シンデレラの日常 (笠原さん)
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蓮華の残火

 
久し振りにこっちも投稿
サブタイで誰の話か予測出来るかと。
 
 


 

ガヤガヤガヤ

 

 

沢山の人の間を、縫うように抜けて先へ進む。

行き交う人々に揉まれ、熱気にフラつく。

汗も酷いし、息も切れそう。

 

 

それでも、前へ。

 

 

抜け切ったら、文句を言わなきゃ。

身体が弱いっていつも言っているのに。

こんな人混みの中を引っ張り回すなんて。

さっきから頭がクラクラしている。

 

 

そんな事を考えながらも、心の何処で嬉しいと感じていた。

こんな風に、無理やり手を引いてくれる人なんていなかったな、と。

身体の弱かった私を心配するあまり、周りの人は必要以上に気を遣いすぎていて。

卑屈になり過ぎかもしれないけれど、皆私を対等に扱ってくれていないように感じていた。

 

 

自分だって分かっていた。

自分の体調、体質の事なんて自分自身が一番良く理解している。

そのせいで色んな人に迷惑を掛けてしまっていた事も。

そのせいで沢山の楽しみを逃してしまった事も。

 

 

そして今は、私だけでなく…

 

 

ぶんぶんと頭を振り、暗い思考を叩き出す。

今はそんな事は考えてられない。

まずはなんとか無事にこの人混みを抜けて落ち着ける所へ。

その為にも。

 

 

繋いだ手を、更に強く握り締めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

八月も中旬。

 

 

熱気も更に増し、シャツの袖をこれでもかと捲り上げる無意味な行動の目立つ夏真っ盛り。

つい数週前まで、まだまだ寒いだの布団を仕舞うには早いだの言われていたのが嘘のよう。

昨晩の雨の湿気と相俟って、暑さは容赦無くビルを溶かそうとしている。

今日も今日とてセミは、飽きなど来ないと言う様に街を騒音で埋めていた。

 

 

まとわりつく様な夏の塊を駆け抜け、汗だくになりながらも涼しい涼しい事務所へ走っていたのは今日の午前。

アイドルとしてそこそこ売れ始めていた私は、変装用の帽子の暑さに恨みを向けつつ駅から猛ダッシュ。

そっちの方が目立つなんて考える程度の正常な思考力もこの熱気にやられていた。

 

 

まるでお城の様な事務所の自動ドアへ駆け込み、鬱陶しい暑さと一旦御別れ。

まるで先程とは別世界の様な冷たい空間にほっと一息。

周りの目を気にしつつ、シャツの胸元をパタパタと扇ぐ。

見れば私の後に入ってきたスーツ姿の男性や制服姿のアイドルも同じ事をしてして、少し笑ってしまう。

 

 

自分の所属している部署へ向かう為、エスカレーターに乗り込む。

ありがたい事に乗員は私一人。

これまた冷房の効いた箱の中で、先程以上に大きくシャツ内へ冷気を送り込む。

 

 

「あー、暑つかった…なんでこう夏って言うのは暑いのかな…」

 

 

思わず口に出してしまう。

周りに誰も居なくてよかった。

考えても無駄な事なのは分かっているけれど、そう思ってしまうのだから仕方ない。

 

 

どうせなら過ごしやすい秋か春あたりがずっと続けばいいのに。

あ、でもそれだとクリスマスも私の誕生日も来ないのか。

そんな馬鹿げた思考で時間を浪費していると、エレベーターのパネルは目的のフロアを示していた。

 

 

ウォォオン

 

 

静かにエレベーターの扉が開く。

走ったおかげで予定の時間よりかなり早く到着してしまったけれど、その分プロデューサーとお喋りしていればいい。

出来ればだけれど、どうせなら他のアイドルはまだ来てないといいな。

なんて、少し黒い願望を頭から叩き出す。

 

 

そう言えば、今日は近くの神社でお祭りをやるって聞いたし。

どうせならプロデューサーでも誘ってみようかな。

帽子をちゃんとかぶるって言えば、断られない…はず。

うーん、でも。

 

 

かなり暑いけど、体調は大丈夫か?とか。

日焼けと脱水症状に気を付けろ、とか。

こまめに水分補給しろ、とか。

そんな小言を言われるんだろうな。

もうそこまで身体弱くないのに。

 

 

でも、私の事をそこまで心配してくれるのは素直に嬉しい。

時々鬱陶しく感じてしまう時もあるけど、やっぱり嬉しい。

出来ればもう少しその心配性を治して欲しいけど。

さーて、その心配性の誰かさんは…

 

 

「…でも…どうし…なんです…?」

 

 

部屋の内からは、ちひろさんとプロデューサーの会話が聞こえてきた。

正確には、会話しているのが分かった。

内容は分からないけど、ちひろさんが何か尋ねてるみたいだ。

 

 

「一般的…胃…です…」

 

 

それに応じるプロデューサー。

い?位?何の会話なのか全く想像がつかない。

何かの順位?こないだの人気ランキング?

 

 

そう言えばそもそも、私が部屋に入らない理由も無かった。

何の会話なのかは、直接聞けばいいだけ。

 

 

「おはよーございます」

 

 

何時もと同じ様に挨拶をしながら部屋へ入る為、私はドアノブへ手を掛ける。

それと殆ど、同時だった。

 

 

「俺、もう長くないんです…」

 

 

呼吸が、止まるかと思った。

 

 

冗談抜きで、身体も思考も一瞬止まっていた。

ドアノブへと掛けた手は動かせず、足も微動だにしない。

先程までの暑さも、少し強い冷房の寒さも、全てが吹き飛んだ。

 

 

「……え?」

 

 

ようやく動いた口からでたのは、扉の向こうにいる二人には聞こえていないであろう程度に小さな間の抜けた声だった。

頭は未だに回りきらない。

もしかしたら、考えたくないだけかもしれないけれど。

 

 

プロデューサーが発した言葉を、もう一度反復してみる。

分からない筈がない。

言葉の意味を、推測してみる。

理解出来ない筈がない。

 

 

つまり…

 

 

もう、黙って立ち竦んでなんていられなかった。

大きな音がたつのも気にせず、私は勢いよく扉を開く。

部屋の中で驚いているちひろさんを無視し、挨拶も無しに詰め寄る。

 

 

「ねぇ!どういう事?!」

 

 

誰かに聞かれているとは思っていなかったのか、プロデューサーは物凄く驚いていた。

確かに盗み聞きなんていい事では無いけれど、今はそれどころじゃ無い。

困ったような表情をして少し俯いてしまうプロデューサーに叩きつけたのは、一番肝心な疑問。

 

 

「ねぇ、長くないってどういう事なの?!」

 

 

二人はなかなか口を開いてくれない。

その状況が既に返事の様なものだと理解は出来ている。

それでも、きちんとした説明が欲しかった。

 

 

「い、何時もより来るの早いな、加蓮…」

 

 

確かに少し早いけど、こんな状況で何言ってるの?

話を無理矢理逸らそうとするプロデューサーを睨む。

やはり、私に聞かせるつもりの内容ではなかった様だ。

再び俯き、黙ってしまう。

 

 

何とも言えないモヤモヤが胸に立ち込める。

早く聞かせてほしい。

けれど、聞きたくない。

そのせいで急かす事も出来ず、苦しい空気を吸い続けた。

 

 

「…落ち着いて、聞いてくれるか?」

 

 

ようやく、ゆっくりと。

プロデューサーは顔を上げた。

その表情は当然ながら明るくは無い。

 

 

やっぱり、言わないで欲しい。

いや、だからってまだ決まった訳じゃ…

 

 

「胃癌、なんだ…あと一年もないって、医者が…」

 

 

息が、止まった。

聞き違いでも、勘違いでも無い。

頭の中では、沢山の思考が飛び交う。

 

 

癌について詳しい訳じゃないけれど、とても重い病気だとは知っている。

末期になると、もうどうしようも無い事も知っている。

でもそれが、まさか身近な人が患っているなんて思いもしなかった。

 

 

どうして黙っていたの?だなんて言えない。

言える筈が無い。

でも、だからって…

落ち着ける筈も、無い。

 

 

「ほんと…なの?ドッキリとかじゃ…」

 

 

実はよくありがちなドッキリで。

後ろでは誰かがドッキリと書かれたプレートを掲げていて。

プロデューサーかちひろさんが笑いながらネタばらししてくれて。

少し涙目で怒りながら、私はプロデューサーをぽこぽこと殴る。

 

 

もしそうなら、どれだけ幸せか。

 

 

最悪、夢オチでもいい。

聞き違いでもいい。

何でもいいから、否定して欲しくて…

 

 

二人は俯き無言のまま。

それが、返答だった。

 

 

誰も口を開かない。

沈黙が部屋を支配し続けている。

そんな状況が辛く、何かを言おうと頭を回す。

けれど、口から出たのは音を伴わない空気だけだった。

 

 

「申し訳無いけど、お前たちのプロデューサーとして働けるのも今年の末までだ…まぁ、引き継ぎ先は決まってるから、仕事に関しては心配しないでくれ」

 

 

違う、そんな事はどうでもいい。

仕事に関しては、正直全く考えていなかった。

そんな事を考える余裕なんて、今の私には無い。

 

 

「プロデューサーは…どうなるの?」

 

 

一番の疑問。

私が今、一番応えを知りたくて。

私が今、一番応えを聞きたくない疑問。

それをなんとか、言葉に出来た。

 

 

再びの沈黙。

きっと、答え難い質問だったんだろう。

私から聞いておきながら、自分の胃が痛くなってきた。

 

 

「なんとかギリギリまで仕事させて貰えるよう頼んだからな。そしたら残りは…そうだな、のんびり過ごすよ」

 

 

嘘だ。

今だって、とても辛そうな表情をしてる。

多分、のんびり過ごす余裕なんて残っていない。

その証拠に、ちひろさんはずっと俯いたままだった。

 

 

「プロデューサー…」

 

 

何か言いたい。

けれど、言葉は見つからなかった。

こんな時、どうすれば…

 

 

「…な、なーんつってな。ドッキリだよ、ドッキリ」

 

 

重い空気を打ち破ったのは、そんなプロデューサーの言葉だった。

さっきまでの苦しそうな表情なんて嘘だったかの様に、明るく笑う。

けれど、ちひろさんの表情は晴れないまま。

 

 

もう、いてもたってもいられなかった。

 

 

バタン!と。

勢いよく扉を開け、私は部屋を飛び出した。

丁度来ていたエレベーターに乗り込み、下のフロアへ。

行く宛も思い付かず、ロビーのソファに沈み込む。

 

 

…はぁ、と一息。

 

 

一体今まで、プロデューサーはどういう気持ちで私に注意してきたんだろう。

あれ程何度も体調に気を付けろという小言を素気無くし続けてきた私を、どんな気持ちで見てきたんだろう。

本当は、自分の方がよっぽど辛かった筈なのに。

そう思うと、胸が痛くなる。

 

 

まだ現実を受け入れ切れていないからか、不思議と涙は出てこなかった。

周りには人がいるから、有難いと言えば有難い。

けれど、こんな状況でしっかりと理解をして冷静で、少なくとも取り乱さずに座っていられる自分に悲しくなる。

 

 

なんだか、何も考えたくない。

思考放棄して現実逃避したい。

何かがあるわけじゃないけど、取り敢えずこの苦しさから逃れたい。

泥に沈んでいく様に、思考と意識を投げ出す。

 

 

その、直前だった。

 

 

私はふと、とある歌詞を思い出した。

歌い慣れた、私の歌。

彼が私に与えてくれた、初めての歌。

諦めていた私の夢を叶えてくれた彼からの、大切な歌。

 

 

神様がくれた時間は溢れる。

あと、どのくらいだろう?

 

 

悲劇のヒロイン気取りなわけじゃないけど、この歌は私だからこその歌だと思っている。

私の事を理解しきり、私の魅力を最大限に引き出そうとして作られたこの歌。

歌う度に、今の私は別にそこまで病弱じゃないんだけどなと思ってしまう。

けれど、それでも過去の経験からこの歌詞は痛い程に分かる。

 

 

明日が絶対来るとは限らなくて。

また明日ね、が痛くて。

夢を諦めるくらいには弱った心で送る日々。

それが、今のプロデューサーなんだって。

 

 

あんなプロデューサーの目なんて、初めて見た。

これからプロデューサー自身がどうなるのかを聞いた時の目。

まるでもう何も考えられないかの様な、空っぽな目。

もしかしたら、初めて会った時の私もあんな目をしていたのかもしれない。

 

 

だとしたら、今の私は…

今の私に、出来る事は…

 

 

ぶーん、ぶーん。

 

 

ポケットの中で、先日替えたばかりのスマホが震えた。

ディスプレイに表示されたのは、ラインの通知。

パスワードを入力し、アプリを開く。

トーク欄の一番上に表示されていたのは、プロデューサーの名前。

 

 

すぅ、はぁ…

深呼吸をして、心を落ち着けた。

十秒ほど指を迷わせ、覚悟を決めてトークを開く。

 

 

『今何処にいる?さっきの件、ちゃんと説明したいんだ』

 

 

投げ出したくなる気持ちをなんとか抑えた。

ここで逃げ出してどうする?

それで私は、後悔しない?

現実と向き合うのが怖いからって、それでいいの?

 

 

大きく息を吸い込み、指を動かす。

後悔はもうしたくない。

勝手に諦めて、逃げたりなんてしない。

 

 

だから…少しだけ、わがままに付き合ってもらってもいいよね?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「すまないな、待たせちゃったか?」

 

 

「ううん、ついさっき着いたとこ。そんなに走らなくてもよかったのに」

 

 

日も暮れ始めの夕刻。

長い影を伸ばし、プロデューサーは此方へ片手を挙げた。

風が吹き、日は傾いているとは言えやはりまだまだ暑い。

パタパタとシャツを扇ぎ、袖口で汗を拭う。

 

 

待ち合わせ場所はとある神社の入り口。

人が沢山通る鳥居前だったけれど、お互い直ぐに気付けた。

なんで神社なのに人通りが多いかと言えば、今日はお祭りをやっているから。

 

 

「ほら、折角来たんだから色々まわろう?」

 

 

もしかしたら、プロデューサーは既に色々と無理をしている状態なのかもしれない。

実は、暑い中走って来たのもかなり辛かったのかもしれない。

今も痛みに耐えて、こうして笑顔を向けてくれているのかもしれない。

 

 

我儘に付き合って貰っちゃってごめんね。

でも、大切な時間を少しでも無駄にしたくないから。

まだ割り切れてなんていないけど、それでも。

二人の時間を、素敵なモノにしたいから。

 

 

今はアイドルとプロデューサーなんて関係は忘れて。

出来る限り明るく、笑顔で。

 

 

私は、手を伸ばした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやー、祭りなんて久しぶりだったなぁ」

 

 

射的や金魚すくい。

焼きそばにたこ焼き。

祭りの王道とも言える露店を一通り巡り、神社の奥の階段で一息つく。

 

 

参加し始めた時間自体が遅かったからか、少しずつ人足は減り始めていた。

勢いで誤魔化していた疲れを取る為に、スカートが汚れるのも構わず石段の上に座る。

数段しかない石段は、あまり座り心地の良いものではなかったけれど。

 

 

「ひっぱりまわして悪かったな。ついテンションあがっちゃって。暑かっただろ?」

 

 

「夏だから。暑くて当然だよ」

 

 

さっきまではナチュラルに手を握れていたのに、今更になって恥ずかしくなり目を逸らす。

暑いと言うより、なんだか暖かいって感じだったな。

握っていた手の温もりが、まだ残っている気がする。

これもまた、夏だからなんて言われたらそれまでだけど。

 

 

どうせなら、浴衣で来たかったな。

前に撮影で着た事はあったけど、その時はカメラマンさんもいたし。

それ以前に、仕事とプライベートじゃ全然違うし。

なんて、少し贅沢と我儘が過ぎるかな。

あの時もあの時で楽しかったし。

 

 

「…な、なぁ、加蓮。今日の事なんだけど…」

 

 

ふと、プロデューサーは此方へ声を掛けた。

さっきまでの明るいトーンとは違い、苦しそうに発した声。

まるで悩んだ末に絞り出した様な、そんな声。

 

 

見れば、お腹に手を当てていた。

やっぱり、痛いのかな。

こうやって普通に会話してるだけでも辛いのかな。

 

 

…逃げるのも、ここまでかな。

そろそろ、向き合わなきゃいけないみたい。

でも、それなら。

あと、ほんの少しだけ…

 

 

「ね、ねぇプロデューサー」

 

 

出来る限り明るく、私は言葉を遮る。

不自然だと思われたっていい。

兎に角、あと少し。

 

 

「さっきの射的の景品にさ、線香花火があったよね?」

 

 

「あぁ、残念賞だったけどな。簡単そうに見えて難しいもんだよ」

 

 

そう言って抱えたビニール袋をガサゴソと漁り、中から線香花火の入った細長い袋を取り出す。

結局景品に当たったものの落とす事が出来ずに貰った残念賞だったけれど、今はお菓子やぬいぐるみよりもありがたい。

 

 

「せっかくだし、ここでやっていかない?線香花火なら、多分何も言われないと思うよ?」

 

 

「構わないけど、時間は大丈夫なのか?」

 

 

一体高校生を何だと思ってるの?

まったく、プロデューサーはいっつもそうやって心配して…

そこまで考えて、言葉を飲み込んだ。

 

 

「…もちろん、大丈夫だよ。ライターはある?」

 

 

「あるよ、ほい」

 

 

カチッ、カチッ

 

 

何度か失敗し、3度目に要約火を出す事に成功。

なんでこう、最近のライターは固いんだろう。

いや安全面を考えての事なんだろうけど、手が疲れてたら着けられないんだろうな。

 

 

ジュッと音がして、線香花火の先端に着火する。

競うわけでも無いけれどスタートを殆ど同時にしたくて、素早くライターをプロデューサーへ返す。

なんとなく意図を読み取って貰えたのか、プロデューサーも素早く手に持った線香花火へ火をつけた。

 

 

パチパチ、パチパチ

 

 

小さいながらも鮮やかに、線香花火が光を散らす。

大きな打ち上げ花火よりも、こっちの方が私は好きかな。

なんでだろ?

 

 

「花火なんて、これも懐かしいなぁ…」

 

 

「おっさんくさいよプロデューサー。他のアイドルと花火とかってしなかったの?」

 

 

「大学以来してなかったからなぁ。時間ってのはほんと早いもんだ」

 

 

時間は早い、かあ。

今のプロデューサーには、それが嫌と言うほど理解出来てるんだろうね。

 

 

…私が先に泣きそうになっちゃって。

線香花火をつまんでいる反対の袖で、スッと目元を拭う。

辛いのはプロデューサーなんだって分かっている。

それでも、だったら。

私の気持ちは、どうすればいいの?

 

 

「…ほーんと、なんで楽しい時間って一瞬なんだろうね」

 

 

ぽとっ、と。

先程まで精一杯輝いていた線香花火が降っていった。

そのまま光は衰え、地面に飲み込まれてゆく。

 

 

どうして、輝いているものは直ぐに消えちゃうの?

とうして、輝いている時間は直ぐに終わっちゃうの?

どうして…私の大切なモノは、直ぐに…

 

 

「…どんなに。どんなに時間が短くてもさ、その煌めきが無かった事になっちゃうわけじゃないだろ?」

 

 

「それは…そうだけど…」

 

 

誰かの記憶に残っていればいい?

そんなのは小説の中のヒロインだけで充分。

線香花火は儚いから良いだなんて言うけれど、それは人の命とは違う。

儚い方がいいなんて、そんな筈は無い。

そんな事は、プロデューサーだって分かってるでしょ?

 

 

「まだ…時間はまだあるんだから。これから沢山の夢を叶えてけるさ。全部終わって振り向いてから、その一瞬が儚いかどうか確かめればいいんじゃないか?」

 

 

「…プロデューサー…私は…」

 

 

プロデューサーの持っていた線香花火も、既に光を失っていた。

それでも確かに、綺麗だった。

さっきまでの短い時間、しっかりと輝いていた。

時間の長短なんて、関係無くて…

 

 

「時間が限られているからって焦る必要は無い。ゆくっりでいいんだ。大切に、精一杯やればそれでいいんだよ」

 

 

…ふふっ。

やっぱり、プロデューサーは変な人だね。

ほんと。

おかしくて、涙が出そう。

 

 

そして、うん。

そんな人だから、私は…

 

 

「そうだ、プロデューサー…」

「あ、そうだ加蓮…」

 

 

声がかぶる。

目が合い、お互いに笑ってしまう。

まったく、こんな時までプロデューサーは。

なんて、私が言えた事でもないけど。

 

 

「実はね、私ーー」

「俺、実はなーー」

 

 

祭りの喧騒と、蓮華の香りの風が流れる。

 

 

夏の夜の物語は、もう少し続きそうだった

 

 

 

 

 

 

 

 




 
読んで頂きありがとうございました。
しっとりした話に見えますがコメディーです。
解釈はお好きにどうぞ。

誤字脱字あれば報告お願いします。

 


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Be My…



バレンタインは過ぎてしまいましたがひとつ
アイドルマスターミリオンライブのBe My Boyでも聴きながらどうぞ



 

 

 

「では、お疲れ様でした」

 

 

パタンと事務所の扉を閉め、冷え切ったビルの群れへと足を踏み出す。

冬も盛りの2月上旬、吐く息は煙突から昇る煙の様に視界を白く染めた。

想像以上の寒さに一瞬心が折れかけるが、折れたところで何か救済があるわけでも無いので足を動かす。

道端の電信柱の元には一週間以上前に降った雪の名残がまだ固まっている。

早くこの刺す様な冷たさとお別れする為、少し足を速めて地下鉄の駅へ。

 

 

時刻を確認しようとスマホを起動。

液晶に示された数字は21と30。

事務所でプロデューサーと仲良くお喋りをしていたら思ったよりも時間は進んでしまっていた様だ。

時間の進み方は気分で変わるって言うけど、確かに全くその通りね。

楽しい時間は疲れ切った身体と心を1機分回復させてくれた気分…ふふっ。

…そんな下らない事を考え、余計に寒くなってしまい若干後悔。

 

 

前はこんなにセンスも笑いの沸点も低くなかった様な気がするのだけど。

歳をとるって嫌ね、瑞樹さんの言っていた事がわかるわ。

若い頃はこんな寒さなんて何て事なかったのに、最近はこれだけ着込んでも尚寒く感じるなんて。

こんな事ならマフラーとニット帽も持って来れば良かった。

ま、ふらーっと手ぶらで事務所へ来てしまった自分が悪い訳だけれども。

 

 

何となく空を見上げると、都会にしては珍しく沢山の星が輝いていた。

分かる人が見れば何たら星座だったり何たら星雲だったり分かって楽しいのだろうけど、残念ながら私にそんな知識もない。

でも、月くらいなら分かる。

そう思い夜空で一番大きな星を探すが、これまたツキがない事にほぼ新月だった。

 

 

「むーん…」

 

 

少し唸り、視線を正面へ落とす。

気付けば目的の駅へと辿り着いていた。

なんとまぁ、下らない事を考えている時の時間の流れの早い事。

寒い街を一人で歩いている時間なんて嫌なだけだから、有難いと言えばそうなのだけれど。

身を包む寒気に別れを告げ、地下の暖気へ潜り込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

帰宅ラッシュの時間も過ぎたのか、駅に人は少なかった。

これなら問題なく最寄駅まで座って過ごせそうだ。

文明の利器とは本当に有難い。

暖かい空気ごと私を運んでくれるのだから。

 

 

ふとスマホの液晶に目をやると、プロデューサーからラインの通知が届いていた。

悴んだ指で暗証番号を入力しアプリを起動する。

内容は大した事ではない様で、遅くまで付き合わせてしまってすみません、気を付けで帰って下さいねとの事だった。

どちらかと言えば此方が仕事中にお喋りに付き合わせてしまっていたので申し訳なくなってしまう。

 

 

『此方こそ、お仕事の邪魔をしてしまってスミマセン。お仕事頑張って下さいね』

 

 

当たり障りの無い返事を入力し、送信ボタンに指を当てる。

途中で指がぶれてしまい上手く文章を作れなかったけれど、少しずつ自由を取り戻してきた。

見れば、一瞬にして既読が着いていた。

返信、待っていてくれたのかしら?

柄にもなく嬉しくなってしまう。

反面、仕事はちゃんとやっているのかと不安になるけれど。

 

 

『ほぼ終わっていたので問題ありませんよ』

 

 

ダウト。

プロデューサーの机の上の書類の山がそんなに早く消化されている筈がない。

今頃ヒーヒー言いながら真っ白の書類と格闘しているに違いない。

そのくらい、付き合いの長い私ならすぐに分かる。

 

 

ほんと、優しい人…

 

 

『ありがとうございます。では、また明日』

 

 

そう送信し、液晶を消す。

丁度、電車が駅へと到着した所だった。

強い風が髪とコートを激しく揺らす。

折角地下であったかいのにこれでは地上と変わらない。

これさえなければ、地下鉄をもっと好きになれるのに。

 

 

けれど。

気付けば寒さも指の悴みも、完全に溶けきっていた。

 

 

がたん、ごとん

 

 

電車に揺られて前髪が振れる。

そろそろ切らないと、正直鬱陶しい。

明日、時間があったら切りに行こうかしら。

もう結構長い期間行っていない気がする。

でも寒い中美容院まで歩くのも…

 

 

ぬくぬくと電車の暖房に浸り、最寄駅へ進む。

まだまだ到着まで時間もある事だし、少し眠ろうかしら。

乗り過ごしの心配もあるけれど、身に染み付いた習慣が一駅前辺りに起こしてくれる事だろう。

最悪、この時間なら乗り過ごしても戻って来れる。

 

 

少しだけ、休もう。

そう思って目を閉じると、直ぐに睡魔は訪れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「えぇと、今日から担当になった者です!よろしくお願いします!」

 

 

はて、この若き日のプロデューサーの様な男性はだれかしら?

まるで社会に出たての大学生の様な勢いの、強く頭を下げている男性。

若干の不安と迷いを勢いで誤魔化す挨拶、何処かで…そこで気づく。

あぁ、これは私とプロデューサーの出会った日で。

つまりこれはあの日の夢なのだ、と。

 

 

「よろしくお願いします」

 

 

ペコリと小さく頭を下げた女性は、つまりあの日の私なのだろう。

まだ口数も少なく仕事にも慣れていないあの頃の私。

良くもまぁこの女性が激寒駄洒落おばさんだなんて呼ばれる日が来たものだ。

いや、私なのだけれど。

あと一言付け加えるとしたら、おばさんでも無いのだけれど。

 

 

あの頃のプロデューサーは、見ての通り仕事に就いてまだ数年も経っていないペーペーだった。

右も左も…は言い過ぎかもしれないけれど、まだ一人でアイドルを担当するには早い。

そしてその目出度い一人目の担当アイドルがこの私とは、プロデューサーも運が無い。

この頃の私は、とても取っ付きにくい女だっただろう。

今思えば申し訳ない。

 

 

「ええと…プロフィールは一応渡されてはいるんですけど、きちんと会話して理解し合っていきたいんです。大丈夫ですか?」

 

 

「…はい…でも、私…あまり、自己紹介とかは得意ではないので…」

 

 

うわぁ…なんと言うか、辛い。

見ていてむず痒くなってくる。

一応言い訳させて頂くと、私は別にワザと無愛想に振舞っている訳ではない。

言いたい事は沢山ある。

あるにはある。

けれど、それを頭の中で文章に変えていくうちに時間が経ってしまって会話として成り立たないのだ。

結果、口数の少ない静かな人と言う印象になってしまっている。

 

 

この間乃々ちゃんが言っていた、昔書いた自作ポエムを音読された時の気分ってこんな感じなのね…

プロデューサー、忘れてくれていると有難いのだけれど。

いや、忘れられていると言うのもそれはそれでなんとなく寂しい。

結局どっちならば良いのかなんて、そんな問いの答えは出ない。

なんでかしらね?

 

 

「プロデューサーは…夢は、おありですか?」

 

 

気付けば、自己紹介が終わったらしい。

少し日本語が変な気もするが、緊張していたのだろう。

他人事と思えば、まぁ直視できない事もない。

 

 

「夢、ですか…今は、貴女と精一杯進んでいこう!と言う心構えだけですかね…」

 

 

目指せトップアイドル!なんて大きな夢を掲げるでもなく、かと言って完全に無いとは言わない当時のプロデューサーを見ると少し笑えてしまう。

安心して下さい。

プロデューサーの目の前の女性は、今もきちんと一緒に歩いていますよ、と。

できる事なら、そう伝えてあげたくなった。

 

 

「…夢がゼロじゃ、どれだけ駆けても変わりませんよ。頑張りましょう」

 

 

我ながら割と上手い事を言えていた気がする。

そして我ながら、良くもまぁ当時の私がこんな事を言えたなぁ、とも。

残念ながら、プロデューサーには気付いては貰えなかったけれど。

その証拠に、少し首を傾げたプロデューサーが笑いながらはい!と言っている。

 

 

…そう言えば、今の私の夢はどうかしら?

このままアイドルを続けてトップを目指す?

結局は当時の私が言った通り、何を夢見るでもなく只管駆けてきた。

それは、何の為?

今の私が求めるモノって…?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ガタンッ!

 

 

ビクッと身体を震わすと、目の前の事務所は電車の椅子と窓に変わっていた。

おかげで見ていた夢の内容を若干飛ばしてしまう。

何を見ていたのだったかしら…?

車内の電光掲示板に目をやり、周りをみて、察した。

 

 

…はぁ、今はタクシーが欲しいわ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ひゅう、と。

冷たい空気が頬を刺す。

吐息以上に真っ白な雲が空を覆っている。

お陰で太陽が街を照らす事はなく、昨日以上に冷え込んでいた。

 

 

てくてくと歩いていて気付いたが、どうも周りが騒めき立っている。

なんだろう、何かイベントでもあっただろうか。

節分は既に終わっているし、他には…

 

 

『全日本一億二千万人の茜ちゃんファンのみんなー!今週末はバレンタインだよ!!可愛い可愛い茜ちゃんにプレゼントを送れるチャンス!逃さないでね!!』

 

 

大きな街頭モニターから溢れる声で、丁度思い出した。

そう言えば今週日曜日は、全国各地のカップルの一大イベントであるバレンタインではないか。

ここの所の仕事が忙しくて記憶から抜け落ちていた。

よくよく考えれば私も何かしらのイベントに参加する筈でもある。

 

 

巨大なモニターに映るアイドルであろう少女は、ニコニコ笑いながらプレゼントを要求している。

一瞬、そう言うイベントだったかしら?と思ってしまったが友チョコと言うのもあるので女性が強請っていてもおかしくはないのだろう。

友チョコと言えば、例年プロデューサーには変わった味のチロルチョコを渡していた。

ちょこっとだけですよ、なんてお互いに笑いながらどこから見つけてきたのかも分からないレアな味のチロルチョコを交換する。

今年も、探しておかなければ。

 

 

『想い人にチョコを渡す勇気の無いみんな!茜ちゃんに渡してバレンタインを満喫した気分に浸ってね!』

 

 

想い人…

そう言えば、二十五年の人生の中で恋だの愛だのそう言った学生の流行病にかかった事は少なかった気がする。

いや、あるにはあるのだが以前の私にはその想いを打ち明ける勇気がなかったのだ。

今の私ならチョー高級なチョコと共に余裕で伝えられるだろうけれど、何分その対象となる相手がいない。

…思い付いた駄洒落に突っ込んでくれる人も少ない…

 

 

てくてくてく

 

 

事務所へ到着しなければならない時間までまだある。

のんびりと少し回り道をしながら、一人で歩く。

好き、って…どんな気持ちだったかしら?

隙…スキー…杉…

気付けば、事務所へ着いてしまっていた。

物凄く時間を無駄に浪費した気がする。

 

 

「おはようございます」

 

 

扉を開けると、暖かい空気が流れ込んでくる。

事務所内にいたのは事務員の千川ちひろさんと数人のアイドル達。

各々ソファや椅子に着いて携帯や雑誌を覗いている。

あの子達も、バレンタインには誰かにチョコを渡すのかしら?

ぐるりと事務所を見渡す。

けれど、プロデューサーの姿は無い。

 

 

むぅ…とほっぺを膨らませてコートを脱ぐ。

朝から仕事、大変ですね…と思いながらも、内心居ない事にガッカリしていた。

折角、渾身の駄洒落を考えてきたのに。

披露する相手もいなのにであれば、疲労損ではないか。

…ふふっ。

 

 

で、結局プロデューサーは何処に居るのだろう。

こういう時、ラインで聞けば一発で直ぐに分かる。

恐らく最適解だろう。

けれど、何故か。

なんとなく、それは憚られた。

 

 

『今、何をしてますか?

 

 

入力し、直ぐに消す。

聞く必要もない、仕事に決まっている。

ただ何となく気になるだけで、迷惑を掛けるわけにはいかない。

…私からのそんなライン、迷惑かしら?

 

 

『今、何処にいますか?

 

 

そう入力し、再び消す。

場所が分かったからなんだと言うのだ。

営業中だ、とか会議中だ、とか返って来ても何かある訳ではない。

聞くだけ無駄ではないか。

そもそも、もう少ししたら私は事務所を出なければならないのだから。

…事務所の近くにいたら、顔を出してくれるかしら?

 

 

入力と消去を繰り返し、結局は送信ボタンを押す前に仕事に行く時間となってしまった。

まぁ、仕事が終わってから事務所に戻って来れば会えるわよね。

そう信じて、送信ボタンから指を離す。

 

 

ふふっ、恋する乙女じゃあるまいし。

少し笑いながら、私はまたてくてくと冷えた街への扉を開けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仕事も終わり陽は落ちて、本日二度目の事務所の扉を開けようとする。

ガチャガチャ…

…?

何故か鍵が掛かってしまっている。

残念ながら、これでは事務所内に入る事が出来ない。

まぁつまり事務所には誰も居ないと言う事で、ならば私が事務所に寄る理由も無くなってしまったのだけれど。

 

 

折角、この寒い中疲れた身体を引きずって戻って来たのに。

はぁ…まったく…

 

 

「鍵が閉まっているなんて、今日はロックな事がありませんね…」

 

 

「そうとはかぎりませんよ。きーっと良い事がありますって」

 

 

「えっ!?」

 

 

驚いて振り返れば、そこにはスーツ姿のプロデューサーがいた。

走って戻って来たのか若干息があがっている。

スーツも崩れてしまって、それでも。

疲れを感じさせない程、笑顔だった。

 

 

さっきまでの疲れは、既に思考の隅まで飛んでいった。

寒くて震える程だった筈なのに、何故か少しあったかく感じる。

プロデューサーがいれば暖房代が浮きそう…連れて帰ろうかしら?

…なんて、ね。

 

 

「ふふっ…プロデューサー、お疲れ様です」

 

 

「すみませんね、ついさっきちひろさんが退勤してしまったので急いだんですけど…」

 

 

そう言って鍵を回し扉を開け、事務所内へ。

事務所の内側からながれてくる温もりは、つい先程までちひろさんが事務をしていたことを証明していた。

先に中へ入っていったプロデューサーがパパッと電気と暖房を点ける。

素早く動き回って一通り終えたのかスーツをハンガーに掛けるプロデューサーを視界内に収めつつ、私は手に息を吹き掛けた。

 

 

「あ、もしかして外で待ってました?もう少し暖房の温度上げますね」

 

 

「いえ、大丈夫です。あ…紅茶、淹れましょうか?」

 

 

スッと立ち上がろうとする私を、プロデューサーが軽く手で制する。

 

 

「俺がやりますよ。こう、ちゃちゃっとね。ですから座って待ってて下さい」

 

 

「ふふっ、ありがたいてぃーあんです。では、お願いしちゃいますね」

 

 

こんなやり取りを出来るようになる迄色々とあったなぁ…なんて、柄にも無い事を考えてみる。

今ではこんなに仲の良い仕事のパートナーとなってはいるが、最初はこんな事は無かった。

プロデューサーがこういう風に返してくれるだけで、嬉しくなってしまう。

他に私の駄洒落にノってくれる人なんて、酔っ払った瑞樹さんや早苗さんくらいだもの。

…プロデューサー、酔ってるのかしら?

 

 

それにしても、さっきは大丈夫って言ったけどプロデューサー暖房の温度上げてくれたのかしら?

少し暑いくらいになっている。

あ、そう言えば前髪切らないと。

 

 

…前髪、前がみえない、江上…

 

 

「お待たせしました、っと。前髪、結構伸びてますね」

 

 

トリップしていた思考を引き戻したプロデューサーの両手にはマグカップが握られていた。

可愛らしいデザインのマグカップ、おそらくペア用なのだろう。

誰と誰のマグカップなのかしら?仲の良い美波ちゃんとアーニャちゃん?

 

 

前髪を弄っていた手を止めて差し出されたマグカップを受け取り、口元へ運び少し傾ける。

熱々の紅茶は喉を抜け、体を芯から温めてくれた。

ふーっと息を吐いてマグカップを一旦置きプロデューサーへと向かう。

 

 

「ありがとうございます。このマグカップは誰が持って来たんですか?」

 

 

「俺のですよ。去年のクリスマスに凛から貰ったんです。でも、家だとあんまり活用出来なかったんで事務所に持ってきちゃいました」

 

 

成る程、クリスマスのプレゼント…ね。

 

 

クリスマスパーティーの時にみんなでプレゼント交換をしたから、その時凛ちゃんのをプロデューサーが引き当てたのだろう。

今をときめくアイドルからプレゼントを受け取れるなんて、なんて幸せな男性な事か。

それにペアのマグカップだなんて、まるで凛ちゃんが最初からプロデューサーに渡したかったみたいね。

流石にランダムだからあり得ないけれど…そう言えば、凛ちゃんはプロデューサーに気があるんだったかしら?

 

 

「そう言えば、最近髪少し伸びてきてますよね。伸ばしてるんですか?」

 

 

さっきまで前髪を弄っていたのを見ていたのか、そんな事を言ってくる。

 

 

「いえ、なかなか美容室に行く機会が無くて…少し長すぎますよね?」

 

 

「綺麗で良いと思いますけどね。切るとなると勿体無いなぁ…」

 

 

むむっ、嬉しい事を言ってくれますね。

髪、伸ばそうかしら。

カット言って、切らずに放置するのも…

 

 

再びマグカップに手を伸ばし、先ほど以上に傾ける。

少し時間は空いているが、それでもまだ紅茶は熱いままだった。

だんだん身体まで熱くなってくる。

 

 

「ふー…あ、そう言えばこんな時間に事務所に来るなんて何か用事でもありました?スケジュールでしたらラインで送ってあると思うんですけど」

 

 

「いえ、なんとなく寄ってみただけです。誰かいないかなぁ、と」

 

 

結果として誰も居なかった訳だけれど。

まぁプロデューサーとこうして二人でお喋り出来たから良しとしよう。

 

 

「迷惑、でしたか?」

 

 

「そんな事はありませんよ。こうやって話してる時間も俺は好きですから」

 

 

「ふふっ、私もです」

 

 

「あと先日送ったと思いますけど、今週末はバレンタインなのでラジオはその特集です。生放送なんで終わるのが21時過ぎになっちゃいますが」

 

 

「特に予定がある訳でも無いので大丈夫ですよ。強いて言うなら、プロデューサーにチョコを渡すのが遅くなってしまいますけど」

 

 

「俺もその日事務所に戻って来れるのは22時過ぎなんでお互い様です」

 

 

あ、バレンタインと言えば凛ちゃんは今年もプロデューサーにチョコを渡すのかしら?

去年も一昨年も義理だからと言って渡しているのは見たけど、今年はどうなるかしらね。

ラジオ収録の時、聞いてみようかしら?

でも生放送って言ってたし、流石に不味いかも。

 

 

「バレンタイン、ですか…」

 

 

「スキャンダルになるような事だけは避けて下さいね」

 

 

そう笑って、プロデューサーは空になったマグカップを洗いに流しへ向かった。

スキャンダルだなんて、私にそんな相手がいない事くらいプロデューサーが一番分かっているくせに。

あまり人付き合いが得意ではない私が、プロデューサー以外の男性とそんな関係になる訳が無いのに。

 

 

…?

少し自分に問い掛けてみる。

自分の思考に自分で疑問を覚えた私が、自問自答する。

 

 

じゃあ、プロデューサーとだったらあり得るの?と。

 

 

確かにこんな私にとって唯一の男付き合いではある。

仕事のパートナーとしても割と長いし、信用もしている。

毎年チョコを渡してもいる。

良くお酒に誘う事も…あ、最近忙しくて無かったわね。

久し振りに誘おうかしら?

 

 

「プロデューサー、今夜空いてたら飲みに行きませんか?」

 

 

「構いませんよ。じゃあそろそろ事務所締めましょうか」

 

 

マグカップを洗い終えたプロデューサーが、暖房を消し始めた。

私もコートを羽織ってマフラーを巻く。

防寒対策はバッチリ。

あ、プロデューサーマフラーも手袋もしてないのね。

 

 

「さて、行きましょうか」

 

 

「はい、一度行ってみたいお店があったんです。こうやって飲みに行くのはさけられない運命だったんすね」

 

 

ふふっ、と笑いながら階段を降りる。

何か悩んでいた気もするけど、プロデューサーと一緒に飲みに行く事に比べたら大した事は無かったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パタンと扉を閉め、事務所を出る。

相も変わらず冬の寒気は街を冷やしている。

でもそれ以上に冷めているのは、あれ以降プロデューサーと飲みに行けていないから。

と言ってもたった二日ほど前の事ではあるけれど、それ以降顔も合わせていないとなると寂しくもなる。

忙しいのは分かるけれど、少しは連絡くらいしてくれてもいいのに。

 

 

悴むのも気にせず手袋を外し、ラインを起動する。

プロデューサーとのトーク履歴は既にデフォルト画面から消えていた。

少し下にスクロールして開き…画面の電源を落とす。

別段手が上手く動かなかったからとかでは無い。

単に、何と言って切り出せば良いのか分からなかった。

 

 

『お仕事お疲れ様です』?

それでは会話が続かない。

『相談があるんですが…』?

確かに二人きりになれるだろうが、迷惑は掛けられない。

そもそも相談事なんて無い。

『今夜飲みに行きませんか?』?

忙しいから連絡が無いと言うのに、そんな暇があるはずが無い。

 

 

…忙しいから、連絡がないのよね?

迷惑って思われてるなんて思いたくもないけれど…

 

 

ふと思考を現実に戻して街を見れば、街は更にバレンタイン一色となっていた。

店頭にはバレンタインセールの張り紙やワゴン。

バレンタイン限定と銘打ったチュロスやクレープ屋からは、とても甘い匂いがする。

流れる曲もバレンタインソング。

私はふらっと、デパートへと入っていった。

 

 

確か、プロデューサーはマフラーも手袋も着けていなかったし。

折角だし、普段の御礼という事でプレゼントしてあげようかしら。

お誂え向きのイベント、この機を逃す手はないわね。

と、いう事で。

私は早速メンズフロアへとエスカレーターで向かった。

 

 

6回建てのデパートなのに、メンズが売っているのはたったの1フロア。

自然と選択肢は減ってしまうが、ある程度選ぶ手間が省けたから良いとしよう。

今は変なあだ名が付いてはいるが元モデル。

センスに関してはある程度自信がある。

取り敢えずフロアをぐるりと一周し、目星をつけた。

 

 

てくてくてく。

二つのブースを行ったり来たり。

別に私が何か怪しい儀式を行っている訳ではない。

理由は、私ではなくこのフロアの方にあった。

 

 

と言うのも、気に入ったデザインのマフラーが二つあったのだ。

手袋の方は既に購入済み。

こちらは余り時間がかからず即決出来たのだけれど…

マフラーを巻いているプロデューサーを思い浮かべ、どちらの方が良いか考える。

…むーん…

 

 

手袋と合うのはこっちだけど…プロデューサーの私服に合うかどうかは分からないし…

そもそもプロデューサーの私服姿なんて余り見たことがないから、汎用性の高いデザインの方が…

 

 

「プレゼントですか?」

 

 

唐突に、店員からそう尋ねられた。

 

 

「えっ、えぇ…まぁ…」

 

 

いきなり人に話しかけられ、私はうまく返事が出来なかった。

思えば、何度も何度も行ったり来たりしているのだから店員の目に付いてもおかしくは無いのだけれど。

 

 

「恋人さんですか?」

 

 

ニコニコと、店員はさらに問い掛ける。

恋人…え?私とプロデューサーが…

 

 

「よろしければ、ラッピング致しますよ?」

 

 

「あ…で、ではお願いします」

 

 

つい、そう返してしまった。

いや、あの…何か言おうとしたけれど別段ムキになって否定する事でもない。

悩んでいたところに分かりやすい解決策が降って来たのだから、寧ろ喜ぶべきだろう。

だから、せめて。

 

 

店員さんの前では、平静を装わないと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

紙袋を下げ、自宅の扉を開ける。

ただいまの声は虚しくこだました。

一人暮らしの帰宅は少し寂しい、誰か出迎えてくれる人がいてくれればいいのに、なんて。

そんな事を考えながら鍵とチェーンを掛け、電気を着けて靴を脱いで小走にエアコンのリモコンを探した。

 

 

紙袋を置き、冷蔵庫に入れておいたサラダや焼き魚のタッパーを取り出してテーブルへ並べる。

一人暮らしも長いので、料理の腕にはある程度自信がある。

残念ながら振る舞う機会も相手も無いのだけれど。

今度プロデューサーでも呼んでみようかしら、と考えながらご飯のタッパーを電子レンジに突っ込んだ。

 

 

温まるまで約2分。

何もしないのもつまらない。

なんとなく私は、ラジオの電源を入れた。

流れてきたのは有名なアイドル達の番組。

番組名は…なんだったかしら?

