例えばこんな青春ラブコメ (ひょっとこ_)
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雪ノ下雪乃篇
奉仕部にて


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 半年と少し前、ひょんなことから参加するようになった部活動――奉仕部。

 在校生への一切の紹介が行われず、聞く人が聞けばいかがわしいように感じる名のその部は、現在二年生三名によって構成され、顧問教諭の独断と勢い、部員の自主性によってまことしやかに運営されている。

 活動内容はいたって単純。持つ者が持たざる者に慈悲の心をもって手を差し伸べ、腹を空かせた奴に食料の獲得法を教示する。要約すると、お悩み相談室――のようなものである。あれ、まとまってない……?

 

 

 そんな奉仕部だが、実はついこの間――といっても年を跨いで遡ってしまうのだが――まであわや部崩壊の危機に瀕していた。理由は部員の不仲である。や、まぁ、不仲というかすれ違いというか。だいたいそんな感じではあるが、なにか違うような……、まぁ、いいか。

 が、瀕していた、というように今ではすでに過去のことで、現在をもって精力的に活動中だ。つっても、顧問である平塚先生に絆された依頼人がやってくるまでは、部室である特別棟三階最奥のこの空き教室にて、終業から部活終了までの暇を本を読むなどして過ごすしかすることがないが。

 

 

 さて、本当ならもう少し騒がしいはずのこの部室は、ここ数日俺一人が独占していた。

 同じく部員である他二名――雪ノ下雪乃と由比々浜結衣が最近二人でこそこそとなんぞやっているからである。

 そのせいか、いつもなら居心地のいいこの部室もなんだか落ち着かず、こうしてなんやかんや気が散っている。本を読もうにも日頃BGMにしている由比ヶ浜が楽しそうにはしゃぐ声がないと、なんとなく落ち着かない。また、この部の中心的な立ち位置――まぁ、部長だし。名目上――にいる雪ノ下がいないこともその理由の一つだろうと思う。

 

「はぁ……」

 

 日常こぼすものよりかいくらか湿り気のあるため息をつき、少し気分を変えようと、インスタントのコーヒーを用意する。

 我が部の唯一の備品である電気ポットで湯を沸かし、俺専用である湯呑み――デスティニーランドの看板マスコットがイラストされてある。先日のクリスマスに雪ノ下と由比ヶ浜からプレゼントされたものだ――に粉コーヒーを適量入れる。そこに湯を注ぐと、シュガースティックを数本一気にぶちこむ。最近糖尿病が割りと恐ろしかったりするのだが、まぁ、そんな程度でこれはやめられない。人生苦いことだらけなのだから、コーヒーくらい甘めがいいというのが俺の持論なのだ。

 淹れたばかりのコーヒー片手に窓際まで歩くと、すでに傾いている太陽とそれに照らされる裸の植木になんともいえず見惚れながら、湯呑みを傾けて中身を少し煽る。

 すると、俺以外に誰もいない部室に気が緩みすぎていたのか、普段なら自室か小町の前でくらいしか吐かない心からの弱音のようなものがふと口をついて出てしまった。

 

「会いてぇな……」

 

 言わずもがな、誰かは決まっている。

 理解し合えずとも、受け入れ、和解してくれたあいつら。俺が求め続ける「本物」足り得るあいつら。この半年と少しを共に共感し合える雪ノ下と由比ヶ浜。俺が守りたいと願うものたち。

 …………、俺もずいぶんと絆されたものだと思う。奉仕部に入る前の俺が見たら、歯をむいて唸られるまである。

 いつの間にやら温くなっていた残りのコーヒーを一息に煽ると、俺は、今日の部活はここらへんで打ち切ることにした。こういう日は、さっさと帰ってだらだらするのが吉である。

 そう思い振り返った俺は、なんというか、固まった。

 

「誰に、会いたいのかしら……?」

 

 本日も休みだと思っていた件の部長――雪ノ下雪乃その人が、そこに立っていたからだ。

 

 

 

 

 

「雪ノ、下……。……、お前、今日休みじゃなかったのかよ」

 

 いきなりの登場に若干どもりつつもなんとか言い切る。

 

「別に、そんな連絡をした覚えはないけれど」

「あー、そう。……、じゃあ、由比ヶ浜は?」

「由比ヶ浜さんなら、今日は来ないわよ」

「そうなのか」

「ええ」

 

 誤魔化せた……、っぽい?

 と内心冷や汗を間欠泉ばりに噴き出しながら、ぎこちない動作で湯呑みを片す。

 

「で、さっきの会いたい、とは誰に対してのものなのかしら。その腐った目でどこのどなたに会いに行くのかは、私の与り知らぬところではあるけれど、やはりなんらかの被害が出てからでは遅いと思うの」

 

 ぜんっぜん誤魔化せてないじゃないですかやだー。って、それどころじゃない罵倒がやばい。なにがやばいって、もうマジやばい。

 ……、や、よく考えてたらいつものことでした。つまり、もーまんたいですね。

 まぁ、そんなことより、さっきのをとうの本人に聞かせるのは、ちょっとごめんこうむりたい。というわけで、俺はさっそく切り札を切ることにした。

 

「あ、っべー、マジべーわー。今日はちょっともう帰らないとだわー。じゃあな、雪ノ下。部室の鍵、よろしく」

 

 とりあえずクラスのウザい奴こと戸部の如くやばいを繰り返しながら、悪・即・斬。間違えた。即・退・散。

 即行で帰り支度を済ませ、超即行で雪ノ下の傍を通り過ぎ……、れない。

 

「…………」

「…………」

 

 幾許かの間視線を交差させ、俺の右腕をがっちり捕まえている雪ノ下の顔を腕を交互に見やる。

 

「雪ノ下、手間だろうが、その……、手を放してくれないか」

「却下ね。さ、きびきび白状なさい」

 

 あれ、なんか、雪ノ下ってここまで絡んでくるやつだったけか。もっと、こう、冷めた感じで線引きがかなりはっきりしたやつだったと思うんだけど……。

 ……、わかった。わかったから、そのなんともいえない微笑みをやめてもらえませんかね、雪ノ下さん。

 

 

 

 

 

 どうにも勘弁ができないらしい雪ノ下に根負けし、いつものように長机の両端に置かれた椅子に腰掛ける。

 窓から差す斜陽が雪ノ下の背と俺の右半身を照らす中、どうやって会話の糸口を掴んだものかとやや思案する。さらにいうならば、外界と隔たれた空間に雪ノ下と二人だけという状況に少なからず動揺すらしている。

 

「お茶でも淹れましょうか。比企谷くん」

「お、おう……。頼む」

 

 なんとなくだが、今ので無駄に張っていた緊張の糸が解れたような気がした。

 ……、まぁ、別に聞かれたところでなんら問題はない。……、はずだ。うん、そうだ。日頃の感謝を伝える感じでさらっと、な。それで万事解決だよ。俺は家路に向かえて、雪ノ下は疑問が氷解する。なんだ、Win-Winじゃねぇか。

 

「その、な、雪ノ下。最近部活に来てなかったろ」

「そうね。由比ヶ浜さんと二人で、ちょっと立て込んでいたから」

「それでな、たった数日だろうが、無性にお前に会いたくなってな」

 

 あ、それと由比ヶ浜もな。

 

「…………」

「まぁ、なんだ……、そういうこった」

「…………」

 

 な、なんだろう、この無言は。俯いて、肩震わせて……、って、なななな、なんぞ怒っていらっしゃる!?

 やべぇ、頭の中でさえどもるとか俺やべぇ。マジかっこ悪い。……、でも、怒るとマジ怖いんだよ、雪ノ下。

 

「そ、そういうこと……」

 

 と、か細い声を出した雪ノ下は頬だけでなく耳までもを赤く染め上げており、顔にかかる髪をかきあげたり、視線を無駄に四方八方に飛ばしたり、やや挙動不審さが目立つもののどうやら別段を気分を害したというわけではないようで、まず一安心する。

 

「あ、ああ。そうなんだよ……」

 

 というか、である。なんなのだろうか、このはにかむような反応は。もしかしなくても照れていたりしちゃったりするのだろうか。

 いや、待て待て。今のどこに照れる要素があったのだろうか。ただ仲のいいゆ、友人の顔をしばらくぶりに拝みたいと……、ああ、いや、言い方が悪かったか……。

 ……、まぁ、別にあながち間違いというわけでもなかったりするのだが。

 

 

 

 

 

「チョコ、か……」

「ええ。まぁ、一日早いけれどね」

「だな」

 

 そういえば、今日は二月の十三日。バレンタインデーの前日だった。

 蚊帳の外どころか蚊帳に辿りつくまでに蚊取り線香で落ちてしまっていたので、すっかり忘れていた。

 もしやここ数日の空席はこれのためか。いやいや、だとしたらどんだけ凝ってんだよ。気合入ってんなぁ。

 

「それで、受け取ってもらえるかしら?」

「ああ、まぁ……」

 

 せめて義理だとかなんとかいってもらえませんかね、雪ノ下さんや。うっかり受け取って、本命だった場合、俺は一体全体どういった反応をしていいものやら。普通に嬉しすぎて、超キョドった末にもんどりうって悶えまくって心臓破裂させてひかれるまであるぞ。

 

「その……、あの、ね、比企谷くん……」

「っ……、んだよ……」

 

 互いに顔を真っ赤にしながら、綺麗に包装された包みが雪ノ下から俺に渡る直前。雪ノ下はさらに顔の血色をよくして、かすれた声を出した。それから、彼女は上目遣いに俺を見やると、やや潤んだ瞳で不安げにこういうのだ。

 

「今日はバレンタインでは、ないけれど……。このチョコに含まれている私の想いは、その……、本気のそれだから……。……、受け取るのなら、相応の覚悟をしてちょうだい」

 

 …………。

 ああ……、やばい。超キョドった末にもんどりうって悶えまくって心臓破裂させちゃいそう……。

 この雪ノ下は、正直反則だと思うのは俺だけでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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喫茶店にて

 無理矢理感ぱない。
 久々に書くので、雰囲気が違っているかもしれません。あしからず。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あのあと、雪ノ下の無意識攻撃に見事撃沈せしめられた俺は、なんというか、そう、今の雪ノ下と少しでも長く一緒にいたくて、普段なら絶対にしない行動に出てしまったのだ。

 

「あら、本当においしいわ、このコーヒー」

 

 雪ノ下をお茶に誘ったのだ。俺から。

 そう、俺からである。ぼっちの、孤高のお一人様である俺のほうからだ。由々しき事態だ、これは。

 

「そ、そうか。なら、よかった……」

 

 雪ノ下と二人きりという状況は以前にも幾度か経験することがあったが、果たしてここまで緊張を余儀なくされたことがあっただろうか。や、今の俺マジ挙動不審。目の腐り具合も相まって、もはや通報されていいまである。

 うん、いったん落ち着こう。クールになるんだ、俺。

 そうだ、コーヒーだ。コーヒーを飲もう。店側に対して冒涜的なまでの量の砂糖が混ざったこのコーヒーならば俺を落ち着けてくれること請け合いだ。

 

「……って、にっが……!」

 

 迂闊だった。まさか砂糖を入れ忘れていたとは……。

 うわぁ、正面の氷の女王の視線がめっちゃ突き刺さってる……。なにをやっているのかしら、比企谷くん、なんて台詞まで聞こえてきそう。

 

「なにをやっているのかしら、比企谷くん……?」

 

 ……ほんとに言っちゃったよ、この人。

 

「えっ、と……、砂糖を入れるの忘れてて……」

「はぁ、まったくあなたは……。べつに、ブラックで飲めないわけでもないのでしょうに」

「……ほっとけ。コーヒーくらい甘いのがいいだろうが」

 

 理由はいわずもがなだ。

 おお、なんか知らんが緊張が解れたような気がする。ナイスコーヒー。あ、これなんか語呂がいいような……、いや、やっぱ駄目だな。でも意外と……。うん、超どうでもいい。

 

「甘いコーヒーもいいとは思うけれど、いつもあなたが飲んでいるのあのコーヒーだけは胃がもたれそうだわ」

「うっせ」

 

 MAXコーヒーを飲まないなんて、それ千葉県民やめるみたいなもんだよ、雪ノ下さん。

 部室で見せたあのしおらしい顔はすっかり形を潜めたようで、雪ノ下はいつもどおりの落ち着いた様子でコーヒーを楽しんでいる。さすがに、誘われた側として誘った側を差し置いて読書なんて真似はしないものの、俺の失態から始まったやり取りもすぐに沈黙と化し、そのまま二人して押し黙ったまま幾分か時間が過ぎた。

 

 

 

 

 

「……あの、さっきのチョコに対する返答には、その……、期待、してもいいのかしら……?」

 

 告白からの返事を待つ際、たとえ僅かな間だとしてもやはり時間を置くのは、心細い心境にさせるらしい。雪ノ下は、はっとするような美貌の下に不安の色を滲ませながら、上目遣いに俺を見やっていた。

 そうか、雪ノ下は俺から切り出すのを待っていたんだ。

 そりゃそうか。あんなことのすぐあとにこうして二人で喫茶店なんかに来てるんだ。なにかしらの答えが返ってくると思われてもなんら不思議じゃない。

 心なしか涙目になっている雪ノ下を見やって、思案に暮れる。ていうか、雪ノ下さん、デレすぎじゃね。もはやデレノ下さんだよ。

 

「少し待ってくれ。……ちゃんと、伝えたいんだ」

 

 答えはすでに、決まっていた。

 けど、だけど。俺は迷っていた。そんなことはないってわかっているのに。ありえないことだって、ちゃんと頭ではわかってるんだ。それでも俺は、雪ノ下の言葉の裏を疑っていた。

 

「……ええ、待つわ。いくらでも」

 

 この少女は、嘘を言わない。本人も言っていたことだし、事実、俺は彼女の嘘を聞いたことがない。

 だから、部室でのあの言葉に欺瞞はなく、彼女の本心の表れだったのだ。

 

「俺は……」

「…………」

 

 目を閉じ、真っ暗になった景色に理性の綻びを探す。

 応えたい。彼女の気持ちを裏切りたくない。

 一人ぼっちの俺が、もし許されるのであれば。こんな俺が彼女の、雪ノ下の隣で時間を共有することを罪に問われないならば。

 ああ、望もう。

 

「俺は、雪ノ下、お前と一緒にいたい……。俺の本物に、なってくれ……」

 

 迷いが晴れたわけではない。彼女は本物ではないかもしれない。

 けれど、この選択を間違いだなんて、思いたくもない。

 渇いた口内に滲み出てきた唾液をごくりと飲む。

 閉じていた目を開け、光の差した視界に、目の前にいるはずの雪ノ下を捉える。あ、なんか心なしか目の腐り具合がましになったような……。あくまで体感だけど。

 

「…………」

 

 そして、雪ノ下はというと。

 なんというか、フリーズしていた。え、なに、俺なんか変なこと言っちゃっ……た……。

 ……………………。

 ……うそーん。もう、あれだよね。今のって、いわゆるあれだよね。プロポーズ的な意味にも捉えられるよね……。

 いや、え、ちょ、マジ待って。なしなし。今のなし。いや、本心、本心だけど。恥ず、恥ずかしいわっ。つか、今日こういうの多いな、おいっ。

 

「……………」

「……………」

「……………」

「……いや、えっと、なんか言ってほしいんですけど、みたいな……」

 

 だんだんと頭が現状に追いついてきたのか徐々に赤くなっていく雪ノ下とその様子を間近でこれでもかと見せつけられる俺。

 最終的には、真っ赤になった二人が視線を交差させ、けれどどちらとも目を逸らすことはしないなんとも初心すぎる状況にまで陥った。

 

「き、ききっ、喫茶店、ででで出ようぜっ」

 

 うあー、やべぇ。キキとデデデどっから出てきた。声裏返りすぎだっつーの、マジ引くわ。さすが俺。そこで自画自賛する辺りまだ余裕だな、うん。つーか、恥ずかしさのあまり思わず雪ノ下の手を引いて、強引に店を出ちまったよ……。

 ……やわこいな、雪ノ下の手。って、いやいや、いやいやいや。アホか、俺。むしろバカか。

 早く離さないとまた雪ノ下に怒られる。さすがに俺も裸足で氷の上に立つなんてことはしたくない。冷たいのも、熱いのも、ぼっちは両方駄目なんだ。きっちり常温で保存しといてくれないと、マジすぐに弱っちゃうから。ぼっち飼うのって意外と難しいんだからな。ぼっち舐めんな、コノヤロー。

 や、ていうかぼっちってなに、ペット扱いなの?

 うちのカマクラと同じ扱いなの?

 むしろ俺が(いぬ)で、雪ノ下が女王様的な?

 いやいや、俺マジ焦りすぎだろ。ないない。絶対ねーから!

 そんなアブノーマルなプロペンシティはうちではお取り扱いしておりませんので、悪しからずっ!

 なんて、己の脳内で繰り広げられる支離滅裂な無駄思考を順に追っていると、不意に左手に感じる熱がさらにその暖かみを増した。

 雪ノ下が、さらにぎゅっと俺の手を強く握ったのだ。

 

「……今手を離したら、この先ずっとヘタレ谷くんって呼ぶわ」

 

 え、なにその史上最強にかわいい脅迫。ちょっとかわいすぎて意味わかんないだけど。

 

「わかった。俺からは、きっと離さない……」

 

 俺が今までの俺を曲げてまで得た一つの答えを自分から手放せるわけがない。

 ぎゅっと握れば、同じように握り返してくれる。たったそれだけのことで満たされるこの気持ちは、きっと本物に近しいものだろうから。

 

 

 

 

 

「あっれー、ヒッキー、髪でも切ったの?」

 

 翌日のこと。雪ノ下、俺に続いて部室にやって来た由比ヶ浜の第一声である。

 や、切ってねぇし。

 

「んー、そうなん? でも、なんかさっぱりしたような、そうでないような気がするような……、あれ?」

「言ってるうちに、自分でわかんなくなってんじゃねぇよ。めっちゃ器用だな、お前」

「えへへー、そうかなー?」

「皮肉だよ、アホ」

「むぅ、アホじゃないしっ」

「はいはい、わかったわかった」

「もうっ、その投げやり感がまたウザいしっ。ヒッキーマジキモいっ!」

「いや、キモくねぇし」

 

 んー、こいつとのやり取りはなんか落ち着くな。ついつい会話が弾んでしまう。ウキウキ八幡。やべぇ、一気にアホっぽくなった。

 珍しくも携帯を片手に、なにやら満足そうな顔でやや口角を吊り上げている雪ノ下を尻目に我らがアホの子、由比ヶ浜と談笑に興じていると、ズボンのポケットに入れていた携帯が不意に震え始めた。

 

「Oh……」

 

 ネイティブな発音にはそれ相応の理由がある。

 メールの差出人の欄には、なんとびっくり雪ノ下さんの名前が。

 おっかなびっくり、というわけではないが、これまでになかったことなのでやや緊張気味にそのメールを開く。

 

 

 

 差出人:雪ノ下雪乃

 宛先:比企谷八幡

 私です。

 比企谷くん、今日、部活が終わったあとって空いていますか。

 もしよかったら、ほんとにあなたの気が向いたらでいいのですけれど、この前の喫茶店に二人で行きませんか。

 返事は、できれば早めにしてくれると助かります。

 

 

 

 うっわ、なにこれ。雪ノ下ってメールだとこんなしおらしいのか。初めて知った。

 平塚先生といい、雪ノ下といい、メールに癖のある人多すぎだろ。なんか怖いわ。

 

「ねね、ヒッキー、メール? 誰、誰?」

「いい子だから、あっち行ってなさい。あと、そんな物珍しそうにしなくても俺にだってメールくらい来るんだよ」

 

 アドレス帳の登録件数は未だに二桁にも満たない数だけどな。

 

「うえー、ヒッキー、今の顔すっごいにやにやしてて気持ち悪……、キモい」

「や、言い直さなくても意味は変わんねぇから」

 

 無意識に顔がほころぶのは、この際見逃してほしい。

 なにせ、今俺はそれほどまでに胸が高鳴っているのだから。

 

 

 

 差出人:比企谷八幡

 宛先:雪ノ下雪乃

 了解。一緒に行くか

 あと、文体、もうちょっと崩したほうがいいと思うぞ。

 

 

 

 あーあ、この部屋、暖房効きすぎじゃねぇかな。あちぃあちぃ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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比企谷家にて

だんだんと八幡のキャラに自信をなくしていく俺ガイル。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日曜日だ。

 我が家の居間、日の光がなんかちょうどいい感じに差し込むベストな位置に置かれたソファに転がって、ごろごろとごろ寝して、ふぅっと一息。のんべんだらり。

 そう、日曜日なのだ。紛うことなき、我が愛しの休日ちゃん。

 

「素晴らしきかな、日曜日……」

 

 もう日曜日と結婚したいまである。お帰りなさい、ご飯にします、お風呂にします、それとも日曜日(わたし)? 

 そりゃ、もちろん日曜日(おまえ)さ。あかん、これニートや。

 さて、とは言うものの、いつまでもこうしているわけにもいくまい。

 なにせ今日はこのしけた我が家に麗しの雪ノ下嬢が来ることになっているのだ。

 

「ほら、どきなって、ゴミいちゃん。雪乃さん来るっていうからわざわざ掃除してるのに、邪魔」

「……これ、小町や。お兄ちゃんを粗雑に扱うんじゃありません」

「…………」

「あ、やめて。無言でホコリ叩きではたかないで。わかった、どく、どくから」

「もう、身だしなみくらい整えてきなよ」

「へーい」

 

 忙しなく家中を動き回って片付けを請け負ってくれている妹の小町を尻目に自室へ退散、彼女があらかじめ用意した服に着替える。

 妹プロデュースの兄貴(inメンズファッション)って世間体的にどうなのかしらん。

 いつもより堅っ苦しいような気がする服装になんぞ不備がないかと見回して、なんとなくやりきった感を覚える。

 

「あ、着替え終わった? じゃあ、掃除手伝ってよ、お兄ちゃん」

 

 あの、小町さん。せめて、ノックくらいしてほしいなぁ、なんて……。

 あ、はい、ちょっと待って、今行くってば。

 

 

 

 

 

 俺と小町は掃除やら出向かえのためのあれやこれやをすませ、雪ノ下との約束の時間までのちょっとした間を居間で寛いでいた。

 

「いやー、久々にやったらちょっと止まらなくなっちゃったねー」

 

 簡単にすませる筈だった掃除にやや熱を入れすぎた小町がチロっと舌を見せて、小町反省っ(ウラ声)みたいな顔で頭を掻く。やべぇ、気持ち悪い(俺が)。

 まぁ、あるよね。受験生とか、テスト直前に控えてたりすると、なんとなしに始めた掃除とかがついつい本格的なものになるっていう。

 

「って、小町、勉強大丈夫かよ」

 

 なにを隠そうウチの小町は受験生。それも俺と同じ学校に入りたいからと、割と頑張ってくれているのだ。かわいくて、健気でかわいい。あれ、かわいいって二回言っちゃった。

 

「んー、大丈夫だよ。ちょっとした息抜きだってば。それに、未来のお義姉ちゃん最有力候補である雪乃さんが来るっていうからには、これくらいやんないとね」

 

 ちょっとからかいを含んだ口調に、対抗するようにこちらが眦を吊り上げると、小町は唐突に真面目くさった表情をして口を開いた。

 

「あたしね、嬉しいんだよ、お兄ちゃん。総武校に入って、雪乃さんや結衣さんに出会って、ちょっとずつ顔つきが変わっていくの、お兄ちゃんの妹なこの小町がわかんないわけないじゃん」

「…………」

「だから、さ。お兄ちゃんが雪乃さんが来るって教えてくれたとき、なんか、すっごいほっとしたんだよ」

 

 …………。

 …………。

 ……うわ、なにこれ、恥ずかしい。

 

「あ、お兄ちゃん照れてる。むふふっ、今の小町的にすっごいポイント高かったんだから」

 

 最後に茶目っ気たっぷりにウィンクをバチコーンっ星ミみたいな感じでかました小町は、お茶の用意をしてくると台所のほうへ移動していった。

 ……あーあ、最後の照れ隠しがなけりゃあ、俺を封殺できるのにな、あいつ。

 

「でも、まぁ、そんくらいがかわいい、かな……」

 

 俺の妹にしておくには勿体ないくらい……あ、いや、やっぱ今のなしだ、なし。小町には未来永劫に俺の妹であり続けてもらわなければならない。じゃないと、八幡死んじゃう。

 ……最後の照れ隠しに関しては俺も小町のことは言えないな。

 

 

 

 

 

 インターホンのコール音が家の中に響き、俺に重い腰を上げさせる。

 グッバイ、安眠ソファ。ハロー、氷の女王。

 さて、とうとう本日の大一番、雪ノ下雪乃嬢のご登場である。

 迎え入れるために玄関まで足を運び、扉を開けると、うららかな日差しと共にふんわりと柔らかい香りが顔の横をすり抜けていく。

 体の前でハンドバッグを持った秀麗な佇まいの雪ノ下雪乃がそこに立っていた。

 

「こんにちは、比企谷くん。今日はお招きに預かれて嬉しいわ」

「……おう。入れよ」

 

 スノウホワイトのチュニックブラウスにふくらはぎが少しばかり覗くデニムレギンス、ミュール装備の雪ノ下は、顔を合わせた途端に間髪入れずに挨拶を告げる。

 おざなりな反応しか返せなかった自身を恨めしく思いながらも、思いのほか雪ノ下の私服姿が綺麗に見えたものだから見惚れていたなんてことを言えるわけもなく、若干動作がぎこちなく思える彼女を家の奥へと招き入れる。

 さしもの雪ノ下雪乃も男の友人の家に上がるのは緊張するのだろうか。

 ふはは、その点俺は完全にホームなので、アウェイ真っ只中の雪ノ下(緊張ver)をせいぜい楽しませてもらうとしよう。

 

「比企谷くん、なぜだか今とても不愉快な気分になったわ」

「ハチマンナニモシーラナイ」

「あら、そう。イントネーションが妙なことになってるのは、気にしないでおいておげるわね」

 

 これが俗に言う、次はない、である。

 イエス、マム。

 

「小町、雪ノ下来たぞー」

 

 廊下から居間への戸をさもなにごともなかったかのようにして開け、台所でお茶を淹れなおしている小町に声をかける。

 ぱたぱたと小走り気味に俺たちのところまで小町は、満面の笑みを浮かべて雪ノ下を歓迎した。

 

「いらっしゃい、雪乃さん! ささ、こっちに座ってください、今、お茶を出しますから」

 

 甲斐甲斐しく椅子まで引いた小町を微笑ましげに見ながら、雪ノ下もされるがままにしている。

 そして、お茶が出てきて、俺と小町と雪ノ下の三人での世間話も一段落したところで、小町はおもむろに席を立った。

 

