ひぐらしのなく刻に ~巡りくる日常(とき)~ (十宮恵士郎)
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前編 ~前原佳奈~

十宮恵士郎です。
この作品は、あらすじにも書いた通り、某掲示板で連載していた小説(書きかけのまま終了)を、再構成し総集編のような形にしたものです。
なぜそんなことをしたかと言うと、いろいろと伏線など織り交ぜて書いておきながら、書き途中のままで放置して終わりというのではこの作品のキャラクターたち(特に原作の登場人物たち)に申し訳ない気がしたためです。

祭囃し編から23年後の雛見沢が舞台になっています。
タグに記した通り、独自設定・独自解釈(多少)・原作キャラ死亡有りとなっております。
そういうのが苦手という方は読まない方が良いかもしれません。
また、前後編の2部構成になっており、これが前編です。

いろいろと問題のある今作ですが、
ひぐらしを愛する方々の心に、何かを残すことができれば、
ひぐらし二次創作者として光栄に思います。


 

 

 

少女は訊いた。

なぜ繰り返すの?

 

彼女は答えた。

楽しいゲームだから。

 

それにどんな意味があるの?

少女は訊き、彼女は答えた。

 

それは自分で見つけてみなさい。

私たちもそうしてきたんだから。

 

 

Frederica Bernkastel

 

 

 

 

 

 

 

 

平成18年 初夏

××県鹿骨市 雛見沢村

 

 

 定食屋の中はなごやかな話し声と生暖かい空気で満ちていた。

 その中に一番出入り口から遠い席に座り、赤みがかった顔でビールジョッキを引っかける男と、

男の真正面に腰かけその顔を眺める女性の姿があった。

 一見すると、酔いながら他愛無い話に花を咲かせるカップルにようにも見える。

 だが聞こえてくる会話の内容からするに、二人はカップルというわけではないようだった。

 

「ちょっと圭一さん、聞いてますの? さっきから目線がふらふらして、

 だらしない酔っぱらいにしか見えませんわよ!」

「……ん? お、おお。いや、悪ぃな……いつもはこんなんで潰れたりなんかしないんだがな。

 ちょっと疲れがたまってるのかもしれねぇ。」

「まったく。……大人になったというのに、圭一さんのそういうところは、初めて会ったときから

 まったく変わっておりませんわねぇ。」

「他人のこと言えた義理じゃねえだろ、沙都子。

 お前のその口調も、初めて会ったときのまんまじゃないか」

「もう、ああ言えばこう言う。

 ……この喋り方は、圭一さんたちの前でしか、今は使っておりませんの。

 前にも説明したでございましょう?」

「ああ……そうだった、そうだった」

 

 圭一と呼ばれたその黒スーツの男はジョッキを置いてぐいと伸びをすると、

頭の後ろで手を組んで、椅子の背もたれに寄りかかった。

 酒のせいで赤くなったその顔には、疲労の色が見えるものの、表情は決して苦しげではない。

少しだらしないが清々しくもある笑みを浮かべて、目を閉じ、少しの間だけ沈黙する。

 

「……昔の話で思い出したけどさ。何か最近、昔のことをよく思い出すんだよな」

「圭一さん、まだまだ若いのに、そんな年寄り臭いことを言わないでくださいまし」

「違う! そういうのじゃねえんだ、ホラ、週明けに少し話したろ。

 今の雛見沢分校に揃ってるやつらのことさ」

「ああ……佳奈(かな)さんたちの、今の、部活のことですのね」

「そう……あいつら、昔の俺たちにそっくりだと思わねえか?

 一人、転校生が混じってる、ってところも含めて」

「確かに。……悟月(さつき)ちゃんが、毎朝嬉々として分校に登校していくのを見ると、

 昔の自分を思い出しますわね。

 きっと、トラップを仕掛けたり、毎日のゲームを考えるのが、楽しくて仕方がないんでしょう」

「そうだろ? あいつらが、昔の俺たちに見えるとさ。じゃあ今俺たちは、昔の親父やお袋や、

 レナの親父さんや、園崎組のお二人と同じ立場になっちまったんだって感じるんだよ。

 まったく、時が経つのは早いよな」

「結局、年寄りくさい話になったではありませんの……お酒、やっぱり飲み過ぎたんでは

 ありませんこと? そろそろ、お開きにいたしましょう」

「……ま、確かにな。そろそろ時間も遅いしな」

 

 圭一が手を挙げて、店員を呼び、勘定を頼む。

 店員が勘定を取りに行ってしまうと、圭一は沙都子の方に向き直り、照れ臭そうに笑った。

 

「悪ぃな。付き合わせることになっちまってよ」

「別に。気にすることではありませんわ。私たち仲間ではありませんの。

 ……明日も、また組の方でお仕事ですの?」

「ああ。そういうお前は、診療所か。おととい聞いたんだが、富田家のお母さんが

 最近通ってるんだってな。大丈夫そうか?」

「細かいことは言えませんけれど、大事はないと思いますわ。

 ……圭一さんも、後のちお酒の件で厄介にならないよう、気をつけてくださいましね!」

「へいへい、わかってるよ!」

 

 

 

 

 

 

「……まったく。調子のいい返事でしたけれど、本当にわかっているのか疑わしいですね」

 

 自宅への帰路に就きながら、北条沙都子は呆れ顔で呟いた。

 かつては両側に田んぼが広がっていた雛見沢の小道。少し前まで降っていた雨のせいで

あちこちに水たまりを作っているそこを、水たまりを避けつつ歩いていく。

 昔はこの時間になるともう真っ暗で1人で明かりもなく歩くことなどできなかったが、

今は街灯がついており、こうして女性1人でも歩けないことはなくなっている。

 そうした些細だが重要な変化に、沙都子は時間の経過を感じていた。

 圭一にはああ言ったが、随分時間が経ったと感じているのは沙都子も同じだった。

 むしろ、診療所勤めの医師になり、その生活に慣れるまでがばたばたしすぎていて、

時間の経過なんて考えている暇がなかったのだ。

 仕事に慣れた今だからこそ、沙都子は故郷の変化を敏感に感じとっていた。

 多少、不安な気持ちもある。……当然だ。自分がまだ幼かった頃、部活の仲間たちと

かけがえのない時間を過ごしていたのは、昔の、あの雛見沢村なのだから。

 それが今、随分違った姿になってしまっていることに、

良い気分だけでいられないのは、多分他のみんなも同じだろう。

 ……でも、変わらないものもあった。

 しっかりしているようでいて、それでもどこか抜けている圭一。

 懸命に良い兄で、義姉の良い夫でいようとするものの、それでもときどきポカをしてしまう兄の悟史。

 他人を穏やかな気持ちにさせる好青年なところも、変な性癖も昔のままの入江京介。

 周りの男たちは、結局何も変わってはいないのだ。

 そんなしょうもない事実に気がついて、沙都子は思わず噴き出した。

 変な話だが、そんな彼らの変わらないところに、どこか救われている自分がいるのだと思う。

時間が経っても変わらないものに元気づけられて、時折目の前にちらつく

見えない未来への不安に打ち勝つ、そういうところがきっとあるのだ。

 ……などと考えていると、いつの間にか自宅の前に帰ってきてしまっていた。

 いつ見ても、自分に不釣り合いな印象を持つ、白くて大きくそれでいて洒落た風格の家。

 かつて前原屋敷と呼ばれ、前原圭一とその家族が住んでいた家だ。

 そんな家の扉に沙都子は鍵を差し込み、開ける。玄関を通り家の中に入ったところで、

沙都子は小さな違和感を覚えた。――家の中が、静かすぎる。

 この家には、同居人が二人いる。そのうち一人は中学三年生だ。

元気盛りの彼女はいつもならまだ起きていて、ドアが開いた音を聞きつけて、

快く出迎えてくれるはずなのだが……。

 リビングに足を踏み入れると、ベージュのブラウスを着た小さな女の子がソファで

すぅすぅと寝息を立てていた。

彼女がもう一人の同居人、北条悟月。兄と義姉の一人娘で、沙都子にとっても可愛い姪。

こんなところで、電気を付けて寝ているのは見過ごせない。

 

「悟月ちゃん、悟月ちゃん、起きてください。悟月ちゃん。」

「…………う……うーん……お、叔母さま……?」

「こんなところで、電気を付けて寝ていると、身体を壊しますよ。

 ……佳奈さんはどうしたんですの?

 お夕食は一緒ではなかったのですか?」

 

 沙都子がそう訊くと、悟月ははっと目を見開き、身を起こした。

 大事なことを思い出したという顔だ。

 

「叔母さま、聞いてくださいまし! 佳奈さんが……どこで何をしていたのか……

 ずぶ濡れで帰ってきたんですの!

 お体の具合が悪そうだったので、お布団を敷いて差し上げたんですけれど……。」

「……何ですって!?」

 

 

 

 

 

 

 ――それは色あせた記憶。

 セピア色の光にぼんやりと照らされて、おぼろげな輪郭しか見ることのできない、

忘れかけている過去。

 セピア色の黄昏の中。私は……ダム工事現場跡のゴミ山にいた。

 そして私の目の前には彼女――――“十二年前の私”。

 そう、これは十二年前に私が見た光景を、客観的に眺めているだけ。

私の意思ではどうにもならない。例えるなら映画を見ているようなものだ。

 その映画のような光景の中で……彼女、もとい“私”はたった一人、昨日私がそうしたように、

一心不乱にゴミを漁っていた。

 十二年前と言えばまだ幼稚園に入ったばかり。本来なら尖ったガラスやら何やら危険なものが

たくさん落ちているゴミ山に一人で来れるはずはないが、たまたま父さんと一緒に

近くまで来ていて、父さんが余所見をした隙に一人でここまで入り込んだのだ。

 やがて、“私”はゴミ山の下に小さな緑色のビー玉を発見する。夕日を受けて

きらきらと優しい光を放つその素敵な玩具に気をよくした私は、はうぅ~、とにこやかに笑い、

誰かの名を呼ぶ。

 

“おかあさーーん? おかあさーーん?

 かなねーぇ、かぁいいものみつけたよーー?

 ねぇ、おかあさーーん?”

 

 だが返事は返って来ない。

 “私”は不思議そうにそれに首を傾げ、緑のビー玉を戦利品のように掲げたまま

ゴミ山の中を歩き出す。姿を現さない母親の姿を探し求めて。

 なぜか、ここだけははっきりと覚えている。

 そうだ。“私”はこの時、前にこのゴミ山に来たときのことを思い出していたんだ。

 母さんに連れられて、父さんとの思い出の場所であるゴミ山に来て、二人で一緒に

かぁいいもの探しをした。

母さんが掘り出したかぁいいものたちに私が夢中になっている間に、母さんが

突然いなくなった。

怖くなって泣きだしたら、母さんがひょっこり向こうのゴミ山の方から顔を出して、

こっちに駆けてきた。

 

“ごめんね、ちょっとあっちの方も見て来ようと思ったの。

 かなちゃんを置いていくつもりはなかったんだよ……だよ?”

 

 その時の記憶を思い出して、“私”は歩く。

 母さんはきっと、向こうのゴミ山でかぁいいものを探してるんだ。

 そうしてそれに夢中になって、私の声に気づかない。そうに違いない。

 だが、向こうのゴミ山の陰に母さんの姿はない。一つ向こうのゴミ山にもいない。

 もう一つ、もう一つ、と繰り返して……いつの間にか、

自分がぐるっとゴミ山を一周してしまっていることにすら、気がつかない。

 まだ短く華奢な足は、遠い道のりにふらふらになって。何度か転んだりもして、

それでも“私”は歩き続けた。母の姿を探し続けた。

 ――――そうしてそこに……父が駆けてくる。

 

“佳奈……! 何やってるんだ、こんなところで!! 危ないだろ!!

 一人で来ちゃダメじゃないか!!”

“ひとりじゃないもん! おかあさんといっしょだもん!!”

“……お母さんと、一緒……だって?”

“おかあさん、さっきからみつからないの。どこ? おかあさんは……どこ?”

 

 懸命に父に呼びかける“私”。やがて、父の目から大粒の涙が溢れ出す。

 

“佳奈。……いいから、帰ろう? こんなところにいたら、危ないぞ。”

“どうして? どうしておかあさんいっしょじゃないの? おかあさんいっしょじゃないと、

 かな、かえりたくないよ。”

“お母さんは大丈夫だ……一人でも大丈夫。だから、佳奈……さあ、”

“いやだいいやだい! おとうさんだけはいやだい! おかあさんといっしょがいいよう!!

 おかあさんといっしょじゃないと、かえらない!!”

“…………佳奈……っ……”

“ねえ、おかあさんどこ? おかあさんはどこ!? ねぇ、おかあさん、かえってきてよう!!

 うわああぁーん!! あああぁーん!!”

 

 駄々をこねて、泣きだす“私”。

 父は、耐えきれない、という風に頭を振って、私を抱き締める。

 

“佳奈……だめなんだ。お母さんは……もう…………もう、いないんだ。

 お母さんは、遠いところに行っちゃって、もう俺たちのところには……戻って、来ないんだよ。”

 

 わかっていた。きっと“私”だって、ちゃんとわかってはいたのだろう。

 でも、信じられなかった。この前までずっと、当たり前のように

傍にいたお母さんが……いなくなってしまうなんて。

 だから……認めたくなくて、私は。

 

“いやだ!! そんなの……そんなのいやだよ!!

おかあさーーん!! おかあさーーん!! うあぁ、あぁあああぁああぁーーーん!!!”

 

 

 

 

 

 

「……風邪…………注射…………お薬を処方し……ましょう。……きちんと飲んで……

 前原さん、聞いていますか、前原さん?」

 

 その言葉が自分に向けて言われていると気づくのに、時間がかかった。

 前原佳奈が我に返ると、そこは雛見沢診療所の中だった。目の前には、見慣れた眼鏡の医師。

 ……そうだ、昨日は、ゴミ山の宝探しに行って。そこで何も見つからないことにムキになって。

雨が降るのもおかまいなしに宝探しを続けていたら、体調を崩して風邪を引いてしまったのだ。

 そうして今、学校を休んで、診療所に来ている。……自分で診察して欲しいと言って来たのに、

その患者本人が目的を忘れて居眠りとは、恥ずかしい話だ。

 ぶるぶると頭を振って、目の前の医師を見返す。すると眼鏡の医師は、急に神妙な顔になった。

 

「……! 前原さん。私は今、とんでもないことに気がつきましたよ。」

「え……? そ、それどういうことですか!? ただの風邪じゃあなかったとか!?」

「いえ、そういうことではなく。……前原さんのお手々はすべすべですねぇ~☆

 容姿良し。器量も文句なし。まさしくメイドの模範!!

 ああ、なぜこんなことに今まで気がつかなかったのでしょう!

 いいや、今からでも遅くはありません。前原さん、どんな対価を払ってもいい。

 私専属のメイドとして」

 

 すさまじい音を立てて拳が唸り、医師の頬に一発のジャブが打ち込まれる。

 医師は頬を押さえてよろめいた。

 

「監督……言いたいことはそれだけですか。」

「む……むぐぐぐぐぐ。入江は死せどもメイドは死せず! と言いたいところですが……

 さすがにこんな場で言うことではありませんでしたね。謝ります。すみませんでした。」

 

 そう言って頭こそ下げるものの、殴られたことすら忘れたようにからからと笑う男性医師。

名前は入江京介と言う。先程佳奈が「監督」と呼んだのは、所属する野球チーム

「雛見沢ファイターズ」の監督を務めているからだ。

 彼自身は頭脳派であるため練習に積極的に参加することはないが、彼のおおらかな人柄は

チームにとって心の支えになっていると言える。佳奈もそれなりに彼を信頼している。

……彼の妙な趣味だけは、どうにも慣れないのだが。

 

「まったくもう……いい年してメイドメイドって。そんなんだからその年で結婚できないんですよ。」

 

 佳奈の指摘に痛いところを突かれたのか、入江は困った顔をして白髪の交じる頭を

ぽりぽりと掻く。顔は若づくりだが、その実彼は既に五十代だ。

 そんな彼が、見目麗しい少女を見るたびにそのメイド姿を脳内に思い浮かべていると

いうのだからとんでもない話である。

 

「いやはや、まったくその通りです……ですが! この入江京介、

 一度メイドのために生きると誓った以上、それを覆すような真似はしませんよ!!

 ……それにしても、改めて見るにきめ細かくて美しいお肌ですねー。

 メイドになれとはいいませんから、少し触診させて……あたッ!!!」

 

 などと言いながら佳奈の腕に手を伸ばそうとした入江の後頭部に

いきなりカルテが突き刺さった。

 そして、そのまま隅に結ばれた筆記具と繋がる紐に従って後方に舞い戻っていく。

 それを見事なキャッチで受け取ったのは、いつ診察室の中に入ったのか、

ぴくぴくと青筋を立てて怒る、白衣の北条沙都子だった。

 

「入江先生……年端もいかない女の子にそんな破廉恥な真似が許されると思っているんですの?

 しかも職務中に。見損ないましたわ。」

「あ……あははははは、いや、こ、これはちょっとした弾みで……単なる冗談!

 そう、場を和ませるためのジョークなんですよ!!」

「いつもそうやって苦しい言い訳をしますのね。前に腕の切り傷で来られた

 女性の患者さんの手をいつもより念入りに看られていたの、

 私が気が付いてないとでも思いまして?」

「…………いやあ、はっはっは。沙都子さんはこういう時は手厳しいですねー。

 参ったなあ、あっはっはっは……。」

 

 いつもより数段毒のある口調で監督を糾弾する沙都子に対し、

慌ててずり落ちた眼鏡を直しながら弁明する入江。

 いつも飄々としていて、佳奈の拳の一撃にも動揺しなかった入江が

ここまでおたおたするのは、佳奈にとって新鮮な光景だった。

思わず二人のやり取りに見入ってしまう。

 ――だが、さすがに仕事中ということもあり、沙都子の追及はすぐに終わった。

 彼女がぷりぷりと怒りながらも行ってしまうと、入江は借りてきた猫のように大人しくなる。

 さっきとは違いてきぱきと、佳奈に注射して、いくつかのアドバイスを与えた後、

処方箋を出すまで待つように言った。

 そこで診察は終わりだと思い、佳奈が席を立った時。

 

「ちょっとだけ待ってもらえませんか、前原さん。」

 

 入江に声をかける。またメイド関連の何かだと思った佳奈は顔をしかめるが、

どうやらそうではないらしい。

 入江の顔は穏やかだが、真剣だった。

 

「いつも元気一杯で病気とは無縁なあなたがここに来ることも不自然ですが……

 顔色がどうも優れませんね。何か悩み事でもあるんですか?」

「…………別に。何でもありません。ただちょっと体調を崩しただけです。」

「そうですか。なら別にいいのですが……一つアドバイスをしておきましょう。」

「アドバイス……ですか?」

「ええ。アドバイスです。ちょっと心に留めておいていただければ幸いです。

 ……“病は気から”とよく言いますね? 私は、あれは医療における一つの真理だと

 考えています。人の心理状態と体調は、人が考えている以上に密接に関連している。

 病気の種類によっては、心理状態が直接病状に影響を与えてしまうものすらあります。

 だから、今日一日はせめて、マイナスな感情をできるだけ貯め込まないようにして

 生活してみて下さい。沈んだ気持ちになったら、外を散歩したりして気を紛らわす。

 何か胸の奥につっかえているような気持ちになったのなら、

 親しい人にそれについて話してみる。

 面倒な用事を抱えていても、今日限りと思ってサボっちゃいましょう。

 それで生活習慣にさえ気をつければ……きっと明日には、

 いつもの調子で過ごせるようになるはずです。」

「……はい。わかりました。」

 

 当たり前のことのようでいて、どこか深い入江の言葉。

 佳奈はそれを胸の中で反芻しながら、診察室を後にした。

 

 

 

 

 

 

「病は気から…………か。」

 

 よく晴れて、雲ひとつ見当たらない空を見上げながら、佳奈はそう呟いた。

 今、彼女が歩いているのは、高台の古手神社へと通じている一本道だ。

 晴れて天気のいい日には、この道には気持ちのいい風が吹く。

 実際に今も、柔らかな風が吹いて佳奈の頬を、髪を優しく撫でていく。

 だが…………そんな心を癒すような空気も、今の佳奈の心にはあまり意味をなさなかった。

 気からくる病。確かに、その通りだと思う。

 結局……自分の負の感情が、昨日の一連の出来事を引き起こしたのだから。

 思い出す――昨日見た、かけがえのない仲間たちの顔を。

 

『…………んの……てめえええええ!!!』

 

 魁月(かづき)ちゃん――大事な妹分を、怒らせてしまった。

 不用意な発言。彼女の挑発に過剰に反応して、してしまった平手打ち。

 ――責任は、自分にある。

 

『……名残惜しいですが、今日はここで。』

 

 優乃(ゆの)ちゃん――園崎系列のお店でバイトに励む親友を、ほぼ無表情で見送った自分。

 気まずい雰囲気で“部活”を潰す。のみならず、親友を笑顔で見送ることもできない。

 ――それが、とても悔しかった。

 そして……宗二(そうじ)くん。

 

 

『これからも僕たちはずっと一緒だって、信じていいんだよね。』

 

 

 妹分とのケンカで、落ち込んでいた佳奈を、彼は宝探しに誘ってくれた。

 佳奈自身のせいなのに、悪いのは佳奈でしかないのに、

その気晴らしに付き合ってくれると、自分から言ってくれた。

 ……なのに。

 

 

『邪魔すんなって言ってんでしょっ!!』

 

 

 理不尽な怒り。部活と関係のない人間と妙に親しくする彼への、しょうもない苛立ち。

 そんなものを理由に、自分は彼を拒絶したのだ。

 雨が降る中、それでも宝探しを続行しようとする佳奈を、止めようとしてくれたのに。

 そんな彼に、邪魔するなら帰れ、と言い放ったのだ。

 ……“部活の部長”が、聞いて呆れる。

 こんな自分が、例えば明日学校に行って、どんな風に皆と接したらいいのだろう?

