何かの呼び声 (クロル)
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プロローグ

 一口にゲームといっても、世の中には様々なものがある。昨今では電子媒体のシューティング、アクション、パズル、ロールプレイング、シミュレーションといったコンピューターゲームが隆盛を誇っているが、昔はそんなものは無かった。しかし昔の人がゲームをしなかったかと言えば、当然そんな事は無い。

 双六、メンコ、独楽回し。チェス、将棋、囲碁、麻雀。機械に頼らないゲームはいくらでもあるし、チェスや将棋などは未だに実物のボードと駒を使って遊ばれるのが主流だ。

 チェスの人工プログラムが世界王者に匹敵するほどの成長を遂げ、ネット麻雀が普及し、双六の派生とも言える友情破壊ゲームが登場する一方で、電子媒体では代用できない、しにくいゲームもある。先の例ならメンコと独楽回しが該当する。

 メンコと独楽回しは有名だがマイナーという微妙なゲームで、よりスタイリッシュに、現代的に改造したそれの競技人口の多くは小学生だ。中学生にもなれば大抵はコンピューターゲームに自然と移行するし、二十一世紀に突入してからは小学生へのコンピューターゲームの浸透もめざましい。最近の子供にゲームとは何か? と問いかければ、PSPやDS、またはゲームソフトの名前を挙げるだろう。ゲームといえばコンピューターゲームなのだ。

 

 もっとも、いつの時代にも時代の変化についていけない者や懐古主義者はいるもので、依然として旧態然としたボードゲームを好む者も一部にはいる。

 発展めざましいMMORPGなどとは比べるべくもなく原始的なゲーム群だが、例えば麻雀などは実際に向かい合って闘牌する事で画面越しでは味わえない駆け引きや心理戦が生まれるし、ブロック遊びの実物の大作は電子データのものよりも大きな達成感と感動を作り出す。一概にコンピューターゲームが古いゲームの上位互換だとは言えない。

 そんな最新式から三歩も四歩も遅れたゲームの一つに、TRPGというマイナージャンルがある。

 

 正式名称は「テーブル トーク ロール プレイング ゲーム」。ゲーム機などのコンピュータを使わずに、紙や鉛筆、サイコロなどの道具を用いて、人間同士の会話とルールブックに記載されたルールに従って遊ぶ対話型のロールプレイングゲームを指す言葉である。ちなみに和製英語だ。

 認知度が高いゲームジャンルでは、恐らくシミュレーションが最も近い。シミュレーションゲームと異なるのは自由度である。

 TRPGは対話型のゲームというだけあって、一人ではプレイできない。最低でも二人以上必要なぼっち泣かせのゲームだ。それ人工知能で代用できないの? と聞かれれば、できないと答えるしかない。それがゲームの自由度に繋がっているからである。

 

 近年、人工知能の成長は著しいが、柔軟性の面では人間には到底勝てない。人工知能はプログラム通りの言動、行動しか取れず、創造が苦手だ。格闘ゲームで、バトルフィールドの背景に描かれている瓦礫を拾って投げつける事ができるだろうか? できるわけがない。そんなコマンドは存在しないからである。しかしTRPGではそれができる。人間同士で遊ぶゲームだからだ。基本的なルールこそ存在するものの、遊んでいる当事者が相談すれば、いくらでも改変できるし、その場限りの新ルールも追加できる。

 TRPGで格闘をするなら、ルール上パンチとキックしか存在しなかったとしても、転がっていた植木鉢で殴るとか、砂を撒いて目潰しするとか、背を向けて逃げてバトルフィールドの外に出るとか、そのゲームの世界観でできそうな範囲なら、やりたい放題できる。脱出ゲームで、部屋の鍵が無くて開かない場合、コンピューターゲームなら鍵を見つけないと脱出できないが、TRPGなら体当たりでドアをぶち破ってもいいし、ピッキングで開けてもいい。

 そういった、コンピューターでは実現できない柔軟性があるのがTRPGというゲームの長所だ。

 

 TRPGにもホラーやアクション、シミュレーションなど、色々なジャンルに小分けされる。全てに共通するのはゲームマスターの存在だ。

 ゲームによって、ゲームマスター(GM)、キーパー(KP)、ジャッジ、ストーリーテラーなど、呼び方は違うが、役割は同じで、要はゲームの進行役・司会である。

 TRPGは柔軟性があるゲームだが、ありすぎるのが考えもので、誰かが手綱を取らないとルールを逸脱しすぎて台無しになる。ラスボスの体力が100のゲームで、主人公(プレイヤー)の通常攻撃力を1000にしたらゲームバランスが崩壊する。ゲームバランスが崩壊しないように、かつプレイヤーが楽しめるように、プレイヤーの提案をルールと照らし合わせて調整し、ゲームに反映させるのがゲームマスターの役割だ。

 つまり、TRPGはルールを参照しながら、ゲームマスターという進行役の下で、一人以上のプレイヤーが遊ぶゲームなのである。プレイヤーが二人以上なら人間関係が広がり、より楽しくなるだろうし(ただしプレイヤーの人数が多すぎるとゲームマスターの管理能力の限界を超えて頭がフットーしてしまう)、進行役であり、ゲームの支配権を握るゲームマスターはプレイヤーの七難八苦をニヤニヤ眺めたり、無茶だが合理的な提案に困ったり、予想外の驚くほどスマートな解決方法に感心したり、と、ゲームマスターも含めて楽しい時間を過ごせるだろう。

 

 TRPGの一つに、「Call of Cthulhu」「CoC」「クトゥルフ」などと呼ばれるゲームがある。二十世紀の怪奇小説家、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの小説を土台にしたこのTRPGはホラー系で、プレイヤーが操るキャラクターは探索者と呼ばれ、一目見ただけであまりの恐ろしさに発狂するような悍しい怪物に立ち向かう事になる。ラヴクラフトの小説やそこから派生した小説群、設定は「クトゥルフ神話」と呼ばれシェアワールド化されているので、サブカルチャーに詳しければ間接的に目にする事も多いだろう。「ニャルラトホテプ」の元ネタもクトゥルフ神話だ。

 

 ラヴクラフト最大の誤算と言われた萌えアニメを足がかりにTRPGのCoCに入門した私は、マイナーなゲームを一緒に遊んでくれる友人に恵まれた事もあり、たちまちのめり込んだ。

 寝ても覚めても考えている事はTRPG。合計プレイ時間は200時間は下らない。RPGでいうクエストに相当する、ゲーム中の一区切りをTRPGではシナリオとかセッションと言う。一回のセッションは2~8時間ほどで、私は四十個以上のシナリオをこなした。鮮烈に印象に残る思い出深いシナリオもあれば、大失敗に終わったガッカリシナリオもあったが、全てひっくるめて楽しかった。とても。名作ゲームの新作よりもTRPGのプレイを選ぶほどに。この気持ち、まさしく愛だ。いや愛は大げさか。

 

 ……それが一体なにがどうなってこうなったのか。

 私には分からない。今、自分が本当に正気なのかも分からない。

 しかし心当たりが全く無いわけではない。私が今直面している事態の全容を掴むためには、前後関係の正確な整理が必要になる。

 混乱している自分の記憶の確認を兼ね、この事態に関係していると思われる事を時系列順に書いて行こうと思い、こうして筆を取っている。

 

 あれは春頃だったか、いつもの友人達とCoCで遊ぶ事になった私は、八坂一太郎という名前のキャラクター=探索者を作り、「悪霊の家」というシナリオをプレイした――――



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1-1 悪霊の家

 八坂家の長男として生まれた八坂一太郎は聡い子供だった。教えた事はすぐにモノにし、小学校入学前から二桁の足し算引き算ができ、小学校低学年で習うような漢字を書く事ができたし、両親が喧嘩をしたり、父が職場で大きなミスをして落ち込んで帰ってきたりすると、例え隠していてもそれを敏感に察知した。両親にそういった事を驚かれ、褒められると、一太郎は「だって見ればわかるよ?」と不思議そうに言った。

 

 幼さ故の言葉の拙さで両親には伝わらなかったのだが、一太郎は一種の魔眼のようなものを持っていた(※)。一太郎は目に意識を集中すると、生き物が持つモヤのようなものを視る事ができた。モヤは人によって色や明るさ、雰囲気が異なり、感情によって変化する。これによって相手の感情を察知していたのである。もっとも、意識を集中しても失敗してモヤが見えない事も多かったし、精神的に疲れるのであまり多用はできない。モヤの変化から必ず正確に感情を読めるわけでもない。よくわからない時の方が多い。しかし、モヤの変化が感情の変化と連動しているとこの歳で洞察できたのは間違いなく一太郎の頭が飛び抜けて良かったからで、魔眼を抜きにしても優秀な子供だったと言える。

 

 八坂家を悲劇が襲ったのは、一太郎が小学二年生の時だった。古いガスストーブの故障が原因で、八坂家は全焼。一太郎の両親は死亡し、一太郎も重い火傷を負った。

 どうにか一命を取り留めた一太郎は、火傷の後遺症で筋肉が引き攣り、煙を吸い込んだため肺も弱め、病弱な身体になっていた。顔には酷い火傷の跡もある。そんな一太郎は親戚をたらい回しにされ、最終的に叔父の家に預けられる事になった。

 

 数年もすると一太郎が火事で負った心の傷も癒えていった。一太郎は勉強熱心で、友達と遊ぶよりも図書館で本を読む事を好んだ。

 元々頭が良かった事に加え、読書のおかげで年齢の割には相当スマートに物事を筋道立てて喋る事ができるようになった一太郎は、ある時叔父に自分の魔眼について話した。

 叔父は激怒した。必ず、甥の無知蒙昧の虚言を除かなければならぬと決意した。叔父にはオカルトが分からぬ。叔父は、オカルト嫌いである。科学を尊び、数字と遊んで暮して来た。けれども擬似科学に対しては、人一倍に敏感であった。

 

 一太郎の魔眼は光るわけでも音が出るわけでもなく、客観的に魔眼の存在を証明するものは何もない。証拠は一太郎の自己申告しかない。

 一太郎は賢いとはいっても、小学生に過ぎず、叔父の容赦ない、嫌悪を混ぜた言葉で自分の魔眼を全否定され、嘘つきだ、キチガイだ、とまで言われると泣いてしまい、何も反論できなくなった。

 最初はなんとか自分の魔眼について叔父に分かって貰おうとした一太郎だったが、すぐに理解してもらうのは無理だと学んだ。

 一太郎はしばらく真実を否定する叔父に反抗的になったが、何年もゴリゴリゴリゴリとオカルトを否定する言葉を聞かされ、現代的な科学知識を身に付ける内に、自分の力を魔眼だとは思わなくなった。突然変異か視神経の異常で妙な物が見えているだけ、と思うようになったのである。

 

 実際のところ、一太郎の魔眼は本物で、生粋のオカルトの体現とも言えたのだが、皮肉な事に成長した一太郎はオカルトを信じなくなった。それどころか、幼い頃自分が魔眼だ、魔眼だ、と言っていたのを酷い勘違いだと恥じるようになった。

 しかし相変わらず目に意識を集中するとモヤが見える事には変わりない。一太郎はなぜこんな症状が出るのだろう、と思い、叔父に頼んで医者に連れて行ってもらったが、原因は分からなかった。

 そこで好奇心旺盛な一太郎は自分で調べる事にした。医学を学び、生物について学び、暇を見つけては、自分の目がどうなっているのかを自分なりに検証する日々。

 趣味が高じて、と言うべきか、高校を卒業した一太郎は、眼細胞の研究で有名な教授が生物学の講師を務める大学の理学部に進学したのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 三月の始め、東京郊外。駅の高架近くの古びた屋敷の前で、大きな旅行カバンを背負った一太郎は、手に持った地図と目の前の建物を見比べていた。

 時間帯のせいもあるだろうが、麗らかな春の日差しは高架に遮られ、屋敷には届いていない。無機質なコンクリートを這う寒々しい風が足元をさらうばかりである。

 大学進学に伴って一太郎は一人暮らしを始める事にした。未だ残る火傷の後遺症で、筋力も体力も人並み以下だったが、頭は大学に主席入学するほど良かったし、精神的にもタフだった。顔面の半分を覆う酷い火傷の跡も、人目を気にしない一太郎には足かせにならない。一人暮らしに支障は無かった。

 奨学金をもらい、叔父からそれなりの生活費も送られている一太郎がおどろおどろしいボロ屋敷を選んだのは、金銭を研究費に当てたかったからである。図書館にも無い医学書、解剖書、論文を取り寄せて購入するためにはかなりの金がかかるし、研究というのは機材に薬品にと、やたらと金を喰う。在学中は大学の設備を使わせてもらえるにしても、大学の金も無限ではない。一太郎はいざとなれば自腹を切ろう、とまで考えていた。それを考慮すれば、住まいに金を費やすのは全く無駄であろう、と思えた。

 

 件の賃貸ボロ屋敷は事故物件で、日当たりの悪く陰気で寂れた立地を差し引いても家賃が恐ろしく安かった。一ヶ月五千円という裏を疑いたくなるような家賃について問いただせば、大家は口を濁し、もにょもにょと幽霊がどうの、祟りがどうの、と言った。どうやら入居者に事故が連続したせいで悪い噂が立ち、いっそ取り壊すか、という話も出ていて、五千円でも住んでくれるなら儲けもの、といった事情があるようだった。

 オカルト否定派の一太郎にとって、超常的な怪異はマイナス要因にはならない。そんなもの、本当に存在するわけがない。錯乱してそう見えただけとか、単純な事故の話に尾ひれがついたとか、怪異の真相はその程度。馬鹿馬鹿しい幽霊や祟りの噂のおかげで安く住めるなら万々歳だ。ただし、事故が連続しているなら、床板が腐っているとか、水漏れがあるとか、何かしらの欠陥が事故の直接的・間接的原因になっている可能性はある。注意は必要だろう。

 

 表札の文字は消されたというよりも掠れて消えていて、目を凝らすと辛うじて「魚流田」と読めた。「うおるた」か「うおるだ」か、どちらにせよ変わった苗字だ。前の居住者のものだろうか。屋敷の窓という窓にはカーテンがかかっていて、中にあるものをかたくなに隠しているような印象を受ける。ひっそりとして他者を拒絶するような、非科学的な言い方をすれば不吉な雰囲気に、一太郎は思わず眉を潜めた。半ば無意識に、感覚的に魔眼が発動する。すると、屋敷全体に薄らとモヤがかかっているのが見えた。

 

「……んん!?」

 

 驚いて瞬きをする。これまで、生物以外がモヤを纏っているのは視た事がない。しかも、モヤそのものは酷く薄くはあるが、そこから粘ついた怖気立つような悪意を感じる。

 これはどういう事だろうか。目の異常が進行したのか。慣れない土地に来た事によるストレスが影響したのか。それとも屋敷に本当に何かあるのか……いやいやそんな馬鹿な。

 一太郎はぶるりと身を震わせる。不気味だが、いつまでも屋敷の前で棒立ちしていたも仕方ない。

 

 鍵を差し込んで捻るとガチャリと音がした。そのままドアを開けようとするが、開かない。錆び付いているような感触ではなかった。もしやと思いもう一度鍵を捻ると、今度は開いた。最初から鍵が開いていたのだ。

 無用心だなあ、と思いながら玄関に入ると、そこには靴箱を漁る髪を金髪に染めたチャラチャラした男がいた。

 

「!?」

「ファッ!?」

 

 まさか人がいるとは思わなかった一太郎は驚いて固まり、チャラ男の方も奇声を上げてビクンとした。

 

「え、なんなんですかなんでいるんですか誰ですか」

「何ってそりゃ……お前こそ誰だよ、ああん?」

「私は今日からここに住む事になった八坂一太郎です。あなたは?」

「ね、根津 未弧蔵」

「ねずみ小僧?」

「っせーな未弧蔵だよミコゾウ、もう帰るからそこどいてくれ」

 

 一太郎がここに住むと聞いた途端に顔色を変え挙動不審になり、そそくさと立ち去ろうとする未弧蔵。一太郎は未弧蔵が手に曲がった針金を持っているのを目ざとく見つけ、腕を掴んだ。

 

「な、なんだよ、離せよ(震え声)」

「泥棒ですよね?」

「ちげえし! あの、アレだ、セールスマンだし! 物音するのにチャイム鳴らしても誰も出なかったから入ってみただけで――――」

「泥棒ですよね?(威圧)」

「そ、そうです……」

「あのねぇ、あなた不法侵入ですよ? いくら誰も住んでいなかったといっても勝手に入ったら犯罪です。これはもう警察に連絡するしかないですね」

「やめて下さいお願いしますなんでもしますから!」

「ん? 今なんでもするって言ったよね?」

「エッ、アッハイ」

「じゃあこの屋敷の点検手伝って下さい。けっこうあちこち痛んでるらしいので。途中で逃げたら通報するのでしっかりやって下さいね」

「……うっす」

「あ、財布とか持ってます?」

「持ってますけど」

「点検終わるまでそれ担保として預かっときますね」

 

 渋々渡された財布を受け取り、一太郎は一階から点検を始めた。旅疲れで少し休みたいところだったが、差し当たっての安全確認ぐらいは済ませておきたかった。過去の事故の原因が屋敷に住み着いた凶暴な野良犬だった、などという真相だったら、寝ている間に噛み殺されかねない。

 大家から受け取った簡単な見取り図のメモによると、屋敷は一階が居間、食堂、キッチン、空き部屋3の合計6部屋。二階がユニットバスと寝室3の4部屋。更に地下には倉庫が2部屋ある。一人暮らしの大学生が住むには贅沢すぎる。ボロ屋敷とは言えこれが家賃五千円なのだから、一体どんな事件があったのだろう、と、一太郎は今更ながら少し心配になってきた。何しろ白昼堂々泥棒が入り込むぐらいなのだから、安全性も問題がある。自費で防犯設備を追加する程度は必要だろう。

 

 預かった財布から免許証を取り出し(期限切れで失効していた)、根津 未弧蔵 という名前を確認した一太郎は、偽名じゃなかったのか、と変な感心をした。財布をポケットにしまい、荷物を置くついでに居間に向かう。一太郎は未弧蔵を信用したわけではなかったが、財布を預かっておけばそうそう変な事はされないだろうという判断があった。今屋敷にある物は一太郎が持ち込んだ物ではなく、仮に何かをちょろまかされたところで痛くもない。人のいない屋敷にある物なんてたかが知れているだろう。

 

 居間には修学旅行先の旅館にあるような古いテレビ、背もたれが破れて綿がはみ出たソファ、椅子があった。棚には小学校の学園祭のフリーマーケットで売られているような見るからにチャチな小物が雑然と転がっていたが、中には仏像やお守りが混ざっていた。部屋を見渡してみると、柱や窓の桟に御札が貼られていて、壁の画鋲から十字架がぶら下がっている。前の居住者が置いたものだろうか。思ったよりも置き土産が多い。

 こんなオカルトチックな物を無意味に並べるよりも警報器の一つや二つ設置した方がよっぽど効果があるのに、と内心で前の居住者の愚鈍を嘲笑いながら、窓を開け、薄らと埃の積もった床を軽く靴で擦って払って荷物を置く。それから小一時間ほど丹念に柱を調べたり、床板が腐っていないか調べたり、天井に穴が空いていないかチェックしたりしたが、全体的に経年劣化で薄汚れ、傷んではいるものの、特に事故に繋がりそうなものはなかった。カビの生えた壁紙を張替え、黄ばんだカーテンを一新すれば見れるようになるだろう。

 

 特に場所の指定はしなかったが、未弧蔵がどこを点検しているのか気になった一太郎は、廊下に出て耳を済ませた。キッチンからガサゴソ音がしたのでそちらに向かう。

 キッチンでは、未弧蔵が箸もスプーンも使わず、缶詰に直接口を突っ込んで「うめえ、肉うめえ」と言いながらむしゃむしゃ食べていた。ドン引きした。

 

「あ、ども。いやこれはサボってるわけじゃなくてっすね、腹が減っては戦はできぬって言うじゃないすか。へへへ」

「お、おう……」

 

 よく見れば未弧蔵の服はよれよれで、ズボンのサイズが合っていない。ちらりと見えた靴下は左右でデザインが違った。染められた髪も根元が黒くなってきている。耳にピアス穴は空いているが、ピアスはない。思い返せば財布の中には小銭しかなかった。

 こいつひょっとしてけっこう悲惨な暮らしをしてるんじゃないか、と察した一太郎は急に憐憫の情が湧いてきた。まあ、実害は無かったわけだし、点検の報酬に食事ぐらいだしてやってもいいかな、と仏心を出す。

 優しい気持ちになる一太郎に、缶詰の中身を舐め終わった未弧蔵が報告した。

 

「冷蔵庫はまだ使える臭い。オーブンとレンジはぶっ壊れてた。ガスコンロは無かった。保存食は半分は袋だけになってた。ネズミの足跡とクソあったんで食い荒らされたっぽい。マジうぜえ。あー、埃はざっと拭いときましたんで。あと賞味期限切れのパスタあったんでもらっていいすかね」

「どうぞどうぞ」

「ありがてえありがてえ」

 

 いそいそとパスタを懐にしまう未弧蔵。一太郎が腕時計で時間を確認すると、ちょうど昼時だった。未弧蔵が割と真面目に仕事をしていた事もあり、買い物ついでに昼食に誘う事にした。流石に屋敷に一人で置いておくのは不安がある。

 

「買い出し行くけど来ます? ってか来い」

「ええ……タリいなあ」

「コンビニ弁当ぐらいなら奢るから」

「お供します」

 

 買い出しのついでに、一太郎は未弧蔵に屋敷について聞いた。大家からは事故物件としか聞いていないが、噂になっているなら未弧蔵も知っているかも知れない。

 

「根津さんは幽霊屋敷? の噂知ってます?」

「あ? あ~……なんかデるみたいな話は」

「あんまり有名な話じゃないんですかね」

「俺も知り合いの爺さんから聞いただけなんで。ああそうだ、帰りにちょっと寄り道していっすか」

「どこに?」

「その知り合いの爺さんとこに。世話になってるんで」

 

 沼に片足を突っ込んだコソ泥の交友関係に興味を抱いた一太郎は了承し、手土産に缶ビールを買い、未弧蔵の案内で人通りの少ない郊外の橋の下に行った。そこには廃材を寄せ集めて作ったボロ小屋があり、白い髭の老人が汚れた買い物カゴに腰掛けて新聞を読んでいた。老人は根津に気付くと気さくに軽く手を上げ、隣の一太郎を訝しげに見た。

 

「ちわっす。土産持ってきたぜ」

「おうおう、ありがとうよ。ところで隣の青年は誰だね」

「こんにちは。八坂一太郎といいます。今日このあたりに引っ越してきました」

「ご丁寧にどうも。同里といいます。廃品回収業をしとります。このあたりに引越し……? ああ(察し)」

 

 同里老人は未弧蔵と一太郎を見比べ、何かに納得したようだった。バツが悪そうにしている。その様子を見て、一太郎も納得した。恐らく、幽霊屋敷の話をして、泥棒を示唆したのはこの老人なのだ。

 

「同里さんはこのあたりに詳しいんですか」

「この土地を離れた事は無いですからなあ。長く住んでいると色々な話が耳に入ってくるものです」

「幽霊屋敷の話も?」

「……興味がおありで?」

「そうですねえ。もしもの話ですが、仮に私のボロ屋敷に泥棒が入ったとしても、幽霊屋敷の話を聞いていれば、『肝試しかな?』と思って警察に通報せず見逃すかも知れませんねえ」

「ふうむ。勘違いを未然に防ぐのは良い事ですなあ」

「そうでしょう。そこの根津さんとは全く関係の無いですが、やっぱり私も自分の家の噂話は気になるんですよ」

「ふむ。ま、参考程度にお話しましょう」

 

 同里老人はゆっくりと語りだした。

 一太郎の屋敷の元々の持ち主は「魚流田 紅人(うおるた こうと)」といい、大層不気味な人物だったという。不審な行動や夜中の騒音が酷かったため、近所から苦情が相次ぎ、裁判に発展するほどだった。同時期に、近所で子供の失踪が相次ぎ、警察の調べで屋敷の近くの「黙想チャペル」を根城としたカルティスト達の仕業と断定され、大捕物があった。魚流田紅人も関係が疑われたが、明確な証拠がなく、結局カルティストは大多数が逮捕。魚流田紅人も怪しい行動は控えるという事で和解し、密やかな関連が見え隠れする二つの事件は別物として終わった。

 やがて時が経ち、老いた魚流田紅人は、自分の死後は死体を自宅の地下に土葬するように、と主張し、再び裁判沙汰になった。裁判の結果は不明だが、魚流田紅人が寿命か病気で死んだ後、屋敷に住んだ者には様々な祟りが起き、半年と住んだ者はおらず、当時は幽霊屋敷として有名になった。今では放置され、近寄る者もおらず、忘れ去られている。

 

「なるほど。参考になりました」

「いえいえ」

 

 同里老人の話を聞き終わった一太郎は礼を言い、河原に捨てられたエロ雑誌を読んでいた未弧蔵を連れて屋敷に戻った。

 

「じゃけん点検の続きしましょうね~」

「マジで? 八坂お前爺さんの話聞いてた? 明らかにウォルターの祟りじゃん。住むのやめとけよ。やべぇって」

「魚流田ね。祟りなんてないから大丈夫大丈夫。家鳴りとか電車が通った時の振動とかそのあたりが不気味ってだけだと睨むね。どうせそれに尾ひれがついて大げさに広まったとかそんなところでしょう」

「ホントかよ」

「夜になったら帰っていいですから。今日いっぱいは頑張りましょう」

「まあいいけどさあ」

 

 また二人は二手に分かれて点検を始めた。

 一階の物置部屋には錆び付いた自転車や薄汚れた水槽、湿気ったダンボールなどが乱雑に放り込まれていた。部屋の右側には戸棚があったが、板を張って封印されていた。割と頑丈に取り付けられていて、引っ張ったぐらいでは取り外せそうにない。ざっとガラクタを漁っても妙なものはなく、怪しいのは戸棚だけ。こじ開けるべきかと思案していると、未弧蔵が入ってきた。

 

「食堂点検終わり。異常なし。食器とかテーブルとか椅子は七セットあったんでサークル仲間呼んで宅飲みとかには困らないんじゃないすかね」

「お疲れです。根津さんこの戸棚の板外せたりします?」

「呼び捨てでいーよ。てかいい加減敬語やめろなんかそわそわする。戸棚は……ガッチリ板打ち付けてあんな。こりゃ道具ないとキツいわ」

「スパナならあった」

「くれ」

 

 未弧蔵は塗装のハゲたスパナを受け取ると、普通に生活していたら絶対に身につかないような犯罪臭のするいやらしい手つきで操り、あっと言う間に板を外してしまった。

 

「うわっ……凄いけど引くわ」

「うっせ!」

 

 戸棚の中には三冊のノートのようなものが入っていた。パラパラと捲ると一冊目の見返しの所に住所氏名が書いてあり、魚流田紅人の日記である事が分かった。

 

「ウォルター、日記なんて付けてたんすね。几帳面なタイプ?」

「それは知らないけど屋敷について何か書いてあるかも知れない」

「なんちゃらチャペルと繋がってる秘密の通路とか? 実はチャペルのカルティストの生き残りが秘密の通路から夜な夜な屋敷に入り込んで住人を脅かしてた、なんてオチ」

「ありそう。ちょっと読んで……いや軽く読める量じゃないな。とりあえず一階の点検だけ終わらせとこう」

「うす」

 

 それから夕方までかけて一階を点検したが、全体的に老朽化が見られる程度で、怪しいものは何もなかった。ちらほらネズミの痕跡はあったので、ネズミ取りが必要だろう。

 日が沈む頃になると、未弧蔵が馴れ馴れしく一太郎ににじり寄ってきた。両手を合わせて頼み込む。

 

「八坂ぁ、悪ィけど今晩泊めてくんね? 春先は外で寝ると寒くてさあ」

「はあ? 図々し過ぎないか」

「いいじゃん、部屋クッソ余ってんじゃん。財布は預けっぱでいいからさ。な? な?」

「……明日も働いてもらうからな」

「っしゃ寝床確保!」

 

 未弧蔵は買ったばかりのコンロで勝手にパスタを茹でて貪ると、居間の床にクッションを並べて寝転がり、早々に寝てしまった。

 それを横目に、ソファに座った一太郎は日記を読み始める。一日目の夜はそうしてふけていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 徹夜で日記を読んだ一太郎は、青ざめた顔で朝を迎えた。常軌を逸した内容に冷や汗が止まらない。ひぐらしなんて目じゃない狂気が文面全体からにじみ出ていた。

 明らかに狂人が書いたものであり、常識的に考えて支離滅裂な文章であるにも関わらず、非常識的な観点から読むと理解できてしまう。それは今まで自分が過ごしてきた常識の世界が実は取るに足りない狭い世界に過ぎず、平常な精神ではとても捉えきれないような一種虚無的な世界の広がりをほのめかされたようで、一太郎は頭痛がしてきた。一太郎は賢いが故に、一見して非論理的極まりない戯言が並んでいる日記から人間が通常「論理」と考える思考メカニズムとは全く別の形態の名状しがたい「論理」の足がかりを掴み取ってしまい、今まで身につけてきた人生観を根本から揺るがす知識の片鱗に苦しむ。一方で、通常の社会的生活の中では決して得られない革新的な知識を得る喜びもあり、読むのを辞められなかった。

 

 一太郎は疲れきった目をしょぼしょぼさせ、起き出してきた未弧蔵に昼頃になったら起こすように頼み、仮眠に入った。

 

 一太郎が寝ている間、未弧蔵は二階のユニットバスを点検・掃除し、ついでに一風呂浴びた。蛇口が緩くなって水が滴り落ちていたので、スパナをねっとりといやらしく操り、数時間悪戦苦闘して修理した。既に未弧蔵はなし崩し的にこの屋敷に居座る気満々で、生活空間の整備に余年がない。

 未弧蔵が米を炊き、フライパンが無かったので鍋で野菜炒めを作っていると、一太郎が起きた。一眠りして少し顔色が良くなった一太郎と二人で食事をとる。白米と塩味野菜炒めだけの大雑把な料理だったが、一太郎は特に文句は言わず、未弧蔵が自分よりも多く食べている事も指摘しなかった。

 たかられている自覚はある。しかしやる事はやっているし、追い出したら野垂れ死にするか別の家に空き巣に入りそうだとも思った。一人でボロ屋敷のリフォームをするのは大変だし、手伝わせるついでにしばらく寝床と食事の世話をするのはやぶさかではない。

 

 食事をとって気力を充実させた後、二人は黙想チャペルに向かった。まだ地下と二階にはほとんど手を入れていないが、屋敷に一晩泊まっても何も起きなかった。幽霊や怪異の噂の原因は、雰囲気だけの屋敷よりも、むしろカルティストのたまり場だったという歴然とした事実がある黙想チャペルであるように思えたのだ。もしかしたら二つの建物の噂が混同されているのかも知れない。

 

 黙想チャペルは屋敷から徒歩五分ほどの距離にあった。チャペル(礼拝堂)というよりはその残骸で、風雨にさらされ、雑草や木が生い茂っているため、灰色の瓦礫は建築物の壁や土台の跡というよりも自然の石のように見える。

 特に柵も立ち入り禁止の看板もなかったので、二手に分かれて探索を始めた。しかし見つかるのは焦げ跡のついた花崗岩のブロックや、半分焼けて腐った木材、ポイ捨てされたゴミばかりである。昔火事か何かがあったらしい。

 しかししばらくうろついていると、一太郎は自分が立っている土の下に弱った床板がある事に気づいた。足元がミシリと軋み、身体が不吉に揺れる。咄嗟にその場を飛び退こうとしたが、それが良くなかった。

 

「うおあっ!?」

 

 脆くなっていた床板が崩れ、一太郎は体勢を崩し頭から落下。受身もとれず全身を強打した。あまりの衝撃と痛みに声も出ない。危うく意識が飛ぶところだった。

 

「なんだどうした!」

 

 物音を聞いて駆けつけた未弧蔵は、地面に開いた穴に気付くと、三メートルはある高低差から忍者のような華麗な跳躍で音もなく飛び降り着地した。

 

「おいおい大丈夫か? 救急車を……やべっ俺携帯持ってねえわ」

「いや、大丈夫、そこまでの怪我じゃない」

「無理すんなよ、落ちたんだろ?」

 

 ふらふら起き上がる一太郎に未弧蔵は応急手当をしようとしたが、落ちた時に土と埃を被って全身が汚れていて、どこが悪いのか良くわからなかった。

 一太郎は医学の心得もある。ざっと自分の身体を調べ、あちこち大小様々な打撲はあるが、病院に行かなければいけないような怪我は無い事を確かめた。一番酷いのは後頭部のコブと脱臼した右足首だ。幸い骨は折れていない。

 一応擦り傷をペットボトルのお茶で洗い、足首の脱臼をはめ直す。涙が出るほど痛かったが、無事はまった。鈍痛は残ったが、歩けないほどでもない。

 

「とりあえずこれでよし」

「やるじゃん。医学部?」

「いや理学部。ここは……隠し部屋か」

 

 改めて周りを見回すと、そこは地下室だった。階段はあったが、何トンもありそうな瓦礫で埋まっている。地下室の天井に当たる部分に穴が空き、そこから落ちたらしい。

 中には骸骨が二体あり、ローブの切れ端のようなものがまとわりついていた。どうやら地下室に隠れたまま蒸し焼きになって死んだカルティストの死体らしい。

 名前も知らない骸骨に南無、と祈り、他に何か妙なものは無いか探す。まさか白骨死体が幽霊の噂の正体でもあるまいが、地下室は天井が抜けるまで封印状態だったので、幽霊との噂の関連性は薄いが、調べるだけ調べる。

 

 地下室の隅には朽ち果てた教会の記録類の入ったキャビネットがあった。一太郎が中を調べてみると、カルト教団の活動を記録した日誌があった。パラパラと捲ると、「魚流田紅人」という名前を見つけて手を止める。そこには、魚流田紅人が屋敷の地下に埋葬された事が書かれていた。「本人の希望と『闇の中にて待つもの』の希望による」のだという事である。闇の中にて待つもの、というのは中二病的称号か何かだろうか。カルティストの考える事は分からない。

 

「うっげ、なんだこれ。八坂これ見てみろよ」

 

 腐りかけたデスクに鎖で繋がれた非常に分厚い本を、汚物をつまむように持った未弧蔵が一太郎に声をかけた。日誌を持ったままそちらに向かう。

 腐敗と虫食いでボロボロの本だったが、特に妙なのは表紙だった。どことなく見覚えがある。よく見る材質の気がするがなんだったか、と首を傾げた一太郎は、ハッと気づいた。

 その本の表紙は、人の皮でできていた。

 

「ひ、人の皮……?」

「やっぱそう見えるか。うげー、えんがちょ、えんがちょ」

 

 未弧蔵は本を放り投げ、摘んでいた指を床にこすりつけた。一太郎はそれを拾い、ざっと捲ってみる。本は全て手書きで、判読不能の部分が多すぎたが、どうやらラテン語で書かれたものらしかった。装丁からして狂気が滲み出るその本はいかにもカルティストが持っていそうだった。どことなく魚流田紅人の日記に近い雰囲気を感じる。

 ふと思い、目に意識を集中させ、人皮の本を視る。すると、屋敷がそうであったように、薄らと弱々しくも禍々しいモヤがまとわりついているのが視えた。印象としては悪意的ではないが、より混沌と人智の及ばぬ深淵の、吸い込まれるようなモノを感じる。

 

「…………」

 

 一太郎は躊躇ったが、本を鎖から外し、教会の活動日誌に挟んでそっと懐に入れた。

 

「あ? それ持って帰るのかよ」

「なんか怪しげだからさ」

 

 一太郎は嫌そうな顔をする未弧蔵を適当にあしらった。

 魚流田紅人を半分ほど読んだ一太郎は、オカルトに対する否定と科学への信仰が揺らいでいた。幼い頃、自分の目の異常を素直に魔眼だと思っていた頃の感覚を懐かしく思い出す。ひょっとして、あの頃の直感こそが真実だったのではないか? 世界には既存の科学で説明できないような領域が、日常と紙一重の裏側に潜んでいるのではないか?

 一太郎は科学とオカルトの間で揺れる。まだ確定的な証拠はない。オカルトが実在を示唆するものは次々と見つかったが、明確な証拠は未だ無いのだ。例えそれらしいモノが数多くあったとしても、オカルトの実在を前提に考えた方が筋道だっているとしても、それが科学の及ばない世界の証明にはならない。

 だからこそ、一太郎はオカルト的なものを検証する事で、オカルトが実在するかどうか確かめようと思った。そのためにはサンプルが多いに越した事はない。調べた結果、やはり実在しないとわかれば何も問題はない。実在したら……その時は、その時だ。

 

 瓦礫を積み上げて足場を作り、地上へ脱出した二人は、警察に無縁仏の発見を知らせた。現場に到着した警察に軽い事情聴取を受けた後、屋敷に戻る。後は警察が適当に処理するだろう。ちなみに人の皮の本の存在は知らせなかった。

 食材とフライパン、その他細々としたものを買って屋敷に着くと、もう夕方だった。未弧蔵はカップ麺を食べると、さっさと寝てしまった。一太郎は風呂に入って身体の汚れを落としてから、魚流田紅人の日記の残りを読む。

 ちなみに人の皮の本は、試しにネット翻訳頼りでタイトルだけ調べてみたが、「エイボンの書」と訳せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 真夜中を過ぎた丑三つ時。日記を読み終えた一太郎は、青い顔で呆然としていた。

 日記には、魚流田紅人が行った色々なオカルト的な実験の事が記されていた。召喚などの魔術を行ったようだ。特に《空鬼の召喚/従属》の呪文のテクニックについてははっきりと記されている。魚流田紅人はこの魔術を使い、怪物を召喚して使役し、黙想チャペルと結託して子供を誘拐し儀式に使っていたらしい。攫った子供をどのように「使った」かはとても書き表せない。書かれている事が事実なら、魚流田紅人は狂っているだけでなくとんでもない犯罪者だった事になる。彼が死亡し、教会も崩壊し、全てが終わった今となっては追及もできないが……

 

 いや。

 本当に全て終わったのだろうか?

 幽霊の噂や、事故死は、まだ魚流田紅人の魔術が残っている証拠なのではないか?

 屋敷を覆う謎のモヤはその証ではないのか?

 

 いやいや。

 魔術のはっきりした証拠は未だない。それらしい、というだけで、そうだ、と決め付けるわけにはいかない。

 偶然辻褄があっただけで、真相は拍子抜けするぐらいたわいも無いものなのかも知れない。いや、その可能性の方が、魔術の実在などという荒唐無稽な結論よりもよほど説得力がある。第一幽霊屋敷という割にポルターガイストの一つも起こらな――――

 

 そこまで考えたところで、突然ズシン、ズシン、という大きな音が聞こえてきた。一太郎は心臓が口から飛び出したかと思うほど驚き、ソファから転がり落ちた。

 

「うっおわ、地震かっ」

「静かに!」

 

 飛び起きてすぐさまバタバタと窓から逃げようとする未弧蔵を制し、小声で叫ぶという器用な事をした。

 二人が耳を澄ませると、音の割に振動がない事、音は屋敷中に響いているが、どうやら出処は二階らしい事が分かった。二人は顔を見合わせ、ゴクリと息を呑む。二日目にして初めての怪奇現象である。

 

「どうする八坂、調べにいくのか」

「それはもちろん、調べに行かないと何も解決しないから。ただし事故死の話もあるし、警戒だけはしよう」

 

 二人は雑誌を洋服の下にはさみ、未弧蔵はスパナを、一太郎はフライパンを持って二階へ向かった。足を痛めている一太郎は未弧蔵の後ろに着いていく。

 音の発信源と思われる二階の寝室の前に着くと、ズシンズシンという音は見計らったようにぴたりと止まった。代わりにガタガタと何かが動く音が聞こえてくる。未弧蔵は寝室のドアを慎重に開けた。

 

 寝室の入口から室内を見た限りでは、中には誰もいなかった。枠とスプリングが剥き出しのベッドと空のタンスだけがある殺風景な部屋だ、人が隠れられるようなところはない。目を凝らして探しても、ワイヤートラップや頭上に仕掛けられたタライはなかった。ただし、形容しがたい悪臭がぷんと漂っている。

 ガタガタという音は窓からするようだった。

 

「音立ててた人間が窓の外にぶら下がってる?」

「見てみるか……いや待て! ホラー映画だとこういうシーンは窓の下を覗くと誰もいねーんだ」

「ああ、それでほっとして振り返ると背後に忍び寄った化物と目が合ってギャー!」

「そうそれ。八坂は背後の警戒頼むわ」

「了解」

 

 未弧蔵が抜き足差し足で窓に向かうが、古い床がミシミシ音を立てるせいで全然忍べていない。未弧蔵がカーテンの隙間からそっと窓の下を覗くと、急にベッドがもの凄いスピードで動き、未弧蔵の背中に体当たりした。未弧蔵は悲鳴を上げ、窓を突き破って外に放り出される。

 

「うげあっ!」

「ベッドが動くのかよ! 分かるか!」

 

 部屋に飛び込もうとした一太郎は、まだガタガタ動いている窓とベッドを見てぐっと堪え、急いで一階に降りて二階の窓の下に向かった。窓ガラスの破片が散乱する道路に立つ未弧蔵を見て、一太郎はほっとした。

 

「焦った、無事か。不意打ちだったから死んだかと」

「無事じゃねーよ。腰おもっクソ打った。背中に雑誌入れてなかったら骨逝ってたかもしれねー。ファック!」

 

 未弧蔵は悪態をつきながら二階の窓を睨んだ。割れた窓は嘲笑うようにガタガタ揺れている。

 

「ファッキンポルターガイストが。ぶっ潰してやる!」

「待て待て待て、落ち着け」

 

 屋敷の中に戻ろうとする未弧蔵の服を掴んで止める。

 

「止めんな! 殺されかけたんだぞ? ベッドの奇襲にゃビビったが分かってりゃなんてことねー。タンスもベッドも窓枠も片っ端からぶっ壊して」

「それは多分根本的な解決にはならない」

「ああん? なんでだよ」

「考えてみろ。最初にズシンズシン音がしただろ。それで俺たちはホイホイ二階に行った。次に窓から音がした。窓に近づいたら後ろからドカン。要するに罠にハメられたわけだ」

「……で?」

「普通、攻撃されたら困るような場所そのものに罠を仕掛けるか? 仕掛けないだろう。攻撃されたら困る場所に行かせないために罠をかけるんだ。俺だったら監視しやすい、もし失敗して暴れられても困らないようなところに誘導して罠にハメる」

「ポルターガイストがそんな事考えるか? 脳みそねーだろ」

「いや、たぶん犯人は魚流田紅人だ。脳みそはある。もしくはあった」

「はあ?」

 

 未弧蔵が可哀想な人を見る目で一太郎を見た。

 

「ウォルター、死んでるじゃん」

「だから、その祟りなんじゃないか」

「ああ、そういう……八坂はオカルト否定派なんじゃなかったん?」

「気が変わった。流石にアレ見たら事故は疑えない」

「確かに。それで名探偵八坂の推理だとどうすりゃ祟りは止まるんだ。アレじゃおちおち寝てもいられんぜ」

「魚流田紅人は屋敷の地下に埋葬されてるって話がある。地下に行って、死体を見つけて……死体を清めるとか、火葬するとか、ちゃんとした墓地に移すとか?」

「肝心なとこ曖昧だなあ」

「忘れてないか? 俺、入学前の大学生。陰陽師じゃない」

「ま、とりあえず行くだけ行ってみるか。警察に相談しても悪戯としか思われねーだろうし」

 

 二人は台所の塩と、居間の十字架や仏像、ガムテープ、ごま油とライターを持ち、屋敷の地下へ向かう。

 一階から地下へ入るためのドアは、鍵一つと差し錠三本によって閉められていた。上の階からしか開けられないらしい。未弧蔵はスパナで鍵と差し錠をバラバラにしようとしたが、なかなか上手くいかず、蹴って壊した。地下に入った途端に入口が壊れ、地上に出られなくなるのはホラーの定番だ。予防するに越した事はない。ベッドで体当たりをかますような相手なので安心はできないが。

 

 地下への階段は壊れたものを簡単に直しただけの状態で、見るからにグラグラしていた。しかも蛍光灯が切れているのか、階段の明かりがつかない。

 薄暗い階段をまず未弧蔵が降りていくと、案の定階段が揺れた。しかし未弧蔵は壁に手をつき、巧みに足場を移して無事に下まで降りる。

 次に一太郎が降りると、また階段が揺れた。未弧蔵が簡単に降りていったので油断していたが、思ったよりも揺れが大きく、足を滑らせて転がり落ちる。が、下で待ち構えていた未弧蔵にキャッチされて怪我はせずに済んだ。

 

「昨日から落ちすぎィ! なんなん? ウォルターは落ちゲー好きなの?」

「そんな理由で落とされてたまるか。毎回死にかけてるんだぞ。洒落になってない」

 

 地下室はあまり大きくなく、雑多な道具類、塩ビ管、木材、釘、ネジなどが散らばっていた。横の壁はレンガだが、突き当たりの壁は木だった。階段の下に小さな物置があったが、そちらには埃が溜まっているだけでなにもなかった。

 二人がスマートフォンの明かりを頼りに墓石や床板がはがされたような跡がないか探していると、妙に目を引く古いナイフを見つけた。

 柄の部分にゴテゴテと飾りのついたナイフで、刃は異様に厚いサビで覆われている。

 

 一太郎はナイフを拾ってマジマジと見てみたが、変わった様子はない。ナイフを投げ捨てて他の物を調べようとすると、ナイフは床に落ちず空中でぴたりと止まり、一太郎に襲いかかってきた。

 

「おわああああああああ!」

「あああああああ!?」

 

 驚いた一太郎の悲鳴に驚いて未弧蔵も悲鳴を上げた。ナイフは一太郎の頬を掠め、宙に浮いたままUターンする。獲物を品定めする猛獣のように、切っ先を一太郎と未弧蔵に交互に向けた。

 

「うっそだろぉ! ベッドの次はナイフかよ!」

 

 未弧蔵は床に散らばったガラクタも動きだすのかと急いで周りも見回したが、不幸中の幸いで、動いているのはナイフだけだった。

 

「ふぬっ!」

 

 逃げたら背中から刺されると判断した一太郎は、心臓をバクバクさせながらナイフにフライパンのフルスイングを喰らわせた。ナイフは金属同士がぶつかる硬質な音を立てて飛んでいったが、空中で体勢を立て直し、未弧蔵に向かって襲いかかる。未弧蔵は頭を狙うナイフをしゃがんで回避した。

 

「やべえよやべえよ。八坂、叩き落せ!」

「合点!」

 

 再び一太郎がフライパンを振り、ナイフを床に叩きつける。ナイフが宙に再び浮かび上がる前に、すかさず未弧蔵が踏みつけて動きを止めた。ナイフは抜け出そうと暴れるが、しっかり靴と床の間に挟まれていて脱出できない。未弧蔵はポケットからガムテープを出すと、踏みつけたまま、絡みつくようないやらしい手つきで器用にぐるぐる巻きにした。更に他のガラクタと一塊にしてがんじがらめに貼り付ける。ナイフはしばらく暴れていたが、すぐに動かなくなった。

 

「ふー……殺意高いな。八坂ぁ、無事か」

「なんとか。と、とりあえず他のガラクタが動き出しても大丈夫なようにしよう。不意打ちは心臓に悪い」

 

 二人はガラクタを集め、階段したの物置に放り込んで扉を閉めた。これで少なくとも奇襲はない。

 ガラクタのなくなった地下室は殺風景で、死体の指先のカケラもなかった。地下室のどこかに魚流田紅人の死体が埋葬されているのは確かなはずなのだが。

 

「床板めくって掘り返してみるか?」

「いや、まずは隠し通路か隠し部屋があるか探そう。本格的な調査は専門家呼ばないとどうにもならないけど、指で叩いて音を確かめるぐらいはしてみてもいいと思う」

「OK」

 

 専門家を呼ぶ必要はなかった。二人が指で壁や床を叩いて音を確認していると、地下室の突き当たりの木の壁から明らかに空洞がある音がした。考えてみればその壁だけ他の壁とは違い、レンガではなく木である。疑って見てみれば、元々大きな一つの部屋だったところを板で塞いで壁にしたような印象を受けた。

 

「これはあからさまに怪しい。木の板か。ノコギリあったかな」

「いらねーよ。オラァ!」

 

 未弧蔵は躊躇なく木の壁を蹴破った。中からチューチューという鳴き声がしたので警戒して飛び下がると、奥から十数匹のネズミがちょろちょろと走り出てきて、足元を駆け抜けて一階へ消えていった。どうやらネズミの巣があったらしい。

 しばらく身構えていたがそれ以上は何もなく、未弧蔵は乱暴にヤクザキックを壁に繰り返し、人が通れるぐらいの穴を開けた。仮にも屋敷の持ち主として一太郎は微妙な気分になったが、文句は言えない。この屋敷に潜む悪霊は、明らかに一太郎達を殺しに来ている。多少乱暴な手段を使ってでも迅速に解決しなければ命が危ない。屋敷から逃げたとしても、それで祟りが収まる保証はないのだ。取り憑かれるかもしれない。

 

 穴の前で耳を澄ませ、効果はあるか分からないが塩を撒いて十字架を掲げながら奥の隠された部屋に入る。

 奥の部屋は、床が土が剥き出しになっていた。中央の藁布団の上に人型のモノが横たわっているだけで、他には何もない。

 横たわったそれは、身長約180cmほどで、死体のようだった。木で出来ているような感じのやつれてしなびた身体をしている。痩せていて、裸で、見開いた大きく燃えるような丸い目をしていて、鼻はナイフの刃のように鋭く尖っている。髪の毛は一本も無くなっており、歯茎が歯周病のように後退し、黄ばんだ歯が異様に長く見える。その死体からは、どこかで嗅いだような不快な臭いが漂ってくる。一太郎はすぐにそれがベッドが動いた部屋のあたりで嗅いだ異臭と同じものだと気付いた。

 間違いない。怪異の元凶、魚流田紅人の死体である。

 

「埋葬されてねーじゃん……」

「やっぱりしっかり埋葬して成仏させるパターンか。いやいっそ燃やすか。あの死体、何か変だ」

「油とライターは持ってきたけどさあ、ここで燃やしたら屋敷も燃えるんじゃね」

「あー。外に持っていくか」

「持ってくってお前、あれ触んの? 呪われそう」

 

 ひそひそ話す二人の前で、魚流田がガタガタ震え、むくりと起き上がった。燃えるようなギラギラした目で二人を睨みつける。そこには明らかな悪意と、邪悪な生気が宿っていた。

 二人はびくりとしたが、取り乱さなかった。ベッドもナイフも動いたのだから、死体ぐらい動くだろう、という変な達観があった。

 魚流田の動きはぎこちない。木の壁を破って作った穴は狭く、余裕を持って通れるほどの広さはない。逃げたらもたもたしている内に背中から狙われる。先手必勝、逆に未弧蔵が魚流田に襲い掛かり、スパナで全力で腹を殴りつけた。

 ガアン、というとても人間の身体をなぐったとは思えないような重低音がした。魚流田は身体の一部が申し訳程度に欠けただけで、よろめきもしない。

 

「うわ、かってぇ!」

「ゾンビなら頭だ!」

 

 続いて一太郎が接近する魚流田の頭部をフライパンで殴る。地平線の向こうにホームランする勢いで殴ったにも関わらず、まるで鉄の塊を叩いたような感触だった。まるで効いた様子がない。

 近寄ってきた魚流田が未弧蔵に鉤爪を振るう。避け損なった未弧蔵は腹の雑誌を切り裂かれ、その下に血を滲ませた。

 

「んぐあ!」

「根津!」

「大丈夫だ! 大した事ねー! ゾンビっつっても男なら!」

 

 未弧蔵がスパナを下からすくい上げるように振り上げ、魚流田の股間を強打する。しかしやはり効果は無かった。魚流田は嘲笑うようにゲタゲタと調子の狂った笑い声を上げる。

 

「やっぱ効いてねぇ! んだよこいつ無敵か!?」

「そんなわけあるか! 無敵だったらこんな所に引きこもってるはずがない! もっと派手に……何かしてる!」

「弱点突かないと死なない系か!? 弱点どこだよ! 解析! 解析はよ!」

「……! OKちょっと耐えてくれ!」

 

 根津の言葉で、一太郎は目に意識を集中させた。人の皮の本。幽霊屋敷。人以外でモヤが見えた時、どちらもオカルト的なものだった。この力で魚流田を視れば、何か分かるかも知れない。

 しかし焦って集中が疎かになり、焦点が合わずうまくモヤが視えて来ない。

 魚流田は身の毛もよだつような笑い声を上げながら未弧蔵に鉤爪を振るい、未弧蔵の染められた金髪をひと束持っていった。

 

「おいまだか! 死ぬ!」

「すまんもうちょい!」

 

 深呼吸して意識を落ち着かせ、もう一度目に力を込める。今度は成功し、魚流田が持つモヤが見えた。人間が纏うモヤよりも格段に禍々しく、屋敷を覆っていたモヤを濃縮したようだった。モヤの力強さは常軌を逸しているというほどでもないが、モヤとは別に、何か膜のようなものが魚流田を覆っているのが見えた。

 未弧蔵が牽制にスパナを突き出す。スパナは膜に当たり、跳ね返したが、代わりに膜が薄く弱々しくなったのが分かった。あれを削りきれば。

 

「バリア張ってるけど弱まってる! タコ殴りで押し切れる!」

「おっしゃ! 八坂ぁ! 手ェ貸せ!」

 

 魚流田の鉤爪を回避し、カウンターでスパナを振るう。しかし綱渡りの戦闘で汗がにじんだせいで、未弧蔵の手からスパナがすっぽぬけた。スパナはくるくる回って壁にぶつかり、ぽさりと遠くの地面に落ちる。

 

「んげ!」

「おい根津ぅうう! これからって時に何やってんの!」

 

 叫びながら一太郎がフライパンで強かに魚流田を殴りつける。すると何度も攻撃を無効化し弱まっていた膜が消失し、魚流田の身体がはじめてバランスを崩した。怒ったように、焦ったように、魚流田の哄笑がますます大きくなる。

 スパナを拾いに行こうとした未弧蔵は横から鉤爪攻撃を受けて肩を裂かれた。激痛で意識が遠のくが、歯を食いしばって耐えた未弧蔵は、スパナを拾うのを諦めて素手で魚流田の頭を殴った。

 

「イマジンブレイカァアアア(物理)!」

 

 未弧蔵の拳が真正面から魚流田の顔面に突き刺さり、吹き飛ばす。そこにすかさず一太郎がフライパンで追撃を入れる、魚流田はよろめきながら無理な体勢で鉤爪を振るったが、当たらない。

 起き上がった死体と言っても、ベースは人間だったらしい。二人にしこたま殴られると、力尽きたように動かなくなった。

 

「やったか?」

「おい馬鹿やめろ」

 

 肩を押さえながら荒い息をつく未弧蔵がフラグを立てたが、杞憂だったらしい。魚流田の身体はあっという間に崩壊し、塵になった。一太郎の目にも魚流田の邪悪なモヤが消失し、屋敷全体を覆っていた薄いモヤも消え去るのが分かった。屋敷に憑いていた悪霊は、退治されたのだ。

 崩壊する魚流田を見て、未弧蔵と力なく笑いあった一太郎は、塵の中に黒い貴石が紛れている事に気付いた。緊張の糸が切れ、警戒心を失っていた一太郎は無用心にその石を拾い上げる。すると、石は手の中で溶解し、一太郎は自分の身体を覆うモヤが少し力強さを増した事を自覚した。

 

「なんだ今の」

「ドロップアイテム的なもの、かな。たぶん」

「なんだそれ。よくわかんねーけど終わったんだよな? 悪いけど救急車呼んでくんね? もうマジ無理。意識トビそう」

 

 へたりこんだ未弧蔵の服が鮮血で真っ赤に染まっている事に気づき、一太郎は慌てて救急車を呼んだ。未弧蔵に肩を貸し、階段を登って一階に出る。

 遠くから聞こえる救急車のサイレンを聞きながら、一太郎は家賃五千円の対価としては危険すぎる冒険だったな、と疲れきったため息を吐いた。

 




――――【八坂 一太郎(18歳)】スタート

STR8  DEX10  INT18
CON9  APP7  POW18
SIZ14 SAN80  EDU17
耐久力12

呪文:
 透視

技能:
 医学 65%、オカルト 15%、生物学 71%、化学 51%、聞き耳 55%、信用 45%、
 心理学 55%、精神分析 31%、説得 35%、図書館 85%、目星 85%、薬学 61%、英語 21%


――――【八坂 一太郎(18歳)】リザルト

STR8  DEX10  INT18
CON9  APP7  POW19
SIZ14 SAN76  EDU17
耐久力12

所有物:
 損傷の激しいエイボンの書(ラテン語版)
 魚流田紅人の日記

呪文:
 透視、空鬼の召喚/従属

技能:
 医学 65%、オカルト 25%、生物学 71%、化学 51%、聞き耳 55%、信用 45%、
 心理学 55%、精神分析 31%、説得 35%、図書館 85%、目星 85%、薬学 61% 英語 21%
 説得 19%、ラテン語 8%、クトゥルフ神話 9%

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

――――【根津 未弧蔵(21歳)】スタート

STR12 DEX16  INT9
CON12 APP13  POW11
SIZ13 SAN55  EDU13
耐久力13 db+1d4

技能:
 言いくるめ 75%、応急手当 40%、回避 42%、鍵開け 71%、隠す 65%、聞き耳 45%、忍び歩き 50%、目星 55%、いやらしい手つき 50%

――――【根津 未弧蔵(21歳)】リザルト

STR12 DEX16  INT9
CON12 APP13  POW11
SIZ13 SAN49  EDU13
耐久力13 db+1d4

所有物:
 魔法のダガー……命中率=現在MP×5%、ダメージ=1d6+2、コスト=1ラウンド毎に1MP

技能:
 言いくるめ 75%、応急手当 40%、回避 42%、鍵開け 71%、隠す 65%、聞き耳 45%、忍び歩き 50%、目星 55%、いやらしい手つき 52%
 跳躍 31%、こぶし 58%、クトゥルフ神話 4%


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1-2 もっと食べたい

 八坂一太郎が大学に進学し、一年と半年が経過していた。大学二年生になった一太郎は、相変わらず怪事件のあった屋敷に根津未弧蔵と共に住んでいた。大家にはまだ怪異の原因を取り払った事を報告していないため、家賃は一ヶ月五千円で据え置きである。悪霊を退治した後、傷口からばい菌が入ったのか未弧蔵が一ヶ月ほど寝込みはしたものの、一年以上祟りは起きていない。大家は祟りは消えたのではと疑っているようだが、まさか事故物件に住まわせておいて、事故が起きないから家賃を値上げする、などと言い出すわけにもいかない。一太郎が未弧蔵も住まわせる旨を伝えた時も、過去の事件を引き合いに出す事で値上げを回避できた。

 

 荒れ果てた屋敷は器用な未弧蔵がコツコツ整備し、壁紙を張替え、カーテンを替え、傷んだ床板を一新して、表札も「八坂」にし、雑草だらけで使い物にならなかった裏庭もガラの悪い仲間を呼んできてよってたかって見れる程度に整えてしまった。実際大したものである。その代わりに、未弧蔵はよく屋敷にホームレスやチンピラを呼び込み、二、三日泊まらせ、一太郎が買い置きしていた食材を使って料理や安酒を振舞った。しかし本業のヤクザや本当に危ない人種は連れ込まないし、使い込む金も月に三、四万程度で、屋敷の本来の家賃を考えれば、痛い出費とも言えない。更に未弧蔵がそうして作る人脈のおかげで一太郎も様々な耳よりの情報を知る事ができ、ホームレスの中には昔取った杵柄で有用な知識や技術を披露してくれる者も多く、良い面は多い。試験期間中に酒盛りで夜中まで騒がれるとストレスが溜まったが。

 未弧蔵自身は一太郎の紹介で大学の掃除人のアルバイトにありつき、自分の生活費は稼いでいる。もっとも、過去に何があったかは語らないが、器用な人間なので、一太郎の紹介がなくてもそれなりの職に就いていたかも知れない。

 

 一太郎は大学で勉学に勤しむ傍ら、悪霊にまつわる事件で手に入れた書物の解読も進めていた。主な成果は二つ。

 

 まず一つは、魚流田紅人の日記に記されていた、《空鬼の召喚/従属》という魔術の習得。これは次元を移動する能力を持つ怪物を召喚して使役する魔術である。ゲーム的な表現をするならば、呪文を唱えてMPを消費して発動する魔術なのだが、一太郎はまだ実際に使った事はない。知識として知るだけでもあまりの異様さに頭がくらくらするというのに、実際に魔術を体感し、召喚した怪物を目の当たりにしたら、正気を保つ自信がなかった。万が一再び怪異に巻き込まれ、本当にどうしようもない状況にならない限り、使うつもりはない。

 

 もう一つは、自分の能力の把握。一太郎は人の皮でできた本、エイボンの書の断片的な記述から、自分の持っているモヤを視る能力が「透視」という先天的魔術だという事を知った。一太郎の解釈によれば、魔術に関わる要素は主に精神力=POWと、MPの二種類である。このうち、POWは知的存在が持つ魔術的な素養を示す。POWが高いほど、強力な魔術を扱ったり、魔術攻撃を受けた時に抵抗する素質があるという事だ。MPはゲームによくあるMPと同じで、これを消費して魔術を発動させる。通常、知的存在が持つMPの上限はPOWに比例し(1POWなら1MP)、消費しても時間経過で回復する。上限値に関係なく、だいたい24時間あれば全快するようだ。

 「透視」は1MPを消費し、自分のPOWでもって眼に宿る先天的魔術を制御する事で、対象のPOWをオーラとして目視できる。魔術も視えるようになるようだ。

 オーラとして視えるPOWは感情や強さによって色、明るさが異なるため、「透視」を使えば必ずではないが相手の感情やPOWの大きさを読み取る事ができる。

 「透視」を使いまくって統計を取り、検証したところ、一般的人間が持つPOWの平均を10前後とすると、一太郎は19だった。未だに自分以上のPOWを持つ存在には遭遇した事がない。魚流田でさえ18程度だったのだ。人間の限界を超えているといってもいい。

 とはいえ、普通に暮らしていれば魔術合戦に巻き込まれる事はなく、《空鬼の召喚/従属》は無用の長物。せいぜい誰かの顔色を伺う時に「透視」が役立つぐらいだろう。大魔術師の素質があっても、それが活かされる事はなく、活かされない世界で暮らせる方が幸せなのだ。

 

 一方、未弧蔵も若干魔術についての知識を得ていた。魚流田の日記を読む事で、地下室で襲ってきた魔法のナイフの扱い方を知り、操れるようになった。未弧蔵のPOWは11で、魔術的素養は平均程度だが、魔法のナイフの操作は難しくなく、宙に浮かせて数回対象を襲わせるぐらいなら問題はないようだ。サビを落としてよく研がれた魔法のナイフを未弧蔵は常に持ち歩き、専らリンゴを剥いたり、靴底に張り付いたガムを削ぎ落としたりするのに使っている。魔術を抜きにしても切れ味が良く、頑丈なので、重宝しているという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一太郎達に再び冒涜的恐怖の影が忍び寄ったのは、寒さも厳しくなりだした晩秋の事だった。

 スポーツの秋、読書の秋、そして何よりも、旬の食材が豊富な、食欲の秋である。一太郎と未弧蔵は、フリージャーナリストの石沢啓太に誘われ、中華料理屋の個室で会食をしていた。石沢は三十代の男で、マスゴミと揶揄される人種とは異なり、社会問題などを地道に調査し、誠実さと熱意が感じられる記事を書く。雑誌に記事を売り込む事で生計を立てていて、腕は確かだがフリーであるが故に稼ぎに乏しく、時々未弧蔵が屋敷に連れてくるため、一太郎とも面識がある。

 会食には一太郎、未弧蔵、石沢の他にもう一人いた。二十歳ぐらいの、長い黒髪が特徴的な美女である。和やかな印象を受けるのほほんとした彼女は宮本葵といい、石沢の知り合いらしく、中華料理屋の前で偶然会って同席する事になった。

 

「ムエタイですか」

 

 葵が日本ムエタイ協会の指導員をしているというと、一太郎はピンとこない顔で首を傾げた。

 

「ムエタイはタイの国技でね。キックボクシングが近いかな? 日本の競技人口は少ないけど面白いよ」

「そりゃ指導員レベルの使い手がつまらないと思ってるわけねぇんだよなあ」

「根津黙れ」

「あはは、別にいいよ。実際あんまり日本に広まってないしね。名前は聞いた事あると思うけど、実際にやってる人知らないでしょ?」

「確かに会ったの宮本さんが初っすわ。指導員って事は強いんすか」

「まあね、それなりにね」

「宮本さんは凄いぞ。スチール缶を素手で握りつぶしてボールにできるからな」

「ちょっと、石沢君?」

「まじで? すげえ! 店員さーん! スチール缶ありません? 空のやつ」

 

 笑顔が引き攣り気味の店員さんと交渉を始めた未弧蔵と、困ったようにおろおろする葵。それを見ながら、石沢が一太郎にこそっと耳打ちした。

 

「この後、オレの今追ってる仕事の事でちょっと相談に乗ってくれないか?」

「あ、はい。それはいいですけど、そういう話は未弧蔵の方が得意だと思いますよ」

「八坂君は理学部で医学も齧ってたろ? そっち方面の意見を聞きたいんだ。食事がまずくなるような話だから、詳しくは後で話すよ」

 

 石沢は頼むよ、と一太郎の肩をぽんと叩き、運ばれてきた麻婆豆腐を美味しそうに食べ始めた。葵は丸めたスチール缶を前に恥ずかしそうにしていた。

 

「すっげ! 漫画みたいだ! マジでこんなんできる人いるんだな」

「自慢できる事じゃないけどね」

「何言ってんすか、これ自慢しなきゃ何を自慢するんだっていう。他に何かできたりしません? 壁走ったりとか」

「無茶言うな、忍者じゃないんだから。すみません宮本さん」

「うーん、室内だしちょっとねえ」

「え、外ならできるんですか!?」

「ムエタイとは一体……うごご」

 

 しばらく会食はなごやかに続いたが、一太郎達は奇妙な事に気付いた。石沢の食欲が異常に旺盛なのだ。麻婆豆腐を食べ始めてから会話に参加していないし、運ばれてきた大皿を奪い取るように受け取り、一人でガツガツと平らげてしまう。石沢はこんな非常識な事をするような男ではない。

 

「啓太はさっきからどうしたんだ? 腹の調子でも悪いのか? いや良すぎるのか。俺らの分も残してくれよ」

「石沢さん、大丈夫ですか?」

「石沢君?」

 

 石沢は一太郎達の声に返事をせず、餓鬼にでも取り憑かれたように無我夢中で水餃子を貪っている。肩を強めに叩いても反応しない。異様だった。

 

「店員さん、いや救急車を呼んだ方がいいんじゃないかな」

「食い過ぎで救急車とか大げさな。啓太、おい啓太、そのへんにしとけ、カービーじゃねンだぞ。おい、おい!」

 

 未弧蔵が石沢の手を掴んで食べるのを止めさせようとしたが、石沢は口だけでバンバンジーに食らいつき始めた。その尋常ではない様子に、一太郎はピンと来てしまった。まさか、これはアレの類なのでは。

 一太郎は前回の事件で学習していた。怪しいものがあったらまず透視。泥棒集団のリーダーも言っている。凝を怠るな、と。

 

 一太郎が眼に意識を集中し、石沢を透視すると、腹の中に奇妙な陰が黒々と視えた。その陰だけ禍々しいオーラを纏っている。石沢が食べたものどころか、石沢の体すら奇妙な陰が吸い込んでいく。そこで初めて一太郎は石沢の下半身が無くなっている事に気付いた。陰は食事と共にバリボリと音を立てながら石沢の体を「食べて」いく。葵は1、1まで押した携帯電話を取り落とした。

 

「な、なにこれ」

「待て待て待て待て待てやめろやめろ! こいつぁまたアレの類か!? 八坂、どうすりゃいいんだこれ!」

「何かが石沢さんの体に取り憑いてる。し、塩? で除霊とか?」

「よくわからないけど塩ね! 石沢君ごめん!」

 

 未弧蔵に抑えられた石沢に、葵が食卓塩をぶちまける。しかし効果はなかった。

 呆然とする三人の前で、石沢の体はどんどん内側へめりこんでいく。上半身だけになり、テーブルに乗って散乱した料理を貪っていた石沢の体はあっという間に歯を剥き出しにした口だけになってしまった。

 

「もっと、食べたい」

 

 その口が石沢の声で小さく呟く。葵は口の化物と化した旧友の声を聞いてふっと気を失った。

 口の化物は抑える者をなくして呆然としていた未弧蔵に飛びかかった。友好のハグとはとても思えない醜悪な動きだったが、未弧蔵は反応できない。一太郎が何かする間もなく、口の化物は未弧蔵に触れ、途端に煙のように消えてしまった。

 

「な、なんだァ?」

「…………」

 

 口の化物が触れたあたりを気持ち悪そうにべたべた触る未弧蔵。服をめくっても、何も跡はない。しかし一太郎の眼には視えていた。未弧蔵の腹の中の黒い陰を……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 騒ぎを聞いて顔を出した店員に部屋を散らかした事を上の空で謝り、料金を多めに払い、一太郎は気絶したままの葵を背負って店の外に出た。

 質の悪い白昼夢をみたようだった。しかしそれが夢ではない証拠に、石沢は消え、未弧蔵の腹には黒い陰ができた。

 二人は無言のまま八坂屋敷まで戻り、葵を居間のソファに寝かせた。一太郎が椅子に座り、足を組んで考え込んでいる間に、未弧蔵が紅茶を三人分淹れてきた。紅茶の匂いに誘われたのか、ようやく葵が起きる。

 

「ん……あれ、ここは?」

「俺の屋敷です。気絶していたのでとりあえず運ばせてもらいました。あの状況で救急車を呼ぶと話がこじれそうだったので」

「……ああ。じゃあ、あれは夢じゃなかったんだ」

「残念ながら」

 

 葵は頭を抱えた。

 

「どういう事なの。訳がわからないよ」

「まあまあこれでも飲んで落ち着いて」

「あ、ありがとう。根津君と八坂君は落ち着いてるね?」

「実はこういうのに巻き込まれるのは二度目なんですよ。宮本さんよりは耐性あると思います」

「……ひょっとして、二人とも実は陰陽師とかだったりするの?」

 

 ちょっと期待を込めて聞いた葵は、二人が首を横に振るのを見て落胆した。

 

「そんなに都合よくはいかないよね。前の事件ってどんなのだったのって聞いていい?」

「悪霊退治でしたね。割と物理で解決したので今回の事件にはあんまり役立ちそうにないです」

「そっか」

 

 一太郎はその悪霊は今三人がいる屋敷に取り憑いていたとは言わなかった。知らぬが仏である。

 

「その顔の火傷の跡もその時に?」

「いえ、これは子供の頃の火事です」

「ご、ごめん」

「構いません。さて、そろそろ本題に入りましょうか……根津」

 

 一太郎がためらいがちに未弧蔵に目を向けると、未弧蔵はティーカップを片手に肩を竦めた。

 

「さっきからチラチラ俺の腹見てるのと関係あんだろ? いいよ、言えよ。大体察しはついてるぜ」

「あ、そう? 根津の腹に石沢さんを食い殺した化物が取り付いてるから早いところどうにかしないと死にそう。対策練ろう」

「さらっと爆弾発言を。根津君ティーカップ置いた方がいいよ。震え過ぎてこぼれてる」

「ち、ちげえし、局地型地震が起きてるだけだし」

「局地的過ぎるだろ」

 

 根津が深呼吸して落ち着いている間に、葵が聞く。

 

「気になってたんだけど、八坂君ってオカルト詳しいの? 取り憑いてるとか、断定的な言い方してたけど」

「あー……俺は、こう、オカルト的なモノが視える魔眼のようなのを持ってるんですよ。「透視」って言うんですけど」

「やっぱり陰陽師じゃないですか(歓喜)」

「視えるだけでお祓いは無理です」

「救いはないんですか(絶望)」

「悪霊の時と同じ方法が通用するなら物理的に攻撃して除霊すればいいと思いますが、今回は腹の中にいるので。腹の中の化物を内臓と一緒にぶち抜いたら未弧蔵も昇天します」

「楽しそうだなお前ら。俺は死にそうだよ」

「復帰早いな、もういいのか」

「よくないけどいい。早いとこ動かないとヤベーんだろ? 俺ァあんな死に方はゴメンだぜ」

 

 既に死にそうな顔で言う未弧蔵に頷き、一太郎は作戦会議を始めた。

 

「OK、まず目標設定から。未弧蔵の中の化物を追い出すか、殺すか、無力化するか、とにかく未弧蔵の命の危機を救う。これは良いか」

「是非もなし」

「良いと思う」

「よし。次。やっぱり俺は原因を探るべきだと思う。実は石沢さんが死ぬ前に、俺は石沢さんから『今追ってる仕事の件で医学的な意見を聞かせてもらいたい』と言われている。その化物は石沢さんが追ってる件と何か関係があるんじゃないだろうか」

「調べちゃマズいところまで調べて取り憑かれたのか?」

「それなら触らぬ神に祟りなしっていうし、あまり触れない方が……もう祟られてたね。そうだね、石沢君の最近追ってた仕事について探りを入れてみた方がいいね」

「宮本さんは啓太から何か聞いてないんすか?」

「や、私も石沢君には今日久しぶりにあったから、そういう話は聞いてないんだよ。ごめんね」

「勤め先に問い合わせて……いや石沢さんフリーだった。勤め先無いわ」

「石沢君の家に行ってみるしか無いかな。そこなら仕事の資料とか置いてあるだろうし。あ、でも私石沢君の今の住所知らない」

「そういえば俺も知らないな」

「俺、啓太の名刺持ってるぜ」

「ナイス根津君!」

 

 三人は善は急げと石沢の家へ向かう事にした。インターネットで石沢の家までのルートを調べて印刷し、一太郎は若葉マーク付の中古の軽自動車に二人を乗せる。

 発車前に、未弧蔵がふと思って言った。

 

「言うて宮本さんは俺たちに付き合わなくてもええんやで? この先は命の危険が危ないから。俺はなんとかしないとおっ死ぬくさいから事件に首突っ込むしかないし、八坂はアレがアレだからアレだけども」

「アレってなんだ。まあ協力はするが」

「私も協力するよ。乗りかかった船だし、石沢君の敵は取りたいしね」

「あざす!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 助手席に座った未弧蔵が地図を見ながらナビゲートし、それを聞きながら一太郎がぎこちない運転で三十分ほど車を走らせると、石沢が暮らしている住宅街の安アパートに着いた。

 着いたところで、葵が重要な事に気付いた。

 

「あのさ、私たち石沢君の部屋の鍵持ってないよね?」

「え、根津が合鍵持ってるんじゃあ」

「持ってないんだな、これが」

「アカン」

 

 車内になんとも言えない空気が漂う。三人揃ってやっちまった感でため息しか出ない。仮にも大人が三人集まってこのザマである。

 とりあえず路肩に車を停め、また作戦会議を始める。

 

「これは仕方ないな。根津、やっちまえ」

「よしきた、俺の針金が火を吹くぜ」

「えっ、もしかしてピッキングするつもり? 待って待って、まずは正攻法で行こ? 大家さんに事情を……説明できないからボカして言いくるめて鍵を借りるとか」

「大家さん! そういうのもあるのか」

「そういうのしかないよ。普通なら。なんでダーティーな最終手段を真っ先に思いつくかな」

「日頃の行いが良いからじゃないすかね」

「んん? あれっ、何か根本的に破綻してるセリフが」

「話逸れてる逸れてる。とりあえずこのアパートの大家さんに鍵を貸してもらいに行く、と。全員大家さんとは面識ないよな」

「無いね」

「あるわけ無いんだよなあ」

「それだと常識的に考えて鍵を貸してもらえるわけがないと思う。石沢さんからの紹介状も無いし、家族でも無いし。見ず知らずに人間が来て石沢さんの知り合いです鍵貸して下さいって言って貸すような管理ガバガバな大家って可能性に賭けるのはキツい」

「正論だね。うーん、石沢君と連絡がつかないから心配になって、もしかして家の中で倒れてるかも知れないから中に入らせてくれませんか、って頼むとか」

「それ大家さん同行するんじゃね? けっこー時間かけて部屋の中の資料荒らす予定なんだぜ、俺達。見張られてたら紙一枚パクるのにも気ぃ遣う」

「さっきから根津君のセリフがナチュラルに泥まみれなんだけど」

「見逃してやって下さい、根は悪い奴じゃないんですよ。名前からして義賊的な感じですし」

「だれがネズミ小僧だ、お前なんて日本語ワープロソフトじゃねぇか」

「あ?」

「お?」

「ちょっと二人とも落ち着いて。握り潰すよ?」

「ごめんなさい」

「サーセン」

 

 それからしばらくあーでもないこーでもないと話し合っていたが、途中から未弧蔵の口数が少なくなっていった。

 警察に相談するという手を再検討していた葵と一太郎がふと気付くと、未弧蔵がうつろな目で運転席のヘッドレストに齧り付いていた。葵はその異常な食癖に目の当たりにした途端、石沢の最後がフラッシュバックした。

 

「ね、根津君? 冗談やめてよね、そういうの笑えないよ?」

「…………」

 

 根津が緩慢な動作で葵に顔を向ける。ヘッドレストのカバーと詰め物の切れ端が歯に挟まっていた。硬いカバーを無理に喰いちぎったため、歯茎から血が出ている。明らかに正気ではない。

 

「おい根津! しっかりしろ!」

 

 一太郎はまさか未弧蔵も石沢のように死ぬのかと焦り、肩を揺さぶった。幸い未弧蔵はすぐに我に帰った。ぶるぶると頭を振るい、ぼんやりと一太郎を見て、はっとして口に手を当て、吐きそうな顔をした。

 

「やっべぇ……! 無意識だった。これ時間かけるとヤバいやつだ」

「そんなにか」

「ああ、今はたまたま目の前にあったのがヘッドレストだったからそれ食ったけど、ナイフがあったら絶対それ丸呑みにしてたわ」

 

 葵は未弧蔵がナイフを飲み込み、喉から血を噴き出す光景を想像してしまい、顔色を悪くした。

 

「これは手段選んでる場合じゃないね」

「選べるなら選んだ方がいいですけどね。この事件解決した後に手段選ばなかったせいで警察に捕まったらアレなので」

「死ぬよか豚箱行きの方がいいわ」

「そうだね。急ごう」

 

 意見は幾つか出ていたので、三人は手早く計画をまとめた。

 一太郎がまず一人で大家に鍵を借りるために交渉をし、失敗したら葵と未弧蔵にこっそり連絡し、そのまま大家をその場に釘付けにする。

 葵と未弧蔵は石沢の部屋の近くで待機しておき、一太郎が正攻法で鍵を借りられたらそれでよし。借りられなかったらアパートの二階の石沢の部屋にピッキングで侵入し、二人で手分けして手早く目星い資料を「借りて」撤収する。

 残りの細かい部分はアドリブだ。

 

 二人を車内で待たせ、アパートの一階の管理人室を訪ねた一太郎だが、案の定というべきか、のんびりした雰囲気の初老の大家は鍵を貸してくれなかった。

 

「連絡がつかないとおっしゃいますが、仕事で携帯の電源を切っているだけでは? 私は今朝部屋を出る石沢さんにお会いして挨拶しましたし、記者の方ですから、二、三日家に帰らない事はよくありますよ。私としても八坂さんが本当に彼の知人か判断しかねるわけでして、申し訳ありませんが、家族の方ならまだしも、ご友人に簡単に部屋の鍵をお貸しするわけにはいかんのですよ。ほら、防犯上の理由で。なにそろ昨今は色々と物騒でしょう? 二、三日経って、まだ連絡がつかないようでしたらまたおいで下さい。まあ心配いらないと思いますがね。石沢さんは恨みを買うような記事を書く方じゃあありませんですし、妙な事件に巻き込まれたなんて事もないでしょう」

 

 大家のもっともな言葉にグウの音も出なかった。本当は正に妙な事件に巻き込まれて怪死したのだが、まさかそれを言う訳にもいかない。

 そもそも顔面に大火傷の跡がある恐ろしげな顔の二十歳の男が口八丁を試みる時点で無理があったのだ。早々に説得を諦め、ポケットの中でこっそり携帯を弄り、ワンコールで切る。

 

「そうですよね。無理を言ってすみません。石沢さんからこの時間帯になったら部屋で待っていてくれと言われたもので(大嘘)、何かあったんじゃないかと。石沢さんは自分から取り付けた待ち合わせの約束を守らない人ではありませんし」

「それはそれは……よろしければ帰って来たらこちらから連絡をし」

「いやー、実は私けっこう遠方から来て、帰るの大変なんですよね。石沢さんが泊めてくれるものだとばかり思っていたので金もあまり持ってきてないですし。石沢さんが戻るまでここで待たせてもらっていいですかね?」

 

 被せ気味に図々しく言うと、大家の笑顔が少し引き攣った。ここからは怒りを買ってたたき出されない程度にできるだけゴネて時間を引き伸ばすのが一太郎の仕事だ。

 

「申し訳ありませんが、私も予定が入っていまして」

「あ、そうなんですか」

「はい、ですから」

「じゃあ一人で待ってますね」

 

 意識して物分りも悪い風を装いながら、大家の顔色を伺う。相手の感情を読みながら会話した方が話の主導権を握りやすいため、「透視」を使ったのだが――――

 ちょうどその時、天井のあたりからガタン、と大きな音がした。管理人室の真上は石沢の部屋である。そこから今音がするとなると、原因は葵と未弧蔵しかいない。大家も音に気付き、上を見上げた。

 大家に様子を見に行かれたら一巻の終わりだ。焦った一太郎は集中を乱し、「透視」の制御に失敗する。が、今まで数え切れないほど「透視」を使ってきて、特に最近は意識的に制御の訓練を始めていたため、なんとかリカバリーをしようとした。

 それが良くなかった。

 眼球の中で乱れた魔力(MP)が半端に調整された結果、悪い方向に整えられてしまい、一太郎の目に激痛が走り、血の涙が流れ出した。

 

「ああー! 目が、目がぁ~!」

 

 突然目から血を流して苦しみ出した一太郎に、大家の意識が強制的に引き戻された。

 

「ど、どうされました!? 大丈夫ですか、今救急車を!」

 

 大家は血を見るやすぐに救急車を呼ぼうとした。一太郎は激痛に耐えながら、素早く頭を働かせ、一計を案じた。

 

「いえ、待ってください、大丈夫です、救急車は要りません。持病なんです」

「え? 持病、ですか」

「はい、先天性眼窩過敏症と言いまして、時々眼球の血流が活発になりすぎ、毛細血管が決裂して出血するんです。水晶体やガラス体が傷つくわけではありませんし、内出血も起こさないので後遺症もありません。お騒がせして申し訳ありません、いつも急に来るもので」

「そ、そうですか。いや、驚きました。本当に救急車は要りませんか」

「はい、大丈夫です。すみません」

 

 嘘八百の病名をでっち上げてそれらしい事を並べ立てると、思った通り、大家はまんまと騙された。

 実際、感覚的にだが、血の涙は魔術の暴走による一過性のものだという確信があった。一、二時間もあれば自然に治るだろう。救急車を呼ぶ必要がないのは事実だ。

 一太郎はまだ心配そうにしている大家の親切心につけ込み、更に言った。

 

「ただ、収まるまでしばらく目が見えなくなるので、休ませてもらってもいいでしょうか」

「ええ、もちろん構いませんよ」

「あと、恐縮ですが、できれば目を温めるために蒸しタオルがあれば……」

「蒸しタオルですか。少し時間がかかりますが」

「お願いします」

「はい。では、そうですね、十分ほどそこの椅子にでもかけてお待ちください」

「すみません」

「いえいえ。病気は仕方ありませんよ。私も半年ほど前に腰をやった時は周りの方に迷惑をかけてしまったものです」

 

 そう言って、大家は台所に湯を沸かしに行った。

 一太郎は椅子に座り、ほっと息を吐いた。思わぬハプニングがあったが、結果オーライだ。大家もまさか目の見えない病人を置いて出て行ったりはしないだろう。しばらくは足止めできる。後は二人が首尾よく手がかりを見つける事を祈るのみだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 車内で一太郎からのコールを受けた葵は、未弧蔵と一緒に足音を忍ばせてアパートの石沢の部屋の前まで移動した。

 

「見張りたのんます。誰か来たら合図下さい」

「あ、うん……なんだか凄く悪い事してる気分」

 

 葵が背後でカチャカチャと音がするのを極力聞かないようにしながら二、三分表通りを見張っていると、軽い音の後、扉が開く音がした。

 

「よし。さっと入って下さい」

 

 妙に手馴れた感のある未弧蔵と違い、誰かに見つからないか気が気でなかった葵は急いで部屋に入り、その時に傘立てに足を引っ掛けてしまった。

 ガタン、と大きな音がして、二人の息と動きが止まる。耳を澄ませて階下の様子を探ると、何故か一太郎の悲鳴が聞こえた後、静かになった。数分待つが、二階に誰かが上がってくる足音はしない。

 

「八坂が上手く誤魔化したっぽいな。セーフセーフ」

「ごめん、私完全に足手まといだよね」

「ま、最初の不法侵入なら誰でもこんなモンすよ。気持ち切り替えて金目の、じゃねぇや、啓太の調査資料探して下さいよ。タイムリミットは一、二時間てとこすかね。出る時は窓からコソコソとかより玄関から堂々と出た方がむしろ安全なんでそんな感じで」

「根津君が慣れすぎてて怖い」

 

 二人は石沢の部屋を手分けして探し始めた。

 石沢の部屋には特に不審な点はなかった。すっきりと片付けられており、カメラや旅行かばん、プリンターなど、荷物は多いものの清潔感のある部屋である。

 葵は項目や事件別に整理された資料棚から、最近使われた形跡のある資料を抜き出して調べ、未弧蔵は仕事机に置いてあった最新式のノートパソコンをまるで自分のものであるかのようにためらいなく起動して中のファイルを漁りだした。

 

 未弧蔵は、さして時間をかける事もなく、石沢が最近「韮崎(にらさき)孝江」という人物について調べていた事を突き止めた。インターネットのお気に入りに最近登録されたのは一様に韮崎に摂食障害のカウンセリングを受けた相談者のブログで、どのブログも韮崎のカウンセリング効果を絶賛する内容ばかりだった。長時間活字を読んでいると頭痛がしてくる未弧蔵は、後で一太郎に見せるために全てのブログのキャッシュを一つのファイルに纒め、仕事机の横のレターケースに入っていたUSBメモリに保存した。

 石沢は特に調査を秘匿するつもりも無かったらしく、デスクトップに「韮崎孝江」という分かりやすいファイルがあったため、それもUSBに移した。

 

 目ぼしい情報をサルベージした未弧蔵は、そのまま流れるようにエロフォルダを探し始めた。何の変哲もないタイトルの割に妙にサイズが大きいファイル目ざとく見つけて開いていき、あっさりと目的のフォルダにたどり着く。ストーリー重視の純愛ものばかりのラインナップを見て未弧蔵は優しい気持ちになり、そんな石沢の非業の死を思い出し深い悲しみに包まれた。

 

 葵は幾つかの資料を流し読みしている内に、摂食障害についての資料が多い事に気付いた。摂食障害に関する数冊の専門書や、摂食障害に関する新聞や雑誌の記事を切り抜いたものなどである。

 摂食障害は「拒食症」と「過食症」の二つの症状に分けられる病で、若い女性によく見られる。ひらたく言えば「食欲が全くわかない」と「食欲がありすぎる」である。摂食障害の患者は精神的に不安定になり、様々な精神疾患を併発する事がある。幼い頃からスポーツに親しみ、心身ともに健康な毎日を送ってきた葵には無縁の病だったが、同年代の友人がよく「間食が止められない」と言っていたり、姉が「毎月月末は金も食欲も減る」とか言っていたのを思い出し、あれも摂食障害の一種なのかな、と思った。それが極端に酷くなったのが摂食障害なのだろう。

 

「そろそろ撤収しますか」

 

 何故かしんみりした雰囲気でパソコンをシャットダウンした未弧蔵が葵に声をかけた。葵は手に持った資料と専門書を持っていくか迷ったが、未弧蔵は置いていくように言った。

 

「意外だね。根津君ならいいから全部持ってけー、って言うかと」

「そりゃあとあと啓太の失踪が表沙汰になって警察がガサ入れした時に調査資料がゴソッと無くなってるのバレたら足がつくかも知れねーから。指紋残してる時点で手遅れ感あるけど一応な」

「あ、はい」

 

 一周回って変な敬意にも似た信頼を抱き始めた葵を連れ、未弧蔵はUSBを持って後腐れなく石沢の部屋を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 無事車で合流した三人は八坂屋敷に戻り、居間のテーブルを囲んで成果を報告しあった。

 

「お前何もそんなに体張って足止めしなくても」

「わざと捨て身になるわけないだろ。不可抗力、怪我の功名だ。そっちは収穫あったんだろうな」

「もち」

 

 未弧蔵がドヤ顔で投げたUSBをキャッチし、一太郎は自分のノートパソコンを持ってきて接続した。一時間ほどかけて中身を検め、眉根を寄せて首を傾げる。

 

「これは何か……なあ。話半分で読んでも釈然としない点がある」

「あ、まだ話してなかったけど、石沢君の資料棚に摂食障害の資料がごっそり置いてあったよ」

 

 手持ち無沙汰に未弧蔵が入れたほうじ茶を啜っていた葵は、記憶していた専門書のタイトルを挙げた。大学図書館の医学区画によく足を運ぶ一太郎にはすぐにピンと来た。

 

「ああ、なるほど。石沢さんが俺に意見を求める訳だ」

「おい、一人で納得してないで分かるように説明してくれよ」

 

 不満顔の未弧蔵とリラックスしてぼんやりしている葵に、一太郎は専門用語を噛み砕いて説明した。

 摂食障害とは、食べ過ぎ、食べなさすぎ、という症状が出る病気だが、通常、これは簡単に治るものではない。時間をかけたカウンセリングや投薬で少しずつ改善していくものである。にも関わらず、韮崎のブログを読んだ限りでは、韮崎のカウンセリング療法はたった数時間で効果が現れるという即効性に加え、既存の治療のどれよりも効果が高いという。

