銀河英雄伝説 異伝、フロル・リシャール (碧海かせな)
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000 とある著者の前書き

 フロル・リシャールの秘密を、知っている者は数少ない。知っていた者も、その口を閉ざしたままあの世に旅立っていってしまい、今となっては私がただ一人残るだけになってしまった。

 

 私自身の寿命もまた、長くはないだろうと、漠然と感じている。いかに医療が発達したといっても、人の寿命を永遠に延ばすことだけはできない。私もまた、老いという死に神からは逃れることはできないだろう。だから、今これを記している。

 フロル・リシャールを語る言葉は、いくつも存在する。賞賛するものもあれば、罵倒するものも。だからこそ、私は私だけが知りうる真実を、書き記しておかねばなるまい。

 

 私が中身のない真っ新なの革手帳を買ってきたのは、ほんの昨日のことである。

 

 私が彼から秘密を告げられたのは、彼が亡くなるほんの一週間前であった。彼の秘密は、ある者にはただの戯れ言でしかないと一蹴されるものだった。だが、彼と長い時間を過ごしていた私には分かる。彼は嘘をついていない。

 彼は、私に本当のことを教えてくれた。

 例えそれが他の誰にも信じられないような事実であっても、私はそれを信じている。

 それが、私を心から愛してくれた彼に対する、私なりの信頼なのだ。

 

 さて、これを書くに当たって私は、彼を知る者が書いた、彼と同じ時代を生きた者たちの手記や自伝をすべて読み返した。手に入る限りの資料を集め、それの再構成を試みた。彼の人生を知るためには、彼の一面を知る者の人生もまた、知らねばならないと思ったからだ。その結果、私は私の知らない彼の一面もまた、知ることが出来た。これは私にとって思いもかけない喜びを、私にもたらしてくれた。

 だからその喜びを、少しでも残したいと思う。

 

 この革手帳を読むのは、きっと私の子供たちだけだろう。あまり門外に出していいものでもない。読んでも、きっと誰も信じないだろう。

 信じないだろうから、これは小説である、と考えて欲しい。

 ちょっとしたノンフィクション・ノベルである。

 著者である私は、私が見たことのない景色を、それを見た者の目を借りて記述する。あたかも私が見てきたことのように。

 世に存在するノンフィクション・ノベルの例に漏れず、この物語にはある程度の脚色や誇張があるだろう。私の想像や、願望が反映されているかも知れない。

 そこにいったいどれだけの調味料(うそ)が含まれているかは、秘密である。

 私だけが知っている、秘密となるだろう。 

 

 ちなみにこの物語の中では私もまた、ただの脇役に過ぎない。私自身も三人称で記述していることを、注意していただきたい。

 この話の主人公は、私ではない。

 フロル・リシャールだからである。

 

 それでは私は(フロル)の物語を紡ごう。

 私の愛する、フロル・リシャールの物語を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第1部 沐雨篇
001 プロローグ


 肥大化し腐敗しきった銀河連邦からゴールデンバウム王朝が生まれ、それを脱したアーレ・ハイネセンが自由惑星同盟を建国して100余年。宇宙は人の営みを超越したように、誰も予想のし得ない歴史を紡ぎ出していた。宇宙にその生活圏を見出した人間は、その卑小さをその本能によって刻み込み、愚にも付かない戦争を繰り返している。大量のエネルギーと大量の労力、そして大量の死者を生み出す戦争は、永遠と続くかと思われた。

 

 宇宙暦766年、自由惑星同盟首都星ハイネセン、第二都市デンホフという街でその男は生まれた。

 

 

 フロル・リシャール。

 

 

 宇宙における時の流れの中では、それもまた儚く散り行く一つの命に過ぎないだろう。だがこの男の存在は、自由惑星同盟という国家において大きな意味を持つことになるのである。

 

 かのヤン・ウェンリーの養子にして、若き英雄として名を馳せたユリアン・ミンツ氏は、のちに自伝においてこのフロル・リシャールという男について、こう述べている。

「彼はまるで突然現れた旅人であった。彼は何かに達観したような眼差しと、その非凡な能力、そして何よりその人柄によって多くの人を魅了し、それは私も、そしてヤン提督も例外とはなりえなかったのである」

 

 彼は16歳まで、デンホフの親元で過ごし、そして志願してハイネセン同盟士官学校に入学した。当時、彼の人となりを知る友人は、みな不思議がった。彼らの弁を借りれば、

——フロルほど国家や大義を嫌う男もいなかった。

というのだ。であるから、両親を含めその進路は青天の霹靂と言えるものであった。幼少期の悪友、ボリフ・コーネフはこう言う。

「フロルの阿呆が士官学校なんざに入学するって聞いた時は、耳を疑ったね。俺は聞いたさ、『どうした、気が狂ったか?』ってな。あいつはこう言ったよ。『俺が馬鹿をしたがる阿呆じゃないとでも思ったか? それにまぁ、俺にだって大望ってのがあるんだよ』なんのことだよって、思ったさ。生粋のフェザーン人の俺には、理解不能ってやつさ」

 

 士官学校に入学したフロルは、そこで一つ下の後輩に、あのヤン・ウェンリーを持った。ヤン一派としてその後一角を担うダスティ・アッテンボローとも、先輩後輩の壁を越えた友人関係を結ぶのである。三つ下の後輩であるアッテンボロー氏は、彼との初遭遇を強烈に覚えていた。

「フロル先輩は不思議な人でしたよ。何がって、私とのファースト・コンタクトからして普通じゃなかったですからね。私は堅苦しい入学式を終えて、体育館から出てきたところで先輩に捕まったんです。『よう、後輩。おまえさん暇か?』ってね。隣には、嫌そうな顔をしたヤン先輩もいましたっけ。それから私たちはバーに直行ですよ。昼間っからね。でもまぁ、いい先輩であったのは確かです。士官学校だってのに、後輩にも威張らない男で、先輩にも受けが良くってね。頭の固い奴には嫌われていましたけどね、自然と人が周りに人が集まる人でした。サボりの常習犯だったんですけどね」

 

 士官学校時代において、よくも悪くもフロル・リシャールは奇人変人の類とされていた。才の片鱗を見せてはいたが、それにしても些細なものだった。当時の評価は、その後彼が手にしていく名声や地位に比べ、遥かに過少というべきであったろう。

 

 

 だが、不敗の魔術師ことヤン・ウェンリーだけは、こう言葉を残している。

「フロル・リシャールは天才ではなかったが要領は良く、無能ではなかったが怠惰であった。つまり社会一般的な意味で決して特別視されうる士官候補生ではなかったのである。だが彼が類い稀な男であるということは、以下の一点によって証明できる。それは私にとっては決して忘れることのない大先輩であり、そしてその後ずっと私の友人であり続けた、ということだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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002 秋空の回想

「眠いなぁ……」

 

 フロル・リシャールは、士官学校から3区画の近さにあるハイネセン音楽学校の庭先で、寝そべりながらそう呟いた。青く生い茂る木の下は、直射日光をほどよく遮って、横になるには絶好の場所だった。

 この時間、本当であれば戦史研究の講義であったが、彼はそれをさぼってここまで来ていた。何も、音楽学校に潜入せよ、という任務があるわけでもない。ただ、ハイネセンの空は青く、高く、もうすぐやってくる冬を迎えるかのように、晴れやかに透き通っている。

 

——空は、どこも変わらないなぁ。

 

 音楽室から聴こえてくるピアノは、モーツァルトだったかベートーベンだったか、懐かしいクラシックの音色を響かせている。どうも固有名称を覚えるのが不得手な彼は、今もそれがなんという曲名なのか知り得ない。

 前世から慣れ親しんだ音楽なのにもかかわらず。

 

 

 フロル・リシャールは転生者だ。

 

 つまり、前世の記憶がある。

 

 

 いや、そもそも今のフロルを指して、転生者と呼べるか定かではない。彼以外に彼は転生者を知らなかったし、転生するにしてはその世界が普通ではなかったからである。彼が転生したのは、あの銀河英雄伝説の世界だったのだ。

 彼の記憶が劣化していなければ、銀河英雄伝説は彼の前世にて人気のあったSF小説であったはずなのだ。彼はその愛読者であり、アニメのファンでもあり、ともかくは特にお気に入りの物語だったのである。

 

 彼の前世の名を、相沢優一という。日本人である。

 彼の死は、彼にとって唐突であった。バイト先からの帰宅途中、交通事故に遭ったのだ。トラックと激突したその瞬間、全身に疾った痛み、衝撃は今もありありと思い出せる。

 あ、死んだな、と思った。

 あっけのないのものだ。まさか24まで生きてきて、こんなに簡単に死ぬことになるとは、思いもよらなかったのだから。

 

 

 そして次の瞬間、彼は転生していた。

 

 

 まるで今まで自分は長い夢を見ていたかのように、痛みが引き、目を開くと、そこはまったくの異世界だった。目の前には見知らぬ外国人の男女が二人、こちらを覗き込んでいた。さすがの自分も、誰だろう、と思ったのは当然の話だろう。

 場所はどうやら病院だった。

 どうやら、というのは白い天井やあの独特の消毒臭がしたからであって、彼の視界のほとんどは覗き込むようにこちらを見ている男女で埋め尽くされていた。

 病院であるなら、交通事故に遭って一命を取り留めたのなら、本来であればそこには相沢優一の両親であるべきであった。だが、そうではなかった。

 

「おお! フロルが目を開けたぞ、アンナ!」

「なんて可愛いのかしら・・・・・・、見て、この目、レイモンにそっくりよ」

「ああ、この口なんてアンナそっくりじゃないか」

 

 フロル? アンナ? レイモン?

 

 それらの会話はすべて英語で交わされていた。

 彼は当然、誰何の声を上げようとした。だがそれは発音できなかった。発声できたのは、まるで赤ん坊の声。伸ばして、ようやく視界に入った自分の手は、まるで赤子の手であった。

 

 そして彼は気付いた。

 自分は生まれ変わったのだ、と。

 

 

 彼は新たな両親の元、すくすくと成長した。彼が自分の住む世界を、銀河英雄伝説の世界であると自覚したのはいつのことであろうか。おそらく、夜空にアルテミスの首飾りが輝いているのを、見つけた時だったろう。彼が生まれたのは民主主義の国、衆愚政治で滅びる運命にある国家、自由惑星同盟であった。貴族制度理不尽が横行する銀河帝国に生まれなかったのは幸い、というべきであったが、その将来を考えれば同盟もまた、安心できた物ではなかった。

 彼は両親の愛情を受けて幸福な幼少期を過ごした。だが24歳分の人生経験は、彼にマせた子供という評価を与え続けた。それは致し方ないだろう。もっとも、大した問題も起こさず、多少変人奇人に思われながらも健全育っただけ、よかったというもの。

 もはや、彼にとって、父レイモンも母アンナも、もう一組の両親だった。

 本当に、大切な家族であった。

 

 そんな彼がハイネセンの国立大学ではなく、士官学校に入校すると告げたとき、彼らを襲った動揺はいかほどのものだったろう。彼の両親は軍属ではなく、また戦争を嫌う平和な一市民だったからである。この件、彼は生涯申し訳ない気持ちを落ち続けたと、彼は手記に遺している。だがそれらを説得してまで、押し殺してまで、軍に進んだのは一重に彼が未来を知っていたからに他ならない。

 

 ここは、銀河英雄伝説の世界なのだ。

 相沢優一、いや、ここに至っては彼は既にフロル・リシャールという人格を形成していたとして、彼は決して軍隊や民主国家主義を崇拝していたわけではなかった。自己犠牲などという美辞麗句を、もっとも嫌う男だった。これは、ジュニア・ハイスクール時代にフェザーン人であるボリフ・コーネフと仲良くなった所以でもある。

 それであっても、彼が今生きていたのは、銀英伝の世界なのである。

 

 当時はまだ無名のヤン・ウェンリー、ラインハルト・フォン・ローエングラム——まだミューゼル姓であろうが——が勇名を届かせ、名を銀河に知らしめる、そして銀河の勢力図が一変する時代が、すぐそこに来ているのだ。

 まだ、誰も時代の変革がすぐそこに迫っていることを知らない中、彼だけがそれを知っていたのだ。

 彼の持つ記憶が、そのすべてがこの世界があの世界であることを告げていたのだ。

 同盟軍には歴戦の勇将ビュコック提督がいて、グリーンヒル提督がいて、帝国にはミュッケンベルガー元帥が君臨していた。

 

——だから、俺はこの世界を生きてやる。

 

 彼はその反則(チート)な知識を使って、生き抜いてやろうと決めたのだ。

 

 そして、彼にはそれにも増して重大な目的が、もう一つあった。

 ヤン・ウェンリーである。

 

 彼は前世で自他ともに認めるヤンのファンであった。小説でもアニメでも、ヤンが繰り出す言動や神謀鬼策に胸をときめかせ、彼の死に心の底から落ち込み泣いたものだ。この世界に、敬愛するヤン・ウェンリーがいるとするならば、それを救うことこそが彼の使命だと考えていた。

 フロル・リシャールは、自分がなぜこの世界に転生したのかは知らぬ。だが、もしそこに神の意思の類があるとするならば、ヤンの命を救うことが彼に与えられた使命だと考えていたのであろう。

 

 

 

「まーた、こんなとこで寝てるの? 不良士官候補生さん?」

 目を開けると、いつの間か音楽は途絶えていて、音楽室の窓からはジェシカ・エドワーズが顔を出していた。窓に両手をついてこちらを見下ろしている顔は、小さじ一杯の笑みが浮かべられている。

 

「やぁ、ジェシカ。今日はいい天気だと思わないかい?」

 フロルはもう一度目を閉じると、軽い口調でそう言った。

「そうね、素敵な秋の空。それにしたって、なんだってフロル・リシャール先輩はこんなところで寝ているのかしら? 士官学校って、そんなに時間割に余裕があるだなんて知らなかったわ」

 彼女の皮肉を、フロルは口を微笑を浮かべることで応えた。

 

「今日の午後は戦史研究ってやつでね。爺さん先生の話はつまらんからなぁ」

「で、抜け出してきたって?」

「あとでヤンに個人授業でも頼むさ。あいつの話は面白い」

 

 ジェシカは小さな溜息を吐いたようだった。

「そうなると可哀想なのはヤンね」

「最近、二人と会ってるか?」

「ええ、ヤンもラップも、軍人にしておくにはもったいない好男子だもの」

「すると俺は礼儀正しい紳士ってところかな」

「冗談きついわ」

「……」

 一蹴されてしまった。

 

 太陽が雲に隠れたのか、日差しが弱まるのを肌で感じた。

 午前の徒手格闘訓練で殴られ、熱を持った頬が風を受けて心地よい。

「先輩、今日は随分男前ね」

「知らなかったか、実は前からだよ」

「じゃあ毎日誰かに殴られることね」

「……ジェシカって、なんか前から俺に酷くない?」

「あら気のせいよ、きっと」

「だといいけど」

 

 言うことを躊躇ったように、ジェシカは言葉を紡ぐ。

「訓練は大変?」

「ま、軍だものなぁ」

「あなたには似合わないわ」

「ヤンほどではないね」

「いつかは戦場に?」

「それがお仕事だもの」

「怖くないの?」

「やりたいことをしないで死ぬ方が怖いさ」

「それって軍に入らなきゃできないこと?」

「そうでなければ、好きでもない軍隊に自分からは入らないよ」

「それって、何?」

 フロルは答えなかった。

 ジェシカはフロルの顔から何かを読み取ろうかとしたが、それはなし得なかった。

 

「……今日の午前頑張ったご褒美に、花も恥じらう美少女とお茶でもどうかしら?」

「そんな人がいるなら是非紹介願いたいけど」フロルは片目だけ目を開けて、ジェシカを見た。口をへの字にして。「生憎、今日は口の中が切れててね、疲れてるし、このままがいいなぁ」

「もぅ……」

 

 ジェシカは肩を竦めた。溜息はつかない。だけれども、心の中では嘆息している。

——なぜか、私の誘いは乗らないんだから。

 その言葉は、口から出ることもなく、飲み込まれて消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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003 ファースト・コンタクト

 門限である8時を過ぎてしまったのは、明らかにヤン・ウェンリーの誤算だった。国立図書館で特集が組まれていた戦史関係の特別閲覧本を読み漁っていたのだ。読書というのは集中すればするほど時間が過ぎるのを忘れるものである。閉館時間になって、司書に肩を叩かれるまで、彼は図書館にいたのであった。

