真・恋姫†夢想~電光外史戦記~ (ざるそば@きよし)
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00.転生

マイナーな格闘ゲーム作品である「アカツキ電光戦記」とのクロス作品になります。
探り探りでの執筆となると思いますが、よろしくお願いいたします。


紀元二六六X年――チベット・ツァンポ峡谷

 

 零

 

 世界的な秘境と呼ばれるツァンポ峡谷――かつてよりその地の奥深くには幻の地底王国があると信じられ、多くの人間がそこを訪れては古代遺跡の発掘や地底文明発見の調査に乗り出していた。

 しかしそんな幻想は科学技術の進歩と共に徐々に忘れ去られ、現在では軍事的な事情により一般人が立ち入る事が不可能なだけの高山地帯に過ぎない。

 だが、この秘境の地下には一般人はおろか土地を管理している政府の人間ですら全く知らない施設が、とある組織によって密かに建造されている。

 秘密結社ゲゼルシャフト――第二次世界大戦時にナチス・ドイツが生み出した研究機関『アーネンエルベ』と、異端の宗教団体『ペルフェクティ教団』を母体として生まれた秘密武装組織である。

 武力による世界人口の調節と全人類の霊的救済を目的とする彼らは大戦当時からこのチベット高地に根を張り、地底に眠ると言われた古代アガルタ文明の遺跡を調査していたが、戦後は本国から独立。峡谷地下に巨大な秘密基地を建造し、さらに大規模な発掘探索を続けていた。

 約半世紀にも及ぶ発掘作業と研究調査の末、ついに彼らは古代アガルタ文明の遺産の一部を手に入れることに成功した。

 それが彼らの持つ秘密兵器『電光機関』である。

 一見小さな車輪にしか見えないそれは、装着した人間の体内に存在するATP(アデノシン三リン酸)をエネルギー源として超高効率の発電を行い、使用者に超人的な身体能力と電気を操る術を与えるだけでなく、電磁波によってレーダーを初めとした近代兵器の破壊・誤作動を誘発し、更に敵の装甲を無力化する能力さえも秘めていた。

 彼らはこの力を兵器に転用し、長年の悲願であった全人類の霊的救済と人口調節の為の世界戦争をいよいよ実行に移そうとしていた。

 だがしかし、その野望はたった一人の裏切り者によって、脆くも崩れ去る結果となった……

 

 壱

 

 ツァンポ峡谷地下――ゲゼルシャフト秘密基地/動力室

 

 その部屋は巨大な機械によって動かされていた。

 唸り声にも聞こえる重低音を響かせながらゆっくりと稼働するそれは、部屋中に張り巡らされたパイプと直結しており、そこから絶え間なく流し込まれる液体状の燃料によって実に効率的に発電を行っている。

 機械――超大型の電光機関によって生み出された莫大な電力は、毛細血管の如く基地中に張り巡らされた送電線を通じて各施設に送り込まれ、武装生産施設や研究施設といった各設備へと供給されていく。

 まさにここは基地の心臓部であると同時に、二人の男の運命を左右する決戦の地でもあった。

「グハァッ!……ハァッ…ハァッ…ハァッ……」

 一人の男が崩れるように膝をついた。苦しげに喘ぐその口からは鮮血が溢れ、唾液に混じって床や己の軍服を汚していく。

 男は手に持った刀を杖代わりに立ち上がろうとするが、途中でその力すら失ってしまったのか、そのまま自身の血と唾液で汚れた床へと倒れこんだ。

「フン、無様だな。ムラクモ」

 黒い軍服を着たもう一人の男は、自身がムラクモと呼んだ倒れた男に向かってゆっくりと近づいていく。その手には古い型の自動拳銃が握られていた。

「貴様の複製體(クローン)はここに来る前にすべて始末しておいた。転生の器はもう無い。大人しく死ね」

「それはどうかな……アドラー、今までの戦闘でお前もかなり“消耗”したはず。貴様ももはや生きてはいられまい……」

 ムラクモがそう告げた直後、アドラーと呼ばれた黒い軍服の男は突然、強烈な脱力感を全身に感じた。

 持っていた銃を取り落とし膝から崩れ落ちると、先ほどのムラクモと同じように口から大量の血を吐き出したのだ。

「バカな……この俺が、これほどまで“消耗”していたとは……」

 夥しい量の血を吐き出し、みるみるうちに顔を白くするアドラー。

 完全無欠と思われた電光機関の欠点――それは使用者自身と燃料となるATPにあった。

 ATPとは本来、種類を問わず全ての生命体が活動を行う為のエネルギー源として直接使用する物質であり、その重要性から『生体エネルギー通貨』とも呼ばれている。

 この物質を失った生物は自分の生命を維持する事が出来ず、たちどころに衰弱死してしまう。いわばATPとは、身体というエンジンを動かす為のガソリンに等しい。

 それを燃料として大量に“消耗”してしまう電光機関は、まさに必死の特攻兵器と言っても差支えなかった。

 その例に漏れず、ここまで電光機関を駆使し続けてきた彼の身体には、もう自分の生命を維持するだけのATPすら残っていなかったのだ。

 アドラーの変容を見届けたムラクモが満足げに嗤う。

「カカカ……貴様はもう終わりだ。だが私は死なん。例え複製體を全て失ったとしても、“転生の法”を会得し“完全者”となった我が魂は不滅……。死ぬのはアドラー、貴様だけだ……ククク、ハッハッハ……!!」

 勝ち誇ったように嘲笑するムラクモだったが、それは次のアドラーの言葉によって遮られる結果となった。

「――と言うとでも思ったか? ここまでは全て計算済みだ」

 そう言うとアドラーはゆっくりと立ち上がった。顔色は相変わらず蒼白ではあるものの、その表情は紛れもなく自身の勝利を確信していた。

「実はな、俺も手に入れたのさ。“完全者”の秘密、“転生の法”をな」

「な、なに……!?」

 呆然と彼の言葉を聞くムラクモの様子を、意趣返しのように今度はアドラーが嘲笑った。

「電光機関の知識を手に入れたこの俺が、何の手も打たずにここまでやって来ると思ったか? お前が電光機関の“消耗”から自分を守るために複製體の生産技術と“転生の法”に注目していたのは以前から分かっていた。だからここに来る前にあの女――ミュカレが持つ“転生の方”を奪わせてもらったのさ。

 幸い俺には替わりの身体が幾らでもあるからな。この身体がどうなろうと大した問題ではない。俺は“完全者”として新たな体へと転生し、残ったアガルタの遺産を全て継承する。残念だったなムラクモ。お前の負けだ」

「まさか……貴様が戦後も我らゲゼルシャフトに協力し続けていたのは……」

「そうだ。全てはお前たちが独占していた電光機関の知識と“転生の方”を奪い取る為だ」

「貴、様……よもや、そこ、まで……」

 最後まで言葉を紡ぐことなくムラクモは力尽き、やがて動かなくなった。

 ムラクモの最期を見届けると同時に、アドラーも再び強い脱力感を全身に感じた。

 自分の身体がついに電光機関の“消耗”に耐えられなくなり、朽ち果てようとしているのだ。

 だが勝利の栄光を得た彼にとっては、その脱力感すら今は心地良かった。

「ククク……俺は死なん。必ずやアガルタの遺産を継承し、この世の全てを手に入れてみせ……る……」

 再び床へと倒れこむと、アドラーは胸中に秘めた野望の達成を夢見ながらゆっくりと死の眠りについた。

 

 弐

 

 全てはアドラーの計画通りだった。

 ペルフェクティ教団の教祖ミュカレが持つ不死の奥義“転生の法”と、組織が保有する電光機関の技術の全てを簒奪し、自らがゲゼルシャフトの首魁となって世界を支配する――水面下で密かに練っていた組織乗っ取り計画は完璧なまでに進み、見事に“転生の法”と電光機関に関する技術を奪取し、ミュカレ・ムラクモを排除する事にも成功した。

 その過程で自らの肉体が電光機関のもたらす〝消耗〟に耐えきれずに朽ち果てる事は無論承知の上だったが、それも他者の身体を奪う事で不死となる〝転生の法〟と、ゲゼルシャフトが私兵として生み出した自分の複製體(クローン)であるエレクトロゾルダートを新たな肉体として使う事で簡単に解決することが出来た。

 何もかもが思惑通り、万事が自分の描いた通りに動き、運び、味方した。

 後は新たな身体へと転生し、遺跡に残されたアガルタ文明の超科学とゲゼルシャフトの全てを手に入れ、世界を支配するだけだった。

 しかし、完璧に思われたこの計画が思いもよらぬ方向へと向かう事になるとは、この時はまだ知る由も無かった……。



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01.外史

恋姫も格ゲーになっているので、対戦とかさせてみたいですね。


 ???―――???

 

 零

 

「……流れ星?」

 何気なく空を見上げた時、少女は白い閃光が鋭く尾を引いて飛んで行くのを見た。

 まだ日が高い時間であるにも関わらず不思議とはっきり見えるその光は、少女がまさに今から向おうとしている方角へと真っ直ぐ飛んでいく。まるで自分を導くかのように。

 しばらくその不思議な光を眺めていると、

「――華琳様! 出立の準備が整いました!」

「――華琳様? どうかなさいましたか?」

 少し遠くから少女を呼ぶ声が二つ聞こえた。

 声はどちらも若い女のものだった。言葉の柔らかさからして、声の持ち主達は少女と親しい関係にあるのかもしれない。

「今、流れ星が見えたのよ」

 華琳と呼ばれた少女は閃光が向かった方角を再度見上げたが、光は既に彼方へと消え去り、忽然と行方を眩ませていた。

「流れ星、ですか? こんな昼間に?」

 と、彼女を呼んだ声の片方が不思議そうに言った。

「ふむ……あまり吉兆とは思えませんね。出立を伸ばしましょうか?」

 もうひとつの声も合わせるように彼女にそう提案する。

 華琳は流星の飛んで行った方角を見つめながら考えた。

 今のは本当にただの偶然だったのだろうか?

 あの光はまるで自分の道を指し示すかのように突然現れた。偶然にしてはあまりにも出来過ぎている。

 では何者かが自分をあの方角へと導くためにあの光を出現させたとでもいうのか?

 一体誰が? 何のために?

 そもそもそんな事が現実に可能なのか?

 様々な疑問や思いが華琳の脳裏を駆け巡る。

 その時、華琳は街の中で広まっている“ある噂”を思い出した。

『天を切り裂いて飛来する一筋の流星。遙か先の世界から天の御遣いを乗せ、乱世を鎮静す』

 初めて耳にした時は誰が信じるものかと一蹴し、鼻で笑った噂話だ。

 だが、いま見た物がもしそうだとするのならば――

 彼女はそこまで考えると、強引に思考を打ち切って首を振った。

 仮定の物事をあれこれ考えていても仕方が無い。自分が解決しなければならない問題はすぐ目の前にあるのだ。

「吉と取るか凶と取るかは己次第でしょう。予定通り出立するわ」

 華琳の決断に二つの声は応じると、後ろに控えていた大勢の男たちに指示を送った。

「承知いたしました」

「では出発いたしましょう。――総員、騎乗! 騎乗!」

 号令が上げると、男たちは待っていたと言わんばかりに侍らせていた馬に次々と跨り、出発のための準備を整え始める。その一糸乱れぬ洗練された姿は、紛れもなく軍隊のそれだ。

 やがて華琳も自らの愛馬に跨ると、背後へ向けて高らかに声を上げ、馬を脇腹を蹴った。

「無知な悪党どもに奪われた貴重な遺産、何としても取り戻すわよ!……出撃!」

 

 壱

 

 顔を撫ぜる風の感覚でアドラーは己の意識を取り戻した。

 あれからどれくらい時間が経過したのだろうか。

 自分の身体が息絶えた瞬間は今もハッキリと覚えている。しかしその感覚は曖昧で、まるで現実感がない。身近なもので例えるならば、深い眠りから目覚めたような感覚だった。

(転生というのも、存外大した事はないな……)

 ぼんやりとそんな事を考えながらアドラーは閉じていた瞼を開く。

 だが、彼の目の前に広がっていた光景は、その予想を遙かに上回るものだった。

 染め抜いたようにどこまでも広がる鮮やかな青空、針の如く聳え立つ岩山の数々、荒れ果て乾いた大地とそれを舐める様に吹き荒ぶ旋風。

 一言で表すのならば、“無人の荒野”という言葉がぴたりと当て嵌まるだろう。

 そこは、そんな場所だった。

「……ここはどこだ? 俺は一体誰に転生した?」

 思わずアドラーは我が目を疑った。

 “転生の法”――それは術者の魂を他者の肉体へと移し替える事で生き永らえる秘術だが、それには一つだけ法則があった。

 それは『術者と同じ生体情報を持つ者が居る場合、優先してその体に転生する』という事だ。

 その法則によって、自分の複製體(クローン)であるエレクトロゾルダートの身体に転生すると予想していただけに、流石の彼も驚きを隠せなかった。

 戸惑いながらもアドラーは新たな自分の身体を確認する。

 すると、またしても自身を驚かせる結果に突き当たった。

 自分の身体は転生する以前の身体と何も変わっていない――つまり今の身体は“転生の法”によって乗っ取った別の人間の体ではなく、生前のアドラーの肉体そのものという事だ。

(何がどうなっている? なぜ死んだはずの俺の身体が? それにこの場所は?)

