ルイズがチ◯コを召喚しました (ななななな)
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始まりの一手
第一話


極論の極論で言えば、魔法を使えなくてもよかった。世界が己を認めてさえくれれば、それでよかった。

 

 

 ただこの世界において、魔法が使えない貴族という存在にどれだけの価値があるのだろうか。

 その問いに、生まれてこの方一度も魔法行使が出来ない貴族、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールはこう応える。

 貴族の価値は魔法に非ず、その誇りの行使にこそある、と。

 貴族とは社会の奉仕者であり、手に持つ権力を正義の為に使うことこそが、真の役割であり真の価値なのだ。魔法とは、貴族が持つ権力の一端にしか過ぎない。

 だけど。

 ルイズはそれが綺麗ごとで、あるいは負け犬の遠吠えにしか過ぎぬと、勿論理解していた。

 分かっている。分かっていた。口でどれだけ誇りを語ろうとも、力なくして意思は立たない。そしてルイズは魔法という力がなく、更に言えば力なき貴族なぞ平民と何も変わらない。

 

 この世界において、魔法が使えない貴族という存在にどれだけの価値があるのだろうか。

 二度目の問いに、生まれてこの方一度も魔法行使が出来ない貴族、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールはこう考えざるを得ない。心の奥で。ひっそりと潜む、彼女の闇。

 

 価値なんてない。ゼロだ。

 

 ルイズが真なる貴族として認められる為には、家柄だとか誇りだとか、そんなものより先ず魔法が必要で。そしてそれは、彼女自身、痛いほどに理解していて、そして切望していた。

 

 通称、『ゼロのルイズ』は魔法が使えない。純然たる残酷な事実で、彼女は魔法が使えない。

 

 ルイズが出来ることと言えば、どこに飛ぶかも分からない失敗魔法――爆発だけ。

 呪文の詠唱は完璧だった。精神力も十全だった。努力もしたし、それこそ死に物狂いで修練に修練を重ねた。

 それでも駄目だった。系統魔法どころかコモン・マジックでさえも使えない。

 けれども幼いルイズは、いつか、いつか自分も、優秀な父母や姉達の様に魔法が使えるようになるのだと、立派なメイジになるのだと、そう信じて疑っていなかった。

 しかし、時が経つにつれ、魔法学院に留学し、それでも魔法が使えず、皆に馬鹿にされ、悔しさをバネに一層勉学に励み、それでも――

 絶望の鎌が、ルイズの首元にひたりと冷たき『最悪』を突きつけていた。

 自分は、このまま、一生、魔法が使えず、無価値なゼロのルイズで、あるしか、ない。

 そんな最悪の可能性が、幾たびもルイズを苛ませていた。

 

 

 ルイズは、今日、この日、この時に、己の全てと運命を懸けていた。

 使い魔召喚の儀式、二年生への進級試験。

 メイジとしての一生の相棒を召喚するその神聖なる儀式は、しかし魔法難易度的にはそう高くなく、試験というのも殆ど建前にしか過ぎない。

 召喚魔法サモン・サーヴァント。及び契約魔法コントラクト・サーヴァント。出来るか出来ないかの次元で言えば、それらはどんなメイジでも出来る魔法なのだ。

 

 では、ルイズはどうなのだろうか?

 誰でも出来る魔法と、誰でも出来る魔法が使えない少女。

 矛盾めいた螺旋の行く先に、果たして何が待ち受けているのだろうか。

 この魔法が――召喚が成功しなければ、進級試験は赤点、ルイズは留年だ。そうなれば、この学院に要る必要性を実家は認めず、ルイズは退学ということになるだろう。

 つまりそれは、メイジ失格の烙印を確実に押されてしまうということにもなる。だから何としても、彼女は使い魔を召喚し、契約しなければならないのだ。

 どんな生物でも、どんなものでも、だ。強大で珍しい幻獣だとか、そこまでは高望みしない。この際、己が大嫌いなカエルなどでも構わない。

 だから、神様、どうか、どうか、私をメイジとして、貴族として成らせてください。ちっぽけでも、弱くても、情けなくても、貴族として。どうか、どうか。

 

 始祖ブリミルへの懇願をも持ち出した悲哀灯る杖の一振り、それに応えるのは――

 

 

 

 

 今日何度目になるか分からない爆発が広場に響き、余波の爆風が盛大に唸りを上げた。

 使い魔召喚儀式の監督官を努める学院教師コルベールは、ここまでか、と顔を強張らせ苦虫を噛み締めた。

 本日最大級の『失敗魔法』と思われる爆発は、目の前にいた勤勉家の劣等生、ルイズの姿を覆い隠すほど大きなものだった。

 もう、この儀式で残されたのはルイズただ一人。そんな彼女は今日何度も爆発を繰り返すばかりで、一向に成功の兆しは見えない。

 最後の最後、もう時間が押し迫っている中での泣きの一回、それでさえも、この有様だ。

 

 コルベールの後方、既に召喚を終えた生徒たちが、ルイズを嘲笑うような言葉を容赦なく投げかけている。

 ゼロのルイズ、もう諦めろ、迷惑なんだよ、使い魔さえ喚べないのか、お前に魔法は使えない――

 

 心なきその言葉に、コルベールは何度も彼らを諌めたがまるで効果はなかった。

 一つの社会の縮図だからだ。貴族は、メイジは絶対的な存在。そして貴族たるには魔法が不可欠。そして家柄だけは強大なヴァリエールのルイズは、ゼロ。

 力なき権力者にはそれ相応の罵りを。未だ幼き彼らにとって、それは当然の権利だった。

 

 コルベールはルイズの努力を知っていた。どれほど杖を振り、どれほど歯を食い縛ったか。

 けれども結果は伴わず、ルイズに対する非難は増長するばかり。

 結局のところ、ルイズがそれらの誹謗を跳ね返す為には何らかの結果を出すしか方法がなく、そして言わずもがな、結果が出ない。

 

 ――爆風が消え去り、コルベールは呆然と座り込むルイズを見て、居た堪れない気持ちになった。

 やはり、駄目だったのか。コルベールは首をゆっくりと振って、虚空を見つめるばかりのルイズに近寄る。

 その彼女は、ぽかんと呆けた顔をしていた。近づくコルベールにも、後ろでここぞと言わんばかりに中傷する他生徒達にも反応を示さない。

 コルベールは顔を顰める。魔法の失敗と言うあまりにも残酷な絶望は、思考すら放棄させてしまったのだろうか。

 いつもの強気で果敢な彼女はどこにやら、今のルイズはただ空虚でしかなかった。

 

「ミス・ヴァリエール。また、また明日やろう。今日のところは、ゆっくり休みなさい」コルベールが少女の小さい肩に手をおき、殊更優しくそう言った。

 

 けれどルイズは無言で無反応だ。「ミス・ヴァリエール」彼が再び声をかけたところで、ルイズは錆付いた人形のごとく、ぎぎぎとゆっくり、顔を教師の方に向けた。

 

「あ、先生……私」

「良い。良いんだ。私の方から、儀式再試行の申請をしておく。だから、今日は」

 

 ルイズは何も応えず顔を俯かせた。コルベールは彼女に具合が悪ければ医務室に行きなさいと声を掛けて、そして振り返り、未だ囃し立てる生徒に向け教室へ戻るように指示を出した。

 茫然自失。そんな状態の少女を放って置くことにコルベールは罪悪感を覚えたが、けれど彼はルイズだけの教師ではない。特別扱いは出来ないのだ。

 彼が出来ることと言えば、少しでもルイズを罵詈雑言から遠ざけることと、昇級試験の先送りだけ。何も解決は出来やしない。

 

 フライの魔法を使い、学院の塔へと戻る最中、コルベールは振り向いて上空から広場を見た。

 件のルイズは未だ座り込み白痴の如く天空を見つめていて、彼の心中に明るくない感情が光った。

 

 

 ――ある意味では、コルベールがそれに気付かなかったのは仕方が無いことと言えよう。

 暗闇に置いてきぼりにされたような少女の顔を見てしまえば、それを注視してしまうのも致し方ない。

 第三者で気付き得るのはルイズに近づいたコルベールだけだった。けれども彼は、少女の空白の絶望しか見えていない。

 だから、仕方ない。だから、どうしようもない。

 未だ呆然としている少女の左手甲に、淡いルーンの輝きがあることに気付かなくても。  

 

 

 

 

 

 

 ルイズはその後、まるで幽鬼のように儚く立ち上がり、まるで夢遊病患者のようにふらふらとしたと足取りで、己の自室へと戻っていく。

 部屋に着いた彼女はベッドの上に腰掛け、ひたすらにぼけっと、口を半開きにして何もせずただ佇んでいた。

 世界が夕焼けに染まり、夕食の時間になり、地平線が闇に沈んでもなお、ルイズはずっと部屋で虚空を見つめていた。

 

 そこではっと、ルイズは我に返った。何かしらの切欠があったわけでもなく、ただ時間の経過が彼女の再起動を促したのだ。

 ルイズは今までの流れを反芻する。今日何があったか。今日何が起こったか。記憶を辿り、それを脳で読み込む。

 祈り。詠唱。失敗。爆発。詠唱。失敗。爆発。詠唱。失敗。爆発。懇願。詠唱。詠唱。詠唱。大爆発。――成功。  

 

 

 記憶が『触れてはいけない領域』に立ち入った瞬間、ルイズは泣いた。

 

 

 そりゃもうわんわん泣いた。かつてない程にないた。今まで彼女が枕を濡らしたことは幾度もあったが、これほどの号泣はなかった。それは最早怒号にすら近いものだった。

 あまりにも盛大で絶望的な泣きっぷりに、隣部屋のライバル的な少女がらしくなく、どうしようどうしよう慰めたほうがいいのかしら、とうろたえるほど、その悲しみはアルビオン浮遊大陸よりも遙かに高く天を衝いていて、空輝く双月を貫く勢いだった。

 結局その隣人は、朝になったらせめて優しい言葉をかけて上げよう、そう決意して、この場は触れないことにした。賢明な判断だった。

 

 さて。

 

 

 ――ルイズを馬鹿にし、囃し立てた生徒達は、いつものように彼女の魔法が失敗したと思っていた。それは間違いだった。

 ――ルイズの呆けた顔を見て、コルベールは召喚が失敗した故の絶望と判断した。それは間違いだった。

 ――ルイズの大号泣を聞いて、隣人の少女は、それはルイズがもう学校に居られなくなるからだと考えた。それすらも間違いだった。

 

 全部全部見当違いの的外れだ。今現在のルイズの状況・心境は、誰一人として解していなかった。いや、知られたくもないけれど。

 

 結果だけ語れば、ルイズの魔法は成功していた。

 

 召喚に成功し、契約にも成功していた――成功して、しまっていたのだ。成功した。成功したのだ。ゼロの自分が、魔法の行使に。おめでとう。ありがとう。達成感? ある訳ねぇだろ殺すぞ。

 泣き喚き疲れ果てた彼女の脳みそは、普段なら思いもしない下品な悪態すら吐いてしまう。成功? 性交の間違いだろクソが。

 ふと頭に浮かんだはしたない言葉遊びに、ルイズはぶんぶんと頭を振るう。落涙は一旦止まり、鳶色に輝いている筈の瞳は赤く充血していて、そしてどこか淀んでいた。

 ついでにちょっとえずいた。うおえ、おえええ、うぉ、おえええ。

 とても貴族の子女らしくないエグイ声色だったが、彼女に齎された全ての運命を聞けば、誰もルイズを責めることは出来ないだろう。

 

 胃からこみ上げる酸っぱいものを全力で飲む込んで、ルイズは、ルイズは――運命と向き合うことに決めた。

 貴族に背を向けることは許されていないのだ。それが例え、絶対的で最悪な定めが相手だとしても。

 

 それは彼女の誇りから来る高潔な覚悟でもあれば、どうとでもなれというヤケッぱちなものでもあった。正直こんな状況で誇り高くあるには、少し無理がある。

 ルイズは目を瞑った。瞼の奥に、どす黒いあの光景があった。

 思い出す。あの瞬間。何があったのかを、ルイズは思い出す。

 

 全精神力を注ぎ込んだ最後の召喚魔法、いつもどおり爆発の結果を生んだそれは、しかしいつもとは違う出応えをルイズは感じていた。

 ――来た! 爆風巻上げる最中、本能のみの確証を得たルイズは、召喚したであろう使い魔の姿を見るよりも早く、契約魔法コントラクト・サーヴァントの詠唱を始めていた。

 逃げられたくなかったからだ。これが千載一遇の機会。もし万が一、召喚したものに逃げられてしまったら、恐らく次はないだろう。

 そういった強迫観念に後押しされ、ルイズはまともに見ることもせず、現れたナニ――『何か』に口付けをした。それが契約方法だからだ。

 

 

「うぉえ、うおえええ、うぉえ、うごごごごごご」

 

 そこまで思い出して、またルイズはえずいた。ああ、自分はなんてことをしてしまったのだろうか。

 ちなみに、この事件は彼女の一生の教訓にさえなった。何時如何なる場合でも、よくよく事態を見極めてから行動するべし。至言である。  

 

 契約の瞬間、ルイズは全てを理解した。あの広場での呆然は、自分に起こってしまったナニか、もとい何かに、己の精神がその圧倒的にクソみてぇな情報を受け入れきれなかったからだ。

 今になって思えば、なぜあんな瞬刻でコトが分かってしまったのが彼女は疑問だったが、それを問うならばもっと根本的な問題が先立つ。

 なんでよ、とルイズは叫びたかった。もしこの世の理全てが偉大なる始祖ブリミルの手の内にあり、そして全てが筋書き通りのものであるとしたならば。

 そこそこ敬虔な信徒でもあり、恨み言はあれど、魔法が使えないことに神に憎しみをぶつけるまではしなかったルイズは、多分薄笑いしながら神を殺しに行くだろう。口笛も吹くかもしれない。

 

 つい、とふかふかのベッドに付けている己の左手を見る。白魚の如く美しくしなやか指――には目が行かない。ルイズが見るは、その甲の部分。

 そこに記されているのはルーン文字。使い魔の証のルーン文字だ。憎しみで人が殺せたら十人ぐらいは手足が吹き飛んでいるであろう憎悪の瞳で、ルイズはそれを睨み付ける。

 口から出る重く暗い溜息。なぜ、こうなってしまったのか。本来なら召喚された生物に宿る筈のルーンが、なぜ己に。

 ルイズはその訳でさえも理解できていた。そりゃ、そうなるわよね。そうなってそうなってそうなるなら、そりゃこうなるわよね!

 固有名詞はなるだけ使いたくないルイズは、心の中でとてもふわふわした文句を連発していた。

 そもそも。

 全てがルイズが召喚したナニ、何かに原因があった。その所為でルイズは呆然として、その所為で号泣し、その所為でルーンが己に刻まれて、その所為でえずいたのだ。

 

「ぉえ、うんっ、んんっ! んんん! ま、負けない……!」

 

 えずきも唾液も過酷な運命でさえも、ルイズは気合と根性により押さえ込んだ。涙が眦からじわりと出るが、瞳にはただ決意が滲んでいる。    

 逃げない。逃げるわけにはいかないのだ。メイジとして、貴族として、ヴァリエールの三女として、ルイズは逃げる訳にはいかなった。

 ルイズは改めて覚悟を決める為に、決断的に立ち上がった。

 ばっと立ち上がり――ばっとスカートをたくし上げ、ずばっと履いているショーツを下ろした。

 

 逃げる訳にはいかない、と自分でも何と戦ってるんだが分からなくなってもルイズは瞳逸らさず、剥き出し状態の己の下腹部を見た。

 

 

 そこには棒がぶらぶら。玉もぶらぶら。

 

 ルイズ本来の白磁の様な肌ではなく、それらはちょっと黒かった。

 

 やあ!

 

 そう言わんばかりに堂々と垂れ下がっている一物を、ルイズは憎しみで人が殺せたら百人ぐらいは臓物を撒き散らしているであろう憎悪の瞳で睨み付けた。その瞳は哀しみも湛えていた。

 

 

 どう見てもチンコです。本当にありがとうございました。

 

「ふぇ」

 

 

 ルイズは綺麗に膝から崩れ落ちた。全てが感覚で分かっていたとは言え、生で見る衝撃はとても彼女が耐えれるものではなかった。

 そう、全て分かっていた。分からざるを得なかった。男性器を召喚して、それと契約して、だからこうなった。だからルーンも己にある。だって、ほら、もう私の体だから。私の使い魔はもはや私のチンコだから。どうだ参ったか。私は参ってます。たすけて。

 使い魔と主は一心同体とはよく言ったものである。まさしく自分はメイジの体現者ではないだろうか、現時逃避じみた思考で、ルイズは儚く笑った。

 そこでルイズはあることに思い至った。弾けた様に、焦り顔で、座り込んだことでまたスカートで覆われた下腹部をまさぐる。そこにある男性器。と言うことは。

 何かぷにょんとした感覚は無視して、ルイズはその下に触れた。

 

「あった……」 

 

 あった。

 竿的なナニかも玉的なナニかもあれば、その下に――慣れ親しんだ――穴的なナニかもあった。よかった。よくない。

 安堵は確かにある。どういう訳か男性器が己にくっ付いてしまった状態で、十六年一緒だった女性器がそのままな安心感は、間違いなくあった。ルイズがヴァリエールの三女から長男に配置転換されることはないのである。やったね。

 何もやってねぇよぶっ殺すぞ。殺伐とした思考がルイズの脳髄に響く。そもそも論だ。そもそもなんで私がチンコ生やさなければならないのだ。

 

 ああ……自分は一体どういう生き物になってしまったんだろうか。男性器もある女性器もある。おまけに自分が主で自分が使い魔。全部一人で事足りてしまう!

 

「私が何をしたっていうのよぉ……」

 

 

 ルイズは己の運命の過酷さに、またさめざめと泣いた。

 

 




ガチなやつ。


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第二話

 

 

 考えることが山の様に有り過ぎて、むしろ考えたくも無くて、ルイズはしくしく泣くことしか出来なかった。

 けれど暫しそうしていて、結局それは生産性のない時間の浪費に過ぎないと、彼女は気付いた。

 たっぷり呆けた。たっぷり絶望した。たっぷり泣いたし、ファーストキスをぶっ飛ばしてフェラチオまで経験したことによりたっぷりえづきもした。

 始祖への呪詛もたっぷり吐いたし、碌に確認もせずチンコに突撃した己の愚行にもたっぷり悪態を吐いた。

 

 

 もう、十分だろう。これからは、先のことを考えるべきだ。前に進むべきなのだ。

 

 

 先ずルイズが考えたことは、どうしてこうなったか、だ。

 

 前代未聞どころの話じゃない。使い魔を男性器として召喚するなんて聞いたことがないし、あまつさえそれが自身に装着されるなんて。

 笑い話を通りこして「ええ……」とドン引く問題だ。だが、この過程を考えてもどうしようもないと、ルイズはその結論に至らざるを得なかった。

 ハルケギニアの全メイジさえも「ええ……」と唸らざるをえない様な事態に、果たして答えは出るだろうか。出るわけない。

 ルイズはその辺りのことを考えるのをやめた。こうなってしまったのだから、こうなってしまったのだ。

 

 次に考えたことは。

 ルイズはごくりと喉をならした。

 

「取れないのかしら」

 

 残酷なまでに底冷えした呟きだった。標的を始末する暗殺者のような瞳だった。

 ちょん切る。その考えがルイズの脳裏を過ぎる。全部なかったことにしよう。魔法で、こう、スパッと。

 そこまで考えた時に、ルイズは左手のルーンが激しく発光していることに気付いた。まるで何かを訴えているかのようだ。

 ルイズは悲しげに首を横に振った。駄目だ。少なくとも無理やりに取ってしまうのは、諦めることにした。

 

 別に、股間の間に現れた第二の杖に愛情を持った訳ではない。持つ訳ない。

 

 しかし嬉しくもなんともないが、コレは最早彼女の一部分になってしまっているのだ。

 正直な話、割と真剣に男性器の取り方を考察すれば――玉の部分が、なんと言うか、そう、ひゅん、としてしまうのだ。

 そう言えば、とルイズは思い出す。男性のコレは、正しく急所。そこへの一撃は生半可な痛みではない、と何処かで聞いたことを。

 自分には縁もゆかりもないと思っていたが、なるほど、改めて自分に備わってしまえば、確かに切ない箇所の様に感じる。また一つ、ルイズは賢くなった。いらねぇ知識だよ殺すぞ。

 

 まぁなんにせよ、ルイズとて進んで痛い目に会うことはしたくもない。加えて言えば、現状魔法が不得手な彼女に適切な『処置』は出来ないし、そうなれば誰かに頼むしかない。嫌だ。

 そしてこれは予感だが、ナニを無理くりにどうにかする場合、多分、何らかの抵抗をしてしまう。自分が、というより、使い魔のルーンが、だ。

 このルーンは、もとよりナニにつくべきものなのだ。それの危機とあれば、今の様に激しく発光しだすだろう。もしかしたら悲鳴をあげるかもしれない。ルーンにそんな効果があるかは知らないが。

 保留。この件については先送りだ、ルイズがそう結論付ければ、よかった、そう言わんばかりにルーンの発光は収まった。よくはねぇんだよ殺すぞ。

 

 

 次。

 

「と言うか、これ、誰の」

 

 

 常識的に考えて。

 ルイズの知らないどこかの地域に、チンコが独立して生活しているところがあるのだろうか。

 想像して、ルイズは発狂しそうになった。何もかもを吹き飛ばしたくなる。先ず在り得ない。在り得たらルイズは爆発して死ぬ。

 

 と、言うことは、この男性器は誰かのモノだったのだろう。形から判断して(この考察がもう死にたくなる)恐らく、それはヒト型生物のものだろう。

 貴族か。平民か。それとも亜人か。もっと言えば、本来ならばヒト形の『誰か』が召喚される予定で、何らかの手違いで一部だけが召喚された可能性もある。

 

 ルイズは申し訳ない気持ちになる。ごめんなさい、名も知らぬ殿方。貴方のチンコは私のチンコになってしまいました。恐らくは私の技量不足で。

 ルイズは怒りも覚えた。なぜよりによってチンコなのか。そりゃ、腕が一つ増えたり脚が一つ増えたりすることも可能性的にありえただろうし、それはそれで嫌だが、なぜ、なぜチンコ。

 

 ヒトの類を使い魔として召喚するのは前代未聞であろうが、部分召喚、主従合一。もはや謎だらけだ。

 出来うるなら即座に返品してあげたい。誰も得しない契約だ。ルイズも、持ち主も。しかしやり方も持ち主も何もかも分からない。名前が書いてある訳でもあるまいし。

 考えても仕方ない。ルイズはまた首を横に振るう。これもまた、どうしようもない問題だ。

 直近でありえる懸念としては、このチンコがどこぞの大貴族のモノで、「私のチンコが召喚ゲートに吸い込まれた!」とかなんとか言い出すことだ。

 なんだろう。いつか、私はチンコの所有権を懸けて、その貴族サマと戦わなければならないのだろうか、ヴァリエールの権力を使う日が来てしまうのか。家族総出でチンコを守らなければならないのか。

 鬼の様に恐ろしく強い母親が、アホみたいな理由で杖を振るう場面を想像して、ルイズは身震いをする。勘弁してほしかった。

 切捨て。そう、思考の切捨てだ。抜け道のない迷路に自ら囚われる必要は無い。はいはい、この話はおしまい。

 

 

 次。

 

「ああ、これ、これ、なんて、なんて……ちぃねぇさまぁ」

 

 家族。それは一生付き合う他人。使い魔はメイジと一生を共にするのならば、股にぶら下っているナニもまた、一生のものになり得る(ルイズはここでつぅと一条の涙を流した)

 早い話、どう家族に説明したらいいのだろうか、という問題。全部正直に言ったところで、お父様も厳しい姉さまも「ええ……」とドン引く未来しか浮かばない。

 ルイズが敬愛している次女、カトレア――ちいねぇさまに説明したら――ルイズは想像する。

 

『ちいねぇさま! 私、使い魔を召喚したの! 魔法が成功したのよ!』

『まぁ……私の可愛いルイズ。よかった、よかったわ。よろしければ、私にあなたのお友達を見せてくださらない?』

『これよ!』

 

 ばばーん。

 

『ええ……』

 

 なんだ、結局そこに行き着くではないか!

 下手をすれば、元より具合がよくないカトレアだ。ルイズのルイズを見たら、更に病状が悪化するまである。だって本人が既に死にたいもん。

 

 厳しくて厳しくてそれはもう厳しさの権化、ルイズの母親、カリーヌに至っては。

 

『ルイズ、杖を抜きなさい』

 

 何故かこうなってしまう。対話とか会話とか慰めとか励ましとか、ルイズは正直、母親をそう言う目で見ていない。ある意味で母親を一番信頼していて、一番知られたくなかった。

 杖を抜いてどうすればいいのだ。もしかして、新たに手に入れた杖(股の間にある奴)を出せということなのか。それを、母親自慢のカッター・トルネードで切り刻むということなのだろうか。

 切なる部分がひゅんとなった。

 駄目だ駄目だ、駄目すぎる。それに冷静に考えれば、魔法研究を行っているアカデミー勤めの長姉、エレオノールにバれるのも不味い。ルイズには厳しいがそれでも血を分けた姉、流石に未知を研究するための解剖まではないと思うが――

 

「あ、でも、らくーに取ってくれる方法を見つけてくれるかも……あー、はいはいわかったわかった。保留保留」

 

 これはこれで良い考えだと思ったが、左手のルーンが『そりゃねぇぜご主人様』と言わんばかりにぴかぴか輝いたので、いったん考えるのを止めにする。何がご主人様だてめぇは私だろうが殺すぞ。

 カトレアを抜けば一番己に甘い父親は――なんだろう、ある種、一番考えてはいけないことが頭に浮かぶ。種だけにね。

 

 なんということだ! これはひょっとすると、ヴァリエール跡継ぎ問題を解決する妙手になり得るではないか!

 

 そう脳内で言い切った父親に、ルイズはごめんあそばせと言いながら股間を蹴り上げた。ヴァリエール公爵は爆発した。

 ――言えない。ルイズの結論はそこに集束する。これもまた問題の先送りにしかならないが、少なくとも今すぐナニについて語ることは出来ない。家族でも。家族だから。

 

 

 そこまで考えて、ルイズは最も近くにある脅威について考えなければならないのではないかと思い直す。

 この際、チンコのことはもういい。

 いや、よくはないけれど、それはまた、追々考えればいいことだ。というか、追々考えなければならないのだ。  

 あまりにも埒外のこの事象。数刻思考して答えが出る問いではない。時間を掛けて、もしくは何かしらの対策が必要な都度に考えていけばいい。

 一番の問題は。もっと言えば、一番根本的な問題として。

 ルイズは未だへたり込んだまま頭を抱えた。

 

「ああああ、使い、使い魔、ちゅか、ちゅかいましょうかん、あ、ああああ」

 

 ――昇級試験。これだ。

 使い魔が召喚出来なければ落第。その重く圧倒的な現実は、ルイズの小さい体を押し潰さんとしていた。

 しかし、出来なければ落第、と言うのならば、出来た今は落第する必要はないのではないか? 曲がりなりにも魔法が使えたのだから、自分はメイジとして皆に――

 ――言えるのか? 

 チンコを召喚してチンコにキスしてチンコと契約してチンコがくっついた。私は立派なメイジよ! そう、言えるのか? 何が立派だ、ナニが。言えないに決まっている。言いたくもない。

 二律背反だ。使い魔を召喚したと証明しなければ落第。証明する為にはナニが起こったか説明が必要。 

 

 どちらも嫌だ。

 

 今まで屈辱に耐えながらたくさんたくさん努力して、いつかきちんと魔法が使えるようになると望んでいた少女に、無様に学院を去るということは出来ない。

 同時に。

 可憐な花の様な乙女であり美少女でもあるこのヴァリエールのルイズに、なんと雄しべもつきました、どやぁ、なんて、少女には言えない。知られたくない。特に、自分をいつも馬鹿にしている級友達には。

 

 容易に想像できてしまう。なにかしらの天才的な閃きで、股にあるぶら下り玉付き竿の存在を学院に隠し通したとしても、周りの学徒はそれで納得しないだろう。

 彼らはルイズの粗を、ボロを、まるで美味しい餌を得る為大口開けて待つ畜生の様に望んでいるのだから。

 何食わぬ顔でルイズが授業に参加したらなば――

 

『おい、ゼロのルイズ! お前、使い魔を召喚出来なかったのになんで教室にいるんだよ!』

『魔法が使えない落第生! さっさと辞めちまえ!』

『ふん、なによ、使い魔ならここにいるわ』

『はん、嘘ばかり! なら見せてみろよ!』

『これよ!』

 

 ばばーん。

 

『ええ……』

 

 こうなる。

 いや、さっきからルイズ二号を見せた時の脳内反応予想が誰も彼も同じでしかないのだが、それは置いといて。

 少なくとも、使い魔を連れていないルイズに他生徒が突っかかるのは確定で、そうした場合、なら使い魔を見せてみろ、という展開になるのも自明である。

 そして勿論、ルイズは見られたくも知られたくない。当たり前だ。知られたら色んな意味で死ぬ。死にたい。

 もういっそ、全てを諦め何もかもを悟りきり、全部全部闇に葬って、おとなしく学院を去って、誰にも真実を知らせず修道院なんかに入って一生を過ごすのも――

 

「嫌よ」

 

 思考の途中、ルイズははっきりとそう言った。あまりにも堂々として、あまりにも決断的なその呟きに、ルイズ本人もびっくりしてしまった。

 けれどそれは、間違いなく彼女の本心だった。

 嫌なのだ。学院に残って、きちんとした魔法がつかえる様になって、やがては立派な貴族になりたい。修道院に篭ってこんな無惨な運命を敷いた神とやらに祈り続けるのは真っ平だった。 

 考えなさい、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。

 お前がやらなければならないことは、泣くことでも喚くことでも悲しむことでも嘆くことでもない。考えて、考え抜いて、己が望む道を走ることだ。

 頭が冷える。瞳が細まる。ルーンが淡く光る。目を瞑り、深呼吸。

 

 視界が黒いっぱいに広がり、ルイズは、暗黒に座り込む幼き自分の姿を幻視した。

 

 歳が十に届いていない頃であろう幼いルイズは、自身に訪れてしまった過酷で笑えねぇ現実に、絶望の眼差しで虚無の闇をぼんやりと見ていた。

 いや、そもそも希望を持ったことすらないのかも知れない。

 家柄だけが取り柄の出来損ない。何度も何度も投げられたその心無い言葉は、果たしてどれだけの悪意を含んでいたのだろうか。

 楽しいこと。幸せなこと。それらは無いことも無かったが、幸福な気持ちなんて儚い物だ。今『ルイズ』にある現実もそうだが、元より彼女が背負っている『魔法が使えない』絶望もまた、冷たい冷たい闇でしかないのだ、

 幼きルイズの瞳からは、もはや涙さえも出ていなかった。

 

 凍えるような運命が幼いルイズの温度を全て奪いさろうとしている最中、暗闇の奥で、のそっと、自分以外の何かが現れるのを、『ルイズ』は見る。

 犬だった。黒くて大きい犬だった。赤い舌をはっはっはっと出して、幼いルイズを見つめるその熱を持ち潤んだ丸い瞳は、どうみても発情期。尻尾もぶんぶんだ。

 その黒い犬は、のそのそと幼きルイズの傍らに近づき、ぺたりと座り込む。相変わらず舌は出しっぱなし、尻尾はぶん回り、幼きルイズに送る目線はこれやばいやつだと言えるほどに爛々としている。

 けれど、何もしなかった。犬はただ幼きルイズの近くにあった。それだけだ。

 そして幼きルイズは、そんな隣の黒犬に見向きもせず、ただ空っぽの瞳を闇に向けている。

 ただ、少女を苛ませていた極寒の絶望が、少し弱まったように、『ルイズ』はそう思えた。

 

 

 

 ルイズは目を開けた。

 

 

 いやこれなによ。

 

 

 なんだが良い話風に纏まっているが、突如始まった自分の範疇にない自分の脳内劇場に、彼女は盛大に突っ込みたい気持ちになった。

 意味わかんない殺すぞ。物騒な言葉が口を衝きそうになるのを堪えて、ルイズはこの情景のことは忘れることにした。それどころではないのだ。

 

 

『どうにかして学院に残り、かつ、チンコ云々は伏せる』

 

 

 考えるべきはこれだ。これしかない。今のところは。

 後のことはどうにでもなる。もとい、それはそれでどうにかしなければならないが、後でいい。

 ルイズは立ち上がった。とりあえずショーツを履き直した。改めて気付いたのだが、ちょっとはみ出している。何がって、ナニが。歯を食い縛る。それどころでは! ないんだ!

 

 考えろ、考えろ、ルイズは考える、

 

 真実は言えない。だが同時に、誰かに知られる必要性もある。

 何もかも全て一人で押さえ込んでしまうには、俗に言う『自然な流れ』に明らかな無理を生じさせてしまう。そうなってしまえばもう終わりだ。

 

 折衷案。

 

 結局ルイズが出した結論はこれだった。

 己に起こったことは隠し通す。少なくとも、明日朝一番に『私の使い魔よ!』ばばーん『ええ……』みたいな盛大な自爆行為はしない。これが絶対。

 その上で。

 誰かに、全てを話す。そしてその誰かに、保証してもらう。自分の使い魔の存在と、それを口外しないことを、約束して貰う。

 知られたくはない学徒や家族向けの言い訳は、今さっき思いついた。そしてその言い訳をそのまま、件の『誰か』にまるで世界が認めた真実の様に語って貰えばいい。

 未だ幼く魔法が使えないこととその性格ゆえに、周囲の信頼さえ覚束ない自分とは違い、その『誰か』の弁は、誰もが信じざるを得ないものだろうから。

 

 それは十全に確定的とは言えない、希望的観測を含んだ未来予想だった。その『誰か』がルイズの期待通りに動かなければ、計画は破綻してしまう。

 賭けだった。しかし状況的に、ルイズは賭けなければならなかった。

 

 ――是非はない。覚悟を示すかのごとく、ルイズは息を長く吐いた。正面の扉を見据える。

 まだ起きていらっしゃればいいのだけれど、そう呟きながら、ルイズはふと、自分は妙に前向きだな、と思った。

 

 泣き続けたい気持ち。喚きたい気持ち。何もかもを諦めたい気持ち。少しだけ真剣に考えてしまった、死にたいという気持ち。

 それらはもう、ルイズの心にはなかった。運命への怒りや憎しみはまぁそこそこあったが、場を占めるのはより建設的な未来の思考だった。

 ドアノブに掛けられた左手が視界に入る。ああ、もしかすると、こういうことなのだろうか。

 召喚され契約されルーンを刻まれた使い魔は、概ね主人に好感を覚えている。それがもし、その召喚対象の個別的な性格によるものではなく、使い魔のルーンによるものだとしたら――

 今、そのルーンが自身の左手にある自分は、要は自分自身に好意を齎せていて、そして励ましてくれているのかもしれない。

 

 自分が使い魔。自分が主。

 自分で自分を慰める。それすなわち、オナ

 

 

「うるせぇぶっ殺すぞ」

 

 

 ルイズはドスがほどよく聞いた低い声で、自身のふざけ倒した考えを爆殺した。左手が淡く光っている。扉が開いた。

 

 



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第三話

 

 夜も更けた頃。

 

 

 トリステイン魔法学院の学院長オールド・オスマンは、老体でありながらも遅い時間まで事務処理に追われていた。

 貴族の子息を預かるこの施設、抱える問題、処理しなければいけない物事は、外面で見えているものよりずっと多い。

 特に、ここトリステインは他諸国に比べ貴族の思想がより選民的だ。早い話、無駄に高い誇りとやらを曲解して振り回している節が目立つ。

 なれば、そのトリステイン貴族の子供たちはどうなのだろうか、考えるまでもなく、いや、考えるたびにオスマンは頭が痛くなる。

 カエルの子はカエル。貴族の子は貴族。しかも長年この立場にあるオスマンは、時が経つに連れ、学院に通う貴族の性質が悪くなっているのを感じていた。

 

 水は低きに流れるもの。人は意識しなければ、安易で堕落した方向に進んでしまうのだ。

 そしてそれは、正しく水流のごとく絶対的で、誰にも止められない。偉大と呼ばれる自分でさえも、時のうねりには逆らえない。

 何年も前から、オスマンは国の行く末を案じている。この先、果たして明るいものが、この国に、この国の子供達に待ち受けているのだろうか。

 こう考える己は、やはり歳を取ってしまったのだろうか、そう思いながら、決して暗き感情は顔に出さず、オスマンは同じく事務処理に追われ世話しなく動く己の秘書の臀部を触りまくるのだった。

 

「やめっ、やめて下さい!」

「のう、ミス・ロングビル……貴族の正しい姿とは、果たして何を指すのかのぅ……」

「少なくとも人の尻を触るのは貴族と……やめ、やめて下さっ、やめろ!」

 

 かなりマジな顔で己の手を叩き落とした秘書――ロングビルを、オスマンは横目でちらりと見る。尻もいいが、胸もいい。腰もいい。

 オスマンはちょっぴり赤くなった枯れ木のような己の手を摩り、顛落する貴族社会の将来と安産型のお尻のことを強く思案した。

 

 事務処理二割、性的嫌がらせ八割を淡々とこなし、未来への展望に三割、目の前のケツに百割の思考を割いていたオスマンは、この学院長室の扉を叩く音に、手と思考を止めた。

 こんな時間にこの部屋に訪れる者に心当たりはなく、訝しげに思いながらも、オスマンは訪問者に入室を許可する。

 

 現れた人物を見て、オスマンは心中で微かに唸った。

 

 その者が、学院の生徒、ラ・ヴァリエールのルイズ・フランソワーズだったことは、そこまで驚くべきことでもない。昼間教師から聞かされていた事柄を思い出せば、十二分にあり得ることだ。

 問題は、彼女の格好・相貌にあった。

 かなりの時間泣きはらしたでのあろう、充血して腫れぼったくなっている瞳。顔色は死人の如く真っ白で、口元はきゅっと強く結んである。

 服装そのものは別段代わり映えのしない制服そのものだったが、とことろどころが皺になっていたりよれていたりと、とにかく杜撰な身だしなみだった。

 オスマンも、隣に立つロングビルも、貴族にあるまじきそのだらしない格好に、諌める言葉を吐かなかった。どうして諌めることが出来ようか、この絶望を噛み締めた顔つきの少女に。

 

 失礼します、ルイズが呟いたその言葉は、弱く、擦れたものだった。

 

「お話があります」どこまでも透明で、もしくは空っぽとも言える表情で切り出したルイズに、オスマンは「うむ」と簡潔に頷く。何も不安はない。言外にそう伝えるように。

 

「ミス・ヴァリエール……使い魔召喚のことかね?」

「……はい」

「聞いておるよ。確かに使い魔の召喚は進級する上での義務じゃが……なに、一度きりの機会で済ませという規則はない。君が望むのであれば、例えば明日行わなくても、もう少し日を改めることも可能じゃて」

 

 だから、今日はゆっくりおやすみ――しわがれた、しかし朗々とした声で、オスマンはそう言った。

 それはこの翁の優しさから出た発言でもあり、トリステイン魔法学院の頂点として、揺ぎ無い残酷な境界線を引く言葉でもあった。

 許される限り、オスマンはルイズに召喚の機会を与えるだろう。何度失敗しても、何度爆発しても。だが、それだけだ。

 許される限りを越えた先、幾回幾日挑戦させ、それでも、成功、もしくはその兆しが現れない時は――オスマンは、その持てる権限により、ルイズを留年させることになり、そう言った場合は、その生徒は殆ど学院を去ることになる。

 つまりは、事実上の退学勧告だ。

 

 国から任せられた一つの機関を運営しているということは、それだけの権力を持っているということだ。オスマンは、それを正しく使う義務がある。

 ならば、魔法が使えずゼロと呼ばれる少女を学院から落すことは、正しい判断なのか。誰よりも貴族足らんと努力しているこの少女を落すことが、己の義務なのか。

 

 百歳とも三百歳とも言われる偉大なるメイジ、オールド・オスマン。

 しかし数多の経験を積んだこの老人でも――もしくはこの老人だからこそ――人の価値観による移り変わる、絶対的な正しさの証明は、出来なかった。

 けれども、ルイズは、オスマンの意図する考え――召喚儀式の再試行についての懇願――ではなく、まったく予期しない言葉を紡いだ。  

 

「違います。違うのです」ルイズはゆっくりと頭を振るう「私は、使い魔を召喚しました」

「ほう」オスマンはその双眸を僅かに見開く。一見留年逃れの苦し紛れにも聞こえるが、それにしては少女の纏う雰囲気はあまりにも厳粛で、哀しげだ。

 

 では何を召喚したのかね、オスマンが問えば、直接には答えず、『耳』をなくして欲しい、とルイズ。

 それに益々疑問を募らせながらも、オスマンは杖を振るい、部屋全体をサイレントの魔法で覆った。これで、万が一にも他に会話を聞かれる心配はなくなった。

 虚偽や戯れでこの様な発言をしないということが分かっている程度には、オスマンはルイズのことを知っていた。先ず背負っている気配からして、ひどく真剣なものだ。

 うかつに言えない事情故なのだろう、オスマンはそう判断し、脇に控えるロングビルを見やる。

 彼女は言葉なくこくりと一つ頷いた。小柄な少女のただならぬ佇まい……一介の秘書が聞いていいものではない、そう判断して、ロングビルは扉に向かったのだが、

 

「待って下さい」とルイズが彼女の歩みを制する。

 

「私の――使い魔を今見せるに当たって、ミス・ロングビルにも同席して頂きたいのですが」

 

 どこか苦々しささえあるルイズの言葉に、老人と秘書は言葉なく驚く。サイレントの行使を願うほどに知られたくない、けれどもロングビルには居て欲しい。

 彼らにはその意図が分からなかった。そも、儀式監督のコルベールが言うには、ルイズは召喚が出来ず、場には何も現れなかったと聞いている。

 それが、今になって召喚が出来たと言う。この場に何もいないのに、今から見せると言う。何もかもが理外だ。

 ロングビルが「私は構いませんが……」と戸惑いを隠せない声色で言った。

 オスマンはルイズを見る。思い詰めてる様に見える。何かを覚悟している様に見える。震える極寒にいる様にも、滾る激情を湛えている様にさえも見える。

 

 ルイズは無言で左手を顔元まで上げた。手を開き、甲の部分を前方に居る二人に見せ付けるように翳す。

 そこに刻まれるは淡く輝くルーン文字。ロングビルの表情が驚愕に染まる。オスマンは表向きに色を出さず「ふむ」と頷いた。

 

「よければミス・ヴァリエール、もっと近くで見せてくれんかね。ワシも歳かのぉ、そう距離が遠いと、何がなんだかいまいち分からんのじゃ」

「はい」

 

 好々爺を装ったオスマンの台詞に、けれどルイズは表情を変えない。感情が詰まった混沌の表情。

 ルイズは近づいて小さい手を差し出す。オスマンはじっとそれを見た。珍しい形ではあるが、それは確かに使い魔のルーンだった。

 オスマンは杖を手に取った。「調べても構わんかね」油断なきその瞳にさえ、少女は気圧されることはなかった。「構いません」

 探知魔法、ディテクト・マジックがその杖から放たれるが――ピクリと老人の眉が上がる。ルイズは身動ぎ一つしない。

 

 

 結論から言えば、よく分からなかった。その一言に尽きる。

 

 

 使い魔のルーンがその身に刻まれるというオスマンでさえも不明な事象。魔法で調べても、ルーンは確かにルイズのものだ、というぐらいしか分からない。

 つまり、使い魔と主が合一している状態、ということ。それ事態が未聞だ。原因も意味も分からない。

 ルイズの様子から察するに、凡そ使い魔の見当が付いているのだろう。そしてそれは、並大抵のことではあるまい。ルイズの顔は、死地へと赴く戦士の様に厳しい。

 

 

「一つ聞きたいんじゃが」オスマンは静かに言った。「君の分かる範囲で構わんよ。想像でもいい。召喚した使い魔の正体……教えてくれんかね」

 

 

 

 

 

 

 ここだ。ここが分水嶺だ。ここが正念場だ。

 ルイズははっきりとそう確信した。

 正直、ミス・ロングビルもオールド・オスマンも、この上なく真剣な表情なのに、この後に繋げるクソみたいなクソの話を思うと、ルイズは心の中で限りなくうんざりしてしまう。

 与太話にしても悪ふざけが過ぎる馬鹿げた事情を説明するにあたり、きちんと受け取って貰うため緊迫感を持って臨んだのだが、どうやらそれが効きすぎたようだ。

 二人とも、まるでルイズが「私の使い魔は世界を滅ぼしうる存在なのです」と言うのを待ち受けているような、そんな顔で。

 全てを話して滅びるのは世界ではなくルイズの乙女機能である。考えれば考えるほど、ルイズは何もかもを滅ぼしたくなる。

 けれど覚悟は決めていた。滅ぼすだのなんだの後ろ向きな決意ではなく、汚泥を被っても前に進む未来への覚悟を決めていた。

 

「私の使い魔は、私の体内におります。完全に同化していて、その正体は分かりません」と言ったあと、ルイズはわざと目を伏せた。

 

「……そういうことに、して欲しいのです」

 

 ルイズは場の空気が冷えるのを感じた。前に控える二人が、発言の真意を測りかねているのが分かった。

 

 ――何がなんだが全く全くこれっぽち毛の先程も分からないが、使い魔は自分の中にある。いやほんと、ナニがなんだか。あーさっぱりわかんないわかんない。わかんないわー。ヴァリエールを以ってしてもわかんないわー。

 

 このふわっふわした言い訳を思いついたとき、いける! とルイズは思った。

 実際、そう言ってしまえば真っ向からの否定は難しいのだ。なんせ、使い魔が自分の中にあるのは本当で、ご丁寧に己にルーンが刻まれているのだから。それ以外のことは、私何も知らないもん! と言い張れば、少なくとも否定される隙は無い。

 そうすれば、あとは死にもの狂いで股の間にあるアレを隠し通せばいい……それが一番難しく、果てない道だというのは、一旦脇に置いておく。

 しかし、である。対外的にそういうことにしておく、それはいい。けれどその言い訳を、秘められたナニを、自分一人の力だけで守りきれるのだろうか。

 出来る出来ないというより、分からない。もっと言えば、出来ないに近い未知、が適切だろうか。守りきる覚悟があったとしても、世の中そう上手くいく物ではない。

 言ってしまえば、ルイズには味方が必要だった。完全にどうかしている……もとい、同化しているチンコを持ってしまった、可愛く高貴で純白で哀れな自分の味方が。

 それは共犯者、と言うか、馬車事故の巻き添え被害者だ。お前らも困れ。一緒に困ってくれ。

 

「つまり君は、全て把握していると。その上で、正体は明かせないと、そう言うのかね」

 

 先ほどまでの好々爺然とした老人は既にいなくなり、そこに居たのはトリステインの一貴族。もしくは魔法学院の学院長。

 加速度的に重くなっていく空気にえづきそうになりながら、ルイズは哀しげな微笑を作った。

 

「そうとも言えますし、そうではありません。少なくとも周囲にはそういうことだと言って欲しいのです……今、この場にいるお二方には、全てを説明いたしますわ」

 

 オスマンは厳しい表情を崩さす、隣に立つロングビルは困惑が見て取れた。まるで寝巻きの姿で煌びやかなパーティーに迷い込んでしまったような顔だ。自分はここにいていいのか。それを聞いていいのか。見ていいのか、と。

 その秘書の様子を、ルイズは視界の端に捉える。哀しげな微笑が少しだけ凶悪につりあがった。

 いいえ、ミス・ロングビル、私はあなたに見ていただきたいのです、あなたにこそ。あなたにだけ。オラ見ろよオラァ!

 ルイズは微笑を湛えながら、真っ直ぐにロングビルと向かい合う。

 

「ミス・ロングビル」

「……は、何でしょう、ミス・ヴァリエール」

「こちらへ来て頂けますか?」とルイズは入り口側の部屋の端を指差して、自身はさっさと隅に進み壁を背に立った。

「え、は……あの、何を」

「来て頂けますか?」

 

 ――いいから早く来いよ殺すぞ。

 罷り間違ってもルイズは何も言ってはいないが、有無を言わさぬ口調と、闇色の絶望にどっぷり浸っているような濁った瞳を見れば。ロングビルは自然、冷や汗をかいてしまう。

 こんな小娘に私は何を。ロングビルもまた秘匿している本性で心内に零す。ちらりと隣にいる学院長を見れば、この歳経た翁もよくわからないのだろう、彼女に向け頷くばかりだった。

 仕方なくロングビルが部屋の隅に赴きルイズの前に立てば、小さな彼女はもう少しこちらへ、いや、ややそちらに、そう、少しかがんで、とロングビル立ち位置を調整し始める。

 最終的には、部屋の窓側で椅子に座るオスマンからは、ルイズの姿が完全に消え、中腰になっている秘書しか見えない状態になった。

 

「ミス・ヴァリエール、そこだとワシには何をしているか」

「見ないで下さいまし」

「いや、しかし」

「見ないで下さい」

「ううむ……」

「見ないで下さい。見ないで下さい」

 

 ごり押しもいいところだ。けれど、オスマンはそれ以上何も言わなかった。それはルイズの意を汲んだというよりは、精神の大事なところがアレコレしたような全自動見ないで下さい人形に恐怖を抱いたからだろう。

 さておき。

 ルイズは正面を見る。眼鏡を掛けた緑色の頭髪のロングビルが、困惑の表情でこちらをみている。おっぱいはでかい。

 覚悟とか。決意とか。恥じらいとか怒りとか嘆きとかなんとか。ルイズの魂は様々な色合いが所と狭しと内面で暴れまわっている。 

 鳶色の瞳が怪しく輝き、左手のルーンが発光、死人のように白い肌には燃え盛る炎のような朱が差していた。

 

 ルイズは、一気にスカートをたくしあげた。

 

 

 ばばーん。

 

 

 時が凍る、とはこう言うことを言うのだな、ルイズはそう思った。ロングビルは不自然なぐらい、ナニを見せる前の困惑した表情を崩さない。まるで固定化の魔法を掛けたかのようだ。

 ルイズが履いているショーツは、別に何の変哲も無い代物だ。極々普通の女性用。そして、小柄な彼女に合う大きさのそれは、ルイズのルイズを押さえつけることが出来ないのだ。

 つまり、正面から見ればどういう状態なのか一発で分かるということ。

 こう言うことなのです、ルイズがか細い声でそう言い、捲り上げていたスカートを元に戻す。ロングビルは、相変わらず停止した時の中にいる。

 

「……どう言うことなのかね?」焦れるようにオスマンが言った。老人からは何も見えず、そして少女の意見を尊重し、無理くり見ようともしなかった。

 

 けれど唯一見る権利を与えられた秘書は、なにやら固まったままだ。「ミス・ロングビル」厳しい声で再度呼びかける。呼ばれた女性は、いつもの理知的な顔はどこへやら、泣き出しなほど眉が下がった顔で、オスマンに振り向いた。

 

「あ、あの、あの、学院長」

「うむ」

「あの、あのあのあのあの、あの、ミス・ヴァリエールにそのそのそのその」

「……うむ?」

「あああ、あの、その、ち、あの、あれが、その」

「……うううむ」

 

 要領が得ない。ルイズは、挙動不審状態に陥っているロングビルの横を抜ける

 軽やかに見える足取りで老人の前に立ち、ひたすら唸っているオスマンに向け、儚い笑みを向けた。

 

 

「私に男性器がくっつきました。これが私の使い魔です」ド直球だった。

 

 

 

 時が凍るということは、しょっちゅうあることなんだな、ルイズはそう思った。

 数秒の停止の後、オスマンは「は?」と信じられないことを聞いたように目を見開き、直にナニを見たロングビルは「ひっ」と怯えた声を出した。

 ルイズは地獄の中心で毒々しい花を摘む乙女のように笑った。今ならそれを首飾りにして美しく舞えそうだった。

 

「女性器は女性器できちんと残っています。それとは別に男性器が私についており、つまるところそれが私の使い魔でありそれを召喚したのは間違いなく私でということは契約したのも私で早い話私はナニに口付けおぇええ」

 

 こと細かい話をするのはあまりにもルイズの乙女を傷つけるので只管早口で捲くし立てたのだが、最終的にはやっぱりえづいてしまった。もうルイズの心はぼろぼろである。

 ルイズは膝をつき、顔を手で覆った。「私は使い魔を召喚したのです魔法が使えたのです初めての魔法が魔法がああなんでこんなことにあんまりよぅおええ」やっぺりえづいた。 

 

「もういい、もういいのじゃ、ミスヴァリエール……!」普段纏う飄々な雰囲気を捨てて、残酷で鋭利な刃物で心を切り刻むルイズに、オスマンは叫ぶように言った。

 

 隣には顔を真っ赤に染めたロングビルが気の毒に気の毒を重ねその上に「気の毒」と書かれた板を頭に乗っけているように見えるほどに気の毒な少女を、どこか濁った瞳で見つめていた。

 

 まるで望まぬ罪を犯した少女の懺悔を聞いてしまったような空気に、執務室が満たされた。世界の悪意がありありと見える。

 嘘みたいだろ、これ少女にチンコがくっついた話なんだぜ。

 

 

 

 

 

 

 凡そ話は分かった、更に歳を重ねたような疲れた声色でオスマンはそう呟いた。

 静止を聞かず、全自動絶望告白人形と化したルイズの見解を得て、オスマンは出来うる限りルイズの望みを聞くと言った。

 ナニを使い魔と認めること。ルイズの「言い訳」を対外的に認める、認めさせること。真実は誰にも言わないこと。ロングビルも神妙な顔つきで「誰にもいいません」と言い切った。

 理由、意義、解決策。何もが未知だが、ワシが秘密裏に直々に調べよう、生活上の便宜も上手く図ろう、そうも言った。

 

 ルイズは深々と二人に頭を下げて、難題を聞いてくれた礼ととんでもない話に巻き込んだことに対する謝罪の言葉を言い、粛々と学院長室から出て行った。

 重厚な扉が開き、また閉じる。廊下に立ったルイズは、老若の男女が吐く重い溜息を扉越しに聞いた。

 ルイズは薄く笑った。この直後二人の間に行われるであろう「ヴァリエール公爵嬢にチンコがくっついてどうしよう談義」のことは、ルイズは無視した。私は何も知らないもん。

 

 

 自分でも驚くほどに、何もかも予想通りにことが上手く行った。廊下を歩きながらルイズは考える。

 

 最初に学院長室に入ったときのくたびれた格好、絶望的な表情、手で顔を覆う仕草、悲哀にまみれた告白。

 そのなにもかもが、ルイズの計算だった。

 

 それらに嘘はない。全部が真実であり、そこに虚偽は一つとしてなかった。

 だけどルイズが行った一連の動作は、最初からこうしようと決められていたものだった。それが必要だと判断したから。

 やろうと思えば身だしなみに気を使うことも出来た。気にしてない顔を装うことも出来ないこともなかったし。あんな情けない告白でなく「私に第二の杖が出来ましたぜ、へへへ、貴族の誇りです!」などと嘯くことも、まぁ出来た。やりたくはないが。

 しかし、最適解はそれではないのだ。ルイズが欲しいのは味方で、それを得る為に必要なことは、なによりも先ず同情だった。

 

 人は可哀想なものを見れば、憐れに思う生き物だ。その心情をルイズは利用したのだ。貴族としてその方法はどうなのだとルイズは思わないこともないが、それはそれ、これはこれだ。なりふり構える状況ではないのである。

 だからルイズは、全てを内緒にするよう二人に杖に誓えと強要することもなかった。それは意見の押し付けに過ぎず、ルイズに必要な味方はある程度自発的でないといけない。

 自分の意思でルイズを哀れみ、自分の意思で誓う。何もかも自分でやったことならば、全ての責任は自分で負うことになる。そうなれば、その責任がルイズを守る盾になるだろう。

 

 

 少々、いや結構えぐい思考ではあったが、ルイズはこの結果に概ね満足していた。チンコがくっついたことにじゃねぇよそれはまた別だよ殺すぞ。

 予測の範疇外にあったことと言えば、ロングビルの存在だった。この時間にロングビルが執務室に居るか居ないかは五分五分で、ルイズは彼女が居たときの処理を最後まで決めあぐねていた。

 

 味方を増やす、と言えば聞こえはいいが、それは秘密の共有者を増やすことに繋がる。チンコが生えたことを知る者なんて、一人でも少ない方がいいに決まっている。

 けれど、絶対的に味方として有効なオスマンは、老人ながら男。そしてルイズは一応、女。一応じゃねぇよ私は乙女だぞ殺すぞ。

 

 証明するには直接ナニを見せる必要がある、それは分かっていた。言葉だけで「チンコ生えたんすよ」とか言うやつが居たら、ルイズは蛆虫を見るような目でそいつを睥睨するだろう。

 しかし――見せれるわけが無い。男に。女である自分の、文字通りの恥部を。

 逡巡の先に、ルイズは同性であるロングビルに全てを託すことにした。ルイズは彼女のことをよく知らなかったが、あの偉大なオスマンが片腕として選んだのだ、信頼にあたる人物なのだろう、そう考えた。

 悪いことをしたと思うが、仕方ない、ああ仕方ないじゃないの! ミス・ロングビル、どうかチンコをご鑑賞あれ。そうするしかなかったのだ。しかしおっぱいでかかったな。

 

 ルイズは少し晴れやかな気分になった。自分にここまでの立ち回りが出来るとは。ある意味、自慢したくもなった。チンコのことじゃねぇよ学院長室の件のことだよ殺すぞ。

 これで学院に居られる。秘密は守られる。一応は、魔法を使えた。そうだ、何も心配は要らないのだ!

 左手が光っている。ルイズはそれに気付かない。ただ足取りは軽く、美しい桃色のブロンドは煌いていて、顔には無邪気な笑みが一つ。

 

 けれどそこで、ぴたりとルイズは足を止めた。あまりにも色々あったせいで、彼女は昼間から何も食べてない。

 空腹感はずっとあったが、それどころではないし、物を食す暇はなかった。空腹を紛らわす為、オスマンとの謁見の前に食堂に寄り、こっそりワインを一飲みしたのをふと思い出す。

 早い話が、膀胱に水分が満ちて放出したくなったというか、おしっこしたいというか。

 

 ――なんだって?