 慌てて走ったヤンであったが、途中からそれも歩行に変わった。元々、体力に自信があるほうではない。寮に辿り着くまでのスタミナはないし、そもそも走ったとしても間に合わないのだ、という冷静な諦めに移行したのである。学力的に優秀というわけでもないので、減点となるような行動をするのは避けたかったのだが、もはや手遅れである。

 

「困ったなぁ」

 ヤン・ウェンリーは焦った拍子に乱れた髪を、直すわけでもなく頭をかきまわした。

 ここで馬鹿正直に正門に向かい、減点を受けるほどヤンは生真面目ではない。ここは一般的な士官候補生に倣い、こっそりと寮に戻ろうというのである。門限破りというのはヤンにとってあまり経験のあることではない。学校の外にガールフレンドのいる候補生の中には、朝帰りを敢行する猛者もいたが、ヤンにはもちろん関係のない話である。

 ヤンの通っているハイネセン上級士官学校において、夜の見回りは士官候補生自身が行うことになっている。無論、監視員として、現役の軍人が一人つくが、広大な土地を有する校内をカバーできるわけではない。運のいい時には誰にも見られずに校内に入れるし、例え見つかってもそれが優しい士官候補生なら見逃してくれよう。

 だが問題なのは、このような門限破りの士官学校生を見つけると、評定にとってプラスということである。ヤンにしてみれば、それは告げ口のような薄暗い陰湿さを感じさせるのだが、校則を厳守させるという点においては甚だ不満だが、効率のよいシステムである。

 ヤンはまだ一年生であるため、まだ当番になったことはない。ヤンとしては、見つからないことを祈るばかりだった。

 

 周りに人がいないことを確認し、監視カメラの死角からヤンは塀を跳び越えた。着地して、踏ん張りきれずに尻餅をつく。華麗な着地ができるほど、自分は運動神経が良いわけではないらしい、と再確認。

 飛び降りたのは軍事教練用のアンブッシュの地域だった。当然のこと、灯りはなく、外の街灯も届かず、真っ暗であった。空を見上げると、満月が雲の合間から顔を覗かせていた。

「やれやれ」

 ヤンは次第に、大人しく捕まっていた方が良かったような気になってきた。歩き出した森は深く、時折何かしらの動物の鳴き声が聞こえて、その度にびくついていた。満月が出ていることだけが救いだった。おかげで、慣れない道無き道も、歩くことが出来ていた。だがブーツは泥に汚れているだろうから、部屋に戻ったら磨かなければならないし、慣れない道を歩くことで体力が消耗していく。

 そもそも自分が捕まったとして、どれだけのペナルティが課せられるのか。一週間の外出禁止、反省文の提出、といったところだろうか。評定も下がるだろう。教官の虫の居所が悪ければ、トイレ掃除でもさせられるかもしれない。あるいは、図書館の整理とかであれば、進んでやるのであったが。

 ヤンはそんなことを考えていたから、それに気付かなかった。

 後ろから近づく人の存在に。

 

「動くな」

 ヤンは唐突に首に押し当てられた、冷たい金属を自覚した。低く押し殺した声はヤンの耳元から発声されており、正面を向いているヤンは後ろの人間を見ることも敵わない。

 視線を落としてみると、野戦訓練服を腕まくりした他人の手が見えた。

「わかっ……りました。えっと」

「氏名と所属と学年を言え」

——これじゃあ敵に捕まったみたいだ。

 ヤンはもしかしたら、捕まったのは教官によってではないか、と思い始めていた。そもそも、自分に察せられずこんなに接近するとは——いや、自分が気付かないのはそれほど不思議なことではないか。

 

「ヤン・ウェンリー、戦史研究科1年、識別番号は——」

「ヤン・ウェンリー?」

 押し当てられた時と同様に、唐突にその感触は遠のいた。背後から宛てられていた威圧感も遠のき、ヤンは知らず知らずに止めていた息を吐き出した。

 振り向くと、そこには見覚えのあるような、ないような、確か先輩であったろうという顔の人物が立っていた。まっすぐ通った目鼻立ち、それなりのハンサム、紅茶色を淹れすぎたような濃い橙色。背はヤンより大きいだろう。

 その推定先輩のその人物は、人懐っこい笑みを浮かべた。

 

「ヤン・ウェンリーって、あのヤン・ウェンリーか」

「はぁ、先輩がどのヤン・ウェンリーのことをお話かわかりませんけど、少なくともうちの学年にヤン・ウェンリーは一人だと思いますが」

「そうか、そうだよな。それにしても、ここで会うだなんてなぁ」

 

 先輩は手に持っていた()()()()を胸のポケットに仕舞うと、手をパンツで拭って、ヤンに差し出した。ヤンにしてれば、いきなり差し出された手に、戸惑う。

「えっと」

「フロル・リシャール、戦略研究科の2年だ」

 どうやら握手を望んでいるらしいと気付いたヤンは、慌ててその手を握った。手を握るなんて久しぶりのことだ。士官学校に入ってから、ずっと敬礼ばかりで、握手という平和的な挨拶が懐かしいくらいだった。

「えぇ……改めまして、ヤン・ウェンリーです」

「君の噂は聞いている」

 リシャール先輩の手は力強かった。毎日、戦斧を振っている人間の手だろう。独特のたこができている。袖から見える腕も、筋肉がしっかりとついていた。

 

「はぁ、そんな噂になるようなことをした覚えがないのですが」

「今年きっての怠け者らしいじゃないか。ただ、戦史だけはずば抜けてるって」

「……軍人に、向いてないでしょう?」

 ヤンは苦笑とともにそう言った。彼は自分が軍人の士官たるとして真っ当な態度ではないと、自覚していたのだ。だから人からヤンが怠惰を指摘され、非難されることもままあったが、それを粛として受け止めている。ヤンにとっては、戦史を研究することを通じて、自分の好きな歴史研究を続けられればいいのであって、つまり試験や軍事教練は最低限こなせばいいというものなのだ。

 

「そうか? 俺はそうは思わんけどな。むしろ、面白い奴ほど面白いことをするんじゃないかって、そう思ってるが」

「は、はぁ、それは随分と変わった見方ですね」

「当代一の問題児にそう言われるとはね」

 フロルは気を悪くしたようにも見えず、歯を見せて笑った。

 

「リシャール先輩は、なぜその恰好を?」

 ヤンは彼の服装を指摘した。

 フロルは今気付いたように、自分の服装に目をやった。

 陸戦服など、ヤンは授業の時以外着た覚えがなかった。教練がない時は、基本的に支給された標準制服を着るのが通例なのだ。

「うん? 当番だしな、アンブッシュを見回っているんだがら、この恰好の方が視認度が下がる。ただ見回るんじゃ面白くないから、自主訓練も兼ねて、だね」

「熱心ですね」

 言うまでもなく、ヤンは失礼である。

 

「ま、嫌いじゃないしな、体を動かすことは。それに、鍛えるだけ鍛えた方が、いざという時、生き残れるかもしれないだろ」

「はぁ」

 フロルはその気の抜けた応えを聞いても、怒ることはなかった。それどころか、ヤンの応えを聞いてそれを喜んでいるような節すらある。

「ミスター・ヤンはまったくそんな気がないわけか。まぁそれはそれでいいだろう」

 士官学校生である限り、基本的に良いわけがない。だがフロルはそれを問題にしていないようだった。

「それって、私が戦史研究科だからでしょうか」

「ん? まぁそんなところだ」

 ヤンは知るまでもなかったが、フロルにとってその発言は、ヤンの将来を暗示したものであった。もっとも、ヤンは知るまでもない。

 

「門限破りは俺もやったことがある。それに、ヤンと知り合ったのも何かの縁だしな、今回は見逃してやろう。この道を抜ければ学校はすぐそこだ。見回りは俺しかいないから、誰にも見つからないはずだ」

「はぁ、ありがとうございます、リシャール先輩」

 

 フロル・リシャールと、ヤン・ウェンリーのその後長きに亘る付き合いは、真夜中の、満月の下で始まったのであった。

 

 

 

***

 

 

 

 フロルは調理室の一角を使ってクッキーを焼いていた。時折、その匂いに誘われた候補生が調理室を覗き込み、そこにフロルの姿を見つけると、納得したように去って行く。先輩などはフロルに揶揄の一つも飛ばしていくが、

「出来たら俺にも寄越せよ」

という言葉が大半であった。そもそも士官学校では食事に重きを置いていない。フロルが作る料理というのは、少なくとも軍用レーションや固形物が見えない食堂のシチューよりは好評であって、特に菓子は絶品と評判である。

 

 あとはオーブンの中で焼き上がるのを待つだけ、という段階になってフロルは手持ち無沙汰のヤンに向き合った。無論、ヤンはフロルに呼び出されたのである。

「リシャール先輩はその、料理がお得意なのですか?」

 ヤンはフロルの手際に感心したように、そう問いかけた。傍目から見ても、料理を作り慣れた人の手際の良さに見えたのだ。もっとも過去においてもヤンに料理を作ってくれる母親も父親はおらず、また現在に至るまでにおいても彼に手料理を振る舞う恋人もいなかったが。

 

「俺が作ったクラブがある。まぁ学校公認のクラブと非公式クラブも含めて、いくつか作ったわけだが、これは公認されたクラブ活動というやつだな」

「はぁ、お料理クラブですか?」

「実態はそうだが、名目上は<戦場における食の質を改善する会>だ。料理の出来る人間を集めているんだが、軍人になろうという奴にはどうやらそういう奴が少ないらしくってな、実働部隊は俺ばかりだな」

「はぁ、では他のメンバは」

「消費する側だな」

 フロルは苦笑とともにそう言った。ヤンもまた料理人に群がる消費者を思い浮かべ、苦笑する。

 

「ヤンを呼んだも、まぁ今後の誼にクッキーを食わせてやろうという先輩なりの心遣いだ。まぁ多めに焼いているから、色々あげるんだけどな」

「では友人にも渡していいですか?」

「図々しいな」

「あ、す、すみません」

 フロルは気にするな、と手を顔の前で振る。

「料理は食べるために作られる。甘いものが苦手なら、人にあげてもいいだろう」

「ありがとうございます。もしよければ友人を紹介しますが」

「女か?」

「残念ながら男です」

 ヤンは肩を竦める。

「まぁ男なら男でしょうがないさ。例え女だとしても、俺は別嬪さん以外は守備範囲に入ってないからな。ちなみに、友人は何という?」

「ジャン・ロベール・ラップです」

 フロルの眉がほんの少し上がったことに、ヤンは気付いていた。だが、その表情にいったいなんの意味があるのか、ヤンにはわからない。

「今度は女の子を紹介して欲しいものだ。こう見えても、お菓子だけは一端の腕を持っていると自負しているからな。是非、女性の意見も聞いてみたい。ちなみに今回のクッキーは甘さ控えめだ。市販の甘いクッキーが苦手でも、食えると思うよ」

「はぁ、ありがとうございます」

 

 フロルは自分の鞄から紅茶の缶を取り出した。無論、士官学校の調理室に紅茶を淹れるための道具などない。私物で持ち込んだティー・ストレーナーでもって、二つのマグカップに紅茶を淹れた。

 ヤンは缶を持ち出した瞬間から嬉しそうな笑みを浮かべている。フロルの()っている通り、ヤンは紅茶党らしい。

「俺はコーヒーも好きなんだが、菓子には紅茶が似合うと思うんだ。まぁ紅茶の淹れ方はほとんど我流だが、コーヒーよりは、な」

「私はコーヒーがだいき……苦手でして、紅茶一辺倒ですね」

 ヤンは手渡されたマグカップを受け取りながら、そう言う。

「あまり高い茶葉ではないが、これで勘弁してくれ」

「コーヒーに比べればどんな安い茶葉でも美味しく感じますよ。——あ、別にこの紅茶が安っぽいってことじゃないんですが」

 ヤンは口に出してから、それが不適切だと気付いたように慌てて言い重ねた。

 逆に、フロルにはそのヤンらしい物言いが好ましい。これぞ、ヤン・ウェンリーだ。コーヒーを泥水と吐き捨てる男だけは、ある。

「紅茶はいろんな飲み方がある。シンプルに何も入れずとも美味しいが、砂糖を入れたりミルクを入れたりする人の方が、大多数を占めるだろう。暖かいのが普通だが、冷やした紅茶は夏に似合う。レモンを入れてもさっぱりして美味しいが、ジャムを舐めながら紅茶を飲む作法もあり、珍しい飲み方ならミルクで茶葉を煮出す、というのもある」

 意外と知られていないことだが、ロイヤルミルクティーは日本独特の飲み方である。

 

「お詳しいのですね」

 ヤンは自分以外の紅茶党——フロルは正確には紅茶もコーヒーも行けるクチなのだが——の発見に、感心したような言い方であった。

「紅茶に関しては下手の横好きさ。まぁ、好きだからと言って上達するとは限らないしな。また、嫌いだからと言って適正がないということもない」

 フロルは手のマグカップから、視線をヤンに戻した。ヤンは久しぶりの紅茶を、楽しんでいるようである。

「ヤンは、軍が嫌いか?」

 

 ヤンはフロルの唐突な質問に、驚いたようだった。そもそも、この平穏なご時世、士官学校に入る人間の大半は好んで入った者ばかりである。あるいは金銭的な問題で、入った人間も多少はいるのだが。無論、ヤンは後者だ。

「——い、いえ、自分は——」

「ここは入試の面接会場じゃあない。そんな気張ったことは言わなくていい。それとも、先に俺の答えを言おうか」

 フロルはヤンの目を見た。覗き込むように、真剣に。

 

「俺は軍が嫌いだ」

 

 ヤンとフロルしかいない調理室、その静寂が唐突に強調された。廊下で誰かが話しながら通り過ぎる物音が、聞こえるばかり。

 

「——自分も、軍人になりたくてこの士官学校に入ったではありません」

 幾ばくかの空白のあと、ヤンは答えた。フロルの記憶が正しければ、ジャン・ロベールにしたって優れた軍人らしい軍人になっていくわけだし、非軍人的なヤンはやはり、浮いているという自覚があるのだろう。

 

「ま、だろうな。じゃなきゃ、ヤンの成績は意欲と正反対の結果、ということになる。ヤンは戦史がやりたくてこの学校に入ったか?」

「自分はもともと歴史を学びたかったんです。ですが金銭的な問題で、普通の大学に入れなくなり——。まぁ結果的には満足しています。人間の歴史は、言ってしまえば戦争の歴史ですからね、戦史を学べば歴史を学んだと同じことでしょう?」

「確かに、戦争は人間の歴史を語る上で切っても切り離せないということは同意しよう。それにまぁ、やむにやまれぬ事情だろうしな、仕方が無い。では自分から望んでこの学校に入った俺はいったいどういうことか、という話だが——」

 ヤンは紅茶を飲むことも忘れて、その答えを聞こうとして——

「俺にはやりたいことがあってな、そのためだ、と答えておこう」

——肩透かしにあった。

「——はぁ、それはいったいなんなのですか……と聞いていいのですかね?」

「ま、言ってしまえば使命感みたいなもんかな。守るべき人を守りたいというか」

「ご家族ですか?」

「ま、そんなところだ」

 

——家族。

 という言葉には、ヤンは気になる響きを見つけ出したようだった。そもそも、ヤンにとっての家族は、一般的な家族のそれとは違う。だから人が考える家族の姿が、自分の持っているイメージとの擦り合わせができないのだろう。宇宙船の船長室で、ひたすらと壺を磨く父の姿ばかりが浮かび上がっている。

 だがそれにしても、お茶を濁されたような気がしてすっきりしないヤンである。

 

 その時、オーブンが焼き時間の終了を告げる、ベルを鳴らした。

 

「——ようやくクッキーが焼けたようだな」

 フロルはクッキーを取り出し、皿に移した。綺麗なキツネ色で、上手く焼き上げられたようだった。一年かかって、ようやくこのオーブンの癖を掴めたらしい。

 その皿を、ヤンに差し出す。

「一つ、食べてみくれ」

 

 ヤンは小さく頭を下げてから、そのクッキーを手に取った。

 口に含むと、予想していたより美味しかったようで、目を丸くする。

 

 フロルは、そんなまだあどけなさを残すヤンを見ながら、頬に笑みを浮かべる。

 

 心の中で、この未来の英雄を守り抜くという決意を、新たにしながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




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004 生き残るために

 軽めに調整(チューニング)された引き金(トリガー)を引く。

 肩を伝わる軽い衝撃。

 筋肉に力を入れず、その衝撃を流す。

 次射のために、射撃姿勢を崩してはならない。

 狙撃ライフル内蔵のエネルギ−・カプセルから放出される高出力レーザー。

 重力と風の力によって直進するはずのレーザーが僅かに曲がる。

 だが、それは予測できたことだった。

 300メートル先の円形の的の中心に穴が空く。

「——ヘッドショット、ワンショット・ワンキル」

 フロルは口の中で、誰に言うでもなく、呟いた。

 