 訳も分からず考え込むアドラーに、

「おい、テメエ!」

 突然、何者かが背後から声をかけた。

 振り返ると、そこには見たこともない服装をした三人の中年男が立っていた。

 身長や体格はバラバラな三人だが、全員が共通して黒く塗られた革鎧のようなものを身に付け、腰には短刀を差している。護身用なのか、それとも猟か何かで使っているのか、刀の拵えは実に簡素で無骨な物だ。

(このあたりの住民か?)

 そう思いながらも、アドラーは彼らが放つ気配の中に普通の人間には無いものを嗅ぎ取った。

 錆びた鉄にも似た生ぐさい臭い――血の臭いだった。

「貴様ら、何者だ?」

 先に聞いたのはアドラーの方だった。一切の感情を思わせない鉄の声である。

 彼の不躾な態度と言葉遣いが気に障ったのか、中央に居たリーダーらしい大柄な男が不愉快そうに喚き立てた。

「それはこっちのセリフだ! いきなり現れやがって、てめえこそ一体何者だ!」

「貴様に一々説明してやる理由はない。そんなことより俺の質問に答えろ。ここはどこだ。それと今は何年の何月何日だ」

「「「……ハァ?」」」

 男達はアドラーの質問に訝しげな視線を送ると同時に、警戒するように表情を硬くした。

「なんだお前ぇ、頭おかしいのかぁ?」

 大柄な男の脇にいた太った男が妙に間延びした口調で言った。

「そうだとしたら奴隷にもならなそうですし、ここでバラしちまいますか? こいつの珍しい服、売っぱらえば結構な金になりそうですぜ?」

 太った男と反対側に控えていた小柄な男が値踏みするような視線と下衆な笑みを浮かべた。

「そうだな……今なら誰もいねえし、ヤっちまうか」

 3人の男はお互いに頷き合うと、一斉に腰の短刀を引き抜き、アドラーに向かって突きつけた。

「……何だそれは?」

「何もクソもねえよ。ぶっ殺されたくなかったら、さっさとテメエの持ってる有り金全部とその珍しい服を置いていきな!」

「やめておけ。そんな物でどうにかなる俺ではない」

 アドラーがそう言ったのはあくまで面倒事を避けるためであり、決して善意や虚勢から出た言葉では無い。そもそも電光機関を装備している彼にとって、短刀程度では脅威にすらならないのだ。

 だがそんな事実を知りようがない男達にとって見れば、アドラーの言葉は己を過信した馬鹿の言葉であり、彼らの怒りに火を付けるには十分すぎるものだった。

「ああそうかい! そんなに死にたけりゃ、すぐに殺してやるよ!」

 激情に駆られた男がついに怒りに任せ、刀を思い切り振り上げた。

 刃は勢いそのままにアドラーの顔めがけて真っ直ぐ振り下ろされ、彼の顔を串刺しにする――はずだった。

 しかし、刃はいつまでたっても振り下ろされる気配がない。

 一体はなぜか。

 理由は簡単だった。刀が振り下ろされるよりも先にアドラーが男の身体に掴みかかり、電光機関から生み出した強力な電流によって男を絶命させたからだ。

 一瞬で脳髄まで焼き切られた男は、アドラーが手を離すと痙攣によって打ち上げられた魚の様に地面を跳ね廻っていたが、やがてピクリとも動かなくなった。

「あ、アニキぃ……?」

「おい、どうしちまったんだよ!? アニキ!?」

「馬鹿な奴だ。自分から命を捨てるとはな」

 何が起きたのか理解できず、戸惑うばかりの男達を尻目にアドラーは死んだ男の顔を踏みつけ冷たく言い放った。

「お前達もこいつと同じ様になりたくなければ、俺の質問に答えろ。俺は気が短い。早くしないともう1人も同じ目に遭うかもしれんぞ?」

「「ヒ、ヒィ!?」」

 死んだ男の二の舞はごめんだと言わんばかりに二人は顔を震わせ、刀を投げ捨てるとその場にへたり込んだ。

「わかったぁ、何でも答える!」

「答えるから助けてくれ!!」

「よし。では最初の質問だ。ここはどこで、今は何年何月だ? 言っておくが、真面目に答えんと命はないぞ」

「こ、ここ今年は光和七年で、ここは兗州の陳留って場所だ!」

 小柄な男が引き攣ったか細い声で言った。

「兗州の陳留……? 聞いたこともない地名だ。名前からして中国のどこかか?」

 男達の言葉を反芻しながらアドラーは尋問を続けた。

「次の質問だ。ここから上海や北京までどの位かかる。それと光和とは何の暦だ。俺にも解る用に西暦で答えろ」

 すると、今度は思わぬ答えが返ってきた。

「そ、そんなの、オラたちどっちも知らねえ!」

 太った男が確かにそう言ったのだ。

「……つまらん嘘を言うと自分の為にならんぞ?」

 ギリッ、という嫌な音と共に男達の首が急激に細くなった。アドラーが二人の首を思い切り絞め上げたのだ。

「アガァァァ!? し、信じてくれ! あっしらは嘘なんかついちゃいねえよ!」

「上海も北京も西暦も、子供でも知っている大都市と暦だぞ。 知らんはずがあるか!」

「知らねえ! ホントに知らねえんだ!」

 酸欠で顔を真っ赤にさせても尚、二人の言うことは変わらない。

「仕方ない。お前には少し素直に喋れるようになってもらおう」

 言うや否や、アドラーはなぜか小柄な男を掴んでいた手を緩め、首ではなく服の胸ぐらを掴み直した。

「な、なにを――」

 するつもりだ、と言いたかったのだろうが、その言葉は突如起こった絶叫によってかき消される結果となった。

「ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああ!!!!!!」

 驚いた男が音の方を振り向くと、先ほどの焼き回しのように身体を震わせながら、太った男が泡を吹いて苦しんでいた。

 絶叫はたっぷり30秒ほど続いた。一瞬のうちに殺された最初の男と違い、恐怖と絶望を煽るようにじっくりじっくりと体の内側を電気で焼き、仲間の命を削っていくアドラーの所業を、男は瞼を閉ざして視界から消す事しかできなかった。

 やがて太った男の口から絶叫が消えた。未だガクガクと体を痙攣させているそれに最早意識はなく、ただ外部から流れる電気に従って震えているだけの骸に過ぎなかった。

 未だに痙攣が残るそれをぞんざいに投げ捨て、最後に残った小柄な男の首を再び掴み直しアドラーは言った。

「――さて、最後のチャンスだ。正直に答えて楽になるか、こいつらと同じようなるか、3つ数える間に選べ」

「や、やめてくれ! 殺さないでくれぇ!」

 必死に命乞いをする男だったが、当のアドラーは眉一つ動かさない。

「3」

「ほんとに! 本当に何も知らねえんだ!!」

「2」

「ゆ、許してくれ!! 何でもする!! あんたの言うことなら何でも聞く! 何でもやるから!! どうか命だけは!!」

「1」

「うわあああああああ!!!!!」

「終わりだ――ん?」

 いよいよ電気を流そうかという時、どうも男の様子がおかしい事に気づいた。

 まだ何もしていないにも関わらず、男は既に白目を向き、意識も完全に失っていたのだ。

 慌てて男の首に手を当て脈を確かめるが、案の定それは完全に止まってしまっていた。

「Scheisse!! コイツ、先にショック死しやがった!!」

 そう。男はあまりの恐怖に精神が耐えきれず、自ら命を落としてしまったのだ。

 勝手に死んだ男を忌々しげに地面に投げ捨てたアドラーだったが、その顔は更なる疑問に満ちていた。

「役立たずどもが……しかし、上海も北京も知らないだと? 一体どういうことだ?」

 仮にここが中国なのだとしたら、国の大都市である上海や北京を知らないのは明らかにおかしい。詳しい位置はともかく、少なくとも名前くらいは知っていてもいい筈だ。

 それにこの男たちの服装や持ち物も、明らかにアドラーの知っている一般人とは随分異なっている。

 大した情報も出さずに死んだ男達を忌々しげに睨むアドラーだったが、ふと、最初に殺した男の近くに見覚えのあるものが落ちているのを見つけた。

「これは……」

 鈍い光沢を放ちながら鎮座していたのは、アドラーが死ぬ寸前に床に落とした自動拳銃だった。

 調べた所、弾丸も消費されておらず、他の誰かに使われた形跡も無い。

 再度部品を点検し異常や仕掛けが無いことを確認すると、アドラーは銃を腰ベルトのホルスターへと差し込んだ。

「フムン……さて、これからどうしたものか」

 改めてアドラーは自分が置かれている異様な状況について考えた。

 今の自分の体が複製體のものでも赤の他人のものはなく、自分の身体のままであるということも疑問の一つだが、それ以上に問題なのが、この陳留という謎の場所について全く見当がつかないということだ。

 更に言うならば、四方のどこを見渡しても荒野ばかりで、町の気配もなければ民家の類も全く見当たらない事も問題だった。

 本当なら小柄な男を死なない程度に痛めつけた後、他の人間が居る場所まで道案内をさせるつもりだったのだが、まさか痛めつける前にショック死するとは思わなかったのである。

「こいつらをすぐに殺したのは失敗だったか」

 アドラーは己の軽率さを歯噛みした。

「……参ったな」

 自信家な彼が珍しく弱ったようにそう呟く。

 すると、今度は前方から響くような地鳴りが聞こえ始めた。

 

 弐

 

 何かが起こる――あの流星を見てからずっと、華琳はそう感じていた。

 何かというのが具体的にどういった物なのかは分からない。だが、今まで自分がそう感じた時、必ずその何かは起こった。

 予感や予知などという非現実的な物を信じるのは自分の信念に反する所ではあったが、今までの経験からそれはほぼ間違いないという事も同時に自覚していた。

 更にそれを裏付けるかのように、先刻から頭が鈍痛を訴えてくる。脳裏に響くようなその痛みは、自分が何かを予感した時に決まって起こるものだった。

(さっきの流星にこの頭痛……一体何が起ころうとしているの?)

 得体の知れない予感を胸に秘めながら、華琳は走らせていた馬を停止させた。目的地に到着したのだ。

 たどり着いたのは旋風吹き荒れる荒野の一角だった。街道のすぐ近くに位置するそこは、大きな岩山や洞窟などがいくつもあり、盗賊や罪人などが姿を隠しながら街道を通る行商人や農民などを狙うのに絶好の場所なのだ。

 馬を降り、背後に控える大勢の部下へ向き直ると、華琳は高らかに檄を飛ばした。

「皆の者! 我らが持つ貴重な遺産を盗んだ狼藉者を絶対に許すな! 草の根を分けてでも見つけ出し、絶対にその頸と盗まれた遺産をここに持ち帰ってくるのだ!」

「「「御意!!」」」

 部下達は大きな声で応じると、それぞれ部隊を作って荒野の方々へと散って行った。

(しかし、南華老仙の書物か……本当に厄介なものが盗まれたわね……)

 部下を見送った華琳は誰にも聞こえないように小さく舌打ちすると、どこにいるともつかない下手人の代わりに目の前の荒野を睨みつけた。

 南華老仙――数百年前、春秋戦国時代に生まれた思想家・荘子が死後、仙人に生まれ変わった姿であり、様々な妖術や学術に精通していたと言い伝えられている。

 また彼が蓄えたその膨大な知識と技術は、『太平要術の書』と呼ばれる巻物に書き記され、密かに残されているとも言われていた。

 そしてその『太平要術の書』こそ、華琳の元から盗み出された物の中で最も重要かつ危険な代物であった。

 一体どこから入り込んだのか今では見当もつかないが、盗人は華琳が直接管理している屋敷の宝物庫にまんまと忍び込むと、いくつかの金品と一緒に厳重に封印されていた『太平要術の書』までも盗み出していったのだ。

(あれの価値がどれ程のものか、野盗程度の連中に分かるはずがない……だとすると、誰か別の人間が裏で盗むように指示を? それとも本当に何かのついでに偶然盗まれた? 後者であってくれるのならばまだいい。だけど、もしも前者だとすれば……)