 

 ルイズは青ざめた。

 

 

 

 

 

 

 

 その後、えぐえぐと涙を流しながら「うぇえ、ぷ、ぷるぷる、ぷるぷるして、とび、とびちって、せ、せせせ、せいぎょ、でき、できない……ぶ、ぶ、ぶっころしゅ……」などと呪詛の様に呟いていた少女がいたが、幸いにも、その姿は誰にも見られることはなかった。「さわ、触っちゃった……」なんて、誰も聞いていないのだ。

 

 

 激動の一日、その終わり。

 尿道はそっちに付いていると知ったルイズは、何かを悟った顔になり、その後、着替えもせず泥のようにベッドに溶けて、眠った。

 



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第四話

 

 

 母が、目の前に立っていた。

 

 

 言葉にするならそれだけの事象に、果たしてルイズはどれだけの絶望を覚えただろうか。

 ルイズの母、カリーヌは美しく輝く桃色の長髪をさらりと靡かせて、威風堂々と水面に立っていた。

 

 水面に立っていた。

 

 

 杖も持たず。水の上にだ。

 

 ルイズはおかしいとも何とも思わなかった。だって母様だから。対するルイズは池上で小舟に乗っていた。幼き頃の焦燥や悲しみを紛らわす、かつての憩いの場所。

 そんな中、目の前には腕を組んでこちらを熾烈な瞳で見る母親。ぜんぜん憩えない。

 カリーヌが組んでいた腕を解く。いつのまにやら、杖として使えるレイピアがその手に握られていた。ルイズはおかしいと思わなかった。

 

 

「ルイズ、杖を抜きカッター・トルネード!」

「母さま、脈絡! 脈絡が!」

 

 

 ルイズは小舟から弾き飛ばされた。

 なんの前置きもなくカリーヌから放たれた全てを斬り刻まんとする烈風により、ルイズの身体は宙を舞い、雲を超え天空まで跳ね上がり、アルビオンから流れる水霧まで到達した。

 なにがなんだが分からないが、ルイズはこれを理不尽だとは思わなかった。どう言うわけかルイズは、あの母親が自分の『秘密』を知っているのだろうと判断したからだ。なら仕方ない。これぐらいはありえる。

 

 気がついたら、目の前には父親が立っていた。

 

 

「おお、私の小さなルイズ」

「父さま……」

「……話は、聞いた」

 

 ヴァリエール公爵は低い声でそう言った。その悲観の篭った声色を耳に入れたルイズは、只管申し訳ないと思った。

 チンコが生えるとか言う馬鹿馬鹿しい出来事で、天下のラ・ヴァリエールの家長を苛まさせるなんて。

 穴があったら入りたい。今ならジャイアントモールとも友達になれそうだ。ルイズは涙目になった。

 父親は、そんなへたりこんでいるルイズの肩に、大きくも暖かい手を優しく置いた。

 

「心配要らないよ、小さなルイズ。小さなルイズに小さなルイズが生えたからって、おまえは私の大事な小さなルイズなんだから」

「父さま、その、言い回しが」

「そうよ、チビルイズ」

「姉さま!」

 

 今度は長姉、エレオノールが立っていた。

 エレオノールはいつも釣り上がっているその目を、しかしルイズが見たことのないぐらい優しく瞬かせている。

 

「チビルイズ。任せなさい。私がチビルイズのおチビをなんとかして見せるわ。アカデミーの全英知を集結させ、トリステインのみならず、アルビオン、ガリア、ゲルマニア、ロマリア、こうなったらエルフの力を借りてでも……」

「あの、姉さま、もうちょっとこう、秘密裏にやって欲しいな、なんて……」

「ルイズ! お説教はまだカッター・トルネード!」

「ぐわー」

「ね、姉さまー!」

 

 エレオノールは唐突に現れたカリーヌのカッター・トルネードによって眼鏡をバラバラにされ、婚約者に振られた。

 

「いかん、ルイズ逃げなさい! カリーヌだ!」公爵は叫んだ。まるで怪物かなんかに出会ったかのような言い草だ。

「と、父さま!」

「いいかい、ルイズ、よくお聞き。魔法が使えるのを貴族と呼ぶのではない。貴族とは」

「カッター・トルネード!」

「ぐわー」

「と、父さまー!」

 

 ガシッ、ボカ。公爵のモノクルはバラバラになった。クックベリーパイ(笑) 

 

 

 

 ルイズが気が付けば、三女、カトレアが前に居た。カトレアは裸だった。おっぱいでけぇ。

 

「は!?」

「ルイズ、ルイズ。心配しなくてもいいのよ。あなたが一生懸命頑張っていることはみんなが分かっているわ」

「ち、ちちち、ちいねえさま! なん、なんで、はだ、裸、か、風邪引いちゃう!」

「ふふふ、そんなこと言って。ルイズのルイズはこんなにフランソワーズしてるじゃない……」

「あ、駄目、ちいねえさま、駄目! あ、あ」

 

 

 そこでルイズは達した。

 

 終わり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うぇぇ……うぇぇええん」

 

 

 太陽の日差しがまだ朧げに光る早朝、トリステイン魔法学院の一角で、一人の少女が泣きべそをかいている。

 少女――ルイズは美しい鳶色の瞳からぽろぽろと宝石のような雫を出しながら、水汲み場でじゃぶじゃぶと服を洗濯していた。

 あんまりよ、こんなのってないわ、まるで呪詛のような呟きが口を付いて出る。襲い来た苛烈な理不尽は、指を切るような水の冷たささえ感じられない程に、ルイズを苦しませていた。

 苦難の中の唯一の僥倖は、それに気付いたのが朝も早い時間だったということか。事実、ルイズは部屋を出て泣きながら洗濯している最中、誰にも会っていないのだから。 

 無論神への感謝なんて微塵も無い。焼け石に水というか、灼熱砂漠の中の水溜りというか、それっぽっちの運なんて、ルイズは必要としていないのだ。

 

 夢。ルイズは夢を見た。家族の夢だ。

 ひどかった。ひど過ぎた。各登場人物の台詞がくっそいい加減なところとか。ルイズは作文が苦手なことを秘かに気にしている。

 いや、違う。真に気にすべきことはそれではない。意識して、ルイズは怒りさえ覚えた。

 

 ああ、ちいねえさまに、あんな、あんな……しかしおっぱいでかかったな。

 

 儚くも優しい微笑み。ふわりと伸びた桃色の髪。たわわな果実。何一つ隠すもの身に着けていないカトレア。裸のカトレア。

 夢が自身の心理を表しているのだとすれば、あれが、あんなのものが己の心だと言うのか。ルイズは否定したかった。出来なかった。

 結局のところ、どんなに頭の中で否定し、あるいは拒絶したとしても、一つの夢の結果がルイズに絶望の影を踏ませているのである。

 

 言葉を濁して解説すると、ルイズのルイズがフランソワーズしてヴァリエールが発射されたということ。

 なるほど、つまりはルイズのルイズにはヴァリエール正統後継者製造機能が確かに存在しているということだ。やったね。やってない。

 

 起きた瞬間の殺伐として、少し気だるく、妙にすっきりとした、あの感覚。

 そして昨日よりなんだか膨らんでいる己のアレ。着替えずに寝た為、制服のスカート部分とかを汚している白いごにょごにょ。

 

 

「あああああああああああああ」

 

 シーツやら下着やら制服やらを纏めてじゃぶじゃぶしながら、ルイズは怨嗟の呻きを上げる。死んでしまいたい。花や木に生まれ変わりたい。

 ルイズは男性経験もないし知識も乏しいが、それでももう年頃だ。知っていることは知っている。これが噂の、というやつだ。知りたくなぞなかった。

 よりによって、よりによってだ。例の『暴発』の引き金を引いたのは、よりによって、最愛の姉であるカトレアだったということが、なによりルイズを落ち込ませる。

 そういうことか、自分はそういう目で、姉のことを見ていたのか。断じて否と言いたいが、潔癖症のごとくごしごしと下着を洗うことになった原因を考えれば、もうこれどうしようもないわ。

 

 割と真剣に、ルイズはチンコをちょん切りたくなった。この際痛くてもいい。今なら母親のカッター・トルネードさえも、不敵に笑えながら受け止められそうだ。

 

 一応はコレが使い魔で、コレが魔法成功の証だということは分かっているが、例えばルイズが実家に帰省して、その十月十日後、速報ミス・フォンティーヌ御出産なんてなったら、ルイズはいよいよ始祖とご対面することになる。

 いくらなんでもあり得ないだとか、同性だぞこのクソがとか、カトレアは体が弱いから自分は絶対にそんな負担のかかることはしないとか、予防線はいくらでも張れるし、ルイズ自身、本気でそう信じてはいる。

 けれど――くっついて初日から子種砲ぶっぱを鑑みれば、あの絶望の夢を思えば、この忌々しき使い魔は、そんな線をいつか超えてしまうのではないか、自分はそれを制御出来ないのではないか、ルイズはそう思ってしまうのだ。

 

 

 悩みの海を漂っていると、気がつけば洗濯は終わり、更にルイズは竿に下着を干し終わっていた。別に隠語でもなんでもない。

 そんな中、涙の止まった瞳が映すはここまで来ると極光というべき輝き。

 左手が、光っている。正確に言えば、左手甲に刻まれている使い魔のルーンが、やかましいぐらいに発光していた。理由は自明だ。ちょん切られるのは嫌だと主張しているのだ。

 

 落ち着く為に、落ち着かせる為に。ルイズは目を瞑る。止まれ収まれ静まれ黙れ殺すぞ。

 瞼の奥、黒一色の閉ざされた世界。そこにルイズは幼き自分と黒くて大きな犬の姿を見た。またか。

 幼き自分は相変わらず空っぽの瞳で空っぽの闇を見ている。大きな犬は、くぅんと一泣きした後、伏せの体勢になった。しっぽはまだぶんぶんだった。

 目を開ける。ルーンの激しい発光が淡いものに戻る。ルイズは嘆息した。これ、昨日から唐突に始まる謎劇場は、つまり――

 

 

 

 そこで突如、頭上に白いシーツの群れが降ってきて、ルイズの視界と思考を遮った。

 

 

 

 学院のメイド、シエスタはずでん、と盛大にすっ転んでしまった。

 

 その訳は簡単。洗濯もののシーツを横着して一度に多く運んでしまったからだ。

 重さ的にはさほどではなかったが、とにかくかさばる。それはもう、視界を覆うぐらいに。

 この辺りの凡その地形は把握していたので移動には問題ないし、こんな時間だから誰かに見咎められることもあるまい、そう思っていたのだが――

 まぁ転んでしまったわけだ。恐らく石か何かに躓いてしまったのだろう。

 すっぽーん、と手にある大量のシーツを放り投げて、シエスタは顔から地面へと飛び込んでしまったのだった。

 いてててて、そう零しながらシエスタがうつぶせのまま顔を上げると、そこにはヒトほどの大きさのシーツの塊がごそごそと蠢いているではないか。

 シエスタがぎょっとその黒い瞳を見開けば、即座にことを理解し、同時に、やってしまったと後悔の念が思い浮かんだ。

 

 ああ、『使用人』の誰かに持ちこなせなかった大量のシーツをおっ被せてしまったのだな、と。

 

 こんな陽が上りきってもいない時間だ。水汲み場にいるような人物は限られている。使用人でないとしたら門を守る衛兵だが、それにしてもシーツの盛り上がり方が小柄だ。

 大きさから考えれば女性、つまりはメイドの誰かだろう、どうか怖い先輩ではないように、シエスタは心中でそう呟き、「申し訳ございません」と一言謝罪し、立ち上が――ーれなかった。

 

 上半身を浮かせたところで、シエスタは尻餅を着いてしまった。転んだ際の痛み、ではない。怪我一つしていない。ただ、腰が抜けてしまったのだ。

 誰かに被さっていた白いシーツがばさり、と無駄に洗練された動きで舞い上がり、その誰かの姿が見える。見えてしまった。

 小柄な少女。腰まで伸ばされた長い桃色の髪が僅かに陽光を反射して輝いている。そして極めつけは、その者が身に着けている学生服とマントだった。

 つまりはシエスタがぶっかけてしまったのは、よりによってこの学院の生徒であり、魔法を使うメイジであり、世界の権力の象徴、貴族なのだ。

 

 全身の血が冷めていく音を、シエスタははっきりと耳にした。

 単純な話だ。平民であるシエスタが貴族に粗相をした。言葉にすればこれだけ、そしてこれだけで、己の人生は終わる。シエスタはそう認識していた。

 どうしようもない程に巨大な恐怖が、シエスタの全身を強く打ちつけた。すぐさま立ちあがるべきなのに、立ち上がって謝罪するべきなのに、それすら出来ない。

 なんらかの罰が与えられたり、もしくはクビを宣告されたり、とにかくよくない未来だけがぐるぐるとシエスタの脳を駆け回る。

 視界が霞むのが分かった。体が震えているのも分かった。口は開いているが声は出ず、ただ涙が滲む先に、件の女子生徒がこちらに近寄ってくるのも分かった。

 シエスタは身体を硬くする。貴族と言えばメイジであり、メイジだからこそ魔法を使う。下手をしたら、魔法で、この場で、私を――

 

「大丈夫?」

 

 しかし女生徒はふわりと落ち着いた声を掛けて、シエスタの手を取った。

 シエスタが訳もわからず目を白黒させていると、女生徒は苦笑いして、その手を強く引っ張る。

 ぐい、とまるで大人の男性に掴まれているようだと、シエスタは感じた。それぐらい強い力で以って、あっさりとシエスタの足は大地に乗っていた。

 少女は何処からどう見ても少女であり、更に言えばシエスタよりも小柄だ。しかし杖を使ってないことを見れば、これが魔法の力ではなく、少女本人の素だということが分かる。

 貴族様は、やはりそのお力も強いのだろうか、思いも因らなかった少女の行動に、ぼんやりとそう思うシエスタ。

 彼女がそんなことを考えている場合ではないと気付いた時には、転んだ際に付いたのであろうシエスタのメイド服の汚れを、あろうことかその女生徒が手で払い落としているところだった。

   

 

「あのっ、いけません! そんな、御手が」その言葉はほとんど悲鳴の様だった。これ以上、貴族に迷惑を掛けられない。

「気にしなくてもいいのよ。それよりあなた、怪我はない?」シエスタのものとは対称的な、落ち着いて優しい声だった。小鳥が囀る様な儚さと美しさがあった。

 

 少女の手の動きは止まらず、シエスタの服の汚れを取らんと這い回っている。その妙にしっとりと艶めかしささえ感じる動きに、シエスタはとにかくうろたえた。

 

「あ、あの、はい、だ、大丈夫、です……あ、あのっ」

「うん? あ、動かないで、まだ汚れが……」ルイズは胸元を払った。

「いや! そんな、そこまでしていただくなんて、あ、あの、も、申し訳、ありませんでしたっ!」

「いいのよ。でも、気をつけてね。あら、ここにも汚れが」ルイズは胸元を撫でた。

 

 シエスタが震える声で謝罪すれば、頭一つ程低い少女は言葉通り何も気にしていないように、メイド服の胸元や腰や胸元や腹部や胸元や胸元や胸元の汚れを払っていく。

 ぶっちゃく最早少女はシエスタの胸元しか撫でていないのだが、只管萎縮している今の彼女はそれに気付かない。

 代わりに、この少女が何者か、シエスタははっと気付いた。

 大貴族の娘。魔法が使えないメイジ。ルイズ・フランソワーズ。

 シエスタは少女、ルイズと面識がある訳ではなかった。ただ魔法が失敗ばかりしている少女のことは、風評として耳に入っていた。

 そして昨日、口さがない同僚達が彼女について話しているのをシエスタは聞いている――あのヴァリエールの三女が、とうとう進級試験に落ちたらしい、と。その場合、大体の子息は退学するらしいと。

 あくまで噂の域は出ないし、シエスタも小耳に挟んだだけで、細かいことは何も知らない。目の前の少女はどうなったのか、どうなるのだろうか。

 

「――――大丈夫そうね」シエスタのぼんやりとした思考を終わらせるように、最後にぴっと胸元を撫でてルイズはそう言った。

 

 シエスタは何と言ったらいいか分からなかった。もっと深く謝るべきか、それとも素直に礼を伝えるべきか。

 ただ口だけが無様に上下する。第一、平民と貴族はそもそもの格が違う。こんな場面でどのような会話が正鵠を射るのか、シエスタには分からなかった。

 ただ、綺麗な人だな、と場違いながらもシエスタはそう思う。

 煌く桃色のブロンド、人形のように整った目鼻立ち。大きくて丸い鳶色の瞳は、吸い込まれそうなほどに妖しい魅力を放っていた。 

 

「ねぇ、名前は?」

 

 それが自身のことを聞かれているのだと気付くのに、シエスタは僅かな時間を要した。貴族である学院の生徒に名前を聞かれたことなんて、田舎上がりの彼女には一度としてなかった。

 

「シエスタと……申します」震える声を何とか抑えてゆっくりと、出来るだけこれ以上の無礼を働かないよう心がけシエスタは名乗る。

 

 ルイズは笑った。シエスタから見て、それは令嬢のような可憐な笑みにも、少年のような無邪気な笑みにも見えた。

 

「あなた、綺麗なおっ、綺麗な黒髪ね」

 

 そう言って、まだ汚れが付いていたのだろうか、ぽん、と別れ際の挨拶の様にメイドの服の胸元をやわらかく叩き、ルイズはすっとシエスタの横を通り過ぎた。

 その言葉に、シエスタは一瞬だけ、恐怖や畏怖も吹き飛んでしまった。綺麗な黒髪。確かに自分の髪はトリステインでは珍しい髪色だが、それを生徒とはいえ奉公先の権力者に褒められるとは。

 シエスタが呆けているのを知ってか知らずか、ルイズはあまりにも堂々とした足取りで去って行く。シエスタが忘我から立ち直った時には、ルイズは丁度、建物の角を曲がるところまで行き着いていた。

 

「あの、あ、ありがとうございました!」

 

 自分でも何についての礼だが分からなかったが、それでもシエスタは振り向き頭を下げた。ルイズは左手をひらひらと振って、角の向こうへと消えていった。

 しばらくただ呆然と突っ立っていた後、ぶちまけたシーツの幾枚が風に煽られヒラヒラと舞っているのを見て、シエスタは慌ててそれを追いかける。

 ふと、思う。不思議な少女だった。不思議な貴族だった。シエスタはメイジの脅威を知っている。貴族の権力を知っている。あんな行動を起こす少女は知らなかった。

 ただ困惑だけが彼女の胸に落ちていく。そもそもあの少女がこんな早朝の水汲み場にいた理由も、また謎だ。自身に優しくした理由もだ。

 頭を振り、意識を切り替える。メイドの仕事は多い。分からないことをいつまでも考える暇なんでないのだ。

 だけれども、こう思う。浅はかで、短絡的ではあるが、シエスタはこう思うのだ。

 あの少女の様な方が学院から去るのは、少しイヤだな、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ふ」

 

 曲がり角を少し行った先、ルイズは薄く笑い、がっくーんと膝から崩れ落ちた。

 

 だんだんと左手の側面を地面へとたたきつける。このっ、このっ。

 一通りだんだんした後、右手で左手首をぎゅっと握る。顔を伏せたまま、掲げるようにして、しばし手首締めを続けた。

 くおおおおお、ぎぎぎぎ、ととても貴族の子女が出したものとは思えない苦しみの呻きを出す。

 

 ルイズは、沸点が低い人間だと、自分でもぼんやり思っていた。

 挑発や嘲りを無視できない。謗り罵りに即反発。もっと言えば余裕がない。

 それらは産まれ付いての性質によるものでもあろうが、大体は魔法が使えないことを起因として成り立っていた。

 魔法が使えないから嘲りを受ける。それらに負けたくないから、心を折れたくないから、激しい癇癪を起こしてしまう。

 でも結局魔法は使えない訳だから――あとはこの繰り返しだ。劣等感しか生み出さない、虚しきゼロの悪循環。

 

 けれど。けれどである、先のメイドとのやり取りは、とてもじゃないが今までの自分とは思えない行動ばかりだった。

 それが駄目だ、という訳ではない。ほとんどにおいては。

 平民が粗相する。自分はそれに少し注意をして、気にしないそぶりをする。

 ルイズの中の貴族像はこういうものだ。それは決して馴れ合いではなく、使用人の間違いを咎めるのは貴族の仕事ではなくそれらの上司、例えばメイド長なり執事長が行うことだから。

 頂点存在である貴族は、些細なことに目くじらを立てず、どっしりと、または優雅に構えるべきなのだ。

 どういうわけか今回は、ルイズにはそれが出来た。怒鳴り散らすことも、怒り狂うこともなかった。あるべき姿、あるべき行動を、ルイズは取れたと自負する。

 

 が。

 

「む、む、む、むむむ胸はかかか関係ないでしょ胸はっ」

 

 別のことで怒り狂っていた。呂律も回らなくなってくる。

 マジで胸は関係ない。べたべたべたべたべたと他人のおっぱいを弄るのが貴族の正しき姿としたら、そりゃあもう今までの人生全否定である。貴族としての誇りが下半身直結型だというのか。死ね。

 最後の言葉は危なかった。あなた、綺麗なおっぱいね。貴族云々より先ず人としてどうなんだ。咄嗟にメイドの珍しい髪色を示した自分を、ルイズは褒めてやりたい。それ以外はブチ壊したい。

 よりによって胸だ。おっぱいだ。ルイズの劣等感を分析すれば、大部分は魔法が使えないことで、次点はその貧相な体型なのだから。なぜ自分から苦しむような真似をしないといけないのだ。苦行者か私は。

 

 くわあああああ、と奇声を鋭く出しながら、ルイズは手首締めをやめない。そして締められている左手のルーンはぴっかぴかだった。

 

 

 間違いない。ここで、ルイズは確信した。時折出る殺伐とした思考。妙に前向きな姿勢。今日の悪夢。余裕ある態度。やたら胸に執着する性癖。

 

 全部全部全部全部、使い魔のチンコの所為だ!

 

 目を瞑る。はい、お馴染みの死んだ目をした幼い自分と、その横にいる黒い犬。

 黒い犬はそれはも嬉しそうに尻尾をぶんぶんと振って、涎が出んばかりに大口を開けて舌を出していた。そりゃメイドさんのおっぱい触れた訳だからね。いやー柔らかかった。

 

 

「盛ってんじゃないわよ……ぶっ殺すわよ……!」

 

 

 凶悪な吐息が口から出る。ルイズのルイズが半フランソワーズ化しているのは、もう無視した。早く収まれ殺すぞ。

 



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第五話

 

 もう昨日から何回取り直しているから分からないが、それでもルイズは気を取り直した。そうしないと前に進めない。

 

 部屋に戻り、授業に出た時の対策、もとい言い訳を改めて練りつつ、絶対領域の中の絶対危険地帯の安全確保に努める事を固く誓ったところで、そうこうしているうちに朝食の時間になった。 

 迷いを捨てるかのごとく、勢いよくルイズは立ち上がる。

 ナニに思考が引っ張られていようが、ナニが大変な暴れん坊さんだとか、そんなものを悔いるなんて今更だ。考察と落胆を一緒にしてはならない。ルイズに絶望している暇はないのである。

 考えろ、考えろ、考え抜け。対策を。適解を。対処を。未来を。チンコを。ルイズは死にたくなった。ああ、抜くってそういう……うるさい殺すぞ。

 

 意を決して扉を開ける。

 ……朝食。まぁそこまで問題は起こりえないだろう。たかが食事を取るだけだ。そこまで考えた時、ルイズは自身の腹部が激しく空腹を訴えていることに気付いた。

 そう言えば昨日は夕食を取り損ねてしまったんだっけ、と思うが、それにしても改めて認識すれば異常な空腹感だ。いつもの量の二倍ぐらいはぺろりと行けそうな気がする。

 己はここまで健啖家だっただろうか、と首を捻ったところで、ルイズの隣部屋の扉が弱弱しく静かに開いた。

 そこから出てきた人物を見て、ルイズは僅かに顔を顰めた。

 

 

 

 

 結局、ルイズの隣人であるキュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストーは、昨夜のルイズ大号泣を聞いてからの彼女との接し方を、最後まで決めあぐねていた。

 キュルケは立場的にはルイズの好敵手の様な存在だった。少なくとも、彼女の中では。

 留学生であるキュルケは、母国ゲルマニアの大貴族であり、そして国境を挟んでルイズのヴァリエール家とお隣の関係でもある。

 ツェルプストー家とヴァリエール家、このニ家の因縁は深い。軍事的なものから、極々個別的なものまで。

 けれども、そう言う家柄国柄の柵を抜きにしても、キュルケはルイズを自身のライバルと認識している。つまりはルイズ個人と相対しているのだ。

 多分それは、ひどく馬鹿馬鹿しいものなのだろう、周囲はそう思うだろし、キュルケもまたそう考える側面も持っている。だから少なくとも表には出さない。

 

 家名しか取り得のない魔法が使えない出来損ないを、どうして個人単位で相手することがあるのか。相手はゼロで、キュルケはトライアングルのメイジだ。

 無駄でしかない行為であり、下手をしたら自分の価値まで落しかねない。劣等生をライバルだなんて。

 

 違う、そうじゃない。キュルケは考える。

 あの意地っ張りで癇癪もちの少女の本質は、出来損ないだとか、家名だとか、そんなものではないのだ。

 心無き言葉を投げかけられ、馬鹿にされ、嘲られ、それでもただ真っ直ぐあった少女、ルイズ。

 

 キュルケが認めたのはルイズの心であり魂だ。たとえ力なき意思であっとしても、それは高潔なものに違いない。

 

 対面や外面だけを優先するトリステインの腑抜け貴族。その中であって、ルイズの愚直なまでの姿勢は、殊更強くキュルケの琴線に響いたのだ。

 だからキュルケは今まで、他の者のように陰口は叩かず、ただ真正面からルイズを発破させるような言動を行ってきた。

 私に言われたくなければ、ここまでに――魔法を使えるまでに――なりなさい。声には出さなかったけれども、確かにキュルケにあった、そんな考え。

 いずれ、何時の日か、面と向かい、好敵手として競い合うことが出来れば――

 

 けれど、である。

 

 キュルケは昨日、見てしまった。聞いてしまった。

 使い魔召喚儀式時のルイズの呆然。そして、絶望の顕現ともいえる圧倒的な嘆きの怒号。

 それはキュルケが見たことの無い態度だった。聞いたことの無い慟哭だった。

 

 心が折れてしまった、のだろうか。

 

 あの啼泣は尋常ではなかった。今まで聞いたことのない声量で、幼子のような感情の爆発が分かった。

 まるで決定的な何かが壊れたような、そんな悲鳴。

 ルイズは、諦めてしまったのだろうか、使い魔の召喚失敗は、彼女をそれだけの絶望の淵に追いやっていたのだろうか。

 あの勝気な彼女が、恥も外聞も捨てての喚声。それには、どれだけの失望が込められていたのだろうか。

 

 ルイズは孤独だった。周囲から孤立していて、少なくともキュルケが知る範囲では、ルイズと悲しみを共有できる友はいない筈。

 キュルケが昨日ルイズの部屋に赴き、慰めなりなんなりをしなかったのは、その辺りにも関係がある。

 ルイズに友はいない。キュルケも、その範疇に入っていない。だから、彼女は所謂友情関係にありそうな行動を取れなかったのだ。

 

 けれど、キュルケは一つ思う。進級試験に通らなければ留年であり、そうなればほぼ間違いなくルイズは学院を去る。

 それは、認められなかった。煌びやかな宝石、その原石が効果を見せる前に砕け散ってしまうようなものだ。キュルケはその先が見たかった。ルイズの可能性が。

 ルイズには、まだ機会が与えられるはずだ。成功失敗のどちらかに転ぶかはともかく、まだ、まだいける筈なのだ。

 

 優しい言葉をかけるべきか、それともいつものように、馬鹿にするような口調で発破をかけるべきか。

 キュルケはらしくなく最後まで迷っていて、そしてとうとう時間切れ。彼女はいくつか言うべき言葉、言わざるべき言葉を考え、いくつかの計画を立てたのだが、どれを選べば正解なのか決めることが出来なかった。

 

 あとはもう、決めうち場当たり野となれ山となれ、だ。両者の扉はもう、開いていた。

 

 

 

 ルイズは隣部屋からゆっくり出てきた褐色の女、キュルケのことが嫌いだった。

 

 家系の怨敵と言えるツェルプストーだから嫌いだった。微熱だとかなんとかで男関係にだらしがないのが嫌いだった。

 陰口というより、面と向かって自身を笑うのが嫌いだった。常に余裕たっぷりなのが嫌いだった。

 優秀なメイジなのが嫌いだった。女として抜群の体型を持っているのが嫌いだった。

 彼女を見る事で、己の矮小さが際立つことが嫌いだった。そう感じてしまう己の醜い嫉妬心が、何より嫌いだった。

 

 ルイズから見れば、キュルケは好敵手でもなんでもなかった。

 何もかもが足りていない、劣っている己が、どうしてそう言うことが出来ようか。

 キュルケを見れば、ただ惨めに感じるだけだ。だからルイズはキュルケが嫌いで、姿さえも見たくはなかった。

 

 そうした訳でルイズはキュルケの姿を確認して顔を顰めた訳だが、今日に限り、その劣等感は不思議と長続きしなかった。

 チンコだ。チンコのお陰だ。お陰の訳ないじゃない殺すぞ。チンコの所為だ。

 チンコ生えるとか言う夜天の双月までぶっとびかねない訳分からない事象は、ルイズの内にあるドロドロとした負の感情を見事踏みにじっていた。

 こちとらチンコが生えているのだ。嫉妬心なんぞ黒くて大きい犬の下敷きになっているに違いない。

 

 

「お、おはよう、ヴァリエール」

「……おはよう、ツェルプストー」

 

 目を細めて睨み付ける様に挨拶を交わしたルイズであったが、そこで目の前に女に違和感を覚えた。

 なぜだか妙にしおらしい。おっぱい。いつもの見下したような態度はそこになく、なんとなく、おどおどしている様にさえ見える。

 視線はあちこちにさ迷い定まらず、ふっくらとしたおっぱい。ふっくらとした唇は言葉を探すように上下している。

 

「あー、その……ヴァリエール? ルイズ?」

「なによ」

「あなた……その……大丈夫?」

 

 大丈夫なわけあるか! チンコ生えたんだぞチンコが!

 反射的に言いそうになったその言葉を、ルイズはぐっと押さえ込む。言ってしまったら全てが泡になって消えてしまう。消えてしまいたい。

 にっくきツェルプストーの「ええ……」なんて言葉は聞きたくないのだ。

 

 だがしかし。

 そもそもこいつは何を言っているんだ? ルイズは心中で疑問符を上げる。先ず「大丈夫?」が何を指しているのかよく分からない。

 考える――妙に冴えた頭で、キュルケの言やおっぱい、表情について思えば。

 ああ、なるほど、平時ではあり得ない頭の回転を以って、ルイズはそのことに思い至る。

 

 まぁいくら家柄上敵対していても、個人的に見下している(ルイズはそう思っている)としても。

 昨日、あれだけの大泣きを聞けば、少しぐらいの心配はあるだろう。キュルケの視点から見れば、自分は落第の危機にあるのだから。

 客観的にキュルケの人となりを見れば、その程度の良識やおっぱいは持ち合わせているはずだ。相手がたとえ自分だとしても。

 

 ツェルプストーに情けを掛けられるなんて――

 

 心の中の柔らかい部分が、感情的な叫びを上げている。昨日の情けない泣き声を聞かれた恥が、ルイズの精神を赤に染めようとする。

 それら全てから彼女を守るように、うねる激情の闇を打ち消すように、どこかで黒い犬が一つ、大きく吼えた。

 

 頭が、加速的に醒めて行く。

 

 同情。好都合だ。知られたくないのはチンコのことで、それ以外は全部些事。敵意でなければ、詮索もすまい。同情とはそういう感情だ。

 チンコを守りきれば、それでいいのだ。チンコを。ルイズは生まれ変わったら綺麗な花になりたい。

 

 キュルケに返答せず、ルイズはすっと左手を上げた。甲の部分を見せ付けるようにすれば、キュルケの顔が驚愕に染まる。

 

「私は使い魔の召喚に成功したのよだけどどういう訳かその使い魔は主と一体となる生き物みたいで今は私と一つになっているわ私の身体に何一つ異常はなく使い魔の正体はさっぱりさっぱり分からないわええさっぱり分からない学院長の許可はもう貰っているわ」

 

 

 一息だった。どう見ても不自然だ。冷静になれない部分も、やはりルイズはいまだ持ち合わせている。

 ルイズの焦りや高ぶりの証左のように、左手のルーンがぴっかーと光っている。正面のキュルケが眩しそうに目を逸らした。

 

「え、と……よく、わからないけど、あなたの使い魔は……あなたの、その、中にいるの?」

「そうよ」

「それって、その、大丈夫なの? 聞いたことないけれど」

「……オールド・オスマンから許可は貰ったって言ったでしょ」

「そうじゃなくて。あなたの体のことよ……得体が知れないんでしょ? 本当に、問題ないの?」

 

 勃起も射精もするしさっきなんてメイドのおっぱいを弄ったわ。でも私は大丈夫。あーあ、全てを虚無と化したい。

 問題だらけである。勿論ルイズは言わないし、言えない。

 

 さておき。キュルケの瞳を覗き込む。悪意なき、純粋な情の色が見える。おっぱい。

 ヒトの害意に敏感なルイズにはそれがはっきりと理解できた。視野を妨げうる黒き感情は、全て内なる犬が無効化している。

 先入観や家のゴタゴタを抜きにすれば、なんだ、こいつは存外おっぱい優しいやつじゃないか、そうとさえ、ルイズは思えた。

 

「……私は、大丈夫よ。どうしたのキュルケ、なに、心配してくれてるの?」余裕ありげにルイズが微笑めば、キュルケはその頬を赤く染めた。

「な、ななに言ってるのよヴァリエール! そんな訳ないじゃない!」

 

 明らかに図星を突かれた狼狽具合だ。ルイズが悪戯気に「ふふ、そうよね」と笑う。キュルケはとうとう怪訝な表情を浮かべた。

 

「……あなた、変わった?」

「さあ? でも、変わらなければならないと思っているわ」

 

 本心だった。今までの自分では駄目だと、ルイズ自身そう考えていた。

 癇癪を起こしても、感情的に喚いても、結局なにも解決しない。

 もっと、もっと生産的な何かが必要なのだ。思考にも、感情にも、力にも。

 己に齎された屈辱的な恥部をどうにかする為、というのが一番にあるが、普段の生活においても、かねてより自分は停滞した人生を送っていたのだ。

 チンコがなによ。なんなのよ。一つの答えが、今ぼんやりと浮き上がった。身を焦がす激情は自分に何も与えてくれない。少なくとも、今までの自分には。

 覚悟。決意。必要なのはそれで、ルイズは歪なのものであるが、確かにはっきりとした覚悟を得ているのだ。チンコを内密にする覚悟をね。くっそ。

 

 ルイズの何かを『超えた』返答に、キュルケは目を白黒させている。その様子にまた微笑んで、ルイズは踵を返した。

 私おなか減っているの、じゃあね。とルイズが立ち去ろうとすれば、「ちょちょちょっと待ちなさい!」と慌てた声が後ろから掛けられた。ルイズは億劫そうに振り向いた。

 

「だからなによ」

「あ、え、と、私の使い魔、を、紹介したい、のだけれど……」

「なに? 自慢?」

「いやっ違っ、や、その、そうよ!」

「どっちなのよ」

 

 

 嘆息気味にルイズが、はやくしなさい、と妙に偉そうに言えば、キュルケの調子はますます狂っていく。

 これじゃあいつもと逆じゃない、キュルケは口の中でそう零す。

 本来なら自身の使い魔を披露して「あなたもこれぐらい立派なのを召喚してごらんなさいな」というのも計画の一つだったのだが、これではなんだか自分が情けを掛けられているようではないか。

 

 気を取り直して、キュルケが「おいでフレイム」と言えば、彼女の部屋から使い魔であるサラマンダーが現れた。

 真っ赤で巨大な体躯が姿を見せれば、ルイズはむわったした熱気を感じた。そんなものはどうでもいいとしてやっぱりキュルケのおっぱいやばくね?

 ルイズはねっとりした瞳でキュルケのブラウスからおっぴろげになっているイケナイ果実をガン見しているが、自身のペースを掴みたいキュルケはそれに気付かない。

 

「ヘェ……立派じゃなぁい」ルイズの声のねっっっとり具合にも、キュルケはやっぱり気付かない。

「そうよ、しかも、ただのサラマンダーじゃないわ!」

「確かに、並大抵のものじゃないわね、これは」

「見なさい、この大きさ!」

「物凄いわね、ええ、凄いわキュルケ……」

「そうでしょ、そうでしょう! この大きさ、火竜山脈のサラマンダーよ! 好事家に見せたら値段なんかつかないわ!」

「こ、好事家!? 駄目よキュルケ! 大事に、大事にしなさい! とても値をつけていい代物じゃないわ! 滅茶苦茶にされちゃう!」

「きゅ、急にどうしたの? も、物の例えよ、本当に売るわけないじゃない」

「ええ、大切に育ててもっと大きくしなさい。正しく一生ものよ」

 

 致命的に歯車がずれている会話を交わしている最中、ルイズは気付いた。

 

 ――フランソワーズ率が高まっている! ショーツの中で『フランソ』ぐらいまで来ている!

 

 キュルケの色気にやられたのだ。もっと言えば、たわわな収穫物に。やるじゃないツェルプストー。

 拙い。拙い。このままではルイズのルイズが完全体フランソワーズになってしまい、ルイズのスカートと人生を破壊してしまう!

 

 ちょっと忘れ物、部屋に戻るわ――若干前傾姿勢になったルイズがそう言えば、「ちょ、ちょっと待って!」とキュルケがまた留める。

 

「なによ!」ほとんど悲鳴のようにルイズが鋭く叫んだ。それ以上胸元についてるファイアー・ボールを揺らすな!

 

 キュルケはその切羽詰った様子にたじろぎながらも、一度息を吐き、昨日を超え、その前、更に前、ずっと前から言おうと考えていた言葉を、素直に述べた。

 

「使い魔召喚……おめでとう、ルイズ」

 

 優しい声だった。揶揄でも中傷でもない、ひたすらに祝福の思い込められた言葉だった。

 キュルケにとって言えば、その結果は二人の関係性を前に進めるものだった。

 姿見えなきものとは言え、仮にも魔法を使えたのだから。このゼロの少女が。自分の、好敵手が。

 

 ルイズにとってはめでたくもくそも何もないのだが、その暖かな声色は、ルイズの心にまた暖かい火をくべた。

 落ち着かせるために目を瞑る。闇の中でドロドロした何かをけちょんけちょんに踏み潰している黒い犬は、おいといて。

 常にへたり込んでいた幼きルイズは、絶望の奥で、儚くもにこりと笑っていた。

 釣られるように、ルイズも笑った。

 

「ありがとう、キュルケ。あなたのおっぱいも、おめでとう」

 

 ルイズの部屋が閉じられた。

 

 

 しん、と廊下全体が静まり返った。ルイズの部屋から「ぶっ殺す」とか聞こえた気もするが、まぁ気のせいだろう。

 

 とにかくキュルケは絶句した。あの面倒臭い性格のルイズの、滅多に聞けない礼の言葉は、まぁいいとして。

 おっぱいおめでとう、とはどう言う意味なのか。なにかの比喩なのか。まさか幼児体型でそういう話題が大嫌いなルイズが、自分の胸部を指した訳ではあるまいし。

 

 キュルケは横に控えたフレイムを見た。フレイムもまた困惑した主を見ていた。

 

「フレイム、あなた、おっぱいついているの?」

 

 フレイムは首を横に振った。謎は深まるばかりだ。

 



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第六話

 

 

 

 やばい、勃起した。

 

 

 

 

 

 冷や汗が止まらない。脂汗が止まらない。脈拍の加速が分かる。顔は紅潮と蒼白を繰り返し、ドコドコと五月蝿く響く不快な音は、ああ、私の心臓だ。

 ルイズにはチビルイズの完全フランソワーズ状態をどうにかする術はない。チェスで言うところの『詰み』、その一歩手前と言える。

 必死にルーンに呼びかける。収まれ、収まれ、殺すぞ、殺すぞ! 目を瞑る。あの黒い犬は、爛々と目を輝かせながら尻尾を振っている。どういうわけか、その体躯が大きくなっているように見えた。尻尾の動きは止まらない。

 意味わかんない! ルイズは涙目になる。今まで多少なりとも言うことを聞いていたナニが、まさしくさっぱり言うことを聞かない。ふふふ暴れん坊さんね、こいつぅ。殺すぞ。

 

 なんだ、こういう、血液が極度集中している状態は、どうすればいいのだ! 普通の男性が一般的に用いる処理方法を使えと言うのか!

 

 

 教室の! ど真ん中で! しかも授業中よ馬鹿!

 

 

 朝、メイドやキュルケの件はまだよかった。静める時間や猶予があったし、実際ルーンに念じることによって、その場はどうにかなっていたのだから。

 だが今は。

 

「……どうしました、ミス。さぁ早くこちらへ来て錬金を」

「危険です、先生!」

「止めさせて下さい! 先生はルイズを受け持ったことがないから――」

「ヴァリエールは魔法が――」

「ほら、あいつだって自信がなくなったから――」

 

 喧騒が遠く感じる最中、ルイズはやっぱり臨戦状態に入っている。杖がね。股間の奴ね。

 ああ、どうしてこうなってしまったのか、限りなく背中を丸くしながらルイズは自問する。

 

 

 

 何もかも順調だった。朝食時も特に問題なかったし、それどころか平時以上の食事量を完食したルイズは満足さえしていた。

 おっぱいおめでとう、そんなトチ狂って脳みそふにゃふにゃ感満載の台詞をモロに聞いたツェルプストさんちーのキュルケ嬢は、どうも聞かなかったことにしてくれたらしく、ルイズの方をちらりと見たぐらいで、何も言うことはなかった。

 その辺の空気の読みっぷりを、ウチの家系はもっとも見習ったほうがいいのではないか、そんなことまで考えてしまったぐらいだ。あとおっぱいが大きい秘訣とか。

 

 教室に入った時の、他生徒から送られる粘ついた目線も気にならなかった。

 こちとら双玉直棒がぶら下っているのだ。雑魚に構っている暇はない。周囲の蔑むような瞳を受けてなお、ルイズは鼻で笑った。

 苛つきや怒りもなかった。ルイズはただ悠然と――ちょこちょこ他生徒たちの胸部を見ながら――王者の様に席に着いた。

 

 

 闇の中の黒犬は。劣等感を糧にして。彼女の小さな魂は。憐れみと憎しみの最果て。

 運命はネジ狂い。思考の偏りが見える。絶望の淵に立つ少女は。空っぽの瞳で零を拝む。

 

 

 

 

 生まれ変わった気分――とは聊か過ぎた表現ではあるが、確かにルイズは変わっていて、もしくは変わろうとしていた。自覚が有るにせよ無いにせよ。

 教室に向かう途中で気付いたのだが、体が驚くほどに軽い。魔法が失敗する故、ルイズは飛行魔法のフライも使えないが、それこそ飛べそうな気持ちであった。

 

 朝一番の授業、召喚したばかりの使い魔のお披露目ということで、召喚された様々な生物達が扇形の教室に所狭しと蠢いている。

 その体格ゆえか、巨大な青いドラゴンが窓から教室を覗き込んでいる。あれも誰かの使い魔なのだろう。

 それらを羨ましいと脳が判定を下すより早く、瞼の中で、ドロドロした何かを黒犬が貪り食っていた。幼き自分と同じぐらいの大きさだった犬は、いまや子牛ほどの大きさになっている、

 ルイズは何もかも気に留めない。その代わり、ちらちら見てくるキュルケの胸元をガン視してみせた。ゲルマニアは進んでいるわね。

 

 

 

 授業が始まった。

 案の定、生徒の使い魔たちに教師が触れた折、ここぞとばかりに周囲の有象無象がルイズを囃し立てる。

 

 ここに召喚していないやつがいます、おいルイズ、お前の使い魔はどうしたんだ。

 

 余計な問答なしに、ルイズは見せ付けるようにルーンが刻まれた左手を掲げ、朝キュルケに説明したことを――さらに洗練させ、さらに自信たっぷりと――周囲に告げた。

 妙齢の女教師、シュブルーズはその旨は学院長から聞いていますと言い、不思議な使い魔を召喚したのですね、と微笑んだ。

 周囲は静寂し、刹那騒然と成る。インチキだ、誤魔化しだ、責め立てるような言葉に、ルイズはただすまし顔だった。

 学院という性質上、一番の権力を持っているのは教員だ。そしてヒトは権威に逆らえない。

 教師シュブルーズは無闇に一人を貶めるような発言を諌めた。つまるところ、それだけで他生徒は言を持たなくなる。

 結果、授業は恙無く進行した。ルイズは背中に悪意ある視線を感じたが、感じただけだった。それがどうかしたのか。

 

 

 順調だった。ルイズは優越感さえ味わっていた。周囲の、コトが上手くいかなかったような、あの苦虫を噛み潰した顔!

 

 愉快であり、痛快であり、全能で万能だった。

 身体の調子もいい。心は凪の海であり、爽やかな風であった。

 だから、だろうか。

 

 授業中、シュブルーズが生徒に魔法の実演を求めたとき、ルイズが我先に手を上げたのは。

 

 周囲のざわめきを他所に、ルイズは確信をしていた。今なら、魔法を使うことが出来る筈だと。

 不本意であるものだとしても、己は使い魔の召喚に成功して、使い魔の契約にも性交、成功しているだ。うぉえ。

 つまりそれは魔法が成功したということで、これが切欠となり、自分は普通の魔法も使えるはずだ、とルイズはそう考えたのだ。

 

 どの道、魔法が使えるか否かはいつかは確かめなければならないことだった。

 本当はこっそりと試すべきなのだろうが、昨日から今日、そんな暇もなかった。心の余裕的な意味で。

 

 お誂え向きだった。簡単な錬金の呪文、それも、己を馬鹿にしていた者共の前での行使。

 

 失敗する可能性、失敗したときの危険性は考えなかった。考える必要性をルイズは感じなかった。

 ルイズは、目の前にある甘い蜜に愚直に飛び込んだのだ。

 

 世界の全てを見返す/世界に己を認めさせる。

 

 挫折塗れの人生を送ってきたルイズに、その誘惑を跳ね返す力はなかったのだ。

 ある意味、現実を見ていなかった。ある意味、慢心していた。それが無謀であると、ルイズは露と思わなかった。

 

 ルイズは。

 

 

 

 ばきばきばっきーん。

 

 

 魔法の失敗(爆発)を警戒する周囲を他所に、シュブルーズに指名されたルイズは意気揚々と立ち上がろうとした。

 机に手を突き、腰を浮かそうとしたその瞬間、何か強い引っかかりをルイズは感じた。何かって、ナニが。

 非常に嫌な予感がガンガンする。顔を引き攣らせてルイズが下を見やれば、おお、なんということだ、そこには立派な火竜山脈が聳え立っている! ドラゴンに謝れ。

 要は元気ビンビンになったおチビルイズ(パーフェクト・フランソワーズ)が、制服のスカートをこれでもかと持ち上げているのだ。それが机に引っかかった。

 慌てて腰を下ろす。自分から実演を申し出て突如椅子に座ったルイズに、シュブルーズは「ミス・ヴァリエール?」ときょとん顔だ。ルイズは曖昧な笑みを返した。

 

 もしもルイズが「勃起しました。立てません。まぁチンコは勃っていますけどね! 笑えよシュブルーズ」と言えるような人間なら話は別だが、乙女であるルイズにそんな沸いた台詞を言える訳がない。 

 早いところなんとしなければ、このままだと、

 

『ミ、ミス・ヴァリエール、そ、その盛り上がりは……』

『私の杖です』

『し、しかし、貴女は手に杖を持っているでは……』

『新たな第二の杖です。ヴァリエールの跡継ぎが錬金できます。ばばーん!』

『ええ……』

 

 

 という悪夢が現実のものと化し、最終的にルイズは神を呪う暴徒と化しロマリアは滅ぶ。

 

 この場は、ルイズを絶体絶命の崖淵へと追いやっていた。

 

 ちっとも動かないルイズを困惑しながらも煽り、また教師に魔法行使を止めさせるよう叫ぶ生徒。

 ひたすらに疑問符を上げて、ルイズに早く教壇まで来なさいと言うシュブルーズ。

 勃起したルイズ。

 もうどうしようもない。

 

 ここで冒頭に至る訳だ。たすけてちいねぇさま。

 

 

 

 

「ミス、ミス・ヴァリエール! 大丈夫、一度や二度の失敗がなんですか。さぁ、こちらへ」

「ミセス・シュブルーズ! ゼロのルイズの失敗は、洒落にならないんです! あいつは――」

「まぁ! お友達を、ゼロとなどと――」

 

 いいぞ、デブ。お前とは間違ってもお友達ではないが、もっと言え。今日ばかりは許す。

 ルイズは喚きたてる小太りの男子生徒に心中で声援を送った。他の生徒たちも勿論口々に文句を言っていたが、シュブルーズは頑なにそれを拒んでいる。もう正面から進言しているのはその生徒だけだった。

 あ、駄目だ。口の中に赤土を突っ込まれやがった。使えない豚ァ!

 

「さぁ、ミス・ヴァリエール」

 

 にっこりと笑う教師に、歯痛を我慢しているようにしか見えない笑顔で返すルイズ。何も解決はしない。

 未だルイズの誇れない誇りは直立しているし、そもそもなんでこうなったかも分からない。

 世の男性は、授業中脈絡なく勃起することがあるのだろうか。だとしたら、どれだけの業を担っているのか。ルイズは男性諸君に少し同情した。大変ね、ミスタ。ただの現実逃避である。

 

 ルイズのルイズが勃ち上がっている為ルイズは立ち上がれない。かと言って、一度自薦したのだ、易々とした理由で魔法の実演を辞退することも出来ない。

 ということは。

 

 ルイズは腹を括り、ガン、と頭を机に突っ伏した。

 

 

 

 

 

 

 

「うっ、くっ、うう!」

 

 一向に席を立たないルイズを訝しむ教壇に立っているシュブルーズと周囲の生徒達は、唐突に頭を突っ伏し唸り声を上げ始めたルイズに絶句した。

 顔は完全に伏せられていて、苦しみの呻きとともにルイズは右手で左手首を掴んでいた。

 使い魔が一体化している、それがこの証だ――授業の最初にそう見せられた左手甲のルーン文字が、物凄い勢いでびかびか発光している。

 

「くっ、暴れるな私の何か……!」

 

 呟く言葉も謎だ。あいつは一体何と戦っているんだ。周囲はそう思うが、あまりにも突然の展開に言葉は出ない。

 生徒の奇行に、シュブルーズは目を白黒させる。

 

「ど、どうしましたか、ミス・ヴァリエール!」

「だ、大丈夫です、わ、私の内にある使い魔が……あの、こう……あれして、とにかく暴れているだけで、うぐっ!」

 

 ふわっふわである。青空に舞う白雲より掴めない返しに、シュブルーズはただ困惑だ。

 では医務室に……と教師の口から出た途端、ルーンの発光がすっと収まった。

 

「大丈夫です」ルイズは顔を上げた。感情を亡くした職業暗殺者のような冷めた瞳で、じっとシュブルーズを見ていた。

「そ、そうですか」

 

 女教師が内心オロオロしながらも、では錬金の実演を、と言ったところでルイズはまた顔を伏せた。見せ付けるように掲げている左手が、また光った。

 

「うっ、く! ぐ! は、はい、今、行きます、く、くっ、うう! 暴れるな、暴れるな……」

「ああ、分かりました、分かりました! え、ええと、では、他の誰かに……」

「……申し訳、ありません」

「あの、ミス・ヴァリエール? その、医務室には……」

「大丈夫です」

「そ、そうですか」

 

 ルイズは人里離れた未開の地で黙々と斧を振るう木こりのような死んだ瞳で、じっとシュブルーズを見ていた。女教師はとても歳若い少女の出すものとは思えないその気迫に圧された。

 ざわめきの渦中、ルイズは周囲の視線や呟きを全て無視した。ちなみにまだ勃起している。ぶっ殺すぞ。

 

 

「つ、使い魔の制御も出来ないのかよ」と嘲りの言葉が一つ大きく聞こえるが、その声は震えていた。その生徒は、それ以上何も言わなかった。

 

 好意的感情から来る信ではなかったが、ある意味では、彼らはルイズに一つの確信を持っていたのだ。  

 あの馬鹿正直で融通が利かない頑固者は、自分の意思で宣言を覆さない、覆せない、と。

 

 結果彼らが選んだ誹謗は、「嘘を吐くなよ」ではなく、ルイズの弁を受け入れた上での「自分の使い魔も抑えられないのか」というものだった。

 それにしても彼らにとって埒外なものなので、どうしても気概は薄くなる。

 そもそもの話、自分の中に使い魔があるとはどういうことかも、彼らには理解できない。ルイズにも理解できていない。チンコってなんだよ。

 

 こんなものか、ルイズは心中でほくそ笑む。

 クソみたいなあまりにも下らないものだったが、コレはコレで人生最大の危機でもあった。

 けれどルイズの機転(というには力押しが過ぎるものだったが、彼女はそう認識している)により、あっさりと脱することが出来た。それを怪しむ追撃もない。

 なんだ、チンコくっつくとかいうふざけきった運命だけど、けれどそれは、思うより厳しいものではないのかもしれない、ルイズの脊髄は楽観的な思考を反射していた。

 

 暗黒の奥。闇の中。空虚な少女が何かを持っている。木の棒のような。誇りのような。

 遮る様に、巨大な黒犬が前に立つ。何も見えない。何も見るな。ただ楽しいことだけ考えろ。

 

 

 ――何か大事なことを忘れている、なんて考えは、今のルイズになかった。

 

 

 

 その後の授業は、特に何もなく、淡々としたものだった。

 途中、風船が萎むようにルイズのナニがしゅるしゅると縮小したのだが、彼女は再度実演の自薦をすることはなかった。

 ナニ、もとい何が起こるか分からないのだ。一先ずここは大人しくしよう。らしくない保守的な思考がルイズの脳裏を過ぎり、そしてらしくなく、彼女はそれを受け入れる。

 

 授業が終わり、ルイズはこちらに目線を送るキュルケに気付いた。

 心配を隠さないその戸惑いの目線に、ルイズは微笑みで返す。少年のような、無邪気の笑みで。

 



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暗闇の開始線
第七話


 障害らしい障害と言えば、やけにトイレが近い、ぐらいなものだった。

 

 

 

 それにしてもまぁ慣れたものだ。まだ碌に時間も経っていないが、今朝「ヴァリエールの素」暴発事件まで体験したルイズ。もはやナニを触ることに抵抗はなかった。手は擦り切れるほど洗ったが。

 問題らしい問題はそれぐらいだった。シュブルーズの授業のあとは、突発的な戦闘態勢に入ることもなかった。あんなものが何度もあって堪るか。

 ……周囲から感じる視線。定期的に聞こえる、ひそひそ話やささやきを通り越しての、あからさまな侮蔑の言葉。

 それらは、ルイズの心にひとつの影も落さなかった。彼女の背筋は何かに支えられようにぴんと伸びていて、その足跡には自信が刻まれている。

 顰め面ばかりだった整った顔には微笑みが乗っており、長い桃色の髪は陽光と共に気品を反射させていた。ショーツの中にはなんとチンコまである。完全に余計な情報だよ殺すぞ。

 そんなありあまる覇気を纏った少女の様子に、周囲はただ戸惑うばかりで、それがまたルイズの心をよくしていた。ミス、ミスタ、貴方達は、どんな気分?

 

 

 私はとても、気分がいいわ。

 

 

 緩やかに時間だけが過ぎて、昼食時。

 ルイズはまたもいつも以上の食欲を発揮し、好き嫌いなく、出された全てを平らげた。

 腹は満たされ、身体は絶好調。思考は冴え渡っていて、精神に揺動はない。

 例えば、食堂から去ろうとした時――転がっていた特徴的な香水の壜をみつけた際には、無視することなく、持ち主だろう同級生の少女にさっと渡すぐらい、ルイズは心に余裕があった。

 その後はなにやら一騒ぎあったようだが、ルイズの知ったことではないし、興味も、また何の影響も無かった。

 

 

「ミス・ヴァリエール」

 

 用を足し終えたルイズに、見覚えがある中年教師が話し掛けてきた。

 頭髪の薄さが特徴であるその教師は、昨日の使い魔召喚儀式の監督官でもあったコルベールだ。

 

「どうかしましたか、ミスタ」

「オールド・オスマンがお呼びだ。君の……使い魔について」

「学院長が?」

 

 学院長か、何の用だろうか。もしかしたら、チンコくっつく摩訶不思議現象の全貌なり前例なりを把握したのだろうか。

 いやいや、昨日の今日でそれはありえない。要因なりなんなりが直ぐに分かるくらいチンコの召喚がしょっちょう行われているのなら、もうルイズには世界を呪うしか行動の余地がなくなる。

 最終的にルイズは「チンコくっつき被害者の会」を設立し、とりあえず始祖のお膝元であるロマリアは滅ぶ。無論、そんなことはない。

 恐らく、突発的な身体変性への対策便宜……早い話がチンコがあるんで風呂とか色々な問題について話そうということだろう、ルイズはそう当たりをつけた、

 分かりました、すぐ行きます。言葉もそこそこに、ルイズはその足を学院長室へと向けようとして――

 

「すまなかった、ミス・ヴァリエール」

 

 聞こえた言葉に、歩みを止めた。どう聞いても謝罪にしか捉えられないその弁を出したのは目の前のミスタ・コルベールであり、ここには彼の他に自分しかいない。

 

「ど、どうしたんですか、先生」慌ててルイズが問えば、コルベールは温和な顔の眉尻を下げ、申し訳がなさそうに首を横に振った。

「……オールド・オスマンから聞いたよ。君が、使い魔の成功に召喚していた、と」

「あ……」とルイズは呟きを零す。

 

 本来ならば私が一番に気付くべきだった、と、すまないことをした、と伏し目がちに言うコルベールに、ルイズもまた申し訳ない気になった。

 召喚したてのあの呆然時ならばまだともかく、昨日今日と、儀式の引率だった先生にも一言あって然るべきだったのだ。

 言えない領域の件ではなく、言える領域、つまり対外的な「言い訳」を、あの時、自分を慰め、もう一度の機会を設けると約束してくれたこの先生に、報告すべきだったのだ。

 ルイズが何と言えばいいか戸惑っていれば、コルベールは口々に、身体に問題は無いか、私も専門外ではあるが、出来うる限り力になろう、とルイズを気遣い、励ます言葉を送っている。

 

 ルイズは孤独だった。本人はそう認識しているし、また味方の作り方も分からなかった。家柄と見てくれだけが立派、中身が伴わない。だから周囲から弾かれる。

 それは真であり、しかし偽でもある。世界の悪意全てがルイズに牙を剥いていると判断するには、あまりにも時期尚早に思えた。

 朝のキュルケだってそうだ。彼女はルイズに「おめでとう」と言った。あれは所謂「優れた者」故の見下しの賞賛だったのかもしれない。それでも間違いなく称えの言葉だった。

 目の前の教師だって、本当の本当は、心の内には、使い魔召喚に気づかなかった己の責任をおべっかで誤魔化そうとしているのかもしれない。

 だけどルイズには、そうは思えなかった。

 向けられる悪意の判断。人生上、ルイズはそれを持ち得る道を歩み続けていて、そして今の彼女には、正常な思考を邪魔する虚栄心や嫉妬心などがすっぱりと消えていた。

 

 

「ありがとうございます」ルイズは教師の裏表ない発言に、華の様な笑顔で答えた。だって今や雌しべも雄しべもある。うるさい。

 

 コルベールは言葉に詰まった。少なくとも彼は、劣等生と揶揄される少女のこんな笑みは見たことがなかった。

 なにが、彼女を変えたのか。例の、正体不明で少女の内にあるという使い魔の所為だろうか。彼には判別がつかない。

 違う、彼は心中で呻く。変わったというよりか、これが正常なのだ。にこやかに笑う貴族の子女。なにもおかしな問題ではない。

 おかしかったのは、以前のルイズが笑わなかったのは、笑わなくさせていたのは――

 

「では、私は行きます」思考の海を渡るコルベールに、笑顔崩さず言ってから、ルイズは踵を返した。

「あ、ああ」

 

 コルベールは気の聞いた言葉ひとつ言えず、立ち去る少女の後姿を見守る。

 溜息、後、ゆるやかに首を振った。

 立ち入れない問題。己しか超えることの出来ない壁。それは、誰にでもあることだ。コルベールにも、ルイズにも。

 ルイズは、それらを全て超えてみせたのだろうか。それゆえの笑みだったのか、それとも。

 

 

 煌きを持つ少女の後姿は、不自然なほどに輝いている。

 

 

 

 

 

 

 巨大な戦力は隠し通そうとしても、分かる者には分かるものだ。ルイズは心中で賞賛の呻きを上げる。

 キュルケ程に全開している状態は、話は別だ。あれは誘引剤だ。ふらふらと虫のように近づく下半身をぱっくり持っていく罠だ。

 そうではなく、意図的にせよ無意識にせよ、力を隠蔽しているもの。例えば朝であったメイド――シエスタと言ったか――の様に、分厚い天幕の内に、潜在を秘めいている者が確かにいるのである。

 

 結論から言ってしまえば、ルイズは学院長室で、オールド・オスマンの横に控える秘書の秘所――ロングビルのロングおっぱいに目が釘付けだった。

 でかい。昨日から分かっていたことだが、やはりでかい。流石にキュルケ級とはいかないかもしれないが、いや、これは直接見たり触ったりしないと分からないわね。

 

「……ミス・ヴァリエール?」

「はい、触ってみないと分かりません」

「さ、触るのかね? その、ナニに?」

 

 ルイズははっと正気に戻った。しかしロングビルのおっぱいはでかい。戻ってない。

 調子はどうかね、と問うた筈のオスマンは、返ってきたよく分からない返答に目を白黒させている。

 隣のロングビルは昨日のナニをショーツ越しとはいえ間近で見たからか、ほんのり頬を赤く染めていた。

 ルイズは慌てて頭を振った。

 

「い、いえ、すみません、何でもありません。ええと、はい、大丈夫です」

「ふむ、そうかね」

 

 こほん、とわざとらしい咳の後、オスマンはロングビルを見やった。

 秘書はこくりと頷き、ルイズとは視線を合わさず、静々と部屋から出て行った。まぁそもそもルイズの目線はロングビルの首から下、腹部から上に固定されているのだ。合う筈もない。

 扉が閉まる。ぎぃ、と言う蝶番の軋む音の後には、ただ黙した二人だけが残された。一人はおっぱい、一人はお尻に思いを馳せていた。

 

 我に返るのが早かったのは、より年老いた方だった。

 オスマンは机の上にあった杖を手に取り、部屋全体にサイレントを掛けた。

 

「ミス・ロングビルに何かあるのかのう?」

 

 自分もケツばかり見ていたことは棚に上げ、じっとりした瞳でロングビルを見ていた少女にそう問うオスマン。

 ルイズはまさかおっぱいに見とれていたなんて言えない。

 

「……何でもありません」

「心配しなくても、彼女は何も言わないじゃろう。ワシが保障する」

「あ……あー、ああ、はい」

「……違うのかね?」

「いえ、はい、私も、ミス・ロングビルを信じますわ。ええ、信じますとも」

「うむ」

 

 そういうことになった。

 

 

 

 

 本題に入ろう、椅子に座る翁は厳かに言った。

 

「率直に言えば、のう、君に起きた事……召喚したものについて、何一つ分からんかった。日を跨いでまだ一日じゃ。これからも調査は約束する。しかし正直、有益な情報を集めるのは難航するじゃろう」

「はい」

 

 ルイズはそうだろうな、としか思わなかった。逆に何かしらの足掛かりが見つかったとしたらルイズはオスマンを称えに称えるだろう。

 それくらい、今起きていることは馬鹿馬鹿しく、全世界的に未知であるということをルイズは理解していた。それはもう。粘ついた種まで出る始末なのだ。

 

 オスマンはルイズの顔色や反応を覗っていたのか、暫く何かを模索するように無言で、次に口を開いたときは、より建設的な話に変わっていた。

 

 例えば、風呂の問題――しかしこれは簡単にカタが着いた。要はヴァリエールの三女がヴァリエールの長男であると疑惑を掛けられないようにするだけ、見られないようにするだけだ。

 まぁ実際は女の子の部分もちゃんとあるのだが、もし万が一見られたとしたら、普通は「実は男である」と考えるだろう。どこの頭沸いたヤツが一発でルイズにチンコが生えた! なんて見抜くことがあるのか。もう考えただけで消し去ってやりたくなる。

 さておき。

 ルイズだけの風呂の時間を作る。解決策はこれだけだ。それゆえ、入浴は遅い時間になるだろう、と老人は言う。少女は構いません、と返す。議論する余地はなかった。

 次はルイズの身体的な問題についてだった。何か困ったことは発生していないか、身体に影響はあるか。挨拶代わりに聞いた「調子はどうか」という抽象的なものではなく、より具体的な質問。

 事情を知る知らないの差はあれど、それは先ほどコルベールが問うたものと同じだった。

 

「問題ありません」

 

 ルイズもまた、同じ答えを出した。あまりにも堂々とした答えで、オスマンは疑いの言葉を出さなかった。表向きには。

 そして言ったルイズ本人の中でさえも、まるで何にも憂慮はないかのような無敵の安心感があった。

 

 影響も問題も、それなりにあった。むしろあり過ぎて困ってんのよ殺すぞ。

 

 夢精するわおっぱいに執着するわ何か精神が引っ張られているような気がするわ唐突に勃起するわ。

 今日起きたことを列挙するだけでもう頭が痛くなる。ルイズの暴れん坊さんが暴れている。そう言った話なのだが、ルイズは全てを封殺した。

 言いたくないし、言っても仕方ないからだ。オスマンに信は置いているが、それはあくまで「ある程度の便宜」を図って貰うためのモノ。愚痴を聞かせる相手には選んでいないのだ。

 

 ルイズには、それの必要がなかった。いつだって彼女には真の意味で助けてくれる味方はいない。それは慣れであり諦めであり、弱さを見せない矮小な誇りだ。

 けれど、そういったものと同時に、少女はちっぽけであるが世界の一旦を掴んでいるのだ――己から産まれた難問は、己にしか解けない。

 今回のことだってそうだ。それより前も、無論孤独な戦いだった。だって、だって、××が使えないなんて。 

 

 

 それよりさそれよりさなぁそれよりさあのお姉さんのおっぱいはでかかったよなメイドさんのええとシエスタだっけその子を超えている気もでもあの子は脱いだらすげぇよおれにはわかる直に触れた訳だしなぁなぁなぁご主人様もそう思うだろうなぁ。

 

 

 頭の片隅で何かの遠吠えが聞こえた。

 暴風の如くごうごうと鳴り響く、全貌が掴めない曖昧な爆音は、しかしルイズに不快感を与えず、それどころか心を静めていきさえする。

 ちくりと針を刺すような鈍く冷たい痛みが、ついとルイズを襲った。瞼の上にひりひりとした感覚が乗っている。

 思わず、右手で片目を抑える。視界の半分の暗闇には、幼竜程の黒犬が尻尾を振っていた。それ以外は何も見えず、ルイズは何も思わなかった。

 

「ミス・ヴァリエール、大丈夫かね」

「ええ、少し埃が目に入ったようで」

 

 嘘だった。

 

 

 

 

 何事かあったら即座に相談しに来て構わないし、また何か少しでも糸口が掴めたのなら、即時伝えよう。

 オスマンはそう言って、ルイズは二も無く頷いた。話はそれで終わった。

 ――失礼します。少女の声はどこまで落ち着いて、それがオスマンには不気味にさえ思える。あまりにも、普通過ぎる。

 重厚の扉の先に消えた少女の残像を、翁はじっと見据えていた。昨日の告白時とはうって変わった、何一つ取り乱さない様。

 別段、オスマンとてあの不幸な少女にもっと苦しめだとか、もっと悩めだとか、そんな冷酷なことは思わない。

 けれど、起こったこと、起こっていることの重大さ、理不尽さを鑑みれば、ルイズの感情の揺らぎは明らかに少なかった。少なすぎるようにオスマンは見えた。

 その正誤の判断が、オスマンには出来ない。歳を重ねた偉大なるメイジの彼でも、少女の心内は覗き込むことが適わない。

 彼女が彼女の中で、自身が持つ苦難全てに折り合いをつけられたのなら、それはそれで構わない。

 しかし――絶えず光っていた少女のルーンを思い返せば――オスマンはこう考える。あれは、少女の思考に、何らかの影響を与えているのではないか、と。

 

 原因。因果。結果。 

 皆目不明な状況下において、オスマンが出来ることは何も無い。それこそ、薄っぺらい権力で頼りない盾を張るぐらいなものだ。

   

 

「モートソグニル」

 

 溜息交じりに吐き出されたしわがれた声。それに呼応して、部屋のどこからか「ちゅう」とネズミの鳴き声が響く。

 彼の使い魔の名前を呼んだ後、オスマンはしばし目を瞑った。半身であるネズミは、ただじっと息を潜めている。

 

「ミス・ヴァリエールを、しばし見張ってくれんかね」

 

 どこか草臥れたような声色に、しかし使い魔はただ「ちゅう」と一鳴き。

 オスマンが杖を振るい、入り口の扉が僅かに開いた。小さなネズミは、隙間から素早く出て行った。

 

 短い時間の中で何度聞いたか分からない、番が軋む音。

 扉閉時の金属の短い悲鳴を聞いて、老人は嘆息する。

 

 間違いなく、変性している。身体的なものは元より、その内面が。

 オスマンはルイズをそう判断せざるを得ない。

 

 それに未知の物が関わっているのなら、オスマンにはそれを把握する義務がある。

 逆説的に言えば、それしか出来るのことがないのだ。見張り。監視。見守り。言い方は色々あるが、本質で言えばそれはただ傍観しているだけ。

 願わくば、その変質が少女にとって善性であれば――

 願わくば、悲哀に塗れた少女が道を踏み外さなければ――

 そう、思う。そう思うことしか、出来なかった。

 

 




諸君! 決闘は中止だ!