 

 

『そう言えば、今週の日曜日はバレンタインなんですね!』

 

 

元気な女の子の声が流れてくる。

こうラジオでバレンタインと言う単語を聞くと、改めてバレンタインなんだなぁと再認識させられた。

 

 

『じゃんじゃかじゃーん!突然ですが…重大発表しちゃいまーす!』

 

『え、あの…』

 

『何を発表されるんでしょう?』

 

『もしかして、面白いダジャレとか思いついたんですか?』

 

『ぶっぶー!はずれでーす!』

 

 

…残念、ダジャレではなかった様だ。

折角参考にしようと思ったのに。

 

 

『もしかしてバレンタインも近いですし、恋人についてですか?』

 

『まったく…アイドルなんだからそんな訳無いでしょ』

 

『ええっと…ご結婚なされるんですか?』

 

『ええー?!』

 

『わ、わ、私が結婚?!うわー!結婚だなんて…そんな…、そんなー!』

 

『…?なんかいきなり赤くなってませんか?』

 

『だって、そんな…私が…結婚!う、ううー…恥ずかしい…』

 

『まだまだレッスン不足だし…ヘッドホンの数も全然足りないよー!』

 

『ど、どこ行くんですかー?!』

 

 

…不思議なアイドル達ね。

幾ら何でも個性が強過ぎる。

ヘッドホンの数と結婚って、何か関連があるのかしら?

 

 

それにしても…結婚、ね…

いつか私も結婚する、のよね…

私と二つしか変わらない年上のアイドル達はよく焦っているみたいだけど、私もいずれああなるのかしら。

そもそもこんな私に付き合ってくれる、そんな相手がみつかるのかしら。

 

 

あったまったご飯を取り出し、食卓に着く。

電子レンジのおかげであっという間に豪華なディナーが出来上がるのだから、人類の発明とは驚きだ。

どうせなら自動でダジャレを作ってくれる機械があれば面白いのに。

いただきます、と小さな声で両手を揃えるた。

 

 

『それではここで一曲流したいと思います。バレンタインも目前と言う事で、勇気を出せない女の子達へ向けてのラブソングです。百瀬莉緒でーー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふと気が付けば、箸を動かす手が止まっていた。

腕どころか、全てが止まってしまったかのような錯覚に陥ってしまう。

けれど、時間の流れが止まるなんていう非現実的な事が起きるはずも無く。

停止した私を置いて、ラジオは曲を流し続ける。

 

 

会いたいのに、会いたいと言えず。

勝手に妄想して、勝手に空回りして。

あと一歩が踏み出せず。

自分の気持ちに素直になりきれない、そんな歌。

 

 

アイドルソングらしからぬ、大人っぽい声と歌詞。

恐らく、大人の魅力に溢れた女性が歌っているのだろう。

それにしては、若干恋愛観が若い気もするが。

それに関しては私が言えた事では無いのだけれど。

 

 

ラブソングなら、何度も歌った経験がある。

哀しいかな、最早慣れてしまったと言ってもいい。

そして大体の歌は似たような歌詞を並べているだけ。

安っぽい表現をするなら、心に響かない歌ばかりだ。

 

 

 

けれど、この曲は違う。

だって…少なくとも、普通のラブソングを聞いて。

 

 

プロデューサーの姿なんて、思い浮かべないから。

 

 

あぁ…やっぱり。

そう言う事だったのね。

私…気付かないフリでもしようとしていたのかしら?

そんなんじゃ、凛ちゃんに対して不利になってしまうのに…ふふっ。

 

 

気付けば、視界が少し滲んでいた。

けれど、悲しみなんてない。

曲は既に流れ終わり、またわいわいとパーソナリティのアイドル達が会話している。

けれど、もう充分だ。

 

 

さて、折角だから…

ぐるぐるは、もうやめにして。

歌詞の最後の通りに、いってみるとしましょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はてさて、今日はバレンタイン前日。

事務所へ入ると、今日もまた残念ながらプロデューサーはいなかった。

けれど今はそれはどうでも良い。

いや、どうでもよくは無いけれど…それよりも。

私の目的は、別のところにある。

 

 

すたすたと、私はコートを壁に掛けて目的の人の前へと向かう。

凛とした表情でスマートフォンに指を走らせている、同じ事務所のアイドルである彼女の前へ。

おっと、怖がられない様に笑顔にならなければ。

用を終えたのか画面から目を離した彼女は、どうやら私に気付いた様だ。

 

 

「あ、おはようございます」

 

 

「おはよう、凛ちゃん。隣、いいかしら?」

 

 

「いいよ、ちょっと待ってて」

 

 

そう言って、ソファに置いていた鞄をズラしてくれた。

よっこいしょ、と私は隣に腰を下ろす。

 

 

ふと凛ちゃんのスマートフォンの画面を見ると、ラインが開かれている。

トーク欄の一番上には、プロデューサーの名前。

…表示を変えているのか、名前の最後に星マークが付いていた。

見た目に反してと言っては失礼だけど、若干子供っぽい凛ちゃんに少し微笑ましくなる。

 

 

「プロデューサーとお話中だったかしら?」

 

 

「えっ、あ、別に…」

 

 

少し困った様に視線を逸らされる。

あの人の前だとあんなにキリッとしているのに、居ないとなると途端に分かりやすくなるのも可愛らしい。

若いって良いわね…っと、そうじゃないそうじゃない。

 

 

「凛ちゃん、今年もプロデューサーにチョコを渡すのかしら?」

 

 

「まぁ…義理チョコになると思うけど」

 

 

なると思うけど、ね…

確かに、本命を渡して好きだと伝えたところであのプロデューサーなら断るだろう。

私達はアイドルで彼はプロデューサー。

立場の事を言われたら、此方も諦めるしかない。

義理チョコと言って渡すのが、お互いの為にも一番なのだろう。

 

 

けれど…

 

 

「なら、歯をギリギリする事になるわね。ふふっ」

 

 

「えっ?それって…」

 

 

お茶目にウィンクをし、私は立ち上がった。

呆気にとられている凛ちゃんに、私は再び向き合う。

 

 

「ねぇ、凛ちゃん。明日のバレンタイン、頑張りましょう?」

 

 

「ラジオの事?」

 

 

ふんふんふふーん、と鼻歌で少し誤魔化してみる。

これくらいで充分だろう。

凛ちゃんに手を振って別れ、仕事に向かおうと扉を開く。

既に刺す様な寒さは消え、少しずつ気温も上がり始めている。

 

 

明日は、春になるかしら?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時も所も変わって夜の自宅。

私は自分のスマートフォンと睨めっこ。

別に暗くなったディスプレイに映る自分に勝ちたかった訳では無い。

単純に、悩んでいた。

 

 

…明日、どうやってプロデューサーを呼び出そうか?

 

 

例年簡単にこなしてきたお題は、今回に限って難題となっていた。

一応前日バレンタインの夜にチョコを渡すと言ってはあるから、会う事に関して問題はない筈。

問題は呼び出し方。

これがなかなか決まらないのだ。

 

 

『チョコっと、大切な話があります』

 

 

…うーん…確かにチョコと大切な話があるけれど…

これ、ほぼ全部言ってしまっている様なものだ。

でもあのプロデューサーの事だから、もしかして恋人でも出来たんですか?!なんて言い出しそう。

…言うわね、絶対。

 

 

『夜、会ってくれますよね?会ってくれナイト…』

 

 

没。

素早く消去を連打し、空欄に戻す。

もしかして私、緊張してるのかしら?

こんなに冴えてないなんて…こんな寒い駄洒落は流石に無しよ。

暖房の温度上げようかしら?

 

 

…あ、昨日一昨日とお酒を飲んでいないから調子が出ていないのね。

少し寒くなってきたし、身体を温めるにも丁度いいわ。

そうと決まれば早い。

私は冷蔵庫に向かった。

 

 

冷蔵庫のドアを開ければ、発泡酒のストックが二本。

つまみ用の枝豆のタッパーに缶チューハイが三本。

そんな女子力を感じさせない物たちの群れの中に、可愛らしい箱が一つ。

 

 

…結局私は酒類に手をつけなかった。

なんだか、ズルをしているみたいで。

それに、せっかく頑張ったのに最後の最後で逃げたくない。

 

 

悩む事はない。

そのままの、普段の私で。

まるで問題なくいつも通りにいけばいい。

素の私でなきゃ、上手くいったとしても意味がないのだから。

旨味が無いのだから。

 

 

『明日、楽しみにしてて下さいね』

 

 

変に凝る必要もない。

伝えるべき事は、明日、口で伝えるのだから。

後は、気持ちに迷いが出る前に…今すぐ、送信。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お待たせしました。待たせちゃいましたか?」

 

 

「お疲れ様です、プロデューサー。私もついさっき着いたところですよ」

 

 

一度はやってみたかったこのやりとり。

それを、この日、この人と出来て少し嬉しくなる。

とは言え、本当に私もついさっき着いたのだけれど。

ラジオの収録を終えてタクシーを探したけれど、なかなか捕まえられなかったのだ。

この時間はカップルの運送に忙しいのかしら?

 

 

ついさっきつけたばかりの暖房は、まだ部屋全体の温度を上げきれずにいた。

昼間は暖かくなってきたとは言え、やはり夜はまだ冷える。

それだけの理由ではないけど、私はまだコートを着ていた。

 

 

「まだ少し冷えますね。珈琲淹れましょうか?」

 

 

「あ、では今日は私が淹れてあげます。こー、ひょひょいと、ね」

 

 

文字にしないと分かり難い駄洒落しか言えないのは、きっと私が緊張しているから。

キッチンへ向かい、マグカップを二つ取り出し電子レンジでお湯を沸かす。

珈琲二人分のお湯なら電子レンジの方がポッドより早い。

2分ほどの待ち時間、私は冷蔵庫を開ける。

中には可愛らしい小さな紙袋。

 

 

…よし。

 

 

それをコートのポケットに隠し、マグカップを取り出しプロデューサーの元へ。

ソファで書類を広げていたプロデューサーの隣にナチュラルに座り、珈琲を差し出す。

 

 

雪が溶けてゆく様に、テーブルに散らばった書類をパパッと一つにまとめて鞄にしまうプロデューサー。

その開けた鞄から、可愛くラッピングされた小さな小袋が覗いていた。

 

 

「凛ちゃんから、ですか?」

 

 

「ん?ええ、事務所のみんなに配るから、ってクッキーを焼いてきたみたいです」

 

 

凛ちゃん、少し勇気を出したのね。

素直になり切れないけれど、去年よりは進展しているかしら?

しかし、まるで全然。

程遠いわね。

 

 

「ふふっ、少し真面目な話をしていいですか?プロデューサー?」

 

 

「構いませんよ」

 

 

そう言って微笑むプロデューサー。

その頬に、手を伸ばしたくなる。

けれどそれは、私が最後まで伝えてから。

 

 

ソファの下に隠したマフラーと手袋の入った紙袋が。

ポケットに隠した私の気持ちの結晶が。

私の口に、勇気をくれる。

 

 

「プロデューサー、私は…」

 

 

もう、迷いはない。

今ならちゃんと、微笑んで伝えられる。

 

 

貴方の事が好きです、って。

 

 

 






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今日の、明日は

 

かち、かち、かち

 

 

秒針が忙しなく回り続ける。

疲労の溜まり始めた私の指が叩くキーボードの音が止まっても、その音が止まる事はなかった。

アイドル達は既に帰り、この空間には自分以外誰も居ない。

陽はとおに落ち、電気をつけなければ目の前の書類すら認識出来ない夜の中。

事務所で、ただ一人。

私は動き続けていた。

 

 

大手アイドルプロダクションにアシスタントとして勤めている私の仕事には、残念ながら休める時間がほぼ存在しない。

トップクラスのアイドルを何人も有する部署なのだから仕方の無い事だと納得している。

むしろ、誇りに思っていると言ってもいい。

だから自分の時間がとれないのを苦に思う事も余り無い。

時たまショッピングしたいと思う事があっても、どのみち買った服を着る機会など無いのだから意味が無いと思考を切り替える。

 

 

そもそも私以上に忙しいプロデューサーさんが働いていると言うのに、私が休む訳にはいかないのだ。

プロデューサーさんはたった一人で沢山の夢見る女の子の希望を叶え、シンデレラの靴を履かせてきた。

テレビをつければどこかの番組で必ず目にするほど、彼の育ててプロデュースしてきたアイドルは有名になっている。

そんなプロデューサーさんの生活は間違いなくハードだし、だからこそ私は万全のサポートをしなければならない。

 

 

時計の長い針は真下を、短い針はもうすぐ頂上を指そうとしている。

 

 

そろそろですね…

 

 

ディスプレイを一旦スリープモードにし、私は別の仕事に取り掛かった。

アシスタントとして、やらなければならない事がある。

プロデューサーさんが来るまでに、用意しなければならないモノが。

 

 

これまた私以上に疲労の溜まっているであろうプロデューサーさんに、その日1日頑張ってもらう為。

明日もまた頑張るか、と思ってもらう為。

私は毎日、プロデューサーさんに様々なモノをプレゼントしていた。

 

 

例えば、社内でのみ使える社内通貨。

例えば、疲れを吹き飛ばしてくれるエナジードリンク。

例えば、アイドル達とのコミュニケーションを円滑に進められる様にとちょっとしたアイテム。

例えば、今のプロデューサーさんにとって最も必要な鉱石。

 

 

毎日毎日実費で用意するのは大変ではあるけれど、それでも。

頑張るプロデューサーさんを応援したいから。

こうして日々の業務を終えた後、私は必死に足を動かす。

 

 

けれど、毎日働いているのはプロデューサーさんも同じ。

当然ながら私以上に、お金はあるのに時間が無い状態。

そんな彼に座布団一枚も買えない社内通貨をプレゼントしたところで、喜んで貰える筈もない。

時間が無くてエナジードリンクや鉱石を用意出来なかった日は、溜息を吐かれてしまう事もある。

 

 

それに、唯の一アシスタントに出来る事なんてたかが知れている。

アイドルが大きなキャンペーンやイベントに参加する時は、事務所側から大量のエナジードリンクが配布されるのだ。

それに比べれば、私の用意出来るモノは微々たるもの。

だからそもそも何をプレゼントされたのかを忘れられてしまったとしても、仕方の無い事。

 

 

哀しくなる事だってある。

怒りたくなる事だってある。

それでも、私は止めない。

私が好意で行って、好意で続けている事だから。

 

 

多分プロデューサーは気にしないかもしれないけれど、もし私が毎日プレゼントしている事で少しでも続けて頑張ろうと言う気になっていたら。

もし私がプレゼントを辞めた事で、プロデューサーさんが事務所に来なくなってしまったら。

もしもの事を考えると、止める事なんて出来なくなる。

 

 

プロデューサーさんと、まだ一緒に働いていたいから。

 

 

周りからなんと思われてもいい。

自分の仕事、稼ぎがなくなってしまうから。

どうせ裏がある。

そう思われてもいい。

それでも、プロデューサーさんと一緒に…

 

 

もうすぐ、長針が真上を指す。

 

 

プロデューサーさんは、喜んでくれるだろうか?

当たり前だと、何も思わず仕事に向かうだろうか?

不満に思い溜息の数を増やすだろうか?

もしかして、嫌になって来てくれないだろうか?

 

 

少しの不安、そしてそれを上回るプロデューサーさんに会えると言う喜び。

かち、かち、かち、と針は回る。

そして、長針と重なった。

 

 

精一杯の笑顔を浮かべ、私は貴方へ告げる。

 

 

「お疲れ様です。今日のーー

 

 





千川さんは天使


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短冊に綴った空想文学


七夕のおはなし
別√の様なものなので若干前のより引用


ふぅ、と一息つき。

私は顔を上げた。

 

 

手にした本に当たる陽の光が橙色になっている事に気付き、ページを捲る動作を一旦停止する。

時計に目をやれば短い針は真下を回っていた。

かたかたかた、とキーボードが叩かれる音だけが響く夕方の事務所。

他のユニットメンバー達は既に帰り、私の読書を妨げるモノは残っていない。

誰かに話し掛けられたところで、私の読書が中断されるわけではないけれど。

 

 

少しばかり…熱中し過ぎてしまいましたか…

 

 

読んでいた恋愛小説がひと段落つき、長時間の読書によって乾ききった喉を潤そうと一旦本を置く。

固まった膝を無理やり動かし、腰をあげる。

出来る限り音を立てない様に、出来る限り静かに。

彼が私の読書を邪魔しなかった様に、私は彼の仕事を邪魔してはいけない。

 

 

ゆっくりと、静かに冷蔵庫へ。

キーボードの音が止まるくらい、ゆっくりと…

 

 

「もう、読み終わったのか?」

 

 

無駄だった様だ。

 

 

「…ひと段落しましたので、飲み物を…プロデューサーさんは、何か…?」

 

 

「じゃあ、俺もお茶をもらおうかな」

 

 

…はぁ。

 

 

彼が珈琲好きである事は知っている。

本当は珈琲を淹れてあげようとひっそり練習していたのだけれど、本人の気遣いによって阻まれてしまった。

ここで無理に変える必要もないので、今回はオーダー通りにしておこう。

機会はいくらでもあるのだから。

 

 

普通に歩き、冷蔵庫を開ける。

選ばれそうなお茶のペットボトルを傾け、二つのコップに氷と共に注ぐ。

たぷ、たぷと揺れる表面には無表情な私の顔が歪んで映っていた。

 

 

「どうぞ…」

 

 

「ありがとう。あと少しで俺も終わるから」

 

 

…まったく、貴方は全てお見通しですか…

 

 

少しニヤけそうな感情を抑えながら、コップをデスクへ。

再び聞こえてきたキーボードの音をbgmに私もソファへ戻って本を取る。

挟まれた栞のページを開き、文字を追う。

 

 

「恋愛小説だったか?最近の文香にしては珍しいな」

 

 

「…私にも、そういう事に興味も憧れる事もありますから…」

 

 

即座に手を止め、再び目を上げる。

まったく、彼は私を何だと思っているのだろう。

確かに昔から読書ばかりしていたせいでそう思われる事も少なくなかったけれど、当然ながら恋愛小説だって読むのだから。

そしてその事に関しては、彼が一番良く知っている筈なのに。

 

 

改めて文字の世界に集中しようと一旦少し伸びをする。

視界に再び映るデスクの向こうでは、彼が一生懸命パソコンと格闘しているはず。

なんとなく目を向ける。

…視線がぶつかった。

 

 

「…どんな話なんだ?随分と熱中して読んでいたみたいだけど」

 

 

「見て、たんですね…」

 

 

「ああ、ついな。おかげでしばらく仕事が進まなかったけど」

 

 

…ズルい人。

これでは…もう今は、本に集中出来ません…

 

 

つい、と横へ目をそらせば部屋には短冊の吊るされた笹が置いてあった。

色とりどりの願いが綴られた、色とりどりの短冊。

おそらく既に、私以外の人は吊るし終えたのだろう。

 

 

そう、明日は七夕。

あれから丁度一年。

貴方は今も、覚えていますか?

 

 

そして…

 

 

「この本は…」

 

 

まるであの時の私達の様な。

そんな、お話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あれは、五月も終わる梅雨始めの昼下がり。

少しずつ増える雨の予報に溜息を増やす時期。

あまり人の訪れない小さな古書店にて。

叔父の手伝いで店番をしていた私は、なんとなく恋愛小説が読みたくなって本を探していた。

 

 

少し埃のかぶった本棚のアーチをくぐり、のんびりと背表紙を眺めて歩く。

どうせなら、普段は読まない様なモノがいい。

どこにどんな本があるかは大まかに覚えているから、逆にどんな本があるか分からない棚を探す。

手の届く範囲の本なら知っているモノが多いから、上の方の…

 

 

一冊の本が目に映る

背表紙に書かれた文字は『恋のはじまり』。

幾ら何でもそのまま過ぎるだろうと思ったけれど、なんとなく気になって本に手を伸ばした。

 

 

「…ん…う…」

 

 

…手が、届かない…

 

 

もう一度手を伸ばすも、一瞬で腕が伸びる訳もなく当然掌は背表紙に触れられない。

少し跳ねてみるも、ギリギリのところを手が掠めていった。

もう少し高く跳ねてみるも、背表紙に指先が触れたところで離れてしまう。

 

 

…はぁ

 

 

こうなればやけだ。

次で必ず取ってみせる。

踏み台なんかには頼らず、なんとしてでもこの本を…

 

 

「本、取りましょうか?」

 

 

「…え?」

 

 

私が返事をするよりも早く、横から伸びた腕が本を私の前まで下ろしてくれた。

まだ若い、スーツ姿の男性。

そしてその腕の主の姿を見て、ようやく私は状況を理解する。

 

 

「あ…ありがとう、ございます…お客様、ですよね…?」

 

 

「まぁ、そうですね。貴女はこの古書店の店員ですか?」

 

 

コクリ、と頷き本を抱えてレジの方へと向かう。

なんとも恥ずかしいところを見られてしまったわけではあるが、どうせお互い直ぐに忘れる筈だ。

前髪の長い私は男性の顔を見てはいないし、男性も私の顔を見ていないだろう。

 

 

けれど。

背を向け離れる私へ向けられた男性の言葉は、忘れられないものとなった。

 

 

「あ、あの。アイドル、どうですか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…この人は、一体何を…?

 

 

質問の意味と意図が分からなかった私は、戸惑ってしまった。

アイドルが、どう?

残念ながら私はアイドルでは無いので、どんなモノなのかは分から無い。

そう言った事は、アイドル本人に尋ねてほしい。

 

 

…と、すると…

 

 

「…アイドル雑誌を…お探し、でしょうか?申し訳ありませんが…当店はアイドル雑誌の取り扱いは…」

 

 

「あぁいえ。ええと、そう言う訳では無く…」

 

 

どうやら違ったらしい。

だとしたら、他に一体…?

 

 

「私、こういう者でして…。アイドルに、興味はありませんか?」

 

 

差し出された名刺に目を向けてみれば、346プロと書かれていた。

本にしか興味の無い私でも、346プロと言うのは聞いた事がある。

それくらい有名なプロダクションだ。

つまりこの男性は、その事務所のプロデューサーらしい。

そんな人から、アイドルに興味は無いか?と問われた。

それが意味する事は…

 

 

…私が…アイドル?

 

 

「…え?ええと…その、お話が良く呑み込めないのですが…」

 

 

有り得ない。

天地がひっくり返ったとしても、明日槍が降るとしても。

私にそんな誘いが来るだなんて。

 

 

「是非とも貴女に、ウチのアイドルとしてデビューして頂きたいんです。まずは、お話だけでも…」

 

 

「アイドル…ですか。それは、私が…ですよね?」

 

 

「ええ、貴女には輝く才能があると。そう思います」

 

 

頭がこんがらがる。

思考は乱れ、冷静さを欠く。

もしかしたら、口をパクパクして目を回してしまっていたかもしれない。

なんとか腕の力は保ち、本は落とさない様に努めた。

 

 

私が…アイドル?

沢山の人の前で歌って踊ってテレビに出る、あのアイドル?

キラキラしたフリフリの衣装を着てステージに立つ、あのアイドル?

…私とは、正反対の存在だ。

 

 

「…あの、私…あまり、人前に立つのが得意では無いので…申し訳ありませんが…」

 

 

沢山の否定の意見が渦巻く頭の中から、最低限の言葉を取り出してお断り。

文学の世界に触れていられれば満足な私に、そんな刺激的な事は向いていない。

大勢の人に見られる事に慣れているはずもない。

そもそも今だって、相手の目を見てすらいない。

 

 

そんな私が…アイドルだなんで… 

 

 

「ええと…ならせめて、少しでも。話を聞いて頂けませんか?」

 

 

なかなか、諦めて貰えない。

確かに直ぐはいそうですかと納得して帰ってしまっては仕事にならないのだろうけれど。

こっちとしては、一刻も早くお引き取り願いたい。

けれど、そんな事を強く言えるなら最初からキッパリ断っている。

 

 

「まぁ…お話だけでしたら…」

 

 

私がそう言うと、途端に笑顔になる。

心の底から喜ぶ様な表情に、此方の顔も少し緩む。

 

 

「それはよかった。あ、名刺です。ええと、お名前は?」

 

 

「…鷺沢、文香です…」

 

 

名刺を受け取り、名前を名乗る。

そう言えば、差し出されているのに受け取っていなかった。

こういう時まずは記載されている電話番号に掛けて確認するべきなのかもしれないけれど、どのみち断るのだから必要無いと判断。

 

 

「それでは鷺沢さん。まず、我が346プロはーー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「こんばんは、鷺沢さん…読書中でしたか」

 

 

「あ…こんばんは…」

 

 

ひと段落した本に栞を挟み、ゆっくりと顔を上げる。

雨があがり外が橙に染まる六月の夕方。

傘を閉じた彼は、今日もまた此処へ訪れた。

 

 

結局あの日、私はキッパリと断る事は出来なかった。

それは私の心が弱いからでは、決してない。

単純に私が、興味をもったから。

彼の話すアイドルと言うモノに、関心を抱いたから。

 

 

彼の話すアイドル。

それは、私にとっては別世界の。

まるで、ファンタジーの様なものだった。

 

 

とは言え当然その場でアイドルになりますなんて言える筈もなく、考えさせて下さいと言って流したが。

私に少し興味を持ってもらえた事を感じ取ったのか、彼はまた来ますと言ってその日は帰っていった。

それ以降彼は週に1.2のペースでこうやって私の元を訪れる様になっている。

 

 

「実は昨日、担当アイドルのライブだったんですよ。まだ小さな箱ですけど、この調子なら…

 

 

彼はいつもこうやって、楽しそうにアイドルについて話してゆく。

本以外に熱中する事のなかった私が、けれど彼の話を面白く感じていた。

それは多分、私にとって全く違う世界の話で。

まるで読んだ事の無い本のページをめくる様な、そんな感覚だったから。

 

 

アイドルの輝きを、おそらく彼自身が一番喜んでいる。

私に語る言葉一つ一つから、彼の頑張りと喜びが伝わってくる。

きっと、だからこそ私の心が。

彼の話に惹かれているのだろう。

もしかしたら、アイドルと本は似ているのかもしれない。

 

 

そして…

 

 

「さて。そろそろ完全に日も暮れますし、そろそろお暇しますか」

 

 

「あ…では、また…」

 

 

気付けば、あっという間に時間が過ぎていた。

外は既に橙から黒へと変わっている。

時計の長い針も一周と少し。

本を読んでいる時もだけれど、時間の経過がいつもより早いような気がする。

 

 

「次来れるのは来週ですかね。わざわざ時間を作ってくださってありがとうございます」

 

 

一礼して、鞄を片手に店を出る。

そんな彼の後姿を見送り、私は机に乗った本に手を伸ばす。

あの日彼が取ってくれた本。

既に2周目に突入しているけれど、私はこの話が気に入っていた。

 

 

話は、なんて事はないありきたりな恋の話。

紆余曲折あって二人は結ばれる事のない道を辿るお話。

勇気を出せなかった二人が離れ離れになる、そんなお話。

 

 

けれど、何故か。

また読みたくなってしまう。

 

 

何故、でしょうか…?

 

 

今の私に、その解えへとたどり着くまでの知識と経験は、持ち合わせていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もう七月ですね。最近大分暑くなってきましたけど大丈夫ですか?」

 

 

「そう、ですね…一度本に熱中してしまえば、特に気には…」

 

 

湿度の代わりに温度があがり始めた夏の初め。

今日もまた、彼は私の元へと訪れてくれた。

 

 

二人分のコップの乗った机を挟み、扇風機を首振りにしてゆったりとした時間を過ごす。

人と話している時ですら本の事で脳を埋める私は、そこにはいなかった。

不思議なものだ。

こうも人が変わるなんて、と自分自身に驚いている。

 

 

「あ、オススメの本。全部読みましたよ」

 

 

そう言って彼は簡単な感想を述べる。

仕事をしていれば読書が出来る時間は限られている筈なのに、毎度次回来る時までに大体全部読み終えてきていた。

自分の薦めた本を読んで貰えると、自分が書いた訳でもないのに嬉しくなる。

好みのモノを気に入ってもらえるのは心地よい。

 

 

「…最近、文香さんよく恋愛小説をよんでますね」

 

 

「…確かに、そうですね…」

 

 

よく見ていたものだ。

確かに私は最近よく恋愛小説を手に取る。

今まで読まなかった分だろうか、ここへ来て一気にハマってしまっていた。

まだヒロインに感情移入できる程ではないし、何故そんな言動を?と突っ込みたくなる事もあるけれど。

 

 

「確かにありますよね。なんでそこでこう…勇気を出せないんだ!みたいな」

 

 

「そればかりは…実際に、なってみないとわからない事なのでしょう…」

 

 

他愛の無い話に花を咲かせる。

こんな風に、気軽に話せる人が。

今までの人生で、私にいただろうか?

もちろん家族以外で。

 

 

向かい合わせで、時折逸らしながらも相手の目を見て。

…彼の視線を意識したとたん、なんとなく頬が熱くなる。

つい、と。

同時にお互い目を逸らした。

 

 

前髪が目に掛かっている為に、少し俯けば向こうからこちらの目は見えない。

少しずつ視線を元へと戻す。

と、丁度此方を向いた扇風機の風が私の前髪を目前から退ける。

再び、私は目を逸らした。

 

 

…ほんとうに…私は、一体…

 

 

「すみません、お手洗いをお借りしても大丈夫ですか?」

 

 

「あっ、どうぞ…あちらの扉です…」

 

 

手帳を閉じ、彼は一旦席を立つ。

彼の姿が扉の向こうへ消えたところで、私はふと気になった。

 

 

…暇、なのでしょうか…?

 

 

社会人にしては恐らく高頻度で、彼は此処を訪れている。

仕事自体、割と暇のあるモノなのだろうか。

天下の346プロダクションなのだから、そんな筈は無いと思うけれど…

 

 

先ほどまで彼が座っていた席の前には、数冊の本と手帳が置いてある。

きっとその中には、ビッシリとスケジュールが書き込まれているのだろう。

良識を弁えた私は、気になっていたとしても勝手に覗き見ようだなんて思わない。

表紙に指を掛けて開こうとしたけれど、思い留まって指を離そうとする。

 

 

と、その時。

なんの偶然か、扇風機の風が此方へと吹いた。

 

 

少し持ち上がっていた手帳の表紙を、数ページ巻き込んで吹き飛ばす。

あわあわとふためいている間に、ページは四月を終えて五月半ばまで差し掛かっていた。

やがて扇風機の風は別の方へと向かう。

開かれたページは、五月の終わり。

 

 

丁度、私と彼が出逢った週だった。

 

 

いけないと脳では理解しつつ、目はあの日を探す。

日曜日、月曜日と視線を進める。

そしてページの中盤に、私は私の名前を見つけた。

 

 

その日の午後の予定の部分に、この古書店の名前が。

そしてその横に、少し大きく右上りの文字で。

鷺沢 文香、と。

 

 

ただ私の名前が彼の手帳に書いてあっただけなのに。

私の鼓動は跳ね上がった。

理由なんて分からない。

どう言う訳でもなく、嬉しかった。

 

 

しかし、ふと。

何かに違和感を感じる。

 

 

…何故。

スケジュールに元から組み込まれていたかの様に、この古書店の名前が記されているのだろうか。

まるで、予めこの古書店へ来る事は決まっていて。

その日ようやく、私の名前を知ったかの様に。

 

 

疑問は膨らみ、溢れそうになる。

けれど、聞くわけにはいかない。

私は勝手に彼の手帳を見てしまっているのだから。

 

 

慌てて手帳を閉じようと表紙に手を掛けたところで、私は固まった。

 

 

「…あ」

 

 

「え、ええと…」

 

 

最悪のタイミングで、目があってしまったのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あの…見ちゃった、感じですか?」

 

 

「…その…はい…」

 

 

沈黙が空間を支配する。

お互いに一言も発さない。

目だけは反らせず固まり。

時計の秒針だけが店中に響いた。

 

 

必死に言い訳を考える。

もとはと言えば扇風機の風のせいなのだ。

そう伝えればいいだけ。

けれど。

 

 

それ以上の疑問が、私の脳を占めていた。

 

 

「…貴方は…私と出会う以前から、その…」

 

 

最後まで言い切れず、私は再び口を止める。

それより先に謝って状況を説明すればよかったのに、と。

後悔が広がった。

 

 

いつもなら静かな空間が好きなのに、今ばかりはその静けさが痛い。

永く永く感じた緊張は、けれど恐らく1分と経っていないだろう。

先程までの心地よい時間は、すでに微塵も残っていなかった。

 

 

ふぅ…と。

沈黙を破ったのは、彼の溜息だった。

 

 

「実は…」

 

 

気まずそうに、彼はゆっくりと口を開く。

 

 

「…文香さんをアイドルにスカウトする一週間前に、一度此処を訪れていたんです」

 

 

「それは…何故、でしょうか…?」

 

 

なんとなく、気付いてはいた。

恐らく彼が此処へ来たのは、あの日が初めてでは無いという事を。

けれど、理由が分からない。

来た理由、そして再び訪れた理由が。

 

 

「俺、アイドルのスカウトが苦手で…その日も街を歩き回ってたんです。でも全然上手くいかなくて…。その時、この古書店が目に入ったんです」

 

 

と言う事は、此処を最初に訪れたのは偶然だったとなる。

けれどそれだけでは、再び訪れる理由が無いと。

とすれば…何かが、あったのだろう。

 

 

「昔は本をよくよんでいて、だから仕事中にも関わらずこの古書店に入ってみたんです。気分転換がてら。そしたら…」

 

 

彼の視線が、此方へと向けられる。

 

 

「文香さんを、見つけたんです」

 

 

呼吸が、止まりそうになった。

 

 

「一目惚れ、みたいなものです。この人を俺の手で輝かせたい、と。そう思いました。けれど、その日は失敗ばかりで勇気が出せず…」

 

 

「その、ええと…ありがとう、ございます…」

 

 

一瞬にして体温が上がる。

動揺し過ぎて、頭が回らなかった。

結果、意味の分からないお礼を口に出す。

 

 

すぅ、と。

一旦大きく息を吸い込み、鼓動を落ち着ける。

おそらく顔はまだ赤いが、気持ちと心臓は正常に戻せた、はず。

 

 

「それでも、諦め切れなくて。だから、貴女がこの古書店の店員であると言う事に賭けました。そうでなくともまた来ていると祈って。その一週間後、同じ曜日の同じ時間に此処を訪れたんです」

 

 

あぁ、だからか、と。

私は納得した。

だから、スケジュールには既に此処の名前が記されていたのだ。

 

 

もし私が此処の店員だとしたら、同じ曜日の同じ時間帯に居る可能性が高い。

もし私がただの客だとしても、大学生はある程度動ける曜日と時間帯が決まっているから、また来るとしたらそこだとあたりをつけて。

もう一度、私に会いに…

 

 

「二回目も中々声が掛けられなかったんですよ。突然話しかけたら、怪しまれるんじゃないか、って。けれど、貴女が本を取ろうとしているのを見て。気づいたら話し掛けてました」

 

 

まるで運命みたいに、と。

貴方は少し笑いながら、呟いた。

 

 

…確かに、運命かもしれませんね。

 

 

あの日、私が丁度本を探していて。

その時、貴方は丁度私を見ていて。

そして…

私の取ろうとした本の題名が…

 

 

「…それ以降、何度も此処へ訪れていますが…それも、仕事の一環で…?」

 

 

「いえ、仕事中に此処へ来たのは最初の一回目だけです。それ以降は仕事を終えてからだったり、休みの日に」

 

 

プライベートの時間を割いてまで、彼は私に…

…もしかしたら、だけれども。

自惚れでなければ。

彼もまた、今の私と同じなのかもしれない。

 

 

「…七月七日…此処へ、来て頂けますか…?」

 

 

…となれば。

自分の気持ちに、不思議な感覚に自覚を持てたのなら。

今度は、私が。

彼に伝える番だ。

 

 

けれど…

 

 

「大切な…お話をしたいと思います…」

 

 

気持ちを落ち着け、整理し伝えるには。

少しだけ、時間が欲しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

七月七日。

 

 

世間一般では七夕の日として多くに知られ、町は笹と短冊に彩られていた。

子供達は色とりどりの紙へペンを走らせ、笹に括り付ける。

綴られるは願い、届けるは天へ。

 

 

願い達の向かう遥か先には、一人の青年と一人の姫。

年に一度の逢瀬を今日この日に迎える彼等。

離れ離れとなり永い時が流れても、尚愛し合い続ける二人。

そんなロマッチックな二人きりの時間を誰にも邪魔させないと言う様に、この日の空は薄い雲に覆われていた。

 

 

お茶の入ったコップを傾け、本を開く。

折角なのだから何か七夕に関係のある本を読みたかったけれど、残念ながら見つからなかった。

仕方なく手に取った本は、これまた残念ながら面白いとは言い難い。

途中でなげるのは気が引けたので、ページをめくり続けてはいるけれど。

 

 

…早く、来てください…

 

 

はぁ、と一息。

今までの訪問から、彼が大体何時に此処を訪れられるかは知っている。

こうして待っている時間は、本に熱中していればあっという間くらいの短い時間だ。

仕事で忙しいのは分かっているが、それでも今日ばかりは。

今までと同じ様に、仕事を終えてから来て欲しかった。

 

 

頬杖をつき、頭に入って来ない文章を進める。

どうなるかなんて分からないけれど。

どうなって欲しいかは、もう決まっていた。

 

 

叔父から貰った短冊には、何も書いていない。

願いを、想いを天に届ける必要はないから。

届ける相手はただ一人。

そしてそれは、きちんと。

私の口から、言葉で伝えたいから。

 

 

彼の誘い通り、私はアイドルになるつもりでいた。

私が、私の力で人々に幸せを分けられる存在になる。

それはきっと、とても素晴らしい事だから。

 

 

けれど、伝える決意は。

私の想いは、それだけではなかった。

 

 

いけない事だと理解はしている。

将来的に、その事によって誰かを傷付けてしまうかもしれない。

彼に迷惑がられるかもしれないし、そうでなくても迷惑をかけてしまうかもしれない。

 

 

それでも。

私は、ようやく気付いた私の気持ちに。

正直に、なりたかったから。

 

 

怖くないのかと言われれば、そんな筈は無い。

悲しい結末を、悲惨な末路を何度も思い浮かべてしまった。

けれど。

今此処を乗り越えなければ、きっと私には一生機会を活かせる事がない。

 

 

「こんばんは。仕事を終わらせるのに、何時もより少しかかっちゃって」

 

 

入り口から、彼の姿が現れる。

 

 

言うべき事は、もう決まった。

勇気の出せない私は、読みかけの本と共に閉じておく。

欲張りかもしれないし、無理かもしれない。

けれど、それでも。

 

 

きっと貴方なら叶えてくれる。

そう、信じて。

 

 

「私はーー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ…ようやく終わった。待たせて悪かったな」

 

 

「いえ、…私が、勝手にしている事ですから…」

 

 

「ありがとな」

 

 

そんな他愛の無い会話が、とても嬉しくて。

私は貴方の目を見て、微笑んだ。

 

 

既に日は完全に落ちてしまっている。

窓の外には、綺麗な夜空が広がっていた。

これだけ澄んだ空ならきっと、年に一度の逢瀬も上手くいった事だろう。

 

 

「結局、その話はビターエンドなのか」

 

 

「そう言ったストーリーも…私は、好きですから…」

 

 

けれど、悲しいエンディングなんて本の世界で充分だ。

私が1年前に思い浮かべてしまった悲しい結末は、ページを捲れば行方の分かるフィクションで。

今こうして、まるで夢見たいな幸せなが、現実なのだから。

 

 

「さて、そろそろ帰るか。本は持ったか?」

 

 

「はい…あ、一つ…忘れ物を…」

 

 

そう言って、デスクに置かれた短冊に手を伸ばす。

何も書かれていないけれど、願いは直接伝えられる。

だって…

 

 

叶えてくれるのは、貴方なのだから。

 

 

私の想いを綴らず込めた短冊を、貴方へと直接手渡す。

不思議そうに首を傾げる貴方へ。

 

 

私は、笑顔で告げた。

 

 

「…これからも、ずっと…。側にいて、頂けますか…?」

 

 

 

 

 



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夢から覚めた夢

あんたんした夢をみたので悔しさを忘れぬうちにばーっと書きました



はー、あっついあっつい。

もう夜なのにまだこんなに暑いなんて、ほんと夏って嫌になっちゃう。

確かに海や花火は好きだけどさ、限度があると思わない?

いや別に、体調崩すからとかじゃないからプロデューサーは仕事してていいよ。

 

 

冷房は…そう言えば、ちひろさんが節約って言って28度固定にしてたね。

外から戻ってきた人やレッスン終わりの人の為にもう少し下げてくれてもいいのに。

まぁ少しすれば大丈夫になるのはわかってるんだけどさ。

 

 

それにしても暑いなー。

お茶とかある?

確か冷蔵庫にあった気がするんだけど…

…なんでそんなにプロデューサーは嬉々として用意してくれてるの?

え、ようやく会話できる人が来てくれたから?

 

 

それにしても奈緒は大丈夫なの?

そんな端っこにソファー集めて集まって。

え、なに凛。

今涼しくなる事をしてたところ?

 

 

…あー、なるほどね。

だから小梅ちゃんを囲んでた訳だ。

ついでにプロデューサーがやけに仕事に熱中して…呼んでないって。

確かに夏だもんね、最近テレビでもスペシャル番組やってたし。

 

 

夏にはそんな楽しみ方もあったんだったね。

いやほら、あんまり林間学校とか参加出来なかったからさ。

ついでに昔は夜遅くまでテレビ見てるなんて無かったし。

あとプロデューサーって絶対心霊系の仕事持ってこないし。

 

 

じゃ、私も混ぜて貰おうかな。

話のネタなら1つあるし。

まだまだみんなと一緒に楽しみたいし。

…いや別に疲れてないって、喋るだけで体調崩すなんて私でも有り得ないからね?

あー…うん、プロデューサーが怖がりって事はよく分かったって。

大丈夫大丈夫、そんな怖い話じゃないから。

 

 

さて…と。

まぁ今言った通り、そんなに怖い話じゃないんだ。

普通のホラーだったら小梅ちゃんの方が語るの上手いだろうし、ここは変化球で、ね。

それにせっかく中高生が集まってる訳だし、折角なら少し捻った方が楽しんで貰えるかなって。

 

 

これは大体一年くらい前の話になるかな。

私が経験した、不思議な夢のお話…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ピッ、ピッ、ピッ

 

 

無機質な電子音だけが反響する病室。

時折足音が遠くで足音や会話が聞こえてくる。

窓から差し込む夕陽はカーテンに遮られ、私に届く事は無い。

けれどそんな事なんてどうでも良くなるくらい、私は全てを投げ出していた。

 

 

自分の身体は他の人よりとても弱い事は、物心ついた頃から嫌と言うほど理解してきた。

そのせいで辛い事が多かったし、親にもたくさん迷惑を掛けてきた。

それでもいつか幸せな日々を送れると信じて生きてきたし、これからもそのつもりだった。

 

 

けれど、それもさっきまでの話。

 

 

私の命は、あと一年も持たない。

そう、医者に告げられてしまったから。

 

 

 

 

 

 

 

 

奈緒、落ち着いて。

プロデューサー、取り敢えず受話器下ろそう?