「―――様。華琳様」

「……!! 何かしら?」

 気が付くと目の前に青髪の若い女が立っている。どうやら彼女が声の主らしく、その声は出立前に華琳と話していたのと同じものだった。

「失礼いたしました。捜索状況の報告に来たのですが……」

 と女が言った。どうやら考えを巡らせている内に時間を忘れていたらしい。

「何やら顔色が良くないご様子ですが、少しお休みになられたほうがよろしいのでは?」

「心配は無用よ。それよりも報告をお願い」

「はっ。十里ほど先で、捜索隊が盗賊によく似た格好の三人組を発見しました。恐らく下手人に間違いないかと」

「流石は秋蘭ね。もう身柄は押さえた?」

「いえそれが……」

 女の煮え切らない答えに華琳は眉を顰めた。

「……? 歯切れが悪いわね。一体どうしたと言うの?」

 しばらく悩んだような顔をしていた女だったが、やがて決心したように口を開いた。

「報告によると、三人の男の他にもう一人、見た事もない異様な風体の男が居たそうなのですが、三人はその男に刃を向けていたそうです」

 なるほど、と華琳は内心で納得した。いきなりそんな状況に出くわせば、誰でも説明に困ると言うものだ。

「追い剥ぎか、それとも仲間割れか……それでその男は?」

「逆にその三人を倒してしまったと」

「フムン……」

「今はまだそこから動いておりません。念のため部下を何人か監視の為に残してきては居ますが、如何いたしますか?」

「まずはその男に会って話を聞いてみましょう。その男を罰するにしろ何にしろ、事情が分からなければ判断のしようがないわ」

「はっ。了解いたしました」

「誰かある!」

 そう言うと部下の男が一人、華琳の元へと駆けてきた。

「はっ! お呼びでしょうか」

「各捜索隊に連絡し、至急ここに集まるように指示をせよ! 我らはこれより下手人の姿を知る人間と接触する」

「御意!」

心得たとばかりに部下は仲間に連絡を取るため再び荒野にすっ飛んで行く。

「秋蘭、貴女は春蘭を先行させてその男の身柄を確保して。私は残りの捜索隊と合流した後、すぐに後を追うわ」

「御意!」

(見たこともない異様な風体の男……まさかね……)

 胸の中で起こるざわめきの正体を考えながら華琳は男の元へと馬を走らせた。

 

 参

 

 数キロほど向こうから凄まじいまでの土煙が上がっている。よくよく見てみると、どうやら馬に乗った人間がこちらに向かって来ているらしい。

 接触すれば何か現状の手がかりが得られると思い、死体を近くにあった岩の陰に隠して様子を窺っていると、向こうはアドラーの存在に気がついているのか、真っ直ぐ彼の元へとやってきた。

 現れたのは全員が屈強な体格の若者ばかりで、その鋭い眼孔が放つ気迫はまさに騎士や戦士と呼ぶに相応しい。鍛え抜かれた肉体には髑髏をあしらった中華風の鎧を身に着け、おまけに鉄製の槍まで携えている。

 若者達はやってくるなりアドラーの周りをぐるりと取り囲んだ。

 時代錯誤も甚だしい、と内心で笑っていたアドラーも彼らの放つ気配に若干の焦りが浮かぶ。

(さっきの連中の仲間か? いや、だがどうも雰囲気が違う。一体何者だ?)

 そんな風に考えていると、

「全員、槍を引け!」

 騎士達の背後から明らかに男たちとは違う声が飛んできた。

 声の方向を中心として若者たちは左右に分かれ、空白の中央から黒髪の若い女がアドラーの前に姿を現した。

 艶のある黒髪と引き締まった身体を持つその女は、一見するとどこかの女優のような美しさを持ってはいるものの、その獣にも似た鋭い眼光や佇まいから、男たち同じく鍛え抜かれた戦士であることが窺えた。

「そこの貴様!」

 女はさっと馬から降りるアドラーに向かって大股で詰め寄った。

「ここらで見ない顔だな。何者だ。名前と所属を名乗れ」

 有無も言わせない女の質問をアドラーは不愉快そうに鼻であしらった。

「人に名を尋ねる前にまず自分から名乗ったらどうだ?」

「なんだと!」

 怒りの表情を浮かべ、女がアドラーにさらに詰め寄る。

 だが、

「やめなさい春蘭」

 黒髪の女は、声と共にやってきた金髪の少女と青髪の若い女の方に向き直ると、少し戸惑ったような表情を見せた。

「しかし、華琳様!」

 女は納得できないと言わんばかりに二人――特に金髪の少女の方へと食い下がる。

 しかし、金髪の少女は首を振るときっぱりと言い放った。

「春蘭。私はやめなさいと言ったのよ?」

「も、申し訳ありません……」

 すると女はまるで少女の言葉に気圧された様におずおずと少女の後ろまで下がった。

 先ほどの黒髪の女が野性に溢れた虎とするならば、金髪の少女はさながら、王者の風格を湛えた獅子と言えようか。力を漲らせた瑠璃色の瞳は真っ直ぐ前を見つめ、小柄な体格に余りあるほどの覇気を纏って歩む様は、まさに王と呼ぶに相応しい。

「そこのお主」

 今度は少女と一緒にやってきた青髪の女が声を上げた。

「先ほどガラの悪い連中に襲われていたな。連中は何者だ。お前とはどんな関係だ?」

 女の持つ雰囲気は黒髪の女によく似ているが、違う箇所が上げるとすれば、それは野性の代わりに氷のように冷たく尖らせた気迫を持つ点だ。

(見られていたのか……)

 ギリっと苦虫を噛み潰したような顔でアドラーが呻いた。まさか他人に見られていたとは思わなかったのである。

「どうした早く答えろ。それとも何か答えられぬ事情でもあるのか?」

 冷気すら感じさせるその視線は、まさに獲物を見定める豹の眼差しだ。

 どう答えたものかとアドラーは数瞬考えたが、見られていた以上、下手な嘘をついても仕方がないと思い、正直に答える事にした。

「……追い剥ぎ目的で襲いかかってきたので返り討ちにしてやった。そこの岩陰に居るが、全員死んでいる」

「なるほど」

 納得したように頷くと、金髪の少女は男達に指示を出し、隠しておいた死体を持ってこさせた。

「華琳様、やはりこやつらで間違いないでしょうか?」

 男の死体を一つ一つ確認しながら青い髪の女が言った。

「多分間違いないでしょうね。年かさのいった中年男が三人……顔の特徴や人相は情報の人物と少し違うからもっとよく調べてみないといけないけど」

「仲間割れという可能性もありますし、念のためにこやつも引っ立てましょうか?」

「フムン。嘘を付いている感じはしないけれど、事情を聴かないことには何とも言えないわね。念のために連れて行きましょう」

「――おい、そこの華琳とかいう女」

 二人の話にアドラーが割って入った瞬間、女達だけでなく全員の目が今までにないほどに鋭く動いた。

「貴様ぁ! 軽々しく華琳様の“真名”を口にするなど!」

「この無礼者が!」

 一瞬、という言葉が出るよりも早く、黒髪の女は腰に差していた剣を引き抜き、青髪の女も手にしていた弓を構えた。遅れて周りの男達も各々手にした槍を一斉にアドラーへと差し向ける。

「おい! 貴様ら何のつもりだ!」

「何のつもりだと? 貴様ぁ! 華琳様の“真名”を許しも得ずに口にして、ただで済むと思っているのか!」

 アドラーは驚いた。まさか名前を呼んだだけで剣を抜かれるとは思っていなかったからだ。

「質問に答えろ! “真名”とは何だ。華琳というのはその女の名前ではないのか!?」

「黙れこの無礼者が!」

 言うが早いか、アドラーの目の前に鋭い銀光が走った。黒髪の女が手に握った剣を振るったのだ。

 咄嗟にアドラーは後ろに下がって剣をかわした。わずかでも遅ければ、今頃彼の顔は真っ二つになっていただろう。

「おいやめろ!」

「黙れ! 華琳様の“真名”を一度ならず二度までも……貴様のような無礼者は今ここで頸を刎ねてくれるわ!」

 問答無用と言わんばかりに黒髪の女が再び剣を振るった。

 一振り目、二振り目は何とかかわすことができたが、三振り目をかわす頃には、男たちの槍衾がすぐ後ろまで迫っていた。後ろに逃げ場はもう無い。

「これで終わりだ!! 大人しく死ねぇ!!」

 そしてついに黒髪の女が止めとばかりに四振り目を繰り出した。

 

 肆

 

「Scheisse!!」

 苛立たしげに舌打ちし、アドラーは再び電光機関の力を解放した。

 疾風の早さで振るわれた女の刃を増幅した力でもって両手で挟み、捻って強引にねじ伏せる。いわゆる“白刃取り”と呼ばれる術だ。

「なっ…!?」

 まさか剣を素手で止められるとは思わなかったのだろう。黒髪の女だけでなく、その場の全員が残らず目を剥いた。

 間髪入れずアドラーは両手から電流を放ち、剣越しに黒髪の女にそれを流し込んだ。

 女の体は電流による筋収縮と痙攣によって体の自由と呼吸を奪われ、真っ直ぐ立つことすらままならない。

 荒くなった息を整えられぬまま、黒髪の女はその場に膝をついた。

 女の手から強引に剣を奪い取ると、アドラーは空いているもう片方の手で女の胸倉をつかんで無理矢理立たせ、その腹へと思い切り膝を突き立てた。

「あぐっ!」

 ぐぐもった悲鳴とともに女の口から息が漏れる。

「姉者!」

 青髪の女が裂帛した声を上げ、弓を放とうとする前にアドラーは剣を手に黒髪の女の背に回りこみ、刃を女の喉元に当てがった。

「さてどうする? このまま俺ごとこの女を殺すか?」

「くっ……」

 青髪の女は歯噛みしながら弓を下ろした。

「そうだ、それでいい。他の連中も武器を下げろ。こいつを殺されたくなかったらな」

 周りの男達も渋々といった感じで槍を下げ始めた。

 その様子にアドラーは満足そうに頷いた後、改めて金髪の少女を見据えた。

「女、お前が指揮官だな。名前は?」

 意趣返しの様に金髪の少女が今度は鼻であしらった。

「あら。相手の名前を訊ねるなら、まずは自分から名乗ったらどうかしら?」

「最初にやってきて質問したのはそっちだ。まずお前から名乗るのが筋だろう」

「そう言えばそうだったわね――私の名前は曹孟徳。この陳留の地を治める太守よ」

 女達が呼んでいた名前と明らかに違う名前にアドラーは眉を顰めた。

「何? ならさっきこの女が呼んでいた名前は何だ?」

「あれは真名というものよ。自分が認めた者にのみ、その名前で呼ぶことを許し、そうでない者が勝手にその名を口にすれば、今のように問答無用で斬りかかられても文句は言えないわ」

(特別な愛称のようなものか)

 と、アドラーは胸中で呟いた。

「そいつは悪かった。そんなに大事な物だとは全く知らなかったんでな。だが俺もここで殺されてやる理由はない。大人しく言う事を聞いてもらうぞ。俺の名前はアドラーだ。」

「ならアドラー、おとなしく春蘭――その女を開放しなさい。そうすればさっきの無礼は無かった事にしてあげる」

「それだけか? せめて身の安全くらいはつけて欲しいものだな」

 アドラーの要求にあっさりと少女は応じた。

「それも約束しましょう。あなたから手を出さない限り、こちらも手を出さないわ」

「華琳様! この様な奴の言うことなどに耳を貸す必要はありません! どうか私に構わず、この不届き者を成敗ください!」

 二人のやりとりに納得がいかないのか、喉元に剣を突きつけられているにも関わらず、黒髪の女が喚き散らす。

「ふむ。余程この女が大切な様だが、その話に何の保証がある?」

「私の誇り……で、どうかしら? さっきも言ったけど、私はこの一帯を統治する太守よ。私がもし大勢の部下の前で約束を違えれば、その信用と人望は地に落ちるでしょうね」

「なるほど」

 アドラーは少し考える様に唸った。

 特別な愛称で呼び合うほど親しい女を目の前で人質として取られながらも、目の前の少女の態度は不自然なくらいに落ち着いている。普通はもっと狼狽えたり、怒りを露わにしてもいいはずだ。

 だがこの女には全くそれがない。まるでこの先どうなるのか予想できているかのようだ。

 (何者だ、この女……)

 アドラーは目の前の少女への警戒を一層強めた。

 とはいうものの、交渉の手札としてアドラーが持っているのはこの女しか無いというのもまた事実だった。

「……いいだろう。だがお前たちには色々聞きたいことがある。俺の安全の他にいくつか質問に答えてもらうぞ」

 アドラーは手にした剣を地面に突き刺すと、黒髪の女を青髪の女の方へと軽く突き飛ばした。

「姉者!」

 フラフラとおぼつかない足取りの女を、青髪の女が慌てて受け止める。

「大丈夫か!? 姉者!」

「しゅう、らん……私は、大丈夫、だ……」

 尚も強気に振る舞う女の言葉に青髪の女は首を振った。

「馬鹿な! そんな状態で大丈夫な訳がないだろう! 誰か! 姉者の手当を頼む!」

 女の言葉を合図に手近に居た数名の男達が黒髪の女を引き取り、槍の向こうへと消えていった。

「心配するな。あれは一時的な症状に過ぎん。安静にしていればすぐに良くなる」

「貴様!よくも姉者を!」

 双瞳を怒りに染めた青髪の女が再び弓を構えた。今にも放ちそうになるそれを金髪の少女が鋭く制した。

「秋蘭、弓を下ろしなさい!」

「華琳様!……し、しかし!!」

「秋蘭! 貴女は私の顔に泥を塗る気なの!」

 少女が声を荒げ一喝すると、

「……申し訳ございません」

 青髪の女は口惜しそうにアドラーを一瞥し、ようやく構えていた弓を下ろした。

「貴様、やはり最初から俺があの女を殺さないと確信していたな」

 アドラーの言葉に少女は当然とばかりに首肯した。

「当たり前よ。そんなことをしたら自身の破滅を招くだけだもの」

「ならなぜ今すぐ俺を殺さない。もう人質はいない。無礼者を斬る絶好の機会じゃないのか?」

「さっきも答えたでしょ。私の誇りが許さないって。それとも殺してほしい趣味でもあるのかしら?」

「フン。食えん女だ……まあいい。それよりも俺の質問に答えてもらおう。ここは一体どこだ。そして今は西暦何年の何月だ?」

「せいれき……?」

 何を言っているか分からないという風に金髪の女と青髪の女はお互いの顔を見合わせた。

「貴方の言っている“西暦“というものが何かはわからないけど、ここは陳留という場所で、今は光和七年の四月よ」

 この少女も“陳留”という答えを返した。つまり、先ほどの男達の答えは少なくとも地名については正しかったらしい。

 それよりもアドラーの気になったことは、少女が“西暦”という言葉を知らず、“光和”という暦を使った事だ。ここがどれだけ田舎でも、世界共通の暦を知らないと言うのはどうも不自然すぎる。

