雨に濡れ落ちた花 (エコー)
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1 アザレアの花は美しく哀しく

連載第二弾。

今回、奉仕部に迷い込んできたひとつの依頼。
断るはずのその依頼を話すのは平塚静。
その依頼の内容とは。




 

1 アザレアの花は美しく哀しく

 

5月25日 月曜日

 千葉市立総武高校、放課後の奉仕部の部室。

 雪ノ下雪乃は紅茶を淹れて、由比ヶ浜結衣は携帯電話をいじり、そして俺、比企谷八幡は読書をしている。総勢三人の部員は各々思い思いの過ごし方で、或いは俺以外の二人は談笑しながら、当てもなく依頼を待つのが日課になっていた。

 いつものように雪ノ下と由比ヶ浜が少々過剰なスキンシップを交えた談笑をし、俺はそれを横目に読書をしていると、不意に部室のドアが開いた。

「平塚先生、ノックをしてくださいと再三お願いを」

 こうして雪ノ下が奉仕部顧問の平塚静先生に怒る。全くいつもの光景だ。

「ああ悪い…依頼なんだが、ちょっと」

 いつもと違ったのは、ここからだった。

 平塚先生の口調も表情も普段のそれと違う。それを察知し、奉仕部員は姿勢を正す。

「お前たち、『アザレアの亡霊』って知ってるか」

 どっかで聞いたような言葉だな。雪ノ下と由比ヶ浜は互いに顔を見合わせて首を傾げている。

 そんな中、俺だけは腐った目を駆使して読書を続けていたら目立つのは当然のことだ。

「おい比企谷。話を聞け」

 面倒くさい。本当に心から面倒くさい。

 依頼の内容なら雪ノ下が代表して聞いておけば良い。部長なのだから。

 俺らはそれを受けて動けば良い。部員なのだから。

 こんな論理は独身行き遅れの平塚先生に通用する訳も無く、仕方なく俺は先生の方へ顔だけを向ける。平塚先生は俺の思考を見透かしたように睨んでいる。

「…まあいい。今回の依頼は断るつもりだが、話だけはしておこうかと思ってな」

 

 依頼の内容は次の通りだった。

 

 ここ数週間のうち、この周辺で奇怪な事件が起きている。

 公園の遊具が壊されたり、歩道の植え込みが荒らされたり、高級車が傷をつけられたり、である。

 事件の内容だけを見るとまるで子供の悪戯、ただの器物破損の頻発だが、それらの事件にはある共通点があった。

 壊された物、もしくは荒らされた場所の近くには必ずアザレアの花が落ちていた。

 今回の依頼は、その犯人を特定して欲しい、というものだったという。

 

「…それで、何故その断る相談の内容を私たちに?」

 雪乃の疑問は尤もだった。断るなら敢えて伝える必要は無い。

 しかし今回に関しては意味がある。

 事件自体は『アザレアの亡霊』としてすでに生徒の間でも噂になっている。いわば周知のことだ。それを今更何故改めて自分たちに「断る依頼」として伝えるのかという疑問は生じて然りである。

「ああ、それは…」

 珍しく平塚先生が言葉を選んでいる。

「注意喚起、でしょう」

 平塚先生の言葉を横取りしたのは腐った目のプチイケメン男子生徒。つまり俺。

「あ、ああ。その通りだ比企谷」

 この件を話した平塚先生の意図はこうだ。

 この地域で注目され始めている事件だから、今後同様の依頼やイタズラ、またはそれに準じる内容が校内外から依頼として来るかもしれないが、本件はれっきとした刑事事件であり、どのような危険が潜むか解らないので、絶対に依頼を受けないようにと注意を促すために話したのだ。

「そう、だな。俺たち高校生がどうこう出来るレベルの問題じゃない。奉仕部の活動はあくまで奉仕。警察や探偵じゃない」

 一般論である。だがこういう一般論、建前が大事。その建前のお陰で今回の依頼を回避出来るのだから。それに、この依頼を受けるのは雪ノ下の唱える奉仕部の理念からも外れるし。

「そうね。この部唯一の犯罪者候補と同じ見解なのは遺憾ではあるけれど、確かにこの件は警察、司法の範疇ね。私たちが首を突っ込んで良いものではないわ」

 俺の意見に雪ノ下も賛同する。何故か付け合せに俺への悪口を添えて。

「という訳だから、今後この件が持ち込まれたらすぐに私に報告。それ以外は何もするな」

 それだけ伝えると平塚先生は部室を出て行った。

 

「…ねえヒッキー」

 再び本の世界に入り込もうとしていた俺に、由比ヶ浜が小声で話しかけてくる。てか近い近い耳くすぐったいフーってしないでください。んもうっ。

「なんで犯人は、こんなことするんだろうね」

 うわ、更に近くに来んなって。お前、身体全部で近眼なの?

 息がかかる胸が当たる。雪ノ下が見ている。怖いってば。

「そ、そんなもん、犯人に聞かなきゃわからんだろ…つーか近いから」

 当然の答えを当然のように並べると、しばし俺を睨みつけていた雪ノ下が言い放つ。

「由比ヶ浜さん、それは先程先生に止められた筈よ。それに、いくら比企谷くんが犯罪者だからといって、犯人の動機が解る筈は無いわ」

 だから俺を睨むなよ。そんな目で見るな。動けなくなるじゃ無いか。石化的な意味で。

「ひでえ。とうとう本物の犯罪者呼ばわりかよ。でも、ま、そういうことだ。いくら内容がイタズラ染みていても相手は犯罪者だ。どんな危険があるか解らんからな。首を突っ込むな」 

 再びとりあえずの一般論を述べて、この場をやり過ごす。

「んー」

 どうやら由比ヶ浜は納得し切れていないご様子だ。その様子を疑問に感じたが、今はそれを口にするのは止めた。きっとこいつなら3歩歩けば忘れてしまうから。

 それから三人は下校時刻までそれぞれの時間を過ごし、その日は解散した。

 

 




お読みいただいて誠にありがとうございます。
第1話、いかがだったでしょうか。
調子に乗ってもう1作品載せ始めちゃいました。
二つの物語を並行して書くなんてことができるのか。
自信は無い!
ではまた次回。 



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2 彼らは彼と彼女らに

ついに校内でも事件が発生。
それを期に、平塚先生に注意されたにも関わらず、事件について調べ始めてしまった奉仕部。
そして比企谷八幡は。


2 彼らは彼と彼女らに

 

5月26日 火曜日

 この日、『アザレアの亡霊』との関連を思わせる事件が、ついに総武高校でも発生した。

「…おい、聞いたか。アザレアの亡霊が総武高でも事件を起こしたってよ」

 すでに事件は生徒の間で噂になり、内容は総武高校内の殆どが知っていた。学校側は今回の事件を黙殺する構えを取るのだ、と平塚先生が煙草を吹かしながらぼやいていた。

 

 放課後、奉仕部部室。

 三人の部員は一様に元気が無かった。雪ノ下に至っては、目に涙を浮かべていた。

「…ひどいよね」

「本当にひどいわ」

 雪ノ下や由比ヶ浜の悲痛な顔の理由は、今朝発覚した事件の内容にある。

 今までは器物破損のみの犯行だったのだが、今回の事件では命が奪われていた。

「何の罪も無い、愛らしいネコを射殺すなんて…常軌を逸しているわ。悪魔よ」

 俺は普段と変わらず文庫本を開いているが、それはただ文字の羅列を目で撫でるような、何も頭に入らない状態だった。

 それだけ命を奪うという行為に動揺していた。

 犬や猫、その他の動物も命を持っている。

 それなら豚や牛などの家畜はどうだ。何ら命に変わりはない。

 両者の決定的な違い。それは愛玩の対象か食の対象か、である。

 

 しかしそれはあくまでも心情的な扱いの差であって、法律上は両者とも「物」なのだ。

 勿論これにも異論を唱えたいのだが、国が相手ではやり様がない。

 思考が脱線してしまった。

 何が言いたいかというと、法律に感情が入り込む余地は無い、ということ。

「残念だけど、今回の事件も法律の上では器物損壊…なんだよな」

 事実を語ったのだが、それを聞いた雪ノ下雪乃の怒りを買う。

「動物愛護法という法律を知らないようね。それに、あなたは命を何だと思っているの。どうやらあなたは法律の知識と一緒に人間として最低限の良識すらもどこかに置き忘れてしまったようね。犯人はこの世界の至宝ともいえるネコの命を奪ったのよ。それは許されないことだわ」

 珍しく語気を荒げて、本気の敵意を向けてくる。それほど怒り心頭に発しているのだろう。

 雪ノ下の、修学旅行での海老名姫菜の依頼を遂行した時以来の冷たい視線。それは今回の事件発覚の経緯に理由がある。

 実は、今回の事件の発見者は雪ノ下雪乃であった。

 脇腹を矢に射抜かれて、ぐったりと横たわる猫を見てしまった衝撃は、猫好きの彼女にとってはトラウマになりかねないものであったと推察できた。だからこそ。

「今のはひどいよ…ヒッキー」

 被害者である猫の埋葬に付き合った由比ヶ浜も同様に俺を責めにかかる。

「…すまない。失言だった。先に帰るわ」

 席を立ちながら一言だけ詫びると、俺はそのまま部室を後にした。

「… いいわ。私が、犯人を突き止める。あのネコの敵を取るわ」

 雪ノ下がそう決意したのは、俺、比企谷八幡が部室を退出した後の事だった。

 

    ☆     ☆     ☆        

5月27日 水曜日

 翌日から私、雪ノ下雪乃と由比ヶ浜さんは平塚先生に内緒の捜査を開始した。そこに比企谷くんの姿は無い。

 私は、まずこれまで『アザレアの亡霊』が関わったとされる事件のリストを作成した。そのリストは以下の通り。

 

  ①  5/3  高級車を傷つける   

  ②  5/5  小学校のガラスが割られる

  ③  5/12 市道の植込みの破壊

  ④  5/19 高級車を傷つける

  ⑤  5/26 総武高校にて猫の死体が見つかる

  

 一連の事件とされているのはこの5件である。いずれも犯行現場にはアザレアの花が残されていた。「アザレアの亡霊」と呼ばれる所以である。

「あ、あのさぁ。これって、1週間ごとに起きてるよね」

 由比ヶ浜さんは意外と鋭い。何だかんだいっても進学校の総武高校に合格するだけの頭は有しているのだから、意外なんて言っては失礼だったわね。

「確かにそうね。大型連休に該当する日にちを除けば、毎週火曜日に実行されているわ」

 ということは、最初の犯行は衝動的なもので、毎週火曜日に起きた事件は計画的な犯行、といえる。リストの全てが同じ犯人の手によるものだとすれば、だけれども。

 再びリストに視線を落とす。

「他に、何か共通点はないかしら」

 用意しておいた事件に関しての新聞記事と併せて読み返してみたけれど、ただの器物損壊の事件は紙面の扱いも狭く、アザレアの花以外の共通点は判らなかった。

「…今日は事件のことはこれ位にしましょう」

「そうだね、あんまり詳しい記事もないし」

 新聞記事を閉じたクリアファイルを鞄に仕舞いながら、ふと彼のことを考える。

「ヒッキー…」

 その言葉に一瞬我を忘れてドアの方を見る。ドアはしっかりと閉まっていて、誰かが入ってきた形跡も無かった。

「そう、よね。来る筈ないじゃない」

 彼は来ない。自分でそう言っていたのだから。

「あの、さ、ゆきのん」

 控えめな声で由比ヶ浜さんが話しかける時は、大抵真面目な話だ。だからそういう時は私も少し背筋を伸ばして由比ヶ浜さんに顔を向ける。

「ヒッキーはさ、ゆきのんが心配…なんだと思う」

 それは理解していた。彼がこの手の行動を取るときは決まって目的がある。けれど、私が心配だというのは解せない。

「だって、ゆきのんって、集中すると周りのことが見えなくなっちゃうし、それに…」

 そう。由比ヶ浜さんの目にはそう映っているのね。私は万事上手くこなしているつもりだったのだけれど。

「それに事件のことで頭に血が昇ってて、その感じがなんか危ういっていうか、危険っていうか」

 確かにあの時は周りが見えなくなっていた。犯人に向けた怒りを、そのまま彼にぶつけてしまったという後悔の念は抱いていたし。

「危ういと危険は、ほぼ同じ意味よ。由比ヶ浜さん」

 気を遣いながらもはっきりと注意をしてくれる友人に少しだけ意趣返しをして、その後はいつものように、来ない依頼人を待つ作業をしながら由比ヶ浜さんと下校時間まで過ごした。

 

 




お読みいただきありがとうございます。
第2話、いかがでしたか。
果たして犯人は雪ノ下雪乃の猫好きを知っていたのか。
たぶん偶然でしょう。

ではまた次回。


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3 彼と彼女の休日

比企谷八幡の休日は妹のモーニングコールから始まる。
雪ノ下雪乃の休日は魔王の雄叫びから始まる。

今回はちょいエロです。
一応、直接的な語句、表現はナシで書きました。
こんなの書いたもんだからR15にするはめに…

ではどうぞ。


 

3 彼と彼女の休日

 

5月31日 日曜日早朝。

 比企谷八幡の部屋。

 

『比企谷くん…』

 雪ノ下雪乃は潤んだ目で俺を見つめる。

 その白く透き通った肌は紅潮し、熱を帯びている。

『本当にいいのか、雪ノ下』

 互いの素肌が触れ合っているせいか、俺も雪ノ下も呼吸が荒い。顔を真っ赤にして両手を広げて、雪ノ下は俺をいざなう。

『ん、きて…』

 俺は雪ノ下に誘導されるまま分け入った。出来るだけ、やさしく、やさしく。

『…ん、んぐっ…はぁはぁ…』

 熱い。雪ノ下に包まれている箇所だけでなく、全身が熱を帯びているように。

 俺の胸の中には喜びが溢れ、透き通った雪ノ下の双眸には涙が溢れていた。

『んっ…んふ、んっく…ふぁ……あっ、あっ、あ。ん…』

 夢中で雪ノ下を愛する。雪ノ下はそのしなやかな肢体を時折反らせて、応えてくれる。

 そして、俺に限界が訪れた。

『…雪ノ下っ!』

 俺の全てを受け止めてくれたその白い肌は、朝日に照らされて紅潮していた。

『あ、あ、あ…はちま…ん…っ』

 

『…はち…まん…おにい…ちゃ…んっ!」

 

「おにいちゃん!」

 え?

 耳元に聞こえる妹の小町の叫び声で、俺は現実に引き戻された。

 そこは俺の部屋。勿論そこに雪ノ下がいる訳は無く、夢であったことを思い知らされる。しかし、ひとつだけ夢ではないことが起きていた。

「あれ…」

 やべえ、パンツの中がえらいことになってる。

 つーかなんで小町がいんの!?

「おにいちゃん、まーだ寝てるのかね。今日はいいお天気だよ。ささ、お洗濯するから脱いじゃって~」

 強引に布団を剥ぎ取りうとする妹。いつもならその遠慮の無さも可愛いから許すが今日は事情が事情である。

「わ、よせ、ばか…」

 下半身だけは見せてなるものかと、必死の抵抗。

 何故かって?勿論、妹の教育上良くないからに決まってる。

「ん~? なんでそんなに拒むのかなぁ?」

 小町はニヤニヤしながら、更に布団を強く引っ張る。この掛け布団だけはぜっったいに死守せねば。負けられない戦いがここにある。

「あ、あとで自分で洗濯機に入れとくからっ」

 ジトっとこちらに向ける小町の目がこわい。妹に恐怖を感じる兄って…不憫だ。

 

 だが、小町は。

「ふふーん…あっそ。じゃお願いね~」

 意外とあっさり退いてくれた。しかし、小町の不意打ちがカウンター気味に飛んできた。

「あ、そうそう。夢の中で、雪乃さんとナニしてたのかなぁ~?」

 夢を思い出して顔が真っ赤になる。ニヤリと嫌な笑いを浮かべる小町。

「ゆ、雪ノ下あぁ~なんて叫んじゃって」

 (夢の中で)昇天した時の雪ノ下の紅潮した顔がフラッシュバックされる。

「う、うっさいばか、あっちいっててよっ」

 何故か若干乙女な俺の必死かつ弱々しい抵抗に笑いながら小町は部屋を出た。

「…やれやれ。夢とはいえ雪ノ下とあんなことしたなんて、誰にも言えねぇな。しかも夢精まで…」

 その時俺は、ドアの外に小町の気配が残っていることに気づかなかった。

「ふむふむ。そうだねぇ。小町は聞いちゃったけどねぇ~♪」

 小町のニヤニヤは果てしなく加速していく。

「ね、夢の中の雪乃さん、どうだった? 優しかった? 気持ちよかった?」

 小町さん、そういう興味本位で実の兄のトラウマを増やしにかかるのはやめていただきたい。

「…そーいえばっ」

 急に人差し指を立てた小町の声色が変わる。

「小町最近チーズタルトにはまってるんだよねぇ~」

 わかってるよね、という目で俺を見下す、いや見下ろす小町。どうやら雪ノ下に内緒にする為の口止め料はチーズタルトに決定したらしい。

 やはりわが妹には勝てないな。あらゆる意味で。

 小町という超弩級小型台風が去った後、俺はベッドの縁にに座りなおす。

「…ふう、とりあえず起きなきゃな」

 今日の俺は、予定が一杯だった。もちろん殆ど単独行動だが。

 さて、まずはトイレだ。

 べ、別に変な意味じゃないんだからね。

 

 はあ、あんな面倒な依頼、受けるんじゃなかった。

 

    ☆     ☆     ☆     

5月31日 日曜日

 雪ノ下雪乃の部屋。

 

「ひゃっはろ~雪乃ちゃん」

 朝一番の着信は、休日の機嫌を左右するには充分効果的だった。

 電話の内容は、たいした用件ではなかった。比企谷くんと仲良くしているのかとか、比企谷くんとの仲は進展したのかとか、比企谷くんとのデートに良い場所を見つけたとか、何か変わったことはないかだとか、本当にどうでも良い内容だった。私はパジャマの襟を直しつつ適当に聞き流す。

 ただ、遊びに来たいという陽乃姉さんの申し出だけは断固拒否した。

「さて、と」

 眠気覚ましと、気分を変えるために紅茶を淹れる。今朝の茶葉はオレンジペコ。

 

 ティーカップを片手に自室のパソコンの電源を入れる。立ち上がるのを待ってデスクトップ画面に置かれたファイルを開く。

 ファイルの中身は、『アザレアの亡霊』についての新聞記事や報道の記録だ。

「何故この季節にアザレアの花なのかしら…」

 季節は梅雨間近。もうアザレアの季節は終わる頃だった。

 

 アザレア。

 別名、西洋ツツジ。4~5月頃に開花する。

 花は八重咲きで鉢植えなどで売られていて、有毒物質であるグラヤノトキシンとロードヤポニンを含む植物。

 

 私が植物のアザレアについて知っているのはこの程度だ。

「アザレアって、何かの比喩表現なのかしら。それとも何かのキーワードかしら」

 大体において、事件現場に同種の遺留品を残す犯人は、自己顕示欲が強いか、またはその遺留品そのものに強い思い入れやメッセージ性を持つ場合が多い。

 その観点から、アザレアを何かの比喩、もしくはメッセージに使用しているとしたら、何を喩え何を指しているのか。

「とにかく的を絞る必要があるわね」

 パソコンをネットに接続し、アザレアについて検索してみる。

「駄目だわ。もっと関連付けるキーワードが無いと的を絞ることさえ出来ないわ」

 事件のことを念頭に置きつつ、私は朝食の準備を始めた。

 

    ☆     ☆     ☆    

6月1日 月曜日

 放課後。奉仕部部室。

 今日もここに比企谷八幡の姿は無い。

「ヒッキー、どうしちゃったんだろう」

 由比ヶ浜結衣にいつもの太陽のような笑顔は無い。

「さあ。登校はしているのでしょう? だったらただのサボりよ」

 紅茶を入れながら受け答える雪ノ下。

「うん。でもなんか変なんだよ。話しかけても生返事だし、昼休みもいつもの場所にいないし。何より理由無しにサボったりしないじゃん」

「…そう。ね」

 由比ヶ浜の前にマグカップが差し出される。

「ありがと、ゆきのん」

 窓際の自分の席に戻り、雪ノ下も紅茶を口に運ぶ。

「熱っ」

「だ、大丈夫?」

「大丈夫よ。ごめんなさい。ちょっと考え事をしていたものだから」

 取り繕う雪ノ下を由比ヶ浜は見つめる。

「ゆきのんも…なんか変」

 さすが空気を読むのが特技というだけあって、由比ヶ浜の人間観察眼は鋭かった。

「ヒッキー、このまま来ないつもりなのかな…」

 由比ヶ浜は、先週の件をかなり気にしていた。

「さあ、あの男の考えることは解らないわね」

 依頼は無く、それから程なくして解散となった。

 

    ☆     ☆     ☆    

「遅いな…」

 その頃、俺、比企谷八幡は市内のとあるコーヒーショップにいた。

 

 




お読みいただきありがとうございます。
第3話、いかがだったでしょうか。
冒頭は、まさかの夢オチです。ベタですみません。

これに懲りずにまたご来訪ください。

ではまた次回。


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4 彼女は彼に依頼する

前回のエロい失態をカバーするが如く、八幡は由比ヶ浜結衣の依頼をうけます。
他にも面倒な依頼を抱えていそうな八幡。
大丈夫か!?