もしほんとなら私は此処に居ないって。

 

 

…あんまり言いたくなかったし、話が途端につまらなくなっちゃうんだけどさ。

これ、作り話だからね?

不思議な夢って最初に言ってるよね?

 

 

…はぁ、続けるよ?

 

 

 

 

 

 

 

奈緒とプロデューサーがまた暴走するといけないから重い話は少しとばすとして。

その宣告を受けた私は、もう完全に生きる希望を失っていた。

何か目標を持ったところで。

何か目的を見つけたところで。

 

 

どのみち、一年後には終わってしまうのだから。

 

 

溜息を吐く気力もなく、ベッドの上で静かに固まっていた。

外の鳥の鳴き声もまったく耳に入らない。

私は残りの一年を、この小さな病室で過ごさなければならないのか。

電子音とカーテンに囲まれて、一人で…

 

 

今更になって涙が出そうになる。

 

 

なんで、私が…

どうして?何か悪い事でもしたの?

ねぇ、神様…

 

 

無意味な質問が頭を埋める。

どんどんと心が弱ってゆく。

既に視界はボヤけきっていた。

 

 

けれど、ふと思い出した。

もうすぐ、医者と話している親が戻ってきてしまう。

きっと親も、とても辛い思いをしているに違いない。

そんな時、私が泣いていたら…

 

 

なんとしても涙を止めるため。

負の思考をやめるため。

急いでテレビのリモコンに手を伸ばした。

 

 

なんでもいい、今の私の気を紛らわせるものなら。

天気予報、教育アニメ、グルメリポート。

次々とチャンネルを回すと、私は一つの番組で指を止めた。

 

 

テレビの画面には、笑顔いっぱいにマイクを握るアイドルの姿。

楽しそうにサイリウムを振るファン達。

ステージに広がる色とりどりの光。

 

 

その光景は、私の目を奪った。

そして同時に。

私も、あんな風になれたらな、なんて。

そう、願った。

 

 

少し微笑み、目を閉じた。

なんだか余計に泣いてしまいそうになったから。

あぁ…少し、疲れたな。

もし叶うなら、夢の中だけでも…

 

 

私の意識は、少しずつ薄くなっていった

 

 

 

 

 

 

 

ピピピピピッ、ピピピピピッ

再び、無機質な電子音で目を覚ます。

窓から差し込む光はとても眩しい。

 

 

あ、もう朝になっちゃってる。

寝すぎちゃったかな。

 

 

大きく息を吸ったところで、私はふと違和感を感じた。

夕陽が差し込む病室で、朝日が差し込むなんて有り得ない。

もしかしたら24時間まるまる寝てたのかもしれないけれど、そもそもカーテンに遮られている筈だし。

それに私は、目覚まし時計なんてセットしていない。

 

 

周りを見回せば、見た事は無い筈なのに何故か見慣れた部屋。

病室にある筈の無い机やクローゼットに、写真や本棚。

パニックになりかけながらも、買ってもらった覚えの無いスマートフォンのアラームを止める。

そこで私自身も、見た事の無いパジャマを着ている事に気付いた。

 

 

そう言えば、今日はダンスレッスンがあるんだった。

あのトレーナーさん厳しいし疲れるんだよね…

だから少し早目に起きて、のんびり歩いて行こうとしてたんだ。

さて、歯を磨いて朝ご飯は…

 

 

…?あれ?

私、何を考えているの?

レッスンがある?いや確かにアイドルなら当たり前だけどさ。

そもそも私、なんでアイドルなんて出来てるんだろう。

 

 

…あぁ、なるほどね。

わかったわかった、つまりこれは夢なんだね。

 

 

寝る前にアイドルのステージを見たから脳が影響を受けた訳だ。

それにしては鮮明すぎる気もするけど、そんな夢があっても不思議じゃない。

ついでに自分の知らない人の名前がポンポン出てくるけど、多分昔何処かで聞いた事があるのだろう。

 

 

さて、夢とわかったならば話は早い。

折角健康な身体な訳だし。

思いっ切り、アイドルとしての生活を楽しませて貰うとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

事務所へ向かうまでの道は、とても幸せだった。

何気無い景色がいちいち私の目を奪う。

道端の街路樹や花壇の花、ガードレールやすれ違うサラリーマン。

その全てが、鮮やか過ぎて眩しい。

 

 

「おーい、かれーん」

 

 

「あ、奈緒。おはよう」

 

 

見た事も無い筈の親友の名前がサラッと口から出てくる。

その事に驚きながらも、合流してのんびり事務所へ歩く。

その間の他愛の無い話が、とてつもなく嬉しくて。

だから、私は。

今日のレッスンがダンスだと言うことを完全に頭から追いやっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よし、今日はここまでだ。しっかり水分を摂って身体をほぐしておくように」

 

 

…しんどい。

隣では奈緒と凛が座り込んでいる。

え、私?恥じらいも何もかも捨てて床に寝転んでるよ?

 

 

「あー…辛い。もう動きたくないな」

 

 

水筒を何とか動かずに取ろうと、奈緒が腕を全力で伸ばしながらぼやく。

 

 

「でもしっかり力はついてきてると思うよ。最初の頃は怒られてばっかりだったし終わった後喋る元気もなかったし」

 

 

そう笑って、凛はペットボトルを傾ける。

 

 

そしてそんなユニットメンバーの会話を聞きながら。

私は…

 

 

「…ふふっ、あはははっ!」

 

 

大笑いしていた。

二人が不気味そうにこっちを見てくるけど、そんなの関係無い。

 

 

楽しい!楽しい!楽しい!!

 

 

踊れたんだ、私が!

まるでアイドルみたいに!

いや、本当にアイドルなんだ!

 

 

とっても嬉しかった。

病室のベッドで寝ていただけの私が、こんなに楽しく踊れるなんて。

夢だけれど。

ついでにほんとにしんどいけど。

 

 

「ふぅ…じゃ、先に戻ってるから」

 

 

一通り笑ったところで、未だに変な目で見つめてくる二人を置いて更衣室へ向かう。

巨大な事務所の道に迷う事なく、次にすべき事を思い出す。

汗を拭いて、着替えて。

そして、私達の部署へ戻る。

 

 

だって、その扉を開ければ…

 

 

「お。お疲れ様、加蓮」

 

 

「お疲れ様でーす。ふう…今日も疲れたよ…」

 

 

笑顔で、プロデューサーが迎えてくれるから。

 

 

 

 

 

 

 

 

他の二人が戻ってくるまで他愛の無い話を交わし、戻って来てからガールズトークに花を咲かせる。

駅前のドーナツ屋や、同事務所のアイドルの話。

時折私が奈緒を弄り、便乗してプロデューサーも弄る。

気が付けば時計の短い針は半分より左を差し、夕陽も沈みかけていた。

 

 

「さて、そろそろ帰るか」

 

 

「じゃ、また…明日ね」

 

 

楽しい夢の様な夢の時間も、そろそろ終わりが近付いているらしい。

みんなと別れて家へと歩く。

家の扉を開ければ、お母さんが出迎えてくれて。

家族三人で食卓を囲んで笑いあって。

 

 

…幸せ、だったな。

 

 

今日一日を思い出し、私は笑って布団に潜った。

もう直ぐ日が変わる。

疲れた体は、休息を欲していた。

 

 

まるで、シンデレラみたい。

一晩限りの、幸せな夢だったな。

 

 

ちょっとだけ神様に感謝して、私は意識を手放す。

長い針が頂点へ向かう音と同時に、私の視界は完全に暗くなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ピッ、ピッ、ピッ

 

 

目を開ければ、見慣れた病室。

窓から射し込む太陽の陽はカーテンに遮られ、聞こえてくる電子音と足音もいつも通り。

身体も重いし歩くのも億劫。

 

 

けれど私は、笑っていた。

 

 

部屋に入ってきた親を笑顔で出迎える。

元気そうな私を見て、親もまた笑ってくれた。

少し遅い朝ご飯と言うよりはもう殆どお昼ご飯を三人で囲む。

身体に反して、心はとても軽かった。

 

 

…また、同じ夢を見れるかな。

 

 

ルーチンワークとなっている検査を終え、夜の病室に一人で寝転がっている時。

ふと、そんな事を願った。

思い浮かぶのは、鮮明な夢。

あの幸せな世界に。

 

 

私は、もう一度…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ピピピピピッ、ピピピピピッ

 

 

私は希望を込めて目を開けた。

この電子音は、この身体の軽さは…

飛び起きて、周りを見回す。

 

 

世界は、私の夢は。

また私を、幸せな空間に招き入れてくれた。

 

 

「ふふっ」

 

 

弾む心をなんとか抑え、また前回と同じく支度を終え事務所へ向かう。

今日はボーカルレッスンな筈。

歌うのは好きだし、なによりダンス程疲れない。

 

 

「おはよう凛、奈緒」

 

 

「お、おはよう加蓮。二人は先にレッスンルームに向かったぞ」

 

 

出迎えてくれたのは笑顔のプロデューサー。

まだ時間は少しある。

何気無い会話を時間いっぱい交わす。

時間に遅れた訳じゃ無いの私を置いていった二人には後で復讐する事を胸に誓った。

 

 

「じゃ、行ってくるから」

 

 

「頑張ってこいよ」

 

 

扉を閉じてのんびり向かう。

取り敢えず、奈緒にはひたすら褒め言葉を浴びせるとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あー、喋った喋った。そろそろ帰らないと」

 

 

「お疲れ様。気を付けて帰れよ」

 

 

奈緒と凛が帰ってからもプロデューサーと喋り続けてたけれど、流石にそろそろ帰らないとお母さんが心配してしまう。

名残惜しいけれど、私は帰宅の準備をした。

 

 

「…明日、三人に言おうとしてたんだけどさ」

 

 

扉を出ようとした時、プロデューサーから声を掛けられた。

 

 

「おめでとう!CDデビューが決まったぞ」

 

 

 

 

 

 

 

 

浮かれた気持ちで、私は湯船に浸かっていた。

食卓の会話も、上の空だったと思う。

それ程までに、私の心は宙を飛んでいた。

 

 

私達が…CDデビュー…

 

 

他の事なんて考えられ無いくらい、その事が私の思考を占めている。

 

 

私の歌が、みんなに…あのアイドルみたいに…

夢みたい…あ、夢なんだった。

 

 

一瞬にして現実へ引き戻された。

折角幸せな気分でお湯に浸っているのに、変なタイミングで思い出す。

まったく、嫌になってしまう。

明日またこの夢を見れるとは限らないのに。

 

 

少し沈んだ気持ちで部屋へと戻り、スマートフォンで写真を見る。

ユニット結成の日に食べたソフトクリーム。

雨の日にボサボサになった奈緒。

誕生日にみんなからお祝いされて涙目になっている奈緒。

見た事の無い筈の思い出を、はっきりと鮮明に思い出せた。

 

 

…明日、また…

 

 

少しずつ瞼が重くなる。

だから私は気付かなかった。

 

 

画面上に表示された数字が、既に三つになっていた事に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ピピピピピッ、ピピピピピッ

 

 

はぁ…また病室ライフか…

 

 

目が覚めた私の思考は、既に今日の夜に向けられていた。

またあの夢の続きを見る事が出来れば。

いっその事、ずっと夢の中に居る事が出来れば…

 

 

あれ?

 

 

ふと気づく。

周りの景色が、寝付いた時と変わっていない事に。

窓からは朝陽が差し込んでいるし、部屋の椅子には昨日放り投げたカーディガンが掛かっている。

 

 

…まさか!

一気に思考を覚まし、そして理解した。

 

 

私、戻って無い!

 

 

私の幸せは有頂天だった。

叫びたくなるくらいには良い気分だった。

もしかしたら叫んでいたかもしれない。

最高の気分で早めに事務所に着き、プロデューサーとニヤニヤしながら二人を待った。

 

 

「おめでとう!CDデビューだぞ!」

 

 

そう告げられた奈緒と凛は一瞬固まっていた。

そうなるだろうと予測していた私が凛の珍しい表情を撮ったシャッター音で、二人とも一気に時を取り戻す。

そのあとは少しだけ打ち合わせをして、三人で駅前のパフェを囲んだ。

もちろんプロデューサーのおごりで。

 

 

その日はとても早かった。

ついでに三人の口調も早かった。

相当テンションが上がってたんだと思う。

奈緒も、弄られてもその事にまったく気付いて気付いていなかったし。

 

 

帰り道も、私はずっと笑顔だった。

昨日は秘密にしておいたけど、今日ははやく親に教えてあげたい。

どんな表情をしてくれるかな。

喜んで貰えるよね。

 

 

家の扉を開けて開口一番ただいますら投げ捨てて伝えてみた。

夕飯のおかずの種類が三倍に増えたのはさておき、物凄く喜んでくれた。

お母さんから知らせを受けたお父さんは、大量のお土産を両手にぶら下げて家の扉を開けられなくなった。

ずっと、みんな笑顔だった。

 

 

…幸せだなぁ…

 

 

明日は何をしよう。

クラスの友達に教えてあげようか。

他の二人も今頃親に伝えてるかな。

プロデューサーも、きっと凄く喜んでるだろうな。

 

 

目覚ましのアラームをいつもより少し早くセットし、私は興奮冷めやらぬ脳と心を押さえつけて眼を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ピッ、ピッ、ピッ

 

 

…現実に引き戻された。

景色は病室、私の気分は最悪。

はぁー…っと大きな溜息と共に身体を起こす。

さっさとまた夢の世界に戻ろう。

そう思って眼を閉じても、ばっちり睡眠時間を確保した私の身体は当然ながら寝ようとはしてくれない。

 

 

はやく夜にならないかな…

 

 

時間は限られていると言うのに、そんな事を考えてしまう。

だって、夢の世界の方が現実より何倍も幸せだから。

電子音しか聞こえず、医療器具に囲まれて過ごすなんて。

 

 

凛と奈緒と、それからプロデューサーがいて。

私は元気で、お母さんもお父さんも笑顔で。

そっちの方が良いに決まっている。

 

 

重い身体で検査を受け、少し病院内をフラフラと歩いて時間を消費。

そしてまた、夜が来た。

 

 

さて…と。

また、見られるといいな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スマートフォンからのアラーム。

よし、オーケー。

 

 

パパッと飛び起き、制服に着替えて支度を終える。

幸せな時間なのだから、楽しく過ごさないと。

折角神様がくれたチャンスなんだから、最大限有効活用しないと。

 

 

高校のクラスメイトにCDデビューを伝えてみると、HRが潰れた。

先生も、みんなも心から祝ってくれた。

またしても私は有頂天。

仲の良い友達からは何処のか分からないポイントカードをプレゼントされた。

流石に遠慮したけれど、やっぱり嬉しい。

 

 

放課後はまた、凛と奈緒と遊びに行った。

ボウリングして腕が筋肉痛になり。

ウィンドウショッピングして財布を覗いて哀しくなり。

ファーストフード店でポテトを囲む。

 

 

ついでにケチャップを頬につけた奈緒の写真をプロデューサーに送る。

ポテトなんか食ってんじゃねぇ!(文章は丁寧だったけど大体こんな意味)と言う返事が返ってきた為既読無視しておいた。

こっちの私は体調も絶好調だしそんな心配しなくていいのに。

太る心配もあのトレーナーのレッスンを受けている限りありえないのに。

 

 

喋ってると時間なんてあっという間。

既に外は真っ暗で、二人と別れて私は家に戻る。

眠る前に、プロデューサーに三人で遊んだ画像を送った。

直ぐに返事が戻ってくる。

それから数十分他愛のない会話(説教含む)を交わして、時間を見ればもう23時半になっていた。

 

 

おやすみ、また明日な。

そんなやり取りがとても嬉しい。

 

 

また明日ね。

 

 

そう送って、私はアラームをセットし眼を閉じる。

また明日。

そんな当たり前のやりとり。

それだけでこんなに嬉しい。

 

 

明日、まだここに居られるといいな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近神様は随分と私に優しい。

翌日も、その翌日も。

私は夢から覚める事がなかった。

その分しんどい時間だったけれど。

 

 

レッスン、レッスン、打ち合わせ、レッスン。

記憶の大半がレッスンだったし、疲労の全部がダンスレッスンだと思う。

私達のデビュー曲を、ひたすら聞き込んで歌って踊って。

なんとかお互い支え合って、頑張ってこなしてきた。

ポテトなんて食べる気力もなかった。

 

 

プロデューサーもひたすらディスプレイに向かって難しい顔をしていた。

多分私達以上に忙しいのだろう。

それでも部屋へ戻ると笑顔で迎えてくれる。

話を振るとちゃんと手を止めて応えてくれる。

それだけで、疲れが吹き飛ぶ様な気がした。

やっぱり気がしただけだった。

 

 

疲れ切って泥の様に布団に沈み込む。

一瞬にして、私の意識は消え去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ピッ、ピッ、ピッ

 

 

おはよう、現実の世界。

少し休めるからありがたいよ。

戻りたくなかったけど。

 

 

ゆっくりと食事をとり、ダンスの振り付けを思い出す。

今の私にはダンスなんて無理だけれど、脳内で復習することなら出来る。

検査の時間も、歌詞の意味を噛み砕いて脳に叩き込んだ。

夢の世界の事を現実の世界でこんなに一生懸命考えるなんて、なんとも不思議な気持ちになった。

 

 

歌詞を一度文字に起こし、口ずさんでみる。

死ぬ程のレッスンのおかげで、一字一句間違えずに暗唱できた。

多分音程も完璧。

そして私が担当するサビの歌詞、未来。

ほんと、どうなるんだろうな…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また、踊って歌って踊って踊る日々。

今度は、前回よりも長い日数夢をみた。

 

 

着実にみんな、上達している。

もう眼を閉じていてもぶつからずに踊れるくらいには上手くなったと思う。

歌だって耳元で他の曲を流しながらでも完璧に歌い切る自信がある。

プロデューサーの反応もかなり良かった。

 

 

家に帰れば、お疲れさまとお母さんが出迎えてくれる。

夜中に部屋で練習していれば、お父さんがこっそりコーヒーとお菓子を持ってきてくれる。

家族と奈緒と凛と、それからプロデューサー。

みんなに支えられて、私はここまできた。

 

 

そしていよいよ収録を翌日に控えた夜。

寝る前もなんども曲を聴いて、口ずさんで。

絶対寝坊しない様にアラームをかけて眼を閉じて。

 

 

久しぶりに、私は現実に引き戻された。

 

 

 

 

 

 

 

 

…はぁ。

明日ついに私達のデビュー曲の収録なんだけど?

なんてそんな事を誰かに言ったところで、私の入院理由が一つ増えるだけになる。

 

 

それにしても、と。

私は落ち着いて考えた。

 

 

だんだん、夢の世界にいる時間が長くなっている。

いっその事、ずっと夢から覚めなければいいのに。

その方が私は幸せだし。

この現実の世界は、私に冷た過ぎるし。

 

 

取り敢えず病院の庭で歌ってみる。

肺活量も復帰もないから、夢の私みたいには歌えないけれど。

それでも最後まで、通して歌う。

 

 

まだ誰にも聞いてもらえないけれど。

それでもいつか、沢山の人に聞いてもらいたいから。

そしていつか、あのテレビのアイドルの様に。

ステージに立って、沢山の人を笑顔にしたいから。

 

 

歌い切った後、私は既に疲れ切っていた。

まずいまずい、明日は収録だ。

しっかり休んでおかないと。

万全のコンディションで挑まなければ。

 

 

ゆっくりと歩いて自室へ戻り、疲れた身体を横にする。

現実の私は自分が思っている以上に体力がない。

アッサリと意識は薄れていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ…お疲れ様」

 

 

「お疲れ様」

 

 

収録が終わった。

燃え尽きて、もう物凄く疲れた。

ほんとうはプロデューサー含め四人で打ち上げに行きたいところだけどそんな気力は残っていない。

出来に関しては、私的には完璧と言いたい。

間違いなく今までで最高になっている。

 

 

ほか二人を見れば、良い感じに顔から疲れが伺える。

ここ数日の分が一気に来たんだろう。

シャワー浴びて寝たいと目が語っていた。

 

 

その日は一旦わかれ、お母さんにただいますら言えずシャワーを浴びて布団に転がる。

あー…あとは発売が…ダメだ、疲れて頭が回らない。

一回寝よう、明日みんなに連絡すればいいや。

 

 

眼を閉じれば、一瞬にして夢の世界へと落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃ、お疲れ様でした!」

 

 

「「かんぱ〜い!」」

 

 

翌日の昼、ようやく疲れの取れた全員が事務所のカフェで集まった。

未成年だからビールじゃないけど、各々大きなグラスを掲げて笑いあう。

 

 

「いやぁ、あとは発売を待つだけだな!」

 

 

昨日の分まではしゃぐと言わんばかりに、奈緒のテンションは高い。

凛もプロデューサーも、当然私もだけれど。

テーブルのポテトやポッキーを摘みながら、ワイワイと騒ぐ。

周りの人達も分かっている為、何も言ってこない。

それどころかおめでとうと声を掛けてくれる人までいる。

 

 

「それにしても…ほんとにありがとね、プロデューサー」

 

 

「頑張ったのはお前達だからな。俺はサポートしただけだよ」

 

 

珍しく私と凛から直接素直に感謝され、少し恥ずかしくなったのか笑って流すプロデューサー。

 

 

ほんと、ありがとう。

こんなに幸せを感じられるなんて、思わなかったよ。

 

 

その後はひたすら騒いで、ちょっと店員さんに怒られた。

時間もいいかんじだったので、解散となる。

まだまだ喋りたりないけど、また明日会えるしいっか。

プロデューサーはまだ今日やるべき事が少し残っているらしく、事務所へ戻って行く。

 

 

「こんどはさ、ステージに立って歌えるんだよね」

 

 

「そうだな…あたし達も頑張らないと」

 

 

そう言って別れる。

さて、明日もまた頑張らないと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それからどんどんと、私が夢から覚める頻度が減っていった。

一週間に一度、十日に一度、一ヶ月に一度、と。

その間にも、私達は少しずつだけれどどんどん有名になっていく。

小さいけれどライブもやったし、テレビに出る回数も増えて。

ラジオやイベントにも参加して。

 

 

幸せな日常を送っているうちに、私はふと思った。

 

 

もしかして、こっちが現実なんじゃないかな…

病室のベッドで寝ている方が、夢なんじゃないかな…

だって現にどんどん、病室で独りぼっちで居る夢を見なくなってきてるんだし。

 

 

その思いは、さらにどんどん大きくなってゆく。

ついには二ヶ月、三ヶ月と経っても病室の夢を見なくなった頃には、もはや殆ど忘れていた。

時折ふっと病室で過ごす夢を思い出す事はあっても、直ぐに忘れて幸せな現実の事を考えていた。

 

 

今がとても楽しい。

昔からの夢だった、憧れだったアイドルになれて嬉しい。

なんでアイドルに憧れたのかは思い出せないけれど、現に成れているんだから問題は無い。

 

 

アイドルとして歌って踊って。

学校の友達と放課後に騒いで。

凛と奈緒ともっともっと仲良くなって。

プロデューサーやアイドルのみんなと、クリスマスに騒いで。

 

 

そんな日々に変化が訪れたのは、春を回った頃だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夢を見た。

 

 

私は独りで、病室で寝ていた。

聞こえるのは無機質な電子音と遠くからの足音だけ。

陽の射さない寂しい空間。

 

 

そんな場所に、私は居た。

 

 

そういえば、この夢をみるのは随分久しぶりだなぁ。

ちょっと疲れてるのかも。

毎日が充実し過ぎてて、休むの忘れてたし。

 

 

なんとなくフワフワした気持ちで横になっていると医者が入ってきて、私を軽く検査して戻って行く。

親が入ってきて軽い食事をとる。

それを私は、何も考えずに見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ピピピピピッ、ピピピピピッ

 

 

アラームに起こされ、ゆっくりと身体を起こした。

なにか夢を見ていた様な気がするけど思い出せない。

まぁ夢だしいいか、とのんびり着替えて事務所へ向かう。

 

 

同じ部署の仲間も増え、色んな人が出入りする様になった部屋の扉を開ける。

キーボードを叩くプロデューサーの周りには小学生アイドルのちびっ子達が騒がしくはしゃいでいた。

今日も人気者だねプロデューサー、コーヒーに塩入れてあげよ。

 

 

半年後には事務所の全アイドルを挙げて行うコンサートへ向け、プロデューサー各位はとても忙しいらしい。

それはわかってるけど、もう少し休んでほしいな。

ここの所ずっとずーっとディスプレイとにらめっこしてるし。

視線を少し横にずらせば私が立っているのに、それにすら未だに気付かないし。

 

 

「…おはよう、プロデューサー」.

 

 

「お、おはよう加蓮。悪いんだけど俺の周りのちびっこお姫様達をちょっと向こうに連れてってくれるか?」

 

 

「私は従者じゃないんだけど?しょうがないなぁ…みんな、あっちにプロデューサーが隠しておいたバームクーヘンがあるよ」

 

 

あ…と言う表情のプロデューサーを置いて、みんな戸棚へと向かって行った。

その中に高校生である筈のアイドルの姿もあったけれど楽しそうだし大丈夫だろう。

…ダイエットはどうしたんだろ?

 

 

「じゃ、私はもう行くから」

 

 

「送れなくて悪いな。移動費の領収書はちひろさんに渡しておいてくれ」

 

 

仕事前に少しプロデューサーと会話し、現場へと向かう。

前は何時でも送ってくれたのに…ま、人数も増えたししょうがないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また、病室の夢を見た。

 

 

またか…疲れてるんだろうなぁ。

この夢、やたらリアルなんだよね。

はやく覚めて欲しいんだけど、どうやったら夢から抜け出せるんだろ。

 

 

結論として夢から覚める為には寝れば良いと思い再び眼を閉じるがなかなか寝付けない。

仕方が無いからいつも通り検査を受け、空いてもいないお腹に食事を送り込む。

やたらと身体が重いからそれすらもしんどいけれど。

 

 

ようやく夜になると、そそくさと私は布団にもぐる。

さて、夢から覚めたらどうしようかな。

明日は特に撮影は入ってなかったと思うし、久しぶりに凛か奈緒でも誘って…

 

 

 

 

 

 

 

 

ピッ、ピッ、ピッ

 

 

目が覚めた。

けれど、私はまだ病室にいた。

 

 

あれ?まだ夢から覚めてない?

 

 

随分と長い夢になるけれど、そんな時もあるだろう。

夢が二本立てだった時もあるし。

うーん、にしても夢の世界は随分動き辛いなぁ。

 

 

重い身体を引きずって前の夢と同じ通りに検査を受け、食事をとる。

夜になり、私は直ぐに眼を閉じた。

早く覚めてくれないかな…

咳き込んでなかなか寝付けなかったけれど、気付けば意識は朦朧としていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おはよう、加蓮。あれ?今日って特に何も入ってなかったよな?」

 

 

「家に居てもやる事なくてね。それとも来ちゃ迷惑だった?」

 

 

「いや、ちょうどよかった。少し話があってな」

 

 

最近にしては珍しくプロデューサー以外誰も居なかった部屋で、パソコンを挟んで言葉を交わす。

そう言えば、一対一で話をするのも久し振りな気がした。

静かな事務所も久し振り。

 

 

「…最近、うちの部署の人数も結構増えただろ?」

 

 

「毎日騒がしいよね。私は好きだけど」

 

 

「最初は加蓮と凛と奈緒の三人と、二人三脚ならぬ四人五脚で進んでこれたのに今ではそれが難しくて

 

 

「不満がない訳じゃ無い。けど、プロデューサーが貴方だからこそ私は頑張ってこれたんだ。今だってそう。だから、大丈夫だよ」

 

 

謝らなくて、って。

そんな意味も含めて、プロデューサーの言葉を遮った。

 

 

湿っぽい空気は好きじゃない。

どうせなら私は笑っていたいし。

どうせなら、プロデューサーにも笑っていて欲しい。

 

 

「ありがとな、加蓮」

 

 

「うん、謝罪より感謝だよ。私が聞きたいのも、私が伝えたいのも」

 

 

そして、それよりも伝えたい私の想いは。

今は、伝える時じゃない。

 

 

その後は、次々とアイドル達が戻ってきて騒がしい何時もの事務所となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ピッ、ピッ、ピッ

 

 

そして、私がこの夢を見る頻度も増えていった。

夢の長さも、同様に。

 

 

…違うよね、うん。

理解したくなかったけれど、思い出したくなかったけれど。

こっちが、本当の私の世界なんだ。

 

 

どんどん動かなくなっていく身体。

咳き込んでそもそも眠る事すら出来ない。

食事すら満足にとれないし、そもそも食欲が湧かない。

 

 

親以外に誰もお見舞いに来ない。

歌う事も、踊る事も出来ない。

プロデューサーも、居ない。

 

 

そんな寂しい世界が、現実だった。

 

 

眠っても、あの夢を見れない夜が増えていく。

それでもまた、みんなに会える日がくる。

きっと…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一週間に一回、一ケ月に一回と。

どんどん夢を見る日が消えていく。

少しずつ、夢の世界の記憶が薄れていく。

カレンダーを見れば、もう直ぐ一年経とうとしていた。

 

 

結局今夜も、ダメだったな。

そろそろ、苦しいな。

みんなに、会いたいな…

 

 

…神様、どうか。

最後に、あの人に。

 

 

私の、気持ちを…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結局その少女の願いが叶う事はありませんでした、ちゃんちゃん。

 

 

…あれ、反応がよくないな…

なんかただの後味が悪い話になっちゃったね。

うーん、どうせならそのまま夢の世界から抜け出せなくなりましたとかの方が良かったかな?

 

 

でも怖いと思わない?

中国にたしかこんな感じの話があった気がするけど、どうだったかな。

さて、結構長々と話しちゃってもう時間も遅いし帰ろ。

じゃあね、みんな。

 

 

プロデューサーも、お疲れ様。

働いてばっかりだと体調崩しちゃうから気を付けてね。

え、さっきの話?

どう?結構創作力あると思わない?

 

 

…プロデューサー。

ふふっなんでもないよ!

じゃあね、さよなら。

 

 

 





もしかしたら爆死したこの世界が夢なのかもしれませんね
そう思いたいです


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夢を作って、遊ぶ日を夢見て

つくってあそぼう


 

 

 

 

趣味は仕事。

 

そう前に言ったこと、覚えてるかしら?

 

忘れたなんて言わせないけど…よかった、ちゃんと覚えててくれてるのね。

 

ええ…たしかに仕事は好きよ。

 

前も、今も。

 

 

 

けれど、もう一つ。

 

私には趣味と呼べるものがあったのよ。

 

…あった、よ。

 

今ではなくなってしまったわ。

 

 

 

それは、とある教育番組を見る事。

 

結構長く続いていて、放送時間帯はよく変わっていたけれど。

 

それでも本放送か再放送のどちらかを、毎週観ていたわ。

 

 

 

…君は察しがいいわね、その通りよ。

 

ギャグとかではなくて。

 

本当に、私は好きだったの。

 

 

 

小さい頃からずっと続いていた、あの番組。

 

身の回りにあるありふれたもので、子供の心をくすぐるおもちゃを作る。

 

作ったおもちゃで、とても楽しそうに遊ぶ。

 

素敵な事だと思わないかしら?

 

 

 

小学生に上がってからも、中学生に上がってからも。

 

ずっと、観続けていたわ。

 

高校生になっても、大学生になっても。

 

見れない日は録画して、帰ってからの15分を楽しく過ごしていたの。

 

 

 

一般の人からすれば、ちゃっちいおもちゃ。

 

いいえ…正直小学生の時点で、私すら小馬鹿にする事もあったわ。

 

今の子供からしたら、それこそゲームの方が楽しいでしょうし。

 

そもそもハンドサイズの端末で全て事足りてしまうものね。

 

 

 

それでも…私は。

 

親と一緒に、家にあるものを集めて。

 

テレビと同じようにおもちゃを作る事が、大好きだったの。

 

材料を集めて、思い出しながら作って、壊れるまで遊んで。

 

そんな思い出があったからこそ、私はつい最近まであの番組を観ていたのよ。

 

 

 

趣味が仕事になるくらい働き詰めているときも。

 

忙しすぎて、疲れて夢を忘れていても。

 

それでも毎週、きちんと観ていたわ。

 

 

 

…そう、私の夢。

 

 

 

いつかできた私の子供と一緒に。

 

出来れば、お父さんと一緒に。

 

私が今まであの番組から教わったおもちゃを。

 

家にあるもので、作って遊びたいの。

 

 

 

もう、終わってしまった番組だけれど。

 

それでも…私は、覚えているわ。

 

どんな風に作って、どんな風に遊ぶのかを。

 

 

 

もちろん、忘れてしまっているものだってあるわ。

 

小さ過ぎて、はたまた疲れ過ぎていて。

 

でも、それでいいのよ。

 

それでも、いいのよ。

 

 

 

そんな時は、三人で。

 

材料も作り方も遊び方も自分で考えて。

 

そうして出来たおもちゃで、自由に遊ぶの。

 

それが、作って遊ぶって事。

 

私は、そう思っているわ。

 

 

 

…そして、君には。

 

出来れば、私は。

 

私の夢が叶う日に。

 

私の隣に、いて欲しいのよ。

 

 

 

…ねえ。

 

私の夢、叶えてくれるかしら?

 

 

 

 

 



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創生は刻の壁を越えて

あると思うんだ


 

 

何もない世界が、視界いっぱいに広がっている。

#FFFFFFで表される空虚な色調は全てに染まれる可能性を持ち。

しかし未だ、そのコードは変わっていない。

単純に、純粋なままだ。

 

 

まるで、今のアタシみたいっスねー

 

 

渇いた笑みを浮かべてみるも、反応が返ってくる事はない。

当たり前だ、ここは自分一人の世界なのだから。

むしろ反応があったとしたらすぐさま通報すべきなのだろう。

無かったのだから全く問題ないが。

 

 

ブレた思考を一旦方向修正すべく、手元から少し離れたペットボトルのキャップを開ける。

甘ったるい、まるでジュースの様なコーヒー。

けれど既に、その容器は殆ど空となっていて。

自分が思っている以上に時間が経過していた事を叩きつけてくれた。

 

 

思考が全く安定しない。

コレでは思いつくものも思い付けない。

非常によろしくない状況に陥っている。

こんな時は、一度近くのコンビニにでも…

 

 

…先ほども、全く同じ事を考えていた様な気がする。

そうだ、数時間前に自分はコンビニへ行った。

そこでこの甘ったるいコーヒーを買ったのだから。

その時点で陽は完全に沈んでいたけれど、だとしたらもうすぐ日が変わってしまうだろう。

 

 

そして、その結果はどうだ?

果たして自分は、前へと進めただろうか?

真っ白な世界に、自分だけの色を塗る事は出来たか?

 

 

この時間の為に、どれだけ犠牲を払ったことか。

必死に動き漸く手にした僅かな日を、無駄にする訳にはいかない。

なんとしても、私は…

 

 

いけないいけない、こんなネガティヴになってしまっては。

これは、自分で選んだ道。

本来楽しく、やりたいからやる事。

まるで誰かに強制されているかの様に考えるのは全くもってナンセンスだ。

 

 

インスピレーションが欠如し始めた思考をなんとかリセットしないと。

ミューズの授けに、刹那の閃きに気付けない。

刻一刻と迫る刻限を脳内から消し去り、自分の世界を展開する。

まだ誰も到達した事の無い、新天地に。

私は、挑まなければならない。

 

 

けれど、磨耗仕切った思考回路は。

自身が思っている以上に、責務を果たしてくれなかった。

少しずつ、少しずつ。

現代人がふとした拍子にスマートフォンで通知を確認してしまう様に。

アタシの意識は、彼方と此方の反復横とびを始めた。

 

 

…あぁ…このまま、この時がずっと続けばいいんスけど…

 

 

朦朧とした世界から、完全なる夢の世界へ。

意識を手放そうとした。

その、一歩手前で。

 

 

ぶーん、ぶーん。

スマートフォンが震え、何かを伝えようとしていた。

 

 

トリップしていた思考をなんとか引きずり戻し、飛びつく様にホームボタンを押し指紋認証を終える。

赤い数字が浮かび上がっていたのは、水色の地に白い鳥が羽ばたくコミュニケーションアプリ。

人々が自由を謳歌する、現実とはかけ離れた世界。

ゆっくりと、その窓を開けた。

 

 

なんとか、仕上がりまし!

 

 

自分宛てのメッセージに、知り合いは歓喜の叫びを綴っていた。

余程興奮、又は疲弊していたのだろう。

誤字に気付かず送信してしまうとは。

 

 

送り主は、私と目的を共に歩んでいた仲間。

かつて、必ず成し遂げると約束し。

半年後にまた逢おうと契りを交わした。

そんな、戦友。

 

 

フッ…どうやらアタシは、見失ってたみたいっスね

 

 

自分の愚かさに気付き、再び剣を取り直した。

自分が行き詰り、進めないでいる最中。

仲間は必死に突き進んでいたと言うのに。

 

 

やるべき事は、もうはっきりしている。

視界、思考もオールクリアー。

今なら一瞬の天啓を余す事なく、自分のモノに出来る気がする。

 

 

その前に、一旦情報を集める。

自分とその仲間以外の者達が、どの様なアートを創生しているのか。

幸い、今開いているアプリケーションを駆使すれば容易い事だ。

 

 

おー…わぁお、すごいっスね…

あっ!この人今回新作出すんスか。

あっはっは、面白いSS発見っスよ!

 

 

精神的にはとても有意義に時間を浪費し。

気が付けば、太陽が再び地を照らす時刻となっていた。

 

 

けれど、慌てない。

もう恐れはないから。

多分疲れ切って正常な思考が出来ていないからだけれど。

 

 

『今日の午前レッスン、体調不良で休むっス』

 

 

その文章を、果たして発信できていただろうか?

曖昧なまま自分の記憶はワープしていて。

だから。

 

 

恐らく発信源はプロデューサーであろうスマートフォンの振動に、けれど反応する事なく。

前日の自分を恨みながら、ひたすらにペンを動かした。

 

 



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夢から覚めぬ夢

 

 

…ふぅ…疲れました…

暑い、ですね…

こう言った日は…ダンスレッスンではなく、涼しい部屋で本のページをめくりたいものです。

そうは…思いませんか?

…そうですか。

 

 

いえ、嫌と言う訳では…

ただ単純に、一緒に本を…

それにしても…プロデューサーさんは、全く暑そうではありませんね。

ちひろさんが、冷房を29度に固定していた筈ですが…

 

 

…え、部屋の隅、ですか?

何やら、ソファを集めて会談を行っている様ですが。

何をしているのでしょう?

…行かないでくれ?

珍しいですね…プロデューサーさんが、そんな辛そうな表情をするだなんて。

 

 

…冷蔵庫にお茶が冷えてる、ですか。

私の記憶が正しければ、確か空になっていた様な気がしますが…

そんな、わざわざ買いに行っていただくわけには。

既に、汗は引いてますから。

 

 

皆さま…一体、何を…

…成る程、そういう事でしたか。

そう言えば、そうでしたね…

会談ではなく、怪談だったと…

60点ですか…厳しいですね。

 

 

確かに、今日の様な暑い日にはうってつけかもしれません…

私は、あまり同級生とそういった事をした経験はありませんが…

でしたら…折角ですし、私も一つ…

プロデューサーさんも…そうですか。

 

 

では…ここは、書によって蓄えられた知識から、一風変わった話を。

普通の怖い話では、小梅さんの方が向いているでしょうし。

それに、奈緒さんや凛さんにはその方が楽しんでいただけるでしょうし。

…プロデューサーさん、キーボードの音が大きくなりましたね。

 

 

そうですね…これは、以前私が見た夢の話になります…

…え?何処かで聞いた様な切り出し、ですか?

先を越されてしまったようですね…

私の、お気に入りの冒頭だったのですか。

 

 

さて…気ににせず進めさせて頂きます。

少し、長くなるかもしれませんが…

よろしければ、お付き合い下さい。

 

 

今から、少し時間は遡ります。

あれは…私、鷺沢文香がプロデューサーさんと出逢う前の日の夜。

まだ私が…本以外の世界を知らなかった頃。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ざあざあ、と。

夏特有の急な夕立が夜まで長引いたとある日。

エアコンの除湿が役割を果たしきれず、部屋に干した洗濯物が生乾きになりそうな一夜。

居心地のよろしくない世界から逃れるべく、私は本を捲っていた。

 

 

本に一度熱中してしまえば、私の目以外の五感は外界から完全にシャットアウトされる。

そんな特技とも呼べるか分からない習性を活かし、エアコンだけでは足りない部分をカバーしようとしていた。

けれど、昼間からの籠った熱気は未だ止まない雨と相俟り。

なかなか私は、逃れられないでいた。

 

 

…はぁ、と一息。

 

 

夏と言うのは、なかなかに厄介な季節だ。

冬は良い。

寒いのならば上着を着込めば事足りるから。

手が悴まない限り、本をめくる事が出来る。

 

 

けれど、暑いと言うのはどうしようもない。

上着を脱ぐにも限度があるし、湿度のせいで本と指先がしめってしまう。

窓を閉めれば流れ込まない冷気と違って、湿度は場所にあまり依存しない。

特に、今晩の様に強い雨が降っている夜は。

 

 

仕方が無いので一旦本を置き、冷たいお茶を取りに冷蔵庫へと向かう。

グラスに氷を入れようとして開けた冷凍庫の冷気に一瞬の幸せを感じながら、たぷたぷと注がれてゆくお茶を一人眺めていた。

いっその事冷凍庫で暮らしたい。

そんな馬鹿な事を考え、自分が暑さで疲れている事を改めて実感する。

 

 

部屋に戻って手を見れば、既にグラス表面を覆った水滴によって濡れている事に気付いた。

こんな手で本を握っては痛んでしまう。

そうでなくとも、上手く本のページをめくれず纏めて捲ってしまった場合は哀しみしか生まれない。

間違えて一気に話が進み犯人がわかってしまった時は、しばらく本をめくる気力が無くなってしまった程だ。

 

 

何とかこのまとわりつく湿気を紛らわすべく、私はテレビを付けた。

夜も遅い時間の為、大体がニュースだ。

世界的スポーツ大会の結果や、大雨警報。

天気予報によれば明日の昼にはこの雨も止まるらしい。

逆に考えると、明日の昼まではこの湿度のまま。

今から嫌になる。

 

 

ぽちぽちとチャンネルを回すと、国民的アイドルの話題となっていた。

過去のライブやバラエティー番組が次々と流れている。

花々しいステージに、楽しそうな笑顔。

会場全てが熱気に包まれていそう。

 

 

…私には、縁の無い世界ですね…

 

 

テレビの電源を落としリモコンを机に放る。

手は乾いていたけれど、既に少し睡魔がやってきていた。

ここで敢えて逆らう必要も無い。

そろそろ、明日の起床に支障をきたす前に寝ておこう。

 

 

床へと着き、冷房のタイマーをセット。

起きる頃には雨が弱くなっている事を祈り、私は眼を閉じた。

意識を放り投げる前に思い出したのは、先程のテレビの事。

 

 

もしかしたら…私にも、そんな世界が…

 

 

ふふ、っと。

微笑み、夢の世界へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『アイドル、どうですか?』

 

 

雨に包まれた夢の中で、私は一人の男性に声を掛けられた。

見慣れた本棚のアーチの下で、運命的な出逢い。

シンデレラにガラスの靴を差し出す王子様の様に、彼は私へと名刺を差し出している。

 

 

『あの…私は、あまり…そう言ったことは…』

 

 

数回の受け応えの後、ようやく自分がスカウトされた事に気付きサクッと断る。

当たり前だ。

いきなりアイドルになってみないか?だなんて。

おそらく私でなくとも断るに決まっている、筈。

 

 

素気無くされた彼は、肩を落として店から出て行った。

私は直ぐまた本のページを捲る作業に戻る。

人に囲まれるよりも本に囲まれていたい。

私は、そういう人だから。

 

 

けれど、何故か。

なかなか文字の世界にのめり込めなかった。

 

 

心の何処かで、願っていたのかもしれない。

私を本だけの世界から連れ去ってくれる王子様を。

私の手を取り、様々な世界を見せてくれる人を。

速読と本の知識しか取り柄の無い私から、魅力を引き出してくれる人を。

 

 

…待って、下さい!

