前に出てた。

 

「ゲームチェンジャーに認定さ―――『瑞穂っ!』

 

 その候補者が何か言いかけたが、その言葉は美紀さんの叫び声にかき消された。

 

「はいっ!」

 

 瑞穂ちゃんもその候補者の腕を掴むと、離れた場所に移動。

 

《ィィィィリリリリリリー》

 

 有無を言わさず、そのまま転送されていった。こうなると、その場の雰囲気は一気に【戻る】に傾く。

 

「俺も!」

 

「戻る! 戻してくれ!」

 

 

「更紗、端末貸して!」

 

 美紀さんの指示に更紗ちゃんは黙って頷くと、二人の候補者を集めて一人に端末を手渡し「ここを!」と言って押す様に促した。

 

 

 更紗ちゃんがその二人から離れるのと同時に。

 

 

《ィィィィリリリリリリー》

 

 二人の候補者が転送されていく。

 

 

(俺は……俺は……)

 

 悩んでいる俺の近くで、伊藤さんが「はいはーい」と右手を上げた。

 

「俺は絶対に残るよ? 理由は言う時間なさそうだけど、とにかく絶対に戻らないので、そこんとこよろしくぅ~♪」

 

 言いながら、チラッと金田さんとつーくんを見た気がする。

 

 その直後、つーくんが俺に語りかけてきた。

 

 

「ゲームチェンジャーになれないんじゃ、意味ねーな」

 

 俺は黙って頷く。

 つーくんが言葉を続けた。

 

「俺は戻らないよ、この時代で生きていく覚悟を決めたんだ、でさ? もうゲームチェンジャーとか関係ないならさ」

 

 そう言って俺の肩をポンポンと叩く。

 

「君みたいな頼りない相棒いらないんだよね、足手まといなだけ、俺は好きに生きるからさ、コンビ解消ね!」

 

(え……足手まといって、なんだよそれ!)

 

 つーくんはそのまま金田さんの所へ行く。

 

「金田先輩もどうせ戻るつもりないんでしょ?」

 

 

 もう、俺には、背を向けていた。

 

 

「ぉ、よく分かったね、俺は戻るつもりなんてこれっぽっちもねぇよ? あひゃひゃひゃ♪」

 

 

 全員が緊迫してる状況で、なんでそんなに余裕なのだろう。

 

 

 伊藤さんは金田さんとつーくんを両脇に抱えて肩を組む。

 

「はい、これで3人、もう出発しちゃった3人を含めて6人!」

 

 美紀さんをじっと見つめて言葉を続ける。

 

「そこにもう一人いるみたいだし? 全部で7人、これで解決じゃん! ささ、転送しちゃいなって♪」

 

 

(解決? 何が解決?)

 

 

「まったく……貴方たちにはかないません……」

 美紀さんは涙をぬぐうと、苦笑の混じった笑みを浮かべた。

 

 更紗ちゃんを呼んで自分の端末を手渡す美紀さん。

 

「更紗、佳織、唯、優理、瑠依、あちらの3人を除く、残りの候補者5名と一緒にお家に戻ってください」

 

 すっかり霧も晴れ、キラキラと光る太陽に照らされた美紀さんの笑顔は、天使というより女神様って感じがした。

 

 

「美紀ねぇ、そんなの嫌だよ!」

 瑠依ちゃんがぐちゃぐちゃに泣いていた。

 

「シャキッとしろ! 私はコッチで待ってるから、ちゃんと迎えにきてくれよ?」

 そう言って、瑠依ちゃんの頭をクシャクシャと無造作に撫でた。

 

「美紀ねぇ、絶対、パパにお願いして、絶対、絶対、迎えにくるから!」

 唯ちゃんもボロボロに泣いている。

 

「それでいい、それが唯の出来る事だ!」

 女の子達の会話が続く。

 

 そんな涙ながらの別れの挨拶を遮るように。

 

《ッッツツー ッッツツー》

 

 あの警報が鳴り響く。

 

「さ、リミットだ、皆、元気で!」

 

 女の子達は、ぐしゃぐしゃに泣きながら転送ボタンを押す。

 

《ィィィィィィリリリリリー》

 

 

 候補者と共に、次々と転送されてく。

 

 

 俺の目の前には、何故か涙を流していない優理がいた。

 

「それじゃ、転送するね」

 

(優理……?)

 

 

 当たり前だが、戻れた方がいいに決まっている。

 

 つーくんとのお別れも、あんな感じではもう気にならない。裏切られるって事に関しては、初体験って訳でもないし、心を凍らせて客観的になってしまえば、案外楽に受け入れられる。

 

 伊藤さんも、金田さんもいるんだ。美紀さんもあの切れる頭ならきっと大丈夫。つーくんも、俺なんかいないほうが伸び伸びやれるんだろう。

 

 

 俺に向って、優理がニッコリ微笑んだ。

 

「石島さん、ありがとうね、また、いつか」

 

 その言葉を理解出来なかった。

 

 

 優理の心境が分からない。

 

 

 なんでこの瞬間、お別れのこの瞬間。

 

 伊藤さんをチラリとも見ないのか。

 

 

「優理! おまえ!」

 

 美紀さんが叫ぶや、こちらに向って走り出そうとしているのが視界に入った。

 

 優理が端末のボタンに手をかける。

 

 

 

 

 

<パシッ>

 

 

 

 

 

 優理の手から、端末が弾け飛ぶように弧を描いて宙を舞う。

 

 

 犯人は俺。

 

 

 直感とゆうか、無意識というか。

 

 

 その直後。

 

 

《ィィィィィィリリリリリリ》

 

 

 端末は誰もいない空間に渦を作ると、そのまま地面に落下した。

 

「なんだ……バレちゃったか」

 肩を落とした優理が呟いた。

 

 直感ではあるけれど、優理は俺1人だけを転送しようとしていたのだと思う。

 

 

「ふざけんな! 優理を置いて1人で帰ったら、一生後悔する所だったろ!」

 

 俺は、すごく怒っていた。何に怒っているのか、自分でもよく分からないけど。

 

 優理は俯いて肩を落とし、何も言わない。

 

 転がっていた端末を金田さんが拾い上げて美紀さんに問う。

 

「時間切れっすかね? まだっすかね?」

 

 

《ッッツツー ッッツツー》

 

 

 端末は、まだ警報を鳴らしている。

 

 

「転送準備にかかる時間を考えたら、もう無理ですね」

 美紀さんはそう言いながら首を振った。

 

 

「いやぁ、石島くんやるねぇ、その【直感を信じる】って大事だよ」

 伊藤さんが頭の後ろに手を組み、こちらに向ってペタペタと歩いてくる。

 

「でも危なかったね、優理が帰還するつもりだったらさ、君はとんでもない事をしちゃう所だったよ」

 歩いてきた伊藤さんは、俺ではなく優理に向き合うと、両肩に手をかける。

 

 

「後悔しても知らんよ?」

 

「うん、いいよ」

 優理の頬は若干火照り、潤んだ瞳で伊藤さんを見上げていた。

 

 

(うわ……この展開はそのまま……?)

 

 

「はい! そうゆうのは後でやってください!」

 

 美紀さんが伊藤さんの手を押しのけて、強引に二人の間に割って入る。

 

「まったく、あんた達二人が残るんだったら私と伊藤さんで戻れたよ! ね?!」

 

 美紀さんは俺と優理を交互に見ながら、冗談とも本気とも取れる事を伊藤さんに振った。

 

 

「あひゃひゃひゃ、自分と剛左衛門はどうあっても居残りらしいっす、あひゃひゃひゃ!」

 

 

「美紀ちゃん、俺は帰らないってば」

 伊藤さんはなんだか不満気だった。

 

 

「まったく、一芝居打ったのにダメだったかぁ、よーくん残るなら最初から言ってよね、無駄な芝居しちゃったじゃんかよ」

 

 

(芝居……?)

 

 

「剛左衛門は男前だったっす! ね、先輩!」

 金田さんはニヤニヤ顔で伊藤さんに同意を求めながら。

 

「まさに【恋はいつでもハリケーン】ってヤツっすね、優理ちゃんも、石島ちゃんも!あひゃひゃひゃ♪」

 なんだかとても楽しそうにしていた。

 

 

 

――もうお昼くらいだろうか。

 

 すっかり日も高くなり、多少汗ばむような陽気になった。あの直後から、伊藤さんと金田さんは一時間近く二人で話し込んでいる。わざわざ俺達から離れ、会話が聞こえない距離でだ。

 

 

「剛左衛門! こっちに来るっす!」

 かなり遠目から、金田さんがつーくんを呼ぶ。

 

 

「およ? んじゃちょっと行ってくるわ」

 つーくんは俺に軽く手を振りながら、小走りに金田さんの所へ向かった。

 

 色々と話した結果、俺とつーくんのコンビは結局【解消】された。あの時のつーくんの言葉は芝居だった。俺を迷いなく元のあの施設に帰らせるために、一芝居打ってくれたらしが、俺はそれを無駄にしてしまったのだ。

 

 つーくんは俺に何度も謝罪した、俺もつーくんに何度も謝罪し、仲直りできた。だけど今後は、俺達二人が良ければそれでいいという訳にはいかない。美紀さんと優理もいる。特に俺は、優理をほっといて戦国時代に飛び込んで行くなんて絶対に嫌だ。

 

 つーくんもそれを理解してくれていた。だから、これからはコンビではなく【仲間として皆と共に力を合わせていこう】と決まった。

 

 

 優理は美紀さんに呼ばれて、30分近く正座でお説教を受けていた。お説教が終わった後の美紀さんは凄く印象的だった。散々叱りまくったくせに、優理を包み込むように抱きしめ。

 

「正直、心細かったから助かるよ・・・」

 

 俺は聞こえなかったフリをしたけれど、そんな弱音を吐いた美紀さんが急に可愛く思えて仕方なかった。

 

 

 しばらくすると。

 

「イタタタ~、足しびれちゃったよ」

 つーくんに取り残されていた俺の所へ、優理がやってきた。

 

 

 そして、遠くで会議をしている伊藤さん達を眺めながら。

 

「ちょっとカッコよかったゾ」

 

 ほんの少しの間を置いて。

 

「さっきの石島さん」

 

 

(キターーーーーーーーーーーー!)

 

 てっきり、また伊藤さんの事について何か言うのかと思いきや。俺をカッコいいだなんて言い出した。

 

 この際、カッコいいの前に付いた【ちょっと】は聞こえなかった事にしてしまおう。

 

「そお?」

 

 出来るだけ平常心で答える俺。

 

 

 優理は、平常心を装った俺の顔を小さく指さし、ニコニコしながら。

 

 

「鼻の穴広がってるよ?」

 

 舞い上がって浮かれきった俺の心を完全に見抜く。

 

「嬉しいんだ!? ふふっ♪ 可愛いとこあるですね♪」

 

 可愛く笑ってくれた。

 

 

(うわっ……もう、ガバっと行きたい……)

 

 

 そんな幸せ満開の俺を邪魔するかのように、謎の会議を終えた3人がこちらに向って歩き始める。

 

 

「あ、あのさ」

 

 伊藤さん達が会話の聞こえる範囲に入る前に、何かを言っておきたかった。

 

 

「ん?」

 

 話す事を何も考えていなかった俺は、必殺【天使の「ん?」】に打ちのめされ、頭が真っ白(真っピンク)になってしまい。モジモジして言葉を選べぬまま、伊藤さん達が到着。

 

 小屋の辺りでゴソゴソと荷物を漁っていた美紀さんも、その手を止めて俺達の近くに来た。

 

 

「さて、これからの事なんだけどさ」

 

 伊藤さんが話し始めたその時。

 

 

「――へぎゃっ!」

「――いでっ」

 

 

 俺の後方から、何かに潰された蛙のような声がした。

 

 

「うそでしょ……?」

 美紀さんの声に俺も慌てて振り返る。

 

 そこには、地べたに女の子座りしたままの唯ちゃんと、その唯ちゃんの傍らには仰向けに引っくり返ったまま、逆さまに俺達を見つめる瑠依ちゃんの姿があった。

 

 

「ははは……た、ただいま」

 思わず注目の的になった事にやや焦り気味の唯ちゃん。

 

 瑠依ちゃんは、ガバッっと起き上がると、美紀さんに向けて突進した。

 

 

 伊藤さんは「あちゃ~」という声と共に、手を額に当てて空を仰いでいた。

 

「やり直しっすね、会議」

 そんな伊藤さんの横で、金田さんも困り顔をしていた。

 

 

「どっ!? え……? お前らなんで!?」

 

 ラグビータックルのように美紀さんに飛びつくと、そのまま泣きじゃくる瑠依ちゃん。高速回転頭脳の美紀さんでさえ、この状況を理解出来ずにいた。

 

 

 唯ちゃんは立ち上がって、膝やお尻についた砂埃を払いながら冷静だった。

 

「すいません、お迎えに来れたわけじゃないんです」

 

 言いながらゆっくりと優理に向って歩き出す。

 

 

 二人が改めてお迎えに来た訳じゃないのは、何となく理解できる。服装も髪型も、さっき転送される前と同じだし、なんとなくだけど【すぐに戻ってきた感】が満載だ。

 

 唯ちゃんは、優理の目の前で立ち止まる。

 

 

「唯……」

 

 優理は小さくもらすと、その場で立ち上がって唯ちゃんと向き合った。

 

 

直後。

 

 

 

 

《バチッッ》

 

 

 唯ちゃんの平手打ちが、優理の左頬を弾き飛ばした。

 

 結構、いや、かなり、本気の平手打ち。優理はその場に立ちすくんだまま、言葉もなく、動かない。

 

 

(あわわわわ、なになに!?)

 

 俺はただ茫然としていた。視界の隅には、握った手を震わせている唯ちゃんが映っている。

 

 

 その二人の様子に、泣いてた瑠依ちゃんはピタリと泣き止んだ。まさに泣く子も黙るって感じだ。見かねた美紀さんが声をかけようとしたが、伊藤さんが美紀さんの前に手を出して静止する。

 

(え? なんで止めるの? この二人やばくない!? 止めなくていいの?)

 

 

 俺は本当に慌てている。女の子が女の子を本気で平手打ちするのなんて初めて見た。

 

 

「ごめん……唯、ごめん」

 

 ようやく、優理が口を開いた。

 小声で謝罪したようだった。

 

 

「……ゴメンじゃないよ! バカ優理っ!」

 

 唯ちゃんは、両目からポロポロと雫を流していた。

 

「何考えてんのよ! こんなの絶対許さない!」

 

 そう怒鳴りながら優理の両肩を掴んだ。

 

 

「それ、さっき美紀ねぇにも言われた、いっぱい怒られたよ」

 

 左頬を赤く腫らしながら、明らかに【作り笑い】で優理が答える。

 

 

「……バカ。……ゆうりのバカ……」

 

 怒鳴ってた勢いは何処へやら、急に弱弱しい声になってしまった。急にションボリした感じの唯ちゃんは、掴んだ優理の両肩を引き寄せ、抱きしめた。

 

 

「優理のいない世界なんて……考えられないよ……この裏切り者……」

 

 その言葉に誘発されるかのように、優理の両目からも次々と雫が零れ落ちる。

 

 

「ごめんじゃ済まないよね、ホントだね、ごめん……唯、ごめんね、ごめんね」

 二人はお互いの存在を確かめるように肩を抱き合いながら、しばらく泣いていた。

 



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【GF】 ゲネシスファクトリー3

■ゲネシスファクトリー 日本支部

   転送広間 10:27

 

 

「管制室との連絡を怠るなよ!」

 

 そう叫ぶ男の制服は、選考委員会執行部の中でも特別な腕章が付いており、10名程度の部下を抱える指揮官の証である。

 

「あらゆる状況に対応出来るようにしておけ!」

 

 その男の周りにも、10名程度の制服姿が忙しく端末を操作中だ。

 

 転送広間に設置された巨大モニターに、時空域最高管制室の管制官が映し出された。

 

『719号にケースパープルが発令されました、以後、管制室は指揮権を失います!』

 

 

「ケースパープルだと!? そこまで逼迫しているのか!?」

 

 指揮官の懸念は、事故によるヒストリーの中断ではない。

 

「あの男を連れ戻さんと、大クレームになりかねん……」

 

 

『管制室より執行部へ、管制室より執行部へ、転送受け入れます!』

 

 

「離れろっ!」

 

 管制室からの案内に素早く反応した指揮官の号令で、転送ポイント周辺に待機していた執行部が散開する。

 

 

 直後、転送ポイントに渦巻き状の物が音もなく出現する。

 

「イテッ!」

「う……吐く……オエェェェ」

 

「く、不安定なゲートを抜けるのはキツナな」

 

 転送されてきたのは総勢14名。

 指揮官はその中に目当ての人物がいない事を瞬時に確認していた。

 

「クソッ! 残ったか……」

 

 言うなり、自身が手にしている端末を睨みつけた。

 

 

《ッッツツー ッッツツー》

 

 その端末は転送準備の警報を鳴らしながら、盤面では【準備完了】の文字が明々と点滅している。

 

(行くのか? たかが顧客のクレームを抑え込む為に、15年の努力を捨てるのか?)

 

 指揮官の手は、若干震えていた。

 

 

 

『どけ!』

 

 巨大モニターに映し出されていた管制官を押しのけるように、初老の男が割って入る。

 

『美紀は!? 美紀はどうしたっ!?』

 

 

 広間からの応答はない。

 

 

「あれ?……優理は? ねぇ更紗! 優理は?」

 

 最初に口を開いたのは、転送されてきたサポートの中では年長の女だった。その言葉に、一番近くにいた更紗と呼ばれた女も当りを見回す。

 

「いないですね、あと6班の石島さんも……」

 

 そんな二人の女のやり取りに気付いた一人の少女が、同時に転送されてきた候補者を一人一人回って何かを回収していた。

 その少女の行動を見た別の少女は、指揮官の持っている端末に気付き、巨大モニターに向って叫んだ。

 

「パパっ! パパっ!」

 

 程なくして、巨大モニターに最高管制室の責任者が映し出された。

 

 

『……行くのか』

 

 言葉短く、一言だけの返事を返した。

 

 

 少女は小さく頷く。

 

「私達……本当の双子みたいなものだし、離れ離れなんて無理だよ」

 

 両目いっぱいに涙を溜め、今にも泣きそうな声で責任者に語りかける。

 

「それにさ、私も一緒ならさ、パパも叔父様に言い訳しやすいでしょ♪」

 

 涙声ながら精一杯明るい声を出した少女、その少女を見る責任者の目は、同じように潤んでいた。

 

 

『バカを言うな』

 

 責任者は、苦笑混じりに短い言葉を発した後、管制室のメインモニターに表示されている数値を確認する。

 

『だがな、お前の意思を尊重するよ、ママに叱られる役は私が引き受けよう』

 

 

 その言葉に、少女はニッコリと笑って頷いた。

 

 

『必ず見つけ出す、必ずだ』

 

 その笑顔に、責任者は強い決意で答えると。

 

『あと30秒だ、意思を貫くならば急げ』

 

 それだけ言って巨大モニターから姿を消した。

 

 

「唯先輩! 全部集めた!」

 

 早口で叫ぶ少女の両手には、手の平サイズの小さい麻袋が8個と、ショルダーバッグのような袋が4個ぶら下がっている。

 

 唯先輩と呼ばれた少女はそれを確認すると、広場にいた執行部指揮官から端末を奪い取り、袋をぶら下げた少女と共に転送ポイントに駆け出した。

 

「ま、まてっ! 何をする気だ!」

 

 

 少女二人は転送ポイントに到着すると、執行部指揮官の言葉を無視するように、その場にいた女性に声をかける。

 

「明日香先輩! みんなさん! 行ってきます!」

 

 言うのとほぼ同時だった。

 

 

《ィィィィィィリリリリリリー》

 

 

 甲高い音が広間に響き渡る。

 

 

『時空域切除まで残り10秒! 9、8、7』

 

管制室から時空域を切断するカウントダウンが入る。

 

 

「明日香先輩……」

 

 更紗と呼ばれた女が、茫然とする女に声をかけ、その背に優しく手を添える。

 

 

「美紀……ごめん、バカがそっち行っちゃった……」

 

 明日香先輩と呼ばれた女は、誰にでもなくそう呟いた。

 

 

『1、0! 時空域切断します!』



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第11話 それぞれの想い

■西暦1567年 飛騨国

   山岳地帯 簡易キャンプ

 

 

 思いがけない二人の登場で、この時代に残ったのは全部で11人になってしまった。もうすでに出発してしまっていた、生還者コンビと、大森さんの合わせて3人と。

 

 伊藤さん、金田さん、つーくん、俺。

 

 美紀さん、優理、唯ちゃん、瑠依ちゃん。

 

 

 作戦会議とやらはどうもやり直しらしく、金田さんの発案でとりあえずみんなで一緒にランチタイムになった。

 

 昼食を取りながら唯ちゃんと瑠依ちゃんにブツブツと小言を投げかけていた美紀さんは、なんだか少し嬉しそうだ。

 

 

「おおひょ~~~、マジか! すげー!」

 

 唯ちゃんと瑠依ちゃんが転送されてきた場所で、何かを発見した金田さんが変な声を上げる。

 

「あらホント、こりゃすごいね」

 

 小走りに駆け寄った伊藤さんも、それを見て感心している。

 

 

(なんだ?)

 

 つーくんと【武士語の使い方】について話をしていた俺も、気になって目を向ける。

 

 

「あ、気付きました? それ瑠依のお手柄なんですよ~♪」

 

 瑠依ちゃんはテーブルを離れると、ピョンピョンと撥ねるように伊藤さんの所へたどり着く。

 

「転送された候補者の皆さんが持っていた物を回収したきたのです!」

 

 言葉にはなかったけど、「えっへん!」と書いてあるようなドヤ顔を見せた。

 

(はぁ……瑠依ちゃんて優理に負けないくらい可愛いんだよなぁ、キャラは大分違うけど、あれはあれで妹っぽくていいなぁ)

 

 

 なんて思いながら視線を優理に向けると、目が合ってしまった。

 

 

(……!?)

 

「いや、何も! 何も考えてません!」

 意味不明に何かを否定する俺を見て、優理はただ不思議そうに首を傾げている。

 

(ややや、落ち着け俺! ってか、ふと目が合うとか初めてだな……俺の事見てたって事だよな……?)

 

 

「8個全部か、これだけで4貫あるわ、なんか希望が湧いてきた」

 

 伊藤さんは、じゃらじゃらと麻袋を一纏めにして持ち上げる。

 

 

「ホントですか!? ヤッター♪ 褒めて下さい♪ ナデナデしていいですよ?」

 

 瑠依ちゃんは「ほらほら、ナデて? ほらほらっ」と頭を差出しながら楽しそうにしている。

 

 

「なんか複雑、褒めたいような、叱りたいような」

 

 伊藤さんは何か考え込むように呟いた後。

 

 

「金田くん、代わりにナデナデしといて♪」

 そう言って瑠依ちゃんから逃げるようにテーブルに向った。

 

「お? 喜んでっ!!」

 金田さんが瑠依ちゃんに一歩近寄る。

 

「ぎゃー! 変態! くるな~~」

 瑠依ちゃんは慌てて逃げ出した。

 

「んなっ!? 変態って!???」

 ショックだったのか、金田さんはそのまま固まってしまった。

 

 

(ありゃ灰になったね、白くなってる金田さん、真っ白だわ)

 

 みんな笑っていた。本気で衝撃を受けた様子の金田さんを見ながらコロコロと可愛く笑っている優理に、俺の目線は釘付けになっている。

 

(元気になったのかな、ここ数日元気なかったもんなぁ)

 

 

 その後、皆で色々と話が出来た。今度は離れた場所じゃなく、8人で簡易キャンプのテーブルを囲んで、仲良くワイワイと話せたのは嬉しい限りだ。難しい話じゃなくて、割とどうでもいい話題が多かったのも嬉しい。

 

 伊藤さんの難しい話より、俺の下らない話のほうが絶対ウケると思っていたし、実際ウケた。それより何より嬉しいのは、その間ずっと、優理が俺の隣にいた事だ。

 

 

 簡易キャンプのテーブルはいくつか設置されているが、今は皆で話すために一つのテーブルに集まっている。6人掛けのテーブルに集まるわけだから、隣の人とはそれなりの接近具合だ。

 

 ぴったり密着する程ではなかったけど、ちょっとした動作で体の触れ合う距離に俺は大興奮していた。

 

 

 当然ながら、その距離に喜んでいたのは俺だけじゃない。

 

「なんだよ、んもう~、美紀ちゃんこのペットどうにかして!」

 

 伊藤さんの右隣に陣取った瑠依ちゃんが、それはもう猫のように擦り寄って伊藤さんを困らせていたのだ。

 

「こら~! 瑠依~! はなれろ~~」

 

 瑠依ちゃんの頭をグイグイ押しながら離そうとする美紀さんも、ドサクサに紛れて金田さんを押しのけ、伊藤さんの左隣を占拠していた。

 

「イーヤーデースー」

 

 美紀さんに頭を押されながら、右側から纏わりつく瑠依ちゃん。

 

「ハーナーレーロー」

 

 瑠依ちゃんの頭を押しながら、左側から纏わりつく美紀さん。

 

 

(なんでこんなモテるんだろ)

 

 自称ではあるが、それなりにイケメンな自分としては実に悔しい。そんな3人の様子を、周囲の皆はしばらく笑いながら見ていた。

 

 

 そう、優理も笑っていた。

 

 あの時、潤んだ瞳で伊藤さんを見上げていたのは何だったんだろうか。もしかしたら、端末を弾き飛ばした俺を思い出し【男らしさ】を感じて気移りしてくれのだろうか。

 

 

「イテテ、引っ張るな! 美紀ちゃんもっと優しくっ! イテ!」

 

 もみ合う美女2人の爪やら肘やら裏拳やらが、たまに伊藤さんにヒットしている。

 

 微笑ましいレベルではあるが、美紀さんと瑠依ちゃんの伊藤さん争奪戦は、伊藤さん本人に被害が及ぶほど激化していく。

 

 その様子を見ながらすごく楽しそうな唯ちゃんは、俺の隣ではなく、つーくんと優理の間に座っている。

 

 

「やれやれひゅ~ひゅ~」

 つーくんも楽しそうに二人をけしかけている。

 

「あひゃひゃひゃひゃ!」

 金田さんは、そんな伊藤さんを見て大爆笑している。

 

 こういう時、至近距離で隣にいる人の表情って見えづらいものだ。ちゃんと横向かないと見えないし、そんな事したら見てたのバレちゃうからだ。

 

 優理もさっきまで笑ってたし、たとえ今はちょっと複雑でも、こうゆう姿を見て徐々に諦めてくれたら、俺にとっては嬉しい限りだ。

 

 

《バンッッ》

 

 

 唐突に、優理の両手がテーブルに振り下ろされた。

 

 

 小動物のようにピタっと止まる瑠依ちゃんと美紀さん。

 

 

「お、おちつけ?」

 

 顔を引き攣らせた伊藤さんが、両側から羽交い絞めにされるような体制のまま焦る。

 

 俺の位置からは優理の顔が見えなかった。

 

 

「んんもももおおおおおお!」

 

 優理は怒っているんだろう、でも、瑠依ちゃんと美紀さんへの愛情がたっぷり感じられる怒り方で。

 

 

(すっごい可愛いいんですけど……)

 

 

 俺は気になって、身を乗り出してまで優理の表情を見てみる。

 

 

「美紀ねぇ後で話があります♪」

 

「……え?」

 

 

「瑠依ちゃんはその後ゆ〜っくりじぃ〜っくり話そうね♪」

 

「げっ……」

 

 

 優理の表情は、引き攣った笑顔だ。頭部に【怒ってる時の血管マーク】がデカデカと見えるような笑顔。

 

 

「嫌なら今すぐそこから離れるっ!」

 

「ぎゃっ! はいっ!」

 

 優理の早口な一喝に、瑠依ちゃんが飛び退くように席を立つ。

 

 

 そんな瑠依ちゃんの様子を見た美紀さんは、何かをごまかすような雰囲気だ。

 

「まったく、分かればいーんだよ、なぁ優理♪」

 

 慌てた様子で【頑張って作った笑顔】を優理に向けたが。

 

 

「美紀ねぇもです!」

 相変わらずの引き攣った笑顔で一蹴されてしまっていた。

 

「あ、う、うん、そうするよ? 元々そのつもりだったしさ、ハハハハ」

 

(もしかして優理ってキレたらめっちゃ怖いのか!?)

 

 その後、優理は瑠依ちゃんに【席の交換】を命じた。

 

 可愛い妹系天使の瑠依ちゃんは、テーブルに顎を乗せ、ペッタンコな体制で、唇を尖らせながら俺の隣に座っている。

 

 美紀さんは大人しく元いた席に戻った。こっちは別にだからどうと言う事もなく、ちょっと難し戦国時代の話を始めた金田さんにアレコレ質問していた。

 

 瑠依ちゃんと席を交代した優理は伊藤さんの右隣を確保。

 

 何がそんなに楽しいのか、終始笑顔で、頭の上には分かりやすい「♪」が何個も踊っている。

 

 そんな優理の様子を見ていた俺に、瑠依ちゃんの背中の上を跨ぎ越す感じで、唯ちゃんが楽しそうに小声で話しかけてきた。

 

「優理ってホント分かりやすいですよね、テーブルの下覗いてみてくださいよ、足パタパタしてご機嫌ですよ、ふふっ♪」

 

 テーブルの下を指さしながら言う唯ちゃんは、なんだか幸せそうだ。

 

 

(なんだよぉぉ、俺の勘違いか、落ちるわ~)

 

 

 優理はこれ以上ないくらいご機嫌だ。ライバル2人を撃退し、奪い取った席に大満足なご様子で、その視線は伊藤さんをじっと見つめている。

 

 真横に座っている伊藤さんを見つめている訳で、分かりやすいどころのレベルじゃなく、ガッツリ見つめている感じだ。

 

 

 金田さんと話をしながらの伊藤さんが、視線に気付いて優理に顔を向けると、2人の視線はとても近い距離になってしまった。

 

(おおう、見てられない……けど見ちゃう)

 

 

「へへっ♪」

 

 伊藤さんと目が合った優理は、なんだか本当に満足そうに、幸せそうに伊藤さんに笑って見せた。そんな優理に、伊藤さんも笑顔で答えると、また金田さんとの会話に戻る。

 

 

(さすがに皆の前でそれはないか……)

 

 

「ズルーイズルーイ センパイズルーイ」

 ペッタンコになって口を尖らせている妹系天使が、何やらぶつぶつと不満を漏らしていた。

 

 

 そこからまた、難しい話あり、楽しい話あり、くだらない話あり。要するに、ただの【雑談会】が3時間程度続いただろうか。

 

 伊藤さんが、改めて会議をすると言い出した。メンバーは、伊藤さん、金田さん、つーくん、美紀さん。

 

 優理の事が気になって仕方がない俺。伊藤さんの事が気になって仕方がない優理。同じく瑠依ちゃん。優理の事と、それと、たぶんきっと、俺の事も気になって仕方がないはずの唯ちゃん。

 

 この4名を除く形で作戦会議をやると言い出したのだ。

 

 確かに、瑠依ちゃんは会議に参加しても意味なさそうだし、意味ないどころか邪魔になりそうだ。唯ちゃんもあまり興味はなさそうだったし。今の優理は伊藤さんの事しか見えていない、ただの恋するバカだ。

 

 俺はちょっと不満だけど、確かに、この人選は頷ける。頷くと同時に、自分で自分が情けなく、この子供達と同レベルと思われるのが悔しかった。

 

(まぁ、仕方ないか、会議する4人は誰かと一緒にいたいとか、そんな理由でここに残ったわけじゃなさそうだしな)

 

 そんな4人にしてみたら、こっちの4人はずいぶんと頼りなく映るのだろう。

 

「美紀ねぇだけずるーい! ズルーイズルーイ」

 ブーブー言う瑠依ちゃんを宥めながら、会議メンバーが席を立つ。

 

 

「ンンー」

 

 伊藤さんが大きく両手を挙げて、背伸びをする。

 

 流石にこの中では最年長。

 

 アラフォーに差し掛かる人にとって、3時間もベンチに座って雑談会はきつかったのかもしれない。

 

(中村さんほどおっさんって訳じゃないけど、俺に比べたらどう考えてもおっさんだよな)

 

 そんなおっさんに負けている自分が悔しい。

 

 

「さて、いくね」

 

 テーブルを離れようとする伊藤さんの隣に3時間も座っていた優理は、それでもまだ不満気で無言のまま顔を向け何か訴えている。

 

「ったく……あとでね♪」

 

 そんな優理に、ため息が混じった優しい言葉をかけると、軽く2回、頭をポンポンして席を後にした。

 

 

(事件です!! これはセクハラだっ!!)

 

 

 優理の反応は、耳まで真っ赤にして伊藤さんの背中を見つめている。

 

 

「ずるーい!! 瑠依も!! ねー待ってよ~! 瑠依もポンポンしてよ~!」

 

 小屋に入る伊藤さんを追いかけた妹系天使は、到達する手前で女神さまに捕獲されていた。

 

「大事な話するんだから待ってろ! 終わったらしてもらえっ!」

 

美紀さんに捕獲され説得された瑠依ちゃんは、不満たらたらでテーブルに戻った。

 

 

「ふふっ♪」

 

 唯ちゃんが楽しそうに笑う。

 

 

「もう~、唯先輩はいいじゃないですか、石島さんはこっちチームだもん」

 

 

(お、やっと俺の話題か!)

 

 ここまでずっと蚊帳の外。勢いで端末を吹っ飛ばして残ってみたはいいけれど、なんだか自分が頼りないと思う事ばかりだ。

 

 

「ふふっ♪ じゃぁ瑠依ちゃんには優理を貸してあげる!」

 

 

「言われなくてもそのつもりですよーダ」

 

 

 そんな頼りない俺の話題は、2秒と持たずに終わってしまった。

 

 

 

「え? 何? あれ? なんか言った?」

 

 何かに気付いたように、優理がキョロキョロと唯ちゃんと瑠依ちゃんを交互に見ている。

 

(完全に上の空だったな……はぁ、なんかショック)

 

 

 2人の話を全く聞いていなかった優理の横に、瑠依ちゃんが座った。

 

 

「あ~ぁ~、なんか疲れちゃったなぁ」

 

 座るなり、疲れたと言いながら優理にもたれ掛った。

 

 

(うわー、写真撮ったら売れそうな絵だわ、天使姉妹!)

 

 体を預けてくる妹系天使の肩を抱く、超可愛い姉系天使。

 

「ねぇ、優理先輩?」

 

「ん?」

 

 

 少しの間があった。

 

 

「あのね、瑠依の事、嫌いにならないでくださいね……」

 

 そのまま目を閉じてしまった。

 

 

「バカっ、こっちの台詞だよ、ありがとう、るいちゃん」

 

 優理はそんな妹系天使を愛おしそうに、頭をナデナデしている。

 

 

「瑠依、優理先輩の事……大好きですからね……」

 

 余程疲れていたのだろう、言いながらフェイドアウトするように眠ってしまった。

 

 

 優理は少し体制をずらし、スヤスヤと可愛い寝息を立て始めた瑠依ちゃんを膝枕で寝かしつけると、唯ちゃんを見て小声で話し始めた。

 

 

「変わんないね、この甘えん坊」

 

 優理の膝の上で寝息を立てる瑠依ちゃんを、唯ちゃんは優しい目で見つめている。

 

「そうだね、あんまり歳かわらないのにね、優理には昔っからそんなだよね」

 

 

(この子達、けっこう昔からの一緒にいるんだ……)

 

 

 昔話が始まっちゃったら、俺はますます蚊帳の外だ。かといって、わざわざ席を外すのも違う気もするし、難しい状況に置かれてしまった。

 

 

 唯ちゃんは立ち上がると、備品が入っている箱からタオルを持ちだしてきて、瑠依ちゃんにそっと掛けてあげた。

 

「昨日はあんまり寝てないし、昨日も今日も泣きっぱなしだもんね瑠依ちゃん」

 

 

「原因は私だよね……」

 

 

 なんだかシンミリしてきたけど、このまま蚊帳の外も辛いし、一言二言交わして少しこの場所を離れようと思った。

 

 

「いやいや、原因は伊藤さんっしょ」

 

 冗談のつもりで言おうと思ったけど、なんだかけっこう本気で言ってしまった。

 

 事実、瑠依ちゃんも優理も、泣かされているのは伊藤さんだ。

 

(あのチョイ悪モテおやじめ!)

 

 

「ふふっ♪」

 

 唯ちゃんは少し笑ったけど、優理は全く反応がない。

 

「それ、優理は笑えませんよ石島さんっ、ふふふっ♪」

 

 唯ちゃんはとても面白そうだ。

 

 

「もう~、唯ぃ~、笑うなし」

 

 唯ちゃんに文句を言った優理は、ゆっくりこっちを見る。

 

「一瞬でも「ちょっとカッコよかった」とか、思った私がバカだったわ」

 

 言いながら首を左右に振る。

 

「瑠依ちゃんが膝の上にいてよかったね、石島さん♪」

 

 真面目な顔してそんな怖い事を言った。

 

 

「え!?」

(なんか怖いんですけど!?)

 

 

 小屋から会議組が出てきた時には、もう日が傾いていた。

 

 

「おっまたせ~」

 

 最初に出てきたのは金田さんだった。その声に目を覚ました瑠依ちゃんは、まだ寝ボケている様子だった。

 

 

(いい、お寝ボケ妹系天使! 最高!)

 

 

 伊藤さんは「ちょっと寝る!」と言ったきり、そのままぶっ倒れたそうだ。仕方ないと思う。昨日、深夜に優理を背負って山道を歩いてきた上に、今日もかなり早起きしていた。

 

 

「伊藤さんのテントっ、伊藤さんのテントっ」

 

 つーくんが小屋から出てきてキョロキョロしている。

 

「なんのテントだ! どんなテントだ!? あひゃひゃひゃ」

 

 

「もう! 金田先輩、伊藤さんのテントどれでしたっけ?」

 

 つーくんは金田さんに伊藤さんのテントを教えてもらうと、中身をゴソゴソと漁ってタオルを取り出した。

 

 

「わお、剛左衛門やっさしい~」

 

 茶化す金田さんに、つーくんがニヤニヤしながら耳打ちするが、耳打ちしたくせに声は大きく、みんなに聞こえていた。

 

「美紀さんが持って来いって!」

 

 このつーくんの一言に、寝ボケ天使が覚醒、弾丸のように飛び出した。

 

「ダメ! 瑠依がもっていく!」

 

「こら、寝てるトコに瑠依ちゃんが行ったら煩いでしょ! 私がいくからいい!」

 

 覚醒した寝ボケ天使を、もう1人の天使が追いかける。

 

 同時に走り出した2人は、つーくんからタオルを奪い取ると、今度は奪い合いを始めた。

 

 

「ヤダー、瑠依がいグぅ~」

「貸しなさい~」

 

 

 そんな二人の争いを笑顔で見ながら、唯ちゃんが席を立つ。

 

 席を立った唯ちゃんは、さっきまで瑠依ちゃんが寝ていたタオルを持つと、そのまま小屋の入口で美紀さんに手渡していた。

 

 

「あれ? なんでー?」

 

「もう、瑠依ちゃんのせいだからね!?」

 

 

「二人ともっ」

 

 文句を垂れ流す2人に、唯ちゃんが珍しくキリッっと呼びかけた。

 

 

「こんな状況下で伊藤さんは皆にとって大事な人なんです、子供みたいなワガママ言わない! 特に優理! ちょっとは反省しなさい!」

 

 

(皆にとって大事な人か……)

 

 唯ちゃんの言葉に妙に納得してしまった。

 

 

(確かにそうだ、あの人がいればこの先どうにかなりそうな気がするよな……)

 

逆に言えば、伊藤さんがいないと駄目そうな気もしている。

 

 

「はぁ~い」

 

「ごめん、唯」

 

 

 素直に謝る二人。と、思ったら、瑠依ちゃんだけニヤーっと笑った。

 

「伊藤さん、瑠依の使ってたタオルで寝るんですね? ねっ!? 瑠依の香りに包まれて寝るんですね? キャー♪」

 

 キャーキャー喜びながら一人で楽しそうな瑠依ちゃん。

 

「唯、私反省した、あの子と同レベルで張り合ってたら疲れちゃうや……ハハハッ」

 

「うん……そうだね、ハハハッ」

 

 優理と唯ちゃんはお互いに、わざとらしい【乾いた笑い】で感情を共有していた。

 

 

「――とゆうわけなんで、皆それぞれ大変だとは思うけど、理解と協力と努力をお願いします! って事で!」

 

 

『はい!』

 

 

 会議で話し合った事のうち、割と簡単な事項だけをドバーッと説明してくれたのは、つーくんだ。この役をわざわざ、つーくんにやらせたのは、これから中心メンバーの一人として活躍させようとしてる意図があるのだろうか。

 

 まだ聞いてない事も沢山あったけど、それは伊藤さんからって事になっていた。

 

 

 また皆でテーブルに着いた。伊藤さんの寝ているであろう小屋から、美紀さんが出てこないもので、落ち着かない人が2名いる。

 

 さっき唯ちゃんに怒られた2人は「それとコレとは別!」と言いながら、今度は協力体制で小屋の中を監視している。

 

 

「金田先輩、どんどん出番なくなっていきますよ?」

 

 つーくんと金田さん、それと俺の3人で、特になんてことない会話が始まっていた。

 

「ホントっす、ここ何話か出番が数行っす」

 

 つーくんの問いかけに、金田さんは意味の分からない返答をしている。

 

 

(会議メンバーなんだから、出番あるでしょうに)

 

 そう思ったので、不満そうな金田さんに問いかけてみる。

 

 

「金田さん俺より出番あるでしょう、俺ずっと蚊帳の外ですよ」

 

 ホントに、ちょっと悔しかったんだ。

 

 

「いやいや、会議の中でさ、石島ちゃんはかなり重要なポイントになったわけよ」

 

 

(え?)

 

 

「そそ、俺達の要になるかもしれない、よーくんはそんなポジションかもね」

 

 

(なんで?)

 

 

 俺なんかより、ずっと頭のいい3人を差し置いて、俺が要になる訳がない。

 

 

「主人公って事さ、俺たちゃ脇役ってわけ」

 

 金田さんが何故か、ちょっと誇らしそうに言った。

 

 

「どう考えたって、伊藤さんが主人公って感じじゃない?」

 

 当然そうだと思っていた。だから言ったんだけど、どうも会議の中では全然違う方向になったらしい。

 

 

 何が可笑しいのか、つーくんが「プッ」っと笑うと。

 

「確かに、伊藤さんが主人公っぽいよね、特にモテっぷりがさ」

 

 

「あひゃひゃひゃ♪ほんと、モテっぷりは敵わねぇよ、ありゃ勇者様レベルだ! あひゃひゃひゃ」

 

 

(つーくんの言う通りだよ……俺なんか超脇役じゃん)

 

 

「でもさ」

 

つーくんが言葉を続ける。

 

 

「伊藤さんが自分で言ってた事、言われてみて俺も、金田さんも、美紀さんも、なんとなくわかったよ」

 

 

(何を話したんだろうなぁ……気になるなぁ)

 

「なんて言ってたの?」

 

 ストレートに聞くのが一番だと思った。

 

 

「んー、まあ、ちょいと要約するとさ、あの人はね、縁の下の力持ちが理想なんだってさ、先頭を切って我武者羅に走るのは向いてないんだってさ」

 

 

 つーくんは俺を正面から見る。

 

 

「あの時さ、直感を信じて優理ちゃんの端末吹っ飛ばしたろ? あれ、伊藤さんは絶対出来ないって言ってた」

 

「俺もできねぇなあれは、あひゃひゃ」

 

「そ、もちろん俺も出来ない、よーくんだから出来たんだよ」

 

 

(あんな行動1個で、俺が主役?)

 

「めっちゃかっこよかったですよね、あの時のよーくん」

 

 つーくんは俺を褒めると、金田さんに同意を求めた。

 

 

(あれ? なんか話がそれたような……)

 

 

「男前だったぜぇ、石島ちゃん!」

 

 

 金田さんは唐突にテーブルの上に立つ。

 きちんと靴を脱いだあたり、この人は見た目に反してキチンとした育ちなんだろと思う。

 

 

「『優理を残して一人で帰ったら、一生後悔するだろ!』って、ひゃっひゃっひゃ」

 

 

(うおい! 俺のモノマネかよ!)

 

「ぬあ! やめて下さいよ金田さん!!」

 

 

「え? もっかいやる? あひゃひゃひゃ」

 

 

「ダメです! だめー!」

 

 

 俺と金田さんのやり取りを見て、つーくんがニヤリと笑う。

 

「じゃぁ俺がやろうか!?」

 

(なーーーーーー!)

 

「だめだめ! やめてー!」

 

 

 チラっと優理の事を見てみると、多少ではあるが気まずそうな顔をしている。

 

 

「昨日まで「佐川さん」とか言ってたのにね、突然「優理」とか呼び捨てだからね、やるよね~よーくん! アハハッハッ♪」

 

 

(もぉぉおおお)

 

 完全に弄られてる。

 

 

「もう! 怒るよ!! ウガー!」

 

 照れ隠しでもう、ふざけるしかなかった。

 

 

「ふふふっ♪」

 

 そんな俺達を見て、唯ちゃんは上品に笑っている。

 

 

「よーくん、俺さ!」

 

 つーくんが突然、真顔に戻る。

 

 

 両手を挙げて「ウガー」なんて襲いかかるポーズをした所に、そんな顔で急に声かけられたら固まってしまう。

 

 

 俺はゆっくり、両手を下ろし、つーくんの言葉を待つ。

 

 

「俺、たぶん、しばらく皆と離れて行動する事になると思う!」

 

『え?』

 

 4個かぶった。俺に向けて話した事だけど、皆に聞こえていたので、金田さん以外の4人が同時に驚いた。

 

 つーくんの瞳に、何か決意のような物が光る。

 

 

「剛左衛門!」

 

 金田さんがつーくんに近づくと、両肩を掴む。

 

「後悔しても知らんよ?」

 

 

「うん、いいよ」

 

 

 

「ブッ」

(おいおい!勘弁してよ!)

 

 ちょっとおカマ口調での「うん、いいよ」が面白すぎて、俺もついつい吹き出してしまった。

 

「ブーーー! ギャハハハッハ」

 大爆笑するつーくん。

 

 

「あひゃひゃひゃひゃ」

 金田さんも大爆笑。

 

 

「ふにゅ?」

 頭から「?」が飛び出して見える瑠依ちゃんと、同じく無言で首を傾げる唯ちゃん。

 

 

(おおおい、それはダメだろぉ)

 

 優理は下を向いたまま、耳まで真っ赤にしている。

 

 そんな時、小屋の戸が開いて伊藤さんが出てきた。

 

「んー、寝過ぎた! おはよう地球の諸君!」

 伊藤さんの姿を見た瑠衣ちゃんの顔がパッと明るくなった。

 

「おはよー伊藤さん! ホレ、ほれほれ、ポンポンしてポンポン♪」

 

 伊藤さんの足元でピョンピョンと、ウサギのように跳ねながら頭を差し出す瑠依ちゃん。

 

 

 伊藤さんは、最初はうっとおしそうな顔をしたけど、ひたすらピョンピョン飛び続ける瑠依ちゃんに根負けしたらしい。

 

 苦笑しながら頭をナデナデしてあげていた。

 

 

「ふわ~い♪」

 

 

 撫でられて気をよくしたのか、瑠依ちゃんはそのまま抱き着くように伊藤さんにしがみ付いてスリスリしいる。

 

 そんな瑠依ちゃんは気付いてなかったようだけど、遠目に見ていた俺はすぐに気付いた。たぶん、優理も気づいたと思う。この状況で何も言わないのは、瑠依ちゃんの行動よりも伊藤さんの異変の方が気になったんだと思う。

 

 目が、違う、なんとなく。

 

 もう日は落ちかけて辺りは薄暗く、ちゃんとは見えないけど、なんとなく。

 

(あれ?……赤い……泣いた? 寝起きなだけ?)

 

 伊藤さんの真っ赤な目に、優理は吸い寄せられるようにフラフラと駆け寄った。



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第1幕 GAME3 【時代を生きる】
第12話 平和な朝


 夜も深まり、辺りは真っ暗だ。真っ赤な目の伊藤さんは、小屋から出た後、残った俺達に指示を出した。

 

 唯ちゃんと瑠依ちゃんは、このキャンプ内の備品管理と衛生管理を担当。俺と優理は、このキャンプで使用する消耗品の管理とメンテナンス、それと【補充】である。

 

 この補充が厄介な仕事になりそうだ。元の時代から事前に転送されている飲み水は、23名が4日間過ごせる程度の分しか用意されていない。人数が減ったので多少は融通が利くと思われるが、それでも余裕があるわけではない。

 

 それと、夜間に使用する明かりだ。なにやら丸っこい電池は、話に聞いているだけだと万能電池だが、やはり内容量には限度があるらしく、年単位で考えたら少しでも節約するべきという結論に達した。

 その為、今日は月明かりが出ているので照明は完全に落としている。

 

 節約もあるが、あまり明るいと遠くから発見されてしまう危険性が高まるので、あえて消しているという側面もある。節約を考えた場合、晴れている日は山を歩いて薪拾いをしないといけないだろう。

 

 伊藤さん、金田さん、つーくんの3人の役割については、もう少し煮詰めてから公表するとの事だ。

 蚊帳の外なのは悔しいけど、これはもう任せるしかない。

 

 

 肝心の伊藤さんの目は、何だか突っ込んで聞くのも悪い気がして、そのまま見なかった事にした。金田さんもつーくんも気付いているはずなのに、何も言わない。

 

 それは、俺と同じく気付かない振りなのか、それとも理由を知っていて隠しているのか。

 

 

 伊藤さんの異変に気付いた唯ちゃんは、自然に瑠依ちゃんを引き離すと、そのまま瑠依ちゃんとアレコレ今後の事で打ち合わせ中だ。

 

「お仕事ですね! 瑠依がんばります!」

 

 唯ちゃんの扱いが上手なのと、伊藤さんから「ちゃんと仕事してくれたらまた頭撫でてやる」と言われて張り切っているのだ。

 

 

 俺と優理も打ち合わせをした。

 

 だが、俺の提案で簡単な打ち合わせだけ済ませ、決め事の殆どを明日に持ち越す事になった。

 

 理由は二つ。

 

 唯ちゃんから、なるべく早く優理を解放するように言われていた事。もう一つは、打ち合わせが始まった瞬間から、優理が打ち合わせどころじゃないくらい、伊藤さんを気にしていたからだ。

 

 

(俺でも気になるくらいだからなぁ、優理は気になって仕方ないんだろうな)

 

 

 昨日の夜に比べると、多少は明るい。

 

 月明かりのせいもあるが、今夜は昨日のようなトラブルが無いからだろうか。トラブルが無いと言っても、ここに取り残されている8人は、もう十分すぎるほどトラブルの渦中にいる気もする。

 

 

 優理との打ち合わせを早々に終わらせた俺は、ソーラー充電が可能な手元用の小さなライトをテーブルに置き、消耗品のリストと睨めっこしている。

 

 しかし、全く集中できない。

 

 原因は、俺の目の前に座っている美紀さんだ。

 

 美紀さんのお仕事は、俺達4人の仕事の統括と、なんの為の係かよく分からないが【連絡係】というポジションになっている。

 

 テーブルを挟んで向かい合い、美紀さんは「私が作ったリストじゃないから、私も一応確認させてほしい」と言いながら、逆さまから消耗品リストと睨めっこしているのだが、小さなライトでは暗く、どうしても身を乗り出す感じになる。

 

 俺と美紀さんの頭は、今にもぶつかりそうな距離なのだ。

 

 

(いい匂いだ……いい谷間だ……全然集中できん……)

 

 どう頑張っても、資料を見る目は徐々に谷間に奪われていく。

 

 しかも、大人な美紀さんのそれは、優理はもちろん瑠依ちゃんと比べても確実に大きい。

 

(本物の巨乳だ……しかも隠れ巨乳とは、鼻血でそう)

 

 普段はそれほど感じなかった。着痩するタイプなのだろうか、服の上から見ても巨乳だとは思わなかったが、近くで谷間を拝見すると、圧倒的な迫力だ。

 

 自制心を働かせて資料に目を戻した時には、さっきまで見ていた箇所が分からないという悲惨な状況。

 

 

(大人のフェロモンってやつかぁ~、こりゃイカン)

 

 

 俺と美紀さんから少し離れた位置で、伊藤さんと優理が話し込んでいる。

 

 別に深刻そうな話は無さそうだ、時折、優理の「アハハハッ♪」が耳に飛び込んでくる。

 

 

(よし、俺も頑張って巨乳女神様と打ち解けておこうかな)

 

「美紀さん、テレビは何をよく見てました?」

 

 歳が近いから、平凡な話題でもどうにかなりそうな気がする。頭がぶつかりそうな距離で尋ねたので、聞こえてないわけがないのだが、返事が無い。

 

 気になって顔を上げて美紀さんを見てみると、ずいぶん至近距離で目が合ってしまった。

 

(近っ! 女神さま近っ!)

 

 

「もう一回! いまなんて言った? ごめん、聞き取れなかった」

 とても不思議そうな顔で此方を見ている美紀さん。

 

 

(ん? 考え事でもしてたかな?)

 

 もう少し分かりやすく聞こうと思った。

 

「好きなテレビですよ、ドラマとか、お笑いとか」

 

 

「て……れび? んー、ごめん、ドラムは分かる、楽器でしょ?」

 

 なんだか会話が成立していないらしい。

 

「あ、いやぁ~、あれ?」

 

 

「ん~っと、実際には単体の打楽器から、打楽器の集合体までをドラムと呼んだり、なかなか興味深いよね」

 

 美紀さんはそう言うと。

 

「あなた達の時代については、多少は勉強してあるでしょ?」

 

 なんだか誇らしげな女神の微笑みを見せてくれた。

 

 

(なんだかなー、これが300年の隔たりか)

 

 

 伊藤さんは何故、あんなに簡単に優理の笑を引き出せているのだろう。俺は美紀さんとの会話が上手くいかないまま、ただ女神の谷間を眺めて夜を過ごしていた。

 

 

 その夜は、みんなで揃って小屋で寝た。元々、サポートの子が8名で使っていた小屋は、縦に4段のベッドが2ヶ所、壁に設置されており、俺達8人にピッタリだったのだ。

 

 女の子達と同じ部屋で寝るのは妙にドキドキしたが、そんなピンク色の期待も虚しく、室内は金田さんのイビキに占拠されていた。

 

 金田さんのイビキの合間に、瑠依ちゃんの「スースー」と可愛い寝息が聞こえてくる。唯ちゃんは既にすっかり夢の中っぽい。

 

 つーくんもどうやら寝てしまったようだ。

 

 

「だから嫌だって言ったのに、俺やっぱテントいくわっ」

 

 伊藤さんはムクっと起き上がるとフラフラと外に行ってしまった。

 

(けっこう神経質なんだな伊藤さん)

 

 

 そもそも伊藤さんはテント派だった。

 

 皆で寝ようって言い始めたのは瑠依ちゃんで、伊藤さんはそれを全力で拒否していたのだが、その理由が金田さんのイビキだったとは知らなかった。

 

 伊藤さんに小屋で寝ると言わせたのは美紀さんで「伊藤さんが一人でテントに寝るなら、私もお邪魔して二人で寝ようかな」なんて脅したのだ。

 

 

 渋々、小屋でベッドに入った伊藤さんだったが、金田さんのイビキに耐えかねたらしい。

 

 

 伊藤さんが出てからしばらくして。

 

 

「きっつい、私も空いてるテント使わせてもらうわ」

 

 美紀さんが眠そうに目をこすり、自分の使っていたタオルを片手にゆらゆらと外にでる。

 

 

 

――数分後。

 

「やばい! 油断した!」

 

 そう言って飛び起きた優理が、タオルを片手に美紀さんを追いかけて行った。

 

 

(ホント……伊藤さんはさぁ……いいよなぁ)

 

 俺はそんな優理の事が気になったけど、あまり気にしていたら身が持たないと思い、さっきまで脳裏に焼き付けておいた女神の谷間を思い出しながら寝てしまう事にした。

 

 

 実際に疲れていたんだと思う。

 

 俺は楽しみにしていた谷間を妄想をする間もなく、一瞬で眠りに落ちてしまった。

 

 

 

――明け方

 

 目が覚めると、まだ空は薄暗く、早朝というよりは明け方といった具合だ。外に出た3人が気になって、俺も勇気を振り絞って外に出てみる事にする。

 

(うを!? サービス満点だ!)

 

 上から2段目で寝ていた唯ちゃんは、暑かったのかタオルを掛けず、部屋着もはだけてお腹が丸出しである。

 

 

(女の子と同じ部屋とか、目の保養にはなるけど、体には悪いな)

 

 我慢は体に良くないと聞いたことがある。1人になる時間もあまりなさそうだ。

 

(薪拾いの時くらいだなぁ)

 

 この生活は、煩悩との戦いになりそだ。そんな事を考えながら小屋を出る。

 

 

「さぶっ」

 

 実際にはそれ程寒くもないのだが、少し暑いくらいだった室内と比べると外はやたらと涼しく感じた。

 

 300年後の技術で作られた簡易キャンプ。プレハブに近い設計のはずの小屋でさえ、しっかりとした断熱効果と気密性があるようだ。

 

 外に一歩踏み出し、涼しさと一緒に感じたのは、何が燃える臭い。朝靄に混ざってハッキリとは分からないが、煙りも出ている様子だ。

 

(火事!?)

 

 

 神経を尖らせて周囲に気を配る。

 

 

「あら?」

 

「!?」

 

(美紀さんか……びびったー)

 

 

「石島さん早いね、おはよう」

 

 

 集中した途端に後ろからの声をかけられ、俺は心臓が飛び出す程に驚いたが、ここはバレないように取り繕う。

 

「お、おようございます、美紀さんも早いですね」

 

 

「驚かせちゃったかな? 悪い悪い♪」

 

 確かにとても驚いたし、余裕でバレて恥ずかしいけど、そのおかげで朝から女神様の優しい笑顔が見れたと思えば安い物だ。

 

 優しい笑顔の女神様は、両手で大き目の箱を抱えながら「アッチ」と言う感じに顔で方向を指し示すと、自身もそちらへ向けて歩き出す。美紀さんに連れて行かれた場所は、簡易キャンプのすぐ近く。朝靄の中に入ると、少し窪地になっている場合がある。

 

 その中央部では、地面にしゃがみこんだ伊藤さんが小さな焚き火に手をかざしていた。

 

「お!? 石島くん早いね、おはよう」

 

「おはようございます」

 俺は挨拶を返しながら(美紀さんと全く同じ挨拶するんだな)なんて思っていた。

 

 美紀さんは持ってきた箱からペッタンコに折り畳まれたシートのような物を取り出すと、俺と伊藤さんに渡す。

 

 

「ここをね、こうするの」

 こちらに見えるようにシートの端に付いている小さなコックを捻る。

 

 

〈ぽんっ〉

 

 シートは、俺の目の前でやや厚みのある大き目クッションに早変わりした。

 

 

「おぉ、エアクッションか、いいねいいいね」

 

〈ぽんっ〉

 

 伊藤さんもすぐにそれを膨らませると「もう一個ない?」と美紀さんからもう一つ受け取っている。

 

 

「なんか、過去に来たのに未来の物を使うって変な気分ですよね」

 

 俺は言いながら〈ぽんっ〉と膨らませたクッションに座る。

 

 

「本来は候補者の皆さんに貸与していい物ではありませんが、この事態ではそんなルール関係ありませんからね」

 

 

 俺や優理に対しては男勝りな感じで、ちょっとお姉さんな雰囲気がある美紀さん。

 

(俺はそんなに変わらないんだけどなぁ)

 

 伊藤さんに対しては、目上の人に対する接し方をしている感じが伝わってくる。かといって遠慮がちな訳でもなく、変に遜る訳でもなく、妙に相手を持ち上げるでもなく、とても自然な振る舞いなのだ。

 

(美紀さんってお嬢様なのかな、育ちが良いって感じがするな)

 

 

 二つ目のクッションを膨らませた伊藤さんは、並べたクッションの上に片肘を付き、頭を手で支える横向きの状態で寝転んだ。

 

「火って温かいよね~」

 

 

 伊藤さんは空いたほうの手で、焚き火の周りに落ちている小枝を火の中に放り込んでいる。

 

 わざわざこんな場所で焚き火をしている割に、会話がない。(俺が邪魔なのか?)と思ったけれど、ここに俺を連れてきたのは美紀さんだ。

 

 しばらく沈黙が続いた。その沈黙は決して嫌な雰囲気ではなく、時折パチパチと音を立てる小さな焚き火に照らされて、眠気を誘う沈黙だ。

 

 

 しばらくして、美紀さんが思い出したように口を開く。

 

「伊藤さん、優理の事けっこう好きでしょ」

 

(!!??)

 

 突然切り出した質問に驚いた俺は、とっさに美紀さんの表情を確認していた。その表情は俺の想像とはかけ離れていて、なんだかニコニコと楽しそうだ。

 

 

「ん、まぁそうだね、そりゃそうでしょ」

 

 

(サラっと言ったぁぁぁぁ!!)

 

 伊藤さんの回答にも驚いた俺は、今度は伊藤さんの表情を確認してみる。

 

(わからん……この人はホントわからん)

 

 いつもと同じ、特に変わった様子がない。

 

 そんな伊藤さんの真意を測り切れていないのは、俺だけではなく、美紀さんも同じようだ。

 

 

「ずるいなぁ~、そうゆう事じゃなくてですよ?」

 

 まだニコニコ顔の美紀さんの表情は、伊藤さんの読めない態度さえ楽しんでいるようだ。

 

「そうか、質問を変えましょう♪」

 

 とても楽しそうに焚き火越しに質問を重ねた。

 

「昨晩、私が行かなかったらどうなってました?」

 

 

(なんだ? 優理と伊藤さんなんかあったのかな?)

 

 心臓が少しだけドキっとした。

 

 美紀さんのその質問に、伊藤さん半笑で即答する。

 

「美紀ちゃん、意地悪やめてあげてよ、石島くんが卒倒しちゃうよ」

 

 

(え? 俺??)

 

 

「アハハハッ♪ ごめんごめん、ぼーっとしてたからちょっと意地悪したくなった、アハハハッ♪」

 

 

(からかわれた!?)

 

 仕方がないと思う、俺が優理に惚れている事なんて、もう周知の事実だろう。

 

「やめてくださいよ、一応年下なんですから優しくしてください」

 答えた俺も、伊藤さんと同じように小枝を火に放り込みむ。

 

 

 美紀さんのニコニコ顔は、徐々にニヤニヤ顔に変わっていく。

 

(まだ何かあるのか!)

 昨日から、何故か弄られキャラが定着しつつある。年齢的な物だろうか、今いる8人の中では中間なのが俺とつーくんだ。

 

 真ん中というのは、上からも下からも弄りやすいのだろう。弄られキャラが嫌と言うわけではないが、弄られっぱなしも悔しいので話題の変更に挑戦してみる事にした。

 

「ところで、優理はどうしたんですか?」

 

 俺のこの質問が、墓穴を掘る事になる。

 

 

 答えてくれたのは美紀さんだった。

 

 

「まだ寝てるよ~、伊藤さんのテントで♪」

 

 

「えっ!?」

 

 普通に声に出して驚いてしまった。

 

 

 俺の反応がよほど嬉しいのか、ニヤニヤ顔の女神様はさらに衝撃的な言葉を続ける。

 

「ちなみに、私も伊藤さんもさっきまで寝てたよ、伊藤さんのテントで♪」

 

 

「はい!?」

 

(なになになになになに!? どうして!?)

 

 

 完全に目が泳いでいる俺に、伊藤さんが真面目な顔で語りかけてきた。

 

「早朝からこんな話題で悪いな、でも石島くんも大人だし、どうゆう状況かは理解できるよね?」

 

 

(ぇぇぇえええええええ!?)

 

 

 伊藤さんの言葉に、俺の思考回路は完全にショートし、停止した。頭を振って復旧させるが、正常とは程遠い。

 

 

(ささ……ん、さん……ぴ?)

 

 

 改めて伊藤さんを見ると、下を向いて肩を小刻みに震わせている。

 

 

(皆が寝てる間にテントで? そんなのあり?)

 

 

 

「プッッ、アハハハ♪ ダメだ限界、アハハハ♪」

 美紀さんが唐突にお腹を抱えて笑い始めた。

 

「ブハッ! ギャハハ♪ 石島くんいいよ面白いギャハハ」

 こちらも吹き出した伊藤さん。下を向いて肩を古させていたのは、笑いを堪えていたらしい。

 

 

「石島くんごめんごめん、冗談!」

 伊藤さんは涙を流して笑った後、起き上がって俺の肩をポンポンと叩くと、またクッションに寝っころがった。

 

 

「まじで勘弁してください! びっくりした」

 

 

(ほんと弄られキャラだな……まいったなぁ)

 

 

「でも伊藤さんのテントで寝たのはホントだよ? 私も優理も伊藤さんと一緒に寝たんだ♪」

 

 

「え? え? 冗談じゃなくて? え?」

 

(なに? もーなんだよ!)

 

 俺は訳が分からなくて、気付いたら伊藤さんを直視していた。

 

 

「おいおい、そんな顔で見るなって、美紀ちゃん説明が足りないでしょ」

 

 苦笑交じりの伊藤さんは「そろそろ靄が晴れるぞ」と言いながら、長めの枝で焚き火を少しずつ薄く広げ始めた。

 

「アハハハッ♪ 石島さんて面白いね」

 

 

「なんか、昨日からすっかり弄られキャラですよね俺」

 

 もう、苦笑で返すしかなかった。

 

 

 美紀さんは俺の顔をマジマジと見つめながら。

 

「これでもう少し【ビシッ】としてたらモテるんだろうけどなぁ」

 

 言い終わると伊藤さんを手伝い始める。

 

「たしかに顔は点数高いのよね」

 

 火の子をパチパチと飛ばしながら、さりげなく俺を褒めてくれた女神様。

 

(女神様も魅力的だなぁ、年上も悪くないか)

 

 俺の思考回路は本当にどうしようもなく下衆らしい。

 

 

 焚き火を広げながら、美紀さんは昨夜の状況を色々と説明してくれた。伊藤さんは小屋を出た後、自分のテントで横になり。美紀さんは近くの空いたテントを使って横になったそうだ。

 

 数分して現れた優理は、半分寝ぼけてて判断力も落ちていたんだろう、躊躇する事なく伊藤さんのテントに頭を突っ込んだらしい。飛び込んだ目的は、美紀さんから伊藤さんを守るため。

 

 ところが、伊藤さんのテントには伊藤さんしかおらず、目を丸くして頭から「??」を噴火させている優理と、同じく状況を理解できない伊藤さん。

 

「あれれ? 美紀ねぇは!? あれ?」

 

 優理のその声で気付いた美紀さんが伊藤さんのテントに向うと、テントからお尻を突き出した状態で固まっている優理を発見したそうだ。

 

「優理、あんたまさか、夜這いを仕掛けるほど大胆だったとは思わなかったよ」

 

「へ?」

 

 その時の「へ?」の表情は、今思い出しても笑が込み上げてくる程だと、美紀さんは笑いながら話す。

 

 結局、少し肌寒くなってきた事もあり、3人でテントに入って寝る事にしたらしい。その流れがよく分からないが、伊藤さんを真ん中で寝たわけじゃないらしく。

 

 優理を挟む感じで川の字で寝たとの事。明け方、美紀さんが目を覚ました時には、伊藤さんの姿はなく。

 

 寄りそうように寝ていた美紀さんと優理には、他のテントから集められたと思われるタオルやら、伊藤さんのスーツの上着がかけられて温かかったそうだ。

 

「上着は優理だけにかけられてたけどね?」

 そう強調しながらも、どこか満足気な美紀さん。

 

 美紀さんが外に出た時には、伊藤さんは既に焚き火を始めた所で、地面に座るのは寒いだろうからとクッションを取りに行った所で俺と出くわしたそうだ。

 

 

「3人で寝ても、なのか、3人だったからなのか、石島さんの妄想するような事はなかったよ♪」

 

 そう締めくくった美紀さん。

 

 

「そうだったんですか、伊藤さんってやっぱり紳士なんですね」

 

(俺がその状況だったら興奮して絶対寝れない自信あるわ)

 

 

 2人きりだったらもしかしたら状況は違ったかもしれない。それにしても、ここまで紳士だと金田さんの冗談が現実味を帯びてくる。

 

伊藤さん【オネェ】疑惑だ。

 

 

「あのね、そんなに紳士だったらちゃんと寝れてます」

 

 枝で焚き火を突っつきながら、伊藤さんは言葉を続けた。

 

「もうね、ぜっっんぜん寝れなかったわ、金田くん起きたら小屋で寝るからね! 起こさないでね!」

 

 

(伊藤さん、やっぱ男だな)

 

 

「アハハハッ♪」

 

 美紀さんの笑声と、俺の苦笑と、伊藤さんの欠伸。なんだか平和すぎる朝だ。戦国時代に取り残された実感なんて、持てと言われても無理だと思った。



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第13話 生きる術

 朝靄はすっかりと晴れ、気温も多少上がり、清々しい朝になった。続々と起きて来た面々と入れ替わるように、伊藤さんが小屋に入る。

 

「昨日全然寝れなかったんだって!」

 

 美紀さんのその言葉に「へ~」としか答えようがないよく寝た組の面々。暖かい陽気だ。

 

 美紀さんから支給された未来の歯ブラシを使いながら、こんなトラブルにならずに戦国時代に挑んでいたら、当然のように歯ブラシなんて物は存在しなかった事に気付く。

 

 時間の経過と共に、誰からでもなくテーブルに集まって話をしていると、ようやく優理が起きてきた。

 

「優理、おはよ~」

 

 唯ちゃんの挨拶を追いかけるように、皆からも挨拶が飛ぶ。

 

 優理は一つ一つ丁寧に返しているが、どうにも半分寝ている頭では歯切れが悪く、それがまたとても可愛かった。

 

(やっぱいいわぁ~、ホント最高)

 

 寝ボケ優理を眺めながら朝食を口に放り込んでいると、金田さんとつーくん、そして美紀さんの間で何かが決まったらしい。

 

 

 金田さんが立ちあがると、会議に入れない組に向って声をかけた。

 

「んじゃ、ちょっと行ってくるわ」

 

 そう言うと、美紀さんをチラっと見て「30分くらいでつくかね?」と問いかける。

 

 

「はい、それくらいで大丈夫だと思います」

 

 答えると、昨日俺と一緒に見ていたリストに目線を落とした。

 

「装置を幾つか持ち帰るとなれば、帰りは1時間近くかかるかもしれません」

 

 

「えー、どこ行くんですかー」

 

 瑠依ちゃんが不満そうだ。

 

 

 美紀さんは不満そうな瑠依ちゃんを「伊藤さんいるからいいでしょ」と宥めながら、俺にもわかるように説明してくれた。

 

「先行スタッフの待機拠点に行くのよ、警報と同時に転送していったようなので、もしかしたら長期滞在用の備品が残されたままかもしれないの」

 

(長期滞在用か……それは確かにほしい)

 

 美紀さんは、俺に向って歩きながら言葉を続ける。

 

「ホントはね、石島さんにも来てほしいんだけど、こっちを放っておくわけにはいかないし」

 

 俺の目の前まで来ると、拳で俺の胸を軽く突いた。

 

「伊藤さんが起きるまで男性はお一人ですが、女の子達を頼みますねっ!」

 

 そう言ってつーくんと金田さんを引き連れ、3人で先行スタッフの待機拠点とやらに向うため、山の中へ入っていった。

 

 

(頼りにされた! なんか嬉しい!)

