今日は朝こそ晴れていたものの、何時間目からか雨が降り始め、今も小雨が降り続いている。空はどんよりとして、雨粒が生徒昇降口の軒を叩く。いくら今日が金曜で明日が休みでも、これだと帰りが億劫で仕方がなかった。
それでも帰らないといけないから、僕が立ち止まっている間にも、名前や顔を知らない生徒達は傘を差したり駐輪場に走ったりして着々と帰宅に近づいている。それに習って、僕は駐輪場に走ればいいんだけど、どうにも。
雨は嫌いだ。合羽を着るのが面倒だし暑いし不格好だから。女子はそのへん妥協が早いと言うか、物分かりがいいけれど、僕みたいな男子はそうもいかない。多少の雨なら濡れないことより、濡れること以外の快適さを選ぶ。
でも、まあ、梅雨だ。慣れるか濡れるしかない。僕は後者を選んだ。
最初こそ気にしなければ風邪をひくこともないだろうし、どうにでもなりそうな雨だったが、校門から出て少し行く頃には雨足が強まってきた。
合羽の呪縛からは逃れられないようだ。あれはどこまででも追ってくる。退き際を見誤らないようにしなければ。
どこか軒下に入って、呪いにこの身を浸そうかと考えていたら、そこに彼女は立っていた。この雨の中、傘も差さずに、だ。
多くの生徒が通学路としている道から逸れたこの脇道の、雨を遮るものの無い道路の脇に。
誰かや何かを待っているんだろうか。でも、それなら軒下ででも雨宿りするだろう。
じゃあ、どうしてあの子は帰る素振りも見せずにあんなところに立ち尽くしてるんだ?
遠目で見ても、僕と同じ学校の女子制服は雨に濡れ、透けて肌に張り付き、灰色のスカートも水を吸って重たそうな色をしている。なのに、彼女はそれに構わず僕のいるほうを––––––僕の来た道のほうを見ていて–––––––目が合った。
この子は普通じゃない。それがずっとそうなのかは分からないけど、今だけは確かに言える。背中に冷気が走った。少し、怖かった。
けれど、僕が自転車を漕いでいる限りその距離は縮まっていく。彼女はその間も僕を見ていた。気のせいではないらしかった。
近づくにつれ、次第に彼女の細部が見えてくる。腰まである黒髪は濡れて額に、頬に見苦しくない程度に張り付き、豊富なまつ毛に縁取られた宝石みたいな目が僕を見ていた。雨で体温が下がって、色白の頬に赤みが差している。小さな口が、何かを言おうとして戦慄く。
僕は魔が差して、見過ごして通り過ぎることを忘れた。どころか、通り過ぎる寸前、自転車を停めさえした。
そして僕は言葉を待つ。
もしこれが大いなる勘違いなら、「これ、使ってください」とか何とか言って合羽を置いて逃げ去るだけだ。その場合、変なやつなのは僕だけど。
彼女の唇の震えは止まる。
「––––––ボクと、一緒に暮らしませんか?」
………………は?
どうやら僕は変なやつにならなくていいみたいだ。この子、言動すべてが普通じゃない。
僕が返事に窮している間も雨は降り続けて、彼女も僕も為す術もなく雨に打たれる。沈黙をかき消してくれるのは助かるけれど、雲行きはどんどん怪しくなって、横殴りに僕達を苛む。
彼女はまだ僕を見ている。気のせいと言うには無理がある。立ち止まったなら、ここから無視はできない。責任がある。責任はとらないといけない。
彼女の前髪から滴る雫を見ながら僕は答えを急いだ。なんだかよく分からないが、風邪をひかせないよう努める責任もある気がした。
「どういう冗談か知らないけどさ、付き合うから場所を変えよう。風邪ひくから」
家帰るのも面倒だし。答えとしてはこんなところか。
「じゃあボクの家きて。この近くだから、それでいい?」
「ああ、いいよ」
考える素振りも見せずに彼女が言うので、何も考えずに返事をする。手短にすませられるなら、それでいい。
僕は自転車の前カゴに手を伸ばして積んであった合羽を手に取り、彼女に渡す。「なに?」と訊くので、「着たら?」と言ってみる。
「家近くなんだけど、」って言いながらも一応といった感じで彼女は合羽を着いた。これで風邪のほうの責任は果たした。それで。
「それで、家までどうする。君がこれに乗って、僕が走ろうか?」
「ん? こうする」
言って、自転車の後ろに乗ってくる。二人乗りだ。合羽の両腕が後ろから僕に回される。
「どこを曲がるとかは言うから、心配しないで」
「分かった」
確かに家は近く、何分かかったとかは知らないけど、そのまま真っ直ぐ走って途中右に一度曲がっただけでその道の左手に家はあった。家と言うか、マンションが。
駐輪場に自転車を停めて、マンションのエントランスに急ぐ。彼女が暗証番号を打ち込んで、開いた玄関に踏み込む。二人でエレベーターに乗り込んだら、浮遊感に包まれる。この間会話はない。
5Fのランプが点灯して、扉が開く。降りて行く彼女の後を追う。その後ろ姿を見て、女の子にしては背が高めだななんてどうでもいいことを考える。
503のプレートが付いた黒いドアの前で彼女は止まる。鍵をあけてるから、ここが彼女の家なんだろう。
「お邪魔します」とか言いながら続いて部屋に入る。玄関からすぐにキッチンが見える。右手にバスルームがあって、奥に部屋が見えた。
奥の部屋が彼女の部屋みたいだ。中に入ってきてみると、部屋はここだけだった。
フローリング。ミントグリーンのカーテン、白いラグに背の低い茶色のスクエアテーブルと白いソファ、赤いクッションその他クッション。テレビ。ローズピンクを基調にしたベッド、本棚……都会を珍しがる田舎者かってくらい見過ぎだ。
彼女はそのまま歩いていって、テーブルの窓側のほうに座る。促されて、僕もその対面に座った。
「それでね、話の続き。ボクと一緒に暮らさないかって話なんだけど」
「それもだけど、まず名前を教えてもらわないと色々とやりにくい」
今のままでは不明度が高過ぎる。分かってることなんて、同じ学校に通ってることだけじゃないか。
「ボク? ボクはね、沖野早希だよ。ボクって言うけど、体は女の子だから安心して。後はそう、君と同じ学校の二年生。君は?」
害意は感じない。何か引っかかりを感じる言い回しがあったような気がしないでもないが、今はいい。
「御春奏。僕も二年だから、気は遣わなくて良さそうだな」
自己紹介……素性紹介を交わして、少しは状況が改善した。改善した気にはなれた。
「みはる、そう。どっちも名前みたい。ボクはミハルって呼ぼうかな、名前で呼んでるつもりでね。ああ、ボクのことは好きに呼んでくれていいよ。沖野でも沖野さんでも早希でも。ああやっぱり、沖野と沖野さんはだめ。名前で呼んでね」
楽しそうに、気ままに喋る。沖野の本質はこうなんだろうか。
「早希ちゃんそのままだと風邪ひくから風呂入るとかしたほうが良くない? 雨に濡れても、風呂入って体温めたりはしない人?」
沖野が禁止されたので、せめてもの抵抗でちゃんを付けてみたけど。これはこれでどうなのか。そんな思いを振り切るのと、あと心配からそんなことを訊いた。
「入る人。話が終わってからにしようと思って。話が終わって、ミハルと暮らすのが決まってから悠々とお風呂に入ろうと思って」
「暮らすのは分からないけど、泊まるくらいなら考える。僕は逃げないし、先に入ってきたら?」
目のやり場に困らないこともないし。濡れたら透けるんだよ、そういうのあまり良くない。
「ふぅん。じゃあシャワーにする。そんなに待たせないから逃げないでよね、ミハル?」
「逃げないって」
「そうだ、ミハルも浴びる? シャワー。濡れて風邪ひくのはミハルも同じでしょ」
「僕はいいよ、入らないし浴びない人だから。気にしない」
「そっか。そうなんだ」
沖野は僕に背を向けて、ウォークインクローゼットの中から着替えを取り出している。背を向けてるから分からなくても、何となく目をそらす。