 

 

「…………はぁ…………。」

 

 

 昨日雨に打たれていたときそのままの、憂鬱な気持ち。

 それは、古手神社まで上っていって、高台から雛見沢を眺めていてもまったく変わらなかった。

 マイナスな感情をできるだけ溜め込まない。気を紛らわす。

 そんなに簡単にできたなら苦労はしない。

 やはり、気持ちのいい場所に来て涼むなんて、そんな安易なやり方で解決なんてできないのだ。

 ……このままここにいると、必要以上に身体を冷やしてしまいそうだ。

 風邪を治すことに専念しなければいけないのに、それでは本末転倒になってしまう。

 

「風邪だけは、治さなきゃ。……オヤシロさまを一回拝んで、帰ろう。」

 

 自然と、次にすべきことが口から出ていた。

 そして佳奈は確信していた。そうするのが正しいのだと。

 この場においてはそれこそが最善なのだと。

 ……だが。

 

「なあーに佳奈ちゃん、風邪引いてんの? そりゃあ大変だねえ。」

「オヤシロさまをよーく拝んでおくといいわよ。ひょっとしたら

 ご利益があるかもしれないからね……くすくすくす。」

 

 突然後ろから聞こえてきた二つの声に、佳奈は驚く

 ぱっと振り返ると、そこには――二人の着物姿の女性が立っていた。

 片や、紺の布地に金色の蝶をあしらった豪勢な着物を纏い、まるで竿か何かのように

軽々と鞘に入った日本刀を担ぐ、背の高い女性。

 片や、白と赤を基調とする雅な着物―――いわゆる巫女服―――に身を包み、

竹箒を両手に抱えて不敵に微笑む、ふっくらとした女性。

 “部活”の黎明期に活躍した伝説的な部員にして、各々が現在の雛見沢の重鎮・御三家頭首。

 その名前は――

 

「魅音さん……! それに……梨花さん!!」

 

 

 

 

 

 

「なっはっは、いやーそれはなかなか災難だったねえ。さすがの佳奈ちゃんも、

 ちょっと無理し過ぎちゃったってことかな?

 これに懲りたら、あんまり天気の良くない時に外での仕事を増やさないことだね。」

「その通りよ……そりゃあ外が雨だろうと台風だろうと吹雪だろうと大暴れして

 ぴんしゃんしている連中もいることはいるけどね。

 そういう連中はちょっと普通じゃないんだから、真似なんかしない方がいいと思うわ。」

「ちょ、ちょっと梨花、何私の方見ながら言ってんのよ。

 それじゃ私が向こう見ずのバカみたいじゃないのさ!」

「あら……自覚してなかったのかしら? あなた、そういう方面に関しては

 相当普通じゃないわよ?

 吹雪の中で雪合戦して負けて、罰ゲームで全員が入れる大きさのかまくらを作れ、

 なんて言われた時は*意すら覚えたわ。

 手をもみじみたいに真っ赤にしてかまくらを作らされたあの日を、

 私は一生忘れないでしょうね。」

「……梨花、あんた相当根に持つタイプなんだね。

 私、あんたにそれ言われるまですっかり忘れてたよ。」

「当然でしょう? 私、寒いのは基本的に苦手なのよ。

 部活がなかったら、コタツに入ってぬくぬくしてたかったわ。」

「あー確かに。梨花って猫っぽいところあるもんねー。」

「……貴女、たまに鋭いこと言うじゃない。」

 

 魅音と梨花が不気味に笑い合う。佳奈はそんな二人に苦笑しつつも、

何だかんだ言いつつも阿吽の呼吸を見せるその仲の良さに驚いてもいた。

 話を聞く限りでは、二人は佳奈の来る前から境内で話し合っていたらしい。

 最近綿流し祭りを見るために訪れる観光客のマナーが悪くなっているため、対策として

それを注意するチラシを配る案が園崎家の親類から提案されている。

 だが、チラシ配りには、境内に大量にチラシが投げ捨てられるかもしれないという

リスクを伴う。

 そういう部分を含めて妥当かどうか協議するため、魅音は梨花の意見を聞きにきたのだと言う。

 ……園崎魅音に、古手梨花。

 佳奈にとっては二人とも、両親を通じての知り合いである。

 おぼろげな記憶しかないが、両親が健在な時期は二人ともよく家に遊びに来ていたと思う。

 神事を司る雛見沢御三家の一つ、古手家の現頭首であり、古手神社の神主である梨花には、

七五三のお祝いの時などに随分と世話になっている。

 魅音もまた、親友同士の間に生まれた佳奈を、自分の娘のように可愛がってくれていた。

 今は、会う機会もそれほどないが、梨花の姿は毎年の祭の奉納の舞で見ることができるし、

魅音についても魁月の話を通じていろいろと聞いている。

 そうした、ある程度身近な存在ではあるのだが、仮にも雛見沢の実力者である。

彼女たちを前にしていると佳奈はどうしても緊張してしまう。

 だから二人が、ふと話を止めて、同時にじっと佳奈の方を見ていることに気がついたとき、

佳奈は思わず緊張の余り、体を硬直させてしまった。

 

「……!? な、何ですかお二人とも。そんなにこっちをじーっと見て。」

「佳奈ちゃん、一つ訊くけどさ。」

「は、はい……」

「何か、どーも顔色が優れないね。風邪の症状、っていうこともあるだろうけどさ。

 ……ひょっとして何かあって悩んでたり、する?

 おじさんたち、人生経験だけは豊富だからさ。

 相談に乗ってあげることも、できると思うけど。」

「…………!」

 

 入江に続き本日2回目。心の中のやりきれない気持ちを見事に言い当てられたショックに、

佳奈はがっかりしたような、悔しいような、そんな気持ちになる。

 

「ふふふふふ。図星って顔ね、佳奈。」

「……梨花さんまで!」

「思ったことが、どうしても顔に表れてしまう。そういうところ、本当に圭一にそっくり……

 見た目はレナに生き写しだけど、あなたの行動を見ていると、

 確かにあなたは圭一の子供なんだなあ、って実感できるわ。可愛らしい」

 

 梨花はにこやかに微笑むが、佳奈は恥ずかしさで俯かざるを得ない。

 さすがに中学生にもなって「可愛らしい」と言われるのは恥ずかしいものだ。

 

「どうやら、マジらしいねえ。こりゃあ大変だ。

 ……どうしても話したくないって言うならそれでもいいけどさ。

 ただ、私の経験から言わせてもらえば、行き詰っている悩みは他人に話してみた方がいい。

 他人に話して肩の荷が軽くなることもあるし、話しているうちに自分の気持ちを

 整理できるっていうのもある。

 他人に話してみて損した! って思うことって、実はそんなにないと思うんだよね。」

 

 魅音がそうやって話すときの表情を、佳奈は見る。そして、それを静かに傍観する梨花の顔も。

 降り注ぐ夕暮れの光に照らされる彼女たちの顔は、穏やかな微笑みを浮かべていた。

 例え佳奈が何を言ったとしても、笑わず突っぱねず、真摯に受け止めてくれる。

そんな……頼もしい、表情。

 そんな二人を見て、佳奈は心の中に、話してみよう、という気持ちが湧いてくるのを感じた。

 

「えと……魅音さん、梨花さん。」

「ん?」

「じゃあちょっと……聞いてもらっていいですか。私の……悩みごと。」

 

 

 

 

 

 

「なるほど。いろいろな出来事が重なって、かなりへこんじゃってるってわけだ。」

「はい……何だかいろいろありすぎて、どこから考えていけばいいのか

 わからなくなっちゃって。」

「……魁月の件に関しては、私の躾が足りなかったせいもある。

 苛立ちに任せて、優しくしてくれているお姉さんをなじるような真似をするなんて。

 駄目な娘で、申し訳ない。あとで私の方から、釘を刺しておくから。」

「いえいえ! け、結構です! そんなつもりで言ったわけじゃないですし!」

「……そうね。喧嘩両成敗って昔から言うし、一概にどっちが悪いとは言えないわね。

 こういう時は、早めに機会を見つけて謝り合うのが一番いいと思うわ。

 他愛無い言い争いでもね、解決できないまま後に引くとじわじわきいてくるから。

 そんなことがあった後だと顔を合わせて話しづらいと思うけど、

 ここを逃したら友好関係が崩れる、ぐらいの心意気で臨んだ方がいいわよ。」

 

 そんなことを言う梨花の顔は、ぞんざいな口調の割に真剣だった。

ひょっとしたら、実際にケンカを長引かせて痛い目を見たことがあるのかもしれない。

 ……確証はないが、そんなことがあったのだとしたら相手はきっと沙都子だろう、

と佳奈は考える。

 二人は小学校低学年からの親友だが、性格は正反対だ。きっと意見のぶつかり合いも

昔からよくあったに違いない。

 

「しかし、安心したよ。変な連中から嫌がらせを受けてるとか、そういう

 深刻な悩みとかだったらどうしようかと思ってたけど、これなら案外

 すんなりと解決できそうだね。」

「……え?」

 

 魅音の発言に、佳奈は肩透かしを喰ったような気分になる。

 ……すんなり解決? 自分の抱える悩みは、そんなに軽いものだったのだろうか。

 

「……そ、そんなに簡単な問題じゃないと、思うんですけど……!」

「そ……そう?」

「そうですよ! ……ケンカの件にしたって、謝って許してもらえるかどうかなんて

 わからないんだし! それにケンカの話が片付いたって、

 宗二くんのことをどうすればいいのかわからないです!」

 

 反論するうちに、少しイライラとしてきて、声を荒げて抗議する形になった。

しかし、当の魅音は意外そうな顔つき。

 助け舟を求めるように梨花を見るが、こちらも完全に同意するとはいかないものの、

「まあ妥当な意見だろう」とでも言いたげな顔だった。

 一体なぜ? と佳奈は考える。

 自分の言っていることに、何かおかしな点などあっただろうか。

 

「……できる。」

「え?」

「できるわよ、仲直り。これは間違いない。」

 

 今度は梨花だった。手に持っていた竹箒を傍の小屋に立てかけ、ふぅ、と溜息をついて言う。

 どうしてそんなに自信ありげに言えるのか、佳奈にはわからない。返答に困る。

 少しだけ、空気が張りつめる。それを和らげようとするかのように、魅音が口を開いた。

 

「ねえ、佳奈ちゃん……友達と仲違いすることってさ、そんなに大げさなことかな。」

「……大げさ、って、それは……確かに、そんな大したことじゃないかもしれませんけど……」

「本当に仲のいい友達ならさ、気持ちのすれ違いや誤解で気まずくなる、なんていうのは

 よくあることなんじゃないのかな。

 仲がいいから、相手が自分の気持ちを裏切るようなことをしたのが許せない。

 仲がいいからこそ、ひょっとしたら相手が自分を本当は好きじゃないんじゃないか、

 なんて考えちゃって余計に気持ちが重くなる。

 それはきっと、深い友人関係ならいつかは起こる自然なこと。

 そんなに深刻に受け止める必要はないんだよ。

 自分が思う最善の方法で、相手に歩み寄ればそれでいい。」

「それは、そうかもしれないけど……でも! 私が仲直りしたいって思ってても、

 魁月ちゃんや宗二くんがそれをどう思うかなんてわからないじゃないですか!?」

「っかー、佳奈ちゃんも頭がかたいねえ。いいかい?

 私はあんたと魁月が一緒にいるところを直接見たことはないけど、

 圭ちゃんや沙都子から話はよく聞いてるよ。

 休み時間はいつでも一緒にいて、減らず口叩き合いながらも楽しそうに喋ってる。

 一週間に数回のペースでよく軽いケンカをするけど、終わったらさっさと仲直り。

 部活では勝率トップの座を巡って毎回接戦を繰り広げてるらしいね。

 宗二くんの方については情報が少ないけど、相当仲がいいみたいじゃない?

 最近佳奈ちゃんの口からよく宗二くんの名前が出るって、圭ちゃんが嬉しそうに言ってたよ。

 ……それだけ2人が好きならさ。2人を信じてあげればいいじゃない。」

「2人を……信じる?」

「そうさ。佳奈ちゃんは2人が好きで、2人も佳奈ちゃんが好き。

 なら2人だって、佳奈ちゃんがちょっと暴発したぐらいで佳奈ちゃんを嫌いになんか

 なったりしないよ。昨日のことを後悔してるって、謝りたいって言えば、

 きっと笑って受け止めてくれるよ。

 ……それを、信じられない? 魁月と宗二くんは、過ぎたことをいつまでも根に持つ、

 嫌なやつだと思ってる?」

「そ……そんなわけないじゃないですか!! 魁月ちゃんはからっとした性格のいい子です!

 昨日の失敗を明日には笑い飛ばせる、そんな強さも持ってます!

 宗二くんだって、みんなの前ではいつも微笑みを絶やさない優しい人!

 嫌みを言う宗二くんなんて考えられません!!」

「なら、それでいいじゃないか! そこまで言い切れるなら、あんたたちの仲は本物だよ。

 きっと上手くいく。仲直りできる。あたしが保証するよ。」

「……そう、なんですか? でも……でも、私、すごく不安で……」

 

 びっくりするほどあっさりと、佳奈は魅音のペースに巻き込まれてしまった。

 その理屈に、納得しかけている自分がいる。

 ただ……それでもまだ、割り切ることができない。

 そんな佳奈の様子を見てとったのか、今度は梨花が口を開いた。

 

「……佳奈。悩むことそれ自体はとてもいいことよ。

 悩めば悩むほど、人は深く物を考えられるようになる。そうして人は賢くなっていくの。

 でも、その悩みにどっぷりはまって自分の中に閉じこもってしまうのは良くないこと。

 閉じた思考の流れは沼と同じ。同じところをぐるぐる回り続けて、

 やがてよどんで腐っていく。そうならないためには、悩みを解決するために

 外に働きかける“行動”を起こすことが大切なの。

 不安があっても構わない。今の自分にできることをすればいいのよ。」

「梨花、さん……」

 

 梨花は、少し何かを思い出すように宙を仰いで……こう続ける。

 

「……昔ね。私の知り合いに、ある女の子がいたの。

 彼女はとても賢くて、自分の問題だけじゃなくて、周りの問題すら

 ぱっぱと解決してしまえる子だった。

 でも……ある時彼女は、一つの悩みを解決できなかった。

 その悩みに苦しんで、一人きりで抱え込んで、自暴自棄になって罪を犯して。

 友達がようやく彼女を捕まえたときには手遅れの一歩手前だった。

 みんな彼女を説得しようとしたけれど、彼女は自分の罪に怯えて、

 誰の言葉も受け付けなかった。

 けど、その時……彼女の友達の一人が、言ったのよ。

 

“夢とか幻とかじゃない! ましてや手遅れでも何でもない!

お前にはまだ選べる選択肢が残ってる。だから選べ! 間に合う! 来るんだ! 

俺たちはやり直せるんだ!”

 

 ……ってね。その言葉を信じて、友の手を取った彼女の行為が正しかったのかはわからない。

 でも、少なくとも彼女は、そのままでは失うはずだった笑顔を、取り戻すことができた。

 だから私もこう言うわ。今のあなたなら十分に間に合う。選べる選択肢を、選びなさい。

 素敵な仲間たちと、もう一度笑い合える世界を選びなさい。

 相手が手を差し伸べてくれているなら。自分が手を差し伸べさえすれば、

 二人はまた手をつなげるのよ。」

「……………………」

 

 言葉がない。何と言っていいのかわからない。

 けれど……心地よく温かい何かが、不安でいっぱいでどこか冷え切っていた、

佳奈の胸の内を満たしていった。

 二人を、信じる。私の気持ちを素直に伝えてみる。そうすれば……そうすればきっと、

また私たちは笑い合えるはず。

 ……けれど。その確率は決して100%じゃない。後になればなるほど、誤解は深まり、

仲はこじれていく。

 だから……言おう。明日、学校で。

 二人にちゃんとした形で、謝ろう。心の中で、そう決めた。

 

「へえー! それは随分いい話だね。特にその友達っていうのがなかなか頼もしいこと

 言ってくれるじゃないの。

 その友達も、やっぱり梨花の知り合いなの?」

「魅ぃもよくご存知の人よ。……最も、かなり意外な人だから、

 どうやっても思い出せないと思うけどね。」

「ええ!? その人私の知り合いなの?

 ……おかしいなあ、そんないいこと言う人なら間違いなく覚えてるはずなんだけどな。

 記憶のどこ探しても見つからないや……。名前、当然教えてくれないんでしょ?」

「当たり前じゃない、くすくすくす。そんなの簡単にわかっちゃったらつまらないもの。

 せいぜい悩ませてあげるわ。」

「ちぇー! 梨花のケチー!!」

「…………あの。魅音さん、梨花さん。」

「ん?」

「……ありがとう、ございました。魅音さんと梨花さんに相談できてなかったら、

 私、いつまでも悩みを払えないで、ぎくしゃくした関係を引きずってたかもしれません。

 本当に……ありがとう。」

「なーに、こんなの感謝されるほどのことじゃないよ。

 何か一人でどうしようもない問題があったら、また話しに来なさいな。

 私は普段はいつも園崎の家にいるからね。お茶菓子用意して迎えてあげるよ。」

「……魅ぃのアドバイスはたまにとんでもなく見当外れの場合があるから、

 もし魅ぃの話に不審な点があったら、私のところに来なさい。

 常識的な解決方法を教えてあげるから。」

「ったくもー! こういうときに、いちいち嫌味を混ぜないの!」

「うふふふ……」

 

 結局、また二人の会話に戻っていってしまう。この二人が会話に熱中すると、

佳奈は除け者になってしまう。

 だが、佳奈は、もはやそれを冷ややかな目で見つめたりはしなかった。

 二人が見せるケンカ混じりの掛け合いを、しばらくの間穏やかに、見つめていたのだった。

 

 

 

 

 

 

「……で? その後結局、どうなったんだ?」

 

 その週の、日曜。

 佳奈は、雛見沢から少し離れた賑やかな街・興宮の道を歩いていた。

 左前方に見えるのは、知る人ぞ知る興宮の名物レストラン・エンジェルモート。

 今までに何度か、あの店で楽しい時間を過ごさせてもらったが、今日の目的地はそこではない。

 エンジェルモートの前を通り過ぎ、隣を歩く洒落た白シャツの男――父親である前原圭一に、

答える。

 

「それがね……せっかく次の日謝ろうって決めたんだけど、

 何か……結局、うやむやになっちゃったんだ。」

「おいおい……仲直り、失敗しちまったのか?」

「ううん。……家に帰ったらね。みんなからのプレゼントが届いてたんだ。

 宗二くん、優乃ちゃん、魁月ちゃん、悟月ちゃん――みんなの分で、4つ。

 何かね……その日の部活が『私へのお見舞いの品を作ろう』って種目だったんだって。」

 

 そう。せっかく謝ろうと思ったのに、結局先に向こうに折れられてしまった。

 優乃のびっくり箱。魁月のおはぎ。

 悟月の押し花付きしおり。宗二の色とりどりの折り鶴。

 心のこもったギフトには、それぞれからのメッセージが付いていて。

 その中には……佳奈への謝意と、早く戻ってきてほしいという、

温かい願いが書かれていたのだ。

 

「……もちろん、次の日学校行ったとき、ちゃんと謝りはしたよ。

 でも……魁月ちゃんも宗二くんも、謝り返してくれて……

 それで、何か、終わっちゃった。

 仲直りはできないかも、なんて、考えてたのがバカに思えるぐらいに、あっさりね。」

「はは……なるほどな。そんなことがあったわけだ。」

 

 父は、あっけらかんとした表情で笑う。

 だが佳奈は、その表情の中に、ただ娘の身に起こった出来事への興味だけではない

何かを感じた。

 それが何か知りたくて、問いかける。

 

「ねえ、お父さん。」

「ん?」

「お父さんもさ、昔、友達とゼッコーみたいな感じになったこと、あるの?」

「……ああ、何度かな。」

 

 父が少しだけ、視線をそらす。

 その目は、どこか遠くを見る。

 何を考えているのか、佳奈には読みとれない。

 

「どうしようもないなって、その時は思うんだ。こんなことになっちまった以上、

 もう手遅れかも、ってな。

 ……だが、意外とそうでもないことが多いんだ。

 ちゃんと話せば、わかってくれることだってある。

 ……魅音はやっぱりすげえな。そのことを、ちゃんと他人にわかるように話してくれる。

 だが……仮にそこにいたのが魅音じゃなくて俺だったとしても、

 多分同じことを言ったと思うぞ。」

「……そっか。」

 

 その後しばらく、父は黙りこんだ。

 佳奈も何か喋ろうとするでもなく……二人黙ったまま、興宮の道を行く。

 だが……しばらくして、ぽつりと父は言った。

 

「なあ……佳奈」

「なに、お父さん」

「お前は、忘れるなよ。人を信じるって気持ちを。

 ……お前が魁月や宗二くんや、優乃や、悟月を好きなように、

 相手もちゃんとお前のことを想っていて、ちょっとした行き違いがあったとしても……

 話し合うことで、ちゃんと信じあえるようになる。そういうことをさ。」

「……うん。忘れない。ちゃんと覚えてるよ」

「……そうか。いい子だな、お前は」

 

 そうして父は、さりげなく佳奈の頭に触れて、大きな手で撫でた。

 佳奈はその感触を、少しの間、目を閉じて味わっていた。

 

 

 

 

 

 

 その後数分ほど、通い慣れた道を行くと、目的地が見えてきた。

 北条一家の住まいがある、興宮の団地。

 そこには今日のパーティの主催者である、北条悟史と北条詩音が待っていて、

二人を手を振って出迎える。

 ――いや、それだけじゃない。

 宗二に魁月、優乃に悟月――今代の部活メンバーも既に揃っていて、佳奈に向けて

手を振っている。

 二人がやって来るのを、待っている。

 

「……行こ、お父さん」

「ああ、そうだな」

 

 佳奈と圭一は、笑顔で手を振りかえして。

 ゆっくりと、彼らの方へと歩きだした。

 

 

 

 

<後編へ続く>

 



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後編 ~古手梨花~

十宮恵士郎です。
ひぐらしのなく刻に ~巡りくる日常(とき)~ の後編をお届けします。
今回の主役は梨花です。
23年後の雛見沢で、梨花は何を想い、どう生きているのか。
自分なりに考え、書き綴ってみたつもりです。

前編の前書きに書いた通り、
独自設定・独自解釈(多少)・原作キャラ死亡有りとなっております。
そういうのが苦手という方は読まない方が良いかもしれません。

それではどうぞ。


 

 

 ……いつの間にか、セミたちは合唱をひぐらしに委ねていた。遠くから沸き上がっては薄れ、

沸き上がっては薄れを繰り返すその合唱は、とても弱々しくて儚い。

 そんなひぐらしの声を聞きながら、古手梨花は神社の境内、その裏側へと歩を進めていく。

 その顔に浮かんでいるのは怪訝の表情、そして、不満。何か気に入らないことがある時に、

彼女はよくそういう表情をするのだった。

 境内裏に着くや否や、彼女はやはり不機嫌な表情で、どすっ! と一度足を踏み鳴らす。

そして辺りに響く程度の、大きくも小さくもない声で言う。

 

「……いるんでしょ、羽入! 出てきなさいよ。」

 

 そんな彼女の声が、木立の間に響きわたると。

 それに呼応するように、木々の間から、小さな少女の影が姿を現した。

 ふわりとした長い髪の毛。大らかそうに見える外見。小ぎれいな制服姿に、

頭に生えた曲がった角。

 羽入。……それが彼女の名。

 古手梨花にとって、腐れ縁であり、相棒であり、また仲間とも呼べる存在だった。

 だが今の梨花には、彼女をそうした相手として敬おうとする様子は微塵もなかった。

 不機嫌な表情をさらに強めて彼女に近寄っていく。

 

「一体どういうつもりよ……こんなところに呼び出して。

 いくら今日が日曜で、沙都子も出かけてるからって、私が暇を持て余していると思ったら

 大間違いなんだからね!」

 

 その言葉は嘘ではなかった。梨花は、“あの6月”を乗り越えて以降、様々なことに挑戦するようになっていた。

 パズルの解読というような些細なものから、神社の古文書の整理というなかなかの大仕事まで。

 とにかく、これまでやってこなかった、いややってみることさえ考えなかったことに

挑戦することが、最近の梨花の習慣になっていた。

 彼女は退屈し過ぎていたのだ。長い長いループを強いられる暮らしの中で。

 そうした鬱憤が自分に溜まっていることには、彼女自身もループを乗り越えるまでは

気づかなかったのだが。

 ……ともかくそんなわけで、彼女は羽入に食ってかかろうとする。

 だが、

 

「梨花。……初めて会ったときのことを、覚えていますですか?」

「…………は?」

 

 羽入は、何だか妙に改まった態度で、妙な質問をしてきた。

 梨花は混乱する。

 初めて会ったときのこと? それって一体……?