 

 素直に嬉しい自分は、単純でバカなんだなと思ったけど、嬉しい物は嬉しいのだ、仕方がない。1人で喜んでいた俺の顔を覗き込むように、ニコニコ笑顔の唯ちゃんが俺に声をかけてきた。

 

「頼りにされてるって事ですよ? わかってます?」

 

「お、おう、大丈夫!」

 

(何をすればいいのだろうか……)

 

 何をすべきか、何もすべきではないのか、よく分からない。

 

 俺はちょっと考え込んだ。

 

「そんなに難しく考えなくていいんじゃないかな?」

 

 気遣ってくれたのか、優理の優しい言葉に勇気づけられる。

 

 

(優しいな、俺の天使ちゃん)

 

 

 優しい俺の天使ちゃんの言葉は続く。

 

 

「だってさ? 伊藤さんが起きるまでって言ってたし、本当に困ったら伊藤さん起こしちゃえばいいよね?」

 

(…………グサッ)

 

 

悪気は無いんだろうと思う。そうだろうけど、なんかグサっとくる一言だ。

 

 

「確かにそうですね、困った時に起こして怒るような人じゃないと思いますし」

 

(唯ちゃん、そうゆう事じゃなくて……)

 

 

 でも、きっと、それは正解だ。何が起こるか分からないけど、本当に困る事態が発生したら俺でも伊藤さんを起こしに行く。

 

 俺に任せるなんて、俺でも怖くて出来ない。

 

 何も答えが出ないまま、とりあえず座って待つ事にした。

 

 

 

「ねーねー、唯先輩っ」

 

 瑠依ちゃんが何かを唯ちゃんに確認しているようだ。

 

 

「ん? いいんじゃないかしら、さっき石島さん達もクッション使ってたみたいだし」

 

 

「ホント? やった~♪」

 

(この子の感情は全身から出るんだな)

 

 体全部を使って喜びを表現した瑠依ちゃん。

 

「伊藤さん寝てるし、暇すぎて暇すぎて暇死する所でした!」

 

 そう言ってテーブルに付くと、その上に「トンッ」と小さい箱を置いた。

 

「トランプしよっ♪♪」

 

 

 300年後でもトランプが存在するって事に感動したし、ババ抜きとか7並べとか、基本的な遊びも変わっていない事にとても安心した。

 

 違うとすればトランプの素材。斜めから見ても図柄が見えないのだ。しかも、それは手札の時だけ。触れている間だけそうなっているぽいのだが、温度なのか、水分なのか、何で調整しているのかはサッパリ分からない。

 

(スマホに貼る【覗き見防止シール】みたいなものか)

 

 シールが貼ってあるようには見えなかったし、薄さも俺の知っているプラスチックトランプとほぼ同じだ。

 

 

 なんやかんやと2時間くらい遊んでいると、ホクホクの笑顔で美紀さんが戻ってきた。その手にあったのは、俺達に支給された物と同じ麻袋。袋がパンパンになっている様子から、けっこうな量が入っていると思われる。

 

 それともう一つ、小さ目のジュラルミンケースみたいな箱があった。美紀さんは、袋とケースをテーブルに置くと、ケースを開いた。

 

 

「安全性はこれで格段に向上するわ」

 

 

 そう言いながら開いたケースを操作すると、ソーラーパネルが飛び出し、ケース中央に立ち上がるように小さなモニターが出現した。それが何かの説明を受ける前に、遅れていた金田さんとつーくんが戻ってくる。

 

 金田さんは、金田さんの身長よりも長いく、横幅もそこそこある円柱状の何かを肩に担ぎ。つーくんは四角い大きな箱を抱え、前がほとんど見えない状態で歩いている。

 

 美紀さんは、金田さんとつーくんの運んできた物体を指さすと。

 

 

「喜べ! これでシャワーを浴びれる!」

 

 美紀さんの声に、女の子が歓喜の声を上げた。

 

 

 美紀さんが持ってきたケースは、先行スタッフが簡易キャンプを囲むように半径5km圏内に約80個設置した【行動抑制型危険回避システム】と呼ばれる物の操作端末だそうだ。

 

 人を含む大型の哺乳類が本能的に嫌がる超音波を、持続的に発生させる装置らしい。

 

 約80個設置してある機器の消費電力は極めて少なく、ソーラー式で自動充電されるので、一度設置すると半永久的に稼働するそうだ。

 

 超音波程度の物なので、強い目的意識を持った人間の行動を抑え込むのは難しいが、そうでない人間の行動はその超音波でほぼ100%に近いレベルで阻害出来るという。

 

 

 そして、金田さんとつーくんが抱えて運んで来た物体。

 

 これは小屋に接続する形で使用する物で、待機拠点とやらの小屋から取り外して来たらしく。物体の名前は【循環分離型製水機】で、ろ過と電気分解を併用する形で雨水や河川の水を飲用水に作り替える事が出来るらしい。現在、小屋の貯水タンクはその大きさから比べたら「ほぼカラっぽ」の状況である。一応、8人で使えばそれなりに持つ量ではあるが、シャワーを浴びれるほどの余裕はない。

 

 

 美紀さんが危険回避システムの起動を完了、金田さんとつーくんが製水機の設置を完了する。

 

 

「お昼の前に第2便いっちゃいましょうか」

 

 つーくんの提案に、今度は俺達も同行を許された。周囲の安全性が確保されたからだろう。簡易キャンプには金田さんが残り、あとは全員で待機拠点へ向かう。

 

 

「ピクニックみたいで楽しい~♪」

 

 元々、山育ちの俺には特に珍しい物はない。女の子達にとっては珍しい物だらけなようで、ちょっと歩くとすぐに立ち止まって「あっ!」とか「あれ! 見てみて!」とか、ずいぶんと楽しそうにご機嫌だ。

 

 

 ゲートが繋がった段階では、細かい年代や季節までは不明のようで、最初に来る先行スタッフさんとやらは様々な準備をしてこっちに転送されたようだ。

 

 待機拠点で得た収穫。

 

 丸っこい万能電池4個。

 IHコンロのような、電気加熱機。

 その加熱機で使用する鍋のような器が4個。

 ステンレスのような物質で出来たバケツ2個。

 

 未使用の防寒着や毛布まで確保できた。

 

 小屋は俺達のキャンプにある物より小さく、つい先日まで先行スタッフさんが滞在していたであろう生活感があり、ずいぶんと散らかっていた。唯ちゃんと瑠依ちゃんがせっせと片付けをしてくれたので、帰る時にはキッチリ整頓されていたけど。

 

 一時間くらい滞在していただろうか。

 

 俺達が簡易キャンプに戻った頃には伊藤さんも目を覚まし、金田さんとテーブルで話し込んでいた。

 

 

「おかえり~」

 

 伊藤さんは皆を出迎えると、美紀さんを手まねきする。

 

 見ると、伊藤さんの横では金田さんが怪訝そうな顔で危険回避システムのモニターと睨めっこしているのだ。

 

 

「美紀ちゃん、これずっと警報出てるわ」

 

 伊藤さんが指さす先には、金田さんが睨みつけているモニターがある。

 

 

「っ!?」

 

 美紀さんが金田さんの所に駆け寄った。

 

 

「いやね、皆が待機拠点に行ってるから出てる警報かと思ってたんすけど、どうも違うっぽいんすよね」

 

 金田さんの言葉が聞こえた時、つーくんは持っていた手荷物を別のテーブルに置くと、すぐに近づいてモニターを覗き込んだ。モニターの前に陣取った美紀さんに、伊藤さんが自分自身の現状を伝える。

 

「一応ね、金田くんからこのシステムの事とか、持ってきた物については聞いたんだ、だから説明はいらない、状況だけ教えて」

 

 

 美紀さんは伊藤さんの言葉に頷きながら端末を操作し、モニターの表示を切り替えた。

 

「6人…こっちに向っている……?」

 

 美紀さんの呟いた言葉に、簡易キャンプに緊張が走る。

 

(誰かがここに接近してるって事?)

 

 俺も不安になって、荷物を別テーブルに置いて伊藤さん達が集まっているテーブルに向おうとした。その時、唯ちゃんと瑠依ちゃんの不安そうな顔が目に入る。優理は何か真剣な面持ちだ。

 

 

(ここは優しく声をかけて、安心させてあげるのが大人の役目だよな)

 

「大丈夫、心配ないよ」

 

 声をかけた俺の顔を覗き込む唯ちゃん。

 

 

(やっぱ唯ちゃんは唯ちゃんで可愛いなぁ)

 

 緊張した状況とはかけ離れた俺の心の声は、自分自身の緊張を解こうとする為にあえてそうしている。と、言い訳を考える俺。

 

 

「うん、大丈夫だよ」

 

 相変わらずどうしようもない俺の後ろから、優理が声をかけると、そのまま唯ちゃんと瑠依ちゃんの手を握った。唯ちゃんも瑠依ちゃんも、無言で優理の手を握り返す。

 

 

「伊藤さん達がどうにかしてくれる、絶対、大丈夫」

 

 自分の両脇に立つ2人を励ます優理は、何故か少しだけ大人になったように見える。

 

(そう、優理の言う通りだ)

 

 優理の言う【伊藤さん達】の中に、自分が入っていない現状が情けなくて泣けてくる。

 

(情けないけど、そこは信じるしかない)

 

 

 俺達には見守る事しか出来ないのだろうか。

 

 

「だいぶ見やすい表示になったな、美紀ちゃん、コレがこの場所で合ってるよね?」

 

 伊藤さんがモニターを指さしながら確認している。

 

「はい、このキャンプへの広い道はありません、細い獣道程度の道順を的確に進んできます」

 

 

「なんでだ?」

 

 つーくんが呟く。

 

 

「このシステム、ちゃんと動いてるんすか?」

 

 金田さんもちょっと不安そうだ。

 

 

 俺達がこの時代に来てから、この時代の人間とはまだ接触していない。

 

「村上さんとか、大森さんとかが戻ってきてるんじゃないですか?」

 不安に支配された瑠依ちゃんから、楽観的予測が口にされる。声は少し、震えていた。

 

 美紀さんが首を横に振る。

 

 

(そうだよな、それは無い)

 

 瑠依ちゃんの予測は残念ながら当たらないだろう。ルール上、先に出発した3名は、ここに戻ればゲームチェンジャーになる資格を失う事になるからだ。元の時代との接続が切れているとは知らない3人が、ここに戻ってくる事は考えにくい。

 

 

(俺もこれくらいは考えられるようになった)

 

 必要なのは、これ以上の考えかもしれないが、今は緊張が優先して考えが廻らない。

 

 

「山の向こう側に用事があるとか?」

 

 つーくんが接近中の6人が所持している目的を予想する。

 

 美紀さんは首を横に振ると説明をくれた。

 

「峠を越えるルートはこの地点より約4km南側に確立されています、5km圏内には入りますが、この場所へ向かってくる事はまずありえません」

 

 

 ここで、伊藤さんがようやく口を開いた。

 

「強い目的や意思があるんでしょ? それが分かれば十分さ、大体想像つく」

 

 そう言うと、つーくんに指示を出した。

 

「須藤くん、武器になりそうな物かき集めて」

 

 

「え!? ちょっとまって下さい、まだ危険な存在と決まったわけでは……」

 

 美紀さんが驚きの声をあげる。

 

 

(武器!?)

 

 

 伊藤さんの言葉に、見ているこっちの4人も体を強張らせる。

 

 

「了解です! 木の棒とかしかないと思いますけど」

 

 つーくんは頷くとテーブルを離れ、辺りで武器になりそうな物を拾い始める。

 

 

「危険な存在だったら……やるしかないっすよね」

 

 金田さんの顔が急に引き締る。

 

 

「その為に何時間も話したろう……俺は覚悟決めてある、あとはお前らだ、けど無理強いはしないよ」

 

 伊藤さんは金田さんの肩をポンと叩くと、自身も武器になるものを求めて小屋へ向かう。

 

「遅かれ早かれってヤツだと思ってるよ俺は、ちょっと予想以上に早いタイミングだってだけで、それ以外は特に不都合ないさ」

 

 伊藤さんのその独り言に、なぜか徒ならぬ殺気が込められているような迫力を感じた。

 

「30分程度で目視できる距離に入ります!」

 

 つーくんと伊藤さんに聞こえる声で叫んだ美紀さんは、モニターについた端末操作を一旦やめると、俺達の方へ向き直った。

 

「石島さん、その子達をお願いね」

 

 

 何やら意味深な事を言うと、金田さんと共に伊藤さんの所へ向かう。

 

 

「美紀ねぇ!」

 

 今にも泣きだしそうな瑠依ちゃんが叫んだ。

 

 

「瑠依、もう子供じゃないんだからピシッとしなさい!」

 

 女神様の表情はいつになく硬く、我儘な妹系天使もそれ以上の言葉は飲み込むしかなかった。

 

 

 どこで拾ってきたのか、つーくんは野球のバットくらいの棒を3本程、それ以上の長さの棒を2本抱えて戻ってきた。戻って来るなり、その棒をバチバチとぶつけ合い、武器として通用するかどうか強度を確かめている。

 

 

 程なくして伊藤さん達もつーくんに合流。キャンプの中央地点に集めた物を出し合っていアレコレ作戦会議を始める。会議はひと段落ついたのだろう、伊藤さんが俺に向って指示を出した。

 

「石島くん、人数負けで侮られるのも厄介だからさ、最初だけここにいて欲しいんだ、でもヤバくなったら小屋に隠れてて」

 

(隠れているなんて……)

 

 ホっとするやら、情けないやら、色々な思いが沸いてきた。けど、そんな思いを整理する間も、口にする間もなく、伊藤さんが言葉を続ける。

 

 

「もしさ、俺に何かあったら後は宜しくね♪」

 

 

(嘘だろ? いや、本気で言ってるなこれ)

 

 声や口調は妙に明るかったから、冗談と取れなくもない。

 

 それでも、伊藤さんの決意というか、覚悟のような物を感じ取れた。理屈ではなく、直感だと思う。

 

 

 俺が無言で伊藤さんに頷いた時、優理が一歩二歩と伊藤さんの方へ足を踏み出した。

 

 優理の手を俺が掴んで引き留める。

 

「離して……」

 

 俺にしては珍しく、強い口調で引き留める。

 

「男の覚悟が見えないのか、邪魔するなよ」

 

 それでも優理は止まろうとしない。もう、引き留めている俺を見る事さえしない。

 

「離してよ……」

 

 声に涙が混じっているのを感じた。そんな俺達の様子に伊藤さんが気付く。

 

 

「優理、それ以上こっちに来ないでくれるかな」

 

 伊藤さんはそれだけ言うと背を向けた。

 

「覚悟ってモンは言うほど簡単じゃないんだよね、それ以上近くに来られたら揺らいじゃうからさ、そこらへんで我慢しといて」

 

 その言葉を残し、伊藤さんは5人が来るであろう方向へ歩き出し、金田さんに声をかける。

 

 

「先に目視したいから、そこで見張っとくわ」

 

 金田さんは黙って頷くと、ゆっくり俺の方へやって来た。

 

 

「石島ちゃん、頼むね! 優理ちゃん、大丈夫だって! 先輩を信じろ!」

 

 そう言って女の子達を小屋へ誘導し、無理やりにでも中に入らせた。優理も、瑠依ちゃんも、両目いっぱいに涙を溜めているのが分かる。

 

 俺は小屋の入口に立ち、中の様子と外の様子を両方確認出来る位置を選んだ。小屋に入ったとたん、瑠依ちゃんはメソメソと泣き出したようだ。

 

 

「そうゆう場所に来たんだよ、後悔はないはずでしょ」

 

 唯ちゃんの言葉に泣きながら頷く瑠依ちゃん。

 

「でもね、でもね、グスッ」

 

 

 もうただの駄々っ子だ。

 

 優理は小屋の窓に張り付き、外の様子を凝視している。

 

 

 いざとなれば、小屋に立て篭もって戦うくらいの覚悟はしておこうと思った。

 

(3年間も自室に篭ってたんだ、この頑丈な小屋に立て篭もるくらいどうってことない!)

 

 自分に与えられたあの子達の安全確保という役目に、全力で挑む決意を固めた。

 

 

「じゃ、そのタイミングが来なかったら?」

 

 もう少し皆の考え方を確認しておきたくて金田さんの所にいくと、美紀さんが何か質問しているのが聞こえてきた。

 

 

「それはわかんねっす、でも先輩がやるって言うんだから、たぶんやるっす」

 

 金田さんの答えを、つーくんが補足するように口を開く。

 

 

「それか、そんな出番がないくらい俺達の圧勝!って事になるといいですね」

 

 つーくんの回答が心強かったのか、美紀さんはしっかり頷く。

 

 

 そこへ、伊藤さんが戻ってきた。

 

「いやー、予想通りっちゃ予想通りなんだけど、当たって欲しくない予想だったわ」

 

 そう言うと、バットサイズの木の棒を左手に持つ。

 

 

 俺も、金田さんも、つーくんも、美紀さんも、伊藤さんの次の言葉を待っている。

 

 

「えっとね」

 

 棒の重さを確かめるように、両手に持って構えると2度振る。

 

〈ブンッ〉

 

   〈ブンッ〉

 

 

 バットサイズの棒が空を切る音。伊藤さんのその姿勢、スイング、野球バッターその物だ。

 

「あ、話すけど、話したら美紀ちゃんは小屋にすぐ入ってね」

 

 そう言って棒を地に置くと、続きを話しだす。

 

「6人のうち5人は山賊風で、お世辞にも行儀が良さそうには見えない連中、1人はその山賊風な連中に拘束されてるぽい修験者」

 

 

「え?」

 

(捕まってるって事?)

 

 声を出したのは俺だけで、他の3人は口を一文字引き締めて続きを待つ。

 

 

「縄で縛られて、刀を突き付けられて、道案内させられてるぽいね、ありゃ大森くんだわ」

 

(あの嫌なヤツ……捕まったのか)

 

 

「くっ……先行スタッフがいれば……」

 

 美紀さんの話では、先行スタッフは安全確保のため最新式の護身銃を常備しているという。しかし、その銃は先行スタッフと共に元の時代に戻ってしまった。

 

 

「さ、美紀ちゃんは小屋ね、ちゃんと自分の役割を果たす事! よろしくぅ!」

 

 伊藤さんは、そのまま金田さんとつーくんを正面から見つめると。

 

「是非も無し……だな! この時代で生きる術、俺は今日、ここで身に着けるよ」

 

 

(生きる術?)

 

 俺には何の事かさっぱり分からなかった。

 

 

 伊藤さんのその言葉に、美紀さんが苦い顔をする。

 

「すいません、伊藤さん」

 

 深々とお辞儀をし、小屋に駆け込んだ。

 

 

(???……なに??)

 

 

 つーくんは、伊藤さんをじっと見つめている。同じように伊藤さんを見つめている金田さんが、つーくんより先に口を開いた。

 

「自分、小心者なんで、頭で分かってても体が動くか正直言うとわかんねぇっす、でも……」

 

(弱気な金田さんなんて珍しいな)

 

 金田さんの弱気な発言を、俺は初めて聞いた。

 

 

「いーんだよ、自分のペースで、これが生きる術になる人間と、そうでない人間がいる、金田くんがどっちかなんてまだ分からない」

 

 金田さんの肩をポンポンと叩きながら、俺には理解できない会話が続いている。すると、つーくんが一歩前に出る。

 

「自分には、必要な力です……どう考えても、自分には必要な生きる術です」

 

 

「ったく、剛左衛門は不器用な生き方を選ぶねぇ」

 

 伊藤さんは苦笑で答えた。

 

「それでも、金田先輩と同じです……分かっていても、出来るかどうか……」

 

 

 伊藤さんは、右手で金田さんの肩を、左手でつーくんの肩を握る。

 

「ホントはさ! そんな生きる術は持たないでほしいってのが俺の思い! でもさ、俺1人だけそれを持っても、皆を守る自信がない!」

 

 そう言って一瞬、金田さんを強く抱きしめ、すぐにつーくんを強く抱きしめ、続けて2人の肩に軽く拳を当てた。

 

「頼りにしてるぜ? ま、任せるよ、命がけだから自己責任、むしろ俺がダメだった時はさ、戦うより降参したほうが良いって可能性もあるわけで」

 

 そこまで言うと、今度は俺に向き合う。

 

「どんな選択でも、自分を信じて選ぶ事! 頼むよ石島くん」

 

 

 俺が返事をしようと思ったその時、伊藤さんの後方から人影が現れた。

 

 

「やぁ~っと着いたか、嘘だったらぶっ殺してやろうと思ってたのにな」

 

 やや小柄な男が3人、手にはそれぞれ刀や槍を持っている。薄汚れた服は、簡易な胴丸やすね当てを着ているせいで裸に見えるほどだ。

 

(講義の時間に習ったな、あれは足軽なんかが着用する簡易的な鎧だ……)

 

 

 その3人に遅れる事数秒、縄で縛られた大森さんと、その縄を持つそこそこ体格のいい男。そしてその男の横に、それ以上の体格をした男が立派な槍を片手に現れた。

 

 

「おいデク! 女が見当たらねェ」

 

 一番大きな男がそう言うと、大森さんが焦ったように話始める。

 

 

「あ、あの小屋の中ですよ! 隠れてんだ!」

 

 

 大男は先に現れた3人のうち、細身で目つきの悪い男に声をかける。

 

「庄吉っ! 小屋の中、見えるか?」

 

 

 目つきの悪い男は目をさらに細める。

 

「なんだあの窓、格子も戸板も付いてネェな……ああ、見えるぜ、こっちを見てやがる」

 

 

(……優理か?)

 

 俺は小屋を振り返ると、優理が窓越しに此方を見つめている。

 

 

 庄吉は小屋から目を離す事なく、大男に報告を飛ばす。

 

「けど親分! このデク嘘つきやがった! ちーとも上玉じゃねーよ!」

 

 

「……まぁ、売れねぇ程でもねーだろ」

 

 

 親分の言葉に、庄吉また目を細める。

 

「お、もう一人、こっちもひでぇ不細工だな、親分! 全然ダメだ、話になんねぇよ」

 

 

 庄吉の報告に、親分は大森さんに槍の穂先を向けた。

 

「ふざけやがって……おいデク、貴様ここで死ね」

 

 

「ままま、ま、待て、そんなはずはない!」

 

 大森さんは慌てて、矢継ぎ早に言葉を並べる。

 

 

「おい! 石島! あれ佐川と栗原だろ!?」

 

(言えるかよそんな事)

 

 俺は質問に答えずにじっと身構えた。

 

 

「なんだよ! 無視かよ! 佐川と栗原だあれは! 不細工なわけがねーだろ! とびっきりの上玉だ!」

 

 

 大森さんの必死の訴えに、親分が再び庄吉を見ると、報告を促す。

 

「どんな女だ」

 

「へっぇ」

 

 庄吉は再度、目を細める。

 

 

「そうですな……二人とも、どっちも全体的に整ってはいるんですがね、顎が細くて顔が小さい、そのくせ目玉ばかりが大きくて、鼻筋が通っていて、眉も細くて長い、唇は厚くて、開いたら器ごと飲み込みそうだ、ありゃどんなにお世辞を言っても醜女(しこめ)ですぜ」

 

 庄吉はずいぶんと目が良いのだろう。

 

 

(え? ちゃんと見えてる?)

 

 表現はイマイチだが、優理の事を言ってるのは間違いなさそうだ。庄吉の報告を受けた親分は「なんだそりゃ! とんでもねぇ醜女じゃねーか!」と口にしてガッカリした様子だ。

 

 

「カーーッ、デクに騙された!」

 

 庄吉に横にいる二人が声を上げる。

 

 

「ううううるせぇ! 黙れ信吉! 稲助!」

 

 親分が吠えると、2人はピタリと止まる。

 

 

「ちょっと待てよ! 騙してなんかない!」

 慌てる大森さんに、親分が怖い顔で言った。

 

「まぁどっちでもいい、仲間を売るような輩、一味に加える気なんざ元々ねーからよ……テメエみたいな輩を一味に加えちまったら、次に売られるのは俺達だからな」

 

 

いい終わると「銀蔵!」とだけ言って俺達の方に向きなおった。

 

 

「なんだよ! 案内したら一味に入れてくれるって言ってたじゃねーか! ふざけんな! 約束やぶグッ・・・・ぼ」

 

(!!!!!!!)

 

 

 俺の体は硬直した。

 

 金田さんも、つーくんも、一歩後ずさりしたようだ。

 

 

「やってくれるねぇ……アイツ」

 金田さんが拳を強く握りしめ呟く。

 

 

 つーくんは何も言わない。けど、その手にはバットサイズの棒が握りしめられている。

 

 大森さんは、縄を持っていた男に後ろから刀を刺され、みぞおちの辺りから剣先が貫通していた。

 

〈ドサッ〉

 

 

「あーあ、殺しちまいやがった、ガッハッハ」

 

 親分が豪快に笑う。

 

「親分がヤレと言うたのだろう、クックック」

 

 縄を持った男は、絶命したであろう大森さんから刀を引き抜くと、ベッタリと付いた血糊を振り払うように刀を一振りした。

 

「いやぁ、俺は「銀蔵」と呼んだだけだ、何も言っちゃいねぇよ、ガッハッハ」

 

 

「どちらでもよいが、クックック」

 

 銀蔵は、たった今、一人の人間を殺したとは思えない笑みを浮かべている。

 

(狂ってる、こいつら狂ってやがる!)

 

 

 

 その間、伊藤さんは俺達の最前線にいる。腕を組み、大股に立ち、大森さんが刺されたシーンでも微動だにしていない。

 

 その伊藤さんが、ひとつ大きなため息を付く。

 

 

「茶番は終わったか? 悪いがそんなんじゃビビらねーよ、美的感覚のズレに関しちゃ正直ビビったけどね」

 

 

 そう言って、足元に転がっていたバットサイズの棒を左手に持った。

 

 

「ギィヘッヘッヘ! そんな棒っ切れでやる気かい!? 冗談はよせや!」

 

 前にいる3人、庄吉、信吉、稲助が手にしている武器を構えて一歩前に出る。

 

 

「おうおう、バカ共、そのデカイの殺すなよ、労働力になる男は金山に売り飛ばすからよ」

 

 親分の声に、3人は薄気味悪い笑みを浮かべて頷いた。

 

 

(確かに、あいつらと比べると伊藤さんて大きいよな)

 

 

 この時代の日本人男性の平均身長が160cmに満たない為だろう。俺でさえ山賊連中より目線は高かった。金田さんは180cm近くあるので、当然大男に映るだろうし。つーくんと伊藤さんは殆ど変らない。金田さんより少し低いくらいなので、175前後だと思う。

 

(俺を含めて、こっちはデカイの4人か)

 

 丸腰の喧嘩なら、体格差でどうにかなる可能性もある。けど、相手は本物の武器を手にしているのだ。

 

 

 伊藤さんは、左手に持った棒を左肩に担ぐ。

 

「殺す気が無いとか有るとか、それはコッチには関係のない都合ってやつだからさ、気にしないからそのつもりで」

 

 そう言って、前の3人に向って一歩踏み出す。

 

「それに分かってると思うけど一応確認ね、お前らが手にしてるのは脅しの道具じゃない、人の命を奪う道具だ、あってるか?」

 

 

「ギィヘッヘッヘ、何言ってんだデカイの、恐怖で頭が壊れたか? ギィッヘッヘ」

 

 不快な笑い声の持ち主、稲助と呼ばれた小男が一歩前にでる。

 

「悪く思うなよデカイの!」

 

 奇声をあげて伊藤さんに躍り掛かった。

 

 稲助は両手で構えた日本刀を振りかざし、伊藤さんに向って突進してくる。

 

(来る!)

 

 金田さんもつーくんも、もちろん俺も、軽く身構えるような体制を取る。

 先頭の伊藤さんは左足を上げ、体を右に捩じると、上げた左足を勢い良く前に踏み出した。

 

〈ビュ〉

 

 その体制から、まさに野球にピッチャーのように何かを投げたのだ。

 

 

〈ガッ〉

 

その何かは見事に稲助の頭部に命中。稲助は気を失うように速度を落とすと、両膝を地に付いた。

 

 その時、伊藤さんは既に走り出している。投げた物が稲助に命中するかどうかは気にしていなかった様子だ。

 

 稲助が膝を付いた時には、伊藤さんはもう稲助のすぐ横まで到達していた。左手に持った棒をバットの様に構えると、走ってきた勢いを乗せたまま思い切り振りぬいた。

 

〈ブンッ〉

 

   〈ガツッ〉

 

頭部を打ち抜かれるような形になった稲助は、そのまま人形のように地面に叩きつけられた。

 

 

「ぐらぁぁぁ!」

 

 

 その事態に、待機していた2名のうち、信吉と呼ばれていた男が伊藤さんに襲い掛かる。

 

 信吉は構えた槍を伊藤さんに繰り出すが、伊藤さんはコレを見事に躱すと、槍の柄を右の脇腹に掴む。

 

「もう始まってるんだよ、命のやり取り、後悔すんなよ?」

 

 伊藤さんのその台詞に、信吉の表情に恐怖の色が浮かぶ。

 

 次の瞬間、信吉と組みあう形になった伊藤さんに、庄吉が襲い掛かる。

 

「シャァアアアア!!」

 

 距離にして3mあるかないか。伊藤さんの左側面を取った庄吉は、勝利を確信したかのような奇声を上げた。

 

(まずい!)

 

 俺達は一瞬、伊藤さんのピンチを想像した。

 

 この瞬間、一番冷静なのは伊藤さんだった。左手に持った木の棒を庄吉の足元めがけ、横に回転させながら投げ込む。襲い掛かった庄吉は、棒に足を取られて派手に転んだのだ。

 

 次の瞬間、伊藤さんは目の前で転んだ庄吉には目もくれず、逆に庄吉に目が行っていた信吉との距離を一気に詰めると、その胸倉を両手で掴む。

 

「ひっぃ」

 

 恐怖にゆがむ信吉の顔面に、伊藤さんは斜め上から強烈な頭突きをお見舞いした。信吉は顔面を両手で押さえると悶絶して地面に倒れこんだ。

 

 

 伊藤さんの手には、信吉が手放した槍が握られていた。

 

 そしてその槍の穂先は伊藤さんに操られ、転んだその場で立ち上がった庄吉の胸部を一突きにしたのだ。

 

 

 

「グフッ……ゲッ」

 

 

(あ……)

 

 生々しい絵図だ、俺は声も出ない。庄吉は口から大量の血を吐きだすと、そのまま倒れて動かなくなった。

 

「でえめえええええええ!!」

 

 その時、ようやく起き上がった最初の相手、稲助が再び襲いかかろうとした。

 

 しかし、稲助は最初に頭を打ち抜かれたダメージだろうか、足元がフラ付いてマトモに立っていられない状況だった。それを見た金田さんが、自身の身長よりも長い棒を片手に走った。

 

 

「おおおおおおおおお!」

 

 

 気合と共に、長い棒をまるで剣道の竹刀のように背負うと、無理やりスイカ割の様に上から振り下ろす。金田さんに操られる長い棒は綺麗な曲線を描き、稲助の頭部めがけて振り下ろされる。

 

 

 しかし、僅かに届かなかった。

 

 

 

〈グシャ〉

 

 

 

 棒が地面を叩いた音とほぼ同時に、全く違う嫌な音がした。

 

 

 金田さんに気を取られていた稲助は、真後ろから伊藤さんの槍を受けたのだ。

 

 槍は稲助の腹部を貫通している。

 

 

 稲助は叫び声をあげる事もなく、鼻、耳、目、口、全てから血を流しながら倒れた。

 

 

「銀蔵!!」

 

 稲助が倒れこんだ直後、山賊の親分が野太い声で叫んだ。

 

 

「承知」

 

 

 言うのと動きはほぼ同時、銀蔵の動きは早かった。さっきの3人とは比べ物にならない。

 

 

 銀蔵は腰に差してあった刀を引き抜くと、一瞬にして伊藤さんとの距離を縮めた。

 

 

「がああああああ」

 

 銀蔵が襲い掛かる直前、頭突きを食らった信吉が飛び跳ねるように伊藤さんにしがみ付く。

 

 

「チッ」

 

 伊藤さんの舌うちが聞こえた気がした。

 

 信吉に掴まれた伊藤さんは倒れこむような体制で左足を振りぬくが、それは銀蔵が飛び込んでくる間合いにはずいぶんと早かった。

 

 ところが、まったく届かなかった伊藤さんの回し蹴りに、何故か銀蔵の速度が緩む。

 

 それを見たつーくんが走り出した。

 

 動きが緩やかになった銀蔵は、それでも止まる事はなく、伊藤さんめがけて刀を振り下ろす体制に入る。

 

 直後、今度は銀蔵の胴体が後方に弾かれた。

 

 つーくんの投げたバットサイズの棒が見事に命中したのだ。

 

 

「グッ」

 

 銀蔵はそのまま数歩後ろに飛び退くと、しきりに顔を拭っている。伊藤さんの蹴りは当てる為ではなく、地面の砂を蹴り上げる為の物だったようだ。

 

 まともに砂を被った銀蔵が動きを急に鈍らせたのを、つーくんが見逃さなかったのだろう。

 

 

(凄い連携だな!)

 

 俺は見ている事しか出来ない。

 

 銀蔵の初撃が失敗に終わったのを確認した信吉は、一度伊藤さんから離れて体制を立て直そうと、屍になった庄吉の手から刀を取り伊藤さんに向けて構える。

 

 信吉の手は震えていた。遠目に見ても判別が出来るほど、刀の先はガクガクと左右に揺れている。

 

 

「信吉ぃぃ! 憶すな!」

 

 親分の野太い声が信吉を叱咤する。

 

 目に入った砂がどうにか落ち着いた銀蔵も、改めて刀を構える。

 

 

「庄吉さんと稲助さんね、忘れないよ、俺にとって一人目と二人目だ」

 

 伊藤さんはそう言うと、信吉を無視するように銀蔵に向い言葉を続ける。

 

 

「光栄に思え、お前らはその他大勢じゃない、記念すべき最初の犠牲者だ」

 

 

(迫力がすげぇ……あれホントに伊藤さん?)

 

 今までも凄味程度の物は感じてきたけど、今のはそれとレベルが違う。まさに覇王色の覇気といった感じだろうか、相当な手練れと思われる銀蔵がじりじりと後退している。

 

 

「銀蔵! それ以上下がったら殺すぞ!」

 

 親分の罵声が飛んだ。

 

 刹那、動き出したのは銀蔵でも信吉でもなく、伊藤さんだった。

 さっきまで向き合っていた銀蔵から一転、刀を構えて震えていた信吉に数歩寄ると、槍の柄の末端を持つようにして横に大きく振り回した。

 

 その穂先は、信吉に当たるか、当たらないかの距離だ。

 

「ひぃぃぃぃい」

 

 軽く後ろに飛び退くか、思い切ってしゃがみ込んでしまえば避けれるであろう穂先を、信吉は避ける事が出来ない。恐怖の為に両足が動かないのだろう。

 

 どうにか上半身をのけ反らせて直撃は避けたものの。

 

〈カッ〉

 

 

 乾いた音と共に、信吉の右手首から先が、刀を握ったまま宙を舞った。

 

「あああああがががが」

 

 

 信吉の右手から噴水のうよに血が吹き上がる。

 

 

〈グシャ〉

 

 

(嘘だろ……そこまでしなくても……)

 

 

 吹き上がる信吉の血を大量に浴びながら、伊藤さんはその左胸を槍で一突きにした。

 

 

(どうしちゃったんだよ伊藤さん……)

 

 

 真っ赤に染まった伊藤さんは銀蔵と再び向き合う。

 

「感謝してるよ、どうしても必要な覚悟だったんだ、お前ら相手なら遠慮なくやれるわ」

 

 

「銀蔵ぉぉぉぉ!!」

 

 親分の雄叫びに銀蔵が反応した。

 

 手に持った刀を勢いよく伊藤さん目がけて投げ込むと、自身の腰にあったもう1本の小ぶりな刀を抜いて突進する。

 

 大きく避けて体制が崩れれば危険な状況だが、避けなければ飛んでくる刀の餌食となる。

 

 伊藤さんは少しだけ身を捻る、大げさには避けなかった。刀はどうにか後方に流れたが、確実に何処かに当たったと思われる。

 

 だが、体制の崩れていない槍を相手に、脇差程度のリーチでは銀蔵が圧倒的に不利だった。

 

 伊藤さんが冷静に繰り出した一撃は銀蔵の左胸に突き立ち背中に貫通、伊藤さんがその穂先を引き抜くと、胸部から噴水のように血が噴き出した。

 

 伊藤さんの修験者の服は、もう赤染めのような状況になっている。

 

 

「やるじゃねーか、デカイだけじゃねーようだな」

 

 ここでようやく親分が一歩踏み出してきた。

 

 

「俺の子分にならねーか、そしたらよ、ここの男も女も、お前に任せるさ、何もしねえ」

 

 

 親分の体格は、背丈こそ伊藤さんとほぼ同等か少し高い程度だが。横幅は伊藤さんの倍くらいある巨漢だ。

 

「どうだ、助かるんだよ、お前も、お前の仲間もだ」

 

 

 これだけ伊藤さんが奮戦しても、親分は余裕たっぷりだ。

 

 親分と対峙した伊藤さんがこちらへ向かって叫ぶ。

 

「石島くん、小屋に! 金田くん須藤くん! 下手に突っかからないようにね!」

 

 それだけ言うと、親分と無言のにらみ合いに入る。隙を見せたら危ない状況なのだろう。

 

 小屋に向うのを躊躇している俺の所へ、金田さんとつーくんがやってきた。2人とも表情が硬い。

 

 そんな2人に、俺は無意識のうちに問いかけていた。

 

「伊藤さん……どうしちゃったの?」

 

 

 答えたのはつーくんだ。

 

「この時代を生き抜くのに必要な事、生きる術になる物、そして、皆を守るために絶対に必要な覚悟、それがさ……」

 

 

 そこまで言うと、伊藤さんの周囲に血まみれで倒れている山賊達を見回し、再び俺に向き合い言葉を続けた。

 

 

「それがさ、人を殺す覚悟なんだよ、この時代、人を殺さないといけない場面なんて山ほどあるはずなんだ、それを生きる術にしている人間だって沢山いる時代だからね」

 

(人殺しが生きる術?)

 

 俺とつーくんの会話を聞いていた金田さんが、今度は短いほうの木の棒を持ちながら、俺の目を見て口を開いた。

 

「ま、平和な時代に育った俺達にゃさ、死ぬ覚悟より難しいかもって話よ」

 

 俺達3人が見守る中、ついに親分が動き出そうとしている。



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第14話 届かなくても

 親分の持つ槍は、伊藤さんが奪った槍とは見るからに違う。長さはもちろん、重さや強度にも大きな差がありそうだ。

 

「もう一度だけ言う、俺の子分になれ」

 

 今度は全身から殺気を放出しながら降伏を促した。

 

「冗談きついって大将」

 

 伊藤さんは講義で習ったように槍を構えると。

 

「そこはさ?【子分にして下さい】の間違いじゃねーの?」

 

 

 俺から見えるのは伊藤さんの背中だけだ。けど、今の伊藤さんの雰囲気、たぶん笑顔で言ってのけたに違いない。

 

 

「死にてぇなら仕方ねーな」

 

 親分は腰を沈めて槍を引き付ける。その動きに合わせるように、伊藤さんの腰も少し沈む。

 

 

「死ねやぁああああ!」

 

 怒号と共に繰り出した親分の槍は、同時に後方へ飛び退いた伊藤さんには届かない。

 

 

「まだだぁぁ!」

 

 親分は槍の柄の末端を握ると、重そうな槍を片手でグルリと大回転させた。

 その大振りを見逃さなかった伊藤さんは、一気に距離を詰める。穂先が届かない距離まで接近し、槍の柄を受けなが、一気に懐に飛び込むつもりなのだろう。

 

 

〈ゴッ〉

 

 大振りに回された槍の柄を、槍を縦に持って受けながら、前進する予定だった筈だ。

 

 しかし、伊藤さんの体は大きく吹き飛んだ。

 

 

(嘘だろ……? とんでもねぇパワーだな)

 

 金田さんは割とやせ形だが、伊藤さんは至って普通の体型だ。

あの身長なら、70Kg前後はあると思われる。

 

 その伊藤さんが、まるで子供のように吹き飛んだのだ。

 

 

「いてて、鉄槍か」

 

 伊藤さんが手にしていた槍は、親分の攻撃を受けた箇所で真っ二つに折れていた。

 

 親分の槍が、柄の部分まで全て鉄で出来ている槍だとすれば、あの速度と鉄の重さがあれば考えられる破壊力ではあるが、それを片手でグルリと回せる親分の腕力に驚愕する。

 

 伊藤さんを弾き飛ばした槍は、そのまま親分に操られるようにして弧を描き、伊藤さんの脳天へ振り下ろされる。

 

 

 

《ズドーーン》

 

 

 槍で地面を叩いたような音ではなかった。

 

 まるで交通事故が起きたような、爆発音のような衝撃が伝わってくる。

 

 振り下ろされる槍をどうにか避けた伊藤さんは、急いで親分から離れた。

 

 

「器用な事するじゃねーか、あんなに手応えがねぇのは初めてだぜ」

 

 ニヤリと笑みを浮かべた親分は、その巨体に似合わない俊敏な動きで伊藤さんとの距離を縮める。

 

 槍の届く範囲に入ると、まるで地面ごと削り取るように槍を振り回す。

 

 

(ヤバイのか!?)

 

 あの重さ、あの速度で振りぬかれる槍の穂先に少しでも触れれば、大けがじゃ済まないダメージを受けるだろう。

 

 サッカーのフェイントで経験しているから、後方や側面に逃れる事の難しさはよくわかる。人間の体の構造上、最も素早い反応が取れるのは前方だ。

 

 伊藤さんは、その事を知っているのか、避ける方向に前方を選択。穂先にはかすりもしなかったが、鉄製の柄をもろにくらって吹き飛んだ。

 

 

《ガッシャーン》

 

 

 伊藤さんは4mほど飛び、テーブルをなぎ倒しながら落下した。

 

 

「んぅ、いってぇぇ……」

 

 

 テーブルを押しのけながら伊藤さんが起き上がる。

 

 

「ほう、起き上がるか、ますます惜しい」

 

 

「タフなのが自慢でね」

 

 折れた槍の先半分を右手に持って立ち上がる。

 

 

「石島くん小屋に入って! 金田くんと須藤くんは少し離れて! 手を出さないでね!」

 

 

 伊藤さんは此方を見る事無く声を上げた。親分は特に息を荒げるでもなく、一歩、また伊藤さんに接近する。

 

 伊藤さんの指示通り、金田さんが伊藤さんと親分から距離を取る。

 

「石島ちゃん、入ったら美紀ちゃんを手伝って!」

 

 そう言って俺に小屋に入るよう促した。

 

 つーくんは木の棒を片手に、一定距離を保ちながら隙を伺っている感じだ。

 

 

「そろそろ終わりにしようか」

 

 親分はその一言を終えると、立て続けに槍を繰り出す。伊藤さんは見事としか言いようがない、一定距離を保ちながら全てを避けきった。だが、伊藤さんは既に肩で息をしている。

 

 

「グハハハ! 息があがってるなデカイの!」

 

 小屋に入った俺は、窓を開けると顔を出した。窓の高さは地面からだいぶ高く、槍でも投げ込まれない限りは安全だ。

 

 窓から身を乗り出す様に状況を見つめる俺は、背中の辺りの服を掴まれた。同じく窓から状況を見ていた優理だ。

 

(そうだよ、俺がしっかりしないと!)

 

 室内を見ると、うずくまる瑠依ちゃんを唯ちゃんが抱きしめるようにしている。美紀さんは、何故か台所にいるようだ。

 

 

《ズドーン》

 

 

 またさっきの爆発音のような、槍で地面を叩き壊すような音がした。伊藤さんはもうフラ付いてる。山賊達の返り血なのか、伊藤さん本人の流血なのか区別がつかない。

 

 全身血まみれで、かなり苦しそうだ。

 

 

「グハハハハ! よくやったよデカイの! 俺の槍を受けて無事なわけがねぇ」

 

 

 良く見ると、伊藤さんの左腕はダランと垂れ下がり、右手には武器を持たず、左の脇腹より少し上あたりを押さえている。

 

(槍で吹っ飛ばされた時に折れたのか!?)

 

 

「終わりだ!!」

 

 

 親分が一歩踏み込んだ瞬間、さっきまで垂れ下がっていた左手が突然親分に向けられ、何かを投げたようだ。

 

 親分の動きが停止した。

 

 次の瞬間、伊藤さんは壊れたベンチの部材を両手で持つと、親分目がけて振り込む。

 

 狙いは、槍を持つ手だった。ベンチが当たる音と、親分の叫びがほぼ同時にあがる。

 

「あがっ!!……て、殺す!」

 

 その目には、べっとりと血が付いている。

 

 伊藤さんは左の拳の中に血を溜める為、わざと左手をぶら下げていたようだ。そして、ある程度たまった血の塊を親分の目に投げたらしい。

 

 親分が鬼の形相とでも言うのか、恐ろしい表情に変わった。しかし、鉄の槍は一度地に落ち、親分の右手の指があらぬ方向を向いている。

 

 伊藤さんは既に落ちた槍を拾うと、小屋の方に向って思い切り投げ飛ばした。

 

 

 投げ飛ばしたと言っても、伊藤さんと小屋までの距離はもう5mあるかないか程度だ。鉄製の槍は重く、最後は転がるようにして小屋に当たって止まった。

 

 

「グハハハ、懸命だな、ありゃお前さんにゃ重くて使えんだろうよ」

 

 折れた右手の指を半ば強引に元の方向に戻すと、今の一撃でほぼ力を使い果たした伊藤さんに歩み寄る。

 

 

(助けないと……)

 

 金田さんも、つーくんも、まだ動かない。

 

 殴りかかる体制に見えた親分に、伊藤さんが身を躱す体制に入ったが、親分はそこから右足を綺麗に振りぬいた。

 

 

 親分の蹴りに、伊藤さんは小屋のすぐ横まで弾かれて倒れる。

 

 

「さて、次はどいつだ?」

 親分が金田さんとつーくんを睨む。

 

 

「イテテ……アバラ折れたかな」

 左脇辺りを抑えながら、伊藤さんが立ちあがった。

 

 伊藤さんはもう、窓から見ている俺達の目の前だ。いつの間にか優理の隣で美紀さんも外の様子を見ていた。

 

 

「しぶとい野郎だ、とかく、まずはデカイの、お前からだ」

 

 立ち上がった伊藤さんに、親分がまた襲い掛かった。伊藤さんはどうにか躱すも、その背を小屋の壁に付ける状態まで追い詰められてしまったようだ。

 

 もう、俺達には伊藤さんの姿が見えない。窓の外、目の前にいる山賊の親分は、俺達を見てニヤリと笑った。

 

 その時、何故か両手にキッチングローブをハメた美紀さんが俺と優理を押しのけた。

 

「どいてっ!」

 

 

 親分が拾ったベンチの部材を片手に、伊藤さんに向けて大きく振りかぶった。

 

「先にあの世にいってろや、デカイの」

 

 

(ヤバイ!!!)

 

 

 その時。

 

 

「親分さん!」

 

 美紀さんが叫んだ。

 

 

 一瞬、親分がコッチを見る。

 

 美紀さんは、窓を利用して親分から見えない位置に、両手で鍋を抱えていた。待機拠点から持ってきたあの鍋である。

 

「これあげるっ!!」

 

 鍋には濛々と湯気を立てる熱湯が入っていて。

 

 

〈バシャ〉

 

 

 窓から身を乗り出す様に、外の親分に向ってぶっかけたのだ。

 

 グツグツと煮え立った熱湯は、親分の顔面に直撃すると真っ白な湯気を発した。

 

 

「ぐううううううああああっっ!!」

 

 親分はたまらず叫び声をあげた。

 

 熱湯だ、転げまわって熱がると思ったけど、親分は軽く腰を折って後ずさりし、小屋から離れて顔面を抑えている。

 

 熱がっているだけで倒れる気配はない。

 

 さっき金田さんに【中で美紀さんを手伝え】と言われたのに、俺は見るのに夢中で何も手伝えていなかった。

 

 

 だが、状況はそれで十分だったようだ。

 

 

 俺達の視界の下から「アチチッ」と伊藤さんの声がした。その声の主はすぐに親分に向って駆け出す。

 

 いつの間に用意したのだろうか、小屋に備え付けてあった調理包丁を懐から取り出すと、走りながら安全ケースを取り外した。

 

 

「んぐぐうぐ」

 

 親分がどうにか目を開けた時には、既に遅かった。

 

 懐に飛び込んだ伊藤さんは、調理包丁で親分の喉を真一文字に切り裂く。

 熱湯を浴び、喉を切り裂かれた親分はそれでも倒れず、大量の血を流しながら伊藤さんの首を両手で掴んだ。

 

 

「グッ」

 

 伊藤さんは苦しげな表情になったが、右手に掴んだ調理包丁を親分の首元に突き立てる。

 

 

〈シュウウウウウウウ〉

 

 

(これは……エグいな……)

 

 少し離れた小屋まで、親分の血が吹き出す音が聞こえてきた。

 

 

〈ドサッ〉

 

 

 喉を切り裂かれていた親分は声を出す事もなく、そのまま直立の体勢で後ろに倒れた。伊藤さんは、倒れた親分の足元で尻もちを付き、全身血まみれになっている。

 

 

 その様子を見ていた優理は、腰を抜かしたようにその場に崩れ落ち、放心状態になった。

 

「優理を頼む」

 

 美紀さんは、そう言い残して外に出る。俺は優理を心配しながらも、不安そうにこちらを見ていた唯ちゃんに気付く。

 

「大丈夫、終わったよ、伊藤さんがやってくれた」

 

 唯ちゃんは黙って頷くと、また強く瑠依ちゃんを抱きしめた。

 

 

「石島さん、私は大丈夫、ごめん、伊藤さんのトコに行ってあげて、私……足が動かない……」

 

 絞り出したような声で、優理が伊藤さんの心配をしている。

 

 

「ああ、大丈夫、ちょっと行ってくるね」

 

 俺は優理の肩に軽く手を置いて励ますと、美紀さんを追うように外に出た。

 

 息絶えた親分の傍らに、伊藤さんがしゃがみ込んでいて、その横には金田さんとつーくんが立ち尽くしている。

 

 3人に会話は無かった。

 

 

 美紀さんも俺も、小屋と伊藤さん達との中間くらいの所で立ち止まり、それ以上近づくのを躊躇っている。

 

 

 しばらくして、金田さんが口を開いた。

 

「先輩、自分……」

 

「いいよ、いい、もう終わった」

 

 金田さんの言葉を遮るように言った伊藤さんは「ハズレたけどカッコよかったぜ?」と笑いながら立ち上がった。

 

 つーくんが一歩前にでる。

 

「伊藤さん! ありがとう御座います! あと、ほんと申し訳ありませんでした!」

 

 言いながら直角にお辞儀をした。

 

「なーに言ってんの、危なかったとこ助けられたよ、ナイスだったぜ剛左衛門」

 

 伊藤さんは言い終わると、美紀さんの方を見る。

 

「美紀ちゃん、この下の滝あるじゃん? あそこ行って水浴びしてくるわ」

 

 伊藤さんは、あえて明るくしているのだろう。全身血まみれの自分を滑稽な動きでアピールしていた。

 

 

「すいません、まだ水の補充が出来てなくて……」

 

 美紀さんはシャワーがまだ使えるようになっていない事を謝罪しているらしい。確かに、ここにいる全員の命を守ってくれたヒーローに、シャワーの一つも提供出来ないなんて、ひどい話だ。

 

 

「いーよ大丈夫、この状況で小屋とかシャワールームとか入れないし、気にしないで!」

 

 それだけ言うと山賊達が来た方へ向かって歩き出した。

 

「まって!!!」

 

 

 俺と美紀さんの後方から、優理が呼び止めた。

 

 

「ん? どこもいかねーよ、水浴びしたら戻ってくるって」

 

 一応、たぶん、笑顔で答えたと思う。顔中血だらけの伊藤さんの表情は、イマイチつかめなかった。

 

 

「そうゆう事じゃない! そんな事、もう心配してない!」

 

 優理にしては、珍しく凛とした大きな声を出している。

 

 伊藤さんは、一応振り返ってこちらに体を向ける。背中までぐっしょり血に染まっているが、前はそれ以上だ。

 

「まぁ、ほら、話は後でもいいかな? 乾く前に流したいんだ」

 

 その言葉に、優理は何も言わない。

 

 代わりに、ゆっくりと伊藤さんに向って歩き始めた。

 

 

 

『くるなっ!』

 

 

 

 今まで伊藤さんが発した声の中で、一番大きかったと思う。それは、すごい威圧感だった。肌に感じる波動のような、そんな大声だ。

 

 優理は一瞬、体をピクッっとさせて静止するも、ぐっと堪えるようにまた歩き始める。

 

 

「来ちゃダメだ! 美紀ちゃん止めて!」

 

 

 その声にハッっとなった美紀さんが、優理を後ろから抱きしめるように食い止める。

 

 

「じゃ、行ってくるから!」

 

 

 伊藤さんはすぐに背を向けると、そのまま速足で歩き始めた。

 

 直後、優理が叫んだ。

 

『なんでもそうやって一人で抱え込む気!?』

 

 

 その言葉に、伊藤さんだけでなく。

 

 美紀さんも、金田さんも、つーくんも、何かに叩かれたような反応を示した。一瞬緩んだ美紀さんの束縛を解いた優理は、一直線に伊藤さんに突進する。

 

 途中、地面に血の海を作って絶命している親分や、その他の山賊達の亡骸(なきがら)の間を走り抜け。

 

 

 血まみれの伊藤さんの背中に、無言で飛びついた。

 

 

「なんでだよ、なんで来ちゃうんだよ……」

 

 優理は伊藤さんの問に答える事なく、ただ無言のまま背中にしがみ付いている。

 

「血まみれじゃねーか……バカ者」

 

 背中に抱き着いた優理は、腕や体や顔と言わず、接触している面が完全に血まみれになっている。

 

 

「イヤダヨ……」

 

 優理の小さい声が、静寂の中に響く。

 

「もうこれ以上、遠くに行っちゃ嫌だよ……」

 

 

「大丈夫、何処にも行かないってば」

 

 伊藤さんの優しい声が、なんだかとても悲しそうに聞こえる。優理は、その言葉を聞いてさらに強く、伊藤さんを抱きしめたようだ。

 

 優理の衣服に染み込んだ血が、優理の左ひじからポタポタと垂れる。少しの沈黙の後、まるで怒っているような調子で優理が口を開く。

 

「届かなくてもいいんだよ! 私の気持ちなんか届かなくてもいいんだよ……でも!」

 

 そこまで言って一旦伊藤さんを離すと、今度は正面に回りこんだ。

 

 

「一人で抱えないで! 遠くに行かないでよ!」

 

 声に涙が混じり始めているのが分かる。

 

「突き放さないでよ……お願い」

 

 最後はもう、完全に泣いていた。

 

 

「ったく、これは必要な覚悟なの、生きる術なの、だから大丈夫、何処にも行かないし、突き放したりもしない」

 

 伊藤さんはそう言って、歩き出そうとした。

 

 

「ウソっ! そんなのウソ!」

 

 両目から大量の涙を流す優理は、すれ違う伊藤さんの正面から飛び込んで抱き着いた。

 

 衣服に染み込んだ血が、嫌な音を立てる。

 

 

「言ってたもん! 人を殺さなくても変革は起こせるって! 言ってたもん!」

 

 泣きながら叫ぶ優理の声、小屋から出てきた唯ちゃんと瑠依ちゃんも、ただ無言でそれを聞いていた。

 

 

「いっぱいお金稼いで、いっぱい病院とか学校を作るって言ってたもん!」

 

(伊藤さん、そんな事考えたんだ……)

 

「天下人と対等に渡り合える財力と人望を集めてみせるって言ってたもん! 人を殺すのが生きる術なんて言ってなかったよ!?」

 

 きっと、優理が逃走劇を繰り広げたあの日の夜に2人で話した内容だろう。優理が泣きながら訴えているのは、この時代に取り残されるという事故が起きる前の話だ。

 

 そして、あの日、優理が伊藤さんを追ったりしなければ、伊藤さんは今頃京都に向って旅をしているはずだったろう。そして、俺達がこんな状況になっているとも知らず、理想を追い求める戦国ライフを満喫していく事になったかもしれない。

 

 伊藤さんは、優理の両肩と掴むと、自分から引き離すようにした。

 

「ったく、勝手に追ってくるわ、帰らねえわ、来るなって言ってるのにこっち来るわ」

 

 そう言いながら、優理と同じ目線まで腰を落とすと、血まみれの顔で、同じく血まみれの優理の顔を覗き込むようにした。

 

「あのね、優理にこんなふうに血を触って欲しくなかったから来るなって言ったの、突き放したわけじゃないの」

 

 優しく諭すように言葉を続ける。

 

「それにね、俺はやらされてる訳でも、義務でやってる訳でもないの、皆を守りたいから戦ったの、俺の意思、俺が守りたいから勝手に守らせてもらったの! それだけ!」

 

 

 伊藤さんの言葉に、しばらく俯いたままの優理だった、大き首を振ってその言葉を否定しているようだった。

 

 

「違う! 違う! 違う! ごまかさないでよ!」

 

何度も、何度も首を振りながら食って掛かった。

 

「必要な覚悟じゃない! 守りたい訳じゃない! 必要な生きる術でもない!」

 

 そこまで言うと、すでに血まみれになった両手で、伊藤さんの両頬を挟むように触った。

 

 

「ごめんね……私が残っちゃったからだよね」

 

 優理は肩を震わせて泣いていた。

 

「私が残ろうとしたせいで、石島さんまで残っちゃったから」

 

 頬にあった手は、伊藤さんの胸に下り、しがみ付くように体を預けて泣きだした。

 

「そのせいで唯ちゃんと瑠依ちゃんまで戻って来ちゃって……」

 

 

「だからだよね……ホントは必要なかった覚悟まで決めさせてさ」

 

 その通りかもしれない。昨日、伊藤さんの目が真っ赤だったのはその覚悟のせいだろうか。

 

 優理と俺と、唯ちゃんと瑠依ちゃん。この4人がいなければ、頭のいい4人だけなら色々な事が出来ただろうと思う。

 

 今回も逃げるなり、待ち伏せするなり、もっと色んな策が練れたはずだ。足手まとい4人を守りながらでは、人を殺す覚悟をしないといけないのかもしれないと、俺でもなんとなく分かった。

 

 

「伊藤さんはさ? 優しいよ……きっと誰よりも優しい、そんな伊藤さんにこんな事させちゃって……ゴメンね」

 

 

 優理は血に染まった手で、同じく血に染まった伊藤さんの手を握る。少し泣くのも落ち着いてきた様子だ。

 

 

「私の想いは……届かなくてもいいんだ、でもお願い」

 

 もう、何度目だろう、また伊藤さんに抱き着いた。

 

 でも分かる気がする。

 本当に優しい人だ、その人がこんな風に人を殺める覚悟を決め、俺達を守ってくれた。

 

 きっと今、伊藤さんの心は深く抉れている事だろう。癒してあげたいと言うか、少しでも埋めてあげたいと言うか。

 

 なんとなく、優理の気持ちは理解できる。

 

 

「お願いだから、少しでいいから、あなたの為に何かさせて」

 

 その優理の声は、優しく、強く、きっと伊藤さんの胸にも響いただろう。

 

「もっと心に寄り添わせてほしい、痛みを私にも感じさせて? 苦しみを一緒に背負いたい、悲しみを……癒したいの」

 

 伊藤さんは背中しか見えない。

 

 けど、何故だろう、優理の言葉に泣いているような気がした。

 

 2人のやり取りを見守る俺達には、言葉をかける隙間が無い。それは、この空間が異常すぎる所為もある。

 

 血に染まったご遺体が、大森さんを含めて6人分。そして、真っ赤に返り血を浴びた伊藤さんと、その伊藤さんに何度も抱き着いては、同じように血まみれになった優理。

 

 

「あのな? 優理、ひとつだけ、なんか勘違いしてるみたいだから言っとくわ」

 

 

 ようやく、伊藤さんが口を開いた。

 

 

「誰が届いてないって言った? んな事、一回も一言も言ってねーぞ?」

 

 

(ええええ! 今このタイミングですか!?)

 

 

 微妙な言葉ではある。

 聞く人間によっては色々な解釈が出来そうな。伊藤さんらしい【ズルい】言葉だと思うけど。

 

 言われた優理の表情は、血まみれでよく見えないながらも、両目いっぱいに感動の涙を浮かべているように見える。

 

 

 再び伊藤さんに飛びつこうとした優理を、伊藤さんが静止した。

 

 

「でもな! こんな血まみれでラブシーンは無いっしょ! もう乾いてきた! 滝にいくぞ~!」

 

 ちょっとおどけた感じで、上手く誤魔化した雰囲気もあった。

 

 

「うんっ♪!」

 

 

 小走りに滝に向う2人。優理はすごく自然に伊藤さんの右手を掴んでいた。

 

(仲良く手繋いで滝へ~って、あー、終わったか)

 

 

 別に、仕方がないような気がしてきた。

 

 

 優理の事はすごい好きだけど、今の伊藤さんと優理を見ていたら応援したくなってきてしまった。

 

 そんな目で2人を見ていたら、突然立ち止まって振り返った。

 

「美紀ちゃーん! 着替え持って来て! 滝に!」

 

 それだけ言い残して2人で去って行った。

 

 

 頼まれた美紀さんが大きくため息をつく。

 

「これってタイミング難しくないですか!? 行ったらラブシーンの真っ最中とか絶対見たくないんですけど!」

 

 

 その美紀さんの言葉に金田さんが反応した。

 

「自分がもっていこっか?」

 

 

 多分、なんの下心もな無い、親切心から出た言葉だろう。そんな金田さんを灰にしたのは瑠依ちゃんだった。

 

 

「変態さん! 優理先輩の着替えを覗く気ですね!?」

 

 

「んなっ!?」

 

 金田さん、どうも瑠依ちゃんの変態扱いに固まる習性があるらしい。

 

 

「あのさっ!」

 俺の声に、皆がこちらを見た。

 

 別にすごく深い考えがあるわけじゃないんだけど。思った事を言うべきだと感じたんだ。伊藤さんに言われた「自分を信じて選択する」ってやつかもしれない。

 

「伊藤さんと優理が戻ってきたときに、山賊達や大森さんの無残な姿を見ないで済むようにしよう!」

 

 これだけ言い切った。

 

 人の屍に触った事はない。正直、触りたいとも思わない。

 

 けど、そんなの、伊藤さんが決めた覚悟や、実行してくれた覚悟に比べたらどうと言う事はない。

 

 

 唯ちゃんが賛同の声を上げてくれた。

 

「そうですよね、優理が血まみれになってまで伊藤さんの心を癒したのに、私たちが何もしないって訳にはいきませんね!」

 

(唯ちゃんって、たまに核心を突くような事言うね)

 

 本当に言う通りだ、あのまま伊藤さんを一人で行かせて、一人で寂しく水浴びさせていたら、俺達はきっと後悔したに違いない。

 

 

「よし! お墓作ろう!」

 

 つーくんが言った。

 

 

「作業道具ならいっぱいある!」

 

 瑠依ちゃんが小屋裏の物置を指さして叫んだ。

 

 

「そんじゃ、先輩が戻ってきたら手を合わせられるくらいにしときますか!?」

 

 金田さんが腕まくりしながら少し大きな声を出した。

 

 

『お~♪』

 

 

 結局、2人の着替えは予定通り美紀さんが持っていく事になった。唯ちゃんと瑠依ちゃんは、バケツを抱えて少し上の沢まで水汲みだ。小さい体で黙々と、何往復も水を運んでいる。

 

 俺を含めた男連中は、とにかく大きい穴を6個掘らないといけない。

 

 未来のスコップは高性能でモリモリ掘れたが、6個は結構大変だった。なにより、その穴にご遺体を運ぶのがもっと大変だった

俺も、金田さんもつーくんも、手足はけっこう血だらけになり。唯ちゃんたちが持って来てくれた水を使って、地面や衣服やテーブルやベンチに付いた血を洗い流していた。

 

 

 自分の手に付いた血を洗いながら思う。

 

 

(そうさ、優理に負けてられないな)

 

 

 すっかり日も高くなり、お昼はとっくに過ぎている時間だろう。温かい日を浴びながら、俺は独り言を呟いていた。

 

 

「【届かなくても】……か、そうだよな」

 

 

 

 

想う人のために 何が出来るか

 

想う人の心に どれだけ寄り添えるか

 

想う人の痛みを どれだけ感じ取れるか

 

想う人の苦しみを どれだけ背負えるか

 

想う人の悲しみを どれだけ癒せるか

 

お願いだから 突き放さないで

 

お願いだから 一人で背負わないで

 

私の想いは 

 

届かなくても

 

かまわないから



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第15話 チャンス到来!?

 伊藤さんと優理は勿論だが、着替えを持って行った美紀さんも戻って来ていない。

 

(美紀さんもいれば安心か……)

 

 

 作業を始めてから2時間程だろうか、俺達は6人分の墓を掘り、ご遺体を中に入れて土をかぶせた。

 

(大丈夫かなぁ、伊藤さん)

 

 遅いのには理由がある、それは俺も理解している。何故着替えを持って行く役目を美紀さんが実行したのかと言うと、同時に治療をするためなのだ。

 

 着替えと一緒に未来の救急BOXを持って向かった美紀さんが、伊藤さんの治療に当たっているのだと思う。

 

 気付いたら夕方に近くなっていて、お昼を食べていないのでお腹が減ってきた。

 

 

 

「これなんかどーかな?」

 

 瑠依ちゃんが手にしていたのは、銀色の板である。金田さんとつーくんが製水機を設置した時に、貯水タンクのカバーを取り外した物で、ちょうど6枚だ。

 

 

「いいね! それにしよう!」

 

 つーくんがその板を1枚預かると、少し土を盛っては上に突き立てた。

 

「あー、名前! 書いた方がいいか」

 

 そう言ったつーくんは何かを考えるようにしてから、瑠依ちゃんを見た。

 

「平岡さん、おおもりさんって【大きい】に【木が三つの森】で大森さん?」

 

 つーくんの言葉に、瑠依ちゃんは頭に「?」を浮かべている。

 

(平岡さん!? 瑠依ちゃんの名字?)