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第八話

 

 実際問題、そう悩んだり苦しんだりする必要は、ないのではないか?

 

 学院長の執務室を出たルイズは、軽い足取りでそんなことを考えていた。

 たかが、たかがチンコがくっついただけだ。

 もし信用ならない者にバレたらそりゃもう大変なことになるが、逆に言えば、露見しない限りは他に外的影響はないのだ。

 使い魔と認めさせることも出来た(無論周囲に正体は伏せているが)、風呂などの問題も難しいものではない。もっと長期的な話――たとえば家族。家族に、説明は――

 

『ルイズ、杖を抜きなさい』

『あの、母様、その……』

『ルイズ、杖を抜きなさい』

『母様、その、あの』

『ルイズ、杖を抜きなさい』

『……』

『……』

『ば、ばばーん!』

『カッター・トルネード!』

 

 結果的にルイズは死ぬ。ひたすら母親に苦手意識を持っている少女は、顔を青くして身震いした。

 先送り、ささささ、さきおくりよ! 人知れずうんうんと頷くルイズ。心なしか、どこかの何かも同意してくれている気がした。

 そうだ、そうだ、もっと、もっと楽しいことを考えよう。辛いことや難しい問いではなくて。左手が光っている。

 

 なんとなれば、人は行動次第で如何様にもなれるのだ。もっと楽しく生きようではないか! チンコなんて、その妨げにすらならない……ならない、ええ、きっと。

   

 この天下を冠する美少女に、よりによってぷらぷらした玉と棒がにょっきしているのは、あまりにも屈辱で情けない話だが、そもそも屈辱というのなら、私は、昔から、ずうっと――それは駄目だぜご主人様。

 

 ぴたりと歩みを止める。一瞬、整ったルイズの顔が白痴のように呆けたものになった。左手が光っている。

 

 ――まぁなんでもいいか。

 

 何事もなかったように、再びルイズは歩き出す。

 とにかく今は気分がいい。どういう訳か。

 廊下を歩き、何の気もなしに外へ出る。空は快晴であり、見てくれの上では、それはルイズの心情を表している様に透き通っている。

 身体も、心も、下手をしたら生きてきて今まで一番の絶好調だった。

 鼻歌さえ出しかねない程に上機嫌で、ルイズは暫し外を散歩することにした。午後の授業には、まだ時間が有る。

 

 

 

 一際大きい広場に着けば、ルイズが先ず目にしたのは、幾人の生徒達が杖を持ちじゃれあっている姿だった。

 マントの色から判断するに一年生だろう、彼らは、笑いながら杖を振るい、先から水を出したり小さな火を出したりして談笑している。

 まぁ、微笑ましいこと。ルイズは聖母のような優しい顔つきになった。左手が光っている。

 

 要は、入学したばかりの生徒が、同年代の者に自身の技術を見せ付けあい自慢しているのだ。

 これだけ同じ程の年齢のものが一堂に会することは、学院以外ではそうないだろう。挨拶代わりみたいなものだ。俺はこれくらい出来る、私はこれくらい、へぇやるじゃないか――

 左手が極光を放っている。ルイズは、ただぼけっと生徒達のじゃれあいを見ている。ちくちくと故無き痛みが瞳を貫いてる――気がする。

 ほとんど無意識に、片方の瞼に手を重ねた。ちょっとした小屋ほどに大きくなった黒犬が、発情期の様に目を爛々とさせている。

 

 別におかしいことはないわね。ルイズはそう判断する。しかし何処からかともなく芽生えた居心地の悪さに、彼女はその場を立ち去ろうと、また歩を進め始めた。

 

 

 その時だった。 

 

 

 後の話になるが、あの時、何故即座にあんな行動を取れたのだろう、ルイズはそう首を傾げる。その答えは、思考の領域外にあった。

 それがルイズの本質だから。それだけのことだった。

 場面、必要性、成す為の能力。全て揃っているのならば、この誇り高き少女にそれ以外の選択肢はない。

 肢状に分岐した無数の運命線。彼女が選ぶものは、とうに決まっていた。

 

 

 今から起きること、起きたことは、まるで世界がトチ狂ってしまったかのように、全てが鮮明に、全てが鈍化して、ルイズは全てを視界に納めていた。

 

 

 ぽつんと、一人の少女が俯いて座っている。茶色掛かった髪の――これまたマントの色から判断して、一年生。

 その少女は、離れた位置にいる同級生たちとは違い、ただ暗い顔で溜息をついている。

 少女がいる場所からいくらかの距離をとり、正面ではしゃいでる生徒達も、彼女を気に留めず、無邪気にじゃれあい、そうして、一人の生徒が杖から出した明らかに身の丈にあってない大きな火球が――

 

 その時点で、ルイズは弾ける様に大地を蹴っていた。

 鈍い世界で、自身のじれったくなる鈍さを呪い、ただ一人でいる少女の方に向かい駆ける。

 

 誰も声を上げられなかった。生徒の制御を外れた火球は、その行使主の全く予期せぬ方向――俯く少女へと、ごうごうと唸りを上げて飛んでいく。

 他生徒達はぽかんとしている。下を見る女生徒は近づく脅威に気付かない。そしてルイズは間に合わない。距離がありすぎる。

 

 咄嗟に、左手を服の内側に突っ込んだ。握った杖をさっと取り出す。そうするべきだと何かが囁いた。吼える声ではなく、儚い囀りの声だった。

 左手が激しく輝いて、一段と駆ける速度が上がった。風すらも置いてきぼりにする、人外の域の迅速さだった。現象をおかしく思う暇さえなく、マントのたなびく音が遠く聞こえる。

 火球が迫る。少女は気付かない。焦燥と風が頬を撫でる。駆ける、駆けろ。速い、けれど遠い。ルイズは少女を突き飛ばそうと考えたのだが、駄目だ、僅かに、届かない――

 

 

「ロック!」

 

 

 ルイズが何かに導かれるように唱えた「鍵を閉める魔法」は爆発という結果を起こし、正確な狙いのそれは、少女に迫り来る火球を横殴りするように消し飛ばした。

 短く太い破裂音の後に、しゅうしゅうと火球の残滓が陽炎になって消えてゆく。

 がりがりと地面を靴底で削り、驚異的と呼べるまで膨れ上がった速度を殺すルイズ。気味悪いほどの静寂が、広場いっぱいを包んでいた。

 虚空に杖を突きつけて動かないルイズには、ただ荒くなった自身の息遣いだけが聞こえていた。

 刹那の硬直、その終わりに。

 じゃれあっていた下級生が、蜘蛛の子を散らす様に逃げていった。

 

 うわぁ、だとか、あっ、だとか。

 

 悲鳴の様な喚きがごっちゃになっていたので、ルイズに正確な判別は出来なかったが、彼らは背走前に大体そんなようなことを言っていた。

 ルイズはふんと鼻を鳴らした。責任逃れ、謝りもしない。それが貴族のやることか。杖を懐にしまいながら、フライを使い空へ逃げる一年生達を、キッとルイズは睨み付けた。

 魔法の失敗はしょうがないだろう。けれど、仮にも己の力が原因ならば、そのことに責任を――ずきりと、頭に痛み。

 

 そこで、ルイズは起こった事件全てのことを埒外においた。あの生徒達も、助けた少女のことも。なにもかも。

 

 ルイズは顔を歪めた。左手が光っている。まるで頭の中でガンガンと鐘が鳴っている様だ。なんとなく、分かる。これは、警鐘だ。何かに、気付けという、警鐘。

 片目をぎゅっと瞑る。爆発音と犬の遠吠えが聞こえた、気がした。絶望色の爆発がルイズの半分を満たし、黒犬がそれに弾き飛ばされている。犬の身体から黒い靄が抜け落ちていく。同時に、その体躯がどんどんと萎んでいった。

 

「あ、あの!」

 

 現実から響く声に、ルイズははっと目を開いた。

 そこには、件の少女が立ち上がっていた。胸元に手を当て、ルイズを心配げに見ている。

 自分へ襲い掛かって来た危険に気付いたのだろう、少女は勢いよく頭を下げた。

 

「あ、ありがとう、ございました!」

「……いいのよ。気にしなくて」ルイズは素っ気なく返した。少女の無事は喜ばしいことであるが、正直、それどころではなかった。

 

 頭の中で、心の中で、魂の中で。何かが、暴れている。悲哀が混じる犬の呻き。悲観だらけの爆発。音なく響くそれらは最早耳鳴りだ。ルイズの内で、確かに何かが傷をついている。

 限りなく現実に作用する幻痛に、ルイズの表情が歪む。間近でそれを見た少女は、驚きと戸惑い乗せた声で「どこか怪我をしたんですか」と言った。

 

「……大丈夫よ。怪我なんてしてないわ」

「でも、とっても苦しそうで……」

「心配は無用よ。ほら、もうそろそろ授業でしょ、あなたも」

 

 言葉の最後に、ルイズは微笑むことが出来た。逆に言えば、それが精一杯だった。

 少女の二の句をまたずルイズが足早に歩き出すと、慌てたような礼の声が背後から聞こえた。

 ルイズは、返事をすることも、振り向くことも手を振ることもなかった。

 

 

 

 

 ルイズはもはや駆け足に近い速度で、歩いていた。けれど、教室に向かうつもりも授業に出るつもりもなかった。

 厳しい顔で歩を進めていると、唐突に強烈な吐き気を感じた。原因は分かっていた。これは肉体的なものではない。精神から出る高負荷が、無惨にルイズを虐めているのだ

 ルイズは足を止めなかった。代わりに、右目を抑える。

 

 黒の水平線に爆発の閃光が瞬き、子牛ほどの大きさの黒犬がくるくると宙に弾き飛ばされている。

 なんとか体勢を戻し闇の地面に着地した黒犬は、前方を見据えて短く鳴いた。その声はただ憐れみだけが乗っている――そんなことをしても、あんたが苦しむだけだぜ。

 

 犬の鳴き声の先には、幼いルイズが立っていた。相変わらずの空っぽの瞳は、どこを見ているか分からない。その小さい手には、杖がぎゅっと握られていた。

 幼いルイズは口を開く。分かっているわよ。平坦で、冷たい色だった。対面する黒犬は一際強く吼えた――意味が、ないだろう!

 

 意味ならあるわ。幼いルイズはすっと杖を振り始めた。

 悲しいほどに洗練された杖の動きは、限りない挫折の軌道を描き、口をつく磨き上げられた呪文は、ただ惨めな過去を詠っている。

 また、爆発。犬は吹き飛び、体躯から黒靄が漏れ、ルイズの心は無情に傷ついていく。

 犬は、ぐるぐると低い呻きを上げた――最後の手段だ。

 身体を若干前傾にして、四足で強く踏ん張った。ルイズはそこで、犬の左前足がぼんやり光っていることに気付いた。

 

 

 

 ぴたりと足を止める。血が、集中している。顔を下に向ければ、先程のように、スカートの前部分が不自然に盛り上がっていた。

 冷静に、辺りに人がいないかきょろきょろと見渡す。授業が近い為か、誰の姿も見えない。

 ルイズは酷薄な笑みを浮かべた。絶望の鐘がガンガンと響く中であっても、未だ頭は冴えていた。そう言うことね。左手のルーンが光っている。

 

 暗闇に棲む黒犬と幼い自分。唸る犬と嘆く自分。光を放つ使い魔のルーン。唐突に起きる身体の異変。都合のよい思考。

 大体、分かった。これが、どういうことなのか。

 

 ふっ、と息を吐いて、ルイズは精神を集中させる。駄目だ、と犬が吼える。幼いルイズが笑った。

 予想があった。たびたび増幅する使い魔のルーン光、これは、感情の高ぶりによってその光を増減させているのだろう。

 

 

 それは、誰の感情だ?

 

 

 意識すれば、答えは簡単だった。自分の物だから自分の感情。そんな常識は、こいつには通じないのだ。

 感情のうねり。それによる精神への干渉。自分の思考外から強制的に引きずり出された、らしくない考え。

 それらすべてを睥睨して、ルイズは滾る極寒の激情で上書きした。天に翳した左手は、恐ろしいほどの眩い輝きを見せた。

 黒犬は怯み、スカートは萎んで、ルイズはまたやって来た痛みに顔を歪ませ、しかし微笑んだ――この条件で、『誰か』がルイズの感情の振れ幅に勝てる訳がないのだ。

 ルイズは笑った。死人の様に青褪めた顔で笑った。あまりの己の滑稽さに、大声を出しかねないほどだった。 

 

 ふらふらと幽鬼のような足取りで歩みを続け、何も顧みることなく自分の部屋へと戻った。ばたんと強く強く扉が閉められる。

 ルイズはそこに背を任せ、そのままずるずると床にへたり込んだ。

 頬を伝う冷水には、気付いていた。それを拭う気にはなれなかった。

 火傷しそうなほどの、凍える灼熱。ルイズの魂は熾烈な炎の中にある。敵意や悪意、劣等感。黒い感情の炎の中に。

 

 ――だから、言ったのに。

 そんな声が、聞こえた気がした。気のせいかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 ただ分かりきっていることは、歪んだ大木の如き、無惨な真実だけだった。

 

 ルイズに魔法は、使えない。

 

 分かってしまった。それがはっきりと、ルイズには理解できてしまった。

 あの刹那。あの瞬間。広場で、女生徒を救った、あの爆発――失敗魔法。

 一度の失敗で、爆発で、ルイズは本能で解答を出してしまった。

 これが、己の魔法なのだ、と。

 

 

 ずっと、ずっと前から、ルイズはその確信に至っていた。ただ認められないから、癇癪の様に抗っていただけだ。

 第一、自分のあるのかないのか分からない才能を信じていたとするのなら、女生徒に迫る火球を吹き飛ばすのには、もっと相応しい魔法を選ぶ筈なのだ。

 だと言うのに、ルイズが選択したものは『閉錠の魔法』であり、そして皮肉にも、思惑通り、失敗、爆発を産んだのだ。

 咄嗟だった。咄嗟だからこそ、ルイズは真実に手を伸ばした。端からそれしかなかったのだ。だからそれを掴めた。それだけの話だ。

 

 

 結果だけ見れば。

 詠唱速度。高威力。そして今回は狙いすら完璧だった失敗魔法は、あの場面では適切なものだった。

 火球を消し飛ばし、女の子は無事。お礼まで言われた。誇る、べきなのだろう。己の選んだ道と、爆発を。

 

 だけど、それでも。

 

 

「私は、ゼロだ」

 

 人知れず口から漏れたのは、聖歌のように透き通った、呪いの様な呟きだった。

 鳶色の瞳からはらははらと流れる雫は、彼女の服に染みを作り、やがては消えていく。

 掻き毟るように胸を抱く。薄っぺらなそこには、けれど莫大な希望が込められていた。その筈だった。

 いつか。いつか。いつかいつかいつかいつかいつか。

 火・水・土・風。四大系統のどれかに目覚め、スクエアクラスなんて言わない、ドットでもかまわない。

 それでもいいから、ただ、魔法を使いたかった。どんなものでも、どんな能力が低くても。

 

 証が欲しかった。己がメイジであり貴族の生まれであると、誰にも分かる当然の証が。

 

 

 それさえも、ゼロだ。   

 

 

 受け入れたくなかった蔑称を、ルイズはすんなりと口にした。

 落涙は止まらず、滲んだ視界は未来さえも映さない。

 自身の内にあった悪しき感情が、一斉に襲い掛かって来たようだった。まるで漆黒の靄が、四肢全部を縛り上げているかのような、猛烈な不快感。

 苦しくて。悔しくて。憎くて悲しくて辛くて寂しくて。慣れ親しんでいた筈のいつもの感情も、こうも一度にくればその痛みは尋常のものではない。

 げほっ、と肺の中から空気が漏れた。嗚咽と一緒に、悲鳴のように痛々しく。 

 

 

 

 極論の極論で言えば、魔法を使えなくてもよかった。世界が己を認めてくれさえすれば、それでよかった。

 

 強く、強くなりたかった。強く生きたかった。

 力が欲しかった。それは魔法と限定したものではなく、襲い来る害意を全て蹴散らす、自分だけの力が欲しかったのだ。

 常識的に考えれば、魔法こそが、正しく力たる物の筈だった。

 ルイズは貴族だ。

 貴族であるならばメイジであり、メイジであるならば、力の拠り所を魔法に託すのは、極当たり前のことなのだから。

 

 けれど少女には、その当たり前が与えられなかった。

 ルイズはもう十六歳だ。なのに、幼子でも使えるような簡単なものでも、爆発という無様な結果を生む始末。

 あんまり過ぎる人生に、ルイズはとうとう笑ってしまう。

 使い魔の召喚だって、あれは結局失敗だ。失敗したからこその部分召喚だ。そのままの状態では存在できないから、ルイズと一体化している。それだけだ。

 ちらりと横を見る。部屋の一角に、干草の山が積まれている。それは使い魔を召喚に成功した際に使うつもりだった、それ用の寝床だ。

 笑える。自嘲の笑みだ。自分には過ぎた夢だった。何もかも失敗であった。結論は、それだった。あるいは失敗よりも性質が悪い、部分的な成功だった。

 

 ねぇ、そうでしょう。ルイズは目を瞑る。黒犬が、寂しげな瞳で所在無く座り込んでいる。大きさは、もう、最初に見たときと同じ位に萎んでいた。

 根拠は無いし、論証も無い。だけど、確信だけはあった。この黒い犬こそが、己が使い魔――正確に言えばその思考の一部――なのだ、と。

 無論、元は犬そのものが召喚される筈だった、という訳ではない。

 召喚される予定だったのはヒト型であり、これは自身が無意識のうちに判断した、比喩的顕現なのだ。

 なぜに犬という姿をとっているかは、ルイズ自身にも分からない。知るすべも無い。自身の内なる神秘は、自分が一番理解できない未知なのだから。

 

 

 ――辛い現実で自分を傷つけて、お前は幸せになれるのかよ!

 

 

 聞こえた気がした幻聴は、才能なき己を慰める情けない自演行為でしかないのだろうか。

 きっと違う、ルイズは頭を振った。孤独な世界の中で、確かにここに、ささやかな味方がいたのだ。

 

「ありがとうね……ちょっとでも、楽しい気持ちにさせてくれて」

 

 涙を流しながら、か細い声で、しかし穏やかな顔で、ルイズは黒犬にそう告げた。

 喚いたり、嘆いたり、とても他人には言えないようなことをやらかしてしまったり。

 昨日から今日。ルイズの調子は狂いっぱなしだった。だけれども、ああ、少なくとも、劣等感の刃から、こいつは守ってくれていたのだ。

 黒き感情を吸収する犬。魔法を使わせない為に、真実に気付かせないように、異常事態を引き起こし引き止める行為。

 

 それは多分、幸せな幻想で。

 そこに浸ってさえいれば、今の様な身を引き裂くような絶望感を味わうことだって、きっとないだろう。

 目を逸らしたまま生きて、目を逸らしたまま笑う。苦しみや悲しみからは全て使い魔が守ってくれる。

 そうして、たまに怒鳴ってたまに困って、面白おかしく楽しい人生を送ればよい。何もかもを、見ないことにして。

 

 けれどそれを、その人生を歩む己を、果たして『ルイズ』と呼ぶことが出来るだろうか。

 胸を張って、これこそが自分だと、誇り高く主張することが出来るだろうか。

 

 出来なかった。ルイズにはそれが出来ない。どうあろうと曲げられないものが、彼女にはあるのだ。

 逃げてしまうことになる。このままだと。魔法が使えない。それはもう、いい。けれどそれでも、自分はヴァリエールのルイズであり、貴族なのだ。

 

 逃げないし、負けない。貴族に背走はない。

 綺麗ごとだということは分かっている。それでも、だ。

 

 

 絶望の暁に。

 ルイズは何を見たのか。何を感じていたのか。何を思ったのか。

 

 ルイズは証明したかった。自分が自分である証を、何より強く渇望していた。

 

 それは学院の教師にでもオールド・オスマンにでもキュルケにでも他生徒たちにでも家族にでも世界にでも証明することでは、ない。

 

 自分だ。自分が納得出来る結果こそが、ルイズが一番欲しかったものなのだ。

 

 だから、ルイズは。

 

 

 認めよう。自分は確かに『ゼロのルイズ』であり、使い魔の召喚すら不正な結果になり、笑える身体を手にいれてしまうほどなのだ。

 劣等生なのだろう。落ちこぼれなのだろう。メイジとしての才覚がなく、出来損ないの烙印を押されてしまうのだろう。

 じくじくと染み渡るような痛みが、全身にぱぁっと広がっていく。

 まるで、中途半端な治癒を施した傷口が、毒華のようにぱっくりと開いたようだった。

 今のルイズは、自らそこを冷水に突っ込んだようなものだ。ただ理不尽な痛みだけが、彼女を苛まさせる。 

 

 けれどそれは、理不尽ではあれど、無意味ではなかった。

 それは敗北の宣言でもなければ、無様な白旗を振る行為でもなかった。

 

 

 成長する為に伴う苦痛。地を這う芋虫が、蝶へ羽化する為に必要な原動力。

 暗闇の先の霞む様な光を掴む為に、自ら黒の深みに飛び込む蛮勇。

 

 ――身を焦がす激情は、何も結果を齎さない。

 

 それは、確かにそうだ。少なくとも、幼い頃から今までは。 

 劣等感。羞恥。絶望。失望。その他の苛烈な感情は、ただ焦りを産むだけだった。

 

 使い方が、間違っていた。ルイズの選んだ答えはこれだった。

 何もかも何もかも何もかも全てが、全ての忌まわしき過去が、経験が、今のルイズを作り上げていたとしたのなら。

 それを、忘れることは出来ない。捨てることは出来ない。

 利用すればいいのだ。怒りも嘆きも苦痛も絶望さえも、先に進む力に変えてしまえばいいのだ。

 

 魔法が使えないというのなら。それならそれで構わない。

 きちんと前を向いてさえいれば、いつか歯車がかみ合うときも来るだろう……そう、信じている。

 今すべきなのは、今ルイズが欲しているのは、純粋な『力』だった。

 自分が自分であると証明する為の、力が、欲しい!

 

 

 そうだ、その方向でいい。

 闇の中で、幼い自分が、立ち上がっている。儚い笑みを浮かべながら、黒い靄を全身に纏っている。

 それらを残さず内の中に入れて、幼き少女は満足げに頷いた。これが私であり、これがあなたなのよ。

 黒犬はくぅんと寂しげな声をだした。幼き少女はその頭に小さな掌を乗せた。ルイズは目を開いた。 

 

 

「いつか、『貴方』ともきちんとケリを着けるわ」

 

 

 真剣に考えないことにしていた事実がある。

 いや、考えないように『してもらっていた』というほうが適切だろうか。

 

 どこかで、身体の一部が『欠けて』しまった使い魔の本体の存在。

 世界のどこかに、そのものがいるはずなのだ。ならばメイジとして貴族として、そしてルイズとして。

 彼女は、その責任をとり、この愉快なナニをきっちり返す義務がある。 

 紛いなりにも、この使い魔は己を守ってくれていた。ルイズが必要としてなくても、確かに暖かいものをくれたのだ。

 その忠義には、報いなければならない。

 

 

 僅かにこびり付いた頭の冷静な部分が、無理だ無謀だと囁く。うるさい。恥ずべきものは忘れてしまえと言う。黙れ。

 巨木の様な困難や大石の如き試練が、この先、彼女の前に立ちはだかるだろう。

 それが、どうした! 

 

 運命。困難。試練。自身を妨げるもの全て全て全て、この手で薙ぎ倒す。

 負けてなんか、いられない。神様のさだめからも、暗い現実だって、チンコだって!

 

 

「全部全部、ぶち殺してやるわ……!」

 

 

 獣の様に笑い、赤く腫らした瞳はギラギラと煌く。

 ルイズは、べったりと背にひっついた扉を引き剥がし、堂々と立ち上がった。 

 祝福するように、後押しするように、見守っているように。

 左手のルーンが、優しい輝きを放っていた。

 

 

 

 

 

 

 なお、翌朝ルイズは夢精した。

 

 

 

 




色鉛筆にまたがって ゆくぞ地獄へ菓子買いに


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第九話

 

 

 ルイズは傷ついていた。どこがどう怪我をしただとかそういう具体的な話はさておいて、とにかく傷ついていた。

 なんか剣的な物を地面に突き立てて、身体の支えにする。ルイズはとにもかくにも傷ついていて、まぁ満身創痍的なあれだった。

 

「くっ……母様……」

 

 世界の平和と想い人の命を天秤にかけざるを得なくなった勇者の如く凛々しい顔で、ルイズは呟いた。

 なんやかんや意見の相違の様なあれこれがあったとは言え、相手は母親。その母親と敵対することになるなんて……

 美しい少女の瞳から流れる宝石のような涙は、煌びやかな光を放ち、神々しい虹を作る。

 深く辛い悲しみがルイズを満たす。ああ、どうしてこうなったのだろうか。

 苦悩の眼差しで天空を見上げれば、おお、そこには母であるカリーヌのカッター・トルネードが牛さんとか豚さんとか父様とかなんかそんなのを弾き飛ばしている!

 なんだかんだあってとにかくルイズに説教かましたいが為にカリーヌが放ったスクエアクラスの魔法は、なんだかんで世界の三分の四ぐらいをミンチにしたのだ。なんだかんだで。

 

 ルイズは立ち上がる。ここは、自分がやるしかないのだ。かちりと剣のようなものを横に構える。ルーンの極光が果てない地平線を貫いた。

 

「ミス・ヴァリエール!」

 

 背後から聞こえた声にルイズが振り返ると、そこには珍しい黒髪が特徴のメイド、シエスタが立っていた。

 愛嬌の有る垢抜けない顔つきのメイドは、人類の平和の為に実母と戦う少女ルイズを応援する為、このクソみてぇな地獄(ヴァリエール領)に単身乗り込んだのだ。そんな感じの話なのだ。

  

 

「シエスタ! 学院はどうしたの?」

「滅びました」

「そう」

「そんなことより、ミス・ヴァリエール、ああ、なんてことでしょうか、もうルイズ様の貴族サマがこんなに立身出世……」

「あ、駄目、ちょ、あ、あ!」

 

 ルイスはここで達した。

 終わり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ホンット、最低……ごめんなさい……」

 

 半ば無意識ではあったが、生まれて初めて、ルイズは平民に心籠る謝罪の言葉を送った。

 申し訳ない気持ちでおっぱいだった。殺すぞ。 

 

 

 

 

 

 白い粘着性のウォーター・カッターは、主にルイズの心をめたくそに汚しきった。やっぱり亡き物にしたい。ルーンが光った。はいはいわかったわかった。

 

 さておき。

 

 またまた不幸中の幸いだが、『それ』の後は、やたら目が冴えてまだ日が昇る前に行動することが出来るのだ。

 よって、無惨に汚されたシーツやらネグリジェを人知れず洗うことが出来るのだが、もし、この先も『コレ』が続くのならば、こうなればもういっそ裸で寝たほうがいいのではないか。

 ルイズはそう思った。なんせ手間が掛かるし、寝具などはまぁどうしようもないとしても、毎朝人目を忍び下着や寝巻きを洗い続けるのは、ちょっと怪し過ぎる。

 難点と言えば、裸でいることによって常にナニを直視してしまうことだが……もう、それはしょうがない。

 女性であり乙女であるルイズから見れば、悪ふざけとしか思えないこの特異な形状は、もうげんなりしかしない。けれど、いつまでもそんな甘ったれな考えでは駄目なのだ。

 昨日夜遅く風呂に入る時だって見ざるを得なかった訳だし、実を言えば、きちんと洗っている。もう死にたい。だけど洗えたのだ。嫁入り前の子女が。チンコを。やったね。やってねぇよ殺すぞ。

 妙に行く回数が増えた結果として、トイレにも慣れた。そして男性器使用による排泄行為は、そのぷるんぷるん棒を制御しなければならない。

 ほらほら黄金水が飛び散っちゃうよ、触ってね、握ってね、ということだ。ルイズの目は濁るが、膀胱は澄み渡る。

 

 慣れなければならない。怒りも悲しみもうぉえとえずくこともルイズは否定しないが、前を向く為には、それら感情とよくよく付き合っていかなければならないのだ。

 ほら、そう思えば、使い魔(の一部)であるチンコにだって愛着が……湧く訳ねぇだろ殺すぞ。

 

 

 

 賑わいをみせる食堂にて。

 イラつきをぶつけるように、ルイズは朝食をがっついていた。

 食物を貯める小動物のように頬を膨らませているその様は、本人の童顔と相まって微笑ましいものに見えなくも無い。

 けれど、見た目小柄な少女の内に収まるにしては、その量は明らかに間違っている。なまじ作法だけは完璧なだけに、余計に冗談のようだった。

 その様子を周りは奇異の目で見ているが、それだけだ。直接声を掛けることはしない。

 ルイズもまた気にしない。そもそも、他にもっと考えることがある。

 

 

 これは、本能による直感だった。分かるから、そう思う。原始的で根源的な、ヒトに備わる判断能力。

 それらを使いルイズが導き出した答えは――朝の悪夢は、使い魔もチンコも関係ない、自分自身が見た夢なのだ、というあまりにもあんまりな裁断だった。

 

 すっ、と瞬間的に片目を瞑る。意識する。供に在る存在を。

 闇の世界で、黒犬が座っている。その頭を、幼いルイズがてしてしと叩いている。やつあたりだ。犬はじっと目を瞑っていた。尻尾はびんびんのぶんぶんだった。マゾか。

 目を開ける。口の中には豪華な朝食が詰まっているので、ルイズは溜息さえつけなかった。

 

 男性器が使い魔、というよりは、そのナニは呼び出される筈だった使い魔の一部だ、というのがルイズの見解だ。

 つまりルイズと一体化しているナニは、ルイズの物であると同時に、その『呼び出される筈だった使い魔』の物、もっと言えば、黒犬の本体の持ち物なのだ。

 そしてルイズの精神に棲む黒犬は、どうやらある程度チンコを制御できるらしい……授業中の完全フランソワーズ状態がその証左だ。

 あれは、魔法失敗、爆発魔法を使うことででルイズの心が傷つかないようにする為の、あれなりの処世術だったのだ。それは分かる、分かるのだが、やり方を考えなさいよ馬鹿犬。

 それに気付いた、気付けたルイズは、寝る前、二度と白いごにょごにょを出さないように! 殺すぞ。と猛吹雪さえも暖かく思える極寒の呟きを放ったのだった。

 

 結果は二度目の夢精である。現実はただただ彼女に厳しい。

 そしてそのヴァリエール・ブレイクは、黒犬――使い魔はとくに関係していないことなのである。

 

 つまり、ルイズのルイズはあくまでルイズにくっついていて、ルイズのルイズがその本領を発揮するということは、まごうことなく、ルイズの意思が顕現しているということ。

 残酷な結論を語ると、己の姉やあのメイドと、ルイズは『そういうこと』をしたい、性を発散したい、ということだ。あんまりだ。ルイズは大きい肉にかぶりついて、ほどほどに柔らかい筋繊維をぶちんと引き千切った。

 百万歩譲って、姉、ちいねぇさまの件は、姉妹同士の戯れと言えることも、言えることも……あんなのが? まぁ、そういうことにしておくことも、出来なくないことを前向きに検討しつつ俯瞰的な目線で事態を見極め善処するよう努める。政治家かな? 

 

 だがしかし。

 

 あの黒髪メイド、シエスタにいたっては完全に確信犯だ。件の純朴そうな少女は、汚される為にルイズの夢に出て来たと言っても過言ではない。

 ひたすらに申し訳ない気持ちになる。平民とか貴族とか。そういう立場の違いとかなんとか。そんなものより以前の問題として、失礼であり侮辱なのだ。シエスタに対して。女性として。

 会ったばかり、少し話した程度で、即座に性の対象として見る。貞操観念の固いルイズは、そのことがなにより許せない。まるで下賎な獣のようではないか。

 

 

 早朝、水汲み場にて、昨日と同じようにシエスタと出会ったルイズは、少しだけ、彼女と他愛のない会話をした。

 

 

 ルイズは気まずさ全開だったので軽い挨拶だけに止めようとしたのが、なんとシエスタの方からルイズに話を振ってきたのだ。

 いわく、御身体は大丈夫ですか、と。

 大丈夫じゃないわよ、チンコ暴発大噴火的な意味で。とは勿論言わず、何のこと? と引き攣った笑顔でルイズが問えば、シエスタは昨日の広場のことです、と言った。

 聞けば、彼女は昨日の出来事、ルイズが爆発を持って火球を消し去ったところを、部分的に見ていたらしい。その後の、苦しそうな顔と早足で去る様も。

 御身体のことをお聞きしようと思いましたが、お急ぎのようだったので、とシエスタは申し訳なそうに呟いた。ルイズは安堵した。なんせ、その後盛大に勃起しているのだ。見られなくてよかった。くそう。

 それはそうと、ルイズはシエスタに向けて、何も問題ないわよと笑った。本当の意味で、穏やかに笑った。可憐な華のようなたおやかな笑顔だった。

 

 食事の中で、ルイズはシエスタを思い出す。最初の出会いは彼女のドジから始まったが、なんとも良い子だ。純粋にそういう印象を受けた。

 地味だが、気を使えて、暖かい陽だまりのようで、厚いメイド服に隠れているがおっぱいは中々。

 真なる貴族とは、ああいう平民を守り尊重するものだ。ルイズはうんうんと頷く。おっぱいは大事だからね。

 

 ――違う!

 

 ガリッ、と肉の骨の部分に歯を立てて、ルイズは顔を険しくさせる。真なる貴族がおっぱいに惑わされる訳ない。

 なぜだ。なぜ己はこんなに胸に執着をみせるのだ。魔法や家名の大きさに次ぐ劣等感、それが、自身の貧相な体型、そのはずなのに。

 片目を瞑る。予感があった。黒の帳で、幼いルイズがガンガンと黒犬の頭を叩いている。黒犬はまるで『俺は何も知らないぜ?』といわんばかりにそっぽを向いている。怪しすぎる。

 

 やっぱり、こいつか。

 

 目を開け、水で口内を流し、ルイズはそこで溜息をついた。

 

 ルイズは、ふと、以前読んだ本を思い出した。

 大国ガリアで流行っているという、妙齢の女騎士の活劇を描いた物語。

 そこに、ミノタウロスに変性してしまったメイジの話があった。

 そのメイジは本質的にはヒトなのだが、身体は亜人。よって、精神が獣に引っ張られている……という設定だった。

 

 つまるところ、今の自分は、それと近しい状態にあるのではないか、ルイズはそう考える。

 無論、あれは創作なのだろうが、状況を考えれば参考にはなる。己では制御出来ない領域があるという点で。

 一体となっている男性器が、思考に影響を与えている。結論はこれだ。あの使い魔のあんちくしょうは、どうやらおっぱいが好きらしい。そして自分は、その嗜好を引き継いでいる。率直に言って死ね。

 それは絶対に認められない、認めたくないことだったが……

 

 

 

 けれどルイズは、それならそれで構わないと思っていた。

 

 

 何もかも。

 何もかもを呑み込むと、ルイズは決めたのだ。自分が自分である力を手に入れる為に必要なのは、無為な否定ではない。

 受け入れるというよりは、要は卸しきればいいのだ。内なる獣を。出来る出来ないではなく、やるのだ。持つのは覚悟と決意。それだけだ。

 例の物語も最終的には、ミノタウロスになったメイジはヒトの心を取り戻していた訳だし。ルイズは物語の結末を反芻する。

 

 

 まぁあれは、女騎士の友人という、黒髪の謎の女性がもつ謎の魔道具によるものなのだが。謎だらけだ。

 ときたま現れる謎の女性(どういう訳か見た目の描写は女の筈なのに一度も「女性である」という決定的な文節が無い。その辺も謎である)の便利道具を用いて、女騎士が様々な人物を誑し込む、というのが主な話の流れなのである。

 幼い吸血鬼なり翼人なり喋るナイフなりなんなり、夫の不貞に嫌気が指したため騎士になったという過去を持つ妙齢の女性は、ヒト妖魔亜人男女区別なく果ては無機物まで容赦なく魅了し、そのやりたい放題のサマが市井に受けているという。

 次巻はとうとう人類の敵、エルフと対峙するらしい。まさか、それさえも誑し込むというのか。それは始祖ブリミルの教え的な意味で大丈夫なのか。買わなきゃ。ルイズは人知れず決意した。

 

 

 思考の方向がずれているのが分かって、ルイズははっと首を振った。

 そして首を振ったことで、離れた席で食事をとっているキュルケと目があった。あってしまった。

 尋常じゃない食欲を見せる彼女に、キュルケは戸惑いの色を見せている。ルイズはキュルケの首下についている甘い甘いクックベリーパイに釘付けだ。

 なんといういけない果実。主張が激しすぎてはち切れんばかりの肉風船は、まるで地獄への道先案内人だ。 

 

 ルイズは空っぽになった皿へと顔を向けた。表情をまっさらなものへと変える。宿敵を屠らんとする戦士のように澄んだ顔だった。

 

 巨乳は敵! 敵なのだ! そんなものに現を抜かすなんて、姉(胸部に美しい平面図形を描いている方の姉)に申し訳が立たない! 

 憎め! 大きいおっぱいを憎め! もげてしまえ! 平らになれ! 私のように! ああああ、もういっそこのナイフであのユメとキボウを切り取って……

 

 バリッ、とまるで稲妻のような光が、左手のルーンから放たれた。

 そこで、ルイズは身体が異様に軽くなっていることに気付く。それは覚えがある衝動だった。

 きょとんとした顔で、ルイズは暫し動きを止める。巨乳への敵意はそのままに、ルイズはカタンと左手に持ったナイフを落した。身体の軽さがなくなる。

 また手に持つ。きぃんと何かが噛み合う音が、魂の奥で響いた。ナイフの適切な使い方が、適切な『武器』としての使い方が、頭の中に流れてくる。

 

 驚きは一瞬だった。次の刹那には、既に『どういうことか』を考えていた。その場でルイズは両目を瞑って、数瞬の間思考の海を漂う。

 考える。頭を回す。この符号。意味合い。方向性。目的を思い出せ。感情の揺れ。武器としての認識。使い魔のルーン。黒犬が吼え、幼い自分は歓迎するように微笑んだ。

 吹きぬける熱のように、ルイズを妨げるものは何もなかった。過去の屈辱。どうしようもない焦燥。それらを全て、前進する為の気勢へと変換させる。

 

 躊躇うことなど、微塵も無い。

 喧騒は遠く、頭の中には未来だけが回っている。

 

 

 全ての運命が一つの道に繋がっているとするのならば。

 ルイズがその力に気付けたのも、流れの中の巡りあわせなのだ。

 それがたとえ、おっぱいへの敵意により齎されたものだとしても。なにがおっぱいよ揉み殺すぞ。

 

 

 



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長い一日
第十話


 武器を握れば、その最適な使い方が分かる。おまけに身体能力が強化される。

 

 

 これが、ルイズの推測だった。ルイズに与えられた、使い魔のルーンが齎しているだろう、天恵の如き力。

 理由や仔細はどうでもよかった。なぜそうなるだとか、なんでこんなものが、と考えるのならば、そもそもチンコとか訳わかんない。

 だから理論的なものは全て無視した。純然たる『力』として、ルイズはただ有りのままを受け止めた。

 

 武器。

 

 大貴族の子女としてルイズには、馴染みの無いものだった。

 そもそもメイジとは杖を使うものだ。どちらかと言えば、杖とは己の半身的な扱いである。

 あくまで印象だけで言えば、武器という言葉は野蛮な側面が目立つ。少なくとも、ルイズはそう思った。そういう考えが確かにあった。貴族には似合わないものだ、と。

 例えば剣なり。もしくは槍なり。

 そういったものは平民の衛兵や傭兵が使うものなのだ。

 仮に剣を使うメイジがいたとしても、その剣自体が杖である、というのがほとんどである。

 

 

 そもそもの話。

 武器の定義とは、如何なるものなのか?

 剣は武器だ。槍も武器だ。巻き割り用の斧だって武器として使える。では、食堂にあるナイフは? 杖は? 杖から出る、魔法ともいえない爆発は?

 どこからが『武器』で、どこからがそうでないのか。

 

 

 方向性の問題だ。何もかもが。

 

 

 ルイズは自室に立っていた。左手にはタクト状の愛杖があり、けれどルーンの発光はなければ、あの身体が軽くなる感覚もない。

 指向性、意思の行く先の話なのだ。全ての事象において。

 

 ルイズはすうと息を吸う。

 ゆっくりと、息を吐く。吐く、吐く、吐き続ける。息吸は身体を固くする。内なる空気を全て吐き出し、心身を穏やかで透明な状態に持っていく。

 魔法を使う為に、使えるようになる為に学んだ精神集中法を使い、ルイズは今、世界が誇る一つの真理を捨てようとしていた。

 

 杖とは貴族の誇りであり、象徴である。

 

 お笑いだ。そんな考えだから、手にある杖がルーンに反応しないのだ。だって、己がそれを武器と認識していないのだから。

 

 思い描く。自分が持つ力。本来であるならば、忌み嫌うべき、憎むべき、嘆くべき、失敗の力――爆発。

 全てをなぎ払う爆風を、己の魂に刻んだその刹那、左手のルーンが、煌びやかな光を放った。

 

 同時に、宙に舞う羽のような、身体の重さを感じぬほどの突き抜けた力を得た気がした。

 ついでに、杖の使い方が、分かる――無論ルイズにとってのそれは、爆発を産むことしかないのだけれど。

 

 

 満足げに、にっこりと笑う。そうだ、これでいい。

 食事用のナイフは、ほとんど全ての場合武器ではない。あれはあくまで食器であり、食事をするのが本来の用途なのだ。

 では、白銀煌く薄っぺらいナイフは、絶対的に武器になりえないのであろうか。

 では、誇りと象徴の杖は、ただ儀礼的なものでしかないのか。

 

 違う、違うのだ。

 要はその気になりさえすれば、何だって武器になりえるのである。ナイフだって、杖だって――失敗魔法だって。

 

 外は闇の帳にしまわれていて、閉ざされた部屋の明光だけが、佇むルイズを照らしている。今の彼女に、戸惑いや恐れはない。

 無意味に怯えたり、迷ったり、今の自分を否定する段階は終わったのだ。これが己に与えられた力だというのならば、それを使いこなしてやればいい。

 

 ルイズは杖を机の上に置いた。流れるようにベッドに飛び乗り、倒れこむように寝そべった。

 ぼんやりと天井を見ながら、考える。

 力が欲しい。認められるだけの、自分だけの力が。

 もっと、もっと深く考えるべきだ。ただ漠然と思うのではなく、無為に願うのではなく、より具体性のある答えを出すべきなのだ。

 

 

 ――明日は、虚無の曜日ね。

 

 

 左手を真っ直ぐに上へと翳し、まるで何かを掴み取るように、ゆっくりと指を曲げていく。

 ルーンに秘められた力に気付いてから今まで、熟考する時間はたっぷりとあった。

 休日である明日は、その考えを形にして、新しい一歩を踏みしめる日なのだ。

 

 ふいに思う。上げられた掌がルイズの顔に影を落した。

 

 今ある考えは、想いは、ただの幻想にしか過ぎない皮算用でしかないのだろうか。

 所詮子供の、現実が見えていない甘い甘い愚考なのだろうか。

 

 それすらも全部、自分次第だ。もう決めているのだから。邪魔な物は全て、ぶち壊すと。

 

 やってやろうじゃない。いや、やってやるわ。

 ルイズは不敵に笑い、部屋の明かりを消して、眠りについた。

 

 

 

 ちなみに彼女は裸である。全裸である。

 

 

 どうしてかと言えば、ルイズ棒から出る白いネバネバ対策だ。 

 朝起きるたびにばっきばっきのどびゅっしーな為、下着等を洗う手間を考えて、あえてこうしているのである。

 御蔭で洗うのはシーツだけで済み、その言い訳は『寝汗をかくから』というそれらしいもので終わる。

 事実、毎朝毎度のように会うメイド、シエスタにはそう言う風に誤魔化している(シエスタに私がやりましょうか、と進言されたのだ。任せられるわけが無い。ルイズはこれ以上彼女を汚したくないのだ。なお夢精)

 

 

 部屋の中でナニをぶらんぶらんさせているのは、ひたすらにルイズの乙女的な部分をガリガリと削っては行ったが、まぁ慣れとは恐ろしいものである。

 彼女はすっかり裸族になってしまった。これはこれで開放感があるし、チンコだって見なきゃいいだけの話である。

 

 けれどこんな姿。

 母親に知られたら、あまりにもはしたなくてきっとカッター・トルネード。服を刻まれて結果的に全裸になる。なんだ今と変わらないじゃない。

 

 ばれなきゃいい、それだけだ。ばれなきゃ。

 散漫な思索は泥の睡魔に沈み、ルイズはまどろみのなかに、ゆっくりと落ちていく。

 

 

 

 ばれなきゃいいとしたら、では、ばれたらどうなるのだろうか。

 油断は禁物なのである。

 明日が休日でなければ。休日の為、ルイズの精神が無意識下で、いつもより長く寝られる、なんて判断を下さなければ。

 ああ、あんなことには、ならなかったのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ごうごうとうねる様な暴風が、存在するありとあらゆる物を切り刻んでいく。

 草も木も石も鉄も建物も動物もヒトも亜人も父様も。とにかく全てが、カリーヌのカッター・トルネードの餌食になってしまった。

 地理的な定義上正しいかはともかくとして、ルイズはなんか荒野っぽいところにいた。こう、石とか、岩とか、むき出しになった茶色の土がある、草木ない土地である。それっぽい。

 息も絶え絶えになって、ルイズは罅割れた岩の隣にガクリと膝を突いた。手に持っていた剣のようなものはカリーヌの手刀(!)で粉微塵(!?)になり、哀れ根元だけになった柄だけが彼女の味方だった。

 

 ――もう、時間の問題ね。

 

 ルイズは儚く笑った。

 偏在の魔法を駆使して二十人になったカリーヌのカッター・トルネードは、世界の五分の四をミンチにした。

 かつての学び舎はとうに滅び、正確にどこがどういう被害を受けたかはともかく、とにかく世界が危機だった。

 けれど、救世の英雄になれたらいいなと思っているルイズは、しかしカリーヌには敵わない。なんたって母親だから。母様だから。

 

 それでもルイズは戦わなければならないのだ。その理由は、こう、あの、その……なんだ……オラァ! 

 

「ミス・ヴァリエール!」

 

 聞こえてきた声にルイズが振り向くと、そこには程よい肉付きのメイド、シエスタが立っていた。

 見た目性的には捉えにくい実用的なメイド服を纏っている彼女は、むしろだからこそ、なぜだか扇情的に見える。ここは戦場だからね。

 

 

「シエスタ! あなた、実家に戻ったんじゃ……まさか、ミンチに」

「いえ、寸でのところで、ヴァリエール公爵様がその御身体を御張りになって下さり、被害は最小限に留まりました」

「流石父様」

「私が言うのも無礼千万でしかないのかもしれませんが、御立派な貴族様でございました。だから私は、彼の方の意思を組み、忠義を尽くさなければなりません」

「あっ、シ、シエスタ! だ、駄目よ、そんな、ああ、そんな、そんな大きい忠義で挟むなんて……」

「ふふふ、じっとしてて下さい……ああ、ルイズ様の大通りが、私の忠義でこんなに勃興振起……」

「ううう、駄目っ、シエスタ、あ、ああっ」

 

 

 ルイズはここで達さなかった。

 終わらない。

 

 

 

 

「カッター・トルネード!」

「きゃあー」

「し、シエスター!」

 

 シエスタは唐突に吹き荒れた烈風に弾き飛ばされ、良人に嫁ぎ、幸せな家庭を築いた。よかった。

 

「ルイズ、杖を抜きなさい」

 

 よくない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 基本的に逃げの姿勢はとらない、というのが、キュルケの方針だった。

 それは恋愛的な意味でもあり、人生的な意味でもあり、人付き合いに関しても、またそうだった。

 

 虚無の曜日。学院の学院たる赴き、つまり、学業を学ぶ場所としての運用は、今日は停止。

 休日を謳歌する他生徒のように、キュルケもまた、たとえば男友達と友誼を交わす、というのがいつもの過ごし方だった。時には「友愛」以上の事だって、何度か行っている。

 

 

 けれどキュルケは今、朝も早い時間、誰とも語り合うことをせず、自室の隣、ルイズ・フランソワーズの部屋の前に立っていた。

 

 自分はなぜここにいるのだろうか、今際になって、キュルケは自問する。なんで私はこんならしくないことを、と。

 簡潔に言ってしまえば、キュルケは朝一番にルイズを捕まえ、少し遠出――トリステインの大通りにでも行かないかと誘うつもりなのである。

 

 文字面だけを見るのならば、別におかしくもないことではあるが、実際、ルイズとキュルケはそういう関係ではない。

 キュルケの方はまだともかく、少なくともルイズは、相手のことを不倶戴天の敵と見なしているのだから。

 それを、キュルケは分かっている。ルイズが己をどう思っているのか。少なくとも、好かれてなどはいるまい。

 

 では何故、今日、キュルケはルイズに外出の誘いを持ち掛けようとしているのか。それは、ここ何日かのルイズの言動を鑑みてのことだった。

 

 使い魔を召喚してから、あの少女の行動は、ひたすらにおかしいことばかりだ。

 初日の笑顔。おっぱいおめでとう。授業で暴れだしたという謎の何か。その日以降のギラギラとした眼つきと、闇のように纏う硬い雰囲気。

 どこがどうおかしいと言えば、もう全部おかしい。

 ルイズはあからさまに聞こえる侮蔑の言葉に何の反応も見せず、得体の知れない覚悟を決めた様な透明な瞳を煌かせていた。

 怒りも見えない。悔しさも見えない。癇癪は起こさない。

 実際あの少女の中でどんな感情が渦巻いているかはともかくとして、表向きには、ルイズは不敵に、不気味に、ただ淡々としていた。

 

 それは、あの少女が、誇り高き、己の好敵手に成りえるヴァリエールのルイズが、何か、別な存在に変遷していく様で――

 

 もしそうだとするのなら、キュルケにはそれが我慢できない。

 

 変わらないといけないとは思っている――先日のルイズの言葉だ。

 

 あれが、彼女の持つ輝きを高める為なのなら、それはそれで構わない。むしろ、望むところでもある。己が今まで発破を掛けるような言葉――ともすれば、悪態ともとれる言葉――を投げていたのは、ルイズが殻を破るまで折れないようにするためだったのだから。

 善い方に変わるのであれば、自分は胸を張って彼女と相対することが出来る……

 

 しかし、そうでなかったら?

 

 もし、ルイズが何もかもに絶望して、全てを諦めて、彼女が言う貴族の誇りを捨て去ろうとしているのなら?

 

 

 そんなこと、許せるわけがなかった。

 キュルケに選択権の無いルイズの個人的な事情であってもなお、彼女にはそれを看過出来ない。

 ぴかぴかに光りうる宝石の原石を、無闇に投げ捨てるような行為なんて。

 

 

 だから、キュルケは知るつもりだった。彼女が何を考えているのか、これからどう変わっていくというのか、知りたかった。

 けれどもキュルケはルイズと友人関係とは言えず、会話らしい会話もない。そもそもルイズには友人と言えるものがいない。

 使い魔召喚から今日まで、キュルケは何度かルイズに話し掛けようとした。

 本題ではなく、あくまで他愛ない会話から、ルイズの今の性質を見ようとしたのだ。

 しかし、やたらギラついた瞳でこちらを見るあの少女の気迫に、キュルケは押されてしまっていた。そんな一幕に、またキュルケは悩み、考える。

 

 ――逃げ場をなくす。それがキュルケが出した答えだ。一度一緒に出かけてしまえば、会話の機会なんて、イヤと言うほど在る筈だから。

 

 

 覚悟を決めろ、キュルケは口の中でそう呟く。

 彼女は己の全てに自信を持っており、無論実力も兼ね備えている。

 だからこそ、己の弱さや気後れを認めるのも早かった。

 らしくなく、あの少女を気にしてしまっていること、あの少女ときちんと話したいこと、その上で、あの少女の未来を見てみたいこと。

 全てを内なる心に入れたキュルケは、見せ付けるように開いた胸元から杖を取り出して、ルイズの部屋の錠前に突きつける。 

 

 

 先ずは第一歩だ。扉の向こうに少女が居る。最早キュルケに迷いはない。

 もしかしたら未だ寝ているかもしれないが、それならそれで好都合だ。

 頭が良く回っていないうちに拉致して、なし崩し的に交友すればよい。

 

 

「アンロック」

 

 

 規則違反の開錠魔法は、問答無用に効果を発揮した。

 

 地獄の扉が、ゆっくりと開かれていく――

 

 

 

 ルイズの部屋に侵入したキュルケが、先ず一番に正しく認識したのは音だった。

 かたん、という儚い音。どこから聞こえてきたのか分からないそれは、まるで遠くの砂漠から響いてるような非現実さに満ちていた。

 次に認識したのは、先の音が己の手から落ちた杖から発せられたものだということだ。足元に転がるそれを、けれどキュルケは見る事が出来なかった。

 口が乾いているのが分かった。中の水分が一瞬で蒸発してしまったか如く、加速的に干上がっていく。

 キュルケの脳内は瞳に映る情報について思考するのを拒否していた。だからそれ以外の五感が冴える。自分の息遣い。あの子の寝息。微かに漂う雄の臭い。

 

 ――なんだって?