「じゃあ、小町はそろそろ勉強に戻らなきゃだから、あとはお兄ちゃんと雪乃さんの二人(・・・)でよろしくやっといてねっ」

 

 またもバチコーンっ星ミをかました小町は、なにが楽しいのか高らかに鼻歌を奏でながら、居間を離れ、二階にある自室へと引っ込んでいった。

 

「…………」

「…………」

 

 ……ふむ。これ、どうすればいいのん。

 普段顔を合わせても互いに本を読んでいるか、俺のライフが一方的に削られているかのどちらかなので、こういう場面でどうすればいいのかが皆目わからない。

 ヘルプキャラを召喚したくなるのをこらえながら、雪ノ下のほうへチラと視線をやれば、なぜだか目が合ってしまった。なに、その瞬間に隠された気持ちに気づいちゃうのかよ。残念、もうこれでもかってくらい好きでしたー。

 ……いいかい、よい子のみんな。これが墓穴というやつさ。笑えよベジータ。

 

「……あの、比企谷くん。あっちのほうに移動しないかしら」

 

 一周回って俺もファイナルフラッシュとかやりてーとか投げやり気味に考えていた俺を現実に引き戻したのは、なにやら頬を赤らめてソファのほうを見やる雪ノ下のそんな言葉だった。なにを思ったのかは定かでないが、某竜玉に関する考え事を一蹴し、俺は雪ノ下の誘いに乗った。

 

 

 

 

 

「……お邪魔、するわ」

 

 か細い、掠れるような声を出して、雪ノ下は俺のすぐ隣に腰を下ろした。体が触れ合った部分からやにわに熱が広がって、変な気分になる。

 顔が赤くなるのが自分でわかる。

 柔らかい。暖かい。いい匂いがする。艶やかな雪ノ下の黒い長髪が俺の肩から足にかけて触れてきて、それだけで緊張の波が高まる。

 かつてここまで両者の間に意図的な接近はなかった。

 だからだろうか、現実でのこの距離感が心の距離感に置き換わったかのように、今、雪ノ下がとても近く感じられて、緊張とはまた別に気持ちが高まった。

 ただでさえ近すぎると思われる距離に、それでも雪ノ下は満足に至らないらしく、そのまま俺の体にぴとっと自分の体を甘えるようにしてくっつけてきた。

 

「っ……」

 

 思わず声が出そうになるのを我慢して、雪ノ下を見やる。

 すると、さっきと同じように俺と目が合った彼女は、とても柔らかい笑みを浮かべた。

 

「ふふっ、ずっと、ずっとこうしたかったの。おかげで昨日の夜は、あまり寝付けなかったわ」

 

 あたかも雪解けのようなその表情と言葉に、俺は自然と頬が緩むのを知覚すらできずに、ただそうしなければという思いに突き動かされ、雪ノ下の華奢な肩を抱き寄せるのだった。

 ……ちなみに、あとで、ベッドでこのときのことを思い出して悶え、小町に壁ドンされるまでがテンプレである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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比企谷家にて・続

ややまとまりきらなかった感。
でも、これで雪ノ下篇は一応の幕引き。


ちょっとミスって由比々浜篇の後ろに投稿しちゃいましたが、すぐ投稿しなおしました。
失礼をば。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 絶好の昼寝場所だと俺が言って憚らないソファの上で、俺はたぶん窮地に陥っていた。

 パシャ、パシャとケータイのカメラ機能で動けない俺と動かない雪ノ下を激写し続けるマイラブリーデビル小町ちゃん。

 

「ふっふっふー。ちょっと休憩がてら様子を見に降りてきてみれば! なんだこれ、なんだこれ、撮るしかないジャマイカ!」

 

 俗っぽい小町ちゃんや。お兄ちゃんたちを撮るのはやめておくれよ。もう俺のライフはゼロよ。

 などと考えながら、俺の腕に自身のそれを絡ませ、ぎりぎりまで擦り寄った状態のままで寝入ってしまった雪ノ下を見やる。

 いやいや、まさか、こんな状態で眠りこけるなんてわりと想像つかない。しかも俺が枕なの。普段罵倒され役の枕って……。なんかちょっとエロチシズムを感じるのは僕だけでしょうか。僕だけですね、ごめんなさい。

 

「おい、小町。いい加減にしとけ。起きちまうだろうが」

 

 できるだけこの眠れる氷の女王を刺激しないように小声で小町を叱る。

 

「はーい」

 

 そうすればわりと素直に引いていく小町。そういうところもかわいい。

 じゃあ小町は上に戻るねー、と小気味よく駆けていく小町に、あとでデータを消させようと固く心に誓いながら、傍らから感じる規則的な呼吸音にだんだんと意識を奪われていく。

 雪ノ下雪乃。

 俺が所属する部活動の部長で、俺が国語学年首位を取れない原因の少女。いや、俺は三位で二位は他にいるんだけどね。ホント超どうでもいいけど。

 加えて言うならば、体力が平均以下なことを除けば完璧超人とさえいえるほどのスーパーウーマンである。べつに空を飛んだり超常的な身体能力を持っているわけでは決してないが。

 あとは、ほら、猫が好きだったりとか。そういう普通な一面もあったりする。

 普通に考えて魅力のありすぎる彼女なわけだが。さて、そんな彼女と俺とはいわゆるところの彼氏彼女の関係なわけで、こういうことはこれからもだんだんと経験する機会が増えていくのだろうから、今のうちに慣れておくことが大事、だと思う。

 べつにやましい気持ちだとかそういうものがないわけではないが、少なくとも俺は今その気はないし、雪ノ下にとってもそれはもっと先のこととして考えているだろう。

 さらに言うなれば、そもそもこうしてきたのは彼女からであって、それに彼氏としての立場上応えざるを得なかった俺からすれば、これくらいは当然の権利であり……って、俺なに言っちゃってるのん?

 

「まぁ、いいや……」

 

 なんか雪ノ下の体温を感じることが他のなにより大切に思えてきた今の俺には、数瞬前までの葛藤などどうでもいいように思えた。

 なんやかんやこじつけてやろうとしたことを、今、なんの戸惑いもなく敢行する。

 肩に寄りかかっている雪ノ下の頭を体の正面で受け止める形にソファに座りなおし、雪ノ下の体を側面から抱きすくめ、俺もそのまま寝る姿勢に入る。

 気恥ずかしくもあるが、こうしていられることのほうが俺にとってはよっぽど重要だった。

 ……ああぁ、ヤバい。相当堕ちてるな、俺。まぁ、いいか。どうせ、この先ずっとこいつと一緒、なん、だ……。

 

「……すぅ」

「すぅ……すぅ……」

 

 比企谷家のリビングに、寄り添いあう寝息が二つ。

 

 

 

 

 

 ふと意識が持ち上がった。

 やけに重く感じる瞼を開けると、まず視界に写ったのはこちらを優しげな表情で見やる雪ノ下の顔だった。

 

「あら、ようやく起きたのね、寝坊助谷くん。ほら、顔を洗っていらっしゃいな」

「……ぁあ、雪乃……?」

「っ……。ええ、そうよ。ほら、早く行ってきなさい」

「……ぉお」

 

 まだ覚醒しきっていない頭で、雪ノ下の言いつけに従う。

 洗面所で顔を洗い、戻ってきたところで、ようやっと先ほどまで自分が雪ノ下にされていたことを理解した。

 

「あ、あのよ、なんでお前、俺にひ、膝枕なんか……」

 

 皆まで言わずとも俺の言いたいことを理解したのだろう雪ノ下が、若干ながら頬を紅潮させて、そっぽを向く。

 

「……べつに。私が、あなたにしてあげたかっただけよ。不快だったのなら、謝るわ」

「い、いやいや! べつに不快だってわけじゃ! ていうかもっとやってほしいまであ、る……いや、そうじゃなくてだな!?」

 

 不意に見せた悲しげな表情に、思わず本音が建前(壁)を突き破って飛び出してきて、さらにまた焦燥を重ねる。そんな俺に雪ノ下はころっと表情を変え、微笑んでみせた。

 

「あら、もっとしてほしいの、比企谷くん。そんな下心に塗れた願望をなんの抵抗もなく口に出せるなんて、さすが純度100%(ひゃくパー)の下心谷くんね」

「は、謀りやがったな……!」

「ふふっ、でも、そうね。その下心はこれからずっと私だけに向けていなさい。……そうすれば、私はあなたの要求に、その、でき得る限りで応えてあげる準備がある、わ……」

「え」

 

 え。

 え。

 え?

 それは、つまり、そういうこともオッケー? てこと?

 …………。

 …………。

 ……え?

 ちょっと、衝撃的すぎる内容で意味わかんないんですけど。

 

「その、私は、あなたの彼女になったのだし、ね……」

 

 え、ちょっとかわいすぎて意味わかんないんですけど。

 抱きしめていいかな。いいよね。答えは聞いてない。

 それに、雪ノ下の言いたいこともなんとなくわかったような気がする。ような気がする。

 

「雪ノ下、好きだ」

 

 正面から抱きすくめながら、俺の柄じゃあないけど、どうしても言ってやりたいので今はそういうのは一切合切忘れることにする。

 予想だにしていなかった俺の行動に雪ノ下は、面食らったようになって、瞬時に顔色をさらに赤く染め上げた。

 

「え、あの、比企、谷くん……?」

「だから、お前とそういうことだってしたいと思うし、いつかはそうなりたい。でも、今じゃなくていい。ゆっくりやろう。これまでみたいに。今は、それだけでいいから。な、雪ノ下」

「……そう、ね。焦りすぎていたかもしれないわ。ごめんなさい、比企谷くん」

 

 俺の言いたいことがわかったのだろう。雪ノ下はふぅと大きく息を吐くと、返すように俺の腰に腕を回し、ひしと抱きしめてきた。

 俺はなんとも言えない甘い香りのする雪ノ下の肩に顔を埋めて、雪ノ下は俺の胸板に頬を擦りつけるようにしている。

 

「雪乃」

「え?」

「雪乃って、起き抜けにそう言っていたわ、比企谷くん」

「あー、えー、それはだな……」

「雪乃」

「……呼べと?」

「…………」

「……わかった。だから、その目はやめてくれ。……ゆ、雪乃」

「ん、ふふっ」

「……んだよ、気持ち悪ぃ」

「……ね、もう一回」

「ゆ、雪乃……」

「ふふふっ」

「……んだよ」

 

 

 

 

 

 晩飯の用意をするから、と小町とキッチンに並ぶ雪ノし……雪乃の後ろ姿をぼうっと眺める。

 まだ慣れないが、それも時間の問題だろうと自分を納得させる。てーか、起き抜けにぽろっと出ちゃうって、俺ェ……。

 まぁ、いい。こうなるのはそもそも時間の問題だったし、先より今やるほうがいいに決まっている。そういうことにしておく。

 

「ほら、お兄ちゃん。暇してるんなら、テーブル拭いておいてよ」

 

 そう言いつけて、台拭きをこちらに投げて寄越す小町。物を投げちゃいけません。

 軽く小町を嗜めてから、ダイニングテーブルを拭く。そして、なにか俺も手伝えることはないかとキッチンの周りをうろうろしていたら、雪乃と小町にキモ微笑ましいというまた新たな評価を頂いたり、いろいろあったが、今日の献立は肉じゃがだった。他にも雪乃と小町がそれぞれ作ったというサイドメニューが一品ずつ。いや、まっこと美味でありました。

 そんなこんなで、終わっていく今日の逢瀬。なんとなくどころでなく非常に後ろ髪を引かれる思いで家へと帰る彼女を駅まで送っていると、ふと彼女が口を開いた。

 

「あの、比企谷くん。今日は、その楽しかったわ」

「……おう、そうだな」

 

 口を閉じたり開いたりして、二の句を口内で転がす雪ノ下に、俺は待ちの姿勢を崩さない。

 

「……また、来てもいいかしら」

「おう」

 

 結局シンプルな言葉で終わってしまい、それでも次はあるのだと光が差した気分になる。

 ああ、でもやっぱり。

 

「……その前にさ、俺も雪乃んちに、その、いつか行っても、いいか……?」

 

 なんか今日は俺じゃない俺が蔓延るな。でもまぁ、これも雪乃と触れ合って初めて顔を見せた俺の一部なのはたしかだ。だって、今の俺は打算だとか、言葉の裏だとか、そういうことがわりとどうでもよくなってきてしまっているのだから。

 隣に雪乃がいる。それだけで、十分救われているような、そんな気がするのだ。

 

「……ええ、楽しみが一つ増えたわね、比企谷くん」

「……ああ、ありがとう、雪乃」

 

 駅に着いて、改札の向こうに姿を消していく雪乃の後姿を俺は、見えなくなるまで追い続けた。

 白い色のアザレアが見事に花を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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由比ヶ浜結衣篇
事の発端


 章分けしますね。
 各章ごとにまったく別のお話になっていますので、ご了承を。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ね、ヒッキー、今度の日曜日って空いてる?」

 

 事の発端というか、そもそもの始まりは、俺が所属している部活動――奉仕部の部員仲間である由比ヶ浜結衣のそんな台詞だった。

 

「なんだよ、藪から棒に」

 

 俺が座る椅子の近くまで自分の椅子を引っ張ってきた由比ヶ浜に、羅列された文字列を追っていた視線を彼女のそれと交わらせる。本はいったんしおりを挟んで閉じ、机の上へやった。

 さて、日曜日といえば、我が比企谷家においては誰もが昼過ぎまで寝床から出てこない伝統的な休日だ。そんな素晴らしい日がどうしたって?

 

「やー、ちょっと協力してほしいことがあるというか、私事で申し訳ないんだけどというか……」

 

 たはは、と誤魔化すような笑みを浮かべる由比ヶ浜に、どうせまた面倒な事案なんだろうなぁとため息を一つ。

 まぁ、でも、そんな本当に困ったような目をしていられたら誰だって気になるだろ、うん。

 

「なんだよ?」

 

 さっきと同じ言葉を投げると、由比ヶ浜は少しうなだれたふうにして、実に申し訳なさそうに目を伏せながら事の顛末を語った。

 曰く、色恋沙汰の話で父親と言い合いになり、そこで頭に血が昇って自分にも彼氏の一人や二人いると大見得を切ったとか。

 曰く、ではその彼氏とやらを自分の前へ連れて来いと父親がふんぞり返ってのたまったとか。

 

「ほーん……」

 

 つまり、あれだ。こう言いたいわけだ、由比ヶ浜は。

 その話の中に出てきた席に、俺が、由比ヶ浜の、彼氏役として出席してくださいやがれと。

 なにそれレベル高い。

 

「ど、どうかな、ヒッキー……」

 

 最早俺と視線を合わせられないのだろう由比ヶ浜は、完全にうつむきながら、俺の予想どおりの頼みごとを口にした。

 えぇ、マジ?

 いや、それ自体は嫌じゃない、むしろ男なら一度はやってみたいシチュエーション。だが、イヤだ。

 外で恋人のふりしてデートとかならまだいい。よくはないが百歩二百歩譲る。けどな、なんだ、いきなり先方の親父殿と合間見えるのなんか冗談事じゃねぇよ。

 

「……お父さん、最近なんかよくつっかかってくるの。だから、その、一杯食わせてやりたいというか……、あとでちゃんと説明はするつもりなんだけど、やっぱり、ダメかな?」

 

 …………。

 …………。

 …………。

 ……そ、そんな目で見たってな、イヤなものはイヤというかだな……。

 べ、べつに上目遣いにしたって俺の心は揺るがないというかだな……。

 

「……っ、あぁ、もう……」

 

 普段はなにかと煩い雪ノ下も俺がなにか言うまで動かないつもりらしいし、断ったら断ったでなんかアレなことになりそうだし、そもそも由比ヶ浜のそういう頼みごとの仕方は卑怯というか、俺含む男共にはこうかばつぐんというか……。

 

「……わかった、わかったからその目はやめてくれ。俺じゃなかったら勘違いするとこだぞ」

「わっ、ありがと、ヒッキー!」

 

 子犬のようにおおげさに喜ぶ由比ヶ浜を尻目に、行く末を見守っていた雪ノ下が本を閉じ、ふらっと立ち上がって手を叩く。

 

「……今日は、このくらいにしておきましょうか」

 

 どうやら、本日のお勤めはこれで終了となったらしい。

 詳しいことはメールで、と由比ヶ浜と言葉を交わす。

 

「ゆきのん、かーえろっ!」

「ええ。あの、由比ヶ浜さん、もう少し離れてくれると助かるのだけれど……」

「えーっ、ゆきのん、こうしてるの、嫌い?」

「いえ、あの、嫌いとかではないけれど、その……」

「えへへっ。あ、そうだ、ゆきのん、駅前に新しくできたお菓子屋さん、寄っていこうよ!」

「か、構わないけれど」

「よし、決まりっ。じゃあ、ヒッキー、あとでね!」

「また明日、比企谷くん」

 

 そんなこんなで、ゆるゆりの片割れこと由比ヶ浜結衣の彼氏役をやることになってしまったわけだ。

 こりゃもうあれだ。笑うしかねぇやな。へへっ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、というわけで件の日曜日当日。

 やべぇ、布団から出たくなさすぎる。約束は昼過ぎだし、このまま二度寝でもするか。

 いや、ダメだな。由比ヶ浜が午前中に集合ってわざわざメールしてきたし。

 日曜の午前中なんてだらけるためにあるようなもんなのにな。この時間ばかりは早起きは三文の得なんて言葉も妄言にしか聞こえねぇぜ。

 

「出かけるか……」

 

 そうと決まれば惨めったらしく布団に篭るのも性分じゃないので、ちゃっちゃと着替えをすませて居間に降りる。この時間はまだ家族の誰も起きてこないので、勝手に食事をすませ、洗面所で身だしなみを整える。

 

「あれ、お兄ちゃん、出かけるの……?」

 

 後ろからかけられた声に振り返ってみれば、そこには寝ぼけ眼をこする我が妹、小町の姿。

 うむ、その寝巻きのはだけ具合は八幡的にポイント高い。うわぁ、変態かよ、俺。

 

「ああ、ちょっとな」

 

 顔を逸らしてそう口にしたところ、小町の目が寝起きなのを忘れて爛々と輝きだす。うっわぁ、盛大ににやにやしてくれちゃってるよ、この妹様。

 

「誰? 誰と出かけるの? 雪乃さんか結衣さん、それともいろはさん?」

 

 小町とのこういうやりとりって、たまにあるんだけど、すごいめんどくさいと思う。

 

「由比ヶ浜」

「結衣さん! 小町のお姉ちゃん候補トップ3の一人だよ!」

 

 やめれ。お兄ちゃんの交友関係にランキングつけるのやめれ。

 

「じゃあ、じゃあ、小町はしっかりと応援してるので、頑張ってきてね、お兄ちゃん!」

「あ、ああ……」

 

 自分でした以上に小町に髪やら服やらをいじくりまわされて家を追いだされる。

 

「いってきます……」

 

 せめてこれくらい言ってから、外に出たかった。もう遅いけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 集合場所は、最近新装したショッピングモールの最寄駅から数分のところのカフェだった。

 由比ヶ浜のことだからと考えていたら予想外にそれっぽい待ち合わせ場所を指定されて、若干戸惑ったのが印象的だった。

 

「お一人様でしょうか?」

 

 入店したのは、シックな感じの装飾が落ち着いた印象を与える物静かな喫茶店。出迎えた店員の女性に、やや照れながら待ち合わせだということを伝える。

 

「由比ヶ浜様のお連れ様でしょうか?」

「そうですが……」

「ご案内します。こちらへどうぞ」

 

 それなりに広い店の奥に案内され、淡い色合いの店内に目立つ鮮やかな雰囲気の少女の下へ通される。

 俺が礼を告げると、店員は一礼して去っていく。お冷でも取りに行ったのだろう。

 

「よう、早いな、由比ヶ浜」

「ヒッキー、ちゃんと来てくれたんだ!」

 

 俺の声に振り返った少女、由比ヶ浜はぱぁっと破顔すると、ささと俺に座るように促し、社交辞令のような挨拶と世間話を始めた。

 注文したカフェオレがカップの半分ほどまでになくなった頃、由比ヶ浜は話題が尽きたかのようにあたふたとし始めて、なにを思ったのか顔を紅潮させて黙りこくった。

 今さら、二人きりの状況に緊張してきたのだろうか。

 これまでにも由比ヶ浜と二人きりなんて状況はかなりあったはずなんだが。

 

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

 

 まぁ、正直に言うと、この状況は俺にとって望ましいものである。

 由比ヶ浜の恋人のふりなんて、望むところだ。つまり、そういうことである。

 いつからか、俺の心の奥底に巣くっているこの感情に気づいたのは、本当につい最近のことだ。

 幾度もすれちがって、そのたびにまた歩み寄った彼女は、いつからか、手放したくないものの一つに数えられるようになった。

 もちろん、由比ヶ浜が俺に特別な感情のようなものを向けているのは薄々感じていたし、これで勝つるとかも正直思った。マジ調子乗ってました。すみません。

 でも、だからこそ、ゆっくりと慎重になっていた。

 もし、間違いだったら。俺の思い違い、勘違いだったら。

 そう思い始めると、怖くてたまらなくなった。

 けれど、まぁ、有り体に言おう。

 ……ヒャッハー、がまんできねぇっ!

 

「……デート、みたいだな」

「っ……」

 

 うわぁ、さらに赤くなってる。耳まで真っ赤。なにこれかわいい。

 

「悪ぃ、気に障ったよな」

 

 ぶんぶんぶん、ともげるんじゃないかってくらいに首を横に振る由比ヶ浜。紅潮はさらに鮮やかになっていく。

 確信犯ですが、なにか。

 

「そういえば、今日の服、いつもと感じ違うな」

「……ん、ちょっと、気合入れたの」

 

 か細い声で必死に答える姿が、どうしようもなく愛おしい。

 今めちゃくちゃ抱きしめたいんですけど。え、ダメですか。いや、ちょっと無理そうかもしれないです。

 

「……その、似合ってる」

「うぇっ!? あぅ、ぁぅぅ……」

 

 なにこれ。ちょっとかわいすぎて意味わかんないんだけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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事の始まり

 多少投げやり感があるやもしれません。
 ご容赦を。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 真っ赤になってそのうちトマトになるんじゃないかってくらいだった由比ヶ浜をさんざ愛でた後、喫茶店を出た俺たちは、由比ヶ浜の家族になにか手土産でもという話になり、とりあえず近場のショッピングモールに向かっていた。

 

「べつにそんなの気にしないでもいいと思うけど……」

 

 いかにも遠慮してますといった体で胸の前で手を振る由比ヶ浜。

 

「いや、礼儀としてな。……一応、お前の彼氏を名乗っていくわけだしな」

 

 うわ、改めて口に出すと相当恥ずかしいな。

 喫茶店でのあれは、あの場限りのノリだったらしい。

 

「そ、そう……」

 

 …………。

 ……さて、とはいえ、なにを買っていけばいいものやら。

 洗剤とか?

 ないな。今時、それは。じゃあ、あれかオーソドックスにお菓子とかかね。

 とすれば、ケーキとか、クッキーとかが妥当なところだな。

 

「由比ヶ浜、どっかうまいケーキかクッキー売ってる店、知らねぇか?」

 

 こういった話は、いわゆるところの女子に聞いたほうが早いよな。

 俺の質問に、由比ヶ浜は顎に人差し指をやって数瞬考え込む素振りをしてから、この手のことに関しては知識のない俺にヒントをくれた。

 

「そういえば、最近お父さんとお母さんの間で流行ってるお菓子屋さんがあるんだけど……」

 

 おお、こういうときに身内が味方だとうまい具合に話が進むな。

 助かるぜ、由比ヶ浜。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて、お昼も食べたし、あたしの家に行こっか、ヒッキー」

 

 ややはにかみながらそう言った由比ヶ浜に首肯を一つ返して、駅へ向かう彼女の背中を追う。

 今さらながら、俺の胸中には漠然とした緊張と不安が生まれてきていた。ほんとに今さらだな、おい。

 さっきのさっきまで恥らう由比ヶ浜を弄んでいた変態がなにを言ってんだかってな。

 駅から人気の少ない電車に乗り込んで、他愛もない言葉を交わし合いながら数駅をやりすごす。

 そうしていると、由比ヶ浜がぽつりとついといったふうに言った。

 

「……ね、ヒッキー。今日さ、嫌だったら、帰ってくれても、その、いいんだからね……?」

 

 顔を伏して、震えた声で告げられたその言葉は、不安の色が滲んでいて、この約束を交わした先日からずっと悩んでいたのがまるわかりの一言だった。

 ……………。

 まったくな。そんなこと、そんなふうに言われたら、抱きしめてやりたくなるだろうが。

 まぁ、今はできないけど……。

 

「急にしおらしくなってんじゃねぇよ。ここまできたらもう、あとはいつもどおりにやるだけだ」

「ヒッキー……」

 

 あぁ、もう……。

 最近、俺が俺じゃないみたいに由比ヶ浜の一挙手一投足に気を持っていかれるなぁ。

 相当に、重症だ、これは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「君が、結衣の彼氏とやらかね?」

 

 なにこの人。なにこの人。

 なんで背中にゴゴゴみたいなオーラ背負っちゃってるの?

 なんでまだ昼間なのに全身に影がかかってるみたいな、なんかラスボスっぽい演出されちゃってるの?

 ねぇ。ねぇ、なんで……?

 八幡、怖ひ……。

 

「ひゃいっ、そうでふっ!?」

「ヒッキー、キモい……」

 

 うぅ、おもっくそ噛んだ……。

 というか、由比ヶ浜よ。こんなときにまでそれはないと思うなぁ。なにより君の親父殿について十分に話を聞けていなかったようだ。

 失態だ。こうなったら、やむなしに戦略的撤退を決断するしかないか……!