 

 つーくんの問に答えたのは唯ちゃんだった。

 

「はい、その大森さんです」

 そう答えた直後、瑠依ちゃんを見て「ふふふっ♪」と笑っている。

 

「なんですか!? えー、なんか瑠依笑われてます? 唯先輩今のなんですか? 須藤さんもっかい言ってください!」

 

「なんでもない! 平岡さん気にしないで♪」

 

 つーくんは瑠依ちゃんを軽く躱すと、未来のマジックペンを手にして固まった。

 

「阿武さんて確か……字、上手だったよね?」

 

 そう言うと板とペンを唯ちゃんに渡す。

 

 唯ちゃんは笑顔でそれを受け取ると、とても綺麗な字で「大森さん」と縦書きに記した。

 

 

「墓標っぽくなったな~」

 

 金田さんが感心の声を上げた。

 

 

 その時、優理達が戻ってきた。

 

 

「ただいま~♪」

 

 優理はなんだか元気そうで、服はここに来た時の服装ではなく、Tシャツに短パンというラフな格好だ。

 

(おおお、いい……私服って感じだ)

 

 

 手には大きくやたらと重そうな袋がぶら下げられていて、たぶん着替えた服とかが入っているのだろう。

 

 

 少し遅れて伊藤さんと美紀さんも現れた。その姿を見た瑠依ちゃんが駆け出す。

 

「伊藤さん!? どうしたんですか!?」

 

 

 どうしたもこうしたもない、怪我をしているのだ。当たり前だと思う。あれだけ激闘で怪我で済んでいる事が、奇跡と言っても過言じゃないくらいだ。ちょっとぎこちない歩き方なのは、見た感じ左足を負傷しているのだろうか。

 

 

 それ以上に問題は上半身にありそうだ。

 

 右腕は骨折した人のように、布で首からぶら下げていて。左腕は肌が見えない程に全体が包帯でぐるぐる巻きになっている。

 

 戦闘中に左のアバラを抑えていたのは、おそらく肋骨が折れていたのだろう。腹から胸のあたりまで包帯グルグル巻きで、脇腹をかばうようにコルセットまで装着されていた。

 

 そんな状況では上着を着る事も出来なかったのだろう。マントのように両肩に引っ掛ける程度だ。

 

 額に巻かれた包帯は、左目から左耳にもかぶっており。見えているのは右目、右耳、口、鼻、首と胸部くらいだ。

 

 本当に満身創痍な状況で戦ってくれたのが伝わってくる。それだけ多くのダメージを蓄積している状況で、よく滝まで歩けたものだ。

 

 

 伊藤さんは自力で歩いているが、その横に美紀さんがピッタリと寄り添うように歩いてる。

 

 

「先輩、ボロボロっすね」

 

 金田さんが心配そうに声をかける。

 

 

「ボロボロとか言うなよ、負けたみたいじゃんか!」

 

 伊藤さんは明るかった。本当にボロボロの見た目になっているが、明るい声で応対してくれていた。

 

 駆け寄った瑠依ちゃんは本当に心配そうに、泣きそうな顔で寄り添って歩いている。伊藤さん達がテーブルまで到着すると、美紀さんが俺に問いかけた。

 

「どこに作ったの?」

 

 

(山賊達の墓の事か)

 

 

 6人の墓はこのキャンプから北側、少し斜面を登ると、また下りになる。その斜面を下りると少し平らな場所があり、そこに6人分の墓を作った事を伝えた。

 

 少し離れていないと落ち着かない気がしたからだ。その分、遺体を運ぶのは苦労した。

 

 

 歩くのが多少つらそうな伊藤さんは、とりあえずベンチに腰かけている。美紀さんは俺の説明を聞くと、伊藤さんの所へ戻る。

 

「あのね、伊藤さん」

 

 そう言って話始める美紀さんは、伊藤さんの正面でしゃがみ込み、伊藤さんより低い目線で、伊藤さんの膝に手を置いている。

 

(ボケ老人に話しかけてるみたいだな)

 

 

 そんな風に見えるくらい、美紀さんは丁寧に言葉を選びながら語りかけていた。

 

 

「よいしょっと」

 

 優理は手に持っていた袋を小屋横にある処分用の箱にぶち込むと、大きなため息を付いた。

 

 何かに呆れているとか、そうゆう種類のため息じゃない。自らのストレスを解放するような、痛みや辛さを吐き出すような、そんなため息だった。

 

 

「いや、今いくよ、ありがとう美紀ちゃん」

 

 伊藤さんは辛そうだ。骨が折れたり、打ち身や刀傷があるのだろう。となれば、熱が出ていてもおかしくない。

 

 

 美紀さんは伊藤さんに頷くと「優理」とだけ、優理を呼んだ。

 

 優理は美紀さんとアイコンタクトを取るようにしながら伊藤さんに駆け寄ると、美紀さんと同じような体勢になる。

 

「伊藤さん、ちょっとだけだよ? すぐ戻って休むんだよ? いい?」

 

 心から心配しているんだろう。なんだか本当におじいちゃんに話しかけているようで、少しだけ可笑しかった。

 

 

 伊藤さんは少し辛そうにしながらも、誰の手も借りずにベンチから立ち上がる。

 

「あのね、要介護のお爺さんじゃないんだから、大丈夫です! それにね、寝る前になんか食わせろ、腹減って死ぬってば」

 

 そう言って美紀さんと優理の間を抜け、俺達が作った墓へ向って歩き出す。

 

 楽に歩ける状態じゃないのは、誰が見ても明らかだ。体も相当辛いはずだ。それでも伊藤さんは「大丈夫」と言って聞かない。

 

 美紀さんも優理も、あの瑠依ちゃんでさえ、どう接したらいいのか分からず、ずいぶんと困惑している様子だ。

 

 

「みんな、お墓、大変だったでしょ、ありがとね!」

 

 

 自分で歩くと言って補助を断っていた伊藤さんだが、その姿はフラフラと危なっかしい。

 

 

 たまらず金田さんが駆け寄った。

 

「まったく~、フラフラじゃないですかおじいちゃん!」

 

 

 大人の男が負傷して、歩くのも辛い状況なのに、強がって一人で大丈夫だと言っている。

 

 この状況はもしかしたら、女の子達には理解が難しいのかもしれない。男ならこんな時、真面目に心配されればされるほど、プライドが邪魔して大丈夫だと言ってしまうものだ。

 

 

 つーくんも伊藤さんに駆け寄る。

 

「おじいちゃん! お墓参りですか? 一緒に行きましょう!」

 

 

 つーくんと金田さんは、伊藤さんには触れないものの、いつ転んでも助けられる距離を保って歩き出した。俺も続けて駆け寄った。

 

「おじいちゃん、よかったらオンブしましょうか!?」

 

 

 俺は駆け寄ると、伊藤さんの目の前に回りこみ、背を向けてひざまずいた。

 

 

「ブッ」

 つーくんがちょっと、吹き出した。

 

 

「くっそ~~~~ぉ」

 伊藤さんは悔しそうに声を漏らした直後。

 

「若いモンにの世話にはならん! わしゃ一人でゆくのじゃ!」

 

 

 そう言ってさっきより元気に歩き出した。

 

 

「なーんだ、ちゃんと歩けるじゃないっすか!」

 

 金田さんは嬉しそうに言うと、伊藤さんにバレないように美紀さんと優理の所へゆっくりと近づいた。

 

 

「反対側は少し下り斜面だからさ、歩けないだろうから助けてあげてね♪」

 

 金田さんは小声でそう伝えると、伊藤さんを追いかけた。

 

「おじいちゃーん、そんなに張り切ったら危ないっすよ~」

 

 フラフラしながらもどうにか斜面を登る伊藤さんを、俺達は感謝の眼差しで見守りながらお墓へ向かっている。

 

 

「おじいちゃん、もうちょっと頑張れ!」

 

「そこ、木の根があるから気を付けてくださいね!」

 

 俺とつーくんは伊藤さんを先導するように声をかけながら、先に斜面を登りきった。

 

「お前ら、治ったら覚悟しとけよ?」

 

 

「ふふふっ♪」

 

 伊藤さんのすぐ後ろで唯ちゃんが楽しそうに笑う。

 

「伊藤さーん、ホントに大丈夫なんですか? 瑠依が手繋いであげますよー?」

 

 瑠依ちゃんはピョンピョンと飛び回るような動作で、伊藤さんの周囲をくるくると回りながら器用に斜面を登ってくる。

 

 

「瑠依~、邪魔でしょ、どきなさ~い」

 

 唯ちゃんの後ろから美紀さんも追いついてきた。

 

 

 優理は金田さんと一緒にアッというまに斜面を登りきっていた。

 

 

「あそこっす」

 

 金田さんは、墓の位置を指示して優理に伝えている。登ってしまえばもう見える位置だ。普通に下って行けば2分もあれば十分な距離である。

 

 

「先に行っててくれますか?」

 

 優理は笑顔で金田さんにそう言うと、登ってくる伊藤さんを待った。

 

 

「了解っす」

 

 頷いた金田さんは、俺とつーくんに目配せすると、そのまま斜面を駆け下りて行った。

 

 

 目配せの意味は分かった。

 

 

 つーくんもその意味を理解したのだろう、唯ちゃんに何かを伝えると。

 

「よぅぅし! 競争だ! よーーーーい!」

 ちょっと大きな声を出した。

 

「負けないですよっ!石島さん!」

 唯ちゃんも少し大き目の声を出す。

 

 俺は一瞬迷ったけど「ようし! 見てろよ!」と気合を入れ、なるべく自然に唯ちゃんとつーくんに並ぶ。

 

 その直後、目標が釣れた。この競争の狙いが何なのか、俺は察知する事が出来たのだ。

 

「まって! 瑠依も~!」

 

 瑠依ちゃんが到着する直前。

 

「どん!」

 言うなり、いきなり走り出すつーくん。

 

「あ! ずるい!」

 唯ちゃんも走り出す。

 

「卑怯だぞ剛左衛門!」

 俺も走り出した。

 

「ズルーイ!」

 瑠依ちゃんも慌てて追いかけてくる。

 

 緩やかな斜面を駆け下りながら、見ないようにしようと思っていたけれど。どうしても気になって振り返ってしまった。

 

 

 キャンプ側の斜面を登りきった伊藤さんを出迎える優理は、しんどそうな顔の伊藤さんを突然抱きしめたのだ。

 

(見なきゃよかった……)

 

 伊藤さんの後ろから登ってきた美紀さんは、その様子をただ見ている。抱き着いた優理は何かをしきりに訴えているようだった。

 

 その優理に、伊藤さんが渋々頷いているのが分かる。

 

 伊藤さんの反応に、美紀さんは満足そうな笑みを浮かべると、優理と2人で伊藤さんを補助しながらゆっくりと斜面を下り始めた。

 

 

 伊藤さんが墓に到着した時、空は綺麗なオレンジ色をしていた。墓の前に立ち尽くしている伊藤さんを囲むように、皆は少し下がって沈黙している。

 

 

「あっ!」

 声を上げたのは俺だ。思い出したんだ、つーくんが持っていた板の事を。

 

 

「つーくん、板! 板! 墓標!」

 

「やべっ! 忘れてた!」

 

 つーくんは全力で斜面を駆け上り、また戻ってきた時には完全に息が上がっていた。

 

 

「なにもそんなに全力で走らんでも」

 

 苦笑する伊藤さんに、つーくんは首を振って「いやいや、ハァハァ、いやいや」それだけ言って1枚の板を差し出した。

 

 そこには、達筆で【大森さん】と縦書きに記してある。

 

 だが、伊藤さんはそれを受け取れない。右手は首からぶら下がり、左手は手先まで包帯でグルグルだからだ。

 

 

「おー、すごいじゃん、誰が書いたの?」

 

 つーくんはまだ息が荒い。

 

「ハァハァ、んぐ、阿武さんです」

 

 この斜面をアホみたいに全力で往復したつーくんは、本気で息が上がってしまったようだ。

 

「てか剛左衛門、けっこうバカでしょ?」

 

 伊藤さんが笑いながら突っ込んだ。

 

「あひゃひゃひゃ」

 

 金田さんの笑声を追うように、皆も笑っていた。

 

 

 さっきまで、生死をかけた壮絶な戦いがあって、目の前にはその戦いの敵が眠っている。冷静に考えたら怖い話だけど、俺達は、今、下を向いてしまったら立ち直れないだろう。

 

 

(伊藤さんが前を向いている以上、俺達が下を向く訳にはいかないよな)

 

 

 強くならないと駄目だ。じゃないと、大切な人を守れない。

 

 

 俺はつーくんが持っていた残りの5枚を預かると、1枚を唯ちゃんに手渡した。

 

「唯ちゃん字上手だから書いてっ」

 

「はいっ♪」

 

 唯ちゃんは本当にいつも笑顔で、気持ちの良い受け答えをしてくれる。

 

 

 しんきち、いなすけ、しょうきち、ぎんぞう。漢字が分からなかったけど、そこは金田さんからのアドバイスで切り抜けた。

 

「この当時はね、漢字はけっこう勝手に書いちゃうんだよ、聞いた名前のまま思い浮かんだ漢字で大丈夫っす!」

 

 真吉さん、稲助さん、正吉さん、銀蔵さん、次々と達筆で記していく唯ちゃん。

 

 

 出来上がった墓標は、俺と金田さん、それから息上がりつーくんの3人で墓の盛り土に付き立てられていく。

 

 

 そこで伊藤さんが呟いた。

 

「いっけね、親分の名前聞き忘れたや」

 

 そう言って親分の墓の前にしゃがみ込む伊藤さん。

 

「あんた……名前くらいあるだろ……」

 

 そう言って、少し寂しそうにした。

 

 

「じゃぁ、【親分さん】って書いておきますね♪」

 唯ちゃんは達筆で記すと、その板を優理に手渡す。

 

 板を受け取った優理は伊藤さんの隣で同じ体制を取ると、必殺【天使のスマイル】で語りかけた。

 

「これっ♪ 私立てちゃうよ?」

 

 伊藤さんはしばらく無反応のまま、じっと墓を眺めている。オレンジ色に染まった空は俺達の心を柔らかく包み込む。

 伊藤さんも優理も、周りの俺達も、虫の音も、鳥の声も、淡いセピア色に染まったような感じがした。

 

 

〈ぐぎゅるるるる〉

 

 

 誰かのお腹が派手に鳴いた。

 

「ブッ」

 

 つーくんが耐え切れずに吹き出した。

 

みんなの視線が瑠依ちゃんに注がれる。

 

 

「……ごめんなさい、瑠依お腹減ったかも!」

 

 

「あひゃひゃひゃ! そりゃそうだ! あひゃひゃひゃ」

 

 金田さんの奇妙な笑い声も、聞き慣れれば心地よい。皆も釣られて笑っていると、伊藤さんがゆっくりと立ち上がる。

 

 

「さって、戻ってペットに餌やらないとな」

 

 

 優理は返事を貰えないまま、親分の墓に墓標を付き立てた。

 

「戻ろっ」

 

 伊藤さんの腕に優しく触れ、帰り道へと誘導していく。

 

 

 簡易キャンプに戻ると、全員の注目を集めたのは【待機拠点】からの戦利品だ。山賊達の登場で忘れ去られていたが、実は俺達、すごい物を発見して戻ってきたのだ。

 

「おひょ~~~、すごい! こりゃいい!」

 

 金田さんが変な雄叫びを上げた原因は、大量のインスタント食品。

 

 今後の事を考えれば、簡単に手を付けるべきではないが、今日は特別という事になった。それぞれ好きな物が入っている小箱を選ぶと、思い思いバラバラとテーブルに着く。

 

 未来の不思議な小箱に付いているロックを解除すると、その箱からは蒸気が沸き立ち、30秒もすると出来上がるらしい。

 

 俺は何やらハンバーガーに近いサンドと、コーンスープが付いてるような絵の箱を選んだ。

 

 30秒後に対面した箱の中身は、あっつあつのホッカホカ、この時代に来てから初めて口にする温かい食事に、胃の辺りがジュワーっとなる気がした。

 

 

 

「はいっ♪ あーん♪」

 

 さっきからずっと、瑠依ちゃんが伊藤さんの口にグラタンのような物を突っ込もうとしてる。

 

 

「アーンじゃなくて、いいってば大丈夫だって! 瑠依ちゃんお腹減ってるんでしょ? 自分で食べなってば!」

 

 伊藤さんはその都度どうにか撃退を試みるが、ろくに身動きが取れない体ではどうにもならない。

 

 

 食べ物を粗末にしたらダメだと思っているのか、口元までくれば渋々と開いて受け入れている。

 

 

「あ~♪ 瑠依、なんかこれハマりそう♪ はいっ♪ あーン♪」

 

 両手が動かせない以上、どうせ自分では食べれない伊藤さんは、途中から観念したように食べているが。

 

(おいおい、どんなペースで食わせるんだよ)

 

 

 瑠依ちゃんは、とにかく食べさせるのが楽しいようで、伊藤さんが飲み込む前にもう次の一口を口元まで運んでいる。

 

 それでも伊藤さんは相変わらず、瑠依ちゃんにベタ甘だ。まだ噛んでる途中なのにどうにか飲み込むと、次の一口を受け入れている。

 

「瑠依~、あんま調子に乗るなよ~」

 

 一応、瑠依ちゃんをけん制する美紀さんではあるが、その様子を楽しそうに見ているのは間違いない。

 

 

 さっきお墓の所で伊藤さんが「ペットに餌をやる」なんて言ってたけど、立場は完全に逆になってしまっている。

 

 

 瑠依ちゃんは優理の2つ下、ようするに15歳。そんな15歳の少女に、次々と口の中に食料を詰め込まれていく35歳のおっさん。

 

 これで伊藤さんが嬉しそうに食べてたら嫌悪感を抱く所だった。伊藤さんはベタ甘ではあるが、決して嬉しそうではない。

 

 瑠依ちゃんの手にしているグラタン風の何かは、量的にはそれほど多くない1人前だろう。

女の子が一人で食べても物足りない程度の器に見える。

 

 最初の方こそ次々と口を開いていた伊藤さんは、器の中身が半分になる前にはそのペースを落とし、包帯でグルグルの左手を顔の前に上げては「ストップ」の意思表示をし始めた。

 

 

「えー、まだ全然食べてないじゃないですか」

 

 瑠依ちゃんはほっぺたを膨らませ、唇を尖らせながら残念がっている。

 

 

 俺のいるテーブルには、金田さんと美紀さんが着いている。金田さんは伊藤さんの様子を見ながら、かなり小声で美紀さんに尋ねた。

 

「伊藤先輩、けっこう血ぃ流したっぽい?」

 

美紀さんは少し考えるようにしてから。

 

「左腕の刀傷……」

 

 そう言って、チラっと伊藤さんを見ると、またこちらに向きなおって小声で話す。

 

「深くはないのですが、かなり広いのでそれなりに出血したと思います」

 

 

 出血量が把握出来ないのは、浴びた返り血が多すぎたせいだろう。美紀さんは伊藤さんの症状を少し説明してくれた。

 

 刀傷は肩から手首にかけて、かなり長い距離をザックリいっているらしく、出血量が見当つかないとの事。

 

(左腕をぶら下げていたのは、あながちウソでもなかったのか)

 

 恐らく、銀蔵が投げた刀が当たった時に出来た傷だろう。刀傷に関しては、未来の応急処置セットで接合してあるので、今後に感染症等がなければ問題ないそうだ。

 俺の時代から300年後には、広い切り傷を処置するのに縫合ではなく接合という手法がある事に感心する。どんな接合なのかまでは知らないが、ほとんど傷が残らないらしい。

 

 他にも細かい刀傷や打撲、打ち身は多々あるが、応急処置がしてあるのですぐに治るだろうとの事。

 

 少しだけ長引くのは骨折だそうだ。未来の応急処置セットでは、主に外傷に対する処置しか出来ないらしい。

 骨折に対する処置は、飲み薬で完治を早める事が出来るそうだが、応急処置としては骨折部を正しい位置に戻す事と、その箇所にプロテクターを当てて固定する程度の物になる。

 

 幸い、伊藤さんの骨折部にズレはなく、プロテクターを装着するだけで済んだそうだ。あとは飲み薬をちゃんと飲んでいれば、2週間もすれば完治するだろうとの事。

 

 

「とりあえず問題は【出血】ってわけか」

 

 金田さんは難しそうな顔で伊藤さんの様子を観察している。伊藤さん本人もその事を理解しているのだろうか、かなり頑張って食べているように見えた。

 

 

「伊藤さん、自分で分かってるぽいですよね」

 

 俺の言葉に、金田さんは小さく頷いた。

 

 

 一度は止めた瑠依ちゃんのグラタン攻撃を、また受け入れ始めたのだ。

 

(とにかく食べて、回復しようとしてるんだろうな)

 

 

 視線を少しずらすと、インスタント食品の入った大箱の所で、唯ちゃんと優理とつーくんがしゃがみ込んでいる。あーでもないこーでもないと相談している様子だ。

 

(なにやってんだろ?)

 

 

「伊藤さん以外は全員、今夜はテントで寝る感じだなぁ、看病は美紀ちゃんか優理ちゃんかね?ま、お任せするっす」

 

 俺がよそ見をしていると、金田さんが今夜の事について美紀さんにお願いしている。

 

「そうですね、わかりました」

 

 

(全員テント? 看病?……そうだよな)

 

 俺は無言のまま頷いた。

 

 

 特に医学を学んだわけではないが、大体想像がつく。あれだけ怪我をしていれば、夜寝る時はかなりキツイはずだ。

 

 熱は出るだろうし、あちこち痛いだろう。周りに俺達がいたら、痛いのも痛いと言えないかもしれない。

 

 それで伊藤さんが「テントで寝る」とか言い出しても困る。まさか恩人を、大怪我を負った恩人をテントに寝かせておく訳にはいかない。

 

 看病は美紀さんか優理で、決まりだろう。瑠依ちゃんは危なっかしくて側に置いておけないし、唯ちゃんにはそんな瑠依ちゃんの監視役をやってもらうのが理想的だ。

 

 そして、金田さんが外で寝てくれれば、室内の伊藤さんはイビキに悩まされる事なく寝れるはずである。

 

 

(金田さんの隣のテントは嫌だなぁ)

 

 

 金田さんの隣は伊藤さんのテントだから、俺が入る心配はなさそうだけど。

 

 

「おっけ~♪」

 

 つーくんの快諾する声が聞こえる。優理と唯ちゃん、それとつーくんの3人は、そのまま近くのテーブルに着くと、インスタント食品のロックを外し始める。

 

 そして、出来上がった物の中から、少しずつを別の容器に移し替えていた。その作業が終わると、つーくんと唯ちゃんはそのまま食事をとり始める。

 

 優理は、唯ちゃんとつーくんから分けて貰った食品が入っている容器と、自分が解凍した食料を伊藤さんのいるテーブルに運んだ。

 

 

「るいちゃん、伊藤さん怪我してるんだからね? グラタンばっかり食べさせたらダメでしょ」

 

 優理の運んだ食料は、なるべく消化の良さそうな物や、栄養価の高い物が中心になっている様子だった。今夜、体調を崩す可能性を十分に考慮している感じだ。

 

 そのメニューは小箱1個を開けただけでは揃わない種類。

 

 つーくんと唯ちゃんと3人で相談し、伊藤さんのメニューに合せて自分達が食べる食料を選んだようだ。

 

 

(なんかすごいな、俺なんて何も考えずに好きなの食べちゃったよ)

 

 本気で自分が情けなくなった。

 

 よく考えたら、あれだけお腹を鳴らして「お腹減ったかも!」と言っていた瑠依ちゃんも伊藤さんに食べさせるばかりで、自分はまだ一口くらいしか食べていない。

 

 

(みんな、伊藤さん優先なんだな)

 

 

「ちょうどいいのさ」

 

 俺が何を考えていたのか察知したのだろうか、金田さんが背中から声をかけてきた。

 

「7人全員が気を使っちゃったら、伊藤さんが先にまいっちゃうって!」

 

 

 そう言いいながら、楽しそうに伊藤さんを眺めている。

 

「今は彼らに任せとけばいいって♪」

 

 そうかもしれない。気付いた時、気付いた人がしっかり伊藤さんを見ていればいい。

 

 

「そうですね、皆で世話したら逆に大変ですよね」

 

 俺は半笑で答えると、自分の食事の後片付けを始めた。

 

 

 伊藤さんは、今度は優理の「あ~ん♪」を受けている。

 

(必殺【姉妹天使のダブルあ~ん♪】さくれつぅ!)

 

 

 本当に。

 

 

 

 心の底から。

 

 

 

 羨ましすぎる。

 

 

(いいなー、伊藤さん)

 

 

 優理の「あ~ん♪」は瑠依ちゃんのそれとは全く違う。少し辛そうな伊藤さんが飲み込むの待ってから、次の一口を選ぶのだ。

 

 その上、「これでいい?」とか、飲み込んだ後は「どお?」とか、「おいしい?」とか、いちいち細かいやり取りがある。

 

 なんだか新婚さんのような雰囲気だ。

 

 瑠依ちゃんはそれを見ながら悔しそうにグラタンを頬張っている。

 

 

 極め付けは、カボチャのスープだ。レンゲのような物ですくったアツアツホッカホカのスープを、優理が「ふーふー」してから伊藤さんの口に運んでいる。

 

 

(ぐあああああああああああ!)

 

 

 俺の心は悶絶中だ。

 

 

(羨ましすしぎて、うらやま死する!)

 

 

 そんな羨ましい食事を終えると、顔色の優れない伊藤さんは優理に誘導され、小屋のベッドで横になったようだ。

 

 

「よーくん、よーくんちょっと」

 

 唯ちゃんと食事をしていたつーくんに手招きされた。

 

 そこへ行くたつーくんの隣に座らされ、ほぼ正面で食事をしていた唯ちゃんが、スープの入ったレンゲを「ふーふー」し、俺に向って「あ~ん♪」してきた。

 

 俺は一瞬、固まった。

 

(え? いいの? え?)

 

 そんな戸惑いも、俺の頼りない自制心も、唯ちゃんの笑顔で吹き飛ばされる。

 

「いっただっきまーす♪」

 

 俺の開いた口に、唯ちゃんの「ふーふー」したスープが注ぎ込まれた。

 

 温かいそのスープは。

 

 いや、熱い、「ふーふー」してもらったのに熱い。

 

 熱い? いや、痛い!?!?!?!

 

 

 

 

(辛い!!!!!!!!)

 

 

 

思った時にはもう、飲み込んでしまった。

 

 

「Ю☆○ИяфガッДИ!!!」

 

 

 

「ギャハハハハハ! よーくんそれタバスコ! ギャハハハ!」

 

「ププ……アハハハ♪」

 

 

 悶絶している俺を余所に、つーくんは大爆笑。唯ちゃんは珍しく、口を開けて涙を浮かべて笑っている。俺は胃までタバスコに襲われて火を噴きそうな状況だ。

 

 

「……ぐ……くっそう」

 

 どうにか呼吸を整える。

 

 

「ふふふっ♪ 石島さん?」

 

 唯ちゃんが悶える俺の顔を覗き込むように、可愛い顔を近づけてきた。

 

 

(かわいい! 許してしまう!)

 

「人を羨むのは良くありませんよ? ましてや相手は恩人ですからね?」

 

 ニコニコしながらそう言うと、「はいっ♪」と今度は水を差しだしてくれた。

 

 

(そんなに羨ましそうな顔してたかなぁ)

 

 なんて思ったのだが、その心の声がつーくんに聞こえたらしい。

 

「よーくん、口開けて見てたよ? ブッ……ギャハハハ」

 

 つーくんの思い出し笑に釣られて、唯ちゃんもいつもの感じで「ふふっ♪」と上品に笑っている。俺も笑ってごまかす以外になかった。

 

 

 みんなの後片付けが終わると、金田さんから今晩は伊藤さん以外全員がテントで寝るように指示が出た。すでに小屋で休んでいる伊藤さんの看病は、美紀さんと優理が交替で受け持つ事で話が進んだのだが。

 

 

「なんでですか!? 瑠依は!? ずるいよー」

 

 予想通りの不満が寄せられた。

 

 

 伊藤さんの容態について、あまり詳しく知らないからなのだろう。その説明をしようと美紀さんが声をかける。

 

 

「あのな、瑠依」

 

 

 その時、瑠依ちゃんはちょっと涙目になっていた。

 

(確かに、心配する想いは本物だもんな、悔しいよな)

 

 俺のそんな思いを裏切るように、瑠依ちゃんからどんでもない発言が飛び出した。

 

 

「わかってますよ! 今晩はチャンスですから! 美紀ねぇと優理先輩だけいい事しようって話ですよね? 瑠依はまだ子供扱いされてるって事ですよね?」

 

 

『へ?』

 

 

 全員の頭に「?」マークが飛び出した。

 

 

「伊藤さんのお怪我は知ってます、さっきご飯食べさせながらよ~~く分かりました!」

 

 何を言っているのかサッパリだった。

 

 

「確かにひどいお怪我です、お蔭で身動き取れないじゃないですか伊藤さん!」

 

 

 言いながらズンズンと歩いて美紀さんと優理の前まで行く。

 

 

「だから今夜はチャンスですよね!? それくらい瑠依にもわかりますよ」

 

 

(なんか発言の方向が怪しい)

 

 俺だけじゃない、他の皆も思っただろう。

 

 特に、瑠依ちゃんの伊藤さんに対する特別な想いを知っている女の子と、俺は。

 

 

 瑠依ちゃんは言葉を止めなかった。

 

「だって伊藤さん、怪我してるの上半身だけじゃないすか、まさにチャンス到来って感じなのに、瑠依はのけ者ですか!?」

 

 両目は涙目で、本気で怒っている様子で、ほっぺたを膨らませている。

 

(思ってたよりずっと子供なんだな)

 

「アハハハハッ♪ るいちゃん、なに言ってんの? アハハハッ♪」

 

 優理はお腹を抱えて笑い出した。

 

 

「はぁ……瑠依? お前のその中途半端な知識、どこで身に着けたんだ?」

 

 美紀さんは頭を抱えていた。

 

「なーんで笑うんですかぁ!? もおおぉぉ」

 とうとう瑠依ちゃんは泣き出してしまった。

 

「るいちゃん泣いてるっっ♪ アハハハハハ♪」

 優理は笑いが止まらず、大爆笑で涙を流している。

 

「瑠依ちゃん?もうちょっと大人になってからそうゆう事考えましょうか」

 唯ちゃんが大真面目にそんな事を言って、瑠依ちゃんを慰めはじめた。

 

 

「もう大人だもん! やり方も知ってるもん!エーン」

 とんでも無い事を叫びながら、唯ちゃんにスリスリして泣いている姿はどうみても子供だ。

 

 

(ちょっとなんか気まずい……)

 

 

 この手の話、男はちょっと苦手だったりする。その雰囲気の中、金田さんが声を発した。

 

「自分、水汲みに行ってくるっす! 伊藤先輩が起きたら温かいシャワー浴びれるように!」

 

 言うなりバケツに駆け寄った。2個あるバケツのうち、もう1個はつーくんが掴む。

 

 

「そーですね、シャワーくらいあったほうが、ね? いい事も……ほら、ね?」

 

 意地悪いニヤケ顔で言うと、金田さんと一緒に猛ダッシュで水汲みの沢に向って行った。

 

 

(イカーン、取り残された!)

 

 思った瞬間、美紀さんと目が合ってしまっていた。

 

 

「な、な、なんか、アレですよね?」

 

 よく分からないまま、そんな事を言っている俺。

 

 

「それは……石島さんの心がアレだからだと思うぞ」

 美紀さんは相変わらず、けっこうキツイ事を言う。

 

 

「タハハ……そうですね、ちょっと散歩してきまーす」

 散歩と言いながら、俺は全速力で逃げ出していた。



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【GF】 ゲネシスファクトリー4

■ゲネシスファクトリー 日本支部

   技術推進室 応接間

 

 

「いやいや、今回は見事でした」

 

 そう声を発した男の左胸には、技術推進室の責任者である事を示すエンブレムが輝いている。

 

「ふん!」

 

 テーブルを挟んで向かい側に座る管制室の副官は、不満を隠そうともしていない様子だ。

 

 

「で、委員会の反応は」

 管制室副官の横に座っている阿武室長が問いかけた。

 

 

 技術推進室責任者は、ニヤリとしながら答える。

 

「まったく疑っていない、疑っていない所か、支援まで申し出て来たよ、いやいや、まったくいい人選でした! ハッハッハ」

 

 

 技術推進室責任者の言葉に、管制室副官が怒気を発した。

 

〈ドンッ〉

 

 軽くテーブルに拳を振り下ろす。

 

「落ち着け栗原」

 

 阿武室長の静止を無視するように立ち上がると、栗原副官が罵声を発した。

 

 

「貴様らの要望に娘を差し出す形になったのだぞ! かける言葉はその程度か!?」

 

 

 その罵声に対し、技術推進室の室長は冷徹な笑みを浮かべた。

 

「管制室から阿武室長と栗原副官のご息女、執行部からは平岡執行部長のご息女、さらにゲームチェンジャーの忘れ形見、これだけ豪華なメンバーを切り離したのだ、委員会が疑いの目を向けるわけがない」

 

 一度言葉を区切ると、紅茶を一口すする。

 

「ゆえに【いい人選】だと言ったまでだ、栗原副官、まさかご自分だけが苦しい思いをしているとでも?」

 

 

「ぐ……」

 

 栗原副官は握った拳を震わせながら、どうにか腰を下ろす。

 

 

 阿武室長は姿勢を変える事なく、技術推進室責任者に問いかける。

 

「我々は旧来の手法で再接続を試みる、かまわんな」

 

 その眼光は鋭く、硬い決意に満ちていた。技術推進室責任者は、わざとらしく肩をすくめて見せた。

 

「正直に言えば待ってもらいたいのですが、少し待ってくれと言っても聞いて頂けないでしょう?」

 

「無論だ」

 

 阿武室長の即答に、技術推進室の責任者は軽くため息を付くと、栗原副官に向きなおった。

 

「せめてご子息に少しばかりの休暇を出してください」

 

 栗原副官の右眉がピクリと上がる。技術推進室責任者は言葉を続けた。

 

「候補者リストの発表からヒストリーポイントのキャッチまで、過去最短ですよ、それもずば抜けた速度だ、僅か8日とは恐れ入りました」

 

 技術推進室の責任者は「ククッ」と笑うと「おかげで執行部は準備に追われて大騒ぎでしたよ」と言葉を締めくくった。

 

 

「何日待てばいい」

 

 阿武室長の問に、技術推進室責任者は少し考えてから回答した。

 

 

「止めても無駄なようでですから、すぐに開始して頂いて結構です。ただし、栗原圭一には7日間の休暇を出す事、これが捜索開始の条件です」

 

 数秒の間を置いて言葉を付け足す。

 

「もちろん、ご子息への休暇は極秘事項で頼みますよ?」

 

 

 栗原副官の目は怒りに燃えている。

 

「ふざけるな……探すなと言う事か!」

 

 

 そんな栗原副官の怒りは、技術推進室責任者にしてみればそよ風に近い物だ。気にする素振りも無く言葉を返す。

 

「いやいや、たった今「捜索を開始して下さい」と申し上げたでしょう。ただ、ご子息は少々優秀すぎる、流石にすぐに再接続とはいかないだろうが、こちらの研究データを回収しきる前に再接続されてはかないません、多くの人間が背負ったリスクが全て無駄になる」

 

 

 阿武室長のは一度目を閉じ、思案を巡らせて口を開いた。

 

「いいだろう、そちらの条件は飲む、しかし研究データ回収にかかる時間については保障できん、それがこちらの条件だ」

 

 技術推進室責任者はニヤリと笑った。

 

「いいでしょう、交渉成立ですな」

 

 

 無表情のまま席を立ち、背後の扉へ向かって歩き出す阿武室長に続き、少し遅れて不満げな表情の栗原副官が席を立つ。

 

 阿武室長の背中に、技術推進室責任者が声をかけた。

 

「そうそう、阿武室長、あなたとご息女のやり取りは評判になりましたよ、涙を流した顧客までいたそうだ、お蔭で捜索のための新技術開発に寄付まで集まりましてな、総統本部長も感謝しておられましたよ……ククッ」

 

 その言葉を受け振り返った阿武室長の目から、恐ろしいほどの眼光が発せられる。

 

「速見室長、我々は確かに一蓮托生だ。とは言え……」

 

 そこまで言うと再び扉に向きなおり、技術推進室責任者に対して背中越しに言葉をかけた。

 

 

「我慢にも限度があるという事を覚えておけ」

 



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第16話 役割

■西暦1567年 飛騨国

   簡易キャンプ

 

 

「美紀ねぇ!」

 

 深夜、優理の声で目が覚める。

 

 テントから顔を出して覗いてみると、テーブルで端末を操作していた美紀さんが急いで小屋に入る所だった。

 

 

(大丈夫かな……)

 

 どう説得したのか、瑠依ちゃんは大人しくテントで寝ている。優理と美紀さんは、伊藤さんの容態を心配して、寝ないで看病する事にしたようだ。

 

 他のメンバーに出来る事と言えば、しっかりと寝て、明日に備える事だろうと思う。

 

(寝るか、それも役目だ)

 

 俺はテントに戻ると、そのまま目を閉じた。

 

 

 朝、全員揃って早起きした。美紀さんから伊藤さんの容態説明が行われている。

 

「なので、この感じだと……まだ数日は動けないと思います」

 

 

「了解っす」

 

 金田さんが、引き締まった顔で頷く。

 

 深夜、伊藤さんはかなりうなされたそうで、医者ではないので細かい診断確定は難しいが、恐らく失血性の貧血状態だろうとの事。

 

 昨日、深夜まで貴重な電池を消費しながら端末を操作していたのは、それを調べる為だったようだ。オフライン状態でも充実した情報量が確保されているらしい。

 

 確かに、俺のいた時代でも、沢山の辞書を一纏めにした小型の電子辞書とかあった気がする。

 

 失血性の貧血状態に苦しむ伊藤さんを、昨晩は必死に温め、励まし、美紀さんも優理も全く寝れなかったそうだ。

 

 明け方には少し落ち着いて、伊藤さんが眠りに付けたのを確認すると、優理もすぐ横で気絶するように眠りに落ちたらしい。

 

 

 美紀さんもだいぶ疲れているはずだ。ここ数日、ホントに大変だったと思う。

 

 

「美紀さんも寝た方がいいですよ」

 自然と声に出てしまった。

 

 

「そうさせてもらうよ」

 美紀さんは疲れた表情のまま小屋に入って行った。

 

 

「さーて、剛左衛門、石島ちゃん」

 金田さんは俺達2人の肩を掴むと。

 

「朝飯の前に水汲み3往復! いってらっしゃい♪」

 

 

 文句など出るはずも無い。俺はつーくんと色々話しながら、貯水タンクへの補充を開始した。昨日、けっこう沢山入れたのと、ほとんど使ってないのとで、容量は30%くらいまで回復している。

 

 美紀さんの話では、そろそろシャワーを使っても水の心配するほどではなくなるとの事だ。

 

 

 俺はつーくんと並んで歩きながら、気になっていた事を聞いてみた。

 

「ねぇ、皆と離れて行動するかもって言ってたじゃん? あれ本当なの?」

 

 

 つーくんはチラっと俺を見る。

 

「まぁね、役割を担うのは当然だし」

 

 

 バケツの中でちゃぽちゃぽと揺れる水の音。

 

 俺は無言で続きを待った。

 

 

「俺だけじゃないよ、金田先輩も、伊藤さんも、たぶん近いうちにココを離れる」

 

 

(!?)

 

「なんで!?」

 ものすごい不安に襲われた。

 

 

「なんでって、そりゃ稼ぐためさ」

 

(稼ぐ? お金?)

 

「金は使ったら無くなっちゃうからさ、量があるうちにそれを使ってどうにか増やさないといけない」

 

 

(確かにそうだけど……)

 

 

「これから何年ここにいるのか分からないけど、安全の確保とか、食料の確保とか、色々考えると経済力は必須なんだよね」

 

 確かに今ある食料では、もって数ヶ月だ。

 

「そうだね、商売をするって事?」

 

 

「んー」

 

 つーくんは少し考えを整理するような素振りを見せる。

 

 

「一つは商売なんだけど、たぶん一番難しいんだよね」

 

 

 歩きながら、色々説明してくれた。つーくんの説明はこの時代の商売の状況で、会議で金田さんや伊藤さんから聞いた話だ。

 

 この時代の商人たちは、組合のような【座】という物を作って談合し、独占的に商売をするのが当たり前らしい。商売をしたければ、その【座】に登録する必要性があり、それにはけっこうなお金が必要になるそうだ。

 

 ただ、伊藤さんが言うは、この時代のビジネスノウハウなんて物は、俺達の時代のそれに比べたら子供だましみたいな物で。生産、物流、販売までの流れを把握してしまえば必ず勝機があると言う。

 

 特に、近い将来、織田信長が【座】の廃止を行い始める。その時までにどれだけの流通シェアを確保出来ているかで、儲けが全然違うそうだ。

 

(いやぁ、サッパリわからん)

 

 俺には難しい話すぎてサッパリだ。つーくんも割とサッパリらしい。

 

「商売のほうは、伊藤さんがやってくれる」

 

(回復を待つのが第一条件か)

 

 

 商売は【伊藤さんが】とういう事は、他にも稼ぐ手段があるという事か。

 

 

「俺と金田先輩は肉体労働だね」

 

 

「働くって事?」

 

 俺の問に、つーくんは無言で頷く。

 

 

(働いて、女の子達を養うって事か、俺もそれがいいかな)

 

 

 しばらく歩くと、つーくんがまた口を開く。

 

「労働って言ってもさ、この時代は当然、労働基準法なんてないし、一歩間違えれば奴隷のような状況になっちゃうからさ」

 

 つーくんの目に、覚悟の色が浮かぶ。

 

「やっぱり、身分的な物が確立されやすい侍がいいんだよね。金田先輩はこの時代の知識を活かすため、大本命の織田に仕官できるように頑張るって話になった」

 

(金田さんは予定通りって事か)

 

「そんで俺は、あまり中央情勢に詳しくなくても問題がない、この辺りを領有している誰かに仕官する」

 

 

(この辺り……飛騨か)

 

「正直、誰かわからないんだ、この場所の正確な位置もイマイチわからないしね」

 

 

「飛騨じゃないの?」

 

 俺の質問に、つーくんはわざとらしいため息をついた。

 

「この時代は群雄割拠だからさ、飛騨にもいっぱい会社があるわけよ、その会社同士にはそれぞれ上下関係があったりするんだけど、この辺りの仕事をしている会社の社長が誰かって話」

 

(その例え話、俺にはすげー難しいかも)

 

 つーくんは、困惑気味の俺を無視して話を続けた。

 

 

「織田信長は、いずれ日本中の社長がひれ伏すような、超大企業に成長する会社の社長さん、今はまだ、名古屋県で1番くらいらしいけどね」

 

 

 なんとなく分かってきた。

 

「金田さんは【㈱織田】の面接を受けに行く、当然だけど難関になると思う、俺はこの辺りの零細企業に面接にいくって話」

 

「なるほど~、どんな仕事するんだろ、やっぱ合戦とか?」

 

 戦国大名に仕官するとなれば、イメージは鎧兜を身に着けて戦うイメージしかない。

 

 

「俺もそう思ってたんだけどさ、全然違うらしいんだよね」

 

 つーくんの説明は、すごく意外だった。たぶん、歴史に詳しくない人間が聞いたら、みんな意外だと思うかもしれない。

 

 戦国大名というのは、まさに会社の社長のような物だそうだ。お仕事は、領地の運営。経済から治安まで、全てが仕事だそうだ。

 警察のような事もする、裁判所にもなる、貧しい人をどうするかも考えないといけない。

 

 この時代の主な収入源、税収は殆どが米、農家の皆さんから納められる年貢という税米、これをしっかりと徴収する税務署のような仕事もある。当然、取られてばかりでは不満が噴出するわけで、農家の人達と上手くやらないといけない。

 

 商売をしている人たちからは金銭で税を取るが、俺達の時代と違って税法が整っていない状況では大変な作業になるらしい。

 

 集めた税を、今度は働く社員に分けないといけない。働く人の数は膨大だ。

 

 経理部、総務部、人事部、営業部、さらにその下には沢山の課がある俺達の時代の大企業のように、そんな感じで様々なお仕事をしている人がいるわけだ。

 

 そんな感じで自国を豊かにしていくお仕事がメインで、その自国を脅かす存在や、敵対する相手と戦うのもお仕事になる。

 

 普段は社内のお仕事をやりながら、有事の際には戦闘員になる。これがこの時代の会社員の姿だ。下っ端のほうなら、社内のお仕事専属だったり、戦闘員専属だったりする人もいるそうだが。

 

やはり、いつまでもそれじゃ出世できないらしい。

 

(求められるのはマルチプレイヤーか!)

 

 俺達の時代から400年前、文明は確かに大きな差があると思うけど、求められる人材は大差ないんだと思うと、なんだか面白かった。

 

 

「誰かが失敗しても、誰かは成功するように、俺達は3人それぞれ別の方法で稼ぐわけさ」

 

 

「……つーくん」

 

 言っている事は確かに合理的だが、それはすごく辛い事だ。この簡易キャンプを離れ、たった一人で戦国時代に飛び込もうとしている。

 

 時空域とやらが切断される前と、やろうとしている事はそんなに変わらないけど、自分1人ではなく、女の子達を養う負担を背負う事になってしまったのだ。

 

 

「ごめんね……俺が頼りなくてさ」

 

 

「なーに言ってんだよっ」

 

 話ながら、簡易キャンプに到着していた。

 つーくんはバケツを製水機に向けてひっくり返しながら言葉を続けた。

 

「ココが無いと、俺達は安心して戦えない、一番大事な場所を守るのがよーくんの役割だよ?たのむぜ?」

 

 笑顔で言うつーくんの瞳は、ちょっと涙ぐんでいるように見えた。

 

「でもさ?」

 

言いかけた俺の言葉を、つーくんは遮る。

 

「あのね、俺達3人は全員が成功するつもりだよ?」

 

 バケツの水が空になった。つーくんはバケツをぶら下げて、また沢に向って歩き出そうとしている。

 

「伊藤さんが成功したら、俺も金田先輩も金銭的な援助をしてもらう予定なんだ」

 

 つーくんの顔は生き生きとしている。

 

「財力がある家臣を、社長は絶対に優遇するからね」

 

 

 俺のバケツの水も、全て製水機に吸い込まれていった。

 

「てことはさ?伊藤さんに元気になって貰わないと始まらないって事だよね」

 

 もう歩き始めていたつーくんを追いかける。

 

 

「そ、今俺達に出来る事は、水汲みくらいっしょ?って事で、第2回戦いきますか!」

 

 

 俺達は予定通り3往復の水汲みを完了。昼前になると、金田さんとつーくん、それと俺の3人で買い出しに行こうという話になった。

 

 目的は、とりあえず米の入手だ。俺達全員の食料にもなるが、今はとにかく伊藤さんの為にお粥を作りたいという話なった。

 

「申し訳ありません」

 

 お粥を作りたいと言い出した美紀さんが、目の下に隈を作りながら俺達に謝罪した。

 

(ゆっくり寝れてないな)

 

 小屋に入ったのに、2時間くらいで起きて来たようで、アレコレと唯ちゃんと瑠衣ちゃんに指示を出している。

 

 

「何言ってるんですか、俺達の役割です!」

 

 俺は自信を持ってそう宣言できる。

 

 

「ついでに、この場所の把握もしないと駄目だな」

 

 つーくんが危険回避システムのモニターを凝視していた。このモニターに映し出されているのは、超音波発生機が設置されている地点の高低差を表示している画像にすぎない。

 

 明確な位置は不明なのだ。おおよその位置については、先行スタッフから渡された略地図がある。かなり大ざっぱな地図で、分かるのはこの場所が美濃と飛騨の国境付近だと言う事くらいだ。

 

 金田さんが麻袋を2個持って立ち上がった。

 

「とにかく人がいねぇと買い物も出来ん、まずは南に下りてみるしかねぇか」

 

 もしかしたら数日かかるかもしれない。可能性だけの話をするならば、途中で山賊に襲われて死んでしまうかもしれない。

 

(でも、これはやらないと駄目だ)

 

硬い決意を胸に、俺達は出発の準備に取り掛かる。

 

 

 特に打ち合わせで決めたわけでもないが、俺達はなるべく急ぐように無言で山を下って行った。

 

 2時間ほど下ると、小さな集落に出た。買い物が出来るような店はなく、金田さんがここから一番近い町は何処かを聞きに行ってくれた。

 

 

「なーんもない村だね」

 

 つーくんが退屈そうに、細い木の枝で地面に丸やら四角を描いては足で消すという子供のような動作をしながら呟いている。

 

 本当にさびれた村だ。到着する前は多少上から見ていたが、全体が見渡せる程度の範囲しかない。山間の小さな集落だ、人口は検討も付かないが、恐らく100人もいればいいほうだろう。

 

 

(お、誰か来た)

 

 山賊達と一言も会話をしていない俺にとって、この村の人と話す事になるとしたら、その人は【第一戦国人】だ。

 

「お、第一村人はっけーん」

 

 つーくんがそんな事を言って立ち上がる。

 

(かぶるね、思考がかぶる)

 

 

 第一村人さんは、明らかにお婆さんだ。お婆さんも俺達の存在に気付いたようで、俺をじっと見ながら一直線にゆっくりと此方へ歩いてくる。

 

 そして何も言わないまま俺の目の前までやって来た。

 

 

「こりゃ~たまげたな」

 

 

(??)

 

 お婆さんは俺とつーくんを交互に見ると、また俺をじっと見つめる。

 

 

「こりゃたまげた」

 

 

 そう言うと俺に向って両手を合わせ、スリスリしながら。

 

「ナンマンダブナンマンダブナンマンダブ」

 

 なにか口の中でモゴモゴと言うと、また俺の顔を見て。

 

「ナンマンダブナンマンダブナンマンダブ」

 

 またなにかモゴモゴと言いながら手の平をスリスリしてる。明らかに拝まれているようだ。

 

 

「ちょっとお婆ちゃん、俺生きてますけど、拝まないでくださいよ」

 

 

 たまらず声をかける。俺がこの時代で初めて話をしたのは、このお婆さんになった。

 

「プッ」

 

 つーくんが小さく吹き出す。

 

 

「おおそ~かえ、生きてなさったかえ、こりゃたまげた」

 

 そう言うとまた「ナンマンダブナンマンダブナンマンダブ」を始めてしまった。

 

 

(どうしたらいーのー)

 

 俺は苦笑いでお婆さんを見ていた。するとちょっと遠目から女の子が駆けてきた。

 

 

「おばあさま!」

 

 

 近くに来ると、その子はまだあどけなさが残ってはいるものの、大人びた表情で、話す雰囲気もしっかりしていた。

 

「こんな所に修験者さまとは珍しいですね、長滝寺へお行きに? お御岳山なら峠一つ向こうを通らないと遠回りですよ?」

 

 

「えーっと、あの」

 

 言っている事がわからないし、なんと返事をしたらいいのか分からない。返答に困っている所に金田さんが戻ってきた。

 

 

「おろ? どうしたの?」

 

 

 金田さんはお婆ちゃんと女の子に挨拶を済ませると、自分達の目的を伝えた。

 

「それでしたら今はもう難しいと存じます」

 

 

 女の子の答えに、金田さんは納得の様子だった。

 

「ですよね、誰に聞いても同じでした、これから郡上まで行く予定っす」

 

 その場を収めてくれた金田さんが言うには、現在地の細かい地名は【大原】で、俺達の時代で言うと【郡上市】が近いらしい。

 

 このまま南へいくと【郡上】へ出るそうだ。

そして東へ行くと、渓谷沿いに峠を二つ越えて南へ少し行けば【下呂】に抜けるらしい。

 

 

「大原? こっちが郡上であっちが下呂で、え~~っと、ん?」

 

 

 俺はこの小さな集落の中心を通っている狭いあぜ道を見る。

 

 

 

「お? なんか石島ちゃんがピンと来た感じ?」

 

 金田さんの言葉を気にすることなく、俺は村の中央へ向かう。

 

 

(この山の雰囲気、似てるようで似てないようで)

 

 

「んー、わっかんないなぁ」

 

 300年の隔たりは、その景色を大きく変えてしまうだろう。そうは言ってもこんな山奥では、そう大きな変化もないような気もしている。

 

 俺が今見ている風景、子供の頃によく見ていた景色に何処となく似ている気がするのだ。

 

 

「たぶん、ばーちゃんちこの辺りだ」

 

 

 俺は自分たちが降りてきた山のほうを見る。

 

 集中し、過去の記憶をたどる。その時、お婆ちゃんが俺を見て言葉をかけてきた。

 

 

「20年程前じゃからな、もうすっかり寂れてしまっとるだろうが行くだけ行ってみたらええじゃ」

 

 

 俺達には何の事かさっぱりだったが、女の子が補足してくれた。

 

「この辺りには美濃から移ってこられた裕福なお武家様のお屋敷があったらしいのです、ですが20年程前にご当主を戦で、ご嫡男を病で亡くされたとか」

 

 

「へ~」

 

 つーくんが興味深々に声を漏らす。

 

 女の子はつーくんを見ると説明を続けてくれた。

 

 

「わたくしの生まれる前の話ですので詳しくは存じませぬが、石島様というお武家様のお屋敷だったそうです。今では山賊が住み着いているという噂ですが……」

 

 

 

「いしじま!?」

 

 つーくんが驚いて聞き直す。

 

 

「あれ? 石島ちゃん、地元が飛騨って言ってなかったっけ?」

 

 金田さんも何か考えながら口を開いた。

 

 

「そうですよ、それにたぶん祖母の家がここらへんです」

 

 さらっと答えた俺に、金田さんが掴みかかるように問いかけてくる。

 

 

「そんじゃ! そのお武家さまって石島ちゃんのご先祖かもしれないって事じゃん!?」

 

 

(なんかアリガチな設定すぎるよそれ……)

 

 

「よーくん! 行ってみよう! 」

 

 つーくんが目をキラキラさせている。

 

 

 残念ながら、この2人の予想は外れている。この辺りの元有力者の姓が【石島】だった事に、俺はなんら驚きが無いのだ。

 

「二人とも、残念だけど違うよ、祖母の家の近辺はね、遠い親戚でもないのに石島さんだらけなんだ、明治に入った時に皆揃って石島を名乗ったのが始まりみたい」

 

 この辺りの人がこぞって石島を名乗った理由に、そのお武家様が影響していたとしても、それがご先祖な訳ではない。

 

 

「ほへ~」

 金田さんはまだ何かを考えている。

 

「でも山賊が住み着いてるんじゃ行ってもだめか」

 つーくんが少し残念そうにしていた。

 

 

「お婆さま、そろそろ戻りましょう」

 

 女の子は俺達に向って会釈すると、そのままお婆ちゃんの背を押すようにして村の中に消えて行った。

 

 

「えーっと、郡上でしたっけ? 行き先」

 

 考え込んで何も言わない金田さんと、その様子を伺っているつーくん。2人とも俺の質問には答えてくれなかった。

 

 

(なんだよ……郡上行かないのかな?)

 

 もう既に日が登りきっているので、急がないと夜までに郡上に着けないかもしれない。焦れた俺は金田さんがつーくんの顔の覗き込むのと、金田さんもが口を開くのが同時だった。

 

 

「山賊も人だ、飯は食う、よく考えると昨日の連中は軽装すぎたと思わない?」

 

 その金田さんの言葉に、つーくんが答えた。

 

「大森さんが出発してからの時間、彼らの軽装、どう考えてもキャンプから近い地点があいつ等の拠点ですよね」

 

 

(そうか!)

 

「その屋敷に住みついてる山賊達って、もしからしたらあいつ等かもしれないって話!?」

 

 金田さんとつーくんが黙って頷いてくれた。

 

 

「もし昨日の連中が全員だとしたら、今はその屋敷に誰もいないって事だよね……もしかしたら、食料とかお金の備蓄があるかもしれない!?」

 

 俺達は急いでその屋敷に向った。

 

 その村から30分も歩かない距離、俺達の簡易キャンプからは2時間ちょっとで来れそうな場所に、土の塀で囲われ、それなりにしっかりとした門を備えたお屋敷が存在した。

 

 塀も、門も、屋敷その物も、だいぶボロボロではあったが、踏み入れた瞬間に色々と目についた。つい最近まで人が生活していたであろう痕跡が散見されるのだ。

 

「剛左衛門……」

 

 金田さんの一言でつーくんも周囲を警戒。

 

 俺達は武器を持っていない。修験者の格好をしているのに刀や槍を持っていては、かえって怪しまれると思ったからだ。

 

 つーくんは足元にあった棒を手にする。

 

 

(つーくんは棒が好きなんだな)

 

 俺は伊藤さんを見習って、投げれるように野球のボールくらいのサイズの石を手にした。

 

 

 ところが、俺達の警戒は結局無駄だった。屋敷は無人で、生活の後だけがそこかしこに散らばっている。その中に、見慣れたポーチを発見した。携行食の入った袋だ。

 

「大森さんのだね」

 

 つーくんがそれを手に取ると、中身は入っていなかった。

 

 散乱しているゴミの中に、携行食が入っていたと思われる空のパックがいくつも混ざっている。

 

 俺達はそのまま屋敷の中を探検した。

 

 屋敷は中庭を囲むように8部屋が存在、とにかく汚くて散らかってはいたが、炊事場もあるし、少し離れた場所にはものすごい臭いを発するトイレもあった。

 

 

「みつけたああ! 金田先輩! よーくん! 見つけた!」

 

 

 中庭の方からつーくんの歓喜に震える叫び声が上がった。

 

 急いで駆け付けてみると、倉庫のような小屋の中には米俵や銭、小石サイズの金銀、高価な雰囲気の装飾が施された鞘に収まっている日本刀、槍、弓、鉄砲まであった。

 

「こりゃすげぇ、あの山賊達えらい稼いでたみたいだな」

 

「伊藤さん、すごい連中を倒したんですね」

 

 俺の言葉に、つーくんが深く頷く。

「そうだね、よし、急いで持って帰ろう! まずは米!」

 

 自分達を鼓舞するように元気よく言うと、米俵を運ぶために使う板のような道具を背負い、1人1俵づつ担いで帰路に着いた。

 

 

「重い……」

 

 

 米俵は想像以上の重さだった。

 

 金田さんが言うには、この時代の米俵は規格が統一されていないので地方によってかなり違いがあるらしい。俺達が今担いでいるのは、たぶん30Kgくらいの米俵だろう。

 

 背中に30Kgを担いで歩くなんて経験、そうそう出来ないだろうし、その状況で登山とか信じられない。俺達は揃って「はぁはぁ」言いながら簡易キャンプに戻った。

 

 

 

 俺達が到着した頃には、もうすでに夕方になっていた。30Kgを担いでの山登りは予想以上に時間がかかったのだ。

 

 

「すごーぃ! おっ米♪ こめっこめ♪ なぜか茶色いお・こ・め♪」

 

 到着した俺達は、米俵を一つ解いでみたのだが、中からは茶色の米が出てきた。

 

 その茶色い米をじゃらじゃらと触。ながら、瑠依ちゃんが自作のお米歌をルンルンで歌っている。

 

 

「たぶん赤米ってやつだな」

 

 金田さんの解説によると、この当時のお米の種類としては安い物だそうで、生産者としては安価で大量に生産できるので流通量は多かったそうだ。

 

 金田さんも食べた事は無いそうだが、味はイマイチらしいとの事。

 

「一般人はコレが主食かぁ」

 つーくんはちょっと不満気だった。

 

「剛左衛門!出世して白米を買えるようになろうぜ!」

 

「了解!」

 

 

 この2人は本当に頼もしい。

 

「じゃ、ちょっと炊いてみますか♪」

 美紀さんが鍋に赤米を入れ始める。

 

「水は多めがいいと思うっす」

 

 金田さんのアドバイスに、美紀さんはニッコリ頷くと鍋を抱えて小屋に入って行った。

 

 

 優理は小屋から出て来ていない。伊藤さんも優理も目を覚ましているそうだが、伊藤さんは起きれる状況じゃない。

 

 優理に関しては、美紀さんが「ありゃ駄目だ、しばらく伊藤さんの側を離れそうもない」と笑っていた。

 

 

(早く元気になってもらわないとな、色んな意味で!)

 

 

 赤米の炊飯は、2回の失敗を経て成功した。

 

 成功した時にはすっかり夜だったけど、伊藤さんはその赤米をさらに煮込んでお粥風味にした物を食べ、また眠りについたそうだ。

 

 

「明日は3往復くらいしたいですね!」

 俺の提案に金田さんとつーくんが頷いてくれる。

 

「手伝える範囲なら唯と瑠依も連れて行ってくれ」

 

 美紀さんが協力を申し出てくれたので、明日の探検は今日よりずっと楽しくなりそうだと思った。



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第17話 石島の家

 翌日、伊藤さんは朝から起きて、それぞれと会話する程に回復していた。一安心といったところか。

 

 一つ不満があるとすれば、常にベッタリと優理が付き添っている事だが、伊藤さんが元気になるまでは仕方がないと思う事にする。

 

 

 朝食後、金田さんと伊藤さんは何やらずっと話し込んでおり、やっぱりあの2人は俺達の中心人物だと実感している。年齢も、知識も、考えている事も、行動力も、全てにおいてあの2人がずば抜けているのは間違いない。

 

 

「オッケーっす、うんうん、それが実現したら……よし!」

 

 金田さんは勢いよく立ち上がるとみんなの方へ体を向けた。

 

「ちょっち! みんな、今日は屋敷に行くんだろうけど、俺は別行動を取るわ、悪いけどよろしくね!」

 

 

「どこ行くんですか?」

 唯ちゃんが不思議そうに尋ねた時には、金田さんは既に携行食の入った袋を肩に掛けていた。

 

 

「郡上八幡♪」

 

 昨日行くはずだった目的地だ。皆の注目が金田さんに集まると、金田さんは少し恥ずかしそうにしていた。

 

「あー、まってまって、色々聞くのは野暮ってもんだぜ?」

 

 西洋人のような身振りで「すぐに戻ってくるさ!」なんて言いながらカッコつけた。

 

 

「はい、いってらっしゃーい」

 

 瑠依ちゃんの言葉は【興味ありませんが何か?】という翻訳が付きそうな感じで、聞いているコッチはまた金田さんが灰になるのではないかと心配する程だった。

 

 

「るいちゃ~ん、そりゃねーよぉ」

 

 おどけた金田さんに、何かを思い出したようにスタスタと近寄る瑠依ちゃん。

 

 

「ちょうどよかったです! 変態さん、コレ!」

 

 瑠依ちゃんの手には、余った修験者の服を切り刻んで作った【お守りらしき物】が握られている。

 

「ちょ、るいちゃん、こんな……」

 

 その【お守りらしき物】を手渡され、感動の渦に飲み込まれそうな金田さんに、瑠依ちゃんの言葉が続いた。

 

 

「変態さん、お守りって知ってますか!? 上手に作れなかったんですよね伊藤さんにあげるお守り……なので買ってきてください、これ見本です! たぶん【神社】ってゆう場所で売ってますから!」

 

 

「ブッ」

 

 つーくんが耐えかねて吹き出すのと同時に、金田さんには悪いと思いながらも、俺も吹き出してしまった。

 

 

「ふふふっ♪」

 

 唯ちゃんが笑うと、釣られて優理も美紀さんも笑っていた。

 

 

 何故に皆が笑っているのか理解出来てない瑠依ちゃんは、やっぱりちょっと子供なのか、どうやら天然なのか。

 

「じゃぁ変態さん! お願いしますね!」

 

 瑠依ちゃんの言葉は、灰になった金田さんは届かないだろう。固まったまましばらく動かなかった。

 

「金田くん、よかったね! 女の子のお手製お守りなんてそうそうないよ?」

 

 伊藤さんも笑を堪えながら金田さんを弄っている。

 

 

 

「ちっきしょ~~~! 行ってくるっす!」

 

 金田さんはクルっと振り向くと、その俊足を発揮して猛スピードで山を下って行った。

 

 

「金田くんってホント面白いよね」

 

 言いながら立ち上がった伊藤さんを、優理がそっと支えている。

 

「飯も食ったし、ちょっと寝るわ」

 

 

 伊藤さんの動きを見る限り、別に支えなど必要なさそうに見える。本人もそのつもりなんだろうが、どうしても優理がくっついて回っている感じで、伊藤さんもそれを拒否していないだけなのだろう。

 

 小屋の入口までくると、美紀さんのほうを振り返った。

 

「あー、美紀ちゃん、シャワーって使える?」

 

「はい! ばっちりです!」

 

 美紀さんはそう言うと、伊藤さんと優理の所まで行く。

 

「その手じゃ、頭洗うのとか無理でしょ? お手伝いしますよ♪」

 

「え? あー、そうか、なんも考えてなかったわ」

 

 伊藤さんは包帯グルグル巻きの自分の両手を見てため息を付いた。

 

「それなら私がお手伝います」

 

 優理は、わざわざ伊藤さんの腕に手を添えてそんな事を言った。

 

 

 その瞬間、美紀さんの顔が意地悪な笑みを浮かべる。

 

「そっかー、残念、裸のお付き合いも悪くないと思ったんだけどなぁ、一緒にシャワールームだもんね、優理に譲るかな」

 

 

「へ?」

 

 優理の頭に「?」が浮かぶ。それは一瞬の事で、すぐに耳まで真っ赤になった。

 

 

「いやいや、いいよいいよ、よく考えたら腕もこんなだしさ、シャワーはもうちょっと良くなってからにする!」

 

 そう言って小屋に逃げ込んだ伊藤さんを追うように、美紀さんが小屋に入って行く。

 

「別に恥ずかしがる事もないでしょ、怪我人なんだし! それに接合部もそろそろ洗わないといけないので、とりあえずシャワールームに行ってください!」

 

 

「瑠依も~! 瑠依もお世話する!」

 

「こら瑠依ちゃん! まちなさーい!」

 唯ちゃんは瑠依ちゃんを追って小屋に入って行く。

 

「え? ちょっと! なんで私最後なの!?」

 優理も慌てて小屋に飛び込んで行った。

 

 

 

 

「いやー、相変わらずすげーな」

 つーくんが若干呆れた感じで感想を述べる。

 

 

「ホントだよね、爪の垢って効くのかな?効くなら是非とも頂きたいくらいだよね」

 これは半分くらい本気だ。

 

 あのモテっぷりの半分、いや、四分の一でも効果があるのなら、爪の垢でも飲めるかもしれない。

 

「ほんと、頭の回転と人の好さ、それにあのモテっぷりまで効果が出るなら爪ごと飲んじゃうわ」

 つーくんは言いながら身支度を始めた。

 

 今日は色々と持って帰って来たいので、大き目の袋をいくつか用意しているのだ。

 

 

 伊藤さんは結局、左腕の傷を接合した箇所だけを洗い流す程度で済ませたそうだ。

 

 アイドル顔負けのあの4人にもみくちゃにされながらシャワーなんて、何万円払ったら実現するだろうか、いや、何十万でも足りないかもしれない。

 

 

(名誉の負傷なら俺も……)

 

 

 などと不埒な考えはどうにか捨て、周囲に気を配りながら歩く。

 

 先頭はつーくん、瑠依ちゃんと唯ちゃん、それと伊藤さんに説得された優理がその後に続き、最後尾に俺がいる。

 

 

 つーくんは誰とでも仲が良い。偏りなく接しているし、会話量だけで言えば男4人の中では一番女の子と話しているかもしれない。

 

 道中、優理と瑠依ちゃんの話題はずっと伊藤さんと美紀さんについてだった。伊藤さんと2人きりで残してきた事に対する不安だろう。

 

 

 嫌でも耳に入ってくる2人の会話で、気になる箇所があった。

 

 

「だからね? るいちゃんはちょっと離れ過ぎだって、美紀ねぇはちょっと近いんじゃないかな? 私はちょうどいいでしょ!」

 

「えー、優理先輩と私ちょっとしか変わらいじゃないですか!」

 

「アハハッ♪ そのちょっとの差が違うのよお嬢ちゃん♪」

 

「む~、そんな事言ったら唯先輩と石島さんも歳近くないですか?」

 

「あー、そうかも? でも唯は多分、ふにゃふにゃした人が好みなんだよ、本人が硬いからさ♪」

 

「にゃはは♪ 石島さんは確かにふにゃふにゃしてる感じですよね! 伊藤さんは固い感じします!」

 

 

(おいおい、年齢的に俺の方が硬いぞ! きっとたぶん!)

 

 

 気になったのは硬さどうこうではない。おそらく年齢の話をしていたのだろうけど。

 

 美紀さんと伊藤さんがちょっと近い?

 

 俺と唯ちゃんが近い?

 

 優理と伊藤さんはちょうどいい?

 

 俺自身24歳にもなって、17歳の優理に対して恋心を抱いているわけで、もしかしたらロリコンなのかもしれないと思っていたのだが。 もうちょっと大人になってしまえば、7つ下なんて別に珍しい話でもないし、それでいいと思っていた。

 

 でも、伊藤さんと優理は18も離れているわけで、優理の人生まるまる1個分離れている事になる。

 

 美紀さんと伊藤さんでも9離れている。この2人は並んでいるとすごくお似合いな雰囲気なのだが、それでも9離れているわけで、どう考えても近いわけではない。

 

 

 斜面を下りながらその部分に食いついて聞いてみるのも違う気がしたので、屋敷に到着してからゆっくり聞く事にした。

 

 

「え~~~! 信じられない!」

 

 屋敷についた俺達は、屋敷内の探検もそこそこに昼食を取りながら、男女の恋愛や結婚に関しての年齢が話題になった。

 

 俺達の時代では比較的近い年齢で結婚する事が多い。女性が年上の事も珍しくないという話をしたときだ。

 

「なーい、年下とか絶対無理、無いわー」

 

「変わった趣味をお持ちの時代なんですね、ふふふっ♪」

 

「じゃぁ瑠依、石島さんの時代だったら伊藤さんがパパでも不思議じゃないって事ですよね?」

 

 結婚する年齢についても話題になった。伊藤さんが35歳なので、15歳の瑠依ちゃんが娘でも不思議ではないのだ。

 

 つーくんはこの話題に興味深々だ。

 

「じゃーさ、俺とかよーくんはハッキリ言って全然魅力的じゃないって事だよね?」

 

 

(そんな事ハッキリ言わせなくていいよ……)

 

 唯ちゃんが真面目に回答する。

 

「魅力的じゃないって言うと少し違うと思いますけど、男性としての器とか、頼りがいとか、包容力とか、その辺りはたぶん30代以降の男性のほうがグっと深みが増すと言いますか……難しいですね」

 

 

「グっと深みが増すかぁ……伊藤さんは確かに、うんうん、深いね! 金田先輩は……まぁ、俺達に比べたらだいぶ深いか、そうだよなぁ~、俺とかよーくん浅いもんなぁ」

 

 つーくんは天を仰ぐように空を見ている。

 

 

「おいおい、巻き込むなって」

 

 俺は勢いで突っ込みを入れてみたものの、確かに自分自身とても浅い人間だと思う。

 

 

「アハハハッ♪」

 

 優理が楽しそうに笑いながら「るいちゃん、男性陣の深さを表現してください!」と、何か冗談を振った。

 

 

「了解であります優理先輩!」

 

 瑠依ちゃんはパッっと立ち上がる。

 

「伊藤さんはですね、頭の先から足の先まで、それはそれは優しく温かく包んでくれる深さと愛情があるのです」

 

 冗談の始まりにしては、今の一言はたぶん本気なんだろう。優理もうんうんと頷いている。

 

「変態さんはですね、ちょっと嫌らしい包み方な気もしますが、しっかりと受け止めてくれるだけの器はあると思います」

 

 瑠依ちゃんは自分の胸をトンッっと叩く感じで言った。確かに、困ったときはしっかりと受け止めてくれるだけの度量はある人だと思う。

2位通過は伊達じゃないだろう。

 

 

「須藤さんはですね、膝くらいまでですね! 膝です膝、全然浅いですよ? 子供用プールです」

 

 

「おー、子供用プールじゃ平岡さんにちょうどいいね!?」

 

 

「ぶはっ」

 

 俺はたまらず吹き出してしまった。

 

「アハハハッ♪」

「ふふっ♪」

 

 

「こらー! 誰が上手いコト言えって言いました!? だいたい瑠依は子供用プールじゃ全然ダメですよ! 今度水着姿見せてあげますからね! 覚悟しといてくださいよ!?」

 

(おおお、それ、興味そそられるでござる!)

 

 

 俺達の笑を余所に、瑠依ちゃんは俺の深さの解説に移る。

 

「石島さんはですね、足の裏ですね、靴底くらいまで! 水たまりですね、水たまり!」

 

 

(水たまりって、しかも解説1行かよ!)

 

 

「ブッ! 水たまり!! ギャハハハハ」

 

 

「アハハハッ♪」

 

「ふふっ♪」

 

 

 ただ、笑われるだけで、つーくんのような上手い返しも思い浮かばず。そうして弄られながら昼食の時間を過ごす。

 

 その後も結婚と年齢の話題が続いた。この年頃の女の子が恋愛や結婚の事を話始めると、ホントによくしゃべる。

 

 優理達の時代、女性の結婚は20代後半から30代前半にする事が多く、相手の男性は40代~50代が多いそうだ。

 

 実際、美紀さんのお父様は今年で69歳だそうで、お母さんは53歳だそうだ。

唯ちゃんのお父様、阿武室長は58歳、お母様は49歳との事。

 

 

「唯の好みはお母さんに似たんじゃない? 年が近い人が好きって所だけさ、室長と石島さんは全然まったくコレっぽっちも似てないけどね」

 

 そんな風に俺を弄ってくる可愛い天使に、俺は何気ない一言をかけた。

 

「優理のトコはどうなの?」

 

 軽い気持ちで質問してみたのだが、これは後で反省する事になる。

 

 営業の研修で習ったと思う。

 

 ご家族の話題というのは、共通点を見出すと一気に距離が近くなる必殺技クラスの話題だが、その反面、デリケートな部分に踏み込んでしまう可能性がある危険な話題でもあるので、切り出すタイミングや切り口には十分注意する事。

 

 

 俺の言葉に、優理は一瞬下を向き。瑠依ちゃんはほっぺたを膨らませて俺を睨むように直視し。唯ちゃんは困った顔を俺に向けるとゆっくりと首を横に振った。

 

 沈黙を破ったのは優理だ。

 

「もう、大丈夫だよ!ごめんね気つかわせちゃってさ、でもちょっと説明はキツイかな、唯に任せるよ」

 

 優理は立ち上がると、とても自然な優しい笑みを俺に向けた。

 

「ごめんね石島さん♪ るいちゃん、あっちの部屋見にいこっ」

 

 そう言って瑠依ちゃんの手を引っ張って探検しに行った。優理の背中を見送った唯ちゃんは、小さくため息をつく。

 

「簡単に言いますね、優理のお母様は優理が3歳の時にご病気でお亡くなりに、お父様は優理が5歳の時にお仕事中の事故でお亡くなりに、その後はうちで一緒に生活しています、私と優理は本当の姉妹のような物です」

 

 それだけ言うと、優理と瑠依ちゃんが行った方へ足早に向かった。

 

 

「よーくん、やっちゃった感あるよね」

 

 つーくんが少しニヤニヤしている。

 

 

「ホントだよね、あーあ」

 

 

「でもさ、このタイミングでよかったかもしれないよ、もっとシリアスな場面だったらアウトだったかもしれないしさ」

 

 俺は肩を落としていたが、つーくんに励まされてどうにか立ち上がった。

 

 

 昼食の後、俺達はそれぞれ色々な物を荷物に纏め、帰路についた。金銀、銭、金属類はこれだけでけっこうな重量になる。

 

 

 帰りの登りは大変だ。

 

 

「うて~! ダダダダーン! すっすめ~~~♪」

 

 屋敷から持ってきた鉄砲を担いでいる瑠依ちゃんは、絶好調でご機嫌だ。

 

 

 1人でぴょんぴょん飛び回るように斜面を行ったり来たりしているのだが、よく考えると瑠依ちゃんの身体能力もかなりの物だと思われる。

 

 

 簡易キャンプに到着すると、外のテーブルでは伊藤さんが1人で端末と睨めっこしていた。端末にこの時代の細かい情報は入っていないのに、何をしているのかと思って聞いてみたら。

 

「ん? メモ」

 

 その一言しか返ってこなかった。

 

 右手の骨折で文字が書けないからなのだろうか、端末に付いているキーボードを老人のように1本の指でゆっくり操作してる。

 

 

「でわ! 女の子はこれからシャワータイムなので覗き見しないように!」

 

 美紀さんの宣言で皆が小屋に入って行く中、瑠依ちゃんだけ「伊藤さんは来てもいいですよ~」なんて言いながら女神様に連行されていく。

 

 俺とつーくんは伊藤さんのいるテーブルに着いた。

 

「瑠依ちゃんっていつも楽しそうですよね、あんくらい楽な気持ちでいられたらいいよね」

 

 俺の言葉につーくんも頷く。

 

「平岡さんは人生楽しんでるって感じするよね、俺達も負けないくらい楽しまないとな」

 

 俺とつーくんは、帰りの道中で鉄砲を担いでご機嫌だった瑠依ちゃんの、その子供っぽさや可愛さについてを伊藤さんに話した。

 

 そんな俺達をチラっと見た伊藤さんはクスッと笑う。

 

「お前らホントわかってねーな」

 

 ニヤニヤしながらまた端末に視線を戻し、そのまま何も言わなくなってしまった。何を分かっていないのか、気になったので尋ねてみると。

 

「瑠依ちゃんがそうゆう無駄なアホをやるときは、その前になんかあった時だよ、自分にじゃなくて誰かにさ、小さい事かもしれないけど、なんかあったろ?」

 

 

「あ……」

 つーくんが思わず声を漏らす。

 

(優理の事……というか俺の質問の事)

 

 伊藤さんは、また俺とつーくんを交互にチラ見してから。

 

「別にそれが何なのかなんて俺は聞かないけどね? あの子はアレで精一杯、空気が軽くなるように頑張ってるんだよ、あの小さな体でさ」

 

 言い終わるとまた端末に目を落とし、メモとやらの記載を続けた。

 

 

 その日、夜遅くになってから金田さんが戻って来た。伊藤さんと優理以外は集まっていたが、優理に支えられて小屋から出てきた伊藤さんがテーブルに着くのを待つ。

 

 

「お待たせ! 金田くん! 本当にご苦労様!」

 

 伊藤さんはテーブルに着くなり、金田さんに向って深々と頭を下げた。

 

「なな、なーに言ってるんですか先輩! やめてください!」

 

 

 金田さんは伊藤さんの用事で郡上へ行ってきたのだ、その結果報告が始まろうとしている。

 

 

「おほん!えー、わたくし金田健二、伊藤先輩からのお役目、無事に果たして参りました!」

 

 

「お~」

 

 とは言ったものの、何のお役目なのか伊藤さん以外誰も知らない。伊藤さんは金田さんの報告に対して、まだ無反応だ。

 

 数秒の沈黙を経て。

 

「して、首尾は」

 伊藤さんは突然武士語になる。

 

 金田さんも武士語に乗ってきた。

「はっ、郡上八幡にて遠藤慶隆殿に謁見、飛騨大原村にての石島家再興にご支援を賜る約条を取り付けてまいりました!」

 

(え? 石島家最高!? 絶好調?)

