あの日の奇跡と東風谷早苗について (ヨウユ)
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憩いの風

 山中の石段をのぼる。随分と懐かしい景色だ。この山道をのぼった先には何もない。正確には無くなってしまった。ここを訪れなくなって久しいが、きっとそれは変わっていないのだろう。しかし、かつてのこの小さな山の頂には寂れた神社が確かにあった。

 

 そこには二柱の神に仕えているのだという少女が居た。その二柱の神様のことを家族の自慢話でもするように嬉しそうに話す、少しばかり普通じゃない女の子が居た。今では見ることも、話すこともかなわない。自分が心からいとおしいと感じた少女だ。

 

 そんな彼女とのひとつの大切な約束を思い出す。自分にとって生涯をかけて果たすべき約束、ありえない奇跡が起こった日の、彼女との別れ際に交わした大切な約束。それは他人から見たらひどく滑稽なものだろう。

 

 どこに行ったかも分からない、この世には名前すら残っていない女の子に会いに行く。地図の上にすら存在せず、どんな場所かもわからないところへ行ってしまった者を、片方は追い続けて。

 いつ来るのか、そもそも来ることができるのかさえ定かでない者を、片方は待ち続ける。そんな再会の約束をもう何年も果たそうと歩き続けている。

 

 まだ道半ばだというのに、気づけば肩で息をしていた。以前は日課のようにこの道を歩いていたのを思うと、随分とこの体は鈍らになってしまったものだ。

 年老いたというには、まだ若いだろう。けれど、少年の頃に比べたら老い枯れてしまった。この身だけでなく、この目に映る世界さえも。

 

 予感があった―――。

 

 学生時代、彼女が目の前から姿を消してからも、この山には通い続けていた。自分からそちらへ行くと言った手前で、女々しいこと極まりないが、もしかしたらと思うと、足を運ばずにはいられなかった。ただ、当然のことながら彼女に会うことはできなかった。

 

 高校を卒業してからは、ここに居ても彼女にはたどり着けないと確信して、各地を旅行した。大学生活はアルバイトでお金を貯めては、霊地を訪れる生活をしていたのだ。 生活の全てをかけることは出来なかったが、使える時間は全て彼女のところへ行くために使った。

 傍から見れば旅行好きの青年でしかないので、咎められることもなく生き方に困ったことはない。

 そういった過程で、この場所に向かう足は遠のいていったのだ。

 

 ――今日は何か違うかも、しれない。

 

 ちょうど、あの日から十年。足を運ぶにはいい機会だと思うこともあって、しばらく訪れていなかったこの場所へ向かうことにしたのだった。

 幻想郷。

 彼女が行ってしまった場所の名前は、そういうらしい。地図上には存在せず、名前すら聞いたことのない、この世のどこか。いくら調べたところで、そんな名前の土地は見つからなかった。

 もう会えないのかもしれない。そんな考えがよぎったのは、一度や二度ではすまない。

 まず、手掛かりが一つもない。行き方なんて知るわけもない。そもそもの住む世界が違った彼女が、行き着くべき世界に向かったのだ。

 自分の住むべき世界はここで、彼女の住むべき世界は、ここではなく、幻想郷という、見たことも聞いたこともない世界だった。

 

 ただ、それだけのこと。

 

 ならば、仕方ないではないかと何度思ったか。自分では見ることも行くことも、知ることもできない世界など、どうすれば辿り着けるというのか。

 それでも探し続けているのは、彼女のことを忘れないよう。例え記憶が薄れ、彼女との思い出が風化してしまっても、約束と、彼女と過ごした日々が在ったということだけは忘れたくなかったから。

 

 ――――ああ、でも。

 

 未だに少女のことを覚えている人はそれほどいないだろう。彼女が消えた日に、多くの人はその存在を忘れてしまったからだ。

 彼女の居た痕跡はもはやなく、時折、幻であったのではないかと思うほど。そんな者との間に、手元に残るようなものが、どれほどあるというのか。

 

 時が過ぎる程に、昔の自分にとっては当然であった時間の記憶が段々と鮮明ではなくなっていった。日常に交わされたなんでもない会話の内容など思い出せず、今ではもう、彼女の声も、どんな風に笑っていたかさえ、曖昧だ。

 ただ、一つ残ったもの、確かに彼女がここに在ったという記憶、それが霞のようになっていく。

 

 それだけが怖かった。例えこの先、再び会うことが叶わなかったとしても、追い求め続けた結果なのであれば、仕方がないのかもしれない。けれど、老い、朽ち果てた時に、彼女のことを何一つ思い出せなくなっていたとしたら。

 

 それはなんて、おそろしいことなのだろうか。

 

 はあ、とため息をつく。

 少し立ち止まって、石段の踊り場に座り込む。もう人が訪れるようなことのない場所だ。邪魔にはなるまい。地に手をつくと、少しひんやりとした感覚が伝わってくる。それを受けて、思いきって背中から仰向けに倒れこんでみると、背中全体に冷たい感覚が広がる。汗をかいて、火照った体にはなかなか気持ちがいい。

 そうして空を見上げる。木漏れ日が少し眩しくて、目を細める。

 空は晴天で青く澄んでいて、風は木々を揺らし、耳に心地の良い音を運んでくれる。

 ざあああ、という、木の葉と木枝とが揺れて奏でられる自然の音楽の奏者である風は眠気まで運んできたらしい。

 今ここまで山道を登ってきた体は、日々の労働もあってか、思っていたより疲労がたまっていたらしく、しばらく仰向けに倒れて、ぼうっと空を見上げていると、どうにも瞼が重くて仕方なくなってきた。

 

 ――――少し、疲れたな。

 

 なに、急ぎではない。なにしろ、もう十年も待たせてしまっているのだ。少しくらい、遅れてしまってもかまわないだろう。

 

 ――――もう、ずっと長いこと追いかけてきた。

 

 眠い、という本能に逆らわず、導かれるがまま、瞼を閉じていく。世界はぼやけて、眼球に映るものすべてが現実味を失い、どこか遠くの出来事のように感じながら、瞼は閉じられる。

 

――――だから、少し、泥のように眠ろう。

 

 薄れていく意識の中、暗い深い海に落ちていくのを感じながら、懐かしい一人の少女の姿を思い出す。

 

 風が、彼女の元まで己を運んでくれることを祈りながら。

 



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東風谷早苗について 1

 東風谷早苗という少女が居た。彼女とはじめて会話を交わしたのは、小学校の低学年の時だった。なんというか、彼女は少し変わっていて、その年頃の女の子が熱中するようなものよりも、男の子が憧れるような仮面ライダーやら戦隊ヒーローやらロボットアニメに夢中になるような子だった。

 そんなんだから、男子の輪の中にも当然のように入ってきて、楽しそうに今週の話はどうだったとか、格好良かったとか、よく、そうやって場を盛り上げていた。

 明るく話題にも富んでいて、容姿も整っていた彼女は、男子にも女子にも好かれて、彼女が右を向けば、みんなが右を向くような、クラスの中心でアイドル的な存在だった。

 かくいう俺自身も、最初に彼女と話をして、仲良くなっていったきっかけは、そういうところからだったような気がする。

 話すうちに、特に気が合った俺と彼女は、よく一緒にいて、遊んだし、どんな人数のグループで活動するときでも、彼女と俺の二人は同じグループで、行動を共にしていた。

 ただ、高学年にもなって、異性を意識する年頃になると、学校の中では、そういうのを茶化す輩というのは出てくるもので、そういった存在のせいか、単純にお互いに異性というものを意識し始めてきていていたのか、気づけば、行動を共にすることはなくなっていき、最終学年でクラスが変わるとともに顔を合わせることもなくなった。

 そうして同じ中学に進学しながらも、特に会って話すこともなく、顔も名前も知らない他人と同じように、関わることもないまま、時は過ぎる――筈だった。

 

 

 

 

「おい結鷹(ゆたか)、聞いたか? 今日、3組の東風谷さんが同じ3組の伊達を呼び出したらしいぞ! 『話があります』って感じで」

 

 昼休み、昼食の弁当を机の上に広げていると、そんな声を上げながら、ビッグニュースだと言わんばかりに同じクラスの中田丈が駆け寄ってきて、俺の机の前に飛び出した。

 

「へー」

 

 東風谷早苗と言えば、この学校じゃ有名人だ。美人であるということで、男子からの人気は高く、女子でだれだれがいいと思う? みたいな話題では名前が上がる率はナンバーワンと言ってもいいだろう。

 まあ、そうでなくとも東風谷早苗のことは知っている。なにせ古い友人ではある、進行形の友人ではないが。

 

「へー、じゃねーよ! 東風谷だぞ、こ・ち・や。あいつすげー可愛いのに、誰かと付き合ってるとかそんな噂ひとっつも無かったじゃん!? これ告白だよなー、きっと」

 

 そう言いながら、中田はコンビニ袋からがさがさと3つほどの菓子パンと、ペットボトルのお茶を取り出す。

 

「じゃん、綾鷹だぜー“綾鷹”」

「その呼び方はやめい」

 

 明らかに小馬鹿にしたその顔の頭頂部に、軽くチョップをする。

あで、と言いながらも中田は予想通りのリアクションが返ってきたのが嬉しいのか、顔は笑みを浮かべている。

 今の綾鷹とはお茶の綾鷹と、俺の名前、”綾”崎結”鷹”の略の綾鷹をかけて、ネタにしてきているのである。正直やめてほしいが、ただ飲まれるだけの飲料を責めるわけにもいかず、このあだ名はなくなりそうにない。広めたのはもちろん、目の前の男で、一時はクラスメイト全員が綾鷹を持ってくるという謎の流行が起きた程だ。結構売り上げに貢献しているんじゃないだろうか。

 今は落ち着きを見せているが、中田をはじめとして、クラスの男子はおろか、女子すら時折、思い出したように、綾鷹を買ってきて俺のことを呼ぶのだ。

 そういえば、確かに不思議と東風谷が誰かと付き合っているという話は聞かなかったな、今まで。

 

「容姿が良いと大変だな。告白するってだけで別のクラスにまで話題にされて」

 

 3組と言えば、サッカー部の顧問が担任で、故意なのか偶然なのか、サッカー部の男子のほとんどが3組に所属しているとよく聞く。

 中学最後の年のクラス替えということもあって、そんな権限があるのかは知らないがその担任が気を利かせたのかもしれない。

 あと、偏見かもしれないが、サッカー部っていうのは全員が全員とは言わないが、顔がそこそこ良いのが揃っているイメージが俺の中では出来上がっている。

 ついでに素行悪い率が高いのもサッカー部、次いで野球部である。ま、偏見だけどね。

 

「まあ、話題になるのはイケメンや美女の運命よな、ふつーの奴がふつーの奴と付き合うなんて話は身内以外には何も面白くないわけで。てか、伊達っていえばサッカー部のエースだぜ!? しかもチャラそうな感じのイケメン。やっぱ男は、ちょっと悪い感じの奴の方がモテるのかね?」

 

 中田曰く、その伊達というのはイケメンらしいが、正直記憶にない。

 ちょっと悪そうだからモテるのではなく、イケメンだからモテるんだぞ、とは敢えて訂正しないでおいてやる。

 3組の男子連中の印象と言ったら、今年の6月に行われた球技大会の種目のサッカーで無双していたという記憶がほとんどで、個人個人の顔までは覚えるに至っていない。

 関係の無い話ではあるが、普段、授業を真面目に受けてない不良もどきが、体育の時ばかりは真剣にやって、適当に手を抜いてる奴を責めたりするのは、学校あるあるだと思う。

 元から人の顔を覚えるのが得意でない俺は、同じクラスになった人でも無ければ名前も顔もおぼえていない。

 サッカー部と言ったらあいつ、と顔が浮かんでこないということは、どうやら、俺はサッカー部員とは縁がないようだ。

 ただ、3組は学校全体の行事――学校祭等では中心となって動くことの多いクラスで、何というか、三年の全5クラスの中では最も力を持ったクラスだという印象はある。

 声の大きいだけの連中とも言えるが。行事を盛り上げるのはそういう声の大きい人間たちなので仕方ない。私立でもない中学の行事などたかが知れているというのにご苦労なことである。

 

「まあ、ぱっとしないのよりは良いんじゃねーの?」

 

 そんな素直な感想を口にしながらも、どうにも、嫌な予感が胸中を巡っている。小学校時代の東風谷のままであるとは限らないが、どうにも引っかかる。彼女はそんなそこら中で話題になるような呼び出し方をして、恋愛ごとで悪目立ちするようなことを好むような性格では無いはずだ。

 少々天然が入ってるが、本当に人が嫌がるような迷惑は、かからないよう相手に気は配れる人物だと記憶している。

 若干の個人的感情も混ざっているかもしれないが、妙な不安だけが、1日中続き、そのままその日は終わった。

 

 

 

 

 

 次の日の1限目の授業を終えた休み時間。結局、東風谷と伊達の話はどうなったのだろうかと思っていると、タイムリーなことに中田が、俺の机の前に来て、空いている前の席に背もたれの方を前にして大股を開いて座る。そして、昨日とは違って、少し、小さめの声で周りに聞こえにくいようにして言った。

 

「なんか、東風谷さん今3組ですげーイジメられてる」

「は?」

 

 その言葉が、一瞬どういう意味だか理解できなかった。

 いや、意味は分かった。しかし、何故?

 伊達が告白されたとして、振ったからイジメるのか? それは何というか、あんまりではないか。

告白されて断るまでは分かる。伊達というのがイケメンだというのならモテるのだろうし、付き合っている彼女だって居るのかもしれない。だが、そこからイジメというのは、要因と結果が飛躍しすぎてどうにも辻褄が合わない。

 

「東風谷が告白したんだろ? それで、イジメ? 意味わかんね」

「いや、なんつーか。その、告白は告白だったけど、いわゆる愛の告白じゃなくてさ……」

 

 中田はどうにも気まずそうに後頭部を描きながら、視線を俺の左側へと外して次の言葉を言った。

 

「“私の仕えてる神様が消えそうなのでどうか信者になってください”って、言ったらしい」

 

 その言葉を、東風谷が言っているのを想像したのか、嫌悪感を露わにして中田は顔を顰める。

 対して、俺は言葉を失った。

 なんてことを言っているのだ、あいつは。昔のことを思い出す。まだ、東風谷早苗と一緒に遊んだりしていた時期。そこに思い当たるフシはある。

 が、そんなことを吹聴したら周りがどんな反応をするか分からない能無しではなかったはずだが。

 

「やべーよな。宗教勧誘だろこれ、しかも超マジな表情だったらしいぜ。告白されると思って行って、そんなこと言われたら鳥肌立つわ俺」

 

 てか想像で鳥肌立った、と弱った笑みを浮かべて、中田は腕を捲って見せてくる。

やめろよ気持ちわりー。

 

「あーあ、天は二物を与えずってマジだな。学校一の美少女が、変な宗教に引っかかってるとはね」

 

 冗談のように口にする中田だったが、正直笑えない。笑えないどころか、少し苛ついてる自分がいる。

 

「で、それがイジメの原因?」

 

 わかりきったことを聞く。

 

「まあ、それでしょ。あのクラスは伊達のサッカー部の仲間ばっかだからすぐ広まったんだろうし、東風谷さんくらい可愛い子なら女子は元々快くは思ってなかったんじゃね」

 

 女子にとっては案外丁度良い機会だったんじゃね、と中田は言う。

 ああ、おそらくはそうなのだろう。東風谷にとっては不運にも、良くない環境が揃っていたのだろう。繋がりの強いサッカー部員ばかりのクラス、その中心人物であろう伊達への普通では考えられない告白。

 クラス内で、東風谷がどんな人間関係を構築していたかは俺の知るところではないが女子からの嫉妬や羨望でだけで済んでいたものは、この機会に多大なる悪意を持った行動へと変貌したのだろう。

 クラスの中心たる人物たちから嫌われるということは、他の奴らにとってイジメの許可証を与えられたようなものなのだから。

 そして、そんな彼女を助けようとする人間はきっといない。敵に回した相手が、生徒間の中では大きすぎた。スクールカーストの中で、頂上に存在する連中に悪意を持たれてしまったのだから。

 はあ、と息をついてから席から立ち上がる。

 

「お、どうしたん」

「少し、花を摘みに」

「はあ?」

「便所だよ」

「もう授業始まるぞ?」

 

 中田は時計をちらと見やってから、真意を探るようにこちらへ顔を向ける。ただトイレに行くとは思っていないらしい。中学1年から三年の今まで偶然にもずっと同じクラスという付き合いの長さのせいか、こいつは、こういうとき妙に鋭い。

 

「いいんだよ」

「ふーん」

 

 正直に答える気のない俺の様子を見て、大体を察したのか、中田はそういって興味を失ったように――より正確には、興味を失ったふりをして――自分の席へ戻っていった。

 俺はその姿を見送ってから、廊下へ出る。教室を出るときに再度時計を確認したところ、授業が始まるまでに、もう二分もない。だが充分だ。俺のクラスは1組。目的地は当然3組だ。

 3組までは教室を一つ跨いだだけで、教室間の距離なんてたかだか数メートルなので、距離としては近い。それと、他クラスの人間との親交があるかということは別であるが。

 都合の良いことに、3組の扉は、開けっぱなしで、外からでも中の様子を容易に見ることができた。

 通り過ぎるふりをして、中の様子をそれとなく観察する。進行方向は便所だし、ついでに用をたす。そのつもりだった。

 廊下から見た教室内の景色は、異様だった。 この小さな教室がこれ程までに下衆で悪辣な空間になりえるのか、とそう思うほどに。

誰も座っていない席の机の上と、椅子の上に、おそらくその席の主である人物の弁当がぐちゃぐちゃにぶちまけられていた。 そして、クラスの誰もが、遠巻きにその惨状を見て、あるいは誰かと話しながら、くすくすと笑っている。

 幸か不幸かその席の主は教室内には居ない。だが、その席の主が誰であるかなど、想像するまでもなく察せる。

 ただ様子見をして通り過ぎるだけのつもりが、立ち止まっていた。

 たった一日でこうも変わるのか。昨日の昼休みから今日の一限目の休み時間とでいくらの時間があったというのか。

 教室内の様子に、思わず顔を顰める。

 中田はこの景色を見て、ああ言ったのだろうか。それとも人づてに聞いた話だったのだろうか。

 もはや思考は止まり、その光景には怒りすら湧いてこない。

ぼんやりと、その醜悪な、教室という箱庭を見ていると、唐突に誰かに肩を叩かれた。

 

「おい、授業始まってるぞ。このクラスの生徒じゃないだろ、君。自分の教室に戻りなさい」

 

3組の2限目の科目の担当教員だろう。少し、太めの彼は、むっとした表情でそういった。

 

「あ、はい。すいません」

 

 はっとして答える。返事を待つまでもないとしたのか、既に彼は3組の教室の中に入ってしまっていた。

そして、同時に少しばかりの安堵を覚える。本人のいない机の上が、本来なるはずのない様を成している。さすがに良識のある先生ならば、どうにか対処してくれるだろう。

 そう思って、注意に逆らい教室内をしばし観察する。

 だが、その教師はその机上の異常に気付かなかった。否、視線を向け、気づいて尚、ないものとした。気づかぬはずがないのだ、廊下から覗き見るだけでも分かった、その異常に。

 板書の前に立ち、教室全体を見回したのなら、気づかぬはずがない。

それでも何の言及もしないということは、暗黙の了解として、それを見なかったことにしたということ。

 

 面倒だから? 

 

 生徒に敵意を向けられたくないから? 

 

 そうして、放っておく方が楽だから? 

 疑問は尽きなかったが、はっとして、踵を返して自身の教室に急ぎ足で戻る。

 何故か。

 

 その後ろで、教室に居づらくて、どこかに行っていたのであろう、彼女のものらしき足音が聞こえてしまったから。

 

 



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東風谷早苗について 2

“ゆーたーかー”

 

 懐かしい声だ。その呼ばれ方は今思い返してみると、少しくすぐったい。

 

“なにい? さなえちゃん”

 

 返事をするかつての幼い自分。これまた懐かしい呼び方だ。

 

“ふふ、よんだだけです”

 

 なんだよそれ。

 

“ねえ、ゆたか”

 

 再度、幼い女の子が俺を呼ぶ。

 

“またよんだだけ?”

 

“ううん、えーと、あのねー、もしさなえがこまってたらどんなときでもたすけてくれる?”

 

 随分唐突だと、当時でさえ思った。

 ただ、そう問われた時の答えはすぐに出た。

 

“たすけるよ! ひーろーみたいにね”

 

 それは、成長したころには忘れてしまっているような子供の口約束だ。

 幼い娘が父に対して、パパのお嫁さんになる、なんて言う言葉に等しいその約束が、未来にどれほどの影響を与えるというのか。

 

“ぜったいですよ”

 

 忘れかけていた約束だったけれど、ヒーローのようにはなれないけれど。

できるなら彼女の助けになりたい。

 

“うん、ぜったい”

 

 現在でもそう思う。

 

 

 ――――遠い日の、なんてことはない些細な会話を思い出した。

 

 

 気づけば、4限の授業を終え、昼休みになっていた。思考を巡らせている内にどうやら眠ってしまっていたらしい。

 あれから、ずっと考えていた。

 俺が何をしたいのか、何をしようとしているのか、その結果どうなるのか。

 過去、現在、未来。記憶をたどり、現状を見て、何をしたらどうなっていくのか。俺が行うこと、俺が陥るであろう状況が、打算によって導かれていく。

 そうして、決心した。

 今日の昼は、親の作った弁当ではなく、学校に来る前にコンビニで適当に見繕った4つのパンだ。腹を完全に満たすには少々物足りないかもしれないが、2つもパンを腹に入れておけば、まあ十分だろう。

 両親に感謝すべきことに、幸い、小遣いに不便したことは無い。

 しかし、問題はどうやってあの魔境に乗り込むかだ。俺はこの学校では、生徒A、生徒B程度の存在でしかない。目立つのは好きではないので、いつもならそれこそが望ましいが、今この時だけは、大層な何者かでありたかった。

 超イケメンだとか、運動部のエースだとか、そういう生徒間で名前が通っているほどの人間であれば、強引にでも入っていけるだろう。だが、残念なことにそう都合良くはいかない。

 むしろ、向かう相手こそがそういったものを持っている、トップカースト連中だ。今から俺がしようとしていることは全クラスで最も力のあるクラスの、人気者に喧嘩を売りに行くようなものである。

 配られたカードで勝負をするしかないとは言うが、これはもはや、ひのきのぼうを手に、村人Aが魔王に挑むが如き暴挙だ。

 だけど、まあ、仕方ないか。

 そう思った。最悪の場合の映像が何度も想像される。それでも、勝負しないと考えを現実にする気には起きなかった。

 なら、と俺は席を立つ。

 さあ、行こう。

 そんな俺の様子に気づいたのか、便所から教室に戻ってきた中田は、少し険しい表情で声をかけてきた。

 

「おい結鷹、どこ行くつもりだ」

 

 それは、質問であって質問でなかった。

 そんなの、決まっている。

 それを察したから、お前はそんな台詞を吐く。

 中田はもう、俺が何をしようとしているのか、大方の見当をつけているんだろう

 その険しい表情には、俺への心配が含まれていることに俺は気づいている。中田丈は良い奴だ。普段はおちゃらけているけど、察しが良くて空気が読める。だから、正直に言った。

 

「東風谷のとこ」

 

 適当にはぐらかされて、はっきりと返されるとは思ってもいなかったのか、中田は唖然としていた。

 目を丸くして驚いている中田に、続けて俺は告げる。

 

「あいつ、俺の友達なんだ」

 

 これからすることは、きっと今後の俺の学校生活に悪影響をもたらすだろう。3組の連中には当然、反感を買うだろうし、下手すればこのクラス内での居場所もなくなるかもしれない。

 そうならないように、できることがあるのであれば、ただ一つ、あの教員のように見ないふりをして放置することだけ。

 でも、それは俺の中ではナシだった。今のあいつを助けないで得られる平穏よりも、あいつを助けることで受ける被害の方がよっぽどマシだと、散々考えを巡らせた結果、気掛かりなことはあったが、そう結論付けた。

 

「知らねーぞー」

 

 俺を説得することは諦めたのか、中田はいつものふざけた様なしゃべり方に戻る。

 

「まあ、そうだわな。俺の都合にお前は巻き込めないし」

 

 そう言って教室の扉を向かおうとして、背中から、

 

「まあ、結果ぼっちになっても、俺くらいは話し相手になってやんよ」

 

 そんな優しい一言がかけられた。

 

「さんきゅーな」

「いいってことよ」

 

 

 

 

 いざ3組に向かわん、と心中で恰好を付けて、教室を出てみたものの、やばい。何がやばいって超怖い。

 視界がなんだかいつもより遠く感じて、自分の足で立っているというのに現実味がない。

 震える足が、前へ進むことを頑なに拒む。立っているだけで足が震えるなんていつ以来だろうか。こんな状態でまともに声は出せるのだろうか。

 たぶん俺、ピアノの発表会とかは仮に技術があっても無理だな。

 そんな見当違いな考えがよぎるものの、何とか足を一歩一歩前へ出す。

 そうして、どうにか3組の教室にたどり着くものの、不幸なことに教室の扉は閉められていた。あんまり目立ちたくなかったが、覚悟を決めなければいけないようだ。

 ここを開けたらもう引くことはできない、引き戸だけに。くだらない。

 そう理解したうえで、教室の扉に手を掛ける。今はちょうど、クラスの全員が仲のいいグループごとに分かれて昼食を摂っているころだろう。扉の向こうから、がやがやとしていて、誰のものとも分からない雑談の声が聞こえてくる。

 本来健全であるそれは、あの光景を見た後ではひどく薄汚いものに思える。

 ドアを開ければ当然、全員の注目は自分に向くだろう。俺の行動を見た3組の奴らは、どんな反応をするだろうか、どんな行動を起こすだろうか。

 いくつもの悪い想像が頭の中を駆け巡る。今更弱腰になってどうすると、首を振ってから、巡る想像を一気に振り払うようにして扉を開ける。たいして重くない筈の引き戸は、緊張のせいか、やたらと重く感じられた。

 これがブラシーボ効果か(違う)。

 

 予想とは違って、扉を開けただけでは全員の注目が俺に集まることは無かった。何人かは扉を開けた来訪者を、何者かと視線を向けたが、俺の姿を視認すると、興味を失ったように自分たちの会話へと戻っていった。

 ついでに言えば、教室内は男子の数が圧倒的に少ない。伊達と思わしき人物もいないことから、クラス内のサッカー部の仲間と大所帯で売店にでも行っているのだろうか。

 居ても居なくてもやることは変わらないが、居ないに越したことはないだろう。人数が少ない分だけ、幾分か気持ちは楽になる。

 教室全体を見渡したあとに、改めて例の席を確認する。横に5列、縦に6列に並んだ机の中央右側、後ろから二列目。

 一限目に見た時には弁当の中身がぶちまけられていた席。そこにはやはり、東風谷早苗が座っていた。

 よく知っているとも。腰のあたりまで伸びた、緑がかった綺麗な髪。幼い時からの彼女の大きな特徴であるそれを、見紛うはずはない。

 会って話すことはなくなっても忘れようがないし、それに、学校にいる限り、東風谷はよく目立った。

 俺の視線の先には当然、東風谷がいる。彼女は、クラスの人間からの悪意から逃れるように縮こまって、机に向かって突っ伏している。

 そんな東風谷の様子を見て、周囲から笑う声がいくつも聞こえた。

 

 自分の記憶にある彼女からは、ずいぶんとかけ離れた姿だ。幼いころの彼女は男子にも負けないほど元気で、太陽のように笑う女の子だった。

 いつだってクラスの大きな輪の中心に居て、楽しそうにみんなと話をしている、そんな女の子だったではないか。

 今と昔のあまりの差に、東風谷をこんな風にした連中に、憤りを覚える。

 心の底に沸いた怒りを力にして、彼女の元へと歩く。

 先ほどまで竦んでいた足は、彼女に向けて一歩を踏み出してしまえば素直に動いてくれた。

 そうして、彼女の横で歩を止める。それに気づいたこのクラスの人間が、こちらに怪訝な視線を向けてきている。なにあいつ、という誰かの声を発端に、教室中がざわめく。昼食時のそれとは違った、粘ついた悪意を含んだ教室のがやがや。これは錯覚や思い込みではないだろう。

 自分から、彼女に向かって歩み寄っていくのは、いつ以来だろうか。

 

 小学生の高学年の頃、一緒によくいることを冷やかされて以降、あえて話しかけないようにし始めたのは俺の方だ。

 東風谷が女子で、異性であると意識をし始めていたのも重なって、同性の友達にそれを馬鹿にされるのは、恥ずかしくて嫌だったから。

 自分から離れていったのに、自分から近づいていくのは、どうにも気が進まないという、くだらないプライド。

 そんなものに意地を張っていたことで、彼女がこうなるまで気づかず放っておいてしまったのかと思うと、自分にも腹が立つ。

 自分と彼女とが今より少しでも昔に近い関係であったなら、こうはならなかったかもしれない、というのは思い上がりにも近い。

 けれども、そう考えずにはいられない。

 心の奥深くで、よくもまあそれらしいことをつらつらと、とその思考を一笑する自分が居る。

 しかし、それは、今は関係ない。

 

「東風谷」

 

 緊張で渇いた喉に唾を通してから、東風谷の名前を呼ぶ。

 少し声が、掠れていたかも。

 それに怯えたのか驚いたのか、東風谷の肩がビクッと跳ねる。その声を悪意がないと感じたのだろうか、俺のものだと判ったのだろうか、名前を呼ばれて無視するのはさらに立場を悪くすると判断したのか、ゆっくりと体を起こす。

 東風谷は俯き気味のまま顔をこちらに向けて、上目づかいで俺のことを視界に捉えると、え、と周りに聞こえないほど小さな声を出して驚いた。

 それと同時に、寝たふり、と馬鹿にした低い声が窓際後ろの方から、ばれてないと思ってんのかな、という女子のものらしき高い声は、廊下側の前方から聞こえてくる。

 自分たちがそうさせているくせに、よく言う。

 

「一緒に飯食おうぜ」

 

 俺の周囲への怒りに対して、口から発せられた声は自分でも驚くほどに穏やかだった。東風谷の驚きは、その声に対してか言葉そのものに対してか、どちらかは分からないが。

 教室は静まり返り、俺と東風谷のやりとりを見ている。いや、見ているというより観察していると言った方が正しいだろうか。

「嫌か?」

 固まっていた東風谷は今度は困惑したような様子で、周りを気にするように視線を泳がせて、最後に俯いて答えた。

「あの、えと……いいえ」

 俯いてしまった彼女の表情を窺い知ることはできないが、耳が少し赤くなっているような気がする。

 さすがにこの場所で堂々と誘うのは東風谷の方が恥ずかしかったか。やってしまった。

 こんなのイジメのネタをひとつ増やすようなものだ。俺の方は覚悟を決めてのことだが、突然にそれを受けた東風谷の方まで気が回っていなかった。

 だが許せ東風谷、俺も怖いし恥ずかしい。

 

「じゃあ、外に出よう」

 

 誘いに了承を得た以上、長居は無用だろう。ここに長く居て損はあっても得することは俺にも東風谷にもない。さっさと出ていくのが吉だろう。

 

「……はい」

 

 そう言って東風谷が頷いたのを確認して胸元に抱えるようにしていた彼女の手を握る。周りが何かを言っている。嘲笑の類だ。そういった声を無視して彼女の手を引いて教室を出る間際、口にするつもりはなかった言葉が出た。

 

「それに、ここは空気が悪い」

 

 これもまた自分でも驚くほどの声だった。暗く、冷たく、敵意の籠った声。その声がどれだけの人に聞こえたのかは分からない。

 俺たちが立ち去った3組の教室が、またざわめき立つのを背後に感じながら、廊下を歩く。3組からはすぐの渡り廊下に出て、近くの階段を上がる。この学校は4階建てで、最上階を三年が使用するので、それより上となると、屋上しかない。

 ちなみに渡り廊下を渡った先には、4組5組のクラスと、普段は使われない特別教室と理科室がある。

 屋上は、通常立ち入りを禁止されてはいるが、特に鍵をかけられているわけでもないので、入ろうと思えばいつでもいける。

 もちろん、教師に見つかればお咎めを受けることになるだろうが。

 階段を上る途中で、されるがまま引かれていた東風谷の手にわずかに力がこもり、彼女が足を止めたことで逆に少し引っ張られる。何事かと振り返ると、東風谷は伏し目がちにこちらを見ながら、口を開いた。

 

「あの、綾崎、くん……」

「あ、悪い」

 

 手をずっと握りっぱなしだったのを忘れていた。言われて急いで手を離す。緊張していたし手汗とかやばかったかもしれない。そりゃ嫌だわな。

 

「いえ、それは全然構わない……、違くて、私、お昼ご飯……」

 

 東風谷は続けて、捨てられた、とは言わなかった。当然だが彼女の手には何もない。触れられたくない話だろう。それに俺の方も実は東風谷の知らないところでそのことを見ていた、とは言いづらい。

 さっきのは手を握ったままだったことへの不満では無かったらしいがどうにも気恥ずかしくなって、俯いたまま歩く東風谷に背を向けて彼女の少し前を歩く。

 

「昼飯くらい俺のやるよ、俺が誘ったんだし」

「……、はい」

 

 その声に、少し安堵の感情があったように聞こえたのは、彼女が微笑んだように感じたのは俺の傲慢だろうか。

 ただ、そうであったらいいなと思う。

 

 

 

 

 

 屋上への扉にたどり着いて、開けると、気圧差のせいか単に屋上の風が強いのか、びゅう、と唸りをあげて風が吹き込んだ。あまりの強さに少し目を細めながら外を見渡す。パッと見た感じだが、幸いにも屋上には誰もいない。

 風よけにもなるよう、隅の方を陣取って床に座り込む。扉の傍で立ちっぱなしの東風谷に向かって手招きする。それに気づいた東風谷は、とてとてと歩いてきて、ちょこんと、俺の左隣に座る。

 膝を抱えるようにして座る彼女に、2つのパンを差し出す。

 

「ありがとうございます」

 

 それを受け取ると、俺が食べ始めるのを確認してから、彼女も袋を開け始める。

 それにしても……。

 東風谷さん、少し……近いです。

 近い、本当に近い。ちょっと左に寄り掛かったら肩ぶつかりますよ、これ。

 シャンプーだか香水だかフェロモンだか分からないが、女の子独特の良い匂いに、大変どぎまぎさせられる。

 何かを話そうとして、何も話せない。パンを口に運びながら、何か話題を作ろうとするも、横目に東風谷の顔を見ると、頭の回転がどうも鈍くなって仕方ない。

 ていうか、視線が吸い寄せられるんですが、掃除機かなんかですかあなたは。

 ままよ、と改めてよく見ると、やはり彼女は他の同級生たちに比べて美人だと感じる。流れるような長い緑の髪。きめ細やかな白い肌。ぱっちりとした目に、澄んだ綺麗な碧い瞳。整った顔。以前はそれなりに告白されることもあったんじゃないだろうか。

 だが、久しぶりに顔を合わせてそんなことを聞くのはどうにも変だと思う。当然、例の件をこちらから聞くのも憚れた。

 

 東風谷も喋ることは無く、お互いに無口なまま昼食を終えてしまった。

 黙っていて気まずいということは不思議となかったが、食べ終わってからも話すことがないのは少し暇だ。かといって、東風谷と今別れるのは不安が残る。

 することもなくしばらく中空を見つめていると、何かを心に決めた様子で、東風谷の方から話しかけてきた。

 

「綾崎くん」

 

 それは彼女からは呼ばれ慣れない呼ばれ方だった。かつては下の名前で呼び合っていたせいか、それはひどく他人行儀に聞こえる。

 

「呼び捨てでいいだろ、知らない仲でもないし」

 

 もっとも、先にそうしたのはこちらなのだが。

 

「では、綾崎は、神様を信じますか」

 

 こちらを下から窺うような東風谷から唐突に飛び出してきたのは、あまりにも衝撃的な発言であった。

 場が凍り付き、すべてが止まったように感じた。しかし、一層と強く吹いた風が、世界は動き続いていることを知らせてくれる。

 不安そうに少し潤わせた瞳でこちらを見つめる顔はあまりにも真剣で、それでいながら今にも泣きだしそうな子供のように見えた。

 風に髪を靡かせながら東風谷は続ける。

 

「私には幼い頃から二柱の神が見えます。その二柱の神様が、神奈子様と諏訪子様の力が最近になって一層衰えているんです! このままでは消えてしまうかもしれません。現代では人々の信仰を得られないから仕方ないんだって……お二人は。でも、私は……だから、信者になってもらえませんかっ!」

 

 最初は落ち着いた様子だったのに、段々と捲し立てるように話す東風谷の様子には鬼気迫るものがあった。

 なるほど、告白されると思ってこんなことを言われたのなら、確かに驚くだろう。昔を知っているからだろうか、でも、だからと言って、俺は他の人が言っていたような嫌悪感を彼女に抱くことはなかった。

 それに、藁にも縋るように、泣きそうな表情で懇願する彼女を足蹴にするような真似は俺にはできない。

 更に言えば、彼女が神様云々を言うこと自体には、自分でも意外なことに、それほど驚いてはいない。

 

「うん、信じるよ。東風谷がそう言うんだったら、俺は信じる」

 

 今度は東風谷が驚く。それでいながらその表情は少し嬉しそうだ。

 

「え? ほ、本当に?」

 

 無理を承知でおねだりしたらそれが罷り通ってしまった時のような、彼女の驚愕。それは当然のものだ。おそらく東風谷は、自分が大勢と違う人間だということに気付いている。  

 自分が普通では考えられない発言をしてしまっていることにも。自分の言葉を受け入れられる人間はそうはいないということを。

 だから、それでも、とあんな表情で語るのだ。

 

「ああ」

 

 所詮、言葉でしかないものだった。証明となる契約書にサインをしたわけでもない、ただの言葉。

 正直なところ東風谷の言うことを信じたいとは思っても信じ切ることはできない。ならばさっきのは、嘘となんら変わらない、ただの延命措置だ。ちくり、と胸を刺すような痛みが走る。 

 それでも、彼女にとってはその言葉こそがなによりも大切であったのだろう。

 

「やっぱり綾崎は良い人です!」

 

 打って変わって、太陽のように笑う東風谷にさっきまでの演技だったのではと思わないでもなかったが、それよりもかつての彼女を彷彿とさせるその笑顔の前では、そんな愚かな考えはすぐに吹き飛んだ。

 なんの確証もとれない言葉だけで満足する東風谷もそうだが、そんな彼女の笑顔一つでどうにでもなれと思う俺も相当おかしい。

 

「なんだそれ。東風谷にとって都合の、良い人ってことか?」

「違います。やっぱり綾崎は意地悪です」

 

 照れくさくて冗談めかして言った言葉に、東風谷は少しむくれてそう言った。

 なんだか昔に戻ったみたいでおかしくなって、お互いに笑っていると、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。

 

「あ、チャイム。じゃあ私、戻りますね」

 

 そう言って、立ち上がって去ろうとする東風谷。

 背中を向けて、屋内に戻ろうとする彼女の後姿はどこか寂しげに見えるのは、俺自身がこの時間が終わってしまうことを惜しんでいるからだろうか。

 

「また明日も誘いに行く」

 

 何か声をかけてやらなくては、と思って、背を向けて歩く東風谷にそう声をかけると、彼女は振り返って花のように綺麗な笑顔で答えた。

 

「はい。待ってます」

 

 そのどこか儚げな笑顔に心を奪われて、しばし我を失う。

 もし、今日東風谷のところへ行って、昼食を一緒に食べようと誘わなかったら、あんなふうに話すことは無かっただろうな。

 今日したことは決して間違いではなかった、とそう思うことにした。

 



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東風谷早苗について 3

 東風谷と昼休みを過ごすようになって、三日目の放課後。

 東風谷と一緒に昼飯を食べるのも三回目になっても、案外俺の学校生活は平和なものだったが、3組での東風谷の状況は相変わらずのようだ。

 それもどうにかしてやりたかったが、流石に学校に居る間、ずっと一緒に居てやるわけにもいかないし、できない。

 はて、どうしたものかと考えていた今日この頃だったが、ついに3組の御大の逆鱗に触れたらしい。

 

 伊達がわざわざ、1組まで来て俺を呼び出しに来た。思ったより早かったとも思うし、案外遅かったなとも思った。

 ひと月に二回ほど当番制で訪れる男女二人でやらされる黒板消しや教室の窓の戸締りをする当番だった俺は中田と話しながら作業をしていた。もう一人の当番であるはずの女子の方の、相田は、吹奏楽部の練習があるとか言ってさっさと教室を出て行ってしまったが。

 だらだらと駄弁りながら居残っている者や、宿題や自主勉をしている者で、まだ賑やかなくらいな教室に、意外なことに1人で来た伊達に名指しで連れ出されることになり、人気のない屋上へと来ているのであった。

 

「サッカー部なんだってな。部活はいいのか?」

 

 連れてこられはしたものも、特には話をするわけでも、殴りかかられるわけでもなかった。伊達、彼との無言の空間は、俺にはどうにも居心地が悪く、心底どうでも良い話題を探しあて、俺から声をかける。

 

「今三年の秋だぞ。夏で部活は引退だろうが」

 

 伊達は、何言ってるんだお前、とそう言いたげな顔をする。

 そんな馬鹿を見るような顔しなくても……。

 

「ああ、そうか。すまん、吹奏楽とかは三年でもまだやってたりするからさ」

 

 やってなかったら相田を恨む。吹奏楽で使っているであろう楽器の口付けるとこぺろぺろ舐めてやる。

 うえ、絶対無理。

 

「……お前さ、あの噂聞いてるか?」

 

 どうでも良い話を切って終えて、本題に入ったのは伊達の方からだった。あの噂とは、十中八九東風谷の告白のことだろう。

 

「東風谷のことか?」

 

 これで違うなら、途端になんで呼び出されたのか分からなくなる。ちなみに違ったら速攻帰宅する構えである。

 

「なんだ知ってるのか。言っとくがマジだぞ」

 

 それは伊達なりの忠告のように聞こえた。

 

「知ってるよ。噂で聞いたのと同じようなことを俺も東風谷に言われたからな」

「それでもまだあいつを?」

「まあ、旧い付き合いだからな」

 

 答えるのに葛藤は無かった。一度は迷ったが、とっくに決意は固めた。問われるまでもない、何があろうとも俺からあいつを嫌うことはしない。

 はあ、と伊達はため息をつく。

 

「俺は……あの言葉を聞いたときに、マジでこいつは無理だと思った。これでも、あんなの聞かされるまでは、気になってたんだ。これまでにも女子から何度か告白されたけど、どれも断ってきた」

 

 意外なことに伊達は一途であったらしい。東風谷に期待などせず他の女子の相手をしていれば、彼の青春は、より彩られていたのかもしれない。

 しかし、そんなことを語られたとて俺が心底に溜めているこいつらへの怒りは変わらない。

 

「だからって、イジメるか普通?」

 

 抑えようとするが、少し声を荒げてしまう。普段は、発散する勇気がないというのもあるが、抑制させているものが伊達との一対一の状況になって溢れそうになる。

 おそらく伊達から見た俺の目は、怒って睨んでいるに違いない。

 東風谷のイジメの原因の当事者を目の前にして、その理由が逆恨みにも等しいものだとしたら、心中が穏やかなままではいられるはずがなかった。

 

「その気は無かった、つっても意味ねえか。もうそうなってるわけだしな。同じクラスのサッカー部の仲間は、俺が東風谷のこと気にしてたのを知ってたから、東風谷の方から呼び出された時は全員で妙に盛り上がってよ。で、例のを隠れて見てやがったあいつらにも聞かれてな」

 

 伊達には、彼なりの弁解があるらしい。正直、聞く耳持たず、怒鳴って立ち去ってしまいたいという心持ちだったが、彼の自嘲気味な話し方がそれを実行することを止まらせ、黙って話を聞くことにした。

 

「あっという間にクラスに広まってあのザマだよ。一回そうなっちまった空気は歯止めが効かなくて、参ったよ。当事者の俺や仲間よりも、クラスメイトの女子や他の男子の方がノリノリでやっていて、どうにもならなかった」

 

 どうやら東風谷のイジメに関して、彼自身は乗り気ではなかったらしい。そんなの俺にはひどい言い訳にしか聞こえなかったし、事実、言い訳でしかないだろう。

 右手が少し痛むのを感じて、見やると、気づかぬうちに握り拳を作っていた。

 伊達がもし、そんな言い訳をするためだけにここに俺を呼んだのなら、逆に殴りかかってしまうかもしれない。

 

「でも……無理にでも止めなかったのは正直腹いせもあった」

 

 それは、伊達に芽生えた東風谷への敵愾心。

 腹いせ。気になっていた女子からの呼び出し、それに応じて告げられた言葉は、あまりにも期待から外れていた。

 神様を信じるか、などという言葉をあまりにも真剣に吐き出す東風谷を想像すると鳥肌が立つと言ったのは中田であった。

 では、伊達はどう彼女の言葉を受け取ったのか。

 やはり、受け入れることはできなかったのだろう。彼が東風谷に抱いていた好意は削がれ消え失せ、嫌悪と拒絶の気持ちが取って代わったというなら。

 その思考は理解できなくはない。

 しかし、共感はできない。同情もしない。しようとも思わない。

 東風谷早苗が神というものを本気で信仰していること、その部分に関しては、俺は克服した。

 

「……それだけだ」

 

 伊達は視線を斜め下に落として床を見つめる。

 

「そうか」

「こんなの、いつもツルんでる連中に言うのも変だし、でも吐き出しときたくてな。東風谷のことを気にかけてる綾崎に言うのが丁度良いと思ったんだ」

 

 東風谷と俺が屋上に向かっている姿は3組の人間の多くに見られているだろう、伊達も例外ではない。

 最初みたいに教室の中まで入って行きはしないが、3組の教室の前まで来て、東風谷にそれとなく俺の存在を知らせて、廊下で合流するために、目につかない筈が無かった。

 邪魔されるのではという危惧はあったが、案外、昼食に妨害が入らなかったのは、彼が特に手出しをしなかったからなのかもしれない。

 

「……そうか」

 

こちらへ顔を向けて、口を開いた伊達の眼光には確かな決意の意思が宿っているように見えた。

 

「……クラスの東風谷へのイジメは俺らでなんとかしておく」

 

 伊達の様子からして、今この場で思いついた程度の考えではないのだろう。東風谷のイジメに積極的ではなかったとはいえ、庇うこともしなかったのを、腹いせ、と彼は表現した。

 だが、同時に東風谷への不憫と罪悪感に近いものを覚えてはいたのだろう。

 人間っていうものは不思議なもので、一見、同時に存在しないように思える感情が混ざり合う。

 怒りを覚えた対象へ、その怒りを振るうことを是としたのに、一方でその行為を後ろめたく思う気持ち。

 そういった感情が、伊達にも働いていたのだ。

 

「それは助かる。クラスが違う俺じゃそこはどうにもできないし」

 

 それがありがたいことなのか、そもそも原因が向こうにあることを考えたら妥当なのか、判断を下しかねるが、とりあえずは礼を言うべきだろう。

 握り拳は解けていて、伊達を殴ろうなんて気は、失せていた。

 こいつのことは許せないけど、俺の中では折り合いがついた。伊達の方もこれ以上に東風谷について話すことはないだろうし。

 それに、イジメとは別の部分で、おそらく伊達がぶつかった壁は、俺の恐れているものと同質のものだ。東風谷早苗と言う人物と付き合っていくうえで、いずれ目の当たりにする明確な境界。俺が先送りにして見ないようにしているそれを、伊達は早々に発見し、拒絶しただけのこと。

 そう思うと、伊達が東風谷を嫌うこと自体は、仕方がないことのようにも感じる。

 

「それにしても、意外だったな。俺はてっきり伊達が仲間連れて大人数で押しかけてきて袋叩きにしてくるんだろうなって思ってた」

 

 これは結構マジに考えていたことである。ぼこられた挙げ句に、恥ずかしい姿を写真に撮られて、学校中にばら撒かれたくなかったら金寄越せ、と脅されるまで想像した。

 

「は、はあ!? お前、俺らどんな奴だと思ってんの?」

 

 呆れたような、怒ったような口調で伊達は言う。

 まあ、当然の反応ではある。まともに話したこともない奴からそんな印象を抱かれているというのは心外だろう。

 

「だって、サッカー部ってもうなんかそれだけでチャラそうだし、悪そうじゃん。茶髪だし」

「茶髪カンケーねーしこれは地毛だよ! 偏見もいいとこだぞ……ったく」

 

 少し苛ついた様子の伊達は、後頭部を指でかく。

 

「まあ、あれだよ。俺は伊達のこと嫌いだけど、悪い奴じゃないと思う」

 

 そもそも、本当に嫌なだけの人間になんて人はついてこないし、多くの仲間が作れるはずもない。東風谷のことをなんとかする、と切り出したあたりからも、そのあたりは察せる。

 東風谷がクラスでイジメられるまでに至った原因がすべて伊達にあるとは思わない。けれど、それに大きく関わっている伊達のことは嫌いだ。

 だけど、悪い奴じゃあない。

 俺の中で決定づけられ、言葉にした伊達への評価は、とても腑に落ちた。

 

「お前、結構恥ずかしい奴だな」

 

 そう言う伊達の顔は少し頬が赤い気がする。

 え、なに、なんなの。照れるようなこと言った?