 

「初めまして、比企谷八幡といいます。娘さん、結衣さんと交際させていただいてます」

 

 なんてな。悪ふざけも大概にしとかないと。

 怖いことは怖いが、それも由比ヶ浜の頼みの前じゃ、どんなもんだ。

 

「あ、これ、つまらない物ですけど、どうぞ」

「うむ、ありがとう。私は結衣の父、由比ヶ浜健司という。まぁ、座りたまえ。結衣もな。結女さん、お茶を」

「はぁーい。今持っていきますよー」

 

 センターテーブルを挟むようにして向かい合う健司さんと俺、由比ヶ浜。

 由比ヶ浜の母であろう女性、結女さんが盆で運んできた湯呑みを眼前にして、まず健司さんが切り出す。

 

「君は、あれだな、よく結衣が話しているヒッキーという……」

 

 言い淀む健司さんに、家族にまであだ名使ってんじゃねぇよ、と心中で項垂れる。

 

「え、ええ、はい。たぶん、そうです」

「そうか。うむ、そうか。どうだね、娘とは。うまくやっているかね」

「もちろんです、」

 

 いったん言葉を切って、由比ヶ浜を見やると、彼女は場の空気が耐え難いのか顔を伏せていた。

 そんなふうなのを見ていると、なんとなしに今までの由比ヶ浜と過ごした時間の数々が頭の中を駆け巡っていく。

 優しくて。空気は読めるのに、アホの子で。変な挨拶を布教してて。キモいキモい言いながらもずっと傍にいたり。

 すれちがって。歩み寄って。

 そして、きっと。最後の最後に、俺は、この手を差し出すのだ。

 

「……俺には、もったいないくらいに」

 

 不思議と視界が澄んでいくような気がして、なぜか、自然に顔が笑みの形に変わっていった。

 こんな気持ち。

 こんなの、何ヶ月か前の俺が知ったらきっと、目を見開いて驚くんだろうぜ。

 なぁ、由比ヶ浜。そう、思わねぇか。

 

 

 

 

 

 

「はっはっは、八幡くん、どうだ、うまいかねっ」

 

 その後、これ以上ないくらいにご機嫌になった健司さんの計らいで晩飯を由比ヶ浜家でご相伴に預かることとなった俺は、酒も入ってさらに機嫌がよくなった健司さんを適当にあしらいつつ、由比ヶ浜も手伝ったという肉じゃが等々に舌鼓を打っていた。

 

「こっちの胡麻和えもあたしが作ったんだよ、ヒッキー」

 

 結女さんの監督の下で作られたならば、下手なことはないだろうと高を括ってほうれん草の胡麻和えに箸をつける。

 

「まぁ、うまいぞ……?」

 

 なんというか、味をとやかく言いにくい品であるが故、単純な言葉でしか伝えられないが、うまいものはちゃんとうまいので、問題はないな。

 それを聞いて、優しい笑顔ではにかむ由比ヶ浜の姿だけを今は見ていたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夕飯もすみ、健司さんと結女さんに挨拶を告げてとうとうお暇することになって。

 今は玄関先の夜空の下、由比ヶ浜に見送られていた。

 このまま家路につけば、次に由比ヶ浜と会うのは、明日の学校までお預けだ。

 でも、まぁ、そんなの、我慢できねぇやな。

 

「……なぁ、由比ヶ浜」

「はいっ!?」

「ちょっと、歩かないか」

「……うん」

 

 なぜか異様な緊張を見せる由比ヶ浜の手を引いて、街灯と月明かりの光源を頼りにぶらぶらと夜の住宅街を歩く。

 しばらくすると公園が見えて、そこのベンチに二人で腰かけた。

 まだ、肌寒い季節。由比ヶ浜は、大丈夫かねぇ。

 

「寒くないか?」

「ううん、大丈夫だよ、ヒッキー」

 

 返された声はやはり震えていて、俺は肩越しに由比ヶ浜の顔を覗き込んだ。

 

「……ね、ヒッキー、今日のことは、ぜんぶお芝居だった……?」

 

 すると、うっすらと涙さえ浮かべたなんともいえない表情で決然と言い放った由比ヶ浜は、立ち上がり、俺の正面へ回りこんだ。

 

「俺は――――、」

「……ヒッキー」

 

 俺は、だな。

 俺は、どうすれば、いいんだろうな。

 由比ヶ浜。由比ヶ浜結衣。

 奉仕部の仲間で、友達で、俺の求める本物足り得て、想い人で。

 胸のうちは葛藤していて、でも、口が勝手に動き出して、本音を紡いでいく。

 理性の化け物なんて大層なものじゃなくなった俺は、なんなんだろうな。

 きっと、それは――――。

 

「――――途中から、本音が漏れてたかもな」

 

 そして、小町から捻デレなんて言われている俺の心からの言葉が、これだった。

 はーあ、呆れるな、おい。

 

「ヒッキー……!」

 

 でも、だけど。

 心底嬉しそうにはにかむ由比ヶ浜のことを見ていると、俺のことなんて、どうでもよくなっちまうよなぁ。

 

「好きだ、由比ヶ浜」

「うん、うんっ……! ヒッキー、ヒッキー! あたしもだよ!」

 

 あぁ、やばい。

 めちゃくちゃ抱きしめたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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事は続き、想いは結われる

なんかこう、滅茶苦茶ですみません。
これで由比ヶ浜篇も一応の完結、ということで。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねー、ヒッキー、お出かけ行こーよー。お出かけー」

 

 ソファに座り、読書に耽る俺の膝の上に頭を乗せ、頬を膨らませる由比ヶ浜。

 日曜日の午前中、電撃来訪を敢行した彼女――あとから聞いたが、どうやら小町が勝手に話をつけていたらしい――は、どうやら俺を遊びに誘いたいらしかった。

 家にやって来るなり、さっきのような誘い文句を寝ぼけ眼を擦る俺にぶつけ、だがしかし、ここでそう簡単にうんと言ってやらないのが比企谷八幡()比企谷八幡()である所以である。一言、断る、とかまして、自室に引き篭もろうとしたところ、由比ヶ浜が盛大な駄々っ子モードに移行したのだ。

 結果、家で怠惰を貪る俺と、それについてまわり、こうして甘えるようにしながらめげずに誘いをかけ続ける由比ヶ浜という構図ができあがったわけだ。

 

「静かにしてろって。読みづれぇから」

 

 リスみたいになっている由比ヶ浜の頬を指先で押しつぶし、ぷへぇと息を吐き出したところにすかさず人指し指を立て、めっ。

 

「もうっ、あたし子供じゃないんだからねっ」

「あーはいはい、子供はみんなそう言うもんだ」

「ヒッキー、怒るよ!」

「まぁ、おちつけって。結衣」

「あぅ……」

 

 指を立てていた手で、そのまま由比ヶ浜の髪を梳くように頭に撫でる。

 それから、下の名前を呼び捨てで囁くように言ってやると、由比ヶ浜は顔を赤に染めて、固まる。

 まぁ、ぜんぶ普段俺がやらないようなことだもんね。ていうか、これ、由比ヶ浜に対する有効的な手札なんだけど、俺にもわりとダメージ入ってたりするのだが。

 あと、自論だけど、こんなの平然とできるやつ男ってあんまり信用できないと思う。

 

「……ヒッキー、それ、ずるいよ……」

 

 頬を紅潮させて、潤んだ瞳を俺の顔と明後日の方向との間で行き来させる由比ヶ浜。

 そういう自分のほうがずるいの、こいつは気づいてんだか、気づいてないんだか……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結局、あまりに由比ヶ浜がねばるものだから、俺が折れ、二人でどこかへ出かけることになったものの、

 

「行こう行こうつってて、どこ行くか決めてなかったのか……?」

「うー、だってぇ……」

「だって、ってもなぁ……」

「むぅぅ……」

 

 まぁ、こうして彼氏彼女の関係になっていくらか経つけれど、今まで二人で遊びに行ったことなんてないし、由比ヶ浜の気持ちもわからなくはない。

 が、俺に自ら進んで外に行くほどの気概はないし、目的地すら決められてないのなら、なおさらだ。

 悪く言うなら言うがいい。俺は、退かぬ、媚びぬ、省みぬぅっ。

 …………。

 …………。

 けれど、まぁ、気持ちはわからないではないんだし、ここは折衷案を出してやろうではないか。

 

「なぁ、由比ヶ浜」

「……なに?」

「そう拗ねるなって。もう自宅デートでいいじゃねぇか、な?」

 

 由比ヶ浜は、デートがしたい。

 俺は、家で自堕落に過ごしたい。

 この案なら、Win-Winだよね、うん。

 

「……うん、そうする」

「おう。んで、次どっか行くときは、二人でどこ行くか決めような」

「……うんっ」

 

 なんて話をしているうちに由比ヶ浜にもいつもどおりの笑顔が見え始め、俺たちは唐突に始まった自宅デートを満喫せんと、とりあえずリビングから俺の部屋に引っ込んだのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねー、ヒッキー、後ろからさ、ギュッってして?」

 

 壁際のベッド上、壁に背を預けて座る俺の股の間にするりと入り込み、そうねだる由比ヶ浜。

 あまりに無防備、というか警戒心がなさすぎるその行動に、俺のキャパシティはわりと簡単に熱暴走を始める。

 

「ヒッキー……?」

 

 己の言葉どおりにしてくれないのか、と若干不安げな瞳で肩ごしに俺を見やる由比ヶ浜に視線を合わせることもままならず、ややぶっきらぼうに返事もしないまま、彼女を背中から抱きすくめる。

 

「ん、これ、好き……」

 

 やけに艶っぽいその台詞が、頭の中で反芻して、胸のうちがどうにも苦しくなる。

 ああ、もう。

 

「な、なぁ、由比ヶ浜? や、やっぱリビングのほうが落ち着かね? な? リビングのほう行かね?」

 

 小町のにやけ顔と隠す気のない凝視の視線に晒されるのが嫌だったことから、たしかに俺は自室への移動を提案した。したけれども、これはこれで由比ヶ浜の無防備さが際立って、やんごとなくなっている。

 てーか、俺に毒すぎるんだけど、このシチュエーション。

 

「んー、なんでー? あたし、このままがいい。それとも、ヒッキーはいや……?」

「うぐっ、おま、それはずりぃぞ……」

「ね、ヒッキーはいや……?」

「嫌、じゃない……です」

「ん、うれしい……」

 

 なに。なんなの。なんなんですか。

 前半俺に傾いてたと思ったのに、今は由比ヶ浜の一人勝ちですよこのやろー。

 いや、まぁ、かわいいし? 役得だと思うし? これはこれで悪くないけど?

 なぜかここで顔を出す俺の反骨精神。

 部室では雪ノ下にいいようにあしらわれ、プライベートでは由比ヶ浜に振り回される。

 一矢……一矢報いてやらねばっ。

 というわけで、未だに顔も紅潮して、動悸もやや激しいまま、俺は反撃の狼煙を上げることにした。

 

「由比ヶ浜……」

 

 由比ヶ浜の体に回していた両腕にさらに力を込めて、やんわりと彼女の体を拘束する。

 甘い香りのする髪と由比ヶ浜らしい服の間から覗くうなじに鼻先を擦りつける。

 

「ヒ、ヒッキー……!?」

「なんだよ……?」

「なにって、その、あう……」

 

 ああ、やっぱり。

 こうしてるの、恥ずかしいし、照れくさいけど、でも、それ以上におちつく。

 

「ヒッキー……」

「由比ヶ……いや、もう結衣でいいよな……」

「うん、ヒッキーが、したいようにして……」

「っ……」

 

 …………。

 …………。

 こいつはほんと、わかってるんだか、わかってないんだか……。

 

「ね、ヒッキー、あたし、今すっごく幸せ」

「……おう」

 

 ……ああ、そうさ。

 そうだよ。反撃だ、なんて、そんなの言い訳だ。

 ほんとはただこうしてたいってだけだよ。なんか悪いかよ。

 こうして心を許して、体を預け合って、俺には、それがこの上なく心地いいんだ。

 ああ、いいや、結衣と一緒なら、もうどうなったって。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 腕の中で、完全に俺に体を預けてすやすやと寝息を立てる結衣。

 あれから、寝入ってしまった彼女をこうして延々と眺めたり、たまにだらしなくにへらっと笑う頬をつついてみたり、いくらか時間も経つが、これがまぁ、ぜんぜん飽きない。

 困ったものである。

 

「しかし、まぁ、こんなことになるなんてなぁ……」

 

 ふと、胸中に感慨深いものが去来する。

 そう、始めはあのクッキー作りの依頼からだった。

 その手伝いを俺と雪ノ下でしてやって、それからなにが気に入ったのか、奉仕部に入り浸るようになった結衣。

 自然、俺たちとの距離も急速に縮まって、二人(・・)三人(・・)になった。

 それからもいろいろあったもんだ。

 離れて、近づいて、遠ざけて、歩み寄って。

 

「なぁ、覚えてるか、結衣……」

 

 本当に、いろいろあった。

 でもそのいろいろ(・・・・)の中で、俺たちは心を寄せ合い、触れ合ったんだ。

 そして。

 

 

「――――そして、今、こうしてお前といる」

 

 

 本物(・・)

 存在するかどうかそれさえわからないものより、手を伸ばせばしっかりと届くところにいてくれる本物かもしれないもの(・・・・・・・・・・)

 そっちのほうが、俺の心を酷く引き寄せたのだ。

 なぁ、覚えてるか、結衣。

 今までのぜんぶが、俺とお前をつないでいてくれてる。

 

 

 

 ……ああ、なんか、らしくないことを考えすぎたみたいだ。

 

 

 

 ……俺も、眠くなって、き……た……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 で、二人して寝入ってしまい、結局せっかくの日曜日のほとんどをうかつにも睡眠時間に費やしてしまった俺と結衣は、寝てしまうまでの経緯に仲良く悶えたり、あれはあれでまたやるのも悪くないかもなんて、そんな他愛もないことを話したりして。

 それで、晩飯も家ですませて、そろそろお暇するという結衣を駅まで送る中、

 

「ねね、ヒッキー。今度、どこに行こっか?」

 

 朗らかに笑う結衣が、そう切り出す。

 

「静かで、人のいないとこ」

「……そんなとこでなにするのよ」

「イチャイチャ?」

「もうっ!」

 

 なんだ、せっかく案を出してやったというのに。

 

「たしかにそれもいいけど、なんかこう……」

「……そうだな。やっぱ、結衣がどこか行きたいとこをいくつか見繕ってきてくれ。そしたら、二人でその中から決めよう。じゃなきゃ、俺にはちょっとハードルが高い」

「……ふふっ、うん、わかった」

 

 

 

 

 

「ね、ヒッキー――――ありがとね」

 

「――――ああ、こちらこそ」

 

 今、二人をつなぐ手と手の温もりを、俺はきっと忘れることはない。

 それを忘れられないくらいに、この先の時間を、共有していくのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




やっぱ、自分としてはあまり納得のいっていない内容なので、いつか修正が入るかもしれません。

それでは、失礼。


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一色いろは篇
色づき


ちょっとイケメンっぽい八幡と純情いろはすでお送りします。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

「せ、ん、ぱぁい」

 

 溶けるような、甘えた声でにじり寄ってくる一つ下の後輩――一色いろは。なにやら俺を探していたらしい彼女の動きがどうにも艶かしく感じられて、思わず後ずさる。

 とある事情から、俺は事ある毎にこいつに呼び出され、こき使われているのだ。思わず後ずさったのは、そこらへんの事情からくる苦手意識も手伝ってのことだった。

 ちなみに、こういう猫なで声のときは、十中八九、なにか面倒ごとを押しつけに来たときのそれだ。

 瞬時のうちに、脳がここから逃げろ、と判断を迫ってくる。

 

「悪いな、一色。今日はほら、ちょっと家がアレだから」

 

 ほぼ条件反射的にまくしたてた台詞と一色をその場に残し、逃走を図ろうとし、

 

「アレってなんですか。小町ちゃんから先輩の使用許可をもらってるので、逃げられませんよ、先輩」

 

 実妹に身柄を売り飛ばされている新事実に膝を屈する。

 ていうか、使用許可って……。

 四つん這いで気を落とす俺に、一色は、眼前にしゃがみこんで俺と視線を合わせると、とびきりの笑顔で「お願い」をしてみせた。

 

「先輩、生徒会のお仕事、手伝ってくーださいっ」

 

 計算された顔の角度に、計算された表情、計算された声に話し方。

 計算されつくした己の見せ方。一色の対世間用の強化外装。

 最初のうちは、はいはいあざといあざとい、なんておちょくっていた。

 

「あっ、先輩、待ってくださいよっ」

 

 生徒会のヘルプに関しては、仕方がないので逃げることを諦め、手伝うことにする。

 最近、俺はどうにも、一色の振る舞いが嫌いだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おお、さすが先輩、やればできる子じゃないですかー」

 

 そこはかとなく上から目線で媚を売ってくる一色。本当にいい根性してるよな、なんて思いつつ、はいはいあざといあざとい、とおざなりに返して、帰り支度を始める。

 ここにいる理由(仕事)がなくなったのだから、このままここで時間を浪費することもないだろう。

 

「あ、先輩、もう帰っちゃうんですか……?」

「ああ、用事、もうすんだだろ」

「むぅ……」

 

 作業のために脱いでいた上着を羽織って、カバンを手に、いざ帰ろうと扉のほうへ向かおうとすると、不意に上着の裾をつままれた。

 

「なんだよ、一色、まだなんかあんのか?」

 

 勘弁してくれ、なんて気だるげな雰囲気を出して、裾をつまんだままの彼女を見やる。

 

「先輩、最近、私のこと避けてますよね……?」

 

 切実に満ちた問いかけだった。なにかを恐れ、忌避するかのように、一色はその問いを口にした。

 しかし、図星である。

 もともと、俺は一色のことを苦手としていた。性格の不一致だ。仲良くできる気はもとよりあまりなかった。

 が、それに輪をかけるように、俺は最近になって彼女のことを避けるようになっていた。

 彼女の振る舞いが、どうにも見ていられないのだ。

 おもしろくもないのに笑ってみせ、興味もないことで怒ってみせ、共感すらできないことを悲しんでみせる。そんな振る舞いが、俺にはとても痛々しいものに思えたのだ。

 いや、まぁ、それが世間で言う人付き合いに大切なものであることは理解している。

 だが、俺はぼっちだ。そんなことは知ったことではない。

 気持ち悪いものは、気持ち悪い。見ていてむかっ腹が立つものは、なにがあろうと絶対腹立たしいものなのだ。

 

「さあ、どうだろうな……」

 

 結局、俺が返したのは、肯定とも否定ともつかない曖昧な答えだった。

 

「……先輩、今日、一緒に帰りましょう」

「……おう、早くカバンとってこい」

「はい……」

 

 だが、それがなんだと言うのだ、とも思う。

 なにせ、一色がただ一人好いているのは、校内一の人気者、葉山隼人だ。

 そして、彼女にとって俺は、面倒ごと(生徒会長)を押しつけてきた嫌な先輩、であるはずなのだ。

 いや、そうでなくてはならない。

 そうでないと、彼女がなにかと理由をつけて会いに来くるのも、放課後にこうして生徒会の仕事を手伝わせるのも、なにかと俺の動向を気にかけるのも、すべてが嫌いな人()に対するちょっとした嫌がらせなのだと、そう思えなくなってしまう(・・・・・・・・・・・・)

 

「先輩、お待たせしました。帰りましょう……」

 

 尻すぼみにそう言う一色に一つ頷いて、二人で隣りだって歩き出す。

 理性の化け物。いくぶんか前にそんなことを言われたのを思い出して、今の、揺らぎに揺らいでいる自分と比べ、その在り方の差になんだかおかしくなる。

 家路に向けて、一色が一歩、先んじて踏み出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから、あまり一色の姿を見なくなった。

 奉仕部に顔を出しにくることもなくなり、廊下ですれ違っても、以前のように目を輝かせて、先輩、と飛びついてくることもなく、ただ単に会釈をするだけ。

 俺と彼女の関係は、あれから希薄になる一方だった。

 

 

 ――――さあ、どうだろうな。

 

 

 きっと、あのときの俺の肯定とも否定ともつかないあの言葉を、一色は、肯定の意味にとったのだ。

 たしかに、もともと避けていたのは事実だし、それがさらに悪化すれば、他人の機微に聡い彼女のことであるから、すぐにでも俺が彼女のことをやけに避けていることに気づいただろう。

 しかし、それでも、一色は待ち構え、適当な理由をこじつけ、あくまでの俺の傍をふらふらとし続けた。

 いつかの本番(葉山隼人)のための練習だから、と。本当に、楽しそうに……。

 

「なんだよ、これ……」

 

 胸中に去来する曖昧で、締め付けるような疼き。

 ああ、最近、一色と話せていない……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 わりと、過去の自分の言葉を後悔することは多い。

 「暑いというより、むしろ蒸し暑いよね」とか「え、それって、俺のこと……?」なんて、どこぞのH君の黒歴史だが、その最たる例だろう。

 ああ、なにこの気持ち。なんか、死にたい……。

 が、これは今までのそれとは少しどころでなく、気色が違う。

 夜中に自室のベッドで悶えることもなく、枕に顔を埋めて叫ぶこともなく、ただただ、胸が疼く。

 これは、知ってはいるが、知らないものだ。この俺には、縁遠い、とすら思っていたそれだ。

 認めない。認められなかった。認めたくなかった。

 

「もう、遅ぇよ……」

 

 気づいてはいた。ただ、認められなかった。この疼きに従ってしまうのが、どうにも悪いことのように思えて仕方がなかった。

 しかし、そうも言ってられない。

 生徒会長に元気がない。こんな噂が出回って、すでに幾日かが経過している。

 俺は、一色のあの振る舞い(欺瞞)が嫌いだ。

 けれど、それ以上に、彼女が隣で笑っていてくれることが、どうにも心地よかった。

 今になって、ようやく、その気持ちを認めた俺の心の、いや、なんとやりにくいことか。

 

 

 ――――ああ、俺はどうも、あいつのことが好きらしい……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「一色!」

 

 放課後。

 部活の仲間に断りを入れて、俺は自宅に向かうでもなく、あることのために少し回り道をしていた。

 

「あ、れ……先、輩……?」

 

 心外だとばかりに、俺を見やる一色に、固唾を呑む。

 あーあ、なんだこれ。緊張しまくってる。

 まぁ、でも、そりゃそうか。なにせ、人生最大の大一番ってところだろうから。

 

「一色……」

 

 呆然としている一色のすぐ傍にまで歩み寄って、その華奢な体を抱き締める。

 

「きゃっ、せ、先輩……!?」

 

 柔らかくて。

 暖かくて。

 ああ、一色の匂いだ。

 なんて、そんなことだけで、さっきまでの緊張が嘘みたいに心が温もりを取り戻した。

 

「悪かった」

 

 抱きすくめている耳元で、あたかも独白のように、俺はすべてをぶちまけた。

 

「避けていて、悪かった。相手をしてやれなくて、悪かった。話してやれないで、悪かった」

「…………」

「でも、俺はずっと前から、こうしたいと思ってたんだ」

「…………」

「なぁ、一色、悪かった」

「先、輩……先輩……」

 

 

「――――なぁ、好きだ」

「――――私もですよ、先輩。私も、先輩が好きです」

 

 

 それから、お互いの存在をたしかめるかのように、馬鹿みたいに抱き締めあった。

 額と額をくっつけて、目と目を合わせて、俺と一色は、真正面から向き合った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ちょっとイケメンっぽい八幡と言ったな。あれは嘘だ!



やべぇ、書くたびに短くなってってる。。


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色あわせ

正直、うまく一色を書ききれていない感がすごいんですが。
こういうの、どうなんですかね。。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「だーれも知らない、知られちゃいけーないー」

「先輩、その歌なんかキモいです」

「ちょ、おま、謝れ、全国の悪魔男世代に謝れ」

「え、なんですか、それ……」

 

 隣りだって歩く中、話も途切れ、ふと頭を過ぎった歌を口ずさんだところ、この言われようである。

 あの、一応俺のが年上なんだし、そこのところは……。

 

「知りません。今の世の中男女平等主義ですし、それに、私と先輩は彼氏彼女という対等この上ない関係ですので、どっちが上とかないです。あ、あと、先輩はこうして歩くときはでき得る限り私の手を握ることが義務となりますので、そこのところをよろしくお願いします」

「は、はぁ……」

 

 思わず、言われたとおりに隣を歩く一色の手を握ってしまう。

 やれと言われ、自分でやっておいてなんだが、なんというか、どことなく不安になってしまい、一色の顔を伺うように隣に視線を走らせる。

 ふ、と目が合った。

 そのままなんとなしに見つめあいながら、いくらか歩を進め、でもやはり気恥ずかしさが出てしまったのか、二人して顔を紅潮させて、俯いてしまう。

 なにこれ、超初心。

 

「しぇ、しぇんぱい……!」

「え……?」

「……先輩、早く行きましょう」

「あ、うん」

 

 なにこれ、超かわいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それで、世間では休日にあたるところの今日、特に理由もなく一色に呼び出された俺は、こうして二人で外出しているわけだが。

 

「で、どうする? 帰る?」

「二人の愛の巣にですか?」

「ねーよ」

「ぶー」

 

 頬を膨らませているのを思わず指で突いてしまう。

 ぽすっ、ぷひゅう、なんて。

 

「……はっ!?」

 

 しまった。俺としたことが、あまりのあざとさに一瞬気をやられてしまったぜ。

 一色、恐ろしい子……!

 

「で、真面目な話、なにするんだよ」

 

 特になにもすることないよね? 帰ろ?