 

 

「でかした! して、大原の年寄共は?」

 

 

「はっ、年寄のみならず、若衆に至るまで石島の家を再興する事に対して歓迎の意を表すと共に、屋敷修繕、また今後の普役、軍役についても協力すると申しております!」

 

 

「い~、よしっ! 金田くんやったね! さいっこう!」

 伊藤さんは動かない左腕で小さくガッツポーズを決めると、皆んなの方を見る。

 

 

「俺は会ってないんだけどね、金田くんから報告もらったんだよ、大原村のお婆ちゃんが言うには、亡くなった石島のご当主の、その先代に似ているんだってさ、石島くんが!」

 

 

 伊藤さんは金田さんが何をしてきたのか説明してくれた。

 

 大原村のお婆さんは、俺を石島家の先代にソックリだと言うらしい。石島家が途絶えてからの大原村は、野党や山賊から村を守ってくれる存在がいなくて困っているのだとか。

 

 この2点から、伊藤さんは俺を石島家の当主に据え、大原村を守る存在にしてしまおうと考えたそうだ。

 

 大原村の人も、俺達も、俺と石島家に血縁関係があるなんて思っていない。見た目が似ている事もあって血縁など大きな問題ではないらしく、大事なのは実利があるかどうかだそうだ。

 俺達がいる事で、村の治安が少しでも良くなってくれるなら俺も嬉しいし、それで村の人が喜んでくれるなら嬉しいと思う。

 

 それを、ただ村単位だけでやったのでは効果が薄いと考えた伊藤さんは、郡上の実力者である【遠藤慶隆(えんどうよしたか)】という人にその援助を頼んだ。

 

 その援助を乞う使者になったのが金田さんという訳だ。直接交渉を担当したのは金田さんという事になる。

 

 

「先輩の言う通りにやっただけっす」

 

 

 そう言って謙遜していたが、言われた通りにやるって事もなかなか簡単ではないと思う。

 

 結果的に、すぐ南に位置する郡上の最有力者のお墨付きで、俺は大原村の外れにある屋敷に当主として入る。そして今後は大原村を管理運営する零細企業の【社長】になるそうだ。

 

 

 伊藤さんはすぐに立ち上がると。

 

「健二郎、剛左衛門、忙しくなるぞ~」

 

 そう言って1人で小屋に入って行った。

 

 

「応!」

 

 金田さんとつーくんも続く。

 

 

 40分くらいだろうか、金田さんが出てきた。

 

「石島の殿、俺は今日は早く寝るっす、明日は大忙しっす!」

 そう言うと、テントに入ってしまった。

 

 

 それから少し遅れてつーくんが出てくる。

「殿、伊藤様がお話しがあると、ささ小屋へ」

 

 

「やめてよ殿って……なんか恥ずかしいってば」

 その言葉に笑顔だけを返したつーくんは、俺を小屋へ誘導するとそのままテントに入ってしまった。

 

 

「伊藤さん、入りますね」

 

 

 俺は小屋に入ると、伊藤さんと二人っきりで1時間近く話をした。

 

 明日、金田さんは尾張に向って出発して【織田信長】に会いに行くそうだ。用件は、織田の美濃攻略に際して石島家が飛騨美濃国境の大原にて、飛騨から郡上に対する支援を遮断する事を約束する。

 

 同時に、つーくんは飛騨の諸豪族に対して石島の家を再興する事に関して理解と協力を求める使者として回るそうだ。出来れば、軍事的支援を取り付ける約束をするという大役になると言う。

 

 この2つが成功した場合、さらに織田家に対して交渉が始まる。

 

 美濃への進攻に先立ち、歩調を合わせるように飛騨の諸豪族から軍事的支援を獲得した俺達が、郡上に侵攻。南から墨俣を経て稲葉山へ向かう織田軍と、北から俺達が郡上に侵入する。

 

 美濃を治める斉藤氏は既にその力を大きく減退させており、南北からの侵攻に対して抵抗らいし抵抗が出来なくなるはずなんだとか。

 

 

 史実では、郡上の遠藤慶隆は織田信長の美濃攻略後、降参してその配下に加わり、郡上の統治を任される立場になるそうだが、俺達がそれに取って代ろうという訳だ。

 

 

「再興に援助してもらいながら、なんだか申し訳ないですね」

 

 俺のその言葉に、伊藤さんは大きく頷いた。

 

「でもね、遠藤慶隆さんの奥さん、美濃三人衆って言われてる安藤さんの御嬢さんなんだよね、まぁそっちは安藤さん自身が織田に寝返っちゃうから問題ないんだけど……」

 

 少し間を置いてから、言葉を続ける。

 

「遠藤さんね、お父さんを亡くして後を継いだのが若くてさ、遠藤さんのお母さん、その後斉藤家の重臣さんと再婚してね、重臣さんが遠藤さんの後見役になってるんだよ」

 

 

(いやー、難しい)

 

 

「ま、要するにさ、遠藤さんは斉藤家重臣の義理の息子って事さ」

 

(それならわかる!)

 

 

「なるほど、それじゃ遠藤さん、ストレートに織田に寝返るわけにもいかないって事ですね」

 

伊藤さんは大きく頷いた。

 

 

「そ、だからこそチャンス! 俺達はなんのシガラミも無いからさ、早いうちに織田に通じて手柄を立てようって事!」

 

 

 結構な急展開になる予感がする話だ。

 

 石島の家を再興し、そのまま郡上を治める立場まで一気に駆け上がろうとしている。

 

(気合入れないとな……頑張ろう!)

 

 

「伊藤さん、俺なんでもしますから! 言ってくださいね!」

 

 

 気合を入れてテントに戻るが、興奮してなかなか寝付けなかった。



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第1幕 GAME4 【戦国デビュー】
第18話 伊藤の権謀術数


■1567年6月 尾張国

   小牧山城 織田家

 

 

 木下藤吉郎の活躍で墨俣の地に出城を築き、美濃攻略の足掛かりとしていた織田信長は、堅城稲葉山の攻略に頭を悩ませていた。

 

 墨俣から稲葉山までは目と鼻の先と言っても過言ではなく、中美濃方面も信長の勢力圏内に入っている事から、残すは稲葉山城を起点とする西美濃だけである。

 

 しかし稲葉山の周辺には美濃三人衆やその他重臣が治める地が手付かずで残っており、うかつに手を出せないままで歳月を重ねている。

 

 

 小牧山城に本拠地を移し、いよいよ美濃への侵攻が間近に迫る中、織田信長の元へ珍客が現れていた。

 

 

 その男は、頭を丸めて白装束を纏ってやって来たのだ。

 

 

「――どこの誰じゃ、死ぬ気で来た戯けは」

 

 ドカドカと必要以上の足音を立てて歩くのは、織田家筆頭家老の柴田勝家【しばたかついえ】である。ここ数年、織田家の主要な戦で常に最前線に立ち、その剛勇は近隣諸国にも伝わる程になっている。

 

「なんでも飛騨のウシジマとか、イシジマとか申しておりましたが……」

 

 柴田勝家の横を歩くのは、滝川一益【たきがわかずます】という飄々とした男で、その足音は柴田勝家とは対照的でほぼ無音のままに床を進む。

 

 二人の男が大広間に到着すると、上段上座に鎮座している織田信長の目の前に、丸坊主の大男が白装束で平伏していた。

 

 

「ごめん」

 柴田勝家は一声かけて広間に入る。

 

 切れ長の目をギラリと光らせた織田信長が口を開く。

「権六、遅い」

 

「申し訳ございませぬ」

 柴田勝家は重臣が居並ぶ席の最上座に着く。

 

 

 丸坊主の男は、信長の言葉に緊張を隠せない様子であった。

 

「ははは、そう硬くなられるな、取って食うたりはせぬ」

 

 丸坊主の男に声をかけたのは温和な表情の男で、丹羽長秀【にわながひで】という。座席順では柴田勝家よりも若干下座である。

 

 その丹羽長秀に、信長が声をかけた。

 

「五郎左」

 言葉の少ない主の意図をくみ取る事、これは当時の織田家重臣にとっては戦働きよりも重要な事柄であった。

 

「ハッ」

 

 丹羽長秀は信長に軽く頭を下げると、丸坊主の男に向きなおった。

 

「金田殿、お待たせ致しました、ご用件をお話しくだされ」

 

 

(うおおおおお、緊張するぅぅぅ)

 

 金田は憧れの武将達に囲まれているのだ。

 

 

「上総介様にお会い出来、恐悦至極に存じます! 恐れながら申し上げます、我が主、石島洋太郎、先日飛騨美濃国境の大原にて目出度くお家再興と相成り」

 

 金田はそのまま一気に言葉を走らせた。

 

「美濃郡上は遠藤慶隆殿、飛騨桜洞は飛騨守護姉小路良頼殿、飛騨大野は内ヶ島氏理殿、其々より安堵の義を賜り、飛騨より郡上への関所、並びに大原一帯を預かり統べる事を承認頂きました」

 

 一気に言い終えた金田は、平服したまま沈黙する。

 

 織田信長は無言のまま、金田の丸坊主頭を凝視していた。しばらくの沈黙の後、丹羽長秀が口を開く。

 

「大原など聞いたことも無い、周辺の諸勢力にしてみれば取るに足らぬという事であろう、金田殿、その程度の事を申しにわざわざ尾張まで参られた訳ではあるまい」

 

 

「ハッ」

 

 一言返事を返すのみで、金田は平伏したまま無言でいる。

 

 

 焦れた柴田勝家が声を荒げた。

 

「えええい! 我らとて暇ではないのだ! 用件があるなばさっさと申せ!」

 

 勝家の怒気に晒され、金田の体は緊張で硬くなった。

 

 

 それでも金田は無言を貫く。

 

(先輩……もう駄目っす、言っちゃうかもっす)

 

 金田は平伏したまま硬く目を閉じ、冷や汗が床に落ちる程に緊張している。

 

 

「チッ」

 

 自分の怒気にも屈しない丸坊主に、柴田勝家は諦めるように小さく舌打ちした。

 

 

 その舌打ちを合図にするかのように、信長が口を開く。

 

 

「申せ」

 

(キターーー! 先輩すげぇ!!)

 

「ハッ、恐れながら!」

 

 金田は少し顔を上げ、言い間違いの無いようにしながらも、なるべく早口で言葉を並べる。

 

 

「織田家の美濃侵攻に合せ、我らは北より郡上へ侵入致します、手勢は少数ではありますが、既に姉小路良頼殿より、我らの初陣にはご嫡子頼綱殿を大将とするご助力を頂ける手筈となっております」

 

 

「ほう、飛騨守護とそこまで昵懇か」

 

 ここでようやく、織田信長は興味を示すような素振りを見せ始めた。

 

(先輩、来ました、乗ってきたっす!)

 

「故に、姉小路殿の援兵を以て我らは大原より南下し郡上を牽制致します、更には美濃三人衆が織田方に御味方となれば稲葉山城は裸も同然かと!」

 

 美濃三人衆という言葉を聞いた瞬間、信長の表情は一遍、目を細めて金田を値踏みするような雰囲気を出し始める。

 

 

「誰の策ぞ」

 

(予想通りっちゃ予想通りだけど、短いなぁこの人の言葉は……しくじるなよ俺)

 

 信長の返答は金田の範疇ではあったが、白装束を纏っての使者となれば、一歩間違えればその場で切り殺されても文句は言えない。

 

 

「我が主を支える重臣がおりますれば」

 

 

「うぬではないな」

 

 

「ハッ」

 

 短いやり取りの後、信長は少し考えるように思案を巡らすと。

 

 

〈パチッ〉

 

 自らの膝を叩き、一言だけ問いかける。

 

 

 

「いつじゃ」

 

 

 

(いつ……なんのいつだよ、くそう)

 

 

 金田は思案に時間が掛る事を恐れている。それは信長が最も嫌う事だと、金田が思っているからだ。その時、柴田勝家が半身乗り出して声を上げた。

 

「お待ちくだされ!」

 

 

(柴田さんナイス! ちょっと時間稼いで!)

 

 金田にとっては助け舟となった。

 

 

 信長は返事をしないものの、鋭い眼光を柴田勝家に向けた。

 

「そのような美味い話、安易に信じてはなりませんぞ!」

 

 

「ふん、どこが美味い話なものかっ」

 

 信長はそう言い捨てると、珍しく長い言葉を発した。

 

「協力する見返りに郡上を寄こせと申すのであろう、大きく出たものよ……よいわ、くれてやる」

 

 

(おおおお、ちょっと先輩! きたっす!)

 

 金田は歓喜の雄叫びをあげたい心境を必死で堪えている。

 

 美濃攻略に力を貸すから郡上の支配を認めて欲しい。という事であれば、単に織田家にとって美味い話という訳ではなくなる。

 

「左様ならば納得で御座る」

 

 柴田勝家は乗り出した半身を戻しながら「それ相応の働きがあればな」と付け足すと、そのまま口を閉じた。

 

 

「して」

 

 信長は再度、金田に向って短い言葉を発し、そのままじっと金田を見つめる。

 

(して……って、さっきの【いつじゃ】の続きか)

 

 

「ハッ、夏頃には!」

 

「頃とはいつじゃ」

 

 金田の言葉に対する信長の返答は早い、迅速と言えるほどの速度で言葉を突き返してくる。

 

 

(先輩はホントすげぇや)

 

 

「ハッ、7月下旬には!」

 

 金田の言葉受け、信長はスッと立ち上がる。

 

「猿!」

 

「ハッ!」

 

 信長の声に素早く反応したのは、居並ぶ家臣団の中では下座の方にいる小柄な男、名を木下藤吉郎という。

 

 

「7月中にどうにかいたせ!」

 

 

「ハッ! しからばゴメン!」

 

 木下藤吉郎は返答するなり、駆け足で走り去っていく。その姿を目で追う事なく、続けて滝川一益へ檄を飛ばした。

 

 

「一益! 北勢を抑えておけ!」

 

 

「ハッ! これにて蟹江に戻りまする!」

 

 

 滝川一益は「ごめん」と居並ぶ重臣に声をかけ、足早に広間を出た。

 

 

 信長はそのまま広間の中央付近まで歩き、金田のすぐ目の前で足を止めた。

 

(ぐああああ、緊張するなぁ)

 

「五郎左、抱えよ」

 

 

「ハッ、いかほどで」

 

 

「五百貫」

 

 

 信長の言葉に、家臣団がざわついた。しかし、信長の決定に文句を言うような者は一人もいない。

 

「五百貫にて、承知致しました、住まいは小牧山でよろしいですな」

 

 信長は丹羽長秀の言葉に無言で小さく頷くと、その場を去ろうとする。

 

 

「お待ちください!」

 

 声を上げたのは金田である。

 

「人質とあらば、役不足なれど某が務める事に何ら不服は御座りませぬ! されど、お召し抱え頂くとあれば、首尾良く美濃攻略が相成った後、稲葉山にてお願い申し上げます!」

 

 金田は床に頭を付けて懇願した。

 

「ほう、立身の機会を逃すか」

 

 真上に近い位置から坊主頭を見下ろす信長は、この男を少しばかり買被っていたかもしれないと思い始めていた。

 

 

「左にあらず! 織田家はまだまだ大きくなると思うておりますれば、今しばらく主に義理立て致した後、稲葉山にてお仕えしても立身の機会は無数にあるかと!」

 

 

「ふん、織田は大きゅうなるか」

 

 期待が裏切られた訳ではないと感じた信長は、異質な者に見える目の前の坊主頭の男を、手元に置きたいという欲求が沸き始めた。

 

 

「なります! なって頂かなくては困ります!」

 

 金田は必死だった。仕官の誘いを断っているのだ、この場で斬られてもおかしくない。

 

 

「ハッハッハッハ! 困るか、そうか、ハッハッハ!」

 

 信長は大きな口を開けて派手に笑うと「五郎左、今のは無じゃ」と言い捨てて広間を出て行った。

 

 取り残された金田に、丹羽長秀が優しい目で声をかける。

 

「金田殿、好きにせよという事です、今宵はお泊りになられるのが宜しいとは思いますが、明日には出立頂いて結構で御座いますぞ」

 

 

(……しょんべんチビるかと思ったぜ)

 

「あ、有難うございます!」

 金田は深々と丹羽長秀に平伏した。

 

「知らせは密にな、それがしが受ける、心得られよ」

 

「ハッ!」

 金田は居並ぶ重臣達に深々と礼をし、退出していった。

 

 

「確かに、あの男の申す通りに事が運べば、稲葉山は裸も同然だな」

 

 金田の去った後、丹羽長秀の言葉に数名の重臣が頷いていた。

 

 

 

 

■1567年6月 飛騨国

   桜洞城 姉小路家

 

 

「――なるほど、して須藤とやら……ご主君はいったいどんな手を使ってそれほど明確に上総介との約定を取り付けたのじゃ」

 

 飛騨の山深い地にあって、この桜洞城は驚く程に煌びやかな造りと装飾が施されている。

 

 京都の足利幕府に掛け合い、飛騨守護職に認めさせるのに相応の苦労をしてきた姉小路良頼は、その守護職に恥ずかしくない応接が出来るよう、桜洞城の広間には京の職人に作らせた装飾を惜しむことなく投じたのだ。

 

 そのためか軍事拠点としての機能は持ち合わせておらず、姉小路家の威信を示す迎賓館のような使い方がなされている。

 

 

「はい、我が主を支える重臣がおりますので」

 

 

 姉小路良頼にしてみれば、織田信長という存在は驚異でしかない。足利将軍家の縁戚にあたる今川義元を討ち、その後数年で美濃の半分を手中に収めてしまった男である。

 

 美濃と国境を接する飛騨にとって、織田信長とはいずれ戦うか、友好的な関係を構築するかの二択を迫られているだ。

 

 

「そうかそうか、会うてみたいの、のう頼綱」

 

 

 姉小路良頼は平静を装い、呑気な雰囲気で嫡子である自綱に語りかけているが、元は飛騨の小豪族である三木氏を名門姉小路の名跡を継がせ飛騨守護にまで押し上げた人物である。

 

 その事を、須藤はよく聞かされていたので油断はない。逆に、その油断のない須藤に対し、嫡子である姉小路頼綱は警戒心を抱いている。

 

 

「はい父上、出来れば石島の当主殿にも一度はお会いしたいと」

 

 

(やっぱりそう来たか、伊藤先輩やっぱすげぇな)

 

 頼綱の言葉にゆったりと頷いている良頼に、須藤は一つの提案を持ちかけた。

 

「実はその重臣、先日大原にて狼藉を働いていた山賊共をたった一人討ち平らげまして」

 

「ほう、そのご重臣、名はなんと申される」

 

 たった一人で山賊共を討ったという話に、頼綱が興味を示した。

 

 

「伊藤様と申します、されどその折りに受けた刀傷が思いの外深く、桜洞の湯にて湯治をさせて頂けないかと申しておりまして、如何で御座いましょうか」

 

 桜洞は現代でいう下呂温泉が近く、湯治場が点在する温泉地帯である。姉小路の膝元である湯治場に来ると言うのであれば、なんら警戒する事なく会う事が出来る。むしろそこで捕える事も、討ち取る事さえ出来るのだ。

 

 

「須藤殿、その山賊とはもしや鬼熊ではないか?」

 頼綱はその山賊に少々の心当たりがある。数ヶ月前から桜洞近辺にも度々出没し、商人や修験者を襲っては金品の強奪や人さらいまで、悪逆非道の振舞いで警戒されている山賊でがいるのだ。

 

 

「さぁ、名前までは存じませぬが、大層大振りな槍を操る剛腕で御座いました」

 

 頼綱は「左様か」と言って少し考えてから、鬼熊について話し出した。

 

「一月程前にな、我が家臣の下人が襲われての、流石に見て見ぬ振りは出来ぬとその家臣に兵三十人を帯同させ向かわせた事があるのだが」

 

 

(もしかして……あいつ等の事かもしれない)

 

 須藤は予想外の展開に若干の冷や汗をかきながらも、これは好転する可能性が高い事も感じ取っていた。

 

 

「しかしな、鬼熊とその一の子分である銀蔵という者、その二名が大層な剛の者だそうでな、帯同させた兵の半数が討死し、残りも大半が負傷して這う這うの体で逃げ帰ってきたのよ」

 

 

「銀蔵……そやつらです! 他に3名程おりました!」

 

 須藤は確信できるだけの情報を手に入れた。

 

 簡易キャンプにて伊藤が討った山賊は、この桜洞にも頻繁に出没していたようだ。

 

「鬼熊という山賊は、鉄芯の入った槍を振るってはおりませんでしたか? 伊藤様もあの槍には大変ご苦労をなされました」

 

 

「おう、それじゃ! 話を聞いている限りそのようだな」

 

 

 ここで良頼が口を開く。

 

 

「そのような剛の者をたった一人で討ち取るとは、石島の重臣伊藤とやらは恐ろしく腕が立つ者なのだな」

 

 

(意外な方向からビックチャンス! ここで勝負決めちゃおう!)

 

 須藤は思い描いていた展開とは違う状況ながら、ここが勝負所と踏んでいる。

 

 

「ハッ、腕が立つばかりでなく、頭のほうも大層回るお人で御座います、名を伊藤修一郎様と申します」

 

 その名は当然、知られていない。

 

「湯治場の使用をご承認頂ければ、直にでも戻って伊藤様を連れてまいりますので、湯治場にて御ゆるりとお話しされるのがよろしいかと」

 

 

 須藤のその言葉に、頼綱は伊藤に会いたいという感情を抑える事が難しくなっていた。

 

「父上、小身の石島家とはいえご重臣とあらば丁重にお迎えせねばなりますまい、織田との橋渡しになるやもしれませぬ」

 

 

 姉小路頼綱は、妻に斉藤道三の娘を貰い受けている。その関係上、こじつけてしまえば織田信長とは義兄弟という関係になるのだ。

 

 

「うむ、湯治場にてゆるりと話が出来れば心の内も聞けよう、上総介との渡し役になると言うのであればそれも良い、石島の一件は頼綱に任せようではないか」

 

 

(来た! これでミッションコンプリート!)

 

 須藤に与えられた役目は、両家の窓口を頼綱と伊藤に定め、温泉で一緒に過ごせるように手配する事にあったのだ。

 

 

「ハッ、では須藤殿、これよりは不詳、この頼綱が石島家との折衝を取り仕切ります」

 

 頼綱は須藤に軽く一礼した。

 

「ご厚遇、恐縮至極に存じます!」

 

 須藤も深々と両名に平伏した。

 

 

「では、伊藤殿にお待ちしておりますとお伝えくだされ」

 

 頼綱は笑顔でそう言うと、桜洞城門まで須藤に付き添い、その帰りを見送った。

 

 

 湯治場にて裸の付き合いとなれば、その距離は一気に縮まる。

 

 小身の石島が、姉小路の援軍を取り付けれるほどの友好的な関係を短期間で構築するというのは、使者の往来や貢物の進呈では絶対に不可能な領域だ。

 

(やりました! 裸の付き合い大作戦、スタートですよ先輩!)

 

 須藤は満足気に、足早に帰路を急いだ。

 

 

■1567年 6月下旬 飛騨国

   大原村 石島屋敷

 

 

 金田さんが出発したその日から、俺達は石島のお屋敷で大掃除に精を出している。

 

 

 金田さんに遅れる事3日、今度はつーくんが飛騨の一番偉い人、姉小路さんの所に使者として出発していった。2人の事はとても心配ではあったが、伊藤さんと入念な打ち合わせがあったと言うから、信頼して待つしかない。

 

 

 屋敷のほうは、村の人たちが大勢手伝いに来てくれたお蔭で、5日目にはボロボロだった屋敷は改修作業がほぼ終わり、見違える程に綺麗になった。

 

 

 屋敷の裏手はすぐに斜面になっており、木々に覆われた山腹が迫ってくる。深い緑に包まれて沢山の木陰が出来ており、一汗かいた後に休む場所はいくらでもあった。

 

 この現場は今、石島家の当主として俺が仕切っていて、さっき昼の休憩を全員に伝え終わった所だ。

 

 

 村の女性達を取り仕切り、炊事場で大量の赤米を炊いて握り飯を大量生産してくれた美紀さんは、そこかしこに腰かけて休んでいる男連中に配り始めている。

 

 

 

「殿さま~」

 

 後方から小さな女の子が声をかけてきた。

 

 

「あ、はい! どうしましたか?」

 

 

 俺は腰を落とし、その子と目線を合わせて返事を返す。正直なところ、まだ「殿」と呼ばれる事には慣れていない。

 

 

「十五の兄様を見かけませんでしたか? てて様が探しておるのです」

 

 

 この子が言う【十五の兄様】とは、この村で一番裕福な農家の15男で、その名もズバリな十五【じゅうご】だ。15男とはまた随分と子沢山なお家だが、当然ながらお母様はお一人ではない。

 

 そして【てて様】というのは、この子のお父さんで、その裕福な農家のご当主にあたる人、お名前は【四衛門】というお爺さんだ。

 

 この子はその家の末っ子で【お末(おすえ)】ちゎん。10歳の可愛らしい女の子だ。

 

 

「おすえちゃん、さっき厠(かわや)のほうで十三のお兄さんと一緒にお仕事をしていたよ」

 

 

 15男がいるのだから、当然その前もいる。

 

 しかし残念な事に、長男から11男までは戦や病気で既にお亡くなりになっており、一家の大黒柱は12男の【十二(じゅうに)】さんだ。

 

 その【十二】さんは畑仕事が優先なので、【十三】さんと【十五】さんが力仕事のお手伝いに来てくれている。【十四】さんは生まれつき両目が見えなかった為、お寺に入っているそうだ。

 

 

「有難うございます!」

 

 おすえちゃんはペコっと頭を下げると、厠のほうへ向かった。

 

(10歳ってあんなにしっかりしてる物なのかなぁ)

 

 俺は、自分や弟や妹が10歳だった頃を振り返ってみるが、ランドセルを背負った自分達の姿と、今のお末ちゃんの後ろ姿はどうにも比較しようがない。

 

(超大家族だからかなぁ)

 

 お末ちゃんの上には15人のお兄さんと、9人のお姉さんがいるわけだから、お末ちゃんを入れると全部で25人兄弟とは恐れ入った。

 

 

 昼休憩が終わろうとしている時、つーくんが戻ってきたと知らされた。俺は急いで屋敷の奥、俺達の居室が並ぶ廊下の手前にある広間へ向かった。

 

 広間には瑠依ちゃん、優理、美紀さん、つーくんが座っており、俺は入るなり少し大きな声で「お帰り!」とつーくんの帰還を歓迎した。

 

「只今戻りました!」

 

 つーくんは胡坐をかいたまま、両の拳を床につけて俺に対して頭を下げる。

 

 

「まったく、やめてよもう」

 俺は笑いながらつーくんの目の前に胡坐をかく。

 

 

「だって、殿だもの! 失礼のないようにしないとね、それに普段からやっておかないとさ? いざって時にボロが出ても困るし」

 

 つーくんがニコニコしながら言うと、美紀さんも同意するように頷いて口を開いた。

 

「そうですよ、なるべく武士語も使わないと♪」

 

 そんな事を言う美紀さんは、なんだかとても妖艶な雰囲気だ。女の子は全員、この時代の服に着替えて生活している。金田さんが郡上で買って送ってくれた物や、この村で調達した物しかないので、然程高価な着物ではない。

 

 薄い生地で作られた質素な和装は、美紀さんの大人の色気を増幅させている。その他の3人は、どう見ても夏祭りに出かけた浴衣の女の子にしか見えない。

 

 ただ、瑠依ちゃんと優理は活発に動き回るので、肌蹴た着物から飛び出す生足、特に太ももには目が釘付けになる。

 

 

「お、剛左衛門! おかえり!」

 

 伊藤さんが広間に到着した。

 

 相変わらず右手は首からぶら下がっているが、左手の傷はほぼ完治した様子だ。

 

 

 伊藤さんの着座を待って、つーくんから報告があった。

 

 名目上、飛騨のトップである【姉小路(あねがこうじ)】さんとの交渉、第一段階は見事にクリア。

 

 伊藤さんの狙い通り、飛騨守護姉小路さんのご当主【良頼(よしより)】さんではなく、ご嫡男の【頼綱(よりつな)】さんが全権を持って交渉相手になってくれる事が決まったそうだ。

 

 成功の要因があの山賊達だった事には、伊藤さんを含めて全員が驚いた。つーくんは伊藤さんに向きなおって報告を締めくくる。

 

「頼綱様から、伊藤さんに「お待ちしております」と伝えてくれと言われて来ました、本当に行くんですか?」

 

 伊藤さんは大きく頷いた。

 

「そりゃ行くさ、金田くんが戻ったらね」

 

 伊藤さんの返事につーくんも大きく頷くと、「じゃ、俺はもうひとっ走りしてきますね」と言いながらすっと立ち上がる。

 

 ちょうどそのタイミングで唯ちゃんが広間に入って来た。

 

「須藤さん、準備出来ました」

 

 唯ちゃんはつーくんの為の準備をしてきたのだ。

 

 

「戻ってきて早々で申し訳ない」

 

 伊藤さんがつーくんに謝罪しているのは、周辺の諸勢力との交渉スケジュールが突然過密日程になった事に対する物だ。とはいえ、別に伊藤さんが悪いわけではない。

 

 気候が春っぽかったので、俺達は勝手に春だと思い込んでいた。ところが、簡易キャンプが山の上なのと、そもそもこの時代はプチ氷河期に該当しており、全体的に気温が低い事を計算に入れてなかったのだ。

 

 事実、もう6月の下旬である。織田信長の稲葉山城攻略まで2ヶ月を切っているのだ。

 

 

「大丈夫ですよ! 栗原さんの特製おにぎりも食べたし元気いっぱいです! 行ってきます!」

 

 つーくんは唯ちゃんが用意した荷物を背負うと、足早に出て行った。

 

 次の目的地は、現在の飛騨白川郷。

 俺達の時代では観光地になっている白川郷も、この当時は単なる陸の孤島でしかない。

 

 その陸の孤島でしかないはずの白川では、金の鉱脈が発見されてから、鉱山を中心に賑わいを見せているというのだ。

 

 その地を支配する【内ヶ島(うちがしま)】さんとの交渉になる。内ヶ島さんが俺達を認めてくれれば、俺達は誰に脅かされる事もなく、名実共に大原で独り立ちが出来るのだ。

 

 

さっきからずっと不思議そうな顔で伊藤さんを見ていた優理が、ついに口を開いた。

 

「ところで伊藤さん、行くって、何処へ行くんですか?」

 

 

(あ、姉小路さんが「お待ちしてます」って事は、姉小路さんのトコかな?)

 

 俺もその詳細を知らないでいる。

 

 

 伊藤さんはちょっとニヤっと破顔した。

 

「えっとね、温泉♪」

 

 たぶん、「えー!? ずるーい!」とか、「瑠依も行く!」とか、そんな声が出るのを予想していたんだと思う。俺も当然、そんな反応がある物だとばかり思っていたのだが。

 

 

「???……おん……せん?」

 優理は首を傾げ、頭の上に「?」を出したまま止まってしまった。

 

 美紀さんも小声で「おんせん……おんせん……?」と、繰り返し呟いている。

 

 唯ちゃんも頭の上に「?」が飛び出しているし、同じく「?」を頭に付けた瑠依ちゃんが伊藤さんに質問をぶつけた。

 

「なんだか知りませんけど、瑠依は一緒に行けたりします?」

 

 

「え?」

 俺は思わず声が出てしまった。

 

(温泉が分からないのか、テレビとか温泉とかドラマとか、300年後には意外な物が無いんだなぁ)

 

 伊藤さんも本気で驚いているようだ。

 

「あれ!? なになに!? 温泉が何だか分からないとか、そんな感じ? 真面目に!?」

 

 女の子4人は揃って頷いている。

 

「しょうがないな、ま、最初は誰も連れていけないけどね」

 

 

 瑠依ちゃんが残念そうに項垂れた。

 

 美紀さんと優理は心配そうに「そこは安全なのか」とか、「遠いのか」とか、伊藤さんに質問攻めが始まってしまった。

 

 

「わかったわかった、落ち着いたら呼ぶよ、どうせ一回は殿にも来てもらわないといけないからさ、その時一緒においで!」

 

 

「やった~♪」

 

 瑠依ちゃんは無条件に喜んでいるが、優理は最初から付き添いで行けない事にご不満の様子だし、美紀さんも同様に着いて行きたいオーラが全開だ。

 

(俺もそのうち行くのか、心の準備だけはしておこう)

 

 

 行くのは当然、温泉に入りにではないだろう。石島家の当主として、姉小路さんにご挨拶に行くわけだ。

 

 

 その夜、俺と伊藤さんは女の子達に隠れてコッソリと酒盛りを始めた。話があったのは事実だが、どうせならお酒を飲もうとなった。なぜ隠れて飲むかと言うと、伊藤さんの怪我が完治するまで、美紀さんと優理がお酒を許さないからだ。

 

 隠れまでして飲んでいるそのお酒は、そこまでして飲む程の物ではなく、ハッキリ言って不味い。農家の方から分けて貰ったのだが、濁り酒は雑な味で飲み心地ものど越しも良くない。

 

 それでも男2人でコッソリ飲むという事に、何か友情のような物を感じる。

 

 

「それにしても、よく考え付きましたよね」

 

 俺はその不味いお酒を飲みながら、今回の各勢力との交渉についての話を始めた。

 

 

 当初、全てが予定通りであれば、まだ金田さんは出発してない事になる。

 

 本来の順序で言えば

 

【周辺勢力と友好的な関係の構築】

 

【織田家に対して協力姿勢を示す】

 

【姉小路から援軍の約束を取付ける】

 

【織田家に対し軍事支援を約束する】

 

【織田家から郡上の支配権を取付ける】

 

 

 この順序で3ヶ月ほどかけて物事を運ぶ予定だったのだが、時間が無かったので全てを同時進行にしたのだ。

 

 実際にはまだ話が纏まっていない部分についても、既に纏まっている事にして各勢力との対話を始める。かなり危険な賭けではあるが、織田の美濃侵攻というこのチャンスを逃すと、次はいつになるか分からないのだ。

 

 とはいえ、いくら金田さんが上手くやっても、実際に俺達が兵を動かす事が出来なければ、姉小路さんの援軍を借りる事が出来なければ、郡上の支配など認めて貰えるわけげない。

 

「考え付く以上に、実行するほうが大変さ、言うは易しって言うじゃん」

 

 伊藤さんはだいぶ動くようになった左手で酒を煽りながら、決意に満ちた光をその両目に浮かべている。

 

「すいません、俺は何も出来なくて」

 

 金田さんは命がけで織田家に行っている。おそらく今回のミッションで一番危険度の高い仕事だろう。それに比べたら、俺の仕事なんてちょろいものだ。

 

 

「なーに言ってんの、石島ちゃん大好評だよ? 知らない?」

 

 

「え? 誰にです?」

 

 伊藤さんが言うには、俺は村の人たちから大好評らしい。

 俺は何も特別な事はしてないのだが、それが彼らには大変に好印象だったようだ。

 

 

 やった事は、重い荷物を一緒に運んだり、一緒に泥まみれになって、一緒に小川に洗いに行ったり。

 

(だいたい、あの婆さん適当すぎるんだよな)

 

 俺は最初に出会ったあのお婆さんを思い出し、なんだか可笑しくなった。

 

 村の年寄衆に言わせると、俺と石島家の先々代は全然似ていないらしい。それでも年寄衆、若衆をはじめ、村の人は全員揃って俺を石島家の当主として迎え入れてくれた。

 

 

 とにかく皆の話を聞き、一緒に汗を流し、笑顔でいる事が大事だと思った。

 

 

 物思いにふけっていると、伊藤さんが恐ろしい事を言い始める。

 

 

「殿、お末ちゃんをどう思います? なんか四衛門さんがお末を殿の嫁にするとか言い出したんだけどさ」

 

 

「え? ちょっとちょっと! 勘弁してくださいよ!」

 

 流石に10歳の少女相手に、どう思うとか言われても困る。

 

 

「いやさ、一応断ったんだよ? いずれ名のある方のご息女を正室に迎えたいから、遠慮してほしいって頼んだのさ」

 

 伊藤さんは言葉を続ける。

 

「そしたらさ、妾でもいいからお側で使ってやってくんねーかとか言い出すんだよね」

 

 

 俺はたまらず伊藤さんの顔を覗き込んだ。

 

 別にニヤニヤとしている訳ではないが、ちょっと遠い目をしている。伊藤さんがこんな顔をする時は、その先にある何かを見据えている時だ。

 

「言って下さいよ、俺の意見はその後で言いますから」

 

 俺は御猪口に残った酒を一口に飲み干すと、伊藤さんの言葉を待った。

 

 

「四衛門さん、自分の死んだ後の事を心配し始めているんだよね」

 

 伊藤さんは言いながら、俺の御猪口に酒を注いでくれた。俺は「すいません」と言いながらそれを受け、伊藤さんの続きを待つ。

 

「お末ちゃんの上にもう一人いるんだよね、その上からはもう嫁いでるから心配ないんだけどさ」

 

伊藤さんは左手の御猪口を口に運び、残った酒を一口に飲み干す。

 

「お末ちゃんと、3個上のお栄ちゃん、それと十三くんと十五くん、この4人の就職先をどうにかしてほしいってお願いされてんだよね、四衛門さんにさ」

 

 この辺りの農家は土地がそれほど大きくない。その為、分割しての相続は現実的ではないだろう。

 

 そうなると、今の畑仕事の主役である十二さんが、このまま行くと田畑を相続する事になる。

 

 そうなってしまえば、十三さんと十五さんは、一生肩身の狭い想いをしながら兄の下働きになる。それが嫌なら家を出て行くしかない。

 

 

 そんな状況下で兄弟が喧嘩にならないよう、子供を作りまくった父親としての配慮なのだろうか。しかし就職先をどうにかしてほしいと言われても、紹介できる先なんて俺達には無い。

 

 

「全員さ、うちで雇ってもいいと思ってるんだよね」

 

 そう言う伊藤さんの左手に持たれた御猪口に酒を注ぐ。

 

 月明かりに照らされた木々が揺れる。

 

 屋敷の場所は簡易キャンプよりもだいぶ低いからだろうか、簡易キャンプよりもいくらか温かい。むしろ、少し生熱い、湿度が高くてあまり気持ちのいい陽気とは言えない。

 

 返事をしない俺に、伊藤さんは言葉を続けた。

 

 

「だからさ、殿がお末ちゃんを側に置くならそれでもいいし、置かないなら別にそれでもいい、ただ4人全員をうちで雇うのに関しては同意してもらいたいんだよね」

 

 

 伊藤さんがそう言うのであれば、反対する理由など一つもない。

 

「反対なんてしませんよ、ただ、10歳の子を俺の妾にしようとか考えないでくださいね?」

 

「ギャハハ♪ 悪い悪い♪ そんじゃ決まりね!」

 

 伊藤さんは御猪口を一口で空ける。

 

「温泉には十三くんと十五くん、それからお栄ちゃんを連れていく、お末ちゃんはしばらく面倒見ててあげて♪」

 

 この決定にも特に異存はない。

 

 

十三さんも十五さんも、実はけっこう腕が立つ。村を自衛するため、村の若者に声をかけては武芸の稽古を独自にやっているのだ。伊藤さんの護衛を頼むとしたら、今の村ではこの兄弟以上の存在はいない。

 

 

 そんな男が3人で、しかも敵国になるかもしれない相手の膝元に数日間滞在するのだ。お世話係が当然必要になるだろうが、お栄ちゃんはあのしっかりしたお末ちゃんのお姉さんだ、年齢も3個上なら13歳。お末ちゃん以上のしっかり者であれば、安心して任せられる。

 

「分かりました、ひとまず屋敷で働いてもらいましょう」

 

 

 俺はそう返答し、伊藤さんの御猪口に酒を注いだ。

 

 

「殿、十三くんと十五くん、いい目をしてるからさ、きっといい武将になるよ」

 

 言いながら俺の御猪口に酒を注いでくれる。

 

 

「【殿】ってなんか照れますね、特に伊藤さんから言われると変な感じです」

 

 伊藤さんの言う通り、あの2人はきっといい武将になる。

 

 

(なんとなく、直感てやつかな)

 

 

 そして、あの2人は俺達にとって、俺達の石島家にとって最初の家臣になるのだ。

 

 

「そろそろ金田くんも戻ってくるだろうし、そしたら俺はしばらく離れちゃうからさ、今までのおさらい、話しとくね」

 

 伊藤さんは改まって、今まで考えてきた事、何処までを考え、どう判断してここまでに至ったのかを話してくれた。

 

 

 正直、その話は俺の脳みその次元を遥かに超え、聞きながら驚くばかりだった。

 

 

 伊藤さんの予測では、転送にはある一定のルールがあるはずとの事。

 

 サポートの子達が持っていた端末1台で同時に転送できる人数は2名まで。

 

 確かに、一番初めに優理に会った時、俺は優理と同時にあの施設に転送されたようだったし、他の候補者も担当サポートと同時転送であの施設に飛んだそうだ。

 

 次に、転送に使われる方式。タイムズトンネルはその名の通り、トンネルなので同時に大人数でも通れる可能性がある事。

 

 最初にあの施設に行くときはトンネルだったので、候補者と担当サポートは同時に転送できたんだろう。逆に、この時代に来る時に使っていたタイムズゲートは、制限があって1名づつしか転送できない可能性が高い。

 

 確かに、この時代に来る時は1名づつの転送ですごく時間がかかった気がする。

 

 何かのトラブルで沢山の人が一斉に戻った時は、ゲートが肥大しているとか言っていたので、トンネルに近い状況だったのではないかとの事だ。

 

 

 そして、伊藤さんが戻らないと言った理由。

 理論上可能でありながら、実現した事が無いという同じ時代への再接続について。

 

 そもそも再接続が同じポイントに出来ないって話ではなく、過去に繋がるポイントその物がほぼランダムな可能性が高いそうだ。

 

 実際、候補者はあの施設に連れて行かれる前段階では、歴史の変革に挑むという説明は受けていたが、どの時代に飛ぶかは知らされていなかったし、質問をしてもその点については回答が得られなかったらしい。

 

 候補者を集めている段階では、まだ接続がされておらず、接続がされてみない事にはどの時代かさえもわかったのではないか。接続し、先行スタッフが接続先の調査をして、初めてどの時代のどの場所なのかが判明するのではないか。

 

 伊藤さんはこのような判断の元、元の時代に戻らないと決めたらしい。あの時、一度戻ってもう一度ゲームチェンジャーに挑戦したとしても、全然違う時代で挑戦する事になる可能性が高いと思ったそうだ。

 

 誰かをこの時代に置き去りにし、全然違う時代でゲームチェンジャーに挑戦する事に意欲が沸かなかった事と、二度と来れないこの魅力的な時代を生きてみたいという欲求が、残る決断を後押ししたと言う。

 

 

 そして、端末の定員、トンネルとゲートの違い、その場の人数、美紀さんの性格、美紀さんと明日香ちゃんのやり取り、明日香ちゃんの行動、それらを総合的に判断して【美紀さんが残る「決断」】をしたと確信したらしい。

 

 金田さんとつーくんも、端末の定員とその場の人数については理解していたようで、伊藤さんの合図に覚悟を決めてくれたそうだ。

 

 俺の頭の中とは次元の違う話の終盤、伊藤さんはしきりに明日香ちゃんを褒めていた。

 

 

「大親友を置き去りにして、あの場の雰囲気を【戻る】ほうへ傾ける役割……かなり辛かったと思うよ」

 

 そう言って、伊藤さんにしては珍しく、目に涙を浮かべるほどだった。

 

 

 確かにそうだ、明日香ちゃんがあんな風に戻っていなかったら、美紀さんを置いて帰るという事実をサポートの子達はすんなり受け入れなかったかもしれない。

 

 そしてあの勇気ある行動が、伊藤さんを突き動かし。伊藤さんに触発されて金田さんとつーくんが動いた。結果的に、戻れる人数は定員いっぱいまで戻れる方向になったんだ。

 

 にも関わらず、現実の裏にあったそれぞれの覚悟を、二人のバカは蹴ってしまった。伊藤さんへの想いからココに残った優理。優理への想いからココに残った俺。

 

 結局、俺達2人は更に唯ちゃんと瑠依ちゃんを巻き込み、伊藤さん達のお荷物になってしまっている。

 

 

(明日香ちゃんの覚悟まで踏みにじっちゃってたんだな……)

 

 

 俺は今更ながら激しく反省した。

 



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第19話 戦支度

 金田さんが尾張に出発した日から13日間、つーくんが再出発してから6日間が過ぎたその日、暦は7月に入った。

 

 織田信長の美濃侵攻まで1ヶ月を切った事になる。

 

 

「にゃはははは♪ つ~るりん♪」

 

 

 綺麗に改修された屋敷の中庭に、瑠依ちゃんの愉快な笑い声が響いている。

 

 

「にゃはは♪ つ~るりん、つるつるりん♪」

 

 

「るいちゃん言い過ぎ……アハハハッ♪」

 

 

 必死に笑いを堪えていた優理も、ついに我慢の限界に達したようだ。腹筋を崩壊させながら、涙を流して笑っている。

 

 

「よっ、おまたせ~」

 伊藤さんが中庭に隣接した広間に現れた。

 

 

「先輩~、この子達どうにかしてくださいよ……さすがの自分も傷つくッス」

 

 その広間では、優理と瑠依ちゃんに苛められている【つるりん金田さん】が泣きそうな顔で伊藤さんに訴えている。

 

 

「優理も瑠依も笑ったらダメだぞ、金田くんは皆の為に命を捨てる覚悟で頑張ってくれたんだ! だから笑ったらダメ!」

 

 

 伊藤さんは2人にビシっと言うと、金田さんに向き合った。

 

 この数日間で、いつのまにか唯ちゃんと瑠依ちゃんの事も名前で呼び捨てにするようになった伊藤さん。瑠依ちゃんはどうもそれが嬉しくてたまらない様子だ。

 

 

「ホントご苦労様でした! 金田くん凄いね! ほんと凄いよ!」

 伊藤さんはそう言って金田さんの肩をポンポンと叩く。

 

 

「やめて下さいよ、自分は先輩の凄さを改めて実感してきたっす」

 

 

 金田さんが言うには、織田信長とその家臣の微妙なバランスを見極め、交渉をスムーズに運ぶ秘策を伊藤さんから授かったらしく、その秘策通りに事が運んで見事に成功したらしい。

 

 伊藤さんは織田家主従の微妙な関係性を見事に予見し、織田信長という人の性格まで見て来たかのように的中させたそうだ。

 

「何となくは理解してたつもりだったんですけどね、あそこまで具体的に的中しちゃうと……もう神様かと思うくらいっす」

 

 金田さんは、織田家の小牧山城で行われたやり取りを細かく報告していた。

 

 報告を聞き終えた伊藤さんは、大きく頷くと、唐突に武士語で大きな声を出した。

 

「金田健二郎、大義であった!」

 

「ハハッ!」

 金田さんも合わせて、床に両手を付いて頭を下げる。

 

「褒美を取らそう!」

 伊藤さんはそう言うと、まだ必死に笑いを堪えている瑠依ちゃんと優理のほうを見た。

 

 

「瑠依! 優理! 金田健二郎の肩を揉んで差し上げろ」

 

 

『は~い♪』

 

 

(あ~、なるほどね)

 

 なんで金田さんの報告の場にこの子達が呼ばれていたのかを理解した。

 

 

「にゃはは♪ 近くで見ると迫力ありますよ! つるりんさん♪」

 

 瑠依ちゃんは肩を揉みながら金田さんの坊主頭を弄り倒すつもりのようだ。

 

「もう、るいちゃん!? まじめにや……プッ……アハハハハッ♪ ダメ無理! アハハハハッ♪」

 

 瑠依ちゃんが金田さんの頭をナデナデし始めると、優理はついに堪えきれずに本日2度目の腹筋崩壊に陥った。

 

 そんな様子を、伊藤さんは優しい目で見守っている。

 

 

「あ、殿もやってほしいですよね? 頭剃ります?」

 伊藤さんが意地悪な笑みを此方に向けてきた。

 

 

「頷いちゃいそうですよそれ、割と冗談になってませんから」

 冗談なのは分かっているが、現状の金田さんは羨ましい限りだ。ああなるなら、坊主頭も悪くないと思ってしまう。

 

(いいなぁ……)

 

 男の欲望とは実に素直なものだと身を持って体感中だ。

 

 

「にゃはは♪ つ~るりん♪ つるつるピかりん♪」

 

「ダメだって! アハハハハッ♪ お腹いたいアハハハッ! やめてアハハハッ♪」

 

 つるりん金田さんの頭で遊んでいる瑠依ちゃんと、その横で転げまわっている優理。床を転がりまわる優理の着物は思いっきり捲れあがり、綺麗な太ももが容赦なく俺の視線を奪っていく。

 

 つるりん金田さんの視線も同様に、優理に注がれていた。

 

 

(幸せそうだなぁ~金田さん)

 

 そんな俺達を余所に、伊藤さんは廊下に出ると中庭に向って叫んだ。

 

 

「十五!」

 

 

「ハッ! お呼びで!」

 

 伊藤さんの呼び声に、何処からともなく疾風のように十五さんが飛び出してきた。

 

 

「明朝出立する、仕度を急げ!」

 

「ハッ!」

 

 十五さんはまた風のように何処かへ消えて行った。

 

 明日の朝、伊藤さんはここを出て姉小路さんの所で本格的な同盟交渉に挑む。滞在は数日、長ければ7月中旬に入るかもしれない。

 

 とにかくこの同盟を成功させなければ、俺達に未来は無い。織田信長さんと約束してしまっているのだ、飛騨守護の援軍と、それを活用する俺達の郡上進軍を。

 

 

「金田くん、しばらく屋敷を頼むね! 俺今からちょいと四衛門さんの所に行ってくる」

 

「了解っす!」

 

 

 伊藤さんが広間を離れるのと同時に、つるりん金田さんへのご褒美タイムも終了のようだ。

 

 優理と瑠依ちゃんは「それじゃお仕事してきます!」と言い残し、美紀さんが忙しそうに走り回っている炊事場へ向かった。

 

 

「石島ちゃん俺、鼻血出てない? 大丈夫?」

 

 つるりん金田さんはまだお花畑から出れていないようだが、どうにか平常心に戻ろうと努力している様子で、なんだかとても面白い。

 

 

「大丈夫ですよ? それより金田さん」

 

 俺は金田さんの近くに移動して座ると、金田さんに頭を下げた。

 

 

「危険なお役目、有難う御座いました!」

 

 頭を丸めて白装束を纏っての交渉、一歩間違えればバッサリ斬られていた可能性も低くないのだ。

 

 

「そうでもしねぇとさ、なかなか信長様に取次いでもらえなくってね」

 

 髪の毛が無くなった金田さんの表情は、少し引き締ったように感じる。本当に命を懸けて戦ってきたんだろうと実感できる程に、男前になって帰ってきてくれた。

 

 

「これから先、命懸けで行動しないと駄目な場面は沢山ありそうですね」

 

 黙って頷く金田さんに、俺が今思っている不安を聞いてもらう。

 

「伊藤さんと離れるの不安なんですよね、これまでずっと一緒にいてくれたから」

 

 伊藤さんだけではなく全員と離れ、たった1人で行動している金田さんとつーくんに比べたら、実に情けない話ではあるのだが。

 

 俺をじっと見たまま無言だった金田さんが、突然身を乗り出してきた。

 

 

「いやぁあ~、殿! いいですね! 成長しました!」

 

 金田さんは俺の肩をバシバシと叩きながら言葉を続けた。

 

「自分の不安を口にするのは勇気のいる事、それを出来たのがまず成長の証!」

 

 そして俺の顔を覗き込むようにしながら。

 

「しかもその不安、自分のだけじゃないでしょ、女の子達が思ってる不安だよね? 口にはしないだろうけどたぶん……全員不安なんだと思うよぉ~、伊藤先輩と離れるのはさ」

 

 

 そう、俺の心配もそこだったりした。金田さんはとても満足そうに言葉を続ける。

 

「そこまで考えて、言葉を選んで話せるなんてさ、殿も段々と男前になってきたっすね!」

 

 言いながら立ち上がった金田さん。

 

 

「ま、それはさておき、いっかい簡易キャンプに行ってシャワー浴びてくるわ」

 

 広間から出て行こうとしていた。

 

「はい! 長旅お疲れ様でした!」

 

 

 これからの事とか、金田さんとも沢山話はしたかったけど。お疲れだろうから、今日はゆっくり過ごしてもらう事にした。

 

 夕方には伊藤さんの出発準備で女の子達が慌ただしく走り回っている。特に大変そうだったのが、お供をする3名分を含めた4名分の着替えと、道中の為の食料。

 

 背負って行くのも大変そうな大きな荷物が2つも出来てしまったのだ。その大きな荷物を前に、唯ちゃんが少し困った顔をしていたのだが、そこに現れた金田さんが「大丈夫っしょ」と言いながら中庭に出た。

 

「十三ちゃん! 十五ちゃん! ちょっと来て!」

 

『ハッ! 只今!』

 

 

 2人は颯爽と現れて、中庭に膝をついた。

 

 

 十三さんは今年で19歳になったそうだ。十五さんは今年で16歳。お栄ちゃんが13歳だから、ちょうど綺麗に3つ差が続いている事になる。

 

 

(フレッシュな感じするわ~)

 

 

 十三さんと十五さんは、金田さんの指示で荷物を担ぎ上げる。俺達が思っている程、その荷物は大変ではなかったようだ。

 

「この程度であればご心配には及びません」

 

 十三さんが丁寧に答えている間、俺もちょっと背負ってみようと思って荷物に手をかけたのだが。

 

(うわっ! これかなり重いじゃん!)

 

 ずっしりとした重みに、荷物にかけた手をコッソリ引っ込めるしかなくなってしまった。

 

 

――明朝

 

 まだ朝日が昇り始めたばかりの時間、伊藤さん一行は出発の為に屋敷の門前に集合していた。挨拶に来たのは俺達、四衛門さん、お栄ちゃんの友達。十三さんと十五さんのお友達は、見送りと警護を兼ねてどうやら途中まで同行するらしい。

 

 美紀さんからお栄ちゃんに色々と注意事項が説明されている。

 

 お栄ちゃんはその一つ一つにしっかりと頷き、ハキハキとした返事で答えていた。

 

 

(ホント、しっかり者だな)

 

 

 いよいよ出発するという時、優理が伊藤さんの正面に回る。

 

「伊藤さん! アレ見て下さい!」

 

 

 優理が指さした左前方の山の山頂付近、俺達がいた簡易キャンプの方向だ。俺も、当然のように他の皆も釣られてその方向を凝視する。

 

 けれども、何も見当たらない。

 

 

(ん??)

 

 何もないのを確認し、視線を優理に戻す直前。

 

「おっと……」

 

 伊藤さんが少し驚いた声を上げた。

 

 視線を戻した俺の目に飛び込んできたのは、伊藤さんの真正面から飛び込み、その胸に顔を埋めるようにして抱き着いている優理の姿だった。

 

 

(わざわざ隙を作って飛び込んだのね……萌える事するね~)

 

 やっぱり何度見ても胸はチクリと痛むが、最近はもう慣れた。

 

 

 数秒後、優理を邪魔するかのように、瑠依ちゃんも負けじと伊藤さんに飛びついた。ちょっと前までならここでギャーギャー騒ぎ出しそうな瑠依ちゃんと優理だったが、今日は無言で伊藤さんにくっついている。

 

 伊藤さんは2人の頭をポンポンしながら、唯ちゃんと美紀さんの方を見た。

 

「唯もおいで、美紀ちゃんも」

 

 伊藤さんは、自分にくっついてる瑠依ちゃんと優理をそのままに、手を広げて唯ちゃんと美紀さんを軽く抱きしめるようにした。

 

 

「留守をお願いね♪」

 

 美紀さんと唯ちゃんが黙って頷く。

 

「そろそろ出るね」

 

 

 伊藤さんのその言葉に、女の子達は名残惜しそうに少しずつ離れていく。優理は最後まで張り付いていたが、伊藤さんからのハグをもらってようやく離れる事が出来たようだ。

 

 その様子を見ていた金田さんが、かなり小声で耳打ちしてきた。

「なんか最近の先輩、お父さんって感じだよね」

 

「ですね」

 

 俺は一言だけ返すと、歩き始めた伊藤さん達の背中をじっと見つめている。

 

 金田さんの言う通り、伊藤さんは女の子達を本当に優しく包み込み、まるでお父さんのような存在感を漂わせている。女の子達はそれぞれ、多かれ少なかれ恋愛感情を抱いているのだろうが、伊藤さんの方は全く判らない。

 

 伊藤さん一行が山道を曲がり、その姿が見えなくなった頃。

 

 

 優理が屋敷へ駆け込む。それを追うようにして唯ちゃんも、そして瑠依ちゃんと美紀さんも続いて行った。

 

 俺からは少し離れた位置だったのでよく見えなかったけど、どうやら瑠依ちゃんは泣いている感じがした。

 

 

「ギリギリ泣かずに見送れたって感じか……ま、よく頑張ったでしょ」

 

 そんな独り言を残し、金田さんも屋敷に入って行く。

 

「それでは殿様、私どもも失礼致します」

 

 四衛門さんとお栄ちゃんのお友達が俺に一礼し、村の方へ戻って行った。

 

 

 辺りは深い緑一色だ。夏本番だというのに俺のいた時代のような、あの茹だるような暑さはなく、木々の合間を抜けてくる風が本当に心地よかった。

 

 

「よし!」

 

 何に対しての気合なのか、自分でもよく分からないけど、俺は気合を入れてから屋敷の門をくぐった。

 

 

 

 

 翌日、【戦仕度(いくさじたく)】のために金田さんが尾張から呼び寄せた商人さんが到着した。

 

「いやー、よくお似合いですな」

 

 俺は今、商人さんが連れてきた鎧職人さんに甲冑を試着させてもらっている。

 

「伊藤屋さん、こっちの甲冑だといか程でしょう?」

 

 

 金田さんが商人さんに、俺が試着中の甲冑の値段を聞いている。この商人さんは尾張で商売をされている【伊藤屋】さんという豪商のご主人で、わざわざご主人自らが足を運んでくれたと言う。

 

「金田様やご家中の方々の甲冑までお世話させて頂けるのであれば、殿様の分は寄贈させて頂きます」

 

 その言葉に、金田さんが確認を入れる。

 

「本当にいいんですか? 何度も言いましたけど、支払が出来るのは秋以降ですよ?」

 

 金田さんの言葉に、伊藤屋のご主人は満足そうに頷くだけだった。

 

 

 支払が秋になると言うのは、あくまで見込みである。全部が上手くいって、俺達が郡上の支配権を持つ事が出来れば、秋には年貢が治められて収入が見込めるのであって、上手くいかなければ全く支払えないだろう。

 

 

 伊藤屋のご主人は帳簿を眺めながら。

 

「素槍15本、甲冑15領、打ち刀15本、四方竹弓15本、弓矢300本、草鞋50足……」

 

 帳簿に記載された品々を読み上げ始めた。他にも、食料、陣を形成するための陣幕や板や杭、生活の為の陣笠や寝起きに使う物等、武器や防具意外にも用意する物が多すぎて正直驚いていた。

 

 俺が想像していた量を遥かに上回る品数になっている。

 

 

(戦をするって大変なんだなぁ)

 

 

 一通り読み上げ終わると、伊藤屋のご主人が満面の笑みで俺に話しかけてきた。

 

「丹羽長秀様より内密なお達しがありましてな、石島様には便宜を図るようにと言われておりますので、ご要望があれば何なりと申し付けて下さい」

 

 伊藤家のご主人は「実はですな」と言葉を続ける。

 

「只今申し上げた品々、お支払は済んでございます」

 

 

「え!?」

 

「ちょ!? まじっすか!?」

 

 俺と金田さんは驚きの声を上げた。

 

 

「へぇ、手前も詳細までは存じ上げませんが、恐らく小折様からの援助かと」

 

 

「こおりさま?」

 俺には全く心当たりの無い名前だった。

 

「か~っ、丹羽様の根回しだなぁ、生駒様か」

 金田さんは1人で納得したようだ。

 

 伊藤家のご主人が鎧職人さん達を引き連れて尾張に向うと、入れ違うようにやって来た積荷が運び込まれ、夕方には帳簿に記載されていた大量の品々が屋敷に納品された。

 

 

「すご~い♪ これ全部もらっちゃったんですか?」

 

 瑠依ちゃんの歓声に金田さんが答えた。

 

「いやいや、無言の圧力だよこれは……しっかり働かないと命は無いと思わないとイカンくなったな」

 

 唯ちゃんと優理は届けられた品々を楽しそうに物色中だ。

 

 そんな中、美紀さんが難しい顔で俺を呼んだ。皆から少し離れた場所に移動すると、本題に入る。

 

「石島さん、気付いてます?」

 

「はい」

 

 

 そう、実は俺もすごく心配な事がある。恐らく、美紀さんの心配も同じ中身だろう。

 

 

「須藤さん、遅いですね……」

 

「はい……明日の朝まで戻らなかったら村の人たちに要請して捜索隊を出しましょう」

 

 

飛騨白川まではそう遠くないのだが。8日が経つにもかかわらず、つーくんが戻らないのだ。

 

 

 

 

――夜になって、金田さんも一緒に頭を抱えている。

 

「持って行った携行食は4日分、すでに倍の日数が経過か」

 

 金田さんが難しい顔で思案中だ。

 

 

 空は白み始め、鳥の鳴き声が聞こえ始めた。もうすぐ夜が明ける。

 

 

 つーくんが戻らないとおかしい事実を、俺と美紀さんと金田さんだけで共有している。余り他に心配を広げても事態は好転しないからだ。

 

 

  <ズズズズ>

 

      <ズズズズ>

 

 

「ん?」

 

 俺は何かの音に気付いた。

 

 

 重たい何かが、地面をずっているような。

 

 

 

  <ズズズズ>

 

      <ズズズズ>

 

 

「ほら、この音、金田さん聞こえました?」

 

 

「ん? 音? んーーー、わからんな」

 

 

 俺達は耳を澄ませる。

 

 

 

  <ズズズズ>

 

      <ズズズズ>

 

 

 

「死体を運んでいるのかしら」

 

 美紀さんがとても怖い事を言い出した。

 

 

「死体って、発想が怖いですよ、重い何かだと思うんですけど」

 

 

 

  <ズズズズ>

 

      <ズズズズ>

 

 

 金田さんにもようやく音が聞こえたようだ。要するに、音は少しずつ近くに来ている。

 

 

「ちょっと見てくるかな、念のため武器は持っておこう」

 

 そう言って、金田さんは伊藤家さんが持って来てくれた日本刀を手に、屋敷の外へ出た。俺と美紀さんも外庭に出て、門の所にいる金田さんを見る事が出来る位置に陣取った。

 

 

「あれ? ごうざえもん!!」

 

 金田さんが突然走り出した。

 

「え? あれ? 金田先輩? 頭どうしたんですか!?」

 

 つーくんの声も聞こえた。

 

 

「こら! 変な言い方すんな! 頭は正常だ!」

 

 

「美紀さん、行こう!」

 

 まだ薄暗い中、俺と美紀さんも屋敷の外へ飛び出した。

 

 

「あれ? 皆起きてたんですか? なんだ~、先に呼びに来ればよかった……」

 

 つーくんはそう言うと、そのまま地面に引っくり返った。

 

 

「剛左衛門! 何かあったのか!?」

 

 金田さんと美紀さんが心配して駆け寄る。

 

 

 つーくんの見た目は特別な外傷はなさそうだ。荷物はビールケースくらい大きさの木箱が1つ。

 

「いやぁ、コレが運べなくて死ぬかと思いました……」

 

 つーくんは木箱をペチペチ叩いて「これ、運ぶの手伝ってください」と言いながら、どうにかこうにか立ち上がった。

 

 

 なんだかボロボロで疲れ切ったつーくんに荷物を持たせるのも悪いので、俺が変わりに運ぼうと思い、木箱に手を賭ける。

 

「つーくんいいって、こんなの俺が運ぶからだいじょ……!? え?……なにこれ!?」

 

 

 木箱はピクリとも動かない。良く見ると、屋敷の前の通りには木箱をずっと引きずってきたであろう線が、かなり遠くまで続いている。

 

 

 つーくんはニヤっと笑うと、疲れ果てたドヤ顔を見せてくれた。

 

「それココまで運んで来たんだぜ?俺すごいっしょ!」

 

 

「何が入ってんの?」

 俺が尋ねるのと、金田さんが木箱を開き始めるのはほぼ同時だった。

 

 

「見たらわかりますよ、まぁそれ、金(きん)ですけどね」

 

 

「え?」

 

 

「うわぅ、こりゃすげぇ」

 

 金田さんが驚いたのは無理もない。

 

 

 木箱の中には、拳サイズから少し小さ目の金まで、不格好でサイズもバラバラな金塊が無造作にぎっしり詰まっているのだ。

 

 

「とりあえず運んだらちょっと寝させてもらってもいいですか? もうヘトヘトで……」

 

 

「須藤さんはもう大丈夫です、後は金田さんと石島さんで運ぶので、先にお休みになってください」

 

 美紀さんが優しく背中を押し、ボロボロなつーくんを屋敷に誘導していった。門をくぐる直前、つーくんが「事情は明日ね!おやすみ~」と声をかけてくれた。

 

 

「さぁ~って、殿、運んじゃいますか!」

 

 何重にも補強された木箱は、中身が入っていなくてもけっこうな重さがありそうだ。

 

「金田さん、無理してぎっくり腰とかならないで下さいね?」

 

 

 屋敷の門までは10mもないが、この距離を進むのにずいぶん時間が掛った。俺と金田さんは終始冗談を言いながら運んでいたのだが、そうでもしないと辛くて投げ出したくなるような重さだった。

 

 

「こんなもん、どうやって白川から運んできたんだろ」

 

 つーくんの意外な怪力っぷりに、ただただ脱帽するしかない。

 

 

 その日、俺達はずいぶんと寝坊した。昼過ぎにはつーくんを残して起きていたが、特にこれと言って急ぎの仕事もなく、まったりと過ごしていた。

 

 

 夕方近くになってつーくんが起きてくると、白川でのやり取りについて報告がなされた。

 

 

「それでまぁ、意地になって運んで来たわけですよ」

 

 白川の内ヶ島さんとの交渉は、そこそこ上手くいったそうだ。

 

 石島家再興と大原の統治に関しては、特に利害は無いので承諾してくれた。今後の友好関係については「宜しく頼む」と言われただけで、それ以上の明確な返答は得られなかったものの、その裏には【面倒な事には関わりたくない】という保守的な思いが見え隠れする感じだったとか。

 

 要するに【喧嘩をするつもりは無いけど、特別仲良くするつもりも無い】という事なのだろうが、それを口に出してしまえば喧嘩になりかねない。

 

 そこで彼らなりに一計を案じたといった所か。

 

 それが、帰り際に「友好の証としてお受け取り下さい」と用意されたあの木箱。大きさはビールケースくらいなので運べない物ではないが、内ヶ島の方々はつーくんが1人で来たのを知りながら、それを渡したのだ。

 

 重そうにしていると「まさか友好の証を置いて行く等とは申されますまいな」とニヤニヤしながら言われたそうで。

 

 

 友好の証にしては高価過ぎるが、そもそもくれる気なんて無かったんだろうと思う。

 

 到底運べない物を渡し、今回の友好の件については石島家側が進物を置いて帰ったという形にする事で、白紙にしてしまおうと思ったに違いない。

 

 

「鍛えておいて良かったと思いましたよホント」

 

 つーくんは、あの日から必死にトレーニングを積んでいる。あの日とは、伊藤さんが山賊を打ち負かしたあの日だ。トレーニングの理由は色々あるだろうが、公言していたのは「親分の鉄槍は自分が使います!」だ。

 

 あの重い槍を自在に操るため、つーくんは日々トレーニングに励んできた。それが意外な形で役に立ってしまった。

 

 しかし、進物をしっかり受け取れた以上、今回の交渉は対外的には【上手くいった】と言い切れる。

 

 

 内ヶ島の人たちはさぞ悔しがっているだろうが、友好関係を結ぶと言って木箱いっぱいの金までプレゼントしてしまったのだ。

 

 今更「やっぱり返せ、仲良くなんて出来ない!」なんて言えるわけがない。

 

 

「あひゃひゃひゃ♪ 剛左衛門お手柄だったすね! あひゃひゃひゃ♪」

 

 

 思わぬ収穫で、俺達は潤う事になった。

 

 この金の使い道については、伊藤さんの戻りを待ってから決める事になったが、金田さんの目算では今回買い込んだ備品や食料の代金を払ってもお釣りが来るのではないかとの事。

 

 

「じゃ~あとは、伊藤さんを待つのみですね!」

 

 美紀さんは何だかちょっと嬉しそうだ。他の事の心配をせず、伊藤さんの事だけを考えてよくなったからだろうか。

 

 

 優理達が炊事場で夕餉の仕度を始めてくれている。つーくんが戻った事で、美紀さんの心配事も1つ減った。美紀さんの言う通り、あとは伊藤さんからの知らせを待つだけとなったのだ。

 

「ですね、じゃ、金田さん、行きますか」

 

「ハッ!」

 俺の声掛けに、金田さんはわざとらしく手をついて返事をした。

 

「もう、やめて下さいって」

 俺は苦笑しながら席を立つ。

 

「あれれ?どっかいくの?」

 つーくんが不思議そうな顔をしている。

 

 

 俺と金田さん、それから美紀さんの3人で、今日決めた事がある。

 

 

 金田さんが説明してくれた。

 

「ここの領主になったわけだし? 1日1回くらいはちゃんと見回りしないとね!」

 

「そゆこと♪」

 俺の相槌を合図にするかのように、金田さんも席を立つ。

 

 釣られるようにつーくんも席を立つ。

 

「なるほど!」

 そう言うと走って広間を出た。しばらくして戻ってくると、その右手にはあの重い槍を握っている。

 

 

「行こう! 俺もついて行く♪」

 

 

 こうして、何もない日の見回りは俺達の日課になっていった。

 

 

 その日から、雨が降っても欠かさずに見回りを行った。特に事件なんてなかったけど、村の人達は俺達の姿を見ると遠くからでも手を振ってくれたり、いつも歓迎してくれた。

 

 

 

 

――伊藤さんが出発して今日で10日目になる。

 

 昨日あたりから瑠依ちゃんがブーブー言い始めた。なかなか知らせが来ないので、優理も心配な様子だ。

 

 俺達の見回り中の話題は、女の子達の話題が多い。普段は皆一緒にいるので、男だけになる機会としてこの見回りタイムは貴重な時間だ。

 

 今日の話題は、お栄ちゃんとお末ちゃんだった。

 

 金田さんは尾張に行っていたので、四衛門さんと伊藤さんの細かいやり取りをつい先日まで知らないでいた。お末ちゃんが何故に石島家の屋敷で働いているのかを、十三さんと十五さんとお栄ちゃんが何故に伊藤さんに付き添っているのかを、詳しくしらなかったのだ。

 

 

「お栄ちゃんとお末ちゃんって、南端の家の奥さんの妹さんでしょ?」

 

 

 南端の家とは、四衛門さんの御嬢さんが嫁いだお家だ。今年で21歳になる若奥様だが、奥様と言っても農家なのでセレブ感は皆無である。

 

 金田さんの言う南端の家がどの家を指すのか、つーくんはすぐに理解したらしい。

 

「そうなんですよね、あの2人も絶対ちょー美人になりますよね? 俺めっちゃタイプですもん、作太郎さんちの奥さん」

 

 作太郎さんとは、南端の家のご主人だ。

 

「あ~、作太郎さんの奥さんか、確かに美人だよね! へ~、つーくんのタイプはあんな感じなんだ♪」

 

「わからなくもねぇな! いい女だ! あひゃひゃ♪」

 

 

「つーくん、お末ちゃんをお嫁にもらったらいいんじゃない?」

 

 俺は伊藤さんに言われた事をそのままつーくんに突き付けてみた。

 

 

「ん~、最低でもあと5年は待たないと駄目でしょ」

 

 半分くらい冗談だったのだが、割と真面目な返答が来てしまった。

 