 正直そのリアクションは予想していなかった。

 

「え? なんで?」

 

 はあ、とため息をついて片手を自分の額にあてがう伊達。

 

「なるほど、変人同士お似合いだぜ東風谷とお前。もういいわ、じゃあな」

 

  伊達は制服のブレザーのポケットに片手を突っ込んで、もう片方の手を小さく挙げてそう告げると、背を向けてさっさとその場を立ち去った。

 

「お、おう」

 

 東風谷はまあ、あんなことを言ったのだから、伊達に変人の烙印を押されてしまうのは仕方ないと思う。

 しかし、何故俺まで。

 少し納得がいかん。

 変人同士お似合い……か、それはどうなんだろうか、と先ほどの伊達の言葉には冷めた感想を覚える。

 とりあえずは、その気持ちを置いといて、少し思索に耽る。

 伊達が宣言通りに動いてくれるとしても、クラスの東風谷の立場が改善されるかどうかは定かではない。

 一度、集団の共通認識下で、下の立場である、劣っていると判断された人間の評価、それを正すのは本来なら至難の業だろう。

 しかし、クラスでも人気者であるらしい伊達と、その仲間たちが庇うようなら、それを為しえるかもしれないという希望はある。

 もとより、昼休みを一緒に過ごしてやるくらいしか俺が東風谷にしてやれることはなく、また思いつかなかったことで、どうしたものかと行き詰っていたが、伊達のおかげで少し荷が下りた。

 ああ、そこだけは本当に感謝すべきなのだろう。

 東風谷は、伊達が相手でなくとも、いずれ、今みたいな状況になっていただろうから

 

 伊達とその仲間の働きで、東風谷は元通りの人気の女生徒に、とまではいかずとも、クラス内でも普通に過ごせるようにまでなれば僥倖だ。

 思考の割に、結局は、取らぬ狸の皮算用もいいところではあるが。

 

 夕暮れ時の屋上は秋のせいか、肌寒い。夕焼けによって真っ赤に照り付けられ、焼かれた屋上の床。地平線に沈まんとしている黄金の夕日の光は目を瞑ってしまうほどに眩しい。

 紅蓮のような朱に染まった夕空を見上げる。

 夕空を見て覚えるのは郷愁ばかりではない。

 かつての記憶よりも、これからのことについて思いを馳せる。過去よりも未来を想うことができるというのは、とても尊いことだと、ぼんやりと思う。

 ただ、待っているものは、良い未来ばかりではない。

 ぼうっとしていると、辺りがうす暗くなるのを感じた。

 日が沈み、朱の空に紫が混じり始めると、あっという間に辺りは暗くなり、屋上の肌寒さは一層増した。

 

「帰るか」

 

 屋上を出る直前に、もう一度空を見上げる。

 東風谷は笑顔を取り戻し、イジメからの解放の見立ても一応は立った。しかし、それは結局のところ、表面上に浮き出た問題を解消したに過ぎない。

 東風谷早苗と言う少女の問題の本質は未だ解決はしていないのだ。

 それを確かに実感しながら、屋上を去る。

 しかし、それに踏み込んでいいものか、俺自身が迷っていた。

 より正確には、踏み出すことを俺が恐れていた。

 



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東風谷早苗について 4

 金曜日というのは、その響きだけで誰もが幸せになれる日だと、俺は考えている。この日をやりきれば、休みが待っていると思えば、体にも元気が漲るというものだ。そうして、日曜日の国民的アニメの放送時間当たりに、休みが終わるのは早いなー、と憂鬱になるまでがセットだ。まあ、俺くらいになると土曜の夜くらいには、もう休み終わるな、と実感し始める。

 そんなわけで、一週間で最も幸せな日は金曜日ではないかと思っている。

 そんな金曜の昼休み、今日も今日とて俺は東風谷早苗と屋上にて昼食を共にしていた。

 昨日の時点でもすでに、イジメなんか全く気にならない、と言わんかのような姿を昼のこの時間は見せていたが、今日の東風谷は一層、機嫌が良さそうに見えた。

 鼻歌を歌うくらいに機嫌が良く、その姿はどんな腐った眼で見ても、まあ可愛らしい。沈んだ東風谷を見るよりはこちらとしても安心できて大変よろしいのだが。

 

「なんかあったのか?」

 

 東風谷が、鼻歌交じりに食べ終えた弁当を片付けている様子を見ながら、声をかける。

 俺も東風谷も、食べながらもごもごと喋るのは好まない性格なせいか、話を始めるのは自分の分の飯を腹に片付けてから、というのが、いつの間にか当然のことになっていた。

 まあ、俺はともかく、東風谷のような女子が食べ物を頬に詰めながら喋るというのは、なんというか、女子としてどうなのだろうか、と疑問には思うので、これでいいと思う。

 

「いえ、クラスの状況が変わったと言いますか……その、綾崎がまた何かやってくれたんでしょう?」

 

 そう言って東風谷の俺を見る目は、過度の期待が込められているような気がして、俺は少し窮屈な思いをする。本当に。

 

「いや、俺は何もしてないって、ホント」

 

 事実、本当に俺は何もしていない。俺が伊達に、東風谷のイジメを止めてくれ、と頼み込んだわけでもなく、伊達の方から、なんとかする、と提案されたのを、俺はただ聞いていただけだ。

 俺の関与したところは、今回の一件には何もない。

 力になれなかったことを惜しいとは感じているが。

 

「まあ、一応は伊達に感謝だな」

 

 言ってから、先に伊達の名前を出すのは失言だったと思う。これでは、含みがありすぎる。なにか裏でやっていたとアピールしているようなものだ。何もしてないのに。

 口に出したものをわざわざ訂正するのも変なので、放置するが、少しもやもやする。

 それにしても、イジメの原因となった人物に感謝するというのも変な話ではある。一切の主観を交えずに客観的に見れば自作自演にも近い図だからなこれ。

 

「はい。伊達君がゴミを投げつけようとしていた子を止めてくれて、それが切っ掛けで、他の子からも何かを隠されたり、何かを投げつけられたりっていうのは無くなりました」

 

 でも、と東風谷は続ける。

 

「やっぱりどこかで伊達君と、綾崎が話をつけてくれたんだと、私は思ってますから」

 

 さっきの失言のせいかもしれないが、そんな、私は分かってるみたいな言い方をされても、反応に困る。東風谷の言うように、本当に俺が何でもできて、東風谷の困っていることを、ものを全て解消してやれるのならそれが俺としても一番だ。

 ただ、そうじゃないんだよ。そうはならないんだ。

 彼女の中で、一体どんな評価を受けているのか分からない。

 けれど、彼女の見ている俺の虚像と、実像である実際の俺との間には随分と差があるように思える。

 これまでに俺が実際にしたことと言えば、東風谷を昼ご飯に誘っただけだ。ただ、それだけのことをしただけだ。状況は複雑ではあったが、言ってしまえば、美人の女を冴えない男が食事に誘っただけのこと。こんなこと、世界中の男の誰かが今日もどこかでやっている。

 

「で、話は変わるんですけど……」

 

 話を切り替えた、東風谷の顔は少し赤いように見える。眼差しは真剣で、今にも泣きつかれるんじゃないだろうかと思わせられる表情。

 どうやら東風谷の本題はこちららしい。

 言い出すべきか、やはり言わざるべきかといった感じで東風谷は俯き気味に、もじもじとしていて、見ているこちらも何か凄い発言が飛び出すのかと身構えてしまう。

 

「今日の放課後、ウチに来ませんか?」

「え?」

 

 思わぬ台詞に頭が真っ白になる。

 ウチ? 家? 東風谷の家?

 

「嫌、ですか?」 

 

 茫然としていると、東風谷がこちらを下から覗き込むような上目遣いで見てくる。頬を朱に染めて、瞳を潤わせた彼女はどこか色っぽくて、それを見た瞬間に心臓の鼓動が速くなったのか自分でも分かった。

 

「嫌じゃ、ないけど」

 

 いや、行くよ。喜んで行くけど、それより東風谷サンあなたの容姿でその表情はちょっと思春期の、彼女とか縁のない男子には刺激が強すぎますですことですよ。

 もはや心臓が飛び出しそうな勢いである。ついでに俺の頭はもう蕩けてるんじゃないですかね、なんだよ、ますですことですよ、って。

 

「決まりですね!」

 

 小さく、ぐっとガッツポーズを取る東風谷の顔はにこやかに笑っている。親に褒められて喜んでいる、小さな子供のように無邪気に喜んで、顔を綻ばせる彼女を見ていると、こちらも笑みがこぼれてしまう。

 まあ俺の場合はニヤついているというのが近いか。今の顔は他人にはまあ見せられないな。

 

「じゃあ放課後、一緒に帰りましょう。絶対ですよ、絶対。絶対ですからね」

「そんな念を押さなくても行くって」

「いーや、分かりません。綾崎は約束を守りませんからね」

「はあ? いつ俺が約束破ったんだ?」

 

 そもそもここ三年くらい東風谷との交流が無かったせいで、そんな覚えが全くないんだけど。少し心外である。

 

「むむ、その様子では覚えてませんね。許しがたきかな、いいでしょう思い出させてあげます」

 

 少しむくれて言う東風谷だったが、本当にさっぱり覚えがない。

 自信満々に薀蓄を語る人のように、人差し指をぴん、と立てて喋る東風谷を前にして、一体なんだろうか、と取りあえず聞く態勢に入る。

 

「そうですね、まず小学二年生の頃、“ずっと一緒”って約束したのに、綾崎の方から離れていきました」

 

 東風谷はとんでもないものをぶつけてきました。それは俺の恥ずかしい記憶です。そう言えばそんなことを言っていた気がする。でも小学生の低学年ってそんなものですし、あのくらいの年頃の約束なんて無効ですよ無効! むしろ時効! 

 やばい、めちゃくちゃ顔が熱いんですけど。

 

「それからですね、もごもご」

「悪かった! ごめん、ごめんなさいね、すみませんでした! 俺が悪かったからストップ!」

 

 立てる指が二本になって、なおも過去の約束という名の俺の恥部をドヤ顔で曝そうとする東風谷の、口を押えて止める。ていうか、お前は恥ずかしくないのか東風谷。

 流石、天然系お転婆娘の面目躍如というべきか。

 最近は、状況も状況でなりを潜めていたが、昔の彼女が変なテンションの波に乗ったときはこんなだった。風のように自由奔放で、暴走した特急列車のように危なっかしい。俺や大勢の人間は彼女に振り回されてばかり。

 懐かしんで惜しんではみたが、いざ、その姿に戻りつつある彼女を相手すると、疲れる、非常に。

 成長して、おしとやかな女性の一面を見せるようになったと思っていたが、やはり幼い頃の根っこにある部分は変わっていないようだ。

 

「行くよ。絶対に」

 

 元から行く気であったのに、勘ぐられた上、なんでこんな辱めを受けなければならないのか。

 しかし、それを聞いた東風谷は晴れやかに笑って、

 

「はい!」

 

 と答える。

 ああ、思い出した。

 散々東風谷に振り回されて、もうついていけないと思わされる俺やその他が、直後の彼女の笑顔を見て許してしまうまでがセットだった。

 その笑顔には毎度のことながら、ドキッとさせられる。本当に女と言う生き物はズルい。俺も顔の出来が良かったなら、彼女をこうした仕草で仕返しして、同じ思いをさせてやれるのだろうか。

 その後、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る時間に近くになると、東風谷は来た時よりもご機嫌な調子で屋上を去って行った。

 俺も、柄にもなく放課後が楽しみで仕方ない。

 

 

 

 

 

 夕刻、黄金の太陽によって真っ赤に染められた山道、その石段を俺と東風谷は登る。東風谷の家は、この小さな山の頂にある神社であった。参拝客もろくに来ない寂れた雰囲気の神社ではあったが、それも仕方ないだろう。

 有名な観光地であれば、観光客などで賑わうのかもしれないが、東風谷の家の神社はそうではなかった。

 神様と言うものを本気で信じるものは少なくなり、万物は科学で説明されつつある世の中だ。かつては神や怪異の超越的な力が働いていると言われてきたもの、それを未だに信じている者はいないと言っても過言ではない。

 人々の信仰の対象は、時代の変遷と共に、八百万の神ではなく、科学へと変わってしまった。

 東風谷のいう二柱の神様には、大変生き辛い世になってしまったに違いない。

 かく言う俺自身も、初詣の時くらいにしか神社などでお参りをすることはないのだが。

 幼い頃はよく、この階段を駆け上ったものだ。子供の体力とは恐ろしいな。学校での体育くらいでしか運動をしない俺は、息が上がってしまっている。右隣の東風谷は、毎日登り降りをしているだけあって、平然としたものだ。

 

「ぜえ……、もう無理」

「だらしないですねー、ほら、もうすぐそこです」

 

 東風谷に言われて、足元ばかりを見ていた顔をあげると、あと十段ほど登った先で、階段は途切れていて、ここからでも僅かに寂れた神社の一角と鳥居が視界に入る。

 

「ああ、疲れた」

 

 階段を登り切って、愚痴をこぼしながらも境内を見渡すと、今更ながら、随分広いものだと思う。

 神社を囲う様にしている森林と、神木に巻き付けられている注連縄。久々に来て、改めて見渡してみると、名の通っていない神社としては随分と広いのではないかと思う。

 広い境内の神社は閑散としていて、それ故か、どことなく寂しげな雰囲気を醸し出している。

 だが、やはり、神の奉られる土地なだけあって、その寂れた空気だけでなく、荘厳で神聖な気配を体は感じ取る。

 

「こっちです」

 

 東風谷は俺の横から飛び出して、拝殿や本殿の右側を通り過ぎて、神社の裏の方へとずんずん進んでいく。東風谷の住居は、山道を上がってきて見える神社の、裏手の方にある。

 先にどんどん進む東風谷を小走りで追いかけようとした瞬間、お参りを行う拝殿の途中の道の左手に、何かが居たような気配がして、立ち止まり、気配を感じたほうを注視する。

 見るが、何も見えない。

 

「勘違いか……?」

「何してるんですか、こっちですよー!」

 

 東風谷が手を振ってこちらを呼ぶ。

 

「ああ、今行くよ!」

 

 後ろから、ありがとう、と聞こえる筈のない誰かの声が聞こえた気がした。振り返りそうになるが、まさかと思いすぐに考えを打ち消す。それに急かす東風谷を待たせるわけにもいくまい。

 東風谷の声に応じて、俺は駆け足で東風谷の元へ走った。

 

 

 

 

 東風谷の家にあがると、客間として使っているのであろう畳の部屋に通された。東風谷はお茶とお菓子を持ってくると言って、俺を座布団に腰を落ち着けるのを確認すると、一度部屋を出ていった。

 おそらく今頃は台所にいるのだろう。部屋をざっと見渡す。懐かしいものだ、この部屋にはよく覚えがある。小学生の頃、宿題を一緒にやったり、遊んだりしていたのを思い出す。

 なんだか少し体が重いのは、階段を登ってきたせいだろうか、我ながら随分とだらしない身体である。

 特にやることもなく、部屋を見て昔の思い出に浸っていること数分、東風谷が急須と湯呑みと、煎餅やらお菓子をふんだんに突っ込んだ小さな菓子籠を黒と茶の円いお盆に乗せて持ってきた。

 部屋に入ってきて、こちらを見る東風谷の顔は、少し驚いた様子だ。

 

「どうかしたか?」

「いえ、なんでも」

 

 言いながら、お盆をテーブルの上に置いてから、東風谷は湯呑にお茶を淹れて、俺の前に置く。

 客人をもてなすことなど、そうはないだろうに、東風谷のその動作は日常での慣れを感じさせ、かつて遊びに来ていた時の東風谷の母を連想させる。

 

「そういえば、お袋さんは?」

 

 いろいろと良くしてもらっていたので、挨拶をしようかと思ったのだが、どこかに出かけているのだろうか。

 出来るならば、東風谷の父にも幼い頃はせっかくの休日だというのに騒いで、随分と迷惑をかけてしまったように思うので、一言挨拶をしたかったが、流石にこの時間ではまだ仕事で出払っているだろう。

 そんな風に何気なく聞いたつもりだったのだが。

 東風谷は硬直し、暫しの間を置いて決意したように口を開いた。

 

「……両親は、私が中一の時に事故で亡くなりました」

「え? いや、でもお前、そんなこと一言も……」

「そんなこと、わざわざ言い触らしませんよ。学校の一部の先生は事情を知ってますし、クラス内の生徒にだけでも知らせようかって当時の担任の先生は仰ってくださいましたけど、気を遣わせるだけだと思って、止めるようお願いしたんです」

 

 だから、生徒で知ってるのは綾崎だけですね、と東風谷は続ける。

 そんなのはあんまりだ。

 この齢で両親を亡くしたら、俺はまともで居られる気がしない。東風谷とてそうだっただろう。

 学校での神様を信じるかと言う発言、それが、東風谷が両親を失った悲しみで、神様なんてものに頼らずには入れなかった故に、出てきたものだとしたら。東風谷の生活は神と言う存在に密接であったが故に、神に縋ったのだとしたら。

 それは、いや……。

 

「多分、綾崎が考えているようなことは、ないと思います。両親は亡くなりましたけど、天涯孤独の身になったわけでは無かったんです。周囲の人にはそう見えるんでしょうけど……、仕方ないのかもしれません。父と母でさえ、私が二柱の神が見えるというのを子供にしては良くできた作り話だって言って、本気にはしていませんでしたから」

 

 俺の考えを否定した、東風谷の顔には陰りが見える。それは両親を亡くしたことよりも両親すらも自分を解かることが出来なかったことを、憂いているように感じられた。

 東風谷のその憂いは、きっと、両親を愛していたからこそ、だ。

 彼女の言った通り、ありえない仮定を俺はしていた。しかし、彼女に指摘されずとも心の奥深くでは、“そうではない”と分かっていた。

 未だここに来て俺の方から目を逸らそうとは、愚かなことここに極まれりか。

 しかし、それを認めてしまえば、彼女と俺の間にある、埋まることのない溝を直視することになると、何より本能が警鐘を鳴らして訴えかけてくる。

 今俺たちは、危うい境界線の上に居る。この関係は、俺が本質を見ないという延命処置によって保っているだけで、一時的なものに過ぎない、いずれは破綻するものだ。逆に言えば、一時的には引き延ばせる。しかし、ここで事実を暴けば、すぐにでも破綻するだろう、俺はきっと、ソレに耐えられない。

 それでも東風谷は踏み出そうとしている。

 止めたい気持ちを抑えて、俺は聞きに徹する。ここでこの話を打ち切ることは可能だが、それをすれば自ら東風谷を拒むことになる。それでは伊達と変わらない。

 

「言いましたよね、私にはもうずっと、神様が見えているんです」

 

 ああ、知っている。この前、東風谷の口から聞くよりも、中田の口から噂話として聞くより前から、知っている。

 小学生の時、東風谷は、俺と二人で彼女の神社や家で遊んでいると、時折、姿の見えない誰かに話をかけていた。当時の俺は、それを幽霊が見えるとか精霊が見えるとか言い出す同い年の子供と同じような感覚で受け止めていた。

 いや、受け止めなければいけなかった。

 

「その神様……神奈子様と諏訪子様のお二人は、私にとって、もう一つの両親でした。だからお父さんとお母さんが居なくなってしまったのは凄く悲しかったけれど、寂しくはなかったんです」

 

 東風谷が微笑んで、机に向かって下っていた視線が、彼女の右斜め前、俺にとっての左斜め前の誰も座っていないはずの座布団に、まるで誰かが座っているかのように向いて、次に、俺の方へ向く。

 正確には俺の更に後ろ、背中のあたりに。

 少し重かった背中が、ふと軽くなる。まるで、背中に寄り掛かっていた誰かが離れたように。

 思わず振り返るが、そこにはやはり誰も居ない。

 ああ、終わった。

 目を逸らすことは出来ない。

 思春期で異性を意識し始めていたから、周りに冷ややかされるのが嫌だったから東風谷の元から離れていったなんて、それらしい言い訳をして、本当に馬鹿らしい。

 俺が東風谷から離れた理由なんて、簡単なものである。

 

 いずれ、破綻するだろう関係の、その最後を見ずに済むからに相違ない。だが、関係の終わりが自然消滅的なものだとしたら、互いに痛まなくてすむ。

 思春期の羞恥心はそれにもっともらしい理由となった。

 イジメを受けている東風谷を放っておけなかったとはいえ、わざわざ彼女の元に戻ってきたあたり、俺は道化もいいところだ。

 東風谷は俺の顔を固定して、しっかりと事実を確認させようとしている。本当の東風谷早苗を見せようとしている。これは屋上での会話の続きだ。あんな答えはただやり過ごしただけに過ぎない。それは暗黙の内に、互いに理解している。

 だから今、俺自身が最も認めたくなかったモノを、東風谷は俺に認めさせようとしている。伝えようとしている。

 けれど、それを認めてしまえば、俺はお前から……。

 

「私には、神奈子様と諏訪子様が居たから。だから、綾崎が思っている程、私は不幸じゃありません。もう一度言います。私には神様が見えます。それを綾崎が“本当に”信じてくれるなら、私はこれ以上ないくらい幸せです」

 

 華のように美しい彼女の笑顔は、今にも散ってしまいそうで、儚い。許されるならば、今すぐ抱きしめてあげたいほどに。

 ああ、もう、認めるしかない。

 そもそも、口には出さずとも、東風谷が大勢の人とは違うと感じていたのは、他の誰でもない俺自身だ、その時点で、気づいていないなんていうのは言い訳としても苦しい。

 端的に言う。

 東風谷早苗は特別だ。

 だからこの世界の誰もが彼女のことを理解出来ない、俺もその一人であるし、血のつながりを持った東風谷の両親でさえもそうだった。

 東風谷は、それでも自分というものを理解してもらうことを諦めきれなかったのだろう。

 だから意地として、多くの者に神を信じてもらう手段として、学校でも人気者の伊達を、悪く言えば利用しようとしたのだ。

 一つの学校程度の規模の人数の信仰が、どれほどの効果を発揮するかは知るところではないが、信仰を取り戻し、二柱の神が全盛期程の力を取り戻せば、東風谷に見えている二柱を他人が見ることも可能だったのだろう。

 そこまではいかなくとも、いずれ消えてしまうかもしれないという二柱の神の消失を食い止めることに大きく働くことになり、そのことは彼女の理解してもらうという未来にも繋がる。

 でも、無理であった。最後の足掻きだったその行動は失敗し空回りして、逆に周りからは疎まれ、虐げられることになった。

 それだけの痛みを知って、理解者を得ようとすれば傷つくことを経験して、なんで。

 

 なんで、――彼女は俺にそれを信じて欲しいと願うのだろうか。

 

 東風谷早苗はこの世界において孤独だ。彼女以外誰も見ることのできないただ二柱の神のみが彼女の唯二人の理解者だ。しかし、それは人ではない。

 彼女は特異で、故にこの世界で多くの人々に受け入れられることはない。上っ面の彼女は好かれようとも、彼女の裡にあるそれを受け入れることは、同じ特異性を持つものにしかできない。

 

 俺は、東風谷早苗にとっては前者の人間だ。俺には彼女が見えるものが見えない。同じものを見て聞いて感じることが出来ないのなら、心の裡を共有することはできず、必ずそこには齟齬が生まれる。

 故に真に相容れることはない。

 その隔たりは、特別である人間を東風谷一人しか知らない俺よりも、俺のように平凡な多くの人間を見てきた東風谷自身が実感し、理解している筈だ。

 俺にとって東風谷のような特殊な力を持った人間は、東風谷以外に知らないが、東風谷にとっての俺は、どこにでも居る有象無象の中の一人の、ただの人間に過ぎないのだから。

 

 思えば、子供の頃からずっと東風谷は、俺には、自分の異常性を気づかせようとしていた気がする。

 幼い時の彼女は、たくさんの人と居るときは、自分の家である神社の境内でも、神様のことなんて口にしなかった、しかし、二人きりの時にはそれを隠さなかったように思う。

 東風谷早苗は綾崎結鷹に理解者であることを望んでいる。上辺だけでない異常たる彼女のその本性の理解者であることを、だ。

 しかし、俺はどうすればいい。肯定の言葉だけで真に納得できるのなら、屋上でこの話は始末がついていたはず。

 だが、東風谷はそれでは納得がいかない、俺だってだ。だから俺はこんなにも辛いのだし、彼女はこの話をまた持ち出した。

 東風谷が異常であることに気付いたとて、互いに見えている世界、住んでいる世界が違うというなら起きるのはすれ違いだけだ。

 ならば、互いに上辺だけを見て気づかぬふりをした方が楽ではないか。

 だから、俺はずっと耳を塞いできた。

 傍に居ようとすれば、触れ合おうとすれば、お互いが傷つく。

 だからこそ、見ないふりをしてきたというのに。

 だというのに、結局は分かり合えないというのに、俺ではお前の理解者足りえるわけがないのに、なんで、なんで早苗は――。

 様々な思考が脳内を駆け巡る。時間としては数秒も無かっただろう。

 結果として、今まで目を逸らし続けてきた、東風谷早苗と綾崎結鷹との間にある、あまりにも大きな境界をここにきて突き付けられ、まざまざと見せつけられることになり、体が脱力して、諦めかけた、まさにその時だった。

 

「……!」

 

 あり得ないモノを、幻視した。

 

 二柱の神が、東風谷早苗の両隣に確かに在った。右隣に見える女性は短い紫の髪をしていて、べに色の瞳は蛇のよう。紅の装束を身にまとったその姿は、力がいくら衰えようとも、旧き時代からの神としての威光と風格があった。しかし、東風谷に向けたその顔は、親が愛しい我が子を見守る顔そのもの。

 左隣に見える一見幼童にしか見えぬ女性は、輝きの薄い金髪に蛙を模したかのような被り物を乗せ、瞳は黄土色で大きい。表情や形は幼い子供そのものだが、底知れぬ畏怖の感情を覚えるのは、やはり彼女とて過去に力を持った一柱の神であるという証か。その東風谷に向けた笑顔は、彼女と東風谷との親密さを窺わせる。

 そして、その二人に見守られ、真ん中でこちらを見て微笑む東風谷早苗は、あまりにも幸せそうにみえた。

 俺の目に数瞬ばかり映った三人は、誰がどう見ても幸せな一つの家族であった。

 そこには互いの利害なんていう打算はない。ただ、愛に満ち溢れている、あまりにも眩しい、温かな家庭の姿。

 ああ、視えるとは言えまい。この景色、この奇跡の世界を。一秒にも満たない僅かな間に見えた世界、それを視えるというのはあまりにも烏滸がましい。

 

 過ぎた今となっては、瞬きをしても、やはり、独り、俺の返事を待つ東風谷しかもう見ることはできない

 ただ、あの一つの家族の美しい光景に、気づけば一筋の涙が己の頬を伝っていた。

 ああ言うのを、人は奇跡と呼ぶのだろうか。

 急に涙を流した俺に、慌てふためく東風谷を見ながら、俺の顔には自然な笑顔が生まれた。出来るのなら、あの家族の一員でありたいと、そんなことを想う。

 あまりにも温かい、不思議な光景だった。綾崎結鷹には視ることを許されなかった、東風谷早苗の在る世界。

 あれほど恐れていた事実を受け止めたというのに、焦りはない。今までの葛藤など嘘のように心が落ち着いている。

 はて、どう話を始めたらいいものか。

 東風谷は、神様を信じるか、と俺に向かって再三問うてきた。

 ああ、まずは、そこからはっきりと答えてやるべきだ。

 答えは得ている。

 あの景色を見た瞬間から、答えなど決まっていた。

 

「なあ、東風谷、俺は……」

「……はい」

 

 雰囲気から察したのか、俺の言葉を待つ東風谷の顔はあまりにも穏やかで、その目は聖母のように優しげだ。彼女を見守る二柱の神と同じく、彼女自身もまた、神のように俺の目には見えた。

 

「俺は――、早苗のことをもっと知りたい」

 

 お前の信じている神様のこと、お前の持つ特別な力のこと、お前の目にはどんな風にこの世界は映っているのかを。

 ああ、なんて単純なことを迷っていたのだろうか。

 東風谷は俺に理解者であることを望む、俺もまた、東風谷早苗という少女を理解したいと望んでいる。

 ならば、答えなど考える必要すらないではないか。

 彼女が見ているものが、見えないぶんだけ寄り添おう、彼女が聞こえるものが聞こえないのなら、聞こえないぶんだけ話し合おう。

 

 きっと、覚悟が決まっていなかったのは俺のほう。彼女が特別であることへの劣等感とすれ違いの恐怖に怯え、踏み出せないでいたのは、俺のほう。

 俺は立ち止まっていただけ。東風谷はその間も、前に進みながらずっと俺が追いかけてくるのを待っていた。

 傷つくことになってもかまわない、と東風谷はもうずっと長いこと俺を待ち続けていたのだ。

 互いに映る世界が違おうと、その痛みを受け入れて、それでもお互いが求め合うことができたのなら。

 そうすれば、いつか――その致命的なまでの違いさえも超えられると信じて。

 

「遅いです、どれだけ待たせるんですか、結鷹は」

 

 東風谷は涙を浮かべながら笑った。その顔はみっともないくらいクシャクシャで、だというのに、これまで見たどの笑顔よりも幸せそうであった。

 そうして、今度こそ俺は自信を持って東風谷に向かって歩み寄っていく。結末がどんなものであろうとも、今、共に在れる限りは一緒に居たいと、俺自身が思ったから。

 今日は語り明かそう。もう何年も距離を置いていたのだ、たくさん話したいことがある。それはきっと、東風谷も同じだろう。

 そうして時間は過ぎていく。

 俺の心に、ずっと居座っていた不安は、とっくに消えていた。

 



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冬の日 守矢の社にて神の語らい

気づけばお気に入り登録の数が跳ね上がっていて、驚きを隠せません。評価も8人もの人に高評価をつけてもらって、嬉しい反面少し恐縮です。
今回は話の内容のこともあって、結鷹の視点による一人称でなく、試験的に三人称で書いてみました。
実際に三人称で書くのは初めてなので、違和感などがありましたら指摘してもらえるとありがたいです。
横書きで見にくいかと思って、これまでは台詞と長い文章には改行を挟んでいたんですが、ここは行の間隔が元からそれなりに広いこともあって、今回は、あえて不必要な改行はいれてません。こちらも賛否を貰えると助かります。
読みにくい等の意見があれば修正します。


 これは、一月の半ば、とある冬の日のことである。

 街中を白く染めた雪は、二柱の神と、東風谷早苗の住まう守矢神社にも平等に降り積もり、境内は白い世界へと変貌していた。

 とは言っても、豪雪では無かったので、今では積もった雪は地を踏む靴高の半分程度しかない。

 綾崎結鷹が東風谷早苗に、踏み出したあの日から、数ヶ月が経った。中学の三年生である二人は、高校受験に向けて、神社内の家で勉強に励んでいた。

 各教科の得意不得意はあれども、総合的な成績では大体同じレベルの高校を狙える程度には同じだった結鷹と早苗は、二人で同じ公立高校へ進学をすることに決め、それからはどちらも同じ高校に行くために必死だ。

 

「あう、綾崎、国語がもう無理です。作者の気持ちを考えることなんてできません。文章を追っていると頭が溶けそうです、冬なのに脳内は真夏真っ盛りです」

「はあ、そんなもんは文章の中から拾ってくれば、完全に正解できなくても何点かはもらえるんだよ。そんなことより、数学の証明が……、難しいのになるとマジ意味不明。俺には証明できないことを証明しました、まる」

 

 早苗は国語が苦手で、綾崎は反対に数学を苦手としていた。お互いに補い合おうとの考えで始めたが、結局のところ、互いに自分のことで手が一杯で、二人で一緒に勉強をしていることでの成果は芳しくない。

 実際の効率は、塾にでも通うか、独りで集中して勉強した方が良いのだが、それを二人とも口には出さない。

 しばらく離れていた反動であろうか、それとも、昔より、更に二人の心の距離が縮まったからだろうか、一緒な空間で勉強をして時間を過ごすということ、そのことに結鷹も早苗も意義を感じていた。

 かといって、それが原因で志望校に片方が落ちて、片方が合格して、別々の高校に通うことになっては本末転倒なので、必死ではある。

 自身の勉強に取り組みながら、あーでもない、こうでもない、と言い合っている、そんな二人の様子を、温かく見守る存在が居た。

 早苗の慕う神々で、親のような立場でもある、八坂神奈子と洩矢諏訪子である。

 

「いやあ、早苗が楽しそうでなによりだねえ、神奈子」

 

 神奈子の右隣から問いかける諏訪子の言葉に神奈子は首肯する。

 

「まあね。ずっと離れていたというのもあるし、結鷹が踏み入ってきてくれたのが、よっぽど嬉しかったんだろうね」

 

 小学生の時である。結鷹が早苗に距離を置き始め、しょっちゅう来ていた神社にも遊びに来ることが無くなった頃、早苗が泣きついてきたことを神奈子は思い出す。

 ゆたかが話しかけてくれない、嫌われたのかもしれない、と言ってわんわん泣く早苗を宥め、あやすのに、諏訪子と二人で随分と苦労したものだと、当時を思い出して苦笑いする。

 

「結鷹も早苗ももっと生まれてくるのが早ければ、あんなに苦悩することはなかったのだろうけど」

「結鷹も全く才能が無いわけじゃないだけにねぇ」

 

 早苗は、稀代の才能を持つ少女である。莫大な霊力と人にあるまじき神力とを兼ね備え、奇跡を起こす術を行使でき、彼女自身もが本当の意味での奇跡を呼び寄せる体質、極めつけは信仰を失うのと共に、力も失って限りなく存在が薄れた神奈子と諏訪子の存在を見て、会話ができる程の幻視力。

 数世紀に一人の逸材。時代が時代なら、後世にまで語られるだけの破魔の才を持っていると言っていいだろう。

 贔屓目を差し引いても、それが早苗への妥当な評価だとういうのが、二柱の神の見解だった。

 対する綾崎結鷹とて、霊感と霊力が全くないわけでは無い。あと数十年ほど早く生まれていたのなら、早苗のように二柱の神の姿をその目に見とめることが出来たかもしれない。現に、時折だが、声を幻聴のようにだが聞き取り、触れれば反応することもある。

 二人の生まれた時期がもう少し早ければ、まだ己に力が残っていれば。そうであったなら二人の間を阻む境界など存在せず、結鷹も葛藤せず、すんなりと早苗に踏み出して行けたのだろうと思うと、神奈子は僅かばかりに、遣る瀬無い感情を覚える。

 同時に、綾崎結鷹には、少々危うい才能があることを、神奈子も諏訪子も感じていた。

 早苗が、『奇跡を起こす体質』なら、結鷹のそれは、『人外を惹く体質』とでも言うのだろうか。

 早苗には分からない感覚だったが、神奈子や諏訪子は、結鷹を“香ばしい”と感じる。

 しかし、この場合の惹くとは、恋愛感情とは全く異なる。

 妖怪にとっては“餌”として、神にとっては“玩具”として目にとまる。そういう意味での惹かれる、だ。

 仮に妖怪が跋扈する時代に生まれていたのなら、結鷹は幼少の内に食われて絶命していただろう。神々の時代に生まれていたのなら、玩具のように、弄ばれたかもしれない。

 神代において、気に入った人間を、神が退屈しのぎに悪戯して、その人生を破滅させることなどよくある話であった。

 人と人外との恋愛譚が伝えられている以上、恋仲になる確率も少ないが、ある。しかし、そうはならず、多くの場合は、悲劇と、最悪死に直面することになる。

 人外を惹きつける体質と言えば大層な名前ではあるが、その実、妖怪にとっては旨そうな匂いの人間でしかなく、神にとっては興味を惹かれるだけのもの、大事の最中であれば見逃す程度の存在でしかない。

 それに、少ないながら、どの時代にもそういった体質を持った者は現れてきた。

 神奈子の経験上、幸いにもそれは呪いというにはあまりにも弱く、自らの体質に気づいて、力を持つ者を頼れば神奈子が例えるところの“香”を封じて解決することも容易い。が、気づかないままの人間は、きっとそういった人外の存在によって、不幸に見舞われるだろう。

 もし、自分の力が健在で、早苗が居らず、その状況で今の結鷹をはじめて見つけていたのならどうしていたか分からない、と神奈子はゾッとする。風雨の神である神奈子ならまだマシなもので、祟神を統括していた諏訪子に目を付けられていたのなら、更に悲惨な目に遭っていただろう。

 久しぶりに神社を訪れた時には、幼少期において僅かに匂った程度のそれが、なんとも香しいものとなっていた。

 少なくとも、諏訪子がちょっかい出しまくる程度には。

 二柱の忠告によって、早苗から結鷹に、もしもの時の護身用の札と“匂い”に蓋をする役割の札を封じた、お守りを持たせていることで今はその体質は封じられ、安全を確保している。

 そういう意味では結鷹は幸運であった。 

 結鷹が今まで何も対策を取らずとも生きてこられたのは、一重に、多くの妖怪、神などの人外が力を失った現代であったからだ。

 だからと言って、これから大丈夫とは限らず、急ぎで早苗に言って、結鷹にお守りを渡したのであった。

 身に着けている内は、その恩恵を受けることが出来るだろう。早苗程の才子の特製であるならば、その効力は彼の生涯の半分ほどは、あれ一個で十分だ。

 逆に言ってしまえば、結鷹の人外を惹く体質とは、その程度のものであった。

 

「今の早苗を見ていると、私は嬉しい反面、居たたまれなくなるよ。早苗はとっておきの風祝だからね、現世に私達が居られなくなった時、誰もあの子の傍に居てやれる人間が居ないのなら、彼の地へ早苗も連れて行こうと考えていたけど……」 

 

 この移住の案は、何も最近になって浮かんできたものではない。早苗が幼い頃から、神奈子と諏訪子の間で、現代では存在が消滅しかねない自分たちのことと、現代では生き辛くなっていくであろう早苗のこととを考慮して、ずっと温めていた計画である。

 

「まあ、少し前なら私もそう考えてたけど、今のあの二人を引き裂くのはねぇ。」

「両親を亡くしてしまったのもあって、早苗も思い残すことなく、連れていけると思ったんだけどねえ。結鷹のせいというか、おかげと言うべきか、事情が変わった」

 

 結鷹は賢い子だ。神奈子の多くの人間を見てきた慧眼は、一目で結鷹をそう評価した。結鷹は誰よりも早く早苗と自分を含めた周囲との差に勘付いていた。そして、彼は自らの察知した早苗の異常から目を逸らし続けていた。きっと、結鷹が早苗から離れたのは色々考えた末のものだろう。自分に無いものを在ると期待しているような過度の自信家ならば、ああはならなかったかもしれないが、彼は賢い故にそんな風には生きることができなかったのだ。

 早苗の、結鷹に理解してほしいという気持ちは当然知っていた神奈子だが、結鷹のそういう部分を汲んでいたからこそ、結鷹を責める気持ちは全くなかった。きっと、早苗の望むものはここでは手に入らない。それを感じ取った神奈子と諏訪子は、早苗を連れて、忘れ去られた者が行き着く場所、幻想の土地へと足を踏み出す決意を確固たるものにしたのであった。

 だが、先日、結鷹の方から早苗に踏み出したことで、状況は変わった。あの、瞬きほどの時間を除いては、結局、結鷹は神奈子と諏訪子を見るには至っていない。

 早苗と結鷹の間には、やはり、越えられない境界線がある。

 しかし、それでもと、二人で時間を共に過ごし、互いを理解しようとしている。お互いが触れ合おうとすると出来る空白を潰すように。なにより、結鷹と二人でいるときの早苗の幸福そうな顔を見ていると、そんなことは些末な事にも思える。

 

「ねえ神奈子」

 

 粛然とした様子で、諏訪子は神奈子の名を呼んだ。

 

「ん?」

「私はね、早苗の幸せそうな姿を最後までこの目で見られるのなら、消えてしまってもかまわないよ」

 

 神奈子は早苗たちを見守る諏訪子の横顔を見る。彼女の容姿は見た目だけなら幼いものだ。しかし、その顔には確かな親の愛情がある。神奈子と諏訪子は、早苗の言う様に、両親のような存在である。しかし、諏訪子にとっては、早苗は本当に自らの血を引く子孫なのだ。

 

「諏訪子、あんたまさか……」

「冗談さ。ただ、そう思わされるくらいに今の早苗は楽しそうだってこと」

 

 神奈子には、そう嘯く諏訪子が、冗談でそれを言っているようには見えなかった。ただ、諏訪子の言いたいことを察した神奈子は、先に口にする。

 

「いざと言う時は、早苗を置いていくことも考えなくちゃいけないかもしれないわね」

 

 我が子のようにその成長を見守り、育ってきた早苗を自らの傍から離してしまうのは悲しい。

 しかし、今の早苗を結鷹から無理矢理引き離すのは、あまりにも忍びなく、心が痛む。ようやく互いに歩み寄ることを許容できた二人を裂くのは、あまりにも残酷だ。そんなことが許されてはいけない。

 

「うん……結鷹ならきっと、もう早苗を拒まないよ」

 

 目を閉じて諏訪子は口にする。その一言には、早苗への愛と、結鷹への信頼があった。

 

「じゃあ、その時は私たち二人で行くとしようか」

 

 ならば、結鷹に早苗を任せるべきなのかもしれない、と神奈子は思う。早苗ももうすぐ高校生になる、子離れ、親離れの時が来たに過ぎない。

 もとより、早苗は特異ではあったが、幻想と消える者ではない。彼女を受け入れる者が居て、孤独を感じないのなら、此処に留まる事こそ早苗のためになるだろう。

 

「まだ先の事だけど、寂しくなるねえ」

 

 諏訪子は過去を思い返るように、どこか、遠くを見つめる。神奈子も、諏訪子の言葉に内心で同意した。 

 なにしろ、自らが手塩にかけた、言ってしまえば愛娘を嫁に送り出すようなものなのだから。

 うら寂しい気持ちになるのは必然のことだった。

 

「なあに、太古の昔からの付き合いさね、何があっても私はあんたから離れられないわよ」

 

 かつては争い、勝者と敗者として上下の関係であった二人は、一つの王国をまとめる為に協力関係になった。それが守矢の神である。表立っての実務を神奈子が、裏では諏訪子が政を執る。利用し合うだけの関係だった二人の間には、時が巡るにつれ、確かな親愛の情が芽生えていた。諏訪子には未だに、神奈子が腑抜けた姿を見せたら取って代わらんとする狡猾さがあったが、神奈子はそれすらも受け入れて、対等な仲間だと感じている。諏訪子とて、腹の内に煮る思いは多少あれど、神奈子を最高の相棒であると認めていた。

 口には出さねど、神奈子に敗れ、支配していた国を奪われ、身を隠すしか道が無かった諏訪子は、再度、国を支配する立場に戻る機会を与えてくれた神奈子に感謝もしている。 

 

「ははは、そうだね、腐れ縁もここまでくれば愛しく思えてもくるってものさ。それに

神奈子を一人にしておくと、どこかに迷惑かけないか気が気じゃないし」

 

 子供のように悪戯な笑いを浮かべて、神奈子を見る諏訪子。神奈子はそんな彼女の額を人差し指で弾いて。

 

「それをあんたが言うな」

 

 あう、と少し赤くなった額を両手で抑えて、神奈子に背を向けて、涙目ながらにその場にしゃがみ込む諏訪子は、ふと、口にする。

 

「私たちは、あとどれくらい此処に留まっていられるかな?」

 

 神奈子は、さあね、と首を横に振る。

 

「一年もつのか、二年か、それとも、一年すらもたないのか。諸行無常とは良くいったものだ。全く、世の移り変わりとは怖いものねえ。昔は事あるごとに、私たち神の思し召しだなんだと祀っていたというのに、現代じゃ八百万の神よりも、一つの家電製品の方が人々を惹きつける。神の身の上としちゃあ随分世知辛い世の中よ」

「……人が憎い?」

「いいや、惜しいとは思えど、憎いとは思わないよ。それに、そんなことを言ったら、早苗が怒るもの」

 

 そう言いながら、早苗の怒った様子を想像して肩を竦める神奈子のさまは、子に嫌われるのを恐れる親のよう。

 

「はは、私も神奈子のこと言えないけど、もう神なんて言う肩書背負っただけのただの人の親だねえ」

 

 全く平和ボケしたものだと、神奈子も諏訪子も互いに胸中を露わにする。

 

「かつては私達で、天と地さえ思いのままであったというのに、今では自分に仕えているはずの、たった一人の風祝の行動に心が揺れ動かされる始末さ。太古の昔に国を治めていた神が、力を失って、人の親と変わらないのなら、人々が離れていったのは道理。愚痴くらいは言いたくなるけど恨みはしないわ」

 

 それに昔から神奈子は人心を掴むということにおいては、不得手であった。大戦を勝利し奪い取った国の民は、諏訪子による祟りの恐怖によって、その内側までは掌握できず、手に入れた国を持て余した。

 諏訪子が助力してくれなかったら、今の自分は在りえなかったと、神奈子は考えている。

 そんな神奈子が人を恨むなど、神の身とて、そこまで思い上がることは出来ない。

 諏訪子とて、一度は敗北し、本来ならその時に身を隠すしか無かった身の上だ。神奈子と同意見だった。

 

「……そうだね」

 

 二柱の神は天を見上げ、在りし日に思いを馳せる。それは、神々の時代。ありとあらゆる事象は神々の手によって起こっていると人々に信じられ、また、その力を神は存分に振るえた時代。争い、奪い、王国を治め、主として君臨した、今では遠き幻想の時。

 以前はこの天さえも創造できたというのに、今では、手を伸ばして掲げる程度のことしかできない。もはや自分達の栄光を知るものもいない。神にとっては昔でも、人間にとっては無始曠劫の時代のことであれば、それも必定。

 その時代を郷愁とも呼ぶべき愛しさで懐かしむ。しかしそれは、目の前の我が子のような風祝にかける想いよりは、劣る感情だ。

 東風谷早苗と綾崎結鷹の行く末に、幸福があることを天に願った。

 遥か遠き時代に、人々が、彼女ら神に祈ったように。

 



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東風谷早苗について 5

今回は早苗が輝いている回……なはず。
それと、1000pt達成しました。本当にありがとうございます。


 元旦。年の初めの日。まあどの家庭もこの日から数日くらいは、家族団欒に過ごして、親戚の集まりだとかで、父母の実家だとかで和気藹々とのんびり過ごしているのではないだろうか。

 勿論、移動の手間等で慌ただしいと感じる人もいるだろうが、俺はこの日を心行くままにゆったりと、自宅の炬燵の中で過ごして……いたかった。

 時刻は午前10時ごろ、大晦日の特別番組を見て、夜遅くまで起きていた俺は、その事を若干後悔しながら、東風谷の住まう守矢神社へと向かっていた。

 我が家は、例年親戚などへの挨拶は2日以降なので、今日1日は特にしなければならないことは無かったのだが、元旦であるこの日に、東風谷がどうしても神社にお参りに来てくれとせがむものだから、眠い身体に鞭打って家を出たのであった。

 取りあえず布団から出るまでは地獄だったが、朝の山道は、そうであるのが当然のように肌寒く、歩いている内に眠気は失せていた。自分の口から出る白い息を見ながら、随分とこの階段にも慣れたものだと思う。

 最近では、受験勉強を一緒にするという目的のもと、東風谷の家に足を運ぶ頻度が異様に増えたのだが、どうにも一緒にやれば効率が良くなるというものではないらしい。

 よく考えてみれば当然だが、効率よく学力を向上させるなら、二人で勉強をするならば、片方がもう片方よりも勉強が出来ていなければいけない。

 総合的な点数にそこまで差が無い俺と東風谷では、教えようにも、教えたものが当たっているのかさえ定かではないのだから、まあ、ぶっちゃけ一緒にやってる意味はない。

 ただ、東風谷と過ごす時間は嫌いではないし、それが口実となって一緒に居られる時間が多くなるのなら、それでいいとも思う。

 そんなことを考えていると、雪溶け水によって濡れている鳥居と、積もった雪で薄らと、白く染められた黒瓦の神社の一角とが見えてきた。

 石段を、足を滑らせないように気をつけて登りきり、境内を視界いっぱいに見渡せる状態になると同時に、待ってましたと言わんばかりに東風谷が俺の姿を捉えて駆けてきた。

 

「あ、綾崎。あけましておめでとうございます!」

 

 そして、その光景には目を見開いてしまうほどに驚かされた。

 主に、東風谷の身を包む、その衣服に。

 

「おう、おめでとさん。てか東風谷……その格好」

 

 いつもとは違ったその姿に、頭の天辺からつま先まで、視線が吸い込まれるように誘導され、確認してしまう。

 

「どう、ですか?」

 

 俺の視線に恥じらいを見せる東風谷。彼女の格好には幼い頃に覚えがある。ずっと昔、たまにだが、神社で遊ぶ時に、この青白版の巫女服を着ていたのだ。

 正確には、風祝としての衣装らしいそれは、水玉模様のようなものが書かれた青いスカートと、白地に青く縁取りされた上着。それらは彼女の緑がかった綺麗な髪と、端正な容姿とすごく合っている。そこまでは過去の記憶にもある。幼い東風谷がそれを身に着けて、俺に意見を求めてきたときに、紅白じゃないんだ、変なのー、と子供故に歯に衣を着せぬ感想を言って泣かせてしまったことまで、はっきりと覚えている。

 しかし、今の東風谷のその装束は、下のスカートは良いとしても、上着が肩口で袖と切り離されていて、肩から二の腕くらいまでを露出させているのだ。腕をあげようものなら腋が丸見えになってしまうような露出度であるし、何とは言わないが、起伏も目立つ。何というか、東風谷にしては大胆な格好であった。

 腋フェチ等の特異な趣味はないが、流石にその格好は見ていて恥ずかしい、というかエロイです、東風谷さん。

 そんな大胆な格好をして、こちらに感想を求める東風谷の顔は紅潮している。彼女は、自分の胸元と俺との間に、視線を二、三度、行き交わせてから、最後に俺を見つめてくる。それなりに気合を入れて着付けてきたということなのだろうか。正直、それを変な目で見ないようにしつつ、直視しなくちゃいけない思春期の男子の心の内まで把握してくれるともっとありがたいんですが。