 

 

そう言おうとしても、既に男性の姿は無い。

チャンスを自ら突き飛ばしてしまった。

そんな後悔が、私の胸を埋める。

 

 

立ち上がって、彼を追いかけようと。

その時、私は現実の世界に引き戻された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゆっくりと、目がさめる。

やってきたのはいつも通りの朝。

昨日の夜よりは若干弱まってはいるが、それても外出には向かない雨天。

時計の短い針は真左を差していた。

 

 

…変な夢を…はぁ

 

 

鬱々しい天気と気分のダブルパンチを受け既にまた眼を閉じたくなる気分を乗り越え、洗面所へ向かう。

今日は特に用事も無い。

パパッと着替えて表へと出た。

 

 

当然ながらこんな時間にお客さんはいない。

雨の人もなれば尚更の事。

それで特に問題は無い。

私は此処で本を読む。

その事に、変わりは無いのだから。

 

 

ぺら、ぺら。

 

 

紙の捲れる音と遠くからの雨音が、私しかいない店を埋める。

心地よい、その筈なのに。

なんとなく、居心地が悪かった。

 

 

気分を変えようと、別の本を取りに本棚へ向かう。

普段は読まない様な本を読めば、今の気分も変えられるかもしれない。

どんなジャンルにしようか…

 

 

「あの、すみません」

 

 

そうだ、偶には恋愛小説もいいかもしれない。

長らく読んでいなかったし。

ホラーは…辞めておく。

大体オチが読めるから。

 

 

「すみませーん」

 

 

「えっ?!」

 

 

気付けば、お店には一人の男性が入って来ていた。

完全に自分の世界に入っていたため、全く気付けずにいて。

驚いて、私は本を落としてしまった。

 

 

「だ、大丈夫ですか?」

 

 

「あ…ええと…失礼、しました」

 

 

拾って貰った本を受け取り、ふと私は気付く。

その男性とは、どこかで会った事のある様な気がした。

それも、つい最近。

 

 

…もしかして…

 

 

「私、こういう者でして…」

 

 

差し出された名刺には、とある大手プロダクション名。

アイドル部門、シンデレラプロジェクト担当の文字。

そして、男性の名前。

 

 

私は、次に彼の口から出る言葉を予想出来た。

だって、それは。

一度、経験した事なのだから。

 

 

「アイドル、どうですか?」

 

 

答え合わせは終わった。

だからこそ、こんなアバウトな質問にも対応出来る。

言うべきことも、既に決まっている。

 

 

「…詳しいお話を、伺っても…よろしいでしょうか?」

 

 

雨は、既にやんでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結果的に私は、アイドルになった。

人間やれば出来るもので、本の虫だった私も案外何とかなってしまうものである。

もちろん辛いことだって多かったけれど。

特にダンスのレッスンや、体力作りの走り込みなど。

 

 

それでも、私のプロデューサーとなった彼が手を引いてくれて。

苦しい時私を支えてくれて。

疲れた時私を励ましてくれて。

二人三脚で、進んでこれた。

 

 

あの日見た夢が何だったのかは分からない。

予知夢だったのかもしれないし、未来視的なものだったのかもしれない。

もしあの夢が無ければ、初めて声を掛けられた私は断っていただろう。

 

 

けれど、最終的に私はこの道を歩いた。

知っていたから、分かっていたから。

後悔をしない道を行くと、決断出来た。

 

 

今はとても充実している。

これ以上無いほど、慌ただしくも満ち足りた毎日を送れている。

そして、だから。

またあの様な夢を見るだなんて、この時の私は想像もしていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『痛っ…つー…』

 

 

『っ?!だ、大丈夫…ですか?』

 

 

ファンレターを開けていたプロデューサーが突然、手を押さえて叫んだ。

見れば、少しではあるが血が流れている。

そしてその原因は…

 

 

『剃刀の刃か…まさか、ベロの部分に付けてあるなんてな…」

 

 

ファンレターを開ける時に必ず触れるであろうマチが、赤く染まっている。

そこに剃刀の刃を付ければ、最初に封を切る人は必ず手を切るだろう。

 

 

『担当プロデューサー殿宛のファンレターなんておかしいと思って警戒しながら開けようとしたんだけどな、想定外だったよ』

 

 

『文香が開けなくてよかった』

 

 

そう笑って、プロデューサーは絆創膏を巻く。

恐らくCD発売の手渡し会の時に変な誤解をしたファンがいたのだろう。

改めて、アイドルと言う職業の恐ろしさを実感した。

 

 

『驚かせて悪いな、今後はもっと細心の注意を払うから安心してくれ』

 

 

私が何かを言う前に。

私の意識は現実に引き戻された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「プロデューサーさん…昨日の夜、読んだ小説の話なのですが…」

 

 

翌日出社した私は、早速プロデューサーに話し掛けた。

とは言え、貴方は今日ファンレターで怪我をするから気を付けて下さいだなんて言えるはずも無い。

というか言ったところで信じて貰えるはずも無い。

けれど、注意を喚起する事は出来る。

 

 

例えば…

 

 

「便箋のマチに刃物を仕掛ければ…警戒している相手にでも、傷を負わせる事が出来るそうです」

 

 

「成る程…ありがとう、注意しておくよ」

 

 

全てを知っている私からすればあからさま、露骨なネタバレである。

これが推理小説であれば批判間違いなしだ。

けれど、これは現実の話。

そしてストーリー通りに話がすすめば、プロデューサーさんは怪我をしてしまうのだから。

 

 

プロデューサーさんの手が三通目の便箋に伸びた時、夢は現実となった。

けれど、少しだけ結果は変わる。

 

 

「…これ、もしかしたらさっき文香が言ってたやつかもしれないな」

 

 

ペーパーナイフで封を無視して切り取ると、中身は空っぽだった。

そしてやはり、封じ口の部分には剃刀の刃が貼られてある。

 

 

…ふぅ

 

 

「だいぶタイムリーな感じになったな。ほんと、注意しておいてよかったよ」

 

 

何はともあれ、プロデューサーの怪我は回避出来た。

また、夢によって助けられた。

あの不思議な夢はもしかしたら、本当に予知夢なのかもしれない。

実際に夢と同じ事が起こり。

この通り、不幸を回避できたのだから。

 

 

「さて…文香、そろそろダンスレッスンの時間だぞ」

 

 

「…今のせいで…あまり、気分が良くないので…」

 

 

ただの言い訳だったのだけれど、何かを察した様なプロデューサーはトレーナーさんに連絡をしてくれた。

…気のせいでなければ何時もよりも厳し目でなんて聞こえてきたけれど。

文香の気を紛らすためにもかなりハードに、ですか…

ちょっとしたツケが帰ってきた気分になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それからも、時折そんなことがあった。

 

 

雨のせいで若干電車が遅延してギリギリイベントに間に合わない夢。

紅茶の入ったグラスを倒してしまい書類を台無しにしてしまう夢。

強風で傘の骨が折れ、顔に怪我をしてしまう夢。

雨の日に階段で足を滑らせ、捻挫してしまう夢。

 

 

しかし、起こることがわかっているなら回避は難なく可能だった。

 

 

遅延が分かっているなら予定より大分早目に出ればよい。

書類の積まれた机にグラスを置かなければよい。

傘と外見を諦めてカッパを使えばよい。

エレベーターで移動すればよい。

 

 

大事に至る事故は、全て回避出来た。

ダンスレッスンはどう足掻いても回避出来なかったけれど。

兎も角、そんな夢のおかげで。

無事ここまで、やってこれた。

 

 

恐らく、これからもきっと。

そんな風に考えていたからかもしれない。

 

 

だけど。

だから。

取り返しのつかない事故と言うのは。

どんなに自分が足掻いてもどうしようも無いものなのだ、と。

 

 

その時まで、気付けなかった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『…ふぅ、疲れました…少し、暑いです…』

 

 

『お疲れ様、文香。トレーナーさんからも言われてるだろうけど、ストレッチは忘れるなよ』

 

 

ダンスのレッスンを終え、ゆっくりと自分達の部屋へ戻る。

そこから夢はスタートした。

有難い事に、ダンスレッスンの部分はスキップ。

どの道明日現実でやる事になるのだけれども。

 

 

『…彼方の方々は…一体、集まって何を…?』

 

 

『暑いから怪談をして涼しくなろう、ってさ。俺には理解出来ない離れ業だよ』

 

 

どうやら、プロデューサーさんはホラーが苦手らしい。

良い情報を手に入れた。

後々有効活用していかないと。

 

 

『ちょっと待っててくれるか?もう直ぐ終わるから、そしたら車で送ってくよ』

 

 

『ありがとう、ございます…では、彼方で座って本を読んでますので』

 

 

そう言って、夢の世界の私は本を開く。

まだ私の読んでいないページだから出来れば辞めて欲しいけれど、それ以上にこれから何が起きるのか心配だった。

事象を事前に知れるとは言え、対処法を考えなくてはならないのだ。

キチンと、見極めなければならない。

 

 

パソコンをシャットダウンしたプロデューサーさんと共に駐車場へ。

あまり褒められた事では無いが、ナチュラルに助手席へ座り込む。

プロデューサーさんが一瞬何か言いたそうに此方を見たが、知らんぷり。

苦笑いし、車を発進。

 

 

他愛の無い幸せな会話をしているうちに、気付けば自宅の側へ着いていた。

楽しい時間と言うのは往々にして早いものだ。

本を読んでいるとき以上に、プロデューサーさんと二人きりでのドライブは短く感じられた。

 

 

『じゃ、また明日』

 

 

『はい…また、明日』

 

 

そう言って車を降りた。

ここまで、特に何も起きていない。

だとしたらこれは予知夢ではないのかも。

そんな事を考え、私はプロデューサーさんの乗った車を見送った。

 

 

その、直後だった。

 

 

けたたましいクラクションの音、ブレーキ音。

次いで、轟音。

 

 

目の前で起きた事が信じられなかった。

口を開けたまま、一瞬思考がトリップしてしまう。

辺りの家のカーテンが一瞬で開き、沢山の人がスマートフォンを掲げている。

 

 

有り体に言えば、交通事故だった。

交差点の右から、信号無視した車との衝突。

プロデューサーさんの車は、グシャグシャになっている。

 

 

プロデューサーさん!と。

我を取り戻した私が叫ぼうとしたところで。

 

 

現実へと、引き戻された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝、太陽の光で目をさます。

けれど目覚めは最悪で。

しばらくの間、布団から出る事が出来なかった。

 

 

あれは、間違いなく予知夢だ。

それも最悪のパターンの。

今までで最も、現実にしてはいけない事。

 

 

けれど、分かっているなら大丈夫。

なんとかする方法は、幾らでもあるのだから。

起こる事と時間さえ把握していれば。

少しでもタイミングをずらせば、あの事故は起こらない。

 

 

ふぅ…

 

 

大きくため息を吐き、ゆっくりと身体を起こす。

大丈夫、変えられる。

あんな事、現実になんてさせない。

プロデューサーさんを失うなんて、なんとしても回避しなければならない未来だ。

 

 

頭の中でプランを立てる。

車から降りる時、少し会話するだけでいい。

事務所を出発する時にエスカレーターを使わなければいい。

帰り道、少し遠回りすればいい。

 

 

対策は幾らでもあった。

そのうちの一つを実行すれば、何も起こらず過ごせる。

そうすれば、プロデューサーさんとの約束。

また明日、を実現できる。

 

 

まだ若干心は重いけれど。

意を決して、私は事務所へ向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ、疲れました…」

 

 

「お疲れ様、文香。トレーナーさんからも言われてると思うけど、ストレッチは忘れるなよ」

 

 

ダンスレッスンは普段よりハードだった。

夢の中の私は、こんなものを乗り越えたのか。

おかげで、その後に起きる事を一旦忘れる事が出来たのだけれど。

そうでなければ緊張で吐きそうになっていただろう。

 

 

さて、一番分かりやすいタイミングのズラし方。

それは別れ際に少し会話する事。

それなら、そこまで前回と同じルートを辿ればいける。

変に途中に挟むと、結果的に時刻が同じになる可能性も否めないのだ。

 

 

夢と同じ様に、私は仕事を終えたプロデューサーさんの車に乗り込む。

一度は楽しんだ筈の、幸せな会話。

けれど、私の心は既に消耗し始めていた。

 

 

…大丈夫…降りる時に、少しお話しするだけで…

 

 

「じゃ、また明日」

 

 

「…あの、プロデューサーさん…」

 

 

その時になって、言葉が出てこなくなった。

特に何か言おうと決めずに喋る事の難しさを実感する。

けれど、もうそれだけで大丈夫な筈。

数秒のズレで、あの交通事故は起こらずに済むのだから。

 

 

「…また、明日…」

 

 

「おう、冷房効きすぎに気を付けろ」

 

 

そう言って、プロデューサーさんは車を発進させる。

少し先には交通事故が起こる筈の信号機。

その交差点を見れば、右から車が信号無視をして突っ切って行った。

 

 

…ふぅ…どうやら、回避出来た様ですね…

 

 

大きくため息を吐いた。

身体から力が抜けそうになる。

ホッとして、眼が滲む。

 

 

これで、また明日も…

 

 

ゴンッ!!と、鈍い音が響く。

急いで目を上げると、プロデューサーさんの車の側面に信号無視をした車がつっこんでいた。

いかんせん交通量の少ない時間帯だ。

前の車が行けたから、と後続も突っ切ろうとしたのだろう。

 

 

プロデューサーさんの乗った車の運転席側は、スクラップの様になっている。

あれでは、きっと…

 

 

…まだ、もしかしたら…

 

 

動かなかった足を無理やり前へと進めようと。

その直前。

 

 

私の視界は、グニャリと崩れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パチリ

私は目を開ける。

眼球だけを動かして周りを見れば、何時もの自分の部屋。

カーテンの隙間から溢れる光が、既に朝だと教えてくれた。

 

 

…嫌な、夢…

 

 

予知夢を見て、それでも事故を起こしてしまう夢をみるだなんて。

いや、それもまた予知夢なのかもしれない。

何にせよ、プロデューサーさんを車に乗せるのは危険だ。

恐らく私が何をしても、結果としてプロデューサーさんは交通事故に遭ってしまうだろうから。

 

 

タイミングに関係無く、プロデューサーさんがあの道を車で渡ろうとすれば事故が起きる。

それを回避する為には…

車で送って貰わない、は恐らくダメだ。

私が歩いて帰った後にプロデューサーさんがあの道を通る可能性があるから。

 

 

とすれば、そもそもプロデューサーさんに歩いて帰って貰うのがいいかもしれない。

何なら、一緒に歩いて帰りませんか?と誘うのも。

やる事さえ決まれば後はなんとかなる。

今までもこうやって、乗り越えてきたのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ…」

 

 

「お疲れ様、文香。トレーナーさんからも言われてると思うけど、ストレッチは忘れるなよ」

 

 

ハードなダンスレッスンを再び乗り越え、あまり冷房の効いていない部屋へ戻る。

プロデューサーさんから全く同じ返事が返ってきた事で、やっぱりあれも予知夢なんだと再確信。

けれども夢の時より若干蒸し暑い気がするのは、単純に連日のダンスレッスンがしんどいからか緊張しているからか。

冷房の温度を勝手に下げようとしたところで、ちひろさんが節電の為に固定と言っていたのを思い出した。

 

 

仕方がないので冷蔵庫からお茶を取り出す。

空っぽだった。

別にみんなの物だから構わないけれど、出来れば飲み終わったのなら捨てて欲しい。

 

 

…そんな場合ではありませんでした…

 

 

「プロデューサーさん…よろしければ、一緒に歩いて帰りませんか?」

 

 

「ダメだ。パパラッチにやられたらどうするんだよ」

 

 

即答、即断、一瞬にして断られる。

そうだ、確かにアイドルが男性と二人きりで夜道を歩く事は問題があった。

ファンやパパラッチに見つかったら、どうなってしまうことやら。

以前にも嫌な事件があったというのに。

 

 

…困りました…このままでは…

 

 

非常によろしくない状況だ。

折角考えてきた策が実行するまえに終わるとは。

私はあまり機転の利く方ではない。

直ぐに次の対策を考えようとしても、なかなか思い浮かばなかった。

 

 

なんとかしないと、プロデューサーさんは…

それだけは避けなくてはならない。

もういっその事、パパラッチぐらいいいんじゃないかと考える。

こんな性格のプロデューサーさんが納得してくれると思えないから却下だけれど。

 

 

「さて、そろそろ仕事も終わるし乗せてくよ」

 

 

不味い、非常に。

このままでは夢と同じ結果になってしまう。

何か、この状況を打開するものは…

 

 

あった、ひとつ。

絶対車に乗れなくさせる方法が。

 

 

いそいで目的の女性を探し、プロデューサーさんが今夜は暇だと伝える。

一瞬訝しげな眼で見られたような気もするが、その隣の女性があまり上手とは言えないギャグで場を流してくれた。

一瞬にしてプロデューサーさんが暇だという情報が広まったらしく、部屋へ戻れば大人の方々がプロデューサーさんの机を囲んで。

苦笑いしながらも、プロデューサーは今夜飲み会が決定した。

 

 

よし、と内心でガッツポーズを取るも。

自身はその飲み会に参加出来ない事に若干不満を覚える。

とは言えこれでプロデューサーさんの運転は不可能になった。

これで、大丈夫…

 

 

そう、大丈夫だ、と。

私は頑張って信じようとした。

けれど、心の何処かで。

それじゃダメだ、そんな考えが存在を主張して。

 

 

不安になった私は、プロデューサーが事務所を出るまで一階で待つ事にした。

広いロビーの、エレベーター2台を見通せる場所。

普通に事務所から出ようとすれば、必ず何方か一台のエレベーターを使う事になる筈だから。

事務所から出た後は、大人組の方々がある程度はなんとかしてくれるだろう。

寧ろプロデューサーさんが何とかする側に回る事となる様な気もするけれど。

 

 

…おかしい。

プロデューサーさんがパソコンをシャットダウンするのを確認してから、私は部屋を出ている。

けれど、待てども待てどもエレベーターからプロデューサーさんの姿は現れない。

 

 

…まさか!

 

 

急いで立ち上がり、階段の方へと向かう。

部屋が4階だからエレベーターで降りてくると決めつけていたが、ありえない話ではない。

嫌な予感が心を埋める。

そんな事ある筈が無い、と確信出来ないのか心を縛る。

 

 

非常階段の扉を持てる限りの力で勢い良く開けようとする。

けれど、その扉が全開になる事はなかった。

ゴツンッ、と。

床に突っ伏した、何かにぶつかったから。

 

 

呼吸が荒くなる。

激しくなる動悸は二次関数の様に上がってゆく。

それでも何とか全てを押し殺し、ゆっくりと。

視線を下げる、その先のモノを見て。

 

 

私の視界は、ぐにゃりと歪んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目を開ける。

いつも通りの光景、いつも通りの起床。

時間も大体何時も通りで、けれど。

 

 

私の気分は、今までで最悪だった。

 

 

結局あれもまた、事故だったのだろう。

階段から落ちる。

状況を見ていなかった私でも理解出来るほど、分かりやすい事故。

けれど、そんな分かりやすい事故すらも回避できなかった。

 

 

私の頭には、既に一つの考えがあった。

認めるのは怖いけれど。

決して認めたくないけれど。

 

 

プロデューサーさんは何をしても助からないのではないか、と。

 

 

昨日公園、バタフライエフェクト。

そんな話を知っている人なら、誰でも辿り着ける結論。

何をしても、結局は同じ運命を辿る哀しい物語。

私は今、それを辿っているのではないか。

 

 

…いや、諦める訳にはいかない。

アレは夢だ。

これから起こりうる事を教えてくれる予知夢に過ぎない。

きっと助けられる、今回の事を踏まえて対策を立てれば。

 

 

夢は所詮夢だ。

今から起こる現実で、助ければ良い。

大丈夫、大丈夫。

そう言い聞かせても、なかなか身体は動かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

分かりきった、認めたくなかった結論。

それを叩きつけられると言うのは想像以上に辛い事だった。

特にそれが、私の大切な人に関する事だったから。

失いたくないモノを必ず失う筋書きは、到底受けれられるモノではない。

 

 

あれから何度予知夢を見たか、最早覚えていない。

 

 

何とかして一緒に歩いて帰る事に成功すれば、過激なファンに刺され。

怒られる事を覚悟で車の鍵を隠せば、駐車場で鍵を探している時に事故に遭い。

事務所で寝泊まりして貰おうとパソコンのデータを勝手に消しても、一瞬で再び仕上げられてしまい。

挙げ句の果てにはガス漏れなどと言うどうしようもない事故にすら見舞われた。

 

 

勿論、何もしなければ一番最初と同じ様に交通事故に見舞われる。

けれど、何をしても…

茄子さんや芳乃さんは運悪く遠くに収録に行っていて不在。

八方ふさがりの袋小路に迷い込み、私の心はどんどん磨り減っていた。

何度も何度も、プロデューサーさんの死を目撃し続けているのだから。

 

 

そして、その死を見届けると同時に私の夢は冷める。

おそらくこれは、プロデューサーさんを助け切るまで続く夢なのだろう。

今までは一度で乗り越えられたから気がつかなかったけれど、もしかしたら最初からそういうものだったのかもしれない。

だとしたらなんて残酷な話なのだろか。

 

 

そして、私は相当疲れきっていたのだろう。

とある一つの、解へと辿り着いた。

おそらくそれなら、もうこの連鎖から逃れられる。

後は実行する勇気だけ。

 

 

ふぅ…

 

 

一つ、息を吐く。

今のうちに、涙は流し切ろう。

そうでなければ。

最後の最期で、プロデューサーさんに。

 

 

笑顔を見せる事は、出来ないから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ…」

 

 

「お疲れ様、文香。トレーナーさんからも言われてると思うけど、ストレッチは忘れるなよ」

 

 

もう何回目かも分からないこんなやり取り。

それが堪らなく、心地良かった。

もしかしたら疲れてる原因の一部は、ずっと続いているダンスレッスンのせいかもしれない。

そんな間の抜けた事を考え、少し笑ってしまう。

 

 

「ちょっと待っててくれるか?もう直ぐ終わるから、そしたら車で送ってくよ」

 

 

そして、その問いに対し。

 

 

「ありがとう、ございます…では、彼方で座って本を読んでますので」

 

 

断る事なく、私は待った。

本の内容は既に知っているから捲るだけ。

ずっとプロデューサーさんを見つめ続ける。

今は、少しでも長く。

 

 

貴方を、見ていたいから…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

車の中で他愛のない会話。

久し振りのそれが、何故だかとても嬉しい。

この後に起こる事を分かっていても、それでも。

いや、だからこそ。

 

 

このひと時が、とても幸せだった。

 

 

「よし、着いたぞ」

 

 

やっぱり、あっという間。

ここで降りればまたいつも通り。

けれど、今回だけは違う。

 

 

苦しい気持ちを押し切り、私はなんとか口を開いた。

 

 

「…もう少しだけ、お話しませんか…?」

 

 

「え、構わないけど…じゃ、もう少し走るか」

 

 

そう言って、再び車を発進させる。

 

 

件の交差点まで、あと十数メートル。

タイムリミットは、ほんの僅か。

このまま走れば、また…

けれど、その全てを知っていながらも。

 

 

「…プロデューサーさん」

 

 

私は、笑って告げる。

 

 

「…ずっと、好きでした…ありがとうございました…」

 

 

やっぱり、涙は我慢出来なかった。

窓ガラスに映った私は、きっととても不思議な表情をしていただろう。

笑いながら涙をながすだなんて。

 

 

それでも、私は伝えられた。

ようやく、貴方に。

そして、返事は貰えない。

それでも、どうしても…

 

 

驚いた表情のプロデューサーさんが、此方を向く。

その奥からは、信号無視をした車が突き進んでくるのが見える。

あの1秒も、時間は残されていないだろう。

 

 

でも…

最期に、貴方の顔を見れて良かった。

 

 

衝撃、次いで轟音。

 

 

分かっていた結果が、運命通りに起こる。

けれど不思議な事に痛みは無い。

だから私は、最後まで貴方の事を見つめ続ける事が出来た。

 

 

少しずつ、薄れてゆく意識。

これで終わり…

 

 

けれど、その時。

意識が完全に途絶える瞬間。

 

 

私は、視界が歪むのを感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…以上です。

少しでも、皆様の涼しさの足しになれば…

 

 

またなんとなく違う、ですか…

確かに、何方かと…言えば後味の悪い話に寄っていたかもしれませんね。

昨日公園は、私のお気に入りの話です…

…あれも確かにホラーとは違いますけれど。

 

 

如何しましたか?プロデューサーさん。

すみません、気分を害してしまいましたね…

…いや、そう言う訳ではなく…?

大丈夫ですよ。

 

 

最初にも言いましたけれど…これは、夢の話ですから。

決してこんな結末にはなりません。

…絶対に、そんなエンディングは迎えさせませんから。

 

 

そろそろ、いい時間ですね。

外も涼しくなっていると思います。

皆様、お気を付けてお帰り下さい。

 

 

…仕事が終わったら乗せてく、ですか。

…ふふ、ありがとうございます。

では。

 

 

此方で座って本を読んでます

 

 

 

 

 





ふみふみと本屋で連絡先交換する夢を見ました
夢の通りに神田を一日中歩き回ったのに会えなかったので予知夢なんて嘘です


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また、いつかの休日に


ふんふんふふーん、ふふふふふー



ピピピピピッ、ピピピピピッ

 

 

スマホのアラームで意識を引き戻される。

自分で設定しておきながら、折角の睡眠を妨げられ少し不機嫌に。

スマホ側からしたら堪ったものじゃないだろう。

命じられたコマンドを実行したら、その命じられた本人から恨まれるのだから。

 

 

おっと、そんな事をしている場合じゃなかった。

ぱぱっと洗顔、髭剃りを終える。

朝食は…抜いていいだろう。

コーヒー片手に一服で事足りるから。

 

 

クローゼットを両手で広げれば、ピシッとしたスーツと冴えない私服がぶら下がっている。

何時もはスーツ以外に目を向けないから気付かなかったけれど、自分の私服センスはなかなか良いとは言えなさそうだ。

こんな事なら色々と教わっておけばよかったと後悔するが後の夏祭り。

どうせなら今日、一緒に選んでもらえばいいだろう。

彼女なら、そう言ったチョイスに間違いはないだろうから。

 

 

…案外、楽しみにしてたんだな。

面倒だの疲れるだの言いながらも、こうして内心ワクワクしている自分を認識。

確かに暇はしないだろう。

むしろ、目を離せないくらいに何を仕出かすか分からない。

不思議でファンタスティックな彼女は、未だに思考を読めないのだ。

 

 

一番マシな服に袖を通し、寝癖を隠す為に帽子をかぶる。

どうせバカにされるならとことん間抜けな格好にしてやろうかとも思ったが、実行する勇気はなかった。

服屋やカフェに入った時の店員の目が怖いから。

 

 

さて、と。

約束の時間まであと30分。

約束の場所までここから15分。

 

 

…よし。

あと20分は、のんびりしていても大丈夫だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

電車から降りて改札を抜ける。

最初に来た時は迷いに迷った地下の迷宮をくぐり抜け、約束してある出口へ向かう。

未だに降りた改札によっては迷うけれど、今回はある程度下調べしてあった。

階段を駆け上がり、待ち合わせの交番前へ。

 

 

ちなみに交番前に設定したのは自分。

だってほら、アイドルだぞ。

何かあってからじゃ遅いんだから。

タダでさえ目立つのにオシャレなんてしてたら変な人に絡まれるだろうし。

 

 

心配も杞憂に、交番前で何かトラブルは起きていなかった。

約束の時間から約5分過ぎている。

丁度いいタイミングで到着出来たようだ。

約5分後に来るであろう彼女からの奇襲に備え、背は壁に付けておく。

 

 

…5分経った。

おかしい、予想では10分遅れて後ろから帽子で顔を隠され

「動くな、手を上げろー」

となるハズだったのに。

その為に完璧なツッコミまで用意しておいたのに。

 

 

その時、ブーンブーンとスマホが震えた。

見れば彼女から連絡が着ている。

 

 

「もしもし、俺だ」

 

 

「わぁお、無事だったよーだね。組織の奴らは追い払えたー?」

 

 

突然の振りに対応してくれた彼女とこのまま厨二病トークを繰り広げるのも魅力的だが、交番前でやる事ではないと諦める。

現に此方をチラチラ見ているのだから。

残念ながら自分は、人に見せ付ける様なマッスルもビジュアルも持ち合わせていない。

 

 

「…何処にいるんだ?フレデリカ。10分遅れるんじゃなかったのか?」

 

 

「そんな事言ってなーい。プロデューサーが来るの遅かったからキャラメルフラペチーノ飲んでるよー」

 

 

それは申し訳ない事をしてしまった。

けれどならば一報くれてもいいじゃないかと言おうとして、ラインに数件通知が来ている事に気付く。

よかった、あれでいて怒っているかもしれない。

日に脂を避け、近くのカフェを片っ端から探そうとする。

 

 

と、その寸前で。

視界が突然、闇に飲まれた。

眼前暗黒感(立ち眩み)ではない。

 

 

「動くなー、両手両足を上げろ!」

 

 

「水中じゃないと不可能だろ。せめて一本だけ下にさせてくれ」

 

 

それ以前に此処は交番前なのだ。

そんな事をやったらすぐさま俺の両手首に冷たいモノが添えられる事だろう。

あと動けないのにどうしろと言うのだ。

と言うか騒ぎになってフレデリカが周りの人に気付かれる方が不味い。

 

 

「…お前の為だ。此処は動かないでいてやろうわっ!」

 

 

突然目の前の帽子を外され、一気に太陽の光を浴びた両眼は逆に機能を失う。

もしかしたら太陽の元に出た吸血鬼もこんな気持ちだったのかもしれない。

けれど、天はその苦しみに耐えた褒美なのか幸せを与えてくれた。

 

 

「ふふーん、遅れたバツだよー。さ、早く遊ぼっ」

 

 

目の前に天使がいた。

全く機能していない変装用のメガネを掛け、既に片手に紙袋を抱えた金髪の天使。

あれだ、どうしようもない僕にどうしようもない天使が降りて来た。

 

 

満面の笑みを浮かべるフレデリカが伸ばした手を、一瞬逡巡するも握り。

久々の休日をさらに疲れで満たそうとした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

服と言うモノは、自分が思っているより何倍も高かった。

何故ただの白地のシャツ一枚に10連2〜3回分も払わなければならないのだ。

と、ぶつくさ垂れながらも会計を済ます。

 

 

フレデリカ様にコーディネートしてもらい、取り敢えず全身の装備を一新していく。

フレデリカも自分の服が見たいと言っていたが、申し訳ないけれど先にパパッと自分を飾らなければ。

隣を歩いていて恥ずかしくないくらいには。

 

 

そしてその当の本人は、案外俺をマネキンにするのが楽しかった様で次々と俺を試着室に閉じ込めてゆく。

別に試着する分には構わないけれど、これ全て買おうとするとしばらくもやし暮らしになるぞ。

まぁフレデリカも全部買うだなんて考えていないだろうけれど。

あと時折同事務所のキグルミアイドルがご愛用してそうなモノを持ってくるのは辞めて頂きたい。

 

 

「…だんだん、俺の事オモチャにしてないか?」

 

 

「人生楽しまなきゃソンだよー」

 

 

返事になっていない。

付き合いは短くないが、未だにこのフリーダム娘に振り回されっぱなしだ。

若い子の思考は分からないと言うが、おそらく同年代の人たちでも此奴の考えは読めないだろう。

と言うか、行動が読めない。

 

 

「よーし、コレで良いじゃろう!」

 

 

どうやらフレデリカさんのお眼鏡に適う格好に整えられた様だ。

姿見を見れば、何時もより若々しい俺が写っている。

格好一つでここまで変われるものなのか。

ファッションと言うのはなかなかに奥深い。

やはり今度一度、きちんと勉強を…

 

 

「むー、プロデューサー?次はアタシの買い物だよー」

 

 

「おう、選んでくれてありがとな」

 

 

エスカレーターを使って下のフロアへ。

ワンフロアしかないメンズの違い、レデイースは建物殆どのフロアに店がある。

随分と酷い格差ではないか。

まぁGパンにシャツ一枚で充分な普段の自分からしたらワンフロアすら必要ないけれど。

 

 

「ジャーン、どーかなどーかな?」

 

 

気が付けばいつの間にやら、フレデリカは試着を終えていた。

年頃の女の子の様にセルフファッションショーをしている。

…様に、ではなかった。

まだ二十歳にもなっていないのだった。

 

 

先程まで着ていたワンピースとは少し色が違う衣に包まれているフレデリカ。

色一つでここまで印象が変わるものなのか。

あのフレデリカが大人っぽく見える。

本人には失礼な話ではあるが、本人の性格を知っている俺ですら大人っぽい美少女に見えてしまった。

やはり一度ファッションについて勉強を…

 

 

「…どーお?」

 

 

「あぁごめんごめん。大人っぽくて凄く可愛いと思うよ」

 

 

危ない危ない、思考が若干トリップしてしまっていた。

プロデューサーは担当アイドルに思考が寄っていくと言う話は聞いていたが、もしかしたら俺はフレデリ化しているのかもしれない。

向こうからしたら突然黙り込んでいた訳だから。

そのせいで思った事をそのまま口にしてしまう。

 

 

これはあまりよろしくないな。

もし取引先のジジイ相手に五月蝿いだなどと言ってしまった日には大変な事になる。

俺がアイドルに迷惑をかける訳にはいかない。

振り回されるのは俺だけで充分だ。

 

 

「…そっかー。じゃ、これ買っちゃおー」

 

 

見れば、フレデリカは既に購入を決めた様だ。

そんなにサラッと決めてしまって良いのだろうか?

値段だって馬鹿にならないだろうし、まだ一件目だ。

女の子のショッピングは最低でも10店は巡って疲れ果ててから終わるものだと思っていたが。

 

 

「そんなに直ぐ決めちゃっていいのか?他の店のを試着してからでも遅くはないんだぞ」

 

 

「いーのいーの。このアタシがビビッときたんだからきっと運命なんだよー」

 

 

何とも安い運命だ。

まぁこの店はアウトレットショップだから、ここで手放したら二度と出会えないかもしれないけれど。

にしてもあの服は一着しかないのにサイズもピッタリだったのか。

それなら確かに運命なのかもしれない。

 

 

「さーて、次の店にいっくよー!」

 

 

「あれ、さっきの服は着ていかないのか?」

 

 

「あれはプロデューサーに持たせてあげるーはいっ。フレちゃんからの重要任務だよー?」

 

 

成る程、次の店でまた別の服も買うからか。

ついでに俺は荷物持ちらしい。

元よりそのつもりだったから構わないが、何卒両手で持てる量以下にして欲しいものだ。

そんな淡い期待を抱き、次々と店を巡る。

 

 

「わぁお、これはフレちゃんの為に作られたのかなー?」

 

 

「確かに似合ってるな。こっちはどうだ?」

 

 

「うーん、少しありすちゃんっぽいかなー?」

 

 

「子供っぽいを橘さんっぽいと言うのは止めなさい。まぁ確かに少しアレかもな」

 

 

そんなこんなで、色々と試着してゆく。

居心地のあまりよろしくないレデイースのブースだけれど、フレデリカと歩く事で少しは恥ずかしさが緩和される。

周りからは一体どう見られているだろう?

どう見ても不釣り合いな二人だから、最悪召使とか思われていそうなものだけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

少しずつ、両手に袋が増えてゆく。

普段から色々な機材や書類を持ち運ぶから侮っていたけれど、案外服というものもなかなかの重量があった。

文香ちゃんと杏ちゃんへのお土産ーと言ってダンベルを選び始めた時は流石に止めた。

貰って嬉しくないだろうし、俺の両手が死ぬ。

 

 

殆どのフロアを回り終えた頃、俺の体力は限界まで磨り減っていた。

事務所へ戻ってエナジーなドリンクを傾けたい気分だ。

あれは一体どんな成分で構成されているのだろう?

一度ちひろさんに尋ねたところ、フレデリカさんよりファンタスティックな物ですと言われて考える事を辞めたけれど。

 

 

「よーし、ここら辺で勘弁するかー」

 

 

「ん?大麻?」

 

 

「プロデューサーもけっこーテキトーになってきたねー」

 

 

どうやらひと段落ついた様だ。

これ以上ショッピングを続ける様なら流石に一度コインロッカーに頼ろうと思っていたが。

どうやらお世話にならずに済みそうだ。

 

 

「じゃーカフェにでもいこーか?」

 

 

ようやく少し落ち着ける様だ。

ありがたい、一度アイスコーヒーでも飲みたい。

冷房が効いている建物とはいえ、この量の荷物を運んでいると少し汗をかいてしまう。

空調を28度に固定されている事務所よりは涼しいけれど。

 

 

「何処にする?建物内に2つくらいあったと思うけど」

 

 

「近くにお気に入りのカフェがあるからそっちかなー」

 

 

フレデリカ先生のお気に入りとな。

割と期待が高まる。

さて、と。

炎天下の中この荷物を抱えて進む事を覚悟し、一度大きく深呼吸した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ…」

 

 

大きくため息を吐き、体内に新鮮な酸素を送り込む。

俺の体力は自分が思っている以上に少なくなっていた。

フカフカのソファに座り込み、泥の様に溶けてゆく。

今なら人をダメにするクッションに沈み込んでいる杏の気持ちになれそうだ。

 

 

それにしても…

 

 

「随分と洒落た店だな」

 

 

「でしょー、フレちゃんのフェイバリットカフェだよ」

 

 

センスはピカイチなフレデリカが気にいるだけあって、なかなかお洒落なカフェだった。

落ち着いた音楽を背景にコーヒーカップを傾けるフレデリカはかなり様になっている。

ほんと、こいつは喋らなければ美人なんだけどな。

以前一度そう言った時、だったら喋ればちょー美人だねーと返された。

瞬時にそう返せるのもフレデリカの魅力ではあるが。

 

 

「あ、キリンがいるよー」

 

 

「クレーン車でも通ったのか。この近くはずっと工事してるからなぁ」

 

 

のんびり、休日を満喫する。

そうそうこう言うのでいいんだよ、こういうので。

休日ってのはこう…自由でなきゃダメなんだ。

 

 

「なんだっけー、あの丸いの欲しーなー」

 

 

「ホットコーヒーをストローで飲んでも哀しみしか生まれないぞ」

 

 

こうやってフレデリカと普通の会話をしながら、のんびり。

なんだ、結構幸せな休日じゃないか。

さっきまでの疲れが吹っ飛んでいく。

 

 

ところで…

 

 

「最初に買った服は、今日は着ないのか?かなり似合ってると思ったけど」

 

 

「うーん、実はねー」

 

 

ん?

どうやら何があったらしい。

もしかしてそんなに気に入っていなかったとかか?

個人的にはかなり良かったと思うけれど。

 

 

「フレちゃんにはちょっと大っきかったんだよねー」

 

 

なんと言う事でしょう。

…最近あの番組も見れてないな…

まだ続いているのか知らないけれど、昔は結構見ていたきがする。

 

 

そうじゃない、サイズの話だ。

せっかく買ったのに着れないのでは意味がない。

勧めてしまい、少し申し訳なくなってくる。

 

 

「悪いな、俺のせいで戻し辛かったか」

 

 

「ううん、いつかは着るよーちゃんと」

 

 

成長を見込んでの購入か。

19ともなるとこれ以上背が伸びるとは思えないけれど。

いや、同事務所のアイドルに頼めば身長くらいどうとでもなりそうだ。

けれど、しばらくあの服が着れない事に変わりはない。

 

 

「だからねー」

 

 

目の前の天使は、笑って続ける。

 

 

「いつかピッタリ合う様になったら、また一緒にショッピングしたいなー」

 

 

…生まれつきの小悪魔は天使に見えるとは、よく言ったものだ。

俺でなければ、ただの天使と勘違いしてしまっていただろう。

コーヒーカップを片手に窓の外を眺め誤魔化す。

そうでなければ、きりっとはしていない顔を見られてしまうから。

 

 

けれど。

窓ガラスに映って見えたのは、俺と同じく外を見ようとするフレデリカだった。

その頬は、ホットコーヒーのせいかもしれないけれど少し染まっていて。

 

 

…なんだ。

案外、俺たちは似ているのかもしれない。

 

 

「次は、俺のお気に入りのカフェに案内するよ」

 

 

「わぁお、楽しみだねー」

 

 

無論、そんなものはない。

けれど、それはこれから探せば良いのだ。

フレデリカと一緒に居て居心地のいい場所を、なんなら一緒に。

次にもまた、増やしていけばいい。

 

 

楽しい時間はあっという間だ。

店に入ってからまだ全然経っていないと思っていたが、外を見れば陽が落ち始めている。

けれど。

ならば、回数を増やせばいい。

 

 

これからまた何度も。

こんな風に居心地の良い休日を。

一緒に、楽しめばいい。

 

 

アイスコーヒーの氷は、既に溶け始めていた

 

 

 

 





甘ったるい話に初挑戦
フレデリ化流行ればいいのに


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bitter sweet autumn day

ねむれなーい
よるーはきーみをーおもーうー


 

 

 

「はぁー…何でだろうな…」

 

 

大きくため息を吐きながら、あたしはトボトボと下を向いて歩いていた。

 

 

夕陽に赤く照らされている坂道は、今の心象の様に斜め下がり。

地面に突き刺さっている標識はまるで心のつっかえ棒。

少しばかり太陽にかかる雲は腫れとも曇りとも言えず。

カラスの鳴き声をBGMに、センチメンタルな気分に浸っていた。

 

 

何時もより重い足取りは、おそらくダンスレッスンのせいだけではない。

普段からある程度動いているあたしがこの程度でバテる筈が無いんだから。

そう、原因は他にある。

その原因とついさっきまで、あたしは口論していたのだから。

 

 

何がダメだったんだっけな…

 

 

細かい事は残念ながら思い出せないけれど、それはあたしの記憶力が残念だからでは無いと苦言を呈させてもらう。

嫌な気持ちになっている時は、きちんとした平常時程思考は回らないものなのだから。

気分を変えようとスマートフォンを開いて昨晩のアニメのまとめを覗く。

けれどコレを解かなければ次の問題も解けないテストの様に、どうにも意識がそちらへは向いてくれなかった。

 

 

気が付けば斜度は既に0になっていた。

足元から目線を後ろへ回せば、夕陽に染まった真っ赤な坂道。

結構な長さがあったはずだけれど、それ程までにあたしは思考と視覚の両立が向いていないらしい。

それか、あまりにも深いところまで心がへこんでいるか。

 

 

最初は、大した事の無い話だった気がする。

ありきたりな、何時ものあたしなら色々言いながらも最後は笑って流せる様な。

でも何故だろうか、あたしがつい強い口調で返してしまって。

そこから、あたしの口にブレーキが掛かるのは暫くしてからだった。

 

 

気の無い事、言っちゃったな…

 

 

今更になって、後悔が溢れる。

もしかしたら向こうも、今のあたしみたいに暗くなってるかもしれない。

あんな事言わなければ、もう少し気持ちを抑えられたら。

涙腺が栓の役割を果たさなくなる前に、あたしは顔ごと目線を空へ飛ばした。

 

 

ごめん、って。

直ぐに言えれば良かったのにな…

 

 

余計な強がりが、あたしの謝罪を遮蔽してくれやがって。

素直になれず、傾いた気持ちは斜度を増し。

行き場の無い悔しさが秋の高い空に吸い込まれていった。

 

 

SNSアプリには、既に通知が数件。

トークを開かずホーム画面の履歴を見れば、ごめんといった単語が届いている。

けれど、あたしの指は既読をつける事を拒み。

再びディスプレイを暗くし、ポケットへと仕舞い込んだ。

 

 

…はぁー…

 

 

再度、誰に届くでもない大きな溜息。

幸せが逃げるとはよく言ったものだ。

こんな事をしてる時間に素直な言葉を返せれば。

直ぐにでもまた、何時ものあたしに戻れるのに。

 

 

ほんとは、あんな事言いたくなかったのに。

もっと優しく、可愛く振る舞いたいのに。

くだらない事で喧嘩なんてしている時間に。

もっと楽しく、笑顔で過ごせた筈なのに。

 

 

そして、何よりも。

それだけちゃんと考える事が可能になるくらいには落ち着いてきている筈なのに、未だに素直になれないあたし自身に嫌になる。

今だって、ポケットに仕舞い込んだ端末を開いて数文字打ち込むだけで解決出来るのに。

チャンスなんて幾らでもあるのに。

 

 

それを全部不意にして、無駄に悩んでいるだけのあたしが…

 

 

何度目か数える事を忘れられた溜息が酸素を二酸化炭素に変える。

足元に浮かぶ影が少しずつ背を伸ばし、道の色を赤から黒へ染めていった。

もしかしたら、あたしのこの悩みも時間が解決してくれるかもしれない。

実際、何度もそう言った事があったんだから。

 

 

でも、それじゃダメなんだ

 

 

きちんと謝らないと、前へとは進めない。

今のあたしは時間に引っ張られてるだけなんだ。

自分の足で、心で。

前に進まないと。

 

 

けれど、乙女心と秋の空だったか。

天気の予報は出来ても変更は出来ない様に、頭では理解していても行動には移せないまま。

もう既に、自宅の扉があたしの目の前にまで来ていた。

 

 

晴れない気持ちのまま、夕食と風呂を済ませる。

髪を乾かそうと洗面器の前に立って鏡を覗き込めば、さえない表情の女子高生。

まぁ、あたしなんだけど。

なかなか乾いてくれない長い髪に余計苛立つけど、それも全て自分が原因なんだ。

 

 

なんだか全てが全て上手くいかない。

病は気からじゃないけど、今の気分じゃ何をやっても失敗する気がする。

イヤホンを取り出せば滅茶苦茶に絡まってるし、スマートフォンの充電は1割を切ってるし。

 

 

こんな時、励ましてくれるんだろうな…

 

 

何故だか、ふと。

 

 

突然、会いたくなってきた。

 

 

あたしから飛び出しておいて難だけれど。

それでも、どうしても。

今直ぐ会って、声を聞いて、喋りたくなってきた。

 

 

ベッドに横になっても全然寝付けず。

寝る事を一旦諦めても、ずっと。

思い浮かべるのは、彼の姿で。

 

 

考えない様にしても、気付かないフリをしても。

直ぐにまた、心を埋めて。

 

 

カーテンを開ければ、外は綺麗な満月。

雲もまったくかかっていない、一面晴れた秋の夜。

風は心地よく、あたしの髪をなびかせる。

 

 

…よし、うん

 

 

充電が少し回復したスマートフォンを開き、SNSの通知を無視して電話を掛ける。

まだ仕事をしてるかもしれないし、一息ついて寝ようとしてたかもしれない。

でも、ちょっと我儘だけど。

 

 

一緒に、笑顔になりたいから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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最後で最初のデートごっこ


ふーん…ふーん…フフーン!
何かの前日譚的なお話




 

 

 

 

「ふんふんふふーん、ふんふふーん」

 

 

 とある土曜、とある駅前にて。

 一人の男が気持ち悪くも鼻歌を歌いながらチラチラと時計を確認していた。

 まぁ、自分の事なのだけれど。

 

 

 たまの休日を時計観察なんかに費やすなんて間抜けな事だ。

 そう、はたから見れば思われるかもしれないけれど、今の自分にはそんな事よりも重要な事があった。

 そもそも時計観察なんて趣味の人がいるなら折角の休日は世界の時計美術館にでも行っているだろう。

 時計が嫌いなわけではないけど、それ自体を目的に時間を潰すなんて俺がする日はきっと来ない。

 

 

 詰まる所、俺は人と待ち合わせをしていたのだ。

 

 

 さて、先ほどからずっと語られている時計の表示は大体十時。

 アナログな針は左上と真上を指している。

 その針二本の中心には十一の文字。

 長い針によって隠されていた姿を完全に現した時、俺達が集合する時間となっていた。

 

 

 では何故それ以前から自分がここで時計とにらめっこしていたかと言えば、王道テンプレなとある会話をしてみたかったから。

 待ち合わせの相手がそんなテンプレを実行してくれるとも思えないが、一縷の望みに賭けて頭の中でトーク欄に文字を並べて立っていた。

 残念ながらその相手の姿は未だに見当たらないけれど。

 

 

 もしかしたら、俺がウォッチウォッチングしているのを邪魔しては悪いと気を配ってどこかで待ってくれているのかもしれない。

 なら話し掛けてくれればよかったのに。

 それとも昔の小説の様に、柱を挟んで反対側で待っている可能性もある。

 そんなドラマチックな展開を期待して背にしていた柱をグルリと五周ほどするも、姿も影も形も種も仕掛けも見当たらなかった。

 

 

 待ち人は来ず、俺は一人ただの不審者。

 流石に柱愛好家の人には見えないだろう。

 取り敢えず、咳をしておこうか。

 自由律俳句的なノリで周りを誤魔化す。

 

 

 もしかして迷子だろうか?