 

「え、っとですね……」

 

 ふむ、珍しいこともあったもんだ。

 基本的に物怖じしない性格であろう一色が言いよどむだなんて。

 いや、まぁ、表面的に、話術としてこういった話し方をするのを何度か目にしたことはある。実際に使われたこともある。

 けれど、こうして、真正面からこうも曝け出されると、いや、どうにもこちらも気恥ずかしくなる。

 

「その、今まで先輩と一緒にいるのに、なにかと口実をつけていたじゃないですか……」

「まぁ、そうだな……」

 

 主に生徒会の手伝いだの、なんだの。一色の私的な目的につき合わされたことも何度かあるものの、なんの理由もなく、というのは、たしかになかった。

 

「だから、ですね。一回こうして特になんの理由もなく、二人で会ってみたかったんです……」

「お、おう。そうか……」

 

 上目遣いにこちらを見て、はにかむ一色に、ややたじろぐ。

 あれ、なんか帰りづらい雰囲気じゃないですかやだー。

 

「えへへ、せぇんぱいっ」

「ああ、もう。わかった、わかったから」

 

 お願い、そんなにひっつかないで。八幡のゲージががりがり削れちゃう。そして、敢えてなんの数値を示すゲージかは明言しないのが八幡スタイル。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 で、なんだかんだで一色と付き合うことになって、早数日が過ぎ去った。

 二人の意識に関係性の変化を認めただけで、ここまで変わるものか、と正直自分でも思っている。

 一色から俺への遠慮が、さらにその形を潜めたのだ。これは、いい意味でも、悪い意味でもある。

 だって、あの子、奉仕部に入り浸る時間が増えて、そのくせ生徒会の仕事は今まで俺が手伝わされていたのが嘘のように、いつのまにか終わらせているのだ。

 一周回って、むしろ感慨深いまである。

 

「あ、先輩」

 

 そして、廊下ですれ違うことがあれば、これまで以上に目を輝かせてこちらに飛びついてくる。

 もはや、隠す気ないよねって、八幡そう思います。

 べつに、俺も周知されれば面倒だが、それはそれで一色の強化外装に勘違いを起こす変な虫も減ることだろう

と、この件は一色の思惑に一任しているのだけど。

 

「おう」

 

 しかし、やはり俺は未だにこういうのに気恥ずかしく感じてしまう。最近はそれのせいで一色への態度がややぶっきらぼうになってしまって仕方がない。べつに悪気があるわけじゃないんだ、本当だよ。

 にしても、やっぱり、女子ってすごいよね。男子にできないことを平然とやってのける。

 

「んー。……そうだ、先輩、放課後、空いてますか?」

 

 それに、こうして変わらず接してくれる一色に申し訳ないやら、格好がつかないやらで、ますますへこむ。

 

「ああ、空けるよ。あとでホームルーム終わったら、メールくれ」

 

 じゃ、とそそくさと彼女の前を去る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「で、先輩、最近、やっぱり私のこと避けてますよね?」

 

 放課後、俺と一色以外に誰もいない生徒会室の中。

 奇しくも、デジャブを覚えるシチュエーションで、一色はやはり覚えのある問いを投げかけてきた。

 

「あー、やっぱバレるよな……」

 

 べつに隠すことでもないので、素直に白状する。悪いのはこちらなのだ。

 

「私、先輩の彼女ですから」

 

 得意げにそう言う一色は、その声音とは裏腹に冴えない表情で俺のすぐ傍に寄ってきた。

 俺の上着の衿下をちょこんとつまんだ彼女は、打って変わって、不安げに訴えた。

 

「……先輩、私が彼女じゃ、やっぱりダメなんですか……?」

「…………」

 

 やっぱり、そうだよなぁ。

 いくら言葉を尽くしても、俺の行動がそれに一致していないものだから、彼女はそう、ただしく不安だったのだ。

 まして、一度は擦れ違いのようなものも経験しているのだ。そうならないほうがおかしい。

 うん、これは、あれだ。俺の過失で、俺が悪い。

 

「先輩……?」

「……ん」

 

 謝罪の意味をこめて、眼前の彼女をひしと抱き締める。

 

「あ……ん、先輩……」

 

 すりすりと頭を擦りつけてくるのを自由にさせてやって、自己嫌悪の思考に浸かる。

 俺の気恥ずかしさからの愚行が、これ以上ないくらいに裏目に出た。

 距離を縮めてくる一色に待ったをかけた。

 あまり目を合わせてやれないでいた。

 求められれば応えるものの、自分からはそうできないでいた。

 なにより、彼女の名前を呼んでやれないでいた。

 そのすべてが、今になって、なおのこと悔やまれる。

 本当に、ダメダメか、俺は。

 頬を上気させ、完全に体を預けてくる一色を一際強く抱き締める。

 

「せん、ぱい……?」

「あー、その、悪かった」

「…………」

「俺は、ほら、気が回らないから。これからもこういうこと、あると思うぞ?」

 

 事実、付き合い始めて一月も経たないうちにこんなことになっている。間違っても保証なんてできやしない。

 一色は、俺の胸に顔を埋めてから、力強く見上げてきた。

 

「大丈夫です。私が言ったら、先輩はちゃんと応えてくれますもん。だから、大丈夫です」

 

 微笑んで、そんなことを言ってくれる彼女は、どうにも俺のツボをきちんと押さえているらしい。

 今のは会心の一撃であった。俺に、自ら自身の変革を望ませるほどには、ツボだった。

 これから、こいつとはそれなりどころではない時間を共にするだろう。

 そうなるのなら、いや、そうなりたいから、俺はここで一歩を踏み出さなければならない。

 もし、そうでなかったら、彼女に申し訳が立たないし、なにより、一緒にいることが次第に苦痛になるだろう。

 彼女は俺の前でありのままを見せてくれる。俺もそうでありたいと思う。ただ純粋に、一色いろはという女の子が好きなだけの俺という、ありのままを。

 

「いろは」

「ふぇ……?」

「いろは」

「な、え、先、輩……? あれ、今、私の名前……」

「……べつに、いいだろ」

 

 突然のことだったからだろう、最初は呆けていたいろはだったが、しかし、しっかりと俺の呼びかけに応えるように一つ、大きく頷いてくれた。

 

「はい、先輩っ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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色あざやか

う、羨ま死。。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

「先輩、どうしましょう」

 

 ぐいっと、ソファで本を読む俺の膝に跨って、いろはが顔を近づけてきた。

 近い、近いよ。

 

「な、なんだよ……」

 

 普段以上の近距離で見るいろはの顔は非常に目鼻立ちが整っていて、なんで俺がこんなのの彼氏やってんだろうなぁと、ふと疑問に思うまであった。

 いや、まぁ、いろはが俺のことを好いていてくれているからなのだけど……。

 んんっ、さて、惚気ている場合ではない。いろはがこうまでしているその訳を聞いてやらなければ。

 

「それはですね、先輩」

「なんだ……?」

「実は、明日で私たちがこういう関係になって、ちょうど一ヶ月なんですよ」

 

 そう言いながら微笑み、いろはは俺に口付けを落とした。

 

「っ……」

「あはっ、先輩、照れてる」

「うっせ……」

 

 こういう(・・・・)ことには、未だに慣れていない俺であった。

 

「でも、そういうところは私的にポイント高いですよ、せんぱい……」

 

 言い切るそばからいろはが、すらっとした指先で先ほど口付けを落としたばかりの俺の唇を撫で始める。

 

「…………」

 

 や、ほんと、勘弁……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで、一ヶ月云々って話は……?」

「ああ、そうでしたねー」

 

 あのまま変な雰囲気にシフトチェンジし始めたところを同じリビング内で寛いでいた小町に正され、俺たちは改めて頭を突き合わせる。

 ていうか、居間でなんてことしてんの俺ら……。

 ……や、いいや。なんかここ最近を振り返ると今さら気がしてならないし。

 元よりの話題を突きつけると、いろはは可愛らしく舌をちろっと出したあと、話を切り出した。

 

「それでですね。なにかこう、普段しないようなことをしたいなーって」

 

 あー、なるほど。

 なんとなく予感はしてたけど、女子がやりたがるという、これが噂のほにゃらら記念日ってやつか。

 妙にきらきらとした期待の視線を向けてくるいろはが、失礼ながら今は若干ながら面倒くさく見える。

 

「えー……」

「……先輩、ポイント消滅しそうです」

 

 えー、減少を一気に通り越して?

 

「まぁ、億劫そうにしそうだなーというのは予想通りなのでいいです」

 

 頬を膨らませて、若干冷たい視線させながら言われてもあんま説得感ないよね。

 

「そこで。ここは一つ、私が先輩を見事説得して見せようではありませんかっ」

 

 一転して、にこやかに微笑んだいろはが、意味ありげにそう言った。

 

「説得……?」

「はい、説得」

「お前が、俺を……?」

「はいっ」

 

 思わず胡乱げな目を向けてしまった。

 自慢ではないが、俺に屁理屈を捏ねさせたら、この千葉において右に出るやつはいないことだろう。

 いろはも頭は回るが事態の展開を導いていくことには疎い。

 彼女はどうやれば己が可愛く見えるか、ということにおいては凄まじいまでの戦闘力を誇るが、それも俺には通用しない。

 ここ最近のこいつとの付き合いで若干ながら耐性がついたのもあるが、なにより、こいつのあざとさを「はいはい、あざといあざとい」なんてふうに流せるのは、千葉広しといえども俺くらいのものだろう。

 

「じゃあ、いきますよー……」

 

 また一転。今度は至極真面目そうな表情をしたいろはが、ずずいっと顔を寄せてきた。

 すわ、またキスでもされるのかと身構えたが、どうもそういうことではないらしい。顔を寄せたまま、じーっと視線を合わせるだけのいろは。

 思わず、身悶えしそうになる。

 

「な、なぁ、これってなんか意味あんの?」

 

 説得と称するなら、なんかこう、とりあえずなんでもいいから言葉で頑張ってほしいものである。

 そんな見つめられても、俺の鉄の意志は折れぬのだ。

 

「……ね、先輩。私の言うこと聞いてくれたら、今度は私も先輩の言うこと聞いちゃいますよ……?」

「え、マジ?」

 

 ふいに耳元まで寄せられたいろはの口から漏れ出た吐息のようなその台詞に、全俺は敗北の味を知ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「で、どうする? 帰る?」

 

 そんなこんなで休日に家から連れ出された俺は、いつも以上にめかしこんだいろはを前に、帰りたいという意志を強くプッシュしたささやかな抵抗を目論んでいた。

 

「またまたー。そんなことより、先輩、なんか言うことないんですかー?」

「む……」

 

 言いよどむ。

 間が空く。

 すると、いろはが向けてくる期待の視線がさらにそのプレッシャーを増す。

 

「きょ、今日はまた一段と可愛いでしゅね……」

 

 はっはっは、今日も空が青いなぁ……。

 

「さ、行きましょう、先輩」

 

 ほんとに、もう……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺たちが二人だって外出する折は、まぁ、情けないことだが、その日一日の予定はほぼほぼいろはの一存で決定される。

 たまに俺の意見具申も聞いてくれるのだが、十中八九が彼女のそのときの気分次第だ。

 そのことに文句はないし、最初の頃はいったいどこに連れて行かれるのやらと気が気でないことが多かったのだが、それが落ち着いた今となっては、ただ行く先々でいろはが様々な表情を見せてくれるので、それが楽しみの一つだった。

 

「見てください、これっ。このペンダント、ちょーよくないですかっ?」

 

 ちょーかわいー、と陳列台に並べられていたアクセサリーを手に取ってはしゃぐいろは。

 定番の可愛いって言う私可愛いアピールである。

 

「あー、そうだな」

 

 かつては普通に流せたそんな仕草でさえ、今になって見てみると、その破壊力の高さを思い知らされた。

 なにこれ、ちょーかわいーんですけどー。

 

「もう、先輩、真面目に聞いてますー?」

 

 下から覗き込むようにして、抗議の視線を向けてくるいろは。

 彼女の表情の移り変わりをただぼうっと見ていたからか、肝心の彼女自身への応えがおざなりになってしまっていたらしかった。

 

「ん、聞いてるよ」

 

 ぽん、と頭に手を乗せて、それから、いろはが先ほどまで手に取って値段札と見比べて難しそうな顔をしていたペンダントを摘み上げる。

 

「先輩……?」

 

 訝しげにするいろはをいったん放っておいて、レジに向かう。

 会計を済ませた頃になって、ようやっといろはが状況に追いついてきたようだった。

 

「せ、先輩、そ、それ……」

「ほら、いろは……ちょっと、動くなよ……」

「あ、せ、先輩……」

 

 後ろから服の裾を摘んできたいろはの正面から、購入したばかりのそれを首にかける。

 巻き込まれた栗色の髪を持ち上げて、優しく梳く。

 

「……ん、似合ってる。な、ちゃんと聞いてただろうが」

「…………」

「……いろは?」

「……先輩、ちょっとこっち来てください」

 

 俯き、黙していたかと思えば、ばっと素早い動きで俺の手を掴むと、これまたボ○トも斯くやという速さで店を退出し、人目の消える裏道まで俺はいろはに引き摺られていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ずるい……先輩、ずるいですっ……!」

 

 人目が消えた途端、形振り構ってられない様子で、いろはが飛び込んでくる。

 手を引かれた瞬間、頬に赤を差して、口角が釣上がるのを必死に隠していたのがちらっと見えたから、薄々予感はしていたが、どうにも、実際にやられると結構痛い。

 

「つってもなぁ……」

 

 記念日だって言うし、話もちゃんと聞いてたし。だったら、ちょうどいいかなぁって。

 

「もう、もうっ。……先輩っ」

「お、おう」

「ずるすぎです!」

 

 満面の笑みと共に近づいてくるいろはの唇を、今度はちゃんと照れることなく、俺は受け止めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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平塚静篇
逢瀬


書きたかったんですよ、平塚さん。
ちょっとキャラの感じが出ていないかもですが、そこらへんは目をつぶってくださいね。


 

 

 

 

 

 

 

 

「比企谷、こっちだ」

 

 ひらひら、と。

 見慣れた人物が、しかし、普段目にしているスーツに白衣という格好ではなく、季節に合わせた女性らしい服に身を包み、こちらに手を振っているのを遠目に見やる。

 

「うへぇ……」

 

 端的に今の心情を吐露し、けれどもこの場でうだうだしていても話は進まず、仕方なく俺は彼女――平塚先生の元に歩み寄っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ども」

「ああ、こんにちは」

 

 凛としていて、そのくせどこか無骨な風体なのに、挨拶はきちんとしていて、そんなところに大人(・・)を垣間見る。

 ハザードランプを点灯させた車に腰を落ち着け、煙草を吹かしていた平塚先生に、とりあえずこうして合流したはいいものの、どういった言動をとればいいのかわからず、どこか所在無げになってしまう。

 

「ふふっ、なんだ、緊張しているのか?」

 

 そんな俺をからかうつもりなのか、平塚先生は常より若干楽しさを孕んだ声音をしていた。

 図星だが、まぁ、それをわざわざ露呈させることもないだろう。俺は決然と言い放った。

 

「そんなわけないじゃないでしゅか」

「ぶふっ」

 

 ダメだ。死にたい。

 

「……くっくっ、いや、いいじゃないか。傍目からじゃ私はそこそこ見た目麗しい部類だしな」

「…………」

 

 こういう、自分のことを客観的に見れるところも、まぁ、大人の特徴だろう。

 一つ咳払いをし、俺は視線でもって、今日のこの呼び出しの理由を問うた。

 

「いや、なに。まぁ、車に乗りたまえよ。移動しよう」

 

 が、それに答えることをせず、平塚先生は携帯灰皿に火を消した吸い殻をつっこむと、そのまま車の運転席に乗り込んでしまう。

 状況においていかれている感が否めないが、致し方ない。こうして休日にわざわざメールでの呼び出しに応じたのだ。せっかく外に出たのだし、帰りには書店に寄って新刊を見たいし、そうと決まればちゃっちゃと平塚先生の用事を片してしまうのが一番だ。

 それに、あの平塚先生が特になんの用事もなく、わざわざこんなことをするのもやや考えにくい。なんだかんだ、俺はこの人に一定以上の信頼を寄せているのだ。それを裏切ってくる人でもないことも、すでに知っている。

 きっと、俺に、直接会って話さなければいけないなにか(・・・)があるのだろう。

 なんてことをつらつらと思いながら、俺も助手席に失礼する。

 

「ん、シートベルトはしたか?」

「はい。そういえば、前も思ったんですけど、なんで左ハンドルの車なんか乗ってるんすか?」

 

 緩やかに速度が上がり、景色が流れていくのを横目に捉えながら、俺はとりとめのない会話のネタを探した。

 たしか、いつかの夏に乗っけてもらったのはレンタカーで、平塚先生の愛車はこのスポーツカーだったはずだ。

 いや、まぁ、日本人が左ハンドルの車に乗っちゃいけないなんてことはないけれども。

 

「ああ、実はこいつ、イギリス製で元来は右ハンドルなんだが……」

「え、でも、今たしかに左ハンドルになってますけど……」

「だからな、こいつが並行輸入品だってことが味噌なんだよ」

「はぁ……」

「聞かない単語か? 簡単に言えば、正規の輸出国からの輸入ではなく、どこかべつのルートを通っての輸入だから、まぁ、有体に言って、安かったのさ。それに、かっこつけるなら外車ってね」

「なるほど、じゃあ、この車はイギリスからアメリカなりなんなりの左ハンドルが主流の国を介して、平塚先生のところに来たわけですね」

「そのとおり」

「しかし、ぶっちゃけましたね」

「まぁ、君の前でいちいちかっこつけるのも、なんだか馬鹿らしいしね」

 

 なんて、柔らかに微笑むものだから、助手席からその横顔を伺っていた俺には、効果覿面だった。

 平塚先生は、本人が言っていたとおり、端整な容姿をしているのだ。しかも、それはほぼほぼ俺の好みのど真ん中を貫いているといっても過言ではない。

 正直に言って、普段学校で話しているのですら、いろいろと妄想のネタになっていたのだから、こうしてほいほいと車で連れられているのも実は結構そういう期待混じりだったりする。

 いや、まぁ、ありえないっていうのもわかってるんだけど。それに、平塚先生には、まぁ、なんだ、誠実でありたいというか、なんというか……。

 いいさ、べつに。俺と平塚先生は、生徒と教師という枠に十分収まりきっている。わざわざそれを逸脱して、今の関係を壊してしまうのも気が引ける。

 

「……それで、先生、今日はどんな用事なんすか?」

 

 先ほどはぐらかされた疑問を再度投げかける。

 平塚先生は、俺がよほどそれを知りたがっているのだと思ったのだろう。やけに笑みを深めた。

 

「知りたいか?」

「……ええ、まぁ」

「そうだな。ならば、ここは学校ではないのだし、私のことを、そうだな、静さんとでも呼びたまえ。そうすれば、教えてやろう」

「教えてください、静さん」

「にゃっ!?」

 

 むしろ、ご褒美なまである。

 俺の頭の中で完結していた妄想が、現実に形を成したのだ。

 静さんは、俺がいくらか逡巡なり葛藤なりを覚えるのだろうと思ったのだろうが、甘い、甘いよ。

 しかし、それはそれとして、

 

「にゃって……」

「わ、忘れろっ」

「まぁ、追々」

「早急にだっ」

「善処します」

「まったく……」

「で、教えてくださいよ」

「……なんだかおもしろくないが、まぁ、約束は約束だ。君、国語の成績、学年首位になったろう。言ってはなんだが、そのお祝いだよ」

「え……?」

「ほら、前に君の親御さんがずいぶんと淡白だという話をしていたろう。些細なことだが、めでたいことには変わりない。君に国語を教えているのは私だし、その頑張りは私が一番認めてやれると、そう自負しているよ」

「…………」

 

 今度はこっちがしてやられた気分だった。

 静さんの言葉が頭の中で反響して、頬に赤みが差していくのが、自分でもわかる。

 俯いてしまい、言葉も出てこない。

 

「ふふっ、こういうときは素直でかわいいな、君は」

 

 なんだそれ。

 なんだそれ。

 こういうの、反則だろ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結局、あのあと、まともに顔を上げられなくなった俺を静さんがいじりたおし、俺は悲惨な体で、静さんは逆にやや機嫌よさげにしながら、一路目的地へ向けて車は走り続けた。

 

「さ、比企谷、ついたぞ」

「……うぇい」

「ほら、しゃきっとしないか」

「はい……」

 

 苦笑しつつも助手席に回りこんでドアを開けてくれる静さんの顔をできるだけ視線から外して、車から降りる。

 なんか、恥ずかしいやら、申し訳ないやらで超顔上げ辛いんですけど。

 

「まったく、だらしがないと、モテないぞ、比企谷」

「……べつに、興味ないすよ」

 

 これ以上静さんを困らせるのも考え物なので、自分の問題は棚上げすることに。

 さて、ここはどこだろうか。

 道程をまったく見ないでここまで連れてこられたので、正直ここがどこかまったく把握していないのだ。

 

「む、それは年頃なのだし、少し考え物だな……」

「いや、意中の人以外はってことですよ」

「ああ、なるほど」

 

 結構一途だな、なんて微笑む静さんを横目に、辺りをきょろきょろと見回す。

 すると、ここはどうやらどこかの住宅街の一角で、やや規模の大きめのアパートの駐車場だというところまで、どうにか理解が追いついた。

 そして、行くぞ、一言言い残してさっさと歩いていってしまう静さんを追いかけて、俺もどことも知れぬ場所へ歩を進める。

 駐車場を出て、すぐ傍に建っているアパートへ踏み入り、いくつかの部屋の前を通り過ぎる。

 ここに来て、俺の頭を状況を呑み込んできて、まさか、なんて思いつつも、なにかにあとを押されているかのように、歩みは止まらない。

 ふと、静さんがある部屋の前で立ち止まり、こちらへ振り向く。

 

「あの、静さん、ここって……」

 

 一種の確信めいたものを胸に抱きながらも、俺はしかし、そう聞かずにはいられなかった。

 その問いに、静さんはまたも柔らかに微笑む。

 

「ああ、私の部屋だよ」

 

 どうやら俺は一回り歳の離れた、しかも、教師に、お持ち帰りされてしまったらしかった。

 なにそれ、ちょっと心躍るんですけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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結実

圧倒的なコレジャナイ感には目をつぶってください。。
ほんと、なんだろね、これ。


まぁ、平塚さん書けたからいいや。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ほら、飲みたまえ」

 

 こと、と卓上におかれたマグカップには、並々とコーヒーが注がれていた。

 おかまいなく、と一瞬そう言おうとして、べつにそんな仲でもないかと素直にただ礼を口にする。それに満足げに一つ頷いた静さんは、卓を挟んだ対面に腰をおろす。

 にしても。なんでまた、こんなことになっているのだろうか。休日の真昼間っから、高校の女性教師の自宅に男子生徒が上がっているなんて、よくよく考えなくても違和感のあるシチュエーションである。

 静さんは俺が国語の成績を学年トップに押し上げたそのお祝いだなんて言っていたけれど、果たして、ただそれだけのために独り身の自宅に俺を上がらせるだろうか。いや、それを言うなら、一介の生徒である俺だけのために、こうして休日を潰してまで共に喜んでくれるのは、いったいどうなのだろうな。まぁ、人柄といえば、それだけで終わる話ではあるが。だって、あの静さんだし。

 

「なんだ、そんなに見つめられると、照れるぞ」

 

 なんてことを、静さんの私服姿を眺めながらつらつらと考えていたのだけれど、

 

「いえ、なんか、私服もかっこいいなーって」

「なんだ、もっと女らしい服装のほうが、君の好みか?」

「……まぁ、そのほうが静さんがもっと映えるとは思いますけど」

「そ、そうか……」

 

 それにしたって、こうしているぶんにはなんの実害もないわけで、むしろ役得ですらあるわけで、いっそいつもどおりにしていればいいか、なんて、そんな結論に至る。

 べつに、断じて、静さんの普段見ない一面に思考放棄したとかではないことを、ここに明言しておくことにしよう。

 

「……ふむ、なら、少し着替えるかな」

 

 はにかむように俯いていた静さんが、おもむろに立ち上がって、隣室へ移動するそぶりを見せる。

 

「え、着替えるんですか……?」

 

 この状況で、それは、少しばかり勘弁してほしい。

 ただでさえ、憧れの女性(ひと)と一つ屋根の下で、二人きりという状況にいっぱいいっぱいなのに、そこもう一つ、大きな爆弾を放り込むようなものだ。

 

「君が恥ずかしがってどうするんだ。……それに、見たくないのか?」

 

 故意に主語の抜かれた、そこはかとなく蠱惑的な調子のその問いに、たまらなくなって、抗議の体をとっていた視線を取り下げる。

 

「ふふっ、素直な君はかわいらしいのだな……」

「っ……」

 

 どことなく艶然なその言葉が、否応もなく年上の女性を思わせて、一気に顔が紅潮するのが手に取るようにわかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「で、どうだろうか……?」

 

 数分後、見事なまでに変身を極めた静さんが、眼前にいた。

 

「…………」

「いや、まぁ、その、女性らしい服は生憎持ち合わせていなくてな。が、これだと、女性の武器は強調できるだろう」

 

 チューブトップにホットパンツ姿の静さんは、そんなことを言いながら、惜しげもなくその柔肌を晒していた。

 

「…………」

「ん、どうした、比企谷。……その、こういうのは趣味ではなかったか?」

 

 正直、こういうのは、本当、どう反応すればいいのかわからない。

 が、しかし、たまらなく好きだということはたしかだった。

 

「いえ、好きです」

 

 少なくとも、咄嗟にサムズアップしてしまうくらいには。

 

「そ、そうか……!」

 

 顔を喜色一面にして、静さんがやにわに柔和な笑みを浮かべた。

 そして、その姿のまま、彼女は俺の背後に回りこみ、あろうことか、俺を背中から抱きすくめる形で密着してきたのだった。

 

「って、な、なにしてんですかっ……!?」

「んー? ふっふっふー」

 

 やや高くなったトーンで嬉しげに笑う静さんは、俺のその抗議を黙殺し、さらにぎゅぅっとその豊満な肢体を惜しげもなく押し付けてくる。

 唐突なことで、頭の理解が追いつかず、かといって静さんを乱暴に扱うこともできず、されるがままになっている俺は、差し詰め、抱き枕といった体だ。

 

「比企谷、君、以外と筋肉がついているのだな」

「……まぁ、男ですし」

「ふふっ、そうだな。君は、男だよ」

 

 やはり艶やかな声音で、静さんはそう口にし、俺の首筋に頭を埋めた。

 

「し、静さん……?」

「ん、どうした?」

「いや、どうしたって、そりゃあなたのほうですよ……」

「まぁ、そうかもな」

 

 悪びれもせず、あっさりと己の否を認めた彼女は、しかし、燦然と光り輝くような笑みを浮かべると、俺の額を小突いた。

 

「あたっ」

「でも、悪いのは、比企谷だぞ。私の否より、君のが遥かにひどい」

「なんなんですか、もう……」

「なにって、君、いつも私のことを見ているだろう」

「うぇっ」

 

 まさか、知られているとは思わなくて、突然の指摘にしどろもどろになる。

 いやいや、冷静になれ。一応隠す気はあったとはいえ、こちらがガン見しているのだから、あちらが気づいたって、べつだん不思議なことはない。

 冷静に、冷静にだ。

 

「ところ構わず不躾な視線を投げかけてくるものだから、その、まぁ、あれだ……」

 

 はにかみながら言いよどむその様が、冷静な部分に一気に熱をふきかけた。

 ああ、これ、駄目なやつかも……。

 

「その、だな……私も、大人気なく、その気になってしまったというか、だな……」

 

 俺の肩の上に顎を置いたままそっぽを向きながら、静さんは独白するように、そう紡いだ。

 

「…………」

「べ、べつに誰彼構わずこうして部屋に連れ込んでいるわけではないぞ……?」

 

 こういった気持ちを抱いたのは、君だけで、それにこういうのは、本当に久しぶりなんだ……。

 そんな破壊力の高すぎる台詞を静さんは、意図せずしてだろうけど、ばらまいた。

 なんだこれ。

 なんだこれ。

 これが、あの静さん……?

 あれだけ凛としていて、パンツスーツを着こなしていて、普段は少しばかりヤニ臭さがまとわりついてて、無類のラーメン好きでいて、ちょっと古い感じの熱血展開が好みの、あの静さん……?

 しかも、彼女は教師で、俺はその生徒だ。年齢も一回りは離れているだろうし、社会的な立場だってある。たしかに普段から彼女に熱視線をやっていたのは本当のことで、それはなんかこう、純粋な気持ちに付随してのものだった。けれど、ただ近くで見ているだけでよかったのだ。本当に、それだけで……。

 なんて、そんな殊勝な心意気を、持ち合わせているには持ち合わせているが、現状、そういうのは心底どうでもよかった。

 

「その、比企谷……?」

 

 うつむいたまま、俺が反応しなくなったからだろう。

 声音に不安を走らせた静さんが、肩越しに俺の顔を覗き込んできていた。

 なに、俺がガン見しまくったから、静さんも満更でもなくなって、こうして休日にわざわざ理由までこじつけて、二人きりの時間を作ってるって?