 もし、ここに他に野郎が居たら俺はそいつらが東風谷を視界に収める前にその目を潰して歩かにゃならんな。

 神奈子様と諏訪子様には悪いけど、この神社に人気が無くて今だけは良かった。

 

「いや、どうって言われても……」

 

 言葉を慎重に選ぼうとして、こんな言葉が出てきてしまい、次が詰まる。こういう時は思ったままに言ってやるのが、本当に良い仲ってやつなんだろうけど。……いやでも、流石に今日はエロイな、なんて言ったら不味いよね。

 見えないお二人も近くにいるんだろうから、その逆鱗に触れるかもしれないし。

 新年早々、頭がショートしそうなくらいに思考を働かせて、言葉を探していると、目の前の東風谷の様子が段々としおらしくなっていく。

 そんな様子が俺の感想を、東風谷としては無意識に、急かしてくる。

『無難に褒める』『思ったままに言う』という二つの選択肢が頭に浮かぶ。

 どうする、どうすんのよ俺。

 一度ため息をつく。落ち着け、落ち着くんだ、まず素数を云々。

 

「まあ、良いと思う。良く似合ってるよ」

 

 選ぶのは、俄然、無難な方でしょう。どう、と問われた時のベストアンサーこれね。

 狡い言葉だとは自分でも思うが、取りあえず相手のこちらへの詮索を避けれる、当たり障りのない感想だろう。

 重要なのはあまり頻繁に使わないことだな。多用すると、またそれぇ、みたいなのを言われます、と言う彼女居ない歴=年齢の俺からの妄想アドバイス。

 

「そ、そうですか」

 

 そう言って東風谷は顔を少し赤くして、縮こまるようにして俯いて、俺から視線を逸らす。恥ずかしくなるなら聞かないでくれよ。俺も恥ずかしいんだから。

 羞恥もあるようだが、東風谷は俺から満足な返答を貰えたようで、もう一度自分の格好を自分で確認して、得心したように頷いて小さくガッツポーズをした。

 

「その格好、気に入ってるのか?」

「はい、守矢の風祝としての衣装ですし、神奈子様と諏訪子様に仕えてる証ですから」

 

 東風谷は、嬉しそうに顔を綻ばせてそう答えた。その台詞には二柱の神も陰で感激してそうだな、と思う。

 

「それに、結鷹に昔この格好変だって言われて、今日はリベンジするつもりだったので」

 

 ぼそり、と呟く程度の声量だが、都合よく聞き逃すことは無かった。

 

「東風谷……」

 

 やっぱり根に持っていたというか、覚えていたのか。東風谷と昔のことを話していると、俺が忘れてしまっているようなことでも、彼女は鮮明に覚えているのか、いろんな話や、やりとりを思い出させられる。

 今回は、俺も彼女の格好を見た瞬間に、その出来事を想起させていただけに、心臓がどくんと、跳ね上がるのを感じていた。

 勿論、理由はそれだけではない。

 東風谷が子供の頃にその風祝の衣装を着てきたのは、気に入っているその格好を俺に褒めて欲しかったのだろう。それに対する感想とその後は、まあ彼女の思惑とは逆のものだったのだが。

 

「えへへ、なので、リベンジ成功です」

 

 そう言って、はにかむ東風谷。

 そうして、思い至る。巫女服としての一面もあるのであろうその青白の着物を、初詣と言うイベントに乗じて、公然と着ることのできるこの元旦を選んで、わざわざ俺に褒めさせるために、頼み込むように今日の神社に呼んだのだと、そう思ってしまったから。おそらく、これは自惚れでもなんでもなく、事実だろう。

 ああ、もう。可愛い奴だな、ちくしょう。

 

「ごめん、言い直す」

「ん、何をですか?」

 

 さっきのやり取りで満足したらしい東風谷には、いまいち俺の言わんとすることが理解できていないようだが、丁度いい。いつも俺が受けているもの、それを今日は東風谷にも味あわせてやろう。

 そんな、僅かばかりの悪戯心と、彼女の心理を辿ってみて払わねばならぬと感じた誠意をもって口を開く。

 

「可愛いよ、早苗」

 

 あの日以来、東風谷は無意識か意識してか、俺のことを名前で呼ぶ時と苗字で呼ぶ時とが結構頻繁に変わる。名前で呼ばれるその度に心臓が僅かに強く鼓動する思いをさせられているので、それも含めて仕返しだ。普段は気恥ずかしさで、苗字で呼ぶが、そういう口実があるのなら、彼女を前にして、名前を呼ぶのもやぶさかではない。

 

「……? ぁ……ぅ」

 

 不意を打たれた東風谷は、しばらく何を言われたのやら分からんといった様子で、ぽかん、としていた。そんな東風谷が、俺の言葉を吟味するのに数秒要したようで、聞き取った言葉を味わって、理解して、今度こそ、東風谷は顔を林檎のように真っ赤に染めて黙り込む。混乱した様子の東風谷はしばらく黙ったのちに、何か言い返さねばと、目をぐるぐると回して何かを口にしようとして、その実ぱくぱくと小さく口を開閉させるだけで何も言葉に出来ていない。そんな彼女を見て、俺はしてやったり、と思う。

 ……とは言ったものの、俺も顔が熱い。うん、らしくないことはするもんじゃないな。今、さりげなく俺の黒歴史がまた一つ増えた気がする。

 お互いが喋ることも無く、顔を紅潮させている巫女と参拝客兼友人。客観的に見ると、随分とおかしな図だ。だが、それを理解したところで、ここに羞恥ゲージというものがあるのなら、振り切っているのであろうこの状況を容易に打破することはできない。自分を客観的に捉えられることと、自分を変えられるかは別なのだ。

 こほん、と咳払いをして、話す意思表示をする。

 

「まあ、あれだな。あんまりその格好他所でするなよ」

 

 強引な話の切り出し方だったかもしれないが、かまわない。このまま互いに気恥ずかしさで黙り込んでいたら、それこそ参ってしまう。

 しかし、頬をかきながら、苦し紛れに適当に言った言葉ではあるが、適当であるが故に、心の内で隠しつつも思っていた言葉であった。それに、顔を真っ赤にしていたはずの東風谷が、電波を受信したかのように、ぴくり、と反応して顔をあげて不思議そうにこちらを見てくる。

 

「それ、どういう意味ですか?」

 

 あやっべ、ちょっと失言だったわ。無かったことにしてくれない、今の発言。

 

「いや、特に深い意味は無くてだな……」

 

 そう言って、不思議にこちらを見る東風谷から目を露骨に逸らす。正確には、逸らしてしまった。

 不味い。

 東風谷は俺のその挙動で何か察したようで、瞳に妖しい光が宿る。まさか状況を打破するための苦し紛れの言葉によって、自ら反撃の機会を与えてしまうとは。ふぇぇ、東風谷お姉ちゃんこわいよー。

 

「あやさきー、それって」

 

 東風谷の艶めかしい視線を顔を背けることで躱すが、東風谷は何やら蟹股気味に怪しげなステップをしながら回り込んでくる。なんだ、そのへんてこな動きは。

 

「ど・う・い・う・意味ですか?」

 

 もう一度別方向に顔を逸らして、ねっとりとした視線を避けると、今度は両手を後ろに組んで、左右に上体でウェーブを描くように、ステップを刻んで回り込んでくる東風谷。東風谷は、どうしても俺のさっきの失言の本懐を引き出したいらしい

 ダメだ、時間を稼いでも全く、気の利いた上手い言い訳が思い浮かばない。テンパると途端に頭の回転が鈍るのは、俺の豆腐メンタル故か、本当に勘弁してほしい。

 さっき、してやられたせいか、今回は全く引く様子を見せない東風谷。どうやら、飢えた肉食動物の前に、俺は自らの肉体を曝すような間抜けを犯してしまったらしい。

 この状況を上手く躱す手だてを思いつかず、観念して両手を挙げて、白旗を振る意思を示す。

 分かったよ、正直に言うよ。

 

「いや、何というか、俺以外の男がそれを見るのは気が進まないというか、困るというか、なんというか……」

 

 自分でも言ってることの意味を理解してるだけに、口篭もっていき、尻すぼみに声は小さくなる。だって、こんなのどう聞いたって。

 

「つまり」

 

 そう口にする東風谷の頬は緩み切り、にんまりと笑っている。殴りたい、この笑顔。原因が己にあるとは言え、そう思わずにはいれない。

 

「ジェラシーですか? 嫉妬ですかあ? しょうがない子ですねえ綾崎は」

 

 そうドヤ顔で語り始めた。その様は例えるなら蛾のように舞い、蚊のように煽るとでも言えばいいのだろうか。

 ですよね。そうなるよな。語調を上げていくな、コンチクショウ。

 俺の失言が招いたこととは言え、この東風谷、大変愉快そうである。

 もう完全にスイッチ入ってますね、これ。

 こうなったら俺には、この暴風のような彼女を止める術はない。

 

「どうですか? 神社が賑わう様になったら、今みたいに結鷹だけがこの姿を見る、なんてことはないんですよ?」

 

 ほら、ほらほら、と自分の風祝の衣装を見せつけるように身を翻して衣装と髪とをはためかせる東風谷の様子は、舞っているようで、本当に楽しそうで、綺麗だと思う。

 ただ、そこまで露骨だと、羞恥も消え失せるというもの。東風谷もノリノリなせいで、気恥ずかしさは無くなっていた。

 いつもは、のどか、と言えば耳当たりの良い言葉だが、その実退屈な年の明け。明日からは親戚の集まりと言っても、俺にはその空間は居心地のいいものではない。従兄弟も俺とはいくつも年齢が離れていて、俺にも問題があると言えば、あるのだが、気を遣って過ごすあの空間は苦手だった。

 それに比べて、此処はなんて心地が良いのだろうか。もはや、どこが本当の家なのかすら分からない。

 一年の最初の日である元旦、その日を、騒々しくも陽気に楽しく、東風谷と二柱の神と過ごせることに、心から感謝した。

 

 

 

 

 



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東風谷早苗について 6

 “結鷹、起きなよ。早苗が来たよ”

 

 東風谷じゃない誰かの声。目は閉じたままの真っ暗な視界、薄ぼんやりとした意識の中、その誰かの声がはっきりと頭に響いた。きっと、声の幼さからすると、諏訪子様じゃないだろうか。

 そこまで思考が働いて、その声が聞こえたということに、心より先に身体が反応して跳ね起きる。

 視界は開け、広がった光景を見て、自身の家では無いことに気付く。

 

「あ、俺、寝てたのか」

 

 目に映る景色から、状況を判断し、時間が経つごとにどういう経緯があったのかを思い出していく。

 東風谷が散々はしゃいだあとに、神社に合格祈願を兼ねて初詣をして、お賽銭を入れ参拝を終えた頃には、時刻も昼になろうという頃だった――と、言うのも、東風谷に初詣の際の作法を口酸っぱく説かれたので時間が掛かったのが原因だろうか―――ので、一度昼食を摂りに家にあがっていたのであった。

 蕎麦があるので、さくっとやっつけてきます、と意気揚々と台所へと向かって行った東風谷を見送ってから、炬燵に入っていた俺は、気づかぬうちに眠ってしまったらしい。

 手伝おうとも思ったが、こういうのは女子の仕事ですから、とは東風谷の言だった。あれから、あまり時間は経っていない筈だが、それだけに炬燵の魔力は恐ろしい。

 大きめのお盆に、かけそばを入れて白い湯気のたつ器を二つ乗せてきて、テーブルの上に置いている最中だったらしい東風谷の顔は少し驚いた様子で、こちらを見て固まっている。

 

「どうした?」

「いえ、今、結鷹が諏訪子様の声に反応した様に見えるくらい間が合っていて、ちょっとびっくりしました」

「ああ、やっぱり今の、諏訪子様の声だったのか」

 

 先ほどの声が、今一度、頭の中で再生される。声の感じからして、俺のイメージでの神奈子様の声らしくない。あの風体でこの声だったら、それはそれで驚きだ。

 

「聞こえたんですか?」

「うん、本当にたまにだけどな。で、声の幼さからして諏訪子様かなって」 

 

 東風谷に一瞬見えたあの景色のことを話した際に、二柱のことを聞いてみたところ、どうやら、紫の髪の威厳ある感じの女性が神奈子様で、へんてこな被り物をしていた子供のような背格好の女性が諏訪子様らしい。

 その言葉を聞いて、東風谷が少し笑った。

 

「ん?」

 

 なにかおかしかったか。

 

「諏訪子様が、結鷹に幼いって言われるのは心外だって、ちょっとむくれてます」

「え? ああいや幼いというか、こう……そう! 鈴の音のように美しい声という意味でして!」

 

 神様の機嫌を損ねてしまったということが俺の心を焦らせ、自分でも訳わからないくらいに意味のないジェスチャーをしながら、言い訳を捲し立てる。東風谷には見えているのだろうけど、俺には見えていないせいで、透明人間に説明しているみたいで変な気分になる。

 しかも、その言い訳も苦しいものがあるあたり笑えない。

 

「綾崎、後ろですよ。後ろ」

 

 どうやら、俺は全く見当違いな方に向かって話していたようだ。振り返って、頭を下げる。

 

「え、ああ、いや本当に申し訳ありませんでした」

 

 もう、俺の処理能力を超えている。やはり、受け入れたところで隔たりは消えない、と度々思う。

 それでも。

 こうして、時折、見えないながらも東風谷を通してコミュニケーションを取ろうと努力はしている。少しでも、東風谷の見えているモノに近づくために。

 

「諏訪子様はもう許すそうです。あと、蕎麦が冷める前に食べなさいって、神奈子様が」

「そ、そうか。それは良かった、じゃあ、食べるか」

「はい、いただきます」

 

 東風谷が両手を合わせて言う。俺もそれにならい、両手を合わせて唱和してから、箸を取る。

 

「一味、要りますか?」

 

 東風谷は、茶色い瓢箪型の小さな容れものを差し出してくる。

 

「ん、さんきゅ」

 

 それを受け取って、適当に振って、東風谷に返す。その際に手が触れ合うことに意識がいってしまうのは、男の子だし仕方ないよね。

 東風谷お手製のかけそばには、かまぼこと揚げが入っていて、器からもくもくと立つ白い湯気は、この寒い時期にはなんとも食欲がそそる出来となっていた。

 一度、お互いに蕎麦を啜り始めたら、そこからは二人とも特に話すことはない。いつもの昼食と同じだ。

 うん、美味い。

 普段は食事中には話さないが、何も手伝わずに作ってもらっただけに、感想の一言くらいは食事中でもいいか、とふと思う。

 

「美味いよ、正直、東風谷が料理できるのは意外だったな」

 

 一度、箸を止めて、向かい側に座る東風谷に顔を向けて感想を口にする。

 

 すると、東風谷も箸を止めて、腰のあたりに両手を当てて、えっへん、とドヤ顔になる。

 

「この早苗、伊達に東風谷家を切り盛りしているわけではないんですよ? 認識を改めることですね」

「まあ、でも、かけそばだしな」

 

 その東風谷の様子が可愛らしい反面、おかしくて、ちょっと意地悪を言ってみる。

 

「な!? まさか綾崎は、私がインスタントラーメンやかけそばみたいな茹でるだけの簡単なものしかできない女子力5以下の雑魚と思っているんですか」

 

 むむ、と東風谷は眉を寄せ、頬を膨らませて、釣り餌である俺の言葉に食いついてくる。

 いや、そこまでは言ってないけどね。

 ていうか、その5っていう数字はどこからきた。

 

「このかけそば一つとっても、この寒い中、結鷹に少しでも美味しいものをと茹でてから冷水で、ちゃんとしめてきたというのに、この仕打ち、許せません!」

「いや、あの、早く食べた方が……」

 

 東風谷がヒートアップしていくのを肌で感じた俺は急いで止めに入ろうとする。だが、手遅れだったらしい。

 

「いいでしょう。その挑戦、受けて立ちます。今度私が結鷹に弁当を作ってあげますよ。リクエストがあれば聞いてあげますよ? オムライスでもハンバーグでも何でもござれです。そして私の料理の腕を知ってひれ伏すが良い」

「なんか、リクエストのチョイスが子供っぽいのはなんでなんだ」

 

 大体の人が好きそうな物ではあるが、その中でも結構俺の好みのものを言い当てられて、少し疑問に思う。

 

「え? そりゃあ結鷹は子供っぽいですからね。格好つけて大人ぶってますけど、案外お子様なの、私知ってますもん」

 

 東風谷は、一瞬ポカンとして、何を言っているんだお前は、と言った様子で返答する。 

 なんというか、そう言われると言い返せない。ムキになって言い返したら、ガキ確定アシストだし、言い返さなくても、それが所謂、大人ぶってる、ってやつな気もするし。

 実際、大人っぽいなんて評価を受けている子供は、大人しいとか、目立ちたくないとか、内気な奴がほとんどだ。

 俺も、その例の一つに過ぎないのだろう。騒いでる奴に混じれないのは、自分がそういう気性でないというのもあるが、どちらかと言うと、それは自分に自信が持てないから。育ちが良くて、垢抜けている奴も居るのだろうが、それは本当にレアなケースだろう。

 ただ、少し、カチンときたので、ムキになって返す。なんだ、やっぱ俺ガキじゃん。

 

「ほう、じゃあ、その時にお手前拝見させてもらおうじゃあないか」

「ええ、いいでしょう。その胃袋を鷲掴みにして、私の手料理抜きでは生きられない体にしてやります」

 

 お互いに、長年の宿敵との対決のような好戦的な笑みを浮かべる。東風谷に至ってはいつの間にやら立ち上がって、顎をやや上向きに、こちらを見下ろしている。それが物凄く悪役っぽいせいか、くだらない茶番にも熱が入るというものだ。

 悪いが俺の胃は鋼鉄、易く掴めるとは思うなよ――――。

 が、ふと、蕎麦に目を落とす。炬燵に入っている俺たちはいいが、この部屋は、今空調を効かせていない。

 つまり。

 

「あ、つゆ、ちょっと冷めてる」

 

 その一言で、茶番劇はその帳を下すことになり、東風谷と俺は、温くなった蕎麦を、急いで食べるのであった。

 やっぱり、食事中に喋るのは良くないね。特に、喋りだすと止まらない間柄の相手とは。

 

 

 

 

 

 

 

「絵馬におみくじに、破魔矢にお守り! 何でもありますよ」

「へー、意外に色々置いてあるんだな、この神社」

 

 守矢神社は、初詣の時期でもいつもと変わらず人が訪れず、閑散としている。俺がどうやらこの神社の唯一の参拝客らしい。二柱の事を思うと、その事実を悲しいと思う。俺だけはなるべくこの神社に通い続けようという気にさせられる。

 蕎麦を食べ終えてからしばらくして、ふと、ここっておみくじとかないの、と東風谷に聞くと、どたた、と足音を立ててどこへやら姿を消していたのだが、丁度、腕一杯に色々抱えて、部屋に戻ってきた。

 東風谷はテーブルの前に立つと、ばたた、と抱えてきた物を置く。その置き方は貴重なものを置くと言うより、手を放して、集めてきたガラクタをその場に落とすといった感じだ。ちょっと乱暴じゃないですかねえ、それ。言い方悪いけどあなたの神社の商売道具ですよ。

 

「意外とは失礼です。刎頸に処します」

 

 首を刎ねられるのは嫌なので、東風谷の言葉はスルーする。

 テーブルの上に、ごちゃごちゃに広げられた物の中に、放られたお守りに、学業成就の文字を見つけて、漁って拾い上げる。

 

「あ、お守り買おうかな、値段どれくらい?」

 

 流石に友人の神社とはいえ、お金を払わないわけにはいかないだろうと思って、値段を聞く。

 

「うーん……、400円ですかね。あと、納めるって言ってもらえますか、一応」

「いま決めなかったか、その価格」

「あ、ばれちゃいました?」

 

 てへ、と舌を出す東風谷。ていうか、隠す気無かったよね、今。思いっきり値段設定に迷ってたような間が合ったもの。

 

「でも、お守りなら、前に私があげましたよね? あれじゃダメなんですか?」

 

 東風谷は人差し指を当てて、不思議そうに俺に言う。

 彼女の言っているお守りとは、今俺のズボンのポケットに入っているものの事を指しているのだろう。

 なんでも、俺は妖怪などの気を惹く体質らしい。生まれてこの方。東風谷との繋がり以外で、そういう非現実的な現象にはお目にかかったことは無いので、全く実感がないのだが放置しておくには危ないものらしい。

 そこで、それを封じる札と、“もしも”の時用の護身用の札を中に入れたお守りを貰ったのだ。取りあえず、常に身に着けていろと言うのは、早苗曰く、神奈子様のお言葉だとか。

 神様の助言ならば、聞いておくが吉であろうし、早苗が折角、用意してくれたものを無碍に扱うというのは俺にはあり得ないことなのでそれ以降、出かけるときは、肌身離さず、持ち歩くことにしている。

 

「今年受験だし、あれとは別だろこれは」

 

 言いながら、財布から400円を取り出して東風谷に手渡す。東風谷は頷いて受け取ると、彼女自身も、がま口の、緑色のデフォルメされた、蛙を模した小銭入れを懐から取り出す。

 

「それもそうですね。じゃあ私もかお……納めることにしましょう」

「おう、人に言っておいて自分が言い間違えるな」

「し、仕方ないでしょう。私も結鷹と約束してから色々教えようと必死に調べたんで……あ」

「へー、そーなんだー」

 

 自分でも今意地の悪い笑みをしているのが分かる。まあ、東風谷が案外疎いのは理解できないでも無かった。ろくに人が来ることが無いだけに、参拝客に対する知識が身に着いて居ないのも致し方ないという気もする。

 それに参拝前の手水舎にて身を清めるときに、その正式な手順を二柱に聞いているっぽかったっていうね。

 それが、東風谷の二柱の神への不徳とは、誰も思わないだろうが、東風谷自身はそうではないらしい。

 顔を紅潮させていく東風谷は、話題を変えるように言葉を発した。

 

「ほ、ほら。おみくじとかどうですか? 綾崎も気になるでしょう?」

 

 そう言って、東風谷は円柱の筒状のおみくじ箱を拾いあげる。確か、細長い棒を引き出して、出た番号に対応する箋を貰うのだったか。

 毎年参拝だけして初詣を終えていたので、正直この手の知識は疎い。

 だが、流石にこれ以上イジるのは、東風谷がかわいそうだったので、その提案に乗ることにする。

 

「いいな、やるか」

「ですね! では、私から」

 

 東風谷は、口を一文字にして力一杯振ると、ガラガラと音を立てた後に、箱の中から細長い棒が出てくる。東風谷はその棒の端に書かれた番号を確認して、口にする。

 

「37番です。では、綾崎。はりきってどうぞ」

 

 別にはりきっても何も変わらないけどね。

 東風谷から、おみくじ箱を手渡される。張り切っても何も変わらないとは分かっていても、いざ自分がやると少し力が入る。

 

「……」

 

 ガララ、と音を立てて振ると、同じように筒の箱の小さな口から、細い棒がひょっこりと出てくる。

 棒の先端を見てみると、“11”と記されていた。

 

「11番だな」

「では、整理箱から取ってくるので、待っていてください」

 

 東風谷は、今日はなんだか慌ただしい。別に、彼女一人が何度も行ったり来たりしなくとも、着いて行って俺も一緒に確認すればいいだけの話なのだが、そういう前に、走り去ってしまった。

 少し申し訳ない気持ちが湧くものの、待っていろと言われたままに、行かせてしまった手前、今から追いかけるというのも変だ。

 それに、炬燵あったかい。

 炬燵は人をダメにする、と改めて認識してから、数分を待たずして、東風谷がおみくじ箋を握って帰ってきた。

 白い息を俺の2倍くらいの頻度で吐いて戻ってくる彼女を見ると、やはり、着いて行ってやれば良かったな、と感じる。

 

「せーの、で見ましょう」

 

 意気揚々と言った様子で、東風谷が提案してくる。

 

「了解了解」

 

 そう返して東風谷の提案を呑むと、彼女は静かに頷いて紙を手渡してくる。その雰囲気はどこか重く、真剣な様子だ。

 いや、ただのおみくじだからね、もっとワイワイやればいいのに。二人だけだけど。正確には二人と二柱。

 

「では」

 

 その東風谷の合図の言葉と共に、視線を手の中の紙片へと向ける。

 見ると同時に、俺は馬鹿みたいに口を開けて呆けた代わりに、東風谷の方からは俺の分まで含んでいるのではないかと思うほど、大きな歓喜の声があがった。

 

「見てください、大吉です、大吉ですよ!」

 

 飛び跳ねて喜んだ東風谷は、次に俺の隣に小走りで来て座り込み、その堂々たる結果を俺の眼前に見せつける。そこには、37番大吉と、でかでかと記されている。

 やっぱこいつ持ってるわ。

 

「結鷹はどうですか? ……、あ」

 

 俺の顔のすぐ隣に顔を持ってきて覗き込むように俺の手元を見た東風谷は、俺と同じように絶句した。それもその筈、俺の、みくじ紙には、東風谷と正反対の結果、対極にある文字が、記されているのだから。

 

 11番、大凶。

 

 お、おう。ま、まあ、あれでしょ。これ朝の星座占いで今日の運勢は最悪ですって言われるのと同じようなもんでしょ。あんなん十数回やったら皆一回は最下位回ってくるんだから関係ないよ、大丈夫大丈夫。

 ……いやあ、流石に落ち込む。

 

「いや、でも。でもですよ、大吉と同じくらい大凶も珍しいですし、数で言ったら大凶の方が少ないんですから、むしろ運が良いとも……、そうですよね、神奈子様! 諏訪子様!」

「いや、良いんだ、それにおみくじは単なる占いとは違って、これからその人がどうするべきかってのが肝だから、うん」

 

 ていうか、そのフォローはむしろ、俺の心が痛みます、東風谷さん。最後に二柱に投げるあたりの無責任さと言ったら……。

 あと正直、もうおみくじの結果よりあなたがやたらと近い方が気になってる。

 あなたのその巫女服、構造が構造だけに真横に居られると、形がちょっと見えちゃうから、いや、何がとは言わんけど。

 その後しばらく、東風谷の俺への必死のフォローが続き、二柱の神への同意を促し、俺はそれを聞きながらも、自らの理性と本能との諍いの最中にあり、近づいて俺を慰めようとする東風谷から後退り続けるという、何とも混沌とした空間が、東風谷家に出来上がっていたのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 しばらく騒がしい空間が続いた後に、疲れ果てて炬燵に入って二人と二柱とでTVを見ながら話していた。それは昔、両親とTVを見ながら、あれはどうだとか、これは面白いとか、リビングを囲んで、そんな風な話をしていた懐かしい時期を思い出させた。

 

「東風谷。今日は呼んでくれて、ありがとな。……東風谷?」

 

 返事がないので、座っている左側に配置されたTVを眺めていた視線を外して、ふと、向かい側を見ると、東風谷が、突っ伏して、自らの両腕を枕にして眠ってしまっていた。

 今日は、いつに無く、はしゃいでいていたのが俺からでも分かった。何がそうさせたかは、俺でも何となく察せる。朝からフルスロットルで飛ばしていたものだから、体力を使い切ってしまったのだろう。遠足の帰りに疲れきって寝てしまう、小さな子供のようだ。

 東風谷の服装は、まだ例の青白巫女服のままで、今日はどうやらこのまま過ごす気らしい。肩がから二の腕にかけて露出しているその姿は、扇情的だ。けれど、その寝顔はあどけなくて、とても愛おしく思う。

 もちろん、それで彼女をどうこうする勇気など俺には欠片も無い。それだけ積極的になれるのなら、俺の青春はもう少し、色めきたっていただろう。

 そういうのが欲しいわけじゃないんだ。

 それでも、これくらいなら。

 身体を少しテーブルに乗り出して、東風谷に腕を伸ばす。指で、彼女の前に垂れて煩わしそうになっている髪を整えてやる。すると、寝ながらでも、やはり、顔の前に垂れた髪は邪魔だったのか、心なしか、表情が和らいだ気がする。

 その様子を見て、俺も安堵する。こんなちょっとしたことに幸福を感じる俺は、こいつの親か何かか。

 ばれなきゃ何とやらだ。客が来ているというのに、ぐっすり眠る彼女に文句は言わせはしない。彼女のその緑がかった髪の上に手を乗せて、優しく撫でる。彼女の髪は綺麗に手入れされているのであろう、指と指の間に束ねた髪が指を滑らせた時に、一切引っかかるようなことがない。撫でられて、心地よさそうな顔をする東風谷は、なんだか猫のよう。

 ああ、綺麗な髪だ、としみじみ思う。

 そう、昔のことである。

 彼女と仲良くなったきっかけ。

 それは、ライダーでもロボットアニメの話でもなかった。

 幼い頃、誰もが東風谷の髪を、長い綺麗な黒髪だと言っていた中で、俺だけは彼女の髪を、緑がかった綺麗な髪の毛と評した。

 初めて見た時からだ、一目、彼女をこの目に捉えた瞬間には、この女の子は変わっていると思った。他にあんな髪の色の子は見たことが無かった。そして、誰もその事を指摘しないのは不思議だと感じた。触れてはいけないことなのかも、とも考えた。

 けれど、子供心にそれを、とても美しいものだと思ったものだから、彼女にその思いのままを語ったのだ。それを聞いた周囲は、文句にも似た疑問の声をあげていた。

 だけど、それを受けた東風谷だけは、とても目を輝かせていたのを思い出す。当時の俺には、それが堪らなく嬉しかった、ような気がする。

 きっと、始まりはそんなものだった。

 これが、唯一昔から、多くの人には分からず、俺と彼女とが共有していた一つのものだった。

 いつかは破綻するのかもしれない関係。それでも、今はまだ、互いに居ることができる、許されている。その事実を確認するように、この儚い少女に触れる。

此処は良い。自身への嫌悪も、何もかもが彼女と居れば、些事のように思えてしまうのだから。

 

「今年もよろしくな、早苗」

 

 この関係が、いつまでも続きますように。

 そんな願いを込めて言葉にしたそれは、寝ている彼女に届いたのだろうか。僅かに顔を綻ばせた東風谷の寝顔を見て、そんなことを考えてしまう。

 目の前にある、心の安らぐ居場所。その温かみを感じられる現在こそが最も尊いのだと、俺はそう思う。

 

 

 

 

 




 この話は、場面の転換が多くて申し訳ない。
 元々は、前回の話も含めていたりしていて、流石に読みにくいかと思って、先に出来上がった分だけ、分けさせてもらいました。それでこの結果かよ、という感じではありますが。

 ちなみに、早苗の、結鷹への呼び方が安定しないのは、苗字で自分を呼ぶ結鷹に対抗して、結鷹のことを苗字で呼んではいるけど、気を抜くと普通に地が出てしまっているということの表れだったりします。
 大凶を引いたシーンでは、見えていないのに、大慌てで結鷹をフォローしようとする二柱の姿があったり、普段は生温かい目で二人を見守っていたり……。
 結鷹視点だとここら辺を上手く書く技量が無くて書けないのが、微妙に辛いですね。


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綾崎結鷹について

その日、少年は知らず奇跡を起こし、少女は少年を見つける。


 “なんで、だれもほんとうのわたしをみてくれないのだろう”

 

 それは私が、小さな子供の頃にただひたすらに純粋に感じた疑問でした。

 

 “パパも、ママも、ともだちも、みんな、わたしのいうことをほんきで信じていない”

 

 幼い頃の私は、友達に、自分の目に映る、神様のことを話したことがありました。他にもいろんなものが見えるのだと、両親には誰に言うよりも早く語ったものです。仲が良い友達だったから、可愛い一人娘の言葉だったのだからか、誰も私のそんな言葉を頭ごなしに否定するようなことは無かった。けれど、それを分かってくれることも無いのです。

 非道い話です。もし最初から、それは異常なんだって、厳しく指摘する人が居たのなら、この時には諦めることが出来ていたのかもしれないのですから。

 私は、私が大好きなみんなだったから、自分の言うことを信じて欲しかった。

 いつかの日に、妖精が見えると語る女の子に、私も似たようなものが見えると言いました、最初は仲良く出来たけど、彼女と話している内に、自分の見えているものとは、どうやら違うものが彼女は見えているようだと気づくのに、そう時間はかかりませんでした。

 きっと、あの女の子には、私に見えるものは何も見えていなかったのだろう、と少し残念でしたが諦めることにしました。

 話半分に流されて、理解されないことが悔しかった私は、次に、私の慕う二柱の神様に、一つ聞いてみようと思いつきました。

 

 “かなこさま、すわこさま、なんでみんな、さなえのいうことしんじてくれないのかな”

 

自分にしか見えていないとまだ確信していなかった頃のことです、大好きな二柱の神様にそんな問いを投げ掛けました。

 

“そうだねえ。早苗は、少し特別なんだ”

 

 困った顔で、私の質問に答える神奈子様の顔を、私は、未だに覚えています。だって、あなたは異常なんだよ、なんて優しい神奈子様が、まだ小さい私に言えるわけが無かったんですから、当然と言えば、当然の事です。

 

“早苗の髪の毛、みんなは黒い綺麗な髪って言うだろう?”

 

 そう私の髪を撫でながら言ったのは諏訪子様でした。今ではそんなことして貰えないけど、諏訪子様より私がずっと小さい時、良く撫でてもらって、私はそれが好きでした。

 

“うん、みんなそういうの。でも、これ、みどりいろだよね”

 

“ああ、そうとも、とても綺麗な緑の髪さ。そうだねえ、でも、もし、その髪の毛を緑だって言う子が居たのなら、その子は早苗のことを、信じてくれるかもしれないね”

 

 それは今にして思うと、諏訪子様なりに、幼い私に希望を与えつつも、やんわりと諦めさせようとしていたのだろうと思います。成長した今だから分かることですけど、だって、現代に、本当に霊感がある人なんてごくごく少数なんですから。

 神事にまつわる人でさえも、現代では力を持っておらず、ただ、昔の慣わしに応じて真似ているだけの者が多い今の世の中です。幼かった私の身の回りで、そんな人を見つけるのは本来至難の業です、見つけることができたのなら、それこそ奇跡ですよね。

 だけど、当時の私は、そんな神奈子様と諏訪子様の言葉を信じて、そんな存在を何より希求していたのでした。

 しばらくして、友達もいっぱい出来て、それなりに楽しい日々を過ごしながらも、私はずっと待っていました。私のことを見つけてくれる人を。

 求めていたものと違う現実にも挫けず、日々を過ごしました

 私の前に、その彼が現れたのは、そんなある日のことでした。

 目立つような子でもなく、同年代の子に比べて大人しい子だ、というのが当時の私の印象でした。いつも私を囲うたくさんの人の輪の中に入ろうとして、入らないでいる彼を少し、じれったいやつだと、内心思っていたりもしていたものです。

 わたしの友達の一人の女の子が、私の伸ばした髪のことを、さなえちゃんのくろいかみ、きれいだよねー、かぐやひめみたい、と私の髪の事を褒めだしたのです。おれ、しってるぜー、こ-ゆーの、やまとなでしこってよぶんだー、そう続けて言ったのは、クラスでも目立つやんちゃな男の子でした。

 私の髪の事で盛り上がるクラスのみんな。同時にやっぱりみんなには見えていないんだ、と落ち込みました。

 みんなが綺麗な黒髪だと同意する。

 私は、その事を残念に思って、心の奥での暗い寂しい気持ちをしながらも、それを封じて、そう言って褒めてくれる友達にお礼を言おうとした、その瞬間のことでした。

 

 ―――――私は、奇跡と遭ったのです。

 

 “ちがうよ!”

 

 そこに、異論の言葉が飛びました。

 全員がざわめきました、何せ、そんな言葉を放ったのは、私を含めてみんなに、大人しい子、という印象しか持たれていなかった、例の、じれったいと感じていた、男の子だったのですから。

 

“さなえちゃんのかみは、みどりいろだよ”

 

 そう言い放ったその男の子は、みんなから大ブーイングを受けました。なにせ、盛り上がっていた場を空気も読まずに鎮めさせ、そのうえ、周りの子からしたら、あまりにもとんちんかんなことを言っていたのですから、それも当然の事でした

 でも、とうの私は、その男の子によって、世界が広がったようにすら感じていました。誰もが、本当の私を知らない、そんな世界は、私にとって色の無い、閉塞した世界に等しかったのです。

 たくさんのひとが周りに居るのに、みんなのことが大好きなのに、それだけに、私はひとり。みんなと居るのは楽しいけど、同時に空しくなる。みんなと、何かが違うと、当時の私は、既にそう感じてしまっていたから。

 次にその男の子は、その時になって初めてたくさんの人の輪の中に入って来て、私の目の前まで歩み寄って来て、私に指を指して、あどけない笑顔でこう言ったのです。

 

 ”おれ、そのかみのいろすきだなあ、ほかのひととはちがってて、きれいなんだもん”

 

 その時の私は、砂漠の中で、目当ての一粒の砂を見つけたような心持ちでした。

 その一言で、ひとりぼっちの私の、灰色の世界は、瞬く間に色付き、輝きを放ち始めました。

 

 きっと、この人なら――――。

 

 彼と居ると、どんな時間でも楽しかった。雨の日でも晴れの日でもどんより曇りの日でも、雪の日でも、毎日毎日、日が暮れるまで遊びました。褒めてもらった髪の毛なんて、何より大事に丁寧に手入れをしました。

 彼には、私の見ているものを知ってもらいたい、信じてもらいたい、好きでいて欲しい。私が実の両親にすら諦めていたことを、神様は本当に居るんだってことを、彼にはなんとか認めてもらいたかった。だから、何度も何度もアタックしました、あの時の私にとっては、もう愛の告白なんかよりも、ずっと真剣です。

 両親にだってこんなに言って聞かせて、して見せたことはありません。

きっとそれは、その男の子が私のこの髪が見えたからだけではないと思います。

 

 けど、そうして見せた時の、彼の反応は優しさからの肯定でも、常識からくる否定でも、まして嫌悪からの拒絶でもありません。その男の子は、そんな私を見て、いつもは楽しそうだというのに、その時ばかりは表情を曇らせるのです。

 まるで、信じたいのに、信じているのに、それを信じてしまうことこそが、彼にとっては何より辛いことだとでも言うように。

 それが、私には不思議で仕方がありませんでした。

 

 そんな日々を過ごして、小学生も最終学年を迎える頃のことでした。ある日、私と彼が一緒に遊んでいると、そのことを茶化す輩が現れたのです。

 だからどうした、と私はそれを聞いて思ったのですが、彼は違いました。

 からかわれた、その日を境に、彼は私に近づかなくなっていって、去っていきました。もう当時の私は家では大泣きです、神奈子様と諏訪子様には泣きつきました。たくさんの人に囲われていても、彼がやってこないのなら、私はきっと、また独りです。

 それでも、みんなの前では、泣かないようにしていました。

 

 神奈子様は言いました、私は他の人とは違う、特別なんだって。

 もう意地です。許せません。彼が離れていったことを後悔させてやろう。そんな気持ちが私の中に芽生えました。彼が足を止めてしまったのなら、いつか、追いかけてきてくれるように、追いかけたくなるような存在になれるように、頑張ろうと、そう思い立ったのです。

 中学に上がってからはもう、彼と会って話すような機会はありませんでした、けれど、私から声をかけてなんか絶対にあげません。

 ……けれど、前を一人で歩いていると誰だって、時々、振り返って後ろを確認したくはなるじゃありませんか。待っている人が居るなら、なおのこと。

 廊下ですれ違ったり、教室の前を通る彼の姿を見ると、私はあなたを見てますよ、ここで待ってますよ、って強い視線を送ります。が、大抵、彼は私に見向きもしません。気づかないなら仕方ないのですが、時折、視線が合ったというのに、そそくさと逃げてしまうではありませんか。

 こら、逃げるんじゃありません。

 友達の前だというのに、私は少しむくれてしまいます。

 中学生の時間のほとんどは、そんな風に過ぎてしまいました。

 

 しばらくして、ある日の夜、私は図らずも、あることを聞いてしまうのでした。それは、私の大好きな二柱の神様が消えてしまうかもしれない、ということです。

 それはいけません。そうなってしまったら今度こそ私は本当にひとりぼっちです。その前の年には両親を亡くしましたし、その上に二柱まで居なくなってしまったら、私は本当の天涯孤独です。

 それに、まだ、彼にもお二人の姿を見せられていません、信じてもらってません。

 私は焦ります。

 二柱が消えてしまうまでの、明確な時間までは分かりませんでしたが、分かっていないからこそ、より焦燥にかられるのでした。

 そんな時に、私はあることを思いつきます。

 それは、人を利用するようで、少し心が痛みますが、背に腹は代えられない、というやつです。

 クラスの中でも人気者であるという、伊達君。彼がもし信者となって我が神社を信仰してくれたのなら、彼に続いて、多くの生徒が信者になり、たくさんの信仰を得られるのではないか、という今にして考えてみると、驚くくらいに安易で目論見の甘い、浅い考えでした。

 ですが、それを私は最高の策のように感じて、すぐに敢行しました。

 伊達君は私が、自分に告白をするものと勘違いしていたようです。確かに、放課後に二人で話したい、という誘い方は、誤解を生んでも仕方ないかもしれません。

 少し申し訳ない気分になりながらも、私は、私の作戦にうつります。

 神様を信じてもらえませんか、信者になってくれませんか、と、単刀直入に切り出したのです。彼はしばらく固まった後に、明確な敵意と嫌悪を持って、顔を顰めて彼自身はおそらく自覚せずにこんな言葉を吐き出しました。

 

 “――――気持ち悪い”

 

 私は、初めて人から明確な拒絶の意思を受けました。それは衝撃でした。きっと、伊達君から告白を受けるよりもずっと、その台詞は私の心を揺れ動かしたことでしょう。

 そうして、ようやく私は思い至るのです。

 

 本当の私とは、多くの人々にとって受け入れがたい、醜いものなんだと。

 

 今まで神様が見えることを話して、誰にも拒絶されなかったのは、あれだけちやほやされれば、厭でも分かってしまう自らの容姿の良さ、それと、人にそんなことを吹聴していた時期が幼い子供の時だったからに過ぎない、と。

 私は急に不安に陥ります。だって、このまま彼は追いかけてこない、という可能性が浮上したんですから。

 だって、彼が離れていったのが、伊達君と同じように私への拒絶の心の表れだったとしたのなら。私がいくら先を進んで輝いてみせて、振り返ってみても彼が見えてくる筈が無いんですから。

 

 それを想像すると背筋が凍るような思いをしました。あまりの恐怖に、私は夜には涙を流して、その日は眠れませんでした。そうして、私の生活は一日の内に一変しました。

 朝、登校してきて、まず、私を待ち受けていたのは、クラスメイトからの粘つくような悪意の視線。昨日までそれなりに親しくしていたはずの子達からの嘲笑。黒板にでかでかと書かれている謂れの無い罵詈雑言。

 どうやら、一日にして、私はいじめられっ子になってしまったようです。

 

 ただ、不思議とそのことで傷つくことはありません。嫌でしたけど、悲しいことでしたけど、そんなことより、彼に拒絶されていたのかもしれないという考えと、いつか消えてしまう神奈子様と諏訪子様のことの不安の方が、私の心に爪跡を強く残していたものですから。

 強く在ろうとは思っても、教室中から悪意を向けられて、のほほんとして居られるほど、私も馬鹿にはなれません。なので、いじめられっ子らしく大人しく縮こまっていることにしました。

 世界はいつかのように色を失っていって、私は、また独りになっていくのを、強く感じました。

 

 気づけば、昼休みです。どうしましょう、お腹は空いていても、食べるものがありません。折角作ってきた弁当は、朝の内に無残にぶちまけられてしまいました。

 この心を苛む孤独感を癒してくれる人は、もう現れないのかもしれません。

 誰よりも私を信じて欲しかった人にはきっと、拒絶されたという思いに支配され、両親のように私に接してくれる二柱の神様もいずれ消えてしまう。暗い深い水の中に落ちていくような感覚、灰色の世界、誰にも理解されずに、誰にも信じてもらえない。

 日々が過ぎるごとに遠のく幼い頃からの理想。自分を信じてもらいたい、そんな小さなことすら、この世界は許してはくれない。

 

 なら、こんな処に、居る意味なんて、あるのだろうか――――。

 

 そんな疑問が頭を過った時に、がらら、と教室の扉が開く音がしました。誰かが教室に戻ってきたのでしょうか。教室はなおも喧噪に満ちていて、それはいつもと変わらないことです。けれど、教室に入ってきた誰かの足音に耳を澄ませていると、どうやら、その人物は、私の真横で足を止めたようなのです。

 今度は直接、手をあげられるのでしょうか。せめて、髪だけは守らなければ、と体を突っ伏したままの状態で考えます。

 動く気配を感じ取り、全身が強張って、身構えた、次の瞬間。

 なんとも懐かしい声が、教室に響いたではありませんか。声は昔よりも低くなっていましたけど、それを、聞き間違えるはずがありません。

 

“東風谷”

 

 その声は、他の誰でもない私を呼びました。

 なんで、でも、そんな。

 そんな、奇跡みたいなこと――。

 思わず肩が跳ね上がってしまいます。心臓の鼓動は高まって、煩いくらいです。

 私は、顔をゆっくりとあげます。その声の主を見てあげた驚きの声は、きっと私のものでしょう。そこには、居る筈のない、彼が居たのですから。

 昔は名前で呼んでくれていたのに、と、少し寂しくなります。

 いつの間にか、教室は静まりかえっていました。周りから馬鹿にした声が聞こえますが、先ほどの騒々しさはもうありません。

 彼は上擦った声で、あまり人を誘うのに慣れない様子で、私に言いました。

 

“一緒に飯食おうぜ”

 

 こんなの卑怯です。思わず、口元が緩んで、顔が熱くなるのを感じます。俯いてはいますが、今の私は、きっと耳まで真っ赤になっていることでしょう。

 心中を悟られたくなくて、涙だけは流すまい、と必死に堪えます。

 色褪せつつあった私の世界に、色彩を与えてくれたのは、またしても彼でした。

 ある時は、自信満々で褒めてもらおうとした風祝の衣装を、変だと言って私を泣かせて、ある時は、どんな時でも助けるなんていう夢物語みたいな約束をとりつけさせました。また、ある時は、ずっと一緒にいようと約束した、私を知っていて欲しくて、信じて欲しくて、一緒に居たいと思う男の子。

 

 

 その男の子の名前は――綾崎結鷹。

 



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2月14日について

 2月の中旬、生徒それぞれの受験日が迫る中、今日は、そういった、高校受験が近づいてくるという不安によって生まれるソワソワとは別の空気が学校中に漂っていた。

 そんな日の昼休みのことである。

 

「そういえば、結鷹は誰かからもらったのか?」

 

 中田は、何を、とは言わずに、そんな問いを投げ掛けてきた。普段なら突拍子もない台詞だが、今日ならば別だろう。

 2月14日。バレンタインデー。

 一体どこのどいつが始めたのか知らんが、率直に言ってしまえば、モテない男子がモテないと、再認識させられる日である。

 諦めている奴が大半だろうが、それなりに自分の顔に自信がある奴は、誰かからの好意を期待していたりするし、一日中、どこか落ち着かない様子の奴まで現れるこの日に、貰うものが何かなんてわざわざ言うまでもないだろう。

 

「それ、私も気になります」

 

 そう言って、俺の席から左側に二つほど離れた席で、他の三人ほどの女子と話しながら昼食を摂っていた東風谷は唐突に立ち上がる。

 それに思わず俺は肩をビクッとさせてしまう。

 おう、ビックリしたわ、どんだけ耳良いんだよお前は。

 東風谷の声に反応した生徒が皆、俺の方に視線を向ける。

 いつの間にか、教室中の視線が集まってるような気さえする中、俺はバレタインの成果を発表しなければいけないようだ。

 注目されて、言葉に詰まるが、方々から集まる視線が俺の返答を催促してくる。

 これはあれか、公開処刑かなにかかな。

 

「……貰ってねーよ、母親からしか」

 

 そう言うと東風谷は、そうですか、と一度満足そうに頷いて、元の席に座った。

 いや、なんでこの悲しい事実を知って満足気なんですかね。一部の男子からの同情を得られたが、全く嬉しくないんですが。

 ていうか、貰えるわけないだろ、俺が。自慢じゃないがチョコなんて母親と小学三年の時の東風谷からしか貰った覚えはない。

 共働きで俺より早く家を出る両親は、リビングのテーブルに3枚ほどの板チョコと、いつもより少し多めの昼食代を俺の為に置いて行ってくれていた。

 その心遣いが沁みて、朝なのに思わず涙がほほを伝いかけたのは、言うまでもない。

 

「母親からしかって、綾鷹ウケる。寂しすぎー」

 

 そう言って笑ったのは、東風谷と机を囲んでパンを齧っていた筈の相田だった。冬になって屋上に出るのが厳しくなってきて、東風谷を俺のクラスにまで連れてくるようになってから、東風谷が俺と中田以外で、最初に話すようになった女子が、相田であった。

 最初は、一時の宗教女だとかそういった類の噂のせいで、クラス全員が遠巻きに見る感じの態度だったが、相田が話しかけたのをきっかけに、東風谷はウチのクラスでは大層な人気者になっていた。

 東風谷は今では、俺と一緒に昼ご飯を食べることよりも、このクラスの女子に囲われて昼食を摂っていることの方が多いくらいだ。

 

「ウケねーよ、切実な問題だぞ。……ていうか、お前はどうなんだよ中田」

 

 恥をかくのが俺だけと言うのもなんか癪だ。よし、中田を巻き込もう。

 俺は、当然のように思いついた名案と言う名の友人を売る行為を逡巡なく遂行する。

 

「どうだと思う?」

 