 

「……ごめん、ちょっとはっきりとは思い出せないわ。何せ……“随分昔”の出来事だし」

「そうですね……僕も、つい先日、ふと思い出したぐらいなのです。

 梨花が覚えていないのも仕方のないことなのです。」

 

 何を言っているんだ、こいつは……?

 梨花の表情が曇っていく。……だが、そこに怒りや苛立ちの色は、あまりない。

 なぜなら……梨花は、気づいてしまったのだ。

 羽入が、いつもあんなにあぅあぅ言っている羽入が……そんな間抜けな口調を抜きにして、

自分に話しているということに。

 

「ね……ねぇ羽入。あんたどうしたの……?」

「……初めて会ったとき、梨花はまだ無邪気で可愛い、年相応の女の子だったと思うのです。

 それから長い長い時を超えて、二人で繰り返し続けて……いつの間にか梨花は、

 口が悪くて腹も黒い、しょうもない女の子になってしまっていた。

 ……それでも僕は、梨花といることが、楽しかったのです。本当ですよ。」

「……羽入……!?」

 

 一瞬梨花は、自分の目を疑った。

 羽入の身体が一瞬透けて、背後の森が見えたような気がしたからだ。

 ―― 一体何を考えているのよ私は、そんなバカなことが……。

 そう自分に言い聞かせようとする、だが……。

 

「いえ……最近はそれだけじゃない。梨花と二人だけでいるのではなく、圭一たち……

 たくさんの仲間と一緒にいることも、覚えたのです。

 それは……梨花と二人でいる時とは違う意味で、楽しかった。

 …………できることなら、もっと、もっとずっと、

 梨花や、みんなと、一緒にいたかったですよ。」

「……ねえ羽入、何言ってるのよ…………頭でも打って、おかしくなったんじゃないの?

 ……診療所に行くわよ。 ……ほら、シュークリームあげるから……!」

「でも…………ちょっとそれは、難しかったのですよ。

 僕は…………僕は、もうここには、いられなくなってしまったのです。」

 

 梨花は、愕然とした。自分の目に映る光景に。

 …………羽入が。羽入の体が、透けはじめていた。

 見間違いでは、ない。何度も目をこするが、それでも変わることがない。

 羽入が…………だんだんと透けて、透明になって…………消えようと、している。

 

「な……なんで! どうして!!!」

「多分……神の力を、限界まで使い倒した上で、実体化という無茶をした結果が、

 これなのですよ。

 …………本当は梨花に……圭一やみんなに……ちゃんと、相談、したかった。

 でも…………気づいたときには、もう、時間がほとんど残ってなかった、のです。

 僕一人の頭では…………こんなしょうもないやり方しか、思いつかなかったですよ。」

「…………う……うそ……嘘よこんなの! 嘘ッ!!」

「……梨花。…………長い長い時間の中で、僕は気が狂うほどたくさん、謝ってきたのですよ。

 あの6月を乗り越えたとき、もう謝るのなんてこりごりだと思ったのです。

 ……でも、一度だけ言わせてください、梨花。…………ごめんなさい。

 梨花が出した結論……完成された、世界。……もう見守っていくことが、できないのですよ。」

「……っふ……ふざけないで!! バカにするんじゃないわよ!!」

 

 驚きの次に浮かんできた感情は、怒りだった。

 一体どこに溜まっていたのかと思えるほど強い怒りを、羽入にぶつけていく。

 

「あんたはあの6月を乗り越えただけで、私が満足したとでも思ってるの!!?

 そんなわけない!! ……私が欲しかったのは! 6月を超えて、みんなと生きていく未来!!

 みんなと一緒に過ごす人生!!

 …………なのに…………なのに! あんたが欠けたりしたら…………!」

「……………………」

 

 だが、羽入はもう何も言わない。

 悔しそうで、でも、少しだけ嬉しそうで。

 そんな表情で梨花を眺めている。

 ――そして、ぽつりと口を開いて、こう言った。

 

「いまさら……こんなことを言って……何になるかはわからない。それでも……言わせてください。

 梨花……僕は、あなたの幸せを願っていますです。

 この先も…………みんなと、一緒に、仲良く過ごして……」

「……羽入ッ!!!」

「……さようなら、梨花。今まで、ありがとう…………」

 

 その言葉が、最後だった。

 もうすっかり、背景に溶けこんでしまっていた羽入の姿が、完全にかき消える。

 ……見えるのは…………夏の日差しにあふれる木立。それだけ。

 ひぐらしの合唱が――梨花以外に誰もいない森、その虚ろを埋めるように響いていく。

 ……それに、耐えられなくて。

 何かせずにはいられなくて。

 梨花は――――声の限りに叫んだ――。

 

 

 

 

「はにゅううううぅぅぅぅーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」

 

 

 

 

 ――そこで、梨花は目を覚ました。

 反射的に、辺りを見回す。……そこは、改修した古手家の本宅。

 自分が寝ているのが寝室で、その傍らには書き物机。

 机の上に積まれた、作業中の原稿と、何冊かの古文書――。

 

「…………夢、か。」

 

 そして同時に、思い出す。……今日は、平成18年の6月18日。

 綿流しの祭りの、朝だ。

 そこまで把握したところで、さっきまで見ていた夢の意味が、梨花にはようやく理解できた。

 今までの人生の中で、最悪と呼んでいい、記憶。

 長いこと一緒にいて、共に歩んできた相棒に、置いていかれたという悪夢――。

 

「……はっ。ふざけるんじゃないわよ、まったく。

 よりによってこんな大事な日に、こんな夢…………。」

 

 そんな風に呟きながら、梨花は身を起こす。

 ベッドから起き上がって、書き物机の方へ歩いていく。

 キャミソールの紐がずり落ちるが、誰もいない自室なので、気にしない。

 ……机の傍に立ち、彼女が見つめるのは、その上に置かれた古文書だった。

 古手家に代々伝えられる、家そのものや雛見沢の歴史を紐解くための本。

 その解読は、いまや梨花のライフワークであり、そして……。

 

「……私は、認めないわよ。こんな……。」

 

 静かにそう呟いて、梨花は古文書から目を逸らした。

 窓の方へ歩いていって、朝の薄明りに染まるカーテンを引く。

 窓からのぞくのは、雛見沢村。天気は快晴。

 今日この村で――祭が始まる。

 

 

 

 

 

 

 毎年この祭の日になると思うことだが、綿流しのお祭りのもたらす活気はものすごい。

 とても静かで、風の音や鳥の声がしっかり聴きとれる、そんないつもの様子から一変!

 色とりどりの提灯、連なる露店、それら露店を開く人たちと、そこに群がる人たちによる話し声

――とても賑やかで、煌びやかだ。

 佳奈(かな)たち三人は、そんな賑わいの中を、集合場所目指して歩いていく。

 

「ふわぁ……すごい数の人だなぁ……。雛見沢に、こんなにたくさん人がいたなんて……。」

 

 呆気にとられた顔でそう呟くのは、隣を歩く仲瀬(なかせ)宗二(そうじ)――部活期待のニューフェイスだ。

 彼は、最近雛見沢にやって来た転校生。インターネットから仕入れた情報以外を除けば、

まだまだ雛見沢のことを知らないと言っていい。

 そんな彼には、特にこのお祭りは新鮮に映るようだった。

 

「村人総出で行うお祭りですからねぇ。特に古参の人たちは、

 ほとんどが参加しているという話ですよぉ?」

 

 宗二に答えるのは、佳奈をはさんで反対側を歩いている芹沢(せりざわ)優乃(ゆの)だ。

 スリムながら肉付きのよい体つきで、薄い青のロングヘアを揺らして歩く姿はさながら

祭の華という感じで、時折何人かの男が見とれて振りかえる。

 彼女は、自他ともに認める美少女なのだ。あまり口を開かなければ、という条件がつくが……。

 

「それに、近くの町……特に興宮から、たくさんの人が来てくれるんだよ、だよ。」

「……なるほど。そういえば、普段は見ない感じの子が、何人か目につくな……。」

「うん。多分、興宮から遊びに来てくれた人たちだろうね……。」

「おやおや宗ちゃん。今、通りがかった興宮の女子高生に目を奪われてませんでしたかぁ?

 我々という美少女を目の前にしながら、何てことをするのでしょう!

 このウ・ワ・キ・モ・ノ☆」

「え……ええぇっ!!? ごっ……誤解だよっ、僕は別にそんな……。」

「宗二くん……それ、本当なのかな……かな。」

「佳奈まで!! だから誤解だってぇっ!!」

 

 残念な美少女、と優乃を理解している佳奈だが、別にそれはネガティブな意味ではない。

 こうやってみんなで他愛もない話をしている分には、そういう性格の子がいた方が楽しい。

そうわかっているからこそ、彼女の存在をとても大切に思っている。

 今もこうやって、息の合ったやり取りで宗二をからかうぐらいには。

 

「おおっと! ようやく来やがったね!! 本日のハンティングの獲物どもが!」

 

 ……と、そこに、可愛くもありながらどこか獰猛さをにじませる、幼い女の子の声が響く。

 三人揃って前を見ると、そこには部においてトラップシスターズと呼ばれる二人の片割れ、

園崎魁月(かづき)の姿があった。

 プラスチックのダミーナイフを器用にくるくると振り回し、すっかり臨戦態勢という感じだ。

 

「やーやー魁っちゃん! 今日も今日とて元気ですねぇ!」

「あたぼうよ! 今日は部活の特別イベント! 綿流祭五凶爆闘だからね!!

 気合いが入らないはずがないッ!!」

「……それ正式名称だったの!? てっきりジョークか何かだと思ってたのに!」

「あはは……転校生の人はよくそう言うね。でも、これが正式名称なんだよ。

 このイベントは、部活の黎明期からあるものでね。

 初代部長のネーミングが、今に至るまで引き継がれてるってわけ。」

「へぇ…………。」

 

 自分で説明していて思うが、よくこんなグループが二十何年も存続しているものである。

 厳密に言うと、一度だけ内部分裂で崩壊したことがあるらしいが、

次の綿流し祭りを期に早々と再結成されたとのこと。

 何だかんだで息の長いこの部活のOB・OGは、都会に出てしまっている人が多いものの、

雛見沢にもそれなりの数が残っていると聞く。

 よく注意して周りを見ると、分校のアルバムに残された、歴戦の戦士たちの顔もちらほらと……。

 

「皆様ーーっ! 遅れて申し訳ありませんわーーっ!!」

 

 などと考えているところに、愛らしい妹系ボイスが聞こえてきた。

 振り向くとそこには、部の妹分にしてトラップシスターズのもう一人、

というより主犯の少女、北条悟月(さつき)の姿があった!

 可愛らしい純白のワンピース! 園崎の血を引く者特有の若葉色の髪!

 そこに映える赤色のフチのオシャレ眼鏡!

 今日の彼女は、いつもにも増してかぁいい要素満載なのであった!!

 

「はぅぅ~!! 悟月ちゃんかぁいいよ~!! テ・イ・ク・アウトーー!!」

「ひゃーーっ!! 佳奈さんがいつもに増して激しいのですわ!!」

「そんなかな姉にストライクゾーンな服なんか着てくる方が悪いだろ……。」

「ですぅ……。」

「あ、あはは……。」

 

 ……などと、しばらくかぁいいモードの激情に身を任せた佳奈であったが、

しばらくして冷静さを取り戻す。

 そう……前原佳奈は、この部活の部長なのだ。

 今から始まる超重要イベントを前にして、いつまでも腑抜けた態度でいるわけに

いかないではないか!

 

「みんな集まったところで、確認するよ! 本日の種目はッ!?」

「「「「綿流祭屋台巡り!!!」」」」

「制限時間は!?」

「「「「奉納の舞の太鼓が鳴るまで!!」」」」

「OK! それじゃ、始めようか!! 綿流祭五凶爆闘! レディーーー……」

「「「「「GO!!!!」」」」」

 

 思わず、周りの客も振りかえるような鬨の声を上げた後、佳奈たちは五人揃って、

祭の雑踏の中に身を投じていく。

 ――最初の標的は、たこ焼き屋。

 そこでこれから始まるであろう激戦を思い浮かべるだけで、

佳奈の心は大いに昂ぶるのであった……!

 

 

 

 

 

 

「おーおー、やってますねー……若い子たちが、意気揚々と。」

 

 前方の喧騒を見つめ、わたあめをもぐもぐと頬張りながら、園崎詩音はそう呟いた。

 彼女の視線の先には、かき氷店での早食いに挑戦する現役部活メンバーたちの姿がある。

 その視線は、物珍しそうでもあり、懐かしそうでもあり、同時にほんの僅かだが、

自分も機会とあればそこに加わってやりたいとでもいうようなやる気を秘めている。

 それを見てとっているのかそうでないのか、傍らの北条悟史が応じる。

 

「言うほど君だって、そんな年じゃないだろ? 君なら現役であの子たちと渡り合えるさ。」

「うふっ☆ やだ悟史さんたら、女性を持ち上げるのがお上手なんだから!

 ……何だか……燃えてきちゃった。ねぇ悟史さん、どう? 今夜……。」

「え!? え、えーーと……。」

「はいはい! 夫婦のお惚気トークはその辺にしといてくださいまし!」

 

 一瞬ピンク色の空気になりかけたのを、後ろを歩いていた北条沙都子が割りこんで阻止した。

 沙都子は赤い顔でおほん! と咳払いをした後、じと目で二人を見つめる。

 

「盛り上がるのは一向に構いませんけど、目の前のお祭り以外のことで盛り上がるのは

 何か違うと思いましてよ!」

「沙都子……カタいことは言いっこなしですよ。ほら、見てごらんなさい……

 明らかに“お祭り以外”を楽しんでいる子たちが何人かいるじゃないですか。」

 

 少しだけ視線を部活メンバーから外し、それとは反対方向の雑踏を指さす詩音。

 なるほど、そこには、興宮からやって来たと思しき男女カップルの姿がちらほらあった。

 中には、手を繋いでいるというだけの状態で顔を真っ赤に染めている、

初々しい中学生カップルの姿も……。

 

「まあ……それはそうでございましょうけども。

 大人である以上、子供の模範になるような行動を取らねばならないと思いましてよ!」

「ほほう! これはいいことを言いますね……

 沙都子、思えばあんたも、随分大人になったものですね。」

「いつまでも、にーにーやねーねーに甘えている妹分ではないということですわ!」

「あら、頼もしい。……それじゃあ私の妹分としてではなく、部活の同志として訊きましょう。

 今年の部活メンバーを、どう見ます?」

「ふむ……佳奈さんや、優乃さんは、相変わらず正攻法で攻めていますわね。

 前もって買っておいたミネラルウォーターで溶かしながらの早食い、見事ですわ。」

「確か私たちの頃は、あれ、金魚すくいの水槽の水で溶かしてましたよね?」

「ええ。……あのやり方では味が犠牲になってしまいますが、

 ミネラルウォーターを使う分にはそれも抑えられる。

 現代人らしい見事なやり方だと思いますわ。」

「……でも、全員が全員、正攻法で攻めているわけではない。そうですよね?」

「ええ……詩音さんも気づいておられますでしょう? 悟月ちゃんのトラップに。」

 

 2人して、再び部活メンバーの争いに注目する。

 沙都子の発言通り、佳奈と優乃はペットボトルの水を混ぜつつ

順調にかき氷を消化していっているが……

突然、その手からペットボトルが弾け飛んだ!

 慌ててそれを拾いに行く2人。だがそれが原因で、体勢を崩してしまう。

 これは相当なタイムロスだ。そして……それは決して、偶然ではない。

 彼女たちの正面で、一見黙々とかき氷を食しているように見える悟月。

 その手にはよく見ると…………何個かの輪ゴムが握られている……!

 

「かき氷をペースを落とさず食しつつ、密かに輪ゴム鉄砲で他のプレイヤーを狙撃する。

 ……さすが沙都子の教え子です。こんな場所でもトラップの使用に余念がありませんね。」

「いえいえ。私もあんなトラップは思いつきませんでしたし、もちろん伝授など

 しておりませんの。あれは、彼女が自分で考えたトラップなのですわ。」

「我が娘ながら、恐ろしい子……!」

「……ただ、それで独走させてくれるほど、甘くないのが部活ですわね……。」

 

 そう言った沙都子が見つめる先。淡々とかき氷を口に運んでいる悟月……。

 その悟月が、突然ゴホゴホとむせ始めた!

 これまた相当のタイムロス、そして…………そんな悟月の背後には、

やはりかき氷を頬張りつつも、タバスコの瓶を持ちにやりとほくそ笑む魁月の姿が!!

 

「あらあら……お姉の愛娘も、なかなかやりますね……。」

「勝負の行方、わからなくなってきましたわよ……ほら、宗二さんも。」

 

 沙都子の指さす先には、金魚すくいの水槽をバックに、ものすごい勢いで

かき氷をかきこむ仲瀬宗二の姿があった。

 その姿は……かつてこの部活でルーキーだった頃の、前原圭一を連想させる。

 

「圭ちゃんと同じく、気がついたようですね。この場における最適解に。」

「発想力も、思いつきを実行する根性も、昔の圭一さんと同じぐらいありますわね。

 ……これは、本気で今後が楽しみになって参りますわ。」

「……………………」

「ねえ、梨花さんからも何かコメントないんですか? 我らが部活の後輩たちについて。」

「……え? あ、そうね…………私は、特に優乃を推したいわ。

 さっきは虚を突かれてしてやられたけど……結構、トラップには耐性があるみたいよ。

 わたあめ屋での勝負を見たけど、悟月のトラップを、全部かわしてみせてた。」

「まあ。おっとり屋さんかと思いましたけど、意外とやるものですね!」

「おーい、詩音! リンゴ飴を買ってきたよ。食べないかい!」

「あら悟史さんたら、気が利く!」

 

 詩音は五凶爆闘の観戦を中断して、悟史とリンゴ飴を食べることにしたようだった。

 その場には、沙都子と梨花が残される。

 いつになくしまりのない表情で部活メンバーの戦いを見つめる梨花。

 その背中に、沙都子が声をかける。

 

「……羽入さんの、こと?」

「え……?」

「さっきから梨花がぼーっとしているのは、羽入さんのことを考えているからですわね。

 そうでしょう?」

「…………。」

 

 梨花の表情からすると、その指摘は図星のようだった。

 梨花は、戸惑いの表情を見せていたが……しばらくして、口を開く。

 

「……どうして、わかったの? 私は何も言ってないのに。」

「それは親友の勘というやつですわ。あと……最近、私、昔の事をよく思い出すんですの。

 みんなで部活をやっていた、あの頃を。

 圭一さんや、魅音さんも同じようなことを言っていましたの。

 だとしたら……梨花もそうではないのかと、思いましてよ。

 よく覚えていますもの。羽入さんがいなくなったと私たちに告げた、

 梨花のあのどうしようもなく悲しげな表情は……。」

「…………なるほど。それはなかなかの名推理ね。」

「あれから、またいくつか古文書を解読し終えたのでございましょう?

 何か新しくわかったことは?」

「……特にない、というのが正直なところね。御三家の血のつながりについて、

 興味深いこともわかったけれど、依然として、古手家のルーツには謎が多いわ。

 なぜ羽入が突然、消えてしまったのか、あいつがどこへ雲隠れしたのか……

 それを明らかにするには、まだまだ時間がかかると思う。」

「そうでしたの……。」

 

 沙都子は、梨花の話していることが真実だとわかっていた。

 だが同時に、梨花が何か強い気持ちを、まだ隠し持っていることにも気がついていた。

 一体梨花は今、何を想っているのだろうか?

 それを沙都子は少しでも知りたいと思い、梨花に声をかけようとして……

 

 

「キャアアアアアーーーーッ!!!」

 

 

 突然、祭の会場に響く、あられもない悲鳴。

 祭の会場の人々の目が、そちらに向く。

 当然、梨花と沙都子も考えるのをやめ、そちらを振り向いた。

 そこには、一人の女性が腰を抜かして倒れていた……。

 

 

 

 

 

 

「な……何だ? 何が起こったんだ??」

 

 宗二が、かき氷をかきこむ手を止めて、落ち着きなく辺りを見回す。

 そして佳奈も、他のメンバーも、彼ほど動揺してはいなかったにせよ、

勝負の手を休めて周囲を観察する。

 ……とても、嫌な感じがした。確実に、面倒事に発展していきそうな、トラブルの臭い。

 そして……それは、かん高い悲鳴を上げた浴衣姿の女性の辺りから、濃厚に漂ってきていた。

 地面に尻餅をついて、一体何に怯えているのか、神経質に目の前の人々を見ている、

二十代ほどの女性。

 その顔に見覚えがあった。……いつもより数段化粧っ気が増しているが、間違いない。

 佳奈たちの通う分校に務める、椎野(しいの)という若い女性教師だ。

 椎野は、大丈夫ですか? などと言って近寄ってくる祭の客たちを呆然とした表情で

眺めていたが……すぐにはっ、と何かに気づいたような表情になった。

 浴衣の裾に付いた汚れも気にせず、パッと立ち上がって、近くに並んで立っている男を――

いや男たちを、指さして、叫んだ。

 

「と……盗撮です!! この人たちが、私の写真を!!」

 

 ――何だって!?

 盗撮。言葉にすると簡単だが、聞き捨てならない言葉だ。

 他人の姿を、相手に無許可で撮る行為。特にそれは、男性が女性に対して行う場合、

性犯罪の色を帯びる。

 そんなことを――この、三人の男たちが?