 周りの観客が、小さくどよめいた。

 

 吐ききっていた息を吸う。そして自らを落ち着かせるように、深呼吸。

 

『ただいまの戦略研究科3年、フロル・リシャール選手の得点は、84点でした』

 射撃場内にアナウンスが流れる。

 

 フロルは伏射姿勢から立ち上がり、ライフルの安全装置をかけ、エネルギー・カプセルを取り外す。レーザー式の銃はエネルギー・カプセルを取り外すことが、銃を無力化する方法であった。競技ではエネルギー・カプセルを取り外して持ち運ぶことを義務づけられる。もはや、手慣れた作業であった。

 観客席に目をやると、目が向けられたことに気付いたジャン・ロベール・ラップが手を振っていた。ヤンも片手を挙げた。もっとも、それが照り付ける直射日光を手で遮ったのか、挨拶であったのかはわからない。あるいはただ頭を掻きたかっただけなのかもしれないが。実際、挙げられた片手はそのまま頭に向かったことから考えて、案外それが正解の可能性が高い。

 そんなヤンの隣には、優雅に真っ白な日傘を差して、こちらに笑みを向けている女性の姿。

 ジェシカ・エドワーズ。

 どんなに美人であっても、フロルには手が出せない女性だった。

 将来の、ラップ夫人である。

 

 

 

「先輩! お疲れ様でした! 5位入賞、おめでとうございます!」

 ラップは笑顔でそう言った。フロルも、それに笑顔で返す。

「ありがとう。こんな暑いのに、見に来てくれてありがとな」

 フロルは銃をロッカーに仕舞い、制服に着替えてから3人に合流した。場所は射撃場外のオープンカフェである。

「本当に暑かったんですからね、先輩。まぁ、このジュースを奢ってくれたので、良しとしますけど」

 ジェシカがソーダのストローを吸いながら、そう言って微笑んだ。彼女の右頬に浮かぶ笑窪が、太陽の光で影を作る。

 白を基調としたワンピースに、ヒールのあるサンダル、さっきまでかけていなかったサングラスを鼻に乗せ、ジェシカはサングラスの奥から上目遣い。

 まるで一枚の絵画のように画になる恰好だった。

「ジェシカ嬢にはあまり楽しめなかったかな?」

「まぁ、そんなことないわよ。300メートルも先の的の中心を射抜けるなんて、凄いと思います。だけど、私はあまり銃が好きじゃないだけです」

「じゃあなんで今日は見に来てくれたの?」

 フロルの問い掛けに、ジェシカは微かに怯んだようだった。

「……ラップとヤンに誘われたからです」

 フロルがちらりと目をやると、ラップは小さく肩を竦めるジェスチャー。つまり、違うということなのだろう。どうやら、このお嬢様はフロルが気になるらしい。

 

 フロルは天を仰ぎたくなった。

 

 ジェシカとフロルが出会ったのは、ジェシカの通う音楽学校で開催された、学校祭の時である。フロルはかねてから士官学校の近くに存在する音楽学校にジェシカ・エドワーズがいるであろうことを予想していたため、それを確認するために行ったのだ。実を言うと、フロルは士官学校に入ってから、毎年この音楽学校祭には参加していた。ジェシカがいったいいつ入学しているか、把握できていなかったためである。だが結果的には、フロルが3年になった時、彼女は一年生として音楽学校のピアノ科に在籍しているのを見つけた。

 彼女を見つけたフロルは、とりあえずそれで満足して話しかけることもなく撤退したのだが、後日ラップとヤンからのつながりで、ジェシカと知己を得ることになった。その段階で驚いたことに、ジェシカは学校祭で見かけたフロルの顔を覚えていたらしい。

 もっとも、士官学校の制服で来ていたかららしいが。

 ジェシカ嬢の父はハイネセン同盟軍士官学校の事務局長である。

 

 それからのこと、フロルは持ち前の菓子でもって仲良く友人関係をしていたつもりであったが、どうやら思春期のジェシカ嬢の琴線に触れるものがあったのだろう。なんとなくではあるが、フロル(自分)が気になるらしい、とフロルは見ていた。

 本来であれば、ジェシカは親友と呼べるほどまで仲を深めたヤンやラップの間で、その心を揺らせるはずなのだが、何かと目立つフロルがそれを妨げているらしい。

 フロルにとって、原作崩壊の危機である。

 

 

 フロルにとって、この第二の人生におけるもっとも恐ろしい事態とは何か。

 それは相沢優一(第一の人生)の記憶が、この世界で通用しなくなることである。

 彼が有している記憶は、あくまでフロル・リシャールという異分子が存在しない銀河英雄伝説の世界の出来事である。

 彼ほどのファンになると、ある程度の事件や戦争の年代、名前までは網羅せずともある程度の登場人物たちの名前をしっかりと覚えている。

 だが、フロルが活発に介入することによって、原作が解離してしまえば、その知識が役に立たないという可能性も出てくるのだ。それは困る。彼の持っている最大のアドバンテージがなくなるということを、意味するからだ。

 どうやらこの世界はSFでありがちな<抑止力>やら<修正力>がないらしく、フロルが介入すれば未来は変えられるだろう。もちろん、変えられるということは一概に良いこととも言えない。

 ならば、できるだけ原作に介入せず、ここぞという時のために知識というアドバンテージを残しておく、という手段もある。

 しかし、それもまた出来ない。

 理由は簡単。

 

 フロル・リシャールという人間もまた、1人の人間に過ぎないからだ。

 

 彼は決して超人ではない。

 誰よりも強く、誰よりも賢く、誰よりもハンサムな、そんな万能人間では無い。

 フロルは確かに、強い。彼の学年における格闘訓練の成績は学年一である。だが、教官に薦められるがままに出場した同盟軍格闘競技大会は第4艦隊第25歩兵大隊所属の一兵曹に初戦敗退を喫した。

 フロルは確かに、頭が良い。彼は期末考査で満点に近い点数を取る教科もある。だが総合的な成績だとむしろ中の上程度で、すべてのテストを95点取るような秀才ではない。一つ下の学年で10年に1度の秀才と呼ばれるマルコム・ワイドボーンと昨年のフロルの成績では、比べるべくもない。

 フロルは確かに、ハンサムかも知れない。190近い身長、職業軍人らしいしっかりした体躯、整った目鼻立ちと、母親譲りの紺色の瞳、紅茶を濃く淹れすぎたような色の髪。だがそれも立体TVに出てくる俳優に比べれば洗練さに欠けていたし、探せば彼よりも格好いい人間など他にもたくさんいるだろう。

 射撃にしてもそうである。彼は彼の学年で有数の射撃手となったが、本日の士官学校内選手権大会では所詮5位レベル。同盟軍全体でみれば、誇れるようなものではない。

 つまり、彼は決してラインハルトやキルヒアイス、後年のユリアンなどと比べれば全然凄くないのである。

 むしろ、フロルにとっては彼らのスペックが異常だと思えるほどなのだが。

 無論、彼とてただ漫然と手を(こま)いるわけではない。彼はまだ小さい頃から良く体を動かし、勉強に励んだ。幼稚な遊びではなく、ランニングや筋力トレーニングに精を出し、ボクシングやフェンシングをハイスクールの部活動で学んだ。相沢優一(前世)における知識は21世紀のものであって、この時代ではことごとくが役に立たない。あらゆる学問が(相沢優一)にとっては驚異的な進歩を遂げていたのだ。常識すら覆ったものも数えきれず、彼は一から勉強を始めたも同然であった。

 そういった地道な努力をして、フロルは激動の時代に備えている。

 そうでなければ、とてもじゃないがラインハルト(天才)たちが跋扈する戦場に立つことも、そして運命(原作)を変えることもできないから。そして原作を変えるにはどかんと一発介入するのではなく、地道に状況を変えていくしかない。雌伏をしていて、気付けば戦死、など冗談では無い。彼は彼でラインハルトに、帝国に殺されない努力をせねばなるまい。

 

 彼は20年弱の第二の人生で、必死に自分に出来ることを考えて生きてきた。

 だがそんな彼でも予想していなかったことがある。

 それは自分の感情であった。

 自分は、この銀英伝の世界で、確かに生きている。

 生きているということはつまりどういうことか。

 日々の生活に、何気ない日常に、友人との語らいに、食事の美味しさに、映画の面白さに、本の感動に、喜怒哀楽を感じるということだった。

 感情に流されてはならない。

 何度、フロルは自分に言い聞かせてきただろう?

 自分が成すべきことを思い起こし、なんど自らの気持ちを殺してきたか。

 だが、これこそがフロル・リシャール(相沢優一)が決意した道だった。

 例え、それが目の前の可憐なお嬢さんの思いに反することと、なったとしても。

 

 

「そういうヤンも、面白くなかったようだがね」

 フロルは話を変えようと、ヤンに視線を移した。

 ヤンは暑さに辟易なようで、テーブルに突っ伏している。いい加減、フロルが甘やかすのをいいことに、だらけすぎである。

 さすがに気になったのか、ジェシカがヤンの脇をつつく。

 ヤンもラップとジェシカの白い視線に気付いたようで、慌てて背筋を伸ばした。だがすぐに猫背になる。

「は、まぁ、私は射撃が苦手で——」

「——ヤンの場合は苦手どころかやる気がないだけだろ」

 ラップが茶化すように、ヤンの言葉に言葉を重ねた。ヤンはそもそも軍人の軍人らしい授業に悉く意欲がない。公務員という立場として士官学校の授業をただで受けているだけあって、落第だけは避けようとしているが、逆を言えば通りさえすれば良い、と考えているのだ。

 ヤンはラップのごもっともな指摘に肩を竦めた。

 

「だがまぁ、あって困ることはないだろう」

「私の場合は、やっても上手くならないのです。どうやら、運動神経というものがそなわってないらしく……」

「その分、ヤンは座学が得意なんだろ?」

 フロルの指摘も正確では無いだろう。

「自分の好きな教科、戦史とかのみですけどね」

 

 逆にフロルは戦史が得意では無かった。というよりも、固有名称を覚えるのがフロルは苦手なのである。そもそもこの世界の人間、それも帝国の人間の名前は長すぎるのだ。貴族であればあるほど鹿爪らしい面倒な名前になって、もうそれだけでフロルのやる気は無くなってしまう。

 それに戦史の授業のもっとも大切なことは、何年に何という名前の人物が何という名の戦争をしたか、ではない。その作戦における宙域の環境状況、彼我の戦力の内訳のその配置、また作戦を戦術的あるいは戦略的に見た場合の達成条件といった、どうしてその戦争がそのように推移したか、なのだ。むしろ戦史をそのような視点から見ているため、フロルは個人的には戦史は面白いと思っている。もっとも、固有名詞をどんどん無視して、そういったところにばかり気を取られるため、テストの点数は全く取ることが出来ない。

 だがこの授業の受け方こそが、本来軍人にとって必要な思考回路なのだろう、とフロルは開き直っていた。

 自分がその状況に陥った場合、いったいどういう作戦を立案できるか、そしてどれだけの艦隊を統一し有機的に指揮できるかが、このハイネセン同盟軍士官学校に在籍する士官候補生に求められる能力なのではないだろうか。

 無論、これは前線に立つ作戦指揮官に必要な能力であって、これが後方の兵站であったり、敵軍の裏をかくような情報戦・諜報戦に至ってはまた違う能力が必要となるだろう。

 その点、ヤンは作戦指揮を取る将としての能力が傑出している。これもまた、戦史という歴史を通じて戦争をフロルとよく似た視点からも、観ているということの顕れに他ならないだろう。もっとも、ヤンの場合は歴史を愛するだけあって、固有名詞もよく覚えているのだが。

「戦史の授業は面白くないからなぁ」

「そうですか?」

 フロルの愚痴に素早く反応したのは、ヤンだった。ヤンとしては、戦史こそ面白い、と考えているのだろう。もっとも、ヤンやラップ以外にも戦史研究科の人間はいるはずだから、フロルのような戦略研究科の人間が発言を彼らが聞いていれば、憤慨したに違いない。フロルにとってはくだらないこと限りなかったが、戦略研究科の人間は自らを士官学校におけるエリートと自負して他の科の人間を馬鹿にする風潮があったのだ。

 確かに、作戦指揮官としての能力を重点的に育成する戦略研究科は士官学校にある科の中でも花形にあたったが、それでもって人を馬鹿にすることこそ、頭が足りていないという話である。

 

「戦史概論を教えているブッシュ教官が悪い。あの爺さんは教科書を読み上げるだけじゃないか。あれなら自分で調べて勉強した方が面白い」

 フロルは嘆息しながら愚痴った。教科書に書いてあることを口に出して読むだけで、なんの解説もない授業など、時間の無駄以外の何物でも無い。教科書を読んだ方が早いのだから。

「あれ、でもブッシュ教官はテストも緩くて評判がいいって聞きましたけど」

 ラップもどうやら、あまり戦史の授業に熱心では無いらしい。声を上げたヤンも、フロルの言葉に納得したのか、苦い顔である。

「戦史はただ昔話を聞く時間じゃないぞ」

 ラップにはそう言って留めるに止めた。きっと、ヤンがラップに戦史の面白さを語るだろうから。実を言うと、フロルはヤンと歴史の話をするのが面白かった。ヤンの歴史観は常に第三者的な視点、つまり神の視点からの歴史観であって、そこに自己の介入を認めようとはしない。だが一方、フロルは歴史のIFを考えるのが好きで、だからこそ話が盛り上がるのである。

 

「そういや二年生は来月、戦術シミュレーションの教練があったな。対戦相手はもう、決まったか?」

 フロルは既に()っていることを、さも知らぬかのように二人に聞き質す。こういった気遣いも、今では自然とできるようになった。フロルには誰にも言えない秘密がある。その秘密を隠すために、彼の知らぬ間に演技力が身についていたことは、将来の彼にとって役に立つものであったが、それを()る者はまだ誰もいない。

「戦術シミュレーションって?」

 ふてくされていたジェシカが、気になったようにラップに尋ねた。

「戦術シミュレーションは士官学校二年の試験さ。高性能PCを使って様々な条件下からランダムに選択された戦場でもって、学生同士が対戦するんだ。ちなみに、昨年の優勝者はそこに座ってるリシャール先輩だよ」

 ラップの言葉に、目を丸くしてフロルを見たのは、ジェシカにとっても意外であったからだろう。もっとも、昨年にしてもフロルの優勝を予見した者はおらず、誰もが目を丸くしたものだ、とフロルは思い起こしていた。だが、ただ一人だけ驚かなかった人間が、口を開く。

「私は学年首席のマルコム・ワイドボーンと戦うことになりました」

 ヤンは非常に面倒だ、という気持ちを隠そうともせず言った。やれやれ、と言いたそうな物腰である。

「ヤンは俺に輪をかけた今年の問題児だからな。勝ったら面白いことになりそうだ、ちなみに、俺が昨年破ったのも俺の学年の首席だったからな」

 フロルはそれを面白がっていた。

「そうだぞ、ヤン。リシャール先輩に見習って、ワイドボーンを破る義務が後輩にはあるんじゃないか?」

 ラップもそれに乗じたようである。

 さっきまで驚いていたジェシカも復帰して、やる気のなさを顔で表現しているヤンに笑みを浮かべながら頬杖をついた。

「やれやれ、学年首席と学年底辺の戦いか……。私が負けても誰も驚かないだろうけど、逆に勝ってもいらぬやっかみを買いそうだなぁ」

「ま、それ以前に戦史研究科の生徒が戦略研究科の生徒を破ったら、それだけで面倒なことになるだろうな」

 フロルはにやにやと笑っていたが、あながち空想ではない。フロルはまだ戦略研究科であったため、同じ戦略研究科在籍の学年主席を破っても『ここぞという時に強い奴』としか思われなかったが、戦史研究科の落ち零れ——寸前——が戦略研究科のトップを破ったとなれば、戦略研究科の連中がちょっかいを出すだけでなく、教官からも目を付けられることは確実だろう。

 

 だが、ここは全力で勝たせる必要があるのだ。

 それはヤンが二学年になった今年起こるであろう、戦史研究科の廃止を見越してのことだ。ヤンが戦略研究科に転属するのは彼が三年生になった時のことである。

 原作においてヤンがそもそも戦略研究科に転属するきっかけのなったのは、ヤンがワイドボーンを破ったという実績があったためであった。

 