「ちょっと待ってて」
そうして、着替えを抱えた沖野が僕を通り過ぎてバスルームに移った。と思ったら戻ってきた。
「はい、タオル」
「ん、ありがとう」
沖野は今度こそバスルームに行く。その姿を見送って、無意識でタオルのにおいを嗅いでみる。違う家のタオルのにおいがする。ここまで思って、何してんだ自分と思いながら髪を拭き始めた。
雨はやんだようで、代わりにシャワーの音がする。沖野がシャワーを浴びている。
髪を拭き終わったら何もすることはなくて、後はただ沖野の帰りを待つ。帰りはしない。もう雨はやんだけど、そこまで家に帰りたいわけでもなく。
さっきテレビ点けたら良かったかなぁ、とぼーっとしていたらいつの間にか時間は経って、沖野が戻ってきた。
女の子のシャンプーのにおい。雨のときだからかそれを余計に感じる。
沖野は着替えて、白のTシャツと薄青色のデニムで膝上のキュロットになっている。
ほんのり肌が上気していて、ドライヤーでその長い髪を乾かしている。ドライヤーがうるさいので、乾かし終わるまで話の続きはできない。待ち時間はまだ続くということだ。
それでも無音よりは幾分ましなのか、ドライヤーのスイッチが切られたとき僕は案外早かったなと思った。
「タオル」
「はい」
水を吸ったタオルは沖野の手によって洗濯機に持って行かれた。
「泊まるくらいなら考えてくれるんだっけ? 意外とすんなり受け入れたね」
早々に話が再開される。
「え、ほんとに泊まらせるつもりなのか? 暮らすのもだけど、嘘だろ」
どういう意図がある嘘かは全くもって分からないけれど。それに何だ、警戒心がないんだろうか。
「嘘吐かないよ。暮らすって言ったのから泊まるのまで全部本当。ボクは本気だよ。ミハルは本気じゃなかったんだ」
「どうして?」
「……何が?」
「どうして僕と暮らしたいのかってこと。何か理由があるのか?」
「特別なことじゃないよ。通りがかったのがミハルだったってだけ。特別だって言って欲しかった?」
ますます分からなくなる。だけれど、沖野は言葉のとおりに、嘘を吐いてないんだろう。思ったそのままを言う。そんな風に見える。
「だったら、誰かと暮らしたくなった理由は? それならあるんじゃ」
「ないよ。したいって思ったから、したいんだよ。それじゃだめ? そんな理由じゃミハルは泊まれない?」
「そんなことも、ないけどさ」
ないのか。まあ、確かに無いは無い。ここからなら学校も近いし……月曜の話をするのは気が早いけど。
「ならいいじゃん。ミハルはボクの家に泊まるの。これで決まり」
なんだか嬉しそうに沖野は笑っている。僕も笑えばいいのか?
「早希ちゃんは、危ないことしてると思わないの? 僕から見た早希ちゃんもそうだけど、早希ちゃんから見た僕も他人なのに」
「危なくない。ボクそういうの分かるし、勘がね。女の勘が。女の子らしくね」
「……危ないだろ。世の中には何か考えてるやつと、何も考えてないやつしかいないんだからさ」
「でもね、もうボクはミハルが泊まることしか考えられない」
そういう難しいことは考えられない、と強情に念押してくる。そもそも、唐突に「一緒に暮らしませんか?」と言うような人間だ、説得するのは難しいはずだった。
結局、なるようになるしかないのだ。僕に危険があるわけでなし。恐らくは。
「分かったよ、一晩寝る場所が変わるだけだ。そこまで言うなら、泊まってもいい」
「言ったね。約束は守ってよね。信じてるんだから」
流されるままに泊まることが確定して、守るべきものが僕にはできた。話は次々に転がっていく。
「それじゃあ、お泊りが決まったところで次に決めることがあります。それは今日何を食べるか、です」
「何食べたい?」と重ねて訊くからには、僕が食べたいものを作ってくれるんだろう。沖野はじぃ、とこちらをみている。
「そうだな、オムライス」
「よし決まりね。美味しいの作ってあげる。材料買ってこなきゃね」
料理に関する知識の無さを披露したようなものだが、沖野は嫌な顔一つしない。手間のかかるものや外食と言わなかっただけ僕なりの及第点だ。
「僕も行くよ。寝るときの服も買わないと無いしな。荷物持ちもするし」
「うん、一緒に行こう。二人だと、行きと帰りに退屈しないね」
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雨宿りの不在Ⅱ
雨は止んでいて、僕達は傘を持たずに家を出た。空は曇ってるし、水たまりもあるけれど、無駄に備えることもない。家の前の道をさっきと逆方向に歩いていく。でも気になることがあった。些細な会話の種だけど。
「どうして白のスニーカーを?」
このさっきまで雨が降っていて、これから降ることも否めない状況で沖野は汚れやすい白を選んできたのだ。
「ボクが履きたいと思ったから」
「そう、分かった」
雨では沖野を左右できない。そういうことらしく、そういう性格らしかった。
まずスーパーまでの途上にある服屋で僕の着替えを適当に見繕い、そこからまたスーパーを目指す。
歩きながら途切れ途切れに話をした。けれど、嫌な沈黙ではなくて、それが不思議だった。
それに対して雨はまた降り始め、その雨の強さに止むを得ず、途中のコンビニでビニール傘を二本買った。
エブリーマートは僕達の生活圏でも数店舗ほど見かけるスーパーだ。入り口の自動ドアを潜ると、気の抜けたカラオケ音源のような店内BGMが聞こえてくる。
スーパーで女の子(彼女とは言わない)と二人で夕飯の買い物と言うと、「何が食べたい?」という会話が連想される。だけど、僕はその会話をとうにすませてきた。そうだ、これでお約束はあり得ない。
カートを押す沖野の隣で、浮き足立たないようにしようという思考がすでに浮き足立っている僕がいた。周りからどう見られてるんだろうか、もしかしたら知り合いにこの現場を見られるんじゃないか……とつらつら考える。これは本来、彼女側が考えることなんじゃないのか。
「そうだよ、ミハル。お菓子とかも買っとこうよ。楽しいよ」
そんな内心を知ってか知らずか、沖野はわくどきと目を輝かせている。
「僕はそんなに食べないけど」
「違うの、こういうのは買ってるときが楽しいんだよミハル」
確かに楽しそうとしか言いようがない様子で沖野はお菓子の棚を物色していく。ポテトチップスだったりクッキーだったりジュースだったりをそんなに必要? と言いたくなるほどにカゴに放り込む。レジに向かう頃には、お菓子を買うついでに夕飯の材料も買いました、といった風情だった。
そして計算もせずに放り込み続けたせいでお支払いは沖野が「うわ」と口に出してしまうくらいになっていて、見兼ねて僕がお菓子代を援助した。
「ありがとうミハル。大好きだよ」なるリップサービスを頂戴して、それが概ね棒読みであったことを差し引いても、満足してしまっている僕がいた。最初の警戒心は何処へやら。これを吊り橋効果もといストックホルム症候群と呼んでいいのなら、それだけが救いだった。
予告どおり僕が荷物を持ち、身軽な沖野はどこかはしゃいでいる。
スーパーを出ると、まだ雨は降っていた。行きに買ってきたビニール傘を使おうと傘立てを見たけれど。
「ねえ、ミハル。傘が無いよ」
「盗られたか。二本とも?」
「ううん、ボクのだけ。ミハルのはあるみたい。傘無いと困るなぁ」
沖野の傘が盗られていた。少しむっとした表情をしている。僕は沖野に漠然と抱いていた薄幸というイメージが急速に浮上するのを感じた。
「でも悪いことだけじゃない、よね。相合傘しようよ。相合傘しかないよ。ボク、傘盗られて落ち込んじゃった。ミハルに慰めて欲しいなぁ」
振り向いて、沖野はそんな提案をする。その目ははぐらかすのを許さない。まあ、僕だけ傘差すわけにもいかないしな。