 佳奈と同じことを考えたのか、男たちの周囲の客たちが、咎めるような眼差しで

彼らを見始めた。

 そんな視線を鬱陶しそうに見やり、三人のうちの一人――サングラスの若い男が、

椎野に向かって言う。

 

「おうおう姉ちゃん、大層な言いがかりをつけてくれるじゃねえかよ。

 ……証拠はあんのかよ、証拠はよ!」

「しょ、証拠って……あなたたち、確かにさっき、カメラか何かで私を撮って……!」

「あぁん? そんなもん証拠になるかっつーの!!」

「勝手な妄想でお縄になるってんならな! この世はとっくに冤罪地獄だってんだよ!」

 

 サングラスに続き、眼帯を付けた男も女性の攻撃に回る。

 ……正直、男たちの方があまりにガラが悪すぎて、彼らが無実だとは思えない状況である。

しかし彼らの言い分にも一理ある。

 いくら「見たんだ」と主張したところで、それを立証するものがなければ

男たちを捕まえることはできない。

 何か決定的なものを突きつけることができなければ……これ以上男たちを追及することは、

不可能だ。

 だが椎野の様子を見る限り、新しい証拠が出てくる気配はない……。

 その様子に、男たちは自分たちの勝利を確信したようだ。椎野のことを鼻で笑い、

何かまた新しい暴言を投げつけようとして――

 

「証拠なら、ちゃんとありましてよ?」

 

――その直前に響いた、凛とした声に、それを妨害された。

 何事か、と男たちが声のした方を向く。佳奈たちも同じだ。

 そこには――佳奈たちの同居人にして、所属する部活のOGである女性。

 北条沙都子が立っていた。

 

「……あぁん? 何だ姉ちゃん、部外者が首突っこんでくるんじゃねーよ!!」

「確かに。……確たる証拠も何もなく、ただ感情的に口を挟んだのならお邪魔ですね。

 けれど……あいにくそんな野暮な真似ではありませんの。私……見たんですのよ。

 そこのあなた……マスクの彼が、今、こっそりとカバンのチャックを閉じていたのを!」

「な……何ぃ!!?」

 

 沙都子に指名されたのは、今まで口論には加わらず、サングラスと眼帯の後ろで

漫然と立っていた、前髪の長いマスクの男だった。

 確かに、男はカバンを腕から提げている。……カメラか何か入れていても、

決して不自然にはならないような大きさのカバンを!

 

「ばっ……バカか、てめえは! それもさっきのと同じ、証拠にならないでっち上げじゃねーか!

 どうやって証明すんだよ、コイツがカバンのチャックを閉じてたってよ!」

「別に、そこの是非についてどうこう言っているわけではありませんの。

 私が言っているのは、あくまでそこのカバンが“疑わしい”というだけのことですのよ。

 ……あなた、自分が無実だと言い張るつもりなのですよね?

 なら……その怪しいカバンの中を改めさせてもらっても、問題はないということになります。」

「く……な、何を……!」

「ああっ! そういえば前にテレビのドキュメンタリーで見たことがあります!」

 

 沙都子の後ろから、どこかわざとらしい大げさな声が上がる。

 誰かと思えば、悟月の母親――北条詩音だった。

 

「確か……駅のエスカレーターで女性の背後に立って、その下着を撮影しようとした

 男の手口だったはずです。大きめのカバンを用意して、その中にビデオカメラを入れる。

 そうすることで、あくまで周囲には不自然な行動と悟らせないまま、盗撮をしていた

 ということでしたね。

 まあ、結局駅の警備の人に逮捕されたんですけど。」

「なっ……そ、それが……一体……。」

 

 それが一体何だ、と言いたいのだろう。

 実際、今詩音が言ったことはあくまでテレビで観たドキュメンタリーの話で、

目の前で繰り広げられているいざこざとは無関係だ。

 だが、明らかに今の話を聞いて、男たちは焦りはじめていた……。

 ちらちらとカバンを持った男の方に視線を送り、どこか挙動不審になり始めている。

 恐らく、そうさせることが狙いで、詩音はあんなことを言ったのだろう。

沙都子への援護射撃として。

 北条沙都子の注意力・観察力。園崎詩音の心理掌握術。

 これが元部活メンバーの力か、と佳奈は内心舌を巻いた。

 

「……さぁ、どうなんですの? そのカバンの中身、見せるのか、見せないのか!」

 

 沙都子が、三人の男に向けて息巻く。それに対して、男たちは明らかに押されている。

 ……このままカバンの中を改められて、何か証拠を発見されて、それで終わりか。

 佳奈はそう思った。部活の皆も、周りの客も、きっと同じように考えたことだろう。

 …………だが。

 

 

「ふふふふふ……くくくくく! くく、あーっひゃっひゃっひゃっひゃ!!」

 

 

 突然、サングラスの男が狂ったように笑い出した。

 皆、怪訝そうに男を見る。それは、沙都子や、詩音もだった。

 ―― 一体、この男は何を考えているのか!?

 そう思って皆が見つめる中、サングラスは笑うのをやめて言った。

 

「で、どうすんだよお姉ちゃん? 仮に俺たちが美人教師を盗撮してたとしてな、

 お前ら俺たちを捕まえられんのか?」

「な……何ですって!?」

「何のために、こんなクソ厚い中、こんな恰好してると思ってやがんだぁ!」

「サングラスに、マスク……面が割れなきゃ、そうやすやすと捕まることはねーよ。

 ……仮に捕まるとしてもだ、ただ捕まるだけで終わりゃしねー。

 恥をかかせてくれたお返しだ、さっき撮った分のデータ、

 ネット中にバラ撒いて晒してやるよ!」

「な……何ですって!!?」

 

 想定外の展開、男たちの圧倒的な底意地の悪さに、沙都子が唖然とする。

 そしてその瞬間――眼帯を付けた男が動いた。

 袖口から取り出したカメラのようなものを、沙都子に突きつける。

 そしてそのレンズから、フラッシュの光がほとばしった!

 

「…………っく!!」

「ふふん……よく見りゃあんた、診療所の美人ナースの北条沙都子じゃねーか。

 マニアの間じゃ相当有名だぜぇ? ……せっかくだ、あんたの写真も撒いてやるよ。

 全国のナースマニアが狂喜乱舞するだろうぜ!」

「フゥゥ! いいねぇ! 喜ぶ全国の同志諸君の顔が、目に浮かぶようだぜ!!」

「……兄者たち、そろそろいいだろ。ずらかろうぜ!」

「ああ、そうだな。……あばよ、美人ナースさん!

 次に会う時までに、口先以外も磨いておくんだな!!」

「あっ……こら、待て!!」

 

 まずマスクの男が、次に眼帯が、最後にサングラスが、順番に駆け出し、

進行方向に進む客を突き飛ばしながら逃げようとする。

 沙都子はとっさに、袖口から何かスプレーのようなものを取り出したが、間に合わない。

 普通の変質者なら、それで仕留められただろう……だが、相手が一枚上手だった!

 逃げる動きがあまりにも洗練されていて、今まで傍観者に徹していた客たちは、

彼らを止めることができない。

 ……このまま逃がしてしまうのか!?

 佳奈を含めた客たちが、そう思った、その時。

 

 

「……ふざけんじゃないわよっ!!」

 

 

 怒りを爆発させて、叫んで、走り出した女性がいた。

 沙都子の背後で成り行きを見守っていた、古手梨花だった。

 沙都子でさえ、思わず足を止めてしまったほどの距離。

尚更、梨花には追いつきようもないように見える。

 だが、それでも梨花は走る。何かに憑かれたように、罵倒を吐き散らしながら――走る。

 

「この祭はっ! ……あんたにとってはただの、盗撮のチャンスでしかなくても……!

 私たちにとっては特別なものなんだ! 私の……私“たち”にとっての、特別な祭なんだ!!

 そんな祭でふざけたことをやらかして! それでのうのうと逃げおおせようなんて! 絶対……

 絶対許さない!!」

 

 その鬼気迫る様子が、男たちにも伝わったのだろう。いまいちよく見えないが、

少しだけ走る速度が遅くなった。

 ……だが、それでも、男たちとの差は歴然。追いつかない。

 ……どうすればいいのだろう。

 男たちを捕まえるのに……自分は、何をすれば。

 誰もがそう思い、自らの非力さを痛感して、目を閉じかけた時に――

 

 

「悪ぃなお前ら。……ここは通行止めだぜ。」

 

 

 そこに――“彼”は現れた。

 誰も、何も感じなかった。本当に、まるでどこかからテレポートでもしてきたみたいに、

三人の男たちの前に、彼は、立ちはだかった。

 彼の服装は黒いスーツ。優男風の外見だが、その眼光は鋭い。手には何か、

警棒のようなものを携えている。

 その、何とも言いがたいが、他人を引きつけるような気迫に呑まれて、三人の男が立ち止まる。

 そして――その三人に対し、彼は語りはじめた!

 

「お前たちがエロに命を賭けているらしいこと、それは俺にも伝わった。

 ……確かに、エロとは本来崇高なものだ。それに命を賭けること自体はまったく正しい……

 だがッ! お前たちはエロに傾倒するあまり、美少女や美女を敬う心を忘れたッ!!

 そんな外道を俺は許さない!」

「貴様……何者だ!!」

「俺の名はK……口先の魔術師・Kだ!!」

「「「Kぇぇぇぇーーーーい!!!」」」

 

 同じく、一体どこから現れたのか、Kと呼ばれた男の周りに集まった取り巻きが絶叫する。

 いや……Kと呼ばれた男、なんて他人行儀に語る意味はもはや無い。

 なぜなら……彼は他でもない、佳奈の父親なのだから……!

 

「け……K、だと……!?」

「聞いたことがある……聖地エンジェルモートに時折思い出したように降臨し!

 萌えやエロにこだわるあまり道を踏み外した者に、正しい道を説いて去っていく! 

 伝説の萌えの伝道師!!」

「それが……アイツだとでもいうのか……!」

 

 どうやら、父親に関して、いろいろと変な噂が立っているらしかった。……初めて知った。

 時々エンジェルモートに喜び勇んで出かけていくことは知っていたけど、

まさかそんなことをしていたなんて。

 驚き半分、恥ずかしさ半分で、何だかいたたまれないような気持ちになる。

 

「くっ……だがKと言えども、俺たち三人を同時に止めれるはずはねぇ!」

「突破してやるよぉ! 俺たち三人! 力を合わせてなぁ!!」

 

 ……三人の男たちは、まだ諦めていないようだった。

 父の左・前・右の三方を取り囲んで、威嚇する。

 ……だが! そこにまた突然、横から助太刀が入ったのだった!

 父の背後から滑らかな動作で現れた別の男が、父の右横に立つ眼帯の腕を掴んだのだ!

 

「な……何すんだこの眼鏡! 放せ! 放せよ!」

「いけませんねぇ……神聖な綿流しのお祭りに、こんな不貞の輩が紛れこんでいようとは!」

「うるせぇ! てめぇ何者だ!!」

「私の名はイリー! メイド王のイリーだ!!」

「な……何ぃ!?」

「メイド王のイリー! 聞いたことがあるぞ!」

「聖地エンジェルモートにおいては、Kよりも発言権があるかもしれないと噂される

 伝説のメイドマニアだ!

 エンジェルモートのレジェンドと噂される奴らが、なぜ二人も!?」

「……レジェンドって……あれどう見ても、監督だよなぁ、優乃……?」

「ですぅ……」

 

 傍らの魁月と優乃が、呆気にとられた様子で会話する。

 佳奈も似たような気持ちだった。いい歳をして何をやっているのだろう、この人たちは!?

 

「くっ……ならこいつはどうだ、イリーさんよぉ!!」

「……何と!?」

 

 眼帯はしぶとく抵抗する。何と、側に立っていた無関係の老人の襟首を掴んで、

監督の方へ突き飛ばしてきたのだ!!

 監督は老人を受け止めざるを得ず、従って眼帯は監督の手から自由になる……はずだった。

 だがその目論見は失敗する。横から現れた別の男が、突き飛ばされた老人を

受け止めたからだ!

 

「自分の身が危ういからって、年配の人に対して暴力とはな。

 ……まったくお前ら終わってやがる。終わってやがるぜ!」

「き……貴様も仲間か! 何者だぁ!」

「俺はブルマー戦士・コニー!! エンジェルモートの超新星にして、Kの永遠のライバルだ!」

「えっ……ちょっと待って! あれってひょっとして分校の……」

「……興二(こうじ)先生!?」

「あの人もお父さんの仲間なの……?」

 

 ひょっとして、佳奈の周りの男性はこういう変態ばかりなのだろうか?

 ……頭が痛くなってくる。

 せめて宗二だけは、こういう方向性には染まらないことを願いたい……。

 

「ひっ! ひぃぃ……助け……!」

「おっと。さすがに逃がすわけにはいかないなぁ。現行犯だし。」

「あ……ひ、ひぃぃ……!」

 

 すっかり父たちに気圧されて、怯えて逃げようとしたマスクを、別の人影が捕まえる。

 その人は……何だろう、どこかで見たような気がした。

 さっきの言い方からすると……警察官?

 

「さぁ、署で話を聞かせてもらおうか?」

「あ……あんたは誰だ!!」

「熊谷勝也。……刑事だよ。」

「よぅテディ! 興宮からわざわざ来てくれるとはご苦労なことだな!」

「けいい……K。その呼び方はやめてくれと前にも……。」

「よぅし、これで四人全員揃ったぜ!!」

 

 悪党三人を取り囲むように集結する、父たち四人の謎の集団。

 彼らは一人ずつ、何やらポーズをとり、叫ぶ。

 

「K!」

「イリー!」

「コニー!」

「……て、テディ!!」

「4人揃ってぇ!!」

「「「「ソウルブラザー!!!!」」」」

 

 古式ゆかしいヒーロー然とした名乗り。そしてポーズ。

 その姿を見た祭の客たちの一部が何やら驚愕し、どよめき出す。

 

「そ……ソウルブラザーだって!? 雛見沢が混沌に陥るとき、必ず現れるというあの!」

「漢でない者が引き起こす、卑怯で卑屈な事件の起こるところに、必ず現れるという

 ソウルブラザー……まさか実在したとは……。」

 

 この村の人たちの頭の中が心配になってくるが、まあそれはいい。

 盗撮犯三人組は、いまや完全に袋のネズミとなっていた。

 前方にはソウルブラザー4人(そのうち1人は警察官)。

 後方には、ようやく追いついてきた梨花、沙都子、詩音。そしてその傍らには、

父の古い友人である富田・岡村の姿もある。

 

「さぁて……心の準備はできてるかしら? この不届き者ども!!」

「ひっ……ひぃぃ!!」

「や……やめて!! 見逃してください!! 映像のデータ全部返すから!!」

「……ふん、ダメだな! そらみんな、犯人どもをとっちめちまえ!!」

「「「「おおーーーっ!!!」」」」

 

 父の号令の下、熊谷を先頭に、興二、富田、岡村などが三人の犯人を取り囲んで拘束していく。

 三人は当初は泣き言などをわめきながら抵抗していたが、すぐに大人しくなった。

 熊谷が無線を取り出して、何やら連絡し始めたところで観念したのかもしれない。

 その一連の様子を、佳奈たちは輪の外から眺めていたのだったが。

 そんな様子の佳奈たちを見つけて、父は悠々とこちらに歩いてきた。

 

「よう、佳奈! 部活のお仲間も一緒か! どうだ、祭を楽しんでるか?」

「え……ええ、まあ……」

「そこの盗撮犯たちが現れるまでは、確かに楽しんでおりましたが……」

「なぁに、そこの奴らは気にすることない。……ただの祭の余興みたいなもんだと思っとけ。

 お前たちはお前たちのやり方で、ちゃんと祭を楽しめばいいのさ。」

「祭を……。」

「……たの、しむ……。」

「そうだ。……ホラお前ら、時計を見ろ!

 奉納の舞が始まるまで、もうあんまし時間がないぞ!」

「ああっ! たっ、確かに……!」

「部活は年中いつでもできるが、綿流しの祭は年一だ!

 楽しめるときに楽しんでおかないと、後で後悔するぜ!」

「……そうだね、わかったよ、お父さん。

 ……みんな! それじゃ、綿流し五凶爆闘! 再会するよ!!」

「「「「おおーーっ!!!!」」」」

「でもお父さん! さっきの口先が何だとか、その辺の話は水に流したりしないからね!

 後でじっくり話を聞かせてもらうよ!!」

「ええぇぇっ!!? お、おい佳奈、ちょっと……!」

「はぁい、じゃあみんな! 次は射的屋に行くよ! よぉい、どん!!」

「おいちょっと!!」

 

 背後に響く父の叫びを聞きながら、佳奈は、仲間たちと一緒に露店の並ぶ道を駆け抜けていく。

 父親のよくわからないキャラ付けには、正直ドン引きした佳奈だったが。

 それでも、祭の貴重な時間を守ってくれたことには、ちゃんと感謝しているのだった。

 

 

 

 

 

 

「……ったく、あいつ…………って、おお、梨花じゃないか。お前も来てたのか?」

 

 圭一にそう声をかけられて、ようやく梨花は我に返った。

 さっきまではあの男たちのことで頭がいっぱいで、他のことを考える余裕がなかったのだ。

 改めて、目の前に立つ圭一を見る。

 黒いスーツを着こなして、警棒というそれなりに物騒な武器を携帯する圭一は、

昔の記憶の中に残るどこか幼さを残した顔立ちの、細身の少年の印象とは

だいぶ違ってしまっている。

 今の仕事を始めてから、それなりに筋肉を増したようで、そのことも

記憶との印象の違いを強めている。

 だが、それが何だ。

 圭一は、圭一だ。いつも、仲間たちがピンチの時になると颯爽と現れて、力を貸してくれる。

そして、美味しいところを持っていってしまう。

 そんな……部活の皆にとっての、そして梨花にとっての、ヒーローなのだ。

 

「……ありがとう、圭一。おかげで少し、吹っ切れたような気がするわ。」

「え? おい梨花、それって一体どういう……。」

「何でもない!」

 

 梨花は、そう言って圭一の言葉を遮り――

とびっきりの笑顔で、彼の労に応える。

 

「いつもありがとうね、圭一!!」

 

 

 

 

 

 

 ――そして、祭の晩は、いつもの喧騒の中で更けていった。

 梨花は、今年も今年とて、奉納の舞をしっかりとやりきった。

 ……正直、舞そのものは、昔よりずっと楽になってきている。

 昭和58年の頃に比べれば、身体がしっかりできているから、

鍬も圧倒的に振り回しやすいのだ。

 昭和58年に積み重ねた記憶を元にすれば、手順を間違えることもない。楽な仕事だ。

 それでも……梨花はこの舞において、手を抜いたことはない。

 なぜならそれは……大切な、儀式だからだ。

 辛いことも、喜ばしいことも、みんなこの祭を通じて学んできた。

 普段から感じている仲間たちとの繋がりを、特に強く感じられるのもこの祭だ。

 だから……梨花は、奉納の舞で手を抜かない。

 特別な祭を、特別なままで終わらせるために、今年も全力で舞を舞うのだ。

 

 

 

 

 

 

「ほら、宗二くん。こうやるんだよ、よく見ててね……

 ワタは右手で、左手で払う……それから額、胸、おへそを……。」

 

 佳奈たち部活の面々が、新人である宗二に綿の流し方を教えている。

 宗二はぎこちないながらも、動きをちゃんと把握して、自分のワタを流していく。

 ……そんな様子を、背後からひっそりと見守っているのは……言うまでもない。

 圭一に魅音、悟史に詩音、それに沙都子、梨花。

 彼らの親を含む、初代部活のメンバーたちだ。

 

「宗二くんと佳奈ちゃんってさ、なかなかいい雰囲気じゃない?

 ああいうのを見てるとさ、おじさん若い頃を思い出すねぇ……。」

「そ……そうかな。俺には、ただの仲のよい友人同士にしか見えねえが……。」

「あらあら圭ちゃん、過保護な親にありがちな娘への執着心ですか?