 常識的に考えて有り得ない。となると、常識的ではないモノが絡んでいると考えるのは、非常識なモノに触れた経験のある三人にとっては不自然ではないように思えた。

 とはいえ早とちりの可能性も捨てきれない。例え捜査線上に浮かび上がった人物であっても、セルフミスリードに嵌っている可能性はある。

 

「なんか画期的な治療法を開発したとか?」

「かも知れない。だから石沢さんは最近発刊された専門書を読んだり俺に意見を聞きたがったりしたんだろう」

「なるほど。それで実際どうなの? 最近摂食障害についてそういう発見あったりしたの?」

「記憶にはない……けど理学部は医学部ほどそっちにアンテナ張ってないから断言できないな。知り合いの教授に聞いてみるか」

 

 一太郎は一度席を外し、大学の医学講習会で知り合ったルーカス・ネルソン客員教授に電話した。幸い、ネルソン教授にはすぐに繋がった。

 

「はい、ネルソンです」

「こんにちは、理学部二年の八坂です。少しお聞きしたい事があるのですが、お時間はよろしいでしょうか」

「八坂君か。うむ、そうだな、三十分程度なら構わないよ」

「ありがとうございます。さっそくですが、韮崎孝江、という人物の最近の医学的業績についてご存知ありませんか?」

「韮崎孝江……? いや、知らないな。少なくともここ四十年ほどの間にアメリカか日本の学会で認められた医学的業績を挙げた人ではないはずだね」

「そうですか。ありがとうございます。聞きたい事はそれだけです」

「その人がどうかしたのかな?」

「いえ、どうも民間医療をしている人らしいのですが、知り合いが絶賛していたので気になりまして」

「そうかね? まあ、また何か知りたい事があればいつでも聞きなさい。もちろん、研究室に来ても歓迎しよう」

「はい、お言葉に甘えさせていただきます。では今日はこれで失礼します」

 

 一太郎は電話を切って二人のところへ戻り、ネルソン教授の言葉を繰り返す。

 

「真っ黒じゃねーか。もうそいつ犯人でよくね? 怪しげな方法で悪どい商売してて、啓太に嗅ぎつけられたから怪物を操って足の残らない方法で始末させた。筋は通ってるぜ」

「個人的に研究して何か凄い治療法を見つけたって事は無いのかな」

「いや、在野の自己流研究で大発見ができるほど今の医学界はユルくない。百年ぐらい前ならそういう事もあったかも知れないが、もうそういう時代は過ぎた」

「んじゃ決まりだな。処す? 処す?」

「……いや、魚流田の時と違って今度の相手は人間だからな。たぶん。殺したら今度は俺達が犯罪者だ。そこのところを上手くやらないといけない。それに韮崎のバックに誰かいてそいつが真犯人かも知れないし、韮崎が無自覚に事を起こしている可能性もある」

「殺るかどうかはとにかくとりあえず突っ込んでみればいんじゃね。捜査というのは決め付けてかかり、間違っていたら「ごめんなさい」でいいんだよ」

「それは頭良い人だけが使っていい台詞だから。でもまあ、そうだな。韮崎に一度接触してみるのは良い手だ。実際に会ってみない事には人物像もはっきり見えて来ない」

「おっ、八坂の魔眼が火を吹くのか? 血ぃ吹かなきゃいいんだけどな」

「根津も腹の中の口の化物が暴れなければいいんだけどな」

「思い出させんなよ……」

 

 とにかく一度韮崎に会い、様子を伺ってから、という事になった。

 しかし問題はどうやって会うかである。韮崎の身辺を嗅ぎまわった石沢は怪物に殺され、近くにいた未弧蔵までとばっちりを受けた。石沢のアパートを訪ねた時のようなガバガバな作戦で行けば怪しまれ、始末されるだろう。

 

「私が患者のフリして行こうか? 摂食障害は若い女性に多いんだよね? 私なら怪しまれずに会えると思うけど」

「いやでも宮本さんめっちゃ健康そうですやん。摂食障害って感じじゃねーよ」

「顔に大火傷の跡がある男と腹に一物抱えたチャラチャラした男よりはいいんじゃないか」

「それな」

「真面目な話、韮崎が専門的な医療を学んでいない人間なら、宮本さんに摂食障害の特徴が見えなくても気付かない可能性は高いと思う」

「気付かなかったら黒、気付いたら灰色ぐらいかな」

「そうですね」

 

 話がまとまる頃には日が暮れて夜になっていた。

 未弧蔵の中に潜む怪物の事を考えればすぐにでも韮崎に会って見極めた方がいい。万が一韮崎がシロだった場合、捜査は振り出しに戻る。そうなった時、事件解決まで未弧蔵が生きていられるか分からない。

 が、夜になってから押しかけてすぐにでもカウンセリングをして欲しい、というのは些か以上に非常識である。急ぎすぎて怪しまれて失敗すれば元も子もない。動くのは明日という事になった。葵が患者のブログに不用意にも貼ってあった韮崎のメールアドレスに「噂を聞きました、是非韮崎先生のカウンセリングを受けたいです」という旨の内容を送り、後は返信待ちである。

 

 一太郎は帰り支度をする葵に声をかけた。

 

「家は近いんですか?」

「や、割と遠いんだよね。電車で一時間ぐらいかな」

「なんだったら泊まってきますか? 部屋は空いてますよ」

「それは……うーん」

「部屋は全部内側から二重に鍵かけられるようになっているので」

「そうなの? ……なんでそんなに厳重なの?」

「色々あるんです」

 

 未弧蔵が怪しい人間を頻繁に連れ込むからである。

 

「じゃあ甘えさせてもらおうかな。あ、シャワー借りていい?」

「どうぞ。二階の階段上がったところです」

「ありがと」

 

 宮本は手を振って部屋を出る。階段を上がる足音が聞こえて十分ほどした後、壁の中の配管を水が流れる音がしはじめた。

 

「よし! 覗くか!」

「させないからな」

 

 爽やかな笑顔で立ち上がりゲスな発言をした未弧蔵を一太郎が止め、口喧嘩をしている内に夜はふけていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝、一太郎が起床し、昨晩の残り物でもつまもうかとキッチンへ行くと、開け放たれた冷蔵庫の前で未弧蔵が寝ていた。

 床には食材の残骸が散乱し、その上で未弧蔵が異様に膨れた腹を抱えてうなされている。一太郎は未弧蔵が夜の間にまた例の症状を発症した事を知り、目を離した事を悔やんだ。ベッドに縛り付けておくべきだったのだ。深く反省した一太郎は、未弧蔵の膨らんだ腹に優しく労わるように氷水をぶっかけた。

 

「ファッ!?」

「おはよう。気分はどうだ」

「どうって、あれなんかこれ気っ持ち悪うげろおろろろろろろ」

 

 未弧蔵が盛大に吐きはじめたのを置いて、一太郎はそっと二階に葵を起こしに行った。

 居間に三人が揃ったのは八時頃だった。未弧蔵はげっそりした顔で胃薬を水で無理やり流し込んでいる。

 

「さて。宮本さん、返信来てます?」

「ちょっと待って……あ、来てる。レスポンス早いね。暇なのか経営熱心なのか」

 

 葵がメールフォルダを確認すると、韮崎からの返信が届いていた。一太郎も横から覗いて読んだが、至って普通の丁寧な文体で、魚流田の日記のような滲み出る狂気の気配はなかった。

 

「午後三時に……この住所なら車で四十分ぐらいか。送ってきますよ。近くで待機するので危なくなったら呼んで下さい。急行します」

「ありがとう、頼りにしてるよ本当に。猛獣ならとにかく幽霊系は私の手には負えないから」

「猛獣ならぶっ殺せる、と。女死力高過ぎィ! さっすがスチール缶ボールにできる人は言うこと違うな」

「……そういえば二人共大学とか仕事は大丈夫なの? 私は融通効くからいいけど」

「あからさまに話そらしに来た。いやらしい。あ、俺は元々休み多いんで全然オッケー」

「他の大学がどうか知りませんけど、ウチの大学は土曜日休みなんですよ。昨日は全休でした」

 

「てかさぁ、話もどすけどやっぱ八坂は宮本さんと一緒に韮崎に会った方がいんじゃね? うだうだやってないでサクッと魔眼サーチで怪しいところないか調べてくれよ」

「いや、女性一人って事でアポとったのに顔面大火傷の野郎がセットでサービスされたら警戒されるだろ」

「八坂君は心配してついて来た彼氏って事にしようか?」

「え?」

「何驚いてるの。もちろんフリだからね」

「宮本×八坂。美女と野獣先輩だよな。たまげたなぁ」

「……フリとはいえ彼女ができるのは初めてです」

「それは……そうなんだ」

「おいやめろこんなトコで泣かせに来んな」

「泣かせに行ったつもりはないんだけどな。しかしそうなると根津が一人になるな。根津は目を離すと不味そうだ。どこかに縛り付けとくか」

 

「いっそ全員で行かね?」

「彼氏が二人になるぞ。逆ハーレムか」

「それな。宮本さんビッチ化待ったなし」

「いや待ったあるよ。二人とも来るなら家族でいいでしょ」

「カウンセリングに二人同伴とかすんげー過保護な家族やな。あ、八坂は見た目貧弱貧弱ゥなもやしだから患者のフリいけるだろ。宮本さんに誘われたとか理由つけてさ」

「じゃあ根津君は?」

「俺は二人にしれっと混ざるんで大丈夫っす」

「割と無茶言ってるのに謎の説得力。いける(確信)」

 

 計画を練ったり買い出しにいったりしている内に時間は過ぎ、午後二時になった。三人は車に乗り、一太郎の運転で韮崎の住所へ向かった。

 韮崎の家は、住宅街にある普通のマンションの一室だった。一応マンションの外から一太郎が「透視」を使ってみたものの、妙な気配はない。ただし、「透視」は布程度ならまだしも壁を突き抜けて様子を探る事はできないので、マンションの外壁に異常がなくても、室内に何かがあるという事は十分考えられる。

 

「とりあえず異常なし」

「マンションが変形して襲ってくるみたいな最悪のパターンは無さそうでよかったぜ」

「なにそれこわい」

 

 軽口を叩きながら韮崎の部屋の前まで行き、玄関のチャイムを鳴らすと、すぐにインターホンから女性の声がした。

 

『あらいらっしゃい、予約されていた宮も……後ろの方は?』

「すみません、彼は私の友人の八坂というのですが、韮崎先生のカウンセリングの予約が取れたと話したら自分もどうしてもと言って聞かなくて。八坂君はもう何年も摂食障害で苦しんでいまして、今日は見学だけでもと」

『そうでしたか。そういう事でしたら構いませんよ。その隣の方は?』

「あ、俺は付き添いできた葵の彼氏の根津っす。噂の美人カウンセラーに葵が寝取られないか心配で心配で」

「え?」

「え?」

『え?』

 

 一太郎と葵は思わず未弧蔵を振り返った。インターホンの向こうから耳を疑ったような声もした。

 

「や、やだー、根津君それは言わない約束だったでしょ恥ずかしいなーもー」

 

 一拍置いて葵が挙動不審な棒読みでアドリブをして合わせ、一太郎はインターホンのカメラから死角になるように未弧蔵の足を踏みつけた。未弧蔵のヘラヘラした笑顔が引きつる。

 一太郎は作戦の失敗を確信したが、葵の挙動不審さを恥ずかしがっていると捉えたのか、それともあまり突っ込まない方が精神衛生上良いと判断したのか、驚く事に韮崎はドアを開けて三人を迎え入れた。

 

「お待たせしました。お入りください」

 

 そう言って三人を中に案内する韮崎孝江は、二十代後半か三十代前半ぐらいの知的な女性だった。黒髪は肩にかかるほどで、身長や体格は標準。未弧蔵はお世辞で美人カウンセラーと適当に言ったのだが、嘘から出た真で、芸能人か俳優と名乗っても十分通用するぐらいの美人だった。

 韮崎は三人をダイニングキッチンに通すと、椅子をすすめ、ケーキと紅茶を出した。

 

「カウンセリングと言っても緊張する事はありません。リラックスして、雑談でもするつもりでお話ください。ケーキと紅茶は口当たりの良いカロリーも抑えたものですから、好きなように食べても大丈夫ですよ。根津さんもどうぞ」

 

 最初、韮崎は葵と一太郎にどのような症状があるのか詳しく尋ねてきた。葵は石沢の摂食障害についての資料を読んでいたし、一太郎は医学に造詣が深いため、難なく質問に答え摂食障害を装う事ができた。

 二人が問診を受けている間に、未弧蔵はいかにも女性が好みそうな洒落たケーキを遠慮なく食べながら、それとなく部屋全体を観察した。

 ダイニングキッチンは女性らしい小物や品の良い調度品、アンティークの食器などがセンスよく置かれている雰囲気の良い部屋だった。誰かを呪い殺すような禍々しい水晶や藁人形は見当たらない。

 ただ、一つだけ、テーブルの隅に紫のビロードがかけられた何かが置かれているのが気になった。

 

「あれってなんなんすか?」

「これ? これは企業秘密だから答えられないわ。ごめんなさいね」

 

 未弧蔵が韮崎に聞くと、韮崎は冗談交じりに答えてはっきりとした事は言わなかった。未弧蔵も答えが得られるとは思っていなかった。

 未弧蔵の質問で探るべき場所に目星をつけた一太郎は、ひっそりと「透視」を使った。布程度ならば未弧蔵は見透かす事ができる。切り替わった視界の焦点を合わせると、一太郎の目には布の下に隠されている像が視えた。

 

 それはザラザラした黄土色の砂岩を荒く削って作られた、素朴な石像だった。高さ30cmぐらいの、ずんぐりとした形状をしている。その姿はコウモリとヒキガエルを彷彿とさせるものだが、どちらとも異なり、極めて異質な印象を受けた。いやらしく開かれた口や、でっぷりとした腹からは嫌悪感しか感じられない。そして、かつて魚流田が取り憑いていた屋敷がそうであったように、石像も禍々しいオーラを纏っていた。

 親身な態度で葵に語りかけ、カウンセリングをしている韮崎も視てみる。するとそちらには生来のPOWを表すオーラが視えたが、石像のオーラに似た底知れない昏さを持つオーラがうっすらと、しかしまんべんなく入交っていた。

 一太郎は石像が全ての原因だと判断した。韮崎が石像によって操られているのか、石像の何かしらのチカラを使った結果汚染されたのかは分からないが、石像と韮崎には何かしらの繋がりがあり、オーラの濃さや人の世ならざる不気味さからして、石像が最も怪しい。

 一太郎が怪しい物に対して有効だと経験的に知っている手段は一つだ。

 即ち、除霊(物理)である。

 

「…………」

 

 一太郎は素知らぬ顔でテーブルの下の携帯電話を見ずに操作し、未弧蔵にメールを送った。マナーモードでメールを受け取った未弧蔵は、魚流田退治で手に入れた魔法のナイフに魔力(MP)を込めた。

 宙に浮かぶナイフ、というのは極めて非現実的な現象である。魔法のナイフの起動には詠唱も動作も必要ないため、誰が操っているのか、そもそも操る者がいるのか、普通は分からない。テーブルの下からナイフが飛び出してビロードの下の像を攻撃し始めても、未弧蔵が怪しまれる事はない。後になって追求されても、全てはナイフが勝手にやった事なのだ、と知らぬ存ぜぬで押し通せる。

 

 石像を攻撃するためにナイフがテーブルの下でひっそりと浮かんだ次の瞬間、未弧蔵の腹の中のモノが奇妙に脈動した。

 未弧蔵の瞳から光が消える。

 

「がっ!?」

 

 適当に韮崎に話を合わせていた一太郎は、突然下腹部を襲った激しい痛みに悶え、椅子から転がり落ちた。焼かれたような激痛が走る腹を手で抑えると、ぬるりと嫌な感触がした。

 腹を見れば、白地に一気に紅い染みを広げるYシャツがあり。

 目を上げれば、かつてのように自分にその切っ先を向けて浮遊する魔法のナイフがあり。

 まさかと目線を横に向ければ、椅子に座ったまま茫洋とした目で無表情に自分を見る未弧蔵がいた。

 

 一太郎は失策を悟った。未弧蔵の中にいるモノが石像に由来するモノなら、石像の破壊を指をくわえて見ているわけがないのだ。

 未弧蔵は腹の中の怪物に操られ、敵に回ってしまった。

 

「八坂君っ!」

 

 床に転がる一太郎に再び襲いかかったナイフを、葵はティーポッドを載せていたシルバートレイを投げてぶつけて撃墜した。ティーポッドが壁にぶつかって割れ、中身をぶちまける。

 葵は八坂を庇うようにして未弧蔵の前に立ちはだかり、肩と両手を上げるムエタイの構えをとった。

 

「根津君! 何やってるの! 正気!?」

「宮本さん、根津は正気じゃない。操られてるんです。それよりも……」

 

 一太郎は自分の腹から滴る鮮血が、不自然に流れ、重力に逆らってテーブルの足を這い上り、ビロードの下に吸い込まれていくのを目で追った。韮崎を見ると、顔を青ざめさせながらも、そろそろと手をビロードの下へ伸ばしている。異常事態に動揺している反応ではない。

 何かするつもりか。止めなければまずい。

 しかし既に「何かしている」根津の方が危険度は上だ。

 

「……いや。根津を先になんとかしましょう。気絶させて下さい、それでナイフは止まります」

「分かった。根津君、ごめん!」

 

 一太郎は失血死しないように、応急手当として薄いテーブルカバーを破って包帯代わりに腹に巻いて止血した。立ち上がるとくらりと目眩がしたが、動けない事はない。

 

 一太郎が止血している間に、葵は未弧蔵を気絶させていた。飛来するナイフの柄を手の甲で払い、未弧蔵の顔面に一発拳を入れ、よろめいたところにみぞおちに強打。それで息をつまらせ失神したのだ。流れるような早業だった。

 

「さあ、キリキリ吐いてもらいましょうか。あなたは何を企み、何をしたのか。しらばっくれようとしても無駄ですよ。『企業秘密』が勝手に血を吸っていたのは見ていましたから。そんなものを後生大事に持って逃げようとしているのは自白しているようなものです」

「ひっ」

 

 服を斑に赤く染めた一太郎が詰め寄ると、韮崎はビロードに包んだ石像を抱えて怯えて後ずさった。背後には玄関に続くドアがある。葵は素早くドアの前に立ちふさがった。韮崎は半泣き半笑いといった様子で足を震わせている。

 

「そんなに怯える事はありません。そこにいる未弧蔵の腹の中の怪物を追い出して、二度と私たちに関わらず悪事も働かないと約束すれば警察に突き出したりは――――」

『ウガア・クトゥン・ユフ!』

 

 自分では優しいと思っている笑顔で韮崎を脅していた一太郎は、背後から聞こえた、どんな生き物の鳴き声とも異なる不気味な音声に振り返った。

 

 気絶して仰向けに横たわる未弧蔵の口が、顎が外れるほど大きく開いていた。

 未弧蔵の口から黒い液体が大量に溢れ出た。その腐った沼のような悪臭を放つドロリとした液体は、鉱物のような光沢を持っていた。

 床に流れ落ちた液体は一つの塊となり、何十本もの短い足を生やして、ヘビのように鎌首を持ち上げた。のっぺりとした黒い塊のてっぺんに、木の杭のような歯を生やした巨大な口が開き、体のあちこちにぎょろりとした目が見開かれた。

 立ち上がったその怪物は、未弧蔵の背丈よりも大きかった。こんな巨大なものが、どのようにして未弧蔵の体内に潜んでいたかを考えても、人間の常識では理解できるはずもない。

 怪物は物理的に有り得ないような体のつくりをしているにも関わらず、その動きは俊敏だった。そいつは歩くのではなく、倒れると同時に床との接地面に新しい足と頭を作り出し、転がるように移動した。しかし幸いな事に、テーブルや戸棚が動きを邪魔して自由に動き回る事はできないようだった。その代わり、怪物は己の動きを阻害する家具を、巨大な口で噛み砕き、タコのような動きをする触手で容易く押しつぶしていた。

 

「あ……」

 

 一太郎は放心して怪物を見上げた。よせばいいのに、反射的に「透視」を使ったせいで、目で見るよりも更にはっきりと、怪物の悍ましさ、本能が拒否するようなこの世ならざる異質さが視えてしまった。

 動く死体という、ある意味想像の範疇の化物だった魚流田を見た時とは訳が違う。常世の存在とは根本的に異なるそれを認め、理解してしまった一太郎は頭が真っ白になった。

 こんな化物に勝てるわけがない――――

 

 一太郎は肉食獣から逃げ出す哀れな小動物の如く、ドアに飛びついて開き、錯乱して意味もない叫び声を上げながら脇目も振らず外へ逃げ出した。玄関から靴も履かずに転がりでて、階段をほとんど飛び降りるようにして駆け下りる。乗ってきた車を使う事すら忘れて、半狂乱でただただ怪物から少しでも距離を離すために走り去った一太郎が周囲の通行人の奇異な目線に気付き我に帰り、現場に戻った時には、全てが終わっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 葵は一太郎が開け放っていったドアから韮崎が逃げ出したため、後を追おうとしたが、怪物が立ちふさがったため止まらざるを得なかった。怪物の底なしに昏い、名状しがたい混沌を孕んだ無数の目に凝視され、葵は泣きそうになりながら構えを取った。降参して見逃してくれるとは到底思えなかったし、背後には気絶した未弧蔵がいる。逃げる訳にはいかない。怪物に踏まれたシルバートレイが飴細工のように曲がるのを見て死を覚悟した。

 

 怪物が鞭のように振るった触手を紙一重で躱し、カウンターで強烈なローキックを叩き込む。常人が受ければ両足の骨が一まとめにへし折れるような蹴りを受けて怪物の短い足がぐしゃりと潰れたが、次の瞬間には再生し、何事もなかったように元通りになった。

 

「なにそれ反則!」

 

 悪臭のする涎を垂らして噛み付いてきた口を避け、今度は目玉に拳を叩き込む。目玉はぶちゅんと気色悪いヘドロのような液体を散らして潰れたが、拳を引き抜いた途端に再生した。まるで効いていない。葵の攻撃は全く効かないのに、怪物の攻撃は当たれば良くて致命傷、悪くて即死。分が悪いどころではない。今はなんとか回避できているが、いつまで保つか。

 そう思った直後、葵は足元の家具の残骸に足をとられ、触手の殴打を避けそこねた。

 格闘家の習性で、顔面を吹き飛ばす威力の触手が迫っていても、目を瞑って諦めるような事はせず、なんとか首を捻って直撃だけは避けようとする。それは無駄な悪あがきに思えたが、寸でのところで背後から頬を掠めて飛来したナイフが触手を切り飛ばし、九死に一生を得た。

 

「お は よ う ご ざ い ま す。ギリセーフ!」

 

 未弧蔵が宙に浮くナイフを共に、葵の横に立っていた。鈍痛が残る鳩尾を抑えながら聞く。

 

「体操られてノックアウトされたとこまでしか覚えて無いんすけど、今どういう状況? なんかスゲー怪物いる」

「アレが根津君の口から出てきて襲われて死にそう。OK?」

「OK! っしゃ! 切り刻んでやるぜ!」

「何度か攻撃してるけどすぐ再生するんだよね。物理攻撃効かないみたい」

「んだよ、またそんなのか! 八坂は!?」

「あ、えーと……発狂して逃げたよ」

「っはぁああああああ!? あいつこれからって時に何やってんの! っとぉ!」

 

 頭をもぐもぐしようとしてきた怪物の噛み付きを横っ飛びに回避した未弧蔵は反撃しようとしたが、柱時計がポッキーのように噛み砕かれるのを見て諦めた。ナイフを腰に戻し、後ずさる。

 

「こいつぁ無理だ! 逃げたらアカンの!?」

「根津君起きたしもう逃げてもいいけど、出口塞がれてるから窓からしか逃げられないんだ」

「ここ三階だぜ!? 転落死するわ!」

「それに追ってくると思う」

「ですよね! あいつすばしっこいし逃げて振り切る自信ねーよ! やっぱ八坂いねーとだめだ! あいつの解析ないとどうにもなんねぇ!」

「分かった、私が引き付けるから呼んできて」

「いやたぶん俺の方が逃げるの得意なんで宮本さん呼んできて下さいオナシャス! 俺あいつおちょくってるんで。ヘイヘイ怪物ビビってるぅー!(震え声)」

 

 未弧蔵が大声をだして瓦礫を投げつけながら隣の部屋に飛び込むと、怪物はドア枠を破壊しながらそれを追った。玄関への道が空く。葵は怪物の注意を引かないようにそっとダイニングキッチンから出て、怪物の視界の外に出た途端に走り出した。

 

 警察を呼ぶべきか。いや、拳銃が通用するとも思えないし、110番通報して警官が車での数分か十数分の間に皆殺しにされる。マンションの他の住人達に助けを求めても死体が増えるだけだろう。一太郎が車で逃げていない事を祈りながら階段を駆け下りていた葵は、踊り場で蹲る韮崎と遭遇した。石像を抱き抱えるように抱え、息を切らせている。逃げる途中で体力が尽きたらしい。

 

「韮崎さん、お願いです。あの怪物を止めて下さい! 友人が死にそうなんです!」

 

 ダメ元で韮崎に頼み込んでみたが、やはりダメだった。韮崎は石像を抱えてずるずると後ろに下がり、勝手に踊り場の隅に追い詰められた。

 葵は唇を噛んだ。問答している時間が惜しい。ここはやはり一太郎を探しに行くべきか?

 躊躇する葵はふと思った。オカルトには媒体がつきものだ。コックリさんは紙と鉛筆が媒体だし、丑の刻参りは釘と藁人形。占いなら水晶。呪術は媒体が無いと成り立たない。

 怪物の不死性は、石像が媒体となって成り立っているのでは?

 

 根拠の薄い推測だったが、今は藁にも縋りたかった。

 葵が石像を取り上げようとすると、韮崎は抵抗した。二人は揉み合い、その拍子に韮崎の手から石像が滑り落ち、階段を転がって砕け散った。

 それを目にして石像が割れる音を聞いた葵は、意識を鷲掴みにされるような得体の知れない感覚と共に白昼夢を見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 葵は様々な生物の白骨が足元に山を作る、暗い洞窟にいた。骨の山の中央には、破壊された石像に酷似した、ヒキガエルに似た化物が物憂げに何かの肉を貪っている。その化物は見上げるほど巨大で、遠目に見ただけで魂を打ち砕かれるような邪悪さを帯びていた。未弧蔵の口から出てきた怪物よりも更に恐ろしく、凍りついたように体が動かない。立ち向かうどころか、逃げようという気力すら湧かなかった。

 化物は葵を眠たげに眺めていたが、やがて興味を失ったように目をそらすと、どこからか裸体の女性をつまみ上げ、ゆっくりと口に運んで丸呑みにした。

 あっけなく化物に飲み込まれた女性。それは韮崎孝江その人だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 葵は凄まじい悲鳴で生々しい白昼夢から現実の世界に戻ってきた。

 我に帰った葵は、悲鳴を上げる韮崎の身に変化が起きているのに気付いた。腹の中からヒキガエルの鳴き声のような大きな音が鳴るたびに、手足が枯れ枝のようにしぼんでカサカサになっていき、みるみるやつれていくのだ。

 愕然としてそれを見ていた葵は、階上からあの黒い怪物がのっそりと降りてくるのを目にした。その後ろから警戒してついてくる未弧蔵と目が合う。

 

 韮崎は自分に向かってやってきた怪物へ、両手を広げ、歓喜の表情で駆け寄った。

 二人が止める間もなく、韮崎はなんと怪物にむしゃぶりついた。驚く事に、怪物はされるがままで、それどころか自ら口の中に入り込んでいくようですらある。

 韮崎は自分よりもふた回りも大きな怪物を、数十秒で食べ尽くしてしまった。

 老婆のようにやせ衰え、下腹だけを大きく膨らませた餓鬼のような無残な姿になった韮崎は、慄く二人に弱々しく手を伸ばした。

 

「もっと、食べたい」

 

 それだけ言うと、韮崎はふっと力を失い、倒れた。そのままぴくりとも動かない。

 韮崎は死んでいた。

 

 呆然と立ち尽くす二人に、ぜぇはぁと息を荒げながら階段を駆け上がってきた一太郎が合流する。

 

「な、なん……ぜぇ、何……はぁ、何がどうなったんだ?」

 

 葵と未弧蔵は顔を見合わせ、どこか釈然としないながらも、結果だけを端的に告げた。

 

「全部終わった。事件は解決だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、騒ぎを聞きつけたマンションの住人が呼んだ警察によって、三人は事情聴取を受けた。荒らされた韮崎の部屋と、韮崎の死体を前に容疑がかけられるかと思われたが、検死の結果、韮崎の死因はまごう事なき餓死だったため、疑いは晴れた。荒らされた部屋も人間ができるような破壊痕ではなかったため、一通りの事情聴取を受けた後、三人は無事開放された。怪我を負っていた一太郎は、狂乱した韮崎に刺されたのだと言って誤魔化した。死人に口無し。嘘が暴かれる事は無いだろう。

 韮崎の死は、摂食障害のカウンセラーが無理なダイエットによって餓死するという皮肉な事件として、新聞の片隅に載るだけであった。

 

 未弧蔵の体内から怪物は消え、元凶と思われる韮崎と石像はこの世から消えたが、多くの謎を残す結果となった。好奇心旺盛な一太郎は、腹の怪我の手術を受け、休学して療養している間に、事件の全容を詳らかにするために調査をした。

 

 まず、私立探偵をしているという葵の姉に依頼して韮崎の経歴を洗ってもらったところ、やはり韮崎孝江にカウンセラーとしての教育を受けた経歴は無い事が分かった。

 以前の彼女は重度の摂食障害で、食物を猛烈に食べては嘔吐を繰り返すという症状に悩まされていた、というのが当時の友人の証言である。そんな彼女は、さびれた骨董屋で奇妙な石像を購入した直後から、症状を劇的に改善させ、その後しばらくして、摂食障害に関する相談所を開業した。骨董屋の主人に韮崎が持っていた石像のスケッチを見せたところ、販売したのはそれで間違いないという証言がとれている。

 

 一太郎が断片的な記憶と手がかりを頼りに「エイボンの書」を紐解いたところ、石像は「ツァトゥグァ」という神性を模した像である事が分かった。

 数多く存在する悍ましい神性の中では比較的悪意の無い存在であるが、それでも恐ろしい神である事に変わりはない。ツァトゥグァは怠惰と空腹を司るモノとして遥か古代から人間やその他の種族の崇拝を受けてきた。察するに、あの石像はツァトゥグァとの交信を可能とする一種のアーティファクトだったのだろう。

 

 ここからは曖昧な推測に頼る部分が多くなるが、一太郎は、韮崎が石像を通じて異常な食欲をツァトゥグァに吸われていたのだと考えた。人間とは何もかもが異なる存在であるツァトゥグァならば、食欲という半ば概念的なものを吸い取り、貪る事すら可能である。韮崎は故意にか無意識にか、自分とカウンセリングの患者が保つ異常な食欲を石像を通してツァトゥグァに捧げる信奉者となっていたのだ。

 

 石沢を襲い、未弧蔵に取り憑いた怪物はツァトゥグァに奉仕する種族で、名前は無いが、「エイボンの書」には仮に「無形の落し子」と書き記されていた。韮崎は自分を嗅ぎ回る石沢に、カラクリがバレたら石像を取り上げられるとでも思ったのだろうか。自分の信者を守るためにツァトゥグァが奉仕種族である無形の落し子を遣わしたのか、韮崎が乞い願い、下賜されたのかは不明である。しかし結果として、無形の落し子が現れ、石沢に取り憑き、始末する結果となった。未弧蔵に乗り移ったのは目撃者を消そうとしたからか。

 

 事件の最後で、葵によって石像は破壊された。神は気まぐれである。交信の媒体を失ったと同時に韮崎への興味も失ったのだろう、自分の信者の精神をあっさりとツァトゥグァは喰らい、発狂した韮崎は無形の落し子によって肉体以外の精髄全てを食い尽くされ、死に至った。

 

 以上が一太郎が纏めた事件の全容である。

 韮崎も一柱の神性に振り回された哀れな犠牲者だったと言えなくもない。かといって同情する気にもなれなかったが。人の手には余る存在に手を出したのが悪かったのだ。

 今も、昔も、これからも、人智を超えた気まぐれで邪悪な神性、名状し難い存在は、何の変哲もない日常から薄皮一枚を隔てた裏側に潜んでいる――――

 

 




――――【八坂 一太郎(20歳)】リザルト

STR8  DEX10  INT18
CON9  APP7  POW19
SIZ14 SAN81  EDU17
耐久力12

所有物:
 損傷の激しいエイボンの書(ラテン語版)
 コービットの日記

呪文:
 透視、空鬼の召喚/従属

技能:
 医学 65%、オカルト 25%、生物学 71%、化学 51%、聞き耳 55%、信用 45%、
 心理学 55%、精神分析 33%、説得 41%、図書館 85%、目星 85%、薬学 61% 英語 21%
 ラテン語 16%、クトゥルフ神話 14%

――――【根津 未弧蔵(22歳)】リザルト

STR12 DEX16  INT9
CON12 APP13  POW11
SIZ13 SAN44  EDU13
耐久力13 db+1d4

所有物:
 魔法のダガー……命中率=現在MP×5%、ダメージ=1d6+2、コスト=1ラウンド毎に1MP

技能:
 言いくるめ 79%、応急手当 40%、回避 42%、鍵開け 71%、隠す 65%、聞き耳 45%、忍び歩き 50%、目星 55%、いやらしい手つき 52%
 跳躍 31%、こぶし 58%、クトゥルフ神話 4%


――――【宮本 葵(21歳)】スタート

STR17 DEX13  INT12
CON10 APP15  POW12
SIZ10 SAN60  EDU16
耐久力10 db+1d4

技能:
 応急手当 70%、回避 86%、聞き耳 50%、説得 55%、跳躍 65%、信用 75%、目星 55%、武道:立ち技系(ムエタイ)86%、キック 85%

――――【宮本 葵(21歳)】リザルト

STR17 DEX13  INT12
CON10 APP15  POW12
SIZ10 SAN55  EDU16
耐久力10 db+1d4

技能:
 応急手当 70%、回避 86%、聞き耳 50%、説得 55%、跳躍 65%、信用 75%、目星 55%、武道:立ち技系(ムエタイ)86%、キック 85%
 精神分析 8%、クトゥルフ神話 5%


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1-3 奇妙な共闘

 

 大学院卒業後、八坂一太郎はマホロバ株式会社に就職した。

 マホロバ株式会社とは日本を代表とする大手電子機器メーカー、電機メーカーである。中でもAV機器分野では最大手で、音響・映像・放送機材においては屈指の高い技術力を誇り、抜きん出た技術に裏打ちされたブランド力で世界を席巻し、海外でも高い人気と信頼を勝ち得ている。長引く不況下でも一兆円近い売上高を叩き出す大企業だ。

 

 そんなマホロバ社になぜ一太郎が就職できたかというと、眼の知識を買われての事だ。3D映像技術を開発する過程で、どうしても機械技術だけではなく人間の眼の構造や総合的な視覚の働きについての深い専門知識も必要になったらしい。その道の第一人者である一太郎の大学の教授が勧誘を受け、その教授が一太郎を強く推薦した事でお鉢が回ってきた形になる。

 マホロバ社の研究室に配属された一太郎は、素晴らしい飲み込みの良さと発想力、培った知識を存分に生かし、入社一年目にして早くも技術開発に大きく貢献し、同僚の信頼を勝ち得ている。

 

 マホロバ社は大企業なだけあって給料も良く、一太郎の初年度の年収は、月収60×12+ボーナス180で900万。みるみる増える通帳残高を見るたびに未だ軽く手が震える。

 学生時代では考えられない大金を手にした一太郎が最初にした事は、借りていた屋敷を正式に買い取る事だった。

 東京の屋敷庭付きの土地とはいえ、郊外で、日当たりが悪く、事故物件。大家との交渉の末、月25万、十年払いのローンで購入できた。保証人になった叔父は苦笑いである。結婚もしていない二十六歳の若造が持つような家ではない。が、屋敷に住み着いている甥の友人が頻繁に仲間を呼び込んでいるのは知っていたので、広い屋敷を腐らせるような事はあるまいと納得していた。

 

 未弧蔵は学長のカツラをアフロにすり替えたのが発覚して大学の掃除人をクビになり、現在は韮崎について調べていた時に知り合った骨董屋で働いている。古物知識は素人に毛が生えた程度だが、口八丁で客を言いくるめて安く買い取り、高く売るため、重宝されているようだ。

 八坂屋敷には最近未弧蔵が買ってくる骨董品が増えており、急須が無駄に年季の入った風格のあるものになったり(有名な工匠の贋作らしい)、玄関に水墨画が飾られていたり(有名な絵師の模倣らしい)、居間にコツメカワウソの剥製(ニホンカワウソと称して持ち込まれたらしい)が置かれたりしている。本当に価値のある物は一つもないのに、一見して価値がありそうなものばかりを集めてくるのが未弧蔵らしいと言える。おかげで八坂屋敷の内装には特に意味もなく格式や風格といったものが出てきている。骨董品に造詣が深い人物には一発で看破される程度のハリボテだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 韮崎の事件後、五年以上も遭遇する事なく、青春の思い出として風化し始めていた名状しがたき怪異は、呼んでもいないのにまたもや八坂一太郎の前に現れる事になった。

 

 街路樹の緑が勢いを増し、自販機の冷たい飲み物の売れ行きも増してきた、初夏の事である。仕事を終えて退社した一太郎は、夕方のラッシュでごった返す新宿駅から京王新線に乗り、すし詰めの車内に閉口しつつも自宅を目指していた。新宿を出た各駅停車の電車は、初台駅、幡ヶ谷駅を過ぎるまでは地下を走り、その次の笹塚駅以降は地上を走る。

 新宿駅を発車して二分ほど、初台駅に到着する寸前。一太郎が窓の外を過ぎ去っていく地下鉄構内の壁を見るともなく見ていると、「車両点検のため緊急停車します」というアナウンスとともに、いきなり列車が停止した。みっちり詰まった人が前方に慣性を受けて更に押しつぶされ、車内にはうめき声や悪態、不平不満の声が溢れる。

 

 人身事故だろうか。勘弁して欲しい。

 イライラしながら腕時計を見ようとするが、人に挟まれて腕が抜けない。体の向きを変える事すら困難な有様だ。車内の明かりに薄らと照らされる地下鉄構内の壁を馬鹿みたいに見続けるしかない。

 ふと、一太郎の目が窓の外に奇妙なものを捉えた。暗い地下鉄構内に、もぞもぞとうごめく人影のようなものが一瞬見えたのだ。

 轢死体を回収する駅員だろうか。

 怖いもの見たさで「透視」を使う。暗闇の中から浮かびあがったものは、駅員ではなく、人間ですらなかった。

 

 猫背で、手足はヒョロ長く、赤く爛々と光る眼を持ち、土気色の肌を剥き出しにした獣じみた奇怪な生物である。

 ゾッとした。生物はすぐに視界から外れてしまったが、人間の仮装や影の陰影がもたらす錯覚ではなく、紛れもなく、非日常の存在である事は理解できた。

 脳裏に久々に魚流田紅人や無形の落し子の姿と、それに連なる恐怖の記憶が蘇る。一太郎は全力で見なかった事にした。

 

 乗客の何人かも同じモノを目撃したのか、興奮したり悲鳴を上げたりしている。しかし大多数のざわめきや、話し声に紛れて目立たず、ほとんどの乗客は無関心のままだった。

 列車の停止と生物が無関係である事を希望的に祈っていると、列車の外の後方からタタタッと何かが破裂するような音がした。続けざまに何度か連続して聞こえ、静かになる。何か聞き覚えがあるような無いような音だった。少なくとも日常的に耳をする音ではなく、すぐには思い出せない。映画か何かで聞いたような。

 

 一太郎が思い出そうと首を捻っていると、「点検終了。発車します」というアナウンスと共に電車は動き始め、すぐに初台駅に到着した。一太郎は他の乗客と一緒にどっと吐き出される。こっそり引き返し、現場を再確認しようかと躊躇ったが、電車に轢かれるかも知れないし、理由も無いのにわざわざ自分から怪異に飛び込む事もあるまい、とやめておいた。君子、危うきに近寄らず、である。

 

 しかし理不尽な事に、君子が危うきに近寄らずとも、危うきの方からやってくるものだ。

 

 一太郎が八坂屋敷に帰宅し、ネクタイを緩めてスーツを脱ぎながら居間に入ると、ソファに座った未弧蔵が沈痛な顔をしていた。

 

「……おう、八坂」

「……何かあったのか」

 

 未弧蔵の声に怒りと悲しみが入り混じったらしくない色を感じ取った一太郎は、嫌な予感を感じつつも聞かざるを得ない。

 

「同里の爺さん、覚えてんだろ。橋の下に住んでる。たまに屋敷に呼んでた」

「ああ」

 

 言われてすぐに思い出した。魚流田の事件の時に、魚流田について話を聞いた老人だ。未弧蔵は一太郎と出会う前によく世話になったらしい。

 

「それが?」

「殺された。射殺だ」

「殺っ、射殺? 現代日本で? そんなまさか……いや、本当に、まさか」

 

 一太郎は、地下鉄で聞いた音が、戦争やアクション系の映画で耳にする銃声とそっくりだった事に思い当たった。こんなに早くこんな風に記憶が繋がるとは全くもって嬉しくない。

 

「それはまさか初台駅のあたりの話か?」

「知ってるのか!?」

 

 未弧蔵が目の色を変えて立ち上がり、一太郎に詰め寄った。一太郎はあまりの剣幕に引き気味に答える

 

「今日帰る時にそこで銃声を聞いた。無関係ではないはずだ。おい待て根津、初台駅に行くつもりか?」

「ったりめぇだろ!? 爺さんを殺した奴がまだうろついてんなら、俺がこの手でぶちのめしてボロ雑巾にしてやる!」

「落ち着け、相手の正体も分からないし、最低でも銃を持ってるんだ。最悪お前も蜂の巣だぞ。俺も手伝うから一度情報をまとめよう」

「……………………………………………………わあったよ」

 

 長い沈黙の後、未弧蔵はソファに戻り、どっかりと座った。一太郎は紅茶とパソコンを持ってきて、未弧蔵に話を聞きながら情報をまとめた。

 

 未弧蔵の話によると、同里が射殺されたのは二日前の夜の事らしい。ホームレスの伝から未弧蔵に話が来たのは今朝の事だ。

 その日、いつものように都内を回って廃品回収(ゴミ漁り)をしていた同里は、深夜の人気の無い初台駅の構内を、他のホームレスと共にうろついていた。すると銃で武装した謎の集団が突然現れ、地下鉄の奥から獣じみた怪物を追い立ててきた。

 怪物と銃という二重の恐怖にホームレスは逃げ惑ったのだが、同里は怪物と誤認されて射殺されてしまったという。自販機の影に隠れて震えていたホームレスの証言によると、同里の死体はそのまま武装集団が回収していってしまったらしい。

 それからホームレス達はツテを辿って銃を持っていそうな警察、ヤクザ、自衛隊に同里の死体の行方を問い合わせたのだが、一様にそんな死体は知らないとシラを切られた。弱ったホームレス達は、同里の死の報告がてら未弧蔵に頼ったのだ。

 そこに今夜の一太郎の目撃である。同里を殺した犯人は、初台駅周辺で未だ活動しているらしい。

 

 一太郎にとっても同里老人は知らない仲ではない。仇討ちをするのにやぶさかではなかった。使っていなかった有給を纏めて消化して事に当たる用意がある。

 しかし怪物要素を抜きにしても、なかなか難しい案件だった。

 

「問題は三つある」

 

 情報をまとめ終わった一太郎は静かに言った。

 

「一つ。自明な事だが、相手は銃を持っている集団だ。力づくの報復は簡単ではない。二つ。社会的地位の低いホームレスとはいえ、人を殺してそれを隠蔽する権力がある。三つ、怪物の正体が分からない。銃で追われるぐらいだからツァトゥグァのような神格クラスの存在ではないだろうが、不確定要素として不安は残る」

「怪物はどうでもいい。銃持った奴らに自分のやった事を地獄の底で後悔させてやれりゃあそれでいい」

「殺すつもりか?」

「いんや。そうしてやりたいところだが、きっと爺さんは喜ばねぇ。丸一年ベッドの上で呻かせるぐらいで済ませてやるさ」

 

 未弧蔵は肩を竦めた。未だ眼に灯る火は静かに燃えているが、話して情報をまとめているうちにだいぶ落ち着いたようだ。

 一太郎はパソコンでネットの検索画面を開きながら言った。

 

「今日はもう寝るといい。冷静じゃないだろう。今夜は俺が通り一遍の情報は集めておくから、本格的に動くのは明日にしよう」

「ああ。仕事で疲れてるとこ悪いな」

「構わんさ。懐かしいな、こういうのも。今回は人間相手だが」

「分からんぜ、獣じみた怪物ってヤツが横槍入れてくるかも知んねぇし」

 

 ひひ、とイタズラっぽく笑い、未弧蔵は寝室へ消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝、二人はコンビニ弁当で朝食を取りながらネットで拾い集めた情報を熟読していた。

 本命の武装集団については全くと言っていいほど情報がなく、情報統制の気配を伺わせたのだが、ついでに調べた地下鉄の怪物については噂話程度のものではあるがかなりの量の話が転がっていた。愚にもつかない掲示板やオカルトまとめサイトを回って話を統合したところ、東京の地下に巣食う亜人の噂はかなり前からある事がわかった。話には尾ひれ尻ビレがついているものばかりだったが、どれもこれも赤い眼と猫背は共通していて、一太郎が目撃したモノを思わせる。この怪物は凶暴な性格で、猫や犬、ネズミを捕まえて貪り食うのだが、ホームレスが食われそうになったという話もある。目撃情報は初台駅を含めた地下鉄、下水道、大規模な工事現場、青山霊園に多い。他にある目撃情報も薄暗い場所ばかりで、決まって夕暮れか夜である。

 

「青山霊園の話は俺聞いた事あるわ」

「へえ?」

「あのヘンに住んでる廃品回収系自営業の人がたまに話してんだ。昔っからちらちら見かけたらしーけど、ここ数年急によく見るようになって、みんな不気味がって寝床変えたとか。そうか、地下鉄のヤツと同じヤツなのか」

「この手首から糸を出して夜のビル街を飛び回るって話は?」

「それニューヨーク在住のスパイダーな人だろ。デマだデマ」

 

 言いながらプリントアウトされた紙を並べていた未弧蔵は眉を潜めた。

 

「これ、最近になって急に噂増えてんな」

「ん? …………ああ、確かに。五、六ヶ月前ぐらいからか」

 

 言われて一太郎も情報の時期の偏りに気付いた。少し長めに半年前までの情報に絞って更に項目別に纏めてリストアップする。地図上に目撃地点の印をつけていくと、地下鉄と青山霊園に集中し、大規模な工事現場に幾つかにもパラパラと印がついた。

 

「で、これ何の意味があるんだ? 俺達が探してるのは怪物じゃねぇぞ」

「武装集団は怪物を追ってたんだろ。怪物を探し出せば武装集団とかち合う可能性は高い」

「あ、なるほどにゃあ。あったまいー」

「いやこれぐらいは気づけよ」

 

 作業をしている内に昼時になり、玄関のチャイムが鳴った。続いてノック四回。未弧蔵の知り合いが使う合図だ。

 未弧蔵は一度席を外し、すぐに薄汚い男を三人つれて戻ってきた。

 

「こんちは若旦那」

「お久しぶりっす。話があるそうで」

「あっしらで良けりゃ力になりますぜ」

 

 三人は食事をたかりに来たらしい。一太郎は良い情報か案を出せば風呂と酒も付けると請け合い、俄然やる気を出したホームレス達に事情を説明した。

 一通り話を聞いた三人は、最近同じような事を聞いて回っている探偵がいる、と言った。

 

「探偵?」

「そうです。宮本翠っつぅ、えれェ美人な嬢ちゃんでさあ。みーんな鼻の下伸ばしてペラペラ喋ってやんの」

「念のため聞きますけど、その探偵は銃を持ってたり武装してたりは」

「とんでもねえ! 手土産に日持ちする美味いモン持ってきて、話上手でさあ。ありゃ分かってる娘だな」

「二十後半くらいだったか?」

「結婚してんのかねぇ」

「そりゃあの器量よし、周りがほっとかねぇよ。俺ももう二十も若けりゃなぁ」

「やめとけやめとけ、奇跡で結婚できてもまた二週間で逃げられらあ」

「前の嫁の事は言うな!」

 

 話によれば、その探偵は人探しをしているらしい。

 

「姉だったかな。妹だったか。なんでもみ、宮本? 葵とかいう――――」

「え、マジかあの人行方不明?」

 

 雑炊を持って部屋に入ってきた未弧蔵が驚く。一太郎も思わぬ名前にメモを取る手が止まった。

 

「その宮本葵はムエタイをやってる?」

「ああ、そんな事言ってました。若旦那のお知り合いで?」

「友人です。そうか、あの人が消息を絶つような事件なのか……ヤバいな」

 

 そんじょそこらのヤクザなら一蹴できる葵が行方不明となると、穏やかな話ではない。事件との関連性ははっきりしないが、無関係とも思えない。銃を持った武装集団という話を聞いた時よりも現実的な驚異を突きつけられた気分だった。同時に心配でもある。武装集団にやられたのか、怪物にやられたのか。どちらがマシかは分からない。ただ、生きていて欲しい。仇討ちだけではない、引けない理由ができた。

 探偵が初台駅のあたりを調べに行くという話をしていた、という事を聞き、事情聴衆は終えた。ホームレスに約束通り食事と風呂と酒を出し、午後三時頃にホームレスを返した後、一太郎と未弧蔵は車で初台駅へ向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 初台駅のコインパーキングに車を止め、駅へ向かう。人ごみを歩きながら未弧蔵が聞く。

 

「計画は?」

「とりあえず下見だな」

「OK。っと、おい待てあれ宮本さんじゃね? 行方不明になってねぇ、あ、違った」

 

 未弧蔵に釣られて駅の入口を見ると、葵によく似た女性が四十代後半ぐらいのくたびれた灰色のスーツの男と話していた。二人が見ていたのに気付き、女性が目を向けてくる。男も顔を向けてきた。

 どちらからとも無く近づき、ぎこちなく挨拶を交わす。

 

「あー、探偵の宮本翠さん?」

 

 一太郎が尋ねると、女性は目を瞬かせた。一太郎の顔の火傷の跡をちらっと見て、サングラスと帽子でますます怪しさをました未弧蔵に目を移し、訝しげにする。

 

「そうですけど。すみません、どこかでお会いしました?」

「私達は葵さんの知り合いで――――」

「ああ! 妹が話していました。ひょっとして八坂さんと根津さん?」

「そうです。宮本さん……葵さんが行方不明になったという噂を聞いたのですが、本当ですか」

「そうなんです、五日前から音信不通で、家に行っても仕事場に行ってもいなくて、実家に連絡しても来てないって言うし、心配になって調べたらこの辺りで最後の目撃情報があったから。お二人も?」

「いえ、私達は別件ですが、もちろん葵さんの捜索にも手を貸しますよ」

「もしもーし」

 

 そこで黙って見ていた男が口を挟んできた。

 

「すみませんが私にも紹介いただけますかね」

「あ、はい。と言っても紹介できるほど深い知り合いではないですけど。えーと、こちら妹の友人の八坂さんと、根津さんです」

「八坂一太郎です」

「ども、根津っす」

 

 男は手馴れた仕草で警察手帳を出して見せながら、低いどっしりとした声で言った。

 

「公安の亀海(かめみ)です」

「え、公安って言っちゃっていいんすか」

「公安が名前を伏せて調査するというのはデマですよ」

 

 警察手帳には「亀海 左京」と書かれていた。まじまじと見てみるが、写真写りが悪いという事ぐらいしか分からない。

 

「亀海さんは大丈夫ですよ。仕事の関係で何度か協力した事ありますし、信頼できる人です」

 

 と、翠が保証した。

 

「公安の方がどうしてここに?」

 

 銃器を持ち、殺人をもみ消す権力がある、というのは公安も該当する。翠の保証ではシロと断定するには弱い。未弧蔵も警戒の目で見ている。

 

「それはもちろん仕事ですよ。詳しくは機密上言えませんがね、彼女の妹さんの件もどうやら関わっているようで。話を聞かせていただいていたところです。そういう二人は初台駅になんの御用で? 電車に乗ってぶらり旅ってぇ雰囲気ではなさそうですが」

「……地下鉄構内の発砲事件と、秘匿された殺人事件の調査に」

 

 一太郎が「透視」を使いながら言うと、左京のオーラが「発砲事件」の部分で揺れた。心当たりがあるようだ。

 

「それは物騒な話で。話を聞かせてもらえれば力になれますが」

「とか言って知られちゃマズイ事嗅ぎまわってるネズミから話引き出してひっそり始末すんじゃねーの? 同里の爺さんみたいによぉ」

「いやですねぇ、警察は公の下僕、公の下僕は市民の下僕、善良な市民様に悪いようにはしませんよ」

「本当に、やましい所は何もないと?」

「仕事柄隠し事があるのは否定しませんがね。私は勤続二十ウン年真面目に働いてきたくたびれたおっさんですよ。これからもそうです。おっさんが爺さんになるぐらいしか変わる予定はありません」

「嘘くせー」

「いや、根津、大丈夫だ」

 

 飄々としていた左京だが、「透視」と心理学的観察を駆使して感情を読んでいた一太郎にはシロである事が分かった。さしずめ発砲事件について調べている、といったところか。考えてみれば、銃器で怪物を追い回し、殺人を犯しておいてもみ消すような集団が非合法であれば、警察が動かないわけがない。警察の中でも公安が動いているという事は、警察内部でも武装集団について揉めているのか、内通者が疑われているのか。根は深そうだ。しかし公的権力側にその根を切ろうとする動きがあるのは救いだった。

 

 その後近くのファミリーレストランに移動してからの情報交換で、左京は自分の捜査目的は語らなかったが、一緒に捜査する事は否定しなかった。人が多い方がどちらにとっても便利だろう、との事である。警察はもっと頭が固いと思っていた一太郎は意外に思った。

 翠がこっそり囁いたところによると、左京は若い頃に無茶をして出世コースを外れ、公安の中でも閑職に回されているのだという。警察の中でも比較的異端な人物らしい。融通が利くのはありがたいが、少し不安になった。

 

「でも左京さんは葵と同じ人種だから。それだけでも頼りになるでしょ?」

「ゴリラ系すか?」

「葵見つけたら告げ口しとくね」

「ヤメテ!」

「冗談冗談。左京さんは空手やっててね、部署別の武道大会で毎回担ぎ出されるんだって。で、毎回優勝か準優勝っていう凄腕」

「え、左京さんもうけっこういい歳じゃないんすか」

「四十六か七だったかな」

「それで優勝かよ。ヒューッ!」

 

 未弧蔵と翠はさっそく砕けた話し方で雑談をしていた。誰とでも仲良くなる奴だ、と感心しながら、一太郎はミルクをたっぷり入れたコーヒーを啜った。

 四人はファミリーレストランで時間を潰し、駅が閉まる時間になってから初台駅に戻った。

 左京はシャッターを閉めていた駅員を捕まえ、警察手帳を出し、捜査を理由に構内を案内する事を要求した。しかし駅員はすげなく断った。ほとんど即答である。

 

「申し訳ありません、お通しするのは無理です」

「なぜですか?」

「なぜって、まあ危険ですし……」

「危険も何も、今からなら朝まで電車は通らないでしょう」

「いえ、あの、車両整備が」

「整備は車庫でやるもんでしょう。まさか走らせながら整備するとでも? それはそれで見てみたい気もしますがねぇ」

「と、とにかく今はまずいんです」

 

 しどろもどろである。はっきりしない口ぶりからして、事情も知らされないまま上から誰も入れるなとでも指示が出ているのかも知れない。らちがあかない。

 左京も一太郎と同じ考えだったのか、駅員を問い詰めながら後ろ手にちょいちょいと駅の構内を指さした。

 それを見た翠は足を忍ばせてそっと構内に降りて行き、一太郎も続く。未弧蔵はいつの間にか線路に降りて手招きしていた。

 線路に降りた一太郎が振り返ると、左京がまた後ろ手にハンドサインを送ってきた。指を三本立て、親指を立てる。その後に駅員の背中を押して去っていった。

 一太郎は声を潜めて二人に言った。

 

「三時間は稼いでくれるらしい。行こう」

「あのサインは三十分じゃねーの?」

「三十分なら指三本の後に丸作るだろ」

「にゃるほど」

 

 翠がペンライトを点け、線路沿いの側溝にある従業員通路を先導した。

 数分何事もなく歩くと、廃駅になったホーム――――旧初台駅に到着した。いかにも廃墟然としたガランとした場所で、地上への階段はコンクリートで塞がれ、駅名板や時刻表は取り外されている。その付近の壁の古びた色合いに一太郎は見覚えがあった。

 

「昨日の夜に怪物を見たのはこのあたりです。たぶん」

「じゃあこの辺りを探そうか。些細なものでもとりあえず確保して」

「了解です」

「りょ」

 

 三人はバラバラに探索を開始した。レール、壁、ホームの上と、しらみつぶしにつぶさに探す。

 一太郎は何も見つけられなかったが、辺り一帯に漂う腐った肉のような、獣臭いような酷い匂いが、昔魚流田の祟りの時に嗅いだ異臭に微妙に似ている事を思い出した。そっち系統の怪物が居た事に間違いはないだろう。

 

「薬莢みっけた。サビてねーし新しい奴じゃね」

 

 未弧蔵が目ざとく薬莢を拾って二人に見せたが、銃とは無縁の生活をしている一行にはそれが新しいのか古いのか、どんな銃の薬莢なのか、見当もつかなかった。地上に戻ったら左京に見せようという事でとりあえず未弧蔵がポケットに入れておく。

 翠はホーム周辺に薄らと残った奇妙な足跡を発見した。大きさや大雑把な形状こそ大人の裸足と似ているが、どれも奇妙に歪んでいて、人間のものではない事が見て取れる。同じあたりに堅い靴の足跡も幾つかあり、足跡の間隔、重なり方などから、翠は堅い靴が奇妙な裸足を追い回していたのだと推測した。

 

 更に手がかりは無いかとうろついていると、突如「動くな!」と暗がりから鋭く命じられた。

 思わぬ第三者の声にびくりとした三人が恐る恐る振り返ると、戦争映画でしか見たことが無いような砲身の長い銃を持ち、ヘルメット、暗視ゴーグル、都市迷彩の軍服で身を固めた兵士が数名、自分たちに銃口を向けていた。

 

「……自衛隊?」

「制服違う。在日米軍でもSATでもないね」

 

 ホールドアップして唇を動かさないようにして尋ねた一太郎に、同じく翠がひっそりと答えた。

 明らかに訓練された素早い動きで扇状に展開して包囲を固めた兵士達の中から、頬に傷のある、猟犬を思わせる隊長らしき男が進み出た。

 

「ここで何を「うらあ!」」

 

 台詞に被せて未弧蔵が飛び出し、傷の男に殴りかかった。一太郎は心臓が止まりそうになった。同里の仇あるいはその一味である事は確定的だが、武装した兵士を相手に短絡的過ぎる。

 やるか!? と体を緊張させたが、乱闘にはならなかった。傷の男はいとも容易く未弧蔵の拳を受け流すと、顎を掠めるようにカウンターを入れ、次の瞬間には地面に引き倒して背中を踏みつけていた。未弧蔵はビクンビクンと痙攣している。ノックアウトされたらしい。

 傷の男は未弧蔵の背中をぐりぐりと踏みにじりながらタバコを出し、口に咥えて火を点けた。

 

「全く礼儀のなってねぇガキだ……」

 

 人を踏んだまま悠々と紫煙を吐き出し一服する方も相当礼儀知らずだと思ったが、それを口にするほど命知らずではない。一太郎は他の兵士に銃を突きつけられ、壁に手を突かされ、抵抗せずに乱暴な身体検査を受けた。隣で翠も体を無遠慮にまさぐられ、背中にムカデを入れられたような顔をしている。

 

「隊長、全員人間です」

「ちっ、面白くもねぇ」

「隊長。こんなものが」

「ああ? ……回収しておけ」

 

 未弧蔵の身体検査をしていた兵士がポケットから薬莢を見つけ、隊長に伺いを立てる。隊長は面倒そうに言うと、タバコの火を一太郎の背中に押し付けて消した。

 

「いいか、ドブネズミども。命が惜しけりゃここで見たこと聞いた事、全て忘れてさっさと失せろ。ぺらぺら言いふらせば後悔する事になるぞ」

 

 隊長はドスの効いた低い声でそう脅すと、未弧蔵の顔に唾を吐きかけて去っていった。兵士達も最後に三人に銃を向け、それに追従して地下鉄の奥に消えていった。

 兵士達の姿が消え、足音が聞こえなくなってからも五分ほどその場で凍りついたように動けなかった翠と一太郎だが、未弧蔵のみじろぎと共に解凍された。無言で二人で未弧蔵を抱え起こし、肩を左右から支え、初台駅まで戻った。日本はいつからあんなチンピラまがいの男達が銃を片手にうろつく国になってしまったのか。

 

 初台駅の線路からホームによじ登る頃には、未弧蔵も目を覚ましていた。流石にカッとなって殴りかかったのは後悔しているようだったので、一太郎も何も言わない。

 うんざりした顔の駅員と不毛な問答をしていた左京と合流し、また近くのファミリーレストランに入る。店員はまた一瞬またこいつらはフリードリンクだけで三時間居座るつもりかというような嫌な顔をしたが、すぐに営業スマイルを浮かべて席に案内した。

 

 思い思いの飲み物を飲みながら、三人は左京に戦果を報告する。ついでに一太郎は三千円したYシャツの背中に焦げ穴ができているのを確認して暗い目になった。

 

「結局、その連中の所属は分からずじまいって訳かい?」

「薬莢があれば銃の種類から正体を辿れたと思うんですが」

「面目ねぇ、面目ねぇ」

「ふむ。翠君、覚えてないかな?」

「覚えてますよー」

 

 左京に話を振られると、翠は店のテーブルのアンケート用紙の裏にサラサラと薬莢のスケッチを始めた。ペンの運びに迷いがなく、細部まで線がはっきりしていて見やすい、相当な技量を感じる模写だ。

 

「すげっ! 絵ぇ上手いってか、よくこんな覚えてますね」

「記憶力には自信あるんだよね。模写は得意なんだけどそれしかできなくてね、美大出ても探偵に転職する事になったわけ。やってみたら合ってたし良いんだけどさ」

「似顔絵師とか儲かりそうじゃないっすか」

「デフォルメもできないんだよね、困った事に。あ、これ実寸大です」

 

 翠が描いた絵を左京に見せると、左京は少し記憶を探って言った。

 

「89式の……5.56mm、か?」

「いや疑問形で言われても。このメンバーで一番銃器に詳しいのは左京さんなんですから」

「その89式なんとかって言うのはどんな銃なんですか?」

「てか銃なん?」

「わかりやすく言えばアサルトライフルだ。少なくとも警察に配備されるシロモノじゃあない。最近の自衛隊や各国の軍隊が正式採用するようなものだ」

「あいつらは自衛隊なんて上品な感じはしませんでしたが」

「俺らが人間で面白くねーとか言ってたよな。ってぇ事は怪物の方が嬉しかったって事だ。あいつら怪物ハントでもしてるつもりだったのか?」

「猟犬みたいだったしね」

「どうあがいてもありゃクソ犬だけどな」

「ふむ」

 

 しばし沈黙が下りる。

 人間ではなく、怪物を狩猟しているというのなら、人間である一行にとって非難する理由はない。既に怪物由来の事件に巻き込まれた経験のある未弧蔵と一太郎にしてみれば、どんどんやっちゃって、といった心持ちだ。

 とはいえ一連の怪しい要素がある。同里老人を殺害して隠蔽したのがそれだし、とても正義側とは思えないような、未弧蔵の言葉を借りれば「クソ犬」めいた行動もそれだ。

 どう捉えたものかと悩む三人に、左京がこれは独り言だが、と前置きして言った。

 

「最近自衛隊内部に対都市テロ特殊部隊が秘密裏に設立されたらしい。一部の国会議員の手引きによるもので、既に何度か実戦経験もある、と。公安も調査に動き始めている……おっと今考え事がついうっかり口から漏れた気がするが、聞こえてしまったかな」

「聞こえてない」

「何か言ったの?」

「俺のログには何も無いな」

 

 三人が口々に白々しい台詞を返すと、左京は満足げにオレンジジュースをストローで啜った。

 

「よろしい。それはさておき、私としてはもう少し突っ込んだところまで調べ無いとデスクに戻れなくてねぇ。勤勉なおまわりさんを助けてくれる善意の民間協力者はどこかにいないものかな」

「左京さんよ、最近じゃ善意もギブ&テイクなんだぜ?」

「もちろん協力には相応の見返りは保証するさ」

「乗った。病院送りより豚箱送りのがダメージでかそうだ」

「ちょっと待って、ややこしくなってきたし一度まとめよ?」

 

 翠がペンの先で額を叩きながら言った。

 

「根津さんは同里さんの仇をとりたい」

「八坂さんは根津さんと同じ」

「亀海さんは自衛隊特殊部隊、違った、謎の武装集団にもっと探りを入れたい」

「三人は利害の一致で手を組む」

「それで私は葵を見つけたい……私だけ浮いてるんですけど。謎の武装集団も怪しいけど、どちらかっていうと怪物が攫ったセンの方が怪しいし」

 

 翠は葵が同里と同じように射殺・隠蔽された可能性は極力考えないようにしながら言った。

 一太郎が考えを纏めながらそれに答える。

 

「怪物の方を追うのは有効だと思います。武装集団は目撃されて即口封じに走るほど凶暴では無いようですが、控えめに言ってチンピラが銃持ってる感じでしたし、直接嗅ぎ回ると危険そうです。怪物を追うのも危険ですが、怪物は武装集団に追われているようです。敵の敵は味方理論で近づいて武装集団の情報を引き出すないしは共闘するというのも不可能ではないかと。翠さんにとっても怪物側を探るのは意に沿っているでしょう」

「なるほど。八坂君は折衷案を出すのが上手いな」

「恐縮です。問題は怪物に言葉が通じるかって所なんですけどね」

「それな。八坂は通じると思ってんの?」

「五分五分だな。俺が地下鉄で見た怪物の見た目は人間に近かったし、発声器官は似ていると思う。それに東京の地下で活動してるなら人間の言葉を学習していても不思議はない」

「通じなかったらどうするの?」

「襲われる前に逃げます」

「逃げ切れんのか?」

「それも五分五分」

「言葉通じなくて逃げ切れない可能性25%もあるじゃねーか」

「ふむ。私が近場の同僚に声をかけておこう。正直私は上司からいい目で見られていなくてね、あまり期待はしないでもらいたいが、個人的なツテで数人に近くで警邏してもらう程度はできるだろう。怪物とやらとの接触は初台駅で?」

「いえ……ここです」

 

 一太郎は懐から地図を出し、大量の印がつけられた青山霊園を指した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一度解散し、仮眠を取り、思い思いの準備をした四人は、翌日の深夜、怪物の目撃情報が一番多い時間帯に青山霊園前に集合した。

 青山霊園は青山墓地とも呼ばれ、都心のほぼ真ん中にある。六本木や南青山といった繁華街や高級住宅街からもほど近い、広大な都立共同墓地である。園内の65%が樹木で占められ、都心にぽっかりと浮かぶ緑の森を作っている。

 

 青山霊園の門は当然ながら閉まっていた。左京が門の横の管理人室をノックし、窓を開けて顔を出した管理人に警察手帳を見せながら声をかけた。

 

「こんばんは、どうも夜分遅くにすみませんね。公安の亀海と申します。詳しくは話せませんが、犯人がここに逃げ込んだかも知れないという話がありましてねぇ。入れてはくれませんかね? ああ、後ろは目撃者の方々です」

「はあ……そういう事なら構いませんが。園内は広いですし、こんな夜中ですと迷うかも知れませんよ。案内をつけましょうか」

「いえ、大丈夫です。その代わりに犯人が出てこないか見張っていて頂けると助かります。犯人も迷って途方に暮れているといいんですがねぇ」

 

 左京のとぼけた言葉に苦笑いしながら、管理人は門の鍵を開けてくれた。

 お気をつけて、という言葉を背中に受けながら、四人は難なく青山霊園に侵入を果たした。

 

 怪物に襲われた時のために、散開せずにまとまって行動する。月明かりに照らされた墓石と樹木に遮られて都会の喧騒は遠のき、木々のざわめきとひんやりとした冷気が体に染み込んでくる。別世界、とまではいえないが、別の国に来たようだった。

 

「……見られているな」

 

 しばらく辺りを見回しながら歩いていると、突然左京が呟いた。

 

「そっすね。都心でもフクロウなんているんすね。あ、もう一匹みっけ」

「いやフクロウじゃないでしょ。月と星に見られてる的な」

「翠さんまで何言ってるんですか。管理人がつけてきたんじゃないですか?」

「違う、そうじゃない」

 

 三人の的外れな返しに、左京はため息を吐いた。

 

「赤い眼が茂みの陰や墓石の合間を遠巻きに動き回ってこちらを伺っている。二十一……いや、また増えたな。二十二匹か」

「マジで?」

 

 改めて見回すと赤く光る眼に遠巻きに包囲されている事が分かった。しかも包囲網はじりじりと狭まっている。

 四人は足を止め、背中合わせに固まった。未弧蔵が魔法のナイフに手を伸ばし、翠は懐のスタンガンをいつでも抜けるように身構え、左京はポケットの中で携帯電話の短縮ダイヤルに指を置いた。

 一太郎はごくりと唾を飲み、声を張り上げた。

 

「我々に敵意は無い! 話がしたい! 言葉が分かるなら、代表者を前に出してくれ! ただしこちらを襲うなら抵抗する!」

 

 言葉を無視して、包囲網が更に狭まる。四人は、自分たちを囲む、犬に似た顔を持つ酷い猫背の亜人間達の姿を見た。爛々と光る数十個の赤い眼が、舐めまわすように四人を見ている。

 言葉が通じなかったか、と逃げの姿勢に入りかけたところで、亜人間達は動きを止め、群れのリーダー格と思しき一人の亜人間が進み出た。そして、きしるような耳障りな声ではあるが、明瞭な日本語で返答した。

 

「人間よ、我々も諸君らに話と、頼みがある……敵意は無い」

 

 リーダーが片手を上げると、亜人間達は少し距離をとった。怪物らしからぬ統率のとれた動きに唖然とする一同の前で、リーダーは悠然と墓石に腰掛けて話し始めた。

 

「私から話しても構わないかね? ……ありがとう。さて、早速だが、まずは本題の前に我々の正体と意図を正確に知ってもらいたい。

 我々は食屍鬼(グール)という。見ての通り人間ではない。しかし私も以前は諸君らと同じように、日の光のしたで暮らしていた事があるのだ。人間であった時の名は……そう、仮にキミタケとしておこうか。しかし人間としての死を迎えた後、幸か不幸かこのようにして地下でひっそり暮らす影の存在と成り果てた……ここにいる者の大半はそうだ」

 

 キミタケはその恐ろしい風貌とは裏腹に、非常に理知的に話した。会話のアドバンテージはとられてしまったが、興味をそそられる話でもある事だし、ひとまず話し終わるまで一太郎は口を挟まない事にした。キミタケは続けた。

 

「我々は東京の地底に棲み、闇に紛れて人間の死骸を貪り食う卑しい存在だ。しかし普通死体は火葬され、容易に骸は手に入らない。故に我々は自殺志願者の後を尾行し、最後の瞬間を待ち受けたり、それさえも困難ならばカラスや犬猫の死体で妥協している。諸君らは我々について不穏な情報を得ているだろう、しかし基本的に我々から生きている人間を襲って殺したりはしていない事は明言しておく」

「では最近、この子を攫った事は?」

 

 話の切れ目に、翠が葵の写真を出し、キミタケに見せた。キミタケは目を細めて写真を見たが、首を横に振る。

 

「いいや、そのような記憶はない。仮にその女性が自殺志願者であったとしても、同胞も近頃は人間の尾行をする余裕もないのだ。我々の仕業では無い」

「…………」

 

 翠の目線を受けて、一太郎は「透視」を使い、キミタケを観察した。

 キミタケのオーラは逆に気味が悪いほど禍々しさが薄く、人間のものと変わらなかった。キミタケが元々人間であったという事に説得力を感じる。翠が更に幾つか質問したが、キミタケのオーラと態度は終始落ち着いていて、犬めいた表情からも動揺は感じられない。嘘は言っていないらしい。一太郎は翠に頷いた。

 

「さて、ここからが本論だ」

 

 一通り翠の追求が終わると、キミタケは居住まいを正した。

 

「先程我々食屍鬼は東京の地底に棲むと言ったが、近年の地下開発以前より、東京には地下道や地下空洞がいくつもあったのだ。その最深部には廃墟と化した古代遺跡があり、我々はそこを根城としていた。ところが開発の手が伸びるにつれ根城も人間に発見され、我々は生活を変えざるを得なくなった。それのみならば時代の流れの一つであり、諸君らに今こうして語る事も無かったであろうが、ここ数ヶ月で事情が変わった。銃で武装した兵士が我々の掃討作戦を始めたのだ。彼らは明らかに我々の存在を認識し、我々の避けがたい習性についても熟知しているようなのだ。恐らくは、防衛省ないし政権上層部の地下開発計画に携わる人間が、我々食屍鬼の存在を知り、計画の邪魔に思い徹底的に殲滅しようと考えたのであろう。

 諸君らに頼みたい事とは、この兵士達を裏から操る首魁の討伐である」

 

「諸君らはこう考えているであろう。人間を害する事こそあれ、利する事無き食屍鬼に手を貸すのはむしろ利敵行為であると。その懸念を払拭するために、もう幾許かの時間を取らせてもらいたい。

 実は兵士達が我々を追い出し占拠し、不自然なまでの厳重な警備と管理を行っている場所というのが、尽く古代遺跡の跡地であるのだ。以前遺跡群の奇怪な文字や記号の解読を試みた事があるのだが、私見に依れば遺跡はどうやら『ヴァルーシアのヘビ人間』の神殿であるらしい。ヘビ人間とは人類以前に地上にはびこっていた、直立する爬虫類のような姿を持つ邪悪な神話的種族だ。彼らは人間のみならず我々食屍鬼でさえ想像も及ばないような邪悪な神性を崇拝していたという。

 単なる開発の過程で遺跡を見つけ、学術的探究心でもって確保したのならばまだしも、狙ったが如く邪悪なヘビ人間の神殿を抑えるとなれば、これは尋常ではない。我々を掃討し、遺跡を確保して回る兵士達の裏にいる者とは、もしやヘビ人間の末裔そのものなのではないか、と私は懸念する。

 人間に忘れ去られるほど衰退し、数を減らしたヘビ人間どもが、神殿を確保する事でかつての栄華を取り戻そうとしているのならば、人間、即ち諸君らにとっても決して良い結果とはならないであろう」

 

「……そのヘビ人間の末裔が日本政府の上層部に食い込んで兵士を操れるほどの魔術なり頭脳なりを持っているのなら、どうして今までそうしなかったんですか?」

 

 他の三人は話についていくのに精一杯だったが、最も神話的知識を持つ一太郎には質問する思考的余裕があった。

 一太郎の疑問を受け、キミタケが答える。

 

「衰退しきり、退化したヘビ人間の中には、時折先祖返りを起こす者がいるのだ。そうした先祖返りは毒液を分泌し、人心を操る事を得意とするという。そちらのお嬢さんの探し人も、ヘビ人間に操られているか、捉えられ奴らの毒薬の被験者となっているのやも知れん」

 

「兵士の手に落ちていない神殿は、もはや一ヶ所、初台駅深部の遺跡のみ。それらも数日のうちには敵の手に渡るだろう。我々は既にだいぶ仲間を減らしてしまった。無論、最後まで戦いはするが、破滅は時間の問題だ。そこで恥を忍んで諸君らに頼む。我々が時間を稼いでいる間に、恐らくは敵の背後にいるヘビ人間の目論見を暴き、その陰謀を挫いてはくれないか?」

 

 語るべき事を語り尽くしたキミタケは、口をつぐみ、四人をじっと見つめた。

 

 キミタケの話は筋が通っているが、鵜呑みにする訳にもいかない。言葉以外にはっきりとした証拠は無いのだ。ヘビ人間の実在も定かではないし、仮に実在しているとしても、ヘビ人間ではなく食屍鬼こそが神殿を確保し人類を陥れようとしている真に邪悪な存在で、一太郎達を唆し、正義側のヘビ人間の組織を排除しようとしているのかも知れない。旧初台駅で遭遇した兵士を思えば、確かに正義側であるとは思えないが、どのような組織にもはみ出し者や粗野なはぐれ者はいるものだ。

 よしんばキミタケが嘘をついていないにしても、邪推が過ぎただけで、ヘビ人間は強引な手段に訴えてでも故郷の神殿に帰り、ひっそり暮らしたいだけ、というオチも有り得る。

 

 四人の躊躇と懐疑を見透かしたキミタケは、墓石から重々しく腰を上げた。

 

「諸君らの迷いは当然だ。だが、覚えておきたまえ。我々が滅んだ後は、必ず諸君ら人間の番だ。その時、東京の繁栄は終わるだろう……」

 

 不吉な言葉を残し、キミタケは他の食屍鬼を伴い、暗がりへ溶けるように去っていった。

 食屍鬼の足音と漂っていた腐臭が消え、いつの間にか消えていた虫の音が戻る。一太郎は左京に聞いた。

 

「……キミタケの話を信じるなら、随分と大事のようですが。左京さん、上に掛け合ってどうにかできないんすか?」

「それなんだがね」

 

 と、左京はタバコを咥え、火をつけながら言った。

 

「実は今夜ここに来る前に、上司にこの件はこれ以上調べるな、と釘を刺されていてねぇ」

「え?」

「は?」

「わっつ?」

「いやはや、予想以上に根の深い問題のようだね。援軍を呼ぶどころか、いつの間にか味方が敵に回っていたよ、はっはっは」

 

 笑い事ではないが、笑うしかないといった風に左京は口の端を歪めた。

 

「これから先、警察のバックアップは期待しないで欲しい。これからキミタケ氏の情報の裏取りはするが、上司の変節と合致するキミタケ氏の話の信憑性は高いと私は考える。個人の手には余る、都市、ひいては国家の存続を左右しかねん大事ではあるが、それだけに私はこの事件を降りるつもりはない。ここまで手伝ってもらっておいてすまないが、君達はほどほどの所で手を引く事を薦めるよ」

 

 そう言って左京は踵を返し、元来た道を戻っていく。三人も頭を悩ませながら重い足取りでそれに続いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 衝撃的な邂逅から夜が明け、四人は一度解散し、それぞれのツテでキミタケの話の裏を取っていた。ただし未弧蔵は食屍鬼の思惑に関係なく食屍鬼側について武装集団に一泡吹かせるつもりなので、特に調査はせずに自分の部屋で爆睡している。

 

 一太郎は「エイボンの書」にキミタケの話に似た記述があった事を思い出し、ページを捲っていた。

 ラテン語辞書を片手に午前中いっぱいをかけて調べたところ、肝心な所は破損していて読めなかったが、確かに過去にヘビ人間という種族が存在し、その興亡に一国を容易く滅ぼしうる邪悪な神性が関係していた事に間違いはない事が分かった。キミタケの話の裏付けになる。少なくとも嘘八百で一太郎達を煙に巻こうとしているわけではないらしい。

 

 昼頃になると、一太郎の携帯電話に翠から、次いで左京から裏取りの結果報告が入り、情報を共有した。

 

 翠の調査によると、最近の東京地下開発に関わった工事現場作業員は、作業中に突然ぽっかりと謎の地下空洞が現れた事があると証言した。そこには石造りの神殿のようなものがあり、文字とも絵ともつかないレリーフのようなものが刻まれていたらしい。それから半日もしない内に、政府関係者を名乗る男が武装した自衛隊らしい隊員を連れて現れ、辺りを封鎖。以後、なんの音沙汰も無いという。翠が旧初台駅で会った武装集団の絵を描いて見せると、同じ集団だとの証言も取れた。

 

 左京は武装集団について調べたのだが、その名前は《シールド》というらしい。防衛大臣補佐官の増山敬一郎という人物が設立した、半分私兵じみた対テロ特殊部隊だという。増山は左翼グループと繋がりが強い過激派として省内では有名である。

 ヘビ人間の気配は無いかと増山の交友関係を調べたところ、「木曜会」という政治サークルに最近出入りしている事が分かった。出入りが始まった時期は、ほぼ《シールド》設立時期と重なる。それ以上の事は調査中である。

 

 《シールド》とヘビ人間側の調査は翠と左京に任せ、一太郎は食屍鬼側を探る事にした。《シールド》とヘビ人間を相手取る事に決まったとしても、食屍鬼を信用してよいか分からない。最悪、《シールド》、ヘビ人間、食屍鬼の全てを相手に無謀な戦いをする事も視野に入れなければならない。いよいよ不味くなったら東京の外に逃げる手もあるが、日本の中核たる東京が破滅すれば、どこにいてもいずれ同じ結末を辿るだろう。

 一太郎は惰眠を貪っていた未弧蔵叩き起こし、再度青山霊園へ向かった。

 

 青山霊園は食屍鬼の根城になっているが、ほんの少し前まではホームレスの格好のねぐらでもあった。双方、接点は多かったはずだ。昨夜、食屍鬼が四人の前でお行儀よく取り繕っていたとしても、長年間近で生活してきたホームレスの証言ならば本性を暴く事ができる。

 たっぷり眠って活力が有り余っている未弧蔵は、青山霊園周辺のホームレスに声をかけて周り、最も食屍鬼について詳しいホームレスを呼んできてもらった。

 

 二人は、薄汚れた髭を伸ばしたホームレスが連れてきた件のホームレスと、青山霊園近くの路地裏で会った。

 

「こいつが?」

「へえ、そうですが。何か?」

「……幼女じゃん」

 

 二人の前にいるのは紛れもなく幼女だった。汚れて変色した灰色の布切れを身にまとい、子供らしからぬスレた眼に警戒を隠そうともしていない。七歳ぐらいだろうか、顔には痛々しい火傷の痕がある。細かい傷の目立つ裸足が、幼女が家出少女ではなくホームレスである事を物語っていた。

 幼女はじろじろと二人を見ていたが、一太郎の顔の火傷を見つけると、とことこと歩いてきて、一太郎の袖を掴み、黙って顔を見上げた。

 

「あー、こんにちは」

「……こんにちは」

 

 一太郎が困惑しながら挨拶すると、幼女はぎこちなく返した。目線は火傷から離さない。醜い火傷のせいで、子供に近寄られた経験の無い一太郎は途方に暮れた。

 

「根津、なんとかしてくれ」

「いいぜ。よーしお姫様、お兄さんとお話しようか。いいものあげるから」

「…………」

 

 未弧蔵がしゃがんで目線を合わせ、飴を出して誘拐犯のような台詞を吐くと、幼女はさっと一太郎の後ろに隠れた。

 

「八坂がいいってよ、このロリコン」

「冤罪だ」

 

 一太郎が抗議したが、未弧蔵はニヤニヤ笑うと、幼女を連れてきたホームレスと肩を組んで去っていった。二人だけが取り残される。

 一太郎がため息を吐いて転がっていたビールケースに腰掛けると、幼女が膝に登って火傷の痕を触ってきた。したいようにさせながら話し始める。

 

「君の名前は?」

「れん。お兄さんも、いえ、もえたの」

「ああ、まあね。れん……ちゃんと同じぐらいの時にね」

「れんでいい。みんなそういう」

「そっか。そのみんなっていうのは食屍鬼(グール)の事かな、ホームレスの人の事かな」

 

 レンは火傷の痕を触る手を止め、じっと一太郎の眼を見つめた。

 

「ぐーるの人たちのこと。キミタケおじさん、トミタケおじさん、とたけけおじさん」

「キミタケおじさん、か。食屍鬼の人たちといつもどんな事してるのかな」

「んー……キミタケおじさんに、こくごとか、さんすうとか、おしえてもらってる。わたしくらいの子は、べんきょうしないとだめなんだって。これ、キミタケおじさんにもらったの。もじはちゃんとかけるようにって」

 

 レンは服のポケットから一本の古い万年筆を取り出した。掠れた文字で「平岡 公威」と印字してある。

 レンは足をぶらぶらさせ、その万年筆を見ながら寂しそうに言った。

 

「でも、さいきん、みんないそがしそう。キミタケおじさん、わたしはにげろって。ずっとずっと、とおくに。こわいこと、おこるから」

「…………」

 

 レンがこの言葉をキミタケに言わされているとしたら、人類史上最高の役者だろう。幼女好きに悪い奴はいない、などと嘯くつもりはないが、一太郎達をハメて人間を陥れようとするような者が、ホームレスの少女に時間を割いて勉強を教えるとも思えない。悪人どころか、人間の中でも珍しい善人だった。

 疑って悪かった、と一太郎は心の中でキミタケに謝った。

 

「ねえ、お兄さん、キミタケおじさんのともだち?」

「……ああ」

「おじさんをたすけてあげて」

「ああ。もちろんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから二日かけて、更に情報が集まった。

 レンの万年筆に印字されていた「平岡 公威」という名前を調べたところ、昭和の小説家・劇作家である「三島由紀夫」が該当した。一太郎も名前ぐらいは知っている有名人だ。平岡公威は三島由紀夫の本名である。彼は1970年に自衛隊基地内でクーデターを呼びかけた挙句、これに失敗。愛刀で割腹自殺を遂げた。三島は生前「楯の会」という思想民兵組織を率い、日本を改革し、天皇を中心とした理想社会を目指していたらしい。「楯の会」という名前は《シールド》と通じる部分がある。

 三島由紀夫=平岡公威=食屍鬼のキミタケで間違いない。

 

 三島も右翼の人間だったはずだが、同じ右翼の増山率いる《シールド》と断固とした対決の姿勢を見せているのは、ヘビ人間云々以外にも何か因縁でもあるのだろう。三島は生前各界著名人と広い交流のある社交家であり、論客でもあった。死後まで抱えていくような因縁ぐらい山ほどあるに違いない。

 

 左京は幾つか危ない橋を渡ったようで、「木曜会」についての追加情報を仕入れていた。 

 《シールド》の設立者である増山が近頃出入りしているという政治サークル「木曜会」だが、そのメンバーは「突然、それまでとは政治信条が変わったような行動をとる」事があるらしい。キミタケが話していた、ヘビ人間の人心を操る能力を匂わせる話だ。

 その木曜会のメンバーは「白蛇の家」という宗教団体のビルに、毎週木曜日に定期的に通っているという。

 

 翠は知り合いの弁護士に頼み込み、「白蛇の家」の宗教法人の資料を調べて送ってもらった。

 それによると、「白蛇の家」は都内に本拠地を持つ神道系の新興宗教団体で、「いきがみさま」と呼ばれる教祖を頂点に据えている。教祖は若い頃に「白蛇さま」という神性が憑依するという神秘体験をした事があり、類稀なる奇跡の力を持つらしい。入信者は週に一度木曜日の夜に開かれる定例会に必ず参加する義務がある。その時、なんらかの宗教儀式が行われるらしい。

 ……真っ黒である。儀式のついでに一服盛るなり催眠術をかけるなりしているに違いない。白蛇の家という名称からも、ヘビ人間の関与が色濃く疑われる。

 

 裏付けが取れた一同は、再び深夜に青山霊園に侵入した。キミタケはヘビ人間の野望が達成されるまでの猶予は残り少ないと言っていた。敵の本拠地も白蛇の家でほぼ確定した以上、あまりちんたらしていると食屍鬼が《シールド》に敗北し、東京がヘビ人間の天下になってしまう。食屍鬼と手を組めるのなら、早急に手を組んで事態の打開を図らなければならない。

 

「人間よ、答えは出たのか」

 

 キミタケは三日前と同じように食屍鬼を引き連れて現れたが、食屍鬼の数は半減し、十体足らずになっていた。残る食屍鬼の体にはちらほらと銃創らしき傷が見える。

 前に出たキミタケに応え、一太郎も四人の代表として一歩前に出た。

 

「はい。我々はあなた方と共闘します」

「それは重畳。しかし本当に良いのだね?」

「全て覚悟の上です。それにあなたを助けて欲しいと頼まれているので」

「……なるほど、レンに会ったのか。君に懐いただろう?」

「やはり火傷が理由ですか。あの子も火事に?」

「うむ。二年ほど前に大火災に巻き込まれてね。何か魔術的な素養があったようで、火傷を負うだけで生還したのだ。不気味がった親類に施設に入れられたが、火傷が原因で他の子供に虐げられ、逃げ出したと聞く。人間不信でね、ホームレスの仲間では無くよりにもよって我々に好んで近寄るものだから、今まで世話をしていたが……事が終わった暁には、私は地下に隠棲するつもりだ。重ね重ねすまないが、レンが人の世で暮らせるよう取り計らって欲しい。その方が幸せだろう」

「……配慮しましょう。それで、これからの計画などは?」

 

 一太郎が尋ねると、キミタケは首を横に振った。

 

「情けないが、遺跡の防衛に手一杯でね。とてもではないが調査や計画を練る余裕はなかったのだ。だからこそ諸君らの力を借りる事になったのだが」

「それなら私に案があります」

「ふむ。是非聞かせて欲しい」

 

 一太郎はキミタケに練ってきた計画を語った。

 元凶が先祖返りをしたヘビ人間ならば、そいつを始末すれば事態は収束する。一応確認すると、二匹も三匹も先祖返りした強力なヘビ人間がいる事はないだろう、とキミタケは請け合った。

 定例会のある木曜日ならば、教祖である先祖返りのヘビ人間、「いきがみさま」は間違いなく白蛇の家のビル――――白蛇ビルにいるだろう。それに合わせて襲撃する。できれば潜入が望ましい。

 情報解析役の一太郎と、戦闘役の左京は「いきがみさま」の討伐を担当。

 未弧蔵は、《シールド》が白蛇ビルの警護に就いていた場合、これに対処。

 翠はビルの内部を探索し、万一「いきがみさま」を逃した場合に勢力を失脚させる証拠を掴むと共に、捕らえられているかも知れない妹を探す。

 食屍鬼には付近で騒ぎを起こし、陽動を任せる。

 現在は水曜日なので、襲撃は約24時間後になる。

 