「もう勝手にしてくれ……そっちから言ってくれて助かったよ」
「やったぁ」
沖野と相合傘をして帰る。左手に傘、右手にお菓子その他を僕が持って、その左側に沖野がいる。
「手ぇ痛くない? ビニール袋って持ってると指に食い込むでしょ」
「家までそんなに距離はないし、なんとかなるよ。2リットルのジュースは重いけど」
庇いきれない体の右側が雨に濡れる。沖野は左側か。気にしてちらっと沖野を見る。相合傘に慣れてないと、お互い遠慮して本来なら濡れなかった場所まで濡れるようなことがある。
「ミハル? もっとこっち寄れるよ。遠慮してるんじゃない? 大丈夫だよ、怖がらないで、おいで?」
冗談めかして、沖野。
「ああ、うん。寄る寄る」
寄らずにそのまま歩き続ける。それが沖野にバレないはずがなかった。
「恥ずかしいのかな。ミハルから来ないなら、ボクから行くだけだよ。寄られるのならいいの?」
そう言って、傘を差している僕の左腕にぐいぐいと体を寄せてくる。左手を自分側に引けば一瞬は逃れられても、その後で沖野との密着度が上がってしまうだろう。僕にはどうしようもなかった。
押し付けられて、名状し難い柔らかさが腕を通して伝わってくる。それだけでなく、雨で強まったシャンプーのにおいが鼻をくすぐる。近づけば、沖野のほうが背が小さいんだからそれも当然と言えた。
「……さっきまでずっとじゃないけど話してたのに、ボクが寄ってから静かになったね。嫌だった? それとも……あっ」
これは良い獲物を見つけた、という顔だ。僕の表情から何かを読み取ったんだろう。だけど、それが計画的なものにせよ突発的なものにせよ、僕にできることは限られている。
「察したんなら、言わないでくれ」
「あぁ、うん。いいよいいよ、気にしない気にしない」
からかうような笑みが向けられる。そして、分かっていてなお離れようとしない。
だけれど僕はそれどころじゃなくて、これは良いことなんだから帰り道を短く感じそうなものの、実際は帰り道を途方もなく長く感じ––––––それでいて家に着いたときには、自分がどうやって家まで帰ってきたのかさっぱり覚えていないのだった。
エプロンを付けた沖野はキッチンでてきぱきと調理を進めている。はずだ。僕は料理ができないために手伝えることがなく、リビングでテレビを観ていた。包丁で切る、トントンという音が聞こえる。
とは言え、エプロン姿の沖野は見れたので構わない。駄目だ、さっきの相合傘が尾を引いてる。
女の子の手料理。それは例え、同じ材料同じ手順で女の子以外の何者かが作ったところで到底再現できないものだ。その子が作ってくれたという事実が特別なのだ。
沖野は僕のことを特別でないと言った。でも僕は、その沖野が作ってくれる手料理を特別と思う。いやだから何だ。相合傘に当てられ過ぎだ。
この時間のテレビは比較的どうでもいいニュースから、完全にどうでもいいニュースまでが流れる。七時くらいにならないと、観るものがない。
相合傘に影響を受けた思考に時間を割いたおかげで、沖野はもう調理を終えていた。エプロンは脱いでいる。
初めてこの部屋に来たときと同じく沖野はテーブルの窓側に、僕はその反対側に座る。テーブルの上にはオムライスが二皿。ふわふわしている。僕のほうが一回り大きい。
沖野の右手にはナイフ。それを僕のオムライスの中央線に走らせると、とろとろの卵が溢れる。家のオムライスで、なかなかこう上手くはできないだろう。普段からの自炊の賜物だ。それもメニューは僕が指定したことを考慮すると、一点集中の対策結果であるはずがない。
同じように沖野のオムライスにもナイフを入れれば、やはりとろとろと卵が溢れる。偶然じゃない。沖野が作るオムライスは、いつもこうなのだ。
「すごいな」
僕は褒める。褒めたくなった。
沖野は卵の残滓の付いたナイフを上向けながら、ふわりと笑う。
「でしょう。これがボクのオムライス。味も保証付きだよ、見た目を裏切らなくね」
「そうか、じゃあ食べてみよう」
「焦らないの。まだだよ」
机の上に載っかっていたケチャップを沖野が手に取る。その先は知れていた。
「書くのか? 文字を」
「そうだよ。そうしたらほんとの完成」
キャップを開けて、両手でケチャップの容器を包みこむ。力を込めて、込めて……ケチャップが勢いよく噴出した。事故現場はオムライスの上。
「あー……」
褒めたのがいけなかったか、ケチャップについてもいつもこうなのか。沖野のオムライスは無慈悲なケチャップに無残に塗りつぶされている。
不器用か器用かよく分からないやつだ。同じ料理の分野なのに。ともあれ、僕はフォローする。
「よくなるよくなる。まぁ、何、食えば一緒だろ」
「一緒じゃないよ……もう」
僕のオムライスには普通にケチャップをかけ、その後二人で食べた。卵だけでなく、チキンライスの鶏肉も美味かった。見た目に相応しい味だった。
洗い物も沖野が買って出たので、僕は食器を運ぶにとどまった。またの暇をぼーっと過ごす。
沖野が戻って、二人でバラエティ番組を観るともなく観て、気づけば風呂の時間になる。もちろん家主に先を譲った。
沖野が風呂に行ったが、暫くシャワーの音は聞こえない。湯船に浸かっているのだろう。シャワーのときより当然時間がかかるのは覚悟しておいたほうがいい。という考え方をするのは、沖野に早く帰ってきて欲しいみたいだ、なんて。
ほとんど点いているだけのテレビから目を離して、部屋の中を見回す。本棚に差さっている文庫本の背に書いてあるタイトルと著者名は覚えがない。僕は本をあまり読まない。
することが何も無くなった。
放っておけば時間は過ぎるもので、今日何度目かの濡れ髪の沖野が目の前にいる。ほかほかと、湯気が見えるよう。
「次どうぞ、ミハル。お風呂はため直してるから。もうちょっと」
この間に僕はさっき買っておいたパジャマ代わりの新品の服の値札を処理する。処理しながら、することならあったんじゃないかと思う。
風呂はたまり、着替えを抱えバスルームへ行く。心理的抵抗感が無いとは言えないけど、まさか風呂に入らないわけにもいかない。
「シャンプーとかは自由に使ってね。ミハルの家だと思って、ミハルの家のお風呂だと思って寛ぐといいよ」
「うん」
寛げるか。薄笑いに見えたのは僕視点の補正なんだろうか。
脱衣所のカゴに着ていた服を放り込んだら、浴室に入った。濛々と湯気が立ち込めて、床はまだ乾ききっていない。嫌でもさっきまで沖野が入っていたんだと思わされる。
置いてあるシャンプーやコンディショナー、トリートメントも家のとは全然違う。お高そうなものばかり。
ためてもらったからには、浴槽に入らないといけない。なかなかに勇気がいるような、いらないような、そういうことを考えるのはちょっとどうかと思うと言うか、何と言うか。
浸かる。肩まで浸かる。浸かると色々あった疲れもあって、気持ちが良かった。けれど、それとは別に落ち着かなさもあって、早々に僕は湯船を出て体を洗うことにした。
風呂を出て髪を乾かし、自分の家でお手本のように寛いでいた沖野と顔を突き合わせる。頬の桜色は引いていた。
しかし、あれだ。自分の髪から沖野と同じにおいがする。厳密には同じではないのだろうけど、だいたい同じのにおいが。そりゃ同じシャンプー使ってるんだから、と内心セルフツッコミを入れる。
そんな取り留めのないことを考えていると、沖野に声をかけられる。
「そうだ、ミハル。明日のことなんだけど、デートしよう、デート!」
デート! と繰り返す。
「デートぉ? どこか出かけるのか、二人で外に。遊びに」
女の子が女の子と遊びに行くときにデートと呼ぶのはある気がする。けど、それが彼氏彼女でない男女の場合はデート、でいいのか?