 変な人に着いてったりしてないだろうか?

 道に落ちてるものを食べたり着たりしてないだろうか?

 

 

 彼女が本当はしっかりしてる人だと理解していながらも不安になってくる。

 やはり家まで迎えに行くべきだったかもしれない。

 立場上難しい事ではあるけれど、背に腹は変えられないのだ。

 

 

「…警察に連絡するか」

 

 

「ポンジュ〜ス、誰かお探しかなー?」

 

 

 真後ろから掛けられた声に、俺は心を舞わせる。

 なんだ、心配して損したじゃないか。

 杞憂で済んでよかったけれど。

 

 

 視線と紫外線を同時に遮断出来る優秀な変装道具、通称帽子を被って背後に立つ彼女。

 透き通る様な金の髪を風に靡かせ、此方へ笑顔を向けている。

 その笑顔の理由の一割ぐらいは俺なら良いな等と考えながら、返事の代わりに此方も笑顔を返した。

 

 

 だから、一瞬。

 心が重くなる。

 綺麗で、強くて、優しくて。

 けれど…

 

 

 さて、言いたい事は色々あるけれど。

 取り敢えず先ずは彼女の危機管理能力と対応力をチェックしておかなければ。

 

 

「おっ、可愛いねお嬢ちゃん。ラインやってる?」

 

 

「わぁお、フレちゃんが超絶美少女だってー?ライブならやってるから来てねー」

 

 

 大丈夫そうだ。

 こんな返しが出来るなら、偽物という可能性も無い。

 フレデリカの真似なんて出来る人はそうそういると思えないけれど。

 

 

「よし、言い訳を聞こうか」

 

 

「ごめーん待ったー?今来たとこ」

 

 

 一人で完結させるな。

 折角俺も参加したかったのに。

 

 

 まぁ此処は寛大な心で許してやるとしよう。

 無駄に追求して攻め立てる時間があるなら、その分フレデリカと無駄話した方が有意義だ。

 …無の中に有を見つけ出す、か。

 なかなか哲学じみて面白い。

 

 

「さて、じゃあ行くか」

 

 

「それにしても人多いねー。あ、霊長類ヒト科だね!」

 

 

 確かに人は多い。

 休日にこう言った場所は、家族連もカップルも訪れる。

 そしてそんな場所で逸れてしまっては、再び落ち合うのに少なくない時間を浪費してしまうだろう。

 避けるべき事態に対し、今のうちから手を打っておくのが得策だ。

 

 

 だからこれは仕方がない事。

 そう自分に言い聞かせ、フレデリカに向かって腕を伸ばした。

 

 

「…空中腕相撲?フレちゃんけっこーパワフルだよ?パワフレデリカだよ?」

 

 

「そんな訳ないだろ。はぐれると面倒だからな」

 

 

「それじゃー遠慮なく」

 

 

 …若干心臓に悪い。

 相変わらず唐突に距離を詰めてくる女の子だ。

 

 

 隣に寄って腕を組んでくるフレデリカ。

 そこまでするつもりはなかったけれど、そのくらい思い切っていた方が周りの人にもバレないだろう。

 俺の心拍数が一瞬跳ね上がりそうになるが、それがバレると暫く笑い話にされるから何とか平常心を保つ。

 

 

「じゃ、エスコートよろしくー」

 

 

「任せろ、どっちが先に疲れるか勝負だ」

 

 

 勝てる気はしないけれど、それくらいの意気込みで。

 目的の場所まで数十メートル、カボチャの馬車に成り切ってやろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「わぁーお、すごーい!水槽きれーだねー」

 

 

「分厚いなコレ。シャチが体当たりしても問題なさそうだ」

 

 

 壁一面に埋め込まれたアクリルガラスの向こうには、水の世界が広がっていた。

 人類では呼吸すらままならない空間に、色とりどりの魚が泳いでいる。

 群れて、散って、また集まって。

 まるでその集団が一つの生き物かの様に、大量の魚が水槽いっぱいを飛び交う。

 まるで自由電子の様に動きの予想出来ないウチの一匹が、ガラス越しに目の前を通り過ぎていった。

 

 

「ねーねー、ガラスに美少女が写ってるよー」

 

 

「ほんとだ、見慣れすぎてて気付かなかった」

 

 

「バージェス生物群は何処かなー?」

 

 

「見た事ないから分からないけど、多分此処には居ないんじゃないかな」

 

 

 このフリーダムガールのよく分からない知識は一体何処から湧いてくるのだろう。

 次々と矢継早に継ぎ足されるトークに、それっぽい返しをするので精一杯。

 フンフンフフーンと鼻歌交じりに上機嫌なフレデリカお嬢様の付き人をキチンと務めるべく、考える事を諦めた。

 何も考えずインスピレーションで思い浮かべた単語を言っていれば何とかなる、筈。

 

 

「水族館なんて久し振りだな…」

 

 

「昔は住んでたのー?」

 

 

「以前来たのは高校の時って意味だよ」

 

 

 残念ながら俺は両生類でもなければ水族館でのバイト経験もない。

 と言うよりも何故そんな疑問に至ったのかが分からない。

 まぁ、自由気ままに泳ぐ魚に憧れた事が無いこともないけれど。

 どうせなら鳥になって空に行きたい。

 

 

「この歳でも案外楽しめるもんなんだな、水族館って」

 

 

「アタシと一緒だからねー」

 

 

「否定はしないよ。確かにそのお陰でもある」

 

 

 入り口で受け取ったパンフレットを捲りながら、オススメの順路をのんびり歩く。

 今更ながらだけど、腕組みながら歩くのは割と難しい。

 俺が慣れてないからだろうか。

 恋愛経験豊富なアドバイザーがいたら聞いてみたいとろこだ。

 

 

 そんな素振りを一片たりとも見せない隣のフレデリカは、そういった事に慣れているのだろうか。

 もしも現在進行形で大学にそんな相手がいるのだとしたら、申し訳ないけれどその相手に社会の恐ろしさを知って貰わなければならない。

 そんな架空上の生物に一人相撲を挑む情け無い面に気付かれない様に、テンションをフレデリ化して会話を弾ませる。

 

 

「生まれ変わったらホンソメワケベラになりたいなぁ」

 

 

「じゃーフレちゃんコンソメ木ベラがいいなー」

 

 

「じゃあ俺はカンヅメキメラだ」

 

 

 意味が無いどころか分からない会話と言うのは、やってみると案外面白いものだ。

 先日こんなノリでフレデリカと一時間潰した時は流石に焦ったけれど。

 

 

 大体半分程まわったところで、一つ大切な事を思い出した。

 フレデリカに伝えなければならない事がある、と言う事を。

 どのタイミングで切り出すかはまだ決まってないけれど、流れで何とかなると思っていた。

 案外ならなかったけれど。

 

 

 …今は、思いっきり楽しもう。

 夏休みの宿題は八月三十二日に終わらせればいい理論だ。

 面倒な事は後回し、難し事を考えていては楽しい事も楽しめない。

 

 

「浸透圧ってなーに?」

 

 

「分からない訳じゃないけどクラゲの説明文読んでくればいいんじゃないか?俺の説明より分かりやすいと思うし」

 

 

 分からない訳ではないが、楽しまなきゃ損だ。

 難しい事は全部水族館の設備に負担して貰おう。

 分からない訳ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時刻は大体午後一時。

 

 

 水族館も現在見れる水槽は大方周り終え、少し足が疲れてきた。

 まだまだ若いと思いたかったけれど、普段からダンスをやっている十九歳について周るのは流石にしんどい。

 コレがもしショッピングだったら両手にさらなる負荷が掛かっていたと思うと冷や汗ものだ。

 水族館…素晴らしいスポットじゃないか。

 

 

「さて、と。そろそろお昼にするか」

 

 

「わぁお、プロデューサーって時間を操れたのー?」

 

 

「俺が操るまでもなく今は昼だよ。近くに良さげなレストランがあったから行ってみようかなって」

 

 

 一旦水族館を出て駅の方向へと向かう。

 目的地は待ち合わせ場所から直ぐ近くのレストラン。

 柱の周りをグルグル歩いている時に見付けたのだから、人生何が為になるか分からないものだ。

 もしかしたら、時計観察によってまた新たな発見があったかもしれないのだから。

 

 

「涼しくてよかったねー」

 

 

「むしろ、陽が出てないと寒くなってきたからなぁ」

 

 

 あっという間に到着。

 お昼時なだけあって少し混み合っていたが、待つ必要は無さそうだ。

 店員に何名様か聞かれた瞬間、もう直ぐ3人になりますなんて下らない冗談を言おうとしたけれど、世の中には許される冗談と許されない冗談があると思い留まった。

 流石にそれはフレデリカに対して失礼過ぎる。

 

 

 素直に二名様ですと伝え席に案内されれば、見晴らしの良い窓際のテーブルだった。

 目の前に広がる綺麗な海…真昼間からビールを頼みたくなる欲望を全力で抑え、取り敢えずでオレンジジュースを二つ頼む。

 メニューを置いて別のテーブルへと向かって行くウェイトレスさん、なかなか綺麗な女性だったなぁ。

 

 

 二十歳ぐらいだろうか、後で名刺でも…仕事…

 

 

「今日は超プライベートで楽しいなぁ!」

 

 

「フレちゃん時々プロデューサーのテンションが分からないなー」

 

 

 なんと、まるでフレデリカに対する俺の認識じゃないか。

 類は友を呼ぶとはよく言ったものだ。

 姿形名前性別等は違えど、魂は同じ色をしてるのかもしれない。

 ところで魂に色なんてあるのだろうか?

 

 

「思い出したくない事が頭の片隅に浮かんできた時は、反対の事を叫んで誤魔化すもんなんだよ」

 

 

「プロデューサーってプロデュース業嫌いなの?」

 

 

「朝起きるのしんどい」

 

 

 社会人の素直な意見。

 仕事自体は嫌いどころか大好きだ。

 その点に関しては問題イナフ。

 問題イナフの無さそうでありそう感は凄い。

 

 

 ただやはり、最近涼しくなってきて布団を引っ張り出してから抜け出すのに時間が掛かるようになった。

 夏の冷房、秋の布団、冬のコタツ、春は曙。

 なんやかんやどの時期でも朝と言うのは辛いモノではあるが。

 恐らくその後に待ち受ける通勤ラッシュも、心の重さに一役買っていると思う。

 

 

「まぁそれはさておき、折角の休みだから一旦思考から追い出そうとな」

 

 

「…フーン…フーン…」

 

 

「なんだ、何かあったか?」

 

 

「フフーン!」

 

 

 なんだ、何時ものか。

 勘のいいフレデリカの事だから、もしかしたら何か感付いているかもしれないけれど。

 実は気の回る大人なフレデリカだからそこ、そこに突っ込んでは来ないだろう。

 

 

 それか…

 

 

「仕事で何かあったのー?」

 

 

「…ありがとう。言いやすくなったよ」

 

 

 ほんと、よく気の回る女の子だ。

 こうやって、気を使ってくれて。

 ちょっとでもそんな素振りを見せたら、どんなに話を逸らしても無駄だったか。

 

 

「…取り敢えず、何か頼もうか。ついでにビール飲みたい」

 

 

「だーめ、フレちゃんミルクオレがいいなー」

 

 

「じゃあ俺麦ジュースアルコール入りで」

 

 

「進まないし料理から決めよっかー」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 料理はとても美味しかった。

 きっとアタシと食事してるからだよーなんてフザケデリカは笑っていたが、実際その通りだろう。

 緊張で喉を通らないなんて事もなく、楽しく美味しくご馳走になれた。

 窓際の席と言うのも相俟って、視覚聴覚味覚嗅覚の四つで贅沢な時を過ごせた気がする。

 

 

 結局ビールは頼ませて貰えなかった。

 元より本気で飲むつもりなんて微塵も素粒子程もなかったけれど。

 俺が注文する前にホットミルクにされたからなんて理由では無い。

 

 

 ある程度時間が経ったからか、店は入った時よりも静かになっていた。

 食後のコーヒーを片手に、二人でのんびり窓の外を眺める。

 とっても幸せな時間じゃないか、有給取って良かった。

 

 

「それでねー、文香ちゃんももっとグルメリポーターしてみたいんだってさー」

 

 

「鷺沢さんが、か…人間ってほんと見た目じゃ分からないな…」

 

 

 それに関しては、俺は多分誰よりもよく分かっている。

 いや、分からされたの方が正しいかもしれない。

 もっと正確には気付かされた、だけれども。

 

 

「来週は、一緒にパフェ食べにいこーねー?」

 

 

 他愛の無い会話。

 それがとても居心地良くて。

 ついついまた、フレデリカに甘えそうになってしまって。

 

 

 そんな自分を叩きつける様に。

 今度は自分から、切り出した。

 

 

「…少し、仕事の話をしていいか?」

 

 

「どーせなら日付が変わってからの方がいいかなー」

 

 

 フレデリカも夏休みの宿題は八月三十二日に片付けるタイプだったのだろうか。

 流石にそこまでは把握していなかった。

 そして、俺としてもこのまま一緒に駄弁っている方が魅力的ではあるけれど。

 

 

 …よし。

 

 

「まず、最初に…」

 

 

 大きく息を吸い込み、吐き出した。

 

 

「俺は、フレデリカのプロデューサーじゃいられなくなった」

 

 

「…海辺、歩きながらでいーい?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 既に十月に差し掛かっているからか、太陽は既に水平線に吸い込まれ始めている。

 ざざん、ざざんと紅い波が足元まで詰め寄っては引いて。

 カモメの鳴き声は大きく、けれどきちんと伝わるように。

 改めて、言い直した。

 

 

「…そっかー」

 

 

 一呼吸おいてから、静かに。

 そう、フレデリカは返した。

 

 

「本当にすまない…二人三脚で、って約束。守れなくて…」

 

 

「カッコいいセリフだねー、そんな事今初めて言われたよ」

 

 

「…多分言ってなかった気がする」

 

 

 言ってなかったなら言わなければ良かった。

いや、人生で一度は言ってみたかった台詞だったからいいけれど。

 恥ずかしいったらありゃしないが、大体夕陽が誤魔化してくれるだろう。

 店にいたら即死だったけれど、何とか致命傷で済んだ。

 

 

 けれど、何故か。

 フレデリカの方が、笑顔なのに哀しそうな表情を浮かべいて。

 場違いなのは分かっていても、とても綺麗だ、と。

 

 

 心から、そう思った。

 

 

「フレデリカの負担が増える事はそんなに無い筈だから、安心してくれ」

 

 

 淡々と、坦々と続ける。

 伝えなければならない事が、まだあと二つ残っているのだ。

 

 

「…そっかー、残念だねー。折角トップアイドルのプロデューサーに成れるチャンスだったのに」

 

 

「…ん?まぁいいか、次なんだが…」

 

 

 これは、何方かと言えば良い話。

 特に難なく続けられる。

 

 

「フレデリカには、今後あるユニットとしても活動して貰う。メンバーは…後で、書類渡すから」

 

 

 絶対、上手くやっていける筈だ。

 ユニット名は、まだ決まっていないけれど。

 このユニットを提案したのは、他でも無い自分なんだから。

 上手くいかなかったら桜の木の下に埋めてくれても構わない。

 

 

「…プロデューサーが、企画したのー?じゃー頑張らないとねー」

 

 

「おう、頼りにしてるぞ」

 

 

「…あれー?」

 

 

 何だろう、微妙にだけれど会話が噛み合っていない気がする。

 人間は一人一人違うんだから完璧な意思の疎通は難しいだろうけれど、根本的なところで認識がズレてはいないだろうか?

 言葉が足りなかったとも思えないし…

 

 

 まぁ、置いておこう。

 そしてもう一つ、伝えなくてはならない事。

 今日一日、思い出す度に俺の心を締め付けた事。

 

 

 それは…

 

 

「来週のパフェ…結構前から行く予定だったよな、予約までしたし。申し訳ないけど、その日はユニットメンバーと俺で打ち合わせだから…」

 

 

「…プロデューサー、アタシのプロデューサーじゃなくなるって言ってなかったっけー?」

 

 

「あれ?もしかして専属って単語が抜けてたかな?」

 

 

「オッケーオッケー、フレちゃんちょっと走ってくるからプロデューサー先に泳いでてー」

 

 

 流石に今の時期この時間帯に海に入るのは…

 

 

 色々と言い返そうとしたけれど、理解の追い付いた俺は謝罪の言葉を叫びながら着の身着のまま海面へと飛び込んだ。

 願わくばクラゲに刺されない事を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…申し訳ありませんでした」

 

 

 社会人最強の物理技、詰まる所の土下座を綺麗な夕陽バックに極めるプロデューサー。

 そんな情け無い姿を前に、フレデリカは笑っていた。

 

 

「別に大丈夫だって〜、それとも罵られて喜ぶタイプ?」

 

 

 ふざけて茶化すフレデリカ。

 けれど、俺は土下座を辞めない。

 冗談抜きで、冗談では済まない事をしてしまったと言う自覚がある。

 下手したら信頼関係が吹き飛んでいただろう。

 

 

 それにしても、哀しそうな表情のフレデリカも…

 あ、誰か俺を殴ってくれないだろうか。

 フレデリカには笑っていて貰いたい。

 それが一番似合うし、求めているモノだ。

 

 

「っくしょん!」

 

 

 流石に濡れた服で秋の海風は堪える。

 既に太陽は殆ど沈み、あたりに人は誰もいない。

 そもそもこの辺一帯は遊泳禁止だった。

 帰ったら風邪薬飲んでおこう。

 

 

「しょーがないなぁー…プロデューサーこのままじゃ風邪ひいちゃうねー」

 

 

「安心してくれ、事務所のドリンク飲めば治るから」

 

 

「濡れた服のまま電車なんてダメだよー?」

 

 

 ぐうの音も無い正論。

取り敢えずチョキと言っておこう。

 ところで実際、ロックとシザーとペーパーだったらペーパーがぶっちぎりで弱い気もする。

 いや、紙も束ねれば弾丸すら防げるし一概にそうとは言い切れないか。

 

 

 脱線した思考を元に戻すが、確かに勢いで服のまま飛び込んだはいいけどこれでは電車に乗れない。

 夏も終わり太陽も沈んだこの時間、終電までに自然乾燥する可能性はとても低そうだ。

 はぁ…手痛い出費だけどビジネスホテルにでも泊まるとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねープロデューサー?アタシも服濡れちゃって困ってるんだー」

 

 

「…二部屋予約させて頂きます」

 

 

「一部屋でだいじょーぶ!」

 

 

「俺は野宿か…流石にしんどいぞ…」

 

 

「…プロデューサー?」

 

 

「…誰にも言うなよ?あと絶対なにもしないからするなよ?」

 

 

 

 

 

 

 



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決断まで、及びごっこと呼べる日まで


ぼくはたーたーずむー
つのるおもーいにー
ふみふみ



 

 

…最近は…少し、冷えますね…

そろそろ、暖房のお世話になりそうです。

手が悴んでしまうと…ページを捲るのが、困難になってしまいますから。

 

 

…コーヒー、ですか。

ありがとうございます。

…少し、甘め…ですね。

いえ…とても、ありがたいです。

 

 

…最近、ですか?

とても…とても、楽しめてます。

フレデリカさんや杏さんに、少し振り回されてはいますが…

それでも、皆さん…凄く、優しいですから…

 

 

今、私のアイドルとしての活動が充実しているのは…

…間違いなく、彼女達のおかげです。

もちろん、プロデューサーさんも…ですよ?

いくら感謝しても、したりないくらいで…

 

 

…そう、ですね…

いずれ話します、と…そう言ってから、結構な時間が経ってしまっています。

ですから…今。

当時の事を、きちんと。

 

 

お話したいと、思います…よろしいでしょうか?

少し、長くなってしまいますが…それでは。

 

 

あれは、とある秋の…二十四時間、丁度一日分のお話です。

私がまだ彼の…前のプロデューサーさん共に活動していた。

その、最後の一日のお話…

 

 

 

 

 

 

からからから

 

 

舞い散った枯れ葉が、冷たいコンクリートの地面を叩いて彼方へと向かう。

ビルの間を吹き抜ける風は冷たく、あきなど来ないと言うかの様に鳴いていた蝉はもういない。

吸い込まれそうな高い空は、雲一つない晴天。

太陽は既に傾き始め、私の影は私自身の身長を追い越していた。

 

 

「…少し、冷えますね…」

 

 

そう言って、隣を歩くプロデューサーさんへ。

ほんの少しだけ、手を伸ばす。

けれど、その手は空を掴むばかり。

行き場をなくした私の片手は、すぐさま胸元へと戻された。

 

 

お互い、無言で道を進む。

何て事はない、いつも通りの帰り道。

事務所から最寄駅までの、ありふれた数十分。

けれど、しかし。

私の胸は、今までにないくらい締め付けられていた。

 

 

思い返すには、真新しい記憶。

ほんの、二十と数時間前。

昨日の私が、事務所を出る。

その直前に告げられた言葉から、最後の一日が始まった。

 

 

 

 

 

 

「ふぅ…疲れました…」

 

 

レッスンを終えた私は、いつも通りに部屋へと戻る。

筋力は兎も角あまり体力があるとは言えない私の身体は、ダンスレッスンによってふらふらになっていた。

デビューしてからある程度期間が経っているとはいえ、それでもまだまだ他のアイドル達には遠く及ばない。

それを埋める為の日々のレッスンは、私の体力を容赦なく奪っていった。

 

 

けれど、部屋へと戻れば。

また、必ず。

プロデューサーさんが、出迎えてくれる。

何時ものように、いつも通りに。

 

 

そう期待して、私は部屋の扉をあけた。

 

 

しかし、何故か。

当のプロデューサーさんは、苦しそうな表情でキーボードを叩くのみ。

私の帰還から目を逸らし、デスクトップと睨めっこし続けていた。

 

 

「…プロデューサーさん?」

 

 

「ん、あぁ…お疲れ様、文香」

 

 

反応からして、どうやら私が戻って来ていた事は気付いていた様だ。

けれど何処か歯切れが悪く。

まるで、悪い知らせがあるように。

伝えたくない事を、言い出さなければいけないように。

 

 

「…どうか、しましたか?」

 

 

「…文香…大事な話がある」

 

 

この時点で、私にとっても彼にとっても良い出来事ではないということくらい察している。

ライブが延期になったか、オーディションに落ちてしまったか。

しかし、今までだってそんな事は沢山あった。

それを、二人で。

何度も一緒に、乗り越えてきたのだ。

 

 

「…一体、何が…?」

 

 

大丈夫、大丈夫。

何があっても、彼と一緒なら乗り越えられる。

今までの様に、これからも。

そう、自分に言い聞かせて。

覚悟を決めて。

 

 

「…明日で…俺は、文香の担当から外される事になった」

 

 

私が拵えた覚悟は、全て無駄になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…何故、ですか…?冗談でしたら、早く…」

 

 

一番の可能性としては、彼が嘘をついているという事。

もしくは、ドッキリと言う可能性。

彼がそんな事を言う人ではないから、もしかしたらその方が高いかもしれない。

だとしたら、何処かにカメラかプレートが…

 

 

「すまない…上に、バレてたみたいで…」

 

 

「…そう、ですか…」

 

 

何も、言い返せなくなってしまう。

こればかりは、私達二人に非があった。

アイドルと、プロデューサーが恋仲にある。

そんな事を知った上の人がどう動くかだなんて、火を見るよりも明らかだ。

 

 

…まさか、こんなに早くに…

 

 

バレると思ってなかった、なんて事は無い。

いずれ、誰かの耳又は目に入ってしまう。

そのくらい、お互いに分かりきっていた。

 

 

けれど、おそらく。

私達は出来る限り考えない様にしていたのだ。

目を逸らして、耳を塞いで。

そんな日が来る事はまだまだ無い、と。

 

 

そのツケが、まわってきてしまった。

 

 

「…引き継ぎ等の書類は既に完成してる。文香に迷惑は出来る限り掛からない様にしてあるよ」

 

 

「…プロデューサーさんは、既に知っていたのですか?」

 

 

「あぁ…けど、前日まで本人には伝えるなって言われてて…」

 

 

きっと、色々と対策を立てさせない為だろう。

私の感情なんて配慮されてるわけが…なんて言うのは、お門違い。

元より身から出た錆だ。

私が何か言える立場ではない。

 

 

けれど…

 

 

幾ら何でも、直ぐに納得出来る事でもない。

 

 

「…プロデューサーさんは、それで納得を…?」

 

 

「…俺は、文香のプロデューサーだ。これ以上活動の妨げになる事は出来ない」

 

 

苦しそうに、そう呟く。

その表情が見ていられなくて、私は目を伏せた。

これ以上、彼を追い詰めない為に。

これ以上、彼を傷付けない為に。

 

 

私が離れたく無いと思っている以上に、きっと。

彼もまた、私と離れるのが辛い。

けれど、どうしようも無い。

 

 

そう自分に言い聞かせるも、心は様々な負の感情で溢れ。

けれど誰にぶつけられる訳でもなく。

 

 

「…お疲れ様、でした」

 

 

私は静かに、部屋を出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気付けば、私は既に家へと到着していた。

それ程までにぼーっとした状態でも、案外帰ってこれるものだ。

習慣と言うか帰省本能の様なものなのかもしれない。

 

 

虚ろな思考で無理矢理重苦しい身体を動かし、シャワーで汗を流して布団に座る。

気を紛らわす為に取った本は、既に閉じられ。

食欲が湧く訳もなく眠気があるわけでもなく。

何もせず、ただただ私は部屋の空を見つめていた。

 

 

…明日で、プロデューサーさんとは…

 

 

ようやく、脳内の整理はついた。

それで気持ちも片付ける事が出来れば、どれだけ楽だった事か。

それ程までに、私にとって彼は大きな存在。

それを失ってしまうなんて…

 

 

こんな事なら…なんて後悔は、今更遅過ぎる。

意味なんてない、けれども思わずにはいられない。

もっと、上手く出来ていれば。

 

 

絶対に、もう以前の様な関係には戻れない。

今でも割と忙しくて時間の確保が難しいのに、離れてしまえば会うことすら困難になってしまう。

彼に会えない日々が、これからずっと続く事になるだろう。

果たして、そんな日々を私は…

 

 

ずっと、二人で。

同じ景色を見ながら歩いていきたい、と。

そう思っていたのに。

 

 

むしゃくしゃして、気持ちの遣り場がなくて。

身体を横にしても寝付けるはずが無く。

相談できる内容でも無い為に知り合いを頼れず。

気付けば、時計の短針は真上を向いていた。

 

 

シンデレラの魔法は、深夜0時に解けてしまう。

けれど、彼女達は再び結ばれる事ができた。

なのに、私はもう…

 

 

彼からの連絡はない。

以前までなら、帰宅してからも数件のやり取りがあったのに。

私から送る気にもなれない。

何度か手に取った携帯は、その度にバッテリーを消費しては画面を消されて。

 

 

秋の夜に、私は一人。

冷たい空気にも構わず、静かに両目と袖を濡らし続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日も、いつも通りのレッスン。

既に組まれたスケジュールが私の気分で変わるわけも無い。

けれど、集中できる筈もなく。

トレーナーさんに何度も注意され、終わる頃には普段以上にクタクタになっていた。

 

 

部屋に戻ると、見慣れた筈なのに少しの違和感。

どうやら、プロデューサーさんの私物が無くなっていた。

改めて、これからの事を実感させられる。

昨日の一件が夢だった可能性は完全に否定された。

 

 

窓の外には、傾き始めた太陽。

雲一つ無い空は、まるで私の心象と対称的。

見下ろせば学生が楽しそうにカバンを振り回して歩いていた。

 

 

なんで、あんなに楽しそうに…

私は、こんなにも…

 

 

八つ当たりも甚だしいが、どの道届かないのだから好き勝手に思わせて貰う。

そして余計、心は加速度的に重くなって。

流しきった筈の涙が、また目から溢れそうになって。

 

 

「…終わりそうでしたら…一緒に、帰りませんか?」

 

 

なんとか気分を変えようと、口を開く。

 

 

「…もう直ぐ終わるから、少しまっててくれ」

 

 

カタカタと、キーボードの音が早くなる。

何時も聞いていた筈なのに、今はどこか心地よい。

そして今日で最後と思い出し。

また更に、苦しくなる。

 

 

でも、今は。

少しでも長く、一緒の時を過ごしたいから。

私は静かに、彼を見つめ続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして私達は、肩を並べて歩く。

特に会話は無いけれど、それもまたどこか心地よく。

二人で過ごした時間に思いを馳せながら、一歩一歩を進めていた。

 

 

以前寒いですね、と言った時は。

僅かならがら近寄って、微笑みあったのに。

今は、それすら許されない。

時間と共に変わってしまった現状は、あまりにも残酷だった。

 

 

どれだけ強く想っていても。

どんなに辛いと思っていても。

もう、戻る事なんて出来ないのだから。

 

 

「…次の担当は…信頼出来る奴だから、安心してくれ」

 

 

「…はい」

 

 

「少しユニークなアイドルも付いてくるけど…きっと文香なら、上手くやっていけるさ」

 

 

「…はい」

 

 

今までだったら絶対にしなかったであろう会話。

けれど、やはり彼との会話は幸せで。

生返事を返しながらも、今はその小さな幸せを噛み締めていた。

 

 

「…これからもずっと、応援してるから」

 

 

「…ありがとう、ございます…」

 

 

そんな事言わず、これからも一緒に…

口に出そうとした言葉は、けれど発される事は無く。

降り積もる想いは、雪の様で。

私の足と心を更に重くさせた。

 

 

もう、いっそ…

私がアイドルを辞めれば…

 

 

「…別々の道だけど…文香には沢山の景色を見て、輝いて欲しい。それが、元担当としての俺の願いなんだ」

 

 

…ずるい、です。

 

 

私の前に、一本道を用意してしまうなんて。

彼に導かれて進んで来た私に、それを外れる事なんで出来る筈が無いのに。

彼の願いを、私が裏切る事が出来る筈が無いのに。

 

 

ふと、隣を見れば。

まるでその先に夢が見えているかの様に微笑む、彼の姿。

きっと、そこには。

輝いた私がいるのかもしれない。

 

 

「…そう、ですか…でしたら…」

 

 

私は、もっともっと輝かなければならない。

彼の願いを叶える為に。

それが、今の私に出来る事。

それが、今の私の願い。

 

 

まだまだ気持ちの整理はつかない。

けれど、私は決めた。

また、いつか。

私が今以上に輝き、誰にも何も言われないくらいになったら。

 

 

それまで私が見てきた景色を、彼の元へと届けに行く事を。

 

 

覚悟は済んだ。

夢は覚悟と言う事も学んだ。

次に涙を流すのは。

きっといつか、彼の前で。

 

 

気付けば、既に最寄駅。

最後の一時間は、本当にあっという間。

けれど、もう迷う事は無い。

必ず、絶対に。

 

 

また、何処になるかは分からないけれど。

次は、何時になるかは分からないけれど。

 

 

願いと想いだけは、凍えさせない。

 

 

「…じゃ、また」

 

 

「…はい、また」

 

 

私達は別々のホームへと向かう。

既に、もうこの時点から道は違った。

隣り合わせから背中合わせに変わってしまったけど。

進むべき道だけは、はっきりしている。

 

 

振り向いたら、きっとまた泣いてしまう。

また、寄り添って欲しくなってしまう。

だから、振り向く事も止まる事も無く。

 

 

前へ、夢へと。

同じ夢を胸に抱き。

 

 

私達は、別々の道を進んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それからしばらくは、がむしゃらにレッスンしていました。

周りのモノなんて目に入らないくらい、周りの声も聞こえないくらい。

…おそらく…そのまま一人で進んでいたら。

きっと…私はすぐに潰れてしまっていたかもしれません。

 

 

元より、体力はありませんでしたから…

それなのに、はやく、はやく、と。

…確かに、焦っていました。

 

 

結局、彼は担当移動では無くクビだったんですね…

あの時、きっと…あの人は、もう二度と。

私には会えないと、そう思っていたのかもしれません。

画面越しに応援出来れば、と。

そう思っていたのかもしれません。

 

 

けれど…私と彼の道は、もう違います。

そんな彼の予想は、必ず裏切って。

…また、何処かで巡り合ってみせる。

 

 

そんな風に、一人で走り続けて…けれど。

同じユニットのメンバーが…そして、プロデューサーさんが。

そんな私を支えて下さいました。

 

 

…フレデリカさんは…とても、気の回る方ですから。

頑張るだけでなく、楽しまなければ、と。

そう、私に教えてくれました。

 

 

辛い仕事も、何々ごっこ、と。

まるで、遊びの様に楽しめばいい。

そんな風に…何度も、私を励ましてくれて…

ふふっ…本人に伝えたら、否定されましたが。

 

 

ある程度…プロデューサーさんも、察してはいたみたいですね。

なのに、私をユニットメンバーに加えて頂き…

…フレデリカさんと、同じ事を仰るのですね。

ちょっとした恩返し、だなんて…

 

 

兎も角…それ以降、私はこんなにも楽しい活動を続けられています…

もちろん、目標…と言うよりは、叶えるべき夢はありますが。

焦る事無く、思い詰める事なく…

色々な事に楽しみを見出しながら、沢山の経験を積んで。

 

 

ところで、ですが…何故、彼は私に会いに来ては…

公開録音や、サイン会や、ライブ。

機会は、少なく無いと思いますが…

 

 

…ふふっ。

プロデューサーさんも…フレデリカさんと、同じ事を言うのですね。

 

 

担当プロデューサーは…それよりも先に、一人目のファン。

応援は兎も角、邪魔だけは決して…

確かに…今、合って仕舞えば。

…私の心は、揺らいでしまうかもしれませんね。

 

 

長々と、私だけ話してしまい…ご迷惑、お掛けしました。

…邪魔されるのは慣れている、ですか…

プロデューサーさんも、大変ですね。

 

 

…では、また今後も迷惑を掛けてしまうかもしれませんが…

私の夢は…貴方達無しには、きっと叶えられそうにありません。

完全に、個人的な夢ではありますが…

…目指す場所は、きっと、同じですから。

 

 

これからも…よろしくお願いしますーー

 

 

 

 

 

 

 



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唇は、チョコの為に

ポッキーの日に書いた話


 

 

「ねーねー、ポッキーってなにする物か知ってるー?」

 

 

カタカタ、と。

キーボードに疲れを与えるべく指を打ち付けディスプレイとにらめっこしていた時。

ふとそんな事を、真後ろの誰かから問われた。

 

 

振り返れば見返り美人。

窓から射し込む夕陽に照らされた金髪を惜しげもなくさらすフランスハーフのフリーダムガール。

いや、見返っているのは自分自身なのだけれど。

ついでに振り返らなくても誰かぐらいは分かっていたけれど。

 

 

ポッキーが何をする物か、か…

 

 

さて、まずは質問の意味を考えるべきだ。

最後まではチョコが塗り切られていない細長のお菓子について思案する。

勿論最後までチョコに覆われていたら持つ場所が無くて食べられないのだけれど。

その問題点をスタイリッシュにクリアしたかのお菓子の発案者は天才といえよう。

 

 

次いで、何をすべき物なのか、という点。

当然ながらお菓子なのだから、食べる物と言うのが最適解だろう。

けれど、だ。

そんなありふれた回答を彼女が求めているとは思えない。

もっとこう…変化球で攻めるべきだろう。

 

 

「…山を登る時、効率良くカロリーを摂取するものかな」

 

 

「それチョコだけでいーんじゃない?」

 

 

「じゃあ最後までチョコたっぷりなあのお菓子はまさに登山用って訳だ」

 

 

「ポッキーは1箇所手で持つ部分あるもんね〜」

 

 

…話が進まない。

つまり一体なんだったのだろう。

彼女の事だから、本当に何の意味も無かったのかもしれないけれど。

 

 

「でもさー、ポッキーって別に手を使わなくても食べられるよねー?」

 

 

「まぁ口さえあれば、食べようと思えばな」

 

 

「じゃー口が二個あれば速度も量も二倍食べられるねー!」

 

 

速度はともかく、量は胃と食欲の問題じゃないだろうか?

 

 

そんな事を考えてるうちに、気付けば目の前にポッキーが用意されていた。

此方に向けられているのはチョコ側。

つまり俺に手を使わず食べろ、と言う事だろうか。

 

 

「早速実験だねー。口が二個あったら本当に二倍の速度で食べられるのか!」

 

 

「おいおい、俺の口は一つだぞ。まるで反対側からお前が食べるみたいじゃないか」

 

 

「そう!俗に言うポッキーゲーム!ポッキーはポッキーゲームの為にあるんだよ〜」

 

 

なんと、世紀の大発見。

食用のお菓子は遊ぶ為にあったのか。

食の神様が見たら怒り出しそうだ。

 

 

…そうじゃなくて。

 

 

「恥ずかしいから遠慮しておくよ」

 

 

「まったくもー、プロデューサーの唇はなんの為に付いてるのかな〜?」

 

 

「そりゃポッキーを咥えたり食べる為にだよ」

 

 

「なら最大限に有効活用しないとね〜」

 

 

…これが誘導尋問と言うやつだろうか。

物の見事に嵌められてしまった。

齢19にして、流石なものだ…

 

 

なんてアホな事を考えるのもソコソコに、果たして俺はこのままポッキーを咥えてしまっていいのだろうか。

一度口にすれば間違いなく反対側から彼女が迫り出すだろう。

スプラッタ系映画にありがちなプロペラに巻き込まれる人の様に、一瞬で二つの口を突っ張り棒するポッキーはガリガリと削り取られてしまう筈。

良し悪しではなく、とても恥ずかしいではないか。

 

 

と、そんな思考をしているうちに、気付けば俺の口にはポッキーが少し突っ込まれていた。

口に食べ物が入っているから喋る訳にもいかず、チョコ側だから手で取る訳にもいかず。

そして反対側を咥えられてしまった事で、自分の意思とは関係無しいポッキーがスタートしてしまった。

 

 

…ものすっごく距離が近い。

 

 

全国の男性諸君、実際にポッキーゲームをやった事があるだろうか?

無ければ想像して欲しい。

ほんの10センチ程度の目の前に、女性の顔があるのだ。

更にそれが超美人だとしよう。

…恥ずかしくて心拍数が跳ね上がる。

 

 

そして何故早く食べないんだ。

速度が二倍になるか検証するのではなかったのか?