 

 嗅覚は遮断できない。現実はただそこにある。キュルケの視覚がようやっと事態に追いついた。追いついてしまった。

 

 

 

 ベッドの上でルイズが寝ている――問題ないわ。気持ちよさそうに寝ているし、「だめぇ」とかいう可愛らしい寝言も発している。

 

 なぜか全裸――ま、まぁ、ね、そういう気分の日もあるでしょう。それは個人の嗜好だからね? ふふ、相変わらずの幼児体型ね。

 

 チンコが生えている――チンコが生えている。

 

 チンコが勃っている――チンコが勃っている。

 

 

 いやいやいやいやいやいやいや。

 

 

 役に立たないクソったれの瞳を、一回抉り出して綺麗に洗浄したい気持ちになった。きっと、汚い泥が二つの目に溢れていることだろう。

 ごしごごしごしと目を擦る。チンコはチンコであった。どうあがいたとしても、全世界的な規模の真理で、寝ている可憐な少女に怒張したチンコがついている。

 

 ごくり、とねっとりとした泥をどうにか飲み込めたような、くどい嚥下音が耳に届いた。それが自分のものであると気付くのに、また時間がかかった。

 キュルケは動けない。言葉さえ発せられない。目を逸らすことなんて、出来るはずも無かった。

 視線の先の少女は、未だ起きる気配が無い。

 ルイズの美しい髪の毛が、放射状にベッドに広がっている。その流麗な桃色に相応しい、人形のように整った顔は、穏やかな表情を以って瞳を瞼で隠していた。

 お世辞にも女性らしくない未発達の身体や四肢は、改めて、こうしてきちんと一つの寝床に収まっている様をみれば、どうしようもなく倒錯的で、危うい妖艶さがあった。

 胸の桜色の乳首は僅かなふくらみの上にちょこんと乗っかっていた。ややあばらが浮いた脇腹は、白磁の様に端麗な肌を際立たせている。

 心臓部から腹部にかけては少女の呼吸に合わせてゆっくりと上下しており、か細いながら、確かにそこにある生命を感じさせるが如く規則的だった。

 チンコが勃起していた。 

 

 

 いや、いやいやいやいやいやいやいや。

 

 キュルケはその場で首を振った。五往復ぐらい振った。視線を元に戻す。ルイズのチンコはなくらなかった。それどころかバッキバキである。

 なんだこれ。なんだこれは。どうしたらいいのか。

 もし「隣部屋の少女にチンコが生えていた。少女は寝ており、全裸で、ぼっきんきんだった。さて、どうしよう」という頭が沸いた問いがあったとするのならば、一番丸いのは、見なかったことにする、というのが妥当であろうか。

 どうしようもないことに立ち向かうのは英雄か愚者かどちらかだ。そしてヒトのほとんどは、己が英雄であるとは思っていないし、また愚者になりたくもない。だから無難な選択を取る。

 

 すっ、と音もなく、キュルケの足が前に進んだ。キュルケは英雄だった。もしくはとびきりの愚者だった。

 度を越えた驚愕は、人から正常な判断力を奪い、時として突飛な行動を取らせてしまうという。

 衝動に後押しされた者特有の、荒い鼻息が、ルイズの寝息と同調した。

 

 

 キュルケは一つの声も上げなかった。初心なオボコではあるまいし、それは、そこそこ見慣れたものだったから。

 けれど恐怖は感じていた。心のどこかで、異常事態に警鐘が鳴っているのには、気付いていた。

 

 それでもキュルケは、白痴の様に、幽鬼の様に、覚束ない足取りで、ふらふらと、吸い込まれる様に、芸術が眠るベッドへと歩を進めていく。

 無言だった。無言でベッドに飛び乗った。天使を包む寝台が、誘惑された捕食者の重みでぎしりと僅かに揺れて、しかしルイズは起きなかった。

 キュルケは頬に熱を感じた。己の口から自然に漏れ出た、はぁと言う吐息でさえも、微熱では済まされない温度が込められていた。

 恐る恐る、キュルケは禁忌へと手を伸ばした。

 赤子が初めて見る玩具に振れようとするように、おずおずと、ゆっくりと、褐色の手指を、ルイズの下腹部に生えているナニへと向かわせ、そして、その五指が、包み込む様に、閉じて行く――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ファイヤー・ナンチャラ!」

「ぐわー」

「だ、誰!?」

 

 今まさに実母から説教(スクエアスペル)を受ける寸前だったルイズは、しかし刹那、現れた炎的な魔法に救われた。

 あの恐ろしく母親さえも退ける魔法を放った下手人へと、弾かれたようにルイズは目線を向けた。

 

 そこにはおっぱいが立っていた。

 

「きゅ、キュルケ!」

「はぁーい、ルイズ」

「く、巨乳は相手が悪い……ルイズ、お説教は預けておきます! 首を洗って待ってなさい!」

 

 叫んだ公爵夫人がマントを一振りすれば、霞のようにその姿が消えていく。そんな魔法があるかルイズは知らないが、まぁ母様だし。

 待ってなさい、待ってなさい、待ってない……残響する捨て台詞の擦れた先に、ルイズはおっぱいを真っ直ぐに見つめた。

 一時的なものとは言え脅威から解き放れたルイズではあったが、その心は晴れたものではなかった。

 

「何よあんた……私を、笑いに来たわけ?」唇を少し尖らせて、拗ねる様にルイズは言った。仮にも恩人に対しこの言い方はどうかと自分でも思ったが、それでも止められなかったのだ。

 

 だって、おっぱいの魔法は凄いし、おっぱいの背は高いし、おっぱいは魅力があるし、なによりおっぱいのおっぱいがでかいのだ。

 そんなおっぱい・ツェルプストーが目の前に居る。ルイズは自然、己の矮小さを噛み締めてしまうのだった。

 しかしおっぱいは、いつものように堂々と、憎たらしいほどに、羨望してしまうほどに大人びた仕草で、赤い長髪をかき上げた。これだけでなんかエロい。

 

「つれないわね。せっかく助けて上げたのに」

「余計なお世話よ」ルイズはそっぽを向いた。自分に非がありおっぱいに恩があるのは分かっていた。だけど、どうしても素直になれなかった。

 

「私は、助けなんて要らないわ」

 

 ルイズがそう言った途端、おっぱいは刹那にルイズに近接し、超高速の手腕を以ってルイズのルイズをぎゅっと、こう、あれした。 

 

「う、うぁ!?」

「強がっちゃって。あなたのサラマンダーはこんなにフレイムしたがっているのに」

「や、やめっ、止めなさい!」

「あらあら、威勢だけは一人前ね。なら、これはどうかしら?」

「あ、ぁぁあ……そ、そんな、駄目ぇ、う、うまいぃ、あ、ぅあ……だめ、なのにぃ……きゅるけぇ……」

「ほらほら、どうなの? 悔しくないのヴァリエール? ツェルプストーに、好い様にされて!」

「くぅ……んん、悔しいっ……でもっ、あ、ああ」

 

 ルイズはここで達した。

 始まり始まり。

 

 

 

 

 ぶっぱした後、ルイズはすぐさま起きる。今までそうだったし、今日だってそうだった。

 寝ぼけ眼で天を仰ぐ。すっきりとした気だるさという、矛盾して形容しがたい殺伐とした情感に、少し浸る。

 ――今日は、二段仕込だった。シエスタと見せかけてのキュルケ。その引っ掛けは何の意味があったのか。無駄な動きは止めてよ殺すぞ。

 ああ、とうとう、とうとうやってしまった。家系的に怨敵とも言える。あのツェルプストーに、とうとうナニをナニされてしまったのだ。

 しかしおっぱい大きかったな。それに、いつもよりすっきりとしている。やはり、あの男慣れしているキュルケは、その才腕も卓越しているのだろうか。

 限りなく失礼なことを考えていると、ふと、ルイズは下腹部に妙な感覚があるのに気付いた。

 腹部に乗っているだろう、ネバネバした誇りの残滓の、くっそ不愉快な生温かさ、ではなく、おちびルイズの方が、まるで、心地よい微熱に包まれているような――

 

 ガバッ、とバネ人形の如く、明らかに人知を超えた動きで、上半身を刹那に跳ね上げる。

 ナニを握りマジマジと稚児の如く無垢な眼差しでこちらを見ているキュルケと、ばっちり綺麗に目が合った。

 

「あっ」

「あっ」

 

 

 美しい貴族の息女である二人が、同時に呆けた声を上げた。

 世界はとうに朝を向かえ、外界に舞う小鳥達の囀りが爽やかな情緒を感じさせる。

 静止した時空の最中、先に動いたのはキュルケのほうだった。

 

「は、はーい、ルイズ、その、お、おはよう……?」

 

 キュルケはチンコを見ながらそう言った。

 

「――――――――――――――――!」

 

 とてもとても表現しきれない、超高音の絶望の声無き悲鳴が、部屋の窓ガラスを揺るがす勢いで、ルイズの口から爆発のように解き放たれた。

 



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第十一話

 

 

 

 時の流れとは不思議なもので、場における状況や中心にいる人物の心象次第で、それはたちまち平等なものではなくなる。

 

 だからこの場で過ぎ去った時は、彼女たちにとっては刹那だったのかも知れないし、もしくは那由他だったのかも知れない。

 一瞬とも無限とも言える硬直の後。

 先に動いたのは、すっぽんぽんの天使だった。

 

「離して」

「はい」

 

 一小節の短い命令は、有無を言わさぬ強さと闇が籠っていた。キュルケはそれに逆らえないし、そもそも全部全部自分が悪いと分かっていた。

 「長さ」はそれほどでもないが、キュルケが『通り過ぎていった』男たちのものより硬度があるように感じる「それ」から、ゆっくりと手を離す。

 キュルケがルイズを見れば、彼女は上半身だけ浮き上がらせ、空虚の瞳を輝かせていた。ちなみに下半身の半身も未だ浮き上がっている。

 

 

「……サイレント」

「え?」

「サイレント、かけて」

「え、あ、はい」

 

 ルイズの凍える呟きに、キュルケはやっぱり逆らえない。

 己の胸元を探り杖を取り出そうとしたが、そこにはたわわな果実しかなかった。

 はっとして部屋の扉を見ると、そこには先ほど落してほったらかしにしていた己の杖が転がっている。

 ちょっと待ってて。キュルケは震える声で告げる。ルイズも落ちている杖に気付いたのか、何も言わずこくりと頷いた。キュルケはそれが普通に怖かった。

 

 行きのときと同じく、震える足取りで扉まで赴く。その僅かな間で、キュルケは万に等しい後悔をしていた。少なくとも彼女は英雄ではなかったということだ。つまり馬鹿だった。

 扉に到着。正直、逃げ出したい。何もかもなかったことにして、自分の部屋のベッドにもぐり、総じて夢だったことにしたい。

 ――それが出来たら自分はどうなるのだろうか。考えたくも無かった。後ろから突き刺さるルイズの視線は、あらゆる生物を貫かんほどに鋭く、暗い。

 

 部屋全体に、遮音の魔法を掛ける。キュルケがルイズを覗う。ルイズはまた頷き、何も言わず、いそいそと着替えだした。

 腹部についた白く青臭いルイズのルイズによるフランソワーズから繰り出されたヴァリエールの苗木は、とうに拭い取られていた。

 キュルケは石像のように立ったままだ。その様子をちらりとも見ず、やがてルイズの着替えが終わる。いつものスカート、いつもの制服。きっちりマントもつけた。杖を手に取る。

 

 ぎゅいん、とルイズの左手のルーンが超極光を放っていることにキュルケが気付いたとき、可憐な少女の小さい口が、がばっと開いた。

 

 

「ばか! あほ! まぬけ! いんらん! いんらん牛女! ああああ、あんた、なになになナニを、なにを――ー!」

 

 ああ、この子、興奮すると呂律が回らなくなるんだっけ。可愛いじゃない。

 頬を熟れた林檎よりも赤く染めてひたすらに捲くし立てるルイズを尻目に、キュルケは現実逃避気味にそう思った。

 罵倒の言葉は甘んじて受け入れた。はい、私は馬鹿です。唐突に脈絡なく理由もなしにヒトのナニを握っちゃう頭がアレな女です。

 

「ばか! すけべ! ばか! いんらん! おっぱい! ばか! この、えろおっぱい! あんた、あああんた、一体、ナニを考えて――ー」

 

 内包する語彙力が限界を迎えたのか、罵倒の種類が少なくなったところで、キュルケはふと、あることに思い至った。

 そもそもの問題として、なんでルイズにナニがついているというのだ。ではなんでお前はソレを躊躇いなくアレしたんだという思考は、放棄した。人間は都合のよい生き物なのだ。

 自身のアレっぷりを棚上げして、キュルケは考える。と言うか、もしかして、もしかして、この子は。

 衝動のまま、キュルケは口を開いた。開いてしまった。つまりは馬鹿だったのだ。

 

「ねぇ、ルイズ、あなた……男の子……だったの?」

「――――!? ――――! ――――!」

 

 それが所謂『火に油を注ぐ行為』であると、優秀な火のメイジたるキュルケは気付くことが出来なかった。

 言った後の、声無き高周波式怒り絶叫で、ようやっと獣の尾を踏んだことに至った。今日の彼女は、少しうっかりさんだった。

 屈辱のヴァリエール長男疑惑を掛けられたルイズは、だんだんと床を激しく踏んで、全力で怒髪天を衝いている。

 

「だだだだ、誰が男か! わ、私は乙女よ! ちゃんとアッチの方もあるわよ! ななナニはああああ後付で、むしろソッチが本体! なななな何よ! 何なのよ! 見る!? 確かめる!?」

 

 強い意思を秘めていた筈の輝石たる鳶色の瞳は、今やぐるんぐるんに混沌が渦巻いている。

 精神が昂奮に巻き取られてしまっているルイズを見たキュルケは、彼女の言っている意味はよく理解できなかったが、頭はなんかもう逆に冷静になってしまった。

 

「……ルイズ。落ち着いて。分かった、分かったから。何もかも全て私が悪かったわ。ごめんなさい」

「ここここ、こここれが、お、おおおおおおちおちおちんち、落ち着いてい、いい、いいいられるかー!」

「ああ、ああ……」

 

 同情の域まで上り詰めたルイズの激しい狼狽具合に、キュルケは閉口することしか出来ない。

 おちついてはいないけど、おちんちんはついているのね、なんて、言えるわけが無いのであった。

 

 

 んで。

 

 一頻りの罵詈雑言と怒りをぶち撒け終えたルイズは、これが生産性のない行為だと思い至ることが出来た。成長である。やったね。切欠はチンコだ。やったね。やってねぇよ殺すぞ。

 落ち着け、落ち着け。魂の熱を取る。精神の均衡を考える。余計な雑音を除いた水平の思考は、やがてルイズに一つの選択を促した。

 

 ――キュルケに、全てを説明する、という選択だ。

 

 究極的な話、知られたくなかったのはチンコが着いているという点である。

 一番の汚点で、一番の恥部で、一番馬鹿馬鹿しいその事象そのものが、何より厄介で何より秘匿にすべきことだった。

 

 だが、ばれた。

 

 ヴェールに包まれた闇の秘密が、白日の下になってしまった。もう死にたい。なによりキュルケに知られてしまったところが特に。

 では、それらが顕になってしまったとしたら、はて、どうしたらいいのだろうか。

 何も語らず、全てを忘れろと言うだけでいいのか。癇癪で無理やりに押し切り、全てをなかったつもりにするのが、果たして正鵠なのだろうか。

 

 違う、とルイズは否定する。

 もうこうなってしまったら、一番にやるべきことを考えるのだ。そうなれば、決まっている。キュルケに黙っているように釘を刺すこと。これだ。

 けれど、ただそれだけを言えば、キュルケはキュルケで不審に思うだろう。いや、既に思っている。なぜチンコついてんの? と。

 今彼女は、校則違反のアンロック使用による部屋への無断進入と、頭沸いているレベルの朝這い、これらの負い目により大人しくしているが、さて、いつまでもそうしおらしい態度でいるだろうか。

 

 何れ確実に産まれ出でるキュルケの好奇心が、ルイズの首を絞める、可能性があった。

 彼女が無責任な風説を流さないという根拠もないし、正直、ここまで来たら探られて痛い腹もない。

 チンコ以上の謎なんて自分にはないのだから。そもそも普通の女の子はチンコなんてないわよ殺すぞ。

 意味も無い恥を捨て、役に立たない意地は捨てるべし。淡いルーンの光が、踏み出した一歩を後押ししていた。

 

 

 

「――そう言うわけよ」

「ええ……」

 

 

 だから、言った。幾分か喚いて、幾分かすっきりとした気分になったあと、ルイズは神妙に切り出した。全てを話すと。

 キュルケはただならぬ事態を読み取って、静かに聴いていた。そして顛末を理解してドン引いた。

 

 使い魔がチンコとは一体どういうことなのか。使い魔がチンコということだ。

 

 哲学の様に深い議題だ。ひょっとしたら、その底なんてもないのかもしれない。冒涜的な深淵を覗き込んだ気分だった。

 朝日齎す爽やかな光が、ルイズの部屋へと淡く降り注いでいる。キュルケは頭痛を覚えた。休日の朝に相応しくない、胃がもたれるにも程がある話だった。

 ただ者ではない、とは思っていた。時代遅れの潔白主義、古き良き貴族でありながら、けれど碌な魔法も使えない。前代未聞の少女だと、そう思っていた。

 

 どうやら、己はまだまだ彼女を見誤っていたらしい。キュルケは一人得心する。ルイズの奥は、闇の様に深い。

 

「ねぇツェルプストー……」

 

 半ばヤケクソ気味に心中でうんうんと頷いていれば、目の前のルイズが粘ついた呟きを出した。瞳の艶は泥沼の様な煌きを放っている。恐怖を煽るような輝きだった。

 

「もし、もしよ? もし、私に着いてるアレを、こう、言いふらしたりなんかしたら……」

「し、したら……?」

「最終的にハルケギニアがどうなるか、私にも分からないわ」

 

 規模がでかい……!

 

 キュルケは戦慄した。

 恐らくルイズの中では彼女なりの理論や工程があるのだろうか、その過程を省いた上での結果が世界の危機だ。一体何が起こるというのだろうか。

 実際問題どうなるかはさておき、ルイズにはそれだけの覚悟があるというは、かろうじて理解できた。

 

 混乱が収まり、畏れ、慄き、戸惑い、後悔。様々な感情が飛来した。次にキュルケに届いたのは、同情と憐憫だった。

 あんまりだ、あんまりすぎる。神様はルイズに何の恨みがあるんだ。初めての魔法成功が、チンコを使い魔にすることなんて。

 正式には部分召喚で、どこかに本体のヒトがいるという説明は、なんの慰めにもならないだろう、キュルケはそう思った。そもそもなんでチンコなんだ。だからチンコってなんなんだ。

 貴族とか家系とか好敵手とか。様々な柵抜きに、人間として女として、キュルケはこの運命の仕打ちを許せなかった。最後に彼女に残った灯火は、怒りだった。

 

 

「ねぇ、ルイズ、それ……取らないの?」震える声で、キュルケはそう言った。怒りで震えているのか、緊張で単に上ずってしまっただけなのか、自分でも分からなかった。

 

 元より積極的に個人が抱えている問題に突っ込むのは、キュルケの趣味ではなかった。しかし、言葉は止まらなかった。

 出来る出来ないはともかくとして、もしなかったことに出来るとしたら、なかったことにした方がいい。

 キュルケにある感情は鏡面性によるものだ。自分がもしこうなら、こういう目にあったとしたら――とても許せるものではない。

 女性に男性器がつくというふざけきった運命は、そういう思いを産む。少なくともキュルケにとっては。

 

 対面にいるルイズは、哀れみと義憤のような光を持つキュルケの視線を敏感に感じ取っていた。 

 それに何を思うことなく、一瞬、器用に片目を瞑った。すぐ開けた。

 暗闇の光景は見なかった、どうせ決まっている。黒犬と幼い自分が寄り添っているに違いない。全てはそこに帰結し、それが全てなのだ。ならば。

 

「……これでも、私の使い魔なのよ」

 

 存在する全ての虚無的情感は、もう制圧していた。決してなくなりはしない。けれど、受け入れている。何もかも。

 口に出したのは、それでも自身の中で燻り得る、外面を守るだけの安い誇りのような何かを、完膚なきまでに打ち消す為だ。しょうもない見栄なんて、何の役にも立たない。

 どうしようもなく厄介で、みっともないほど下らなくても。だけど。けれど。だからこそ。

 

「いつまでも、いつまでもずっと、このままとは言わない。でも、世界の何処かに、コレの本体がいる」

 

 ルイズは、前を向いていた。

 

「方法や可能不可能は後で考えるわ。だけど、私はコレをきっちりと返却しなければならないのよ。それが私の責任だから」

「そう、なの」

 

 キュルケは目を瞬かせて、細い声で呟いた。

 朝焼けの陽光が差し込んで、部屋の主たる少女を堂々と照らしている。

 煌く桃色の髪は艶やかに流れ、腰に手をあてながら真っ直ぐに前だけを見ている様は、小柄な者とは思えぬ存在感を放っていた。

 

 これが、これこそが。キュルケは思う。

 自身が感じた怒りややるせなさが鏡の反射のようなものとするならば、そもそも事態の張本人であるルイズが、そう思わない筈がないのだ。

 怒りがあった筈だ。苦しみがあった筈だ。悲しみや惑いが確かにあって、それは他人では計り知れないものであった筈なのだ。

 

 その筈、なのに。

 

 どうしようもない光を放つ太陽を間近で見しまったかの様に、キュルケは目を細めた。

 今一度確信する。キュルケはルイズを見誤っていたのだ。

 ――杞憂だった。精神の変性、それによる堕落。この少女に、そんなものはない。変域があったとしても、それはただ前進する為の挙動なのだ。

 馬鹿みたいに正直で、馬鹿みたいに真っ直ぐで、だけど素直になれなくて。だから周囲に合わなくて。そして魔法が使えない。

 孤独と無能の少女、ルイズ・フランソワーズ。

 

 けれど、ああ、彼女はこんなにも、誇り高い。

 

 運命を否定せず。運命を恨まず。ただ前を向く少女。

 直感的に、キュルケはこれこそが己の見たかったものだと、見たかったルイズの姿だと、そう判断した。

 眩い輝きを放つ、愚者の少女。それこそ、自分の好敵手に相応しい。

 

 だから、だろうか。

 

 

「……笑いたいなら、笑いなさいよ」

「笑わないわ」

 

 口を尖らせて言ったルイズの言葉を、キュルケは即座に否定した。

 間違いなく本心だった。対面する少女の鳶色の瞳がキョトンと丸くなったのを見て、キュルケは穏やかな顔つきで口を開く。

 

 

「笑えるわけ、ないじゃない」 

 

 ルイズの選択を、キュルケは笑わない。ルイズの責任を、誇りを、キュルケは笑わない。

 二人の貴族の子女が、小さな部屋で向かい合っていた。ただ二人で、見詰め合っていた。 

 

 

 ――あれ? なにこの空気。

 

 ルイズは人知れず混乱していた。

 目の前にはかつてない程優しい顔のキュルケがこちらを見ている。さっきまでナニを握っていた馬鹿とは似つかないぐらいに、聖母のような包容力がある顔つきだった。

 なんだお前その顔は。そしてそのおっぱいは。たまんねぇぜ。

 口を出そうになるその言葉と衝動を、ルイズはぐっと飲み込む。胸焼けしそうなほどにくどい味だった。

 

 そもそもルイズは『チンコくっつくという馬鹿馬鹿しい事象を笑え』という意味合いで言ったのに、何故だかキュルケは妙に真剣だ。

 別に笑い飛ばして欲しかった訳ではなく、先の夢のように、飄々と、いつもの様に、すかした感じの返答をして欲しかったのだ。

 それがルイズから見たキュルケであり、ルイズにとっての日常であるからだ。つまり暗にいつもどおりに接しろ、と言ったのである。

 結果がこのなんとも言えぬ空気感である。部屋全体が桃色のお馬鹿な色から白黒の乾いた色に模様替えしたようだった。

 

 刹那ではなかった。しかし那由多でもなかった。

 微妙な雰囲気から成される絶妙な時間経過は、二人の少女に気恥ずかしさを宿した。

 キュルケはらしくない己の真面目さについ目を逸らし、ルイズは『目を見るのは照れくさいから』と理由付けて視線を褐色の弐双型ファイアー・ボールに寄せている。左手はピッカピカだ。

 そんな中で先に動いたのは、イケナイ果実たゆんたゆん、こと、キュルケだった。

 

「あ、あの、る、イズ?」

「な、なに、よ……おっ、きゅ、キュルケ……」

「あの、その……ね、その」

「なに、なによ……はっきり、い、言いなさいよ」

 

 二人はもじもじと、視線をあちこち飛ばしつつ、頬を指で掻きつつ、とにかく所在無さ気に動きつつ、意味を成さない会話を交わしていく。

 実を言えば、話を振ったキュルケは別に何か言うべきことがあった訳ではなかった。彼女もこの空気に耐えられなかったのだ。

 そしてルイズはキュルケの問いなどは別にどうでもよかった。ただ空気の入れ換えを彼女の台詞に求めただけなのだ。不毛な会話であった。

 

「えと、えと……その、ね、ルイズ……」

「う、うん……」

「な、ないしょに、しておくから……あなたの、それ、それ、を……」

「あ、ありがと……」

「いや、元はと言えば私が悪いんだし、そんな、お礼なんて」

「うん……でも」

 

 部屋の模様替えがまた行われたようだった。ラズベリー色の青春である。つまり甘酸っぱいのだ。

 関係性の構築において一番の難所は、その最初である。そして二人は、互いの家系的な事情やその他の事柄で相容れにくい空気を作り上げてしまっていた。

 だから、これが最初。これが始まり。二人の関係の、正しい開始。

 

「か、帰るわ!」

「あ、う、うん」

 

 そんな初々しい薄紅色の世界に気恥ずかしさを覚えたキュルケは、顔を赤くしながら、さっさと踵を返した。

 ルイズもまた白磁の肌に微熱を乗せて、こくりと幼子のような頷きを送った――ー所で、いち早く、我に返った。左手が光っている。

 

 

「――ちょっと待ちなさい」

 

 扉へと向かうキュルケの腕を、背後からがしりと掴むルイズ。

 その力は見た目以上に強く、きつい。キュルケはぎょっと振り向いた。

 

「な、なによ?」

「……あんた、そもそも何しに来たの?」

「あっ」

「はぁ……」

 

 

 一日は、まだ始まったばかりだった。

 

 





劣等感を描写したい。
そこから産まれるもの全てを、たとえば受け入れたり、時にははね除けたりした後の行先を、きっちりと表現したい。
だけど僕の力量でそれをすれば、物語性がひたすら重く、暗いものになってしまう。
そういった雰囲気そのものを主題にはしたくないし、個人的に、楽しい気持ちで描きたいという思いもある。

女の子にチンコつければ全てが解決すると気づくのに、三年かかった。もっと才能が欲しい。


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第十二話

 元よりキュルケがルイズを外出に誘おうと考えたのは、平時とは違う感情や行動を見せ始めたルイズの真意を知るためだった。

 その観点で言えば、キュルケの目的は既に達成していた。同時にクソみたいな重い重い代償を払うハメにもなってしまったけれど。チンコ真実とか。

 なので、キュルケは無理にルイズと遠出する必要はない、様に思えるが――

 

「トリスタニアの大通りに、ねぇ」

「……たまにはどうか、と思ってね」

 

 キュルケは、初心を曲げずにこの部屋を訪ねた意味、外出の誘いをそのまま偽らずルイズに話した。

 一緒に出かける必要性はなくなったかも知れないが、逆に出かけない必要性も無い。選択肢に自由が生まれたとするのならば、行動するのも自由なのだ。

 ならば、こういう事だって偶にはいいだろう。それに、本日予定を空けていたキュルケは他にすることがないのだ。

 

 ルイズは形のよい顎に小さな手を当てて、逡巡するように目を瞬かせる。

 

「なんで私とアンタが? そんな関係だったけ?」

「べ、別にいいじゃない。なに? 嫌なの?」

「嫌って訳じゃないけど……」

 

 実を言うと、ルイズは今日外出する予定だった。しかも、行き先はどんぴしゃ、王都トリスタニアだった。

 よって、行くのは別に構いはしない。これは特に隠すこともないので、誰かと一緒というのも異論は無い。

 

 だけれど、なぜよりによって同伴者がキュルケなのか。

 

 半眼で、殆ど睨み付ける様な鋭い瞳で、じっとキュルケを見た。

 家系の怨敵。すげぇおっぱい。優秀なメイジ。褐色の肌がえろい。秘密を知ってしまった馬鹿者。おっぱい。

 キュルケに対する様々な感情が、衝動が、螺旋の様に絡まりあっていく。ごちゃ混ぜになったその混沌を鑑みれば、少なくとも、休日に一緒に同伴する間柄ではない。

 ルイズは今でもそう思っているし、彼女に対し嫉妬や羨望など、女としてメイジとして、少なからず劣等感を覚えてさえいる。

 

 だけど。いや、だからこそ。

 

「……まぁ、いいわ。どうせ、王都へは行くつもりだったし」

 

 ルイズは、全てを飲み込んだり踏み越えたり破壊し尽くしたり。とにかく圧倒する必要があるのだ。己が全てを。

 全部が全部、些事である。必要なのは熟慮と余裕だ。要らないのは幼稚性と使えない意地。

 気に食わない奴と出かけることなんて、些事中の些事。眼中に入れる問題ですらない。視界いっぱいに映る浅黒い果実は関係ないのだ。ないっつってんだろ殺すぞ。

 一方、ルイズに己がどう思われているかを自覚しているキュルケは、思わぬ承諾に驚き目を見張った。

 

「ホント!? じゃなくて……ん、んん! ふ、ふん、それなら最初からそう言えばいいのよ!」

「ねぇキュルケ、あんた今日……なんか残念ね」

「うぐっ」

 

 限りなくイタイ所を突かれて、キュルケは唸った。対するルイズは良いものを見たと、ニヤニヤと笑っている。

 その様子を視界に入れて、キュルケはますます歯噛みした――この私が、ルイズに手玉にされるなんて。

 ルイズは歯車が狂いっぱなしのキュルケを見て、ふふんと満足げに笑った。白魚のごとき細く形の良い指を立てて、それを左右に振ってみせる。

 

「でも、その方がかえって可愛げあるんじゃないかしら? ねぇツェルプストー、あなた、そろそろ淑女の作法を身に着けるべきではなくて?」

「なっ!? あんたが、この、この私に女を説くなんて――!」

「なによ、なにか文句あ・る・ん・で・す・か? 思わず杖を握らずには居られないレモンちゃん?」

「おぐ、ぎ、ぎぎ、お、覚えてなさい、よっ!」

「あんたこそ真面目に覚えていなさいよ。己が罪と罰の行方を」

「はいもう本当ごめんなさい……」

 

 麗しの令嬢から深淵の狩人に職替えしたようなルイズの空虚な瞳を見て、キュルケはただただ謝った。その件についてはもう本当ごめんなさい。

 けれど非は認めて言えど、屈服した訳ではない。キュルケは、ルイズをじっと恨めがましく見つめた。

 

「と言うか、レモンちゃんってなによ……」

「……レモンちゃんは、レモンちゃんよ。なんか、こう、尊いものよ」

「ええ……?」

 

 キュルケは意味が分からなかった。

 言っているルイズもよく分かっていない。

 きっと神様からのメッセージかなんかだ。そういうことになった。

 

「……尊い? 私が?」

「まって、今のなし」

 

 そういうことになったのだ。

 

 

 二人は王都に行く時間の打ち合わせを行った。今直ぐに出るのはあまりにも性急過ぎる。

 ルイズは先ほど起きたばかりで、まだ碌な用をこなしていないし、用も足していない。つまりは膀胱が少々やばい。

 とりあえずは、一通り身の回りのあれこれを済ました後にまた集合、という流れになった。

 

「そうだ」

 

 その一時解散の折に、思い出したようにキュルケが口を開いた。

 

「なによ」

「もう一人、一緒でもいいかしら」

「……別に、構いはしないけど。誰?」

「タバサよ。ほら、あの子の使い魔、風竜でしょ? 乗せて貰えば、わざわざ馬を使うまでもないわ」

「まぁそれはそうでしょうけど……なに、あんた、つまり、その子を足に使うつもり?」

「そういう訳じゃないわよ」

 

 言って、キュルケはどこかバツが悪そうに頬を引っかいた。らしくない感情が彼女の中にあり、それが照れと気恥ずかしさを生み出していた。

 

「あの子、碌に外出ないで、自室に籠りっ放しなのよ。たまーにどこかへ出かけるときがあるけど、それだけ。いくら望んで引きこもっていたとしても、あれじゃあ気分が滅入っちゃうわ」

「それなら尚更、無理に誘う必要はないんじゃない? 本人がそうしたいのなら」

「それなら尚更、無理に誘うべきなのよ。誰かが手を取らないと、あの子はどんどん奥に奥に籠ってしまうから」

「……ふーん」

 

 存外、意外な一面が見れる日だ、ルイズはそう思った。

 同級であるという以外接点のない少女、タバサを語るキュルケの口調、表情は、慈母のごとく甘く、包み込む熱が感じられる様だった。

 ルイズから見ればキュルケの印象は、嫌味な奴だとか、おっぱい、男関係がいいか加減だとか、そういうよくない事柄が多いおっぱい。

 その辺りもまた真実と言えば真実なのだろう。けれど本質は、もっと別の、暖かい何かなのかも知れないおっぱい。

 

 先ほどまでチンコ握ってた奴とはえらい違いだ、身も蓋もなくルイズは思考をそう結んで、「好きにしなさい」と簡潔におっぱい応えた。

 今更、念を入れて「股の間に生えている樹齢ゼロ年の大木のことを言ったら果実の収穫時期に突入するぞ」なんて、言いはしなかった。

 ルイズもまた、らしくなく信じることにしたのだ。キュルケの微熱のごとき、暖かい感情を。

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 ルイズと一旦別れ、きちんと手を清めたキュルケは静寂に浸る女子寮の廊下を歩いていた。

 休日の朝故か、必要以上に停滞した空気だった。辺りに誰もいなければ、物音も碌にしない。

 

 キュルケが場にある空気にタバサを連想したのは、いたし方ないことだった。雪風の消音。冷たい彫像。圧迫感に近い、息を呑む静けさ。

 タバサを誘うのは、本来の予定にはなかった。けれどキュルケは、ルイズの奥の一端を垣間見た際に、また思うのだ。

 

 ――あの子も、タバサも、見えない本当を抱えている。

 

 それの存在自体には前々から気付いていた。寡黙にして優秀。出身さえ語らなければ、そもそもが明らかな偽名でもある。しかもルイズとは違い、タバサは仮面を被り、意図的に自己を抑制しているように見える。

 そんな彼女が持つ真なる姿の端を、キュルケは確かに嗅ぎ付けていた。

 けれども、ともかく本人が言わない。キュルケは聞くこともしなかった。そうすることの理由でさえも。だから知らなかったし、知らないままでいいと思っていた。彼女との友誼には何も変わりないのだから。

 

 だけども、見てみたい。

 殆ど衝動のようなそれに、キュルケは身を任せた。

 氷の仮面の向こうに何があるのかを、ただ見てみたかったのだ。

 無理やり暴くのではなく、自然に、普通に、熱を含む陽が雪を溶かすかのごとく、当たり前のように外界へ晒される、そんな情景。

 ルイズの癇癪と意地の向こうには、確かな誇りと強き意思があった。それを、キュルケは美しいと思った。

 同じように、タバサの向こうには、果たして何があるのか。時折見せる絶望色の瞳の奥は、どれだけの輝きを秘めているのか。

 気になった。気になってしょうがなかった。むしろ、気になってしょうがなかったことを、今になってキュルケは認めていた。雪原のような廊下を歩くほどに、逸る気持ちが膨れ上がる。

 

 真実は美しく、また鋭利だ。ただ煌びやかに見えるだけでなく、真理の刃は時に人を傷つける。

 それでも、見たかった。見たいから見ようとする。キュルケにとってはそれだけだった。

 利己的に極めて近い思考。あるいは身勝手で、先の展開の予知もない。けれど想いは燃えていた。人はそれを愚かと呼ぶだろうか。答えは、遠い。 

  

 

 サイレントを掛けているのであろう、殊更に物音のしない部屋――タバサの自室の前に立つ。

 洗練された動きで迷いなく、キュルケは魔法で錠を開けた。その顔には、一転の隙もない、例えばルイズが見れば殴りたくなるようなほど清々しい笑顔があった。

 

 つまりはキュルケは先ほどの大惨事を経てなお、全く懲りていなかったのだ。

 ただあるのは「ルイズの心内を知れた。よかった。あとタバサのも知りたい」などの、浅い浅い思慮だけだった、

 彼女を愚者とするかはたまた英雄とするかは、一旦脇に置いておく。なんにせよ、キュルケは一歩踏み出していたのだから。

 

 扉が開いた。

 

 

 

「あああああああ! お父様のばか! ばか! ガリアの愚者! オルレアンの恥部! 近親畜生! 変態! 年中発情期中年! 不潔! これ以上、腹違いの――」

 

 

 

 夢かな、幻かな? 

 

 とキュルケは両手でおめめをゴシゴシと擦った。

 どうやらタバサの掛けたサイレントは部屋全体を覆っているだけで、部屋そのものに効果を発揮していないようだ。先のキュルケがかけた物と同じである。だから聞きたくなかった叫びが聞こえてしまう。

 それが普通の使用方法なのだが、タバサの場合はいつも、自身の周囲を極限まで消音魔法の範囲として定義し、完全に外部の音声を遮断して、読書の世界に没頭しているのだ。

 

 ああ、それが、なんで今日に限って。キュルケは清々しい笑顔を貼り付けたまま、にっこりと絶望していた。

 

 明らかに聞いてはいけない単語がチラチラ聞こえる。ガリア。オルレアン。ああ、あなたって……いや、忘れましょう。まだそのときじゃない。ええ。

 ルイズを凌ぐほど小柄な少女。青髪の、超然的な佇まいの少女。しかしそれが今や、先のルイズと大して変わらないような甲高い癇癪を起こしていて、なんだこれは。まったく、これだからおっぱい小さい奴らは。キュルケは心の中で唸った。可愛いじゃないの。 

 タバサは扉に背を向けていた為か、おっぱいつき笑顔彫像と化したキュルケに気付いていなかった。ただ夢中に、部屋の中央で、長い杖を上下に振っている。キュルケの脳内に過ぎったのは天使の寝台に跨る鼻息荒い捕食者の図だった。つまり、朝の自分だ。

 それを鑑みれば、ほら、長い杖を上げ下げしている様子は何かの隠喩ではないか。つまりチンコを、こう、ね? うるせぇ焼き殺すわよ。

 

 散漫な思考のもと、キュルケの視界は、彼女の体型ほどある長い杖の下にある紙切れのようなものを捉えていた。というか、それはもはやただのボロ切れだった。

 重く硬い杖の後端を何度も何度も叩き付けられたのだろう、その紙は殆ど原型を留めていなかった。紙には、文字らしきものが書いてある。

 

 タバサは闖入者に気付かない。只管に耳を疑う様な生々しい呪詛を吐き続けている。少女の鬱憤と連動するように、ごつんごつんと杖を叩く音が響いている。

 キュルケからは無論、彼女の顔は見えない。見たくなかった。これは見たくない。刹那にルイズの空虚な煌きの瞳を思い出した。あれ、震えが止まらないわ。キュルケはとりあえず微笑むことにした。特に意味は無い。

 

 ああ、ああ。なんで今日はこうなのか。私はただ、問答無用で錠前をアンロックして部屋へと無断進入しただけなのに。

 それが原因でそれが全てで何もかも自分が悪いということには、流石に気づいていた。お馴染みの現実逃避である。

 

 まさかいつも沈着冷静で物静かな友人が、あの癇癪爆発桃色娘と似た行動を取っているなんて。

 ついと、タバサの短く揃えられた鮮やかな青髪がキュルケの思考を絡め取った。ガリア。青髪。お父さま。オルレアン。権威と栄光の象徴。ガリアブルー。つまり王家の……いやいやいやいや。駄目だ、これは駄目。

 ゲルマニア出身、自由と熱愛を好むキュルケは、ここで一つの真理を手に入れた。そういうことにして、現実逃避することにした。

 他人の部屋へ開錠呪文、アンロックを使ってはいけない学校規則――なるほど、その理由はここにあるのだ。

 

 人の個人的深淵を覗き込んでしまえば、己の精神にも深い傷を負ってしまうから、なのだ。

 キュルケは合っているようなズレているような微妙な解釈にうんうんと頷き、そこで――振り向いたタバサと目が合ってしまった。

 

「あっ」

「あっ」

 

 はいはい既視感既視感。似たような状況ならば、そこに相対した人たちも似たような行動を取るものだ。キュルケは一人得心した。

 ごとん、と重厚な音が木霊した。タバサが杖を落したのだ。これもキュルケは既視感を覚えた。

 時が凍てついた。タバサの表情も凍てついていた。いつもの涼しげな顔ではなく、興奮と羞恥で頬が薄紅色に染まっていた。小さな口は間抜けに開かれていて、眼鏡越しの艶の在る青い瞳には、混乱だけが色づいている。

 キュルケはぐっと背伸びした。目を細め、腕を上げ、胸元を強調するように身体全体を大きく伸ばした。わざとらしくあくびしてから、引き攣った笑みを浮かべた。

 

「おはようタバサ。あなた、早いのね。ところで今日暇かしら? これからトリスタニアの大通りに行こうと思っているのだけど、タバサ、あなたはどうかしら? ああ、実はね、ルイズも一緒なのだけれど、ええと、出来ればあなたの使い魔――シルフィードに乗せて貰えないかしら?」

 

 なにもなかった。なにもなかったのだ。こんなところで、タバサの一端を掴むとかいう馬鹿げたことはなかったのだ。そういうことにしようとした。

 僅かな時間でタバサも自己を取り戻した。口元はきゅっと閉じ、瞳も冷静な色を取り戻してる。しかし、染まった頬だけは戻らなかった。

 

「見た?」タバサが言った。その声は、心なしか震えているようにキュルケは思えた。

「見てないし聞いてないし私は何も知らないわ。ええ、何も」キュルケの声は心なしでもなんでもなく、盛大に震えていた。

「そう」

 

 タバサの口調は概ね元に戻っていた。必要最低限の簡潔な言葉。いつものタバサ。彼女もまた、キュルケの意図を読み、なにもなかったことにしようとしているのだ。

 ああ、でも。キュルケは微笑みを湛えながら頭痛を耐えた。さっきの口調を聞いてしまったら、ああ、ああ。

 後悔と申し訳なさがキュルケの心中に蔓延った。なんで今日の私はこんなにお馬鹿さんなのか。軽々しく、二人の少女の見てはいけないものを見てしまった。ルイズの言葉を思い出す――覚えていなさいよ。

 

『己が罪と罰の行方を』

 

 キュルケは身震いした。もう本当ごめんなさい……

 

 そうこうしていると、ふと、タバサが杖を持ち、なにやらぶつぶつと呟きを始めた。呪文の詠唱。

 杖の先端から小さな風の刃が飛び出し、足元にあったボロボロの紙切れを認識不可能なほどに切り刻んだ。

 よし、これで何もかも元通りね! キュルケはそう思うことにした。反射的に、タバサの下腹部を見た。盛り上がっていない。よし、大丈夫ね! チンコはついてないわね! キュルケは笑った。彼女は混乱していて、もう破れかぶれだった。

 

 

「分かった」

 

 そんなキュルケのぐるぐるとした目線を訝しげに受け止めながら、タバサが冷ややかに言った。

 頬はまだ赤かった。一日は始まったばかりだった。

 




ガリアの闇は深い


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第十三話

 

 

 隙のない無欠の青空だった。

 

 

 冷たさを含む風が、ルイズの頬を撫でる。けれど不快に感じない。下を見れば、広大な地に豆粒の様な人や馬の動きがあった。

 進みを遮るものは何もなく、自由で、自在で、なんとなく全能感さえ感じてしまいそうだ。タバサの使い魔、風竜シルフィードの上で、ルイズは人知れず心を震わせていた。

 ルイズは魔法が使えない。飛行魔法であるフライを使えない。今ある感動に近い魂の衝動は、それゆえだろうか。

 今まで、空を翔るフネに乗ったりだとか、そう言った経験はあるにはあるが、しかし、こうして青の世界を走る情景は、改めてルイズに何かしらの感情を与えた。

 

 

 待ち合わせ場所に現れた、なぜだか妙に余所余所しい風体だったタバサとキュルケ。

 二人の微妙な距離感にルイズは首を傾げたが、シルフィードに乗ってこうしているうちに、そんなものは頭から吹き飛んでいた。非現実的な速度と、爽快感。

 ルイズは竜の鱗をさらりと撫でた。硬く、ざらついていて、それでいて暖かく、しなやかで確かな生命が感じられる。

 未だ幼態であるとのことだが、それでも竜は竜だ。馬よりも数段早いし、ルイズは人一倍、空を飛ぶことの利点を知っている。

 キュルケの顔が視界に映った。どう、すごいでしょ、と自分のことのように得意顔だった。ルイズはその下の褐色の膨らみを見て、こくりと頷いた。

 ついで、タバサを見る。なんと彼女は決して緩くないこの風の元で、分厚い本を読んでいた。手で押さえ切れない頁がばだばたと小刻みに揺れている。タバサはそれを意に介していない。

 

 ルイズは呆れると同時に感心した。ここまで己を貫くなんて。そしてまた、嫉妬の闇が燻るのも感じた。

 自分が焦がれ、また感動したこの空よりも、本の世界の方がタバサには大事ということだ。

 価値観は人それぞれだとはルイズも理解出来るが、それでも、心から放たれる靄は消えない。

 

 

 竜の翼がはためいてる。

 流れるように、世界の揺らぎを泳ぐように、美しく、雄大に。

 これがタバサの使い魔。間違いなく、学年一番のアタリだ。本人の才覚に劣らない、立派なメイジの証。

 周りはそう思っているし、ルイズでさえもそう思っている。珍しさだったら、珍品程度なら自身も負けてはいないが。チンコだけにね。うるさい死ね。

 しかしそんな評価でさえも、タバサは揺るがなかった。興味を示すそぶりすらない。鼻にかけないと言えば聞こえはいいのだが。

 

 羨ましい。妬み、嫉みの感情。心の中で何かが荒ぶるのが分かった。決して明るくない負の感情だ。

 それらは醜いと、ルイズは自分でも思う。タバサ本人は、もしくは嫉妬される側は何の非もないのに、己は一方的に暗い意を抱いている。

 いけないことなのだろう、そう思っていた。そういった正当性のない負の感情は、あまりにも情けなく、あまりにも弱弱しく、誇りも何もない、正しく負け犬の遠吠えだ、そう、思っていた。今までは。

 きん、と左手のルーンが瞬くように輝いた。   

 

 

 例えばの話。ルイズは考える。

 

 

 何かの手違いかあるいは奇跡的な巡り合わせにより、自分も竜を召喚することが出来たとする。いや、竜でなくても、とにかく強大な何かを召喚したとする。

 絶大で圧倒的な能力を持つそのものを従えることにより、ルイズは自信を取り戻し、これこそが真の己だと、真のメイジだと、真の貴族だと、鼻高々になっていただろう。その時は。

 

 ――その傲慢は、幻想は、夢は、果たして何時まで続くのだろうか。

 

 ルイズは答えを出していた。魔法を使うまで。そして当たり前のように失敗するまで。そこまでだ。

 魔法が失敗して、いつもの爆発が起こるとき、伸びた鼻はぽっきりと折れ、希望という名の花はしおれてしまうだろう。勝手に希望を抱き、勝手に絶望する。これほど無様なことはあるまい。

 結局、そこに行き着くのだ。得体の知れない解析不明の爆発は、乖離出来ない領域で己にへばりついている。それがどうしようもなく、ルイズには分かっていた。分かってしまっていた。

 逃れられない運命線。逃れられない失敗魔法。認めたくは無かったが、それでも分かる。

 ヒトを召喚しようがヒトの一部を召喚しようが何を召喚しようが、己の本質は、そう――

 

 ゼロ、なのだ。

 

 だからどうした。

 

 

 ルイズは風のあおりを受けて、腕を組みながら笑った。己を貶めんとする運命を嘲笑うように、好戦的に。

 天下を冠する美少女である己についた場違いなぶら下り棒も。

 どばどばミミズちゃんから出るしろいどばどばも。

 蠢く闇色の心も。

 失望の過去も。無情の今も。あり得る絶望の未来でさえも。

 

 その何もかもが、歩みを止めるのにはぬる過ぎる。

 

 前に進むという覚悟。これさえもっていれば、他の感情や衝動は何の妨げにもならない。どころか、後押しする原動力さえなりうる。 

 羨ましい、羨ましい。タバサの才能と、周囲の意思を頓着しない我の強さが。キュルケの才能と、魅力的な人格が。

 消えることはないのだろう、この先、己の劣等感と羨望心は、意地汚く、泥の様に纏わり続けるのであろう。それに気付くのに、いや、認めるのに、豪く時間が掛かってしまった。

 ルイズは瞳を閉じなかった。わざわざ確認したり、もしくは甘える必要も無かった。今日こそが、始まりの日なのだ。 

 

 何かを羨ましく思う気持ちに終わりはない。しかし、羨ましく思うだけの日々は、終わったのだ。終わらすのだ。

 ルイズの視界に映るトリステインの上天は、ただひたすらに澄み切っている。

 

 

 

 王都に着き、シルフィードを置いて、三人は大通りにいた。

 沢山の人々が所狭しと行き来している様子を見ながら、キュルケが「さて、どうしようかしら」と言った。小柄なタバサが見上げる様にキュルケに視線をやった。キュルケは顔を背けた。

 

「いや、なんであんた達そんなにぎくしゃくしてんのよ」呆れがちにルイズが言った。思えば、空の上でも二人は会話を交わしていない。本を読んでいたタバサはともかく、キュルケの性格を考えれば、一言二言でも掛けてしかるものなのだが。

 

「べ、別になにもないわ」

「……なにも」

「そう、分かったわ」

 

 確実に何かあった。

 ルイズはぴんと来た。キュルケの声は犯罪者を匿っている聖職者の様に憐れに震えている。タバサは全くの平静だが、それは平静を装っているだけだと感づいた。

 けれど、無視した。虎の尾を踏みに行く必要は無い。ルイズは二人の一歩前に出て、それから振り向いた。

 

「私、服を見に行きたいのだけれど、二人はどうするの? 別行動?」案じるようなルイズの目線。それを受けて、キュルケが唸るように言う。

「なによ、せっかくなんだし、三人で行きましょうよ」キュルケはルイズの意を察していた。なにかあったのならば、二人で話し合え、と彼女は言っているのだ。

 

 キュルケは異様なまでの罰の悪さを覚えた。気を使わせてしまった。何もかも自分に罪があるのに。タバサにも、そしてチンコ、もとい、ルイズにも。

 それとは別に、驚きの感情も宿った。この子は、こんなに気遣いが出来る子だったのか。今までの彼女とは思えない。

 ルイズに何があったのだろうか。そりゃもうチンコよ。ガチガチなアレよ。そういえばアレのアレは『一般的なアレ』より硬度があったわね。どこ産かしら? キュルケは爆撃の如き情報量で頭がおかしくなりそうだった。あるいは既に。

 不意に、何もかもが馬鹿馬鹿しくなった。どうして私が休日のお出かけに沈んだ気持ちでいなければならないのだ。

 キュルケは力を抜いて肩を竦めた。笑った。忘れよう! そうしよう! 私は何も悪くない! 

 責任の棚上げどころの騒ぎではない。劣勢状態のチェス盤をひっくり返すようなものだった。

 

「タバサも、それでいいでしょう?」無意味に満足気な笑顔を青の少女へと向ける。タバサは無表情でこくり頷いた。

 

「あっそ」ルイズは興味が無いそぶりで、前方へと向き直った。

 

 ルイズが先導する形で、三人が道を歩む。向かう先はルイズがたまに行く服飾店だ。そこそこ小奇麗で、扱っているものも悪くなければ、品揃えもいい。

 

「もしかして、先の舞踏会用のドレスを見繕いに?」キュルケがルイズに言った。「もう注文でもしてあるの?」

 

「違うわよ。ドレスなら何着かあるし、わざわざ新しく買う必要もないわ」

「じゃあ、なんで?」

 

 キュルケの疑問を受け、ルイズは歩調を緩めた。キュルケの隣に並び立ち、呻く様に口を開く。

 

「……スカートの下に履く、短めのズボンが欲しいのよ」

「あっ……」

 

 キュルケは察した。

 けれど、この場に居るもう一人、タバサはルイズの発言の意味が分からなかった。履物の下に履物を着ける。貴族の子女らしくない、はしたない行為だ。

 タバサは言葉にこそ出さなかったが、興味ありげに、キュルケを挟んで向こうを進むルイズへと視線をやった。キュルケが身動ぎした。ルイズは動じなかった。

 

「私はずっと考えていたんだけれど」ルイズが歌うように言う。「例えば空を飛んでいるときなんかに誰かが上を見上げてしまえば、私達はなすすべくなく、嫁入り前のはしたないところを見られしてまう。それが殿方だったらもう目も当てられないわ。そうならない為には自衛が必要なのよ。ねぇタバサ、そうは思わない?」

 

 タバサは覗き込むようにルイズを見た。鳶色の瞳が、なにやら恐ろしげに煌いている。少し逡巡した後、タバサはこくりと頷いた。

 

「一理ある」

「で、しょう?」

 

 ルイズは自信たっぷりと頷いた。この世の真理を掴んだ哲学者の様な嘯きだった。キュルケが口を開く。「でもルイズ、あなた、まほ」

 

 肘鉄がキュルケの腹部に刺さった。お前は全部分かってんだろうが。空気を読め空気を。

 

 

 

 目当ての店に着くと、本来用があるルイズそっちのけで、キュルケは賑やかしく、あれやこれやと服を見やった。

 興味がないような瞳のタバサを、まるで着せ替え人形のごとく着飾り囃し立てている。さっきまでの殊勝な態度はどこに行ってしまったのだろうか。暖かい誇りとは一体。

 

 ルイズは店主に用意させたいくつかのズボンを吟味しながら、胡乱気に彼女達を見る。

 きっと、キュルケは自身に邪魔が入らないよう、気を使うかのごとく、あのように道化に徹しているのだ。ルイズはそう思った。そう思わなければやってられなかった。キュルケはむかつくぐらい楽しそうだった。

 

 さておき。

 

 抱えるべき目的意識とは別次元の問題で、ルイズが一番にしなければならないこと。それはやはり、ナニを隠し通すことだ。

 今朝方の様な、明らかにネジぶっ飛んだ愚か者の奇行は抜きにして、常識的な範疇で、ルイズは守らなければならないのだ。チンコを。ルイズは清らかに微笑んだ。瞳に色はなかった。

 言い訳のようにルイズがタバサに語った「空を飛ぶとき云々」は、あながち全くの虚言と言うわけではない。そもそもルイズは空を飛べないが、自衛の為という点は嘘ではない。

 つまり、なんらかの原因でスカートの奥を見られたとき、一発でナニがバレない為の防御壁を持つ必要があるのだ。ぶっちゃけた話、ルイズの持つ下着では、食み出してしまうのである。チンコが。ルイズは儚げに笑った。世界の為に命を捧げる巫女の様に笑った。

 

 例えば大きめな下着、もっと言えば、男性用の下着などを履けば、危険性は狭まるし、何より着心地もいいことだろう。正直、今の状態は窮屈だ。

 

 けれど、ああ、けれどだ。

 

 この、この誇り高きヴァリエールの血統が、何が悲しくて男性用下着をいそいそと履かなければならないのだ。乙女にとって、こればかりは譲れない。

 笑い話にしろとでもいうのか。美少女の私が! 男のパンツ! 自分でも笑い転げそうになる。そして笑った奴らをぶち殺しそうになる。

 学院の制服――つまり、スカートの下にまた別の履物を着用するのは、確かに礼儀がなっていない。それはそれだ。規則や儀礼がなんだ。私が正義だ。とりあえず何もかもぶっ殺す。

 湧き出た恥じらいや強烈な空しさを打ち消すような殺伐とした思考で、ルイズは並べられたズボンを手に取る。

 

 短いズボン、というのならば、ルイズも乗馬用としていくつか所有してある。

 けれど、ルイズの持ち物は例えば無駄にぴっちりしていたり(つまりもっこりしてしまう)、丈が長かったり(スカートの裾からはズボンが見えるのは、流石に具合が悪い)など、とにかく条件を満たしていないものだけだった。

 だからこうして買いに来た。だからこうして灰色の輝きの瞳で商品を見ている。ふと、一つのズボンが目に入る。大きさだけ見れば、ルイズにぴったりのように思える。丈の具合も、これならスカートを飛び出まい。

 

「ちょっと」ルイズは店主を呼びつけた。「なによこれ」ルイズの頬は引き攣っていた。

「はぁ、一応、お客様の号数に合うものを全て持ってきたのですが……」店主は中年の男性だった。ひたすら恐縮していて、真面目そうに見える。というか、真面目すぎなのだ。

「だからって」ルイズはそのズボンを見やる。純白の眩しい短い衣服。短い、というか、やりすぎだ。この真面目すぎる店主のように、短すぎるズボンだった。履けばきっと、滑らかな太ももが見放題になるだろう。

「これもう下着じゃない」

「分類上では、ズボンとして取り扱っております」店主は真剣身溢れる表情でそう言った。

「ええ……?」

 

 形の良い眉をこれ以上なく怪訝に上げて、ルイズはそのパンツのようなズボンを手に取った。

 質のいい素材を使っているのだろうか、肌触りはいい。太陽の反射のような綺麗な白色。股下の食い込み具合も半端じゃない。馬鹿か。

 

「これ誰が買うのよ……」

「はぁ、私も詳しくは知りませぬが、大層名の知れた貴族様がご愛用されていたと」

 

 トリステインどうなってんだ。ルイズは心中で唸った。こんなの、痴女しか履かないわよ。これを履いて外に出たら、つまりは下着で外に出るのと同義よ。

 忘れよう。ルイズは頭を振った。私と世界のどこかにいるらしい痴女様は何の関係もないのだから。

 視界の端に、滅茶苦茶な量のフリルをあしらった服を着た、いや、着せられたタバサが映った。はしゃぐおっぱいもだ。無視した。

 

 極めて苦々しい顔で、ルイズはまた頭を振るう。今日王都に来た本命はこの店ではない。余計な時間はとりたくないのだ。

 そうこうした後、いくつか商品を眺めていれば、真面目な者が経営しているだけはあるのだろう、確かな品揃えの甲斐もあり、ルイズは過不足なく、またスカートの下に履いても傍目には分からないズボンを見つけることが出来た。

 きちんと試着をした上で、ルイズはそれを購入し、店主に「このまま履いていく」という旨を告げた。

 店主はそのはしたないと言える行為にも口を出さなかった。はしたないズボン(パンツ)を置いているだけはある。

 

 

「ねぇ、そろそろ」出ましょう、と目的を果たしたルイズがキュルケとタバサに言おうとして、絶句した。

 

 そこには着せ替え人形と化したタバサが、例のズボン(パンツ)を試着していた。

 予想通り、もうただの下着にしか見えない。股の食い込み方がズボンのそれじゃない。タバサのほっそりとした白雪のような二足が、輝きの肌を露にしていた。

 

「凄い食い込みね」キュルケが笑いを耐えながら言った。馬鹿か。いや、馬鹿か。

「大変お似合いで」店主が言った。心底からそう思っている声だ。もしかしたら彼は真面目なのではなく、ただ狂っているだけなのかもしれない。

「これはない」最後にタバサが言った。表情は相変わらずの氷雪のごとく涼しいものだったが、声色はうんざりしているように聞こえた。では何故履いたんだ。彼女はキュルケに何か弱みを握られているのか。

 

 

「というか、あんた達何も買ってないの?」

 

 店から出て、ルイズがじとりとした瞳でキュルケを見た。あんた達、と言いながら、それはキュルケ一人に向けた棘だった。

 だって、完全な冷やかしである。店に用があったのはルイズだけだが、キュルケは人一倍、無闇にはしゃいでいた。もろに被害を食らったタバサも少し冷ややかな目を向けている。

 

「あら、買ったわよ」とそれら目線を意に返さずキュルケは言った。どういうわけか、顔に表情はなかった。懐に手を入れて、さっと何かを出す。そしてそのまま、出したものをルイズへと投げつけた。

 

 手袋だった。投げられた紺色のそれを、ルイズは両掌で持ちながら怪訝な顔で見つめる。

 

「なに……私と決闘でもしたいの?」

「ちっがうわよ! えーと、アレよ……あげるわっ、それ!」

「はぁ?」

「……あなたの左手、そのルーン、ぴかぴかぴかぴか鬱陶しいのよ。それに、キズモノになった乙女の柔肌も、見ていて気分悪いわ。それで隠しなさい。そして私に感謝しなさい」

 

 キュルケは声を潜めて言った。消え入りそうな気配だった。

 言葉じりとは裏腹に、そこにいつもの不遜な態度はなく、先の表情のない顔も、なんのことはない、ただ照れていただけなのだ。

 ルイズは、まるで陸に打ち上げられた魚のように、口をパクパクと開閉させた。顔に血が集中するのが分かった。怒りや興奮などではなく、気恥ずかしさによる赤面だった。

 キュルケに言われて、ルイズは初めて、己に刻まれ、そして消しようがないルーンのことに気付いた。今になってみれば確かに、人目に触れているような気はしていた。しかしそれについて思いを馳せる余裕がなかった。

 

 ――これは、朝の件でのキュルケの罪滅ぼしなのだ、これで、手打ちにしようとしているのだ、ルイズはそう思うことにした。

 けれどルイズはここに来て、正しくキュルケの瞳を直視した。瞳だけを直視した。

 そこに媚びたり詫びたりするような色は、少なくとも見れなかった。ただ微熱の様な眼差しだけがあった。燃えるようなキュルケの赤髪が、流麗に靡いている。

 

「着けてみて」キュルケの声は、どこまでも暖かった。

「う、うん……」

 

 言われるままに、ルイズは紺色の手袋を嵌める。

 手首の少し先まで覆われたそれは、大きさもちょうど良く、十指も滑らかに動いた。

 十把一絡げの粗悪品でなく、確かな造りが感じ取られる。これなら、易々と光が漏れることもないだろう

 

「これで貸し借り、ゼロね」パン、と両手を叩きキュルケは言った。

 

 キュルケもまた、「朝へのお詫び」としての物だと主張していた。明らかにそれ以上の意が灯る瞳を瞬かせながら。

 

「似合っている」とタバサが言った。

 

 その声は決して冷たいものではなかった。平坦ではあったが、温度があった。

 ただの社交辞令だ。もしくは気まぐれだ。普通はそう思うだろうし、ルイズもそう考えたかった。けれど、何を考えているか分からないタバサではあるが、そういった必要性のない言動を取るような少女には見えなかった。

 ではなぜだろうか? 分からない。

 キュルケが笑いながらタバサを抱き寄せ、耳元で「あなたも、さっきのアレ似合っていたわよ」と囁いた。タバサは露骨に嫌な顔をした。

 

 

 じゃれ合う二人をよそに、ルイズは一人、混迷に晒されていた。

 一緒に買い物に出かけ、贈り物を貰い、身に着けた衣服を褒められる。

 なんだこれは。ルイズは激しく困惑した。あるいは、あの衝撃的な召喚時や、己の絶望と対面した時よりも、遙かに不可解な現象に思えた。

 

 

 これでは、彼女達と私が、まるで友達みたいではないか!

 

 

 馴染みのない感情が、波のようにルイズを呑み込んだ。

 それはこざっぱりとしていて、熱があり、柔らかく、芯がある感情だった。薄らぼんやりと覚えがあるそれは、だけどもう、とっくに諦めたものだった。

 居た堪れない気持ちになり、刹那に両目を瞑る。暗闇の中の幼い自分はただ虚空を見つめている。何かを探すように。忘れていた何かを求めるように。

 そのそばに居る黒犬は、爛々としている瞳を無邪気に輝かせていた。悪意には敏感な『彼』は、これらの感情には相対的に穏健で、また推奨していた。物言わぬ魂の同居人。けれど、気持ちは通じている。

 

 瞳を開いた。口を開いた。決断的で、殆ど衝動的なものだった。理論的意味合いはない。ただの本能だ。けれど、後悔や躊躇いは一粒もなかった。

 物事はもっと単純で、簡潔だった。

 

「……ありがとう、えと、タバサも」

 

 立ち消えてしまいそうなほどの、陽炎の様な言葉。ぎこちなく、ルイズの心を示すように、はっきりとしていない言葉。

 お礼そのものではなく、誰かの善意を全うに受け止めて、能動的な何かを為すことに、ルイズは慣れていなかった。

 タバサは相変わらずの無表情だった。そのまま、深く頷いた。キュルケはタバサの首に腕を巻きながら、喜色満面の笑顔を浮かべた。

 

 

「え、なぁにぃ、聞こえなぁい」

 

 

 揉み千切るぞエロおっぱい。

 

 





烈風の姫騎士激おこ


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第十四話

 

 この想いは、どう抱くのが正統なのだろうか、ルイズは考えあぐねていた。

 

 王都トリスタニアにて、身に着けている魔法学院の制服とは似つかわしくない汚れた路地を歩くルイズは、人知れず混迷の中にあった。

 キュルケとタバサ。決して親しくもなければ、タバサに至っては碌に知らない。だというのに。

 整った顔立ちが、僅かに歪む。苛立ち。分からない感情が自分にあるという、不明への苛立ち。

 ――それを否定することが、お前の決めた道なのか?

 声無き声が、魂の一部分が、囁く様に吼えた。分かっているわよ。口の中で、表に出さず、ルイズはもごもごと言い訳の様に念じた。分かっては、いるけれど。

 今、この場に二人はいない。ルイズが赴こうとしている店は、今日王都に居る本命の店は、あまりにも、休日に遠出する貴族の子女に似合わないところだからだ。

 それを伝えれば、聞き分けよく――あるいは、ルイズの何かを察したのかも知れないが――二人は暫しルイズと別行動すると言った。

 

『また、後でね』

 

 思い出す、別れ際のキュルケの言葉。ありきたりであり、どこにでもあり、特別でもなんでもないその言葉。

 だけれど孤独の砂漠にいたルイズには、それだけのものでさえも、何かしらの意味合いを感じてしまう。触れたく思う気持ちが確かにあった。あの微熱の温度に。

 即座に頭を振った。今考えるべきはそれじゃない。忘れよう。――素直じゃねぇな。苦笑いの呻きが聞こえた、気がした。ルイズは観念するように眦を下げた。

 

「分かんないわよ……」

 

 小さな呟きは、薄汚い路地裏に確かに響いた。けれどそれを聞く者はいなかった。本人と、その使い魔以外には。

 

 

 目当ての店に着いた。小汚く、普段なら決して近寄りはしないような店、武器屋。

 取り直す様に、ルイズは左手を見て――息を呑んでしまった。そこには紺色の手袋があった。キュルケからの贈り物。何かの証。心にも届く、暖かい灯火。

 何かを思い出してしまった。笑みを浮かべてしまった。それは皮肉のものでも自嘲の物でもない、ルイズらしからぬ感傷的な微笑みだった。

 

 浮ついている。

 

 ルイズは己をそう断じた。どう言うわけか、そう、理由は分からない……ことにして、とにかく浮ついてしまっている。

 こんなのでは駄目だ、と嘆息。直後、決断的に瞳を吊り上げた。思い出せ。少しだけでも。今までの屈辱を。悔恨を。

 手袋の中で、ルーンが悲鳴の様に光っている。心には、軋むような涙の雨。

 目を瞑る。哀れむような黒犬の瞳が目に付く。隣に居る幼い自分が、透明な瞳で虚空を睨んでいる。

 

 ふわふわした気持ち。忘れていたかつての何か。それらは要らない訳ではない。だけど、今ばかりは。

 周囲の嘲笑が脳裏を過ぎった。恥辱的な憐憫の視線が、精神を貫いた。絶望の影がじくじくと心を侵食している。

 痛みつけるような心無き中傷。魔法が使えない。貴族の晒し者。出来の悪い自分。家柄だけは一流で。

 沼の様な底なしの思い出に、どう言うわけか、あの怨敵ともいえるツェルプストーの姿はなかった。

 彼女が吐いた今までの言葉は、他とは違い何の害意も含んでいなかったということだろうか。そう、自分自身が判断したということだろうか。

 どうでもいい。ルイズは思考に引っかかった疑問を切り捨てる。今は、この慣れ親しんだ冷たい屈辱に浸る時間なのだ。

 

 鋭利な闇が幼いルイズを貫いた。背面から腹部を穿つ、槍のような尖った過去だった。少女は笑った。剥き出しの心が締め付けられるような痛み。ルイズもまた笑って、瞳を開けた。

 薄汚れた路地が目に映る。精神には煮え滾るような泥が満ちていた。そうだ、これでいい。これでこそ。

 

 ルイズは甘えることが出来ない人間だ。

 それは彼女の本質であり、美徳とも言え、また欠落とも解釈できた。

 他人に厳しく、何より自分に厳しい少女。その身がいくらか変性したとしても、本質は変わらない。

 ゆえに、ルイズ自身が、他人との交流に感じた何かしらの情が甘えを誘発すると考えたのなら、ルイズはそれに流されるわけにはいけなかった。そういう生き方なのだ。

 

 

 ――否定はしないわ。ルイズは自虐的な闇によって顔色を青白くしながら、祈るように呟いた。

 

 否定はしない。そこにある感情を。紺色の手袋。感情ある氷の瞳。灯台の様な光熱。

 否定はしない。抱いた想いの全てを。過去の総てを。未来の為に。

 否定したく、なかった。魔法を使えない絶望の過去を。絶望と相対した自分を。

 

 

 忘れるな。必要なのは、力なのだ。何もかも足りてない己が、世界に有様を見せる力なのだ。

 だからこその遠出。だからこその武器屋だ。忘れるな、絶望と屈辱の過去を。

 恥も外聞も捨て、左手のルーンの力に頼ることで強力で、より原始的な武力を手に入れること。

 認められる強さ。自分が納得出来る力。今やルイズは、貴族の象徴たる魔法に見切りを付けていた。

 あの広場での出来事。火球を消し飛ばした爆発。狙いが正確な失敗魔法。あれは見てくれは無様でも、確かな力になる。それも、結局はルーンの力だ。杖に反応した左手のルーン。

 加え――剣でも斧でも槍でもなんでもいいが――武器らしい武器を持つことで、ルーンはその本領を発揮するだろう。確証はないが確信はしていた。

 これはそういうものなのだ。そもそも杖は武器として定義しにくい。だからこそ。

 

 

 ルイズは前を向いた。背筋は天を衝く様に真っ直ぐだ。想像する。爆発を産む自分。武器を振るう自分。また馬鹿にされる光景。お前らしいな、おいヴァリエール、やっと杖を捨てたのか。

 あまりにどうでもよかったので、ルイズは笑ってしまった。有象無象共の嘲笑の視線など、かつて向けられた母親の憐れみ混じりの瞳の前には微風同然だ。

 ルイズは武器屋の扉を開けた。冷たい表情で、瞳は爛々と鈍い輝きを放っていた。

 

 

 

 

 

 

 平和すぎて退屈すぎて暇すぎて。

 武器屋の店主はあくびを連発していた。店は閑古鳥が鳴き始めてから久しい。客も来なければ、血生臭い噂すら流れていない。ということは、そもそもの需要が無いということだ。

 天下泰平とはこのことか。店主は頭を振るう。冷やかしさえも来やしない。どうしたものやら。どうしようもない。まぁなるようになれだ。

 

 そう帰結したところで、汚れた扉がぎぃと音を立てながら開いた。錆びた蝶番の軋む音で、店主ははっと我に返り、刹那ぽかんと口を開いた。

 かび臭い扉の向こうにいたのは、明らかに場違いな可憐な少女だった。見覚えがある制服。魔法学院。つまりは貴族だ。……貴族? こんな場末の武器屋に?