 無論、このまま行っても、恐らくヤンは勝つであろう。

 

 だが、一応は梃子入れせねばなるまい。

 ヤンが戦略研究科に入ることは絶対にヤンにとって必要なことなのだ。それはキャリアというだけではない。彼が何気なく受けるであろう戦略や戦術の講義は、ヤンの頭脳によって独自解釈され、後年の神算鬼謀に化けたであろうからだ。まったくの無から、戦略を練ることはできない。まったくの素人が、戦術を立てることはできない。

 二年間の専門教育が、ヤンの将来にどれだけプラスになるか……。

 ヤンがどれだけ戦略研究科に興味がなくとも、ヤンがどれだけこの道に進む気がなくとも、この二年の下積みだけは経験させなくてはならなかった。

 そのために、万が一でも負けてはならない。

 

 では、どうすれば負けないか。

 簡単である。

 ヤンのやる気を出させれば良い。

 

「その件なんだがな、ヤン——」

 ラップはそう切り出したフロルの顔を表して、悪ガキ小僧が悪戯を思いついた顔と、あとあと述べている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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005 勝負事にこそ勝て

「本日行われるのは、戦術シミュレーションの試験である。君たち2年生はこの士官学校に入学してから今まで学んできたことを、実践的にテストする良い機会である。この学校で学ぶことは、決して虚学ではない。机上の空論ではない。ただの、知識ではない。諸君らが知識を自らの力として駆使できるかに、本試験の主旨は存在する。各自の健闘を期待する。それでは、<戦闘開始>!」

 

 シドニー・シトレ校長の挨拶が、後期学期末試験最後の科目の、始まりの言葉になった。

 日程的に三年生の期末試験が終了しているフロル・リシャールなどは、暇潰しにこの試験を見に来ている。二年生の学期末に行われるこの試験は、士官学校に在籍する士官候補生たちにとってもっとも盛り上がる行事の一つと言っても過言ではない。もっとも、このあとの三年生や四年生では、戦術シミュレーションの実技試験が何度も行われるので、学年が上がればそれほど珍しい試験でもなくなる。

 だが、今、試験を受けている二年生にとっては士官学校初のイベントであるからして、各生徒の()()()()()としての能力が如実に試されるため、非常に大きな注目を浴びるのも確かであった。

 この試験では高性能戦術コンピュータによって、ランダムによって決定された戦闘条件下における1対1の勝ち抜き戦を行う。その条件は試験直前まで公開されない。ある者は小惑星群宙域での遭遇戦、ある者は特定宙域制圧戦など、その条件は多岐に亘る。

 

 もっとも、その条件付けは思いの外シビアであって、二年弱軍事教練を受けたばかり、謂わば知識だけ頭に詰め込んだ二年生(ルーキーズ)の中には、まともな戦いもできぬまま、収拾の付かない消耗戦や一方的な自滅に陥る者も多くいた。つまりはどれだけ今まで学んだことを、ただの知識ではなく、戦闘指揮という形で応用できるかが試される場であったのだ。

 

 フロルは観戦室とも言うべき部屋にいた。そこには、同時に開始された複数の戦場図が所狭しと並べられたディスプレイに表示されており、その中でもフロルはただ一つのものだけを凝視していた。無論、ヤン・ウェンリー対マルコム・ワイドボーンの戦いである。

 

「そういえば、昨年の優勝者は君だったな」

 ヤンが拙いながらも敵艦隊を陽動に引っかけた場面で、フロルは隣からかけられた低いバリトンの声に反応し、振り返った。

 そこにいたのは、シトレ校長、その人である。

 シドニー・シトレ中将は今こそ、士官学校の校長職に収まっているが、本来は前線で戦う軍人として勇名を馳せた人間だった。だが有名な軍人に得てして多くいるタイプとは違い、教育者、また組織や人事の管理者として有能である。性格の方も、温厚で落ち着きがあり、その懐の深さに尊敬を抱いている将兵は数知れない。

 無論、原作を()っているフロルもまた、昨年来の関わりを経てその中の一人となっている。

 

「校長はよろしいのですか? こんなところで時間を潰していて」

「無駄な時間ではないさ。この二年生のシミュレータ試験は私の数少ない楽しみの一つと言える。艦隊の運用はそうだな……言い方は悪いがチェスと同じようなものだ」

「三次元チェスですか?」

「ああ、どうやって(艦隊)を動かすかによって、その人物の性格がわかる」

「なるほど」

 フロルは隣の大人物の台詞に納得の頷きを返した。どの駒を捨てるか、それを冷酷に判断しなければならないという視点は、確かに軍人として正しい見方であった。すべてを拾うことはできない。どのようなチェスの達人でも、自分の駒を一つも失わず勝つことは出来ない。将来のヤンの言葉を借りれば、<用兵とは如何に効率よく味方を死なせるか>ということだ。言い得て妙というものである。

 だがフロルはまだこの時、彼が切り捨てる歩兵(ポーン)には赤い血が通っているということを、頭では知っていても、理解はしていなかった。

 彼がそれを理解するのは、もっとあとになってからのことである。

 

「そういう意味ではリシャール候補生、君の用兵は面白かった。小惑星帯に紛れ込み、小惑星そのものを工兵部隊でもって弾き飛ばして、敵艦隊の陣形を破壊するなど」

 その言葉にフロルは苦笑した。

「いくら学年首席と言っても、一度崩れた艦隊を即座に立て直す技倆はないですからね。だから使えた小細工ですよ。敵の混乱に乗じてそれを撃破する、言うは易しですが、実戦では使えた作戦ではないでしょう」

「それがわかっているからリシャール候補生は面白いのだ」

 シトレは機嫌良さそうに、フロルの肩を叩いた。軍人らしい力強い手だった。もともと欠点のない秀才よりは異色の個性を重んじる価値観を有する。だからこそ、フロルのようなアウトサイダーも可愛がられている、と言えるが。

 

「それで、リシャール候補生のご執心は、どの試合かね」

 シトレはフロルの目線の先を追って、小さな声を上げた。

「現2学年首席マルコム・ワイドボーンと……ヤン・ウェンリー? ワイドボーン候補生は何度か聞いた名だが、ウェンリー候補生はあまり聞かないな。戦史研究科? これはまた随分な——」

「ヤンはE式ですから、ヤンがファミリーネームですよ、校長。ま、見ていて下さい。私はヤン・ウェンリーが勝つと思っていますから」

 フロルは、ここぞとばかりに胸をはって自信ありげに言った。

 むしろその言葉に驚いた反応を示したのは、フロルとシトレ校長の話に傍耳を立てていた他の生徒である。

「ふむ、君はヤン候補生を高く買っているようだが、彼は優秀なのか?」

「得意な科目はまだしも、駄目な科目は赤点スレスレっていう怠け者ですよ。今日のテストだって、ついこないだまではやる気ゼロみたいなもんでしたからね。まぁ——」

 

——だからこそ、焚き付けたのだが。

 

 フロルがヤンを釣った餌は簡単なものである。

 ヤンが一番好きなもの、歴史学に関するフロル自身の蔵書であった。

 フロルは小さい頃から、自分が置かれた時代を的確に把握するために好んでその手の本を読んだ。さらに、いつか出会うであろうヤンに対する取り引き材料として、その類の本を集めていた、という事情がある。

 だがこれを知らぬ後世の歴史家は、不敗の魔術師ヤン・ウェンリーと、フロル・リシャールを列挙し比較するにあたって、<歴史好き>を挙げてみせたのはヤンにとっても、フロルにとっても複雑な心境を齎したであろう。彼自身は歴史を一つの物語として、読者として楽しんでいたにすぎず、対してヤンは歴史に対して学者としての視点として生涯研究対象として接していたからだ。よって、ヤンとフロルが共通の話題、歴史を通じて意気投合したという逸話は完全に後世の創作、いや、勘違いと言われるべきものであった。

 フロルにとっては、歴史も、はたまた立体TVのアクション映画も、まったく同レベルのエンターテイメントにすぎなかったのである。

 

 それはさておき、ヤンは釣れた。

 銀河連邦史全集、旧地球史大全など、ヤンにとっては一度は読んでみたいと言った本を見せつけられては、やる気を出さざるを得なかった。どの本も、絶版本や今では需要がなくて出版されないような本であり、また電子媒体としても販売されていない本であったからである。国立図書館にすらおいてないような本すら、あった。そこらへんはフロルがフェザーンの悪友経由で手に入れたのだが、ヤンは知るべくもない。

 もっとも、ワイドボーンと戦うにつれ、

「自分はとんでもない詐欺にあってるんじゃないだろうか」

という気がしていたという。

 

 フロルはこの士官学校に入り、自身がこの戦術シミュレータ試験を受ける際に知ったことであるが、この試験の優勝とは勝ち抜き戦で決まるものではない。採点官が戦術指揮官に必要であると思われる資質や能力について、各項目採点付けし、総合点で判断するものである。それにはもちろん、自身が運用した艦隊の消耗率や敵艦隊の撃破率、戦術目標の達成率なども判断に加えられる。

 謂わば誰に勝ったかよりも、どのように勝ったか、の方が大切なのである。

 その点では、学年主席と対戦するというのは、悪いことばかりではない。

 先述の通り、まともに艦隊運用もできない生徒相手では、こちらの手際を披露することもできない。であるならば、ある程度の運用をしてくれる生徒を相手取り、それを撃破すれば高得点が入りやすい、つまりは優勝しやすいのだ。

 まぁ原作では、ヤンはワイドボーンに勝ったということだけで名が知れていたので、優勝する必要はないのかもしれないが。

 フロルが梃子入れするからには、ヤンに目標とさせたのは()()である。

 

「ま、面白い奴ですよ。ヤンは誰よりも戦争とか人殺しのような愚行を嫌う男です。元は歴史家になりたかったとか。ですが、なかなかどうして戦争やらせれば上手くやるタイプですよ、あれは。そもそも、優等生を鼻にかけ、肩で風切って歩いてるワイドボーンに将器があるとは思えません」

「将器、将としての器か」

「校長もここを勤め上げたら、また出世街道に戻るんですよね。ヤンには、目をかけていただきたいですね。あれは、化けますよ」

 シトレはまるで他人事のように話すフロルの横顔を見ると、小さく笑いを零した。まるで自分は関係ないという顔で、そういうことを言うフロルが面白かったのだ。

「儂はなんやかんやでリシャール候補生も勝っているんだがな」

「買いかぶりです。俺なんて、二流もいいところでしょう。磨いても、一流にはなれない」

 その言葉に笑ったのはまたしてもシトレであった。昨年彼に敗れ、準優勝に終わった首席の優等生が聞けば、泣いて悔しがるであろう。

 

 だが、フロルはまったく、一片の疑いもなく、自分が二流であることを理解していた。戦術、戦略、軍略というものをどれだけ学んだとしても、自分は一流になれても、ヤンやラップを越えることはできないだろう。自分は未来を知っている。それがアドバンテージだ。だが、ヤンやラインハルトといった天才たちとは、彼らの才能とは谷よりも深く隔絶した差があるのだ。超一流と一流の差は、小さいようでいて、大きすぎる違いがある。

 

 

 

 二時間が経ったところで、勝利を決めたジャン・ロベール・ラップが観戦室の方にやってきた。ヤンの試合に注目していたとは言え、フロルはちらちらとラップの試合も見ていた。まったく危なげのない試合で、ラップとしては不完全燃焼もいいところだろう。ラップもまた、用兵家としての資質や才能に溢れた人間の一人であった。ヤンには劣っても、並以上は確実である。

 シトレ校長と二言三言話したラップもまた、シトレに気に入られたようであった。

 

「で、どうです、リシャール先輩。ヤンは踏ん張ってますか?」

「ああ、さすがだよ」

 

 観戦室にはラップのように自分の試験が終わった生徒が続々と集まりつつあった。彼らは勝ったにしろ、負けたにしろ、自分の学友たちの試合に興味があるようだった。そして皆が皆、早々に決着が着くと思われていた試合が、まったく違う展開を見せていることに、戸惑いを隠せないようだった。

 

「試合開始と同時に、陽動部隊と本体に分け、ECM(電子対抗手段)出力最大で、擬似的な遭遇戦を作り出した。作られた遭遇戦によってワイドボーンはヤンの陽動部隊につり出され、それ以外のすべての兵力を集結したヤンによって補給線を断たれてしまった」

 

 だがそのあとのワイドボーンはさすがにたたでやられるつもりはないらしく、そこから苛烈な攻勢に転じている。

「おお、見ろ、あのワイドボーン芸術的な艦隊運動」

「凄いな、波状攻撃か。艦隊を二つに分けて時間差で陣を交換し、ヤンに休ませる暇を与えていない」

「見ろ、いつの間にか別働隊が、ヤン艦隊の背後に迂回しようとしている」

「凄いな、さすがワイドボーン」

「ヤンなんて、最初に補給部隊を攻撃したあとずっと逃げてばかりじゃないか」

「攻める余裕なんてヤンにはないのさ」

 

 ラップはそんなことを話している学友たちを見て、眉を顰めた。つまり、ラップにもわかっているということだ。

「ワイドボーンは負けるだろう」

 

 その言葉に驚いたのは、ワイドボーンを賞賛していた二年生たちであった。彼は一斉にその不敵な先輩士官候補生を目をやった。その中の一人が気付いた。その人物が、昨年の優勝者であるということを。

 だがそれを知らない候補生が声を上げた。

「先輩、ご冗談はやめていただきたい。我が学年首席のワイドボーンがヤン・ウェンリーに負けるなど、ありえません!」

「そうだ、ヤンは逃げっぱなしじゃないか!」

「あんな逃げ腰でヤンが勝てるわけがない!」

 その言葉には、自分より劣っている——と彼らは思っている——ヤンがワイドボーンに勝つということが起きてもらっては、彼らの矜持が保てないのである。ワイドボーンは十年に一度の秀才として士官学校内でも有名であった。だが、それに勝ってしまえば、ヤンはそれ以上の秀才でなくてはならない。

 それはあってはならない事態であった。

 そういう低次元での心理的嫌悪感に加え、その時その時の試合の形勢を判断するコンピュータも、すべてワイドボーン優位を指していた。ただ一つ、残弾数、エネルギー残量だけは違うのだが。

 

 シトレはこの流れを、外野から興味深く見守っている。

 シトレはワイドボーンの狙いを掴んでいた。ワイドボーンは序盤に補給線が断たれてしまって、焦っている。ワイドボーンも補給線が断たれてなお、無限に艦隊運動が出来るとは思ってはいない。

 だからこそ、防御を捨てたと錯覚させるような苛烈な攻勢に出ている。短期決戦、つまり艦隊の活動限界を迎える前にヤン艦隊を殲滅することを図っている。

 対するヤンの狙いだが、これをシトレは図りかねていた。序盤に見せた陽動部隊を用いた補給線の破壊は見事であった。だがそれ以降の艦隊運動が奇妙なのだ。

 始めに補給線を破壊した時点で、ヤンの勝利条件はかなり簡単になっている。

 

——逃げ切れば良いのだ。

 

 逃げて逃げて、ひたすら逃げて、敵艦隊がそれを追いかけ続けて、限界を迎えれば勝ちなのだ。

 だがヤンは逃げていない。絶妙な距離を保って、ワイドボーン艦隊と相対し、後退を続けている。射程範囲ぎりぎり、ワイドボーンの攻撃が届きそうで届かないようなそのような距離を——。

 その時、ワイドボーン艦隊に押されたようにヤン艦隊の陣形が凹形になった。

 しかし、それは——。

 

「バカか、おまえら」

 その時のフロルの表情は、なんとも呆れた顔だった。いや、その表情の中に微かな怒りがあることに気付いたのは、ラップだった。

「いいか、好戦的な敵に対する時、こちらも好戦的になる必要はない。臆病な相手に対する時、こちらも臆病になる必要はない。必要なのは、相手を見極め、相手の考えを読んで戦うことだ。古代地球の軍師は言った。『敵を知り、己を知れば、百戦危うべからず』ってな」

 

 まさにその時、ワイドボーンの操作していた端末に<艦隊攻性運動限界>のエラーが表示された。

 そしてそれが、先ほどまで凹型になっていたヤン艦隊の、反撃の合図であった。

 凹陣形が半包囲殲滅戦への迅速な移行を可能にする。

 まるで、それが始めから仕組まれていたかのように。

 

 皆が絶句していた。フロルは腕を組んで、ディスプレイから視線を外した。

「防御に徹する敵には、戦略的無意味な消耗戦を仕掛けず、その防御を崩す一点に全兵力を注ぎ込む。こちらを殲滅させようと包囲網を試みる敵には、それが出来上がる前に敵と交戦し、それを突破する。そして、だ——」