何もせず見つめ合うだけだなんて、これかなり恥ずかしいぞ。

 

 

「ふふーん、いくよー」

 

 

ポキッ、と。

心地よい音と軽い振動と共に、顔が更に数センチ近くなる。

これで手で持つ部分はなくなり、引き下がれなくなってしまった。

 

 

まずいまずい、ポッキーは美味しい筈なのに味が分からない。

心を落ち着ける為に水の凝固点の絶対温度を頭に浮かべたが、ほんの5桁で終わってしまった。

そしてそんな凝固点なんて知らんと言うかの様に、恥ずかしさは沸点を越えてしまっている。

 

 

やられっぱなし、と言うのは性に合わない。

そもそもポッキーゲームとは言わばチキンレース。

此方からも攻めなくてどうする。

そう意気込み、此方も一口ほど距離を詰めた。

若干チキって少ししか進めなかったけれど。

 

 

また膠着状態に陥り、お互いの顔を凝視するハメになった。

おそらく此方は物凄く赤くなっているだろう。

それに比べ、随分と余裕そうな表情をされてしまっている。

耳が赤いのは、部屋が暖房で暑いからだろう。

 

 

一口、また一口。

少しずつ短くなるポッキーに反比例するかの如く顔が熱くなる。

もしかしたら心臓の音が聞こえてしまうかもしれない。

それ程の距離にまで、近付いてしまった。

 

 

俺達は見つめ合う。

互いに、目をそらす事もなく。

目が合っていると言うだけで気恥ずかしくなるのに、この距離と言う事も相俟って更に恥ずかしい。

あとほんの少し、噛み出せば。

唇が、触れ合ってしまうのだから。

 

 

そんな時、突然目と目が合わなくなった。

正確には…目を、瞑られた。

まるで、キスをせがむかの様な、そんな表情で。

王子様のキスで目を覚ます時を待つ、白雪姫の様に。

 

 

此処で俺が、もう一口。

ポッキーを、噛み進めれば…

 

 

ポキッ

 

 

「あっ」

 

 

「あれー?」

 

 

力み過ぎたからか、ポッキーはぽきっと折れてしまった。

たったそれだけで二人の間は引き裂かれる。

 

 

「…俺の負けだな」

 

 

「ねー、唇って何の為に付いてるんだっけー?」

 

 

「さっきも言ったけど、ポッキーを…」

 

 

チュッ、と。

離れた距離を再び戻す様に。

唇の距離が、0になった。

 

 

「…ふふーん。チョコを食べる、為だよねー。唇についてたよー」

 

 

軽い調子で言っているけれど、きっと。

その覚悟と勇気は、並大抵のものではなかったんだろう。

それを証明するかの様に、顔は真っ赤だった。

 

 

「…残念だけど、チョコじゃなくてポッキーだよ」

 

 

恥ずかしさを誤魔化す為に。

そんな言葉で戯けてみせる。

 

 

…いや、正直。

俺は期待していたから。

彼女なら、きっと。

 

 

「じゃー…もう一回、ポッキーでやる?」

 

 

そう、言ってくれる、と。

 

 

けれど、彼女は。

やっぱり、俺の予想を越えていた。

 

 

よし、やってやろう。

次はもう、負けるつもりはない。

そう思って、俺が袋からポッキーを取り出すよりも先に。

 

 

更に、その先への一言。

 

 

 

「それとも…ポッキー無しで、やる?」

 

 

 

 

 

 



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WHY MY HEART

ふみふみのハピバに書いた話


 

ペラ、ペラ、と。

 

 

捲られるページの音が部屋じゅうに響く。

けれど内容自体はまったく頭に入って来ずに。

本に集中しきれない私は、一度大きく息をはいた。

 

 

端末の電源を入れれば時刻は二十三時半。

ロックを解除し期待を込めてsnsアプリを開くも、通知は0件。

再び大きく息を吐き、本のページを捲る作業にもどった。

 

 

…焦り過ぎ、ですね…

こんなに…待てなくなってしまうなんて…

 

 

普段だったら、私が本に集中出来ないなんてありえない。

普段だったら、こんな気持ちでスマホを覗くこともない。

普段だったら、通知をこんなに気にするなんてそうない。

普段だったら…そう。

 

 

けれど、今は。

今から三十分後に訪れる一日は。

年に一度の一日は。

私にとって、特別なものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

集中する事を諦めた私は、秋の夜風を求め窓を開けた。

雲に隠れた三日月は、それでも煌々と辺りを照らす。

遮り切れなかった雲が放つ朧げな光もまた、波立つ心を鎮めてくれる。

 

 

この同じ月の元。

今頃、貴方は何をしているだろうか。

もしかしたら今の私と同じ様に、今か今かと待っているだろうか。

想いを馳せる私の様に、想いを届けようと待ち構えているだろうか。

 

 

何なら自分から送って仕舞えば。

何時もと同じ様に、いつも通りの会話が出来るのに。

わざわざ待つ事をしなくても。

そもそも、そんな必要だってないのに。

 

 

けれど、この日だけは。

彼からの連絡を待ちたかった。

一年に一度の特別な一日だから。

どうしても、最初は彼の一通から始めたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

冷たい風で冷えすぎないよう、窓を閉めてマグカップを傾ける。

画面に表示された数字は既に五十を回っていた。

あと、十分足らず。

その短い時間が、堪らなく長く感じられる。

 

 

きっと前年と同じ様に。

沢山の方々から、おめでとうの言葉を頂けるでしょう。

その一件一件を有り難く噛み締め、丁寧な言葉で返す。

 

 

けれど、今回は。

それだけでは、ない。

特別な人からの特別な言葉。

それが楽しみで、心は溢れ。

まるでクリスマスプレゼントを待ち切れない子供の様になっていた。

 

 

…どうして、こんなに私は…

以前なら、きっとなかったのに…

 

 

今はギリギリ日付が変わる前。

まだ、一通も通知はない。

シンデレラの魔法が解けるまで。

私はまだ、魔法に掛かれない。

 

 

いや、もしかしたら既に。

私は彼によって魔法を掛けられていたのかもしれない。

だから今、私はこんなに胸が締め付けられるくらい。

苦しいほど、幸せなのかもしれない。

 

 

もし、嫌いになっていたとしたら…

もし、私が忘れていたとしたら…

こんな気持ちになる事は…

 

 

けれど、信じたくはないけれど。

もし、彼が忘れてしまっていたら…

 

 

様々な思考が渦を巻く。

そんな私など知らぬという様に、既に表示は五十九。

あとほんの六十秒足らずで。

待ち遠しかった、不安で幸せな時がやってくる。

 

 

そわそわと、行き場をなくした手が本のページを弄る。

騒めく心を落ち着ける為に、再びマグカップを口元へ。

必要無いと思っていたスマホをこんなに何度も開くなんて。

これもまた、以前の私にはあり得なかった。

 

 

吐息ばかりが漏れてゆく。

一秒一秒が永遠に思えてくる。

時間をもっと早く進められたら。

そんな事を考えてしまう。

 

 

そして、時間は0だけとなった。

 

 

ブーン、ブーン。

震える指で、震える通知を止めて。

一番最初に届いたメッセージに、目を通す。

 

 

…ふふっ

 

 

思わず笑みを零す。

心が想いで溢れ涙すら溢れそうになる。

 

 

先程までの不安は全て吹き飛んだ。

先程までの考えは全て吹き飛んだ。

いや、それよりも正反対に。

 

 

…このまま…

ずっと、この幸せな一瞬が。

ずっと、続けば……

 

 

 

 

 

 



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夢に逃げ込む夢

お疲れ様ですっ!

島村卯月、戻りました!

 

 

聞いて下さい、プロデューサーさん!

私今日、トレーナーさんに褒められたんです!

ダンスの動きが大きくて、声も良く出てる、って。

私、成長出来てるみたいです。

 

 

…す、すみません。

一人でもりあがっちゃって…お仕事、お邪魔しちゃいましたか?

…よかった、そう言って貰えると頑張りがいがあります!

 

 

ところで、文香さんは…読書中、でしたね。

部屋の端っこで、凛ちゃん達は何を?

奈緒ちゃんに小梅ちゃんまで…今日は結構暑いですけど。

 

 

…プロデューサーさん、どうかしましたか?

アレには混ざらない方がいい?

凛ちゃん達が危ない話をしてるとは思えませんが…

 

 

りーんちゃん、何してるんですか?

…なるほどー、だからプロデューサーさんが…

確かに、今日みたいな暑い日にはもってこい、ですよね!

私も一昨日、テレビで見て一人で震えてました。

 

 

奈緒ちゃんは、怖がりじゃないんですか?

…なるほど、怖いアニメで耐性がついたんですね。

アニメもなかなか奥が深いです…

 

 

…よし!でしたら、私も参加します!

 

 

まだまだ帰るにも早いですし、折角ですから。

私にもとっておきの話があるんです!

普通の怖い話は小梅ちゃんで充分ですから、少し奇妙な話寄りになりますけど。

 

 

これはですね、夢のお話なんです。

…あれ?どうしました?

そんな、またか…みたいな表情をして…

 

 

ごほんっ!

 

 

夢と言っても、私のじゃないんですけどね。

とある女の子が見た夢です。

そうですね…これは、この夢のお話は。

その女の子が、アイドルになる前から始まります

 

 

 

 

 

 

 

たんっ、たんっ

 

 

少し広いレッスンルームに、靴と床の音が響く。

部屋の壁に取り付けられた大きな鏡の前には一人、ジャージを着た少女が必死な表情で踊っていた。

お世辞にも上手いとは言えないステップに、ステージの上では見せられない鬼気迫る表情。

他に誰も居ない空間で、ひたすら同じダンス。

 

 

けれど、その原因の一部は彼女の周りの環境にもある。

元々彼女は、自分でも言うくらいに笑顔には自信があった。

貴女の持ち味はなんですか?と問われたら即答出来るくらいには。

 

 

けれど、同期の友達が辞めていくにつれて。

彼女がオーディションに度々落ちていくに連れて。

 

 

彼女から、少しずつ笑顔が消えていった。

 

 

今では、彼女以外この養成所に通う少女はいない。

一緒に励まし合いながら進む仲間はいない。

そして、自分自身が成長できているかも分からない。

 

 

そんな環境では、仕方のない事。

 

 

一通りダンスを終えて、また始めから。

何度も何度も繰り返した同じダンスも、上手くなったかどうか分からない。

それでも、どんなに汗を流しても。

彼女がそこから先へ進む事は、一人では出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅー…」

 

 

レッスンを終え、シャワーを浴び、溶ける様に布団へと倒れこむ。

全く同じ事を、何度も繰り返した気がする。

そんな同じ毎日を過ごす彼女に、一つの不安が芽生え始めた。

 

 

このまま…私は、アイドルになれないのかな…

 

 

考えてしまってからは、もう早い。

考えない様にしていた最悪の未来が、一瞬にして脳内を埋め尽くす。

負に偏った思考が心に渦を巻く。

 

 

…こんなんじゃ、なれないですよね…もっと笑顔にならないと!

 

 

しかし、彼女の取り柄でもある笑顔が。

彼女の沈み掛けた心を掬い上げる。

これもまた、彼女の持ち味。

いつも笑顔で、そんな心掛けが良い方向に仕事をした。

 

 

きっと、次のオーディションは…!

 

 

絶望に折れる事無く、次の希望を見出す。

そんな彼女に奇跡が起こったのは。

その夜に見た夢、そして次の日の出来事だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『…え?私がアイドルに、ですか?!』

 

 

『はい、是非ともうちのプロダクションでーー』

 

 

スーツを着た男性から、そう言われて名刺を受け取る。

明記されているのは、私がオーディションを受けて一度不合格を貰っているプロダクションの名前。

そして、アイドル部門担当と男性の名前。

 

 

…え?私が?!

 

 

驚いている私を差し置いて、勝手に口と身体は動く。

 

 

『はいっ!宜しくお願いしますっ!島村卯月、頑張りますっ!』

 

 

ここでようやく、コレが夢の中での出来事なんだと気付いた。

あまりにもテンポの良過ぎる、夢の様な状況。

自分の意思に関わらない、勝手に動く身体。

そもそも一度オーディションに落ちているのに、今更私が拾われる筈がない。

 

 

テキパキと書類に目を通してサインをしている途中で、私の意識は少しずつ薄れ始めていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目が覚めれば、いつも通りの自分の部屋。

窓から差し込む太陽の光が、さっきまで見ていた光景が夢だと教えてくれる。

 

 

…夢、かぁ…

 

 

がっかりした様な、納得した様な。

でも、もっともっと頑張れば。

あんな風にいつか、私にも。

まるでシンデレラの王子様の様な人に…

 

 

パパッと着替え、学校へ向かい。

授業を消化すれば、何時もの養成所。

また一人で、何時ものダンス。

何度も何度も練習してきたステップは、今日はとっても上手く出来た。

 

 

ふぅー、と一息ついて水筒のキャップを開ける。

丁度、その瞬間。

 

 

奇跡の様な出来事が、私に起きた。

 

 

「…すみません、島村卯月さんでよろしいでしょうか?」

 

 

「えっ?はい。私は島村卯月ですけど…?」

 

 

何処かで見た事のあるスーツ姿の男性がレッスンルームに入ってきた。

 

 

だれだっけ、いつか何処かで…あ!

 

 

もしかしたら、彼は。

もしかしたら、これから起きる出来事は。

もしかしたら、あの夢は。

 

 

「自分はこう言う者です。よろしければ…」

 

 

「…え?私がアイドルに、ですか?!」

 

 

「はい、是非ともうちのプロダクションでーー」

 

 

予知夢、と言うモノかもしれない。

本当にあるのかどうかはしらないけれど。

現実に、夢の通りの出来事が起きた。

 

 

渡された名刺は夢で見た通り。

書類も、覚えている限り一字一句変わらないもの。

不思議な感覚が脳を埋めるけれど、夢とはいえ一度経験した事だからかテキパキと話が進む。

脳の処理がようやく現実に追いつく頃には、既にサインも話も終わっていた。

 

 

「では、後日此方に。これから宜しくお願いします」

 

 

「はいっ!島村卯月、頑張りますっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

今日から自分のプロデューサーになる男性が出て行った後、私は自分のほっぺたを抓った。

ベタかもしれないけど、それ以上に。

これが現実だと確かめたかった。

 

 

…いたっ!

 

 

抓った場所が痛む。

つまり、これは。

紛れもなく、現実に起きた事だった。

 

 

そして、これが現実だという事は。

今日から私がアイドルになるという事を意味していて。

私の夢が見叶ったという事を意味していて。

 

 

「…私が!アイドルにっ!」

 

 

どうしよう!誰に教えよう!

ママかな?!学校の友達かな!

 

 

興奮して上手く入力出来てないまま、色んな人に連絡を送る。

返ってくるのは、おめでとうや良かったねと言った言葉。

それがまた嬉しくて、どんどんとトントン拍子に私のテンションはあがっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

同じユニットを組む事になった渋谷凛ちゃんと本田未央ちゃんとの三人で、レッスンの毎日。

けれど誰かと一緒に踊って歌えることが嬉しくて。

失敗も疲れも乗り越えて、充実した毎日を送っていた。

 

 

「卯月、楽しそうだね」

 

 

「はいっ!夢だったので!」

 

 

どんなに辛いレッスンの時も、私は笑顔を崩さない。

夢だった、憧れだったアイドルに。

ようやく成れて、成長を実感しているから。

 

 

最初の内はバラバラだったステップも、最近は三人ぴったり踊れるようになって。

レッスンを終えて三人でお喋りして。

帰って布団に入ってから、明日の事を思い浮かべて。

一人でいた時とは比べ物にならない程の充実感。

 

 

そんなある日、私達に大きなチャンスが舞い降りた。

 

 

「え…?城ヶ崎美嘉さんのバックダンサー、ですか…?」

 

 

「美嘉ねぇの?ほんと?!」

 

 

同じ事務所の先輩アイドルのバックダンサーをやってみないか?との提案だった。

 

 

話を聞く限りおっきなライブらしいけど、私達でいいのかな…

もっと成長してからの方が…

 

 

そんな後ろ向きな思考がよぎる。

けれど、このチャンスを逃す手もない。

 

 

「や、やらせて下さい!」

 

 

三人一致で参加する事に。

当然その時のテンションと言うのもあるけど、やっぱりレッスンした成果を披露したかった。

大丈夫、私達三人一緒なら出来る。

そう頷いて、決心を固めた。

 

 

そこからは、今まで以上にハードなレッスンの毎日。

流石に気力だけでは保たなかった。

けど、隣に凛ちゃんと未央ちゃんがいて。

支え合って、引っ張りあってガムシャラに進んで。

 

 

ついに、ライブ前日となっていた。

 

 

「…お疲れ様。明日は頑張ろうね」

 

 

「うんうん!私達の初舞台ですからな〜!」

 

 

まだ、時折間違えてしまうステップもある。

指先だって伸びてない時があるし、不安要素を挙げればキリがない。

でも、大丈夫。

だって此処まで頑張ってきたんだから。

 

 

自分を励ましながら、夕暮れの道を歩いて家へ帰る。

緊張して食欲はあんまりなかったけれど、体調を崩す方が不味いから軽くお味噌汁だけ飲んで。

シャワーで一日の汗と疲労を流し、パジャマに着替えてゴールイン。

 

 

目覚まし時計はいつもより一時間早い。

最高のコンディションで、最初のステージをこなしてみせる。

自信と不安のごった煮の様な気分でも、ダンスレッスンの疲労は襲ってくる。

 

 

少しずつ薄れていく意識の中、やっぱり頭の中は明日の事。

大丈夫、必ず…

 

 

 

 

 

 

 

 

ふと気付けば、私達はステージの裏に立っていた。

新しい衣装に身を包んだ凛ちゃんと未央ちゃん。

聞こえてくるのは同じ事務所のアイドルの曲。

そして、溢れんばかりのコールと歓声。

 

 

…成る程!つまりまた夢の世界ですね!

 

 

不思議な感覚だけれど、一度経験しているからか飲み込みははやかった。

先輩アイドルの方々からアドバイスを受け、遂にその瞬間まで秒読み。

凛ちゃんと未央ちゃんの表情には、若干の緊張が見て取れる。

多分、私もそうだったかもしれない。

 

 

『大丈夫ですっ!私達三人で頑張って来たんですから!』

 

 

『ふふっ…卯月が言うんだから、信じるよ』

 

 

『しまむーに勢いで負けない様に、私も頑張らないと!』

 

 

夢の私が発した一言は、場を和ませる事に成功した様だ。

二人の表情に笑顔が戻る。

それと同時に、スタッフさんから声を掛けられた。

 

 

『生ハムメロン!』

 

 

『ちょ、チョコレイト』

 

 

『フライドチキン!』

 

 

また、笑顔になる。

大丈夫、絶対に上手くいく。

じゃんけんを終わらせ、その瞬間が来た。

 

 

ダンッ!

 

 

一気にステージまで押し上げられ、目の前にはたくさんのファンの方々。

振り回されるサイリウムは波の様に、一つの模様を描いている。

流れ出したのは、何度も何度も練習した美嘉ちゃんの曲。

練習通りに、それ以上に。

完璧に、踊ってみせる!

 

 

夢の中の私は、最後まで完璧だった。

多分、今までで一番上手く。

最後まで笑顔で、踊り続けて。

 

 

曲が終わると同時に、私の意識は引き戻された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、現実でもライブ直前。

 

 

「大丈夫ですっ!私達三人で頑張って来たんですから!」

 

 

「ふふっ…卯月が言うんだから、信じるよ」

 

 

「しまむーに勢いで負けない様に、私も頑張らないと!」

 

 

夢の通りに思いを伝えると、二人は笑顔になった。

励ましに成功し、その時を迎える。

 

 

「じゃあ、フライドチキン!の掛け声でいきましょう!」

 

 

「…フライドチキン?」

 

 

「しまむー、フライドチキン好きだったの?」

 

 

…あれ?あ、そうでした!

あれは夢だったんだから、私はここで生ハムメロンった言わなきゃ!

 

 

「え、ええと…とにかく、フライドチキンでいきますっ!」

 

 

「…ふふっ。じゃ、羽搏いて、飛び上ろうか」

 

 

「しぶりん蒼いなー。よし、いこっか!」

 

 

そして、ステージへと押し上げられる私達。

夢でもみたけれど、やっぱり凄い迫力のライブ。

たくさんの光に照らされたステージ。

センターには美嘉ちゃん、そしてその周りで精一杯踊る私達。

 

 

大丈夫、大丈夫。

夢の通りに、完璧に…

 

 

「あっ…」

 

 

余計な事を考えていたからか、前に出す足を逆にしてしまった。

一瞬身体がブレる。

けれどなんとか持ち堪え、直ぐにまた練習通りに戻れた。

 

 

あとは必死になって、けれど笑顔を忘れず、もちろん楽しむ事も忘れずに。

気付けば、曲は流れ終わっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あのライブの日から、私達はどんどん有名になって。

同じ事務所のアイドル達とも仲良くなり。

仕事で手帳のスケジュールは埋まり。

道でファンの方に声を掛けて貰える様にもなり。

まるで夢の様な日々が、あっという間に過ぎていった。

 

 

夢と言えば、あの予知夢は今も時折見る事がある。

 

 

例えば、オーディションの前日に。

例えば、合同ライブの前日に。

例えば、握手会の前日に。

 

 

夢の私は、全て上手くこなす。

それを私が真似すれば。

同じ行動、同じ言葉を発すれば。

夢と同じ様に、上手くいく。

 

 

もちろん不安だってあるけれど。

絶対に完璧に終わらせられる、と。

成功した自分を一度見ているからこそ、勇気をもって。

何処かで余裕を感じながら、ここまで進んで来れた。

 

 

だから、多分。

いや、絶対に。

私は夢に甘えていた。

 

 

夢の私が出来たなら、全く同じ経験を積んできた私にも出来る、と。

夢の私が成功したなら、全く同じ事をすれば私も成功する、と。

 

 

慌ただしい、平穏な日常。

忙しくて楽しい毎日。

 

 

そんな私の世界にヒビが入ったのは、ニュージェネレーションズ三人での、オンリーライブの日。

小さいけれど、私たちだけのライブ。

また、上手くいく私の夢を見た。

 

 

その日に起きた出来事だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

会場のボルテージは最高潮。

色取り取りのサイリウムが揺れる。

流れている曲は、私達ニュージェネレーションズのデビュー曲。

既に佳境に差し掛かり、あと二分と無い時だった。

 

 

あと少しで、完璧に終われる。

夢の通りなら、三人で涙を流して笑いあって。

皆んなが幸せになれる。

 

 

その、筈だった。

 

 

一瞬、別の事を考えていたからか。

安心しきり、油断していたからか。

 

 

最後のサビが始まっているのに、歌いだすのが一瞬遅れてしまった。

 

 

まずいっ!

 

 

ほんの一瞬の出遅れ。

歌い慣れている曲なのだから、落ち着けば直ぐに戻せる。

けれど、焦ってしまった私は。

失敗してしまった事に驚いた私は。

 

 

次の瞬間、ステップをミスして転倒してしまった。

 

 

直ぐに起き上がろうとして、足が縺れ。

更に焦りは増し、パニックに陥り掛ける。

 

 

どうしよう!どうしよう!!

 

 

それに直ぐ気付いた未央ちゃんが、笑いながら両手を伸ばしてくれて。

直ぐ起こしてくれたから、なんとか事無きを得る。

曲が終わり、今起きた出来事をトークで誤魔化してくれた二人。

けれど、私の心は滅茶苦茶になっていた。

 

 

ライブ自体は無事に終わった。

最後に色々あったけど、楽しかったから良し!なんて、未央ちゃんは笑ってくれて。

大丈夫?何処かでお茶しない?なんて凛ちゃんは誘ってくれて。

 

 

でも、私はそんな気分ではなく。

 

 

「すみません、ちょっと行かないといけない所があるので!」

 

 

精一杯の笑顔を貼り付けて誤魔化し、急いで家へと帰った。

 

 

 

 

 

 

 

 

おかしい、なんで?!

夢の通りにやれば絶対成功するはずだったのに…

一気に不安が押しかけてくる。

 

 

もしかして、私が甘えてたから?

 

 

自分だけのミスならどうとでもなる。

最悪、迷惑を被るのは自分だけなのだから。

けれど、私には凛ちゃんと未央ちゃんがいる。

その二人、そしてプロデューサーさんに迷惑を掛けるわけには…

 

 

大丈夫、明日からもっと頑張ればまた上手くいく。

成功出来る。

夢の私が出来たんだから、私だって…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

少しずつ、ヒビが大きくなり始めた。

現実と夢の幅が広くなってゆく。

生じた綻びは、元に戻る事なく解けてゆく。

 

 

夢の私は、ずっと上手くいき続け。

オーディションに受かり、ライブを成功させ、インタビューだって完璧だ。

けれど、現実の私は。

少しずつ、夢の通りにはいかなくなって。

 

 

夢の私が踊れたステップでよろけ。

夢の私がハキハキと喋れた自己PRで噛んで頭が真っ白になり。

夢の私が成功させた小さなステージでパニックになってしまい。

 

 

成功し続ける夢の私に追い付こうと頑張り続けても差は広がる。

同じ事をしているはずなのに、失敗続きで気が滅入る。

あんな夢みなければ、こんな事にはならなかったのに。

 

 

けれど、自分が見ている夢だからこそ。

自分でも到達出来ると分かっているからこそ。

より一層、不安と焦りは大きくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「しまむー!明後日のプロダクション合同ライブ、がんばろうね!」

 

 

「…はい、がんばります」

 

 

プロダクション総力を挙げて行うを明後日に控えたレッスン後。

 

 

未央ちゃんが励ましてくれているが、私の耳には入ってこない。

ダンスだってボーカルだって、こんなに練習している。

多分このまま本番を迎えても、実力的には問題ない。

 

 

そう、以前の私なら思えていた。

けれど、もし失敗したら…

夢の通りに、上手く出来なかったら…

 

 

不安が渦を巻き、正常な思考力を奪う。

 

 

失敗したらどうしよう…

他の人に迷惑が…

でも、今更やめる訳にも…

 

 

重い足取りで重い想いに思いを馳せ、気付けば私は家の前。

何故だか自宅の扉すら重く感じる。

食欲も湧かず、一人自室に鬱ぎ込む。

 

 

どうしよう、どうしよう、どうしよう!

夢なんて見たくない!

もし明日の夜、上手くいく私の夢をみちゃったら…

 

 

失敗した時の事ばかり考えてしまう。

上手くいく自分が想像できない。

全ての行動が、負に働いてしまう。

 

 

なんとしても成功させたい!

上手く、終わらせたい!

 

 

溢れんばかりの闇の波は。

やがて、私の心を飲み込んでしまう。

もう、失敗したくない。

出来るはずなのに出来ないなんて、もう…

 

 

そして、私はとある薬に手を伸ばした…

 

 

夢を見続ける為に。

成功させる為に。

失敗しない為に。

 

 

上手く、生き続ける為にーー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はいっ!終わりです!

 

 

どうでしたか?

自分の話ではありませんけど、なかなか怖く語れたと思うんです。

…不思議な、何とも言えない感じになった…、ですか。

よかったです!成功ですね!

 

 

では、私はそろそろ帰りますね。

明日は、プロダクション合同ライブですから!

島村卯月、頑張りますっ!

 

 

プロデューサーさんは…仕事中ですか。

頑張って下さい!

 

 

ではっ!

明日、絶対成功させましょう!

 

 

 

 

 

 



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過去神社

 

十月も下旬。

 

 

空気は乾き始め、吐く息が白くなる冷えた日。

太陽が傾き、影の伸び始める夕刻。

生い茂る木々に光が遮られ辺りは暗い。

パリパリと音を立てて枯葉を踏み、私は石段を登っていた。

 

 

数十段の、神社へと続く石段。

何度も何度も、嫌という程往復したこの場所。

見たくもなかった、来たくもなかったこんな場所。

絶対に忘れてはいけない、大切な場所。

そんな思い出の階段を、少し小走りに駆け上がる。

 

 

つい先日まではこの時刻になると何処からともなくツクツクボウシの鳴き声が聞こえてきたと言うのに、今は自分の足音と枯葉の割れる音しか聞こえない。

季節の移り変わりは早いと言うが、特にこの時期は顕著な気がする。

日に日に冷え込む空気が、冬は目前だと改めて認識させてくれた。

 

 

両手には暖かいペットボトル。

冷たくなっていた掌から、ほんのりと温もりが伝わってくる。

新しい手袋はまだ購入していない。

なんとなく、まだ買うつもりになれないから。

 

 

あの日も、今日みたいに十月にしては寒い日だった。

結局あの時、あの人はこの石段を往復した様だ。

今の私の様に。

色々と本末転倒な気はしたけれど、それでも彼の優しさに心が温まり。

両瞼を閉じ、少し上を向いてから再び石段を登り始める。

 

 

たん、たん、たん、たん

 

 

石段も終わりが見え始めた。

だからと言って何があるわけでも無いのだけれど。

それでも少し、あの人の姿を期待してしまう。

有り得ないと分かってるいても、そんな奇跡を期待してしまう。

 

 

「お疲れ様です、茄子殿ー」

 

 

当然ながら、現実はそう簡単には物理法則に反したりしない。

ベンチに座って私を待っていたのは芳乃ちゃん。

小さな足をプラプラとさせながら、両手に息を吹きかけ温めていた。

 

 

「お茶でよかったですよね?」

 

 

「ありがたいのでしてー。緑茶は大好きなのでー」

 

 

はい、と片方の手のペットボトルを渡す。

350mlのペットボトルを両手で握りしめ、芳乃ちゃんは手を温めていた。

小動物の様でとても可愛らしい。

これで16歳だなんて、最初は信じられなかった。

 

 

私もキャップを開け、喉を潤す。

ちなみに私は烏龍茶。

喉を通った温かい烏龍茶は、心まで落ち着けてくれる。

 

 

………

 

 

沈黙が場を支配する。

お互い、どう切り出そうか迷っている様で。

此方から言おうにも、どうにも口は開かなかった。

 

 

ふと、目が会う。

それだけで、何を言おうとしているか分かってしまう。

それから口を開ける事が出来たのは、ほぼ同時だった。

 

 

「…茄子殿ー、どうしても尋ねたい事があるのですがー」

 

 

「…分かってます。あの日、何があったのか…ですよね?」

 

 

私が此処へ来た理由。

彼女が私と共に来たのも、それが聞きたかったから。

まだまだ吹っ切れた訳じゃ無いけれど。

訪れる機会として、これ以上の理由も無い。

 

 

びゅう、と。

冷たい風が、私達の間を通り抜ける。

石畳に散らばっていた枯葉が舞い上がり、その数枚かは肩に乗った。

それでも、お互いに目を全く逸らさない。

 

 

「どうしても尋ねておきたいのでしてー」

 

 

思い出そうとすれば、ほんの数日前の事のように鮮やかに浮かび上がる。

今でも、まるで夢だったんじゃないかと思える様な出来事。

そんな長い長い一日は。

 

 

今から丁度、一年前の出来事だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「悪い、待たせたな」

 

 

あの日私は、帰る方面が一緒だったプロデューサーを、事務所からほんの少し離れた交差点で待っていた。

まだ十月だったとは言え、何もせずに立っているだけだと流石に冷える。

まだ厚着するには早いと油断していた私へ容赦無く襲う寒気を振り払ったのは、プロデューサーの声だった。

 

 

そんな何気無い一言。

それを聞くだけで、一瞬にして私の心の温度は上がった。

それこそ、寒かったのなんて忘れてしまうくらい。

 

 

「待つのも楽しみの一つですから。なんだか高校生みたいだなーって思ってたらあっという間でした」

 

 

周りに関係を気付かれ無い為に、少し学校から離れて待ち合わせをする。

まるで高校生のカップルみたい。

そんな事を思い描いていた。

残念ながら私の高校時代にそんな華やかな思い出はない。

更に残念な事ながら、現在私とプロデューサーが恋人関係にある訳でも無い。

 

 

だからこそ、事務所から駅までの二人きりの時間を最大限に楽しみたかった。

ほんの数十分も無い。

ただ歩きながら喋るだけの時間で、それでも私は幸せを感じていた。

 

 

「少し、冷えてきましたよね!」

 

 

そう言って、私は手を伸ばす。

少し困った顔をして、しかしプロデューサーは握り返してくれた。

そこから伝わる温もりは、多分他のものでは感じられない。

この温もりは、今は私だけのもの。

事務所では皆に平等なプロデューサーが、今だけは私に分けてくれるもの。

 

 

分かっている。

一緒に帰りましょうと誘った私を待たせない為に、多量の仕事をかなり無理をして終わらせている事を。

プロデューサーが私の事を、担当アイドルのうちの一人としてしか見てくれていない事を。

アイドルがプロデューサーと関係を持ってはいけない事を。

 

 

それでも諦めきれないから。

諦め切れる筈がないから。

迷惑かもしれないけれど、それでも。

私は今日もこうして、優し過ぎるプロデューサーに甘えていた。

 

 

冷たい風が頬を撫でる。

高揚しそうな気分を無理やり冷やし、正常な思考を取り戻す。

この冷たい世界からお別れする為に、はやく電車へ乗りたい。

けれど、乗って数駅したらプロデューサーとはお別れ。

それは、寒さよりも辛い事だった。

 

 

「少し、神社に寄って行きませんか?」

 

 

もう後十分もせずに駅へと到着してしまう。

そんな時に思い出したのは、近くの神社だった。

小さな丘の上にある神社。

もう少し駅まで遠回りしたくて、寄り道を提案。

 

 

当然断られる訳も無く、少し長い石段を登り始めた。

この時期になってくると、日が落ちるのも早い。

こんな時間に一人では絶対に通らない様な薄暗い石段。

けれども、プロデューサーと二人だから不安なんて無かった。

 

 

普段からダンスのレッスンを受けているおかげで、私の体力は人並み以上にはある。

けれど、スーツとパソコンが相棒のプロデューサーが現役アイドルと同じ様に動ける筈がない。

石段の半分あたりから、少し息が切れ始めていた。

 

 

「っはぁー。疲れた…体力全然無くなってるなぁ…」

 

 

年って怖い、改めてそう感じた。

まだ若いと言えば若いプロデューサーだけれど、それでも本人が思っている以上に身体は衰えている様だ。

プロデューサーも私達と一緒にダンスレッスンを受けてみればいいのに。

ついでにあのトレーナーさんの厳しさを体感して欲しい。

 

 

ふふっ、と。

更にバテバテなプロデューサーを想像して面白くなり。

石段の最後の一段を跳ねて登り、クルッと振り返る。

 

 

「元気だなぁ。その元気を分けて欲しいよ」

 

 

「幸運を添えてお分けしましょうか?」

 

 

口にしてから後悔した。

こんな質問、迷惑でしかないのだから。

気分が高揚してしまうと碌な事が無い。

一気に頭が冷めた。

 

 

「…遠慮しておくよ。俺だってまだまだ若いんだ」

 

 

体力の事だけではない筈だ。

その事くらいはお互いに分かっている。

はぁ…またプロデューサーを困らせちゃった…

さっきで懲りた筈だったのに…

 

 

気不味い雰囲気の中、顔を合わせず石畳を進む。

何か言おうとしても言葉が見つからない。

冷たい風の中、私達は静かなま賽銭箱の前に到着。

お財布から五円玉を取り出した。

 

 

パンッ、パンッ

 

 

乾いた音が神社に響く。

目を閉じ、願い事を思い浮かべる。

こういう時、その願いを口にしてはいけないらしい。

 

 

「みんなが健康に冬を越せますように」

 

 

「ふふっ…」

 

 

隣のプロデューサーは、早速口にしていた。

思わず笑ってしまう。

本当にこの人は、アイドルが一番大切なんだなぁ、と。

 

 

それにしても、若干願いが年寄り臭い。

確かに健康は大切な事ではあるけれど。

アイドルは身体が資本とは言え、他に何かなかったのかしら。

 

 

「プロデューサーらしいですね」

 

 

「健康が一番大切だからな。さて、少しベンチで休んだら行くか」

 

 

更に笑ってしまいそうになる。

ほんとに体力が衰えている様だ。

やっぱり一緒にダンスレッスンを受けるべきな気がしてくる。

もう少し体力をつけないと、プロデューサーが体調を崩してしまいそう。

 

 

三人掛けのベンチに二人で悠々と座る。

木でできたベンチの表面はとても冷たくなっており、スカート越しに身体を冷やしてきた。

くっついてあったまろう。

そう考え、距離を詰めようとした。

しかし、間に置かれたプロデューサーの鞄に阻まれる。

 

 

じーっと、不満気な視線をおくる。

何となく居心地悪く感じたのか、プロデューサーはわざとらしく目を逸らした。

…流石にわざとらし過ぎる。

演技のレッスンも必要な様だ。

 

 

「…ん、俺のカイロ全然あったまってないや」

 

 

そう言って、ポケットから先程貰ったカイロを取り出す。

無理矢理な話題転換。

まぁこれ以上続けても良い方向には進まなかったであろうからありがたいけれど。

 

 

プロデューサーから、そのカイロを受け取る。

…あ、ほんとにあったかくない。

不良品だった様だ。

タダで貰ったものだから仕方がないとは言え、やっぱり少し悔しい。

 

 

「仕方ない、あったかい飲み物でも買ってくるよ。何がいい?」

 

 

「お茶でー」

 

 

言うが早いが、プロデューサーは財布をポケットに入れて走って行った。

疲れたから休もうとしていた筈なのに走って行った。

しかも神社内に自動販売機は無い。

恐らく先程の石段を走って行ったのだろう。

 

 

…ふふっ

 

 

少し抜けているところ。

それでも気を遣おうとしているところ。

若干体力不足なところ。

変に気の回るところ。

その全てが、私は好きだった。

 

 

さっきだって、カイロがあったまっていない事なんて直ぐに気付いたであろうに。

それでも私に気を遣わせない為に黙っていた。

ほんと、優しい人。

だからこそ…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おーい、茄子。ただいまー」

 

 

温かくないカイロを弄っていると、息を切らしたプロデューサーが戻って来た。

思ったよりも早い帰り。

実は神社内に自動販売機が設置されていたのかもしれない。

 

 

「ほい、お茶」

 

 

「ありがとうございます」

 

 

そう言って、温かい烏龍茶を受け取った。

流石はプロデューサー、私の好みをしっかりと理解している。

キャップを開けて傾け、身体を温める。

寒い日に外で飲むお茶はやっぱり美味しい。

 

 

「自動販売機、近くにあったんですか?」

 

 

「ん、あぁ。神社の裏にあったよ」

 

 

プロデューサーはブラックコーヒーを飲んでいた。

残念ながら、私はブラックは飲めない。

ここで交換して間接キスを狙うのが恋の定石と聞くけれど、実行は出来なかった。

もしかしたらプロデューサーもそれに気付いて…るはずは、流石に無いか。

 

 

どんどんと影はのびる。

気が付けば、夕方と言うよりも夜と言える時間になっていた。

風は更に冷たくなり、座っていた私の身体を冷やす。

 

 

…今日は、もう終わり

 

 

「さて、プロデューサーさん。そろそろ帰りましょうか」

 

 

「そうだな、結構いい時間になってるし」

 

 

今から終電が終わる時間までこんな寒い場所で時間を潰す気力は無い。

そもそも明日は仕事がある。

迂闊に食事には誘えない職業でもある。

今日は、素直に帰るしか無さそうだった。

 

 

かつん、かつん

 

 

石段を一段ずつ降り、駅への道へ着く。

街灯は既に灯りを放っている。

二人きりでいられる残り僅かな時間を、フワフワとした気持ちで歩いていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

電車は早い。

文明の利器であるこの移動手段は、一瞬にして目的地まで届けてくれる。

それが、今日はマイナスに働く。

電車に乗ってすぐ、プロデューサーの降りる駅は来てしまった。

 

 

「じゃ、また明日」

 

 

「はい、また明日」

 

 

小さく手を振り、プロデューサーの後ろ姿を見送る。

また、明日。

そう、明日になればまた会える。

そう考えると、少しは残念な気持ちが和らいだ。

 

 

右手を見つめ、グーパーグーパーと開く。

結局、私のワガママでずっと手を繋いだままだった。

多分パパラッチ等に見つかってはいない。

私はそこまで運が悪くは無いのだから。

 

 

私の降りる駅も直ぐに着いた。

寒い外気にふれて一瞬身体が震える。

少し小走りに改札を出て、自宅へ向かう。

 

 

手袋とマフラー、楽しみだな、と。

ニコニコしながら走っていた私は、もしかしたら少し怪しい人だったかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おはようございます、ちひろさん」

 

 

翌日事務所の扉を開けて入ると、プロデューサーの姿は見つからなかった。

もしかしたらもう既に営業に出ていったのかもしれない。

ちひろさんは電話をしていた為に、少し小さな声での挨拶を。

他にアイドルの姿もなかった。

 

 

今日の仕事をホワイトボードで確認し直し、しばらく時間がある事を確かめる。

上着を脱いで、ソファに着地。

暖房の効いた事務所で、冷え切った手に息を吹きかけて復活させていた。

 

 

ふと視線を上げれば、既に電話を終えたちひろさんが此方を見ていた。

なんだか気不味い様な、言い難い事があるような表情。

けれどそれ以上は読み取れず、私も視線を返すだけ。

お互い、しばらく口は開かなかった。

 

 

「…茄子ちゃん…」

 

 

「…はい?何でしょうか」

 

 

既に、良い知らせがくるとは思っていない。

一体何があったのか。

全くもって、読めない。

 

 

「落ち着いて、聞いて下さい…」

 

 

ここまで前置きをするとは、相当に大変な事があったのだろう。

一応何と言われても大丈夫なように、心の準備をする。

 

 

「昨日の夜…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「昨日の夜、プロデューサーが交通事故で亡くなりました…」

 

 

拵えた覚悟は、全て無駄になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一瞬、思考が止まる。

今、ちひろさんは何って言った?

交通事故?誰が?プロデューサーが?

 

 

「…え?」

 

 

間の抜けた声が、私の口から漏れた。

え、亡くなった?既に?

焦りが脳を支配し、正常な思考を妨げる。

 

 

ありえない、プロデューサーがいなくなるなんて。

だって、今まで私の周りに不幸が訪れる事なんてなかったのだから。

そもそも、プロデューサーが電車から降りるまでずっと私と一緒にいたのだ。

駅から彼の家までの短い距離で、そんな運の悪い事に出会う筈が無い。

 

 

「…ドッキリ、ですよね?」

 

 

私はアイドル。

ならば、これが一番考えられる可能性だった。

希望とも言えるが、無い話では無い。

何処かにカメラが仕掛けてあって、プロデューサーは別の部屋で待機しているんじゃないだろうか。

 

 

そうだ、ドッキリに決まっている。

タチが悪いとは思うけれど、確かに私に対して一番衝撃を与えられる。

まったく、プロデューサーもちひろさんも酷い人なんだから…

 

 

「…茄子ちゃん…」

 

 

「…分かってます…」

 

 

…分かっている。

ちひろさんがそんな冗談を言う筈が無い事を。

理解している。

ほんとうに、プロデューサーは…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこからの事は、しっかりとは覚えていない。

こんなコンディションで仕事が出来る筈も無く、仕事先に事情を説明して休ませて貰ったらしい。

ちひろさんも辛い思いをしていた筈なのに、私だけ休ませて貰って申し訳ない。

けれど、その時はそんな事すら考える余裕が無かった。

 

 

フラフラとした足取りで、私は自宅へと向かっていた。

これが夢だったらいいのに。

もうすぐ覚める悪夢だったら良かったのに。

けれど、冷たい風がこれは現実だと私を叩きつけた。

 

 

ふと、昨日の石段が目に入った。

駅の少し手前の、神社の石段。

こんなところに誘わなければ、プロデューサーは事故に遭わなかったかもしれないのに。

意味の無い後悔が私を責める。

 

 

かつん、かつん

 

 

なんとなく、また私は神社へと登っていった。

昨日は二人で登った石段を、今日は一人で。

もう二度と、二人で登る事は叶わない。

そんな、寂しい石段を。

 

 

体力不足でもない私は、息が切れることも無く直ぐ頂上にたどり着いた。

昨日とほぼ同じ光景。

違いと言えば、時間がまだ早い為に明るいことくらい。

そして、私の隣には誰もいない事くらい。

 

 

休憩なんて挟まなければ。

変な事を言って困らせなければ。

寄り道なんてしなければ。

一本前の電車に乗れていれば。

次々と湧き上がる後悔に、心が苦しくなる。

 

 

昨日のベンチに腰掛け、目をつむった。

今なら誰も居ない。

どれだけ泣いても、きっと誰にも見られない。

 

 

なら…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気が付けば、陽はだいぶ傾いている。

昼頃には暖かくなっていた空気が、また再び冷え始めていた。

カァカァと、カラスの鳴き声が聞こえてきた。

 

 

そろそろ帰らないと。

けれど、立ち上がる気力も無い。

泣き疲れて、身体が重い。

もう、なんだか全てが嫌だった。

重い心が、身体とベンチを縫い付けている。

 

 

それにしても、寒い。

昨日よりも厚着してきた筈なのに。

それなのに昨日と同じ寒さなのは納得がいかない。

 

 

はぁ…と一息。

ふと、ベンチを見下ろす。

なんとなく、本当になんとなくだった。

視界の中に、有り得ないを見つけてしまった。

 

 

 

私の座っている隣に、先程までは無かったカイロ。

 

 

 

?…?

風で飛んで来たとは考え難い。

けれど、確かに先程は何も無かった。

あったとしたら気が付いている。

じゃあ、なんで?

 

 

手に取って確かめてみる。

疲れた私の幻視かと思ったけれど、そう言う訳でも無い様だ。

温かくないこのカイロは、一体どこから…

 

 

「おーい、茄子ー。ただいまー」

 

 

おかしい、幻聴が聞こえる。

どうやら私は本当に参っているらしい。

冷たい空気のせいで風邪でもひいたのかもしれない。

 

 

だって、聞こえる筈が無いのだ。

プロデューサーは事故に遭った。

声が聞こえる筈がない。

ここにいて良い筈がない。

 

 

勇気を振り絞り、声の方へと顔を向ける。

ほんの少し、視線を上げる。

同時に、写ってきた。

 

 

「ん?どうした?ほい、お茶」

 

 

私が最も会いたい人物。

此処に今、いる筈の無い人物。

プロデューサーが、此方へとお茶のペットボトルを向けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…プロ…デューサー?」

 

 

「なんだ?烏龍茶で良かったよな?」

 

 

状況を理解出来ないままペットボトルを受け取る。

容器から、確かな温かさが伝わってきた。

どうやら、幻では無い様だ。

だとしたら、一体何が起きているの?