 

「客よ」

 

 少女――ルイズは簡潔にそう言った。鳶色の瞳を空虚に輝かせて、射抜くような目線を店主に向けた。

 武器屋の男は言葉に詰まった。突然の貴族の来店、それも、彼が今まで相手にしたことが無いような少女。

 咄嗟に、おべっかを使おうとした。出来なかった。流れる桃色の長髪。全てを睨む様な美しい半眼。青褪めた肌。少女の意図は皆目検討がつかなかったが、少なくとも、冷やかしに来た気配ではなかった。

 

「……何をお求めで?」形式ばった無駄なやり取りは避け、店主もまた短く問うた。少女は客だと言った。それは、そう言う扱いを欲しているからだ。

 

 ルイズはきょろきょろと店内を見渡した。顎に手を当てて、暫し沈黙。店主も黙っている。僅かな静止の後、ルイズの形の良い唇が滑らかに上下した。

 

「武器よ」

「はぁ、武器と言いましても、何を」

「……種類は何でも。とりあえず、手で持てるものなら。実用的なもので、出来不出来は問わないわ」

 

 店主は心中で唸った。言葉じりだけで見れば、完全に冷やかしで、世間知らずの貴族のお嬢様の戯れにしか聞こえない。

 そもそもだ。男は少女の全体像を見やる。市井の者に比べ存在感の桁が違う、麗しい少女。

 制服から出ている四肢はほっそりと白く、まるで人形のようだ。

 何でもいいと来たもんだ。これで、例えば店の横に掛けられている戦斧などどうですかと言えば、あの細腕でぶんぶんと振り回すのだろうか。斧は彼女の体格と同じくらいの得物だ。

 馬鹿なことを、と一笑に付すにしては、けれども雰囲気がおかしい。世間知らずのお嬢様、かどうかはどもかくとして、店主は少女から冷やかしや戯れの気配を感じ取ることが出来なかった。

 

 店主は逡巡して、即座に結論を出す。知識空っぽの貴族サマ。平時なら、カモにすべきなのだろう。

 貴族は彼から見れば埒外の人種だ。思考も、生活様式も、何もかも。なので、この少女の意図を考える必要はない。どうせ理解できないからだ。

 よって、ここは商人としての一手を考えるべきなのであろう。打算を働かせ、如何に利益を得るかを。普段なら。

 

 店主は頭を振った。欲は出すな。

 平民から理外の領域にいる貴族。この少女は、そこから更に外れたところにいる。明らかに異常な匂いを店主は嗅ぎ取っていた。理屈ではない、本能だ。

 こういうのはなるべく穏便に相手をするのに限る。余計なことはしない。歴戦で、かつ戦狂いの傭兵を相手取るかの如く、当たり障り無く商売をするべきだ。

 

 そうして店主がたどり着いた答えは、女子供でも扱えるようなレイピアの類だった。大した品物は置いていないが、それを見て貰うしかない。最低限、無礼にはならないだろう。

 もし満足できないというのなら、たとえば、貴族に仕える平民用の儀礼武器を本格的に扱っている店を紹介すればいい。これに尽きる。厄介な客は、他所に回してしまうに限るのだ。

 

 金になりそうにはねぇか、決して言葉に出さずにそう嘆息したところで、店主は少女を見た。少女は前述の斧を振り回していた。それも片手だ。

 

「は?」

 

 悪夢の様な光景だった。価値観全てがひっくり返るような。

 斧刃の冷たき反射光が、下から上へと煌いている。半月を描くような振り回し。何もかもをぶち壊してしまいそうな風切り音が店内に犇く。

 ルイズはルーンから齎される武器情報と超越的な身体能力を以って、戦斧を自在に振るう。腰を入れての薙ぎの一振り。持ち手を変えての振り落とし。蝶の様な破壊の演舞。

 これがルーンの真の力か。ルイズは笑っていた。全うな武器を手に持てば、ここまでの結果が出る。世界を切り開かんとする斧の振り切り。それは最早轟音だった。

 

 店主の口は大きく開かれ、閉じることが無かった。油断したら、顎が床に着いてしまいそうな驚愕だった。

 小柄な令嬢が笑顔で斧をぶんぶんと振り回している。オーク鬼だとか妖魔の類だとか、そんなものより遙かに不可解な生物だった。

 それとも己が知らないだけで、これも貴族の力なのだろうか。そりゃ平民は勝てねぇわ。

 店主が薄ぼんやりと考えていれば、胡乱な思考を打ち消すように、少女は律儀に斧を元の場所にもどしていた。どすん、と僅かに埃が舞う。掃除しなきゃなんねぇな、と店主は思った。

 

「やっぱり、剣とかの方がいいわね」ルイズが言った。

「さ、左様で……?」

「ええ。重さはともかく、少し振りにくいわ」

「左様で」なるほど。確かにこの体型ならばそれもそうだ。店主は頷いた。そもそもその体型なら先ず持てないのでは、という疑念はなかった。実際持ててしまったのだから。

「あと、より頑丈なものをお願い。強度に難があったわ」

「左様で……それはどうも」おまけに知識もある。あの斧は固定化の掛かりが悪いものだったと店主は思い出した。

 

 この化け物に何を出せばいいんだ? 店主は一人困惑し、絶望する。細く弱いレイピアなんか出した日には、それを真っ二つに折られて、あなたもこうなりたいのかしら? などと言われてしまうかもしれない。

 とりあえず謝る準備は万端にしておく。自分に非が無いのは無論承知だが、そもそも貴族とはそういうものだと己に言い聞かせる。

 とそこで。

 

 

「おい、嬢ちゃん、こっちへ来な」

 

 突如、店主ではない、低い男性の声が聞こえた。ルイズは弾けたように辺りを見渡した。無論、ここには自分と店主の男としかいない。

 一方その声に心当たりがある店主は絶句した。店の厄介物。ときたま客に失礼な言動を言う、狂った武器。

  

 

「こっち、こっちだ」 

「……インテリジェンスソード?」

 

 店主が何かを言う前に、ルイズは声の持ち主と相対していた。十把一絡げに収められた武器群。その中にある、錆びだらけの大剣。

 ルイズに声を掛けたのは、一振りの剣だった。意思のある魔法武器。インテリジェンスソード。

 剣は落ち着いた声で「手に取れ」と言った。店主は、いつもへらず口ばかり叩くそれの、普段とは違う声色を聞いて、ますます混乱していた。ルイズは、何かに導かれるように、反論も問いかけもなく、剣の柄を握った。

 感慨深そうに、剣は言う。

 

「ああ、待ちくたびれたぜ。そうさな、お前さんが今代の使い……あれ、んん? いや、担い……あれ、ん、んんん? 嬢ちゃ、いや、あれ? 坊主? んん? どっちだ? なんだこれ、懐かしい哀れみが」

「ふあ!?」

 

 ルイズは素っ頓狂な叫びをあげた。剣が言った前半は意味不明だが、後半部分、これは、自分の。

 ほとんど反射的に、ルイズは瞳を瞑った。意味などなかったが、結果はあった。

 

 暗闇の中に、黒い犬がいた。幼いルイズがいた。その真ん中に、古ぼけた剣が闇に突き刺さっていた。

 

「へ?」

 

 闇の中で、ルイズの魂の中で、剣が言った。

 

「うわあああああああああああ!」

「きゃあああああああああああ!」

「おおおおおおおおおおおおお!?」

 

 

 剣が、ルイズが叫び、それに驚いた店主もまた叫んだ。武器屋はたちまち喧騒に包まれた。

 ルイズは瞳を見開いて、剣を武器群から抜き取った。自身の身長ほどある、片刃の剣だ。年季を感じさせる錆があちこちにこびりついている。

 

「ちょ、ちょちょちょ、なに、なんなの、よ。私の何を」

「な、なんてこった……ちくしょう! そういうことか! か、かわいそうに……!」うわ言の様に、剣が言った。憐れみの言葉。原理はともかく、ルイズは確信した。知られてしまった! ルイズの新しき力を! 性的な意味のやつだ!

「あああああ、あんた、いっ、一体……!」

「サー……じゃない! 嬢……嬢ちゃん、だよな!?」

「そ、そうよ! 嬢ちゃんよ! 誰がどう見ても!」

「お、おう! 全くその通り、立派なナニを」

「ころすぞ!」

「ま、まてまてまて! んん! お前さんは間違いなく、立派な嬢ちゃんだ! ともかく、おれを買え! 色々と為になる!」

「そうね!」為になるならないはどうでもよかった。これは口封じ的な意味だ。秘密を知られたからにはというやつである。ルイズの瞳は何かしらが渦巻いていた。

「おれはデルフリンガー! よろしくな」よろしく返しは、ルイズはしなかった。

 

「ちょっと!」ルイズが声を上げた。顔は店主のほうを向いている。

「は、はい!」

「これ! 買うわ! いくら!?」

「それでしたら鞘込みで百エキューです!」

「はいっ!」

「まいど!」

「どうも!」

「じゃあなオヤジ! おれ売られるぜ!」

「達者でなデルフ!」

「ごきげんよう!」

「ありあとしたー!」

 

 ルイズは手早く剣――デルフリンガーを鞘に入れ、とびでている紐を前につけて背中にしょった。そこから、烈風の如き速度で、扉を開けて店から出て行った。

 嵐の様な顛末だった。登場人物全員が尿を我慢しているのかというぐらいの早台詞だった。

 店主は数秒の間呆然とした。何が何だか分からなかった。彼は店の掃除に取り掛かった。

 





つまり始まる前からおかしくなっているということ。


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第十五話

 身の丈程の大剣を背負っているのにも関わらず、ルイズは驚異的な速度と軽やかな身のこなしで、更なる路地の奥へと走り入った。

 途中、剣がカタカタと揺れているのが分かった。言葉はない。どうやら鞘に入っている状態ならば、こいつは喋ることが出来ないらしい。

 建物と建物の狭間。他の干渉がない薄暗い路地裏にルイズは立っていた。じめりとした不快な空気が肌に触れ、つんとする臭いが鼻腔を刺激している。

 ルイズは身体を傾けながら背中の剣を抜き取った。「おい、嬢ちゃん、嬢ちゃん、娘っ子。話を聞いてくれや」剣の言葉は無視した。

 

 左手が、熱かった。その熱と衝動そのままに、ルイズは剣を路地裏の地面へと突き刺した。地面と垂直に立つ、見事な一本刺しだった。己が下腹部の戦闘態勢が如くに。うるせぇ。

 

「なぁ、おい……」

「二度はないからよく聞きなさい」ルイズは平坦な声で呟いた。「私はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。誇り高きヴァリエールの三女よ。三女なのよ」断じて長男なのではない。おどろおどろしい低い声が夜の闇の様に広がった。ルイズは剣を睥睨した。

 

「見ての通り、花も恥らう可憐な乙女よ」

「おお、すまねぇ、娘っ子……」

「ルイズ。様を付けることを許すわ」

「すまん、ルイズ」

「……まぁいいわ」

 

 ルイズは腕を組んでこくりと頷いた。そこに満足げな表情はなかった。強いて言うのならば透明で、無機質で、虚無だった。虚無の顔だった。

 

「知っていること、全部話しなさい」

「……昔の昔、お前さんと似たような境遇の女に、おれは使われていた。それだけさ」

「に、似たような境遇、というと、それは」

「チンコだ」

「ああ、ああ……」

 

 ルイズは顔を両手で覆った。これはもう「チンコ被害者乙女の会」を設立するべきなのではないか。一つ、真実を知った。何も知らないということは、それだけで幸福であり、不幸でもあるのだ。

 碌に世間を知らないからえげつない衝撃を受けるのだ。彼女はもう少し広い世界で生きようと決意した。もしかしたら自分が知らないだけで、世界はチンコで溢れているのかもしれない。死ね。

 しかし、その怒りと悲しみとやるせなさは長く留まることなく、すぐさま霧散した。顔に触れている紺色の手袋の感触がルイズに平静を取り戻させたのだ。彼女は顔を上げ、また剣に問うた。

 

「それは、誰。何時。何処で」

「覚えてねぇ」

「……他に何かあるなら、続けて」剣の無責任な投げっぱなし台詞に、ルイズは魂が沸騰しそうになった。つまりブチ切れ寸前だった。

 

しかし彼女は、癇癪を起こすことなく全てを押さえ込んだ。所詮は古い剣の戯言だ。ルイズは己に言い聞かせる。大人になりなさい、一皮剥けなさい。チンコの話ではない。

 

 先を促された剣は、「そうさなぁ」と呟き、暫し黙した。短い間の後、ゆっくりと剣は言った。思い出すように。もしくは、探るように。

 

「店で斧を振るっていただろう? あれは、お前さんの素の力では絶対無理だ。そうだろ?」

「……それも、分かるのね」

「そもそも、おれはおれを握ったやつの事が分かるのさ。お前さんが握った武器のことを分かるようにな」

「そう、そうなの。それも分かる、いや、知っているのね」

 

 つまるところ、この古いインテリジェンス・ソードはそういう力を持っているということだ。

 加えて――この剣の発言を信じるのなら――こいつは、かつて己と同じ状況のやつに握られていた、らしい。

 だから、己のクッソふざけた惨状を理解している、ということか。

 それと、左手のルーンに宿る謎の力も。

 

「あんた、知っているの。これが、どういうことかを。原因と、意味合いを」

「いんや」

「このっ……!」

「こちとら六千年も過ごしているんだ。忘れちまったね。それか、端からおれにもわかんねぇのかも知れない。それさえ忘れちまったけどな」

 

 その言葉を受けて、ルイズは黙することしか出来なかった。

 六千年。六千年の時。冗談にしてもあまりにぶっ飛んだ年月だ。聞き入るには値しないただの与太話だった。事実、ルイズはそれを信じなかった。

 その代わりに、ルイズはこの錆びだらけの剣の明らかなる真を感じ取った。年代は別として、少なくとも、長く存在しているのは確かなのだろう。その大剣の声色は儚げだった。

 出会って。知って。別れて。忘れて。また出会う。意義を問いかけたくなるほどの、無意味に思える時間。この剣は、そんな虚無を繰り返しているのだ。それだけは理解できた。

 

「だけど、覚えていることもあるんだわ」ルイズの思考の間隙を縫って、剣がそう言った。「お前さん、困ってるだろ? その、朝とか」

 

 ルイズは頭痛を覚えた。火山噴火現象が脳内を過ぎる。

 苦虫を百匹ほど噛み潰し、この後に苦虫のスープと苦虫のサラダ、メインディッシュである苦虫のソテーが待ち構えているような顔で、ルイズは呟く。

 

「……ということは、かつての被害者様も、そうだったのね」

「そうさな。そいつの絶望的な瞳だけは、なんとなく覚えている」

「ふん……」

 

 知られてしまったこともそうだが、剣の同情溢れる言葉にルイズは虚しくなった。この剣が過ごした歳月を憐れんだのが悪かったのかもしれない。同情し返されている。

 己は無生物にさえ憐憫の情を向けられる存在なのか。しかもそれら全てがチンコに帰結する訳だから、ルイズはもう乾いた笑みにしかならない。都合の良い、いや、都合の悪いことを覚えてやがってこの野郎くそぅ。

 

 

「まぁ、なんだ」ルイズが内なる黒いもやもやと戯れている最中、剣が言った。

 

「おれが居れば、いくらか役に立つぜ。使ってくれや」

「どうにかしてくれるの!?」

「泣きたい気分の時そばに居てやれる」

「クソがっ!」

 

 ルイズは背負っていた鞘を瞬時に抜き取り、突き刺さっている剣の柄に向けて叩き付けるように振り下ろした。

 汚い悪態に付随して、乾いた金属音が路地裏に木霊する。寂しい残響の後に、「すまねぇ」と悲しげに剣は言った。本当に申し訳が立たないという声だった。己の無力を痛感する者の嘆きだった。

 

「つまり」荒れ狂う感情の波を制御して、ルイズは突き刺さっている剣の横に、また同じように鞘を突き立てた。まるで墓標のようだ。

 

「事情は理解している、解決策は知らない、記憶自体も覚束ない状態……そういうこと?」

「まぁ、そうだな」

「何の役にたつ訳?」

「……辛いとき、寂しいときに」

「それ以外で」

「愉快で親切な話相手、なんてのはどうだ? しかも驚くべきことに、なんと剣の役割も果たせる」

「へぇ驚きだわ。うふふふふ。ふざけているのね? そうなのね? 愉快ってところは認めざるを得ないわね。頭に『不』が付くだろうけど」

 

 底冷えするような笑いだった。同情なんて消し飛んでいた。

 今ルイズに必要なのは、行き遅れた貴族の子女に対するような慰めではなく、即物的で即効性のある抑止力なのだ。

 剣は剣で必要とはしている。だがそれは別に普通の剣でもいい訳で。自身の秘所を知ってしまった魔剣に何かを求めるとすれば、股間の魔剣を封印する奇跡なのだ。

 魔剣・股下ビンビン丸の存在自体については、それはもう致し方ない。己が一部で、己が使い魔だからだ。

 けれど、ああけれど、せめて、魔剣の威力を封じることさえ出来れば、魔剣解放を防ぐことが出来れば、ルイズの苦しみは和らぐことだろう。

 だって、あまりにもあんまりだ。もう何度自問したか分からないが、己は今どういう生物なのだろうか。誇り高き貴族の乙女なのか。生殖器で思考している思春期の男子なのか。

 当然前者だ。そうに決まっている。しかし、ルイズは分かる。私は、後者に片足突っ込んでいる状態なのだと。おっぱいにやたら反応したりヴァリエール跡継ぎ生産体制に入ったり。

 美しい庭園に咲く煌びやかな木々を、地獄の釜にくべている気分だった。淑女色の燃料で性欲の炎が噴出してしまっている。

 これでマジでカトレアお姉さま御懐妊とかふざけ腐ったことを成してしまったら、私は世界と一緒に死ぬわ。ルイズは覚悟を決めていた。

 ルイズの乙女が死ぬ時。それは、ハルケギニアが滅びる時なのだ。世界は危険な綱を渡っているのだ。渡らされているともいう。

 

「ふざけてなんかいないさ」そこで剣が言った。言葉通り、至極真面目な色だった。

 

「お前さんにくっついているのは、喋ったり出来ないだろうよ。だから、おれがその代わりになるんだ」

「喋れるわけないじゃないぶっ壊すわよ」

 

 ルイズはチンコがへにょりとおじぎして「こんにちは」と挨拶する様子を脳内に描写して、発狂しそうになった。寸でのところで耐えた。世界は守られたのだ。やったね。やってねぇんだよ私の心が軋んでいるんだよ殺すぞ。

 灰色の思考のまま、ルイズは手袋に包まれた左手をごきりと鳴らす。ふざけていないと言いながらふざけ倒したことをぬかした剣へ、ルイズは殺気溢れる視線を向ける。しかし、錆びだらけの剣は動じなかった。

 

「そっちじゃなくて、そっちの持ち主の方だよ、居るだろ、そいつも。お前さんの中に」

 

 ルイズは一瞬呆けた顔になった。思い浮かぶは武器屋での光景。暗闇世界。幼い自分。黒い犬。そこに刺さる大剣。

 入り込めない世界に入り込んだ異物。闇の中にあった剣と、暗い路地裏にある剣が重なる。

 知っているのだ。こいつは。真の意味で。何もかも。闇の中にいる使い魔たる黒犬に関しては、その黒犬とルイズ以外誰も知らない筈だった。

 

「……分かるのね」

「まぁな」

「そして、あんたが何故分かるのかというのは」

「知らねぇな。あるいは、やっぱり覚えてないだけなのかもな」

「仮に忘れているだけだとして、思い出す気配は」

「ねぇな」

 

 とぼけているのか、それとも本当に何も知らない、覚えていないのか。

 ルイズにとって確かなことは、この剣からは有益な情報を得られないということ。そして知られてはならない秘密を知られてしまっている、ということだ。

 おまけに喋る。これはもう使える使えないどころの騒ぎではない。ゼロを通り越してマイナスだ。

 

「なぁ、いいだろ。安くない買い物だったんだ。このまま捨て去るのも勿体無いだろ」

「鞘込みで百エキューだったじゃない」

「……いやいやいや、まぁ、値段の割りにいい仕事するぜ? 見てくれは悪いが、質は一流だ。保障する」

「……あんた、随分自分を売り込むわね」

 

 やたらぐいぐい来る剣に、ルイズは疑惑の眼差しを向けた。

 この剣をルイズが使う意義以上に、この剣がルイズに使われる意義を、彼女は見出せなかった。

 

「そりゃ、おれが剣だからさ。そうである以上、使われてナンボなのさ」

 

 なるほど。確かにそれはそうだ。ルイズは心中で頷いた。

 そこで彼女は思い至った。インテリジェンスソードらしからぬ値段。武器屋での店主の反応。錆びだらけの刀身。

 さもありなん。要するに売れ残りなのだ。ちくり、とルイズの心にとげが刺さった。鏡の反射の如き己への投影。蔑みと孤独。

 ルイズの顔が僅かに歪んだ。それを知ってか知らずか、路地裏に刺さる大剣は、更なる言葉を紡いだ。 

 

「それに、おれはずっと待っていたんだ。お前さんみたいな奴が来るのを」

「それって……」

「チンコだ」

「おお、おお……」

 

 大剣の切れ味鋭い言葉に、ルイズはもう呻くことしか出来なかった。

 その人生、もとい剣生に、なにかいみがあるの?

 そう尋ねたくて仕方がなかった。チンコ生えた女の子が剣を買いに来る確率は、果たしてどれほどのものなのだろうか。どれほどの年月、チンコ生えた女の子を待っていたのだろうか。ルイズはもう心と頭がいっぱいいっぱいだった。いますぐ喚き散らしたい気分だった。

 この剣がどの様な理由で被害者乙女達を待っていたかは、ルイズは聞かなかった。どうせ返事は『分からない』か『覚えていない』かだからだ。

 言葉を飲み込み、ルイズは考える。この剣を使うべきか、否か。

 この剣がやたら丈夫なのは触った時点で分かったが、ルイズはこれを振るうそれ以上の利益を見出せなかった。不利益だけは泉の如く溢れるように見つかるのだが。

 錆が浮き出る程に古い。知性がある。秘密を知られた。事態の解決には役立たない。

 けれども。

 

「……いいわ。あんたは、今日から私の剣よ」

 

 脳裏に過ぎる様々な不利点を振り切って、ルイズは剣に言い放った。細い腰に手を当て、気持ちふんぞり返りながら、至極堂々と。

 同情がないといえば、嘘になる。記憶と忘却の輪廻を長い間辿っているこの存在に一抹の憐憫の情を抱いたのは、紛れもなく真実だ。

 そしてその感情は、疑いようもなく、剣と己の境遇が同調したが故のものだった。

 しかし、それが全てでもなかった。ルイズがこの老いた剣を選んだ一番の理由は、剣の言葉にこそあった。

 

『おれはずっと待っていたんだ。お前さんみたいな奴が来るのを』

 

 運命と言う言葉を、ルイズは考える。

 人生や出会い。それらは一体どこまでが偉大なる始祖ブリミルのお導きなのだろうか。

 武器屋でこの剣を握ったことだろうか。この街でキュルケやタバサと僅かながら友誼を結んだことだろうか。

 キュルケに秘密がばれたことだろうか。己に齎されたルーンの力のことなのだろうか。

 笑えない笑い話、最低最悪の、召喚失敗男性器結合事件も、逃れられない運命だったのだろうか。

 

 魔法を使えないことが、始祖のありがたい道標なのだろうか。

 あの馬鹿にされ哀れな目を向けられた屈辱の日々すらも、天が定めた道にしか過ぎなかったのだろうか。

 

『――糞喰らえだ。そうだろ?』

『そうね』

 

 なにかがルイズの心へ問いかけ、ルイズはすぐさま肯定の意を返した。

 不思議な気分だった。怒りや憎しみはあるのに、痛みや不快を感じない。

 負の感情の中の、前に進む原動力だけ都合よく抽出した様な、そんな感覚。

   

 この薄汚い湿り気ある路地裏で、ルイズはまた一つ、人生の教訓を得た。

 

 ――受け入れることと諦めることは違う。

 

 この剣は、ルイズの様な人物が来るのを待っていたという。そして、今日、一人と一振りは出会った。

 これが運命なら、そして全てが運命ならば。それでもいい。ルイズは受け入れる。

 何もかも、受け入れる。恥辱も屈辱も何もかも。

 けれど、流されることは御免だった。運命とやらが海原の濁流であったとしても、惨めに無価値にされるがままになるのは、嫌だった。

 

 

 ルイズは半歩ほど進み、地面に突き刺さっている剣を抜いた。手袋の下で、ルーンの発光が分かった。

 腕を上げ、天へ翳すように剣を掲げた。錆びだらけの喋る剣。それがこの手にあるのは運命だ。ならば、それを乗りこなして見せる。

 

「私はルイズ。ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール」

「おれはデルフ。デルフリンガー」

 

 お互い、二度目の名乗りだった。使うものと使われるもの。ルイズとデルフ。互いを認め合う名乗りだった。

 

「よろしくね」

「よろしくな」

 

 言葉を交わし、ルイズは静かに瞳を閉じる。

 闇に居る小さな自分と、黒い犬。そして、新たに加わった錆びた剣。

 

「お前さんも、よろしくな」

 

 漆黒の帳の中。デルフがそう言って、黒犬は歓迎するように吠え返した。

 

 

 

 

 

 

 

 ルイズは地面に突き刺した鞘を抜いて、剣を納めようとする。

 錆びた刀身が鞘の中ほどまで入ったとき、ルイズはぴたりと動きを止めた。

 

「一応言っておくけど」

「分かってるよ。内緒にしておくんだろ」

「何もかもね。武器を握れば云々も、今は誰にも言わないでちょうだい」

「はいよ」

 

 この剣がそう易々と秘密を漏らすことはないと思うが、念には念だ。ルイズの聖域をこれ以上広めるわけにはいかない。気を遣い過ぎるということはないのだ。

 また、性域のこともそうだが、己のルーンのことも秘密にしておきたかった。股間の聖なる性器よりかは知られても構いはしないが、無意味に吹聴する意味もない。

 藪を突かれるのは困るのである。

 

「このことは、誰も知らないのかい?」デルフがカチカチと留め具を揺らしながら言った。

「学院長とその秘書は知っているわ。というか、知って貰ったわ」

「……なるほどね」

「……それと、私の隣部屋の奴も。今日はそいつと一緒に街に来たの」

「へぇ。随分と仲がいんだな」

「は」

 

 ぽかん、と。

 全く予期せぬことを言われた、そんな表情でルイズは大口を開けた。疑問符さえも付けられないほど、それは予想外の言葉だった。 

 誰と誰が、仲が良いって?

 ルイズが反論をしようと唇を尖らせれば、それより早く、デルフが二の句を発した。

 

「学院長だとかに伝えたのは便宜を図って貰う為だろ? だから、そんな知られちゃならねぇ秘密を打ち明けた訳だ。必要だったんだろうよ。だけど、その隣部屋の奴に言う意味なんてあるか? しかも、今もこうして関係を続けているんだ。つーことは、それだけ相手と思いあっているってことじゃねぇか」

「ちっ、ちがうわよ。確かに学院長に話した理由はそうだけど、あいつは、あいつには打ち分けた訳じゃなくて、私も不本意だったのよ。無理やりよ。無理やりなのよ」

「するってぇと」

「……そいつは無理やり私の部屋に入り込み無理やり見たのよ。その、朝のアレを」

「もしかして、かなり頭おかしいやつなのかい、そいつは」

「否定できないわ。ちなみにそれ、今日の出来事よ。その後お出かけに誘われたわ」

「なに考えてんだよ……」

「本当にね。なに考えているのかしらね」

 

 なにを、考えているのだろうか。

 ――汚らわしいとさえ言える秘密を知って、尚もひるまないキュルケも。家系のしがらみを無視し、大人しく付き合うルイズも。

 なにを、考えているのだろうか。

 心中だけで、そう締める。答えは出ていない。

 頭を振るう。今考えることではない。

 

「そうだ、今日は私も含めて三人で来ているのよ。知っている方はそいつ一人だけだから、下手こと言わないでね」

「おう、その頭キているのはどういう奴だ?」

「おっぱいが大きいわ」

「知らない方は」

「可哀想なおっぱい」

「それ、自己紹介か?」

「ころすぞ」

「お前さんから話振ってきたのに」

 

 それもそうだ。しかしなぜ、なぜ己がその話題を自ら。責めるべきは。即座に気づき、ため息一つ。

 デルフをきっちりと鞘に納めてから、ルイズは目を瞑る。暗闇。一匹の黒犬と幼い自分。デルフはいない。どうやら彼がここに入れるのは、ルイズが握ったときのみのようだ。

 小さいルイズが、恨みがましく黒犬を睨み付けている。黒犬はそっぽを向いている。尻尾はブンブンだった。あからさまだった。

 男って連中はそんなにおっぱいが好きなのか。百億歩譲ってそれはいいとして、その性癖をよりによってこの私に押し付けるか。

 ルイズは瞳を開く。なんとも業の深い話であった。

 

 

 身の丈ほどの大剣を背負う、魔法学院の制服を着た少女。

 ルイズのその姿は、トリスタニアの通りにあって、とてつもなく人目を引いた。好奇の目。訝しげな視線。ルイズはそれらを気にも留めなかった。慣れているというのもあるが、もう、どうでもよかった。

 

 暫し歩き、キュルケ達との待ち合わせ場所に着く。

 やや開けたところにあるそこには、幾つかの出店が並んであり、木製の椅子がちらほらと点在している。

 

 キュルケが一人、その長椅子に座って頭を抱えていた。

 

 

「……何してんの、あんた」  

「あ、ルイズ……」

 

 ルイズが声を掛けるまで、キュルケはずっと俯いたままだった。

 ようやっと顔を上げた彼女は、困惑と憔悴の色を顔に乗せている。ルイズは辺りを軽く見渡した。タバサは見当たらなかった。

 彼女はどこに行った? そもそも、何故キュルケはこんな顔をしている?  

 疑問がルイズを満たすが、それはそれとして、キュルケのらしくなく萎んだ顔とおっぴろげになっている萎まない風船を目にし、ルイズのフランソワーズ角度が上がった。だいたい『フラ』ぐらいなので、三十フランソワーズと言ったところか。死ね。

 ルイズが思考の雑音対策に掌を開いたり閉じたり骨をバキバキ鳴らしたりしていると、キュルケがルイズの背負っている剣に気づき、眉を顰めた。

 

「なに、それ」

「なにって、剣よ、剣。見て分からないの?」

「分かるわよ。そうじゃなくて、なんであんたが、そんなものを」

 

 どこか棘がある声と視線だった。

 責める雰囲気さえある彼女の態度に、ルイズはまたも首を傾げる。

不思議に思われたり、もしくは馬鹿にされたりするのならまだ分かるが、ルイズはキュルケの射貫くような瞳の意味が分からなかった。

 

 

「必要だと思ったから。それだけよ」取り直して、ルイズは辺り障りのない、煙に巻く言葉を放った。

「ふぅん。随分大きい剣だけど、あんた、それをどうすんの」

「……何よ、あんたには関係ないでしょ」

 

 ルイズが口を尖らせて突っぱねるような言葉を吐いても、キュルケは訝しげな目をやめなかった。

 顎に手を当てて、探るようにルイズを身体を見やる。

 上から辿っていたその視線が、ルイズの下腹部辺りで止まった。  

 

 

「なるほど。二刀流ってわけね」

「それは剣と杖の、ってことよね? ねぇ、キュルケ、こっちを見て。私の目を見て。下を見るな。おい」

「……よかった」

「よかないわよ、おい、おいキュルケ、おい」

「杖は、捨てないのね」

 

 今日二度目の予想外の言葉だった。

 今度は一文字も出ない、完全無欠の絶句だった。

 絶句。ルイズは何も言えなかった。何も言い返すことが出来なかった。

 

 論理的に考えれば。

 確かに、魔法を使えない劣等生が剣を持ちだしたら、杖を捨てた、そう思われても、あるいは仕方ないのかもしれない。

 ルイズ自身、普通の魔法にはある種の見切りを付けていたのだから。杖を捨てる、とまではいかなくても、己はよくいるメイジにはなれないのだろう、とは思っていた。だからこその剣であり、新たな力なのだ。

 それはいい。では、なぜ、キュルケがそんな台詞を吐くのだろうか。なぜ、キュルケは今、安堵の表情を浮かべているのか。

 

 仮にルイズが杖を折ったとして、キュルケに何の関係があるというのだろうか。何の意味があるというのだろうか。

 分からない。ルイズは分からない、振りをした。犬の遠吠えが、奥底で聞こえた。

 

「……私は貴族よ」

「そうね、そうよね」

 

 ルイズの逃げるような短い言葉に、キュルケは満足そうに頷きを返した。

 絡まりつつある思考を投げ捨て、ルイズは背中に手を伸ばし、飛び出ているデルフの柄を握り、少しだけ抜いた。

 

「あんたも挨拶しなさい。こいつはおっ、キュルケよ」

「よう、おれはデルフリンガ―っつうんだ。よろしくな、オッキュルケ」

「誰よ。私はキュ・ル・ケ。それにしても、へぇ、インテリジェンスソード。珍しいわね。なんでわざわざ?」

「色々あるのよ」

「ああ、色々、な」

「はぁ?」

「いいの。それより、タバサは」

「あ、そうだ。そうよ、大変なのよ」

 

 言って、キュルケはがばりと椅子から立ち上がった。

 こっちよ、とキュルケが歩き始めたので、ルイズはデルフを鞘に納めてから後に続いた。

 

 存外、タバサは近い位置にいた。

 丁度ルイズの側から見えなかっただけで、タバサもまた、キュルケと同じように広場の長椅子に座っていた。

 小柄な身体を少しだけ丸めて、本を読んでいる。

 それだけなら普段と何も変わらないが、字を追っているだろう彼女の目が、明らかに平素とは違っていた。

 

 淀んでいる。

 

 透き通った水晶の様な美しい青色が、今や邪悪な魔女が棲む森にある毒沼もかくや、というぐらいに濁っていた。

 実際瞳の色が変わっている訳ではないが、その喩えがしっくりくるぐらい、本を読んでいる少女の瞳は死に絶えているのだ。  

 無言。無表情。タバサはただ本を読み続けている。

 

「なに、あれ」

「知らないわよ……タバサを本屋に連れていって、気づいたらあの泥沼の様な瞳になっていたわ」

「ええ……?」

「その後本を買って、それからずっとあんな感じ……凄いわよ、あの本」

「そ、そんなに暗い話なの?」

「逆よ、逆。甘すぎて口からベリーパイが出るほどの恋愛小説。噂として聞いているけど、ひたすら男と女がいちゃついている話らしいのよ。ヤマもオチもないって評判だわ」

「なにゆえ、あの子がそんな」

 

 今日は驚かされてばかりだ。ルイズから見れば、タバサは学術書だとか古典文学だとか、とにかく小難しい本を読んでいるような印象だったのだが。

 人の好みにケチをつける気はないが、それでもルイズは何事だと思ってしまう。死んだ魚の瞳で頁を捲っているタバサを見ると、特に。

 

「ルイズ、見てよあの表紙。目が痛くなるような激しい桃色。いつものタバサらしくないわ。なんか馬鹿みたいじゃない」

「あんた私に喧嘩売ってんの?」

「あっ、ち、違うわよ、ルイズの髪はあんな色よりもっと綺麗じゃない! ……あっ」

「ぶっ、うっ、ぎ、く、ん、そ、そう、かな? い、いや、そうよ! ふ、ふふん! あんたもやっと私の美しさを分かって……」

「う、うん……いや、うん……」

「あ、あー……そうね……」

 

 何が『うん』で何が『そうね』なのか。ルイズ自身、全く分かっていなかった。キュルケもまた、そうだった。

 口が滑るという言い回しがあるが、今日まさしく、二人の口は滑りっぱなしだった。ツルツルだった。ルイズはツルペタだった。

 お互いに気まずくなっている場合じゃない。二人は目線だけでそう語り、ついでタバサをまた見やった。彼女は未だ活字の世界に生きている。

 

「……で、どうするの? 暫く放って置く?」

「一人にしておけないわ」

 

 至極真面目な表情で、キュルケがそう呟いた。

 ルイズとしては、下手に突っつくよりも本人のやりたいようにさせるべきだ、と思ったのだが、キュルケにとってはそうではないらしい。

 少し、羨ましかった。きちんと見てくれる人が居るタバサ。友人にとって何が最適なのかを即座に判断できるキュルケ。

 ルイズには、縁がないものだから。

 

「何か嫌なことがあったのなら、尚の事気持ちを盛り上げないと」

 

 どこか照れるような顔で、キュルケが言った。ルイズを見て、柔らかく微笑む。

 その目線がルイズの下腹部に届いた。

 

「盛り上がらないでね」

「おいツェルプストー、おい」

「というわけで行くわよ、ルイズ!」

 

 私もいくのかい。

 ルイズは、喉まで出掛かったその言葉を呑み込んだ。

 やれやれ、と首を振る。さっそくキュルケはタバサに絡み、腕を引っ張って何事かを言っている。

 タバサは変わらず、暗い目をしていた。  

 

 ルイズは、王都での目的を既に果たしている。彼女達に付き合う義務はないし、義理だってない。

 そこまで考えて、ルイズの視界に紺色の手袋が映った。

 

 ――ま、余興にはなるかな。

 

 他に他意などありはしない。

 己にそう嘯いて、ルイズは二人の元に駆け寄った。魂の底で、幼い自分が笑った、気がした。

 

 

 

 この後三人で滅茶苦茶遊んだ。

 

 



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第十六話

夜も程よく更けた魔法学院、その広場にて

 月明かりが煌々と照らす中、ルイズは一人、剣を振るっていた。いや、正確に言えば、一人と一振り、だろうか。

 

 ――分かる。剣の使い方が、頭に浮かんでくる。

 杖より重いものは持ったことが無い、と迄はいかないが、大貴族の出自であるルイズだ。食器以外の刃物なぞ手に触れる機会はほとんど無く、いわんや身の丈程の大剣なぞ、といった具合である。

 けれどもこの月下斬撃。舞うような体捌きからの振り下ろし、横薙ぎ。まるで生来慣れ親しんだ己が手足のように、ルイズは易々と剣を振るう。

 別に何かを相手にしている訳ではない。ただ振っているだけだった。ただ踊っているだけだった。

 体が軽かった。全能感に満ち満ちていた。知らず知らず、ルイズの口角が自然に吊り上っていく。些か凶暴で、暗さがある笑みだった。

 

「そう言えばあんた、なんで私が剣を必要としていたか、聞かなかったわね」

「別に何でも構いやしねーよ。俺は喋れると言ってもただの剣だ。剣に振られる理由はねぇのよ。ただそこにあるがゆえ、さ」

「なにそれ、カッコつけ?」

「格好は付けられる時に付けた方がいいぜ。もったいねえからよ」

 

 カッコつけは否定しないのか。ルイズはそう思いながら、一度剣舞を止め、デルフを地面へと突き立てる。

 額から垂れる汗が、ルイズの頬をたらりと撫でた。疲れはない、ないのだが。

 柄から手を離す。手袋に包まれているルーンの発光が収まり、がくん、とルイズの膝が揺れた。万力の如くあった握力が刹那のうちに霧散し、羽根の様に軽く振るえていた腕に大量の重しが圧し掛かったようだった。

 両手の震えを自覚しながら、やっぱりね、とルイズは苦く笑った。

 

「疲れない訳じゃない、ってことね」

「そうさな。疲労自体がなくなる訳じゃねぇんだ。ルーンが体を誤魔化しているだけなんだろう」

「手を離せばそれが返って来る、か、あ、あーこれちょっとキツイ……」

 

 急激に訪れた倦怠感に逆らわず、ルイズははしたなく地面へとへたり込む。

 けれど、己のような体格の持ち主が、同じ丈の剣をぶんぶか振るって「疲れた」で済むのなら十二分だ。流れる汗や切れる息そのままに、ルイズは満足気に空を見上げた。

 

「でもおめー、そのナリの割に体力あるじゃねぇか。基礎の部分だけどな」とデルフが言ったので、ルイズは顔を剣に向ける。

「そう? 私は自覚ないけれど」

「ああ、やろうと思えばルーンがなくても……いや、ああ、そうか、これは」

「ん?」

「いや、なんでもない、思い違いだった」

「ふーん」

 

 適当な相槌を打って、ルイズはまた空を見上げ直した。

 天蓋の頂点で、丸い双月が闇夜に輝いていた。それをぼんやりと眺めながら、ルイズは昼間の出来事を反芻する。

 

 

 ルイズを含めた三人は、休日をほぼ丸々使い、王都のあちらこちらを歩き回った。

 装飾店を冷やかしたり、出店を見て回ったり、キュルケが見つけたお洒落な店で昼食をとりさえした。

 不明な落ち込みを見せるタバサを慰め、気遣うため。建前はそうであり、ただの余興と己に言い聞かせたルイズにも、タバサを案ずる気持ち自体は確かにあった。

 けれど。

 今の日。あの時、あの瞬間。

 三人で店を渡り、キュルケが色仕掛けで宝石を値切ろうとしたり、タバサがハシバミ草のサラダを無茶苦茶に食い散らかしていた、あの時。

 間違いなく、誇張なく、言い逃れ出来ないほど――ルイズは、街を楽しんでいた。二人との交友を、楽しんでいたのだ。

 

 

 話の顛末として。

 タバサはこちらの呼びかけや働きかけには反応するものの、絶望と失望が固められたその氷の瞳は、最後まで融解しなかった。

 何一つ解決しなかった。彼女の使い魔である風竜シルフィードにさえも、帰りの空できゅいきゅいと鳴かれて心配されていた程だ。

 そもそもの原因も分からずじまい。キュルケも不安な顔をしていた。そして、ルイズも。

 

 夕暮れの魔法学院にて、別れ際、キュルケはこう言った。

 

『もう少しタバサに付き合うわ』

 

 ルイズは「あっそ」と素っ気無く言い捨てて、あとはそれっきりだ。そうして二人は何をしているのか、タバサはどうなったのか、ルイズは知らない。

 こうして現在。当初の予定通り、ルイズは誰も居ない夜中、一人剣を振るっている。力を求めている。悩める二人を、振り切って。

 

 

 宙に浮かぶ青と赤の月が、静かにルイズを見下ろしている。

 何かの比喩のようだ、とルイズは思う。鮮やかな二人の髪の色。

 導かれるように、求めるように。ルイズは月へと手を伸ばした。届くはずもなかった。

 焦がれるように伸ばされた両腕は虚しくも空を切る。上天にある月は、ルイズを見やることさえしない。

 天の蒼紅、地の零を顧みず。交叉あれども、天地同格に非ず。

 そんなものだ、ルイズは寂しげに微笑んだ。寂しいという気持ちは、もはや否定できなかった。

 

「んで、おめー、なんでまた剣を使うって気になったんだ?」

 

 ルイズが己に灯った感情を想っていると、唐突にデルフリンガーがそう言った。

 前言を撤回するのが早すぎる。ルイズは剣へ呆れ顔を向けた。

 

「なによ、カッコいいこと言っといて、結局聞くんじゃない」

「聞いてほしそうだったからな。それぐらいは剣でも出来る」

「じゃあ聞き返すけど、あんたはなんでだと思う?」

 

 剣は黙した。

 

「まさか、股間の剣だけでは飽き足らず鉄の棒を握りたくなったのか! とか思ってんのならぶっ飛ばすわよ」

「それはおめー被害妄想が過ぎるぜ……」

 

 左手の大剣、右手の杖、そして股間のチンコ。

 これぞルイズ完全体。

 驚異的な剣技。正体不明の爆発魔法。首を擡げる暴れ馬、からのヴァリエールカノン。それらを駆使し、ルイズは暗黒の時代を駆け抜けるのだ。世界は滅ぶ。おっぱいは生きろ。

 

 ふと思いついたマジでクソみてぇな妄想を、ルイズは頭を横に振って消し飛ばす。

 デルフの指摘もそうだが、流石に思考が偏り過ぎていると彼女は嘆息する。全てのことが己の股間を揶揄しているような想像。これは、先日の使い魔の仕業とはまた違うものだとルイズは察していた。

 あれはルイズが魔法を使えないという事実を確信し傷つくのを防ぐため、魂の同居人である黒犬が思考に介入していたのだ。

 であるのならば、これは、この殺伐で捨て鉢な考えは、彼の所為ではなくて――

 

 それ以上の思考を、ルイズはしなかった。決断的に、懐に手を入れて杖を取り出す。

 何もない空中へ杖を向けて、適当なルーンを紡ぐ。なんでもよかった。どうせ爆発するのだから。爆発しか、しないのだから。

 

 虚しく響く、破裂音。

 

 しゅうしゅうと音を立てて散りゆく失敗魔法の残滓が、ルイズの目には無能の誹りに映った。事実、その通りなのだろう。 

 

「これが私の魔法よ。魔法じゃないのかも知れないけど」

 

 なんにしても、よくわからないのよ。何もかもが爆発する訳だから――杖を懐に入れ直しながらデルフに向き直り、ルイズが言った。

 地面に突き刺さっている剣は、何も言わない。目の前に起きた不可思議な失敗魔法に、永き時を斬った剣は、何も言わなかった。

 ルイズはデルフの言葉を待たず、ただ天を見た。そこにある月を見た。その裏側にある未来を見ようとした。見えなかった。見えたことなど、一度もなかった。

  

「魔法が使えない貴族。役に立たない貴族。貴族ではない貴族。色んなことを言われて、もちろん反発もした……だけど、言葉でいくら否定しても、事実は変わらない」

 

 もう覚悟したはずなのに。決めたはずなのに。

 ルイズは猛烈な悲しみと虚無感に襲われた。あれだけ努力して、あれだけ勉強して、あれだけ馬鹿にされてなお、甘い水は、ルイズに寄って来なかった。

 私は、ルイズは、ゼロなのです。家族は、これを聞いてどう思うだろうか。悲しむのだろうか。怒るのだろうか。慰めてくれるのだろうか。失望するのだろうか。

 ルイズは家族が向けるだろう、様々な感情を想像した。考えたそれら全てがあり得るもので、それら全ての『かも知れない想像』が、ルイズの心に注ぐ黒水となる。ルイズは目を瞑り、即座に開ける。闇の中の幼い自分が、空の瞳で何処かを睨み付けていた。

 ルイズは右の手で左手首を強く掴んだ。左手を鉤爪の様に尖らす。ぎちりと歯を強く噛む。紺色の手袋の内側で、黒い力が循環しているのが分かった。

 ――屈辱をすべて受け入れろ、そうして私は前に進む。

 

「見返すだけの力が欲しい。普通の魔法が使えないのだとしたら、それ以外の、誰もが認める力が。それがたとえ、努力の果てに無い、振って沸いたものだとしても、私は」

「おめーは……」

「なによ」

「いや、なんでもねぇ」

 

 デルフは言葉を切った。ルイズは深追いしなかった。

 ルイズは、ただ空を見上げ続けている。見えない何かを、見ようとしている。

 

「浅ましいと、思う?」

 

 それは、誰に向けての問いだったのだろうか。

 行先不明の質問に対し、やはりというべきか、どこからも答えは出なかった。デルフからも。ルイズの中からも。

 夜に沈む世界が、静寂に溺れる。けれど耳が痛い程に響く沈黙は、一瞬だけだった。

 

「あー思い出したおもいだした、うん、思い出した」無音の帳を切り裂くようにデルフが言った。抑揚がない、ひどく平坦な声だった。

 

 その言葉のすぐ後、デルフは光った。比喩でなく、月明かりの反射でもなく、剣の刀身自体が眩い光を放ったのだ。

 ルイズには声を上げる暇さえなかった。

 気が付けば、デルフリンガ―の刃から錆が消えていた。刀身にあった薄い汚れや古さは露と消え、まるで朝霧が齎した雫の様に輝いていた。

 

「な、なによ、これ……」

「へっぽこに使われるのが嫌だったから、わざと錆びたふりをしてたんだ。今思い出した。たったいま。ちょうど。ホントに」

 

 白々しいとはこのことだ。ルイズはため息を吐く。急に剣が変化した驚きは、明らかな虚言を聞いてどこかへ飛んで行ってしまった。

 錆びていた理由は本当かもしれないが、ちょうど今思い出したというのは眉唾だ。言い訳がましく付けられた念押しの言葉は、ただルイズの疑念を加速させる役割しかなかった。

 というか、下手に使われるのが嫌だから錆びたふりをしていた、のならば、何故己に真の姿を見せたというのか。まだ出会って一日しか経っていないし、ルーンがあるとは言え己は素人同然なのだ

 何か、何かを隠している。ルイズはじとりとした目線をデルフへ向けた。

 

「……随分都合のいい記憶だこと。で、他に何か思い出した?」

 

 湧き上がる疑問を一度捨て置いて、ルイズは要点だけを聞いた。

 けれど、実際デルフの記憶や思惑がどうあれ、答えはどうせ一つしかないとルイズは分かっていた。

 

 

「分からんね」

 

 

 ほら見ろ。

 しかしルイズは、これ以上なにも聞かなかった。些事として片付けた。剣の思わせぶりな態度。古の剣の謎。そして赤と青が混じる景色。どうでもいい。

 やることは、ただ一つ。望むものは、ただ一つ。溺れるべきは、ただ一つ。

 ルイズの奥では、幼い彼女と黒い犬が向かい合っている。

 

『ちからがほしいの』

『お前がそれを望むなら』

 

 

 器に浮かぶは甘い水。

 

 

 

 

 一人の少年のふらふらとした足取りが、月の明かりに照らされた。

 金髪の髪に整った顔の少年は、表情を苦い物にしながら、誰もいない広場を歩いていた。

 

「イテテ……肘はないだろう、肘は……」

 

 腹部を押さえ、どんよりした顔で一人呟く少年――ギーシュ・ド・グラモン。

 父を元帥として持ち、また高名である家系の四男であるギーシュが、なぜこんな時間に一人歩いているかと言えば、理由らしい理由はない。

 強いて言えば、じっくりと考え事をする為で、取り繕わなければ、それは男女関係によることで、ありていに言えば、女の子に振られたのだ。

 腹部への鈍痛を誤魔化す様に夜風に漂うギーシュは、今なら素直にこう思える――あれはなかった、と。

 

 一から十まで己が悪かったのだ。

 自分の『二股』が原因で、彼が言うところの『麗しき乙女』を傷つけてしまったのだから。

 気障たらしく、体面を気にするトリステインの貴族らしい子息であるギーシュだったが、流石にこの期に及んで責任を乙女に被せたりはしない。

 ――次はもう少し上手くやろう。ばれないように。

 ギーシュはうんうんと頷いた。彼は馬鹿なのだ。反省と後悔の方向がズレているのである。

 

 ギーシュから言わせれば、体面的には二股に見えたとしても、あれは、そんなものではないのである。

 そう、美しき薔薇の化身である己の最大の使命、それは世に羽ばたく蝶のような女性を、限りなく楽しませることにあるのだ。彼は馬鹿だった。

 よって、ギーシュの反省点と言えば、複数の女の子に粉を掛けたことではなく、ばれてしまったことなのだ。

 しかも本命と対抗……ではなく、彼がいうところの二人の可憐な蝶に同時にばれたもんだから、もう目も当てられない。しかも人目が多い昼の食堂でだ。

 要は、彼は客観的に見れば何も変わってないということ。精々がもうちょっと慎重に動くべきかな、という心構えをしたぐらいだ。

 そんなんだから、彼はさっき、本命の女の子に縁りを戻そうと近づき――見事な肘鉄をくらうハメになったのだった。二股事件からまだ碌に日が経っておらず、彼が吐いた言葉は謝罪というべきものでもなかった。どちかと言えば言い訳だ。当然の結果だった。

 

 ふらふら、ふらふら。風に揺れる薔薇の花弁よろしく、彼は夜道を歩く。

 静寂にある夜の魔法学院。だけれどギーシュはそこで、研ぎ澄まされた風斬り音を聞いた。

 ぴたり、とギーシュの足が止まる。貴族であるギーシュとて、何もかも分からぬ訳でもない、今のは、間違いなく剣が空を斬る音だ。

 魔法学院で、剣を振る音。ギーシュは首を傾げる。今まで聞いたこともない。しかも、その音が異様に大きいのだ。杖と一体となっているレイピアを振っている、どころのものではない。

 おそらく、両手持ちの剣。それもかなりの大きさだ。一瞬、賊の類か、と思ったギーシュだが、すぐさま頭を振る。

 この平和な時世だ。賊も何もないだろうし、仮に侵入者だとしたら、その場で素振りをする意味が分からない。剣の斬撃は、未だ続いている。争っているような物音もしない。

 誰、だろうか。ギーシュの好奇心が淡く刺激された。元より娯楽が少ないこの閉鎖空間だ。学院の生徒は、往々にして何か話題を探している。

 しかもギーシュは二股がばれたところを大衆に晒しているのだ。ここ何日か級友にからかいを受けており、鬱憤も溜まっていた。

 丁度がよかった。恥辱や屈辱を慰めることが出来るとかどうかは別として、一つの話題探し、暇つぶしにはなる。

 杖も携帯しているから、万一があっても問題ない。そう思い、ギーシュはまたふらふらと、音を頼りに夜を歩き始めた。

 

 

 

 

 

「うふふふふふ、あははははは! デルフ、あんた、何かを知っていて、何かを隠しているわね。でもいいわ、全て不問にする。とっても気分がいいから!」

「……もっと腰を入れろ。腕だけで振るな」

「っとと。頭では分かっているんだけどね。あはは、駄目ね、油断していると。でも、まぁ、いい買い物だったわ。こうして足りないところを指摘してくれる」

「そうかい」

 

 

 なんだあれ。

 ギーシュは愕然とした。呆然とした。暫く自失していた。

 目の前に居るのが、同級であるゼロのルイズだということは分かった。特徴的なピンクブロンド。整った顔に幼児体系。だからして、おそらくルイズなのだろう。

 けれど、確信が持てなかった。彼が知っているルイズは少なくとも、高笑いしながら彼女の丈と等しい剣をぶんぶん振り回したりはしない。

 改めて前の前の悪鬼を見る。握られている剣を見る。白銀煌く片刃の剣。しかも喋っている。インテリジェンスソード。だが注目すべきはそこではない。

 そもそもの問題として、あの小柄なルイズが自分でもまともに振れるかどうか分からない大剣を、異様な速度で振るっているのだ。まるで歴戦の戦士の様に。見てくれだけは見麗しい貴族の子女が。

  

 そしてその悪夢染みた現実以上に、ルイズの笑い声がギーシュの耳を強く打った。

 狂ったような笑い声。明らかにまともではない。

 

 そこでルイズは剣を片手持ちに切り替えた。左手を懐に入れて、杖を取り出す。

 すると彼女は、杖を前方に転がっている石へと向けた。何事かを呟く。魔法だ。

 ゼロのルイズの無能たる所以、爆発。いつもの失敗魔法。けれどギーシュが知っているルイズは、そこで終わった。

 

 爆発が、拳大の石を上方へと弾いた。石そのものではなく、地面との接点を狙った一撃。普段の何処へ飛ぶかも分からない不正確さなど微塵も見えない、寸分違わぬ精密さだった。

 ルイズは宙を舞う石へ向けて、また杖を向ける。呟く。

 二発目のそれは、石そのものを標的としていた。暴力的な紅が溶け、煙が晴れた後、そこには何も無かった。消し飛ばされたのだ、爆発、失敗魔法によって、

 

 ルイズは動きを止めた。動くものなど世界に何もなかった。夜が静謐に満ちる。

 

 ギーシュはあんぐりと口を開けて、呆然と立ち尽くしていた。

 あれは、あれは本当にルイズなのだろうか。無能劣等生と馬鹿にしてきた、ゼロのルイズなのだろうか。

 

 

「あは」

 

 誰よりも早くしじまの帳を切り裂いたのは、ルイズだった。

 幼さが強く表れた短い笑い声。まるで悪戯好きの妖精の如く、可憐で、無邪気な声だった。あくまで、ここまでは。

 

「あはははははははは! 魔法が何よ、何なのよ。火も風も、この爆発で全てかき消せるわ! あは、あははははははは!」

 

 また狂笑。本当に気がふれたみたいだ、と現実逃避気味にギーシュは思う。空を睨みながら、ルイズは頬を紅葉させて喚き散らしている。

 それに何の意味があるかギーシュには理解できなかったが、それでも、ぼんやりと、分かったことがあった。

 

 ――溺れている。

 これほどまでに分かり易く力に溺れている者を、ギーシュは見たことがなかった。お手本のような溺れ方にさえ思えた。

 ぶるり、とギーシュは体を震わせる。夜風が響いた、と嘯くことさえも出来ない。身も蓋も誇りさえも投げ捨てていうならば、ギーシュは恐怖を感じていた。曲がりなりにも普通に魔法を使える彼が、ゼロのルイズに。

 自身を情けないとは思えなかった。それほどまでに、夜天に高笑うルイズの姿は人智常識の範疇を超えていたのだ。エルフや吸血鬼に恐れを抱くことは、決して間違いではないのだから。

 そんな訳なので。

 

「あら、ギーシュじゃない」

 

 顔を興奮に染めるルイズに気づかれ声を掛けられたギーシュが、心臓が飛び出るほど仰天したのは仕方ないことであるし、むしろそれを表に出さなかっただけでも幾分マシであるとも言える。

 ギーシュは額から垂れる冷や汗を自覚しながらも、いつも通り、きざったらしく髪を上げた。

 

「……やあ、ルイズ。いい夜だね」

「うふふ、本当ね。本当に、いい夜だわ」

 

 うふふ、うふふ、うふふ……

 残響する微笑は、風に揺れては夜を薙ぐ。ギーシュは、己の顔の筋肉がぴくぴくと痙攣しているのが分かった。

 ついで、かつて己がルイズに嘲笑と罵倒を浴びせた場面が脳裏にちらついた。悔しそうに歯を食いしばる少女の姿が見える。なるほど。ギーシュは心中で頷く。走馬燈だこれ。

 ギーシュのその判断にはいくつか理由がある。彼がそう思った一番の大きいところを挙げれば、刹那で距離をつめたルイズが、ギーシュへ杖と剣を突き立てているからだろう。

 喉笛に切っ先。腹部に杖。動きが早すぎる。杖を取り出す暇さえなかった。思い出すは過去の情景とあの剣の冴え、そして精密動作の爆発、それによる石の消滅。なるほど。ギーシュは心中で頷く。詰んだ。

 

「なぁルイズ」とギーシュが言った。

 

 口の中が不快な粘つきに覆われていた。喉仏と冷たき剣の先の隙間をはっきりと感じることが出来た。

 喉元は震えている。剣は逃すまいとぴたりと硬直している。

 ギーシュは混乱していた。後悔していた。屈辱を感じていた。今すぐ叫びたかった。今すぐ逃げ出したかった。

 思考が空転する。精神が焼き切れそうになる。情報量が多過ぎる。脳内の処理が間に合わない。けれど、口だけは滑らかに動いた。

 

「モンモランシーに、愛している、すまなかった、と言っておいてくれないか」

 

 つまり彼は馬鹿だった。最終的な結論として、彼は愛しの幼馴染への侘びを、己の命より優先させたのだ。

 

 ――墓には薔薇を添えてやるわ。という幻聴をギーシュは聞いた。それに対し己はにっこりと笑い、そして死ぬのだ。うん、僕かっこいい。

 けれど、無論そうはならなかった。ギーシュの戯言を聞いたルイズは、怪訝な表情で杖と剣を引いた。

 

「はあ? なんで私がそんなことしないといけないのよ」

 

 整った顔を、疑問と不機嫌で彩らせて、口を尖らせる。そこにいたのはいつものルイズだった。先ほどまでの狂気的な雰囲気はすっかりと霧散していた。

 全ては悪戯で、冗談だったのだ。ギーシュは察して、神へと感謝した。

 そしてギーシュは、明日朝一番、彼女(否、元彼女)のモンモランシーに謝ろうと決意した。傲慢さや貴族のなんちゃらなどは捨て、誠心誠意謝り、彼女へ五体を投げ出して懇願するのだ。

 生まれてきてありがとう、ああ、愛しのモンモランシー、人の命は儚く尊いものだね、抱かせてくれ。と。そして出来れば明日の舞踏会までに縁りを戻し、その後はいちゃいちゃむにゃむにゃほにゃららあんあんするのだ。彼は馬鹿だが、馬鹿は懲りない上に強いのである。

 

 

 

 んで。

 

 

 

 月明かりの夜の下、ギーシュは、先ほどの発言の説明をし、ルイズは突如剣を振るい爆発を制御してみせた理由を語った。

 二人は立ちんぼのまま、一定の距離を置いている。ルイズの近くには地面へと剣が突きたてられていた。 

 

 

「つまり、あんたはモンモランシーと喧嘩しているのね」

「つまり、君は体に棲む使い魔の力を利用している訳か」

 

 けれど二人は、それぞれの事情を少なからずぼかしていた。

 どうもルイズは二股云々のことを知らないようだっので、ギーシュは「些細な意見の食い違いさ」と言った。実際は10対0でギーシュの敗訴である。

 ルイズもルイズで、己の特殊性や能力全てを、「なんだがよく分からないが内にある使い魔がなんかしている」とふわっふわな理論で押し通した。全てが嘘という訳ではないのが。

 

 話はそれだけで終わらなかった。ギーシュが件の喋る剣、デルフリンガーについて問えば、知性ある剣は挨拶を返し、ルイズは王都で買ったと続ける。

 

「こんな立派な剣、高かったんじゃないか?」とギーシュ。

「ふふ、鞘込みで百エキューよ」

「嘘だろ? そんなに安いわけがない」

「訳ありだったのよ。ね?」

「まぁな」

「……うーん、そう言われてしまっては反論の余地は無いが」

 

 そんな破格の買い物をした所為なのかもしれない、とギーシュは思う。

 ルイズは、かつてないほど、穏やかで満たされた顔をしていた。

 月の光が、ルイズを照らしている。桃色の髪が鮮やかに靡き、その背筋は真っ直ぐに伸びていて、表情には自信が乗っていた。

 身の程の大剣を隣に侍らされているゆえ、いささか倒錯的ではあるが、元来の彼女の容姿と相まって、それはなんとも美麗な光景だった。

 なによりも、雰囲気が異なりすぎる。普段の彼女とは。そも、ギーシュは彼女と会話らしい会話をしたことなど今までになかった。彼女は人を寄せ付けない。人も彼女に寄り付かない。

 今のギーシュにルイズを揶揄するつもりがない、というのもこうして話すことが出来ている理由だろうが、それにしても、彼女の態度は普段とかけ離れていた。

 彼女の身に、そして精神に、一体何があったのだろうか? 