ではどうぞ。


 

4 彼女は彼に依頼する

 

6月3日 水曜日

 始業前の教室内の噂話によれば、昨日また新たな事件が発生したらしい。

 今回の事件は、今までのそれとは違った。県の公用車のブレーキに細工をされたらしいのだ。前輪のブレーキが効かなくなった公用車は、県のお偉いさんを乗せたまま県庁の壁に激突したらしい。

 幸い重症を負った人はいなかったが、一歩間違えば大惨事だった。

 しかし噂にしては詳しすぎるな、みんな。

「ねえヒッキー」

 教室の机に伏せる俺に呼びかける声。由比ヶ浜だ。目だけ向けて返事とする。

「昨日の事故もやっぱりアザレアの亡霊の仕業なのかな」

 由比ヶ浜も事件のことが気にかかるようだ。

「わからん」

 由比ヶ浜に俺は素っ気無く答える。事件のことなど気にしていないように。

「でもさ、噂だとシートの下にアザレアの花があったらしいよ、はちまん」

 いきなり天使、いや戸塚が話に入ってきた。いい匂い。ぜひ嫁に欲しい。

「えー、じゃあやっぱりアザレアの亡霊…」

「…模倣犯の可能性もあるだろうな」

 戸塚は、そうかぁと可愛い顔を上下に揺り動かして頷く。しかしアホの申し子、由比ヶ浜の見解は違った。

「いやいや、やっぱアザレアの亡霊だよ。ところでヒッキー、もほうはんって何?」

 言葉の意味も解らずに否定したのか、さすがはアホの申し子よ。

「いいか、『もほうはん』ってのはだな。戸塚のおしりにある青くて可愛いアザのことだ」

 呆気に取られる由比ヶ浜と戸塚。が、すぐに戸塚の顔が赤く染まった。

「それ…『蒙古斑』じゃないか。ボクにそんなのないよ~もう、はちまんのえっちっ」

 どこまでも、どこまでも可愛いな戸塚よ。ぜひ嫁に。

「由比ヶ浜さん、模倣犯っていうのはね」

 戸塚が顔を赤くしたまま由比ヶ浜に説明をする。もうこうなると模倣犯ってのはエロワードのひとつだな、俺的に。

 ひとしきり彩加先生の日本語講座が終わると、アホな子千葉市代表の由比ヶ浜が俺をちらりと窺う。

「あ、ヒッキーさ…今日も部活、こ、来ないの?」

 何故照れる。何故モジモジする。甚だしい勘違いをするぞ、俺は。

「ん?ああ、最近忙しくてな」

 その仕草に感情を動かされそうになったのを隠して、俺は素っ気無い素振りを貫く。

「じ、じゃあ、放課後付き合って」

 思わず体を起こして由比ヶ浜を見上げる。あ、頬を染めている顔の手前に大きな二つの膨らみが。きっとこの膨らみの中には、夢がぎっしり詰まっている。主に男の夢が。

「おまえは部活だろうが」

 大きな男の夢を胸に抱えた由比ヶ浜を再び見上げる。

「ううん。今日は休ませてもらうから」

 伏目がちなその表情は、何かしらの事情があることを物語る。

「…雪ノ下となんかあったか?」

 

 その日の放課後。

「おまたせー、ヒッキー」

 たゆんたゆんと、息を切らせて駆け寄ってくる由比ヶ浜。大丈夫なのか、クーパー靭帯とか人目とか。

「おい、あんまり走ると、揺れ…転ぶぞ」

 落ち着いて話せる場所を求めて場所を近くのコーヒーショップに移す。

「ふうっ、やっぱコーヒーは落ち着くね~ヒッキー」

 由比ヶ浜の手にあるのは抹茶クリームフラペチーノのクリーム多め、らしい。もうコーヒーの要素ゼロ。

 ちなみに俺はキャラメル何とか。由比ヶ浜が勝手に選んだから知らんが、甘くて旨い。

「…ゆきのん最近変なの。何か前よりムキになってるみたい」

 いきなり本題かよ。ま、話が早いのは助かるが。

「俺のせい、か」

 抹茶なんとかに刺さるストローをいじりながら俯く。

「わかんない…でもゆきのん、困ってるっぽいの。ゆきのんが困ってるなら、あたし助けたい」

 ああ、そうだった。

 こいつはそういう奴だ。自分が何が出来るかよりも、自分がしてあげたい気持ちで行動出来る奴だ。由比ヶ浜のこういうところは、嫌いではない。

「助けるっていったって、具体的にどうするつもりなんだよ」

 だから、敢えて由比ヶ浜に問う。

「ゆきのんは、どうしても犯人を捜すみたい。だから…」

 猫の事件が理由かは不明だが、雪ノ下が事件に執着しているらしいことは理解できた。

「それは平塚先生に止められてることだ。それでなくても刑事事件に関わるのはやめるべきだぞ」

「でも、でも…」

 由比ヶ浜は俯いていたが、何かに気づいたように俺の顔を見る。

「奉仕部、いや…ヒッキーへ依頼します。あたしを助けて」

 依頼、か。便利な言葉だ。由比ヶ浜のような美少女に真っ直ぐな眼差しで依頼されたら、断れる男は俺以外に知らない。まあ断らないが。

「方法は?」

 奉仕部の目的は、あくまで手助けだ。よって、依頼者本人の努力も必要不可欠になる。

「んー、直接ヒッキーがゆきのんの手助けをするとまた揉めたり、ゆきのんのプライドを傷つけるかも知れないから、あたしがゆきのんとヒッキーの橋渡し役になる、ってどう?」

 ちょっと待て。

 おまえの依頼はおまえ自身を助けて欲しいということじゃないのかよ。主旨ズレズレ。でも、こいつなりに悩んでいたのは手に取るように伝わる。足りない言葉はこちらで補ってやればいい。

「要するにだ。俺がおまえを介して雪ノ下に助言なり手助けなりすれば雪ノ下の役に立てるし、結果的におまえは助かるってことだな」

「う、うん。それそれ」

 こいつ優しいな。アホだけどいいヤツだ。雪ノ下に対しても俺に対してもちゃんと気を配ってくれている。もしかしたら今回の件で、或いは今までも、俺はこいつを苦しめていたのかも知れない。

「わかった、受けるよ」 

 贖罪の意味で答える。ただし、と忠告を添えて。

「…俺が危ないと判断したら、それ以上踏み込むなよ。雪ノ下も止めろよ、絶対」

 それまで沈んでいた由比ヶ浜の顔に、花が咲いたような笑みが浮かぶ。

「あ、ありがとヒッキー」

 おいおい抱きつくな。顔を寄せるな、腕に当たるこれはなんだ柔らかい。

 ふと、俺に抱きついているこいつに、少しいたずらをしたくなった。

「あ…ヒ、ヒッキー!?」

 抱きついている由比ヶ浜の背中に、そっと手を添えてやった。そしたら、もっとくっつきやがった。

それを偶然通りかかった小町がニヤニヤしながら見ていたのは、また別のお話。

 

 




お読みいただきありがとうございました。
第4話、いかがだったでしょうか。
前回の反省を踏まえて書いたら、こんな感じになりました。

ではまた次回。


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5 彼女の独白は彼と彼女には届かない

由比ヶ浜結衣の依頼で動く比企谷八幡。
そこで依頼を待ち続ける雪ノ下雪乃。
雪ノ下のために行動する由比ヶ浜結衣。

今回は、そんなお話。

ではどうぞ。



 

5 彼女の独白は彼と彼女には届かない

 

6月5日 金曜日

 彼がこの部室に姿を現さなくなって11日が経った。由比ヶ浜さんは相変わらず来てくれるのだけれど。そういえば一昨日は用事で休んでいたわ。

 通常時、私が奉仕部の部室に着いてから彼が来るまでおよそ15分。それから10分ほどで由比ヶ浜さんはやってくる。普段ならば。

 

 でも、今日も比企谷くんは部活に来なかった。

 

 ひとりで今まで集めたアザレアの亡霊に関する情報を整理する。由比ヶ浜さんはしきりにその情報を聞いてくる。そして私には無いふくよかな膨らみを押し付けてくる。

 そんな由比ヶ浜さんのスキンシップも、最初は暑苦しかったけれど今では心地良い。

 

 元々独りだった奉仕部。

 それが二人になり、三人になった。

 それは私にとって大きな変化だった。

 

 駄目だ。

 集中できない。

 思考が色々な方向に飛んでしまう。

 

 資料を置き、窓の外を眺めながら物思いに耽る。

 

 私は、頭が悪くなったのかも知れない。

 

 ぶっきらぼうで、一見すると世の中を疎んでいるようで、その実誰よりも状況を考える彼。

 変な呼び名を勝手につけて、ややスキンシップが過剰で、誰よりも気を遣う彼女。

 そして、彼の顔を見るといつも罵詈雑言を言ってしまう、素直ではない私。

 

 私の中での奉仕部は、いつからか三人の集合体として位置づけられていた。

 

 由比ヶ浜さんが居てくれなければ、或いは私は泣いていたのかも知れない。彼女は私にとって確実に、強固な支えになっていた。

 とはいえ由比ヶ浜さんもどこか寂しそうに見える。その原因は、彼が此処に居ないこと。

 

 私は別に良いのだけれども、由比ヶ浜さんのために少しは顔を見せて欲しい。

 

 そうやって、彼女の気持ちを利用してしまいそうになる自分。

 素直になれない、私。

 

 嫌い。

 

 彼は、いつも『みんな』が上手く収まるように行動していた。残念なのは、その『みんな』に彼自身が含まれていないこと。

 だから彼は、自分を犠牲にする方法を選択してしまう。そして助けられた人は彼を恨み、疎み、後に気がつく。

 

 あの時の自分は、彼の自己犠牲のおかげで助かったのだと。

 

 そんな彼が私は嫌い。

 

 彼自身を大事に出来ない、彼自身を軽んじる、彼自身を傷つける彼が嫌い。

 

 そんな彼を救えなかった私自身も、嫌い。

 

 今週も、彼がいないままの部活動が終わる。

 

    ☆     ☆     ☆    

6月7日 日曜日

 俺、比企谷八幡は由比ヶ浜と会う約束をしていた。

 それはいい。仕方の無いことだ。

 問題は、何故それを小町が知ってるかということ。そしてなぜ小町がデートプランを立てるのか。

「別にデートって訳じゃねえって」

 これは本当だ。今日の目的は、雪ノ下が調べた情報を由比ヶ浜から聞き、こちらが持っている情報を由比ヶ浜経由で雪ノ下に伝えてもらう、というものだ。

 

 小町に決められた店で、小町がコーディネートをした服装で由比ヶ浜と待ち合わせる。

 小町、ダメダメなおにいちゃんでごめんな。これからもよろしく、末永く。

 

「やっはろ~、ヒッキー」

 朝から元気だなおい。ま、元気なのはいいことだ。

 店内をきょろきょろと見渡しながら満面の笑みを咲かせているのだから、きっと小町チョイスは功を奏したのだろう。

「ヒッキー、よくこんなお店知ってたね」

 素直に小町の知恵を借りたとぶっちゃける。

「あはは…さすが小町ちゃん」

 小町よ、どうやらおまえの株は急上昇だ。俺の株はストップ安。

「で、雪ノ下はどこまで調べたんだ」

 早速本題に入る。

 由比ヶ浜の話をまとめると…

 ・事件は毎週火曜日に起きている。

 ・犯行現場には必ずアザレアの花が残されている。

 ・犯行現場は、公園、総武高校などの公共施設である。

 ・犯行は少しずつエスカレートしている。

など、俺が調べたのと大して変わらない内容だっだ。

 

「で、ここで行き詰っている訳だな」

 現状確認を終えた俺は、持参した地図を広げる。

「この印が犯行現場の場所だ」

 由比ヶ浜が地図に顔を近づける。おい近いぞ。俺の顔も地図の上空にあることを忘れるな。でないと俺が我を忘れそうになる。

「なんで印が2箇所に集中してるのかな」

 俺が煩悩と互角の戦いを繰り広げている間に、由比ヶ浜は地図から情報を読み取ろうとしていた。そうだ。犯行現場の分布を見ると、県庁付近と総武高校付近に大別できる。そしてそこから導き出される『仮定』は。

「そーいえば、ゆきのんのお父さんって県会議員さんだよね」

 的確だ。こいつ、勉強は出来ないしアホだが頭は良いんだな。

「よく気がついたな。県庁と総武高校。その二つが関連するのは、俺たちが知り得る限り…」

「ゆきのん!」

 言い方はアホっぽいがほぼ正解だ。

「うん。正確には雪ノ下家だな。しかし、これで雪ノ下が躍起になっている理由が少し解ったな」

「自分の家が関わってるかも知れない事件だもんね」

 腕を組み、うんうんと頷く由比ヶ浜。揺れる前髪がちょっと可愛い。

「それでだ」

「今回おまえの依頼を受けたときのこと、覚えてるか?」

 何故モジモジする必要があるの由比ヶ浜さん。

「え、えーと、ヒッキーがあたしの背中を…抱いてくれたこと?」

 あー、そりゃモジモジするよねー、何だか俺まで赤くなっちゃう。

「そうじゃないって。俺が言ったことだ」

「んー、あ。危ないと判断したら手を引くってこと?」

 ちょっとした寄り道がありましたがやっと正解がでた。

「ああ、本来ならもうとっくにストップをかけたいところだ。が…」

「…もし本当に雪ノ下の家が事件に関係しているのなら、早急に解決する必要が出てくる」

「しかしそれは、おまえや雪ノ下を危険に曝すことになりかねない」

「だから、協力者を求めることにした」

 

「由比ヶ浜、葉山に連絡を取ってくれ」

 

「あ、もしもし、うん……」

 しかし葉山に協力を求めることになるとは。でもこれしかない。俺の数少なくて薄い人脈の中では適任者は葉山しか居ないのだから。

「葉山くん、すぐ来るって」

「そうか、悪いな」

「い、いいよ、そんなの。本当はもうちょっと二人で居たかったけど」

 馬鹿、そんなこと言われたら、女子に耐性が無いヤツなら惚れてるぞ。俺の場合は耐性は無いが、まず度胸が無いから安心。

 程なくして、葉山が現れた。

 テーブルを挟んで正面に葉山、横に由比ヶ浜。

「おい、なぜ俺の横に移動したんだ」

「べ、別に意味なんてないし」

 それを見て微笑ましそうに笑うな葉山。こっち見んなリア充め。

「葉山、悪いな。おまえの力を借りたい」

 俺は、葉山に状況の説明を始める。

 

 




お読みいただきありがとうございます。
第5話、いかがでしたか?

最近つくづく自分の文才の無さ、ボキャブラリーの貧困さを感じています。
もっと磨かなければ。もっと詰め込まなければ。

ではまた次回。


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6 彼は思考の中を彷徨う

操作ミスで一旦削除、再度アップです。

比企谷八幡は、モテてるのか女難の相なのか。

では、どうぞ。


 

6 彼は思考の中を彷徨う

 

6月7日 日曜日 夜

 

 用事を済ませて帰宅した俺、比企谷八幡は部屋でごろごろしながら頭の中を整理する。

 事件の資料、発生場所、陽乃さんから得た情報をパズルの様に当て嵌めていくと、アザレアの亡霊の標的は十中八九雪ノ下家だ。

 何せ事件の発生した日は、必ず近くに雪ノ下家の人間がいるのだから。

 だが、誰が何のために、となると全く見当がつかない。

 まず動機。

 雪ノ下のお父さんは県会議員であり、建設会社を営んでいる。俺が調べた限りでは悪い噂は無い。だが地位のある人物、財を持つ家は、有名税とでもいえばいいのか、負の感情の標的になりやすい。実際逆恨みなどは吐いて捨てるほどされているだろう。

 逆恨みでも恨みは恨み。

 理不尽ではあるが、動機には充分な感情だ。

「おにいちゃーん、お風呂あいたよー」

 だが、誰がどんな理由で、となると思考は頓挫する。

 陽乃さんの話ではここ最近はそういったトラブルや目立った出来事は無いそうで、恨みを買う理由の見当すらつかないそうだ。

 だとすれば、妬み、嫉妬か。

 それこそ山のようにあるだろう。

「おにいちゃーん、お風呂ー」

 総武高校に置かれた猫の死骸。

 あれは異質だった。

 それまでのアザレアの亡霊はただ物を壊すだけ。単なる憂さ晴らしのような子供染みた行動だ。しかしあの件を境に、明らかに他者の命を傷つけようとする意図が見える。ということは犯人に何らかの心境の変化があった、というか腹を括ったように思える。

 それは、警告のようにも見える。

「…おにいちゃーん」

 困った。警戒しようにも的が絞れない。

 

 机の上のスマホが振動する。

『ひゃっはろ~』

 この挨拶を、この二週間で何度聞いたことだろう。

『どうどう? 依頼のほうは順調かな~?』

「正直、手詰まりです。やはり警察に任せるべきでは…」

『ん~、市会議員選挙も近いから、あんまり警察の手は借りたくないなぁ』

 風評被害を防ぎたい、ということか。警察が絡むと「いかにも悪いことしてますよ」的に見られることもあるだろうが、そんな体裁を気にして何かあってからでは遅い。

「…とりあえず葉山にも協力を要請して、一日交代で周囲を夜回りしてますよ。ただ、事件のほうは、何と言うか…不明な点が多いんですよ」

 そう。不明な点。

 何故、火曜日なのか。

 何故、アザレアなのか。

 何故、雪ノ下家なのか。

『そうか~比企谷君でも謎は解けないのね』

 この人、俺をコナンくんか誰かと勘違いしてるのだろうか。アポトキシン4869とか飲まされるのだろうか。シスコンではあるがロリコンではないので、幼児化はご勘弁願いたい。

「…俺はただの高校生なんで」 

 そうだ。俺は別にじっちゃんの名にかけてる訳じゃない。だって俺はコナン派だから。

『でもでも、雪乃ちゃんを救うのはやっぱり比企谷君じゃないと』

 陽乃さん、なんか楽しんじゃってますよね。声が弾んでるし。

「まあ、やれることはやりますよ。雪ノ下さんが満足するか否かは別として。それと、何か解ったらすぐ教えてください。どんなことでもいいんで」

『じゃあ、ひとつだけ』

 この電話は、それを伝えるのが目的か。

『雪乃ちゃん…』

 固唾を呑む。

『案外下着は可愛いのよ』

「…は?」

『あ、あら…こういう情報は要らなかった?』

「…そうですね。出来れば事件についてでお願いします」

『でも雪乃ちゃんの下着の情報も、比企谷君にとっては重要じゃないのかな。色は青系やピンク系が多いとか』

 そういえば、俺が偶然、あくまで偶然に雪ノ下の下着姿を見てしまったときも…

『なになに、想像しちゃった? それともすでに見たことがあって、それを思い出してるのかな~』

「な、な、な…別にそんなこと思い出してないですよ~」

『ふーん、見たことはあるのね。ま、いいや。とにかく』

 非常に深い墓穴を掘らされた感は否めないが、言い訳する前に陽乃さんのトーンが変わったので反論せずに続きを聞く。

『雪乃ちゃん、私や家の関係者が周りをうろつくのをすっごく嫌がるから、引き続きお願いね』

「わかりました。けどそれって、自業自得じゃないんですか」

『あ、あはは。ま、とにかく何かあったら知らせてね』

 用件は以上のようだ。一言お礼を述べて通話を終えようとした時。

『あ、そうそう。私の誕生日、七夕だからよろしくね。じゃあね~』

 なんだ最後のいらない情報…

 魔王からの電話をようやく終え、再び思考の海へと落ちる。

「…可愛いというか、清楚な感じ、だったよな」

 思考の海には、雪ノ下のあられもない姿が浮かんでいた。

「おにいちゃんっ! いいかげん早くお風呂入ってよっ」

 その妄想をかき消して小さな魔王がドアから襲来し、俺は風呂場に逃げた。

 

 




お読みいただきありがとうございます。
第6話、いかがでしたか。

作中で事件を起こすのは容易でも、解決させるのは難しい。
それを思い知りました。

ではまた次回。


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7 彼女と雨に濡れた花

久しぶりに奉仕部に顔を出した比企谷八幡。
この日彼は、重大な間違いを犯す。

今回はシリアス。

では、どうぞ。


7 彼女と雨に濡れた花

 

6月9日 火曜日

 この日は、俺、比企谷八幡にとって忘れられない日になった。

 

 一昨日の日曜日、俺は由比ヶ浜に雪ノ下をなるべく一人にするなと言っておいた。その言葉を素直に聞き入れた由比ヶ浜は、何かと理由をつけて昨日から放課後は雪ノ下と一緒に下校するようにしていた。

 そして日没後、事件は起きた。

 

 

    ☆     ☆     ☆    

 

6月9日 火曜日 放課後

 私、雪ノ下雪乃はいつものように特別棟の奉仕部の部室にいた。

 いつもの長机の、窓際の席。

 荷物を机の横にかけると、自分の分の紅茶を淹れ、事件の資料を読み返す。

「どう考えても、犯人の狙いは…」

 そこに、彼はやってきた。

「うす」

 二週間ぶりの素っ気無い挨拶。いつもの、声。

「あら久しぶり。あんまり顔を見せないものだからてっきり死んだものと思っていたわ」

 また言ってしまう。憎まれ口なんか言うつもりは無いのに。

 なぜ素直に「元気だった?」とは言えないのかしら私は。

「勝手に殺すんじゃねえよ。俺には専業主夫になる夢があるんだ。夢を叶えるまでは死ねん」

 でも彼は私のそれにちゃんと返してくれる。それが堪らなく嬉しかったりする。

「それを堂々と夢として語ってしまうところが凄いわね。呆れるわ」

 

 会話を交わしてくれたことへの感謝と、ほめ言葉のつもり。

 

 久しぶりの会話。

 少しだけ心が躍る。

 

 いつもの儀礼的なやり取りが終わり、彼に紅茶を淹れる。

 紅茶には相応しくない、男性用の湯呑み茶碗。

 

 いつものように、二週間前のように交わす言葉は心地よく、話したいこと、聞いて欲しいことが次から次へと溢れてくる。

 そんな会話が一段落すると彼は、彼の指定席に腰を下ろして、持参した文庫本を開く。その様子を確認して安堵し、私は再び手元の資料に目を落とす。

 

 そして「二人」の時間は「三人」の時間へと移っていく。

 

「やっはろー、ゆきのん…あ、ヒッキーだ」

 彼が居ない間の支えになってくれていた由比ヶ浜さんがやってくる。

「おう」

 相変わらずのぶっきら棒さん。

「ほらほらゆきのん、久々のヒッキーだよ~」

 私の隣へ来て、少々過剰なスキンシップをしてくる彼女。彼がいるのがそんなに嬉しいのか、いつもよりテンションが高い。

 しかし、久しぶりの三人の時間はそこで終わりを告げてしまった。

「悪い、久々に来といてすまないが、俺今日用事あるから帰る」

「え…」

 思わず立ち上がりそうになるのを堪える。

「えー、なんでー、もう帰っちゃうの~?」

 時々、素直にそう言える彼女が羨ましくなる。

「ああ、悪いな」

 彼は、本当に帰ってしまった。

 

 そして、今日も依頼は無いまま下校時刻がやってくる。

 

「今日はこの辺で終わりましょう。依頼も無いようだし」

「じゃあさ、今日も勉強教えて~」

 彼女に甘えられるのは嫌いではない。むしろ。

「では、今日も家でいいかしら?」

「ありがと~、ゆきのんっ」

 でも暑苦しいわ由比ヶ浜さん。

 

    ☆     ☆     ☆    

 

 放課後、早々に部室を退散して校舎外へ出たところに三浦優美子がいた。三浦は苛立ちを顕に俺に詰め寄ってきた。

「ヒキオさー、最近隼人とよくしゃべってるよね。何かあんの?」

「なんだ、そんなことを言う為に待ち伏せしたのか」

「はぁ?」

 三浦の表情は怒りから、寂しげな面持ちに変わっていた。

「男同士だからいろいろあんのかもしんないけどさ…」

 三浦の話を聞きながらスマホの時計をちらっと見る。

「悪いな。もう少しだけ葉山を貸してくれ」

 まずい、もうこんな時間だ。

「あ、もしもし、比企谷です。経過報告と、ちょっとお聞きしたいことが…」 

 

    ☆     ☆     ☆    

 

6月9日 火曜日 夜

 

 由比ヶ浜さんと一緒に帰宅した私、雪ノ下雪乃は苦戦していた。

 由比ヶ浜さんに勉強を教え始めて数時間。私の教え方の所為なのか由比ヶ浜さんの理解力の所為なのか、あまり捗ってはいない。

 時間は夜9時を回っていた。

「で、ここに先程の式を代入して…そうそう、あ、そうではなくて」

 人に教えるという行為は、私自身の復習にもなる。にしても同じことを反復しすぎだわ。

 

「…ふう、疲れたぁ。やっぱ関数は苦手だ~」

 伸びをしながら由比ヶ浜が零す。

「あら、苦手なのは関数だけ?」

 私の軽口を聞いて、ぷぅと膨れる顔を見ていると、自分の表情がほころんでいるのが自身でもわかる。

 

 由比ヶ浜さんは不思議な人。

 今までの誰とも違う、一緒にいるだけで何だか愉快な気持ちになれる人。

 心落ち着ける、陽だまりのような人。

 

「もーひどいよ~ゆきのん」

 正直、同性の相手にここまで気を許せるとは、過去の自分は想像すらしていなかった。

「さあ、今日はもう遅いわ。またにしましょう。」

 夜10時を回ったところで、二人だけの勉強会はお開きにすることにした。

 マンションの外まで彼女を送る。外は雨が降り始めていた。

 彼女が角を曲がったのを見届けた後、振り返って歩き出し、歩を止める。不意に甘いものが欲しくなった。

 

 そのまま近所の、徒歩で2分ほどのコンビニエンスストアに向かう。

 色々と物色していると、思わずある飲料に目が留まった。

 

 濃い黄色というべきか薄い茶色というべきか、その缶に視線は釘付けになる。

 MAXコーヒー。

 彼が好んで飲んでいた飲み物。それを一本手に取り、レジに向かう。コンビニの帰り道、MAXコーヒーを口に運ぶ。缶を傾けるたびに強い練乳の甘みが広がる。

 胸が締めつけられる強烈な甘さ。その間隙を縫って弱く主張する仄かな苦味。

 

 雨脚が強くなる中、甘い口のまま私は家路を急ぐ。

 

 最後の曲がり角を曲がる瞬間。

 

 背後から私は強く押され、地面に這わされた。

 

 倒れた私を見下ろすのは、覆面の顔。

 

 すぐに立ち上がり逃げようとする。が、遅かった。

 

 覆面の人物の蹴りは、身体を起こそうとした私の二の腕にめり込んだ。

 

 それでも這いずってでも逃げようとすると、

 

 私は、覆面の人物に後ろから殴られた。

 

「…ノ下!」

 

 誰かが呼んでいるような声と、水溜りに落ちた赤いアザレアの花。

 

 そこで私の意識は途絶えた。

 

    ☆     ☆     ☆    

 

 




お読みいただきありがとうございます
第7話、いかがだったでしょうか。
最初はただの器物損壊だった事件は次第に大きくなってしまいました。
果たして雪ノ下雪乃は。

ではまた次回。


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8 彼女と彼の後悔は深淵より深く

直前まで一緒だったのに彼女を助けられなかった由比ヶ浜結衣。
すぐ近くにいたのに彼女を救えなかった比企谷八幡。
二人に救われなかった雪ノ下雪乃。
三人は何を思う。

では、どうぞ。



8 彼女と彼の後悔は深淵より深く

 

6月10日 水曜日

 朝方までの事情聴取で疲れた俺は、平塚先生に理由を伝えて高校を休ませてもらった。

 ベッドに横たわったものの結局眠れないまま呆けて過ごし、スマホを確認する。

 同じ名前で複数の着信。由比ヶ浜からだった。

 夕方、病院にいる由比ヶ浜に電話をかけ直す。由比ヶ浜は責任を感じて、付きっ切りで病室にいるらしい。

「ヒッキー…」

 元気が無い。友人が自分と別れて数分後に襲われたのだから無理は無いが。

「雪ノ下の様子、どうだった?」

「大丈夫みたい。殴られた頭と腕も傷は残らないって。今は検査入院で、あと3日もしたら退院できるって」

 そうか、とだけ返す。

「…ヒッキー、会いたいよ」

 消え入りそうな由比ヶ浜の声。こいつも心に大きなダメージを抱えてるんだな。

「わかった。会おう」

 

 雪ノ下が居る病院の近くのファミレス。俺が着いた時には、すでに由比ヶ浜は着席してメニューを広げていた。

「あ、ヒッキー、こっちこっち」

 向かい合わせの席に腰を下ろす。

「昨日は…大変だったね」

「ん、ああ。一応俺が第一発見者で通報者だったからな。注文、決まってるのか?」

「んー、まだー」

 顔を隠すように、メニューを見る。

「そっか。俺は決まってるぞ」

「えー。来たばっかでメニューも見てないのに?」

「そ、俺はドリンクバー」

 由比ヶ浜はメニューをぱたんと置き、少し不貞腐れる。

「ぶぅ。じゃ、あたしもヒッキーとおんなじにする~」

 頬を膨らます由比ヶ浜に、思わず吹き出しそうになる。

「真似すんなよ。」

「真似じゃないもん。リスペクトだもん」

 お、英単語だ、由比ヶ浜の口から英単語が出たぞ。

「なんだ、覚えたての単語か?」

 すでに、からかうモードに入っている俺。

「…前から知ってるもん」

 さらにほっぺたを膨らます。

「意味は?」

 渋い顔で考える美少女(アホ)、由比ヶ浜結衣。

「んー、ま、真似?」

 上目遣いで正誤を伺う。

「はずれ。『尊敬する【動詞】』だよ」

 つーか、よくそれで入試突破できたな。奇跡って意外とすぐ身近にあるんですね。

「じゃあ…それ無しね」

 は?