 その様子に金田さんがニヤニヤしながら。

 

「お栄ちゃんはもう駄目そうだよね、伊藤先輩の虜になって帰ってきそうだよな! あひゃひゃひゃ♪」

 

 

 温泉で10日以上を一緒に過ごした男女が、どんな関係になるかなんて想像したら恐ろしい。なんせお栄ちゃんはまだ13歳、数え年らしいので、俺達の時代の計算で言うならまだ12歳だ。

 

 

「兄貴が2人も付いてるからな、そうそう手はだせねぇか」

 金田さんはどうもロリコンなのだろうか。

 

「いや~、わかんないですよ? 兄貴達が進めるかもしれないじゃないですか、妹が伊藤さんの側に仕える事になったら安泰かもしれないじゃないですし」

 

 つーくんがちょっと怖い事を言う。別にそれがいけない事ってわけでもないけど、なんかちょっと否定したくなった。

 

「んー、でも伊藤さんが拒むんじゃない? だって瑠依ちゃんを断ったり、あんだけベタ惚れな優理にさえ手出してないぽいじゃん」

 

(手出されてたら困るんだけど)

 

 自分て言っておきながら、想像したらちょっと落ち込んだ。

 

 

「え? 石島ちゃん知らないの? まぢで!?」

 ワンテンポ遅れて金田さんが驚いてみせた。

 

「知らないって、何をですか?」

 なんだか胸騒ぎがする。

 

「あれ? よーくん本気で知らないの?」

 

 

(嘘だ……やめてくれ……)

 

 

「ま、今のは忘れてくれ!」

 そう言って金田さんが急に早足になった。

 

「待たれよ! 金田殿! お待ちを!」

 武士語になったつーくんも足早に金田さんを追いかけ始める。

 

 

「ちょっとおおおお! 気になって夜しか寝れなくなるじゃないか!」

 俺は冗談で誤魔化しながら後を追ったが、内心は心臓がバクバクだ。

 

 俺が追いかけると、金田さんに追いついたつーくん、そして金田さんが同時にこっちを振り返る。

 

 

 

「なんてな! うっそぴょ~ん! あひゃひゃひゃひゃ♪」

 

 

「ギャハハハハ♪ 本気で焦ってるし♪ 心配ないって! ギャハハハ♪」

 

 

(カッチーン)

 

 完全にからかわれた。

 

「おのれ等! 無礼であろう! 覚悟致せ!」

 

 

 俺は槍を抱えて2人を追う。

 

 

「ひえ~、殿! お許しを~ギャハハハ」

 

「あひゃひゃひゃ♪ 無礼討ちされる! あひゃひゃひゃ」

 

(こんな平和な村で、あんな事件が起きるなんて、この時は誰も想像していなかった)

 

 なんて言いたくなるシーンだが、本当に何も起きない平和な村だ。

 

 

(伊藤さん、まだかなぁ)

 

 俺は2人を追いかけながら、伊藤さんの帰りを心待ちにしていた。



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第20話 洋太郎の初陣

■1567年 7月中旬 飛騨国

   桜洞湯治場 仮屋敷

 

 

「おかえりなさいませ」

 

 歳の割には大人びた見た目の少女は、伊藤の帰りを三つ指付いて出迎えた。まだ多少のあどけなさを残すこの少女は、自分が主に対して抱き始めている想いの正体を知らないでいる。

 

 未だ経験した事のない想いは【忠誠心】なのか【恋心】なのか。それともその両方なのか。どちらも未体験の少女には、人生で初めて感じる心の高鳴りである。

 

 

「ただいま~、お栄ちゃんお昼食べた?」

 

「はい、先程、兄様達とご一緒させて頂きました」

 

 桜洞城で伊藤に用意されたのは、小身の石島家にとってみれば特別過ぎる程の待遇で、湯治場付近にある屋敷がまるまる一つ貸し与えられたのだ。

 

 屋敷と言っても大きい物ではなく、広間を含めて6部屋がある程度だが、4人で湯治に来ている伊藤一行には十分すぎる広さだった。

 

「そっか、なら大丈夫♪」

 

 その一室、伊藤が居室として使っている部屋で出迎えた少女は、直に自らがすべきことを察知する。

 

「昼餉の仕度は出来ておりますので、すぐにお持ちしますね」

 

「あら、有難う、あとさ、十三と十五にココに来るように伝えておいて」

 

「かしこまりました」

 

 少女は一礼すると、行儀よく退室して炊事場に向う。

 

 

 桜洞に入ってからというもの、伊藤は毎朝のように姉小路頼綱の居宅に通うのを日課にしている。昼過ぎに戻ると、今度は兵練場に入って日が暮れるまで過ごし、夕刻から湯治場に入る。

 

「十三十五、控えております」

 

 伊藤の居室の壁に沿うように、2人の若者片膝をついてかしこまった。

 

「入って入って」

 

 この若い兄弟は、ここ数日間で見違える程にたくましくなった。兵練場で若い新兵と共に日夜訓練に励んでいるのだ。

 

 

「ハッ」

 

 十三に続いて十五が部屋の入口付近に入って傅く。

 

 

「今日ね、正式に許可が降りたよ! 新兵さん達30人をうちで貰い受ける事になった♪」

 

 

「おお!」

 

 伊藤が日々通っていた姉小路頼綱の居宅では、新兵を貰い受ける交渉が行われていたのだ。

 

 ただし、その貰い受けには条件が付いた。その条件についての交渉は、今後になるため明確になっておらず、その為伊藤は2人にそれを伝えないでいた。

 

 

「てなわけで、二人とも急いで大原に戻ってもらいたんだ、30人分の住まいと、それから美紀ちゃんに言って、コッチに来たければ女の子4人を連れて来てあげて」

 

 

「ハッ!」

 

 十三の承諾の後、十五が遠慮しながらも伊藤に頭を下げて頼みごとをした。

 

 

「恐れながら! このような湯治場、そうそう来れる物でも御座りませぬ故、お末も連れて参る訳にはいかぬでしょうか、父や兄までもとは申しませぬ、せめてお末だけでも」

 

 兄2人、姉1人と一緒に石島の屋敷で働く末の妹を想い、兄なりに精いっぱいの頼みであった。その十五の頼みごとを聞いた伊藤は、少し考えるような素振りを見せる。

 

 

 伊藤の反応に対し、青ざめた十三が叫んだ。

 

「十五! あつかましいぞ! 控えろ!」

 

 

「まぁまぁ、十三いいよ大丈夫だって、そんな事で怒らないからさ」

 

 伊藤は笑顔で十三を宥めると、優しく十五に語りかけた。

 

「まずね、十五の間違いが一つ」

 

「ハッ!」

 

 伊藤の指摘が始まる前に、十五は床に額を付ける程に頭を下げた。

 

「湯治場に滅多に来れないってのは間違いね、今はそうかもしれないけど、近い将来、好きなだけ来れるようになるから!」

 

 そこまで言うと伊藤は立ち上がり、頭を下げている十五の正面でしゃがんだ。

 

 

「お末ちゃん、連れておいで? でもね、そのうちさ、四衛門さんや十二さんも湯治場に連れていけるようになるから、頑張って働いて、立身していこうな!」

 

 そう言って十五の方をポンポンと叩く。

 

 

「ハハッ!」

 

 十五は更に深く、頭を下げる。

 

 

 伊藤は言葉を続けた。

 

「あ、それからね? 二人ともかなり評判いいよ、頼綱様も2人を見て『気持ちのいい若武者だ』って言ってたし」

 

 それを聞いた十三が頭を下げる。

 

「勿体なきお言葉で御座います」

 

 

 伊藤は十三と十五を交互に見るようにすると、にんまりと笑う。

 

「それでね! 頼綱様から2人に贈り物があるだよね! 預かってきたから今受け取ってちょうだいな♪」

 

 この兄弟にしてみれば、飛騨守護の次期当主から贈り物と言われても、自分達が今まで生きてきた次元と違いすぎて理解が出来ない。

 

 

 伊藤が差し出したのは、小さな筒が1本。

 

「開けて♪」

 

 

 十三がそれを受取り、促されるままに開く。筒から出てきたのは、手の平程度の大きさの紙が一枚入っているだけだった。

 

 その紙の中央に「綱」と書かれている。

 

「頼綱様、2人の【烏帽子親(えぼしおや)】になってくれるってさ!」

 

 

 驚きのあまり目を丸くして固まっている兄弟に、伊藤は別の筒を差し出す。

 

「で、こっちは俺からね」

 

 その筒は二本あり、十三と一五がそれぞれ受け取った。

 

 

 十三が筒を開くと「義」と書かれた紙が入っており。

 

 十五が開いた筒には「忠」と書かれた紙が入っていた。

 

 

「兄は義を以て石島に尽くし、弟は忠を以て兄に尽くせ! 俺からのお願いね♪」

 

 

 更に、姉小路頼綱から両名に一振りづつの【太刀(たち)】が贈られた。飛騨守護の嫡男から贈られたその脇差は、【関の孫六(せきのまごろく)作】の所謂(いわゆる)「名刀」である。

 

 十三と十五は、その厚遇に肩を震わせ、涙を流して喜んだ。

 

 こうして十三と十五の兄弟は、この日を境に武士となり、石島家の家臣として乱世の荒波に挑んでいく事になったのである。

 

 

 

■1567年 7月中旬 飛騨国

   大原村 石島屋敷

 

 

 伊藤さんが桜洞に発ってから15日が経ったこの日、十三くんと十五くんが大原の石島屋敷に戻ってきた。

 

「で? で? で? 行ってイイって? ね? ね? どうなの? どうなの?」

 

 2人が帰還の挨拶を俺に済ませると、待ちくたびれた瑠依ちゃんが食いつくように2人に質問を浴びせた。

 

「はい、美紀殿にお伺いを立て、宜しいようであればお末を含めて湯治場に参られよとの事です」

 

 

「お末ちゃんもいいんですか!? やった♪」

 

 笑顔で答えた十三くんに、優理が歓喜の声を上げる。

 

 お末ちゃんがうちで働くようになってからというもの、優理は本当によく可愛がっている。瑠依ちゃんからの好かれっぷりといい、元々年下の女の子が可愛くて仕方ないのだろう。

 

 瑠依ちゃんはもう既に、飛ぶように美紀さんの所へ行ってしまった。後を追うように、優理も席を立つと「おすえちゃ~~~ん!」と叫びながら炊事場に向う。

 

 

「金田様と須藤様はお屋敷の留守をお守り頂き、不詳、この十三と十五が道中の護衛を務めますので、殿もお急ぎご準備下さい」

 

 十三くんが言い終わって頭を下げると、十五くんも合わせるように頭を下げる。この2人の異変に、俺達3人は気付いていた。

 

 2人とも、広間に入る前に左腰に差してあった太刀を鞘ごと引き抜くと右手に持ち、座ると同時に自身の右側に置いたのだ。

 

 

「ずいぶん高そうな刀ですね」

 

 その刀から一番近い位置にいたつーくんが声をかけた。

 

 恐縮しながらの2人が言うには、姉小路頼綱さんに贈られた貰い物だとか。更に十三くんが畏まって「申し上げたき義が」と頭を下げる。

 

 俺が頷いて「どうぞどうぞ、遠慮せずに」と促すと、なんと名前を変えたのだと言い出した。

 

 

「これからは武士として、石島家の末席に加えて頂きます」

 

 そう平伏する2人の若武者が、とても心強く見えた。

 

 

 兄の十三くんは【大原綱義(おおはらつなよし)】と名乗り。

 

 弟の十五くんは【大原綱忠(おおはらつなただ)】と名乗る。

 

「かっこいいじゃん!」

 

 俺は素直にそう思った。

 

 

「俺達もなんか名前考えないと駄目だなぁ」

 

 金田さんが何やらブツブツと1人で言いながら名前を考え始めた。一応、俺達は既にこの時代に合せた呼び名を持っている。

 

 つーくんは、須藤剛から【須藤剛左衛門(すどうごうざえもん)】に。

 

 金田さんは、金田健二から【金田健二郎(かねだけんじろう)】に。

 

 伊藤さんは、伊藤修一から【伊藤修一郎(いとうしゅういちろう)】に。

 

 俺はそのまま、石島洋太郎のままだ。

 

 ただ、金田さんが言う「名前」とは、男であれば大人になる儀式の【元服(げんぷく)】の際に名乗りを改めると言う。その儀式は通常、14歳~16歳くらいの間に済ませるそうで、俺達の年頃には持っていて当然の名前なのだ。

 

 

「すでに歴史上にいますからね、歴史上の人物から貰うのも気を付けないとかぶっちゃいますよね」

 

 つーくんは最初、有名な武将から貰うのを考え付いたらしいが、現存する武将と名前がかぶる可能性が高い。かぶった所で問題は無いのだが、流石に「信長」とかは気が引ける。

 

 

「大原兄弟の名前付けたの伊藤さんだし、伊藤さんに聞いてみたらいいんじゃないですか?」

 

 シンプルに考えるとそうゆう結論になる。金田さんもつーくんも異論無しだった。

 

 明朝、俺は十三くんと十五くんに護衛されながら、若干ハーレム状態で屋敷を発った。道中の話題は、未来から来た女の子達にとっては未知の世界である「温泉」で持ちきりだ。

 

 実はこの時代、お風呂が無い。

 

 正確には、湯船という物が存在しないのだ。【風呂】と言えば、蒸気で満たされた狭い部屋で体を温めるサウナのような物を指す。湯船やシャワーに慣れた俺達にはけっこう厳しい時代だ。

 

 俺達の屋敷にも、蒸気の風呂は存在する。お湯はもちろん沸かせるし、お湯で浸した布で体を拭く事もできるのだが、その程度と言えばそれまでだ。

 

 特に女の子達は3日に一度くらいはわざわざ往復4時間以上かけてシャワーを浴びに簡易キャンプへ通っている。そんな女の子達にとって、温泉は魅力的な存在なのだろう。水の補充を心配する事無く、永遠に沸き続けるお湯が使い放題なのだ。

 

 

 桜洞の湯治場まで、ほぼ丸1日を要す。

 

 途中何度か休憩をはさみ、美紀さんが用意してくれた握り飯を食べながらの長旅になったのだが、意外な事にその遠さには誰も文句を付けなかった。

 

 

 一番疲れていたのは俺らしい。

 

 優理の身体能力は、今までも何度か垣間見てきた。瑠依ちゃんも結構な運動神経の持ち主だ。美紀さんも唯ちゃんも、歩けど歩けど疲れを見せない体力を持っていて、俺は自分が情けなくなる。

 

「サポート部の訓練は厳しいんですよ? これくらいどうってことないです♪」

 

 夕方、到着する手前で唯ちゃんが天使のスマイルで俺を励ましてくれた。

 

 

 大原兄弟の案内で着いた湯治場は、賑やかでいくつかの店が並んでおり、優理と瑠依ちゃんは目をキラキラさせながら「明日行ってみよう!」と相談をしている。

 

 

「優理と瑠依で遊びに行っちゃうのか、唯は殿とデートでしょ? そしたら私は伊藤さんとデートかな」

 

 

「え~~~! 駄目です! 美紀ねぇは瑠依ちゃんとです!」

 

「え? 優理先輩1人で遊ぶんですか? だったら私は美紀ねぇと伊藤さんと3人で遊びます♪」

 

「ちょ!? なにそれ! 違うよ違う、私が伊藤さんとデートだってば!」

 

 

(相変わらず羨ましい限りで……)

 

 

 俺は苦笑しながらそのやり取りを眺めていた。気付くと、唯ちゃんが少し恥ずかしそうにコッチを見ていたので、あまり期待させても悪いから言っておく事にした。

 

「ごめんね、俺は多分、遊んでる余裕ないわ、伊藤さんもだと思うけどね」

 

 唯ちゃんは小さく頷くと。

 

「分かってますよ♪ 大切なお仕事があるんですよね?皆それくらい分かってますから気にしないで下さい」

 

 とても優しい笑顔でそう言ってくれた。

 

 

 伊藤さんが借りているお屋敷が見えてくると、十五さんが走って伊藤さんに知らせに行った。もう日は完全に傾き、少し薄暗い程になっている。

 

 

「おっじゃましまーす♪」

 

 瑠依ちゃんの大きな声を、伊藤さんとお栄ちゃんが笑顔で出迎えてくれた。

 

「長旅お疲れ様~」

 

 

 全くもってどうしようもない話なのだが、伊藤さんの姿を見ただけなのに、なんだか胸に熱い物が込み上げてくる。

 

(俺がこんなんだからなぁ……)

 

 予想通り、優理と瑠依ちゃんは熱い物が胸にとどまらず、両目から込み上げている。

 

(大げさなんだよな……俺も含めてだけど)

 

 約2週間離れていただけなのにコレじゃ、この先もっと離れる期間が出来たら大変だ、想像が付く、大泣きするだろう。

 

 

 伊藤さんとお栄ちゃんが用意してくれた3つの桶には、水が張られていて、そこで足を洗って屋敷にあがった。既に夕餉の仕度が出来ており、全員でお栄ちゃんの手料理を御馳走になる。

 

 

「やっぱりお栄ちゃんの味付けが最高♪」

 

 美紀さんは満足そうに料理を口に運んでいる。他の皆もお栄ちゃんの作る料理が一番好きだ。

 

 

「殿、一献」

 

 伊藤さんがニコニコしながら俺にお酒を勧めてくれた。

 

 俺は普通に伊藤さんにも勧めたが、伊藤さんがお酒に口を付けようとした瞬間、美紀さんと優理が怒涛の勢いでそれを辞めさせてしまった。

 

(厳しいなぁ……ちょっと羨ましい気もするけど)

 

 夕餉も終わり、俺は日本酒を飲んだせいもあって、完全にオネムモードに突入してしまった。

 

「殿はお疲れのようですから、お栄、寝所の仕度を」

 

「畏まりました」

 

 伊藤さんに促され、お栄ちゃんは一礼すると別室に向う。

 

 

「元気な人は温泉を案内しよっか? 入りたくてウズウズしてるっしょ? 俺も今日まだ入ってないし、お酒も飲ませてもらえてないし? 気分転換に一風呂浴びてくるしさ」

 

 伊藤さんの言葉に、女の子はウンウンと頷き、目をキラキラさせている。

 大原兄弟が「殿の護衛に残ります」とだけ言うと、伊藤さんはそれに頷いていた。

 

 

「姉様はゆかれるのですか?」

 

 伊藤さんに対してまだ緊張気味のお末ちゃんが、十五くんに問いかける。

 

 

「ああ、伊藤様の湯殿のお世話は栄が行っておる、末もご同行させてもらって湯殿の作法を教わってきなさい」

 

「はい♪」

 

 表情が明るくなったお末ちゃん、まだ10歳ながらすでに国民的美少女コンテストに出てもおかしくないレベルだ。

 

 

(うん、絶対に美人姉妹になるわ)

 

 つーくんの言っていた事は間違いない。お栄ちゃんもお末ちゃんも、絶対に美人姉妹になる。

 

(この時代じゃ美人って言われないんだろうなぁ)

 

 

 山賊達の感覚では、優理と美紀さんは大層な不細工らしいから、この時代と俺達の時代との間にある美的感覚のズレはかなりの物だろう。

 

 温泉に入りに行く皆を尻目に、俺はお栄ちゃんが用意してくれた布団に入ると、のび太君並の速度で寝の国へ向かう。

 

 歩きすぎて限界だったのだろう、グッスリ寝過ぎて夢さえ見なかった。

 

 

 

 翌朝、女の子達はそれはもう朝からよくしゃべった。昨日の夜に行った温泉の興奮が冷めやらないらしい。

 

 女を3つ書いて【姦(かしま)しい】と書く漢字がある。

 

 どんな意味なのか気になって調べた事があるのだが、どうやら「うるさい」とか「やかましい」に該当するらしい。

 

 

(良く出来た漢字だ)

 

 

 女の子が6人いるので【ダブル姦しい】だ。

 

 

 最初は温泉の話題だったのだが、途中からあらぬ方向へ進み出す。ついにたどり着いた話題が、俺に雷を落とす事になった。

 

 まさに激震である。

 

 俺は昨日の夜、寝たしまった事を死ぬほど後悔した。

 

 いや、死んでも後悔しきれないだろう。

 

 今、屋敷の外に飛び出したら選択シーが止まっていて、竹之内さんがダンディーな顔で「何かお困りですか?」とか言ってくれないだろうか。

 

 迷わず昨日の夜に戻りたい。

 

 

 実は、なんと、この時代は混浴だというではないか。

 

 

(なんてこった! おーまいがっ!)

 

 

 話を聞いていると、電気もない小屋の中にお風呂があり、湯気で靄っているので夜は殆ど見えないらしいのだが。

 

「やっぱり肩がよかったです、胸筋も捨てがたいんですけど」

 

 唯ちゃんが聞くに堪えない会話を始めてしまった。

 

 

「え~? 唯ちゃんそれはフェチだよフェチ! 王道は腹筋と上腕二頭筋だって!」

 

 

 話題になっているのは、伊藤さんの肢体に関する事だ。

 

 

「え~、瑠依はそうゆうのよく分からないですけど」

 

 瑠依ちゃんは少し間を置いてニヤっと笑う。

 

「背中、触っちゃいました! キャー♪」

 

 

(がっでむ!……俺よ、どうして、何故、なんで寝たのだ!)

 

 

「背中触ったって、私と優理はそれ以上の関係になってるよ? ねー♪」

 

 

「ブッッ」

 

 俺は飲んでいたお茶を吹き出してしまった。

 

「アハハハハッ♪ 冗談だって、美紀ねぇそれは言い過ぎ♪!」

 

 優理は笑いながら俺が粗相した所に手ぬぐいを持って来てくれた。

 

 

「そぉ? どっちかって言うと優理の方がペタペタ触ってたよ? 包帯巻いてあげてるとき」

 

 

「ん~、まぁそうだけど、関係って言い過ぎじゃないかな?」

 

 優理は手ぬぐいで床を拭きながら、瑠依ちゃんの方を見てニヤリと笑うと。

 

「でも悪いけど、瑠依ちゃんよりはよーく知ってるよ? 伊藤さんの……か・ら・だ♪」

 

 

 

 伊藤さんは大原兄弟を連れ、姉小路さんの所へ行っている。石島の屋敷でも、もしかすると女の子だけになるとこうゆう雰囲気なのだろうか。それとも、温泉に来てテンションが上がっているだけなのだろうか。

 

 

(下呂温泉 ガールズトークが 止まらない)

 

 俺はサラリーマン川柳ならぬ、お殿様川柳で心を鎮めながら伊藤さんの帰りを待った。

 

 

 伊藤さんが戻ると、浮ついたガールズトークはピタリと止んだ。

 

(あの~……俺も一応は男なんですけど……)

 

 

 何故か十五くんしか戻ってきておらず、十三くんがいない。

 

 

「殿、頼綱様がお会いしたいとの事ですので、湯殿へ行ってください、綱義が待っていますので」

 

(綱義って誰だっけ?)

 

 最初はピンと来なかったが、数秒遅れて十三くんの事だと気付き、俺は小さく頷いた。

 

 

(そうだ、ガールズトークを聞くためではない、俺はこのために来たのだ!)

 

 

 お栄ちゃんとお末ちゃんが身支度をしてくれている間、俺は伊藤さんから最終レクチャーを受けた。

 

 もう既に信頼関係の構築が終わっているので、素直に話をしてくればいいらしい。恐らく、生い立ちの話になるだろうから、伊藤さんや金田さんに連れられて流浪していたとすればいいだろう。

 

 俺自身が頼綱さんの目に「いい人」に映れば100点満点だそうだ。

 

 

 これは非公式の会見となる。家と家との格式がある会見となる場合、石島家は姉小路家に対して頭を下げなければいけない立場だ。しかし場所が温泉で、お互いに裸であればその必要は無い。

 

 忌憚なく話がしたいと言う頼綱さんの心遣いなのだとか。

 

 公式の会見は伊藤さんがやってくれていて、その成果は上々だ。聞いて驚いたのだが、まだ訓練中の新兵とはいえ、30騎を貰い受ける話にまでなっていると言う。

 

 ただ、その条件が俺に直接、温泉で伝えられるそうだ。

 

 

 伊藤さん曰く、「誰かの命に係わる話じゃなければ即決して大丈夫」との事だ。ある程度の事は伊藤さんが想定していて、きっと柔軟に対応してくれるだろうと思う。

 

 要するに、人質を寄こせとか、そんな話は断れって事だ。

 

 

(よし、これが俺のデビュー戦だな、【初陣(ういじん)】ってやつだ!)

 

 俺は十五くんに案内されて、自綱さんが来る事になっている温泉に向った。

 

 

 途中、あっちかお城でそっちが兵錬場でと、十五くんが色々と説明してくれたが、初めて来た場所を説明だけで把握できるほど俺の頭は優れていない。ましてやデビュー戦を控えて緊張しっぱなしだった。

 

 

「この上で御座います」

 

屋敷からは歩いて5分も経っていない。温泉からすぐ近くの好立地のお屋敷を借りている事になる。温泉の入口に着くと、十三くんが出迎えてくれた。

 

 

「既にご到着されておられます」

 

 俺はその知らせに焦ってしまった。

 

 こちらが待っている予定が、相手を待たせてしまっているかもしれないのだ。

 

 

「急ごう」

 

 後ろに続くお栄ちゃん、お末ちゃん、十五くんに目配せすると、俺は急いで中に入った。

 

 

 狭い脱衣所に入ると、そこは温泉の匂いが満ちていた。

 

「栄、末、頼むぞ」

 

 十五くんが2人の妹に声をかけると、1人で外に出る。

 

 

「こちらで御召物をお脱ぎください、湯治場では湯帷子は着用しないのが作法で御座います」

 

 

 お栄ちゃんの目の前で服を脱ぐのはかなり恥ずかしいが、屋敷ではお末ちゃんのお世話で何度も風呂に入っている。屋敷の湯船が無い風呂では、湯帷子という専用の風呂着みたいな物があるが、ここではそれがない。

 

 男らしく覚悟を決め、衣服を脱いでいつものようにお末ちゃんに手渡す。

 

 

(昨日、みんなココで脱いだのか……なんで寝たの俺!)

 

 あんまり変な妄想をすると、下半身が反応してしまいそうだったので、首を横に振って下品な妄想を振り払う。脱衣所から湯まで特に扉は無く、小さな入り口をくぐれば目の前の湯気の向こうに岩風呂が広がっていた。

 

 

「失礼致します」

 

 既にそこにいるであろう頼綱さんに失礼の無いよう、細心の注意を払う。かけ湯で体を洗い流し、湯に足を入れた時、湯の中にいる男性に声をかけられた。

 

 

「ご足労をおかけしましたな、ささ、こちらへ」

 

 

 どんな話になるのか、どんな事を話せばいいのか、頭の中がぐるぐると纏まらない。

 

「石島洋太郎で御座います」

 

 

 俺は一礼し、頼綱さんの近くまで進んで湯に漬かった。

 

 

「伊藤殿より伺っておりますので、そう緊張なさらずに」

 

 優しい声をかけてくれた頼綱さんの顔は、割と面長で男前、年齢は俺とそんなに変わらないだろう。

 

 

「石島様は良きご家来をお持ちだ、正直羨ましいとさえ思いますよ」

 

(伊藤さんの事か)

 

 その点に関しては、自分事ながら完全に同意する。伊藤さんがいなければ、俺は石島の当主である事など出来ないだろう。

 

 

「伊藤さんあっての石島家です、あの人がいなければどうにもなりません」

 

 頼綱さんは俺の言葉にうんうんと頷いた。

 

「伊藤殿の申された通り、物腰柔らかく実に良き人相をお持ちですな」

 

 しきりに何かに納得した様子を見せると、少し俺に近づいてきた。

 

 

「お手間をかけても申し訳ないので、早速ではあるが本題に入ろう」

 

 そう言って少し後方へ首を向ける。俺も釣られてその方向を見ると、そこには靄に隠れた人影があった。

 

 

(誰かいる?)

 

 

 その人影に向い、自綱さんが声をかけた。

 

「陽(はる)よ、これへ」

 

 

「はい」

 

 

 靄の中から聞こえたのは、女性の声だった。

 

 

「はっはっは♪ 初対面がこのような場では少々手荒な気もしたがな、俺は確信したぞ、良きご当主じゃ、安堵致せ」

 

 頼綱さんは言いながら<サバッ>と音が立つほど勢いよく立ち上がると、俺を見下ろすようにしながら条件を述べた。

 

 

「【陽(はる)】と申します、少々ややこしい話になっておりましてな、聞いてやってくだされ」

 

 そこまで言うと「あとは本人から」と言い残し、そのまま脱衣所の方へ出て行ってしまった。

 

 

(えええええ! 二人きりですか!?)

 

 初対面の男女がいきなり温泉で、裸で、至近距離で二人きりだ。陽さんはもう目の前に来ている。手を伸ばせば届きそうな距離に、裸の女性がいるのだ。

 

 

(ヤバイ! やばいやばいやばい!)

 

 

 しかも良く見ると整った顔立ちで、結構な美人さんだ。その上、なかなかによいお胸をお持ちなのだ。

 

 

「陽と申します」

 

「い、石島洋太郎です!」

 

 

 湯はそれほど熱くない。少々温めなので、こんな短時間でのぼせる事もない。

 

(やばいっ……)

 

 湯のせいに出来ないほど、俺は完全に頭に血が上ってしまっている。

 

 

(お……っぱ……ヤバイって!)

 

 

 しおらしく胸を手で隠してはいるが、大きいその胸は隠しきれるわけもなく、余裕でチラ見せ状態だ。

 

 

(チラ見せは逆にエロい! アカーン)

 

 

 俺の不埒な精神状態を余所に、陽さんは自身の事について話始めた。

 

 陽さんのお母さんは飛騨の小豪族の娘さんだったそうで、人質として姉小路さんの所へ送られたそうだ。しかしその時、すでにお母様は身籠っており、姉小路さんの所で出産した。

 

 それが陽さんだそうだ。

 

 人質の子という立場ではあったが、頼綱さんに妹のように可愛がられて何不自由なく暮らしていたのだが、今年に入ってお母様がお亡くなりになると事態は急変。お母様のご実家であるその豪族と一気に疎遠になり、姉小路さんと敵対する勢力がその豪族に対して急接近。

 

 先月、ついに姉小路さんと敵対する関係に発展してしまったそうだ。

 

 こうなると、陽さんは立場がなくなる。

 

 自綱さんのお父様の計らいで、陽さんは頼綱さんの養女いう形を取ってどうにかその立場を保ってはいるものの、ご実家との関係は悪化していく一方なのだとか。

 

 形式上、陽さんは頼綱さんの娘という事になるが、どう見てもそこまで年は離れていない。

 

「陽さんはおいくつになられるのですか?」

 

 気になったので聞いてみた。

 

 

「17で御座います」

 

(優理と同じか)

 

 

 湯に漬かりながら陽さんの身の上話を聞いていた俺は、十分に体が温まった。

 

 頼綱さんが「ややこしい」と言ったのも分かる。なんだかややこしい身の上になってしまっているようだ。

 

 でもまだ聞いていない事がある。

 

 

(条件……)

 

 その条件も、陽さんの口から聞けるのであろうか。

 

 

 陽さんは少し俯いて、何かを躊躇っている様子だ。

 

 

「どうしました? どうぞ遠慮なさらずに」

 

 俺はその条件とやらが気になっていたし、そろそろ湯から上がりたい。

 

 陽さんがゆっくりと口を開く。

 

「あの……こんな事、お願いするのは筋違いな気もするのですが」

 

 陽ちゃんは俺の目をしっかりと見据えた。

 

 

「陽を……陽を貰うては頂けませぬか? どうか、どうかお願い致します!」

 

 

「えっ!? ちょ!?」

 

 

 あまりの事に気が動転した。

 

 動転した俺の意識をぶっ飛ばすように、裸の陽さんが俺にその肢体を預けてきたのだ。

 

 

「え!? あ……の……さ?」

 

 

 肌の触れ合う感覚。

 

 湯の中とはいえ、この感覚は他では絶対にない、心地の良い感覚だ。大きな胸が俺の脇腹辺りに押しつけられる。

 

 

 何かを言おうと思ったが、思いつかなかった。

 

 陽さんの手が俺の体を這うように包み込み、きつく巻きついてくる。体を密着させながら、潤んだ瞳で俺を見上げているのだ。

 

 もう、俺の貧弱な理性はロケットに乗って月面まで到達してしまった。

 

 俺は陽さんの可愛い唇を奪った。湯気や湯に湿った唇は、温かく、柔らかく、温もりを伝えてくる。

 

「……石島様……洋太郎様と御呼びしても宜しいですか?」

 

「ああ、いいよ、好きに呼んでいい」

 

 俺は手を陽さんの体に沿わせていく。

 

 

 再び唇を合わせ、今度は深くキスをした。

 

 

 陽さんの頬は、湯のせいか、俺のキスのせいか、赤くそまっていた。

 

 

 俺の理性は遥か遠く、月面にある。そんな理性の声は、どうあがいても俺には届かない。3年間、ひたすら自室に立て篭もり、こちらに飛んでからは満足に1人の時間を楽しめた事もない。

 

 

 俺の鬱屈してしまった性欲は、解放の機会に歯止めが効くわけがなかった。

 

 俺の両手は、陽さんの体を隅々まで堪能していく。陽さんは時折、身に緊張を走らせながらも、徐々にではあるが体が甘美な反応を見せ始めている。

 

 

(初めてなのかな?)

 

 

 俺は陽さんの反応を見ながら、手と舌でその麗らかな体を愛撫していった。頃合いを見計らい、湯の中で手を這わせ、陽さんの秘部に指をあてがう。

 

 

「ハァ……ん、洋太郎様……」

 

 

 その場所からは、湯とは違う感触の、柔らかいトロミを帯びた愛液が漏れだしていた。

 

 

 俺は陽さんを抱え、休憩が出来るように用意されたと思われる板で間仕切りされた空間に移動、その一角の畳敷きがされている場所に陽さんを寝かせた。

 

「洋太郎さま……」

 

「陽ちゃん……」

 

 

 再び唇を合わ、湯で温まった体を合わせると、熱い互いの舌を絡ませる。そして、俺と陽さんは体をぶつけ合うように、何度もお互いの存在を示しあった。



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第21話 花を奪う戦

 色々な意味で熱い時間を過ごした俺は、そのまま陽を連れ、伊藤さんが借りている屋敷に戻った。一足先に十三くんから知らせを受けていた伊藤さんは、女の子達を出店へと向かわせると、俺と陽を屋敷に迎えてくれた。

 

 

 伊藤さんは俺達2人の前で床に両手を付く。

 

「それでは今後は奥方様とお呼び出来るよう……せねばなりませんな」

 

 そう言って陽を笑顔で迎え入れてくれた。そしてすぐに俺と陽を連れ、桜洞城に向った。

 

 桜洞の城では、既に華やかな宴の支度が整っていて、陽は女中さんに連れられて着替えに向かう。

 

「では、洋太郎さま、後程」

 

「ああ、また後で!」

 

 後先考えずに事に及んでしまったが、変な条件じゃなければ即断で飲んでしまえと言ったのは伊藤さんだ。

 

 きっとどうにかしてくれるだろう。

 

「殿、どんな顔で優理と唯に会うかは考えておいた方がいいですよ」

 

 

 真面目な顔でそんな事を言われた俺は、ここへきてようやく、心に焦りが出始めた。

 

 到着した広間は煌びやかな装飾に彩られ、そこには宴の御膳が並べられている。その上座、中央の上段に頼綱さんが鎮座していた。

 

 

「伊藤殿、来ると思うておりましたぞ」

 

 頼綱さんが満足そうに伊藤さん語りかけた。

 

 

 伊藤さんは頼綱さんの前まで進んで床に胡坐をかくと、両手を付いて口を開いた。

 

 

「此度の差配、誠にお見事で御座いました、されど、かような真似は二度となさりませぬ様、お願いを申し上げます」

 

 

「ふふふ、気に食わぬか?」

 

 伊藤さんに言葉を返す頼綱さんの表情は、まさに切れ者な感じがした。横で突っ立っているのも違う気がしたので、俺は伊藤さんの隣に胡坐をかいた。

 

 

「左様、気に食わぬと申せばその事」

 

 伊藤さんは頭を上げ、正面から頼綱さんを見つめる。

 

 

(え? ええ? なんか険悪?)

 

 

「左様か、我が養女の決死の想いを踏みにじると申すか」

 

 2人の切れ者はその視線を激しく交差させ、言葉尻がきつい物に変わってきた。

 

 

(やばい? もしかしてやばい?)

 

 俺の鼓動が跳ね上がる。

 

 

「左にあらず」

 

 伊藤さんは一息ついてから言葉を続けた。

 

「若い2人を湯治場で遇わせるとは、何とも奇策、この伊藤、完全に出し抜かれました」

 

 そこまで言うと、ニヤリと笑う。

 

 

「ハッハッハ! この頼綱、伊藤殿を出し抜いたか! ハッハッハ♪」

 

 自綱さんは声を上げて満足そうに笑った。笑い終わるの待って伊藤さんが再び頭を下げる。

 

「誠、目出度き義(よし)なれど、当家は盛大なる宴を催せるほどの余裕が御座りませぬ」

 

「心配などいらぬであろう、故にこうして用意させてあるのだ」

 

 宴を用意してくれた頼綱さんに対し、伊藤さんは再び顔を上げると、その体からあの覇気のような物を放出させはじめた。

 

 

「当家は小身なれど姉小路に臣従する身では御座いませぬ、いかに頼綱様のご養女を迎えるとは言え、桜洞の城に置いて祝言を上げる訳には参りませぬ」

 

 伊藤さんの言葉に、頼綱さんの眉がピクリと上がる。

 

「今宵の宴は我らへ対する歓迎の宴として有難く頂戴するとし、お陽様にはこのまま桜洞にご滞在頂きます。我らは明日、大原に戻り次第、即座にお迎えを寄こしましょう」

 

 そこまで言ってニヤリと笑い、更に言葉を続けた。

 

「祝言は大原にて質素に執り行います。それが石島の身の丈、そのような弱小石島にご養女を頂ける事、恐悦至極に存じます」

 

 再び、今度は更に深く頭を下げた。

 

 一瞬、俺に合図をしたように感じたので、俺も両手を付いて頭を下げる。

 

 

「したり! 流石は伊藤殿よ、してやられたわ!」

 

 頼綱さんは悔しそうにしながらも、また楽しそうに笑う。

 

 ひとしきり笑うと、家来の方に「今宵は歓迎の宴といたす、そのように差配しなおせ!」と申しつけた。

 

 家来の方は少々困ったような顔をしたが、伊藤さんが「ご苦労をおかけします」と笑顔で語りかけると、苦笑しながら頷いてくれた。

 

 頼綱さんは家来の方が去るのを待って、俺に向きなおった。

 

「洋太郎殿、陽は養女ではあるが、俺の妹のような物だ」

 

 そう言って立ち上がると、俺の目の前まで来て座りなおした。

 

「これからは兄と思うてくだされ、陽をお頼み致しますぞ、洋太郎殿!」

 

 俺の手を取ってニッコリと笑ってくれた。

 

「は、は、はい!」

 

 俺はどうしたらいいのかわからない。

 

「ふ、不束者では御座いますが宜しくお願い致します!」

 

 

「ブッ……ギャハハハ♪ 不束者って……ギャハハハ」

 

「ハッハッハ、洋太郎殿は面白きお人よ、陽も幸せであろう! ハッハッハ♪」

 

 伊藤さんの爆笑と頼綱さんの笑い声が響く広間で、俺は自分の置かれた状況を理解する事が出来ないでいた。

 

 その後、俺と伊藤さんと頼綱さんの3人で酒を酌み交わしながら、今後の織田家との関係性について話をしていたのだが、俺はまったく集中できないでいる。

 

 

(俺……結婚したのか? いや、これからするのか?)

 

 

 広間では忙しそうに女中さん達が動き回り、白を基調としたおめでたい雰囲気の装飾を取り外しながら、質素な物に取り換えていく。

 

 

(貰ってくださいと言われた陽を抱いちゃったし、違うとは言えないしなぁ)

 

 走馬灯のように、優理や唯ちゃんの顔が想い浮かんでくる。

 

(若気の至りでしたゴメンなさい!なんて言い訳無理だよなぁ)

 

 実際、陽とは初対面だったし、いきなりそんな行為に及んだ俺が悪いと言えばその通りなのだが。

 

 

(優理も唯ちゃんも捨てがたいけど、陽もけっこう美人だし、なにより巨乳だしな)

 

 

 湯治場の一角での陽を思い出す。あの様子、どうも初体験では無さそうだが、経験が多そうでもなかった。

 

 清楚な美人を連想させる陽の容姿からはかけ離れた、甘美に乱れる姿は思い出すだけで興奮してしまう。

 

 

 宴が本格的に始まると、踊りだす人が出てきたりするほど賑やかだった。そんな賑やかな宴の中、俺の隣に座る陽は、終始笑顔で俺に酒を勧めたり、食事を勧めたりしてくれている。

 

 

(苦労が多かったんだろうな)

 

 とても細やかな気配りの出来るいい子だ。

 

(幸せにしてあげないと駄目だよな)

 

 美味しい料理を堪能しんながら、俺は新たな想いを抱き始めていた。

 

 

「いやいや、今宵は実に愉快である」

 

頼綱さんは本当に楽しそうにしている。

 

「洋太郎殿が俺を兄と思うてくれるのであれば、俺は伊藤殿を兄と呼ぼう!」

 

 酔っぱらっているせいもあるだろうが、本気で伊藤さんに心酔しているようだ。

 

 

(伊藤さんはやっぱりすごいな)

 

 

「兄と御呼びになるのは遠慮頂きたい、頼綱様が弟では、我が主まで弟になってしまいます」

 

 伊藤さんと頼綱さんの周りには、頼綱さんの家臣さんが集まっていて、2人の会話にドっと笑が上がる。

 

 

 料理も無くなってくる頃、伊藤さんが頼綱さんに何か挨拶をしているのが目に入った。頼綱さんは名残惜しそうに伊藤さんの手を取って挨拶を返している。

 

 

「洋太郎さま? 今宵はお泊りになられますか?」

 

 陽の顔は「泊まってほしい」と書いてあるよな表情だ。返答に困っていると、伊藤さんが俺の所へやって来た。

 

 

「殿、今宵は桜洞にお泊りください、明日の仕度は某にお任せあれ」

 

 俺はもうだいぶ、酔っぱらっている。

 

「はい、お任せします!」

 

 なんの仕度かサッパリだったが、とりあえずお願いする事にした。

 

 

「では、お陽殿、宜しくお願い致します」

 

 伊藤さんは笑顔で陽に声をかけると、陽も笑顔を返した。

 

 その陽の目に、少し涙が浮かんでいるように見えたので、俺は真面目に嫉妬した。

 

 

「伊藤さん? 陽にまでちょっかい出さないでくださいね?」

 

「まぁ、洋太郎さま? 妬いておられるですか?」

 陽はなんだか嬉しそうな顔をしている。伊藤さんもニヤリと笑うと「心配いりませんよ♪」と言いながら立ち上がる。

 

「それでは、明日お迎えに上がりますので、今宵はごゆるりと」

 

 背を向けた伊藤さんを、陽は軽く頭を下げて見送った。

 

 

「なーんか2人、前から知り合いな感じじゃない?」

 少しふてくされた俺の質問に、陽は笑顔でさらっと答える。

 

「ええ、毎朝ここへいらしてますから」

 

 

「あー、そりゃそうか」

 

 

 宴が終わると、俺の為に用意された部屋へ案内された。その部屋には畳が敷いてあり、板の間しかない大原の屋敷とは格が違う感じだ。

 

 

 陽を抱き、その後もまた湯に漬かり、そのままの流れで宴を楽しみ、今日はとんでもなく充実した1日だった。

 

 

「失礼致します」

 知らない女性の声がした。

 

「はい! ど、どうぞ」

 俺はちょっとびっくりして返事をした。

 

 

 襖が静かに開くと、廊下に傅いて蝋燭を持っている女の子がいて、その横から白く薄い和装を纏った陽が姿を見せる。

 

 

「さがってよい」

 

 陽の言葉に、蝋燭を持った女の子は無言で頭を下げ、足早に去って行った。

 

 

「陽……」

 

 蝋燭の灯りしかない薄暗い部屋で、陽はとても美しく。

 

 

「洋太郎さま」

 

 酒で火照った俺の体は、どうしようもなく陽を求めた。

 

 

 充実した1日は、まだもう少しの充実感を増す事になる。

 

 

 

■同刻 飛騨国

   桜洞城下 仮屋敷

 

 

「な……? へ?」

 

 桜洞城下の出店で想い想いの品々を手に入れた面々は、伊藤の報告に面食らっていた。

 

「そんな……」

 

 その中では特に、唯が表情を曇らせていた。

 

「ゴメン! 俺の考えが甘かった! 完全にしてやられたよ……」

 

 伊藤は唯に向って両手を付いて謝る。伊藤の謝罪を受けた唯は、大きなため息をつく。

 

「伊藤さん? 一つだけ質問があります」

 

 

「はい! なんでしょう!」

 

 唯は優しい笑顔を作ると、伊藤に一つの質問を投げかけた。

 

 

「石島さんのお気持ちも、そのお陽さんのお気持ちも、間違いないのですね?」

 

 伊藤は気まずそうにしながらも、唯を正面から見つめる。

 

「そう、だから文句のつけようが無くなったって感じ」

 

「そうですか、なら良かったです♪」

 

 唯は心の底からそう思えた。

 

「唯先輩! まだ諦めるのは早いですよ! この時代は側室制度があるんですから!」

 

「そくしつ?」

 

 瑠依が側室の説明をしかけたとき、それを伊藤が遮る。

 

「ちょっとまった、ごめんね、実は急がないと駄目なんだわ」

 

 何を急ぐのか気になった面々は、伊藤の言葉に耳を傾ける。

 

「綱義は急いで大原に戻ってこの事を伝えてほしい。質素でいいから祝言を開かないといけなんだ……手配は四衛門さんに指南してもらいながらお願いね、物品の購入に関しては金田くんに一任するって伝えておいて」

 

「は! かしこまりました!」

 

 もう日が落ちていたが、この夜は月明かりが眩しい程であったため、綱義は夜間強行をするつもりだ。

 

「お栄ちゃんとお末ちゃんは帰り仕度を初めてください、明朝ここを発ちます」

 

 

「はい!」

 

「えー? もう帰るんですか!?」

 

 瑠依が不満そうな声を上げる。

 

「だって瑠依、まだ伊藤さんと2人っきりで温泉に入ってないですよ?」

 

 ほっぺたを膨らませて怒っているが、その訴えを聞く気など伊藤には無い。

 

「ごめんね瑠依、湯治場にはまた来よう」

 

 

「やった♪ なら今回は我慢します! 今度は【2人】で来てくれるって言いましたからね!?」

 

 瑠依の無理やりな約束に美紀が突っ込みを入れた。

 

「言ってないだろ」

 

 言いながら伊藤に視線を向けた美紀は、この後の予定に関する不安を述べた。

 

「急いで戻って祝言の準備開始、お陽さんをお迎えに1日、大原に到着するのにもう1日、もし途中で空白の日数が出たら祝言を上げている時間なんてあるんですか?」

 

 伊藤は頷いて美紀をまっすぐ見返す。

 

「そう、かなり厳しいスケジュールになる、なるべく質素に簡略化しないと軍備が間に合わない、ハッキリ言って祝言なんてやってる場合じゃないんだよね」

 

 

 伊藤は、何故わざわざ大原に戻って祝言を上げるのかを説明した。

 

「流石は伊藤様じゃ」

 

 綱忠が関心の声を上げる。

 

「ホント、伊藤さんの頭の構造ってどうなってるの?」

 

 美紀も関心しながら綱忠に同意を示した。

 

 姉小路とあくまでも対等な関係を構築する為には、どうあっても桜洞で祝言を上げる訳にはいかないのだ。その所為で時間を失おうとも、財を失おうとも、姉小路に臣従する形を取る訳にはいかない。

 

「とにかく、急いで色々しないといけないの」

 

 そう言って面々の顔を見回す。

 

「だから、温泉入るなら今日までだよ? お栄ちゃん! いこう!」

 

 言うなり立ち上がって温泉に向かう伊藤。

 

「あ、はい、お待ちください! 兄様、留守をお願い致します!」

 

 栄は傍らに用意してあった荷物を抱えると、足早に伊藤を追う。

 

 

「ええええ~~~、伊藤さんの準備はしてあったんだ!? さすがお栄ちゃん! お末ちゃん、準備できた?」

 

 優理は慌てて自分の荷物を漁り始める。

 

「はい、ただいま!」

 

 

「たいへんだ~! いっそげ~」

 

 瑠依も自分の荷物をひっくり返す勢いで準備を始める。

 

 

「ったく、要領が良くないな」

 

 そう言って立ち上がった美紀は、既に準備万端整った荷物を小脇に抱えていた。

 

「ふふっ♪ そこが可愛いんじゃないですか?でも……」

 

 美紀と同様、唯が整った荷物を小脇に抱えて笑うと、言葉を続ける。

 

「準備が遅い優理と、もう準備が終わってる私、伊藤さんはどちらが好みかな? ふふっ♪」

 

 少し意地悪な笑みを浮かべていた。

 

「はい?!…えーー! ちょっと唯! ショックだからって伊藤さんを口説くのはダメだよ!?」

 

「え? 唯先輩まで?? 瑠依の勝ち目がどんどん無くなるじゃないですか!」

 

 

 準備を終えた優理と瑠依が草履を突っかけながら唯に文句を言う。

 

「お待たせしました!」

 

 お末が自分の着替えを抱えてやって来た。

 

「しゅっぱーつ♪」

 

 瑠依の掛け声で5人が屋敷を出る。

 

 

 この日、伊藤の計らいで栄と末も面々と共に湯に漬かった。伊藤は遅れて5人が到着するや、早々に湯を上がると「ゆっくりしておいで」と言い残して屋敷に戻ってしまったのだ。

 

 

「どーれどれ、ほほー、さすが美紀ねぇ」

 

「ふっ、まだまだ瑠依には負けないな」

 

 女だけになった湯治場では、瑠依と美紀が乳比べの真っ最中だ。

 

「ちょっと失礼♪」

 

「きゃっ!? ゆ、優理さま?」

 

 栄の両胸を後ろから鷲掴みにした優理は、2度程揉んで解放する。

 

「うーん、まずいな……」

 

 両の掌に残った栄の胸の感覚を頼りに、自分の胸に両手を当てて考え事をしている。

 

 

「ふふっ♪ お栄ちゃんに追い抜かれそう?」

 

 

「あー、唯に言われたくないな、唯はもうお栄ちゃんに抜かれてるよ多分!」

 笑った唯への仕返しに、意地悪を言った。

 

「あら? 最近私の胸触ったっけ? 絶賛成長中なんだぞ?」

 ニヤリと笑顔でやり返した唯に、優理が襲い掛かる。

 

「なに~!? もませろ~♪」

 

 バシャバシャと湯をまき散らし、面々は思い出に残る湯治場を堪能しながら夜を過ごしていた。

 

 

 

■1567年 7月下旬 飛騨国

   大原村 石島屋敷

 

 

 陽をお迎えに行く【嫁迎えの義】とやらを行う2名の役は、大原兄弟が請け負ってくれ、昨日出発した大原兄弟は、先程の知らせではもうだいぶ近くまで来ていると言う。

 

 

 

 宴のあった日の翌日、伊藤さんは女の子達と一緒に一足先に大原に戻り、少し遅れて俺も、十五くんと30名の新兵さんに守られながら大原に向った。

 

 俺が大原に着いた時には、女の子達は揃って簡易キャンプへの移動が言い渡され、お栄ちゃんとお末ちゃんしか残っていなかった。

 

 それから4日が経つが、俺は未だに優理とも唯ちゃんとも顔を合わせていない。

 

 

 

 物思いにふけっていても仕方がないので、外に出てみようと思い門に向うと、門の外には花嫁を一目見ようと大勢の人が集まっていた。

 

 

(いや~、いよいよ実感が沸いてきたな)

 

 

 まさかこの時代で結婚する事になるとは思わなかった。相手が優理だったらもっと嬉しかったのかもしれないけど、今の俺の心の中は陽でいっぱいだ。

 

 村と屋敷の中間地点では、30名の新兵さん達が居住する小屋が立ち並び、その建設の為に郡上からやって来た大工さんや、その人たちを目当てにした商人さんまで集り、大原は今までにない賑わいを見せている。

 

 

「見えて来たぞ!」

 

「おお~~~」

 

 門の外で歓声が上がった。

 

 俺は四衛門さんに着せられた装束を身に纏い、輿に揺られてくるであろう陽を待っている。

 

 祝言の取り仕切りは四衛門さんと、その奥様でお末ちゃんとお栄ちゃんのお母さんである「おきつ」さんが頑張ってくれていた。

 

 俺は祝言を前にして、陽を迎えられる喜びとは別に、寂しさも感じている。

 

 

 女の子達は皆、簡易キャンプで待機だ。

 

 金田さんは織田信長さんとの最終調整のために尾張に向ってしまっている。

 

 つーくんは姉小路さんの所へお礼を述べる事と、正式な援軍要請に向い。

 

 伊藤さんは「戦場の下見に行く」と言って郡上に向った。1つ救いだったのは、この婚姻は石島の家にとって大変良い事だと言ってくれた事だ。

 

(伊藤さんがそう言ってくれなかったら、正直つらかったな)

 

 

「お下がりくだされ!」

 

 門の外で綱義くんの声が響く。

 

 

「おお、花嫁様じゃ!」

 

「おお~」

 

 

 今日は7月22日、俺と陽の結婚記念日になるのだ。侍女に手を取られながら、陽が門をくぐってきた。

 

 

「洋太郎さま」

 

「ようこそ、陽」

 

 白無垢を纏った陽はとても美しく、俺の胸は大いに高鳴った。

 

 祝言と言っても、本当に質素な物だった。形式だけの三々九度を執り行い、多少の料理が出される。

 

伊藤さんが頼綱さんに言った「石島の身の丈」という言葉が、妙に突き刺さっていた。

 

 

(もっといい物を食べさせてあげられるように、頑張ろう!)

 

 決意を固め、祝言の義を終え、おきつさんが用意してくれた床へ向かう。四衛門さんの計らいで、お栄ちゃんとお末ちゃんは今日は実家にお泊りだそうだ。

 

 

 当然、俺と陽は熱い夜を過ごしたわけだが、祝言の義は次の日も続いた。

 

 翌日の義は、村の人たちが次々と祝いの言葉を述べにやってくる。中には祝いの品を置いて行く人もいて、広間は物であふれかえってしまった。

 

 今日の俺と陽の役目は、やって来る1人1人に笑顔で答える事だ。陽もニコやかに村の人たちに応対してくれている。

 

(いい奥さんだな、うん)

 

 

 夕方になると、意外な人からの祝いの品が届けられた。

 

 

「遠藤慶隆が家臣、鷲見弥平治と申します」

 

(うわ、遠藤さんからお祝いきちゃった……気まずいなぁ)

 

 遠藤さんからは米10表と、高価な刀が届けられた。

 

 

 その日の夜、お栄ちゃんが戻ってきてくれて、俺達2人に手料理を出してくれた。

 

 

「明日からはわたくしもお手伝いさせてくださいね」

 

 陽が優しくお栄ちゃんに微笑んでくれた。

 

「と、と、とんでもございません! 奥方様にそのような」

 

 恐縮しているお栄ちゃんに、俺は声をかけた。

 

「お栄ちゃん、それが石島の身の丈なんだよ、陽にも何かさせてあげてほしい」

 

 俺の言葉の意図を、お栄ちゃんはすぐに感じ取ってくれたようだ。にっこり微笑んで「では、明日の昼餉から一緒にお願いします♪」と元気よく答えてくれた。

 

(頭のいい子だ、伊藤さんに鍛えられたか?)

 

 夕餉の後片付けが終わると、お栄ちゃんは今日も実家で泊まると言って帰ってしまった。

 

 いつも賑やかだったこの屋敷に、俺と陽しかいない。昨日はすぐに床に入って熱い夜を過ごしてしまったので、あまり実感しなかったのだが、今日はなんだか無性に寂しく感じる。

 

 

「殿、お酒をお召になりますか?」

 

 陽が笑顔で問いかけてくれた次の瞬間。

 

 

<ドカドカドカドカドカ>

 

 

 屋敷の入口のほうから大勢の人が駆けこんでくる音が響いた。

 

 

「!!???」

 

 陽が驚いて俺に身を寄せてくる。

 

「下がって!」

 

 俺は咄嗟に、遠藤さんから贈られた太刀を左手に持ち、いつでも刀身を抜けるように右手を構えた。

 

 

 

<ドカドカドカドカ>

 

 

 足音は声を上げる事無く、俺達が食事をしていた部屋を取り囲む。

 

 

(囲まれた……)

 

 

 食事をしているこの部屋は炊事場に近く、部屋の四方が襖になっており、どこからでも入れてしまう。

 

 

 俺は陽を誘導するのうに、共に部屋の中央に移動して身構えた。

 

 

 相手は何人いるだろうか、足音の数からして10人どころではない。

 

(まずいよ……)

 

 俺は心の中で伊藤さんに助けを求めていた。

 

 

 部屋を囲んだ足音は、その後静まり返っている。陽は俺の着物を強く掴んだ。

 

 

「大丈夫!」

 

 俺が小声で陽を励ました次の瞬間。

 

 

 

 

 

『ご結婚! おめでとうございまーーす!!』

 

 声と同時に全方位の襖が一斉に開けられた。

 

 

「えええ?!! なに!?」

 

 もうおしっこちびる寸前だった俺は、この状況が全く理解できないでいる。

 

 

 俺は全方位を囲まれていた。

 

 伊藤さん、金田さん、つーくん、美紀さん、優理、唯ちゃん、瑠依ちゃん。

 

 綱義くんと綱忠くん、お栄ちゃんとお末ちゃん、四衛門さんおきつさん。

 

 それだけじゃない、なんと頼綱さんの姿まである。

 

 

「ふふふふ、洋太郎さまは良いご家来をお持ちですね」

 

 そう言って立ち上がった陽は、するするっと伊藤さんと頼綱さんの間に入ってこちらを振り返った。

 

 

「え? へ? なになに?」

 

 完全にパニック状態の俺を余所に、瑠依ちゃんが掛け声をかけた。

 

 

「せーのっ♪」

 

 

(んなっ!?)

 

<バッサーーー>

 

   <パラパラパラ>

 

 未来から一緒に来た面々が投げつけたのは、白米だった。

 

「未来風ライスシャワーだ! 思い知ったか! ぎゃはは」

 つーくんが楽しそうに笑っている。

 

 未来のシャワーの勢いよろしく、盛大に俺に米が投げつけられたようだ。

 

「よ~し、サプライズ成功だね♪」

 

 優理が楽しそうに言いながら、天使のガッツポーズを決める。

 

 

「あ……うん、やられた」

 

 さっきまですごい寂しかったせいもあって、俺は自分でも気づかないうちに泣いていた。

 

 

「あひゃひゃひゃひゃ♪ 殿泣いてるじゃないっすか! あひゃひゃひゃ♪」

 

 

「くっそぉぉぉ、このためにわざわざ皆で屋敷を離れたんですか!?」

 俺は泣きながら訴えた。

 

「ギャハハ♪ 違うよ違う、本当に用事はあったんだけどさ、どうせ屋敷を離れるならサプライズを用意しようって話になっただけ!」

 伊藤さんだ、きっとこの人が首謀者に違いない。

 

「なんだよもう、陽も知ってたの?」

 俺はもうボロボロ泣いて涙が止まらない。

 

「はい♪ さぷらいずというのは胸が高鳴りますね!」

 陽は17歳の女の子らしく、目をキラキラさせて元気よく頷いた。

 

 

「はっはっは、洋太郎殿、よき男泣きですな」

 

 

 陽が俺の所に来て寄り添い「本当に良きご家来をお持ちです」と言って、その目から涙を流し、一緒に泣いてくれた。

 

 

「陽さん陽さん♪ 殿の事は後でいいので! コレですコレ! 大事なんですこれ!」

 瑠依ちゃんが陽の手を引いて縁側まで連れていく。

 

「よ~し! お前たち私に譲れよ?」

 

「ダメに決まってるじゃないですか!」

 

 美紀さんと優理が競うように中庭に出る。

 

「ほらほら、お栄ちゃんもお末ちゃんも行きましょう♪」

 

 唯ちゃんが2人を誘って中庭に下りた。

 

 

「後ろを向いてですね、こうやって上にぽ~んて投げて下さい、ぽ~んって」

 

 瑠依ちゃんが動作付きの解説で投げ方を教えているのは、お手製ブーケらしい。

 

「はい♪」

 

 陽は何が起こるのかわからないまま、笑顔でブーケを受け取った。

 

「よ~~~し、瑠依が取るからね!」

 

 瑠依ちゃんも中庭に降り立つ。

 

 

「何が始まるのだ?」

 

 不思議そうに女の子達を眺める頼綱さんに、伊藤さんが笑顔で答える。

 

 

「戦(いくさ)ですよ、女の戦です」

 

(ブーケトスは女の戦か、言いえて妙とはこの事か!)

 

 俺は伊藤さんの解説に妙な納得をしている。

 

 自綱さんは分かったような、分からないような、そんな表情で現状を眺めていた。

 

 

「では……いきますよ」

 陽が中庭に背を向けた。

 

「何なのですか?」

 

 質問したお栄ちゃんに、唯ちゃんが答える。

 

「あれを受け取ると、次の花嫁はその人になるっていう占いみたいなものです♪」

 

 優理も続く。

 

「あれ取って伊藤さんの花嫁になるんだ♪」

 

 

 その優理の台詞に、俺はもう何かを言える立場ではなくなってしまった。

 

(うーむ、やっぱり超絶可愛いんだよなぁ)

 

 挙式の真っ最中だというのに、俺の思考回路は本当にどうしようもない。

 

 

「えいっ」

 

 陽は目を瞑ると、思いきり良くブーケを投げ飛ばした。

 

 

 綺麗な弧を描いて宙を舞うブーケ。

 

 

 この瞬間、女の子達にはスローモーションで時間が流れているに違いない。

 

 真っ先に飛び出した優理と競り合い、美紀さんが体を寄せてブーケに手を伸ばす。お互いにバランスを崩し、ブーケは2人の手をすり抜けるが、唯ちゃんと瑠依ちゃんは完全に出遅れて届きそうもない。

 

 

「まだまだぁぁぁ~」

 

「っっえい!」

 

 

 信じられない態勢から、美紀さんが再び跳ねると、それに優理も着いて行く。

 

 弧を描いたブーケが下りに入った時、その落下地点に向けて唯ちゃんも瑠依ちゃんも飛び込んで行く。

 

 四人がぶつかるようにブーケに手を伸ばすと、各々の手に弾かれたブーケはそこから更に弧を描くようにして飛んだ。

 

 

 飛んだ先にはお末ちぇんがいた。

 

 

「とっ? わっ!?」

 

 

 球技なんてやらないこの時代、飛んでくる物を掴む事なんてほとんどないだろう。飛んできたブーケでジャグリングするかのようになったお末ちゃんは、そのままブーケを飛ばしてしまった。

 

 ブーケの飛んだ先にいたのはお栄ちゃんだ。

 

 全員の視線がブーケに集まる中。それはお栄ちゃんの両手にすっぽりと収まったのだ。

 

 

「こっ! このお花! 受け取ったらすぐに誰の花嫁になりたいか願わないといけないとか、ありますか!?」

 

 しっかり者のお栄ちゃんが、珍しく慌てている姿がとても可愛い。

 

「ん~、どうなんだろ、全然知らないや」

 

 伊藤さんが「サッパリ分からない」と言いながら金田さんを見る。

 

「え? 自分が知ってるわけないっす!」

 

 バトンを回す様につーくんを見た。

 

 

「俺達の時代では押し花にして額に入れたり、ブリザードフラワーにしてケースに入れたりしてますね」

 

 

「お~、そうなんだ!」

 

 俺はつーくんの意外な物知りに驚きの声を上げてみたが、お栄ちゃん本人は頭から「?」を噴出させている。

 

「ぶり? ぶりざー……?」

 

 

「へ~、保存するんですね」

 

 唯ちゃんが少し驚いた様子だ。

 

 

「あっ」

 

 伊藤さんが思い出したような声を上げ、何かに気付いたらしい。

 

 

「頼綱様、お持ち帰り頂きたい品があるのです、少々重いので外のご家来衆にお預けしておきますね」

 

「いやいや、お気遣いなど頂かなくとも、陽のこのような幸せそうな顔を見れただけで十分でございます」

 

 嘘ではないだろう、頼綱さんは本当に満足そうだった。

 

「そうは参りません、ご足労を頂いた以上、返礼は受け取って頂きます」

 

 笑顔でそう言うと、大原兄弟を伴って別室に向う。

 

 

「律儀なお人じゃ」

 

 頼綱さんは苦笑しながら俺を見た。

 

 もう涙も止まり、心も落ち着いた俺は、微笑んで頼綱さんに頷き返した。

 

 

 

「お栄ちゃん、好きな人っている?」

 

「え!?」

 

 瑠依ちゃんの質問に、お栄ちゃんが一瞬固まる。

 

 

「それね、好きな人のお家の前にコッソリ置いてくるんだよ♪ あなたの花嫁になりたいです! って願いを込めてね♪」

 

 

(へ~、それ面白い)

 

 

「へ~、そりゃ面白いな!」

 金田さんが興味を示す様に反応した。

 

(相変わらず被るね、言わなくてよかった)

 

「でもね、もう相手に気持ち伝えたいなら、そのまま持って行って渡すのもありなんだよ♪」

 

「気持ち!? そ、そんな恐れ多い事は出来ません」

 

 

「ほっほっほ、若いもんはいいですな」

 

 四衛門さんが「ゆこうかの」とおきつさんに声をかけ、俺と陽に丁寧に挨拶を済ませて自宅に戻って行った。

 

 

「では、戻って仕度をして参りましょう、外で家臣を待たせておりますので、これにて御免」

 

 頼綱さんは、陽の所へ来て「幸せにな」と言い残して帰って行った。

 

 

「お栄ちゃん? 別に好きな人がいないならお部屋に飾っておいてもいんだよ!」

 

「そうそう、飾っておいたほうがいいよきっと!」

 

 優理と瑠依ちゃんがお栄ちゃんに纏わりつき始めた。さっきのお栄ちゃんの台詞が気になったのだろう。

 

 

【そんな恐れ多い事は出来ません】

 

 この台詞でもう、大体の予想はつくからだ。第一候補は伊藤さんだろう、二週間も一緒に温泉で過ごしたのだ。

 

 もしかしたらもう、そうゆう関係になっているのかもしれない。

 

 

 その時、門の方から伊藤さんの声がした。

 

 

「そそ、だから明日は頼むよ」

 

「ハッ」

 

 外で頼綱さんのご家来衆にお土産を渡し、頼綱さんとの挨拶を済ませて来たであろう伊藤さんが、大原兄弟に何やら指示を出しながら戻ってきた。

 

 

「ありゃ? まだ皆ここにいたの?」

 

 お栄ちゃんは手にしたブーケのやり場を、未だに思案している。優理と瑠依ちゃんがしきりに「部屋に飾れ」と説得中だ。

 

 

「ん?」

 

 美紀さんが地面に屈んだ。

 

 

 月明かりと蝋燭の灯りで足元はよく見えなかったが、美紀さんの足元にはブーケから外れた花が一輪、誰に踏まれる事も無く綺麗に残っていた。

 

 美紀さんはそれを拾うと、縁側に上がる。

 

 右手の指先で花を持ち、額に付けるようにして何か念を込めるような、香りを楽しむような仕草を見せた。

 

「今日は遅いのでもう休みましょう、ハイ、伊藤さんコレあげる♪」

 

 

「んが!」

 

「ちょ! 美紀ねぇ!」

 

 変な声を上げた瑠依ちゃんと、美紀さんを呼ぶ優理。

 

 2人の反応を不思議そうに見ていた伊藤さんは、特に気に留める様子もなく美紀さんから花を受け取った。

 

 

「ん? 人に花を貰うなんて何年振りだ? まぁ頂くよありがと♪」

 

伊藤さんはそのまま「ほんじゃ明日ね! 俺はもう寝るわ~」と自室に向う。

 

 

 

「お栄ちゃん! 1本頂戴! お願いっ!!」

 

「瑠依も瑠依も! 1本! お願い!」

 

 優理と瑠依ちゃんはお栄ちゃんに懇願し、ブーケから花を1本づつ分けて貰うと、急いで伊藤さんを追った。

 

 

「ふふふっ♪」

 

 楽しそうに笑う唯ちゃん。

 

 

「ふふ、賑やかで楽しいお屋敷なのですね♪」

 

 陽は、同世代のこの子達と上手くやっていけるだろうか。本当に皆、いい子達だ、きっと大丈夫だろう。

 

 

「俺達も休もうか」

 

「はい♪」

 

 

 俺はその前にと思って皆の方に向きなおる。

 

「みんな、サプライズほんとにびっくりした! ありがとね! これからも宜しくお願いします!」

 

 しっかりとお礼を言っておくことにした。

 

 

「これからもサプライズね! 了解♪」

 

 美紀さんがニヤっと笑う。

 

 

「え? そっちじゃなくてですよ!?」

 

 

「あひゃひゃひゃひゃ♪ こちらこそ宜しくお願いします! 奥方様も!」

 

 金田さんは笑いながら、俺達に向けて一礼してくれた。

 

 

「はい♪ おやすみなさいませ」

 

 陽の一礼に、ここに残った一同が同様にして応える。

 

 

 織田信長さんの美濃侵攻がいよいよに迫る中、この屋敷は新しい住人を迎え、一層の繁栄を予感させていた。



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第22話 出陣の時

■1567年 7月27日 飛騨国

   大原村 姉小路軍

 

「申し上げます、姉小路頼綱様、着陣なされました!」

 

 山深い大原の地に、飛騨守護の軍勢600が到着した。知らせを受けた石島は、義兄として慕う義父を迎えるため陣を出る。

 

 煌びやかな軍足を纏う兵団の先頭に、大柄な騎馬に跨った頼綱を見た。

 

「義兄上様(あにうえさま)! ご助力感謝いたします!」

 

 

 馬上から石島を見下ろす形になった頼綱は、あえて馬から降りる事はせず、そのまま馬上から声をかけた。

 

 

「なんの、義弟(おとうと)の頼みだ、して伊藤殿は?」

 

 頼綱の知る限り、石島家の面々は戦を経験した事が無い。この戦で戦闘があるとすれば、質量共に姉小路軍が戦力のほぼ全てになると睨んでいる。

 

 とはいえ総大将は目の前の石島である。

 

 人柄は申し分ないが、その柔らかい物腰で総大将が務まるとは、到底思えないでいた。

 

 

「はい、既に大原の兵を率いて国境の砦の調略に当たっております」

 

「なに!? 大原の兵でだと?」

 

 頼綱は愕然とした。

 

 平時の調略とあればそれでも構わないが、戦時の調略となれば話が違ってくる。圧倒的兵数を以て対象に挑み、その圧力を以て交渉を有利に進めるのが基本だ。

 

 

「我らも参ろう!」

 

「はい!」

 

 頼綱は石島を促し、すぐさま出陣の合図を執り行わせた。

 

 

<ドンッ ドンッ>

 

   <ドンッ ドンッ>

 

 

 太鼓が打ち鳴らされ、僅か10名程の供回りを連れた石島が陣を発つ。

 

 

(伊藤殿も所詮は実戦を知らぬ男か……)

 

 頼綱の頭には、良くない予感ばかりが浮かび上がる。

 

(斎藤に義理立てする手筈も残さなくてはいかんか)

 

 尾張の織田信長が動いたという知らせは無い。この出陣が石島の独り相撲に終わった場合、姉小路としては隣接する斉藤に対して義理を立てる手段を残さなくてはならなくなる。

 

「陽……すまぬ、兄の人を見る目の無さよ」

 

 頼綱は1人呟くと、ひとまずは石島の総大将に従って兵を進めた。姉小路の兵は丸一日歩いて大原まで到着したのだが、休む間もなく再開された進軍に、少しばかり士気を落としている。

 

 

(負けるぞ……このままでは負ける)

 

 頼綱は伊藤を買被った己を恥じていた。

 

 妹のように可愛がった養女と、その夫である石島。展開によってはこの2人を同時に失う事になりかねない。そんな予感に苛まれ、浮かない顔で馬を進めた。

 

 

 

 

■1567年 7月27日 美濃国

   郡上八幡城 遠藤家

 

 

 作家司馬遼太郎に「日本で最も美しい山城」と評される【郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう)】だが、この当時は砦を多少改築した程度の簡素な城である。

 

 この日、郡上一帯の領主である遠藤慶隆は、数日前から収まりが付かない城下の混乱に頭を悩ませていた。

 

「流言(りゅうげん)の出所はまだわからんのか!」

 

 郡上八幡の城下ではとある噂話が飛び交い、城下から逃れる商人が後を絶たない。ついにその日の朝になると、城の警備に当たっていた兵までが脱走を始めたのだ。

 

 遠藤の家臣が現状の報告を行う。

 

 

「ハッ……恐らく織田の手の者、しかしながらすべてを流言と受け取るのは危険かと」

 

 

 遠藤慶隆は露骨に嫌な顔をした。

 実はこの領主、家臣達との関係が上手くいっていない。

 

 その原因は遠藤家の過去と本人の若さにある。

 

 今年でまだ17歳の若い当主には、父の代で併合した東氏の家臣団を含む猛者達を纏める力は無く、配下の勢力には隙あらば遠藤氏に取って代ろうという野心を露骨に示す連中までいる。

 

 流言の出所など、想像するだけでいくつも心当たりがあるのだ。

 

 数日前から飛び交う流言は、美濃三人衆が既に織田方に内通しているという内容だった。そうなってしまえば斉藤家が終わる事など、城下の少年でさえ分かっている。

 

 さらにその流言には尾ひれが付き、ついには再興を援助した石島家が織田に付き、姉小路の援軍を引き連れて攻めてくるという内容に発展したのだ。

 

 

(美濃三人衆が寝返るわけなどない……)

 

 ましてや、織田と国境を接していない石島が織田に付く場合、完全に孤立してしまう危険性がある。

 

(それほど馬鹿な連中とも思えん)

 

 目の前にいるこの家臣は、つい前日「石島が本当に兵を挙げれば一大事だ」と諌言してきたばかりである。

 

 「噂を聞きつけて態々弁明にくる石島を疑うと申すか、金田とやらは頭を丸めて来たのだぞ」

 

 

 二日前、石島再興の折りに使者として訪れた金田という男が再び訪れ、噂話の弁明に来たばかりである。

 

 

 万が一にも流言の通りになるとすれば、その前に頂戴した品々は必ずお返しすると言い切り、「斬るならば今この場でお斬りくだされ!」と大見栄を切ったのだ。

 

 要するに、金田を信じるのであれば、先だって石島家当主と姉小路頼綱の養女の婚儀に進呈した祝いの品を返してこない以上、石島は裏切らないという事になる。

 

 

「ですが……あの坊主頭の申す事、信用なさるおつもりですか?」

 

 

「その方、流言の出所を掴めぬ故、そのような事を申しておるのではあるまいな」

 

 

「け、決してそのような」

 

 項垂れる家臣に対する遠藤の指摘は、当たらずも遠からずである。この家臣、流言をどうにか食い止めようと、日夜必死に関所や番所、果ては飲み屋に至るまでとにかく足を運んだのだ。

 

 それでも止まない流言に、半ば言い訳で「流言ではないかもしれない」と言ったに過ぎない。

 

 

「よい、下がれ!」

 

 

「ハッ」

 

 

 その時、廊下をドタバタと走る音が聞こえると、その音は一気に広間まで突き抜けてきた。

 

 

「も、も、申し上げます!」

 

 

「なんじゃ騒々しい」

 

 遠藤の頭に嫌な予感がよぎる。

 

 

「別府四郎殿が挙兵、ご謀反! 北は鶴佐、下津原、吉田の砦が同調! 吉田川流域は既に別府四郎殿の手に落ちております!」

 

 

「なんじゃと! 別府のクソじじいめ!」

 

 遠藤は勢いよく立ち上がる。

 

「陣触れじゃ!」

 

 家臣に兵を集めるように指示すると、自身も仕度を整えるために自室に戻る。ほら貝が鳴り響き、郡上八幡一帯に住む家中の面々に陣触れが発せられた事が伝わっていく。

 

 自室に戻った遠藤は不機嫌なまま、侍女達に戦の用意をするように命じた。

 

 

「殿、此度はいかがされたのです」

 

 遠藤の妻が若い夫を心配しながら、侍女達に的確な指示を出すと、侍女達が遠藤の上着を脱がせ、新しい戦用の服に着替えさせていく。

 

 

「別府のクソじじいが兵を挙げおった、そのほうの父上から何の知らせも無いのか?」

 

 遠藤は着替えさせられながら、妻に尋ねた。

 

 遠藤の妻は美濃三人衆の1人【安藤守就(あんどうもりなり)】の娘である。

 

 

「何を申されます、流言飛語など信じてはなりませぬ」

 

 この妻は遠藤より若干年上であり、若く気苦労の多い主人をよく支えていた。

 

「もしも父上が裏切るような事があれば、斉藤は終いでございましょう」

 

 確かに妻の言う通りだが、飛び交う流言に別府の挙兵、こうなると美濃三人衆が織田に寝返る可能性を無視できなくなってくる。

 

 

「美濃三人衆が後ろ盾であれば安藤殿から知らせがあるはず、そうではないのか? だとすれば……」

 

 用意された【湯漬(ゆづ)け】を口の中に掻きこむと、想像力を働かせる。

 

(飛騨の助力で石島が動く可能性があるのか? 別府のじじい、まさか石島が後ろ盾か?)