 

 

「なによ」と、視線を受けたルイズが言った。

「ん、いやあ、今日の君は、随分と……うん、魅力的だ」

「口説いてんの? 切り落とすわよ」

 

 何を、とは聞かなかった。ルイズも具体的には言わなかった。けれど、それでも、ひゅんとした。ギーシュは思わず内股になった。なぜかルイズも内股になっていた。

 さておき、先の台詞はギーシュの悲しいサガである。本当は「落ち着いている」とか、「雰囲気が違う」などと言うつもりだったが、自覚が無いまま何時の間にやら口説いてしまっていた。彼にとって女性に美辞麗句を並べるのは呼吸と同義である。

 ついでに言えば、いくら綺麗に見えたと言っても、ギーシュは癇癪持ちお子様体型のルイズに一切興味がない。君じゃチンコは勃たないんだ。谷間を作ってから出直したまえ。それを実際に言えばチンコの墓標が立つことぐらいは、流石の彼でも分かっていた。

 

「ねぇギーシュ」と内股のルイズが気を取り直すように、内股のギーシュへと言った。

 

「さっき言っていた、モンモランシーへのどうたら、私がなんとかしてやってもいいわよ」

「は?」

「ああ、愛しているだとかそんなのじゃなしにね。それは自分で言いなさい。要は、私が仲を取り持ってあげるって言ってんの」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。君が? モンモランシーに? どうやって」

「それは後から考えるわ」

 

 つまり案も策も何もないのだ。けれどルイズは無意味に自信満々だった。

 ギーシュが知る限り、ルイズとモンモランシーに同級以外の接点はない筈だ。そんな彼女、しかも対人能力が明らかに欠如しているルイズに、果たしてどうにかすることができるだろうか。むしろ、状況が悪化する未来しか見えない。

 

「なんだって君は、そんなことを」

「今さっき思いついたんだけどね」

 

 そう言って、ルイズは地面から剣を引き抜いた。その場で一振り。瞳には、またもあの熱狂の色が浮いている。 

 

「あんた、ゴーレムを作れるじゃない? 私のつかい……いや、『私の力』を試したいんだけど、人に向けて剣やら爆発やらを向けると危ないから、あんたに協力して貰いたいのよ。見返りは……さっき言ったわね。安心して、あんた本人には何もしないから」

 

 意訳すれば、お前をボコボコにするのはわけないけど、それやると色々拙いから、お前のゴーレムをボコらせろ。そうすればにゃんにゃんするのを助けてやるにゃん、といった具合である。

 ギーシュは彼女のあんまりな言いざまに怒りを覚えた。本人にその気があるかは別として、挑発と見下しが取れる言葉だった。

 年頃らしい青い感情がギーシュを満たした。懐に手を入れようとして、やめた。急激に頭が冷えていくのが分かった。

 

 仮定の話として。

 もし、このルイズの申し出が、先ほどの剣技や爆発制御を見る前にされたものだとしたら。

 ギーシュは怒り、そして何様のつもりだ、ゼロのルイズ、などと彼女を罵倒し、あるいは決闘でも申し込んだかもしれない。

 女性に対して暴力云々はどうかと思う気持ちはあるが、それを差し引いても、ルイズは癇癪や爆発で周囲からいい目で見られていない。そして、ギーシュも。

 だからして、決闘という建前で、家柄の上に胡坐をかいているそんな迷惑な無能を好き放題できるのは、なるほど、己の暗い欲望を満たしてくれるだろう。そして先に喧嘩を売ったのは他ならぬルイズだ。言い訳は如何様にも出来る。

 自分でも驚くほど、ギーシュは自分の汚いところをはっきりと自覚していた。

 

 何故かといえば、今のギーシュはその「あり得たかもしれない決闘」の結果を予測していたからだ。つまり、冷静に物事を見ることが出来ていた。己の内なる感情さえ読み取れるほど、思考は冴えに冴えていた。命の危機を味わった故だろうか。

 

 おそらく、戦えば負ける。

 元より彼女の爆発は防御のしようがない。威力だけは誰もが知っていることだ。そして今や狙いも正確。距離を詰め、爆発を封じたとしても、今度はあの恐るべき斬撃の餌食になる。創り出したゴーレムは哀れ地面の染みと消え、お世辞にも肉体的に強いとは言えないギーシュは爆発や剣戟に対処できない。彼に勝てる要素はなかった。

 ひょっとすると、僕は大人になったのかもしれない。ギーシュは自嘲の笑みを浮かべる。敵わなければ諦める。そして、それほど負けられない戦いでもない。骨折り損だ。

 我ながらこれはいい選択ではないかと自賛したくもなった。相手はなんだかよく分からない生物なのだ。ここは退くべきだ。仕方ないのである。そう言い聞かせる。

 

 なので、杖を懐から出さすに、ギーシュは別に逡巡する。ルイズの持ち掛けに応じるかどうか。

 普通なら拒否一択である。自身のゴーレム、ワルキューレがボッコボコにされるのも気分がいいとは言えないし、そして利点もゼロだ。どころか、下手をすればマイナスになることだってありうる。 

 

 だけれども。

 

「よぉし、その話に乗ろうじゃないか」

 

 そういって、ギーシュは改めて懐に手を入れた。薔薇を模倣した杖を手に、きざったらしく斜めに構える。

 別段、ルイズの話術によるモンモランシーの懐柔に期待した訳でもなかった。そんなものに頼るぐらいなら、まだオーク鬼のそれの方が上手く行く気がする。

 結論を言えば、ギーシュは興味を抱いていた。魔法が使えない劣等生、けれど志だけは一丁前。そんな彼女が手にした、貴族らしからぬ野蛮な力に。

 見てみたかった。彼女が何を掴んだのかを。それに、何かの間違いで己のゴーレムがルイズを取り押さえることだってあるかもしれない。もしそうなれば面白いものが見える調子にのったゼロの末路。彼は系統魔法が一種しか使えない土のドットメイジであるが、それでもゴーレムの制御には自信があった。

 仮に、ルイズがモンモランシーに余計なことを言って事態が拗れたとしても、それはそれ。彼は、それでさえも己の魅力でどうにかなると確信していた。彼は馬鹿なのだ。

 

「それでこそよ」ルイズは凄惨な笑みを浮かべた。ギーシュはちょっとびびった。 

「……これは決闘ではなく、ただの訓練だ。僕は君を傷つけず、君もまた同じ。杖に誓えるかい?」

「無論よ」

 

 よし、言質は取った。ここまで言えば怪我をすることもあるまい。ギーシュは杖を振るい、そうして青銅製の人型ゴーレム、ワルキューレを生み出す。都合七体。彼の全力だった。

 

「行け!」

 

 戦乙女達が夜を駆ける。相対するのは不明の悪鬼。ギーシュ・ド・グラモン、推して参る。

 

 

 

 

 そして行間で負けた。

 

 

 怪我一つしていないギーシュは、けれど精神力を使い果たし、大の字に倒れこんだ。月が眩し過ぎて視界が滲んだ。

 彼が誇るワルキューレたちの姿は無惨、無情の言葉に尽きる。要は地面の染みだ。そして彼女達がルイズに触れることもなかった。爆発で消し飛んだか、真っ二つにされたかだ。

 

「いい運動になったわ。礼を言っておくわよ、ギーシュ。モンモランシーのことは任せなさい。それじゃあね」剣を背負ったルイズが踵を返し、夜の道へと消えていく。

「ああ、お休みルイズ……」

 

 悪い夢でも見ろ。とギーシュは吐き捨てたくなった。無論言わなかった。彼はまだ満足に息子を使っていないからである。

 ああ、月が、本当に、眩しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最高に気分が良かった。

 ギーシュのワルキューレと心をボッコボコにしたルイズは、溢れる充足感そのままに、一度部屋に戻って剣を置き、そして誰もいない風呂場へと赴いた。

 ここ最近の彼女ならば、風呂場で反射する自分の残酷なる変わりよう――ちんこぶらんぶらんフランソワーズ――を見れば、何かしらやるせなさ悲しさなどが頭に浮かぶのだが、今日はそれさえもなかった。

 肉体は疲労している。けれど、彼女は満たされている。思う存分力を振るう感覚。そしてそれを、自分を馬鹿にしてきた奴にぶつける爽快感。

 浴場か去り、夜もどっぷりと更けた女子寮の廊下を歩きながら、彼女は一人ほくそ笑む。いや、彼女の奥に居る同居人もまた、そんな彼女を見て嬉しそうに尻尾を振るっていた。

 

 と、そこでルイズは足を止めた。誰もいない筈の夜遅い回廊に、見知った顔が二つ。

 褐色肌と豊かな果実を持つキュルケ。豪奢な金色の髪を持つ、先の気障な男の連れ、モンモランシー。

 

 あまり見ない組み合わせだ、とルイズが思えば、気付いたキュルケが小走りで近寄り彼女の腕を掴んだ。

 

「ちょうどよかったわ、ルイズ。あなたも来なさい」

「ちょっと、なに、なによ」

 

 困惑を隠さずルイズが声を上げると、キュルケがぐいっと腕を引っ張りながら、

  

「第一回タバサを慰める会を始めるわ」と言った。

「は?」

 

 なんで私が、とルイズが疑問符を出しながら、この場に居るもう一人へと目を向ければ、そのモンモランシーもまた、「なんで私が」と言った顔をしていた。おそらく彼女も、こうして強引に巻き込まれたのだろう。

 

「なに、あの子、まだ落ち込んでいるの?」

「最早そう言う問題じゃないわ」

 

 そこでキュルケがルイズを見やった。余裕綽々な彼女に似つかない、疲れた顔をしていた。

 キュルケは眉尻を下げて、溜息混じりに呟く。

 

「タバサが泣き出したのよ」

「ええ……?」

 

 

 長い一日は、まだ終わらない。

 

 




・何かが起きているから何も起きない。
・諸君、決闘じゃなくて本当に良かった!
・次回、ガリアの闇


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第十七話

 疲れているだとか、そんな義理はないだとか。

 ルイズは、キュルケが言う「第一回タバサを慰める会」への参加を断る為の方便をいくつか持っていた。

 それらは虚言という訳でもなかった。実際ルイズは疲れていたし、タバサやキュルケに対して何かをする義理や義務はない。

 なのだが、ルイズは断らなかった。怪訝な顔をしているもう一人の巻き込まれた人物、モンモランシーと共に、キュルケに引きずられる格好でタバサの部屋へと向かっていた。

 

 ――戯れよ。興味本位なのよ。あのいつもすましている人形のような少女の泣き顔とやらを拝むだけよ。

 

 言い訳なら、沢山出来た。けれどルイズはそれら全てを言わなかった。頭に浮かんだ多種多様な強がりこそが、ただの虚言でしかなかったからだ。

 

 ――まぁ、いいわ。

 ため息一つ。ルイズは、結局キュルケに掴まれた腕を振りほどかなかった。

 あのタバサが泣き出した、と言っても、キュルケが大げさに言っているだけだろう、ルイズは考える。

 結局のところ、何かの拍子にちょっと涙ぐんだりしたか、あるいは目にゴミが入っただけ、ということさえもあり得る。

 ぱぱっと顔を出して、適当に言葉を投げて、終わり。それぐらいで十分であり、己と彼女はそれぐらいの関係であると、ルイズは思っていた。

 

 

 思っていたのだが。

 

 

 目的の部屋へと辿りつき、三人は中へと入る。

 タバサらしいというべきか、そこは極めて殺風景であった。机、椅子、ベッド、何冊かの本。ルイズは初めてタバサの部屋に赴いた訳だが、ほぼほぼ想像通りの情景だった。

 机の上にはワインのボトルと数個のグラスがあったが、それはキュルケが持ち込んだものだろうと、ルイズは当たりをつけた。

 そこまで見て、ルイズは半ば目を逸らしていた青色の物体に目をやる。部屋のやや中央よりのところでへたりこんでいるそれは、端的に言えばタバサであり、タバサは泣いていた。

 

「ああ、タバサ、ほら、ルイズとモンモランシーが来てくれたわよ、ね、楽しくお話ししましょう?」

「………ぅう」

 

 ここがタバサの部屋で、今開かれようとしているのが「タバサを慰める会」だとするのなら、キュルケにぎゅっと抱きしめられていて目が真っ赤で洟をすすっている青髪の少女は、まぁ、タバサ、なのだろう。嗚咽としゃくりをあげているのも、もしかしたらタバサなのかもしれない。

 元来かなり年不相応な姿(なんとルイズより更に幼児体系)であるが、今のタバサは何時にも増して幼子の様に見えた。なるほど、充血した瞳を潤ませている彼女の状態は、確かに泣いていると言える。ルイズは頭がおかしくなりそうだった。

 一言で言えば、違和感が凄い。

 

「誰よこれ……」

 

 ルイズの頭を巡る凄まじい違和の要点を、同じくして部屋に招かれたモンモランシーが一言で纏めてくれた。ルイズが横にいるその彼女をちらりと見やれば、顎をがくんと下げて目をぱちくりとしていた。おっぱいはあまり大きくない。おっぱい関係ないだろ殺すぞ。

 しかし尤もである。おっぱいではなく、彼女の発言が。

 たとえばもし、このぐずりながら目元の雫を手で拭う少女と、道端にいるおっさん、どちらがタバサでしょうか、と聞かれたら、ルイズはおっさんを選ぶ。タバサが魔法でおっさんに化けていると言われた方がまだ納得出来るからだ。

 それくらい、今の彼女は普段とはかけ離れているのである。なまじタバサの相貌でらしからぬ状態にあるのだから、余計にタチが悪い。

 

 何があったのだろうか。あの氷の如く無表情無感情の少女に。

 刹那、ルイズの脳裏に実家の姿が浮き上がった。実家の庭。庭の中の、今はもうない池。そこにたゆたう小舟。小舟の上で泣いていたのは誰だ? 犬の遠吠えが聞こえる。

 ルイズはタバサの身に何があったか知りたかった。魂に刻まれる衝動。知ってあげるべきだと思った。だから聞いた。

 

「ねぇタバサ、あんたどうしたのよ。何があったのよ」

 

 その言葉と同時にタバサがびくりと身動ぎし、キュルケは呆れた顔をし、モンモランシーはぎょっとルイズを見つめた。

 心の機微も気遣いもへったくれもないルイズの言を、声なく咎めているのだ。

 

 しかしこの反応は、ルイズの予想範囲内にあった。己がこういう言い方しか出来ないのは誰よりも知っているし、他のやり方は出来なかった。

 これがキュルケなら、悲しみの源泉に触れないよう、滑らかに会話し、昼にキュルケが言っていた様に、気分を盛り下げないようにするのだろう。

 彼女は奔放に見えて、その実他者との距離の測り方が上手い。火種の見極めはお手の物なのだ。では朝のアレは? あれは多分キュルケの別人格か何かだ。勃起したチンコ握りたくなるやつがキュルケの内に居るのである。そう思わなきゃやってられない。

 そしてモンモランシーもまた、それなりの対応を見せるだろう。キュルケほど洗練されてなくても、ほどほどに付き合い、ありふれた慰めをして、余計なことは言わないような対応を。

 キュルケとは別の意味で、彼女もまた女性らしいといえる。話の流れを読む力がある。香水つくりにも定評がある。男の趣味は悪い。

 

 では、己はどうなのだろうか。ルイズは自問する。この答えはすぐ出た。致命的なまでに、ルイズは直接的な言い方しか出来ない。自分のことならともかく、誰かを想うものは特に。

 だけどそれは、決して想いがない訳ではないのだ。人付き合いの経験が希薄なだけ。そして、癇癪もちの性分と何もかも上手くいかない人生が、ますます人を遠ざけてゆく。どうしようもない、悪循環。

 ぐるぐる回る泥の輪廻を、けれど彼女はそっと、精神の奥にしまいこむ。

 

 私にはチンコがついているんだぞ!

 

 そう考えれば、ルイズはどこまでも人に優しくなれる気がした。優秀なメイジに対する粘つく劣等。関係ない。私にはチンコがあり、タバサは泣いている。それでよかった。何もよくねぇよ殺すぞ。

 二つの間に因果関係は何も無いが、それすらもどうでもいい。ただ、魂の咆哮がままに。

 ルイズは大またで部屋を横切り、机の上にあったワインを手に取ってグラスへと注いだ。丁度四人分。赤き水が満ちた杯を二つ持ち、その内一方をタバサへとあてがった。

 

「……言わなきゃ何も分からないわ。もし分かって欲しいのなら……聞いてあげる」

 

 もう少し言い方があるだろうとか、よりによって、よりによって誰よりも秘密や劣等を抱えている己がそれを言うか、だとか、自分の発言に対する突っ込みは沢山あった。

 けれども、それが己なのである。それがルイズなのだ。良くも悪くも直情。生き様だけは、変えられない。

 このやり方しか思いつかない。だからそれを成した。ただそれだけである。これでタバサが拒絶したら、そのときはそのときだ。キュルケやモンモランシーに任せて、己は御暇すべきであろう。

 存外、ルイズは平静であった。あるいはこの場にいる誰よりも。確かに、タバサの変容には驚いた。親しくはないとは言え、概ねどのような人間かぐらいは知っている。冷静沈着。黙考の才女。

 そんな彼女が今やただの童女だ。ルイズの人生で起きた衝撃の展開を順位付けするのなら、このタバサの様子は今のところ間違いなく五位以内に入るだろう。

 ちなみに一位はチンコだ。おそらく今後の人生未来永劫変わることない、不動の一番である。嬉しくもなんともない。

 しかしだからこそ、ルイズは誰よりも強く自我を持っていた。チンコが身体にくっつく以上の衝撃があるのか? と言った具合である。乙女は強いのだ。チンコがついているが、乙女なのである。おっさんのタバサ並みに矛盾した存在だった。

 

 

 部屋は停滞した空気に満ちていた。ルイズの突発的な言葉に訝しげな目線を送っていたキュルケやモンモランシーは、今は何も言わずただタバサの動向だけを見ている。

 タバサは、充血した瞳を僅かに揺らした後――こくりと頷いて杯を受け取った。

 ルイズは心中で胸を撫で下ろしながら、椅子を引っ張り出して、我が物顔で座った。どうだ、と言った表情で残る二人を見ると、キュルケは柔らかな笑みを浮かべていて、モンモランシーは戸惑いの色を見せていた。

 二人はそれぞれの思うところを口には出さず、黙って机にある杯を取る。

 乾杯の音頭でも取ろうと思ったのか、キュルケがゆっくりとグラスを掲げようとして、直後、ぴたりと動きを止めた。

 タバサのグラスは、既に空になっていた。

 

 

「話を聞いて欲しい」酒気が混じる吐息と共に、タバサが小さく言った。

 

 声だけは普段のタバサだった。平坦で、感情が読みにくいもの。ただ、瞳は潤んだままだった。

 重要な話が始まる気配に、キュルケは当然の様にタバサの隣へと腰を下ろし、モンモランシーは遠慮がちに、二人の体面へと座する。

 ルイズは身構えるかの如く、椅子の上の己の位置を調節した。もっと具体的に言えば、チンコの位置を修正した。

 

 

「私はガリアから来た」

 

 透明な呟きが、冷たさ混じる風のように部屋の中を吹き抜ける。

 出自さえ誰にも語ることがなかった謎の女生徒、タバサの発言を聞いた三人は――『やっぱり』と心の中で呟き返した。

 

 キュルケは朝のやらかしにより既に察していれば、モンモランシーとルイズの二人は、薄ぼんやりとそうであることを感づいていたのだ。

 

 と言うよりかは、タバサという明らかな偽名に加えその人を近づけない雰囲気の為に、二人は人違いだろうと出来るだけ考えないようにしていたのだが、ルイズ、モンモランシー両名とも、かつて彼女に会ったことさえあるのだ。

 ガリア。ガリアブルー。正確に言えば、それは「タバサ」としてではなくて――

 

 キュルケは表情を変えなかったが、モンモランシーはますます困惑したまま視線をきょろきょろと彷徨わせていた。

 ルイズには、惑いが強く理解できた。おそらく、過去の情報がそうさせているのだ。下手をしたら話は国際問題やら政治問題やらに繋がりかねないのだから。

 連鎖的に、ルイズは閃いていく。タバサの正体。そして、それをモンモランシーも察していること。さらに、モンモランシーがひどく混乱していること。

 ルイズとて驚きや戸惑いはあれども、チンコの衝撃に勝てるものなどないのである。チンコ強い。ルイズは意を決した。

 

「私は――」

「ねぇ、このワイン、誰が持ってきたのかしら」

 

 タバサの言を遮って、ルイズが声を上げた。これ見よがしに、ゆらゆらとグラスを揺らしている。

 予期せぬ乱入の言葉にタバサは目をぱちくりとさせた。それを横目で見ながら、キュルケがゆっくりと手を挙げる。

 

「私だけど」

「駄目ね。ぜんぜんなってないわ。ゲルマニアには安物しか売ってないわけ?」

「これ、食堂からもってきたのよ。適当に選んだものだけど、多分トリテイン産よ」

「うっ……んん、じゃあ、あなたの目がおかしいのね。普通、こんなの選ばないわよ」

「ちょっとルイズ、今はそんなこと」

「だから! 私が今から本物のワインというものを持ってきてあげるわ。感謝しなさい」

 

 タバサとキュルケは、ぽかんと口を開けた。

 突然ワインの批評をしだしたルイズは、そんな二人を置いて次の動きに移っていた。椅子の上から、金髪の戸惑う女を見下ろす。

 

「ねぇモンモランシー、ちょっと手伝って貰えるかしら? 私の手持ちから、二三本持ってこなきゃいけないから」

「え、あ、は…………ああ、ええ、分かったわ」

 

 急に話を振られたモンモランシーは、一度うろたえながらも、ルイズの眼差しから何かを読み取り、こくりと頷いた。

 その様子を見ていたキュルケは、合点がいったという様子でにやりと笑う。 

 

「……ふーん。それなら、味わわせて貰うおうじゃないの。本物のワインとやらを。ねぇ、タバサ」

 

 タバサは小さく頷いた。よくわかんないけど美味しいワインが飲めるならいいや、といった体だった。つまるところ、状況を把握してはいなかった。早速酔っているのかもしれない。

 キュルケは如才なくワインボトルを手に取り、空になったタバサのグラスへと注いだ。気を逸らす為だ。キュルケはルイズとモンモランシーを見つめた。

 

 ――私が時間を稼ぐ。早くいってらっしゃい。

 

 赤き少女の燃えるような瞳は、そう語っていた。

 空気が読めるトライアングルメイジ、キュルケとチンコを握るおっぱい魔人、エロケは別人なのである。

 もうマジで朝のあんたはなんだったの、やっぱりチンコには勝てないの? などと言った妄言を飲み込み、ルイズはモンモランシーと共にグラスを机に置いて、そろそろと部屋から出る。

 扉を閉める直前にちらりと見えたタバサのグラスは、中身が入っていなかった。 

 

 

 消灯寸前間際の廊下。誰もいない、静寂の回廊にて。

 ゆっくりと扉を閉めたルイズは、疲れきったった表情のモンモランシーに向かって囁いた。

 

「……余計なお世話だったかしら?」

「正直なところ、助かったわ。もう頭がどうにかなりそうよ……ところであなた、そんな気のきいた子だったっけ?」

「失礼じゃない、それ。せっかく状況を整理する暇を上げたのに」

「それはそうだけど、そもそもの話、私全然関係ないじゃない。もう、今日はさっさと寝るつもりだったのよ?」

 

 私に言わないでよ、とルイズは言い返そうとしたが、モンモランシーとて文句をぶつけたいわけではなかったのだろう。

 彼女はとにかくげんなりしていた。あるいはうんざりか。ひどい混乱状態でもあるだろう。それゆえに、ルイズはワインがどうたらと理由をつけて、モンモランシーに落ち着く時間を与えたのだ。

 

「というか、あんたはなんで呼ばれたの? キュルケが部屋にまで押し寄せたの?」

「あなたと同じよ、ルイズ。廊下にいたところを、無理やり引っ張られただけ」

「断ればよかったのに」

「そっちこそ」

「私は興味本位よ。タバサの泣き顔とやらを拝みに来たの」そしらぬ顔でルイズが言うと、

「じゃあ私もそういうことにしておいて」モンモランシーはひらひらと手を振り、言外に話はこれで終わりだと示した。

 

 ルイズもそれ以上は聞かなかった。なにかしらの事情があるのだろう。

 

「とりあえず、私の部屋にいきましょう、言い訳に使った以上、ちゃんとワインを取ってこなきゃ」とルイズが言い、二人は静まり返った廊下を歩き出した。

 

 

「で、本題に入るけど」歩を進めながら、ルイズが言った。

 

「うーん、どこから聞くべきかしら、そうね、モンモランシー、あなた、あの子と何か話したことある?」

「……特にはないわね」

「学院に入る前は?」

 

 そこで、隣を歩くモンモランシーがびくりと身体を揺らし、ついでルイズを見下ろした。

 彼女の豪奢な髪が滑らかに動き、ルイズの鼻腔に華やかな香水の匂いが届いた。七フランソワーズ。

 

 

「……知っているのね。まぁ、そうよね、あなたの実家からすれば、お偉い様が集まるパーティで会うこともあるか」

「記憶に残っているのは一回だけよ。たしか、そこにあんたも招かれてなかったっけ?」

「私の場合は、家が近所……というか、親の元仕事先が近所というか……まぁそのよしみよ」

 

 そう言ったモンモランシーの口調には、どこか苦いものが混じっていた。なんとなく、分かる。頂点存在である貴族にだって、身分の高低はある。そして彼女の家庭の事情。

 ルイズは言葉を発さず、モンモランシーの二の句を待った。

 

「……かなり昔のことよ。挨拶ぐらいはした記憶があるけど、それだけ。会話らしい会話は無いわ。先に言っておくけど、なんで名前を変えているのかも、なんでここに居るのかも知らない」

「私もそうよ。もしかして、と思ったことはあるけど、まさか本当に本人だとは。というか、あの子は覚えてないみたいね。私たちのこと」

 

 そんなはずがないという先入観ほど恐ろしいものはない。

 そのものずばりな相貌、明らかに怪しい偽名。ここまで疑う条件があって、だけど疑う以上のところまでは行かなかった。普通ならありえないからだ。

 そうして疑念は風化していく。そもそも学院での関わりがないのだから、そう思ったこと自体、朧げなものになっていた。

 

 先のタバサの発言は、二人がかつて抱いた疑念を再発、また加速させるのに十分なものだった。 

 出身を語っただけであるが――ガリア。青髪。昔の記憶。確信するだけの材料が、全て揃ったというわけだ。

 

 ガリアの王家、王弟オルレアン公の系譜。

 タバサと名乗っている彼女こそ、その長女、シャルロット・エレーヌ・オルレアンその人なのだ。

 なのだじゃねーよ。ルイズは顔を顰めた。

 

「あたま痛くなってきた」

「もう訳が分からないわ」

「……なによりの問題は、王家そのものよりトリステインにいる理由のほうよね」

 

 最も不可解なところはそこだった。名前を変えているのも、結局は高貴な身分を隠すためなのだろう。

 しかし論点の根本として、ではなぜそんな身分の者が外国の学院に通っているのか、ということが持ち上がる。

 ルイズは考える。考えてはみたが、答えは出なかった。

 

「最近はあまり表に出ていないみたいよ、その、あの家は」

 

 補足するようにモンモランシーが言った。具体的な家名を避けたのは、あまりにもタバサの家の位が高いからだろう。そう易々と呼んでいいものではないのである。

 

「……何故ここにいるのかはともかく」

 

 そう言いながら、顎に手を添えて、ルイズは思案する。もとより、タバサの深い事情など分かるはずもない。

 しかし与えられた情報を吟味すれば、それでも見えるものがある。

 

「おそらくはガリアで何かあったのよ。少なくとも、ガリアという国があの落ち込みと関係していることは確かね。そうじゃなきゃ、今まで言わなかった出身をわざわざ明かさないはず。これは多分、よっぽどのことが……なに?」

 

 ルイズが呟きながら考察を整理していると、ふと目線を感じて言葉を切った。

 モンモランシーが、先のタバサを見る様な目をしていた。誰よこいつ、という目だった。

 

「どうしたのよ、ルイズ」

「何がよ」

「いや、何が、というか、何もかもが」

 

 歩きながら、モンモランシーは首を横に振るう。くるりと巻かれ下げられている髪が左右に揺れた。ルイズは芳しく、それでいて厭らしくない甘い香りを感じ取った。ラベンダー。十フランソワーズ。

 

 

 モンモランシーは先ほどからのルイズの様子に疑問を感じていた。ちなみになぜか少し内股気味になっているのも気になったが、そんなことは些事だった。

 あの癇癪ばかりの少女が、今は見る影もなく落ち着き払っている。泣いているタバサに驚き、妙に母性があるキュルケに違和を感じたりしたモンモランシーであったが、冷静で無難な人付き合いが出来るルイズ、というのも謎めいた存在だった。

 

「使い魔を召喚してからかしら。あなた、変よ。教室で訳分からないこと言ってたのもそうだけど、あんなに目の敵にしていたキュルケと仲よくして」

「……仲よくなんてしてないわ」

「今日一緒に王都に行ったんでしょ? 聞いたわ」

「特に理由はないわよ。誘われたから乗っただけ」

「以前なら、きっと断っていた……変わったわ、あなた」

 

 決め付けるようなその言葉に、しかしルイズは反論の弁を持たなかった。おそらく、モンモランシーの言う通りだろうと思っていた。

 おそらく、断っていた。朝のキュルケの誘いも、例のタバサを慰める会だとかも。

 敵対している家柄。小馬鹿にしたような態度。自分に無い物を全て持っている……かつてのルイズは、キュルケを嫌っていたのだから。

 嫌っていた。過去形だ。今はどうなのだろうか。そんなことはどうでもよくなったから、と嘯くのには、少し、微熱に近づき過ぎた。

 肉体は元より、精神にも変容がある。ルイズはそう認めざるを得なかった。本質に近いところの柔らかい部分が、淡い刺激を受けている。

 そしてその刺激を、刺激から来る衝動を、ルイズは拒絶できない。拒絶できなかった。

 

 ルイズが黙していると、モンモランシーは一歩先に出て立ち止まった。ルイズも歩みを止めて彼女と向かい合う。

 

「あなた、本当にルイズなの? それとも、その、内にいるとかいうよく分からない使い魔が、あなたに何かしているの?」

 

 そう言ったモンモランシーの瞳は不安や疑惑で揺れていた。同級の者が、得体の知れない何かに変わってしまったかのような、そんな懸念だ。

 それを見て、ルイズは諦めるように肩をがくんと下げた。これ以上の言い訳や突っぱねでは、最早誤魔化せそうになかった。モンモランシーではなく、自分をだ。

 ルイズは、自分でもらしくないと思いながらも、素直に全てを肯定する。

 

「……変わったと思うのなら、そうなのかもね。うん……きっと、私は変わった。いや、変わっているわ。きっかけは……そうね、使い魔召喚よ」

「……やっぱり」

「でも、それでも私は私よ。ヴァリエールのルイズよ……変わらないものだって、ある」

 

 ああ、全ての答えが一瞬で弾き出せる事が出来るのなら、どれだけ簡単なのだろうか。

 ルイズは何も分からない。タバサのことも。外界のことも。自分自身のことでさえも。

 その不明の闇で、唯一認識可能な光がある。自分は、自分以外の何者ではないという自負だ。過去も今も未来も。ずっとずっと、己はルイズなのだから。

 

 モンモランシーはルイズの瞳を直視した。鳶色の、爛々と輝く瞳。吸い込まれそうなほど深いそれを見て、モンモランシーは息を呑んだ。

 

「いま言えるのはそれだけよ……行きましょ」

 

 気迫に押されてか、立ち尽くしたモンモランシーの横をルイズが抜き去る。ルイズの嗅覚が、とうとうモンモランシーそのものの体臭を捉えた。爽やかな甘さ。未成熟ながらも確かなオンナを感じさせる。うん、十五フランソワーズ! うるせぇころすぞ。ルイズは全集中力を下腹部に集中させた。

 

「待って、ルイズ……あー……その、ごめん」そう言いながら、モンモランシーは小走りでルイズを追いかけた。

「なんで謝るのよ」

「いや、うーん、私もよく分からないけど、とにかく、ごめん」

「……まぁいいわ。ほら、急ぎましょ」

 

 

 モンモランシーは、自身でさえも把握し切れない感情、意識に戸惑いの顔を浮かべていた。

 それを見たルイズは、唐突に、まるで天啓のように、あることに思い至った。

 

 ――みんな、そうなのだ。

 

 人は誰しも、自分の中の『よくわからない部分』に振り回されている。

 だから迷う。だから悩む。だから、人は人と関係を作る。己の中の暗黒を、他者との交流で照らす為に。

 独りでは見えないものがある。だから、見えるようにする。手を結び、輪を作る。当たり前の話だ。しかし、己は、ルイズは――

 

 

 ルイズはゆっくりと頭を横に振った。

 どうしようもない問題は、いつだって付き纏う。

 少し早足になったルイズは、モンモランシーと共に静けさが集う廊下を進んでいった。  

 

 

 

 

「ま、まさか、ちくしょう、まだ余裕があると思っていたのに……! 風呂上がりに女引っ掛けてきやがった……!」

 

 

 

 様々な思考を巡らせて自室に入ったルイズを迎えたのは、デルフリンガーの意味深な言葉だった。

 いつでも喋れるようにと、鍔と鞘の間を空けて壁に立てられている剣は、狼狽したようにカタカタと震えだした。

 

「おいルイズ、思い直せ。おめーはそれでいいのか? 一夜の過ちは取り返しつかないんだぞ? 故郷のおふくろさん、おやじさんに顔向けできないだろうが。そもそも、そういうことはもっと責任が取れる立場になって」

「くそが」

 

 剣が何を言わんとしているか速攻即決で察したルイズは、悪態と共にデルフを蹴った。その後、鞘をきちんと閉じる。

 こともあろうに、このボケ剣はモンモランシーをルイズの夜伽の相手と認識したらしい。全方位に失礼な言動だった。 

 

 

「インテリジェンス……ソード?」

 

 しかし不幸中の幸いというべきか、モンモランシーはデルフの台詞そのものよりも、剣が喋ったことに驚いていた。

 いや、それよりも先ず、なぜここに剣があるのかについても。

 

「ねぇルイズ、これどうしたの?」

 

 会う人見た人全てが剣について聞いて来る。貴族の娘と大剣の組み合わせを考えれば仕方ないのだろうが、それでもルイズは少しうんざりした。

 ルイズは、モンモランシーと向かい合い、丁度先のギーシュにしたものと同じ説明をした。

 街で買った剣。使い魔のなんやかんやで身体能力が上がること。

 それを聞いたモンモランシーは、ギーシュとは違い、直ちに納得する素振りを見せなかった。

 

「……なんで剣なの?」

「なんでって、何がよ」

「いや、いくら力が強くなったからって、普通剣を使おうとは思わないわよ」

「私は思うのよ。まともな魔法が使えないから」

 

 はっ、と息を呑む音が、ルイズの耳に確かに届いた。

 モンモランシーを見ると、目を見開いたかと思えば、直後、申し訳なさそうに俯いていた。

 ルイズは半眼で睨む様に、

 

「……あんたが気にするようなことじゃないわ」と言った。

「……だけど」

「なによ。そもそもあんたも色々言ってきたこと、あったじゃない」

「う……も、もしかして、気にしてる?」

「どうでもいい」

 

 稲妻を切り裂くような、鋭い口調だった。

 実際問題、気にはしていた。

 モンモランシーどうこうではなくとも、かつて投げかけられた様々な言葉は、悪意の有無に関わらず、全てがルイズの心に刻み込まれている。

 だけれども、それを恨むだけで。それを憎むだけで。それを嘆くだけで、果たして何かが変わるだろうか。それの答えは出していた。無駄なのだ。感傷に浸るだけで終わるのは。

 黒い靄には使いどころがある。それは今じゃない。だからこそルイズは、腰に手を当てて、真っすぐにモンモランシーと向かい合う。

 

「どうでもいいのよ、そんなこと。言いたい奴には言わせればいい……ただそれだけよ。私は、そう決めた」

 

 今日は息を呑みっぱなしだ、モンモランシーはぼんやりとそう思った。

 言い切ったルイズの姿は、あまりにも眩しすぎた。至極堂々とした、極光の煌き。しかしそれとは対照的に、言葉に籠った情念が暗すぎる。

 

 爆発で教室を半壊させたり、悪い意味で感情的だったり。モンモランシーから見たルイズは、お世辞にも立派な人物とは言えなかった。

 では今はどうかと問われれば、はっきりとしたことは分からない。今も昔も、モンモランシーはルイズの情報を多く持っていない。

 

 ただ、ルイズの視線はどこまでも真っすぐだった。今日二度目の、その射貫くような光の道筋が、モンモランシーが唯一理解できたことだった。

 

 

 

 

「ところで」ワインボトルを両手に二本持ち、更にモンモランシーに別の一本を持たせた後、ルイズは思い出したように言った。

 

「あんた、ギーシュと喧嘩してるんだって?」

「うぐ」

 

 モンモランシーはうめき声を上げた。

 あまり触れてほしい話題ではなかった。しかし同時に、誰かの助言が欲しい話題でもあった。乙女心は複雑だ。

 だからモンモランシーは、休日の夜中、親しくもないキュルケの誘いに乗ったのだ――恋多き女キュルケに相談する為だ。

 彼女の呻きは、様々な思惑、もしくは困惑から出たものだった。

 孤独のルイズがここまで他人との距離を詰めてくるなんて。この話に乗った方がいいのだろうか。

 

 

 しばし黙った後、ため息とともにモンモランシーは口を開いた。

 

「喧嘩じゃないわ……終わりよ、終わり。ほとほと愛想が尽きたのよ」

「終わり、ね」

「もうふざけんじゃないわよ。男って連中は、そんなに年下の子が良いのかしら。やってられないわ。ええ、やってられないのよ」

 

 話すのを少しばかり渋っていた割には、妙な勢いがあった。やはり、誰かに聞いてほしかったのだろう。

 さて、とルイズは思う。

 モンモランシーの弁は、先ほどギーシュが言ったものとは全く違ったものだった。擦れ違い。浮気。さあ、どちらが真実か。

 吹き抜ける風よりも速く、ルイズはモンモランシーの弁を信じた。あの男は、軽薄という概念が服を着て歩いているようなものだからだ。

 彼が自己申告した些細なすれ違いとらやらより、彼の不貞の方がより信じれらる。 

 

 けれども。

 

『モンモランシーを愛している』

 

 ギーシュの台詞が、ルイズの脳裏を過る。

 軽薄であり、馬鹿な彼であるが、愛の語りを騙るほど愚かではない。それくらいはルイズでも分かった。彼は良く言えば純粋で、悪く言えば底が浅い。

 ギーシュは、モンモランシーと寄りを戻したがっている。単純で、それだけの話だ。では、彼女の方は?

 口ぶりから考えれば、目の前の女はもううんざりと言った口調だ。けれどその中でルイズは、彼女の中の微かな後悔を感じ取った。あるいは、これでいいのかという疑問。

 慣れ親しんだ感情故の察知、理解。ルイズは未だぶつぶつと呟いているモンモランシーへと声を掛けた。

 

「さっきギーシュに会ったけど、あいつはきちんとあんたに伝えたいことがあるそうよ」

「え?」

 

 何事かの文句を口にしていたモンモランシーは、そこで愚痴を切った。きょとんとした顔に、どこか期待の光が宿る眼差しを添えて。

 

「ど、どういうこと?」

「言いたいことがあるってこと」

「私に? ギーシュが? 何を?」

 

 入れ食いだ。ルイズは態度にこそ出さなかったが、心中で呆れていた。

 いくら対人関係に難があるルイズと言えども、ここまで来ればモンモランシーの真意ぐらい分かる。ギーシュのどこに惚れたのだろうか。ルイズの呆れはそこから来ていた。

 

「さぁね。それは自分で聞きなさいよ。ま、悪口とかじゃないから安心して。あと付け加えるなら、必死だったわよ、あいつ」

「へ、へえ」

 

 先までの怒りや不満はどこへ行ったのだろうか。

 急にそわそわし出したモンモランシーを見て、ルイズは疑問に思う。これはルイズには分からない感情だった。

 不要なお節介だったかもしれない。ルイズはそう思わない訳でもなかったが、一応ギーシュとの約束もあるし、何より浮気された本人が満更でもないのだ。

 そのモンモランシーは口元を緩めて、にやついた笑みを浮かべている。

 

「ふ、ふーん? そこまで言うなら、まあ? 少しぐらい? 話を聞いてやっても? そうね!」

 

 何が「そうね!」なのか。

 はにかみながら、視線を彷徨わせ、縦に巻かれた髪の毛を指に絡ませるモンモランシーを見て、ルイズの角度が上がった。二十フランソワーズ。危険領域。

 魔法行使以上の精神力を注ぎ込み、ルイズは己の体を操作する。結果だけ言えば無駄だった。チンコ強い。風呂上り故、短いズボンを履いているルイズであるが、そこに股間のほのかな盛り上がりを感じていた。

 咄嗟に、両手に持つワインボトルで股下を隠す。マヌケ以上の何物でもなかった。ヴァリエールの史上に名を残す勢いである。チンコ的な意味で。

 

 しかしモンモランシーと言えば、そんなルイズには目もくれていなかった。

 ワインボトルを抱きかかえるように持ち、うわの空でにやにやしている。

 先ほどまで対人距離を測ろうとしていたあの目敏さは露と消えていた。これが乙女だということだろうか。

 

 一瞬、ルイズは想起した。懐かしき思い出の一頁。恋と呼ぶには幼過ぎたあの感情、憧憬の閃光。

 ルイズは寂しく笑った。あの名ばかりの『婚約』は、未だ解消されていない。けれども、ここ何年かは会うどころか手紙のやり取りさえもなかった。

 忘れているのだろうか。忘れられてしまったのだろうか。だがそれも故なきことだ。向こうは非の打ちようもない優秀なメイジ。こちらは家名が取り柄の劣等生。しかもチンコが強い。それが一番の問題だな!?

 

 

「……行きましょう、モンモランシー」

「あ、うん、そうね」

 

 果てが見えない思考を置いて、ルイズは先を進む。人生は常に考え続けなければならない。

 だからこそ、その中で優先順位を決めなければならないのだ。形骸と化した己の婚約事情など、あとで考えればよい。

 

 ――そう言えば。

 

 ルイズはふと、かの婚約者の母親が、件のガリアに招かれていることを思い出した。彼女はもう長い間、そこで何かしらの研究をしている、らしい。

 

 ――まぁ、関係ないか。

 

 今考えることは、それではない。

 

 

 

 

「あら、おかえり」

 

 

 二人が、タバサの部屋へと戻ると、キュルケの服が肌蹴ていた。タバサが彼女の腰に抱き着いている。褐色の果実が剥き出しで、先端の種子がこんにちは、はい、百フランソワーズ。後ろ向けご主人様。

 何かしらの声が脳髄に響き、轟く雷鳴の如き閃光の速度で、ルイズは後ろを向いた。短いズボンの下腹部が完全にフランソワーズしている。ルイズは精神を集中させたが、脳裏には浅黒い肌に付いている桃色の夢が強く焼き付いていて離れない。

 しかもあまりの速さで体を回転させたために、ルイズのかかとがぎゅるん、と物凄い音を立てていた。明らかに不自然である。怪しまれないはずがない、ルイズが冷や汗をだらだら垂らしていると。

 

「ちょちょっと、何してんの!?」モンモランシーが、悲鳴ともいえる大きな声を上げた。

 

「あんたたち遅いのよ。もうボトル一本開けちゃったわ」

「ええ……? 二人で全部飲んだの?」

「というか、ほとんどタバサ一人でね。何も話すことなく、黙々とグラスを傾けていたわ」

「もう! それより、いいから服をちゃんと来なさい。タバサもほら、離れて離れて」

 

 流石はモンモランシーである。男の趣味と髪型以外は実に常識的だ。

 無論それはルイズへの気遣いなどではなかったが、結果として時間を稼ぎ、ルイズの奇行に突っ込みが入るのを防いだ。おまけに危険物質の処理までしてくれた。

 しゅるしゅると布の擦れる音を聞きながら、ルイズは目を瞑る。暗闇の中で、黒犬と幼い自分が身動ぎせず佇んでいた。

 一人と一匹が向かい合っている。いいのか、進むぞ。黒犬が吠える。いいのよ、ほら早く。ルイズが手を差し出す。黒犬は躊躇いの呻きを上げた後、前足を小さな掌の上に乗せた。精神統一。深い合一。身体の操作。萎む音さえ聞こえそうなほど、素早く、ふくらみは消えていった。あっけなく危機は去った。

 ルイズが振り向くと、きっちり服を着たキュルケ、疲れた顔のモンモランシー、そして、無表情のタバサが見えた。顔に涙はない。

 けれどタバサの頬は不自然に赤く、また青い瞳は濁った輝きを放っていて、体は横揺れしていた。端的に言えば、明らかに酔っていた。

 

「じゃあ、話を聞きましょうか」

 

 何事もなかった様に、ルイズは淑女然と微笑んだ。

 

 

 

 キュルケはそのままタバサの隣に陣取り、モンモランシーはベッドの上に腰かけ、ルイズは先と同じように、椅子に座った。

 重要なのは位置取りである。チンコのだ。ルイズは絶好の置き場所を見つけるために、椅子の上でもぞもぞと体を動かし微調整を試みた。

 そこで。

 

 

「ガリアはもう駄目。終わっている」とタバサが抑揚のない声で言った。その手のグラスには新しき赤水がゆらゆらと揺れている。

「は」

 

 突然のガリア批判に、ルイズは口を丸く開けた。突いて出るのは意味のない空っぽの言葉。

 キュルケもモンモランシーも声こそださなかったが、概ね似たような反応を取っていた。

 

「だからここに来た。あそこは私の居場所じゃない」

 

 据わりきった瞳で、すっぱりと言い切ったタバサ。相変わらず平坦なつぶやきだったが、言葉尻には隠しきれない冷やかさがあった。

 タバサは杯を傾けて、ぐいとワインを飲み干した。

 

「トリステイン……ここはいいところ。みんな頭が固い」

「馬鹿にしてんのか」

 

 今度は突然のトリステイン批判である。これには股間をもぞもぞしていたルイズも物申さずにはいられない。

 けれどタバサにはそのつもりがないようで、「そこが気に入っている」と静かに言った。そして、

 

「だけど、トリステインも危うい。汚染されている」と暗い瞳で呟いた。

「汚染」

 

 汚染である。言葉の意味が分からずキュルケが堪らず反芻する。モンモランシーは首を傾げ、ルイズは丁度いいチンコの位置を見つけて概ね満足していた。

 タバサは自らのグラスにとくとくとワインを注いで、即座に口を付けた。

 

「私が一番好きな本は、イーヴァルディの勇者」酒気の吐息とともに、タバサが言った。

「はあ?」

「昔からよく読んでいる。とても好き」

「はぁ」

 

 話の流れが滅茶苦茶である。ガリア終わった、トリステインは気に入っている、好きな本はイーヴァルディ。

 酔いが回っているのだろうか、この話の着地点はどこにあるのだろうかと三人が戸惑っていると、

 

「三年前、ガリアでイーヴァルディの新解釈の本が出た」とタバサが言った。瞳はますます暗く、沈んだものになっている。

 

「それは、どういう話?」いかにも本題ですと言わんばかりの彼女の態度に、キュルケは刺激しないよう優しい声色で問うた。

「……村の男の子が攫われて勇者が助けにいく、という話」

「ん?」

 

 ルイズは引っ掛かりを感じた。字面だけで言えば何も問題はない。イーヴァルディの勇者は話の種類が多い。基本は勇者が悪者を倒す分かり易い勧善懲悪ものなのだ。弱きを助け、悪しきを挫く。

 しかしタバサは、「男の子」という言葉をやたらに強調している。彼女の目が悲しく細められた。

 

「男の子が男の魔王に攫われて男の勇者が助けに行く話」もはやそれは悲鳴のような呟きだった。

「……男しかいないの?」キュルケがおすおずと言った。

「男しかいない。作中に愛を語る場面が二回ある」タバサは泥沼のような瞳だった。

「は?」ルイズがまた呆然とした。

「……お、男しかいないのに?」そのモンモランシーの呟きに対して、タバサは吐き捨てるように、

 

「腐ってる。もうやだ」と言った。

 

 

 タバサの瞳は重々しい暗闇でいっぱいだった。幼いころから慣れ親しんだ愛書が、得体の知れない化け物に変化したのだ。彼女の絶望はとても推し量れるものではない。

 彼女は脇に空のグラスを置いた後、俯きながら両手で顔を覆った。内にあるドロドロした何かを吐き出すように、嘆きを紡ぐ。

 

「これがきっかけ、ではないけれど、ガリアはそういうことに寛容になっている。むしろ推奨まである」

「す、推奨って……つまり、男と男が、その、えっと」さしものキュルケも言い淀む。

「そう。同性に対するあれこれ。女同士も含む。ガリア終わった」

「ええ……」

 

 ルイズはドン引きしていた。これが、これがガリアの闇か、と。タバサは、これが嫌になったのだと。

 寛容、というのならまだ分からなくもない。生理的に納得はできなくとも、だ。

 けれど推奨。これはもう意味が分からない。同性同士のあれやこれの推奨。子供はどうするんだ。ガリアは自ら国力を落とすつもりなのか。そもそもそう言った一般的に不道徳な事柄を、宗教家の連中が黙っているはずがないだろう。

 ――しかし、そんな諸々の問題点はさておき、ルイズは気づいてしまった。

 尋常なる考えではまずあり得ない、国を挙げての同性同士の何がしか。言ってしまえば国策だ。そしてその国策を決めているのは。

 さらにらに、タバサの身の内を考える。王家に連なる血筋。

 

 冷静な頭が、残酷な答えを出してしまう。

 同性愛の推奨に、タバサの身内が関与している。少なくとも反対はしていないのだろう。タバサの叔父はガリアの王だからだ。

 己の国を指して「終わった」というのも頷ける。頂点に問題があるのだから。

 

「なんでそんなことに」

「……」

 

 ルイズの呟きに、タバサは沈痛な顔で頭を振るった。知らないのか、それとも知っていて尚いいたくないのか。三人はその判別がつかなかった。

 そこでキュルケがはっとした様に、

 

「ねぇ、もしかして、あなたが昼間落ち込んでたのって。その本が」と言った。

「そう。ガリア限定出版だった筈のアレが、トリスタニアの本屋に置いてあった」

「そんな」

「しかも人気があるらしい」

 

 ――平積みで置いてあった。

 まるでこの世の終わりを見たかのような絶望の呟きだった。

 手に取りやすい位置においてある破滅の爆弾。休日に賑わう本屋に積まれた終末装置を見て、タバサの乙女心は粉々に砕け散ったわけだ。

 

「……じゃあ、昼間読んでいたあの本は?」

「……文章的な技巧が薄くても、盛り上がるところがなくても、それでも、あれは正常な男女の姿を描いていた」

 

 だから、そこに救いを求めたのだ。だから、それを読むことで、何が正義なのかを確かめようとした。

 結果だけ見れば、精神は全然休まらなず、ただ無意味に時間を使っただけとも言えるが。しかしそんな無味な行為に、タバサは縋った訳だ。それぐらい追い詰められていたのだ。

 ルイズとモンモランシーは何も言えなかった。そもそもそういった本が出回っていること自体初耳だった。

 二人は閉鎖された場所で学業に勤しんでいるので、そういった世俗に対しては疎いところがある。

  

「も、もう! これだからはトリステインは駄目ねぇ! タバサ、よかったらいつでもゲルマニアにきていいわよ? 歓迎するわ」

 

 と、国外出身であるキュルケが明るい声で言った。トリステインに何か含みがある訳でなく、地獄から逃げてきたらそこもまた暗黒街でした状態のタバサをひたすらに気遣うためだった。

 タバサはキュルケから露骨に視線を外した。

 

「ゲルマニアは、もう……」

「タバサ!?」

「あそこも私がいる場所ではない」

「な、なにがあったの!? ねぇタバサ、ゲルマニアに何が!?」

 

 タバサはキュルケに肩を掴まれがっくんがっくんと身体を揺さぶられた。

 しかし言葉はなく、ただ只管キュルケから目を逸らしている。

 

 ルイズは言葉を探した。何と言えばいいのか。どう声を掛けたらいいのか。けれど、対人関係に乏しい己では、相応しい発言を思いつくことが出来なかった、

 モンモランシーもまたその様だった。彼女は青銅で出来た像の如く、じっとその場を動かない。それどころか、まともに思考できているかも定かではない。

 

 論点だ。話の論点を思い直せ。ルイズは頭を回転させる。

 この場に来た理由はなんなのか。ガリアがどうたら。同性愛がこうたら。汚染がなんたら。   

 それはあまりにも衝撃的で、またタバサの悩みの根本であるから目につくが、この場での本題はそこではないのだ。

 

 これは、この場は、タバサを慰める会なのである。

 ルイズは椅子から立ち上がり、机にある己の分の杯を手に取った。

 他の三人の視線を浴びて、ルイズは挨拶代わりにワインを一気に呷った。

 口当たりの良い甘みと酒気による熱りを味感じながら、ルイズは声高々に言った。

 

「飲みましょう」

 

 嫌なことは飲んで忘れよう。

 何の解決にもならないが、そもそも世の中の大半は不明の理であるのだ。

 とりあえず飲む。あとは野となれ山となれ。明日の自分が悩めばいい。今日は飲む日なのだ。

 

 

 この後四人で恋バナとかした。タバサは普段「他人には興味ありません」という態度をとっている割に、色恋沙汰ことに興味津々だった。

 モンモランシーの恋路を応援し、キュルケに慎みを持てと苦言を呈していたり。あくまでその瞬間を切り取れば、タバサは苦悩を忘れているように見えた。

 ちなみに彼女の好みの男性はイーヴァルディの勇者らしい。同性愛者じゃないほうのだ。 

 高潔で、強く、優しく、そして美形。出来れば同年代位がいいとのこと。

 理想が高すぎる。極めて乙女らしい少女の無垢な願いに、三人は何も言わなかった。代わりにほほ笑みを向けた。都合が悪い時はとりあえず笑ってればいい。

 そうして夜は更けていった。

 

 

 

 

 結局、日付が変わるまで四人は喋り続けていた。

 タバサが船を漕ぎ始めたところで、この場はお開きとなった。

 今、ルイズは自室の部屋の前に立っている。頭に浮かぶのは、別れ際の、タバサの眠そうな声だった。

 

『またこうやって集まりたい』

 

 孤高に見えた。馴れ合いは好きそうに見えなかった。才能溢れて、何事にも動じない少女だと思っていた。

 今の今まで、ルイズの中のタバサはそういう人種だった。自分と何もかも違う、羨望の対象だった。

 けれど、実像はまた違ったものだった。才能はあるのだろう。けれど、孤高とは言い難かった。誰かに話を聞いてもらいたい、悩みある乙女だった。

 

 タバサの幼い呟きに対し、キュルケは二つ返事で承諾し、モンモランシーも控えめにだったが頷きで返した。

 

 ルイズは、何も言わなかった。否定も肯定もなかった。

 

 どうしたらいいのか。疑問が湧き出た。疑問に対する解答は存在しない。

 ルイズが能動的に出来るのは部屋の扉を開けることぐらいだった。

 

 部屋に入ると、無造作に転がっている剣がカタカタと揺れていた。ルイズは不承不承と剣を鞘から抜いた。

 

「ぷはぁっ、おう、どこ行ってたんだ?」

「タバサの部屋よ」

「タバサって、あの青髪の嬢ちゃん、だよな? お、おめー、あんな小さい子にナニを!」

「ぶち転がすわよ」

 

 どれだけ私は信頼ないんだ。ルイズは剣を睨み付けた。

 もしタバサに対して性欲を抱いたのなら、性別云々よりもまず人としてどうだということになる。彼女があまりにも幼児体系だからだ。しかしその考えは自分にも跳ね返ってくるわけで。ルイズは無性に悲しくなった。しかもチンコがある分ルイズの方がより女性的ではない。男性度で言えば圧勝だが。嬉しくもなんともない。

 ルイズは、ちょっと話をしただけよ、しね、と吐き捨てて、再びデルフリンガ―を鞘に押し込んだ。いい加減眠いので、朝までこうしてて貰おう。

 

 服は脱がなかった。疲労が溜まっていた。身体にも、心にも。

 もし白いごにょごにょで汚したとしても、その時はその時だ。人間、疲れ切っているときはやけっぱちな思考になるものである。

 明日後悔するとしても、それは明日の自分が背負うものだ。今日の自分は眠いのだ。実際は日付が変わっている訳だが。

 

 そのままの格好でベッドに飛び込むと、すぐさま眠気が襲い掛かってきた。

 微睡に逆らわず、ルイズはぼんやりと天井を見つめた。

 

 徐々に遠ざかる思考の果てに、ルイズはぐるぐると渦巻く蔦を見た。絡みつくそれの中心部には己の心がある。 

 

 男女あやふやな体。貴族でありながらまともな魔法が使えない。

 そして、余計な感傷や馴れ合いは無駄でしかないと思っているのに、一方でそれを求めている己の本質。

 

 矛盾だらけだ。矛盾の蔦に、自分は囚われている。

  

 眠りに落ちる、一つ手前。

 最後の最後に見えたのは、笑いあう少女たちの姿だった。

 

 

 

 

 今日という一日は、ここに幕を閉じた。また新しい朝が来るまで、ルイズは帳の向こうにひっそりと包まった。




長い一日でしたね。


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×××はめんどくさい
第十八話


 

「おらぁ! ルイズ出てこいや! お説教はまだ終わってないんじゃあ!」

 

 

 

 お母様の声が聞こえる。いやこれお母様か? 何かおかしい気がする。まぁでもお母様だろう。巨大な竜巻が見えるからだ。お父様が宙を舞っている。

 ルイズは母親の説教みたいな何かから逃れ、ヴァリエール家の庭池にある小舟の上でしくしくと泣いていた。

 小さなルイズの心には、様々な負の感情が渦巻いていた。悲しみ。虚しさ。そして怖れ。物事全てへの怖れだ。母親や周りの目、そして未来への恐怖。

 

 一体自分は、いつまで惨めでいればいいのか。

 

「泣いているのかい、ルイズ」

 

 舟の上に、一陣の風が薙いだ。ルイズが顔を上げると、一人の青年が舟の上に立っていた。

 

「子爵様」ルイズが舌っ足らずな声で彼を呼んだ。憧れの人。無能な己の、有望な婚約者。

 

 

 金髪の髪を靡かせ、マントに身を包んでいる男――ワルド子爵はにっこりと笑い、舟をひとつも揺らすことなく、ルイズへと近づいた。

 そこで彼はマントをがばっと開いた。全裸だった。ワルドの下腹部にある子爵が天を指している。ルイズは頬を赤く染めた。

 

「まぁ! いけませんわ、子爵様」

「いいじゃないか、ルイズ。僕は君の婚約者だろう?」

「それはお父様が、勝手に」

「じゃあ、君は嫌なのかい? ルイズ」

「嫌というか……」

 

 ルイズは立ち上がった。全裸だった。

 

「私の身体、こんなんですけど」ルイズの下腹部にあるヴァリエールが地を指していた。つまり二人合わせて天地に隙がないおちんちんだと言える。

 

 ワルドは形の良い顎に手を当ててふーむと唸った。

 

「これはこれでありなのでは? 素敵なミ・レィディなのでは?」

「カッタートルネード!」

 

 どこからともなく飛んできた鋭利な竜巻が、全てを塵と化した。ワルドも、舟も、池も、庭も、家も、世界も。何もかも。

 空っぽの世界で、ルイズだけはそこに立っていた。

 

ありなのでは? ありなのでは? ありなのでは? ありなのでは……?

 

 血風舞う冷たき大地にて。

 男の純粋無垢なつぶやきが、いつまでもヴァリエール領(跡地)に木霊し続けていた。いつまでも、いつまでも……

 

 

 

 

 

「なしよ」

 

 

 夢のワルドの問に、現実のルイズが回答を出す。考えるまでもない。何が『ありなのでは?』だ。レディの股間のミ・レィデイを褒められて、そしてなんだというのだ。お辞儀でも返せばよかったか? 