「だってー、ヒッキーなんか尊敬してないもーん」

 なんだよそれ。確かに尊敬に値する人間ではないのは事実だが。

「尊敬なんか…してないもん」

 笑わせるつもりで吐いた軽口だったが、逆に泣かせてしまう。

「ヒッキーのばかーっ!」

 店内に響き渡った、俺バカ宣言。当然の如く周囲の視線を集めてしまう。その視線の先には泣きじゃくる美少女と…どう見ても釣り合わない目が腐った男。どう見ても痴話喧嘩の末に俺が泣かせている状況だ。

「と、とにかく落ち着け。な?」

 ポケットの中で少し皺になったハンカチを渡す。

「ありがと」

 ハンカチを口元に当てて少し落ち着いた由比ヶ浜に尋ねる。

「で、一体どうした」

 周囲からヒソヒソと声が聞こえる。チラチラと視線を感じる。店員が三人でこっちを見てる。

「なんでもない。ヒッキーの顔が見たかっただけ」

 この腐った顔なんか見ても特に御利益はないぞ。むしろ災厄を招きそうな勢いだ。

「ごめんね、ヒッキーの顔見たら、なんか安心しちゃった」

 やばい。ドキドキガトマラナイ。

「…これ飲んだら、外出るか」

 

 由比ヶ浜を連れて近くの公園へ移動する。

 途中の自販機で飲み物を買って、ベンチに並んで座る。

「ありがと」

 ロイヤルミルクティーを受け取った由比ヶ浜の反対の手には、俺のハンカチがしっかりと握りしめられていた。

「あたしね…」

 いつもとは別人のような細い声で、由比ヶ浜はゆっくりと語りだす。

「あたし、すごく後悔してる。もしあの時、ゆきのんの見送りを断っていれば…」

「ばか、それは俺も同じだ。いや、むしろ俺のほうが情けない」

 由比ヶ浜は小首を傾げてこちらを見る。

「あの日、俺はガードのつもりであそこにいたんだ。火曜日だったからな」

「あ、そういえば、ヒッキーと葉山くんが交代でゆきのんの身辺警護をしてたんだよね」

「そんなたいしたもんじゃないが、まあそうだ。で…」

 俺は、あの時の状況説明を始めた。

 由比ヶ浜と雪ノ下がマンションから出てきて、由比ヶ浜を見送った雪ノ下がマンションへ足を向けたとき、俺は油断した。気がつくと雪ノ下はマンションへは戻らずに、別の方向に歩いて行ったんだ。追いつこうとしたが見失ってしまい、ようやく遠くに見つけたときには…もう遅かった。

「おまえはさ、自分が出来ることをちゃんとやってたよ。出来なかったのは、俺だ」

 こちらを見つめる由比ヶ浜の大きな瞳から、無数の涙が雫となって零れ落ちる。

「ヒッキー…怒ってよ。あたしを怒ってよ…やさしくなんか、しないでよ…」

「怒れない。おまえは…ちゃんと雪ノ下の為に頑張ったんだから」

 俺の肩に顔を乗せて、由比ヶ浜は泣いた。

 友を救えなかった悲しみを、悔しさを、切なさを、全てを吐露するように。

「大丈夫、大丈夫」

 そのときの俺は、ひとつの言葉を繰り返すだけの、正しく能無しだった。

 

 




お読みいただいてありがとうございます
第8話、どうでしたか?
まだしばらくシリアスな話が続きます。


では、また次回。


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9 彼と彼女は彼女を庇保する

三人で過ごす時間。
しかしそれは、普段とは何もかもが違う。


では、どうぞ。




9 彼と彼女は彼女を庇保する

 

6月10日 水曜日 夜①

○○大学付属総合病院

 

 俺と由比ヶ浜が立っている病室の入口の名札はひとつしかない。正確には、一枚しか名札を入れる場所が無かった。

 案内してくれた看護師さんにお礼を言い、ドアをノックする。

「…どうぞ」

 室内は普通の個室にしては広い。四人部屋くらいの広さはありそうだ。

 内装も病室らしくなく、ちょっとしたホテルのような色調。特別室ってやつか。

「やっはろー、ゆきのん」

 さすが由比ヶ浜。カラ元気も元気、っていうらしいからな。

「すげー部屋だな。これ本当に病院かよ。ホテル並みじゃねえか。さすが御令嬢、だな」

 雪ノ下がこちらを見る。お互い少しだけ表情が緩む。

「あら、あなたまで来たの?ひき、ひき…」

 やはり普段と同じような会話、という訳にはいかない。もはや普段ではないのだ。

「あー、無理して悪態つかなくていいぞ、お嬢さま」

「ゆきのん、具合はどう?」

 雪ノ下は少しだけ笑う。

「おかげ様で、もう痛みも無いわ。ありがとう」

 やっと安心できたのか、由比ヶ浜も向日葵のような笑顔を浮かべる。

 

 俺たちは、豪華な病室でしばし談笑した。

 由比ヶ浜は今日学校であった出来事や自分の失敗談を話し、雪ノ下はその言葉の端々の揚げ足をとっていた。

 俺はというと、三人分の紅茶を淹れた後、二人の会話を聞きながら読みかけの本を読んでいた。

「でさー…って、ヒッキー!?」

 俺が顔を上げると、目の前に由比ヶ浜のたわわな胸、いや顔があった。

「なんでお見舞いに来てまで本なんか読んでるのっ」

 さすがに注意された。

「仕方ないわ。最近ようやく字が読めるようになったので読書が楽しいのでしょう」

「…うるせぇ」

 本をパタンと閉じて雪ノ下の顔を見る。

 笑顔だった。しかし力が無い。普段のような凛とした空気が感じられない。

「…雪ノ下」

「何かしら?」

「その、無理はすんなよ」

 手持ち無沙汰で持った見舞い品の林檎で手遊びしながら、雪ノ下の目を見る。

「はあ…あなたはどうして。解ったわ。久しぶりにお説教してあげるわ。由比ヶ浜さん、10分ほど席を外してくれないかしら。この男の腐った目を叩き直してあげるから」

 額に手を当てて溜息交じりの雪ノ下。言葉だけ聞けば、仕草だけ見れば、いつもの雪ノ下だ。だが…

 由比ヶ浜に耳打ちする。

「…どうやら俺に話があるようだ」

 うん、と頷いた由比ヶ浜は席を立つ。

「本当に申し訳ないけれど由比ヶ浜さん、少しだけ…10分だけ」

「…うん。わかった。ヒッキー、ゆきのんのことお願いね」

「おう。あ、ついでに売店のとこの自販機でマッカン買って来てくれ、三本な」

「りょーかいっ」

 由比ヶ浜はウインクを残して病室を出て行った。 

 

「さて、雪ノ下…!?」

 由比ヶ浜が去るのを見届けて向き直すと、先程までの笑顔はもうそこには無かった。そこにあるのは怯えた目で涙を浮かべる、か弱い少女の姿だった。

「雪ノ下…おまえ」

 あまりの変化に、俺は動揺する。

「…少しの間、横に来て」

「ああ」

 ベッドの上、促されるまま雪ノ下の横に座る。

「しばらくそのままで…」

 ぽすん、と胸元に雪ノ下の頭が当てられる。俺は預けられた頭を、昔小さかった小町にしたように出来るだけ優しく撫でる。

 程なくして、胸元から嗚咽が聞こえ始めた。

 いつしかその声は号泣に変わり、その隙間を縫うように同じ言葉が繰り返された。

「…怖かった、怖かった、怖かった…怖かった……」

 繰り返されるその叫びはいつしか言葉ではなくなり、只々叫ぶのみへと変わっていく。この少女は、襲われたときからずっと恐怖と戦っていたのだ。誰にも打ち明けずに。たった独りで。

 堰を切ったようなその号泣は時計の長針が半周してもなお止まることは無く、その間俺は雪ノ下の背中を擦り、抱き締め、謝ることしか出来なかった。

「ごめん、本当にごめん」

 悲痛な声。自然と抱き締める腕に力が入る。

「…ごわ…がった…の…」

 まるで年端の行かない子供がするように泣きじゃくって、俺の服を掴む。

 俺は、力の限り、その華奢な身体が軋む程に雪ノ下の胴体を抱き締め続けた。

 少しでもその脳裏から、心から、恐怖を、不安を取り去るために、出来る限り強く。

 

    ☆     ☆     ☆    

 

 病室の外。

 雪ノ下の号泣が響く廊下に、由比ヶ浜は立っていた。腕の中に既にぬるくなったMAXコーヒーを三本抱えたまま、ドアの横に寄りかかっていた。

 個室の中から途切れ途切れに聞こえてくる『こわかった』という叫び。その叫びを、嗚咽を聞くたびに胸が引き裂かれそうな苦しみに襲われた。

 

「…ごめん、なさい…泣き止むまで…待って、いただけません…か?」

 

 検温に来た看護師に懇願する由比ヶ浜の瞳からも、とめどなく涙が流れ落ちていた。

 

    ☆     ☆     ☆    

 

 

 




お読みいただきありがとうございます
第9話、いかがだったでしょうか。

傷は癒えても、心はなかなか癒えないもの。

では、また次回。


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10 彼は静かに決意する

シリアスになりすぎて前書きが書けません。

なのでこのままで。

どうぞ。


10 彼は静かに決意する

 

 病室の中には、もう泣き声も叫び声も聞こえない。かわりに耳をくすぐるのは、多少荒さを残した雪ノ下の呼吸音と衣擦れの音だけであった。

 泣き疲れたのか叫び疲れたのか、それとも多少は安堵できたのか。

 俺の胸元に顔を擦り付け始めてから小一時間ほど経つが、強張っていた雪ノ下の身体からは力は抜けて、その身体ごとを俺に預けている。

 今や名残は、雪ノ下の背中から俺の掌へと伝わる熱と汗の湿り気だけだった。

 それでも俺はこの頼りない腕の中に雪ノ下を包みながら謝り続けることしか出来ない。

 もっとちゃんとガードするべきだった。そうしなかったから、守ってやれなかった。と。

「ごめんな、ごめんな…」

 雪ノ下の呼吸はもうだいぶ浅くなっていて、すると今度はしきりに首を振り出した。

「…いいえ、比企谷くんは悪くないわ。私を助けてくれたのだし」

 俺は抱き締める手を緩めて、長い髪に手櫛を通して流れに沿って梳かす。

「…あの時」

 心に傷を負った出来事。気丈な雪ノ下を此処まで弱らせ号泣せしめた出来事。

「そのことは云うな。な?」

 今回の事件は雪ノ下の中で深い傷になっていることは容易に推し量れる。それを口にさせたくなかった。口にすれば記憶が蘇る。

 それでも雪ノ下は、言葉を絞るように吐き出した。

「頭が…ぐるぐる回って、気が遠くなっていく時に…比企谷くんの声が聞こえたわ」

 頭の傷に触らないように、黒髪を撫でる。雪ノ下の溶けていくのが感触として実感出来る。

「…嬉しかった。来てくれて嬉しかったの。でも」

 そこまで搾り出して、再び雪ノ下の肩が小刻みに震え出す。

「意識が混濁してきて、このまま死んでしまうのかと思った」

「…」

 殴られた時、こいつはこいつなりに覚悟を決めようとしたのだろう。それが例え理不尽な、理由の解らない暴力によるものだとしても。

「死んだら、もう比企谷くんに会えなくなるのが…すごく怖かった」

 俺の服を握る弱々しい手から流れ込む悲壮な感情。

「ばかやろ」

 死を覚悟したときに俺を意識するなんて、とんでもないことだぞ。そんなことを口にするなんてそれはもう、アレと同義なんだぞ。

「馬鹿って…云ったわね」

 俺の服の背中を掴む手が緩んで雪ノ下がこちらを上目で睨む。が、俺の顔を見た瞬間、また顔を伏せてしまった。

「ずるいわ」

 今胸の中にいるのは、雪ノ下らしさとは程遠い雪ノ下雪乃。他者に厳しく、自分をも同様に律するのが「雪ノ下らしさ」なら、今俺の腕に抱かれている少女は誰なのだろう。

 この俺に、守り通せなかった俺に、まるで全幅の信頼を寄せているかのように身を預け、心の内を晒そうとする。

 これがあの雪ノ下雪乃なら、だとしたら俺は。

「あなた、そんな顔もするのね」

 俺はこの少女を。

「すごく、優しい…顔」

 雪ノ下は俺の胸に頬を擦るように深く埋めようとする。その可愛らしい仕草を見て俺は思考を止める。俺のことはどうでもいい。今はこいつを。

 儚くて、か細くて、ガラスの糸の様に脆い少女を。

 守る。

「くふぅ」

 なんだ今の。

 こいつ、こんな甘える子供みたいな仕草もするのな。

 意識して照れくさくなって、雪ノ下の背中を支えてベッドに寝かせる。このままこいつの体温を感じていたら離れられなくなりそうで。

 雪ノ下の頭を枕に乗せて、俺はベッドの横の椅子に移った。

「少し寝ろよ。疲れただろう」

 布団を掛けなおして休息と睡眠を促すと、布団の端から白く細い手が伸びて来た。無言のまま俺は雪ノ下の手を両手で包む。

 少し経つと、雪ノ下の目がまどろんできた。

「馬鹿っていったこと…」

 今にも眠りに落ちそうな声。

「退院し…たら、覚えておく…のね……」

 それきり雪ノ下は何も話さなくなり、少しすると寝息が聞こえ始めた。

 

 病室のドアが静かに開き、由比ヶ浜が戻ってきた。

「ヒッキー…ゆきのん、は?」

 雪ノ下の手を握る俺を見て、何故かムスッとしたが『しー』と言うと察してくれた。

「今…寝たところだ。由比ヶ浜、代わってくれ」

 由比ヶ浜に俺の場所を譲り、今度は由比ヶ浜が眠っている雪ノ下の手を握っている。雪ノ下を由比ヶ浜に任せた俺は、独り離れて椅子に腰掛けていた。

 

 倒れている雪ノ下を発見した時、その側にあったのは女性物の傘と、なぜかMAXコーヒーの缶。

 そして、一連の事件を象徴する赤いアザレアの花。

「…なぜMAXコーヒーがあの場所にあったんだろう」

 その思考は、雪ノ下の寝返りの音で消し飛んでしまう。

「ひきが、く…ゆいが…さ…」

 顔を見合わせる由比ヶ浜と俺。同時にぷっと噴いてしまう。

「…ヒッキー、聞いた?ゆきのんたら寝言であたし達の名前を呼んでるよ。子供みたい」

 由比ヶ浜がこちらに向ける満面の笑みには、再び涙が溢れていた。

「…ああ、おかしなヤツだな。まったく」

 そう応える俺も、涙を止められずにいた。

 

 面会時間をとうに過ぎた頃、俺たちは病室を後にした。由比ヶ浜は名残惜しそうにちらちらと後ろを振り返っていたが、頭をぽんぽんと撫でてやると、落ち着いた笑顔を向けてくれた。

 そして俺は、決意する。

 

 




お読みいただきありがとうございます。
第10話、いかがでしたか?
実はこの作品は、いろんな場面を練習として書くための物語なのですが、
書いていて辛くなります。
特に、由比ヶ浜結衣が可哀想で。

ではまた、次回


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11 彼らの平生は続かない

部長が復帰した奉仕部。
そこにはいつもの見慣れた光景が帰ってきた。
その光景を守るために彼は。

では、どうぞ。




11 彼らの平生は続かない

 

6月16日 火曜日

 

 退院した雪ノ下が学校に復帰した。

 校門に横付けされた黒いリムジンから降りてくる普段と変わらない姿。凛とした佇まい。周囲を威圧するかの如き冷気も、かつての雪ノ下雪乃そのものだった。

「ヒッキー、ゆきのん学校に来たよっ。ところで…その足どうしたの?」

 由比ヶ浜はその喜びを落ち着きの無さで表す。

「はちまん、よかったねっ。あれ、その足」

 戸塚も嬉しそうに、その天使級の笑顔を惜しげもなく振りまく。遠くの席で葉山がこちらを見て微笑む。つられて三浦もにかっと笑う。すれ違う川崎もぽんっと肩を叩いて笑みを零していく。

「つーか、俺を祝福すんな。お祝いなら本人に直接言えよ」

 と不機嫌に呟くと、すかさず戸塚が笑顔で俺を宥める。

 

放課後

 奉仕部部室

 由比ヶ浜結衣は「待て」を言いつけられた犬のように落ち着きが無い。今にも飛び掛からんばかりにソワソワとしている。

 無理も無い。この一週間近くずっとお預けの状態だったのだ。

 湿った音を立てて部室のドアが開くと、平塚先生が入室する。

 その後に続く人物こそ由比ヶ浜結衣が待ち焦がれた、奉仕部の部長。

 雪ノ下雪乃だ。

「ご心配をおかけしました。おかげ様で退院できました」

 由比ヶ浜、平塚先生、そして俺の前で感謝の意を述べる。

 すかさず雪ノ下に抱きついて久々のゆるゆりを堪能する由比ヶ浜。それを涙ぐんで制止する平塚先生。零れそうになる笑みを歯を食いしばって堪える俺。

「おかえりゆきのーん。ゆきのんゆきのんっ」

「お帰り、雪ノ下」

「よう」

 雪ノ下を囲む友人と顧問。そしてそれを傍観する俺。

 ふと雪ノ下の視線が長机の下、俺の足元へ向く。

「しばらく見ないうちに変わったわね比企谷くん。特に右足が」

 久しぶりに見る笑顔。

「ほっとけ、階段踏み外しちまったんだよ」

「あなたって、人の道だけでは飽き足らず階段までも踏み外すのね」

「復帰早々辛辣だ!?」

 この会話のリズムは何事も無かったあの日のままだった。

「ま、人の性質は入院したくらいではそうそう変わらん、てことだな」

「あら、あなたにも入院をお奨めするわ。隔離谷くん」

「いまさら隔離されても、ぼっちであることに何ら変わりはないからな。無駄だ」

 暴言や突っ込みが飛び交う部室。そこには誰一人としてあの日の事件のことは口にする者はいない。

「まだ病み上がりの身なので、とりあえず今日はご報告だけさせていただいてお先に失礼します」

 再び一礼をし、出口に向かう雪ノ下を名残惜しそうに呼ぶ由比ヶ浜。それを鼻声で制止する平塚先生。

 皆一様に雪ノ下雪乃の快気を心から喜んでいた。

 

 雪ノ下が退室したあとも部室の中は彼女の話題一色だった。

「ゆきのん、元気になったみたいでよかったね、ヒッキー」

 今度は俺に抱きついてくる由比ヶ浜を引き剥がそうとするが、こいつ案外力が強いんだよな。

 仕方がないので口頭で注意する。

「おい、平塚先生が睨んでるぞ」

 事実だった。

 いや、睨むどころか両手の指をパキパキと鳴らしながら立ち上がろうとまでしている。

「お前ら、いちゃつくなら余所でやれ。ここは神聖なる学び舎だ」

 放たれる怒気に気づき、ぱっと俺から身を離して平塚先生に頭を下げる由比ヶ浜結衣。

「す、すいません。これからは二人っきりの時に…」

「歯を食いしばれ比企谷…抹殺のオォ――」

「なぜ俺に怒気を向けるんですか。どうみても由比ヶ浜が俺に…」

「問答無用!」

 ラストブレットが俺の耳元を掠める。拳を引く平塚先生はふんっと鼻を鳴らして微笑む。

 その生温かい空気に、俺が余計な水を指す。

「…雪ノ下の登下校は心配ないんですか?」

 これだけは確認しておきたかった。雪ノ下を襲った犯人はまだ捕まってはいない。再び襲われる可能性だってある。いや、その可能性のほうが高いといえる。

 平塚先生は、少し俯いたまま窓の外に目を向ける。

「あ、ああ。しばらく…というより、事件が解決して安全が確認できるまでは、ご実家の車で送迎するそうだ。心配は無用だ」

 話し終えたその視線は俺を捉え、微かに笑う。

「よかった…あたしもそれ、すっごく心配だったの」

 安心したのか、顔面がふにゃふにゃになる由比ヶ浜。その緩んだ顔が妙に嬉しくて、じっと見てしまった。

 ふと由比ヶ浜と視線が合わさる。

「…よかった。ヒッキーも、ちゃんとキモいし」

「ちゃんとキモいって何だよ。俺のキモさはマストかよ」

 頭のお団子をいじりながら由比ヶ浜は口の中だけでもにょもにょしている。

 そんな光景を遠い目で眺めていた平塚先生がふと立ち上がった。

「あー比企谷、ちょっと来い」

 手招きをする平塚先生へ顔を向ける。

「何ですか…ぐっ!?」

 いきなりのヘッドロック。痛い痛い痛いでも柔らかい痛い。

 腕がぐりぐり、胸がむにむに当たる俺の顔、耳元に平塚先生のほんのりニコチン臭い息がかかる。

「おまえ、妙なことを考えるなよ」

 大人の女性の香りに包まれながら、その香りの主は俺に根拠の解らない釘をさす。

「無理です、こんなに密着されたら妙な気持ちに…ぐぎっ!」

 俺を締め上げる腕に、更に力がこもる。

「事件のことは警察に任せろ、と言ってるんだよ。ぐぎがや君」

 大人の女性の激しいスキンシップに遭遇している俺を見て由比ヶ浜は苦笑している。

「はあ、解ってますよ。俺だって怖いの嫌ですからね」

 ヘッドロックが解除される。と同時に両頬が大人の女性の掌に柔らかく包まれる。

「本当だな? これ以上、私の生徒が傷ついたら、泣くぞ」

 先生の目を見ると、本当に今にも泣きそうなくらいに潤んでいた。不謹慎にも程があるが、その優しくて寂しい表情に目を奪われる。

「私は泣くとしつこいぞー比企谷」

 そこには先程の美しい大人の女性の顔は無く、平生の教師の顔が笑っていた。

「はいはい、わかってますって」

「約束だぞ、比企谷」

 そういい終らない内に、俺の全身は平塚先生に包まれていた。

 先生、優しいな。可愛いな。いや、やっぱり綺麗と表現するべきか」

「な!? か、可愛い…綺麗…だと?」

 あれ?