 ますます奇妙な状況に内心頭を抱えながら、アドラーは質問を続けた。

「……ならもう一つ質問だ。お前がさっきから名乗っている太守とは何だ?」

 アドラーの質問に今度は少女達の方が驚いたようだった。

「何? 貴方、太守を知らないの?」

「知らん。聞いたこともない」

「……秋蘭」

「はっ。――太守とは街の政を行い、治安維持に従事し、不審者や狼藉者を捕まえ、処罰する務めのことだ。これなら意味が分かるか?」

 と少女の代わりに青髪の女が答えた。

「フムン……警察と行政の複合機関か。さしずめ総督と言ったところだな」

「けいさつ……??」

 少女と青髪の女は再び首を傾げる。

「要は貴様らが街の税収と治安を管理し、法律や法令を定めている役人ということだな?」

「何よ。本当は分ってるんじゃない。なら悪いけど、貴方には私たちと一緒に街まで来てもらうわ。約束通り身の安全と命は保証するけど、そこの3人についてはこちらも色々聞きたいことがあるのよ。いいわね?」

「いいだろう。ならさっさとその陳留とやらに案内してもらおうか」

 そのままアドラーは2人の女と戦士たちに連れられ、彼女らが治めるという陳留の街を目指した。




死を越えた先に現れた謎の女――曹孟徳。
それは安息と引き換えに己の力を求めた。
果たしてその正体は敵か、味方か。
次回「取引」

覇王の産声が今、上がる。


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02.取引

 第壱章.02  取引

 

 光和七年――兗州/陳留/孟徳邸内

 

 壱

 

「――ではもう一度聞く。お前の名前は?」

「エルンスト・フォン・アドラー」

「生国はどこだ?」

「欧州は大ドイツ国だ」

「……職業と所属は?」

「職業は軍人兼軍事研究員。所属はアーネンエルベ遺跡研究部門東アジア探索部隊。階級は中佐で、探索部隊の副隊長も務めている。それ以前は国の情報部に所属していた」

「……この国に来た目的は?」

「無い。気が付いたらあの場所に居た」

「………どうやってここまで来た?」

「さあな。さっきも言ったが、死んだと思ったらあそこにいた。それだけだ。あの連中とは何の関係もない」

「…………」

 荒野での出来事から数時間後、アドラーは金髪の少女・曹孟徳と兵士達に連れられ、彼女が治めているという陳留の街へとやって来ていた。

 現在は孟徳が住む屋敷の一室で、青髪の女・夏侯妙才の尋問を受けている真っ最中だ。

 彼女達の目的は賊によって盗まれた財宝を取り戻す事であり、犯人によく似た人物があの界隈に出没すると言う情報をもとに捜索活動を行っている所だったらしい。

 しかし犯人と思われた三人の男達は、いずれも特徴が似ているだけの別人で、結果として彼女達の捜索は振り出しに戻ってしまう。

 手掛かりを失った孟徳が次に目を向けたのは、言うまでもなくアドラーだった。

 アドラーは自身の経歴を人工冬眠につく前――第三帝国(ナチスドイツ)所属の軍人だった所までを全てとし、その範囲で受け答えを行った。

 それは複雑怪奇な己の経歴と、電光機関や“転生の法”を始めとした秘密を守る為だったが、同時に国家軍人というハッキリとした身分を示すことで少しでも有利な状況を保ち、相手から情報を得るという二重の意味合いを含んでいた。

 淡々と質問に答える傍ら、アドラーは二人の反応や言葉から自分の置かれた状況について考えていた。

 質問の内容や会話から推測された二人の知識や常識は、明らかに前時代的なものであり、自分が持つ現代の常識や知識とはおよそ噛み合わないものばかりだった。

 おまけに街を始めとした建物も、木造家屋や掘立小屋、立派な物でも石造りの家という有様で、ビルや工場と言った近代的な建築物は一切見当たらない。

 それどころか、街の外側を覆う様に作られた巨大な城壁や、その上に取り付けられた防衛設備の数々は、まさしく古代の城郭都市そのものだ。

 ――どういう理屈でそうなったのかは定かではないが、もしかしたら自分は過去の時代に来てしまったのではないだろうか。

 アドラーの脳内では、早くもそんな仮説が出来上がっていた。

 馬鹿馬鹿しいという考えは勿論ある。しかしそう考えれば納得できるのだ――いや、そう考えなくては前時代的な街の造りにも、二人の知識にも辻褄が合わない。

 (厄介なことになったな……)

 困ったようにアドラーが内心で呟いた。

 更にこの問題にはもう一つ、大きな疑問が残されている。

 それは自分が一体どれくらい過去の時代に来ているのか、ということだ。

「埒があかないわね……」

 はぁ、と向かいの席に座っていた孟徳が溜息をついた。同じ質問を繰り返すのは尋問や事情聴取の基本だが、流石に一時間以上も同じ質問を繰り返していては、疲れるのも当然だった。

「……後はこやつの持ち物ですが」

 と、一向に捗らない取り調べに嫌気が差したのか、妙才が押収したアドラーの所持品を机の上に並べ始めた。 

 並べられたのは荒野で拾った拳銃に加え、銃の予備弾倉や懐中時計など、アドラーがゲゼルシャフト基地に向かう際に持ち込んだ小物たちだ。

 二人はそれら一つ一つを不思議な物を見るような目で検品していく。

「これらは一体なに? どれも見た事の無い物ばかりだわ」

 孟徳が机の上から懐中時計を手に取った。手が触れた拍子に蓋が開き、文字盤の部分が露わになる。

「……これは何かしら? 三本の針のうちの一本だけが、文字の様な部分を回っているけれど?」

 彼女の反応に嫌な予感を覚えながらもアドラーは素直に答えた。

「それはただの時計だ」

「時計!? これが!?」

 食い入る様に二人が懐中時計を見つめた。その反応たるや尋常ではない。

「……何をそんなに驚いている。時計くらい何処にでもあるだろう」

「馬鹿言わないで!……水時計や日時計なら勿論知ってるけど、こんなに小さくて持ち運べる時計なんて、今まで見たことも聞いたこともないわ。これは貴方が作ったの?」

 それを聞いて、アドラーの不安感は益々大きくなった。

「……いや、俺は金で買っただけだ。俺の国では金さえ出せば、その程度の物は誰でも手に入れられる」

「信じられないわね……これだけの物を誰でも手に入れられるなんて……」

 孟徳はしばらく神妙な顔で時計を見つめていたが、やがて視線を別の物へと移した。

「なら――これは?」

 そう言うと、今度はホルスターから無造作に拳銃を抜き出した。安全装置《セイフティ》はしっかりと作動しているものの、その指は銃のトリガーにかかっている。

「おい! 無闇にそれに触るな!」

 彼の制止の声に、孟徳はむっとなった。

「なに? これがどうしたのよ?」

「そいつは拳銃と言って、俺たちの国の武器だ」

「これが武器?」

 二人は思い切り眉を顰めた。

「でも刃も付いてないし、番える矢も無い……一体どういう武器なの?」

 アドラーはテーブルに置かれている二つの弾倉を顎で指した。

「そいつはこの弾倉の中にある弾を火薬の力で発射する装置だ」

「……だんそう?」

「火薬?」

 またも聞いた事が無いという風に二人は首をかしげた。だが逆に驚いたのはアドラーの方だ。

「まさか火薬も知らないのか!?」

「聞いたこともないわね。“火薬”と言う位なのだから、薬の類か何かなのかしら?」

「…………」

 この瞬間、アドラーは自分が過去の時代にやってきた事を確信した。

 それも懐中時計や拳銃、果ては火薬すら知らないほど過去の時代であった。軽く見積もっても千年以上は前だろう。

 衝撃の事実に半ば絶句していると、

「それで、この拳銃とやらはどうやって使うのかしら?」

 続けて孟徳がそう訊ねてきた。

 もはや答える気もとっくに失せてはいたが、黙っていても始まらないと思い、答えることにした。

「……相手を狙ってその引き金を引きだけだ。まあ今は使えんようにしてあるがな」

「なるほど……」

 面白い、という風な顔で孟徳は拳銃をホルスターに戻した。

「まあいいわ。次にこれだけど……」

 そう言って次に出されたのは小さな車輪状の装置――電光機関だった。

 それはアドラーが装着している埋め込み式の物ではなく、ここに来る以前に“ある人物”から奪った着脱式の試作型で、緊急時の予備として持ち歩いていたものだった。

「これは何? これも武器なの?」

 流石の彼もこればかりは返答に窮した。下手に説明して奪い取られたら一大事だが、かと言って処分されても大いに困るからだ。

 二人を刺激しないように言葉に気をつけながら、慎重に口を開いた。

「いや、それは所属を表す軍徽章だ。大した物じゃない」

 嘘は自分でも驚くほど滑らかに出た。妙才も別段怪しんでいる様子はない。

 だが、孟徳の目だけはじっと動かず終始アドラーへと向けられている。まるで獲物を睨む蛇のように。

 (見破られたか……?)

 アドラーは自分の背中が冷や汗でじっとりと濡れていくのが分かった。

 孟徳は無言でしばらくアドラーの顔を見つめていたが、やがて飽きたと言わんばかりに視線を外した。

「まあいいわ。秋蘭、あなたはどう思う?」

「……あまり嘘を言っているという感じはしませんでした。恐らく下手人とは本当に無関係なのではないでしょうか?」

「そうね。私もそう思っていた所よ」

「――いや、俺もよく分かった」

 と、突然アドラーが言い出した。

 二人には言葉の意図が分からないようだった。

「何がよ?」

 孟徳が聞き返すと、アドラーはハッキリとこう言い放った。

「俺は、この時代の人間じゃない」

 

 弐

 

「お前達の質問やこの街の造りからして、そうではないかと考えていた。そして今の話で確信した。俺は過去の世界に――お前達からすれば、未来の時代からやって来たということだ」

 思いもよらぬ言葉に妙才は驚きつつも眉を顰めた。

 見れば隣の孟徳も同じような表情をしている。

 しかし、その反応も至極当然と言えるだろう。

 自分はこの時代の人間ではない――目の前の男はハッキリとそう言い切ったのだ。

 誰がそんな馬鹿げた話を信じられようか。

 死者が蘇らないのと同じく、時間は決して過去へは戻らない。まして未来から過去の時代に遡る事など、絶対に不可能だ。

「そんな突拍子もない話、私達が信じると思う?」

 孟徳の双眸がアドラーを睨めつけた。視線の鋭さからして、彼女がどう思っているかは語るまでも無い。

 無論、妙才の考えも同じだった。少なくともそんな夢物語を頭から信じる程、自分も彼女も馬鹿ではない。

「俺の持ち物を見れば分かるだろう。どれもお前達の国はおろか、この世界の技術では二つと造れないものばかりだ」

 自分に突き刺さる視線など気にも留めていないのか、アドラーは自信ありげにそう言い返した。

 確かに彼の風体や持ち物の異常さについては、説明しきれない部分がある。だが、それだけでそんな飛躍した話を信じろというにはあまりにも無理があった。

 と、その時、

「――“天の御遣い”」

 声になっているかどうかさえも分からない程の小さな声で、孟徳がそう呟いた。

「……? 何か言ったか?」

 よく聞き取れなかったのか、アドラーがそう聞き返す。

「いえ、何でもないわ」

 彼女はすぐに首を振って否定したが、隣に居た妙才はその小さな呟きを聞き逃しはしなかった。

(“天の御遣い”!?)

 改めて妙才は目の前に座る正体不明の男を見た。

 確かにこの男が噂にある、“天の御遣い”だとするならば、異様な風体にも、摩訶不思議な持ち物の数々にも合点がいく。

 だが、なぜ噂や迷信の類を一番に嫌う筈の彼女が真っ先にその言葉を口にしたのか?