 素晴らしい一日を予期させる、煌く朝の日差しがルイズへ届く。小鳥たちの囀りが耳に心地よい。夢見は最悪だった。

 ルイズは体の上半身をむくりと起き上がらせる。下半身は起き上がっていない。これは快挙だった。射精どころか勃起もない。やったね。やってねぇよ。

 

「んあああああああああああ!」

 

 桃色の髪をがしがしと掻き毟りながら、ルイズは吼えた。

 虚しい。ただただ虚しい。思い出が穢された気分だ。ルイズは少しだけタバサの気持ちが分かった。

 しかし何より虚しいのが、タバサとは違いその穢れは己自身が発信源なのである。自分の夢の責任を誰かに押し付けることはできない。

 

 あの夢のワルドは何しに来たのか。チンコ出しに来ただけじゃねぇか。慰めの言葉すらなかった。

 

 ぷはぁ、とルイズは凶悪な吐息を出して、首をごきりと鳴らした。とても乙女の行動とは思えない。

 ルイズは『あんなもの』を子爵様と呼びたくはなかった。すぐさま奪爵されるべきだ。そもそもなんで勃起してたんだよ。

 世界の全てに文句をつけながらルイズが半眼のままベッドから降りると、床の上でカタカタと揺れる何かが視界に映った。デルフリンガ―だ。

 

 おもむろに鞘から剣を抜く。するとデルフは嬉しそうにまた揺れた。

 

「なにも、ない! 汚れていない! 白いなんたらがない! やったじゃねぇか、ルイズ!」

「うるさい」

 

 ルイズは剣を投げた。

 この大剣に悪気はないのであろう。かつて彼の持ち主であった被害者乙女様も経験したという、朝の物理的白い悪夢がなかったことに、心から喜んでくれているのであろう。

 けれど時として、善意は鋭い刃となり得るのである。剣だけに。

 

 

 

 夢が夢だったせいだろうか。射精もしていないのに、結果的に早起きしてしまった。

 することもないので、ルイズはデルフリンガ―を背負い、とりあえず走ることにした。気分転換の意味もあるが、何よりそれが必要だと感じたからだ。

 昨夜剣を振るってみて、更にデルフに言われて、下半身の粘りが大事だと知った。性的な意味ではない。長いものを振る上でということだ。性的な意味じゃねぇっつってんだろ。

 身体を鍛える。強さの源泉は肉体から出でる。悪いことには思えなかった。だから、即実行に移した。

 

 静寂の内にある魔法学院の外を、ルイズはデルフリンガーを背負いながら黙々と走った。

 がしゃがしゃと物々しい音を立てながら、えっちらほっちらと、少女はぐるりと学院を一周した。

 

 早朝に。貴族の娘が。身の丈程の剣を背負い走っている。異様な光景以上の何物でもない。

 事実、ルイズとすれ違った幾人のメイドはドン引きした目をしていた。

 ぼとり、と抱えていたシーツを落とす者さえいた。特徴的な黒髪。よく見るとシエスタだった。

 

 

「あら、シエスタじゃない。おはよう」

「お、おはようございます、ミス・ヴァリエール」

「手伝うわ」

「あ、ああ! そんな、お、おおお、お手を煩わせるなんて!」

 

 ルイズは立ち止まり、シエスタが落としたシーツを拾い集めようとする。

 シエスタは大慌てだ。いくら変わり者でもルイズは貴族なのである。地に落ちたシーツを拾わせるなどもっての他だ。

 ルイズは「別に構いはしないわよ」と微笑みながら、大剣を背負ったまま軽やかな動きで白い布を集めた。

 目を白黒させているシエスタにシーツを渡すと、ルイズはそこで、今日はやたらと使用人が忙しそうにしていることに気付いた。朝も早いというのに、いつもの倍ぐらいの人が動いている。

 

「ねぇ、シエスタ。今日って何かあったっけ?」

「は、はい、あ、あの、今日は、舞踏会が……」

 

 ――フリッグの舞踏会!

 

 そういえばそうだった。声に出さず、ルイズは目を見開く。

 何に驚いたかといえば、その存在自体ではなく、その存在を忘れていたことにである。

 以前は舞踏会をそれなりに楽しみにしていた気がするが、今はもう全く興味がない。 

 煌びやかな装飾の下で踊っている暇があるならば、月明かりの下で剣舞してた方がより有意義であるとさえ考えていた。

 

 つくづく己は変わったと、ルイズはそう思う。これは良いことなのか、それとも。昨日のモンモランシ―の困惑した態度を思い出す。股間を刺激する甘い匂いもだ。うるせぇ殺すぞ。

 ルイズが様々な事物に悶々としていると、身を屈めたシエスタがおずおずと上目づかいで尋ねてきた。十五フランソワーズ。

 

「あ、あのミス・ヴァリエール、一つお聞きしてもよろしいでしょうか……」

「良いわよ。何?」ルイズはメイド服に閉じ込められた巨大であろう膨らみから目を逸らして言った。ルイズの膨らみが更に拙いことになりそうだからだ。ルイズにおっぱいはない。

 

「ど、どうして、剣を背負ってらっしゃるのですか……?」

 

 不敬や無礼だろうと思う気持ちより、好奇心が勝つ場合だってある。 

 シエスタの発言は正しくそれだった。小柄な貴族の少女が巨大な得物を背負って辺りを徘徊しているのである。板しかない、もとい、致し方ないであろう。ルイズにおっぱいはないのだ。三度目はないぞクソが。

 

 シエスタの台詞より遥かに失礼な己の思考を捨て置き、ルイズは逡巡する。

 何しろ説明が面倒だ。それに、誰かに力への渇望を分かって欲しいわけでもない。

 という訳で。

 

 

「健康の為よ」

 

 ルイズはそう言い放った。極めてギリギリの線ではあるが、丸きり嘘でもない。

 

 しかし純朴なシエスタは、そんな綱渡りの意味合いを鑑みず、ルイズの言葉を額面通りに受け取った。

 魔法のみならず肉体も鍛えている。しかも小柄な少女があんな大きな剣を持っているなんて。

 貴族って凄い。シエスタはあらためてそう思った。

 

 

 

 時間進んで、夜。

 結局、ルイズは舞踏会に出なかった。朝が終わり、昼が過ぎ、日が沈んでもなお、ルイズはそれに参加する意味を見いだせなかった。

 誰もいない広場で、ただ剣を振るっていた。双月が見下ろす中で、ただ一人踊っていた。ルーン由来の湧き出る力が、過去の鬱屈を忘れさせてくれる。

 けれども、そうした独りの時間は長く続かなかった。舞踏会用の服装に身を包んだギーシュとモンモランシ―がルイズを訪ねてきたのだ。二人は互いの腕を絡ませていた。

 大剣をぶんぶん振り回しているルイズに目を丸くしながら、モンモランシ―が言った。

 

「なにやってんのよ、ルイズ。こんなところで。舞踏会は?」

「それはこっちの台詞なんだけど」ルイズが怪訝な顔でそう返すと、ギーシュがにこやかな笑みで、

「いやね、僕らは君を探していたんだが、どうも舞踏会に出ていないというじゃないか。だから、おそらくここに居るのだろうと思った訳だ」と言った。

「私を? なんで」

「礼を言いにさ」

 

 なんの礼だ、とルイズが問うことはなかった。大体を察したからだ。

 腕を組みあっている二人。ニコニコしているギーシュ。顔を赤らめているモンモランシ―。そしてギーシュにもある顔の赤み……薄っすら掌の形をしている。

 つまり、モンモランシ―の平手打ちの跡だ。そしてそれが、文字通り手打ちになったのだろう。二人の不和がなくなった訳だ。

 恐らく、二人にとっては舞踏会なぞ些事なものになっているのだろう。隣に恋人がいるのだから。

 

 そんな二人が言うところには、昨晩の出来事をお互い話し合った時に、一応の掛け橋になったルイズに何かしらの礼を言った方がいいのではと考えたらしい。

 

「別に、そんなことしなくても」顔の赤らみが、ルイズの頬にも現れた。

「あらルイズ、照れているの?」

「なんだい、可愛いとこあるじゃないか」

「消し飛ばすわよ……いや、私じゃなくて、モンモランシ―が」

「すまない」

 

 モンモランシ―はとても描写できない恐ろしい顔をしていた。他の女を褒めただけでこれである。

 それに対抗するためにか、どうもギーシュは高速で謝罪するという技術を習得したらしい。モンモランシ―は「ならいいけど」とギーシュの腕をつねりながら言った。いいのか。

 ただ本人たちは幸せそうに見える。ならば、それでいいのだろう。

 

「ああ、そうだ、ルイズ」とギーシュが言った。

「なに?」

「君さえ良ければ、昨日の続きと洒落こもうじゃないか」

 

 そう言って、一度ギーシュは隣の彼女から距離を取って、懐から薔薇状の杖を出した。

 昨日の続き、つまり、ゴーレムを使った訓練(のようなルイズの憂さ晴らし)をまた行おう、ということだ。

 ルイズとしては、己がどこまで動けるのかを把握するという上でも願ったりな申し出ではあったが――

 

「……いいの? 同じ結果になるだけよ?」

 

 モンモランシ―を横目で見ながらルイズが言った。昨日の今日でギーシュの能力が劇的に上がったとは考えられない。さしものルイズも、少年をその恋人が見ている前でボコボコにするのは忍びなかった。

 するとギーシュは、弱弱しい顔で眉を下げた。

 

「昨日、モンモランシーにルイズと何をしていたかを説明するだろう? そうしたら、結果も言わなきゃいけないだろう? すると、信じないんだ、彼女」

「だって、いくらなんでも」

「……何も全部を正直に言わなくてもよかったんじゃない?」

「嘘は身を滅ぼすと学んだのさ。どうせ、いつかはバレるだろうからね」

「ええ……じゃあ、本当に?」

 

 モンモランシーは戸惑いの表情を浮かべている。

 さもありなん。彼女は仮にも魔法を使えるギーシュが、ゼロのルイズに手も足も出ないのはおかしい、とそう判断したのだ。

 この場に来たのは、おそらくそれを確かめる為でもあるのだろう。もしルイズの強さが虚言であるのならば、昨夜ルイズと何をしていたかもまた嘘になる。

 最終的にギーシュのすべてが嘘になってしまう……は、言い過ぎだが、彼の信頼性が薄まってしまうのは事実だ。なにせ、彼には前科がある。

 

「ちなみにモンモランシ―。見てたと思うけど、私はこの通り剣を振るえるし、今や爆発も制御できるわ」

「あの、ギーシュ、やっぱりやめた方が」

「うむ。信じてくれたかい、モンモランシー。けれど、男に二言はないのだ。グラモン家の三男として、一度レディへ誘いを掛けたのならば、自ら取りやめることは出来ないんだよ」

「ああ、ああ、ギーシュ……」

「見ててくれ、モンモランシー。薔薇の散り様を」

 

 二人は向かい合って、何やらぼそぼそ呟いている。

 まるで戦地に赴く青年とその恋人のようだった。

 これは結局イチャつくための方便として使われただけなのでは、とルイズは訝しんだ。

 とりあえず、茶番は終わりだ。地獄を見せてやる。ルイズは左手に剣を持ち、右手に杖を持った。

 

 

 

 

 そして行間で終わった。

 

 

 

「げふん」

「ああ、ギーシュ!」

「他愛なし」

 

 ルイズは剣をひゅんと一振りして、地面に突き立てた。

 柄から手を離す。全能的な力の消失。この感覚にも慣れつつある。

 そこでルイズが横目を流すと、大の字に倒れたギーシュの頭をモンモランシ―が膝に乗せていた。

 

「ああ、ギーシュ、ギーシュ。しっかりして……」

「ふ。ふふ、モンモランシー、見ていてくれたかい……大体昨日もこんな感じだった……ちくしょう」

「ええ、ええ、ギーシュ。信じるわ」

「モンモランシー……」

「ギーシュ……」

 

 

 勝手にやってろ、とルイズは心中で呟いた。

 二人は「激闘で傷ついた少年とそれを労わる恋人ごっこ」に勤しんでいるが、別に彼はどこも負傷していない。

 ギーシュが展開したワルキューレを、ルイズが剣舞で即座に断裂。すかさず爆発魔法をギーシュの足元に撃って、彼の体勢を崩す。

 あとは最速の踏み込みで距離を詰め、仰天してしりもちをついたギーシュの喉笛に切っ先を突き付けて、終わり。ギーシュは白旗を上げた。

 

 まぁいい運動にはなったわね、と、完全に二人の世界に入っている彼奴らから目をそらしつつ、ルイズは己に言い聞かせた。

 と、そこで。

 

「ルイズ」今まで特に言葉を発さなかったデルフリンガーが声を掛けた。警告めいた硬い声。

「分かっているわ」ルイズが返した。視線には気づいていた。天空へと顔を向けて、大きく口を開ける。

 

「見てないで降りてきたら?」

 

 すると、暗闇の空から一頭の竜が舞い降りた。風竜シルフィード。その背には主であるタバサとキュルケが乗っている。

 

「はぁい、ルイズ」

 

 普段の五割増しなおっぴろげドレスに身を包んだキュルケが、地へ足を着けた。これは拙い。エロ過ぎる。ルイズは咄嗟にデルフリンガーを掴んだ。比喩表現ではない。股間のデルフリンガーじゃねぇよ。

 武器把握。ルーンの力を総動員した肉棒制御。情けなくて仕方なかったが、こうする他ない。ルイズはキュルケを睨み付けた。正確に言えばキュルケのおっぱいをだ。

 

「はぁい、じゃないわ。あんた達まで、何しに来たのよ」

「タバサがお腹いっぱいだっていうから、腹ごなしに空の散歩をしていたのよ」

「食べ過ぎた」

「踊りなさいよ」

 

 どいつもこいつも舞踏会を何だと思っているんだ。とルイズは思ったが、そもそも己は参加すらしていないのだ。ぐっと言葉を飲み込む。

 代わりに。

 

「キュルケ、あんたはいいの? 男どもがわんさか待っているんじゃない?」

 

 ルイズはゲルマニアの広大な土地に想いを馳せた。夢希望が詰まったそれを狂信している者だっているだろう。おっぱい教の連中だ。

 だからこそ、そのふざけた輩から信仰を得るため彼女は『そういうドレス』を纏っているのだとルイズは考えたのだが。

 キュルケは穏やかな微笑みを浮かべている。

 

「今は私の微熱を燃え上がらせる殿方がいないのよ。タバサを眺めているほうがよっぽど楽しいわ」

「料理美味しかった」

「ふふ、タバサったら口周りを汚しちゃってるのよ」

 

 ――お母さんか。

 だがその母性は私に効く。やめてくれ。もろちん、もとい、もちろん、ルイズは口に出さず、心中だけで唸った。

 エロさと優しさを兼ね備えているなんて、卑怯よ! 心が悲鳴を上げた。こちとらチンコが付いていて更に魔法が使えないというのに。互角だな! しゃらくせぇよ。

 

「それよりルイズ、見てたわよ、なかなかやるじゃない」

「凄かった」

 

 ルイズははっとした顔で己の下腹部を見た。盛り上がっていない。

 一拍おいてから、気づく。彼女たちは己の剣技について言っているのだ。

 

「剣、本当に使えるのね……もしかして、使い魔の力?」

「……だったら何よ」

 

 刹那の間隙。ルイズはキュルケに鋭い視線を飛ばした。脳裏に浮かぶは才有る者。見下しの瞳。降って湧いたものに縋って、何が悪い。

 心に刺さる棘。手の内にある柄を、きつく握りしめる。内にある闇が燃えている。黒の祭壇に憎悪の薪がくべられた。

 しかし、ルイズの剣呑な雰囲気に関わらず、キュルケは微笑みを崩さないまま、隣に佇むシルフィードの顎をくすぐった。もうエロい。風竜は嬉しそうにきゅいきゅいと鳴いている。

 

「何もないわ。あなたがそうしたいなら、好きにすればいじゃない」

 

 なにも、なかった。キュルケの言葉に、キュルケの目に、嘲りの色はなかった。

 ルイズの心に渦巻いた何がしかが、あっという間に霧散していった。ルイズは戸惑う。あらゆることに。

 夜中に風が吹いた。暖かく、緩い風だった。ルイズとュルケは何も言わなかった。ルイズはキュルケの瞳を見た。熱く、優しい輝きが灯っている。

 空気を求める魚の如く、ルイズは幾度か口を閉口させた後、放つべき言葉を探る。

 

「キュルケ、その」

「ワイン飲みたい」

 

 そこで、タバサの遮りが世界の全てを切り裂いた。

 キュルケは己のドレスの裾をひっぱるタバサに破顔した。タバサの頭を撫でた。屈んで目線を合わせた。お母さんか。

 

「なぁに、あんなに食べた後なのに、お酒飲むの?」

「飲みたい。みんなで」

 

 周囲を見渡しながら、タバサはそう言った。詰まるところ、昨日と同じことをしたい、ということだ。

 どうやらタバサは味を占めたようだ。そしてそれは、赤い葡萄のそれだけではないのだろう。

 台詞を遮られて何とも言えない顔をしていたルイズと、タバサの目線がかち合った。今まで冷え冷えとした印象しか持ち得なかった彼女の青い瞳は、見た目相応の幼い光が宿っていた。ルイズはそれを悪いものとは思わなかった。

 

「なに、また飲むの?」と少し離れた場所にいたモンモランシ―が立ち上がって言った。ごつん、と音がした。心なしか軽い音だ。いてっ、と誰かが唸った。

「来る?」とキュルケ。

「うーん、まぁ、いいけど」

「決まりね。ルイズは?」

 

 問われたルイズは、視線をあちこちに彷徨わせた。

 ただワインを飲んで喋るだけの集まり。参加する利点なぞ考えるまでもない。ゼロ。価値なし。

 ――そういうもんじゃないだろ、こういうことは。 

 魂の中、鐘の様に響く声。それに対し、ルイズは否定の弁を持たない。誰もが利益不利益のみで人付き合いをしている訳ではないのだ。

 それを超えたものがある。損得勘定だけで考えない事象がある。それは分かる。ルイズは不意に、目を瞑る。

 

『こころがよわいみたいじゃない』

『そういう風に考えるのか、お前は』

『わたしは、ここでいい。このやみのなかで』

『色んな人と話して、視野を広げることだって大事だろ?』

『……』

 

 瞳を開ける。ルイズはため息交じりに口を開いた。後押しするような遠吠えが聞こえる。分かっている。けれど、素直に認めるのは癪なのだ。

 

「……少しだけよ」肩を下げて、ルイズが言った。するとキュルケは少しだけ瞳を丸くした。

「へぇ……」

「なによキュルケ、その目は。あんたから誘ってきたのに」

「別に。でも」

 

 そこで区切って、キュルケはルイズをじっと見る。二人の視線が交じり合った。今まで、果たして幾回、二人は互いに互いを見合ったのだろうか。すべての柵を抜きにした、ただのルイズとキュルケとして。

 これは、一時的なものなのか。これからは、その回数も増えていくのだろうか。答えは闇の中だ。

 けれど事実として、今のキュルケが浮かべている笑みに含むものはなかった。キュルケはゆっくりとルイズに近づいた。物理的な距離も。精神的な距離も。近くなる。

 

「貴女のそういうところ、嫌いじゃないわよ、私」言って、キュルケは手を伸ばした。褐色の掌がルイズを見ている。これは何の手だろうか。考えるまでもなかった

 

 だが肝心のキュルケの考えが読めない。この女は何を思っているのか。そういうところとはどういうことだ?

 

 憎まれ口を返すのは簡単だった。私はあんたが嫌いよ。そう言うことは出来た。むしろ言うべきなのだろう。一線を越えない為に。

 

 何もかもが癇に触れる女なのだ。ツェルプストーで。才色兼備で。自分を馬鹿にしてきたことだってあった。知られてはいけない秘密に入り込みさえした。紺色の手袋。今も着けている。

 ルイズは彼女を憎むべきだった。恨むべきだった。今までそうしてきた様に。

 けれど疑念が纏わりつく。友好的な笑みを浮かべる目の前のキュルケを、差し出されたキュルケの手を跳ね除けるのは、正しいことなのか? 家系の因縁はそこまで深いか? 仮にそうだとしても、目の前のキュルケに祖先の責があるのか?

 秘密のことだってそうだ。彼女が誰かにこのことを話すのか? 彼女はそういう人間なのか? 憎きツェルプストー。その筈なのに、ルイズは全ての疑問に首肯出来ない。

 魂が嘶く。いい加減、素直になれよ。闇に響くは福音か、はたまた呪いか。

 

 瞳を閉じていないのにも関わらず、ルイズの片方の視界が不意に闇に染まった。

 闇の向こうに微かなかがり火が見える。黒犬が先行して、こちらを向いて鳴いている。早く来いよ。悪いことでも何でもないだろう。

 幼いルイズは、その光に心地よさを覚えた。かつて求めていた温度。その微熱は、幾年の孤独を溶かしてくれるのだろう。

 向こう側に救いがあった。手を伸ばせば届く距離。ルイズは認めた。

 

 

 認めたうえで、幼いルイズは杖を抜いた。空には月がある。タバサにはキュルケ。モンモランシーにギーシュ。では己は。

 不意に本質を掴んだ気がした。

 幼いルイズは暗闇色の絶望を紡ぎ、黄昏の爆発を産んで、全てを薙ぎ払った。光も、感傷も、救いも、何もかも。

 やっと灯った光さえも失った空虚な世界で、憐れむ様な瞳の黒犬がぽつんと佇んでいる。幼いルイズは歌うようにつぶやく。

 

『誰も、私の涙を掬ってはくれなかった。誰も分かってくれなかった。誰が私を理解できるというの。期待してしまった。無駄に考えてしまった。最初から、分かり切ったことだったのに』

『……それが、それがお前の出した答えかよ。それじゃあ前と変わらないじゃないか!』

『卵の方が鳥より早いのかしら? それとも逆? 分かってくれないから拒絶する? 拒絶するから分かってくれない? どうでもいい。結果は同じよ』

『置いてある料理に手を付けていないだけだ。お前がそうしようと思えば、いつだって。結果を自分で決めるなよ』

『上っ面の甘い蜜だけ吸っておくわ。身体に悪そうだから、それ以上は要らない』

『勝手にしろ。ひねくれやがって……』

 

 支離滅裂な会話。否。滅茶苦茶で整合性が取れていないのはルイズだけなのだ。今も。昔も。

 そっぽを向く黒犬。遠ざかる闇。一瞬、己の闇に入り込んだデルフリンガ―が、呆れたような呻きを出した。それ以上はなにもなかった。

 開ける視界。その果てに、捩じり曲がった大樹が虚な華を咲かせた。思考は透明だ。ルイズの迷いが消えた。

 

 キュルケの人間性を認めるのと、彼女に友愛の情を抱くのは別なのだ。

 その場その場での感情は否定しない。楽しいという気持ち。一時の馴れ合い。だがそれより先に道はない。

 

 すべては力のため。見識を広めるため。それだけに過ぎないのだ。

 

 ルイズは体を反転させた。背中の越しの拒否。キュルケの手が宙に忘れられる。彼女はどんな顔をしているのだろうか。心が軋む。

 けれど、その僅かな痛みさえも、ルイズは消し飛ばした。

 

「私にそのつもりはないわ。ただの暇つぶしよ」

「……ま、いいわ」

 

 キュルケの声に失望の色はなかった。そのことに喜ぶ自分がいた。抗えぬ二律背反。そしてきっと、失望している者がどこかにいる。世界のどこか。もしくは己のどこかに。

 知ったことか。ルイズは都合が悪いことは全部無視することにした。

 

 

 キュルケはルイズの内を知ってか知らずか、あっけらかんとした態度で手をたたいてから辺りを見渡した。

 

 

「じゃあまたタバサの部屋でいいわね? あとギーシュは駄目よ」

「ええ、そんな」

「男子禁制」

「逆になんでいけると思ったのかしら? あ?」

「痛い痛いモンモランシー痛いよ! 関節が痛い! はいごめんなさい!」

「じゃあお風呂のあとに部屋に集合ね。あ、ルイズ」

 

 ルイズは振り向いて、そして察した。これは頭悪い発言するときのキュルケの顔だった。

 

「お風呂、一緒に入る?」

「こいつ……」

 

 

 ちょっと入りたかったという何処からかの囀りも、無視した。何も聞こえない。

 

 

 

 





「二人合わせて天地に隙がないおちんちん」は是非声に出して読んでほしい。
 美しい日本語は後世にまで残さなければならないのだ。


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第十九話

 

 風呂に入った後(無論、一人でだ)、ルイズはタバサの部屋に赴いた。

 やはりというべきか、そこで行われたのは生産性のかけらもない、下らない会話だった。男の好みがどうとか。

 男は情熱的であるべきだとか、かっこいいひとがいいだとか、浮気をしない人ならだとか、かっこいいひとがいいだとか……などなど。

 貴族であるとか魔法学院の生徒であるだとかを度外した、浮ついた話。ただの女の子としての話だった。

 ちなみに「かっこいいひとがいい」を連呼していたのはタバサだ。ルイズは特に意見を言わず、たまに茶々を入れる程度で流していた。

 話が下らなさ過ぎて口を挟まなかったと言うのが理由だが、こういう時なにを言ったらいいか分からなかった、というのもある。ルイズは対人との関係があまりに薄い人生を送っていた。

 改まれば、同年代の学徒と他愛のない話をすることなんて今までになかった。その時、ルイズは居心地の悪さを感じていた。明らかな場違い。

 だが、決して不快ではなかった。その場がつまらない訳でもなかった。では楽しかったのだろうか? 己の感情さえ、よく分からない。

 

 湧き出た疑問の答えが出せない、いや、出さないまま、女子会は終わった。タバサがおねむになったのだ。

 うつらつらと頭を上下するタバサと彼女を優しくなでるキュルケを見て、モンモランシーは呆れたような笑いを浮かべ、ルイズは角度を上げていた。キュルケの母性はチンコに悪い。

 

 

 そうこうして今、ルイズは自室の扉を開けた。出迎えの言葉はなかった。

 

「……なによ」

 

 開口一番、ルイズはそう言った。部屋の中央に横たわる無機質な同居人、デルフリンガーに向けて。

 彼はルイズが部屋に帰ってきても何も言わなかった。どころか、例の外での剣舞以来、彼は無言を突き通している。かの心象風景の一部始終を見てから、ずっと。刀身は鞘から僅かに出ている。つまり、喋れない訳ではない。

 意図的に、黙っている。

 

 そこで、水を向けられた剣は久方ぶりにカタカタと揺れた。不承不承と言った体だ。少なくとも、ルイズにはそう思えた。

 

「俺は何も言っちゃいないぜ。なにってなんだよ。もしかして」

「ナニのことじゃない吹き飛ばすわよ…………何か言いたいことがありそうだったからよ」

「ある」

「それは?」

「……」

「……だんまり、ね」

 

 知らないでも忘れたでもなく、無言。

 ルイズは鼻を鳴らし、寝床に入るため服を脱ぎ始めた。別段、追求しようとも話題を広げようとも思わなかった。焦れさえも感じない。今のルイズは落ち着いている。おちんこもついている。うるせぇ。

 目を瞑る。暗闇の同居人の動向を探る。闇の幼い自分はぽつんと虚空を見ている。黒犬はそこから離れたところでそっぽを向いている。尻尾もぴくりともしない。

 目を開ける。なんとなくの疎外感。だが悲しきかな、それはルイズを落ち着かせる感情だった。

 ルイズが馴染みある感覚に浸っていると、デルフリンガ―が僅かに揺れた。

 

「……一つだけ、言っていいか?」

「……聞くわ」

 

 そして一瞬、間が開いた。静謐な間が。

 

「……人は一人では生きていけねぇ。可能不可能の話じゃなくて、生きたくなる意味が見つけられないのさ。いや、言わなくていい。おめーがああいう態度を取ったのは、色々な柵がある所為なんだろ? 分かるんだ、おれには。これでも数えるのが馬鹿らしくなるほどヒトを見てきたんだ。今はそれでいい。何れ、全て上手く行くときが……うああああ、チンコ生えてやがる!」

「クソが」

 

 服を脱ぎ終えた全裸のルイズは生きたくなくなる意味をぶらんぶらんさせながら、剣を蹴り飛ばした。真面目な話なら最後まで貫け。

 

「今更何よ。あ? 喧嘩売ってんの?」

「す、すまん、こう、改めて生で見ると、な? ……うわ、標準よりも小さく見えるが体形を考えるとあまりに冒涜的で」

「ばかやろう」

 

 妙に緻密なチンコの描写を遮る様に、ルイズを剣を更に蹴った。人は混乱すると訳分からないことを口走る。それは剣にも言えるようだ。知ったことか。蹴られたデルフはクルクルと回転しながらベッドの下へと入っていった。おれじゃどうにもできない。サー……許してくれ。そんな情けない声が聞こえた。心ここにあらずというような。

 硬い鞘を蹴ったルイズのつま先が痛んだ。心はもっとささくれ立っている。今のチンコは柔らかい。だからなんだ殺すぞ。

 

 ルイズはため息を吐いて、剣をベッドの下から引きずり出した。暗いところで一人ぼっちなのは寂しいと思ったからだ。己が一人ぼっきした時に心の傷を共有してもらいたいというのもある。

 

「おやすみ」

「……ああ」

 

 部屋の灯りを消して、ルイズはふかふかのベッドに横たわる。目を瞑る。そこには何もない。ただの黒い世界。寝る寸前は『心の暗闇』には入らないのだ。原理は相変わらず分からないが、とにかくそういうものらしい。

 ――入ったとしても、同じことか。

 どうせ、中には空虚な瞳の幼い自分とそっぽを向いた犬しかいない。それはこの無明の暗黒と同じだ。誰も自分を見ていない。更に言えば。

 ――明るい世界でも、結局は。

 

 

 自嘲するルイズは睡魔に身を委ねた。そして遠ざかる意識の端で考える。

 かの『変な夢たち』を見始めたのは、間違いなく使い魔であるチンコ、もといその持ち主の黒犬(あくまでルイズが描く比喩)が関係している。

 ということならば、今、そいつにそっぽを向かれているということは。互いの関係性が悪くなっているということは。

 

 

 夢の内容は、直近のものとは違うものになるのではないか。

 朝、悩まされることはなくなるのではないか。

 

 

 喜ぶべきはずのその予測は、しかしルイズに良い感情を齎さなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そういうわけで、ルイズは夢精するのだ。 

 

 

 

 

 

 

 

「私がルイズを育てるわ」

「ちょ、キュルケ」

 

 キュルケはルイズの腰を抱き込み、褐色のたわわな果実を頬に押し付けた。

 脈絡ないキュルケの発言に、ルイズは目を白黒とさせ、勃起した。乳首が、乳首が顔に!

 

 

「うむ、よろしく頼む」

「お父さま!」

「応援するわ」

「姉さままで!」

「なら私は妹になる」

「タバサなんで!?」

「私は同級生になるわ」

「僕もだ」モンモラシーとギーシュが言った。

「元々そうじゃない!」

「あらあら、なら私は姉になればいいのかしら」

「い、いやちい姉さまも元々、なんで裸ぁ!?」

 

 また唐突にわらわらと出てくる見知った奴ら。どいつもこいつも頓珍漢なことを口走り、ルイズのとんちんかんは先走りをうるせぇ殺すぞ。

 

「みなさん、大変です!」

 

 そこでどこからともなくメイドのシエスタがやって来た。彼女は無意味に丈の短いメイド服を着ていた。顕になった太ももの肌色が眩しい。おっぱいも無意味に強調されている。

 でもきっと、無意味な物なんてどこにもないのだ。ルイズはそう思った。そして竜巻が目の前にあった。

 

「伏せろぉ! カリーヌだ!」

 

 公爵の叫びに、ルイズは反射的に身を伏せた。そして空高くふっ飛ばされた。空中に舞いながらルイズは思う。範囲攻撃の竜巻に対して伏せる意味はあったのか、と。遠くでお父さまが吹っ飛ばされているのが見えた。無意味なものはどこにもない、筈である。

 

 

 ルイズは着地した。身を屈め、右脚を折りたたみ膝をつき、右手で地面を支える。左腕は後方へと伸ばす。完全に無意味な格好だ。でもきっと、無意味なものなんてどこにもないのだ。かっこよさがそこにはあった。

 体を起き上がらせ、辺りを見渡す。そこは完全なる荒野だった。具体的にどう荒廃しているかはともかく、荒野ったら荒野なのだ。

 目の前に、キュルケだけが立っていた。彼女は微笑みをたたえている。いやらしくも意地悪でもない、たおやかな笑みだった

 

 

「おいで、ルイズ」両腕を広げ、ルイズを包み込むような姿勢でキュルケが言った。

 

 熱があった。暖かさがあった。癒しがあって、あるいは救いだった。ルイズはそれを跳ね飛ばした。それは、要らない。

 キュルケから距離を取り、おっぱいをガン見しながらルイズは口を開く。

 

「私は、甘えるわけにはいかないのよ」

「それは私にってこと?」

 

 その問いかけに、ルイズは逡巡する。もし手を広げたのが自分の家族だったら? 昔、友誼を交わしたあの少女だったら? 自分はその温もりに身を任せるのだろうか。

 空を見上げる。突き抜ける蒼穹が目に入る。明るい世界。無限の未来。

 すべてまやかしだ。それらしい情景で誤魔化しているだけ。未来は不透明で、信用できない。

 

 甘えとは弱さだ。かつての自分は、甘えていた。次姉に。婚約者に。未来に。

 結局はどうだ? 敬愛する次姉の具合は悪くなる一方だ。本来は、自分が支えてあげるべきなのに。無能な己は心配をかけることしか出来ない。

 婚約者だって、どうしても己とは釣り合わない。向こうもきっとそう思っているだろう。そうであるべきだ。

 未来に願って。期待して。このザマだ。魔法が使えない能無しメイジ。使い魔召喚すら半端な役立たず。

 

 甘えが弱さを産み、弱さが焦りを産み、焦りは疑念を産み、疑念は結果を出さず、貴族の誇りは名ばかりで、無能の烙印が鈍く輝く。

 うんざりだ。だからルイズは全てを捨てて、強さを求めた。そうして、手ごたえがあった。この道に、間違いはない筈だ。 

 

 だからルイズは言い放つ。

 

「誰にも、よ」

 

 空虚自身。デルフリンガーはルイズが対人関係に消極的なのを『柵』と評した。

 遮る何か、邪魔をする何かがあるから、素直になれないのだと。

 違う。本質そのものが虚ろなのだ。生まれつきそうなのだ。だから無能であり、だからこれから強くなれる。

 

「甘えるわけにはいかないのよ」

 

 二度目のその台詞は、キュルケに言ったものではなかった。その先の先の先。認識さえ覚束ない己を見守る誰かに言ったものだった。

 ――姿さえ不明なあいつにも、甘えられない。ただでさえ、体の一部を奪った負い目があるのだから。

 空虚であることに、意味はないのだろうか。否。無意味なものなど、決してないのである。

 

 

「でもルイズ」

「なによ」

「それはそれとして、貴女の極太羽根筆がおっきしてるじゃないの。ほら、なによこれ、ちょっと確かめさせてもらうわ」

「あ、ダメダメダメ、それは駄目、キュルケ!」

「上の口ではそんなこと言っても、下の舌はこんなに涎を……ほらほらほらぁ!」

「あ、そ、そんな強く、ぅく、か、緩急つけちゃだめぇ!」

 

 

 

 

 

 こういう訳だ。

 

 

 

 

 

 しにたい。

 朝起きたルイズは、下腹部のねっとりとした感覚共にどうしようもない厭世感情を受け取った。いらねぇよダボが。

 だがしかし、ルイズはまだ死ぬわけにはいかないのだ。まだまだするべきこともあれば、大貴族の娘という立場からの跡取りの問題もある。そう、棒を使ってね。使わねぇよ。私が母になるんだよ。なれるの? なるの!

 

「くそぅ、くそぅ」

 

 ルイズは少しべそをかいた。使い魔と仲違いしている時でもこれである。つまるところ、あのルイズの髪の毛の億倍桃色な夢は自分由来なのである。

 しかもまたキュルケだ。彼女に執着しているのか? 馬鹿な。ルイズは首を振るう。あれはあいつがエロい所為だ。他意はない。

 やけくそ気味に、ルイズは腹部にこびり付いた小さいルイズよりさらに小さいルイズの素をシーツでぬぐい取った。あまりにも無様すぎて鼻水が出そうだった。

 

「……その内、いいことあるさ」

 

 全てを察した古びた剣が静かに言った。心優しい老人の如く、暖かく、そして何も生み出さない慰めだった。夢での自慰を経ての爺からの慰撫だ。更に言えばキュルケの愛撫が、ルイズは世界を滅ぼしたくなった。

 心中での下劣な言葉遊びを打ち切ってから、ルイズは消え入りそうな声で「ありがとう」と言った。たとえ空っぽであったとしても、何かを受け入れる器ぐらいは持っている。

 デルフは無言だった。けれど少しだけ、かたりと揺れた。それだけで、一人と一振りの間には十分だった。心情の同調。ルイズは剣に手を伸ばそうとした。

 

「あ、手を洗ってから触れてくれ」

 

 

 ルイズはデルフを死ぬほど蹴った。 

 

 

 

 

 その後は、せっかく早起きしたんだからと、ルイズは剣を背負って走り込みに出た。無論、その前にシーツを洗うのも忘れない。

 早朝、巨大な剣を背負い洗い物に勤しむ貴族の少女。見る人がいればきっと驚くだろう。つまり、メイドのシエスタはまたまたそこに遭遇して、またまた目を見開いて驚愕した訳だ。

 

「あの、ミス・ヴァリエール、や、やっぱり、わ、私が洗い、ますよ……?」

「いいのよ、気にしなくて。あなただって仕事があるんでしょう? これくらいは、自分でやらないとね」

 

 前に一度断られていた所為か、恐る恐る尋ねるシエスタに、ルイズは精いっぱいの笑顔を向けた。全力のカッコつけである。

 確かに、普通こういう水仕事は平民にやらすべきなのだろう。しかも相手はメイドなのだ。

 それで? ヴァリエールの原液を拭った? シーツを? 年頃の娘に? 洗わせる? そんなことをさせるぐらいならルイズはマジで自害を選ぶ。

 だからルイズは粛々と冷たい水に手を入れて、いい感じの笑顔を浮かべるのだ。民草を守るのも貴族の役目なのだ。

  

 そうこうして、綺麗さっぱり暗黒白濁色粘液をぶち殺したルイズは、せっかくだから、と「もし手が空いているなら、シーツを干してくれないかしら」とシエスタに申し出た。今のシーツに穢れはない……筈だ。

 彼女はどういう訳か喜んで、「はい、お任せください」とシーツを受け取った。

 

 考えてみれば。

 

 ルイズはシーツを抱えて小走りに去っていくシエスタを見て思案する。

 メイドの仕事に洗濯があって、そしてそれを貴族自ら行うのは、彼女たちの仕事を奪っていることになるのではないか。

 たかが洗い物に何を大げさな、そう思いもしたが、元より貴族と平民には身分以上に絶対的な差があるのだ。

 

 万能道具、魔法。何もないところから水や火を生み出す。土を操る。風を呼ぶ。

 

 世界人口においてメイジの絶対数が少ないことを鑑みても、魔法の存在、それだけで仕事の価値が薄まる平民もいるだろう。

 どこまでが平民の仕事で、どこまでが貴族の我儘だろうか。そもそも、その二つに明確な境界線があるのだろうか。今のルイズには分からない。

 

 そこでルイズは首を傾げる。なぜ、己がこんなことを考えるのだろうか。今まで歯牙にもかけなかった平民に対して。

 ルイズは僅かな戸惑いのあとに確証を得る。周りを見えなかった、見なかった時と今は違うのである。

 様々な事象に考えを巡らすべきなのだ。そういう時期が来ているのだ。己の世界だけでなく、世界の中の己に目を向けるときなのだ。

 

 

 大人に、なるべきなのだ。精通もしたことだし。うるせぇ切り刻むぞ。

 

 

 

 その後、特筆すべきことはなかった。

 強いて言えば、授業に出たルイズに多数の奇異の目が向けられたぐらいか。

 今は背負ってないが、身の丈程の大剣を装備して辺りを徘徊していたのだ。もはやちょっとした恐怖である。当然、話題になる。

 更に、彼女が舞踏会に出なかったことも奇妙さに拍車を掛けていた。いったい、ゼロのルイズはどうしてしまったのか、と。

 ルイズ自身は目線に気づいてこそいたが、特に行動はとらなかった。降り注ぐ目線に対し喧嘩を売ったり、癇癪を起したり、ちんちん見せびらかしたりなどはしなかった。当たり前だよこの野郎。

 授業においても魔法の実演を求められたりはしなかった。教師の方も匙を投げたのかもしれない。ルイズにとっては、それこそ些事だった。

 ルイズは、ただただ普通に過ごしていた。真面目に、孤独に、いつもの通りに。

 

 己が生徒間でちょっとした話題になっているとルイズが知ったのは、夜、キュルケにそう伝えられたからだった。

 

「別に、どうだっていいわ」ルイズはそう返した。

「あらそう? ちなみに、馬鹿にしているというよりはただただ興味津々って感じね。他に面白いこともないし」

「見世物じゃないのよ。それに、どうでもいいって言ったでしょ」

「ふふ、そうだったかしら?」

「……ふん」

「ときにルイズ」

「なによ、ギーシュ」

「そろそろ僕の喉元を切っ先から解放してくれないだろうか」

 

 ルーンの力を確かめるため、夜中に庭で剣をぶんぶか振るっていたルイズだったが、そこにギーシュとモンモランシーがやって来た。

 なんでもギーシュ曰く「愛しい彼女の前で無様を晒してしまったからには、挽回しなくてはならないのさ。これも薔薇の定めだね」とかなんとか。

 つまり、ルイズに一泡吹かせたいということだ。ギーシュは馬鹿だが、実力差が分からないほどではない。彼も彼なりに何か考えがあるのだろう。

 モンモランシーはその付き添いだった。また、彼女はいつぞやの礼と言うことで、手製の香水をルイズに渡した。

 それに対してルイズはどういう行動を取るべきか戸惑った、が、そのモンモラシーは香水を押し付けてすぐ、件の気障な少年と互いに互いを褒めあっていた。どことなくうっとりもしている。またしてもルイズは己をダシに使われた気がしたので、ギーシュを瞬殺した訳だ。

 その終わりに、何故かキュルケとタバサまでが来た。キュルケは暇つぶしと言った。タバサはそわそわしている。完全に酒を飲む構えだった。

 

 結局、何度かギーシュ(正確に言えばギーシュのゴーレム)と刃を交わしたあと、ルイズはまたも女子会に参加することになった。勝手にそう決められたのだ。ギーシュはとぼとぼと部屋に帰った。

 変わらずの参加者。変わらずのタバサの部屋。変わらずの中身のない話。なのに楽し気な周囲。けれど不快には感じない自分。謎の靄が脳裏を掠める。

 ルイズは齎される感情を全部無視した。そうして一日は閉じ、何日かはその繰り返しだった。

 

 夢精して、朝起きて、洗い物して、シエスタと少し話して、走りこんで、授業に出て、夜ギーシュと手合わせして、女同士で酒を飲み、寝床について、夢精する。

 健康的よね! 馬鹿!

 

 夢精。

 夢精である。

 一日の初めに一番の危険物が待っているのだ。そのたびにルイズはげんなりした。もう、キュルケの顔も正面から見れていない。だから代わりにおっぱいを見るのだ。仕方ないのだ。端的に言ってくたばれ。

 なにせここ何日かの夢でのヴァリエール成分液の大盤振る舞いの原因は、一番はキュルケ、二番はキュルケ、三番目はキュルケなのである。キュルケしかいなかった。

 そもそもの話、単純に『出し過ぎ』である。だけれども純朴な乙女であると自負しているルイズは、一般的な男性がどこまで発射出来るのかを知り得ない。だからそれは脇に置いておく。脇よりおっぱいに目が行くからだ。しね。

 

 

 三回目、夢でルイズの暴れん坊やをキュルケの広大な大地で挟んでもらったとき、ルイズは起き抜けに「なんでぇ」と情けない声を上げた。

 確かに、メイドのシエスタや実姉のカトレアがアレをアレしてどっぴゅんさせてくるのに比べれば、まだマシではある。しかし程度問題に過ぎない。己とキュルケは、ヴァリエールとツェルプストーは怨敵の筈なのに。

 己は彼女をそういう目で見ているのか。それとも単に、彼女と近くありたいというのか。

 どちらもごめんよ、ルイズは念じるように言った。なんて空虚な言葉だろうか。ベッドの下、床上のデルフリンガーが意味ありげに揺れた。

 

「早く精液を拭わねーとカピカピになるぞ。あと手を洗ってから俺を握ってくれ。チンコではなく」

 

 ルイズはデルフを死ぬほど蹴った。

 

 

 

 

 

「なにか変わったことはあるかね?」

 

 

 

 

 健全なのか不健全なのかよく分からない日々を過ごしていたルイズだったが、ある日、学院の長であるオールド・オスマンに呼び出された。

 人生経験を積んだ翁でも未聞なちんこくっつき現象。体に何か異常はないか、という聴取の場であった。

 

 ルーンの力で剣などの武器を振るえます。爆発も制御できるようになりました。目を瞑ると本来のチンコの持ち主である使い魔は何故か犬のカタチで居座っています。よく夢精します。今日もキュルケで抜きました。

 

 何ひとつ、ルイズは言えなかった。仮にも乙女であるヴァリエール三女が下賤さ全開の言葉なぞ言えるわけがない。

 それに、手にした力や暗闇の黒犬のことだってそうだ。ある種の信用を置いているオスマンにも、ルイズはそのことを言えなかった。その力を――可能かどうかはともかく――取り上げられるような気がしたからだろうか。はっきりとしない。鈍い靄だけが霞んでいる。

 ルイズが逡巡していると。

 

「おお、グラモンの倅との『訓練』以外でな」とオスマンが言った。

「……ご存じでしたか」

「知っておるか? 一応ここの学院長なんじゃ、わし」

 

 オスマンは如何にも好々爺という風体で朗らかに笑った。対してルイズは表情を消した。

 その様子を見てか、オスマンは皺が刻まれた頬に、更に深い笑い皺を浮かべた。

 

「別に、何も言わんよ。確かに決闘は禁じられておるが、ミス・ヴァリエール、君がこの学院で日常的に行われている生徒同士の訓練……いや、『決闘未満』の数を聞いたら、ちょっとは驚くんじゃないかのう。つまり、よくあることなのじゃ」

「……どうも」

 

 すまし顔を心掛けながら、ルイズは頭を下げた。別段、罰則を受ける可能性を心配していた訳じゃない。

 

 オスマンが月下での剣劇を知っているということは、ルイズが大剣を振るえるということも知っている訳だ。

 学院を見渡す魔法道具「遠見の鏡」を使ってか、それとも、翁の『目』である使い魔のネズミ、モートソグニルとの感覚共有を用いてか。

 それはルイズの知ることではなかったが、とにかくオスマンはその様子まで見ていたということになる。

 

 大剣を振るっている目的や理由を、ルイズは彼に言っていない。そして、オスマンは彼女に聞いてこない。

 言うべき、なのだろうか。手にある力を。その理由を。それを使う目的を。ルイズは考える。

 言うべき理知的な根拠はいくらでも浮かんできた。逆に、言わざる理由はどうしようもない感情論でしかなかった。けれどもルイズの口は先を紡がない。紡げない。

 

 老人は柔らかい笑みを浮かべている。

 

「ミス・ヴァリエール」

「……はい」

「君の気持が整理出来たときでいい。年寄りと若者では流れる時間が違うのでな……わしは、待っておるぞ」

 

 ルイズは呆気にとられ、口を半開きにし、その後オスマンをじっと見つめた。

 老成した、あまりにも深い瞳。目じりに刻まれた長い皺。

 ルイズは言葉が出せなかった。己に恥さえ感じた。甘えるわけにはいかないと律した先で、こうなってしまう。

 それでも、オスマンの弁は渡りに船だった。ルイズは心の凪を装いながら、奥は限りなく散らかっている。片付けの時間が必要だった。それに乗るしか道はなかった。

 感謝の意を乗せて、頷きだけをただ返す。老人は目を細めて笑った。ついで、他には何かあるかね、としわがれた声で問うた。

 

 ルイズは少し考えて、言える範囲の異常である、『食欲が増したこと』と『用を足す回数が増えたこと』を語った。

 そこで、話しながらルイズは気づいた。始めの頃より、手洗いへ行く回数が減っていることに。今はもう召喚前と同じぐらいの頻度になっている。

 そのことも含めて話すと、オスマンは首をゆっくりと振った。

 

「ほうほう、そうか。食欲の方は、今まで自分になかったものが増えた所為で体が栄養を求めているのではないか、と思うが……」

「では御手洗いによく行っていたのも、それに関連しているのでしょうか?」

「だが食欲は落ちていないのに、近頃は尿の頻度だけが減っているのじゃろう? そっちの方は、まだ別の理由がありそうじゃな」

 

 オスマンは顎に手をあて、ルイズは両手を胸の前に置きながらそれぞれ考えを巡らせる。学院の室内で真摯な風が流れ行く。

 ルイズはそこで言いようのない違和感に囚われた。決定的に、何かが壊れている。

 浮かんだ何かを取り払うように頭を振ってから、ルイズは進言する。

 

「殿方は、その、そういう……多いもの、なのでしょうか」

「いや、一般的には女性の方が多いと聞くが……ううむ、なるほど……そういうことかのう」

「分かりますか?」

「予想を多く含むが、おそらくは。ミス・ヴァリエール、たとえば夜中に灯りを消して暗闇の中にいると、ただ真っ暗なだけで何も見えないじゃろう?」

「はぁ、まぁ」

「だが暫くすると、徐々に周りの輪郭が見えるようになる。ぼんやりと、しかし着実に。これはじゃな、我々の目が闇に慣れていくからじゃ。その折に、瞳は大きくなったり小さくなったりを繰り返すらしい。不思議な物じゃのう。通常とは違う環境に身を置くと、身体はそれに慣れようとするのじゃ」

 

 ただの老人の蘊蓄、ではないのだろう。たとえ話。己の身体。慣れ。ルイズは探る様に目線を彷徨わせながら、オスマンに言う。

 

「つまり、私の身体が、えーと、アレに慣れようとしていた、ということですか? そして、落ち着いたということは」

「慣れた、ということじゃろうな」

「何故に、尿意が、尿意で、ちん、その、アレに慣れると」

「一番ソレに触る機会があるのはその時だからではないかのう」

「ううん……」

 

 ルイズは俯き唸った。

 根拠はないが、確かにそれらしい。

 そもそも、ルイズはこの話をするまで尿があまり出なくなっていることに気づかなった。

 他に考えることが山ほどあったから、と片付けるには不自然なくらい、自然に普段通りになっていたのだ。

 適応。これは、そうしようと思って出来ることではなければ、「たった今慣れた」という具体的な瞬間があるものでもない。

 自然にこうなった。最もしっくりする解答だ。この状態に己が慣れたという証左。

 そこで思案に更けていたルイズが、不意に顔を上げた。目を逸らしていた事実と向き合う時が来たのだ。

 

「これ、凄い馬鹿馬鹿しい会話じゃありません?」

「耐えるのじゃ」

 

 尿だのちんこだの触るだの。

 少なくともトリステインの重鎮と大貴族の娘が交わす会話ではない。それも大真面目に。

 壊れた常識。爛れた倫理観。おしっこの哲学。つきまとうチンコの幻影。チンコは幻影じゃなく実体があるからよし! よしじゃねぇよ馬鹿。

 

「じゃが目下一番の問題は」

 

 ルイズの心の錯綜をよそに、机の上に組んだ両手を置いて、オスマンが言った。

 

 

「先にある使い魔品評会のことじゃ。そのことの相談が今日の本題かのう」

 

 

 使い魔、品評会。学院の内外の貴族に、自身の相棒をお披露目する舞台。

 その言葉を聞いた途端、ルイズの頭に邪悪な未来予測が舞い降りた。相棒。なんと意味深な言葉なのだろうか。

 

『続いて、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールとその使い魔です。ミス・ヴァリエール、どうぞ』

『はい、私の使い魔はチンコです。ばばーん』

『ほう、これは珍品だ。チンコだけに』

『これはチン評、もとい品評しがいがありますな』

『ちょっと勃起してみてくれないかね?』

 

 

 嵐の如く暴虐な下劣情景が、ちらちらと目に浮かぶ。ちんちんだけに。

 ルイズは頭を全力で振った後、少しだけ目じりに涙を浮かべた。無様だとかもうそういう程度の話ではない。

 ルイズが不明の敵と格闘しているとオスマンが重ねて、

 

「更に言うと、これはまだ他の生徒には伝えておらぬが……ゲルマニアから慰問帰りのアンリエッタ王女が、品評会をご覧になられるようなのじゃ」と言った。

 

 アンリエッタ、王女。

 ルイズはかつての回顧録を心奥から引っ張り出そうとした。今の栄光ある立場を意識していない、ただの少女だった『アン』との懐かしき一頁を。

 だが出来なかった。それより早くルイズの脳内を横切ったのは、クソみたいな妄想劇場だった。

 

『まぁ、ルイズ! 随分と変わった使い魔を呼び出したのね!』

『はい姫様。これでヴァリエールの跡取り問題も解決です』

『それはいいことね。ねぇルイズ、ちょっと勃起してみて下さらない?』

『もうしています。姫様の御前ですので』

『まぁ素敵!』

 

 ぶっころすぞ。

 なんでどいつもこいつもルイズの子息を独り立ちさせようとするのか。ルイズは憤りを感じた。あと虚しさも。

 この馬鹿みたいな馬鹿馬鹿しい馬鹿の塊は、結局はルイズの脳内が暴走しているだけに過ぎないのだ。つまり己が馬鹿なのだ。 

 ルイズは平静を保とうといっぱいの空気を吸い込んだ。しかしそれは、次の言葉を盛大に震わす効果しかなかった。

 

「……あ、あの、あのあのあの、が、学院長、ままま、まさか、その、みみみ、見せるななななんて、ことは……ひひひひ、姫様に、その、ちちちちち」

「落ち着くのじゃ、ミス・ヴァリエール。わしはまだこの学院を終わらすつもりはない」

 

 威厳ある言葉だった。老人の顔は至極真面目であり、憂慮の心情がありありと浮かんでいた。

 ルイズとしてはただただ申し訳なさしかなかった。年老いた翁に、要らぬ心労をかけてしまっている。あまりにも下らなく、あまりにも下品な話題で。

 

「君の使い魔はあくまで『ヒトの内部に住む未知の生物』ということにしておくのじゃ。品評会では――これは全員参加ということになっておるから、君にも出てもらうが――手のルーンだけを見せておくことじゃ。あとは、剣でも振るってみてはどうかのう」

「……剣、ですか?」

「先ほども言ってたが、見ておったからのう……ただルーンを見せただけでは、色々言うてくる者も居るかもしれぬ。身体に力が湧いてくる効果がある、などどしておけばよい。前例がないのでそれでも騒めくかも知れんが、なぁに、どうとでもなる。わしの方も、アカデミーに先立って釘をさしておく。学院の生徒に詮索、手出しは無用、とな」

「ありがとう、ございます……」

「ほっほっと、気にすることはない」

 

 ルイズは頭を下げる。その言葉は救いだった。何も解決はしないが、少なくともルイズの精神は和らいだ。

 アカデミー、つまり王立魔法研究所は、未知の現象に対し常に目を光らせている、というのがルイズの考えだ。

 いくらルイズが貴族でも、いくらルイズの長姉がそこの職員であっても、謎の使い魔を調べるというお題目でルイズの服を引ん剥くことぐらいは容易に行うであろう。おちんちんがこんちにはということになる。

 何もかも台無しだ。世界の終わりだ。だが、トリステインの重鎮であるオールド・オスマンからの直々の通達があれば、連中も手出しはできまい。

 

 ルイズは自分のことに精いっぱいで、そのことに頭が回らなかった。とくに品評会が開かれることなど、とうに分かっていた筈なのに。

 しかも、彼女を悩ませていたのは内面、精神的なものがほとんどなのだ。使い魔とは別の、解決できる、解決すべき問題なのだ。だが、それさえも宙ぶらりんだ。先に進めてはいない。見て見ぬふりをしているだけだ。

 己は壊滅的に、視野が狭い。このことに気付けただけ、成長していると言えるのだろうか。何もかもを見ないふりをしている自分が?

 あまりにも足りていない自分。現実を突き付けられた気になったルイズは、オスマンに重ねて礼を言ってから、しずしずと退出した。

 

 

 

 どこかしょんぼりとした背中のルイズが部屋から出たあと、オスマンは神妙な顔で机から古びた本を取り出した。それのとある頁には、少女に宿ったルーンと同じ物が書かれている。失われし伝説。

 少女の生末を想い、オスマンは重いため息を吐いた。

 

 

 

 また幾日か経った。

 相変わらずルイズは夢精するし、夢の中でキュルケがはしたなく誘惑してくるし、心中の黒犬はこちらを見ない。

 時間だけが無情に流れていく。その中で、ルイズに向けられた奇異の目線は少しづつ減っていた。

 それはルイズがどうとかではなく、新しい話題、使い魔品評会や王女の訪問に持ち切りだからだ。世界は流動的だ。一点に留まらない。

 ルイズだけが停滞している。少なくとも本人はそう思っていた。様々な葛藤が渦巻いて、外に目線は向けられない。そのことに気づけばまた視野が狭い自分に自己嫌悪。その繰り返しだ。あと夢精。うるさい。『本番』の夢がないから大丈夫。うるせぇ。

 

 

 そうこうしている内に、品評会の日になった。

 結論だけ言えば、問題視していたその日においても、ルイズを劇的に動かす何かは起きなかった。まるで普段の日常の様に。

 舞台に上がり、手袋を外してルーンを見せた。内に使い魔がいるのです、と言うと場が軽く騒めき、その効果で力が湧きます、と言って剣舞を披露すると、少しだけ感嘆の様な声が上がった。ほんの少しだけ。

 概ねは戸惑いの気配だった。だがそれだけだった。剣舞を終えてルイズがお辞儀すると、とってつけた様な拍手が起きた。

 何かを期待していた訳ではなかった。むしろ、不安の方が大きかった。だけれども、結局は何もなかった。

 貴族が剣なぞ、と嘲笑されるかと思っていたが、審査員やその他の見物人が珍しそうに見てきただけ。小柄な少女が大剣を振るうこと自体が強く響いたのだろう。結果、良い評価も悪い評価も得なかった。

 その前にギーシュが『使い魔のモグラと一緒に薔薇まみれになる』という極めて前衛的なことを仕出かした所為もあるかもしれない。

 ルイズの『使い魔が見えない』という事象よりも、平民武器の象徴、剣を振るうことよりも、そっちの悪評の方がより強かったのである。

 

 恙なく、使い魔品評会は幕を閉じた。 

 

 あえての特別を上げるとすれば、王女が急遽来れなくなってしまったことだ。何でも慰問の疲れだとからしい。

 

 ほとんどの生徒は、トリステインの華である美しい姫を見れないことにがっかりしたが、ルイズはがっかり半分安堵半分だった。

 だってルイズはちんこ付いているのである。子種絶賛売り出し中なのである。非売品だよ殺すぞ。

 そんな今のルイズが美しい華を見たらどうだ。そりゃもう受粉体制に入るだろう。つまり雄しべがやらかす訳だ。あくまで夢の中でだが。現実的にそれをやらかそうと少しでも大砲の角度を上げ始めたら、ルイズは砲弾を詰める前に遺書を記す体制に入る。

 

 ――不敬だなんだという前に、アンリエッタ王女は、アンは、ルイズの幼馴染であり、親友だった。

 あれからだいぶ時が流れたが、唯一の友達だったのだ。おそらく、向こうにとっても。そしてあるいは、今でも。

 

 

 汚せない。穢せない。あやふやで、矛盾だらけの自分でも、超えてはいけない線を持っている。

 

 

 

 さておき。

 そんなこんながありながら、もしくはないながら、使い魔品評会は程ほどの盛り上がりで幕を閉じた。

 

 審査員からぶっちぎりの高評価を得たのはタバサだった。下馬評通り。誰からも文句はでなかった。

 

 タバサ自身は特に興味もないだろう、とルイズは思っていたが、なんとタバサは前日に使い魔の風竜シルフィードを直々に洗ってやったらしい。 

 別段それが切っ掛けでみなに絶賛されたという訳ではない。使い魔が『竜』であることだけで、今年の目玉は決まっていたのである。

 問題は、あのタバサがわざわざそんなことをしたという事実だ。

 

 品評会が終わり、デルフリンガ―を背負ったままのルイズが、自室の前でキュルケからそれを聞かされたとき、彼女は軽く驚いた。

 キュルケもまた驚いていて、そして優しく微笑んでいた。

 

「実際、誰かから評価されたいってことではないと思うのよ。ただ、周りが賑やかだからそれに乗ってみたかったんじゃないかしら」

「なんで、そんなことを」

「さぁ? でもタバサは見た目そのままの冷たい心ではなくて、きっと、奥には灯りが燈っているんだわ」

 

 だからどうした、それを己に言ってなんだというのだ、という体でルイズはキュルケを睨む。その先に煌くキュルケの瞳は真っすぐだ。タバサを想う微熱、だけではないのだろう、その目にある熱量は。

 ルイズは直ぐに目を逸らした。心に黒い靄。劣情でも嫉妬でもない、謎の感情。ルイズは全てに蓋をする。心の窓を全て締め切る、振りをする。 

 

「そう言えばルイズ、その、あなたは大丈夫なの? 最近、体調とか」

「……あんたには関係ないでしょ」

「……そうね」

 

 まただ。またこの女はそういうことを言う。そういう顔をする。ルイズは締め切ったはずの窓から何かが漏れるのを感じた。

 なぜこいつは己を気遣う言動をする。なぜ癒しと憂心が灯る表情をする。ツェルプストーが。ヴァリエールに。家系の柵があるのに。自分は無能なのに。自分は穢れた身体なのに。なぜ関わりを持とうとする。

 ルイズは苛立ちに襲われた。憐れみや同情などとは違う、キュルケが己に向ける感情。不快なものではない。ないから分からない。分からないから、心がざわめく。

 

 逃げ出す様に、ルイズは背を向けた。キュルケは何も言わなかった。仮に、これ以上何かしらの『そういう言葉』を投げ掛けられていたら、ルイズの琴線は爆発してしまっただろう。もしキュルケがそのギリギリの線を見極めてやってるとしたら、大した手腕だ。伊達に男どもを手玉にとっていない。

 

 ――その事実もまた、ルイズを苛立たせた。彼女と自分の差を見せつけられている様で。

 

 ルイズが部屋の扉を開ける際に、キュルケが一言だけ声を掛けた。

 

「今日は第一回タバサを讃える会をやるわ。夕飯終わりに直ぐやるから、剣を振るうのはよしてね」

 

 色々言いたいことはあった。結局普段の飲み会じゃないかとか、なぜ私の予定をお前が決めるのだとか、それだとギーシュは一人になるわね、だとか。

 ギーシュに関しては心底どうでもよかったが、一々飲み会の意義に異議を立てるのも面倒であれば、誘いを断ればこの女はしつこく食い下がる、それもまた面倒だ、ルイズはそう思い、いや、そう思うことにして、

 

「……考えとく」と世界の誰も意識しないような泡沫の声を出した。

 

「待っているわ」

 

 キュルケには届いていた。

 

 

 部屋に入り、扉を締める。剣を置く背中に、何者かの熱を感じた。扉越しの視線の熱だ。気のせいに違いない。違いないのだ。

 ルイズは剣の柄を握り、少しだけ鞘から引き抜いた。その動きには、明らかな葛藤が乗っていた。

 

「なによ」

「何も言ってねぇのに呼び掛けるなよ。それとも、俺に言った訳じゃねぇのか? もしかして、なにってのはナニのことなのか?」

 

 ルイズはデルフを鞘にしっかり入れてから、床に叩きつけた。

 下らないことをのたまった故のお仕置き……ではなかった。陳腐な八つ当たりだ。

 床に落とされたデルフは、その折りに鞘から刀身が漏れでていた。その所為もあってか、床の上でカタカタとゆっくり揺れた。

 

「俺は剣だ。悩みは聞けるが答えは出せない。前にも言ったよな? いつか上手くいくときが来るって。いつかは知らん」

「……ふん」

「ま、慰めることぐらいは出来るけどな」

「無意味よ」

「おめーがそう思うんなら、そうなんだろ」

 

 ルイズはデルフリンガーを鞘に入れなおして、きちんと壁に立てかけた。

 

 この世で無意味なものなんて……ないのか? 本当に?