 が、返ってきたものは俺の予想から離れていたものだった。

 してやったぜ、と思っていた俺の思考とは裏腹に、中田はニヤリ、と笑う。その、勝ち誇ったような表情。

 

「お前、まさか」

「おうとも」

 

 ふっふっふ、と黒い笑いをする中田をよそに、俺は、はあ、と額に手を当てて、ため息をつく。マジかよチクショー、誰だよこの馬鹿にチョコあげた女子は。

そのやり取りを見ていた相田と東風谷らの周りから笑いが起きるが、まあ、良いだろう、馬鹿にされてはいるけど、悪意を含まないそれは、別に悪くない。

 もとより弄られるのは、綾鷹のあだ名のせいで少し慣れている、哀しいことに。

 

 3組では、イジメがなくなったとはいえ、依然として、東風谷への風当たりは厳しい。あれはもう、関係の修復は不可能と言っても過言ではないだろう。そもそも、自分たちでイジメておいて、いざそれが終わったら、ヘラヘラ東風谷に近づいてくるような奴がいたら、特にそれが男子なら、俺がぶん殴ってやるところだ。

 なので、それはそれで、良くは無いけど落ち着くところに落ち着いたと思う。

 東風谷は黙っていても、周りの方から人が寄ってくるような魅力を持っている。そんな彼女なので、我らが1組に通い始めた最初こそ微妙な空気だったが、段々と打ち解けていき、今ではすっかりこのクラスの中心人物のようで、楽しそうにしている。

 俺よりも俺のクラスの一員らしいその様子に、微笑ましく思ってしまう。

 なんというか、ここに至ってこう感じるのは、現金な奴に思われるかもしれないが、このクラスは良い奴らばっかだな、と最近になって思う。

 東風谷のせいか、最近はいろんな奴に絡まれることが多くなったことで、妙に身の回りが騒がしいが、それもあと一カ月もすれば終わってしまうと思うと、少し惜しい。

 そんなことを考えていると、俺の醜態をひとしきり笑い終わったあとに、何かを思いついたらしい相田が、ぽん、と手を叩いて、ごそごそと鞄を探り出す。

 

「しゃーないなあ。これあげるよ、綾崎。早苗ちゃんに感謝しなよ?」

 

 そう言いながら、鞄から何かを取り出した相田は、こちらまで寄って来てそれを差し出す。相田が手に取って渡してきた物、それは一口サイズに切り分けられて、包まれたチョコだった。

 え、マジで? いいの、やったー。

 

「お、おう。さんきゅ、悪いな」

 

 暗に、東風谷との関係が無ければ、お前になんて絶対やらないけどな、と言われた気もするが、嬉しいものは嬉しい。

 顔に出ないように、落ち着いて受け取ろうとするが、出来ているかは怪しい。こちらも手を差し出すと、その上にちょこんと、相田の手が乗って、少し緊張する。

 そうして、俺の掌にチョコを落とすと、相田は流石に少し照れくさいのか、視線を右上に飛ばして、口を開く。

 

「まあ、もともと吹奏楽の男子に配ってやろうって持ってきたやつの余りだしね、いいよ、それくらい」

 

 ありがとう吹奏楽部。フォーエバー吹奏楽。この前、当番の仕事全部押し付けていった時には、心中でとはいえ、愚痴ってすみませんでした。

 用を済ませて向こうに戻っていった相田は、他二人の女子から、マジ女神、だとか、本当はあれが本命なんじゃないのー、と冗談交じりの冷やかしを受けていた。

 ちょっと会話の内容が気になってほのかな期待を胸に、耳をそばだてるが、直後の相田の、それはないって、と言うあまりにも冷めた台詞で、そんな浅い希望は打ち砕かれた。

 いや、ここで肯定されても、俺が困るけどね。

 折れそうな心を即刻立て直しつつ、ふと、さっきから声をあげていない東風谷を見てみることにする。

 視線を向けると、東風谷は氷漬けにされたかのように完全に固まっていた。

 ちょっとびっくりしたとか、そんなの比にならないくらいの硬直である。

 

「そういえば、早苗ちゃんは誰かに渡したの?」

 

 相田のそんな一言で、東風谷は、はっと我に返って活動を開始する。

 東風谷は誰かにチョコを渡すのか、それは俺も大いに気になるところではある。まあ、東風谷なら二柱に渡してそれで満足とかしてそうだけど。それに、図々しくも僅かに期待してしまう気持ちもあった。

 

「いえ、誰にも渡してませんね、渡す予定もありません」

 

 心なしか、その声はいつも話す声よりも大きめで、よく教室に響いた。

 

「えーもったいない、早苗ちゃんが渡せば、誰だって喜ぶよー?」

 

 ねー、と相田が周りに同意を促すと、教室中の男子も女子も一気に盛り上がった。本当に大層な人気である。東風谷のそういう事情において、僅かに想起されるのは伊達だが、ここで伊達の名前を出して来たりする空気の読めない阿呆は、きっとこのクラスには居ないので、安心して東風谷のグループから意識を外す。

 

「そういや、中田って俺と同じ高校受けるんだっけ?」

 

 ふと、思い立って、目の前に座る中田に聞く。

 

「ああ、同じよ同じ。いやあ、これは高校でも三年間同じクラスだったりするかもしれませんなー」

 

 あほ面を作って、顎に指を当てながらそう言う中田。変顔の多彩さで言ったら、俺はこいつに勝るものを知らない。

 

「えーやだなあ」

「ヒドッ!?」

 

 オーバー気味にリアクションするこいつを見て、思わず笑いがこぼれる。俺が笑っているのを確認して、中田も嬉しそうに笑い出す。

 こいつに限って軽口程度で傷つく心配はないが、俺はつい本音をもらす。

 

「冗談だって、お前が居ると、俺は色々捗るから楽でいい」

「なにその利用されてる感」

「ちげって」

 

 二人一組になれ、とか言われた時に、組む相手に困らないし、色々話のネタを拾ってきてくれるし。……なんか例えがこれだと本当に利用してるだけの関係みたいだ。

まあ、けど、こいつほど、俺の日常を象徴するやつはいないだろう。東風谷は、その正反対かな。

 東風谷と居ると、何もかもが新鮮なことに思えてくる。

 そんな日々は、楽しくて仕方がない。

 けれど、それとは別に、確かに大事な時間があるのだ。

 

「ま、落ちんなよ、相棒」

「お前もな」

 

 何でもない日常。

 こんな日々がもう少しで終わりを迎えると思うと、度々、郷愁にかられたような侘しい気持ちになる。こんな風に、ゆるやかに東風谷との時間も終わっていくのだと思うと、この三年間は、本当にこれで良かったのか、とも思う。

 過ぎ去ったものは取り返せない、だから、なるべく、後悔しない選択をしよう。今では随分と居心地のいい空間となったこの教室で、そんなことを考えていた。

 あ、チョコうめ。

 

 

 

 

 

 私は少し怒っています。夕日に照らされた帰り道、神社の石段を一緒に登っている結鷹は、顔を背けて一向に喋らない私に対して、少し困った顔をしていますが、自業自得です。知ったことではありません。

 今日はバレンタイン。なので、彼にチョコをあげようと思って、前日は受験勉強の約束を断って、惜しい時間を削ってまで、頑張ってチョコを作りました。

 そうして出来たものは我ながら中々のものです。

 渡す機会を窺いましたが、良く考えると、学校の中では意外と渡すタイミングがありません。

 授業ごとの休み時間はそう長くありませんし、違うクラスではちょっと難しい。最も時間のある昼休みも、1組の教室では悪目立ちしてしまうと思うと、渡せません。しかし、昼休みの中田君の問いに、誰にも貰って無い、と答える結鷹の言葉を聞いて、じゃあ放課後、神社で、いつもの勉強の時間にあげよう、と安心して考えました。

 きっと、今年は私が初めてなはず。チョコをもらったその時には、結鷹はどんな顔をするのだろう、と期待に胸を膨らませました。

 だというのに。

 

 “しゃーないなあ。これあげるよ、綾崎。早苗ちゃんに感謝しなよ?”

 

 思わぬ伏兵、相田さんが先にチョコをあげてしまいました。相田さんは優しい人ですから、深い意味はなく、慈悲の気持ちでチョコをあげただけなのでしょうけど、大して教室の空気を変えずに、大勢の前で、すんなりチョコを渡す彼女は天才策士かなにかでしょうか。

 

 “お、おう。さんきゅ”

 

 って、結鷹はなんで受け取っちゃうんですか。

 あ、何で少し顔が緩んでるですか。

 二人の様子を見て、私は悶々とします。

 優しさからそうしただけの、相田さんを責めるわけにもいきませんし、だからと言って、結鷹に受け取るなと言って止めに入るのは、何だか我儘というか、自己中心的な物の考えですし、なにより、それが出来るなら堂々と皆の前で渡すくらいに恥ずかしいです。

 頭では分かっているのですが、うーん、納得いきません。

 やっぱり全部結鷹が悪いです。

 

 

 

「なあ、何で怒ってるんだよ東風谷」

 

 隣を歩く彼は、そう私に問います。

 

「さあ、綾崎の胸の内に聞いてみたらどうですか?」

 

 私は目を閉じて、彼から顔を逸らして答えます。彼は私の態度の意味を全く汲めないようで、とりあえず何かを喋ろうとして、途中で止めてしまいます。

 神奈子様は、結鷹のことを賢い子だと言います。ですが、このニブチンが、とてもそうだとは思えません。普段は他人の心理に聡いくせに、これなんですから。

 とはいえ、心の奥では理解しているんです。自分が随分と無茶なことを要求しているということは。

 でも、察してくれても良いじゃないですか。こんなイベントの日の前日に、わざわざウチに来る予定を私から取り下げたんですよ、勘が良い人なら分かってくれますよ、ねえ?

 なおも態度を改めない私に、こんなことを結鷹は言いだします。

 

「いやあ、俺、久しぶりに女子にチョコもらったよ」

 

 え、今それを言いますか。そうかそうかそうですか、あれですか、あなたは私にチョコでなくゲンコツを貰いたいと、そういう意味ですか。

 

「へー、それはよかったですねー」

 

 僅かに湧く衝動を堪えて、私はなんとか平静を保って返事をします。

 少し穏やかでない私に気づくことも無く、彼は人差し指と親指を離した隙間で、相田さんから貰ったチョコ程度の大きさの幅をあけて私に示します。

 

「昔……小学生の低学年の頃かな、東風谷から貰ったチョコを思い出したよ。あれも確か、あんな感じの一口サイズのやつでさ」

「え?」

 

 そんなことを覚えていたんですか、と思わず言いそうになったのは、何とか飲み込んで留めます。あの時は確か、クラスのみんなに配るという体で私は彼にチョコを渡したのでしたか。

 

「そのチョコがなんか、俺のだけ他の奴らのと違ってて、それがなんだか、すげえ嬉しかったんだよな」

 

 そう、彼のだけは私の手作りで、わざわざ市販のものと同じ包み紙で包んで渡したのです。

 あの時は、そういう意味を含ませていたわけでは無かったけれど、特別な子には自分で作って物をあげると、きっと喜んでくる、というお母さんの言葉にならって、文字通り私にとって特別だった彼には、顔を溶かしたチョコで汚しながら、分からないなりに自分で作ったチョコを渡したのでした。

 朱い空を見上げて、そのことを語る彼の顔は、そんな在りし日のことを懐かしんでいるようでした。話をしていると、私が覚えていることを色々忘れられてると感じる中で、彼にだって残っているものがあるのだと思うと、つい嬉しくなります。

 私が特別でないと感じたことを彼は特別だと感じて、憶えていて、そのことを知った私にとっても特別になる、それはきっと、とても素敵なことです。

 

「他と違うって、どうして分かったんですか?」

 

 思わず聞いてしまいます。あれは、子供心になかなか上手く出来た偽装工作だと心得ていたのですが。

 

「だって、市販のと比べると形が不細工だったし」

 

 その、彼にしてはやけにさっぱりした、爽やかな一言で、熱くなりかけた顔はヒートダウンし、早まりかけた心臓の鼓動はビートダウンしました。

 なんですか、その理由は。

 しばらくして、まあ、と彼は呟くように続けます。

 

「……それだけに、嬉しかったんだけどな」

 

 彼は、紅潮させた頬を右手の指でかきながら、口篭もってそう言います。私は意識せずに、彼の顔を注視してしまいます。彼がこちらの視線に気づいて向けた顔は、私の視線にかち合うと同時に、階段へと向けられてしまいました。

 

「いや、だからって訳じゃないんだけどな……」

 

 いつもどこか遠くを見ているような切れ長の目の、その黒い瞳は不安げに揺れていて、どんな風に距離を取って良いか分からず、相手の様子を探るようなさまは、私には変な話、恥じらう乙女のようにすら見えてしまいます。

 そんな彼を見て、私もようやく悟るのです。

 私も、存外鈍いのかもしれない、と。

 それと同時に想います。

 この人は、仕様がない人だな、と。

 こういう時に、なんでそんな遠回しにしか言葉に出来ないのでしょうか。

 同じ高校へ行こうと決めた時なんて、まず、私の成績を聞いてから、自分の成績も同じくらいだって言って、自分が行こうと考えている高校だけを伝えて、口をつぐんでしまうくらいです。

 それでいて、私自身が諦めてしまうくらいに、本当に欲しい言葉だけはちゃんと口にしてくるんだから、本当に参っちゃいます。

 私の今日一日の憂鬱と鬱憤はそんな彼の、私の目の前にある表情と、口にはしていない言葉で晴れてしまいました。

 本当に、仕様がない人ですね。

 鞄の中を探ります、目的の物はすぐにだって取り出せるようにしていましたから、簡単に手に取ることが出来ました。

 何回も頭の中で想像していましたけど。いざ実行に移すとなると、やっぱり、自然に顔は熱くなりますし、鼓動は高まります。

 そうして、私は階段の踊り場で足を止めて、今日ずっと言いたかった言葉を彼に伝えるのです。

 

「結鷹、渡したいものがあります」

 

 

 これは、少し特別な日の彼と私の、なんでもない日常の出来事。

 

 

 

 

 



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東風谷早苗と、ある少女について 1

付けられた評価にコメントが付けられていたら、それを読めることに今更気づきました。一言添えてくれた方々、ありがとうございます。


 

「378、378、378、378、378」

 

 俺の隣で、同じ数字を呪詛のように繰り返して呟いているのは、東風谷である。今日は、お互いが行こうと決めていた高校の合格発表の日で、受けた生徒が各自で高校に直接見に行くということで、東風谷と二人、合否を確認しに来ている。隣で自分の受験番号を何度も唱えながら、合格者番号の示された掲示板を見つめる東風谷の目は、マジすぎて、ちょっと怖い。

 東風谷の場合、その気になれば、結果が誰の目にも触れられることなく書き換えられたりしそうなあたりが、より笑えない。

 周囲の、女子の甲高い歓喜の声や、誰かの深いため息、低い落胆の声を聞いていると、東風谷程ではないが、俺も妙に心許なくなってくる。

 神頼みというものにどれだけの効果があるかは分からないが、俺の身を守るためにいつも持ち歩いている、東風谷特製お守りと、合格祈願のお守りの二つを取り出して右手に握る。

 俺自身、手応えはあった、後は学業の神様が俺に微笑んでいることを祈るだけだ。

 口をぽかんと開けて自身の番号を探す東風谷から、俺も視線を掲示板へと移す。

 さてと、俺の番号は323だから、えーと。

 掲示板の300台から数字を追っていくと、すぐに見つかった。

 

「よし」

 

 思わず拳を強く握って、小さく声が出てしまう。

 いやあ、案外、緊張するもんだな。たかが高校受験、就活や大学受験に比べたら失敗しても言うほど痛くないし、緊張なんてしないだろうな、と思ってたよ。

 正直、受験中に腹痛くなってきたときはどうしたものかと。

 まあ、今回は東風谷と一緒の高校行くって決めてたから、その分、多少はね。

 

「東風谷、そっちはどうだ?」

 

 喜びで少しニヤつきそうなのを抑えて、隣を見やる。

 自分の受験番号の示された小さな紙片を両手で摘まみながら、掲示板に吸い込まれるように見入っていた東風谷が、ゆっくりと、こっちを見る。

 

「結鷹、私の番号……」

 

 東風谷の声にはいつもの元気がなく、表情も冴えない。口を噤んでしまった東風谷の顔は、先ほどの覇気のない声のせいで、泣き出してしまうのかと思ってしまう。

 え、嘘、もしかして落ちた?

 

「お前まさか……」

 

 俺がそう聞くと同時に、東風谷は噤んで一文字にしていた口を綻ばせて、一気に破顔させる。東風谷早苗、会心のドヤ顔である。

 泣きそうなのを我慢してたんじゃなくて、嬉しくて笑ってしまいそうなのを我慢してたのかい。

 

「ありましたー!」

 

 やったー、と嬉々として飛び跳ねる東風谷。それを見て、俺も自然と口元が緩んで、笑みが出てしまう。

 いやあ良かった、本当に。

 これで東風谷が落ちてたら割と洒落にならんからな。一緒にやってた非効率的な勉強のせい、っていうかそれを言い出した俺のせいだし。

 それにしても吃驚させやがって。

 

「落ちたのかと思ったじゃねーか、めっちゃ気ぃ遣いそうになったぞ、今」

「ふふん、余裕ぶってるから驚かせようと思いまして、なかなか傑作でしたよ、綾崎の心配そうな顔」

「人の良心を踏みにじりおって、お前という奴は」

 

 言いながら、何故か誇らしげにしたり顔をする東風谷の頭に軽くチョップする。それを受けた東風谷は撫でられた時の猫みたいに嬉しそうに表情を崩す。

本当に誰に似たんですかねえ、そういう事するようになったのは。いやきっと“な”で始まるあの馬鹿の影響なんだろうけど。

 ウチのクラスの連中が齎した東風谷への影響はどうやら良いものばかりではないらしい。その事に、深い水の中から顔を出したような、深いため息をつく。

 

「まあ、良かったよ、東風谷も受かってくれて。これで高校も一緒だな」

 

 二人とも無事に同じ高校に進めること、そのことに心底から安堵している自分が居る。だから、今の人をおちょくった態度は水に流して仕返しはしないでやろう。そんなことがどうでも良くなるくらいには、今は俺も嬉しい。

 

「はい! 私も高校が結鷹と一緒で嬉しいですよ」

 

めっちゃ良い笑顔の東風谷から、思わず目を逸らす。何でかって? 直視したら恥ずかし過ぎて悶死しそうだからです。台詞もセットで、正直堪らん。

 そんな風にして目を逸らした先で、偶然か、人混みの中に紛れていた、ウチのクラスの例の悪友と目があった。

 急いで視線を別方向に飛ばすも、完全に見られたらしい。

 

「おーい! 結鷹!」

 

 そう大声をあげながら、悪友、もとい中田は滅茶苦茶手を振りながらにっこりと、こちらに駆けてくる。

 

「おす綾鷹、どうだったよ? ええ、聞かせてみ!?」

 

 開口一番で、肘で俺の腕を突きながら、ド直球に合否を聞いてくる中田。それは、俺が合格しているという確信のもとでのものであると信じたい。

 そのノリノリスーパーハイテンションで聞いておいて、俺が落ちてたらどんな反応するのか少し見ものではあるが。

 

「綾鷹言うな、合格……そっちは?」

「余裕余裕楽勝よ! ガハハ! 番号を探すまでも無かったわ。いやあ、そんなことよりこの学校中々可愛い女子多そうだぜ、結鷹? これは期待できますな、ぐふふ」

 

 大声で高笑いと下衆笑いをする中田。いや、お前、落ちてる人も居るんだしもうちょい配慮ある声量で喋れんのか、あと東風谷含め周りの女子ちょっと引いてるぞ。

 なぜこいつが必死こいてやってた俺と東風谷よりも勉強が出来てしまうのか、甚だ疑問である。こんな中田だが、合否を“そんなこと”と口にする通りに、実はこいつ、頭がすこぶる良いのである、馬鹿なのに。もうワンランク上の高校を余裕で狙えるくらい。

 人間にステ振りしている神様が居るのなら、なぜこいつを勉強できるようにしたのか小一時間問い詰めたい気分になる。

 

「お前の人生楽しそうだな」

 

 他人の振りをして立ち去ってしまいたい胸中だが、こうも俺に向かって堂々と話をかけられていては、不可能だろう。

 さっきとは別の意味でため息が出てしまいそうになる。

 

「まーな、あ、東風谷さんはどうだった?」

「合格です! これで三人一緒な学校ですね」

 

 こんな奴にも平等に笑顔をお届けする東風谷さんは天使か何かかな。そういえば、某ファーストフード店のスマイルは無料だが、あれって頼む人居るのかな、男性客が女性店員に言ったらセクハラじゃね?

 モリヤバーガーの東風谷スマイル、一回1000円でいかがでしょうか。男性客にはその後に当店限定サービスで俺からの目潰しもセットでついてくるよ。

 

「じゃー三人で合格祝いで飯でも行かない? ここら辺、高校から駅までの道だけでも結構色々揃ってるし」

「いいですね、そうしましょう!」

「そうと決まったら今すぐ行くぞー! ウェーイ!」

「うぇーい」

 

 え、まだ俺は何も返事してないんですけど、なに、お呼びでない感じですか。でも三人って言ったよね今。

 俺の意見は聞く耳持たずと言った様子で、大声で両手を挙げて校門の外へと駆けて行く中田に、東風谷も続く。流石に声は中田より抑えられているが。

 ていうか、その馬鹿っぽい掛け声なに。

 

「綾崎ー、何してるんですか行きますよー、うぇーい」

 

 校門のすぐ側で、東風谷が中田と並んで俺を呼ぶ。

 東風谷さん、それちょっと気に入ってません? 頭悪い子に見られますよ。でも、小さく手を挙げるその仕草が可愛いので許す。

 

「はいはい」

 

 そう言いながら、駆け出そうとしたその瞬間に、俺の目の前に人影がよぎった。

 やべ、止まれね。

 身体を捻って避けようとした意識したときには時すでに遅し、目の前を通り過ぎようとした人に思いっきりぶつかってしまう。相手の方は少しよろめいただけだったが、俺は変な風に力が入っていたせいか大した衝撃でも無かったのに、ごてん、と情けなく地面に尻餅をついてしまう。

 

「わ、悪い」

「いえ、こちらこそ……」

 

 声の高さから判断するに、どうやら女子とぶつかってしまったらしい。

 変な避け方しようとして体勢崩していたとはいえ、女子に当たり負けするとか、どんだけ軟弱なんだよ俺は。

 こけた時に、右手にまだ握っていた2つのお守りを落としてしまう。謝りながらも、すぐにお守りを拾いあげようとしたその時に――妙に胸が騒ぐ一言が耳に入ってきた。

 

「貴方、良い匂いがするのね……」

「え?」

 

 特に男は、日常ではまず人から言われないような台詞に、思わず、お守りを拾う手を止めて、顔をあげる。

 すると当然ながら、俺とぶつかった女子と目が合う。

 静かな、こちらの全てを見透かすような青の瞳がこちらを見ていた。

 計らずして、見つめ合う形となり、無意識の内に立ち上がらされ、姿勢を正せねばならない、と思わされる。彼女の目には、なにかそう言った力があった。

 

 その女子の容姿は一言で表すなら、東風谷と同等と言っても過言ではないという、それ程の美人であった。顔の部品毎の均整が取れていて、それだけで不細工からは程遠く、長い髪は烏の濡れ羽色で、あまりにも流麗。眉は細く、目は東風谷のつぶらで大きなそれとは反対に、知的に感じさせる、切れ長の目と長めの睫毛、そして、そこに収まった薄氷のような青の瞳。育ちの良さを感じさせる気品と浮世離れしたような雰囲気とを兼ね備えたその女子は、東風谷とは違った意味で神秘的だった。

 東風谷早苗が陽ならこの女子は陰だと、そういう印象を受けた。

 東風谷が親しみやすく、周囲の人を寄せ付ける類の少女なら、目の前の少女には一片たりとも隙が無く、周囲に憧れや好感を抱かせながらも人を寄せ付けない、近寄りがたさがあった。

 東風谷には合わない、深窓の令嬢という言葉が、彼女には似つかわしい。

 思わず、見惚れる。

 それよりも、もっと、何か、自分に関わる拙いモノと遭遇した気がしたというのに、それを忘れさせるくらいに、目の前の少女の美貌と独特の雰囲気は衝撃的で、心を奪われた。

 おそらく、ここが合格発表の場でなければ、彼女は周囲からの視線を一身に受けていたことだろう。

 もう何秒も互いに見つめ合っているということの気恥ずかしさと、この状況を東風谷が見ているのでは、という客観的な視点を呆然としていた我が、時間の経過と共に取り戻し、二人の間に繋がった視線をこちらから無理矢理断ち切る。

 

「悪い、避けそこなってぶつかっちまった」

「いえ、急に目の前に飛び出した私も悪かったわ。ごめんなさいね」

 

 そう言って、彼女は少し屈んで、地面に落ちた俺のお守りを拾い上げる。ただそれだけの動作ですら、洗練されているように思ってしまうのは、彼女の出来過ぎた容姿のせいか。

 

「これ、貴方のでしょう?」

「あ、ああ。さんきゅ」

 

 表情の変化は極僅か、口許をほんの少しだけ綻ばせながら、彼女の白い手がこちらに差し出される。その中にあるお守りを取ろうと、こちらも手を出すが、あまりにも柔そうなその手に、触れて良いものかと、一瞬硬直する。

 しかし、拾ってもらって渡してきてくれているのに、受け取るのを躊躇するというのも失礼だと思って、すぐさま硬直を解いて、彼女の手の中にあるお守りを取る。

 その瞬間に彼女が怪訝な表情をする。

 やべ、そんな躊躇ってる時間長かったか今。

 強い視線でこちらを見る目の前の女子に、情けなくも、少し怯んでしまう。

 気まずい空気が漂い始めたと、肌で感じた瞬間に。

 

「結鷹、何やってるんですか」

「うわあっ!」

 

 突如として、東風谷の声がすぐ近くで発生した。

 び、びびび吃驚したー。いつの間に隣に来てたんだよお前は。思わず肩が跳ね上がって大声あげてちゃったし、心臓飛び出るかと思ったよ。あまりの驚きに、心臓の鼓動が未だに速いんですけど。

 俺は心臓の鼓動を抑えるように手を自らの胸にあてがいながら、東風谷を見る。

 

「うちの綾崎が迷惑かけたようで、すみませんでした」

 

 東風谷は一度、俺と目の前の女子とに視線を行き交わせてから、そう言って、ぺこりと頭を下げて、名前も知らぬ女子に謝る。うちの、ってお前は俺のかーちゃんか。いや迷惑かけたのは事実だけども。

 

「こちらにも落ち度があったことだし、貴女が謝ることではないわ。それに、既に謝罪は彼にもらったもの」

「そうだったんですか。あ、私は東風谷早苗って言います、あなたは?」

「柊玲奈よ。東風谷さんと、そちらは……綾崎くんで良いのかしら?」

 

 言いながら、柊は小首を傾げて俺に聞く。

 

「ああ、それで合ってる、綾崎結鷹だ、よろしくな」

「ええ、よろしく」

「では私たちはこれで、同じクラスになれると良いですね」

 

 東風谷が日輪のように、ぱあ、と明るく笑いながら言って、小さく手を振る。顔全体を使って笑みを表現する普段の彼女の笑顔は、見ているこちらにも元気が出てきて、自然と笑顔を引き出されるような、そんな不思議な魅力がある。

 

「そうね、楽しみにしているわ」

 

 そう言う彼女の表情の変化は、東風谷と対照的で細やかなもので、今だって、よく見ていないと笑っているのかさえ分からない。

 

「ほら、急ぎますよ綾崎、中田君が待ってます」

「お、おう」

 

 返事をするとすぐに、東風谷に袖を掴まれて引っ張られる。あれ、なんか東風谷さん力強くないですか。

 東風谷は俺の袖を引いて、前にずいずい進みながら、進行方向を向いたままで声をかけてくる。

 

「結鷹……気づきましたか?」

 

 その東風谷の声は真剣そのもので、何かあったのではないかと勘ぐるが、心当たりは特にない。

 

「……? 何が」

 

 それに、気づきましたか、だけでは色々と曖昧すぎて、何のことだかさっぱりだ。

 柊が東風谷と同じ位に容姿の出来が良いこととか、そんなところか。

 

「いえ、気づいてないなら良いんです。ただ、あの人には……柊さんには、結鷹は気を付けてください」

 

 初対面の相手に対して、そんな風に東風谷が評価を下すのは、そうそう無い。何か気にくわないところでも柊にあったのだろうかと、視線を右上に逸らして、さっきのやり取りを思い出すが、そんなものは見当もつかない。

 

「何だよ藪から棒に、確かに、近寄りがたい感じの美人ではあったけどな」

「そういうことじゃありません。もういいです」

 

 そう言う東風谷の顔をこちらから確認することは出来ないが、少し怒っているように感じた。

 そんな東風谷の不可解な態度に首を傾げていると、ふと、柊の台詞が脳内で再生された。一瞬にして消えた違和感だったせいで忘れてしまっていた、それを。

 普通、そう感じたって会ったばかりの他人にはまず言わないような、あの台詞――――。

 

“貴方、良い匂いがするのね……”

 

 

 



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東風谷早苗と、ある少女について 2

信じられないことに、お気に入り登録がついに1000超えました。
現代が主な舞台であるだけに、ここまで人気が出るとは最初は想像もしてなかったので本当に驚きです。


 

“貴方、良い匂いがするのね……”

 

 こんな台詞を貰う要因の心当たりは俺には一つしかない。

 俺には、ある才能があるらしい。

 綾崎結鷹の、日常を生きていくうえではまず知ることのない、凡人である俺の、他人とは違ったただ一つの特異な才能。

 人外を惹く体質。

 俺自身には全く実感がないが、守矢神社の二柱の神は、俺のことをそう評価しているらしい。なんでも、妖怪や神などの人外からは、俺という存在は目の前に居るだけで大変心をくすぐられる……、らしい。

 それを“香”と例えたのは神奈子様だと言うのは、東風谷の台詞だったか。なら、俺を“良い匂い”と評したあの少女も、そういった存在なのかもしれないという、推測。柊にぶつかったあの時、俺は、神奈子様の言うところの“香”を封じるお守りを落としたことで手放していた。なら、あの瞬間に限り、俺の“香”は人外である者には感じることが出来たとしてもなんらおかしいことはない。だが、そういった存在が東風谷とその二柱の神以外に居るという事実を、俺は未だ確信できていない。

 東風谷が特別なのであって、そういった所謂、特異な者がそう簡単に俺の狭い世界の中に何人も現れるというのは、どうにも現実的じゃないように思ってしまうからだ。

 故に、まだそれは俺にとって憶測の域を出ない.しかし、東風谷の俺への警告は極めて真剣なものだった。

 なら、警戒しておくに越したことは無い、と若干の不安を抱きながら春休みを過ごして、そんな心構えで高校生活が始まったのだが。

 既に高校生活が始まって登校七日目だが、特に何も起きていない。

 本当に危惧したようなことは何も起きなかった。

 事件なんてものは起きないのならばそれに越したことは無いのだが、警戒していた手前、若干拍子抜けではある。

 退屈な4限目の授業が終わり昼休みの到来を告げるチャイムが鳴り終わるか否かというところで、春休みに手に入れた、制服のズボンのポケットの中の携帯電話が、メールを受信したときの電子音を鳴らす。このタイミングで俺にメールをしてくるのは、まあ一人しかいない。

 

『綾崎、ご飯一緒に食べましょう、例の教室で待ってますね』

 

 メールの送り主と内容は、やはりというかなんというか、東風谷大明神からの昼食のお誘いであった。ちなみに例の教室とは、どうやって調べたのかは分からないが、どの授業でも基本的に使われず、どの部活の部室にもなっていないのに、鍵がかかっておらず開け放たれている、イマイチ何のためにあるのか不明な特別教室のことである。

 それを入学してからいつの間にか目敏く発見していた我らが東風谷早苗は、自らの秘密 基地のように利用して、半分私物化しているのである。

 今はまだ文句言われてないけど、大丈夫なんかね、あれ。

 さらに補足するなら、東風谷大明神というのは、あながち間違いではないらしいということ。二柱の神と同じく東風谷早苗も、神としての一面を持つ現人神であるというのは、彼女自身の言であった。

 あの少女が神様とは、いつもの彼女を見ているだけに、正直実感が湧かない。

 しかし、それとは別に、東風谷を含めたとして、神様と言うのは案外みな美形だったりするのだろうか。神奈子様も諏訪子様も、一度だけしかその御姿を目にとめてはないが、人間ならば、一般に美人と言えるほどの容姿であったし。

 神が跋扈する神代という時期が本当に存在したのなら、その時代には美男美女で溢れていたのかもしれない。くそう、俺も神様に生まれたかった。

 それにしても、メールの内容が俺の返事が肯定前提というのは如何なものだろうか。

 普通は、相手が誘いを受けてから、場所を決めるものだろうに、東風谷のメールのそれはもはや俺の事情など知らぬといったようだ。

 まあ、特に他に用も無い俺が東風谷に誘われて、それを断る筈が無いんだが。

 

「お、東風谷さんからか? お熱いですなー、ひゅーひゅー」

 

 ケータイを開いてメールを確認している俺に、そう冷やかしに声をかけてきたのは何を隠そう中田である。俺と中田は、またしても同じクラスであった。もはやここまで来ると、呪いかなにかを疑うレベルである。

 こいつとはとことん腐れた縁で繋がっているのかもしれない、と嬉しいんだか嬉しくないんだか自分でもよく分からないままに、これからもきっとそうなんだろうな、と不思議とそんな予感がして、このことについては既に諦めている。

 合格発表の時も思ったが、随分とこいつも東風谷と打ち解けたものだと思う。最初の内は中田も東風谷も流石にやり辛そうにしていたからな。

 それが今では、たまにこんな風に、俺と東風谷のことを茶化してくる程度には良好になったのだから、二人の友人としては嬉しい限りである。

 いや、まあ俺と違って二人は性質は違えど、誰とでもある程度以上に上手くやれる性格だ。そんな二人の間が、共通の友人を持ちながら悪化するはずもなかったのだが。

 

「俺とあいつはそんなんじゃねーって……、お前も来るか?」

「いんや、いーよ。東風谷さん、結局高校でもお前と違うクラスだったから昼休みの時間が楽しみなんだろ。そこに俺まで居たら気遣わせちゃうし」

 

 そう言って中田は首を横に振ってから、少し残念そうに、力なく笑う。

 本当いつもふざけてるくせに、そういう気は回るからこいつには驚かされる。

 中田は一度、東風谷の居合わせる場ではなかったが、俺との会話の最中に、東風谷に対して悪態をついたことがある。

 それも、学校全体の雰囲気のことを考えれば仕方なかったように思うのだが、それを気にしてか、彼は東風谷とそれなりに仲良くしていながらも、一歩引いた姿勢をとっている。

 けどな。

 

「そんなの、俺も東風谷も気にしてないのに」

 

 お前だって、俺には少ない、腹を割って自分の思うところを話せるだけの仲の人間なんだぞ。そもそもあの時のことについては、東風谷にも非がある。まあどれだけ東風谷が悪かろうと、それで彼女の味方をやめるつもりは毛頭ないのだが。

 そんな俺の言葉を聞いた中田は大きなため息をついて、やれやれ、と言った様子で肩を竦めて口を開く。

 

「分かってねーのな。俺が気にするの、おーけー?」

 

 それは、言葉にした中田自身以外にも誰かを思って言われたもののように聞こえた。

 そこまで言われてまだ無理に誘おうとしたら、俺の方がしつこくまとわりついているみたいじゃないか。

 

「……おーけー、じゃあ行ってくるわ」

「行ってらー」

 

 言いながら、中田は右手を適当にひらひらと振る。

 彼を誘うのを諦め、俺は今日の分の食料の入ったコンビニ袋を持って席から立ち上がる。その際に、ふと、教室の窓際の後ろ隅を見る。

 教室の窓際の一番後ろの席。そこには、柊玲奈が座っている。

 俺の警戒対象であるはずの柊も、同じクラスだった。登校初日から土日除いて七日経つが、彼女は教室の端の自分の席から特に何かを仕掛けてくるわけでもなく、よく、一人窓の外を見つめている。窓から吹く風に、長い黒髪を靡かせながら青空を見つめる姿は、それだけで 一つの絵になるのではと言うほどにこの教室の景色に合っている。

 しかし、そんな彼女がクラスに溶け込めているかと言うと、そうではなかった。

 彼女のこの教室での立場は、俺の最初の印象通りのものとなっていた。誰もが彼女に悪い感情を持ってはいない、持ち合わせられるはずもない。それ程までに、彼女の立ち振る舞いは垢抜けて完成されていて、文句の付けどころがない。

 しかし、出来すぎた彼女の、気品、雰囲気のようなものが近寄りがたさを感じさせ、話しかける側が柊自身の容姿の良さも相まって引け目を感じてしまい、結果として、このクラス内では誰も寄り付かずに孤立気味だ。

 そして、彼女自身が俺の思っていたよりも人に近づいていかない性格のせいで、彼女が学校生活で最低限必要な言葉以外を誰かと話しているのを、合格発表のあの日以来見たことがない。

 あの中田ですら、柊に話しかけることは躊躇する程だ、ちなみにこれはイジメられていた時の東風谷以来のことで、実は相当なことである。

 東風谷も俺たちと同じクラスだったのならば、柊の立場はまた違った結果になっていたのかもしれないが、たらればを言っても仕方ないだろう。

 そんな柊の様子が時折、妙に中学の三年の秋の頃の東風谷と重なって見えてしまう。 彼女はあの時の東風谷と違って、別にこのクラスにおいて、迫害されている訳ではない、だが、一人ぽつんと席に座ってどこか、ここでない場所を視ている彼女は少し寂しそうで、それが、いつかの日の東風谷にとても似ている。

 だからだろうか。

 俺の足はいつの間にかに、柊の席に向かっていて、彼女に話しかけていた。

 

「柊、今から東風谷と飯食うんだけど、お前も来るか?」

 

 何故だろうか、教室中の視線をいつの間にやら、一身に受けているような気がする。だが、東風谷と一緒に居ればそんなことはしょっちゅう感じる、気にすることじゃない。

 俺の誘いの言葉を聞いた柊の顔は、普段は切れ長の目を丸くして、俺でも分かるくらいに驚いていて東風谷程じゃないにせよ、まあ、可愛らしいと思う。

 

「ええ……貴方たちが、良いのなら」

 

 自分でも珍しく大きく顔に出てしまったことに気づいていたのか、焦ったように、彼女はいつもの表情に戻そうとしながら返答する。

 しかし、唇をきゅっと一文字にしたその顔が、わずかに紅潮しているあたり、表情に大きく感情が出てしまったのが、恥ずかしかったのだろうか。

 人よりも肌が白い彼女の顔の朱は、わずかなものでも分かりやすかった。

 大人びた雰囲気の彼女のそんな様子を見て、見た目の印象よりもとっつきやすい奴なのかもしれない、とそんなことを思う。

 

「じゃ、行こうぜ。東風谷も待ってる」

 

 

 

 

「あ、結鷹、来ましたか」

 

 何故か、固有の教室名を持たない空き教室の扉を開けると、誰も居ない、幾つもの席の中のど真ん中を陣取っていた東風谷が、嬉しそうに顔をあげて、笑顔で俺を出迎えてくれる。

 何ていうか、飼い主が帰ってきた時の飼い犬みたいな反応で、思わず笑ってしまいそうになる。

 

「おう」

 

 そんな東風谷の表情は、俺に続いて教室に入ってくる柊を見て笑顔のままに、それが引き攣ったものに変わる。

 

「柊さんも連れてきたんですか」

 

 東風谷さん、その若干怒りに震えた声と一緒に、苦虫を噛んでいるような苦々しい引き攣った笑顔を俺に向けるのやめてもらえます? 俺も一応理解してるんで。わざわざ気を付けるように助言をもらったのに、俺の方から柊に接触したことは後で謝るんで、その顔止めよう、ぼくちょっと怖いよ。

 

「あ、ああ、クラスで暇そうにしてたからな」

 

 東風谷の視線から目を逸らして、躱しながら俺は言う。

 教室の天井を見ながら、せめてメールで先に柊も誘ったという旨を伝えておくべきだった、と今更思う。

 

「こんにちは、東風谷さん」

「こんにちはです、柊さん、話すのは合格発表の日以来ですね」

 

 先ほどまでは、何か、どす黒いオーラでも見えてきそうな、威圧感を放っていたというのに、柊に挨拶された次の瞬間には、ありとあらゆる人の心を溶かす、対人最強スマイルに変わった東風谷を見て、女子とは、否、東風谷とはかくも恐ろしい生き物なのかと実感する。

 流石の柊も東風谷のこの笑顔の前には、自然と表情が緩むようで、周囲に対して常時臨戦態勢のような柊独特の、冷めているともとれる、隙の無い固めの表情は失われてしまっている。

 

「じゃあ挨拶もそこそこにさっさと食い始めよう、腹減ったし、あんまノロノロしてると時間なくなっちまう」

 

 まあ、昼休みは昼食の時間も考慮されているのか一時間近くあるので、そんな心配は必要無いのだが。

 

「はい」

「ええ」

 

 二人の肯定を得て、あえて俺は東風谷の座る席にほどほど近い程度の適当な席に座る。そこで、コンビニ袋からパンを取り出して食べ始めようとすると、東風谷の声が静かな教室に響いた。

 

「結鷹、何でここ座らないんですか」

 

 東風谷の語調は少し怒っているようにも聞こえる。ここ、とはおそらく東風谷の正面の席の事だろう。東風谷なりに気を利かせていたのだろうか。東風谷の前の席の机は、彼女の座っている机側に向けられていて、その二つの席に座った二人が向かい合うようにくっついている。おそらく東風谷が、俺たちがこの教室に来る前にセッティングしたのだろう。

 それには俺も当然気が付いていたけどさ。

 

「いや、だって……」

 

 今日は柊が居るんだし、女子同士で向かい合って話した方が盛り上がるだろうと気を遣ったつもりだったんだが、ダメなんですかね。

東風谷は、俺が彼女の用意した席に座らないことがどうにも気にくわないらしい。あれこれと言い訳を始めようとする俺に向かって、むっとした表情とジトッとした目をこちらに向けて、自分の机から少し乗り出して、指先で自分の向かい側の机をとんとん、と二回叩く。

 どうしたものかと、ふと、視線を柊にやると彼女は、どうぞ、と東風谷の示す席へ俺が座るようことを勧めるように手振りをする。

 

「よろしい」

 

 柊にも譲られたことで、諦めて東風谷の指示通りに席へと移動して座る。それで東風谷の機嫌はご満悦のようで、両腕を抱えて一度大きく首を縦に振る。その様子を、立ったままの柊は傍らで、微笑ましそうに見ている。なにこれなんか恥ずかしいんですけど。

 今のやり取りのせいで、なんだか自分が出来の悪い、躾けのなっていない犬みたいな気分に陥る。なら、目の前で満足そうにして笑っている東風谷は俺の飼い主か。

 そんなくだらないことを考えていると、柊はさっさと東風谷の隣の席についてしまっていた。そうして、それぞれが勝手に手を合わせてから食事を始める。

 東風谷と柊は弁当で、俺はコンビニで買った三つのパンだった。ちなみに、焼きそばパンとメロンパンとチョココロネだ。

一度、各々で食事をし始めてからは、俺と東風谷も、また、柊も特に話すことも無かったのだが、ふと、食事を摂る柊の様子が視界に入って気になった。

 彼女は傍から見ても、あまり使い慣れてなさそうに左手に箸を持って食事をしていて、おかずを落としたりはしていないが、些細な仕草でさえ上品さを感じさせる柊のその様子は、彼女に似合わずひどく不格好であったからだ。実際のところ、よく注意して見なければ分らない程度のぎこちなさだったが、普段がそうであるが故に、俺には余計に目だって見えた。

 

「柊、お前って左利きなのか?」

 

 一度目にしてしまうとそのことが気になって仕方がないので、自分の食事を止めて聞いてしまう。聞くと、柊も箸を止めてこちらを見る。その顔は少し意外そうで、自分の手元に一度視線を送ってから口を開く。

 

「やっぱり変だったかしら?」

「まあ、少しな」

「今、右腕を少し怪我をしていて、あまり動かしたくないの」

 

 一度箸を下して、そう言う柊には、何となくだが普段の余裕を感じられず、表情に変化は大きく見られないが、雰囲気的にあまりそのことについては触れて欲しくなさそうであった。

 錯覚かもしれないが、そう言っている彼女の瞳は、不安に揺れているようにも見えてしまう。

 

「……結構酷かったりするのか?」

 

 利き腕が使えなくなるというほどの怪我と言うのは、よっぽどな怪我に入ると思うのだが。おそらく突っ込んで欲しくないのであろうその怪我の原因では無く、当たり障りのない、どの程度の怪我なのかを聞く。

 

「そうね。あまり、他人に見せられたものじゃないわ」

「そうか……」

 

 彼女が避けたがってる話題を続ける必要も無いと思って、そこで追及を止めて、話を打ち切る。しかし、他に聞きたいことが俺には一つあった。それを口にして良いものかどうか、俺には判断がつかない。

 俺が言葉にするべきか迷っていると、今度は東風谷が口を開いた。

 

「柊さん、今日学校終わったら、よければ私の家に来ませんか?」

「え?」

 

 さしもの柊も、唐突な東風谷の誘いに驚いたようだ、思わず聞き返してしまっている。柊がどう対応したものかと、ちら、と俺の方を見る。大丈夫だ、俺も驚いてる、てか、こっち見られてもねえ。なんか今日の東風谷さん積極的じゃありません?