「そうだね、二人で遊ぶんだよ。買い物したり美味しいもの食べたりして、一日の終わりに、今日は楽しかったねって言えるような土曜日にするの」
すでに楽しそうに沖野は言う。
僕は気づいている。僕が約束したのは、今日泊まることだけ。今言ったことは沖野の中でだけ決まっている予定に過ぎない。付き合う必要はない。
だったら、返事は決まっている。
「分かったよ」
別に誘いを断る理由もない。わざわざ逃げることでもない。もうなんだかその辺りの判断が滅茶苦茶になっている気もするが、考えるのは面倒くさい。楽しいならそれでいいんじゃないか。
「じゃあ明日は、ミハルは一旦家に帰って、用意をしたら待ち合わせね。待ち合わせ場所はボクの家。どこ行こうね、楽しみだね」
これは、明日の予定を考えておいたほうが良さそうだ。
それからまた暫くすれば寝る時間。
沖野は僕に予備で新品の歯ブラシとコップをくれた。歯を磨いた後は、それらがこの家の洗面所に普段から置かれることとなった。
部屋に戻ってきて、沖野は自分のベッドの中に潜り込み、僕は床のラグの上で寝ることにする。
と、沖野が潜っている布団の中からぽいぽいと何かが吐き出された。見れば、沖野が今着ているはずのTシャツと黒のハーフパンツ、そして––––––ブラ僕は何も見ていない。
「電気消すよ、おやすみミハル……ってどうしたのその顔?」
絶句している僕を横目に、沖野が電気を消そうとしていた。胸の高さまで布団を抱きながら。何故そんなことをする必要があるのだろう寒いんだろうか僕には分からない。何故だろう。
「お、おやすみ」
努めて普段どおりの声音で言った。
深夜。僕がベッドのほうに足を向けてラグに寝転がっていると。足を強かに蹴られた。
「痛ぇ」
足を蹴った張本人の沖野がいるほうを非難の目で見る。沖野は「あ、」と声を洩らした。
「そっか、いたんだ」
寝惚け眼を擦りながら、眠そうな声で沖野はそう感想を述べた。
「酷ぇ」
「ごめんミハル」
トイレに起きたのだろう沖野はそのまま歩いていく。応える声にはささやかに嬉しそうな響きがあった。
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不思議の城
「……きて、起きてよミハル」
声がする。目覚ましで一気に起こされるのとは違い、僕は緩やかに目を覚ます。
まぶたを開けて、目が光に慣れてきたら沖野の顔の輪郭がはっきりした。僕を起こしたのは沖野だったみたいだ。
沖野はどうやって起きたんだろう。
「起きた? まだ頭が起きてないね。顔がぼんやりしてる。ミハルは朝は弱いのかな」
「まあ、普通かな。そう言う早希ちゃんは早起きなんだな。目覚ましの音はしなかったと思うけど」
僕が深く寝過ぎてたのでなければ。
「いつもってわけじゃないよ。今日はデートだから、早く起きたんだよ?」
「ああ……それは。なら僕だけいつまでも寝ぼけてられないな」
言葉どおり、デートではないにしても。沖野は昨日の約束をこうして果たそうとしている。それなら僕だって、それに報いるくらいはする。
「うん。じゃあ、ミハル。ミハルは朝ご飯食べる? パンでいいなら一緒に作るよ。作ってから食べないって言われたら困るから、ミハルが起きるまで待ってたんだよ」
「僕も食べるよ。待たせてごめん。それじゃ、よろしく」
沖野が作ってくれた朝飯は、トーストとイチゴジャム。小エビのサラダと飲み物はグレープフルーツジュース。手がこんでいるように思う。
机を挟んで、向かい合って食べる。
「ミハルってさ、昨日親に泊まるとか連絡した? もし忘れてたなら、今訊いてもどうにもならないんだけどね」
「そのことなら、うちは放任なんだよ。どうせ連絡してもご飯作るのが一人分減るくらいだし。連絡しなくても何となく対応するだろうし」
「そうなんだね。その辺りは家によって違うもんね」
フォークでサラダを突き刺しながら沖野は話している。そして食べられる。
「うちの親なんて、家にいるのが嫌いなくらいなんだと。そのおかげで僕も放任されてるんだけど」
「お母さん?」
「そう。うちは変わってるかもな」
トーストを齧る。対して沖野はそこで食べる手を止めて、僕を見据える。
「それって、家じゃなくてミハルのことが嫌いなんじゃないの」
僕に父親がいないことにこれまでの雑談の折に触れていたからこその一言だった。けど酷い。
でも沖野に悪気があるわけじゃない。思ったことを言ってしまっただけ。まあ配慮はないかもしれない。
グレープフルーツの苦味を口内に感じながら、僕は返す。
「どうなんだろう。聞いたことないから実際は知らないけど、でもそれを言うのは酷いな」
「ごめん。ボクの悪い癖だね」
「謝らないでくれ。僕はまだ嫌われてると決まったわけじゃないし、早希ちゃんに怒ってもないから」
努めて朗らかに言えば、それは沖野にも伝わったようでその後もあれこれ話しながら朝食を終えた。
「じゃ、また後で」
「うん、行ってらっしゃい」
僕は沖野に見送られ、一度自宅に帰る。僕の着替えと、沖野が一度別れてから待ち合わせしたいって希望したからだ。
一人だと二人よりも移動にかかる時間が少ない。家に着いて、適当な服に着替え諸々の用意をしたらすぐにまた家を出る。
「そう言えば、待ち合わせの時間決めてなかったな……」
家を出たところで気付いた。一瞬考えて、早く着き過ぎたなら外で待てばいいだろうと結論付けてまた歩きだす。
やはり一人だと体感時間は長くても実際移動にかかる時間は短く、僕はもう沖野のマンションに着いていた。待ち合わせ時間を決めてなかった僕達だけど、エントランスの暗証番号は聞いていたので中に入れた。
エレベーターに乗ったら沖野の部屋の前に行き、ドアをノックする。声かけはしなくても、ドアスコープから僕が見えるだろう。
すぐにドアが開けられる。そのまま普通に部屋に上がろうとした僕だったが、少し目と意識を奪われることがあった。
「おかえりミハル。さあ、入って」
にこりと笑う沖野にでなく。その着ている服だ。
水色の、フレアスカートの半袖ワンピースに白いエプロンを付けたエプロンドレス。白と黒のストライプのニーソックス。頭には小さくて黒いリボンカチューシャまで付けていた。
僕がそのまま玄関で惚けていると、沖野のほうから声をかけてくれる。
「この服が気になる? 今日はまた雨で、おうちデートだから外では着れない服着てみたの。似合ってない?」
片手でスカートの端をつまんで、自分でも珍しそうに視線を落としている。そして僕の様子を窺う。
「似合ってるよ。ただびっくりしただけで。そういう服も着るんだって」
似合ってないなら無責任なことは言えないけれど、そういうこともなく。自分の家でなら、余計に何を着るかは自由だ。
「普段は着ないよ。着てもハロウィンとかくらいかな。そんな服だから、試しに着たかったんだ」
そんな不測の事態がありながらも、いつまでも玄関に立っているわけにもいかないので、僕は部屋に上がった。沖野の靴しか無かった玄関に、僕の靴が並んだ。