 

 

「殿! 殿~!」

 

 遠藤の戦仕度が終わろうとしている頃、ドタバタとやってきたのは先程流言の報告に来ていた家臣だ。

 

「い、石島より書状が!」

 

 その家臣は、部屋の前まで来るや書状が届いたと叫んだ。

 

 

「……!!??」

 

 遠藤は無言のまま、家臣からそれをむしり取る様に奪うと、急いで目を通す。

 

 

 

「お、おのれ……おのれぇえええええ!」

 

 遠藤は怒り、書状を持つ手がわなわなと震えだす。そのまま家臣に向きなおると、矢継ぎ早に命令を下した。

 

「関の父上に援軍を乞え! うぬが直接行くのだ! この書状を持っていけ、関の父上にお見せするのだ!」

 

「ハッ!」

 

 

「おのれ石島……!」

 

 興奮で息が上がった遠藤を、妻が鎮める。

 

 

 遠藤が受け取った書状は、石島家臣伊藤修一郎からの物で、概ね内容は以下の通り。

 

 

一、受けたご恩は返し難いが、これも乱世の慣わしと大目に見てもらえると助かる

 

一、先だって金田某がお約束した通り、婚儀の際に頂戴した金品はお返しする事にする

 

一、お返しする金品は、受取に参られた別府様にお渡ししたので受け取ってほしい

 

一、流言飛語にご苦労の様子であるが噂ではなく本当の話だ、出所は当家なので間違いない

 

一、これより郡上八幡城を頂戴しに参るので、出来れば宴の用意をしておいてほしい

 

一、もし城を捨ててお逃げになるのであれば、掃除くらいはして行ってもらいたい

 

石島臣下 伊藤修一郎

 

 

 

 その日の夜、手紙を受け取った【長井道利(ながいみちとし)】は激高していた。

 

 既に老人の域に達しようとしている長井は、遠藤慶隆の父が戦死した後、その妻である遠藤慶隆の母を貰い受け、郡上遠藤氏の後見約を引き受けている斎藤家の重臣である。

 

 この老人、元は関城の城主であったが、前年に居城を織田方に攻め落とされ、現在は関城から長良川を挟んだ北側に移り、大矢田一帯を支配しながら織田に抵抗を続けているのだ。

 

 

「すぐに出せる兵はいか程か!」

 

 

「ハッ! 八百程!」

 

 

「ようし、儂も行こう、目に物見せてくれようぞ!」

 

 

 7月27日、夜、長井道利は手勢約900騎を率いて長良川沿いを北上、翌28日早朝には郡上に到着していた。

 

 

 

「父上! 御自らご助力とは忝(かたじけ)い!」

 

「なんの、イシジマだかウシジマだか知らんが、目に物見せてくれようと勇んで参ったわ」

 

 

 郡上八幡は流言飛語の影響もあり、あまり多くの兵が集まらなかったが、それでも約700騎を集めるに至った。長井の手勢を合わせれば1600騎の軍勢となる。

 

 

「敵はいか程か」

 

 城の広間では軍議が開かれており、遅れて到着した長井が敵の情報を求めている。

 

 

「ハッ、別府四郎の手勢に二百、姉小路頼綱の手勢に大よそ六百、石島洋太郎の手勢は多く見積もって百、合わせても一千騎に届かぬ数でございます」

 

「はん! たかが百騎の手勢も用意できんような石島の下人に……これほどまでに扱き下ろされるとはな、捉えて指を一本ずつ切り落としてくれよう!」

 

 長井はわざわざ持ってきた伊藤の書簡を握り潰し、その老体に血をたぎらせていた。

 

 

 

 

■1567年 7月28日昼 美濃国

 郡上八幡東北東 吉田川東岸 石島軍

 

 

 俺達の進軍は、一切の抵抗を受ける事無くココまで進んだ。別府さんが抑えた地域に入ると、別府さんの手配で道案内まで付くという状況にで悠々と進むことが出来た。

 

(合戦って感じしないなぁ)

 

 これらは全て、伊藤マジックによるものだ。

 

 

 俺と陽が祝言を上げた22日の三日前の19日、伊藤さん達が湯治場から戻ったその日のうちに、伊藤さんと金田さんは郡上に入ったらしい。

 

 伊藤さんは金田さんを連れて郡上中の商店を回り、色々な物を注文しては「23日に取りにくるから宜しく頼む」と言って、気前よく前払いで支払を済ませて回ったそうだ。

 

 座で組織された商人の間で、そんな気前のいい客はすぐに評判になる。

 

 金田さんは翌日すぐに尾張へ向かい、その日のうちに小牧山で丹羽長秀さんに出陣の日程を告げると、とんぼ返りで郡上へ。

 

 

 金田さんが郡上に到着したのは22日の昼、ヘトヘトの金田さんはそのまま宿でぶっ倒れたらしいが、丹羽さんとやり取りを聞いた伊藤さんは作戦の決行を決意。

 

 伊藤さんは単身大原に戻ると、姉小路さんから譲り受けた新兵さん達30人に、それぞれ単独行動の上でその日のうちに郡上へ入るよう命令し、伊藤さん自身も郡上へ戻る。

 

 

 翌23日、商品の受け取りの日、伊藤さんは商店で品を受け取るとそれを新兵さんに持たせ、自身は次の商店に向う。

 

 座を通して評判になっていた伊藤さんは、行く先々で「そんなに大量に買ってどうするのか?」と尋ねられたそうだ。普通ならそこで【噂話】を吹き込んでしまいそうだが、伊藤さんはあえて「それは申せません」と笑顔で躱し続けたらしい。

 

 それでも、一番おしゃべりそうな呉服屋の女将さんにだけ、【噂話:美濃三人衆が織田方に寝返った】を吹き込むと、きつく口止めし、「逃げる時はコレを使ってください」と、口止め料まで払ったそうだ。

 

 

 たった1人である。

 

 

 その女将さんにしてみれば、商人仲間が口を揃えて「教えてくれなかった」と言う【評判の客が買い溜めしている理由】を、自分1人だけが知っている事になる。口止め料もあり、その【理由】を呉服屋の女将は信じて疑わなかったはずだ。

 

 

 そして、元々おしゃべりな性分であれば、黙ってはいられないだろう。

 

 しかし、商人仲間の誰もが教えてもらえなかったその客から、自分だけが「教えてもらった」等と言っては誰も信じてはくれないし、口止め料まで貰ってしまっている。

 

 それでも誰かに話したい女将さんの口からは「旅の人から聞いた話だけど」と噂話の出所が変わってしまうのだ。

 

 

 伊藤さんは更に、これまたお喋りが好きそうな饅頭屋の親父にも別の【噂話:美濃三人衆が寝返れば、石島が兵を挙げるだろう】を吹き込んでおいた。

 

 

 美濃三人衆が裏切らない限り、この噂話は予想の範疇を出ない、単なるヨタ話しで終わるのだが、事実であると信じて疑わない呉服屋の女将さんが発した【美濃三人衆が織田方に寝返った】という噂話が数日で広がりを見せると、その尾ひれとなって急速に現実味を帯びてくる。

 

 

 後はもう、放って置けばいいだけだ。人の口に戸は立てられないと言う。

 

 その種まきを完了させた23日、商店で品物を受け取った新兵さん達は、その日のうちにそれを俺の屋敷に運び込み、祝いの品だと言って広間に置いて行ったそうだ。

 

(確かに、知らない人が多かったから変だと思ったんだよね)

 

 翌々日の25日、金田さんは「噂話を聞きつけた」と郡上八幡城を訪問、改めて剃り丸めた頭で謝罪。その間、伊藤さんは予てから遠藤さんとの不仲が問題になっていた別府さんと密談。

 

 

 別府さんに対して「噂話が本当になったらどうするか」と尋ねたそうだ。別府さんは「先立つ物があれば遠藤と戦いたい」と打ち明けたそうで、翌26日、祝言の時に遠藤さんから届けられた祝いの品は、そっくりそのまま別府さんの屋敷に運び込まれた。

 

 

 そして昨日、7月27日。

 

 伊藤さんは新兵さん30騎を連れて先駆けると、これに別府さんが呼応。伊藤さんは山間の砦を次々と周り、「織田に降伏するか逃げるかしたほうがいい」と説得して回った。

 

 そもそも、城下と離れた山間の砦では限られた情報しか入ってこない上に、その実態をその目で見る事が出来ない。

 

 入り込んだ噂話に翻弄されまくっていたそうだ。

 

 そして何より、あえて「石島に降伏しろ」と言わない辺りが、逼迫した状況を演出したと思う。

 

 

 そんな伊藤マジックに守られ、俺達は今日、ついに郡上八幡城の東北東、歩いて1時間もかからない距離まで接近しているのだ。

 

 そして極め付けは、伊藤さんが送った書状。正に挑発文といった感じだが、まんまと大魚が釣れた。

 

 織田信長さんの美濃侵攻に少しでも貢献しようと思えば、郡上で遠藤さんの相手をするだけでは物足りない。生粋の斉藤家臣である長井さんを一本釣り出来れば、胸を張って貢献したと言って良いはずだ。

 

 

 夏らしい日差しを浴びながら、俺はここ数日でようやく着慣れた甲冑をガシャガシャと揺らしながら席についた。郡上八幡付近まで接近した物の、郡上八幡一帯には長井さんや遠藤さんの家紋が付いたのぼり旗が悠然と立ち並んでいる。

 

 

「いや~、見てきました? いま行ってきましたけど多いっすねぇ」

 

 俺に続いて金田さんが本陣に戻ってきた。

 

 

 これで全員だ。俺は今、総大将の立場なので上座にいる。

 

 

 伊藤さんと頼綱さんが両側に、続くように金田さんとつーくん、綱義くんと綱忠くん、末席に別府さんが来てくれていた。

 

 

 全員が着座すると、頼綱さんが口を開く。

 

「伊藤殿、御見それ致しました!」

 

 昨日からずっと浮かない顔をしていた自綱さんが、突然改まって伊藤さんに頭を下げた。

 

 

(うわ? え? なに?)

 

 俺にはさっぱり理由が分からなかったが、伊藤さんはそれを見て優しく微笑むだけだった。

 

(この2人、なにかあったのかな?)

 

 

 頭を上げた頼綱さんが少し興奮気味に言葉を並べる。

 

「正直に申しますとこの頼綱、伊藤殿がまさかここまで鮮やかな戦差配(いくささはい)をなされるとは思うておりませなんだ」

 

 頼綱さんの目はキラキラと輝き、伊藤さんへの心酔を更に深めたように見える。

 

「虚を実とし、実を虚とする、斯様(かよう)な戦差配は今孔明と評されても過言ではありませんぞ」

 

 頼綱さんはだいぶ興奮中だ。

 

 

「やめてくださいよ、大げさですって」

 

 伊藤さんは特に誇る事も無く、ただ淡々と現状の説明に移る。

 

「関の長井さんが釣れたから作戦は大成功なんですけど」

 

 そこまで言うと、広げられたポスターサイズの地図を見ながら少し考え、僅かな間を置いて言葉を続けた。

 

「問題はその長井さんと遠藤さんの両軍勢、下手すりゃ両方同時に戦う事になるからさ、どうやってたら勝てるかって話なんだよね」

 

 その言葉に、頼綱さんは高揚収まりきらない様子で答えた。

 

 

「我が手勢、何なりとお使い下され。ここまでに至る差配をされたのは伊藤殿だ、決戦に及ぶとあらば、その采配も伊藤殿にお任せするより他にない!」

 

 頼綱さんの言う通り、ここまでの状況を作り出した伊藤さんに最後まで決めきってもらうしかない。

 

 

「いやいや、天才じゃないからさ、皆の意見が欲しいんだよね、三人寄ればナンタラって言うじゃん?」

 

 伊藤さんは甲冑の着心地を少し苦しそうにしながら言葉を続ける。

 

「ホント時間なくてさ、この先の事まで全然考えてなかったんですよね、昨日くらいから考えようとしてるんだけど……ゆっくり考える時間もなくてね」

 

 ここまで考えてくれただけでも凄いと思う。それに、確かに伊藤さんは暇な時間が皆無だ。次々と俺の所に舞い込んでくる報告を実に迅速に処理してくれている。

 

 伊藤さんの言葉に、つーくんが答えた。

 

「伊藤様の中で、どのような結果を思い描いておられるのですか?」

 

 

 特に間を置く事無く伊藤さんが答える。

 

「理想はもちろん、郡上八幡の奪取だけど……」

 

 そこまで言うと、何かを考え始めた。

 

 

(確かに、無理にそこを目指す必要もないかも知れないんだ)

 

 織田信長さんが美濃攻略を成功させれば、俺達はスペシャルな後ろ盾を持つ事が出来る。約束通りになれば、別に自分達で奪取しなくとも、郡上八幡は俺達の物になるのだ。

 

 

「戦わないってのもアリですよね?」

 

 俺の意見に、伊藤さん以外の全員が目を丸くして驚いた。それぞれ顔には「ここまで来ておいて何を」と書いてある感じがする。

 

 伊藤さんがポンと手を叩いた。

 

「そう、戦う必要はないんです、戦わない必要もないけど、戦う必要もない」

 

 そう言ってつーくんを見据える。

 

「俺の描いている理想は【時間稼ぎ】なんだよね」

 

 

 伊藤さんの想いは、俺の考えていた事と同じだった。違うとしたら、伊藤さんはどうしたらそれが実現するか、瞬時に考え出してしまう事だ

 

 

 伊藤マジックがこれほど綺麗に決まり、敵の目の前まで来ちゃうとどしても闘争本能が目覚め始める。

 

 だけど、別に戦う必要なんて無いのだ。

 

 織田信長さんに認められる要件は既に満たしている。稲葉山城の支援者である長井さんを完全に引き付けているのだ。

 

 

 伊藤さんが言うには、長井さんが郡上に入った事で斎藤さんの完敗は避けられない状況になったらしい。もし現段階で美濃三人衆が寝返りの約束まで至っていなかった場合、俺達の行動がその後押しになる可能性もあるとか。

 

 

 そうなればますますお手柄だ。わざわざ殺し合いをする必要は無い。

 

 

「あと2週間か」

 

 金田さんが呟くが、全員がよく分からないような顔をしている。俺とつーくんは、もちろん何の2週間なのかが分からないし、頼綱さんや大原兄弟は、週という単位が分からないようだ。

 

 

「よし!」

 

 伊藤さんが膝を叩いて立ち上がった。

 

「今から15日間、どうにか耐えましょう!」

 

 

 そう言った伊藤さんから、其々に指示が出た。俺達が今いる場所のすぐ南側、この山を簡易的なお城にしてしまおうと言い出した。夜間行軍してきた長井さんの兵が休んでいる今が絶好の機会だとか。

 

 

 伊藤さんが選んだのは稚児山という山の麓続きで、それほど高くはないが、斜面はけっこう急な峰だ。川沿いで姉小路さんの隊が待機しながら、大原の人たちと別府さんの兵、それから地元の人たちを雇って防御施設を構築しようと言うのだ。

 

「付城(つけじろ)っすか、なるほど!」

 

 金田さんが立ちあがると「地元の男連中かき集めてくるっす!」と走り去っていった。

 

「剛左衛門、十三、十五、殿と一緒に峰に上がってきてほしいんだ、木を少し切るだけで見晴らしがよくなる場所を探してきてほしい、出来れば郡上八幡城が見えるほうがいいな」

 

 

「よし、参ろう!」

 

「ハッ!」

 

 俺の一声で3人が立ち上がった。

 

 

「別府殿、米俵10表を追加でお渡し致しますので、山間に逃げ込んだ守備兵さん達の再雇用をお願いします!」

 

 

「かしこまった!」

 

 別府さんも立ち上がる。

 

 

「頼綱様、襲来に備えて陣を張りましょう、付城が出来るまで川沿いで食い止めねばなりません」

 

 言いながら地図のある地点を指した。

 

 付城を作ろうとしている地点のすぐ西側、吉田川東岸の最南端に位置する地点だ。

 

 

「よかろう、この地に陣を構え、付城の完成を待つとしよう!」

 

 頼綱さんと伊藤さんは互いに頷き合った。

 

 

 ここへ来て、いよいよ合戦に来たんだという実感が沸き始めていた。



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第23話 吉田川の野戦

■1567年 7月28日午後 美濃国

   郡上八幡城 遠藤家

 

 

 

 石島軍が稚児山麓に陣を築き始めてから程なくして、郡上の遠藤軍にもその知らせが届く。

 

 

「長期戦に持ち込む気か」

 

 知らせを受けた遠藤は焦りを抱き始めていた。

 

 ただでさえ情勢不安定になっている郡上で、長期戦になれば次なる離反者が出かねない。ましてや美濃の情勢を考えるに、義父である長井を長期間に渡り郡上に留めておく訳にはいかないのだ。

 

 

「父上……」

 

 経験の浅い17歳の遠藤にとって、老獪な義父は頼みの綱である。

 

 

「ふむ、乗ってやろうではないか」

 

 長井はニヤリと笑った。

 

「虚実の真は変わらぬ、どれ程見せかけようともその真は変わらぬものよ」

 

 長井は立ち上がると、部下に兵を纏めるように指示を出した。

 

「ひと当てしてくれようぞ、ただし儂のやり方でな」

 

 

――夕方に差し掛かろうという時間になって、長井の兵が動いた。

 

 長井軍は郡上八幡を出て東進すると、姉小路軍を吉田川対岸に見ながら悠々と通り、その少し北側の山腹に陣を構えた。郡上八幡の遠藤軍が東進してくれば、北と西から石島軍を挟撃出来る形に布陣したのである。

 

 

「ふん、石島とやら、その首洗っておくがいい」

 

 

 山腹に構えた陣から姉小路軍を見下ろす長井は、その更に奥にいるであろう石島に対して並々ならぬ執着心を見せ始めている。

 

 長井は主だった部下を集めた。

 

「今宵、夜襲を仕掛ける、石島の手の者で伊藤という輩がおるらしいが、そ奴を捉えた者には褒美を出そう、励めよ!」

 

『応!』

 

 長井軍はそのまま陣をしっかりと構築すると、日が落ちる頃には夕餉の仕度に入り、陣から炊事の煙を発たせ始めた。

 

 

「申し上げます、姉小路の物見(ものみ)がしきりに郡上八幡城方面へ行き来しておるようすです」

 

 長井の部下が姉小路軍の現状について報告する。

 

 

「そうじゃそうじゃ、気にするがいい、慶隆の軍がここへ来れば袋のネズミぞ」

 

 遠藤軍と長井軍の挟撃を警戒し始めた様子の姉小路軍に対し、長井は今夜の夜襲が成功すると確信していた。

 

 

 

 

■1567年 7月28日夕刻 美濃国

   稚児山麓 石島軍本陣

 

 俺達は今、地図とその上に置かれた凸型の将棋の駒みたいな物体を睨みつけている。長井さんの軍が夕方に布陣した地点が問題なのだ。

 

 

「絶妙な位置取りだなぁ」

 

 沈黙を破るように、つーくんが改めて感想を述べる。もう何度もやり取りされた話なのだが、どう考えてもやはり絶妙だ。

 

 このまま長期戦にも持ち込めるし、郡上の遠藤さんの軍と連携して俺達を挟み撃ちにも出来る。敵の布陣を見た伊藤さんは、大急ぎで頼綱さんと一緒に前線へ行ってしまった。

 

「ここでこうしておっても仕方ありませんな、某はこれにて持ち場に戻りまする」

 

 

 別府さんが立ちあがって一礼する。

 

 

「はい、指示があるまで持ち場でお待ちください」

 俺は別府さんに失礼の無いよう、立ち上がって一礼を返した。

 

 別府さんが立ち去ると、つーくんが呟くように声を漏らした。

「長期戦になれば願ったり叶ったりなんだけどなぁ」

 

 不安そうに地図を眺めている。

 

 

 俺達はもちろん、綱義くんも綱忠くんも初陣だ。姉小路さんから貰った新兵さん達も当然、初めての戦場になる。

 

 はっきり言って、どうしたらいいのか分からない。

 

 

「動かざる事山の如し……か」

 

 金田さんが呟きながら席を立つ。

 

「夕餉の仕度を見て来ますね」

 

 

 伊藤さんが戻るまで待つしかないのだが、どうも座っているだけでは気が鎮まらない。

 

 

「大原兄弟、殿のお側を離れないでね、俺は少し見回り行ってくる」

 つーくんも席を立って本陣を出る。

 

 

 綱義くんも綱忠くんも緊張の面持ちだ。

 

「ふ~、なんか緊張するよね」

 

 俺は2人に声をかけ、2人の生い立ちなんかを聞いて時間を過ごす事にした。

 

 

 

 

 

――夜

 

 

 俺達の夕餉が終わった頃、伊藤さんが一人で戻ってきた。全身から緊張を滾らせている感じで、それは俺達にも伝染する。

 

 

「伊藤様、夕餉は」

 綱義くんが伊藤さんに白米と汁を運んで来た。

 

「おお、ありがとう、頂くよ」

 

 伊藤さんはまだ何かを考えているようだったが、伊藤さんが思案している時は俺達は黙ってそれを待つ。米と汁を胃袋に掻きこむようにあっという間に完食した伊藤さんは、簡単ではあったが今後すべき事を伝えてくれた。

 

 

「十三と十五はそれぞれ、射手5騎、槍5騎を以て下山、姉小路軍北側に柵が設置してあるからそこに移動して」

 

「ハッ」

 

 大原兄弟がその場を立つ。

 

 

「剛左衛門はこの下の登り口、んー、仮に【登り口】って名前にしとこう、あの急な坂に柵立てた場所ね、あの場所を新兵10騎と一緒に守って欲しい」

 

「……了解です!」

 

 つーくんは頷いて、大原兄弟の後を追うように陣を出る。彼らと新兵の割り振りをしなければならないのだろう。

 

 

「村で軍役に応じてくれた15名に関しては金田君が指揮して、一応は本陣にいてほしいんだ」

 

 

 伊藤さんはそう言うと「これは後でコッソリ剛左衛門に伝えてほしい」と言って俺と金田さんを手まねきする。

 

 俺達は手を伸ばせば届く距離に移動した。

 

 伊藤さんは小声で話し始める。

 

「たぶんね、今夜、夜襲をかけてくると思うんだ、もう待ち伏せの手配は出来てるから、こっちが待ち伏せしてるのバレないようにしよう」

 

 俺と金田さんは驚いて顔を見合わせてしまった。

 

 

 

 

■ 同時刻 

   別府四郎陣所

 

 

 夜、石島に加勢している別府四郎の陣に1人の男が訪れていた。

 

「叔父殿、水臭いではないか」

 

 到着した男は別府四郎を叔父と呼び、文句を言いながらも出された酒を一口に煽った。

 

 

「未だ賽の目はどう出るかわからぬ、甥を巻き込まぬようにした叔父を責めるな、まだこれからぞ」

 

 別府四郎はニヤリと笑うと、同じく一口に酒を飲み干す。

 

 

「このまま石島に付き従った所で利は少なかろう、やるなら我が郎党も加勢するぞ」

 

 別府四郎を正面から見据え、睨むように言い切った甥は、その瞳の奥に底知れぬ欲望を滾らせている。

 

 

「弥平治よ、今しばらく大人しゅう若殿の側おれ、その方がいざという時に都合がよい」

 

 そう言って杯を置くと、その杯に甥である弥平治が酒を注ぐ。

 

 

 酒を注ぎながら、弥平治は面白くない思いでいる。

 

(美味しい所を全て掻っ攫うつもりだな……そうはいかんぞ)

 

 

 弥平治はこの叔父をあまり信用していない。

 

 正に乱世を生きる男であるこの叔父は、その変わり身の早さを以て今まで生き延びてきた。今日の自分が置かれている立場と、明日の自分が置かれている立場が真逆になったとしても、生き残れば勝ちだと思っている。そんな叔父を信頼していては、自分の身が持たない。

 

 

「弥平治よ、戦がひと決まりするまで待とうではないか」

 

 注がれた酒を口に運びながら、四郎はまたニヤリと笑う。

 

 

「いつ決まるのだ、俺は石島の当主に会うているがな、これと言って際立つ何かを見たわけではないぞ」

 

 この甥は、石島洋太郎の祝言に際して祝いの品を届けた鷲見弥平治その人である。

 

「領民からは慕われておる様子ではあったがな、その程度だ」

 

 弥平治は自らの杯に酒を注ぎながら言葉を続けた。

 

「だが此度の戦差配は鮮やかすぎる、叔父殿は伊藤という者には会うたか」

 

 

 別府四郎は小さく頷く。

 

「あれは油断ならぬ、事を起こすつもりであれば、あれは始末せねばなるまい」

 

 

「そうかよ、まぁ叔父殿のする事に邪魔立てするつもりはないさ、助けが欲しくば言うてまいられよ」

 

 弥平治は杯を一口で空にすると立ち上がり、「馳走になった」と言い残して闇夜に消えて行った。

 

 

「危うい危うい……なんというむき出しの野心、あれが我が甥とは信じられん」

 

 残された別府四郎は、小さく独り言を漏らしていた。

 

 

 

 

 

■1567年 7月29日未明 美濃国

   郡上八幡城 東北東 吉田川

 

 

 まだ夜が白み始める前、漆黒の闇を進む兵団がいた。

 

 長井道利は自ら部下達の指揮を取り、吉田川を上流に向けてさかのぼると、浅瀬を探させているのだ。

 

 

「殿、この辺りが宜しいかと」

 

 部下に頷いた長井は、自らがやって来た方向を振り返った。

 

 長井が陣を張った山腹は既に遠くなっていて、未だに煌々と篝火が炊かれている様子は、敵の夜襲を警戒しているように見えるであろう。その山腹の陣を守る兵200を残し、長井軍は700騎をこの夜襲に投入している。

 

(ふむ、上出来よ)

 

 その麓の向こう側、姉小路軍からは時折、郡上八幡城方面に向かって松明が往来している。姉小路軍の物見は徹夜で郡上八幡方面を警戒している様子であった。

 

(烏合の衆を相手に挟撃など不要よ)

 

 長井はニヤリと笑うと右手を上げた。

 

 

「押渡れっ」

 

 声の音量を抑えながらも、部下達の背中を押すような威厳を以て命を下した。

 

 漆黒の闇夜をもろともせず、吉田川を押し渡る。

 

(夜明けには決着が付いているであろうよ)

 

 元来夜襲とは、少数精鋭で相手に痛手を与え、その士気を挫くのが目的であるのだが、今回は全く違った。

 

 今の長井は夜戦であるとか昼戦であるといった区別を付けてはいない。ただ単純に、敵を壊滅させるつもりでいる。

 

 

「殿、参りましょう」

 

「うむ」

 

 軍勢の先鋒が吉田川を渡りきると、既に川の半ばまで進んでいる中軍を追うように、長井道利の本体が渡河を開始。先に渡りきった先鋒が周囲に展開し、安全を確認しながら進むと、それによって出来た空間に渡河を終えた中軍が押し込められていく。

 

 

 全軍が渡り切ると、隊列を整えながら南下を開始。

 

 

 吉田川東岸を南下し、石島軍の陣所に接近していた。

 

 

 しかし、その南下の途中、目の前の一帯に突如として灯りが燈り始めた。その一帯は、吉田川東岸では最も狭く、西に吉田川、東に山腹が迫る狭所である。

 

 

「気づかれたか!?」

 

 そう思った長井軍の将は、自分の心配が的外れだった事に気付く。灯された灯りは次々と広がりを見せ、狭い東岸を埋め尽くしてしまったのだ。

 

 

「気付かれたどころではない……読まれていたというのか!?」

 

 一瞬怯んだ将の元に、長井からの伝令が訪れた。

 

 

「伝令! 押し通れとの事!」

 

 

「……応! お任せあれ!」

 

 その将は自らの手勢が揃っているのを確認すると号令をかけた。

 

「者共! 押し通るぞ!」

 

  『応!』

    『応!』

 

 長井軍の先鋒隊は、待ち伏せに動じる事なく、煌々と照らされた一帯に向けて進軍を開始した。

 

 

 狭所となっているその一帯は篝火が立てられ、辺りは昼のような明るさになっていた。辺りには柵が張り巡らされ迷路のような状況になっていたが、石島軍の姿は全く見えない。

 

 

「こけおどしか、進むぞ!」

 

 『応!』

 

 

 先鋒隊に続き中軍も灯りが燈された一帯に侵入を開始すると、先鋒隊からの現状報告が長井の元に届けられた。

 

「何!? ……敵がおらんだと!?」

 

「ハッ! 妙な形状に柵が張り巡らされてはおりますが、敵の姿はなく、篝火に助けられてわが軍は悠々と進軍しております」

 

 

 伝令の顔には余裕さえ見て取れた。

 

(布陣の不利を悟った別府四郎が我らに付いたか?)

 

 自分達を手引きする者がいるとすれば、別府四郎しか思い浮かばない。

 

(石島が北側を守るために張り巡らせた柵であるのは間違いないが……)

 

 その柵を基本とした防衛陣も、兵がいないのでは機能しない。

 

 

 篝火に助けられた長井軍は、柵を避けながら悠々と進む。その一帯は、ついに長井の肉眼で確認できる距離まで迫ってきた。

 

「こうまで明るければ柵などただの飾りではないか……」

 

 考えられるとすれば、防衛を担当していた別所四郎が陣を放棄して引き払った可能性である。

 

(ただ柵だけを設置した可能性も無くは無いが……ぬるい)

 

 

 闇夜に立ち並ぶ柵であれば多少は進軍の妨害にもなろうが、篝火に照らされていて、その上は兵もいない。

 

 

「火を燈した連中は何処へ行ったのだ! 別府四郎の手の者であるならば何故、知らせを寄こさん!」

 

 

その時、闇夜を切り裂く音に長井軍の勇士たちは戦慄した。

 

 

<びゅるるるる>

 

    <びゅるるるる>

 

 

「!? 伏せよっ! 矢じゃ!」

 

 カツカツと硬い物が足元に刺さる音に混じり、兵の悲鳴が上がる。

 

 

「敵襲!」

 

  「敵襲~!」

 

 誰からともなく叫ぶが、敵の姿は見当たらない。煌々と明るい一帯に入り込んだ長井軍からは、その外の漆黒の闇夜にいる敵を目視する事が出来ないのだ。

 

 

「どこからじゃ! 矢の方角は!?」

 

 止むことの無い矢の雨は、次々と兵をなぎ倒していく。

 この状況で敵の位置を把握するには、自分達がこの明るい一帯から抜け出して目視するか、もしくは受けた矢を元に敵の弓兵が潜む方角を算出するしかない。

 

「ひ、東かと! 東の山腹よブッ」

 

 先鋒隊の将に矢の方角を示した者の後頭部に、矢が深々と突き立っていた。

 

「おのれっ……東じゃ! 山腹に寄せよ! 討ち取れ!」

 

 

 

 

 先鋒隊が東の山腹に寄せ始めた頃、次々と放たれる矢の雨を受けた長井軍の中軍は、身動きが取れずに大混乱に陥っていた。

 

 前方には先鋒隊がいて進めず、その先鋒隊も矢の雨に晒されている。後ろには長井の本体がいて下がれず、例え下がれたとしても、長井本体に逃げ込んで矢の雨が長井に向けられても困る。中軍の将は逃げ惑う兵を見ながらもただ「伏せよ! 身を低くせよ!」としか指示を出せないでいる。

 

 更に中軍の被害を大きくしているのは、張り巡らされた柵であった。柵が邪魔をして逃げ惑う範囲が限られてている上に、襲い掛かる矢は柵で分断された部隊に集中して注ぎ込まれているのだ。

 

 

 本隊の長井は苛立っていた。

 

「矢は東じゃ! 東の木々の合間より放たれておるわ!」

 

 既に中軍と先鋒は混乱状態である。

 

「矢を黙らせろ!」

 

 長井は本体の300騎のうち、100騎を将に預けて山腹に向わせた。

 

「先鋒に伝えよ! 早う抜けて中軍を通せとな!」

 

「ハッ!」

 

 長井の元から伝令が駆ける。

 

 

 長井が差し向けた100騎が柵を迂回しながら山腹に迫った時。地面を裂くような音が木霊した。

 

 

≪バリバリバリバリ≫

 

 

 鉄砲である。

 

 

「鉄砲か! 今の音……五十は下らんか!?」

 

 実際、石島軍が用意出来た鉄砲は山賊達の残留品である1挺に過ぎず、姉小路軍が準備していた10挺のと合わせ、僅か11挺の一斉射撃である。

 

 しかしその音は、漆黒の山々に激しく木霊した。伊藤の考案により、銃口付近に円錐状の部材を取付け、音が響くように改造したのだ。

 

 

 闇夜に響く鉄砲の音。

 

 

 その音が勝敗を決した。

 

 

 

「今じゃ! かかれ!」

 

 明るい一帯の南側。闇夜に静かに伏していた姉小路頼綱は、鉄砲の音を合図に配備していた手勢300に号令をかけた。

 

 その姉小路軍は長井の先鋒隊に襲い掛る。長井の先鋒隊は、矢の雨による混乱をどうにか切り抜け東の山腹に寄せようにも、柵に邪魔されて思うように進めず、さらに矢の餌食になる兵を増やしていた。

 

 後方から響く鉄砲の音に怯み、己の命が危うい状況である事を思い知らされた時、今度は前方から姉小路軍が突進してきたのである。

 

 鉄砲の音と共に矢の雨はピタリと止んだが、張り巡らされた柵の中をひたすら東に進んだ先鋒隊は、既にその陣形も隊列も皆無となっていた。

 

「いかん……」

 

 先鋒隊の将は死を覚悟した。

 

 

 

 その頃、中軍にはまだ矢が降り注いでいた。本体に被害は及んでいないものの、既に敗色濃厚となっている。

 

 

≪バリバリバリバリ≫

 

 

 再び鉄砲の音が響いた。

 

 それと同時に矢の雨が止まる。代わりに襲ってきたのは、敵兵であった。

 

 

「がっはっは! 別府四郎見参なり! 者ども! 蹴散らせ!」

 

 混乱しきった中軍に別府四郎の兵200が躍り掛かった。

 

 

 

 この当時の兵団は、その殆どが半農半兵の臨時兵隊である。斎藤家も言うに及ばず、その形態で組織されていた。その兵団は、一度士気が低下すると持ち直せないという特徴がある。

 

 我先にと逃げ出し始めると、もう止める事は出来ないのだ。

 

 精鋭部隊で組織された先鋒隊の一部と、長井道利が率いる本隊の一部を除き、その殆どが戦意を喪失。

 

 夜が白み始める頃、長井軍は総崩れの様相となった。

 

 

 

 

 

■同年同日 早朝 美濃国

   吉田川東岸 石島軍

 

 

「水! こっちに水! 持って来て!」

 

 長井さんの夜襲を伊藤さんと頼綱さん、それと別府さんが見事に返り討ちにした。

 

 だが、俺達の戦場はその後だった。

 

 

「殿! こちらへ!」

 

「あ、はい!」

 

 

 今この瞬間の事は、たぶん一生忘れられないと思う。俺は伊藤さんの指示で、戦場となった場所を駆け回っていた。

 

 負傷した味方の兵隊さんの手を取って勇気付けたり、今まさに息絶えようとしている味方の兵隊さんの手を取り、「よくやってくれました」と礼を述べたり。

 

 お亡くなりになった味方の兵隊さんに手を合わせたりしている。

 

 

 特に強烈だったのは、敵味方共に首から上が無いご遺体が多かった事だ。

 

 

「剛左衛門! こっち!」

 

 金田さんの声がする方を見てみると、痛みで大暴れする兵隊さんの治療が行われていた。

 

 

(これが戦場か……正直きついな……)

 

 繰り返し襲ってくる吐き気に耐えながら、どうにかして役目を果たそうと足を進める。

 

 

「おお、総大将殿、ご覧あれ! この四郎、まだまだ若い者には負けませんぞ! がっはっは」

 

「……っく」

 

 再び襲ってくる吐き気を、奥歯を噛みしめてどうにかこらえる。別府さんの足元には、板の上に並べられた生首が4つ。全て別府さんが自ら討ち取ったのだと言う。

 

 見ているだけでつらい生首だが、それをしっかりと確認するのも俺の役目だそうだ。

 

「お見事でございます」

 

 俺は別府さんに一言返すのが精一杯だった。

 

 

 

 

 この凄惨な状況でも、太陽は無性に明るく俺達を照らす。

 

 

 

 

(戦国時代ってこうゆう事? こんなの悲惨なだけじゃないか)

 

 

 

 

 夏の日差しに青々と木々が揺れ、とても綺麗な水流を持つ川が太陽を乱反射してキラキラと輝いていた。

 

 

 

 

「殿、このような場所で何を!」

 

 綱忠くんが俺に声をかけてくれるまで、俺は川岸をどう歩いてきたのか記憶が無い。気付けば柵が張り巡らされた地点の中央まで来ていた。この場所はまだ整理がついておらず、長井さんの兵隊さん達が無数に倒れている。

 

 

 その時、俺の後方でガシャリと何かが動く音がした。

 

「石島洋太郎殿とお見受けした! お覚悟!」

 

 その声の主は、背や腕や足と、いたる所に矢が突き立っていて血まみれだった。

 

 

「!!??」

 

 咄嗟の事すぎて俺は身動きが取れなかった。それどころか足をからませ、地面に尻もちを付いてしまったのだ。

 

 

「殿!」

 

 

 <ズスッ>

 

 

「ん……ぐぅ」

 

 

 俺の横を疾風のように駆け抜けた綱忠くんが、襲い掛かって来た相手の胸部を槍で一突きにしていた。

 

 

 長井軍の追撃を諦めた伊藤さんは、大原の兵隊さん達を使って戦場を巡回。綱忠くんも数名を引き連れて巡回中だったらしい。

 

 たまたま通りかかってくれていなかったら、俺は命を落としていたかもしれない。

 

 巡回中の彼らは、整理できるまで野盗や追剥ぎが近づかないように警戒していた。放って置けば、何処からともなく現れては、遺体だけでなく、負傷している人達からまでも金品、武具を強奪して行ってしまうそうだ。

 

 俺は綱忠くんの率いる隊に本陣まで送り届けられると、そのまま夕方になるまで本陣で過ごした。

 

 夕方になると戦場の整理は済んだようだが、俺の心は全く整理出来ていなかった。夕餉を出されていたが、食欲などある訳がない。

 

 

「殿」

 

 そんな時、本陣に戻ってきた伊藤さんが1枚の報告書を提出してくれた。報告書と言っても、ただ数字が羅列されているだけの紙だ。

 

 

 

被害

姉小路隊  死者12名 重傷者34名 軽傷者31名

 

別所隊   死者4名 重傷者5名 軽傷者42名

 

石島隊   死者0名 重傷者0名 軽傷者6名

 

 

戦果

 

首級78 捕縛273名

 

 

 

 

 捕縛した敵兵の大半が重傷を負っているようで、被害の全容だけを見れば圧勝に見えた。

 

「100名近い方が亡くなったのですか……重傷者の今後を含めたら100名を超えるかもしれませんね」

 

 どうしても気になってしまった「死者」の数を、口にしてしまった。戦場なのだ、仕方がないと分かってはいても、どうにも心が重苦しい。

 

(こんなんじゃダメだよな)

 

 俺は一応、総大将って事になっているのだ、情けない事を言っている場合ではないと思った。

 

 ふと伊藤さんを見てみると、俺を心配そうに覗きこんでいる。

 

「昼の戦闘だったらもっと沢山の首級を上げていた事でしょう、暗かったので見逃された者達が大量に捕虜になっていますから」

 

 

 この時代、戦場での活躍の証拠として、討ち取った相手の首を切り離して持ち帰るという恐ろしい文化が存在する。持ち帰った首の数や、その首になった人の元の身分だとか、そういった事で手柄が変わってくるそうだ。

 

 伊藤さんは苦笑いしながら「近代まで残る文化だからね、根強いよこれは」と諦めている感じがする。そうは言っても生首、流石の伊藤さんも触れたくない様子である。

 

 

「こればっかりは慣れるしかねーな」

 

 金田さんがため息交じりにそう言って空を見上げた。

 

 

 夜が近くなると、俺達の陣に何処からともなく商人さんが幾人か訪れてきた。兵隊さん達に向けて「商売をしてもいいか」と問い合わせてきたのだ。

 

「はい、ある程度の代金は此方で持ちますので、お願いします」

 

 俺はその一言だけを返した。

 

 ある程度をどの程度にするかの匙加減(さじかげん)は、伊藤さんにお任せしてある。商人さんは伊藤さんと共に山を下って行った。商売といっても、色々ある。その色々を含めてお願いしたのだ。

 

 

 出陣前から伊藤さんに言われていたが、この時代、戦勝国側は敵国で好き放題に大暴れするのが当たり前だったそうだ。

 

 

 略奪、強奪、強姦、誘拐から人身売買。

 

 

 命懸けで戦った末端階層の兵隊さん達にとって、それがご褒美なんだとか。けれども、俺達は今後、郡上の支配を狙っている身だ。いくら当たり前とは言え、それを認めてしまう訳にはいかない。

 

 

「殿、伊藤様より申し付けられたという村の者が参っておりますが」

 

 綱義くんが連れてきたのは、この麓から更に奥にある集落のおばさんだった。おばさんは戦勝の祝いを述べると、酒を提供してくれた。

 

 

更に。

 

 

「伊藤様からのお達しでして、酒のお相手をさせて頂く娘を用意させて頂いております」

 

 連れて来られたのは、3人の少女だった。

 

 夕方、伊藤さんが綱義くんと一緒にその集落に入り、伊藤さん自らが人選した女の子達だと紹介された。

 

 

「強制連行とかじゃないですよね?」

 

 

 俺の問に、1人の少女が答えた。

 

 

「えっと……お相手をすれば金子(きんす)が頂けると聞いてまいりました」

 

「これ! お勝! 無粋な物言いするんじゃないよっ」

 

 おばさんは俺にニコニコと愛想笑いを振りまきながら、正直に話してくれた子を小突いていた。

 

 

「まぁまぁ、ちゃんと雇ってるんなら問題ないでしょ? ね、殿♪」

 

 金田さんはだらしない顔で俺に同意を求めてくる。

 

 

(ちょっとでも気分を紛らわせって事か……)

 

 兵隊さん達の陣所には、遊女屋さんも訪れている。遊女というのは、芸や踊りで楽しませるのが基本だが、当然ながらその「性」も売り物にする女性達だ。

 

 流石に俺達が遊女を囲う訳にはいかない。伊藤さんが手配して村の子を連れて来てくれたようだ。

 

 

 おばさんに連れて来られた子達は、もう既にいくらかの金品を受け取っているのだろう。なるべく綺麗におめかしをしているし、何より伊藤さんの人選である事が分かる「そこそこ可愛い子」が選ばれている。

 

(この時代の美的感覚で選んだらこうはならないんだろうな)

 

最初は緊張気味だったその少女達も、次第に慣れて楽しそうにしている。普段は口にする事がない多少贅沢な食糧に驚いている姿は、純粋で微笑ましい光景だった。

 

 

 途中、伊藤さんが現れて「お? やってるね~♪ 楽しそうじゃん♪」と声をかけてくれた。

 

 そんな伊藤さんは息抜きしなくてもいいのだろうかと思い、声をかけようとした時は既にその姿は無く、綱義くんと綱忠くんにいくつかの指示を出して何処かえ消えてしまった。

 

 

 疲れていたのと、ずっと緊張していたのもあって、酔いが回るのが早かった。もちろん俺だけじゃない、金田さんもつーくんも見て分かる程に酔い始めていた。

 

 

「だっっからさ!? わかる? わかるかな~? とにかくすげーんだよ、わかるかな~?」

 

 金田さんは少女に向って伊藤さんの凄さを説きながら、どうしようもない大人代表な感じで絡んでいた。その少女も大したもので、そんな金田さんを上手にあしらいながらも、金田さんの上機嫌をしっかりと維持し続けている。

 

 

 俺の相手をしてくれていたのは、正直に話してくれたお勝ちゃんという子だった。よく日に焼けた小麦色の肌に、くりっと可愛い愛嬌のある目が印象的だ。

 

 

 途中、用を足しに場を離れると、伐採された木の合間から姉小路さんや別府さんの陣が見えた。

 

 無数の灯りが燈り、笑い声が遠く木霊している。

 

 

(伊藤さん、何処にいるんだろう)

 

 この勝利、一番噛みしめて喜ぶべき存在の伊藤さんが、未だに1人で忙しそうに走り回っている。かといって俺達が代わりに走り回れるかと言われれば、やる事がさっぱり分からないので無理だとも思う。

 

 

(いつかちゃんと……恩返ししないとな)

 

 

 俺は小さな決意を胸に刻んだ。

 

 

 用を済ませた俺が戻ると、金田さんとつーくんの姿が見えない。其々のお酌をしていた女の子の姿も無かった。1人、俺のお酌をしてくれていた少女だけがポツンと取り残されている。

 

 

「あれ? 2人は帰ったのかな? お勝ちゃん1人で帰るの? 危ないから送っていこうか」

 

 その俺の言葉を聞いた少女は、両目いっぱいに涙を浮かべた。

 

 

「やはり私のような醜女ではお気に召しませんでしたでしょうか……」

 

 

「え?」

 

 

(やっぱりそうだったのかー)

 

 この子達の言う「お相手」とは、そっちのサービスも込だったのだろう。なんとなくそんな気はしていたのだが、伊藤さんの手配という事で油断していた。

 

 

 なんせこっちは新婚である。新婚早々に陽を裏切るような事を、伊藤さんは何故手配したのだろうか。そんな疑問を抱きながら、涙目の少女を見つめた。

 

 

 目が合った瞬間。

 

 

 凄惨な状況を目の当たりにし、嗚咽を漏らすほどに苦しい現状をどうにか飲み込んだ俺の体は、無性にその少女を欲してしまった。

 

 

「いや、そうじゃないんだ、ごめん」

 

 不安そうな少女を抱きしめる。

 

 

 すると、俺の体から何かが抜けていくような。緊張がすっと緩んでいくような。柔らかい、温かい何かに包まれたような。

 

 

 強烈な【安堵感】に襲われた。

 

 

 そして、不思議と両目から熱い物が込み上げてきたのだ。

 

「殿さま……く、くるしいです」

 

 

 少女を強く抱きしめていた俺は、何かに憑りつかれたように少女を求めた。もしかしたら、ちょっと乱暴だったかもしれない。

 

 

(つーくんも、金田さんもこうしているのだろうか)

 

 

 俺は少女の身体を貪りながら、少しだけ2人の事が脳裏をよぎった。それは単に、言い訳だったのかもしれない。

 

 

 吉田川で初めての戦場を経験した俺は、快楽と共に微睡の中に落ちて行った。



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第1幕 GAEM5 【非情の世】
【GF】 ゲネシスファクトリー5


■ゲネシスファクトリー 日本支部

   職員専用居住区 B街区

 

 

<ピンポーン>

 

  <ピンポーン>

 

 

「圭一!? いるんでしょ!? 入るよ~!」

 

 

 この施設の居住区は3層に分かれており、職員専用の居住区はちょうど中間層にあたる。

 

 この日、栗原圭一宅を訪れている若い女性は、居住区で言うと上層にあたる幹部専用居住区に住んむんでいる女性でった。淡いピンク色の上着を上手に着こなしているその女性は、左手には大量の食材が入った袋をぶら下げている。

 

「け~い~い~ち~!……ったくもう」

 

 女性は右手を自分のバックに突っ込むと、カードキーを取り出す。

 

「へっへ~んだ、お母様から借りて来ちゃったもんね♪」

 

 

<ピピピピピピピピ>

 

 

<ガシャ>

 

 

  <プシューーーゥゥゥ>

 

 

 重厚な扉が電子音と機械音を伴ってゆっくりと開く。

 

 

「まったくもう、圭一~」

 

 女性が部屋に入ると、栗原圭一はリビングのソファーで眠り込んでいた。テーブルには幾つかの酒瓶が転がっており、ここ数日の荒れた生活を容易に想像させる。

 

 女性はソファーに近寄ると、栗原圭一のすぐ近くでしゃがみこみ、その寝顔を覗き込んだ。

 

 

「まったく……心配させんなよなっ」

 少し涙目になりながら、栗原圭一の頬に手を添える。

 

 その圭一の目が開いた。

 

 

「あ……れ? 明日香……なにしてんの?」

 

 やつれた表情の圭一が急に愛おしくなった明日香は、圭一の頬に置いた手を後頭部へ回すと、顔を近づけた。

 

 

 

 圭一は再び目を閉じ、それを受け入れる準備をする。

 

 

 互いの鼓動が聞こえてきそうな程、2人の緊張はお互いに伝わっていた。

 

 明日香の唇が、圭一の唇と重なり合う直前。

 

 

「くさっ!!!!!」

 

 明日香は勢いよく後方に飛び退いた。

 

「酒くさ~~~~~! さいあく!」

 

 

 思わぬ肩すかしを食らった圭一は、なんだか少し腹が立った。

 

「うっせーな、飲んでたんだから当たり前だろ」

 

 言いながら上半身を起こした圭一は、その頭痛に気付くと、昨日自分が飲み過ぎた事を少し反省し始めていた。

 

 

「ったくもう、アンタのお母様が様子を見て来てくれって言うから来たの!」

 

 明日香は持ってきた食材をキッチンに運ぶと、冷蔵庫を開いて食材を詰め込み始める。

 

 

 そんな明日香の背中を見て、少し元気が沸いてきた圭一は、ニヤリと笑う。

 

「そうだったんだ、キスして来いとは言われなかった?」

 

 

「そんだけ元気なら問題ないね! あと3日でしょ? そろそろ気合入れなさいよ?」

 

 言いながらエプロンを装着すると、いくつかの食材を並べて端末を取り出すと、料理のレシピが載っているページを開く。端末からは立体映像が飛び出し、音声付で料理の下拵えの解説が始まった。

 

 

「おい、まさか作るのか? それは食べられる物になるのか?」

 

 

「アンタが再接続するよりは高確率で美味しい物ができますのでご心配なく!」

 

 

「へ~、それじゃかなり高確率で美味しい物が食べれそうだな」

 

 

 そこまで会話が進むと、一瞬だが明日香の表情に悲しみの色が浮かんだ。

 

「なんで……こんな事故起きたのか、原因はまだわからないの?」

 

 

 明日香は事の真相を知らない。

 

 しかし明日香の頭脳は、その裏で何かしらの意図が見え隠れしているのを感付いている。最高管制室の室長に阿武が就任してから、このような事故は起きた事が無いのだ。

 

 不安定なタイムズゲートを使用している以上、世界各地で事故は散発しているが、ジャパンゲートでの事故は阿武が室長になってから一度も起きていない。

 

 事故が起こりかけた事は何度かあるが、その都度、阿武の適格な指示で事なきを得てきたのだ。

 

(なんで今回だけ……)

 

 明日香にはこの思いがぬぐい切れていなかった。

 

 

 技術推進室の要望により故意に起こした事故であるわけだが、それ自体は最高機密に該当するため、最高管制室の面々は家族にさえその事を打ち明けられずにいる。

 

「明日香……俺さ、絶対見つけるから」

 

 圭一はそれだけ言うと「シャワー浴びてくるわ」とリビングを後にした。

 

 

「全部秘密……か」

 

 明日香は一つ大きなため息をついた。

 

 

 ふと目線を移すと、そこには圭一の家族写真が飾られている。

 

「美紀……」

 

(こっちは心配しないでいいからね!)

 

 明日香は心の中で気合を入れると、端末に視線を戻した。

 

 

「あれ?……あれれ?」

 

 勝手に先に進んでしまったレシピを巻き戻しながら、全力でカレーライス作りに挑もうとしている。

 



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第24話 欲望の双眼

■1567年 7月30日夜 美濃国

   郡上八幡城 遠藤家

 

 

 遠藤慶隆の元に、2通の書状が届いていた。

 1通は美濃三人衆の1人で、遠藤慶隆の舅にあたる安藤守就からである。その内容は遠藤にとって衝撃的な物であった。

 

 

 長井道利が郡上にいては織田への抗戦が難しい、この状態で織田に攻められては織田に下るしかない、そうするに当たって不都合なので今すぐ【香(こう)】を返してほしい。

 

 といった内容である。香とは、安藤守就の娘で、遠藤慶隆の妻である女の事だ。

 

 

(離縁せよと言うのか)

 

 遠藤自身、妻に対して特にこれといった想い入れは無い。とは言え、実によくやってくれている妻である。

 

 安藤が先んじて織田の傘下に入るとなれば、当然敵同士だ。敵方の将の妻が自分の娘では安藤も立場が危うくなると言うのだろう。

 

(本気で寝返るつもりか? いや、もうすでに誼(よしみ)を通じておるのか?)

 

 遠藤の脳裏で、城下で広まった噂話が繰り返される。

 

 そしてもう1通。それは美濃西保城の主である【不破光治(ふわみつはる)】からであった。

 

 美濃三人衆と並び称される傑物で、不破光治を含めて西美濃四人衆と称される事もある。その不破からの書状の内容は、安藤からの書状の内容を裏付ける物だった。

 

 長井道利が不在の間に織田が兵を挙げれば、美濃三人衆は長井道利不在を口実に織田に寝返るであろう。わざわざ美濃三人衆に寝返る口実を与えるとは解しがたい。今すぐ戻って美濃三人衆に睨みを利かせるべし。

 もし、郡上にて石島に敗北を喫するような事態になれば、その一事のみでさえ寝返りの口実になりかねない、くれぐれも慎重に行動しながら、今すぐに帰還してほしい。

 

 

 不破からの書状を一読した遠藤は、自分達がまんまと敵の策に引っかかった事に気付いた。気付いてすぐ長井を城へ呼び戻したのだが、しばらくたっても長井自身が郡上八幡に到着していない。

 

 昨夜の敗戦の知らせは遠藤にも当然届いている。これ以上戦を長引かせれば、問題は郡上のみならず斎藤家全体にまで及んでしまう事になりかねない。

 

「遅い……父上殿はまだか!?」

 

 

「ハッ! 既に城下に入られておる模様、間もなくご到着なされるかと!」

 

 

「ええい、よいわ! こちらからゆく!」

 遠藤は城門で長井と遭遇すると、両名からの書状を手渡した。

 

 

「こんな暗がりでは文字など読めるか戯け!」

 

 不機嫌な長井は篝火の側に寄り、安藤の書状に目を通す。

 

「ふん、こやつは信用ならん男よ、呆れて物も言えんわ」

 

 長井は安藤を信用していなかった。

 

 

 数年前、安藤は美濃斉藤家の主である斉藤竜興を稲葉山城から追い出し、一時的に占拠した事がある。その占拠騒動で活躍したのが、遠藤と同じく安藤の娘婿である【竹中重治(たけなかしげはる)】であり、一般的に竹中半兵衛と呼ばれる人物である。

 

 その時は、斉藤家の重臣や美濃の諸勢力が安藤の行動を非難し、支持を得られなかった安藤は大人しく稲葉山城を返還した。

 

 しかし、一度は主家に対して弓を引いた人物である。生粋の斉藤家臣である長井にしてみれば、安藤など信用に足る人物ではないのだろう。

 

 長井は安藤からの書状を遠藤に付き返すと、不破からの書状に視線を移す。

 

 読みながら、長井は顔色を失った。

 

「……己の非を認むるは悔しいがの、光治めの言いには一理ある、近日中に戻らねばならんな」

 

 長井は敵を侮っていた事を後悔し始めていた。

 

 

 遠藤が長井を伴って軍議の席に戻った時、そこには見慣れない人物が加わっていた。

 

 

「誰ぞ」

 

 遠藤の問に、その者は深く頭を下げて名乗る。

 

 

「ハッ! 別府四郎が手の者、名を藤十郎と申します」

 

 

(クソじじいの手の者だと?)

 

 遠藤が言葉を発する前に、長井が怒気を発した。

 

「おのれ! 斬られる覚悟は出来ておろうな!?」

 

 長井は藤十郎ににじり寄りながら刀に手をかける。

 

 

「無論! ご不要とあらばお斬りくだされ!」

 

 藤十郎は勇ましく声を発すると、遠藤に向って言葉を並べた。

 

「本日の夕刻より、石島軍には商人や遊女屋が入り込み宴が開かれております」

 

 

 そこまで聞いた長井は小さく舌打ちすると。

 

「知っておるわ忌々しい」

 

 吐き捨てるように藤十郎に言葉を浴びせると、自分の感情を押し殺しながら腰を下ろした。

 

 遠藤は藤十郎をじっと見つめている。この男の真意を探ろうとしていたが、それ自体が無駄な行為であろうと気付く。この男の言う事が嘘であろうと真であろうと、本人は真であると疑わずに話すのであろうから、例え嘘であっても差は出ない。

 

 

「話せ」

 

 遠藤はこれから話される事が【嘘である】事を前提に、藤十郎の話を聞く事にした。

 

 

「ハッ! 宴の折り、姉小路頼綱殿がお倒れになられました」

 

 

「なんじゃと!?」

 

 嘘だと決めて聞いていたが、話の大きさについ身を乗り出してしまった遠藤は、これが嘘ではなく真である場合の利点に憑りつかれ始めていた。

 

「詳しく申せ! 容態は!?」

 

 

「ハッ! さほど悪くは無いという噂ではありますが、我が主が見舞った所、どう見ても立てる状態ではないとの事」

 

 

「そうか……別府殿はどうされるつもりじゃ」

 

 この使者の本来の目的は、恐らくこの次に話されるだろうと遠藤は理解できている。

 

 

「ハッ! 姉小路軍は明日の夕刻まで陣を張り、明後日には桜洞に向けて帰還を開始するとの事、そうなれば石島に戦う力はなく、我が主が石島を討ち取り、その首を郡上八幡に献上に上がるとの事でございます!」

 

 

(これが本当だとすれば、この戦はあと2日で蹴りが付く)

 

 長井が郡上に来てからまだ3日である。織田が動く前に勝負を付けてしまえば、誰彼に咎められることも無いのだ。

 

 何かを思案し始めた遠藤に変わり、長井が使者に返事を返した。

 

「相、分かった、戻られよ」

 

 

「ハッ! これにて!」

 

 使者がその場を去ると、長井はすぐに部下を呼びつけた。

 

 

「荘助の奴が上手くやったのかもしれん、確かめよ」

 

「ハッ」

 

 

 その会話に、遠藤が目を丸くして驚いていた。

 

「父上殿!?」

 

 

「ふん、ただでは転ばぬわい、商人共の中に我が手の者を紛れ込ませただけよ」

 

 顎に手を当てながらそう言う老人の目は、未だ消えない闘志が光り輝いていた。

 

 

 

 

■1567年 7月31日昼 美濃国

   吉田川東岸 石島軍

 

 

 

 朝になると、陣は静かな焦りに包まれていた。その影響もあり、伊藤さんに促されたお勝ちゃんは身なりを整えると、早々に他の子達と共に村に連れ戻されてしまった。

 

 本当は昼餉くらいまでゆっくり過ごしたかったのだが、ここが戦場であり、尚且つ俺達は重大なピンチに遭遇しているのだ。

 

 

「くそう……油断した」

 

 昼餉も手に付かない様子の金田さんが、本当に悔しそうにしている。別に金田さんは悪くない、しいて言うならば、油断したのは頼綱さんと伊藤さんだろう。どうやら敵のスパイと思われる人物が、頼綱さんに毒の入った酒を届けたらしいのだ。

 

 

 異変に気付いた伊藤さんがそのスパイを見破り、頼綱さんの部下の方が逃げようとしたスパイを斬り殺したらしいのだが、その時には頼綱さんはもう倒れていたとか。

 

 

 この事実はすぐに伏せられ、その場にいた人間には硬く口止めが言い渡されたそうだが、そんな閉口令など行渡るわけがない。

 

 噂は直に味方中に知れ渡ってしまった。

 

 

「具合悪そうでしたね、頼綱様」

 

 つーくんが頼綱さんを心配している。

 

 先程、俺達は自綱さんのお見舞いに行ってきたのだが、自綱さんは起き上がる事も出来ず、声を出すのも辛そうな状態だった。

 

 

「問題は姉小路軍の士気が駄々堕ちって事だな」

 

 金田さんが悔しそうに地図を睨みつけている。俺達が築いた防衛陣は広く、姉小路軍抜きでは到底守りきれる陣ではない。

 

 そうなると、俺達の兵と別所さんの兵だけでこの付城を守る事になるわけだが、急ごしらえの、斜面に柵を立てただけの防御施設など、そう長く持ちこたえられる物ではない。

 

 

「別府さんの動向も気になりますね」

 

 俺の不安は別府さんだ。

 

 あの人はどうも信用できない気がしてならない。

 

 それに頼綱さんの様態も気になって仕方がない。

 

「俺、もう一度……見に行ってきます」

 

 頼綱さんは本陣の裏手に設置された新しい寝所に隔離されているが、俺は比較的自由にお見舞いにいける立場だ。

 

 そこは姉小路軍の方達が厳重に警戒態勢を引いている。

 

 俺が近づくと、中から別府さんが出てきた所だった。

 

「これは大将殿、昨晩と比べて状況は良くなっておりません、これはどうにも旗色が悪いですな」

 

 別府さんは一言だけを残し、軽く一礼して自身の陣所に戻って行った。

 

 

(別府さん、昨日の夜も来てたのか……)

 

 どうしても疑いの目で別府さんを見てしまうが、その背中は老人その物で、頼りなく小さく見えた。

 

 

(ま、大丈夫か)

 

 俺は根拠のない安心を持ち、自綱さんの寝所を護衛する屈強なオジサン侍にお辞儀しながら中へと足を踏み入れた。

 

 

 頼綱さんのために作られたその寝所に入ると、中には伊藤さんがいた。

 

 

「失礼します」

 

 

 俺は一声かけて奥へと入る。

 

 

「お、殿、別府さん戻った?」

 

 

 伊藤さんはかなり小声で俺に話しかけてきた。

 

 

(頼綱さん寝てるのかな? 起こしたら悪いしまた後で来た方がいいのかな)

 

 

 そんな事を考えながら、俺は伊藤さんに「はい、戻りました」と同じく小声で答え、頼綱さんを見る事が出来る位置まで接近した。

 

 

 その瞬間。

 

 

「ぐぅぅう! 難儀な事よ!」

 寝ていた頼綱さんが声を上げると、体を起こして辛そうにしている。

 

「義兄上、起きても大丈夫なのですか?」

 俺の心配に、頼綱さんと伊藤さんが小さく笑った。

 

「すまんな、洋太郎殿、伊藤殿にせっつかれての、無理やり芝居をしておるだけじゃ……しかし寝てばかりでは背中が痛い」

 

 

「へ?」

 目を丸くしている俺に、頼綱さんは軽く笑いながら声をかけてくれた。

 

 

「起きても大丈夫とは面白き事よ、はっはっは♪」

 

 意味が分かっていない俺が頭に「?」を浮かべていると、代わりに伊藤さんが会話を進めてくれた。

 

 

「あの様子では別府殿は何か手を打たれたでしょうから、よい時間稼ぎになりそうです」

 

 伊藤さんは言いながら頼綱さんに頭を下げた。

 

 俺にはこのやり取りがさっぱり分からなかったが、とにかく頼綱さんが思ったよりも元気そうでほっとしている。

 

 

「敵を欺くにはまず味方からと言うが、正にそのようになっておるな」

 

 頼綱さんは楽しそうに俺を見ている。

 

 

(もしかして……芝居って、全部?)