 しかも、静さん自身の部屋で?

 

「…………」

「ひょ、ひょっとして、その、私の勘違いだったのか……?」

 

 なんだこれ。夢じゃねぇの。

 え、なに、なんで。と、黙り込む俺に、静さんが一人で早合点して顔を青くしているのが横目に捉えられた。

 

「比企谷、な、なにか言ってくれ……」

 

 背中に張り付いていた静さんは、殊更にその流麗な肢体を押し付けてくる。

 俺が無言でいるための不安が、彼女の胸中を埋め尽くしているのだろう。

 対して俺は、なんというか、落ち着いていた。

 平塚静という女性(ひと)へのこの気持ちは、紛うことなき本物であった。俺は、彼女のことが好きである。

 はじめは一目惚れで、授業や生徒指導を通して、その人柄にも好意を抱いた。

 そんな焦がれ続けた憧憬が、今、眼前にあるというのに、俺の心境は酷く穏やかだったのだ。

 

「静さん」

「比企谷……」

 

 

 ――――伝えてもいいんだ。

 

 

「俺、好きですよ。静さんのこと」

「比企、谷……」

 

 

 ――――傍にいても、いいんだ。

 

 

 ずっと、互いの立場のために、俺は静さんのことをただ焦がれ続けるだけの存在として、割り切っていた。

 けれど、もうそんなことはしなくてもいい。

 一緒に、どこまでも、いつまでも。

 

 

「――――好きです」

「――――ああ、私もだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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相模南篇
Over the bridge


友人のリクエストですが。


相模好きなんて、いるんですかね。しかもこの内容。
誰得ですかね。。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うち……こんなに、なっちゃったよぉ……」

 

 か細い涙混じりの声には、不安と悲痛と困惑が、これ以上ないくらいに綯い交ぜになっているように思えた――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 文化祭での一件以来、俺――比企谷八幡と、彼女――相模南との関係には、深い亀裂が入っていた。当然である。傍から見るまでもなく、状況は、酷いことを言ったやつと言われたやつが判然としている。それだけでも形勢の傾きは決まっていたようなものだが、しかし、学校の人気者(ヒーロー)である葉山隼人が被害者側である相模の側についたのが事を決定づけた。

 嫌悪すべきもの()と、庇護すべきもの(相模)

 相容れることのないそのレッテルこそが、俺と彼女の亀裂、溝である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 文化祭後、慌しくも明るかった校内の雰囲気がいつもどおりのそれへと戻っていき、嫌悪対象()へのあてつけの視線もそのなりを潜め始めた頃。唐突に、なんの前触れもなく、それは起こった。

 相模南の不登校である。

 その理由は定かでなかったが、当然、納まりかけていた俺へのあてつけのようなものはその熱をさらに激しく吹き返した。相模南が不登校であることとその原因が俺にあるらしいこととが噂になり、同学年内だけですんでいたそれが、全校へと広まったのだ。わりとそのうちいじめにまで発展するんじゃないか気が気でなかったり、そうなればいろいろと頑張らなくていい(・・・・・・・・)理由ができるかもと期待してみたり。

 だけれど、そんなことより、なによりの問題は、平塚先生に一連の仔細が知られてしまったことにあった。

 現代文と生徒指導担当にして、結婚できない人で知られるあの教師がわりと世話焼きの気があるのは、周知のことだが、あの人、なぜか俺にだけはその世話焼きの加減がかなり強くなる傾向があるのだ。それはもう、逐一、なにかと、誰も気にしない俺のことを一緒に見つめなおしてくれるくらいには。

 ……ここだけ抜いたら、めっちゃいい女性(ひと)なのになぁ。誰かもらってやれよ。

 閑話休題。本題に戻ろう。

 今、俺が問題としていること、それは、平塚先生に事の仔細を知られたことを発端とする、ある頼まれごとにあった。

 相模南が欠席している間に溜まったプリント類を、なぜか俺が彼女の家まで持っていくように言いつけられてしまったのだ。

 俺が、相模(彼女)に、である。

 平塚先生的には、俺たちの関係修復のための足がかりとするように、とのお達しなのだろうが、生憎、思春期の少年少女は大人の思惑一つにそう簡単に乗ってやれないみみっちい矜持的なサムシングがあるのだ。

 

「……こんな展開はいらなかった」

 

 現実逃避気味に空を見上げながら、相模南の住所が書かれたメモに視線を落とす。

 破り捨てて、逃げたい。超、逃げたい。

 でも、だけど。衝撃のー、なんてぶつくさ言われながら目の前で拳をちらつかせられたら、それはもう素直に首を縦に動かすしかなかったのだ。

 世の中は非情である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 うだうだと、どうにかこうにか逃げおおせる上手い手はないものかと思案しながら、相模宅を目指すこと幾許か。

 あれもだめ、これもだめ、と幾度も繰り返す脳内シミュレーションの傍らで、相模南について、考えを巡らせる。

 

 

 

 

 

 ――――あのとき、俺は、本当はどうしていればよかったのだろうか。

 

 度々、俺は同じようなことを繰り返す。

 そのやり方(・・・)を、よく思わないやつがいることを今回知った。

 それから、ずっと考えている。

 なにがいけなくて、なにがよいのか。俺にとっての最善は、他人(あいつら)にとっての最善ではなく、では、なにをどうすれば、そのようなわだかまりがなくなるのか。

 そんなことをやはりうだうだと考えて、俺は、さらに、相模南という人間についても思考を回した。

 彼女は、いわゆる、考えなしにその場の雰囲気に生きる典型的な女子高生(・・・・)であった。

 考えの足りないままに文化祭の実行委員に立候補し、委員長になってもその足りない部分を補うことをせず、むしろその部分に思い至ることすらなく、ただただ流れ(・・)に乗っかっていた。

 そして、後々になって彼女を襲った自業自得の応報に耐え切れず、自壊した。

 けれど、俺はそれをほうっておくことなく、致し方なかったとはいえ、彼女の背中を殴りつける形で後を押したのだ。

 結果、文化祭は成功に終わり、俺への風評だけが残った。

 でも、その中で、その他大勢に庇護された相模だって、たしかに、俺と同じように、苦悩し、苦しみ、わけのわからない男子生徒(・・・・)に盛大に辱めだって受けたのだ。

 こちらとしては、なんだかそっちのほうに情が湧く。自身のことをまったく問題にしていないから言えることだろうけれど。

 だから、まぁ、プリントを届けにいくこと自体はべつに吝かでないのだ。好んで引き受けたいとも思わないが。

 

 ……はて、結局俺はなにについて考えていたんだっけか――――。

 

「はぁ……」

 

 思わず漏れたため息の先に、おそらくは目的地であろう集合住宅が見えてきて、切実に、帰りたくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オートロックなんて、帰るための口実になりそうな障害など一切なく、俺は無事、相模の表札が掲げられた部屋の前まで辿り着いてしまっていた。

 なんでだよ、つけとけよ、オートロック。部屋の番号がわからなかったとか、そういう言い訳を使わせろよ。ていうか、今さらなんだけど、なんで相模(こいつ)の家、俺の家と同じ方向にあるんだよ。運命の悪戯趣味わりーよ。もっとべつなとこで気回せよ。ばか。ばーか。

 

「…………」

 

 …………。

 いや、まぁ、こうしていても始まらないことは俺にもわかっている。

 ただ、どんな顔して会えばいいかわからないだけであって、本来は、プリントを渡して、それでミッションコンプリートなのである。

 ……あぁ、でもなぁ。

 ええい、男も度胸。南無三。

 俺はとうとう、相模家のインターホンを鳴らした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一回目は、無反応だった。

 二回目も、三回目も。

 カメラがついているタイプのインターホンだったので、まぁ、居留守をやられてもなんの不思議もない。

 他の誰でもない相模自身が、最も俺を忌避しているべきなのだ。それが、当たり前のことなのだ。

 だから、俺は再三に渡り、ただプリントを届けに来ただけであってそれ以外に他意はないことを、無言を貫くマイクに向かって主張した。

 そして、四回目も、相模は俺を黙殺した。

 

「…………」

 

 言いようのない虚脱感に見舞われて、一つ、深くため息を吐く。

 やや間を置いてから、踵を返し、家路に戻ろうとした俺は、唐突に、何者かに腰に突撃を喰らわされた。

 

 

 

 

 

 背後の扉を勢いよく開け放ち、俺に突撃を敢行した下手人は、校則違反にならない程度に脱色した茶髪の女子――相模南その人であった。

 なぜか俺に向かって突貫し、今もこうして腰元に抱きついているその奇行としかとれないことをやってのけている相模に、再度、ため息がこぼれた。

 

「なんだ、お前、やっぱり居留守か……」

 

 インターホンを押したぶんだけの労力を返せと、あと離れろと、そう言ってやろうとして、しかし、俺は口を噤んだ。

 

「……うぇぅ、ひき……比企谷ぁ……」

 

 文句を言う相手が、涙を溢れさせ、鼻水を垂らし、みっともなく泣いていたからであった。

 

 

 

 

 

 そのとき、俺は妙に落ちつき払っていた。涙を流す彼女を捨て置くこともできず、結局俺は、先ほど彼女が飛び出してきたばかりの相模の部屋の中へと、彼女を引っ張り込んだ。一応、そのまま放っておくことも考えたのだが、相模が俺の上着の裾を掴んで放さなかったのだ。ほんとなんなのこいつ。

 まぁ、とりあえず、彼女を落ちつかせるのが、なにより、先決だろう。プリントを渡すにせよ、帰るにせよ、だ。

 けれど、というところで問題になるのが、そのための方法だが。まぁ、いいか。今さらどんな嫌悪感を抱かれたところで、痛くも痒くもない。

 俺は、いよいよ縋りついてきて本泣きに入った相模の頭に手を置いて、鍛えに鍛え抜かれたお兄ちゃんスキルが一つ、頭なでなでを発動させた。ここだけ抜くと、すっげぇ頭悪いな。

 

「落ちつ……落ち着け。な……?」

 

 できるだけ優しい声を意識しようとして、途中、自分で気味が悪くなって、やはりいつも同じ調子に戻す。

 なでり、なでりと茶髪を撫でるうち、泣きじゃくっていた相模は、自分がなにをされているのか次第に理解したらしく、咄嗟に俺を押しのけようと、まったく力の篭っていない抵抗を始める。

 

「あっ、だ、だめ、比企谷っ。だめなのぉっ」

「あ? だめってなにが……」

 

 そして、俺はついに気がついた。

 相模の頭の上に、見覚えのないもの(・・)が乗っかっているのを。

 

「おま……これ……」

「だめぇ……うぅ、ぐすっ……うぇぇ……」

 

 そのなにか(・・・)は、ぺたんと垂れた、犬の耳(・・・)であった。

 

「まじ、かよ……」

 

 相模南の頭に、犬耳が一組、乗っかっていたのである。

 

「ふぐぅっ、うぇっ……うぇぇ……だめぇ、見ないでよぉ……」

 

 一層強く泣き始めた相模を余所に、俺は、彼女の頭に手を置いたまま、ただ固まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




いかがでしたかね。
できれば、感想などいただけましたら、幸いに思います。


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Collapse

ちょっと短めです。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 頭に乗っかった犬耳を、俺の手の上から自身の手を被せて隠すようにして、なおも泣きじゃくる相模を眼前に、俺は、しかし、一度はその出で立ちに驚愕を見舞われたものの、今では止まる気配を見せない涙のほうが気がかりであった。どうにかそれを止めてやれないものかという俺にしては献身的な考えが、驚愕と困惑を押しのけ、上回ったのである。

 初志貫徹。俺は、相模の犬耳に触れてそのまま固まっていた手を、再び動かし始めた。右に、左に、ゆっくり、ゆっくりと。彼女が平静を取り戻せるように。犬耳があろうが構わず、さらさらとした茶髪をただ、撫で続けた。

 もちろん、先ほど犬耳に気づいたときに見ないで、と弱々しくも拒絶の姿勢を見せた相模は、俺のその行動を一層拒んだ。

 やめて、触れないで、こんなの見ないで、と。

 が、それを聞き届けてやる義理は俺にはない。相模の様子から、彼女自身がこの犬耳に対して、一番驚愕し、困惑し、忌避しているのは見て取って、察してやれる。ならば、俺がそれを気にするのは二の次であるべき、だと思う。

 自分のことばかりで周りが見えておらず、挙句、負うべき責任すら一度は放棄したことのある彼女だが、俺は知っている。そんな彼女の言動が、最近、少しずつ変改してきていることに。

 自分とその近しい者しか写っていなかった視界が広がりを見せたような、そう、端的に言うならば、なんとなく雰囲気がよくなったのだ。

 文化祭の一件に思うところがあったのだろうか。友人を気遣うことが、己の行動を省みることが、そういったことが、今の彼女に彩りを添えていた。

 けれど、そんな相模が俺のことだけはその扱いを決めあぐねているようで、それなのに、今、彼女はこうして相手が俺であるにも関わらず、すがって、泣きついている。自身の頭の上を行き来する俺の手だって、振り払おうと思えば、本気で拒絶しようと思うのなら、簡単にそうできるはずなのに。

 どうにも、俺は、そんな彼女を捨て置くことが、できそうになかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……落ち着いたか?」

「ん……」

 

 目尻を赤くして、瞳に涙をこらえながらも、相模は泣くことをやめた。

 泣きながら縋られた末に納まった俺の腕の中で、華奢な体を小さくしていた彼女が身じろぎをする。

 

「ごめん、比企谷……。もう、大丈夫だから……」

 

 相模は、自身の頭を撫で続けている俺が、犬耳について言及してこないのを察したのだろう。途中から、俺に全身を預け、なにかを吐き出すかのように存分に泣いていた。それはもう、俺のシャツが涙と鼻水とあとなんやかんやで酷いことになるくらいには。

 

「あっ、えっと、シャツ……うぅ、ごめん……」

 

 その惨状に気づいたのか、頬を赤くしながらも、申し訳なさそうに謝ってくる相模。その頭をもう一度、ぽん、と撫でる。

 

「……いい。それより大事なこと、あるだろ」

「あ……」

 

 羞恥と若干の嫌悪を表情に滲ませ、相模が己の頭に変わらず鎮座している犬耳に手を伸ばす。

 

「俺になんて、知られたくなかったんだろうが……。まぁ、こうなったもんは、もうどうしようもない。登校拒否の理由はそれだよな……?」

 

 あとで思い返せば、俺はこの時点で相模にプリントを押しつけ、強引にその場を離れることだってできたはずなのに。

 やはり、なぜか、俺は頭で考えるでもなく、彼女に手を差し伸べていた。

 

「……変に、思わないの……?」

 

 ぺたん、と廊下に座り込んだままの相模は、自身に手を差し出してきた俺を困惑の目で見やった。

 まぁ、こんなの、普通だったら不審がって、気持ち悪がって、忌避されたりするものだ。

 が、生憎と俺はそれに当てはまらない。

 なんていっても、ここ数年における相模の人生の中で、おそらく最も酷い瞬間を、俺は知っているのだ。それ以上の痴態なぞ、どれほどのものでもない。

 

「や、べつに。なんか、尻尾もついてるみたいだし、一周回って逆にそういうのもいいかもしれない」

「……へ? 尻尾? ……うぇっ、きゃぁ、尻尾ぉっ!?」

 

 どうも、犬耳の他に尻尾までもがあることを、相模自身は知らなかったらしい。大層、慌てふためいていたのが印象的だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 犬耳娘曰く、ある朝目覚めると、なんの前触れもなく耳と尻尾が生えていた。

 曰く、両親は諸事情から長期不在で、連絡こそとれるものの、事の顛末をどう説明したものかわからない。

 曰く、ならば友人は、と思ったが、このようなことを相談できる気の置けない仲の人物に心当たりがなく、断念。

 曰く、そのままで外に出ることは憚られ、同じような理由から病院も、救急車も嫌。

 そして、そんなこんなで学校にも行けなくなっていたところに、俺が来た――――。

 

 

 そこらへんの事情は、まぁ、わかる。

 ある日突然犬耳と尻尾が生えてきて、今の相模のようにならなかったのなら、そいつの胆力はきっと尋常でないもののはずだ。でも、普通(・・)はそうじゃない。相模の反応は、なんの不思議もない、ごく当たり前のことだ。だから、そこらへんはいいのだ。

 けれど、どうしても一つ、気になることがある。

 

 

 ――――なぜ、相模は俺に縋ってきたのか。

 

 

 それがどうしても、わからなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ごめん、比企谷。変なことに巻き込んだみたいで……」

 

 私事に関わらせて申し訳ない。そんな、普通の知人に接するような(・・・・・・・・・・・・)調子で、相模が言った。

 

 

 ――――なんでだ。

 

 

 なぜ、彼女は、俺のことを嫌悪しないのだ。

 なぜ、彼女は、俺のことを罵倒しないのだ。

 俺は本当に、彼女に嫌われているのだろうか――――。

 そんな、自分の中のなにかが忙しなくしていた、ちょうどそのとき。

 すぐ目の前にあった相模の顔が傾き、先ほど泣いていたときのように、俺の胸元へと預けられた。

 

「――相模……?」

 

 頭の中に渦巻いていた思考が加速する。

 あの相模が、というより、この時分の女子高生が、嫌悪しているであろう相手に対して、こんなことをしてのけるものだろうか。

 いや、その可能性はもはや、ない。

 

 

 ――――彼女は、俺を許しているんだ……。

 

 

 加えて言うならば、むしろ、彼女のほうが俺に申し訳なさそうにしている始末。

 本当に、なにがどうなっているんだ……。

 

「比企谷ぁ……」

 

 若干、甘えの混じった声音をして、俺の胸に顔を押し付けてくる相模。

 

「お、おいっ、よせってば! 頭でも打ったかよっ」

 

 これ以上はさすがにまずい気がして、好きにしていた相模を押しのけようとする。

 なんなのだ、これは。嫌われていると思っていた相手が、蓋を開けてみれば、透けて見える好意を向けてくるとか。

 さらに困惑を強めたところで、相模が、殊更に強烈な爆弾を放ってきた。

 

「――うん、そのくらいの衝撃だった、かな……」

「はあ……?」

「うち、知ってるんだよ。文化祭での比企谷の、本当のところをさ……」

 

 彼女のその言葉に、まさに、頭を打ちつけたような衝撃を覚えた――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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Go hand in hand with

風呂敷が、収まりませんでした(´・ω・`)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

「知ってるって、なにをだよ……」

 

 震える喉から出たそれは思ったよりも刺々しい、掠れた声音になった。

 ゆっくりと、身を預けてきていた相模を両手で押しのけるように、はなしていく。

 彼女の目をしかと見据えて、もう一度、問うた。

 

「――――なにをだよ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結構低い声が出てしまったからか、一瞬肩を震わせた相模はしかし、毅然として口を開いた。

 

「あんたが、比企谷が……うちを救ってくれたこと、文化祭を丸く納めてくれたこと……あんたが、そのせいで傷ついてること……ぜんぶ、ぜんぶ……! 知ってるって、言ったのっ!!」

 

 叩きつけるようにそう言った相模は、その調子でさらに続けた。

 

「冷静になって考えたら、誰でも、あたしみたいな馬鹿でもわかるよ! あたしのせいであんたが無理して、被害を被って、そのために皆から嫌な感情向けられて、それでもまだ、やめないで……! 人一倍苦しんで、傷ついて、それで……それで、挙句にはとんでもなく馬鹿な女の尻拭いまでさせられて……!」

「…………」

「……今なら……今ならわかるよ……。あたしはあそこにいちゃいけなかった……。あんたに、謝っても許されないようなことしちゃって……。……でも、これが、この耳が突然生えてきたとき――――、」

 

 感情の赴くまま、言いたいことだけを言葉にする相模は、唐突に己の頭の上の犬耳と腰元の尻尾を掴み、

 

「――――だからこそ、あんたならって。勝手だけど、そう思った。本当に嫌な女なんだ、あたし。高慢で、身勝手で、無責任で……。でも、そう思ったとき、あんたが来た……来て、くれたんだ……」

 

 

 ずるい。卑怯だ。

 

 

 ――――やめろ。

 

 

 あんたばっかり傷ついて。あたしには掠り傷くらいで。

 

 

 ――――やめろっ……。

 

 

 嫌いなままでいたかったのに、それさえさせてくれずに。

 

 

 ――――やめてくれ……!

 

 

「――――ねぇ、比企谷、あんたはなんでそんなに、優しいの……?」

 

 

 消え入るような独白と共に静かに涙をこぼし始める彼女を、俺は、息を詰めて見ているしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 べつに、俺は本当に相模のことをどうこう思っているわけではなかった。

 快くも、悪くも思っていない。同情こそしていたものの、それ以上も、以下も持ち合わせてはいないのだ。

 今日だって、ここに来たくなかったのは、他でもない相模自身がそれを望んでいないだろうと思っていたから。

 だって、学校ですれ違ったりしても、さっと顔を逸らされたりして、意図的に意識の外に追いやってる感じだったもの。

 だけど、まぁ、それはどうも相模の本当のところではなかったらしい。

 彼女は、俺を許していたんだ。

 俺の裏(・・・)に気づいて、考えて、思い至って。そして、己の行動を省みた。

 だからこそ、本当に追い詰められたとき、俺ならば(・・・)なんて、そんなふざけたことを思いついた。

 

 

 ――――なんだそりゃ。

 

 

「ぷっ……くっくっ……はっはっはっ……」

 

 たまらず、吹き出して、笑ってしまった。

 

「ぐすっ……な、なによぅ……」

 

 しゃくりあげながらも、俺が突然笑い出したことに疑問の声をあげる相模。

 

「いや、たいしたことじゃないんだけど、」

 

 顔を伏せている相模の、そのすぐ傍に膝をついて、あやすようにその背中を擦ってやる。

 

 

「――――ただ、なんだそりゃって思ってさ」

 

 

「うぇぇっ、なによそれぇ……ぐすっ、うぅ……」

 

 情けない泣き声が、どうにもおかしさを誘って、またくすりと笑ってしまう。

 文化祭のあのとき、俺は身を投げて、案件を解決させた。

 そのとき、それ以外に他意なんて毛頭なかった。ただそうすればすべてがうまく回るから、そうしただけ。

 けれど、そんな俺のやり方を否定するやつがいて。

 あぁ、そうか。

 みんながみんな、自分のせいだ、なんて思ってるんだ。

 ただそう思わせられる状況が出来上がってしまったから、そう思ってる。

 本当に悪いやつなんて、いなかったのかも。

 みんな、やりたいようにやって、それが裏目に出た。今回のことは、ただそれだけ。

 もちろん、同じような状況を誰かが故意に作ったとしても、俺は今回のようにするだろう。

 それでも、今のように、そんな俺のことを憂いてくれるやつがいるなら。

 それはそれでいいかもな、なんて思ったんだ――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから、プリントの件を切り出せるくらいに相模が落ち着くまで、彼女をあやすこと幾許か。

 日もとっぷり暮れた頃、ようやっと相模は顔を上げて、俺を居間のほうへ招いてくれた。

 

「えっと、ごめん、比企谷……」

 

 いったいなんに対する謝罪なのか、と問うのは酷に過ぎるよな。

 

「いいから、顔、洗ってきてくれ。ついでに、茶もほしいところだ」

 

 おどける、といったことをあまりしたことがなくて、ややぎこちなくなった俺の言葉に、しかし、相模は弱々しいながらも笑みを一つ残し、居間を後にした。

 さて、この間になにかいい案が浮かばないものかと頭を捻る。

 相模の心に溜まっていたものを決壊させた原因(犬耳)

 俺はそれをなんとかしてやりたく思っていた。

 だって、まぁ、彼女が学校に来ないと、また今日みたいに俺がプリントを持ってこさせられるような気がする。

 避けられる労役は避けるべきなのだ。ただ、それだけ。

 

「とは言ったものの、だ」

 

 さすがに、ある日突然犬耳や尻尾が人に生えるなんて面妖な事件、いったいどう解決したものか。

 最悪病院に行けばなんとかなるかもだが、こんな症例、世界規模で見たことがない。

 困ったものだ。

 

「ひっ、比企谷ぁっ!」

 

 と、そんなことをつらつらと考えていると、これまた突然に相模の悲鳴が俺を呼んだ。

 すわ敵襲かと、相模がいるはずの洗面所までダッシュを敢行。

 

「どうしたっ」

 

 自分でも不思議なくらいの機敏な動きで駆けた先にいた相模は、床に力なく座り込んでいた。

 その姿を見て、一瞬のうちにいくつかの懸念を思いついたが、いや、まず本人に確認すべきだろう。

 

「比企、谷ぁ……耳と尻尾……ない、よ……?」

「は……?」

 

 言われて初めて、今の彼女になにか作用を促すとしたら、あの犬耳と尻尾くらいのものかと思い至り、視線をそれらがあった場所へと向ける。

 と、同時に、相模の言葉の意味を理解した。

 ないのだ。相模の頭と腰元から生えていた犬耳と尻尾が。

 

「え、あれ……なんで……?」

「ない、ないよ、比企谷……消えて、る……?」

 

 しばしその事実に二人で呆然としてから、顔を見合わせる。

 まぁ、なくなったものはしょうがない。

 似合ってたけど、しょうがない。

 相模にとっては、これでよかった。このほうが、よかった。

 

「な、なんかあれだな……」

「あ、うん、えっと、拍子抜けな感じ……?」

「そ、そうそう、そんな感じ……」

 

 なんて会話をしながら、へたり込んでいた相模を引き上げる。

 向かい合って立った俺たちは、再度顔を見合わせて、

 

「ぷっ……」

「ふふっ……」

 

 そして、二人して、笑いあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はい、お茶」

 

「ああ、悪い」

 

「いいよ、このくらい。今日はいっぱい迷惑かけちゃったから」

 

「今日も、な」

 

「あ、ひどい」

 

「冗談だ」

 

「ふふっ、ん、わかってる」

 

「……これから、さ、」

 

「……ね、比企谷。うちのこと、嫌い?」

 

「…………」

 

「あたしはさ、あんたのこと、嫌いじゃない、よ……?」

 

「…………」

 

「ねぇ、どうなのよ……」

 

「……まぁ、嫌い、じゃあねぇ。好きでもねぇけど」

 

「……ふふっ、比企谷ってさ、捻くれてるとかって言われない?」

 

「たまにな……」

 

「あははっ、やっぱり」

 

「……っせぇな」

 

「もう、拗ねないでよ、比企谷」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




そのうち再発して、犬耳と尻尾がまた生えてきたりしたおもれーかな。


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川崎沙希篇
ありのままの気持ちを


川なんとかさんです。


相模に続くような形になりますが、趣味が目一杯に押し出されていますので、人を選ぶ話かもしれません。ご注意をば。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「猫耳だぁ……!?」

 

 不穏な気配のする単語が、意外なやつから飛び出た。

 ニット帽を深めにかぶった川崎が、慌てた様子で周囲を見回し、次いで咎めるように俺を睥睨した。

 

「声、大きい……」

「す、すまん……」

 

 表情を普段どおりの無愛想なものに戻し、川崎が佇まいを直す。つられて、俺も先の驚愕で乱れた姿勢を正して、眼前の彼女と視線を重ねた。

 

「で、猫耳がどうしたって……?」

 

 発端は、一つのメールだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 From:川崎沙希

 To:比企谷八幡

 突然で悪いんだけど、ちょっと相談があるの。

 今度の日曜、暇なら、○○のとこの喫茶店に来てくれない?