ほとんど定位置になった机のそばに腰を落ち着ける。この部屋に馴染んでるんだか浮いてるんだかよく分からない、不思議な格好の沖野を見るともなく見ながら。
「まず何する? そうそう、一応持ってきてみてって言ってたゲームは?」
「持ってきてるよ。ほら、ソフトはある中から適当に持ってきたけれど」
沖野から携帯ゲーム機を持ってくるように言われていた。デートに……沖野が言うデートには、ゲームがいるのかって半信半疑だったけど。デートでゲームが絡むとするなら、パーティゲームかゲーセンだと思うんだけどな。
沖野はパッケージを手に取りためつすがめつしてから、顔をあげる。黒髪がさらりと零れる。
「これしよう。ボク横で見てるからミハルがやって」
はい、と手渡される。手渡されたものの、疑問符は増えるばかりだ。
「僕がするんだな。でも見てるだけで楽しいかな……人によるのか」
「そうそう、楽しみ方は一つじゃないよ」
言われたようにゲームを始める。横から沖野が画面を覗き込む。ゲームが小さいから、覗き込むには近くに寄らないと駄目だ。肩が触れたり、沖野の髪がくすぐったかったりしてゲームに集中するには向いてない状況だった。
「おー」とか「あっ」とか「綺麗だね」とか言ってたり笑ってたり、沖野は沖野で楽しんでいるようなので良かった。僕もときどき説明したりツッコミを入れたり、集中を乱してるのか気を紛らわせてるのかどっちか分からないことをする。
沖野もやってみたいと言い、交代する。覗き込む側から距離を詰めないといけないから、気恥ずかしい。沖野が見ていたときよりもちょっとだけ距離が空いている。
たどたどしい操作ながらも飲み込みは早く、沖野は思うように遊んでいる。その体がときどきゲームに釣られて動く。すると、少し空いた距離を越えてまた肩が触れた。
こんなふわふわした過ごし方でも時間は勝手に過ぎてお昼時。ピザを注文することにした。僕が電話をかける。
まだゲームで遊んでる沖野の背中を見ながら、沖野の分も注文を終えたらピザが届くのを待つだけだ。
「ああぁあー……」
沖野が死んだ。でも少ししたら沖野はまたリトライするみたいだ。
届いたピザを食べて正午を過ぎ、食べている間に決めたので映画を観ることにする。昨日より前に沖野が借りてきたものらしい。
テレビの正面にあるソファに座る。すぐ右に沖野が座っていて、ゲームのときとそんなに距離感が変わっていない。
ポップコーンはないけど、ここで昨日に買っておいたお菓子とジュースが役に立った。その場限りの楽しみじゃなかったってことだ。お菓子とジュースが食べ物と飲み物で良かった。買って満足して終わらないから。
こういうときでもないと、恋愛ものの映画なんて観なかっただろう。でも観るとなったらしっかりと観る。
最初のほうは静かに観ていたが、あるときに沖野が「これ、あんまり面白くないね」と言って、その言葉どおりだれ始めた。僕も同意だった。
恋愛ものと言えば、最低のラインとしてキスがあるわけだけど、その場面になったとき僕は、親と同じ部屋でテレビを見ていたときにそういったシーンが流れたときのような気まずさを感じた。いやそれ以上だ。恥ずかしさまで付いてくるから手に負えない。沖野をそれとなく見てみたけれど、普通だった。身じろぎ一つしない。
沖野から視線を画面に戻し、うわの空になる。女子はこういった展開に耐性があるんだろうか。だとしたら、またしても僕ばっかりが落ち着きをなくしていて決まりが悪い。
映画は観ているだけでどんどんと勝手に話が進んでいくからいい。沖野は寝ていた。右か左かの二択で、僕のほうに寄りかかってきている。すうすうと寝息が聞こえる。僕は電車の中で疲れた隣人が寄りかかってくるシチュエーションを想像した。その想像には不似合いな沖野の服装だけど。
けれど、可愛い寝顔はあまねく嘘寝と聞いた記憶がある。なら寝息はどうなるんだろう。これも、沖野は可愛いを偽っているのか。だとしたら、どうして? そもそも沖野のことを可愛いと思ってしまっていることが問題じゃないだろうか。考えるほど深みに嵌っていく。
気もそぞろに、無心で映画を観終えて沖野を起こす。伏せたまつげが長くて、一切の警戒心がない、でも綺麗な寝顔だった。
くあ、と欠伸を漏らしながら沖野は伸びをする。眠気を振り払ったら、僕を見て言う。
「……ごめんね、寝ちゃってた。ミハルにもたれてたし。重くなかった?」
「全然、おっさんがもたれてくるのに比べたら」
「? なんでおっさん?」
沖野が借りてきた映画は他にもあって、それはホラーみたいだったけれど断った。ホラーでも沖野はつまらないと寝そうな気がする。
二人でそれぞれ好きな本を読むことにした。僕は沖野の漫画を借りて読んで、沖野は小説を読んでいる。さっきの映画では、つまらないと思うものが被っていたから、好きなもの面白く思うものも被るんじゃないかと期待を込めて。そうでなくても、たまには自分の好きなジャンルから出てみるのも良いものだ。
僕はそのままソファで、沖野はラグに寝転がり本を掲げて読んでいる。長い髪がラグに広がっている。すごくラフだ。
読書に集中してしまっていた。時計の針が割と進んでいた。
「夜、何食べようか? 雨もあがってそうだし、どっか食べにいく?」
「それもいいね。今日は1日、家の中だったから。近くのファミレスとか」
沖野が何をどこで食べるか思案しながらそう言った。近くなら雨の心配もあまりしなくていい。
「だけど外に出るならボクは着替えないとね。こんな格好で外には出られないし」
困ったような顔で笑う。
「可愛いからそのままで大丈夫だと思うけど」
可愛い、と言ってしまってから本心が口をついて出たことに気付いたけど、言い直すことはしない。
沖野は驚いたみたいに目を大きくして、嬉しそうな、戸惑ったような、困ったような笑顔を浮かべる。
「でも痛いよ。誤解されちゃう」
「似合ってるのに、文句つけるやつは放っておけばいいよ」
「そんなこと言っても……着てるのはボクなんだよ? 分かってる?」
このまま外に出たことで良くないことがあるとしたら、それは沖野に降りかかるんだってことを言ってるんだろう。それは確かにそうだ。
「そんな駄目かな、そういうもんかな……納得いかないな」
沖野でも、そういう類の人目は気にするのか。気にしないといけないのか。
ため息みたいな言葉が零れた。
その後に一瞬の間があって、その間に沖野は何かを考え、答えを出したようだった。
「ミハルこそ、やけに拘るんだね? 何か理由なんかがあるのかな……ほんとは着てたくないんだけどなぁ」
そこまで言わせちゃったんだし、と沖野は僕の思う沖野らしく、しぶしぶ了承してくれた。
自分自身、何をそこまで拘っているんだって疑問だけど、ほんの短い期間で僕が見てきた沖野は、いつだって自由だったから、だからその沖野までもが縛られる人目を嫌だと思ったのだ。沖野なら、と僕は期待した。期待を押し付けて、期待どおりの反応を返してもらった。それは僕のエゴで、今僕がしていることは、自由じゃなくて自分勝手と呼ぶものだ。
「でも、エプロンとカチューシャは取るからね。そこは譲れない最低ラインだよ。このワンピースだけでも、相当無理してるんだからね」