 良くないですねぇ~。」

「いや、圭一のことだから、単に恋愛事に弱いだけかもしれない。

 昔から、そういうのになるとてんで鈍感だったよね……。」

「おぉい悟史! 詩音! お前らちょっと言い過ぎだぞ!!」

 

 昔と違って、皆、大人としての風格みたいなものがある。

 でも、みんなで他愛無い話をして盛り上がるのは、昔と変わらない。

 そんなどこか奇妙な光景を見ながら、梨花はふと、頬を緩めて微笑んだ。

 ぱっぱ、と袴についたホコリを払って、傍らに立つ沙都子にだけ聞こえる声で言う。

 

「ねぇ沙都子。……私、絶対諦めないわよ。」

「……え?」

「……羽入のこと。あいつ、消えていっちゃう時も、絶対に『死ぬ』とか、

 『命』がどうとか、言わなかったんだ。

 だったら、やっぱり、どこかでまだ生きてるんだと思う。

 ……そうだとしたら、私は諦めない。

 どんなに時間をかけたとしても、羽入のところへ行く方法を見つけて……

 必ずあいつを、この雛見沢へ連れ戻してみせるわ。

 あいつがダメだと言ったとしてもね。」

「梨花…………。」

 

 沙都子は、それが梨花にとって辛い戦いになるのだと理解していた。

 前に、梨花が話しているのを聞いたことがある。障害に立ち向かうことが戦いなのではなく、

本当の戦いは選ぶこと。選び続けることなのだと。

 そして今梨花は、辛い決断をしようとしている。

 そのことを、沙都子は必ずしも快く思わない。けれど……。

 

「もし、羽入さんのところへ行く手がかりが、見つかったら。」

「……うん?」

「その時は、私たちも一緒ですわよ、梨花。……全員は、揃わなくなってしまったけれど。

 それでも私たちはやっぱり、部活メンバーなのですわ。

 みんなで……みんなで、羽入さんを迎えに行く。それが、正しいことだと思いましてよ。」

「…………そうね。まったくその通りだわ。ありがとう、沙都子。」

 

 

 

 

 

 

 そんなことを話しているうちに、梨花と沙都子の番になった。

 手慣れた手つきで、二人は川に綿を流す。

 そして……そんな二人を、残る四人が背後で見つめている。

 川面に映る影は、六つ。……本来あるべき影が、二つ欠けてしまっている。

 ……けれど、梨花はもう、心を揺らしたりはしなかった。

 例えそこに影が六つしかなくとも、私たちの魂は常に八つ。

 それは、時がどれだけ巡ろうと変わらない、真実なのだ。

 

 

<了>

 

 

 

 

 




いかがでしたでしょうか。
「こんなのひぐらしじゃない」という思われた方は、きっといるのではないかと思います。
そうしたことを考え、「わざわざこんなものを今更投稿する意味があるのか」と思ったりもしました。
それでも投稿しました。
それは、自分なりにこの作品にとても愛着があり、
二次創作とはいえそれに連なるものを、粗末に放り出したくはなかったからだろうと思っております。

ヲタを語るときと、真剣に人を信じることを語るときのギャップがすごい圭一が好きです。
心の中に強い狂気を持っているのに、周りの人間を無条件に幸せにできるような雰囲気を作れるレナが好きです。
いろいろ読者から厳しいツッコミを受けつつも、ぶれずに姉貴分を続けている魅音が好きです。
萌え属性山盛りでありながら、重い過去も同時に背負っている沙都子が好きです。
思っていることを、解決編であらかた語ったはずなのに、なおミステリアスさを残す梨花が好きです。
とても善人とは呼べない性格ながらも、魅音とは違った魅力をもって心を引きつけてやまない詩音が好きです。
後発のキャラクターにも関わらず“神”として、強い存在感を示す羽入が好きです。鷹野の賽銭を跳ね返す場面は最高だと思います。
それ以外にも――富竹、鷹野、入江……好きなキャラクターは山のようにいます。

昔の事なので、よく覚えてはいませんが、多分そんなキャラクターたちのために何かがしたくて
この物語を書きはじめたのだと記憶しています。
扱いが決して良くない状態のキャラ(特にレナと羽入……)も出てしまいましたが、
私はそれをどうやって償えばいいのでしょう。
これから考えていきたいと思います。

最後になりましたが、この作品を最後までお読みくださり、
本当にありがとうございました。


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外伝 ~宵闇を駆ける~

十宮恵士郎です。
前編・後編だけでは伝えきれなかった想い、かつて某掲示板でこの作品を愛してくださった方々への感謝をこめて、外伝と解答編をお送りします。

外伝は、この世界・この時代での圭一をフィーチャーした物語です。
あまり長くはありません。
けれど、この世界で生きている圭一がどんな生活を送っているのか、少しでも垣間見ることができるかと思います。

解答編は、前編・後編・外伝を踏まえた上で成り立つストーリーとなっておりますので
解答編を読まれたい方は、先にこの外伝を読んだ方が良いかと思います。

それでは、どうぞお楽しみください。


 

 

 

 

 ――それは月が空によく映える、6月の夜のこと。

 

 

 

 

 

 

「ひゃっははは! あの時のババアの顔ったら、たまらなかったっすねえ!!」

「ああおめえ、そりゃあそうだろうよ。見知った介護サービスかと思いきや、開けてびっくり覆面4人組じゃなあ! そりゃ驚くだろうよ。

……むしろそこでびっくり仰天してもらえるから、こちらとしても襲い甲斐があるんだがな!」

「違えねえや!! はは!!」

 

 興宮の町。その中心部から遠く外れた郊外に立つ一軒のアパート「ハイツ間宮」。ほとんど電気が消えたそのアパートの中でただ一室、電気をつけたままの部屋がある。1階の中辺りに位置するその部屋の中には、酒を飲んで騒ぐ、ガラの悪い4人組の男の姿があった。

 4人のいる部屋は投げ捨てられた雑誌やビールの空き缶、ボックスティッシュ、近隣に展開する大型店舗「セブンスマート」のビニール袋(恐らく、彼らはそこで酒を買ってきたのだろう)などで汚らしく散らかっている。その上に、長いこと使われたくしゃくしゃになった、といった風情の汚らしい紙束が転がっていた。紙束の表紙には、簡潔に「計画書」とだけ、ワープロじみた活字で印字されていた。

 

「それにしても、女木(めぎ)さんヤバいっすねー。介護サービスのオンナ、狙って落として、情報ふんだくって、強盗に利用。こんなエグい計画、あんた以外に思いつく奴なんているっすかねー?」

 

 語尾を妙に伸ばす癖のある茶髪バンダナの男が、一番奥に座る男に声をかける。

 女木、と呼ばれたその男は、スーツに撫でつけた髪、そして眼鏡と一見知的に見える外見だが、服の上からでもわかる屈強な肉体と、眼鏡ごしでもわかる鋭い、しかしどこか腐ったような眼光から、少なくとも単なる会社員などではないことが感じ取れる雰囲気を醸し出していた。

 

「……そんなもんでもないさ。世の中探せばもっとうまいことやって、うまい汁吸ってる連中がいくらでもいる。僕なんて、そいつらと比べれば単なるチンピラに過ぎないだろうよ。

 それより、そういう話をここであんまりするもんじゃないよ。ご近所さんに聞かれたらどうするつもりだ?」

「大丈夫だよ! お前が言ってたんだろうが、両隣りの部屋には誰も住んでねえってよ!! ったく、お前はホントに心配性だな。ま、そんぐらい頭が回るからこそ、頭のワルい俺らのリーダーやってもらってるんだけどな!!」

「違えねぇ!! ひゃははははははっ!!」

 

 細いががっしりとした体つきで、笑顔を絶やさない金髪の男が女木の肩をばしんばしんと叩く。それに応じて、隣に座っている銀色のアクセサリーをくまなく全身に装着している男がかん高い笑い声を立てた。

 それを機に、酒盛りが再開される。茶髪バンダナが袋から新しい酒を出し、シルバーアクセの男が配り、金髪と女木が受け取る。そうしてめいめいが新しい酒を開け、ちびちびやっていた時だった。

 不意に、部屋の照明が落ちた。部屋の明かりは天井の蛍光灯一つきりだったので、急に室内が真っ暗闇になる。かろうじて、月の光で互いの顔が確認できる程度だ。

 

「あ? どうしたんだよコレ。停電か?」

「ったくよー、これからだって時にわけわかんねーっつーの。やってらんねー! クソが!!」

「……いや、そうでもねぇみてぇだ。……外。俺たち以外のところ、普通に点いてるっぽいぜ?」

 

 金髪が部屋の奥のガラス戸を勢いよく叩き、全員が一斉に窓を見る。

 確かに、町の明かりは普通に点いていた。ということは、停電ではないようだ。

 

「停電じゃねえって……じゃあ何で電気落ちてんだよ。」

「ブレーカー、なわけはないな。そもそも蛍光灯以外に電気なんか使ってない。」

「……じゃあ、何だってんだ?」

 

 とんとん、と唐突にドアがノックされた。あまりの唐突さに、4人のうちの誰も、それに反応できない。ただ首を僅かに傾げて「空耳か?」と言った雰囲気でそのドアを見る程度だ。

 何しろ今は夜だし、四人にこんな夜中に訪ねてくるような知り合いなどいないはずなのだ。

 だが再び、どんどん、というノックの音が室内に響く。ここに至ってようやく、4人はドアの外に何者かがいることに気づく。間違いなく、知人ではない。……では、誰?

 4人は、何をするでもなく床から動けない。一体ドアの外にいるのは何者か、掴みかねているのだ。

 しかし、そのノックの音が突然、どぉん、という、ドアを破らんばかりの轟音を発するようになると、さすがに彼らも腰を上げざるを得なかった。

 女木はドアの向こうにいる存在に何か不穏なものを感じたようで、表情が一気に厳しくなる。

 だが他の3人は女木の変化に気づかない。一番ドアに近いシルバーアクセが、不用意にもドアに近づいていく。

 

「……うるせえな! 何の用だおら!! 答えによっちゃあただじゃ……

 どわああっ!!」

 

 シルバーアクセがドアの鍵を外した瞬間。ドアがものすごい勢いで内側に開き、彼の顔を強打する。

 地面に倒れ伏した彼にも構わず、ドアを通り抜けて室内に走り込んでくる人影。だが月が雲に隠れてしまったのか、その全容は暗闇の中でよく見えない。

 やがて、雲が晴れ、月の光が室内に流れ込む。呆然と周りを見る4人組。

 突然の闖入者は、ドアを乱暴に破って室内に突入した男が2人と、ドアの前で腕を組んで立つ1人の男の計3人だった。

 全員が黒服。大柄で背の高い2人組に比べて、ドアの前の1人は背が低く、体格もそんなに良くはない。だが、この状況で何もせず残る2人の動向を見守っているところからして、3人の中のリーダー格と見るのが適切だろう。

 

「……ってえ!! っな……てめえら一体なにもんだあ!!

 いきなり人んち上がってダンマリかぁ!! ふざけてンじゃねえぞお!!」

 

鼻を押さえながら何とか起き上がり、叫ぶシルバーアクセ。答えたのは、廊下に佇む男だった。

 

「女木美郷(みさと)と、銛田(もりた)浩介(こうすけ)。他友人2名で間違いないな?」

 

 突き放したような冷淡な一言。その一言に面喰いつつも、奥に座るうちの一人、金髪が発言する。

 

「確かに。俺が銛田、こいつが女木だ。……だがお前らは何だ? 何の権利があってこんな……」

「……園崎組だ。名前ぐらいは知ってるだろう?」

 

 4人組の間に緊張が走る。確かに、その名前はこの地元では有名だった。

 園崎組。それは興宮を中心に鹿骨市内に強い影響力を持つ暴力団の名称だ。

 女木のコネで最近この辺りに引っ越してきた彼らはこの組織に関して詳しくは知らない。だが雛見沢とか言う観光名所の村の名家と提携していてその名家の苗字を掲げていること、最近何やら暴力団らしからぬ方向に変化しつつあることなどは噂として聞いていた。

 ……その園崎組が、なぜ!?

 シルバーアクセとバンダナは状況を把握しきれずただただ呆然とするばかりだったが、銛田と女木は何か思い当たるふしがあったようだ。

 ちらりと目線を交わし、女木が頷くと、銛田が両手をポケットに突っ込んだまま、ドアに向かって歩き出した。酒盛りのとき始終浮かべていた一見柔和な笑みを浮かべながら、ドアの外の男に話しかける。

 

「ちょっと待ってくださいよ……ヤーさんが、うちら一般市民に何の用です?」

「最近、興宮近辺の老人宅、特に資産のある家が連続して襲われている。抜け目のない犯人で、目撃証言も少なく、証拠をほとんど残さず逃走中だそうだが……知っているよな?」

「……ええ、まあ新聞とか、テレビで流れてましたね?」

 

 穏やかな表情で当たり障りのない返答をする銛田。だが、目の前の男は冷淡な態度を崩さない。

 

「ニュースの話をしてるんじゃない。お前たち自身に覚えがあるはずだ。……言い逃れがあるなら、やってみろ。」

「ええー、そんな急に言われてもあたしには何のことだかッ!!!」

 

 瞬間、銛田の左手が一閃した。ポケットから瞬時に抜き出された彼の手に握られていたのは……銀色に光る小型のナイフ!

 その軌跡が、目の前の男の顔を軽くなぞるように動く。

 男は殺気を感じたのか、とっさに後ろにのけ反ってナイフをよけていた。だが、

 

「シッ……!!」

 

それだけで攻撃が終わるはずもない。

 ナイフを高く掲げる左腕。銛田はそれを、返し刀の要領で男に向かって投擲する!

 

「……!!」

 

 まさかいきなり凶器を投擲されるとは思わなかったのだろう。男の両目がかっと見開かれる。彼の眉間に向かって迫る小型のナイフ。彼は、それもまた左に頭を反らせることによって避けようとする。だが甘い!!

 びしゅっ、という鉛筆で素早く一本線を引くような音がして、ナイフが男の顔の右脇を通過する。

 銛田は見た。その時、ナイフの切っ先が男のもみあげの辺りを掠めていたのを。

 

(…………避けたか。だがそこまでだ。

 次の一発は避けられねぇぞ!!)

 

 一瞬の間に思考し、銛田はにいっ、と笑う。その笑みは、先程までの柔和な笑みではない。獲物をいたぶる肉食動物のような凄惨な笑みだった。

 ドアの外の男は既に数歩下がり、部屋の外、廊下まで出てきている。

 そこまで数歩で距離を詰める。反り返った体勢のままの男に肉迫する。

 その腹に拳骨を叩きこんで打ち倒しその後頭を強打して意識を失わせる……はずだった。

 

「……あ?」

 

 だがどうしたことであろうか。次の瞬間身体を浮かせているのは銛田の方だった。

 一体自分がどうなっているのか。

 相手は何をやってきたのか。

 そもそも今何をやっている!?

 足が浮いて踏ん張りがきかない。反撃できない。

 無抵抗の状態で、銛田は見る。

 黒服の男が腰を低く落とし拳を振り抜き、そして――

 

「あぁあ!!?」

 

 ハイツ間宮の廊下を、一迅の風が駆け抜けた。

 続いて廊下の端の方から聞こえる、銛田の低い呻き声。

 ……シルバーアクセとバンダナは、ここへ来てようやく、おかしなことが起こっていると気づいた。

 銛田は喧嘩慣れしている。その銛田が奇襲を仕掛けたのだ。避けられる奴などいるわけがない。

 ましてや相手は反撃さえできず、ドアの向こうに倒れこんだはず。

 ――一体いつの間に、形勢は逆転した!?

 

「おとなしくしろ!」

「……なに、しやがんだ! 放せ……はなせ!」

 

 2人のチンピラが呆然としている間にも、事態は動き続けていた。

 室内にいた2人の黒服のうち、1人が部屋を出て銛田の吹き飛んだ方へと向かう。

 そして銛田と揉み合っているようだった。

 声だけでははっきりとわからないが……銛田の声は弱々しい。

 とても、優勢に振る舞っているようには思えない。

 

「……いちち。かすっただけだが、結構効くもんだな。」

「大丈夫ですか、Kさん!?」

「問題ねぇよ。それなり……

 お前ら、手荒な歓迎ありがとうな。……準備運動ぐらいにはなったぜ。」

 

 不意に室内に響いた声。

 バンダナとシルバーアクセは、いつの間にか、銛田が襲いかかったあの小柄な男が自分たちの目前に立っていることに気づいた。

 右手には、どこから取り出したのか、黒光りする特殊警棒が握られている。……銛田はあれにやられたのだろうか。

 顔からそれなりに出血しているがあくまで冷静な表情で、男は警棒を構え、室内に残ったもう1人と並んで、銛田以外の3人の悪党と対峙する。

 ……“K”とか呼ばれたこの男、何者だ? とシルバーアクセは自問する。

 ひょっとしたら、体格は見せかけで、傍らの大柄よりもヤバいのでは……?

 心の中に広がる恐れ。それが思わず、口を突いて出た。

 

「……な、何だよ! 何すんだ! 銛田が、俺らが、何やったって言うんだよお!!」

「この辺り一帯の老人の家を襲って、金を盗った。その卑怯なやり口は許せねえ。……だから、シメに来た。」

「な、何だよそれ……暴力団のクセして、警察みたいに!! 第一……証拠はあるのかよぉ!!?」

「悪いが、多分警察よりお前らのことはよく知ってるぞ。女木、お前の愛人のこともな。」

「……何?」

「自分のしでかしたことに無関心で、のうのうと仕事してたからな。職場にお知らせを入れた上で、ちょっと“揉んで”やった。喋らなければどんな目に遭うか、懇切丁寧に説明したらあっさり吐いたよ、お前がかすめ取った情報の全てをな。あの女の吐いた情報と、事件の内容を合わせて、お前たちの犯行はもうほとんど露見してる。」

「……なんだとぉ……!」

 

 シルバーアクセとバンダナが戦慄する。既に自分たちの悪行は割れている。おまけに、女木の彼女まで接触済みだ。

 “揉んだ”と言っても、文字通りの意味ではあるまい。女にすら容赦しないこいつらに捕まったら……一体、どんな仕置きが待っているんだ!?

 

「……に、逃げろおおおぉぉぉぉ!!!」

「うわあああーーーっ!!」

「ま……待てお前ら!!」

 

 死に物狂いで奥のガラス戸に飛びつき、開けて、女木の一喝にすら構わず外に飛び出すシルバーアクセら2人。

 だが、もちろんそんなことで逃げ切れるわけなどなかった。

 

「……うわあああああああ!!」

「や……やめろ、来るなーーー!!」

 

 窓の外から、2人の悲鳴が聞こえてくる。

 中の人間がベランダから外に出てくることを想定して、外で黒服たちの仲間が待ち構えていたのだろう。二人はそれにまんまとかかった。

 部屋の中には、もう所在なげに立ちすくむ女木一人しか残っていなかった。

 

「残りはてめえ1人だぜ、兄ちゃん!」

 

 大柄な方の黒服が、すかさず女木に襲いかかる。

 だが……

 

「……かはっ!!」

 

腹に異物を叩きこまれたかのように咳きこみ、棒立ちになった。

 異変に気付いた小柄な男が身構えるが……遅い!

 女木は、腹に一発喰らわせ、脱力させた大柄な男をショルダータックルの要領で押し、Kと呼ばれた男の方へ吹き飛ばす。

 さすがのKも、防ぎきれなかったようだ。大柄の男と一緒に、廊下へと弾き出される。

 

「Kさん!! くそ、この……っ!」

 

 さっきまで銛田の相手をしていたもう一人の黒服が、事態を察知して戻ってくる。

 が。その間に女木は、するりと流れるようなステップで廊下に踏み出てきていた。そして腰を沈め、両の拳を顔の前にもってくる……ボクシング独特の構えをとる。

 踏みこみ、顔に一撃をくらわせようとする黒服。女木はその大振りなパンチの内側に入り込み、突き上げる拳でその顎を思いきり強打する!!

 

「ふがぁふっ!!」

 

 大きく後ろに吹き飛び、しゃがみ込む黒服。未だ意識はあるようだが、体がふらふらと左右に傾き歩みすらおぼつかない。これでは戦うことなどできないだろう。

 

「まさか格闘家崩れとはな。面倒な奴だ。」

 

 女木が振り向く。

 そこには、気絶した部下を引きはがして立ち上がったKの姿。

 Kは、右手の特殊警棒を構え、戦闘態勢をとる。

 対する女木も、窮屈になったのだろう、スーツの上を脱ぎ捨てワイシャツ姿になる。

 

「お互い部下に恵まれないねぇ、ヤクザさん。計画のために集めたものの、役に立たないクズばかり……結局最後に物を言うのは、自分の拳というわけだ。」

「悪党らしい傲慢な物言いだな。お前も、あいつらも、大して変わりはしないだろ?」

「……言わせておけばっ!」

 

 女木が、素早いステップで前進。ジャブを数発、Kに向かって繰り出す。

 Kはそれを右手の特殊警棒でことごとく弾き捌いてみせた。続いて後退しようとするが、すぐ後ろに倒れた仲間がいることに気づきその場に踏みとどまる。そのまま警棒を、女木の二の腕目がけて振るった。

 だが、女木もその程度の攻撃など受けはしない。のけ反って攻撃をかわすと、そのまま軽いアッパーをKの腹部に向けて放つ。

 それを警棒で弾くK。反撃を恐れた女木が後ろに下がり、Kも体勢を整えるためにその場に残る。

 二人は一旦距離をおく形になった。女木は一見余裕を保ち、溜息をつきながら頭をぽりぽりと掻いているが、表情にはあまり余裕が無い。

 ……時間が経てば経つほど、自分に不利なのを察しているのだろう。

 部屋に踏みこんできた大男2人こそ戦闘不能だが、バンダナとシルバーアクセを捕えた面々がまだ残っている。彼らが応援に来れば、ますます逃げるのは難しくなる。

 

「どうした、早く来いよ。それとも観念したか? このままやっていても捕まるだけだと。」

「やってみなけりゃ、わかるもんか……!!」

 

 再び前進し、拳を繰り出す女木。それに対し警棒を繰り出そうとした瞬間、Kは大きく目を見開く。……女木の手に、催涙スプレー!!

 瞬時に腕で目を庇うが、時既に遅し。噴き出した煙はKの顔目がけて殺到し、確実にその視界を奪う。

 目に直接吹きつけられるのは防いだが、しばらくは行動どころか目を開けることすらできない!

 

「……くっ!!」

「油断したね! 終わりだ!!」

 

 勝ち誇った表情で笑う女木。唸る拳をKの右腕に叩きつけ、その警棒を叩き落させる。

 勝利を確信した、歪な笑み。

 その表情のまま、渾身の右ストレートを放つ。ようやくKが目を開けるが遅すぎる。右ストレートは間違いなくKの右頬を打ち抜くだろう。避ける暇などない。Kには、成す術など何一つない。

 が。

 その時、女木は確かに見た。迫る右ストレートを視界に捕えたKが、ゆっくりとその拳の方向に向き直るのを。

 自然と、Kは正面から右ストレートを見据えるかたちになる。そして――

 

 

「バ…………バカな……!?」

 

 

骨がみしりと歪む、嫌な音が響く。その一撃は、間違いなくKの頭蓋にとてつもない衝撃を与えたはずだ。

 だが……Kは倒れない。揺るがず、崩れもせず、立ったままの姿勢で額に突き刺さった女木のストレートを受け止めていた。

 ……いや、問題はそんなことじゃない。Kは……この男は……「自分の顔目がけて拳が迫って来ているというのに、まったく眼光を逸らさなかった」のだ。

 ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。

 銃弾などでは決してないが、それでも仮に元格闘家の右ストレートだ。それを……それを一度も目を逸らさずに、額で受け止める……だと!!?