 

 

ふと自分を見れば、何故か昨日と全く同じ格好をしていた。

だから、さっきもあんなに寒かったのだ。

これは、つまり。

 

 

昨日に戻っている、そう考えるのが自然だろう。

 

 

いや、そもそも時間が戻っている時点で自然でもなんでも無いのだけれど。

けれど、有り得ないとは言い切れない。

私自身少し現実離れした現象を経験した事が何度かあるのだから。

 

 

だとしたら…

 

 

「…ふふっ、神様がチャンスをくれたみたいですね」

 

 

思わず笑みが溢れてしまう。

だって、これならプロデューサーを助ける事が出来るのだから。

やっぱり私は幸運な様だ。

神社にお参りした御利益かもしれない。

 

 

なら、簡単な話だ。

昨日と違う電車に乗る、ただそれだけで事故は回避出来る。

なんなら私がプロデューサーを家まで送り届けてもいい。

事故に遭うと分かっているなら、対処は幾らでもできるのだ。

 

 

「何かあったのか?」

 

 

「はいっ!素敵なキセキがありましたっ」

 

 

嬉しくて、つい気分が高揚してしまう。

私の手でプロデューサーを守る事が出来る。

これからもまた、プロデューサーと一緒に歩く事が出来る様になる。

こんなに嬉しい事は無かった。

 

 

「さて、帰りましょうか」

 

 

「お、おう」

 

 

まだ飲み切っていないペットボトルに蓋をして、プロデューサーの手を取る。

この時間に出れば、一本前の電車に乗る事が出来る。

ただそれだけで。

未来は、変わる。

 

 

一人で登ってきた石段を、二人で降りる。

そんな事で、心は踊った。

寒さも忘れて、鼻歌交じりに道を歩く。

隣ではプロデューサーが少し困惑した表情。

プロデューサーからすれば突然テンションが急変した私を見て驚いているのだろう。

 

 

あっという間に駅へと到着。

時刻表を見れば、昨日よりも二本前の電車に乗れそうだった。

よし…これで大丈夫。

これで、プロデューサーは助かる筈。

電車に乗り込み浮かれている内に、プロデューサーの降りる駅へと到着していた。

 

 

「じゃ、また明日」

 

 

「はい!また明日!」

 

 

少し大きな声が出てしまった。

周りの人が一瞬此方を見るが、直ぐ手元の液晶へと視線を戻す。

昨日と同じく、ぱたぱたと手を振る。

 

 

奇跡が起きてくれてよかった。

改めて、神様に感謝しないと。

もしかして、私とプロデューサーが結ばれるのは運命なのかもしれない、なんて。

ふふふっ、と。

自然と、笑みが零れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おはようございますっ!」

 

 

翌日、私は高揚した気分で事務所の扉を開けた。

きっと、扉の向こうにはプロデューサーがいて。

ちひろさんが笑って出迎えてくれて。

今まで通りに、日常を送れるようになっている。

そう思い、少し勢いよく扉を開けた。

 

 

けれど。

見回してもプロデューサーの姿は無く。

事務所内にいたのは、暗い表情で受話器を耳に当てているちひろさんだけだった。

 

 

嫌な予感がする。

体感温度が一気に下がる。

もしかして、プロデューサーは…

ちひろさんが悲しそうな表情を此方へ向けたとき、その予感は確信に変わった。

 

 

「茄子ちゃん…落ち着いて聞いて下さい…」

 

 

もう、言われなくても分かってしまう。

そして、その先の言葉が分かっていてもやはり辛い。

ダメだったのか…助けられなかったのか…

 

 

「プロデューサーさんが…階段から転落して亡くなったそうです…」

 

 

「…そう、ですか…すみません、今日は失礼させて貰います…」

 

 

休みを貰い、事務所を出る。

心も足も重いが、行かなければならない場所があった。

昨日と同じ、石段の上の神社。

 

 

また奇跡が起きると祈り、私は足を速めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ベンチに座っていると、ふと周りが寒くなった様に感じた。

視線を隣に移すと、また先程まではなかったカイロを見つける。

どうやら、また今日も奇跡が起きてくれた。

まだ私は、神様に見放されてはいないみたい。

 

 

「おーい、茄子ー。ただいまー」

 

 

予想通り、プロデューサーが現れる。

息を切らしたプロデューサーの姿は、紛れも無く現実。

自分を見れば、またもやあの日と同じ服。

 

 

「ん、どうした?ほい、お茶」

 

 

「プロデューサーさん、今日はもう帰りましょうか」

 

 

プロデューサーを一人で帰してしまっては、また同じ事の繰り返しになってしまうかもしれない。

それなら、違う状況を用意すればいい。

そう、例えば。

本来なら一人だった筈なのに、他の誰かと帰っている、とか。

 

 

「おいおい、少し休ませてくれよ。その為にお茶を買って来たわけだ…し…」

 

 

渋ろうとするプロデューサーだが、私の表情を見て言葉を止めた。

多分、とっても怖い顔をしていたと思う。

けれど、そんな事を考えている余裕は無い。

それよりも、プロデューサーを助ける事が最優先だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プロデューサーの手を取り、駅へと向かう。

前回よりも更に一本前の電車に乗り込み、プロデューサーの降りる駅で私も一緒に降りた。

プロデューサーが何か言っているけれど、私の耳には届かない。

 

 

「プロデューサーさんの家ってどっち方向ですか?」

 

 

「其処を右に…って、家まで来る気か?!」

 

 

当然だ。

プロデューサーが安全に家に着くのを見届けてからでないと、何が起きるか分かったものではない。

いや、起きる事は分かっている。

それを回避する為に私が付いて来ているのだから。

 

 

挙動不審な程に左右を確認してから道を渡り。

出来る限り倒れて来そうなものから離れて歩き。

本来登っていたらしい階段を、遠回りして坂道で登り。

車が近くを通る度にビクビクしていた。

 

 

「お、おい茄子…大丈夫か?」

 

 

「はい、大丈夫ですから…あと少しですよね?」

 

 

プロデューサーからすれば、ただ家に帰るだけ。

それなのに疲弊している私が不自然に映っていた筈。

精神を擦り減らしながら歩く。

肌寒い筈の秋の夜に、汗をかきながら。

 

 

「着いたぞ、そこのアパートだ」

 

 

「…はぁ…良かった…」

 

 

時間にしたらほんの十分くらいの長い長い時間を越えて、漸く私達はプロデューサーの家へと辿り着いた。

…これで、プロデューサーは助かる。

なんとか何も起きずに、家まで辿り着けたのだ。

後は、プロデューサーが部屋へ入るのを確認したら帰ろう。

 

 

プロデューサーが鍵をさす。

後は扉を開けて中に入るだけ。

もう不幸の入り込む余地なんて無い。

これで…絶対に…

 

 

「…あれ?鍵開いてる…」

 

 

ふと、プロデューサーが呟いた。

確かに、鍵をまわした筈なのにその様な音は聞こえてこなかった。

 

 

「プロデューサー!」

 

 

嫌な予感がして叫ぶ。

今度こそ、プロデューサーの死を回避するのだ。

そう思い張り上げた声がプロデューサーに届く前に、不幸は訪れた。

 

 

バンッ!!

 

 

プロデューサーの部屋の扉が勢い良く開き、内側から包丁を持った男が現れた。

一瞬遅れてプロデューサーも反応するが、もう遅過ぎる。

そんな事が起きるなんて、想像もしていなかっただろうから。

 

 

男の持っていた包丁がプロデューサーの腹部へと刺さり。

勢い良く走って行った体に弾かれ。

近くの鉄骨に頭を打ち付け、倒れていった。

 

 

また、助けられなかった…!

兎に角、警察と救急車を…

 

 

携帯を取り出し、そこで気付いた。

もし事情聴取などで長時間拘束されてしまった場合、明日の夕方までにまたあの神社に戻れるのか?

取り調べ自体は直ぐに終わったとしても、アイドルである私がプロデューサーの家へ向かっていた事がバレたらそれこそ大変だ。

私はなんとしても、プロデューサーを助けなければならないのだから。

 

 

今なら、もしかしたら救急車を呼べば助かったかもしれない。

けれどもし既に手遅れだった場合、もうどうしようもなくなってしまうかもしれない。

それなら、次こそ…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おーい、茄子ー。ただいまー」

 

 

「…お帰りなさい、プロデューサー」

 

 

翌日、またあの神社でプロデューサーと出逢う。

結局私は、空き巣に刺されたプロデューサーを助ける事はしなかった。

より確実に救う為。

そう自分に言い聞かせ、プロデューサーに心の中で言い訳をして自宅へと逃げ帰った。

 

 

思い返すと哀しくなって涙が出たが、今はそんな場合ではない。

今回こそは、必ずプロデューサーを助けないと…

その為に、今までとは少し違う手段を取ってみる。

 

 

「プロデューサー、一つお願いがあるんですっ!」

 

 

無理やり明るい笑顔を作り、内心を悟られない様にする。

少しずつ疲れてきているけれど、諦める訳にもいかない。

ここで私が諦めたら、プロデューサーは絶対に助からないのだから。

 

 

「今日、事務所に泊まっていってくれませんか?」

 

 

「ん?構わないっちゃ構わないけど…何かあるのか?」

 

 

「はいっ!プロデューサーの家の方面から嫌な空気が…」

 

 

物凄く適当な事を言う。

普通の人だったら十人中十人は信じてくれないだろう。

けれど、優しくて少し抜けたところのあるプロデューサーなら…

 

 

「…まぁ、茄子が言うならそうなんだろうな。確か仮眠室もあるし、そうさせてもらうよ」

 

 

詳細は聞かずに信じてくれる。

その優しさが、少し胸にささった。

かと言って、今日貴方は死にますなんて言える筈も無いのだけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

事務所へと二人で戻る。

寒さも忘れて、夕方の道を行く。

一旦事務所に入ってしまえば、交通事故や不審者と遭遇する心配は無い。

これで、大丈夫な筈。

 

 

「じゃあ、私は帰りますね」

 

 

「おう、また明日な」

 

 

また明日。

その言葉が、私の心を深く抉る。

明日また会う。

今まで当たり前だった、ただそれだけの事が叶わないのだ。

 

 

平常運転の私だったら、一緒に泊まっていってあげますよ?くらいは言っていたと思う。

けれど、もしプロデューサーがまた死に襲われて。

その近くにいた私にまで、被害が及んでしまったら。

今度こそ本当に、何もできなくなってしまう。

 

 

そんな事を冷静に考えられてしまう自分が嫌になる。

私はこんなにも薄情な女だったのか。

いや、これはプロデューサーを助ける為。

仕方の無い事なの…

そう言い聞かせ、事務所を出た。

 

 

今度こそ、今度こそ…

けれど。

心の何処かで。

 

 

どうせ今回も、と。

 

 

そんな事を考えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日私は、事務所に入れなかった。

向かいはしたのだ。

けれど、事務所に入ることは叶わなかった。

 

 

理由は単純。

大量の消防車と人に囲まれて。

事務所は、立ち入り禁止となっていたから。

 

 

周りの話を聞けば、昨晩火事が起きたらしい。

かなり激しい火事だったらしく、出火したフロアよりも上の階は外から見ても真っ黒になっていた。

なんとなく結果が分かってしまう。

それでも一応、プロデューサーの携帯に電話を掛けてみる。

 

 

無機質な電子音が一瞬。

それに続く声は、現在電話に出られませんと言う留守番サービスの音声だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから何度繰り返したか、もうハッキリとは覚えていない。

何もしなければ交通事故に遭い。

何か手を打てばその先でまた別の死に見舞われる。

私が何かすればする程、結果はより悪くなった。

 

 

火事が起きて事務所が焼け。

遠回りして帰れば、偶然出会った他のアイドル諸共落ちてきた鉄骨の下敷きになり。

事務所でちひろさんと徹夜すれば、ガス漏れのせいで二人とも倒れ。

私以上に不思議な力を持った芳乃ちゃんと一緒に帰って貰っても、倒木に押し潰された。

 

 

何をやっても救えない。

けれど、あの神社へ行けばまたやり直す事ができる。

もしかしたら、次こそは。

その希望を捨てられず、私は何度も足を運んだ。

 

 

けれど。

もう、分かっていた。

絶対にプロデューサーを救う事は出来ない。

運命の様に、プロデューサーの死は決まっている事なんだ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もし今日…私が死ぬって分かったらどうしますか?」

 

 

繰り返す大切な人の死に心を擦り減らして疲れていた私の口から、ポロっとそんな言葉が漏れた。

もう何度目かも分からない夕方の神社。

機能を果たしていないカイロを握り、息を切らしたプロデューサーへの問い掛け。

それは多分、全く意味の伝わらないものだった。

 

 

「一体何の話だ?」

 

 

当然の疑問を投げるプロデューサーの表情が、途端に変わった。

おそらく、私が今にも泣きそうな顔をしていたから。

疲れ果て、絶望した様な表情をしていたから。

 

 

「答えて下さい…プロデューサーだったら、どうしますか?」

 

 

「どうする、って…そりゃ分かってるんなら助けるよ」

 

 

即答するプロデューサー。

はっきりと、そう答えてくれた。

でも、何も知らなければ私も同じ様に答えていたんだろうな、と。

素直に喜ぶ余裕は、今の私の心にはなかった。

 

 

そして、助けられる様なら苦労はしない。

分かってるからって、助けられる訳じゃない。

分かってるからこそ、助けられなかった時が辛い。

分かってしまっているからこそ…

 

 

「一体…一体、どうすればいいんですか!諦めるなんて…諦められる筈なんて無いのに!」

 

 

「助けられ無い…か。茄子の強運があってもか?」

 

 

強運…そう言えば、プロデューサーにはよく自慢していた。

私は運がいいんですよ、とか。

幸運をお裾分けしましょうか?とか。

今思えば、なんと馬鹿らしい事か。

 

 

大切な人一人助けられないのに。

奇跡は信じる癖に運命は信じたくないなんて。

大切な時に全く役に立たない。

そしていざとなったら、自分だけ逃げ出しているなんて。

 

 

「助けられない、か…。それでも、俺は助けようとするだろうな」

 

 

「何をやっても助けられないんですよ…?助け様とする度、どんどん結果は酷くなってくんです…なのに!」

 

 

自分で言っておきながら、支離滅裂なのは分かっていた。

プロデューサーだってどう答えればいいのか困っただろう。

尋ねておきながら、本人が否定しようとしているのだから。

 

 

自分自身、プロデューサーになんと言って貰えば満足なのか分からない。

諦めて欲しくない。

けれど、諦めなかったところで意味がないのだ。

結果は既に、決まってしまっているのだから。

 

 

「茄子は、俺の大切な…大切なアイドルだ。絶対に助けてみせる」

 

 

「大切なアイドル…ですか。プロデューサーにとって…私は…」

 

 

大切な、アイドル。

この人はこんな時でもアイドルが第一なのか。

それに、私も沢山いるアイドルのうちの一人なだけ。

プロデューサーにとって、私と言う存在よりも…

 

 

「…みんなで頑張ってきたからここまでこれた。一人でも欠けたら駄目なんだ。全員が俺の宝物だから」

 

 

「もしそれで…自分が犠牲になるとしてもですか?」

 

 

「それでもだ。大切なモノを守る為なら、なんだってするさ」

 

 

くやしくて、意地悪な質問をしてしまう。

けれど、それでもプロデューサーはアイドルを取った。

 

 

あぁ、この人は本当にアイドルが大切なんだなぁ…

即答出来てしまうくらいには、大切な存在なんだ。

出来ればそこは、アイドルと鷹富士茄子ではなく。

一人の女性としてみて欲しかったけれど。

 

 

そんなところに、私は惹かれていたのかもしれない。

 

 

そして、プロデューサーにとって大切なモノを、傷付ける訳にはいかない。

プロデューサーにとっての宝物だけは、守りたい。

だから…

 

 

はぁ…と一息。

覚悟はもう、決まっていた。

 

 

「…ふふっ。プロデューサー、やっぱり私…」

 

 

「すまん、少しクサくなっちゃったな。ほら、冷たくなる前に飲んだら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やっぱり私、プロデューサーの事が好きみたいです。ふふっ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「か、茄子?!」

 

 

とうとう、打ち明けてしまった。

絶対に叶う事の無い、私の心を。

叶ったとしても一日で消える、私の夢を。

 

 

突然の事過ぎて、プロデューサーは驚いていた。

なんとなく気付いてくれていた筈ではあるけど、まさか直接言われるとは思ってなかったのだろう。

アイドルとプロデューサーと言う立場を、お互い理解しているのだから。

こんな私でも、常に一線は越えないようにとこらえてきていたのだから。

 

 

それでも…

 

 

「返事はいりません。ただどうしても、コレだけは伝えたかったんです」

 

 

プロデューサーは、私の事を大勢のアイドルのうちの一人としてしか見てくれてなかったかもしれない。

いきなりこんな事を言われて、迷惑かもしれない。

それでも、どうしても。

最期に、伝えておきたかった。

 

 

寒いからと言って手を握るのも、とても勇気が必要だった。

一緒に買い物に行ってくれると約束してくれた時、とても嬉しかった。

自分を安売りするなと言われたけれど、内心かなり本気だった。

時々素気無くされて悔しかったけれど…

 

 

私はやっぱり…

 

 

「ずっと、貴方の事が好きでした。それだけは…忘れないで下さい」

 

 

「茄子…俺は…」

 

 

戸惑うプロデューサー。

それもそうだろう、担当アイドルからの愛の告白なんて。

イエスという訳にもいかない。

けれど、軽々と断っては今後の関係に響いてしまうかもしれないのだから。

 

 

「…迷惑ですよね、いきなりこんな事を言われても。でも、伝えたかったんです」

 

 

涙が溢れそうになった。

けれどこれ以上プロデューサーを困らせたくなくて、少し上を向いて堪える。

最期は笑顔でお別れしたくて。

多分今にも泣きそうな笑顔だっただろうけど、プロデューサーへと向けた。

 

 

「私はもう帰りますね。また明日、プロデューサー…さよなら」

 

 

もう、我慢の限界だった。

視界を歪めながら、石段を駆け下りる。

そして少し離れた場所に座り込み。

 

 

私は、泣き続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「結局プロデューサーは元通り、交通事故に遭ってしまいました。これが、あの日あった出来事です」

 

 

日は既に落ち、風はさらに冷たくなった神社。

隣に座る芳乃ちゃんは静かに聞き続けてくれていた。

一年経っても、あの日の悲しみは衰えはしない。

現に今も、涙が溢れそうだった。

 

 

言い訳はしない。

結局私はプロデューサーを見捨てたのだ。

プロデューサーの大切なモノを守る為に。

そう自分に言い聞かせ、自分を誤魔化してきた。

 

 

勇気が足りずにプロデューサーの想いを聞くことも出来なかった。

断られるのが怖かった。

受け入れられても、辿る結末を知ってしまっていたせいで怖かった。

それなのに、伝えないと言う選択肢を取れなかった自分が虚しかった。

 

 

「…茄子殿はお強いのですねー。わたくしでしたら心が折れてしまうのでしてー」

 

 

「ふふっ…ありがとうございます。でも、結局結果は変えられなかったんですよ」

 

 

少し、自暴自棄に笑う。

なかった事になっているとはいえ、沢山の人を巻き込んでしまったのだ。

芳乃ちゃんも、一度は倒木の下敷きとなってしまった。

それを話した筈なのに、芳乃ちゃんは私を励まそうとしてくれる。

 

 

それにしても、こんなありえない話を信じてくれるとは。

正直、少し驚いてしまった。

私だったら信じられなかったかもしれない。

 

 

「それとー、プロデューサー殿は嬉しかったのではー。茄子殿に惚れていた様だったのでー」

 

 

「…え?いやいやいや、それは無いですよ。あんな、アイドル大好き人間が」

 

 

無意識に、少し言い方が悪くなってしまう。

彼は、私の事を大切なアイドルと言ったのだ。

彼にとって私は、言い方は悪いけれど沢山いるアイドルのうちの一人に過ぎない。

もちろんそれが悪い事では無いのだけれど。

 

 

それに、彼の大切なモノがアイドルだからこそ、私は諦めたのだ。

私だったのだとしたら…

 

 

「止めましょうか。考えても良い結果にはならなそうです」

 

 

また、余計後悔してしまう。

芳乃ちゃんの言う事だから、もしかしたら本当なのかもしれない。

けれど今それを知ってしまっても、更に悲しくなるだけ。

あの時諦めなければ、と余計に悔しくなるだけ。

 

 

「茄子殿にとって大切なー、守りたいモノとはー?」

 

 

「彼の宝物だったアイドル達です。さて、冷えてきましたしそろそろ私は帰りましょうか」

 

 

即答し、すっとベンチから立ち上がる。

手袋もマフラーも無しにこんな所にいては、風邪をひいてしまう。

吐き出したら少し楽になれた。

来た時よりは、足取りが軽くなりそう。

 

 

「…最後にもうひとつー」

 

 

「なんですか?」

 

 

ふと、何かを感じた。

そう言えば、なんで芳乃ちゃんはペットボトルを見せる前から緑茶を選択できたのか。

幾ら何でも、突拍子も無い話を信じ過ぎではないか。

何故芳乃ちゃんは今、何かを決意した様な表情をしているのか。

 

 

「プロデューサー殿はー、茄子殿への想いを打ち明けるつもりのメールを送ろうとしていたのでしてー」

 

 

「芳乃ちゃん、もうその話題は…」

 

 

「どうしてもー、伝えておきたかったのでー」

 

 

…ようやく、気付けた。

今の芳乃ちゃんを、何処かで見た事がある様な気がしていた。

けれど実際には、見た事なんてなかった。

それもそうだ。

 

 

あの時の私と、一緒なのだから。

 

 

「…ふふっ、ありがとう。じゃ、さよなら」

 

 

不思議と、悲しさは無かった。

石段を下る足は軽い。

寒さも、何処かへとんでいった。

 

 

それよりも。

 

 

プロデューサーの想いを、早く聞きたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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朝食前の甘い一欠片を

 

いぇーい、ポンジュ〜ス?

そろそろ休憩するブプレ〜?

 

 

フレちゃん的にはそろそろプロデューサーとお話ししたいかなーって。

さっきからずっとパソコンに向かって、ずっとカタカタしてるんだもん。

フレちゃんはパソコンじゃないよ?二次元の住人じゃないよ?

カタカタって、カタが過多だよねー。

 

 

ところで最近とっても寒いよねー、サムディ寒いねー。

そろそろマフラー欲しくなってきたりしない?

よし、じゃーフレちゃんがコーディネートしてあげよう。

手編み?無理無理出来なくないけどなくなくないから。

 

 

コーヒー淹れてあげよっか?

フレちゃんの気まぐれミルクオレ、通称ホットミルク。

レンジでチンして瞬間沸騰!沸騰とホットって似てるから一緒だよねー。

ふっと思いついたー、なんてね。

 

 

あ、今のは減点?0点?つまり原点?

プロデューサーもなかなかだねー。

完全に手が止まってるけど、ちゃんと今日中に終わる?

終わらなかったらフレちゃんと一緒に日の出見よーね!

 

 

…え?もちろん!

何の為にアタシが待ってると思ってるのさー。

踊ってないよ?

 

 

だからはやくはやくー。

フレちゃんママにまた怒られちゃうよ?

多分怒らないけどねーんふんふー。

頑張れってメール来てるし。

 

 

それは兎も角、一回休憩しない?

フレちゃんとお話しよ?

せっかく久しぶりに二人なんだしねー。

文香ちゃんも杏ちゃんも肇ちゃんも、もうとっくに帰ったよ。

 

 

…よし、愛情たっぷりホットミルク。

その都度味が変わるから美味しさの保証はできないけどね。

ほっと一息つこ、ね。

あ、寒い?ホットミルクで良かったじゃん。

 

 

ほらほら、隣どーぞ?

…ナチュラルに反対に座ったね、フレちゃん泣いちゃうよ?

え?この方が顔が見える?

あープロデューサー攻めるねー。

 

 

よし、じゃあフレちゃんがとっておきの話をしてあげよー。

ハンカチの準備はいーかな?タオルでもいーよ?

さーて、時間はいっぱいあるね。

 

 

それでは、始まり始まり〜!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ハーイ!宮本フレデリカだよー。ママがフランス人でパパが日本人なんだー、フランス語は喋れないけどね」

 

 

「よろしくな、フレデリカさん。俺は千葉県と東京県のハーフだ。博多弁は喋れないけど夢の国語なら皆伝してる」

 

 

わぁお、アタシ凄いの引いちゃった?

クジ運あるからねー、いつも何度でもポケットティッシュだもん。

実際へんな機械とか商品券貰うより便利だよね。

 

 

それはさておき、目の前の男性は今日からアタシのプロデューサー。

初顔合わせって事でライトでポップなフレちゃんでいこうと思ったけど、プロデューサーもなかなかだった。

何か凄いって、多分アタシと同じ表情をしてるって事。

あ、やべぇぞコイツ、みたいな。

 

 

テーブルのコーヒーに手を伸ばし、取り敢えず一回場を流す。

やり直しやり直し、せっせとリセット。

ちゃんと自己紹介しないとねー。

 

 

「ママもフランス語喋れなくなって…なんだっけ?好きな事は大体楽しい事全部だよ〜」

 

 

「俺も楽しくない事は嫌いだな。特に書類となめくじ」

 

 

「なめくじって何で塩かけると溶けるんだろーね?悪霊なのかなー?」

 

 

「浸透圧とかの問題じゃなかったか?兎も角よろしくな」

 

 

すごーい、全く自己紹介出来てない。

社会人ってこれでいーんだね。

まあアタシも面倒な事は嫌いだから別にいいけど。

 

 

と、なんでアタシがプロデューサーなんかと話してるかと言えば…なんだっけ?

多分デビューかレッスンするからだね。

よくクルクル回ってるけど、ダンスはやった事ないし。

でもやれば出来る気がする。

 

 

「さて…えっと、なんだっけな…あ、そうだ明日以降のスケジュール渡すんだ」

 

 

「メールでいいよ?紙がガレット・ブルトンヌだしねー」

 

 

「大丈夫、全部会社の紙だから」

 

 

…大丈夫じゃない気がしてきた。

主にアタシのアイドルライフが。

こんなんでいーのかなー?

まぁいっか、多分。

 

 

「じゃ、今日からよろしくな」

 

 

「んふんふー、よろしくねプロデューサー!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

え、なになに?

プロデューサーは俺な筈なのに、こんなテキトーな男は知らない?

…身に覚えがないのかな?

彼は、過去の貴方自身なのですーなんてね。

 

 

と言うかフレちゃん話してるけど、仕事しなくていーの?

…ふふーん、アタシは可愛いからねー。

まったくもう、喜んじゃうよ?

こんどふーんとフフーンでユニット組んでみる?

ユニット名は…3Fで!

 

 

…話すすまないねー。

続きいい?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぬわぁーん疲れたよー。プロデューサーも語一緒する?」

 

 

「安心しろ、俺だったら疲れる前に倒れてる」

 

 

初めてのレッスンは想像の大体数割くらい疲れた。

だってフレちゃん普段お絵描きとかしてるからねー。

授業に体育なんてないもん。

トレーナーさんは初めてなのによく体力もつなって驚いてたけど。

 

 

えっへん、アタシは体力あるからねー。

パワフルデリカだもん。

技と力と美の全てを兼ね備えたオールデリカだもん。

電動じゃないからご飯食べるけどね?

 

 

「あ、エクレア食べにいかない?」

 

 

「良いけど、どっか店知ってるのか?」

 

 

「もちろーん、知らない!」

 

 

やれやれコイツは見たいな顔はナシじゃないかな?

プロデューサー人の事言えないよ?

今日だってダンスレッスンを少しって聞いてたのに3時間もだったし。

 

 

でもまー、楽しかったかな。

普段出来ない事をするって、それだけでワクワクするしねー。

毎日続くのは嫌だけど。

 

 

「…お疲れ様です…宮本さん、まだ元気なのですね…」

 

 

「いぇーい、文香ちゃん元気してるー?」

 

 

そうそう、文香ちゃんも同期だったんだよね。

担当は別の人だけど、アタシと一緒に今日からアイドルライフがスタートだってさ。

ほらほら、部屋の壁と床にへばり付いてるあの子。

こー、明らかに文学少女ってゆーのかな?そんな感じの。

 

 

自分からこの道に入ったとは思えないけど、だとしたらスカウトした人もなかなかだよね。

絶対向いてなさそうだもん。

って言うか本以外に興味は無いって本人も言ってたし。

高い本で釣ったのかな?

 

 

「文香ちゃんもエクレア食べにいくー?」

 

 

「とても魅力的なお誘いではありますが…私は、まだ次のレッスンが…」

 

 

「大変そうだな…頑張れよ」

 

 

ばいばーいと手を振って、アタシ達は一旦部屋に。

それにしても殺風景な部屋だよねー。

なにかインテリア欲しくなったりしない?

例えばねー…喋る植木とか!

 

 

フレちゃんが居なかったらプロデューサーこの部屋で一人ぼっちでしょ?

寂しくなったりしないのかなー。

ところで植木って喋るっけ?

 

 

「さて、取り敢えずお疲れ様。初めてのレッスンはどうだった?」

 

 

「まぁー悪くないかなー」

 

 

「だいぶ辛かった、と。まぁ最初だからな、これからしっかり基礎体力をつけていこう」

 

 

そう言いながら、プロデューサーはパソコンと睨めっこ。

エクレア食べに行くんじゃなかったっけ?

流石のフレちゃんも仕事の邪魔はしないけどねー。

 

 

さて、やる事ないと暇だし。

息も落ち着いてゆっくり出来そうだし。

コーヒーでも淹れて待ってよーかなー。

フランスハーフの本格アメリカンコーヒーをご賞味あれーってね。

 

 

「明日はアタシ何のレッスンなのかなー?」

 

 

「んあー、明日はボーカルトレーニングだ。今日はカラオケ行くなよ?」

 

 

あ、もうお湯わいた。

はやいねーヤカンで沸かしてた頃が懐かしいよー。

ヤカンもガスコンロも使った事無いけど。

 

 

「プロデューサーも飲む?」

 

 

「ごめん俺コーヒー飲めないからお湯のままでいいよ」

 

 

それは人生の十二割損してるんじゃないかなー。

せっかくフレちゃんのオリジナルブレンドブランドなのに。

それにしても指動かすのはやいねー。

さっきまで真っ白だったページがもう真っ黒。

 

 

あ、下のタブにエクレアって文字が見える。

ちゃんと終わらせて行くつもりなんだねー偉い偉い。

じゃーフレちゃんも楽しみに待っててあげよー。

ついでに大学の課題やっちゃおう。

 

 

カリカリカリ

 

 

シャーペンがまっさらなキャンバスの上をフィギュアスケートごっこ。

時折縦に一回転して消しゴムと入れ替わったり、アタシの鼻を止まり木にして一休みしたり。

方向音痴みたいに右往左往して、アタシの課題を完成させてく。

 

 

カリカリ、カリカリ

 

 

何だか会話がないのに全然苦じゃないなー。

ふつーだったら、静かなのって嫌な感じがするのに。

なんでだろーね?

 

 

「何でだと思う?はい、5秒以内にどーぞ!」

 

 

「さぁ、何だか分からないけど居心地が良いな」

 

 

「だよねー、フレちゃんもそう言おうとしてたところだよー」

 

 

わぁお、これが…シンパシー?テレパシー?

お互いデスクトップ越しに目があって、んふって笑う。

もしかしなくても、アタシ達って似てるのかな?

相性が良いとも言えるよね!

 

 

「そろそろ終わるけど、そっちはどうだ?」

 

 

「続きはお家でやるからいーや、それで何処に行くのー?」

 

 

「隣の駅のカフェに行こうと思ってるけど時間大丈夫か?折角初めてのレッスンだったからこう…お祝い?的な」

 

 

「いぇーい、じゃあフレちゃん祝われてあげるよー」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「わぁお、オシャレなカフェだねー」

 

 

「だろ、星3つ半だからな」

 

 

凄く反応に困る評価だね。

とは言っても実際凄くイイ感じの店内だし、フレちゃんのお気に入りに追加されそう。

フェイバリット…フレデリット…

まぁいっか!

 

 

「ここのパンケーキが美味しいんだとさ」

 

 

「あれー?フレンチトーストじゃなかった?」

 

 

取り敢えずカフェオレとエクレアのセットを注文。

のんびりした感じの店内で、アタシ達は他愛の無い会話。

 

 

「で、だ。これからも頑張れそうか?」

 

 

「もちろーん、フレちゃんの仏英辞書に諦めの漢字は無いよ?」

 

 

「そりゃ日本語だしそうだろうな」

 

 

普段こんなテンポで会話出来ないからかなー?

なんだかとっても楽しい。

さっきまでの疲れがどっかに単身赴任しちゃったみたい。

 

 

そー言えば、いずれはアタシもドラマに出れるんだよね。

いつか、このドロボウ猫!って言うのが夢なんだー。

猫泥棒でもいいけど、猫が可愛そうだし。

はやくお仕事こないかなー?

 

 

「もう少し先になるだろうけど、絶対出来るよ」

 

 

「猫泥棒?」

 

 

「ドラマ出演が、だよ」

 

 

なんとも頼もしいねー、コーヒーに砂糖四つ入れてるの見なければよかった。

着々と揃うお皿を眺めながら、少しアタシの未来に想いを馳せる。

アイドルって、今日みたいな大変なレッスンいっぱいしてるんだよねー。

テレビじゃ分かんなかったけど、みんな凄い努力家なんだろうな。

アタシも、あんな風に…

 

 

「…なんだっけ?」

 

 

「ところで、さっきの鷺沢さんとは今日初めてだよな?」

 

 

「もちろん!でももう親友だよー、彼女のモノはアタシのモノくらい」

 

 

実際はそんなに会話出来なかったけどねー。

レッスン辛かったし、あの子はあんまり喋る性格じゃなかったし。

フレちゃん以上にバテバテだったから、なんか話しかけ難かったし。

 

 

のんびり優雅にティータイム。

明日のレッスンなんて考えない。

きっと、楽しいけど疲れるから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃ、また明日ねー」

 

 

「おう、遅刻は厳禁だぞ」

 

 

「現金?時は金なりだねー」

 

 

少し涼しい夕暮れ道、アタシは手を振ってプロデューサーと別れる。

そのまま伸びてく影と追いかけっこしてたら、あっという間に家のドア。

ぱぱっとシャワーからの夕食コンボを決め、ベッドにダイブ。

だってやっぱりけっこー疲れてたんだもん。

 

 

ママが、なんだか楽しそうねって言ってた。

もちろん、知らない事ばっかりの世界は楽しいから。

それに、不思議で面白い人とのお食事も楽しかったし。

 

 

明日もまた、頑張ってかないとねー。

期待されてるなら、それなりに相応の立ち振る舞い。

それが出来るくらいには、アタシだって大人だもん。

あ、筋肉痛になら無いように体ほぐさないと。

 

 

いっちに、さんし、あん、どぅ、たぁ!

 

 

フカフカの布団の上で、疲労のたまった身体を伸ばす。

今日も1日お疲れ様、明日も頑張ってくれたまえー!

病は気から、ならもちろん逆も然りなんだって誰かが言ってた。

元気で楽しく過ごす為には健康じゃないとね。

 

 

しばらくストレッチして、めんどくさくなって来た頃にママがホットミルクを持ってきてくれた。

お疲れ様、頑張ってねー、だって。

ママにも期待されちゃってるんだもん、頑張らない訳にはいかないね。

 

 

よし、寝よー!明日も起きなきゃいけないし。

布団に潜って羊と山羊と豚を先導しながら数えてたら、あっという間に夢の中。

多分きっと、楽しい夢が見れる気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…緊張、してないか?大丈夫か?大丈夫だよな?!」

 

 

「なんでプロデューサーの方が緊張してるのかなー?ここはカッコよくアタシを勇気付けるシーンだよ?」

 

 

初めてのオーディションは、とっても緊張した気がする。

多分してなかったけど。

なんでも、フレデリカなら行けるっ!ってプロデューサーが思ったらしくて、ちょっと大きめなお仕事らしい。

自由きままな女の子の役だから、フレちゃんにピッタリだってビビッと来たんだって。

 

 

まだまだ経験が足りてないからこそ、色んな経験をして欲しい。

きっとフレデリカなら大丈夫だ、って。

そう言われちゃったら、頑張るしかないよねー。

演技自体はそんなにまだまだ得意じゃないけど、多分なるよーになるよ。

 

 

観葉植物の葉っぱの数を数えてたら、あっという間にアタシの番。

なんだか部屋のドアが重く感じたけど、誰かが反対側から押してたのかな?

さーて、フレちゃんレジェンドの第一歩、第一章の幕開けだねー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

懐かしいでしょー、もうけっこー昔だもんねー。

覚えてる?覚えてるよね?

えっとね、あの時文香ちゃんも別の役でオーディション受けてたんだって。

教室の端でいっつも本を読んでる、物静かな女の子の役。

 

 

小さな、あんまり出番ない役だけど、受かったってとっても喜んでたよ。

文香ちゃん、凄く嬉しそーだったもん。

…うん、まーねー。

やっぱり覚えてたよねー。

 

 

しょーがないよ、何て言うつもりはないけどねー。

やっぱり、ちょっと悔しかったかな。

せっかくプロデューサーが用意してくれたのに。

 

 

じゃー次のチャプターに飛ばすよ?

その前後は脳内補完でお願いしるぶぷれー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんとなくだけど、それからなんだかレッスンが楽しくなくなっちゃった気がする。

いつもは楽しいボーカルレッスンも、なんとなくでこなせてた演技のレッスンも。

なんでだろーね?フレちゃんらしくなくって。

きままな歌い方が癖になるな、って。

トレーナーさんもプロデューサーも言ってたのに。

 

 

お気に入りのカフェで一人のんびりしてても、天井のプロペラの角速度を求めてたら夜になっちゃうし。

フレちゃん、意外と物理もできるんだよー?

育ててたサボテンは枯れちゃうし。

あ、サボテンって言っても完全に水をあげないのはよくないんだってねー。

 

 

いい事が少ないなら見つければいいの理論で毎日楽しく過ごしてたのに、なんとなーく気が滅入っちゃって。

うーん、向いてなかったのかなー?なんて。

ちょっと、センチになっちゃったり。

あ、1.0m×10のマイナス2乗じゃないよ?

 

 

「うーん…」

 

 

事務所のソファーで植木ごっこしてても、なんだか楽しくなくって。

そんな時にねー。

 

 

「…よし、フレデリカ!カラオケ行くぞ!」

 

 

「…あれ?今日はボーカルレッスンだよ?」

 

 

「カラオケだって立派なボーカルレッスンだって俺が言ってた」

 

 

わぁお、それでいいのかプロデューサーおじさんや…

さっき真面目に頑張ろうと言ってたばかりじゃないかね?

まーフレちゃん的にも気晴らししたかったし、縦に首を反復運動させたけど。

 

 

さてさて、やって参りましたカラオケボックス。

フリータイムにドリンクバーを付けて、採点を入れて

プロデューサーが、採点つけると俺の心が保たないって言ってたけどスルー。

一応レッスンってていだからねー。

 

 

「…消費カロリーなら負けないぞ」

 

 

「それなら踊りながら歌えばフレちゃん絶対勝つよー?」

 

 

好きな曲を次々と。

流行りの曲から熊本民謡、アプリコットの歌に熊本民謡第二。

そしてなんとなーく、ウルトラスーパーリラックスな歌。

 

 

「…アイドルとカラオケって、一般人の俺からしたら挫折しかないな」

 

 

「まーまー、まだまだ駆け出しひよっこだからだいじょーぶ!」

 

 

ひよこが先か、鶏が先か。

庭にワニ、裏庭には二羽ニワトリ。

庭にワニってなかなか凄いおうちだよねー。

 

 

なーんにも考えず、おっきな声で楽しくふんふん。

頭空っぽでも楽しめるんだからカラオケって凄いよねー。

フレちゃんの為に作られた施設みたい。

名誉店長か会長になれないかなー?

 

 

「…楽しそうだな、俺は点数勝てなくてずっと心折れてるけど」

 

 

「プロデューサーは音程を意識して、お腹から声を出しましょー。ノリはバッチリですよー」

 

 

採点画面に表示されたアドバイスを音声付きで伝えてあげる。

普段はアタシが言われる側だからねー。

消費カロリーは確かに高いけど。

 

 

「…いつか、カラオケでフレデリカの曲を歌ってみたいな」

 

 

「それはまだまだ先かなー。あと絶対合わないと思うよー?」

 

 

「ファン第一号はプロデューサーである俺だから。そのくらいの権利はあっても良い筈だよ」

 

 

フレちゃんの歌、ねー。

どーなるんだろ?どんな曲なんだろ?

そもそも、CDデビュー出来るのかなー…

 

 

「表情暗いぞ、ファンの前では笑顔笑顔。あと…」

 

 

「あれ?フレちゃん笑ってるよ?」

 

 

不思議な事を言うねー、プロデューサーって。

笑顔と言ったらフレちゃん、フレちゃんと言ったら笑顔だよ?

力こそパワーだよ、パワフレデリカだよー。

 

「分かってるよ…んじゃ、ファン第一号として、フレデリカが歌うフレデリカの歌を、一番最初に聴かせてくれ」

 

 

「…うん!任さてれあげよー!」

 

 

さてさて、それじゃー。

さっきから届いてるトレーナーさんのメールに返信して。

早くレッスンルームに戻らないとねー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そーいえば、最近カラオケ行ってないねー。

そのうち一緒に行く?

んふんふー、出来る女はこーやってデートの約束をとりつけるんだよー。

 

 

それから直ぐにCDデビュー決まったもんね。

あの時、プロデューサーは知ってたのかなー?

なら教えてくれればよかったのに。

 

 

うん、もちろん楽しかったよ。

アタシの初めての歌、きまぐれCafe au lait、すっごく楽しく歌えたし。

歌の収録なんて今でもあんまりしないし。

今思うとあっという間だったなー、って。

 

 

でもほら、ストーリー上あんまり関係ないからねー。

そして放課後ーーとそれはまた別のお話…みたいなのを言ってみたかっただけだけど。

あ、コーヒーおかわりいる?

…もちろーん、砂糖二つだよね?

 

 

ふぅー、よし。

それじゃ、物語を進めてこー。

 

 

 

 

 

 

 

 

初めてのライブは、すっごく盛り上がったよねー。

失敗も理想も飛び越えた、ものすっごいライブ。

もちろん、まだまだファンも中国の人口に比べたら少なかったけどねー。

でも、楽しかったなー。

 

 

歌って、踊って、喋って、また歌って。

アタシが手を振るたび、光の波がザーッて揺れる。

アタシが笑顔を向けると、みんなが笑顔になってくれて。

その時ねー、アイドルやっててよかったなーなんて思ったり。

 

 

「凄かったぞ!大成功じゃないか!」

 

 

「いぇ〜い!アタシ、アイドルっぽかったー?」

 

 

プロデューサーも、舞台から降りたアタシの手を取って振り回して。

もしかしたらアタシ以上にテンションあがってたかもねー。

こーふん冷めやらぬアタシよりも勢い凄かったもん。

 

 

「…ありがとねー、プロデューサー」

 

 

「おう!これからも二人三脚で頑張っていこう!」

 

 

今日来てくれたファンよりも、もしかしたらアタシよりも笑顔だったかもね、あの時のプロデューサー。

あー、この人と二人三脚で頑張ってきたからなんだなーなんて。

ちょっと嬉しくって、なんだかまた歌いたくなってきちゃったなー。

 

 

「もう一曲、歌ってきていーい?」

 

 

「時間まだ余裕あるし、大丈夫だろ」

 

 

それじゃーそれじゃー、アンコールだね。

最初にって約束は結局守れなかったから。

この一曲は、最初のファンになってくれた人に向けて。

 

 

「みんなー!愛してるからも〜一曲いくよー!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…恋、でしょうね…」

 

 

「ありゃりゃ、フレちゃん魚類になっちゃったー」

 

 

「いえ、その鯉ではなく…フレデリカさん、分かって言って…」

 

 

ちょっとした人生相談ターイム。

内容は詳しくは話せないかなー、乙女のひ、み、つ、チュッ。

あの時は文香ちゃんに相談相手になって貰ったんだー。

フレちゃん優秀だから、大体答え合せだったけど。

 

 

優秀過ぎるのも困りものだねー、次までに報酬用意してくれたまえー。

ふふーん、ミッシーのマネ似てるんじゃないかなー?