 以上のような作戦を語ると、キミタケは白蛇ビルへの侵入経路について意見を述べた。

 

「白蛇ビルであれば、ビルの地下に通じる排水溝がある。そこを通り、内部に侵入すると良い。案内をつけよう。陽動は……そうだな、同胞を二人向かわせよう。騒ぎに乗じると良い」

「ありがとうございます。一応キミタケさん達にも「いきがみさま」の写真は渡しておきます。隙があれば殺ってしまって下さい」

「心得た」

 

 翠は食屍鬼達に宗教法人の資料から引っ張ってきた写真を渡した。写っているのは三十歳ほどに見える日本人女性だ。正体はヘビ人間だというが、特に爬虫類的特徴は見られない。

 

「ヘビ人間って割には人間そっくりなんですよね」

「いや、ヘビ人間は人間に擬態する機能のある衣……服を着ているのだ。衣に傷をつければヘビの正体を表すだろう」

「あ、なるほどそういう感じなんだ」

 

 それからしばらく計画をつめ、襲撃に向けて英気を養うべく解散の運びとなった。去り際にキミタケが放った「お互い生きて帰れる事を祈る」という言葉がかえって不安を煽った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 決戦の一時間前、一太郎は屋敷の居間のソファーに深々と身をもたせかけ、鉄製のダガーを手の中で弄んでいた。未弧蔵が買っていた骨董品のダガーで、《空鬼の召喚/従属》使用の媒介に使うものだ。一太郎が習得している魔術である《空鬼の召喚/従属》は、次元を移動できる怪物を召喚し、一つだけ命令を実行させる事ができる。ただし詠唱後数分~十数分後に現れるため、一秒を争うような危機に陥ってから喚んだのでは間に合わない。

 魚流田事件や韮崎事件と違い、今回は解決に失敗すれば大災害になる。出し惜しみはできない。使ったほうが良い状況では躊躇せず使う決意を固めていた。ただでさえヘビ人間、食屍鬼、人間の混戦になっている更に怪物を投入する事になるが、制御できれば心強い戦力になるだろう。

 未弧蔵も魔法のナイフを磨き、腰にスパナをぶら下げている。他にもピッキングツール、ガムテープ、ICレコーダーなど小細工道具をポーチに詰め込んでいた。未弧蔵流の本気である。

 

「行くか」

「っし!」

 

 時間になり、二人は覚悟を決めて合流地点に向かった。

 合流地点――――白蛇ビルから少し離れた、人気のない路地裏のマンホールの前では、既に左京と翠、一匹の食屍鬼が待っていた。ちなみにこの食屍鬼はトミタケといい、生前はフリーのカメラマンだったらしい。

 

「行クぞ」

 

 四人が揃うと、トミタケは耳障りな喋り方で言い、マンホールの蓋をずらしてするりと中に入っていった。

 トミタケに続いて下水道を進む一太郎は酷い悪臭に鼻をつまんだ。足元には汚水が流れ、明かり一つ無い。歩いているうちに、映画でよくあるように背後の濁った汚水から何か名状し難い怪物が体を伸び上がらせるのではないかという妄想に囚われたが、そういう事をしそうな怪物は今目の前で懐中電灯を手に道案内をしている。ホラーもクソもない。

 

 数分も歩くと、目的地に着いた。食屍鬼がはしごを上り、頭上の蓋をそっと開けて外の様子を伺ったが、ケホケホとむせながらすぐに蓋を閉めて降りてきた。

 

「すまナい、こコから先にハ同行できないよウだ。何カ、我々を苦シめる香いが充満しテいる。人間には害は無さそうだガ」

「対策取られてんじゃねーか。まあそりゃ食屍鬼相手取るならメタ張るよな」

「……それでは表の陽動役の食屍鬼も突入できないという事かね?」

「恐らク」

「OK、任せてくれ。空鬼を召喚して陽動させる」

 

 あっさりとラストウェポン発動に踏み切った一太郎に、未弧蔵は目を剥いた。

 

「マジかよ躊躇いねーな。他の手ねーの?」

「考えている時間が惜しい。定例会の時刻が過ぎれば「いきがみさま」を逃すかも知れない」

 

 一太郎は呪文を詠唱し、手のひらに掲げ持った鉄製のダガーに魔力を込めた。すぐに呪文に呼応し、近いようで遠い、人間の空間認識能力を超越した多次元の角度とも言うべき形容し難い彼方から空鬼が近づいてくるのが感じ取れた。

 

「空鬼ってのもどうせ気っ色悪い怪物なんだろ? あんま見たくねーなぁ」

「ふむ。決戦の前に怪物を見て神経をすり減らす事もないだろうね。八坂君、すまないが少し離れたところに喚んでくれないかね」

「もう喚んじゃいましたけど。まあ少し位置をずらすぐらいなら……向こうでやってきます」

 

 数分後、一太郎他の三人とトミタケから離れた下水道の暗がりで空鬼を喚びだした。

 召喚主であり、「透視」も使っていた一太郎には、微かな輪郭の瞬きと共に虚空から滲み出るように現れた空鬼の姿がはっきりと見えた。

 その下水道の天井に届こうかという巨体は猿に似ているが、関節や骨格には昆虫のような特徴もある。体の皮膚はだらしなく垂れ下がり、頭には鍾乳洞や深海に棲む生き物のように退化した目の痕跡と口だけしかない頭はゆらゆらと左右に揺れていた。だらりと垂れ下がった長い前脚の手についた残忍な鉤爪が、隙あらば一太郎を切り裂こうとしているようにすり合わされカチカチと音を鳴らしている。

 この召喚術を習得する際に読んだ記述によって特徴を既に知っていた一太郎は、実際に目にしても自分でも驚くほど恐怖を感じなかった。幸いな事に、知識がそのまま感覚として理解できていたようで、取り乱す事なく冷静に命令を下す事ができた。

 

「この上にあるビルに侵入し、できるだけ大きな騒ぎを起こせ。人間は可能な限り殺すな。死ぬまで……いや、死にそうになったら元の世界に退却しろ」

 

 死ぬまで陽動を続けろ、と言いかけた瞬間に強い抵抗の意思を感じたため、言い換えて命令をした。空鬼は受諾したような意思を発し、またチカチカと瞬いて消えた。

 ほっとため息を吐く。空鬼の抵抗の意思をねじ伏せて無理やり命令を聞かせる事も不可能ではなさそうだったが、無駄に危ない橋は渡りたくなかった。怪物と言っても、死ねば死体は残る。前向きに考えるなら、殺されて死体を残すより、死ぬ前に退却した方が、またいつ襲われるか、という警戒心を与えられ、陽動の効果は長く続くだろう。

 

 一太郎は三人とトミタケの前に戻り、陽動を始めた事を告げる。未弧蔵が一太郎にサムズアップしてはしごに手をかけると、未弧蔵の手に左京が手を重ねて言った。

 

「ここからはこれまでより段違いに深刻な命の危機に晒される。一般市民は警官に任せて引くのが賢明ではないかね? 君達は私が死……行動不能になった場合のバックアップとして待機していてくれると助かるんだがね」

「八坂、今何か聞こえたか?」

「聞こえてない」

「私のログには何もないね」

 

 ひよった事を言い出した左京を置いて、未弧蔵、一太郎、翠はひょいひょいとはしごを登って地下水道の外に出た。左京は苦笑いして肩をすくめ、それに続いた。ここまで来て引くわけが無い。

 四人が地上に上がったのを確認したトミタケは、ひっそりと暗がりに溶け込み、脱出路の確保のために待機した。

 

 床の排水用マンホールから出た四人は、そこがボイラー室である事に気付いた。低い腹に響く音を断続的に立てる太い配管と機械が並んでいる。この騒音ならばマンホールから出た時の物音は紛れて聞こえなかっただろう。

 

「まず全員固まって動きましょう。陽動がどの程度効いているか次第でその後バラけるか固まったままか決めます。最悪陽動が見破られていた場合撤退も視野に入れるのでそのつもりで」

 

 年齢と立場からすると左京が指揮に回るのが妥当だが、一太郎が指示をするのを誰もがすんなりと受け入れていた。体は弱いが、頭の回転が早く、怪異の知識の豊富な一太郎は最もこういう状況に強い。

 ボイラー室から廊下に出ると、そこは無人だった。すぐ近くの壁に「B1F」とあったので、地下一階らしい。遠巻きにビルの外観を見た限りでは四階建てだったが、地下があったようだ。廊下には人っ子一人、ヘビの子一匹いない。機械の稼動音の煩いボイラー室から出た未弧蔵が耳を澄ませると、微かに階上から人の叫び声や発砲音、破壊音が聞こえてきた。

 

「やってるやってる、上で暴れてるみたいだ。これもう陽動効いてるって考えていいだろ。どうする八坂、バラけるか?」

「そうしよう。ただし流石にビルの間取りも敵の配置も分からないのに単独行動はまずそうだから、翠さんと根津、俺と左京さんで」

「分かった」

「よろしく、八坂君」

 

 地下一階にはボイラー室以外に部屋が四つあった。部屋にプレートはかけられておらず、どれが何の部屋か分からないので、適当に入ってみるしかない。

 一太郎と左京が入った部屋には、壁一面に本棚があり、カビ臭い本がぎっしりと詰まっていた。本の背表紙に書かれたタイトルの大半はなんとなく見覚えはあるがどこの国の言葉か思い出せない言語で、パッと見渡しただけではどんなジャンルの図書が集められているのか分からない。

 

「資料室か。興味深いが、本の裏に「いきがみさま」が隠れているわけでもないようだね」

 

 左京が床に積まれた本を捲って下を見ながら冗談めかして言う。一太郎は頷きながら、念のため「透視」を使って本棚を見回した。一太郎がかつて発見した魔道書「エイボンの書」は、微弱なオーラを纏っていた。ここがヘビ人間の書庫ならば、魔道書の一冊や二冊あるかも知れない。

 果たして推測は当たり、本棚の二箇所に弱いオーラが視えた。オーラを発していた二冊の本を抜き取り、タイトルをチラ見して懐にしまう。一冊は驚いた事に、一太郎の持っている「エイボンの書」だった。ただし、破損が無く保存状態が良好である。もう一冊は「Cultes des Goules」という本だった。英語では無さそうだが、「カルト」「グール」はなんとなく読み取れた。恐らくヘビ人間はこの本で食屍鬼(グール)について調べ、情報を《シールド》に流していたのだろう。

 

 さらりと火事場泥棒をした一太郎を咎める事なく、左京は次の部屋に向かった。

 二つ目の部屋を開けると、そこには二体の直立した人間大のヘビが服を着て、作業台の上でフラスコを揺らしたり天秤で粉末を軽量したりしていた。

 ドアを開ける音に振り返ったヘビ人間が、鱗に覆われた顔を驚愕に歪め、縦長の瞳孔を見開いた。

 

 話には聞いていても、実際に見るヘビ人間は部屋に漂う爬虫類独特の生臭さ、CGや着ぐるみとは決定的に異なる生々しい生物感があり、一太郎と左京も生理的嫌悪を抑えられなかった。とはいえ突然現れた予期せぬ人間に動揺しているヘビ人間に比べれば、ある程度気構えができていた二人の方が立ち直りが早い。

 

「は!」

 

 声だけで叩きのめすような気合一声と共に、素早く踏み込んだ左京の前蹴りが右のヘビ人間の腹に突き刺さる。鱗と細い骨が何十本と割れる音がして、ヘビ人間は赤い血を吐き出しながら吹き飛び、壁に叩きつけられた。壁に血痕をつけながらずるずると床に落ち、動かなくなる。

 一撃死した仲間に理解が追いついていない左のヘビ人間に一太郎が殴りかかる。が、顔を力いっぱい殴り飛ばしはしたものの、堅い鱗に阻まれて軽くよろめかせる事しかできなかった。

 殴られてようやく事態を飲み込んだのか、ヘビ人間は長い舌を動かし擦過音を出しながら慌てて逃げようとする。ヘビ人間の衣が薄く発光し、ホログラムを纏うように人間の姿に切り替わった。

 逃げるヘビ人間は出口を塞ぐ一太郎を突き飛ばそうとしたが、横から左京の強烈な前蹴りを喰らい、仲間の死に様を繰り返すように血を噴き出し壁に叩きつけられて死んだ。一太郎は小さく口笛を吹いた。流石は肉体派現職警官。強い。

 残心を終えた左京は首をかしげる。

 

「弱いな。怪物的な見た目は見かけ倒しか」

「左京さんが強いんです。それに衰退して退化してるって話ですし、奇襲でしたから」

「念のため聞いておくが、この二体のどちらかが「いきがみさま」だとは?」

「考えられません。想定通りなら、今「いきがみさま」は定例の儀式の最中に空鬼の襲撃を受けて対応に追われているはず。こんなところで呑気にフラスコを揺らしているわけがない」

 

 どうやらヘビ人間の調合室だったらしい部屋は、吹き飛んだヘビ人間が棚や作業机を巻き込んだせいで薬の瓶や試験管が割れて散乱し、酷い有様になっている。部屋にいたヘビ人間は二体だけで、何か有用なものを探せるような状態でもない。二人は割れてこぼれた薬品から何か有害なガスでも発生するかも知れないと危惧し、さっさと部屋を出てドアを閉めた。

 ドアを閉めて振り返った二人は、廊下を挟んだ反対側の部屋のドアから頭を出し、不思議そうな顔できょろきょろしているヘビ人間と目が合った。

 

 今度のヘビ人間は理解が早かった。すぐさま口をすぼめて舌を出し、仲間に警告を発しようとする。 

 しかし一太郎は慌てず、ヘビ人間から視線を横にずらし、親指を立てて握った手を下に向けた。

 

「おら!」

「 」

 

 ちょうどヘビ人間の死角にいた未弧蔵が蹴り飛ばしたドアに首を挟まれたヘビ人間は声にならない声を上げ、その場に崩れ落ちた。

 痙攣するヘビ人間を念入りに踏み越えながら、翠が未弧蔵にハイタッチして部屋の中に入っていく。三人もそれに続こうとして、中から翠の制止を受けた。

 

「三人ともストップ!」

「罠か!? 任せろ今助ける!」

 

 中に飛び込もうとした未弧蔵に、翠が内側からドアを押さえながら急いで言う。

 

「違う違う! 葵がいたの! でもね、なんていうか、社会的じゃない格好っていうか、シャワースタイルっていうか。何か着せるからちょっと待って」

 

 やっぱり飛び込もうとした未弧蔵を、一太郎と左京は左右から掴んでドアの前から引き離した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数分後、翠の許可が出たので三人も入室した。

 部屋の中には一辺が数メートルもある分厚いガラスのケースが幾つかあり、その内一つに大穴が空いていた。大穴を開けるのに使ったらしい椅子が横倒しになって転がり、翠のコートを着た葵がやつれ果てた顔で壁にもたれかかっている。腕には何箇所も真新しい注射の跡があった。

 

「良かった、葵さん無事だったか! いやあんま無事って感じじゃねーけど生きてて良かったぜ!」

 

 未弧蔵が駆け寄っても、葵は虚ろな目で弱々しく見返すばかりだ。ゴリラというよりも手乗り猿だった。

 翠は反応が薄くなすがままの葵を苦労して背負い、三人にすまなそうに頭を下げた。

 

「ごめん、私はここで抜けるね。葵をここに置いていけない。病院に連れて行かないと」

「謝らなくてもいいですよ。早く病院へ」

「ここで引き止めるほど鬼畜じゃあないよ」

「後は男共に任せろーバリバリ」

「……ありがとう」

 

 最後にもう一度頭を下げ、翠は葵と共にボイラー室に戻っていった。

 それを見送った未弧蔵は、耳を澄ませて階上の音を探る。破壊音は侵入直後よりも散発的になっていた。もたもたし過ぎたかも知れない。

 

「ヘイボーイズ、ちょっと急ごうぜ。陽動効果切れそうだ」

「B1Fは全て調べた事だ、そろそろ上に上がろう」

「了解です」

 

 一太郎は部屋を出る前に、ふと思ってガラスケース脇のサイドテーブルに並べられていた数本の薬瓶をまとめてポケットに突っ込んだ。毒の扱いに優れたヘビ人間のものなのだから、どうせロクなものではないだろうが、後々役立つかも知れない。

 悪党の物とはいえ、強盗に躊躇いがわかないあたり根津に染められてきたかな、と軽く落ち込みながら、左京に続いてエレベーターに入る。エレベーターには親切にも白蛇ビルの見取り図があった。ざっと見た左京が眉を潜める。

 

「怪しいのは2Fの修練場だが……4Fの地図がないな。エレベーターのボタンも3Fまでしかない。このビルは地上四階建てだと思っていたんだがね」

「3Fから上に繋がる階段描いてありますよ。修練場よりこっちが怪しいと思います」

「ふむ。二手に別れると1、2か。陽動が切れかけているなら単独行動は危険だろう。どちらかに絞った方が良いな。多数決をとろう、「いきがみさま」が修練場にいると思う者」

 

 誰も手を上げない。左京はナイスチームワーク、と呟き、3Fのボタンを押した。

 

 三回のエレベーターが開くや、三人は廊下を階段に向けて駆け出した。廊下には植木鉢が倒れ、銃痕で穴だらけの扉が転がり、血まみれのヘビ人間が一体事切れている。激しい戦闘があったようだ。

 三人が四階への階段の下に差し掛かったところで、階段の下から銃声がして、鮮血の滴る長く鋭い鉤爪を持った巨大な怪物が這うようで飛び跳ねるような奇怪な動きで駆け上ってきた。口には鋭利な切断面を見せる人間の足を咥えている。

 

「うおっ!? なんだアレ! ヤベェの来たぞ!」

「ああ、あれが空鬼だ」

「え、マジで? 八坂あんなん召喚したのか」

「……心底アレが味方で良かったと思うよ」

 

 空鬼の後ろから銃を構えて駆け上ってきたのは一人だけだった。頬に傷のある、猟犬を思わせる顔をした都市迷彩装備の男だ。旧初台駅で未弧蔵を返り討ちにした《シールド》の隊長だった。

 隊長は空鬼が一太郎達を襲わず、じりじりと自分に近寄って来るのを見て事情を察したようだった。

 

「けっ、食屍鬼共に寝返った人間のクズどもが。そこの怪物とまとめて始末してやる。クソもらして震えながら順番待ちしてろ!」

 

 叫びながら隊長が発砲すると、空鬼はひょいと避け、弾丸が背後にいた一太郎の頬を掠めていった。

 心臓が止まりかけた一太郎が睨みつけると、空鬼は鼻のないのっぺりとした顔を歪めて残忍に哂った。命令には従うが、従順というわけでもないらしい。

 改めて空鬼を見ると、体のあちこちに撃たれた跡があった。強靭な皮膚に遮られ、一ヶ所の傷はそう大きくないが、いかんせん数が多い。空鬼は出血死するような構造の生物ではないものの、ダメージがかさめば死ぬ。

 隊長の背後から増援が来る様子はない。現在白蛇ビルにいる《シールド》や他の戦力はひとまず無いと考えて良いだろう。

 

 後顧の憂いを絶つために、一太郎は再び《空鬼の召喚/従属》の呪文を唱え、命令を下した。

 

「重ねて空鬼に命じる。今すぐその男をさらい、この惑星の未踏の地に置き去りにしたのち、元の次元に帰還せよ」

 

 命令を聞くと、空鬼は喜々として隊長に飛びかかった。隊長は後退しながら銃を撃ち逃れようとするが、未弧蔵が飛ばした魔法のナイフが足に突き刺さり、階段を転げ落ちた。

 空鬼に組み付かれた隊長は、もがきながら空鬼と共にチカチカと瞬いた後、溶けるようにして消えていった。それきり、静寂が訪れる。

 あっけないと言えば、あっけない最後だった。未踏の地がどこかまでは指定しなかったが、運が良ければ生き残る事もあるだろう。

 

 一太郎が持っている魔力(MP)のほとんどを空鬼の召喚と命令に費やしたおかげで、実質味方の被害は皆無で《シールド》を排除できた。しかし根本的な解決にはなっていない。「いきがみさま」を倒さない限り、何度でも似たような組織が編成され、一層苛烈に邪魔な食屍鬼と一太郎を殺しに来るだろう。

 戦闘ともいえない戦闘の余韻もそこそこに階段を上った左京は、締め切られた扉に備え付けられたセキュリティロックの前で呻いた。

 

「あー、セキュリティか。怪物相手にするのとはまた別の意味で厄介だな」

「左京さん、銃でロック壊せませんか?」

「どうかな。セキュリティのタイプによっては破壊しても開かないが」

 

 解除のためにセキュリティキーを探しに戻るのは大きくタイムロスになる。そのロスの間に「いきがみさま」に逃げられるかも知れない。

 一太郎と左京が躊躇っていると、未弧蔵がニヤリと笑い、胸ポケットから小さなカード形の電子キーを出した。

 

「てれれてっててー! セキュリティーキ~」

「おお!? ナイスだ。でもどうして持ってるんだ」

「死体漁りは基本」

「……ヘビ人間から盗ってたのか。相変わらず手癖悪いな」

「根津君には後で窃盗容疑で国民栄誉賞を打診しておこう」

「あざす!」

 

 未弧蔵が電子キーをセキュリティロックの溝に滑らせると、軽い電子音がして、扉が滑るように開いた。

 

 そこは窓一つない、一辺が30mほどもある広大な部屋だった。床は板張りで、まるで寺院の大講堂を思わせる。部屋の四隅には篝火が焚かれ、部屋全体をぼんやりと照らし出している。

 その中央に、巫女服の女性が座り、一心に何かを唱えていた。扉の開く音に振り返ったその女性は、写真通りの人間の女性の顔をした「いきがみさま」だった。

 「いきがみさま」は静かに立ち上がり、恨みがましく吐き捨てた。

 

「まさか、我らの悲願が人間如きに邪魔されようとは。実に不愉快じゃ」

 

 自分が人外の存在である事を隠そうともしない「いきがみさま」の言葉に、左京は銃を抜いて銃口を向けた。

 

「悪いが怪物に人権は無くてねぇ。裁判は省略だ。国家転覆の現行犯で死刑を執行させてもらおうか」

「ふん、人権など。この世が人間のものであるのも今夜までの事。世界の真の支配者に無礼を働いた報い、死を以て償うが良い」

「戯言は地獄で好きなだけってね。さよならだ、ヘビ人間」

 

 左京が銃の引き金を引くと同時に、天井からぼたりと黒い大きな塊が落ちてきた。弾丸はその塊に命中し、ぶちゅりと嫌な音を立てて飛沫を散らす。

 床に広がった黒い塊は意思を持ったように蠢き、より集まり、伸び上がる。

 その巨大な口、木の杭のような歯、体のあちこりでぎょろりと動く無数の目に、一太郎と未弧蔵は見覚えがあった。

 韮崎の事件で戦った、無形の落し子である。

 

「ちょっ! まぁーたコイツかよ! 石像探せ、石像!」

 

 巨体と不格好な体からは考えられないような速度で突進してくる無形の落し子を前にして、一太郎と未弧蔵は即座に部屋を横切るように走って逃げた。一拍遅れて左京も追従する。

 

「おいおい、また新しい怪物が出てきたぞ! 君達は知っているようだが、今度のあれはなんだ!?」

「要点だけ言えば物理攻撃を全て無効にする奴です! 攻撃力も洒落にならないですが、どこかにある石像を壊せば退散するはずです」

「分かった、石像だな!」

 

 左京の威嚇射撃を挟みつつ、三人は部屋をぐるぐる走り回りながら見回したが、どこにもそれらしいものは見当たらなかった。「いきがみさま」が持っているのかと思って見ても、「いきがみさま」は巫女服一枚で何かを隠しているような膨らみは無いし、その場にじっと立ってぶつぶつ何か呟いているだけで、石像を掲げ持っているわけでもない。一太郎が残りわずかな魔力を振り絞って「透視」を使って視ても、「いきがみさま」が一太郎を数段凌駕する強力なオーラを持っている事が分かっただけだった。

 

「石像ねーぞ!」

「床下か天井裏にでも隠しているんじゃないか!?」

「いや待て、さっきから俺の頬の切り傷から出る血が床に落ちて染みたまま不自然な動きをしていない。石像があったら吸っているはずだ。もしかしてアイツは韮崎より高位の魔術師なのかもしれん」

「つまりどういう事だってばよ?」

「石像無しで無形の落し子を現界させられるんだ」

「ファー! んだそれ強すぎィ! じゃあもう「いきがみさま」ぶっ殺そうぜ! あいつが操ってんだろ!? どうせ殺るんだし、それで消えるの祈るしかねー!」

「待て、術者を殺したら暴走するんじゃないか」

「もう暴走してるようなもんじゃねーか! これ以上悪くなんねーよ!」

「確かに!」

 

 左京が急停止し、銃口を「いきがみさま」に向けると、すかさず無形の落し子が射線を遮った。

 弾丸は外れて無形の落し子の足元の床に木片を飛び散らせたが、注意は引けたらしい。左京に向けて突進してくる。

 その隙に無形の落し子を迂回した未弧蔵が魔法のナイフを飛ばし、「いきがみさま」の腹部に深々と突き刺す。途端に「いきがみさま」の衣の擬態機能が消失し、ヘビの本性を現した。縦に割れた瞳孔を忌々しげに見開き、未弧蔵を睨みつける。横から殴りかかった一太郎のこぶしは、人間の骨格では有り得ない、爬虫類独特のしなるような動きで避けられた。

 

 「いきがみさま」が手振りを交えながらぶつぶつ唱えると、無形の落し子が未弧蔵へ向かった。左京が再度発砲するも、今度は意に介さない。

 

「くっそ、ナイフ抜けねえ!」

「根津! 避けろ!」

 

 「いきがみさま」にナイフが勢いよく刺さりすぎたらしく、未弧蔵は意識をそちらに集中して抜こうとしていた。

 一太郎の声に振り返った未弧蔵は、突進の勢いをつけた野太い鞭のような触手を頭部にモロに受け、頭を吹き飛ばされた。

 

「え」

 

 一太郎は動きを止め、呆然と立ち尽くした。脳が麻痺したように、上手く現実を認識できない。

 未弧蔵の頭が無くなっている。首から血を吹き出す頭の無い体が、床に倒れた。つまりこれはどういう事なのだろう。

 あれだけ命の危機を脱してきた未弧蔵が、こんなにもあっけなく。そんな馬鹿な。きっと今すぐにでも暗がりからニヤリと笑いながら出てきて、変わり身の術を使ったのさ、なんて言って……

 

 左京は全身をガタガタ震わせながら棒立ちになっている一太郎に何度も呼びかけたが、耳に届いていない。

 舌打ちした左京は無形の落し子をギリギリまで引きつけてから紙一重で回避し、一瞬射線が通った隙に最後の弾丸を放った。乾いた銃声が響き、「いきがみさま」の胸に赤い花が咲く。よろめき、足をもつれさせ、「いきがみさま」が倒れ込む。そのままぴくりとも動かない。じわじわと床に広がる血が血だまりを作り始めると、無形の落し子はするすると暗がりに染み込むように退散していった。

 

 葵は助け出され、《シールド》は壊滅し、元凶たる「いきがみさま」も死亡した。これで事件は解決だ。東京の、日本の、もしかすれば人類の危機は去った。事が公になるのなら、人類史に残るべき偉業だ。

 しかし、とりかえしのつかない犠牲が出てしまった。

 

「八坂君……」

 

 刑事歴の長い左京も、親しい同期の同僚が目の前で殉職した事がある。一太郎の気持ちは痛いほど分かった。ショックから立ち直れず、精神を病む者も多い。

 未弧蔵の亡骸に背広をかけて黙祷を捧げた左京は、焦点の合わない目でぶつぶつと呟き続ける一太郎と共に、翌朝になってようやく警察が踏み込んでくるまで、ずっとそこに佇んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結局、事態は闇から闇へ葬られる事になった。

 ヘビ人間によって操られていた政治家達は我に返り、《シールド》の設立者である増山は白蛇ビルの中で拳銃で自決しているのが発見された。《シールド》は解散。食屍鬼達は再び東京の地下へ姿を消した。何体かヘビ人間の生き残りが散り散りに逃げ去ったようだが、先祖返りが死んだ以上、再起は難しいだろう。

 白蛇ビルの銃撃戦は、一般市民には警察と自衛隊による市街戦の共同訓練という事で報じられた。事前の告知なく行われた体になったためマスコミに叩かれ、数日は紙面を賑わせる事となったが、やがて他の目新しい事件に埋もれて消えていった。一般市民は自分達が窮地に立たされていた事に気付く事もなく、神話的生物や陰謀とは無縁の日常を謳歌している。

 

 公安としての職務を全うし、ヘビ人間の野望を挫いた亀海左京は、昇進の話が持ち上がったが、一人の一般市民を救えなかった事を理由に本人が辞退。無名大学出の左京を気に入らない学閥やエリート派閥の思惑や、とても公にはできない事件の性質もあり、今回の件によって新しく設立された対神話的生物組織ともいえる警視庁特命係の部長に配属される事になった。

 左京は二度と神話的驚異が市民に犠牲を出さないよう、精力的に働いている。

 

 宮本翠は一度妹と共に実家に戻り、事件の後遺症に悩む葵と共に長めの休養をとっている。

 葵はヘビ人間の「成長血清」という薬の実験台になっていた。

 「成長血清」は先祖返りしたヘビ人間の血液から作り出された血清で、これを処方された人間は、細胞が刺激され、体質を爬虫類の性質へと変化させていく。どうやらこれによって人間をヘビ人間化し、一気に数を増やそうと企んでいたらしい。

 捉えられ、薬を処方されていた間、高熱と悪夢に苦しんでいた葵の体は、皮膚の下に薄らと鱗ができ、骨格も爬虫類らしい柔軟なものに微妙に変化していた。身長もどこかヘビを思わせるひょろりとした感じに引き伸ばされ、顔立ちも少し変わった。

 一太郎のツテで外部にもれないように精密検査をした結果、DNAレベルで爬虫類に近づいてしまっている事が分かったため、治療の方法はない。葵は皮膚の下の鱗を隠すために、夏でも厚着を好むようになったが、姉の献身的な助けもあり、社会復帰は遠くない。

 

 八坂一太郎は親友の死により、心に深い傷を負った。普段の生活に障りはないが、心の底で未弧蔵の死を完全に乗り越えられず、どういうわけか興奮すると自分が未弧蔵であるかのような言動や行動を取るようになった。一種の二重人格である。

 未弧蔵がいなくなり、来客も減り、火の消えたように静かになった八坂屋敷には、ホームレスの少女レンが新しく住む事になった。レンが親戚や孤児院に戻る事を猛烈に拒否したため、左京がツテを使い、一番懐いている一太郎の養子としてねじ込んだのだ。レンは「八坂 蓮」という名前になり、一太郎と共に新しい生活を歩み始めている。

 一太郎は蓮が学校に通う前に、まずはまっとうな人間社会に戻れるよう、普通の服を着せたり、風呂に入る習慣をつけさせたり、残飯ではなく家庭料理を食べさせたりしながら、多くの時間を魔術の研究に費やした。もっと魔術や神話的生物への理解があれば、より有効な対策を取り、未弧蔵も死なせずに済んだのではないかと考えたのだ。白蛇ビルで入手した二冊の魔道書、完全な「エイボンの書」と「屍食経典儀(Cultes des Goules)」を夜な夜な読みふけり、使い方によっては身を滅ぼす致死の猛毒にもなる危険な知識を身につけている。

 

 研究に没頭する一太郎が忘れていた事であるが、深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている、というニーチェの言葉は、一太郎が関わるそれには特によく当てはまる。

 危機について知る事は、危機に近づく事でもある。

 一太郎が再び神話的事件に巻き込まれる日は近い。

 

 





――――【八坂 一太郎(26歳)】リザルト

STR8  DEX10  INT18
CON9  APP7  POW19
SIZ14 SAN61  EDU18
耐久力12

所有物:
 損傷の激しいエイボンの書(ラテン語版)
 エイボンの書(ラテン語版)
 屍食経典儀(フランス語原版)
 コービットの日記
 魔法のダガー……命中率=現在MP×5%、ダメージ=1d6+2、コスト=1ラウンド毎に1MP
 成長血清

呪文:
 透視、空鬼の召喚/従属、萎縮、被害をそらす

技能:
 医学 65%、オカルト 29%、生物学 71%、化学 51%、聞き耳 55%、信用 45%、
 心理学 56%、精神分析 33%、説得 41%、図書館 85%、目星 85%、薬学 61% 英語 21%
 こぶし 56%、ラテン語 22%、フランス語 11%、クトゥルフ神話 39%

――――【根津 未弧蔵(28歳)】死亡

STR12 DEX16  INT9
CON12 APP13  POW11
SIZ13 SAN44  EDU14
耐久力13 db+1d4

技能:
 言いくるめ 79%、応急手当 40%、回避 42%、鍵開け 71%、隠す 65%、聞き耳 45%、忍び歩き 50%、跳躍 31%、目星 55%、いやらしい手つき 52%
 こぶし 58%、古物鑑定 13%、クトゥルフ神話 9%


――――【亀海 左京(47歳)】リザルト

STR14 DEX10 INT13
CON13 APP10 POW12
SIZ15 SAN51  EDU17
耐久力14  db+1d4

技能:
 運転 50%、オカルト 22%、回避 44%、聞き耳 45%、信用 70%、説得 61%、追跡 60%、図書館 45%
 目星 65%、拳銃 58%、キック 85%、組み付き 45%、こぶし 60%、武道:立ち技系(空手) 81%
 クトゥルフ神話 5%

――――【宮本 翠(29歳)】リザルト

STR11 DEX9  INT17
CON11 APP15  POW13
SIZ10 SAN66  EDU16
耐久力11

技能:
 言いくるめ 75%、応急手当 40%、オカルト 15%、鍵開け 61%、隠れる 50%、聞き耳 45%、経理 20%、
 忍び歩き 50%、信用 75%、追跡 72%、図書館 65%、変装 51%、法律 15%、目星 75%、芸術:模写 85%、瞬間記憶術 80%
 クトゥルフ神話 5%

――――【宮本 葵(27歳)】NPC/リザルト

STR23 DEX13  INT11
CON10 APP14  POW8
SIZ12 SAN41  EDU16
耐久力11  db+1d6

装甲:
 柔軟な骨格と皮膚の下の鱗により、物理ダメージを1軽減する

技能:
 応急手当 70%、回避 86%、聞き耳 50%、説得 55%、跳躍 65%、信用 75%、目星 55%、武道:立ち技系(ムエタイ)86%、キック 85%
 精神分析 8%、クトゥルフ神話 7%

――――【八坂 蓮(7歳)】NPC/リザルト


STR5 DEX10  INT16
CON7 APP11  POW16
SIZ7 SAN51  EDU4
耐久力7  db-1d6

所有物:
 キミタケの万年筆

呪文:
 血仙蟲(※)

技能:
 応急手当 50%、回避 40%、隠れる 60%、聞き耳 65%、忍び歩き 50%、登攀 60%、目星 50%、食屍鬼語 25%、クトゥルフ神話 1%



《血仙蟲》……「比叡山炎上」に収録。1d10SANを消費し、死亡した状態から1d10耐久力を回復し、復活する。この効果で全ての正気度ポイントを失った場合、食屍鬼になる。


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1-4 腕に刻まれる死(前)

 

 未弧蔵の死から一年。八坂一太郎は養子となった八坂蓮と共に、相変わらず八坂屋敷で暮らしていた。

 仕事に、慣れない子育てに、魔術の研究に、と多忙な日々ではあったが、その忙しさが親友の死の悲しみを遠ざけてくれていた。

 

 一太郎の精神に現れた二重人格――――自分が未弧蔵であるかのように振舞う裏の人格は消えていない。むしろ、裏の人格を受け入れ、消さないようにしている。二重人格は一般的に精神疾患であると考えられており、治療すべきものであるが、一太郎にとってはそうではない。親友の生きた証であり、みすみす死なせてしまった罪の証である。それに、自分の妄想の産物だとは分かっていても、未弧蔵の一部が自分の中で生きているようで、少しだけ救われた気持ちになれた。

 裏(未弧蔵)の人格は、一太郎が興奮したり、動揺したりしない限り表に出てこない比較的軽い精神疾患で、日常生活を送る上では何も問題ない。裏の人格が現れても、未弧蔵は殺人癖を持っているような物騒な人格ではないため、大きな問題は起こらない。善人でもないため小さな問題は起こるが、それぐらいは飲み干すつもりだった。

 

 過去の事件と折り合いをつけ、人生の歯車に生じたひび割れとズレを上手く修繕した一太郎は、会社から見ても勤務上問題ないと判断されたらしい。ある秋の日、一太郎は別の会社への一週間の短期派遣を命じられた。

 派遣先は複合企業SERaグループ医療部門傘下の研究所。SERaグループは一太郎の勤めているマホロバ株式会社の取引先で、日本を代表する大企業の一つである。鉄鋼業を中心に造船、重機、医療機器、薬品の製造などを手がけている複合企業で、保守的・閉鎖的ながら堅実な経営方針で知られている。大正頃に設立された古株会社であり、長く日本の縁の下を支えてきた。

 一太郎はそんなSERaグループの研究所で行われている研究に技術協力をするために派遣される事になったのだ。ちなみに交換でSERaグループからもマホロバ社に研究員が派遣されるらしい。大企業同士、色々と思惑や駆け引きがあるのだろう。そのあたりは一太郎の関知するところではない。特に理不尽な辞令ではないし、上司の命令に従うのみである。

 

 派遣に際して、東京から離れ、地方に出張する事になる。一太郎は幼い蓮を連れて行くのは避け、宮本翠に頼んで八坂屋敷の留守を任せる事にした。

 ショッキングな拉致事件から一年弱、実家で療養していた宮本葵は地元でアルバイトを始め、社会復帰の足がかりを得たらしく、献身的に付き添っていた翠は妹の「もう大丈夫」という後押しもあり東京に戻ってきていた。

 探偵業を再開したものの、一年の空白期間もあり依頼に困っていた翠の話を聞いた一太郎が子守兼留守番の依頼をしたのだ。探偵の仕事ではないが、一週間の間、蓮の世話を頼んだ。日給は三万。相場より倍近く高い。値段の決め手としては、信頼できる人に任せられる事が大きいし、冷蔵庫にちくわしか入っていない日も多い翠の懐を暖かくしてやる意図も大きい。高給取りの一太郎にとっては、安くはないが、高くもない出費である。翠は良い意味で不相応な給金を、申し訳なさと施しを受けるような屈辱感から値切ろうとしたが、結局は生活費の確保という現実的で差し迫った問題に負けて了承した。その代わり、翠は一太郎の留守中に屋敷の大掃除や手入れをする事になっている。

 

 蓮は翠と直接面識がなく、初対面で怯えていたが、あの事件に関わった人物で、キミタケの友達だと紹介すると、警戒心を緩め、一週間の間八坂屋敷で一緒に過ごす事を受け入れた。年齢は離れているが女性同士であるし、翠は人当たりがよく、キツい性格ではない。すぐに慣れるだろう。一太郎は二人に留守を任せ、後顧の憂いなく列車を乗り継いで派遣先へ向かった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 派遣先であるSERa医科学研究所は、畑ばかりの郊外にぽつりとある建物だった。研究施設の規模は外観としては中程度のようだったが、窓や扉には緊急時に外部と隔離するためだろう、ロック機構やシャッターなどが備え付けられているのが見て取れた。保守的な会社の研究所なだけあって、安全対策は神経質なまでにしっかりしているようだ。

 研究所に入った一太郎は、受付でマホロバ社から派遣されてきた旨を告げた。受付嬢は丁寧な対応で、一太郎にプラスチックの腕輪を渡し、担当の者を呼ぶため少し待つように言った。腕輪は研究所の関係者である事を示し、所内の扉を開けたり端末にアクセスしたりするための鍵となるICチップが埋め込まれているらしい。腕輪というのは少し変わった形態だが、学校への来訪者や、スポーツ大会への取材陣が許可証を首から下げるのは特別珍しい事ではない。一太郎は腕輪を腕にはめ、ロビーのソファに座って待った。早朝に東京を出て、現時刻は昼前。この日はひとまず面通しだけして、研究所から徒歩数分の場所にある職員宿舎に入って荷物整理をし、旅疲れを癒す事になっている。

 

 担当が来るまでの間手持ち無沙汰な一太郎は、軽く研究所の受付ロビーを見渡した。

 白衣の所員達も、機材をカートで運んでいる作業員も、全員腕輪をつけている。腕輪には1~3のクラスが記されている。自分のものを見てみると、クラス1だった。セキュリティレベルだろう。裏側には「GUEST」と刻印されている。腕輪には他にも「進度」と書かれた目盛のあるメーターがついていたが、何を意味しているのかはよく分からない。後で聞いてみよう、と思った。

 

 所員達が腕輪を扉にあるメッセージディスプレイにかざして開閉する様子は近未来を思わせた。技術的にはなんの不思議もないのだが、日常で目にする光景ではないため、技術の進んだ世界に来たような錯覚を覚える。

 一太郎が地域と施設に応じた局地的技術格差について特に意味もない考察にふけっていると、後ろから声をかけられた。

 

「八坂君?」

「……葵さん?」

「あ、やっぱり。久しぶり」

 

 振り返ると、そこにはダンボール箱を抱えた宮本葵がいた。葵は親しげに微笑んだ。空調の効いた所内にも関わらず手袋にマフラーに厚手のコートにと完全装備だ。葵も腕輪をつけている。

 

「奇遇ですね。地元でアルバイトをしているという話を……ああ、ここが地元だったんですか」

「そうそう、弁当配達のアルバイトしてるんだよね。この研究所はお得意様でよく来るんだ。八坂君は? 確かマホロバ勤めだったよね。転職?」

「いえ、短期派遣です。一週間だけこっちに出張する事になったんですよ」

「そっかそっか、いいね八坂君、引く手数多で大人気。蓮ちゃんは? 一緒に来てるの?」

 

 思わぬ邂逅からしばらく雑談に花を咲かせていると、担当の者が来た。葵は雑談を切り上げ、大きなダンボールを軽々と持ち上げて奥に入っていった。

 担当は副所長の金久保と名乗る、五十歳ぐらいの神経質そうな眼鏡の男だった。所長の瀬良が急用で不在のため、代わりに自分が来る事になった、と金久保は格式張った言い方で謝罪した。

 

「急用ならば仕方ありません。私は気にしませんよ。副所長に案内して頂けるとは恐縮です」

「そう言っていただけますと助かります。ご案内の前に、恐れ入りますが携帯電話やその他記録機器、通信機器を預けていただけますか。色々と機密が多いもので」

 

 一太郎は受付で携帯電話を預けた後、金久保について施設を案内された。

 研究所は一階建の平屋で、地下がある。会議室、食堂、研究執務室、実験室、倉庫、仮眠室など、一通り見て回る。機密上部屋の前で説明されるだけで、中に入らなかった部屋もあった。

 金久保も腕輪をつけ、部屋に入る時はそれを入口のメッセージディスプレイにかざしていた。金久保の腕輪はクラス4だった。

 

 聞いてみると、腕輪は所員の間では「タグ」と呼ばれ、クラス1~クラス5のセキュリティレベルに分けられているという。所長の瀬良が5、副所長の金久保が4、それ以外の研究員は立場や業務などに応じて1~3が割り振られている。タグのクラスに応じてアクセスできる情報が制限されたり、機密レベルの高い扉を開けられたりする。

 「進度」と書かれたメーターについては、機密だから話せないと言われた。もやもやした一太郎の様子を察したのか、今回の派遣期間中に使用する機能ではないだろうから気にしなくても良いと補足される。しかし気にしなくても良いと言われても気になるのが心情である。一太郎はタグを裏返したり押してみたりして調べ、表皮の血流などを測定する機能があるらしい事を理解した。恐らく健康診断のためだろうが、日常的に健康状態を把握しなければならないほど危険のモノを扱っているのだろうか。だから厳重なセキュリティが敷かれているのかも知れない。

 

 ざっと所内を見て回り、翌日からの仕事の説明を受けている途中で、急に慌てた様子の所員が駆け寄ってきて金久保に何事か耳打ちした。金久保は途端に顔色を変えた。

 

「申し訳ありません、所内でトラブルが発生したようです。案内の途中ではありますが、念のため会議室で待機していていただけないでしょうか」

「トラブルですか……分かりました。時間はどの程度かかりそうですか」

「なんとも言えません。君、彼を会議室に案内してくれたまえ」

「ああ大丈夫ですよ。場所は覚えています。自分で行けます。では」

「トラブルが解決次第迎えを寄越しますので」

「了解しました」

 

 金久保は会釈して、所員と共に足早に去っていった。所長の急用の関係だろうか、と考えながら、一太郎は会議室に向かい、中に入る。

 会議室には既に葵がいた。ダンボールの空箱を潰して折りたたんでいる。他にもノートパソコンに向かって仕事をしている大学生ぐらいの女性と、テーブルに工具箱を広げて整理している、作業服を着た欧米系で三十代の男性がいた。

 一太郎が最後だったらしく、部屋に入ると背後で扉が閉まり、ロック表示がクラス1からクラス2に切り替わった。勝手にうろつかず中で大人しくしていろという意味だろう。

 

 一太郎が部屋に入ると、葵が不安そうに寄ってきた。

 

「八坂君。いきなりここに放り込まれたんだけど、八坂君何か知ってる?」

「すみません、トラブルとしか聞いてないです。詳しくはちょっと」

「まさかバイオハザードなんて事は? ここ医療系の研究所だったよね」

「……情報が少なすぎます。何か連絡があるまではのんびり待ちましょう」

「否定はしないんだ。まあそうだね、のんびりしてようか」

「そうしましょう。ところであの人達は?」

 

 一太郎が女性と男性の方を見て言うと、工具を弄っていた男性の方がようやく一太郎の存在に気付いて立ち上がり、ニコニコしながら握手を求めてきた。

 

「オー、ハードボイルドスカーフェイス! 私、Tonio Stark言います。トニオと呼んでください。アメリカン人なエンジニアです。よろしくおながいシマス」

「よ、よろしく。八坂一太郎です」

 

 握手に応じると、握った手を嬉しそうにぶんぶん振られた。初対面で臆面もなく火傷面に触れられたのは久しぶりだった。しかし不快ではない。トニオは一太郎の醜い火傷顔をハードボイルドと表現したが、そんな感想を抱いてもおかしくないと思えるほど不細工だったのだ。シミ、そばかす、出来物、手術痕などが目立ち、顔面にピザでも叩きつけたような有様だ。確かにトニオから見れば一太郎はハードボイルドだろう。

 

「イチロー! イチローはSERaグループな人ですかー? 私、お仕事途中でアブダクション。ここにぶち込まれマシタ。お仕事終わる無いよファッキン! お仕事戻らせて、どうぞ」

「イチ「タ」ロウです。一太郎。野球選手ではないです。すみませんが、私はSERaの人間ではないのでトニオさんをここから出す事はできないんですよ」

「ジーザス、孔明トラップ! 白衣着てるから、間違えたデスねー。それじゃイチタロー、おめぇどこの組のモンよ? SERaグループ違う人、SERaグループいる。スパイ?」

「派遣されて来たんですよ。葵さんパス」

「え、ちょ」

 

 ぐいぐい来るトニオに軽く引いた一太郎は、葵に相手を押し付けて逃げた。

 空いている椅子に座ると、一つ席を空けて座っていた女性が目を上げ、小さく会釈をした。

 

「はじめまして。ユーリ・ミカミです。医学資料の翻訳のアルバイトをしています」

「どうも。八坂一太郎です。マホロバ社から短期の派遣で来た研究員です」

 

 ユーリはハーフらしい顔立ちで、どこかのモデルかと思うぐらいの美人だ。チラリとユーリの正面のパソコンの画面を見ると、ドイツ語が表示されていた。医学用語にはドイツ語が多いのだ。ユーリの日本語に淀みはなく、翻訳の腕は立ちそうである。

 ユーリは一太郎がパソコンを見ているのに気が付くと、さりげなく向きを変えて見えないようにした。

 

「失礼しました」

「いえ」

 

 何か機密性のある資料を訳していたのだろうか。一太郎はのぞき見をしてしまった事を謝り、暇つぶしに会議室の大型ディスプレイに流れている昼のワイドショーを見始めたのだが、一分もしないうちに床下、というよりも地下から小さな爆音と振動がした。それが合図であったかのように、にわかに会議室の外が騒がしくなる。廊下を走り回る音、怒声、悲鳴、物が壊れる音。何かが起こったのは間違いない。

 

 トニオは何が起きたか分からない顔をしてきょろきょろしているが、ユーリ、葵、一太郎の顔は青ざめた。頭に浮かぶのは同じ単語である。バイオハザードだ。

 

「まずいね。封鎖される前に脱出しよう」

「でも扉にはロックが……」

「蹴り破ります」

「え?」

 

 即断即決。扉の前で呼吸を整える葵にユーリが混乱している。常識的に考えて女性の蹴りでセキュリティロックまでかけられた扉を破れるわけがない。しかし、一太郎は、以前ヘビ人間に盛られた薬によって葵の筋力が人間の限界を一、二段階突破している事を知っている。対人間仕様の扉ならば破れるだろう。

 一太郎は葵がプリズンブレイクする前に声をかけて止めた。

 

「葵さん、待って下さい。実験動物が逃げ出しただけかもしれませんし、ちょっとしたボヤ騒ぎかも知れません。バイオハザードだとしても、廊下にウイルスが飛散しているなら、会議室の中にいた方が安全でしょう。もう少し様子を見ましょう」

「……ごめん、焦って変な事した」

「いえ、研究所で騒ぎが起きれば誰でも焦りますよ。私も内心焦ってます」

「HEYアオイ=サン、ワッツハプン? 何が起きたんデスカー?」

「あ、えーと、外で騒ぎが起きて……そうだ、トニオさん、ここに仕事に来たエンジニアの方でしたよね。会議室の空調がどうなってるかわかりませんか?」

「空調デスカ? Hmmm……確か天井に外に繋がる通気ダクトがあったハズですねー。もしかしてバイオハザードですかー? Tウィルス?」

「そうじゃない事を祈ってます。外に繋がってるなら、本当にまずくなったらそこから外に」

「オー、アオイ=サン、それ無理デスねー。通気ダクト、とても細いデス。それに、途中空気浄化装置のあります。ウイルス一匹通れまセン」

「……ま、まあ八坂君の言う通りバイオハザードって決まった訳じゃないしね。連絡待とう」

 

 それから四人はイライラしたりソワソワしたりウトウトしたりしながら大人しく会議室で待っていたが、いつまで経っても連絡一つない。会議室の外の騒ぎが次第に消えて行き、物音一つしなくなったのは事態が解決したからなのか、最悪の事態が起きて全滅したからなのかも分からない。備え付けの内線電話を使っても、どこにも繋がらなかった。

 長時間情報が得られないというのは、時に分かりやすく切迫した恐怖よりも強いストレスになる。ユーリは落ち着かない様子でノートパソコンを開けて何か書こうとしては集中できずに閉じてを繰り返し、葵は放心したようにぼんやりとテレビ番組を眺め、トニオはウトウトと眠りかけては他の三人が立てる小さな物音にびくっとして起きている。

 会議室の入口のメッセージディスプレイを操作し、少しでも状況を掴もうとしていた一太郎は突然めまいを感じ、夢か現か、ディスプレイの中に妙なものをみた。みたというより、感じた、という表現の方が正しいかも知れない。暗い地下、火山の噴火、地震による鳴動、そしてこの世のものとは思えない不気味な唸り声。そんなイメージが脳髄を妖しく揺らす。

 

 奇妙な幻覚はすぐに去ったが、不吉な何かを残していったような気がした。はっとしてタグを見ると、ずっと0だった「進度」が1になっていた。

 ぞわりと寒気がする。勘の良い一太郎は気付いてしまった。現在研究所を襲っているのはバイオハザードなどではない。ほぼ間違いなく、ある意味でバイオハザードよりも恐ろしい、神話的怪異だ。

 警告を発しようとした一太郎は、目の前の固く閉ざされていた扉が開いて驚いた。入ってきたのは、金久保に緊急の知らせを持ってきた所員である。しかし様子がおかしい。肌が灰色に変色し、動きがさびついたロボットのようにぎこちない。彼は一太郎に目を留めるとよろよろと近づき、かすれた聞き取り辛い声で言った。

 

「逃げろ……Gウイルスが……」

 

 力を振り絞るように言った所員は、よろけて倒れ、机に頭を強打する。すると首が石像のようにポッキリ折れてしまった。冗談のような光景に一太郎は目を疑う。折れた首の断面からは大量の血が流れ、会議室の床に血だまりを広げていった。ユーリは悲鳴を上げて部屋の奥へ逃げて行き、トニオと葵は口をぽっかり開けて硬直している。

 所員の頭の無い無残な死体を見た一太郎の脳裏に、未弧蔵の死の瞬間がフラッシュバックする。

 

「こりゃヤベー、バイオハザードだ」

 

 一太郎の口調と顔つきが変わった。所員が中に入って閉じようとしていた扉にすばやく靴を噛ませて止め、死体をまさぐってタグを外す。タグのセキュリティクラスは2だった。

 

「チッ、しけてやがんな。クラス2じゃ研究所の出口開かねー気がする。金久保探すか、あいつ4だったし」

「ちょっと八坂君何言ってるの? 大丈夫?」

「葵さんこそ何言ってんだ? 俺ァ根津だぜ? こんなとこさっさと脱出すんだよ」

「あっ(察し)」

 

 ショックで裏の人格が出ている事を悟った葵は、テーブルの上の冷め切った紅茶を一太郎の頭にぶっかけた。びっくりした一太郎は目を瞬かせ、正気に戻る。

 

「あれ?」

「おはよう。自分の名前言える?」

「……あー。すみません、取り乱しました」

「いいけどさ。まだ治ってなかったんだ」

「まあ、はい」

 

 知らない者から見ると意味不明のやりとりに困惑しているユーリとトニオに、葵が事情を説明しはじめる。一太郎はその間に深呼吸をして落ち着いた。

 

 TかGかは大した問題ではない。最期の言葉を状況に照らし合わせると、バイオハザードが起きたらしい。逃げろと言われはしたものの、果たして逃げて良いものか。研究所の外に出る事が、ウイルスを拡散される事になりはしないか。それを込みでこの所員は逃げろと言った、つまり感染は研究所内でしか起こり得ず外に出れば安全なのか。あるいは死が近づき錯乱し、理論的に物事を考えられず支離滅裂な事を口走っただけなのか。はたまたバイオハザードを引き起こした犯人が会議室にこもった自分達を引きずり出すために遣わした哀れな犠牲者なのか。

 

 一瞬で様々な可能性を考えた一太郎だが、言われた通り逃げ出したくなる気持ちを抑え、ひとまず死んだ所員の体を調べはじめた。症状からウイルスについて何か分かるかも知れない。何か行動する前に一つでも情報が欲しい。

 一太郎が検死を始めると、葵とトニオが恐る恐る寄ってきた。トニオは口を手で押さえて今にも吐きそうにしている。

 遺体は石のように固まっていたが、首の断面から覗く器官と血液は正常で、血が脈動するように流れ出ている事から、心肺機能も正常である事が分かった。皮膚と筋肉だけが硬化、というよりも石化している。健康診断機能がある事を思い出し所員から剥ぎ取ったタグを確かめると、進度が最大の7になっていた。

 

 体が石のようになる、という症状だけ見れば、決して非現実的ではない。進行性骨化性線維異形成症という遺伝子疾患は、全身の筋肉が緩やかに骨に変化し、死に至る病である。しかしそれは決して石像のようになる病ではないし、ウイルス性ではなく、どんなに緩く見積もっても全身が石になる前に体内の諸器官が機能不全を起こして死亡する。死んだ所員は一時間ほど前に会った時は健康そのものだった、こんな急激な病の進行、普通じゃ考えられない。

 つまり、所員の遺体は医学的に有り得ない。

 一太郎が短い黙祷を捧げ、遺体に自分の白衣を被せると、深刻そうに葵が聞いた。

 

「八坂君、これもしかして」

「そうですね。またアレです」

「勘弁してよ……」

 

 葵は呻いて顔を覆った。こんな事態に備え、知識を蓄え魔術を身につけていた一太郎は葵よりも精神的に余裕があったが、それでもいきなり襲ってきた怪異には動揺した。怪物やポルターガイストではなく、病という形なのがまた厄介だ。一太郎が習得している魔術は黒魔術的なものばかりで、癒しの魔術は覚えていない。

 

「外も死屍るいるいるいデース……」

 

 会議室の外を見てきたトニオがよろよろ中に戻って言った。生存者は会議室の面々だけなのだろうか。会議室以外にも隔離されていた部屋があれば、そこにも生き残りはいそうだが。

 

「トニオさん、外の遺体のタグの進度はどうでしたか?」

「全部7でしタ。ぜんぜんラッキーナンバーじゃありませんネー。アー泣キソ」

「進度は症状の進度と考えて良さそうですね。1で罹患、7で石化でしょうか。私は今進度1ですが、みなさんは?」

「1です」

「1デス」

「0です」

「全員進度1なら考えられる可能性として……えっ」

 

 一太郎は0と言ったユーリを二度見した。ユーリはびくっとして、おずおずとタグを見せた。確かに進度0である。

 

「0って事は……ミカミさんは感染してない? なんでだろ、何が違うんだろ」

「これもう分かんねぇな……お前どう?」

 

 どこかでそのフレーズを覚えたのか、妙に流暢な日本語でトニオに話を振られ、一太郎は考えながら言う。

 

「Gウイルスは極めて短時間で重篤な症状をもたらすようです。空気感染にしろ接触感染にしろ、恐らくこの場にいる全員が感染条件を満たしているはずです。潜伏期間の差でもないでしょう。この中で一番遅くこの研究所に来た葵さんも進度1になっているので、それよりもずっと早くここに居たミカミさんが0なのは理屈が合わない。トニオさん、葵さん、私は同時に発症していますから、同じ部屋にいたミカミさんも同じタイミングで発症していた方が自然です。以上の要因に反して進度0という事は、ミカミさんがGウイルスに対して何らかの抵抗力を持っているという事だと思います」

 

 例えば魔術的防御のような、という言葉を心の中で付け加え、一太郎は言葉を切った。神話的事件を骨の髄まで味わった経験のある葵と違い、トニオとユーリに魔術云々と説明しても頭がおかしいと思われるだけだろう。この団結しなければならない状況下で無駄に不信を煽る事はない。ひとまず表向きは生物的・化学的なバイオハザードと仮定しておけば良い。

 一時間足らずで人を石化させるGウイルスが普通のウイルスの訳がない。明らかにウイルスの限界を超えている、神話的・魔術的ウイルスだ。それに抵抗できるのもまた魔術である。ユーリは意識的にか無意識的にか、Gウイルスに抵抗し無効化したのだ。魔術的素養であるPOWが飛び抜けて高かったのかも知れないし、一太郎の「透視」と同じように何か先天的な魔術を持っていたのかも知れない。

 

 怪しければ「透視」が身についている一太郎は、葵とあれこれと話しているユーリにさりげなく「透視」を使った。

 

「!?」

 

 その瞬間、一太郎は眼から悍ましい何かが体に流れ込み、蝕み、瞬く間に汚染するのを感じ取った。人間の本質を穢すような名状しがたいそれをまざまざと知覚してしまった一太郎は、ぐらりとよろめき、テーブルに手をついた。全力疾走したように息を荒げ、冷や汗を流す。テーブルについた手はカサカサに乾き、乾いた泥がこびりついたように変異していた。ぞっとして自分のタグを見る。

 進度2になっていた。

 

「どうしたんですか?」

 

 ユーリが異常に気付いて一太郎に声をかける。一太郎はパサパサになった肌を隠しながらなんでもないと答えた。

 

「トニオさん、ミカミさんと話し合って何か抵抗力の理由に心当たりがないか考えてみて下さい。私と葵さんは外の様子を見てきます」

「トニオにお任セ! さっ、お話しましょかユーリ=サン。大丈夫、トニオ怖くナーイ」

 

 面白外国人にたかられて軽く引いているユーリを置いて、一太郎は葵に合図して廊下に出た。石化した所員達が転がる恐ろしい廊下を少し歩き、会議室に声が届かない距離まで移動する。

 

「それで、」

 

 一太郎の不審な様子に気付いていた葵が足を止め、言った。

 

「何が分かったの」

「ミカミさんを「透視」したらこうなりました」

 

 片手を上げ、進度2のタグとカサカサになった肌を見せる。葵はちょっと眉を上げた。

 

「それは……ミカミさんが病原ってこと?」

「ミカミさんを「透視」した途端に体に何かが入り込んできて進度が上がったのは間違いありません。情けない話ですが、一瞬の事だったので何を視たのかすら記憶にないんです。ミカミさんを視たせいでこうなったのかも知れないし、偶然視界に入っていた別の何かを視たせいかも知れない。他の理由かも知れない」

「魔術を使ったせいとか?」

「その可能性もありますね。最悪の可能性は、ミカミさんが研究所にGウイルスをバラ巻いた犯人で、自分だけは感染しないよう防御を張っている、というものです」

「んー。でも一人だけ進度0なら普通怪しむよね。今だってなんでーって話になってたし。ミカミさんが犯人ならどうしてそこを誤魔化そうとしないのかな? 誤魔化そうと思えばいくらでも誤魔化せそうなのに」

「そこが分からないんですよね。本当に何か抵抗力を持っているだけなのかも知れないですし、何か企みがあって生存者に紛れ込もうとしているのかも知れないですし」

「ちょっと判断材料不足してない? さっきから言ってる事曖昧だよ」

「ですよね。しかしミカミさんに何かがある事は間違いありません。それが良いものか悪いものか分かるまでは警戒しましょう」

「ん、分かった。トニオさんにこの事は?」

「あの人顔に出そうで、いや態度に出そうで……口に出るんじゃないですかね」

「あ、うん。ミカミさんに直接「あなたを犯人デス」とか言いそう」

「秘密にしておきましょう」

「だね」

 

 密談の後、二人は会議室の近辺をざっと調べて回った。

 

 一太郎は廊下に転がる恐怖に顔を引きつらせた石像を医学的見地から調べ、彼らが全身を石化させながらも、驚くべき事にまだ生きている事を知った。石化しているのは内臓を動かす以外の筋肉らしい。どんな姿になろうとも、生きているなら石化解除の望みはある。内臓だけでなく視覚や聴覚、思考まで働いていれば生き地獄だろうが……

 石化した所員達を廊下からどこかの部屋に移動させようとも考えたが、運搬中に落としたりぶつけたりすれば、会議室に入ってきたあの所員のように取り返しのつかない事になってしまう。そっとしておいた方が無難だろう。石化した所員の中からクラス3のタグを見つけ、それを回収するだけに留めておいた。

 

 葵は会議室から受付に通じる扉を調べたが、核シェルターかと思うような重厚なシャッターが降りていて、蹴り破れそうもなかった。重機を持ってきても厳しいだろう。窓や通気口も同様である。開錠のためのセキュリティロックは存在しないはずの「8」と表示されていて、脱出不可能という現実を突きつけられるだけに終わった。

 

 二人が会議室に戻ると、トニオが入口のメッセージディスプレイを操作していた。ユーリはイライラと歩き回っている。

 

「戻りました。近場を見て回りましたが、生存者は見当たりませんでした。出口は完全に封鎖されていました。脱出は不可能と考えた方が良いでしょう。それから、廊下に石化した所員の方が転がっていますが、どうやら彼らはあんな状態でも生きているようです。会議室の外を移動する時はうっかり足をぶつけて折ったり砕いたりしないように。治る可能性があります」

「受付には行けましたか? 預けた携帯電話が置いてあるはずなんですけど」

「受付の手前でシャッター、というか隔壁が降りていました。通気口や窓も無理です。」

「そうですか」

 

 一太郎が現状を説明すると、ユーリはあからさまにガッカリした。

 

「なんとか外に連絡を取らないと……」

「研究所が隔離された時点で自動的に連絡が行っていると思いますが」

「生存者の有無までは伝わっていないでしょう? 生存者がいると分かればすぐに救出に動いてくれるはずです」

「そうだといいんですがね。ところでミカミさんがなぜ感染しなかったのか分かりましたか?」

「会議室に来る直前に頭が痛くて、所員の方の頭痛薬を貰って飲んだんです。もしかしたらそれかも知れない、という話は出ました。今トニオさんに外と連絡取れないか試してもらっています。中から脱出できないなら外に頼るしかないと思います」

「ふむ」

 

 ユーリを警戒している一太郎にとって、ユーリが主張しているというだけで外部への連絡は罠に思えた。外部に連絡した途端に生存者を秘密裏に抹殺するための部隊が送り込まれる、なんて事になるかも知れない。しかし外の様子を知りたい、中の様子を伝えたい、というのはこの状況下では至極真っ当な心理でもある。「透視」を使ってユーリの感情を読み、何か企みがあるかだけでも知りたかったが、それをしたところでまた眼から何かが流れ込んで進度が上がるだけだろう。

 

 ただしユーリへの警戒を抜きに考えれば、個人的には、外部との連絡は魅力的な案だった。警視庁特命係の亀海左京に連絡すれば、外部から神話的事件への対処を組織的に行ってもらう事ができる。自宅へ連絡し、蓮と翠に自分と葵の無事を伝えたいという思いもある。

 しかし事件の元凶かもしれないユーリによる誘導を疑わなければならない。外部との連絡を全否定するのは大げさだとしても、並行して別の事態解決策も探る事は必要だろう。

 

 一太郎の手持ちで即座に現状を打開できるものはない。強いて言えば、《空鬼の召喚/従属》を使って空鬼を召喚し、空間を超えて外に脱出する手があるが、それは幾つもの理由から使えない。まず第一に、媒体になるナイフを持ってきていない。研究施設に危険物を持ち込むわけにはいかなかった。今頃は他の荷物と一緒に職員宿舎に送り届けられている事だろう。それに葵の言ったように魔術の使用に反応して進度が上がった可能性もある。「透視」や《空鬼の召喚/従属》に限らず、魔術の使用はなるべく控えるべきだ。トドメにGウイルスに感染した状態で脱出すれば、ウイルスを外にバラまく事になりかねない。ウイルスの性質にもよるが、最悪日本壊滅まで有り得る。

 

 外部からの助けを待つにしろ、自力で脱出するにしろ、Gウイルスの治療、最低でも症状の進行の停止に必要な手段の入手は必須である。そしてその手段があるとしたら研究所内だろう。研究所内にも無い可能性があるが、探すだけ探してみた方が良い。

 差し当たってはユーリの言う頭痛薬の捜索だろうか。神話的現象である以上、医学的に生成された頭痛薬が効果を成すとは考えにくいが、他に手がかりもない。

 

 一太郎が考え込んでいる間、トニオは難しい顔で葵と話しながらメッセージディスプレイを操作していた。

 

「管理者メニューから操作してみたんデスが、ダメみたいですネー。連絡シャットダウン。研究所陸のコトーです」

「それって修理できない?」

「調べてみましたガ、胴元の通信ケーブルがヤられてるみたいなんデス。研究所から情報発信ムリムリカタツムリ。通信ケーブル直さないとデス」

 

 トニオは研究所の地図を表示させ、通信ケーブルの位置を示した。会議室は研究所の入口から受付を通ってすぐの場所にある。そこから奥へ入っていき、地下への階段を下り、左側の部屋が通信ケーブルのある機械室である。

 葵は研究所の地図を手帳にメモした。

 

 四人は話し合い、警備室に寄り、実験室を経由して地下へ向かう事にした。警備室には監視カメラのモニターがあり、研究所内を全て見る事ができる。歩いて他の生存者を探すより、監視カメラで探した方が手っ取り早い。実験室に寄るのは頭痛薬のためである。頭痛薬が研究所内で作られたものなら、一番置いてありそうなのはそこだった。

 

 警備室への移動中、いつの間にかトニオの肌が奇妙にパサパサになっている事が発覚した。一太郎と同じ症状である。他の三人に変化はない。一太郎=進度2、葵=進度1、トニオ=進度2、ユーリ=進度0だ。単純に時間経過で進行するものではないらしい。女性陣の進度進行が遅い事から、性別で差があるのかとも思われたが、廊下で石化している研究員には女性もいた。何が病の進行の鍵になっているかは依然として不明だ。

 

 警備室の扉のセキュリティはクラス2だったが、一太郎は廊下で石化していた所員から拝借したクラス3のタグを持っているので問題なく開いた。

 警備室には4つのモニターが並んでいて、所内各所に設置された監視カメラの映像が定期的に切り替わりながら映し出されている。モニターの前の椅子に制服を着た警備員が座っていたが、四人が入ってきても全く反応する様子がない。そっと正面に回り込むと、案の定石化していた。石化し灰色になった瞳をモニターに向け続けている。

 

 警備室では期待していたような情報は得られなかった。まず画像が荒く、細部まで見られなかったし、明かりの点いていない地下などの部屋は真っ暗で何も見えない。また、地下の冷凍庫のカメラの一つは作動すらしていなかった。非常にいい加減な監視体制だ。

 一方で、不安を煽る情報だけは得られた。カメラが切り替わった時、石化している事を除けば五体満足だった所員の頭が砕け散っていたり、画面端に何かに引きずられていく所員の足が映りこんでいたりした。研究所を徘徊する凶暴な何者かがいるのだ。カメラの配置や切り替わりの順序・ペースが悪く、何者かの姿を追跡も確認もできないあたりに杜撰な監視体制が伺えた。ガバガバな監視をすり抜けて外部から侵入した魔術師が石化魔術をかけて回っているのではないかとすら思えてくる。

 

 不安が増すだけになった警備室を出て、四人は葵の提案で食堂に向かい、部屋の隅のダンボール箱の中に余っていた弁当を食べた。会議室に誘導されてから六時間以上経つが、何も食べていなかったのだ。

 

「勝手に食べていいんでしょうか」

「あ、これ私のバイト先の弁当だから。私から話つけとくから大丈夫。どうせなら高いの食べよ、幕の内とかどう? 二千円するやつ」

 

 ユーリの庶民的な疑問に葵が笑って答える。釣られてユーリも微笑んだ。どんな状況でも腹は減り、腹が減れば不機嫌になる。空腹が満たされれば、幾分かは前向きになれる。

 しかし腹が満ちて前向きになった心は、空の弁当箱を片付けている途中にトニオの進度が3になっている事が発覚して急降下した。

 

「大丈夫デス、問題ぜんぜんノープロブレム。ちょっと体が固くナッチマッタナーってぐらいですよオ。最近ハードワークでストレッチなまけてたからね!」

 

 明るい口調で言うトニオだが、不安と怯えがもろに顔に出ている。明らかに空元気だった。

 

「早く実験室に」

 

 葵が言い、三人は異論もなくそれについて行く。

 一太郎は食事中に研究所にGウイルスへの有効な薬があるならこんなに惨々たる有様にはならない事に思い至り、頭痛薬=治療薬の存在が望み薄である事を悟っていたが、悪化するばかりの現状でそれを口に出し、ますます気分を盛り下げる気にはなれなかった。治療薬の量が少なくて全員に行き渡らなず奪い合いになったとか、保管されていた治療薬は少ないが、治療薬の精製設備があるとかの見込みはあるのだ。希望的観測だが。

 

 物言わぬ石像が嫌でも目に入る地獄めいた廊下を渡り、実験室に着いた。実験室の扉のセキュリティ(クラス3だった)を解除し、中に入る。

 様々な実験器具やサンプルが並んでいて、研究職の一太郎にはそれらがかなり高価な機材である事が分かった。研究者にとっては素晴らしい環境だ。壁際の書類棚には膨大な数のファイルが収められている。

 一太郎とトニオが何か治療薬に繋がる手がかりは無いかと、機材とサンプルを調べている間に、ユーリと葵は資料棚を調べる事になった。

 

 機材を確認していた二人は、硬化した筋肉のサンプルなどは見つけられたが、治療薬は発見できなかった。治療薬の精製に必要と思しき機材もない。それどころか、机の上に置かれた市販の頭痛薬が見つかった。ユーリに見せると、自分がもらったのはこれだと言った。絶望しかない。自分がいつまで経っても進度0なせいかユーリは悲しそうにはしても恐怖する様子はなかったが、進度が上がっている三人のショックは大きい。

 

 三時間ほどかけて実験室を調べ尽くした結果分かった事は、石化の症状に治療薬など存在しない事。それと、sahime sampleという奇妙なものについての情報だけだった。

 sahime sampleは菌類に酷似しているが、動物に近く、その知性は云々、人間との交流がほにゃほにゃ、などと随分曖昧である。資料の肝心な部分が塗りつぶされていたため仕方ないのだが、よくわからない。葵がメモした研究所の見取り図によれば、地下にサンプルを保管する冷凍庫があるらしいので、そこに行けばはっきりするだろう。どうせ通信復旧のために地下には行くのだ。ものはついでである。

 

 徒労に疲れきった四人は、予定通り地下に行く事にした。外部から救援を呼び、整った環境でユーリが感染しない謎を調査してもらい、その結果治療の目処が立つ事を祈るしかない。

 地下室に行く前に進度を確認すると、一太郎=進度3、葵=進度2、トニオ=進度4、ユーリ=進度0になっていた。

 

「ああ……」

 

 これまで進度1から上昇していなかった葵が呻き、手をおいていたテーブルの縁を無意識に握りつぶした。進度7までの折り返しを過ぎたトニオは空元気を見せる余裕もなくなり、力なくうつむいている。ユーリは沈痛な表情を見せているが、腹の底は未だ知れない。

 

 一太郎は冷静に進度の進行の原因を考えていた。

 進度0のユーリはこの際例外として除外して考える。「透視」による上昇を差し引くと、一太郎=進度2、葵=進度2、トニオ=進度4である。この差は何なのか。

 記憶を探る。最初に会議室に入ってきた所員。廊下に倒れている所員達。監視室で石化していた警備員――――

 

「ん?」

 

 そういえば、警備員は椅子に座り、モニターを見た状態で石化していた。他の所員達のように廊下に出て逃げ惑ったり、暴れたりした形跡はない。なぜだろうか。

 関節や筋肉の硬化は、動かなければ案外気付けない。椅子に座ってじっとモニターを見ているだけなら、自覚症状はそれほどなかっただろう。しかし流石に完全に石化するまで自覚症状が無いというのは考えにくい。どこかで自分の体の異変に気付いたはずだ。異変に気付けば助けを呼ぶのが普通だろう。しかし警備員の様子からして、そうしようとした風ではなかった。

 気付いた時には既に手遅れだった? 誰もがそれほど急激に進度を上昇させるなら、今頃一太郎達は全員石像になっている。警備員の進度が特別に急激に上がったと仮定して、そこには理由があるはずだ。

 

 同じく症状の進行が早いトニオと、警備員の共通点は何か。

 人種ではない。性別でもない。年齢も違う。

 体質的なものではないかも知れない。行動はどうだろう。じっとモニターを見ていた警備員。メッセージディスプレイを操作したり、モニターを操作したり、機材を点検したりしていたトニオ。

 ……ディスプレイ、あるいは機械に接していた、という点が共通している。それなら辻褄は合う。混乱して廊下で動き回っていたであろう所員達よりも、その様子を監視室で見ていた警備員の方が機械に囲まれて密接に接し続けていた。一太郎も多少は機材に触れていたし、葵も若干弄っていた。ユーリは相変わらず謎だが。

 

 考えをまとめた一太郎が自説を披露すると、概ねの賛同が得られた。ユーリの説明はつかないが、研究所は機械だらけで、研究員達は研究機材にパソコンにと機械を使用する頻度は多かっただろう。進度の上昇が早かったのも頷ける。機械が発する光がまずいのか、電磁波か何かがまずいのかは不明だが筋は通る。

 研究所の機械を破壊して回ろうという案も出たが、機械にGウイルスあるいはその成長促進因子が潜んでいるのなら、機械を破壊する事でそれが撒き散らされたり暴走したりしてますます酷い事になるかも知れないため却下された。情報を調べたり、外部と連絡をとったりするためには破壊するわけにはいかないし、もしかしたら治療法が見つかり、そのために機械やその中のデータが必要になるかも知れない。かも知れない、ばかりで何一つとして確定情報が無いが、右も左もわからず彷徨うよりも、予想を立てて行動できるだけマシである。

 妥協案として機械にはなるべく近寄らず、使用も控える事になった。

 

「あれ、でも私はずっとノートパソコン持ってますけど進度増えてませんよ」

 

 ユーリは持ち歩いていた自分のノートパソコンを示して言った。確かに、一太郎の理屈ではユーリの進度も進んでいなければおかしい。ユーリはノートパソコン持ち歩くだけではなく、食事中に起動させて音楽を聴いたりしていた。機械に接していた、というのが条件ならユーリも進度が進んで然るべきだ。

 ユーリは例外だから、で片付けていたが、改めて指摘されてみると奇妙だ。Gウイルスが機械に接すると症状が進む、コンピューターウイルスめいた側面を持つのであれば……もしかして。

 

「ミカミさんのノートパソコンの中にアンチウイルスプログラムが入っているのかも知れません」

「アンチウイルス……? すみません、どういう事でしょうか」

「Gウイルスはウイルスはウイルスでもコンピューターウイルスを指しているのではないか、という事です。コンピューターを感染源として、人にも感染する、生物学的ウイルスとプログラム上のウイルスのハイブリッドのような存在だとすれば現状の説明もつきますし、ミカミさんのノートパソコンにアンチプログラムが入っているとすれば機械に接していても進度が進むのではなく逆に0に保たれている事も説明できます」

 

 一太郎が言うと、葵とトニオは納得していたが、ユーリは一笑に付した。

 

「そんなオカルトな事があるわけないですよ。コンピューターウイルスが人を石にしてるなんて。八坂さん、疲れてるのでは?」

「疲れているのは否定しませんが、頭は正常ですよ。思い当たる事はありませんか? 最近、何か新しいプログラムをいれた記憶は?」

「それ本気で聞いてるんですか?」

 

 ユーリは正気を疑うように聞いたが、一太郎の真面目な顔を見て、呆れて葵を見て、葵も真剣な顔をしているのに驚き、トニオのすがるような顔を最後に見て、ため息を吐いた。

 

「みなさん、一度休憩しましょう。こんな状況ですから混乱するのも分かります。八坂さんの説だと、私のパソコンは安全なんでしょう? 休みながら見せますから」

 

 未だにこの事態を常識の尺度に当てはめて考えているらしいユーリは、精神異常者を優しく諭すような調子で言った。

 

 地下室への階段の手前に倉庫があったので、四人はそこに入って休憩する事にした。倉庫には工具や電子機器が棚に並べられていたが、どれも起動していない。進度上昇を促進させる事はないだろう。

 ユーリは完全に無駄だと思っているようで、面倒そうにノートパソコンを起動させた。スタート画面が立ち上がったところで、充電が切れかかっている事に気付き、ケーブルを出してコンセントに繋ぐ。

 

 途端にパソコンが意味不明な文字列を凄まじい速度で流しはじめ、瞬きする間に真っ青な画面になって静止した。

 

「え?」

「ジーザスクライスト!」

 

 呆気に取られて呆然とするユーリを押しのけ、トニオがノートパソコンに飛びついて高速タイピングを始める。しかし画面は一向に変化しない。

 トニオは早口のスラングで悪態を山のように吐き出し、最後に頭を掻き毟った。

 

「ファック! 完全クラッシュしてるますよォ!」

 

 騒ぎが起きてから、ユーリのノートパソコンは一度も電気的・電子的に研究所に接触していなかった。それをコンセントを繋いだだけでクラッシュしたという事は、機械や回線の類に何かが潜んでいる事は確定したと言っていい。しかし推論確定の代償は余りにも大きい。

 起死回生の一手になるかに思えたユーリのノートパソコンは完全に使い物にならなくなり――――

 今まで0だったユーリの進度が、静かに1の数字を刻んだ。

 

「え……あ、え……う、嘘、嘘よこんなの! た、助けて! 誰か! 死にたくない!」

 

 ユーリは自分のタグを見ると半狂乱になって叫び、倉庫を飛び出して行こうとした。

 

「待ってミカミさん、落ち着いて!」

 

 葵が急いでユーリに組み付き、怪我が無いように注意しつつ素早く床に押し倒した。バイオハザード中に錯乱状態の人間を一人にすれば死亡一直線だ。

 

「や、やだ! やめて! 離してよ! こんなとこにいたくない! 石になりたくない! もうほっといて! 私一人でも逃げてやるんだから!」

 

 ユーリは逃げ出そうともがいたが、ゴリラと腕相撲できる葵を振りほどけるはずもない。しばらく喚き散らして暴れていたが、やがて疲れてぐったりと大人しくなった。葵が拘束を解いてももう逃げようとはしない。目は充血して涙の跡があり、床で暴れたため服は乱れ埃まみれ。表情にはありありと恐怖が浮かんでいる。

 その様子を見た一太郎はユーリは犯人ではないという思いを強くした。一太郎の疑念に気付き、疑いを逸らすためにあえてウイルスを受け入れ錯乱したフリをしたのかも知れないが、これが演技ならアカデミー賞ものだ。

 ユーリへの疑念は、ユーリが犯人であって欲しいという自分の願望の表れなのではないか。単なる事故や偶然でこんな事件が引き起こされているとしたら手の打ちようがない。だから無意識下で犯人を想定し、今までと同じように犯人を倒せば解決すると思い込もうとしているのでは。命の危機に晒されているのに、何をしても無駄だ、もう詰んでいるのだ、という現実は直視したくないから。

 

 ユーリ犯人説を唱えたのは一太郎自身だが、所内を探索しても一向に進展がなく、見つかるのは絶望ばかり。自分に自信が無くなっていた。

 一方で、頭の中の冷静な部分が、疑念を捨て去るのは愚かしいという。最終的には自分だけ助かるようにセーフティーがあるのから感染を受け入れたとか、本当にアカデミー賞レベルの演技をしているとか、パソコンクラッシュからの進度上昇は犯人であるからこそと考える事もでき、疑いは消えるには至らない。

 

 葵がユーリを落ち着かせようとしているが、まともに話せるまで立ち直るにはしばらくかかりそうだったので、トニオと一太郎は先に地下へ通信ケーブルを見に行く事にした。地下への階段は倉庫のすぐそこである。ここまで来て足踏みをするのも馬鹿馬鹿しい。

 

 ところが、地下への階段は分厚い隔壁によって閉ざされていた。研究所の出口を閉鎖していたものと同じで、一目で破壊不可能だと分かる重厚さだ。階段脇の、恐らく隔壁を開けるためのディスプレイの前には何人もの石化した所員が折り重なるように、ディスプレイにすがりつくようにして倒れていた。隔壁の向こうからは何か嫌な気配がする。もっとも、バイオハザードに巻き込まれてから嫌な気配を感じなかった瞬間はないのだが。

 

「なンだこれは……たまげたなぁ」

「地下に何かあるのか? セキュリティレベルは」

 

 ディスプレイに表示されたセキュリティクラスは4。副所長の金久保か、所長の瀬良にしか開けられない。それでもクラス3以下のタグしか持っていない所員達がここに集まり、なんとか開けようとしたような形跡があるという事は、それだけ重要な何かが地下にあるという事なのだろう。

 例えば、石化の治療薬、とか。実験室の資料にはそんなものは無いと書かれていたが、情報が隠されている可能性もある。

 

 しかし一太郎達もまた、クラス4以上のタグは持っていない。所長は急用とやらで不在らしいので、残るはクラス4のタグを持つ金久保だ。金久保を探すのが賢明だろう。生きていても死んでいても。

 

 倉庫に戻ると、葵がユーリの背中をさすって慰めていた。一太郎とトニオを見るとびくっとしたが、すぐに平静を取り繕った。体面を気にできる程度には落ち着いたらしい。

 

「地下の様子の報告も兼ねて状況をまとめましょう」

 

 適当な棚に腰掛け、一太郎が言うと、視線が集まった。

 

「我々が助かる方法として、外からの救助と、内部での自己解決の二通りがあります。

 外からの救助は最悪でも二、三日も待てば事態を察して来るでしょう。地下の通信ケーブルを復旧させればすぐです。ただし、電気・電子的経路でGウイルスが広がっている可能性があるので復旧の際には慎重になる必要があります。助けを呼ぶついでにウイルスを外に放出した、というオチは見たくありません。

 内部での自己解決ですが、決して非現実的ではありません。研究所内で発生したバイオハザードですから、研究所内に治療薬なり、治療法の手がかりなりがあるというのは自然な考えでしょう。今のところ、治療に繋がるそれらしい手がかりは二つ。

 今地下への階段を見に行った所、隔壁で封鎖されていました。セキュリティクラスは4。それだけ重要なものが地下にあるという事です。隔壁付近に所員の方の石像も多くありました。地下へ行こうとしていたのでしょう。セキュリティを突破できなかったようですが。

 二つ目はユーリさんのノートパソコンです。それが壊れた途端に進度が上がったという事は、中に入っていたデータが進度の進行を抑えていたと考えられます。電子データが生物の病の進行を抑えるという理屈が理解できないのなら、生物に良い影響を与える電磁波を発するプログラムデータが入っていたとでも考えて下さい。どちらにせよ、結果として石化を食い止める事ができるなら問題無いんです。心当たりはありませんか? 何か、それらしいものをノートパソコンに入れた覚えは?」

 

 ユーリは思い出そうとするように、あるいは上手い嘘を考えるように、眉根を寄せて目を閉じた。

 一太郎の考えでは、ユーリのノートパソコンには何らかの方法で石化を防ぐ魔術がかけられていたはずだ。魔術は電子データの形を取る事も有りうる。一太郎はこれまで読んだ魔道書から、数式の形をとった召喚魔術の存在を知っていた。電子データの魔術があってもおかしくない。ユーリを「透視」して一太郎の進度が上がったのは、同じ視界にテレビやディスプレイを入れていたからだろう。とにかく、防御魔術がコードを介してGウイルスに過度の接触をする事で破れたのだ。ノートパソコンにかかっていた魔術が予防専用で、治療には応用できないものなら未来は無いが、それもこれもユーリにかかっている。ユーリが記憶に無いと言えば、魔術の検証すらできない。

 

「……無名祭祀書、という本の翻訳データを入れていました」

 

 やがて、ユーリはためらいがちに言った。



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1-4 腕に刻まれる死(後)

「翻訳というと、会議室で訳していた?」

「それです。所長に頼まれていた、気味の悪い本の翻訳です。あまり口外しないで欲しいと言われていましたし、バイオハザードとは関係無さそうだったので黙っていたんです。正直今も関係あるとは思えないんですが……えっと、無名祭祀書にはわけのわからない宗教的な儀式について書かれていました。プログラムは書かれていなかったと思います。でも他には大学のレポートとその資料データぐらいしか入れていないので、思い当たるのはそれだけです」

「でもユーリ=サンのパソコン壊れてるますたからネー。butもしかして再起動したらば直ってタリ………………やっぱり壊れてるじゃないか(憤怒)」

「サルベージも無理そうだね。んー、翻訳データって事は翻訳元の本もあるんだよね。それは?」

「図書室の金庫に入れてあります」

「金庫かぁ。鍵とかかかってない?」

「暗証番号が必要ですけど、私が知ってます」

 

 外部への通信復旧のためにも、あるかもしれない治療法を探すためにも地下へ行く必要がある。そのためにはクラス4のタグを持つ金久保を探す必要がある。が、金久保の居場所は不明である。研究所が閉鎖される前に外に出た可能性もあるし、所内をしらみつぶしに探しているとかなり時間を使う。電子機器に囲まれ、常に進度上昇を促進する所内を無駄にうろつくのは避けたいところだ。

 相談の結果、場所がわかっている無名祭祀書から行く事にした。ユーリは無名祭祀書が治療の手がかりになるという考えを半信半疑どころか九割疑っているようだったが、一太郎は九割信じていた。

 一太郎はユーリに疑念を抱き続けていたが、そろそろ疑うのも無理があるようになった。ユーリが事件の首謀者で一太郎達を破滅させるつもりなら、もっと手っ取り早い方法がいくらでもあったはずだ。適当に唆して機械に積極的に触れさせるようにしても良かったし、探索の途中でそっと離れ、一太郎達をどこかの部屋に閉じ込めて火をつけたり、石化治療の手がかりになるものを潰して回ったりもできた。

 これで無名祭祀書が予想通り魔道書で、石化への対策が載っていればユーリは完全にシロである。一太郎は勘違いで勝手に踊っていた道化という事になる。是非道化になりたかった。ユーリが犯人ではなく、治療法も見つかるなら、それが最善なのだ。

 

 図書室に移動し、扉を開けて中に入る。ユーリの先導で図書室の中に併設された資料室に入ると、すぐに壁に埋め込まれた小型金庫が目に入った。電子ロック式だ。機械との接触が進度上昇を促進すると分かった今、触るのは躊躇われる。

 少し相談して、暗証番号の入力は数秒で済む事、進度が一番低い事から、ユーリが開ける事になった。

 

 手馴れた指の動きで十数個の数字を入力する。ところが、「暗証番号が違います」と表示された。ユーリは首を傾げ、今度はゆっくりと数字を確かめながら入力する。

 表示は変わらず「暗証番号が違います」だ。

 

「あ、あれ? どうして……今朝はこれで開いたのに」

「ちょと私にの見せて下さイ、オナシャス」

 

 ユーリの代わりにトニオが金庫の前に立ち、電子ロックを操作する。少しして、トニオは難しい顔になった。

 

「私達が会議室ボッシュートされた時間に、暗証番号変更するれた記録がありマス」

 

 痛々しい沈黙が降りた。

 バイオハザードが発生してからというもの、希望は潰すものと言わんばかりに、見えた救いの光が近寄った途端に消えていく。これが仕組まれたものなら、犯人は相当性悪だ。

 

「前向きに考えれば……わざわざ暗証番号が変更されているのだから、恐らくこの事件を引き起こした首謀者は金庫の中身を見られたくない、つまりこの中の無名祭祀書は事態解決の切り札に成りうる」

「でも開かないんだよね?」

「……ミカミさん」

「すみません、暗証番号が無効だとどうしようも。クラス4のタグがあれば暗証番号無しでも開けられるみたいですけど」

 

 結局はクラス4のタグに行き着いた。地下へ行くのにも、金庫を開けるのにも、クラス4のタグ=金久保のタグが必要になる。

 こうなると、今度は金久保が怪しくなってくる。

 暗証番号の変更権限を持つ程度に立場が高く、石化治療への道を塞ぐ壁を取り払うのに必要なクラス4のタグを持つ。疑うには十分だ。少なくとも、ユーリよりは合理的な疑うだけの理由がある。

 

 金久保が真犯人だとすると、金久保を見つけてもはいどうぞとクラス4のタグを貸してくれるはずがない。見つからない場所に隠れているか、既に脱出して高見の見物か、見つけた途端に襲ってくるか。良い予感はしない。

 

「…………」

 

 一太郎は手の甲で金庫を叩き、音を聞いてみた。金属音がする。それしか分からない。

 

「すみませんトニオさん、金庫の厚さはわかりますか?」

「ン? ンー、この型なら6、7cmってトコだろネ。そなこと聞いてどないするネン」

「こじ開けます」

「えっ、いや、いくらなんでも金庫は蹴り破れないよ? 壁に埋まってるし」

 

 葵の言葉に、一太郎は首を横に振った。そして金庫をじっと見ながら、低く唸るような、不吉な響きをはらむ未知の言語で詠唱を始めた。

 《萎縮》の魔術を使うのだ。魔術が進度上昇の原因ではないと分かった今、使うべき時に使うのは躊躇わない。

 魔術書に記されていた元のラテン語では《pigrae》というこの魔術は、直接的かつ破壊的な呪文である。消費した魔力に比例した威力の呪いを対象に与え、破壊し、黒焦げにすることができる。生物に使うと焼け焦げてしなびたように見える事から《萎縮》と呼ばれているらしい。生物に使う場合は、相手の保有魔力次第でレジストされてしまうのだが、金庫は魔力など欠片も持っていない。十数秒の不吉な詠唱を経て完成された《萎縮》は、金庫の扉をボロボロに破壊した。

 

 目の前でひとりでに煙を上げ、ねじ曲がり奇妙に熔解していった金庫を見た三人は絶句した。魔術を行使した一太郎でさえ、はじめて実践したその結果を目の当たりにして動揺を禁じえない。魔道書ではヒトへの使用について書かれていたからだ。こんな魔術をヒトに使ったら想像するのも恐ろしい凄惨な結果を招くだろう。

 

 一太郎は破壊された金庫の扉に手を突っ込み、触れた物を引っ張り出した。出てきたのは真っ黒い革で装丁された古びた大きな本だった。タイトルは「Das Buch von den unaussprechlichen Kulten」。これが無名祭祀書だろう。懸念要素だった《萎縮》の余波による焦げなどもなく、状態は良好だ。

 無事に無名祭祀書を手に入れた一太郎が振り返ると、自分を見つめる三人と目が合った。

 

 葵は純粋に驚いているらしい。オカルト的現象への理解はあったが、魔術や怪異は神話的存在の専売特許というイメージがあったため、それを一太郎が行使した事にびっくりしたのだ。

 トニオは交互に一太郎と穴の空いた金庫を見比べている。一太郎の詠唱と、金庫の破壊が上手く頭の中で結びついていないかった。常識的に考えて、言葉を唱えただけで金庫がボロボロに破壊される訳が無い。一体どういうトリックか、と混乱している。

 ユーリは恐怖の目を向けてきていた。一太郎と目が合うと、びくっと体を震わせ後ずさる。オカルトを頭ごなしに否定していた割に、一太郎がした事を正確に理解したらしい。呪文を唱えただけで金庫を破壊するような、得体の知れない相手である。ある意味正常な反応だろう。一太郎も、魔術知識が無い状態で、会って一日も経っていない人物が突然破壊的な超常現象を振るうのを見たら警戒するだろう。

 

「あー……」

 

 どう説明すればいいかと頭を掻いた一太郎は、突然目眩に襲われた。

 暗い地下、火山の噴火、地震による鳴動、そしてこの世のものとは思えない不気味な唸り声。既視感のあるイメージが、前回よりもより鮮明に頭の中に反響する。

 

 無数の触肢を持つ、ビルよりも大きな形容し難い怪物が太古の火山に潜んでいる。のたくるような不快な動きで地表に現れたそれを見た種々様々な生物達が、それを見た途端にこの世ならぬ恐怖に絶叫し、凄まじい形相を浮かべながら体をみるみる石化させていき、物言わぬ石像となる。怪物はそれを意に介さず、気づいてもいないかのように地表を茫洋と見渡し、もぞもぞと動いた後、飽きたように火山に戻っていった……

 

 幻というにはあまりにも鮮明な感覚に冷や汗をびっしりと浮かべた一太郎は、目をこすって自分が現実にいる事を確かめた。

 一太郎は今度は自分が視た幻の意味を理解した。Gウイルスの正体は、火山に潜み眠っている太古の神性が放つ石化の呪いだったのだ。何者かがその神性の力を現世に呼び込み、機械を介して呪いをばらまいている。神性そのものが降臨していたら今頃研究所程度は跡形もないから、力を呼び込んだといっても一部に過ぎないだろうが、それだけでもこの有様である。

 

 自分のタグを見ると、進度が4に上がっていた。体がまた重く、さびついてぎこちなくなったように思える。金庫の電子セキュリティに近づいたため、進度が上がったのだろう。金庫から離れていた葵を除いた二人も進度が上がってしまったらしく、焦点の合わない目でぼーっとしていたり、力なく壁にもたれかかったりしている。

 現在は一太郎=進度4、葵=進度2、トニオ=進度5、ユーリ=進度2だ。トニオは完全に石化する進度7まであまり余裕がない。

 

 一太郎は無名祭祀書をパラパラと捲った。ユーリが翻訳のために付けたのか、あちこちに付箋やメモが挟まっている。

 

「翻訳データでウイルスガードできるならさあ、これでウイルス死滅させたりできねーかな。てかこの本量産して全員持っとこうぜ」

「でもまたパソコンに文字を入力するのは何日もかかりますし……」

「コピーすりゃいいじゃん。コピー機くらいあんでしょ? 図書室なんだから」

「……八坂君、また人格裏返ってない?」

「だから俺は八坂じゃなくて根津だっつーの。どうすりゃ間違えんだよ、ぜんぜん似てねーだろ。俺のがイケメンだし、モテるべらっ」

「はいはい正気に戻ろうねー」

 

 一太郎は頬に平手を貰って我に帰った。ユーリに大丈夫かコイツ、という目で見られて少し凹んだ。実際大丈夫ではないが、害はない。どうも未弧蔵なりきりモードの時は柔軟な発想と行動ができるらしいので、むしろ良い事もある、と心の中で自己弁護する。

 三人に自分が使った魔術についてざっと弁解してから小一時間ページを捲った一太郎は、それらしい部分を見つけた。ドイツ語で書かれているが、要所にユーリのメモが挟んであるのでなんとなく概要は掴めた。

 遥か昔、火山に棲む邪悪な神性を退治しようとした魔術師が、石化の呪いを防ぐために巻物を作ったという。その魔術師は結局神性の討伐に失敗したのだが、巻物の効果そのものは有効だったようだ。魔術師の名前をとって「トヨグの巻物」と呼ばれるその巻物について、一章の半分ほどを割いて記されていた。

 細かな理屈はじっくり読み込んで解読しなければ分からないが、要は巻物だろうとなんだろうと、あるヒエログリフに似た特殊な文字を記したモノを持っていれば石化を防御できるらしい。ユーリが無事だったのは、トヨグの巻物の画像データを翻訳の参考のためにノートパソコンに入れていたからだったのだ。

 

 試しにコピー機でトヨグの巻物の部分をコピーして、「透視」を使って視てみると、原本よりはかなり薄いものの確かに魔術的なオーラを帯びている事が分かった。ユーリのパソコンがクラッシュしたのは、複製して劣化したトヨグの巻物では、電気回路を介して直接侵入してきた呪いを完全には防ぎきれなかったからだろう。

 とにかく、これでようやく石化への対処法が手に入った。トヨグの巻物のコピーを持ち、なるべく電子機器から離れた安全な場所で待っていれば、いずれ外から救助が来る。救助を待つ間にユーリの力を借りて無名祭祀書の翻訳と解読を進め、より有効な石化対策・治療法を模索してもいい。

 トヨグの巻物のコピーを配っていた一太郎は、図書室に三人しかいない事に気付いた。

 

「……ミカミさんは?」

「え? あれ、さっきまでいたんだけど」

「なんやらどっか行っちまいましたヨォ。トイレかな?」

 

 別にトイレに行く事は何もおかしくはないのだが、何か引っかかった。昼休憩や、移動中にトイレに寄る時、これまでユーリは葵に一声かけるか、一緒に行くかしていた。今回、葵は何も聞いていないという。これまではユーリが犯人ではないかと疑っていたため目を離す事はなかったのだが、警戒を解いていたため見失ってしまった。

 声をかけ忘れただけなら良いが、取り繕ってはいるがほんの少し前には石化の症状が出て錯乱していたし、魔術を見せて怯えさせたばかりである。冷静さを失って危険な事をしているかも知れない。それにまだユーリにはコピーを配っていないのだ。何もせず研究所をうろつくだけでも十分危険である。

 

 廊下に出ると、遠くで石化した所員を蹴らないようにそーっと歩き、角を曲がろうとしているユーリの後ろ姿が見えた。

 

「ミカミさーん! どうしたんですかー!?」

 

 一太郎が声をかけると、ユーリはびくっとして振り向き、顔に恐怖を浮かべ逃げ出した。

 

「やっぱりいきなり魔術使ったのは不味かったか……葵さん、申し訳ありませんが、追いかけてあげて下さい。同じ女性ですし、私やトニオさんが追うよりマシでしょう。連れ戻すかはとにかくせめてコピーは渡して――――」

 

 一太郎の言葉をかき消すように、ユーリが消えていった方から悲鳴が上がり、続いて何かを叩きつけるような破壊音と男の興奮した叫び声、甲高い獣の鳴き声が聞こえてきた。

 真っ先に葵が駆け出し、一拍遅れてトニオと一太郎も続く。

 一太郎は警備室のモニターで見た謎の存在を思い出していた。石化の問題ばかり考えて失念していたが、研究所内には石化した所員を破壊したり、痛めつけたりするような凶暴な何かがうろついているのだ。ユーリはその存在に最悪のタイミングで遭遇してしまったらしい。

 

 持ち前の身体能力と身のこなしで廊下を駆け抜けた葵は、あっという間に音の発生源にたどり着いた。

 

「ミカミさっ……ん? え、何これどういう状況?」

 

 廊下の角を曲がった葵は、目に入った光景に混乱した。

 手足に千切れた鎖をつけ、棍棒のようなものを振り回すほとんど石化したチンパンジーと、バールのようなものを持ち、同じくほとんど石化した五十歳ぐらいの眼鏡の男が戦っていた。一人と一匹は明らかに錯乱していて、駆けつけた葵に目も向けない。二人が獲物をぶつけ合ったり、攻撃をもらったりするたびに、皮膚から石の欠片がボロボロと剥がれ落ちていた。

 

 その反対側では、上手く争いをすり抜けたらしいユーリがなぜか開いている地下への階段を転がるように降りて行っていた。ユーリが階段の下に消えると、すぐに扉が閉まり、封鎖される。葵は唖然とした。ユーリはクラス1のタグしか持っていなかったはずだ。階段を封鎖するセキュリティクラス4の扉は開けられない。

 まさか、ユーリが本当に犯人だったのか? それとも何者かに操られたり、脅されたりしているのか?