「何を言ってるんだお前は…仮にも私とお前は教師と生徒、そんなこと言われたら静…」

 どうやら心の声が漏れ聞こえていたらしく、平塚先生は俺を抱いたまま身を捩じらせる。

「むぅ、ヒッキー!?」

 膨れてリンゴ飴みたいに丸い顔をした由比ヶ浜が俺の耳を引っ張る。

 これだ。この感じだ。懐かしいな。俺は悪くないのに由比ヶ浜に怒られる感じ。

 これこそが俺が取り戻したい平穏であり、平生だ。

 だから。

 だから俺は、平塚先生の訓告を破る。

 後顧の憂いを絶つべく。

「…あ、もしもし比企谷です。あの時の運転手さんの件で…はい」

 

 




お読みいただきありがとうございます。
第11話、いかがでしたか?
うーん、書くって難しい。

こんな駄文に35件ものお気に入り登録をしてくださった皆様、本当にありがとうございます。

ではまた次回。


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12 平生は音を立てて走り去る

仮初の平生はまたしても火曜日に崩される。
再び襲われる雪ノ下雪乃。
再び救えなかった比企谷八幡。
再び気づかない由比ヶ浜結衣。

では、どうぞ。



 

12 平生は音を立てて走り去る 

 

6月24日 火曜日

 

 雪ノ下雪乃が送迎付きで学校に復帰してから十日が経とうとしていた。

 あの事件からはちょうど二週間。あれから雪ノ下に身の危険が及ぶような出来事は無く、表面上は平穏な日々を取り戻していた。

 放課後の奉仕部部室。

 本を閉じる音が響く。

「…さて、今日はこのくらいで終わりにしましょう」

「あ、ヒッキーゆきのん。今日あたし優美子たちとカラオケ寄ってくから、また明日ねー」

「おう」

「ええ。由比ヶ浜さん、また明日」

 雪ノ下の登下校が送迎付きになったことで、由比ヶ浜と一緒に登下校する必要は無くなった。今までの由比ヶ浜の負担も大きかっただろうし、家の車の送迎なら安心だ。

 それに、送迎の運転手さんの顔は把握してるし。

「ゆきのんも、まったねー」

「ええ、由比ヶ浜さん。また明日」

 職員室に部室の鍵を返しに行く雪ノ下の後ろを歩く。

「おかしいわね、誰かに後をつけられている気がするのだけど」

「おい、ついにストーカー呼ばわりかよ」

「そんなことは言っていないわ、ストー谷くん」

「なんだよストーガヤって。いつもより切れが悪いぞ」

 最近判ったことだが、雪ノ下の暴言の質は、本人のコンディションに左右される。今日はあまり調子が良くない様だ。

「じゃあ、もっと切れ味の鋭い言葉でいたぶってあげましょうか? マゾ谷くん」

「いやもう充分。お腹一杯だ。これ以上言われたら胸焼けしちまいそうだ」

 くだらない会話だが、それが平穏である何よりの証だ。

 校門の中には、すでに雪ノ下のお迎えの車が待機していた。普段忘れてるけど、やっぱこいつお嬢様なんだよな。

 しかし今日はやけに丁寧だな。いつもは校門の外で待ってるのに。

「そういえば足は治ったのかしら?」

「あ、ああ。もう大丈夫…だ」

 不意に話しかけられてキョドっちまった。決して振り向いた雪ノ下が可愛かったからではない。

「そう、ならいいわ。じゃあ比企谷くん。また明日」

「おう、また明日な。」

 別れの挨拶を交わしつつ、車が待つ場所まで雪ノ下を送る。最近の日課だ。

 

 運転手が後部座席のドアを閉める。その動作に違和感を感じる。

 後ろの窓が開き、雪ノ下は笑みを浮かべて何かを俺に話そうとする。

 その瞬間、運転手の横顔が見え、俺の記憶のページを捲らせる。

 『あれ…あの運転手…!?』

 奴だ!

「おい、雪ノ下! 降りろ!」

 そう叫ぶのと同時に雪ノ下を乗せた車は急発進した。俺は閉まりかかった後部ドアの窓の隙間に慌てて手を挟み入れ、自分のスマホを車内に滑り込ませた。

 俺は必死に車にしがみつくが、十数メートル引きずられて校門を出た所で剥がされた。

 雪ノ下が再び襲われた瞬間だった。

 

 俺はチャリを疾走させて家に帰り小町のスマホを奪う。

「ち、ちょっとおにいちゃんっ!」

「悪い小町、雪ノ下が攫われた」

 すぐに陽乃さんに連絡。その後由比ヶ浜に電話をかける。

「くっ、つながらねぇ!」

「小町!スマホ借りとくぞ!」

 俺は小町のスマホを片手に、自転車に飛び乗った。

 

    ☆     ☆     ☆    

 千葉市内。

 国道14号線を暴走する一台の黒いリムジンがあった。その広い後部座席には私、雪ノ下雪乃がいた。

「あなた、何をするつもりなの。すぐに車を止めなさい」

 私の制止にも耳を貸さず、男は鼻歌交じりで意気揚々とリムジンを走らせる。

「もう一度言うわ。今すぐ車を止めなさいっ…きゃあぁ!」

 急ハンドルで前の車を追い越しまくる。

「あーうるせえガキだ。せっかく人が気分良く…」

「下ろして、お願い!」

 男が耳を塞ぐような仕草をしてせせら笑う。

「…あーもうダメ、限界」

 リムジンが急停止した。

 雪ノ下はドアを開けようとする。が、開かない。

「チャイルドロックって知ってるかなぁ、雪乃ちゃん」

「…あなた!」

 私が男の正体に気がついた瞬間、催涙スプレーを噴き付けられた。

「ごほっ…げほっ…」

 涙で視界が妨げられ、咳でむせて助けを求めて叫ぶことも出来ない。

「…よし、そろそろいいだろ。ほんじゃ、出発~」

 車内の換気を終えた男は、再び運転席に収まり、暴走を再開した。

 

『…誰か、助けて…比企谷くん、比企谷くん…助けて!』

 

    ☆     ☆     ☆    

 

 




お読みいただきありがとうございます。
第12話、いかがだったでしょうか。

事件はいつも彼の目の前で、彼女の知らない所で起きています。
救えなかった苦しみと、知ることさえ出来なかった苦しみ。
どちらの苦しみがより強い後悔を残すのでしょうか。

ではまた次回


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13 その依頼は誰のために

雪ノ下陽乃からの二つの依頼。
陽乃は何を考えて比企谷八幡に依頼したのか。
今回のお話は時系列が少し戻ります。

では、どうぞ。


13 その依頼は誰のために

 

 [5月30日 土曜日 夜]

 

「…小町のやつ、アイス1つ食べたくらいで怒ることはないだろうに」

 近所のスーパーで食材と小町専用アイスを5つ、貢物として購入しての帰り道。

 後ろから走ってくるハイヒールらしき足音。女性のものか。当たり前か。

 夜道で後ろからの足音って、かなり怖い。

 次第に足音は強くなり、すぐ背後に迫った。危機を感じた俺は速やかにこの場を離れるべく駆け出そうとした。

 だが、大体こういう時はすでに手遅れなのである。

 ガッ、と強い足音がした。その音に反応して脊椎反射のように素早く前に出る。

 しかしやはり手遅れ。両肩に軽い衝撃を受け後ろに身体を引かれる。そして背中に二つの柔らかい感触。

 エンカウント。

「ひゃっはろ、比企谷君」

 魔王。

 雪ノ下陽乃だ。

「偶然だね~今帰り?」

 後ろから肩を抱かれる。いわんや魔王からは逃げられない。俺は早々に逃亡を諦める。決して柔らかさとか良い匂いを長時間堪能したい訳ではない。

「いつからいたんですか」

「んー。君が特売品の豚小間のパックとにらめっこしてたあたりから、かな」

 結構早い段階でエンカウントしてたのね。この魔王、ゲームと違って自分から出向いて来ちゃうのがすごく厄介である。魔王は大人しく魔界の居城にいればいいのに。バーンパレスとかに。

「全然偶然じゃないですよそれ」

「スーパーで見かけたのは偶然だよ。小町ちゃんに聞いたとでも思った?」

 そうだ、厄介なことにこの魔王は妹小町のアドレスと番号を把握している。

「アザレアの亡霊の件なんだけどさ」

 いきなりその話か。あれ、ちょっと待てよ。

「もしかして平塚先生に依頼したのって雪ノ下さんですか。」

「うん。あたし。ちょっと気になって、ね」

 聞けば件の器物損壊の現場は、決まって陽乃さんがいた場所の近くらしい。

「あたしに関係あるかは判んないけどさ、やっぱり気持ち悪いじゃない?」

 この人って敵多そうだもんな。下僕も多そうだけど。この性格だし。

 あ、やばい。小町のアイスが溶けてしまう。

「あらためてだけど依頼、受けてくれないかな」 

 

 [6月1日 月曜日 放課後]

 待ち合わせ場所のコーヒーショップで一番甘そうなコーヒーを注文する。財布を取り出そうとすると、スマホが鳴った。

 俺を呼び出した依頼主、雪ノ下陽乃だ。

「はいもしもし」

「ひゃっはろ~」

 電話と同じ声が、すぐ後ろから聞こえる。

「ふう…いるんならそう言ってください」

 またしてもエンカウントに気づかなかった。

「ごめんごめん。今日は、もうひとつお願いというか…依頼したいの」

 もう嫌な予感しかない。この人はいつも厄介事を持ち込む。むしろこの人の存在自体が厄介。

 陽乃さんは俺の腕に纏わりつきながら勝手に話を始める。

「はあ、ボディーガード、ですか」

 この魔王にボディーガードなんて必要なのかよ。何でも一人で出来る人なのに。つーか絶対俺のほうが弱いぞ。それだけは自信を持って断言出来る。

「違うって、ガードして貰うのは雪乃ちゃんだよっ」

 雪ノ下? あいつを俺がガード?

 ないないないない!

 絶対無いわ~マジないわ~

「あいつだって、俺よりは強いでしょうに」

 そうだ。雪ノ下雪乃は強い。だって空気投げとかマジやばいっしょ。

「そんなこと無いって。雪乃ちゃんはただの可憐な乙女なのよ」

 どこが可憐だ。いっつも可愛い顔して暴言吐きやがって。ま、まあ…乙女はギリギリ認めるが。

 というか、何が目的だ。

 この人の行動の裏には必ず別の何かがある。その前に、雪ノ下に警護が必要な事態になってしまったということか。そんな俺の頭の中を見透かすように強化外骨格は笑みを浮かべる。

「そ。頼めるかな」

 知らず知らずのうちにコーヒーショップの奥へと引きずり込まれる。

「完全な人選ミスですよ、雪ノ下さんらしくない。もう一度言いますが、多分俺より雪ノ下のほうが強いです。俺じゃ役者不足ですよ」

 小首を捻っているかと思えば携帯を取り出して発信、すぐに携帯を閉じる。

「そういうことじゃなくて…あ、来た来た」

 陽乃さんの後ろに並んだのは魔王の部下のアークデーモン…ではなくスーツ姿の男性二人。

 高い身長と屈強な肩幅を持つ二人はいずれも俺を見下ろして威圧している。二人並ぶと山脈のよう。アークデーモン山脈。

「この二人は、これから雪乃ちゃんの身辺警護についてもらう警備員さん」

 後ろのデーモン山脈が順々に礼をする。

「今日はこの二人に比企谷くんの顔を覚えて貰おうと思ってね」

「俺はすでに要注意人物、不審者確定ですか」

 ま、目だけみたら犯罪者ですもんねボク。中学のとき女子のジャージやリコーダーが無くなると真っ先に俺に視線が集中しましたもん。

 普段は存在を忘れてるくせに、どうしてああいう時だけ目ざとく俺を見つけるんだろうか。

「違うよ~その逆。あ、彼は比企谷八幡くん。雪乃ちゃんのナイトよ」

 再度陽乃さんの後ろのスーツ山脈が頭を下げるので、つられて俺も一礼する。

「いつから俺は雪ノ下のナイト(騎士)になったんです。じゃあ雪ノ下さんはキング(王)ですか」

 この人マジでキングスキャンとか使いそうだから怖い。ヒュンケルに一刀両断にされればいいのに。

 いやいや陽乃さんは魔王だった。

 その魔王はいてつく波動、いやいてつく笑顔を放つ。

「キングはうちの母よ。あたしは…クイーン(女王)ってとこかな。さしづめ後ろの二人はポーン(兵士)ね」

 チェスに見立てるあたり、上流階級ぽい。もしくはどっかの魔族な部長の眷属っぽい。

 てか、この魔王の上に君臨する母親って、やっぱりゾーマとかバーン級の大魔王ってことなのか。

 世の中怖いな。カイザーフェニックスとか超怖い。それを指先だけで処理しちゃうポップってすげえや。さすが大魔導士。やはり冒険するなら自宅が一番安心安全。

「雪乃ちゃん、こういうの敏感だから…すぐ気づいちゃうのよ。で、逃げられるの」

 たしかに『私には必要のないことだわ、姉さん』とか言いそうではあるが。

「つまり俺の役割は『デコイ』もしくは『スティング』ということですか」

 デコイは囮。スティングは、正しくはスティングオペレーション、即ち囮捜査。どちらにしたって全然『騎士』の役割じゃない。

「んー、ちょっと違うんだけど。要するに、あんまりこの二人が近づくと雪乃ちゃん嫌がるから、そこらへんを比企谷君に上手くカバーして欲しいなって」

 その目は妹に仇なす魔王のものではなく、純粋に妹を心配する良き姉のそれに見えた。これも演技なら俺は絶対この人には勝てない。

「…わかりました。せいぜい本職さんたちに迷惑にならないようにしますよ」

 よろしくね~と気軽に応える陽乃さんに、抱いている疑問をぶつける。

「それより。これって雪ノ下が狙われる可能性があるってことですか」

 ふっと陽乃さんの表情が沈む。

「あくまで用心の為よ。市議選も近いし、なるべく揉め事は回避したいじゃない」

 大人の事情…ってやつか。さっきの陽乃さんの表情を見る限り、この人もそういうの嫌いなんだろうな、本当は。

「へえ。いつもは率先して揉め事を起こす雪ノ下さんが、ですか」

 やられっぱなしは癪なので少しだけ攻撃に移る。といってもメラ一発分のダメージも与えられないだろうが。

「可愛くないなぁ。でも、そんな比企谷君も好きよ」

 やはりノーダメージ。それどころかベギラゴン級の意趣返しをされる羽目になった。攻撃が効かないとなれば、後は素直に従うのみ。俺は勇者ではない。

「で、俺の具体的な役割は?」

 そこからはスーツ山脈を交えて警護の体制などを話した。

 

 その時の俺は、実際そんな事態に陥るなんて考えもしなかったんだ。

 

 




今回もお読みいただきありがとうございます。
第13話、いかがでしたか?
今回は雪ノ下陽乃に依頼を受けた場面の回想になりました。

次回からは時系列は戻ります。

では、また次回。


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14 彼は独り奔走し彼女は

単独で雪ノ下雪乃を捜索する比企谷八幡。
待機を言い渡された由比ヶ浜結衣。

しかし彼女は思い悩む。

では、どうぞ。


14 彼は独り奔走し彼女は

 

6月24日 火曜日 19時

 小町から借りた(奪った)スマホで自分のスマホの位置、すなわち雪ノ下を拉致した車の位置を探る。

「備えが役に立っちまった」

 雪ノ下の乗る車に投げ入れた俺のスマホの現在の状態は、バイブ無しの無音状態。中では友達や仲間同士が待ち合わせで使うような、GPSでお互いの位置を知ることが出来るアプリが動いてる。ついでにいうと、ボイスレコーダのアプリも起動中である。友達がいない俺は小町しか登録してないけどな。

 前回雪ノ下が襲われた時のことを教訓に、俺は練れるだけの案を練り、やれるだけの備えをしていたつもりだ。本音をいえば何事も起きずに全部ムダになって欲しかったが。

 だが、陽乃さんとの情報交換で犯人と思われる人物が特定され、その犯人が再び行動を起こすことはほぼ解っていた。だって、犯人の本当の目的は――

 自転車を漕ぎながら考えているうちにGPSの足跡を辿ることが出来た。

「国道14号線、幕張方面か!」

 線となって連なったGPSの軌跡を辿って自転車を漕ぎまくる。漕ぎまくりながら由比ヶ浜へ発信。

「やっはろー、小町ちゃんどした…」

「ばか俺だ、八幡だ」

「はちまんって、ヒ、ヒッキー!? なんで?」

 雪ノ下が拉致されたことを伝え、簡潔に三つの指示を出す。パニックの時に覚えられることなんて二つか三つだ。実際、由比ヶ浜の声はパニクっていたし。

 話しながら自転車を漕ぐのはすっげえしんどいが、そんな弱音を吐いてる場合じゃない。

 そんな弱虫がペダルを必死に漕ぎながら画面でGPSを追跡していると着信。

「比企谷か!」

 由比ヶ浜から連絡がいったんだな。つーか小町、平塚先生を「静ちゃん」で登録するのはやめなさい。通り抜けフープでお風呂に出ちゃいそうだから。

「平塚先生!」

 由比ヶ浜に頼んだ指示にうちの一つである平塚先生への連絡は思いのほか早く、間接的に由比ヶ浜がしっかりと自分を保っていることを確認出来た。

「貴様あれほど警察に任せろと…まあいい。比企谷、状況を教えろ。なるべく細かく、曖昧な点は除いて、だ」

 さすが平塚先生、切り替えが早くて助かる。年の功。冷静だ。嫁にしたらさぞ心強かろう。

「拉致したのは雪ノ下の送迎の車。黒のリムジン。ナンバーは…あー、わかんね!」

 犯人の人相まで上手く伝えるのは無理と判断し、そこで報告を留める。

「よし。それで、今おまえはどこだ」

「俺は今、国道14号線に向かってチャリで走ってます。目標には俺のスマホを放り込んであります。GPSを動かしたまま。GPSは国道14号線、東京湾付近まで伸びてます」

「了解、よくやった。おまえは出来るヤツだ。こちらも向かう。あとは大人に任せろ。危険なことはするなよ。いいな、絶対にだ」

 任せろといわれたが、雪ノ下家はギリギリまで警察を動かさない気らしい。この場合のギリギリとは、雪ノ下が誘拐されたなら犯人からの要求があるまで、だろう。

 そんな悠長なことやってるから。世間体ばっかり気にしてるから。

 だからあんたらは雪ノ下雪乃に嫌われるんだ。

 あいつに何かあってからじゃ、遅すぎるんだよ!!

 

 ともかく犯人はわかった。この目で確認した。

 それは俺の予想通りだった。

 そして、この事件の謎解きを犯人に突きつけるのは…俺の役目だ。

 これだけは誰にも譲れない。

 

    ☆     ☆     ☆    

 

6月24日 火曜日 19時48分

 

 比企谷八幡…ヒッキーに指示されたとおり、あたし、由比ヶ浜結衣は事を成していた。

 まずはゆきのんの姉である陽乃さんへ連絡。ゆきのんが拉致されたことを伝え、ヒッキーが自転車で犯人を追っている事を説明する。

 次に、平塚先生への連絡。

 説明の後の先生の第一声は「あの馬鹿はどこだ」だった。

 平塚先生はイヤホンマイクを使って通話しながらすでに行動を開始していた。

 一番手こずったのは、警察への通報だった。

 まず、通報内容を信じてくれない。

 アザレア関連の事件に便乗した悪戯だと思われた。事実、その手の誤報や悪戯は相当数に上っていたらしい。ようやく話を聞いてもらえる姿勢を警察が取ってくれた後も、今度はあたしがパニックになって上手く説明できなかった。

 何とか警察に事情を理解してもらえたのは、ヒッキーから連絡を受けた約30分後だった。

 

 ヒッキーに頼まれた事を全て終えて、あたしは考えていた。

 危ないからと、ヒッキーにも平塚先生にも自宅で待機するように言われていた。でも、こうしてる今もヒッキーは自転車でゆきのんの捜索を懸命に行っている。陽乃さんもすぐに向かうと言い、平塚先生も行動を起こしている。

 何より、今ゆきのんが危ない目に遭ってるのに。

 

「なのに、あたしはどうすることも出来ないの…?」

 

 あの日。

 病室の廊下で、ドア越しに聞いたゆきのんの叫び、嗚咽が頭の中に甦る。

 ゆきのんは今頃その苦しみを思い出して、ううんそれ以上の怖い思い、身の危険を感じているかもしれないのだ。なのに自分は何もしていない。何も出来ない。

 

 唯一無二の親友と思っている彼女が危険に曝されているのに。

 

 とりあえずスマホを掴んで玄関を飛び出して、エレベーターの前まで走って。

 そこで、足が止まる。

 自分に出来ることが見つからなかった。

 エレベーターの前でしゃがみ込む。頭を抱える。そして、自分の無能さに気づき愕然とする。

 

「もうどうしていいかわかんない。助けてよ…みんな…助けてよっ!」

 絶望の淵に着信音が響く。

 優美子からだ。そういえばカラオケの約束すっぽかしちゃったっけ。

「結衣なにしてんの。カラオケいく約束どーした?ま、あーしらもう帰る…ちょ、結衣?」

 優美子の声を聞いた瞬間、涙が溢れた。

「優美子、助けて…ゆきのんが…ゆきのんがっ!」

「ちょ、落ち着けし」

 優美子に事情を説明する。上手く説明できたか自信は無い。

「わーった。結衣はタクシーつかまえてヒキオを追跡しろし。見つけたら警察来るまでその場で待機、あーしらに連絡。危なそうなら逃げる。いい、わかった?」

 

 ヒッキーごめん。

 やっぱり、じっとしてなんていられないよ。

 あとでいっぱい怒っていいからさ、ヒッキー。

 

 大通りに出てタクシーを止めると、平塚先生に聞いたおおよその方向に走ってもらう。そして車内で携帯を起動。

「番号でGPS検索っ」

 現在の比企谷のGPSの位置情報を地図形式で取得。

 ――優美子が教えてくれた。気づかせてくれた。

  『あたしにしか…できないことをするんだ!』

「…LINEオープン、メッセージ一斉送信っ!」

 

『依頼。

 みんな、ゆきのんを、ヒッキーを助けて!』

 

    ☆     ☆     ☆    

 

 千葉市内某所東京湾付近。 

 空は今にも降り出しそうな雨雲のせいで、すでに夜の黒に覆われていた。

 自転車で駆け抜けて俺、比企谷八幡が辿り着いた先には、黒いリムジンが停めてあった。

 音を立てないように自転車を倒して数十秒の間に息を整え、俺の唯一の武器である脳に酸素を送り込む。

「…さて、行くか」

 疲労で笑いっぱなしの膝とまだ痛む右足首に喝を入れて、歩き出す。

 ここは東京湾に面した倉庫の群れの中。悪者が隠れそうな場所ベスト5には確実に入るだろう、ベタな場所だ。

 俺の推理が正しければ、本当の標的は雪ノ下ではない。即ちすぐに雪ノ下に危害を加えることはない。筈だ。

 しかし、雪ノ下が危険なことには変わりは無い。それに、今の状況下での雪ノ下の気持ちを考えると、急ぐほうが良いに決まっている。

 素早く、慎重に、慎重に。

 一棟ずつ様子を探る。

 辺りに注意を払う。

 目に、耳に、五感全てに意識を集中させる。

 

    ☆     ☆     ☆   

 




今回もお読みいただきありがとうございます。
第14話、いかがだったでしょうか。

いやぁ、かなり支離滅裂になってまいりました。
そろそろ怒られるかな…

ではまた次回。



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15 彼女は再び闇の中に

今回は雪ノ下雪乃の視点から書いてます。

拉致された雪ノ下雪乃。
雪ノ下を救いに来た比企谷八幡。
事態はどう動くのか。

ではどうぞ。



 

15 彼女は再び闇の中に

 

6月24日 火曜日 19時59分

 

 真っ暗な倉庫の中に突然小さな明かりが灯る。空気中に埃が浮かんでいるのが見える。

 私、雪ノ下雪乃は何者か…いえ、ある男に拉致されて現在どこかの倉庫の中で手足を縛られていた。

 私を乗せた車は間違いなく家のものだった。つまりどこかのタイミングで奪ったのだ。

 だとすれば、いつも運転してくれていた都築さんは…

「都築さんは…無事なの?」

「は? こんな時まで他人の心配かよ。お嬢様には反吐が出るね」

「…あなたは…なぜこんなことを…」

 男は気持ちの悪い笑いをその醜い顔に浮かべながら私の言葉を遮る。

「そんな目で見ないでくださいよ…雪乃お嬢様」

 両手両足を縛られた私は、可能な限り平常心をかき集める。

「お嬢様なんて呼ばれる筋合いはないわ。あなたはもう当家とは関係の無い…」

 話を聞かずに男は私に歩み寄ってくる。男の蹴りが私の左二の腕にめり込んだ。あの時の痛みが鮮烈に甦る。

「はあぁ?」

 目の前で言葉を吐いた男の手が、先程蹴られた私の左腕を掴む。と同時に思いっ切り握られた。

「ぐうっ!」

 まるで骨まで砕かれそうな痛み。そこは以前襲われた時に殴られた箇所でもあった。

「あんたらにゃ無関係でも、こっちには関係あるんだよ」

 痛みを思い出した上腕に、靴の踵がぐりぐりと捻るように押し付けられる。

  『この男…狂ってる』

 私は思考を走らせた。

 とにかく此処から逃げなければ。それにはまず相手の動機を知り、逃げられるだけの隙を相手に作らせること。

「一体何の関係があるというのっ!」

 じっと男の目を見る。完全に我を忘れている目。性根が腐っている目。だからこそ隙は作れる。

「ははぁ、あんた何も知らないんだな」

 男は、腰の後ろにナイフを差している。

「な、何のことを言っているの?」

 男との会話にあわせたまま、私は相手を観察し、分析する。

 突如、男の腰からナイフ…いやそれよりも長いものが抜かれた。長さは暗くてよくわからないけれど、脇差くらいあるのかもしれない。

「じゃあ教えてあげますよ~雪乃お嬢様」

 黒く冷たい刃が私の頬に当てられた。

 

 ドンッ

 

 重く小さな音が倉庫内に僅かに響く。

 音の方向に目をやると、そこには中途半端に開いた通用扉と、誰かの影。まだ姿は見えない。この男の仲間、共犯者なのだろうか。

 男は自身の狂気染みた笑い声で、その音に、通用扉が開いたことに気づいていない。私は、敵かも知れないその影に、一縷の望みに縋った。

「助けて!」

 男は一瞬たじろいだが、すぐに卑屈な笑みを浮かべる。

「ああ~ん? 誰も助けなんか来ねえよ。正義のヒーローなんて居やしないのさ」

 

「…あぁ? どこにヒーローがいないって?」

 影は、聞き覚えのある、いかにも挑発するような声色で、私にナイフを向ける男に言を放つ。

 

「誰だよ、おまえ…」

 男は、鈍い光を宿す目を影の方へ向ける。

「あんた、俺の顔忘れたのかよ。二回も車で轢いておいて。そりゃ冷たいんじゃないの?」

 目の前の男とは違う種類の卑屈な声。けれども不思議と安心できる声色。

「…比企谷くんっ!」 

 暗闇のシルエットが近づいてきて、ランプの明かりに彼の顔が浮かび上がった時、一瞬、ほんの一瞬だけ彼が本物のヒーローに見えた。

「…なんだ、先週轢いてやったガキか。せっかくケガで済ませてやったのに。何の用だ」

 先週? 轢いた? 誰を?