 Kの、その恐怖さえ呼び起させる真っ直ぐな眼差しに、女木は完全に気圧されていた。

 だから、直後にKが繰り出したその一撃を、防ごうとすることすらしなかった。

 

「ぐえっ……げほっ……!!」

 

 Kの繰り出した正拳突きは、女木の腹部を捕えていた。

 体から力が抜け、女木は地面に崩れ落ちる。

 

「……“弾丸”、と……呼ばれた僕のストレートを……額で受け止めるなんて……バカな」

「フン、そいつは残念だったな。……弾丸なら、もう喰らったことがある。繰り返す時間の中で、何度も倒れた。何度も死んだ。もう、銃弾を喰らって死ぬ程度のことは、恐れやしないさ。」

 

 Kの言っていることの意味が、女木にはよくわからなかった。

 ……だが、そう啖呵を切るKの顔が、とても眩しく見えた。

 自分がいつかは目指して……そして諦めていた高みに、よく似ている気がした。

 だから……訊いておかねばならないと思った。意識を失ってしまう前に。

 

「……お、お前の……名前は……?」

 

 女木の意外な問いかけを聞き、一瞬Kは当惑したように表情を曇らせる。

 だがすぐに真顔に戻り、豪気な笑みを浮かべるとこう答えた。

 

「…………園崎圭一。

 園崎組幹部にして、園崎家頭首の夫、園崎圭一。

 それが、俺の今の名だ。」

 

 

 

 

<了>

 

 




後書きと呼べるほど、大したものではありませんが、こぼれ話を少し。

この外伝で描き出した通り、「ひぐらしのなく刻に」における圭一は、園崎組の若頭を務めています。
魅音と結ばれ、その父が未だに組長を務める園崎組に出向している形です。
圭一の人柄に惹かれる組員も多く、「K班」と呼ばれる独自のグループも形成されています。

そして、園崎組本来のお勤め(縄張りでの収益の管理、その縄張りを荒らす者の粛清)以外に
重要な仕事を請け負っています。
それは「惨劇の撲滅」。
鷹野と山狗部隊が引き起こしてきた惨劇が二度と雛見沢や興宮で起こることのないよう、この地に迫る不穏な影と日夜戦っているのです。
この辺りは、もう少し作品を長く続けて語っていきたかったのですが……いつまでも未練がましく言っていても仕方ないので、ここまでとします。

前編・後編・外伝。
これだけでも、一応物語としては成り立っているかとは思いますが。
もしこの雛見沢の住人たちのその後がまだ気にかかる方がいらっしゃるなら、
どうぞ解答編をお読みください。
「解答編」と呼べるほどきっちりと謎が解かれているわけではありませんが、
この雛見沢がどこに向かっていくのか、その展望がある程度見えることと思います。


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ひぐらしのなく刻に 解(上)

十宮恵士郎です。
前編・後編だけでは伝えきれなかった想い、かつて某掲示板でこの作品を愛してくださった方々への感謝をこめて、外伝と解答編をお送りします。

解答編は、前編・後編にほんの少しちりばめてあった謎の解答を示し、そこからどのような物語が展開していくのかを、簡潔な形で表すストーリーです。
「裏設定のお披露目」という表現の仕方が一番的確かもしれません。
もし前編・後編を気に入っていただけたのなら、この解答編でさらにその裏側とアフターストーリーを楽しむことができるかと思います。

なおこの編は、前編・後編・外伝を踏まえた上で成り立つストーリーとなっておりますので
解答編を読まれたい方は、先に以上の三編を読んだ方が良いかと思います。

準備はよろしいですか?
……それでは、どうぞお楽しみください。


 

 

 

恐怖から逃れようとして

仲間を求めました。

 

恐怖から逃れるための

仲間はたくさん集まりました。

 

でも気づいていなかったのです。

恐怖こそが仲間を殺す毒だということに。

 

恐怖に呑まれてしまったわたしは

あの日バットを振り上げて――

 

 

xxxx xxxxxxx

 

 

 

 

 

 

 

 

「くすくすくす。見終わったのね? 走馬灯。」

 

 

 

 乾いた銃声とともに、その男の子は吹き飛び、胸から血をばら撒きながら仰向けに倒れた。

 ―― 一瞬の出来事だった。

 目の前に起きた衝撃的な出来事に、その場にいる仲間たちは、誰一人その出来事に、冷静に向き合うことができない。

 闇の中から襲い来る、ねずみ色の作業服姿の男たち。

 その圧倒的な攻勢に、1人、また1人と、ねじ伏せられていく。

 嘲笑と共に大事な仲間を葬った、憎い仇に言葉を投げかけることさえできないまま――

――だから。

 代わりに“私”は――ここにいる前原(まえばら)佳奈(かな)は。拳をきつく握りしめながら、その女性をにらみつける。

 黒装束。黒い帽子。黒いマント。

 ヒーロー番組に出てくる悪の幹部のような、ふざけた格好をしたその女性を。

 ――いずれ“私”の父になるはずの人を、虫けらのように殺した女を。

 

「鷹野より本部へ。制圧したわ。私の言ったものを準備させて。それから、死体がたくさん出るから処分の手配を。死体袋が五つと血を流すのに水がいるわね。持ってこさせて。」

 

 タカノ――そう名乗った女性は、手に持つ銃を父さんの仲間の1人、魅音さんの後頭部に突きつける。

 気が動転している魅音さんは、抵抗どころではなかった。

 銃口が無慈悲に火を吹き、魅音さんの頭を吹き飛ばす。

 思わず息を呑む――けれど、それだけでは終わらなかった。

 次の標的は詩音さんだった。タカノに何かまくし立てるが、結果は変わらない。銃声、そして、沈黙。

 さらに――

 

『や……やめて!!!』

 

 タカノは竜宮レナに――“私”の母に狙いを定める。

 生来の気丈さゆえか、友人2人の最期を見て覚悟が決まったのか――母はあくまで冷静に、タカノと対峙する。そして、言葉を投げかける。

 

「だって、オヤシロさまは“居る”んだもの。」

 

 その言葉に何を想ったか、一瞬タカノの動きが止まるが、それでも彼女は引き金を引く。

 銃声と沈黙。

 物言わぬ死体となった母を前にして、タカノは癇に障る笑い声を上げる。

 心が、抉られたように痛い。

 涙が目からあふれてくる。

 だが、同時に――

 

『く……ぐ……う……!!』

 

――怒りが、頂点に達していた。

 今すぐにでも、タカノに飛びかかりたい。――けれど、それはできない。

 なぜなら――これは多分、夢。

 理由もわからないまま連れてこられた、夢の中の世界。

 まるで浮遊霊にでもなったみたいに、地面から離れてふわふわ浮いて、見ているだけの自分には、何もできない――。

 

 

『どうしたんだい? そんなに怖い顔をして。』

 

 

 そんな“私”に、声をかけるひとがいた。

 ――背後から。

 背後なので、その姿を見ることはできない。

 けれどそれは確かに――大人の女性の声だった。

 

 

『憎いんだね。……報いを受けさせてやりたいんだね。』

『……え?』

『その女に……タカノ・ミヨに。』

 

 

 背後からかかる声と、それに応える“私”。

 そんなやり取りを尻目に、タカノは今度は沙都子さんを片付けて、梨花さんに何やら話しかける。

 その様子を震えながら見つめる“私”に、言い聞かせるように――

――女性は、やさしく、語りかける。

 

 

『いずれ会えるよ、彼女には――

 覚えておくといい。その女こそ君の殺すべき相手。

 ――君の、敵だ。』

 

 

 

 

 

 

「――――!!」

 

 その一言で、目が覚めた。

 いつの間にか……自分でも気づかないうちに、私は寝ている状態から上半身を起こして、震えていた。

 

「はぁ……はぁ……は!」

 

 息が、荒い。

 まるで、部活で全力疾走した後のように、身体が一方的に息を吐きださせる。

 そして、手のひらをパジャマの裾でごしごしとこすり……そこで初めて、全身汗だくになっていることに気づいた。

 手のひらも、肩も、背中も――気持ちの悪い汗でじっとりと濡れている。

 この感覚には、覚えがある。

 これは、そう――

――悪夢を見たときの、反応だ。

 

「……夢。そうだ、さっきの……」

 

 飛び起きる前まで、見ていたはずの夢を、思い出そうとする。

 怖い夢だったことは、覚えている。そこに父と、母の姿があったことも。

 けれど……

 最後にどうなったのか、はっきりと思い出せない……。

 

「……一体……何なの……?」

 

 私は、ひとりごちながら、窓の外の景色を眺める。

 六月二十二日、木曜日。雛見沢の朝は、今日も穏やかだった――。

 

 

 

 

 

 

 

 

ひぐらしのなく刻に 解

~神の脚本、人の戦い~

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁ!? 明日の部活には参加できない!?」

「どういうことですの!? 宗二(そうじ)さん!」

 

 午後5時。夕暮れ時。

 私たちの部活の終わる時刻。

 雛見沢分校の教室に、抗議の声が響きわたった。

 村を統括する名家・園崎家の跡継ぎのお嬢様である魁月(かづき)ちゃんと、

 その従妹にして魁月ちゃんとそっくりの顔を持つ悟月(さつき)ちゃん。

 二人にずいずいと詰め寄られた宗二くんは、困り顔でしばらく沈黙したが、やがて少し気まずそうに話し出した。

 

「いや、その……明日から東京でしなきゃいけない用事があってさ。そのために行かなきゃいけないんだ。学校の方も、休ませてもらうよ。」

「何だよそれぇ……土日とかじゃいけないのか?」

「うん……金曜からじゃないといけなくて……。」

「まったく……水臭いですねぇ、宗ちゃんは。」

 

 会話に割りこんだのは優乃(ゆの)ちゃんだった。

 ぴっ、と指を一本立てて、それを宗二くんに突きつける。

 

「そんな曖昧な理由で私たちが納得するとお思いですかぁ? ……もしそれが許されているならですけど、語ってほしいものですねぇ。何をしに東京へ行くのかを。」

「……え」

「そうだそうだ! もし東京に残したガールフレンドとデートなんてふざけた用事だったら承知しないぞー!」

「な、何ですってぇ!! 何てハレンチなー!!」

「ちょ、ちょっと! 違うよ! そんなんじゃないよ!!」

「じゃあ一体何なのかな、かな」

 

 気がつくと、私自身もしっかり会話に混ざっていた。

 ……しかも、意図したよりキツい言い方になってしまっていた。

 皆の剣幕にたじろぐ宗二くんだったが……意を決したように、話し出す。

 

「……父さんと母さんに、会いに行くんだ。東京にいる、本当の父さんと母さんに」

「本当の? 父さんと母さん?」

「こらこら魁っちゃん、忘れたのですかぁ? ……宗ちゃんが今暮らしているお家は、宗ちゃんの親戚のお家。宗ちゃんの実のお父様お母様は、東京暮らしなんですよぉ」

「あー……そういやそんな話もしてたっけなぁ」

「お父様が自衛隊の方なんですわよねぇ?」

「そう……で、母さんには持病があってね。今も入院してるんだ。」

「そうなの? それは初めて聞いたんだよ! だよ!」

「ごめんね、話し忘れてて。……今回は、母さんの容態が良くなったから、そのお祝いを家族三人でするんだ。でも病気が治ったわけじゃないからね。病院の外に出られる日は限られてる。だから明日でなきゃダメなんだよ……。」

「むむぅ。そうなると仕方ありませんねぇ……。」

 

 優乃ちゃんはあっさりと納得したが……私は何も言えなかった。

 仕方ない事情であることはわかっている。それでも、何か引っかかるものが心にあるのを、私は感じていた。

 そして魁月ちゃんも、悟月ちゃんも、それぞれの表情で沈黙している。

 だが、さすがにそんな状況に置かれて、宗二くんは死ぬほど気まずそうだった。

 こうなってはしょうがない。この部活のリーダーとして、ふさわしい態度をとる必要がある。

 

「仕方、ないよね。明日の部活は、残りのみんなでやろう?」

「……そう、ですわね。」

「ああ。ま、そうなるだろうな。」

 

 悟月ちゃんと魁月ちゃんも、了承はした。だが、気まずい雰囲気はまだ残り続けている。

 そんな雰囲気を吹き飛ばすように、優乃ちゃんが宗二くんの肩を叩きながら明るく言う。

 

「さ! 後片付けは終わってるんですから、さっさと帰りましょう! ぐずぐず残っていると、知恵先生に怒られますよぅ!」

「……そうだね! 魁月ちゃん、悟月ちゃん、準備オッケー?」

「おう!」

「大丈夫ですわ!」

 

 みんなで連れ立って、教室を出る。無駄話に花を咲かせながら。

 その輪の中に、ちゃんと宗二くんもいる。いつものように。

 ただ。

 みんな何となく、部活終わりの嫌な空気を引きずっているような気がした。

 

 

 

 

 

 

「ふーん……それで、さっきからそんなに、浮かない顔をしていましたの。」

「ええ……まあ、そんなところです。」

 

 我が家に帰り、夕食を終えて。

 私は食卓を挟んで、同居人の沙都子さんと話をしていた。

 同じく同居人である悟月ちゃんは、夕食を終えて早々に眠りに就いてしまっている。なので今この場には、私たち2人だけだ。

 沙都子さんは私と違って、今日は上機嫌で、鼻歌を歌いながら家計簿をつけている。

 職場で何かいいことでもあったのだろうか?

 

「佳奈さんは宗二くんのことが、随分お気に入りのようですわね?」

「え、ええっ!? い……いやその……別にそういうわけじゃ……。」

「別に恥ずかしがることなんてありませんわよ! あなたぐらいの年で、近くにいる男の子のことが気になる、なんてのはよくあることですわ。」

「そ、そうなのかな……かな。」

「私の知る限りではね。……私は宗二さんをあまりよく知りませんけど、大丈夫じゃありませんかしら? 宗二さんは部活にすごくよく馴染んでいますし、特に佳奈さんへの信頼の強さは傍から見ている私にもわかるくらいでしてよ。一度部活を休むぐらいでは、その信頼に揺らぎは生じないと、私、思いますわ。」

「うーん……まあ私も、そうだとは思うんですけど。」

 

 歯切れの悪い返事をして、もやもやした頭で考える。

 沙都子さんと話をして、何となくわかった気がする。自分がなぜこんなたわいもないことでもやもやしているのか。

 それは多分……宗二くんが時折見せる、東京に対する愛着のせいだ。

 前からたまに感じることがあったが、今回は特に顕著だった。東京に帰ることを話すときの、あのホッとしたような表情。

 その表情を見ると、何だか、私たちより東京での暮らしの方が大事だと宗二くんが思っているような気がして、あまりいい気がしないのだ。

 ……でも、それは果たして宗二くんのせいなんだろうか?

 反対の例で考えてみよう。もし私が雛見沢を出て、東京に行って、そこでかけがえのない友達に出会えたとして、その友達の前で雛見沢を懐かしまないでいられるだろうか?

 答えは、ノーだ。そんなの、人間の自然な感情だ。

 相手がそれを見せるからって、変な気持ちになる方がおかしいじゃないか。

 

「……うん、そうですよね。月曜日にはまた一緒に部活ができるわけだし。」

「ええ。月曜の部活で、宗二さんに見せつけてやるといいですわ。部活で1日ブランクを置くということが、どれほど恐ろしいかということを!」

「あはは! そうですね! 月曜はがんばっちゃおうかな!」

 

 部活と宗二くんに関する話は、そこでお開きになった。

 沙都子さんの上機嫌のせいもあって、今日は何だか会話が弾む。

 ――話題は最近のテレビ番組のことになっていた。

 

「あら! じゃあこの前、心霊特番を録画したのは悟月さんでしたの?」

「ええ。恐怖を学ぶことはトラップの研究にも役立つからって言って。」

「怖くないのかしら。……まあ詩音さんの娘ですから、耐性があるのかもしれませんけど。」

「そうかもですね……沙都子さんは好きですか? 心霊特番」

「まさか! 私はああいうのは嫌いでしてよ、タカノさんじゃあるまいし。」

 

 どきり、とした。

 一瞬だが、朝に見た夢がフラッシュバックする。

 黒い服を着たタカノという女。

 その女が、まだ若いお父さんや、お母さん、沙都子さんたちを殺害していく光景……!

 

「……どうしましたの、佳奈さん」

「な、何でもないです、何でも……その“タカノさん”って誰ですか? お知り合い?」

「へ? ……あ、ああ! そう言えば、佳奈さんたちはまだ会ったことがないんでしたわね。タカノさんと言うのはですね……わぁ! も、もうこんな時間ですの!?」

 

 沙都子さんが話をさえぎり、すっとんきょうな声を上げる。

 時刻は既に午前零時を回っていた。いつもなら寝ている時刻だ。

 

「うーん……大変心苦しいのですけれど、佳奈さん、タカノさんの話はまた今度でよろしいかしら?

 ちょっといろいろと深い事情のある方でして、一口では語りきれないところがありますの……」

「そうなんですかー……じゃあ今度、ヒマな時でいいから、教えてくださいね。」

「もちろんですわ!」

 

 沙都子さんはそう言って、家計簿をしまい、慌ただしく部屋を出ていく。

 彼女に悪気はないのだろうが、うまくはぐらかされた感が拭えなかった。

 “タカノさん”という、沙都子さんの知り合い。

 それはあの夢に出たタカノ・ミヨと同じ人なのだろうか?

 タカノ・ミヨは沙都子さんと面識のある様子だったから、同一人物でもおかしくはない。

 けれど、ならあの夢の意味することは一体――。

 

「……寝ようかな。」

 

 今夜も妙な悪夢を見るというのは、ありえない話ではない。

 けれどさすがに今夜寝ないで過ごすというのも、非現実的な解決策に思える。

 私はどこか割りきれないような気持ちを抱えたまま、食卓を後にした。

 

 

 

 

 

 

 雛見沢は、昔に比べれば交通の便がいいらしいが、それでも田舎の村だ。

 雛見沢から東京に出るためには、まずバスで興宮へ出て、興宮からローカル線の名古屋行きに乗る。それに長い時間揺られた後、名古屋で新幹線に乗り換える必要がある。ちょっとした小旅行だ。

 そんな小旅行に際して、仲瀬(なかせ)宗二は少し緊張気味だった。

 金曜、つまり平日の昼ゆえに人がほとんどいないローカル線の車内。その席の1つに腰かけて、リラックスはしているものの、気持ちよくのびのびと過ごす、という気にはまったくなれなかった。昼間とは言え、ゆっくりゴトゴト列車に揺られていると眠くなってくる。それで寝過ごして、名古屋できちんと降りられないなんてことがないだろうか、という不安があった。

 以前雛見沢に来た時は義理の父が付いていたから、いざとなれば起こしてもらえばよかったのだが、今回は1人で東京まで向かうのだ。不安はずっと強かった。

 

(……不安と言えば。昨日、佳奈たち、ちょっと怒ってたよな……。

 もっと早く話すべきだったのかな……。)

 

 引っ越してきた場所で作った大切な友人たち。佳奈。優乃。魁月。悟月。

 優乃はともかく、その他の3人は宗二の今回の行動に関していろいろと思うところがあるようだった。

 日曜日には雛見沢に帰って、月曜からはいつも通り分校に登校する予定になっているが……そこでちゃんと、仲直りできるだろうか。

 それほどひどいことをしたわけでもないから、仲直りはさほど難しくないだろうとは思うが。ただ、あの3人と仲違いをしたことなどほとんどないだけに、どうすればいいのかよくわからない、というところはあった。

 佳奈と仲違いしかけたことはあったが、あの時は宗二以前に魁月と佳奈の間に深刻な亀裂が入っていた。それを皆で修復したというのが大きいので、あまり参考にならないかもしれない。

 

(……せっかく父さんと母さんに久々に会えるってのに、何でこんなに憂鬱な気分にならなきゃいけないんだろ。)

 

 そう心の中でぼやきつつ、宗二はカバンの中からパスケースを取り出した。

 東京にいた頃、よく使っていたパスケース。

 それを開くと、宗二の実の両親の写真が現れた。

 宗二が中学に入学した頃、母の病気が良くなるタイミングを見計らって、3人で撮ったものだった。

 東京の中学の制服を着た宗二を真ん中に、似合わないスーツを着た父が右、意外によく似合うスーツを着た母が左に立つ。

 

(……やっぱり、父さんにスーツは似合わないな。)

 

 宗二はそうひとりごちた。

 父は自衛隊員であり……アマチュアのカメラマンだ。

 だから頭の中に父を思い浮かべるとき、浮かぶのはスーツ姿の父ではない。

 幼い頃、一緒に山に出かけた時の記憶。

 その時のタンクトップ姿の父が、強く、記憶の中に焼き付いている――。

 

 

 

 

 

 

「……じゃあ佳奈さん! また月曜に!」

「うん! じゃあね、優乃ちゃん!」

 

 いつもの帰り道で、いつものように、優乃ちゃんと別れた。

 学校のない土日以外は、毎日のように繰り返している光景。

 ……それでも。

 何か違和感のようなものを、覚えてしまう。

 それは多分……宗二くんが不参加だったことと、関係があるのだろう。

 例えば。

 いつも集まっているメンバーのうち、1人が欠席だったとして、その1人がいないせいで場が盛り上がらなかったというならば、それは“いつもとは違う”けれども“不自然”ではない。違和感を覚えるほどのことではない。

 ……けれど。

 もしその1人が欠けているのに、いつもと大差ない様子で物事が運んだなら?

 それは、違和感を覚えるべきことではないだろうか?

 

(……何だろう、おかしいな……。

 どうして魁月ちゃんも、悟月ちゃんも、優乃ちゃんも、あんなに普段通りに部活ができるんだろう……?)

 

 眉をひそめざるを得ない。

 あの3人は、宗二くんが欠けているのに、まるで何事もなかったかのように部活を進行していった。

 明らかに、昨日の反応との間に差異がある。

 魁月ちゃんも悟月ちゃんも、宗二くんが一日抜けることに関して全然納得していないような様子だった。優乃ちゃんは比較的あっさりとそのことを許したとはいえ、その後気まずい様子の宗二くんをフォローする様子を見せていた。皆、程度は違えど宗二くんのことは大切に思っているはずだ。彼はもう立派に、部活の一員なのだし。

 それだけに、今日の3人の態度が、腑に落ちない。

 

(私が、気にしすぎているだけ……?)

 

 昨日の沙都子さんとの会話を思い出す。

 確かに、現行の部活メンバーの中で宗二くんと一番仲が良いのは、私だ。それは間違いない。

 それゆえ、私は他のみんなより強く、宗二くんのことを気にかけてしまっているのかもしれない。

 それが、今回のこの態度の差、感じ方の違いに繋がっているのだろうか。

 

(うーん……よく、わかんないな。)

 

 理屈としてはそれで通るのに、何だか割りきれない。

 ……何だか、知らず知らずのうちに、誰かの都合のいいように流されている。そんな気分だ。

 でも……“誰か”って誰?

 そんな陰謀論めいた話に、信憑性なんて……

 

「どうしたんだよ、佳奈姉ぇ。浮かない顔してさ。」

 

 突然、背後から声をかけられた。

 知っている声だから、それほどびっくりはしなかったが。

 それでも勢いよく振り向いた。

 そこにいたのは――魁月ちゃんだった。

 さっき、優乃ちゃんより前に、別れた時の姿のまま。

 その姿で、私に微笑みかけている。

 

「……か、魁月ちゃん! 驚かさないでよ!」

「そう? ただ後ろから声かけただけじゃん? それで驚くってのもオーバーだなぁ。」

「本当に普通に声かけたの? 気配消してなかった? ていうかそれより……何でこっちへ来たの? 園崎のお家へ帰ったんじゃ……」

「ちょっと、佳奈姉ぇと2人で話したいことがあったからね。優乃と別れるのを待ってたのさ。」

「2人で? 話したいこと? ……電話じゃだめなの?」

「うん。電話は、盗聴される危険性もあるしね。」

「盗聴? ……何それ。魁月ちゃん、今度はスパイ映画にでもハマってるの?」

 

 いつものような冗談かと思った。

 魁月ちゃんは一旦ある作品にハマると、その作品のキャラクターみたいな言動になることがよくあったから。

 けれど、

 

「冗談じゃないよ、佳奈姉ぇ。……他人には聞かれたくない話だから、電話じゃなくてこうやって、直接話しに来たのさ。」

「…………え?」

 

 魁月ちゃんがとる態度は、彼女の言うそれが、冗談では決してないということを告げていた。

 一瞬、彼女の正気を疑った。

 ……どういうことだ、と。魁月ちゃんの言葉を真に受けるなら、彼女は本気で盗聴される危険を感じて、私に直接話しに来たことになるが……。

 そんなこと……あるわけが、

 

「あるんだなぁ、それが。」

「……え?」

「今疑ってただろ、佳奈姉ぇ? 盗聴なんてあるわけない、ボクがおかしくなったんじゃないかって。それは間違いだよ。

 ……雛見沢は、この村は狙われている。この村を狙う奴らの情報網に引っかからないためには、こういうアナログな方法も必要なのさ。」

「……魁月ちゃん? 何を言って……」

「ああそうそう、佳奈姉ぇに話しておかなきゃいけないことがあるんだった。ごめん、ちょっと脇道に逸れちゃったね。」

「ねえ魁月ちゃん、本当に大丈夫? 雛見沢が狙われてるなんて、そんなバカな話……」

「バカな話じゃないのさ。裏はちゃんと取れている。ボクらの住むこの村は狙われていて……村を狙う奴らが、ボクらの近くにも入りこんでいる。すぐ、近くにね。……誰のことだか、わかるかい?」

「魁月ちゃん!」

「わからないようだから、教えてあげるよ。耳をかっぽじってよく聞くことだね。

 そいつの名は、仲瀬宗二。宗二こそが“奴ら”の仲間であり……

 ……ボクたちの“敵”だ。」

 

 そう言って、魁月ちゃんはパチン! と指を鳴らす。

 ――その瞬間。風がものすごい勢いで吹き荒れた。

 空気がごうごうと吹きつけてきて、目を開けていられず、私は反射的に目を閉じて、両手で顔を覆った。

 しばらくすると、風は止んだ。目を開ける。

 目に飛びこんできたのは――さっきと同じ風景。

 魁月ちゃんがいて、周りはいつもの、家への帰り道。変わったところは何もない。

 なのに――何だか、異様な空気が、私たち2人を包んでいた。

 空気がいつもより重いというか、緊張している。

 いつもと同じ、ひぐらしの鳴き声が、しかしいつもの倍ぐらいの音量で耳を打つ。

 そんな……いつもと同じ、けれど何かが違う不気味な空間の真ん中で、

 魁月ちゃんは顔を歪ませ、にやり、と笑った。

 

(……一体、何が起こってるの……?)