気持ち頬を膨らませて、沖野が抗議してくる。当然だ。分かり切っていたことなので僕は謝る。
「困らせてごめん。何て言うんだろう……ごめん、早希ちゃん」
「べつに。こういうのも、後で思い出したら楽しい思い出になってるかもしれないしね。たまにはミハルに振り回されてあげるよ。その代わり、食べに行く時間は遅めね」
どんなときでもあくまで前向きな沖野を、僕は眩しく見ていた。
そこからまた読書に戻って時間を潰し、空腹をお菓子で紛らわせながらこの格好の沖野と外に出やすい時間帯になるまで待った。
玄関で、沖野はその服に合ったヒールじゃなくて、黒のスニーカーを選んで履いた。
マンションを出たら、左に曲がって道なりにファミレスに向かう。沖野の変わった服は、意外と夜道に合っていた。
ファミレスとコンビニは夜でも明るい。入り口のドアを開けると、チャイムが鳴った。
ちょうどレジから会計を終えた、二十代の男三人組が僕達の横を通り過ぎる。ある程度予想はしていたことだったけど、三人組は口々に好きなことを言い残していく。
「おい見たか、今の子可愛い」
「なんだお前、ああいうのが趣味だったんかよ可愛いけど」
「彼氏の趣味か? 可哀想に、大変だな」
「なー、彼女いないお前には分からないよな」
「うるせぇな」
残された僕達は困ったものだ。沖野なんて、顔を赤くして下を向いてスカートを握りしめてる。せめてもの救いは、彼氏発言で僕にも火の粉が降りかかったことだ。それすら同時に沖野にダメージを与えてしまっているけれど。何だ、誰も救われてないじゃないか。
席に案内してもらい、向かい合って腰かける。僕はハンバーグプレートで、沖野はステーキプレートを頼んだ。
「もう夜も遅いけど、そんなの気にしないで肉食べるんだな、早希ちゃんは」
「ボク太らないから。それに肉好きだし、食べたいもの食べないと」
二人とも注文したものが運ばれてきたら会話をしながら食べ始める。
その中で、今日のことを尋ねる。
「あのさ、今日のこれ、デートだけど……こんなんで良かった?」
沖野相手だから、今日1日のこんなん呼ばわりも遠慮はしない。沖野はふっと笑って、当たり前みたいに言う。
「一緒にいれれば、それだけで楽しいよ」
それだけ言ったら、沖野は食べることに集中し始めた。なので僕もハンバーグを食べながら、一緒に沖野の言葉の意味も咀嚼する。
食べ終わった。けれど食べ終わったのはハンバーグとステーキだけなので僕は聞いてみる。
「何かデザートは?」
「食べないよ」
「食べないんだ」
「食べたら太るから食べない」
「……食べても太らないってさっき言ってたのにか?」
思わず指摘した。言うことがころころ変わるのは誰にとっても珍しいことじゃないけどな。
「それは普通に食べたらね。余計に食べたら、太るに決まってる」
「そりゃそうだ。余計に食べないなら太ることもないだろうな」
沖野の家に帰ってきた。風呂の待ち時間にも、自分が風呂に入ることにも慣れてきて、自分の家ほどじゃないにしても十分寛げるようになっていた。
でも、あれ? 僕は何で今日も沖野の家に泊まっているんだ?
忘れていた疑問が首をもたげる。けれど、すぐにそれより重たい眠気が疑問を打ち消した。家でいても、ずっと何かをしていたら疲れはする。
沖野も欠伸をする。見ていたらその欠伸が僕にもうつった。
このまま寝てしまいそうだ。まあ、それでもいいか。明日の朝も、早くに起こされそうだしな。
音が遠く、意識が沈んでいく。
また明日、明日は外に遊びに出かけることになるんだろうか。そこまで考えて、僕は本格的に眠くなる。
平和だった。僕の考えは平和過ぎて、明日あんなことになるなんて––––––考えもしていなかった。
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夏風邪は性質が悪い?
カーテンの隙間から差す日差しが強くて、僕は起きた。昨日もなし崩し的に沖野の家に泊まってしまった。
今日は沖野に起こされなかった。何気なく時計を見てみるともう9時を回っていて、早起きには程遠い。どおりで日差しが強いはずだ。昨日は早起きだった沖野だけど、2日続けては眠かったんだろうか。
ベッドのほうに沖野の気配がする。起こした場合と起こさなかった場合の予想を天秤にかけてから、立ち上がり沖野の様子を見る。
沖野はまだ横になっていた。だけど少し様子がおかしかった。髪が汗で額に張り付き、顔には疲労の色が見える。
「早希ちゃん? 起きてるのか? もう朝って呼んでいいか曖昧な時間だけど……」
「ああ、ミハル。おはよう、今日はボクなんだか体がだるくって、ベッドから起きれなかったんだ」
僕が声をかけると、沖野はすぐに目を開けた。寝起きじゃないから受け答えもしっかりしている。でも体がだるいって、それは。
「体温計はどこにある?」
沖野が答えた棚を探して体温計を見つける。そして、沖野に体温を計らせた。検温が終わったことを知らせる音が鳴ったら、僕は沖野から体温計を受け取った。
「やっぱり、熱がある。一昨日の雨に濡れたせいだろうな」
37.8度は微熱じゃない。体調の悪さは沖野自身が一番分かっているだろう。
「そっか、ボク風邪ひいちゃったんだね。今日のデートどうしよう」
「もちろん、無しだよ」
そう言ったら沖野は目に見えて落ち込んでいたけれど、だからと言って折れるわけにはいかない。それは優しさじゃないから。僕はいつになく意思を強く持った。
風邪と分かったからには出来る範囲でなんとかする。家にあった冷えピタと氷枕を沖野に使う。
今できることはこれくらいだ。あと僕にできるとしたら買い物くらいか。
「何か食べたいものとか、風邪のときにいつも食べてるものとかないか? 僕が買ってくるよ」
聞くと沖野は風邪で重い頭で考えて、何かを思いついたみたいだ。
「アイスとか、かな。ご飯は食べられる気がしないよ。うん、アイス」
自分でも納得がいっているようなので、僕はその案を採用する。とりあえず何も食べないよりは、何でも食べたほうがいいはずだ。
「じゃあ、今から買ってくるよ。何かあったら僕に電話して……そう言えば、連絡先交換してなかった」
家に泊まるくらいに沖野との距離が近過ぎたから、逆に必要なかったんだな。気にしてなかったけれど。
「そうだったね。それじゃあこんなときだけど、交換しよっか」
マンションを出たら自転車に乗って、スーパーよりも距離の近いコンビニに向かって漕ぎ出す。割高なのを気にしなければ、品揃えに不備はない。
別に沖野が待っているわけでも、待たせているわけでもないけど、知らずペダルを漕ぐ足がいつもより速くなっていた。
買うのはアイスと風邪薬とポカリと。アイスはあっさり目から濃い目の味のものまで全部。のど飴や栄養ドリンクがあってもいいかもしれない。それに、食べやすさで言うならヨーグルトも良い。
ご飯は食べられないとは言ってたけど、気が変わることもあるだろう。煮込みうどんと、僕の分も兼ねておにぎりを買う。
カゴの中がいっぱいになる。もしかしたら僕は買い物が下手かもしれなかった。沖野のことを悪くは言えない。