 

 疑問はひとまず棚上げにして、葵は所員に加勢すべくムエタイの構えをとった。そこに一太郎とトニオが追いついてくる。

 

「ユーリ=サ、ファッ!?」

「ミカッ……なんだこれ」

「二人共ちょっと待ってて!」

 

 葵は二人の戦いに割って入り、棍棒のようなものとバールのようなものを掻い潜ってチンパンジーの首に両手を回して頭を掴んだ。そうして頭を固定したところに間髪入れず飛び膝蹴りをお見舞いすると、元々石化が進んで割れやすくなっていたこともあり、チンパンジーの頭部をショットガンの接射でも喰らったように吹き飛んだ。

 それを見た一太郎とトニオは戦慄と共に葵だけは怒らせないようにしようと心に誓った。 太郎や ニオになるのは御免だった。

 

「よしっと。大丈夫ですか?」

「ああすまない助かったしかし私にできる事はもはやこれぐらいしかないんだ本当にこんな事しか情けないしかし誰かがやらなければならないすまない許してくれこれしかないんだ」

 

 一太郎は、早口にまくし立てるその男が金久保である事に気付いた。もう顔まで石化が進んできているが、近づいてみるとはっきり分かった。腕を見ればクラス4のタグをつけている。しかし、進度は既に7になっていた。

 金久保が犯人かも知れないと思っていたが、これで犯人ならよほどの間抜けだ。即座に金久保犯人説を捨て、トヨグの巻物のコピーを持って駆け寄った。金久保は頭部の砕けたチンパンジーの死体に執拗にバールのようなものを振り下ろして砕いている。

 

「金久保さん! 今朝案内して頂いた八坂です。時間がありません、何も言わずにこれを受け取って下さい」

「なんだねこの紙はそんなものを弄っている暇はないんだ君達もわかるだろう我々は終わりだ終わりなんだこれは単なるバイオハザードではない人類の科学を超えた超常現象なのだ治す方法などない石化すれば最後指一つ動かせない中で意識を保ち生き続ける地獄を味わう事になるのだそれは実験動物のチンパンジーだろうと人間だろうと一切例外はない私にできる事は苦しみを終わらせる事しかないこんな私を許してくれこれしかないこれしかないんだもうどうしようもない」

「いいえ助かります。落ち着いてください。進度7まで進んでも有効か分かりませんが、この紙が対処法なんです。詳しく説明する時間はありません、早く貰ってください」

「進度7? 7? 何を言って……」

 

 金久保は自分の体を見下ろし、そこではじめて体の半分以上が石化している事に気付いた。

 

「ち、違う! これは違う! 私は違うんだ! 私は助かるはずだ!」

 

 狂乱した金久保は絶叫しながらバールのようなものを振り回し、一太郎を近づけさせない。葵が無理にでも押さえつけてコピーを渡すか躊躇している間に、金久保の声はかすれ、腕の動きが鈍り、床に崩れ落ちた。見開いた目に絶望を浮かべた金久保が、口にまで石化が進む直前、うわごとのように言う。

 

「所長……奥様は手遅れなんです……だから、こんな危険な研究は反対だったのです」

 

 それを最後に、金久保は動かなくなった。一太郎が急いでコピーを持たせるが、石化は治らない。無名祭祀書を持たせても変わらなかった。コピーを持たせると同時に、口元に微かに肌色が残った状態で石化は止まったが、これでは到底助かったとは言えない。

 

「……行こう。ミカミさんは地下に行った。金久保さんのタグがあれば開くんだよね。金久保さん、これは借りていきます。もう少しだけ待っていて下さい。私達が必ず治療法を見つけてみせます」

 

 葵は金久保の耳元でそう言い、そっと腕のタグを取る。文字通り恐怖に固まった金久保の表情が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。

 金久保のタグで地下への隔壁を開け、三人は下に降りていく。地下に降りると、メッセージディスプレイや所内放送など、あらゆるスピーカーから奇妙な音が出ていた。それは人間の声とも機械の音ともとれるもので、聞いたこともない音ではあったが、何かの意味を成しているようだった。

 無名祭祀書に挟まれたユーリのメモに目を通していた一太郎には、それが火山の神性を召喚するための呪文である事が分かった。突然身一つで宇宙に放り出されたような混乱と衝撃だった。あんなものを召喚しようとしているなんて、全く正気ではない。

 

 奇怪な呪文が響く地階。開かないはずの扉を開け、中に入っていったユーリは一体何をしているのか? ユーリこそが、神性の召喚を企む魔術師だったのか?

 

「そこの扉、開いてマス。ユーリ=サンはそこにいるでは?」

 

 トニオが廊下の左側の扉を指した。開いた扉の奥から、不愉快な音楽のような呪文に紛れてガチャガチャと音がする。三人は顔を見合わせ、葵を先頭にその部屋に踏み込んだ。

 その部屋は機械室だった。配電盤、ボイラー、配管などが壁と床一面に広がっている。その一画にある太いケーブルが爆破でもされたように焦げて千切れていて、薄暗い部屋の中で、ユーリがそのそばに座り込み、近くのディスプレイの明かりに照らされながらケーブルを直そうとしていた。恐らくそれが切断された通信ケーブルなのだろう。

 

「ミカミさん」

 

 葵が声をかけると、ユーリは一瞬手を止めたが、また作業を再開した。

 稼働中の機械に埋め尽くされた部屋に、呪いを防ぐトヨグの巻物を持たずに居座るユーリのタグの進度は、既に5になっていた。それでも、まるでそれが自分の使命であるかのように、ユーリはケーブルを修理する手を止めない。

 石化の呪いは電線や電子データを介して広まる。対策もせずに外部への通信を復旧させれば、研究所の外にまで呪いは広がり大惨事になってしまう。

 葵は極力刺激しないように言葉を選びながら言った。

 

「ミカミさん、一度この部屋を出ましょう? 通信復旧は私達に任せて。この部屋に居たら進度がどんどん上がるから」

「嫌」

「えーっと、確かに八坂君は魔術を使ったけど、あれは今まで巻き込まれた事件のせいで仕方なく覚えただけで。それは私が保証する。八坂君はこの事件の犯人じゃないし、ミカミさんを陥れたりしないから。私を信用して。一度しっかり話し合いましょう?」

「信じないわ。今までずっと私の事疑ってた癖に『信用』なんて言うわけ?」

「…………」

 

 そう言われて葵は言葉に詰まった。警戒は気づかれていたのだ。事実なだけにぐぅの音も出ない。

 話している間にも、ユーリの進度はまた一つ進み、6になった。焦った葵が金久保の二の舞にならないよう、すぐにでも取り押さえようと一歩踏み出すと、ユーリが親の敵を見るような形相で睨んできた。思わず足が止まる。

 

「滑稽だったでしょうね。私が自分だけは助かると思ってるのを見るのは。希望を与えて、奪って、突き落として。そんなに楽しかった?」

「え?」

「今更とぼけるつもり? あなた達がバイオハザードを起こしたんでしょう」

「ミカミさん、何言ってるの?」

「聞いたのよ。あなた達がずっと私を騙してたって。もう騙されないわ」

「アオイ=サン、ケーブル直りそデス。無理やりでも止めて、どうぞ」

 

 後ろで距離を取って二人のやり取りを見ていたトニオが耐え切れなくなって言った。葵がごめん、と言って、ユーリに駆け寄り、ケーブルから引き剥がす。ユーリはその場に留まろうとしたが、抵抗むなしく突き飛ばされ、床に転がった。

 ぎこちなく立ち上がるユーリの手足の先から石化が始まった。進度7になったのだ。

 

 葵は倒れたユーリにコピーを持たせようとしたが、ユーリはそれを振り払った。機械と機械の間の狭い隙間に潜り込み、葵の手が届かない位置に隠れる。

 

「ミカミさん! 早く受け取って!」

「あなた達から受け取る物なんて一つも無いわ」

 

 吐き捨てるような言葉を残し、ユーリは葵の手を最後まで拒み、機械の奥で静かに石化を終えた。

 葵は伸ばした手を力なく下ろし、一筋の涙を零した。

 自分には誰も救えない。救えるはずの人も、救えなかった。あまりにも無力だった。いくら力が強くても、何もできない。もっと良いやり方はあったのだろうか。最初からユーリを信じていれば、こんな事にはならなかったのだろうか……

 

 ユーリの石化にショックを受ける葵と違い、一太郎はドライだった。ユーリの石化は悲しむべき事だが、もっと差し迫った問題があった。

 ユーリとの信頼関係を築こうとしてこなかったのは事実だが、それにしても変わりすぎである。これまで含むところがあっても四人で行動してきたユーリが、一人で、自身の石化も顧みず、通信ケーブルを直そうとしたのはなぜなのか?

 誰かから一太郎達が犯人だと聞かされたような口ぶり。ケーブルの修理中、手元を照らしながらちらちらと見ていたディスプレイ。

 

「トニオさん、そのディスプレイの通信履歴は見れますか?」

「エッ? アッハイ」

 

 自分はユーリの事を欠片も疑っていたのに、なんでまとめて犯人扱いされたんだろう、顔か? 顔が悪いのか? 不細工はそれだけで罪なのか? と考えていたトニオは一太郎に言われるがままディスプレイを操作して通信履歴を辿った。

 出てきた履歴は、ユーリと研究所所長の瀬良正馬のものだった。瀬良からのメッセージは「八坂一太郎、宮本葵、トニオ・スタークこそが共謀してこの事件を引き起こした犯人である。通信ケーブルを修理して外部から救援を呼んで欲しい」というもので、ユーリからのメッセージはそれに了承するものだった。以降、通信ケーブルの修理手順が表示されている。ユーリは瀬良の安否と所在を気遣っていたが、瀬良は自分は無事であると答えるだけで、所在は明かしていない。

 

 履歴を見た限りでは、瀬良はこれ以上ないほど怪しかった。ユーリから金久保へと、犯人像が二転三転しているだけに断言する自信はなかったが。

 所長である瀬良は不在のはずだが、なぜか内部の状況――――生存者の名前、通信ケーブルの破損を知っている。瀬良のタグのセキュリティクラスは5で、金久保よりも高い権限を持つ。図書館の金庫の暗証番号の変更もできただろう。そして金久保が最後に遺した、瀬良が研究を主導した事を匂わせる言葉。

 瀬良こそが、石化の呪いを研究し、神話的バイオハザードを起こした犯人ではないのか? そして瀬良は今も研究所のどこかに潜み、三人の様子を伺っているのではないか。

 

 今まで疑った相手がシロだっただけに、瀬良犯人説も怪しい。未だ地下に響く召喚の呪文は消えていない。悠長に瀬良犯人説の証拠を探していれば、破滅的な神性が召喚されてしまうかも知れない。しかし瀬良が犯人だと思い捜索し、撃退したら、実は瀬良もシロで真犯人は別にいた、という事になるかも知れない。

 ここで相手を瀬良を犯人と仮定して探索を進めるリスク。瀬良が犯人か確かめるために時間を使うリスク。どちらを取るか。

 

 ここまで共に調べてきて生き残った三人は一蓮托生。一太郎は理由を話し、決を採る事にした。瀬良を犯人と見て探すか、裏取りをするか。

 一太郎はまずは裏取りの採決をし、一人だけ挙手した。残りの二人は手を挙げない。一太郎は肩をすくめた。

 

「では瀬良探しで。今度は当たっていればいいんですが」

「ほんとにね」

「ウェイッ、このBGMで石になる呪いサモンするてるですね?」

「そうですね。だからといって音響機器を壊して回ったらそれだけで一日かかりそうですし」

「オー、イチタロー、頭悪い。ここは機械室です。ここから研究所の音源全部切ればOKよ」

「いやでも……あれ、それでいい、のか。やってみてください」

 

 トニオは部屋にひしめく機械から音響機器を見つけ、操作し始めた。途中で一度手を止め、他の機器からキーボードを持ってきて接続し、華麗な手さばきでタイピングをする。葵と一太郎はそれを期待半分、諦め半分で見守った。

 やがてトニオがッターン! と最後に派手にキーを押すと、地下に響き渡っていた詠唱がピタリと止まった。静寂が訪れる。

 トニオは二人に向けてバチンとウインクを飛ばしてサムズアップした。

 

「I did(やってやったぜ)!」

「えっ? これで解決? 事件解決したの?」

「した……みたいですね」

 

 詠唱は止まった。耳を澄ませるが、階上も静かだ。

 神性召喚が止まった以上、これ以上事態が悪化する事はない。後は研究所を情報的・電気的に封鎖した上で外部の救援を待ち、トヨグの巻物の効果を詳しく解析すれば良い。瀬良が何者だったのか分からないままだが、それも元公安の亀海率いる警視庁特命係が明らかにする事だろう。

 

 ようやく事態を収拾する事ができ、ほっと力を抜いた一太郎を祝福するように、エンディングテーマが流れ出した。スピーカーから流れる、悍ましい神性召喚の詠唱だ。

 

「あ、戻った」

「ファック!」

「あー……やっぱダメですね。惜しかったですけど」

 

 詠唱が止まっていたのはほんの五分程度だった。ぬか喜びに落ち込むと同時に、やっぱりな、という気もする。今までの事件では、なんだかんだで最後は命懸けの戦いになった。簡単に終わるわけがなかったのだ。最後までとことんやるしかない。

 

 トニオが音響機器を調べると、メインコンピューターからの操作で放送が再開された事が分かった。メインコンピュータールームは機械室から廊下を挟んで反対の部屋である。そこに瀬良がいて施設の音響や金庫の暗証番号を操作しているのかと思ってメインコンピュータールームに入ろうとしたが、扉のセキュリティクラスが5に設定されており、開かなかった。

 クラス5のタグを持つ瀬良が、クラス5でしか開かない扉の中に立てこもっているのならどうしようもない。扉は例によって強行突破不可能な隔壁だ。

 

「嘘だろ……いや考えてみれば当然か。誰だってこうする。俺だってこうする」

「扉がだめなら壁を破るとか? あ、ごめん壁もガチガチだねこれ。無理」

 

 軽く壁を叩いた葵は中の詰まった硬質な音に一瞬で諦めた。

 

「ドリルか溶接機がアレば私がこじ開けれれるんデスが」

「それ研究所にあるの?」

「無いデス。人間溶接機ならいますガ」

「《萎縮》ですか。手を突っ込むサイズの穴を開けるぐらいならいけますが、人が通れる穴は無理です。魔力が足りません」

「んー、廊下の壁はダメでも、隣の部屋の壁なら薄い、かも?」

「そんな欠陥設計あるわけ……いや監視カメラの配置もガバガバだったしなあ……案外いけるかも知れません。行ってみましょう」

 

 廊下の突き当たりにあるセキュリティクラス3の扉から中に入ると、そこは冷凍保管庫だった。部屋全体が冷凍庫になっているらしく、息が白くなるほど寒い。長くいると風邪をひきそうだ。円筒形や立方体など、様々な大きさや形の冷蔵庫が並んでいたが、いくつかの冷蔵庫の扉は開けっ放しになっていて、床には薬品が散乱している。強盗が入った跡のようだ。

 葵とトニオがメインコンピュータールームに面した壁の厚さを測っている間に、一太郎は部屋を調べた。散乱した薬品のラベルや開け放たれた冷蔵庫を調べると、冷凍血液や栄養剤など、生命維持に必要な薬品が荒らされている事が分かった。更に、床には割れてこぼれた薬品に濡れてついた奇妙な足跡が残っていた。甲殻類の特徴を持った足跡だが、あまりにも巨大すぎる。足跡から予測される大きさが2mを超えている。

 

 どういう事だろうか。ヒトが犯人かと思っていたが、人外の存在を匂わせるものがある。瀬良が自分の護衛に怪物を召喚したのかも知れないが、韮崎や「いきがみさま」が召喚していた魔術師御用達の怪物、無形の落とし子の特徴とは一致しない。未知の怪物と瀬良は協力関係にあるのか、それとも敵対関係にあるのか……手がかりが少なく、推理はできない。

 

「ここからも破るのは無理そう」

 

 残念そうに報告した葵に、一太郎は床に残る足跡を示した。足跡は部屋の奥に続いている。

 足跡を辿ると、赤と青の扉があった。どちらも「所長の許可なく立ち入る事を禁ずる」と書かれていて、足跡は青の扉に続いていた。というよりも、方向的に足跡は青の扉から冷凍保管庫を経由して外に出たようである。扉は赤青両方ともセキュリティクラス5。三人には開ける手段が無い。

 

「おっ? 何か挟まるてマス」

 

 しかし、トニオが赤の扉の隙間に挟まっている薬瓶に気付いた。これのせいで完全には閉まりきっておらず、赤の扉には入れるようだ。

 怪物が出てきたと思しき青の扉はもちろん、赤の扉にも入りたくはなかったが、再び手詰まり感が出てきた現状、情報を得るためには入らない訳にはいかない。所長の許可は無いが、バイオハザードが始まってから三十分おきに無断侵入を繰り返してきたのだから今更だ。

 赤の扉の中にも怪物が眠っていた場合に備え、最も戦闘力が高い葵を先頭に中に入った。

 

 ちょっとした会議室ぐらいの広さの部屋は、手術室のような印象を受けた。テレビ局のようなカメラが二台並び、大企業の研究職である一太郎でもカタログでしか見たことがないような、とんでもない値段がする最新の観測機器がずらりと置かれている。ただ、機械類は全て壁際に寄せられ、部屋の奥にはスペースが開けられていた。

 そこには板に立てかけられた姿見のような古い銅鏡と、その前の椅子に座る人影があった。入口側に背を向けているため、誰かは分からない。椅子の周りには石化した犬や猫などの愛玩動物が置物のように置かれていた。

 

「瀬良さん、ですか?」

 

 葵が遠慮がちに呼びかける。しばらく待つが、反応はない。

 葵はそっと椅子の正面に回った。二人もそれに続く。

 モナリザのようなポーズで椅子に座っていたのは、見た事のない女性だった。一昔前の、しかし高級な仕立てと一目で分かる上品な服に身を包み、穏やかに眠るように目を閉じ、椅子に背をもたせ掛けている。困惑して女性の顔をじっと見ていた葵は、彼女が丁寧な化粧のおかげで生きているように見えるだけで、石化している事に気付いた。

 

「八坂君、この人に見覚えは?」

「いえ、無いです」

 

 所長の瀬良正馬は男性である。女性ではない。白衣を着ていないので研究者でもないだろうし、装いからしてどこかの若奥様といった風だ。こんな所にいるのはいかにも場違いだった。しかし、彼女もまたタグはつけていた。進度7、クラス5である。驚きと共に腕からそっと取って裏面を見てみると、「セラ・コトリ」という名前が記されていた。

 

「セラ? 瀬良グループの人か?」

「だと思うけど。なんだろう、所長の家族とか?」

「所長の関係者なら研究所のデータベースに載ってる可能性があるな。トニオさん、ちょっと調べて……トニオさん?」

 

 妙に静かなトニオに声をかけると、トニオが銅鏡を覗き込んだ姿勢で静止していた。その顔には形容し難い見たこともないような恐怖を浮かべ、肌は灰色になっている。

 トニオは石化していた。

 手の中で煙も出さずに燃え尽きて灰になったトヨグの巻物のコピーがはらはらと床に落ちた。背筋をムカデが這い上がるような怖気に全身が震えた。機械類に囲まれているとはいえ、接触はしていない。一体なぜ。

 

 葵はぐらりとバランスを崩して倒れかけたトニオの石像を下に滑り込んで受け止め、床に叩きつけられて壊れるのを防いだ。葵が震える手で慎重にトニオの石像を寝かせている間、一太郎は「透視」を使った。板に立てかけられた銅鏡から、見ただけで内臓が腐りそうな邪悪なオーラが出ている。既視感のあるそのオーラから、一太郎は直感的に火山の神性の力を感じ取った。

 一太郎は迷わず銅鏡を掴み、壁に引きずっていき、斜めに立てかけて数度蹴りを入れた。銅鏡は歪んで曲がり、禍々しいオーラは霧散霧消する。覗き込んだトニオが魔術的防御を破られ一瞬で石化するようなモノが良いモノのはずがない。

 銅鏡が力を失っても、椅子に座ったセラ・コトリの石化は解けず、トニオも石になったまま。地下にはスピーカーから流れる召喚の詠唱が響き、「透視」を発動した一太郎の眼には、機械類から伸びる悍ましい呪いの波長が、手に持った無名祭祀書に弾かれて消えるのが見えた。呪いは消えていない。石化も治らない。銅鏡を破壊しても終わり、とはいかないようだ。何かの悪意的なアーティファクトであった事は間違いないだろうが。

 

 四人で始めた探索行は、今や二人となった。次は一人。そして最後は誰もいなくなるのか。

 解決に向けて、進展はしているはずだ。そう信じたかった。トヨグの巻物はあるし、図らずもクラス5のタグも手に入れた。しかしトヨグの巻物も、コピー品だからか決して万能ではない。かといってどうすれば完全な複製を作れるか研究する余裕はない。神性の召喚呪文は続いているのだ。

 もっとも、銅鏡を破壊した直後から、心なしか響き渡る召喚詠唱から本能的に感じる驚異は弱まっていた。召喚を補助するアーティファクトだったのかも知れない。

 

 葵と一太郎は、メインコンピュータールームに向かう前に、青の扉にも入ってみる事にした。

 地上階では怪物には遭遇しなかった。いたのは暴れるチンパンジーと、錯乱した金久保である。怪物がいるとすれば地下。青の扉から出て、冷凍室を通って外に出たのなら、行き先はメインコンピュータールームか機械室。機械室には怪物はいなかった。消去法で、怪物がいるのはメインコンピュータールームだ。

 メインコンピュータールームに行けば、恐らくまた怪物相手に命懸けの勝負を挑む事になる。その前に一つでも立ち向かうべき怪物の情報を掴みたかった。青の扉の中から出てきたのなら、その中に手がかりがあるかも知れない。

 

 青の扉の中は、赤の扉の部屋と同じくらいの広さの冷蔵室だった。ただしこちらには部屋の中央に棺桶のようなケースが置かれているだけで、随分殺風景だ。

 ケースを見てみると、「sahime sample」と刻印されたプレートがついていた。二人は、実験室で調べた資料にそんな名前があった事を思い出した。菌類に似ているが、動物らしく、知性があるとかないとかいう生物? だ。ケースには血痕がついていて、例の甲殻類に似た血の足跡がうっすらと外へ続いている。菌類で、動物で、甲殻類。

 理解不能だ。もっとも、理解できないのは人間的思考を保っている証拠であり、幸福な事なのかも知れない。

 

 一太郎が意外と軽いケースの蓋を開けると、中にはスーツ姿の男性の首なし死体が入っていた。鮮やかな切断面はまるで巨大なハサミで一気に切られたようである。無残な死体を見た葵はへたり込んだ。実際トラウマものだ。見た目の実感の湧きにくい石化という臨死よりも生々しく死というものを突きつけられる。

 しかし生来の図太さと冷静さを発揮した一太郎は、無造作に検死を始めた。

 冷凍室に放置されていたためか全身はすっかり冷え切っていて、死亡時刻の正確な特定は難しいが、死後8~12時間といったところだろう。死因は頭部の切断。見たままだ。持ち物を調べると、財布に入った免許証などから、死体が所長の瀬良正馬のものである事が分かった。そうなるとほんの一、二時間前にユーリを唆したのは誰だという話になるのだが、どうせ怪物の仕業だろう。人間のフリをして人間を唆す知性があるならば厄介である。瀬良は怪物に利用されていただけだったのだ。

 

 死体を調べ終わり、ケースそのものに目をやると、死体の陰に拘束具がある事に気付いた。随分頑丈な作りで、得体の知れない菌類のような組織が付着している。つい最近まで使用されていたようだ。

 ケースに拘束されていた怪物が逃げ出し、何かの理由で瀬良を殺し、研究所を乗っ取り邪神を召喚しようとしている。大筋としてはそんなところだろう。

 怪物について分かったのは、物理的な拘束具と低温で封じておけるという事。何か鋭利で巨大な武器か、器官を持っているという事である。

 

 コンピュータールームに行く前に、二人は作戦を練った。低温が効くようなので、一太郎は冷凍保管庫から液体窒素の容器を拝借した。中身をぶちまければ、行動を鈍らせるぐらいはできるだろう。その隙に葵が攻撃。物理的な拘束具が有効なら、物理的な打撃も効く公算は高い。どちらも駄目なら、一太郎の魔術の出番だ。《萎縮》である。

 詠唱に十数秒かかるため、葵が前衛となって時間を稼ぐ必要があるが、数ある魔術の中でも破壊的な《萎縮》を受けて無傷という事はまずない。魔術的素養であるPOWが一般人の限界を一歩超えている一太郎の魔術をレジストされたり、攻撃が通っても目立ったダメージがなかったりしたらお手上げである。一度撤退して作戦の練り直しだ。撤退できればだが。

 

 準備を整えた二人は、メインコンピュータールームの扉の前に立った。

 深呼吸した葵が、セラ・コトリのタグを持って一太郎を見る。一太郎が頷くと、葵はタグを扉のディスプレイにかざして開錠。扉を開けて中に踏み込んだ。

 

 部屋の中には大型のコンピューターとサーバーが並んでいた。天井から何かピンク色のものがぶら下がっている。

 天井を覆い尽くすものは、最初、ピンク色のロープが絡まったものに見えた。しかし、よく見れば一部はエビのような硬そうな殻に覆われていて、別の部分にはチカチカと黄色い光を発する楕円系の器官がついていた。そのピンク色のロープには、何十本というケーブルが絡み合い融合しており、ロープが奇妙に脈動するたびに、ケーブルに繋がっているコンピューターがカチカチと小さな音を立てた。

 そして、そのピンク色のものの中心には、大量の点滴チューブに絡まった男の頭部がぶら下がっていた。鋭利な切断面――――瀬良正馬の頭部に違いない。何かの見間違いと信じたいところであるが、それは虚ろな目を見開き、口をパクパクと動かし、確かに何かを二人に訴えかけていた。

 いかなる悪魔的医術だろうか。その生首は生きていた。

 

 二人は既に戦闘態勢に入っていた。怪物と対峙するにあたり、悍ましい光景を見るハメになる事は覚悟していた。覚悟だけで動揺せずにいられるほど生易しい惨状ではなかったが、硬直は少なく済んだ。

 天井の怪物が侵入者にピンク色の触手の間から出した巨大なハサミを向ける前に、一太郎は持っていた容器の中身を天井に向けて思いっきりぶちまけた。白い煙が上がり、怪物の触手と甲殻が真っ白に凍りつく。途端に部屋の空調が稼働し、凍結部に向けて温風を吹き出し始めた。やはり知恵が回るらしい。

 液体窒素はかけただけで浸したわけではないので、恐らく芯までは凍りついていない。温風を吹き付ければすぐに解凍されるだろう。しかしのんびりと解凍を待つ理由はない。葵は助走をつけ、大型のコンピューターを踏み台にして大きく跳躍した。助走と跳躍の勢いを乗せ、理想的な捻りを加えて体を回転させ放たれたサマーソルトキックは、物の見事に甲殻がなく凍りついた怪物の頭部と思しき触手の塊を捉えた。

 

 触手の塊は爆散という表現が相応しいほど華々しく飛び散った。軽い音と共に華麗に着地を決めた葵に怪物の破片が降り落ちる。葵は反撃に備えて防御の構えを取り、一太郎も空の容器を投げ捨て警戒したが、怪物の反撃は無かった。それどころか怪物の体が溶解していき、気色の悪い液体になって天井から滴り落ちはじめた。不自然な稼働を見せていたコンピューター群は次々と停止し、沈黙する。地下に響き渡っていた召喚の詠唱は突然止んだ。

 

 一撃必殺。幸運も味方した実にスマートな作戦勝ちだった。

 

 静かになった部屋に、天井から支えを失った生首が落ちる音が響いた。生首は焦点の合わない目で、しかし何かを訴えかけるように葵を見ていた。困惑した葵が一太郎を振り返る。一太郎は「透視」を使った。機械にもはや呪いの陰はなく、怪物のオーラも見えない。怪物は死亡し、呪いの拡散も止まったのだ。今度はぬか喜びという事もない。

 一太郎の頷きを受けた葵は、瀬良の首に近づいた。彼はためらいがちに目の前にやってきた葵を見て優しく微笑んだ。

 

「コトリ……治ったんだね。彼は約束を守ってくれたんだね……」

 

 彼の目には何が映ったのか。心底満たされたように安堵の言葉を呟き、瀬良は安らかな表情を浮かべ、動かなくなった。

 コトリとは、瀬良にとってのなんだったのか。妹か、妻か。大切な存在だったに違いない。怪物に取り込まれ、首だけになっても気にかけるほど。

 葵は瀬良の目を閉じさせ、ハンカチをかけた。瀬良が何を思い、何をしたのかは分からない。しかし、せめて死後は安らかであって欲しい。

 

 多くの犠牲者を出した事件は、こうして終着した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 怪物を討伐した数時間後に突入した完全武装の救助隊によって、葵と一太郎は無事に保護された。他にも休憩室で呑気に惰眠を貪り、呪いの進行から免れていた所員が一人だけ、石化せずに生き残っていた。その所員はどうやらバイオハザードの渦中にいた事すら自覚していなかったらしい。いつの間にか巻き込まれ、いつの間にか解決していた、というわけだ。気楽なものである。しかし葵と一太郎の他に一人でも生存者がいたのは喜ぶべき事だろう。

 

 一太郎からの連絡により、事件の処理は警視庁特命係に任された。砕けずに残っていた石像は回収され、SERaグループの圧力により、研究所で起きた小さな事故という報道しかされず、真実は闇に葬られる事になる。

 亀海の協力の元、一太郎が無名祭祀書を解読した結果、魔力を込めて肉筆で書く事により、トヨグの巻物は原本と同じ効力を持つ事が判明した。即ち、火山の神性――――ガタノソアの石化の呪いの完全なレジストと、回復である。進度7に達し、完全に石化してしまった者でも、完全なトヨグの巻物を持たせておけばゆっくりと石化は治り、半年ほどで健康体に戻れる。

 警察病院の隔離病棟に入れられた事件の犠牲者達は、約半年後、全員健全な肉体を取り戻した。

 

 しかし、体は戻っても精神までは戻らない事もある。

 銅鏡から深淵に潜む「何か」を直視してしまったらしいトニオは、石化が解けたとき、廃人になっていた。明るさは失われ、無表情で、何も喋らず、何も反応しない。生ける屍そのものだ。迎えに来たトニオの家族の嘆きが殊更に痛々しかった。

 身元調査により、瀬良正馬の妻である瀬良琴里と判明した女性もまた廃人になっていた。肉体は戻っても、精神が完全に壊れている。それは果たして生きていると言えるのだろうか。

 ユーリは石化解除後、極度の情緒不安定と診断され、精神病院送りなった。廃人一歩手前といった様子で、社会復帰できるかどうかは彼女の精神力と周りの支えにかかっている。金久保もユーリと同様だが、こちらはSERaグループ傘下の精神病院に収容されたものの、すぐに脱走、自殺した。口封じされたのか、本当に自殺したのかは不明である。

 

 SERaグループが圧力をかけてくる前に特命係が回収した書類や、一太郎と葵の証言により、今回の事件のアウトラインを辿る事ができた。

 

 五年前、瀬良グループの次期会長と目されていた瀬良正馬の妻、瀬良琴里が突然社交界から姿を消した。理由は謎であるが、その少し前、瀬良家の屋敷の倉庫を整理していた使用人が古ぼけた銅鏡を発見し、その事について琴里と話している。トニオが銅鏡を覗き込んだ時の症状からして、琴里もまた銅鏡を覗き込み、石化の呪いを受けてしまったのだろう。

 妻の突然の隠棲の直後から、瀬良正馬は社内での出世に興味を無くし、田舎に研究所を建て、そこに篭って筋肉の硬化に関する研究を始める。研究所から回収された資料によると、Gウイルス(ガタノソアの石化の呪いを示す隠語)による石化の治療法を探っていたらしい。瀬良正馬は妻のために立身出世の道を捨て去り、自ら先頭に立って必死に治療法を探していたのだ。見上げた男である。

 

 しかし、神話的呪いを医学的アプローチで治す事はできなかった。五年の月日が流れても研究に進展はなく、やがて研究のために使われた多額の使途不明金のSERaグループの役員に糾弾され、瀬良正馬は明日にでも更迭されるかも知れないという厳しい立場に立たされる。

 瀬良正馬はさぞ焦っただろう。更迭され、研究所から追い出されれば、もはや妻を助ける道は絶たれる。

 

 ここからは推測が多くなる。

 無名祭祀書の記述によれば、ガタノソアはミ=ゴという宇宙の彼方から地球へ飛来した怪物に崇拝されていたらしい。ミ=ゴの特徴は、一太郎と葵がメインコンピュータールームで戦った怪物と一致する。研究の一環か、それとも偶然か、SERaグループはどこかで捕獲したミ=ゴにsahime sampleと名付け、冷凍保存して研究所の地下に保管していた。

 ミ=ゴは人間の理解が及ばない知性と技術を持つ。それこそ、切断した生首を基本的な点滴だけで生かしておいたり、機械と自分の体を融合させる程度には医学に長ける。

 明日どうなるとも知れないほどに追い詰められた瀬良正馬は、そんなミ=ゴの医術に賭けたのではないだろうか。ミ=ゴの医術なら、人間には治せない瀬良琴里の石化も治療できるかも知れない。

 

 瀬良正馬の頼みを、ミ=ゴがどう扱ったのかは事件の顛末が示している。瀬良正馬によって保管庫から開放されたミ=ゴは即座に彼を殺害。知識の詰まった生首だけを利用し、メインコンピュータールームを乗っ取り、崇拝するガタノソアの召喚を試みた。幸い機転を利かせた所員の誰かが外部との通信ケーブルを爆破、切断。ガタノソアの呪いが外部に拡散する事は防がれた。

 最後は一太郎達の探索行の果てにミ=ゴは倒され、邪神の召喚は免れたのである。

 怪物に望みを託すという事がどれほど恐ろしい事態を招くかが如実に分かる事件だ。彼らは人間とは全く異なる思考回路を持ち、人間の倫理など理解しない。

 

 社会復帰を始めた矢先に精神に大きなダメージを負った葵は、怪物を倒した力とこれまでの経験を買われ、亀海の推薦で司書として就職した。安全な署内で書類を整理しつつ、時折亀海が持ち込む案件にアドバイスをし、本当にどうしようもない時は現場でその腕を振るう事になる。運命じみた頻度で神話的事件に遭遇した葵は既に怪異について知りすぎている。普通に暮らしていても、知らなければ気にもとめないようなちょっとした事件に怪異の陰を見出してしまい、心休まる時がない。人間社会には、大多数の人間が気づいていないだけで、人外の悪意がのさばっているのだ。葵は逃避よりも、公権力の庇護の下で裏方からそれらに関わる事を選んだ。

 

 一太郎は職を鞍替えする事は無かった。余暇だけでなく、仕事まで神話的事象の探求に費やしたら気が変になりそうだったからだ。所持する魔道書に無名祭祀書が加わった以外は、事件前と変わりなく魔術の探求と神話的知識の吸収に余暇を費やしている。入院中寂しい思いをさせた蓮を海に連れて行ったり、勉強を教えたりする時間が唯一の休息である。

 今回の事件では、半端な知識と生兵法のせいで随分振り回された。次は――――次があればだが――――しっかりとした知識を身につけて事に挑まなければならない。

 事件発生から解決まで半日弱ではあったが、事件後の石化症状治療のせいで一太郎は長らく屋敷に戻れず、なし崩し的に蓮と翠は八坂屋敷で一緒に暮らす事になった。一太郎が退院した頃には蓮はすっかり翠に懐いていて、翠と一緒に暮らしたがるかと思ったのだが、それを提案すると、蓮は当たり前のように一太郎との暮らしを選んだ。思った以上に一太郎は慕われているらしい。

 

 一太郎は、既に現代では裏の人間を含めてもかなり高位の魔導師になっている事を自覚していない。人間を辞めていない中では指折りだ。

 しかしそれを自覚したところで一太郎が驕る事はないだろう。人間という存在がいかに卑小か、今までの事件で散々思い知らされているからだ。

 再び混沌の渦が一太郎を巻き込むその時まで、彼は密やかに牙を研ぐ。

 




――――【八坂 一太郎(27歳)】リザルト

STR8  DEX10  INT18
CON9  APP7  POW19
SIZ14 SAN39  EDU18
耐久力12

精神的障害:
 二重人格

所有物:
 損傷の激しいエイボンの書(ラテン語版)
 エイボンの書(ラテン語版)
 屍食経典儀(フランス語原版)
 無名祭祀書(ドイツ語版)
 コービットの日記
 魔法のダガー……命中率=現在MP×5%、ダメージ=1d6+2、コスト=1ラウンド毎に1MP
 成長血清

呪文:
 透視、空鬼の召喚/従属、萎縮、被害をそらす、エイボンの霧の車輪、ビヤーキーの召喚/従属、
 ナーク=ティトの障壁の創造、空中浮遊、レレイの霧の創造、食屍鬼との接触、復活、門の創造、
 ナイフに魔力を付与する

技能:
 医学 73%、オカルト 37%、生物学 71%、化学 51%、聞き耳 55%、考古学 8%、信用 45%、
 心理学 56%、人類学 7%、精神分析 33%、説得 41%、図書館 85%、目星 85%、薬学 63%、
 歴史23%、こぶし 56%、
 英語 21%、ラテン語 22%、フランス語 11%、ドイツ語 4%、クトゥルフ神話 59% 

――――【トニオ・スターク(35歳)】永久的発狂/キャラロスト

STR11 DEX9 INT16
CON12 APP5 POW14
SIZ11 SAN0 EDU17
耐久力12

技能:
 機械修理 85%、芸術:イタリア料理 85%、コンピューター 81%、電気修理 85%
 電子工学 81%、物理学 81%、母国語(英語)85%、イタリア語 21%、日本語 21%


――――【宮本 葵(28歳)】リザルト/引退。以後NPC扱い

STR23 DEX13  INT11
CON10 APP14  POW8
SIZ12 SAN27  EDU16
耐久力11  db+1d6

所有物:
 トヨグの巻物七枚(肉筆模写。石化犠牲者からの回収品)

装甲:
 柔軟な骨格と皮膚の下の鱗により、物理ダメージを1軽減する

技能:
 応急手当 70%、回避 86%、聞き耳 54%、説得 55%、跳躍 65%、信用 75%、目星 55%、武道:立ち技系(ムエタイ)89%、キック 90%
 精神分析 8%、クトゥルフ神話 9%


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1-5 しろがねコーヒー

 

 人生には密度というものがある。往々にして子供の頃の思い出が長く重く感じ、大人になってからの思い出が短く軽く感じる原因は色々あるだろうが、子供の頃は何もかもが初体験で印象に残りやすく、大人になってからは同じ仕事の繰り返しで初体験が減るという事が挙げられる。

 八坂一太郎は、大人になってからも初体験ばかりで、密度の高い人生を過ごしてきた。数年置きに正気を揺さぶる怪事件に命懸けで挑み、インターバルの期間も常軌を逸した魔術や悍ましい神話の研究に費やしている。

 

 石化事件から五年。一太郎はたゆまぬ研究と生来の極めて高い学習能力により数多くの魔術を身につけていた。

 怪物から身を隠す《エイボンの霧の車輪》、空飛ぶ騎乗用の怪物を召喚・使役する《ビヤーキーの召喚/従属》、強力な魔法障壁を創造する《ナーク=ティトの障壁の創造》、物や人を空に浮かせる《空中浮遊》、局地的な濃霧を発生させる《レレイの霧の創造》、付近の食屍鬼の注意を引きつける《食屍鬼との接触》、死者を再構成し蘇らせたり、そうして蘇った死者を再び死体に戻す《復活》、離れた場所を結ぶワープゲートを創る《門の創造》、短い刃物にPOWを込める《ナイフに魔力を付与する》。この九つである。蔵書(魔道書)の中から特に汎用性の高そうなものをチョイスして学習した。

 

 怪事件調査に活用するため日本語版の翻訳書が欲しいとの頼みを警視庁特命係の亀海左京から受け、一時期エイボンの書を貸与していた事があるのだが、左京は二年で魔術を一つ学ぶだけで精一杯だった。魔術を学ぶためには、魔道書を読破した上で、難解な言い回しで書かれた常識外れの理論を正確に解釈し完全に理解する必要がある。呪文を覚えて唱えればOKというものではない。五年で九つというのはかなり優秀な部類に入るだろう。しかも五年を丸々魔術の研究と研鑽に費やしたのではなく、仕事や子育て、家事までしていたのだから一太郎の処理能力は並ではない。

 

 十二歳になった八坂蓮は、社会復帰して学校に通っている。早いもので小学六年生。もうすぐ中学生だ。

 家の外では常に顔の火傷を包帯で隠している蓮は学校で浮いているが、イジメはなく、一人だけだが仲の良い友達もできたようで、一太郎はそれほど心配していない。幼少時に食屍鬼と親密だったせいか価値観がどこか浮世離れしていて、同年代の子供とはあまり話が合わないようだが、時々遊びに来る宮本姉妹とは楽しそうに話している。

 蓮の運動能力は並といったところだが、成績は良く、テストで九十点以下を取った事がない。図工と音楽の評価も五段階の5。小学校レベルとはいえ大したものだ。昔キミタケから言われた勉強をしなさいという言葉を忠実に守っているのだ。健気な娘である。

 一太郎がじわじわと狂気に蝕まれている反面、蓮は宮本姉妹に影響され、年頃の少女らしくささやかなお洒落を楽しんだり、友達と遊びに出かけたりして、平和な日常を謳歌している。そんな蓮の日常を守るためにも、一太郎はあえて非日常に踏み込むのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ある蒸し暑い夏の日、一太郎は出張で静岡県に来ていた。数日マホロバ静岡支社の研究チームの技術指導に奔走し、後は東京に戻り短い休暇に入るばかりとなった時に、亀海左京から連絡を受けた。

 

「やあ八坂君、亀海だが、今時間は大丈夫かな」

「大丈夫ですが……事件ですか」

 

 高速のインターチェンジで車を止め電話に出た一太郎は、左京の第一声の声音を聞いた時点で要件を察した。

 

「流石話が早い。実は――――」

 

 左京の話は長かったが、分かりやすかった。

 東京都の郷都学園高校の茶道部が、静岡県伊豆市で夏休みの合宿をしていた。三日前、部員の一人が宿舎の中庭に生えているコーヒーノキの実を食べ、昏倒。病院に運ばれ、意識不明の状態と短い覚醒を繰り返すようになった。現在は都内の病院に移されている。

 昏倒した部員は七杉由香というのだが、彼女の叔父が特命係に勤めていて、見舞いに訪れた際に神話的事件の兆候が見られたという。なんでも意識を失っている間に奇妙な夢を見るそうで、その内容というのが、人間の常識を超えた怪物の襲撃や、この世ならざる地に潜む言い知れない恐怖を仄めかす形容し難いものだったのだ。

 知識の無い人間が聞けば単なる悪夢と済ませるその夢の内容から、彼女の叔父は怪事件の臭いを感じ、上司の亀海に報告。亀海はこの三日間で資料を漁り、夢の内容が単なる女子高生が知るはずもない異界の景色を示している事を突き止めた。

 医者は七杉由香の肉体は健康そのものだと太鼓判を押し、だからこそなぜ不自然な覚醒と睡眠を繰り返すのかさっぱり分からないようだ。

 

 七杉由香の症状は重篤なものではなく、起きている時は部活動の合宿を途中で抜けてしまった事を残念がり、ベッドの上で退屈を持て余し早く合宿に戻りたがるぐらいなのだが、単なる不調ではなく神話的要素の陰が見える以上、捨て置く訳にはいかない。些細な前兆を放置したばかりに邪神が召喚され都市が丸ごと更地になった、などという事も有り得なくはない。

 亀海は事件の原因を究明するため、七杉由香の昏倒の原因を調べるよう部下を現場の伊豆の合宿所に派遣した。ただ、別件の事件の捜査も抱えているため、困った事に一人しか人手を回せなかった。最悪怪物との正面戦闘も有り得る案件に対処するのが一人では心許ない。

 そこで葵が蓮経由でちょうど今静岡に一太郎が静岡に行っているという話を拾ってきて、お呼びがかかったという訳だ。

 

「つまり、その七杉さんの昏睡の原因を調べてこい、と」

「いやァまさかまさか、神話的怪異の大家八坂氏にそのような居丈高な命令を下すなぞ恐れ多い事で。私は伏してお頼み申し上げる立場ですよ。どうですかね、お受けして頂けますか? 相応の報酬は用意できますがね」

「期間は?」

「事件が解決するまで……と言いたいところですが、八坂さんの都合次第でいつでも切り上げて頂いて結構。矢面にはウチの者を立たせるので、八坂さんはアドバイザーという形でどうか一つ」

「……ふむ。依頼は受けますが、二人ですか? もう一人か二人は欲しい」

「ありがとうございます。いやぁ、助かりますよ。人員については葵さんがもう一人手配して下さったので、三人ですね。配達業をしている従姉妹の方だそうで。件の茶道部は女性ばかりという情報がありまして、それならば女性がいた方が調査もし易いだろうと。七杉嬢の症状についてはこちらで調査を進めますのでね。八坂さんは現場に傾注していただければ」

 

 それ後二つ、三つ話をして、電話を切った。

 今までは事件の方からやってきたが、自分から飛び込むのは初めてだ。仇討ちでも、身近な者の命を助けるためでも、自分のためでもなく、単なる依頼で恐らく命懸けになる怪異に躊躇いなく身を投じるあたりに一太郎の正気の摩耗が現れている。

 

 一太郎は自宅に電話をかけ、蓮に帰宅が遅くなる事を謝った。海に連れて行く約束をしていたのだ。蓮は不機嫌そうだったが、数日遅れても必ず連れて行くと約束すると許してくれた。通話を終える直前に、無事に帰ってきて、と言われたので、何かしら察したのかも知れない。

 

 蓮との通話の後は翠に電話をかけた。

 

「――――というわけです。適当な理由をつけて蓮に新しい水着を買ってやって下さい。何着でも構いませんし、金に糸目はつけません。代金は後で払います」

「はあーっ。相変わらず金回りいいね。羨ましい」

「使うべき時に使ってるだけですよ」

「言うね。ま、蓮ちゃんの事は任せなさいな。ああそうだ、きーちゃんが一緒に行くみたいだけど、話聞いてる?」

「翠さんの従姉妹ですよね。運送業をしているとか」

「そうそう、小型ヘリとか操縦できる娘なんだよね。あと中東の紛争地帯でバイク配達してたりとか」

「え?」

「よろしく言っといて。じゃ!」

 

 一太郎は切れた携帯電話を見ながらしばらく固まっていた。随分エクストリームな運送業らしい。その筋では有名だったりするのだろうか。

 会ってみれば分かる事だと区切りをつけ、一太郎は車のエンジンをかけ、伊豆へ向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 静岡県伊豆半島、下田町。海岸沿いの町で、駅周辺には商店街があるものの、シャッター街と化したうら寂しい場所だった。途中で見かけた古びた観光案内版には温泉マークがあったが、全て×印がついて「閉鎖」と書かれていた。どうやら温泉が枯れて衰退してしまっているようだ。

 

 一太郎は駅前で他の調査員と合流した。

 五十代のくたびれた男が特命係の新畑 仁二郎だろう。亀海とは旧知の間柄らしく、昏睡状態の七杉由香の叔父だ。格闘は得手ではないが、体を張る事は厭わず、捜査能力は一流だと亀海が太鼓判を押していた。

 その隣のショートカットの活発そうな二十代後半の女性には宮本姉妹の面影があった。彼女が東雲(しののめ)鴇(とき)だろう。ライダージャケットにジーンズ姿で、大型のバイクにちょこんと腰掛け仁二郎と談笑している。

 二人は一太郎に気付くと声をかけてきた。一太郎の顔の火傷は目立つため、初対面でも話を聞いていればすぐに分かる。

 

「こんにちはー。八坂さんですよね?」

「はい。東雲さんと新畑さんですか」

「富士山頂からサハラの真ん中までどこでも配達、エクストリーム運送の東雲鴇です。よろしく」

「警視庁特命係の新畑です」

 

 三人は握手を交わしあって軽く自己紹介をした後、駅前の定食屋に入り、昼食を取りながら情報を整理した。

 日替わり定食の鯖の塩焼きから骨を外しながら仁二郎が言う。

 

「まず念頭に置いて頂きたいのですがね、今回の調査では学園側との対立は避ける方針なんですよ。学園長が姪の入院費を全て負担してくれていますし、自ら見舞いにも来て下さっているようで。何よりも姪が学校や部活に行く事を楽しみにしていましてね。乱暴な調査をすれば、仮に昏睡の原因を突き止め治療できたとしても、学校や部活に居辛くなってしまいます。できる限り穏便に行きましょう」

「穏便に行ってなんとかなるんですか? あお姉とみー姉から凄くハードだって聞いてるんですけど」

 

 海鮮パスタをフォークで巻きながら鴇が仁二郎に聞くと、仁二郎は一太郎に目を向けてきた。

 

「そうですね。経験上死者が出ない方が珍しいです。一番穏やかな事件でも、泥棒と共闘したり、腐った床板を踏み抜いて転落したり、地下室の壁を蹴り破ったり、バリア持ちの動く死体と戦ったり」

「穏やか……?」

 

 鴇が理解に苦しんでいる。

 

「法律とマナーを遵守していたら事件は解決しないでしょう。かといってあまりダーティーな手段を取りすぎると周囲の信用を失って酷い事になるので匙加減が難しいですね」

 

 思い出すのはユーリの件だ。彼女は今も精神病院の塀の中で暮らしている。疑心暗鬼に囚われず、もっと彼女を信用していればあるいはそんな事にはならなかったかも知れない。

 

「その件ですが、女子学生達の合宿に警察として踏み込んで萎縮させるのもどうかと思っていましてね。私は叔父として合宿先を訪ねようと考えています。もちろん捜査もしますがね。八坂さんは医者という事でどうか一つ。それなら嘘にはなりません」

「私は?」

「遠縁の親戚と名乗って下さい。誰の親戚かは言わないように」

「消防署の方から来ました理論ですね分かります」

 

 相談の結果、仁二郎は全体的な調査をまんべんなく行い、鴇は女子学生達からの情報収集をし、一太郎は「透視」を使って魔術的な痕跡を見て回る事になった。鴇は怪物が出てきたらバイクで撥ねるから任せて、と本気とも冗談ともつかない事を笑いながら言っていたが、果たして怪物を実際に目にしてその余裕があるかどうか。一太郎でさえ絶望と混乱で逃げ出した事があるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昼食を終えた三人は茶道部の合宿先である「しろがね館」へ向かった。鴇は自分のバイク、仁二郎は一太郎の車に同乗した。

 しろがね館はその名の通り銀色の瓦でふかれていて、青い海を見下ろせる眺めの良い場所に建っていた。二階建ての建物には窓が見当たらず、一箇所だけ立派な門がある。それを見た一太郎は中国の伝統的な中庭付きの住居を思い出した。塀の内部にぐるりと沿うように建物があり、建物に囲まれた中心に中庭を設ける建築様式だ。一太郎は近くのコインパーキングに車を停めた。

 

 三人がしろがね館の門のノッカーを鳴らすと、少し間を置いて門が開き、つなぎの作業服を着た背の高いアフリカ系女性が出てきた。年齢的にちょっと女子高生には見えない。

 

「何か御用でしょうか」

「七杉由香の叔父です。事前に連絡はしてあるのですが」

「新畑サンですか。お話は伺っています。どうぞ中へ、アリッサ部長がお待ちです。私はターニャ、しろがね館の管理人です」

 

 ターニャは少し訛りのある日本語でそう言うと、三人を中に通した。鴇はバイクをターニャに一言断って門の中の入口のそばに置かせてもらった。

 窓のないしろがね館を不気味に思っていた一太郎だが、流石に窓無しという事はないようで、門の内側には普通に窓があった。外側に無かったのは潮風を直接室内に入れて調度品を痛ませるのを避けるためだろうか。屋敷に未弧蔵の遺品の骨董品を置いて管理している一太郎は、潮風がどれほど物を痛ませるかという事ぐらいは知っている。

 ある海に美術館で観光客を引き寄せるために窓の多い開放的な作りにしたら、吹き込む潮風で絵画が傷んでしまい、経営者と管理人の間で騒動が起きたという話があるぐらいで、と一太郎がトリビアを思い起こしている内に、三人は一階の大広間に通された。

 

 大広間には畳が敷いてあり、奥には舞踊などを披露するためだろう、板敷きの舞台が見える。中央には三枚の座布団が置いてあり、その左右に七人ずつ制服姿の女子高生が正座をしてかしこまっている。そのうち一人だけ着物に身を包んだ金髪の美少女がニッコリと微笑んでお辞儀した。

 

「はじめまして、新畑様。八坂様。東雲様。茶道部部長のアリッサ・シャトレーヌと申します」

 

 一太郎は彼女の顔立ちが純粋なフランス人のそれである事に気付いたが、その割には日本語の発音に違和感がなかった。アイドル顔負けの金髪碧眼の美少女が畳の上で礼儀正しく正座をして微笑んでいる姿に日本の国際化を感じる。

 鴇はこの娘はやっぱりニンジャとかフジヤマとか好きなのかな、と思ったが、生まれも育ちも日本だったら失礼かと思って黙っておいた。外国で仕事をしている鴇は、時々初対面で中国人と決めつけられ嫌な思いをした事があったのだ。

 

 アリッサは三人の旅の労をねぎらい、茶道部の精神や普段の活動について話した。言葉の端々から高い見識と豊富な知識が伺える。興味を惹かれた一太郎の質問にもおだやかにそつなく答えた。

 

「シャトレーヌさんは日本に来てどれくらいに?」

「一年です。秋には二年になります」

「その割には随分日本語がお上手なようですが」

「そう言って頂けますと嬉しいです。ご存知かも知れませんが、祖母は郷都学園の理事長をしていまして、幼い頃から日本の話はよく聞いていました。礼儀正しく、調和を尊ぶ素晴らしい人々が住む歴史ある国だと。日本語は祖母に習いました」

 

 そこで部員の一人が盆に乗せて飲み物と菓子を持ってきた。三人の前に置かれたのは銀製と思しき小さなカップで、急須から注がれたのは独特の香りの黒い液体――――コーヒーだった。

 

「そのコーヒーは中庭のコーヒーノキから採れた豆を焙煎して淹れたものです。是非お楽しみ下さい。本場のものに負けない品質だと自負しております」

「あー、失礼ですが、姪がそのコーヒーノキの実を食べて昏倒したと聞いておりまして。これは大丈夫なのでしょうか」

「懸念しておられるのももっともですが、生ではありませんし、今朝私も飲んだばかりです。安全と味は保証いたします」

 

 善意100%の微笑みを浮かべるアリッサ。断りにくい。一太郎は一応「透視」を使った。しかし黒い液体にオーラはなく、魔術的痕跡は見られない。

 一太郎は二人に微かに頷き、グィィッと飲む。深みのある味と香りが鼻を抜け、後味も心地よい。これに比べれば夜勤で時々世話になるインスタントコーヒーなど泥水だ。確かに美味しい。

 カップを置いた一太郎は、視線を上げた瞬間に思わず口に残っていたコーヒーを吹き出しかけ、慌てて飲み込もうとして猛烈にむせた。

 

「大丈夫ですか? お水をお持ちしましょうか」

「だっ、だい、だいじょうぶ、げほ、です」

 

 気遣わしげに立ち上がろうとしたアリッサを手で制し、一太郎はハンカチで口をおさえるついでに顔も隠して動揺を悟られないようにした。「透視」の効果が継続している眼でもう一度見る。見間違いではなく、アリッサの胸元に下がったペンダントから力強いオーラが湧き上がり、彼女の全身を包んでいた。あからさまに魔術である。

 どういう事だろうか。事件の元凶が素知らぬ顔で目の前にいるという事なのだろうか。普通に暮らしていれば魔術とは無縁のはずである。しかしトヨグの巻物のように無害なアーティファクトもある。オーラは本人ではなくペンダントから湧き上がっているようだし、身につけている本人が魔術効果に無自覚という可能性もある。オーラは力強いが、禍々しさは濃くない。

 

 一太郎はペンダントについて探りを入れようとして、思いとどまった。アリッサはペンダントを着物の下に入れていたのだ。魔術的要素を可視化すると共に暗闇や薄い板程度の障害物を見透かす「透視」を使ったため着物の下にペンダントを身につけている事が分かったが、本来ならアリッサのペンダントは着物に隠れて見えないはず。尋ねればどうして知っているのかという話になる。

 少しでも情報を集めようとペンダントに描かれた同心円状の幾何学模様をまじまじと見ていると、隣に座る鴇に腕をつねられた。驚いて見ると、何やら怒った顔をしている。

 

「真面目にやって下さい」

「は? ……あ、いや、えー、後で説明します」

 

 小声で言われて察した。他人にはアリッサの豊満な胸をガン見しているようにしか見えなかっただろう。これは恥ずかしい。アリッサは気にしていない風だが、他の女子部員たちの目が冷たい。もし一太郎が透明になる魔術を使えたら迷わず使っていただろう。

 一太郎が羞恥心で行動不能になっている間に、仁二郎はアリッサから話を聞いた。

 

「姪はこの館のコーヒーノキの実を食べて倒れたと聞いているのですが、詳しい話を聞かせていただけますか」

「はい。一週間前の早朝、井戸の側で倒れているのを管理人のターニャさんが発見しました。口にはコーヒーの実の欠片がついていたそうです。意識がなく、酷くうなされていましたので、ターニャさんは救急車を呼びました。私が知っているのはそれだけです。彼女が実を口にした理由は分かりません」

「前日に何か変わった様子などは?」

「いえ、特には」

「ふむ……少しこの館を調べさせて頂いても? 姪の部屋に何か昏睡の原因になるものがあるかも知れませんし、行動範囲を辿る事で何か分かるかも知れません。八坂氏は医者ですし、医学的見地から見てはじめて分かる事もあるでしょう」

「もちろんお断りする理由はありません。私達も由香さんには早く良くなって欲しいと思っています。ただ、申し訳ないのですが、茶道部は全員女性ですから、二階の宿舎への男性の立ち入りはご遠慮願います。御寛恕下さい。宿舎以外なら自由に見て頂いて構いません」

「由香ちゃんの部屋は宿舎ですよね。私は入っても良いですか?」

「東雲様なら良識の範囲内でご自由にどうぞ。あと、そうですね、しろがね館は複雑な間取りではありませんが、部屋数が多いですし、プレートがかかっていないので戸惑われる事でしょう。案内役に一人つけましょう」

 

 それで話に区切りがつき、歓迎の茶会はお開きになった。アリッサが三人につけた案内役はショートカットの一年生で、消え入りそうな小さな声で恥ずかしそうに琴木美緒と名乗った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まずは三人で一番怪しい中庭のコーヒーノキから調べる事になった。

 琴木の案内で中庭に移動する間、女子校生達の冷め切った軽蔑の目から開放されて落ち着いた一太郎はアリッサのペンダントの模様について記憶をたどり、それが「時間の支配者」アフォーゴモンの印である事を思い出した。

 宇宙で最も強大な神性、「外なる神」と呼ばれる存在の一柱であるアフォーゴモンは、その二つ名の通り時間を自由自在に操る事ができる。その恩寵は未来予知や過去のやり直しを授け、その怒りは永劫に続く苦しみをもたらす。偉大にして恐るべき神だ。

 そんな神の印が彫り込まれたペンダントをなぜアリッサは身につけていたのか。しかも、明らかにペンダントがアリッサに魔術的影響を及ぼしている。

 

 最近一太郎が蓮と一緒に観たアニメではタイムリープをして友を救おうとしている魔法少女の話があったが、アリッサもタイムリープ中なのかも知れない。あるいは一見人間に見えても未来からやってきた殺人マシンかも知れない。外なる神の仕業ならばほとんどなんでもアリだ。時間に関するもの、という手がかりだけでは、アフォーゴモンのペンダントによってアリッサにどのような影響が出ているのか推測できない。

 一太郎は先導する琴木に聞こえないよう小声でアリッサのペンダントについて二人に話しておいた。機会があれば聞いてみるのが良いだろう。

 

 中庭に着くと、中央にどどんと目立つコーヒーノキが生えていた。2m近くある常緑樹で、枝のところどころに赤い実を成らせている。木のそばには井戸があったが、琴木曰く枯れ井戸らしい。縁は組んだ丸太で囲われた粗雑なものだ。

 

「すっごい茂ってるねー。仕事で南の方に言ってコーヒー農場見た事あるけど、それ並だね。日本の気候でも育つんだ。品種改良とかされてるヤツなの?」

「え、えっと、すみません、ちょっと分からないです……ご、ごめんなさい」

「あーっと、そんなに怖がらなくても大丈夫だよ。あのおじさんは由香ちゃんの叔父さんだし、火傷の人はお医者さんだし、おねーさんは女の子の味方だからね」

「は、はい……」

 

 鴇が琴木と話し、仁二郎が井戸のベニヤ板と重しをどかしている間に、一太郎は「透視」を使った。案の定、コーヒーノキは強く不気味なオーラを帯びていた。特に実にオーラが集中している。こんな魔術的特性が色濃い実を食べたら昏睡してもおかしくは無い。その割にこのコーヒーの実を焙煎したというコーヒーにオーラは無かったが、普通のコーヒーとすり替えられたのか、何か特別な処理で魔力が抜けたのか。一太郎は実をいくつか採取しておいた。

 コーヒーノキの幹や葉、枝などは、オーラを帯びている事以外特に変わった事は無かった。幹に人間の顔が浮き出ていたり、枝が風もないのに蠢いたりといった事もない。

 

「八坂さん」

 

 井戸を調べていた仁二郎に手招きされる。近寄ると、仁二郎は小声で聞いてきた。

 

「どうですか」

「何か魔術がかかってますね。切り倒すなり燃やすなりした方が良いかも知れません。はっきりした事はもう少し調査しなければなんとも言えませんが、いざとなれば、そうですね、人間に感染する病気を媒介する害虫の発生源になっている、とでも言いましょうか。ところでこの井戸は?」

「琴木さんの言っていた通り枯れ井戸ですね。降りてみますか?」

「ロープかはしごがあれば」

 

 井戸の縁に引っ掛けられていた古い鶴瓶のロープがあったため、それをコーヒーノキの幹にしっかり縛り付け、二人は井戸の中に降りていく。

 井戸の深さは10mもなく、すぐに底についた。柔らかい砂と乾いた泥、朽ちた落ち葉や木の枝が積もっている。仁二郎に続いて降りた一太郎はすぐに内側の壁がカラカラに乾いて湿り気の欠片もない事、素人目に見てもこれが井戸などではなく単なる縦穴である事に気付いた。

 

「八坂さん、こんなものが。それと横穴があります」

 

 底を漁っていた仁二郎は砂で汚れた大きな乾燥剤を見つけた。包装紙がついていて、市販の強力なものだという事が分かる。そして仁二郎が指差す先には、井戸の底スレスレに隠れるようにして数個の横穴があった。少し掘ってみると、それは兎が通れるぐらいの大きさだった。

 

「狸か狐でも住み着いているんですかねぇ」

「井戸の底に?」

「そこはホラ、近所から掘り進めた巣穴が井戸の底にぶつかった、なんて事が」

 

 言いながら仁二郎は這いつくばり、横穴を覗き込む。目を凝らしてもしばらく暗闇しか見えなかったが、不意に奥で蠢く無数の虚ろな瞳とばっちり目が合った。人間の目だ。個数と不気味な光を除けばだが。

 硬直して頭を真っ白にする仁二郎を、穴の奥から響くもの凄い悲鳴が襲った。野太い女性の金切り声に似ているが、魂を突き刺すようなぞっとする音は形容し難い憎悪と嘆きを帯びていた。

 絶叫に貫かれ恐慌状態に陥った仁二郎は真っ先に逃げ出した。ロープを掴んでもたもたと登っていく。尋常ではない悲鳴に頭をかき乱された一太郎も慌ててそれに続こうとしたが、先行する仁二郎がロープを揺らしていた事と、運動が苦手だったせいで手を滑らせて落ち、頭から落ちてなすすべもなく底に叩きつけられた。混乱していたし、咄嗟の事で、《空中浮遊》を使うという発想は浮かばなかったのだ。

 頭を強く打った一太郎は、そのまま意識を失った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一太郎が目を覚ますと、コーヒーノキの木陰に寝かせられていた。

 

「東雲さん、起きましたよ」

 

 自分の顔を覗き込んでいた仁二郎が救急車を呼ぼうとしていた鴇に声をかけた。泣きそうになっておろおろしていた琴木もほっとしている。

 仁二郎は情けなさそうに頭を下げた。

 

「いや申し訳ない。私が真っ先に逃げ出してしまうとは……面目ない」

「あー、まあこうして生きていますし。お互い怪物退治の予行演習だったと思いましょう」

 

 ズキズキと痛む首を抑え、顔をしかめながら状態を起こす。体の節々に鈍痛があり、擦り傷と切り傷だらけだったが、不幸中の幸いか骨は折れていない。ざっと自己検診をした限りでは後遺症が残るような怪我は無いようだった。

 

「救急車を呼びましょうか?」

「いえ、治療器具は携帯しているので……あ、しまった車の中か。すみません、取ってきてもらえますか」

「私が行ってきます」

 

 一太郎から車の鍵を受け取った鴇は小走りで門の外に出ていった。仁二郎は所在なさげにしている琴木を横目で見ながら一太郎に耳打ちした。

 

「こんな時になんですが、お伝えしておきたい事が。八坂さんが気絶している間に琴木さんが妙な事を言っていました」

「妙な事?」

「あの金切り声なんですがね。八坂さんはどう聞こえました?」

「どうってそれは、こう、正気を失って錯乱している、あー、女性の悲鳴、ですかね」

「ですよねぇ。私もそう聞こえましたし、東雲さんもそう聞こえていたようです。が、彼女は母親が優しく呼んでいるような声だった、と。我々が悲鳴のように聞こえたというとびっくりした様子でした。これはどういう意味なのでしょうか」

「…………? すみません、分からないです」

 

 人によって印象がまるで違う怪異的絶叫、というのは一太郎の知識にはなく、「透視」で琴木を見ても特に変わった様子はなかった。

 鴇が医療器具が入ったカバンを持ってきて、それを使って自分で手当をする。首をギプスで固定して、大きな傷を消毒して包帯を巻くと十分動けるようになった。ただし鈍痛は残っているため、無理は禁物だ。

 

 もう一度井戸に入って調べてみるべきかと三人が話し合っていると、アリッサがやってきた。運動でもするのか、髪をアップにまとめ、ジャージに着替えている。

 

「皆様、ご苦労様です。調査の進捗は……あら、八坂様、お怪我を?」

「ああ、少し首を捻りましたが大事ありません」

 

 アリッサは心配そうにしていたが、八坂が(表向きは)医者だと思い出したのか、追求はせずに奥ゆかしく引き下がった。

 

「まだ調査の途中かと思われますが、これから部員全員で体力作りのためランニングに出かける事になっていまして。ターニャさんも食材の買出しで出かけるそうなので、しろがね館が無人になります。皆様を信頼していないわけではないのですが、もう良い時間ですし、夜になる前に一度帰って頂いて、明朝改めてお越しいただければと思います」

「そうですか、そういう事なら。ああそうだ、我々はまだ宿を取っていないのですが、こちらに部屋は空いていませんかね? うら若き乙女の宿に私や八坂さんのような男がご一緒するのは論外としても、東雲さんだけでも泊まらせて頂くというのは」

「申し訳ありませんが、部屋がいっぱいで。人を詰めて空けようにも寝具が足りませんし……」

「ああ構いませんよ、無理を言って申し訳ない」

「代わりといってはなんですが、よろしければ近くの民宿をご紹介しましょうか?」

 

 好意に甘えて民宿を教えてもらい、三人はしろがね館を辞した。バイクを引く鴇と男二人がコインパーキングの車に着いて振り返ると、しろがね館からジャージ姿の茶道部員たちが出てきて走り出すのが見えた。先頭を走るのはアリッサで、シンプルなジャージ姿でも健康的な色気があった。

 自己時間を操作して二倍速や三倍速で動いたりできるのだろうか、と思って見ていると、鴇に脇腹をドつかれた。

 

「いって」

「さっきからなんなの? 八坂さん女子高生好きなの? 私から見てもシャトレーヌさんは凄く可愛いけど、女子は男がそういう目で見るとすぐ分かるから」

「誤解です。どちらかといえば未知の生物を観察する目です」

「そ、そうなんだ。それはそれでどうなのかな」

「このまま民宿まで行きますか? しろがね館のどこかに忘れ物をしたような気がしますが」

 

 仁二郎が思わせぶりに言ったが、一太郎は首を横に振った。

 

「気のせいでしょう。忘れ物を探している途中で見つかって、留守を狙って家探しをしたと『誤解され』て顰蹙を買うより大人しく明日出直した方が良いと思います」

「うっわー白々しい。大人は汚いなー、私も大人だけど」

「さて、なんの事やら」

 

 アリッサに紹介されたのは、しろがね館から車で十分ぐらいの場所にある「民宿ぎんたそ」という民宿だった。こじんまりとした宿で、古いが清潔感がある。警戒心が上がっている一太郎が恒例の「透視」でざっと見てみたが、特に怪しいところは無かった。

 出迎えた初老の女将にアリッサの紹介だと言うと歓迎された。民宿ぎんたそは老夫婦二人で営む宿で、夏になると毎年合宿にやってくる郷都学園の生徒達とは交流があるらしい。

 

 一太郎と仁二郎でひと部屋、鴇でひと部屋とり、食事の前に風呂に入る。生憎と温泉ではなかったが、中庭の枯れた露天風呂を再利用していたため、眺めは良かった。ぶっちゃけ湯が水道水を沸かしたものに入浴剤を入れたものでも、天然の温泉でも、一太郎には違いがよくわからない。風呂の後の夕食も海鮮尽くしの贅を凝らしたもので、これで一泊二食付き七千円は安い。一太郎は事件が無事解決したら蓮を海に連れて行くついでにまたこの宿に泊まるのも悪くない、と思った。

 

 女将は話好きらしく、夕食が終わり三人が一休みしていると愛想よく話しかけてきた。せっかくだからとしろがね館のコーヒーノキについて聞いてみると、地元に長く住んでいるだけあって詳しく、喜んで話してくれた。

 

 しろがね館は一度火事で燃えて建て直されているそうだ。建て直される前の建物は「銀の黄昏館」といい、当時の富豪が建てた立派な館で、「民宿ぎんたそ」の名の由来にもなっている。火事の後、夏季臨海施設として郷都学園が買い取り、地元の協力も受けて再建。以後、「しろがね館」として学園の生徒たちに利用されている。コーヒーノキは建て直された時に学園長の趣味で植えられたらしい。

 女将は話しながら昔を思い出し郷愁にかられたのか、昔の写真を引っ張り出してきて見せてくれた。アルバムには銀の黄昏館の前で地元の名士と一緒に映る富豪のモノクロ写真や、以前しろがね館を訪れた郷都学園の生徒達の写真が何十枚と挟まれている。

 女将の昔話を聞きながら徳利を片手に写真を眺めていた一太郎は、妙な事に気付いた。どの年代の写真にも、美しいフランス娘の生徒が写っているのだ。しかも、全員ついさきほどまで顔を合わせていたアリッサと瓜二つといって良いほど似ている。

 鴇は酔いが回って気づいていないようだが、仁二郎は同じ事に気付いたのか、顔を青ざめさせていた。

 

 これは一体何を意味しているのだろうか。アフォーゴモンのペンダントが関係している事は想像に難くない。老化が止まっているのか? それとも時代を跳躍しているのか? はたまた別の年代に同時に存在しているのか? 何にせよ、アリッサへの疑いは深まった。コーヒーノキとの関連は不明だが、詳しく調べる必要があるだろう。

 

 夕食後、それぞれの部屋に入り、仁二郎は特命係へ電話で途中経過を報告し、一太郎は採取したコーヒーの実を調べた。

 コーヒーの実のオーラは消えていて、普通のコーヒーの実と変わらないものになっていた。袋に入れていただけで、特別な処理は何もしていない。時間経過で自然にオーラを失ったと考えるべきだろう。茶会で出されたコーヒーは当然採取後かなり時間が経っていただろうから、オーラが無かったのにも頷ける。

 七杉由香はコーヒーノキの側で倒れていたという。恐らく、木からとった実をすぐに食べたのだろう。なぜそんな事をしたのかは不明だが、熟したコーヒーの実は赤く小さく、特別美味しそうではないが、不味そうにも見えない。ちょっとした好奇心で齧ってみたとしてもおかしくはない。

 

 仁二郎にその事を伝えてついでに報告してもらい、少し翌日の計画について話し合い、就寝した。全身の鈍痛と首の痛みでなかなか寝付けなかった一太郎も、夜中をすぎる頃には夢の世界に旅立っていた。

 

 ……ただし、一太郎がみたのは夢は夢でも悪夢だった。

 

 しろがね館とよく似た、おそらくは銀の黄昏館。館は夜空に赤い炎を巻き上げ火の粉を散らし、燃え上がり、黒い煙をもうもうと吐き出している。唯一の出入り口の門にも火が回り、寝間着姿の女性達が右往左往している。

 やがて炎はますます激しさを増し、熱さに耐えかねた女性達は中庭の井戸に次々と身を投げ打っていった。悲鳴を上げながら一人落ち、地面に叩きつけられる生々しい音がして。寝間着に火がつき半狂乱で一人落ち、肉の積み重なるような鈍い音がして。錯乱して走りまわるうちに井戸の縁につまづいて一人落ち、また肉が積み重なる鈍い音がして。一人、また一人と落ちていき、最後は誰もいなくなる。

 倒壊する建物と炎に飲まれていく井戸はしっかりとした石組で、中から怨嗟の声が溢れてくるようだった。

 

 一太郎は布団を跳ね除けて飛び起きた。急に動いたので首がズキリと痛み、声を咬み殺す。窓からの柔らかな月明かりだけが差し込む静かな部屋と隣で眠る仁二郎を見てすぐに夢だったと気付くが、井戸に落ちていった女性の真に迫った悲鳴が耳に残っていた。冷や汗で浴衣が湿っている。

 ただの夢だ、昼間の井戸の出来事と女将の話のせいだ、と自分に言い聞かせてまた寝ようとしたのだが、目が冴えて仕方ない。しろがね館の井戸は木組だったが、夢に出てきた銀の黄昏館と思しき館の井戸は石組だった。所詮夢であるし、それがどうしたといえばそこまでなのだが、どうにも引っかかる。

 

 銀の黄昏館は火事で燃えたというが、石組の井戸は燃え残ったはずだ。夢に出てきた通り銀の黄昏館の井戸が石組だったとしたらだが。そもそも夢を情報源に推論を組み立てるという事からして間違っている気もするが、何しろあまりにも鮮烈な夢だった。十年以上に渡っていくつもの神話的怪異を体験するうちに、頭がおかしくなってきたのではないかと思うほどだ。しかしそれはそれとして、女性達が飛び込んだ井戸は死体で埋まっただろうから、死体を引き上げた後の再利用は憚られたのかも知れない。新しく井戸を掘ったが水が出ず――――このあたりの温泉が枯れた事を考えると、地下水脈の変化で水が出なくなったとも考えられる――――放置されたのがしろがね館の井戸、というストーリーが妥当なところだ。

 だがそのストーリーではしろがね館の井戸にあった横穴の説明がつかない。その奥に仁二郎が見たという無数の目、悍ましい、女性のものに似た悲鳴、奇妙な反応を示した琴木……

 

 気が高ぶり、考え事が止まらず、一太郎は朝まで寝付けなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝、仁二郎が特命係の葵から折り返しの調査報告を受け取った。

 しろがね館再建当時の郷都学園学長、つまりコーヒーノキを植えたのはイザベル・シャトレーヌといい、アリッサ・シャトレーヌの曾祖母に当たるらしい。ますますアリッサが疑わしい。東京側ではシャトレーヌ一門が一族ぐるみで何か企んでいる可能性も視野に入れ、これから探りを入れていくとの事だ。

 七杉由香の症状には依然変わりはないようだ。念のためコーヒーの実のサンプルが欲しいと頼まれたので、速達を出しておいた。

 

 寝不足の一太郎はあくびを連発しながら朝食を取り、軽く打ち合わせをしてから他の二人と一緒に宿を出た。事件が解決するかどうかに関わらずもう一泊する予定なので、車は宿に置いておいた。ただし鴇はバイクをしろがね館まで引いていった。突然過激派武装勢力に襲撃された時に移動手段が無いと困るから、らしい。明らかに経験談だった。

 一太郎がしろがね館に持っていくのは、携帯電話と医療かばんと懐に潜ませた魔法のナイフだけである。

 

 しろがね館の門をくぐってすぐ、三人は井戸のそばで茶道部員たちが何人か揉め事を起こしているのを見つけた。とはいっても喧嘩や殺傷沙汰というほど物騒な気配はなく、小柄な一人を残りが取り囲んで何か言葉を浴びせかけているだけだ。よくよく見れば、集中砲火を浴びて涙目で縮こまっているのは琴木だった。

 

「どうしました?」

 

 仁二郎が歩み寄って尋ねると、琴木を取り囲んでいた茶道部員たちはお互いに目配せしてぴたりと口を閉じた。誰も何も言わない。被害者らしき琴木も怯えた様子で他の茶道部員の顔色を伺うだけだ。一太郎が「透視」で感情の揺らぎを見ながら表情や仕草を分析した結果、琴木には強めの怯えや恐怖、他の茶道部員には琴木への嫉妬の色が見えた。

 どうやら何かが原因で妬まれて口撃されたらしい。年頃の少女たちのドロドロした世界も神話生物の闇と比べれば可愛いものだ。鴇が琴木を庇うように立ち、一太郎が火傷を強調するようにして睨みを効かせ、仁二郎が特に意味もなく警察手帳を出してひらひら動かすと、茶道部員たちは鴇の後ろに隠れた琴木を睨み、ひそひそと文句を言い合いながら去っていった。

 

「大丈夫? 怖かったね、よしよし」

 

 琴木は鴇に優しく抱きしめられて撫でられると、恥ずかしそうに顔を赤くした。

 

「あ、ありがとうございます、東雲さん、新畑さん、八坂さん」

「いえいえ、大人として当然の事をしたまでで。何を言われていたか聞いても? こんなおじさんで良ければ相談に乗りますが。私に話し難い内容ならそちらのお姉さんでも」

 

 琴木は少し迷ったようだが、話してくれた。

 やはり他の茶道部員に妬まれて呼び出され、ある事ない事理不尽な罵倒を浴びせられていたようなのだが、その理由というのが、アリッサ部長に目をかけられているからだという。

 アリッサはいつも琴木にあなたは選ばれた存在だ、特別な素質を持っている、と言い、励ましてくれるらしい。そうして茶道部員全員から尊敬されている憧れのアリッサ部長と親しくしているのが目に付いたようだ。琴木はアリッサに親切にしてもらって嬉しい反面、部長を独り占めしているようで他の部員に申し訳なく思っていると言った。

 

「それは他の子が悪いよ。お姉さん女の嫉妬は否定しないけど、そういう嫉妬は良くないと思うな。毎日あんな感じの事されてるの?」

「いつもじゃないです。でも、えっと、昨日は、アリッサ部長と一緒に……お、お風呂に入らせてもらったので、たぶん、それでみんな我慢できなくなって」

 