「あなた。まさか比企谷くんも…」

 彼が右足を怪我をしていたのはそのせいなのだろう。申し訳なさとともに際限無く怒りがこみ上げてくる。この男は比企谷くんにまで――

 短時間の思考で文章を組み立て、ありったけの怒りを正論に乗せて男を罵倒しようとした瞬間。

 彼は私に掌を差し向け、それを制止する。

「な、何故…」

 比企谷くんが目配せをしてくる。相変わらず目は濁っているけれど纏う雰囲気はいつもとは全く違う。明らかに怒っている。

「まず確認だ。いつもの運転手…都築さんだっけ。あの人はどうした」

 初めて見る、彼の怒りの表情。

「お前も…雪乃お嬢様と同じで心優しいなぁ。ヒーロー気取りかよ」

 男の言葉に彼は一瞬だけ笑みを浮かべて、またしても彼は卑屈な顔を男に向ける。

「いや、あんたに同感だ。俺はヒーローじゃないし、どこにもヒーローなんていない」

 何を、言っているの? 私には彼が放つ言葉の意味が理解出来なかった。

「…は?」

 男も少々呆気に取られて比企谷くんを見ている。彼は話しながらこちらに近づいてくる。まるで公園を散歩するような気軽な足取りで。

「おい止まれ。人質が見えな…」

 彼は歩を止めない。足取りも変わらない。

「俺もさ、子供の頃はヒーローがいるって信じてたんだ」

 信じられないことに、この状況で彼は犯人である男を相手に語り始めた。

「お、おま…何を言って…」

 この理解不可能な状況下、明らかに男は動揺、混乱している。

 更に彼は歩を進めながら男に話しかける。

「まあ聞けよ。ぼっちの俺がこんだけ他人と喋ってんだ。貴重だろ?」

 こんなに怖い目に遭っているのに、思わず彼の言葉で少し笑ってしまった。

「…ぷっ」

 男が私を睨む。彼…比企谷くんは私に微かな笑みを向ける。私は彼の邪魔をしてしまったことを目で謝罪した。

「…てか、おまえどうやってここに…」

 男が彼、比企谷くんの方を向き直ったとき、彼はすでに男の目の前まで来ていた。

 空気が 固まった。

「いいから聞けよ。せっかくあんたの意見に賛同してやってるんだぜ。俺は」

 彼の表情がニヤニヤと、一層いやらしい笑顔に変わった途端。再び空気が弛緩した。

 この倉庫内の空間は、彼が掌握していた。彼らしい、いつものやり方。

 でも、何かが違う気がしたのも事実。

「比企谷…くん?」

 またしても彼の作ろうとした流れを止めてしまう。

 男はというと、訝しげに、けれどしっかりと比企谷くんの話に耳を傾けている。

「俺が小学生の頃、いじめられていても無視されていても周りは誰も助けてくれなかった。ヒーローなんていつまで経っても現れなかった」

 比企谷くん、此処にきてまで自虐なのね。あくまでも自分の方法を貫くつもり。

 今気がついたわ。

 これが『彼のターン』なのね。ものすごく恥ずかしい表現だけれど。私も随分と彼に感化されたのかしら。

「その時気づいたんだ。ヒーローなんかいない、ってな」

 彼は少し寂しそうに、しかし目線だけは決して男から離さずにいた。

「でもさ、世の中にヒーローがいないってのは、それはそれで夢が無い話だと思わねえか」

 彼が突然、男に同調を求めた。男の思考がますます混乱するのが視線の泳ぎ方から感じ取れる。

「お前! さっきから何を…」 

 比企谷くんは男の怒号を遮り、ごく自然に縛られている私の元へしゃがみ込んで、手のロープを解きにかかる。

「だからさっき決めた。俺がヒーローになる」

 彼の言葉で散々思考を掻き乱された男には、彼の行動への反応が出来ないようだった。

 その隙に私は自身を拘束する足のロープを解く。そして私の肩に手を置き耳元で「あいつが動いたらドアに走れ」と呟いた。

 しかしその時、私は気づいた。気づいてしまった。

 

 彼は…震えていた。

 怖いのだ、彼も。

 

 でも彼は決してそんなことを感じさせない。慇懃無礼で卑屈な態度を彼は崩さない。

「まずは、この美少女さんのヒーローにでもなろうか」

「ざけんなっ!」

 男は、彼に向けてナイフを持つ腕を払った。

「走れ!」

 私は彼の声に弾かれて一目散に駆けた。

 

    ☆     ☆     ☆    

 

 




今回もお読みいただきありがとうございます。
第15話、いかがでしたか。

つくづく表現力が乏しい。それに気づいてしまいました。
しかし、楽しいので書き続けます。

ではまた次回。


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16 比企谷八幡の時間は終わらない

雪ノ下雪乃を拉致した犯人と対峙する比企谷八幡。

そこに駆けつけたのは。

では、どうぞ。



 

16 比企谷八幡の時間は終わらない

 

6月24日 火曜日 20時40分

 

 痛え。

 男のナイフが掠った左手が焼けてるみたいに熱い。だが俺、比企谷八幡のターンはまだ続く。

 男を混乱に誘いそれを利用し隙を作って、雪ノ下を救出することには成功した。代償として少々手傷を負ったが、端から無傷で終わるとは考えていなかった。

 俺にとっての持ち駒は、俺自身しか持ち合わせてはいないのだから、それを最大限まで有効利用するだけだ。

 ここまでは、いわば織込み済みの状況。むしろあの刃渡りで切りつけられて、よく掠り傷程度で済んだものだと、相手のナイフの切れ味の悪さと自分の悪運を確認した。

 ここからは時間稼ぎに徹する。証人になってもらう大事なギャラリーである二人、そして警察が到着するまで粘るだけだ。だがその間にやることがある。

「おまえ、狂ってやがるのか!?」

 その声色から判断すると大分頭にきているようだが、薄暗い中でほんのり見える目の泳ぎ方から察するにまだ混乱は続いていると見える。

「は? 狂ってるのはお互い様だろ」

 実際のところ俺は狂っていた。恐怖、痛覚、あらゆる感覚が麻痺してきていた。

 目の前の男への怒りで。

「あんたはバカな復讐を考え、俺はそのバカなあんたを倒してヒーローになろうってんだ。知能レベルとしては同等だろ。ゴミ虫同士だ」

 嘲笑まじりで言い放ち、男を挑発する。

「気をつけて比企谷くん!」

 無事に倉庫の通用口に辿り着いた雪ノ下が叫ぶ。その横に…誰かいるのか。

「…おまえはちっと黙ってろよ、お嬢様」

「まんまと逃げられた人質に上から目線か。哀れだな、おい。ところであんた。よく俺のことを覚えていたな。実際すげぇよ。感謝すら覚えるね。なんせ同じクラスの大半が俺の存在を知らないんだぜ」

 再び話題を変えて更に感情を撹拌する。そして、あんたの心の中のどろどろと凝り固まった黒いものを全て抉り出してやる。今日で全て終わらせてやる。

「…忘れねえさ。あの時…」

 ぽつりと呟くように漏れ始めたその声は、次第に怒りの空気を纏い始める。

「あの時、おまえが飛び出して来なけりゃあ、おれはこんなに惨めになることもなかったのによ」

 男が話しているのは恐らくは本音だろう。それを見る限り、多少の誤差は出たがどうやら俺の作戦はここまで順調らしい。

「それは違うな。惨めな現状の責任はあんた自身にある」

 年下のガキからの断罪に、男の目は一瞬にして血走る。俺は更に重ねる。

「あんたが選択を重ねた結果さ。今のあんたの姿は、なるべくしてなった姿だ」

 年下に説教されるとか、かなりムカつくことだろう。

「…うるせえ、うるせえっ!」

 男は長尺のナイフを再び俺に向けて振ってきた。体を庇った手が熱くなる。

 『やべ、また切られたっ! めっちゃくちゃ痛えぇ!』

 痛みで叫びそうになるのを堪えて、奴に向けてへらへらと笑ってみせる。奴の歯軋りが此処まで聞こえてきそうだ。

「…ヒッキー!」

 倉庫の通用口の方向から、聞きなれた台詞が聞こえた。目を遣ると雪ノ下は由比ヶ浜に抱かれるように支えられている。傍らには他の人影も見える。平塚先生か誰かだろう。

「あいつ…来ちまったのか」

 由比ヶ浜や雪ノ下たちに怪我を悟られないように、血が流れ出している左掌をズボンのポケットに仕舞い込む。

 

「…さて、ギャラリーも集まったようだし」

 言い終わらないうちに倉庫の大きな扉が左右に開かれ、車のライトが外から照らし出す。

 その光の中に数名の人影が浮かぶ。本物の戦隊ヒーローのように。

「…ちっ、少し集まりすぎたな」

 俺の予定では、ここに来るのは雪ノ下の姉の陽乃さんと平塚先生の二人だけだった筈だが。

「まあいい、そこのおまえらも見ておけ。俺がヒーローになる瞬間を、な」

 駆けつけてくれたみんなに向けて、手を出すなという牽制も込めつつ敢えて中二っぽく、痛い奴の台詞を吐いてみせる。

「さて、あんたをやっつける前に…今回の事件の謎解きでもしておこうか」

 ここからが本当のお仕事だ。チェンジ、探偵さんモード! なんちって。

 …さすがに今のは寒かったな。あとで小町に慰めてもらおう。

 そんなくだらないことを巡らせていると、ナイフを持った男が焦れた様にじゃりじゃりと靴を鳴らす。

「…もうおまえの話は飽きちまった。もう殺してやる」

 お、だいぶ苛々してるな。その調子だよ犯人さん。

 もっと怒れよ、俺に対して。

「気が短いな。そんなんじゃあんたの怨みは雪ノ下陽乃には届かないぜ」

 最終目的を見抜かれて、硬直しアホ面丸出しの犯人。

「そうね。あんたの刃は、わたしには届かない。だって比企谷君がいるもん、ね」

「ね、姉さん!?」

 ヘッドライトの逆光の中心で陽乃さんが笑っている。その横には葉山隼人の顔も見えた。

 それだけじゃない。

 よく見ると、戸部、戸塚、川…沙希、三浦、海老名、城廻先輩に、材木座。

 それに…小町!?

 つーか、これだけ人数いるのにボディーガードは連れて来なかったのかよ陽乃さん。

「ひゃっはろー、比企谷くん、雪乃ちゃん。安心して、都築さんは無事だから」

 陽乃さんの言葉にあらためて振り返る。

 よかった、いつも雪ノ下を送迎してくれていた運転手さんは無事だったんだ。

 さて、ここからが本番。

 平塚先生にアザレアの亡霊の正体を探るように依頼したのは雪乃の姉である雪ノ下陽乃であった。教え子に危険ことはさせられないと即座に断られるが、諦めが悪い陽乃は、その依頼を俺に個人的な頼みとして依頼してきた。

 依頼内容は二つ。

 一つは、当初の目的通り『アザレアの亡霊』の正体の調査。

 そしてもう一つは、これは事件を調査している途中からだが…本人には内密で雪ノ下雪乃の身の安全を図ること、であった。勿論雪ノ下家のほうでも雪乃、陽乃の姉妹には警護をつけていたから、俺の役割はあくまで補助的なものだった。

 

 そして、陽乃さんとの情報交換で浮かび上がったのが目の前の男。

 こいつが、「アザレアの亡霊」だ。

 

 




今回もお読みいただきありがとうございます。
第16話、いかがでしたか?

今回のようなシーンを書いてみて、自分の文才の無さに呆れてしまいました。
頭の中に描いた状況がうまく文章で描写できない。
でも書きます。書かせてください。

ではまた次回。


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17 比企谷八幡の捻れた翼は

衆人環視の中、比企谷八幡は真相を突きつける。
その真相とは。

ではどうぞ。



17 比企谷八幡の捻れた翼は

 

6月24日 火曜日 21時

 

 倉庫内。

 雪ノ下陽乃を始め平塚先生、同級生の葉山隼人、戸部翔、戸塚彩加、川崎沙希、三浦優美子、海老名姫菜、先輩である城廻めぐり、妹の比企谷小町。それに何故か材木座義輝。

 彼ら彼女らはそこに立っていた。

 守るために。或いは、見守るために。

 

 それらの登場で俺の計画は少々頓挫したが、此処からが本当の意味での正念場だ。ミスは許されない。

 俺はあくまで強気に、身振り手振りはオーバーに、しかし慎重に言葉を紡ぐ。

「そうだ、今回の一連の事件、最終的な目的は…」

 あらためて言うのは、コナンくんに教えて貰った技術のひとつだ。

「雪ノ下陽乃の殺害、だよな? 元運転手…いや、元秘書の丹沢さん」

 これもその技術のひとつ。

「ついでに言えば、殺害予定日は7月7日…だよな?」

「それって…」

 そう。雪ノ下陽乃さんを誕生日に殺害すること。それこそがこいつの最終目的。今回の拉致はその前哨戦のようなものだろう。

「毎週火曜日に事件を起こしていれば、その延長線上にある7月7日にも事件が起こると仮定するのは容易だよな」

 全てを言い当てられた犯人、丹沢は茫然としている。

 あとは…丹沢の目を、怒りを、俺のみに向けるだけ。

「あんたは、県議会議員の秘書の立場を利用して私腹を肥やしていた。そしてその議員の親族の送迎車の運転中、偶然に起きた人身事故の責任を取らされて職を失う」

 きっと裁判の主文も同じような顔をして聞くんだろうな、こいつ。

「ヒッキー、まさかその事故って…」

 裏回し、とでもいうのだろうか。由比ヶ浜の名脇役ぶりに少し感謝。あ、おまえの犬を助けるための事故だっけ。

「ああ、俺が入学式当日に轢かれた事故だ」

 もうその事で俯くな、由比ヶ浜。おまえは全然悪くないんだから。

「その退職の際に過去の不明瞭な金、つまり着服、横領、収賄を調べられて追求された。そしてそれらを暴いたのが雪ノ下陽乃さんだった。これは本人に確認済みだ。」

 ちらっと陽乃さんの方を見る。何故ピースをするんだこの人。しかもヤンキーピースって。

「では、その件で姉さんを逆恨みして…?」

 またまた名アシスト、雪ノ下。言っておくが今の主役は俺だからな。

「まあ、それが一番大きな動機だろうな。だが、他にも理由があった。それも一番厄介な理由が。」

 空気が止まる。皆が俺に注目する。なにこれ超気持ちいい。切られた手の痛みも忘れそう。

「それこそが、あんたが雪ノ下陽乃さんを狙うことを決意した理由だ」

 つい調子に乗って丹沢を指差す。こら葉山の横の金髪笑うな。そもそもなぜおまえがいるんだ、三浦よ。葉山あるところに三浦ありなのかよ。リア充のキズナ恐るべし。

 さ、気を取り直して。

「…事件の現場に残されていたアザレアの意味だが、これはアザレアの花言葉に起因する」

 アザレアの花言葉は『あなたに愛される幸せ』だ。陽乃さんが教えてくれたのだけれども。

「つまり…事件の動機の根源は、陽乃さんに対する歪んだ愛情だ」

 さあ、大詰めだ。しかし予定通りにはいかないのが俺。これぞ俺流。

「…ああ、そうだ。私設秘書として雪ノ下家で働くうちに、おれは陽乃と結婚すれば将来の地位は約束されると思った。だからあの日も、陽乃の機嫌を取るために運転手を買って出たんだ」

 恋する男は辛いのね。つーか勝手に自供とかされちゃうと困る。

「姉さんが一番嫌うタイプの男ね」

 雪ノ下が軽蔑のような哀れみのような、そんな顔を丹沢に向ける。

「おれは、陽乃と…地位、権力が欲しかったんだ。もう虐げられるのは沢山なんだよ」

 ついに来た。本心の吐露。

 すかさず、つらつらと陽乃さんが語り出す。あら予定外。

「あなたの様子、なーんかおかしかったのよねぇ。事故のかなり前から」

 魔王陽乃の腹黒い笑顔。そりゃそうか、実の妹をこんな危険な目に晒すなんて性格が歪んでなきゃ出来ない。

 早いうちに警察に頼ってればこんなことにはならなかったのに。

「パパの秘書なのに単独行動が多かったし、必要以上に私に近づいてきたりして」

 どうやら陽乃さんは、ここで全て終わらせる腹積もりらしい。

「でも決定的だったのは、あの事故よ」

 笑顔が完全な闇に変わる。

「あの時あなたは、自分の責任逃れに必死だった。路上に倒れている比企谷くんの心配よりも自分自身の将来の心配はかりしていたわよね。それで、元々腹黒いのは感じていたから色々調べたのよ。過去の帳簿からあなたの口座の残高まで、何から何まで全て、ね」

 なにそれ超怖い。そして陽乃さんに腹黒いっていわれた犯人さんに少し同情。

「そしたら、いろんなことがわんさか出てきちゃってね。だからクビにしたのよ。まさか私設秘書の末席のあなたが独断で業者に便宜を図って賄賂を貰っているなんて気がつかなかったわ」

 いやぁ、いっぱい喋ったね陽乃さん。おかげでまた予定が。

 そ、そうだ軌道修正しなきゃ。

「その結果…あんたは、秘書をクビになった」

 もう丹沢は、やたら長いナイフを落とすほどに力が抜けている。

「…ああ、だから、復讐を決意したんだ。最初は気晴らしのつもりだった。雪ノ下陽乃が出席する行事の近くで憂さ晴らしをしていた。でもそれじゃあ満足できなくなった。おれを失脚させる原因を作った雪ノ下陽乃、雪乃、そしてお前、比企谷八幡に鉄槌を下してやろうと決意したんだ」

 吐き出すように発せられた丹沢の言葉は最低なものだった。

「で、俺はあんたに二回も轢かれた訳だ。ただの逆恨みで」

 ここでもう一度、俺に目を向けさせる。

「そんなあんたの個人的な理由で二回も轢かれちゃ、たまんないな」

 しかし、ここで予定外の言葉が口を吐いて出てしまう。

 

「まあ、この際俺のことはどうでもいい。でも、お前は…雪乃に手を出した」

 

 自制心が弱いのか怒りが勝ってしまったのか。

 その瞬間、理性で封じ込めていた丹沢に対する怒りが暴れ出し、気がついたら丹沢を殴っていた。

「比企谷くんっ!」

 小町を含め、おそらくこの場に居る全員が初めて見るであろう、俺の暴力。

「あんた…あんたはそんな自分勝手な理由で雪乃を傷つけたのかよ。狙うなら、恨むなら俺一人にしとけよ。そもそも原因は俺だろうがっ!」

 思わず意図が出てしまう。

 丹沢は倉庫の床に倒れ、俺はその上に跨った。そして顔面に一発。

「雪乃はなぁ、本当は臆病なんだよ。繊細なんだ。傷つきやすいんだ!」

 雪ノ下の叫びも、由比ヶ浜の泣き声も、もう何も聞こえなかった。自分の事はもうどうでもよかった。俺はありったけの文句を吐きながら馬乗りで大事な仲間を傷つけた奴を殴り続けていた。右手は感覚を失くし、奴に切りつけられていた左手からは鮮血が舞っていた。

 

 




今回もお読みいただき、ありがとうございます。
第17話、いかがだったでしょうか。

今回の後書きは簡素にいきます。

ではまた次回。


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18 彼らと彼女らの輪舞は静かに



※今回は短めです。

ではどうぞ。


18 彼らと彼女らの輪舞は静かに

 

6月24日 火曜日 21時42分

 

 怒りに支配された俺は、夢中で丹沢を殴りつけていた。

 その光景は駆けつけた彼ら彼女らを凍りつかせた。

 ある者は悲鳴を上げ、またある者はその光景を凝視するのみだった。

「お、おい比企谷…もうやめ…」

 誰の声か解らないが、その声は俺の脳には届かず耳で止まったままだ。後で聞いた話だと声の主は葉山だったらしい。

 

…パンッ!

 

 両手を叩き合わせた音が倉庫内の空気を強く振動させた。それはまるで怒りに身を委ねた俺の邪気を浄化するような、澄んだ音だった。

「…もういいっ、比企谷!」

 その強く澄んだ、倉庫内に響き渡る音の主は平塚先生だった。

 平塚先生はゆっくりと俺に近づき、血で染まった両手を掴む。

「いっ痛…!」

 そして、赤ん坊を包み込むように俺を抱擁した。平塚先生に抱き留められた俺は、震えていた。

「もういい。充分だよ…比企谷」 

 左手の傷からぽたぽたと赤が滴る。

 さっきまで怒りで忘れていた痛みを傷口が思い出す。

「ヒッキー…」

 激痛に顔を歪めているであろう俺を見るみんなの目は、一様に悲しげだった。

「おにいちゃん…」

 はじめて己の怒気、狂気に身を任せて暴力を振るった。振るってしまった。

 そして、それをこの場の全員に晒してしまった。 

「もういいんだよ、比企谷。これ以上お前の嫌いな、不本意な行為を続けることはないんだ」

 不本意。

 そう、不本意だ。

 俺は、暴力が嫌いだ。殴るのも、殴られるのも嫌いだ。

 でも俺はそれを実行した。怒りに飲まれていたとしても、あくまで自分で選択したことだ。責任は俺にある。もしも平塚先生に止められなかったら、最終的に俺はこいつをどうしていたのだろうと逡巡する。

 平塚先生の優しい拘束から解かれた俺は身体の震えを押さえ込み、床から体を起こす丹沢に向き直る。俺の最後の足掻きだ。

「よく聞け。俺はな、雪ノ下や由比ヶ浜、小町…俺に関わる人間を傷つける人間が大嫌いだ。もし…今後もし俺の大事な人たちに危害を加えるようなことがあったら、俺は全力であんたを潰す。今度は何があっても止めない。文句があるなら俺に言え」

 そう言い終え、ふらふらになった俺は丹沢に背を向ける。そろそろ警察も到着する頃合いだろう。

 歩き始める俺の背中で、丹沢が目を見開いた。

「ざけんなよ! ガキに何が出来るっていうんだ。おれは出来るぞ。何なら今おまえを殺してやるよ!」

 声に振り返る俺に、丹沢の隠し持っていた短いナイフが振り下ろされた。

 再び左腕から鮮血が舞う。雪ノ下と由比ヶ浜の悲鳴が倉庫中に反響する。

「ヒッキー!」

「比企谷くん!」

 俺は、笑っていた。

 別に狂っていたわけではない。こいつの怒りが俺に向いていると確信出来たからだ。

 『…痛え。が…まあいいや。これでこいつの恨みは俺一人に…』

 やっと導けた結果に満足して刃に、丹沢に正対する。

 いや、正しくは「棒立ち」だった。

 正直もう動きたくない。いや動けない。今頃になって刃物に、恐怖に負けてしまった。

 

 その俺に対する丹沢の第二撃は、思わぬ伏兵によって阻止された。ナイフを構えた丹沢を殴り飛ばしたのは、戸部だった。

「あのさぁ、いい加減にしろやマジ。ヒキタニくんはちょっとアレだけど…超いい奴なんだよ!」

「戸部、おまえ…」

 気がつくと、戸部と並んで葉山、そして材木座。俺のすぐ前には戸塚が立っていた。皆同様に丹沢を睨み、俺を囲むように、庇うように立っていた。

「お、おまえら…」

 俺は今まで、全ての事に独りで対処してきた。俺には俺しか居なかったから。

 しかし、どこでどう間違えたのか、目の前には俺を庇う奴らがいる。

「比企谷ばかりに良い格好はさせられないからね」

 葉山。いけ好かない奴だけど。

「そうそう隼人クン、オレっちも少しはカッコいいとこ見せたいじゃん」

 戸部、お前が格好つけたい相手は海老名姫菜だけだろ。

「はちまん…大丈夫?」

 戸塚…愛してるぞ。

「うぬの身はこの剣豪将軍が守り通す!」

 材…木材?