 

 

 



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ひぐらしのなく刻に 解(中)

 

 

(……どうして、こうなってしまったんだ……!!)

 

 

 

 “その世界”の宗二は、懸命に走っていた。

 後ろから迫ってくる黒服から、逃れるために。

 そして走りながら、自問する。

 なぜ……どうして、自分が今、こんな目に遭っているのかと。

 

(……僕が母さんの……鷹野三四の、息子だからか!?)

 

 そして思い出す。数日前。

 自分を取り巻く状況を何とかしようと、相談を持ちかけた父の知人が、ファミレスで漏らした情報を。

 

『鷹野三四……君のお母さんは、“入江機関”の最高責任者として決断を迫られた。研究の成果を示す代償として雛見沢を滅ぼすか、それとも命を賭けて続けてきた研究を終わらせるか……そして、雛見沢を滅ぼす選択をした。古手梨花とその友人たちの横槍で、計画倒れになったがね。』

『このことは機密事項となったが、事件の関係者は当然知っている。そしてその中には園崎魅音をはじめとした、現在の雛見沢の重鎮たちが含まれている。……彼らは鷹野三四がかつて雛見沢を壊滅させようとしていたこと、そんなことをしでかそうとした彼女がまだ生きているということに不満を持っている。』

『……気をつけた方がいいよ、宗二くん。今はまだ、君と鷹野三四の血縁は知られていないが……もしこれが“彼ら”に知れ渡れば、何が起こるかわからない。』

 

 ――正直、今でも実感が湧いていない。

 実の母親が、そんな途方もない陰謀の一部を担っていたということに。

 ……けれど、それを否定しきれないのもまた事実なのだ。

 思えば昔から、母の表情にはいつも陰があった、と宗二は述懐する。

 何か深くて恐ろしいものに通じているかのような、陰が――。

 

(……でも、多分、それだけじゃない。

 あの時の魁月は、何かもっと違う感情を持ってた……。)

 

 続いて脳裏に浮かぶのは、父の知人との相談の直後。

 雛見沢のバス停で、待ち構えていたかのように現れた魁月が口にした言葉。

 

『お前……ボクたちに何か隠し事、してるんじゃないかな……?』

『お前はいつも通りにしてればいいよ……どうせ、すぐに片付く。』

 

 その時の魁月の目……鷹のような目は、もっと強い悪意を伝えてきていた。

 ただ邪魔だから消すんじゃない、憎いから、許せないから消すんだとでも言うような。

 ……つまり、“よそ者”だからなのだろうか。

 祭の夜――分校の新人教師を1人、葬ったように。

 1人ずつ着実に、よそ者を消していくつもりなのか。

 

 

 いつの間にか、背後を走る黒服はもういなくなっていた。

 懸命に走ったおかげで、振りきることができたようだ。

 ――園崎組K班。

 あの黒服たちは、園崎組の一員として現当主である園崎魅音と、その懐刀である園崎圭一に忠誠を誓っている。

 つまり、雛見沢の中でも特に保守的な層の、走狗と言っていい。

 そう教えてくれたのは、犠牲になってしまった新人教師の椎野(しいの)だった。

 宗二は思い出す。椎野が殺される直前、祭の夜、二人きりの時に語った言葉を。

 

『奴らは――決して、よそ者を許さないの。

 今、開放的になっている雛見沢も、奴らにとっては許しがたいもの。

 外から来た連中に対する見せしめのために、

 血祭りに上げる生贄を――奴らは求めている。』

『私は殺されるかもしれない……でも、あなたたちはせめて、生きのびて……ね。』

 

 宗二はその言葉を、何度も頭の中で反芻する。

 

(――そうだ。こんなところで、しかもくだらない理由で。殺されてたまるか。

 生きのびるんだ。

 生きのびて――帰るんだ、東京へ。)

 

 そう自分に言い聞かせて、呼吸を整えて、立ち上がる。

 そして、興宮へと向かう道へと、脱出ルートへと歩を進める。

 だが――その前に、1つの人影が立ちふさがった。

 佳奈だった。

 

『この先へは……行かせないよ、宗二くん。』

 

 その言葉と共に、彼女は手に持った金属バットを構える。

 その目は、魁月と同じように冷徹で鋭く――こちらに対して容赦はしないと、訴えていた。

 それに応じるようにして、宗二もまた、護身用に持っていた木刀を取り出して――

 

 

「……宗二! 宗二! 大丈夫かい!?」

「――!!」

 

 そこで、目が覚めた。

 目の前には、眼鏡をかけた中年の男の顔。久しぶりに見る父の顔。

 それを見て――宗二は、自分が今、どこにいるのかをはっきりと思い出した。

 ここは、東京の病院。その待合室だ。

 父より先にこの場所に着いて、父を待つうちに居眠りをしてしまっていたのだ。

 夢とわかると、さっきまでの不気味なビジョンに対する恐怖も和らいでいく。

 しかし……一体、何だったのだろう。

 ただの夢にしては、妙にリアルで、真に迫る絶望感があったような――。

 

「……ごめん父さん。待ってるうちに寝ちゃったよ。」

「それは別にいいよ。随分と待たせてしまったからね。だけど宗二、何だかひどくうなされてなかったかい。大丈夫?」

「う……うん。ちょっと、怖い夢を見ただけだから。体調が悪いとか、そういうんじゃないよ。」

「そうか……父さんが早く来ていれば、そんな夢を見させることもなかったのにな。」

「気にしないで。……それより、早く母さんに会いに行こうよ。僕、1年以上ぶりなんだって。」

「……そうだね。じゃあ、行こうか?」

 

 待合室の椅子から起き上がり、父の背中を追って歩いていく。

 不吉な夢の記憶は、ゆっくりと薄らいでいった。

 

 

 

 

 

 

「ふふ……どうしたんだよ佳奈姉ぇ、何だかおびえてるじゃないか……?」

 

 夕刻の雛見沢。いつもとは違う、よどんだ空気の中で、歪んだ笑みを浮かべる魁月ちゃん。

 彼女とはそれなりに長い付き合いだが、こんな邪悪な笑みは今まで見たことがない。

 正直に言って、少し恐い。逃げ出したくなってもくる。

 だが――今はまだ、逃げても無駄だと第六感が告げている。

 だからまだ彼女からは逃げない。毅然とした態度で、彼女に対峙する。

 

「ふざけないで! ……魁月ちゃん、どういうことなの、宗二くんが“雛見沢の敵”って?」

「ふん……正確に言えば、雛見沢を脅かす敵の一員、といったところかな。あいつは諸悪の根源が手塩にかけて育てた一人息子だ。だからこそ雛見沢に送りこまれてきた。ボクたちの行動を見張るために。」

「見張る……? いや、それより……“諸悪の根源”って……?」

「鷹野三四、だよ。」

 

 それは、ある程度予想のできる言葉だった。

 ある夜の悪夢から今まで、何度かその名前に突き当たってきた。

 しかしそれでも……驚きはあった。

 その名前に、宗二くんと何の関係がある?

 

「タカノ……ミヨ……。」

「鷹野三四は、雛見沢を潰すために存在するような女さ。過去、あらゆる世界で、幾度となく雛見沢を襲い、踏みにじってきたが……この世界では、それは叶わなかった。彼女は表舞台から退き――けれど、決して諦めてはいなかった。」

「世界……? 表舞台……?」

 

 何となく聞いているだけだと、魁月ちゃんの正気を疑いたくなるような言葉。

 しかし……それでも、何となくその意味を理解できてしまう自分がいた。

 なぜなら――魁月ちゃんの言葉が“あの夢”で見せられた出来事を指しているのだと、直感でわかったからだ。

 母さん――竜宮レナは確かに、数年前に命を落とした。だが父さん、前原圭一は今も生きている。

 だから、父さんも母さんも命を落としたあの夢の出来事は、恐らく現実ではない“別の現実”。

 その“別の現実”で、多くの人を殺したのが……鷹野三四……?

 

「彼女は……そして、彼女の属する“東京”は、今も雛見沢を虎視眈々と狙っている。世にも珍しい風土病の存在するこの土地を、自分たちの力になる研究の土台にするためにね。ボクたち雛見沢の人間の都合なんてまるで考えちゃいない。……わかったかな。これが仲瀬宗二と鷹野三四、そして、奴らの所属する組織の真実だ。」

「……ふざけないで!!」

 

 魁月ちゃんの語ることが、単なる嘘八百でないことは、理解できた。

 彼女の言葉は、今まで単なる悪夢で片付けていた出来事に根拠を与えてくれた。

 だが、それでも……私は、信じない。

 宗二くんが、そんなおかしな連中の片棒を担いでいることを。そして――

 

「真実だか何だか知らないけど、あなたは1つ嘘をついてる!! ……あなたは、魁月ちゃんじゃない! 魁月ちゃんは確かに時にトラップを使う、でもこんな風に、親しい人を惑わせて傷つけるようなトラップは使わない!」

「……ふーん」

「正体を見せなさい、さもないと――」

「――一発喰らわせるって? 嫌だなぁ、怖い怖い……。」

 

 魁月ちゃんの笑顔が、さらに歪みを増していく。

 ……いや、もう歪んでいるなんてものじゃない。波紋が広がる水面のように、その輪郭がたわんで、ぼやけて、また別の形に再構成されていく。

 気がつくと、そこには魁月ちゃんとはかなり趣の異なる女性が立っていた。

 顔の上半分に鬼の仮面を付けていて、どんな顔をしているのか、はっきりとはわからない。

 ただ彼女は長髪で、そして――巫女服を着ていた。紅白の、やや独創的なデザインで、だがしかしどこか、古手神社の巫女服を思わせるような形。

 ――長髪で、巫女服。

 その姿は、どこか、父の古い知り合いである女性を思い起こさせる。

 

「……梨花、さん……?」

 

 だが、梨花さん本人でないことはすぐにわかった。

 髪色も髪型も微妙に違うし……何より、側頭部から、水牛を思わせる曲がった角が生えている。

 ひょっとしたら、ただの飾りなのかもしれない。

 だがそれにしても、異様な風体だった。……人間ではないかのようだ。

 仮面を被ったその女性は、何がおかしいのか、歪んだ笑みを浮かべて、話しはじめた。

 

「古手梨花、ね。なかなか察しがいいじゃないか。……古手梨花と私には、決して切れない深い繋がりがある。一時は親戚などと名乗っていたこともあったね。」

「……親戚……?」

「そう。だが、勘違いしないで欲しい。私は人間ではない……私のことは……オヤシロさま、とでも呼んでくれ。」

「……何それ、冗談のつもり……?」

 

 人間ではない、というのはまだいい。

 問題なのは“オヤシロさま”というその名称だ。

 それは、古手神社に祀られている古い神様の名前。

 それを自分から名乗るなんて……まるで、神様を気取っているみたいじゃないか。

 

「……冗談ではないさ。私は神だよ? お前たち雛見沢の民を見守る守り神だ。」

「そんなの……口ではいくらでも言えるじゃない?」

「やれやれ……最近の若い者には信心というものがない……」

 

 神を名乗る女性は、わざとらしく肩をすくめ、一度深く俯いた後――

 

「じゃあ証拠を見せてあげよう!」

 

――思いきり手を真横に広げた。

 多分……それが合図だったのだろう。

 太陽が地平線に沈みきった時のように、さっきまで黄昏色だった雛見沢が、一気に夜の闇に包まれていく。

 そして、空には不気味に輝く月が上る。

 そこまで変わったところで、私は気づいた。

 ……これは“あの夢”の再現だ、と。

 目の前に広がる景色は、この前見た悪夢と寸分違わないものになっていた。

 そして――

 いつの間にか地面には――6つの死体が、転がされていた。

 

「…………!!」

「もうわかるね? 私がご丁寧にも、過去の記憶を蘇らせて、夢としてお前に見せたものだ。だがあれは夢ではない。過去の、事実だ。」

「……嘘。父さんも、魅音さんも、沙都子さんも、まだ生きてる。」

「往生際の悪い……いいかい? “あの時”に死んだのは、今君が生きる現実とは違う世界の前原圭一たちだ。いわば、君たちが今生きている現実の、あり得た別の可能性が“ここ”だ。……さて、せっかくこの世界まで来てもらったんだ。当事者たちの貴重な証言を聞いてもらおうか。」

 

 “オヤシロさま”が手を振ると――突然、死体の1つが、がばっと勢いよく起き上がった。

 ぎょっとする佳奈の前で、死体はゴキゴキと首を鳴らすと、まっすぐ佳奈の方を見た。

 ――それは父。前原圭一だった。

 父は、何も映っていない虚ろな目でこちらを見ていたが、やがて何かを思い出したかのように一つ頷くと、語り出した――。

 

「そうダ……たかの、鷹野、鷹野さんが……うらぎっタ。あの人のせいデ……みんな、殺されタ。梨花ちゃんを……守れなかっタ。」

「……やめて」

「さぁ、次はレナの番かな? 思うところを述べたまえ。」

「……たかのさ、鷹野さんガ、圭一くんヲ……梨花ちゃんを、殺しタ…………ゆ、許せない……許せなイ……!」

「……やめてよ、母さん!」

 

 聞きたくない、こんなおぞましい告白は。

 その想いを乗せて、訴える。けれど、届かない。

 告白は、止まらない……!

 

「……佳奈ちゃン……仇キ……討っテ……!」

「佳奈ァ……」

「やめてぇ!!!」

 

 

 

 

 

 

「もうやめて? ……何、ムシのいいこと言ってるんだよ……先に仕掛けてきたのは……お前らの、方じゃないか……。」

 

 “その世界”の宗二は、佳奈にそんな言葉を投げかけた。

 ――実力差ははっきりしていた。

 佳奈は野球部のキャプテンをする肉体派だが、宗二もまた剣道部のレギュラーだった元スポーツ少年だ。そして、この時期の若者で言えば男子の方が女子よりも圧倒的に筋力で勝っている。

 単純に腕力の差だった。佳奈は宗二をここで返り討ちにしようとしているのだろうが……そんな簡単にやられる宗二ではなかった。

 自分から踏みこんで、二打、三打と木刀で打ちこんでいく。佳奈も金属バットで防御するが、守りに入るばかりで攻めることができない。

 後はどこかに一撃を浴びせて、無力化すれば先に進める……のだが、宗二はまだそうすることができずにいた。

 佳奈の薄気味悪いほどに冷静な目つきと、笑みが、宗二の恐怖心を煽り立て、ひるませる。

 

「宗二くんは勘違いしてるよ……私たちが宗二くんに危害を加えようなんて……そんなことするわけないじゃない……?」

「ふざけるな……そんなごまかしはもう通じないぞ! こそこそ僕をつけ回しやがって!! 足音をはっきりと聞いたんだ……園崎家の連中だろ。そうだな!?」

「宗二くん……何言ってるの? くすくす、園崎の人たちはそんなことしないよ。」

「ああそうか、シラをきるんだな……だが裏はとれてるんだ! 園崎家のやってきたことはすぐに明らかになる。椎野先生を殺したことだって!」

「……宗二くん……今、お父さんたちが動いて、調べてくれてるの。だから、焦らないで……落ち着いて、ね?」

 

 “お父さんたち”。

 その言葉で、宗二はK班のことを思い出した。……そうだ。振りきったとは言っても、あいつらはまだ僕を探している。このままでは追いつかれる。

 ……早めにカタをつけなくては!

 

「うるさい、黙れ!!」

「……あっ……!」

 

 宗二の繰り出した一撃で、佳奈の金属バットは吹き飛ばされた。

 好機とばかりに、宗二は踏みこんでいく。

 佳奈の肩を掴んで、地面に叩きつけ……彼女の上に馬乗りになる。

 そして両足を使って、彼女の両腕も封じる。

 ――マウントポジション。

 これで……後は、木刀さえ振り下ろせば、終わる。

 全てが、終わる。

 

「……はぁ……はぁ……はぁ…………!」

 

 ――終わらせてしまって、いいのか?

 

(佳奈は……部活の、大事な……仲間で……。)

 

 そんな言葉が、脳裏をよぎる。

 だが……園崎組は、今も確実に迫ってきている。

 時間は…………ない。

 だから。

 心を決めて……宗二は、ゆっくりと、木刀を天高く……振り上げる。

 

「ああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 

 

 

 

 

 

「ああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 

 突然、閉鎖された空間に響き渡る絶叫。

 それと同時に、背後に殺気を感じた。

 勢いよく飛びのいた。

 そして……さっきまで私が立っていた場所に、誰かが飛びこんできたのを見る。

 それは――宗二くんだった。

 だけど……様子がおかしい。

 全身が切り傷だらけだし……目が血走っている。息も荒い。

 そして……背筋が凍るほどの殺気を放って立ち上がり、私を見る。

 手に持った木刀を、確かめるように触りながら。

 

「おやおや、他所からお客さんのようだねぇ。……君が悪いんだよ、佳奈。

 いつまでも心を決めないからさ。」

 

 後ろから、“オヤシロさま”の嘲るような声が聞こえる。

 振り向くと、彼女は余裕の表情で、私と宗二くんの様子を悠々と観察していた。

 その様子で、悟る。今ここにいる宗二くんは、あの女性が連れてきたのだと。

 ……でも、一体何のために?

 

「どうして宗二くんを……ここに!?」

「なあ、もう忘れたのかい?

 仲瀬宗二は、鷹野三四が手塩にかけて育てた一人息子だ。いわば鷹野のとっておきの切り札なんだよ。

 宗二を殺すことは、鷹野にとっても相当な痛手になるだろう。……そして私たち雛見沢の者たちにとっては、大きなアドバンテージになる。」

「…………それって。」

「仲瀬宗二を、殺せ。……そうすれば、君の覚悟に免じて、この悪夢のような空間を解いてあげるよ。

 私は、君がこの男と仲良くしているのが気に入らないのであって、君本人をいじめたいわけじゃないからねぇ?」

 

 神を名乗る女性の残酷すぎる提案に、絶句する。

 そしてその瞬間――

 

「があああああああ!!!」

 

 宗二くんが襲いかかってきた。獲物の木刀を大上段に構えて。

 大振りなので、隙を見つけるのは難しくなかった。何とか横へ回避して、体勢を立て直す。

 だが宗二くんは一振り程度では止まらない。避けた私のところまで一瞬で距離を詰めて、木刀を振り回す。何度も、何度も。血走った目を私に向けながら。

 その殺気と勢いに、気圧される。

 ……このままでは……

 そう思ったとき、足に何か硬い感触が当たるのを感じる。

 ……金属バットだった。

 とっさに拾い、殺気を感じる方向にかざす。

 うまく、木刀の勢いを殺すことができた。腕にびりびりと、木刀が伝える衝撃が響くが、耐えられないほどではない。

 しばらく、そのままの膠着状態が続いて……宗二くんはらちがあかないと判断したか、一旦離れた。

 

「……佳奈! 佳奈ァ!!」

 

 離れた場所で、殺気の籠った怒声を上げる。

 その隙に、私は手に持つ獲物をよく確認した。

 ……見たことのないものだった。私がいつも野球で使っているバットとはだいぶ違う感触と、外見。

 それなのに、どこか懐かしい感じがした。

 まるで、このバットを持つことが、私の必然であるかのような……。

 

「……殺セ。」

 

 思考を、気味の悪い呪詛が中断する。

 その言葉を発したのは……父だった。

 死体と成り果て、神と名乗る女性に操られている父が、悪趣味な野次を飛ばす。

 それを認識しているのかいないのか、宗二くんは再び雄叫びを上げながら襲いかかってきた。

 金属バットで何とか防御する私。今度はきちんと木刀の力を受け流して、一つ一つの打撃を回避していく。……だが、現役ではないとはいえ剣道部員、受け流すだけでもだいぶ気力を持っていかれる。このままでは……きつい。

 一体、どうすれば……。

 

「……殺セ!!」

「殺しテくださイ!!」

「殺しテ……佳奈ちゃン!!」

 

 苦しい状況を、嫌らしい呪詛の言葉がさらに苦しくしていく。……今のは魅音さんと、沙都子さんと、母さんだろうか。

 焦りだけでなく、苛立ちまでもが胸の中にわく。

 ――どうして。どうしてそんなことを、あなたたちが言うの?

 あなたたちはいつも優しく。温かく。……本当の家族のように、私を導いてくれていたのに!

 

「佳奈ちゃン…………殺しなさイ!!!」

 

 母さんのその言葉で……力が抜ける。

 ……違う。

 ……違う!

 何を言っているんだ、せっかくまた会えたのに……

 あなたの口から聞きたいのは……そんな言葉じゃない!!

 

「……どこ……見てんだッ!!!」

 

 ……そんな風に、つい、気をそらしてしまったのが運の尽きだった。

 閃く殺気。迫る木刀。

 衝撃が走って、私は吹っ飛ばされた。

 一瞬遅れて、痛みが体に走る。

 場所は脇腹。

 ……ひどいな……女の子のこんなところを……何の、容赦もなく……!

 

「……宗二くん……やめてよ……

 こんな……ひどいこと……!」

「……うるさい…………死ね。」

 

 私が吐く言葉も、まるで聞いていない。

 手に浮かんだ汗を、手早く吹き取ると、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。

 手からぶら下がった木刀が、地面にこすれて音を立てる。

 

「前原佳奈。今が決断の時だ。」

 

 事態を静観する“オヤシロさま”が、言う。

 

「まだお前はやれる。殺されるな……殺し返せ!