 妙才はそこが腑に落ちなかった。

(もしかすると、華琳様はこの男が現れることを予め知っていたのか?)

 だとしたら一体いつ何処で?

 脳裏に沸く疑問を胸の内に押しやりながら、妙才は二人の会話に再び耳を傾けた。

「仮に貴方が未来からやってきた人間だとしたら、どうしてすぐ元の時代に帰らないの? そんな技術があるなら、早く戻ったらいいじゃない」

「フン。自力で戻れるのなら、言われなくともとっくにやっている」

「つまり貴方がここに来たのはまったくの偶然であって、決して意図したものではない――という訳ね」

「そう言うことだ」

 苦々しい顔でアドラーが首肯した。

 時間を自由に行き来できる程の技術を持った時代から来たのなれば、孟徳の言うように今ここにいる理由は何処にも無い。おそらく本当なのだろう。

 だとしたら何故、そしてどうやって、彼はここにやって来たのだろうか?

 ますます混乱する妙才を尻目に、アドラーが今度はこう言い放った。

「それより孟徳。お前に一つ面白い提案があるんだが」

「提案?」

 思わぬ言葉に二人は咄嗟に身構えた。

「簡単な話だ。今の俺には住む場所も無ければ安全や身分の保証も無い。だからお前にそれを保障してもらいたい」

「仮にそうすることで、私に一体何の見返りが?」

「さっきも言ったが、俺は未来の世界からやってきた軍人だ。当然、未来の技術や知識もある程度知っている。そいつを使えば、お前が世界を牛耳ることもできるだろう」

 彼の提案とはすなわち取引だった。自分の持っている未来の知識と引き替えに、安全と身分を保証しろと言うのだ。

 確かに彼の持っているであろう未知の技術は魅力的だ。正確に時刻を知ることができる装置を国民全員が持つことができれば、それだけで世界は大きく変わり、未来の兵器を造ることが出来れば、彼の言うように世界を手にすることも夢では無い。

「どうだ? 悪い話ではあるまい。お前は損する事なく莫大な見返りが手に入り、俺はひとまず安全を手に入れられる。互いに損のない取引だと思うが?」

「……貴方が私たちを裏切らないという保証は?」

「保障はない――が、それはお互い様だろう? 教えるだけ教えてお前達が俺を殺す事だって十分あり得る。まあ、乗り気じゃないなら仕方がない。別の所に売り込みに行くだけだ。短い間だったが世話になったな」

 そう言うとアドラーは椅子から立ち上がり、部屋を出ようと扉の方へと歩いていく。

「お、おい待て――」

 慌てて立ち上がった妙才を孟徳が遮った。

「好きにすればいいわ。ただ、貴方の身の上話を信じてくれる希有な人間が、この世界に一体どれくらい居るのかしらね?」

 アドラーがぴたりと歩みを止めた。畳みかけるように孟徳がその背中に言葉を叩きつける。

「未来から来た? 大ドイツ国の軍人? 片腹痛いわ。そんな夢物語と何ら変わらない話の、一体何処に確証があるというの? 確かに貴方の持ち物や服装には説明できない部分がいくつかある。でもそれだけで貴方が未来の時代からやってきた人間だと、どうして信じられる? せいぜい気狂い扱いされて殺されるのが関の山ね」

「その時は別の方法を考えるだけだ。わざわざお前に心配してもらう必要はない」

「そこまで言うなら、無理に引き留めたりはしないわ。ただ、こちらの提示する条件をいくつか飲むというのなら――その取引、乗ってあげなくもないけど?」

「ほう?」

 出口から戻ってきた再びアドラーが椅子に腰を下ろした。

「面白い。参考までにその条件とやらを聞かせて貰おうか」

「まず一つ、貴方が持っている情報や技術を包み隠さずに全て私に提供すること。

 二つ、戦闘指揮官として貴方も戦場に立つこと――うちでは指揮官が不足していてね。人材を遊ばせてる余裕は一切無いの。だから貴方にも戦力として参加してもらうわ。

 そして三つ、決して私達を裏切らない事――これは絶対よ。この三つを誓うと言うのでならば、貴方を客将として迎え入れ、我が軍での地位と安全を約束するわ。勿論それ相応の待遇も保障するわ」

 破格の条件に流石のアドラーも驚き目を剥いた。

「どうする? 乗る乗らないは貴方の自由よ。ただし、これよりもいい条件を提示する場所が他にあるとは思わないことね」

 自信たっぷりにそう言い切る華琳だったが、まさにその通りだった。

 素性から経歴まで何もかもが意味不明な人間を軍の客将として迎え入れるなど、妙才の今までの記憶どころか、世界を見渡してもあり得ないのではないだろうか。

 華琳が出した条件とはまさにそれほどのものだった。

「――いいだろう。だが、それなら俺にも一つだけ条件がある」

「何かしら?」

「俺は元の時代に戻る手がかりを探したい。その為の協力を約束しろ。それが俺の条件だ」

「いいわ。だけど、もしも私たちを裏切るような真似をしたら、頸を刎ねるだけじゃ済まさないわよ?」

「勿論だ」

 すっ、とアドラーが孟徳に右手を差し出した。

「……何よ?」

「契約成立の証だ。俺の時代では商談や契約が成立した証として、握手するのが習わしでな」

「なるほど。面白い習わしね。気に入ったわ」

 孟徳は差し出された手をしっかりと握り、ここに二人の契約は成立した。

「すぐに貴方の私室と世話役の人間を用意するから、必要な物があるならその世話役の者に言って頂戴。後の事は追って知らせるわ」

「了解した」

「それから、私の客将となった以上、貴方にも私の真名を預けるわ。これから私の事は“孟徳”ではなく“華琳”と呼びなさい。秋蘭、貴女もよ」

「は……」

 妙才は少し渋い顔をしたが、君主である彼女の言葉には逆らう理由を彼女は持っていかなかった。

「私の真名は秋蘭だ。姉者……お前が倒した黒髪の女については、また改めて紹介する」

「分かった。俺のことはアドラーでいい。真名というのは俺の国には無い習慣でな。呼ばれ慣れている名前で呼んでもらいたい」

「ならアドラー。今から我らの客将として、存分にその知識と力を発揮なさい。いいわね?」

「御意に(ヤヴォール)」

 蛇を思わせる笑みを浮かべながら、アドラーは大仰なまでに頷いてみせた。

 

 参

 

 孟徳改め、華琳との取引を終えたアドラーは、早速用意された自分の私室へと向かっていた。

「まさかこんなに上手くいくとはな……」

 抑えられぬ喜びに、自然と笑みが浮かぶ。

 未来の知識を餌にひとまずの安全を買う取引のつもりだったが、その成果は彼が予想していた以上のものだった。

「ククク、せいぜい俺を利用するがいい。俺も遠慮なくお前を使わせてもらうぞ、華琳」

 そうひとりごちた後、アドラーは華琳がぽつりと呟いた言葉のことを思い出した。

(そういえば、あの“天の御遣い”というのは一体何だ? 秋蘭は何か知っているようだったが……)

 華琳が呟いたあの言葉、実は彼にもしっかり聞こえていたのである。

(俺がここに来た事と何か関係があるのか?)

 あの言葉を聞いた直後から、秋蘭の様子は明らかに変わっていた。何かしらの情報を持っていると見て間違いない。

(奴らは俺の何かを知っていた。だからこそ、こちらの提案にあそこまであっさりと乗って見せた? いや、そうだとしたら最初に俺を調べた事に説明がつかない。だとしたら一体……?)

 思考の海を彷徨うアドラーだったが、考えてばかりいても仕方がないと思い、ひとまず考えを打ち切った。

「まあいい。まずはこの時代のことを調べる方が先決だ。それに俺の予想が正しければ……ククク。これも死線を越えた者への褒美という奴か?」

 意味深な笑みを浮かべながら、アドラーは自分の私室への歩みを強めるのであった。 

 

 肆

 

 取引が終わってからずっと、秋蘭は納得がいかなかった。

 なぜ華琳はあんな得体の知れない男の提案を簡単に受けたのか。それも客将入りという破格の待遇まで付けている。彼女に考えが無いとは思わないが、少々軽率過ぎるのではないだろうか。

 彼女が一体何を考えているのか確かめるべく、秋蘭は華琳の部屋を訪れた。

「華琳様、秋蘭です」

 部屋の戸を叩き自分の名を告げると、扉の向こうから主の声が返ってきた。

「秋蘭? どうしたの?」

「華琳様に少々お訊ねしたい事があって参ったのですが、よろしいでしょうか?」

「いいわ。入りなさい」

「はっ。失礼します」

 部屋に入ると、華琳は机に向かって書類仕事をしている最中だった。彼女は視線を竹簡から秋蘭へと移すと、手に持っていた筆を硯に置き、竹簡を机の脇に退けた。

「それで、聞きたい事とは一体何かしら?」

「単刀直入に申し上げます。華琳様は何故あのような男と取引を? それにあの時仰っていた“天の御遣い”とは一体どういう意味なのですか?」

 華琳は少し驚いたような顔をした。

「……聞こえていたのね」

「はい」

 秋蘭が頷くと、華琳はゆっくりと語り始めた。

「出撃の時、私が流星を見たと言ったのを憶えてる?」

「はい。確かに憶えています」

「その流星はね、ちょうど私たちが向かった方角に飛んで行ったのよ。そして未来から来たと言うあの男も、流星が消えた先に現れた。これって単なる偶然だと思う?」

 その言葉を聞いた瞬間、秋蘭はまさか、と目を剥いた。

「そ、それでは!?」

「そう。あの男が本当に“天の御遣い”としてやってきたという事もあり得るという事よ。本人にその自覚は無いみたいだけどね」

「…………」

「無論、単なる偶然かもしれない。でもあの男が持っていた物は、紛れもなくこの時代の技術よりも何世代も先の物よ。その技術と知識を一時的な取引で手に入れられるのならば、安い買い物だと思わない?」

 なるほど確かにそう言われれば納得がいく。一人の男を引き入れるだけで遙か未来の技術と知識が手に入るのだ。長い目で見ればこれほど美味い取引は他に無い。

 が、それでも秋蘭は食い下がった。そうさせるだけの危うさがあの男の中には存在したからだ。

「し、しかし! あの男は明らかに危険です! 何か企んでいるに違いありません!! もしかしたら我らを裏切るような事も!!」

「ええ。十分にあり得るでしょうね。だからこそ、そうならない為の保険はしっかりとかけるつもりよ」

 言い聞かせるようにそういうと、華琳は部屋の窓に目を向けた。その向こうには平和に暮らす陳留の街並みが映し出されていた。

「でもこれで、私の覇道は今よりもずっと早く進むわ。大陸を統一する時間も数年は縮むでしょう。ひょっとしたら、私の世代でこの乱れ果てた世界を直す事ができるかもしれない。私はそれに期待しているのよ」

「何を仰います! あのような輩の力など借りずとも、華琳様と我らの力があれば、必ずやより良き時代を作ることができます! その為の我ら姉妹! そのための夏侯家です! もっと我らをご信頼下さい!」

 秋蘭の気迫に目を丸くしていた華琳だったが、やがて嬉しそうに微笑んだ。

「秋蘭……ありがとう。でも私は一日でも早くこの乱世を終わらせたいの。それは私の為じゃない、無秩序な世界によってこれから失われようとしている誰かの命の為であり、いつか失われてしまうかもしれない貴女や部下や民の命の為よ。その為にはありとあらゆる手を尽くす。それだけは分かって頂戴」

 穏やかな口調ではあったが、ハッキリとした力強い言葉だった。

「……はい」

 やはりこの方に尽くして良かった。

 秋蘭は心からそう感じた。

 従姉妹として幼少の頃からずっと見守ってきたが、その気高さと誰よりも平和を愛する気持ちは、どんな為政者にも劣らない。

 宦官の子と周囲から蔑まれ、豪族達から蛇蝎の如く嫌われようとも、決して腐らず、自らの覇道に向けて歩む姿は、まさに王にこそ相応しい。

 ――この方だけは何があってもお守りしよう。たとえ命を捨てることになろうとも。

 秋蘭は改めてそう心に誓った。

「それよりもずっと気になっている事があるの。春蘭は今どこに?」

 と華琳が言った。春蘭とはアドラーに斬りかかった黒髪の女の事である。

「街の医者を呼び、部屋で看病させました。恐らくまだ部屋で休んでいると思います」

「ならそこへ行きましょう。あの荒野で何が起こったのかを調べるために」

 華琳はそう言うと、秋蘭と共に黒髪の女が居る部屋へと向かった。

 




陳留という始まりの地に、
意図せずして現れた死神。
それは甘美な言葉で少女を魅了し、誘惑する。
囁きに含まれたそれは大陸を救う薬となるか、死を告げる毒となるか。
次回「客将」

アドラーは外史に現れた毒蛇。


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03.客将

書き忘れていましたが、オリキャラは出ます。
ご了承ください。


光和七年――陳留/華琳邸宅内

 

 壱

 

「――ここか」

 屋敷の中を歩くこと十数分。アドラーは華琳によって用意された自分の部屋の前まで辿りついた。

 中に入ろうと扉に手をかけた時、部屋から不審な気配があるのを感じ取った。

 既に誰かが部屋の中に居る。

「誰だ!」

「ふぁえあ!?」

 気配の正体を確かめるべくアドラーが扉を勢いよく開け放つと、部屋の中に居た小柄な娘が素っ頓狂な声を上げた。

 華琳と同じか少し年下に見えるその娘は、アドラーの声と勢いにすっかり気圧されてしまったのか、怯えた小動物の様に視線を彷徨わせながらオロオロと部屋の中を右往左往している。持ち前の薄氷色の瞳には既にうっすらと涙が浮かんでいた。

 身につけている群青色の着物は屋敷で働く女官のものと同じであることから、彼女もその内の一人なのだろう。

 野暮ったく後ろで編んでいる黒い長髪やおどおどした雰囲気も相まって、垢抜けない田舎娘という言葉がぴたりと合う少女だった。

「お、お待ちしておりました、アドラー様……」

 今にも消えそうなか細い声を絞り出すと、娘は命乞いのように深々と頭を垂れた。

「貴様は何者だ。ここで何をしている」

 容赦の無い言葉にびくりと娘の身体が震える。

「わわわ、わたしは! 孟徳様より、その……ア、アドラー様のお世話役を命じられました、女官の翡翠と、も、申します……い、いまはその、部屋のお掃除を……」

 最初は聞き取れた娘の声は喋っていく内にどんどん小さくなり、最後は何と言っているかすら聞きこえるかどうかも怪しいほどになっていた。

 ――世話役? この娘が?