 

 そして、コンピュータが勝利判定の電子音を発した。

 

<判定:勝利者、ヤン・ウェンリー>

 

 

「補給線を断ち、短期決戦に持ち込もうとする敵を誘導し、弾とエネルギーを浪費させ、その限界点を待ち、その瞬間に叩き潰す。ヤンは攻勢が上手くいっていると思わせて、半包囲殲滅戦のための凹陣形を、攻め込まれたたけの凹陣形と勘違いさせたというわけだ。理想的な半包囲だ。ワイドボーンに撤退する余裕すら与えない」

 シトレもまた、まさかという答えに驚いていた。視線をフロルから、ヤンに向け直す。だがどう見ても、あまりにも軍人には見えないこの青年が、まさかここまでの戦術を見せるとは思えなかった。

 最終的に、ワイドボーンの艦隊は2割まで数を撃ち減らされていた。ヤンの艦隊は9割弱である。

 圧勝であった。

 

 

 2年生は誰もが驚きを隠せない表情で観戦室を去って行った。先ほどフロルに反論した一団は、特に気まずそうな顔をして。ラップはヤンを出迎えに行き、無理矢理ハイタッチを交わしている。シトレもまた、まるで何か面白いものを見つけたような顔で一人考え込んでいた。

 そんな中、フロルは茫然自失としたワイドボーンに近づいて、何かを語ったという。この時、フロルが何を話したか、それは定かではない。だがワイドボーンに心境の変化があったのは確かである。そのあとのワイドボーンには、慎ましさという何よりこの男に欠けていた要素が加わったのだ。ワイドボーンは後にこの時の試合について、言葉を残している。

「あの戦いは、俺にとってもっとも屈辱的な戦いだった。だが、あの戦いがなければ、俺は早死にしていただろう」

 

 

 余談であるが、このあとフロルは妙に羽振りが良かった。それが秘密裏で行われたギャンブルでヤンに賭けていたからという理由を、ヤンだけは知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




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006 策士とお菓子

 宇宙歴784年の晩夏のことである。

 フロル・リシャールの予想通り、ヤン・ウェンリーが2学年を終える3か月前ほどに戦史研究科の廃止が決定された。それはつまり、戦史編纂室研究員への道が閉ざされかけた憐れな青年士官候補生が一人生まれたことを意味したが、当人以外にしてみればむしろ喜びを感じた人間も多かっただろう。そもそも戦史研究科は国防軍士官学校の中でもハズレの科であり、そこの科が廃止になった代わりに他の科に転科できることを喜ぶ学生の方が多かったからである。多かった、というのは適切な表現ではない。人数にして、2人以外は、概ね好意的にこの決定を受け取っていたのだ。

 だがここで、ヤン・ウェンリーは彼の人生において一定量しかないバイタリティの数割を消費するという冒険に出た。

 

 戦史研究科の廃止撤回運動を開始したのである。

 

 このささやかな抵抗運動は主にヤン・ウェンリーとジャン・ロベール・ラップによって主導されたが、恐らくもっとも活動的、かつ効果的に協力してくれたのは、部外者のジェシカ・エドワーズであった。彼女はその組織力、指導力、説得力、さらにその美貌を以てして、戦史研究科に席を置きながらそれに矜持を持たぬ一般学生に誇りを持たせんとしたのである。夏から秋にかけて士官学校の校門前には、持ち前の二枚目と笑顔でビラを配るラップ、カリスマ性を発揮しながら力強い檄を飛ばすジェシカ、そして<戦史研究科廃止反対!>の旗を所在なさ気に持ったヤンという三人の姿が連日見受けられたのだが、結果としては、廃止撤回を成すことはできなかった。

 

 この活動の際、ヤンとラップ、そしてジェシカの予想を裏切って戦史研究科の廃止を肯定した者がいた。フロル・リシャールである。

 彼の弁を借りるならば、

「ヤンもラップも、戦略研究科に転科できるだろう。俺の後輩になるんだし、俺としてはその方が嬉しいんだけどなぁ」

という妙に素直な個人的な理由であって、これにはヤンも説得の言を持たなかった。ヤンが戦史研究科の撤回を求めるのも、突き詰めれば戦史を勉強したいという彼個人の私的な理由であったからだ。

 フロルの言葉が効いたのかは知らないが、結果的にヤンとラップの活動は過激な展開を迎える前に終焉を迎えた。本来、このような活動をすれば、停学あるいは退学を言いつけられかねないところであったが、シトレ校長はむしろその自主性を尊重し、ほとんどの学生に罪を問わなかった。首謀者二人はさすがに処罰を食らったが、そも戦史研究科図書旧館の蔵書リストを半年間かけて作製するというものであって、戦史研究科図書館が閉館になったあとの書物の行方を確認できたことは、むしろ彼らにとっては褒美とも言えるものであった。この気の利いた処置に、ヤンは今後、シトレ校長に足を向けて寝られぬだろう。

 

 

 時は過ぎ、9月を迎え、新学期。

 国防軍士官学校に二人の人物がやってきた。

 一人は、ヤン・ウェンリーの二つ下の後輩として入学してきた、ダスティ・アッテンボロー。

 もう一人は事務局次長として赴任して来た、アレックス・キャゼルヌ大尉。

 どちらも将来のヤン・ウェンリーにはかかせない人物であって、そしてフロル・リシャールにとっても終生の友人であり続けることになる、二人であった。

 

 

 

***

 

 

 

 午後のダイニング・キッチンには、日の光が存分に入って、冬も深まるその季節であっても、過ごしやすい暖かさだった。

 白を基調にした壁紙に、濃い茶色を中心とした派手すぎない家具は、そこに住む人のセンスの良さを如実に表している。壁際に置いてある小さなテーブルには、TVフォンの受話器、空のインク・ボトルに入ったカリフラワー、三人家族の笑顔が収められた写真立て。

 フロルは自分で持ってきたエプロンを身につけると、Yシャツの両腕を捲る。写真の中の人物を見ると、やはりフロルが士官学校で見たことのある事務局長が映っていた。ジェシカの家に来ているのだから、違う人物が写っているはずは、そもそもなかったのだが。

 

「いい写真だな」

 フロルは自分の家族を思い浮かべながら、そう呟く。思い返してみれば、自分の士官学校の部屋には、写真も置いていない。持ち歩いている携帯端末には、もしかしたら家族で映った写真が入っているかもしれないが、それも定かではなかった。フロルの部屋にはコルクボードが架けられている。メモを貼り付けるだけでは味気ない。写真をプリントして飾るのも、悪くないアイディアだった。

「でしょう? 音楽学校に入学できた年に、家族で旅行に行ったの。その時に撮ってもらった写真。写真は何枚も撮ったのに、三人一緒に写った写真はそれしかないの」

「よくあることだ」

「でも、気に入ってるから文句はないわ」

 手を洗ってきたジェシカが、フリルに縁取られた白いエプロンを身につけ、現れた。フロルも既に手は洗っている。

 

 二人は、これから養護施設に持っていくカップケーキを作ろうとしているのだった。

 季節は10月末。

 世に言う、ハロウィンであった。

 

 かつての時代に比べ、さまざまな宗教行事はその宗教色を失い、ただ人が楽しむだけのイベントとして存在している。ハロウィンもまた同じく、仮装をして「Trick or Treat!(お菓子くれなきゃ悪戯するぞ)」と子供たちがはしゃぎ回るだけの年間行事であった。それがかつてイギリスの民族宗教から始まった魔除けの儀式であることなど、宗教学者か歴史学者くらいしか知りえない。

 ちなみに養護施設にカップケーキを持っていくということは、フロルが毎年好きでやっていることだった。フロルの趣味、と言っても良い。

 

 フロルの前世は、パティシエ見習いだった。

 

 そして彼がトラックに轢かれた時も、彼が海外での修行から帰ってきてすぐだったのである。かつての彼がなぜ菓子作りを職業にしたのかと問われれば、それは美味しい菓子を食べた人の表情が好きだったからだ。今の彼は、時代と世界のために、軍人の道を歩まんとしていたが、彼の忘れきれない気持ちが、その慈善行為を行わせていた。

 それを聞きつけ、一緒にやろうと言ったのはジェシカ・エドワーズである。彼女もまた子供が好きで、時間のある時にはピアノ演奏のボランティアなどをしている。料理はそれほど得意ということではなかったのだが、カップケーキであればさほど難しいものでもないと知ってか、共同作業に名乗りを挙げたのである。

——それだけれはないだろう。

 とフロルも気付いていたが。

 

 ジェシカは部外者であるから、士官学校の調理室は使えない。すると、使える場所はジェシカの家しかなかった。ジェシカは両親と同居していた。その両親も、今日は出かけていないということだった。

 

 

 大きな紙袋にたくさんのバターや、卵、小麦粉、ベーキングパウダーを買い込んで、二人はカップケーキを作り始めた。

 基本的、料理の時のフロルは無口だ。

 普段のフロルが、爽やかな青年で、ついでに皮肉屋で、言わなくてもいいことを言うような人間であるから、知らぬ人が料理時のフロルを見れば驚くかもしれない。爽やかな皮肉屋、とはヤンの命名であって、

「リシャール先輩は本人の前でその人の皮肉を言いますからね、いっそ清々しいですよ」

とのことであった。フロルは彼独特の、悪戯っ子が悪戯をする時に浮かべるような笑みで、あけすけに物を言うため彼の皮肉が根に持たれることは少なかった。

 対してもう一人の隠れた皮肉屋、ヤンはというと、人前では温順な士官学校生を装い、裏で皮肉を溢すタイプであった。溢す相手はそれなりに気の知れた人物に限っているため、その顔を知る人間は数少ない。後年になって彼の階級が上がるにつれ、彼に反論や批判を言う目上の立場の人が少なくなると、その心遣いも小さくなっていったから、皮肉屋の称号は、専ら彼が有名になってからのことである。

 そもそもヤンの皮肉は、鋭すぎる彼の極論や推論を、揶揄の衣で包んだ一種の自己思索の表れであったため、聞く人が聞けばそれが誰も気付かぬような事実の一面を表していることに気付く類の物言いなのだが、それを真面目に発言しないところにヤンのヤンらしさがあると言えよう。もっとも、後世の民衆がやたらとそれを褒め立て、<ヤン・ウェンリー語録>としてそれらを持て囃したという事実は、ヤンに苦笑を与えたという。

 ヤンにとっては、ただの皮肉に過ぎない故である。

 

「ヤンとラップに聞いたわ。彼らには昨年もクッキーあげたんですってね」

「ああ。ヤンは人生初のハロウィンだったらしいがな」

「人生初?」

 ジェシカが小さく笑いながら、そう言った。振り向かなくとも分かる。言葉に、笑みが乗せられた声。

 ヤンは、彼が士官学校に入る直前まで、父親の宇宙船の中で宇宙を旅し続けていた。そして原作を識っているフロルならば、それがいったいどういう生活だったのかがわかる。ヤンの父親ならば、ハロウィンのためにクッキーを買うくらいならば、壺を磨くための布を与えたであろう。

「まぁ、他にも色んな人に上げているよ」

「なんで?」

 ジェシカはボウルを泡立て器で混ぜながら、目を離さないままに尋ねた。逆に尋ねられたフロルが、彼女を見る。

「みんなが美味しいって言ってくれるってのが一つ」

 邪魔にならないように、と後ろで括られた金髪。エプロンの下は、動きやすいようにジーンズとポロシャツを着ている。その襟から覗くうなじが色っぽい。

「もう一つは?」

 彼女がこねるその腕、その指は、ピアニストの指だった。白く、長く、そして細い。フロルは古い修飾語を思い出す。

 

——白魚のような指。

 

「何かを善意で贈り物をしておくっていうのは、例えそれがなんてことのないことであっても、周りの心象を良くするものさ」

「打算的ね」

 フロルの視線を感じたように、ジェシカがこちらを向いた。

「ああ、女の子にも受けがいいしね」

「よく言うわ、彼女もいない癖に」

「彼女がいないからって女にもてないわけじゃない」

 

 ジェシカはほんの少しだけその言葉に反応した。ただ顎が小さく引かれた程度の反応である。だがフロルは自分が言葉を選び損ねたことに気付いた。

 言い訳が出来るならとっくにしている。だが言い訳は、相手のためにするものではない。どこまでいっても、自分のために紡がれる言葉なのだ。

 

「・・・・・・もう、十分だろう。カップに小分けに入れれば、あとは焼くだけだ」

 ジェシカはそれに視線を戻して、そう、とだけ言った。

 それがいったい何に対する応えなのか、フロルには分からない。

 

 

 

***

 

 

 

 この頃のフロル・リシャールについて述べたい。

 フロル・リシャールが一般的に認知されるようになるのは、後年のアルレスハイム遭遇戦を待たねばならないが、少なくともハイネセン国防軍士官学校においては既に有名人であった。その有名は善良なる変人、というイマイチ評価に困る代物であった。それを高評価と捉えていたのは、フロルくらいのものであったろう。

 成績は概ね優秀と呼ばれるラインを保っており、特に実技、中でも格闘訓練における成績は学年随一の声も名高い。戦術や戦略について知識レベルこそ及第点といったところであったが、戦術シミュレーションにおいては勝率8割を超える勝負強さを見せている。

 その一方で、彼にはまったく特性のないものもあった。

 戦闘艇操縦である。

 彼はどうやら人よりも三半規管がデリケートらしく、急激な宇宙軌道は彼にとって鬼門であった。平常の戦艦航行では酔いがないため、艦隊指揮に関しては支障をきたさないことが救いであったが、スパルタニアン乗りには決してなれないと教官に言われたことは、フロルにとっても少なからずショックな出来事であった。もっとも、あまりに酔いすぎて、訓練後すぐに医務室に運ばれたことから、彼自身「二度と乗るか」という思いも強かったのだが。

 つまり、フロル自身の認識はさておき、この時代の彼は前途有望と評される一士官候補生であったのだ。

 彼の一つ下の後輩、ヤン・ウェンリーにとってもフロル・リシャールは良き先輩であった。彼とジャン・ロベール・ラップが戦略研究科に転科したのち、先達としてよく指導したし、また私的な付き合いにおいてもフロルとヤンらは波長がよく合ったからである。

 

 対してヤン・ウェンリーだが、彼は彼の在籍する学年においても悪い意味で有名な学生の一人であった。興味のある教科はほぼ満点をとる一方、他の教科や実習は赤点ぎりぎり、その癖、昨年度の戦術シミュレーション試験では学年首席を破るという快挙を成し遂げ、色んな意味でよくわからない変人と捉えられている。

 だが彼を敵視しようとしても、そんな張り合いもなんのその、ヤンはマイペースにのほほんとしているものだから、対処に困る難物である。

 表面上は学者のたまごといった毒にも薬にもならないような顔をしているが、彼を凡人と見る人間は既に士官学校にいなかった。フロル・リシャールという変人と仲が良いという事実も一役買っているだろう。

 また、この時期は入学したアッテンボローや、ジェシカの父経由で知り合ったキャゼルヌとの交友を持っている時期でもあった。いずれの人物も、王道を行くというよりは愚痴をこぼしつつ少数派を気取る者たちであって、そしてフロルと気の合う仲間であった。かつては門限破りなど数えるほどしかやらなかったヤンも、この面子に巻き込まれて何度も門限破りをさせられる始末である。ちなみに、どちらかというと教官側の立場であるキャゼルヌが一緒の時は、キャゼルヌの名で正門から入ることができるため、自然門限を破る時はキャゼルヌ同伴が多くなっていったのは、キャゼルヌにとって迷惑な話であったかもしれない。もっともそのことを毎度揶揄しながらも、一緒に飲み食いに付き合っていたのだがら、独り身のキャゼルヌにとっても楽しいひとときだったのだろう。

 原作ではどういう繋がりで交友を持ったのかフロルは知らななかったが、少なくともこの世界では、フロルがヤンやアッテンボロー、それとキャゼルヌの橋渡しをしたというのが実情だった。原作でも無二の関係を築いていった者たちであったので、フロルが顔合わせの場を作れば、あとは勝手に彼らは仲良くなっていく。誰が言い出したか知らないが、士官学校のフロル派と言えば、この面子が主軸であった。

 士官学校を出た後も、ヤンがミラクル・ヤンとしてフロルの名声を上回るまでは、フロルが頭の、フロル派として彼らは見られていたのである……。

 

 

 

***

 

 

 

 最後の一つをラッピングして、フロルは一息吐いた。一つ一つを透明な袋に入れ、可愛らしいリボンをつけている。カップケーキを渡すだけならば、その必要もないのだが渡される側の子どもの気持ちを考えれば、これくらいの手間を厭わないところだった。