 一応、柊の教室内の様子は東風谷にも報告していた。その度に、へー、柊さんの事よく見てるんですねー、と何やら敵意を含んだような意味深な視線を俺に送ってくる東風谷だったが、何が気にくわないのだろうか。柊には気をつけた方が良いって言ったのあなたじゃないですか、やだー。

 そんな東風谷だったが、俺が柊にかつての東風谷に重なって見えたように、東風谷にも、柊に対して何か思うところがあるのだろうか。

 ともかくそうして、もう一度言い直した東風谷の誘いを柊が受けることで、放課後に、柊玲奈が守矢神社へ足を運ぶことが決定した。

 

 

 



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柊玲奈について 1

随分とお待たせしました。
文の節目節目でかなり期間をあけて書いていたため、粗が目立つかもしれません。正直、前のように書けているかどうか不安です。


 他人の家で長時間一人にさせられると、何をしていればいいか分からなくなる。

 

 これは俺と言う人間が学校生活を生きていくうえで身に着けた遠慮深さ故か、何か暇をつぶせるものを借りようにも、持ち主がその場に居ないのに許可もとらずに勝手に手に取ると言うのは少し気が引けてしまうのである。それくらい気の置けない友人がいないという裏返しでもある、つらい。

 

 まあ、他人に私物を勝手に使われるのは嫌だし、だからそういうことはしないというのもある。自分がやられて嫌なことは他人にはしない、いやー俺ってばマジ聖人君子。

 そんなわけで最初は何となく部屋を見回していたりすればいいのだが、段々とやることがなくなり、部屋の天井をながめる程度のことしかなくなる。昔なら。

 でも、今はそんなこともなく暇をつぶせる。そう、iPhoneならね。

 

 ……と思っていたのだが、しばらくすると、ネットの海をサーフィンするのにも飽きて、 何となく、登録されている電話帳をながめていた。

 

 登録されているアドレスの数が、すなわち友人の数というなら、俺の友達の数は中々のものである。春休みに起こったイベントとして、中学の卒業記念ということでクラスの連中で焼肉屋の大部屋でパーリーが開かれたのは記憶に新しい。ちなみにあれは推測するに俺へのサプライズパーティーである。なぜなら、俺はそのことを当日まで知らず、何故か他クラスの東風谷が呼ばれていたからだ。もしかしたら、東風谷と俺のクラスが彼らの認識では逆転していたのかもしれない。

 

 まあ、そんなことはどうでもいい。おそらくは、嫌われてもいないが特別好かれてもいなかったのだ。そういう風に立ち回ってきたのだから、その結果は当然だろう。

 その会の解散際に、クラス連中の連絡先の交換があったわけだが、どういうわけか、クラスの女子男子関わらずほぼ全員とアドレスを交換することになった。いや、理由は分かる。東風谷が俺を連れまわしたからだ。そもそも東風谷早苗という女子は人気があるのだ。一時は東風谷の株は下落したが例の一件が沈静化した後には男子のお近づきになりたい女子ランキング一位の座を取り戻したといっても過言ではない。

 女子であれば、東風谷はとりあえず会ったら話す程度には仲良くなっておきたい女子ナンバーワンだろう。

 異性が相手だろうが、色々と理由をこじ付けて連絡先を交換できる場だけあって、東風谷には当然多くの人が集まった。東風谷に限って、そういうのを断ることはないし、そんな場に俺が居合わせたら相手側が気を遣うだろうと、なるべくステルスすることに徹した。

 しかし、始終東風谷が寄って来て離れず、東風谷が近くにいて俺に対してアクションを起こしている以上、俺が本当に透明人間にでもならない限り目につくわけであって。

 東風谷に連絡先を求めるのに傍に居る俺に求めないという行為は、こういう場において、中々嫌な奴に映るものだ。卒業の記念にと理由にしておいて、隣に居る俺には連絡先の交換をしないというのは悪印象にとられかねない。

 東風谷自身はそう受け取らずとも、交換を求める側がそういった風にとられないかを勝手に気にする。人間は社交性の生き物だ。心の内でどう思ってみようとも建前上の体裁というものがある。

 いらないものでも、良い印象を与えるために、関係を築いていくためにはもらわなければいけない時があるし、また、あげなければいけない時もある。

 

 だから東風谷と、アドレスと電話番号とを交換を終えた者達は皆、こう言うのだ。

 

「あ、綾崎も交換しよう」ってね。

 

 流石に一時綾鷹呼びが流行っただけあって名前は憶えられていたようだ、安心した。

 

 ……まあそんなわけで、俺には交換以降一切連絡の来ない連絡先が三十近くある。過去のメールの履歴をふと見ると、ほぼほぼ東風谷とのクッソ他愛ないやりとりがほとんどで、中にぽつぽつと中田や親からのものがあるだけだった。顔を合わさなくなった者との縁を繋ぎとめる手段が現代において、電話やメールであるというのなら、俺と彼らの縁は春休みの内にぶちぶちと切れていったに違いない。

 

……いやあ、改めて俺って友達少ねえな。

 

 ちなみに中田は立ち回りが上手いのか、俺のように東風谷のついで、というわけでなく、自力でクラス全員の連絡先をかき集めたらしい。あいつは東風谷とは違う意味でどのグループにも溶け込めるタイプの人間なのだ。誰からでも一番という好印象を受けるのが東風谷だが、中田は常に二番、三番、四番目に仲の良い奴とかに入るのだ、きっと。そんなあいつだから、俺とでも上手くやっているのかもしれない。ある意味尊敬する能力だ。

 そんなあいつらは、今でも中学の連中と何かしら連絡を取り合っているに違いない。

別に話せないわけじゃない。誰かと一緒に居るのが嫌いなわけでもない。俺はきっと、誰にも印象を与えないようにしているのだ。こんな風になるのは好きも嫌いも、良いも悪いもなく、そういった誰かにはっきりとした印象を与えない程度の会話しかしないのが原因かもしれない。

 

 たとえば、大きな荷物を二人で運ぶとして、これマジで重たくね、くらいのことは喋るだろう、ちなみにここにおいて、実際に荷物が重いかどうかはクッソどうでもいい。そこから会話を多少は弾ませるが、あまりお互いのことに深くは踏み込まない。とりあえず喋れる奴と言うことだけを実感させてやるのだ。

 

 仲良くなる近道はお互いの情報を共有することだ。相手は何が好きなのか、どんなことを普段しているのかを知れば、そこから会話は広がるし、どういう話題を持っていけばいい人間なのかの分類もしやすいだろう。まあ現状友人と呼べる存在が東風谷と中田しかいない俺が知った風に語ったところで「実践できてない奴が何言ってんの?」とつっこまれて終いなのだが。

 休み時間にわざわざ集まって駄弁りにいくほどではない、だが、そいつが誰も話す相手が居ないときに傍にいたら、ちょっと立ち話でもする程度、それくらいの距離感を維持したいのだ。そのくらいの距離感なら、変な期待もしないで済む。

 俺にとっての一番の友達が、そいつにとっての一番は俺以外の誰かなんて、当然のことだ。感情が一方通行なことなんて、往々にしてあることだ。以心伝心で、通じ合っている方が稀だ。解かっている、だけどそのことに歯噛みしてしまう自分が居る。そういう事実を突き付けられた時に、傷ついてしまう弱い自分が居る。誰かにとっての一番になりたいと思う気持ちの悪い自分がいる。それを律する方法は簡単だ。期待しなければいい。仲が良いなどと思わなければそんな感情が生まれることもない。

 

 ふと蘇るのは、仲が良いと思っていた連中が実はそうではなかったと、突き付けられたあのどうしようもなく惨めで無力な瞬間。

 自分は大したことのない存在だと理解してはいても、それを事実として改めて突き付けられるとやはり辛い。ならば、そんな状況を作らないようにする。

 そんな術を俺は、東風谷早苗の居なかった空白の時間の内に覚えたのだ。

 

 

 いや、流石に長すぎませんかねえ。

 俺は今、東風谷の家の、客間というべきか、居間というべきか、まあ障子に畳にと、いかにも和といった感じのいつもの部屋に結構長いことポツンと一人でいる。いつもの。いつか行きつけのお洒落な店が出来たら使ってみたいものである。そして店員に顔を覚えられてなくて、露骨に、何言ってんだこいつという顔で「は?」と言われて泣きそうになりながら帰るまで想像した。

 さっきから無駄に暗い思考が働き始めて鬱になりかけたので、やがて考えることをやめた俺は宇宙を永遠に漂流しているような気分になる。

 

 この家には今、東風谷と柊と俺の三人がいる。いるはずである。いなかったら泣く。神奈子様と諏訪子様を人として考えるなら五人である。この部屋に俺を置いていった東風谷の話を信じるなら、彼女ら二柱も東風谷と柊と共に別室でオハナシ中だ、残念だが俺には二柱の姿が見えないので、その真偽は分からない。

 俺がこの部屋に居るのは、もしもがあったら俺は足手まといになりかねんということなんだろうが、なら、ここに来る必要無かったじゃないですかやだー。

 

 東風谷と二柱の慧眼を持って、柊にオハナシという名の実質的尋問、聴収、取り調べを行い、彼女の正体を暴き、心まで素っ裸にしてやろうということらしい。

 柊がシロならはた迷惑も良いところだろう。いや、クロならそれはそれで今度はこっちが困るのだが。

 

 なんとなく部屋を見回してみると、ふと、俺の座っている位置の向かい側に敷かれている座布団が目にとまる。そう、脚の短いテーブルを挟んで向かい側の座布団に座るのは東風谷だ。そしてあれだけ、この居間に用意された座布団と柄も色も違う。つまりあそこに配置された座布団は東風谷の私物で、いつも座している彼女の匂いが染みついている違いない。

 ごくり、と喉が知らずなった。

 男子と言うものは非常に単純かつ馬鹿な生き物で、女子に声をかけられただけで胸が高鳴るし、会話が成立すれば、それだけで嬉しいのだ。消しゴムやシャーペンを拾ってもらっただけで、なんか妙に優しい奴に見えるし、不意のボディータッチなんざもらった日にはもしかしてこいつ俺のこと好きなんじゃね、とまで考える

 

 こんな経験はないだろうか。

 

 休み時間、ふと席を離れて戻ってくると、俺の席に女子が座って近くの席の女子とお喋りをしている。しかもそいつが結構かわいいんだわ。休み時間が終わって席が空いて座るとさ、可愛い女の子独特のなんかイイにおいが微かにするのね。当時小学6年生の俺は思ったね、こいつ俺の事好きなんじゃね?

 

 今にして思うと俺チョロすぎんだろ。あの頃の俺を攻略するゲームが発売したら、声かけただけで好感度振り切れるからね。何でもいいから声かけたあとに、告白したら即エンディング迎えれるレベル。やだ何そのゆとりに優しいゲーム。クリアできないステージは飛ばせるとかそういう次元超えてる。

 まあ俺がチョロイのはこの際どうでもいい。重要なのはかわいい女の子がちょっと座っただけでその空間はかすかにイイ匂いがする、ということだ。東風谷は弩級レベルにかわいい、これは東風谷の人気を考えれば俺の主観的な評価でないことは確かだ。思い出補正を受けているあの女子を遥かに凌ぐものと考えられる、プラス、あの座布団は東風谷に長く座られてきたと判断できるだろう。

 結論、超がつくレベルでかわいい女の子が長く座った座布団はその相乗効果でとんでもなくイイ匂いがするに違いない。

 というわけで、死ぬほど暇な俺は東風谷のいつも座っている座布団に顔をダイヴさせてみた。

 ああ~、いいにほ……い?

 しかし、世の中とは不思議なもので、妙に間の悪い、良い時が存在する。たとえばこれは俺の高校受験前の出来事である。いつも勉強してる時には俺の部屋など立ち入って来ない親が、何故か、ちょっと勉強サボって勉強机に向かって勉強しているフリしながら漫画を読んでる時に限って部屋に入ってきたりとか。あれ以降、真面目な息子、という親の信頼が失墜した感が否めない。積み上げてきたものも、崩れる時は一瞬である。マジ世の中クソだわ。

 今回もそのような例に漏れないようで。

 顔が着地した瞬間に、ふと、障子が静かに引かれる音がした。

 勘違いだと祈りながら座布団を埋めた顔を音のした方へと向ける。

 そこには一時間近く、一向に戻ってくる気配の無かった柊と東風谷の二人がいた。俺の知らないところでの話し合いで仲良くなったのだろうか、二人の距離は非常に近い。

 東風谷はどういう状況か分からないといった顔で、柊は似たような経験があるのか、何か汚いものを見るような顔をしていた。何というか、この反応の差に、二人の境遇の差をわずかにでも感じずにはいられなかった。

 

「綾崎くん、何をしているのかしら」

 

 ささ、と起き上がり正座する。柊の声と冷ややかな視線に即座に姿勢が正される。

 

「あー……。座布団を枕にして寝てました」

 

 柊は、左手で元々俺が座っていた座布団を指さして口を開く。

 

「貴方が座っていたのはあっちでは無かったかしら」

 

 柊の表情は笑っている。いやもういっそ清々しいくらいに綺麗で微笑だ。柔らかい、それこそ女神様の柔和な微笑みと言ってもいいだろう。なのに、怖い。

 こんな話を聞いたことがある。起源を辿ると本来、笑顔とは威嚇なのだとか。そして、微笑とは最も感情の読み取りにくい表情だとかなんだとか。

 うーん、東風谷本人を前に大暴露するわけにもいかないし、かといって地雷踏んだっぽい柊を前に適当な言葉で誤魔化すのも難しいだろう。

 

「まあまあ柊さん、結鷹はずっと一人でこの部屋に居たんですから寝ちゃっても仕方ないですよ」

 

 どうどう、と言いながら東風谷は柊の前に立って、制止するように手のひらを柊の方に向けながら通せんぼする。

 どうやら、東風谷は良い感じに俺の行動を自己解釈して誤解してくれているらしい。

 

「はあ、貴女ねえ……。まあ、東風谷さんがそう言うのなら、私があれこれ責めるのもおかしな話よね」

 

 そう言って柊は肩を竦めると、彼女のこちらを刺すような尖った気配も消え失せる。

 部屋の隅に置いてある来客用の座布団を東風谷は引っ張って来て、東風谷の定位置の隣にポン、と置く。

 

「柊さんはこちらに座ってください。結鷹も座って」

「お、おう」

 

 言われて、俺もいつもの位置に戻り、座り込む。

 こう、いつものと呼べるくらいには俺もこの家に来ているのだと、改めて思った。

 それぞれが座り込み、テーブルを囲む状態になったところで、こほん、と東風谷はわざとらしく咳をする。

 そうして、両手を右隣の柊の肩に乗せて、彼女は突拍子も無くこう言った。

 

「今日、柊さんはウチに泊まることになりましたー!」

 

 



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柊玲奈について 2

 唐突な東風谷の柊お泊り確定宣言を告げられた後に、柊についての話題にすぐさま変わった。

 東風谷から話された事の仔細をかいつまんで説明する。

 

 柊玲奈は妖怪と人間の混血らしい。

 

 二柱もその判断に行き着いたことから、ほぼ間違いないとの事だ。その話を俺と一緒に聞いている柊は、落ち着いたものだった。俺の居ない場での話し合いで聞かされていたせいかと思ったが、そうではない。

 彼女自身に元々、普通ではない自覚はあったらしい。流石に自分の血に妖怪なんていう不確かな存在の血が流れているというのは、思ってもみなかったらしいが。

 ただ、それが原因で問題が起きたこともあった、と彼女は静かに語った。その言葉に、その柊が語る俺の知り得ぬ彼女の過去に、やはり、俺は東風谷早苗の幻影を見るのだ。

 

 もし、俺の居合わせぬ場所で、東風谷が中学のあのような問題に直面していたら、と。

 彼女は俺にはその過去を細かくは説明しなかった。ただ、問題が起こったのだと、自覚はあったのだと、静かに、諦めたように説明する彼女の隣で痛々しそうな表情をしている東風谷の顔を見て、何となく、柊は東風谷には話をしたのだろう、とそう思った。

 

 いつの間にやら二人は随分と親密になったようで、俺の置いてけぼり感が凄い。

 とりあえず、俺らの懸念は解消され一件落着かと思いきや、話は終わらず、同時に柊自身が別の問題を抱えていることが発覚した。

 藪をつついて蛇が出た、とはいっても身構えていたものとは別だったが。

 

 それは俺自身も学校でも少し違和感を覚えた、柊の右腕に関係することだった。見ていてあまり気分の良いものではないと、柊は言った。その忠告を受け取ったうえで、拝見した柊の右腕は、そこに出来ていた傷は、確かに彼女の言う通り尋常ではなかった。

 

 袖を捲りあげて、巻かれた白い包帯を解いて、右肩から肘にかけて斜めに入った刃物のようなもので切られたような傷跡。これだけで既に異常ではあった。

 だが、異様なのはその傷口を中心に広がる黒い痣のようなもの。大火傷の跡のような醜さ。彼女の白く細い腕にその亀裂が走ったように拡がる痣は皮膚を溶かすように爛れ続けて、触ったらグジュグジュと音がしそうだった。何より異様だったのは、その拡がった痣を押し戻すよう僅かに縮んだり、蝕むように拡がったりしていたことだ。それは脈動しているように見えて妙な生々しさがあった。

 柊には悪いが、確かにあまり思い出したくないものだ。

 

 

「ごめんなさいね」

 

 柊が傷のあった自身の右腕を見ながら、申し訳なさそうに言った。今、東風谷はお茶とお菓子を取りに行っている。数分は戻って来ないだろう。つまりこの場には俺と柊しかいない。

 

「……何がだよ」

「顔を見れば分かるわ。おぞましいものを見たって、そういう顔をしてるもの」

「俺はいつもこんな顔だよ」

 

 いやまあ確かに、思い出したくない類のものではある。食事時に見せられたら食欲失せるレベル。だが、ここで確かに気持ち悪いね、と言えるほど鬼畜にはなれない。他人に害を与えないよう生きてきた俺は、今回もそのように振る舞う。というより、怪我人や病人を指さしてそんなことを言えるような人間の方が稀だろう。

 

「それに、面倒事に巻き込んでしまったわ」

「ばーか。巻き込んだとかそんなの気にしなくていいって。お前、東風谷見ろよ東風谷。ついでみたいに問答無用で俺も家に呼んでおいて、一時間近く俺という客を放ってたのに謝罪一言ないんだぜ? あいつのハリケーンっぷりを考えたら大したことじゃない。なんなら今回もどっちかっていうと東風谷に巻き込まれたとも言える」

 

 実際、俺一人では柊の事情に関してここまで深く知ることは無かっただろうし、知ったところでどうこうしようとも思わなかっただろう。東風谷と柊が居て、お互いに何か感じるところがあって、柊は東風谷に自分のことを話した。それを聞いた東風谷が動こうとしてるところに、俺も立ちあっていたから動くだけだ。

 

「それに、東風谷がやるって言ったら俺もやるんだよ。別に柊がどうって訳じゃない」

 

 ツンデレ風に言えば「べ、別にあんたのために動くんじゃないんだからね! 東風谷の為なんだからね!」である。あれ、それ柊の為に動いてね?

 

「東風谷曰くお前を傷つけた奴をブッ飛ばすらしいしな。色々大雑把過ぎてツッコみたいところはあるが、やることは決まってるし、明快だ」

 

 そう、傷が出来るということはその原因がある。あんな太刀傷みたいな跡は自傷癖でもなきゃつかない。自傷癖があっても、ああはならないだろう。つまりは柊の腕を斬った奴が居る。

 東風谷の話では、二柱曰く、どうやら斬った刃物が対妖怪に有用な物であるらしい。それのせいで、半端に妖怪の血が混ざっている柊の腕はあの惨事になっている、と。解決方法は至って単純。斬りつけたその武器を破壊すればいいとのこと。俺は妖怪だの神様だのに詳しくないので何とも言えないが、こちらにはその手のスペシャリストが居る。

 

 東風谷と彼女の信じる二柱だ。そもそも二柱は、妖怪変化が跋扈する時代より前からおられる方々だ。こんなに心強いものはないだろう。とはいっても、そんな対妖怪用の武器持ってるってことは、襲ってきた相手もその手の専門家である可能性が濃厚なんだが。その辺ちょっとこわい。

 

 そして、実際に動くのはその頼りになる二柱では無く、ド素人の俺とその道にどれくらい精通しているのか不明の東風谷である。

 うわあ、めっちゃ不安になってきた。

 

「貴方みたいな人は、見たことがないわ」

 

 そんな俺の内心の不安に気付かず、柊は唇に右手を軽くあてながら、ふふっと上品に笑う。

 

「いや、目につかないだけだよ。なるべく目立たないようにしているからな」

 

 出る杭は打たれる、つまり、特筆した才能が無い者は無暗に目立ってはいけないのだ。人間普通が一番だ。平凡、凡庸、何が悪い。自分は特別だと勘違いして思い上がって、目立って袋叩きに合わないようにしているのだ。能ある鷹は爪隠すと言う。つまり、誰の目にも止まらない程の俺は才者。違うか。

 

「学校での俺の姿見たことあるなら知ってるだろ。教室の隅で少ない友人と話すか寝てるかしてる目立たない生徒Aだぞ。どこか希少なところがあるなら、聞きたいもんだね」

「あら、東風谷さんから聞いた話では、中学では中々悪目立ちしたようだけど?」

 

 意地の悪い笑いを柊は浮かべる。好戦的な表情と言うのは、およそ彼女に似合わないと勝手に思っていたが、中々どうして様になっている。

 ……ていうか。

 

「おっま、どこまで知ってる!? どこまで聞いた!?」

 

 前のめりになって、恫喝じみた聞き方をしてしまう。ていうか何、あの子俺の事までペラペラ喋ったの? ステフかなんかかよ。

 

「それはもう詳らかに語ってくれたわよ、嬉々として」

 

 しかし、俺程度の威圧にはものともせずに柊はにっこりと笑う。なんでこいつちょっと楽しそうなんだよ。

 あの馬鹿。くそう、滅茶苦茶恥ずかしい。だが、東風谷が自慢げに指をたてて、ペラペラ何でもかんでも喋りまくってる姿が容易に想像できてしまう。

 

「そんときは何かおかしかったんだよ……」

 

 気恥ずかしさで、意図せず声が小さくなってしまう。あれはあの場で虐げられていたのが東風谷だったから、動かずにはいられなかったのだ。俺がどうかしていたんじゃなく、周りが正常じゃなかった。

 あの場で東風谷の実態を見つめて、本当の意味で嫌悪を覚えたのはおそらくたった一人。だというのに、それに乗っかって、さも自分たちが正しいと言わんばかりに行われる悪辣な行為に、それと、連中に対するわずかな個人的な感情で、一矢報いんとしただけのことだ。 あの時の事を、あの時の俺を東風谷がどう想っているかは、どう消化したのかは、俺には分からない。

 ただ、あの出来事は俺と東風谷の関係の分岐点だったとは思う。あれが無ければ、俺は今も、教室の隅で中田と話してるか、それこそ柊のように独りで大人しく席に座っているかだけの人間だった。

 表面上はどう見えたのか、東風谷がどう受け取ったのかは置いておいて、あの時に本当に救われたのは俺の方だ。

 

「じゃあ聞くけど、聞きますけど! お前こそ、何で学校で友達作んねえの? お前くらい外見良ければ引く手数多だろうに、あんな話しかけないでくださいオーラ出してさ」

 

 このまま会話を終えると、負けたような気がして、話を断行する。そもそも、こいつは一際目を引く容姿をしている。雰囲気からの近寄りがたさもあるが、それでも最初は話をしてみようと試みる生徒はいくらか居た。じゃあ、何故、こいつにクラスメイト同士の交流が出来ないのか。簡単だ、本人がそれを拒絶してるからに他ならない。

 勢いというのもあるが、その在り方の理由が少し気になっていたというのもある。

 

「煩わしいからよ」

 

 結構踏み込んだ質問だったが、柊はバッサリと斬って捨てるように真顔で言ってみせた。

 

「えー、こえーよ。え、なに、今こうしてる間も話すの煩わしいとか思ってるのかよ」

 

 こえーよ、何それこの子超怖い。

 

「何を勘違いしているのか分からないけど、私が言っているのは友達を作ったりして、その先のことよ」

「あー……なに。あれか、一人の時間が奪われるとかそういうあれか」

 

 まあ、分からなくはない。独り身だからこそ自由にできる時間というのも存在する。

 

「違うわ」

「違うのかよ、じゃあなんで」

「こういうと自信過剰で品が疑われそうだから、あまり言いたくはないけれど、私って……。顔立ちが整っているでしょう?」

「まあ、そうだな。お前を見て不細工だって言う奴がいたら、俺はそいつに眼科へ行くことを勧めるね」

 

 なんというか、「私ってば美人でしょ」とか「可愛いでしょ」と言わずに「顔立ちが整っている」と表現した辺り、相当自分では言いたくなかった感があるから、あえてツッコまずにいよう。事実ではあるしな。

 柊は一瞬だけ力が抜けたような顔をしたが、すぐに普段の表情を取り戻し、会話を続ける。

 

「……そのおかげか、小学生の時には私の周りにはいつも人が集まっていたわ。クラスが替わってもただ座っているだけで、誰かが私に話をかけて来て、私はそれに応じる。そうすれば自然と友達も増えていった」

 

 うーん、ぼくにはちょっと理解できないです。話かけに行かなきゃ誰も来ませんよ、ふつう。俺だけか。なんなら話しかけに行ってもあんまり仲良くなれない。

 

「男子に告白されることもよくあったわ。でも、そのことをあまりよく思わない子達もいるわよね?」

「まあ、お前に告白した男子の事を好きな女子だっていただろうしな」

 

 関わる人間が多い分、そういった恋愛ごとは複雑そうだ。小学生でも一丁前の男と女である。異性を意識する頃もなれば、打算で生まれる関係もあるだろう。なんか、色んな思惑が錯綜してるんだろう、人気者の周囲ってのは。

 

「そう、それが原因であまりよく思われないことも増えてきたわ。そういうのが積もりに積もって気づけば私にとって本当に仲の良い友達というものは減っていった。私に声をかけにくる子の大半は私の友人であるというステータスが欲しいのだと、察せたから」

 

 つまりは、人気者、持つ故の悩みという奴だろう。そりゃ隣に立っている奴が、自分の好きな異性の関心を買ってるなんて知れば良い感情は持たれないだろう。しかし、柊くらいの容姿を持つ者の取り巻き……こほん。友人となれば、それだけで一つの強み、アドバンテージになる。

 そういう人物と付き合いを持つ旨みというのは、想像に難くないところだ。人気がさらに人を呼ぶ。ここまでいくと蟻地獄かなんかだな。それに東風谷を見てきたから経験が無いわけじゃない。

 俺自身、小学生時代、東風谷を取り巻く人々の一員だったのだ。あの中に居た時の俺は、まだ人を疑うことを知らない純真さを備えていたからな。一度、東風谷から距離を置いた後には、本当に色々と考えさせられた。

 今にして思えば、東風谷の周囲にだって、柊が言っているような複雑で触れがたい、陰謀めいた思惑は常に渦巻いていたのだろう。もはや当時の細かいあれやこれを知る術は無いが。

 だから、贅沢な悩み、とは思わない。

 誰の一番にもなれないというのも悲しいが、誰にとっても一番というのも、やはり面倒くさいのだろう。

 

「まあ、それはかまわなかったのよ。感情がある以上、仕方ないと思えたわ。それに、それでも信頼の置ける友人がその時はまだ居たから。でもそれも」

「……」

 

 なんとなく、場の雰囲気が変わるのが分かった。思わず息を呑む。

 

「――――私の異常を知るまではの話だけど」

 

 言いながら、柊はどこからかハサミを取り出した。

 

「おいバ――」

 

 ふっ、と笑うと、俺の制止しようとするのも無視して、彼女は一切の躊躇なく、刃の部分を親指の腹に這わせて切ってみせた。それも結構深めに。そうしてサムズアップをするようにして俺の方に切った部分を見せてくる。見てみると、切り口からわずかに血の滴がしたたっていた。

 当然だ、指を切ればそうなる。

 だが、そこからが普通では無かった。非現実的だった。溢れるはずの血はすぐさま止まり、3秒も経てば傷口も閉じて、全くの元通りになってしまった。

 

「カ―――……?」

 

 開いた口がふさがらない、とはまさにこの事か。

 東風谷も神様が見えるのとは別に、摩訶不思議なことがいくつか出来ると聞いていたが、実際に見せてくれたことはない。故に、このような人ならざる業を見るのは、初めてだ。

 自嘲気味に、彼女は薄く笑って俺に言う。

 

「ご覧の通り、これが私の普通じゃないところよ。この程度の傷なら秒で治る。これだけが全てを台無しにしたと言っても過言ではないわ。このことが周囲に発覚してすぐに、私を取り巻く人たちの態度は変わった。血のつながった親にさえ怯えられ、小学校では化け物と誹られ嫌われ者になったわ」

 

 天井の灯りを見上げた彼女の瞳は、実際には何を見ているのか俺には分からない。

 

「いつ、どこで怪我をしないとも分からないし、誰かと仲良くなれば、その分だけ露見する機会が増える。きっと、その度に噂が飛び交って迫害されるのよ? 事実、コレが知られてからの小学校での生活は不快なことだらけだったわ。ほら、そんなの煩わしいじゃない。だから、中学以降は身の振り方を変えたの、あなたも知る高校での私のように」

 

 彼女はそうして線を引いたのだ。自分と他者との間に。決して自分の側には立ち入らせないように。

 

「……本当に勝手だわ、人って。勝手に期待して勝手に裏切られれて、私の何が変わったと言うのよ。あなたたちが知らなかっただけで、元から私はそうだったというのに」

 

 ああ、全くもってその通りだ。

 東風谷の時だってそうだった。あの虐めの一件をとってみても、東風谷早苗はその以前と以後とで変わってなどいない、変わったのは彼女を見る相手の目だ。

 いつだって他者から見た自分という虚像と、己が考えている自分という実像とに差がある。

 本来、そのズレは日々を過ごしていく内に、集まっていく情報をもとに逐一調整されていくものなのだ。例えば、あの人は実は照れ屋だったとか、ものすごい努力家だったとか、外では完璧に仕事をこなして頼れる人なのに、家ではだらしないだとか。

 そういう知らぬ一面を知ることで、実像とのズレを少しずつ近づけていくものなのだ。そうやって「この人は本当はこういう人なのだ」と理解して、受け入れ親しくなる、或いは許容できずに離れていくこともあるだろう。まあ、そうして調整していったものも、きっと本物からはズレているのだろうけど。

 

 彼女のように一見して優秀で非の打ちどころのなさそうな人間ほど、その虚像に求められる潔癖性、完璧性の水準は高くなる。そして、虚像の理想が高い程、実像との間に「大きなズレ」があると気づいてしまった時――その人物に理想を抱いていた人間ほど――嫌悪するのだろう。

 

 アイドルやらに彼氏彼女が居たと発覚したときに、そのファンが一斉にバッシングするのがきっと近い。そういった者たちはきっとこう言うのだろう「裏切られた」と。

 彼女に理想を抱いた者達にとっての実在の彼女と理想との「大きなズレ」は今しがた目の前で起きた現象に違いなかった。ソレは勉学や運動が出来るだとか出来ないだとか、容姿が優れているとか劣っているとか、そんな「普通」から逸脱した「異常」そのものだった。

 人は、他者に対して勝手な印象や固定観念で評価をつける。そうやってつけられる様々な評価を募った虚像を俺が見ることが出来たとして、しかし、そのどれを見ても、こんなものは見当たらないだろう。

 

 ――――だって、現実的に考えて、常識的に考えて在り得ないものなのだから。

 

 ならそれは受け入れられない。受け付けられない。生理的に嫌悪する者すらいるだろう。

 好印象を与える材料にはなり得ない要素を孕んだ彼女の実像は、いつか必ず、他者が勝手に抱いていた『柊玲奈』という虚像を粉々にする。

 そこから先にあるのは、他者からの悪意や害意だけだ。その敵意は、より親しかった者ほど苛烈になる可能性すらある。

 勝手に裏切られただけの彼らは、しかし、裏切られたという大義名分をぶらさげて、 それに周りの者が同調して、彼女を非難し、攻撃する。

 一体どちらが裏切られていたのか、彼女はその時にどう想ったのか、俺の知るところでは無い。なぜなら、俺は他人から注目を受け人気を得たことなどないからだ。

 

 ただ、そうならないためにはどうするかは俺にも分かる。

 希望を持つから絶望するのだ。期待があるから落胆するのだ。なら、最初からそんなものは持たなければいい、持たせなければいい。だから線引きをした。他者とは絶対に交わり合えないと、ずっと以前に彼女の心は冷え切ってしまって、諦めてしまったのだ。それがきっと今の彼女の在り方に繋がっている。

 

 教室で、独り窓の外を見つめている彼女の姿が、ふと脳裏に浮かんだ。どんなに大切な相手でも、いずれ袂を分かつと分かっているなら、最初から干渉し合わないようにする。そんな考え方は、至ったまでの過程は違えど、どこかの誰かと似ていた。

 ああ――――だからか。

 ようやく、柊玲奈という少女が妙に気にかかった理由が分かった。

 

「さて、そんな化け物の一面を見た訳だけど―――貴方はどうする、綾崎くん?」

 

 柊玲奈は、試すように問いをなげる。

 いつのまにやら、彼女は俺の方へ向き直っていた。

 見据えられたその視線から、彼女の引いた境界線がすぐそこにあるのが分かる。自分の側に立ち入らせていいのか、その瞳は冷静に冷徹に見極めようとしている。

 彼女の凍てつくような氷の瞳の中に俺が映っている。

 

 傷がすぐに癒える。確かに普通じゃない。腕が無くなっても生えてくるレベルなのか、今のような軽傷程度なら治るというだけなのか、どこまでその力が及ぶのかは分からないが、普通ではないということだけは確かだ。

 彼女は自身が特異であることに絶望したのか、それとも受け入れない周囲に絶望したのかは分からない。

 

 でも、俺は彼女を見て、正直羨ましいと想う、恨めしいと想う。だって、俺にはこんなにも何も無い。生まれながらにして柊は俺なんかより、ずっと東風谷に近いところに居る。   

 だから彼女は東風谷の事はすぐに信頼できたのだろう。だから東風谷は柊の為に立ち上がるのだろう。では、俺はどうだ。

 

 俺は普通の人間だ。

 

 俺がこうで無かったのなら、そのように生まれてきていたのなら誰かと誰かの関係は、もっと簡単に上手くいったに違いないのに。

 

 自分の凡庸さに目を、耳を塞ぎたくなる。俺は本当にありきたりな人間だ。

 でも、そんな普通の奴に目をかけてくれる奴が居る。そいつは自分が特別だって分かって、きっと真に同じものを共有することは無いって理解して、それでもこんな平凡に向かって手を差し伸べてくれている。自分とは決定的に違う者たちを、それでも好きだと言ってくれている。自分の最も大切な存在を忘れてしまったような連中を、飽きもせず、諦めもせずにヒトって生き物を信じている。そんな女の子を知っている。

 なら、お前だって諦めるには早いだろうに。

 

 一度、深く息を吸う。

 

 本当に。本当に不思議なもので、柊玲奈の内面に、他者との距離のとり方に、俺は共感できる。そして俺とは違って、生まれながらの素質は、とてもよく東風谷に似ている。その一際、人の好感を集めやすい淡麗な容姿も、特異な力も。

 きっと、今日俺が彼女に声をかけてしまったのは、それらのことから発生したシンパシーからだ。東風谷の影を見たからだけじゃない。自分と同じような考えに至った者だと、何となく気配で察したからに違いない。

 

 ――――やはり、俺は以前とは何かが変わった。

 

 何故か。

 彼女の考え方が、出した結論は、根本の理由は違えども俺に似ている。だというのに、それじゃだめなんだって、今はそう想えるからだ。

 能力が向上したわけではない。結局のところの問題の解決も出来ちゃいない。

 彼女ら特別と俺は、近くてもやはりどこか遠い。そんな感覚が絶えずあり続けている。ただ心の持ちようが変わっただけかもしれない。

 

 けど、それでも確かな変化があったのだ。

 

 東風谷から神様なんてものの話を聞いて、決して自分では見ることも聞くことも触れることも実感することも出来ない存在を告げられて、それをもっと知りたいと答えた。

 自分では決して理解できないものを受け入れて向き合っていこうとしている現在の状態を、妥協と言うべきか、手探りでも進んでいっていると言うべきか、俺には分からない。

 それが分かるのは、きっと、もっと先の話なのだろう。

 だから、その答えが出るまでは俺は異常だろうが奇異だろうが怪異だろうが背を向けるわけにはいかない。

 それらから目を背ける行為は、東風谷早苗を裏切ることに他ならない。

 他人に期待なぞしない、だけど、かけられた期待には応えたい。それが俺に唯一残された他者への近づき方だ。

 なら、俺は他の連中が柊を化け物と呼ぶに至った原因たる異常を、彼女の完璧をつき崩した菩提樹の葉を、柊玲奈の個性として、特徴として呑みこめる。

 まあ、なんだ、つまりは。

 俺をあまり見くびるなってこと。

 

「どうもしない」

 

 それにまず。

 こいつには言っておかなければならないことがある。

 

「とりあえず、自分で自分を傷つけるのはやめろ馬鹿。結構痛いだろ、今の。そんなことしなくたって、口で言えば俺には分かるっつーの。他人に裏切られたっていうんならせめて、自分くらいは自分を大切にしろよな」

 

 思ってもみなかった返答だったのか、それを聞いた柊は目を丸くして驚いた。

 

「へ?」

 

 普通の人間である俺に、そんな風に言われたのが意外で仕方ないと言った様子の彼女に何だか腹が立って、捲し立てるように続ける。

 

「東風谷から多分聞いてんだろうけど、俺は、神様が見えるなんて言葉をぬかしてる女子を、確証も無しに信じて、その実在を是としたド級の信者だぞ。柊のそれなんてどうってことはない、へえ便利だなー程度にしか感じねーよ。異常でも何でもねえ、お前のプロフィールを作成するときがあったら、特技の欄にでも書き込んでやる」

「ぷっ……く、くくく」

 

 柊が肩を抱いて震わせる。なんだよ、そんな可笑しなこと言いました俺?

 

「ホントに」

「はあ?」

「ホントに東風谷さんの言う通りだわ、おかしな人ね」

 

 柊玲奈は長い黒髪を揺らしながらくすぐったそうに笑う。

 なんでだろう、昔、誰にでも好かれて、期待されて、自らもそれに応えようとしていた時の彼女の笑顔はこんな風だったのだろうな、と見たこともないのにそう感じた。

 

 

 



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柊玲奈について 3

 

「とりあえず、襲ってきた人の特徴とか教えてもらえますか?」

「長身の男で刀を持っていたわ、そこは断言できる」

「他に……顔とかはどうです? 犯人像のイラストとか書けますか? よくあるアレ」

「いえ、暗かったせいであまりはっきりとは。帽子を深くかぶっていたし」

「じゃあ、服装とかはどうですか?」

「オリーブグリーンの薄手のコートが印象的だったわね」

「ふむ。なんだか、刑事さんみたいですね。職は刑事なんですかねえ、結鷹?」

 

東風谷がお茶とお菓子を手に戻って来て、ようやく三人揃ったところで柊玲奈襲撃事件の話が行われていた。なんかこの字面だと柊が誰かを襲ったみたいだな。

とりあえず、柊に襲ってきた犯人の人物像を尋ねてみたが、これといって、手掛かりになるような情報は無い。ていうか、東風谷さんさっきからあなた会話散らかしすぎでしょ。

 

「いや、刀持っていきなり斬りかかってくる奴が刑事なわけねえだろ」

 

 おそらく東風谷の脳内にある刑事像は、捜査線が踊ったり踊らなかったりするドラマの主人公だ。あれってミリタリージャケットかなんかじゃなかったっけ。服の事はよくわからん。でもあの人帽子は無かったよね。取りあえず事件は現場で起きているのである。

 

「それに、アレを治安を守る立場の人間だとは思いたくないわね」

 

 その時のことを思い出しているのか、苦い顔をして柊がそんな言葉を漏らす。自分が殺されていたのかもしれない瞬間のことだ、その表情は当然のものだろう。

 

「まあ柊の身の回りの人間に心当たりがない以上、俺たちに出来ることは誰かしら傍に居てやるくらいだからなあ。探し出そうにも刀持って街中うろついてるわけはないだろうし」

 

 警察にも捕まっていない辺り、案外、そいつの表向きの職業は警察関係者という線も無くは無い感じがしてきた。いや、ないか。

それに、警察に頼ってどうにかなるなら、もうこの案件はとっくに片付いているはずだ。

 

「相手が出てくるのを待つ他ないですね。うー、このやる瀬無い感じ……結鷹、何とか出来ないんですか!?」

「無茶言うなよ」

「そこをなんとか、先生!」

 

 東風谷は目を固く瞑って両手を合わせて、後生だからよぉ、と訳の分からない言葉を吐く。

 

「……てか、柊は東風谷の家泊まるんだろ?」

「はい! 今の柊さんを一人にはしておけませんから。柊さん、一人暮らしなんですよ。まったく年頃の女の子が一人暮らしなんて」

 

 俺の質問にいち早く反応したのは、東風谷だった。いや、君も傍から見たら一人暮らしだからね。神奈子様と諏訪子様が東風谷の中では頭数にカウントされているのだろうけど。

 神様を家族として数えるのは、本来失礼なことなんだろうけど、東風谷の話を聞いてるうちに出来た俺の神奈子様像だと、今の台詞を聞いて、感激して涙している気がする。

 

「そこは柊が答えるとこだろ、いいけどさ。そういえば着替えとかは良いのか? 取りに行くなら陽が高い内の方がいいだろ。つってももう結構な時間だけど」

 

 言葉にしてから気づいたが、俺が女子の着替えについて言及するのは若干気持ち悪かったかもしれない。一瞬、邪な発想に至ったせいで、言ってから一人で勝手に気まずくなって、湯呑みを手に取ってお茶を大げさに啜る。

 ちょっとした沈黙が凄く心苦しい。

 ふー、何これ、ちょっと体が熱いんですけど、暖房効きすぎでなくて。つけてない? マジかよ地球温暖化やば過ぎ。

 

「そうでした。柊さんさえ良ければ私の、パジャマとか下着とか、諸々貸しますけど」

「……ぶ」

 

 思わずお茶を吹き出しそうになる。えぇ、マジで。友達に寝間着貸すくらいならまだギリギリ分かる。だが、仲の良い男子同士でも下着は貸さないぞ、どんだけずぼらな奴でもしない、多分。てか、ぜってえ貸したくない。中田が言って来たら思わず殴っちゃうレベル。なにこれ百合? もしかして百合なの? そういうのはいけないと思うの。 でも、でもでもちょっといいかもぉ。

 ……つーか、下着のサイズ合うんだろうか。東風谷は平均より大きいというか、柊は見たところ平均を下回って……。あ、そういう場合付けないのかな。

 ていうか、この場に俺居ていいんだろうか。なんか禁断の花園を覗いているような、そんなイケナイ気分になる。

 

「誰かさんの視線が一瞬だけ、かなり不本意な個所を行き来したのは気になるところだけど」

「げふん」

 

 誰だね、年頃の女の子にそんな不躾な視線を向ける輩は。

 

「……そうね、借りるのも申し訳ないし、取りに行ってくることにするわ」

 

 言いながら、流れるように立ち上がる柊。なにか武道でもやっているのかと思うくらい、ぎこちなさが完全に排除されたその動きに一瞬、目を奪われる。

 だが。

 

「ちょっと待て」

「む」

 

 声をかけなければ、何食わぬ顔で出ていってしまいそうだったので、思わず柊の左の袖を掴んで制止する。不満げに聞こえた声は幻聴かなにかだろう。

 

「……?」

「その本気で何やってるのお前的な視線やめてくれる? 今、お前を一人にするのは危ないって話したばっかじゃねえか、なに一人で行こうとしてるの?」

 

 というか、彼女は自分が結構な怪我をしている自覚がないのだろうか。何泊するか分からない程度の荷物にはなるだろうに、その怪我してろくに動かない右腕でどうやって運ぼうとしていたのか、甚だ疑問である。

 

 

 

 

 

 というわけで。

 付き添いとして俺が駆り出されることになった。ちなみに東風谷は夕食の準備をして待っているとのこと。

東風谷の家を出て、小さな無人駅まで歩き、電車に揺られて、今は都市部を歩いていた。東風谷の家は小山の上だけあって、付近の小さな無人駅すらちょっと遠い。小学生の時は、近所の者達で集まって登校していたのだが、東風谷はまず山を下り、農地を駆けて住宅街の集合場所へ向かうことになる。自転車すら使って無かったことを考えると、朝から中々ハードである。俺だったら不登校になるレベル。ちなみに俺は東風谷とは反対に、集合場所が家のすぐそばだったため、ギリギリまで寝ていられた。

今にして思えば、そんな東風谷の家に足繁く通っていた俺スゲーな。

柊の家は、都市部のマンションらしい。

高校生なのにマンションで一人暮らしとは良い御身分、と言いたいところだが、柊の事情を聴くに色々と察する部分はある。まあ、それでも、彼女が金銭面ではかなり裕福な家庭に生まれたのであろうということには変わりないのだが。

歩きながら、何となく隣を歩く柊に声をかける。

 

「そういえば、怪我、痛くねえの?」

 

 彼女と話していると、到底、あんな怪我を負っている者の様子とは思えないくらい普通なのだ。彼女にとって、傷がすぐ癒えるのが常だったのなら、余計に治らない傷は痛いものではないのか。ずっと思っていたことではあるが、流石に痛みに頓着が無さ過ぎるだろう。

 

「どうしたの、急に」

「いや、だって。箸もろくに使えねえってくらいに右手器用に動かせないのに、話してる分には大したことないって顔してるからさ……ちょっと気になって」

「そうね……。ありていに言ってしまえば、痛いのには慣れたのよ。治らない傷というのははじめてだから、不便ではあるけれど」

 

 なんてことは無い、と言った様子である。

 

「慣れた、ってお前なあ」

 

 それは痩せ我慢かなんかの間違いじゃないのか、と言いかけて、しかし、その言葉を飲み込む。

 何故か。

 彼女があまりにも真剣な顔だったのもある。だが、それ以上に俺自身思い当たってしまったのだ。彼女が、俺の目の前で自身の指を切ってみせた時の表情を思い出した。

 そう――無表情だったのだ。

これから来るであろう痛みに表情を歪ませることもなく、走った痛みに耐えるようにしかめっ面にもならず、声すら上げない。ただ、ひたすら他人事のように切っていたのだ。

あの時は、傷がどんどんと治っていく光景が異様で、そちらに意識が向かなかった。

だが少し考えてみれば、傷が治ることなんかよりずっと、そっちの方が異常だ。傷がすぐに治る。その再生能力は生まれ持った力だ、常識を超えた能力ではあるが実在を知ってしまえばまだ納得が出来る。では、その痛みにひたすら無関心で無頓着な、その精神はどうやって得た。

まさか痛みを感じないわけでもあるまい。

生来持ち合わせたものであるはずがないそれは、どうやって育まれたというのだ。

何も言えずしばらく沈黙が流れて、堪え切れずに俺が話題を変えようとした直前に、彼女は口を開いた。

 

「別に痛くないわけでは無いの。でも、人って順応する生き物だって言うじゃない。どんな熾烈で苛烈な環境だろうと、そこに身を置き続ければ、それが日常になる。なら、私は痛みに慣れて、順応したのよ、きっと」

「でも――」

 

 それは、なんて――。

 

「それに、これは私が周りの人間の言うようなモノであると、理解するために必要なことだったの」

「柊……」

 

 何かを否定しようとして絞り出した何を言おうとしたのかも分からない俺の声は、言わせまいとする柊の声にかき消されてしまった。彼女は足を一度止めて真正面から俺に向かい、正眼に捉えて、しかし、自らに言い聞かせるように言った。

 俺が彼女の青い瞳に映る自分を見たように、彼女もまた俺の瞳に自分を見ていたのだろうか。

 

「……必要なことだったの」

 

 それで、これ以上は言うことは無いと、彼女は歩くことを再開した。今実際に離れている何歩分かの距離よりずっと、心理的な距離を感じる。

でも、彼女が距離を測りかねているのが、何となく分かる。本当に俺に対しては一線を引いているなら、こんな話はしなくていいのだから。彼女にとってある意味で同類であった東風谷とは、俺は違う。だから余計に委ねて良いのかあぐねているのが分かる。なぜなら、俺と目の前の少女は他者との距離の測り方という部分において、非常に似通った思考と手法をもっているからだ。

 ああ、理解できる。理解できてしまう。

 状況は違えど、細部は違えど、通ったことのある道だから分かる。だから、こんなにも心がざわつく。同情してるわけじゃない憐れんでいるわけじゃない、それは誰も傷つけまいと孤独を選んだ彼女への侮辱だ。自己保身のため他者に一線を引く俺自身の否定だ。それでも、考えずにはいられない、想像せずにはいられない。

 

 ふと、思い出す。

 

 俺にとっての二つの転換期の記憶だ。

 今までに無い怒りが湧いた瞬間がある。周りにあざ笑われ、貶され、おそらく本人自身初めての経験であろう、最底辺の暮らし。絶対に他人を見捨てなかった誰かが、その瞬間だけ何もかもを諦めてしまいそうに見えてしまった。太陽のように在りつづけたそいつが沈んでいくその光景に堪えられなかった俺はようやく、一歩を踏み出せた。

 

 ――す、と記憶の景色が切り替わる。

 今までになく、自分に絶望した瞬間がある。勘違いしていた。自分はそれなりの地位を築いているのだと、勝手に思い上がっていた。

それら全ては俺のものでなく、彼女のものだったというのに。友達の友達は友達では無い。想いや好意が一方通行であるなんてありふれた話だ。でも、たくさんの会話を交わしたはずなのだ。和気藹々としたその集団の輪の中に自分も確かに居たのだ。なのに、それら全てが無意味だったと知ったその時の無力感。

 

平凡を認めたくない自分に言い聞かせ、試行錯誤して俺は人に好かれるような人間ではないのだと理解していき、今の身の置き方を覚えた。それは、綾崎結鷹を構成することとなった時代の記憶だ。

 それこそが、陽に当たらない時の俺の本来の姿だ。

 ああ――、俺は俺がひどくつまらない人間だと理解するために何度も言い聞かせた。他人のふとした優しさに希望が顔を覗かせそうになっても、それを押し殺した。俺は他人に好かれるはずの無い人間だと自らに焼き付けた。そうだと思わなければ、やってられなかった。だから、俺は他人に期待はしない。期待して、応えてもらえるような価値が無いと経験してきたからだ。

 

 なら、柊玲奈はどうだ。柊の周囲は彼女を化け物と呼んだ。なら、まずは化け物であるその自覚を彼女自身が持たなければ、迫害されることに、仲間外れにされることに、孤独であることに到底納得できなかったのではないか。

 彼女を化け物たらしませた部分を柊自身が深く理解する、その為にとると考えられる手段はたった一つで。

 それはなんて、惨たらしい。

 その結果が現在の彼女を形作ったというなら、残酷すぎる。

 思考がマイナス方面に向かって、奈落の底に落ちかけたその時に、ふと意識の外から声がかけられた。

 

「着いたわ」

 

 気づかぬ内にかなり歩いていたらしい。下を向いて歩道を映していた顔をあげる

 どうやら、ここが柊の自宅らしい。思わず、首がもたげるくらいに建物を見上げる。

 なにこれ凄い。一介の高校生が一人で住めるようなところでは無い気がする。柊はマジのお嬢様なのかもしれない。ただ、こいつの所作の上品さは、今まで聞いた話を鑑みるに、英才教育の賜物というよりは、独りで何でも熟さなければいけない環境のその過程で身につけていったものという気がする。

 他者に攻撃される材料を与えないように、学校生活でミスをしてボロを出さないようにしている俺のそれに近いのだと思う。勿論、柊の場合はそこに求めている水準がかなり高いのだろうが。

 学校での失態は友達が少ない、又はいない奴はやってはいけないのだ。ただでさえ下に見られるからな。

 

「お前の家、本当に金持ちなんだな」

「そうなのかしら?」

「その本気で聞いてる感じが純粋培養っぽい」

「でも、お金があれば幸せというものでもないわ」

「そうだな」

 

 ふと湧いた疑問が他の思考を遮った。

 仲間外れにされた時、迫害された時、孤独だと感じた時。

 程度は違えど、似たような経験をした綾崎結鷹と柊玲奈は、その事実を受け止める為にその原因を自意識に焼き付けた。えぐられた傷を焼いて、自らのものとした。

 しかし、そういう経験を得て自らの在り方を定めたというなら。この場に居ない少女にも何かしらあったはずなのだ。

 彼女は、きっと俺と会うずっと以前から自分が特別であると知っていた。多くの人間と違うことを自覚していた。また、中学では柊が経験したように迫害も受けた。

 考えもしなかったことだ。

 彼女は迫害を受け、なお、俺に問いをなげた。拒絶される可能性を推して、それでもだ。それは事実として残っている。おかげで、今の俺と東風谷の関係がある。だが、その中間はどうなんだ。どういう風に彼女の心は動いたというのか。彼女の強さの要因。たくさん時間を共有してきたのに、それだけは分からない。

 東風谷だって人間だ。穢れを知らないわけでは無い。純真無垢というわけでもない。人に貶されて何も感じない程に厚顔なわけでもない。生来のものとして、人がいいのは知っているがそれにしたって――――。

得も言われぬ孤独感を覚えたはずなのに。

 ――――東風谷早苗は、どうしてそれを乗り切ることができたのだろう。

 

 



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柊玲奈について 4

 想定していても、それが非日常的なことであるなら実際に起こると思考が止まってしまう。考えなかったわけでは無い。有り得ないと高を括っていたわけでもない。それでも、二人いるから大丈夫だろうと、心のどこかで安心していたのだろう。だから、その姿を見て、途轍もない恐怖が襲った。

 マンションの8階の一室が、柊の自宅だった。外観もさながら、内装も綺麗なもので、通路を照らす照明も柔らかく、自分の家でもないのに何となく「帰ってきたー」という感想を覚えるほどだ。だが、そんな不思議な安心感は、柊が玄関の扉のロックを外して、開けて見えた景色によって、一瞬で消し飛んだ。

 

「なん……で」

 

隣に立った柊が絶句したのが分かった。それだけで、左右に二つずつ扉のある廊下の、奥の開け放たれた扉の前に立っている人影が、本来あるはずのないものだと理解した。

照明のついてない暗い廊下の奥に立った長身の男が、にたりと笑ったのが分かった。

深くかぶった帽子、暗い緑の薄手のコート、長身、男。その手元には長い筒のようなもの。

置かれている状況を理解して、背筋にぞわりと嫌な感覚が走った。体温が急激に低下した様に感じた。

 

「お待ちしてましたよ。半妖のお嬢さん」

 

 どうやって室内に侵入したのか、疑問が駆け巡った。本来なら湧いてくる思考で立ち尽くしそうになるところ。だが、それでも身体は思考よりも先に危機を察知して――――

 

「……ッ柊! 逃げるぞ!」

 

 声を張り上げた。その切羽詰まった金切り声のような叫びで、ようやく柊は危機回避のための思考を取り戻したのか、扉を勢いよく閉める。

 閉めた扉に全身を預けて、全力で塞ぐ。

 

「エレベーター!」

「……! ええ」

 

 その一言で柊には俺の考えが全て伝わったようで、先だって柊は走ってエレベーターフロアへ向かった。ここは8階、一度エレベーターを使って逃げてしまえば、階段じゃ追いつけない。ただ、その分だけ呼ぶのにも時間がかかる。なら、片方が足止め、片方が先に向かう方が得策だ。この場合、狙われている柊ではなく、俺が足止め役をするのは道理だった。最悪、柊さえ逃げてくれればそれでいい。

 ガタガタ、と向こうから扉を開けようとする力が伝わってくるが全霊を持って抑え込む。

 扉を挟んで力が加えられる、その度に芯から冷えるような錯覚に陥る。そして、つくづく甘く見ていたと、痛感させられる。もっと警戒してしかるべきだった。

 ただ、あまりにも現実的じゃなかったがために、危機感がもてなかった。経験が無いから仕方ないとはいえ、無いからこそ、もっと慎重に動くべきだった。

 冷静になってみれば、柊は学生だ。逃げ込める場所なんて限られてるし、数日くらいならどこかの宿を利用することも可能だろうがいつかは家に戻る必要がある。なら、柊を襲った人物が彼女の自宅に目を付けて張っていることは至極当然で、想像に難くなかったはずだ。

 畜生、せめて三人で当たるべきだった。

 向こうも、俺の扉を塞ごうとする力に全力で反発していたのに、いつの間にかこちらにかかってくる力が無くなっていた。

 

「……?」

 

 諦めたのか。

 扉に与えた力を緩めないようにしながらも、そんな考えが安堵と共に頭をよぎった瞬間。

 スン、と静かな音をたてて、扉しかないはずの視界に何かが飛び込んできた。それが頬と髪の毛を掠めていった。訳も分からず、思考が真っ白になる。

 視線だけで、それを追う。

 扉を貫通して顔面横を過ぎていったナニか。

それは長く流麗な刀身だった。防犯用に頑丈に設計されたのであろう強固な扉に突き刺しているというのに、弾かれるどころか貫通していて、さらにふざけたことに刀身は欠けるどころか、傷一つなかった。

ゆっくり、ゆっくりと扉から突き出した刃が引いていく。

 

「は、え」

 

 ちょっと、待てよ。確かに刀は持ってるって聞いたけど。この扉は紙切れじゃねえんだぞ。それを当然のように貫くってどうなってんだよ。

 そして、それ程の強度と切れ味を持った凶器が、狙ったのかどうかは不明だが、自身に向かって振るわれた。

 そのことに血の気が引いていくのが分かる。

 もし己の体ごと刺し貫かれていたら、俺はどうなっていたのだろうか。

 何となく、話し合いの余地があると思っていた。何となく、自分は無事なような気がしていた。有事の際でも柊を逃がしさえすれば、それで自分の役割は終わりだと思っていた。だが、実際にはどうだ。この場で柊だけでも逃がせたとして、その後。

――俺の命の保証はどこにある?