 

 ぼっちだった筈の俺。

 その危機を、こんなにも多くの人間が守って、救ってくれようとしている。

 

 丹沢はゆらりと立ち上がる。手には長尺のナイフ。

「…てめえら。ガキの癖にちょっと調子に乗り過ぎなんじゃないか~」

 ナイフを拾い上げた丹沢が再び動き出す。

 

 




今回もお読みいただきありがとうございます。
第18話、いかがでしたか?

この作品もついに10000UA、お気に入りが50を超えました。
本当にありがとうございます。

ではまた次回に。



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19 彼ら彼女らの舞台は厳かに幕を閉じる

一人で解決に臨んだ比企谷八幡。
その周りには彼を守る者がいる。


では、どうぞ。




19 彼ら彼女らの舞台は厳かに幕を閉じる

 

6月24日 火曜日 21時57分

 

 倉庫内。

 

「…てめえら。ちょっと調子に乗り過ぎなんじゃないか!?」

 長尺のナイフを拾い上げた丹沢は、目が完全に飛んでいた。

 ふらふらと、ナイフを無意味に振り回しながら近寄ってくる。

 長い刃物を振り回すその様に、俺を庇うように立つ四人が緊張する。俺はその四人の間を抜けて再び矢面に立とうとした。その瞬間。

 

 空気を切って破裂音が倉庫の床から弾け飛んだ。

 一瞬、静寂が空間を支配する。そして全ての動きが止まった。

「いい加減になさい!」

 澄み切った凛とした声。雪ノ下雪乃だった。

 先程の音は雪ノ下が自身の拘束に使われていたロープで地面を鞭のように叩いた音だった。

 俺のすぐ隣で、雪ノ下がロープを構える。似合い過ぎていてちょっと怖い。

「あなたに忠告するわ」

 丹沢は、呆然と雪ノ下雪乃を見ている。それは俺も同様だ。

 雪ノ下雪乃から目が離せなかった。

「きゃー、雪乃ちゃんカッコいい~!」

 陽乃さんが無邪気にはしゃいでいる。実の姉に茶々を入れられた雪ノ下は少し目を伏せ、そして丹沢に向け言霊を放つ。

「これ以上彼を傷つけることは私が許さない。それから」

 彼女の携えるその眼差しは、怒りと覚悟の表れだった。

「目の腐ったヒーロー気取りさん」

 矛先は俺に向けられた。雪ノ下は俺の横に立ち、言い放つ。

 

「あなた、自分を軽んじるのはもう止めなさい。あなたに何かあったら、私も生きてはいないのだから」

 

 挨拶のような、日々聞かされる罵詈雑言のような、軽やかな声。

 さも当然のことをさらっと述べただけ。

 そんな声音だった。

 微笑を浮かべながら雪ノ下が俺を見る。その目は悲しみと慈しみに満ちた目だった。

 呆然としていると、俺の周囲には人の壁が出来ていた。

 

 前面には葉山隼人、戸部翔、材木座義輝、戸塚彩加。

 右には雪ノ下雪乃、雪ノ下陽乃、城廻めぐり。

 左には由比ヶ浜結衣、川崎沙希、三浦優美子、海老名姫菜。

 そして後方には平塚先生と妹、小町。

 全員、大なり小なり『比企谷八幡』という人間に関わり、救われた者たち。

 その全員が、一つの決意を持ってその場に立っていた。

 

 『比企谷八幡を守る』

 

 ただその為に。

 

「なんだよ、おまえら…」

 元々俺の言うことを聞くような連中ではないし、そんな間柄ではない。

「うっさいヒキオ、あーしらのしたいようにやらせろ」

「そーそー。みんなあんたには世話になってるんだ。あ、あた、あたし、も、愛してるし…」

「ハヤハチに戸塚くんが…ぐふふふふ…」

 何か違うのも混じっていたが、みんなが俺を囲んでいる。俺を蔑む為でなく守る為に。

 そして、一番後ろに陣取っていた平塚先生が先頭へ歩み出て丹沢と対峙する。と同時に鳩尾に鉄拳を一発。その拳はまさにラストブリットとなり、丹沢は胃液を吐き散らしながら崩れ落ちた。

 悶絶している丹沢を、雪ノ下と由比ヶ浜が見下ろす。

 

「あなた、八幡に何かしたら次は無いわよ」

「ヒッキーは絶対あたしが守るもん!」

 

 そして輪の中心でその光景を見つめる俺は、未だに苦悶の表情で蹲る丹沢に声をかける。

「…だってさ。丹沢さん。女はこわいね」

 すっかり毒気を抜かれた俺が丹沢に声をかけると、雪ノ下と由比ヶ浜に睨まれてしまった。反省。

「おい、そのくらいにしておけ」

 平塚先生が長尺のナイフを踏みつけて立っていた。

「ようやく警察が到着したようだ。おまえらの仕事はここまでだ」

 赤く煌く倉庫の外をサムズアップで指し、優しい笑顔をこちらに向ける。

「それから、そこのお前。丹沢とかいう奴」

 平塚先生の周りに殺気が漂う。

「これ以上私の教え子達に手を出してみろ。地獄が生温いと思えるほどに追い詰めてやるからな」

 強烈な寒気。

 最後に大人の本気の迫力を見せ付けられた。

 それは、ますます平塚先生の婚期が遠くなった瞬間でもあった。

 

「あ、それから比企谷。傷の手当と事情聴取が終わったら説教な」

 正真正銘、これが本日最後の平塚先生の殺気だった。

 

「今日のヒキタニ君、超キレキレでヤバかったっしょ」

「そうだな。今回も自分を犠牲にしようとしてた節はあるけど、な」

「隼人ぉ~あーしお腹空いちゃった。つーかケーサツ来んのおせーし」

「でも、はちまんカッコよかったなぁ…」

「皆さん、小町のおにいちゃんがご迷惑をおかけして本当にすみませんっ」

「構わないさ。あんたの兄貴にはスカラシップの借りがあるからね」

「はるさん、比企谷君って意外と男らしいんですね~ちょっといいな。うんうん」

「あら、めぐりちゃん。今頃気づいたの~? 雪乃ちゃんや私はとっくに気づいてたわよ」

「ヒキタニ君を囲む男4人…ぐふふふふうふうっふ」

「我の出番が…」

 それぞれに歩いていく後姿を見つめていると、由比ヶ浜に抱かれた雪ノ下が歩いてくる。

「比企谷くん…ありがとう」 

「ヒッキー…お疲れさまっ」

 そこで、完全に気が抜けてしまった。足はガクガクして身体を支えることが出来なくなり、冷や汗だか脂汗だかわからないものがどっと出てくる。

 丹沢は警察官に連行され、由比ヶ浜に支えられた雪ノ下がへたり込む俺の側へ歩み寄る。

「さ、事情聴取受けてさっさと帰るぞ」

 平塚先生の一言で、みんなが動き出す。

 俺と雪ノ下は、それぞれ警察官二人に両脇を抱えられて倉庫を後にした。

「ヒッキー!」

 後ろで由比ヶ浜が叫んでいる。

「さっきサキサキがいってた『あたしも愛してる』ってどーいうこと!?」

 そのまた後方で、川崎沙希の慌てふためく声がした。

 

 




今回もお読みいただきありがとうございます。
第19話、いかがでしたか。

今回で事件編は終了し、後日談へと移ります。

ではまた次回。



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20 彼女と彼女は『彼』を想う

事件は幕を下ろし、エピローグへと進みます。

ただこのエピローグがまた長そうで…

ではどうぞ。




 

20 彼女と彼女は『彼』を想う

 

6月25日 水曜日

 奉仕部 部室。

 

 部室のドアを開けた由比ヶ浜結衣さんは、窓際のいつもの席に座る私、雪ノ下雪乃の姿を見て安心した顔を見せてくれた。

「やっはろー、ゆきのん」

「こんにちは由比ヶ浜さん」

「昨日は、た、大変だったね。ゆきのんは…大丈夫?」

 由比ヶ浜さんの気遣いが心地好い。でも、あなたが本当に心配しているのは誰かしら。

「ええ、私は大丈夫よ。たいしたケガも無いし」

 そう。私は彼のお陰…かどうかは別にして、幸いにも軽症で済んでいた。

「…ゆきのんよかった~、本当に無事でよかったよ~」

 喜びの感情を涙と熱い抱擁で表現する由比ヶ浜さんに、私の頬も緩んでしまう。

「今回みんなには、家のことで迷惑をかけてしまったわ」

 由比ヶ浜さんは、今回の事件の裏で葉山を始め色んな人たちが動いてくれていたことを説明し始めた。

「そう。葉山くんと比企谷くんが私の身辺警護を…」

「うん、でもね。それってヒッキーが葉山くんに頼んだんだよ」

 由比ヶ浜さんは、あの日…比企谷くんの頼みで葉山くんを呼び出したときのことを語ってくれた。

 

 * * * * *

『葉山、おまえの力を貸してくれ』

 俺は、初めて葉山に頭を下げた。これで足りなかったら土下座も覚悟していた。

『…わかったよ。比企谷が僕に頭を下げるなんて、なかなか見られない光景を見せてもらったし。微力ながら協力させてもらおう』

『おい葉山、勘違いするなよ。俺は頭を下げることなんて朝飯前だ。本気を出せば土下座も余裕だ。それが俺のプライドだ』

『ヒッキー、それってプライドない人のセリフじゃん…』

 

 * * * * *

 話題は事件当日、つまり昨日の比企谷くんへと移る。

「今回のヒッキー、すごかったねぇ」

 本当に嬉しそうに、由比ヶ浜さんが彼を語る。

「ええ、彼があんなに暴力的だとは知らなかったわ。気をつけないと」

 そう言い終わらないうちに由比ヶ浜さんの視線を感じる。

「…ゆきのん、それ違うよ」

 思わず俯く私に、諭すように言う。

「ヒッキーはね、きっと自分がいくら傷つけられても暴力なんかしない。でも、今回は…」

 そこで由比ヶ浜さんは言葉を止めた。

「こ、今回は…?」

 怪訝そうに由比ヶ浜さんの顔を見上げるが、当の本人は目を逸らしたままだ。

「んー、やっぱ言わない」

 ぷいと顔を背けて頬を膨らますその可愛らしい仕草は、いつもの見慣れた由比ヶ浜さんのそれであった。

「ふう…言いかけて止めるのは良くないわよ。夢見が悪くなるわ」

 由比ヶ浜が言いたかった言葉の続きは、私も薄々は感づいていた。

「だって…言うのなんか悔しいもん。ゆきのんだけ名前で呼ばれてたし、ゆきのんも何回か八幡って呼んでた気がするし~」

 更に頬を膨らませた由比ヶ浜さんの顔が、何だかとても愛おしく感じる。同時に、私はその時初めて、比企谷くんに『雪乃』と呼ばれていたことに、比企谷くんを『八幡』と呼んだことに気づいた。

「あ、あれは…あの場には姉さんも小町さんもいたから、区別のために名前で呼んだに過ぎないわ。比企谷くんもきっとそうよ」

 私らしくない、歯切れの悪いお粗末な説明。

「そうかなぁ、あんなに我を忘れて怒鳴ってるときに、そこまで気を遣えるかなぁ」

 ジト目でこちらを見るのはやめて欲しいわ、由比ヶ浜さん。

「それにさ。ヒッキーがあんなに怒ったのは、ゆきのんだからだと思うんだ」

 それは先程言うのを止めた言葉。由比ヶ浜さんの本心。

 でも違う。彼ならばきっと。

「…それは勘違いよ。あなたが同じ目に遭っても、きっと彼は同様に怒っていたと思うわ」

 彼は人のためだけに本気で怒れる人。それが私の、本心。

「そうかなぁ」

「そうよ」

 まだ腑に落ちない顔をしている由比ヶ浜さんに、話題を変えるように問う。

「それで、彼の、比企谷くんの具合はどうなのかしら?」

「それがさぁ…」

    ☆     ☆     ☆    

 

 俺は痛みを我慢して部室のドアに指先を引っ掛け、ゆっくりと開ける。

「うす」

「あら比企谷くん、ど…!?」

 雪ノ下が目を見開く。由比ヶ浜はニヤニヤと笑っている。

 俺は、そんな二人を見て憮然とした。

「…なんだよ」

 俺の左手には上腕まで包帯が巻かれ、右手はギブスで固定されて吊られ、かろうじて指先だけが出ている状態。

「ヒッキーったら、こんな状態なんだよ~」

「ぷっ」

 自分を助けてくれたヒーローのなれの果ての情けない姿を見て、雪ノ下は笑っている。

「おい雪ノ下、けが人を笑うんじゃねえ」

 敢えて『おまえを助ける為に出来た傷だ』と言わない、奥ゆかしい俺。

「だ、だって、まるでミイラ…あなた、目だけでなく手まで腐ってついにミイラに…」

 ケラケラと笑い出す雪ノ下。それを呆然と見る由比ヶ浜。

「ゆきのんがこんなに笑うの、はじめて見た…」

 雪ノ下の笑いは止まらない。ついには涙を流しながら笑っている。

「おまえ、血も涙もないな」

 ムスっとした顔で雪ノ下を睨む。

「そんなことないってば。ほら、こんなに涙を浮かべてるじゃない」

「そりゃ笑いすぎの涙だろ」

 必死に笑おうとする雪ノ下の真意が見抜けてしまった俺は、あえて言及しない。

 云わぬが花である。

「あー、はー、あははははははははは…」

「もういいって」

 

 目の前の紅茶が冷めた頃、場は落ち着きを取り戻し。

 

「そういえばさ、何で一週間ごとに事件を起こしたんだろ」

「それはきっと、仏教の四十九日を意識したんだろうぜ」

 四十九日は、仏教において人が亡くなってから極楽へ行くまでの期間。その間、一週間ごとに生前の行いについて審判が下されるという言い伝えがある。

「だからその審判の日に、亡くなった人が極楽へ行けるように追善供養をするという訳だな。ちなみに今回は全く逆の意味だがな」

「へぇ~ヒッキー、物知りだね」

「あら、結構有名な話よ。『中陰』と言い換えれば解るかしら」

「中陰のほうが難しいと思うぞ」

「えー、ゆきのんも知ってたの!?」

「勿論よ。常識だもの」

「…むぅ」

 不機嫌そうに頬を膨らます由比ヶ浜を見て、日常が戻ってきたのだと実感した。

 

 




今回もお読みいただきありがとうございました。
第20話、いかがでしたでしょうか。
今回は事件の回顧と平和が戻った奉仕部の話。
そしてこの物語はもうちょっとだけ続きます。

ではまた次回。



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21 素直でない彼女と捻れた彼

 

21 素直でない彼女と捻れた彼

 

同日 奉仕部部室。

 

「…手、痛い?」

 息がかかりそうなくらいにぴったりと椅子を寄せて、心配そうに声をかけてくる由比ヶ浜。その手は、俺の名誉の負傷に巻かれた包帯を優しく撫でて労わる。

「ん、ああ。少しな」

 その様子を横目で見ていた雪ノ下は、ふっと笑みを零す。

「まったく、慣れないことをするからよ。あなたケンカなんてしたことないんでしょう」

「ま、俺は平和主義だからな」

 そこに的を射た毒舌が飛んでくる、はず。

「だってケンカには相手が必要ですものね。ぷっ、くっくっく…」

 ほら、きた。想定内だから悲しくないもん。つーか、まだ笑うのかおい。

「…ぼっちで悪かったな」

 

 何とか使える左手でバッグを開けようとするが上手くいかず、それを見かねた由比ヶ浜が代わりにバッグのファスナーを開けてくれた。

「お、サンキュ」

 まだ笑いで肩が揺れている雪ノ下は、冷めた紅茶を淹れ直す。

「はい。くっくっく…」

 俺は不機嫌な顔をして溜息をつき、包帯ぐるぐるの左手で紅茶の湯飲みを手に取ろうとする。

 カチャン

「痛っ!」

 湯飲みを持とうとした左手に痛みが走る。

 脊椎反射のように由比ヶ浜が近づく。さっきまで笑っていた雪ノ下も慌てた顔で椅子を鳴らす。

「大丈夫、ヒッキー!?」

「ああ、だいじょう…ぶ」

 二人の慌てふためく姿に、少々ばつが悪くなる。

 しかし困った。せっかく淹れて貰った紅茶が飲めない。などと思案していると、何故か由比ヶ浜はニコニコしながら俺の紅茶の湯呑みを持っている。

「はいヒッキー、あたしが飲ませてあげるね」

 不覚にも凄く可愛いと思ってしまった。それを察したのか赤面する由比ヶ浜が、湯気が立つ湯呑みを俺の口元に近づける。

 雪ノ下の冷たい視線が刺さる。

「あ、ああ…どうも」

 由比ヶ浜の持つ指に触れないように気をつけながら、湯飲みに口をつける。

「…熱っち!」

 やっぱり熱かった。だって淹れてもらったばっかりだもん。

「あ~ごめんごめん」

 再び雪ノ下が笑い始める。

「いい…冷めるまで待ってストローで飲む」

「あ、じゃあストロー購買でもらってくるね。ついでにお菓子も買ってくる」

 由比ヶ浜はてとてとと、髪のお団子とたわわに実った何かを揺らしながら走って部室を後にした。

 

 俺、比企谷八幡と雪ノ下雪乃。

 二人残された部室。

 由比ヶ浜は購買に行き、ここにはムードメーカーもゲームメーカーも不在。

 つまり、落ち着けない。なんかソワソワ、ムズムズ、モジモジなのだ。

 ちなみにさっきから背中が痒いのだが俺の両手は今アレなので掻けなくて、そういう意味でもモジモジなのである。

「あ、のよ」

「…何かしら」

 背中を掻いて欲しい、とはいえない。

「いや、大丈夫だったか?」

 今朝まで続いた事情聴取と平塚先生のお説教のせいで、今まで一番大事なことを確認できずにいた。

「…まったくあなたは」

 呆れた目をして俺を見る。

「自分が怪我しているときくらい、自分の心配をして置きなさい」

 雪ノ下の目が潤んでいる。それを直視すると赤面してしまいそうなのですぐに目を外す。

「るせぇ。大丈夫だったかって聞いてるんだよ。つーかおまえだって今日ぐらい休んでも…」

「あなたが登校しているのに、私が休める訳ないじゃない」

 憎まれ口を始めようとした俺の耳に目を潤ませた雪ノ下の言葉が飛び込んできて、俺は二の句を失った。

「…私は大丈夫よ。ありがとう、貴方のおかげだわ。それと、ごめんなさい。姉さんがあなたに依頼なんてしなければこんなことには…」

 温かい微笑。それは次第に曇っていく。

 陽乃さんに依頼されなければ、雪ノ下を助けに行くことすら出来なかった。俺は陽乃さんの先読みの恐ろしさを実感しながら、その実機会を与えてくれたことに感謝していた。

 その前にまず警察頼れ、って話だけど。

「え、えーと、その…怖かった、ろ?」

 恥ずかしかったせいか、避けるべき一言を放ってしまった。そんなの聞くまでも無く、怖かったに決まっている。

「怖かったのは途中までよ。貴方が来てくれてからは…全く怖くなかったわ」

 何かこう、甘ったるい、MAXコーヒーのような空気が漂い始めたと感じるのは俺だけだろうか。

「そっか。ならいい」

 その空気を払拭するように、いつものように努めてぶっきらぼうに答える。

「そうよ。濁った目をしたヒーローさん」

 そう呟いて、雪ノ下は頬杖を突き俺を見る。くすっと笑うその顔が堪らない。また空気が一段と甘くなった。

 気恥ずかしくなって目を逸らすと、雪ノ下は俯いて語り出す。

「…あなたには、たくさん迷惑をかけてしまったわ」

 鼻にかかった声色で話す雪ノ下の頭を撫でられないのが少し悔しい。きっと今なら高確率で雪ノ下をデレさせられるのに。今は手の怪我が恨めしかった。

「もういいって。無事だったんだ」

 ふっと顔を上げて、真っ直ぐな目で俺を見る。

「あなたは無事で済まなかったじゃない。あなたはそんな怪我を…」

 雪ノ下は立ち上がり、つい先程まで由比ヶ浜が座っていた席へ、俺のすぐ横へ来た。そして俺の両手に自身の両手を重ねる。あくまで優しく、怪我に障らないように。

「…痛む?」

「…どうってことねぇ」

 安っぽい強がりを吐く俺に雪ノ下の息が。

「嘘。痛いくせに」

 しばらく俺の手を撫でていた雪ノ下が、雫を落とす。

「…弱い手」

「だからうるせえっ…て!?」

 俺の目の前に、涙を流しながら俺を見つめる雪ノ下の顔があった。

「この手で、この傷ついた手で…私を守ってくれたのね」

 いつもの部室。いつもの空間。その筈なのに。

「殴って骨折なんて格好悪いけどな」

「それは謙遜よ。あなた、格好良かったもの」

 いつもより優しい視線。いつもよりも丸みと熱量を帯びた言葉。それだけで、たったそれだけで別世界に来てしまった気持ちになる。

「貴方の、貴方が来てくれたおかげで、私は全く怖く無くなったわ」

 互いの吐息がすれ違う距離。

「おい、顔が近いって…」

 俺の抵抗は、目の前の少女の、涙を従えた笑顔には無力だった。

「ありがとう。そして…」

 雪ノ下の唇が俺の顔のすぐ手前まで接近して震えている。吐息が熱く感じる。

 ほんの、あと5ミリメートル。

 

 




今回もお読みいただきありがとうございます
第21話、どうでしたか?
そういえばこの話にはラブコメ要素が無いな~と思い今回の話を書きました。

ではまた次回。



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22 彼女は彼女の光となる

22 彼女は彼女の光となる

 