「これで終わりね」

「ああ、付き合ってくれてありがとう、ジェシカ」

「私も楽しかったから、いいわ」

 彼女はエプロンを脱ぎながらそう言った。シンクによしかかりながら腕を組む。

「そう言ってもらえると、俺も嬉しい。このキッチンも使いやすかった。ありがとう」

「いえいえ、私も先輩の役に立てたならそれで十分よ」

 彼女はにこりと笑ったが、それで十分だとは思っていないのがバレバレであった。目が笑っていない。

 

 フロルは目ざとくそれに気付くと、誤魔化したように一つ笑った。自分のエプロンを手早く畳み、持ってきた調理器具を片付け始める。片付けている背中に、冷たい視線を感じた。

「ねぇ、先輩」

「なんだい、後輩」

 ジェシカは片付けをしているフロルに近づくと、調理台にまたよしかかって、背中を反らすようにして、片付けをしているフロルの顔を覗き込む。髪の毛が広がって、微かな芳香がフロルの鼻をくすぐった。

 

「今度、一緒にデート、どうですか?」

 この台詞はフロルのものではない。

「魅力的な提案だね」

 フロルは彼女の碧い瞳にちらりと目をやって、そう言った。

「先輩は女の子がお好きよね」

「デートをする相手なら、女の子がいいかな」

「19歳の男の子と、17歳の女の子がデートするのはどうだと思う?」

 フロルは一瞬、片付けをする手の動きを止めたが、すぐに動き出した。

「……お似合いじゃないかな」

「じゃあ一緒にデートしませんか、先輩」

 その言葉で、とうとうフロルは片付けを諦めた。

 調理台から離れて、右手で鼻の頭を掻く。搔いてから、右手には小麦粉が付いていたことを思い出す。きっと鼻が白くなってしまっただろう。

「普通に考えて、両親がいない花も恥じらう女の子の家に、フロル先輩みたいな男子が遊びに来るって、他の人からだとどういう風に見えるのかしら」

 ジェシカは人差し指を自分の鼻に押し当て、小さく首を傾げた。

 可愛い。

「さぁ、どうだろうね」

「きっとただならぬ仲だと、思うんじゃないかしら?」

 フロルは袖で鼻を拭った。もっとも、それで粉がとれたかはわからなかったが。

「一緒にお菓子を作ってるだけかもしれないじゃないか」

「実は友達に、今日フロル先輩が遊びに来るんだって言ったのよね」

「へ、へぇ」

 ジェシカの口は弧を描いている。

「しかも、なんの偶然がお父様もお母様もいないのよ、ってね」

 フロルは今更ながら、そこにいる少女がヤン並みの策士であることに気付いた。彼女が軍人を目指したならば、少なくともフロルを超える傑物になりえただろう。

 フロルの識っている歴史であれば、彼女が同盟反政府派の旗印となって、議員としてその組織をまとめあげていく手腕が、ここでその片鱗を見せたということなのだろうが、無論フロルにとってしてみれば見せなくていい片鱗である。

 

 困ったことになった、とフロルは気付いていた。前々から彼女の好意に気付いていたが、ここまでの行動に出るとは思っていなかったのだ。きっとジェシカの喧伝によって、フロルが学校に戻った時には、フロル・リシャールに年下の見目麗しい彼女が出来たことが学校中に広まっているに違いない。ジェシカとフロルの学校が違おうが、そんなことは関係ない。ジェシカはしっかりこちらの一手先を読んで、手を打っている。それに、先の廃止撤回運動でジェシカの顔は学校中に知れ渡っているし、もしかすればあの運動すらこの展開を見越してのことだったかもしれない。

 そうだとすれば彼は随分前から、ジェシカによって罠に誘い混まれていたのだろう。ラップやヤンと遊ぶ時にジェシカがついてくることが多かったのも、キャゼルヌ先輩やアッテンボローともいつの間にか意気投合していたことも、みんなで遊ぶ時ジェシカとフロル以外全員に急用が入ってなぜか二人だけでデートすることになったことも、すべてジェシカによって仕組まれていたに違いない。

 ラップとヤンにジェシカが付いてくることを、仲良くなって結構、などと満足していたフロルは、今更自分の間抜け具合に気がついた。

 好意を持っているどころではない。

 完璧にフロルは罠にかかったウサギだった。

 

「フロル先輩は私のこと、嫌い?」

「まさか!」

 フロルは即座に否定した。

 そんなわけはない。こんな可愛くて美人な後輩が、先輩先輩と慕ってくれることを嫌う人間がいようか。金髪で碧い目を持った、将来美人確定の美少女である。人を罠にかけようが、悪女になる資質が見え隠れしようが、やはり嬉しいものは嬉しい。原史——原作の歴史——の登場人物である以上に、今ではフロルの大切な友人なのだ。

 問題は、フロルにとっては後輩、友人というカテゴリを超えないということだったが。

 

「私はフロル先輩のこと、好きよ。だから付き合いましょう?」

 彼女は彼女は白い歯を見せながら、微笑みながらそう言った。綺麗な歯並び。言葉を発する度に見え隠れする赤い舌すら、やたらと蠱惑的に見える。

「それは嬉しいなぁ」

 フロルは自分の圧倒的な劣勢を自覚した。目の前のお嬢さんに、ドギマギしている時点で、敗北間近である。艦隊戦で言うならば、旗艦に敵の揚陸艦がツッコみ、陸戦部隊が攻め込んできた段階である。いや、それはどこのローゼンリッターだ。

 いやいや、そういう問題ではない。

「嬉しい?」

「も、もちろん」

「それだけ?」途端に、ジェシカの目が潤んできた。「先輩にとっては私の告白も嬉しいだけなの?」

「いや、そんなことは」

 涙が一筋、左の目から零れ落ちた。彼女は笑ったまま、泣いていた。

 器用だな、とフロルはどこか他人事のように頭の片隅で思っている。それと同時に、もうフロルはポリシーを曲げざるを得ないということも、理解していた。

 そうと決まれば、覚悟も決まる。さきほどまでの動揺は、すっかり消えていた。

 右手を伸ばし、彼女の涙を拭った。

「我が儘な後輩だな」

「失礼ね」

 その右手で彼女の頬の輪郭を撫でる。

「後悔しないでくれよ」

「それは私がするものよ。先輩が気にすることじゃないの」

 フロルは一歩、ジェシカに歩み寄った。

 ジェシカは目を瞑り、顎を少し上げた。

 フロルはそのまま顔を近づけ——ジェシカの額にキスを落とす。

「今はここまでだ」

 ジェシカはぱっと目を開くと、口を尖らせた。

「へたれ」

「段階を踏んでってのが好みなんだ。だから今度デートに行こうか」

——可愛い彼女さん。

 使い古された表現が頭に思い浮かんだ。まるで、雨の後に花が咲いたような、そんな綺麗な笑顔。

 ジェシカはひとつ、頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




みなさんお久しぶりです、碧海かせなです。
遅れましたが最新話。
前のフロル・リシャールよりも深く掘り下げようと書いている新装版で、一番悩んだのはジェシカの扱いです。原作ではあそこまでキーパーソンですが、旧編では軍に身を置くフロルの関係上、自然描写が遠のいてしまった人物でした。
今回は思い切ってこうした次第。
もっともイヴリンは今回も出てきます。イヴリン嫌いです、って感想もいくつか聞くんですが、そこは私の書きたいように描かせていただきます。
あと、この小説はある程度シリアス目に書かれているので、あまりギャグを含められないのがちょっと困ったところ。
主人公が後輩キャラにドギマギする際、〈前世では七咲逢や神原駿河が大好きだったし〉とか書き加えたかったんですが、自重しました。あるいは自重しない方が良いのかな。
そこら辺、シリアス一辺倒がいいです、なのかある程度ギャグも入れていいのか、ちょっと感想にお聞きします。感想を書く時に書き加えてくださると幸いです。ギャグを入れると、当然ですが話の幅が広がるので、色々書けるのですが。例えば、ユリアンがヴァレンタインにチョコをもらいすぎてヤンが拗ねる話とか(笑
それ以外の普通の感想もお待ちしております。読んだお、だけでも嬉しいので、書いてくださるとありがたいです。コメント乞食と言われようが、やる気に直結します。
あと、これは読者には朗報かしれませんが、何話か書きためているので、これから1週間ないしそれくらいの周期で予約投稿機能を利用していきたいと思います。次からですが。毎週日曜に更新できればいいなぁ。
では、そういうわけで!

進撃の方は同時で書いてるところです。展開に苦慮してましたが、開き直ってトロスト区奪回作戦まで書ききる形で方向性を定めました。というわけで近いうちに投稿できるかと。お待たせしてすみません。


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007 鍵は情報

 宇宙曆786年8月、夏の終わりのことである。フロル・リシャールは自由惑星同盟軍士官学校卒業を二か月前に控え、校長室に呼び出されていた。

 シドニー・シトレは校長の安楽椅子に座りながら、一分の隙もない待機の姿勢を続けるフロル・リシャールに目をやって、小さく息を吐いた。そして机の上のレポートをパラパラと捲りながら、話しかける言葉を選んでいた。

「シトレ提督、その青年が、例の?」

 だがシトレが声を発する前に、この部屋にいるもう一人の将軍がシトレに声をかけた。

 ドワイト・グリーンヒル准将、同盟軍における良識派、そして有能で名を知られる少壮の名将である。グリーンヒルは机の前のソファに腰掛けている。

「ああ、そうだ、グリーンヒルくん。この青年が、あのフロル・リシャールだ」

 シトレはグリーンヒルに大きく頷いて見せた。

 

 このレポートこそ、後のRレポートである。

 Rとはフロル・リシャール(Frol Richard)の頭文字から来ている。

 宇宙歴840年、軍事機密法の第24条によって、B級機密資料であったこのレポートが公開され、大きな話題を呼んだ。その内容が、同盟軍の稀代の英雄に対する一大スキャンダルだったためでもあるし、それを執筆した人間が、()()フロル・リシャールであるためであった。

 そのレポートは卒業2か月前を控えたフロルが、戦略論の卒業試験レポートとして提出したものであった。初め、これを受け取ったトマス・テイラー教官はその内容をただの妄想の産物として処理し、フロルにF評価——落第——を与えようとした。だがその内容が真実であった場合の重大性を考え、士官学校校長のシドニー・シトレに報告したのである。

 それを読んだシトレは舌を巻いた。その内容の大胆さに驚愕したのもあるし、わざわざ証言を得るために夏休みを使って同盟内の辺境まで足を伸ばしていたフロルの行動力にも驚いたのであろう。内容は多少の推測と推量を含みながらも、理路整然とし、またそれを裏付ける人物証言は十分かに見えた。

 シトレはテイラーに箝口令を敷き、更には彼の信頼できる部下、つまりドワイト・グリーンヒルを呼び出したのである。

 

 フロルにとっても、これは博打だった。このレポートが本当にF評価を受けていれば、彼は士官学校を卒業することができず、つまりは放校処分になるところだったのだ。彼が軍に在籍し続けたとしても、彼の出世は士官学校卒業後のそれとはまったく違うものになったであろうし、彼のその後の様々な活動は制限されたであろう。

 だがその一方で、同盟軍、あるいは帝国軍にとって決して表に出すことのできないスキャンダルを材料に取り引きができれば、彼には一転大きなチャンスとなり得る。

 更には、このスキャンダルを自力で嗅ぎつけたという事実をしかるべき人物に評価してもらえれば、自分の有用性を相手に印象づけられる。

 すべてが上手く行けば、という条件付きであり、危険な賭けというべき暴挙であったが、彼はその大博打に勝ちつつあることを悟っていた。

 彼の前には未来の宇宙艦隊司令長官であるシトレと、未来の宇宙艦隊総参謀長のグリーンヒルがいるのである。

 

「『ブルース・アッシュビーの戦術における帝国内スパイ網について』、私も読ませてもらった。非常に面白い……いや、失礼。興味深い内容だった」

「恐縮であります、グリーンヒル閣下」

 フロルは極めて真面目に、そう答えた。

 フロル・リシャールは、卒論のテーマにブルース・アッシュビー元帥を扱ったのだ。あの輝ける同盟の英雄の功績が、帝国軍からの亡命軍人マルティン・オットー・フォン・ジークマイスター中将待遇と、帝国軍クリストフ・フォン・ミヒャールゼン中将によって作り上げられたスパイ網によってなされたものだと告発したものだった。これをまともな軍人に見られていれば、フロル・リシャールという軍人の将来は閉ざされていたに違いない。だが、シドニー・シトレは優れた軍人ではあったが、普通ではなかった。

 シトレはそのレポートの中に、真実だけが持ちうる微かな匂いを嗅ぎ分けたのだ、とは後世の歴史家の論である。

「君は暗殺されたミヒャールゼン提督の部下であったという、ケーフェンフェラ—大佐に会いに、惑星エコニアの捕虜収容所まで行ったそうじゃないか。随分な行動力だ」

 グリーンヒルは鋭い眼光をフロルに浴びせかけた。その怜悧な目線だけで、フロルはこの目の前の人物が、同盟軍きっての頭脳派であることを理解した。そしてこの人物が持っている肩書きの重さをも、理解した。

 未来の宇宙艦隊総参謀長の今の役職は、国防委員会情報部戦略作戦局長。

 同盟軍全諜報活動の指揮を一手に担っているのは、目の前の紳士なのだ。

 

「リシャール候補生、このレポートは非常に理路整然としておるし、傍証としての証言も十分だ。だが確固とした証拠に欠けている。それについては認識しておるかね」

 シトレはフロルに問い掛けた。

「承知しております」

 フロルは一切の動揺を見せず、そう言った。

「だが君はこれを提出した。校長がシトレ中将であったから良いもの、これが君の将来に暗い影を及ぼすとは思わなかったか」

 グリーンヒルの質問は、既に詰問に近かった。

「あるいは、そうなったかもしれません。ですが、グリーンヒル閣下がこちらにおいでになっているということは、その中身がそう的外れでもなかった、ということでしょう」

 フロルはそこでようやく、いつものように笑った。零れ落ちた笑みであった。

「君の推察通り、同盟軍がジークマイスター提督の情報網を利用していたことは事実だ。だがそれとアッシュビー元帥を結びつけた人間は、ましてや帝国で暗殺されたミヒャールゼン提督をアッシュビー元帥と結びつけた人間はいない。見事な洞察力だ、と言っておこう。だが——」

 グリーンヒルはそこまで言って、ソファから立ち上がった。立ってみると、その上背はフロルとほとんど変わらないものであった。だがその体の発する威圧感が、フロルにはひしひしと感じられた。まるで自分よりはるかに大きな人間を見上げているような、そんな錯覚すら感じている。

「——これは公表されて良いようなものではない、それはわかるかね?」

 フロルはそう言われてから、ジークマイスターと同盟の蜜月を認めたこと自体が異例であることに気付いた。そしてグリーンヒルがそれを認めたのも、不注意からではない、ということも。

 グリーンヒルはフロルに、同盟軍の隠された事実に手を伸ばしたフロルに、褒美として真実の欠片を伝えているのだ。フロルはカンニングをしただけ、なのだが。

 

「はい、もちろんです」

 例え一学生の卒業論文であっても、それが同盟軍の名誉に関わることであるならば、それが公開されるはずはない。しかも内容はあの偉大な英雄の影に纏わる話なのである。

「それで、君はなぜこのレポートを出したのかね?」

 グリーンヒルの問いは、フロルの意図を完璧に理解した上で発せられたものであった。フロルが、その内容でもって何かを取り引きしたいと考えていることを、察している。

 

「シトレ校長にお願いがあったからです」

 だからフロルは、余計な前置きを省いてそう言った。視線をシトレに向け、そしてそれをまたグリーンヒルに戻す。

「そしてそれはグリーンヒル閣下にも関係することです。ですからグリーンヒル閣下ご自身がお越し下さったことは、私にとって幸運でした」

「何かな、君のお願いというのは」

 グリーンヒルはもう一度ソファに座り直し、紅茶を一口飲んだ。だが視線だけは、フロルを鋭く睨み付けている。

「卒業後の配属先を、閣下の元にお願いしたい」

 シトレは小さく顎を引いた。

 

 情報部戦略作戦局は、大層な響きとは反対に裏方の組織である。華々しい活躍というのは大抵、帝国軍と直に砲撃を撃ち交わす宇宙艦隊が為し得るものであって、情報部の行う諜報活動はそれを補佐するものでしかない。だがフロルは、その補佐がなければ、まともな艦隊戦もできないということを知っていた。