 アドラーは思わず自分の耳を疑いたくなった。

 確かに世話役をつけると聞いてはいたが、まさかこんな田舎娘のような奴だとは夢にも思わなかった。これなら一人の方が余程マシだろう。

 なぜ華琳は、こんな娘をわざわざ自分にあてがったのか?

 分からない。

 だが今さら文句をつければ、面倒な事になるのは目に見えている。

(雑用だけなら邪魔にはなるまい……)

 強引にそう結論付け、アドラーは渋々納得する事にした。

「ではお前が華琳の言っていた俺の世話役という訳だな?」

「はい……そう、です」

 確認するように改めて訊ねると、娘――翡翠は怯えながらもはっきりそう答えた。

 思わず頭が痛くなるアドラーだったが、それよりも気になる事が一つあった。 

「貴様、さっきから何をそんなに怯えている?」

 そう。この少女は自分に対して何故か不自然なまでに怯えているのだ。いきなり怒鳴りつけたのも原因の一つだろうが、それにしてもこの娘の怯え方は異常であった。

「す、す、すみ、すみましぇん! わ、わたし、気が弱くって……それに、えっと、そのぉ……お、男の方にお仕えするのは、これが始めたなもので……それで、その……本当に申し訳ございません!」

 言葉の端々を噛んだりつっかえながら精いっぱいという感じで告げると、翡翠は何度も何度も頭を下げた。

 あまりの様子にすっかり毒気を抜かれたのか、アドラーはため息を一つつき、

「もういい……早速だが、お前に聞きたいことがある」

 と言った。

「は、はいぃ!? な、なな、何でございましょうか!」

「この屋敷に資料室か書庫のような場所はあるか?」

 恐る恐る彼女を首を縦に振った。

「それなら、書庫が屋敷に奥にございます……」

「よし。掃除はいいからそこへ案内しろ。今すぐだ」

「わ、分かりました! では私の後に付いてきて下さいませ……」

 二人は部屋を出ると、屋敷の奥にあるという書庫を目指して廊下の向こうへと消えていった。

 

 弐

 

 黒髪の女こと春蘭は荒野での騒動の後、街から呼び付けた老医によって念入りな検査と治療を受けていた。

 屋敷に戻った時はまだ呼吸も荒れ、一人では動けない程に痺れや痙攣が身体を支配していたが、時が経つに連れてそれらは次第に弱まっていった。

 他に目立った外傷や出血なども無い事から、老医は彼女にもう命の危険や異常が無いことを告げると、謝礼を懐に入れ、そそくさと街へと帰ってしまった。

「あのヤブ医者め……異常が無い訳ないではないか」

 自室の寝床でひとりごちながら、春蘭は荒野での事を思い返した。

 剣を掴まれた瞬間に味わった、あの感覚。

 全身に走ったあの痺れと衝撃――それは鮮明に記憶の中に焼き付いている。

 どんな事にも耐えてきた自慢の肉体が、剣を掴まれただけで全く言う事を利かなくなってしまった。

 それも恐怖や殺気に怯えてそうなった訳ではない。まるで全身の肉が狂った様に暴れ出し、自分の思い通りに動く事を拒んだのだ。

 五胡の妖術。

 春蘭の頭の中にそんな言葉が浮かんだ。

 あれこそまさにそうなのではないだろうか? ただの人間にあんな芸当ができるとは到底思えない。

 そんなことを考えていると、

「春蘭――入るわよ?」

 扉の向こうから声が聞こえ、華琳が部屋の中へと入って来た。

「か、華琳様!? し、失礼しま……ぐっ!」

 突然の来訪に春蘭は驚き、急いで身を起こそうとしたが、上手く起き上がれず床へと倒れ込んでしまう。

 再び起き上がろうとする彼女を華琳が制した。

「横になったままで構わないわ。それより身体は大丈夫なの?」

「面目ありません……医者にはもう問題ないと言われたのですが、まだ上手く動けそうにありません」

「そう……ところで、あのアドラーと言う男の事だけど、今後は私の客将として仕えることになったわ」

「なんですと!?」

 あまりの事に全身の痺れも忘れ、春蘭は無理矢理身体を起こすと華琳の肩を強く掴んだ。

「いけません華琳様! あやつは華琳様が思う以上に危険な存在です! どのような罰を受ける覚悟はできております。ですからどうか今一度お考え直しを!」

 しかし彼女は頑として首を横に振った。

「春蘭、私は一度言ったことは曲げる気は無いわ。それとも、この私に交わした契約を今さら破れと言うの?」

「そ、それは……」

 春蘭は答えに詰まった。主の面子を潰す訳にも行かず、かといって自分の中にある意見を曲げることもできないからだ。

 主の方針と自分の武将としての勘――相反する二つの意思が溶け合うことなく彼女の頭の中をぐるぐると廻る。

「…………」

 嫌な沈黙が部屋の中を包んだ。

 そんな彼女の胸中を悟ったように華琳の方から口を開いた。

「判っているわよ。あの男が危険な存在だっていう事くらいね」

「え……?」

「だけどね春蘭、恐らく貴女が思っている以上に世界はこの先もっと荒れるわ。宦官や役人達は腐敗し、朝廷は日を追うごとに力を失いつつある今、私をはじめとした理想や野心を抱える者達は力を蓄え、次々と覇業に名乗りを上げようとしている。そうなったらもう誰も戦乱の流れを止めることはできない。だからこそ、私が誰よりも速く覇業を成し遂げ、大陸に住む全ての国民に平和と幸福をもたらす――その為にはどんな存在であろうとも利用するつもりよ。例えそれが猛毒であっとしてもね」

「ですが……」

 華琳は自身の両肩を掴んでいた両腕を手に取ると、春蘭を再び横に寝かせた。

「無論、現状で打てる手は全て打ってあるわ――彼の監視には“仁”を付けたの」

「“仁”、ですか……」

 春蘭は息を呑んだ。同時に部屋の温度が一気に下がった気がした。

 仁――本名を曹仁と言い、華琳とは血の繋がりの無い従姉妹に当たる。

 春蘭や秋蘭も同じく彼女の従姉妹に当たるのだが、曹仁は生まれ持った複雑な事情ゆえ影の者として育て上げられ、その名と姿を知っている者は曹一族の中でもほんの一握りだけだと言う。

 親戚筋である夏候家の春蘭もその例に漏れず、その名前や存在すら知る由も無かった。無論、その姿は一度も目にした事は無い。

 だが、彼女はふとしたきっかけからその存在を知ることになる。

 それは華琳がまだ陳留郡の太守に就く前――首都・洛陽の北部尉(現代における警察署長のようなポスト)として街の治安警備に従事していた時の事だ。

 相手の家名や後ろ盾など一切関係なく犯罪や違反行為を罰し、職務を遂行する彼女の周りにある噂が流れたのだ。

『曹孟徳は影の者を使って邪魔者を犯罪者に仕立て上げ、己の出世を狙っている』

 最初は馬鹿馬鹿しいと思っていた春蘭だったが、異常なまでの速度で犯罪や違法行為を摘発し続ける彼女の評判を聞いて、一度だけ尋ねたことがあったのだ。

 その時、彼女はこう答えた。

「犯罪者を仕立て上げたことなど一度もないが、影の者を使って治安維持に従事しているのは本当だ」と。

 その時口端に上った名前が仁――すなわち曹仁だったのだ。

 ――華琳様があの男に拘るのには、それだけ重要な理由がある。

 春蘭は瞬時にそう直感した。

「ええ。そういう仕事はあの子が一番向いているし、何よりアレの事はもっとよく調べる必要があるもの――それよりも春蘭」

 改まると華琳の表情が一気に険しくなった。

「はい、何でしょうか?」

「貴女がアドラーに剣を掴まれた瞬間、一体何が起こったの? 貴女の分かる範囲で説明して頂戴」

 春蘭は己の脳裏に焼きついた記憶をもう一度辿ってみた。だが、何度思い出してみても結果は同じだった。

「……私にも分かりません。あの男に剣を掴まれたかと思うと、次の瞬間には身体の中を言いようのない衝撃と痺れが走っていました。すると全身のありとあらゆる場所が言う事が利かなくなったのです――馬鹿げているとお思いになるでしょうが、自分は五胡の妖術か、それに類する何かではないかと考えています」

「なるほど……」

 馬鹿馬鹿しいと喋った本人ですら思うような話を、華琳は嘲笑う事無く最後まで聞き入れた。

「本当に妖術かどうかはともかく、何か裏がありそうのは確かね……」

 と華琳が呟いた時、誰かが部屋の扉を叩くのが聞こえた。

 瞬間、二人の視線が同時に扉に向いた。

「誰だ」

「華琳様、秋蘭でございます」

 声の主は秋蘭だった。彼女はアドラーがここに来ないよう、万が一に備えて部屋の前を見張っていたのである。

「入って」

「はっ。失礼します」

 扉が再び軋みの音を上げると、秋蘭本人が姿を現した。

「華琳様、今しがた文官達から報告がありまして、アドラーと世話役の翡翠が何やら屋敷の書庫に向かったそうです」

「書庫へ? そう。分かったわ」

 華琳は少し考える様に、

「彼が一体何をしに向かったのか調べるよう文官達に伝えて。どんな些細なことでも構わない、全てを報告するようにと」

「御意に」

 秋蘭が踵を返すと同時に、再び扉は閉じられた。

「あなたの秘密、根こそぎ全て頂くわよ。アドラー」

 不敵な笑みを浮かべながら、華琳は静かにそう言った。

 

 参

 

 華琳達の会話から遡ること数十分。

 翡翠に案内されて辿り着いたのは、大量の資料や書籍が収められた――まさしく書庫と呼ぶに相応しい大部屋だった。

 一丈はゆうに超えるであろう保管棚には、様々な情報や理論を記録した多くの書物や文献がぎっしりと並べられ、部屋の隅々まで犇めき合っている。

 更にそれらは年代や種類ごとにきちんと整理整頓され、何処に何が保管されているのか全て一目で分かるようになっていた。

 司書などの職員が不足気味なのか、中に居る人間はどことなく慌ただしく仕事をしているようだったが、それもこの部屋の大きさや収められている資料の膨大さからすれば、至極当然の事だった。

(フムン。これなら心配はなさそうだな)

 アドラーは感心したように棚に納められた書物や竹閑を適当に見繕って備え付けの机に置いた後、翡翠を呼びつけた。

「翡翠、お前文字の読み書きはできるか?」

 唐突にそう聞かれ、翡翠は思わず目を瞬かせた。

「え? あ、はい。一通りの事は教わっておりますので、一応……ですが、何故そのようなことを?」

 意味が分からないと言わんばかりんの顔で尋ねる彼女にアドラーは言った。

「今日からしばらくの間、俺はここで勉強する。お前には最初の仕事として、それを手伝ってもらう。分かったな?」

 アドラーがここに来た目的は言うまでもなく情報収集だった。

 自分が一体どこに居るのか、どの時代に居るのか、まずはそれを正確に知る事が重要だと考えたのだ。

「か、かしこまりました……できる限りお手伝いいたします……」

 有無も言わせぬ言葉の勢いに押され、翡翠は弱弱しく頷いた。

 

 肆

 