 部室のドアが軽快な音を立てて開く。

「たっだいま…あ、あ~っ!ゆきのんがヒッキーにえっちなことしてる~」

 善し悪しは別にして、タイミングを見計らったように由比ヶ浜が戻ってくる。

「あ、こ、これは…違うのよ違うのよ違うのよ…」

 ささっと俺から離れて本来の窓際に戻ると、雪ノ下は本を開いた。

「…ゆきのん、本が逆さまだよ」

 古典的なボケを天然でかます雪ノ下。由比ヶ浜の視線は更に鋭さを増す。

「んー、怪しいなぁ」

 一瞬ぷぅと膨張したかと思ったら、思い立ったようにニヤニヤしてこっちを見る由比ヶ浜。悪だくみを伴った笑顔。

「でもさ、その手じゃ不便だよね。いろいろ」

 狼狽する雪ノ下を放置して話題を変える。ころころと、表情も話題も忙しい奴だな、由比ヶ浜よ。

「ん、ああ。まあ一ヶ月の辛抱だな」

 一瞬だけ二人の女子の表情が固まる。

「い、一ヶ月も!?」

 あくまで冷静に事実だけを伝えたつもりだった。そこには誰を責める気持ちも、同情を誘う気持ちも無かった。しかし雪ノ下も由比ヶ浜も沈痛の表情になってしまった。

 慌てて俺は言葉を継ぎ足す。

「あ、ああ。左手は切り傷と捻挫と打撲で済んだが、右手は折れちまったらしいからな。」

 雪ノ下の目にまた涙が溢れる。もう泣かせたくはないのに、また失敗しちまった。

「あー、別におまえ…たちが気に病むことではないからな」

 そうだ。俺は雪ノ下陽乃さんの依頼を遂行したに過ぎない。 

「…ゆきのん」

 涙ぐむ雪ノ下を抱き寄せ、髪を撫でる由比ヶ浜。いつもは甘えている由比ヶ浜が、今日はお姉さん役。逆ゆるゆり。いや逆になっても女子どうしだから同じか。

 雪ノ下から体を離し、深呼吸をひとつ。由比ヶ浜は語り出した。

「ヒッキーのケガは、ゆきのんを守るためにしたんだよね?」

 突然責めるような台詞を吐いた由比ヶ浜を睨む。

「いや別にそういう…つーかおまえ、そんな言い方したら…」

 雪ノ下が俺の羅列を断ち切る。

「そうね。私のせいね」

 同意した雪ノ下に正直驚く。つーか俺の意見は無視ですかそうですか。

「だったら、やっぱり今ヒッキーの面倒はゆきのんが看るべきなんだよね」

 それはお門違いだ。俺は自分のやりたいようにやっただけで、この怪我はただの結果だ。

 しかし雪ノ下にしてみれば、俺の怪我は自分を助けるために負った、そう考えてもおかしくは無い。それは自分自身を責める材料となり得る。

 それを解った上で由比ヶ浜は、俺の怪我の責任は雪ノ下にあると言い放ったのだ。責任の所在を明らかにしその贖罪の方法を提示することで、雪ノ下が必要以上に自分を責めずに済むようにするために。

 由比ヶ浜は由比ヶ浜なりに、雪ノ下の罪の意識を薄めることを考えていたのだ。少なくとも俺にはそう解釈できた。

「由比ヶ浜さん…」

 事実、赦される方法を示された雪ノ下の表情は明らかに軽くなっていた。

「その代わり」

 びしっと人差し指を立てて、由比ヶ浜は宣言する。

「元気になったらちょっとヒッキー独占させてね~」

 元気になったらという言葉が示すのは、俺の怪我が全快したら、ではない。雪ノ下の良心の呵責が消えたら、という意味なのだろう。

「…仕方ないわね。わかったわ」

「おいおまえら、俺に関わることを俺抜きで決めるな」 

 俺のことなのに俺が蚊帳の外。何という理不尽さ。

 しかし今回は、雪ノ下の思うようにさせてやりたかった。それで少しでも雪ノ下の心の重荷が軽減されれば良いと思った。

「…わかった。大人しく面倒を見られりゃいいんだろ。今だけな」

 出来るだけ不本意を装って応えるのは、由比ヶ浜への最低限の配慮だ。

 雪ノ下は深々と由比ヶ浜に頭を下げた。

「ありがとう、由比ヶ浜さん。では比企谷くんを少し借りるわね」

「おい、俺は賃貸物件じゃねえぞ」

 雪ノ下の言葉は、贖罪の機会を作り与えてくれた由比ヶ浜への、心からの感謝だった。

 

 部活終了後。

 雪ノ下がどうしてもというので、晩飯を食べに雪ノ下のマンションへ来た。

 まあ、メシをご馳走になるくらいで雪ノ下の気持ちが軽くなるならそれでいい。

 由比ヶ浜は三浦たちと今回の事件の打ち上げに行った。事件の打ち上げって何だよ。まあ、今回は結果的にみんなの手も借りたからな。

「少し座っていて。用意するから」

 二人掛けのソファーに座らされた俺は、両手の怪我のおかげで本を読むことも出来ず、スマホを触ることも儘ならず、手持ち無沙汰のまま座っていた。

 キッチンから漏れ聞こえる調理の音と、時計の針の音が響くリビングで待つこと約1時間。

「おまちどおさま」

 ダイニングテーブルに促されると、そこには食べきれないくらいの料理が並んでいた。

「お、おい、これって」

 エプロンを外しながら笑顔を向ける雪ノ下に少々照れる。

「助けてくれたお礼よ」

 それにしても、手の込んだ料理ばかりが並んでいる。とても1時間そこらで作れるようなものではない。事前の下拵えでもしておかないと一時間では無理なものばかりだ。

 椅子を引いてもらって席に着く。目の前にはナイフもフォークも用意されていない。

「ところで、ナイフもフォークも無いんだが」

 なんだ、期待させておいてお預けプレイか。それも悪くないと思える俺は変態なのだろうか。

「あなた、その手でナイフやフォークを使うつもりなの?」

 スツールを俺の席の横に置いた雪ノ下は俺の膝の上にナプキンを敷き、目の前の料理をナイフで切り分け始めた。そして。

「…あーん」

 とりあえず状況を整理したい。ここは雪ノ下のマンション。目の前には豪華な手料理。

 そして今、雪ノ下が『あーん』って。

 『あーん』って。

 『あーん』…って!?

「早く、あーん」

 上手く状況を把握できないが、そういうプレイなの? 餌付けプレイなの?

 横にいる雪ノ下の顔が真っ赤になって、その温度が伝わってくる。

「その、早く食べてくれないと…恥ずかしいのだけれど」

「あ、ああ。悪い」

 俺まで赤くなる。赤い顔のまま口を開ける。雪ノ下の顔が真横にある。気恥ずかしさで俺は目を閉じる。お、これは肉か。

「…美味い」

 本当に美味かった。きっと高価であろう上質な肉を適度な歯ごたえがある感じに丁寧に焼いてあって、その上にかけられたグレービーソースも甘すぎず辛すぎず、絶品だった。

「ありがとう」 

 俺の咀嚼を笑顔で見つめるな。まさか噛んだ回数でも数えていらっしゃるのか。

「ね、今度はどれが食べたいの?」

「じ、じゃあ、それ」

「はい。少し待ってね」

 俺が目で指し示すだけの料理をさも当たり前のように的確に、次々と雪ノ下は食べさせてくれた。

「ちょっと待て。これじゃお前が食べられない…」

「いいの。私がこうしたいのだから。それに合間に私も食べるから気にしないで」

 さっき俺に食べさせたフォークで、同じ皿の料理を自分の口にも運んでいる。

 こ、これが、噂に聞くアレか。間接…間接フォーク。いや待てなんか違う。

 どう表現すればいいのだろう。無理だ。こんな体験初めてだもの。初体験だもの。きゃっ。

「そ、そっか」

 結局雪ノ下は、小一時間をかけて俺に晩飯を食べさせてくれた。

 ちなみに一番恥ずかしかったのは、スープを飲んだ後に口を拭ってくれた瞬間だ。

 

 




今回もお読みいただきありがとうございます。
第22話、いかがでしたか?

日常の話って難しい。
ラブコメって難しい。
結果、文章書くのって、すごく難しい。

ではまた次回。


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23 彼は彼女に翻弄されまくる

雪ノ下雪乃のマンションに招かれた比企谷八幡。
そしてふたりは。

ではどうぞ。


23 彼は彼女に翻弄されまくる

 

 雪ノ下雪乃のマンションのリビング。

 

 ソファーに戻って、紅茶を飲む。といっても満足に両手の使えない俺は、隣に腰掛けた雪ノ下に飲ませてもらっている。

「なんか、かえって悪いな」

「いいえ。気にしないで欲しいわ。それに」

 カップを皿に置いた雪ノ下の頭が、俺の肩にとんっ、と乗せられる。

「私、今幸せよ」

 

 『あなたに何かあったら、私も生きてはいないのだから』

 ――あの時の雪ノ下の言葉が甦る。

 

 今、あらためて実感している。

 雪ノ下の上目遣いは凄まじい威力だ。

 頭がクラクラするほどの破壊力を持っている。

 雪ノ下クラスになると空気感染型の神経毒を体内生成できるのか、などと下らないことを考えていないと、すぐに魅力に負けてしまう。いやすでに不戦敗だ。白旗上げまくりである。

「私の事を必死で守ってくれた人。私を救ってくれたナイト…いいえ、ヒーローさんに私の料理を食べてもらって、一緒に紅茶を飲んでくれている。すごく幸せなことよ」

 俺のシャツの襟元が雪ノ下の吐息で微かに湿気を帯びる。

「別に俺は、お前じゃなくても同じようにしたと思うぞ」

 それは半分本心で半分嘘だった。俺はきっと、他の誰かが傷つけられても怒るに違いない。しかし、ここまで俺にさせてしまう人間は限られる気がする。

「知っている、いいえ、解っているわ。あなたは優しいもの」

 虚も実も、全てを見透かされそうな雪ノ下の目。

「あなたは、私を含めてみんなを守ろうとする。私の為に…こんなケガまでして」

 雪ノ下の光が弱くなり目に涙が溜まる、が、すぐに決意の目に変わる。

「だから私は、そのあなたを守るわ。全力で」

 そう言い放つ彼女は、柔和な笑顔と優しい光を放っていた。

「おまえ、何を…」

「言ったはずよ。あなたに何かあったら、私も生きてはいないと」

 瞬時には理解出来なかった。何しろ俺にはこんな経験は無い。皆無。南無。

 挙句俺は、解に到るまでに数秒を要した。

「おまえ、それって…」

 まさかとは思うが一応問う。

「ええ、一応…告白のつもりよ」

 くすっと笑う雪ノ下。そしてこの事態に対応しきれない、あわあわしてる俺。

「でも、まだ応えてくれなくていいわ。あなたを好きなのは私だけではないから」

「ほ、他に誰がいるってんだよ」

「由比ヶ浜さん」

 即答だった。

「それに、川崎さん、一色さん、城廻先輩、もしかしたら姉さんも。あ、勿論小町さんもね」

 想像力豊かなのは結構だが、全く思い当たる節が無い。小町以外は。

「なんだよそれ、ぜんぜん身に覚えがないぞ」

 構わず雪ノ下は続ける。

「あと平塚先生も、かしら。そう考えてみると…あなたは相当な女たらしなのね」

 そう自分で結論付けて、額に手をやり溜息をつく。

「だから知らないって」

 しかし話は進んでいく。俺の意思とは無関係に。

「こんな女たらし、好きになったのは間違いだったのかも」

「おいおいちょっと待て、全部仮定の話だろう」

「…女どうしって、何となくわかるのよ」

 

「私は、あなたを知ってからずっとあなたを見てきたわ。気づかれないように」

 おいおい、どこの女スパイだよ。

「だから、あなたが好意を向けている相手もわかるわ」

 心臓を掴まれた気がした。俺の想いも解っていたんだと思うと、自然と顔が紅潮してしまう。

「でも、まだ選ばなくて良いわ。何よりあなた自身がそれを望んでいないもの」

 氷の女王は、その冷たい視線で万物を見通す。まさしくそんな感じだ。

「おまえ、エスパーか。」

「言ったはずよ。ずっとあなたを見ていたと」

 あらためて言われると恥ずかしいな、こういうの。

「あなたに最初に抱いた感情は、苛立ちだったわ」

 お互い苦笑いを浮かべる。

「出だし最悪だな」

「そうかしら、私は悪くないと思っているわ。今となっては、だけれども」

「あなたが抱えるものを少し理解できた頃に、苛立ちの原因に気づいた」

「まるで鏡を見ているみたいだったのよ。私が貴方を見ていて苛立ったことは、そのまま私に当て嵌まったの」

「性格も性質も違うのに、抱える物は共通のものが多かったわ。貴方のことだから、私より先にそれに気づいていたのかも知れないけれど」

 そうだな。そうかも知れない。

「そうやってあなたを観察しているうちに、もっと貴方のことを知りたくなった」

「観察って、学術的興味かよ」

「それに近いのかも知れないわね。探究心が止まらないもの」

 そのうち論文とか書くんじゃねえだろうな。ぼっちの論文なんか書いても需要は無いぞ。

「そして…文化祭、修学旅行」

 背筋が寒くなる。嫌な思い出。一度は関係を壊し始めた思い出。

「あなたは自分を悪者にすることで事態の解決を図ったわね。その時気がついたの」

 雪ノ下の言葉の間隙を縫って、壁の時計の秒針が音を響かせる。

「貴方の行動原理と、私自身の気持ちに。だから私は更に苛立ちを覚えたの。自分の無力さと共に、ね」

「貴方は、他人が傷つく前にまず自分を傷つける人。被害が自分だけで済めば善しとしてしまう人」

「貴方を守りたいと思い始めたのはその頃かしら」

「だって、放っておくと貴方は他人の為に自分ばかり傷つけて、やがて壊れてしまうもの。それは嫌だわ」

 短い沈黙の後、雪ノ下は立ち上がった。

「…紅茶が冷めてしまったわね。淹れ直してくるわ」

 

 一人残されたソファーで俺は雪ノ下の話を頭の中で反芻していた。

 おそらくは、雪ノ下の話した内容は全て正しい。俺の考えや心の中を見透かされていたのは癪だったが。

 そして、そのうちひとつの『解』にたどり着いてしまった。正解が誤解かは、まだ解らない。その正誤は、これからの時間の中でゆっくり実感していくのだろう。

 

 雪ノ下が紅茶を運んできた。そして俺の口元にカップを寄せる。ふわりと紅茶の香りに包まれた後、その香りは口の中に広がり、鼻孔へと抜ける。俺の飲み頃の温度。

「なあ雪ノ下」

「なにかしら?」

 雪ノ下はカップを置いてこちらに向き直る。

「俺も言っておきたい、伝えておきたい」

 もう、観念してしまおう。

 目の前のこいつに、全部見せてしまおう。

 俺の頭の中を。気持ちを。紆余曲折を経て、ようやく導かれようとしているものを。

「別に、今どうこうという話じゃないが…」

 

「奉仕部に入って、気づいたことがある」

「俺が、実は優柔不断だってことだ。今までぼっちだったから気づかなかった。選択肢が無かったからな」

 雪ノ下は真っ直ぐな目で俺を見る。俺は少し視線を外し、深呼吸。吐く息が震える。そしてもう一度雪ノ下をしっかりと視界の正面に捉える。

「雪ノ下、俺はおまえが好き…なようだ」

 一瞬、雪ノ下の笑顔が弾け、すぐに微笑に戻る。

「そう、ありがとう。でも由比ヶ浜さんも好き…なのでしょう?」

 図星。でも、もう隠さない。

「ああ。たぶん、そうだ。」

 雪ノ下は、やっぱり…と言いたげに溜息混じりに笑う。

「俺はずっと『ぼっち』だったからな。同時に二人を好きになるなんて思わなかったし、何より認めたくなかった」

「だから二人から遠ざかろうとしたし、リセットしようとした」

 雪ノ下は紅茶で俺の喉を潤してくれた後、同じカップを自分の口に運ぶ。しばしその光景に心を奪われた。が、まだ全部出し切ってはいないことに気づき話を続ける。

「でも、リセット出来ないことに…気がついた」

 こんな最低な吐露を、雪ノ下はしっかりと聞いてくれる。

「それからは、三人でずっと居られたら…なんて都合のいいことを考えたりもした」

「あなたは、そんな自分が嫌だった」

 やっぱり、雪ノ下も気がついていた。知っていた。

「…そうだ。激しく自己嫌悪した」

 そこまで告げた俺は、この先告げなければいけない事を考えて、躊躇した。

「…続けて?」

 雪ノ下は俺の髪を撫でながら、俺の言葉を、吐露を待つ。

「…文化祭のとき、そして修学旅行のとき。俺の行動には、事態の解消の他にもうひとつの意図があった」

 それは。

「おまえに、おまえと由比ヶ浜に愛想を尽かしてもらう事、だ」

 言ってしまった。もう取り返しはつかない。ここで全て終わろうとも。

「でも残念ね、そんなことでは私は、私たちはあなたを嫌いにならないわ。哀しくはなったけれど」

「そうだな。そこで俺は計算違いをしていたんだな」

「また嘘を言ったわ、貴方」

 くすっと笑いながら、柔らかく俺を否定する。

「…ああ。本当は、二人に嫌われたくなかった。でもいつかは嫌われてしまう。壊れてしまう。そう思った。だからあの時の俺は、逃げることを考えた」

 俺が喋り終わるのを待っていたように紅茶を含み、雪ノ下は問う。

「ひとつ聞いてもいいかしら」

 

 




今回もお読みいただきありがとうございます。
第23話、いかがでしたか?
雪ノ下雪乃と比企谷八幡のじれったい感じが堪らなく好きです。

ではまた次回。


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24 彼女は彼に償いを以って甘える

24 彼女は彼に償いを以って甘える

 

 雪ノ下雪乃のマンションのリビング。

 相変わらず雪ノ下は、俺に寄り添うようにソファーに身を沈めている。

「ひとつ聞いてもいいかしら」

「あなたが逃げたかったのは…私達から?それとも自分の感情から?」

 俺は、沈黙を答えとする他は思いつかなかった。それを察したのか、

「意地悪な質問だったわね。答えなくていいわ。知っているから。そのどちらでもないのでしょう」

雪ノ下は逃げ道を用意してくれた。

「おまえ、本当にすごいな」

「好きな人のことだもの。解るわ。きっと由比ヶ浜さんも解っているはずよ。あなたが逃げたかったのは…」

「それは言わないでくれ」

 最後まで言われたら、きっと俺は…。

「自分でもそうならざるを得ないのは解っているが、俺の準備が出来ていないんだ。対応し切れていない」

 何だか自分で言ってて情けなくなってきた。

「…そうね。ぼっちが長かったんだもの。少しずつリハビリしていけば良いわ。貴方も、私も」

 そういって笑う雪ノ下に、嘘は感じられない。

「リハビリかよ、怪我人だけに。…でも、少し救われた」

 

「それはそうと、抜け駆けってあなたはどう思う? 卑怯だと思うかしら」

「急に話が変わるな、おまえ」

 雪ノ下の意図が理解できないまま、答えを考える。

「抜け駆けか、別にいいんじゃないのか。後でちゃんと筋を通せれば」

 俺は、条件付きの肯定という結論を出した。

「そう、少し安心したわ。なら」

 流れるような黒髪を手櫛でかき上げて、俺を見つめる。

「目を…閉じて」

「な、なにが…?」

 俺が言い終わらないうちに、雪ノ下の顔が近づき、そして。

「…!」

 柔らかな感触を俺に残して、雪ノ下は顔を離す。

「お、おまえ急に何を…」

 破裂しそうな心臓。飛び出しそうな動脈。

「その…部室で、途中だったから」

 

 それは、頬への軽いキス。

 そして、抱擁。

 

 口唇じゃなくて安心したような残念なような感情が渦巻く。

 いや、これで良かったのだ。

 むしろこの状況も俺には余りあるし、持て余しているのだから。

「やめろって、俺昨日風呂入ってない…」

 雪ノ下の両腕が首や背中に回されているこの状況下、急に自分の体臭が気になった。

 が、雪ノ下はそんなことお構いなしに俺の胸に顔を擦り付けてくる。まるで、自分に俺の匂いを染み込ませるように。俺に雪ノ下自身の匂いを染み込ませるように。余談だが、ちょっとだけガーリックトーストの気持ちがわかった気がした。ほんと余談だった。

「仕方ないわ。両手を怪我してるんだもの。それに貴方の匂い、好きよ」

 しばしそうしていた雪ノ下が、ふと俺の顔を至近距離で見上げる。

「そうだわ、気になるのなら身体を洗ってあげましょうか」

 きっと純粋に微笑んでいるであろう雪ノ下の顔は、俺の邪心フィルターにより妙に艶かしく映る。

「いい、いいから」

 雪ノ下に見せられっこない。特に、今の下半身は。だって邪心フィルターのせいですでに…

「そう、残念ね。あなたの肌にたくさん触れるチャンスだったのに」

 こら俺の下半身よ、分不相応な期待はやめろ。今日は何もご馳走は無いぞ。

「お、おまえ、さりげなくすごいこと言うな」

 本心を吐露した雪ノ下の加速力は凄まじい。初めて知った真実。

「あら、触れたいのはただの本心なのだけれど」

 今日の雪ノ下はすごく攻撃的だ。いつもとは違う意味で。

 少し悩んだ雪ノ下は、

「じゃあ、折衷案を提示するわ」

 と言って、また俺の髪を撫でる。

「頭だけ洗ってあげるわ。それだけでも気分が変わると思うし、私も満たされるわ」

 結局、雪ノ下の勢いに押されて風呂場まで来てしまった。

 

 初めて見る、女の子の家の風呂場。シャンプーみたいなボトルが数本並んでいる。

「…なぜあなたは前屈みになっているのかしら?」

 理由はある。だが、言えない。言えるはずはない。男性諸君なら解ることだ。

「馬鹿、立ったままじゃ頭洗えないだろ…」

「勃ったまま…」

 国語学年一位の雪ノ下さん、漢字変換を間違えてますってば。

「はあ…興奮するのはわからなくもないけれど」

「だから違うって!」

 いや実際は違わない。だからこその前屈みなのだ。

 

「…熱くない?」

「あ、ああ、大丈夫」

 俺は何をして、いや、されているんだろう。こんな夜更けに女の子の部屋のお風呂で、その女の子に頭を洗ってもらっているなんて。しかも相手は最高の美少女だ。

 しかもその美少女、雪ノ下雪乃は上機嫌で、鼻歌を歌いながら俺の頭を洗っている。

「さあ八幡、流すから目をつぶって~」

 おいこら、どさくさ紛れに俺を名前で呼びやがった。嫌じゃないが。

 それにしても優しい洗い方だな。すごく気持ちいい」

「そう? よかったわ」

「ん?」

「だって今、気持ちいいって…」

 しまった、声に出てた。しかも雪ノ下はますます上機嫌。

 軽く髪を絞って水分を抜いて、ふわふわのタオルで拭いてくれる。思わず顔の力が抜ける。

「何その顔。すごく気持ち悪いわ」

 といいながら俺の頬を撫でてケラケラと笑うのはなぜですか雪ノ下さん。

 

 ソファーに戻って、ドライヤーで乾かしてもらう。

 美容室でするようにやんわりと温風を当てながら、くしゅくしゅと俺の髪に手櫛を通す。

 その行為のあまりの気持ちよさに、迂闊にも眠ってしまった。

 

 




今回もお読みいただき、ありがとうございます。
第24話、いかがでしたか。

この物語も、もう少しで終わりとなります。

ではまた次回。


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25 彼と彼女は隠せない

雪ノ下雪乃と一夜を過ごした比企谷八幡。

疑念を抱く由比ヶ浜結衣。

さて、どうぞ。




25 彼と彼女は隠せない

 