 一太郎の脳内で未弧蔵の幻影が「なんで昨日忍び込まなかったんだ!」と叫んだ。幻影に《萎縮》を使って塵にしてから、琴木に「透視」を使う。黒幕説が急浮上しているアリッサが選ばれた存在だとか、特別な素質を持っているとかいう琴木美緒は実際のところどうなのだろう。

 琴木のオーラを計測すると、魔術的素質を表すPOWは16だった。確かに一般人平均よりはかなり高い。が、選ばれた存在というには大げさだった。東京の雑踏で「透視」を使えばチラホラ見かける程度である。だいたい五十人に一人の素質だ。

 ならば一太郎と同じように先天的な魔術を持っているのかと考えそれとなく探りを入れてみるが、身に覚えはないらしい。「透視」で感情を読みながら尋ねたので確かである。

 

 アリッサのいう特別さとは魔術的な素養を示すものではないらしい。しかも成績は中の上、運動神経は並とくれば何が特別なのかは見当もつかない。案外気弱な琴木に自信を持たせるためにそれらしい事を言っているだけなのかも知れない。

 

 ひとまず琴木の謎については保留にして、一太郎と仁二郎は再び井戸の底に降りた。横穴は相変わらずで、緊張しながら覗いてみるが、しばらく待っても何も見えなかった。

 

「ふむ。昨日の絶叫はこの穴から聞こえたように思うのですが……八坂さんは怪物がこの奥にいるとお考えで?」

「可能性は高いですね」

 

 横穴の大きさからして、通れるのは兎が大きなネズミ程度だろう。何冊もの魔道書を読んでいる一太郎は、鼠怪物あるいは鉄鼠という、人間の頭部を持つネズミの怪物の存在を知っている。ネズミの怪物は単体の驚異度は低く、蹴り飛ばせば撃退できるが、群れで襲いかかられると厄介な事になる。

 穴は人が這っていける大きさではなく、どこまで続いているかもわからなかったので、しろがね館に来る前に買ってきた殺鼠剤を投げ込み、水で濡らして固めた井戸の底の砂と泥をギチギチに詰め込んで塞いでおいた。奥に潜むのがネズミ怪物の類ならばすぐに掘り返されてまた穴を開けられてしまうだろうが、やらないよりはマシだ。また、しばらく経ってもう一度見た時に掘り返されていれば、その痕跡からどんな怪物が奥に潜んでいるか推測できる。

 

 ひと仕事終えた二人は地上に戻り、アリッサについて調べる事にした。穴の奥にいる怪物には手出しできないので、調べられるところから調べようという話になっていた。

 アリッサの経歴については東京で葵と左京が調べているので、部員から普段のアリッサの行動や性格などについて聞いて回ったり、アリッサの所持品を確認したりする予定だ。本人にカマかけをしてみるのも良いだろう。

 

「シャトレーヌさんに少しお聞きしたい事があるんですがねえ。琴木さんは彼女がこの時間帯にどこにいるかご存知ありませんか」

「えっと、たぶん部長の部屋にいると思います。こちらです」

 

 アリッサの部屋は館の二階への階段の横だった。琴木が部屋をノックするとアリッサはすぐに顔を出した。

 

「あら、おはようございます。何か御用ですか?」

「おはようございます。実は姪はコーヒーの実を食べたから昏睡したのではなく、その前に飲食したものに含まれる遅効性の何かが偶然実を食べたタイミングで効いたのではないかという話が上がっていましてね。茶菓子や抹茶の選定をしているのはシャトレーヌさんという事ですので、お手数ですが姪が倒れた朝から遡って二、三日分のものを一緒にご確認いただければ、と」

「まあ……保存には気をつけていますし、そのような事は無いと思いますが」

「念のためですよ、念のため。私もまず無いとは思っていますがね、可能性は一つずつ確実に潰していきたいものですから」

 

 アリッサは少し考え、頷いた。

 

「分かりました。茶菓子と抹茶は楽屋の給湯室にありますので、そちらへ」

「恐れ入ります。ああそうだ、さきほど中庭で琴木さんが他の部員にイジメともとれるような事をされていましてね。私達のような大人が言って聞かせても反感を買いそうですし、シャトレーヌさんの仲裁があればと思うのですが」

「あら、それはお恥ずかしいところをお見せしてしまいました。茶道の道を学ぶ者として和を乱すような事はやめなさいと常々言っているのですが……」

「一度シャトレーヌさんを交えて琴木さんと他の部員の方で話し合ってみてはいかがでしょう。無論、部員の方に非があるのでしょうが、琴木さんからしっかり自分の意思を伝える事も重要だと思うのです。いや、要らぬお節介でしたかな」

「いえ、貴重な助言、感謝致します。美緒さん、いいかしら?」

「は、はい……」

「善は急げと言います。どうぞ気が挫けない内に」

 

 仁二郎が上手く言いくるめ、アリッサと琴木を伴って廊下の先に消えていった。

 

「さて、手早く何かないか探しましょう」

 

 三人の足音が聞こえなくなった途端、アリッサの部屋の戸に手をかけて臆面もなく年頃の美少女の部屋を漁ると言い放った一太郎に鴇は疑わしげな目を向けた。

 

「八坂さん、本当に変な事は考えてないんですよね?」

「最悪館に火をつけるところまでは視野に入れていますが、それは本当に最悪の場合なので」

「それも変な事、っていうか大変な事ですけどそうじゃなくて……ああもう。本当に調査だけにしてくださいね」

 

 念を押してくる鴇に肩をすくめ、一太郎は部屋に入った。鴇は他の部員に話を聞いて回るため立ち去る。同性の鴇がアリッサの部屋を調べないのは、魔術師あるいはカルティスト疑惑があるアリッサの所持品から魔術的痕跡を発見できるのが一太郎しかいないからだ。一太郎としても必要以上に部屋を漁るつもりはない。裏人格が出ていれば必要どころか執拗な執念深さで漁っただろうが、誰にとっても幸い事に今は表人格だ。

 

 アリッサの部屋は、落ち着いた雰囲気を醸し出している、畳敷きの一室だった。きちんと畳んで隅に寄せられた布団、机の上の香水の小瓶とそこから香る爽やかな匂い、高そうな化粧品が並ぶ化粧台、窓際の観葉植物など、一見してオカルトチックなものは見当たらない。

 「透視」を使った一太郎は、机の引き出しから漏れる禍々しいオーラを見つけた。ハンカチを使い指紋がつかないように引き出しを開けると、中には一冊の本があった。何十年も経ったような風格のある黒表紙の本で、口と歯を描いたような独特のシンボルマークが表紙に書かれている。魔道書の一つ、無名祭祀書を読み込んでいた一太郎には、それが「血塗られた舌教団」と呼ばれるアフリカのカルト集団の印である事が分かった。血塗られた舌教団は、千の貌を持つという強大にして非道なる邪神、這いよる混沌ニャルラトホテプを奉じる邪悪な集団である。中身は英語で書かれていて、ところどころにフランス語で注釈が書かれている。単語を少し拾い読みしただけでも、決して華の女子高生が恋占いに使うような本ではない事が分かった。表紙の裏に書かれたタイトルは「AFRICA'S DARK SECTS」。直訳で「アフリカの暗黒の宗派」だ。

 こんな本を持っている時点で、アリッサはただの女子高生ではない。間違いなく、もっと血なまぐさいナニカだ。

 

 一太郎は魔道書を医療鞄に入れ、そっと部屋を出ると、そのまま背後を気にしながらしろがね館を出た。

 アリッサはすぐに魔道書が無くなっている事に気付くだろうし、犯人も容易に特定するだろう。しかし、一太郎は経験上魔道書を邪悪な魔術師や神話的存在に持たせておくとロクな事がなく、逆に味方が手にすれば非常に役立つ事を知っている。ヘビ人間が屍食教典儀を持っていたせいで食屍鬼が追い詰められ、危うく東京が壊滅するところだったし、無名祭祀書はガタノソアの石化の呪いに対する対策になった。魔道書に記された情報は人類を侵す毒であると同時に、薬にもなるのだ。

 アリッサが何を企んでいるかは判然としないが、魔道書を奪い、それを逆手に取る事で、致命的な一撃を与えられる公算は高い。

 

 民宿ぎんたそに戻った一太郎は自分の部屋に戻って早速魔道書の中身を改めようとしたが、寝不足が祟ってまるで集中できず、仮眠を取ることにした。葵と仁二郎にメールでアリッサの動向に注意するよう警告してから、一太郎は布団に身を投げ出し、浅い眠りに入った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一太郎は夢を見ていた。懐かしい夢だ。

 八坂屋敷の自室で一太郎が試験勉強をしていると、未弧蔵がノックもせずに夜食を持って入ってきた。きつねうどんと卵焼きだ。

 

「おおう、やってんねぇ」

「明後日から試験だからな。単位は落とせない」

「試しに落としてみろよ。三つぐらい」

「落とせないっつってんだろ」

 

 未弧蔵は一太郎の前にきつねうどんと卵焼きを置き、きつねうどんを自分で食べながら机の上の参考書をパラパラ捲った。

 

「何書いてあるか全然分かんねぇ。コーヒーノキが何? 爆発でもすんの?」

「さあ。それを今調べてるところだ」

「ふーん。ま、なんでもいいけどさ、ほどほどにして起きとけよ。死ぬぜ」

 

 一太郎はどこか遠くで床がきしむような音を聞き、次の瞬間未弧蔵にきつねうどんのアツアツの残り汁を首元に流し込まれて目を覚ました。

 

「あっつァ!」

 

 灼熱の痛みに首を抑えて布団から転がり出る。寝起きと激痛で混乱しながら見てみれば、鮮血滴る肉斬り包丁を持った背の高いアフリカ系女性――――ターニャが虫けらでも見るように一太郎を見下ろしていた。その背後、部屋の出口を塞ぐようにしてアリッサが立っている。彼女は魔性の微笑みを浮かべながら何か呪文を唱えていた。

 脳みそが一瞬で覚醒する。アリッサの行動は予想よりも遥かに迅速で、過激だった。まさか白昼堂々いきなり殺しに来るとは。

 

 ギリギリのところで即死は免れたが、武器を持った前衛に魔術師を敵に回して一人で生き延びられる気がしない。

 せめて一矢報いよう、と立ち上がり、絶望的に魔法のナイフに魔力を込めようとした一太郎を、完成したアリッサの魔術が襲った。レジストを試みるが失敗し、脳みそをひっかき回されるような不快感と共に理性が吹き飛んだ。世界が現実感を失い、体の動きが止まる。夢か現か、トドメを刺そうと肉斬り包丁を持ち直してじりじり近づいてくるターニャを棒立ちで眺める。

 

 自分は何をやっているのだろう。さっきまで未弧蔵と話していたはずだ……未弧蔵と話していた? 自分が未弧蔵なのに? いや、本当にそうなのか? 自分は誰だ? ここは現実なのか? 首がもげたかというほど痛い。意識を失いそうだ。夢の中で気絶するとどうなるのか、気絶するはずはない、なぜならば夢だから。そう、これは夢なんだ。俺は魔術師だ。女二人の襲撃者を返り討ちにするぐらいできないわけがない。やれる。いける。

 

 今起こっている事を完全に夢だと思い込んだ一太郎は、部屋の隅で逃げ場もなく呆然としている獲物にターニャが振り下ろした肉斬り包丁に対し、緩やかに片手をかざした。そして《被害をそらす》魔術を発動。間違いなく頭をカチ割る直撃コースをとっていた肉斬り包丁は、魔術によって不自然にそれ、空を切った。

 必殺の一撃を外したターニャは驚愕し、たたらを踏む。その横を俊敏にすり抜けながら、一太郎は今度は《レレイの霧の創造》を唱えた。途端に虚空から湧き上がった濃霧が部屋を満たす。

 

「魔術師!?」

「まさか!」

 

 一メートル先も見えないような不自然なまでに濃い霧の中から、ターニャとアリッサの驚きの声が聞こえる。初撃で生存されても、一般人なら確実に殺せると思っていたのだろう。

 二人が動揺しているうちに、一太郎は備え付けの小さな古いテレビを持ち上げ、窓の方向に向けて思いっきり投げた。ガシャン、とガラスが割れる音がして、外のコンクリートに重いものが落ちて転がる音が続く。

 

「窓から……! ターニャ、追いなさい! 確実に仕留めるの!」

「Roger kwamba!」

 

 部屋を足音が横切り、窓から誰かが飛び出していったのが分かった。流石夢の産物の住人なだけあって、面白いぐらいにあっさり作戦に引っかかってくれる。一太郎はほくそ笑み、霧の魔術を解除した。同時に外から「陽動ダ!」と叫び声が上がる。一太郎は凄絶な笑みを浮かべ、一対一に持ち込まれ忌々しげに顔を歪めるアリッサに手招きした。

 

「来いよ魔術師。俺を殺すんだろ?」

 

 発狂して思慮深さを彼方に放り捨てている一太郎は、大怪我を負い魔力も残り僅かにも関わらず、アリッサを挑発した。実際、もうひと押しするだけで一太郎は死ぬのだが、アリッサには奥の手を隠した底知れない魔術師に見えたらしい。身を翻して逃げようとする。

 

「逃がすかよ!」

 

 ガンマンの早撃ちの如く素早く魔法のナイフを抜き放ち、魔力を込めて飛ばす。ナイフは背を向けたアリッサのふくらはぎに突き刺さり、アリッサは転倒して顔面を強かに打ち付けた。血のついたナイフを手元に呼び戻し、ニヤニヤ笑いながらアリッサを威圧するように歩み寄る。アリッサは立ち上がろうとして転び、ずるずると部屋の隅まで張っていき、壁に背をもたせかけて一太郎を睨んだ。

 玄関の方から誰かが走ってくる音がする。しかし音は遠い。アリッサは焦ったように素早く印を切り、早口で呪文を紡いだ。一太郎の体から魔力が引っ張られるような感覚に襲われるが、発狂してある意味怖いもの知らずになっている一太郎は歪な精神力でそれを跳ね返し、逆にアリッサから魔力を引っ張り、奪い取った。

 愕然とするアリッサに、一太郎は嗜虐心に満ちた邪悪な笑みを向けた。

 

「馬鹿め、俺に勝てるわけないだろ!」

 

 階下から足音が近づいてくる。一太郎は余裕綽々で朗々と呪文を唱えた。《萎縮》だ。自分が夢の中にいると思い込んで頭がおかしくなっている一太郎は、人間に《萎縮》を使う事に全く躊躇いがない。一太郎が自分を殺そうとしている事を察したアリッサは乱れた服をさらに崩し、媚びるように何か言ってきたが、耳に入らない。

 

 部屋にターニャが飛び込んでくると同時に、《萎縮》が完成した。レジストしようとしたようだが、一太郎は抵抗を紙のように破り、破壊的な魔術がアリッサを襲った。ターニャの目の前でアリッサが火を出さずに焼け焦げ、煙を上げて急激に萎びていく。ほんの数秒で、アリッサは焦げ目一つ無い服を着たまま、奇妙で悍ましいミイラめいた焼死体と化した。

 それを見てもゲームの画面越しに死体の絵を見た程度にしか思わなかった一太郎は、愕然としているターニャに言った。

 

「お前も死ぬか?」

 

 ターニャは首から血を流したまま不敵に言い放った一太郎を化物でも見るような目で見て後ずさり、逃げていった。一太郎は雑魚め、と呟き、それを見逃す。ターニャは魔術を使う様子がなかった。奇襲だけが取り柄のサンシタだと思ったのだ。追うまでもない。

 かつてないほど連続で魔術を行使し、アリッサと実践的な魔術の掛け合いをした一太郎は、一連の攻防により魔術的素養を大きく成長させていた。POWは19から22に伸び、勝利の余韻と充足感、全能感に満たされている。

 

 一太郎は見るも無残なアリッサの死体から、無造作にアフォーゴモンのペンダントを取った。その瞬間に死体がガタガタと震え、少し縮んだ。よく見れば焼け残った皮膚に皺がよりカサカサになって、顔つきもわかりにくいが老けたように見える。時間にまつわる効力を持つアフォーゴモンのペンダントで若い姿になっていたようだ。道理で日本語が堪能だった訳だ。実年齢が何歳かはわからないが、十分学ぶ時間があったに違いない。

 

 アフォーゴモンのペンダントを手の中で弄びながらアリッサの死体を眺め、夢だし勝手に消えるだろうと考えていた一太郎は、ポケットの中でマナーモードにしていた携帯が振動するのを感じ、電話に出た。

 

「はいはい八坂です」

「八坂さん今どこですか!? すぐしろがね館に来て下さい! 化物が暴れています! というか助け」

 

 電話は途中で切れた。電話口から聞こえた仁二郎の声は酷く慌てていて、重機で家屋を壊しているような破壊音が混ざっていた。

 一太郎は包帯で簡単に首の傷を止血し、嬉々として民宿ぎんたそを飛び出した。魔術戦の次は怪物退治。まったく楽しい夢だ。

 実際は怪我の面でも魔力残量の面でも怪物退治ができるようなコンディションではないのだが、発狂中の一太郎は根拠もなくなんとかなると確信していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 仁二郎はアリッサの仲介による茶道部員と琴木の仲直り(ただし本心では納得していない様子だった)を見届け、アリッサと共に形式的に茶菓子と抹茶の品質を確かめた。もっとも、七杉由香が昏倒したのは一週間前で、その日より前のものはほとんど使い切られていたのだが。

 仁二郎は特命係として怪事件の調査にやってきている。表向きは姪を心配した叔父という名目ではあるが、仁二郎にとっては表向きどころか本当に表に近い。幼い頃からずっと見てきた姪の謎の症状を治してやりたいというのは間違いなく本心だ。

 

 検査を終えると、管理人のターニャがやってきてアリッサに何事か耳打ちをした。アリッサの表情は変わらなかったが、ターニャの表情は険しい。まさか一太郎の侵入が発覚したのか。

 

「新畑様、申し訳ございませんが、御婆様から東京に戻るように連絡があったようです」

「おや、シャトレーヌさんは郷都学園の理事長をしていると記憶していますが。東京で何かあったので?」

「詳しくはあちらで話すとだけ。今すぐとの事ですので、これで失礼します」

「はい。ご協力ありがとうございました」

 

 会釈して去るアリッサとターニャを見送る。シャトレーヌ一門が怪しいというのは特命係とその協力者の共通認識である。まさか東京の葵・左京側で衝突があったのだろうか。

 東京に連絡を取ろう思い携帯を取り出すと、ボタンを押す前にメールが届いた。アリッサの部屋から魔道書が見つかった事、アリッサを警戒するべきである事が簡潔に書かれていた。

 メールを読んだ仁二郎はすぐにアリッサとターニャの姿を探したが、見当たらない。アリッサの部屋には鍵がかかっていた。既に東京に向かったのか。いや、本当に東京へ向かったのか?

 嫌な予感に駆られた仁二郎が一太郎の元に向かおうとすると、突如茶道部員の誰かの悲鳴が聞こえ、一拍置いてしろがね館の一角が吹き飛んだ。

 

 廊下の前で茶道部員を捕まえ、雑談混じりにアリッサについて探りを入れていた鴇は、廊下に面した部屋の中から聞こえる鈍い音に気付いた。ドン、ドン、ゴオン、と、何か重いもので金属板を叩いているような音だ。音はだんだん大きくなり、金属が引きちぎれる音がした後、静かになった。

 鴇は茶道部員と顔を見合わせた。

 

「今の音は?」

「え? さ、さあ……空耳、じゃなさそうだし。なんだろ、見てみます?」

「見るの? 怖くない?」

「怖いですよ当たり前でしょ。東雲さん見てくれません?」

「ええ、ヤだなぁ。怪物とか出てきたらどう、し……ようか…………」

 

 音がしていた部屋の戸を開き、中にいたものが顔を出した。お化け屋敷に入るのを躊躇うような気楽さだった鴇は、全身の血の気が一気に引いていくのを感じた。

 出てきたのは太い円筒形のイモムシのような肉体に、何十個もの人間の顔がついた怪物だった。胴体は紫色でぶよぶよしていて、血管のような不気味な模様を浮き上がらせている。怪物の無数の顔と目があった茶道部員は悲鳴を上げ、その悲鳴に反応して怪物が戸の枠を破壊しながら突進してきた。

 

「ちょっ!」

 

 動きは鈍重だったが、中型のトラックほどもある巨体だ。潰されたら即死するだろう。鴇は恐怖に固まる茶道部員を抱えて跳躍し、正面衝突を避けた。怪物はそのまま突進し、壁を吹き飛ばして穴を開け外に転がりでた。

 中庭に出た怪物は生理的嫌悪を掻き立てる動きで身をくねらせ、向きを変えて鴇を見た。壁をぶちやぶった轟音に、しろがね館がにわかに騒がしくなる。何事かと窓から顔を出して中庭を見てしまった茶道部員たちを怪物は無数の目で睥睨し、身の毛もよだつような絶叫を上げた。怪物の体について何十もの顔――――女性の顔が野太い金切り声の不協和音を発する。前日に井戸の横穴から聞こえたあの悲鳴だ。ただし、開放的な空間である中庭で全方位に発せられたその悲鳴の轟き方は前日の比ではない。茶道部員たちはたちまち狂乱状態になった。

 

「東雲さん! 大丈夫ですか!?」

「新畑さん! 私は大丈夫です、その子を!」

 

 その場に仁二郎が駆けつけ、怪物の異様にびくっとしたが、すぐに気を取り直し、放心してへたりこんでいる茶道部員に肩を貸した。そのまま鴇と一緒に一目散に逃げる。怪物は廊下を破壊しながら追ってきたが足は遅い。すぐに距離を引き離す事ができた。

 しろがね館の門まで来た仁二郎は、恐怖に震える茶道部員に交番へ逃げて警官を呼んでくるように言った。茶道部員はガクガクと頷き、恐怖に震える足を動かし走っていく。

 

「怪物を相手取るとは聞いていたがね。アレは流石に予想外だ」

「どうするんですかアレ、っていうかあの子危ない!」

 

 遠くで怪物ににじり寄られ腰を抜かして泣き喚いている茶道部員を見た鴇は駆け寄ろうとして立ち止まり、近くにあった自分のバイクにキーを刺しながらひらりとまたがった。エンジンをかけ、急発進する。土煙を巻き上げて加速したバイクは唸りを上げ、弾丸のように怪物に突っ込んでいく。ギリギリまでアクセル加速した鴇は、衝突の寸前でバイクから飛び降りた。5点着地して衝撃を殺し、茶道部員を横抱きに抱えて逃げる。ちらりと後ろを振り返ると、不意打ち気味にバイクの体当たりを喰らったにも関わらず怪物はケロリとしていた。

 

「嘘でしょ全然効いてない! ごめん下ろすね、走れる!?」

 

 筋力も体力もあまり高くない鴇は人一人抱えて移動するのは短距離で精一杯だ。抱えた茶道部員を下ろして逃がした。

 またもや獲物を横からかっ浚われた怪物は鴇にターゲットを変えたらしい。幾つもの顔から呻き声や泣き声をあげながら向かってくる。鴇は逃げようとしたが、近くにまだ茶道部員が何人か残っているのに気付いた。ガタガタ震えながら地面に伏せている者、頭から血を流して倒れている者、ヒステリックに高笑いをしている者。逃げればターゲットは彼女達に向くだろう。鴇は覚悟を決めた。中東で弾幕の中を駆け抜けた時と比べれば大したことは……いや、同じかそれ以上に大したことはあるが、ここでやらなければ一生後悔を引き摺る事になる。

 

「新畑さん! 避難誘導お願いします! 私はコレを引きつけます!」

「引きつける!? 無茶だ! 早くこっちに!」

 

 新畑の制止を聞かず、鴇は鋭く尖った木片を拾い怪物に立ち向かっていった。

 障害物を巧みに利用し、残骸の上を飛び回り、雨樋を俊敏によじ登って屋根から飛び降り、全体重の乗せて木片を怪物に突き刺す。が、ぐにゃりとした妙な感触でほとんど刺さらず、僅かにくい込んだ木片も怪物が身を震わせると簡単に抜けて虚しく地面に落ちた。怪物の皮膚には傷一つない。

 

「にょわーっ!」

 

 木片と一緒に地面に落ちた鴇は猫のように体勢を操って着地し、怪物がのしかかるようして三つの顔で噛み付いてくるのを紙一重で回避する。耳元でがちんと噛み合わされる硬質な歯の音が恐ろしい。打撃・刺突に関係なく物理攻撃が効かない事を悟った鴇は、怪物から中距離を保ち、破壊されたしろがね館の残骸を投げつけ注意を引く事に終始した。

 

 鴇が命懸けで怪物の気を引いている間に、仁二郎は錯乱している茶道部員たちを逃がして回った。何人かは誘導するまでもなく自分で逃げたようなので全員を逃がせたかは数えられなかったが、少し探して見つかった茶道部員は逃がせた。

 

 避難誘導が終わり、息も絶え絶えの鴇が仁二郎の元に戻ると、そこでようやく一太郎が車で到着した。門の前で急ブレーキをかけたせいで作動したエアバックからもたもたと抜け出し、二人に合流する。

 

「 待 た せ た な ! 俺参上!」

「え? あ、はい。八坂さん、あの怪物はどうすれば? バイクの体当たりでもダメージが無いようなのですが。もう自衛隊を呼んだ方が良いでしょうか?」

「物理無効なら魔術だ! 待ってろ、解析する!」

 

 仁二郎はいつもと何か様子が違う一太郎に軽く引きながら尋ねた。一太郎は尊大に頷き、「透視」を使った。

 一太郎が視たのは、邪悪で、見た事もないほど強大に迸るオーラだった。怪物が持つオーラは、POW換算でなんと60。一太郎の三倍近い。

 

 通常、POWが10離れていると、魔術をかけられた際に基礎能力が違い過ぎて抵抗を試みる事すらできなくなる。逆に魔術をかけても基礎能力だけで無効化される。この場で一番高い一太郎でも22。怪物は60。その差、38。

 勝てる訳がない。あまりの衝撃に一太郎は正気に戻った。

 

「すみません、あれは無理です。撤退しましょう」

 

 撤退した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 避難先の交番では、茶道部員の要領を得ない説明に二人の警官は困惑し、様子を見に行くかどうかを話し合っているところだった。何を悠長な、と言いたいところだが、普通に暮らしていれば、いきなり怪物が出たから助けてくれと言われ、はい分かりました任せて下さいという対応はできない。人智を超えた怪物の実在とその驚異は実際に見ない事には実感できない事だ。

 

 一太郎達は車で逃げて交番まで来たので、あの足の遅い怪物が追ってこれるとも考えられない。ひとまず茶道部員の確認をしていると、一人足りない事が分かった。

 琴木美緒である。

 

 すぐに探しに行こうとする鴇を一太郎と仁二郎は揃って止めた。現場を離れてもう二十分は経っている。手遅れだろう。

 鴇は納得していないようだったが、渋々引き下がった。会敵してからの後半では、鴇の攻撃が自分に通用しない事を怪物が認識したらしく、攻撃性を増していた。次の遭遇では時間稼ぎもできないだろう。瓦礫の中から琴木を探している間に踏み潰されるか食い千切られるかして終わりだ。

 

 鴇に情緒不安定になっている茶道部員たちの面倒を任せ、仁二郎は警官を説き伏せて近場の警察を集めるよう頼んだ。しかしあまりに荒唐無稽だからか、警官は話を信じなかった。仁二郎が警視庁特命係と書かれた警察手帳を出したのもかえってマイナスだった。地方の警官にはまったく聞き覚えのない部署名だったため、偽警官ではないかと疑われたのだ。

 

 仁二郎が警視庁に連絡して身元を証明してもらったり、警官たちにしろがね館の様子を遠巻きに見に行かせたりしている間に、一太郎はアリッサの形見となった魔道書「アフリカの暗黒の宗派」を読んだ。一太郎は伊達に十年以上魔術を研究しているわけではない。魔道書の婉曲表現や漠然とした仄めかし、抽象的な書き方から真意を読み取る事に慣れていたため、極めてスムーズに読み進める事ができた。

 

 曰く、あの怪物は「多くの顔を持つ精霊」呼ばれているモノらしい。

「多くの顔を持つ精霊」は、自ら進んで生贄となる人間一人を生まれ変わらせる事によって誕生する。精霊の力を借りれば、多くの召使やアーティファクトを創造したり、神と接触する事が容易になるという。

「多くの顔を持つ精霊」は暗く狭い場所を好み、井戸などが育てるのに適している。ただし水の中では溺れてしまい、湿気も嫌うため、枯れ井戸が望ましい。また、精霊は強力な魔力を持っているが、時と共にその魔力は減衰していく。魔力を回復させ、また増大させるためには、最初に生贄となった人間と同じ血縁の者を餌として与えなければならない。

「多くの顔を持つ精霊」は「黒い風の神」の眷属として崇められいる。「黒い風の神」はアフリカの黒い風の山を本拠地としていて、伝統的な土地神とは異質な不定形の神である。

 

 一太郎は以上の情報から事件の大まかな全容を組み立てる事ができた。

 

 アリッサとターニャが何者かはわからないが、「多くの顔を持つ精霊」を隠し育てていたのは確定的だ。アリッサが年齢をアフォーゴモンのペンダントで偽っていたのなら、しろがね館の前身である銀の黄昏館の頃から生きていたのかも知れない。

 

 まず、銀の黄昏館の火事に乗じ、生贄を捧げて精霊を誕生させる。オーラを帯びていたコーヒーノキは、精霊によって創造された一種のアーティファクトだったのだろう。

 銀の黄昏館の火事で精霊が誕生したとすれば、現在までに何十年も経過している。精霊の魔力は減衰していただろう。減衰してまだアレというのは驚きであるが、それはそれとして、魔力を回復・増強するために最初の犠牲者の縁者が必要になった。琴木美緒だ。

 アリッサが琴木を気にかけていたのは、恐らく「多くの顔を持つ精霊」の最初の生贄の縁者だったからだろう。精霊の魔力を増大させられる血筋ならば確かに「選ばれた特別な存在」だ。流石の「透視」も血脈までは読み取れないため分からなかった。

 

 七杉由香がコーヒーの実を食べて昏倒したのは、実を介して精霊の邪悪な影響を受けたからか。だとすれば精霊を討伐すれば症状は好転する可能性がある。

 

 「黒い風の神」というのは心当たりがあった。千の貌を持つ邪神、這いよる混沌ニャルラトホテプの化身の一つである。精霊だけでも恐ろしいのに、邪神まで降臨してしまったら街一つは軽く壊滅できる。精霊が邪神を喚ぶような事態になる前に精霊を潰さなければならない。

 推定首謀者のアリッサを殺害したのは結果オーライだった。強大な精霊にそれを使役する魔術師がくっついていたら厄介さが二乗になる。ターニャが逃亡しているが、やりとりからしてアリッサの従者といった立ち位置だったように見受けられたし、魔術師でもないらしい。放置でいいだろう。捜索する手間が惜しい。普通の人間が相手なら仮に襲撃してきても弾丸一発で殺せる。物理攻撃を無効にする巨大な怪物と比べれば可愛いものだ。

 

 一太郎が本を読み終わり、情報を整理し終わる頃には、仁二郎が警官隊を集め終えていた。現場に見に行った警官が仁二郎の言葉をようやく信じ、近場の警官を集めたのだ。といってもその数は八人。大勢力とまではいかない。八人のうち四人はしろがね館の周辺の民家を周り、騒ぎにならないよう避難誘導を行っていて、二人はしろがね館に居座る精霊を監視している。実質戦力になる警官は二人だ。それでも心強い。相手が弾丸の効かない化物だとしても。

 

 一太郎は魔道書から得た情報を話し、消防車を手配してもらった。水中で溺れ、湿気を嫌うというなら、窪地に誘導して放水すればなんとかなるだろう。海まで追い込んで消防車とパトカーの体当たりで突き落としてもいい。

 

 準備が完了した時には夜になっていた。雲ひとつない夜空に満月が妙に不安を掻き立てる色合いに輝き、海からの潮風はこれから起きる何かに怯えたように凪いでいる。

 三人は車に乗り、パトカーの先導でしろがね館へ向かった。消防車は消防署から直接向かう事になっている。

 車の中で会話は無かった。避難誘導が進んでいるためか、しろがね館に近づくにつれて民家の明かりは消えていった。三人とも迫る最後の戦いに向けて神経を尖らせている。

 

 しかし、最後の戦いが起きる事はなかった。

 

 月光を反射して怪しく光るしろがね館の銀色の屋根が見えてきたと思った直後、そのしろがね館から黒い竜巻が巻き上がった。夜の闇すら飲み込む昏さをはらんだその竜巻はみるみる膨れ上がる。

 一太郎は悟った。遅かったのだ。黒い風の神=ニャルラトホテプは召喚されてしまった。戦力が揃い切る前にでも、もう少し早く動いていれば――――

 

 目の前で先行していたパトカーが竜巻に飲み込まれた。遠目に消防車も天高く巻き上げられているのが見える。一太郎は感情を押し殺し、急ハンドルを切り、Uターンして逆走した。もう手遅れだ。どうしようもない。こうなってしまえば逃げる以外何もできない。

 背後に迫る邪悪な竜巻の強風で後輪が浮きそうになる。飛ばされてきた建物の残骸や看板が車の屋根や窓ガラスにガンガン叩きつけられる。

 

「右右右右っ!」

 

 後ろを見ていた鴇が叫んだ。言われるがままにハンドルを右にきる。直後、左のバックミラーを掠めて消防車が落下した。潰れた運転席から一瞬人の腕が見えたように思ったが、勤めて考えないようにした。

 一太郎は無我夢中で運転した。アクセルは常に全開。ブレーキなんてもっての他。後ろを見る鴇の悲鳴なのか指示なのかわからない声を聞きながら、仁二郎が示すルートに従う。

 

 気がついた時には、小高い山の上でエンジンが焼き付いた車から降り、黒い竜巻に蹂躙されて瓦礫の山となった町を呆然と見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 静岡県伊豆半島の町、下田町は壊滅した。前触れもなく発生した史上稀に見る巨大竜巻は全てを破壊し、瓦礫に変えた。死者行方不明者は一万人を超え、竜巻爪痕が残る地域で発生したペストのせいで救助活動は難航。近代日本最悪の大災害となった。気象学者は予測できなかったのかと無責任なマスコミに散々叩かれていたが、意味不明な気候の急変動の真相に気象学者がたどり着く事はないだろう。

 

 事件後、七杉由香は完全な昏睡状態になり、二週間後、衰弱死した。彼女の両親は悲嘆に暮れ、自分の手から姪の命を取りこぼしたとも言える新畑仁二郎は心に深い傷を負った。警察を辞職し、ペストが猛威を振るう被災地で何かに取り憑かれたように救助や復興支援活動に打ち込んでいる。

 災害に巻き込まれたとされるアリッサの行方不明と時を同じくして、郷都学園理事長のラタナシア・シャトレーヌも失踪。学園には混乱が走ったが、新しい理事長が選ばれるとひとまずの安定を得た。葵の調べではラタナシア・シャトレーヌとアリッサ・シャトレーヌが同時に目撃された事はないという情報があり、二人は同一人物だった可能性が高い、という推測が特命係の資料の隅に書かれる事になる。

 

 東雲鴇は一時期塞ぎ込んでいたが、割とすぐに仕事に復帰した。その仕事ぶりは以前にも増して素晴らしいものだったが、竜巻の発生地域での仕事は頑なに拒むようになった。仕事の無い日には従姉妹とひっそりとした静かなバーに飲みに行くのが習慣となる。

 

 一太郎は事件後約束通り蓮を海に連れて行こうとしたが、蓮に様子がおかしい事を見抜かれ心配され、中止となった。

 一太郎が体験してきた事件の中でも、これほど完膚なきまでの敗北を味わったのははじめてだった。連日新聞の一面に掲載される下田大災害の記事が心を抉る。どうすべきだったのか。何が最善だったのか。それすらも曖昧だ。蓄えてきた神話的知識や魔術をもってしても、魔術師は倒せたが邪神の前には無力だった。

 事件の後、一太郎は夢遊病になった。夜な夜な起き出しては、夜の町に彷徨いでて金髪の若い女性を探し回る。見つけても恨みがましい目で睨みながらつけ回すだけなのだが、それで一回警察に厳重注意をされたため、一太郎はカウンセリングを受けるようになった。しかし悩みの本質は根深く、一年以上続けても治療の成果が見られずやめてしまった。以後は毎夜寝る前に自分で自分の体をベッドに拘束するようにしている。

 

 それほど精神的に追い詰められてもなお、一太郎は神話的事象の研究をやめなかった。それはもはや一種の強迫観念となっていた。知れば知るほど人間の矮小さと神話的存在の恐ろしさを思い知り、邪神の気まぐれで滅びるような危うい土台に立つ人類に危機感を抱くのだが、今更全てを忘れるのは無理な話だ。とことん知り尽くし、ありのままに受け入れるしかない。少なくとも一太郎はそう考えた。

 

 元々強靭な精神力を持っていた一太郎は、度重なる神話的驚異との戦いで神経を摩耗させてもなお、日常生活では平静を取り繕う事ができた。仕事場ではもちろん、親しい友人や、一緒に暮らしている蓮にさえ、実情よりも遥かに健康であると思わせる事ができている。

 

 しかし、危うく塗り固められた壁が壊れ、致命的な、あるいは慈悲深い幕引きが一太郎に訪れるのは、そう遠い話ではない。

 

 




――――【八坂 一太郎(32歳)】リザルト

STR8  DEX10  INT18
CON9  APP7  POW22
SIZ14 SAN18  EDU19
耐久力12

精神的障害:
 二重人格
 夢遊病

所有物:
 損傷の激しいエイボンの書(ラテン語版)
 エイボンの書(ラテン語版)
 屍食経典儀(フランス語原版)
 無名祭祀書(ドイツ語版)
 アフリカの暗黒の宗派
 コービットの日記
 魔法のダガー……命中率=現在MP×5%、ダメージ=1d6+2、コスト=1ラウンド毎に1MP
 アフォーゴモンのペンダント
 成長血清

呪文:
 透視、空鬼の召喚/従属、萎縮、被害をそらす、エイボンの霧の車輪、
 ビヤーキーの召喚/従属、ナーク=ティトの障壁の創造、空中浮遊、
 レレイの霧の創造、食屍鬼との接触、復活、門の創造、ナイフに魔力を付与する

技能:
 医学 77%、運転(自動車)30%、オカルト 40%、忍び歩き 20%、
 生物学 71%、化学 51%、聞き耳 55%、考古学 8%、信用 45%、心理学 65%、
 人類学 7%、精神分析 36%、説得 41%、図書館 85%、目星 85%、薬学 63%、
 歴史23%、こぶし 56%、
 英語 36%、ラテン語 22%、フランス語 21%、ドイツ語 44%、
 食屍鬼語 6%、イス人の文字 27%、ツァス=ヨ語(ハイパーボリア語) 24%、
 センザール語 24%、ミ=ゴのルーン 29%、古のものの文字(ナコト語)28%、
 アクロ語 29%、ナアカル語 24%、ルルイエ文字 21%、クトゥルフ神話 65%


――――【東雲 鴇(28歳)】リザルト

STR10 DEX18 INT10
CON8 APP15 POW11
SIZ13 SAN55 EDU14
耐久力11

技能:
 回避 65%、機械修理 60%、聞き耳 45%、運転:バイク 81%、
 運転:小型ヘリ 51%、パルクール 81%、投擲 65%、目星 55%
 パシュトー語 6%、アラビア語 8%、英語 6%、フランス語 4%


――――【新畑 任二郎(51歳)】リザルト

STR8  DEX8 INT16
CON9 APP10 POW15
SIZ11 SAN75 EDU20
耐久力10

技能:
 言いくるめ 75%、応急手当 50%、オカルト 45%、隠す 75%、
 聞き耳 35%、考古学 21%、信用 75%、心理学 85%、精神分析 51%、
 説得 25%、追跡 50%、図書館 55%、ナビゲート 16%、法律 35%、
 目星 26%、薬学 51%


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1-6 ネルソンの遺言

 八坂一太郎は魔術師である。

 その事実を知っている者は、共に神話的事件に立ち向かった仲間以外にも何人かいる。特命係に配属された者がそうであるし、義娘の八坂蓮もそうだ。時には彼らに世界に潜む神話的真実や魔術について講釈する事もある。大学時代の恩師、ルーカス・ネルソンも一太郎が魔術師だと知っている者の一人だ。

 

 四十代が間近になり、体力の衰えを感じはじめる一太郎の元にルーカスから手紙が来たのは、街路樹が枯れた葉を落とし始めた晩秋の日だった。

 ポストに入っていた手紙に懐かしい名前を見つけた一太郎は頬を緩めたが、中身を読むにつれて眉間に深い皺が寄っていった。

 手書きの文章は短く、文字は歪んでいて薄く、読みにくい。震える力の入らない手で書いたのではないかという事が伺えた。君の力を借りたい、という一文の後に翌日の日付と日時、ネルソンが開いている小さな診療所の住所が書かれているだけである。

 

 ネルソンは手紙で前置きも事情の説明もなく要求だけ叩きつける人間ではない。にも関わらずこんな手紙を寄越すという事は、相当切羽詰っているに違いない。

 急ぎならば電話をしないのはなぜなのかと考えながらも、一太郎は会社にしばらく有給を取る旨の連絡をした。直前の連絡だったため渋られたが、普段の勤務態度が良好で実績も優れ、急ぎのプロジェクトも抱えていなかったため、ゴリ押しで許可が降りた。

 

 先月二十歳になり、八坂屋敷から大学に通っている蓮が作り置きしていた夕食を温め直して食べた後、一太郎はさっさと眠り翌日に向けて英気を養う。

 幾度も神話的怪異との戦いをくぐり抜けた一太郎は、この時点でもうその臭いを嗅ぎとっていたのだ。これから数日はタフな仕事になるだろう。そして、やはり今回も命を賭ける事に躊躇いはまったく覚えず、それどころか、心のどこかで悍ましい神話知識や魔術を得られるチャンスに高揚すらしていた。

 それがヒトらしい健全な精神状態ではなく、ヒトならざる狂気の片鱗である事に疑いの余地はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日、一太郎はネルソン診療所にやってきた。東京の郊外にある、二階建ての小さな診療所だ。ルーカスとは大学を出てからも年に一、二回程度の交流があったが、診療所を訪ねるのは始めてである。

 暗い顔をした中年の看護婦に要件を告げると、待合室に通された。ルーカスは今床に伏せっていて、本来なら面会も控えた方が良いほどだと思う。医者の不養生で片付けるには症状が重そうだ。まさか力を借りたい、というのは魔術で治療してくれという依頼だろうか。その場合はお断りするしかない。一太郎はどちらかというと治療より殺害の方が得意だ。

 

 待合室のソファには二人の男が座っていた。片方には見覚えがある。警視庁特命係の明智小次郎だ。枯れ草色のパナマハットとねずみ色のコートを膝に乗せた中年の男で、一太郎が入ってくると少し驚いた顔をした。失礼、とひと声かけて彼の腰を降ろす。

 

「お久しぶりです」

「お久しぶりです、その節はどうも。八坂氏もルーカスさんの依頼で?」

「そうです。先日手紙が来まして、どうもただ事ではないようでしたので」

「ふむ。きな臭いを飛び越えて既に何かが起きていると考えた方が良さそうですな」

「同感です。特命係と私の両方に依頼を出すとなると、よほどの――――」

「HEY、アンタらも呼ばれて来たん?」

 

 深刻な話をしていると、敢えて見ないようにしていたもう一人の男がタバコを床に捨てて足でもみ消し、口を突っ込んできた。目の前にある院内禁煙の張り紙は目に入っていないらしい。

 五十代の金髪の男で、顔立ちがどことなくルーカス・ネルソンと似ている。年甲斐のないアロハシャツにダメージジーンズを着ていて、腕には「さよ子」と明朝体の刺青が入れてある。ガラが悪い……のだが、体も服も酷くみすぼらしく、怖さはない。

 

「あ、はい」

「そうですが。あなたは?」

「俺? 俺は~、パーシー・ネルソン。パーシーでいいよ。あのさぁ……ここで知り合ったのも何かの縁だし、金貸してくれない? 最近困っててさ~」

「ええ……」

「百円なら」

「お、マジでぇ!? ありがてえありがてえ! 旦那ァ、この御恩はイッショー忘れねーから!」

 

 冗談のつもりで言った言葉に食いつかれ、一太郎はドン引きしながら媚びへつらって揉み手をしているパーシーに百円を渡した。頭脳明晰な一太郎は貸した百円が一生帰ってこない事を察したが、別に頭脳明晰じゃなくても分かっただろう。

 

「あの、パーシー、さんは、親戚の方ですか?」

「ん? ネルソンは俺の兄貴だよ」

「嘘だろ(素)」

「マジだよ~マジマジ。昔っから兄貴は凄くてさ~、比べられる弟にとっちゃたまったもんじゃねぇんだよなあ。十年ぐらい連絡とってなかったんだけどさあ、なんか手紙が来たから仕方ねぇなって感じで」

 

 言いながらパーシーはポケットに突っ込んでいたテキーラの小瓶を呷る。顎を上げると髭の剃り残しが目立った。

 これが真面目で誠実、好々爺という言葉の似合う、ルーカス・ネルソンの弟。まったく似ていない。酒臭い息を吐きながらパーシーは馴れ馴れしく小次郎と肩を組んだ。

 

「まあ聞いてくれよ~、実はな、俺がこんなんになったのもな、聞くも涙、語るも涙の事情があってな? あれは俺がベトナム戦争に徴兵されて狙撃手の観測手(スポッター)をやってた時の事だ。ベトコンゲリラの悪質なパンジステークをかいくぐって前線に塹壕を掘った俺は無線で司令部に連絡しようとして繋がらない事に気付いた。これが酷い雑音でな、ナチの残党狩りやってた時に聞いた電波妨害と同じだった。その時遠くで足音が聞こえた! 狙撃銃を設置している相棒の首を引っつかんで俺は小声で叫びながら撤退した、下がれ下がれ! やばいぞ見つかってる! 罠だァーッ! 必死に逃げてたら銃声が響いた。手が軽くなって生暖かいぬるっとしたものが頬についた。振り返ると相棒が首だけになってて、そこにはニヤリと笑うイスラム過激派の共産党員(アカ)がリボルバー構えて……」

 

 支離滅裂な語りを始めたパーシーに生返事をしていると、しばらくして看護婦が三人を呼びに来た。待合室から移動し、ルーカスのいる部屋へ通される。

 ルーカスはベッドの上に横たわり、痩せこけた青い顔をしていた。一太郎達がやってくると、白く濁った目を向け、弱々しく微笑んだ。隠しきれない死相に驚く。医者の不養生などというものではない。

 

 ルーカスがかすれた声で何か言おうとしたセリフに被せ、パーシーがベッド端にどっかり腰掛けて言った。

 

「お、久しぶり久しぶり~。ところで兄貴、金……貸してくれない? 一昨日さよ子ちゃんに逃げられてさあ、金持ち逃げされちゃったんだよ~。な、五万でいいからさあ、頼むよ~」

 

 クズぅぅぅ!

 一太郎と小次郎は心の叫びを一致させ、パーシーに白い目を向けた。さっきからこの男のせいでシリアスがぶち壊しだ。

 

「お前は何十年経っても……何も変わらないな……もう十回は恋人に……逃げられているだろう」

「三十四回目だよ~、な~頼むよ~、今財布の中身百円しかなくてさ~、ちくわしか買えないんだよ~」

 

 ルーカスは、哀れっぽく擦り寄ってくるパーシーを苦々しげにやせ細った手で追い払った。途切れがちな聞き取りにくい震える声で言う。

 

「私はもうすぐ死ぬ……いつまでもお前の尻拭いはできん……たまには人の役に立つ事をしたらどうだ……私の最後の頼みを……」

「え? 何? 十万貸してくれんの?(難聴)」

 

 ルーカスはコイツは駄目だという顔をして、申し訳なさそうに一太郎と小次郎に話を向けた。

 

「お見苦しいところをお見せして……申し訳ない。今日お呼びしたのは……頼みごとが、あるからでして……私の最後の患者を……どうか救って欲しい。しかし警告しなければ……魔術の影……這い寄る混沌……悪意ある、呪いが――――」

 

 そこまで話したところで、ルーカスは激しく咳き込んだ。咳はとまらずどんどん酷くなり、血を吐いた。体が電気ショックでも浴びたように痙攣し、全身の穴という穴から血が流れ出す。最後に白目を剥いて恐ろしい断末魔を上げ、動かなくなった。

 ルーカスは死んだ。

 

 病室は騒然となった。看護師が飛び込んできてルーカスの無残な死体を見てしまい金切り声を上げ、一太郎は顔に血を浴び、未知の病原の感染を恐れて大慌てで洗面台に走った。小次郎は警察に電話をかけて怒鳴りつけるように特殊部隊の出動要請をしたが、動揺し過ぎて呂律が回っていない。パーシーは金目のものを探しに足音を忍ばせてこっそり部屋を出た。

 

 混乱は化学防護服に身を包んだ警察がやってくるまで続いた。警察はネルソン診療所を封鎖し、一太郎達を追い出した。一人入院中の患者がいたため、その患者と看護婦も含め、検査のために警察病院へ輸送された。ルーカスの死因が感染性のある病気によるものなら、バイオハザードの危険がある。

 

 警察病院で採血など一通りの検査を終えた一行は、隔離病棟に入れられた。とはいっても閉じ込められた訳ではなく、病棟内ならば自由に出歩ける。

 一太郎と小次郎は病室の窓辺で夕暮れに朱く染まった街並みを眺めながら深刻に話し合う。

 

「八坂氏はルーカスさんの死因が魔術的なものだとお考えで?」

「断定はできませんが、恐らく」

 

 咄嗟の事で「透視」をし損ねたのは痛い。一応検死の前にルーカスの死体を視させてもらう事はできたが、もはや何のオーラも視えなかった。死亡したから呪いが解除されたのか、元々呪いがかかっていなかったのかも分からない。とはいえ、一太郎が知る限り、あそこまで急激で悲惨な死に方をする病は存在しない。未知の病気という線も無くはないが、ルーカスが最後に遺した言葉からして、神話的怪異絡みだと考えた方がよさそうだ。

 

「気になるところはルーカスさんの死因と……やはり彼女ですか。ルーカスさんの最後の患者らしいですがねえ」

 

 小次郎は病室のベッドの上で看護師に額の汗を拭われている少女を見た。手足はやせ細り、頬はこけ、青い顔をしている。早瀬小雪というらしいその少女は、看護師曰く一年近く意識が戻らないそうだ。細かい診察や治療は全てルーカスが行っていたため、看護婦も詳しい事は分からないという。一太郎は何故か小雪に見覚えがある気がしたが、思い出せなかった。

 

「カルテを見れば何か分かりそうですが」

「そういえば八坂氏は医学系でしたな。とはいえ診療所は今封鎖されているわけで。取り寄せるには手続きに時間が……」

 

 そこで物悲しげに腕の刺青を見ていたパーシーが懐から紙の束を出してひらひらと振った。

 

「カルテならここにあるで」

「えっ? 助かりますがなんで持ってるんですか」

「金目のものと間違え……げふん、金目のものと間違えた」

「言い直せてない」

「八坂氏、逮捕します?」

「いえ、やめておきましょう。昔の友人と同じ臭いがします。なんだかんだで役立つかと」

 

 一太郎がカルテを受け取ろうと手を伸ばすと、パーシーはさっと引っ込めた。

 

「タバコと交換な」

「あー、私はタバコは吸わないんですよ」

「ウォッカでも……ええんやで?」

「病院にあると思ってんのかジジイ。これでも飲んで健康になってろ」

「ガボボーッ!」

 

 一太郎はベッドのサイドテーブルに置いてあったペットボトルのお茶をパーシーの口に突っ込み、カルテを取り上げて読んだ。

 

 どうやら早瀬小雪は一年ほど前に高熱を伴う病を発症し、入院したようだ。検査の結果、なぜか感染源と接触する機会が皆無だったはずのマラリアに感染していると判明。その道の権威であったルーカス・ネルソンが小雪の実家に依頼され、治療に成功した。元々体が弱く体力が無かったため、一時は相当危なかったらしい。

 ところが衰弱した体を休めている最中、コレラを発症した。今度は間違いなくコレラ菌との接触は皆無だった。にも関わらず体内からコレラ菌が検出されたのだ。コレラは万全の治療体制の下ならば死亡率は2、3%の病ではあるが、病み上がりだったため、重篤化した。

 コレラが治った後も、結核、肺炎、日本脳炎と次々に罹患するはずのない病を発症していき、湯水のように金を使った最高峰の治療によって奇跡的に持ちこたえはしたものの、半年もする頃には余命幾許もないという状況まで追い込まれた。

 

 そこから一ヶ月ほど、カルテの筆跡が変わり、ルーカスから別人に主治医が交代していたのが分かる。交代中も悪化するばかりで、未知の感染ルートは特定できなかったらしい。

 一ヶ月後、早瀬小雪の症状が今夜が峠だという日、ルーカスが再び主治医に戻る。このあたりからカルテの記述が曖昧になるのだが、ルーカスが身につけてきた画期的治療法により、小雪の症状が劇的に改善したようだ。何の薬を使ったのか、手術をしたのか、病室を変えたのか。何も書いていない。

 とにかく、新しい治療法により、病は小康状態となった。相変わらず立て続けに発熱を伴う病を発症してはいくが、新しい治療法による回復と消耗が釣り合い、良くもならず、悪くもならず、という状況が今日まで続く。

 

 そして三日前、ルーカスが発病。喉の腫れ、手足の震え、高熱、嘔吐、脱水症状などの症状を示す。筆跡は震えていて読み取りにくかったが、ルーカスが自分で書いたもののようだ。自分以外の医者に頼った様子は読み取れなかった。

 

 カルテに目を通し終わった一太郎が眉を顰めていると、小次郎が話しかけてきた。

 

「何か分かりましたか」

「幾つか分かりましたが、分からない事も増えました」

 

 カルテの内容についてかいつまんで説明する。小次郎は首を傾げた。

 

「日本脳炎やらマラリアやらコレラやらの感染者が国内で見つかればニュースになりそうなものですがねえ」

「やっぱりそのあたりのニュースは聞いたことありませんよね。彼女の実家は随分治療に金を出したようですし、報道機関を口止めできるぐらいのパワーがあるのかも知れません」

 

 言いながらカルテの前半をパラパラ捲る。初期治療に使われた薬品はどれもまだ日本で正式に認可されておらず、海外から取り寄せられた非常に高価なものだ。ちょっと小金持ちなぐらいの家では三ヶ月で破産する。

 一太郎は看護婦に話を振った。

 

「すみません、彼女の実家はどういう家なのかわかりますか?」

「小雪ちゃんの実家ですか? 申し訳ありませんが、わかりません。ご家族の方が面会に来られる時はいつも私は外されていましたので……そういえば先生は極力私を小雪ちゃんの治療には関わらせないようにしていた節がありました。無理矢理にでも手伝っていればこんな事には……先生はいつもお疲れなご様子で」

 

 看護婦は鎮痛な面持ちで俯いた。嗚咽が漏れる。目の前で非業の死を目撃したばかりなのだから無理もない。

 一太郎は親しい者の死にすら冷静でいられるようになってしまった自分の心の摩耗を嘆く。しかし、正気をすり減らし、狂気の縁を歩き続ける事を決めたのは自分である。すぐに切り替え、情報収集のため、小雪に「透視」を使った。

 切り替わった視界に小雪のオーラが視える。一般人よりはそれなりに強いオーラを蝕むようにして邪悪なオーラが包み込んでいた。やはり早瀬小雪は呪われていた。ありえない病状の数々は魔術によるものだったのだろう。感染経路が特定できないわけだ。

 

「HEYにーちゃん、さっきから何してるん?」

「アンタが何してるんだ」

 

 パーシーは薄めた消毒液とレモンジュースでリキュールを調合していた。

 

「毒入れてないしヘーキヘーキ。それで何? 兄貴の遺言通りにすんの?」

「そうですね。恩師の最後の頼みですし。彼女を助けるために尽力するつもりです」

「え? それマジで言ってんの? 全身から血を噴水みたいに吹き出して死ぬってアレ相当ヤバイやつじゃん。やめた方が良くない? 逃げよ? いいじゃん遺言なんて」

「お前本当に弟?」

「まあまあ八坂氏、落ち着いて。パーシーさん、その消毒液とレモンジュース、どこから持ってきました?」

「売店に置いてあった」

「あなた所持金百円でしたよね。日本には『人のものをとったらどろぼう』という名言がありまして。私は泥棒を捕まえる警察でして」

「……何が望みだ? 俺の……ケツの穴か?」

「殺すぞ。ごほん、えー、平たく言えば、我々の調査に協力して下されば見逃します」

「しゃーないな、しゃーない。ええで。協力したるで(尊大)」

 

 パーシーを仲間に加えた小次郎は一太郎を不安げに見た。

 

「本当に大丈夫なんですかこの人」

「私も不安になってきたところです。ああそうだ、今夜は一緒に寝る事になると思いますが、私の体をベッドに拘束する手伝いをお願いできますか? 実は夢遊病を患っていて」

「それこのタイミングで言います? もう不安しかない」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日の昼、小次郎が上に掛け合った事もあり、三人は無事開放された。看護婦はこんこんと眠り続ける早瀬小雪に付き添うという。

 病院を出たところで、八坂蓮とばったり出くわした。二十歳になった蓮は相変わらず火傷を隠すために顔に包帯を巻いていて、通院中の患者にも見える。蓮は一太郎を見て驚いた。

 

「あれ? お父さんなんでいるの? 怪我、じゃなさそうだけど。っていうか帰らないなら連絡してよね。あ、昨日の晩御飯は冷蔵庫に入れてあるからあっためて食べて。後ろの人たちは? 会社の人?」

「知人の依頼の関係でちょっとな。連絡を入れなかったのは悪かった、帰ったら食べさせてもらう。今日からもしばらくは三食外で食べる事になる。後ろの人達は……まあ、依頼の関係者だ」

「あ、そうなの。父がお世話になっています。娘の蓮です」

「え? 八坂の娘さん? はえー、すっごい! それ怪我? 包帯とったらめっちゃ美人じゃない? ねねね、見せてよ見せてよ~」

「触らないで下さい」

 

 蓮はパーシーが伸ばした手を笑顔で払い除け、一太郎を少し離れたところへ引っ張っていった。パーシーは小次郎にアームロックをかけられて呻いている。

 声が届かないところまで来ると、蓮は真顔で言った。

 

「またアレなの?」

「……すまんな」

「や、いいけどさ。お父さんの習性だし、止めようとも思わないけど。止められないだろうし。でもそっか、最近無かったと思ったら。そっかぁ。何か私に手伝える事ある?」

「いや。蓮は家で――――」

「ちょっとちょっと、私もう大人なんですからね。子供扱いしないで」

 

 蓮の真剣な目をじっと見る。しばらく見つめ合い、先に目をそらしたのは一太郎だった。

 

「分かった分かった。じゃあ西棟201号室の患者を見ていてくれ。看護師の人が一人ついてるから、交代で目を離さないように。異変があったら連絡してくれ」

「うん、わかっ……あれ、それ小雪ちゃんの病室じゃない?」

「知り合いか?」

「えー、忘れたの? 最近連れてこなかったけど、ほら、中学までよくウチに遊びに来てた小雪ちゃん」

「ああ」

 

 言われて思い出した。病室で眠る早瀬小雪の顔には、確かに昔見た事がある蓮の親友の面影があった。やつれ果てていたし、何年も会っていなかったため分からなかった、というのは言い訳だろう。蓮の口から何百回も聞かされた名前でピンと来なかったのは単にド忘れしていただけである。

 

「そういえば最近入院してるって言ってたな」

「うん、もう一年になるんだよね。いつもの診療所にお見舞いに行ったら警察がいて、事情話したらこっちだっていうから来たんだけど……うん? あれ、ちょっと待って、って事は、もしかして小雪ちゃんが巻き込まれてるの?」

「……そうなる」

 

 瞬間、蓮のビンタが飛んだ。快音が響き、少し遅れて一太郎の頬がじんじんと痛みだす。

 

「次、私を除け者にしたらグーだから」

 

 静かに怒る蓮をなだめて小雪の警護を任せ、三人はひとまず車で早瀬家へ向かった。住所は蓮から聞いた。

 恐らくルーカスの死因は呪殺だ。小雪はルーカスによる何らかの方法で進行が止まり小康状態を保っているようだが、呪殺が無理と判断した何者かが直接的に殺しに来ないとも限らない。それを防ぐための蓮である。

 蓮は《被害をそらす》と《食屍鬼との接触》の魔術を覚えていて、ちょっとやそっとの襲撃ならば対処できる。 相手が一人なら《被害をそらす》で防御しつつ大声を上げればたちまち警備員が飛んでくるし、相手が警備員で対処できないような人数なら《食屍鬼との接触》で食屍鬼の群れを呼び寄せて助けて貰えばいい。幼い頃に食屍鬼との交流があり、食屍鬼語を話せる蓮の頼みなら、食屍鬼も無下にはしないだろう。食屍鬼が皆いつかのキミタケのような人道的な怪物とは限らないので、あくまでも最後の手段になるが。

 

 小一時間車を走らせ、東京郊外の高級住宅街についた。広々とした邸宅の中でも一際大きな、ちょっとした城のような建物が早瀬家である。入口には門があり、守衛が立っていた。

 

「はえー、でっかい! どんな悪い事すればこんなに稼げるんですかねぇ……」

「早瀬家は資産運用で稼いでいるようですがね、黒い噂は少ないんですよ。ざっと調べた限りでは、ですが」

 

 驚嘆するパーシーに小次郎が説明する。移動中に特命係に連絡して警察のファイルを簡単に調べてもらっただけなので、深いところまでは分からないが、とりあえず訪ねた途端にドーベルマンに噛み殺されるような殺伐とした家ではないらしい。小雪が病に倒れる前は蓮もよく遊びに行っていた。

 連れて行くと話がややこしくなりそうだが車に置いていくのも不安があるパーシーを引き連れ、二人は守衛に話しかけた。三人はそれぞれ早瀬小雪の主治医の親族、警察、早瀬小雪の友人の親、と正直に身の上を説明し、早瀬家の人間に話したい事があると言ったのだが、どうにも守衛の反応がはっきりしない。

 

「お通しできますよ。できますが、そのー、やっぱりですねえ、早瀬家の方々はお忙しい方ばかりですし、いきなり押しかけるのは、そのですねえ」

「申し訳ありません。しかしこちらとしても急な話で。今はお会いできないんですか?」

「できますできます、できますけど、あー、こう、マナーとしてですね? まずアポをとって頂いて」

「……分かりました。では明日の朝お伺いさせていただきたいのですが」

「朝!? 明日の朝。あー、えー」

「駄目ですか? いつ頃なら都合がつきそうですか?」

「いつ頃……えー……あ、ちょっとちょっと! 何してるんですか!」

 

 煮え切らない守衛にイライラしていると、パーシーが少し離れた場所から塀をよじ登って中に入ろうとしていた。守衛が警棒を出して走って行き、パーシーの足を打つ。パーシーは悲鳴を上げて無様に落ちた。

 

「なんなんですかあなたは!」

「あっ、足が! 足がァー! 折れた! これ絶対折れたって! あーッ! これもう治療費百億万円かかるわ! イタタタタ! おまわりさーん! この人俺の足粉砕しましたァー!」

 

 パーシーが小学生並の痛がり方をして派手に騒ぎ、守衛の注意が引き付けられている隙に、小次郎と一太郎は互いに目配せして頷き合い、門の格子の隙間から中の様子を伺った。

 早瀬家の門の前には広いバラ園があり、温室と噴水も見えた。その奥には荘厳な大邸宅がどっしりと待ち構えている。絵に書いたような豪邸だ。

 守衛の態度から何か隠しているのではと疑った二人が怪しいものは無いかと見回す。すると、小次郎の目にバラ園の間を縫うように通っている石畳の道で誰かゴソゴソ動いているのを見つけた。バラの陰になっていて分かりにくいが、小柄で、随分猫背だ。帽子でも被っているのか頭部が奇妙に変形して見える。庭師かと思い目を離そうとすると、そいつと目が合った。昼間の太陽の下でもはっきりと分かるほど爛々と光る赤い瞳だ。

 

 小次郎は奇妙な寒気と目眩を覚えた。視線を通して体の中に氷でも入れられたようだ。漠然とした不安感が湧き上がる。目をこすった小次郎がもう一度バラ園の片隅を見た時には、既に誰もいなかった。

 温室のそばにタラの木を見つけ、天ぷらにすると美味しいウコギ科の落葉低木について無駄に知識を掘り起こしていた一太郎は、パーシーが守衛に連行されそうになっているのに気づき撤退する事にした。平謝りしながらパーシーの頭を掴んでコンクリートに擦りつけ、明日また来るという事だけを一方的に言って撤収。守衛は追うべきか迷ったようだが、深々とため息を吐いただけだった。

 

 三人は車で移動しながら情報を共有した。小次郎がバラ園に居た何者かについて話し、一応一太郎の「透視」チェックを受ける。一太郎はハンドルを切りそこね、車を電柱にこすってしまった。小次郎に魔術がかけられていたのだ。

 

「やられましたねぇ。今のところ寒気がする程度ですが……これは早瀬家が元凶という事ですかね」

「どうでしょう。小雪ちゃんの治療費は早瀬家が出しているようですし、その小雪ちゃんの為に動いている我々を妨害する理由は無いと思いますが。というか本当に大丈夫ですか? 休まれたほうが良いのでは」

「そうそう、俺に任せとけよ。パパッと解決してやるから見とけよ見とけよ~」

「これは休めませんねえ」

「なんかもうすみません……」

 

 不審な態度の守衛と、早瀬家に居た不審人物(推定魔術師)。早瀬家を疑う理由はあるが、小雪はその早瀬家の娘であり、今日まで相当手を尽くされている。イマイチ全容が掴めない。早瀬家内部に跡取り争いか何かがあり、小雪に生きていて欲しい者と死んで欲しい者がいるのではないか、という説を一太郎が言い出し、小次郎はそのあたりの調査を電話で特命係に頼んだ。

 

 一通り話すべき事を話し終わると、ルーカス邸に着いた。ネルソン診療所から車で五分ほどの場所にある、こじんまりとした二階建ての家だ。診療所が封鎖され、早瀬家で門前払いを喰らった以上、事件の手がかりがありそうなのはここぐらいだ。

 玄関には蜘蛛の巣が張っていて、窓は汚れている。しばらく帰っていないようだ。

 

 玄関の前で一太郎は小次郎に前を譲り、譲られた小次郎はパーシーを見た。

 

「え、何?」

「鍵を貸して下さい」

「え?」

「え?」

「え?」

 

 三人は顔を見合わせ、同時に頭を抱えた。鍵がない。

 一太郎がなんか昔もこういう事があったなーと学習しない自分に絶望していると、パーシーが新聞や雑誌がぎゅうぎゅうに詰め込まれているポストの下をまさぐった。

 

「でもなー、兄貴の癖が昔から変わってないなら多分……あ、あったわ」

 

 パーシーはポストの下にガムテープでくっつけられていた鍵を剥がし、ドヤ顔で玄関を開けた。やはりこの男、未弧蔵と同じ世界の住人だ。

 

 一応、親族(パーシー)の許可が下りているので、小次郎は遠慮なく家探しをした。廊下も室内も全体的に埃っぽく、歩くと薄ら足跡がついた。ルーカスが長いこと家を開けていた証拠だ。三人が来る前に訪問者が無かった事の証拠でもある。

 

 小次郎は寝室で折りたたまれた防弾ジャケットを見つけた。市販品の物のようだが、老齢の医者が持っているには違和感のある品だ。サバゲー同好会にでも入っていたのかと思い何気なく持ち上げると、背中に大きく三本の裂け目が入っているのが目に入り息を飲んだ。何かに引っ掛けて破けたような跡ではない。まるで巨大な鉤爪に引き裂かれたようだ。さらに、枕の下には強力な催涙スプレーがあり、押入れからは襟に血がついた白衣と半分溶解した医療カバンが見つかった。

 一体ルーカスは何を相手にしていたのか。小次郎は戦慄しながら、それらの品を調べていった。

 

 書斎に入った一太郎は壁際を埋め尽くす本に圧倒された。五千冊近くあるのではないだろうか。大半は医学関係の本で、ファイル分けされた論文も多い。

 例によって「透視」で魔導書を探してみたが、反応なし。大量の本を一冊一冊チェックしていく。

 蔵書にはオカルト系の本も混じっていた。医学書と比べて真新しいものが多く、一太郎でも知っているようなメジャーなものや、パラパラ捲っただけでゴミ同然と分かるクズ本ばかりだ。最近になって手当たり次第集めた、といったところだろうか。無論、小雪の病状の改善のために違いない。

 一太郎の感覚では異常な病に対してオカルト的観点から考えるのは至極当然だが、普通は違う。医者が困難な病にぶち当たり、オカルトに傾倒し始めれば大抵頭がおかしくなったとみなされる。敢えてその道を行き、どうやら成功を収めたらしいルーカスは傑物と言える。

 

 神話的な冒涜的知識と、オカルト知識はほぼ別物である。ルーカスが死に際に口走った「這いよる混沌」=ニャルラトホテプは神話的知識に分類され、付け焼刃のオカルト知識で接触できる類の言葉ではない。ルーカスはどうにかして愚にもつかないオカルトから脱却し、その上位互換とも言える神話的知識にたどり着いたようだ。その代償か、怪死する事になってしまったが。

 

 二時間ほど本棚を検分すると、二冊の本が見つかった。「Elpis」と題された手書きの本と、ルーカスの日記だ。日記の方は文机の引き出しに入っていた。日記の方は言わずもがな、ルーカスが何故怪死するに至ったか、そしてどうすれば小雪を救えるのかを知る手がかりになるだろう。

 Elpisの方は中に魔術が記されている……らしい。百ページほどの黒いハードカバーの本で、表紙の裏に「治療系魔術手引書草案」と身も蓋もない文言が書かれていた。ルーカスの頭が正常だったのなら――――悲しい事に異常だった可能性も十分ある――――これに小雪の症状を小康状態に持っていったという手段が記されているのだろう。

 

 神話的怪異に日記や魔導書はつきもので、大抵は重要なキーアイテムになっている。一太郎はまずはElpisから読む事にした。他の二人に読ませるよりも、魔術知識の土台がある一太郎の方が理解は早いだろう。

 一太郎は自分がElpisを読んでいる間に日記を確認してもらおうと、パーシーを探した。本音を言えば小次郎に任せたいのだが、日記は英語の筆記体で書いてあったのだ。日本人が読むには難度が高い。

 

 パーシーは居間のワインセラーに入っていたヴィンテージワインを浴びるように飲んでいた。

 

「兄貴ィ……なんで死んじまったんだ……勝ち逃げしやがって……俺は駄目な弟だよ……結局、何一つ兄貴にゃ勝てなかった……」

 

 空き瓶を片手にパーシーは泣いていた。なんだかんだで兄弟なのだ。どんなに駄目な男だろうと家族の死はやはり辛い。

 今はそっとしておこう。一太郎は足音を忍ばせて踵を返した。

 

「本当になんで死んじまったんだ……借金六百万もあるんだぞ……この先誰を保証人にすりゃいいんだよ……やべえよやべえよ……」

「オラ、これでも読んでろ!」

 

 一太郎は助走をつけてパーシーの顔に日記を叩きつけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一晩かけて、一太郎はElpisをざっと読み通した。手引書草案というだけあって、かなりわかりやすく書いてあったので助かった。

 Elpisに記されていたのは、一週間の間対象の自然回復力を最大限に高める《癒し》と、多くの魔力(MP)を消費する代わりに即効性のある回復をもたらす《治癒》である。ゲーム的な表現をするならば、《癒し》がHPを毎ターン少量回復する魔法で《治癒》が一瞬(1ターン)でHPを大きく回復する魔法だ。ただし《治癒》は傷、病気、毒など、体の害になる要素に対してオールマイティに作用するらしい。死者は蘇らないが、失われた手足すら長期的に《治癒》し続ければ少しずつ生えてくるようだ。

 

 どちらも非常に有用である。早速習得して小雪に使用、と行きたいところだが、いくら分かりやすく書いてあっても、魔術の習得は簡単ではない。大抵の魔術は、長い詠唱の文言を正確に覚え、正確な抑揚で正確に発音し、正確な身振り手振りを交えなければならないのだ。

 一太郎は習得を詠唱の短い《治癒》に絞る事にした。《治癒》は魔術の発動にかかる時間は十秒ほど。覚える所作もそれだけ少ない。三日あればなんとかなるだろう。《癒し》は五分間の詠唱を必要とするため、覚えるには時間がかかりそうだった。

 

 小雪のカルテとElpisを読んだ一太郎は、小雪が現在ルーカスによって《癒し》を受けている事を理解していた。何者かによる呪いと、ルーカスの《癒し》が拮抗しているのだ。最近の小雪のカルテの記述が曖昧だったのは、まさか「魔術で治しています」とは書けないからだろう。

 ここで重要になるのが、《癒し》の継続時間である一週間だ。ルーカスは四日前に発症し、床に臥せった。あの状態では魔術の発動に必要な詠唱も身振りもできなかっただろうから、小雪に《癒し》がかけられたのは四日前が最後。あと三日で効果が切れる。三日のタイムリミットまでに《癒し》か《治癒》を習得できなければ、小雪に降りかかっている魔術の均衡が崩れ、たちまち死んでしまう。元々長期の闘病で弱りきっていたのだ。《癒し》が解けても持ちこたえるというのは希望的に過ぎるだろう。

 時間との勝負だ。一太郎は小次郎に手短に事情を説明し、書斎に篭って一心不乱に魔術の習得に打ち込み始めた。

 

 徹夜して兄の日記を読んでいたパーシーは不貞腐れていた。

 約一年前、ルーカスは古い友人の早瀬源蔵から孫娘の治療を頼まれた。ルーカスは手を尽くしたが、症状の根本的な改善には至らず、じわじわと悪くなるばかり。

 半年前、ルーカスはアメリカのアーカム市に住んでいる魔法のような治療をするという医者の噂を聞き、藁にもすがる思いで会いに行った。そして、そこで身の毛もよだつような恐ろしい怪物と対決するハメになったらしい。日記には怪物とその厳しい戦いについて克明に書かれていて、パーシーは打ちのめされた。

 アウトローな部分で勝負すれば兄に勝ると信じていたが、とんでもなかった。ルーカスはある意味ではマフィアの抗争よりも恐ろしい事件に巻き込まれ、生還し、治療魔術の習得に成功していた。やはり兄には勝てない。兄より優れた弟など存在しないのだ。

 

 劣等感に悶々としながら魔術を習得した後の出来事を読み進めようとしたパーシーは、居間にやってきた小次郎に邪魔された。

 

「――――という訳で八坂氏は動けませんので。早瀬家には我々だけで向かいます。用意しておいて下さい」

「あ、マジで? 日記読んでる途中なんだけど。っていうか眠いわ。昨日から寝てねぇ」

「あー……昼からという事でアポ取っているので、今から仮眠を取ってもらうという事で。日記には何が書いてありました?」

「兄貴

 めっちゃ

 すげえ」

「……特にめぼしい情報は無かったと。では昼に」

 

 肩をすくめて家宅捜査に戻ろうとした小次郎はタンスの角に足の小指をぶつけて悶絶した。背後でパーシーがバカ笑いしているのが腹が立つ。小次郎はコメディ時空に引きずり込まれる前にそそくさと退散した。

 

 昼になり、二人は再び早瀬家に向かった。渋い顔の門番に通され、使用人の案内で中に通される。

 応接間で早瀬雄太郎と面会した。四十代の壮健な男で、高級そうなスーツをを見事に着こなし、柔和な微笑みを浮かべている。それが本心からの笑みなのか、取り繕ったものなのかは二人には分からなかった。「透視」と心理学の併用で魔術的な正確さでもって人の心を読み取る事ができる人間はそうそういないのだ。

 

 雄太郎は当主である父は今都合がつかないため、自分が代わりに対応する事になったと最初に一言断った。当主の息子ならば恐らく次期当主。そんな人物が対応に出てきたのだから咎める理由はない。

 

「雄太郎さんもお忙しいでしょう。昨日の今日で急な訪問になってしまい申し訳ない」

「いえいえ、娘とルーカスさんのお知り合いと聞きましたので。重要な人物と会う時間を作るのは当然の事です」

「そう言って頂けると助かります」

 

 雄太郎と小次郎が話の枕に当たり障りのない話をしていると、メイドが紅茶とケーキを運んできた。ケーキは市販のもののようだが、紅茶は嗅いだことのない独特の香りがした。

 小次郎は早瀬家を疑っている。警察を名乗った以上、まさか短絡的に劇物を盛られる事はないだろうが、かつて起きた事件でヘビ人間が使ったような、人間をコントロールする特殊な魔術的毒の例もある。油断はできない。小次郎は口をつける前に匂いを嗅いで尋ねた。

 

「面白い香りですねえ。何か香り付けに使っているのでしょうか」

「はい。それは当家のバラ園で採れたバラから抽出したローズヒップティーなのですが、そのままでは酸味が強く好みが分かれるのが難点でして。飲みやすいようにハーブと蜂蜜を少々交ぜてあります。お口に合わないようでしたら別のものとお取替えしますが」

「では私はミネラルウォーターを。すみませんね、どうも紅茶は苦手で」

 

 小次郎は紅茶を回避して水を頼んだ。ミネラルウォーターなどと洒落た言い方で誤魔化したが、要するに毒を味や香り、色で誤魔化されないように無色無味無臭の水を選んだだけである。隣ではパーシーがケーキを貪りながら紅茶をお代わりしていた。

 

「それで本日のご要件は?」

「実は――――」

 

 小次郎は幾つか伏せながら事情を説明した。ルーカス・ネルソン医師の意向で、早瀬小雪が何者かに命を狙われている可能性を考慮し、警察病院へ移した事。ルーカスに依頼され、自分達が小雪を付け狙う何者かを追っている事。今日はその手がかりを探しに来たこと。

 ルーカスの死亡は言わなかった。早瀬家の一派が小雪の命を狙っているのなら、ルーカスは邪魔者だったはず。わざわざ邪魔者が死んだ事を伝えてやる理由はない。ルーカスは死に様が死に様だったため、一般に死亡の情報は伝わっていない。

 

「そうですか……やはり何者かが娘の命を」

 

 雄太郎は呟きながら小次郎の目をじっと見てきた。小次郎は雄太郎の反応から情報を読み取ろうとしていたが、逆に自分が観察されているような気がして落ち着かなくなった。多少の危険は承知だったつもりだが、もしかして虎の穴に飛び込んでしまったのでは。

 緊張で硬くなった小次郎は、隣で自分の分のケーキまで食べ終わり、ゲップをしているパーシーを見て脱力した。ここまで無警戒で我が家のようにくつろがれると自分の警戒が馬鹿馬鹿しくなってくる。

 

 小次郎は雄太郎自らの案内で、小雪の部屋に何か手がかりが無いか探したり、自宅で小雪が食べていた料理の食材の仕入先を見たり、厨房を調べたりした。どこにも怪しいものは無く、すれ違う料理人や庭師はどことなくよそよそしいものの何かしてくる訳でもない。

 絨毯の敷かれた廊下を歩きながらパーシーが聞いた。

 

「小雪ちゃんの見舞いに行ったりはせぇへんの?」

「……近頃は仕事が忙しくなかなか時間が取れません。心配ですが、ルーカスさんを信用していますので。あの方に任せておけば安心です」

「チッ」

 

 兄への劣等感を刺激され、パーシーは舌打ちした。

 最後に二人はバラ園へ案内された。色とりどりのバラが咲き、よく整えられたバラが腰ほどの高さで一面に広がっている。小次郎はざっと見渡したが、あの赤い目はどこにも見当たらなかった。パーシーは近くにいたメイドに頼んでバラの花束を作ってもらっている。

 

「見事なバラ園ですね。手入れもさぞ大変でしょう。専属の庭師を雇っているので?」

「普段は一人だけ。繁忙期には業者を入れています」

「ほう。昨日も業者の方が作業していたのですかね」

「いえ、昨日は来ていませんが」

「そうですか? 昨日尋ねた時、バラ園で誰か作業していたように見えたもので。庭師の方でも無いようでしたので、てっきり業者の方かと」

「……ふむ。料理人が料理に使うバラを摘んでいたのかも知れませんね」

 

 さらっと流されたが、あれは庭師でも料理人でも無かったと小次郎は確信している。雄太郎が何か隠している可能性は高い。まさかあの赤目の何者かが白昼堂々早瀬家の敷地に侵入した泥棒だという事はないだろう。

 疑いを深めていると、雄太郎は話を続けてきた。

 

「小次郎さんはバラに興味がお有りですか? よろしければ良いバラを扱っている園芸店を紹介しますが」

「……是非」

 

 バラといえばベルサイユのバラと青薔薇ぐらいしか思い浮かばない貧困な知識と興味しかなかったが、話に合わせて頷いておいた。雄太郎は手帳を出し、ささっとメモをしてページを千切り渡してきた。

 

「私の紹介だと言えば良くしてくれるでしょう」

「! ……どうも。時間を見つけて行ってみます」

 

 渡された紙には、園芸店のものらしい住所と共に、「トリカブトを探せ」という走り書きがしてあった。小次郎が雄太郎を見ると、雄太郎は目を逸らして歩き出した。

 

「もう夕方ですね。時が過ぎるのは早いものです。何か用がありましたらまたお越し下さい」

 

 二人は丁寧に礼をする雄太郎と守衛、メイドに見送られ、早瀬家を後にした。

 車の中で小次郎はパーシーにメモを見せた。

 

「こんなメモを受け取ったのですが。何か心当たりは?」

「ん? いや、兄貴はトリカブトとか育てたりはしてなかったなあ。トリカブトってアレだろ、毒草」

「そのトリカブトだと思いますが。ふむ。雄太郎氏の意図が読めませんね。パーシーさんは何か収穫ありましたか」

「おっ、そうだよ、見てくれよ~このバラ。これ小雪ちゃんの枕元に置いたら喜びそう……喜びそうじゃない?」

「あー、いいですね~」

 

 捜査とは関係なかったが、小次郎はパーシーの心意気に優しい気持ちになった。

 

「あと紅茶セットもらってきた。高く売れそう……売れそうじゃない?」

「それは盗ってきたと言うんです。今度訪ねる時に返しましょうか」

 

 いつの間にくすねたのか、懐に入れた紅茶セットを見せびらかすパーシーにため息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 更に翌日の朝。パーシーはルーカス邸の居間で日記を読み終えた。

 治療魔術の習得後、帰国したルーカスはすぐさま小雪に魔術をかけた。結果、病状の悪化は食い止められた。しかし快方へ向かう事はなかった。

 ルーカスは小雪が魔術によって苦しんでいる事を確信。一週間毎に「癒し」をかけ直して悪化を防ぎつつ、小雪に魔術をかけている犯人の特定のために奔走する。

 独自の捜査の結果、ルーカスは「銀の黄昏教団」というカルト集団にたどり着いた。

 

 銀の黄昏教団は謎の多い秘密組織である。短い調査では深いところまでは判然としなかったが、かつては世界規模で権勢を誇った邪神崇拝組織らしい。「ルルイエの主」クトゥルフ、「全てにして一つのもの」ヨグ=ソトース、「這いよる混沌」ニャルラトホテプなど、強大な邪神を奉じる古い組織だ。現在では衰退したものの、未だに生き残りの幹部達が世界各地で策謀を巡らせている。

 その銀の黄昏教団のメンバーの一人が、最近早瀬家に接触したらしい。目的は不明ではあるが、その接触と時期を同じくして早瀬小雪は病に罹った。無関係とは考えられない。

 早瀬家の財力を借り、より詳しく調査の手を伸ばそうとしたところで、ルーカスに小雪のものと同じ魔術がかけられた。病は喉に及び、詠唱ができなくなったため、魔術で自己治療もできない。自分の調査を勘付かれ、排除されようとしている事を察したルーカスは、銀の黄昏教団と無関係であると確信できる、信頼できる人物に後を託した。

 

 以上が日記に記されていた事である。

 銀の黄昏教団が首謀者らしいが、早瀬家の立ち位置がはっきりしない。日記には、早瀬家の内部調査を行ったという記述はなかった。ルーカスは早瀬家に全幅の信頼を寄せていたらしい。もしも、早瀬家と銀の黄昏教団が結託していたとしたら? いや、最初は敵対していて、途中で方針を変え手を結び、邪魔になったルーカスを排除したという可能性もある。

 

 そこまで考えて、タバコが切れたパーシーは、タバコを買いに行くついでに書斎で魔術を学習中の一太郎に日記の内容の要約を話した。

 

「銀の黄昏教団……?」

「知ってる?」

「いや知りませんが。似た言葉は聞いた覚えが」

「あ、そう? じゃけん俺タバコ買ってきますね~」

「あっはい」

 

 話の繋がりは分からなかったがパーシーはタバコを買いに行った。

 

 銀の黄昏といえば、前回の事件の銀の黄昏館を思い出す。しろがね館の前身であった建物の名前だ。前回の事件で戦ったアリッサ・シャトレーヌは魔術師だった。アリッサも銀の黄昏教団のメンバーだったのかも知れない。

 という事は、最悪あのレベルの魔術師や怪物とまた戦う事になる。一太郎の脳裏に街を瓦礫の山へ変えていく黒い竜巻がフラッシュバックした。吐き気がする。今度は間に合えば良いが……

 

 暗い気分になった一太郎は、隣の部屋で携帯の着信音が鳴っているのに気付いた。小次郎の電話だろう。気にせずに魔術の習得に戻ろうとしたが、着信音がなかなか消えない。小次郎が部屋に携帯を置き忘れたかと思った一太郎が隣の部屋を覗くと、ソファに横たわり、悪夢でも見ているのか青い顔でうなされている小次郎の手元に携帯があった。

 

「明智さん、携帯鳴ってますよ」

 

 声をかけて揺さぶるが、起きない。携帯のディスプレイを見ると、特命捜査係の左京からだった。少し迷ったが、一太郎は電話に出る事にした。

 

「はい」

「もしも……ん? 声が」

「八坂です。明智さんが寝ているので代わりに出させてもらいました。緊急ですか」

「緊急ではないが、まあ八坂さんでも構わないか。えー、頼まれていた早瀬家の内情調査結果だがね」

 

 左京曰く、早瀬家は早瀬源蔵を当主とする一族の財閥で、次期当主は源蔵の息子の雄太郎。雄太郎は優秀な男で、人望も厚く、特に跡目争いは起きていない。財閥傘下の会社には落ち目の企業もあれば、伸びている企業もあり、総合的に見て緩やかな登り調子。財閥に不審な点は無い。

 ただし、ここ四、五日の間、当主の早瀬源蔵が公の場に姿を見せていないという。予定を全てキャンセルし、自宅に篭っている。軽い風邪だが大事を取っている、と説明されているらしい。

 

「ルーカス先生が倒れたのと同時期からですね」

「それは思わせぶりな符号だと思うね。そちらの調査の進展はどうかな」

「順調です」

 

 一太郎は左京にもざっと状況を説明し、銀の黄昏教団の調査を頼んで電話を切った。

 そこで違和感に気付いた。耳元で随分長く話し込んでいたのに、小次郎が目を覚まさない。近くで見てみると、顔色が悪いだけでなく脂汗をかいている。嫌な予感がして「透視」をしてみると、小次郎に二重に魔術がかけられていた。

 

 コンビニの自動ドアを潜ると同時にタバコが買う金を持っていない事に気づいてすごすご戻ってきたパーシーは、一太郎にもう一度早瀬家に探りを入れてくるよう頼まれた。

 小次郎は意識がなく、警察病院に搬送された後だ。小次郎が魔術にかかったタイミング的に怪しいのは早瀬家である。早瀬家でパーシーと小次郎は常に行動を共にしていたので、小次郎が魔術をかけられるのならパーシーもかけられていなければおかしい。パーシーが無事なのは、何らかの要因で魔術を回避できたからだ。

 今度も回避できるかは不明だが、ここはパーシーに託すしかない。放置すれば被害は広がる一方。小雪のタイムリミットもある。一太郎はますます治療魔術の習得が急がれるため手が離せず、特命係はまたしても別の案件に人手を割かれていて人を回せない。警察病院で小雪と小次郎の警護をしている蓮は論外だ。

 

「トリカブトを探せ、という言葉も気になりますが、早瀬家が怪しいこの段階では、罠への誘導の可能性も捨てきれません。早瀬家から行きましょう。正直不安ですが、任せます」

「任された」

 

 パーシーはドンと胸を叩いた。

 

 パーシーは寝室からルーカスの服と白衣をとってきて着替え、洗面台で髭を剃って髪型を整えた。押入れから引っ張り出してきた使いかけの絵の具で器用に皺を作り、キリッとした表情を作ると、驚く程パーシーの顔はルーカスそっくりになった。元々背丈も同じぐらいで、声も似ている。ちょっとやそっとでは気づかれないだろう。

 ルーカスに変装したパーシーは、鼻歌を歌いながら早瀬家へ向かった。ルーカスの姿を見て早瀬家の住人達がどう反応するのか見ようと考えたのだ。歓迎されるのなら良いが、敵対され襲われた場合どうするかはまったく考えていない。変装がバレた場合の事も考えていない。雄太郎が留守だった場合も考えていない。ガバガバな作戦である。

 

 パーシーは車も免許も持っていないので、のんびり歩いて早瀬家へ向かった。数時間後、襲撃もなく無事到着する。

 門の守衛はパーシーを見た瞬間、信じられない、という顔をした。

 

「ルーカスさん?」

「ああ、久しぶり~……です」

「おお……ルーカスさん! 貴方が死ぬはずがないと思っていました! さあ早くこちらへ! 源蔵様が大変なんです!」

 

 守衛は目に涙を滲ませ、ルーカスの手を取った。そのまま早足に屋内に案内される。パーシーは訳の分からないまま曖昧に相槌を打ち、それに着いていった。

 パーシーは幾つもの廊下と階段を通り、一つの部屋に案内された。

 

「さあ、雄太郎様と源蔵様がお待ちです」

「…………」

 

 あまり口を開くと口調でボロが出そうだったので、パーシーはおとなしく従って中に入った。

 部屋の中には、ベッドに伏せる今にも死にそうな老人と、その手を握り俯いている雄太郎がいた。雄太郎は胡乱げにパーシーを見て、目を見開いた。弾かれるように立ち上がり、駆け寄る。

 

「ル、ルーカスさん!? 死んだはずじゃあ……!」

「実は生きてた、んです」

「偽装死ですか? なるほど、たしかに一度死んだように見せかけた方が良かったかも知れませんね。いや、すっかり騙されました。そうだ、ルーカスさん、早く父に魔術を。前回からもう六日です、もう駄目かと」