「……勉強してる、ですって?」

 自室に戻って報告を受けた華琳の顔は、やはり呆気に取られたものだった。

 それもそうだろう。警戒していた人間が早速怪しい動きを見せたと思ったら、始めた事がただの勉強なのだ。これでは警戒していた自分の方が間抜けに思える。

 現に報告に来た秋蘭も狐に摘まれた様な表情だ。

「は――司書たちの話によれば、あやつは書庫にある資料や書籍を使って文字の読み書きの他、歴史や地学などを中心に学問を学んでいるそうです。それも一つずつではなく、複数の事を同時に行っているとの事」

「世話役の翡翠は何をしているの? まさか一緒になって勉強していると言うのでは無いでしょうね」

 重苦しい表情で秋蘭が首肯した。

「……はい。彼女はアドラーの補佐として、あやつの勉強を見ております」

「一体どういうつもりかしら……?」

 確かに自分が今どの時代のどういった場所に居るのか調べる事は大切だろう。字の読み書きもこれから働いて貰うに当たって覚えてもらわなければならないので、こちらから言い出す手間が省けてむしろ好都合でもある。

 好意的に見れば、アドラーは自分達の為に努力しているという風にも見えなくもない。

 だが、あの男がそんな事の為に動く人間だとはとても思えなかった。

 ――何かある。絶対に何かある。

 頭の奥からそんな予感と共に鈍痛が湧き起こった。

「華琳様、また顔色がお悪いようですが? どこか具合でも?」

 秋蘭が心配そうに顔を覗き込んだ。

「大丈夫よ。何でもないわ」

 そう答えたものの、嫌な予感と鈍痛は消えない。それどころか痛みは己の存在を主張するかのようにどんどんと強くなっていく。

 ――この痛みは自分に何かを伝えようとしている。しかし、それが何かは分からない。

 だが警戒は更に強くしておいた方がいい――脳裏に響く頭痛に耐えながら、華琳はそう決意した。

 

 伍

 

 時間と言うものは、物事に集中するとあっという間に過ぎていく。

 最初は明るかった書庫の中も、時が経つにつれて段々と赤く染まり、今では月の光と蝋燭の明りだけが頼りになっていた。

 その間、アドラーは翡翠にいくつかの資料や書籍を読ませ、それらを参考にこの時代の文章の癖や特徴などを掴んでいった。

 元々中国語は母国語のように使える事もあって、今では簡単な文章なら自分で読む事ができた。

 そのまま自分で持ってきた資料を早々に読み尽くすと、アドラーは地理や歴史についての資料を探し出して次々と読み漁った。

 一方、早々にお役御免となった翡翠の方はと言うと、下がれとも残れとも言わないせいで別の仕事に手を付ける事が出来ず、黙々と資料を読み続ける彼の向かいで所在なさげに本を眺めている状態である。

 既に互いに無言のまま数時間、このままずっと無音の時間が続くかと思われたが、突然アドラーがその沈黙を破った。

「おい翡翠」

「ひゃ、ひゃい!?」

 唐突に名前を呼ばれたせいか、翡翠は上ずった妙な声を上げた。

「……別に取って食ったりしない。いちいち怯えるな」

「も、申し訳ございません……」

「まあいい。お前、“天の御遣い”という言葉を知っているか?」

「“天の御遣い”……ですか?」

 彼女は首を傾げた。何故そんな事を急に言い出したのか疑問に思っているのだ。

「そうだ。何でもいい。何か知っているか?」

「……そういえば、街でこんな噂を聞いたことがあります。『天を切り裂いて飛来する一筋の流星、遙か先の世界から天の御遣いを乗せ、乱世を鎮静す』と」

「ふむん……」

 思わずアドラーは唸った。噂はまさに自分の事を指し示していたからだ。

(だとすると、俺がここにやって来る事を予見していた人間が居たという事になる。ひょっとするとそいつが俺をここへ? だが一体どうやって……? それに乱世を鎮静するとは何だ? 俺が何かするというのか?)

 黙々と考える彼の様子が気になったのか、翡翠が不思議そうな視線を差し向けた。

「あの、何か気になるような事でも?」

「いや、そんな言葉をふと耳にしてな。何の事か少し気になっていただけだ。あと、もう一つ聞きたいことがある。この亜歴山(アレキサン)という女王のことだ」

 今度は今しがた読んでいた資料を広げて見せた。

「こいつは数百年前、はるか西の国からやって来て摩訶陀(マガダ)国(現在のインド)に戦いを挑んだというが、間違いないのか?」

「は、はい。間違いございません。この女王の事は大陸以外でもとてもよく書かれていますし、他の文化や民族にまで影響を及ぼしたと言われています」

「なるほど……」

 再び興味深げに唸る彼だったが、内心では更に浮かび上がった疑問に頭を悩ませていた。

(この亜歴山というのはどう考えてもローマのアレクサンドロス三世の事だ。それが“女”だと? ……おまけに他の連中も女ばかりだ……)

 そう、資料に登場する西洋の偉人たちは、何故か誰も彼もが女性だったのだ。

 始めは誤字か何かだと思ったが、複数の資料を照らし合わせてそれが確認されたことから、誤字の可能性は消えた。そして創作の可能性も今の翡翠の話で無くなった。つまりこの世界ではどういう訳か、英雄や偉人と呼ばれる人物は全て女性という事になっているらしい。

(もしこいつの話や資料が本当なら、ここは過去の世界とも違うのか?)

 今までの話から考えられる結論として、そう言わざるを得なかった。少なくとも自分の記憶にある世界の歴史とは異なる部分が多すぎる。

(いずれにしろ、もっと調べてみないとはっきりとした事は言えないか……)

「翡翠」

「は、はい!?」

「外国に関する資料は他に無いのか?」

「い、いえ、おそらくここにあるもので全部かと……」

「他に資料が手に入りそうな場所は?」

 すると、彼女は少し考えた後、

「……もしかしたら、街に流れている書物の中にそれらしいものがあるかもしれませんが……」

 と言った。

「ふむん。街か……」

 悪くない考えだった。街の中には様々な人間がいる。もしかしたら歴史に詳しい人間や外国人そのものがいる可能性だってある。自分の欲しい情報を手に入れるにはもってこいかもしれない。

(ここでの情報収集が終わったら、足を向けてみるとするか……)

「一度、他に資料がないか調べてみろ。見つけたら、あるだけ全部もってこい」

「わ、分かりました」

 翡翠は立ち上がると、蝋燭を片手に棚がある方へと歩いて行く。

「どうやら、思ったよりも謎は深そうだ……」 

 暗がりで必死に資料を探す翡翠の様子を眺めながら、アドラーはぽつりと呟いた。

 




アドラーと言う謎多き山から
出土する「情報」と言う名の鉱石。
だが、その価値と真相は誰も知り得ない。
例えそれが罠であったとしても…。

次回「陳留」
毒蛇が楽園にもたらすものは何か…?


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04.陳留

更新が随分遅れてしまい、申し訳ありません。
今後もゆっくりなペースにはなると思いますが、更新していくつもりですので、よろしくお願いします。


 零

 

 アドラーが華琳の客将となってから、瞬く間に半月が過ぎ去った。

 その間、彼は書庫に籠もり、文化、地理、歴史など、この世界の情報収集に明け暮れていた。

 最初こそ翡翠と共に作業を行っていたが、三日で文字の読み書きをマスターすると、それ以降は一人で作業を続けた。

 連日連夜にわたる情報収集と分析の結果、現在(いま)が約千八百年前の中国で、此処が現代の河南省に該当する場所だと言う事も明らかになった。

 自分の置かれた状況をおおよそ理解したアドラーが次に行った作業は、己の中に潜めていたあるひらめきについての調査だった。

 それは自分が過去の時代にいると考えた時から密かに胸の内にあり、同時に華琳に技術提供の取引を持ちかけた最大の理由でもあった。

 ――この時代ならば、「アガルタ」の古代文明がまだ生き残っているかもしれない。

 アドラーは書庫の資料からチベット地方――特にツァンポ峡谷がある西部方面を徹底的に調べ上げた。

 すると、この一帯は現在、“羌”と呼ばれる遊牧民族が支配している事が判明した。

 過去の記録から推測してもこの民族がアガルタの末裔、およびその関係者である可能性は非常に高く、接触出来れば何らかの情報が得られるに違いない。

 更に上手くいけば、完全な形でアガルタの技術と力を手に入れる事もまた、決して夢では無いだろう。

 新たな目標を見つけたアドラーの瞳には、ぎらついた野望の炎が宿っていた。

 

 壱

 

《アドラーという男は予想以上の切れ者です》

 闇の様に抑揚の無い声が部屋の中に響いた。

 声に耳を傾けているのは部屋の主である華琳だが、不思議な事に部屋の中には彼女一人しかおらず、他の人間の姿はどこにも見当たらない。

《奴はこの半月で文字の読み書きだけでなく、漢の歴史や地学など、軍師に勝るとも劣らない知識を身に付けております》

 再び部屋の何処かから声が聞こえた。一体どこからやって来るのか見当もつかないが、姿なき声ははっきりと華琳の元へ言葉を届ける。

「随分と勉強熱心という訳ね。それで?」

《その後についてですが、最近は“羌”について何やら嗅ぎ回っているようです》

「“羌”?」

 予想外の名に華琳は眉根を寄せた。

 “羌”と言えば烏丸、匈奴、鮮卑と並び、帝に楯突く辺境の敵民族だ。両者の戦いの歴史は裕に数百年を越し、幾度となく互いに侵略と防衛を繰り返している。

 だが、なぜそんな辺境の敵民族を未来から来た“天の御遣い”がわざわざ調べるのだろうか?

「……あの男が“羌”と手を結ぶと?」

 と、華琳は当てずっぽうな事を言った。それくらいしか理由が思いつかなかったからだ。

《分かりません。ですが、あの男が“羌”について何か知りたがっているのは確かです》

「…………」

《拷問して口を割らせましょうか?》

 考え込む彼女を察してか、闇がそう提案した。

 しばらく考えこむように間を置いた後、華琳は首を横に振った。

「まだ泳がせておきましょう。相手の目的がハッキリしない内から強引な手に出るのは得策じゃないわ。仁、あなたは引き続きアドラーを監視しなさい。何か情報を掴んだら真っ先に私に報告を」

《承知いたしました》

 答えを受け取った華琳はその後、『それと、これは報告とは関係ない事なのだけれど』と前置きしてから、

「翡翠は彼と上手くやっているかしら?」

 と再び闇に尋ねた。

《……何故、そのようなことを?》

 思いもよらぬ問いに、闇は少々面食らったようだった。姿こそこの場には見えないものの、聞こえてくる声の調子からもそれは間違いなかった。

「聞いているのは私の方なのだけれど?」

 戸惑う闇の言葉を切り伏せるように華琳はそう返す。

 少々の沈黙が間を包み込んだ後、やがて闇が口を開いた。

《……はい。自分が見る限りでは彼女は――翡翠は上手くやっているように思います》

「そう。何よりだわ」

《華琳様、一つお伺いしてもよろしいでしょうか?》

 満足げに肯く華琳に今度は闇の方が問いを投げかけた。

「なにかしら?」

《何故、翡翠をあのような男に? お言葉ですが、あのような男に彼女は到底合わないかと……》

 さもありなんと華琳は頷いた。

「そうね。確かに合わないと思うわ――でも、だからこそ良いのよ」

 彼女の答えには確かな含みがあった。が、それがどういう意味を持つのかについては、教えるつもりはないらしい。

《そう……ですか》

「今度気が向いたら教えてあげるわ。あなたも気になるでしょうから」

《は……》

「もう良いわ。下がって」

《では失礼いたします》

 その言葉を最後に部屋の中から闇の声が聞こえてくる事は無くなった。

 闇――曹仁からの報告を聞き終えた華琳は、どっと疲れたように椅子の背にもたれ掛かった。疲労の原因は言うまでもなくアドラーだ。

 “羌”という新たな情報を得る事は出来たものの、華琳にはその意味が全く理解できなかった。

 ――何ゆえ“羌”なのか? 一体“羌”に何があると言うのか?

 果たしてそれはアドラーが隠しているであろう秘密と、何の関係があるか?