 

 

 ずいぶんと手の込んだ事をすると思ったが、どうやらスパイが入り込んで毒入りの酒を勧めた所までは本当らしい。

 

 最初からその商人を怪しいと思っていた伊藤さんは、酒を頼綱さんに勧めた所でその商人を問い詰めて看破。慌てて逃げるそのスパイを、頼綱さんの右腕ともいえる矢島さんというオジサン侍が一刀両断にしたそうだ。

 

 そしてその時に、伊藤さんが「倒れてくれ」と頼綱さんを口説き落とし、頼綱さんは倒れてしまった。

 

 もちろん毒入りの酒など飲んでいないわけだが、それを知っているのは伊藤さんと頼綱さんと矢島さん、そして飲ませようとした張本人だけである。

 

 

 しかしそのスパイ本人が死んでしまっては、頼綱さんが飲んでいない事など誰も想像していない。

 

 

「今日はこれだけで乗り切れそうですね」

 

 伊藤さんは満足そうに笑顔を作ると、「少し寝てきます」と告げて頼綱さんの寝所を後にした。

 

 

「伊藤殿には誠、感服するばかりじゃ」

 

 

 頼綱さんは立ち上がって背筋を伸ばし、運ばれてきた昼餉に手を付け始めていた。

 

「そうですね、本当にその通りです」

 

 俺は頼綱さんに同意しながら、ある欲求に駆られていた。

 

(戦が終わったら全部教えてもらおう、おさらいを話してもらわないとこっちが成長しないや)

 

 この時代に残ると決めた時の話のように、伊藤さんが考えてきた事を全て教えて貰いたくてうずうずしてきた。

 

 

 

 

■同年 7月31日夕刻 美濃国

   郡上八幡城 遠藤家

 

 

 郡上八幡城では、細やかな酒席が設けられていた。

 

「明日の夜になれば石島の首が届くのだ、待っていればよい」

 

 上機嫌で酒を煽る長井に、遠藤も深く頷いていた。昼過ぎに入った情報によると、姉小路頼綱に毒を盛った長井の間者【荘助】は、その場で姉小路軍の者に斬り殺されたらしい。

 

 同時間帯に姉小路軍に出入りしていた商人や遊女屋等、複数の人間に金を握らせて得た情報なので間違いない判断していた。

 

 

「誠に見事な働き、荘助とやらには十分に報いてやらねばなりませんな」

 

 遠藤は長井の杯に酒を注ぎながら、見事に毒を飲ませた荘助を褒め称えた。

 

 

「無論じゃ、荘助の息子は侍に取り立て、妻女はしかるべき者に嫁がせてやろう」

 

 時折笑い声が響く酒席に、遠藤の妻である香がやってきたのは、既に日が落ちる頃であった。

 

 

「何をしに参ったのだ」

 

 遠藤は、この整い過ぎた顔立ちを持った妻をあまり好きではない。実際にこの酒席を取り仕切っているのは遠藤の侍女であり、遠藤の寵愛を一身に受けている【お玉】という女性である。

 

 

 それに遠藤は今、妻の姿を見たくなかった。それは長井としても同じ想いでいる。香の父、安藤守就の寄こした書状の内容があまりにも気に食わなかったためだ。

 

 

「父上から書状が寄せられたと聞きましたが」

 

(言うたのは誰じゃ……面倒な)

 

 

 遠藤は露骨に嫌な顔を浮かべた。

 

「あれは儂に宛てられた書状、うぬには無関係よ」

 

 

「左様で御座いますか、では何故このような書状がわたくしの元に届いておるのでしょうか」

 

 無関係と言い切った夫に対し、香は父から自分宛に寄せられた書状を突き付けた。

 

 

「!?」

 

 遠藤は香の手からその手紙を引っ手繰ると、その場で開いて目を落とす。そこには、遠藤に宛てられた手紙の内容とほぼ同じ内容が記されており、さらには「すぐに郡上を発って戻れ」とまで書かれている。

 

 

「このような所で酒を飲んでいる場合ですか? 斎藤は滅びるのを指を咥えて見ているおつもりですか!?」

 

 香の言葉に、長井が怒りを見せる。

 

 

「斉藤が滅びるだと!? 慶隆の妻と言えども、伊賀守(いがのかみ)の娘とあっては容赦せぬぞ!」

 

 伊賀守とは、この時期に安藤が自称していた官職名である。当時の武将は、実際に朝廷から官位官職に任官されていた者も少なくないが、その大半は「自称」である事が多い。

 

 実際の官職と名乗る官職が合致し始めるのは豊臣政権になる頃であって、この当時はまだ自称の官職名が通称として持ちいられる事が多かった。

 

 

「今織田が動けば敵同士、お斬りになるも人質とするもお好きになされませ! ……されど、このような所で酒など煽っているようでは斎藤は間違いなく滅びまする!」

 

 香は頭が良く、そして時折、男勝りな気質を見せる女であった。その事も、遠藤が香を好きではない理由の一つである。

 

 

「なんじゃと! おんな! そこになおれ!」

 

 長井が立ち上がり、刀に手をかける。

 

 

「父上殿! お留まりくだされ!」

 

 遠藤が長井の前に割って入ると、香を厳しく叱責した。

 

 

「そのほう! 女の身でありながら何を口出しするつもりだ! その存念次第では今この場で手打ちとなるのは覚悟の上か!? 下がれ! 今すぐ下がれ!」

 

 特別な感情を抱いていないとは言え、妻は妻である。良くやってくれているのは遠藤も認める所だ。

 

 どんなにお玉を寵愛しようとも、すでに数ヶ月に渡り手も触れず、寝所も共にせずにいる夫に対し、嫌味の一つも言わないこの妻に遠藤なりに感謝はしている。

 

 今この場で長井に斬り殺されてしまうのは快くない。

 

 

「下がりませぬ!」

 

 香は下がる所か、一歩前に出ると言葉を続けた。

 

 

「何故、織田と石島が通じているとお疑いにならないのですか!? なぜこのような、この八月を目前にした時期に寄せて参ったのかを考えないのですか!」

 

 香から発せられた意外な言葉に、長井は少し冷静になった。口を開く事なく、目を細めて香を睨む。

 

 睨まれた香は、それでも臆す事なく言葉を並べた。

 

「織田が動く前に戦を決しようとなされているのでしょうが、そもそも石島が織田と申し合わせの上で動いているのであれば、今頃織田は稲葉山に向うておるやもしれません」

 

 

 それほど難しい話ではなかった。

 

 単純に、織田と石島が時期を申し合わせた上で動いているのだとすれば、長井は完全に陽動に引っかかった事になる。

 

 

 既に織田の動き出しは決まっており、それに合わせて石島が南下してきたとすれば。

 

 それに釣られて長井が郡上に入ってしまったとすれば、今この瞬間こそまさに、織田が動き出す好機である。

 

 本来であれば、動くといっても準備にある程度の時間を要すのが当然であるのだが、そもそも時期が決まっていたのであればその限りではない。

 

 電光石火の如く軍を発し、一気に稲葉山に向うことが出来るであろう。そして、その稲葉山を守る重臣達の扇の要が、いま郡上にいる長井なのだ。

 

 となれば抵抗は難しい。

 

 美濃三人衆は挙って織田に寝返るであろう。

 

 

 長井は香の言葉に色を失い、無言で振り返ると部下に向って叫んだ。

 

 

「吉田川で陣を張っている兵をすぐに連れ戻せ!」

 

 言うなりドカドカと大きな足音を立てて部屋を出る。

 

 

「殿、これが……香の最後の奉公で御座います、お健やかにお過ごしください」

 

 香は遠藤に一礼すると、自身が安藤家から連れてきた侍女達と共に部屋を去ろうとする。

 

 

「ま、待て! 北方(きたかた)城に戻るのか!?」

 

 

 北方城は、香の父である安藤守就の居城である。

 

 

「さぁ……戻れるかどうかも怪しい雲行きです、お玉、殿のお側は頼みましたよ」

 

 香は遠藤の傍らで酒の相手をしていたお玉に声をかけると、足早に酒席を後にした。

 

 

 酒席を後にした長井は僅かな供回りを引き連れ、関への帰路を急いだ。ところが、郡上八幡城を出てしばらく南へ馬を走らせると、謎の兵団に行く手を阻まれて捕われてしまったのである。

 

 

「何者じゃ! 儂は長井道利ぞ! 誰の手の者じゃ!」

 

 長井の僅かな供回りは全て討ち取られ、縄を掛けられた長井は無理やりに連行された。

 

 

 

――深夜

 

 最勝寺という寺に移送された長井の目の前に、蝋燭の灯りに照らされた不敵な笑みを浮かべる男がいた。

 

「おのれは……!?」

 

 老体の長井は既に、その体力を使い果たしたようにグッタリとしていたが、その男を睨む気力はどうにか絞り出せていた。

 

 

「ふっ……そう睨むなご老体、斎藤の時代は終わったのよ、これを見よ」

 

 長井の前に開いた形で捨てるように置かれたのは、美濃三人衆の1人、稲葉良通(いなばよしみち)からの書状であった。

 

 

 長井は後ろ手に縛られていたが、置かれた書状が開かれていたために全文に目を通す事が出来た。書状は稲葉から遠藤に宛てられた物で、遠藤の身を案じて寄せられた物であった。

 

 

 既に抵抗難しく、織田から安堵の義を賜った美濃三人衆は揃って織田信長の軍門に下る事になったのでお知らせする。郡上で交戦中の石島は織田方の将であるから、これ以上の戦闘をせぬよう強く勧める。

 もし石島に被害が及ぶような事があれば、織田信長の怒りを買いかねない。そうなった場合には庇うのは難しいので、お覚悟の上で事に挑まれよ。

 たとえ大人しく織田に下ったとしても、郡上の安堵については難しいだろう、既に織田から石島に対して郡上領有を認める約条があるらしい。

 ついては、小領はあるが郡上大和の安堵についてはこちらからも願い出る事が出来るので、その覚悟が出来たら知らせてほしい。

 

 

 現状を包み隠さず記し、その上で遠藤慶隆の身と事後の領有まで心配してくれている温かい書状であった。

 

 

 しかし稲葉のその心遣いは、書状と共に途中で別の人間に拿捕されており、遠藤に届くことは無かったのだ。

 

 

「こ……このような」

 

 長井は絶望していた。

 

 稲葉良通が書状に記した日付は7月30日、つい昨日である。

 

(儂が郡上に入ったからか!?)

 

 長井は自分の行動が軽率であったと後悔していた。

 

 

「そう絶望されるなご老体、その首は我が郎党の肥やしとなる」

 

 ギラりと光るその両目には、底知れぬ欲望がうごめく。

 

 

「だまれ下郎! おのれ如きに……この長井道利が討てるものか!」

 この言葉は長井が発した最後の言葉であり、最後の意地であった。

 

「ふん、そのような状況で何をほざくご老体」

 

 刀を抜いた男が一歩、また一歩と長井に近づいてくる。

 

「斉藤の重臣として名を馳せるも、ここが貴様の死に場所よ」

 

 すでに長井は力なく項垂れ、言葉を発する事は無かった。

 

 

「さっきの威勢は何処へ行った? もう諦めたのかよ」

 

 男は刀を振り上げた。

 

「俺の名を教えてやろう、冥土で存分に言いふらしてくれ」

 

 

 その言葉に、長井はその男の名を聞いて呪ってやろうという想いになった。

 

(呪い殺してくれようぞ)

 

 長井が最後の力を振り絞って顔を上げると、その男と目があった。その両目に欲望を滾らせた男はニヤリと笑い、自分の名前を口にした。

 

 

「鷲見、弥平治」

 

 

 

 その名が、長井の聞いた最後の言葉になり。

 

 

 

 

 

 直後に首に走った鈍い痛みと。

 

 

 

 

 

<ゴトッ>

 

 

 自分の首から上だけが床に落ちた音が、長井の聞いた最後の音になった。

 



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第25話 敗北の将

■1567年 8月1日未明 尾張国

   小牧山城 織田家

 

 

 東の空が明るくなり始めた頃、小牧山城に陣太鼓が鳴り響いた。城内は騒がしく色めき立ち、地平線が赤く染まり始める頃には城下にも多くの兵が集まっていた。

 

 

 日の出と共に小牧山城の大手門が開く。

 

 城から弾丸のように飛び出したのは馬の背には、漆黒の鎧に身を包んだ男があった。その男を追うように、少し遅れて馬上の武者達が駆ける。

 

 

 最初に飛び出したその男が、このような形で飛び出すのはこれで2度目であった。

 

 

(7年前と同じか……ここで遅れては末代までの恥よ!)

 

「者ども! 急ぎ殿を追うのじゃ! 墨俣まで一気に駆けよ!」

 

 柴田勝家の号令で、城下に集まった大兵団も移動を開始する。

 

 号令をかけた勝家は、自慢の愛馬に跨ると「かけよ!」と叫びながら馬を操る。

 

 当時の軍容において、総大将が単騎で先頭を切る様に移動するような事は、余程の事がない限りあり得ない。そのあり得ない行動を取る主を、重臣達は必死に追った。

 

 

「7年前を思い出しますな!」

 

 丹羽長秀が馬を並べて走らせながら、柴田勝家に大声で語りかけた。

 

「あの時は完全に後れを取ったからな、此度はそうはいかんぞ!」

 

 7年前、大兵団を以て尾張に進攻してきた今川義元に対し、織田家は僅かな兵力で奇襲を成功させ、見事に今川義元を打ち取った。あの時も、総大将は単騎で城を飛び出し、配下の侍達は大慌てで後を追ったのだ。

 

 世に言う【桶狭間の戦い】である。

 

 その時、柴田勝家は出発がだいぶ遅れた。

 

 

(此度は先んじて準備もしてきたのだ、絶対に遅れは取らん!)

 

 現在、織田軍随一の勇将として名を馳せ始めた柴田勝家にとって、大一番となる稲葉山城攻めで後れを取るわけにはいかなかった。

 

 

――同刻 美濃国 墨俣城

 

 その頃、墨俣城(すのまたじょう)は大騒ぎになっていた。

 

 墨俣城というのは、城とは名ばかりの急造された砦である。

 

 世に言う【墨俣一夜城】の伝説が残るこの城は、尾張から北上してくる織田の大兵団を、すっぽりと迎え入れる事が出来るような大きな城ではない。

 

 当然ながら城の周囲に兵が集まる事になるわけだが、この墨俣城を預かる将は、この機会に自分の名を売り込もうとする知恵が働く。

 

「者どもよぉ~~く聞いてちょ! 殿は必ず先頭を切って参られる! それはしっかりとお迎えすりゃぁいいだけで特に問題はないでよ!」

 

 この将の狙いは、後から追いついてくる大兵団にある。

 

「ぎょぉぉ~さんの兵が後から来るでよ! 水なり握り飯なり山ほど用意しといてちょ!」

 

 『応!』

 

 小さな気遣いや気配りが、人の心を掴んで離さない事をこの将はよく知っていた。

 

「城の米蔵は空っぽにしてちょ~よ! 全部出しちゃってちょ!!」

 

 墨俣城は未明から炊飯に没頭した。

 

 

 日が昇り、朝日が眩しく降り注ぐ時間になった。

 

「殿! 大殿が参られます!」

 

 

 配下の知らせが届くと、その直後に漆黒の鎧を見に着けた男が険しい形相でやってきた。小牧山城を真っ先に飛び出した、織田信長である。

 

 

「猿!」

 

 織田信長は、城を預かる将を見るなり一言だけ発した。

 

「ハッ!」

 

 間髪入れずに返事をした将は、直に男の元に駆け寄ると、地に膝まづいた。その将は、猿の様な面相を持つ小柄な男で、奇妙な事に右手の親指が2本あった。

 

 

「首尾は!」

 

 織田信長の短い問の意味を瞬時に把握して、望む答えを即座に返す。この能力に関しては、織田家中にあってこの将が最も長けている。

 

 故に、元は名字さえも名乗れない身分であったにも関わらず、織田信長に重用され、現在では敵との最前線における城の守備を一任されるまでに出世した。

 

 木下藤吉郎、その人である。

 

 

「ハッ! 美濃三人衆は予てからの約条通り我らに組するとの事、人質を受け入れる準備をしてほしいとの申し出が御座います!」

 

 

 その言葉に、織田信長は満足そうに頷いた。

 

 美濃三人衆が味方となれば、稲葉山城が落ちるのも時間の問題となるだろう。しかし織田信長、稲葉山城の攻略に時間をかけたくないと思っている。

 

 最悪の場合、稲葉山城を落として美濃を平定出来ればそれでいいのだが、織田信長はどうしてもやりたい事がある。

 

 

(北勢を平らげる時間がほしい)

 

 

 織田信長はこの戦に珍しく大兵団を動員している。

 

 織田家は他家に先んじて「兵の専業化」に取り組んでいた。銭で兵として雇い、普段から織田家の兵として訓練に励む専業兵隊を抱え込んでいるのだ。

 

 田植えや稲刈りをする時期は、思うように兵が集まらない為、他家が農繁期に入る時期が織田家にとっては絶好の機会となる。

 

 

 しかし、今回は農繁期ではない時期を選び、織田信長はあえて大兵団を動員した。それには当然、専業兵だけではなく多くの領民が兵として臨時で駆り出されている。

 

 

 この大兵団の意図は【広報活動】であると思われる。

 

 この織田信長は、日本史上において圧倒的に先鋭的な思考の持ち主で、【情報】という物に価値を見出した最初の日本人ではないかと推察できる。

 

 今回尾張から動員した兵力の総数は3万人を超えた。

 

 織田信長がこれまで動かしてきた兵力の中で最大規模である。

 

 

「猿! 敵方は!」

 

 

 この広報活動の意図は、その大兵力を以て堅城稲葉山を電光石火の如く落とし、そのまま返す刀で伊勢に雪崩れ込んで北伊勢地方の諸豪族を織田の傘下に収める所にある。

 

 その圧倒的兵力と迅速な動きは、瞬く間に日本中に知れ渡る事になるだろう。

 

 それにはまず、稲葉山城を迅速に落とさなければならない。

 

 

 木下藤吉郎にしてみれば、その質問に答える事だけが面白くなかった。今回の稲葉山攻略に際して、木下自身の目覚ましい働きを曇らせる唯一の存在になりかねないからだ。

 

 かといって、その報告を誤魔化せば、後々とんでもない事態になりかねない。そんな馬鹿な真似をするような男でもなかった。

 

 

「ハッ、関の長井道利は郡上に滞在中であり、敵方は連携が取れぬ状態にて、動こうにも身動きが取れぬかと」

 

 

 織田の大兵団が墨俣に到着し、稲葉山の城下に雪崩れ込み、その城を包囲するのに要する時間は然程長くないだろう。その前に斎藤側が抵抗する動きが取れる状態に無い事が、この報告ではっきりとした。

 

「なればよい」

 

 織田信長は一言だけ残し、続々と集結し始めている軍に戻っていった。

 

 

「石島っちゅ~んは大したもんじゃな、此度は長井を引きずり込んだ手柄が一番やもしれんぞ」

 

 

 この稲葉山城の攻略は、年単位の努力を積み重ねてようやくたどり着いた今日なのだ。

 

(手柄を横取りされてはたまらん!)

 

 墨俣城の築城を成功させたのも、敵の目と鼻の先にある墨俣城を何度となく防衛してきたのも、数か月に渡って美濃三人衆との交渉窓口になってきたのも、全てこの木下藤吉郎である。

 

 

「兄上、そうは言うても問題は囲んだ後じゃ、長々と抵抗されては大殿も面白くなかろう」

 

 木下には弟がいる。異父兄弟のこの弟は、木下とは違った雰囲気の人物で、背は高く男前である。兄とは違う意味で人柄が良く、兄からも同僚からも、周囲からも信頼が厚く、勇敢で頭も切れる。たしかにこの弟が言う通り、攻略自体が手こずってしまえば、手柄を横取りされるとかされないとか、そんな小さな話では済まなくなる。

 

「小一郎よ、城攻めで手柄を立てる算段を整えておけ」

 

 逆を言えば、攻略に際しても大きな手柄がありさえすれば、自身の評価はさらに上がるのだ。

 

 

 木下は弟にそう命ずると、自身は城の外で大兵団を迎える事にした。木下が城門を出ると、既に墨俣城の周囲の原っぱに大勢の織田軍が集結しており、墨俣の兵が飯や水を配り始めていた。

 

 

「たぁ~~んと食ってちょ! これから大事な戦だでよ!」

 

 

 木下は猿の様にあちらこちらを駆け回り、ひたすら陽気な声を上げては織田の大兵団を隈なく回り、握り飯や水を届けた。

 

 早朝から駆け通しで墨俣まで到着した兵たちは、木下の陽気な声や配られた気遣いに感謝し、すぐにその士気を取り戻していた。

 

 

「猿め、味な真似をしよる」

 

 信長はニヤリと笑うと、右手を高く上げた。

 

「町を焼き払え! 城を丸裸にせよ!」

 

 

 信長の号令で長良川を押し渡った織田軍は、そのまま城下の井ノ口に雪崩れ込み、あらゆる地点に火を放って焼き討ちにした。

 

 すでに町民商人達は逃げ出しており、僅かに残った斎藤の兵が細やかな抵抗を見せた程度であった。

 

 

「申し上げます! 柴田勝家様! 稲葉山城大手門を封鎖!」

 

 信長の元に、柴田が敵城に到達した事が知らされる。

 

 

「囲め」

 

 信長のその一言を承知すると、伝令は直に駆けて柴田の元に向う。

 

 同日、8月1日の夕方には井ノ口の町はほぼ壊滅し、丸裸になった稲葉山城は織田軍に包囲されてしまった。

 

 

 

 

■1567年 8月1日 夜 美濃国

   郡上八幡付近 吉田川東岸 石島陣

 

 

 この日の夕方に飛騨に帰還するとされていた頼綱さんは、昼過ぎに姉小路軍の皆さんの前に現れて全快を宣言した。すっかり元気になって戻ってきた頼綱さんに、姉小路軍の人たちはとにかく嬉しそうで、大騒ぎだった。

 

 

 その事はすぐに敵味方に知れ渡る事となり、一時は盛り上がっていた郡上八幡城の敵さん達が、バタバタと慌てだしたとの知らせが入る程だった。

 

 

 すぐに別府さんから「好機だから八幡城を攻めよう」という内容の催促が来たのだが、伊藤さんがそれに「待った」をかけている。伊藤さん曰く、別府さんの言う【好機】の中身が見えないそうだ。

 

 

「伝令!」

 

 本陣に再び、別府さんからの使者がやって来た。

 

 

「直ちに郡上八幡城を攻められたし!」

 

 その使者は先程の人とは違う、少しだけ身分のありそうな人だった。

 

 

 先程は「しばし待たれよ」と返事をした伊藤さんだったが、今度は全く違う反応を示した。

 

「相わかった! これより郡上八幡を我等の物にしようぞ!」

 

 伊藤さんは勢いよくその使者に声を賭けると、大原兄弟に向って「仕度いたせ! 郡上八幡を攻略する!」と命を下した。

 

 

 その伊藤さんの反応に、使者の人は満足そうに戻っていく。

 

「伊藤さん、いよいよですか?」

 

 つーくんが刀を握りしめて伊藤さんに問いかけた。

 

 

 伊藤さんはニヤリと笑う。

 

「こんな夜中にそれは無いっしょ、今来た別府さんの使者、俺を説得するつもりで気合満々だったじゃない? 面倒だから良い返事をしてあげただけ♪」

 

 呑気に言い終わると、干芋を片手に晩酌を始めた。

 

 

「いいっすね、自分も一杯いただくっす!」

 

 金田さんもお酒に手を出そうとした時、伊藤さんが意地悪そうな顔で金田さんを静止した。

 

「昨日いっぱい飲んだろ? その後イイ事もしたろ?」

 

 

「ん、そ、それは先輩の差し金じゃないっすか……」

 

 2人の会話に、俺もつーくんも何も言えない。

 

 

「今日は頑張って働いてくれって事、たぶん一時間くらいしたらまた別府さんの催促が来るからさ」

 

 言いながら酒と干芋を持って立ち上がる。

 

 

「そしたら、今日はもう遅いから明日にしようって言っといて♪」

 

 

 十分理解できた。伊藤さんは別府さんを信用していないのだろう。別府さんの言う【好機】が嘘で、一発逆転を狙った敵の罠かもしれないのだ。

 

 

「はい! 伊藤さん、ゆっくり休んでください!」

 

 少しでも許される時間があるならば、伊藤さんにはゆっくり休んでもらいたかった。

 

 

「ぉ、んじゃ殿、宜しくお願いしますね」

 

 伊藤さんは優しい笑顔で言うと、自身の寝所に向って歩き出した。

 

 

 伊藤さんが本陣を出てからしばらくすると、大原兄弟が本陣に戻ってきた。

 

「伊藤様より言伝(ことづて)で御座います」

 

 綱義くんが一礼し、伊藤さんからの伝言を話してくれた。

 

 その内容に、金田さんが「ありえるぞ……確かにありえる!」と大興奮している。

 

 

 伊藤さんが俺達に伝えたのは【明け方までに遠藤さんから降伏の使者が来ると思う】という事だった。もし本当に使者が来たらどうするべきかと聞いたら、その答えも綱義くんが預かってきてくれていた。

 

 

「郡上八幡城の全兵、及び遠藤慶隆殿ご本人を含めたご家中の方々、全ての方の安全を約束の上、特に条件なく降伏を受け入れてよいとの事で御座います」

 

 綱義くんの言葉に、俺はとても安心した。

 

「平和的な解決って感じで、そうなるといいですね」

 

 金田さんもつーくんも、黙って頷いて同意してくれている。

 

 

 ちょうど同じ頃、深夜にも関わらず頼綱さんの陣が多少騒がしくなった。異変に気付いた直後には、頼綱さんの使者が本陣に到着。伊藤さんの指示で別府四郎さんの陣を監視できる形に布陣を変更したとの事だった。

 

 

「伊藤先輩、やっぱり別府おじさんのこと信用してないんだなぁ」

 

 つーくんは松明が忙しく行き来する姉小路軍を眺めながら、独り言を漏らしていた。

 

 

「よーし」

 

 金田さんは気合を入れて立ち上がると、腰に手を当ててぐるぐると体操を始める。

 

「今夜は徹夜だな! 別府さんの使者の相手は全員で交代しながらやろう!」

 

 金田さんの読みでは、別府さんからの催促は何回も来るだろうとの事で、簡単にではあるが作戦が言い渡された。

 

 使者は絶対に本陣に入れず、外で対応する事。

 

 毎回対応する人を変え、毎回同じ返事をする事。

 

 先程も同じ答えだったと言われても、さっきは違う人間が対応したから知らないと言い張る事。

 

 

 とにかく誤魔化しながら、政治家のように知らぬ存ぜぬを貫き通し、朝まで粘ろうという訳だ。

 

 

「言い訳は得意なので任せてください♪」

 

 俺は自信を持って事に当たれる確信がある。

 

 

「あひゃひゃひゃ♪ 言い訳が得意って、それ微妙ですよ殿! あひゃひゃひゃ」

 

 

 冗談はさておき、一応はこの軍の最高責任者である俺が、前言撤回を繰り返すの良くないという話になり、別府さんからの催促への対応については、金田さんとつーくん、それから綱義くんと綱忠くんがやる事になった。

 

 

 程なくして、予想通り別府さんの使者がやって来た。

 

 その使者さんは結構な剣幕でつーくんに食って掛かっているのが、本陣にいる俺にも聞こえてきた。使者さんは使者さんで、上司に言われた仕事を忠実にやっているだけなのだ。

 

 なんだか可哀相に思えてきた。

 

 そんな使者さんの努力も虚しく、金田さんが立案した【政治家になろう大作戦】は見事に的中した。

 

 別府さんからの使者は1時間置きくらいの間隔でやって来ては、まだかまだかと催促し、姉小路軍の動きは何のつもりだと食って掛かってきたのだが、その都度【知らぬ存ぜぬ】で撃退されている。

 

 

 そして、ついに夜が白み始める頃、別府さんの使者と入れ替わるようにして、遠藤さんの使者がやってきた。その使者の方は、俺達に降伏の意思を伝えると、遠藤さんからの書状を取り出し、俺に手渡してくれた。

 

 その書状には、3つの条件が記されていた。俺は未だにこの時代の文字がよく読めない。金田さんとつーくんも同じく読み書きは苦手なのだが、伊藤さんは何故か割と慣れてきている。

 

 そんなわけで、綱忠くんに読み上げてもらった内容は以下の通り。

 

 

一、城主、遠藤慶隆の切腹を以って、女、子、家臣、城兵、その家族の命を助けてもらいたい

 

一、慶隆の二人の弟に関しては、いずれ元服させ仕官の口を見つけてあげて欲しい

 

一、妻の香は離縁となったので、無事に北方に戻れるように手配してもらいたい

 

 

 これだけであった。

 

 伊藤さんからは、こちらが降伏に条件を付ける必要は無いと言われていたが、俺は一つだけ条件を付けた。

 

 

「慶隆殿の切腹は認めません、とは言え、お城にいる方々の命を奪うつもりもありません、当方としては無条件で降伏を受け入れる準備が出来ておりますので、何も心配なさらずに、と、慶隆殿にお伝えください」

 

 

 俺は笑顔でそう告げると、使者の方は涙を流して頭を下げた。

 

 使者の方が席を立とうとしたその時、ついに苛々が頂点に達した別府さん本人が催促に来てしまった。

 

 

「どういうつもりじゃ! どけっ! 御大将に話がある!」

 

 静止する大原兄弟を押しのけ、別府さんが本陣に怒鳴り込んできた。

 

 

「この儂を愚弄するとはどうゆう了見か!」

 

 顔面を赤くし、怒りが頂点に達したような別府さんに対し、俺達はかなりの警戒心を抱かざるを得ない。

 

 この場で斬り合いに発展してもおかしくない雰囲気なのだ。

 

 

「おやおや? 別府殿、随分と興奮なされたご様子ではありませんか」

 

 その雰囲気をぶち壊すような呑気な声で、伊藤さんが現れた。

 

 

(お、主役のお帰りだ!)

 

 俺が主役なのかもしれないが、俺の中では伊藤さんが主役だ。

 

 別府さんが何かを言いかけた時、伊藤さんが先に口を開いた。

 

「別府殿、その御使者殿がお見えにならぬのですか? 遠藤殿より降伏の使者です」

 

 伊藤さんの言葉に、別府さんは目を丸くして驚き「んなっ!?」と声を上げて固まってしまった。

 

 

 遠藤さんが降伏したのであれば、もう戦う必要なんてない。

 

「別府殿のご活躍にて、この戦は我等の勝利で御座います」

 

 伊藤さんに褒められながら諭される形になった別府さんは、渋々ながら「承知した」と言い残し、自分の陣に戻って行った。

 

 

 遠藤さんからの使者さんも戻ろうとすると、伊藤さんが声をかける。

 

「明日、この伊藤が郡上八幡城までお話しを伺いに上がりますので、ご主君にそのようにお伝えください」

 

「ハッ、畏まりました」

 

 

 このやり取りに俺達は驚いていた。姉小路さんや織田さんの所へ交渉に行くのとはわけが違う。昨日まで殺し合いをしていた相手の城に行くのだ。

 

 ましてや、伊藤さんは挑発の書状を送りつけた張本人である。

 

 降伏の条件が全て纏まったと言うならともかく、まだ確認が済んでいない交渉段階だ。

 

 

「危なすぎます!!」

 

 俺は必死に止めた。

 

 

「先輩、いくら先輩でも無茶ですよ、降伏を薦めに行く使者がその場でバッサリ斬られるなんてザラじゃないですか!」

 

 金田さんも必死に止めている。

 

 

 伊藤さん本人はそこまで心配していない様子だが、こちらとしてはそうもいかない。

 

(伊藤さんに万一の事があったら、俺達はどうなるんだろう)

 

 考えただけで恐怖だった。

 

 

「だってさ? 金田君も剛左衛門も危険を顧みずに頑張ってくれたじゃない、俺だって行きますよ?」

 

 伊藤さんの言う通りだが、それを言うなら俺が行ったって構わないはずだ。

 

「俺じゃダメなんですか? むしろ俺のほうが良くないですか?」

 

 伊藤さんは考え込む素振りを見せると、金田さんとつーくんも少し思案し始めた。

 

 俺は言葉を続ける。

 

「一応わかってますよ、俺は総大将っていう立場ですから、一番狙われやすいのは分かってます!」

 

 対外的には、遠藤さんの好意を踏みにじる形で郡上に侵攻しているのは【俺】なのだ。

 

 飛騨大原領主の【石島洋太郎】なのだ。

 

 好感の持てる行動じゃないのは確かだけど、そうしないといけない理由がある。郡上という地を治め、財力と力を手に入れないと女の子達を守れない。

 

 陽の事も、もっと幸せにしてあげられる気がするんだ。

 

 

「降伏を受け入れる使者を総大将自らが……か」

 

 金田さんが呟くと、つーくんが何かを思い出したような顔で口を開いた。

 

「あれ? のぼうの城って、ちょっと違うけどそんなシーンありませんでしたっけ?」

 

「おー、あるある、状況はだいぶ違うけどね、総大将自らが降伏を薦めに行ってたわ」

 

 金田さんが関心しながら頷く。

 

 

 

 俺はてっきり、つーくんは歴史に疎いと思っていたのだが、間違いだったのだろうか。

 

 

「あれ? つーくん歴史詳しいんだっけ?」

 

 

「いや? たださ、のぼうの城は映画で見たんだよ、あとね、信長協奏曲も単行本持ってたし、あと暴れん坊将軍は子供の頃はよく見てたし!」

 

 

「暴れん坊将軍!? それなら俺も知ってる!」

 

 逆に言うと、それ以外の何かについては聞いただけではサッパリ分からなかった。ちょっと話題がソレかけた時、伊藤さんが「よっし!」と声を上げて席にドッカりと座り込んだ。

 

 

「とりあえず決めて寝よう! どうするにしても朝には出発しなきゃならない」

 

 そう言いながら地図の上に置かれた凸型の駒を動かし始める。

 

「明日、本陣からの指示で移動を開始、全軍で郡上八幡城から1里の距離まで接近しよう、その後で大原の手勢と、俺達全員で八幡城に乗り込もう!」

 

 

「お、先輩にしては珍しく柔軟じゃないっすか! あひゃひゃひゃ」

 

 

「おいおい、普段どんだけ堅物なのよ俺、結構柔軟に生きてるつもりなんだけど?」

 

 金田さんと伊藤さんのやり取りが終わった頃、またタイミングよく誰かがやって来た。バタバタと騒々しく、誰かが本陣に向って走ってくる音が聞こえてきた。

 

 

「伊藤殿! 伊藤殿はこちらか!?」

 

 勢いよく飛び込んできたのは頼綱さんだった。

 

 

「これは頼綱様、このような夜更けにどうなされたのですか」

 

 つーくんの問に、頼綱さんはニヤリと笑った。

 

 

「御貴殿等が夜更けまで励んでおるというに、一人だけ寝てなどいられぬわ」

 

 なにやら上機嫌の頼綱さんは、そのまま俺と伊藤さんに向いて吉報を伝えた。

 

「本日、織田軍がわずか1日で稲葉山城を完全に包囲したそうじゃ、斎藤家を支援する者は無く、落城は時間の問題じゃな!」

 

 

「おおお!」

 

 金田さんが興奮して飛び上がった。

 

 

 頼綱さんは更に続けた。

 

「それだけではないぞ、長井道利は大急ぎで関に向ったそうじゃ、郡上八幡城は手薄になっておる!」

 

 

 その報告に、今度は俺達がニヤニヤしてしまった。

 

 伊藤さんの目配せを受け、俺が頼綱さんに説明する。

 

 

「実はですね、先程、遠藤慶隆殿より降伏の使者が参りました、明日は全軍で郡上へ入ります!」

 

 

「おお!」

 

 頼綱さんは飛び上がりそうな勢いで喜びを表現する。

 

 

「勝ちましたな! 洋太郎殿、初陣を見事勝利で飾られましたな!」

 

 俺の手を取って自分の事のように喜んでくれた。

 

 

「義兄上様の援軍が無ければ何もできませんでした、本当に有難うございます!」

 

 俺もしっかりとその手を握り返し、喜びを分かち合った。

 

 

 

 

■1567年 8月2日早朝 美濃国

   郡上八幡城 本丸 遠藤家

 

 石島に対して送った降伏の使者が無事に戻ると、主だった家臣は皆、本丸の館に集められた。

 

 

「信じられん、この俺が恨みを抱かぬとでも思うておるのか」

 

 遠藤慶隆は、石島が提示した条件である【当主慶隆の切腹禁止】を理解しかねている。

 

 

「生きよと申すのであれば、これ幸い、いずれ期を見て郡上を取り返す事も出来ましょう」

 

 白髪が混ざり始めた中年の家臣そう言うと、遠藤は露骨に嫌な顔を向ける。どうもこの遠藤という若者は、感情が殆ど顔に出るらしい。

 

 

「そのほう、真にそう思うておるのか? ならば今すぐに隠居したほうがよいぞ」

 

 

「んなっ!?」

 

 

 言われた家臣からしてみれば、「こんな若造に」という思いであるだろうが、そこは年の功、どうにか感情を押し殺し、顔を下げ、飛び出しかけた暴言を飲み込んだ。

 

 

 遠藤は、その反応を「反論出来ずに黙った」と受け取れてしまう楽観的な思考を持ち合わせている。

 

 気を良くして言葉を続けた。

 

「稲葉山を織田上総介が包囲したという知らせが入っておる、恐らく美濃三人衆も既に織田方であろう、この郡上も近いうちに織田の支配下に入るのだ」

 

 そこまで言うと遠藤はその家臣だけでなく、集まった家臣達を見回すように言葉を繋げた。

 

「郡上の主に取って代ろうだの、郡上の主を討ち果たして新たな主になろうだの、そういう類の事はな……今後は全て織田に対して弓を引く事となる、やるならば稲葉山まで落とすつもりでやらねば命が幾つあっても足りんぞ」

 

 

 遠藤の言葉通りそれが【事実】ではあるが、遠藤の家臣達にはいまいち浸透しきらない【事実】である。

 

 遠藤家の家臣団は、元は郡上で割拠していた好敵手同士である場合が多い。山岳地帯にその営みの本拠地を構えるが故、山間の小さな平地を巡って争い、先祖代々の土地を守るため争い、親の仇を討たんとして争い、その仕返しに争い。小さく狭い郡上の中で、この郡上だけが世界の全てかのように争いを続けてきた歴戦の勇士達である。

 

 それが数年前にようやく、遠藤の父の代になって纏まりを見せ始め、地方豪族としての【遠藤氏】となって多少の力を付けてきたにすぎない。

 

 すでに戦国大名化に成功している織田家の支配下に置かれる状況を、この家臣達に「想像しろ」と言うほうが困難であろう。

 

 その点、この若者は多少なりとも興味や関心を持ち、戦国大名として押しも押されぬ存在となった隣国の武田家や、近年急成長を遂げている織田家の事について、自分なりに調べていたのだ。

 

 

 美濃と国境を接する織田家と武田家の情報は、人々の暮らし程度の話であれば黙っていても舞い込んでくる。組織体制や統治の進め方についても、庶民が影響を受けやすい分野である為、調べようと思えばそれほど難しくなかった。

 

 

 武田と織田では、その両国の統治に大きな差がある。

 

 

(織田に下るのであれば、腹を括って徹しなければならん)

 

 遠藤はこの思いが強い。

 

 

「俺が腹を切ってだな、そのほう等が全員隠居して寺にでも入れば家族は助かるかもしれんぞ」

 

 織田信長は時折、徹底した行動に出る。武田信玄の苛烈さとはまた違う、実に合理的な方向へ迷うことなく徹底するのだ。

 

 遠藤はそれを知っていた。

 

 

「保身を考えての中途半端な覚悟ではな、領地は無論、命などあっという間に失うぞ。そう心得ておけ、下るなら徹底して下らねばならんだ」

 

 

(少しでも心証を良くしておかねばならん)

 

 

 若い身でありながら、既に覚悟を決めている遠藤の思考は、どうやって遠藤家を残すか、という点に集中していた。そこを目指しておけば、最悪の場合でも親類縁者に危険が及ぶ事はないだろう。

 

 

「徹底するならば」

 

 別の家臣がすっと前に出ると、両手を付いて意見を述べた。

 

「何故(なにゆえ)、石島に下るのです、織田に下るべきでは」

 

 この家臣にしてみれば、自信のある意見であった。

 自分達の好意を仇で返し、今この郡上の主になってしまうかもしれない敵に下るより、織田に下ったほうが郡上の安堵は得やすいはずだと言うのだ。

 

 

(戯けが……故に遠藤は滅ぶのじゃ)

 

 遠藤は心底嘆き、悔しい思いでいる。

 

(伊藤とやらのような優れた家臣がおれば……)

 

 

 そんな事を思っていた遠藤は、質問をしてきた家臣を無意識に睨んでしまっていた。

 

「石島が織田上総介に対し『褒美に郡上を寄こせ』と申せばどうなる、石島は関の父上をこの郡上に引き付ける大功を上げたのだぞ」

 

 言いながら、自分の言葉を聞いても理解出来ないでいる家臣達に腹が立ってきた。

 

(阿呆どもめ……やはり、故に負ける……か)

 

 説明が途中で嫌になったが、今後の処理次第では一縷(いちる)の望みがあると信じている。

 

(遠藤家の存続と多少なりの領有を認めさせなければならん)

 

 家臣達の足並みが揃わなくては、思わぬ事態を招きかねない。

 

「おそらく石島は織田方の将なのだ、となれば、既に我らは織田に弓を引いた事になる」

 

 この事実を看破出来るような優れた家臣がいれば、もっと違った結果になっていたはずである。

 

「石島に下る事さえ出来ればよい、石島と我等が反目さえしていなければ必ず、必ずや郡上の統治に我等を登用するであろう」

 

 郡上全体の領主として石島が着任するか否かに関しては、遠藤には全く手の及ばない、どうにもならない話である。せめて、その下に付いたとしても、この郡上八幡で暮す家族の身の上を粗末な物にならないようにしたい。

 

 若干17歳の遠藤が、この潔(いさぎよさ)さを持つには理由がある。

 

 

(お玉を守らねば……)

 

 遠藤が寵愛する妾、お玉が懐妊しているのだ。遠藤にとっては初の子となる。

 

 2人の弟は時期に元服の時期を迎える。石島がこの2人の弟を重用してくれれば、お玉も、お玉が産む子も、粗末な暮らしにはならないだろう。

 

 この当時、占領した地に新たな領主を置く事もあるが、関係性さえ悪くなければ旧来の領主に継続して任せる事が多かった。それは統治を円滑に行い混乱を避けるためと、その土地の人間をすぐに戦力化するためである。

 

 

「石島と反目するような事になればそうはいかん、我等は尽(ことごとく)く討たれ、滅ぼされるだけじゃ」

 

 そうならない為に、この事態を作った石島に対して降伏するという無念の選択肢に全てを託すのだ。それでもまだ17歳の遠藤にとって、石島に頭を下げるのは我慢がならない。

 

 本来であれば、差し違えてでも殺したい相手である。

 

 その感情を押し殺し、お玉と産まれてくる子のために、頭は下げたくないが、切腹して責任は取ろうと言うのだ。

 

 

(腹を切るなとは……この俺に頭を下げろと言う事か!?)

 

 遠藤にとっての最優先事項は、家臣達を含めた遠藤家の人間が、石島や姉小路とこれ以上の争いを起こさない事である。

 

(俺が生きようと死のうと、それはどうでもよい事)

 

 負けと決まればここから先はもう、どう負けるか、である。

 

 本丸館に集まった家臣達には、どうにかこの想いを汲み取ってもらいたかった。これから何日かけてでも説得していくより良い手立てがない。

 

 心配事は、ここに集まらなかった2人の人物である。

 

 

(新右衛門殿は何を考えておるのだ)

 

 新右衛門とは、郡上八幡城より北西、郡上全体の半分を占める一帯を預かる遠藤慶隆の従兄弟で、木越城主【遠藤胤俊(えんどうたねとし)】存在である。

 

 慶隆が父の後を継ぐ前から斉藤家より郡上北西の支配を認められており、慶隆が後を継いだ後に一度争いに発展している。安藤守就と竹中重治が稲葉山城を強奪した際、混乱に乗じて南下し、郡上八幡城を攻めて慶隆を追い出した事があるのだ。

 

 その時は長井道利の仲裁で和睦に至り、郡上八幡城は慶隆に返還されたものの、今日に至るまで蟠(わだかま)りが消えていない。事実、この事態に再三の援軍要請にも関わらず、返事の一つさえ寄こさないのである。

 

 

 そしてもう一人。先に寝返って敵方となった別府四郎の甥、鷲見弥平治の存在である。鷲見弥平治とは昨晩から連絡が取れない状況が続いていた。

 

 既に別府四郎を通じて石島方に寝返ったのではないかと噂が流れているが、はっきりとした事がわからない。

 

 実はこの鷲見弥平治、遠藤家一門の縁者で郡上八幡のあらゆる商家と縁が深く、財力がある。その鷲見が事を起こした場合、兵力が未知数なのだ。

 

(負けはよい、命も惜しうない、されど……お玉は守らねばならん!)

 

 遠藤家の身内から新たに織田に弓を引く存在が出現する事を、遠藤は心の底から恐れていた。



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第26話 敗走

■1567年 8月2日昼 美濃国

   郡上八幡城付近 石島軍

 

 

 深夜の打ち合わせ通り、俺達は全軍を率いて郡上八幡城付近へ移動、そこで一旦陣を構えると、遠藤さんからの使者が戻るのを待った。

 

 

 先程、一度ここへ来た使者さんが言うには、郡上八幡城には僅かな兵と、遠藤慶隆さんに忠誠を誓う身近な家臣しか残っていない有様だという。

 

 

その状況を、伊藤さんはしきりに心配していた。

 

「城を出た家臣や兵が気になる」

 

 

 ずっとそう言っていた伊藤さんは、使者さんが戻ってくるのを待つ間に周辺の見回りを実施、その最中に農民相手に略奪行為を働いていた遠藤さんの所の脱走兵を発見。その狼藉者を捕えると、すぐに本陣に戻ってきて全員と打ち合わせをしていた。

 

 

 先程、姉小路軍の物見の報告によると、織田信長さんの稲葉山城包囲の知らせに、遠藤さんの軍は殆ど逃げてしまったそうだ。

 

 使者の方が言っていた事はどうやら本当の事らしい。

 

「なれば、二手に分かれるのが得策か」

 

 頼綱さんは難しい表情でいる。

 

 

 

 伊藤さんの懸念は、脱走兵を捕えたことで現実となった。

 

 斎藤家という美濃の大名が滅びの時を迎えようとしている。国が一つ滅びるとなると、大量の失業者が出るのは間違いない。

 

 その失業者の中には、そのまま野山に潜伏して反抗を続ける者や、山賊に成り下がる者までいるらしいのだ。そうなった場合、俺達の危惧はこの郡上八幡城付近の治安維持、そしてなにより。

 

 

「大原の治安ですよね」

 

 

 俺達がここにいるという事は、大原は確実に手薄である。

 

 村の若者で腕が立ちそうな15人を、軍役として徴集して連れて来てしまっている。今、村に山賊が襲ってこようものなら、誰も抵抗できないのだ。

 

 

(屋敷も危ない……)

 

 ましてや、この郡上における俺の評判は今の所は悪いはずだ。

 

 恨みを抱いた遠藤家の家臣さんが、城を出てこっそり大原に向うなんて事も想像できる。

 

「白鳥方面も気になりますね」

 

 金田さんの心配は、遠藤さんの従兄弟が治めている郡上北西の地だ。郡上の半分を占めるらしいその地は、今回の戦乱に全く関与していないのだ。

 

「白鳥が未だに動かぬのは、兵が集まらぬからか、織田に下る意思があるからか、それとも別の意思か」

 

 頼綱さんも心配している。

 

 今この瞬間まで、俺達は順調に行き過ぎているのだ。

 

 どこかで歪みが出てもおかしくないと思う。

 

 

 そんな心配事をしている時、遠藤さんの使者が戻ってきた。

 

 

「恐れながら、我が主の言いによれば、まずは御使者殿を立てられたしとの事、石島様の御登城に関しては今しばらくお待ち頂きたいとの事で御座います」

 

(俺は来るなって事かよ)

 

 使者さんは黙って俯いている。

 

 俺も納得がいかないが、失礼の無いように発する言葉を探していた。少し沈黙が流れた所で、伊藤さんが助けてくれる。

 

「御使者殿、一つお伺いしたい。それはご配慮であられるか、それとも他意がお有りか」

 

 鋭く冷たい声で問いかけた。

 

 使者の方はその問に、特に慌てる風でもなく「とんでもない」というような顔で答える。

 

「誠に恥ずかしながら城内定まらず、石島洋太郎様の御登城に関しては安全を保障できないという我が主の配慮で御座います、申し訳御座いませぬ」

 

 

(それが本当なら、そんな危ない所へは行けない)

 

 伊藤さんは少し思案してから、使者の方に条件を述べた。

 

「そのような場所であれば、我が殿のみならず、こちらの使者が入れぬではありませんか、されば一つ、このようにしては如何か」

 

 伊藤さんは、使者さんに地図で示しながら。

 

「我が軍は半数をここへ残し、もう半数を以って郡上八幡城に入ります、兵を入れてしまえば安全は確保されましょう」

 

 そこまで言うと、使者さんの肩に手を置いた。

 

「ご苦労とは思いますが、もう一走りお願いします、半数の兵と共に城に入るのは、この伊藤が、我が殿については降伏の条件が整い次第と致しますが、それは慶隆殿が城を出られた後でもよろしゅうござる」

 

 使者さんは伊藤さんの目をじっと見据える。

 

 

「我が主のお心がお分かりになられるのか」

 

 

 伊藤さんはニッコリと微笑みを返すと、自身の刀を鞘ごと使者さんに手渡した。

 

 

「この伊藤も死ぬ訳にはいきませぬので、安全の為に兵は帯同させて頂きます、されど、その刀は遠藤殿にお預け致します、伊藤が取りに上がるとお伝えくだされ」

 

 使者さんの目は、感動で少し潤んでいた。

 

「伊藤様のお心遣い、しかと、我が主に伝えまする!」

 

 当初、全員で行くという話になっていたが、相手がいる事なのでそうそう上手くは行かないだろう。伊藤さん1人で行くような事にならなければそれでいいと思った。伊藤さんを守る兵と、綱義くんと綱忠くんが同行すれば大丈夫だろう。

 

 

「先輩、大原はどうします?」

 

 金田さんの問に、伊藤さんはじっと綱義くんを見つめていた。

 

 

「綱義、大原の軍役に応じてくれた兵15と、自綱様から兵50騎をお借りして先に大原に戻ってくれないかな」

 

 戦の決着までこの場所にいられない事に、綱義くんはすごく悔しそうな顔をしていた。

 

「村や屋敷を守る……綱義、『任せる』という事だ、どういう意味か分かるな?」

 

 伊藤さんのその台詞に、綱義くんは力強く頷いた。

 

「命に代えてもお守り致します!」

 

 ちょっと涙目になって頷くと。

 

「……十五、伊藤様を必ずお守りせよ!」

 

 綱忠くんにそう言い残し、直に兵を纏めて大原に向けて出発した。あの涙目は、ここを離れる悔しさか、それとも大役を任された喜びか、俺には分からなかった。

 

 

 しばらくすると、遠藤さんの使者さんが戻ってきて、伊藤さんの提案を受け入れると言う。

 

 伊藤さんは、綱忠くんが率いる大原の手勢30騎と、頼綱さんからお借りした兵200騎と共に郡上八幡城に入る事になった。

 

 

 この地点から郡上八幡城までは約1里。

 

 この当時の1里はかなりアバウトで、大よそ3kmから5kmらしいのだが、歩けば1時間かからない距離なのは間違いない。

 

 

「それでは、頼綱様、宜しくお願い致します」

 

 伊藤さんは頼綱さんに深々と礼をすると、俺達に微笑んでくれた。

 

「とりあえず綱義くんが大原に行ってくれてるし、遠藤さんも降伏の意思は固いようだし、大丈夫だと思う!」

 

 伊藤さんは元気よく言い切ると、ちょっと小声で言葉を継げ足した。

 

「遠藤さん、たぶん殿に会いたくないんだよ、会ったら頭下げないといけないからね、そこは気を使ってあげて♪」

 

 

(あ~、なるほど)

 

 あの時、使者さんが感動していたのは、それを言わずとも察してくれた伊藤さんへの感謝だったのだろう。

 

 

 確かに、俺が行ってしまったら、降伏する立場の遠藤さんは俺に頭を下げないといけない。それが嫌なら逃げるなり何なりすればいいのだろうが、それをしないという事は、本気で平和的解決を望んでいる証拠だ。

 

 本当は、城の中は安全なのだろう。

 

 事実、もう大半の兵が逃げてしまっている郡上八幡城で、俺達に危害を加える人間がどれだけいるか微妙だ。その上、そこまで兵が逃げ出してしまった城に、こちらの兵を受け入れると言うのだ。

 

 

 遠藤さんの平和的解決への意思は頑なだろう。

 

 

(切腹するとか書いてあったしなぁ)

 

 そもそも切腹するつもりだった人なのだ。俺が降伏の条件として切腹を禁止したわけで、それもしっかり守ってくれている事になる。

 

 金田さんもつーくんも、その事に気付いてくれたらしい。

 

 

 金田さんは遠藤さんを知る唯一の人だ。

 

「あの坊ちゃん、結構しっかり筋通ってるな、見直したぜ」

 

 俺達は、伊藤さん達の背中が見えなくなるまで見送った。

 

 

 伊藤さんの背中が見えなくなって、俺達はただ待つだけが仕事になった。

 

 もう夕日と言っていい角度に日が傾いた頃、姉小路軍の物見が本陣に駆け込んできた。

 

 

「も、申し上げます!」

 

 

 その必死の形相に、本陣の空気が一気に張りつめる。

 

 

「郡上より南西、吉田川南岸の最勝寺に兵団を発見!」

 

 

「紋は!」

 

 即座に反応したのは頼綱さんだ。

 

 紋とは、その兵団が掲げている旗印に付いているマークの事を聞いたのだろう。そのマークは、敵味方の判別には大いに役に立つ。

 

「ひ、一先ず知らせをと! じきに次の者が詳細を知らせに参る算段で御座います!」

 

 

 要するに、そこまで確認出来てないって事である。

 

 

「承知、警戒を怠るな! 動きあらば直(ただ)ちに知らせよ!」

 

 

「ハッ!」

 

 

 頼綱さんの命令に、物見さんは本陣を飛び出していった。

 

「矢島! 物見だけでは不安じゃ、一駆けしてまいれ!」

 

 

「はっ、承知!」

 

 例のオジサン侍、矢島さんが馬に間が立って駆けていった。

 

 

「気になるな……城を出た連中が集結してるのかな?」

 つーくんが地図を眺めて最勝寺を探している。

 

 だが、これだけ簡単な地図なのに見つけられないという事は、記載が無いのであろう。

 

 金田さんが、地図のある地点に指を付けた。

 

「郡上八幡城の南西、川の南岸に寺があるって事は、南岸が広くなってるこの辺りしかねーな」

 

 

 その位置は、伊藤さん達が城に入ろうとするのを襲うには丁度いい位置取りだ。

 

 

「遠藤さんの罠ですかね?」

 

 つーくんの不安に、頼綱さんが答える。

 

 

「であるならば、洋太郎殿に来いと言うたであろう、遠藤慶隆殿はこの兵団とは無関係やもしれん」

 

 そうだ、わざわざ俺に来るなと言った遠藤さんが、そんな罠を張るわけがない。

 

 

「それじゃ、安心しても大丈夫ですかね?」

 

 俺が質問を言い終わる直前、最後は少し被る感じで金田さんが叫んだ。

 

 

「やばっ!」

 

 全員、金田さんのほうを見る。

 

「すぐに伊藤先輩を追いましょう!」

 

 金田さんの顔を少し青ざめていた。

 

 

「どうしたんですか金田さん、遠藤さんが手配した兵じゃないのなら罠ではないですよね?」

 

 俺の呑気な質問に金田さんは大きく首を振って、何故かつーくんの背中を甲冑の上からバシッっと叩くと。

 

 

「遠藤慶隆が関係ないから危ない! 狙いは伊藤さんじゃない可能性が高い!」

 

 金田さんが危険だと思っているのは、その兵団が【降伏に反対する家臣団の謀反】だった場合についてだった。

 

「城を出た家臣とその兵、木越城の遠藤胤俊、ここら辺が共謀して郡上八幡城を奪おうとしてんじゃねーのかって話し!」

 

 

(!!??)

 

 

「いかん! 陣太鼓!」

 

 頼綱さんが部下に向って叫んだ。

 

「ハッ!」

 

 直後、姉小路軍の陣太鼓が鳴り響く。

 

 

「洋太郎殿! 参ろうぞ! 伊藤殿が危ない!」

 

 俺達は急遽、伊藤さんを追って進軍を開始した。

 

 

 

 

■1567年 8月2日夕刻 美濃国

   郡上八幡城本丸 遠藤家 

 

 

 

 降伏を受け入れる使者として、あの挑発状を書いた本人である伊藤が訪れてきた事に対し、遠藤は心底驚いていた。

 

 伊藤が来ると言われた時、遠藤は「偽物がくるであろう」と予見していたのだが、目の前に座ったの男を、使者が間違いなく本物だと言い切る。

 

 

(徒(ただ)ならぬ大丈夫(だいじょうぶ)ではないか……)

 

 まずはその身長の大きさに驚かされた。

 

 伊藤が山賊【鬼熊一味】を退治したという噂はこの郡上にも伝わって来ている。話の出所は桜洞で、姉小路の家臣が言いふらしてしまったのだ。

 

 その噂の豪傑である伊藤と、今目の前にいる男が、遠藤には同一人物にしか思えなかった。伊藤の身長は176cmであり、然程大きいわけではないが、この時代の人間からすれば大男の部類に入る。

 

 そしてその大男は、腰には帯刀せずに丸腰で現れたのだ。

 

 城の中に兵を入れているとはいえ、この広間には伊藤本人と、その部下である若い男が1人だけ、恐らく遠藤と同じ年代とみられる若者がいるだけである。

 

 

(若いな……相当な手練れには見えん、あの程度の近習のみを連れて丸腰で来るとは……)

 

 

 この時点で既に、遠藤は伊藤の豪胆さに感服してしまっていた。当時の男たちは、敵味方問わず勇気ある行動を大いに賞賛する文化がある。命知らずの猛者は男性の憧れであり、女性から黄色い声援を浴びる的なのだ。

 

 

「此度は当方の我儘をお聞き入れ頂き、恐悦至極に存じます、遠藤慶隆様、この伊藤修一郎、此度のご恩は生涯忘れませぬ」

 

 丸腰で現れた上に、今度は下座から両手を付いて深々と頭を下げてきたのだ。

 

 一言二言の挨拶が実に気品に満ち、敗北の将にみじめな思いをさせぬようにと、細やかな気配りがなされている。

 

 

(負けじゃ……これは敵わなぬ、勝ちうる訳がない)

 

 遠藤は全身から血の気が引いて行く思いがした。力なくふらふらと、上段上座からずり落ちるように伊藤の目の前に進む。

 

 

「伊藤殿……当家の仕置き、ご差配を賜れれば幸い、何卒、何卒! よしなにお頼み申します!」

 

 遠藤の両目からは涙が溢れていた。ここへ来て遠藤は、ついに石島洋太郎に頭を下げる覚悟が固まってしまったのだ。

 

 

「慶隆様、お顔を、お手をお上げください」

 

 伊藤はそっと遠藤の手に触れ、床から持ち上げる。

 

「お恨みとあらばこの伊藤が、お怒りとあらばこの伊藤がお受けいたします、されど」

 

 伊藤はそのまま遠藤の両脇を抱えるように立たせると、再び上段上座に座らせ、自身は下座に戻り、言葉を続けた。

 

「されど、ご家族の安全をと申されるならば石島が、ご臣下の今後をと申されるのであれば石島が、お子や弟君の将来をと申されるのであれば石島がお引き受けいたす、安ずることは御座いません」

 

 

 その言葉を聞いた遠藤は、ついに崩れ落ちた。声を上げまいと必死になって震えている。

 

 

「綱忠、下がりなさい」

 

 伊藤は小さく、連れてきた部下に部屋から出るように促した。

 

 

「しかし……畏まりました」

 

 綱忠はいくらか不服そうな顔をしながらも、伊藤の言いつけ通りに部屋を出た。

 

「ご当家の方々も申し訳ございませんが、我が家中の兵が無礼を働かぬか監視をしておいて頂けませぬか、何か無礼があらばすぐに、先程の綱忠に申し付けて下され」

 

 この場に残っている遠藤家の家臣は、皆、慶隆の忠臣である。

 

 伊藤の言う事の本当の意味は、すぐに理解できた。伊藤が丸腰である以上、特にこの事について文句を言う程ではない。

 

 

「しからば、ごめん」

 

 僅か5名しかいなかった忠臣達が、本丸館の広間を出る。

 

 

 直後、広間からはまるで少年のような泣き声が木霊した。

 

 

 ひとしきり泣き終わる頃、広間へ1人の女性が入室した。その女性は伊藤の斜め前に小さく座ると、深々と頭を下げる。

 

 

「遠藤慶隆殿にお世話になっております、安藤守就の娘、香に御座ります」

 

 伊藤は黙って頷いただけで、特に言葉を発する事はなかった。

 

 

 香は顔を上げ、伊藤を正面から見据える。

 

「此度の戦差配、真にお見事で御座いました、この後(のち)の仕置きもどうか、わたくしからもお頼み申します」

 

 

 再び、両手を付いて深く頭を下げる。伊藤はこの状況を瞬時に理解してた。安藤の指示で離縁となっているこの2人を、優しい目で見守っている。

 

 伊藤としては、この2人の事も「どうにかしてあげたい」という想いに駆られていたが、そこまでの力は石島家には到底ない。

 

 

「伊藤殿!」

 

 まだ声の震えている遠藤が、再び上段上座から降りると、今度は伊藤の位置よりも下座までわざわざ回り込み、その場に平伏した。

 

「当家の仕置きに関しては、最早それがしの意図ではどうにもなりませぬ故、お任せ致します、されど」

 

 遠藤は泣きはらした両目をキッと見開き、伊藤を見据えた。

 

 

「この胸にある我が恨み、受けて下さると申された事が偽りでないのであれば!」

 

 遠藤は正座した状態のまま更に、ずるずると下座へ移動し、壁際まで下がると再び頭を下げ、畳に額を擦り付けた。

 

 

「お聞き入れ願いたい義があります! 我が侍女の【お玉】と申す女子(おなご)を、どうかよしなにご差配ください、我が子を身ごもっておるのです!」

 

 

「左様な事、さしたる苦では御座らん、我が主は必ずや、お玉殿を丁重に致しますぞ」

 

 伊藤は少し離れた位置から、遠藤に優しい声をかけた。

 

 遠藤は再び、肩を震わせ泣き始めた。

 

「いどうどの! ごのいがり! 受けでぐださると申すのであれば!」

 

どうにか息を整え、言葉を繋げていく。

 

「そこの香を貰ってはくださらぬか! 北方(きたかた)城に戻らば敵の元妻、新たな貰い手などありはいたしませぬ! 齢はまだ二十歳でございます!」

 

 遠藤は床から額を離す事なく、必死に懇願していた。

 

「他の女子に夢中になり、この数ヶ月は手も触れぬ有様!……家臣からは侮られ、領民からは慕われず、父の威光だけが取り柄の情けない夫を持った故、苦労ばかりをかけて……参りました……」

 

 

 再び、声に涙が混ざり始める。遠藤の方を向いている伊藤の背後から、香のすすり泣く音も聞こえて始めていた。

 

 

「伊藤殿であれば必ずや、幸せになると思うております! 正妻でなくとも構いませぬ、どうか、香をお側に置いてやってくだされ!」

 

 

 遠藤の懇願には、様々な想いが入り混じっているが、一つだけ明確な理由があった。

 

 

 実は、香と安藤守就はその関係が上手くいっていない。

 

 原因は数年前、香の母にある。香の母は安藤の側室であったが、正妻に対して嫉妬を抱き、有ろう事か毒殺した。

 

 更には正妻の子である幼い乳飲み子まで殺してしまったのだ。

 

 香の母は磔(はりつけ)に処されたが、それ以来、香は父から遠ざけられ、疎まれ、北方城で肩身の狭い人生を送ってきた。そして2年前、遠藤家に嫁ぐ形でようやく北方城から解放された。

 

 今回、北方に戻れと記された書状は、香の安全を気遣っての書状ではない。書状の最後には、北方に戻れぬときは自害せよと記されていたのである。

 

 そんな父親の元に戻った所で、幸せな結末があるとは思えなかった。恐らく、命さえ危うい。

 

 遠藤はそれを知っていたのだ。

 

 

 怒りを受け止めると言ってしまった以上、伊藤としてもこの頼みを安易に断る訳にはいかなかった。

 

 

「ふむ」

 

 少し思案しながら、自分の背中越しにいる香を見る。

 

 

 香は恭しく姿勢を整え、三つ指を付いて伊藤に平伏していた。

 

「ふ~、まったく、参りました、いいでしょう、お引き受けします!」

 

 

 その直後、ドタバタと廊下を激走する音が響き渡った。

 

 

「殿!大事!だいじ~~!」

 

 音に続いて聞こえてきた声に、遠藤が飛び跳ねるように立ち上がった。

 

 

「何事か!」

 

 遠藤の問に、息を切らせた家臣が跪(ひざまず)くのも忘れて報告を入れる。

 

 

「わ、鷲見弥平治、謀反! 最勝寺にて挙兵、その数、凡(おおよ)そ五百!」

 

「くっ、おのれ……」

 

 

 遠藤は、自分の心配事が的中した事への落胆と同時に、今しがた伊藤に懇願しておいて正解だったと実感していた。

 

 家臣の報告はこれだけではなかった。

 

「それにとどまらず、城を出た連中が続々と鷲見の元に集まろうとしている様子……更に、木越の胤俊様が挙兵、兵六百を以って南下中との知らせが入りました!」

 

 

「新右衛門……おのれ! 新右衛門!」

 

 従兄弟の不義理に怒りが沸々と沸いてきたが、既に遠藤本人に戦う力は無く、僅かな兵と共に城を枕に討死するか、もしくは城を捨てて逃げるしかない。

 

 

「伊藤様!」

 その家臣の方から、石島家臣の大原綱忠が駆けてきた。

 

「綱忠、直に城を出る準備を致せ!」

 伊藤の命令に、綱忠は顔を青くして応えた。

 

「そ、それが、既に城下の至る所で火の手が上がっております、既に鷲見弥平治の兵が乱入しているかと!」

 

 

「なんじゃと……」

 

 反応したのは遠藤であった。

 

 

「なんという事を……皆の無事を願っての事であろう……何故わからぬ」

 

 遠藤は膝から倒れるように崩れ落ちると、小さく蹲った。

 

「儂が何をしたと言うのだ……儂が、儂がいったい何をしたと言うのだ!」

 

 

 

独り言を叫ぶと、とたんに立ち上がる。

 

 

「うううううあああああああああ!!!!!」

 

 

遠藤は奇声を上げると、報告に来た家臣を引っ張り立たせた。

 

「具足を持て! 弥平治と差し違えてくれるわ!!!」

 

 

 ドタバタと広間を出ていく遠藤を、家臣が走って追っていく。

 

 その間、伊藤は綱忠に指示を出していた。既に敵兵が乱入している城下町を抜けるとなれば、それ相応の戦闘に備えなくてはならない。

 

 指示を出し終えた伊藤は、傍らにじっと立っている香を見つめ「参りますか?」と声をかけた。

 

 

「はい、足手まといであればお捨てになって頂いて結構で御座います、どうかお供をお許しください」

 

 伊藤は小さく頷く。

 

 香は「すぐに仕度をして参ります」と告げると、小走りに自室へ向かった。

 

 

 

 

 

■1567年 8月2日夜 美濃国

   郡上八幡城 石島軍

 

 

 

 闇夜は明るく照らされて、煌々と光る郡上八幡城は既に火達磨になっていた。俺は、単身でも郡上八幡城に入ろうと思っている。どこか抜け道なり、何なりがあるはずだ、とにかく行くしかない。俺が生き残ってても、伊藤さんがいなければこの先どうにもならないのだ。

 

 

 陽や、優理や、唯ちゃん瑠依ちゃん美紀さん。

 

 あの子達を守ろうと思ったら、必要なのは俺じゃなくて伊藤さんだ。

 

 

「申し上げます! 別府四郎殿の軍勢が退却中!」

 

 

「なんで!!!」

 

 俺達の軍勢は、右翼と中央を頼綱さんの兵が、左翼を別府さんの兵が担っている。

 

 

 郡上八幡城に攻撃を仕掛けている鷲見弥平治に対し、俺達は猛攻を仕掛けているが、どうにも攻めきれないらしい。

 

 その原因の一つが、別府さんの消極的な動きだった。

 

 <パパパパパパ>

 

 かなり遠い距離で銃声が響き渡っている。

 

 人の叫び声が、怒号が、馬の嘶きが、鉄砲の音が、この戦場に渦巻いていた。

 

 もう、伝令さんにも余裕がない、俺の「なんで!!!」に応える事無く、直に走り去ってしまった。

 

 

「伝令! 申し上げます! 南西より新手!」

 

 

「新手……この状況で!?」

 

 戦場を渦巻く怒号は一層激しくなり、俺を絶望に落とし込んでいく。更に悪いことに、現れた新手の敵は、別府さんが陣を引いた箇所に突っ込んで来たらしい。

 

 

 時折、この本陣に敵兵さんが飛び込んできては、俺の護衛をしてくれている頼綱さんの家臣、矢島さんに打倒されていた。

 

「石島の殿も少しは武芸の鍛錬をなされたほうがよろしい!」

 

 もう何回も聞いた台詞だ。

 

 

 ≪バリバリバリバリ≫

 

 今度はかなり近い距離で鉄砲が放たれたらしい。

 

 俺の心臓は今にも口から飛び出しそうだった。

 

 

 そんな時、頼綱さんが本陣に駆け込んできた。

 

 頼綱さんは額から血を流していたが、それ以外は特に外傷はなさそうだった。

 

 

「洋太郎殿、これは無理だ、引くぞ!」

 

(え?……え?)

 

 俺は返事を出来ずにいた。

 

 退却の命令は既に姉小路軍に行渡らせていたようで、前線に出ていたつーくんと金田さんも戻ってきた。

 

 

「ゲホッゲホッ、ダメだ、こりゃだめだ」

 

 金田さんは大いに負傷している様子で、つーくんに肩を抱えられながら歩いている。

 

 

「伊藤さんは!? どうするんですか? 諦めるんですか!?」

 

 俺のその問に、つーくんが悔しそうに呟いた。

 

「どうにもなんないんだよ……」

 

 それは分かっているつもりだ、どうにかなるなら、どうにかしてくれているだろう。分かってはいるけど、納得なんて出来るわけがない。

 

 

「で、伝令! 申し上げます! 別府四郎の軍勢が攻めかかって参りました!」

 

 

「んなっ!? おのれ別府!!」

 

「あちゃ~~~」

 

「あのおっさん……」

 

 

 皆は別府さんの裏切りを嘆いているが、俺には伊藤さんを置き去りにする事のほうが何百倍も嘆かわしい。

 

 

「行きましょう! 郡上八幡へ特攻しましょう!」

 

 俺は覚悟を腹に決め、本気で行くつもりだ。

 

 

 次の瞬間。

 

≪バリバリバリバリバリ≫

 

 かなり至近距離で鉄砲が撃たれた。

 

 

 足元や陣内の物が壊れた音がしたので、どうやらこの本陣に向けて撃ち込まれたらしい。

 

 

 俺は、右肩に鈍い痛みを感じていた。

 

 いや、右肩だけじゃない。

 

 左の太ももにも。

 

 

「あ……れ?」

 

 

 その鈍い痛みは一瞬で激痛に変わる。

 

 

「洋太郎殿!!!」

 

 

「やばい、剛左衛門、運ぶよ!」

 

 

「はい!」

 

 

 俺は立っている事が出来なくなり、そのまま崩れ落ちたが、直に皆に抱えられるようにして本陣を運び出された。

 

 

「矢島! 退却じゃ! 殿をいたせ!」

 

 頼綱さんの声が聞こえる。

 

 

 俺の視界は、星の綺麗な夜空だけを捉えている。

 

 

「応! お任せあれ!」

 

 俺を守ってくれていた矢島さんの声だ。

 

(矢島さん大丈夫かなぁ……他の皆は鉄砲当たってないかな)

 

「若! 今生の別れで御座る、立派な飛騨守護におなりなされ!」

 

「じい……済まぬ!」

 

「はっはっは、じいとはまた、久しく呼ばれておりませんでしたな! はっはっは!」

 

(矢島さんってそんな歳でもないような……)

 

 

「剛左衛門!」

 

 金田さんの声が聞こえた。

 

 

「須藤殿!!!!」

 

 

(つーくん? どうしたの?)

 

 

 

「引け! 殿(しんがり)は矢島の手勢で受けよ! 引け!」

 

 

(頼綱さん……つーくんどうしたの?)

 

 

 

「逃げるぞぉお! 引けええ!」

 

(金田さん……つーくんどうしたの?)

 

 

(なんで皆無視すんだよ……)

 

 

「思いっきり走れよぉ! この俊足金田は最後でいいからな! お前ら全力で大原まで走り抜け!」

 

 

 

「走れ走れ! 俺より後ろにいるな! この金田健二の前を走れ!」

 

 

金田さんの声はずっときこえている。

 

 

「走れ……!あきらめるな走れ! 生きてもど……――

 

 

 

 

 

――――――――――――――

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――――

――

 

 

 

…………

 

……

 

 

 

「それじゃ、転送するね」

 

 

(駄目だよ、優理も一緒に帰らないと駄目だ、皆の覚悟が……)

 

 

……

 

…………

 

――

――――

――――――

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――――――――――――

 

 

 

 

 

「ダメだ!」

 

 

(痛っ!!!!???)