 

 

 

 

 

 夜半、なんの前触れもなく送られてきた一通のメール。それには、恐ろしいことに出不精の俺を外に連れ出し、あまつさえ、約束の喫茶店に足を運ばせるだけの突飛さがあった。

 どういった経緯で入手したかは覚えてないもののなぜかアドレス帳に載っていた川崎の連絡先など、これまで一度も使用したことなどなかったものだから、物珍しさもあった。

 が、それ以上に気になることがあった。

 最近、川崎は異装許可願を教師に届け出、学校にいる間、ずっと帽子を目深にかぶっていたのだ。

 どういった理由からかは誰も詮索しなかったものの、その異様さから、学校では浮き始めていたし、なにより、知らぬ仲ではなかったから、わりと気がかりだったのだ。普段から人を寄せ付けなかった拒絶の雰囲気を、より強く発するようになっていた彼女のことが。

 

「だからさ、さっきから言ってるじゃん。あたしに、猫耳が、生えてんだってば」

「はぁぁん……?」

 

 や、だめ。さすがに無理。

 どうしたって変な声出ちゃうよ、これ。

 あの川崎の口から、猫耳なんて単語が飛び出てるんだもの。世界を疑うね、うん。

 

「…………」

「もう。ほら、手、貸して……」

 

 黙りこくる俺に業を煮やしたのか、川崎は、固まっていた俺の手をとり、今もかぶっている己の帽子の中へと招き入れた。

 突然のことに動揺しつつ、箱の中身はなんだろな的な期待感が合わさって、非常に言い知れぬ気持ちになりながらも、俺の手は無意識に帽子の中をまさぐっていた。

 すると、だ。

 

「なんだ、これ……」

 

 手のひらが、なにか頭髪とは感触の違ったモフモフを捉えた。

 思わずつまんでしまうと、指先がモフッと沈みこみ、第一印象以上の柔らかさが肌をとおして伝わってくる。

 

「んぁっ……」

「……え?」

 

 かと思えば眼前の川崎が艶っぽい吐息を漏らし始め、俺の動揺を加速させる。そして、それに比例するように、指先がさらにモフモフを激しくさせた。

 モフモフ。

 

「ふぁっ……ちょ、比企、谷、だめぇ、っ……」

「な、なんだ、なにが起こっているんだ……!?」

 

 モフモフモフモフ。

 

「んにゃぁっ! やぁ、やめぇ……んんっ……!?」

「いったい、どうなってやがるんだ、これは……!」

 

 モフモフモフモフモフモフ。

 

「ほんと、もっ、だめぇ、だからぁ……うにゃぁぁっ……」

 

 色香を含んだ声を徐々に艶やかにさせていき、その都度体を震わせていた川崎は、最後、一際大きく体を震わせると、ぐったりと体をテーブルに伏せたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「悪かったって。調子に乗りすぎた。……なぁ、そろそろ機嫌なおせよ、川崎」

「や」

 

 ぷいっとそっぽを向いて、ストローでオレンジジュースをちゅーと啜る川崎。

 若干幼児化してませんか、あなた……。

 幸い、奥まった席に座っていたので俺たちの様子を他人に見られることはなかったが、それとはまたべつで、川崎の機嫌を損ねたようだった。

 

「だから、悪かったってば。次から気をつけるから」

「ばっ!? また、触らせろって、そういうこと!?」

「いや、それは言葉の綾ってやつで……とにかく、悪かったって。な?」

「……はぁ、もういいよ。でも、これであたしの話、信じてくれた?」

「ああ、それは、まぁ」

 

 怒気を納めた川崎は、じゃあ、と一呼吸置いてから縋るような眼差しをして、ここに至る経緯を話し始めた。

 ある日突然、猫耳が生えたこと。

 家族に相談し、病院にもかかってみたもののいっさいの治療法はわからず、匙を投げられたこと。

 学校に通うため、変な雰囲気になるのを覚悟で帽子を常にかぶるようにしていたこと。

 そして、これらのことが、少しだけストレスになっていたこと――――。

 

「そう、か……」

「うん……」

「で、なんで、それを俺に話そうって気になったんだ……?」

 

 突飛もない話だったが、それを信じるに足る証拠を俺の指先が知っている。

 そうさせてまで、俺にこの話を聞かせたのは、いったいどういうことだろうか。

 病院にかかって解決しなかったのなら、その役割は俺に求められるべきじゃないし、川崎もそれはわかっているだろう。

 家族が事情をわかっているなら、川崎になにより寄り添えるのはその人たちだろう。

 ならば、なぜ、俺はこの話を聞かされた。

 

 

「――――あんたが……特別、だから……」

 

 

 その答えは、俺の胸に突き立つと、じんわりと、そこから溶けていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「特、別……?」

「そう、特別」

 

 繰り返すように言われ、その言葉の持つ意味をどうにか理解しようと頭を捻るも、どうも字面以上の意味を見出すことができず、結局、首を傾げて川崎に真意を問うた。

 

「どういう意味だよ、その特別ってのは……」

「言ったままだよ。あんたはあたしの、特別なんだ」

 

 ぶっきらぼうだった顔がいつの間にか柔らかい微笑みを湛えていて、それを見ていると、じわりと胸に熱が広がった。

 

「……だから、その意味がわからないって言ってるんだ」

 

 その熱がなんなのかもはっきりとしないまま、俺はそっぽを向いて、どうにか先と同じような言葉を紡いだ。

 なんとなく、これ以上は、川崎のことを真正面から見れる気がしなかった。

 

「ふぅん。なら、言ってあげる。あたしは、あんたのことを、男として、特別に思ってるって。そう言ってるの」

 

 区切って、区切って。聞き分けのないやつに言い聞かせるような調子で、川崎は本心を晒した。

 

 

「――――つまり、あたしは、あんたが好きなんだ。わかった? 比企谷」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 頭の処理が追いつくのに数瞬の時を要したが、とにかく、そういうことらしい。

 

「なんでそんな他人事みたいな顔してんの?」

「いや、一回こう、客観的に捉えてみよう、みたいな?」

「……バカなの?」

「いや……はい、すみません……」

 

 しょうがないだろうが。

 そうでもしてなきゃ、その、受け止め切れなかったんだから……。

 

「にしても、お前、普通そういうの、嫌われるかもって、隠すだろ?」

 

 なんだよ、好きだから猫耳が生えたの教えるって。意味ぷー。

 

「やだよ、そんなの。もう決めたの。あんたには、あたしのそのまんまを見て欲しいって」

「なんだ、それ……」

 

 気恥ずかしくて、そっぽを向いていたのが、さらに明後日の方へ首が傾いた。

 

「それに、ちょっと卑怯だけどさ、あんた、こんなの知ったら、あたしのこと放っとけないんじゃない……?」

「…………」

 

 そういう見られ方は、少しだけ、癪だった。

 それじゃあまるで、なんの差別もなく俺が優しいみたいじゃないか。

 

「愛してるって、あのときのあれがそういう意味じゃなかったってことくらいわかってる。けど、比企谷は男の子なんだし、ちゃんとそういうことに責任、持ってほしいんだけど……?」

 

 …………。

 

「だから、ほら、ちゃんと、あたしを見てよ――――」

 

 …………。

 ……川崎って、こんなやつだったかなぁ。俺の記憶の中じゃ、いつも無愛想でぶっきらぼう極まりない目つき鋭い印象しかなかったんだけど。

 このすっごいいじらしい子、実は誰か別の人なんじゃないのかなぁ……。

 なんて、気恥ずかしさからやっぱり他人事のようにそう思いながら、俺は、正眼に川崎を捉えた。若干、頬を染め、はにかんでいる彼女を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




川なんとかなんて、もう言わせない。
男前で猫耳な川崎さんでした。
うまく書けてましたかね……?


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ありのままの気持ちで

サキサキかわいいよサキサキ


まぁ、うちのは若干キャラ崩壊入ってますけど。。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねぇ、比企谷……」

 

 不意に近寄ってきて、耳を甘噛み。直後、吐息のような声を外耳道に直接吹き込まれる。

 くすぐったいその刺激にぶるっと身震いした俺は、呆れと僅かの苛立ちを乗せた視線を下手人のほうへやった。

 

「ねぇ、俺、本読んでんだけど……?」

「ん、見りゃわかるよ」

 

 邪魔してんじゃねーよという無言の抗議は、いっさい悪びれない言葉の下、一刀に切り伏せられた。

 

「お前な……」

「んーっふっふー、比企谷ー、えへへー」

 

 かと思えば、今度は甘えた声音で一連の下手人――川崎が、俺が腰掛けていたソファに同じように腰を下ろし、惜しげもなく身体を密着させてきた。

 耳をピコピコ、尻尾をフリフリさせながら、擦り寄る彼女を拒絶する術を俺は持たない。

 

「お前、実は相当な甘えただったのな……」

「自分でも最近気づいたんだけどね。ほら、あたし、弟と妹しかいないから」

「年長者は大変だねぇ……」

「そう、大変。だから、あんたはあたしを目一杯甘やかすの。いい?」

「へいへい」

 

 密着していた距離をさらに詰めて鼻先を胸に押し付けてくる川崎に、本を持ったままの両腕をそのまま上へ上げて、変なところをうっかり触らないように配慮をする。

 数分間その姿勢のままで膠着状態が続き、そろそろ腕をつりそうな感じがしてきた頃、川崎はやっと顔を上げ、ふにゃぁんと蕩けたような表情をして、口を開いた。

 

「比企谷は、あたしのこと、ぎゅって、してくれないの……?」

「っ……」

 

 ぺこり、と頭の上の猫耳を片方傾げ、それと同じように首も傾げながら、破壊力満点の言の葉で川崎は俺の胸のど真ん中を撃ち抜いた。

 頬が熱を持ち始めたのが自分でも実感できて、たまらずそっぽを向く。

 視線を外されたからか視界の片隅でゆらゆら揺れていた尻尾が、なんとも寂しそうにその身を震わせた。

 

「…………」

「…………」

「…………」

「……ね、比企谷」

 

 ああ、もう。

 わかった。わかったってば。

 こうすりゃ、いいんだろっ……!

 半ばやけっぱちに、俺はしなだれかかってきている川崎を思いっきり抱きすくめた。途端、視界に入っていた猫耳と尻尾が逆立った。

 

「んっ……! 比企、谷……ちょっと、痛い、よ……?」

「わ、わりぃ……」

「んーん。ふふっ、でも、ほら、あったかいね……」

 

 油断しきった隙だらけの顔つきで、へにゃりと、川崎が笑った。

 けれど、やっぱり俺は気恥ずかしさが勝って、頑なにそっぽを向き続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結論から言うと、俺――比企谷八幡と彼女――川崎沙希は、男女として交際を始めることになった。

 確固たるぼっち思考を持ちながらも流されやすいことに定評のあった俺にしてはわりと一歩踏み出せた選択だったのでは、とか思うのは、ちょっと高慢に過ぎるかもな。なにせ、川崎がいなければ、俺もこうはならなかっただろうし。

 

 

『――――あんたが……特別、だから……』

 

 

 あんなこと言われて、こうならない男なんて俺は認めない。

 黒のレースのさらに上を行く感動が、俺の中にできあがった瞬間だった。

 けれど、まぁ、実際、稀有なシチュエーションだったし、今になって後悔などはなにもないが、思うところは少しばかりあったりする。

 猫耳のことだ。

 たまに衝動に負けてモフらせてもらって、その都度敏感な箇所なのかそれとも恥ずかしさのせいか、悶えに悶える川崎にこちらも狼狽しつつ、けれどモフるのはやめない、みたいなわりと特殊すぎる空間ができあがっちゃったりするのだが。

 たまに思ったりもするのだ。どうも川崎自身は不便に思ってないみたいだけど、このままにしといていいのかなぁ、みたいなことを。

 

「どうかしたの? なにか考え事?」

 

 本を開きつつ他に思考を流していたからか、俺の膝の上に頭を乗せていた川崎がまったく俺が読書に集中できていないことに気づいたらしい。

 目敏い。が、これ以上は本など開いていても無益かと思い直し、ぱたんとページを閉じ、眼前の机の上に放った。

 

「物を投げないの」

「お前は俺の母ちゃんかよ」

「……ママって呼んでみる?」

「…………趣味じゃねぇし。しかも、その恰好で言われてもな」

「……むぅ」

「今の、拗ねるとこか……?」

 

 難しい年頃らしい。

 

「……で、なに考えてたの?」

「……お前の、その耳のことだよ」

「ああ、これ……。なに、どうにかできないかって?」

 

 首肯すると、川崎は嬉しげに笑った。

 

「それは嬉しいけど、どんな医者も匙を投げたし、あんたにはたぶん無理だよ」

「……かもな」

「うん……。でも、比企谷とこうしていられるんだから、あたし的にはそれだけでこの耳にも感謝できるってもの、かな……」

「そうか……」

「うん、そうなの……」

「……まぁ、俺だけがこれをモフモフできるのも、ある種特権的行為だしな」

 

 言いつつ、なにかを誤魔化すかのような心境で、俺は手近なところでぴこぴこ動いていた猫耳をモフり始める。

 

「えぅっ!? も、もうっ、いきなりはやめてって、いつも言ってるじゃない!」

「次から気をつける」

「……ふん」

 

 でも、俺は思うのだ。

 俺がこいつを世界で最も幸せにしたいなら、その選択をこいつがどう判断するかは二の次に、それくらいの意気込みを持つべきなのでは、と。

 そう、稀代の、と言って差し支えないこの猫耳発生現象を治療できるようになる、くらいの意気込みを。

 

「……さて」

「ん、どうかした……?」

「ああ。さしあたって、腹ごなしをしようかと。食べたいもの、あるか?」

「……里芋の煮っ転がし?」

「…………料理、一緒にするか?」

「……うん!」

 

 なんて、俺にこんなことを考えさせるようになった川崎には、脱帽の一言だなぁと思いましたまる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




少し短めでした。
が、八幡が前向きになれたお話だったんじゃないでしょうかねぇ。。


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三浦優美子篇
抗えぬ心象


ご無沙汰しておりました。
三浦篇でございます。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 葉山隼人から言ってみれば、それはどうしようもない、のっぴきならない事態であった。

 きっかけは単純に、学生特有のノリと勢い。男子の内輪で盛り上がった話が、葉山隼人を持ってしても流せなくなるほどに膨張してしまったのだ。

 否、葉山隼人であるからこそ、流せないのだと、後になって悟ることになる。

 それは、周囲の理想であったればこそ。葉山隼人は、周囲にとって都合のいい人形なのだ。期待を裏切れない人形なのだ。

 だからこそ彼は、三浦優美子の頭をさり気無く撫でろ、という要求に対し、今までのようにそんな馬鹿なことをと突っぱねることができなくなってしまっていたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは、ある放課後のことであった。

 いつもどおりの授業が終わり、いつもどおりに部活へ向かい、その日一日はいつもどおりに、滞りなく終わるはずであったのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 終礼後、授業の用意を放り込んだカバンを肩に、俺は特別棟三階最奥に位置する我が部室へ向かおうと席を立っていた。

 教室には、俺以外に、いそいそと部活に向かう運動部連中、これまたいそいそと家路につく帰宅部連中を除いた、掃除当番の連中やなにをするでもなくただ談笑をしているやつらが残っていた。

 そこには、クラスヒエラルキーの頂点に位置しているトップカーストグループの姿もあった。言うまでもなく、葉山隼人を筆頭に三浦優美子などがメンバーとして数えられるあのグループである。その様子から、どうも今日はサッカー部の練習がないらしいことを悟る。でなければ、この時間にサッカー部の中心である葉山や戸部がここにいようはずもないからだ。

 そして、彼らのグループには、俺の部活仲間である由比ヶ浜結衣や女子カーストのトップである三浦優美子の姿もあった。若干人数が足りない気もするが、あのグループのイツメンが集っている。

 大方、このあとどこかへ遊びにいこうという話でもしているのだろうか。であれば、由比ヶ浜は今日は部活には来ないか、そこまで考えて、首を振る。

 俺がこうして考えたところで、詮無い問題である。

 たしかに、今日このあとの時間をあの氷の女王と二人きりで過ごすことに抵抗がないわけではないが、由比ヶ浜がどこかでなにかを楽しんでくることに自体に否やはないのだ。むしろ、推奨するまである。俺や雪ノ下のようなぼっちと一緒にいるよりか、育めるものも多いのではないかと思うのだ。それに、葉山が一緒にいるのだろうし、下手なことには決してならないだろう。

 などと、このようなことをつらつらと考えながら教室後方の出入り口へと歩を進めていた俺である。

 ちょうどそんなときであった。

 放課後特有の緩い教室の雰囲気が、途端に豹変したのである。

 ぼっちは、周囲の空気に鋭敏である。ゆえに、俺もその例に漏れず、その空気の変化を察知した瞬間、両手の手刀を身体の前で構え、臨戦態勢に入った。

 無意識下のその行動に我ながら引きながら、一連の行動を黒歴史認定しつつ、張り詰めた空気を発する背後、先に述べたトップカーストグループが談笑をしていたほうへ振り向く。

 そこには、驚くべき光景が広がっていた。

 なんと、あの葉山隼人が、あの三浦優美子の頭に手を置いているのだ。

 撫でている。

 微かにではあるが、たしかに、葉山は三浦を撫でていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 葉山隼人といえば、文武両道、品行方正、八方美人に加え、なによりも和を重んじ、集団の理想であろうとする完璧超人のような人物だ。

 周囲が望む理想を己の身に写し、体現する存在。

 つまるところ、どこまでいっても自分を持てない存在である。

 そして、三浦優美子といえば、そんな葉山隼人を慕っていることで誰もが知っている少女である。

 葉山隼人は、集団の和を重んじる。つまり、集団の中の誰か一人に傾倒することはまずないということだ。

 つまり、今まで三浦優美子は決して報われぬ思慕を彼に寄せていたわけであるが。

 さて、今のこれは、いったいどういうことなのだろうか。

 葉山隼人が誰かに傾倒することはあり得ない。

 それはただの俺のレッテル貼りに過ぎないが、的を射たものであったという自負は持っていた。

 しかし、事実として、彼は集団の中の一人に傾倒する姿勢を見せた。

 葉山が三浦の頭を撫でるその光景は、俺にとって、葉山隼人の中のなにかが壊れてしまったゆえのものだと思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 葉山が三浦の頭に手を置いて数秒、依然として教室内の空気は固まったまま、しかし当人である葉山、三浦と共に動きは見られず、沈黙のみが場を支配していた。

 そんな中、俺はここだと思った。

 今こそ、普段から言って憚らないステルスヒッキーを駆使するべきときだ。

 そう悟ってすぐ、俺は行動に移った。

 クラスメイトらの視線を縫い、音を立てず、極力現状の空気を壊さぬように、教室を後にしようとしたそのとき。

 

「比企谷」

 

 これ以上ないくらいに、はっきりと、鋭いまでの声音が俺の名を呼んだ。

 その呼びかけの主は、未だ葉山に頭を撫でられたままの三浦優美子である。

 いつもはヒキオ、なんて言うくせに、とも思った。

 

「比企谷」

 

 二回目。

 雑音のない教室内で、やはり俺の名を呼ぶその声に、この場を走り去りたい気分をこらえて、後方、呼びかけの主のほうへ振り向く。

 きっと、今、俺は心底嫌そうな顔をしているに違いない。

 そのような自己分析を下しつつ、振り向いた俺の視界に入ったのは、葉山の手を振り払い、ツカツカとこちらへ歩み寄ってくる三浦の姿であった。

 顔は俯いており、前髪でその表情は窺うことができない。

 残された葉山はなにをするでもなく彼女のその動向を見守っていた。

 彼我の距離が縮まっていく。

 依然として顔を上げない三浦。しかし近づいてくるものだから、すわ最悪頭突きでも食らわされるのではなかろうかとやや身構える。

 そして、三浦はそのまま、頭突きまではいかないが、いやそれ以上にわけのわからない行動――俺の胸に、先ほどまで葉山が触れていた頭をぐりぐりと、まるでなにかを払拭するかのように押し付けるという行為に勤しみ始めたのだった。

 教室の空気は、言うまでもなく、再び凍りついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 所変わって、ベストプレイス。

 頭を押し付けたままの状態で力を込めて俺の身体を押す三浦と、そんな彼女に押されるがままに後ろ向きでの歩行を余儀なくされる俺。

 そのまましばらく校内をさ迷った俺たちは、俺が普段ベストプレイスと称して日々、主に昼食時に居座っている場所にまで来てしまっていた。

 ちなみに、ここまで来てもまだ彼女は俺の胸に頭を押し付けたままである。

 え、ちょっと意味わかんなくないですか……。

 

「……おい、三浦」

 

「うっさい」

 

「あ、はい」

 

 現状の打破を試みるも、先ほどからこの調子である。

 ほんとなんなのかしら、この子。

 

「……ねぇ、比企谷」

 

「……なんだ」

 

「さっきの、隼人のあれ、どう思った?」

 

「なでなでのことか」

 

「な、なでな……。……んんっ。それ以外、ないっしょ……」

 

 先の葉山の行動も真意を、なぜか知らんが俺に問う三浦。マジ聞く相手間違えてるよ、お前。

 が、しかし、やはり考えてしまう。あの葉山隼人らしからぬ行動を見たとき、俺には、やつの中のなにかが壊れてしまったように見えた。それが自然破壊なのか、故意破壊なのかはさておき、だが。

 

「さて、」

 

 俺が思うに、葉山隼人とは周囲の理想を体現する存在だ。

 学業優秀。文武両道。品行方正。容姿端麗。非の打ち所のない彼は、それでいながら、自ら進んで周囲の思う理想の青春を叶えることに努めている。

 つまるところ、自分で自分を踊らせる繰り人形といったところか。

 自我がありながらも、他人の青春、理想に利用され、磨耗していくだけの存在。やつは、そのような立場に自分から甘んじている。

 その先になにがしたいのか、できるのかなんて俺の知ったことではないが、いや、その果てが先ほどの出来事なのだろうか。とすれば、やつは本当の意味で気づけていなかったのだ。集団の抗いがたさ、その恐ろしさというものを。

 そしてわかっていなかったのだ。己が持つそれが、類い稀なタレントを惜しみなく振り撒いた結果というだけに過ぎないカリスマ染みた薄っぺらいアイドル性だったということを。

 だが、ともすればやつはそれを悟っていたからこそ、今まで己が積み上げてきたものに縛られ、身動きがとれなくなったのだ。

 ゆえに、抗えなかった。集団特有の内輪の悪ノリというやつに。

 針の筵の上での、窮余の一策すら与えられない強制執行。

 つまり、今まで己だけは流されまいと余裕ぶっこいていた二枚目が、見事に足を滑らせて頭部をしこたま打ち付けたその記念すべき第一回目、といったところか。

 

 というようなことを、未だに俺の胸に頭を預けたままの三浦につらつらと語って聞かせた。

 

「ようはなにが言いたいかっていうとだな。俺は他人にレッテルを押しつけるのは嫌いなんだが、敢えて今それをするなら、さっきのはいつもの葉山隼人らしくなかった、ってことだな」

 

「……あんたも、そう思う?」

 

 久々に長く喋ったせいで若干乾いてしまった口内が気になりながらも、三浦の質問に答えると、彼女はか細い声でそう聞き返してきた。

 やはり入学から一年と数ヶ月の間やつを見ていた三浦のことだ。俺なんぞの見立てたことなんて、少し考えればわかったことだろう。

 そして、そのわかっていたであろうことをわざわざ俺に聞いてきたその真意は果たして、信じたくなかったか、あるいは知りたくなかったか。まぁ、どちらも同じことか。

 

「まぁな。で、そろそろ離れてもらえませんかね」

 

「今、あーしの顔見たら、一生祟るから」

 

「俺、お前とならいつまでもこうしていられるなぁはっはっはー」

 

 だからそのドスの利いた声やめてくださいほんと。

 

「……バッカじゃないの」

 

「バッカお前、祟られるの怖いだろ」

 

 なんてやりとりのあと、二人の間に沈黙が過る。

 どうしたものか。なにをしても三浦に怒られそうな気がしてならない。かといって人を、例えば由比ヶ浜なんかを呼んだとしてもどうにもなる気がしない。

 なんて、ほとほと困っていたそのとき。

 

「……ぐすっ」

 

 眼前の女から、しゃくり上げる声が聞こえてくるものだから、たまったものじゃない。

 

「お、おい」

 

「あーし、嫌な女だ……」

 

 そして、突如として始まる独白。

 ほんと、勘弁してくてませんかねぇ。

 

「あーし、比企谷の言うようなレッテルを勝手に隼人に押しつけて、それごしに隼人のことを好きになっちゃったんだね……」

 

 嗚咽を漏らす間にも独白は続く。

 

「だから、さっき隼人があーしの頭を撫でたとき、違うって、そうじゃないって思った。あーしの好きな葉山隼人はそんなことしないって」

 

「傲慢だな」

 

「……知らなかった?」

 

「いや」

 

「……それで、隼人と隼人のガワだけを見ていたあーし自身が、どうしようもなく嫌になった」

 

「冷めた、ってやつか」

 

「薄情だ、あーし」

 

「そうだな。だけど、皆、そんなもんだ」

 

「……隼人は、私の好きな葉山隼人はあーしが勝手に作っちゃった偽物だった。だから、決めたし」

 

「なにをだよ」

 

「失恋の特効薬は新しい恋って相場が決まってるし」

 

「傲慢で、薄情で、おまけに尻軽かよ」

 

 ほんと、たまったものじゃない。

 

「ふふっ、望むところだし」

 

 けれど、泣いているよりかはそっちのほうがいいと、俺は思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




追記
葉山がとてもらしくないことになっておりますが、これもまたご都合主義の叱らしむるところです。申し訳ないが、ご了承ください。


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新たなる心象

二話目、決着です。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結局のところ、三浦優美子の葉山隼人への想いは虚構であった。