 やばい、やばい、やばいやばいやばい。

 心臓の鼓動が異様に速い。全身が恐怖で強張る。冷たい汗が伝って、気持ちが悪い。頭にいくらもしもを叩き込もうが無駄だった。

普段から災害を想定して備えていても、その時になってみなければどうなるか分からないように。

 その場に立って見て、ようやく、ようやく理解した。

 ここに至って、己が足を突っ込んだ案件が本気で人命にかかわるのだと頭では無く身体が理解してしまった。

 身体が竦む。脚が震えている。背筋が凍り付くとはこういうことを言うのだ。

 意識が恐怖の渦に呑まれそうになった瞬間に、声が飛んできた。

 

「綾崎くん!」

 

 よく澄んで綺麗に通ったその声で、現実に引き戻される。

 呼ばれて、今しがた刀身が自らの真横を通り過ぎたというのに、あれだけ恐怖していたのにまだ身体は通さぬよう扉に張り付いていたことに気づく。それはせめてもの俺の無意識の抵抗だったのだろう。

 

「早くっ」

 

 呆然自失に近い状態の俺に投げた柊の声に応じて、ようやく動いた身体は、弾かれたように扉から離れ、エレベーターへと駆け出す。俺が扉から離れたのを感じたのか、その直後に背後で扉が開かれたのが音で分かった。振り向く余裕はない。振り向くだけ走るのが遅くなる、だから振り向けない。それが余計に恐怖だった。

 今真後ろに、刀を持ったあの男が死神のように立っているのではないか。あの常軌を逸した切れ味を持った白刃に首を刎ねられるのではないだろうか。そんな不安が頭から離れない。

たいして長くない距離をこれでもかというほど全力で走っているというのに、距離が詰まっているという実感がない。走っているのに全然前に進まない夢を見ているような気分になりながら、やっとのことで柊の待つエレベーターに辿り着く。

半ば、転がり込むようにエレベーター内に突入して、ふと、振り返ると、随分と離れた距離から男がこちらを見ていた。あの様子では、すぐ後ろを追ってきているかのような感覚は錯覚だったのだろう。

それに、扉はもう閉まりかけている、今からでは間に合わない。追って間に合わなかった、というよりは最初から走って来てなかったのだろうか。それはあの男のいつでも追えるという余裕のようであまりゾッとしないが、ともかく難は逃れた。その事実に胸を撫で下ろす。

――――追いつけるはずがない。そう言い聞かせて、一度深く息を吸って吐くと、全身に降りかかっていた見えない重圧と息が詰まるような体の内側の圧迫感が、ようやく落ち着きを見せてくれた。

 隣に居る柊に目を向けると、心配そうにこちらを見ていた。彼女とて内心は不安でいっぱいだろうに。あの男の敵意は本来、柊に向けられているのだから、なおさらだ。

 そんな彼女の前で俺がこれ程取り乱して、怯えてしまうとは。

 はあ、情けない。

 

「悪い……」

 

 状況としては危機を脱した。二人とも怪我なく生き残っただけ結果としては悪くないのだが、あまりの不甲斐なさに口をつついて出てきたのは謝罪の言葉だった。

 体重を預けるようにして壁に置いた手がプルプルと情けなく震えている。

 

「いいえ、貴方は良くやってくれているわ」

 

 震えの止まらぬ手が何かに包み込まれる感覚がした。柊の手が俺の手の甲に添えられていた。彼女の手も、震えている。

 

「――ここまでありがとう」

 

 それは今までにないくらい、優しい声音だった。

 

 

 

 

 俺たち二人はあのあとマンションから飛び出て、街の雑踏に紛れていた。都市部だけあって色んな施設が充実していて、夕暮れ時でも、人の行き来する姿は幾つも見受けられた。仕事帰りであろうサラリーマンや、友達同士であても無くぶらついているのだろう、他愛の無い雑談を交わしながら歩く学生の集団、どこかに向かって一人一直線に足早に歩いていく者もいる。それぞれが思い思いに日常を過ごしている。そんな普通の景色に少し安堵する。あまりの危機的状況に世界の全てが一変したような、そんな錯覚を覚えたが、実際そんなことは無い。外に出て、その日常の景色の一部となってしまえば、世間はいつも通りの平穏さを保っていることを実感できた。それだけに、先ほどの出来事は異常性を増すのだが。

 ようやく落ち着きを取り戻したころに、隣の柊がふと口を開いた。

 

「ねえ、綾崎くん」

「どうした?」

 

 話しながらも俺は歩くことはやめなかった。なんとなく、立ち止まってしまったらこの仮初の平穏さえも消え去ってしまうようなそんな気がしたからだ。

 だというのに、隣を静かに歩いていた彼女は歩を止めて、極めて真剣な面持ちで次の言葉を放った。

 

「貴方だけでも逃げてちょうだい」

「……は?」

「だから、貴方は逃げて。あれの狙いは私だから。私に巻き込まれて、貴方まで怪我をする必要ないわ」

 

 なんで、なんでそんなことを言い出すんだよ。

 自分でも無性に腹が立ってくるのが分かった。

 

「そう、全部私の問題。それを優しさに付け込んで他人になすりつけるなんてどうかしていたわ。今までだって、私は自分のことは自分で全部やってきた。だっていうのに、私は……なんてことを」

 

 なんだよ、それは。それはなすりつけなんかじゃない。なのに、クソ。何も言えない、だって俺は、こいつにそんなことを言わせてしまうくらい不甲斐なかった。

 それに、もう気づいている。柊の真意が。

 

「遅いかもしれないけど、あなた達を巻き込むべきじゃなかったわ。東風谷さんにも謝っておいてもらえるかしら。私なら大丈夫よ、一人でも一度目の襲撃は切り抜けたという事実もあるわ。むしろ二人でいるほうが危ない、ええ、そうよ。一緒に居て深い関係だと思われたら、もしかしたら貴方が人質にとられるかもしれない、そうなったら私に勝ちの目はなくなるわ。けど、今ならまだあの場に居合わせたクラスメイトで逃れられる、私の立場や正体を知って見限ったように思わせるのも容易でしょう」

 

 さも、柊は一人で居ることの方がメリットが多いように語ってみせる。でも、その実、二人で居ることのデメリットをあげているだけだ、一人なら一人でその場合の危険だって当然ある。ああ、そんな風に捲し立てるように言葉を並べる理由は分かっている。情けないことに、彼女は俺を、俺だけでも助けようとしているのだ。この状況で、彼女は俺だけでも確実に助かる手段を提案しているのだ。さも、自分一人の方が、勝算があるように言って見せて、俺が逃げても良い理由を作って見せて。

俺だって、柊を見捨てるような算段はしていなかった、でも、自分が逆の立場の時、こんな風に言えるだろうか。

ようやく見つかった自分のことを話せる相手、それを知ってなお協力してくれる者達、きっと俺なら、そこまでしてくれる相手には寄り掛かってしまう。俺の、期待せずとも期待には応えたいなんてのは、結局、独りで居るのが怖いから、自分に確実に目を向けてくれているような優しい人間を探してすり寄っていっているだけの卑劣な行為だ。

でも彼女は、そんな者達だからこそ、自分の身に起きる危機に巻き込まれて害を被るような目に遭わせたくないのだろう。彼女は孤独を恐れない。彼女は人が傷つくよりは自らが傷つくことを選び、そのように決断できるだけの強さと気高さを持っている。

さも孤高ぶってその実、いつだって誰かと繋がっていなければいけなかった俺とは違う。似ているなんて、俺のとんだ勘違いだ。それでも、俺たちと行動を共にしてしまったのは、孤独となった後の彼女にとってはじめて相手から差し出され、握られた手だったからだろう。

しかし、差し出してきた手の主が不幸に陥るのならば、その手を離すだけの勇気が彼女にはある。他者に手を伸ばさないくせに、差し出された手にしがみついている俺には、それが、少し眩しかった。

柊玲奈は強い。そして、優しいのだろう。少なくとも俺よりは。

彼女を見据える。

ダメ押しにと、彼女は俺に向けて言った。その顔は、安堵しているようでどこか寂しげで、互いの視線は交わらず、柊の視線は僅かに下に向いていた。

 

「それに、綾崎くんが私に東風谷さんの影を見るには、私は違い過ぎたんじゃないかしら」

 

その言葉は、俺の動機の核心を突いていた。

 周囲の音が、全て消えたかのように錯覚した。街を行き交う人の一部であった俺たちは世界から切り離され、今では忙しなく歩く通行人たちがモノトーンの景色のようにすら感じる。

 そうか、見抜かれてたか。

でもな。それはホントにきっかけでしかない。今は、それだけじゃない。

さっき、柊は俺を見捨てることだってできた。狙われているのは柊なのだから、俺を囮に我が身可愛さに逃げたって仕方がないことだと俺なら思う。けど、そうしなかった。

互いに話をして、危機を共に切り抜けて、今はちゃんと、こいつの事をどうにかしてやりたいって俺自身が思ってる。こればっかりは東風谷云々じゃなく俺の意志だ。

 

「ああ。お前と東風谷は、違うな」

「そうでしょう。じゃあ――――」

「最初に話しかけた時、柊と東風谷が重なったのは否定しない。なんか、独りで席に座ってる柊の姿がどうしても、中学の時の東風谷を思い出しちゃってな。でも、お前と東風谷は全くの別人だ。けどさ、それでいいと思う、それでも俺はお前に付き合うよ」

 

 柊は目を丸くして驚いている。呆気にとられたようで、二人の間に沈黙が出来る。なんだか出来た間がむずかゆくて、何かを喋らなければいけないような気がして、続ける。

 

「……まあ、俺に優しくしてくれる奴は少ないし、友達になってくれる奴なんてもっと少ない。なら、その少ない身内の為には多少は身体も張るさ、それに――」

「それに?」

「……東風谷が柊を助けようって言ったからな」

「っ!? ふふ」

 

 柊が思わずといった様子で吹き出して肩を震わせる、笑いを声には出さずとも大笑いしているのが分かる。ひとしきり笑った後に、彼女は、やはり可笑しそうに言った。

 

「貴方って、ホントに東風谷さんが主体なのね」

「んだよ、悪い?」

「いいえ、素敵だわ」

 

 なんだよ、そんな風に言われたら、何も言い返せねえじゃん。いっそ、中田みたく冗談っぽく笑いながら馬鹿にしてくれた方がいくらか返す文句も出ると言うのに。

 

「ほら、行くぞ」

「ええ」

 

 柊の数歩先を歩く。ここからなるべく人の多い場所を移動して、駅に向かって電車に乗って、東風谷の家へ向かう。東風谷はおそらく何らかの対抗手段を持っているだろうし、それが最善だろう。

 しばらく黙って歩いていると、ふと、少し後ろを歩く柊が声をかけてきた。

 

「ねえ綾崎くん」

「なに?」

「ありがとう」

 

 振り返ってみると、すぐそこに彼女の小さな、それでも確かな笑顔があった。直視できずに、ふい、と顔を逸らして前を歩く。東風谷もそうだが、女子のそういうのってホント、ズルい。余計に何とか力になろうって思ってしまうんだから。

 

 

 

 



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柊玲奈について 5

 なるべく人が多い時間帯を見計らって電車に乗って、東風谷の家に一番近い駅を降りた頃には既に日は沈んでしまっていた。流石にあの男が人ごみに紛れて同じ電車にまで同乗していたと言う事はないらしい。無人の小さな駅であるだけにここを襲われたらさっきのように逃げ切る手段が無い。

 ここまで来れば東風谷の家までもういくらもない。何事もなければだが、農道を歩いて小山の麓まで行き、そこを登れば守矢神社だ。

 だが、事態はそう甘く運ぶことはなく、街灯もろくになければ俺と柊以外に人も居ない薄い暗闇に包まれた道に一つの人影が現れ、こちらへと歩いてくる。

心臓が一際高く跳ね上がるのが分かった。これが東風谷ならばどれだけ心安らぐことだろうか。だが、そんな儚い希望は、徐々にはっきりとしていく輪郭にあっさりと打ち砕かれる。それは東風谷の身長を優に超えた長身で、改めてよく見ると痩せ気味だ。そして、薄手のコートと帽子を深くかぶった明らかに男の体格であるそれの手元には、俺たちにとっての何よりの凶兆である長い筒。

 ああ、くそったれ。結局こうなるのかよ。

 筒から、流れるように抜き放たれるわ、あまりにも美しく妖しい刀身。月の光に濡れたその白刃は息を吐いてしまうほど美麗だ。あれがこちらへ向かって振るわれると分かっていてなお、その美しさに目を奪われるほどの不思議な魅力がある。

 ああ、確かにあれならば妖怪でさえも斬り捨てることが可能に違いない。そんな確信が抱けるほどに、神秘的な何かが男の手の中にある刀にはあった。

 柊を隠すようにわずかに俺が前に出る。後ろで、柊の息が震えているのが分かった。

 

「少年、その女に誑かされているだけならば逃げなさい。私に人を斬る趣味は無い」

「そんな真っ当なことを言うあんたは猟奇殺人ってわけじゃないな。なんで柊を狙う」

「それは人ではない。妖怪の血の混じった化け物よ。君に理解できるとも思えぬが、妖怪とは人の恐怖を糧とし、喰らうことしか出来ぬ畜生にも劣るゴミクズだ。君が命を投げ出してまでかばう価値は無い」

「違う。他の奴がどうかは知らないけど柊は違う。それに、俺にとっての柊の価値は俺が決める」

「そう思うことこそが、それの術中の内とは考えぬのか。人に紛し、人の同情を買い、隙を突いて人を殺して喰らう。そいつら化け物の常套手段だ。退きなさい」

 

 ふと、柊を見やる。

 わずか不安そうな顔をしている彼女と目が合った。

なんでそんな瞳で俺を見てんだよ。信じろよ、俺は絶対にお前を見捨てたりしない。俺を見捨てなかったお前をこの場で見捨てるなんてするもんか。

だが、おかげで一切の躊躇なく次の言葉が出てきてくれた。

 

「断る」

「血迷ったか、見てくれに騙されるとは憐れな。どかぬならば仕方あるまい。貴様ごと斬り捨てる」

 

 まあ、そうなるだろうな。

 話し合いでどうこうなる段階はとうに過ぎている。向こうに柊を見逃してやる考えは無い。ならば、最初からそんな段階は無かったのだ。だが、俺だけならば見逃すと言うのは奴がそれなりにまともな思考をしていることを証明している。だからこそ厄介だ、狂人ではなく、明確な意思のもとに奴は柊を殺しにきているということなのだから。今聞いた話からすると、奴が殺そうと執着しているのは柊そのものというより、妖怪という種か。

 

「綾崎くん……」

「柊、さがってろ。俺がなんとかする」

 

 後ろで、柊がこくんと頷いたのが見えた。

 恰好付けてみたはいいもののどうすればいい。相手は凶器を持っていて、こちらは丸腰に近い。あるものといえば財布とケータイくらいだ。荷物持ちになるだろうからと身軽で来たのは手痛い。互いに空いた距離は10メートルにも満たない。走って詰めてこられたら、振るわれる刀を何度も避けるなんて自信はない。

 だが、ここで背を向けて走ったところで逃げ場所なんて無い。俺たちが唯一頼れる東風谷の家の方面は奴の背中だ。道の幅も広くなく、下手に横を通り抜けようとすれば斬られておしまい。

 クソ、端から終わってんじゃねえか。

 奴もこちらに、自分をどうこうする手段があるとは思っていない。そのせいか刀を構えたその姿にも随分と余裕があるように思える。

 じりじりと距離を詰めてくる奴と、近づいた分だけわずかに後ずさりする俺と柊。息が詰まりそうな緊張状態の中、ふと、奴の柄を握った手に力が籠められるのが分かった。

 来る――――!

 喝っ! という叫び声と共に、奴の全身が躍動した。その動きは稲妻のごとく。当たり前だが、素人がバットやらの長物を振るうのとは訳が違った。上段にまで振りあげられた刀が振り下ろされていくのがあまりにも鮮明に映った。人は、極限の集中状態になると、周囲がスローモーションに見えるなんて話を聞いたことがある。野球なんかでも調子のいい時には縫い目まではっきりと見えたなんて語る選手もいる。ならば、俺にもそういう何かが起こったのだろう。

 こちらに向かって袈裟に振り下ろされる刃、おそらくそれなりの速さで振るわれているのであろう、その刀の波紋までがはっきりと見えるのに、それが自らに向かって来ているのが見えているのに、それが俺の体を切り裂くのだと理解しているのに。

 悔しいかな、俺の硬直した身体は、それを避けるには遠く至らなかった。

――――ああ、終わった。

 コマ送りのように景色が流れるこの世界は、俺が一秒後の自身の終わりを理解するにはあまりにも充分であった。綾崎結鷹にこの一撃を避ける術は無い。

ならば、あとは終わりを待つだけ――――のはずだった。

 しかし。

 突風が全てを吹き飛ばした。

 俺を滅ぼさんと振り下ろされる刃が雷ならば、俺を救ったものは神風だった。

 風と共に運ばれてきた香り。それは、俺にとって身近なものだ。

 目の前には、その匂いの主たる少女が、立っていた。

 風に靡く緑の髪が月光のもとに神秘的に輝き、眼前に凛として東風谷早苗が立ち塞がっていた。

 

「――東風谷」

「大丈夫ですか、結鷹」

 

 お前って奴は本当に。このタイミングで来るとか格好良すぎだろ。

 俺が女なら惚れるぞ今のは。

 

「あ、ああ」

「危ないですから下がっていてください」

 

 東風谷は、奴が居るのであろう方を見据えながらそう言う。一体今何が起きたのか、そんな疑問が湧き、東風谷の向こう側にある奴を見てみると。

 

「なんてことだ。あらゆるものを斬り、怪異を殺すために代々継がれてきた刀がこうも容易く折られるとは。並の霊力をぶつけただけではこんなことはあり得ないのだが。その齢で何者だ?」

 

 言いながら奴は、自らの手元を見ていた。そこにはもはや原型を留めていない刀であったものの柄だけが残っていた。マジかよ。さっきの一瞬で、東風谷があいつの刀をへし折ったっていうのか。

 

「ただの風祝です。厳密には違いますが巫女と思ってくれてかまいません」

「それ程の力を持ちながら、妖怪退治を生業とする者でないと?」

「はい。必要であればそういうのもするつもりですが、少なくとも柊さんにはその必要はありません。私が責任を持つので手を引いてはもらえませんか?」

「商売道具たる刀を折られてタダで引き下がれと言うのか」

「人の大切なものに手を出した罰ですよ」

「なるほど。若いながらに肝が据わっている。そして力もあるとはな。その力はおよそ現代の者とは思えない。妖怪が跋扈していた頃の猛者にも届くだろう」

「今なお残る二柱の神様お墨付きなので」

「く、はは。神ときたか。いや、貴女のような者が居るならば、私が手を下すまでもありません。この一件、貴女に預け、私は手を引きましょう。して、お嬢さん、お名前は」

「東風谷。東風谷早苗です」

「ならば東風谷嬢、気をつけるといい。妖怪なぞ害しかもたらさぬ獣以下の生き物。生かしておいて良いことは一つも無いぞ」

「……」

 

 それは、あの男の心からの警告だったように思えた。だが、そんな心遣いは不要だと、何も言わねど東風谷の佇まいはそう語っていた。その様子を確認したのかどうかは分からないが、男の姿が夜の闇の中に消えていったのを見送ると、東風谷がこちらに振り返るのが分かった。

 無事な俺たちを見て、ほっとする彼女の表情を確認すると同時に、全身の緊張が解けたのか、俺の視界は異常に明滅し、意識が遠のく。

 あ、――――れ。

最後の瞬間に見えたのはこちらへ必死に何かを呼びかける東風谷の顔だった。

 

 

 

 縁側に座って、空を見る。湯につかって火照った体に夜の涼しい風は気持ちが良い。

柊は無事で、俺たちにも怪我はない。結果を見てみれば、今回の件は最大級の成功といっていいだろう。だが、俺には達成感や満足感はとても持てなかった。柊や東風谷が無事だったのは心の底から安堵している。相手は凶器を持っていたのだ。そんな相手から、生き残るだけでなく、追っ払ったのだから凄いことだ。

では、何が引っかかっているかというと、俺だけは何も出来なかったという事実だ。

 結局、東風谷が一人で解決してしまって、ならば、東風谷に全てを一任して、俺はとっとと帰っていれば良かったのではないか。俺が居なくても、いや、居ない方がもっと簡単にこの件は処理できたのではないか。

 いや、そうじゃない。だって、柊は無事だった。なら、それはそれでいいんだ。別に困っている人間を助けるのが全て俺じゃなきゃいけないなんて、ヒーロー願望なんてないわけだし、彼女が助かればいいと思って、実際に助かった。そのことを喜ばしく思う。祝福しよう。それ以上もそれ以下もない。

 だから、俺が本当に引っかかっているのは、柊云々ではなく。

 東風谷と俺の事だ。

 そうだ。結局また、差を感じる結果だけが残った。ただ、東風谷が俺よりもずっと力を持っていて、それを行使して柊を助けた。それだけのことに、理解はしていてもやっぱり俺は引け目や負い目を感じずにはいられない。対等で在ろうとして、隣に立とうとして、それでどれだけ近づいても、いつもあいつの背中を遠く後ろから追いかけているような、そんな気分になる。

 小山の中はこの東風谷の家だけしか灯りがないせいか、空には星が幾つも瞬いていた。夜空に浮かんだ月と星とがあまりにも綺麗で、いつもよりずっと近く感じて、手が届きそうなんて感じて、なんとなく手を伸ばす。

 当たり前だが、上空にかざして握った手は星を掴めるわけも無い。

 ああ、東風谷早苗はあの星とそう変わらない。

 こんなにも身近なのに、なんて、遠い。

「結鷹?」

 ふと、背中から声がかけられた。今、想っていた相手の声が突如として背後から聞こえたせいで、肩が跳ね上がった。

「こ、ここ東風谷か? なんだよビックリしただろ死ぬかと思ったじゃないかバカヤロー」

「そんな驚かなくてもいいじゃないですか。何してたんですか?」

 言いながら、彼女は俺の隣に座り込む。ほのかに香る、いかにも風呂上りというシャンプーの匂いで、心臓が跳ね、わずかに身じろぎして、身体は反射レベルの速度で彼女との間隔をあける。そうして、わずかにあけた距離を、何を思ったのか東風谷は詰めて体を寄せてくる。

「……」

「……」

 もう一度、身体をずらすも、その分だけ東風谷も詰め寄ってくる。互いの距離が離れては近づく度に、良い香りが鼻孔をくすぐり非常に心臓に悪い。ホント、この子こういうのホンットマジでドキドキが止まらないからやめてくれる? あなたの、そのふとした仕草や行動がね、思春期男子を惑わしているという自覚を持っていただけない? 

 この様子じゃ何度やっても無駄だと思って、その妙に近い距離から目を逸らすように夜空を見上げて口を開く。

「何にも。ただ、下の方じゃこんなに星は綺麗に見えないからな、眺めてた」

「ここから夜空を見ると、天気のいい日はいつもこんな感じですよ。結鷹さえ良ければいつだって見に来ればいいのに」

「バッカ、よく泊まりに来てたガキの頃じゃあるまいし、こんな日でもなきゃ、こんな遅くまで東風谷の家に居ないっつーの。年を考えろ年を」

「花の女子高生に向かって、お年寄りに言うような言葉は謹んでいただきたいものですね」

「お前な」

 本当、心臓に悪い子ですよ。自分の言っていることの意味を理解してるんだろうか。他の男子なら勘違いして襲っちゃうレベルの発言だぞ。全く、その台詞を聞いたのが俺で良かった。なんて紳士的な切り返しだろうか、流石俺。

「結鷹、ちょっと気になるんですけど」

「どうした?」

「なんでさっき、空に手なんか伸ばしてたんですか?」

 小首をかしげて心底不思議そうに問うその姿はまるで小動物のようだ。というか。

「……見てたのかよ」

「はい、見ちゃいました」

 ……見てたのかよ。恥ずかしさのあまり声と心で復唱しちまったじゃねえか。くっそ、恥ずかしいんですけど。独り感傷に浸っていた姿が実は他人に見られていたとか、黒歴史レベル。

「べっつに。ここじゃ星があんまりにも近くに感じるから、手が届きそうだなって。ただそれだけだよ。まあ見えてはいても、本当は遥か遠くにあるもんだからな、届くはずもないんだけどさ」

「なんか、たまに結鷹ってロマンチックというか乙女みたいなこと言いますよね、もしくは中二病ですね」

「今日はおかしな日だから、おかしなことを考えついちゃったの」

「そうですか」

 ああ。本当におかしな日だ。たまたま高校の合否発表の場でぶつかっただけの女子が実は妖怪の血を引いていて、そいつが今まさに命を狙われているということを知って、そのまま凶器を持った犯人とバトルなんて、実際に体験してなきゃ笑うレベルの現実味の無さだ。

 そんな日だからだろう、柊玲奈と知り合ったからだろう。こんな、改めて東風谷とのことを考えてしまうのは。

「まあ確かに星は遠いですよね、見えているのに、どんなに手を伸ばしても科学が発展しても、私たちではあの星には生涯辿り着けないんですから。でも」

 東風谷は、そこでわずかに間を置いて。

「――――私はここに居ますよ」

 その言葉に、思わず隣を見る。同じように空を見上げているのだとばかり思っていた東風谷は、こちらを見ていた。月明かりに濡れた彼女の顔は、優しげだった。わずかな儚さをもったその表情と言葉に、思わず、息を呑む。俺の思考を、言動に含めてしまったそれを見透かされたような気がして、頭は馬鹿になってなんて返せば分からなくなって、言葉に詰まる。

 心臓の鼓動がやけにうるさい。

 視線を逸らすことを許されてないかのように、東風谷へと視線が吸い込まれる。わずかに上気した顔、こちらを捉えて絶対に放さない瞳。妙に艶やかに見えるふっくらとした唇。それらが、強く東風谷早苗という存在を主張している。

「……そりゃそうだろ。東風谷はそこにいるんだから」

 出てきたのは、こんな言葉だった。答えを避けるかのようなそれでも、東風谷は満足げに頷いてくれた。

「そういえば、柊は?」

「もう寝ちゃいました。柊さん、この頃よく眠れてなかったみたいで」

そらそうか。命狙われて呑気に睡眠取れるほうがおかしい。

「……東風谷はさ」

「はい」

「俺が柊を見捨てるとは思わなかったのか? 今回の一件。俺が我が身可愛さで柊を置いて逃げ出すとは」

 少しだけ気になった。俺には東風谷みたいな力は無い。普通の人間だ。そもそも、俺が柊を嫌う可能性だってあったはずだ。東風谷は、俺に任せるのはリスキーだとは思わなかったのか。

「正直、見積もりが甘かったというのがあります。私自身、油断してました。そのせいで、結鷹にも柊さんにも怖い思いをさせてしまいました。けど、結鷹ならきっと大丈夫だって思ってましたよ。何があってもあなたは絶対に柊さんを見捨てないって」

「なんで」

「だって、あなたはどんなに捻くれてみせても、結局、義理や人情、その善性を捨てきれない人ですから」

 そんなことを愛おしそうな表情で東風谷は言う。その表情が妙に色っぽく見えたせいで、俺の顔が、急に熱を帯びるのが分かった。

「なに言ってんだよ。俺がそんな大層な人間なわけないだろ。その証拠に友達なんざ中田くらいしかいないしな。義理人情なんざ俺からかけ離れた言葉だ」

 照れくささのあまり、必死になって否定する。動かす口がどこかぎこちない。第三者から見れば、今の俺はひどく見っともないに違いない。

「そうなんですよね、結鷹は。むしろ普段はそういうものを鼻で笑うくせに、いざって時にはそういう感情に強く動かされる。人の目につく枝はねじ曲がってるのに、根は真っ直ぐなんです。おかしな人ですよ、本当に」

「……」

「きっと、あんまりにも真っ直ぐだから、目につく部分は周りに曲げられてしまったんですね」

 彼女が目を細めて、どこか遠い場所を見る。きっと、昔のことを思い出しているのだろう。

「私は結鷹のそういうところ、好きですよ」

 他の人は何で気づかないんですかねえ、なんて独りで言っている彼女を横目に、直前の言葉に反応して、ほぼ無意識に口が動いた。

「俺も――――」

 お前の事が――――、その先を言おうとして、飲み込んだ。

「……なんて。おかしな日だから、普段は言わないようなことを言ってみました」

 そう言って、お茶を濁すように、照れくさそうに舌を出して笑う東風谷に、しかし、やはり見透かされているような気分になる。それでも、今の続きを言わなくて良かった、何を血迷ってんだ俺は。それを言ったら引けなくなる。なにかが致命的に壊れてしまうというのに。

「お前なあ……」

 満天の星がきらめく空を二人で見つめながら、おそらく、それぞれ頭の中では別の事を考えていた。

 隣に座る東風谷の気配は、いつもよりずっとしおらしい。星を見上げて、想いを馳せるなかで、彼女の頬を薄く、一度だけ伝ったものの正体を、その理由を、俺は聞けない。きっと、彼女にとっても聞かれたくないものだろう。

 人と人との関係はいつか終わりが来る。どちらかが死ぬまで友人として関係が続く相手も居れば、ふと、会うことがなくなり関係が途絶えることもある。そして、おそらく、東風谷と俺の関係は前者のようになることはないと、ずっと感じている。

そして、その終わりの間際に、俺に出来ることは一つもないのだろう。

 この一瞬を大事にしよう。時間はあまりにも膨大にあるせいで、勘違いしそうになるけれど、それでもちゃんと消費されている。塵も積もれば山となるというが、逆を言えば山も少しずつ削られればいずれ塵となるのだ。気づけば何もかもを手放している、なんてごめんだ。

 隣で、東風谷の息遣いを感じる。本来、交われるはずの無い道がこうして交差している、この幸せはいつまで続くのだろう。

 ふと、一際強く輝く星が目についた。

 半ば確信に近い予感が俺の心に穴を穿ち、その虚が俺の不安をかきたてる。

 永くは続かない、と。

 遠くてもいい。せめて、あの星のように見えるところにさえ居てくれれば、俺はそれで充分なのに。

きっと――、彼女は流れ星のように、いずれ俺の世界から消えていってしまうのだろう。

 

 

 

 後日談。

 あんなことがあったのに、普通に学校に来ていて、授業を受けて、過ぎていく時間は本当にいつも通りの日常で、あれは夢だったのではないかと思う。

 そんな現実か夢かも分からない、浮足立ったような感覚のまま四つの授業が終わってしまった。東風谷は今日も例の教室に行っているのだろう。呼び出されるまでもなく、教室を出て、あの空き教室に向かう。

 パンと飲み物を机に並べて、適当な席に座って東風谷を待っていると、がらら、と扉が開かれた。音の方を見やると、意外な人物が居た。

「……柊か」

 東風谷かと思った。

「こんにちは。残念だったわね、東風谷さんじゃなくて」

「ぶ、そんなこと一言も言って無くない?」

 なんなのこいつ。エスパーかなんかにでも目覚めたの。人の心勝手に読むのやめてくれる?

「東風谷さんが関わると、あなたは分かりやすいのよ」

「……そうかい」

 何を言っても柊に突かれてボロが出そうなので会話を断ち切る。

改めてみると、特に喋ることが無い。

 柊もそう感じているのか、他に誰も居ない教室に静謐な時間が流れる。廊下の喧噪もどこか遠く、まるで世界から切り離された空間のようだ。

 だが、意外にもこの静けさは心地が良かった。どこの誰とも知らない奴と二人きりにされた時に感じるような気まずさは、彼女に対してはない。彼女もそのように感じているのならほんの少し嬉しいと思う。

 そんなことを考えていると、ふと、柊が口を開いた。

「そういえば、綾崎くんに少し聞きたいことが」

「なんだ?」

「東風谷さんのことどう思っているの?」

「ぶふぅっ! い、いきなりなんだよ!? そういうのってもっと気を遣って聞くもんじゃないの? 親しき仲にも礼儀はあるんだよ!?」

「何を勘違いしているのかは……分かるけど、私が聞きたいのはそっちではなくて、この前の話よ。私と東風谷さんは違うって……」

「そっちかよ」

「だいたい、そんなの丸わかりじゃない」

 柊がぼそっと言った言葉は、それが俺の耳に入る前に咳払いと共に有耶無耶にした。

「まあ、あいつはさ。なんていうか、柊とってより、俺らと違うんだよ。柊も聞いてると思うんだけど、東風谷は中学の時、あいつの特殊な部分のせいで随分苦心して、一時はイジメられてた。普通、一回こういう経験したらさ、もう人間なんて信じられないだろ。他人に線引いちゃいそうなもんなんだけど、なのにさ、不思議なんだけど、東風谷は諦めないんだよ。人ってものの好き嫌い以前の根本的なところで人間って生き物を信じてるっていうか受け入れてるっていうか。俺に対してもそうだったけど、今だってあいつは凝りもせず学校で人に囲まれてるしな。生まれつき、神様なんてものが見えるせいなのかもしんないけど、あいつのそういう部分は超然としてるっていうか、本当に東風谷らしいけど、どうしてあんな風にいられるんだろうな」

 柊がきょとんとした顔をしている。なんだよ、そっちが聞いたんじゃん。

「い、いえ。そこまで熱く語られると思わなかったから。あなたって本当に……まあ今更ね」

 その先を口にしなかったのは柊なりの配慮だったのか。呆れたような表情をしたあとに一度咳払いをすると、彼女は真剣な面持ちに変わった。

「多分だけど、そんな大したものじゃないわよ。私と東風谷さんは色々違うけど決定的に違えたものは一つだけ。彼女があなたが言うように在れたのは、それはきっと――」

 ふと、こちらに眼差しが向けられる。それは優しげで眩しそうで、羨ましそうな、それでいながら見ているこちらの胸が少し痛くなるように寂しげな複雑なものだった。

「ん? なんだよ」

「いいえ、なんでもないわ」

「なんでだよ、そこまで言ってやめるとかめっちゃ気になるだろ」

「これをあなたに言うのはなんだか色々と癪だわ」

 マジかよ癪なのかよ。どこに地雷があるか分かんねーな人間て。何が悪かったのかすら分からない俺のコミュニケーション能力の欠如が凄まじいんだが。

 自分に呆れていると、扉が元気よく開け放たれ、東風谷がやってきた。ばたばたと忙しそうにこちらの席に駆けてくる。それを柊は挨拶しながら微笑ましそうに見ている。

 この場所では、クラスの中じゃ決して溢すことのない笑顔を見せる柊と、誰にでも平等に笑顔を配るようにいつも通りの笑顔を見せる東風谷。夢見心地のような一日だったが、目の前にある二人の笑顔だけがそれを現実なのだと教えてくれる。

「ふあ、眠いな」

 窓の外では桜の花びらが祝福の紙吹雪のように舞っていた。そんな春真っ盛りに、柊玲奈という少女の凍てついた時間はようやく溶け始め、彼女の長い冬が終わったのかも、なんてそんなことを二人の少女の話し声を聞きながら思った。

 

 

 



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あの日の奇跡と東風谷早苗について 1

 春が過ぎ、夏が過ぎ、季節は秋。夏休みがあっという間に過ぎ、あけてから二週間ほどが経った。未だ暑さの残るこの時期は、長い休み気分が抜けないのも相まって、学校中の生徒がどこか気だるげだったが、今はわいわいと騒がしい。それぞれが仲の良い友達連中と話しているが、話題はある一つのことでほとんどを占めていた。台風だ。それなりに大型らしい。もしかしたら明日明後日には休みになるかもしれないという旨の話は、ウチのクラスでも担任からも聞かされており、不意に訪れた休みというのは、誰にとっても嬉しいものだ。ということで台風の話が生徒間では持ちきりなのであった。

昼休みの時間になり、俺がそんな喧騒から背を向けて、例の空き教室へと歩を運ぶのは、もはや習慣や習性に近いものになっていた。

 廊下を歩きながら、なぜだか違和感を覚える。

 実はこの違和感は今に限ったことじゃない、ここ最近ずっとだ。

 何かを忘れてしまっているような感覚、だというのに、何を忘れてしまったのか、何に関連するようなものなのか、全く思い出せない。そして、それを思い出さずとも、違和感を拭わずとも日常は進んでいく。つまりは、その思い出せないナニカは、無くても俺という人間の人生が緩やかながらも費やされていくのに支障ないと言う事なのだ。

 それがどこか無情で、物悲しいことのように感じた。

 

 誰も居ない教室に独り座って食事を始めていると、がらら、と音をたてて扉が開かれた。そちらを見ることもなく、俺は思い当たる人物の名を呼ぶ。

「柊か」

「ええ」

 ここに来る人物は俺の知る限り一人しかいない。それが彼女だ。昼休みにはここに来て、二人で各々昼飯を片付け、喋ったり喋らなかったりして、昼休みの残りの時間をここで過ごす。飽きる程に繰り返された日常だった。

 お互いに持ち合ったものをそれぞれが食べ終えると、沈黙が訪れた。柊は文庫本を引っ張り出して読み始める。俺はなんとなくぼうっとしている。自分も本でも読もうかと思ったが、さっきも言った妙な違和感のせいで何も頭に入って来ないだろう。柊と喋る時間は言うに及ばず、俺はこの静かな時間があながち嫌いじゃない。

 ただ、少し、不思議に思う。

 柊玲奈は俺と同じクラスの人間だ。ならばクラス内で同席すればいいだけの話。男女二人で机を合わせて食ったりしていたらそりゃ多少はクラスの中でも目立つだろう。

 しかし、それを差し引いても。

どうしてこんな空き教室を見つけて、わざわざこの場所で過ごすなんていうことが習慣となったんだっけ。

 

 昼休みの終わりを告げるチャイムがそろそろ鳴ろうかという頃。早めにあの空き教室を出て、クラスに戻ろうとしていた俺と柊だったが、柊が突然、途中の他のクラスで足を止めて、開け放たれたままの扉から教室内を見始めた。

 どうしたんだ、と声をかけようとした瞬間に、教室からバタバタと駆けてくる男子が居た。そいつは柊の目の前に躍り出て、人のいい感じの笑顔で尋ねた。眩しい。

 めっちゃ爽やか。こうして出てくる時点でそれなりに自信のある人間なのだろう。背も高く、パッと見で顔もそれなりに良い。むかっ。雰囲気からして俺とは相いれないタイプの人種な気がする。

「柊さん、だよね。誰かに用? 俺が呼ぼうか?」

「いいえ、特に用は無いわ」

「そ、そう」

 邪魔よ、と語尾についてもおかしくなさそうな柊の態度に、遣る瀬無さそうに男子は元いた集団の中に帰っていた。あしらわれたことを、おそらくからかわれてるのだろう。そのグループからどわっと大きな笑い声が聞こえてくる。

 まあ、あの男子の気持ちも分からないでもない。柊はおそらくこの学校の中じゃとびきりと言ってもいいくらいに出来た女子だ、可愛い女の子とは機会があればお近づきになりたいと考えてしまうのは、思春期男子にあって当然の思考だろう。柊は顔も良ければ成績も良い。他クラスでもそれなりに話題になっているであろうことは、中田くらいしか接点の無い俺でも分かる程。

 とはいえ、こいつは安易には他者を寄せ付けない。話をかけようとしても軽くあしらわれ、取り付く島もないというのを幾度も見てきた。なんとかつながりを作ろうとして玉砕していく彼らを見ていると、俺はよくこいつと昼を一緒に食べる程度には仲良くなれたものだと思う。そんな柊が俺とは行動を共にするので、一度は色恋云々の噂がたったのだが、今では普通に友人として認識されている。

 まあ、陰で何を言われてるかは分かったもんじゃないが。中田を通じて耳に届いた噂の一つに、俺が弱みを握って柊を従わせているというものがあったのだが、流石に俺もドン引きだった。

「ごめんなさいね、急に立ち止まって」

「いや、いいけどさ、なんかあったのか? あの男子じゃないけど普通に気になるんだが」

「いいえ、何でもないのよ本当に」

「そうか?」

 柊は俺の問いから顔を背けるようにして、もう一度教室内を見た。小さな箱庭を見つめる柊は神妙な面持ちであった。

 痛ましそうな表情をほんの一瞬だけ覗かせた彼女は、向き直って、それでもこう言った。

「ええ、何でもない。行きましょう」

 悲しそうな辛そうな、複雑な表情。

 そんな風に見えた彼女の表情は既に平常のもので、そのあとの柊はいつも通りだった。

 けど、思い違い、ではない気がする。

 さっきのは俺自身が何か思い当たるからこそ、そう見えたのだ。

 そう感じるのに、何かが変なのに、それを拭うための取っ掛かりが全く分からない。

 何かが抜け落ちてると言う感覚があるのに、不気味なほどに順調に過ぎていく日常。わずかな軋みすらないこの日常の、どこに綻びがあると言うのだ。

 ――――いったい、なんだってんだ。

 

 夢を見た。

 そこには、まだ幼いといっていいだろう俺と、誰かが居た。幼い自分と同じ年頃の女の子だ。どこかも分からない山道の石造りの階段に二人で座り込んでいる。不思議なことに、そいつの表情は口元しか分からない。それより上は、まるで靄がかかっているようで、見えている筈なのに認識してくれない。柊だろうかと考えたが、よく考えてみたら彼女との交友は高校からの出来事だった。夢だからそこら辺が適当になっているのかもしれないとも思ったけど、やっぱり彼女では無いだろう。

 そう感じたのは、女の子の長い緑の髪のせいだ。

隣に座る彼女にはたくさんの友達がいる。俺もその内の一人だ。だけど、そんなたくさんの人たちの中で、俺だけがこの女の子の緑髪を知っているのだと確信していた。確認する術も持たないが、それは絶対だ。そして、なんだかそれはとても誇らしいことのように思った。

そう、俺はこの隣に座り込む女の子のこの緑の髪と、溢す笑顔が好きだったのだ。

そして、そのことを知って嬉しそうに笑ってくれた女の子が、本当に大切だったのだ。

緩やかに時間が流れているのが分かる。空は綺麗に澄んでいて、心地のよい風が全身を撫でた。心が久々に窮屈な違和感から解放され、退屈を忘れた。ずっとこの場所にこの子と居られるのなら、そうしたいと、本気で思う。

隣に座る彼女もそう思っているのだろうか、いてくれると嬉しいな、なんて、そんなことが気になって、ふと、横を見る。俺が彼女を見るのとほぼ同時に向こうもこちらに顔を向けた。表情は相変わらず靄がかかったように見えないのに、目が合ったことが分かった。

 彼女の口元がおかしそうに笑いながら、俺の名前を呼んだ。音は聞こえない、まるで深い水中にあるように音は聞こえず、暗い水底に溶けていく。それでも、俺を呼んだのが分かった。

――ねえ、ゆたか。

 彼女が俺を呼んだように、俺も彼女の名を呼ぼうとして、それで――――。

――――――――。

――――……。

 帰り道。いつもならウキウキで、なんなら学校に居る時の万倍元気に帰路についているはずなのだが、今日はそうではなかった。台風が間近に迫っているせいか。天候があまりよくないのもある。どんよりとした暗雲が太陽と青空を完全に覆い隠し、気が滅入るくらいの曇天模様だった。幸いにも雨足はそこまでだ。大して強くない今の内にちゃっちゃと家に帰ってしまうのが吉だろう。その悪天候と、ずっと残っている妙な違和感と、さっきの夢が相まって、気分は最悪に近かった。唯一気が安らいだ時間が、柊と過ごした昼休みと夢の中とはなかなか笑えない。

 まあ、そんな冴えない気分のせいか、自然、顔は下を向いてしまう。それでも身体が覚えている感覚だけで道を歩けていたせいで、曲がり角から出てきた誰かに気づかず、ぶつかってしまう。

「きゃっ」

「っぶ!?」

 何を言おうとしたかというと「危ない」である。しかし、俺の心労も相まって反応の驚くべき愚鈍さから、本来ぶつかる前に避けようとして発する言葉をぶつかる瞬間に言おうとして、言えなかったのだ。

「あ、すみません。だいじょ、うぶ……か」

 本能的に謝罪が出たが、そのぶつかった人物を見て、おもわず口が止まる。向こうも、こちらを見て愕然としていた。俺が、口を止めてしまった理由。それは、ぶつかった人物。俺と同じくらいの年であろう女の子。それが、あまりにも、夢の中のあの女の子と一致していたせいだ。だって目の前の女の子には、きっとこの世に二つと見ることがないであろう、その緑の髪が、あったのだから。

「あの、これ落としました。ぶつかっちゃって本当にごめんなさい。私、先を急いでいるのでこれで」

「あ、ああ」

 言いながら、手が差し出される。受け取る手にちょこん、と落とされる何か。その手の仕草に思わず心臓が高鳴る。女の子はそれを俺に落とすと足早に駆け去って行ってしまう。

 突風のように現れて去っていた彼女に妙な親近感が湧く。今までズレていた何かが、一瞬だけ元に戻ったようなそんな感覚があった。

 手元に視線を落とす。

渡されたそれは、お守りだった。そう、俺が日ごろから身に着けている大切な――――。

 あ、れ?

 なんで、俺はこのお守りを大切にしていたんだっけ?