 諜報活動というものが、いかに大切かということを、知っていた。

 ある時、ヤンはフロルに言った。戦争もまた、広義の外交手段である。だが狭義において戦争は外交の失敗を意味している、と。

 そして諜報活動とは、まさに外交のための道具、なくてはならない道具である。

 それを理解していたから、アッシュビーは常勝の英雄となり得たのだ。彼はジークマイスターからもたらされる玉石混淆の情報を天才的な才覚によって利用し、そして戦場の覇者となった。

 だから、フロルはアッシュビーのことを原作で知り得た時も、まったく失望を感じなかった。むしろ、その情報を扱う手腕に対して、賞賛の思いを抱いたのだ。

 それは今も変わらない。

 

 情報の重要性。

 それをもっとも強く知っていることが、フロル・リシャールという軍人の特徴であったろう。そして転生者として誰も持ち得ない情報を持つ者として、縋り付きたい神の名前だったのだ。

 彼が、彼だけが持ちうる強み。

 原作の知識という名の、情報。

 だからこそ、彼は彼の神を信じ続けた。

 それに裏切られるまで。

 

「国防委員会の組織とは言え、情報部は他部署のように名ばかりの形骸化した組織ではない。少なくとも、私が戦略作戦局の局長になってからはな。君が楽をしたいと思っているならば、オススメしない。戦場での華やかな活躍を期待しているならば、それもオススメはできない」

「理解しております」

 グリーンヒルは言葉を重ねた。シトレはそれを見て、小さな笑いが零れるのを抑えきれなかった。 

——大した度胸だ。

 

「君は人を殺せるかね、自分の手で」

 フロルはグリーンヒルの言葉を聞いて、もう一度頬に笑みを浮かべた。それは震えるのを抑えつけるような笑みだったろう、とフロルは彼の日記に書いている。

 

「殺すなら、自分の手で殺さなければならないでしょう」

 だがグリーンヒルには、犬歯を剥き出しにしたその笑みが、まるで狼の笑みのように見えたという。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 フロル・リシャールが卒業を迎える。

 

 フロルはヤンやラップより一つ、アッテンボローより3つ年上である。当然、フロルはヤンやアッテンボローよりも先に士官学校を去ることになる。キャゼルヌも、原作通りであればあと数年は士官学校の事務局次長を続けるはずであった。

 フロルの四年間、特にヤン達と過ごした期間というのは、短くもフロルにとっては貴重な時間であった。そしてそれは、どうやらヤン達にとっても同じであったようである。彼らにとっては士官学校に入ってから、ずっと面倒を見てくれた先輩がいなくなるわけで、まるで非現実的なものにしかなり得なかった。

 それだけフロルが彼らに影響を与えていたとも言えるだろう。善きにしろ悪しきにしろ。

 また一緒にいることも多かったキャゼルヌにしてみせれば、「ヤンやアッテンボローはフロルというガキ大将に引っかき回された被害者たち」であって、「第二・第三のフロルになり得る逸材」とのことだった。

 

 自由惑星同盟士官学校を卒業した者は、みな等しく少尉として任官される。つまり卒業したてでいきなり下級将校となるわけだが、すぐに現場に行っても役に立つわけもない。定期的にいろいろな部署をたらい回しされるはずで、最終的にそれぞれの適性にあった部署に居着くことになるだろう。

 フロルだけは、決まっているのだが。

 

 

「先輩が卒業するだなんて、なんだか信じられませんね」

 アッテンボローは退屈な卒業式後の打ち上げで、こう言った。

「なんだ、おまえ、もっと俺と一緒にいたかったのか?」

「私にそんな趣味はありませんよ」アッテンボローは苦笑いをする。

「ですが、美味しい紅茶が飲めなくなるのは残念ですね」

 ヤンはビールを傾けながら言った。

「自分で淹れればいいじゃないか」

 ラップが笑いながらヤンの腕をどつく。

 ヤンは零れそうになるビールジョッキに慌てて口を付けた。

「ヤンには家事の才能が欠落してるからな、茶葉が無駄になるだけだろうよ」

 キャゼルヌはつまみのチーズを口に運びながら言う。

「頑張ってみたんですけどね、ヤンの家事能力は絶望的です」

 フロルにとって、ヤンの料理に対する適性のなさはもはや絶望という表現でしか思いつかなかった。何度となく、紅茶の淹れ方を指導したのだが、ヤンが入れるとまともなものができなかったのである。ヤンが将来、ユリアンに頼り切りになるのも頷けるというものだった。

 フロルの紅茶とて、人よりは多少マシというレベルでしかないのだが、ヤンに比べれば雲泥の差というわけである。

 

「そういえばフロル、おまえさん、卒業したらどこに任官するんだ?」

「さぁ、後方勤務を希望しておいたんですがね」

「へぇ、それは意外ですね!」

 アッテンボローが大げさに驚いてみせたが、軽く目を見開いたヤンにしろ、小さく口笛を吹いたラップにしろ、フロルの所属希望は意外であったらしい。

「先輩のことですから、前線勤務を希望すると思いましたが」

「まぁ、俺も前線には行きたいんだが、下っ端が第一線に行ったところで、上司に恵まれなかったら悲惨な目に遭うからな。多少、偉くなってから行こうかな、と」

 フロルは本当のことを話せないもどかしさを、一気に口に含んだビールと一緒に飲み込んだ。

「相変わらずセコいことを考えるが、俺にしてみれば」キャゼルヌは右手を挙げて通りかかった店員を呼ぶ。「おまえさんにはずっと士官学校にいて欲しかったもんだ。そうすれば現場に面倒がやってこないで済む。——あ、ビールをお願いしたい」

 店員は他の面子にも追加注文を聞いていった。

 2杯目でヤンがアップルジュースを頼み、フロルにいじられたのは余談である。

 そして一人18歳に満たないアッテンボローがビールを飲んでいることに、突っ込む野暮もいなかった。

 

 

「……そういえば、あの彼女はどうなったんだ、フロル」

 後輩達が聞こうとして聞けなかったことを、キャゼルヌが尋ねた。一瞬、フロルの手の動きが止まったが、フロルはそのままビールを口に運んだ。

「……今日の打ち上げに来るって言ってましたよ。今度、ハイネセン・フィル・ハーモニー楽団と共演するとかなんとか、そのリハーサルですぐには来られないらしいですが」

「なんだ、上手くいってないのか」

 フロルは肩を竦めた。

「女の一人や二人、幸せにしてやるのは男の甲斐性だぞ」

「そういうキャゼルヌ先輩だって、独り身じゃないですか」

 アッテンボローはフロルを気遣ってか、キャゼルヌに矛先を向けた。

「俺か? 俺はそのうち結婚するさ。料理が美味くて、亭主関白で家を守ってくれるような美人な女性とな」

 キャゼルヌは無駄に胸を張った。

「どうですかね、きっと先輩は尻に敷かれて、子供に愚痴るような亭主になりますよ」

「なんだ、妙にリアルなことを言うな、フロル」

「いえいえ、ただの願望ですよ」

 

 フロルはキャゼルヌがこれから3年の後に結婚することを識っていた。結婚相手は元上官の娘で、大層な美人で料理上手。しかも可愛い娘を2人も授かるわけで、こと家庭的な幸福度で言えば、原作上随一の幸せ者なのである。もっともキャゼルヌ夫人はなかなか押しの強い女性で、やりこめられることもしばしばであった。無論、フロルは必ず夫人に味方することを決めていた、既に。

 

「フロルは黙って立っていれば見てくれはそこそこなんだ。余計なことをしないでイエスを決め込んでいればいいのさ」

「それじゃあもはやリシャール先輩じゃないですね」ヤンがにべもなく言い捨てた。

「言うじゃないか、ヤン」フロルが軽く睨み付ける。

「その点、俺は黙っていたって女性に声をかけられる。まぁ、モテる男はいつだって辛いものさ」

「キャゼルヌ先輩の浮いた話も聞きませんけど」

 ラップも身を乗り出して、話に参加している。

「俺が人に弱みを見せると思うか?」

「人に明かすことのできな女性関係とは、いったい裏で何をやっているのやら」

 フロルもまた、舌戦では負けていない。舌戦と言うよりは、軽口の応酬であるが。

 

 

「できれば私も、フロルが裏で何をやってるか知りたいものね」

 一同はその声に、女性的でありつつ凛とした響きを持つその声に反応し、その声の主に顔を向けた。

 ジェシカ・エドワーズである。

 青いナイトドレスに淡い青のストールを身にまとったその姿は、明らかにその騒がしい酒場には不向きな上品さを持っていた。

「やぁ、遅かったね、ジェシカ」

「不良士官候補生さんも、不良少尉殿になったわけね。フロル、卒業おめでとう」

「これはどうも、可愛いお嬢さん」

 フロルは気障がかった仕草で、ジェシカの手を取り、その甲に口を付けた。そして自分が座っていた椅子を引き、彼女を座らせる。

「綺麗なドレスだ、ジェシカ」

「ありがとう、ラップ。ヤン……はどうしたの、口をぽかんとして」

「きっとジェシカ嬢の可憐さに呆然としているのさ。コンサートの件、ついさっき聞いたよ。是非、聴きに行かせてもらおう」

 キャゼルヌは的確にヤンを揶揄する。

「ありがとうございます、キャゼルヌ先輩」

 ジェシカはヤンにウィンクを送ってから、キャゼルヌに微笑みかけた。ヤンもそのショックに、意識を戻したようで、慌てて手に持っていたグラスを飲み干した。

「自分も是非行きますよ!」

 アッテンボローの言葉に、ヤンも大きく頷いた。

「残念だが、俺は働き始めたばかりだから、行けないと思う」

 フロルはどこからか椅子を持ってきながら、そう言った。ジェシカは小さく首を横に振る。

「そんなことだろうと思ったわ」

 その声に混じる諦観の響きに、そのテーブルの誰もが気がついている。だから、誰も二の次を繋げられなかった。

 

 沈黙に堪えられなかったヤンが救いを求めたのは、バーカウンターの上で点けっぱなしになっている立体TV(ソリビジョン)だった。画面の中では、40代半ばの見てくれの良い男が、調子よく演説をぶっていた。

「そういえばキャゼルヌ先輩」気を紛らわせるためにそれを見ていたヤンだったが、キャゼルヌに話しかけたときには、既にそのことに思考が回転していた。あっという間に思考が切れ変わり、思索は地平線まで届いている。「この政治家、最近よく見ますね」

 ヤンの声色の変化にもっとも大きく反応したのは、フロルだった。

 それは画面の中の人物が、フロルにとっても注目に値する人物出会ったからである。

 良い意味ではない。

 最悪な意味での、要注意人物である。

「ああ、最近人気だっていうヨブ・トリューニヒトだな」

「あのいけ好かない奴か」

 アッテンボローが下を出しながら顔を顰める。

「俺もあまりああいうのは好きじゃない。なんていうか、外面ばかりいいみたいな張りぼてみたいな印象がする」

 ラップもまた苦手なようだった。

「私もあまり好きじゃないわ。見るからにナルシストって感じで」

 ジェシカもあの自信に満ちあふれた、言い換えれば自尊心が透けて見える人間を毛嫌いしている。

「おいおい、世間の人気者だってのに、ここにいる連中は揃いも揃って辛辣じゃないか」

 キャゼルヌはその反応が面白いようだった。

「恐らく、キャゼルヌ先輩の言う世間っていう大多数には、私たち少数派は含まれていないんでしょう。まだ毒にも薬にもなるか分からない新人議員ですけど、綺麗事ばかり言う政治家が、歴史を建設的に動かしたことなんてないんですよ」

 ヤンは画面のトリューニヒトから目を離さず、そう呟く。

「フロルはどうなんだ?」

 キャゼルヌに問い掛けられたとき、フロルはヤンの顔を見つめていた。ジェシカだけは小さく嗤っていたことに気付いていた。

「俺の邪魔にならなければ捨て置きますよ」

「じゃあ、邪魔になったら?」

 ジェシカはそれが聞いてはいけなかった質問であることに、気がついた。フロルがジェシカを見つめたその目の中に、隠し切れていない狂気が見える。

「どうしようかね」

 その声色は、まるでフロルがデートの最中に発するように、優しいものだった。

 だからこそ、ジェシカは怖かった。

 

 ジェシカは目の前の、自分の彼氏が未だに理解できない。

 丸2年も付き合ってきたのに、自分が好きになって付き合い始めた男なのに、ジェシカにはまだフロル・リシャールがわからない。

 彼には誰も触れさせない闇がある。

 それに気付いたのは、ジェシカが誰よりもこの2年間一緒にいたからだった。

 2年間交際を続けてきて、手に入れた成果がそれだった。

 それに知った時、自分が今までフロルという人間を形成するその表面だけを見ていたことに気付いた。

 そして彼が時折抱く狂気。

 ジェシカは知らなかったが、それは殺気と呼ばれるものだった。

 人が人を殺したいという思い。

 フロルが20年間生きてきて、ヤン・ウェンリーを救いたいという思いの果てに抱いた感情であった。

 だが音楽を愛し、彼を優しく愛してくれる男を好んだジェシカには、それがなんなのかわかるはずもない。

 わからないのに、怖かった。

 ジェシカには、今のフロルが堪らなく怖かった。

 

 フロルはジェシカの目に疾った怯えの色に気がつき、目を伏せた。

 音の鳴らない舌打ちをする。

 怖がらせる気はないのに。

 どこで間違ったのかわからない。

 いや、最初から無理だったのかも知れない。

 もう、漠然と気付いている。

 ジェシカとは、限界だ。

 

 

「なんだか、酔いすぎたようです」フロルは軽くふらつきながら、立ち上がった。

「おっと、大丈夫ですか、先輩」

 アッテンボローがその肩を支える。

「珍しいな、お前さんが酔うなんて」

 キャゼルヌがそう言った。

「気持ちの良い夜ですからね」フロルは外を見る。

 外は雨だった。

「ようやく卒業できた記念の夜ですから」

 フロルは椅子の背にかけていたジャケットを手に取る。

「ジェシカ、俺は疲れたからもう帰るよ。君はもうちょっと飲んでいくといい」

「先輩、でもそれじゃあ」

 ラップがフロルの言葉に声を上げたが、ジェシカは黙ってフロルを見つめるだけだった。ヤンがラップの腕を押さえた。

「また、あとで連絡する」

「……ええ、待ってるわ」

 彼女は笑おうとしたのに、顔はまるで強ばって動かない。

 フロルはそっと、彼女の額にキスを落とす。

 いつもより、長めに。

 

 そうしてフロルはみんなを残してバーを出て行った。

 持ってきた傘も差さずに。

 

 

 

***

 

 

 

 フロル・リシャールという人間の軍歴は、ヤン・ウェンリーほどの華麗さこそなかったが、それなりに賑やかな事象で埋め尽くされている。

 だが、彼が宇宙暦786年に士官学校を卒業し、同日付で国防委員会情報部に配属されてから、翌787年に第4艦隊分艦隊幕僚補佐を拝命するまでの一年間は、まったくの空欄となっている。

 後に空白の一年と呼ばれるフロル・リシャールの一年間。

 彼がいったいどこで、何をしていたのかは、一切の公式記録に残っていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




有言不実行を地で行っている碧海かせなです。
どうもすみません。
リアルの多忙と、校正を頼んでいた友人の多忙で3週も遅れてしまいました。
なんともはや……。
本当にすみません! 今回がキレ良かったので、次回からは土曜の午前0時更新を目処にしていきます。今1時ですけど……。
さて、これで<第1章 士官学校>が終わりです。
次は<第2章 第4艦隊>です。
一部ではかなり好評だったジェシカとの仲ですが、正直この二人がくっつくのはかなり厳しいです。ジェシカがフロルとくっつけるとすれば、一度地獄を見てから、つまり原作で言うところのラップを亡くした後のジェシカだと思われます。
ただ、これで出番終了ではなく、今後も小まめに出していきますので、宜しくお願いします。
ご意見・ご感想をお待ちしております。やる気に直結するので、「読んだお(^q^)」だけでもいいのでコメントください(笑)
では、次は約束を破らないでいきたい……。
ではでは。


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008 イゼルローン回廊外遭遇戦

 フロル・リシャールという人物を評するに当たって、後世の人々は様々な賛辞と、それに等しい量の罵倒でもってそれを行う。賛辞を述べる者は自由惑星同盟に勝利を齎したという功績を論拠とし、罵倒する者は一時期にせよ彼が同盟軍不敗の名将ヤン・ウェンリー一党と敵対していたという事実を理由にした。