 

 ルイズは精神の軋みを感じた。目を瞑る。こちらを見ない黒犬。何も見ていない幼い自分。目を開ける。

 劇的な何かは起こらない。時はただ緩やかだ。先に進む速度はあまりにも遅々で、弱さだけがやたらと目に映る。決意を曇らせるのは、いつだって何もない日常なのである。

 

 

 ――甘えるな。歩みを止めるな。迷うな。

 

 

 念じるように、ルイズは左手首を掴む。心に常にある黒を循環させる。手袋の内側で、ルーンが煌々と輝いている。心を震わせろ。捨てろ。振り向くな。合一を進めろ。鈍るくらいなら、逸れるくらいなら。もういっそ、取り返しのつかない、ところまで――

 

 

 そこで、扉が叩かれた。ルイズは一瞬顔を上げて、けれど無視しようとした。おそらくこれはキュルケで、今、彼女の顔は見れない。  

 部屋の入り口から鳴り響く音は、しかし一向に止まなかった。むしろ、秒ごとに勢いを増しているようにさえ聞こえる。

 ガンガンという激しい音。もはやそれは殴打だった。『早く開けろ』という程度のものではなく『なんで私の道を遮る物があるの? ふざけているの?』という不条理の塊だった。

 この非常識的な打ち付け音にルイズは聞き覚えがあった。それも、良くない類の記憶だ。

 嫌な予感が渦巻く。同時にそれはないと頭を振る。だがこれは。こんな呼び出し方をするのは。たらりと冷や汗が流れた。

 

 ルイズは意を決して、部屋の扉を開けた。

 

「ふぐぇ!?」

 

 瞬間、にゅっと扉の間隙から白い手が伸びてきて、ルイズの頬を掴んだ。滑らかなその指は、ぎりりと微塵も容赦なくルイズの柔らかい頬をつね上げていく。

 

「あふぇ、いふぁいいふぁいえふ!」

 

 ルイズが情けない声を上げれば、その手がさっと離れた。ついで何事もなかったように、あまりも優麗な動作で、頬をつねりあげた者が部屋へと入り込んだ。

 

「遅い」

 

 赤くなった頬を涙目でさするルイズを見下ろしてそう言ったのは、ルイズの実姉、エレオノール・アルベルティーヌ・ル・ブラン・ド・ラ・ブロワ・ド・ラ・ヴァリエールだった。

 

 

 



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第二十話

「元気にしてた? ルイズ」

 

 

 字面だけ見れば朗らかに見えるその言葉は、けれど友好的なものではなかった。そもそも初手が頬を抓るというものであったのだが。

 腰まで伸びた鮮やかな金髪に、整った顔立ち。そこに乗せてある目尻の吊り上がった眼鏡……の中で存在感を放つ鋭い目つき。

 そこから放たれる極寒の目線は、残酷な程真っすぐにルイズへと向けられていた。

 

「え、ええ、姉さまもお変わりないようで……」

「ふーん……姉さま『も』、ねぇ……」

 

 目線以上に底冷えする言葉。ルイズは震え上がる他ない。なにしろ、ルイズは彼女を苦手としているのだ。頭が上がらない人物の一人なのである。

 エレオノールは即座にルイズの左手を取って、一瞬のうちに紺色の手袋を外した。顕にされる使い魔のルーン

 

「ちょっ!」

「なーにが、姉さまもお変わりないようで、よ! ちびルイズ! あんたがお変わりしてるじゃない! オールド・オスマンから研究所に通達があったと聞いたとき、私がどう思ったと思う? ええ?」

 

 言いながら、エレオノールはルイズの頬をぐにっと抓った。

 

「ふぇひぇぇ、ふ、ふいふぁふぇん!」

「おだまり! 私はおろか実家にも連絡なしで……体内に使い魔ぁ? 力が湧いてくるぅ? なんでこんなとんでもないこと、身内に報告しないのよ! お馬鹿!」

「ふ、ふぇぇ……」

「それに! ヴァリエール家の令嬢が芸の様に剣を振るうなんて……いくら品評会だからって、もう少しやりようがなくって!?」

「ふぁ、ふぁぃぃ……」

 

 見てたんですか、気づきませんでした、とか、剣に関しては学院長の考えでもあるんですけど、など、ルイズの頭にいくつかの台詞が浮かんだが、それらが世に出ることがなかった。

 こういう場合、ルイズから出る全ての言葉が姉にとって口答えになってしまうのだ。嵐に対する術はやり過ごす他にない。

 しかし経験上もっと長く続くと思われた姉の猛攻は、そこで幕を閉じることになった。エレオノールは叱責と折檻をぴたりと止めた。

 ルイズがそれを疑問に思うよりはやく、エレオノールはルイズの両肩に手を置き、屈んで目線を合わせた。

 

「本当に大丈夫なの? 何か問題は? 身体に異常は? 痛みは? 生活に支障は出てないの?」

 

 それを嵐の様な詰問、と表現するには、あまりにも温かみある言葉だった。

 ルイズは心に棘が刺さるのを感じた。なぜならば、ルイズは今から嘘を付かなければならないのだから。 

 身内に。曲がりなりにも自分を想ってくれている実姉に。

 けれどルイズは引けない。それがある種の裏切りだとしても。ルイズは前に進まなければならないのだ。

 

「……ご心配、ありがとうございます。それと、黙っていてごめんなさい。私は大丈夫です。何も問題ありません、姉さま」

 

 果たしてこれほど神妙なルイズの顔つきを、エレオノールはかつてどれだけ見たことがあるだろうか。

 小柄な少女。手がかかる妹。かつてはそうで、今でもそうだ。だがそんなルイズは、今、どこまでも真剣な目線を飛ばしている。余計なことを言わず。取り繕うことせず。癇癪を起さず。

 エレオノールは肩から手を離し、距離をとった。しばしルイズを見つめたあと、薄く微笑んだ。

 

「……あなた少し……変わったかしら?」

「……まだまだです」

「そう言えることが、その証拠よ……困ったことが起こったら、いつでも私に言うのよ。研究所ではなく、私個人に」

「はい、姉さま」 

 

 ルイズの心の柔らかい部分がぎしりと軋んだ。

 こういう時に。こういう時に限って、いつも厳しい姉が優しい言葉をかけた時に限って。

 ルイズは背信しなければならないのだ。何もかもを黙っていなければならないのである。自分の都合で。あるいは使い魔の都合で。

 これが、大人になるということなのか。不義の味はただ苦いだけだだった。

 心の中だけで、ルイズはため息をつく。これ以上の思考は無駄だ。

 

「姉さまが来られたご用事は、その、このことですか?」

「……その内の一つではあるわ。本筋は別にあるのだけれど」

 

 歯切りの悪い姉の言葉に、ルイズは敏感に反応した。

 妙に優しい態度(あくまで普段よりはだが)に加えて、どこか煮え切らないこの発言。

 ルイズの内側が冷たく研ぎ澄まされた。忙しい筈の姉の訪問。妹への態度。

 

 ――家族の、病状。

 

 寒々とした風がルイズの内に吹いた。表情が削がれる。口が乾く。頬の筋肉の逆らえない痙攣を可能な限り抑えながら、ルイズはどうにか口を開く。

 

「……もしかして、ちい姉さまの具合が――」 

「え? ああ、違うわよ」

「へ?」

 

 ルイズが脳内で描いた最悪の未来を、エレオノールは間髪に入れずに否定した。

 それだけではなく、彼女は笑っていた。今までルイズが見たことないぐらい、穏やかな顔で。

 

「まぁカトレアのことも報告の一つではあるわね……あの子、すっかり元気になったのよ。前に取り寄せてもらったガリアの新薬が身体に合ったみたい。まだ様子見の段階だけど、いずれは領土外にも出られるだろうって、お医者様が。あの子、今までないくらいはしゃいじゃって」

 

 そのことを思い出したのか、エレオノールは傾く口元を隠しながら、しかし逃れ切れない喜びを乗せてそう言った。

 それを聞いたルイズは瞬間、とても幼い精神では処理できない情報、感情を受け取った。

 濁流の情動。防ぎきれない心の揺れ。だからルイズは、鳶色の瞳から涙が一条流れることを止められなかった。

 

「あ……」

「……まったく、泣き虫は治ってないのね」言いながらエレオノールは手巾を取り出し、ルイズの目じりを優しく撫でた。

「だ、だって……」

「ふふふ……」

 

 慈愛ある手つきで末妹の頬を拭う姉。

 緩やかに流れる暖かい水の一片と、布越しに伝わる姉の温度が、けれどルイズに冷たさを思い出させる。

 

 お前に泣く権利があるのか? 己のことに精いっぱいで、身内を碌に顧みないお前に。役立たずのお前が。

 

 磨いた刃が首元に寄り添っている気分だった。身体は姉に成されるがまま、ルイズの精神に幻痛が襲い掛かる。

 命の危機でさえありえた次姉カトレアの病気。彼女の回復はルイズにとって嬉しくないはずがない。

 けれどルイズは冷静であってしまった。結論、己が彼女に対して何も出来ていないことに行き付いてしまうぐらいに。

 更に言えば、遠くない未来、兼ねてより自分を気遣ってくれたカトレアにも、ルイズは虚言を通さなければならないのだ。

 誰も言えない秘密。それを抱える代償。分かり切っていた筈なのに、ルイズは今になり、その重さを強く感じていた。

 

 

「落ち着いた?」

「はい……ごめんなさい」

「いいのよ……そういえば、普段あなたにこうしていたのはカトレアだったわね。私はむしろ……泣かす側だった」

 

 懐かしむ様に、あるいは少しだけ、後悔するように。あらゆる胸懐を伴って、エレオノールはそう言った。

 か細い旋律ともとれるその紡ぎに、ルイズは驚きを隠せなかった。あまりにも、どこまでも苛烈な姉に似つかない態度だった。

 

 それを置いて、ルイズは未だに疑問だった。結局、姉の言う「ここに来た本筋の理由」とはなんなのか。

 ルイズの頭に浮かんだのは最大の禁句であった。姉にとっての。

 

 結婚。

 

 二十七にして未だつがいなし。振られること星の数。これマジでヴァリエール家跡継ぎどうすんの問題の急先鋒。

 ルイズはそれを見極めようとする。股間にある汁出し棒が、少女にその冷静さを獲得させたのだ。やったね。代償が重すぎるのよ死ね。あやうく私が問題を解決するところよ。

 聞くべきか。聞かざるべきか。ルイズが知る限り、現在、姉には婚約者がいる筈だ。バーガンディ伯爵。だが安心は出来ない、ここから破局に至ることなぞ、今のルイズが夢精するぐらいの頻度なのだ。つまり毎回なのである。クソ。

 

 ルイズは考えを巡らせる。もし、奇跡的に上手くいっていて、姉が式の日取りの話だとかに来たのだとしたら。

 であれば、もう少し浮かれているはずなのである。まるでこの世の春が如きに。だがそういう雰囲気は持ち合わせていないように見える。

 ではやはり、駄目になってしまっただろうか。振られてしまったのだろうか。まるで空が曇れば雨が降る如きに。自然の摂理に沿って。

 しかしそうならそうで、もっと苛ついている筈でもある。カトレアの回復を差し引いても、それでも隠せない憤怒の色がある筈なのだ。

 

 逡巡の果てで、ルイズは踏み込むことにした。人の顔を伺い感情を読み取るなんて、ルイズには出来ない。だから、突き進む。足踏みして狼狽えてばかりの自分ではないと叫ぶのだ。

 先に進んでいるという証。変化の渇望。だからルイズは今から『姉さま婚約どうだったんですか、やっぱりダメですか?』と聞くのだ。斜め上の進み方だというのは薄々感づいていた。そう聞いたら頬を抓られることも。なに、結局はどう足掻いても怒られるのだ。なら早い方がいい。

 

 

「姉さま、婚約……」

「解消したわ」

 

 ――速い。

 

 あまりにも鋭く、速い抜き打ちだった。おそらく、風のメイジでもここまでの速度は出せないだろう。しかも敵(ルイズ)の発言を完全に予見していた。並みの実力ではない。

 一方ルイズは姉の豪速の薙ぎ払いに対し、それに負けぬ程の速さを付随させて、すぐさま謝罪の動きに移行した。

 話を先に振ったのはこちら。そして婚約者に振られたのはあちらだ。姉への無礼は死に直結する。ヴァリエール姉妹鉄の掟なのだ。なお、それは長姉と末妹の間にのみ適応される。

 しかし。

 

「一応言っておくけどね、おちび。伯爵とは話し合いの末、互いの同意ありで婚約を解消したのよ」とエレオノールが言った。

 

 馬鹿な。

 

 そんな、それではまるで円満に解決したみたいではないか。ルイズは困惑した。

 てっきり姉の熾烈な性格に件の伯爵が音を上げたのではとルイズは考えたのだが、そうではないと姉は言う。

 見栄を張っているだけ……ではないだろう。もはや彼女はそういう程度を通り過ぎているのだ。『私についていけない? はぁ? で?』ぐらいは言いそうである。自分が原因なのに。

 頭の中でなら無礼は許される。ヴァリエール姉妹鉄の掟の逃げ道だ。

 

 さておき、そうなると謎は深まる一方だ。伯爵側が解消を選んだのは明白だ。単純に限界だったのだろう。公爵家との繋がりより、御身の平穏を選んだわけだ。いつもと同じだ。

 しかし今回に関していえば、その決別は一方的なものではないという。姉側にも、破棄する所以があるということなのだ。

 なぜ結婚に飢えている姉が別れを決めたのだろうか。伯爵に問題があったのか? 贅沢言える身分か? 

 しかし、その迷宮の様な謎はもとより、そもそもエレオノールがルイズを訪ねてきた理由の本筋が未だ宙に漂っているのである。

 

 そこで天啓じみた直感が、ルイズに舞い降りた。

 妙に暖かい姉。円満解消。ここに来た理由。それらは全て繋がっているのではないか。

 根拠はなかった。だがルイズはそれが正解だと思った。余計な言葉を放たず、ルイズは次の姉の言葉を待つことにした。

 

 そこに、まるで達人同士が相対するかのような間が存在していた。距離を測り、言動を視る為の間が。

 先に動いたのはエレオノールだった。僅かな躊躇いと目線の揺れを乗せて、慎重に口を開いた。

 

 

「好きな人が……出来たのよ」

 

 

 今度の口説は、先のものより格段に遅い一撃だった。

 ――だが、重い。

 エレオノールがらしくなく視線を彷徨わせ、冷たく尖鋭な印象を与える顔をほのかに赤くして放ったその言葉は、ルイズの胸部に強烈な一撃を与えた。

 そう、胸部、つまり心だ。決して下腹部ではないのだ。身内に欲情するほどルイズは獣ではない。長姉もおっぱいが小さいのだ。論点がちげぇよ馬鹿しね砕けろ。

 

 まるで、恋する乙女の表情だったのだ。あの厳しい姉が。妖精に語り掛けるような声色を付けて。

 しかし『まるで』ではないのだろう。ルイズは思う。まさしく『恋する乙女』なのだ。二十七年ものである。その辺も重い。

 ルイズは愛おしさを感じた。厳格な姉にも、こういう顔が出来るのか、と。

 ルイズは驚きを感じた。気位が高い姉が、よもやこんなことを言い出すなんて。

 ルイズは申し訳なさを感じた。元々、姉はこういう人間なのではないか、と。己があまりにも無能なため、姉に余計な重荷を背負わせていたのではないか?

 即座、頭を振るう。今は自嘲自虐しているときではない。

 

 ルイズにとって、それはあまりにも衝撃的な発言だった。

 

 『好きな人が出来た』

 

 エレオノールは大貴族の長女なのだ。

 惚れたのなんだのは二の次で、血統を考えた伴侶探しをしなければならない立場なのである。

 本人もそのことは分かっているだろう。己の役割。貴族の責務。けれど彼女は今、それを超えて己の意思を所望している。だから、伯爵との婚約を解消した。

 

「その、それは、どなた、ですか?」

 

 ルイズはそう聞きつつ、異様な座りの悪さを感じた。まるでちんちんの置き場がズレているがの如く。殺すぞ。

 単純に、姉とこのような会話を今まで交わしたことがなかったからだ。普通の姉妹のような、ありふれた会話を。

 聞かれたエレオノールは、眼鏡の奥に佇む瞳を、これ以上ないくらいに右往左往させた。そのあからさまな狼狽具合は、ルイズでさえ見て取れるものだった。

 

「……私より一つ年下で、魔法衛士隊に所属しているわ」 

 

 体面に居るルイズから目を逸らし、髪の毛を手で弄りながらエレオノールはそう言った。

 声は低く、言葉は鈍い。平坦でぎこちない音色だった。どことなく、震えているようでさえあった。

 

 ――あれ?

 

 姉の言動全てがルイズに違和感を覚えさせた。

 年下。衛士隊。確かに、大貴族の娘にはあまり相応しくない殿方の条件ではある。言いづらさを覚えるぐらいには。

 けれどそれに関しては、ルイズは目を瞑った。大人の事情や貴族の通例なんてものは、張本人の姉が先ず分かっている筈だからだ。

 ルイズが感じた違和は、そういうことではない。

 普通、どなたですかと問われたら、名前から入るのが一般的ではないだろうか。けれど、伏せている。

 名を言えない理由があるということだ。もしくは、言いたくない理由が。更に言うと、ルイズは姉が上げた条件に満たす人物に心当たりがあった。

 ルイズの瞳が凍えた。

 

「……失礼ですが、その方の爵位の程は」

「…………子爵よ」

 

 たっぷりと時間を使って、エレオノールは言った。声の調子はどんどん下がっている。

 

 ――あれれれれれ?

 

 ルイズは眉間を抑えた。あたまいたくなってきた。

 姉より一つ下。つまり二十六歳。魔法衛士隊。子爵。バツが悪そうな姉。今日ルイズを訪ねた理由。

 全てが綺麗に繋がってしまう。ルイズは顔を上げてはっきりと姉を見た。

 辺りをうろついていたエレオノールの瞳とルイズのそれがかち合った。

 明朗で艶のあるルイズの瞳。煌くそれを見て、エレオノールは気圧されるように後ずさった。しかし、後ろは扉だ。ルイズは追撃の手を緩めなかった。

 

「お名前は」

「……ジャン」

「家名も含めて」

「…………ジャン・ジャック・フランシンス・ド・ワルド……」

「はい」

「はい」

 

 はい。

 

 はいじゃなくて。

 姉の言っている意味は分かっていた。因果の繋がりがはっきりと見える。理解は出来ない。

 ルイズは目を据わらせながら、心の中で大量の爆発を発生させていた。端的に言って、訳が分からなかった。

 もしかしたら、奇跡が起こったのだろうか。姉の好きな人と自分の婚約者が、同姓同名でかつ爵位立場まで同じだという奇跡が。

 そんな訳はない。

 乙女にちんこが付くぐらい、それはあり得ないことなのである。じゃあ下にあるどっぴゅん棒(玉付き)は奇跡の賜物だというのか。たまだけに。爆砕するぞ。

 

 

 エレオノールが気まずそうにしている筈である。よりによって、妹の婚約者に惚れてしまったと言うのだから。

 

「姉さまぁ……」

 

 ルイズがジト目で呟いた。なんと言ったらいいか分からない。そもそもどういう気持ちでいたらいいかも分からなかった。 

 けれど、何かを言う権利はあるだろうと思った。だからこそ、ルイズは呟いた訳だ。複雑な感情を乗せて。

 

「な、なによ! す、好きになっちゃったんだからしょうがないじゃない! しょうがないのよ!」

「えぇ……」

 

 二七歳ヴァリエール家長女、妹に逆切れ。

 煽情的な見出しがルイズの脳裏を高速で横切っていった。

 ここまで怖さがない姉のぷっつん具合は初めてだった。ルイズは衝撃を受けた。それはもう色々な角度から。本格的に頭痛がしてきた。

 しかしこのまま姉の癇癪を眺め続けるのも堪らない。鏡の中の自分を見るようなものだからだ。

 恐る恐る、竜の尻尾を踏むのを避けるように、ルイズは口を開く。

 

「あの、姉さま……なにゆえ?」

 

 ルイズが知る上で、姉とワルド子爵に接点らしい接点はない。

 名ばかりであるがルイズの婚約者だという点と、領地が隣同志という点を除けば、かたや王国魔法研究所所員、かたや魔法衛士隊所属。かたや公爵家の長女、かたや子爵家の領主(彼の父親は故人の為)。

 訳わかんない、もう処理できないわね――ルイズの冷静な部分が、冷静に爆発四散した。情報過多。タバサが泣くこと以上の困惑だった。ルイズの人生において受けた衝撃順位の二位は決まったも同然だ。一位は当然チンコである。言うに及ばない。

 圧倒的な精神負荷を受けたルイズが外界に何も出さなかったのは、目の前に鏡があるからだ。鏡面の意義とは己の見てくれを顧みることにある。ああはなるまい。

 

 ルイズの探るような弁を受けたエレオノールは、全ての動きをぴたりと止めた。

 口元。手の動き。身体の僅かな震え。それらを何もかも静止させて、ゆっくりと、その整った顔を赤く染めた。

 

「じ、実は、ね……」

 

 ――ああ

 

 ルイズは察してしまった。姉の甘酸っぱいものを口に含んだ表情を見て。声の震えの中にある昂ぶりを感じ取って。

 今から満を持して語られるのは、あの厳しい姉の恋の軌跡なのだ。ルイズの瞳から艶が消えた。

 ヴァリエール姉妹鉄の掟。姉の言葉には常に耳を傾けるべし。ルイズは耳だけをこの場に置く術を模索した。模索し続けることに時間を費やすことにした。

 

 

 

「――ということよ」

「はぁ」

 

 エレオノールの事情説明をルイズは沼の様な瞳で聞いていた。

 それは説明というよりほぼ惚気と言ってもよかった。短い話の中に『ジャン』という単語が七十二回出てきたからだ。余分な情報が多すぎる。 

 

 不必要なものを取り除いて、話を要約するとこういうことだ。

 

 元々、エレオノールとワルドの間に関係性はなかった。

 しかしある日、エレオノールに今ガリアに居るワルドの母親……ミセス・ワルドから連絡が来たというのだ。

 何でも彼女は現在、ガリアで地質に関する研究を行っているとのことだ。彼女はエレオノールにトリステインで地質調査を行い、その結果を送ってきて欲しいと言う旨の手紙を送った。

 エレオノールは多忙を理由に断ろうともしたが、ミセス・ワルドはガリアで薬を調達して貰ったのだという。カトレアの特効薬になり得るという、ガリアの薬を。

 そうまでされたら、幾らエレオノールでも動かない訳にはいかない。領地で隣同士だという縁もある。後にカトレアの病状が良くなったこともあり、今ではエレオノールが直接ガリアにまで赴いて研究の結果を渡しているとのことだ。

 

 ミセス・ワルドがなんの研究をしているのか、そもそもトリステイン人である彼女が何故ガリアに行っているのかということについては、エレオノールにもよく分からないらしい。地質関係のなにか、ということは分かるか、それ以外はミセス・ワルドも口を噤んでいるとのことだ。

 ただ、非常に重要で大事な意味合いがある研究、らしい。エレオノールはそれ以上追求しなかった。もっと気になることが出来たからだ。気になる人、と言った方がいいだろうか。

 

 彼女の息子であるワルド子爵は軍属だ。無論、ここトリステインの。

 そうなってくると、二人の親子は中々会えない訳だ。紙のやり取りはともかく、互いにやる事が山積みで、易々と国を跨いで会話をするなど出来ないのである。

 とある日にエレオノールが研究所で仕事をしていると、そこにワルド子爵がやって来た。

 母親と会っているというエレオノールに、現在母親がどういう様子か、息災しているかを聞きに来たのだ。

 

 そこからが始まりだった。 

 

「話し方がね、とても紳士的なのよ、ジャンは。他の男連中は上っ面だけを整えているけど、彼は違うわ。本当に、本当に優しいのよ」

「はぁ」

 

 ルイズはかつてないほど饒舌な姉を前にして、何故ワインは酸味が効いているのかを考えていた。そうして、それは原材料の葡萄が甘酸っぱいからだという事実に思い至った。

 次に、では何故葡萄は酸味があるのかを考えた。それはもう、そういうものなのである。誰が決めたか、葡萄とは端からそういうものでしかないのだ。

 

 ――極めて紳士然とした男と、婚約者から拒否されまくるもういい歳の女性が出会えばどうなるかと同じくらいに。

 

 そういうものなのである。

 

 うっとりと語るエレオノールを尻目に、ルイズは思考を重ねる。 

 つまるところ、姉はすっかり参ってしまったのだ。年下の男の、あまりに洗練された立ち振る舞いに。己を宝物の様に扱う仕草に。

 

『子爵様が知己である公爵家の長女、それも自分の母親の手伝いをしている人を邪険に扱う訳ないじゃないですか。結局、社交辞令に過ぎないのでは?』

 

 とルイズは脳内で乙女の夢をぶち壊す容赦なき指摘を描いたが、それらはルイズの内にだけで完結した。到底口に出せるものではない。

 それに。

 その言葉はルイズにも刺さる。在りし日の思い出。幼い自分。優しくしてくれた青年。

 ワルド子爵の人間性を否定することは出来ない。あれが虚妄だったと思いたくもない。だけれども、公爵と子爵。位の差はどこまでついてくる。

 あの時の彼の優しさは無垢で無知な婚約者をあやす戯言だったのだろうか。ルイズに分かる筈もない。けれど思考の空転は止まらない。善しにせよ悪しきにせよ、ルイズは物事を考えられる能力を得てしまったのだ。

 

 ルイズは頭を振るった。自虐の冷やかさが、情報量で加熱した精神を沈めさせていた。力は振るえばいいというものではないのだ。為すべきことを為せ。

 今のルイズには分かる。姉が己に何をして欲しいのかを。そして自分が姉の為に何をするべきかを。

 

「それで、ジャンはよく昼食のお誘いに来てくれるのだけれど、その時にね……」

「姉さま、父さまや母さまに、このことはお話しされましたか?」

 

 

 ルイズの不躾とも言える鋭い切り口に、エレオノールはたじろいだ。

 先ほどまであった顔の熱はあっという間に消え失せ、唇は僅かに震えている。

 

「……言えるわけ、ないでしょう」

「そりゃそうだ」

「なに?」

「いえ、何も。では、父さまと母さまに伯爵との婚約解消の件は説明されましたか?」

「……解消の事実だけは伝えてあるわ……それ以上のことは言っていない。そもそも聞かれなかったから」

「いつものことだからでしょう」

「え?」

「別に。では本題に移りましょう、姉さま。私、ルイズ・フランソワーズはワルド子爵との婚約解消を希望致します」

 

 元々お酒の席が発端の戯れ、名ばかりの婚約でしたし――そう付け加えて、まるでそよ風に当たる様に涼しげに、ルイズは言い放った。

 姉からワルド子爵の名が出た時点で、ルイズはそうするつもりだった。手前に行った小声の当てこすりは、小さな憂さ晴らしにしか過ぎない。姉に悟られない程の小声、というのが重要である。

 ルイズがあまりにも事も無げに言い放ったせいだろうか、エレオノールは口を半開きのまま、彫刻のように固まった。   

 

「……は?」姉の口から出る戸惑いの声を、ルイズは無視する。

「実際、ワルド様がどうお考えかは分からないのですけど、何年も音沙汰なしでしたし、立ち消えになっても問題はないかと」

「ちょっ、ちょっと、ルイズ! あなた、何を……」

「違うのですか?」

 

 エレオノールはまたもたじろいだ。あまりにも異質なその声色に。

 ルイズの声は、暗いものではなかった。かと言って明るい訳でもなかった。遅くも早くもなければ、冷たくも暖かくもなかった。

 僅かな高揚や低迷さえも感じられなかった。無限の水平性と永劫の鉛直性が交じり合う、不朽の空虚だけがその声にあった。

 

「姉さまは、そのことを言いに来たのではないのですか?」

 

 瞳だけが、無垢の煌きを見せていた。

 

 それを気迫と言い換えるには余りにも透明な態度だったが、エレオノールは息苦しさを感じた。

 言葉に詰まり、戸惑いに溺れ、それでもエレオノールは逃げなかった。ヴァリエールに逃走はないのだから。

 エレオノールはルイズにきちんと向かい合った。姉としての傲慢を捨て、己の恥を受け入れて。

 

「……違うと言ったら嘘になるわね」

「やっぱり」

「もっと段階を踏むつもりだったのよ。あなたの言う通り、ジャ……子爵の考えも分かっていないのだから……あなたは、本当にいいの?」

 

 ふと、ルイズの脳裏に浮かぶ幻影。過去。挫折。閉塞。小舟。憧憬。閃光。

 すべては陽炎にしか過ぎない。ルイズのルーンが淡く発光している。エレオノールは気づかない。ルイズは気づいていた。それはルイズの意思で、感情だった。

 ルイズはただひたすらに、前を向く。

 

「何もかも昔のことでしたから、私は別に……というか、そもそも子爵様は私のことではなくて、姉さまのことを……あー、どうお思いなのですか?」

「……さぁ?」

 

 おいおいおいおい。

 エレオノールの瞳が高速で逸れていったのを見て、ルイズは確信した。姉は完全に向こう見ずな行動をしていると。

 段階を踏む、と言ってはいるが、最終的なエレオノールの目標はワルドとつがいになることだ。それは間違いない。

 けれど、彼女は肝心の子爵の気持ちが分かっていないと言う。それなのに貴重な婚約者であった伯爵と別れたと言う。

 

「もしかして、姉さま、姉妹なんだから大した違いはないとかなんとかで、婚約関係をそのまま移すつもりじゃ……」

「そ、そんなわけないじゃない! 大体、私とあなたじゃ大きな違いがあるでしょうに」

「年齢ですか」

「立場よ!」

 

 エレオノールは青筋を立ててルイズの頬へと手を伸ばした。ルイズはすまし顔でその毒手を避けた。よくよく見れば、ギーシュのワルキューレよりはるかに遅い。鉄の掟? 知らん。恐るるに足らず。

 ルイズは攻撃を避けられて若干驚きの表情の姉に満足しつつ、二の句を紡ぐ。

 

「……では、バーガンディ伯爵との婚約を解消するのは早計だったのではないでしょうか。せめて、子爵様のお気持ちを聞いてからでも」

 

 交友関係ゼロのルイズには知る由もないが、世の女性が同じ条件になったのなら、大多数はそうするのではないだろうか。無意味な損失を避けようとするのが人間なのだから。

  

 けれどエレオノールは鼻を鳴らす。

 

「何言っているのよ。他の殿方に恋をしてしまった上で婚約関係を続けるのは、あまりに不貞でしょう」

 

 エレオノールのその言葉は今日この時において、もっとも鋭く、もっとも重い言葉だった。あるいはルイズにとって、もっとも眩しい言葉だった。

 なんと世渡りが下手で、なんと潔癖なのだろうか。

 これはルイズの想像でしかないが、恐らくワルド子爵の存在がなくとも、件の伯爵との関係は駄目になっていただろう。そしてその主な原因は、姉の傲慢な高潔さに因るものなのだ。

 頭が固すぎる。未来が見えていない。行動と感情の繋がりが強すぎる。そんな姉を見てルイズは、自身の血の濃さを強く意識する。

 

 ――融通が利かないという類似性。

 

 もしもルイズが今の姉と同じ立場でも、同様の言動をする、してしまうだろう。

 姉の様な潔い割り切りが出来るかどうかはともかく、少なくとも、空気を読んで上手いこと流れに乗ろう、なんて生き方はルイズには出来ない。したくもない。

 不利益を被る程の剛情。鏡の前の自分。頑迷の由来が血筋ならば、やはり己はヴァリエールなのだ。

 そう思ったルイズは自分でも分からないうちに、口角を僅かに上げていた。

 

「その笑みはどういう意味なのかしら? おちび?」

「ふひぇ、ひひゃいひゃうひょう!」

 

 そして頬を抓られた。

 ヴァリエール姉妹鉄の掟。姉からは逃げられない。もはや掟でもなんでもなかった。ただ鉄の様な繋がりだけが輝いていた。

 

 

「ですが姉さま。不貞と言うのならば、そもそも婚約しておいて他の方に惚れたというのは、その……しかも、戯れの約束とはいえ私の婚約者……」

「……実家には……特に母さまには、くれぐれも内密にしておくように」

「はい」

 

 ヴァリエール姉妹鉄の絆。母さまを刺激するな。これが麗しき姉妹愛である。わかったか。

 

 

 

「ところで姉さま、今日来られた本題はそのことなのですか?」

「……そうと言えばそうだけど……ルイズ、あなた、明日は空いているかしら」

「明日ですか? まぁ、学院は休みなんで空いていますけど」

 

 ルイズがそう言った瞬間、エレオノールの瞳が据わった。

 途端、ルイズは強烈な既視感と猛烈な寒感に襲われた。

 どこかで見た瞳だった。即座に思い出す。鏡。比喩表現ではなく、鏡の中の己の瞳だ。

 あれは、そう、自分の無才を悟り、齎された新たな秘儀を見つけた、あの夜。

 部屋の中で全裸ちんちんぶらんソワーズしていた自分を姿見に映した時の、あの瞳。

 

 ――何もかもを受け入れ、そして何かを覚悟した瞳だ。 

 

「明日、王都に食事に行くわよ。準備しておきなさい」エレオノールが言った。有無を言わさぬ声だった。

「はぁ……私は、構いませんけども……」

「では、明日の昼前に迎えに行くわ。ジャンが」

「はい…………はい?」

 

 

 もしかしたら、そう、もしかしたら。

 エレオノールが唐突に斬新な語尾をつけだしたのだと、ルイズは祈った。「昼前に迎えに行くわジャンガ」のような。

 無論そんな筈はないし、そうならそうで困る。奇妙な語尾の長姉とちんこ生えた末妹に挟まれる次姉カトレアがあまりに不憫すぎるからだ。

 結局、ルイズに現実逃避は許されない。分かり易い結論だ。明日の王都での昼食とやらは、件のワルド子爵も同席するのである。

 というより、話の流れからすれば同席するのはむしろルイズの方なのだ。

 ワルド子爵もエレオノールも決して暇な人間ではない。ならば、明日の予定は最初から決められていた筈である。

 

 ――段階を踏むつもりだった。 

 ルイズは姉の先の言葉を思い出した。これこそが姉の本題だったのだ。婚約のあれこれなどの家柄が絡む煩雑な問題はさておき、まずは三人で食事から、ということなのだろう。

 本来ならば、そうした会食の向こう側で姉は真意を見せるはずだったのだ。ルイズとワルドの距離感や感情を測った上で。

 なるほど、確かに理に適ってはいる。今日の今日までルイズに一切を知らせていない以外は。

 

 段階の踏み方ァ!

 

 ルイズは口からはしたない異論を出そうとしたが、かろうじてぐっとこらえた。姉には姉の事情があるのだから。

 そしてルイズが渦巻く感情を咀嚼している最中、エレオノールは既に部屋の扉を開けていた。

 

「ちょ」

「じゃあね、ルイズ、また明日」

 

 

 忙しなく扉を閉める音が自室に響いたのち、ルイズは静まり返った部屋で暫し佇んだ。

 耳に痛いほどの静寂に満たされた部屋。考えることがあり過ぎて、ルイズは何も考えられなかった。

 

「よお、ルイズ」

 

 そこで、まるで久しぶりに会ったかのような気軽さで、デルフがルイズに声を掛けた。

 壁に立て掛けられていた筈の彼は、いつの間にか床へと身を預けていた。落ちた拍子にだろうか、その刀身が僅かに外界を覗き込んでいる。

 ルイズは今までずっと気づかなかった。いつごろかは分からないが、デルフは喋れる状態にあったのだ。

 

「よく黙っていたわね」

「剣だって、空気ぐらいよめらぁ」

 

 

 正直な話、ルイズとしては大助かりだった。インテリジェンスソードを所持している理由を、姉は細かく聞きかねない。これ以上面倒は増やしたくなかった。

 そもそも、エレオノールは最後までルイズの後ろにあった剣について言及しなかった。単に気が付かなかったのだろう。

 

「……ねぇデルフ」一つ間をあけて、ルイズが言った。

「なんだ」

「姉さまを見てどう思った?」

「胸ちいせぇな。お前と同じで」

「私もそう思う、違う、いやいや違くはないけど、あー……なんだこの野郎」

「浮かれてたな。これ以上ないってぐらいに。おれは平素の姉ちゃんの様子は知らんけどさ」

「……普段はもっと厳しいわ。態度も口調も」

「恋をしているからだろう。ヒトはそれで変わる」

「剣のあんたが恋を語るというの?」

「経験則さ。おれは今まで腐るほどヒトを見てきたからな」

「ふーん……」

 

 恋。

 そう、姉が紡いでいたのは疑いようもなく恋の歌であり、鼓動は春のものだった。

 あらゆるものの息遣いが明るく、躍動感がある、始まりの季節。エレオノールが想い人について話す様子は、ルイズに辺りを覆いつくす花の畑を想起させた。

 姉は今、その最中にいるのである。だから、デルフリンガーが見えなかった。彼女が見ている風景に入らなかった。

 

「あとはそうだな、おめーら姉妹、そっくりだな」ルイズが思いを巡らせていると、デルフがそう言った。ルイズは思いがけない言葉にきょとんと目を丸くした。

「……どこが?」

「人に頼るのがクソ下手なところだ。どうしようもねー時になって初めてそうしようとしやがる。もっと早くすりゃあ、拗れるもんもねーだろうに」

「……なによ、突然。私もそうだというの?」

「違うか?」

「違う……ことはない……ような気がする」ルイズは言葉を濁した。

 

 人に頼るのが下手。言われてみれば確かにその通りな気がする。けれど、それが姉と同一のものだと言われると、何かが違う気がした。

 あえて差異を上げるのならば、ルイズは何かを人に委ねることを弱さと断じているからだ。だから人に頼らない。そう思っていた。少なくとも、今までは。

 何か、何かが違う気がする。本当に、それが解なのだろうか。自分が他人と距離を置く理由は、本当にそこにあるのか。

 

 答えは出ない。当たり前の様に。だけれども、ルイズはこの疑問に対してはすぐ近くに真実の解があるように思えた。

 

 デルフは次の句を発さなかった。ルイズも黙った。

 この場面での頼る頼らないの話は、何らかの意味があるのだろうか。それとも、意図なぞないただのデルフの感想なのだろうか。

 即座、ルイズは頭を振るう。分からないことに時間を費やすな。

 明日、明日のことだ、考えるべきは。とは言っても、やるべきことは決まっている。

 姉と子爵の仲を取りつつ、ワルドの気持ちや見解を知る。そうして、ルイズはワルドとの婚約を正式に解消する……

 

 これでいい。ルイズはふっと微笑んだ。

 考える。ワルド本人の思考と嗜好は抜きにして、姉と自分、どちらが彼の伴侶に相応しいのかを。

 家柄や貴族としての立場を別に、純粋に、男と女として、将来子孫を残す上で、姉と自分、どちらが優れているのかを。

 

 決まっている。こんな無能の血を、誰が好き好んで選ぶものか。 まぁこっちはむしろ種を出す側で……

 

 

 ――駄目よ。

 

 左手のルーンが鋭く発光した。心が軋む音がした。

 ルイズは誤魔化されなかった。あるいは、誤魔化さなかった。

 下劣な言葉は遊びは要らない。逃げ道は作らない。『誰か』由来の防衛機構。けれど今は必要ない。

 

 ルイズの心の奥の奥。

 幼いルイズが無意味な詩で杖を振るい、産まれ出でた虚空の爆発によって黒犬が弾き飛ばされていった。

 

 

 

 

 夜になった。

 姉の来訪から今まで、ルイズは出口のない靄の道の中で物思いに耽っていた。ルイズも、そして鞘から刀身を出しているデルフも言葉を発さなかった。

 そこでルイズは気づく。まるで遠い昔の話のような、キュルケの進言。第一回タバサを讃える会。という名目の、半ば習慣化された四人での飲み会。

 行く意味もない。だけど、行かない意味もなかった。今更断るのもきまりが悪い。ルイズは自分にそう言い聞かせて、のろのろと部屋から出て行った。

 

 

 

 

「世の中クソ」

 

 

 ルイズがタバサの部屋に赴いたとき、タバサの第一声がこれだった。

 もうルイズ以外は全員揃っていて、先に飲みを始めていた。その中にあって特にタバサはぐでんぐでんの状態にあった。対面に座るモンモランシーの腹部に頭をこすりつけながら、盛大に呪詛を吐いている。

 似つかわしくないタバサの奇行に、しかしいい加減慣れてきたルイズは、目線を外し、のんびりとワイングラスを傾けているキュルケに目を向けた。彼女はルイズを見て、ひらひらと手を振った。 

 

「来たのね、ルイズ」

「来てやったわ、キュルケ」

 

 如何にもつまらなさそうにルイズは言って、もはや定位置になった木造の椅子に腰かけた。そしてごく自然にチンコの位置を調整した。

 ルイズが机から空の杯を手に持つと、キュルケが立ち上がってワインボトルを差し出してきた。ルイズは何も言わずそれを受け取った。

 

「タバサ、どうしたの?」

 

 自ら杯に赤水を注ぎつつ、とうとうルイズが言った。見なかったことにするには、あまりにも距離が近すぎる。

 これがタバサを讃える会だと言うのか。モンモランシーの腹部は表彰台かなにかなのか。だとするならばなぜ恨み事を吐いているのか。モンモランシーの腹部は悪鬼の窯かなにかなのか。

 

「品評会で高い評価を貰って、じゃあ嬉しそうにはしゃぐ、なんてタバサらしくはないけれど、これもこれでどうかと思うわ」ルイズが言った。

「まったくね。でもまぁ、これもタバサなのよ」知った風にキュルケが言う。その瞳はただ優しさで煌いていた。

「で、結局なんなのよ、これ」

 

 キュルケの瞳の色を無視しつつ、ルイズはタバサを見た。青い髪の童女はとうとうモンモランシーの長い巻き髪に絡みつき始めていた。

  

 

「例のガリアの件らしいんだけどね」

 

 そう前置いてからキュルケが言った。

 

「タバサにはいとこがいて、その子はタバサと同じように例の同性同士のアレコレに反対していたようなんだけど、その子から手紙が来たとかで」

「まさか、その子まで……同性のアレコレに……?」

「逆よ逆、なんでも長年同性的なアレに刃向かっていた同志である男の人と、そのいとこが心を通わせたらしいのよ」

「じゃあ、むしろいいことでしょう。健全じゃない」

「そうと言えばそうなんだけどねぇ……ほらタバサって最近しょっちゅう、かっこいい男の人がいいー、って言っていたじゃない?」

「それが?」

「その男の人って、誠実で、カッコよくて、おまけに強いらしいのよ」

「……もしかして嫉妬してるってこと? あのタバサが?」

「それもあるかも知れないけど、結局はその殿方は関係なくて、『置いていかれた』っていうのが強いみたいね。タバサ、そのいとこの子を慕っているらしいから」

 

 ルイズは衝撃を受けた。

 ――置いていかれた。

 あまりにもルイズに馴染み深いその言葉。そしてそれは、才女であるタバサから遠い言葉だと思っていたからだ。

 

 さておき。

 

「ねぇキュルケ、もしかしなくてもだけど」

「言わないで、ルイズ」

 

 

 タバサ本人は秘密にしているつもりだが、ルイズは彼女がガリア王の姪だということを知っている。

 翻って鑑みるに、タバサのいとこということは、それはもしかして、王……

 そこまで考えて、ルイズはワインをぐっと一飲みした。知らない知らない。関わりたくない。

 キュルケの目は据わっていた。酔いが回っている訳ではあるまい。

 先ほどからモンモランシーが頬を引きつらせているのは、タバサが頭で腹部を圧迫しているだとか、タバサがモンモランシーの髪の毛の匂いを嗅ぎまくっているだとかが理由ではないのだろう。

 単純明快。やたらとでかい話だからだ。かなり危うい話である。国家的な意味で。

 

 次期ガリア王はだーれだ問題はさておき、ルイズはタバサ個人を考える。

 親しくなかった過去においては、ただただ優秀な生徒だと思っていた。

 今現在もそれほど親しくなっているとは言えないが、少なくとも、押しも押されもせぬトライアングルクラスのメイジという印象だけの人物ではなかった。

 

 でこっぱちめ、裏切り、かすてる何とか、おめでとう、くやしい、いいにおい。

 

 タバサは意味が分かるような分からないような言葉をひたすらに呟いている。複雑に絡みついた感情が読み取れる。ついでにタバサの顔にモンモランシーの巻き毛が絡みついている。

 

「……というか、なんでモンモランシーなのかしら」

 

 誰に聞かせるでもなく、ルイズは呟いた。

 普通、こう言った役目はキュルケが担っていた筈だ。いつもなら。

 けれど、今日はモンモランシーがタバサを慰めている。これがモンモランシーが自主的にやっていることなのかはかなり怪しいところだが。

 ルイズの口からついと出た疑問をしっかり聞き届けていたキュルケは、ふっと微笑んだ。

 

「甘えたり頼ったりする人は多い方がいいでしょう? それだけよ」

「……それに何の意味があるの」

「それそのものに意味があるのよ」

「は?」

「人それぞれってこと」

「……」

 

 ルイズはそれ以上の問答をしなかった。

 

 頼ることの意味。人それぞれ。

 凪の湖に石を投げたかのように、ルイズの心に波紋が広がっていった。

 求めた答えが。隠れていた真意が。手の届く距離にあった。

 頭の片隅に追いやった靄が、だんだんと晴れていく。

 ルイズはその先の景色を覗き込む。虚しさを覚える空洞。予想通りだ。

 

 ルイズはキュルケの顔を見た。分かる。何かを思案する表情。表にでた僅かな憂慮。ルイズに向かう心配の情。

 

 昼、姉があれだけ盛大に扉を叩いたのだから、部屋の距離を考えればキュルケが気づかない訳がない。

 姉は消音魔法を使わなかった。下手をしたら、キュルケは会話のすべてを聞いていた可能性すらある。

 だが、キュルケは言わない。だから、ルイズも言わない。

 

 

 

 

 

 何も、ルイズは言うことはなかった。

 

 

 

 

 タバサが眠たくなったら、終わりの合図だ。今日に限ればタバサはその場で落ちてしまっていたが。

 ルイズは粛々と部屋から出て行った。キュルケはモンモランシーの腹部にくっ付いたまま寝てしまったタバサをひっぺがすことに終始していた。どうやらモンモランシーの腹部はなんなのか問題は解決したようだ。寝具なのである。

 それらを一瞥した後、冷たい廊下を渡り、ルイズは自室へと戻った。その後、意味もなく部屋を見渡し、故なく深く息を吸った。

 そうして、部屋の壁に佇むデルフにすっと声を掛ける。

 

「デルフ、一つ、いいかしら」

「おう、なんだいきなり」

「……あんたはさっき、姉さまと私は人に頼るのが下手だって言っていたわね」

「……それが?」ルイズの言葉尻の冷たさを感じ取ったのだろうか、彼の声は極めて硬質だった。

 

 そうして、ルイズは目を瞑った。夜の沼の様な救いのない空間に、空っぽの幼い自分がいる。背を向けている黒犬がいる。

 そうして、ルイズは目を開けた。住み慣れた部屋は居心地の良さを感じさせない。それは、ここじゃないところでさえも。本当の居場所が分からない。産まれたときから。

 姉から受けた強烈な困惑はとうになくなっていた。そうして残った今ここにある感情をルイズは吟味した。癇癪は起きない。もう、理解しているから。

 

「……姉さまが人に頼るのが下手な理由は、公爵であるヴァリエール家の長女だからよ。弱みを見せられない。弱くあるわけにはいかない。だから、誰かに頼らない。あんたの言うとおりだと思うわ。どうしようもないときに、初めてその選択が出来るようになる」

「おめーはそうじゃないのか?」

 

 その問いへの回答は、ここにある。この暗き世界の中に。

 

 頼ることが弱さだというのならば、タバサは弱いのだろうか。姉は弱いのだろうか。

 違う。強弱は論点ではない。人それぞれ。ならばこそ、己は己の根源を探るしかない。ルイズは人生から得た教訓と言う名の辻褄を、一心に形作る。 

 

 出来上がった組絵を見て、ルイズは笑みを浮かべた。幼子に美しく咲く花の最後を伝えるときのような、優しさと儚さを携えて。

 

 

「違う。違うのよ、デルフ。私は……私はね」

 

 

 ルイズは感情と記憶のかけらを拾い集め、言葉を作った。その行為が痛みを伴うものだとしても、ルイズは止めない。止まらない。

 近頃感じていた焦燥感。停滞感。それを払拭できるただ一つの決意。組み上げた歪な答えを、ルイズは笑って受け入れる。

 

 

「無意味だと思っているのよ。誰かに頼ることを。縋ることを。だって、誰にもどうにも出来ないんだから」

 

 

 言ってしまった。ついに、口に出してしまった。根底にある己の汚さを、ルイズはとうとう認めてしまった。

 

 貴族でありながら魔法が使えない。その事実を受け入れつつ、しかしそれは自罰的な認識だった。

 だけど、ずっと、ずっと前から、ルイズは一つの思いを捨てきれずにいた。

 

 

 誰も、助けてはくれない。私が無能ならば、無能を救えないお前らはなんなのだ。

 

 

 ――公爵家の柱である父。気高く、熾烈で、華麗な経歴を持つ母。優秀な姉。優しい姉。大切な友人。婚約者。家庭教師。学院の教師。生徒。出会った人たち全て。

 

 誰一人、ルイズの爆発の謎を解決できた人はいなかった。だから、世界はルイズを責めた。だから、ルイズは責められた。己が何もできないのが悪いから。

 自分の空虚こそが根拠である。誰かに頼っても何も解決しない。魔法のみならず、使い魔の召喚だってそうだ。

 秘密を知らせたオールド・オスマンにだって、結論だけでいうならば何も出来ない。出来るのは現状の維持だけ。

 秘密を知ったキュルケもそうだ。彼女は余計な首を突っ込んだだけ。そこから先に道はない。

 

 同化した使い魔からは、『力』だけ貰うことにした。あとは、要らない。気遣いなど無意味だからだ。

 

 この世に無意味なものなどない、なんて、ただの綺麗事だ。己の弱さを他人の所為にしたくないルイズの潔白さが、そう思わせていただけだ。

 誰にも頼れない。頼らない。その思いは貴族としての矜持から来るものではない。意味がないから。使えないから。役に立たないから。諦めから来る無情だ。

 

 

 何もかもを認めた瞬間、ルイズの心は冬の朝の如く清涼な情景に満たされた。清々しさと刺す様な冷気が混じる、純白で寒々しい気配。 

 もとよりルイズが足踏みしていると感じた原因は、無意識のうちに期待していてしまったからだ。何かが何かを齎してくれる。そんな無根拠の願いがあったからだ。

 

 けれどそれらは無意味である。期待するだけ全て無駄なのだ。

 

 かつて自身の無才を認めたときと比べれば、今のルイズは驚くほど凪の心情だった。

 やることは何も変わってないのだ。ただ、世界に独り佇む孤独感と寂寥感がより一層息づくだけ。

 差し当たってはルーンの力を上手く使う術を見つけていけばいい。他から齎される天啓など存在せず、選択肢はないのだから。

 

 ルイズの悲哀すら見て取れる空の言葉を受けて、デルフは一段と大きく揺れた。

 

「……それが、おめーの始まりだ。ここからだ。ここから始まるんだ。忘れるな、ルイズ。おれは剣だから、あるがまま使われてやる。だから、おめーもあるがままでいい。今はそれでいいんだ」

 

 てっきり無言を貫くか、説教が来るかと思っていたルイズは、思いがけない前向きな言葉に目を見開いた。

 その意味を探ろうとして、止めた。今はこの空気に浸っていたいから。

 

 

 そうしてルイズはいつもの様に寝床に着いた。寒々しい心そのままに。

 少女はゆっくりと、温い闇に包み込まれていく。

 覚醒後、ルイズの目に映る朝日は、果たして何色なのだろうか。

 眩い希望の色なのか。暗い絶望の色なのか。

 どちらにせよ、未来に進む少女は誰を隣に置くわけでもなく、ただ孤高に道を進んでいく……

 

 

 

 

 ――これは、そんな話ではないのだ。

 

 

 

 

 

 

 不透明な微睡みに落ちたルイズを迎えたのは、いつもの破廉恥な悪夢ではなく、無限に広がる闇だった。

 ルイズは学院の制服を身に纏った状態で、広大で黒一色な地に立っていた。ルイズはこれを夢だとはっきり確信していた。普段のあやふやなものとは性質が違う、正しく闇の様な深い夢だと。

 

「普通、ここには来ることが出来ないんだ。お互い」

 

 唐突に響く呼び掛け。若い男性、むしろ少年のものと言ってもいいその声は、ルイズには聞き覚えなく、けれどどこか馴染みのあるものだった。

 声はルイズの後ろから発せられている。それも真後ろから。その声の主が。彼が。背中合わせで。

 しかしどういう訳か、ルイズの全身はまるで蝋を浴びたように固定されていて、彼女は振り向いて彼の顔を見るどころか、指先を動かすことさえも出来なかった。

 

「あまりにも深いところだから、普段は俺もお前も『ここ』を認識出来ていないんだと思う。今回は偶然……たまたまってやつかな。たまだけに」

「ぶっ飛ばすわよ」

「たまたま、ってところが重要だな。二つある訳だから」

「ころすぞ」

 

 ルイズが呪詛の様に呟くと、少年は「ははは」と楽しげに笑った。まるで、こんな下らないやり取りをずっと待ち焦がれていたように。

 ルイズは唯一動かせる瞳をぐりぐりと回し、真後ろにいる少年の一端でも見ようと試みた。

 そこで、ルイズはだらりと下げられている少年の左手を視界に捉えることが出来た。己より大きい男の手。そこには見覚えのあるルーンが刻まれていた。己の手のあるものと同じルーンが。

 

「まぁでも、これは夢より薄い何かでしかない。目が覚めても覚えちゃいないだろうな」

「あんた、随分詳しいのね。ここは私の夢なのに」

「そりゃあ、俺はお前よりお前を理解しているからだよ」

 

 あまりにも不遜で、あまり理不尽な物言いだった。己より己を理解出来る他人。認めざる傲慢だ。通常なら。

 しかしルイズは少年の言葉をそのままに受け止めた。「そりゃそうね」ぐらいしか思わなかった。

 実際、彼は『そう』なのだから。合一。魂の同居人。初めて会話したとは思えない既視感。あまりにも近くて遠い人。

 それをルイズが認識した途端、彼女の頭に数え切れない意思が浮上した。聞くべきこと。言うべきこと。あるいは、言われるべきこと。だが思い浮かんだそれらはあまりにも多大過ぎて、全てを出しきることは到底不可能だった。

 

 その中で、ルイズは無数にある選択肢から一つを掴み取った。

 

「……怒ってる?」

 

 真後ろにいる少年は暫し黙った後、ひとつ、息を吸った。

 

 

「怒りっていうよりは、驚きかな。だって、外を歩いていたら突然チンコなくなってんだぜ? 用を足そうとしたら、ないんだよ。思わず叫んじゃったよ。『うわああ、チンコない!』って。あまりにも慌てていたから、その辺に落ちてないか探しちまったぐらいだ」

 

 

 笑い話……にしたいのだろう。少年の声色は愉しげな雰囲気のみがあった。その裏にあった筈の葛藤は何かに昇華されていた。そしてその『何か』とはおそらく、ルイズを想う気持ちなのであろう。

 少年の内を、ルイズは何となく理解していた。少年にとってのルイズ程ではないが、それでも彼と彼女は繋がっているのだから。

 ルイズは何を言っていいか分からなくなった。暫し生まれる静寂。それを切り裂く何かを探すように、ルイズは辺りを見渡した。当然、闇しかない。

 

「……ここに来ればあのふざけてる夢を見なくて済むのね。ねぇ、これから寝るときはここに来るように出来ない?」

「言ったろ? 今回は、偶然だ。ホントは滅多に出会えるものじゃない。意図的にこれをやろうとしたら、進むのが速くなるだろうな」

 

 ――進むのが速くなる。

 

 ルイズはその意味を分かっていた。分かっているだけだ。どうにも出来やしない。デルフリンガーの言ではないが、あるがままを受け止めるだけだ。

 その普遍の事実は、今語る事ではない。

 

「偶然、ねぇ」

「たまたまが重なって今があるんだ。こういうこともあるだろう。あ、たまだけに」

「思い出したように言うんじゃないわよ殺すぞ」

「たまが二つついているところが重要なんだ」

「たたみかけんな飛ばすぞ」

「今の俺にはないけど」

「それはごめん」

 

 勢いに呑まれて反射的にそう言ってしまったルイズだったが、一拍開けて、今の言葉の重要性に気が付いた。

 

「……ごめん、っていうべきなのかしら。やっぱり」

「まぁ人のもの盗った訳だしなぁ」

「盗りたくて盗った訳じゃ……いや、それは通用しないか。というかあんた、随分他人事ね」

「俺としちゃあ謝って欲しい訳じゃないからな。お前が謝りたいなら別だけど」

「じゃあ、どうして欲しいの? ……私に、何が出来るの?」

 

 今ここに居るルイズは、少なくとも世間の柵から解き放たれたルイズだった。

 貴族のアレコレや己の高貴な、もとい『高貴すぎる』立場を抜きにした、只の少女としてのルイズだ。

 だからこそ、ルイズは率直な言葉を出すことができた。

 少年は考えるような間を空けた。

 

「お前の使い魔になりたい」

 

 しかしその言葉はきっと、今考えて生まれ出でたものではないのだろう。先の間はルイズに猶予を与える間でしかなく、答えは決まり切っていた。そういう気迫ある声だった。

 少年のあまりに神妙な言葉に、ルイズは思わず目線を下げてしまった。闇から闇への視点移動。その無益さは己が気後れしている証左だった。

 

「……今だってそうじゃない」

「でも使い魔とやらは主のそばにいるのが普通なんだろ? 俺は基本的に『見る』ことしか出来ないし、そもそも普通のやつらは動物の使い魔みたいだけど、お前のそばにいるのはチンコじゃん。チンコが使い魔でいいのか?」

「いい訳あるか」

「珍しいし目立つものには違いないけどな。『チン』が『たつ』ってやつだな」

「これも言おうと思ってたけど、その頭湧いている言葉遊び止めなさいよ。ちょくちょく私の考えに混ざるのよ、それ」

 

 ルイズが苦々しく言うと、少年は喉をくつくつと鳴らした。

 

「それは無理だ。こればっかりは。手が出せない俺の、精いっぱいの抵抗だから」

 

 防衛機構。ルイズが自罰の沼に落ちないように、偏り過ぎないように、奇妙で下劣な羅列で誤魔化す、彼の意思。

 それは分かっていた。ルイズにも。だけど、なぜそうするのかの理由がわからない。 

 

「余計なお世話よ……」これはルイズの強がりだ。貴族としてのルイズではなく、少女としてのルイズにとって。

「……じゃあ俺が隣に居れば、っていうのも、思い上がりか?」

 

 核心に迫るかのような、少年の固く低い声。ルイズもそれに倣い、声を低いものにした。

 

「もう一度聞くわ…………あんた、怒ってる? 召喚のことじゃなくて、最近のことで」 

「悔しい、ってのが本音かな」

 

 ため息交じりの少年の言葉を、ルイズはただじっと聞いた。

 

「お前が周りにああいう態度を取るのは、誰も信頼していないからだ。奥の部分で、お前は誰にも心を開いていない。多分、身内にも」

「じゃああんたが居れば私が思い直すと? 何様のつもりよ」

「使い魔様のつもりだぜ、ご主人様……そこまで上手く行かなくても、お前の焦りとか怖れとか、それを俺にぶつけることぐらいは出来た筈だ。人はチンコに怒りをぶつけることは出来ない」

「名言っぽく言うんじゃないわよ……仮にそうだとして、あんたが悔しがる謂れはないわ。これは私の問題だもの」

「悔しがることぐらいはいいだろう。これは俺の気持ちの問題だ」

 

 ルイズは眉尻を下げた。彼がここまで思う理由が分からない。『分からないこと』が多いルイズにとっても、その理由は知っておくべきものだと思った。

 だけれども、分かる筈もない。他人の尽力に価値を感じられないルイズに、他人の想いなど。

 

「あんたはなんで、そこまで……それに、なんの意味があるというの」

「この世に無意味なことは……どうなんだろうな。俺も考えておくから、お前も考えてみてくれ。どうせ忘れちまうだろうが、片隅に残っていたらでいいから」

「……私の答えは決まっている」

「もう一度聞くよ。またここに来た時に」

 

 少年のその言葉を受けて、ルイズは目の前の暗闇が白んでいっていることに気が付いた。

 夢の終わり。明日への道標。

 

「……もう終わり?」呆然とルイズは呟いた。

「残念ながら。他に、何か言いたいことはあるか?」

 

 聞きたいことは無限にあった。少年の名前。立場。居場所。現状。チンコなくてどうやって生活してんの? などなど。

 本来なら真っ先に聞くべきそれらを、しかしルイズは咄嗟に聞くことは出来なかった。所詮は泡沫の如き夢でしかない。あやふやで取り留めないものなのだから。

 最後の最後、ルイズの頭に浮かび、そして問うたのは迫っている眼前の問題についてだった。

 

「……明日のことは、知っているわよね?」

「……まぁな」

「一応、聞いておく。仮に忘れるものだとしても、もしかしたらちょこっとでも覚えているかもしれないしね……ねぇ、殿方って、世の女性に何を求めている者なのかしら」

 

 幾年ぶりに会う子爵。ルイズがやるべきことは彼の思いを見ること。姉との距離を測ること。

 だけれども、いくら見知った人とはいえ対人関係に薄い自分が、果たして上手く立ち回れるのだろうか。思えばルイズは男性のことを何も知らない。

 さしものルイズも男性の好みが全て一律のものとは思っていない。更に言えば、少年とワルド子爵の嗜好が一致しているとも考えられない。

 けれども、曲がりなりにも己の為に愚にもつかない言葉を列挙し、そして己を想ってくれている少年の真摯さを思えば、自分では出せない何かしらの意見が聞けると考えたのだ。

 

 少年は間髪入れずに言った。

 

「おっぱいだな」

「は?」

「おっぱいだ。男はおっぱいが見られればそれでいい」

「……おっぱい?」

「おっぱい」

「……次の機会を待つまでもないわね。この世に無意味なものはあるわ。少なくともここにね」

「それはお前の枯れた平原のことか? それはそれで意味はあると思うぞ」

「ころすぞ」

「覚えておけ。おっぱいは偉大なんだ。あのメイドの子とか褐色の子とかやばいよな」

「わかる」

 

 

 ルイズにだって、分かることぐらいはある。

 

 

 

 

 

 鳥が囀る和やかな空気の中で、ルイズは窓から差し込む陽光によって目を覚ました。身体をむくりと起こし、ちっと舌打ちをした。陽に苛ついた訳ではない。無意識だった。

 煌くそれらに目を細めながら、ついと首を傾ける。普段と違い、下腹部に何の異物もない。

 だけれども、ルイズの心には釈然としない風が吹きまくっている。見た筈の夢は忘却の彼方。ルイズは記憶の壺を覗き込む。しかし中身は空っぽだった。

 再び、ルイズは白い極光を放つ輝きに目を移した。ぼんやりと丸い朝日は、ルイズにおっぱいを想起させた。死ね。

 

 

 

 ――これは、そんな話なのだ。

 

 

 




遅い上に長い


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