 わずか、心に沸いた疑問。それで、電流が全身を駆けるように、急に彼女ともっと話さなければならない気がして、去っていった方を見る。しかし、さっきまでの空白は彼女に追いつくのを不可能にするのに十分な遅れを生んでしまっていたようで、彼女を呼び止めようとした時には既にその姿は消えていた。

 



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あの日の奇跡と東風谷早苗について 2

 自室のベットに横になりながら、さっきの出来事を思い返す。夢の中の女の子がそのまま成長して現実に出てきたような少女。今まで肌身離さず持っていながら、なぜ大切だったかを忘れていたお守り。そして何より、あの瞬間、唐突に襲ってきたあの子を引き留めなければいけないという感覚。それを感じながら、彼女に声をかけることが出来なかったこと。それが、途轍もない重大なミスを犯してしまったかのように、ずん、と心に重くのしかかる。

 心のモヤモヤを払う様に言い訳を独りで呟く。

「だいたい、話しかけたところで何を話すってんだ……」

 そうだ。俺は誰彼構わず女子に話しかけるようなナンパ男じゃない。話せる相手も限られているし、顔も知らない相手にきれる話題の手札もない。じゃあ、名前でも聞いて、どっか遊びに行かないとでも言うのか。って、それこそナンパと変わらねえじゃねえか。引き留めなければと感じたのに、引き留める理由が見当たらないのだから、仕方ないじゃないか。ならば、あの場面はどっちにしろああなっていたのではないか。

 くそ、なんだよこれ。

 何でこんなに落ち着かないんだ。

「あれ?」

何かヒントになるかもしれないと思いつき、ポケットに入れておいたお守りを取りだそうと、ズポンのポケットに手を突っ込む。その時になって気づく。ポケットの中をまさぐると、どうにも、同じ形をしたものが二つある。その内の片方を掴んで出すとついさっき彼女に落としたと言われて手渡されたものだった。俺が本来持っていたものと瓜二つだが、よく見てみたらこちらの方が断然新しい。

何となくかざして眺めていると、いつの間にやら口の部分が緩んでいたのか、するっと、中に入っていたのであろう紙が落ちてしまう。それは小さく小さく折り畳まれていて、本来のお守りの中身のものとは思えない。気になって、折りたたまれたそれを開いていくと、中には文字が書かれていた。

「手紙か? なんでまたこんなのの中に」

 よくみれば、それは便箋だった。そして、宛名にはいかにも女の子っぽい文字で、こう書かれていた。

 

 ――――綾崎結鷹くんへ。

 

 その文字を視界が正確に捉えた瞬間、ずきり、と頭に痛みが走った。正直、痛みは尋常でない、平時にこんな痛みが起きたら、その日は寝ていようと思うほどだ。それでも、その先が気になった。視線は、その先に綴られた文字を追う、脳はそれを躍起になって止めようとしているのか、更に痛みを強めた。

 

 

 

 あなたがこれを読んでいるということは、おそらくあなたは私のことを覚えていません。

 名も顔も知らない人間からの手紙ということで、気味が悪いと思ったのなら破って捨ててしまっても構いません。でも、私個人の気持ちとしては、最後まで読んでから破棄することを願っています。

 あなたの知らない人間の話ですから、どこか遠い人の話だと思って読んでくれると、幸いです。あと、こんな風にちゃんとした手紙を書くのは、実ははじめてなので、まとまりの無い文章でも許してくださいね。

 私がはじめてあなたを見たのは、小学校の一年生の時です。正直、じれったい奴だと思いました。だって、いつも仲の良さそうな人たちの和を見て、入りたそうにしているのに、絶対に話しかけてこないんですもの。だから、最初は、子供心におかしな子だなあ、なんて思ってました。でも、まさかあとになって、その男の子に救われるなんて、当時は思いもよりませんでした。

 私はその時、既にある悩みを抱えていました。神様が見えること、自分の髪のこと。私にとってはこの二つとも本当に誇らしくて堪らないことだったのですが、悩みというのは、それを誰に話しても真剣に向き合ってはくれなかったことです。

 神様が見えることを両親に話すと、昔の人は見えたのかもなあ、なんてはぐらかされたり、上手な作り話だって笑ったりで、髪の事を友達に話すと、みんなは私の緑の髪のことを綺麗な黒髪だって言うんです。

 けど、そんな時、幼い私のほんとにほんとに小さな世界ですけど、その世界でたった一人、あなただけが私の髪の事を言い当てて、好きだって言ってくれたんです。

それが、あの時の私にはたまらなく嬉しかったんですよ。

 だから、小学校高学年の時に、クラスが替わって何も話さなくなった時は本当に傷つきました。中学じゃ最後まで同じクラスになれなかったし、たまに目が合っても挨拶すらしないし、おのれ結鷹……なんてこの頃の不満だけで書くスペースが無くなりそうなので、この辺でやめておくことにします。

……私は幻想郷という場所へ行きます。その場所では、なんと遥か昔のように、妖怪や神様が畏れや信仰を得て、活動しているようなのです。ここなら、神奈子様や諏訪子様……私が仕える二柱の神様も消えることなく、存在し続けることが出来るでしょう。

私は、恩人に何も告げずに去っていく薄情者です。どうかどうか、そんな人間に気を囚われずにこの先の人生を歩いてください。

この手紙の入っていたお守りはあなたに差し上げます。きっと、あなたを護ってくれるでしょう。

あなたの幸せを心から願っています。

さようなら。

 

 

 

――――東風谷早苗より。

 

 

「こちや、さなえ」

 手紙を読み進めるたびに、綴られた文字を追うごとに、記憶が舞い戻る。その名前を言葉に出して呟くと、それは確かなものとして思い出された。

 ああ。ああ、そうだ。東風谷だ、東風谷早苗だ。

 何で、何で忘れていたんだ。

 ムカつく。心底ムカつく。

東風谷に対してじゃない。あいつにも色々言いたいことはあるが、そうじゃない。俺があいつの居ない日常を享受していたことがムカつくのだ。それをただの違和感として見過ごしていた点が、俺は心底ムカつく。

俺は自分がそれなりに温厚だと自負しているが、今回ばかりは腸が煮えくり返る思いだ。

いや、むしろ、全てを忘れても、違和感だけは消えなかったことが、せめてもの救いだったのか。

でなければ、俺は何にも疑問を抱かず、この手紙にさえ気づかなかったかもしれない。

改めて、その小さな手紙に視線を落とす。

本当にふざけた手紙だよ。何がさようならだよ。その下に、ありがとうって一回書いて消してんのが見えてんだよ。ところどころに水滴が落ちて、文字が滲んで読みづらいったらありゃしない。

あなたの幸せを願う? ふざけるな。

散々振り回されてきた俺だったが、今回ばかりは東風谷に一発きついのをかましてやらなければ気が済まない。

だが、その前に。

俺はケータイを手にとって、ある相手に電話をかける。その作業の最中に電話帳を見やると、もはや交流が絶たれたと言っても過言ではない、中学の同級生たちの連絡先や中田のはあるのに、東風谷のだけはどういう手品か消えていた。東風谷とのやりとりを残していたメールボックスも謎の迷惑メールに変わってしまっている。

東風谷早苗の痕跡は、俺の記憶と、今の手紙とお守り、そしておそらく―――。

ぷるる、という電子音がしばらくすると消え、向こうから声が聞こえる。

「もしもし、こんな時間にどうしたの? 綾崎くん」

 丁寧な対応ありがたいが、今回は急ぎだ。色々省かせてもらう。

「柊、お前、昼休みの終わりに他クラスの教室を覗いていたよな」

「ええ、それがどうしたの? あれなら何でもないと――――」

「あれは、東風谷を探してたんだな!」

「……ええ。その通りよ……、思い出したのね」

「柊、聞いておきたいことがある」

「何かしら」

「前に東風谷の話をしたとき、柊は、なんて言おうとしたんだ?」

 結局、柊は言わないまま、東風谷も来てしまい有耶無耶でその場は終わってしまったが、今、聞いておかねばいけないと、そう思った。

「柊と東風谷が決定的に違えたものってのを、教えてくれ」

「……それは」

 わずかに電話の向こうで柊が躊躇するのが分かった。ふう、と深く息を吸ってから、彼女は静かに告げた。

「……それはね、あなたよ。綾崎くん」

「え?」

「ええ、あなたが居たから東風谷さんはきっと、あなたの思うような在り方のままでいられたんだと、私はそう思うわ」

「そんな、そんなはずは無いだろ。じゃあ柊はもし俺が東風谷じゃなくお前の近くに居たら、立場が変わっていたって思うのか?」

「それは分からないけど、東風谷さんにとってのあなたのような存在が居てくれたなら、私はきっと……」

 どこか遠い出来事を話すように喋っていた柊はそこでわずかに口篭ったあとに、そんなことはあり得ない、起き得なかったのだと納得するように、いいえ、と呟いた。

そうして、確かな声でこう言った。

「あなたは、あなたが自分で思うほど、小さな存在ではないわ」

 それは何というか、俺にとって現実味の無い意味を含む言葉なのに、自分で散々否定しきたことなのに、不思議と心に沁みた。もしかしたら、ずっと誰かにそう言ってもらいたかったのかもしれない。お前は出来る、俺は出来る、なんて薄っぺらい言葉なんだろう。

それでも、そんな言葉を信頼できる誰かに、ずっと言ってほしかったんだ。

「そうか……。いや、そうなのかもしれない。きっと柊が言うならそうなんだろう」

 俺は自分に自信なんてない。でも、柊が言うのなら――――。

「ありがとな、ちょっと行ってくる」

 そう言って電話を切ろうとした瞬間に、制止の声が向こうから聞こえてきた。

「待って」

 こほん、と咳払いをする音。今日の彼女はよく話す前に咳ばらいをする。大体彼女がこれをするときは気恥ずかしい時だ。それだけ本心をもらしてくれているのだとしたら、少しばかり嬉しいではないか。

 一拍おいて、らしくもなく、わずかに緊張した小さな声で柊は言った。

「さっきの。私にとってもそうよ」

「え?」

 聞こえなかったわけではない。流石に耳を疑っただけだ。わざとらしく、こほん、と声を出してから、早口に柊は言う

「ごめんなさい時間を取らせたわね早く行ってあげなさい」

「あ。そう言えばさ、柊はなんで東風谷のことを覚えてたんだ」

「……妖怪の血の混じってる私にはギリギリまで効力がないかもしれないと、彼女が言っていたわ。ひどい子よ。結鷹をお願いします、なんて言うから、思わず手が出そうになったわ。思考よりも先に手があがるのなんて初めての経験だった、とだけ伝えておくわ」

「そうかい。じゃあ、柊の分もあいつに一発ドギツイのかましておいてやるよ」

「……お願いね」

「ああ」

 電話を切って、外に出る。時刻は既に夜。台風の接近のせいか、風はごうごうと吹いてやかましい。が、幸いにも雨は止んでいた。

 守矢神社の方角を見やる。

 嫌な予感がする。

 のんびりとしていたら、さっきまでのように全てが失われてしまうという、そんな確信めいた予感が。

 

 

 

 



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柊玲奈

音で、通話が切れたのが分かった。彼は、東風谷早苗に会いに行った。

 彼にとって、彼女の記憶を思い出せたことが、幸か不幸かは分からない。彼にとっては安堵すべきことだとは思う。けれど、それは残酷だ。

 先ほどまで通話に使っていた携帯を、机の上に置く。

代わりに、カップを手に取る。口に含んだ紅茶はとっくに冷めてしまっていた。

 きっと、東風谷早苗は戻って来ない。

 それだけは確信できた。

 私だけが彼女を覚えていた。東風谷早苗が忘れ去られた世界で、私だけが彼女のことを覚えているというのは、おかしな気分だった。

どういった力が働いたのかは分からない。

 しかし、彼女が在籍していたクラスからは、彼女の名や覚えている者どころか、その机すら消えていて、元から彼女なんて存在していないようだった。恐ろしいのは、それが当然のこととして、彼女の居たクラスはまわっていたということ。

間違いなく、東風谷早苗という人物は、あのクラスの中心人物で、学校でも注目を集める生徒だった。それが、ああも違和感なく消え去れ、それを誰もが受け入れている日常に得も言われぬ恐怖を感じた。最も近くに居た彼でさえ、彼女が消えたことに気づかなかった。

ふと、夏休み最後の日の出来事が蘇る。

 東風谷早苗に呼び出され、まず最初に告げられたのは別れの言葉だった。何故、彼にさえ伝えないことを彼女が自分だけには話したのか。その理由は今なら分かる。この彼女の存在を消し去る業、どういう力かは分からないが、化け物の血が混じった私にはその力がギリギリにまで及ばないからだ。

 だから、彼女は私に、彼を頼むなどと、ふざけたことを言ったのだ。

 流石に頭に血が上った。

 自分は決して人に暴力を働いてどうこうしようなんて性質の人間ではない。

 けど、あの時ばかりは本気で手がでかけた。あげた手を振りきれなかったのは、彼女の、今にも泣き出しそうな表情のせいだ。

 私は彼女に感謝をしている、好感も抱いている、わずかに羨望もあると認めざるを得ない。彼女と彼のおかげで、最近はこんな自分も悪くないと思えるようになってきた。

一度引いた線はもう消せない程に自分という人格に滲みついてしまっていたけれど、あの二人の前では、ありのままの自分で居られた。そんな風に思う。

 同じような境遇を生きてきて、あんな風に居られる彼女に、きっとその大きな要素たる彼を持てた彼女に、好感と、羨望を抱いた。

 だからこそ、東風谷早苗が綾崎結鷹に別れを伝えないのは、あんまりだ。彼女が真っ先に別れを伝えるなら、まず、そちらだろう。例え忘れてしまうとしても。 

 彼が彼女のことをどう思っているかなんていうのは、誰が見たって分かる。その逆も然りだが。

 彼がどのような想いで、彼女の傍に居たのか、想像に難くは無い。

 ただ、好ましい、愛おしいという感情で傍に居るには、東風谷早苗という少女は、特別過ぎる。なら、彼が彼女に寄り添おうとするのに、そこに何の苦も無かったはずがない。

 私には得られなかったものを東風谷早苗は両方持っている。

 それは、自分を理解してくれる親の如き存在と、自らを受け入れてくれる他者。そのどちらかさえあれば、私はこんな風にならずにすんだかもしれない、と。

そんなことさえ考えたことがあったのに。

 そのどちらかを選ばなければならないとして、しかし、その選択さえ告げないのは、近くに居ようとした彼に、あまりにも不義理だ。

「私って、こんなに嫌な女だったのかしら」

 過去の経験で、恋愛やら成績やら、いろんなことで人間が僻んだり嫉妬したりするのは理解していた。しかし、自分はいつもされる側だった。勿論、まともな友人関係が構築できていた時代の話だから、最近は他人についてどうこう想うことはそもそも無かったのだが。

そのことで自分は清廉潔白だなんて思い上がっていた訳ではないけれど、この如何ともしがたい胸の痛みは、確かに告げている。

「嫉妬なのね、多分」

 ふと、窓の外に視線をうつす。もう空は天候もあって暗い。いつもは人を安心させる街の灯りも、今日はなんだか弱弱しく見える。窓を閉め切っていても聞こえる風の音で、どれくらい強い風が吹いているのか、何となく分かる。この風の中で、彼は今も彼女の為に奔走しているのだろう。

「頑張って、綾崎くん」

 応援しよう。あの二人を。かつて、自分が最も救いを欲した時期。しかし、そこに手を伸ばしてくれる存在は、血のつながりを持った親ですらいなかった。あの時に、手を差し伸べてくれる存在があったのなら、もしそれが彼であったのなら、そんな奇跡が起きていたら、なんて、考えることがある。そんなモノは起きなかったのだけど。

けれど、もう充分に救われた。命さえ狙われる身になって、その時に、何の報酬も求めずに手を差し伸べてくれたあの二人が居てくれたから。

短い間だけど、久々に孤独を忘れた。

瞼を静かに閉じる。

瞼の裏に、わずか数カ月足らずの想い出が、蘇る。三人で過ごしたあの教室。騒がしいのに和やかな時間、本を読んで静かに過ごした時間、漂う手作り弁当独特の匂い、やたらと接触の多い彼女の清潔な香り、彼との不思議に心地よい会話。昼間に窓辺から差す陽光、夕方の茜色に染まった教室。繰り返しなようで、毎日がちょっとずつ違う日々。

 

 

過ぎてしまえば、ほんのひとときのささやかなものだったけれど――――。

 

 

東風谷早苗は戻って来ない。そしてきっと、綾崎結鷹も。

彼女が起因となって出来たこの関係は、彼女の存在の喪失を持って、その忘却を持って、どんな変化を齎すのだろう。今までは私だけは覚えていた。だから、保てた関係がある。

しかし、じきに、他の人と同様に私も東風谷早苗に関する記憶を失う。

もし、彼女と出会うことで、彼と出会うことで芽生えたこの感情さえも忘れてしまうのなら、それはなんて悲しい事なんだろうか。

おかしいね。

遥か昔に枯らしてしまったものだと思っていたのに。

頬を、熱い何かが伝っている。

 

 ――――わたしは、しあわせだったのだ。

 

 



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あの日の奇跡と東風谷早苗について 3

 神社への石段を駆け上る。全身の筋肉が疲労して、身体は今すぐにでもと休息を求めるが、そんなものは気にも留めない。一刻でも早く、東風谷早苗のもとへ向かわなければならない。息などとうにあがっているし、脚は一度立ち止まってしまったらしばらくは歩けないと感じるほどだ。

 後のことなど構うものか、今を見逃したら全てが失われてしまうと、確信めいた予感がある。

 こんな別れはあんまりだ。やっと、やっとじゃないか、つい一年程前にやっと、例え、どれだけ互いが違っていても、一緒に居ようと、そう考えることが出来るようになったというのに。

 いろんな思い出が脳内を駆け巡る。そのどれもが、この瞬間にも朽ちようとしている。

 彼女のところに行ったところで何が出来るかなんて分からない。だが行かなければ、そんなの昔の俺と変わらない。離れることで彼女との関係に終止符を打とうとしていた、かつての俺とは違う。

 石段を登りきると一際強い風が吹きつけた。大した力も無い俺でも感じる、この先の鳥居の向こうの境内は危険だと。広がる景色に変わりは無いが、もはや俺の知るいつもの守矢神社ではなくなってしまっている。

 目の前のそれはもはや異様とまでいえる存在感を放っている。

 しかし、それで、この鳥居の先の異界を生み出している張本人こそが東風谷早苗だと、直感で理解する。

 この先何が起こっても、俺はあいつを諦めない。

 色んな事を早々に諦めて傷つかないようにしていた俺だけど、あいつのことだけは、もう絶対に。

 舌が渇き、喉が干からびる。

 ここは俺が近づいてはならないものだ。

 それでも、その先にあいつが居るなら。

 鳥居の前に立ち、一度大きく息を吸い込んで心に決意の火を灯して、自らの右足を一歩、否、半歩ほどその先へ踏み込んだ瞬間だった。

「が――――は」

――――己の全てが、風に飲み込まれた。

 踏み出した足先から、一瞬にして全身を攫われた。そんな錯覚があった。

 痛みはない、ただ、全身が硬直した。視界は一瞬で消え去り、真っ白になって何も映さない。聴覚は、吹きすさみ暴れた風以外の音を拾うことは無い。まるで、目と鼻の先に鋼鉄の大きな壁がそびえ立ち、俺の行く手を遮っているのかと思うほどに、脚は前進を許されない。ここでは俺はあまりにも無力で無意味だ。それでも、拳に力を籠められるならば、歯を喰いしばれるなら、まだ堪えられる。

 しかし、気づく。とうに全身から感覚が消え失せている。金縛りにも似た感覚。この神風の中では、俺と言う平凡な人間は、指先一つ動かすことすら許されていない。

 この無力感は、拙い。痛みに悶絶できたのなら、むしろ易しいと考えてしまうほど。

 全身の感覚が消え失せていき、その意識、心までもがその風に呑まれる。俺という小さな自我など、この暴風の前では、一粒の砂に等しい。そんなものは、一度強い風に吹かれ飛ばされてしまえばその行方を追うことなど出来る筈もない。

 消し飛びそうになる我を、もっとも大切な少女を想いだして踏みとどまり、意識を繋ごうとするが、そんなものは関係ないとばかりにこの風は、俺の存在を拒絶する。

 踏みとどまれない。

 吹き飛ぶ。

 消える。

 先へ進むことなど、もはや考えることすらできない。

 しかし、この結果はずっと分かりきっていたことだった。

 最初から理解していたことだった。

 遥か昔から、あの少女と俺との間にはこれだけの差があった。彼女がその気になれば、俺は、其処に踏み入ることすらできない。だから恐れたのだ。だから一度、諦めることにしたのであった。

 凄まじいまでの風の壁。

 この風は、俺がなによりも恐れていた東風谷早苗と綾崎結鷹との境界線の、その具現だ。

 彼女は心を決めたのだ。

 俺から離れ、遥か遠く、幻想郷という彼女達が本来居るべき彼女の為の世界へ行くことを。

 そのことに、力を込めようとしていた意志さえ失せようとしていた。

何とも呆気ない幕切れだ、最後の最後。やはり、綾崎結鷹は東風谷早苗に寄り添うことを不可能と自分で判断したのだ。

この風の中では、ただの人間は動くことすら許されない。当然だ、発生した風は常識を遥かに超えた東風谷早苗のその力によって吹いている。ならば、それを叩き付けられた体の自由が利かないことなど、至極当然の事。 

 僅かに残っていた、なんとか踏みとどまろうとする俺の最後の意志の灯、それが吹き付ける風によって消えかけた、まさにその瞬間。

 漂白された視界すら薄れゆく中で。

 再び。

――――在り得ないモノを視た。

 俺の視線の先に在るのは、この鉄のような風の中を悠然と歩く二つの人影。

それは、衣服をはためかせ、髪を靡かせて立っていた。

 総身に鉄槌のように吹きつける風を受けてなお、堂々と立っていた。

右側には、紅の装束と紫の短髪。神としての威光を放ちながら、両腕を抱えてその暴風に立ち向かうように佇む女性。

左側には、頭にある変わった被り物を片手で押さえて風に飛ばないようにしながら、前方を睨むようにして立った、黄土色の瞳と、薄い金髪の女性。

そう、人を超えた力で起こされたこの風の中で、まさしく人を超えた存在である彼女らは、毅然として立っている。あれが、東風谷早苗と同じ世界に住む者の、その世界での振る舞い。

女性で居ながら凛々しいまでのその二柱の姿は、あまりにも美しい。

此処において塵芥にすぎぬ俺に、二柱は目もくれない。

ああ、でも、最後に彼女らの雄姿をこの目に見とめることができたのなら、もう、俺は……。

彼女らと俺との、決定的な違い。

それを認めながらも、何とか越えられないかと俺なりに頑張ったつもりだ。

俺と彼女との間に在ったものは何だったか。

綾崎結鷹と東風谷早苗とを遮っていたものは、物理的な距離でも、心理的な距離でもない。お互いに関心が無かった訳でもない、むしろ、他の誰よりも真剣に向き合っていたと自分でも思う。

 なるべく近くに居ようと努めたし、心を通わせようとたくさんの話をした。

 それでも、やはり彼女はどこか遠い。

 それもその筈だろう。知っていたことじゃないか。

 だって、住む世界が、次元が違うのだから。それを知りながら、単なる人が、人でありながら神であった少女と共に在ろうなどと、この身に余る夢を願った。

 そんなことは出来ないのだと。

 絵空事を夢見て張り続けた先に残るのは、結局、そうやって近づこうとした分だけ傷つくだけだと。

 解かっていた。解かっていたことだけど。

それでも……。

 それでも―――俺は、俺が東風谷と一緒に居たかったのだ。

そうして、力が抜けて目を閉じる寸前に、壮麗な二柱の立ち姿に変化があった。

前方を見ていたはずの二柱は体の向きはそのままに、顔と視線だけをわずかに動かして俺のほうを振り向く。

未だ指先すら動かせずに、心が折れかけた俺を確かに見ている。前方を見つめて険しかった貌は一瞬和らぎ、こちらを見つめるその瞳と向けられたままの背中は、俺自身よりも俺が其処に到達することを確信していた。

風に飲まれかけ寄る辺を失った力無き人間を見つめる二柱の瞳は、静かに問いかける。

 

”――――信じられるか?”

 

二柱から俺へと投げられた問い。

そこにはきっと、人と神との間にあるもの全てがあった。

天啓がおりるように、一つの呪文のような言葉が脳裏に浮かんだ。

 

 

神は、それを信ずる者にしか恵みを与えない。

 

人は、神を信じずしてその恵みを受けることはない。

 

神は、人に信じられずしてその力を保つことは出来ない。

 

故に、両者は、信仰なくして生きることは出来ない。

 

つまり。

 

 

――――信仰は、儚き人間の為に。

 

散り散りになっていた思考が、一つに集約したその瞬間。

ガチン、と頭の中で、何かが炸裂した。炸裂と共に血液は沸騰したかのように、全身を暴れるように駆け巡る。

 

「――――あ」

 

それで、全て灰と消えたはずの心に火が灯る。全身は燃え上がるように熱をもち、巡る血は熱く滾って、消え失せていた感覚を取り戻さんとしている。記憶が映像となって流れ、様々な出来事が走馬灯のようにここに蘇り、その中で東風谷早苗との、大切な思い出を視た。

指先が僅かに動く。

それを見て、乾の神は鼓舞するように言う。

“ここまで来い、結鷹。”

その声で、指先は折り畳まれる。

ほんの僅かな変化を確認して、坤の神は優しげに聞く。

“結鷹、来られるかい?”

かけられた言葉は少なかった。二柱の神は俺に向けて多くを語りはしない。

けれど、彼女が愛した二柱の神は、確かに俺を信じてくれている。

それだけで充分だった。

俺は綾崎結鷹という人間に、なんの展望も期待も抱いてはいない。

でも、柊玲奈は俺を決して小さな存在ではないと言ってくれた。

でも、二柱の神は、確かに俺を見ていてくれている、見続けてくれていた。

でも、東風谷早苗は俺に飽きもせず問いをなげかけ、近くに居てくれた。

なら俺は――――、俺を信じてみてもいいのかもしれない。

 握り拳が出来ていた。気づけば、脚は前へ進もうと、この鋼の風を突破しようと、地面を強く蹴らんと踏み締めていた。

とうに視界は広大にして明瞭。突風の爆音しか無かった聴覚は、彼女らの声を確かに聴きとっていた。

二柱の言葉に強く頷けば、全身に力が巡り漲った。力を込めた拳は、爪でその掌を食い千切らんとする程強く握り締められ、歯を、奥歯が割れるのではないかという程に食いしばる。

目の前に立ち塞がるは風の境界線。綾崎結鷹と東風谷早苗との間に在る、確かな障害。どれだけ近づこうとしても、俺は今までそれを超えることは出来なかった。

それもその筈だ。

だって、俺自身が誰よりも俺という存在を低く見て、見限っていたのだから。自分はこんなものじゃないと抗うよりも、こんなものかと己の限界を決めつけた方がずっと楽で、それに甘えていたのだから。

ならば―――。

渾身の力を込めて、それに立ち向かう。

――――今こそ、己が設定した限界を超えて、その向こう側へ。

この身をもってして、俺は、俺自身と俺を信じる二柱を信じて、この風を踏破する!

「お、おおおおおおォっ――――!!」

それが、不可能な筈はない。

この境界線を俺が超えてくることを、もうずっと昔からあいつは信じてる。

この身は、他の誰でもない、風の境界の向こうに居る東風谷早苗に見とめられたモノ――――。

ならばそれが――――この風の中を突き進めぬ等という道理は在り得ない!

足を上げて踏み出し、地面を踏み締めようとするたびに、脳が警鐘を鳴らす。俺を消し去らんと全身に叩き付けるような激風。それを受けたこの身体は、これ以上先に行けば間違いなく死ぬと叫び続けている。それら全てを捻じ伏せて、前へ、ただ、前へ。

「がッ――――!?」

一歩。

それできっと、ヒビがはいった。

なにか自分の致命的な部分に亀裂が走ったのが分かった。

それでも、前へ。

「ぐ――――!?」

 二歩。

 それで、亀裂が拡がるような感覚を覚えた。それは、もはや崩壊の寸前。

 まだだ、まだ動く。この先歩けなくなろうがかまわない。脚が折れようが腕がもげようが、かまうものか。

 俺の意識は、この風の突破にのみ向けられる。

「あああああああああぁッ――――!!」

三歩。

獣のような雄たけびをあげながら、全霊をかけて、もう一度、右脚をあげる。

そうして、確かに前進した。俺はほんの少しだが、この風の中を歩いてみせた。

けれど、それで最後。

内側で何かが弾け、砕け散るような音と共に、身体に一切の命令が届かなくなった。きっと、今の俺は糸の切れた操り人形のように見っともない。

凡てを懸けて、己にあるものを振り絞り切ってなお、そこで朽ちた。その力を離脱に使っていたのならば、この身だけは助かっていたというのに、もう三つも前に歩を進めてしまった。今更、引き返すことなど許されない。そもそも、引くことなど考えようともしなかった。俺にはもう残り滓すら無い、空っぽだ。

最後に、己の力を前に進むことだけに使ったことに後悔はない。やれば出来てしまったのだ。早苗は俺をずっと信じてくれていた。なら、俺はきっと、もっと早くに早苗や彼女の信じる二柱だけでなく、自分自身をも信じてやらなければならなかったのだろう。

思えば、境内に一歩を踏み入れた瞬間には風に屈しながらも一度だってこの身は、心は後退しようとはしなかった。ここにきて今まで試されていたものは何だったのか、ようやく気付いた。俺に足りなかったのは、彼女の在り方を信じて許容することでは無く、己自身を信じる心だったとは。皮肉な話だ。それはきっと、彼女と出会ったからこそ失われてしまったものだったのだから。

先程のように心は折れてはいない、しかし、それとは無関係に身体は壊れた。

早苗と、最後に話をしたかったな。

すみません、神奈子様、諏訪子様。せっかく信じてもらったのに俺、やっぱりお二人の期待には、こたえ……られ、ない。

「――――」

風によって、意識が彼方へと攫われる寸前に、両肩を誰かの手に触れられてその意識は逆流する。肩に置かれたその誰かの手は、あまりにも温かく力強く、俺を優しく包みこむようで、頼もしい。

「え?」

 おかしい。

 起こるはずのことが起きず、無くなるはずのものが、残っている。

 視界は極めて正常で、体は驚くほどに軽い。ズタボロだったはずの身体は癒え、おそらく万全の時のそれすらも超えて盤石。

 ふと気づけば、俺の両隣にはさっき幻視した二柱の神が立っていた。

 失われるはずだった俺の意識を繋いだのは、神奈子様と諏訪子様の手だったらしい。

 右隣で神奈子様は、誇らしげに言う。

「よくやった。よくここまで来たわ、結鷹」

 左側に立った諏訪子様は、嬉しそうに俺のこと褒めてくれる。

「大したもんだよ結鷹、あの状況で私達に応えてくれるなんてね。神として、冥利に尽きるってものさ」

「ありがとうございます、お二人の声が無かったら……俺、多分」

 ああ、本当に、彼女らの姿を見ていなかったら、今の俺は無かった。あれ以上前へ進もうとすることは無かっただろう。

「いいんだよ。こっちこそ、試すようなことをして悪かったね、本当によく頑張ったよ」

 諏訪子様は、目一杯背伸びして俺の頭を撫でる。なんだかくすぐったくて、恥ずかしい。

「今、この境内は幻想郷と外の世界との狭間にあるの。おかげで私たちの力は、少しだけど戻っている」

 神奈子様は前を見据えてそこまで言って、最後に微笑みをこちらに向けた。それがなんだか、二柱が俺のことを本当に認めてくれたように感じて、少し照れくさい。

「私たちの力、あんたに託すよ、結鷹」

 こちらの全てを見透かすような紅紫の瞳には、確かに俺への信頼があった。

 ふと諏訪子様に目を向けると、彼女は一際強い眼差しを俺へ向けてから、にこりと笑った。

「早苗のところに行ってあげて。気丈に振る舞おうとしてるけど、結鷹を待ってるはずだから」

「……っ! はい!」

「あともうひと踏ん張りだ。行ってきな」

「はい! 行ってきます」

「……もっと早くにこうして話せれば良かったのにね」

「そうですね……、本当にそう思います」

 二柱に背中を優しく押されて送り出される。

 それだけで。

 それだけに。

三度、心は燃え上がる。

二柱を背に、風を一身に受けながら前に立つ。

足を踏み出す寸前に、自身の内側へと意識を飛ばす。

不思議な感覚だ。

思考は冴えている。

知るはずの無い知識を得た。無いはずの経験を獲得した。

遥か昔の神々の時代を見た。太古の人々の営みを見た。

そんな人と神との、確かなつながりを見た。

それらが、今の俺なら彼女と能力的にも対等に在れると告げる。

何よりの証拠に、風を受けてもこの身は憮然と立つことが出来ている。

 吹きすさぶ風には変化は無い、変化があったのは俺の方だ。この風は俺の存在をもはや飲むことは出来ない。

 ようやく、俺は彼女と同じ土俵の上に立った。

 それを可能にした、この身に宿った神秘。

 それは――――。

太古の人間達は人の力を超えた困難に襲われた時に、その障害を乗り越える為に神に祈った。多大なる信仰の果てに届いた超常の力。

――――かつての人々が奇跡と呼んだ、神の御業。

人間が今を超えるために、神が与えた力。

俺は、そういうもので此処に立っていた。

おそらく、あの少女に相応しい人間は他にだって居るのだろう。

彼女ほどでなくても、それに近しい特別な人間はどこかに存在している。その人となら東風谷だって俺よりももっと深くまで解かり合えるに違いない。それに身の回りにだって既に、柊は俺を超えて東風谷に近い場所に在る。

俺なんて、その程度の存在だった。

ここに来るのだって、俺一人の力では結局どうしようもなかった。

俺の力で手に入れられたものなんてほとんどない。彼女の世界で立つことを可能にした神秘は借り物で、二柱の神の慈悲で与えられているだけ。俺が今まで東風谷の近くに居られたことでさえ、そのように彼女が計らってくれていただけ。

だから、綾崎結鷹が此処にまで持ち得たモノはたった一つ。

心の内に宿した――東風谷早苗への想いだけ。

誰に負けたって劣っていたって構わない。

――――でも、誰が相手だろうと、この想いだけは譲れない!

きっと、それだけが力の無い俺に持つことを許された、唯一つの“特別”なんだから。

 

「――――いくぞ、早苗」

 

目を見開く。内側にあった己の意識は、外界へ。

瞬間に―――。

天が。

大地が。

世界が。

――――開闢した。

境内であった鎮守の森に囲われていた小山の頂の大地は果てのないほど広大になり、湖畔が生まれた。天は割け、暗雲に覆われていた空が満天の星空となった。生まれたばかりの湖の遥か上空に、風の少女は居た。

一つの神話がここに誕生し、その中心で風屠が祈るように佇んでいた。

 それを目視して、俺の体は放たれた銃弾のように疾駆する。

 風を切り裂いて駆け抜けていく。空の飛び方など知るはずもないのに、出来ると信じればその瞬間に身体は空を駆けることすら可能とした。

 東風谷早苗の元まであと三十メートルも無い。

 この身ならば、三秒で駆けぬけられる。

――――、一秒。

 そこまで接近すると、この異界は、俺という異物を消し去らんと風を変化させた。此処に在るに相応しい者だけが残るよう、ふるいにかけるように漠然と吹いていた風が、確かな意思をもって俺を狙う。

 目前に迫る、凶風。

 およそ、人が耐えられる強さを優に超えたそれは、常人が受ければ、死に匹敵する苦痛を味わうことになるだろう。

 しかし、脚を止めることはしない。

 まして、背を向けることなぞ、あり得ない。

 身構え、引き金を引くように全身に力を込める。

 二柱の神による恩恵、その奇跡の力を与えられたのならば、例え、それを受けた者がどれだけの凡夫であろうとも――あの風の少女の元へ辿り着いてみせよう。

――――、二秒。

 心の裡に静かにあがる反撃の狼煙。

 風祝を中心にして周囲に発生する凄まじいまでの竜巻を、天を手繰り打ち消し、この身を砕かんとする豪風を、大地を生み出し壁としてあるいは足場として使って防ぎ、躱し切り、迫り来る死神の鎌の如き凶風を右腕で振り払う。

 我を飲み込まんとする無数の神風を、賜った神の力で、その悉くを凌駕する。

鋼鉄の風をかき分けて、進む。

躱し、防ぎ、突破する。

奇跡をもって、俺はこの風を捉える。

――――、三秒!

もう、あいつはすぐそこだ。

届け――――!

 降りかかる全てを乗り越えて、彼女に向けて右手を中空に伸ばし叫ぶ。

「早苗!」

 しかし、反応はない。

この大規模な力を制御するのに精神を集中させているのか、まるで、何かが憑りついたように瞳に光は無く、表情も無い。名前を呼んでも応じないのでは、話すことすらままならないではないか。

 それに、もう俺のほうにも時間が無い。二柱の神が本来どれだけの力を持っていたとしても、戻ったばかりの力をすぐに俺に貸したのでは、全盛期には遥かに及ばないのだろう。既に俺に与えられた奇跡の力が、先ほどの全力行使で、底を尽こうとしているのを感じている。

「早苗、早苗早苗、早苗! 早苗!」

何度呼んでも反応は無い、ここまで来て、二柱の神にまで力を託してもらって、何もできないではすまない。そんなこと俺が許さない。

「だあ、もう!」

 もとより、大した力を持たない俺が彼女に出来ることなんていくらもない。

 そっちがその気なら、こちらも強硬手段をとるまでだ。

 これでもかと言うほどに早苗に近づく。

 覚悟を決めて、右手を彼女の後頭部辺りに持っていって触れる。残った左手は、彼女の左肩に置いた。

 右手に触れた髪は、触れているこちらが気持ちの良いくらいにさらさらで、余った手を置いた左肩は、強く握ってしまえば壊れてしまいそう。

「あとで怒るなよ、嫌なら避けろ!」

 一度、ごくりと唾を飲み込むと、思いっきり彼女に顔を近づけてそのあまりにも無防備な唇に俺の唇を一瞬だけ重ねる。その瞬間に、薄く目を瞑る、こんな至近距離で早苗の顔を見ていたら、俺自身がどうかなってしまいそうだ。いや、この場面でこんなことをする時点で、既にどうかしてしまってる。動悸も脈拍も異常、顔は蕩けるように熱く、心臓は今にも弾け散りそう。だが、それだけのことをやった効果はあったようで、その行為に至ってようやく早苗は目を見開いて、体をびくっとさせて反応を示した。顔をわずかに赤くして今しがた何が起きたのかを理解しようとしている彼女の表情で確信する。

 やっぱりこいつ、狸寝入りこいてやがったな。まったく、いつの間にそんな芸覚えたんだか。

「や、ゆ、結鷹……今なにを――――あっ!?」

 早苗が自分の口に手を当てているのを確認して、何で無視したのか問い詰めようとして離れようとするのと同時に、ガクッっと自身が沈むのを感じた。

 唐突に自分の足元の床が消えたような感覚。

 やべ、力が、もう……。

 俺を後押ししていた特別な力が尽きて、飛行できなくなった。それを理解したときには既に遅い。ここは遥か上空。このままでは自由落下によって、地面に叩き付けられる、そんな最悪の想像が頭の中を巡った瞬間に、右手を握られて、引っ張りあげられる。

 この手を引く存在は早苗以外に在り得ないだろう。

「さんきゅー早苗、たすか――たッ!?」

 早苗の方を見て礼を言おうとした瞬間に重ねるように、腕を身体ごと思いっきり引っ張られたと思ったら、瞬きをする間もなく一気に引き寄せられて、あっという間に早苗の顔が視界いっぱいに広がっていた。今度はこちらが思わず目を見開いてしまう。

彼女の女の子独特の甘い、良い匂いが鼻孔をくすぐり、心臓の音はまたも異様に早まる。唇には何か柔らかいものが当たって塞がれていた。それが何であるかなど、考えるまでもないだろう。その正体に気づいて、胸の鼓動は爆発寸前まで激しくなる。

 神風の中、全ての音が遠ざかった静かな二人だけの空間。彼女の顔は十分すぎる程に良く見えた。身に纏った風祝の衣装は、早苗のスタイルの良さのせいか反則的な艶めかしさがあり、良く似合っている。出来すぎなくらいに整った顔はいつ見たって可愛いと思う。今は瞑られている、つぶらな碧い瞳にはいつも思わず吸い込まれそうになる。

 そしてなにより、その緑色の髪。

 言葉を交わすきっかけになった彼女の最も目立つ特徴。

 ああ、綺麗だ。

 時間が止まっているように感じた、世界中で俺と早苗しかこの時ばかりは動いていないのではないかと思う。

 空いている距離は零と言っていいほどに寄せ合った体を優しく抱き締める。両腕を東風谷の背中にまで回して、左手は彼女の腰の辺りに、右手は頭を撫でるように髪の上に置いた。

 互いが今は、ここに在ることを確認し合うように。

 肌で感じる彼女の体温は、とても心地が良くて落ち着く。こうして触れ合っていられる内は、まだ、彼女が自分の傍に居るのだと感じることが出来る。

星空の下で、ゆっくりと地面に降り立つまでの間その行為は続いた。

 きっと、時間としては数秒のことだったのだと思うが、この瞬間こそが俺の人生の全てだったのではないかと思うほどに、永く感じた。

 地に降り立って足が着いて、互いに惜しむようにゆっくりと顔と体とを離す。気づいて見やれば、早苗は全身を震わせていた。

「さな……」

「バカ、バカバカ! どうして来ちゃうんですか結鷹は! 先に手紙を読んでしまって、神社に来るまでは分かります、けど結鷹ならあの鳥居をくぐったら危ないって分かったでしょう!? スカですかあなたは! 死んじゃうところだったんですよ!」

 早苗は俯き加減に、顔を真っ赤にして激怒していて、その目には涙まで浮かべている。彼女には悪いが、俺はそれを少し嬉しく思ってしまう。早苗がこんな風に他人に怒鳴り散らしたのを、はじめて見たからだ。

 彼女はどちらかと言うと、静かに怒る気性だけに、俺のことを心配してそんな風に怒ってくれることが素直に嬉しかった。

 どうして――――なんて、そんなの決まっている。

「うん、マジで死ぬところだった、今もさっきも。でも、俺、やっぱり来て良かったよ」

「こんなところまできて、何言ってるんですか! 最低です、変態です、スケベです、ケダモノです、色欲魔です! お父さんにだって幼稚園の頃にほっぺにまでしか許さなかったのに、あんないきなり!」

「でも、二回目はそっちからしてきた」

「な、あ、あれは、引っ張りあげようとしたら事故ったんです。だからノーカンです。即刻結鷹は忘れるべきです」

 顔を耳まで真っ赤にして、口篭もりながら、早口に言う早苗。その様は今にも頭から湯気でも出そうだ。

 そんなこと言うな。今この場で、忘れるべき、なんて台詞は、俺が泣きそうになる。

「俺は、忘れたくないよ。お前のこと」

 思ったままに言葉にすると、それを聞いた早苗は、少し俯いて、視線を地面に向けたまま答える。

「私だって……、忘れて欲しくなんて、ないですよ。でも、そうしなきゃきっと傷つきます。もう二度と会えない相手のことなんて、忘れてしまった方がお互いのためだったんです。……まあ、そんな気遣いも結鷹には無駄だったみたいですけど」

「涙で濡れた手紙送り付けといてよく言うよ」

「ち、違います! あ、あれはお茶を零しただけですから!」

 顔を赤くして、頬を膨らませながら、拗ねたように顔を逸らして早苗は口先を尖らせる。

 ああ、確かに早苗の言うことは正しいのだろう。この先、会うことが出来ないのなら、その相手が大事であるほどにこの胸は苦しくなるのだろう。

 でも、それでも。

「何とかならないのか。やっぱり……ダメなのか?」

 口にする言葉は我ながら何とも曖昧で、何かに縋るようだ。

 俺には早苗をこちらに引き留めることはできない、早苗に、彼女の親のような存在である二柱じゃなく、俺一人を選んでくれなんて口が裂けても言えなかったし、そんなのは傲慢だ。彼女の二柱への想いを知っているなら、本当に彼女のことを想っているのなら、そんなことは図々しく心の裡で願っていても口にしてはいけなかった。

 なら、一緒に行くことはできないのか、連れて行ってもらうことはできないのか。

 そんな心内の気持ちは、きっと彼女とて一度は同じことを考えた経験があったのだろうか、言葉が足りずとも早苗には十分に伝わっていたようで、故に、彼女は俺の代わりに極めて落ち着いたふうを装って俺の拙い言葉に、次のように答えた。

「……結鷹を向こうに連れていくことは出来ません。この世界の多くの人々から忘れ去られること、それが幻想の住人となる条件ですから」

 そう、その為の儀式だった。その為の霊力行使だった。

 俺に備わっていないはずの知識がそう告げる。

 守矢の秘儀である忘却の術。

 本来は特異な力の隠匿の為にあったそれだが、彼女ほどの力を持ってすれば、世界から自らの存在を忘却させ、不都合を修正することすら可能としていた。

 莫大なまでの力を必要としたのであろうそれとは別に、こんな風まで巻き起こしたのは、きっと俺を近づけないため。

 外界に働きかけるのであろうその儀は、この場に居る者には意味がない。

 だから、あんな風を使ってまで、この神社から早苗は俺を追い出そうとしていたのだ。

 そのことに行き着くと、目前に迫った別れに焦りながらも、わずかに安堵する。

 これで彼女の事は、とりあえず忘れずに済むことに確信が持てた。

 けど、それだけじゃダメなんだ、そんなことのために来たんじゃない。

 だって。

俺は、お前とだったら、どこへだって一緒に――。

藁にも縋るような気持ちで言葉にする。しかし、それが不可能なことは俺自身が既に理解していた。

「神社ごと向こうに行くつもりなんだろ? この辺り一帯が変なのは俺にだって分かる。なら……俺も」

「この神社は、とうの昔に人々から忘れられているんです、神奈子様も、諏訪子様も。私が忘却の儀を終えて、現代の人々から忘れ去られれば条件は整います。そして、それは先ほど完了しました。あとは結界を超えるだけ。その際に、幻想郷に正式に入る条件を満たしていない者はその結界に弾かれるでしょう。結鷹にはそれを超えるだけの力も、達するべき条件も満たせていませんから」

 早苗はまるで、事務的な会話のように言葉を並べ立てた。いつもとそう口調は変わってはいない、しかし、普段は感じる親しみを彼女の声からは感じなかった。

 分かりやすい拒絶だった。

 とどのつまり、俺にはその地へ足を踏み入れる資格がない。

ここにおける異物は、俺のみ。

俺だけが此処に置いて行かれる、いや、早苗だけがこの世界において特別。

彼女が此処を去っていくのだ。

そのことに胸が締め付けられるような痛みを覚える。

そうして、彼女は残酷にも一方的に別れを告げた。

「だから、ごめんなさい。さようなら」

 俯いたままの顔を近づけられて、思わず身構える。早苗は少し背伸びをして、抱きしめられるのではないかと言うくらい接近してくる。彼女の顔が、俺の耳のあたりにまで寄せられ、隙を突かれた時のように俺の体は硬直する。その瞬間に、少し痛みます、と早苗は俺の耳元で小さく呟いた。

「ながッ……!?」

 なにが、と問おうとした直前に、腹部に鈍痛が走り、頭に雷が落ちたのかと言うほど暴音が鳴った。おそらく、彼女の持つ特殊な力を込めて振るわれたのであろう、ゼロ距離からのノーモーションの、彼女にとっては軽い掌底。それが、彼女より確実に体重のあるはずの俺を容易く吹っ飛ばしたのだ。

 せっかく詰めた距離を、一瞬にして離された。吹き飛ばされた身体は、ごろごろと地面を転がったが、すぐさま立ち上がろうとする。今ここで、体を地面に伏してしまえば、もう起き上がれないと、頑なに地に体を伏せることだけは、この身が拒んだ。

 風は止んでいる。体を立て直せばさっきみたいな力は無くても、まだ――――。

 だが。

「早苗、お前……な、に……を」

 立ち上がろうとして気づく。いや、思い出す。

 この身は、とっくの昔にポンコツになっていたことに。

 がくん、と膝が落ちた。

脚に力が入らない。意識が朦朧としている視界がぼやける、霞んでいく。

 拙い、不味い、まずい、マズイ。

 とうに俺は限界を超えていた。あの風に足を踏み出した瞬間から、無理をしてきた代償をいまここにツケとなって払わされることとなった。

 彼女の元へ行こうとする心に反して、身体はその場に沈んでいく。

 動け、動け、動け、動け、動け。

 このままでは彼女が行ってしまう。彼女が俺を突き放す寸前に、一瞬だけ俺の目に映った表情、それを俺は前にも見たことがある。

俺と早苗の、はじまりの日。

俺が彼女に話をかける直前のこと。いつでも楽しそうにみんなの輪の中に居る彼女が、ある日に人と言う檻の中に入れられたように見えてしまったことがあった。彼女の、あれだけの幸せそうな人たちに囲われていながら、自分だけが取り残されて、孤独に打ちひしがれているような寂しげなあの表情。

誰にも悟らせないようにしながらも、そんな貌をしていたのを見てしまった。

 だからきっと、かつての俺は、はじめに、彼女の綺麗な緑の髪の事を褒めたのだ。

 

 だれもきづいてあげないのなら、おれだけでも――――。

 

 

 このまま彼女を行かせてはいけない。

 一緒に寄り添えずとも、せめて、彼女には笑っていてほしい。

 それに、こんな別れ方は俺が嫌なんだ。

 前を進む少女は、とうに俺から背を向けてしまっている。こんなにも求めているのに、追いつこうとしているのに、どんどん遠のいていく、追いつけない。

 まだ、この目で捉えることが出来ているというのに、遥か遠くへ行ってしまったように感じてしまう。

 これが本来の、俺と早苗の距離だった。

 前を進む彼女はどこまでも遠く、いつか二人で見た、星のよう。

 いずれは訪れると理解していた別れ、関係の破滅。それを前にして俺は、やはり何もできずにいる。

 俺の前から去ろうとする早苗に、俺は何もすることはできない。そんなことは分かっていた。この関係が終わるときの俺は、それに対してあまりにも無力であると知っていて。

それでも、此処に来たのは何故か。何の為に、来たのか。

早苗は言った、どうして来たのか、と。

そんなの、決まっている。

幻だと……届かぬモノだと分かって、それでも手を伸ばして、願って、そうやって奇跡的に隣り合って過ごした尊い時間を知っているからじゃないか。

この女の子が、俺にとって、誰よりも大切だからに決まっているじゃないか。

だから。

「ぐっ……」

 お前の筋書き通りに終わらせはしない。

 この身が動けないならば、彼女に言いたいことはないのか、どんなことでもいい、今この瞬間に望む言葉は無いのか。そんな筈はないだろう。

 あんな縋りつくような、みっともない台詞を吐いておいて。

なにも出来ないと知りながら、こんなところまで彼女を追いかけてきて。

ここにおいて伝えたい言葉が一つも無いなんて、嘘でも吐けるわけがないだろう、綾崎結鷹――――!