 生きのびるんだ!!

 それが……お前の父や友人……雛見沢を守ることになる!!」

 

 煽り立てる神。

 それに同調する、6つの死体。

 迫ってくる、宗二くん。

 …………迷わざるを得ない。

 私は……どうすればいい?

 宗二くんを殺せば、ここから出られると、あの“神”は言う。

 それは本当かもしれない。

 ……けれど、そのためにと言って宗二くんを殺せるのか。

 あの宗二くんを。

 大切な仲間を。

 そして…………

 

 

 

「佳奈ぁ!!!」

 

 

 

 ――その声に、私は一瞬、我に返った。

 驚いたのは……父が、自分の名前を呼んだからではない。

 その響きが、私に何かを訴えようと、しているようだったから。

 

「……父さん?」

 

 ちらりと、神の側に立つ父さんを見る。

 特に変わった様子は見られなかった。父さんだけじゃない、残りの5人も同じ。

 全員がさっきと同じ虚ろな視線で、私たちを眺めている。

 …………だが。

 それでも、気持ちの変化があった。

 

「……っぐ、うう……」

 

 バットは、地面に置いた。

 空いた手で、脇腹を押さえた。

 そして……立ち上がった。

 痛みに耐えながら、しっかり立って……そして、近づく宗二くんを、まっすぐに見た。

 

「……何……見てる……!」

 

 宗二くんが、顔を歪める。

 目に一瞬の、迷いが映る。

 それを私は見逃さない。

 痛みを感じながら、それでも、目を逸らさない。

 宗二くんの目を、見つめ続ける。

 

「何をしている! 佳奈、バットを手に取れ!」

 

 神の声を聞き流しながら、考える。

 今のお父さんたちは、“神”の言葉に従って、呪詛を吐く死体に過ぎない。

 ……でも、あの人達の姿を通じて、思い出せることもある。

 あの時沙都子さんが言った、“宗二くんからの信頼を信じてみてほしい”という言葉。

 父さんと母さんがこれまでくれた、優しい気持ち。

 それを――その気持ちを、あの人たちが私に託してくれたんだとすれば。

 私は!

 

「佳奈!!!」

「……うぁああああああああああああああ!!!」

 

 神が叫び、宗二くんが吼える。

 それを確認しながら……私は、手を伸ばし、宗二くんの頬に触れた。

 ……無防備な距離。

 今木刀を振り下ろされたたら確実に命取りになる。

 それでも。

 私は精一杯の笑顔を作って……言った。

 

 

「大丈夫だよ宗二くん……私を、信じて。」

 

 

 



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ひぐらしのなく刻に 解(下) ―完結―

 

「大丈夫だよ宗二くん……私を、信じて。」

 

 

 “その世界”の宗二は、完全に静止していた。

 木刀を振り上げた状態で、微動だにしない。

 ……だが。

 その頭はゆっくりと回転を始めていた。

 佳奈の発した言葉。その手が伝えてくる温もり。彼女の視線。

 それらが、徐々に頭の中で噛み合っていき――

――やがて、1つの結論を導き出す。

 

(……僕は……何をやっているんだ……?)

 

 先程までの、異様な緊張感が、じわじわと解けていく。

 速く、激しくなっていた呼吸が整っていく。

 ……それに従って。

 彼には、自分の今やっていることを見直す余地が生まれた。

 状況を、頭の中で整理し直す。

 

(……佳奈は……僕の、味方なのか……?

 園崎家の手先じゃ、ない……?

 いや、そもそも……。)

 

 “園崎家が、鷹野三四の息子である宗二を狙っている”。

 父の知人が、あの男が語ったことは、果たして真実なのか?

 

(……いや、まだわからない。

 そうと決めつけるには材料が足らない……)

 

 心にこびりつく警戒の念が、その楽観を一度打ち消す。

 だが……

 宗二は、もう一度佳奈を見た。

 佳奈は……笑っていた。

 それも、さっきまで宗二の目に映っていたような冷笑ではなく、

柔らかく温かい、微笑みだった。

 宗二がさんざん打ちのめして、体がとても痛いだろうに、

それを思わせないような、笑顔で……。

 

「ああっ……あぁ……。」

 

 宗二は、木刀を取り落とした。

 心が締めつけられるような想いだったから。

 そして、膝からがっくりとくずおれた。

 ……佳奈の前で堂々と立っている自分が、恥ずかしく思えたから……。

 

「佳奈……佳奈……ぼくは……。」

「宗二くん……!?」

「……あぁ……信じられない……君に、君に何てことを……!」

 

 佳奈への殺意は消えた。宗二の中から。

 代わりに湧きだしてきたのは、自己嫌悪だった。

 

(僕は……なんで今、こんなことをしでかしてまで生きているんだ?

 ……仲間を、友達に暴力を振るって……

 女の子の華奢な体を、木刀でさんざん打ちすえて……

 それから……

 それから……!)

 

 もしその場に、ナイフの一本でも落ちていたなら。

 宗二はそれを拾って自分の胸に突き立てたかもしれない。

 だが現実にそんなものはなく、なすすべもなく震えるだけの宗二。

 そんな彼に……

 

「よかった……宗二くん、元に戻ったんだね。

 もう、大丈夫……?」

 

 佳奈は、温かい言葉をかける。

 そして……抱きしめる。

 その力はとても弱くて、抱きしめるというより、腕を宗二の背に回しただけという程度のものだったが。

 それでも、宗二には十分だった。

 伝わってくる体温が、感じられる心の繋がりが。

 崩れかけた宗二の心に、染みていく。

 頭がぼうっとする。それは、疑念に凝り固まっていたさっきまでも同じ。

 でも……今度のそれは、すごく気持ちがいいものだった。

 いつの間にか、宗二は泣いていた。

 悲しみと、嬉しさと、両方が混じった涙だった。

 体に力が入らなくて、涙を拭けない。

 情けない涙声になりながら、それでも宗二は言葉を絞り出した。

 

「ごめん……佳奈。僕、間違ってた……!」

 

 

 

 

 

 

「バカな…………!! そんな……ハズは……!!?」

 

 ……どれぐらいの時間が、経ったのだろう。

 ふと気づくと、私の腕の中に宗二くんがいた。

 さっきまでの殺気はどこへやら、すっかり縮こまって、脱力した様子で息を吐いている。

 ……そして。

 “神”は、予想外の事態にうろたえていた。

 私たちを見ながら、唖然とした表情で、小刻みに震えている。

 

「圭一さえ……圭一とレナでさえ、嵌まった深み……疑心暗鬼のワナ。

 なぜそれを…………何も知らぬお前たちが、やすやすと突破できる!?」

 

 その言葉の意味はよくわからない。

 けれど、「何も知らない」という言葉はシャクにさわった。

 だから……

 宗二くんを腕に抱えたまま、頭だけを“神”の方に向けて、

彼女に言う。

 

「……あなたはカミサマらしいけど、わからないんだね。」

「何……?」

「私は確かに知っているよ。……父さんが。母さんが。雛見沢のみんなが、教えてくれた。

 それを、私は思い出した。

 だから……奇跡が起きたの。

 私たちは、雛見沢に守られてる。……だから、こんな茶番には、屈しないんだッ!!」

「……何を言って……ぐッ! ぐぅぅッ……!」

 

 理由はわからない。だが“オヤシロさま”は、苦しんでいる様子だった。

 鬼の面の上から頭を押さえて、そのまま屈みこみ、苦悶の声を上げている。

 あまりにも苦しそうで、痛そうで。

 さっきまでの仕打ちも忘れて、一瞬同情の念さえ起こったほど。

 ……だが、それも一瞬。

 頭を押さえるのをやめ、立ち上がった“オヤシロさま”は、ついさっきまでと同じ冷静な様子だった。

 深く溜息をつき、やれやれと言わんばかりに頭を振る。

 

「……つまり今は私の負け……そう言いたいんだね?

 言い訳はしないよ……その通りだろう。

 だからしばらくは、君たちの好きにさせてあげるよ。

 でもいつか戻ってくる。いつかまた、君たちの心に隙が生じた時に。

 “あの頃”の雛見沢を、取り戻すために……。」

「……あなた、一体何なの? 何のために私たちを!」

「さよなら、佳奈。その時はまた……楽しく遊ぼう?」

 

 言いたいことだけ吐き捨てて。目の前に立つ人影が、消えていく。

 鬼の面も、巫女服も。雛見沢の宵闇の中に溶ける。

 いや、“オヤシロさま”だけじゃない。宗二くんも。父さんたちも。ゆっくりとだが消え去ろうとしている。

 消える速度は、父さんたちの方が速い。

 ……そこでようやく気づいた。父さんたちがもう、死体ではないことに。

 生きていた頃の姿に、戻っていることに。

 みんな、穏やかな笑みを浮かべながら、私と宗二くんを見ている。

 

(……がんばれよ、佳奈……)

(応援してるからね……)

 

 最後に父さんと母さんがそう呟いて……みんなは消えた。

 そして……

 腕の中にいる宗二くんも、消滅の時が近づく。

 ……その時になって、また、大事なことを忘れていたことに気がついた。

 ……ああ、何てことだ。

 さっきから、私は、宗二くんを抱きかかえたままだったのだ。

 

「……佳奈、そろそろ、離してくれないかな。ちょっと、苦しい。」

「え! ……え!!? あ、えーと、そのっ!

 ……うん、ごめん……。」

 

 腕の中にいた宗二くんをそっと、しかし出来る限り手早く解放する。

 宗二くんは涙も、鼻水も出したままで、何だかとても冴えない顔つきだったが

それを忘れさせるぐらいのいい笑顔を私に見せる。

 ……顔が熱くなる。

 心臓も、今更のようにバクバク言いだした。

 気が動転する。言葉が、口から出てこない。

 ……神様には、あんなにすらすら啖呵を切ったのに。

 エサを狙う鯉のように口をぱくぱくさせるだけの私。

 そんな私を見ながら、宗二くんは優しく笑んで、何かを言おうとして――

 

 

 

 

 

 

――私は、目を覚ました。

 

(……え……!?)

 

 一瞬、激しく動揺する。

 ……私が今、寝ているのは……自宅のベッド!?

 

(……そんな……

 これじゃまるで……さっきまでの出来事全部……

夢だったみたいじゃ……。)

 

 そう思って、立ち上がろうとして……

脇腹に、痛みを感じた。

 ……まるで、木刀にでも打たれたような痛み。

 それを感じて――――安心した。

 よかった、と。

 ……こんな痛みを感じるのなら、多分さっきのは夢じゃないんだ、と。

 

(……ケガしてるのがわかって安心するって、何かおかしいけど……。)

 

 そんな風に苦笑して、立ち上がり、痛みをこらえながら階段を下りる。

 窓から見る景色は、とっくのとうに真っ暗闇だった。

 階下からは、何かを炒める音が聞こえてくる。沙都子さんが野菜炒めでも作っているのかな?

 

「沙都子さん……?」

「あぁら佳奈さん。どうなさったのかしら。帰ってきたと思ったら、挨拶もせずに2階に上がってちゃって。私、少し心配しておりましたのよ?」

 

 果たして台所にいた沙都子さんが、わずかに苛立ちを感じさせる顔で微笑む。

 ……どうやら、意識もないまま帰宅して、夢遊病患者のように自室へ戻っていたらしい。

 自分の器用さに呆れながらも、とりあえず言うべきことを言う。

 

「ごめんなさい沙都子さん……実はちょっと、外で怪我しちゃって……。

 さっきはあまりにも痛すぎて、沙都子さんに声かけるの忘れちゃってて……

 ……夕食終わったら、看てもらってもいいですか。」

「まあ! 何でそういうことをもっと早く言わないんですの!!

 ……うーん、もう少し、もう少しだけお待ちくださいまし!

 佳奈さんの大好きな野菜炒めを適当にほっぽり出すのも、気が引けますものねぇ!」

 

 沙都子さんは必死な表情で私と、目の前の野菜炒めを見比べている。

 それを見て、私は思わず笑ってしまった。

 ……何だかおかしかったし、自分がちゃんと元の日常に戻ってこれたとわかって、安心したから。

 

 

 

 

 

 

 ――結局、沙都子さんの見立てでは、さほどひどい傷にはなっていないらしい。

 けれど、こういう怪我はレントゲンとかで詳しく見ないと確かなことは言えないとか、何とか。

 そんなわけで今夜は安静にし、早く寝て、次の朝診療所に行くことになった。

 今日は、早く寝なければならない。

 ……だが。

 寝てしまう前に、どうしても済ませておきたいことがあった。

 今日は金曜日。そして宗二くんが帰ってくるのは、本人の弁によると、日曜の昼下がり。

 連絡は、早くしておくに越したことはない。

 自室に帰って、ベッド脇に置かれた携帯電話を取り、電話帳からある番号を呼び出す。

 そして通話ボタンを押した。

 数回の発信音の後、すぐに目当ての相手が電話に出る。

 

「……もしもし? 魁月ちゃん? ごめんね、こんな夜中に。

 ちょっと、明後日のことで、話しておきたいことがあって……。」

 

 

 

 

 

 

 その夜、私はまた夢を見た。

 内容は、よく覚えていない。

 けれど、前に見たような悪夢の類ではなかったことと、

その中に宗二くんが出てきたことだけは、確かに覚えている。

 

 

 

 

 

 

 パシャッ、パシャッ!

 ――不意を突くようなシャッター音に驚いて、宗二は慌てて飛び起きた。

 その目の前には、父がカメラを構えて、宗二を覗きこむようにして立っている。

 バスの中だと言うのに立ち上がってカメラを構える姿はとても悪目立ちしていた。

 

「おぉっと、びっくりした!」

「それはこっちの台詞だよ父さん! 寝顔をこっそり撮ろうなんて悪趣味だな!」

「……あっはは、ごめんごめん! いい寝顔だったから、カメラマンの血が騒いじゃってね!」

「カメラマンって言ってもアマチュアだろ! 本業は自衛隊員じゃないか!」

「うーん……宗二は母さんに似て、結構手厳しいなぁ。」

 

 父は苦笑いを浮かべ、ポリポリと頭を掻きながら元の座席、宗二の隣に座る。

 すまなそうな表情だが……それでも例えば、自分を養子にやったことを謝る時の顔とは大違いだ、と宗二は感じていた。

 何だか、わくわくしてこれから起こることに期待しているように感じられる。

 さっきのような行動も、わくわくして羽目を外してしまった結果なのかもしれない。

 

(父さんが雛見沢についてくるって言いだしたときは驚いたけど……多分これ、僕が心配っていうのは半分だけだな……)

 

 一体雛見沢と父の間にはどんな関係があるだろう、と宗二は考える。

 簡単に予想できないが……しかし、きっとそれは一度や二度訪れたとか、そういうものではないのだろう。

 それ以上の深い縁があるように、宗二には思えた。

 

「ねえ、父さん。」

「ん?」

「本当によかったの? ついてきて。今使ってるこの時間を、母さんのために使うこともできたよね?」

「うん、まあその通りだ……でも、これは母さんと話し合って決めたことなんだよ。」

「母さんと?」

「ああ。……宗二。正直に言うとね、父さんは、金曜日に久しぶりに君に会ったとき――しばらく会わないうちに、たくましくなった、と思ったんだ。」

「えぇ!? そ、そうかな……。」

「ああ。昔知り合った男の子を思わせるような、いい目をするようになったよ。……そしてね、それはきっと、この雛見沢のおかげなんじゃないかと思ったんだ。」

「雛見沢の……おかげ」

「父さんも、母さんも、この雛見沢ではすごく大事な経験をした。すごく大事な出会いがあって……その出会いのおかげで、今の僕たちになることができたと思うんだ。それは、宗二も同じなんじゃないかって思った。

……だから、改めて、この土地にお礼を言いたくなったんだ。それで、来たんだよ。母さんの分まで、お礼を言うためにね。」

「……そうなんだ……。」

 

 真剣に、雛見沢のことを語る父を見て、宗二は何とも言いがたい安心感を覚えた。

 この土地に対して自分が感じている温かい気持ちを、父もまた共有してくれているのだと感じられたから。

 それと同時に、その“すごく大事な経験”というのは何だろう、という疑問も生まれた。

 一体、それはどんな経験だったのか?

 それを少しでもいいから聞きだしたくて、口を開いたその時――

 

「次は、雛見沢ぁ、雛見沢です。お降りの方は、停車ボタンを押してください。」

 

ちょうどいいタイミングで、車内アナウンスが響きわたった。

 

「おっ! 着いたぞ宗二! ほら、降りる支度をして!」

 

 早速いそいそと降りる準備を始める父を見て、宗二は聞きたいことを聞けなかったとがっかりし――同時に、それでもいい、と温かく許容する気持ちを感じていた。

 人生は長いんだ、またいつか、聞く機会も来るだろう、と。

 

 

 

 

 

 

 一面の畑が広がり、のどかな空気の漂う雛見沢のバス停。

 宗二と父の二人が降りると、バスは走って行ってしまった。

 それを見送ると、二人は顔を見合わせ、歩きだそうとして、

 

 

「おーーい!! 宗二くーーん!!」

 

 

呼びかけてくる優しい声に気がついた。

 宗二が、父親が振りかえると、バス停から少し離れた場所に、集まっている一団がある。

 それは――佳奈たちだった。

 佳奈。優乃。魁月。悟月。

 4人の部活メンバーたちが、宗二を笑顔で出迎えている。

 ……もどかしい想いがあった。心の壁も感じていた。

 それでも宗二は、全て振りきって駆けだした。

 駆けだしていって、佳奈たちの傍までやって来る。

 そんな宗二を見て、佳奈は一言、

 

 

「おかえりなさい、宗二くん。」

 

 

と言った。

 ――何だか、映画のワンシーンみたいで、照れくさい。

 そう感じながらも、宗二は彼女に笑顔を返して

 

 

「ああ……ただいま、佳奈。みんな。」

 

 

と返す。

 

 

 そんな子供たちの様子を、宗二の父――富竹ジロウは微笑ましい様子で見守っていた。

 だが、何かを思いついたかのように荷物をまさぐり、再び先程のカメラを取り出した。

 笑顔で語らう子供たちにカメラを向け――シャッターを切る。

 そして満足げに呟いた。

 

 

「ただいま……雛見沢。」

 

 

 

 

 

 

<了>

 

 

 




いかがでしたでしょうか。
「ひぐらしのなく刻に」の物語は、このエピソードで完結となります。
いろいろと唐突だったり、はっきりしなかったりするところがあり、いまひとつ納得できていない方もおられるかと思いますが……元々、何十話も重ねて書こうと考えた話を、無理に前編・後編・外伝・解の四編にまとめた結果ですので、その辺りは申し訳ないですが、そういうものだとお考えいただきたいと思います。
(余談ですが、今回このような形で物語をまとめるにあたり、週刊少年ジャ○プで10週打ち切りを喰らってしまった漫画家さんの心境が少しわかったような気がしました)

語りそびれたことをいくつか。
富竹・鷹野と仲瀬宗二の関係は、実は物語の初期構想段階から既に決まっていたことでした。
元々は「鷹野宗二」とあからさまに鷹野の息子であることを強調していたのですが、「雛見沢症候群を発症する宗二」のエピソードを書こうと考えた時点で、あえて名字を変え、出自を隠すことになりました。
某掲示板に連載していた版では、ちょこちょこ富竹の息子であるということの伏線を張っていたのですが、気づいた方は果たしているのでしょうか。……いないかもしれないな。

雛見沢症候群について。
「ひぐらしのなく刻に」の時代では、既に雛見沢症候群にはある程度有効な治療法が存在しており、患者が大人しく治療を受けるならば治療はほぼ確実に成功する、というところまで来ています。
しかし、作中に描写されたifの世界(≒某掲示板に連載されていた版の世界)では祭の晩に怪奇事件が起こり、そのごたごたで大人たちは宗二の発症に気づくのが遅れて、結果として宗二が暴走するという経緯があったわけです。
宗二が鬼隠し編の圭一を彷彿とさせる経緯で闇に堕ちていく過程は、本当はもっとじっくり描きたかったです……(未練がましい)

魁月について。
作中に登場する園崎魁月は、このハーメルンの版でははっきり描写されていませんが、圭一と魅音の娘です。
レナが物語開始の12年前に死亡し、その後圭一は魅音と再婚。そこで生まれたのが魁月です。つまり佳奈と魁月は腹違いの姉妹ということになります。
この佳奈と魁月の関係も、もっと掘り下げて描きたかったものの一つです。
腹違いの姉妹なんて、最近のエンタメ作品ではあまりお目にかかれない関係性ですし。

レナについて。
作中はっきりと死の経緯が描写されることがありませんでしたが、圭一・佳奈との家族旅行中に足を滑らせて崖から転落、そうした事故により死亡したというところです。
この事故は偶発的に起きたものであり、“オヤシロさま”は一切関わっていません。
この設定に関しては、導入を相当迷いましたが、前原佳奈というキャラクターの心の傷と成長という(主に前編で描かれた)部分に欠かせない要素であったので、結局取り入れることになりました。
「ひぐらしのなく刻に」で描かれたレナの顛末が必然だったなどとは、当然考えていません。他の世界線(例えば、他の方が書かれた続編二次創作など)では、きっとレナも幸せになっていると私は信じています。

そして、羽入について。
作中に登場した“オヤシロさま”は、羽入であって羽入でない、という微妙な存在です。
羽入が、「後編」の序盤で描かれたように、力を使い果たして消えてしまった後、その力が再び再構成されたのがオヤシロさま、とでも言えばいいのでしょうか。
羽入の記憶を引き継いでいますが、基本的に羽入とは別人で、羽入とは違う思惑で動いています。
なので、彼女の卑劣な所業は直接羽入とは関係ないのですが……それでも姿は羽入に酷似しているわけで。
後編の後書きで羽入に償いたいと言った私ですが、結果として償うどころかかえって不名誉な姿を見せることになってしまいました。
これに関しては本気で反省しています。
やはり羽入とレナには、今後何がしかの形で埋め合わせをしてあげたいところです。

長々と書いてきましたが、最後にお礼の言葉を。
「ひぐらしのなく頃に」の世界を彩るキャラクターの皆と、それを作り上げてくださった07th Expansionの皆様。本当にありがとうございました。お粗末な結果にはなりましたが、この小説を書くことができて、僕は本当に幸せでした。
某掲示板にて、この物語の原型を読み、応援してくださった皆様。あの頃、最高に楽しかったです。その時間を下さったことに感謝します。この「解」が、少しでもその恩に報いることができていれば幸いです。

そしてこんな小難しい上に、ちょっと暗い話を長々と読んでくださったあなた。本当にありがとうございました。
これからも十宮は小説を書き続けていくことと思います。
新しい作品がまた生まれたとき、またお付き合いいただけるなら、大変光栄に思います。
その時はよろしくお願いいたします。
ではでは。


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