 

 雄太郎はベッドの横の場所を空け、パーシーに譲った。パーシーは老人をじっと見つめるが、見覚えも無ければ、当然魔術も使えない。

 焦る。一気にダンジョンの最奥部まで来て、ひのきのぼうと鍋の蓋しか持っていない事に気付いた気分だった。冷や汗が流れる。

 

「ルーカスさん?」

 

 沈黙して動かないパーシーを雄太郎が訝しげに見る。パーシーの顔色を観察した雄太郎はハッとした。

 

「別……人? ルーカスさんじゃない!? な、なんて事を……!」

 

 雄太郎は顔を青ざめさせた。パーシーは素直に謝った。

 

「ごめんな?」

「ごめっ、お前ッ、自分が何をしたのか分かっているのか!」

「ままま、落ち着いて。俺は魔術使えないけど、魔術使える奴が来るからさ~」

「嘘をつくな! これが落ち着けるか! お前ッ、お前が余計な事を……! ああ、もうおしまいだ!」

 

 声を聞きつけた守衛が部屋に入ってきてパーシーと口論になり、それを聞いたメイドも入ってきて、大騒ぎになった。この世の終わりのような顔で絶望したりパーシーに怒鳴りつけたりと忙しい雄太郎と、のらりくらりと早瀬家の面々を煙に巻くパーシーで混沌とする。

 しばらくして落ち着いた後、パーシーは事態の変化についていけずまごまごしているメイドにねちっこく頼み込んで携帯電話を借り、ルーカス邸に電話をかけた。コール数度で一太郎が出た。

 

「はい、八坂です」

「もしもし? パーシーだけど」

「何かありました?」

「今早瀬家にいるんだけどさ~、ちょっと……あの、アレ、やばい」

「……やばいんですか」

「そそそ。ところで八坂は魔術覚えた?」

「今さっき覚えたところです。まだ試していないので効くかは分かりませんが」

「おっ、ナイスゥ! じゃあ早瀬家来て源蔵さん治してくれよ~、頼むよ~」

「えっ」

「源蔵さん、なんか魔術かけられてるらしいんだよ」

「えっ? ど、どういう状況?」

「いいからいいから、じゃ、頼むよ~」

「ちょっ」

 

 パーシーは電話を切り、唖然としているメイドににっこり笑って携帯を返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 車を飛ばしてやってきた一太郎の魔術は、無事に発動した。今にも死にそうだった早瀬源蔵の顔色は急激に良くなり、汗は引き、体の震えも止まり、安らかな寝息をたてはじめた。

 それを見た雄太郎は大きく安堵の息を吐き、両手で顔を覆った。

 

「良かった。はあ……もう駄目かと……」

「えーと、あの、すみません、押しかけて来ておいてなんですが、我々も事情を把握してなくてですね。できれば何が起きているのか話して頂けると助かるのですが」

 

 遠慮がちに尋ねると、雄太郎は疲れきった様子でパーシーと一太郎の椅子をすすめ、全てを語った。

 

 早瀬小雪が病にかかった直後、当主である早瀬源蔵に強迫があった。孫娘の病を治して欲しければ金を出せ、というものだ。

 当然、源蔵はこれを無視。誘拐したのならまだしも、病気を理由に強迫など訳がわからない。普通に治療をして、それで終わりだ。早瀬家は大財閥なだけあり、例年この手の頭がおかしい強迫がチラホラ来るのも一顧だにしなかった理由の一つである。

 

 ところが小雪の病は不自然に長引き、強迫も続く。病の媒介者を突き止めようと手を尽くしたが、原因は分からなかった。

 早瀬家の内密の親族会議では強迫に応じて金を払おうという意見も出たが、強迫と病の因果関係がはっきりしなかった。脅迫者と病の原因はまったく別で、と突発的な謎の病に便乗して強迫しているだけかも知れない。とはいえ、万が一という事がある。要求された金額は十分払える額だ。金を払ってそれで済むのなら、それが一番良い。大事な孫娘のために、源蔵は脅迫に屈しようとしていた。

 

 そこで源蔵の古い友人であり、小雪の主治医であるルーカス・ネルソンが治療魔術を引っさげて帰還。事態は好転する。

 ルーカスが語った神話的怪異、禍々しい魔術の存在を信じ、源蔵は調査方針を転換。科学捜査からオカルト的捜査に切り替える。元々が財力があり、コネもある財閥である。捜査は迅速に行われ、魔術をかけた犯人が東京近郊にいる事、《病をもたらす》魔術をかけるためには毒草が必要であり、どうやらトリカブトを使っているらしい事が分かった。

 並行して別ルートでルーカスが行っていた調査により、犯人が銀の黄昏教団に所属している魔術師である事が判明。犯人を追い詰めるのは時間の問題と思われた。

 

 ところが、あと少しというところで対魔術師の主要人物であったルーカスと源蔵が病にかかってしまった。

 指導者を失い、早瀬家は萎縮した。次期当主である早瀬雄太郎が急遽代わりに先頭に立ったが、源蔵と小雪、二人を人質に取られては苦しかった。

 ルーカスの死亡の報を独自の情報網で手に入れ、雄太郎は屈服。多額の金を支払う事になった。

 

 更に犯人――――魔術師は要求を突きつけた。今後、早瀬家に訪問してきた者は全て招き入れ、食器を使わせ、それを自分に渡す事。早瀬家の監視カメラを全てOFFにして、裏口を常に開けておく事。魔術や脅迫に関する情報は一切口外しない事。この三つだ。

 雄太郎はその要求を飲めばますます敵が有利になる事は承知していたが、逆らえず、了承。守衛の態度がおかしかったのは、小次郎達を招き入れれば敵の手に落ちてしまうが、脅迫されているため招き入れるしかないというジレンマに苦しんでいたからだ。敵はどこで見ているか分からない。下手な対応は源蔵と小雪の死を招く。

 

 二度目の訪問で、小次郎の使ったティーカップは魔術師の手に渡った。受け渡しは助手を名乗るフードで顔を隠した男が行った。彼が本当に助手なのか、魔術師その人であったかは不明である。とにかく、その後に小次郎が病にかかったところからすると、ティーカップを媒体にして呪いをかけられたのだろう。古来から本人縁の髪や愛用品を介して呪いをかけるというのはよくある話だ。パーシーが無事だったのは、自分の使った紅茶セットをくすねたため、敵の手に渡らなかったからである。

 

 そして今日、パーシーが突撃をかました……という訳だ。

 

「パーシーさんだと分かった時はどうなる事かと思いましたが……なんとかなるものですね」

 

 そう言って雄太郎は力なく笑った。一太郎も苦笑いする。まったく同意だった。機転と運にかけてはパーシーは一太郎より上かも知れない。はた迷惑さも上だが。

 

 話が終わった後、雄太郎は電話を何本かかけ、魔術師の居所を突き止めるために全力で動き始めた。魔術師に唯々諾々と従っている間にも、逆襲の機会が訪れたらどうしてやろうかと頭の中で計画を練り続けていたらしい。私立探偵、警察、興信所、ちょっと口外できない情報機関。様々な者達が雄太郎のひと声で動く。

 財閥って凄い。一太郎は改めてそう思った。

 

 索敵の間、一太郎は魔力の回復と治療に時間を費やした。

 《治癒》の魔術は即効性・万能性・効果に優れる分、消費が重い。ゲーム的な表現をするならば、コストとして12MPを消費する。一太郎のMP最大値はPOWと同じ22で、MPは24時間で全快する。連続使用はできない。それでも小雪の治療と小次郎の治療は間に合った。

 何か危ない薬でも使ったかのような回復ぶりだったが、実際《治癒》の魔術はそれなりに危ない。現実では有り得ない急激な回復ぶりは、現実から逸脱した法則に基づいているからであり、それを行使する者もまたじりじりと現実から逸脱していく。一太郎の正気は既に相当の危険域に達している。この事件を片付けたら長期の精神的な療養が必要だ。もっとも、必要だからといって療養するとは限らないのだが。

 

 二人を治療してもまだ索敵と根回しが終わらなかったので、一太郎は自分と蓮の火傷痕に《治療》を使った。流石魔術というべきか、二人の火傷痕は綺麗さっぱりなくなった。《治癒》は古傷の類にも有効らしい。一生モノの呪いのような火傷から解放された蓮は静かに泣いていた。

 一太郎は幼い頃から引きずっていた火傷の後遺症が消え、体が軽くなったのを感じ、今更ながらどれほど火傷が重しになっていたのかを思い知った。鏡を見ると顔に醜い火傷の痕がなく、まるで別人を見ているような奇妙な感覚だったが、いずれ慣れるだろう。

 

 三日後、トリカブトの流通経路と銀の黄昏教団の噂などから、魔術師の住居が判明した。東京郊外の一軒家で、小さな庭にトリカブトが植えられているらしい。

 

「では私の手の者を向かわせます。司法の裁きに任せるのは不安がありますし、少々後暗い『処理』をする事になりますが、構いませんね?」

「ちょっと待ってください、私も行きます」

 

 電話で指示を出そうとした雄太郎に一太郎は待ったをかけた。訝しげにする雄太郎に説明する。

 魔術師や怪物の相手は非常に危険だ。物理攻撃が効かないような相手だった場合、オリンピック級の武術家や狙撃手でも敗北は必至である。解析役として一太郎の同行が望ましい。

 一太郎の説得に雄太郎は少し考えて頷いた。全幅の信頼を置いていたルーカスですら敗北したのだから、用心をしてしすぎる事はないと思ったのだ。

 

「私も行きます。決着をこの目で見届けたい」

「俺も俺も~」

 

 病み上がりの小次郎は決然とした目で言い切り、パーシーも気楽に便乗した。

 結局、一太郎、小次郎、パーシー、雄太郎配下三人の六人で向かう事になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、魔術師の家である。何の事はない、どこにでもある一軒家だ。全体的に老朽化が進み、くたびれた印象は受けるものの、付近にある住宅も似たようなものである。配下の一人が確認を兼ねて説明する。

 

「昨晩部屋の明かりが消えてから誰も出ていません。まだ中にいるはずです。どうも二人で住んでいるようなのですが、外に出るのはフードを被った男だけのようです」

「フードの男が犯人かどうかは分からないんですよね?」

「はい。しかしフードの男は犯人の手足となって動いているようですし、二人とも『処理』するように指示されています」

 

 一太郎は頷き、家に向かって『透視』をした。始めて神話的事件に巻き込まれた時を思い出す。あの時も屋敷に向かって『透視』をしたものだ。

 家は半球形の膜のようなものにすっぽりと包まれていた。ちょうどお椀を被せたような形だ。

 

「結界……ですかね」

「結界?」

「家の敷地が魔術的な膜に包まれています」

 

 一太郎は試しに指先で触れようとして思いとどまった。内に入ったモノを感知する警報装置的な結界かもしれない。

 『透視』では結界があるのは分かってもそれがどんなものかまでは分からない。警報装置かも知れないし、侵入者を焼き尽くすかも知れないし、物理的な障壁かも知れない。

 

 一行は相談し、六方向から同時に突入する事にした。結界の効果がなんであれ、相手は二人。多方面作戦を強いるのが良策だろうと考えたのだ。

 こそこそと配置につき、六人は一太郎のハンドサインで同時に塀を乗り越え突入した。

 

「六人に勝てる訳ないだろ! ……オロローッ!」

 

 塀を乗り越え、結界内部に侵入した途端、パーシーの胃が痙攣した。強烈な嘔吐に見舞われ、その場に膝をついて吐瀉物をゲロゲロと吐き始める。

 同じような汚い音が三ヶ所からも聞こえた。結界は嘔吐トラップだったのだ。

 結界の効果をPOW(魔術的素養)で紙のように破り去った一太郎と、なんとか抵抗に成功した小次郎は顔を見合わせた。

 

「えー……これはどうしたものですかねえ。同時突入が完全に裏目に出ましたが」

「あー、吐いてる連中を回収して一度引きますか? あのままだと脱水症状になりそうな勢いですし。いやその間に逃げられるのも」

「八坂氏の見立てはどうですか? どうにも病を操る系統の魔術師のようですが、このまま二人で行って勝てると思いますか」

「ふむ。やってやれない事は――――」

 

 話し合っていると、家の玄関から二人の男が出てきて一太郎と小次郎は身構えた。

 片方は例のフードの男だった。身長が高く、そこそこ体格が良い。しかしフードに隠されているせいで顔は分からない。フードの端から見える口元はニヤニヤと嗤うように歪んでいた。

 もう一方は形容しがたい奇怪な小男だった。いや、男と表現して良いのかも分からない。膨れて楕円形に変形し、紫色のできものができた禿げ上がった頭部。垂れ下がった皮膚に半分埋もれた、憎悪に燃える赤い目。腕はガサガサに干からびているようで、指が六本あった。しかし骨格や全体の外観は人間そのもの。育ち損なった奇形児のようだ。

 二人は悍ましい外見にショックを受けたが、小男が犯人である事を確信し、体に力を入れた。 

 

「抑えておけ」

「御意」

 

 身構える二人を見下した目で見た小男は、低いガラガラ声でフードの男に命じると、パーシーの方へ歩いて行った。懐から鋭く光るナイフを取り出したのを見て二人が止めようとすると、フードの男が立ちふさがった。

 小男は明らかにパーシーを殺す気だ。そしてパーシーは嘔吐に忙しく抵抗できる状態ではない。配下三人組も役立たずになっている。もう撤退はできない。

 やるしかない。小次郎は拳銃を抜き、一太郎はどの魔術が有効か頭を巡らせた。

 

 パーシーの元に来た小男は、手の中でナイフを弄びながら憎々しげに吐き捨てた。

 

「ルーカス……まさか貴様が生きていたとは。死んだふりか? どこまでも小賢しい」

 

 お前は一体何を言っているんだ。

 パーシーはコイツ頭おかしいんじゃないかと思ったが、自分がまだルーカスに変装したままだという事を思い出した。白衣は着たままで、メイクも落としていない。ついでに言えば着替えていないし風呂にも入っていない。

 

「このニャルラトホテプ様に逆らった罪を永劫の宇宙の果てで償うが良い! さあ、今度こそ死ね!」

「オ、オロローッ!」

「うおっ!」

 

 ナイフで斬りかかってきた小男に、パーシーはゲロを浴びせた。小男は思わず避け、ナイフは空を切る。

 

「オボッ……オロローッ!」

 

 その間にパーシーはなんとか這って逃げようとする。しかし白衣の裾を小男に踏んで止められ、背中にナイフを突き立てられた。

 

「往生際の悪い! 死ね!」

 

 一方、拳銃の安全装置を外した小次郎と一太郎、フードの男は奇妙な膠着状態になっていた。

 フードの男は口元に薄ら笑いを浮かべ、ニヤニヤと立っているだけで何かする様子はない。小次郎はカウンターの用意でもしているのかと警戒して撃つべきか迷っている。一太郎はフード男に魔術を使えば小男を倒す魔力が残らないと考え、どうするべきかと必死に考えていた。

 迷っている間に、パーシーの背中が刺された。それを見て二人は決意を固めた。

 

 小次郎が発砲した弾丸を、フードの男は軽くステップを踏んで簡単にかわした。

 

「おおおおッ!」

 

 そこに一太郎が叫び声を上げながら突進する。ダメージを与えるのが目的ではない。タックルをすると見せかけて上手く横をすり抜けようと考えたのだ。

 フードの男は突っ込んでくる一太郎をひょいとかわし、そのまま一太郎を見送った。が、勝機と見て組み伏せようと飛びかかった小次郎は腕を取られ、投げ捨てられる。

 

「おっと。流石に二人は通せないなあ」

 

 フードの男は深みのある良い声で愉しむように言った。地面に転がされた小次郎は素早く起き上がり、拳銃を構える。額からは冷や汗が流れた。

 フードの男はさきほど明らかに弾道を見切って避けていた。自分を投げた体術も並ではない。超然とした態度からも底知れない物を感じる。

 小次郎の本能が下手に手を出すのは危険だと囁く。コイツは……人の形をしているだけの化物だ。

 

 パーシーの背中に刺したナイフを高笑いしながらねじって傷口を広げている小男は、一太郎に突き飛ばされて地面に転がった。小男は舌打ちして一太郎を見る。

 

「チッ、あの役立たずめ。おい、貴様は魔術師だな? あの二人を殺せ。そうすればこのニャルラトホテプ様に仕える名誉をやろう。宇宙の真理を教えてやるぞ?」

「ニャル……! ……ラト……ホテプ?」

 

 その名前に一太郎は一瞬心臓が止まるかと思うほど驚いたが、語尾が疑問形になった。

 這いよる混沌、ニャルラトホテプは最も強大にして悪辣な邪神の一柱である。化身の一つ「黒い風」を見た事のある一太郎はその驚異を身を持って知っている。

 確かにニャルラトホテプは人型に化ける事があるというが、小男は違うように思える。見た目こそ不気味ではあるが、魂が凍りつくような恐怖は感じられない。何よりも全然「らしく」ない。有名なヤクザの名前を出してふんぞり返っているチンピラのようだ。

 

 ああ、コイツは頭がおかしいんだ。物理的にも精神的にも。一太郎は可哀想なものを見る目で小男を見た。

 

 哀れみの目を向けられ交渉決裂を悟った小男は、ナイフを持ち直し一太郎に切りかかった。一太郎は避けようとしたが、ゲロを踏んで足を滑らせ、脇腹を切り裂かれた。

 小男は血走った目でもう一度切りかかってくる。しかし横からパーシーがその顔を掴み、ディープキスをした。

 

 時が、止まった。

 

 一太郎は目を疑い、小男もあまりの事に思考停止して動けない。遠目に見ていた小次郎も思わず拳銃を取り落としそうになり、フード男はますます大きく口の端を釣り上げた。

 

 全員、こいつホモか!? と心を一致させていたが、パーシーはホモではない。考えあっての事だ。

 パーシーの吐瀉物が小男の喉の奥に強制的に流し込まれ、小男は慌てて突き飛ばした。

 

「貴様ッ、この……う……オロローッ! お、おい! この狂人をなんとかし……オロローッ!」

 

 文字通りの貰いゲロである。魔術や攻撃どころではない。

 それでも手で印を切って何かしようとしたので、一太郎は何か釈然としない気がしながらナイフを取り上げ、小男の首を掻き切ってトドメを刺した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやあ、面白いものを見せてもらったよ」

 

 邪悪な魔術師は死に、喜んで良いはずなのに居た堪れない気分になっていると、フードの男が拍手しながら寄ってきた。

 一太郎は困惑する。結局、こいつは何だったのか。小男の指示に従っていたようだが、忠実というわけでも無いようだし……

 

「お前は何だ? この男の助手だと思っていたが」

「まさか!」

 

 とんでもない、という風にフードの男は首を横に振った。

 小男の死を面白い、と言っていたし、魔術的契約か何かで従わされていたといったところか。一太郎は勝手に納得した。

 

「君たち、怪我してるね。治してあげようか?」

「オロ、オロローッ!」

「ん? 治療魔術を仕えるのか。頼む」

 

 パーシーはまだ吐きながらガクガク頷き、一太郎も自分の魔力を温存するために頷いた。

 これは迂闊だった。魔術師を倒し、気を抜いていたのだ。

 

 フードの男がパーシーの頭に触れると、パーシーの嘔吐は止まり、背中の傷も一瞬で塞がった。が、パーシーは気を失い、その顔には何か恐ろしいものでも見たような恐怖が浮かぶ。

 それを訝しむ前に、振り返ったフードの男が一太郎の顔を鷲掴みにした。指の間から、フードの奥の顔が見える。絶世の美男子と言えるラテン系のその顔は、一太郎に恐怖しか与えなかった。その黒く澱んだ瞳が底なしの暗闇を湛えていたからだ。

 

 一太郎の脇腹の傷が瞬時に塞がる。同時に、脳みその中に恐るべき恐怖、目の前で自分の顔を掴んでいるモノの正体、受け入れがたい宇宙の冒涜的真理を流し込まれた。

 既に磨り減っていた一太郎の精神は容易く限界を超えた。顔を離された一太郎は、半開きの口の端から涎を垂らし、焦点の合わない目でその場に膝をつく。一太郎の精神はあり得ざる邪悪な知識と真実によって完膚なきまでに汚染され、破壊されていた。

 

「貴様、何をした?」

「やだなあ、プレゼントをしてあげただけだよ。愉快な茶番を見せてくれたご褒美さ」

 

 硬い表情の小次郎に頭に拳銃を突きつけられても、余裕の態度を崩さない。

 そして小次郎が引き金を引く前に、フードの男――――ニャルラトホテプはその場から消失した。

 

 




――――【鏤炊サ・Lシ・披 ケΤ6・・ア#・】

STR11 DEX14 INT18
CON12 APP13 POW22
SIZ14 SAN0  EDU19
耐久力13 db+1d4

文字化だ:
 繧ィ繝�ぅ繧ソ縺後ヰ


所有物:
 損傷の激しいエイボンの書(ラテン語版)
 エイボンの書(ラテン語版)
 屍食経典儀(フランス語原版)
 無名祭祀書(ドイツ語版)
 アフリカの暗黒の宗派
 エルピス
 コービットの日記
 魔法のダガー……命中率=現在MP×5%、ダメージ=1d6+2、コスト=1ラウンド毎に1MP
 アフォーゴモンのペンダント
 成長血清

呪文:
 透視、空鬼の召喚/従属、萎縮、被害をそらす、エイボンの霧の車輪、
 ビヤーキーの召喚/従属、ナーク=ティトの障壁の創造、空中浮遊、
 レレイの霧の創造、食屍鬼との接触、復活、門の創造、ナイフに魔力を付与する
 治療、ニャルラトホテプとの接触

技能:
 医学 80%、運転(自動車)30%、オカルト 50%、忍び歩き 25%、
 生物学 71%、化学 51%、聞き耳 55%、考古学 8%、信用 45%、
 心理学 72%、人類学 7%、精神分析 36%、説得 42%、図書館 85%、
 目星 85%、薬学 70%、歴史23%、こぶし 56%、
 英語 40%、ラテン語 22%、フランス語 21%、ドイツ語 44%、
 食屍鬼語 6%、古のものの文字(ナコト語)28%、イス人の文字 27%、
 ツァス=ヨ語(ハイパーボリア語) 24%、センザール語 24%、
 ミ=ゴのルーン 29%、アクロ語 29%、ナアカル語 24%、
 ルルイエ文字 21%、クトゥルフ神話 99%


――――【明智 小次郎(45歳)】リザルト

STR13 DEX10 INT12
CON14 APP10 POW14
SIZ13 SAN62 EDU16
耐久力14 db+1d4

技能:
 運転(自動車)40%、応急手当 50%、オカルト 45%、回避 40%
 コンピューター 51%、信用 65%、説得 65%、追跡 60%、
 図書館 75%、法律 35%、目星 45%、拳銃 60%


――――【パーシー・ネルソン(56歳)】リザルト

STR12 DEX14 INT9
CON10 APP11 POW10
SIZ12 SAN38 EDU11
耐久力11

技能:
 言いくるめ 65%、応急手当 40%、聞き耳 45%、忍び歩き 80%
 変装 18%、ギャング知識 50%
 英語 60%、ガバガバな日本語 99%


――――【八坂 蓮(20歳)】NPC/リザルト

STR9  DEX13  INT16
CON12 APP17  POW16
SIZ13 SAN52  EDU17
耐久力13 

所有物:
 キミタケの万年筆

呪文:
 血仙蟲、被害をそらす、食屍鬼との接触

技能:
 医学 15%、応急手当 50%、オカルト 35%、回避 40%、隠れる 60%、
 聞き耳 65%、忍び歩き 50%、登攀 60%、変装 41%、目星 50%、
 速読 60%、古書修復 70%、ラテン語 50%、英語 50%、
 食屍鬼語 25%、クトゥルフ神話 3%





二章は一章とは雰囲気がガラリと変わり「最初から犯人と動機とトリックが分かっている推理モノ」になります。
ただし犯人はドーピングコンソメスープを飲んでいるので、真正面から「あなたが犯人です(ドヤァ)」とかやると容赦なくゴシカァンされる


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2-1 最凶の邪神

 

 八坂一太郎がいかにしてSAN0まで追い込まれ、発狂するに至ったか。その経緯を一冊の本に書き終わった私は万年筆を置いた。

 彼はよくもまあこれだけの神話的事件をくぐり抜けてきたものだ。いや、彼(キャラ)を操作していたのは私(プレイヤー)なのだから、私の手腕だとも言えるのだが。

 

 かくいう私も八坂一太郎である。いや、私こそが八坂一太郎である。……恐らく。

 一ヶ月ほどかけて八坂一太郎の経歴を書き記してみたが、やはり分からない。何故私は今、八坂一太郎の体で、八坂屋敷の書斎の文机に座り、魔導書紛いの冒険譚を書いているのか?

 八坂一太郎(キャラクター)視点で考えても分からないので、私(プレイヤー)の視点で考えてみよう。この一ヶ月の間に考え続けてきた事だが、もう一度考えてみる。

 

 この冒険譚の冒頭にも書いたが、TRPGであるCoCは一般人が神話生物と呼ばれる怪物を相手取り奔走するゲームだ。プレイヤーが操るキャラクターは探索者と呼ばれ、正気を削りながら神話的事件の解決、あるいは自身の生存を目指す。

 この「正気」という概念がCoCでは重要で、探索者がどの程度正気を保っているか? というステータスを数値化し、SAN(正気度)で表す。上限は99で、下限は0だ。恐ろしい怪物に遭遇したり、無残な死体を見たり、魔術を使ったりすると減っていく。

 

 例えばSAN99の探索者はこれ以上ないほど正気だ。普通に泣き、笑い、悲しみ、怒り、友情や愛情を育み、人生を謳歌する。人間らしい人間だ。

 SAN50は、まあ普通だ。社会のストレスに晒されたり、仕事で失敗して凹んでネットの掲示板に上司の悪口を書き込んだり、嫌なことがあった日にはやけ酒をしたり。

 SAN30ぐらいになると、ぼちぼち危ない。かなり正気が削れ、日常的に挙動不審だったり、軽い対人恐怖症だったりする。それでも精々「気の弱い人だなあ」ぐらいだ。

 SAN0は永久的な発狂状態だ。完全に正気ではなく、平気で幼児を生贄にして邪神を召喚しようとしたり、あるいは白痴になって精神病院で一生を終えたりする。

 

 八坂一太郎は最初90あった正気度を減らしていき、無感動になり、魔術に惹き寄せられ、二重人格になり、夢遊病を発症した。そしてSAN0で発狂。

 この発狂、狂気というのにも種類がある。幻覚を見たり、幼児退行したり、激しい恐怖症を抱いたり。私のキャラクターである八坂一太郎がニャルラトホテプに冒涜的知識を流し込まれ、正気度判定でファンブルを出し、更にSAN減少で100を叩き出してSAN0になった時、キーパー(ゲームマスター)と相談し、どんな狂気に陥るかを決めた。ダイスを振ってランダムに決定しても良いのだが、ランダムチョイスの結果で「露出狂」などという狂気に決まっても困る。一太郎はそういうキャラではない。

 

 八坂一太郎は二重人格で、夢遊病だった。発狂内容もそれに沿った物が良いだろうという事になり、「シミュレーテッドリアリティ」を発症する事になった。端的に言えば「自分がゲームの中の仮想現実の住人だと信じ込む」というものだ。私は実にそれらしい妙案に納得した。

 そして、現実世界の記憶はそこで途切れ、気づけば目の前に小男の死体があり、明智小次郎とパーシー・ネルソンがいた。

 

 事態は簡単ではない。「ゲームの世界に来ちゃったテヘッ☆」で片付けるには複雑過ぎる。

 

 まず、私にはゲームの世界の八坂一太郎の記憶と、現実世界の自分の記憶の両方がある。そして、間違いなく自分の体が八坂一太郎のものであるにも関わらず、まるで現実感がなく、バーチャルリアリティゲームのアバターを動かしているような、他人事のような感覚が拭いきれない。まさにシミュレーテッドリアリティの状態だ。

 ここから話をややこしくしているのがファンブルとニャルラトホテプである。

 

 CoCでは、キャラクターの行動や戦闘など、事あるごとにダイスを振る。サイコロを振って、出た数を見て、攻撃が当たったか、とか、キャラクターの行動でどんな結果が出たか、とかを判定するのだ。頻繁に使われるのが1d100。1~100の数字をランダムに出すサイコロの振り方だ。この1d100で96~100が出ると、「ファンブル」と呼ばれる最悪の結果になる。敵に向かってスパナで殴りかかればスパナがすっぽ抜けて飛んでいき、脆い床を踏み抜いて落ちる時に着地しようとすれば首から落ちて、魔術で相手の魔力を吸い取ろうとすれば逆に相手に魔力を与えてしまう。

 ゲーム中、ここぞという時にこのファンブルが出るともう泣くしかない。逆に1~5が出た時の「クリティカル」という最高の結果の場合と合わせ、プレイヤーは俗に「ダイスの女神が微笑んだ」とか、「ダイスの邪神が降臨した」とか言うわけだ。運が良い、運が悪い、という表現のTRPG版だと考えておけば間違いないだろう。ゲーム中、このダイスの邪神が荒ぶると、ゲーム開始五分で自分のキャラが死んだり、逆にラスボスが勝手に自滅して死んだりする。強大な神話生物でさえダイスの邪神には勝てないのだ。

 

 八坂一太郎の最後のSAN減少判定で、1d100の判定を二回行い、二回とも100が出た。二連続のファンブルである。

 加えて八坂一太郎を狂気に陥れたのは名高い邪神、ニャルラトホテプ。邪神の数え役満だ。発狂したのは運命と言うしかない。

 もっとも、二回連続でファンブルを出す可能性は1/400。有り得ない確率ではない。CoCには二連続ファンブルとニャルラトホテプのコンボを受けたプレイヤーをゲームの世界に引きずり込むような不思議パワーはない。そんな恐ろしいパワーがあったらCoCは政府が取り締まっているだろう。

 何か得体の知れない要因のせいで偶然私だけこうなってしまったとも考えられるがはっきりしない。

 

 それよりも有り得そうなのは、ニャルラトホテプの仕業だ。

 CoCで恐らく最も有名な邪神、ニャルラトホテプ。ゲームではトリックスターの役割を持ち、場を引っ掻き回したり、裏で悲劇の糸を引いたりするのを得意とする。更に邪「神」というだけあり、できない事はあんまりない。やろうとしないだけで。ある意味、なんでもありの代名詞である。

 

 だから、ニャルラトホテプならば、八坂一太郎の頭の中に「八坂一太郎をキャラクターとして使い、ゲームを遊んでいた人間の記憶」を作り出し、植え付ける事も可能なのだ。

 

 「私」の記憶が本物だと、誰が証明できるだろう? 「私」の自我意識がニャルラトホテプが戯れに植えつけらたものだと、誰が否定できるだろう?

 

 「私」の記憶は本物か?

 それともニャルラトホテプが創り出した虚構なのか?

 

 「私」はゲームの中にやってきた現実の人間なのか?

 それとも発狂した八坂一太郎が創り出した偽りの人格、偽りの記憶なのか?

 

 いくら考えても分からない。わざわざ本に文字にして記す事で記憶を整理してみても、何もおかしな部分はなく、なんの助けにもならなかった。

 

 しかし真実にはたどり着けなくても、分かる事はあった。

 今の状態は案外悪くない。

 

 私は今、バーチャルリアリティゲームをやっているように感じている。例えば、怪我をしても「痛い」という事は認識できるのだが、それを苦しいとは感じないし、不快感もない。火傷の痕が治り、アイドル顔負けの美貌になった娘の蓮を見ても、画面越しに手塩にかけて育成した愛着のあるキャラクターを見ているような感覚で、現実感がない。

 八坂一太郎が大切に思っていたものは大切に感じ、嫌だと思っていた事は嫌だと感じる。唯一、現実感の欠落だけが違う。そしてそれは私にとって福音だ。ゲーム感覚で生きる事ができるというのは悪くない。いや、「生きている」という感覚も無いのだが。

 

 ゲームは遊びだ。遊びは楽しい。だから、私は今かなり現状を楽しんでいる。

 元の世界に戻るだとか、自分の正体を確かめたいだとか、そんな意欲も湧かない。なぜならば、これがゲームだとしか思えないからだ。

 ゲームをしていて、主人公が怪我をした時、実際に痛みを感じるだろうか? 主人公の死を自分の死と同じレベルで恐れるだろうか? そんな訳はない。それと同じだ。これはゲームなのだから、ゲームとして楽しめばいい。そうとしか感じられないのだ。

 

 そうだ。そうしよう。別にゲームだからといって悪事を働くつもりはないが、何も難しく考える事はないのだ。

 今を楽しむ。ゲームとはそういうものなのだから。

 

 今までごちゃごちゃと考えていたのが急に馬鹿馬鹿しくなり、私は冒険譚を記した本を本棚に突っ込み、今後の方針を立て始めた。

 



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2-2 超特急エイリアンハント

 

 リアルクトゥルフ神話技能という言葉がある。

 CoCでは探索者がクトゥルフ神話の知識を身に付ける事がある。0~99%の熟練度で表され、これが高いほど神話生物や神話的現象についてよく知っているという事になる。

 もちろん、0%なら何も知らない。しかしゲームである以上、探索者(キャラ)とプレイヤーの間に知識の差が出てくる。探索者が何も知らない一般人という設定で、犬のような顔をした猫背の亜人間に遭遇して狂乱状態になったとしても、プレイヤーは「犬のような顔」「猫背」「亜人間」というキーワードから敵の正体が食屍鬼である事を看破できる。このようなプレイヤーのメタ視点での洞察を、探索者が持つクトゥルフ神話技能と区別してリアルクトゥルフ神話技能と呼ぶ。

 

 さて、私はこのリアルクトゥルフ神話技能が高い。散々ゲームをしてきたし、ゲームブックも読み込んできた。リアルクトゥルフ神話技能を使うと八坂一太郎(故)が見えていた以上に世界の真実が見えてくる。

 

 まず、私が勤めているはマホロバ株式会社。この時点で既にまずい。

 マホロバ社ではグループ社員全員が年に一度健康診断を受ける事が義務付けられている。この健康診断で「有望」とみなされた何人かは傘下のマホロバPSI研究所に被験者として送られる。

 PSIとは平たく言えば超能力の事だ。マホロバ社は創業者の肝入りで超能力研究施設を持っているのである。表向きは全く成果を上げていない創業者の道楽だと思われているし、八坂一太郎(故)もそう思っていたのだが、実際は世界有数の研究機関であり、多大な成果を出している。催眠、念動、発火、瞬間移動、予知。様々な超能力を高度に使いこなす超能力者集団を抱えているのだ。

 更に悪い事に、その超能力の源というのが邪神の一柱、アザトースだ。PSI研究所の副所長がアザトースの崇拝者であり、アザトースの力を借りて一般人を超能力者化。表向きは無害を装いつつ、世界を混沌の渦に叩き込もうと企んでいる。

 

 正直、お近づきになりたくない。

 放置すれば地球を狂気と混沌の世紀末に変える可能性すらあるマホロバPSI研究所は潰したいところだが、ちょっと勝てない。優秀な超能力者を何人も抱えているし、マホロバ社という大企業のバックアップがあり、表向きは何も変な事はしていない。

 私もマホロバ社に勤める以上、PSI研究所に出向を命じられたら断れない。みすみす地獄の釜に飛び込むようなものだ。リアルクトゥルフ神話技能のおかげでPSI研究所の経歴、人間関係、戦力まで丸裸なのに、手を出せない。奴らには特に弱点も無いのだ。純粋に私がスペックアップしなければ、今の手札ではどうしようもない。

 

 という訳で、会社を辞める事にした。

 君子危うきに近寄らず。こんな危ない会社に勤めていられるか! 私は転職するぞ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 半年ほどかけて研究室の薬品を使ってコッソリ良い子にはお見せできない薬品を造り出し着服した後、辞表を出して退職した。

 私は自分で言うのもなんだがかなり優秀な研究者だったので引き止められたが、「娘が成人したし、これからは好きなことをしようと思った」などとそれらしい理屈を並べて押し切った。

 私は既に四十歳。冒険するには歳をとりすぎているが、一億円近い貯蓄はあるし、実績も十分ある。選り好みしなければ再就職には困らない。

 

 再就職先だが、これからは神話生物や神話的事件にちょっかいをかけて楽しく暮らして行こうと考えているので、自由が利く職業が良い。私が会社を辞めたと知った特命係からお誘いがあったが、そんな理由でお断りした。警察はお堅い職業の代表格である。私向きではない。

 自分で職探しをしても、自由が利いて給料が良くて四十のオッサンでも歓迎というナメた求職に応えてくれる所が無かったので、早瀬源蔵に頼んで有力者のパーティーに出席させてもらう事にした。コネ就職狙いだ。使えるものは何でも使わせて貰う。

 

 さて、パーティーである。六本木の高層ビルのワンフロアを貸し切って開かれたこのパーティーは、早瀬雄太郎の当主襲名パーティーだ。事件後体力の衰えを理由に早瀬源蔵が引退する事になったので、息子の雄太郎が当主になる事になったのだ。

 日本有数の財閥のパーティーというだけあって、高そうなドレスやスーツを着てワイングラスを片手に談笑する方々は実に様になっている。私も一応スーツ姿で、火傷も治ってそれなりに見れる顔にはなっているのだが、若干浮いている気がする。これでも年収二千万の上流階級の人間なんだが……いや今は無職だった。年収一億越えのお歴々に比べれば私なんて庶民と変わらないか。

 

 さて誰に声をかけようかと寿司をもっさもっさ食べながら品定めをしていると、逆に声をかけられた。

 

「楽しんでいますかな?」

「ん? そうですね、これほどの規模のパーティーに参加するのは初めてなのでどうにも緊張が抜けませんが、それなりに。あなたは?」

「失礼、私はカール・サンフォード。警備会社サンフォードの社長をしている者です」

 

 その名前を聞いた私は顔が引きつらないようにするので精一杯だった。

 目の前にいる男は三十代後半のアーリア人種の男で、大柄な体と自信に溢れる顔にカイゼル髭がマッチしている。

 手に持った銀色の杖が目を引くが、そんな事はどうでも良い。

 

 コイツは銀の黄昏教団の幹部だ。

 私はまたもや事件に巻き込まれた事を知った。

 

 カール・サンフォード。本名はカール・スタンフォード。実年齢は三百歳以上。邪神を崇拝し、老化の鎖から解き放たれた、銀の黄昏教団の幹部クラスの魔術師である。

 POWは40。更に彼の持つ銀の杖には160のMPが蓄積されていて、自由に使う事ができる。豊富で凶悪な魔術を習得し、危なくなったら瞬間移動で逃走できる。体術の心得があるマッチョマンで、銃器も扱える。

 対して私はPOW22、MP22。身のこなしは並。武術は全く習っていないし、銃も使えない。こちらの魔術は相手に一切通らないのに、あちらはこちらの抵抗をティッシュのように破る強力な魔術を嵐のように撃ってくる。真正面から戦えば十秒で殺されるか、洗脳で配下にされるだろう。下手な神話生物よりも恐ろしい。

 

 しかし、幸いな事にカール・スタンフォードには弱点がある。無策で突っ込めばミンチ確定だが、準備をしていればむしろ御しやすい。

 私は既に彼と同じ銀の黄昏教団の幹部、アリッサ・シャトレーヌ……本名アン=シャトレーヌを殺害し、構成員の一人も始末している。カールはその復讐に来たのかと身構えたが、作った笑顔で話を合わせながら《透視》を使ったところ、特に私への敵意は無い事が分かった。むしろ見下したような、軽視するような感情が透けて見える。別件で接触してきたようだ。ホッとする。偶然怪物に接触してゲームオーバーなんてクソゲーだ。

 

 1920年代に隆盛を誇った銀の黄昏教団は、ある探索者達に野望を打ち砕かれ壊滅状態にある。現在では各地に散らばった残党が教団復活に動いているだけだ。従って同じ教団の名の下で活動していても、情報の共有ができているとは限らない。

 

 本名を出すのは怖かったので根津と名乗り、こいつを早くどこかへやってくれ、とクトゥルフ神話の中でも比較的善良な神(ノーデンス)に祈りながら愛想笑いを浮かべて当たり障りの無い受け答えをしていると、カールは声のトーンを落として話を持ちかけてきた。

 

「根津氏はハンティングに興味はお有りですかな? 実は私はエイリアン退治を主催していまして、現在参加者を募集しているのですが」

「……エイリアン退治ですか」

「はい。突然の話で困惑されるのは分かりますが、警備会社のツテで日本政府から要請されていまして。書類もこの通り。会社の者を動かしているのですが恥ずかしながら人数が足りず。ま、エイリアンと言っても大した事はありません。奇形の動物程度のもので危険度は低い。そこで一般の方の娯楽ついでに手伝って頂くのも手かと考えましてね」

 

 カールは頼んでもいないのに書類を見せてきた。

 カール・スタンフォード。エイリアン退治……OK、分かった。これはアレだな。「エイリアン・ハント」だ。

 キーワードからこれから何が起きるのか、犯人は誰か、どうすれば事件が解決するのか、諸々全て分かった。

 CoCでは普通のゲームでクエストに相当する「シナリオ」という枠組みの中でゲームをプレイする。CoCヘビープレイヤーの自称は伊達ではない。キーワードだけで今私がどのシナリオに巻き込まれたのか理解できた。そしてこのシナリオ、「エイリアン・ハント」はネタが割れていれば楽なシナリオだ。CoCではシナリオによってはネタが割れていても全滅しかねないものがあるので助かった。

 

 エイリアン・ハントはざっくり言うと、カール・スタンフォードが私が以前戦った事のある神話生物の一種族、ミ=ゴと結託し、人間に菌を植え付け苗床にし、その栄養分を搾り取って捧げる事で邪神復活を目論んでいる、というものだ。苗床にする都合上、今ここで殺される事は無い。殺されるならハンティング会場だ。ならば安心である。

 

「ふむ。興味はあるのですが、狩猟免許は持っていないもので……参加できますか?」

「おお、参加して下さいますか。狩猟免許は必要ありません。獲物は動物ではなくエイリアンですからな。エイリアン狩りを禁止する法律は無いのですよ……フフフ」

「ほう、詳しく話を聞いても?」

「勿論です。会場は××駅で降りて国道××号線を十分ほど北上したあたりにある山中で――――」

 

 開催の日時、他の参加者、参加料、持ち込める装備などについて話を聞いた私は、ポケットの中でこっそり慎重に携帯を操作した。自分で自分にメールを送り、着信音を鳴らす。

 

「おっと失礼、電話が。戻って来たらまたお話を聞きたいのですが」

「構いませんよ。どうぞごゆっくり」

 

 カールに頭を下げて会場を出た私は、そのまま足早にホテル一階のロビーへ向かった。

 ロビーに置いてあるパソコンで近場の護身用品専門店を探す。徒歩三分でまだ営業している店を見つけ、そこへダッシュ。

 

「いらっしゃいませー」

「すみません、スタンガンありませんか?」

「スタンガンですかこちらです」

 

 店に入ってすぐ、やる気が無さそうにカウンターに立っていた店員に声をかけ、スタンガンの陳列棚に案内してもらう。

 

「こちらですね」

「ありがとうございます」

 

 数種類あるスタンガンのうち、電圧が高くて小さい物を選び、即レジに持っていく。会計を済ませ、取り扱い説明書を読みながらホテルに戻った。この間二十分。パーティーはまだまだ続いている。

 

 袖にスタンガンを隠して会場に入ると、カールは別の人と話しているところだった。丁度いい。

 ワイングラスを取って歩きながら、《透視》を使ってさりげなくカールを見る。会話の相手にまた例の書類を見せて熱心に営業しているカールは凄まじいオーラだった。POW40は伊達じゃない。更に銀の杖からもとんでもないオーラが迸っている。流石銀の黄昏教団のマスターだ。

 オーラの色と揺らぎからまるで警戒していないリラックスした状態だという事が分かる。彼が警戒しなければならない状況などかなり限定されているだろう。ましてや今回のパーティーに警戒要素は無い。

 

 人ごみに紛れ、カールの背後に近づく。足音と気配は会場のざわめきに紛れて分からない。そのままカールの背後を通り過ぎる瞬間、袖からスタンガンを出し、カールの尻のあたりに軽く当てた。

 

「っ!?」

 

 カールがびくんと一瞬痙攣し、銀の杖を取り落とした。そのまま少し歩いて振り返る。カールは眠気を払うようにゆっくり頭を振り、話していた相手に心配されている。

《透視》で確認すると、彼のPOWは1あるか無いかまで急落していた。

 

「……よし!」

 

 カール・スタンフォード、撃破。

 

 仕掛けは簡単だ。実はこのカール・スタンフォード、本物は既に死亡していて、本物から作られたクローンなのだ。クローンの中に本人の精神体が入って活動しているのだが、この精神体というのが、高圧の電流に少しでも触れるとイオン化し、肉体と完全に分離してしまう。魂の入っていない肉の塊になるわけだ

 従って、どれほど高いPOWを持っていても、呆れるほどMPを溜め込んでいても、筋肉モリモリマッチョマンでも。軽くスタンガンを当てるだけでこの通り。

 適切な対処法さえ知っていれば、大魔術師を相手取るのに魔術も体術も銃も要らない。

 

 私はニヤニヤしながら突然廃人になったカールが困惑した顔のスタッフに担ぎ出されていくのを他の野次馬に混ざって見物した。

 いやあ、カール・スタンフォードは強敵でしたね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちょっとしたハプニングもあったが、パーティーはつつがなく終了した。当主になった雄太郎には祝辞を述べると、これも貴方のおかげですと手厚い感謝の言葉を返された。

 ちなみにカール・スタンフォードが持っていた銀の杖だが、これは主催者の雄太郎と交渉して私が回収した。銀の杖は本来の持ち主以外が三十秒以上触れていると、POWを吸い取る能力がある。POWがゼロになるまで吸い取られてしまえば犠牲者は魂が吸い取られたという事であり、廃人になる。危険な代物だ。

 杖は吸い取ったPOWをMPに変換し、持ち主はそのMPを自由に使用できるのだが、私は持ち主ではないので使えない。でも蓄えられた160ものMPがもったいないので取り敢えず回収。自分が装備できない強い呪われたレアアイテムを倉庫に突っ込んでおく感覚だ。いずれ役立つ事もあるだろう。

 

 他にも彼が持っていた装飾された細工箱を貰いたいと頼むと、雄太郎は訝しげにしていたが了承してくれた。持つべきものは借りを作った権力者だ。実に事がスムーズに運ぶ。

 細工箱も魔術的なアーティファクトなのだが、今は使わないので、八坂屋敷に帰った時に金庫の中に入れておいた。

 

 さて、パーティーがあった翌々日の日曜日の夜。エイリアン・ハント当日だ。ハンティングの舞台となる山の麓を走る公道脇の駐車場に参加者達は集まっている。他の参加者が猟銃やら金属バッド、大ぶりの鉈を引っさげている中で、私の装備はホームセンターで買った強力なカビ取り剤を入れた噴霧器だけだ。自宅の庭で噴射の練習はしてきたので、射程の把握はバッチリだ。中のカビ取り剤もたっぷり入れてあり、念のため予備も持ってきている。

 

 主催者のカールが廃人になったものの、共犯者のミ=ゴが上手く情報操作したらしい。参加者に問題なくハンティングを決行する旨のメールが届いていた。

 私以外の参加者は興奮したり不安そうにしたりしながら話し合っていたが、私は彼らと少し距離をとって頭の中で計画を反復していた。これから最短ルートでミ=ゴを片付けるつもりなので、私と同行したいと言われても困る。

 

 そして深夜0時。開始時間になり、参加者たちは三々五々山の中に入っていく。私はコンパスを頼りに山の中をまっすぐ進んだ。

 目標地点は山の中の廃マンション。実は昼のうちに一度山に入って見つけてある。参加前に山に入ってはいけないとは言われて……いるのだが、それを言った人物は今精神病院の中にいる。文句は言われない。

 三十分ほど歩くと、山の中の開けた場所に立つ廃マンションを見つけた。廃マンションと言うと語弊があるかも知れない。マンションっぽいペンション、だろうか。いやマンションとペンションの定義の違いはよく分からないのだが。

 

 ガサガサと落ち葉を踏み分けわざと大きな音を立てながらペンションに近づく。するとマンションの窓が開き、奇妙な形容しがたい羽音と共にミ=ゴが出てきた。

 人間大のサソリに巨大なコウモリの翼をくっつけ、頭部に触手が密生してできた渦巻きを生やしたような神話生物である。関節の多い昆虫っぽい手には50センチほどの銀色の金属片のようなものを持ち、甲殻類に似た胴体には緑色のネバネバした網のようなものを着込んでいる。

 ショッキングなその姿は見る者に正気の喪失を強いる。が、私は液晶越しにグロ画像を見たような感覚しかない。気色悪いが、それだけだ。

 

 私は右手を前につき出し、ミ=ゴに向けてダッシュした。ミ=ゴが金属片を握り締めると、私に向けてギザギザした軌道の電撃が発射された。

 電撃に対し私は《被害をそらす》魔術を発動。命中コースだった電撃は不自然に歪曲され、あさっての方向へ飛んでいき、減衰して消えた。ミ=ゴがもう一度電撃を発射する前に、距離を詰め切る。そして私は噴霧器を発射し、ミ=ゴにカビ取り剤をしこたま浴びせかけた。煙に巻かれ、ミ=ゴは苦しげにもがき空に飛び立ち逃げようとする。そこに更に噴霧器を噴射。十秒ほどふらふらと飛んだミ=ゴだが、殺虫剤を吹きつけられた蚊のようにぽとんと地面に落ちた。

 

 警戒して距離を取り観察していたが、どろどろに溶けたミ=ゴの体はやがてゆっくりと蒸発していき、落ち葉の上に緑色の網のようなものと、銀色の金属片だけが残った。

 

「……よし!」

 

 ガッツポーズを取る。ミ=ゴ、撃破。

 

 緑色の網はミ=ゴの鎧に相当するバイオ装甲で、打撃、炎、電気などの攻撃を大幅に軽減する。更にミ=ゴの体は地球上のものではないので、弾丸や刃物などの弾・斬・刺突系の攻撃によるダメージはほとんど効かない。物理攻撃での退治は非常に難しい。魔術なら通るのだが、詠唱中に電撃を撃たれたらおしまいだ。

 そこでカビ取り剤である。

 

 ミ=ゴは宇宙人であり、地球の生物には分類できないのだが、無理やり当てはめるとすると半分菌類半分動物、という奇妙な特徴を示す。従って彼らは殺菌剤に弱い。加えて、ミ=ゴの顔に当たる部分にあるのは触手の渦巻き。口を持っていない。彼らは人間のような食事法はせず、皮膚呼吸をしているので口は要らないのだ。この皮膚呼吸をしているという部分につけ込む。

 皮膚呼吸をしているが故、ミ=ゴは「口を閉じる」という事ができない。ガスを浴びせると、全身で吸い込んでしまうのだ。従って彼らはガスに弱い。カビ取り剤を噴霧してやれば、全身から彼らにとっての猛毒を吸い込み、コロリと死ぬ。その結果がご覧の有様である。神話生物との死闘なんて無かった。

 

 私は戦利品としてバイオ装甲と銀色の金属片(電気ライフル)を回収し、意気揚々と廃マンションの中に入った。戦闘中も戦闘後も援軍が来る気配は無かった。ミ=ゴは一匹しかいなかったのだろう。まあ、普通の探索者二、三人なら完全武装のミ=ゴ一匹だけで全滅できるのだが。

 

 マンションの一室で菌の苗床にされていた人間達だが、奇形化が進み助かりそうになかったので、カビ取り剤を散布してトドメを刺しておく。

 書斎にあったカール・スタンフォードとミ=ゴが書いたと思しき走り書きやメモを読む限り、首謀者は二人だけだったらしい。苗床にされた菌人間はやがて凶暴化して人間を襲うと書いてあったが、それも始末してしまった。他にも邪神復活計画についての情報が記されていたが、もう知っている。

 目星い情報は無さそうだったので、マンションを出てさっさと下山した。すれ違った他の参加者に、廃マンションにエイリアンが居たので恐ろしくなって逃げてきたと言うと、意気揚々とそっちへ向かっていった。苗床にされた人間の後始末は彼らがしてくれる事だろう。

 

 これにて事件解決。全く、長く苦しい戦いだった……

 



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2-3 海の星屑伝説(Easy)

 

 自室に置いてある冷蔵保管庫のロックを解除し、中からアンプルを取り出す。会社を辞める時に造ったこの薬品も残り少ない。週一ペースとはいえ、一年も使い続けていると当然ながら減るものだ。そもそも劣化を考慮すると、この小型の冷蔵保管庫に入れていても長期間の保存はできないから織り込み済みではあるが。

 注射器で危ないオクスリを腕に静脈注射する。最近ではこのクスリも効かなくなってきた。クスリに手を出し始めた頃と比べて効果が出ている実感が無い。もっと強力なクスリの調剤に挑戦するか……いや、流石に危険過ぎるか。私がこのクスリを造る事ができたのは、先人がこのクスリの精製に成功した事と、その理論の概要を知っていたからだ。先人の模倣ならまだしも、その先の開拓となると労力も危険性も跳ね上がる。そこまではしなくて良い。

 

 注射器とアンプルを片付け、冷蔵保管庫をロックし、自分に《治癒》を使ってクスリの副作用を治しておく。これで良し。

 

 居間に行くと、蓮がソファでクッションを抱き抱えてテレビを見ていた。音楽番組をやっているらしい。

 コーヒーを淹れて蓮の隣に座り、一緒に観る。何やらスタイリッシュな服装とキテレツな髪型をしたメンバー達がギターをかき鳴らしながらシャウトしている。ミーハーな若者が好みそうだ。蓮の好みとはちょっと外れているように思えるが。

 

「何の音楽だこれ」

「え、お父さん知らない? シルバー・ブルー・メンだよ、最近流行りの。『海の猿蟹合戦』とか聴いた事ない? テテテッテーテーテーテテー」

「ああ! 聴いた事あるな。それシルバー・ブルー・メンだったのか。シルバー・ブルー・メンも聞いた事あるな。ファンなのか?」

 

 ゾンビ系の映画やゲームが好きなのは知っているが、こういうヘビメタが好きだとは。

 

「シブメンのファンっていうよりシブメン所属のギタリストのファンなんだよね。えーと、映らないかな。この人じゃなくて……あ、映った。この人。この顔にタオル巻いてる人。大矢口キャンサー」

「ふむ。大矢口キャンサーか……大矢口キャンサー!?」

 

 思わずコーヒーを吹いた。

 シルバー・ブルー・メンの大矢口キャンサー。神話生物じゃないか。どうしてテレビデビューしてるんだ? お前達はもっと控えめな、屋敷の地下室の壁の向こうでひっそり寝てる系の奴らだろう。歌って踊れる神話生物はニャルラトホテプだけでいい。

 しかし大矢口キャンサーか。奴が活動しているという事は。

 

「うわー、大丈夫? 火傷してない? 冷やす? 服脱いで洗うから」

「いや大丈夫だ、火傷はしてない。むせただけだ。大矢口キャンサーは夜刀浦市で近々ライブをするって話を聞いた気がするんだが」

 

 コーヒーで汚れた服を脱ぎながら聞くと、蓮はなんだ知ってたの、と返した。

 OK、話は全て分かった。

 

 今回のシナリオは「海の星屑伝説」という。

 まず、今回の事件の首謀者はカール・スタンフォードだ。以前再起不能にしたカールはクローンだったが、クローンというものは量産が効く。カール・スタンフォードのクローン達は世界中に散っていて、各地で邪悪な陰謀を企てている。クローンは何百人もいるわけではないが、一人、二人でもない。日本で二人のクローンが活動しているというのも十分ありえる話だ。

 海の星屑伝説で登場するカール・スタンフォードは、シルバー・ブルー・メンのバンドメンバーの一人、大矢口キャンサーを「這うもの」という神話生物に変異させ、操っている。この這うものは磯の生き物を集合体が意思を持ち、人型を取り繕った存在だ。大矢口キャンサーが顔を隠しているのはそもそも顔が存在しないからで、神業のギターテクニックを披露できるのは手と指が人間のものではないためだ。

 端的に言えば、カール・スタンフォードと大矢口キャンサーが手を組み、夜刀浦市でライブキャンペーンにかこつけてファンに海底に落ちている特殊な石碑を人海戦術で集めさせ、石碑の力を使って強大な神話生物を召喚しようとしている。従ってカール・スタンフォードを始末し、大矢口キャンサーも潰せば陰謀は根元から頓挫する。そしてそれは探索者にとっては凄腕の魔術師とその人外の従者を相手取る危険な仕事でも、私にとっては造作もない。

 

 今回も迅速に解決してしまおう。攻略法が分かっているゲームでも、タイムアタックは楽しいものだ。油断が過ぎれば死ぬというスリルも実に良い。

 

「お父さんライブ興味あるの?」

「かなり」

 

 替えの服を持ってきてくれた蓮に答える。蓮は嬉しそうに笑った。

 

「じゃあ一緒に行かない? 再就職中々決まらないみたいだし、息抜きだと思ってさ。あのね、今度のライブツアー変わってて、チケット販売してないんだよね。海潜って小さい石碑? このくらいの、手のひらサイズなんだけど、それ拾ってきて会場で見せると入れてくれるんだって。地元の遺跡調査のコラボイベントみたいな。小雪ちゃんも行くことになってて、小雪ちゃんの分は私が拾ってくる事になってるんだけど」

「ああ、まだ後遺症引きずってるのか」

「うん、元々体弱いし……」

 

 早瀬小雪とはあの事件の後二、三回会っている。病弱な深窓の令嬢そのもので、命を救ったせいだろう、好感度は非常に高い(『透視』調べ)。婿入りで永久就職という手も十分実現圏内ではあるが、義理とはいえ子持ちの四十のオッサンが二十歳の財閥令嬢と結婚はどうかと思うし、何よりもゲームキャラと結婚するような変態性は持っていない。いや、ゲームキャラではないがそうとしか思えないから困りものだ。

 

「夜刀浦市は沖縄だったか。旅費は俺が持とう」

「え? んー、小雪ちゃんが出してくれる事になってるんだけど……お父さんの分も出してくれるかな。あっ、一応言っとくけどいつも出させてる訳じゃないからね! 今度は私が小雪ちゃんの代わりに潜る事になってるから払わせてって言うからいいかなって思っただけで。小雪ちゃん多分お父さんの分も出すって言うよ?」

「今は無職だが一応社会人だからな。学生におんぶにだっこという訳にもいかないさ。昔海水浴の約束を反故にした埋め合わせだ」

「……よく覚えてたね」

「蓮の事だからな」

 

 頭を撫でると、蓮は猫がじゃれるようにして目を細めた。八坂一太郎(故)が仕事と神話知識の探求に多く時間を割いていたせいで、蓮は私から話したりスキンシップを取ったりするのを殊の他喜ぶ。この子はファザコンが入っているようだ。

 これから蓮の好きなバンドメンバーをちょっと灰にする予定なので、今の内に機嫌をとっておかなければ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三日後、私と蓮、早瀬小雪は飛行機の機内の座席に座っていた。席は勿論ファーストクラス……と言いたいところだが、ビジネスクラスだ。一億の貯蓄があるからといって浪費は禁物。神話生物と戯れるのには、時々かなりの金が必要になるのだ。私が使っている危ないオクスリも裏ワザ無しの正規ルートで作ろうと思ったら数年の歳月と一千万近くの投資が必要になる。

 

 機内食をとりながら談笑していると、前の席でジャラジャラという音がし始めた。聞き覚えがあるような、無いような音だ。数分経っても妙な物音が止まないので、そっと中腰になって見てみる。

 

「ツモ。三暗刻」

「ちっ!」

 

 三人の男と一人の少女が麻雀をやっていた。正気かこいつら。

 ドレッドヘアに貝殻と海老のアクセサリをつけ、タオルを肩にかけた高校生ぐらいその少女は据わった目で私をチラリと見たが、点棒を受け取るやまたジャラジャラと麻雀牌をかき回し、残像が見える手さばきで山を作った。

 

「ルールを忘れていないでしょうね? デカピン、青天井よ」

「あ、当たり前だ。まだまだこっからだぜ(震え声)」

「グッド。さあツモりなさい。早く」

 

 私はそっと席に座り直した。

 

「なんだった?」

「高レートの賭け麻雀してた」

「えっ?」

「えっ?」

 

 小雪と蓮は顔を見合わせ、中腰になって立ち上がり、微妙な顔をして座り直した。

 

「小雪ちゃん、何見えた?」

「麻雀をしているように……」

「良かった私の目正常だった」

「正常じゃないのは向こうだろう」

「だよね。搭乗員さーん!」

 

 すぐに搭乗員がやってきて、前の席の謎の雀師達を注意し始めた。しかし雀師達は辞める様子が無い。搭乗員は困った顔で少し離れて無線でどこかへ連絡を取り始めた。耳を澄ませると、警察だの違法だの、物騒な単語が聞こえてくる。少女はちらりと搭乗員を見て、傍らに置いていたノートパソコンを麻雀をしながら片手で操作し始めた。こちらも凄まじいタイピング速度で、画面に次々とウィンドウが開いては消えていく。座席の隙間から今度は何を始めたんだと覗き見ていると、十数秒で画面に大きく「hacked」と表示された。

 

 非常に嫌な予感がする。

 そっと振り返ると、搭乗員がびっくりした顔で無線を見て、ガチャガチャと操作を始めた。困惑と緊張が半々といった表情で、操縦室の方へ消えていく。数分後、機内にアナウンスが流れた。

 

《お客様にお知らせいたします。当機に不具合が確認されましたため、万全を期し、これより点検のため緊急着陸をいたします。指示に従い、シートベルトをご着用下さい。繰り返します――――》

 

 乗客がにわかにざわめき始め、ガチャガチャとシートベルトをかける音がしてくる。頭上の荷物入れのあたりから酸素ボンベが飛び出してきてぶら下がり、嫌が応にも緊張感と危機感を煽った。

 

「お父さん、まさかこれまたアレ?」

 

 不安そうに神話的事件の可能性を尋ねる蓮に、少女のノートパソコンを指す。蓮はちょっと顔を動かしてそれを見て全てを察したようだった。

 

「分かるけど分からない。なんなのあの人たち」

「あっ、思い出しました。あの女の子の方は見た事があります。有名な麻雀の代打ちの方で――――」

 

 小雪がそこまで言った時に機体が大きく揺れた。小さく悲鳴をあげた女子二人に左右から腕を掴まれ、ホールドされる。両手に花だが、前の席では血の花が咲きそうな状況になっていた。

 

「続けるわよ」

「な、なんだと? 今はそんな状況じゃあねえだろッ! ここは一旦オヒラキにして」

「逃げるの?」

「くっ……! やってやろうじゃねえか! 通らばリーチ!」

「ふ。残念だったわね」

「ま、まさか!」

「そのまさかよ。ロン! 国士無双(ライジングサン)ッ!」

「ぐぁあああああああッ!」

 

 白い目で茶番を見ている間に、飛行機は那覇空港に緊急着陸した。

 

 二時間ほど事情聴取で時間を取られたが、少女を含めて問題無しという事で解放された。航空会社からの侘びという事でフェリーの無料チケットを貰い、夜刀浦市のある与那国島までのフェリーに乗る。

 一時はどうなるかと思ったハプニングも過ぎれば旅の良い思い出になる。今まで私が経験してきた事に比べれば些細な事件でも、神話的怪異による侵食が浅い二人には興奮するような出来事だろう。甲板でウミネコに餌をやりながら談笑する二人を遠巻きに眺める。私が近づくとウミネコが逃げていってしまうのだ。

 

 一人でぼんやりしていても仕方ないので船内に戻り、リラクゼーションルームで何か良い暇つぶしはないかとあたりを見回すと、例の麻雀少女がいた。また麻雀を打っている。卓を囲む三人は酔いとは別の理由で顔面蒼白で、今にも吐きそうだった。少女は超然とした態度で牌を切っている。

 小雪曰く、彼女は業界で有名な麻雀の代打ち師らしい。早瀬雄太郎が自分の代打ちとして呼んだのを何度か見かけた事があるという。

 

 私の知る海の星屑伝説に彼女は登場しない。

 クトゥルフ神話TRPGにおけるシナリオは、あくまでもゲームの基本の展開を示すものであり、厳密にそれに従ってプレイする必要はない。探索者の突飛な行動で展開を変えざるを得なくなったり、キーパー(ゲームマスター)がアレンジを加えたりする。だから奇妙な麻雀少女がシナリオに関わる存在ではないとは言いきれない。これだけ怪しければ疑ってしかるべきだろう。怪しすぎて逆に怪しくないような気もするが。

 

 とにかく軽く探りを入れてみる事にした。三人が点棒を根こそぎ奪われ、少女に札を献上してすごすごと去っていったタイミングで話しかける。少女の尋常ではない勝ちっぷりを見ていたオーディエンスがどよめいた。

 

「次、私もいいかな?」

「点10アリアリルールだけど?」

「ああ、構わない」

 

 点10というと、大負けして二、三万円損失ぐらいのレートだ。簡単に言えば麻雀好きの社会人が楽しむぐらいのルールである。

 飛行機内で彼女はこの十倍のレートで圧勝していた。財閥当主の代打ちを任されるぐらいだから、裏の住人の中でもトップクラスなのだろう。ルールを一通り覚えている程度の私では常識的に考えて勝目はない。

 

 数分待つとあと二人も集まったので、開始する。私が素人臭い手つきで自分の手牌を並べ替えているのを見て、少女は薄らと笑っていた。

 さて。その笑い、いつまで続くかな?

 

 開始直後に《透視》を発動。透視の透明度を細かく調節し、山を透かして牌の位置を完璧に把握する。当然相手の牌も筒抜けだ。

 こうなれば麻雀はヌルゲー。いくら彼女と私の麻雀力に天と地ほどの差が横たわっていても、その差は一瞬で埋まり、追い抜く。しかも手品のタネは絶対に見破れない。

 

 自分は常にほとんど最短ルートでアガり、絶対に振り込まない。

 三十分ほど笑いを堪えながら無双していると、少女はおもむろにパソコンを取り出し、何か操作して、首を傾げた。

 

「どうかしました?」

「……無線カメラはつけてないみたいね」

 

 どうやら電波を探ってカメラで手を覗いていないか調べたらしい。

 《透視》で視ると強い困惑の感情が読み取れる。彼女には私が相当奇妙な雀師に感じられている事だろう。仕草は素人なのに読みだけは百発百中なのだから無理もない。実際は隠しカメラよりも遥かに悪質な事をしているのだが。

 ちなみに他の二人は焦燥と絶望が色濃い。同情はするが手加減はしない。

 

「ところで君の名前は?」

「矢本よ。アンタは? 腕の割に見た事も聞いた事もないんだけど」

「無職の根津です。麻雀は素人なので、ヤモト=サンに比べればとてもとても」

 

 矢本のアタリ牌を切ってあてつけのような笑顔をプレゼントする。矢本の表情はピクリとも動かなかったが、オーラはざわめいた。ここでアガってもクズ手なのだ。軽い挑発である。

 彼女は素知らぬ顔で牌を見逃して続けた。

 

「アンタの手品のタネが分からないわ」

「ハッハッハ、ビギナーズラックでしょう」

「憎たらしい……マンタの餌にしてやりたい。リーチ」

「それロンです」

 

 通常有り得ないような牌でピンポイントにロン。流石の矢本も一瞬固まった。既に三回ほど同じような事をしている。イカサマを疑われて当然だ。

 和やか()な空気になってきたところで、矢本にシルバー・ブルー・メンの話を振る。

 矢本はすぐに食いついてきた。矢本はシルバー・ブルー・メンの熱狂的なファンで、代打ちや雀荘で稼いだ金の大半を握手券やらライブチケット、グッズに突っ込んでいるという。飛行機の中では、夜刀浦市でのライブ中の滞在費を稼ぐためにカモっていたらしい。パソコンで飛行機をハッキングしていたのは否定も肯定もしなかった。

 

 話を聞いていて思った。

 彼女は絶対に探索者だ。しかも根津未弧蔵やパーシー・ネルソンと同系統(ルーニー)の。

 これほど濃い人間はなかなかいない。探索者というものは吸い込まれるように神話的事件に飛び込んでいく人種だ。探索者は惹かれあう、とでも言うのか、探索者は自然に他の探索者と出会い、神話的事件に立ち向かう運命にある。共闘相手だ。

 

 しかし、私にはそれが心強いというよりも少し鬱陶しい。

 探索者は何をしでかすか分からない。探索者は神話生物や魔術師の陰謀を引っ掻き回して台無しにするのが得意技だが、私の構築した最短攻略法まで引っ掻き回されてはたまったものではない。行動が読めないという点では、探索者は神話生物よりも恐ろしい。私にとっては。

 

「夜刀浦ライブはファンとして絶対見逃せないわ!」

「そうですか。娘も今回のライブは特別だなんて事を言っていましたね。新曲の発表があるとかで」

「そうそう! あと特別ゲストも来るんですって! 誰かしら!? 私はシブメンと会えればいいけどねロン」

「私もロンです。ダブロン、トビ、終局。お疲れ様でした」

 

 特別ゲストか。恐らく「誰」というよりも「何」だろうが。

 私は餌にされた哀れな犠牲者から三万二千円を頂戴し、船内レストランに向かった。とりあえずこれで美味しいものを食べよう。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 与那国島夜刀浦市に到着すると、既に太陽が水平線の向こうに沈みかけていた。ハプニングに船旅が重なり小雪と蓮が疲れているようだったので、その日はホテルで休む事にした。女子大生二人でひと部屋、私でひと部屋。ホテルではライブ目当てらしい高校生ぐらいの若い女性の群れがきゃあきゃあ言っていて、四十代のオジサンは浮いていた。ただし他にもチラホラと普通の観光か何かで来たらしい老夫婦や男性客が気まずそうにしていたので、私だけが例外というわけでもなかった。

 

 翌日、バイキングの朝食を取ったあと、私たちは浜辺に向かった。あまり広くはないものの、よく清掃されていてゴミひとつない白い砂浜は色とりどりの水着姿の若い女性達で埋まっている。

 

 与那国島では最近海底遺跡が見つかった。それが本当に海底遺跡なのか、自然の造形がそう錯覚させているのかは未だ学会の意見が割れている。

 海底遺跡があるあたりの海域、ちょうどこの砂浜のあたりでは頻繁に霧が発生し、そのせいで地元住民が遺跡の調査に猛反対している。地元の伝承に「霧が出ている時は海に入ってはいけない」というものがあるのだ。そのせいで調査隊も時間をかけた本格的調査ができず、情報も集まらず。遺跡の正体ははっきりしない。

 

 今回のライブツアーはそれを打開する意図もある……というのが表向きの理由のひとつだ。最近テレビで話題になった与那国島海底遺跡の話題に乗り、ライブの話題性を増そうという目論見である。観光客が大挙して押し寄せれば、元々人口の少ない島民だけでは対処に手が回らない。観光客が海に入るのを無理に阻止すれば、今後の観光事業に差し支えが出る。割と力技だ。シルバー・ブルー・メンはライブチケット代わりに遺跡近くに沈む石の欠片をファンに拾ってこさせ、ライブ後それを学会に寄贈、というわけだ。色々と無理がある部分は相当なゴリ押しをしているようだが、首謀者のカール・スタンフォードにとっては陰謀が成就した時点で勝ちなので後先を考える必要はあまりない。寄贈前にちょっと神話生物を喚ぶぐらい大した問題ではない。

 

 ライブイベント期間中、カール・スタンフォードと大矢口キャンサーは高確率で夜刀浦市文化会館にいる。何をするにもまずは近づく必要があるが、大量の警備員がいて忍び込むのは難しい。そして正規ルートで入るには石碑が必要になる。受付で石碑を渡せばライブ前でも少し中を見学させてくれるのだ。

 ライブ本番のチケットも石碑と交換。何をするにも石碑が必要になり、石碑は海に潜らないと手に入らない。

 

 と、いう訳で、私も潜るつもり、だったのだが、浜辺で待つ小雪が人ごみを前にして不安そうにしていたので、蓮に頼まれて付き添う事になった。アフォーゴモンのペンダントで二十代の姿に一時的に変身し、火傷面の近寄りがたさを活かして護衛をする。二人は少し目を離した隙に若々しくなっていた私に驚いていたが、神話的知識が無い訳でもないので、少し説明すると納得していた。

 

 蓮は淡い青のビキニに着替え、入水前の運動をしている。屈伸するたびに見事なスタイルと胸部装甲が目立つ。蓮のバストは豊満であった。APP17という桁外れの容貌と相まって、同性からは嫉妬と羨望、異性からは欲情と崇拝の目線を一身に浴びている。しかし私が「《萎縮》で焼死体にしたら目立ちすぎるだろうか」と考えながらじっと見るだけで狂人にでも会ったかのように散っていく。失礼な連中だ。

 

 小雪はパラソルの下で蓮と色違いの薄紅色のビキニの上にTシャツを着て座っている。彼女のバストは平坦であった。しかしトップアイドル達の中でも早々お目にかかれない美貌は蓮と同じぐらい目立っている。しかし私が「神話生物(ビヤーキー)を召喚して暴れさせたら目立ちすぎるだろうか」と考えながらじっと見るだけで怪物にでも会ったかのように散っていく。失礼な連中だ。

 

「じゃ、行ってくるねー!」

「ああ行ってこい行ってこい。霧が出たらすぐに浜に戻れよ。方角が分からなくなって沖に流されたら危ない」

「え? ここ霧なんて出るの?」

「なんでもニライカナイ……琉球の伝承で海の彼方にあるとされる異界だな、から霧と一緒に神の使いがやってきて、島の海に住む妖怪と戦うんだそうだ。人間は危ないから近づくなという話がある。実際、このあたりの海域ではだいたい一日に二、三回は大体三時間の間霧が出る」

「へえ、詳しいね」

「下調べをしたからな」

 

 嘘だ。リアルクトゥルフ神話技能が火を噴いただけである。ニライカナイとそこから来るモノの正体、伝承の実情まで完璧に私の頭に入っている。もっとも、カール・スタンフォードと大矢口キャンサーを始末すればこのあたりの知識は特に必要ないまま事件は解決する。話す必要はないし、話すつもりもない。

 

 蓮は霧が出たら陸に上がる事を約束し、楽しそうに波と戯れつつ、海に入っていった。砂浜一帯は石碑探し目的の観光客だらけで、地元民らしい人々が顔を真っ赤にして大声を張り上げる忠告に耳を貸して帰っていく者は皆無といっていい。今の時代、怪物と怪物の戦争が起きる危ない海域だから入るな、といわれて納得する者は少数派だろう。むしろどんどん沖に出て行っている。中にはスキューバダイビングの完全装備で海に入っていく者も……矢本=サンだった。彼女のこのイベントに賭ける情熱が伺える。ライブが中止になったら怒り狂いそうだ。おお、怖い怖い。

 

 二時間ほど小雪と一緒に静かに雑談をしながら話をしていると、急に海に霧が出てきた。それは正しく虚空から湧いて出るようで、燦々と照りつける太陽の下で、静かに、そして瞬く間に海面に広がった。乳白色の霧は不自然なほど濃く、浜風が吹き抜けてもゆらりともしない。まるで現実とは別の法則に従っているかのように、ゆっくりと一定のペースで流れている。

 異常な霧が現れてすぐに、海に潜っていた観光客の半数が叫び声を上げ、慌てふためきながら浜に上がってきた。残りの半分は珍しそうに霧を眺めていたようだが、意に介さずダイビングを続ける。まあ怪物が出たわけでもなし。自然現象と解釈もできる。こんなものだろう。

 

 手に持った小さな網袋に収集品を入れた蓮が何度も後ろを振り返りながら私たちのところに来た。

 

「びっくりしたよもー。ほんとにいきなり霧が出るんだから」

「蓮ちゃん、大丈夫だった?」

「うん、すぐ上がったからね。まだ潜ってる人いるけど大丈夫なのかな」

「何かあっても自己責任だろうさ」

「そんな何かあるかもしれないみたいな……本当に神話的アレじゃないんだよね?」

「いや?」

「私達に内緒でこっそり動いたりしてない? 今度除け者にしたらグーって言ったよね」

「してないしてない。これが嘘を吐いている目に見えるか?」

 

 蓮が私の曇りなき眼を真正面からじっと見つめてくる。何故か身震いされた。

 

「お父さん、何か最近さ……」

「ん?」

「……や、なんでもない。してないなら良いよ。ごめん、疑ったりして。よしこの話は終わり! 珊瑚はたくさん見つけたけど、石碑はひとつしか無かった。変な文字みたいの書いてあるしこれでいいと思う。パンフの見本の写真と似てるし」

「ちょっと見せてくれ」

 

 蓮から手のひら大の角をとった直方体をした石碑を受け取る。黒っぽい材質で、金属のような石のような変な感触がする。それも当然、これは邪神の一柱が眠る海底都市ルルイエの建造物の欠片なのだ。地球のものではない、かどうかは知らないが、少なくとも人類の科学で解析できるものではない。表面に彫ってある文字は神話的言語のひとつ、ルルイエ文字だ。翻訳すると「with strange aeons(奇妙なる永劫と共に)」といったところか。邪神(クトゥルフ)に纏わる祝詞の一節である。

 

 霧は三時間ほどは出たままなので、昼休憩に入る事にした。蓮にパーカーを渡して着させ、近くの料理屋に足を向ける。中に入って沖縄料理をさあ注文しようという時、私の携帯が鳴った。発信者は亀海左京と表示されている。

 

「亀海さんから電話だ。少し出てくる。三十……いや、二、三時間か。長話になる予感がする。用事が終わったらこちらから連絡するからそれまで適当にぶらぶらしていてくれ――――はいもしもし、八坂です」

 

 早口に言って店を出て、店舗の陰で声をひそめて電話に出る。

 

「やあ八坂君、亀海です。しばらく。また急な話で悪いんですがね、ひとつご教授頂ければと」

「構いませんよ。今度は何がありました?」

 

 彼とはもう何度も似たような話をして、時にアドバイスを贈り、時に依頼を受け事件の解決に当たっている。説明し難い神話的事件の説明にも慣れたものだ。

 

「一週間前に東京都は足立区で密室殺人事件が起きたのですが、それがどうも妙でして。部屋に鍵がかかっているなんて生易しいものじゃあない。被害者は溶接工だったんですが、部屋がみっちりと鋼材で溶接して閉じられていまして。出入り口は無し。アリの子一匹どころか空気も漏れないほどです。が、被害者は背中を切り裂かれて死亡していました。調査は難航。さらに二日前、鑑識の一人が――――」

「ストップ」

「はい?」

 

 密室殺人。切り裂かれて死亡。これだけで下手人は相当絞られた。後はもう幾つか質問するだけでいい。

 

「その密室のどこかに何か奇妙な模様のようなものは描いてありませんでしたか?」

「いいえ。被害者が抵抗したような痕跡はありましたが」

「被害者の所持品にガラス、あるいは水晶はありませんでしたか? あるいは死亡の数時間から一週間前程度の間にそのどちらかに接触していたかも知れません」

「……なぜ分かったんです? 確かに遺品のレンズを鑑定していた鑑識の一人が錯乱状態になっています」

「溶接工の方の死亡現場か、鑑識の方の服か錯乱状態になった現場の付近に青白い膿のようなものはありませんでしたか?」

「ありましたねえ。心当たりがおありで?」

 

 もちろんだ。神話生物の特定完了。

 怪事件を探るという過程は吹き飛び、解決策を得るという結果だけが残る!

 

「下手人はティンダロスの猟犬ですね。情報を言うのでメモの用意を……いいですか? 大きさは大柄な男程度。四足歩行の怪物で、見た目は猟犬と呼ばれていますが犬ではありません。厚革程度の硬さの皮膚を持ち、一分間で瀕死から全治するほどの再生能力を持ちます。物理攻撃は全て無効にします。魔術か、魔術がかかった武器のみがダメージを与える事ができますが、倒すのはまず不可能と思って下さい」

「倒すのは不可能? どうしろと。まさかどうしようもない邪神の類では」

「違います。結論だけ言えば、完全な球体の容器を作り、その中に閉じ込めれば封印できます。普通の箱に閉じ込めても空間を超えて脱出されるので、必ず球体でなければなりません」

「空間を超える?」

「条件付きのテレポートのようなものだと思っておいて下さい。そのあたりが密室殺人のからくりですが、詳しく説明するつもりはありません。説明自体はできますが、ティンダロスの生態について理解するためには人間の常識を捨て、異界の歪な知識を身に付ける必要があります。亀海さんはまだ気狂いになりたくはないでしょう?」

「……八坂君が知らない方が良いと判断したのなら、その方が良いのでしょうねえ」

「ご理解頂けたようでなによりです。鑑識の方がまだ生きているのなら、ティンダロスはその人のもとに必ず再び現れます。その時に球体の中に閉じ込めるのが良いでしょう。方法は現場の判断にお任せしますが、ティンダロスの知性は人間並みです。野犬を罠にハメるのとは訳が違うという事を念頭に起き、決して油断はなされないように。私から言える事は以上です」

「なるほど。いや、大変参考になりました。お礼の方はいつもの口座に振り込んでおきますので」

「よろしくお願いします。また何かあれば連絡をして下さい」

「八坂君も何かあれば我々が助けになりますよ。君も大概トラブル体質だからねぇ……おっと、失言だったかな。ではこれで」

「お疲れ様です」

 

 電話を切る。また特命捜査係が面倒な事件を扱っているようだが、あの部署はだいたい三ヶ月おきに神話生物絡みの事件に首を突っ込んでいる、精神病院行き警官が最も多い部署だ。健闘を祈る。

 

 時計を見ると、まだ店を出て十分しか経っていなかった。よし。これであと二、三時間はフリーだ。

 蓮から受け取ったままの石碑を手の中で弄びながら文化会館へ行く。三十分ほどで着くと、文化会館の前では数人の警備員が張っていた。明日のライブに向けての準備だろう、機材を抱えたスタッフ達が慌ただしく出入りしている。警戒されないように護符の力を解除して火傷痕を消し、警備員に話しかける。

 

「すみません、今見学いいですか? 石碑出せば入れてもらえると聞いたのですが……」

「大丈夫ですよ。見せて頂けますか?」

 

 石碑を渡すと、警備員は見本の写真を出して見比べてから頷き、脇に置いてあった箱に入れた。軽い身体検査の後、入場制限時間が書かれたネックストラップとパンフレットをくれる。

 

「シルバー・ブルー・メン結成二周年記念グッズ売り場は一階ホール右側です。二階フロアで与那国島歴史展をやっていますので、よろしければそちらもどうぞ。」

「ありがとうございます。警備お疲れ様です」

 

 難なく敵本拠地にして最終決戦の地に侵入した私は、体内からスタンガンを吐き出して袖口に隠しておく。後はカール・スタンフォードを痺れさせ、大矢口キャンサーを始末するだけだ。

 文化会館の中では、ファンらしい若い女性が私と同じネックストラップを下げてうろついていたり、土産物コーナーに群がっていたりした。二階の歴史展コーナーにも年配の男性客がちらほらいる。

 特に怪しまれないまま堂々とうろつく。スタッフオンリーの部屋にいたりすると少し面倒な事になるが……

 

 なかなか見つからないので、いっそスタッフの誰かに尋ねようかと考え始めた頃、特徴的なカイゼル髭のスーツ男がトイレに入っていくのを発見した。カール・スタンフォードだ。

 彼を追ってトイレに入ると、銀の杖を壁に立てかけ、便器の前で無防備に背中を晒していた。本来は恐ろしく強いはずなのに、弱点が分かっているだけで瞬殺哀れみすら覚える。後ろを通り過ぎるついでにスタンガンを出し、尻に軽く当てる。

 

「っ!?」

 

 カールはびくんと一瞬痙攣し、素早く振り返りながら懐から銃を抜きその銃口を私の額に押し当てた。

 

「え」

 

 発射された大口径の鉛弾は、私の頭部を吹き飛ばした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 首から上が無くなってしまったので、私は即座に手のひらに目を作って視覚を回復した。カールがダメ押しの二発目を撃とうとしているのが見える。拳銃程度で今の私は殺せないが、銃声で人が来るのはよろしくない。時間はかけられない。

 私は人型を辞め、溶解したむき出しの人肉と臓器が集まったドロドロの本性を現し、ぶわりと体を広げてカールを押しつぶした。驚愕に目を見開きながらもカールが二発目を撃ち、体に風穴が空くが、当たってもどうという事はない。そのままカールの体を包み込み、口を塞ぎ、ぐじゅるぐじゅると蠢いて銃を手ごともぎ取り、押しつぶし、肉を裂き骨を砕いて圧縮。最後に血液を啜り、異界の構造をした消化器官で速やかに消化しきった。

 

 事を終え、頭の残骸を取り込み人型に戻って立ち上がる。既に負傷の再生は完了している。

 

「ふむ」

 

 頭部よし腕よし足よし魔力よし。至って「正常」だ。

 危ない危ない。人間を辞めていなければ即死だった。

 

 私は会社を辞める時に作った細胞を変異させる薬で「原ショゴス」という神話生物になっていた。変異に必要な薬品の幾つかと設備を省いているため、本来ならば薬の副作用で体細胞が異常を起こし一気に末期癌になり、一週間の間苦しみぬいて無残に死ぬのだが、そこは《治癒》を使う事で解決した。

 

 原ショゴスのスペックは、象並の怪力とタフネス、約二分で瀕死から全回復する超再生能力。更にありとあらゆる被ダメージを最小限に抑えられ、脳細胞や重要器官が体全体に分散しているため、頭部や心臓を狙われても全く問題ない。激昂しない限り人間の姿を取り繕う事ができ、体のどこにでも余分な手足や目、耳などの器官を作ったり消したりできる。ぐちゃぐちゃした肉と臓器の塊のような本性を表せば変形も自由自在。獲物を押しつぶして消化しても体積は変わらない。

 気配に敏い動物に怯えられるようになった事と、迂闊に健康診断を受けられなくなった事、神話生物にのみ有効な攻撃が効くようになってしまった事がデメリットだが、メリットはそれを補って余りある。

 神話生物と戯れようと思ったらこれぐらいしなければいつか事故死してしまう。

 

 トイレの外からバタバタと足音がする。銃声を聞きつけた警備員だろう。既にカールの死体は消化してしまい殺人の証拠は無いが、全裸でトイレに突っ立っていれば連行は不可避。私は体を細く変形させ、自分の服と一緒に窓の格子をすり抜けて外に脱出した。

 

 背後に警備員たちの困惑した声を聞きながら、茂みで服を着て何食わぬ顔で現場を離れる。

 まだちょっとドキドキしている。銃口を向けられた時は一瞬死んだと思った。一体なぜスタンガンが効かなかったのか……まさか尻に絶縁体を入れていたわけでもあるまい。しっかり電流が入った手応えはあった。それにあの反応。尻にスタンガンを受けた直後、全く迷わずに殺しに来た。あれはこういう状況を想定していなければできない動きだ。

 今度のカール・スタンフォードは電気ショック攻撃をされるのが分かっていたのだ。

 

 なぜ分かっていたのか? なぜ効かなかったのか?

 まさかカール・スタンフォードにも中の人がいるのではあるまいな。

 ……流石にそれは。いや、有り得る、のか?