 何もかもが分からないまま、情報の断片だけが自分の元へと手繰り寄せられる。

「アドラー、秘密の何か、そして“羌”。この三つの接点は一体……?」

 答えを求めるように華琳は虚空に問うたが、それを持つものは誰も居なかった。

 

 弐

 

 陳留の街は猥雑で力強い活気に満ち溢れている。

 悠久の時代より交通の要として存在するこの街は、帝都洛陽と辺境とを往復する商人や出稼ぎに向かう労働者達が渦のようにぶつかり合う場所であり、それに伴って多様な市や店が開かれるのも、また当然の事であった。

「あんちゃん、あんちゃん! コイツはここらじゃ滅多に手に入らない妙薬でサァ! どんなケガや病気も一粒飲めばけろりと治っちまう。医者いらずの万能薬だぜこいつァ! 今なら安くしとくからよ、一瓶どうでぇ?」

 毒々しい色合いの丸薬が詰まった小瓶が突然、アドラーの前に突きつけられた。

 あまりの怪しさに顔を顰めていると、後ろや横合いから人を突き飛ばしながら猛然と他の人間が道に割り込んでくる。

「邪魔だ邪魔だ! こっちは急いでんだよ!」

「どけどけ! 商売の邪魔すんな!」

 流れ込む人々の勢いに身を任せ、アドラーはそのまま通りを進んだ。

「いらっしゃい! いらっしゃい! 洛陽から仕入れたばっかりの老酒だよ!! よ! 買ってかないかい!」

「お兄さん、男前な顔してるねぇ。ウチの店には可愛い娘が色々と揃ってるんだけど、ちょっと遊んでおいきよ!」

「さぁさぁ張った張った! この中から一番早い鼠を当てられたら八百銭だ! いっちょ運試ししてみようって度胸のあるヤツは居ないか!?」

「こいつはこの街一番の職人が作った一流の武具だぜ! こいつを持って太守様の元へ行きゃ、今日からアンタも立派な孟徳軍の一員だ! 買わねえ手はないぜ!」

 酒に食べ物、女に博打に武器に薬。

 活気湧き立つ陳留の街では、大抵の物が揃っている。

 ならば当然、様々な情報も出回るだろう。

 そう思ったアドラーは“羌”とアガルタについての情報を得るべく屋敷を抜け出し、こうして街へと繰り出したという訳だ。

 人々が犇めき合う街路を縫うように歩いて行くと、呼び込みや売買の声に混じって罵声やら悲鳴が流れ込んでくる。どうやら街の規模に対して治安の方はいささか問題を抱えているらしい。

 それから小一時間ほどかけて市場や通りに居並ぶ書店、雑貨屋、酒家など、情報を持って居そうな人間がいる場所をいくらか当たってみたものの、生憎どの店にも目当ての情報を持っている人間は居なかった。

(やはりそう簡単にはいかんか……)

 半ば想定していたとは言え、芳しくない結果にアドラーは内心辟易としていた。

 仕方なく別の地区に移ろうとしたその時、

 ――泥棒だ! 誰か! そいつを捕まえてくれ!

 張り裂けんばかりの叫び声が突然、通り中に響き渡った。

 見れば通りの向こうから大きな包みを抱えた中年の男が、必死の形相で走って来ている。恐らく件の泥棒だろう。

 最初は無視を決め込んでいたアドラーだったが、間の悪い事に泥棒は彼の方へ向って真っ直ぐ走って来ていた。

「……チッ」

 面倒そうに舌打ちを一つすると、アドラーは足元にあった拳大の石を拾い上げ、走ってくる泥棒へ向かって投げつけた。

 それほど力を入れている様には見えなかったが、石は結構な速度で飛んでいくと、狙い違わず泥棒の顔面に直撃した。

 ――ぐぇ!?

 鼻っ柱に思い切り石を浴びる事となった泥棒は瞬く間に体制を崩し、盗んだ包みを地面にバラ撒きながら往来にぶっ倒れた。

 立ち上がろうと必死にもがく泥棒だったが、人垣の中を武装した兵士と共に見知った顔が二つ現れると、泥棒の身体をがっちり掴み、完全に身動きを封じてしまった。

「もう逃がさんぞ! 大人しくしろ!」

 そう言って泥棒を押さえ込んだのは、なんとあの秋蘭だった。

 彼女は手際よく泥棒に縄をかけると、部下に男の身柄を引き渡し、詰所へと連行するように命じる。

「秋蘭」

 近づいたアドラーがそう声をかけると、

驚きの表情を浮かべた。

「あ、アドラー!?」

「奇遇だな。まさかこんな所で出会うとはな」

「貴様ぁ、一体ここで何をしている!!」

 そう言って秋蘭の後ろからやってきたのは春蘭だ。流石に以前ほどの殺気は無いものの、依然として不快そうに顔を歪め、刺すような視線をアドラーへと投げかけてくる。

 自分へ向けられた刺々しい視線を意にも介さず、涼しい顔でアドラーは答えた。

「少し用があって街を見て回っていた。お前達こそ、こんな所で何をしている?」

「我々は街の警備だ。これも仕事の一つでな」

 と、秋蘭。

「だがおかげで助かった。この男はこの界隈で何度も窃盗を繰り返している常習犯でな。我々も手を焼いていたのだ」

「気にするな。俺は偶然通りかかっただけだ」

「フン! 私は礼など言わんぞ! こんな奴、我らだけで十分捕まえられたのだ!」

 春蘭が忌々しげに吐き捨てた。結果としてアドラーに貸しを作る形になってしまったのが癪なのだろう。

「姉者、もうアドラーは華琳様の客将なのだし、いい加減にへそを曲げるのはやめないか」

 たしなめる様に秋蘭がそう言うと、春蘭の怒りの矛先が今度は彼女へと変わった。

「秋蘭こそ、こんなやつのどこを信じろというのだ!」

「別に何から何まで全部を信じろと言っている訳じゃないが、そう全てを疑ってかかる事もないだろうと言っているのだ」

「不愉快だ! 私は詰め所に戻るぞ!」

 散々怒鳴り散らすと、春蘭は大股で二人の間を通り抜け、あっという間に通りの向こうに消えて行った。彼女の剣幕に圧倒されていた部下達も、やや遅れてその後ろに付いていく。

「……すまない。姉者には私からよく言っておく」

 秋蘭が申し訳なさそうに頭を下げた。普段は冷静沈着な彼女だが、姉の事となるとどうも勝手が異なるらしい。

「気にするな。それよりもお前に一つ頼みがあるんだが」

「頼み? なんだ?」

 アドラーの意外な言葉に何事かと秋蘭が首をかしげる。

「実はな、街の案内を頼みたい」

「街の?」

「ああ。自分でも少し回ってみたが、この街は予想以上に広くてな。出来ればよく知っている人間に案内してもらいたいんだが、どうだ?」

「分かった。その程度の頼みなら喜んで引き受けよう」

 秋蘭は頷いて踵を返し、アドラーもその後に付いて行った。

 

 参

 

 通りでのひと悶着の後、市場や城門など街の中を一通り見て回った二人は遅めの昼食を取るべく、一軒の酒家に腰を落ち着けていた。

 そこは秋蘭行きつけの店で、構えは小さいが酒と料理の味には自信があるという。

 運ばれてきた酒と料理を口にしてみると、確かに彼女の言う通りその味は称賛に値するものだった。華琳の屋敷で出される食事も決して悪くないが、ここの料理はそれよりも一段上をいっていた。

 腹ごしらえも済んで満足げに寛いでいると、思い出したようにアドラーが言った。

「それにしても、随分と活気付いているな。この街は」

 彼にしては珍しく率直で正直な感想だった。

 それを聞いた秋蘭が誇らしげに言う。

「ああ。ここは洛陽と辺境を結ぶ補給地のような場所だからな。当然他の街よりは活気も人の往来もある。だがここまで街が大きくなったのは、ひとえに街の発展に尽力してきた華琳様のおかげだ」

「なるほど――だが、その代償は存外大きかったのではないか?」

「? 何のことだ?」

 訳が分からないと言わんばかりの秋蘭が片眉を上げた。

「お前と出会う前、一人で街を見て回っている間でも幾つかの揉め事を見た。しかも、そのどれもが突発的なものではなく、恐らく日常的に起こっている類のものだ。街の発展に力を入れたはいいが、内部の治安維持に問題が起こっている。違うか?」

「!」

 秋蘭の顔色が疑問のそれから驚愕のそれへと変わっていく。

「俺が泥棒に石をくれてやった時も、お前達は明らかに遅れて駆けつけた。もし俺が居なければ、あの泥棒はあのまま逃げ遂せていただろう。原因は今ある憲兵の詰め所があの区画から遠い事と市に配置できる警備の人数が少ないせいだ。そうだろう?」

 彼女は困った様に顔を曇らせた。アドラーが指摘した問題点は、認識や原因も含めて全てが完璧なものだったからだ。

「……その通りだ。拡大した街の規模に対してそれを警備する人間の数が圧倒的に追いついていないのが現状だ。この問題には華琳様や我々もずっと頭を痛めていてな。何かいい案は無いものかと考えている所だ」

「フムン」

 するとアドラーは少し唸ってから、

「その問題、一度俺に預けてみる気はないか?」

 と切り出した。

「……と言うと?」

「軍に居た頃、少しばかり街の治安維持をしていた時期があってな。ひょっとしたら何か力になれるかもしれん。そちらで問題なければ、俺に手伝わせてくれないか?」

 その申し出は秋蘭にとって予想外のものだった。

 取引を経て客将となったものの、働く訳でも無くただただ書庫に籠ってばかりだった男が、急に自分達の為に働きたいと言い出したのだ。驚くのも無理は無い。

「そう言ってくれるのは助かるが……いいのか?」

 どこか探る様に秋蘭がアドラーに視線を差し向ける。恐らくはアドラーが何を考えているのか、腹の内でいろいろ考えているのだろう。

「俺が構わんと言っているんだ。それにいくら客将とはいえ、仕事もせず毎日書庫に籠もっていては、何かと問題だろう」

 そこまで言われてしまっては、拒否することも無碍にあしらう事も出来ない。

「……分かった。この事は私から華琳様にお伝えしておく。近いうちに何かしらの返事を出そう」

 この男は一体どういうつもりなのかと考えながら、秋蘭は曖昧に首を縦に振った。

 

 肆

 

 その夜、秋蘭から報告を受けた華琳はアドラーの件について最終的な決定を下すべく、自身の両腕とも言える二人――秋蘭と春蘭を自室に呼び寄せた。

「アドラーの件についてどう思うか、二人とも率直な意見を言って頂戴」

 華琳がそう告げると、まず秋蘭が心の内を明かした。

「……警戒が必要とはいえ、あの男も今では我らの客将。屋敷で遊ばせておくよりも、何か有効に活用する方法を模索するのが得策かと。あの男、たった一日様子を見ただけでこの街が抱える治安や警備の問題点にあっさりと気が付きました。観察能力については疑いの余地がありません」

「自分は反対です! あの様な得体の知れない男に街の治安問題など、到底任せられるはずがありません!」

 横から異を唱えたのはもちろん春蘭だ。アドラーを敵と言って憚らない彼女が、アドラーに街の治安任務を任せるなど到底受け入れる訳が無かった。

 真っ向から対立する二人の意見に華琳は唸る。

 どちらの考えにも一理ある。が、彼女の心情的には秋蘭に一票を投じていた。

 と言うのも、元から多少の危険を承知の上であの男を客将に引き入れたのだ。手駒として抱え込んだ以上、有効的に動かさなければ意味が無い。

 しかし、それをわざわざ街の治安問題という機密性の高い任務で行う必要があるのだろうか? というのも、またもっともな意見であった。

 どちらを取るべきだろうか……。

 華琳の心は揺れ動いていたが、やがて腹を決めたのか、自らに言い聞かせるようにこう言った。

「アドラーには試験的に一月か二月ほど仕事を任せ、その成果や過程を考慮した上で今後の方針を決めることにするわ」

 その答えは有り体に言えば折衷案と言ってもいいものだった。が、何処か別の仕事にわざわざ当てるよりもその方が角が立たないだろうと判断したのだ。

「なるほど。試練を課すという訳ね」

 秋蘭も納得したように頷く。

「ええ。万が一問題が起きないように、監視役として貴女たちのどちらか一人が必ず付くようにする。それなら春蘭も問題ないでしょう?」

「は、はい……」

 頷く春蘭だったが、その顔は納得と言うにはほど遠いものだった。

 不満を抱える彼女の心情を察した華琳が言葉を付け加えた。

「もし奴が少しでも怪しい動きをしたら、即座に首を撥ねなさい。遠慮は無用よ」

「秋蘭、今すぐアドラーにこの事を伝えて。期限は明日から二月、それまでに然るべき結果を残せと」

「御意」

「二人とも、もう下がっていいわ。夜遅くにごめんなさいね」

「いえ。では、自分達はこれで失礼します」

「……失礼します」

 秋蘭と春蘭の二人が部屋を出ていき、完全に気配も消え去ったのを見計らうと華琳は、

「仁、居るかしら?」

 と呟いた。

《お呼びでしょうか。華琳様》

 すると、いつぞやと同じくどこからか闇の如き声が聞こえてきた。曹仁だ。

「言わなくても分かっているとは思うけど、あの二人と一緒にアドラーの行動を監視して頂戴。何かあればすぐに知らせて」

《承知しております》

「それと――春蘭にも一応目を付けておいて」

《元譲様も……ですか?》

 仁は華琳の言葉の意味を測りかねているようだった。

「あの子の事だから、どこかで先走り過ぎないか少し心配なのよ。気にかける程度で良いから、見ておいて頂戴」

《了解いたしました》

 合点がいったように仁はそう答えると、現れた時と同じようにすっと気配を消してしまった。

「さて……これでどう出るか。文字通り試させてもらうわよ。アドラー」

 華琳はそう言い、にやりと笑みを浮かべた。

 




田畑を耕し、実りを得るのが民の役割ならば、
民を見張ることこそが、兵士の役割。
その役割を全うすべく、死神は再び兵士へと回帰する。
次回「衛兵」

時に見張りを見張るのは誰の役割なのだろうか?


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