 しかし、欺瞞では決してなかったその想いの丈は、そっくりそのまま三浦優美子の中に刻まれているのだろう。

 三浦と葉山の二人は、あのトップカーストグループの中で、今も付き合いが続いている。

 もちろん、弊害はあった。

 俺と三浦の関係を訝しがられたり、俺が雪ノ下や由比ヶ浜に詰られたり、三浦と葉山の仲が一時期ぎくしゃくしたとか、いろいろあった。改めて考えると、被害の三分の二ほどの割合で俺に降りかかってるのほんと解せない。

 とにもかくにも、三浦が葉山のことをもう異性としては想っていないということ以外は、教室内はいつもどおりに戻っている。

 

「ちょっと、ヒキオ。聞いてんの?」

 

 わけがなかった。

 ころっころと手のひら返しちゃうのは青春どころか社会全般を通して得意とするところだ。

 

「なんの、話だっけか……」

 

「はぁ? 信じらんない。ちゃんと聞いとけし」

 

「……あぁ、悪い」

 

 三浦は最近、葉山らのグループではなくわざわざ俺のところまで来て、時間を過ごすようになった。グループにやつらと仲違いをしているわけではないだろうが、本人曰く、あっち(グループ)より、こっち(ヒキオ)のが落ち着くとのこと。

 非常に迷惑である。が、無下にすると怒って怖いし、相手をしないとなおさら怒ってもっと怖いときたものだ。致し方なく相手ができないときだって、一応行かせてくれるが、それも後でデコピンが待っている。ほんと、なんなんですか、このパツキンドリル。

 しかも、である。

 三浦が俺の傍にいるということは、由比ヶ浜や海老名までもが近くへ寄ってくるのだ。流行のファッションや、音楽とかの話をしながら、ご丁寧に俺への話題振りも引っ提げて。

 三人は、話をして、笑いあって、たまに内一人が鼻血を噴いたりして今日も楽しんでいる。

 俺の、傍で。

 

「悪い。便所」

 

「あ、ちょ、ヒキオっ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少しだけ、疲れた。

 いや、我慢ならなかったというべきだろうか。

 俺は、今の三浦優美子のことがよくわからなくなっていた。

 恋とは、想い、焦がれるものだ。それは、一年という、俺たち高校生にとって決して短くない時間をそのために使った三浦自身がよく知るところだろう。

 それが思ってたのと違ったから。なんて、そんなことで本当に冷めてしまうものなのだろうか。

 俺はかつて、上部だけの情けを優しさと勘違いして、失恋ともいえぬ失敗をしたことがある。

 三浦も同じだ。だが、彼女が葉山を好きであった時間は、決して短いものじゃない。その日々はなかったことになんてならないし、三浦の想いもまたそうだ。

 なればこそ、俺には解せなかった。

 本当に、三浦優美子は想いの丈を断ちきったのか、否か。

 

「はぁ……」

 

 まぁ、俺がこうして考えても仕方のないことだ。

 本当のところなぞ三浦自身にしかわからないし、たぶん、俺が聞いても教えてくれなどしないだろうし。なにせ、互いのことなどさして知りもしないし、ましてや友人になった覚えさえないのだから。

 いや、付き合いだけなら、葉山より少しばかり長くないこともないか……。

 

「……それこそ詮ないことか。うし、戻るか」

 

 便所とだけ告げてくたのだから、そろそろ戻らなければまた三浦のデコピンが炸裂する。それは勘弁してほしい。あいつのデコピンは思いの外痛いのだ。

 昼休みももう終わる頃合いだ。ベストプレイスで一人物思いに耽っていた俺が、そうして立ち上がろうとしたそのときだった。

 

「なに、あんたあーしらのことほっといて、こんなとこいたわけ?」

 

 最近過食気味な声が、背中に投げられた。

 

「げ、あーしさん」

 

「げってなによ、げって。ってか、あーしさんってあんたねぇ……」

 

 失礼。口が滑った。

 いや、それよりも、だ。

 

「なんで、こんなとこいんだよ」

 

「は? なんでって、あんたを探しに来ただけだし」

 

「だから、なんでだよって」

 

「だって、なんかあんた、その、怒ってるっぽかったから……。あーし、なんかしたんかなって、思って……」

 

 珍しく、しおらしい仕草で俺の隣に、ちょうど前のときと同じように腰かけた三浦が、これまたしおらしいか細い声でそう言った。

 彼女その言葉は、まぁ、間違いではない。が、正しくもない。

 俺が勝手にいろいろと面倒なことを考えているだけのことだ。

 

「べつに、なんでもねぇよ」

 

「なんでもないって……」

 

 言い淀む三浦。

 こちらを見やって、なにやら考え込む。

 

「あんた、前もそんなこと言ってたし」

 

「前?」

 

「……ほら、事故のときの」

 

「あー」

 

 そう。あの事故だ。入学式の日、俺が由比ヶ浜の犬を助けようとして、雪ノ下の乗る車に吹っ飛ばされたあれである。

 俺の今はほとんどあの事故から始まっているといってもいいかもしれない。それほど、俺にとって決して小さくない意味を持つ出来事。

 実はそのとき、俺は見舞いに来た雪ノ下姉妹や由比ヶ浜の他に、眼前の彼女、三浦優美子とも顔を合わせているのだ。

 おどおどとすこぶる緊張した様子の由比ヶ浜とそれを強引に引っ張って病室に入ってくる三浦の姿に少しだけビックリしたことは今も覚えている。思えば、あのときは二人とも黒髪のままで、なんだか垢抜けない印象だった。曰く、俺に会うのに酷く緊張してしまうのでどうにかしてほしいとの由比ヶ浜からの相談から、三浦自身が同行を提案したとか。

 だから、俺と三浦は一年以上前から一応顔見知りではあったわけだ。

 

「あんとき、あーし、あんたにこう聞いた。結衣の犬の代償に、あんたは高校生活のスタートを上手く切れなかったけど、どうって」

 

「後ろで由比ヶ浜が泣きそうな顔してて、居心地悪かったんだからな、あれ」

 

「あーしもあんまり好きじゃない感じの質問だったけど、あんたは答えた。べつに、なんでもねぇよって」

 

「……よくもまぁ、覚えてんな」

 

「だって結衣んとこの犬、もともとあーしが拾ってきた子だし……」

 

 それを車の前に飛び出してまで助けてくれたんだから、そりゃ覚えるし……。

 そう続けた三浦は、スカートも気にしないで膝を立てて、その間に顔を伏せた。

 

「中学のときに拾ってきたあいつ、サブレを家で飼おうとして、すっごく怒られてさ……。それを相談したら、結衣、あたしがなんとかするからって。ちょっとかっこよかった」

 

「……なんとなく、想像つくわ」

 

「伊達に一緒にいるわけじゃないし。あーしも、あんたも」

 

「そう、だな」

 

 それきり、会話は途切れた。

 授業はすでに始まっている。なのに俺たちはこうしているわけだから、またあらぬ噂が立っちまうんだろうな。面倒くせぇ。

 そんなことを考える俺と、未だ顔を伏せたままの三浦。なにを話すでもなく、ただ隣り合って座っているだけの二人の間を穏やかな風が吹き抜けていく。

 昼を回ったものだから日も照ってきたが、ここは日陰で快適なまま。

 ああ、そういえば。五限は現国だったか。これは、後が怖いな。

 けれど、今の俺には、隣のこいつを一人残したまま教室に戻るという選択肢はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ねぇ、あーしはさ、たぶんあんたのことが気になってんだと思う」

 

 沈黙を保ったまま過ぎていた時間に、三浦が唐突にそう言葉を落とした。

 そして、それは、なんというか、目を丸くする以外になにもできなくなってしまうような意味合いのものであった。

 彼女は未だ顔を伏せたまま、耳を赤くしながら言葉を紡いでいた。

 

「隼人もさ、一年の頃、クラスの揉め事を仲裁したとき、言ってた。なんでもないよ、当然のことだって」

 

 ああ、いかにも、あの葉山隼人が言いそうなセリフだ。

 

「あーし、これだって思った。あんとき、あんたが言ってたことと同じだって」

 

 いや、違う。

 

「でも、きっと違ったんだよね」

 

 そうだ。

 そも、口にした人間が違うのだから、当然その言葉の思惑は違ってくる。

 

「だけど、勘違いしたらもう止まらなくて、あーし、きっと隼人に恋してる気になってただけだ」

 

 そこだ。俺が考えて、そしてわからなかったところ。

 

「だが、それを一年以上も続けたお前がいて、その間葉山のことを想っていたのはたしかだ。お前が虚構だと言うそれは、真実には変わらなかったのか?」

 

 気づけば、俺はその真意を問うていた。

 

「……だって、思い出したし。あーしがなんとなく気に入った、なんでもねぇよ、って言葉は、最初、あんたが言ったものなんだもん」

 

「なんでもねぇよ、ってほんとは凄く強がるための言葉だって、今のあんたを見てたらわかったし。文化祭のときとか、修学旅行のときだって、きっとそうだったんでしょ? あんたが傷つく代わりに、周りのことは丸く収まっちゃう。それで、傷ついたあんたは、なんでもねぇよって、やせ我慢するの」

 

「あーしは、初めてあんたと会ったあの病院で、なんとなくそのことに気づいてた。……あんたのそういう、自分の身一つを代償になんでもできるって傲慢さと、せっかく身近になった人をその傲慢さで傷つける薄情さと、それなのに困ってなにかを抱えている人がいれば同じことを繰り返しながら助けちゃう、その尻軽さ加減に。ほんと、うっすらとだけど」

 

「でも、だからこそ、あーしはあんたが気になってた。そして、今、わかったし」

 

「あーし、今、あんたのことをすごく好きになりたいと思ってる。……だから、あーしがあんたのその傲慢さと、薄情さと、尻軽さ加減をいい感じにどうにかしてやるし」

 

 盛大な皮肉と、これまた盛大な告白を織り混ぜながら、三浦は顔を上げ、真っ赤に染まった顔でこちらを見やった。

 まず最初に思ったのは、どうしたものかという困惑である。

 しかも、不思議なことに俺は、この三浦の言葉を勘違いやら欺瞞やらといって疑うことができずにいるのだ。

 なぜかはわからない。が、今、眼前の三浦に対してそんなことを思ってしまえば、この先ずっと、一生後悔し続けることになる。かもしれないなどと、思ったのだ。

 が、しかし、それはそれとして、俺からの返答は、一つしかない。俺はいつだって、来るもの拒んで去るもの追わず、である。

 

「……俺はべつに、お前のことを特別に思ったことはない。だから、その気持ちは誰か、もっとお前に似合うようなやつに、」

 

「うっさいっ。あーしは、今! あんたがいいって言ってんだし!」

 

「お、おい、三浦」

 

「ヒキオ。あんたは傲慢で、薄情で、尻軽。ここまではあーしと一緒だし。でも、もう一つ、あんたには問題がある。それは、過去と今を受け入れて、そこで受け入れるだけで一個も未来()に進んでないその停滞っぷりだし!」

 

「……」

 

「いい? あーしがそれを矯正して、それで……それで、一緒に歩いていきたいから、その……お、覚えとけしっ」

 

 言いたいだけぶちまけると、三浦は俺の隣から立ち去った。

 教室に戻るのだろう。五限の授業は、もうすぐ終わる。

 俺は、六限から教室に戻ることにして、ふと空を見上げた。

 

「……言ってくれるな、あいつ」

 

 やや晴れ模様の青空には、しっかと太陽が座しており、俺の呟きはその中へすうっと立ち昇って、消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




今後もだらだらとやっていきますので、どうぞよしなに。


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雪ノ下陽乃篇
彼は


久々ですね。
ご無沙汰でございました。

今回は陽乃さんの一幕をご覧あそばせ。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 趣味を見つけてはどうか、と以前に言われたことがある。

 そのときは急に言われたものだから、面食らって思わず考え込んでしまい、自分の無趣味さ加減を省みたりしたものだが、しかし、それは生来のものだからして、いきなりそうは変わったりしないのである。

 周りがこぞってこんなのはどうか、等といくつか提案を受けたりもしたが、どれもそれほど琴線には触れなかった。だってサバゲーとか柄じゃないし。釣りはちょっと興味あるんだけど、やっぱり道具揃える系のは学生にはキツいものがあるだろう。

 まぁ、それはさておき、今になって思ってみれば、俺はどうにもなにか文字を連ね、文章を作るということが思いの外好きなようで、国語学年三位という肩書きがもたらすちっぽけな自信も手伝ってか、ふと思ったのだ。

 材木座義輝のように、書き物をやってみるのも悪くはないかもしれないな、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺という横着者にしては珍しく、思い立ってからは早いものだった。

 まず、書きたいものを考えた。存外に、これはあっさりと決まってしまう。

 たいしたことなどこれといってない俺の生涯からなにかを書き出してくるのはあまりおもしろい出来になるとは思えなかったので、知人の人物像を少しばかり拝借して、物語の軸に立つ人物に被せることにしたのだ。

 幸いにして、俺の周囲には個性的ともいえる面子が揃っていた。そして、俺はその中からとある人物を選んだ。

 内側にあるものを絶対に表に悟らせず、まさに見たまんましか伝わってこない彼女のことをモチーフに、俺は文章の作成に取りかかった。

 おおまかな話の筋を作って、プロットを練って細かい設定を詰めていく。それらをまず書き出してから、本文に手をつけ始めた。

 

 

 最初はやはり、ところどころで行き詰まって、思うようにいかなかった。

 文章のムラ。誤字、脱字。書きたいものがあるのに、それをどのように表現し、描写すればいいのかがわからない。いくら国語学年三位だからといって、そんな肩書きがこういったものにまったく関係のないことを身を持って実感した。なんなら材木座のことをちょっとばかり尊敬しかけたまである。寸前で踏みとどまれたのは幸いだった。

 

 

 区切りのいいところまでを一息に書いてしまって、添削し、読み直すという作業を繰り返す。

 家のパソコン、学校では部室のパソコンを使わせてもらって、俺は書き続けた。

 人が変わった、というか、今までにないことをやり始めた俺に周囲は少しばかり驚いたようだったが、その行動に害がないことを察すると早々に放置してくれたので、初めての試みから若干気恥ずかしさのある俺にとってその対応は好ましいものであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、そんなこんなで一月と少しばかりが過ぎ去ったある日の朝のこと。

 俺の目の前には、十万と少しばかりの字数から成る作品がきちんと出来上がっていた。

 書き上げ、プリントアウトしたのは昨夜なのだが、どうも一も二もなく読み始めてしまって、気づけば朝日が昇ってしまっていた。経過時間から察するに、何度か読み返してまでこの作品を堪能していたらしい。

 とりあえず、作品を脇に置いて、机の上ですっかり冷えきっていたコーヒーに口をつけた。まずい。砂糖やら練乳やらを入れて疑似マックスコーヒー化しているだけに、とても飲めたものではなかった。それでも残りを一気に煽って、深く、深く息を吐き出し、吸う。

 瞬間、言い知れない、なにか込み上げるような気持ちが胸中を走り抜けた。

 

「できた」

 

 思わず、口をついて出てしまったそれを皮切りに、溢れ、こぼれそうになるのを必死にこらえて、自分でもわかるくらいにだらしなくにやけるまでにとどめる。

 本当に、少しだけだが、作家病というものの一端を感じられたように思った瞬間だった。

 

 

 今日は平日であるので、ひとしきり達成感染みたものを噛み締めたあと、登校の準備を済ませる。

 いつもよりも早い時間に階下に降りて、朝食を摂り、家を出るまでの間をだらっと過ごす。

 やがて小町が支度を済ませて、二人で家を出る。両親はすでに出勤していったので、戸締まりをしてから、一路学校を目指す。

 

「にしても、お兄ちゃん。最近ずっと様子が変だったけど、今日はまた、一段と変な感じだよ」

 

 自転車に二人乗りをしている後ろから、小町が言葉をかけてくる。

 その言葉にふと考えてみると、なるほど、たしかに思考はわりとクリアで、見える景色も今日は違っている気がした。

 

「――――っと……!?」

 

「おっ、お兄ちゃん!?」

 

 や、違った。

 普通に徹夜明けのあの妙に清々しいテンションなだけだわ、これ。

 だって今ハンドル切るのミスりかけたもの。やべぇ、危ねぇ。普通に判断力落ちてるわ、これ。

 いや、ほんと危ない。

 

「お兄ちゃん!」

 

「……すまん」

 

 もうっ、とぷりぷり怒ってしまった小町を宥めながら、彼女の通う中学校までなんとか無事に送り届ける。

 機嫌はそうそう直らないようで、未だ頬を膨らませたままの小町が勢いよく自転車から飛び降りて、前籠から自分の鞄を引ったくる。ぷんすこぷんすこと校舎のほうへ歩き出そうとしたので、今日はいってらっしゃいはなしかなぁと悲嘆に暮れていると、小町はこちらを振り向かないまま、ぽつりと、

 

「事故だけは、ダメだからね。ゴミいちゃん」

 

 それだけ溢して、いそいそと駆けていってしまった。

 お兄ちゃん、それだけでご飯三杯はいけます。これで勝つる。ふはは。

 

 

 

 

 

「――――さて」

 

 踵を返して、総武高校へと舵を切る。

 早めの時間の登校、そして、小町の心配からふと思い起こされる記憶。が、そんなものは振り払う。今日ばかりは、事故なんて起こしている暇などこれっぽっちもないのだ。

 一刻も早く、俺はあの人にこの作品を読んでほしかった。

 なぜそう思ったのかは、正直なところ自分でもよくわからない。勝手に登場人物のモデルにしてしまった罪悪感か、その登場人物の顛末を突き付けたいのか、本当によくわからない。

 けれど、読んでほしい、とそう思った。

 他の誰でもなく、真っ先に、あの人に――――。

 

 

 

 

 

 学校へ漕ぎ着けて、駐輪場へ自転車を置いて、上履きに履き替えるために正面玄関に回り込む。

 

「お」

 

 そのとき、視界の端に、俺は彼女を見つけた。

 流麗な黒髪は低い位置で二房に結われ、どこか気品さえ感じさせるその容貌は同い年とは思えないまである。あれだけ目立つ見た目の人物など二人とそうはいまい。百人、二百人からの人混みであっても、俺は彼女をその中から見つけ出せるだろうと常々思っていたりする。

 

「雪ノ下」

 

 背後から、声をかける。

 

「あら、おはよう。この時間にあなたの顔を見る日が来るなんてね。まさか、」

 

 振り向き様、挨拶とジャブを一緒くたにぶっ放される。

 まぁ、たしかに俺はいつもなら遅刻ギリギリの時間に登校しているので、この早い時間にいつも来ているのであろう雪ノ下とは顔を合わせるべくもない。それが、あくまで偶然に過ぎないが、こうしてこの時間に顔を合わせてしまったのだから、まさか、という言葉の後に続く台詞なんて、簡単に予想がついてしまった。

 

「ちげーよ。そも、俺がお前に好意を抱いてる前提はおかしいって言ってるだろ」

 

 だから、言葉を被せて、先手を打たせてもらう。謂われのないことを言われるのは慣れているが、ないならないほうがいいことはたしかだ。

 どうせ、あなたストーカーね、とか言うつもりだったんだろ。わからいでか。

 

「ま、今日はお前に会いたかったのはたしかにあるけどな。今はこの偶然に感謝しとくわ」

 

 それから続けた言葉に、雪ノ下雪乃は頬を染めてそっぽを向いた。

 本格的に俺の判断力とかその辺がなんかもうアレだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日という日に限っては、朝から放課後まで、目が冴えっぱなしだった。

 寝不足なのは自覚があるし、実際に眠いのだが、なんというか一向に眠れる気配がなかった。

 一日中頭の中を堂々巡りしている今朝の約束が、また思い起こされる。

 

『――――じゃあ、今日、放課後にね』

 

 今朝、俺は雪ノ下に会いたかったと口にしていたのは、もちろん彼女に用があったからだ。しかし、それは彼女自身へのものではなく、彼女を通じて連絡をとった雪ノ下陽乃へのものであった。

 それを雪ノ下に言ったときにはずいぶんと渋られ、睨まれ、詰られたものだが、俺はめげなかった。偉い、俺。

 俺は書き上げたこの作品は、雪ノ下陽乃をモチーフにしたものだ。

 良家の長女に生まれた女が押し付けられた生き方の中で、擦りきれ、ひび割れ、そしてやがて生まれてきた実の妹に救われ、同時にとどめをさされる。

 そんなどうしようもない、ただそれだけの話を俺は書き連ねた。

 物悲しいまでの女の半生に、結局のところ、俺は悲嘆からの解放というものを書き添えなかったし、作品の中の女は、悲しい人のままにその幕を下ろされた。

 この話は、俺が持つ雪ノ下陽乃への印象とその素性への下らない勝手な妄想からできたもので、ただの作り話に過ぎない。

 けれど、やはり、俺はこれを雪ノ下陽乃に読んでもらいたかった。

 もし、もしもこの話に続きを書き加えることができるのなら、それは彼女にこれを読んでもらったその後で、それからだと思うのだ。

 

 

 

 

 

 つつがなく、というか完全に右から左の授業がすべて終わると、俺はさっさと帰り支度を済ませて学校を後にした。

 部活のほうへはすでに欠席の連絡を入れてあるし、抜かりはない。

 自転車に跨がって、取り付けた約束の待ち合わせ場所に向かう。

 しかし、本当に、俺の拙い誘い文句に二つ返事で了承がなされたときなど、暇すぎかよ大学生とか思ったものだが、今回ばかりはそのことに感謝するばかりだ。断られたときのことなど考えたくもなかった。だってほら、たぶん俺が自分から誰かを誘ったのって、高校入ってから、これが初めてだったと思うし。

 待ち合わせに指定された駅近くの喫茶店に入ると、店員の対応よりも早く、俺は雪ノ下陽乃を見つけた。

 お一人様ですか、と問われる声に、食い気味に待ち合わせなんで、と返す。

 その足で湯気を立ち昇らせるコーヒーカップを前に文庫本のページを捲っている彼女の元へ向かった。

 

「ちわっす」

 

 テーブルの横手で立ち止まって、軽く頭を下げた。

 

「お待たせしました」

 

「ほんと、すっごく待っちゃった。こんにちは、比企谷君」

 

「すんません」

 

「ふふっ。いいよ。ほら、座って?」

 

 はい、とだけ返して、雪ノ下さんの対面に腰をおろす。

 店員に注文を言いつけて、さて、と向かいの女性に視線をやった。

 

「……あー。どんくらい待ちました?」

 

 誘った側はこちらなのだし、なにか話を切り出すべきだろうと口から出た言葉は、あまりにも当たり障りのないものだった。

 眼前の美女と二人きりで、しかも今回は自発的に会っているという事実に自分が緊張しているのを知った。

 なにせ、紡がれた声音が若干上擦っている。くっそ恥ずかしい。

 

「そ、ね……。だいたい一時間とちょっとくらいかな」

 

 形のいい指を顎にあてて、小首を傾げる。

 愛嬌のある仕草も、この人がやると途端に艶やかになってしまうのだから不思議なものである。

 

「すんません」

 

「だから、いいってば。君は授業あったんだし、私、実は待ってるのも嫌いじゃないってわかったから。ね」

 

「うっす……」

 

 ゆったりとした調子で言い含める言葉に、安堵を覚える。

 やはりこの人は、妹である雪ノ下雪乃が関わってこないところでは、ただの年上小悪魔属性の美人でしかない。それがもうその時点で破壊力抜群なのはこの際置いておく。置いておくのだ、うん。

 そうしていくつか言葉を交わしているうちに注文していたコーヒーが出されて、そこでふと会話の尾が途切れた。

 互いにカップに口をつける。

 そして、

 

「それで、今日はどんな用があるのかな」

 

 そこで彼女は、俺に水を向けた。

 いったんは緩みかけていた緊張の糸が再び張り詰め出す。

 ふぅ、と一息吐いて、俺は鞄から二百枚強にもなるA4用紙の束を取り出してみせた。

 

「それは?」

 

 クリップで留められ、クリアファイルに挟まれただけのそれを前に、雪ノ下陽乃は俺を見据えた。

 汗が滲んでくる手のひらを握り込んで、負けじと見つめ返し、問いかけに返答するために口を開いた。

 

「小説というか、物語というか。まぁ、そんなものです」

 

「ふぅん。市販のものとも思えないけど、これ、もしかして、」

 

「そっすね。書きました。俺が」

 

 はっきりとそう言葉にすると、また自信のようなものが胸の内に湧いてきた。

 自信の著作であるという確固たる自負がそうさせていた。

 そんな俺を見て、雪ノ下陽乃はさも愉快そうに俺とファイルとの間で視線を行き来させ、笑ってみせた。

 

「ふぅん。そうなんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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彼女は

二話目、決着です。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――趣味で書いたものですが、書き上げた途端、あなたに読んでほしくなったんで。よければ、ですけど。番号とアドレスも一緒に置いとくんで、なんかあったら連絡ください。

 

 

 それだけ言い残して、比企谷君は自分のぶんのお代を置いて店を去った。

 眼前に残ったのは、二杯のコーヒーカップと分厚いクリアファイルのみ。

 彼は私になにも問いかけを許してくれなかった。だから、さすがにどうしていいものかと悩んで、わからなくなってしまう。

 とりあえず、少しばかり冷めてしまったコーヒーを一息に飲み干した。

 それから、クリアファイルに目を向ける。A4用紙に縦書きにされたものがざっと二百と少し。文字数にして十万字ほどであろうか。よくもまぁ、これだけ書いたものである。

 手にとって、しげしげと眺めてみる。

 比企谷君の自筆だというので、私は少しばかりこの読み物に興味を抱いていた。あの捻くれものの彼が書いたというのだから、おもしろいに違いない。

 けれど。今はなんだかそんな気になれなくて、私はそれをファイルごと鞄にしまいこんだ。

 べつに、今すぐ読んでくれ、なんてことも言ってなかったし、その気になったまたの機会にってことでもいいだろう。

 伝票を手にとって、席を立つ。

 店を出ると、ちょうど日が傾き始めていた。

 その斜陽に身を染めながら、私は夜に向かいつつある街のほうへと一歩を踏み出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大学へ行って講義を受け、ほどほどに勉強をして、それから知人らと遊行に興じる。

 実家の催しに出席し、笑顔を浮かべ、言葉を並べ、自分を殻に包む。

 そんなことを繰り返しているうちに幾日かが過ぎ去って、ようやっと私がそのファイルを手にとったのは、たまたま夜遅くになってから自室に帰りついた今日のことだった。

 

 