 背筋が冷える。私という前例がある以上、無いとも言い切れないのだ。自分以外にもチートさながらの情報を持っている者がいる。こんなに恐ろしい事はない。

 

 と思って宇宙的恐怖に駆られたがすぐに落ち着いた。本当に私の事を知っているなら、原ショゴス対策もとっていたはず。スタンガン無効のカラクリが何であれ、神の目線で私の動きを察知されたわけではない。クトゥルフ神話の魔術には未来を漠然とした形で占うものがあるし、亀海が今追っている事件にあったように、未来を見るアーティファクトも存在する。限定的に私の襲撃を察知していたとしても不思議はない。

 一応前後関係を洗うぐらいはするべきだろうが、深刻になるほどの問題でも無いか。後は大矢口キャンサーを始末すればエンドだ。

 

 メールで蓮に連絡すると、砂浜に戻っていると返信があったのでそちらへ向かう。

 私は砂浜で休憩したり砂山を作ったりしている観光客たちの間を縫って女性陣に合流した。

 

「お帰りなさい。遅かったですね、何の話でした?」

「いつものだよ。少しアドバイスをして、それだけだ。いや、昼も食べてきたな」

「あ、なんだもう食べたんだ。何食べたの?」

「肉かな」

「大雑把すぎ。えー、黒豚とか?」

 

 人肉だ。などと言えるはずもなく。

 

「ソーキそばだ」

「それ肉じゃないでしょ」

「えっと、確か沖縄のそばですよね。……ソーキそばのソーキってどんな意味なんでしょう」

「え、なんだろ。ソーキ、ソーキ。思い出のそばで想起そばとか?」

「意味は知らんがそれは違うんじゃないか。ググってみるか」

 

 石碑を無くした事を突っ込まれるかと思ったが、ぐだぐだと四方山話をするばかりで触れられなかった。聞かれる前に小雪を蓮に任せ、霧が晴れた海に入る。若い女性ばかりの砂浜でも、二人は際立っている。私がいなくなった途端にたちまち男が寄ってきていた。まあ、いくら二人が可愛くても白昼堂々衆人環視の下で何かする奴はいないだろう。可愛いとはいってもそれは人間の範疇。問答無用で理性を吹き飛ばす人外の美貌ではない。

 あまり過保護なのも良くないし、あの二人は少し嫌な思いをしてでも今の内に男のあしらい方を覚えた方がいい。いつも私が守れるとは限らないのだから。

 

 さて、ダイビングだ。浅瀬で波と戯れて本来の目的を忘れているミーハー女子の群れをかきわけて沖へ向かう。近くに人がいないか確認すると、少し離れたところでまた矢本がいた。漁師が使うような網を持ち、ペンギンのように水中を突進して潜っては浮き上がってをひたすら繰り返している。網の中には十個近い石碑が入っていた。奴は本気だ。

 石碑を多く持っていくほど良い席が取れる仕組みになっているので、矢本はそれ狙いだろう。ミーハーもここまでアグレッシブだと感心する。

 

 私は矢本から少し距離を取り、水中に潜った。海底に沈み、神話生物の知覚と肺活量を活かして砂と海藻がこびりついた岩の上を這いずる。

 狙いは石碑は石碑でも灰色っぽい石碑だ。

 

 実は与那国島海底遺跡周辺には二種類の石碑が沈んでいる。

 ひとつは黒っぽい石碑。ルルイエの破片で、深き者を呼び寄せる。カール・スタンフォードが集めたがっているのはこちらだ。最悪与那国島が海の底に沈む。

 もうひとつは灰色っぽい石碑。ドーリームランドという異界から漂着した神(ノーデンス)の神殿の欠片で、ノーデンスやその信奉者、眷属を呼び寄せる。比較的無害な石碑だ。

 

 このあたりの砂浜に頻繁に出る霧というのは、ドリームランドと繋がる事が原因で起こる現象である。地元民はニライカナイから神の使いがやってきて妖怪と戦っているというが、真相はドリームランドから霧と共にやってきたノーデンスの手下が深き者と戦っているのである。名前が違うだけで地元の伝承は概ね正しい。

 

 二つの石碑は大きさ、形、質感ともによく似ていて、並べてよく見比べてみないと区別がつかない。色の違いも微妙だ。灰色っぽい石碑の方にはルルイエ文字が書かれていないのだが、黒っぽい石碑の方もルルイエ文字が書かれているとは限らないので判別には使えない。石碑が二種類あるという事は首謀者のカール・スタンフォードですら気づいていない。

 ライブ会場に黒っぽい石碑が多く集まると、深き者の上位種にあたるダゴンやハイドラが召喚され、灰色っぽい石碑が多く集まるとノーデンスが召喚される。通常のシナリオの展開通りに進めば、探索者はどこかで石碑の種類の違いに気付き、それが何を意味しているのか探り、ライブ当日までに灰色っぽい石碑をできるだけ多く集める事に注力する事になるわけだが。

 私にはあまり関係ない。灰色っぽい石碑でも黒っぽい石碑でも、ライブ会場の入場券になれば良いのだ。もう一度会場に入れば――――大矢口キャンサーに接敵できれば今回の事件は解決したも同然。念の為に灰色っぽい石碑を探すが、正直どちらでも良い。

 

 誰も見ていないのを良い事に体の前後左右と下に二組ずつ十個の目を作って石碑を探していた私は、階段状になった海底遺跡の一部にルルイエ文字が彫られているのを見つけた。

 これは興味深い。文字の凹みを覆うように繁殖している藻類をこすって取り、解読を始める。

 

 私は八坂一太郎の知識と中の人の知識を併せ持っているが、クトゥルフ神話について完璧に知っている訳ではない。

 例えば、私は《クァチル・ウタウスとの契約》という魔術の存在、その効果を知っている。しかし使う事はできない。呪文の文言も必要な所作も知らないからだ。そこまでマニアックな部分はルールブックに載っていなかった。

 同じような事が全ての知識について言える。アウトラインしかない、殻しかない知識が多すぎる。この世界では殻を持っているだけでも凶悪な武器になるのだが、こうして実際にクトゥルフ神話的モノに触れる事で、殻の中に実を入れていくのはやはり重要だ。

 

 夢中で三時間ほど海底に居座り解読し続けていると、段々と文字が読みづらくなってきた。私の「ルルイエ文字」技能は21%であり、熟練度的にはカタコトで扱える程度。ちょっとした読み物でも、どうしても時間がかかってしまう。弱くなっていく光の中でなんとか粘り、解読を終えて浮上する。やりきった達成感に満足しながら目玉の数を二つに戻して海上に出たところでふと気付いた。

 ……石碑集めを忘れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 申し訳なさが顔に出ていたのだろう、収穫無しと報告しても二人には責められなかった。時間的にはライブまで二十四時間あるのだ。まだ慌てる時間ではない。

 

「イベントの目的考えるとあんまり良い手じゃないけど、他の人が取ってきたの譲ってもらったりしてもいいしさ」

「そうですよ。落ち込まないで下さい」

 

 ホテルで夕食をとっている間中女性陣から慰められた。心遣いはありがたいが、そもそもライブそのものをぶち壊す予定なのでその事については全く悩んでいない。通行券(石碑)なしでどうやって侵入しようかと考えているだけだ。

 夕食後、女性陣が風呂に入ると言ったので、私は一人で夜の散歩に出かけた。ライブ会場の警備状況を下見しに行こうと思ったのだ。最悪、人ごみの中心で神話生物を召喚してSANチェックのバーゲンセール→混乱に乗じて突入という手段を使わざるを得ないかも知れない。

 

 ホテルのフロントで部屋の鍵を預けていると、声をかけられた。

 

「こんばんは」

「こんばんは……どこかでお会いしました?」

 

 アイサツをしてきたのは三十代前半ぐらいの男だった。南国の島にふさわしいカジュアルな格好をしているが、その妙にサツバツとした目にはどことなく覚えがある。

 男は外で、と低い声で言い、ホテルを出た。念のため《透視》をするが、ただの人間らしい。頭を吹き飛ばした途端に豹変して肉の塊になり、圧殺&消化されるような事はなさそうだ。

 男を追い、図らずも二人での夜の散歩になる。歩きながら、男は話し始めた。

 

「私は藤木戸という。オヌシとは以前東京でのエイリアン・ハンティングで会ったはずだ」

「根津です。あー、山の中ですれ違った?」

「うむ」

「よく覚えていましたね」

「それはお互い様だろう」

 

 私はエイリアン・ハント事件でミ=ゴを抹殺した後の下山途中にすれ違ったハンター一行の事を思い出した。一度会っただけなのに思い出せるのはINT18(人間の限界)の賜物だ。

 

「藤木戸さんもライブを見に?」

「いいや」

 

 雰囲気からしてそんな訳がないだろうと思いながら尋ねると、やはり首を横に振った。

 

「神話生物を殺しに来たのだ」

「へえ、神話生物」

 

 曖昧な返し方をして藤木戸を横目で見ながら《透視》をする。すると藤木戸と目が合った。藤木戸は無表情だったが、沸き立つような憤怒と怨念のオーラが出ている。推測するまでもなく、彼が神話生物に恐るべき殺意を抱いている事が分かった。

 そう、神話生物に。

 ……ワタシ、悪イ神話生物違ウ。殺ス良クナイ。

 

 神話生物絶対殺すマンと一触即発の散歩をしながらしばらく言葉を交わすと、幸いにも彼が私を狙いに来た訳ではない事はすぐに分かった。私が原ショゴスである事には気づいていない。霧と共に現れる妖怪の噂話を聞いて殺しに来ただけのようだ。なんでも以前私に会った後、ペンション前のミ=ゴとの戦闘痕やペンションを調べまわった痕跡を見て、私がやり手の神話スレイヤーである事を確信していたらしい。

 藤木戸は基本的に一匹狼で、この島に来てから独自に調査を進め、シルバー・ブルーメンの大矢口キャンサーが神話生物である事を突き止めた。しかしいざ襲撃しようという段になってライブ会場で発砲騒ぎがあり、警備が厳重になってしまった。手を出しあぐねて困っているところで私を見つけ、共闘を提案しに来た、という話だった。

 

「共闘ですか」

「オヌシも神話生物を相手に戦っているのだろう? 悪い話ではないはずだ」

「……藤木戸さんはなぜ神話生物を殺そうと?」

「かつて奴らに妻子を殺されたのだ。私は血の涙と共に奴らの根絶を誓った。神話生物、殺すべし」

 

 どこかで聞いたような経歴である。カラテが得意そう……というかコイツも絶対に探索者だ。脳筋(マンチ)系の。

 何ができるか尋ねてみると、投擲、格闘、変装、追跡、登攀、交渉には自信があると言われた。ラフな格好なだけに、細身ながらも強靭に鍛え上げられた肉体が服の上からでも分かる。実際強そうである。

 私もちょうどどうしようかと思っていたところだ。脳筋系の探索者ならまだ御しやすい。最悪囮や盾に使ってポイもできる。共闘を断る理由はない。

 私が魔術師で、知識と頭の回転には自信があると言うと、藤木戸は頷いた。

 

「ならば我々は得手不得手を上手く補える。共闘に嫌はないな?」

「アッハイ」

「うむ。ではよろしく頼む。夕方に下見をしたのだが、警備が厳重になっていても石碑を三つ持っていけば入れるようだ。ライブ開始前になれば一つでも入れるようになるようだが、奴らはどうも良からぬ事を企んでおるらしい。事前に阻止するのが一番良い」

「私は石碑を一つも持っていないのですが」

「私も二つしかない。石碑がなければ強行突破になる。それは現実的ではない。どこかで手に入れる必要があるが、今から海の底を浚うというのは時間がかかりすぎる」

「では―――――彼女から譲ってもらいましょう」

 

 海岸を歩いていた私は、岩場で一息ついているスキューバ装備の矢本を見つけて言った。手に持った網は石碑で膨らんだいる。あの数。一日中潜り続けていたようだ。

 私は藤木戸と相談し、彼に行ってもらう事にした。面識のある私の方が良いのではと提案されたが、藤木戸の交渉スキルに興味があるので適当に言いくるめた。

 なお、二人で行くのはNG。普通若い女性が人気の無い海岸で夜中に男二人に詰め寄られたら渡すものも渡せなくなる。

 

 藤木戸は迷いなくまっすぐ矢本の方に歩いて行った。何事か話しかけ、網袋を指す。矢本は首を横に振った。更に藤木戸が話しかける。矢本はやはり首を横に振り、中指を立てて突き上げた。

 

「ええい、渡せと言っておるのだ!」

「ちょっ」

 

 突然大声を上げ、激昂した藤木戸が矢本をタコ殴りにし始めた。交渉とはなんだったのか。

 矢本は石碑が入った網袋を取り落とし、海の中に落としてしまう。波に持っていかれる前に、とそれを回収している間に、矢本の顔面は整形(物理)されてしまっていた。目も口も腫れあがり、酷い有様だ。

 誰だこのクソ脳筋と共闘しようと考えた馬鹿は。私か。

 

「イカン、気を失ってしまった。病院へ――――」

 

 藤木戸が何か言っているが、とりあえず私は目撃されていない。石碑を持ってホテルに逃げた。ホテルの前で少し休んで呼吸を整え、何食わぬ顔で入る。

 中では藤木戸が待っていた。アイエエエ! ナンデ? 藤木戸ナンデ?

 

「遅かったな、根津」

「藤木戸さん早すぎませんか。矢本さんはどうしたんです」

「足の速さには自信があるのでな。彼女は病院の前に置いてきた。首尾は」

 

 人一人担いで病院を中継してホテルに来て私よりも速いのか。こいつ神話生物じゃないだろうな。

 疑いの目を向けると、藤木戸も私を探るように見てきた。うむ、人を疑うのは良くないな。

 もう夜も遅いので、私は軽い打ち合わせの後、石碑を山分けにして部屋に戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、ライブ当日の朝である。

 東京を出る時には到着したその日に終わるはずだった神話的事件はタイムリミットの日までもつれこんでしまった。半分ぐらいは探索者のせいだ。まあ役立つところもあるが。

 

 朝食バイキングで蓮と一緒にボンゴレパスタを皿に盛りながら藤木戸の姿を探すと、壁に貼られていた。

 正確には壁に貼られた紙にでかでかと似顔絵が載っていた。

 

「昨夜23:00頃、ホテル北西の海岸で婦女暴行を働いた疑い――――見かけた方は警察へ。うわー、どこにでも酷い事する人はいるんだね。昨日島の人がなんだか観光客に険悪だったけど分かる気がする」

 

 まあ……そうなるな。矢本が通報して似顔絵を描いたのか。探索者同士で足を引っ張り合うなと言いたいところだが、多感なうら若き乙女が顔を崩壊させられたら精神障害か復讐の二択だ。先程ホテルマンがロビーで集まって話していたから、藤木戸は今頃逃亡中だろうか。

 

「そうだな。蓮、今日はライブの時間までホテルにいろ。流石に出歩くのは控えた方がいいだろう。石碑は父さんが集めてくる」

「ん、分かった。お願いします。小雪ちゃんにも言っとくね。お父さんも気をつけてね? もう若くないんだから。なんか昨日若くなってたけど」

「気をつける」

 

 朝食後部屋に戻ると、部屋の窓が開いていて枕元に置き手紙があった。「オヌシの突入に合わせる」と書いてある。

 窓の外を覗くと、ホテルの壁面に薄らと足跡があった。忍者かあいつは。

 

 蓮にルームサービスは自由に使うように言って、私は再びライブ会場である夜刀浦市文化会館へ向かった。文化会館の前には立ち入り禁止のロープが張り巡らされている。そのロープの前でシルバー・ブルーメンのメンバーがプリントされた内輪やら横断幕やらを持った若い女子中高生達が警備員にキャンキャン吠えていた。

 

「なんで駄目なのよ!」

「だからですね、」

「ぶっとばすよ!?」

「オクトパス様に会わせてよ!」

「シュリンプ君がここに入ってくの見たんだから!」

「いや、ですか」

「もういい! どいて! どきなさい! どけえ!」

「あんた今触ったでしょ! 離してよ! どこ掴んでんの!」

「こ」

「調子のってんじゃないわよアンタ何様のつもり!?」

 

 警備員の殺意の高まりを感じる。私は遠巻きにして耳を澄ませた。

 警備員が何か一、二単語言うたびに頭の悪い一方的要求が十倍吠え返されるためなかなか話が掴めなかったが、どうやらライブの時間まで石碑をいくら持ってきても入れないようになったらしい。深夜の婦女暴行騒ぎを受けての警備体制強化との事だ。

 藤木戸は本当になんて事をしてくれたんだ。神話生物より忌々しく感じるのは気のせいだろうか。

 

 背後から視線を感じる。襟元に小さな目を作って振り向かずに背後を見ると、よく葉の茂った街路樹の太い枝の上に藤木戸が立って私の方をじっと見ていた。

 どうするべきか。本当に神話生物を召喚して藤木戸と一緒に突っ込ませて陽動にして、その隙に大矢口キャンサーを潰すか? いや、それだと藤木戸が私が召喚した神話生物を殺しにかかりそうだ。それはそれで陽動になる気もするが。

 ……なんだかもう面倒臭くなってきたな。入るのが難しいなら、いっそライブの時間まで調べ物でもして時間を潰そう。大惨事直前の介入でもなんとかなるだろう。探索者の横槍がなければ。

 

 街角で婦女暴行犯のビラ配りをしている有志の方々をスルーしながら図書館へ。クーラーの効いた小さめの図書館の一角、郷土資料コーナーから一昔前の建築資料を見つけ出す。何冊か同じような資料があったので多少手間取ったが、夜刀浦市文化会館の設計図を見つける事ができた。

 通気ダクト……水道管……駄目か。換気ファンや濾過装置が挟まっている。原ショゴス化&変形で配管から侵入は難しそうだ。下水管ならいけそうだったが、流石に汚物まみれになってトイレに参上は躊躇われる。

 前回見学した時にステージが設置されていた場所がここだから、バンドメンバーの控え室があるのは距離と位置取りから考えて……ふむ。

 

 昼食の休憩に蕎麦屋に入ると、テレビで藤木戸と警官隊のカーチェイスの様子が実況されていたが、スルー。ライブまで、時間をたっぷり使って計画を練り直す。

 それでも時間が余ったので、カール・スタンフォードの近況について調べてみた。ここ数ヶ月のバンドメンバーのブログや、カールが経営している警備会社の記録を読み返したところ、エイリアン・ハント事件でカールが心神喪失になってから数日後、カールは復調したらしい。しかしどうも以前と性格が少し変わったようだ。食べ物の好みも微妙に変わった。目玉焼きにソースではなく醤油をかけるようになったとか、白ワインではなく赤ワインを好むようになったとか、些細な差だが、加えて、カールの秘書的なポジションにいた男が姿を消したらしい。明確にいつから消えたのかははっきりしないが、タイミングはカール復調の前後二日程度である。

 カールのかかりつけの医者を装い、カール・スタンフォードがぶち込まれた精神病院に電話して聞いてみたが、今もカールは白痴状態で東京の病院にいるという。

 

 以上の情報から、私はカール・スタンフォードの秘書がカール・スタンフォードに変装して成り代わっていたのだという推測を立てた。

 何も知らずに計画だけ受け継いだ信奉者なのか、魔術の弟子だったのか。細かい経緯は分からない。ただ、カール・スタンフォードが成仏する時に着ていたスーツの尻には小さな焦げ目が残っていたかも知れない。そこからスタンガンで攻撃されたのだと……は流石に分からないだろうが、尻を狙われた事は分かる。尻への警戒があれば、そこへ攻撃してきた時にあれだけ俊敏な反応を見せたのにも納得がいく。しかもカール・スタンフォードではないのだから、当然スタンガンでお陀仏とはいかない。

 

 エイリアン・ハントのカール・スタンフォードとは別のカール・スタンフォードだと思い込んでしまった私の落ち度だ。

 ここは現実世界。バタフライ効果が発生し、私の知るシナリオと違う事が起きるのも十分ありえる。ゲームの世界としか思えないので忘れがちだが。

 時が経つほどにバタフライ効果は大きくなり、私の知るシナリオと実際に起きるシナリオの乖離も大きくなっていくだろう。これからはシナリオの知識はアテにしない方が良さそうだ。

 もっとも、神話生物や神話的歴史、魔術などの知識だけでも十二分に凶悪な性能を発揮するのであまり喪失感はない。強くてニューゲームで持ち金を引き継げなくても、レベルとスキルとアイテムを引き継げるならほとんど変わりはない。それと同じだ。

 

 さて、ライブ一時間前。私は蓮と小雪を連れて夜刀浦市文化会館へ向かった。太陽は水平線の向こうに沈み、雲ひとつない夜空には満天の星星。吹き抜ける潮風が昼間の熱を爽やかに拭いさっていく。

 矢本から奪取した石碑の私の取り分は十一個あり、黒っぽい石碑を除外しても五個あった。蓮と小雪に一個ずつ灰色っぽい石碑を渡して先に行かせ、自分も会場入りする。

 

 会場は人が犇めいていて、何か怪しい事をしていても逆に目立たない。頭の中の見取り図に従ってそっと控え室に向かう。そのあたりに積んであったダンボール箱を抱え、「お疲れ様です」と一声かけるだけで関係者以外立ち入り禁止の立札の前の警備員も突破できた。厳戒態勢とはなんだったのか。確かにライブ直前のこの人並みでいちいち厳重チェックをしていたらいつまで経ってもライブが開始できそうにないが。

 

 ダンボールを抱えたまま廊下を歩き、控え室と思しき部屋に躊躇なく入る。部屋にいたテレビの撮影班が何人か目を向けてきた。

 

「あれシブメンの控え室ってここじゃありません?」

「ああ、隣だよ」

「すみませんありがとうございます」

「いいよいいよ、お疲れさん」

 

 焦った声音を作って情報を引き出し、隣の部屋へ。

 入る前に聞き耳を少し立てるが、中にいるのは二、三人のようだ。これならいける。

 

 部屋に入って内側から鍵をかけると、中にいたのは二人だった。一人は大矢口キャンサーで、壁にもたれかかってギターをチューニングしている。

 もう一人は矢本で、パソコンで変声ソフトを駆使し、警官隊に指示を出していた。

 何をしているんだ。

 探索者は本当にどこにでも湧いて出るな。邪悪な陰謀の黒幕達が負けるわけだ。

 

 ダンボールを置きながらパソコンの画面を見ると、どうやら矢本の監視カメラハッキングと警官隊の指揮により、どこだかは分からないがすごく高いビルの屋上に藤木戸が追い詰められた所のようだった。腫れ上がった顔に包帯を巻いた矢本は舌なめずりをしている。

 私は腹部に口を作り、小声で魔術の詠唱を始めた。詠唱は部屋の外の喧騒に紛れて聞こえない。

 

「よし! 追い詰めたわ。ざまあみなさい!」

「荷物確認してもらっていいですか?」

 

 俯いてダンボールの荷解きをし、顔を隠しながら大矢口キャンサーに向かって言うと、キャンサーは手の甲で壁を叩いた。矢本が振り返ると、顎で私を指す。

 

「何よ今いいとこなのに」

「お忙しいところすみません、荷物の確認をお願いします。すぐに済みますので」

「はいはい何なのもー」

 

 無用心に矢本がダンボールを覗き込んできたところで、すかさず顔面を鷲掴みにする。口を塞ぎ、手を六本生やし、隠し持っていた紐で素早く縛り上げた。目隠しも忘れない。

 キャンサーは弾かれたように壁から離れ、出口に向かって逃げようとする。

 

 遅い。遅すぎる。

 

 体内に隠していた火炎瓶をキャンサーに投げると同時に《ナーク=ティトの障壁》を発動。物理も魔術も通さない透明の球形結界に閉じ込められたキャンサーは、内側で燃え上がる炎にのたうち回った。顔を隠していたタオルや、ダメージジーンズが焼け焦げて崩れ、人型をとっていた数百匹の小さな蟹の群れがボロボロと落ちて結界の底に溜まる。

 数十匹が美味しそうな焼き蟹になったところで、酸素不足になって炎は鎮火した。しかし燃え残ったガソリンと煙、一酸化炭素などの有毒ガスは結界内に残っている。キチキチと鋏を鳴らしながらなんとか逃げ出そうと蠢いていた蟹達は白い泡を吹き始め、動きが鈍くなっていき、やがて仰向けになって動かなくなった。

 《透視》で確認する。オーラは消えていた。死んだのだ。

 

 磯の生き物の群体である大矢口キャンサーは、命の危機が迫ると人型を辞め、蟹の群れになって散開・逃走する習性がある。子蟹が入り込む隙間なんてどこにでもあるので、こうして閉じ込めて蒸し焼きにでもしない限り仕留めきるのは難しい。

 しかし生焼けの蟹は不味そうだ。食欲が湧かない。

 

 結界を解除すると、蟹の死体が床にざらりとぶちまけられた。突然部屋に広がった磯臭さと焦げ臭さに、簀巻きになって転がっている矢本が動揺しているのが見て取れた。彼女はこのままでいいか。すぐに助けられるだろう。

 これにてお仕置き完了。撤収撤収!

 

 またダンボールを持って顔を隠しながら部屋を出ようとしたところで、ステージの方から壁を突き抜けるような大歓声が聞こえた。盛り上がるシブメンコール。轟く音楽。

 まったく、何も知らない連中は本当に気楽で……ちょっと待て。まだキャンサーがここにいるぞ。ライブが始まったように聞こえるんだがこれはどういう事か。

 

 ハッとして机の上に置きっぱなしになっていたパンフレットを見ると、キャンサーのステージ登場予定が他のメンバーよりも五分ほど遅れていた。

 しかもその五分の間に、ファンが配布された冊子の祝詞をバンドメンバーと一緒に歌い上げるイベントがある。

 

 まずい。

 まさか自分が死んでも召喚儀式が遂行されるように仕組んでいたとは。「もうシナリオの知識はアテにしない」とはなんだったのか……やはり体のスペックがINT18でも中の人がアレだとアレなのか。

 

 私は部屋を飛び出し、廊下を駆け抜けてステージに走った。

 ステージの前にわらわら群がるファンの群れは、既にバンドメンバーに合わせて詠唱を始めてしまっていた。それが喚ぶべからざるものを喚ぶための詠唱とも気付かず、ライブの熱気にアテられ、興奮して、大声を張り上げている。

 

「やめろ! ストップ! ストーップ!」

 

 叫びながら群れの中に飛び込むが、パワフルな若い女性の中におっさんが一人混ざって叫んだところで止まるものではない。《ナーク=ティトの障壁》に魔力を使ってしまったので、神話生物を召喚して混乱を起こし強制シャットダウンという手も使えない。

 せめて蓮だけでも連れて逃げようと携帯に手をかけたところで、会場にどこからともなく乳白色の濃い霧が湧いて出た。

 

 最初は演出かと思ったらしくキャアキャア言っていたファンも、どこがとは言えないが妙なその霧に沈黙していく。

 不気味なまでに静まり返った会場。やがて近いようで遠い、現実と膜一枚を隔てた裏側から歌が聞こえてくる。

 それは賛美歌だった。それはこの世の正気の世界で知られているどの言語とも違ったが、意味は分かった。大いなる深淵の大帝、ノーデンスを称える賛美歌だ。

 そっちが来るのか。

 

 最初霞みがかったようにおぼろげだった歌がはっきりしてくるにつれ、会場の足元にひたひたと海水が溢れ出てきた。亀裂のないコンクリート床からなぜか湧き上がる海水にファンたちは困惑し、混乱し、すぐに悲鳴を上げながら出口に向けて津波のように逃げていく。押し合い、へしあい、転ぶ者がいれば踏んで逃げる。

 

 みるみる水位が上がり、膝丈まで海面が上昇する。スタッフまでが半狂乱で逃げ出しガランとした会場の真ん中では、震える小雪を背中に庇い、目を見開き硬直する蓮の姿があった。

 

「蓮! 逃げろ! こっちだ早く!」

 

 会場の出口付近から呼びかけるが、反応が無い。いかん。恐怖で硬直している。中途半端に神話知識があるため、自分が恐ろしい状況に陥っている事に気づいてしまったようだ。

 急いで蓮の方へ向かうが、海水のせいで移動が遅れる。半分も移動しないうちに、霧の向こうから滑るように貝殻でできた戦車に乗った老人が現れた。奇妙な戦車は腕が三本ある歪な人魚が静々と水をかきわけて牽いていた。

 

 ノーデンスが降臨してしまった。

 

 私は彼に目をつけられないようにすぐさま停止し、水面ギリギリまで沈んで目立たないようにした。ちょっと人間を辞めた程度の私が真の神にできる事は、頭を低くして無事を祈るだけだ。万が一ノーデンスに攻撃されたら神話生物ボディの私ですら一撃で消し飛ぶ。

 

 ノーデンスは邪悪がデフォルトのクトウルフ神話の神々の中で、もしかしたら一番かも知れないほど人間に対して善良な神である。それでも「割と友好的」という程度なのだが。

 彼には少しお茶目なところがあり、降臨した際に気に入った人間がいると、帰還するついでに連れ去ってしまうのだ。そしてどこか行き当たりばったりの適当な場所に置き去りにする。銀河系の果てに置いていった事もあるという(その時は連れ帰ってきた)。

 ノーデンスがどんな人間を好むかは分からない。神の考える事など分かるはずがない。できればそのまま何もせず帰って欲しいところだが――――

 

 ノーデンスはゆるりと周りを見回しながら、ライブ会場を一周するようにゆっくりと戦車を一周させた。《透視》でノーデンスの感情を読み取ろうとしたが、POW100の絶大なオーラと、見たこともない奇怪な揺らぎ、表現しがたい色とも言えない色あいが視えただけ。今怒っているのか、喜んでいるのか。そもそも感情があるのかすら分からない。

 

 こいつを早くどこかへやってくれ、とクトゥルフ神話の中でもノーデンスに対抗する神(ニャルラトホテプ)に祈りながら目で追っていると、ノーデンスは会場を一周したところで戦車の向きを変え、未だ硬直状態の蓮と小雪の方へ向かった。

 

 おい馬鹿やめろ。

 

 私は水面から飛び出し、血管を破裂させ血液で空中に紋章を描きながら全速力で蓮を庇いに向かった。紋章を介して《門の創造》を使えば、この場からワープして脱出できる。POW(魔術的素養)を1ポイント永久的に失うリスクがあるが、この際そんな事は構っていられない。

 

「テケリ・リ!」

 

 ノーデンスを制止する言葉を吐こうとして代わりに出たのは、自分の声とは思えない奇妙に歪んだ鳴き声だった。激情のせいか、いつのまにか全身が原ショゴス化している。

 構わず水面を転がるようにして猛進し、蓮に向けて触肢を伸ばす。しかし触肢が届く前にノーデンスは目を大きく見開いたまま石像のように硬直する蓮を貝殻の戦車に引き上げ、溶けるように消え去った。

 

 触肢が空を切り、勢い余って水中へ突っ込む。顔を上げると、霧が晴れ、するすると海水が引いていった。そこには既に誰もいない。何もいない。描きかけの紋章は霧散した。

 頭を抱え、うずくまって震えている小雪は無事だったが、蓮が攫われてしまったのなら何の意味もない。遠く、ライブ会場の外からサイレンが聞こえる。

 人型に戻り、髪から海水を滴らせながら、私は言った。 

 

「私を怒らせたな、ノーデンス」

 

 お前が蓮を銀河の果てまで連れて行くというのなら、銀河の果てまで追いかけて取り戻す。

 邪魔をするなら容赦しない。

 遊びは終わりだ。

 探索者(SAN0)の本気を見せてやる。



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2-4 未知なる誰かを夢に求めて

 執筆の間隔が空きすぎた上に一晩で一気に執筆したため前話までと雰囲気が異なる恐れがあります。あしからず。


 

 この目と鼻の先で蓮が攫われた。屈辱だった。十年以上プレイしてきた愛用ゲームの重課金したお気に入りキャラクターデータを盗まれたような気分だ。とんでもない野郎だ。相手が神だろうと取り戻さないなど有り得ない。怒りが湧き上がり人間形態が解けそうになるが、小雪が正気に戻って不安そうに見上げてきているのにギリギリで気付き、どうにか抑え蓮を取り戻す方法を考える。

 

 蓮を誘拐したノーデンスは神格である。彼は現実世界の地球のみならず、銀河の果てや夢の世界までも行き来する事ができる。当てずっぽうに探してもどこに行ったかは分からない。「透視」を使い消えたノーデンスの痕跡を探ったところ、「門」が持つものに似た魔術的痕跡が視えた。つまりノーデンスは空間を超えてどこかへ行った、という事だ。

 ……これでは何の参考にもならない。現に空間を超えて移動していった場面を見ていたのだからそんな事は分かっている。ライブ会場を満たしていた海水は消えていて、潮の残り香すら不自然なまでに綺麗さっぱり消えている。ノーデンスの貝殻戦車の轍の跡すらない。まさに夢であったかのように何の痕跡もなかった。

 蓮の行方を追う手がかりは、ゼロだ。

 

 信じられない。なんだこのゴミクズのような状況は。手がかり皆無で始まる探索行があってよいのか?

 いや、まあどうしようもなくなったわけではないのだが。手がかりが皆無となると蓮の奪還にかなり面倒な手間をかけなければならなくなった。

 

 私は今もじわじわと続く怒りで人間の姿を取るのに苦労するほどで、その危うい均衡と怒気が小雪の口を噤ませ怯えさせていた。が、それに気遣う精神的余裕はない。目まぐるしい怪異と親友の突然の誘拐に錯乱寸前といった様子の小雪に私の原ショゴスの姿を見られていない事だけ確認し、おっとり刀で駆けつけた警察に小雪を任せ、私はその場を後にした。事情聴取など知った事ではない。蓮の安否だけが心配だった。ノーデンスはクトゥルフ神話の神格の中で最も人間に友好的で親切であるが、それでも「邪悪でない」というだけで、一歩間違えれば死が見える存在である事に違いはない。今こうしている瞬間にも蓮が神話的恐怖を味わい精神を穢されているかも知れないと考えるだけで発狂しそうになる。

 

 夜刀浦市文化会館の裏口から外に出た私は、深呼吸して冷たい夜気を腹一杯に吸い、夜空を見上げて気持ちを落ち着かせた。

 蓮奪還に動く前に、一度道筋を整理しよう。

 

 目標は蓮を奪還する事。

 そのためには蓮の行方を知る必要がある。

 しかし行方を知る手がかりが何もない。

 手がかりを見つける必要がある。

 そのために必要なのは「タールクン・アテプの鏡」の魔術だ。

 

 タールクン・アテプの鏡は本来嫌がらせや警告に使われる魔術である。この魔術はよくホラー映画にある「鏡の中にいないはずの人物の影が見える」という恐怖を演出する事ができる。

 具体的にはまず自分の顔が全て映る程度に大きな鏡を用意し、その鏡を見つめながら対象の姿を思い浮かべ短い呪文を唱える。そのまま待っていると、対象が鏡や水たまりなどの鏡面を覗いた時、その鏡面に自分の姿を浮かび上がらせる事ができる。対象はその鏡面の中にいるはずのない誰かの姿を見るわけであるから、かなり不気味な恐怖を味わう事になるのだが、ここで着目すべきはそこではない。実はこの魔術は呪文の使い手側も対象の姿やその周りの様子を見る事ができるのである。

 つまり、タールクン・アテプの鏡の魔術を蓮を対象にして使えば、蓮が例えどこにいたとしても、蓮が鏡面を覗き込んだ時、私は蓮の姿と蓮の周囲の光景を見る事ができる。それは十分に蓮の居場所を特定する手がかりになるだろう。

 

 しかし私は「タールクン・アテプの鏡」を習得していない。中の人のリアルクトゥルフ神話知識でこの魔術の存在と概要は知っているが、肝心の呪文が分からない……が、呪文が書かれている魔道書の所在ならば知っている。

 私の外の人、つまり八坂一太郎の父である八坂幸太郎は、自宅が「炎の精」という神話生物に襲撃された時、万が一に備えて秘密の地下室に所持していた三冊の魔道書と一枚の詩篇を投げ込んでいる。その魔道書の一冊「高等魔術の教理と祭儀」に「タールクン・アテプの鏡」が載っている。八坂幸太郎は仲間の探索者と共に炎の精を迎え撃ち、破れ去り、息子を残して焼け死んだ(表向きは古いガスストーブの故障が原因であると処理された)のだが、今も秘密の地下室には魔道書が眠っているはずだ。八坂幸太郎のプレイヤーも私だったため、地下室の入口も開け方も構造もよく知っている。八坂幸太郎が死んだ次のシナリオから使い始めたキャラクターが八坂一太郎なのである。

 まさかあの時の咄嗟の判断が巡り巡ってこんな所で役に立とうとは……

 

 いや、思考が逸れた。改めてまとめよう。

 

 目標は蓮を奪還する事。

 そのためには蓮の行方を知る必要がある。

 しかし行方を知る手がかりが何もない。

 手がかりを見つける必要がある。

 そのために必要なのは「タールクン・アテプの鏡」の魔術。

 「タールクン・アテプの鏡」の魔術は「高等魔術の教理と祭儀」に記載されている。

 「高等魔術の教理と祭儀」は焼け落ちた旧八坂家の秘密の地下室にある。

 従ってまずは旧八坂家に行かなければならない。

 

 何度か手順を頭の中で復唱したが、矛盾はないしこれが考えられる限り蓮を取り戻す最短経路だ。

 よし。

 

 私は一人頷き、惜しみなくPOWを消費し旧八坂家へ直通の「門」を創造し、夜刀浦市から消えた。今は一分一秒が惜しい。POW1で時間を短縮できるならば安いものだ。

 待っていろ、蓮。必ず見つけ出して助けてやる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 焼け落ちた旧八坂家は静岡県の閑静な住宅地にある。瓦礫こそ撤去されたが、未だに地面や両隣の民家のブロック塀には焦げ跡が残ったままになっていた。火災からもう三十年以上経つが草一本生えておらず、今の季節が夏であるという事を差し引いても不自然な暑さを感じる。住宅地にぽっかりと空いた不気味な空白だ。私の外の人はあの火災の真実を知らないまま大人になり、一度もここに戻ってきていない。こうして改めて見てみると酷いものだ。火事の爪痕が不自然なほどまざまざと残りすぎている。話に聞くだけで戻る気もなくなるというものだ。

 まあ危うく炎の神格クトゥグァが降臨しかけたのだからそういう事もあるだろう。あのシナリオで八坂幸太郎は死にはしたが神格の降臨は瀬戸際で阻止した。彼はよくやった。いや我ながら上手くやったというべきか。懐かしい。

 

 感傷もほどほどにして家の間取りを思い起こし、地下室の入口があった場所の地面を掘る。道具は使わず素手での掘削だが私には象並の怪力がある。焦げて固まった地面を豆腐のようにあっと今に1m掘り下げ、鋼鉄の扉を掘り当てた。この扉は一種の「門」になっていて、キーワードが無ければ開かないようになっている。そのキーワードは八坂幸太郎しか知らないのだが、私は八坂一太郎であり八坂幸太郎でもある。秘密のパスワードは障害に成りえない。ほんのり熱を帯びた周りの土と魔術的に断絶されている事を示すようにひんやり冷たい鋼鉄の扉に手を当て、唱えた。

 

「ハワード・フィリップス・ラヴクラフト」

 

 色々な意味でこの世界の住人が知るよしもないキーワードを感知し、扉が開いた。簡単なものだ。

 しかし長居はしたくない。先ほどから変な汗と奇妙な動悸、漠然とした不安感が止まらなかった。それは悍ましい神格の気配によるものか、それとも「八坂一太郎」が幼い日に負ったトラウマによるものなのか。どちらにせよ地下室探検と洒落込む気にはとてもなれない。

 私は「透視」で暗視を得て暗い地下室の底に転がった三冊の魔道書と一枚の詩篇を確認し、触肢を伸ばしさっさと回収。扉を閉じて土を埋め戻し、急いでその場を離れた。

 

 首尾よく手に入れた魔道書の内一冊「高等魔術の教理と祭儀」パラパラと捲り「タールクン・アテプの鏡」の記述を確認する。記憶通りそこには魔術儀式の方法と呪文が持って回った謎めいた文言で記されている。完璧だ。

 ……完璧なのだが、気分は最悪だった。だからここには来たくなかったのだ。

 

 私は頭を振って気持ちを切り替える。忘れよう。今は蓮の事が先決だ。

 「タールクン・アテプの鏡」の呪文は短く、複雑な手順も道具も必要としない。ニ、三時間もあれば容易に習得できるだろう。が、流石に真夜中とはいえ住宅地のど真ん中につっ立って怪しげな儀式の習得に励むわけにもいかない。私は再びPOWを消費し、安全な我が根城、八坂邸への「門」を開いた。POWの大盤振る舞いだ。

 

 八坂邸に帰還した私は早速書斎の椅子に座り、魔道書を読み込み魔術を覚えた。数々の魔術に慣れ親しんだ私にとっては今更魔術の一つや二つどうという事はない。特にそれが単純なものなら尚更だ。

 まだ夜も開けない内に、私は風呂場の鏡を使いタールクン・アテプの鏡を使用した。

 

 鏡にはしばらくの間何も映らなかったが、やがてぼんやりとした影が現れ、一人の女性の像を結んだ。蓮だ!

 

 鏡の向こうで蓮が驚いたようにこちらを見ている。私は安心し、そして安心させるために微笑んだ。見たところ蓮は目も口も鼻もちゃんとついていて、化物に変身していなければ、大きな怪我も負っていないようだ。ただ、なぜか服装が随分と……古めかしいものに変わっている。

 蓮が泣きそうな顔でこちらを見て盛んに何か言っているが、残念ながらあちら側の言葉はこちら側には伝わらない。こちら側から短い単語程度なら伝える事ができるのだが。

 更に数秒見ていると、蓮の背後の景色が見えてきた。無数に蠢く小さな影……尻尾……ふさふさした毛……ああ、これは猫だ。猫がたくさんいる。古い石畳の道を何匹もの猫が悠々と闊歩し、時代錯誤な古いファッションの人々が猫に丁寧に道を譲っている。鏡越しの視界が揺れ、蓮に向けて伸ばされた前脚が見える。どうやら猫の瞳を介して魔術が発動したようだ。

 

 それだけでもう場所が分かった。

 なるほど。ドリームランドのウルタールか。猫がたくさんいて、古めかしい服装の人々がいるとなればそこしかない。また面倒なところに置き去りにされたらしい。いや神格に誘拐されたとしては穏当な方か。

 

「すぐ助けに行く」

 

 私が一言告げると、鏡に映った像は薄れて消えていった。最後に見た蓮はほっとしたように頷いていた。

 私は風呂場から出て顔を叩き、気合を入れ直した。

 さて。蓮の居場所は分かった。どうやらここからまた一苦労必要なようだ。

 

 ドリームランドとはその名の通り夢の世界である。紛れもない異世界であり、覚醒の世界(現実世界)とは色々とルールが違う。

 まず一つ目、時間の流れが違う。ドリームランドの二ヶ月は現実世界の八時間だ。つまり現実世界で八時間経つ間に、ドリームランドでは二ヶ月経過する事になる。一種の精神と時の部屋のようなものだ。大雑把に計算すると救助が一時間遅れれば蓮は一週間待たされる事になる。急がなければいけない。

 早くドリームランドへ行く必要があるが、問題がある。

 ドリームランドのルール二つ目、入場制限だ。

 

 ドリームランドへ行くための方法は幾つかあり、また制限もある。

 最もポピュラーなのは「眠って行く」事だ。特別な才能がある人間は眠る事で自然と精神をドリームランドに送る事ができる。そして起きると現実に戻ってくるのだ。ドリームランドへ行くのは精神のみで、肉体は精神がドリームランドへ言っている間も現実世界に残る。ドリームランドで死んでも現実の肉体は死なず、SAN値を少し削り酷い寝汗をかいて飛び起きる程度で済む。一番自然でリスクが少なく無理のない方法なのだが、私にはその才能がない。この方法は使えない。

 他にも幾つかドリームランドへ行く方法はあるのだが、私ですら所在が全く分からない貴重過ぎるアーティファクトが必要であったり、危険過ぎるアーティファクトが必要であったり、現実的ではないものばかりだ。

 ドリームランドへ行くための数ある方法の中で唯一現実的であるといえるのは食屍鬼の穴を利用する方法だろう。

 

 食屍鬼はドリームランドと現実の世界両方に存在する特殊な神話生物である。彼らは両方の世界の世界中に存在し、古い墓、忘れられた陵墓、古代の地下墓地などに巣穴を掘り、毎晩ドリームランドと現実世界を行き来する。巣穴が二つの世界を繋ぐ門の役目を果たしているのだ。その巣穴を通れば誰でも徒歩で物理的にドリームランドへ行く事ができる。ただしこの方法の場合、精神だけでなく肉体ごとドリームランドへいくため、当然ながら現実世界に肉体は残されず、ドリームランドで死ねばそこで終わりだ。「眠っていく」方法と比べてリスキーなのは否めない。が、それしか方法が無いのならば是非もない。

 不幸中の幸い、食屍鬼には友好的な知り合いがいる。事情を話し、頼み込めば巣穴を通してくれるだろう。道中で巣穴にたむろする食屍鬼に襲われる危険が無い分リスクは幾らか軽減される。

 

 いつかの食屍鬼の頭目キミタケに話をつけ。

 食屍鬼の巣穴を通り。

 ドリームランドでウルタールへ行き。

 蓮を見つけ。

 連れ帰る。

 

 ようやく終着点が見えた。ようやくといっても一晩経っていないが。

 八坂邸から食屍鬼がたむろする青山霊園は車を飛ばしてすぐだ。流石にこの距離を「門」を使っていては身が持たない。この数時間で二回も「門」を使い、既にPOW(魔術的基礎能力)は22から20に低下。魔術的に大きく弱体化してしまっている。ドリームランドではPOWが役立つため、これ以上消耗するわけにもいかない。

 一分一秒が惜しいがほんの数分を惜しんだせいで弱体化し、その弱体化のせいでドリームランドに入ってから怪物に襲われ敗北して蓮を取り戻せなかったら……

 迷い所ではあるが、やはり時間の流れの違いが痛い。5分遅れれば14時間も蓮を待たせる事になる。蓮が攫われたのは私の手落ちだ。私の責任、養父の責任である。私のPOWより蓮を少しでも早く安心させてやりたい。

 

 私は三たび「門」を開き、名状しがたい空間の歪みをくぐり抜け、青山霊園へ移動した。

 

 久方ぶりの青山霊園は記憶と少しも変わらなかった。

 苔が張り付いた墓石。萎れた献花。線香の残り香に、墓石の間を縫うようにのびる歩道、それを囲む樹木たち……そして茂みと木の陰からこちらの様子を伺う爛々とした赤い目が何対か。

 食屍鬼語は基本的な単語が辛うじて分かる程度にしか習得していない。日本語の方がまだ通じるだろう。私は日本語で話しかけた。

 

「私は二十年前、蛇人間に関する事件で諸君と協力した八坂一太郎という! 今日は蓮の安否に関わる件で来た! 私か蓮、どちらかに覚えがある者がいれば出てきて欲しい!」

 

 私の言葉に食屍鬼達がざわつくのが分かった。二十年といえば人間にとっては短くないが、長いとも言えない。人間より遥かに寿命の長い食屍鬼に尚更短く感じるだろう。仮に誰も私と蓮の事を覚えておらず襲われても、二十年前と違い今は食屍鬼程度群れを相手にしても蹴散らせる。それは最悪のパターンだが。

 穏便に行ってくれよ、と念じていると、一体の食屍鬼が月明かりの下よろめくような独特の歩き方で俺の前に出てきた。犬面の歪んだ顔の食屍鬼だ。食屍鬼は全員そんな顔をしているので誰なのかは分からない。食屍鬼は吠えるような耳障りなかすれ声で名乗った。

 

「久しイな、八坂。見覚エがあるカ? 私はトミタケだ。何用ダ」

「ん? トミタケ? キミタケではなく?」

「忘れタのか。生前はフリーのカメラマンをやっテイた」

 

 ……ああ! いたなそんなキミタケ氏のパチモンのような食屍鬼。「奇妙な共闘」のシナリオ進行を務めたゲーム進行役(KP)が悪ふざけで出したキャラクターだったと記憶しているが、本当にそんな名前なのか。「八坂一太郎」はそんな名前の食屍鬼と短時間ではあるが行動を共にした記憶があるし、当然と言えば当然なのだが。

 

「申し訳ない、食屍鬼の顔を見分けるのは難しいもので。キミタケさんは?」

「彼ハあの事件以降隠遁してイル。行方は我らモ知らぬ。しかシ蓮の事ならば私モ知っテいる。彼女に何かあッたのカ?」

 

 聞き取り辛い人外鈍りの発音ではあったが、トミタケの口調にははっきりと心配が滲み出ていた。

 蓮は私が養子に取るまで孤児として食屍鬼に育てられていた。その頃の事情については良く知らないが、食屍鬼と奇妙な絆を築いていたらしいという事は知っている。蓮の危機とあれば助けが期待できると踏んだのは間違いではなかったようだ。

 

 事情を説明すると、トミタケは二つ返事でドリームランドへの案内を了承してくれた。

 

 トミタケは死臭漂う暗く湿った陰鬱な地下へ続く巣穴のうねる道の中を私を案内する道中、ドリームランドにおける巣穴の出口に住む怪物、毛むくじゃらの巨大なる怪物ガグや卑しい長き後脚の禍々しきガーストについておどろおどろしく警告し、ガーストを避けるため足音を殺し慎重に移動するよう、またガグは計り知れぬ理由をもって食屍鬼を恐れる故に食屍鬼に変装し食屍鬼の如く振る舞い欺くが良かろう、と言った。私は既にそう言われた時には足音を殺し食屍鬼のように背骨を猫背に曲げ跳ねるような独特な歩行に切り替え、服を脱いで丸め死体を運ぶかのように担いでいた。

 言われるまでもない事である。人間を超越した私の肉体も、同じく人外の域にあるガグとガーストの群れ(奴らは厄介な事に群れるのだ)を相手にするには些か以上に分が悪い。食屍鬼は人間に毛が生えた程度であるからまだなんとかなるのだが。こうした厄介な神話生物共を切り抜けるのも食屍鬼の案内を必要とした理由だ。

 トミタケの慣れた案内により居眠りするガグの歩哨の横を忍び足で通り過ぎ、ガーストの群れを避けるルートを通り、私はいつの間にか食屍鬼の巣穴を抜けドリームランドに入っている事に気付いた。土くれのほら穴めいた道はごつごつした石の通路に変わり、腐臭の代わりに血肉と獣臭に変わっていた。食屍鬼の巣穴からガグの石の要塞に入ったのである。現実の食屍鬼の巣穴がしばしばドリームランドの危険地帯に接続している事は知っていたが、こればかりは知っているからと言ってどうにかなるものではない。私は大人しくトミタケの指示に従い、息を潜めて先を進んだ。

 

 トミタケは食屍鬼ゆえに疲れ知らずであり、私もまた疲労とは無縁で「透視」を使えば明かりのないガグの石に囲まれた広大な住処の中でも視界が通ったため、旅は順調に進んだ。何度かすわ戦闘か、という事もあったが、辛うじてやり過ごす事ができたのは幸運という他ない。戦闘になったら死ぬという訳でもないが勝てもしない。面倒な逃避行や負傷とその回復は大幅な時間のロスに繋がっただろう。

 やがて石の扉を力任せに押し開けると、化け物じみた木々が立ち並ぶ森に出た。夜空が見え、長い巣穴とガグの石の要塞を抜けドリームランドの外に来たのだと知る。星々の並びとその瞬きは現実のものとは異なるどこか幻想的なもので、明確にここが異世界なのだという事を示していた。

 私はリアルクトゥルフ神話知識ゆえにドリームランドの地理にも詳しい。森に漂う不可思議な燐光からここが「あやかし森」である事はすぐに分かったし、あやかし森を抜け橋を渡ればすぐに猫の街ウルタールに着く事も分かった。危険地帯を通る事になったが結果的に最もウルタールに近い場所に出る事ができたのだ。

 何かの加護でも働いているのではないかというぐらい上手くいっている。よもやノーデンスの加護だろうか。まさかニャルラトホテプの加護ではないだろう。

 

 私は案内はここまでで結構だと謝辞を言うと、トミタケはどの道案内できるのはここまでだと言い、更に私の目をじっと見て言った。

 

「君ハ我らに近シい存在にナッたよウだな。深淵に近づキすぎタか」

「…………」

「イヤ、文句がある訳ではナイ。蓮を心配スル心は残ってイるのダろう。アの子をよろシく頼む。君ニ託シタ事を後悔さセないでクレ」

 

 トミタケは私の返事を待たず、暗がりへ消えて行った。

 言われるまでもない事だ。私は蓮の幸せを願っている。

 ただ昔のような純粋な気持ちで願えなくなっているのだが……SAN値が残っている八坂一太郎が蓮のためにここまでできたのかと考えると少々疑わしい。SAN0になって良かったと思っておこう。

 

 さて、ドリームランドの制約の一つに近代的な物を持てない作れない持ち込めない、というものがある。スマートフォンを持ち込めばインク壺と万年筆、白紙の手紙にいつの間にか変化しているし、今回私が持ち込んだ背広は上等なキルトの服と丈夫な旅人の革のマントに変わっていた。食屍鬼のフリをやめそれらの服を身に付け、私は触肢を空へ向けて伸ばし先端に眼を生成。橋とその先にあるウルタールの場所を確認し、一気に森を駆け抜けた。道中で何匹か鼠のようなものを撥ね飛ばした気がするが、どうせズーグ族だろう。一応神話生物ではあるが、ドブネズミの鼻先に触手を生やしただけの弱弱しい奴だ。全く持ってどうでもよろしい。

 森を飛び出し平原に出て、橋をひとっとびに飛び越えるとウルタールが見えた。

 

 ウルタールはちょうど夜明けを迎え、平原の向こうから顔を出す太陽に照らされ始めるところだった。屋根の上や荷車に詰まれた藁の上でまどろんでいた無数の猫たちが何事かという目で駆けこんできた私を見る。そのうち半分ほどの勘の鋭い猫は私の正体を漠然と感じたらしく、毛を逆立て尻尾をピンと立て威嚇してきた。

 

「蓮! 迎えに来たぞ!」

 

 街全体に伝われとばかりに大声で叫ぶと、少し離れた民家から物音がして、数秒して戸口から蓮が飛び出してきた。

 

「お父さん!」

 

 駆け寄ってきた蓮をきつく抱きしめる。蓮も抱きしめ返してきた。確かなぬくもりと共に千の言葉よりも雄弁な感謝が伝わってくる。

 その顔は泣いているものと思ったが、嬉しそうに笑っていた。不思議に思い聞いてみる。

 

「蓮、一人で怖くなかったのか?」

 

 そう尋ねると、蓮は全幅の信頼を乗せた声で答えてくれた。

 

「ううん、お父さんが絶対迎えに来てくれるって信じてたから。助けに来てくれるって言ったでしょ?」

 

 この子達もいたしね、と蓮は足元に纏わりついて猫を撫でた。聞けばウルタールの猫達から猫語を習いながらのんびり待っていたらしい。私の感覚では一晩の救出劇だったが、蓮の感覚では六週間ほど待ったようだ。確かに助けに行くとはいったがなかなか図太い神経をしている。探索者向きだ。

 私は警戒する猫達に蓮を預かっていてくれた礼を言い、それを蓮が猫語に通訳した。猫達の警戒は解けなかったが、納得はしてくれたようだ。

 

 蓮を見つけて心底安心した。肌に傷一つでもついていたらノーデンスの肌を抉り取っていたところだ。また会った時に文句を言うぐらいで許してやろう。

 後は蓮を現実世界に送り返すだけだが、もう道は覚えたし、ガグやガーストの避け方も覚えた。支障ない。

 

 私は幼い頃よくそうしたように蓮の手を取り、鮮やかな朝焼けの中、現実への帰途へついた。

 



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2-5 カニバル・ファイト

 

 蓮を現実に送り届けた後、私は一度ドリームランドに戻り予てから考えていた企みの幾つかを実行し、再び現実に戻った。蓮は六日ほど療養した後、客観的には一週間ぶり、主観的には六週間ぶりの大学生活に戻っていた。ウルタールの猫達が意図してかは分からないがアニマルセラピーのような効果を発揮していたらしく、少なくとも私の付け焼刃のそれとない精神鑑定では蓮にSAN値的意味での異常は見られなかった。蓮の友人である早瀬小雪にも大学での様子について探りを入れてみたが、少し物憂げにしている事が多い程度で奇行は見られないという。突然途方もなく強大な存在に異世界に誘拐されたのだから相応の動揺はあったようだが、精神障害を抱えるほどではないらしい。安心した。

 

 一方私はというと東京周辺に潜む神話的存在の駆除に躍起になっていた。

 神話的存在に遭遇するのは探索者の宿命である。行く先々で神話生物がコンニチワするし、自分から飛び込んでいく事もままある。

 しかしそれに蓮を巻き込むわけにはいかない。蓮に近づく冒涜的穢れは徹底的に排除する。ドリームランド事件は相手がノーデンスだったからまだ良かったが、召喚されたのがニャルラトホテプだったら今頃蓮は死よりも悍ましい状態になっていただろう。

 故にせめて蓮が暮らすこの東京からだけでも神話存在を排除し、危険を減らさなければならない。今までは「蓮の安全を確保しておく」という発想が足りなかったのだ。反省した私は強いぜ。

 

 クトゥルフ神話技能99%は伊達ではない。神話的視点から本気になって情報を漁れば出るわ出るわ、東京は神話存在の巣窟だった。これには理由がある。

 一つ。東京は人口が多い。一千万もの人間が犇めいていれば狂信者や発狂者も相応の人数紛れ込む。人間のフリをした神話生物が素知らぬ顔をして人ごみに紛れ生活している事すらある。とんでもない奴だ。

 二つ。東京は物流の中心である。冒涜的な魔道書や悍ましいアーティファクトの数々は意図してかせざるかはとにかく、東京に流れ着く事が珍しくない。そういった神話的物品は人の狂気を削り邪悪な魔術師に貶め、また邪悪な魔術師はそういった物品を希求する。

 三つ。メタ的な話になるが東京はシナリオの舞台になりやすい。そしてシナリオの数だけ神話存在がいる。クトゥルフ神話TRPGの舞台には色々あるが「都心に潜む怪異」という題材のシナリオで東京はうってつけである。既存の東京が滅びたり襲撃されたりする映画やゲームを列挙していけば納得できるだろう。

 

 以上のような理由から呆れかえるほどの神話存在が東京には潜んでいる。神話生物殺すべし。見敵必殺、私は邪悪な神話に纏わる者共を片っ端から駆除していった(青山霊園のグール達には恩があるので彼らだけは除外)。

 時には真正面から叩き潰し、時には最小限の労力で弱点を突き刺し。回収したアーティファクトや魔道書は数知れず。あまりにも多いので八坂屋敷に保管用の地下室を増設したほどだ。保管室は核シェルターを中核に複数の機械的&魔術的防護を張り巡らせてあり、突破は神格でもない限りほぼ不可能だろう。

 

 ……ところで。

 探索者には隠し事が多い。神話生物と戦い、世界を救う事すらあるにも関わらず、それを他言できない。そもそも神話生物の存在は秘されており、誰も信じていないし、信じてもらえない。しかも信じられたら信じられたで問題だ。興味本位に首を突っ込めば死が見える世界であるし、うっかり発狂してダークサイドに墜ちたら目も当てられない。

 そして探索者には探索者の生活がある。神話生物は倒しても金やアイテムをドロップしない。普通に働いて、稼いで、食っていかなければならないのだ。

 神話生物を相手取るには通常何日も何週間もかかり、怪我や精神的障害を負う事も多々ある。そうなれば仕事を休まなければならないのに、その理由を正直に説明できない。探索者の辛さである。警視庁特命係のような対神話存在活動で給料が出る仕事は珍しい。

 

 その点、私は比較的楽だ。貯金がたっぷりあり、大財閥にコネがあり、理解者がいて、定職についていないため自由が利く。探索者的にはほとんど最高の環境だろう。

 ただ、まだ私は四十代で、隠居生活には早い。仕事を辞めて(表向き)ブラブラし始めて約一年、そろそろ蓮の目が辛くなってきた。いや別に「働かずに食べるご飯は美味いしい?」なんてセリフを言われたわけではないし、私が就活と称した外出や、名目上老朽化に伴う工事ついでの地下室増設の裏で何をしているのか薄々勘付いているような節もあるが。むしろ夜遅くに帰宅するとリビングに二人分の料理にラップをかけて用意し、待っている内に寝てしまったのかテーブルに突っ伏して寝息を立てている事もあるほどだ。気遣いがあったけぇ、あったけぇ。ホンマエエ子や。

 そしてそんな蓮の平穏な生活を護るために、私は今日も神話スレイヤーと化すのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実際、収入が無いのは問題だった。一億円の貯蓄も屋敷の改築や日々の生活費、蓮の学費などでガリガリ減っている。

 そこで最近は少しでも支出を減らすべく大食いチャレンジで食費を浮かせている。東京の裏通りに店を構える中華料理屋のカウンター席に座り、大皿に山盛りのギガチャーハンを食べながら私は考え込む。何か仕事を始めるべきだろうか。神話生物狩りには時間も金もかかる。早瀬財閥に融資してもらうのも一つの手かも知れないが、御令嬢たる早瀬小雪のためならいざ知らず、蓮の身の回りの安全のために金を出してくれ、と頼み込むのはいくら貸しがあるとはいっても図々し過ぎるだろう。早瀬財閥への貸しはこういう単純な金銭ではなくもっと有効に使いたい。

 

 理想は私が自由に活動する時間を確保でき、勝手に金が転がり込み、プラスアルファで何か利益がある稼ぎ方だ。

 そうなるとやはり投資だろうか。株を確保しておけば勝手に金が入るし、株主優待というプラスアルファもある。理想的な稼ぎ方に思える。

 自画自賛ながら私は頭が良い。INT18は伊達ではない。しかし頭が良いからといって投資が上手いとは限らないし、ウォール街の天才投資家達でさえ時に大損で破滅する。金融という名の魔物はあまり相手にしたくない。確実に儲かる安全な投資を見極めればまあ儲けは少額ながらそこそこ安定して出るだろうが……ふむ。

 

 しかし何かこう、漠然とだが、もっとよい方法があるように思えてならない。一石二鳥にも三鳥にもなる、そんな方法が。

 休みなく蓮華でチャーハンを機械的に口に運びながらぼんやりしたイメージを掴もうと悩んでいると、横から声をかけられた。

 

「やあ、良い喰いっぷりだ。相席良いかな」

「どうぞ」

 

 頷くと、向かいの席に大柄な男が座った。髭ダルマで赤ら顔。上等な黒のスーツを着ているが、ネクタイはよれよれで、裾から出ている手足は肉がでっぷりついてはちきれんばかり。食道楽にのめり込んだ小金持ちのおっさん、といった風だ。私も人の事は言えないのだが。体型以外は似たようなものである。

 彼は私と同じギガチャーハンを注文すると、驚くべき事に私に勝るとも劣らない勢いで食べ始めた。フードファイターだろうか、体型に見合った胃の大きさをしていそうだ。

 一つ私と違うのは実に旨そうに食べる事だった。食費を浮かせるために食べている私と違い、彼はガツガツと貪りながらもニコニコと温和な笑みを浮かべていて、その喰いっぷりは気持ちよさや親近感すら感じさせる。

 

 私達が食べ終わったのは同時だった。大男は出っ張った腹を満足そうにポンと叩き、水を飲みながら親しげに声をかけてきた。

 

「この店は実に良い。大食いチャレンジとなると旨さを犠牲にし少しでも早くチャレンジャーを満腹にさせるよう味付けを変える事もあるが、ギガチャーハンは味に妥協していない。普通盛りと変わらん味、正に大食いチャレンジだ。そう思わんかね?」

「はあ……まあ、確かに水っぽかったり食べていて飽きたりはしないですね」

「そう、そこだ。分かっているじゃないか。人間が創り出す複雑な味の深み。ギガチャーハンにはそれがある。何層にも重なったダシの調和、ほどよい大きさに切られた具材によく染み込んでいる。いや、すばらしい。これだけのものをこれだけ食べて無料とは良い時代になったものだ」

「全くです」

 

 熱く語る大男に全面的に同意する。大食いチャレンジ無料などというメニューは飽食の時代でなければあり得ない事だ。しかも旨い。

 大男は周辺で大食いメニューを出している店の情報を惜しげも無く提供してくれた。私も行った事のある店の情報を提供する。有意義な情報交換だった。

 一通り話し終えた後、まだ名前を聞いていなかった事を思い出し尋ねると、彼はこいつはうっかりだ、といった風に愛嬌のある仕草で頭をぺしんと叩いた。

 

 うむ、仲良くなれそうだ。

 

「水戸公彦だ。よろしく」

 

 うむ、殺すか。

 

 私はその名前を聞くと同時に笑顔で握手しながら抹消計画を練り始めた。

 水戸公彦。ショゴス・ロードが人間に擬態した神話生物である。通りで親近感があった訳だ。彼は私(原ショゴス)の親戚のような種族だ。

 リアルクトゥルフ神話知識によれば、水戸公彦の起源は遥か古代まで遡る。

 太古の昔。「古のもの」という神話生物に創造された不定形の軟泥ショゴスは、初めは知性を持たない奉仕生物だったが、やがて知性を持つ個体が現れ、創造主たる古のものに反乱を起こす。この反乱で負傷し、命からがら逃亡し、冬眠を繰り返しながら生き延びたのが奴である。

 反乱の時代を生き延び、現代まで生き残り長い年月を経て知性を人間並にまで発達させた幾ばくかのショゴスはショゴス・ロードと呼ばれ、人間社会に溶け込んで暮らしている者も少なくない。

 

 水戸公彦と名乗るこのショゴス・ロードは人間が創り出す複雑な味に魅せられ、R&P(ライス・アンド・パンター)という美食同好会を組織し、日々大食いチャレンジやゲテ物喰い、珍味試食など様々なイベントを開催している。それだけならば無害な神話生物なのだが、案の定裏がある。水戸公彦は何も知らないただの美食家のR&Pメンバーに究極の珍味と称してショゴス細胞を食わせ、侵蝕・ショゴス化させ、支配下に置いて勢力を拡大しているのである。最終目標は増やした仲間と協力して「神を喰う」事らしいが、そんな事はどうでもよろしい。

 この東京に神話生物を増やす。そんな冒涜的蛮行を見逃す訳にはいかない。

 

「君の噂は聞いている。実際会ってみて確信したよ。君は我が組織に入るに相応しい」

「我が組織?」

「R&Pだ。私は美食同好会を組織していてね。こうして食の楽しみを分かち合える同好の士を探しているという訳だ。君には是非もっと食の楽しみを知って欲しい。R&Pでは世界三大珍味を超える究極の食材を食べられるぞ」

「ほう、興味がありますね」

 

 すっとぼけて水戸の勧誘に耳を傾けつつ、情報を探る。

 水戸はどうやら既に何度か「究極の食材=ショゴス細胞」をR&Pメンバーに食わせる美食会を開催しているようだ。という事は、既にショゴスは増え始めている。ここで水戸をぶち殺しても増殖したショゴスが残ってしまう。ショゴス化したR&Pメンバーも特定し、片付けなけらばならない。そのためにはまず内側に入り込む事だ。

 

「では次の美食会は三日後という事ですか」

「ああ、食材の鮮度の都合上でね。出られるかね?」

「是非。他のメンバーの参加予定は?」

「古参連中はほとんど参加する予定だ……メンバーに何か用でもあるのかね?」

「水戸さんとの情報交換が有意義だったので。他の方も素晴らしい食の情報を知っているのだろうな、と」

「ああなるほど、もちろんだ。彼らは素晴らしい『仲間』だよ」

 

 私は意味深な笑みを浮かべる水戸のむっちりした手を取り固く握手を交わし、用事があるからと適用に言って店を辞した。水戸は二皿目のギガチャーハンを注文し、店員の顔を引き攣らせていた。まだ喰うのか。

 裏通りの狭いアスファルトの道を歩きながらため息を吐く。本当に、東京には神話生物が多すぎる。駆除しても駆除しても湧いて出る。猫の手でも触手でもいいから借りたいぐらいだ。警視庁特命係も頑張っているようだが、この世には神話生物が多すぎる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三日後、私はアウトドアスタイルの軽装にカバンを背負い、奥多摩のキャンプ場にやってきていた。参加者は各自食材を持ち寄る事、と指示されていたので、無難にコウモリを捕まえてタッパーに入れてきている。A5松坂牛と迷ったが、ゲテ物喰いの集まりという話だし、コウモリあたりが穏当なところだろう。パラオなどではコウモリを丸ごとスープにぶちこむコウモリスープが食べられているぐらいだ。全然大したものではない。ショゴス肉と比べれば。

 

 指定されたキャンプ地は車で入れない細い山道を上がったところにある静かな一画だった。一応切り拓かれて砂利が敷かれ小さなロッジが建っているが、周囲を木々に囲まれ、人の世から隔絶されたような薄暗い雰囲気がある。

 とは言ってもまだ日は高く、先に到着していたR&Pメンバーはお天道様の下で和気藹々とバーベキューの準備をしていた。私に気付いたメンバーは親しげに声をかけてきたが、誰も彼もが多かれ少なかれ肥えている。

 

「やあ、今日はよろしく。共に食の極みを楽しもうじゃないか」

「よろしく。究極の食材、楽しみですね」

 

 朗らかに握手を求めてきた小柄小太りの男に応じながら「透視」すると、骨格も内臓も無茶苦茶な構造に変異していた。駄目だコイツ、もうショゴスになっている。

 

「あのギガチャーハンを食べきったんですってね! 水戸さんが推薦する訳だわ!」

「ありがとうございます」

 

 奇妙にねじれた魚介類と思しき物を網に乗せて焼いている小太りおばさんも胃が胴体の九割を占める奇怪な身体をしている。この人も駄目だ。

 

「すごーい! 君は大食いが得意なフレンズなんだね! どうすればそんなに食べれるの?」

「食欲ぅ……ですかねぇ……」

 

 こいつも駄目だ。フレンズ化している。

 

「アンタはどんな食材を持ってきたんだい?」

「コウモリにしてみたんですが。どうでしょうか」

「コウモリか。まあ究極の食材の前菜としては悪くないね。アレは食べると人生変わるよ」

 

 目の奥に狂気をちらつかせながら言った縦と横が同じ長さの体型の青年も勿論駄目だ。

 

 結局、その場に居たR&Pのメンバー六人全員がショゴス化していた。どうやら私にショゴス細胞を喰わせて支配下に置くための集まりのようだ。暴れたら全員で抑え込む腹積もりか。まあ私はショゴス細胞を喰わされるまでもなくショゴスになっている訳だが。

 しかし遅れてくるらしい水戸を含め七体のショゴスを相手取るとなると少し面倒な事になりそうだ。私はショゴスの肉体というアドバンテージを持っているが、それは相手も同じ事。しかも人数比七倍である。

 

「野菜が足りませんね。山菜を取ってきましょう。手伝ってくれませんか」

「いいよー!」

 

 IQが低そうなクトゥルフレンズを言いくるめて森の奥に誘い出し、背後から奇襲をかけて始末する。流石に食べると腹を壊しそうなので全力で叩き潰して大ダメージを与えてから魔術で一気に焼き払った。まずは一匹。

 死骸はグズグズになり虚空に蒸発して消えていったので、証拠隠滅に困る事もなく何食わぬ顔でキャンプ場に戻る。森の中から一人で出てきた私に五人が一斉に顔を向ける。全員朗らかに楽しんだ表情だったが、気のせいか一瞬ドス黒い濁った目をしていたような。

 

「アンタだけか? 佐張ちゃんはどうした?」

「奥まで山菜を取りに行くそうです。近場に無かったので」

 

 私は手ぶらの両手を広げて肩をすくめてみせる。尋ねてきたデブ青年は肉に埋もれた細目を更に細めて俺をじっと見てきたが、何も言わずにねばねばした紫色の肉のようなものを切り分ける作業に戻った。

 これは怪しまれていると見た方が良さそうだ。もう水戸が来る前に殺ってしまうのは早計だろうか。一匹ずつ誘い出して始末して半分ぐらいまで減らせれば……と思っていたが、連中、予想以上に勘が良い。一匹始末した事は連中の中でまだ疑いの段階で、確信ではないだろう。しかしこれ以上各個撃破をしようとすれば確信されそうだ。

 

 慎重を期して時間を探索と下準備に充てる事にする。何気なく各人の調理場を回り、愛想を振りまきながら調理や火おこしを手伝うフリをして、象もコロリと死ぬ劇毒を食材に仕込んで回る。神話生物は殺せないだろうが、私が数十秒嘔吐するレベルの効果はある。連中にも多少は効くだろう。

 

 得体の知れない肉の数々と串に刺したコウモリに火が通り場も温まった頃、重役出勤でえっちらおっちら水戸がやってきた。小さなクーラーボックスを肩にかけ、一歩歩くたびに突き出した腹の肉が揺れて重そうだ。それなりの距離の山道を歩いて来たはずなのに汗一つかいていないところに地味に神話生物らしさを感じる。

 …………。

 そういえば私も汗をかかない疑惑があるな。気にした事が無かったから分からないが。まさかそれでバレた?

 

「やあ、やあ、八坂君! よくきてくれた! 今日は楽しんでいってくれたまえよ!」

「ありがとうございます」

 

 水戸は柔和な笑みを浮かべ私の背中をばしんと叩くと、いそいそとクーラーボックスを開けて厳重に梱包した食材を開封し始めた。

 中から出てきたのは人間の頭部ほどの大きさの蠢く赤黒い肉塊だった。表面を走る触肢とも血管ともつかないモノが弱弱しく脈動し、肉塊に埋もれた小さな切れ込みからか細い音が聞こえる。

 

「テケ、リ……リ……」

「どうだ、素晴らしく新鮮だろう!」

 

 港に揚がったばかりの黒マグロを誇る漁師のように、水戸は興奮した様子で言った。ドン引きである。新鮮どころかお前、思いっきり生きているじゃないか。鳴いてるぞコイツ。

 

「ええ、そうですね。これが究極の食材ですか?」

「そうとも。ミンチにして食べるのも良いが、丸ごとかぶりつくのが一番だ。メイン・ディッシュを最初に出すのは些か風情がないが、なに、君の歓迎会だ。遠慮はしなくて良い。永遠に忘れられない味になる事を保証しよう。さあ、ぐいっと」

 

 水戸はじりじりと這い滑るように逃げようとしている肉塊を太く短い手で鷲掴みにし、私の前に突き出した。肉塊は哀れっぽく潰れた悲鳴を上げた。

 横目で周囲の様子を伺うと、六匹の人間に化けたショゴス達が包囲を作っていた。

 

 彼らは笑顔だった。

 水戸も笑顔だった。

 私も笑顔だった。

 誰も彼もが本物の笑顔ではなく、笑顔を作っているだけだった。

 

 ずいぶん事を急ぐじゃないか、ショゴスよ。もっと自然に喰わせる搦め手は辞めたのか?

 私は笑顔を張りつけたまま言った。

 

「佐張さんが来てからにしましょう。美食は分かち合うものです。究極の食材を食べる貴重な機会を逃したとあっては彼女も悔しがるでしょう」

「いいや、彼女はよいのだ。この場に平然と立つその度胸。究極の食材に怯まぬその精神。君が何者か、何を企んでいるかは知らんが、素晴らしい同士になると確信している。さあ、味覚の扉を開くのだ。それとも何か、刺身にでもして食べたいのか?」

 

 交渉は不可能らしい。私は擬態を解き、体を裏返し瞬時に肉塊と化した。貴様ら全員刺身にしてやる。

 私の変身と同時に、R&Pのメンバーも全員ヒトの形を崩し冒涜的異臭を放つ不定形の軟泥と化した。威嚇か興奮か、奥多摩の奥深くに異次元の鳴き声がこだまする。

 

「テケリ・リ! テケ「ケ・リ・「テ「・リ」」テケリ・「テケリ・リ!」リ! テケリリ」「テケ」リ」リ」テケリ・リ!」

 

 何本もの野太い触手が空を裂くたび、肉がはじけ飛ぶ。はじけ飛んだ肉片は意志を持ったように短い触手を生やしカサカサと本体に這い戻るか、宙に溶けて消えて行く。

 囲んで触手で殴られる私はあっという間にボロボロに……はならない。私の肉体には傷一つついていなかった。一際巨大なショゴス、ショゴス・ロードたる水戸が強靭な触手を唸らせても、私に届くギリギリのところで見えない壁に阻まれる。はじけ飛んでいる肉は私に攻撃されたショゴス達のものだけだ。私に攻撃しようとして目測を誤り、同士討ちも起きている。

 このままじわじわ削っていってもいいが、ショゴスは再生能力を持っている。かなり高威力の攻撃が乱れ飛ぶこの状況でも時間がかかり過ぎる。途中で逃げられても面倒だ。

 私は口を作り、「クトゥルフのわしづかみ」を唱えた。鳴き喚きながら私に触手を振るっていたものどもが、突然見えない巨大な神格の触肢に巻き込まれたかのように停止する。邪悪な力に地面にねじ伏せられたショゴス達はしばらく必死に体を動かそうと痙攣していたが、徐々に動きを鈍らせ、やがて触手一本動かせなくなり動かなくなった。魔術によりSTR(筋力)を全て奪われ、意識を失ったのだ。

 

 こうなれば後は簡単である。私は肉体を変化させて作った骨の大斧を使い、確実に息の根を止めるべく身動きもできないショゴス達の解体を始めた。まったく、面倒な事をさせてくれる。

 

 六対一にも関わらず圧倒したこの一方的展開には、勿論タネがある。

 軸となるのはドリームランドで乱用してきた「内なる光の啓発」の魔術である。この珍しい貴重な魔術は、特定の手順で一ヵ月かけて厳密に連続して行われる食事、断食、瞑想、修練といった儀式を通し自らのPOWを高める事ができる。

 この「パワー」アップ魔術の欠点は三つ。一つは記された魔導書が少ない事。一つは時間がかかる事。最後はほんの少しでも手順を間違ったり中断したりすると効果が失われる事である。

 最初の欠点は私にとって問題にならない。果てしない神話生物ハンティングの成果として魔導書は山ほど持っているし、中にはこの魔術を記載したものもあった。

 二つ目の欠点はドリームランドに行く事で解決した。ドリームランドと現実では時間の流れが違う。ドリームランドで長い年月をこの魔術を使ったPOWアップに当てても、現実ではほとんど時間が経過していない。

 最後の欠点を克服したのもドリームランドだ。ドリームランドには危険が多いが、現実よりもしがらみが少ない。不意の訪問者、意図しない用事などで儀式が中段され失敗する事なく、安定してPOWを上げる事ができた。

 

 唯一の誤算は人間ベースの精神の限界なのか、POWを最大でも80までしか上げられなかった事だ。ほとんどの神話生物を圧倒できる数値だが、100超えの神格級には届かなかった。まあ、仮にPOWを1000にしたところで神格の中には射程無限&必中&即死の攻撃をしてくる奴もいる。80まで上げればそれ以上にする意味はない。もっと根源的な「格」とも言うべき要素が問題になってくるからだ。

 

 とにかくこの溢れんばかりのPOWを利用し、まず防御を固めた。「自己保護の創造」の魔術は、自分の身体の一部を入れた小袋にPOWを封入する事で、封入したPOW1につき1ポイントの万能装甲を得る事ができる。加齢を遅らせる効果もあるが神話生物と化した私にはあまり関係ない。

 私は「自己保護の創造」にPOW50を消費し、50ポイントの装甲を得た。これは迫撃砲やダイナマイトを完全無効化する強力な装甲だ。象に踏まれてもなんともない。

 「自己保護の創造」で消費したPOWは再度「内なる光の啓発」を使う事で回復してあるので、私は今50ポイントの装甲に加えPOW80を持っている。

 

 つまり常時展開されている強力な装甲でショゴスの攻撃を無効化し、莫大なPOWから生み出されるMPを湯水のように使いショゴスを鎮圧した、という訳だ。

 我ながら酷いインチキ戦法だ。クトゥルフTRPGのKPに可否を求めたら即座に却下するレベルの頭がおかしい自己強化。幸か不幸かここは現実で、ニャルはいてもKPはいない。私の「全部ルールブックに記載されてる魔術なんだし、使ってもいいよね!」と言わんばかりの行動を止める者は誰もいなかった。

 その結果が御覧の有様である。キャンプ場は何匹もの怪物が暴れ回ってできた爆心地さながらのクレーターで見るも無残な事になっている。死んだショゴスが蒸発して死体を残さない事だけが救いだろう。

 

 私は人間形態に戻り、今日この場に来ていなかったR&Pメンバーを始末すべく、山を下りる事にした。水戸の車か自宅を探ればメンバーの名簿は見つかるだろう。水戸を拷問して情報を引き出してもよかったが、ショゴスに拷問が効くかは甚だ怪しい。

 全国に居るであろうR&Pメンバーを一人一人ショゴス化チェックしていく手間を考え、私はため息を吐いた。

 

 ああ、手が足りない。触手は足りているが。

 




 八坂「狩りごっこたーのしー!」

 次話で二章は終わりです。二章が終わったら終章である三章に突入。三章に入ったらまた雰囲気が変わります。


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2-6 秘密結社HPL

 R&Pは重要なヒントをくれた。仲間を集め、団結する事だ。

 一人でできる事には限界がある。私は個人としてのスペックを上げすぎたせいで、そんな単純な事を失念してしまっていた。何人かで手分けすれば、全国に散らばるR&Pショゴス狩りに一カ月もかかる事はなかっただろう。

 

 一人で神話生物を狩るよりも頭数を揃えた方が遥かに効率がよい。そしてその面子は必ずしも冒涜的真実の全てを知らなくてもよい。「何かよく分からないが危険なモノ」に立ち向かう強い意志さえあれば十分だ。そういう人間は案外多い。探索者とか、探索者とか、探索者とか。

 

 結論から言えば、私は私財を投じて探索者支援組織「HPL」を結成した。名前の由来はもちろんクトゥルフ神話の祖ハワード・フィリップス・ラヴクラフト氏である。

 早瀬財閥やかつて勤めたマホロバ社に至るまで今まで培ったツテをフル活用。八坂屋敷を本部とし、日本全国7カ所に簡易な魔術防護を施した事務所を設置。「治癒」「癒し」を教授した口の固い者を常駐させた。

 

 R&P然り、東京の神話生物を狩り尽くすだけでは足りないのだ。奴らは全国から華の都大東京に吸い寄せられてくる。幸い日本は島国。一度全国規模で一掃してしまえば後は海外から忍び寄る怪異を監視するだけで事足りる。やるなら徹底的に、だ。あとは狩りごっこ(迫真)を続ける内に神話生物狩りが楽しくなってきてしまったというのも理由の一つである。

 

 探索者達が神話的怪異に立ち向かうにあたり大きな問題となるのは大別して二つ。発狂と死亡だ。このうち、HPLの活動により死亡のリスクを大幅に減らす事ができる。

 HPLは対神話的怪異の活動を全面支援する。

 

 負傷した探索者の治療。

 狙われた犠牲者の保護。

 金銭的支援。

 対決している神話生物の特徴が分かれば対抗策も提供・貸与できる。

 

 絶海の孤島や吹雪の雪山、山奥の洋館といったクローズドで起きる神話的怪異については援助が難しいが(街中なのに携帯の電波が通じないとか事件を解決するまで現場から出られらないというのはクトゥルフの世界ではよくある事だ)、積極的に情報収集を行い極力介入・援助できるよう体制を整えていく予定だ。

 

 組織の資金源は「治癒」で金持ちの不治の病を治療する事で確保している。これは故ネルソン氏の活動から着想を得た。治癒の際は秘密厳守を要求しHPLの名前を伏せあらゆる手を使い正体を隠している。「どんな病も治す治療魔術」の存在は戦争の引き金にすらなりかねない。対神話生物組織が人類同士の政争に巻き込まれ身動きできなくなっては笑えない。

 

 情報漏洩を防ぐため組織の全貌を知るのは私一人。HPL事務所も人の少ないシャッター街や路地裏などにひっそりとある。

 HPL設立で貯蓄は蓮の学費を残して吹き飛んだ。そろそろ蓮も就職活動が始まり、何かと物入りだ。負債は抱えたくない。上手く軌道に乗ればよいのだが。

 

 資金面の他にも蓮が東京周辺の古物商や古本屋に最近頻繁に出向いている事も心配だ。近隣のそういった店からクトゥルフ神話に関わるアーティファクトの類は全て回収したから大丈夫だと信じたいが……クトゥルフ業界で古物と古書は例外なくSAN値減少に繋がる大型地雷である。蓮は大学の専攻が古書復元だから、図書館の学芸員でも目指しているのかと思っていた。

 

 蓮が古本屋に勤めたいというなら応援したい。一方で神話的アレコレの気配が強い職業からは引き離したい。全く、悩ましい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 HPLは特命係と違い警察組織ではない。必要に応じて法も倫理も無視できるのが利点だ。反面、法と倫理に守られないのが欠点だ。うす暗い立地に事務所を構え後ろ暗い活動をしている性質上、ヤクザ系の活動をしている方々が時々いらっしゃる。HPLの活動から裏社会の臭いを敏感に嗅ぎ取り強請りに来るのだ。

 HPL本部である八坂屋敷にやってくるそういう輩は常設魔術防御により自動的にひっそり人生を終える事になるのでいいのだが、支部の守りはそこまで堅くない。

 

 HPL結成から二年後、私がHPL大阪支部を訪ねるために貸しビルに挟まれた薄暗い小道を歩いていると、ちょうど頭上の窓を突き破りスーツの男が二人まとめて叩き落とされてきた。ごみ捨て場に頭から落ちて痙攣している二人を放置して上を見ると、案の定宮本葵が三階の割れたガラスの間から顔を出し、ひらひら手を振っていた。

 

「ごめん八坂君、ぶつからなかった? タイミング悪かったね」

「大丈夫です。こいつらは俺が片付けておきます」

「いいの? お願い。その事もだけど中で話そっか、上がってきて」

 

 そう言って葵さんは頭を引っ込めた。オリンピックレベルにまでムエタイを修め、人体実験を受け人間の域を一歩超えた肉体を持つ葵さんにかかれば成人男性を二人まとめて吹き飛ばす程度造作もない。大方、またヤクザがタカリに来ていたのだろう。

 かける慈悲はない。私は体内からロープと段ボール箱を出し、二人を厳重に梱包してスマホで裏社会では有名な口の堅い運搬業者を呼んだ。

 

 三分しないうちに現れた、歪な猫マークの帽子を目深に被った配達員に段ボールを引き渡し配達先を告げて処理完了。配達員は微妙に中身が動いている段ボールに疑問を挟む事なく粛々と歩き去った。明日には八坂屋敷に届いているだろう。

 しかしグロネコヤマトの宅急便という社名はもう少しなんとかならなかったのだろうか。確かにロゴマークのネコ絵は悍ましさを感じるレベルでグロいけども。

 

 かつて共に神話的事件に立ち向かった仲間のうち、宮本葵、宮本翠、東雲鴇など色の名前がついている者は全員中の人(プレイヤー)が同じだ。中の人の性格が反映されているからか元探索者だからか、全員女性ではあるがなかなかアグレッシブで、ともすれば命の危険が伴うHPL支部の管理を安心して任せられる――――つまるところ、引退した元探索者、宮本葵はHPL大阪支部の支部長である。

 

 2LDKの事務所は入ってすぐの部屋が応接室で、ゆったりしたソファーが向かい合わせに置かれ、その間にテーブルがある。内装は青々と葉を茂らせた観葉植物や猫の置物、熱帯魚の水槽などインテリアが多く掃除も行き渡っている。訪問した客人はまず好印象を受けるだろう。窓さえ割れていなければ。

 

「いらっしゃい。アイスティーしかなかったんだけどいいかな?」

「いただきます」

 

 荒事直後の気配を微塵も見せず、葵さんは気安く飲み物をすすめながらソファーを指した。ありがたく受け取り座らせてもらう。

 葵さんとはもう二十年ほどの付き合いになる。はじめて会った時は若かったが今ではお互いいい歳のオッサンおばさんだ。時間が経つのは早い。人を超越した身でもそう感じる。

 

「蓮ちゃんとは最近どう?」

 

 葵さんは私の向かいに腰を下ろし、首のマフラーを巻き直しながら聞いてきた。彼女は過去の事件の影響で肌に薄っすら蛇の鱗が浮いている。それを隠すため、季節を問わない厚着は昔からの習慣だ。しかしここ数年はマフラーやセーターを編むのを趣味にして楽しんでいるらしく、自分のトラウマと向き合い折り合いをつけているようだ。

 安全な特命係の司書を辞し、私の要請に応え危険な支部長を引き受けてくれたのはトラウマを乗り越えSAN値が回復したからという解釈もできる。実際のところどうなのかはわからない。

 

「変わりありません。一人暮らしにも慣れたようです。週末は食事を作りに来てくれますし、寂しくはないですね」

 

 蓮は結局都内の古本屋に就職し、一人暮らしをしている。妻に先立たれた年老いた老人が道楽で経営している小さな店で、規模こそ小さいが品揃えが多く(軽い魔道書が混ざっていたので回収した事がある)、常連客もついていて新しく従業員に払う給料に困る事は無い。

 最初の一年は心配で頻繁に様子を見に行っていたが、最近は店主が実は人間社会に溶け込んだ神話生物ないしは悪質な魔術師ではない事を確信し安心して蓮を任せている。

 

「古本屋は暇な印象だったけど、けっこう忙しいみたいだね」

「どんな仕事もそうですよ。慣れるまでは大変です」

「ほんとにね。しばらく気をつけてあげて」

「もちろんです」

 

 私はしっかり頷いた。蓮と葵さんは仲がいい。私と葵さんの付き合いと同じぐらい長い間交友を持っている。

 お互いの近況をひとしきり話した後、先程のヤクザが所属するという暴力団谷岡組の話を片付けて、本題に入る。

 

「葵さん、これからああいうヤクザだとか神話的事件を起こした魔術師だとか、社会の落伍者に分類されるような人間がいたら八坂屋敷に送ってもらえますか」

「……理由は?」

 

 話の切り出し方が直接的過ぎたのか、葵さんの表情が固くなる。まあHPL本部八坂屋敷は敵対者に大変優しくない。そんなところに人を寄越せといえば何事かと思われるだろう。

 私は警戒を解くべく建前を並べて言いくるめにかかった。なに、全ての理由は話さないが葵さんにとっても悪い話ではない。こちらの計画の全貌を伏せるだけだ。

 

「社会復帰です。こう言ってはなんですが、神話的脅威を相手にするためには法律やマナーを守ってはいられません。社会の落伍者は再教育すればとても役立つでしょう」

「八坂屋敷で神話生物と戦う兵を作りたいって事?」

「概ねそうです。鉄砲玉にするつもりはありませんが」

「んん、でもねぇ。いくらあれこれ教え込んでみても奴らと戦うのは難しいと思うよ。立ち向かう力があっても立ち向かう心がないと何もできないって事は八坂君も知ってるでしょう。なんていうのかな、そういう星の下に生まれた人とそうじゃない人がいるじゃない?」

 

 葵さんは難色を示している。「探索者」という存在について彼女なりに認識しているようだ。

 確かにクトゥルフ神話TRPGというゲームではプレイヤー以外の一般NPCは基本的にクソザコナメクジである。いくら教育しても対神話生物の役には立たないだろう。正論だし尤もなのだがここでハイそうですねと引く訳にもいかない。もう一押しだ。

 

「やはり頭数は重要なんですよ。少人数でできる事には限りがあります。宇宙的真理の前には塵に等しい人間でも積もれば山になる。その山はきっと神格も殺し得る」

「それは言い過ぎ」

 

 冗談と思ったのか葵さんは笑ったが、私の顔を見ると真顔になった。

 

「え、本気?」

「本気です。まあ今は神殺しは置いておくとして、増員は悪い話ではないでしょう? 何も直接的に神話生物に関わらせなくてもいいんです。やる事は補助員でいい。調べ物を代行するとか荷物を運搬するとか、それだけでもかなり楽になるでしょう」

「……最近、八坂君こういうのに熱心だよね。HPL作っちゃうしさ、いや私も所属させてもらってるし良い活動だとは思うんだけど。変わったよね。蓮ちゃんが独り立ちしたからかな」

 

 いいえ、それは多分SAN0になったからです。

 などと言えるはずもなく。

 

「神話存在の対処は誰かがやらなければならない事で、私はやれる。それだけの話ですよ」

「……ん、そうだね。直視できないけど放置もできない問題だからね。分かった、協力する。上司命令だし」

「ありがとうございます」

 

 私は葵さんに礼を言い早々に事務所を辞した。

 薄暗い小道を抜けると商店街に出る。雑踏に紛れて歩きながら考える。

 これでHPL事務所の常駐員全員に話を通した。

 

 あとは人間の数が集まり次第生け贄に神格を召喚するだけだ。

 

 リアルではクトゥルフ神話はシェアワールドとして普及している。その立役者であるオーガスト・ダーレス氏によれば、神格には属性と相性があるという。一例を挙げるならば、ニャルラトホテプは地属性であり、炎属性である神格クトゥグアを苦手とする。 つまりクトゥグアを召喚してニャルラトホテプにぶつければ、殺せる。

 

 

 人に神は殺せない。

 人を逸脱しても殺すビジョンは見えなかった。

 しかし神を二柱同時召喚し、神が神を殺す状況を作り出せばどうだろうか。

 神殺しは十分可能なはずだ。

 

 私は無数にある「神格の招来」の魔術を分析統合し、二柱同時召喚の魔術を考案した。理論上、人間約千人を生け贄に捧げれば実現する。

 神殺しの対価が人間千人。これはお買い得だ。

 

 コモンのキャラを千体捨てれば、スーパーレアを何十体使い潰しても勝てない裏ボスを倒せるのだ。一体誰がコモン廃棄を躊躇うというのだろうか?