 早苗が求める言葉でなくても構わない、ただ己の裡にある、何より希求しているもの、こと。

それは――――。

それは……。

それは。

「……っ! 絶対!」

「――――」

 その声に、早苗は足を止める。未だ俺に声をあげるだけの力が残っているのに驚いたのか、理由は分からないが、とにかく立ち止まってくれた。

 振り返ってくれなくてもいい、この言葉が届くのなら、なんでもいい。

 狭窄していく視界、疲労困憊の肉体、奇跡の力まで用いた俺は、身体の内側までボロボロだ。けど、こんなに傷ついても、まだ求めているのはきっと――それがなにより大切なものだと知っているから。

 なら、諦めてたまるものか。

「絶対に、そっちに行く。誰の手も借りない! 俺が、俺の力で早苗に会いに行く! だから……、だから待っていてくれ」

 俺はお前みたいに特別じゃないから。

平凡だけど。

歩む速度は君よりもずっと遅いけれど、歩き続けるから。

そうして、いつか、必ず――――。

「必ず、追いついてみせるから」

 彼女が振り返るのを期待していたわけじゃない。

 いつの間にか涙を流していて、情けなくしゃがれた声が彼女の耳に、心に、どこまで届いたのか分からない。

 俺から口にした言葉は、打ち立てた誓いは、泡のようにすぐにでも消えてしまいそうだ。

 所詮、口約束。どちらの手に残るものでもないそれは、いずれ、時の流れと共に忘れ去られてしまうのだろう。

 俺一人の力で、東風谷早苗が向かう場所へ辿り着く。

 それを為すにはきっと、本物の奇跡がいる。

 なら、それは生涯果たし得ぬ約束なのかもしれない。

 けれど、それを受けた彼女は俺に振り向いて、いつかのように、涙ぐみながらも風に揺れる華のように儚く笑ってこう言ったのだ。

「はい、待ってます」

 その言葉をもって、約束はきっと、永遠のものとなった。

 それを聞いて、安堵の内に意識が崩れていく。

 最後に、早苗は口を動かして、何か言葉を口ずさんでいたが、とうとうそれを聞き取ることは叶わなかった。

彼女の笑顔。

それを最後の光景に、東風谷早苗と言う少女はただ一粒の涙のみを残して、一陣の風と共に俺の前から消えた。

そうして、意識は暗い海の底へと落ちていく。

 その最中に想う。

 これから寂しくなるな。

 最近はずっと彼女と一緒にいたから、前よりもずっとそう感じるのだろう。

 ああ、それでも。

 これで俺は、きっと前に進める。

 俺は追いつくと言った。

 彼女はそれに待っていると応えた。

 ここに、――約束は結ばれた。

 奇跡というものがあるのならきっと、あまりにも違った二人の間にこんな約束が交わされたことこそが奇跡だった。

 ならば、この約束を、生涯をかけてでも果たそう。

 そうして再びまみえることが出来たのならその時こそ、胸の奥に閉じ込めていたこの気持ちを伝えよう。

 ずっと想っていたけれど、彼女を前にしてはただの一度も口にはできなかった言葉を。

 きっと、俺なら大丈夫。

 この約束があるなら、この気持ちを忘れないでいられたなら、どんなになったって俺は歩き続けられるから。

 だから、それよりもあの女の子が心配だ。

 しっかりしているようで、意外と抜けているから、向こうでヘマをしてしまわないだろうか。

 でも、愛嬌があるから、案外すぐに人気者になっていたりするのかもしれない。

 もしかしたら、誰か素敵な人と出会って俺のことなんか忘れて付き合ったりするのかもしれない。

 そうしたら、この気持ちは彼女を困らせてしまいそうだ。

それは、少し嫌だな。

向こうの世界で彼女が出会う人たちが、優しい人たちだといいな。

向こうで待ち受けるさまざまなことが、彼女にとって良いことだといいな。

俺と居た日を彼女が忘れないでくれていたら、もっといいな。

あの子は、他人の為に祈りはしても、自分の為に祈るような子じゃないから。

きっと自身が人としてだけでなく、神の一面をも持つことから、優しくて生真面目な彼女は、自分が多くの人のように自らの救いを乞うのはいけない、なんて考えているのだろう。

現人神だという彼女とて、儚き人間の一人に違いないのに。

 だから――――東風谷早苗が幸せになれますように。

 儚い少女の代わりに、そんなことを祈ったのだ。

 

 そうして、その、隣に――――。

 

 すべてが無になって消えていくなかで、小さな願いのみが残った。

 

 

 



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願い

 ああ――――風が吹いている。

 

 

 

 最後に交わした言葉を、今でも覚えている。

 別れの間際に出てきた言葉は結局、痩せ我慢で、彼女となんとか対等で在ろうとする傷だらけの意地だった。それでも、彼女の前ではずっと頑なに守り続けていた、大切な意地だった。

 本当は……。

 本当は行かないでくれ、とそう言いたかった。

 抱き締めて、縋りついてでも、どんなことをしたって。彼女には俺の隣に居て欲しかった。

 そのことが、東風谷早苗という女の子の二柱への愛を、信仰心を汚すものだったとしても。でも、そんなことできるわけが無かった。行くな、なんて言えるわけが無かった。

 真にあの少女を想っているならば、その背中を押してやらなければいけない、と自分でも馬鹿だと思うけどそう感じて、あんな言葉を言ってしまった。

 俺には引き留めることが出来なかった。

 だから、代わりに。

 待っていてくれと、必ず追いつくと、約束したのだ。

 それでも、ふと考えてしまう時がある。

 もし、あの時に抱き付いて、行かないでくれなんて頼んだら、あの少女はこちらに残っていたのだろうか。

 分からない。

 けど、仮にその結果俺を選んでくれたとして、そうして彼女がこちらに残るのは違う。

 それは違うと、そう思う。

 そんな風にして傍に居たって、残るのはわだかまりだけだ。そんなものは偽物だ。彼女とだけは妥協をしたくなかった。お互いに大切だと想ったから、だから、その両者が尊いとしているモノを汚してはならない。俺の為にあいつが何かを捨てる必要なんてない。それは逆も然りだろう。

 だから、あの選択は正しかったと、信じてる。

 あまりにも早く流れる時の中で、こんな俺だから色んなモノを失ったけれど、それでもあの約束だけは忘れてはいない。

 あの少女は最後に待っていると言ってくれた、その言葉を頼りに、俺は歩く。

彼女の姿は一向に見えないけど、歩いていれば、探し続けていれば、いずれその場所に辿り着くと信じてる。

 実体の無い幻を掴むようなこの約束が、他人から見てどれだけ愚かで、間違っているとしても。

 この先にあの少女が待っていると言うのなら。

 さあ、行こう。

 俺の願いは昔からたった一つで。

 それは、東風谷早苗という女の子と一緒に居たいということだけなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 ――――時折、夢を見ます。

 全ての境界があやふやになったそこでは、幻想と現実の境界さえ曖昧でした。

 そんな夢を通して見るのは、ある一人の男の子の旅の景色。

 外の世界に残してきてしまった大切な人。

 彼は、私と別れてからずっと、愚直なまでにこちらへ来ようと歩き続けていたのです。

 どうやって行くのか、どうすれば辿り着けるのかすらも分からない彼の旅路の終着点、それはもう、果てのない砂漠を独りで歩くのと同じ、終わりがないと言っても過言ではありません。

それでも、ただひたすらに歩いて、年月が過ぎるごとに傷ついていく彼を見ていると、抱き締めてあげたくなります。声をかけて、届けてあげたくなります。

 私はちゃんと見てます、私はここであなたをずっと待っています、と。

 誰が見たって、彼の人生は切ないモノでした。

 全ての人に忘れられ、彼自身、本当に在ったのかすら分からなくなっていくモノを追い求める。そんな彼を、その周囲の人たちの何人かは止めようとします。

 そんな人は居ないのだと。そんな場所は無いと。

 そう言って彼を止める人の中には、彼の親友である少年と、彼と私の共通の友達でもある少女がいました。

 そう――――こんな約束を果たそうとしなくても、彼にはもっと色んな人生の歩き方があったのです。

 そうなったら私は少し寂しいけれど、彼は優しい人ですから、いずれ素敵な相手を見つけて、その人と生涯を穏やかに歩むことだって出来たでしょう。

 こんな、人の居ない荒野を歩くような真似をせずとも彼にはきっと、幾つもの幸せな人生があったのです。

 私には、彼以外に外の世界に心残りはもうきっと、ありません。

 淋しくはある、懐かしくもある。

 でも、全ての人が私の事を忘れた時点で、忘却した彼らと私とは、完全に無関係に各々の人生を歩くのですから。

 だから、未だ私との約束に囚われて、交わした約束を果たそうとしてくれている彼だけが、唯一の心残りでした。

 会えないまま終わってしまったら悲しいけれど、それでも彼が幸せに生きられる道を辿ってくれたなら。それは一つの結末として、私にとっても納得がいく終わり方なのです。

だから、途中で彼が約束を諦めたって責める気なんて微塵もありませんでした。

 まあ、そこで立ち止まるような人なら私だってどれほど気が楽だったか、と追わせておいて酷い奴だって思うかもしれませんが、そんなことを考えてしまいます。

親友である少年の心配からの忠言と、仲間である少女の仄かな恋心からの制止、それを、やはり彼は振り切って歩いていくのです。

そうして、彼は独りになったのでした。

馬鹿な人です、本当に。

きっと、人並みに幸せな人生を送るのに、揃っていた大切な人たちを自分から手放してしまったのですから。

そこまでして約束を果たそうとする彼を、私は嬉しくも感じますが、同時に悲しくなります。やはり、あの時に無理やりにでも忘れさせてしまっていた方が、彼の為になったのではないかと後悔してしまいます。

 以降の彼を、蔑む者は決して居ません、けれど、理解して寄り添って歩いてあげる人も居ませんでした。

 それは当然のことです。

 彼の歩みは、外の世界の誰もが知らない場所へと向かっていたのですから。その想いを共有する相手など、存在する筈も無かったのでした。

 彼は未だあの日のまま、あの狭間に居るのです。身体を外の世界に置きながらも、心は遥か遠い、この幻想郷を追い求めて。

 多くの人が彼の元から離れていき、それでもと歩き続けるその姿には、つい、かつての自分と重なってしまいます。

 あの時は彼が私を救い出してくれました、なら今度は私が、と思って夢の中で手を伸ばします。

 けれど、それは決して届くことはありません。それほどまでに、私と彼は離れた場所に居るのでした。

 たったの一人、大切に想う人の力になってあげることすらできない私が神様なんて、嘘みたいです。あまりの無力さに、何で私はこうなんだろうって思ってしまいます。

 すぐにでも壊れてしまいそうな彼は、休むことも無くそのまま、独りで歩き続けます。過ぎ去った日々に、在ったかもしれない未来になんて目もくれず、ただ、幻想の世界を目指して。

 その一途な在り方には、胸が裂けそうになります。

 こちらから干渉して彼を呼び込むことは、おそらくそう難しいことではありません。外の世界では浮いていた私が、その全体のほんの一部でしかなくなってしまう、それだけの力を持った者たちがこちらにはたくさん居るのです。

 けれど、彼は言いました。

 自分の力で私の元へ行く、と。

 それを、その想いを裏切ることが出来ないから、きっと私の胸はこんなにも苦しいのでしょう。

 たまらなくなって、ある日ある人に私は問います。

 

 “彼が、自力でこの場所に来ることは可能なんでしょうか?”

 

 それを聞いた幻想郷の賢者は、私にこう答えました。

 

 “そうね、できる、と言ってあげたいけれど、それはほぼ不可能と言っていいでしょう。可能性はあるわ、ゼロじゃないことを可能だと言い切れるなら。しかし、それを為すには本物の奇跡が必要よ。貴女たちが転移する際に外の世界の山に残った、こちらとあちらとの結界の、僅かな歪み。それに侵入するなんていう、触れることも見ることも出来ない、小さな針の穴に自らの手に持った糸を通すような、そんな途方もないことを為すだけの奇跡が”

 

“……”

 

“それに、こちらとあちらでは時の流れにズレがあるわ。彼がやろうとしているのは不正にこの世界に立ち入ろうとすることに他ならない。貴女たちのように正式に幻想入りしたわけでも、私が招き入れた訳でもない彼が、この幻想郷の過去未来あらゆる時代の中で、今の貴女が居る此処を引き当てるのがどれだけの業なのか、貴女なら理解しているでしょう、東風谷早苗さん”

 

“でも……、それでも、私は――――”

 

 彼女は、私に暗に諦めろと、そう言います。私と彼とでは違い過ぎたのだと、そんなことを言うのです。

 けど、諦めるなんて有り得ません。

それに、それだけで充分でした。万に一つでも、億に一つでも可能性があるのなら、彼の歩みが無駄でないのなら、私は前を向いて歩き続けなければいけません。

だって、彼の方がきっと辛い思いをしているのですから。

私はこうやって、また彼の旅の軌跡を追って、彼が歩み続けていることを知ることが出来ます。

けれど、彼には、私がまだこうして待ち続けているなんて、確信することはできないのですから。

それはきっと、不安で、恐ろしいことでしょう、もし、自分の辿り着いた場所に、待っている筈の人が居なかったら、試みの全ては無意味になってしまうのですから。

けど、そんな心象の恐れなんて彼は人の前ではおくびにも出しません。

彼はそういう人です。

健気なまでに、私が待っていることを信じて心の支えにして、ただ約束を果たす為だけに過ごす日々。

それが、過酷でないはずが無いです。

そんな彼が歩みを止めないのに、私が立ち止まるわけにはいかないでしょう。

 彼が私に追いついてきたときに、胸を張って彼に逢えるように。

 ただ、彼の旅路の幸福を祈って、私は今日もこの幻想郷を駆けるのでした。

いずれ、彼がこの場所に辿り着くのだと信じて。

 

 

 



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幻想郷に祝の風が吹いて

 ああ――――風が吹いている。

 

 

 懐かしいものを見た。

 輝かしい、眩いほどの夢を見ていた。

 おそらく人生の最盛期たる時代を夢に見ていたせいか、いまだ微睡みの中にあるような心地だ。それでも身体はまるで糸に繰られたように立ち上がって、歩くことを再開する。

 不思議だ、彼女との記憶、その全てが霞んでいたというのに、今では鮮明に思い出せる。

 不思議だ、石の階段を登る脚が、こんなにも軽いだなんて。

 不思議だ、疲れ果て、朽ちかけていたはずの体が、心が、こんなにも潤っているのは。

 そんな不可思議を体験しながら、何かに導かれるように秋の色彩の豊かな山道を歩いていると、一陣の風が吹いた。

 風に吹き付けられて紅葉が舞うのと同時に、肌にまとわりつく、普段とは違った空気のようななにか。

 それで気づく。

 おそらく、ここは自分の居た元の世界ではないのだろう。

 そんな不確かな淡い期待を抱きながら階段の先である上を向いて、この身は次第に確かな意思をもって歩きだす。

 空は青く澄んでいて、照り付ける日差しが、少し眩しい。

 吸い込む空気は清く、呼吸をするごとに生き返るよう。

 歩くほどに、くたびれた身体はかつての若々しさを取り戻していく。

 枯葉の敷かれた道を踏み締める毎に体は洗われるようだった。

 今までの旅路での歩みを思うと、ここは極楽か。

 軽い足取りで山道を登っていると、いつか見た鳥居と、神社の一角が目に入る。

 無いはずのものがある。

 俺の世界から消えてしまったはずのものが、確かに、ここに。

それで、確信に至る。

ああ、間違いなく辿り着いたのだ。そのことに、思わず涙が零れそうになる。

 けれど、まだ早いと、逸り、溢れそうになるのを堪える。

 久しぶりに会ったときの顔が、泣き顔では格好がつかない。俺はせめて、彼女の前では格好をつけていなくちゃいけないのだ。

 とても懐かさを感じさせられる景色だ。

 随分と歩いた、歩いてきた、振り返っても誰も居らず、先は果てが見えなくて、孤独であまりにも永い旅だったように感じる。

 人の波に逆らって歩いてきたような人生だった。社会に出て働くようになってからは、特に。

職場の仲間とも日々仕事で行動を共にしながら、その心は別のところにあった。真に友達と言えるような親しい仲の人間は、高校を卒業した時に俺の方から関わりを絶ってしまった。きっとそれを最期に、俺の関心は、あの世界には無くなってしまっていたのだ。

 だから、旅の最中に何を失うことになったのかなんて、もう覚えてはいない。現世の多くの人が尊いとして守り続けている何かが、俺にとってはそうでもなかったのだろう。あの日からずっと、俺が大切に想い続けるものはたった一つで、それは他の人には理解のできるはずのないものだったのだから。

 山道を登り終えて鳥居の向こうを見ると、いつか見た神社の境内が広がっていた。

視界いっぱいに広がった神社の拝殿の御前。

 そこには落ち葉を竹箒で掃く、青と白の珍しい巫女服を着た、懐かしい少女が居た。

 ああ――――。

 果ての見えなかった旅はようやく終わりを迎えたのだ。

 あれから十年経ったはずだというのに、彼女の姿はかつてのままで、昔と全く変わっていない。そんな彼女と朽ちかけた自分とが釣り合うのだろうかと、再会を目前として、改めてそんな疑問が湧く。

 だが、元より、彼女と俺とでは釣り合っている筈も無かったと昔を思い出して、その不安を掻き消す。

 年甲斐も無く今すぐにでも思いきり名前を呼んで走り出したい衝動をどうにか抑えて、彼女の元へとゆっくりと歩く。今までの歩みを、旅の最期を噛みしめるように。

 歩いていて、ふと思う。

 おかしい、色々と話したいことがあったはずなのに、いざ目の前にしてみるとどうにも何から喋ったらいいのか分からない。

 元気だった? 俺はちょっと大変だったよ、とか、そんなことから話しはじめればいいのだろうか。

 あれも違うな、これも違うな、なんてそんなことを考えながら歩いていると、彼女がこちらに気づいた。

 彼女は一度、目を大きく見開いて驚いて見せてから、優しげに微笑んで俺が来るのを待つ。その顔を見ることをどれだけ待ち焦がれたことか。

 ――――やっと追いついた。

 ずっと追いかけていた彼女の前に、ようやく立つ。

ああ、この場所はやはり良い。

彼女の傍は、なんでこんなに居心地が良いのだろう。

 先ほどまで何を喋ればいいのかも分からなかった筈なのに、彼女と目が合うと、自然と言葉が出てきた。

 

「待たせたな、早苗」

 

 その声は、驚くほどに若く、本当にかつての自分に戻ったようだ。そして出てきた言葉は、溢れる感情に比べて、おかしなくらいに簡素で短かった。

 まるで待ち合わせの時間に少し遅れただけのような、そんな言葉を聞いた彼女の瞳は揺れて、こぼれそうな涙を堪えるように口を噤む。そんな顔がとても可愛い。

 かつてと変わらないように見えたが、こうして間近で見ると、前よりは少し大人びたような気もする。そんな印象も、今の涙を堪える表情で台無しではあったが。黙っていれば大人びた落ち着いた雰囲気の女性であるのに、仕草や態度は少し子供っぽい、そんなところも可愛いと思う。まあつまり、どんな表情や些細な仕草でもそれをするのが目の前の女の子であるなら、なんでも美しいし可愛いのだ。

 そよ風が吹いて、彼女の綺麗な緑の髪がわずかに靡く。彼女を象徴する、その緑の髪は全ての始まりだった。

 時間の流れはあまりにも穏やかで緩やか、二人だけのこの空間は、待ち望んでいた光景だけに、夢の世界のように現実味が無い。

 二人の間に吹きつける風は静かで優しく、まるで俺と彼女との再会を祝福しているよう。

撫でるような風の中で、彼女は太陽のように笑って、いつかの日に聞いた言葉をその小さな口は紡いだ。

 

「遅いです。どれだけ待たせるんですか、結鷹は」

「そう言うなよ、これでもすっ飛ばしてきたんだ」

「そうみたいですね」

 

 くすり、と彼女はくすぐったそうに笑う。

 片方は追い続けて、片方は待ち続ける、それを生涯かけて行っても果たされるかどうか分からない、泡沫の夢のような約束。

 互いが互いを信じ続けてもなお、為せるかどうかという奇跡。

 それがここに果たされたのだ。

 きっと、終わり方としては最上だろう。

 だけど、と、ふと思い出す。

 ああ、そういえばもう一つ、俺は彼女に言わなくちゃいけないことがあったのだった。

 それは彼女との再会の約束とは別のものであったが、俺にとっては同じくらい大切なことだった。

 別れの時、彼女との約束と共に密かに己自身に誓いとして打ち立てた、ただ一つのこと。

 再びまみえたのなら、秘めたままだった自分の気持ちを彼女にちゃんと伝えようと誓ったのであった。

 いざ口にしようとするとそれは、照れくさくて、とても言えたものじゃない。世界のどこかの誰かは、当然のように囁き合っていたりするのかもしれないけど、俺にとって、相手に自らの存在を委ねるに等しいこの言葉は本当に特別で、彼女を困らせないためにも最後まで口には出さず秘匿すべきものだった。

 けれど、それを伝えるなら、今をおいて他にないだろう。

きっと、ずっと想っていたけれど、最期まで口にすることが出来なかった、たった一つの言葉。

 俺の東風谷早苗への気持ちをたった一言であらわしたそれを、今こそ声に出して紡ぐ。

 

「早苗、お前が好きだ」

 

 唄うように、短く伝える。結局のところ、頭を巡り心に在り続けた彼女への色んな想いはその一言に集約されていて、口に出してしまえば、本当にどこにでもある安っぽい台詞だった。

そう、こんな言葉を伝える為に、十年も歩いてきたのだ。けれど、それを聞いた彼女は顔を紅潮させていて、恥じるように両手を胸の前に持っていくと、はにかみながら確かにこう答えた。

 

「はい、結鷹。私も……私もあなたが大好きです」

 

 互いへの想いを言葉に乗せて交わした。そうして二人は互いに手を取り合って、大切な者が傍に在ることを確かめ合うように笑い合う。そんな二人の幸先を示すように、幻想郷に優しい豊かな風が吹いたのであった。

 

 これで、少年と少女の奇跡の話はおわり。

 もう二人は、どちらかを待ったり追ったりするようなことはない。かつてのようにすれ違いがいながら、傷みを負いながらも、歩み寄っていく必要もきっとない。

 なぜなら、互いを遮っていた境界は既に無いのだから。

いや、おそらく、そんなものはもうとっくに無くなっていた。彼がこの幻想の地に足を踏み入れたその瞬間に。

二人が、再会の約束を果たそうとし続けていくうちに。

あるいは。

別れの間際の二人の間にひとつの約束が交わされた、その時から。

これから少年と少女はつないだ手を離さずに、寄り添って生きていく。

互いに愛しいと想った者を隣に感じながら、ずっと。

 そうして、忘れ去られたモノが行き着く幻を想う郷にて、彼と彼女の物語は続く。

 

――――きっと、いつまでも。

 

 

 




 長らくお待たせして申し訳ありませんでした。もう覚えている人はいないかもしれませんが、もし首を長ーくして待ってくれていた方がいましたら、その方には感謝と謝罪を。
 一段落書き終わった段階で使用していたノートPCが壊れ、もやもやしながらももう一度書き直す気にはなれなかったんですが、この度、ふと思いたってデータのサルベージに成功したので当時出来上がっていたものをそのまま投稿した次第です。
 当時は、この後のお話とか、間の話とかいろいろ書こうかと考えていましたが、とりあえずは完結となります。
 本当にありがとうございました。
 


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IF
東方に風は吹いているか


WARNING
何かが足りなくて、もしかしたらあったかもしれない結末の一つです。
後日談ではありません。
人によっては不快感があるかもしれないので、嫌な人はブラウザバックを。









 あの日に、何かを失ったような気がする。

 もう二年も前のことである、小山の頂の上で目を覚ました。

 訳も分からず取りあえず家に戻ってみると、珍しく母と父が俺のことを心配していて、あの家族の時間よりも仕事を優先していた労働者の鏡たる両親が、平日だというのに家で俺の帰りを待っていた。柊からのメールが携帯には何十通も届いていて、実際に顔を合わせた時にはらしくもなく、泣きつかれて困惑したものだった。

 どうやら、綾崎結鷹は三日にも渡って失踪していた、らしい。らしい、というのは俺自身にもその三日の時間の記憶が無く、何故、あんな何もない小山の頂上で寝ていたのか不明だ。念のために医者に診てもらったが体のどこにも異常は無く、結局、何があったのかは分からずじまいで、当時の謎はそのままに、早回しに季節は幾度も過ぎた。

 過ぎ去っていく時間の中でふとした拍子に想うのだ、その日に、何か大切なモノを落としたような気がしてならないと。

 何かを落としたのは分かっているのに、何を落としたのかが分からないというのは何とももどかしかったが、そんな心のつかえも、毎度、いつの間にか薄れてしまっていた。まるで、それは忘れていなければいけないことだとでもいうようだ。

 結局、忘れてしまったというならその程度のものだと諦めながら、そのことが何故か悲しかった。

 

「綾崎くん」

 

 俺を呼んだのは、高校に入ってからよく聞く声だった。彼女の声は澄んでいて、よく通る。目を開いて顔をあげると、俺の名前を呼んだ張本人の柊玲奈が、前の席に座ってこちらを覗き込んでいた。

 

「ん……おはよ、柊」

 朝から彼女のような美少女に起こされて、その姿を見れるとは、中々に幸運だ。実際、毎朝起こしに来てくれって頼んだら、来てくれそうだから困る。

 

「あら、寝ぼけているのかしら、もう昼休みなのだけど」

 

 頭のおかしい人を見るような顔の柊に言われて、周りを見渡すと、生徒同士が机を突合せたりしていて、それぞれに昼食を始めていた。全員で早弁か、とぼけた頭で若干抜けたことを考えながら時計を見る。どうやら柊の言う通り、既に昼休みらしい、時計の短針は既に12時を過ぎていた。

 

「……マジか。今日の記憶がほとんどないんだけど」

「まったく貴方と言う人は……、もう私達は受験生で、秋なのよ。授業くらいはちゃんと聞いたらどうかしら? それで、大丈夫なのあなた」

 

 言いながら、柊は人差し指をこめかみに当てて、呆れたように目を閉じて溜息を吐く。おかん属性が最近の柊にはついてきたような気がする。ぶっちゃけ俺の母よりも俺のことを心配してくれているだろう。

 

「いやあ、ちゃんと勉強してるって。柊と同じ大学行きたいし」

「それなら良いの。わ、私も出来るだけレベルを下げずに、あなたと一緒の大学に行きたいから……」

 

 彼女は仄かに顔を赤くして俺から少し視線を外しながら、喋る声は尻に向かっていくにつれ段々と小さくなっていく。そんな彼女の様子を、思わず可愛いと感じてしまった。

 そんなのを見たら、ちょっとイジメたくなるじゃないか。

 

「えー? なんだって? もっかい言ってくれないか」

 

 自分でも笑ってしまいそうなくらいに、わざとらしく言うが、柊にはそれで充分だった。

 

「だ、だから、あなたと、……同じところに、行きたいの」

 

 言いながら、柊は俯いて、上目遣いでこちらを見てくる。その顔は耳まで赤くて、見ているこちらまで顔が熱くなるのを感じる。こういう時に、恥ずかしがりながらもちゃんと言おうとするところが、彼女の、何というか、愛らしい部分だと思う。普段は気品溢れる立ち振る舞いだけに、そのギャップは中々の破壊力だ。

 

「いじのわるい人……」

「悪い悪い」

 

 少し、不貞腐れたように顔をむっとさせて柊はそんなことを言う。心の内だけで留めておくつもりが、どうやら顔にまで出ていたらしい。

 それにしても。

 

「同じ学校に……か」

「どうかしたの?」

「いや、何でもない」

 

 その台詞に、何故だか、急に懐かしい気がした。かつて、高校受験を前にした中学生の時にも、こんな風に誰かと同じ高校へ通おうと言って、毎日一緒になって勉強していた時期があったような気がするのだ。

 けれど、そんな記憶は頭の中には無くて、その誰かも思い当たる人物は居ない。中学からのツレと言えば中田だが、あいつでは無い、断じて。

 

「じゃあ、行きましょうか」

 

 そう言って、柊は席を立つ。どこに、とは聞かない。昼に俺たちが行く場所と言ったら決まっていた。何のためにあるのか分からない空き教室。三年生になった今でも、授業で一回も利用したことのないそこで、俺と柊はよく昼休みを過ごしている。たまに、中田も同席するが、それ以外は誰も来ない。それだけに快適だ。

 

「ああ、そうだな」

 

 柊に続いて俺も席を立つ。今日は、俺の分まで弁当を作ってきてもらう約束だった。彼女は、大体のことをそつなく並み以上に一人で熟し、料理も当然その範囲の内にあった。あまりに弱点が無さ過ぎて、ちょっと俺の立つ瀬がないくらいだ。こういう時、弱点らしい弱点があった方がこちらにも格好のつけようがあろうというものなのだが。

 二人分の弁当を手に提げた彼女のあとを追って、教室を出る時に、ふと思う。

 そういえば。

 あの空き教室は、いつ、どうやって見つけたのであったか。

 

 

 

 夢を、見ていた。

 背景はなんだかぼんやりしていて、ここが何となく神社だというのは分かるのだが、白い靄のようなもののせいで、その細部まで捉えることは出来ない。ただ、拝殿らしき建築物と参道のおかげで、ここが神社であるということだけは分かった。

 そんな曖昧な世界の中心に────緑の髪の少女が居た。

 腰くらいまで伸びた長い、綺麗な緑の髪の毛。思わず吸い込まれそうになる碧のつぶらな瞳。水玉と変な模様の描かれた青のスカートと、青色で縁どりされた白い上着。巫女服のようなそれを身に纏った彼女は、神秘的だ。

 それは、どこの誰とも分からない女の子だったけれど、ひどく、懐かしい匂いがした。

 胸がざわつく、頭にはノイズが走る。目からは、自分でも理解できず、涙が零れて仕方なかった。

 記憶には無いのに、彼女が、俺にとってとても大切なモノだったような気がする。そんな風に感じることが不思議で仕方ないのに、その感覚は、すとん、と腑に落ちて着いてしまう。そんな感覚とは反対に胸は異様に高鳴る。彼女を目撃した瞬間から顔は熱をもってどうしようもない。

 俺に無いはずの彼女にまつわる記憶を、心が必死に拾い集めようとしている。あの日、失ってしまった何かが、今、目の前に在るのだとでも言うように。

 おかしい、まるで、自分の体じゃないみたいだ。

 まるで、俺の他に誰かが俺を動かしているみたいに、口は、俺の知るはずのない言葉を、彼女の名前を紡ぎだした。

 

「東風谷、久しぶりだな」

 

 自らの言葉で、その少女の名前を思い出す。

 東風谷、早苗。

 とても懐かしい響きだと、そう想った。

 三日ぶりくらいに会った友人にでも言うようなそんな言葉に、彼女は確かに反応した。緑の髪の少女は俺を見て、優しく笑う。そうして、彼女も口を開く。

 

「────」

 

 けれど、その声は俺にまで届かない。まるで、俺と彼女では、存在としての次元が違うとでも言うように、その声は俺には理解が出来ない。こんなにも近くに居るのに、二人は絶望的なまでに遠くに居た。それだけのものが、俺と彼女の間には在った。それは、幻想の夢の中でさえ、変わらずあり続ける

 

「お前、神様なんだよな……。今でも信じられないよ、ちょっと」

「────」

 

 目の前の少女が、少しむっとして何かを言っている。けれど、その表情には確かに親しみがあった。やはり、声は届かなかった。

 それで、会話は止まってしまう。

 いつもくだらない話をしていた友人と久しぶりに会って、改まって真面目な話をしようとすると会話が続かなかったりするのに、少し似ていた。だというのに、居心地はそう悪くない。

 どれだけ近づこうとしても、触れ合おうとしても、それでも俺と彼女との隔たりは超えられない。

 そのことに、胸がきゅっと締め付けられる。どうして、こんなにもそのことが切ないのだろう。顔も知らない少女の声が聞こえないだけで、名前以外に何も思い出せないその少女が今にも泣きそうな顔で、それでも微笑んでこちらを見ているだけで、何で、こんなにも痛いのだろう。

 だけど、俺の知らないもう一人の俺には、それが聞こえていると言うのだろうか、勝手に口と体は動いた。

 

「……東風谷、君が好きだ。きっと、初めて見た時から好きだった。その緑の髪を目にした瞬間から、ずっと東風谷を目で追っていたんだ。東風谷のちょっとした仕草に心は揺れてさ、お前が笑うと俺まで嬉しくなって、だからお前が悲しそうにしてる時は何とかしてやりたいって思えた……。東風谷の傍がきっと俺の居場所なんだって、図々しいかもしんないけどさ、そんなことをずっと願ってた」

 

 それは別離の言葉だった。いつかの時に交わすことの叶わなかった、どこかの誰かの別れの言葉だった。たった一人の少女を想って紡がれた、俺でない俺の言葉だった。

 紡ぐ言葉はたどたどしく、聞くにも見るにも堪えないあまりにも恥ずかしい、告白だった。子守唄のような響きをもって伝えられた、最後に、ずっと、たった一言伝えたいと想っていたはずの言葉が出てくる。

 

「お前と会えて良かったよ」

 

 ふと、掌を彼女に向けて手を伸ばす。それを見て、彼女も俺に掌を向けて手を差し出した。

 それはいかような奇跡か。

 存在としての格の違いという次元が隔てていたはずの俺と彼女の間が、──ゼロになった。

 それで、全てが蘇る。あまりにも懐かしい光景たちが、瞼の裏に映し出された。

 互いに向けた掌を重ねる。彼女の手は柔らかくて、触っていて気持ちが良い。不思議なことに、彼女の手に触れていると心が落ち着いた。

 俺が好きだった、聞いていて心地の良い彼女の声が聞こえてくる。

 

「私も、結鷹の事が好きでした。あなたには何度救われたか分かりません。あなたのおかげで私は自分の事も好きになれたんです、あなたのおかげで外の世界も大好きなままでいられたんだって、今は思えます」

 

 そんなことはない。

 俺に出来たことなんて、本当になくて。ただ傍に居たいって願いすら叶うことはなくて。それ程に俺は無力で、だって言うのに目の前の少女は心底、俺で良かったと言わんばかりだ。

 そのことに嬉しいやら悲しいやらで感情がごちゃ混ぜになって、またしても込み上げてきた涙が溢れそうになる。

 

「結鷹と居た時間はそれこそ風みたいにすぐに去ってしまいましたけど、本当に楽しかったです。お別れは悲しかったですけど、それでも──あなたと出会えて良かった」

 

 わずかに頬を赤く染めた彼女は、目に涙を溜めながらも、俺がずっと見たかった気がする太陽のような笑顔をして、最期にこう言った。

 

 ────ありがとう。

 

 かつて、一つの奇跡があった。

 それを見つけることが出来たのは世界中でたったの二人で、それを奇跡だと想ったのははたして、そのどちらだったのか。少女は平凡な多くの人の中から解かり合いたいと願うほどの少年を見つけて、少年は上辺のみを見ている者達に囲われた孤独な少女を見つけて、隣に居たいと想った。少年がどれだけ手を伸ばしても少女には届かないと知って、それでもその手を伸ばし続けた。

 その果てに訪れたのは二人が寄り添い合い続ける理想では無く、別れという、違い過ぎた二人には当然の末路だった。

 少女は人でありながら神だった。対して少年はどこまでもただの人だった。人としてちょっと変わっている程度では、その差はどれだけ求め合おうとも埋めようがなかったのだろう。

 けれど。

 そんな二人が出逢って、寄り添おうとしたことこそが、きっと────。

 見つめ合うだけの時間が過ぎて、気づく。

 ああ、この奇跡のようなユメもどうやら、終わりを迎えたらしい。

 曖昧だった背景だけでなく、視界にある全てが歪んでいくような感覚。段々と、彼女の姿も薄らぼんやりとしてきた。

 透き通って段々と見えなくなっていく少女。今度こそは、その最後までを見届けようと想った。

 行って来い、東風谷。

 多分、言い残したことは無かった。彼女にしてやれることは俺には無い。いや、そもそも、そんなものは元から無かったか。ただ、いつの日かに、目の前の女の子が素敵だと想った、だから一緒に居たいと願った。ただ、それだけのこと。

 それに幾度も助けられたと彼女は言ってくれた。

 なら、それで充分だった。それで充分すぎる程に報われている。

 彼女と一緒に居続ける。

 それはもう叶わない夢だけど。

 あの出会いがあったから、こんな別れが訪れたのだ。

 心が痛いのは、それだけ大事だったということ。別れは悲嘆すべきことだけど、出逢ったことだけは、決して間違いじゃなかった。

 だから、今度こそ、その背中を見送るのだ。

 

 少しだけ、あの緑の髪の少女──東風谷早苗のことが少し心配だった。

 ちょっと天然で、生真面目で、優しくて、頑張り屋さんで、まっすぐで、そんな全部が可愛くて、誰の期待にでも応えようとする女の子だから。

 向こうで、寂しい思いをしていないだろうか、無理をしていないだろうか。彼女は果たして其処で受け入れられたのだろうか。そこならば、ちゃんと笑っていられるのだろうか。かつて、俺の目の前で、たくさんの笑顔を見せてくれたように。

 けれど、そんな不安は直後に杞憂だったのだと確信する。

 だって、彼女が俺から背を向けて歩いた先には、彼女を迎えてくれる人たちがたくさん居たのだから。

 そんな景色を幻視したのだから。

 彼女の到達を待っているその人たちが身を包んでいるのは、和洋の入り混じった特徴的な衣装ばかりで、その姿を微かに目にしただけで全員が全員、一癖も二癖もありそうな連中だと判った。こちらではその心を孤独たらしめていた程に特別に生まれてしまった彼女でさえも、きっと向こうではそうでは無いのだ。

 だから、彼女はあそこなら疎まれることも羨まれることも、不必要に持て囃されることもない。そんな場所が孤独な筈がない。

 特別な者たちばかりが集まった幻想の郷へと向かって歩く彼女は、こちらにはもう振り返えることは無い、ただ前を見据えて進み続ける。その後光すら差して視える神々しい姿たるや、まさしく現人神に相応しい。

 どんどん遠のいていく、到底追いつけそうにない少女の後ろ姿を見て、俺に安堵の笑顔が出来た。

 

 どうやら、俺じゃあ、お前にはどうあがいても届き得なかったらしい。あの向こう側に居る人たちとならお前はきっと幸せになれるよ、早苗。

 でも、だけど。

 向こう側の世界で彼女の隣に居るのが俺じゃないこと、俺が居なくても彼女はあんなにも幸せそうな笑顔をしていること。

 

 そのことが────ほんの少しだけ悲しかった。

 

 風が強く吹き付けると、不安定な夢の世界は吹き飛んでしまった。まるで花弁が舞うように世界が欠けていく。残ったのは、眩いばかりの真白の世界だけ。もう、何も見えない。

 彼女と会うのはきっと、あれで最後だ。

 もう二度と、こんなことは起きない。

 

 だから人はそれを奇跡と呼んだのだ。

 

 この身を包む風の最中に、眩しさだけを残していた世界が、最後にある一つの光景を映した。そうして見えた景色はいつかの日に見たあの神社で、そこには一人の小さな女の子と、小さな男の子が元気に走り回っていた。

 それはきっと、何も考えず、ただ彼女と居られた瞬き程に短い期間の記憶。

 こんなこと、とても口にして言葉には出来なかったけど、東風谷には誰よりも幸せになって欲しかった。そして、その隣に居るのが俺だったら、それは、どんなに素晴らしい────。

 蘇りかけた記憶が白紙となって消えていく中で、ほんのわずかな、けれど、きっと何より大切だと感じた想いだけが残った。

 

「……くん、綾崎くん」

 

 呼ばれて、目が覚める。机に向かって突っ伏していた体を起こすと、目の前には柊玲奈が居た。教室の西側の窓からは夕日が差していて、彼女と教室とを紅く照らしている。

 呆然としている俺を、彼女は心配そうに見つめる。

 

「大丈夫? 今日の貴方、少し変よ、ずっとぼうっとしてる」

「大丈夫だって、ちょいと寝不足なだけだ」

「本当に? 私、心配なの。いつかまた、あの日みたいに貴方が姿を消してしまうんじゃないかって……」

 

 柊の不安そうな瞳は、俺から教室の床に向けられて、俯いてしまう。下を向く彼女の表情を、こちらから確認することはできない。

 俺が失踪していた時期におそらく一番心配してくれていたのは彼女だった。暮れようとする陽の光を受けた柊は、今にもその黄金に溶けてしまいそう。陽によって消えてしまいそうな小さな氷のようなその姿を、とても儚いと、そう思った。

 

「柊……」

 

 名前を呟くように口にすると、彼女は、俺の制服の袖の端を二本の指で摘まんでくる。その力はとても弱くて、振り払うのは容易いはずなのに、俺にはそれが到底出来そうにない。

 

「お願いだから、もう私を独りにしないで」

 

 その声は今にも消え入りそうなのに、心に強く響いた。それがどれほどの勇気をもって紡がれた言葉なのかは、考えるに難くない。彼女は少し特別で、だから、独りでも強く生きなければならなかった。そんな風に生きてきた彼女がそんなことを言う意味の重さが分からない程、俺は鈍くは無かった。

 縋りつくようにせがむように言う柊を俺が拒絶なんて出来るはずも無く、ただ、受け入れようと想った。一緒に居てやりたいと、傍に居たいと、いつかのようにそう願った。恥ずかしくてとても出来ないけれど、抱き締めてあげたかった。

 

「大丈夫だよ、柊。もう絶対に居なくなったりしないって、俺は」

「……本当に? 約束よ」

「ああ、約束だ」

 

 そこについては、何となくだが得体のしれない確信があった。

 

「本当に本当よ。私はこれでも欲深いの。離れようとしたって離さないわよ」

 

 袖を強く握られて、今しがたの彼女の言葉に偽りは一切ないとでも言うようだった。俺だって、離してなんかやるもんか。

 

「じゃあ、俺がお前から離れられる時は俺かお前が寿命でぽっくり逝った時くらいだな」

 

 冗談のようにそんなことを口にすると、彼女は嬉しそうに、満足いったように笑う。目の前に居る柊玲奈という女の子が愛おしくて仕方なくなって、告げる。

 

「……お前が好きだ、柊」

 

 ああ、いつからか、俺はこの少女の事が好きになっていた。その上質な絹糸のように流麗な烏の濡れ羽色の黒髪が、理知的な切れ長の目に収まった水晶のように澄んだ瞳が、あまりにも白いきめ細やかでたおやかな肌が、上品だと感じさせられるほどに洗練された一つ一つの動作が、独りで全然平気みたいな雰囲気を出しておいて、意外と寂しがり屋さんなところが、こっちが人恋しい時にはそっと傍に居てくれたりするところが、彼女の至るところ全部が好きだった。

 こんなことを言ってしまったのは、あの夢のせいだろうか。そうだ、あのくっさいくっさい告白のせいだ。そういうことにしておこう。

 気づかず、ずっとまとわりついていた後ろめたさのようなものは、もう俺から消え失せていた。

 俺の唐突な告白を聞いてこちらを見る柊の表情は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔と言う表現が似つかわしくて、思わず笑ってしまいそうになる。数秒の間を置いて俺が何を言ったのか理解した柊はそのまま黙り込んでしまう。

 このまま放っておくと、そのまま今の発言が無かったことにされそうだ。

 

「なんだよ、人には言わせておいて、返事は無しか?」

 

 ちょっと意地悪にそう言ってやると、柊は俺からすっと目を逸らして、視線を下に落とすと、俯き加減にぼそっと小さく囁くほどの声量で言った。

 彼女の顔は真っ赤で、けれど、それが実際に顔が紅潮しているのか、その顔に照りつく夕日の光のせいなのかどうか分からないのが少しだけ悔やまれた。

 

「……わ、私も」

「ん?」

 

 今度は、落とした視線をこちらへと向き直した。表情はムキになった子供みたいで、だけど見つめた氷のように綺麗な瞳は確かな意思で俺を捉えていて、彼女の小さな口はさっきよりも幾分か大きな声ではっきりと言葉にした。

 

「私も、あなたが好き」

「そりゃ良かった」

 

 何となく、掌を彼女に向けて右手を差し出す。すると、彼女は小さく、それでもはっきりと笑って同じように右手を差し出してくれる。その表情は優しげで、どこか儚い。

 向かい合わせた掌を重ねる。

 彼女の白い手は、少しひんやりとしていて、俺の手から熱を奪っていく。その感覚がどうにも気持ちが良い。向けられた凍てつく氷のような瞳はいつの間にやら溶けてしまったようで、夏の、澄んだ青空のようだ。その蒼い瞳が、どこかの誰かと一瞬だけ重なって、消えた。

 つないだこの手をしっかりと取っていよう。今度は──離れてしまわないように。

 ふと、日が差す教室の窓の反対側から風が吹き込んできた。

 それは神託にも似ていて、急に、その風が吹いてきた方向を今すぐにでも見なければいけないという衝動にかられた。

 

「ちょ、ちょっと!」

 

 それで、合わせていた柊の手を握って、連れだって教室から廊下へと飛び出て取り付けられた窓から半身を乗り出す。

 東の空を見上げる。

 朱い、果てのない空はどこまでも続いていて、どこかで彼女もこれを見ているのだろうかと、そんなことを考えてしまう。

 見ているものは違っても、聞こえるものは違っても、在る世界が違っても、この空は続いていて、その下で俺たちのように、あの少女もどこかで在り続ける。

 あれで終わりじゃないのかもしれない、なんて。

 そんなことを想ったのだ。

 

 “────ありがとう”

 

 耳朶に響く、別れの間際の少女の言葉。

 それをずっと胸に抱えて歩き続ける。

 隣で俺の突然の奇行を不思議そうにしている柊を見る。

 彼女に二柱の神がついているように、俺にはこんなにも素敵な女の子が隣に居るのだ。

 なら大丈夫だ、俺はこれからも頑張っていける。

 

 ────ありがとな東風谷、随分と世話になった。

 

 ふと、脳裏に蘇る、失われたはずの遠い記憶。

 

 “さなえちゃんのかみは、みどりいろだよ”

 “おれ、そのかみのいろすきだなあ、ほかのひととはちがってて、きれいなんだもん”

 

 かつて、一つの出会いがあった。

 それを俺は知っている。

 そのことを思えば、俺たちが再び会うことがかなわないなんてことはありえない。

 そんなのは絶対に間違っている。

 だから。

 

 ────またな。

 

 俺と柊と東風谷の三人がまた揃う日を俺の夢として定めた。

 不遜にも傲慢にも図々しくもそんなことを祈った、それが例え叶わないものだとしても。

 そんな、おそらくはその通りなのであろうと感じる心を奥深くに封じ込んで、おくびにも出さず、再会の日を信じ続ける。

 ただ、信じる。

 ずっと昔から俺があの女の子に出来たのは、結局のところそれだけ。

 けど、それでかまわない。

 

 だって────俺と彼女の関係はきっと、そういうもので出来ていたのだから。

 

 彼女に届けと願って藍色の空を見ていると、その果てから東風が吹いた。

 まるでそれは、遥か彼方に居る彼女が、俺に返事をしてくれたようだった。

 

 

 

 




というわけで、約束が交わされる日に、早苗さんの元に辿り着くには何かの要素が欠けていた場合のお話でした。ゲーム的に言うとビターendですね。
当時書き終わっていたものの中で、まだ残っていたお話です。必ずしも必要ではない話なので、投稿するか悩みましたが、何年も待ってくれた方々なら、こういうのもアリと思っていただけるかなと思い投下しました。
こちらの彼の方が現世での人生捨ててない分、幾分か健全なのかなー、なんて思ったりもしています。
蛇足をつけるなら、幻想郷でのいちゃいちゃが描けると良いんですけど、当時の文体や雰囲気を再現できそうにもないので、期待はしない方向で、これで本当に完結だと思っていただけると助かります。

たくさんの感想、評価、お気に入り登録ありがとうございました。
こんなにも多くの方にお待ちいただいているとは思いませんでした。
出来ればその当時に、完結話まで持っていけていたらな、と壊れたPCを恨みつつ諦めて心折れたことを悔いています。
ここまでお付き合い頂いたみなさん、本当にありがとうございました。


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