でも、自分に迷惑をかける分には自由だ。会計は僕持ちなんだから。
袋を幾つも提げて、沖野の家に帰る。
「おかえり、ミハル。またいっぱい買ってきたんだね? 何買ったの」
「頼まれたものと頼まれてないもの」
バニラアイスを僕と沖野の分、一つずつ取ったら後は冷蔵庫に入れる。帰り道を経て、溶けかけだ。
「おいしい……ミハルのおかげで助かっちゃった。一人で風邪引いてたら、外に買い物なんて行けないもんね」
額には冷えピタを貼って、顔には具合の悪さが見えるけれど、それでも十分活き活きとした笑顔を沖野は浮かべる。これなら僕の財布も浮かばれるというものだ。
沖野がアイスを食べ終わった頃を見計らって僕は沖野に聞く。
「軽く食べられるものも買ってきたんだ。さっきはああ言ってたけど、やっぱり何か食べたくなってないかな」
「すごいねミハル。ボクのこと見透かしてるみたい。そうなの、今はお腹空いてて」
「うどんとおにぎりとヨーグルトがあるけど、どれにする」
「そうだなぁ、うどんにする」
ちょっと早めの昼ご飯を食べたら沖野に買ってきた風邪薬を飲ませる。
その後は、そこまでひどくはないけど咳もあるので沖野は買ってきたのど飴を早速口に含んでいた。けど沖野は飴を食べてる最中でさえ、気を遣って何か話そうとする。
人心地ついて、僕は立ち上がる。
「そろそろ僕は帰るよ。僕と一緒にいたら早希ちゃんは気を遣うだろ? 色々買っておいたのは冷蔵庫に入れてあるから」
「待って! 気を遣うなんて、全然そんなことないよ……ミハルがボクに気を遣うことはあると思うけど」
焦ったように布団から起き出そうするのでそれを抑えて、その場に留まる。
沖野は下を向き気味で、見れば手は布団を強く握りしめていた。
「……一昨日も昨日もミハルがいて、でもボクが風邪を引いたときにまた一人に戻ったらそれはちょっと寂しいかな」
沖野が僕を見る。そんなに寂しそうに笑われたら、いないわけにはいかないだろう。逃がした食べかけの飴で少し膨れてる頬にも免じて。
「じゃあいるよ。治るまでさ」
そう言ったら返ってきた笑顔は、僕にはできないような心の底から安心したような、そんな笑顔だった。
でも僕が残る代わりに、無理して何か話したりせずに横になって休むように約束させた。僕は何様だろう。
沖野が静かになれば、時間はゆっくりと流れていく。僕は特に考えることもなく風邪のことを考えていた。
風邪はひくと学校を休める。これは運が良い。でも今日は日曜だ。休みの日に風邪をひいて、休みが潰れるだけで休みが増えないなんて、なんて運が悪い。沖野は不幸体質なんだろうか。
風邪薬が効いてきたのか寝息をたてる沖野のほうをぼんやりと眺める。
でも、例えば今日みたいに。僕がいるだけでも何か変わることはあるだろうか。
退屈でできた深淵が僕を覗いていた。
沖野が目を覚ます頃には夜だった。食欲はあるらしいので、おざなりだけど昼に買っておいたおにぎりを二人で食べた。顔色も良くなっていた。
だから約束を少し緩めて、僕はそれから沖野が起きているのを止めなかった。
「ボクはシャワー浴びてくるね、ミハル」
「……まあ、いいけどさ。僕も風邪引いたとき風呂入るし」
沖野を見送ったら、初日とはまた違った焦燥感に襲われた。やましさなんて吹き飛んで、バスルームからの音に耳をすませる。
しばらくして沖野は無事に帰ってきたけれど、待っていた僕は無事ではすまなかった。今日一番の気疲れだ。
今日は早く寝る約束もしていた。沖野の次にシャワーをすませたら、すぐに寝る体勢になる。
おやすみを言って、僕が電気を消す。電気を消したら、僕は横にはならずに机の上で腕を枕にする。
気にしたってしょうがない。でも、気にせずにはいられない。だから僕は、せめて沖野が僕を起こすときがあるとすればすぐに起きられるように、机に体を預けて浅く眠った。
何かの鳥の鳴き声がする。たぶん朝だ。僕は目をつむったままそう思った。
でもまだ早い時間だ。念のために目覚ましはセットしてあるから、それまで寝ていよう。
布団が捲られる音がした。僕以外の気配がする。だったら沖野だろう。
沖野が近づいてくる。
「昨日はありがとう」
耳元で声がした。その声は、僕がまだ寝ていると思っているからかいつもよりももっと素直で、なんだか目が覚めてきてしまった。
それきり沖野は離れていって、時間になるまで僕を寝かせておいてくれるつもりなのかもしれない。
もう眠くはないんだけど。今すぐにでも起きたいくらいなんだけど。
それでも一度始まったら終わるまで、僕の寝たふりは続く。
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燃える日
セットしておいた目覚ましよりも少し早く、沖野に起こされる。本当は沖野が起きたときにはもう起きていて、それからずっと寝たふりだったんだけど。
うるさい目覚ましより、沖野に起こされるほうがずっといい。
今日は月曜で学校がある。それは僕や沖野がどんな毎日を過ごしていても関係がない。
でもとりあえず、沖野の風邪は治ったらしいから良かった。
朝の用意をしているときに、沖野が昨日色々買ったお金のことを気にして聞いてきたけれど、僕は返してもらうのを断った。だって勝手に必要ないようなものまで買ってきて、それでそのお金を請求するなんて、押し売りだろう。
風邪が治ったのならそれでいい。僕は沖野が楽しめることに先行投資したんだから。なんて、考えが覚束ないのはまた僕が浮かれているからなのかもしれない。
僕達はもう沖野の家を出て、学校へ向かって歩いている。
僕がいつも登校するより少し遅い時間、距離が短くなった通学路、隣を歩く沖野。何もかもがいつもと違う。
何でもないことを話しているだけでこうも浮ついてしまうのは、僕にその原因があるんだろうな。
歩いていればいずれ目的地には着くもので、学校までの道のりは呆気なく終わりを迎えた。
今日も、私立青夏高校(しりつせいかこうこう)と刻まれた正門をくぐり抜けて、特に思い入れがあるわけでもないその敷地内に足を踏み入れる。
学校が近づいても沖野は特に僕から距離を取るでもなく、一緒に登校してきたと思われても何でもないみたいだ。僕も沖野を習って平然を装う。その内心は定かじゃない。
そんな僕達の横を自転車通学の他生徒が追い抜いていく。別に振り向いてきたりはしない。当然だ。
下駄箱を過ぎて、階段を登り二階の教室前まで来た。僕は1組なので、1組の教室の前扉のところで立ち止まる。
立ち止まったはいいけれど、ここで沖野にかけるべき適切な言葉に迷った。声をかけないのは違う気がする。
「またね、ミハル」
「ああ、またな……早希ちゃん」
またね、か。
沖野は踵を返して歩き出す。僕はそれを見送った。沖野は3組の教室に入るらしい。沖野は3組だったのか。
扉に手をかけて、そこでまだ自分を見ている僕に気づいて沖野はふわりと笑う。そして、そのまま教室に入っていった。
沖野が僕のことをミハルと呼ぶのは、他の誰かからするとただ名字で呼んでいるだけに聞こえるだろう。
じゃあ、僕は?