 翌朝。見慣れない空間の中。

 聞き慣れた声の、聞いたことのない優しい声音によって俺、比企谷八幡は目を覚ました。

「小町~あと5分だけ…」

「残念だけど小町さんではないわ。起きなさい」

 時間を確認しようと、ごそごそとスマホを探そうとして自身の両手の怪我に気づく。

「…っ」

 その痛みによりやや覚醒した俺は、今自分が沈んでいる大きなソファーから身体を起こす。

 背中の柔らかく添えられた手に助けられて、そのままソファーに座った。

「おはよう比企谷くん。やっとお目覚めかしら?」

 背中を支えてくれた手の主である雪ノ下雪乃は、優しい微笑で俺を包む。

「お水、飲む?」

 そういう雪ノ下の手には、すでに水が入ったグラスが準備されている。お言葉に甘えて一口飲ませてもらうと、そこで漸く現在の状況の把握に務めた。

 俺は昨晩、雪ノ下のマンションに招かれて夕食をご馳走になって、髪を洗ってもらった後…、多分だがそのまま寝てしまったのだろう。

「夕べあの後、その…ソファーで寝てしまったけれど、身体は痛くないかしら?」

「ん? ああ、大丈夫」

 未だ視点が定まらない寝ぼけた目で雪ノ下の顔をぼーっと見る。

「…綺麗、いや可愛い」

 寝惚けているせいで思考がそのまま口に出る。

「そ、そう…ありがと…」

 毎朝こんな微笑に起こされる奴は幸せだなとか愚考しつつ、いつもの癖で頭を掻こうとする。

「痛っ」

 右手に負荷をかけた瞬間に、刺すような痛みが走る。

「だ、大丈夫!?」

 またしても自身の怪我を失念していた俺の愚挙に、雪ノ下は慌てた声を上げる。

 そういえばこいつが慌てる姿って、あんまり見ないよな。

「もう自分の怪我を忘れてしまったのかしら。あなたってニワトリみたい」

 いつもの暴言ではない。かなりソフトな言い回しだ。それどころか若干甘い空気さえ漂っている。

「ほら、掻いてあげるわ、どこが痒いの?」

 雪ノ下の指先が頭皮を探る。その柔らかな指の感触に敏感に反応して、声を漏らして身を捩ってしまう。

「どうしたの? そんな声を出して」

 仕方ないじゃん思春期だもん。超敏感肌なんだもん。

 ふと気になり自分の股間に視線を落とす。

 よかった。男性特有の朝の生理現象は発現していない。もしそんなモノが発現していたら即通報の憂き目に遭っていたに違いない。

「なあにその顔、気持ち悪いわね。さ、その汚い顔を洗いましょう」

 暴言を吐きながらも楽しそうに顔を綻ばせる雪ノ下を見ていると、何故か妹の小町を思い出した。

 小町は俺が帰ってこなくて心配して…る訳ないか。

「大丈夫よ。小町さんには電話で説明しておいたから。後で教科書を取りに行きましょう」

 どうしてこう、ナチュラルに思考を読まれるのかな。魔女なのかな。

「シスコンのあなたが考えそうなことぐらい予測できるわ」

 また読まれた。そう考えると、俺って別に無理して喋らなくても良いのではないか。いや、無理はしてないか。少なくともこいつや由比ヶ浜の前では。

 戸塚となら無理してでも喋りたいなぁ。戸塚の笑顔ってマジ福音。

「くだらないこと考えてないで洗面台に行くわよ、ほら」

 雪ノ下の手で顔を洗ってもらい、ふわふわのタオルを顔に当てられる。

 キッチンには朝食が用意してあり、それをまた雪ノ下に食べさせてもらう。

 俺、完全に餌付けされてるな。スポイトを口に突っ込まれたひな鳥の気分だぜ。

 恥ずかしい朝食が終わると、ドライヤーとブラシを持った雪ノ下に髪を弄ばれる。

「いいってば」

「だめよ。ただでさえ貴方は目が腐っているのだから、寝癖くらいはちゃんとしないと」

 なんか霧吹きで髪を濡らされてブラシを通される。昨晩も感じたけど、これすっごく気持ち良いんだよな。少しこそばゆいけど。

 そんなことを思っているうちに、段々我慢が出来なくなってきた。

 何がって? トイレだよ。

 起きてから…正確には雪ノ下のマンションに着いてからずっと我慢していたが、流石にもう限界だった。

「悪い、トイレ貸してくれ」

 細い人差し指に促されてトイレのドアの前まで行く。

 しまった。ドアのノブが丸いやつだ。

「はい」

 雪ノ下が開けてくれて、中に入る。

「じゃあ、ズボン下げるわね」

「ちょっと待て。それはマズいだろ」

「大丈夫よ。見ないから」

「大丈夫じゃねぇよ。俺二日風呂に入ってない状態だぞ」

 怪我のせいとはいえ、二日も入浴出来ない状態ではさぞかし臭うだろう。特に新陳代謝が活発な思春期だもの。

「気にしないわ。貴方のなら」

 違うんだよ雪ノ下。お前が俺の背後からズボンを下ろすってことは、下ろした瞬間にお前の顔が俺の尻にニアミスするんだよ。

 目を瞑ってもニオイは防げないんだよ。

「…えいっ」

 いきなりズボンを下ろされた俺は、初めて涙目で用を足した。

 雪ノ下の目の前で尻丸出しで放尿とか、どんなシュールなプレイだよ。

 

 時間は午前8時を過ぎていた。

 雪ノ下のマンションで夜を明かしてしまった俺は、いま雪ノ下雪乃と並んで高校に向かって歩いている。

 遅刻である。始業前のホームルームには完全に間に合わない。

 こんな時間になった最大の理由は、俺の着替えにある。下着を替えろといって脱がそうとする雪ノ下と、それを阻止しようとする俺の戦いで20分を浪費してしまった。

 昨日と今日で、俺の黒歴史は格段に増えた気がする。

 傍から見たら、今の俺達はどう映るのだろうか。

 両手にバッグを提げた美少女と、両手を指先まで包帯に巻かれた目の腐った男。

 どう見ても釣り合いは取れていない。美女と野獣の野獣にも負けている。

 言うなれば、美女とゾンビ、もしくはミイラ。

 これで雪ノ下が銃でも持ってたら完全にゲームの世界だ。

 今朝教科書を取りに家に寄った際も、たまたま出勤が遅くて鉢合わせした母親に、似合わないだの、あんたには高嶺の花だの、散々に言われた。

 うちの母親には身内の贔屓目なぞ期待できないことを再確認したが、小町だけはテンションを上げまくって昨晩のことを根掘り葉掘り聞き出そうとした。

「本当に何も無かったの?」

「ある訳ねぇだろ。俺は怪我人だぞ。しかも両手使えないし」

「あら、手が使えたのなら私に何か如何わしいことをするつもりだったのかしら」

「しねえよ。そんな恩を仇で返すマネは出来ない」

 小町のジト目が、俺達二人の間を往復する。名づけて小町スキャン。怖えぇよ。

「なーんかさ、いつもより雪乃さんとおにいちゃんの距離が近いよね」

「いいからほれ、鞄を肩に掛けてくれ」

 はいはいと小町が俺の鞄を持ち上げると、横から雪ノ下がそれを奪う。

「私が持つわ。それくらいさせて」

「いいって。お前には世話かけたし」

 またまた小町スキャンが起動する。

「ほほう、雪乃さんにどんなお世話をしてもらったの~?」

 俺に問いかけながら視線は雪ノ下を捉えて放さない。

「あ、あの…大したことではないわ。夕食を、その、食べて貰ったのよ」

「…その手でよく食べられましたね~」

「あ、あれよ。介護のようなものよ。それに、その手の怪我は私のせいなのだし」

 もう頭から湯気が上がりそうなくらいに雪ノ下の顔は上気している。

「おい、そのくらいにしとけよ。遅刻するぞ」

 ニヒヒと笑いながら小町は家の中に戻っていった。 

 

 ゆっくり歩いたせいで、教室に着いた頃はもう1時限目が始まる間際だった。俺の姿を見て、すぐさま由比ヶ浜結衣が駆け寄ってくる。

「やっはろ~ヒッキー。あ、いつもと髪型が違う。ちょっとだけかっこいいね。目は相変わらずアレだけど」

 朝っぱらからホメとイジリの波状攻撃。そうこうしているうちに、由比ヶ浜が俺の頭の匂いを嗅ぎ始めた。

「ん? くんくん……あー! ヒッキーの髪、ゆきのんと同じ匂いがする~!」

 普段注目を集めない俺を戸塚が、川崎が、葉山が、その他の男子が、簡単に言うとクラス全員が見る。

 ダンっと机を叩いた由比ヶ浜は頬を膨らませて俺を睨む。

「どーいうこと!? なんでヒッキーの髪からゆきのんの匂いがするの!?」

 どうしたものかと言い淀んでいると、透き通った声音が背後から響いた。

「それは、私が説明するわ。由比ヶ浜さん」

 雪ノ下雪乃。

 F組には滅多に来ない雪ノ下が俺のところへ来ている。それだけでも目を引くのに、その美しい珍客はこともあろうかぼっち兼校内一の嫌われ者である俺のところへ来ているのだから、クラス全員には奇異な光景に映ることだろう。

 更に言及すると、校内一の美少女に向かって対等な口を聞き、しかも『お前』呼ばわりする嫌われぼっちに、クラス中から無言の『はぁ?』とか『何様だよ』とか、いろんな感情が渦を巻く。

 見回すと、葉山や海老名、三浦は遠くでケラケラと笑っている。戸塚は何故か赤面している。川崎沙希は、ムッとしてそっぽを向いている。

 そこで雪ノ下は、普段絶対に言わないであろう、陳腐な言い訳を繰り広げた。

「助けてもらったお礼に、シャンプーとリンスをあげたのよ。小町さんも使えるし」

 おい雪ノ下、なんで助けてもらったお礼がシャンプー&リンスなんだよ。言い訳ヘタ過ぎ。つーか、誤魔化してくれるのはいいが赤面だけはやめてくれ。今後の俺のぼっち生活に響くから。

「…ふーん。そーなんだぁ」

 ジト目で雪ノ下を見るなよ由比ヶ浜、おまえら友達どうしだろ。いつもゆるゆりしてる仲だろ。そしてクラスの皆さん、見せモンじゃねぇぞこのやろう。

 

 




今回もお読みいただき、ありがとうございます。
第25話、いかがでしたか?

前回も感じたことですが、いちゃいちゃを書くのって難しい…

では、また次回。


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26 吐露は彼女を加速させる

比企谷八幡と雪ノ下雪乃、由比ヶ浜結衣に問い詰められる、の巻


ではどうぞ。


26 吐露は彼女を加速させる

 

放課後

 奉仕部部室。

「うす」

 雪ノ下雪乃は、俺、比企谷八幡を見るなり挨拶もそこそこに駆け寄ってくる。

「比企谷くん、怪我をしているのだから無理しなくていいのよ。依頼も無いし」

「この手じゃ本も読めないしゲームも出来ないから、その、暇なんだよ」

 俺の肩に掛けられた鞄を奪った雪ノ下は、それを俺の指定席の横へ置く。

「そう。では今日は見学ね」

「いつも見学みたいなもんだろ」

「ふふ、言い得て妙ね」

 由比ヶ浜はまだ来ていなかった。

 鼻歌交じりで紅茶の用意をする雪ノ下。を見る俺。に気づいてぷいとそっぽを向く雪ノ下。

 なんだなんだこの甘い空気は。さてはどこかにリア充どもが潜んで空気を操作してやがるな。

 うん、きっとそうに違いない。

「…はい」

「ん、ありがと」

 雪ノ下に飲ませてもらうのも幾分慣れてきた。慣れたのは、飲ませて貰うコツが解ってきたという意味で、行為自体はまだ多分に照れるのだが。

「今日…由比ヶ浜さんに嘘をついてしまったわ」

「ああ、シャンプーの件な」

「咄嗟に出てしまったのだけれど…嘘をつくのって嫌な気分ね」

「気にすんな。あれは気を遣う為の嘘だったんだろうし」

 果たしてその見解は正しいのか。

「そうね、そういうことにしておくわ」

 雪ノ下も気づいているはずだ。

「ああ、それと。夕べのは、その…俺らだけの秘密にしとけよ」

 昨日の夜を思い出したのか、みるみる雪ノ下の頬が赤みを帯びる。

「え、ええ…もちろんそのつも」

 言葉を遮り、軽快な音を立てて部室の扉が開く。

「やっはろー!」

 朝に損ねた機嫌が直ったのか、いつもと同じ由比ヶ浜に見える。

「ねえねえゆきのん」

 肩がビクッと震える雪ノ下に由比ヶ浜の無邪気な言葉が襲う。

「あたしもゆきのんのシャンプー欲しい!」

 呆気にとられて目を丸くする雪ノ下。

「だって、すごくいい匂いなんだもん」

「え、ええ、もちろんいいわよ」

 ありがとー、といいつつ雪ノ下に抱きつく由比ヶ浜。いつもの見慣れた光景。いつも通りの日常。

 ああ、やっと帰ってきたんだ。この空間が。

 

 

「今日も依頼無しか」

 時間を見ると。すでに午後5時を過ぎている。

「そうね」

 突然由比ヶ浜が椅子を鳴らす。

「あ、あたし考えたんだけど…」

「今ヒッキー両手ケガしてるじゃん? だからさ~」

「依頼が無いときは、あたしとゆきのんでヒッキーに奉仕するってのは、どう…かな」

 何を言い出すかと思えば。つーかそれって、奉仕じゃなくて介護っていうんだぞ、普通は。

 それに奉仕ってなんかエロいじゃん、響き的に。

 ふむ、と雪ノ下も顎に手を当てて思案し、

「…そうね。面白そうだわ」

と意地悪そうに笑う。

「雪ノ下まで…何を乗り気になってるんだよ」

「まあまあヒッキー、照れない照れない」

 両手の怪我で満足に抵抗できない俺に身を寄せた由比ヶ浜が耳元で囁く。

「昨日ゆきのんちに泊まったの、さっき小町ちゃんに聞いちゃった。言っちゃおうかな~」

 それでこいつ普段より来るの遅かったのか。

 とにかく由比ヶ浜は強力なカードを手にした。小町のせいで。

 昨夜を思い出して、顔が赤くなる。うん…確かに強力かも知れない。精神をざっくり抉られそうだ。

 が、すぐに気がつく。

「…それ、誰に言うつもりだ?」

 強力なカードを手にしたと思っている由比ヶ浜には申し訳ないが、それは全くの無意味だった。

 雪ノ下の家に泊まった事実を隠したい相手は、他でもない由比ヶ浜である。

 その由比ヶ浜本人がそれをネタに俺に脅しをかけても、それは何の交渉材料にもならない。由比ヶ浜はそれに気がついていないらしい。

「え、えーっと…ゆきのん、かな…」

 お、漸く気づいてきたか、アホの子よ。

「じゃあ言えばいい。先に言っておくが雪ノ下もまた当事者だ。何の効果も無いぞ」

 そう言うと、途端に由比ヶ浜は鬼の首でも取ったようにニヤニヤし出した。

「…ヒッキーってさ、頭良いのに時々すごくマヌケだよね~」

 ん? どゆこと?

 状況がわからない。雪ノ下は、はっとした顔をしているが。

「…比企谷くん。貴方の…いいえ私たちの負けよ」

「は?」

 俺は視線で雪ノ下に説明を求める。

「ふう、由比ヶ浜さんは所謂『カマをかけて』いたのよ。それに気づかずに腐った男があっさりと私を当事者の一人として認めてしまった。故に、貴方と私が隠し事を共有しているのが証明されてしまったのよ」

 へへへと笑う由比ヶ浜。

「やっぱゆきのんは頭いいね~で・も!」

 由比ヶ浜の頬が膨れる。

「ずるいよ。あたしに内緒でヒッキーと既成事実作っちゃうなんてさっ!」

 しかしやっぱりアホの子はアホの子だった。

「…ちょっと待て。なんだ既成事実って」

 モジモジしながら自身の飛び過ぎた推測を話す。

「だ、だって…二人で一緒にお泊りしたっていうことは、その…しちゃったんでしょ?」

 面白いから突っ込んで聞いてみよう。うん、そうしよう。

「何を?」

 さらに加速する由比ヶ浜結衣のモジモジ。

「だ、だ、だ、だからその~、う~」

 いっちゃえよ、ホラ、いっちゃえってば。

「え、えっちなこと、だよっ!」

 うわぁ、こいつとうとう言いやがった。

 俺と雪ノ下は顔を見合わせる。と同時に雪ノ下が目配せ、所謂ウィンクをしてくる。

 ものすごく意地悪な表情を浮かべながら。

「そう…もう知っていたのね。では全て話すわ」

 読みかけの本をとん、と置くと、真剣な眼差しを由比ヶ浜に向けた。由比ヶ浜の表情が硬くなる。

「夕べ…彼を私のマンションに招いたわ。一緒に食事をして、一緒にお茶を飲んで、一緒にお風呂に…」

「ち、ちょ、ちょっっと…い、いきなりお風呂で!?」

 みるみる由比ヶ浜の耳が朱に染まる。

「おい雪ノ下…」

「邪魔をしないで八幡。私は事実を伝えたいのよ」

「は…はちまん!?」

 由比ヶ浜は耳真っ赤のまま、酸欠の金魚のようにぱくぱくと口を開けている。

「一緒にお風呂に行って…彼の頭を洗ってあげたわ。それだけよ」

 俺は、我慢できずに笑ってしまった。

「ふえっ、えっ…?」

 唖然とする由比ヶ浜に、雪ノ下は告げる。

「由比ヶ浜さん、少々想像力が豊か過ぎるわ。比企谷くんは怪我人よ。両手を怪我した状態では、その…いかがわしい行為なんて出来ないことは解るわよね」

 雪ノ下さんたら、自分も赤面したまま真っ赤な由比ヶ浜さんを諭すって。

「そ、そうなの?ヒッキー」

 瞬発力を最大限に生かした振り向きで俺を見る。

「ああ、そうだ。久しぶりに人に頭を洗ってもらって気持ちよくなって、そのままソファーで眠りこけて、気がついたら夜が明けてた。ソファーで寝てしまったおかげで身体が痛い」

「あら、それは貴方がソファーの背もたれに足を乗せるような変な姿勢で寝ていたからだわ。よくあんな姿勢で眠れるものだわ」

「じゃ、じゃあさ、ホントのホントに何にも無かったの?」

「ああ、もちろ…」

 そこで言葉が詰まった。

 正確には何も無かった、訳ではない。雪ノ下もそれを思い出したらしく、顔から火が出そうなくらい赤面している。由比ヶ浜のジト目が怖い。

「あーー、やっぱ何かあったんだ~」

 挙動不審。所謂キョドってしまう雪ノ下。

「あ、いや、その…ちょっとだけ」

 ジト目に感情が上乗せされる。

「ちょっとだけ~?」

 

「…その…頬に、キスを…」

 あまりの恥ずかしさに顔を覆う雪ノ下に、あまりの初心な発言に耳まで真っ赤に染める由比ヶ浜。

「な、なーんだ、ほっぺにチューか。そっかそっか」

「ほら見ろ、おまえが由比ヶ浜に意地悪なんかしようとするから、全部バラす羽目になっちまったじゃねぇか」

 由比ヶ浜は安心したのか、力が抜けたようにその場にへたり込む。

「ははは…ゆきのんらしいや」

「ま、まあ、それも、今回の感謝の意味なのだけれども…」

「ま、そういうことだ」

「なら、ゆきのんはヒッキーにそういう気持ちは無いの?」

「も、勿論よ。こんな目から全身が腐っていくのを待つだけの男に、そんな訳ないわ」

 そうかよ、俺はやがて全身腐るのかよ。じゃあその前に戸塚と、なんて馬鹿な妄想を始めたところで、由比ヶ浜は仕返しとばかりに爆弾を落としやがった。

 

「じゃあさヒッキー、あたしと…えっちしよ」

 

 




今回もお読みいただき、ありがとうございます。
第26話、いかがでしたか?

この物語はもうすぐラストを向かえる予定です。
もうちょっとだけ続くんじゃ。

ということで、また次回。


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27 彼と彼女と彼女の間違いはまだ続く

この物語も今回で終わり。

では、どうぞ。





27 彼と彼女と彼女の間違いはまだ続く

 

「ヒッキー、あたしと…えっちしよ」

「…は?」

 ビチヶ浜さん、今なんと仰いましたのでしょうか。

 生まれて初めて聞いた言葉に、頭は完全に業務停止処分。

 一瞬、いや十回くらい耳を疑った。「瞬」てどんな単位? 数学苦手な俺はわからん。

 とにかく訳わからん。

 椅子を鳴らして雪ノ下雪乃が立ち上がる。

「ゆ、由比ヶ浜さん!?」

 アホのビチヶ浜さんは俺にピタっとくっついて雪ノ下に赤ら顔スマイルを送る。

 同様に顔を紅潮させている雪ノ下は二の句が継げずに、あうあうと下顎を上下させている。

「あたしは全然構わないもん。ヒッキーのこと…す、好きだし」

 え? 何さらっとすごい事言ってくれちゃってるのこの子ったら。こっちまで赤面しちゃうじゃないの。

 それにしても部員全員が赤面してる部活動ってなんなの。

 不意に由比ヶ浜結衣が俺に舌を出してウインクしてくる。

 なんだ。何か裏があるのか?

 状況を考える。

 柔らかくて大きいな由比ヶ浜のおっ…じゃない、さっきは由比ヶ浜が騙された格好になった。ならばこれは…

「だってヒッキーは両手ケガしてるじゃん? だから、その…ひとりでするのも無理だよね。ならあたしが…」

 それは介護の領域じゃないだろうが。つーか言いながら俺の肩に『の』の字を書くな。

 もうお前の魂胆は解ってるから。

「…由比ヶ浜さん。本気で怒るわよ」

 雪ノ下の反応を見て、由比ヶ浜はにやっと笑う。その変貌振りに、明らかに雪ノ下はたじろいだ。

「え? なに…由比ヶ浜さん…?」

 何かが弾けた様に由比ヶ浜が笑いこける。俺も釣られて笑ってしまう。

「…雪ノ下、やり返されたな」

 未だ事態が飲み込めずにいる雪ノ下に説いて進ぜる。

「あのな、おまえがいけないんだぞ。由比ヶ浜をからかったりするから」

「…あ」

 今度は自分がからかわれる側になっていたのだと雪ノ下は漸く気づく。

 みるみる雪ノ下の顔は赤くなり、しまいには机に突っ伏してしまった。

「やったよヒッキー、ゆきのんに勝った~」

 無邪気に喜ぶ由比ヶ浜。さっき『えっちしよ』なんてビッチ発言をした奴とはとても思えない。

「でも、おまえもやりすぎだぞ。さっきのやつ、一瞬本気かと…え?」

 不意に由比ヶ浜は俺に身体を寄せ、腰を浮かせる。そして。

 

 ちゅっ。

 

 頬に由比ヶ浜の唇の感触を感じた。

「へへへ、これでゆきのんとおそろい、だね」

 なんだその「あの子が持ってるからあたしもオモチャ欲しい」みたいな理論。

 よそはよそ、うちはうち。そう親から言われなかったか?

 もうひとつよく言われたのが「お兄ちゃんなんだから我慢しなさい」である。ま、仕方ないな。俺が親でも目が腐った長男よりも小町のほうが断然可愛い。

 小町よ感謝しろ。お前の可愛さは、俺が可愛さの相続を全て放棄したからなんだぞ。

 つーか由比ヶ浜、急にキスなんかするなよ。ちょっとだけ現実逃避しちゃったじゃないか。

 雪ノ下は、口をパクパクさせている。滅多に見られない光景だが、俺は俺で心臓が跳ねまくっていてそれどころではなかった。

「てかさ、やっぱりゆきのんもヒッキーのことを…だったんだね」

 攻勢と見るや雪ノ下を攻め立てる由比ヶ浜の姿は、まるで悪戯っ子のように魅惑的で、顔を覆う雪ノ下は、まるで無垢な少女のように純粋に見えた。

 

「ゆきのんてば、素直じゃないんだから」

 雪ノ下は顔を真っ赤にして、その長い黒髪で手遊びをする。

「もう、由比ヶ浜さんに仕返しされるなんて…」

 本当に悔しそうに横を向く雪ノ下に、由比ヶ浜が抱き付く。

「ゆーきのん、可愛いっ」

 

 そして一言。

「あたし、ゆきのんには負けないからね」

 雪ノ下も、その主語も目的語も無い言葉に返す。

「私も、負けないわ」

「何の勝負だよ、まったく」

 二人の標的になっていることに気がつかない振りをしながら、俺はいつものように読みかけの本を開こうとした。

 両手の怪我を忘れて。

「いてて」

 仕方なく俺は喧々諤々、いちゃいちゃゆるゆりしている雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣を眺めた。

 雪ノ下雪乃が襲われ、由比ヶ浜結衣は憤慨し後悔した。

 俺は、両手を負傷したが何とか無事だ。

 

 事件のことを思い返してみる。

 雪ノ下陽乃への逆恨みから始まったこの事件。

 この事件は、俺達にとってどんな思い出になっていくのであろうか。

 二度も怖い思いをしてしまった雪ノ下雪乃。

 友を救おうとしてもがき苦しんだ由比ヶ浜結衣。

 そして、結局雪ノ下陽乃さんに良い様に操られたとしか思えなかった、俺。

 

 気づいたのはひとつ。

 友達じゃなくても、仲間じゃなくても、繋がりはあったんだ。

 あの時、倉庫の中でみんなに囲まれた時、俺は確かに感じていた。

 

 俺がしてきたことは、今回の事件も含めて間違いだらけなのかもしれない。

 しかし、その間違った方法の結果、それでも雪ノ下雪乃を救うことは出来た。

 雪ノ下の心の傷は、由比ヶ浜がいれば大丈夫だろう。二人はそれだけの関係を築いているはずだ。

 ならば俺は、いつもの俺に戻るとするか。

 この先に何があっても、この平和な日々がつつがなく続く事を願いながら。

 

「…なにカッコつけてんのよヒッキー、キモいっ」

「そうね、とっても気持ち悪いわ。特にその優しい微笑が、ね」

                                            了

 

 




今回もお読みいただき、ありがとうございました。
そして第1話から続けてお読みいただいた方々、本当にありがとうございました。

今回の物語は、当初は完全な推理モノにするつもりでした。
しかし文章力の無さとアイデアの貧困さが影響して、こんなカタチになりました。
楽しんでいただけたでしょうか。
表現、文章、言い回しなど、解り難かったでしょうか。

もしよろしければ、ご意見ご感想などお寄せくだされば幸いです。

では、ありがとうございました。


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