 

 

 夢の中で叫んだ俺は、実際に叫んでいたようで、上半身を起こしていた。自分の右肩と、左の足に激痛が走る。

 

 

(……どうしたんだろう)

 



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第27話 光の糸

■1567年 8月4日 美濃国

   稲葉山城 織田軍

 

 

 

 この日、織田信長の元に1通の書状が届いた。

 

 書状の送り主は、郡上北西の地を治める木越城主【遠藤胤俊】である。

 

 

「読んだか」

 書状に目を通し終えた信長は、この書状の中身を確認したかどうかを問う。

 

「ハッ」

 問われた丹羽長秀は、一言で返答すると口を閉じた。

 

 

 この時代の臣下は、主に見せるべき書状かどうかを、大抵の場合は一度目を通して確認している。

 

 それは同時に、臣下の力が強くなれば、届くべき書状さえも届かなくなると言う事であり、稲葉良通から遠藤に宛てた書状が届かなかった理由は正にそこにある。

 

 丹羽長秀の返事を確認すると、信長はその書状を火にかけた。ゆっくりと燃えていく書状を、信長は全て灰になるまで見つめていた。

 

 

「誰を向ける」

 書状が燃え尽きると、信長は再び丹羽長秀に問う。

 

 この問は、丹羽長秀にとってみれば「意外」な物であった。

 

 

(てっきり「捨ておけ」と申されると思うておったがな)

 

 稲葉山城の包囲を完了してから既に3日が過ぎた。しかし、城は未だに落ちる気配がない。

 

(苛立っておられても不思議は無いのだが……)

 

 その稲葉山攻略に手こずる中、郡上から寄せられた書状に対し、こちらも手を打てと言うのである。

 

 丹羽長秀は少し思案すると、3名の人物が頭に浮かんだ。

 

「恐れながら、美濃三人衆を向かわせるのがよろしいかと」

 

 信長はその言葉に小さく頷くも、自分の考えている事と少しばかり食い違っている点について訂正せねばならなかった。

 

「大垣(おおがき)は北勢へ向ける」

 

「御意」

 丹羽長秀は、信長の意向を確認すると、すぐにその準備に取り掛かった。

 

【大垣】とは大垣城の事であるのと同時に、その大垣城を治める氏家直元の事を指す。

 

 美濃三人衆の中では最大勢力を誇り、美濃の三分の一を治めるとまで噂された人物である。斎藤家が崩壊している今、美濃で動員可能な兵力の大半を、その氏家直元が抱えている事になるのだ。

 

 本陣を出た丹羽長秀は、配下の者を呼び寄せると、氏家を除く美濃三人衆、稲葉良道と安藤守就を呼び付けるように指示を出した。

 

(金田健二郎……不思議な男よ)

 

 主が欲するその男に、交渉窓口になっている丹羽長秀本人も魅力を感じている。

 

 

「申し上げます、稲葉良道様、安藤守就様、参られました!」

 

 部下の報告に小さく頷く。

 

 

「応、参ろう」

 

 丹羽長秀も織田信長も、無意識のうちに金田の身を安じていた。

 

 

 郡上の遠藤胤俊から織田信長に宛てられた書状は、世の流れを読む事の出来ない人物が記した哀れな物であった。

 

 

 そこには、いかに古くから遠藤氏一族が郡上の権力者であったかが記されており、次いで記されていたのは、遠藤氏が斎藤道三、斎藤義龍、斎藤龍興の3代に渡り、郡上の支配を認められている事。

 次の美濃国主になる織田信長もそれを認めるべきであり、認めてくれるのであれば相応の働きはするとの事。織田の名を偽った飛騨の軍勢が侵攻してきた事、その軍勢に郡上八幡城の遠藤慶隆は情けない事に降伏しようとした事。

 

 更に、それらを全て打ち負かし、今は自分が郡上全体を支配下に置いている事。斎藤家の重臣、長井道利を討ち取った事。

 

 文章全体から溢れる自信と傲慢さは、織田信長にこの書状の送り主を「討て」と命ずるに至らせた。

 

 その実行に白羽の矢が立った2人は、呼び出された丹羽長秀の陣に到着していた。

 

 

「お引き受け致そう、されど郡上へ入るならば関を抑えねばならんな」

 

 元々、遠藤慶隆の身を案じていた稲葉良道は、この命令に些かの不満もなく、今すぐにでも郡上へ走り出したい気持ちであった。稲葉のその言葉に、安藤はこれ幸いと一つの提案を持ちかける。

 

「ならば、関の抑えは我らが受け持とう、長井殿が居られぬのであれば然程の事はあるまい」

 

 

(この期に及んでまだ、娘を助けたくないと言うのか)

 

 稲葉には、自身より年上の安藤の言葉が理解出来ずにいる。

 

(了見の狭き事よ)

 

 決して頭の悪い男ではない、稲葉は安藤の事をそう思っている。一族郎党の結束も硬く、配下にはあの竹中半兵衛を抱えている、安藤という人物は決して凡人ではない。

 

「なれば伊賀守(いがのかみ)殿、大谷田から関にかけての一帯はお任せ致す、拙者は直ちに郡上へ向かうとしよう」

 

 

「応、なれば儂も向かうとしようか」

 

 

 この2名が特に異存なく作戦に当たる事を了承した事で、丹羽長秀の役目は一旦終わりを迎える。

 

「御両名、しかとお頼み申しましたぞ」

 

 丹羽長秀は、この郡上侵攻の成否が今後の両名に大きな影響を及ぼすであろうと睨んでいる。それは同時に、この郡上侵攻を差配した己の今後にも影響してくるはずである。

 

 

(こちらも忙しいというのに、難儀な事よ)

 

 稲葉山城攻略でも手柄を立てなければならない、郡上でも信長の納得が得られる結果を出さなければならないのだ。

 

 そして、その【信長の納得を得る】ためには、どうしても必要な人物がいる。

 

 

(金田殿、生きておれよ!)

 

 主の望みを叶えたいのか、己の身を案じてなのか、それとも丹羽長秀自身が金田の無事を祈っているのか。

 

 本人にも分からずにいた。

 

 

 

 

■1567年 8月4日夕刻 飛騨国

   大原村 石島屋敷

 

 

 

「殿、薬湯(やくとう)の刻限で御座います」

 

 陽が差し出してくれた薬湯は、ハッキリ言って不味い。

 受け取った薬湯を我慢して一気に飲み干すと、直に横になり、薄い布団を頭からかぶる。

 

 

 今、俺に出来る事は何もないのだ。

 

 正直に言えば、拗ねているだけなのかもしれない。この絶望に近い結果を受け入れて、前向きな活動に全力を注げる程、俺は立派な人間じゃない。

 

 

 元々、なんで俺が当主なんかをしているのだろうか。

 

(やりたいなんて言った覚えはない)

 

 伊藤さんがそうなるように事を運んだ、それだけだ。誰とも話したくないし、何もしたくない。

 

 傷は確かに痛いが、そんな事はどうでもよく、俺はどうしても納得がいかないのだ。

 

(なんで……伊藤さん、なんでだよ)

 

 そんな事を思って涙を流してばかりいる。もう、二日目だ。

 

 

 俺達はボコボコにやられてしまったようだ。

 

 先月末、ここを出る時は600人もいた頼綱さんの兵は、大原に到着した時は僅かに100名程度だったそうだ。

 その後で遅れて到着する人達もいたようだが、未だに150名に届かないらしい。

 

 

 負傷していた金田さんは、その負傷をもろともせず、逃げる味方を鼓舞しながら走りぬいた。運ばれていく俺の側で、常に後ろを気にしながら、一人でも多く逃げられるように踏ん張ってくれたらしい。

 

 今日の朝、桜洞に戻る直前の頼綱さんがやって来て、金田さんをべた褒めしていた。それ以外にも、敵の情報とかいろいろと報告を受けたのだが、全く頭に残らなかった。

 

 

 もう、全てが嫌なのだ。

 

 

(つーくん……伊藤さん……)

 

 悔しい、とにかく悔しかった。

 

 

 自分の非力さが。

 何もできない自分が恨めしい。

 

 もし、つーくんと伊藤さんが無事に戻ってきてくれるのであれば、俺は何でもやる。立派な当主になれと言われれば、絶対になってみせる。

 

 でも。

 

 2人が戻らないなら、もう何もしたくない。

 

 

(こんな時代……嫌だよ……)

 

 

 何度も何度も同じ感情しか沸いてこない。

 

 

 もう、嫌なんだ。

 

 

 

 

――――――――――――――

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――

 

 

 

…………

 

……

 

 

 

「どんな選択でも、自分を信じて選ぶ事! 頼むよ石島くん!」

 

 

(無理だよ伊藤さん……自分を信じるなんて無理だよ)

 

 

 

 

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――

 

 

 

…………

 

……

 

 

 

 

「じゃ、死んだつもりで行きますか!」

 

 

(何言ってんだよ優理……もう来てるだろこっちに)

 

 

 

 

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――

 

 

 

…………

 

……

 

 

 

<グスン グスン>

 

 

あれ?

 

 

泣いてる?

 

 

誰? 優理?

 

 

そうだよな……

 

そりゃそうだよ、俺だって泣いてるのに……

 

 

 

<ドカドカドカドカ>

 

 

すごい足音だな、知ってるよ……

 

 

襖を開けて米を投げてくるんだろ?

 

 

 

……

 

…………

 

――

――――

――――――

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――――――――――――

 

 

「殿! 殿!」

 

 

(煩いなぁ……陽はどこいったんだろう)

 

 

「殿、お目覚めください! 殿!」

 

 

(ん……夢?)

 

 

「殿!」

 

 

 目を開けると、そこには綱義くんがいた。

 

「あ、ああ、ゴメン、寝てたや」

 

 体中痛いが、そんなのたぶん、皆同じだ。

 

 

「お休みの所、申し訳ございません! お急ぎ村へ!」

 

 そう言って俺の腕を掴むと、持ち上げるようにして起き上がらせた。俺の身体の状況を知らない綱義くんではない。

 

 何故そんなに急がせるのだろうか。

 

 

 もたもたしている俺に、綱義くんが怒鳴り気味で声をかけた。

 

「お急ぎ下さい!」

 

 とにかく右肩と左の太ももが痛い。歩けるかどうか微妙だった。

 

 

「そんなそんな、とりあえず何があったのか教えてくれない?」

 

 俺は興奮気味の綱義くんを宥めながら、状況次第では無理やりにでも動くべきかもしれないと、少しだけ覚悟を決めた。

 

 その時、廊下からドタバタと走る音が聞こえてきた。

 

(ああ、さっき夢の中で聞こえたのはこの音か?)

 

 足音は俺の寝ている部屋の前で止まる。

 

 その方向を見てみると、そこには優理の姿があった。

 

(優理、大丈夫かな、元気無いんじゃないだろうか)

 

 

「来て!」

 

 その優理の声は凛としていて、特に元気が無さそうでもなかった。

 

(なんだよ……元気じゃんか)

 

 

「殿! 西の山間より煙が立ち昇っておるのです!」

 何があったのか教えてくれた綱義くんは、相変わらず興奮気味だった。

 

「ん? それがどうかした?」

 

 正直さっぱり分からない。

 

「伊藤様やも知れませぬ! 何の煙か確かめに行かねば!」

 

 

「んな馬鹿な、伊藤さんが何のために? まぁ止めませんよ、確かめて来て下さい、わかったら教えてくださいね?」

 

(煙が伊藤さんだなんて、幻想もいいところだよ、大騒ぎしすぎなんだよな)

 

 そんな事を考えた僅か2秒くらいの間に、優理が俺の目の前まで足を進めてきた。

 

 

 ≪ バチッ ≫

 

 

 俺の顔面は思いっきり右方向に吹っ飛んだ。

 

 その衝撃による耳鳴りが、左耳を占領して何も聞こえない。

 

 

「綱義くん行こう! 大丈夫! 綱義くんなら出来る!」

 

 優理の声がする方を、見ることが出来ない。

 

 頬の痛みと、耳鳴りと、右肩の痛みと、左足の痛みと。何より、心の痛みが、俺の身体を硬く、硬く、まるで石像にでもなったかのような重さだった。

 

 

「しかし……くっ、畏まりました!」

 

 綱義くんが何かを承知したようだ。

 

 2人が廊下を進み、この部屋を離れていく音がする。

 

 

 直後に、唯ちゃんの声が聞こえてきた。

 

「無茶です! 金田さん! 無茶です、やめて下さい!」

 

 

「無茶も麦茶もあるか! ここで諦めたらゲームセットなんだよ!」

 

 

<ゴスッ ゴスッ ゴスッ>

 

 歩いているにしては妙な足音がする。

 

「金田さん! ……美紀ねぇ! 金田さんを止めて!」

 

 唯ちゃんの声には涙が混ざり、最後はもう悲鳴に近かった。

 

 

 

<ゴスッ ゴスッ ゴスッ>

 

 程なくして、美紀さんの声が聞こえてきた。

 

「金田さん、そのまま匍匐(ほふく)前進で村まで行く気ですか?」

 

 

「そんなん関係ない! 行くったら行く! …んがぁぁぁ!!」

 

<ゴスッ ゴスッ ゴスッ>

 

 

「しかも片手で匍匐前進じゃなかなか進まないですよ?」

 

 美紀さんは金田さんを説得しているらしい。

 

 

「片手が動きゃ十分っしょ! 金田健二、ここで動かなきゃいつ動くって感じなわけ!」

 

<ゴスッ ゴスッ ゴスッ>

 

 

「ったくもう、ほら」

 

 

「み、みきちゃん」

 

 

「重っ、この貸は必ず返してもらいますからねっ!」

 

 

「おう、すまねぇ!」

 

 

(なんだろう……金田さんそんなにしてまで何処に行くんだ?)

 

 流石に気になり始めた俺は、動かない体をどうにか起き上がらせる。

 

 

「洋太郎様!」

 

 廊下から陽が顔を出した。

 

「陽、何があったの?知ってる?」

 

 とにかく、いくらなんでも説明も無しにビンタされて少しだけ腹が立ってきた。

 

(説明しないのは優理のお家芸かよ)

 

 陽は部屋に入り、起き上がろうとしている俺を助けながら、何が起きてるのかを教えてくれた。

 

 

「ただ、西の山間から煙が立ち昇っているのです、それ以外は特に何も」

 

「それだけ? ほんとにたったそれだけ?」

 

「はい」

 

 

(なんなんだよ)

 

 

 本当に腹が立ってきた。

 

 

 陽は心配そうに俺を気遣いながら、言葉を続ける。

 

 

「何の煙か分からないそうです、村より西の山々に人は住んでいないそうで」

 

 

(人がいないのに煙?)

 

 

「山賊なのか、敗残兵が野盗と化しているのか、敵軍なのか」

 

 陽は少し心配そうに言いながら、俺を抱きしめた。

 

「陽は……洋太郎様が生きて戻られて本当に良かったと思うております」

 

 少し涙ぐみながら、俺からそっと離れる。

 

「されど、洋太郎様、兄上が桜洞に戻られてから、村は3度も敵兵の襲撃を受けております、どうか今少し、ご奮起ください」

 

 

「え?」

 

 初耳だった。

 

 

 

 

■同年同刻 飛騨国

   大原村

 

 

「動ける者は仕度を急げ!」

 

 大原綱義の号令に反応出来たのは、大原に駐留している姉小路軍100騎のうち、僅か9騎であった。

 

 

 姉小路頼綱が桜洞に帰還したのがこの日の昼過ぎの事、それを察知した遠藤胤俊の手勢は、日中から夕方にかけて3度の襲撃を慣行した。

 

 その都度、姉小路軍は大原綱義の指揮の元でそれを迎撃し、どうにかこうにか守りきっている。

 

 

 とは言え、元は姉小路の兵である。見ず知らずの大原を守る義理など、本来は無いのだ。いくら主の命令とはいえ、命懸けで大原の為に戦う事程、馬鹿馬鹿しい物はないと思い始めている。

 

 

 石島の援軍など、来るべきではなかったのだ。そんな愚痴が蔓延する程、姉小路軍はその士気を著しく低下させていた。

 

 

(……くそっ! これだけか!)

 

 西の山から立ち昇る1本の煙、この正体を確かめる為に山に入ろうとしている訳だが、余りにも人数が集まらないので綱義は焦っていた。

 

(村の者は既に疲れ切っておる)

 

 大原村の面々は、敵の襲来から村を守ってくれた姉小路軍の負傷者を手当てする為、日中からずっと駆けずり回っていた。

 

 中には武器を手に取り戦ってくれた者までいる。

 

 

(この人数では……まともな捜索は出来んぞ)

 

 綱義は焦っていたが、それを気にしない人間が2人いた。

 

 

「いいよ綱義くん、行こう!」

 

「うん、がんばれば大丈夫だよきっと!」

 

 

 綱義は、困り顔を2人に向ける。

 

「お、お二人とも本当に行くのですか?」

 

 

「もちろん!」

 

「あったりまえ~♪」

 

 

 止めても無駄であろうと感じた綱義は、その2名が同行する事を渋々許可した。

 

 

「煙の正体が敵軍という可能性もあります、危うい場合はお逃げください」

 

 

 その2名とは、佐川優理と平岡瑠依である。

 

 

「うん、走って逃げるから任せて!」

 

「ぴゅ~って逃げちゃうから気にしないでいいよ!」

 

 

 綱義が急いで煙の正体を確かめたい理由。佐川優理と平岡瑠依がそれに同行する理由。それは同じである。

 

「伊藤さんだよきっと、そんな気がする、私達に『来てくれ』って言ってるんだよ」

 

 何の根拠も確証も無い、佐川優理の希望的観測に過ぎないかもしれない、そんな直感である。その佐川優理の直感を信じ、敵が待ち受けているかもしれない山に入ろうとしているのだ。

 

 姉小路軍にしてみれば、そんな馬鹿な話はない。

 

 

「急ごう! きっと敵に追われてるんだろうし、あの煙で敵も気付いていると思うんだ!」

 

 佐川優理は、自分の直感に微塵の疑いも抱いていない様子である。

 

 

「殿が号令をかけて下さればもう少し動いたのでしょうが、夜になれば煙を見失うやもしれません、行きましょう!」

 

 綱義は悔しい想いでいっぱいながらも、佐川優理の直感を心の底から信じていた。

 

 

「ね、ね! いこう? 早くいこう?」

 

 平岡瑠依は、とにかく早く行きたかった。

 

 

 綱義が右手を高く上げる。

 

「これより伊藤様の捜索に取り掛かる! 上がっている狼煙目がけて突き進め!」

 

 

「応!」

 

 綱義を含めた兵10騎と、優理と瑠依。たった12人の捜索隊は、東の山間から上がる煙を目指して突き進んだ。

 

 

 既に日は傾き、空をオレンジ色に染めている。

 

 一度山の中に分け入ってしまえば、上がっていた狼煙など見える物ではない。

 

 

「こっち!」

 

 佐川優理の右手には、未来の道具が握られていた。

 

 

「その道具は方位が分かるのですか!?」

 

 不思議なその道具は、優理の手の中で輝くと、一定の方角に向けて一筋の光の糸を照らし出す。その光の糸は、自分達がどの方向に体を向けようと、一定の方角を指示しているように見てとれる。

 

 

「そっ♪ 測量して距離と方角を記録させてあるの、山の中だからある程度の誤差は出ると思うけど、だいたいの場所まではコレで行けるはず!」

 

 綱義には、何を言っているのか理解出来ない部分があったが、今はその言葉を無条件で信じる事にしていた。

 

 

「優理先輩! こっちの斜面は無理そう!」

 

 

「回り道か……るいちゃん! 北から回ろう!」

 

 瑠依は捜索隊から一定距離を先行しながら、進むべき進路を選択していく。当然、その手には優理と同じく、光の糸を照らし出す道具が握られていた。

 

 

「りょうかいっ!」

 

 捜索隊の面々は、ひたすら驚いていた。

 

 優理と瑠依が持っている道具もそうだが、2人の身体能力にただただ驚くばかりである。

 

 

(忍びの者?……石島はくのいちを雇うておられるのか!?)

 

 姉小路軍から捜索に参加している者は、だいたいこのような感情を抱いており。

 

(御二人だけではなかろう、恐らく美紀殿も唯殿も忍び)

 

 綱義も、石島の屋敷にいる不思議な女性達4人が全員、忍びの者であると確信していた。

 

 

 夕日が地平線に吸い込まれ始め、空は東の方から徐々に暗くなってゆく。

 

 

「優理先輩! こっちは下っていけそう! ここからにしよう!」

 

 

「おっけーるいちゃん! もうだいぶ近づいてるから周囲に気を付けてね!」

 

 

 彼等は光の糸に導かれ、この時代の捜索隊としては驚異的な速度で目標に接近していた。



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第28話 もう少しだけ

 赤く染まっていた空は、徐々にその色を失っていく。

 

 深い木々に囲まれている捜索隊の視界は、西の彼方へ落ちる夕日に連れ去られるが如く、徐々に暗く、狭くなる。

 

 

「優理先輩……あそこ」

 

 小声で耳打ちする瑠依の視線の先には、いくつかの松明が揺れていた。優理は静かに頷くと、綱義と目を合わせる。

 

 同じく松明を視界に捉えていた綱義は迷っていた。あれが伊藤ならば直にでも駆け寄りたい所ではあるが、松明の持ち主が敵である可能性は否定出来ない。

 

 

「もう少し、せめて人数だけは把握しましょう」

 

 綱義の提案は、松明が敵であった場合の事を考えれば至極当然の話であり、そうなった場合を考えると、背筋に走る緊張感が慎重な行動を選択させる。

 

 

「分かってる、でも確認しきゃ」

 

 優理は小声で、瑠依と綱義に語りかけた。

 

「もう少し早く気付けば良かったとか、すぐに行けば良かったとか、そうゆう後悔はしたくない!」

 

 瑠依はその言葉にしっかりと頷く。

 

 今にも飛び出して行きそうな2人を、綱義はどうにかして引き留めねばならなかった。

 

(御二人のお考えは分からなくもないが……もし敵方であれば、この山中に伊藤様が居られる可能性が高くのなるのだ)

 

 もし自分達が発見されれば、敵は手応えと同時に焦りを感じ始める事になる。山中を逃げる伊藤一行に対する追手を、強化するきっかけになりかねない。

 

「お二人とも、しばらく! ここで我等が発見されては、かえって伊藤様を追いつめてしまう事になるやもしれませぬ、慎重に参りましょう」

 

 綱義の言葉は、今の優理と瑠依にはもどかしい物であった。

 しかし、自分達も何が正解か明確にし切れてない以上、今は綱義の提案を聞くのが良いかもしれない、とも思い始めている。

 

 その葛藤の中、木々の合間に揺れる松明のうち、一つが声を発した。

 

 

「何者かっ!」

 

 凛と透き通る女性の声。

 

 

 優理達は目を細め、その暗がりを凝視した。

 

 女性の声が響いた後、特に何かが動いたり音を立てたりする気配は見受けられない。

 

 

(誰……?)

 

 伊藤を目指してきた優理は、その声に心をざわつかせていた。

 

(伊藤さん何処にいるの……)

 

 

 その時であった。

 

 

『かかれ!』

 

 

 男の声が響いた。

 

 

 暗がりから松明の方向へ、いくつかの影が蠢き、一気に距離を縮めて行くのが確認できた。その影から逃れるように、松明が4本、木々の合間をすり抜けながら斜面を登って行く。

 

 

「追え! 追うのだ!」

 

 影は確実に松明を追撃していた。

 

 

 このまま斜面を登ってくるとなれば、影に追われる松明は捜索隊の僅か数メートル先を駆け抜ける事になる。

 

 

「ええい、儘(まま)よ!」

 

 一声上げると、綱義が立ち上がった。

 

 こうなってしまっては、もう流れの儘に行動するしかない。追う側と追われる側が存在している以上、追われる側に伊藤が存在する可能性が高いのだ。

 

 

「何処の何方かかは存ぜぬが、助けるより他にあるまいて!」

 

 綱義が振り返り、捜索に参加してくれていた9名の兵を見つめる。其々が、特に臆す風もなく、ただ綱義に頷き返してくれた。

 

 

 次の瞬間。

 

 

<しゅるるる>

 

 

  <しゅしゅるるるる>

 

 

「んがっ」

 

   「ぎゃ!」

 

 

 風を切り裂いた矢は松明を追っていた影に突き立ち、影は悲鳴を上げて倒れ込むとそのまま斜面を転げ落ちて行った。

 

 

「くそっ! 下がれ! 距離を取りながら囲むのだ!」

 

 斜面を少し下った地点から声が上がり、そこには数名の影が蠢いている。

 

 

「5、6、……7、7人!」

 

 瑠依が声を上げた。

 

 自分達から最も近い位置にいる、その影の集団の人数である。

 

 周辺には広範囲に渡り、いくつかの集団があるのは間違いないのだが、今しがた目の前を通り過ぎた女性を助けるには、既に発見されてしまった影の集団を叩くのが最善である。

 

 人数を数えた瑠依の意図を瞬時に汲み取った綱義は、右手を高く上げた。

 

「者共! 参ろうぞ! 我に続け!」

 

 矢は斜面の上から射られた物であり、逃げる松明には他に味方がいる事になる。

 

(ひと当てした後に合流出来ればよいが)

 

 綱義は走りながら、次の行動に思考を移していた。

 

 綱義率いる捜索隊は一つの塊となり、追う側の影に接近。

 

 

「おのれ! まだ戦える者がおったか!」

 

 影の中の中心人物は捜索隊の接近に気付くと、すぐに部下に指示を出して迎撃態勢を整える。

 

 

「うおおおおおおお!」

 

 斜面を駆け下りた綱義は、その勢いのままに大きく跳躍し、影の先頭にいた男を一瞬で斬り伏せた。

 

「大原十三綱義(おおはらじゅうさんつなよし)! ここは通さん!」

 

 綱義は大音声で名乗りを上げると、更に1人を真一文字に斬り伏せる。その勢いに一瞬怯んだ集団と、綱義の勇姿にその士気を大いに昂ぶらせた捜索隊。

 

 

 この段階で、勝負は付いていた。

 

 

 綱義達が影に向って走り出したのと同時に、優理と瑠依は松明を片手に斜面を登る女性を目指して駆け出していた。

 

 

「すいません! 伊藤さんを探しています! ご一緒ではありませんか!?」

 

 優理は接近しながら声をかけるも、その女性はどんどん斜面を登って行ってしまう。

 

 

「待ってよ~! 無視しないでよ~!」

 

 走りながら声をかける瑠依と優理に、その女性が一度くるりと振り返った。

 

 

「伊藤様はこちらです! さ、早く!」

 

 優理と瑠依は互いに頷き合い、そのまま松明を持つ女性の背を追って行った。

 

 

 

 

■同年同刻 飛騨国

   大原村 遠藤胤俊軍

 

 

 この日、日中から3度の攻撃を試みていた遠藤胤俊の手勢は、夜になって4度目の攻撃に取り掛かろうとしている。

 

 遠藤軍の将兵にしてみれば、わざわざ大原まで足を運び、何の成果も上げずに帰るわけにはいかない。その思いが本日4度目となる攻撃を決意させるに至ったのだ。

 

 好材料は揃っている。

 

 複数の大原の農民に金を握らせて調べた所、夕刻の姉小路軍の士気は、既に戦闘集団としては致命的な程に低下している状態だと判明した。

 

 更に、日中の3度の攻撃を見事に防いで見せた大原綱義という若い将兵は、何やら少数の兵と共に山中に入って行ったと言うのである。

 

(郡上から山狩りが行われておるのじゃ、夜となっては助けようにもそうは行くまい、それもたった数人でなど到底無理な話よ)

 

 

 遠藤軍の将は、刀を硬く握りしめ、勝利を確信していた。

 

 

 しかし、いざ兵を進めて大原に入ろうとすると、眼前に布陣した姉小路軍は嘘のようにその士気を取戻し、陣容は生気に満ち溢れ、その気概は天に立ち昇るが如く沸々としている。

 

「……謀(たばか)られたのか!?」

 

 既に両軍は睨み合いに入っており、容易く下がれる状況ではない。金を握らせた大原の農民達が、揃って虚報を流してくるとは思えない。だとすれば、奇跡的に姉小路軍に士気が戻ったとい言う事か。

 

 

(いかんな、伸るか反るかの勝負となったわ)

 

 遠藤軍の将兵のこの思いは、希望的観測に過ぎない。既にその威勢は圧倒的に姉小路軍が上回っており、遠藤軍は徐々に恐怖に支配され始めている状況にあった。

 

 

 

 

 

■同年同刻 美濃国

   大原村 姉小路軍

 

 

 姉小路軍は隊列を鶴翼(かくよく)に構えると、遠藤軍の襲来を待った。

 

「隊列を整えよ! 此度も撃退してくれようぞ!」

 

 士気の低下が著しかった姉小路軍は、1人の将の登場にその士気を大いに取り戻していた。先程まで愚痴を漏らし、もう桜洞に帰りたいと思っていた面々は、打って変わって闘志を滾らせている。

 

 

「泣き言はあの世でゆっくりと語り合おうではないか!」

 

『応!』

 

   『応!』

 

 姉小路軍の面々は互いに鼓舞し合い、目の前に展開しつつある遠藤軍を睨みつけていた。

 

 その鶴翼の陣の中央、両翼の起点となる箇所に、不思議な格好をした将兵が鎮座している。その将は体の半分近くを白い布で巻かれ、4名の兵が肩で担ぐ板の上にどっかりと座っている状態であった。

 

 

(へへっ、道雪になった気分だぜ)

 

 

 担がれた板の上に座り、少し高い位置から闇夜に展開する全軍を見渡したその将兵は、大きく息を吸い込むと、力いっぱいの大声で叫んだ。

 

 

『やられたらやり返す!』

 

 

『倍返しだ! いっくぞぉぉぉぉぉぉ!』

 

 

≪応!≫

   ≪応!≫

  

 姉小路軍の雄叫びが、漆黒の闇夜に包まれた狭い大原に木霊する。

 

 

『進めやぁぁぁぁ!』

 

≪応!≫

 

 板の上の将兵が号令をかけると、姉小路軍はドっと動き出した。

 

 

 この夜もまた、月明かりが眩しい程に輝き、闇夜に敵勢を照らし出している。その様は見る側に異様な緊迫をもたらし、両軍はその緊迫を抱えたまま血で血を洗う乱戦に突入した。

 

 

「おいおい、何してんの! ほら、行って行って!」

 

 将は板の上から、担いでいる兵に進むように促した。

 

 

 言われた兵は目を丸くして驚く。

 

「え!? 金田様!? このまま行くのですか!?」

 

 

「そうだよ! とにかく前線に行け! ここが勝負所だ!」

 

 板を担ぐ兵達は互いの顔を見合わせて悩んでいる。

 当然の事ながら、板を担いでいる所を敵に狙われては、抵抗出来ない自分達は死を待つのみであるからだ。

 

(よーし、ここは雷神道雪の台詞を頂くしかねーな!)

 

 

 金田は少しだけニヤリと笑うと、大きく息を吸い込んだ。

 

「ん~~~! よし! お前らさ、命が危ないと思ったら俺を捨てて逃げろ! それで構わない、だから今すぐ前線に行け!!」

 

 

 姉小路軍の兵にしてみれば、この金田という将は正に英雄である。

 

 先日、郡上からの撤退の折り、殿(しんがり)を務めた矢島隊が突破された姉小路軍は、敵の追撃を真面に受けながらの撤退戦となった。その撤退戦の最後尾を受け持ったこの長身の将兵は、満身創痍の状況ながらも味方を鼓舞し、助け、1人で敵に向っては敵を討ち、走って追いついてくる。

 そしてまた鼓舞し、助け、1人で戻って敵を討ち、走って追いついてくるという、正に一騎当千の働きを見せた。味方の命を多く救った英雄に、「自分を捨てて逃げろ」などと言われて、「はいそうですか」と逃げる訳にはいかない。

 

 

「そこまで申されるのであれば、我等は金田様の手足となりましょうぞ」

 

 先頭を担ぐ兵の声に、周りの者も頷いた。

 

 金田は、板を担ぐ4人の兵と、その周りを守る5人の兵に囲まれながら前線に飛び出して行く。

 

(きたきたきたー! 立花道雪ぽいっ! 俺かっけ~~~!)

 

 

 この状況に、金田は抑えきれない興奮を覚えた。

 

 既に押しまくっていた姉小路軍は、とんでもない状態で前線に飛び出してきた金田に仰天した。遠藤軍も同じく仰天したのだが、問題はその仰天が産む精神的影響である。

 

 

 姉小路軍は「金田様を討たれてなるものか」と必死に守りながら戦い。

 

 遠藤軍は「金田を討つ好機!」と捉えて必死に攻める兵も少数いたが、大半の兵はそうまでして戦う金田の気迫と、それを取り巻く姉小路軍に圧倒されて戦意を消失させていった。

 

 

 遠藤軍のこの日4度目の襲撃は、満身創痍の状況で無理矢理に前線復帰を果たした金田健二郎によって大いに潰走。その戦闘は30分に満たない時間で終了し、それほど多くの死者を出す事も無く終結した。

 

 

 

■1567年 8月6日未明 飛騨国

   大原村西側 山中

 

 

「あっ、綱義くん! 無事だったんだ~! 良かった♪」

 

 綱義率いる捜索隊は、一兵の損失も出すことなく戦闘を勝利で終えると、直に松明を追って山中を進んだ。途中で見失うも、再発見して追いかけ、夜が白み始める頃、ついにこの場所までたどり着いた。

 

 

 出迎えてくれた瑠依に小さく頷くと、綱義はその視線を少し先にいる集団に向けた。

 

 

(伊藤様!?)

 

 

 その集団の中央には優理が座っており。

 

 優理に背を預けるようにして1人の男が倒れている。

 

 

(十五は何をしておったのだ!)

 

 綱義は駆け寄った。集団のいる地点まで綱義が駆け寄ると、そこには綱忠の姿もあった。

 

 

 そして、倒れている男が伊藤である事を確認した。

 

(なんという事だ……)

 

 

 伊藤の身体は既に甲冑を取り外されて軽装となっているが、目に入る範囲を見ただけでも複数の矢傷を受けているのであろう事が分かる。

 

「あ、兄上!」

 

 綱忠が無意識のうちに綱義に声をかけたが、その声に対する返事は言葉ではなく、拳であった。

 

 

<ガッ>

 

 

 <ドサッ>

 

 

綱義に殴られた綱忠は、大きくもんどりうって背中から倒れ込んだ。

 

 

「やめてっ! 今はそうゆう事やめて……!」

 

 綱義を静止したのは優理であったが、その声は既に涙で震えている。

 

 誰にぶつけたら良いのか分からない悔しさで、自分の体が震えだした綱義に、松明を持って走っていた女性が声をかけた。

 

 

「手当は済んでおります」

 

 既に止血が施され、このまま息絶えるような事にはならなそうな雰囲気であった。

 

 

 その時、倒れていた伊藤が言葉を発した。

 

 

「じゅうさん……よく……来てくれたね、ありがとう」

 

 弱弱しくも、慈愛に満ちた声音であった。

 

 

「なんのこれしき! 造作もない事でございます!」

 

 その伊藤の姿に、綱義は自然と涙が込み上げてきた。

 

 

 伊藤は弱弱しく言葉を続けた。

 

「じゅうさん、だめだぞ、しっかり、じゅうごを抱きしめてやらないと……あいつ、ほんと凄かったんだから」

 

 まだ明るくなり始めたばかりの空では、はっきりと見て取る事は出来ないが、伊藤の顔色は青白く感じられた。

 

 

「ハッ、お役に立てたのであれば」

 

 綱義はゆっくりと立ち上がり、まだ倒れ込んで動かない綱忠の元へ歩み寄った。

 

 

 綱義が来た事に気付いた綱忠は、すっと起き上がると綱義に向って平伏し、大声で喚きたてた。

 

「俺の非力さはよう分かっておる! 俺が非力であるが故に、伊藤様にあのようなお怪我を負わせておる、俺は非力だ! 兄上! 俺はどうしたらよい!? 教えてくれ! どうしたら……」

 

 その声は、完全に涙に震えており、魂を吐き出すよう叫びだった。地に置かれた両の拳は硬く握られ、地に伏せられた顔の両脇で小刻みに震えている。

 

 

「十五、うぬが守りきれぬような厳しい戦であったならば、この十三では尚更、守れなかったぞ」

 

 綱義は地にうずくまる弟の肩に手を乗せると、その両目から涙を流していた。

 

「ようやった! ようやったぞ! それにな、よくぞ、よくぞ生きて戻った! 十五、ようやった!」

 

 

「兄上……あにうえぇ」

 

 

 兄に縋り付いて子供の様に泣きじゃくる綱忠の姿は、その歳に相応とでも表現すべきであろうか。ここ数日、ずっと背伸びをし続け、歴戦の勇士達からも一目置かれる存在としての振舞いを続けて来た。

 

 

 そして今、生死をかけた緊張の糸が緩んだのであろう。

 

 

「まったくぅ~、まだピンチ継続中ですよ?」

 

 瑠依の言葉を理解できた人間は伊藤と優理だけであったが、そのおどけた雰囲気と瑠依独特の口調は、その場にいた全員の気持ちを温かい物に変換していく。

 

 綱義は涙を拭くと、松明を持って逃げていた女性に向き合った。その女性と、その後ろに待機している3名の女性は、皆同様に襷(たすき)を掛け動きやすいよう身なりを整えており、女だてらに脚絆を履いては、その手に薙刀が握られている。

 

 

「事の子細を伺いたいが、追手の事を考えれば直に大原へ戻らねばならぬ、今しばらく共に参れたし」

 

 そんな格好をしているのであるから、それなりの心得はあるのだろうと考えた綱義は、伊藤の護衛を継続して頼むことにした。

 

 先程、松明で敵を引き付け、その隙に綱忠が弓を射ったのかもしれない。

 

 

(この女達は囮をこなすのか)

 

 綱義にしてみれば、伊藤を搬送するのに敵の目を引き付けてくれる存在があれば嬉しい、という程度ではある。綱義に声をかけられた女性は優しく微笑んだが、その女性の後ろにいる別の女が露骨に嫌な顔を見せると、一歩前に出ようとした。

 

 

「静、おやめなさい」

 

 それを制した女性は、美しい口元から涼やかな声で言葉を発した。

 

「当然で御座います、わたくし共は伊藤様に助けられてここまで参りました」

 

 そう言って優理が抱きかかえる伊藤の横にしゃがみこむと、その手にそっと触れた。

 

「わたくしの命、伊藤様の物で御座います」

 

 短く言い終わると立ち上がり、今度は自身の後ろに待機していた3名の女性に目線を移した。

 

「この者達はわたくしが幼少の頃より付き従ってくれている者、わたくし同様、その身を以ってでも伊藤様に尽くす事を厭わぬ者達で御座います」

 

 

(やはり、喜んで囮になるという事か、それは助かる)

 

 どうしようもなく敵に接近された場合、やむを得ずではあるが女を囮にする事が出来るというのは武器になる。

 

 敵が女に群がってくれていれば時間が稼げるのだ。とは言え、優理や瑠依を囮にする訳にはいかないので、この4名の囮は綱義にとって頼みの綱となりえる。

 

 

「有難い、名を聞こう」

 

 綱義のその言葉に、静と呼ばれた女が収まりきらぬ様子で怒気を爆発させた。

 

 

「無礼者! 控えろ!」

 

  「静! おやめなさい!」

 

 静の怒気に一瞬怯んだ綱義は、目を丸くして驚いていた。

 

 

 静を3歩下がらせた女性は「申し訳御座りませぬ」と軽く一礼すると、優しい目で綱義にその名を告げた。

 

 

「わたくしは香(こう)と申します、出自は美濃北方、父は安藤守就で御座います」

 

 

「んなっ!???」

 

 綱義は、丸くしていた目を更に見開いて驚いた。

 

 

「昨日までは遠藤慶隆の妻、離縁となり行く宛の無い所を伊藤様に拾うて頂き、足手まといにも関わらず郡上八幡からの落ち延びをお供させて頂いております、それ故に今は伊藤様の侍女と言ったところでしょうか」

 

 香は笑顔で締めくくる。

 

 

(こ、これは無理じゃ……囮になど出来るものか)

 

 

「香様、御無礼をお許しください!」

 

 綱義は香に深々と頭を下げると、【女を囮にする】という作戦をその思考回路から消去した。

 

 

「わたくしの我儘で、好んでこの場におるのです、頭を下げねばならぬのはわたくし共の方なのですよ」

 

 2人はこの会話を終えると、直に大原に向けた下山についての会話を始めた。少し高台に出る場所まで瑠依が駆け、大原までの距離と方角を測定する。短い休息ではあったが、捜索隊の面々もいくらか力を取り戻していた。

 

 

「直に発ちましょう、夜が明ける前に敵との距離を離しておきたい」

 

 綱義の提案に、香はゆっくりと頷いた。

 

「お任せ致します、わたくし共はただ、伊藤様をお守りするだけで御座ます」

 

 

「綱義くん測れたよっ! もう行く!?」

 

 高台から駆けおりて来た瑠依の右手にある道具は、既に大原を指し示す光の糸を照らし出していた。

 

 

 空は既に白くなり、東の空から朝日が昇るのを今か今かと待ち構えているような時間になっている。

 

 

「瑠依殿、その光の糸は明るくなっても見えるのですか!?」

 

 

「ん~、ちょっと見づらいけどね、日照中モードに切り替えれば結構ちゃんと見えるよ♪」

 

 瑠依は、その道具に興味深々な捜索隊の面々に囲まれながら、その道具の実用性について確信を示した。

 

 

「では、昨夜同様、瑠依殿に先頭をお任せ致しても?」

 

 

「おっけ~♪ まっかせなさいっ♪」

 

 2人のやり取りを不思議そうに眺めていた綱忠は、その会話が終わるのを待ってから兄に一つの提案を持ちかけた。

 

 

「敵も動き出すでしょう、所々にカマリを置きつつ下山致します」

 

 カマリとは、撤退戦時にその場に残り、敵が追ってきた場合にその場で少々戦い、時間を稼いでから逃げる役割の事を指す。殿(しんがり)と比べると意味合いはやや軽く、役割としての責任は殿ほど重い物ではない。

 

 

 1600年、関ヶ原にて島津軍が見せた「捨て奸(がまり)」とは、この戦法を更に苛烈に、残った部隊は全滅するまで踏みとどまるという、正に捨石にする作戦である。

 

 

 一般に言われるカマリには、そこまで強い意味はない。

 

 

 姉小路から貰い受けた新兵30騎は、綱忠と共にここまで12回のカマリを実行し、何度も敵を追い散らしながらも徐々に力尽き、その数を11名に減らしていた。

 

 

「綱忠、すまぬな、今少し頼むぞ!」

 

 

「応!」

 

 

 兄である綱義は、腕に覚えがあるものの、どうも年下のこの弟には及ばないと思っている。弟である綱忠にその自覚は無く、兄のほうが数段上だと思い込んでいるのだが、それは綱義が上手くそう思わせているに過ぎない。

 

 

(伊藤様の共をおぬしがやってくれて助かった、俺であればもうとっくに死んでいるだろうな)

 

 

 綱義は伊藤を搬送するための人員を捜索隊に割り当てると、伊藤の元に駆け寄った。

 

 

「伊藤様、参ります、香様、伊藤様のお側を宜しくお頼み申し上げます」

 

 

 香は小さく、無言で頷いた。

 

 

 その2人に目配せされるように、伊藤を抱えた優理が声をかける。

 

「伊藤さん、出発だって! もう少しだから頑張ろうね!」

 

 伊藤を上から覗き込むように声をかけた優理は、伊藤の手を握って起きるように促す。

 

 

 伊藤を乗せるための板が運ばれて来た。

 

「伊藤さん、これに乗ろう」

 

 優理は優しく伊藤の身体を起き上がらせようとした。

 

 

 その時、伊藤が口を開くと辛そうな声で言葉を発した。

 

 

「十三……香ちゃん、優理……悪いんだけど……さ、ちょっと我儘、言って……いいか、な……

 

 香と綱義は顔を見合わせるようにしながら、伊藤の言葉が続くのを待った。

 

 

「何? どこか痛い?」

 

 優理は心配そうに伊藤の顔を覗き込む。

 

 

「痛いかって、聞かれたら、さ、そりゃあ…ちこち痛い、んだけどね、違くて……」

 

 朝日が昇り始めた。木々の合間から差し込む朝日が伊藤と優理を温かく包んだ。

 

「あのね、ほんと、申し訳……いんだけど」

 

 伊藤は朝日の温かさを体に浴びながら、その目を閉じる。自身の左手に添えられていた優理の手を、伊藤の手が優しく包んだ。

 

「ごめん……ちょっとでいいん、だ、ちょっとだけ」

 

 伊藤は目を開く事なく、閉じられた両目から一筋の涙を流した。

 

「もう少しだけ……このままで、いさせてくれない……かな」

 

 

 程なくして、その伊藤の頬に優理の涙が零れ落ちる。

 

「……バカッ」

 

 

 優理は伊藤を抱え込むように下を向き、そのまま肩を震わせて泣き始めた。

 

 

 

「イテテ、馬鹿は、優理だ……ろ? 泣き過ぎだってば」

 

 

 

 

「……うるさい……バカッ……」

 

 

 

 

 香と綱義は互いに頷き合うと、直にその場を離れた。綱義は直にでも下山を開始したい思いだが、伊藤があの状態では無理矢理にと言う訳にもいかない。

 

 今出来る事をやる、それが最善であると思った。

 

「綱忠率いる大原の隊、伊藤様の搬送に関わらない捜索隊の者は直に発て!大原隊は下山途中でカマリを置くのだ!捜索隊は瑠依殿をお守りしろ!」

 

 

「応!」

 

 

「応! 兄上、先に参ります!」

 

 大原兄弟は互いにしっかりと頷き合った。

 

「応! 頼むぞ!」

 

 

 瑠依もその顔に緊張の色を見せながら、しっかりとした足取りで歩き始める。

 

「んじゃ! 先に行ってルートを確保してくるねっ!」

 

 その場には、綱義、香、3名の侍女、伊藤を搬送する為の4名の捜索隊。そして、伊藤と優理だけが残った。

 

 

 綱義は、斜面を下って行く瑠依の小さな体に、辛くとも耐え抜こうとする頑強な意思を感じている。

 

(瑠依殿は大したお人だ、強い、負けてはおれんな)

 

 

 香は3名の侍女を集めていた。

 

「よいな、無理は致すな、直に戻るのだ」

 

『ハッ!』

 

 香の指示で、香の侍女3名が周囲に展開、敵の接近をいち早く察知する為の物見とした。

 

 

 ひと時、伊藤が安らぐ時間を少しだけでも作れればいい。

 

 後は全力で山を下りるのだ。

 

 

 

「ねぇ、伊藤さん」

 

 

 優理は静かに声をかける。

 

 

「私ね、伊藤さんの事、大好きダヨ」

 

 

 伊藤は特に反応を示さなかった。

 

 

「って、知ってるか、もうバレバレだよね、ゴメン♪」

 

 

 木々から差し込む朝日は、優しく温かく2人を包み込んでいる。

 

 

「ねぇ、伊藤さん、聞いてる?」

 

 

 

 心地よい風が、木々の間を吹き抜けて行く。

 

 

 

 

「伊藤……さん? ねぇ、聞いてる……?」

 

 

 

 

 優理の言葉だけが。

 虚しく風に流されて行った。

 



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最終話 決着と始り

■1567年 8月15日 美濃国

   稲葉山城 織田軍

 

 

 

 この日、ついに美濃斉藤家が滅亡する。

 

 木下藤吉郎の手勢が稲葉山城の西側、百曲口という険しい斜面を一気に駆け上がると電撃的な奇襲攻撃を仕掛けた。その対応に追われた斉藤軍の乱れを付く形で、柴田勝家が大手門に攻撃を仕掛けこれを突破。

 

 如何に頑強な堅城と言えど、一旦城内に侵入されてはそうそう撃退しきれる物ではない。当主斉藤龍興は、僅かな近習を伴って脱出し逃亡、ここに斉藤家は滅亡を迎えたのである。

 

 

 主を失った稲葉山城内は地獄と見まがう状況となった。

 

 

 斎藤の敗残兵は城内に取り残された侍女達を襲い始め、金品財宝や女を掻っ攫って城から抜け出そうと躍起になった。

 

 その無法地帯に雪崩れ込んだ織田軍は、斉藤の敗残兵をなぎ倒しながら、欲望の赴くままに女を犯し、金品を奪った。

 

 

 織田軍による包囲開始から僅か14日。

 

 難攻不落の堅城も、それを守る【人】が整っていなければ役に立たない物であると、世間に証明するような戦となった。

 

 

 

 夕刻、手に入れた稲葉山城に入った信長は、凄惨を極める敵将の処断についての取決めをある程度をこなすと、残りを柴田勝家に任せて席を立った。

 

 信長の目は、既に北勢に向いている。

 

 夕日を浴びる稲葉山の頂上付近に立ち、遥か南西の地を見つめていた。

 

 

(早う伊勢を手にせねばならぬ)

 

 

 信長の構想では、美濃攻略よりも前に済ませておくべき事柄であった。

 

 豊富な人、利便性の高い港、平氏発祥の地という思い入れ、それらはどれも信長には魅力的な物ばかりである。

 

 

(京か……義輝公よ)

 

 義輝というのは、2年前に京都で殺害された室町幕府の将軍、足利義輝を指す。信長は一度、僅かな供回りを連れて上洛し、当時将軍であった義輝に謁見した事があるのだ。

 

 西の空に沈もうとする夕日は、信長の目には京都に沈み込むようにさえ見えた。

 

 

「思うておったよりも遠い、なかなかに行けぬわ」

 

 信長は吐き捨てるように小さく独り言を漏らすと、その手にあった2通の書状を強く握りしめた。

 

 

(残るは伊勢だけよ)

 

 

 少し離れた位置で待機していた近習に声をかける。

 

「行くぞ」

 

 

「ハッ」

 

 

 この時、近習は信長の発した「行くぞ」の意味を察しきれていなかった。

 

 それは、本陣に戻ると言う意味ではなく。このまま伊勢へ入り、北伊勢地方を平らげに行くとの意味であった。

 

 

 信長が本陣に戻ると、既に敵将の処断は粗方済んでいた。

 

 

 凄惨な血の海に首の無い遺体が山積みとなっているのだが、それを信長が目にする事は無い。

 

 

 本陣に入ると、上座に回込んで腰を下ろす。それを合図とするように、一度は立ち上がり一礼をした家臣達も腰を下ろした。

 

 

「猿、でかした」

 

 

「ハッ!」

 

 

 真っ先に褒められたのは木下藤吉郎であった。

 

(積年の努力が実ったわい、勲功第一は俺だな、やったぞ!)

 

 木下は飛び上がって喜びたい感情を必死で堪えた。

 

 

「権六、大義」

 

 

「ハハッ!」

 

 次に声をかけられたのは柴田勝家であった。

 

(遅れを取らなかっただけ良しとするか)

 

 7年前の遅参を未だに気にしていた勝家は、これでその後悔も拭える気がしている。

 

 

 次に褒められるのは誰か、家臣達が期待を胸に待っていると、信長は唐突に机を強く叩いた。

 

 

≪ドンッ≫

 

 机を叩いたその手には、2通の書状が握られている。家臣達は静かに息を飲み、信長が口を開くのを待った。

 

 

「北勢へ」

 

 信長の両目から鋭い眼光が発せられた。

 

 

 信長が手にしている2通の書状、一方は郡上を攻略した稲葉良通からの物、もう一方は甲斐の武田信玄からの書状である。

 

 

 織田信長は桶狭間で今川義元を討つ前から、武田信玄への貢物を欠かさず、常に低姿勢でその機嫌を取ってきた。

 

 3年ほど前には、自分の姪を養女とし、武田信玄の4男に嫁がせる事で友好関係の基盤とする程であったが、それはいわば人質として差し出した事になる。

 

 その人質とした姪は目出度く男児を出産したものの、産後の肥立ちが悪く他界してしまった為、信長は次なる友好関係の基盤を模索し続けていた。

 

 最初に機嫌を取り始めてから実に10年近く。そのひたすらの低姿勢は、ついに一つの結果をもたらした。

 

 武田信玄の実の娘【松姫】を、信長の長男【奇妙丸】の正室として迎え入れる交渉を成立させたのだ。まだ幼少である2人の婚儀は、2人がもう少し大人になってからという条件と、松姫と交換で信長の実子を人質に差し出すという条件は付いたものの。

 

 人質を指し出す立場であるにも関わらず、積み重ね続けた信用が、逆に娘を貰い受けるという離れ業をやってのけるに至ったのだ。

 

 そして、この場にあるその書状が、ついに実を結んだ証である。書状を見せられた家臣達は、揃って仰天した。まさか、武田信玄が実の娘を寄こすような話になるとは思ってもみなかったのである。

 

 これには、流石の丹羽長秀も驚愕の想いであった。

 

「殿の思慮遠謀には……ただただ頭が下がるばかりで御座います」

 

 

 織田家の領国である尾張と、武田家の領国である甲斐・信濃は国境を接していない。しかし美濃を攻略した事で信濃と国境を接する事になり、信長が長い年月と財力と投じてきた対武田外交が大きな防波堤となって織田を守る事になった。

 

 

「一益、先駆けよ」

 

 

「ハッ!」

 

 

 稲葉山城を落としたばかりだと言うのに、織田軍は北伊勢へ向けての進軍を開始しようとしている。兵が、馬が、将が、慌ただしく動き回る中、信長は丹羽長秀を呼び付けると一通の書状を手渡した。

 

 

 それは先程、武田信玄からの書状と合わせて握られていた、稲葉良通からの書状である。

 

 

 書状には、遠藤胤俊が敗走の上、郡上北西木越城にて切腹した事、稲葉の軍勢が郡上全体を抑える事に成功した事が実にしっかりと要点を纏めて記されている。

 

 更に、信長や丹羽長秀の心中を察してか、大原の事についても記されていた。

 

 

 石島軍は郡上よりの敗走の後、大原に戻って軍を立て直すと、大原に寄せた遠藤軍を打ち破っては、逆に郡上まで再度進軍して来たと記されており。

 

 その見事な采配を振るったのが金田健二郎という名の将であると明記されていた。

 

 

(金田健二郎め、やりおる)

 

 丹羽長秀は、小さくニヤケ顔を浮かべる。

 

 

 更に書状には、数枚に渡って石島軍の詳細が記されていた。

 

 郡上では、敗走中の姉小路軍を纏めて山麓に伏せ、稲葉良通の郡上侵攻軍と歩調を合わせるように動いては、敵方の鷲見弥平治という賊を討ち取った将がいると記されており。

 

 その石島の将を「剛勇並ぶもの無し」と称賛すると共に、名を須藤剛左衛門と記してあった。

 

 

 炎上した郡上八幡城から遠藤慶隆を救いだし、囲む敵中のど真ん中を突破して城を出た石島の将の事も記載されていた。

 

 その将は遠藤慶隆に姉小路軍の護衛を付けると、南下させて郡上を脱出させ、自身は囮となるように僅かな手勢を連れて山間部を通り、途中で何度と無く激戦を繰り広げながらも大原に帰還したと記されており。

 

 その将こそが、此度の石島の全てを差配した人物であり、名を伊藤修一郎と言うが、明日をも知れぬ容態であると記されていた。伊藤修一郎は今後必ず役に立つので、今直ぐにでも名医に見させるべきであり、飛騨のような田舎で死なせるべきではないと、稲葉の個人的意見で書状は締めくくられている。

 

 

(伊藤修一郎か……殿はどうお考えなのか)

 

 その件について丹羽長秀が伺いを立てようとすると、先に信長の方が口を開いた。

 

 

「よい」

 

 それだけを言うと、丹羽長秀の手から奪うように書状を取り上げた。

 

 

「ハッ」

 

(既に手を打たれたのか、いやはや分からぬものよ)

 

 丹羽長秀は、主人の石島に対する思い入れを理解できずにいた。

 

 

 

 

 

■1567年 8月15日夜 飛騨国

   大原村 石島屋敷

 

 

 

「何故ですか! 同行させて下さい!」

 

 優理が涙目になって懇願した。俺達は今、重苦しい雰囲気の中で一つの交渉に挑んでいる。

 

 

「女! 何度無理だと申せば良いのだ! これ以上申すのであれば斬り捨てるぞ!」

 

 こちらがあまりにも食い下がるもので、ついに前田さんがブチ切れた。

 

 

 一同が急に殺気立つ。

 

 この場には、俺と金田さん、そして優理と美紀さんがいる。

 

 交渉相手は織田信長さんの家来で、前田利家さんというお侍さん。いかにも強そうな雰囲気の人だ。

 

 前田さんは当然1人ではなく、そのご家来衆が数名同行している。その前田さんの怒気に晒された優理は、ついに泣き崩れてしまった。

 

 金田さんはずっと目を閉じたままで無言を貫いている。

 

(金田さんも援護してくれればいいのに!)

 

 泣き崩れた優理に変わって、俺が前田さんに言葉をかけた。

 

 

「伊藤さんは当家にとって最も大切な重臣です、1人の同行も許されないようでは納得が行きません!」

 

 立場上、俺は石島の当主であるわけなので、前田さんも「斬り捨てる」などとは言えないだろう。

 

 

 前田さんは困り果てた表情で、何やら腹を括った様子だ。

 

「なれば、この前田利家、この場にて腹を切らせて頂くより他にない!」

 

 前田さんのご家来衆がざわつく。

 

 

(困ったなぁ)

 

 

 前田さんは織田信長さんの使者としてこの屋敷を訪れると、同盟国である武田さんの領国にいる名医【永田徳本(ながたとくほん)】さんの所へ伊藤さんを連れて行くと言い出した。

 

 しかも、その旅路に同行は認められず、織田家から世話役を出すので伊藤さんだけを指し出せと言うのだ。

 

 

 優理の肩を抱く美紀さんが、前田さんに言葉をかけた。

 

「前田様、せめて同行できない理由を教えては頂けぬのですか?」

 

 これも、もう何度も聞いている事だが、明確な答えは聞けていない。

 

 

 前田さんは心底嫌そうな顔で答えた。

 

「まっこと頑固よの、俺も命懸けなのだ、わかってくれ」

 

 そう言いながらも、流石に疲れ切った様子で、ついに同行出来ない理由を少し話してくれた。

 

「この俺もよう知らんのだが、どうも殿が武田信玄殿に医師の診察を受けさせたいと頼んだ様なのだ。だがな、武田の領国に入る以上、妙に疑われるような事があってはならん、絶対にならんのだ!」

 

 

 その言葉を聞いた金田さんが、突然床に両手を付くと、前田さんに深々と頭を下げた。

 

「前田様、お時間を取らせて申し訳ありませんでした」

 

 下げた頭を戻し、前田さんをしっかりと見据えて言葉を続ける。

 

 

「伊藤殿の体力も限りがございます故、急がねばならぬのは当方も十分承知しております。上総介様のご厚意、謹んで受け取らせて頂きますので、どうか伊藤殿を宜しくお願い致します」

 

 

「金田さん!? なんで……?」

 

 涙声の優理が問いかけるが、金田さんは見向きもせず、俺に向って【何も言うな】とでも言いたそうな顔で、無言の圧力をかけている。

 

(なんでだよ……同行くらいいいじゃないか)

 

 

「石島殿、宜しいですな、これは織田家当主、織田信長様からの命令なのです」

 

 前田さんは言いながら立ち上がると、ご家来衆に伊藤さんを運び出す様に指示を出し、こちらに向って言葉を続けた。

 

 

「お伺いを立てに来たわけでも、お願いに上がったわけでもない、命令を伝えに来たのだ、勘違いをされては困る」

 

 

 ちょっと冷たい言い方で俺を突き放すと、懐から一枚の紙を取り出した。

 

「織田上総介からの命である、心して聞け!」

 

 紙を両手に持って広げ、そのまま俺達の上座に移動した。

 

 

「ハッ」

 

 金田さんは両手を付いて軽く頭を下げながら、前田さんの言葉を待っている。

 

 当然、俺にもそうしろと目で訴えてきた。

 

 

(納得が行かない事が多すぎる……くそう)

 

 

 とは言え、これ以上文句を言ってもどうしようもなさそうだ。

 

 俺は仕方なく、金田さんと同じ体制で前田さんの言葉を待った。そんな俺達を確認すると、前田さんはその紙に書かれた事を読み上げ始めた。

 

 

「此度の働き、真に見事成、石島洋太郎に郡上八幡城並びに郡上一帯を知行地として与える」

 

「ハッ」

 

 俺は返事をしたものの、悔しさと遣る瀬無さが心を満たしていた。予定通り郡上を貰えるようだが、ここまでに払った犠牲は大きすぎる。

 

 

「金田健二郎召し抱えの義、知行一千貫、即刻出仕致すべし!」

 

「ハッ!」

 

 

(こっちも予定通りか……金田さん、織田信長の家来になっちゃうのかよ)

 

 なんだか見捨てられるような、そんな悲しい気持ちになってきた。

 

 

「尚、須藤剛左衛門は以後、稲葉良道に召し抱えさせる」

 

 

「ちょ!?」

 

 俺はたまらず声を上げてしまった。

 

 

(みんなが……バラバラになっちゃう)

 

 

 不満そうな俺に、前田さんは厳しい表情で釘を刺した。

 

 

「石島殿、先程も申したがこれは命令である、刃向うは謀反である、そう心得られよ」

 

 

(……くっそ、脅しかよ)

 

 

 前田さんはそのまま紙を折り畳むと、俺に手渡した。

 

 

 それを受け取った俺の手は、緊張か、悔しさか、何故か少しだけ震えていた。そんな俺の事など気に留める風もなく、前田さんは言葉を続ける。

 

 

「郡上八幡へはなるべく早く入られよ、我等は3日後に稲葉山を発つ、金田殿はそれまでに稲葉山へ参られよ」

 

 金田さんが小さく頷いた時、前田さんのご家来衆が担架のような物の上に伊藤さんを乗せて来た。それに気付いた前田さんは、この場を去るべく言葉を締めくくる。

 

 

「郡上の安定は美濃の安定に欠かせぬ、月内には領内を安定させるようにな、さもなければその首が飛ぶやもしれんぞ」

 

 

 言い終わるや否や、俺達の事など見向きもせずに、ご家来衆と共に屋敷を出ていく。

 

 

(伊藤さん……)

 

 

 残ったのは、すすり泣く優理と、それを慰めながらも涙目になっている美紀さん、廊下を走って来て伊藤さんを見送ると、その場でわーわー大泣きしている瑠依ちゃん、それを追ってきた唯ちゃん。

 

 唯ちゃんも、瑠依ちゃんを慰めながら泣いていた。

 

 

 俺は未だに納得が出来ていない。

 

 

「金田さん! 何で急に了承しちゃったんですか!」

 

 

 伊藤さんを連れて行かれただけじゃない、俺は、金田さんとつーくんまで失う事になるのだ。前田さんの言う事を素直に聞いてしまった金田さんが、正直恨めしいとさえ思う。

 

 

 金田さんの傷はだいぶ良くなってきている様子ではあるが、少し辛そうにしながら俺を見据えた。

 

「信長様が武田信玄に頼んでくれてるって話でさ?今の織田家と武田家の関係性を考えれば、頼んでくれてるって事自体がめっちゃめちゃレアなわけよ、超絶スペシャル厚待遇なわけさ」

 

 

 金田さんはそう言って、良くなったばかりの足で立ち上がる。

 

 

「動き出したんだよ、歴史が!」

 

 決意に満ちた瞳で、俺をじっと見据えた。

 

「石島ちゃん、もうヘタレな事言ってらんねーぞ! 郡上の主だからね! 俺も剛左衛門もいない、伊藤先輩もいない!」

 

 

 ゆっくりと俺に近づきながら、言い終わる頃には目の前まで来ていた。そのまま俺の胸倉をしっかりと掴むと、俺をグイっと持ち上げるように引き寄せた。

 

 

「気合入れろ! 泣き言は言うな! 強くなるってのはさ、自分の弱さを認める所から始まるんだぜ!? まだまだ全然だよ石島ちゃん!!!」

 

 丸で喧嘩でもしているかのような声で、怒鳴る様に言われた。

 

 

 その後、金田さんは少しだけ、伊藤さんの事について俺達に言い聞かせるように話してくれた。

 

 

 武田の領国にいる永田徳本さんという名医は、【医聖】と呼ばれる程の本物の名医だそうだ。その永田徳本さんに診察を受けるために、武田家の領内に入る。

 

 武田と織田は一応の同盟関係にあるが、今まではどう考えても織田の方が格下だった。それが今回、稲葉山城を落とした事で武田に追いつこうとしている。追いつく側は達成感に包まれるが、追いつかれる側にしてみれば面白くないはずなのだ。

 

 そんなデリケートな時期に、わざわざ石島家の家来如きの為に、お抱えの名医に診察をお願いして、領内を通りたいと頼んだ事になる。

 

 

「普通ならそんな事絶対にしない!」

 

 そう言い切った金田さんは、これは幸せな事なんだと、女の子達を説き伏せていた。

 

 

 もちろん、そんなデリケートなお相手の領国を通るのに、大人数で行くわけにはいかないだろう。

 

 その上、織田家からしてみれば、俺達は知らない人間という事になる。そんな石島家から同行者を選び、武田の領内で何か粗相でもあろう物なら一大事だ。

 

 

(確かに、同行は無理だっただろうなぁ)

 

 

 金田さんの説明に、俺達は少しずつでも納得していくより他に、心を落ち着かせる術が無かった。

 

 

「殿も急いでご準備をしてください、郡上をしっかり治めないとマヂでヤバイっすよ」

 

 

 金田さんはまるで他人事のように言ってのける。

 

 

「手伝ってくれないんですか?」

 

 いくらなんでも、俺1人で郡上を治めるとか話が意味不明すぎる。

 

 

「んな無茶言うなって、俺だってホントはみ

 

 

 

≪バチッ≫

 

 

 

金 田さんの言葉の途中で、俺の顔面が左方向に派手に吹っ飛んだ。

 

 

「シャキッとしろ!」

 

 美紀さんだった。

 

 

「石島さんがしっかりしてくれないと、私達はどうしたらいいのか分からない! 支えるから……十三くんも十五くんもいる! 一緒に踏ん張ろうよ!!」

 

 

 女神様の両目から次々と零れ落ちる大粒の涙は、ずっと迷いっぱなしだった俺の心に、小さな勇気をくれた。

 

 

「皆様、夕餉の仕度が整いましたよ」

 

 

 静まりかえってしまった俺達の空気を、笑顔の陽が温かくもド派手に切り裂いてゆく。おそらく、俺達のこのやり取りを一部始終見ていたに違いない。

 

 にもかかわらず、その事には一切触れず、ここで空気を換えてしまうべきだと判断したのだろう。美紀さんも金田さんも、その事に気付いたようだった。

 

 

「そいや腹へったな~、奥方様、今宵の夕餉は何ですか!?」

 

 

 金田さんがわざとらしくおどけてみせる。

 

 

「金田さん、伊藤さんがいないからって2人分食べたらダメですよ?」

 

 まだ涙で声が若干震えていたが、美紀さんも涙を拭いながら金田さんに続いた。

 

 

 結局、どうにかこうにか、皆で夕餉を取る事になったのだが、相変わらず空気は重かった。

 

 

 ここ数日、伊藤さんに付きっ切りだった優理はゲッソリとしていて、夕餉に半分も手を付けずに自室に戻ってしまった。優理が自室に戻ったあたりから、今度は瑠依ちゃんがずっと泣いている。ご飯はしっかり口に運んでいるが、ずっと泣きながら食べていた。

 

 

(あと何日こんな状態が続くのかな……)

 

 

 金田さんは、明日の朝には大原を発って稲葉山に向ってしまう。

 

 

(つーくん、一回くらい戻ってきてくれるのかな)

 

 

 それぞれ別の手法で、生きるための経済力を身に着けようって言っていた、最初の話通りになってきた。

 

 

(そう、予定通り、それだけじゃん)

 

 

 伊藤さんは大ピンチだが、後の2人は予定通りなのかもしれない。そう考えたら、特に悲観していても仕方がないと思えてきた。

 

 

「ねぇ」

 

 俺は、誰にでもなく話始めた。

 

「伊藤さんが戻ってきたら『仕事が無い!』って言わせるくらいにしっかり郡上を治めたいと思うんだ」

 

 

 俺の言葉に、金田さんはニヤリと笑った。

 

 美紀さんも満足そうな笑顔で俺を見つめてくれている。

 

 

「よっしゃ! んじゃ殿、今日は徹夜で勉強しますよ! この金田健二郎、時間の許す限りはこの知識を置いて行きますんで!」

 

 

「やった! お願いします!」

 

 

「じゃ、私も付き合おうかな、殿だけに聞かせてたら忘れちゃうかもしれないしね」

 美紀さんはそう言うと、唯ちゃんと目を合わせた。

 

「そう言う話なら私も参加させて下さい♪勉強は得意ですから!」

 唯ちゃんも笑顔でそう言ってくれた。

 

 なんだか少し、気持ちが明るくなってきた。

 

 

「よっしゃ! こうしちゃいらんねーな!」

 

 金田さんは食べ終わった食器をガシャガシャと重ねると、そのまま炊事場の方へ行く。

 

「奥方様! 綱義くん! 綱忠くん! 今夜は寝かしませんぜ!!」

 

 そんな怪しい声をかけると、紙やら筆やら硯やら墨やら、色々と用意するように指示をだしながら、今夜は徹夜で勉強会をやる事を伝えていた。

 

 

「グスン……変態さん! なんで瑠依は呼ばないんですか!」

 

 どうにか泣き止んだ瑠衣ちゃんが金田さんに文句を付けた。

 

 

「え? あ? れ? 瑠依ちゃんも聞く!?……マジ?」

 

 

「ハハハハ♪ 瑠依、お前、金田さんにバカだと思われてるぞ、ハハハハ♪」

 珍しく美紀さんが大笑いしていた。

 

「ふふふっ♪」

 唯ちゃんも笑っている。

 

「んも~! バカじゃないですよ! サポート部はIQテスト150以上じゃないと入れないんですからね!?」

 

俺は少し味噌汁を吹き出しかけた。

 

「ブッ、うお!? それホント!?」

 

当然ながら、金田さんもびっくりしている。

 

「ま、ま、マヂかよ!? 俺より全然賢いじゃねーか!!」

 

 

「嘘で~す! 仕返しです♪」

 

 瑠依ちゃんは小さく舌を出してイタズラな笑みを浮かべた。

 

 

(出た! 久しぶりの天使! 天使の舌ペロ!)

 

 

「なんだよぉぉぉ、びびったじゃねーか」

 

 金田さんは心底安心したような表情を見せている。

 

 

 そんな金田さんを見て、美紀さんがニヤリと笑った。

 

「でもね、各自に公表されていないだけでIQテストは実際に行われていますから、頭の回転が遅いとサポート部に入れないのは事実ですね」

 

 そう言うと、得意顔になっていた瑠依ちゃんを見て言葉を続ける。

 

「事実、この子は執行部の責任者、平岡執行部長の御嬢さんですから、すごく頭がいい人の娘さんなわけですよ♪」

 

 

「へ? マジ? 君たちホント何者なの!!!」

 

 金田さんはもうその場にへたり込んで驚きを受け入れていた。

 

 

(執行部長の御嬢さんか、美紀さんも唯ちゃんも偉い人の御嬢さんだったような……)

 

 

 それから、なんだか1ヶ月くらい前に戻ったような、他愛もない会話が続いた。すごく安心できる時間が訪れ、それはその後の徹夜の講義までずっと続いてくれた。きっと、美紀さんや金田さんがそんな空気を作り続けてくれたんだろう。

 

 

 1ヶ月前と違う事と言えば。

 

 

 伊藤さんがいない事。

 

 つーくんがいない事。

 

 優理が元気ない事。

 

 あと、陽が隣にいる事。

 

 俺の胸に、郡上の主として精一杯働く覚悟が燃え上がっている事だ。

 

 

 

 

 

 翌日、稲葉山に旅立った金田さんと入れ替わるように、郡上へ行っていた香さんが屋敷に戻ってきた。伊藤さんの一件には心底落胆の様子ではあったが、俺の説明に納得してくれた。

 

 

「郡上をお纏めになるのであれば、わたくしも少しはお力になれましょう」

 

 香さんの笑顔は美しく、それ以上にとても頼もしかった。

 

 

 あまりゆっくりもしていられないので、俺達も郡上八幡に出発する事にした。

 

 

「よし、んじゃ行こうか!」

 

『ハッ!』

 

 俺と陽が並んで歩く前後を、荷物を大量に背負った十三くんと十五くんが歩く。その後ろを、泣き腫らした目のお栄ちゃんが歩く。

 

 さらに後ろに香さんと、そのお供の女性が3名続いた。

 

 

 女の子達とお末ちゃんは、郡上が安定してから呼び寄せる事にしている。

 

 

 遠くなっていく屋敷では、まだ皆が手を振ってくれていた。

 

 

 大原の村を通ると、収穫の準備をしている人達が爽やかに手を振ってくれて、俺は沢山の元気をもらった。

 

 

(つーくんにもそのうち会えるだろうし、今は精一杯頑張ろう!)

 

 

「今、須藤様の事を考えておられましたね?」

 

 陽が楽しそうに俺の顔を覗き込む。

 

(いやぁ、改めてお美しい)

 

「あれ? なんで分かったの!」

 

 

「ふふっ♪ 洋太郎様の事はよく見ておりますので♪」

 

 

 新しい土地で、新しいスタートになる。

 

 不安だらけだが、どうにかしてみせようと思う。まさに、第2幕に突入って感じになってきた。

 

 

(てことは、第1幕はここまでって感じ?)

 

 俺達は、夏の日差しと木々の合間を抜けて行く風に見送られ、ついに大原を発つ。

 

「待ってろよ郡上! 俺がキッチリ治めてやるからなー!!」

 

 空に向かって叫んだら、トンビだか鷹だか分からない大きな鳥が返事をしてくれた。それがとても可笑しくて、俺達は笑いながら郡上への道を楽しんだ。

 

 

 

 

第1幕 大原編  ~完~





ご購読有難うございました!


第2部の公開も予定しております。
評価、批評等、頂ければ幸いです。

それでは、しばしお別れです。

誠に有難う御座いました。

         のなもちとちみ


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