 コモンなどいくらでも手に入る。70億いる雑魚キャラのうち、底底とクズを1000体有効活用して神格を倒す! 実に面白そうで、やり甲斐があるではないか。

 葵さんに「鉄砲玉には使わない」と言ったのは嘘ではない。生贄に使うのだから。最後に社会の役に立って死ぬのならそれはある意味で社会復帰と言えるだろう。

 

 とはいえそれを馬鹿正直に言って回る必要はない。時が来るまでは伏せておいた方が無用な混乱を招かず済む。

 

 誰も成し遂げた事のない偉業を胸に秘め、私は含み笑いをした。すれ違った人間がそんな私の顔を見て凍りついていたが気にする事はない。

 

 さて、これから忙しくなりそうだ。




 三章は二章とは雰囲気がまた変わり、「邪悪な魔術師・八坂一太郎と魔術結社HPLの凶行を阻止する探索者のキャンペーンシナリオ」になります。ただしこのラスボスくんは元探索者の上に探索者の行動をメタ読みしてくるから油断すると新しいキャラシを量産する事になる。


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3-1 いんすますちほー

 

 暴力団谷岡組組長、谷岡豪は一代にして裏社会を駆け上がった傑物である。昭和さながらのツッパリヘアにベージュのスーツに身を包んだ谷岡の眼光は今でこそ睨まれた者のケツの穴を縮み上がらせるが、駆け出しの頃はチンケな当たり屋で糊口を凌ぐサンシタだった。カモにし易い大学生に難癖をつけ、金を巻き上げる日々……その地道な苦労のお陰で今ではこうして黒塗りの高級車を乗り回す事ができるのだ。しかし……

 

 白みはじめた空の下、早朝の海岸線を飛ばしながら谷岡は苦々しげにタバコを冷たい潮風に投げ捨てた。

 ほんの一ヶ月前まで谷岡組は絶好調の波に乗っていた。ケチのつき始めは谷岡組のシマの地所にやってきた怪しげな組合だ。看板も出さなければ、宣伝も打たない。そのクセ寂れた事務所の外観に合わない小綺麗さで人の出入りがそれなり、となれば何かしらの後ろ暗い事をやっているのだろうと想像はつく。

 常駐しているのは女一人。脅してゆすってカモにしてやろう、と送り込んだ下っ端は消息を絶った。追い返されたのでも、殺されたのでもなく、連絡がとれなくなったのだ。

 確認のために送った人手も戻らず、それ以降、組員が次々と不可解な失踪を遂げていった。

 

 これが単なる足抜けや誘拐ならば然るべき落とし前をつけてやるところだが、一連の事件の原因と思われる事務所は谷岡組の調査とカチコミを悉くかわし、どうにもならない。やがて失踪ではなく事務所に恐れをなし脱走する者が出、そんな腰抜け共にケジメをつけさせる余力もないという事が発覚すると、谷岡組は空中分解した。

 組員は四散し、シマは他の組に奪われた。谷岡組はもはや名ばかり、一ヶ月まで人生の絶頂にあった谷岡に残されたのは黒塗りの高級車だけだ。

 

 全く、忌々しい。

 

 谷岡は大きく舌打ちし、海岸線沿いに車を寄せて停めた。車外に出てタバコを吹かし、ガードレールにもたれかかって水平線上に顔を出し始めた朝日を眺める。

 谷岡は何も黄昏るために朝から海岸線ドライブと洒落込んでいるわけではない。谷岡組の解散を良い機会と捉え、再出発するために奔走しているのだ。

 風の噂によれば、この北海道の海岸線沿いにある打権(だけん)村は「海のアブサン」と呼ばれる強い酒を生産しているらしい。海のアブサンは強い中毒性を持ち、飲んだ者に多幸感を与えると共に独特の奇妙な幻覚を見せる。谷岡はこれを仕入れ、売り捌く事で活動資金を作ろうと考えていた。

 海のアブサンは裏社会では知る人ぞ知る実質的脱法ドラッグであるが、唯一の生産地である打権村の住人は非常に排他的で気難しく、安定した販路は確立されていない。

 海のアブサンは高値で捌ける。谷岡には必ず打権村の住人とヤクザ式売買契約を結ぶ自信があった。今は身一つであってもほんの一ヶ月前までは一大勢力を率いたのだ。自信には裏付けがある。

 打権村まであと10kmもない。休憩を終えた谷岡はタバコを投げ捨てて振り返り……

 バァン! という音と共に自分の黒塗りの高級車がキャンピングカーに追突されたのを目の当たりにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 森ヤーティはイギリス人の母と日本人の父とのハーフにして、ポケモンセンターのアルバイターである。この日は北海道某所にポケモンGOで図鑑にないポケモンが出現する村があるというオカルト話の真偽を確かめるため、有給をとり遥々キャンピングカーでやってきていた。海岸線にぽつんと立った半ば寂れた標識と手元の地図を見比べ、後部座席を振り返る。

 

「んんwwwもうすぐ打権村に到着ですぞwww」

 

 声をかけると毛布に包まっていた同乗者二人がモソモソと起き出してきた。最初に起きた白髪まじりのもっさり髪の男は、胸ポケットからサングラスを出してかけると、腕時計を見て頭を掻いた。

 

「あれ、昼頃に着くって話だったろ。まだ朝じゃないか」

「休憩なしで走りましたからなwww1時間も対向車に会わないなんて有り得ないwww」

「言ってくれたら交代したぞ」

「佐村河内氏は現地でお仕事ですからなwww役割分担ですぞwww」

 

 佐村河内攻(さむらごうち せめる)はゴーストライターである。小説家として極めて高い実力を持つが、昔編集者と揉めて仕事を干されて以来、名前を伏せゴーストライターとして生計を立てている。今回の旅には北海道の寒村の怪奇譚を調べるために同行している。

 二人の話し声で意識が覚醒してきたのか、丸顔の小男が大きく伸びをして話に割り込んでくる。

 

「ぬわぁああああん寝過ぎたもぉおおおん! ヤーティニキ運転お疲れ~!」

 

 彼の名は久津見岳雄(くつみ がくお)。新進気鋭の靴磨き職人である。若くして天性の才能を遺憾無く発揮し、業界で知らない者はいない隔絶した名声と技能を誇る。嘘か真か、首脳会議での首脳陣の靴磨きを任されているという噂もあるほどだ。しかし性格は気さくで高年収を鼻にかける事はない。久津見は目的地に用事がある訳ではないが、暇だったので二人についてきた。

 三人は都内のオカルト好きの集まりである。地方でのオカルトチックな噂を聞きつけては、金を出し合い調査に赴く。今回もそうした調査旅行だ。

 

 和気あいあいと前日の夜中にコンビニで買っておいた弁当を広げ始める一行だったが、ヤーティが一瞬目を離して缶コーヒーを受け取ったせいで路肩に停まっていた黒塗りの高級車の発見が遅れてしまう。更に疲れからかブレーキとハンドル操作を謝り、キャンピングカーを衝突させてしまった。

 

 全員、時が止まったように固まり、怒れるヤクザ風の男がずかずかと近づいてくるのを見て一斉に青ざめた。

 

「んんwww草も生えないwww」

「生やしてんじゃねーか」

「やべぇよやべぇよ……」

「おいゴルァ! 降りろ! おい免許持ってんのかゴルァ!」

 

 谷岡がむしり取るようにドアを開け恫喝すると全員縮み上がった。震える手でヤーティが出した免許を奪い取り、谷岡は舌打ちする。転落人生で唯一残された愛車に追突された谷岡は怒り心頭だったが、同時に当たり屋時代の打算も働いていた。これを理由にこいつらを上手く使ってやろう、という魂胆だ。谷岡の「にらみつける」に屈した佐村河内と久津見も呆気なく免許証を財布ごと奪われる。

 

「おう舐めてんのかてめぇら。許さねぇぞコラ」

「許して下さいお願いします靴舐めますから!」

「おう舐めろよ……いや舐めすぎだろ離れろ!」

 

 媚びた卑屈な笑顔で靴をむしゃぶりつくように舐めにきた久津見を谷岡はドン引きで蹴飛ばした。ほんの数秒で顔が映るほどピカピカになった靴を見て二度引く。

 妙な間が空いてしまったが、谷岡は気を取り直して言った。

 

「おうとりあえず俺の車についてこい。弁償代わりに働いてもらうぞ。言うこと聞きゃあ通報はしないでおいてやる」

「仕方ありませんなwww分かりましたぞwww」

 

 精神的に普通の人間で、喋り方も普通なヤーティは免停も谷岡も普通に怖かった。

 そんな訳で、三人を乗せたキャンピングカーは黒塗りの高級車の後ろについて打権村に行く事になったのだ。

 

 しばらくして。

 「この先打権村」と書かれた質素の看板を通り過ぎて数分、一行はすぐに打権村は酷く荒廃しているのだという事を知った。海岸線にぽつり、ぽつりと建つ漁師小屋は半ば崩れ掛け、店舗らしい家屋は見当たらず、寒村という事を考慮してもなおあまりにも人通りが無い。数少ない村人も背を丸めてよたよたと歩き、車が近づくのに気付くとひっそり建物の影に消えていく。村も住人も陰気臭く磯臭い。空までも陰鬱に澱んでいた。散見される自動車も酷く錆び付くか、パンクしているか、その両方で、村の閉塞感を強調している。

 谷岡は後ろのキャンピングカーに合図し、適当な空き地に車を停めた。その隣に停まったキャンピングカーから三人が出てくると、早速仕事の話を始める。

 

「よし、てめぇらとりあえず散って酒の話集めてこい。この村じゃあ『海のアブサン』っつー酒を作ってるはずだ。生産者突き止めたら連絡よこせ。逃げるなよ」

「了解ですぞwww」

「協力したらホント免許返して下さいよ」

「じゃけんライン交換しましょうね~」

 

 三人は了承し、連絡先を交換する。電波の入りは悪いが一応連絡はできそうである。

 仲良く肩を組んで村を巡る仲でもないため、そこで三人と谷岡はあっさり別れた。

 三人は顔を見合わせる。

 

「谷岡さんも打権村に用事だったんだな」

「結果オーライですなwwwww」

「じゃー俺仕事探して来るわ」

「んんwwwこんな寒村で靴磨く人がいるとは思えないwww」

「まあ、全員手分けして適当にぶらつきながら情報集めていいんじゃないか? 俺はあっちに行く」

「では拙者はあちらへwww12時にまたここに集合という事でwww解散www」

 

 やってきた目的は全員バラバラである。まとまって動く理由もないので、全員散って行動する事になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 久津見の靴に関する見識は本物である。様々な靴に最適な磨き方を追求する内に、靴そのものへの造詣も深くなった。靴を知るには当然ながら靴を見るのが一番なのだが、足跡を見るだけでも靴のサイズは分かるし、跡の深さから体重も分かる。歩幅などから性別や精神状態も分かる。

 久津見は靴磨き代を払ってくれそうな良い靴を探すために、ぶらぶら歩きながらボロボロになり砂と土に侵蝕された道路に残された足跡を観察した。

 

「んー……?」

 

 しばらく足元を見てあるいていた久津見は妙な事に気付き、首を傾げた。

 まず、足跡の間隔がおかしい。ほとんどの足跡がよたよたと蛇行していて、まともな歩き方をしていない。酔っ払った歩き方、というより、まるで歩く事に不慣れなようだ。足跡の深さから察するに、半ば飛び跳ねるように移動しているらしい者も少なくない。

 更に小道に入ってみると、うっすらとだがヒレのついた真新しい足跡まで発見した。

 

 海女さんが足ヒレをつけて素潜りでもしているのだろうか?

 足ヒレと表現するには生々しい生物感に満ちた足跡だったが、もっと相応しく「それ」を表現する言葉を思い出すことをまるで脳が拒否しているかのような奇妙なもやもやを抱え、久津見はとりあえず疑問を棚上げする事にした。

 

 いつまでも足跡と睨めっこしていても金は入ってこない。まさか足跡を磨く訳にもいかないだろう。

 古式ゆかしく靴磨き台を通りに据えて座り込み、通行人を捕まえて磨いてやる、という手口も考えたが、そもそも通行人自体がいない。いや、いないわけではないのだが、遠目に久津見を見つけるとそそくさと去っていってしまうのだ。

 仕方がないので訪問販売をする事にした。いくら寒村といってもハレの日に履く革靴ぐらいは持っているだろう。汚れたまま放置された靴を磨き上げるのも仕事の一つである。

 

 久津見が手近な家(割れた窓に乱雑に板が打ち付けられている)の玄関をノックすると、しばらく間を置いてから人が出てきた。

 その住人の顔を見た久津見は思わず息を飲んだ。暗がりと生ぬるい潮風の不気味さがますますそう感じさせたのかも知れないが、まるで人型の怪物が目の前に現れたかのような錯覚に陥ったのだ。四十代であろうか、その男性の髪はまばらで、奇妙な出来物が身体や腕に浮き出ている。目と目は離れすぎていて、しかもぎょろりと飛び出していた。

 怖気を感じながらもまじまじと見ることを止められない久津見の視線に気付いた男性は素っ気なく言った。

 

「病気でね。感染りゃあ、しないよ」

「あっ、そっかあ……」

「で、アンタ何の用だい? NHKの受信料は先週払ったが」

 

 所帯じみた言葉に正気に戻った久津見は早速セールスをかけた。

 

「あのさあ、俺、靴磨き職人なんだけど、靴磨いてかない?」

「はあ?」

 

 真顔で聞き返された。

 

「今なら三十足で、五万! 靴磨きたい……磨きたくない?」

「三十足もねぇよ」

「ま、ま、ま、三足でもいいからさあ~。ホラホラホラ」

「あ、おい何するんだ!」

 

 久津見は俊敏に四つん這いになると素早く靴磨き粉とブラシを取り出し、男の靴を磨き上げた。

 その熟練の早業は男に蹴飛ばされる前に靴磨きを完了させてしまった。この間、わずか数秒である。

 気持ち悪い生き物でも見るかのような男だったが、一瞬にして新品以上に輝いた自分の靴を見て態度を変えた。

 

「あんた、すごいな。なんというか……すごいな」

「一万円頂きます」

「それは払わん。押し売りだろ」

「ペッ!」

 

 久津見は磨いたばかりの男の靴に唾を吐きかけた。金を払わない奴は客ではない。

 男は米神に青筋を浮かべたが、深呼吸して言った。

 

「俺は払わんが、仕事は紹介できる」

「あ~いいっすね~!」

「実はな、今日の夜、祭りがあるんだ。年に一度の大切な祭りでな、儀式に出る祭司様の靴を是非あんたに磨いてもらいたいと思う」

「ほーん。報酬は?」

「祭司様が払って下さるだろう。魚吉の紹介だ、と言えば通じる」

「やったぜ」

 

 久津見は祭司が住んでいるという家の住所を聞き、礼を言って男と別れた。

 かなり魚臭い足の男だったが、仕事を紹介してくれた。良い男に違いない。

 なんだかんだで良い時間になっていたので、一度集合すべく久津見はキャンピングカーの場所に戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スマホでアプリを起動しながら村を歩き回っていたヤーティは通信状態の悪さにイライラしていた。間の悪い事にアップデートと被ってしまったらしく、中々データのダウンロードが進まない。これでは正体不明ポケモンの真偽どころではない。

 歩きながらスマホを天に翳し少しでも通信状態をよくしようとしていたヤーティは、ふと視線を感じて横を向いた。

 

 それは不気味に光る一対の目だった。民家の窓、退色して薄汚れたカーテンの隙間から誰かが見ている。辛うじて女性だと分かるその顔は酷い出来物……魚の鱗のようなぬらぬらした出来物に覆われ、口は裂け、人間と呼ぶには目と目が離れすぎていた。

 

「んっふwww顔面ルージュラwww」

 

 ゾクッとしたヤーティが思わず叫ぶと、顔はさっと引っ込んで消えた。

 異様な町である。

 昼間だというのに人は出歩いておらず、たまに見かける人影も遠巻きにするか逃げていくか、だ。挙句の果てに目が合えばアレである。打権村はグロ系水ポケモンの巣窟だとでもいうのか。

 

 しかしまあ、そんな事よりポケモンである。怪しげな人影を気にせず遅々として進まないスマートフォンを睨んでいると、野生の谷岡が現れた。

 

「にげるwwwにげるwww」

「うるせーよ。てめぇさっきから見てりゃあよぉ、ロクに聞き込みもしてねえだろ。あぁ?」

 

 谷岡は逃げようとしたヤーティのケツを掴んで捕縛した。

 

「分かってんのか、あぁ? 免許返さねぇぞ。無免で帰るか?」

「んんwww無免許運転はありえないwww」

「じゃあ働けよ。もうめんどくせぇからお前俺についてこい」

「了解ですぞwww」

 

 谷岡は舌打ちすると、先ほど女性(?)が様子を伺っていた窓のある家の玄関を荒々しくノックした。他の傷んだ家屋と違い、それなりに手入れがされていて、立派な門構えである。

 しばらくすると鍵が外れる音がして、中から一人の男が出てきた。毛髪が寂しい、気弱そうな壮年の男である。男は青い顔でびくびくしながら谷岡とヤーティを見比べた。

 

「どっ、どちら様で?」

「おうお前がどちら様だよ。免許証見せてみろ、あぁ? ネタは上がってんだぞ」

「ひっ!」

 

 男がぶるぶる震えながら差し出した免許証には清和鳴人(きよわ なひと)と書かれていた。谷岡は容赦なく免許証をもぎとって自分のポケットに突っ込んだ。

 ヤーティはクッソ雑な恫喝であっさり免許証を差し出した清和に呆れた。いかにもヤクザな谷岡の風格に怯えているのか、それとも何か本当にやましい事でもあるのだろうか。

 

「おう、お前清和か。お前、アレだろ。海のアブサン、作ってんだろ。あぁ?」

「あ、あ、アブ……?」

「あぁ? とぼける気か、コラ」

「わ、私はほんの昨日、お、叔母に呼ばれて来ただけの、よ、よそ者ですから」

「嘘つくんじゃねーぞコラァ!」

「ひぃいいい!」

 

 谷岡の怒声に清和はか細い悲鳴を上げて泣きそうになっている。

 見かねたヤーティは言った。

 

「清和氏、ポケモンGOはやっていますかなwww」

「は、は?」

「やっていますかなwww」

「あ、まあ、はい、手慰みに……」

「直近のマスターボール配布イベが何日だったか覚えていらっしゃいますかなwww」

「え、あー、お、一昨日、だったかと……」

「んんwww谷岡氏wwwこの方は確かにこの村在住ではありませんぞwwwこの村は電波が悪く通信できないwwwこの村に住んでいるのなら一昨日のイベントを知っているはずがありませんなwww」

「うるせぇ! 笑いながら話すんじゃねーよ。まあ外の出身だろうがどうでもいい。叔母だったか、いるんだろ? 紹介しろオラ」

「ひっ、あ、あ、あ、あ、」

「拙者からも頼みますぞwww免許がかかっているものでwww無礼は承知、御免www」

「わっ、分かりました、分かりました。取次ぎますので、あ、あー、そちらの客間で、お、お待ちください」

「おう早くしろよ」

 

 清和は二人を狭い客間に通すと、バタバタと慌ただしく奥へ消えていった。谷岡はそれを満足げに見送り、ソファにどっかり座りタバコに火をつける。ヤーティは言われるがままの清和を哀れに思ったが、何も言わなかった。

 谷岡は『海のアブサン』とやらにご執心らしい。ここで清和を庇って海のアブサンの手がかりを逃がしでもしたら、ヤーティの免許証も逃げてしまう。暴力に慣れた危険な匂いがプンプンする谷岡から力づくで免許証を取り返せるとは思えない。車をぶつけてしまった負い目もある。多少誰かが理不尽な目に遭おうとも、穏便に免許証を返して貰えるならそちらの方が良かった。

 

 狭い客間は思いのほか調度品が充実していた。変わった意匠のものばかりだが、見事な壺、金細工の装飾品、見たこともない文字が刻まれた石版などが飾られている。

 アホ面で調度品を見回していたヤーティは、本棚の中に「打権村」と銘打たれた冊子がある事に気付いた。ヤーティは佐村河内が打権村の怪奇譚を調査しに来ている事を思い出し、冊子を本棚から抜き取りそっと懐にしまった。

 察するに、清和の叔母とはヤーティが目撃した顔面ルージュラの女性(?)である。彼女が家主では冊子を貸してくれと言って貸してくれる気がしなかったし、そもそも人語が通じるかも怪しいものだ。ひとのものをとったらどろぼう! という名言があるが、これは泥棒ではなく交渉の手間を省いただけである。

 

 素知らぬ顔でしばらく待っていると、廊下からぺた、ぺた、と足音が聞こえてきた。足音は客間の前で止まり、軋むドアをゆっくり開けて、入ってくる。

 入ってきたのは小柄なローブ姿の人物だった。頭にはフードをかぶり、足元まですっぽりとローブに隠されているため、体型は分からない。背筋は酷くまがり、強烈な磯臭さがぷんと漂っていた。フードの下に覗く裂けた口元をチラチと見て、ヤーティは戦慄と共にその人物が自分を窓から見ていた女性(?)と同一人物だと悟った。背後には今にも逃げたそうに腰が引けた清和がついてきている。

 ぺた、ぺた、と数歩歩き、その人物は谷岡の対面に座った。清和はドアを閉めて邪魔にならない位置に立つ。谷岡は異様な雰囲気に気圧される事なく口火を切った。

 

「あんたよぉ、海のアブサン作ってんだろ。俺が今よりもっと高値で売りさばいてやる。販路を全部よこしな」

 

 単刀直入な谷岡の言葉に、女性は少し間を起き、年老いてしゃがれた耳障りな声で答えた。聞き取り難いが、どこか面白がっているような響きがあった。

 

「すまんがアレは大切な儀式のお神酒でねぇええええ。出回ってるものは、出来損ないの粗悪品なのさあああ。そも、売り物じゃないのよなああ」

「出来損ないだろうがどうでもいいんだよ。俺が上手く売ってやるっていってんだ、ああ? 金が入ればこの寂れた漁村も賑わうだろうぜ」

 

 ぐ、ぐ、ぐ、という窒息したような音が聞こえ、ヤーティは何かと思った。

 見れば、老婆が口元に手を当てて肩を震わせている。

 また、ぐ、ぐ、ぐげ、と潰れた音がする。ヤーティは悟り、谷岡は強気な顔を保とうとした。

 それは老婆の笑い声だった。谷岡は老婆のローブが少しだけずれ、首元の両側についた裂け目がぱくぱくと動くの見てしまったが、必死で湧き上がる魚のエラのイメージを打ち消した。今それを認めてしまったら、交渉相手を撃ち殺してしまいそうだった。

 

「金、金、金ぇええ。ま、いいだろうさあ。あんたの胆力に免じてぇ、毎年儀式の後に余った酒の処分は任せようじゃないかぇえええ?」

「おう、話が分かるじゃねぇか。それでいいんだよ」

 

 谷岡は安堵の息を吐くのを堪えた。ちっぽけな老婆が発する恐怖は鉄火場のそれとは違う、谷岡が経験した事のない……冒涜的なものだった。

 老婆は続けて言った。

 

「次の儀式は今夜さあああああ。あんた方も是非来るといいよぉお。楽しみにしてなさいよぉぉお」

 

 そう言って老婆はにちゃあ、と歪んだ笑みを浮かべた。

 清和はその後ろで目を固く瞑り、脂汗を流しながら叔母の言葉を聞いていた。

 聞いているだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 佐村河内は秘密結社HPLに所属するオカルト愛好家だ。HPLの実態を知っている訳ではないが、定期的に怪異の情報を寄越してくれ、それを調査し報告すればキッチリ報酬が出るため、目的も全容も不明瞭な組織ではあっても邪悪ではないと佐村河内は考えている。良い怪奇小説を書くためには自ら怪奇体験をするのが一番である。HPLはそれを提供してくれる。過干渉もない。今回の打権村の情報もHPLから流されたものだ。

 とはいえ本物の恐怖体験に遭遇する事は早々ない。今回もガセネタかちょっとした噂に尾ひれがついただけかと考えていた。しかし、いざ現地に到着してみると何やら異様な空気が漂っている。完全にスカ、という事はなさそうである。

 

 佐村河内は年甲斐もなくワクワクしながら散策し、人気のある家々を訪ね、話を聞こうとした。

 奇妙な点は二つあった。

 

 一つは、打権村の住人に皮膚病が蔓延しているらしい点だ。皆、皮膚に酷い出来物ができ、広範囲が鱗のようになってしまっている者までいる。

 誰も彼もが口を揃えて伝染病ではないと言うが、伝染病でもないのにここまで蔓延するだろうか。

 

 もう一つは誰も彼もが口を揃えて今夜の祭りに来いと誘う事だ。友好的に誘ってくれている、というには彼らの眼光は鋭すぎた。

 粘ついた視線はまるで薄汚い獣が身を伏せ獲物を狙うかのようだ。

 

 住人達はこの村に怪奇など無いと言い張り、海のアブサンについては今夜の祭りで供されると語った。そしてそれ以外は語ろうとしない。

 佐村河内はそれ以上住人から情報を得る事を諦め、気分転換に砂浜に出た。

 

 砂浜には半分崩れかけた漁師小屋が幾つかあった。佐村河内は耳を澄ませたが、聞こえるのは波と風の音ばかりで、人の気配はない。

 ドアが壊れて外れていた一軒の中を覗いてみる。おかしな事に漁師小屋であるにも関わらず漁に使うような網や銛といった類の道具は何もなく、代わりに一枚の石版が置かれていた。

 その石版には絵と、見た事もない文字が彫ってあった。

 

 彫られていたのは月と、魚人、人間、そして怪物。満月の下で魚人が輪になり、銛で人間を串刺しにして怪物にささげている。

 顔面から顎ひげのように無数の触手を伸ばしたその怪物は、まるで歓喜の雄叫びを上げているようだった。

 吐き気がしてくるのに、石版から目が離せない。波の音が遠くなり、代わりに耳障りな囁きが聞こえてきた。囁きはずるりと脳の中に侵入し、這いずり、冷たくのたうった。頭痛がする。

 深く深く、遠い海の底から。この世全てを冒涜する何かの呼び声がする。

 呼び声がする。

 呼び声がする。

 呼び声がする……

 

 一際大きな波が砕ける音で、佐村河内はハッと現実に戻った。身震いして頭をはっきりさせる。曖昧な、しかし鮮烈に過ぎる白昼夢だった。

 冷や汗を拭い、後ずさる。石版から触手が伸び、今にも足を掴むのではないか、という荒唐無稽な妄想が頭を過ぎった。

 しかし石版は沈黙している。幻視も幻聴もない。

 しばらく間を置き冷静になった佐村河内はスマートフォンを出し、石版の写真をとった。住民の話は聞けなかったが、この石版だけでも大収穫である。生々しい幻聴体験と合わせ、怪奇譚のネタとしてはもってこいだろう。

 

 佐村河内は漁師小屋の主を探し石版を譲って貰えるよう交渉しようか迷う。

 石版は実に創作意欲を刺激される独創的な意匠だったが、なぜかそれは刺激されてはいけないもののような気がした。

 迷った末、佐村河内は石版を諦める事にする。写真は撮ったし、何より、石版に彫られた魚人に串刺しにされた人間の苦悶の顔が、まるで自分のもののように見えたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 正午になり、四人はキャンピングカーと黒塗りの高級車が停められている駐車スペースに集合していた。

 久津見以外、顔色が悪い。

 

「靴をね、履いてないよね」

 

 明るく言ったのは久津見だった。三人の胡乱な視線が集まる。

 

「遠目に見たり足跡見たりしたんだけどさ、この村の人って半分ぐらい靴履いてないんだよね」

「じゃあ何を履いてるんだ?」

 

 佐村河内の質問に、久津見は簡潔に答えた。

 

「足ヒレ」

「…………」

「…………」

「…………」

 

 それは本当に「足ヒレ」を「履いて」いたのか?

 そんな疑問を三人は飲み込んだ。

 重い雰囲気の三人に久津見は困惑する。

 

「え? 俺なんか変な事言ってる? 漁村なんだし足ヒレぐらい履くんじゃないすかね」

「足ヒレが許されるのは水中だけですぞwww陸で日常的に履くのは異常ですなwww」

「……確かに!」

 

 その発想は無かった! と衝撃を受ける久津見を横目に、佐村河内が挙手して言った。

 

「まず、海のアブサンは今夜の祭りで振舞われるそうです。それと……石版を見つけました。こんな絵が」

 

 そう言って佐村河内はスマホの写真を見せる。満月と、魚人と、触手の怪物。そして串刺しにされた人間。

 三人は怖々それを見て、ふとヤーティが言った。

 

「そういえば今夜も満月ですなwww満潮ですぞwww」

「おっ、そうだな!」

「おう、ババァが今夜の儀式を楽しみにしてろっつってたな」

「OKまとめよう。この村の住人は魚人だ。今夜、俺たちを串刺しにして、怪物の生贄にする。それを肴に海のアブサンで酒盛りをする。はい解散」

 

 佐村河内が手を叩くと、久津見とヤーティはキャンピングカーに乗り込もうとした。免許証より命が惜しい。佐村河内の結論を笑い飛ばすには、この村は魚臭すぎた。

 確たる証拠は確かにない。実際、村人は全員皮膚病で、今夜の祭りはただの祭りで、石版は子供の悪戯か大昔の風習で今は廃れている、と考えた方が合理的である。魚人だの生贄だの、現実的ではない。

 しかし人間は時に合理的でなく現実的でもない生き物だ。君主危うきに近寄らず。怖いから、ヤバそうだから、とりあえず逃げておく。そんなものである。

 

 完全に逃走体制に入った三人を止めたのは、谷岡ではなく、遠くから走ってきた一人の男だった。

 よほど全力疾走をしたのか、今にもゲロを吐きそうな様子で駆け寄ってきたのは清和だった。清和は倒れこむように四人のもとにたどり着くと、谷岡に縋り付いて涙ながらに懇願した。

 

「娘を、娘を、げほ、助けて下さい!」

 

 谷岡は清和を見て、タバコを咥え、火をつけてから言った。

 

「お前、谷岡組に助けを乞うってのがどういう事か分かってんだろうなあ? あぁ?」

「お願いします、お願いします、なんでもしますから!」

「その言葉が聞きたかった」

 

 ヤーティは運転席に座って抱き合う二人を眺めながら「この雰囲気の中で空気読まず帰ったら鬼畜ですなwww」と思った。

 後部座席に座り完全に帰る体制だった二人は娘って美人なのかな、と思った。

 

 清和は語った。

 早くに妻を亡くし、男手一つで一人娘の菜子を育てていた清和は、打権村に住む叔母から遺産相続の相談があるという事で村に来るよう連絡を受けた。

 確かに叔母はもう七十歳を越え、もういい歳である。他に親類もいなかったはず。

 清和鳴人は気弱で押しが弱く押しに弱い性格から会社でも出世できず、家事に娘の学費にと、生活はいつも苦しかった。叔母は寒村とはいえ打権村の大地主。遺産が相続できるのなら有難い。叔母は姪の顔も見たいと言ったので、特に疑問にも思わず、娘と二人で村へ向かった。

 それが間違いだった。

 

 村について早々、娘は魚面の怪物に誘拐された。清和は抵抗したが、二メートルもある屈強な魚人三匹に勝てるわけもなく。娘を奪われ、信じがたい怪物に狂乱する清和に、叔母は言った。娘を助けたければ、満月の晩に神にその身を捧げろ、と。

 娘と引き離された清和は言いなりになるしかなかった。人のフリをした怪物に怯え、死の恐怖に震え、娘を心配し胸をかきむしり、頭がおかしくなりそうだったところにふらりとやってきたのが一行である。

 叔母は四人も生贄に捧げるつもりらしい。清和は危機を伝え、娘を助けてもらうために叔母の目を盗んで警告しにやってきたのだ。

 

「叔母はこの村の顔役で、大地主です。遺産はかなりのものです。全て差し上げます。だからどうか、娘を、娘の命だけは」

「おう助けてやるよ。おいてめぇら何逃げようとしてんだ。免許返さねぇぞ」

 

 清和がかなり危ない橋を渡って警告しに来てくれただろう事は三人にも分かったが、正直、逃げる理由が増えた。第三者から打権村が怪物の巣窟である事が力強く肯定されてしまったのである。

 三人はオカルト好きだが、ただの一般人である。危険な事からは逃げたい。

 ……しかし同時に、困った人を助けられるなら助けたい、という善性も持っていた。

 久津見は聞いた。

 

「娘さん、菜子ちゃんだっけ、美人?」

「は? はあ、自慢の娘です」

「目と目が離れすぎてたり……しない?」

 

 清和が心外だ、とばかりに財布から出した写真を見ると、父の隣でにこやかな微笑を浮かべる大学生と思しき女性は確かに自慢の一つもしたくなる美貌だった。

 久津見は靴磨きセット一式が入ったトランクケースを片手にキャンピングカーを降りた。

 

「そういや俺、靴磨きの注文入ってるから逃げらんねぇわ」

 

 清和の縋るような目線を見てしまったヤーティはため息を吐き、車のキーを抜いてキャンピングカーを降りた。

 

「んんwww拙者もバケモンゲットするまで帰れませんぞwww」

 

 佐村河内はもっさり頭をガリガリ掻き、二人に続いた。

 

「村人の口からこの村の伝承聞いてないのを思い出した。伝承代わりに断末魔でも聞いていく事にするか」

 

 谷岡はタバコの吸殻を投げ捨て、宣言した。

 

「魚臭ェ化物どもをブッ殺しッ! ここを谷岡組のシマにするッ! 行くぞてめぇら!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日が暮れて夜が来た。祭りの時間である。晴れ渡った星空には満月が上り、月明かりを反射して海面が煌めいている。

 祭りの会場である打権村の砂浜には、漁村である事を差し引いても異様なほど濃密な魚臭さが漂っていた。

 時代錯誤な松明の明かりにぬらぬらした体表を照り返させる魚人の群れはさながら異形の魔宴である。

 

 ヤーティと佐村河内はその砂浜を望む家屋の屋根裏に潜んでいた。下の部屋の床下には昼間の内に谷岡の銃で尻穴から喉まで撃ち抜かれた魚人の死体が埋められている。

 ヤーティは板の隙間から外を覗き、ひそひそ声で言った。

 

「んんwww豊漁ですぞwwwそろそろ住民は皆集合したと見て良いでしょうなwww」

「清和菜子はいるか?」

「それらしき影は見えますなwwwしかし少し遠いですぞwww」

「……『生贄は一人じゃなかったんですか!』『ダゴン様への贄は多い方が良い』『そんな!』『甥もダゴン様に供されるなら本望だろうて』あー、親子揃って生贄になるのか。なるほどまずいな。いや想定の範囲内か」

「この距離で聞こえるなんて有り得ないwww」

「昔から耳は良いんだよ。よーし、合図して作業にかかろう」

 

 ヤーティはスマートフォンのライトを外に向け一瞬だけ点滅させ、作業にかかった。

 

 砂浜でヤーティの合図を受け取った谷岡はヤーティ達が順調に事を進めている事に内心頷き、外面では平静を取り繕った。

 谷岡の横には清和の叔母という立場にある、母という文字とまるで結びつかない魚面の怪物がのそりと立っている。ホラー映画から抜け出したものよりなお悪い、生理的嫌悪を催す邪悪が、小奇麗なローブに金製の装飾品まで身に付け、この人間の世界に何食わぬ顔で存在している。幾度の鉄火場を抜けてきた谷岡をして、鳥肌を隠せない。

 実際、この怪物の首魁に「谷岡豪は怪物側の人間であり、本心から協力を望んでいる」と思い込ませる事ができたのは奇跡に近かった。一歩間違えれば今足元で手枷をされ四つん這いで犬の真似をしている久津見のようになっていただろう。先ほどから後ろ足で穴を掘り小便をしたり、仰向けに寝転がって媚びた目で魚人を見上げたりと人間の尊厳をかなぐり捨てている。

 

「クゥーン、クゥーン……くさっ! オロローッ!」

 

 今度は水かきのついた清和の叔母の足を必死に舐めたかと思うとゲロを吐き始めた久津見から魚人達はドン引きした様子で距離を取った。谷岡も距離をとった。

 足を舐めても生き延びたいのは人間の本能かも知れないが、もしかしたら魚人達以上に狂っているのではないか。

 

 魚の生臭さに加えてゲロ臭さも漂い始めた砂浜で、清和の叔母は円陣を作った十数匹の魚人に満足げに合図する。円陣の中心には抱き合って怯える清和親子がおり、魚人達はそれをはやし立てながら手に手に不気味な海色に発光する酒が入った杯を掲げた。

 

「ぃぁ ぃぁ くとぅるう ふたぐん」

「ぃぁ いあ くとぅるう ふたぐん」

「ふんぐるい むぐるぅなふ」

「いあ いあ!」

 

 邪神を讃える冒涜的な祝詞が渦を巻く。アルコール臭に魚臭やら何やらが無茶苦茶に入り混じった悪臭が辺りを満たす。

 谷岡はじわじわと後ずさり、熱狂していく魚人達に気づかれないよう清和の叔母の背後を取る。

 

 そして……尻の穴に隠していた拳銃を出し、構え、背後から下腹を撃ち抜いた。

 突然の銃声に静まり返る。魚人達が銃を見て状況を飲み込む前に、砂浜に集まった一同を囲むように炎の壁が立ち上がった。炎の壁の向こうで、海藻を全身に巻きつけたヤーティと佐村河内が砂まみれで立ち上がり、空の一斗缶を投げ捨ててサムズアップした。

 

 話は簡単だ。午後いっぱいをかけて放置された村の自動車からガソリンをコソコソ集め、海藻製即席ギリースーツをまとったヤーティと佐村河内が儀式に熱中する魚人達を取り囲むようにバラ巻いたのだ。ガソリンの異臭は魚臭さと海のアブサンのアルコール臭、そして久津見がぶちまけたゲロの臭いで誤魔化された。

 

 一転攻勢。血を吐いて倒れた魚人の主格を踏みつけ、谷岡は歪んだ笑みを浮かべた。炎に逃げ惑い、或いは呆然とする魚人の群れに見せつけるように、谷岡は痙攣する魚人を蹴った。

 

「何お前魚の癖にお前服着てるんだよこの野郎、おい」

 

 谷岡がローブと装飾品をむしり取ると、だらしなくたるんだ腹が露になる。魚人が震えながら装飾品に手を伸ばすのを見て谷岡はせせら笑った。醜い魚人間にも、服を奪われた屈辱は分かるらしい。

 谷岡は伸びた手を払い除け、ポケットに忍ばせていたスキットルを開け、首元のエラにガソリンを流し込んだ。

 

「おいエラ呼吸してみろよこの野郎、あぁ?」

 

 魚人は声にならない声を上げ、血とガソリンの混じった液体を吐き出す。エラはぱくぱくと動いていた。それを満足げに眺めた谷岡は無理やりタバコを加えさせ、ライターで火をつけた。

 

「よーし、よくできたなぁ。おら、ご褒美だ」

 

 タバコの火は気化したガソリンに引火し、たちまち魚人は火だるまになった。絶叫しのたうち回る魚人。

 

「あーっ! ミスッた! 火がぁーっ!」

 

 手枷を焼き切ろうとして失敗した久津見も火を消そうとのたうち回っていた。

 谷岡は呆れた。とんだ道化である。

 道化だが、不慮の事故で拘束されながら機転を利かせて仕事を達成しているのだから恐れ入る。

 予め砂浜に埋められ、そして久津見の後ろ足で掘り起こされた一斗缶を、谷岡は正気を取り戻しつつある魚人達にぶっかけた。

 

「おらビクビクしてんじゃねぇよ! ついてこい!」

 

 そして、狂騒に愕然としていた清和親子の頬を張って正気に戻してから、炎の壁を突き破って、炎陣の外へ逃げる。火が付いたがすぐに海に飛び込んで消した。ヤーティはポケモンGOを起動したスマートフォンで、佐村河内は冒涜的な絵が刻まれた石版で、それぞれ炎陣からまろび出た魚人達を強かに殴って中に押し戻している。

 谷岡は嬉々としてそれに加わり、ややあって久津見も四つん這いでそれに続いた。

 

 それは確かに、祭りだった。

 人の世を蝕む怪物をあるべきところに送り返す、血と炎の祭りだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 炎が完全に鎮火したのは夜が空けてからだった。黒ずんだ死体が散乱し、焦げ臭さ漂う砂浜を一行は後にする。やがて波が全てを洗い流し、海に返すだろう。

 魚人達を焼き殺すために、度数の高い酒である海のアブサンの在庫も使い切ってしまった。村にもう海のアブサンはなく、これから生産される事もない。

 

 谷岡豪は概ね満足だった。海のアブサンの販路開拓には失敗したが、谷岡組の新しい三人の舎弟と、人が途絶えたとはいえほとんど丸々村一つ分の広大な土地を手に入れた。使おうと思えば幾らでも使い道はある。

 

 森ヤーティはポケモンゲットには失敗したが、バケモンゲット(殺)には成功した。しばらくの間水系ポケモンを見るたびに忌まわしい記憶のフラッシュバックに悩まされたが、万能の精神薬である時間は苦痛を和らげ、徐々に何気ないポケモンマスターを目指す日常へ戻っていった。

 

 久津見岳雄は完全勝利を果たした。依頼通り祭司の靴(素足)を磨いた(舐めた)し、打権村に残された現金をかき集め自分への報酬に当てた。命を助けた清和菜子に交際を申し込んだところ、物凄く複雑な表情で「ちょっと無理です」と答えられたのは勇猛果敢にして神算鬼謀なる久津見をして理解し難かったが、凄すぎる自分の活躍に気後れしてしまったのだろうと納得した。

 今日も久津見はどこかで靴を磨いている。

 

 佐村河内攻は全てが終わった後、HPLに事の次第を伝えた。漁村にいる間は電波状況が悪く連絡できなかったが、元よりHPLには調査結果を報告する取り決めがある。名前も知らない電話の受け手は終始黙って佐村河内の報告を聞いていたが、最後まで聞き終わると、「分かった。後処理はしておく」とだけ言った。

 後日、佐村河内はオカルトを扱ったニュースサイトで「北海道の漁村跡の海岸に五メートルはある魚人の死体があがった」という小さな記事を見つけた。佐村河内はスマートフォンを開き、石版の写真を眺める。そこには確かに、崇められ生贄を捧げられる一際巨大な魚人の絵が刻まれていた。

 あの晩、佐村河内達はせいぜい二メートルサイズの魚人しか焼き殺していない。誰かが、結局見ることの無かった真の魚人の首魁を殺したのだ。

 怪物を超える怪物を殺した者が誰か、佐村河内はぼんやりと予想がついた。しかしそれを電話口の向こうの名前も知らない誰かに尋ねるのも、怪物を相手にするのと同じぐらい恐ろしいような気がして、佐村河内は賢明に口を閉じ、些細なニュースは忘却する事にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どこかの町のどこかの一室で、一人の壮年の男の姿をした存在が受話器を置き、呟いた。

 

「そうか。探索者、か……」

 




――――【谷岡 豪(31歳)】谷岡組 組長

STR13 DEX13 INT13
CON13 APP13 POW13
SIZ13 SAN50 EDU13
耐久力13 db+1d4

技能:
 恐喝(言いくるめ)83%、運転(黒塗りの高級車)61%、
 応急手当50%、聞き耳55%、経理40%、図書館45%、法律35%
 目星55%、拳銃76%、キック55%、組み付き55%、隠す24%

――――【森 ヤーティ(28歳)】ポケモンセンター店員、谷岡組 構成員?

STR8  DEX10 INT18
CON7 APP10 POW16
SIZ11 SAN71 EDU17
耐久力9

技能:
 ポケモン厳選99%、ポケモンバトル99%、ポケモン知識99%
 運転(自動車)42%、オカルト45%、コンピューター51%
 生物学51%、変装60%、電気修理40%


――――【久津見 岳雄(26歳)】靴磨き職人、谷岡組 構成員?

STR6  DEX18 INT10
CON10 APP9 POW14
SIZ8  SAN69 EDU13
耐久力9

技能:
 オカルト(靴)31%、芸術(靴磨き)99%、製作(靴磨き用具)99%
 追跡(靴)80%、目星(靴)55%、歴史(靴)42%


――――【佐村河内 攻(54歳)】ゴーストライター、秘密結社HPL所属、谷岡組 構成員?

STR13 DEX14 INT12
CON9 APP11 POW11
SIZ11 SAN48 EDU14
耐久力10

技能:
 オカルト89%、聞き耳99%、隠れる60%、芸術(作曲)1%
 芸術(小説)89%、忍び歩き60%、信用65%、
 人類学19%、歴史70%、クトゥルフ神話5%


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3-2 フルメタルクトゥルフ

 田所浩二は暴力団谷岡組の構成員である。

 浅黒い肌に逞しい上半身。ヤンキー時代に組長である谷岡に拾われ、以来恵まれた体格を生かし武闘派として鳴らしてきた。極真空手と並ぶ二大流派、迫真空手を身に着けた田所の容赦無い実戦空手は有名で、敵対組織にはその暴れぶりから「野獣」と称され恐れられた。

 

 しかしそんな田所も秘密結社HPLなる謎の組織との抗争の際、両目に矢を受けてしまい失明。昏睡からの大手術とそれに伴う長期の入院を余儀なくされる。田所は最新式のバイザー型視界補助器具を装着する事でなんとか視力を取り戻す。そうして生死の境から這い上がってみれば、谷岡組は既に空中分解、離散していた。

 田所は嘆き悲しんだ。あまりの理不尽に吠え猛り、一時は錯乱してお気に入りの枕を八つ裂きにするほどだった。しかしすぐに立ち直り、尊敬する親分、谷岡の後を追った。谷岡ならば必ず再起に向けて奮闘しているだろうという確信があった。

 

 調べによると、田所が昏睡状態の間に谷岡は北海道の打権村に赴き、現地で得た構成員と共に密造酒の販路を開拓したようだった。

 流石親分は格が違った。田所は敬愛を新たにし、さっそく谷岡の下に馳せ参じ……ようとしたのだが、夕方に訪れた東京都世田谷区下北沢にある谷岡の邸宅はもぬけの空だった。

 

「おかしい……おかしくない?」

 

 邸宅の明かりはついている。が、呼び鈴を鳴らしても反応が無かったためドラノブを捻ってみると、不用心にも邸宅の鍵は開いていた。警戒心が高まる。谷岡は鍵をかけ忘れるような間抜けではない。

 田所は秘密結社HPLとの抗争を思い出した。抗争中は不自然な失踪や、怪奇現象が多発した。まさか再び奴らの魔手が伸びたのでは。田所はケツの穴を引き締め、心の中で谷岡に不法侵入を謝り、邸宅に踏み入った。

 

 邸宅は全盛期の谷岡が金にあかせて建てたモダンな造りのもので、独り暮らしには不相応なほどに大きい。田所はよく招かれて酒盛りをしており、勝手は知っている。

 ポストには定期購読している朝刊がねじ込まれている。朝刊の見出しは全て最近連続している通り魔事件に関するもので、つまりは三日前から投函されたまま回収されていない事が分かる。三日前に何かあったのだろうか? 玄関から見渡した限りでは荒らされた様子もない。ただ、見なれない靴が一足、踵を揃えて置かれていた。大人の男のものだ。

 谷岡の新しい靴だろうか。それとも招かれざる客のものか。

 

 懐に忍ばせた拳銃を触り、足音を忍ばせ奥へ進む。住宅地の、しかも谷岡の邸宅で発砲沙汰は避けたい。だが、もし谷岡が窮地に陥っているならば躊躇なく撃つ覚悟を決めた。

 廊下の突き当り、居間へ続くガラス戸の向こうから、人の気配がした。耳を澄ませる。人数は1。紙が捲れる音。何かが、恐らくソファが軋む音。戸の隙間から微かに漂う紅茶の香り。

 どうやら中の人物はソファに座り紅茶を飲みながら本を読んでいるらしい。谷岡に留守を任された何某だろうか。それにしては呼び鈴にも反応しない、鍵もかけない、と怠慢極まりない。

 

 何にせよ相手が一人ならば敵対しても制圧できる。そう踏んでガラス戸を開け放った。

 中に居たのは細身の男だった。白のTシャツに黒のカーゴパンツというラフな服装で、歳の頃は四十半ばほどだろうか。顔立ちも並よりは上だが普通のおじさんといった風だが、何か形容し難いスゴ味がある。修羅場を潜ってきた田所には直感的に分かった。この男、只者ではない。

 

「誰だお前」

「こんばんは。私は八坂一太郎。ただの資産家だ。君は……谷岡氏の部下かな?」

 

 直截な問いに答えた男は立ち上がり、張り付けたような無機質な笑みを浮かべ田所に手を差し出した。田所は警戒してその手を握らず、更に問いかける。

 

「田所だ。資産家が谷岡兄貴とどういう関係? 肉体関係?」

「おいやめろ! 谷岡氏には金を貸していてな。回収しに来たのだが不在で、こうして帰ってこられるまで待たせてもらっている」

「ええ……なんで居座ってんの? ここ谷岡兄貴の家だぞ。不法侵入?」

「何を言う、君達のような者にとっては居直りは常套手段だろう」

「おっそうだな」

 

 屁理屈に近かったが妙な『説得』力があり、あっさり『言いくるめ』られてしまった。珍客・八坂一太郎は依然変わりなくッ! 怪しかったが、あまりに堂々としているためなんだか面倒臭くなり、警戒を緩める。八坂の対面のソファにテーブルを挟んで座り、拳銃を見せびらかすように弄ぶ。それを見ても八坂に怯えた様子はない。

 

「タバコいっすか?」

「どうぞ」

 

 八坂が言った時には既に田所は火をつけていた。煙を吸い込み、満足気に吐き出す。

 

「おっさん、兄貴がどこ行ってるか知らない?」

「知っていればこんなところで待ちぼうけてはいない。しかし心当たりはある」

「ほんとぉ……?」

 

 ネットリ尋ねると、八坂はしっかり頷いた。

 

「谷岡氏は最近マホロバ株式会社を調べていたようだ。特に義肢部門だな。最近超高性能義肢を売りに出してちょっとしたニュースになっていただろう? それ関係を追っている、という話を聞いていた。何か後ろ暗い背景があって、それをタネに脅そうとしているような口ぶりだったな。近いうちに金が入りそうだ、とも」

「あーいいっすね~!」

 

 金! 金! 金!

 谷岡組復権に金は欠かせない。何をするにしてもまず金だ。金があって困る事はない。その出処がどうであれ。バイザーを点滅させ喜ぶ田所に八坂は続けた。

 

「が、三日前から連絡が取れなくなった。それでまさかと思いここを訪ねた訳だ」

「あ、そういう事? 兄貴がなんだっけ、その、マホロバ? にヤられちまったって事? やべぇよやべぇよ……」

 

 慄く田所。谷岡は田所ほど武闘派ではないが、拳銃の扱いに長け、クソ度胸と人徳がある。それが返り討ちとなると話は穏やかではない。

 

「状況証拠から見て谷岡はマホロバと何かしらで揉めたのだろう。しかし物証がない。警察を頼るわけにもいかん。そこでどうだろう、谷岡氏を探して金を返すよう言ってもらえないだろうか。察するに私が頼まずとも谷岡氏を探しに行きはするのだろう? そのついでだ」

「いや探さないよ? 絶対ヤバい会社じゃん。正直関わりたくないわ」

 

 きょとんとして言う田所に八坂は頭を抱えた。田所は谷岡を慕っていたが、自分の命も大事だった。

 

「はーこのクソチキン……恐らく谷岡氏は危機に陥っているんだぞ。舎弟だろう、助けに行けよ」

「あー、そうだった。どうすっかなー俺もなー。死にたくねぇしなー。イマイチやる気出ないわ。伝言伝えたら報酬とか出ないの?」

「図々しいなおい。分かった報酬もやろう。そうだな、十万やるから行ってこい」

「十万? もう一声!」

「あーもう面倒臭いなこの探索者! 導入シーンで手こずらせるんじゃねーよ! オラッ前金だ喜べ!」

「あぁ~! 札束の音ォ~!」

 

 ここぞとばかりに話を拗らせる田所に苛ついた八坂による札入り封筒で頬を叩かれ、交渉成立。田所は改めて谷岡の行方を追う事になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 竜胆(りんどう)瑠璃(るり)は私立探偵である。二十五歳になる成人女性だが、女性としても小柄な身長と童顔で学生に間違われる事が多い。縁なし眼鏡は『頭が良さそうに見えるから』という頭が悪そうな理由でかけているが、実際、竜胆は飛びぬけて頭が良かった。

 

 竜胆は知能の発達が早く、好奇心旺盛で、知りたがりだった。親は喜んで本を買い与え、塾に通わせたが、塾の方はすぐに辞めた。授業を受けるよりも教科書と参考書を読み込む方が遥かに早く確実に知識を身に着け血肉にする事ができたからである。竜胆にとって塾の特別進学クラスの授業は簡単過ぎ、退屈過ぎた。例え学年が二つ上の授業であっても、だ。

 竜胆は校内では図書室に、放課後や休日は図書館に入り浸り、本という本を読み漁った。中でもお気に入りは本格推理小説であり、知識と知恵を駆使し事件を華麗に知的に解決していく名探偵達に魅了された。

 竜胆は中学卒業後、すぐに渡米した。そして若くして世界最高学府たるハーバード大学で心理学を専攻し、博士号を取得。卒業後は大学のポスト、大企業の顧問、各種研究機関にと引く手あまたであったが、全てを断り日本に戻り、幼い頃からの夢であった探偵業を開業。現在に至る。

 

 体力も筋力もなく足で稼ぐ地道な調査は苦手で、一度荒事で右手を失い義手に換装する羽目になった事すらある。反面、ハッキングや依頼人からの口頭で得た僅かな手がかりから的確に推理を行い真実を導き出すその様は探偵小説の世界の住人と言っても差し支えない。

 彼女は新進気鋭ゆえに知名度こそ高くないものの、個人規模の捜査実力だけで見れば世界有数の、もしかすると一番の探偵であり、それは正に竜胆が幼い頃思い描いた「名探偵」の姿そのものであった。

 

 さて、そんな名探偵竜胆瑠璃であるが、親戚の宮本葵から紹介された男を事務所に招き、依頼内容を聞いていた。

 男は名を八坂一太郎と言った。宮本葵とは古い付き合いで、親戚の集まりで確かにその名を耳にした事がある。身元のはっきりした依頼人は歓迎だ。

 

 しかし注意しなければならないのは、宮本葵から彼の動向に気を付けるよう警告を受けている事だ。

 最近八坂の様子がどこかおかしいらしい。紅茶に睡眠薬を混ぜ、眠っている内に身体検査をする事すら試みたらしいが、成人男性が間違いなく昏睡する量の睡眠薬を摂取してもなお八坂は眠気に襲われる様子すら無かったという。何食わぬ顔でテーブルに置いてある来客用の梅のど飴を舐めている男はしかし何かしらの異常事態にあるのだ。

 

「今回の依頼内容はマホロバ株式会社の内部調査です」

 

 そう言って八坂は封筒の封を解き、数枚の書類を提示した。

 竜胆は書類をざっと読みながら尋ねた。

 

「ふむ。古巣の調査とは穏やかではないね。不正の疑いでも?」

 

 竜胆は宮本から紹介された時点で八坂の軽い身辺調査を行っていた。妙な事件に巻き込まれた経験が多い事が目を惹いたが、かつてマホロバ社に勤めていたという経歴も注目に値する。『お前の事は知っているぞ』と言外に圧をかけ反応を窺ったが、八坂は至って平均的な反応しか見せなかった。

 

「そうなんですよ。在職時のツテで知ったのですが、どうやらマホロバ社の研究所では危険な人体実験をしていて、犠牲者まで出ているようなんです。全く許せない! 人の命をなんだと思っているのか! しかし私一人で不正を暴くのは難しい。そこで竜胆さんのお力をお借りできればと」

 

 八坂の口からスラスラと綺麗事が並べ立てられる。竜胆は頭からこの壮年の男を疑ってかかっていたが、演技臭さも隠し事も全く読み取れなかった。この男は『信用』がおける。そう感じた。竜胆は警戒を緩めた。

 

「いいだろう。調査費用は一日四万、経費は別途請求する事になるが?」

「ではひとまず三日分、そうですね、色を付けて十五万をお支払いしておきます。それと同じくマホロバを調べている男がいまして、彼と協力するのも良いのではないかと思います。どうするかは竜胆さんにお任せしますが、彼の連絡先は渡しておきますね」

 

 八坂は気前よく調査費用を前払い一括で置いて去っていった。

 それを愛想笑いで見送った竜胆は、八坂の姿が消えた瞬間に笑みを消した。窓際に立ち、キセルにペパーミントを入れて火をつけ、刺激臭で灰色の脳細胞を活性化させ黙考する。

 マホロバ社といえば日本を代表する大手電子機器・電機メーカーである。マホロバ製品は卓越した技術に裏打ちされたブランド力で世界を席巻し、海外でも高い人気と信頼を勝ち得ている。年商は一兆円近い。後ろ暗い事の一つや二つやっていても何の不思議もない。

 もちろん、不思議ではないだけで許される事ではない。特に八坂の言葉通り、本当に人体実験で死者を出しているならば。

 

 調査は慎重に行う必要があるだろう。竜胆の右の義手もマホロバ製だ。他社製品と比べると精密性・強度など全てが何段階も上回り、最早日常生活を送る上で切っても切れない。マホロバ社の一部門が不正を行っているからといって全てが腐っているとは限らない。真相を暴きつつ、事を荒立てないよう穏便に解決する必要がある。マホロバには恩があるのだから。

 差し当たってはまず八坂に紹介された男と接触を試みるところからだ。

 考えをまとめた竜胆はインバネスコートを羽織り、ハンチング帽を目深に被り、キセルを懐に入れ、電話をかけながら事務所を出発した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 正午、喫茶店で待つ竜胆の元に目立つバイザーをつけた浅黒い肌の男がやってきた。電話口で特徴を聞かされてはいたが、なるほど確かに見れば分かる。

 竜胆がキセルを振ってみせると、男はすぐに気付いて店員に一言断り、いそいそと席についた。

 

「あっ、どーもどーも田所浩二ですよろしく~」

「ああ、よろしく。竜胆瑠璃だ」

 

 馴れ馴れしく差し出された手を笑顔で握る。田所の到着までの間に軽くネット上で情報を漁ったところ、どうやら暴力団谷岡組に所属する鉄砲玉らしい。危険な男だが、不思議と身の危険は感じなかった。装着しているバイザーがカタログで見た事のあるマホロバ製視界補助器具であり、同じマホロバユーザーとして親近感が持てる事が一つ。どうにもホモ臭く女性としての身の危険が無さそうな事がもう一つだ。

 奇妙な事に初対面だというのに同じ情報を探索する者としての形容し難い連帯感があった。田所も同じ感覚を抱いているらしく、すぐに協力して事にあたろうという事で話はまとまった。

 一通り情報を交換し、竜胆はキセルを取り出しペパーミントを詰めながらつらつらと考えを述べる。

 

「短絡的に我々が知り得る情報を結び付けるならば、マホロバを探っていた谷岡氏は逆にマホロバに囚われ、人体実験に利用された。と、こういう筋書きになるか」

「義肢部門ってとこが怪しいんだよな。とりあえず殴り込み行く?」

「そんなとりあえず生! みたいに言うものではないよ君」

 

 何も考えずにノコノコ出て行けば谷岡氏の二の舞になりかねない。まだ谷岡氏がマホロバに囚われたという確たる証拠を掴んだわけではないのだが。

 調査し、考える事こそ探偵の本領。熟考の上で慎重に事を運ばなければならない。

 

「義肢部門は調査対象候補として上げておこう。あと調べるべきは、そうだね、人体実験を疑うとして会社ぐるみで行っているのか、一部門の暴走なのかははっきりさせておきたいところだ。本社の経営状況、義肢部門の提携・協力先を洗い出し、敵と味方をはっきりさせておくのは重要だろう。ハッキングないしは社員に小金を掴ませ情報を引き出す、といった手が使えるな」

「はえー……すっごい頭良さそうな作戦……俺役に立つとこある?」

「実力行使の面で期待しているよ」

 

 どれだけ策を巡らそうと、竜胆は小柄でひ弱な女性である。推理を披露し犯人を追い詰めたとしても、逆上した犯人に襲われたら死ぬ。武闘派ヤクザである田所が睨みを利かせてくれる状況は実際大変ありがたかった。

 

「なるほどなー。ところでさあ……お前さっきからチラチラ俺達の事見てるだろ」

 

 深々と納得した田所は急に竜胆の背後に声をかけた。竜胆が振り返ると、観葉植物を挟んだ後ろの席で聞き耳を立てていた女性がびくっと痙攣し目を泳がせる。

 

「えっ!? み、見てないです」

「嘘つけ絶対見てたぞ。何か言いたい事あるなら言えよほらほら」

 

 腰を浮かせ前のめりになって威圧する田所。大柄で屈強な男の威圧はそれはもう恐ろしかった。

 しばらくモジモジしていた女性だったが、声をひそめて言った。

 

「あの、実は竜胆さんが事務所を出てから尾行していたんですけど――――」

 

 竜胆は田所のバイザーが自分に向けられるのを務めて意識しないようにした。頬が赤くなる。探偵ともあろうものがいかにも素人らしい女性の尾行に気付かないとは不覚。

 

「話を聞いて私も協力できないかな、って……」

「OK!」

「いやOKではないだろう」

 

 即答した田所を制し、立て続けに質問をぶつける。

 

「何故私を尾行した? 何故協力しようと思った? 仮に協力するとしてどのような協力が可能だと言うんだい?」

「最初はお父さんを尾行してたんです。お父さんが何か依頼をしていたようなので、気になって竜胆さんを尾行しました。ごめんなさい。協力しようと思ったのは……お父さんはいつも私に秘密にしてる事が多すぎて。特に、なんて言うのかな、オカルト的な……神話的な? 事件には関わらせてくれないんです。私も知りたいのに、心配なのに。お父さんが一人で全部やって大丈夫なはずがない。だからこの調査を通して少しでもお父さんがやってる事、やろうとしてる事、考えてる事を知れたら。だから協力しようと思いました」

「ふむ……君、名前は」

「八坂。八坂蓮です」

 

 竜胆はすぐに八坂一太郎の義理の娘の名前と彼女の名前が一致する事に思い至った。資産家である一太郎の娘と考えれば、彼女の上品な身なりも頷ける。親戚の宮本が時折幼少時の彼女を預かっていたという話もあり、あながち竜胆と無関係という訳でもない。

 つまりはお父さんのナイショのお仕事の内容を知りたい、お父さんが心配、という動機らしい。尾行理由と合わせてひとまず整合性は取れている。

 

「本人に親父ィ何やってんのー、って聞けばいいんじゃないの?」

「聞いても絶対に教えてくれないんです」

「あっそっかぁ。そら尾行したくもなるわな」

「なるか?」

 

 普通は秘密を暴くために尾行などしないだろう。八坂蓮は同性から見ても整った美貌に行動力まで伴ったお嬢様らしい。

 

「あと私にできる事ですけど、古書修復が得意です! ラテン語と英語もできます。古本屋に勤めているので、稀覯本の知識もあります」

「なるほど。それが日本の誇る大企業の内部調査にどう役立つと?」

「……役に立たないです。あっ潜入とか得意です! こう、メイクの応用で変装したり、足音を殺してささっと動いたり」

「ふむ。しかしだね、私としても依頼人の娘を組織的犯罪捜査に連れ歩くわけにもいかないのだよ」

「でも、」

「まあ待ちたまえ。とはいえ、だ。君の行動力とこの浅黒い大男にも怯まない胆力から察するに、我々が同行を拒否すれば単独でマホロバの暗部を追う事は想像に難くない。明らかに危険な状況になった時にはこちらの指示に従う、という条件付きで同行を許可しようと思う。家族を心配し、隠し事が気になるその気持ちも理解できる。どうかな、田所君」

「いいんじゃない? 俺早くマホロバ調べに行きてぇわ」

 

 田所はせっかちな性格らしい。囚われの身になっている可能性がある兄貴分の事がそれだけ心配なのだろうが。

 話し合いは大切だが、話し合いだけで事態の進展は望めない。田所の言う通り三人はさっさとマホロバの調査を開始する事にした。

 

 マホロバの義肢部門が怪しいという話だったため公式サイトを調べたところ、二年ほど前に開発部門から独立した小さな部署だと分かった。

 高い評価を得ているマホロバ製義手ではあるが、その開発を担っている義肢部門の社員数は不自然なほど少ない。竜胆がマホロバ社のサーバーをハッキングして更に探りを入れたところ、主任研究員の『神崎 正道』が本社からの厚いサポートの元で開発を一手に担っているらしい。投資金額が非常に多く、大きな期待を寄せられている事が分かる。さぞ有能な研究員なのだろうが、流石に多様なマホロバ義肢の開発をたった一人で全て行っていると考えるのは無理がある。何かしらのカラクリがあると考えて然るべきだ。

 義肢部門の設計図や事業計画などの細部はネットから独立したスタンドアローンのコンピュータに保管されているらしく、そこまでは掴めなかった。

 

 一方、田所と蓮はマホロバ支社内にある義肢開発局を訪ねた。

 田所はマホロバ製の義肢ユーザーである。不調を訴え、点検を要求すれば内部に潜入ないしは研究員に会う程度はできるものと思われた。

 が、ダメ!

 受付嬢に追い返されてしまう。

 

 曰く、高性能がウリのマホロバ製義肢であったが、ここ数日不調を訴える顧客が急増し、あまりのクレームの数に一時メンテナンスの受付を停止しているという。

 後日公式に対応の発表があるため、それを待って欲しい、という話だった。

 確かに田所のバイザーも壊れたというほどのものではないがどうも反応が悪い。時折奇妙に震えたり、妙な映像が映し出されたりするのだ。

 ここぞとばかりにクレームをつけ金を巻き上げようとする田所であったが、「弁護士を呼びます」の一言で打ち据えられた子犬の如く弱々しい鳴き声を上げて撤退する他無かった。ヤクザ者である田所には探られて痛い腹しかない。

 

 そして田所が騒ぎを起こしている間に、八坂蓮は社員のフリをして潜入調査をした。

 結果、公式には支社内部にあるはずの義肢開発局が倉庫になっている事が判明する。最近移転したのかといえばそんな事もなく、実際の義肢開発局がどこにあるのか誰も知らない。これもまた疑わしい新事実だった。探れば探るほどマホロバは怪しい。

 

 それぞれが一通り調査を行った後、一行は東京某所の公園に集まり捜査結果を報告しあった。

 情報共有を終え、さあこれからどうするか、という話に入ろうとしたところ、茂みの中から飛び出してきた男の奇襲を受けた。

 

 その男は青白い顔に目だけがギラギラと輝き、焦げ跡のある服にべったりと血のりをつけ、早口にぶつぶつと意味の分からない事をまくし立てている。

 完全な不意打ちで組み敷かれた田所は、工具を無茶苦茶に振り回す狂気の男にビビり散らす。

 

「ア、アバーッ! 怖い!」

「落ち着きたまえ、田所君! 押し返すんだ! それでもスジ者かい!?」

 

 竜胆は助けに行きたいのは山々であったが、貧弱な自分では振り回す工具の一撃で昏倒しかねない事を承知していた。

 一体男は何者か? 調査に勘付いたマホロバの刺客なのか? 真実を知るため観察に勤める。なお八坂蓮はオロオロしていて役に立たない。

 様子を窺う竜胆は、男の服と体についた焦げ跡と火傷の特徴から、彼が強力な電気を浴びたのだと見抜いた。更に完全に正気ではなく工具を無茶苦茶に振り回しているが、それは攻撃しようとしているよりもむしろ田所のバイザーを破壊しようとしているように見える。

 

「怖……くないッ! オラァ!」

 

 一転攻勢ッ! 奇襲のショックから立ち直った田所が拘束を振りほどき、汗臭く逞しい筋肉を十全に生かし逆に男に密着して組み伏せる。

 マウントを取った田所はねっとりした笑みを浮かべた。

 

「へへっ、さぁてどうしてやろうか」

「田所さん、その男、最近の通り魔事件の犯人です! ニュースで見ました! 気を付けて下さい!」

 

 八坂蓮が叫び、二人は男の顔をまじまじと見た。男はどう見ても気が触れている。

 何か引っかかりは覚えるが、白昼堂々人に襲い掛かる危険人物を捕獲できたと考えれば不幸中の幸いだろう。

 

「あ゛ーッ! あ゛ーッ! ダメだダメだダメだ俺っ、俺が止めるんだ止めなければ離せ離せ……離せェェエ!」

「ふぁっ!?」

 

 完全に男を組み伏せていた田所だったが、絶叫と共に尋常でない力で跳ね起きた男に吹っ飛ばされた。

 男は足を逆関節に屈脚させる有り得ない走り方で、集まりはじめた野次馬を跳ね飛ばすようにして信じがたい速度で逃げていった。

 田所はその様子と組み伏せていた時の感触から、男の両足が義足であった事を知った。

 

「なるほど。アレでは警察の捜査から逃げきる訳だ。まあ逃げていったならば危険人物をわざわざ追う事もあるまい。我々はマホロバの調査に集中して――――」

「あの男の両足さあ、義足だったわ。たぶんマホロバ製」

「――――何をしている!? 奴を追うぞ!!!」

 

 明らかにマホロバに関係する手がかりである。一行は急いで男を追った。

 とはいえ到底人間には出せない超スピードで逃げ去った事に加え、出遅れて見失ってしまった。

 街中の一角で三人は周りを見回すが、どこにも男の姿は無かった。

 

「いやこれ追いつけないでしょ。どこに逃げたかも分かんないしさあ」

「いいや、逃走先の特定は可能だ。初歩的な事だよ、田所君。闇雲に追っても効率が悪い。逃走する者の心理を考えるんだ。真っすぐ逃げるか? いや違う。小道に入る、人目を避ける、そして緊急時に脳裏に閃く逃走先は最も馴染み深い安心できる場所だ。彼は正気では無かったが、茂みに隠れ奇襲をかける程度の理性はあった。ならば、そう、例えばこんな細道は正に……見通しの良い直線は通らないと仮定し……そら、痕跡を見つけた」

 

 竜胆の卓越した観察眼と追跡能力により、三人は過たず見失った男の足跡を辿る事に成功した。

 八坂蓮は尊敬の目を向け、田所も称賛を隠さない。

 

「すげぇ! 探偵みたいだ!」

「探偵なんだが」

「そうだったわ」

 

 痕跡を辿り到着したのは、大通りから離れ奥まった場所に建てられた小さな建物だった。

 手がかりは建物の前で途切れている。

 

「奴の本拠地、か?」

「表札も看板も無いですね」

 

 建物は住居というより何かの施設のようだった。窓は少なく、デザインは簡素で、中に何があるのか窺い知るのは難しい。

 周囲に隠れられるような場所はなく、男はこの建物の中に入ったと推測された。さてどうするか、と相談する間もなく、田所の耳が建物の中から小さくくぐもった叫び声を捉えた。それは聞きなれたものではなかったが記憶に新しい、あの狂人のものだ。

 

「あっ……あの男中にいるっぽいっすねぇ」

「なぜ分かる?」

「声が聞こえた。小さいけどなんか叫んでる」

「ふむ? 田所君の聞き間違いでなければあれだけの叫び声がほぼ聞こえないほどに抑え込まれている、という事か。随分防音性が高いな……何の建物だ?」

「入ってみようぜ!」

「待て待てそんな迂闊な事は」

「ピンポン押すぐらいならタダじゃない?」

「それは……そうだな」

 

 田所は気楽に呼び鈴を押した。少し間を置いて叫び声が止まる。それから更に間を開け、玄関口が空いた。

 姿を見せたのは白衣を着た女研究者だった。三十代前半だろうか、十人並みの容姿に薄く化粧をしている。典型的な働く日本の女性三十代、と言った雰囲気だ。

 

「こんにちはー。すみませぇん、なんかこの建物の中からものすんごい叫び声聞こえたんですけど大丈夫なんですかねぇ?」

「叫び声、ですか? いえ、私は聞いていませんが……」

 

 女性は不思議そうにしている。竜胆は小首をかしげる動きや目線の方向、声色などから本心を読み取ろうとしたが、よく分からなかった。田所の来訪に身構え上手く演技をしているのか、本当に叫び声に覚えが無いのかどちらかだ。

 

「いえね、えーと、あのー、なんだっけ、そう、連続通り魔。ニュースでやってたじゃないですか、その男がこのあたりに来てましてね。俺達はそれを追いかけてたんですけど、この建物のあたりで見失って。もしかしたら、あー、もしかしたら……?」

「もしかしたらこの建物に逃げ込んだのではないかと思いまして。中を確認させてもらう事はできますか?」

 

 上手い言い訳が思いつかずグダりそうになった田所の言葉を竜胆が引きつぐ。女性は「まあ」と驚いた様子で手を口元に当てた。

 

「私は研究室にいたもので気付きませんでしたが、中に入られている事もあるかも知れません。確認を……警察に通報した方が?」

「いえ、まずは様子を見ましょう。誤報で警察の方の手を煩わせるのは良くない。差し出がましいようですが、この建物にはおひとりで? よろしければ我々も捜索を手伝いますが?」

「ええ、お願いします」

 

 怯えた様子で頼んで来た女性に注意を払いつつ、三人は建物の中に入った。

 竜胆の目からして、女性の行動は不審だった。内部調査を打診したのは竜胆だが、それが受け入れられるのはおかしい。

 

 不審者が侵入したかもしれないといって、その確認のために不審者を招き入れるだろうか?

 連続で人を襲っている狂人が家に侵入しているかも知れないのなら、普通は家から出て別の場所に避難するのではないか?

 個人的なこだわりや勇気・正義感・善性の問題で片付ける事はできるが、やはり違和感は拭えない。

 

 建物内部は廊下に観葉植物が置かれ、ソファがあり、ウォーターサーバーも置かれていた。誰かの自宅というより研究所のようだ。各部屋の入口にはカードリーダーがあり、セキュリティカードが無ければ開かない仕組みになっている。四人で固まって二階建ての建物の廊下を確認したが、誰も隠れてはいなかった。

 竜胆は部屋の中も確認した方が、と提案したが、通り魔がセキュリティを破り室内に侵入したとは考えられない。

 可能性としては、

 

①叫び声を聞いたのは聞き違いで、建物内に男はいない。

②建物内に男がいるが、女性が匿っている。

 

 このどちらかになる。そこまで考え、竜胆は女性の名前をまだ聞いていない事を思い出した。

 

「失礼ですが、お名前は?」

 

 竜胆が尋ねると、女性は薄く笑って答えた。

 

御厨(みくりや)映月(はづき)です。このマホロバ義肢開発局の副所長を務めさせて頂いています」

 

 竜胆は心臓がひっくり返るような嫌な感覚に襲われた。

 偶然秘匿されたマホロバ義肢開発局に辿り着いたというのか? そんなはずはない。

 罠だ。間違いなく罠だった。どこからどこまでが恣意的な誘導だったのかは定かではない。しかし彼女が意図的に嗅ぎまわる邪魔者を自らの牙城に招き入れたのは確実だろう。

 

「そうですか。これだけ調べてもいないとなれば聞き間違いだったのかも知れませんね。御迷惑をおかけしました。では、我々はこれで」

「お待ちください。その右手は我が社の義手では? そちらの方も視界補助器具を使っていらっしゃる。既にお聞き及びかも知れませんが、最近弊社製品の義肢の不調が報告されておりまして、これも何かの御縁でしょう、よろしければメンテナンスをしていかれてはいかがでしょう? もちろん無料ですし、時間もそれほどかかりません」

「ありがたいお話ですが……」

 

 御厨は何を考えているのか分からない。まさか味方ではないだろう。

 一度引いて耐性を立て直すべきと判断し断ろうとしたが、後ろで何やらコソコソしていた田所が耳打ちしてきた。

 

「窓も玄関も開かんわ。ロックされてる」

 

 舌打ちを我慢するためにかなりの忍耐力が必要だった。

 あまりに迂闊だった。内部に閉じ込められる可能性を考慮して然るべきだった。

 

「……いえ、そうですね。せっかくですしお言葉に甘えさせて頂きます」

「では主任の元にご案内しますね」

 

 今のところ表向きは平和的な対応をされている。事を荒立てるのは最終手段として、ひとまず口車に乗る事にした。

 御厨は廊下の突き当りの部屋に一行を連れて行き、セキュリティドアを開けて中に入るよう促すと、自身はどこか別の場所へ立ち去った。

 

 部屋にいたのは見るからに憔悴し、目の下に濃いクマを作った白衣姿の男性だった。歳は40前後に見える。彼が義肢を開発した神崎正道で間違いない。事前調査で見た顔写真とも一致している。

 男は予想通り神崎正道と直り、手早く田所と竜胆の義肢を点検した。その手際は淀みなく、確かに彼が開発者なのだと明白に示すものではあったが、一連の作業中どこか上の空であったのが気にかかった。

 

「はい、お二人とも異常ありません。お疲れ様でした。余裕があれば半年に一度のメンテナンスをおすすめします」

「ありがとナス! ところでさあ、例の通り魔の義肢さあ、めっちゃ高性能だったけどアレどうなってんの? アレも神崎さんが作ったんでしょ? なんか違法な事やってない?」

 

 ノーモーション超絶ド直球ストレートで核心に切り込んだ田所の足を竜胆は踏んづけた。

 その聞き方でボロを出す奴があるか? そうです違法な技術を使っています人体実験もしています、などと白状するか?

 最悪の事態を覚悟し頭を抱えた竜胆だったが、驚くべき事に神崎はあからさまに動揺し目を泳がせ始めた。

 

「い、いえ、法に触れるような事は何も。あの、あなたは彼の、北上氏の知り合いですか?」

「襲われた。今通り魔やってるのは知ってる? あれは……趣味とかなんですかねぇ」

「そんな訳があるか。神崎さん、我々は今この件について調査しています。しかしできれば穏便に、事を荒立てず問題を鎮静化したいとも思っている。何か知っている事、不安に思っている事などがあれば教えて頂けませんか? 必ず力になります。誓って神崎さんの不利になるような事はしません」

 

 真摯に――――あるいは真摯に見えるように言い聞かせたおかげで、神崎はぽつぽつと話しはじめた。

 

 以前はマホロバ社に所属するしがない一技術者であった神崎だが、ある日から見るようになった夢にインスピレーションを受け、義肢を設計した。

 その義肢には未知のメカニズムの回路が使われていて、実のところ、何故正常に作動しているか神崎自身にも把握できていない。まさか夢のお告げ通りに組み立てていると白状するわけにもいかず、周囲からは革新的発想力を持つ技術者であると認識され、社長からも大きな期待をかけられ、まあ自分の発想力の賜物である事は間違いないし悪くない気分だ、と勘違いされるままにしておいた。

 一番最近の夢に出てきたのはロボットの頭部のインスピレーションであるが、自分はあくまでも義肢製作者であって、人間の頭部を四肢にそうするように機械に置き換えるなど論外も良いところ。未知のメカニズムについて理解を深めるために造りはしたが、公表はしていない。

 

 問題が起きたのは数日前。両足に神崎が製作した義足を装着している北上武蔵という男が義足の不調を訴え、訪ねてきた。メンテナンスの準備をしている間、見学でもしていてもらおうと副所長の御厨映月に案内を任せたところ、大きな悲鳴が聞こえ、何事かと現場に駆けつけた。すると北上が狂乱しながら頭部を保管していた部屋から飛び出して、そのまま逃げていった。驚いて部屋の中を見ると、頭部へコードとワイヤーがするすると収納されていくところだった。

 それは一瞬の事で、気が動転していたので、気のせいかもしれないが、脳裏にこびりついて離れない。もちろん頭部にはコードやワイヤーが勝手に飛び出たり収納したりするような機能はついていない。

 部屋の電気機器はショートしていて、落雷があったかのようだった。以降、頭部には変化は見られないが、どうも不気味である。

 その事件から前後して制作した義肢の不調を訴えるクレームが急増し、自らが設計した義肢に何か致命的な欠陥があるのでは、不安に怯えている。

 

 話を聞き終わった三人は顔を見合わせ、八坂蓮が代表して尋ねた。

 

「その頭部は今どこに?」

「隣の部屋にまだありますが」

 

 短い沈黙が降り、田所が言った。

 

「ここまで兄貴の手がかり全く無いのほんと草」

「ああ、君は兄貴分の手がかりを探していたのだったか。ふむ、どうするべきか」

「神崎さん兄貴知らない? 谷岡豪っていうんだけど」

「すみません、聞き覚え無いですね……」

 

 竜胆は熟考しつつ部屋の窓に手をかけるが、しっかりロックされていた開かなかったし、鎧戸まで下りていた。

 

「神崎さん、現在この研究所の出入口にロックがかかっているようですが解除できますか?」

「ロックが? いえ、すみません。そういった事は副所長に任せているので」

「…………」

 

 全ての黒幕が副所長である疑いが濃厚になってきた。神崎が嘘八百を並べたてていて煙に巻こうとしている可能性もあるが。

 竜胆がそれ以上質問と推理を進める前に、隣の――――頭部が保管されているはずの部屋から悲鳴が上がった。今日だけで何度も聞いた通り魔、つまり北上の声だった。

 

「野郎! やっぱりここにいるんじゃねぇか!!!」

 

 叫んだ田所が真っ先に隣室へ駆けだす。少し遅れて残りの面々も後を追った。

 隣室に飛び込んだ一行が目にしたのは、部屋の中央のテーブルに置かれた欠損パーツだらけの人型ロボットから伸びたワイヤーとコードに足を掴まれ宙吊りにされた北上の姿だった。口から泡を吹き、半狂乱で暴れている。

 呆気に取られる一行が見ている目の前で、北上の下半身ごと無理やり引き千切るようにして義足がもぎ取られ、本体と合体する。足を得たロボットはぎこちなく立ち上がった。

 そのロボットの機械の体は足を得た事でほとんど揃っていたが、目と右手だけが欠けている。

 竜胆の右手と田所のバイザーがロボットに吸い寄せられるように振動を始めた。

 

 有り得ざる怪奇を目撃した神崎が絶叫し、気を失う。

 

 ロボットが何かを求めるように左手を伸ばす。何を探しているのか分からないほど愚鈍な者はこの場にはいない。ロボットはチク、タク、と破滅の時を刻むような音を立て、伸ばした左手に紫電を閃かせた。

 

「いかん! 逃――――」

 

 竜胆の警告より早く、電気が田所に向かって放射される。

 

「アバババーッ!」

 

 体をくの字に曲げ痙攣し、悲痛な声を上げた田所は煙を上げ白目を剥いて倒れ込む。そしてそのまま痙攣を繰り返すだけの置物と化した。

 死んではいないようだが、到底動ける状態ではない。

 

 武闘派最大戦力が開幕で戦闘不能に追い込まれてしまった。

 これは無理だと判断した竜胆が田所を引きずって撤退しようとするが、いつの間にか部屋のドアは閉まっており、ロックまでかけられている。閉じ込められたのだ。

 

「や、やぁああーっ!」

 

 八坂蓮がパイプ椅子を振り上げ、勇敢にも機械仕掛けの怪物に殴りかかる。無謀だと思われた攻撃だったが、パイプ椅子は確かに命中し、ロボットは金属の体を軋ませ少しだが確かによろめいた。

 

「何!? 倒せる、のか!?」

 

 ドアは封鎖され、密室には殺人ロボット。生き残るには、事態を打開するには、倒す以外に道は無い。屈強な田所を一撃で戦闘不能に追い込んだ事から人の手に余る存在だと錯覚したが、八坂蓮の果敢な行動によりどうしようも無い存在ではないらしいと判明した。

 とはいえ非力な女性が二人で殴りかかっていては、ロボットを破壊するより電撃攻撃で全滅する方が早いだろう。

 竜胆は脳みそをフル回転させた。単純な攻撃以外で効率よくロボットを破壊する方法は?

 

 何か使える物は無いかと見回し、テーブルの隅に部品の洗浄用だろうアルコールのガロン瓶が置かれているのを見つけた。

 閃きが走る。電気で攻撃しているという事は、当然電気系統で動いているのだろう。未完の機械の怪物は配線が剥き出しで、液体をかければショートさせる事ができるのではないか? かける液体がエタノールなら電気による着火・炎上も狙える。

 

「八坂蓮! この瓶を投げつけろ!」

「は、はい!」

 

 自分もガロン瓶を掴みながら蓮に言う。

 蓮が投げつけた瓶はロボットが鞭のように振り回すコードに迎撃され弾かれてしまったが、竜胆が投げた瓶は見事命中して割れ、中身のエタノールがロボットの全身にかかる。

 

「よし! 隠れろ!」

 

 竜胆が神崎を、蓮が田所を引きずって机の後ろに隠れる。

 ロボットは数回机越しにコードを振り回し打ち据えようとしてきたが、効果が無いと見たのか攻撃法を変える。

 ロボットの左手に紫電が再び閃き……そして電気が弾ける耳障りな音と共に燃え上がり、もがきながら崩れ落ちて動かなくなった。

 

 竜胆の右手の義手の振動が止まり、通常の動きまで停止し、一人でに付け根から外れ床に落ちる。異質なメカニズムで稼働していた機械は完全に沈黙していた。

 机の陰から顔を出し恐る恐る様子を窺うが、機械が再起動する様子はない。

 倒したのだ。

 

 ほっと一安心した竜胆は重体の田所に応急手当を施し、意識を回復させる。タフな田所はなんとか自分では歩けるようだったが、回復には長期の入院が必要だろう。

 全てが解決したわけではなく、怪しげな副所長の処遇をどうするか、という問題はあるが、ひとまず全ての元凶と思しき存在の打倒は完遂した。

 竜胆が受けた依頼であるマホロバの暗部の調査についても、あの機械仕掛けの怪異と副所長である御厨について報告すれば十分だろう。

 

 田所に肩を貸しつつひとまず部屋から出ようとすると、部屋の扉が勝手に開き、廊下側から一人の男が入ってきた。

 その男は竜胆の依頼人である八坂一太郎だった。重体の田所、気絶したままの神崎、竜胆、そして未だ燻る機械の怪異の残骸を一通り見るが、眉一つ動かさない。蓮の姿を見て僅かに動揺したようだったが、それも一瞬の事だった。

 

「あー、八坂氏? なぜここに?」

 

 予想外の人物の登場に竜胆は困惑して尋ねた。すると、八坂一太郎は能面のようなゾッとする無表情から一変し、気づかわしげに言った。

 

「竜胆さんを信用していなかった訳ではないのですが、私の方でも独自に調査を行っていましてね。私の想定より根が深い問題である事に気付き警告するために来たのですが……遅かったようですね。しかしご無事なようでよかった。いえ、彼は無事とは言えないようですが。よろしければ車で病院まで送りましょうか? ヤクザでも詮索せず治療してくれる病院を知っています。竜胆さんもお疲れでしょう、ご自宅まで送りますよ」

 

 八坂一太郎の言動には引っかかる部分もあったが、彼は『信用』できる人物だし、言葉には力強い『説得』力があった。

 何より竜胆は奇妙な事件の渦中に置かれ、命がけの戦闘を終えたばかりで、心身共に疲れていた。緊張の糸も切れていた。早く家に帰って休みたかった。

 

「お言葉に甘えさせてもらおう。とても疲れているんだ」

「そのようですね。田所さんは私が背負っていきましょう」

 

 和やかに帰途に就こうとする三人を止めたのは、蓮だった。

 

「ねえお父さん、二人をどうするの?」

 

 その言葉は父にかけるものとしては緊張に満ち過ぎていた。

 まるで刑事が犯人に向けるような疑いの響きを帯びていた。

 声をかけられ、肩越しに振り返った八坂一太郎は、困り顔で優しく答えた。

 

「どうする……? 手当をして、自宅に送って。正当な報酬を渡すだけだ。蓮、こういう事件に首を突っ込むなといつも言っているだろう?」

「私も馬鹿じゃない。お父さんが何かしてるのは知ってる。ねえ、私の目を見て答えて。

 お父さん、少し前にも変な事件を解決した四人組の人達と会ってたけど……

 あの四人をどこにやったの?

 二人をどうするの? 本当に病院に連れて行くの? 家に送るだけなの?」

「…………」

 

 八坂一太郎は優しい笑みを浮かべたまま沈黙した。

 竜胆は朦朧としている田所の手を引き、そろそろと八坂一太郎から距離を取る。

 彼の笑顔は人を安心させるような穏やかなものだった。そして、表情が完全に固定され、ぴくりとも動いていなかった。

 八坂一太郎は笑顔を貼り付けたまま淡々と言った。

 

「未完とはいえチクタクマンを倒した事は評価しよう。しかしチクタクマン召喚のトリガーを引いた狂信者、ああ、御厨の事だが、奴を始末できなかったのはマイナスだな。おかげで私が出張って片づけるハメになった。探索者としての評価は並、というところか。引退してこれ以上神話的事件に首を突っ込まない事をすすめる。死にたくなければな」

 

 一体どういう意味なのか。八坂一太郎は低い背筋の冷える声で評定すると、最初から幻であったかのように忽然と姿を消した。

 

 訳が分からない。何か事情を知っているらしい八坂蓮に目を向けると、悲壮感溢れる様子で頭を下げられた。

 

「お願いです。お父さんを――――八坂一太郎を止めて下さい」

 

 竜胆と田所の事件はまだ終わっていない。

 

 




――――【竜胆 瑠璃(25歳)】私立探偵

STR6 DEX7 INT18
CON6 APP14 POW16
SIZ8 SAN75 EDU21
耐久力7 db-1d4

技能:
 初歩的な事だ、友よ 99%、コンピュータ69%、図書館45%
 精神分析41%、追跡60%、変装51%、経理30%、医学35%
 化学21%、考古学21%、薬学31%、心理学99%、英語61%
 ラテン語41%


――――【田所 浩二(24歳)】谷岡組 構成員

STR17 DEX13 INT10
CON16 APP6 POW10
SIZ16 SAN48 EDU11
耐久力16  db+1d6

技能:
 野獣の眼光(目星)95%、聞き耳35%、組み付き45%
 マーシャルアーツ(迫真空手)91%、キック95%、薬学61%


次回、完結。


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