 彼は同盟軍に身を置いていた期間のほとんどを、ヤン一派——ヤンの名声がフロルのそれを超えるまではフロル一派として、同じ勢力の仲間だったのだ。彼らが望むにせよ、望まぬにせよ有力な派閥とされていた一方、彼らは家族ぐるみで親しい先輩と後輩であり、友であったとされる。

 堅牢な友情の上に築かれた協力関係が、なぜ砂上の城の如く脆くも崩れ去ったのか。

 

『なぜ、フロル・リシャールはヤン・ウェンリーと対立せねばならなかったのか』

 

 永遠の謎、と呼ばれたこの近代史上もっとも有名な謎は、彼の孫にあたるレイモン・リシャールがフロルの私文書を公開するまで、明らかにされることはなかった。

 だが、それを語るには時の針を進める必要があるだろう。

 

 宇宙暦787年の秋、ドワイト・グリーンヒルが少将に昇進し、戦略作戦局長から情報部長へとその役職を繰り上げた。この人事は昇進すべき人間が昇進したという至極真っ当なものとして内外に好評を得た。グリーンヒル少将が同盟軍における軍事諜報戦の要であることは軍にいる誰もが知っていたし、そもそも良識派として軍内外で信頼の篤い人間であったためである。

 また自由惑星同盟における国防公安委員会情報部は、主に対外的諜報活動を取り仕切っているのであって、国内の捜査権を有しないことが、彼の敵を作らないことに一役を買っている。国内における捜査および逮捕権は法秩序委員会の警察組織が独占しており、つまり国内における諜報活動は警察内部の公安警察が取り仕切っている。

 この二つの組織は軍人と政治家の権力争いが生み出した一卵性双生児であった。ほとんど同じ職務内容を持ちながらも、国内と国外で分断されては円滑な諜報活動は望むべくもない。本来持たれるべき情報の共有など、互いを無能と罵り合う公安警察と国防委員会情報部においては土台なし得るものではないのである。そして権力の敵対は同盟の歴史、四半世紀の時間を経て、諜報活動の国内と国外の棲み分けという不文律を作り上げていた。

 その中で、制服組でありながら無用の混乱を避ける気遣いと交渉能力を持ち合わせるグリーンヒルは、どちらの権力者にも歓迎されたのだ。

 

 グリーンヒル少将が昇進後、まず行ったのはフロル・リシャールは中尉への昇進である。昇進の理由は「職務において一等の功あり」としか記されていない。

 次いでグリーンヒルは宇宙艦隊第4艦隊分艦隊幕僚補佐にフロルを任命した。フロルは同盟軍諜報活動の最前線から艦隊戦の最前線へと配置換えされたのである。

 

 

***

 

 

 フロル・リシャール中尉は第4艦隊カタイスト中将麾下の分艦隊ラウロ・パストーレ准将の元へ着任した。リシャール中尉はパストーレ准将のもと、作戦立案・艦隊運用計画などを担当し一定の評価を得て、パストーレ准将の信認を得ることに成功する。もっともそれは准将直属の幕僚団にも問題があったからでもあった。

 ラウロ・パストーレは宇宙暦755年、士官学校を中の上の成績で卒業。後方任務と同盟領土の守備任務を主として、昇進を重ねた。中規模以下の艦隊戦闘においては一定の作戦遂行能力を有していたということであるが、逆にそれが彼の限界であったのかもしれない。30代を前にして国内のタカ派政治家と親交を深め、785年准将に昇進。第4艦隊指揮下の分艦隊の指揮官となった。キャゼルヌであれば「財布が軽くなる度に昇進を手にした男」とでも言うであろう。

 

 第4艦隊を指揮するカタイスト中将自身は一兵卒からの叩き上げで艦隊指揮官にまで登り詰めた男で、同盟軍将兵からも絶対的な信頼を獲得していた。その指揮ぶりはアレクサンドル・ビュコック中将や帝国軍ウィルバルド・フォン・メルカッツ大将とも引けをとらないとされていた。

 だが一方で政治的な立ち回りは苦手であり、自分の指揮下分艦隊にラウロ・パストーレ准将が任命にされた政治的な取り引きにも、従うしかなかった。彼自身が退役年齢に近づいており、国内の有力な政治家に反対することで退役後の待遇が悪化することを忌避したためとも言える。

 150年続いた戦争は、戦争の日常化を招いた。この程度の政治家の恣意的な軍部への介入は珍しいことではなかったのである。有するべき能力を持たない人間が、あるべきでない地位に就く。それによる軍の能力低下を問題視する人間は、既にいなくなっていた。

 

 そのような経緯で任命されたパストーレ准将の幕僚団が正常に機能するべくもない。個人的かつ私的なルートで昇進を試みた人間が多く集まってきたのである。第4艦隊パストーレ分艦隊上層部の機能低下が進行する中、まったくの外部からやってきたフロル・リシャール中尉の能力は相対的に重宝されたのである。

 

 そんな同盟軍第4艦隊麾下パストーレ分艦隊が偶発的な戦いに巻き込まれたのは宇宙暦786年3月10日のことであった。

 

 その戦いは第4艦隊とイゼルローン駐留軍との遭遇戦である。この遭遇にはとある貴族が引き金となっていた。

 ダウリス・フォン・エッフェンベルク子爵がそれである。彼は同盟への亡命を画策した。彼がブラウンシュバイク公の血族を不慮の事故で殺してしまったことが発端であったが、それに恐れをなしたエッフェンベルク子爵がイゼルローン要塞経由で亡命する過程で、軍の機密を持ち逃げしたことで話は軍を巻き込む事態に発展した。自らの持ちうる財産を持って、腹心の家臣ととも単艦逃亡したのである。それが8月3日のことである。なぜ亡命するにあたってフェザーンではなくイゼルローン経由を選んだかに関しては、これは同時期に亡命を図ってフェザーン航路中に事故死した某男爵の事件を子爵が知っていたためとされる。

 軍事機密を持ったまま軍事要塞から帝国貴族が亡命する事態になって、駐留艦隊司令官ヴァルテンベルク大将は3000隻の分艦隊を派遣した。追跡部隊にこれだけの艦艇を用意したのは、ブラウンシュバイク公の歓心を買わんとしたためとも言われている。追っ手の存在を察知した子爵は恐慌状態に陥った。捕まれば死罪は免れぬのは明白である。彼らは死に物狂いで逃走を続けたが同盟側のイゼルローン回廊を同盟側に少し出たところで、8月12日、補足され、撃沈された。

 

 ここで不幸が重なる。

 第4艦隊はイゼルローン回廊の同盟側において、惑星エル・ファシル領域の偵察任務から首都星ハイネセンへの帰還途中にあったのだ。自由惑星同盟においても、銀河帝国においてもその広大な支配領域全体に、常時から兵を配置することは不可能であった。であるならば、定期的な偵察に頼らざるを得ないだが、今回はそれが両軍にとって予期せぬ遭遇戦を作り上げることになったのある。

 先に敵に気付いたのは帝国軍であった。補足されたのは同盟軍第4艦隊分艦隊3000隻。数の上では互角。帝国軍は同盟側に入り込み、帰還しようとした時になって、イゼルローン要塞への途上に同盟軍分艦隊を見つけたのである。

 こうして誰一人、望んでいない戦いが始まった。

 

 

***

 

 

「帝国軍艦隊発見ッ! 方角は3時20分! 敵艦隊数およそ3000!」

 

 同日7月21分、敵艦隊の知らせは分艦隊旗艦レオニダスに衝撃をもたらした。同盟、帝国の国境において偵察任務に出ていた艦同士が不幸な遭遇戦を引き起こすのはままあることであったが、それがともに3000隻であるという事態はそうそうあることではなかった。しかも遭遇領域は惑星エル・ファシルからそう遠い場所ではない、明らかに同盟側に入り込んだ宙域である。

 叩き起こされたパストーレが押っ取り刀で艦隊司令部に駆けつけるまで10分はかかった。幕僚団も似たり寄ったりである。まともな交代制も引かないで、彼の幕僚団は暇な偵察任務を自室でやり過ごしていたのだ。

 

「私以外の幕僚を叩き起こせ! 敵艦隊来襲だ! パストーレ准将には私が電話をかける……その騒がしい警報を止めろ!」

 敵艦隊発見のけたたましい警報が流れる中、フロルが最初に行ったのは当直通信士官への指示であった。

「敵の速度は! 時間的距離でいい!」

 その司令部にあって唯一人、真面目に司令室に詰めていたのはフロル・リシャール中尉であった。フロルにしても気質は生真面目にはほど遠い人間であったが、司令部に士官が誰もいない事態を看過できない程度には勤勉であったのだ。あるいはヤンの言葉を借りるならば、給料分の仕事はしていたのである。

 

「およそ20分後に敵主砲有効射程内に入ります!」

「……近いな、警戒網はどうなってるんだ」

 フロルは聞こえない声の大きさで毒付いた。するべき警戒を怠っていた証であった。

 事態は急を要した。最も問題なのは、敵艦隊が我が艦隊の右側面を突く形になっていることであった。20分では3000隻の全艦隊の回頭しきるのは難しいであろう。ただ漠然と縦陣形を敷いていた艦隊の、陣形変更も簡単ではない。

 さらに問題は、幕僚団が揃うまでの時間的ロスである。全員が揃ってから、作戦案を出し合って取りまとめる時間などない。仮に幕僚たちが有能であっても、そのために有する時間が同盟軍艦隊を宇宙の塵に追いやるであろう。この瞬間、時間は宝石よりも貴重であった。

 

 フロルは小さく息を吐き出して、分艦隊司令室直通の電話を取った。数秒して、相手が出る。

「リシャール中尉であります」

『なんなんだ! 今の警報は!』

 電話の先でパストーレは叫んでいた。狼狽が声にまで表れている。

「敵艦隊発見しました。20分で会敵します。至急司令室までお越し下さい」

『敵艦隊だと!?』

 フロルは舌打ちを堪えなければなかった。警報の意味がわからなかったパストーレに対してではない。パストーレの意識の低さに対してであった。艦隊はハイネセンの周りを飛んでいるのではない。あくまで、敵艦隊の遭遇を想定した偵察任務であったはずである。それが幾多の何事もない偵察任務によって、敵が来ないことを想定した偵察任務になっていたのではないか。だからまともな警戒網も引かずに警戒宙域を航行していたのではないか。朝3時としても、司令室にフロルしかいないのも馬鹿げた話であった。

 フロル自身が望《・》ん《・》だ《・》こととは言え、この分艦隊に配属されたことを後悔したい思いであった。

 

 おかげで、この貴重な20分をフロル一人で対処しなくなっているのだ。

 本来、フロルの地位であればこのまま司令官や幕僚が揃うまで動くことはできない。だがそれが自らの生死を左右するとなれば、話は別である。

 だから、フロルは言葉を操った。

「時間的余裕がありません。現在、司令室にいる幕僚でとりあえずの指示を出しますがよろしいですね!?」

 司令室にいる幕僚、つまりフロルだけである。

『わ、わかった。至急対処せよ!』

「了解!」

 フロルは半ば叩きつけるように受話器を置いた。もしかしたら電話の先でパストーレが気分を害しているかも知れないが、知ったことでは無かった。気分どころか、自分たちを害する敵が目の前にまで迫っているのだ。言質はとった。あとはどうするべきか。

 

 フロルは次の通信を繋げるまでの一瞬で、多くを考えた。

 敵の速度、敵の進行方向、現宙域の地理的位置関係、敵の陣形……。

 こういう時に、彼の指針となるのはヤン・ウェンリーであった。彼であれば、いったいどう考えるか。そして将来の彼がいったい何を成したか。

 それがフロルという軍人を形作っていたのだーーヤンの知らないところで。

「機動部隊長のフィッシャー中佐に繋げてくれ!」

 そしてフロルは知っていた。原作で生きた航路図と呼ばれた、艦隊運動の達人がこの分艦隊にいることを。

 

 

 ***

 

 

『フィッシャー中佐であります。司令部からとのことでしたが』

 フィッシャーは通信で現れた、明らかに自分よりも若い中尉を見て眉を顰めた。

 

「リシャール中尉であります。パストーレ准将からの指令をお伝えします」

 その言葉にフィッシャーは軽く目を見開いた。迅速な対応にもしかしたら驚いたのかもしれない。

 

「我が艦隊を2つに分けます。敵が来襲する右側艦隊は小回りの効く艦を右に90度回頭させ、装甲の厚い艦を盾にその間から攻撃を加えて下さい。敵の直撃をまず緩和し、次いでわざと敵艦隊に我が艦隊の中央を突破させていただきたい。その間に左側艦隊を左に90度回頭させ、我が艦隊中央を突破した敵艦隊の後背を突きます」

 

 ヤンのとったアスターテ会戦の小規模再生産といったところであった。もっとも、この時にはまだ発生していないが。

 

『敵艦隊が我が艦隊を突破後、後方展開した場合はどうしますか?』

「敵艦隊の目的は我が艦隊の中央を突破し、イゼルローン要塞への帰還だと推測されます。敵は紡錘陣形をとり、高速でイゼルローン回廊方面に進行しています。そもそも帝国艦隊が3000隻程度で、同盟軍の支配宙域で艦隊戦をする意味はありません。ここまで入り込んでは補給線もまともに維持できないはずだからです。であるならば、敵艦隊の目的は現宙域の支配でも、我が艦隊の撃破でもないと考えるのが妥当です。この戦いは敵にとっても意図しないものだったのでしょう」

 

 フロルは一息で説明をしたが、それによってフィッシャーは目の前の若者がこの作戦を立案したことを暗に理解した。だがフロルがパストーレの名を出した以上、そのことを指摘する必要はないのである。

 怠惰な司令部が指揮するこの艦隊で、このような遭遇戦に巻き込まれた不幸を呪っていたのはフィッシャーだけではなかったが、まともな指令が下されるのは大歓迎であった。

 

「万一、敵が突破後、展開を図るのであれば、左側艦隊でそれに対処しつつ、全艦隊撤退します。互いの位置が変われば、イゼルローン回廊に逃げ込めるわけですから、撤退する我が艦隊を追うことはないでしょう。フィッシャー中佐には右側艦隊の指揮をお願いします。左側は旗艦でとります」

『これは賭けですな。あと15分足らずでそこまで持って行けるか』

 

 フロルはそこで憎たらしいまでの笑みを浮かべた。

「フィッシャー中佐ならば可能でしょう。もしもこの戦いが無事に終わった暁には、艦隊運動のイロハを本官にご教示願いたいですね」

『そのためにはまず目の前の敵をどうにかせねばなりますまい』

 フィッシャーは苦笑いをしたが、その一方でこの若者に感嘆の眼差しを送った。

「今は時間が宝石よりも貴重です。急ぎ、よろしくお願いします」

『了解した』

 リシャールは敬礼をし、フィッシャーもそれに応えた。

 

 作戦はこちらの思惑、相手の思惑、そして運によって推移する。

 今回に限って言えば、フロルはその思惑を読違えなかったし、運もまた彼に味方したようであった。

 

 慌てて集まった幕僚団が司令部に到着する頃には、既に戦端は開かれていた。作戦はフロルの立案のまま進行し、そして終了したのである。遅れてきた幕僚が口を出そうにも、左側艦隊の指揮を任されたフィッシャー中佐には戦闘状態のため連絡が付かず、さらにフロルの案を上回る代替案が見つからなかったからである。

 

 同日8時2分、敵艦隊は同盟艦隊の中央を突破。そのままイゼルローン回廊へ直進するかに見られた。9時5分、それを見越した旗艦レオニダス率いる1500隻の艦隊が後背を追撃。追撃は5時間にわたって行われ、擬態された中央突破よりも、遥かに多い被害を同盟軍は帝国軍に与えることに成功したのである。

 

 第4艦隊本隊が援護に来た時には、500隻まで撃ち減らされた敵艦隊はイゼルローン回廊に逃げ込んでいた。艦隊数こそ小規模であったが、同盟軍にとって久方ぶりの完勝となったのである。

 

 パストーレ准将はこの《イゼルローン回廊外遭遇戦》において、旗艦レオニダスで卓越した指揮を執ったとして少将に昇進、一躍、時の人となった。その影に隠れ遅れるように、パストーレ少将の推薦でフロル・リシャールが大尉になったのは半年後のことである。

 パストーレのフロルに対する信頼は、この一戦を持って確固たるものになったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




んーと、なんだか凄い久しぶりですね……。
さぁて、頑張っていきたいところですが……。
待って下さっていた方はホントにお待たせして申し訳ございません。
ではまた近いうちに……。
投稿したいなぁ!


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