 今日は家のほうで集まりがあって、それに顔を出していた。

 笑顔を貼りつけ、言葉を取り繕い、いつもどおりに。これが普通のはずなのに、今日はなぜだかいやに疲れている。

 服を着替えるのさえも煩わしくて、化粧だけを落として、そのまま寝台へ倒れ込んだ。

 疲れた。疲れた、疲れた。

 そればかりが頭の中をぐるぐると回る。

 気持ち悪い。腹の中から違和感が走って、吐き気が込み上げる。

 そのまま自分がどこかへ消えていってしまうかのような感覚を覚えて。

 咄嗟になにか、叫びだしたくなるほどの焦燥感のようなものが胸中を駆け巡る。

 

「やだ、なに、これ……」

 

 それらを、嫌なものを遠ざけたくて、枕元のサイドテーブルに放りっぱなしになっていた比企谷君の連絡先が書かれたメモを手にとる。

 そして、メモを片手にケータイに伸びた手が不意に止まった。

 いつもなら、こんなことでいちいち思い止まったりはしないのに、このときに限って私は、比企谷君に拒絶されることを恐れてしまっていた。

 本当にどうなっていたのだろう、このときの私は。

 けれど、だから、理由付けのために、私は彼の作品を手にとったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 読み始めると、私は思いの外、彼の紡ぐ物語に入り込むことができた。

 なぜって、話の基軸に置かれている女性が、私にとてもよく似ていたのだ。

 それで、思い至った。彼は私のキャラをモチーフに、この作品を組み立て、書き上げたのだ。

 それならば、普段は私のことを毛嫌いしている彼が自ら連絡を寄越してまで、自分に会いにきたのも頷けなくはない話だった。

 

 

 

 話の中の女は、良家の生まれだった。

 

 幼い頃より、両親とその周囲から期待を寄せられ、幸か不幸か、それに応えられるだけの才能とやらを彼女は持って生まれてしまっていた。

 

 そのことが、女の顛末に選択肢と退路を断つこととなった。

 

 騙し騙し。そうやって己を偽るうちに、いつのまにかそれを自然にこなせるようになった。

 

 貼りつけの笑顔と、取り繕った言葉と、そうせざるをえない生き方が、女の生き方となっていった。

 

 女はもはや自分がどういう性根をしていたのかを忘れてしまって、知らず知らずのうちに己を磨り減らして、日々を生きていた。

 

 そうしているうちに、女に、ある転機が訪れた。

 

 実妹の誕生である。

 

 妹もまた、姉である女と同じように多才な娘であった。

 

 女は妹を可愛がった。妹が唯一、自分になにも求めずにいてくれたからだった。

 

 けれど、時を経ると、妹は度々女の真似をするようになった。

 

 なにもかもをそつなくこなしてしまう女の姿は、妹にとって、こうあるべきという体のいい指標だったのだ。

 

 それに気づいた女は、ひどく鼻持ちならないものを感じた。

 

 やりたくもないことをやっている、やらされている自分のようになりたいと宣う妹に、どうしようもないまでの激情を覚えた。

 

 そのとき、女は自分の今の生き方が押し付けられたものであることを思い出した。

 

 思い出してしまった瞬間から、女は自身の生涯が酷く醜悪なものにしか思えなくなった。

 

 そのときからだ。女にとって、妹は、親愛と鬱憤と羨望の対象になった。

 

 家族として妹を愛する気持ち。自分のようになろうとしている妹への苛立ち。自分が持ち得なかった自由を持っている妹への嫉妬。

 

 それらを自覚した女の胸中は、あたかも抉られ、掻き回されたかのように乱され、滅茶苦茶にされた。

 

 けれど、それでも、女は己の在り方に変革を望まなかったし、認めなかった。

 

 凝り固まった戒めを解く術をすら、女は忘れ去ってしまっていたのだった。

 

 やがて、女はこれまで以上に磨耗していく。

 

 相も変わらぬ貼りつけの笑顔と、取り繕った言葉と、それらを押し付けられる生き方の中で。

 

 姉のようにと望む愛する妹に、その背中を見射貫かれながら――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 読み終わる頃には、胸中の消失感のようなものはなくなっており、私は落ち着きを取り戻していた。

 けれど、その代わり、私はそれにも勝るような虚脱感というか、やるせなさというか、そんなものを強く感じさせられていた。

 ふと思う。比企谷君はこんなものを読ませて、私になにを求めていたのだろうか。

 当てつけか、揶揄か、はたまたまったく別事か、単純に感想を求めてということもひょっとしたらあるかもしれない。

 

「……なんて、そんなわけないか」

 

 私は、ありえたかもしれない可能性を見せられたのだ。

 私をモチーフに、なんて、そんなものではなく、これはまさしくそのまま私の話なのだ。

 少なくとも、今の私にはそう思えてならなかった。

 そして、そう思うと、次に押し寄せてきたのは忌避感とアイエフの可能性に対する拒絶の意であった。

 こうはなりたくない、なっていたくない、と。はっきりと、さまざまと、そう思わせられたんだ。

 

 

 

 

 

 とりあえず、私は外着着の身着のままだったのをさっさと脱ぎ捨てて、シャワーを浴びた。

 ゆったりとした部屋着に着替えて、暖かいレモネードを淹れて一息つく。

 それから、私はケータイを手にとって、比企谷君に電話をかけた。

 零時も過ぎて、一時も回ってしまっていたけれど、彼ならあるいは、と思った。

 何回かのコール音を聞き流して、

 

『……もしもし』

 

「もしもし。こんばんは、比企谷君」

 

 彼は電話に出てくれた。

 

『……なんすか。もう一時、回ってんですけど』

 

 寝起きの間延びした声。

 けれど、やっぱり、ちょっぴり咎めたてるような調子も混じっていて、それを耳にした私は思わず顔を綻ばせた。

 

「うん。ごめんね、起こしちゃったね」

 

 思いの外、優しい声音が出てくる。

 なんだか自分が自分じゃないような、浮わついた、ふわふわした感覚を覚える。

 

『……いいっすけど。それで、なんか用ですか?』

 

「うん。君の小説、読んだからさ」

 

 通話口の向こうで、少し驚いたような、そんな息を呑む音が聞こえた。

 もしかして、私があれを読むなんて、本当は期待してなかったのかもしれない。

 

『どうでした……?』

 

 問うその声は、どこか揺らめいて。

 

「……んー。なんか、悲しくなっちゃった。ちょっと、好みじゃない、かな」

 

 私の声も震えが混じってしまう。

 もう、カッコ悪いなぁ……。

 

『そう、ですか……』

 

「比企谷君。あれは、私を見て書いたんだよね?」

 

『……そうです。彼女は貴女が元になっている』

 

 書き手の口から聞くと、また感慨が違った。

 ああ、少し、聞きたくなかった。

 

「……私、このままじゃ、やだ」

 

 今度は完全に嗚咽混じりの声で、私はそう囁いた。

 

『……雪ノ下さん。俺、ちゃんと続き書きますよ』

 

 力強いまであるその返答に、私はふと思った。

 私と彼女に違いがあるとすれば、それは――――、

 

 

「うん。とびきり幸せなやつを、ね……」

 

 

 ――――彼の存在がまさしく、違い、というやつなのだろう、なんて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




このように相成りました。
さて、次はいつ頃の投稿になるやも知れませんが、どうぞお楽しみに。


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折本かおり篇
One day


折本かおりでござい。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ついに。ついに、だ。

 買うことが叶った。手の中のずっしりとした、たしかな感触。

 

「夢の一眼レフ……!」

 

 そう、私の手の中には今、デジタル一眼レフカメラが握られている。

 黒いボディにシルバーのアクセントの入ったそれは、私の夢の現物だ。

 

「くふっ、くふふっ」

 

 抑えきれない笑みが、漏れる。

 手も塞がってるから、そのままにやけっぱなしだ。

 すれ違う人すれ違う人がそんな私のことを見て、怪訝な顔をするけれど、やっぱり気にしていられない。

 嬉しい。意外と重い。知ってた。父さんのを持ったことがあったもの。早く、この子でなにかを撮りたいな。なにを撮ろうかな。

 脳裏に走るのは、喜色に溢れんばかりの考えばかりで。

 けれど、小走りにまで達していた私の歩調は不意に途切れた。

 自分の頬が紅潮していくのがわかった。

 ああ、なんで私――――、

 

「あいつを撮ってみたい、だなんて……」

 

 そんなこと、思っちゃったんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自分のスマホに、覚えのない番号が登録されていたとして、不意にその番号から連絡がきたとしたら。

 さて、一介の男子高校生を自称するこの身がとるべき行動とは、なんなのだろうか。

 日曜日の昼下がりに、俺は、わりと背筋がゾッとする要求をされていた。だって、ほら、アレじゃん。ちょっと普通じゃないかもしれない人の番号が勝手に登録されてたんだよ? 焦るって。

 

「…………」

 

 ケータイが着信を告げる直前まで目を通していた文庫本を膝の上に置き、とりあえず、バイブレーションしっぱなしの我らが多機能付き目覚まし時計を眺めてみる。

 30秒が経ち、そして40秒でバイブレーションは止まり、見知らぬ番号からの着信は途絶えた。

 というか、と顎に手をあてる。

 俺は先ほど連絡先に登録されている見覚えのない番号といった。

 つまり、連絡先のリストにはその番号の持ち主の名前も一緒になって登録されているわけで。

 

「かおちゃん、って誰だよ……?」

 

 変なサイトに電話番号を登録した覚えなどない身としては、俺の個人情報が流出するルートの予想は果てしなく簡単だ。

 だが、問題はそこではない。勝手に登録されていた、という点に尽きる。

 つまり下手人は俺の与り知らぬところで、勝手に俺のスマホをさわり、自分の番号を登録したのだ。

 え、やだ、ちょっと怖いんですけど。

 

「え、やだ、ちょっと怖いんですけど」

 

 思わず口に出ちゃう怖さ。

 なんてことをやっていたら、またも、スマホが着信を告げた。

 画面に表示される番号は変わらず、下手人もまた、かおちゃんなる謎の人物だ。

 

「うへぇ」

 

 ほんと、誰だよ。

 なす術もなく、またもバイブレーションをしっぱなしのスマホを眺めるままに今回の着信も途絶える。

 しかし、かおちゃんのしつこさもさるもので、その次の着信は二回目のそれが終わった直後に告げられた。

 

「……くそ、出ればいーんだろ、出れば」

 

 一周回ってやけくそになった俺は、震える端末を手にとり、耳にあてた。

 大丈夫だ。相手は俺の目を盗んで勝手に番号を登録する猛者だ。もしなにかあるとすれば、俺はとっくにやられている。はずだ。だから、ひとまずこの電話はとっても大丈夫だ。うん、そのはずだ。

 

「……もしもし」

 

『あ、やっとでた! もう! 3回目だよ!』

 

 スピーカーから聞こえてきたのは、女の声。

 どこか聞き覚えのあるそれは。

 

「ん、折本、か……?」

 

『そ! ちょっと久しぶりかな。比企谷、元気してた?』

 

 折本かおり。

 中学の同級生にして、現在は近くの海浜高校に通う女の子であり、そして、俺の黒歴史の一端を担う女の子でもある。

 

「お、おう。そうか、かおちゃんか……」

 

 折本かおりから文字ってかおちゃん、ね。

 得心を覚えて、一人頷く。

 

『なっ……』

 

 すると、電話先で折本はどうも絶句していた。

 再起動に5秒ほどかかって、改めて折本が口にした言葉は、

 

『……かおちゃんっていうな』

 

 そんな、か細い抗議だった。

 やめろ。こっちも言葉に詰まっちゃうだろ。

 というか、思い出したぞ。たしか、この前顔を合わせたときに折本が番号を交換しようなどと言い出すものだから、俺はおちおちスマホを彼女に渡してしまったのだ。かおちゃんなどというのはそのときの単なるおふざけだったのだろう。

 

「いや、すまん。つい」

 

『まさか、ずっとかおちゃんのままなの?』

 

「……まあ、そうだな。いちいち編集するのが面倒でな」

 

『もう、ばか……』

 

 番号を交換したこと自体を忘れてたなどとぶっちゃけるのは完全に蛇足だろう。

 

「それで、なんか用か?」

 

 世間話をする気も毛頭ないので、単刀直入に尋ねる。

 すると、折本は気を取り直したのか、わざとらしい咳払いをひとつして、口を開いた。

 

『比企谷! 君に休日出勤を命じます!』

 

 おお、神よ。

 あなたは死んでしまわれたのですか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――とりあえず、あそこの公園ね!

 

 

 なんてふうに強引に約束をとりつけた私は、その足で約束の場所まで駆けてきた。

 暑くも、寒くもなく、けれど弾む気持ちそのままに来てしまったから、少し息が上がって、頬は紅潮し、汗ばむ額に前髪が少しひっついてる。

 おかしなの。私、もう高校生なのに。もっと小さい女の子みたいになってる。

 

「それもこれも、比企谷のせいだよ。ふふっ」

 

 ひとつ、そう呟いて、笑みを浮かべる。

 辺りを見回しても比企谷の姿が見えなかったので、これ幸いとお手洗いに入る。

 息を整えて、汗を拭って。それから、ちょっとばかりのお洒落。

 そうやって自分を整えて、外に出る。

 

「まっだかなぁ」

 

 声色にまで弾んだ気持ちが溢れている。

 デレッデレか、私。

 だって、しょうがないのだ。比企谷と会えるというだけで、ニコニコしてしまうのだ。

 中学の頃は、そうじゃなかったのに。

 最近になって再会したときも、そうじゃなかった。

 それからちょくちょく顔を見るようになっても、そうじゃなかった。

 ほんとに、今になってなんでこうなったのか、自分でもよくわからない。

 でも、そういう気持ちが自分の中にあるってことを、私は否定するのが嫌だ。そうやって、今までも生きてきたから。

 自分の中の思いに、嘘を吐きたくない。そんなのは、もう嫌なのだ。

 少しだけ真剣に考え事をしていると、遠目に見える公園の入り口に人影が立ったのがわかった。

 

「比企谷」

 

 笑みが、戻る。

 手を振ると、彼もこちらに気づいたのか、そのまま歩み寄ってくる。

 

「おう」

 

 それが挨拶のつもりなのだろうか。

 声だけを発して、そのままこちらを見つめてくる彼に、私はとびっきりの笑顔を向けてやった。

 

「比企谷」

 

「なんだ」

 

「来てくれてありがとね」

 

「……ん」

 

「それと」

 

「なんだ」

 

「なんか、目、すごいことになってるよ」

 

「……ほっといてくれ」

 

 いつもと変わらない比企谷。

 いつもとちょっと違う私。

 今日、今から起こるかもしれないなにかに、私はさらに心を弾ませた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで、今日はまた、いったいなんの用なんだ」

 

 ろくすっぽ説明のないままに呼び出されて、渋々約束の場所までやってきた俺に、なぜだかこれまでにないくらい上機嫌の折本かおりは、嬉々として話を振り続けた。

 陽気な日曜の午後。近くの自販機で買った冷たい飲み物を片手に、公園のベンチに同い年の女の子と二人並んで座って、お話。

 よくわからないの一言に尽きるこのシチュエーション。まったくもってこの俺に似つかわしくない。

 

「――――でね!」

 

「そだな」

 

 右から左の折本の話に適当に相槌を打ちながら、とめどない思考を巡らせる。

 俺はいったい、なんでまたこんなところにいるんだろう。

 折本に呼ばれたから。これが原因。

 けれど、普段の俺ならば、それこそなにか適当に理由をつけて行かないだろう。

 だのに、俺はこうして折本と並んで座っている。

 この俺がほいほいと外に出てしまっている。それも、愛妹小町のためでも、大天使トツカエルのためでもなく、また自分のためでもなく。

 折本に呼ばれたから。それだけで、今、こうしているのだ。

 なんでだろうなぁ……。

 

「……あれ」

 

 ぼうっと考えを巡らせていると、ある一点に意識が留まった。

 折本の手元。会ったときから、そういえばなにか持ってるな、程度の認識だったそこには、一眼レフカメラがあった。

 彼女が持っている、ということは、彼女の持ち物なのだろう。

 けれどまた、なんで一眼レフなのだろうか。ちょっとした写真を撮るなら、それこそケータイとかコンパクトなデジカメなどが最適だろう。

 気になって、目が離せなくなる。

 

「――――あ、やっと気づいた?」

 

 ふと、BGMのように意識の片隅でしか流れていなかった折本の声が、意識の真ん中に割り込んできた。

 

「あ、ああ。そのカメラって……」

 

「そ。私のだよ。今日、買ったばかりなんだ」

 

 弾む語調に、ポーズばかりだが、構えられるカメラ。

 喜色満面といった様子でそうしている折本に、俺はなにか、すとんと納得を覚えるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




めっちゃ間隔あいちゃいましたねぇ。。


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One day two people

はちゃめちゃに終わります。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「まさか、とは思うんだが……」

 

 休日出勤という言葉のせいか、さらにはその言葉のとおりに今ここにいることもおして、比企谷の目はいつも以上にどんより腐っていた。その目が、まさに今、現在進行形でさらにどんよりしていっている。

 

「まさかって?」

 

 彼にレンズを向けたままで、茶目っ気たっぷりの声を出してみる。

 あ、またどんより。

 

「……あー、なんだ。そのカメラ。それで俺を撮ろうってんじゃない、よな?」

 

 口元を引きつらせて、どうにかこうにか搾り出したのだろうなというその問いかけに。

 さて、私はどう答えてみせようか。

 

「正解!」

 

 考えたけれど、やっぱり笑みが抑え切れなくて、そのままに答えた。

 瞬間、比企谷はうなだれちゃったけれど。

 やっぱり私は、今このときがどうにも楽しくて、終始口元の弧がおさまらないでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なんて日だろうか。

 午前中までは至極普通の代わり映えしない休日だったはずなのだが、たった少しの時間でここまで変わってしまった。

 家の居間に一人っきりかと思えば、今では日の差す公園のベンチに折本と二人で座っていて。

 

「ねー。いいでしょ? ダメ? 痛くないよ? すぐ終わるし」

 

 しかも、その彼女はどうやら趣味が高じて購入した一眼レフカメラで俺を撮ろうというのだから、これが天変地異と言わずしてなんというのか。

 

「ちょっとだけっ。先っちょだけだから!」

 

 先ほどから説得が過ぎて、変に熱だけが入っていっている折本の言葉をジェスチャーで押しとどめる。

 

「比企谷?」

 

 その俺の動きに疑問符を浮かべる折本。

 うなだれていた顔を上げれば、彼女の表情はどうも不安げなものになっていた。

 まったく、さっきまでの浮かれた調子はどこへいったのだろうか。

 

「あっ、えっと、その! ごめん! カメラとか、もう気にしないでいいから! えっと、帰っちゃう、の……?」

 

 そして、急に焦った顔をして、口早に捲くし立てたのは、そんな言葉だった。

 この落差だよ。

 さっきまで俺の横でニコニコしていたはずなのに、雲行きが怪しいと勘違えばすぐこれだ。

 なんだっていうのだろう。これにたいして、俺はどう反応すればいいのだろう。

 俺と話をしていれば、目が合っていれば、隣にいれば、笑顔だった。

 それが、帰っちゃうかもだなんて、それだけで曇っているのだ。

 

「や、帰りはしない、けど……」

 

 折本の顔を見て、もう一回下を見て、それから前を向いて、背もたれに体を預ける。

 深いため息を一つ。そしてやっと搾り出した言葉に、折本は。

 

「ほんと!? ……あ、えっと、ごめん」

 

 一転して、破顔。思わず出たのであろうその声は、三割り増しで弾んでいた。

 その姿にあてられて、こちらもなんだかやられそうになる。

 もう一度だけ、ため息をつく。それから、腹をくくった。

 

「……あの、比企谷?」

 

「なんだ?」

 

「えっと、怒ってる?」

 

「や、怒ってもないぞ」

 

「ほんと?」

 

「嘘ついてどうするんだよ」

 

「……ふふっ、そっか」

 

 少しだけ寂しそうに笑って、折本は手の中のカメラを優しく撫で始めた。

 その手が、慈しむようで、また惜しむようで。

 俺は気づけば、口を開いていた。

 

「……今回だけだぞ」

 

 小さくて、下手をすれば聞き逃してしまうまでのその言葉を、しかし折本はそうすることもなく、拾い上げて。

 それから目を丸くして、俺を見た。

 

「……いいの?」

 

「お蔵入りにして、ここだけの話にしてくれるならっていう条件もつく」

 

 横目に睨めつけて、譲れない一線だけは引いておく。

 けれど、折本はもとよりそのつもりだったのか、しきりに頷いてその旨了承してから、小さくガッツポーズをとった。

 

「やった!」

 

 なにがそんなに嬉しいのか。こいつはほんと、わからないやつだ。

 俺なんかをわざわざ呼び立てて、なにかと思えば写真を撮らせてくれという。

 強引な誘いに閉口していれば、今度は怒ったか、などと青い顔をして謝ってくる。

 それから誤解をといて、彼女の要求に応じてやれば、喜色満面という始末。

 それが、どうにもわからない。

 

「……そうと決まれば、早くすませるぞ。俺はどうしてればいいんだ?」

 

 この言葉が、なにか引き金を引いたのだろう。

 それから小一時間に渡って、俺は折本のためだけの被写体だった。

 指示のとおりに、姿勢をとって、移動して、表情を作る。最後のに関してはぶっちぎりで文句をつけられた回数が多かった。仕方ないだろ。あんまり感情出すのに慣れてないんだ察して。

 ひと段落つく頃にはもう疲れ果てて、俺はベンチにへたり込んだ。

 そんな俺と打って変わって折本は、終始楽しそうにしていて、今も俺の隣でカメラを操作しながら、今日撮った一枚一枚を眺めている。

 その顔はやっぱり笑顔で。

 それが、趣味の写真を存分に楽しめたからなのか、それとも、俺がいることが関わっているのか、どっちだかわかなくて。

 やっぱりまた一つ、ため息がでた。

 なんでこんなことになってんだろ。

 

「……それで、満足したのか?」

 

 背もたれに体を預けて、折本にそう問いかける。

 すると彼女はカメラを操作していた手を止めて、こちらを向いた。

 

「一応は!」

 

 元気いっぱいのその返事に、俺は否応なく次回があるということを悟った。

 まあ、そうだよな。一回目を許せば、その次、また次があるのは目に見えている。

 そして、俺もたぶん、それを結局は受けてしまうのだろうな。

 

「ねね、比企谷」

 

「なんだ?」

 

「今度は私、三脚も持ってくるよ」

 

「……そうか」

 

 だって、なにもかもを押し切ってくるのだ、この折本かおりという女の子は。

 こっちがなにを思ってたって、俺の気を引いて、つなぎとめようとするのだ。

 敵うわけがなかった。

 中学の頃はただ、一点のみが見えていた。

 高校に上がって再会したときは、俺の視野が広がったのか、一面が、二面が見えた。

 そして、今、俺が見ている彼女は、どこまでいっても彼女のありのままで。

 それをなんだか、いいなって、思ってしまうのだ。思ってしまったのだ。

 

「折本」

 

「んー?」

 

「そのカメラ、ちょっとかしてくれないか?」

 

「なんで? いいよ」

 

 なんで、とか聞きつつ言ったとおりにしてくれるとこ。

 そういうとこある人っていいよねって、八幡思います。そういうとこだぞ、折本。

 差し出されたカメラを手にとって、少しばかりタッチパネルを操作して、シャッターを切れる状態にする。

 それから俺は、それを隣に座る彼女のほうへと向けた。

 

「え、ちょっ」

 

 問答無用である。

 無情に響いたシャッター音に、俺は思わず笑ってしまった。

 対して折本は焦り顔だ。

 

「な、なにしてんのさ、もうっ」

 

「なにって。写真撮ったんだよ」

 

「そういうことじゃないじゃんっ」

 

「はっはっはっ」

 

「わーらーうーなーっ」

 

 カメラを俺から奪い返して、機敏な動きでつい先ほど撮られた写真を確認する折本。

 

「もう、変な顔しちゃってるじゃん」

 

 それから、折本はたぶんそのデータを消そうとしたのだろう。

 そこに俺は声をかけた。

 

「それ、あとで俺のケータイに送ってくれないか?」

 

「え……?」

 

 きょとんとした顔で固まる彼女に、俺はしたり顔で笑いかけた。

 

「待ち受けにでもするから」

 

「なっ、ななっ……」

 

 一気に頬を紅潮させて、折本はそっぽを向いた。

 その様子がおもしろいやら、かわいいやら、愛おしいやらで、もうたまらなかった。

 さっきまではこんなふうになるはずじゃなかったのに。

 彼女のことをこんなふうに思っていたのはあの頃に限った話だったはずなのに。

 いや、あの頃とは違うか。

 だって、あれは俺の勘違いだったものな。

 今もそうかもしれないけれど。だけど、あのときとは違って勘違いでもいいかもしれないって、思ってしまっているのだ。

 今日一日で、ものの数時間もしないうちに彼女は俺のなかのものを一変させてしまった。

 これが天変地異でなくて、なんというのか。

 ああ、なんて日だろうか。

 彼女は俺を見事なまでに変えてしまった。

 けれど、悪い気はしていない。

 

「……ねえ」

 

「なんだ?」

 

「ほんとに、その、待ち受けにしてくれるの……?」

 

「ふっ」

 

「あ、今笑った!?」

 

 だって、期待した声音でそんなことを言うものだから。

 笑わないでいられるかという話だ。

 

「だって、私の写真が待ち受けって、なんかその、彼女っぽいなって、思って……」

 

 今度は俺が赤面させられる番だった。

 右手で顔を覆って、視線を外す。

 外した先を睨みつけて、思う。

 言うなら、今だろうか。

 言えば、折本はどんな顔をするだろうか。

 俺、こんなガラじゃなかったと思うんだがなあ。

 心の中でひとつぼやきを入れて、暴れまわる心臓をなだめた。

 懐からスマホを取り出して、カメラアプリを起動させる。インカメラに切り替えると、俺は折本のほうへずいと体を押しやった。

 肩がぶつかって、折本の驚いた声が聞こえて。

 かまわずに俺は腕を伸ばして、位置取りを決めた。

 その間に折本も状況を把握したのか、レンズのほうへ顔をやって、それから自分の腕を俺のそれに絡めた。

 これにはさすがに驚いたけれど、でもここまでやってしまってやめられるはずもなくて。

 結局俺は、そのままシャッターを切った。

 そのままスマホを操作して、目論見を成功させた俺は、背もたれに体を預けた。

 

「……ねえ、比企谷」

 

「……なんだよ?」

 

「その写真、どうするのさ?」

 

「ん、ほら」

 

 俺は今しがた新しく設定しなおしたばかりの待ち受け画面を、未だ俺の腕をとったままの折本に見せてやった。

 

「彼氏っぽいか?」

 

 そこには、二人して頬を赤らめて微妙な表情のままの、けれど思いっきり距離だけは近い俺と折本が写りこんでいた。

 

「……もう、ばかっ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




はちゃめちゃ(白目)


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