僕は沖野のことを早希ちゃんと呼んでいるわけだけど……そんな呼び方するの、高校に入ってからは沖野以外にいないぞ。周りとしてはその呼び方は普通でも、僕としてはその呼び方は普通じゃない。
さっきの一瞬の躊躇いはそれだった。照れ臭さはなんとか押し殺したけど、意識してしまうと、どうにも。
気づけば教室にも入らずにずっと立ち止まっていたので、僕はようやく扉に手をかけるのだった。
沖野と接点ができたと言っても、その後の授業も、昼休みあるいは昼飯も何が変わるわけじゃない。
通常通り。いつもどおり、毎日は過ぎていく。だから変化があるとしたら、それは放課後だった。
放課後になって、沖野は来た。廊下で待つなんてことを沖野はしない。教室の中に入ってきて、僕の席まで寄ってくる。
「帰りも一緒に帰ろう?」
なんて言うし。
沖野に比べると駄目だけど、僕の自意識もそこまで酷くない。ここでその誘いを断るようなことはしない。
「そうだな、そうしよう」
そう言えば今日は、沖野の家に泊まるとかいう話は聞いてない。だから今日は、自分の家に帰れるのかもな。
でも家までは送っていこう。どうせ帰り道の途中だ。一緒に帰るってそういうことだと思う。
沖野と初めて出会った通りに差し掛かった頃、沖野が不意に立ち止まった。顔をあげて何かを見ているので、僕も何を見てるのかとそっちを見る。
「……煙?」
特に何があったわけでもないから煙を挙げてみただけだけど。沖野のマンションのほうだ。そっちのほうっていうだけで、それだけなんだけど。
でも、そうだ。自分の家のほうで煙が上がっていたら、少しは自分の家が燃えている可能性も頭に浮かぶ。浮かんで、すぐに消えていく。
暫く見ていれば、沖野も煙を気にするのをやめて歩き出した。僕もまた歩き出す。
家に帰れば、本当は燃えてなかったことも分かるんだしな。
「燃えてる」
沖野の家に近づくにつれ、僕達はその異変に気付いた。何か騒がしい。
マンションの周りには人だかりができていて、皆マンションを見上げていた。
「ボクの部屋も、」
沖野の部屋がある一帯が燃えていた。一瞬で火事だって分かるくらいに。
一つ下の階は、沖野の部屋の真下の部屋だけが燃えている。あの部屋から延焼したんだろう。沖野は、何も悪くない。
すでに何台もの消防車が来て放水をしている。火を消し止めるための容赦ない放水が、沖野の部屋を目掛けて行われる。炎と放水で、沖野の部屋は滅茶苦茶なはずだった。
沖野は部屋を見上げたままで動かない。後ろ姿だけじゃ今、沖野がどんな顔をしてるのか分からない。
放っておくことなんてできない。でも僕は、僕はなんて声をかければいいんだろう。なんて声をかけられるんだろう。
自分の家が燃えたとき、なんて声をかけてほしいものなんだろう。
……そんなの、自分の家が燃えたこともないのに分かるわけないだろ。分かったふりに意味なんてない。
でも、だからって。何も分からなくても。
じっとしてるわけにはいかないんだよ。
僕は沖野に近づいていって、そしてその手を取った。断りも返事も何もなく、強い力で引っ張っていく。
振り返った沖野の目に涙はなかった、ように見えた。もしかしたら、どうしていいか分からないのは沖野も同じなのかもしれない。
泣くことも、どうすればいいのか分からないのかもしれない。
行き先は僕の家だ。僕が間違っていたら、この手を振り払ってほしい。
家に着くまで、僕はその手を離さなかったし、沖野も僕の手を離すことはなかった。
リビングの椅子に座らせて、沖野は今、水を入れたコップを両手で持って飲んでいる。
「あのさ、早希ちゃん。これは余計な真似かもしれないんだけど」
沖野の目が僕を見る。
「今日はここに泊まっていいから。今日だけじゃない、明日も、明後日も。ずっとだっていいからさ……」
「ありがとう、ミハル」
僕にはこんなことしか言えないし、こんなことしかできない。
沖野はすごく繊細に、儚そうに、僕を気遣うように、心のこもった礼を言った。本当に助かるという風に。
でも、まだだ。僕が言いたいのは、僕に言えるのは、僕が言うべきなのは––––––こうじゃない。
そうは分かっていても、答えは出ずにそれを言える機会は過ぎていく。よくある時間切れだ。
気持ちを切り替えよう。
「こっちの部屋を使ってくれ。部屋だけは余ってるから、早希ちゃんが使ってくれるとこの部屋も役に立てるよ」
「うん、使わせてもらうね」
それ以上は会話もなく、この状況にふさわしいと思える会話に心当たりもなく、沖野は部屋に入っていく。
それから僕がすることは、いつ帰ってくるとも知れない親に電話をかけることだ。断りを入れておかないといけない。
数回の呼び出し音の後に、母親が電話にでる。僕は要件を伝える。
火事の飛び火で自分の家に住めなくなった同学年の沖野という女子を、いつまでかは決めてないが住まわせたいと。こう言ってみると無茶苦茶だ。突拍子もない。
だけど、無茶苦茶なのは沖野だって同じだ。これくらいいいだろう?
全てを伝え終えた。話を途中で遮らないで、最後までよく聞いてくれたと思う。普通の親ならこうはいかないんじゃないだろうか。
無茶苦茶なのは、僕に始まった話じゃないんだろう。僕なんて初めてするような頼みがこれだ。つくづく助かる。
一瞬の間を置いて、答えが返る。
僕はどちらにしても、沖野を何とかする覚悟を決めていた。
「いいんじゃない? 奏がそこまでしてあげたいって思うんなら、それはその子……沖野ちゃんのこと好きとか、そういうことでしょ。ならしょうがない。あんたが沖野ちゃんを助けなさい」
許可します、と言ってくれた。
奏は誰にでも優しくないしね、とか何とか言ってたような気もするけれど、正直聞いてなかった。許可を得たことさえも、それよりも大きい衝撃で印象が薄れていた。
––––僕が沖野のことを好き?
そんなこと、僕がよく知らないんだけど、それはどういうことなんだ?
「それと。沖野ちゃん、服も何も残ってないだろうから、明日、服を買いに連れてってあげなさい。私がとりあえず外に出られるような服を適当に買っておくから」
「あ、ああうん」
気を取られていたら話が進んでいる。火事のことだってそうだ、家が燃えたら、何もかもが燃えてることになるのか。僕も案外混乱している。
「さすが私の子だ。まだ頼りないけど、頼りにしてるぞ私の息子」
「……なんだよそれ、ありがとう」
次の日の朝、沖野の部屋のドアをノックする。すぐにドアが開かれて、沖野の姿が見える。目は、泣き腫らしていたりとかはしないみたいだ。泣き方が分からなかったんだろうか。
「起きてたんだな、早希ちゃん」
「うん、今日も学校だから。おはようミハル」
「おはよう。それなんだけど、今日は学校を休まないか?」
「え?」
沖野の目が驚きに見開かれる。そんなに驚くことなのか。昨日の今日で、沖野が学校を休んだって誰も責めはしないのにな。
「だって早希ちゃん、服とかどうするんだ? 無いと困ると思うけど」
「あ……そうかも」
「それにさ、もっと大事なことがある」
昨日言えなかったことがある。
「そうなの? ……聞くよ、その大事なこと」
沖野が聞く体勢というやつになる。真剣さと、不安が混じったような表情を沖野は浮かべている。きっと、沖野が住むことを親に反対されたとか、そういうことを言われると思っているんだろう。
その心配は、杞憂だ。
僕がこれから言うのは、もしかしたら今言うべきじゃないかもしれないことなんだから。
「早希ちゃん––––––僕と一緒に、ここで暮らしてくれないかな」
それはいつかの沖野への答えで。
昨日の僕が言えなかった答えで。
まだ言えない、まだ確かだと自信を持てない、沖野のことを好きって気持ちに繋がる手がかりだった。
昨日と言ってることは同じようでも、伝わる気持ちはあるはずだ。
言ってしまったら後は待つことしかできない。沖野は僕がそれを言い終わった後もずっと僕を見ていて、そして目を伏せた。
そして、次に目を開いたら咲き誇るような笑顔になった。
「––––––これから、ボクのことをよろしくお願いします。好きだよ、ミハル」
受け入れてもらえたみたいだ。ああ、良かった。僕は間違ってなかった。間違ってたなら、こんな笑顔はない。
僕達は今日、学校を休んで新しい始まりの準備をする。何があったとしても、何も終わりはしないから。
この騒がしい鼓動は、告白じみた何かのせいなのか、沖野が言った好きのせいなのか。それは分からない。
だけど僕が沖野に好きと伝えられる日もそう遠くはないだろうと、僕は心のどこかで思った。
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