まーいっか、それでまー、うん。

結論は出たんだけどね?

 

 

最初はねー、気が会うなーくらいだったんだけど。

なんとなーく気にし始めてから、等加速度運動だったよ。

それにちゃんと自覚しちゃうと、なんとなーく照れ臭くなっちゃうし。

 

 

ふわふわーって、甘くって。

飛び跳ねて、弾ける感じ。

プロデューサーにもお裾分けしてあげたいなー。

もしかしたら、既になってたらいいなー。

 

 

いやいや、ほんとなかなか強敵だったねー。

フレちゃんでも大変なんだから、きっと世界中の恋する乙女は毎日がアドベンチャーかエブリデイなんだよ。

でもほら、そこはフレちゃんだしね?

ノリと勢いでなるようになれーって、ねー。

 

 

「…貴女にとっては…この様な事も、朝飯前なのかもしれませんね」

 

 

「そんな事はないよー?甘過ぎるケーキはコーヒー欲しくなるしねー」

 

 

ピース、オブ、ケーキ!

苦味なんかには邪魔させてあげないよー。

あまーい気持ちを、あまーい一時に変える為に。

 

 

ちょっと、すこーしだけ。

夜ご飯の後、朝ご飯の前に。

届けてあげよーかなっーて、ね。

 

 

 

 

 

 

 

 

その後は…え?恥ずかしいからもーいい?

まったくもープロデューサーったらー。

ちゃんと健全なお話だよー?

まーその後、フレちゃんが頑張った結果で今こーやってお話出来てるんだけどねー。

 

 

端折っちゃったけど、色々あったんだよー?

えーっとー…そう、色々!

ココロがふらふして葛藤したり沸騰してた時期がねー。

うん、多分無かった気がする。

 

 

まーまー、そんな過去話もあったって事でねー。

そろそろお仕事終わったー?

あれ?全然進んでないよ?

あーこれは徹夜コースですなー、終電に間に合わないよー?

 

 

…んふんふー、どうかなー?

フレちゃんそんな悪い子じゃないし、疑うのはダメだよー?

 

 

安心してくれたまえ!夜食は買ってきてあるんだー。

ショートケーキだけどねー。

食べる?甘いよー?

朝ご飯前の夜食にはピッタリ!

 

 

…勇気、出してよかったなーって。

今はもう、気持ちを伝えるくらい朝飯前だけどねー。

 

 

さーって、プロデューサー。

朝まで気持ちを語り明かそー!

 

 

 

 

 

 



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地球に優しく人に厳しく

世にも奇妙なあれ


 

 

杏「テレビにDVD、パソコン、スマホ、ゲーム」

 

杏「杏達が便利でらくーな生活を送れるのって、電気のおかげだよね」

 

杏「だから人間は地球の色んな資源を利用して、電気を作ってるんだし」

 

杏「電気の無い生活なんて考えられないからね」

 

杏「でもさー、石炭とか石油とか、そーゆー資源って」

 

杏「いつか必ず、無くなるときがくるんだよね」

 

杏「そんな時、一番身近で数が多くて、これからも増やし続けられる、資源になりそうなものって」

 

杏「ねぇ、なんだと思う?」

 

「地球に優しく人に厳しく」

 

 

 

 

 

ある日突然、電気が消えた。

最初はブレーカーが落ちたのかな?って思ったよね。

だって部屋の電気が消えた時、一番最初に思い浮かぶのってブレーカーだし。

 

とことこ歩いてブレーカーを見たけど、ちゃんとオンになってる。

じゃあ停電かな?なんてツイッターを開いたら、TLは停電の会話で持ちきりだった。

あー、どっかにおっきな雷でもおちたのかな。

いやいやいや、全員が同じ地域に住んでる訳じゃないんだしありえないでしょ。

 

テレビをつけてニュースを見ようにも、電気が切れててつかない。

ニュースサイトはまだ更新してないし、しばらくはツイッターで情報を集めようかな。

停電の影響で、各地で交通事故が起きてるっぽい。

電車も止まっちゃってるみたいだし、今から帰宅しようとしてた人は大変だね。

杏は家で良かったよ。

 

暗い部屋の窓を開けて外を眺めても、町中が真っ暗だった。

月の光が不気味に明るく街を照らす。

まぁ1、2時間もすれば元に戻るでしょ。

そしたらまたいつも通りの日常だよ。

 

そう、この時は思っていた。

翌日、テレビを付ける時までは。

 

 

 

 

 

翌朝起きて冷蔵庫を開ければ、内側から冷たい空気が溢れ出した。

おー、やっぱり電気復旧したんだね。

なんてお茶を飲みながら、テレビを付ける。

ニュースを見て、昨日の停電の原因を知りたいから。

 

『地球の資源は、もう底を尽きかけている。それによって昨晩、日本中で大規模な停電がーー』

 

難しい話はおいておいて、電気の供給が追いつかず、なおかつもうエネルギー資源がなくなりかけているらしい。

なんで今までそんな重要な事を言ってこなかったのか文句の一つも言いたくなるけど、だからって何が出来る訳でもないね。

まぁこれからは計画停電とかでなんとかやりくりしてくのかな。

 

『よって、我々人類は新たな資源の確保と活用の為ーー』

 

なんて能天気にチャンネルを変えようとした瞬間。

とんでもない言葉が飛び出した。

 

『人類の存続を図る為、安定した生活を継続する為。新世代の燃料として、人間を活用してゆく』

 

 

 

 

事務所へ着くと、今朝のニュースの話題で皆混乱してた。

そりゃーそうだよね。

人間を資源として活用?は?意味わかんないし。

倫理的にどうなのさ、とかどうやって活用するのさ、とか色々あるけど。

まぁきっとそれに関しては、公表されてないブラックな技術があるんだろうね。

 

いやいやいや、だって人間だよ?

資源として活用って、完全に死ぬか眠り続けるやつじゃん。

普通はみんなそんなの御免だし、杏だって嫌だからね。

 

「杏ちゃん…あの、朝のニュース見た…?」

 

「見た見た、なんなんだろうねアレ。批判ばっかりだったし」

 

「お菓子じゃダメなのかな?」

 

「無理があると思うよ」

 

不安に飲まれそうなユニットの二人と話しながら、のんびり着替えてレッスンを受けた。

まだこの時は現実味がなさ過ぎたんだよね。

ありえなさ過ぎて、ついていけてなかった。

考えたくなかったからってのもあるけどね。

 

レッスンを終えて部屋に戻り、テレビをつけてニュースのチャンネルに合わせようとする。

そんな事しなくても、どのチャンネルもニュースしかやってなかった。

 

『まず資源として、犯罪者と高齢者からーー』

 

真面目にありえない話をされると、ほんとに頭に入ってこないね。

淡々とし過ぎてて、坦々と話されててむしろ怖いよ。

ニュースキャスターも、これほんとに読んでいいの?みたいな表情してるし。

まとめると、これからは人間を資源として発電等のエネルギーにしていく。

まずは、犯罪者と高齢者とホームレス、尽きたら次はニート等の働いていない人達。

 

もちろん、各地で批判やデモ活動はあったらしい。

けれどそれに参加していた人達は全員、行方不明になっているとか。

それはニュースからじゃなく、ツイッターで入手した情報だから正確性は確かじゃないし。

そして、そのツイートはもう消されているけど。

 

不穏な空気の中、落ち着かない雰囲気の中。

それでも、生活はいつも通りに続いていった。

 

 

 

 

 

それから2ヶ月。

街を歩いていても、全くお年寄りの人を見なくなった。

世界中で犯罪率は劇的に下がったらしい。

前は橋の下によくダンボールが敷いてあったりしたのに、それももうめっきり見なくなった。

公園のベンチでずっと寝ていた人達も見なくなった。

もちろん、いい意味ではなく。

 

帰ってゲームしよっかなーなんて思っていたあの頃が懐かしい。

今では、電気を使うのが怖くなってきた。

だって、この電気の燃料になってるのは…

頭を振って、嫌な事を思考の外に追い出す。

 

もう誰も、あの件についての報道はなくなっていた。

TLにも、その関連の呟きはあがらない。

暗黙の了解ってわけじゃなく、口に出して自分がそうなってしまうのが怖いから。

中世の魔女狩りじゃないけど、誰が何処で何を聞いてるかわからないからね。

 

なーんて家に帰って電気をつけようとして。

かち、かち。

…あれ?つかない。

 

ブレーカーが落ちたかな?停電かな?

そう思って、また。

2ヶ月前の夜の事を思い出した。

 

…まさか!

 

嫌な考えが頭をよぎった。

前回の停電の理由は、一瞬とはいえ資源が完全に尽きかけたから。

…今回も、同じ理由かもしれない。

だとしたら、次は。

 

どんな人が、資源にされちゃうんだろう。

 

 

 

 

翌日起きても、まだ電気は復旧してなかった。

仕方がないからのんびり歩いて事務所を目指す。

行き交う人々の顔には不安が溢れていて。

街全体が、恐怖に埋まっていた。

 

「おはよー、かな子ちゃん」

 

「あ…おはよう、杏ちゃん…」

 

「あれ?智絵里ちゃんは?」

 

「まだ来てないの…何時もだったら、もう来てておかしくないのに…」

 

昨日の停電のせいで、また怖くなっちゃったのかな。

直ぐに立ち直ってくれるといいんだけど…

なんて考えていると、事務所に電気が灯った。

 

「お、復旧したみたいだね。ニュース見よっか」

 

「そうだね、今は色々と情報を集めないと…」

 

ぴっ、と電源を入れる。

チャンネルを変えるまでもなくニュースをやっていた。

多分また、全番組ニュースなんじゃないかな。

 

『昨晩の時点で、犯罪者・ホームレス・高齢者のストックが尽きました』

 

「す、ストックなんて…みんな人間なのに」

 

「変な事は言わない方がいいよ。今は杏しかいないから大丈夫だけど、外だと誰が聞いて何言われるかわからないし」

 

なんて落ち着いた感じを装っているけれど。

内心、ものすごく不安になってた。

だって、一回尽きたのにまた電気がついたって事は…

 

『よって次は、ニート・無職者・そして労働意識の低い者となります』

 

…まずい!

智絵里ちゃんがこのニュースを見て早く事務所に来てくれるといいんだけど。

もし引きこもって外からの情報を遮断してしまっていた場合。

最悪の事態になりかねない。

 

智絵里ちゃんにラインや電話を飛ばすけど、既読はつかないし繋がらない。

プロデューサーに相談しておこう。

親御さんの方に連絡して貰って…親御さんがもう説得しようとしてる筈だよね。

杏達が今できるのは、いつも通りに働いて智絵里が戻ってきやすい環境を維持する事かな。

 

なんて考えていると、プロデューサーが現れた。

少し肩で息をしているところを見ると、走って探してたっぽい。

どうしたんだろ?

 

「杏…言いづらいんだけど、今後あんずのうたを歌うのは禁止だ」

 

「え?いやいやいや、なんで?持ち歌だよ?」

 

「あんずのうたの内容を思い出してみろ。今この状況で、働かないなんて歌を歌うのは自殺行為だ。下手したら観客ごと…」

 

…そうだ、あんずのうたは働きたくない人の歌。

そんなのをみんなの前で歌うなんて、不労働を促していると受け取られてもおかしくない。

そんな歌にコールなんていれられてしまうと、ファンの人達まで…

 

「…分かったよ、うん」

 

「悪いが、杏の為なんだ…」

 

 

 

 

 

結局それから、智絵里ちゃんが事務所に来る事はなかった。

なんど電話を掛けても、この電話番号は現在使われておりませんの通知しかない。

変なことを考えついちゃうのも嫌だから、もう考えるのはやめた。

きっといつか戻ってきてくれるよ、うん。

 

全国の色々なお店に、アルバイトの面接を求める電話が殺到したらしい。

各地では、自主的に節電をしている人や企業もあるとか。

おっきなビルの液晶パネルは、長らくついているのを見ていない。

電車の本数も、以前の半分以下になっていた。

 

自分が資源にされてしまうのを恐れ、自分が選定されてしまうのを少しでも伸ばすために、密告紛いの行為も横行している。

少しでも疲れたと言おうものなら、瞬時に通報されてしまう。

そのあと通報した人の姿を見た者もいないらしいけど。

 

駅前では宗教紛いの演説をしている人もいた。

何処からともなく現れた沢山のバスに乗せられ、直ぐさまいなくなってしまったけれど。

寒いのに暖房をつけているのを見られるとアウトな世界にまでなっちゃうなんて思わなかった。

おちおち外でスマホなんて使えない。

 

ライブは、一応開催しても大丈夫なものらしい。

疲弊した人達の心の癒しになるからーとかなんとか。

嬉しい事である筈なのに、全く楽しくない。

そりゃもう、持ち歌を歌うなだなんて、ね。

 

布団に包まって、TLを覗く。

呟くことはしないよ、何言われるかわからないからね。

TLを埋めるツイートは、以前の1割にも満たなくなっていて。

ほんとうに、つまらない世界になったなぁ。

 

 

 

 

翌日事務所に行くと、プロデューサーがソファに沈み込んでいた。

何か嫌な予感がする。

最近の雰囲気のせいですり減り切ってる心に、これ以上ダメージを受けたくないんだけどなぁ。

かと言って、聞かない訳にもいかないし。

 

「…どうしたの?プロデューサー」

 

「…かな子の親御さんから連絡があってな。夜中にひっそりとスイーツを作っていたら、隣の家の人に通報されたらしい」

 

「…ウソでしょ?」

 

「こんな事でウソをつける訳ないだろ…」

 

お互い、かなり疲れきってるみたいだね。

本来なら杏はもっと取り乱してただろーし、プロデューサーは怒鳴っててもおかしくなかった。

それよりも脳内には、今週末のライブどうしようなんて考えしかなくて。

それに気付いてしまった時、尚更悲しくなった。

 

 

 

 

 

トボトボ歩いて家に帰る。

なんだかもー、色々とどうでもよくなってきちゃったな。

何をしようにもしちゃダメ、したら通報みたいな世界で。

これからの人生、きっと楽しい事なんて残されてないだろうしね。

 

家のベッドでゴロンと転がり、スマホの写真フォルダを開く。

ユニットを組んだ頃の写真。

初めてのライブの写真。

アニバーサリーライブの写真。

 

どれもこれも、みんな笑顔で。

泣きそうだけど、とっても楽しそうで。

もう戻れないあの頃を思い浮かべていると、涙腺は仕事を放棄した。

 

…もう、いいよね。

だって、何もないんだし。

 

暖房をつけてテレビをつけて。

ゲームをセットしてコップにコーラと氷を入れて。

夜通し、ひたすら涙を流しながら遊んだ。

 

 

 

 

 

「…いいのか?杏」

 

「お願い、プロデューサー」

 

週末のライブ直前。

私はプロデューサーに、一つお願いをした。

正直断られると思ってたけど、プロデューサーは力強く頷いてくれて。

 

「杏はやるよ。杏は、歌うんだ。本当にごめんね、プロデューサー」

 

 

 

 

 

ステージが始まる。

会場には、サイリウムを両手に握りしめたファンのみんな。

持って来てくれる人は少ないだろうなって思って、事務所が用意したものだ。

 

照明の強さを、最大限まで上げて貰って。

泣きそうな気持ちを押し殺して、杏は叫んだ。

私達の、正義の為に。

全力で、ダッシュ。

 

「い、いやだっ!私は働かないぞっ!」

 

ザワザワと会場がざわめく。

一部の人から、怒号が飛ぶ。

でも、そんなの関係ない。

この歌は、自由の歌なんだから。

 

スタッフの人達がざわめく中、プロデューサーだけは多分笑ってくれている筈。

ひたすら叫ぶ。

涙を流しならが、それでも届ける。

やりたい事が出来ないなんで、やりたくない事しか出来ないなんて。

そんな人生、こっちが願い下げだ。

 

少しずつ、サイリウムが振られだす。

最初はなかったコールが、少しずつ入りだす。

途中で音楽が止まったが、そんなの関係ない。

 

「我々は絶対働かないぞー!」

 

「「「働かないぞー!!!」」」

 

会場と一体になって、声を上げる。

言いたい事を言って何が悪い。

願いを叫んで何が悪い。

ずっと心の底から求めてきたこの歌なんだ。

曲が流れない程度で、涙が流れてる程度で、私を止められる筈がない。

 

「働いたら、やっぱ負けだよねーー!!!!!」

 

うぉー!と言う歓声とともに、バタンと音を立てて会場のドアが開かれた。

黒い服を着た集団が、杏に向かって走ってくる。

でも、もう遅いよ。

杏は、歌いきったんだから。

 

「…とゆー夢を見たんだ」

 

あぁ、どうせなら。

本当に夢なら良かったのに。

 

 



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逆行ランプ

世にも奇妙なあれ2


 

文香「最近は…日本どこでも電気が通っているので、あまりお世話になる事は少ないと思いますが…」

 

文香「オイルランプと言うのは、心に安らぎを与えてくれるものです」

 

文香「ランプの起源は、遡れば古代から…長くなってしまうので、今回は止めておきましょうか」

 

文香「時折、夜中に本を読むとき…私は、電球ではなくランプを灯します」

 

文香「明るいランプを持って、夜道を散歩したくなったりもします」

 

文香「小さく灯るランプの光は、優しくて、暖かくて」

 

文香「…ですが、光源が小さければ。光が弱ければ」

 

文香「それだけ、影が深く見えてしまいますね」

 

文香「照らされていない場所が、むしろ目立って見えてしまう」

 

文香「普段は見えないものが、見たくないものが…ランプの影によって浮かび上がってくるんです」

 

文香「…少し、暗くなってきましたね」

 

文香「ランプ…灯しましょうか?」

 

逆行ランプ

 

 

 

 

ふぅ…と大きく息を吐きながら、私はソファに座り込みました。

ダンスレッスンを終えて家に着く頃には、私はくたくたになっていて。

本を開くも読む気力がなく栞を挟んで閉じ。

のんびりと、夕陽を眺めて微睡んでいました。

 

昨日のライブの失敗が心を沈め。

気分を変えようにも何かをするは気力が起きず。

きっと今の私にはあれが限界なんだろう、などと。

勝手に納得し、思考の外に追いやりました。

 

沈みゆく太陽に染められる街は、とても綺麗で。

少しずつ住宅に電気が灯っていく光景は、とても素敵で。

自然の灯りが人工の灯りに代わってゆく瞬間が心地良くて。

ありふれた景色に包まれて、なんとなく幸せでした。

 

ふと、その時。

視界の中に、珍しい物を見つけました。

 

これは…オイルランプ、でしょうか?

何故こんな物が私の部屋に…

 

私はオイルランプなんて、買った記憶がありません。

ファンの方からの応援とも思えませんし、叔父か誰かが忘れて行ったのでしょうか?

とは言え、丁度いいですね。

折角ですから、灯してみましょうか。

 

燃料は入っているようです。

カーテンを閉め、部屋の電気を消し。

引出しからマッチを取り出し着火。

音もなく、少しずつ火は大きくなります。

 

…心地良いですね。

 

ゆらゆらと揺れる炎は、私の心を照らし暖めてくれるようで。

深呼吸しながら、ゆったりと。

暖かい空間の中に静かに溶け込んでゆきました。

 

どうせなら、紅茶でも淹れましょうか。

そう思い、振り返り。

私は、信じられない光景を目にしました。

 

ランプによって作られた、私の影に。

本棚しかなかった筈の空間に。

私一人しかいなかったこの部屋に。

ステージで踊る、私がいました。

 

 

 

 

 

 

「…え?」

 

何が起こっているのか、自分でも分かりません。

実際に目にしている私が一番信じられないのですから。

けれど、間違いなく。

影に映ったのは、私でした。

 

先日私が上手くいかなかったライブ。

あの日の衣装を着た私が、マイクを握り締めて精一杯歌っています。

その表情はとてもキラキラとしていて。

私なのに、私が見ているのはとても辛くて。

 

急いで、ランプを消しました。

 

「…ふー…」

 

暗くなった部屋の中、私は脱力して崩れ落ちました。

今のは、一体…?

疲れて脳がおかしくなってしまったのでしょうか?

そこまで疲れきっているつもりはありませんが…

 

今日のダンスレッスンも、あまりうまくいきませんでしたし…

もしかしたら、本当に疲れて幻覚を見てしまったのかもしれません。

それに、もう一度起こるかどうかも確かめたいですし。

そう思い、私は再びオイルランプに火を灯しました。

 

少しずつ、火は大きくなってきて。

ゆらゆらと揺れながら、影を濃くします。

すぅー…と大きく息を吸い。

私は、覚悟を決めて振り返りました。

 

…やはり、私がいました。

けれど先程とは違い、トレーニングウェアの姿で。

今日私が上手く踊れなかったダンスを、キビキビとした動きでこなしています。

もちろん、笑顔を絶やすことなく。

 

…見ていて、悔しいですね。

自分が上手く出来なかったからこそ、上手くいっている自分を見せられると言うのは。

ですが…これは、自分の為になります。

こうしてみていると、自分が出来ていなかったところがよく分かりますから。

 

ここの次のステップで、この様に右足をだせば…

この時、右手を伸ばせば綺麗に見える…

夢中になって上手な自分を見続けていると。

しゅん、と、私の姿が消えてしまいました。

 

部屋がまた暗くなった。

つまり、ランプのオイルが切れてしまった様です。

結構な量入っていたのに…いえ、この不思議なランプに常識は通用しませんね。

 

一度落ち着いて考えをまとめてみます。

ランプをつければ、思い浮かべた失敗を、上手く成功させた私が映る。

けれどその代わり、オイルの消費がとてつもなく早い。

冷静になってみれば、なんて事はありません。

 

…いやいや、何を私は…

非日常的過ぎるにも程があります。

ですが、実際に二度も目にしているのですから…

 

けれど、実際。

有効活用は出来そうですね。

 

 

 

 

それから私は、何かが上手くいかなかった日は家に帰るとオイルランプを灯しました。

人と上手く対話出来なかった日。

プロデューサーさんの目を見て話せなかった日。

オーディションの結果発表で落ちてしまった日。

 

なるほど、この様に繋げば次のトークを…

プロデューサーさんと目を見て話せている私は、幸せそうですね。

…ここは、こう言っておくべきでしたか…

 

もちろん、辛くはあります。

けれどそれによって、次は成功できる様にと。

それに、上手くいっている自分を見るのも幸せですから。

まるで自分が物語の主人公になったお話を読んでいるような、そんな感覚。

 

失敗も成功も、その両方を見てきた私だからこそ。

その次は、少なくとも以前よりは上手く出来る。

このランプさえあれば。

最悪の話、自分が現実では上手くいかなくても。

成功した私を見る事が出来るから…

 

 

 

 

ここまで語れば、物語の真意を見抜けたと思っているかもしれませんね。

きっとあなたはこう考えている筈です。

きっとその不思議なランプに依存してしまい。

現実と理想の区別が付かず、ずっと成功した自分を見続ける。

 

…ふふっ。

もし本当にそうでしたら。

私は今こうやって、あなたに語ってはいませんよ?

さて、では。

 

物語の、次のページに向かいましょうか。

 

 

 

 

 

 

はい、ご想像の通り。

最初は完全に依存しきっていました。

ですが、経験を重ねていくうちに。

そもそも、あまり失敗しなくなったんです。

そこに至るまでに、数々の失敗と長い時間はかかりましたが。

 

と、言うよりも。

ランプに頼るまでもなく。

プロデューサーさんが、私を支えて下さいましたから。

 

上手くいかずに沈んでいる私を励ましてくれて。

上手くいかなかったときに改善点と解決案を示してくれて。

上手くいかないと思っていた部分が出来る様になって。

私は、成長出来ました。

 

もちろん時たま、私はあの不思議なランプをつけました。

ですがそれは、仕事に関してではなく…秘密ですよ?秘密です。

それに、やっぱりオイルランプの灯りは優しくて。

心が温まりますから。

 

はてさて、そんな私の悩み。

それは、既に起こった過去ではなく今の事。

それは、今はまだ知る事の出来ない未来の事。

 

ずっと私を支えてくれた人に。

一緒に歩いて進んでくれた人に。

私が想いを寄せる人に。

私の想いを伝えるには、どうすればいいか。

 

こればかりは、この不思議なランプでもどうしようもなく。

普段相談に乗って下さっている方に相談するわけにもいかず。

上の空でパラパラと本のページを捲りながら。

夕方の窓辺で、夕日と苦悩に包まれていました。

 

 

 

 

 

きっと今の私なら、上手くいくかもしれません。

そうであって欲しいですし、そうでないと辛いですし。

ですが、そんな簡単に伝えられるのなら。

私はここまで悩んでいません。

 

最近は上手くいっていたからこそ。

尚更、失敗してしまった時が怖い。

成功に慣れてしまったからこそ、成功した自分を見てきたからこそ。

余計に、不安は募りました。

 

ふぅ…と大きくため息をつくも、高い空へと吸い込まれてゆきます。

途中で何かにぶつかる事も、それが誰かへ届く事もなく。

何かをする訳でもなく、何かを出来る訳でもなく。

ただひたすらに、部屋の外を眺めていました。

 

沈みゆく太陽に染められる街は、とても綺麗で。

少しずつ住宅に電気が灯っていく光景は、とても素敵で。

自然の灯りが人工の灯りに代わってゆく瞬間が心地良くて。

ありふれた景色に包まれて、なんとなく幸せでした。

 

…そう言えば。

あのランプは、オイルさえあればずっと。

成功した私を見続ける事が出来ます。

 

で、あれば。

もし私の告白が上手くいかなかったとして。

果たして、何の問題があるんでしょうか?

 

それに気付いた途端。

先程までの悩みが、すべて阿保らしく思えてしまいました。

あのランプがある限り、別段私が成功する必要は無いんですから。

ずっと、上手く生き続ける私を眺める事が出来るのですから。

 

…そうと決まれば。

 

大きく息を吸い込み。

今までの彼とのやりとりを思い出し。

何があっても支えて下さったこれまでを思い出し。

現実に、彼と向き合って話し合った日々を思い出し。

 

理想で留まっていた私を現実にしてくれた彼を思い出し。

失敗も成功も受け入れてくれた彼の笑顔を思い出し。

そんな時、私がどれ程幸せだったか思い出し。

 

私は、ランプを床に叩きつけました

 

 

 

 

…私の物語は、これでおしまいです。

ご静聴、ありがとうございました。

そして、これからは…

 

私とあなたの物語なのですから

 

 



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畳返しの天気予報

世にも奇妙な3


 

 

肇「畳って、いいですよね」

 

肇「夏は冷たくて、冬は暖かくて」

 

肇「和室自体、アパートは難しいですがやっぱり素晴らしいものです」

 

肇「そう言えば、昔中学生の頃。体育で柔道をする時、体育館に畳を敷いてやっていたんですよ」

 

肇「でも時たま、ふざけた男子が畳を高く積み重ねて遊んでいて」

 

肇「不安定だったからか、倒れてぶつかって怪我をしている人もいました」

 

肇「そう。畳は敷いてあるもの、なんて一般常識ですが」

 

肇「そんな固定概念が、ひっくり返る事もあるんです」

 

肇「…空、雲ってきましたね」

 

肇「傘、差しましょうか」

 

肇「降ってくるものが、雨とは限りませんが」

 

 

「畳返しの天気予報」

 

 

 

 

 

人間誰しも、行き詰まりを感じることはあると思います。

学力の伸び悩みや短距離走のタイムの伸び悩み。

絵を描こうにも、文章を書こうにも、どうにも筆が進まなかったり。

気分的な問題だったり、どうしようもない問題だったりと色々ありますが。

兎にも角にも、前へ進めない事がありますよね?

 

そう言えば、短距離走だったりのタイムって、実際は縮むな筈なのに伸ばすと言いますよね。

いえ、あれはきちんとした理由が…っと。

話が逸れましたね。

 

私の趣味は陶芸で。

私は今、アイドルをやっています。

ですがその両方で、行き詰まりを感じていたのです。

 

どうにも、思った通りの器が出来上がらない。

どうにも、満足のいくパフォーマンスが出来ない。

どうにも、納得いく形に仕上がらない。

上手くいかないのが悔しくて挑んで、また失敗の繰り返し。

 

何度も何度と失敗を積み重ねて、その先に成功がある事は知っています。

けれど、ただひたすらに同じ事を繰り返すだけでは。

きっと前へは進めない。

その為に何か、きっかけが欲しかったんです。

 

ですが、私個人が願ったところでこの世界が何か変わる訳もなく。

朝起きてレッスンを受けて夜眠り。

特異な事が起きる事も特になく、日常はいつも通りに前だけに進み。

私一人だけ、取り残されてしまった様な感覚になりました。

 

何か、特別な事が起きないかな。

何か、日常に変化があれば。

何か、普段とは違う日を過ごせたなら。

 

疲れて畳の上で寝転がり。

そんな事を考えているうちに、私は眠りに落ちていました。

 

 

 

 

 

 

「…はっ…寝てしまいましたか…」

 

畳の心地良さは、もはや魔力ですね。

まだ重い瞼を擦り、ゆっくりと身体を起こします。

そのままルーチンワークになっている、テレビをつけて天気予報の確認。

雨がふるのであれば、洗濯物を取り込んでおいたり早めに出なければいけませんから。

 

その時、ふと。

何か、違和感を覚えました。

なんとなくですが、床が硬いんです。

いえ、柔らかい床ってどうなんだ?と言われたらそれまでですが。

 

テレビの起床予報士は、いつも日本地図の前で低気圧の移動や温度の変化を解説しています。

今日の東京の天気は…

 

『今日は全国各地で畳です。みなさん、ご注意下さい』

 

「…は?」

 

辛辣というか、間の抜けた声が出てしまうのも仕方ありません。

今日は、全国各地で…畳?

何を言っているのか分かりません。

畳なんて天気は、当たり前ながら聞いた事がありませんでしたから。

 

え?畳?

畳を干す絶好の日和と言う事でしょうか?

これを機に畳を買い換えようと言う、畳屋の宣伝でしょうか?

それとも本当に、畳が降ってくるんですか?

 

意味がわからず、息を吐きながら顔を上へとむけました。

情報を整理しようとして、思考を回そうとして。

そして、私は。

 

天井に張り付いている、床に敷かれていた筈の畳を目にしました。

 

 

 

 

 

慌てて外に出るも、他の人たちが慌てふためいている様子はありません。

誰もが当たり前の様に、買い物袋やスマートフォンを片手に歩いています。

一体、なんだったんでしょう…?

首を傾げていると、フレデリカさんが此方へやってきました。

 

「へーい肇ちゃん!げんきー?現金?現役?」

 

「私は現役でアイドルですが、元気とは言い難いですね…それと現金ではありません」

 

「あれー?肇ちゃんなら畳くらいぶつかっても返せそうだけど、どこか怪我しちゃった?」

 

「畳が飛んできたら、普通誰でも大怪我しますからね?…え?」

 

畳がぶつかっても、と言ったという事は。

畳に関して、何か知っているんでしょうか?

フレデリカさんの事だから、てきとう言っているという可能性もありますが。

 

「畳って、畳に何かあったんですか?」

 

「えー、肇ちゃん天気予報みてないの?そんなんじゃパリジェンヌになれないよー?」

 

「なろうとも思わないので結構です。それで、本当に畳がどうなっているんですか?!」

 

「だからさー、今日は畳だよ?畳が飛んでっちゃうんだから、肇ちゃんは怪我してないかなーって」

 

 

 

 

 

フレデリカさんの話を、ようやく要約出来ました。

つまるところ、今日は畳が空へと飛んで行ってしまう日だという事。

天気予報でもやっていたように、雨や雪が降るではなく床に敷いてあった畳が空へと浮かび上がっていく。

そんな天気の日なのだ、という事。

 

…意味がわかりません。

当然、最初はフレデリカさんを疑いました。

けれど、今朝の光景を思い出し。

そして…

 

「みてみてーほら、スタイリッシュ畳返しみたい!」

 

フレデリカさんの指差す方を見れば、中学校か高校の体育館の窓から大量の畳が飛び出して行きました。

おそらく、柔道用に体育館の床に敷く畳なんでしょう。

それが、まるで風船の様にぶわぁっと空へ空へと浮かび上がってゆきます。

 

もう、私の脳がオーバーフローしそうでした。

まるで意味がわかりません。

ですが、周りの人達は誰一人として驚いておらず。

まるでそれが当たり前の光景の様に、いつも通りの行動をしており。

 

私は、難しい事を考えるのはやめました。

 

 

 

 

レッスンを終え家えと帰ると、畳は未だに天井にはりついていました。

天気と言えば空から何か降ってくるものだとばかり思っていましたが。

そんな常識が、まるで畳の様にひっくり返ってしまった世界へと迷い込んでしまったのでしょう。

この世界では、きっと空へ向かって飛んでいくものを天気と言うのでしょう。

 

確かにまだ不安はありますが。

けれど、それよりもむくむくと楽しみが湧き上がっていました。

今まで見た事のない現象を目にしている。

ありえなかった筈の、常識外れな光景。

それは私にとって、大きな変化をもたらしてくれる筈です。

 

常識にとらわれず。

いつまでも同じ事を繰り返すだけの日々から抜け出し。

違った観点や価値観や概念を手に入れる事で。

きっと、新しい自分を見つけられる筈です。

 

ドキドキしながら、テレビをつけて。

明日の天気予報を確認します。

 

『明日は、全国各地でチラシとゴミ袋です』

 

「…ふふっ…すごい、すごいです!」

 

ワクワクしながら、明日の天気を楽しみにしました。

一体、どんな光景が見られるんでしょうか。

気になって気にって、仕方がありません。

全てが新しいこの環境が面白くて、私は気分を冷ます為に窓を開けました。

 

ガサゴソ、ガサゴソ

 

外から、ビニール袋の音が聞こえました。

一体なんでしょう?

気になって外を覗くと、沢山の人がビニール袋を抱えて歩いていました。

そしてそれを、近くの電信柱の元に投げ捨てて帰って行くのです。

 

…不法投棄、ではないですよね?

見れば、近所の殆どの人がやっていますし。

と、そこで。

先程の天気予報を思い出しました。

 

明日は、チラシとゴミ袋。

つまり、外にゴミ袋を出しておけば。

勝手に空へと飛んで行ってくれるのです。

逆に、家の中に置いておくと、今の私部屋の畳の様に天井に張り付いてしまいますから。

天井の高い家でそうなってしまっては、取れなくて大変ですからね。

 

成る程、こんな常識外れの世界だからそ。

普通ではありえない事が、常識になっている、と。

ならば私もこうしてはいられません。

早く、ゴミを纏めて外に捨てなければ。

 

 

 

 

 

翌日起きれば、外に捨てたゴミ袋がなくなっていました。

周りを見渡せば、空へと浮かび上がっていくゴミ袋と路上に落ちていたチラシ。

汚い筈なのに、とても綺麗に写って。

思わず写真を撮りたくなってしまいました。

 

その日のダンスレッスンは、とても上手くいきました。

新しい事満載な世界で、楽しさが心を渦巻き。

おかげでモチベーションとテンションが高く、終始笑顔で。

 

時間がかなり余ったので陶芸教室にも行ってきました。

少し形は崩れてしまいましたが、なかなかの出来ではないでしょうか。

普段よりも上手いとは言い難いですが、やはり楽しいと言う思いは器にこもるみたいです。

満足げに家へと帰ると、天井に張り付いた畳がお迎えしてくれました。

 

『明日は、カーペットです』

『明日は、すのこです』

 

毎日が新鮮で、少し不便になる事もあるけれど楽しい日々。

ですが、そんな非日常な世界で。

その世界でも更に非日常な事が来た時、私はとんでもない世界に来てしまったのだ、と。

改めて、気付かされてしまいました。

 

 

 

 

明日は、どんな天気かな。

 

ピッ、と。

テレビをつけました。

チャンネルをニュースに合わせて…

そんな事をしなくても、つけたチャンネルはニュースをやっていました。

 

ですが、気象予報士の人の顔は、何処か曇っています。

一体、何かあったんでしょうか。

 

『…明日は、線路と電車です。みなさん御注意下さい』

 

…え?線路と、電車…?

テレビの端に映った速報をみれば、既に全国各地の電車は運行を中止し。

線路の近くの住人は避難を開始しているとの事。

 

おそらく、これはこっちの世界の天気による災害なのでしょう。

雪や台風はない代わりに、電車と線路が飛んで行ってしまうなんて。

下手したら、いえ、下手しなくても。

世界が大変な事になってしまいます。

 

ですが、私が何かを出来るわけも無く。

不安に溺れ、眠りにつきました。

 

 

 

 

翌日起きてすぐテレビをつけました。

どのチャンネルも、同じニュースで持ちきりです。

電車が浮かび上がっていってしまった事による、渋滞や事故。

浮かび上がっていく途中に電線を巻き込んでしまい火災や停電。

慌ただしく、ニュースキャスターが次々と舞い込んでくるニュースを呪文の様に唱えていました。

 

事務所へ行こうにも、電車がないのでどうしようもありません。

おそらくこんな日にタクシーが捕まるともおもえませんし、下手したら事務所へ来ている人の方が少ないでしょう。

仕方がないので、家でニュースを見ていました。

 

こんな時、一人で家にいなければいけないなんて。

知らない世界で慣れない事故の情報を見続けるのが怖くなり、私はテレビを消しました。

天井では、畳が私を笑うかの様に張り付いてしまいた。

 

 

 

 

 

…んん…

気付けば、もう夜になっていました。

寝てしまっていた様ですね。

目が覚めた時、最初にこの世界へ迷い込んできて時の事を思い出しました。

 

…私が、非日常を望んでしまったから。

特別な何かがおこらないかな、なんて思ってしまったから。

こんな世界になってしまったんでしょうか?

 

だとしたら…

 

なんとなく、テレビをつけました。

明日の天気を確認しないと…

下手したら、怪我では済みませんから。

 

ニュースキャスターから気象予報士へと画面が移り変わります。

そんな気象予報士の顔は。

昨日よりも、ずっと曇っていて…

 

『明日は、土や泥です。みなさん、十分に御注意下さい』

 

…え?

泥が、土が、なくなる?

そんな事になったら…

 

恐怖と不安と焦りが渦を巻き、私はパニックに陥りそうでした。

テレビのリモコンを持った私の手が震えます。

うそ…うそ!

土が、泥がなくなってしまったら…!

 

嫌です!嫌です!そんなのいやだ!

叫んだところで、誰も反応してくれません。

それどころか、外では部屋に置いていたであろう植木鉢を外に捨てている人がいて。

それが当たり前の世界が認められなくなって。

 

ごめんなさい!私がこんな世界を望まなければ!

こんな事には…ならなかったんですよね!

 

回線が潰れているからか、誰にも連絡は通じません。

誰にも相談できません。

誰にも不安と悩みを打ち明けられません。

 

怖くて、辛くて、苦しくて。

ごめんなさい!ごめんなさい!

そう連呼し、叫び、涙を流し。

 

その瞬間。

 

頭に何かがぶつかり、私は意識を失いました。

 

 

 

 

 

 

目をさますと、当然ながら私の家でした。

見慣れた天井に、見慣れた壁。

 

…へ?天井?

 

ばんっ!と飛び起きると、やはり天井は天井でした。

つまり。

昨日まで天井に張り付いていた畳が、剥がれている事になります。

ぐるぐると部屋を見回すと、畳が落ちていました。

 

「…ふふっ…ふふふふふっ…!」

 

別に、頭をうっておかしくなったわけではありません。

畳が部屋に落ちているのがおかしくて。

戻ってこれたのが嬉しくて。

土と泥が飛んでいかないのが嬉しくて。

 

一人、大笑いしてしまいました。

 

 

 

 

 

「なんて不思議な事があったんです」

 

「ふーん、フレちゃんも空飛んでみたかったなー」

 

「もう、あんな世界は御免です…」

 

レッスンを終えて、一息つき。

今まで私が体験してきた世界のことを、フレデリカさんに話してみました。

あれはもしかしたら、夢だったのかもしれません。

それでも、人に話すことでさらに安心しました。

 

外では雨が降っています。

そんな当たり前の天気が嬉しくて。

ステップを踏む様に、傘をさしてスキップしていました。

 

「でもさー、怖いよねー」

 

「もちろん怖かったです。だって、電車が飛んで行ったり

 

「そうじゃなくってさー」

 

ぺた、と。

私のビニール傘に、何かが張り付きました。

何処かから飛んできたのでしょうか?

これは…チラシ?

 

遠くで、ガサッ、と。

ビニール袋が落ちた音がしました。

 

「だって、もしかしたら降ってくるかもしれないでしょー?」

 

 

 

 

 

 



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第二の無人島事件

 

ざざーん、ざざーん

 

 

心地良い波の音が遠くから聞こえる。

目の前に広がっているのは、綺麗な砂浜と透明な海。

太陽は少し雲に隠れ、遊ぶには絶好のシチュエーションだ。

 

 

…もう少し、一部の人が落ち着いていれば。

 

 

「わぁお、きれーなオアシスだねー!」

 

 

「オアシスって砂に囲まれてるんじゃなかった?」

 

 

「じゃー世界レベルで見れば海は全部オアシスだねー」

 

 

「せやな…あーん日焼け止め忘れたーん。誰か貸してー」

 

 

「全く、世話の焼ける子達ね…はい、失くしちゃダメよ」

 

 

隣ではフリーダム三人の年上とは思えない間の抜けた会話。

そしてさらに少し離れたパラソルの下では…

 

 

「文香さん、早く泳ぎに…その本の山は?」

 

 

「ありすちゃん…私の分まで、海を満喫して来て下さい…」

 

 

「折角の海なんですから…プロデューサーからも何か言って下さい」

 

 

「よくそんなに本抱えて来れたな」

 

 

「まったくです、だから電子書籍にしましょうとあれ程…ではなくて!」

 

 

何故か大量の本の山に囲まれたこの場の最年長アイドルと最年少アイドルが騒ぎ。

プロデューサーは既に疲れたのか割と投げやりになっている。

…プロデューサー、結構筋肉あるね。

鍛えてるのかな。

 

 

お前たちの守るために、と前に言っていたのを思い出す。

ちきんとジムに通っていた様だ。

なんだかんだ少し嬉しい。

 

 

そして更に離れた場所では。

トライアドプリムスのメンバー、神谷奈緒が…

 

 

「おぉ、ここがフルボッコちゃん6話水着回の…この光景アニメで観たぞ!」

 

 

よく分からない事ではしゃいでいた。

アニメの話だから周りに聴かれたくなくて離れたのだろうけれど、声が大きくて聞こえてきている。

ここへ来る時に目をキラキラさせていた奈緒を見ていた全員は、もう大体察しているけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

綺麗な海と砂浜、私達以外誰もいない島。

何故こんな場所にいるかと言えば、夏最後の撮影を兼ねた旅行だから。

 

 

事務所の専務お気に入りのユニット、プロジェクトクローネに届けられた書類。

それは、普段から輝かしい活躍をする私達に対する慰安旅行の誘いだった。

流石にただの旅行では専務としても面子的にアレらしく、表面上は撮影となっているけれど。

 

 

残念な事に加蓮と唯は別の仕事が入ってしまって不在。

何かの一周年イベントらしい。

まぁつい先日その二人は海で撮影があったらしく、渋々納得してくれた。

アーニャもラブライカでの収録や撮影だ。

 

 

そんなこんなで、プロデューサーを引率者に私含め系7人のアイドルは夏のバカンスを満喫。

…したいから、もう少し周りも落ち着いてくれないかな。

来る時から成り立ってない会話やアニメの話を聞かされ続けて私も若干疲れている。

最年少のありすちゃ…橘さんが唯一の心の支えとなっていた。

 

 

ちなみに一応男一人でこう…大丈夫なの?とちひろさんに尋ねたところ、信頼してますからと帰ってきた。

専務も、彼なら女性に手を出す事は無いだろうと安心しているらしい。

プロデューサーが誰かと付き合っていると言う話は知らない。

何故だ、公認のホモなのか。

だとしたら私の…げふんげふん。

 

 

まぁ事務所でも謎の立ち位置にいるちひろさんから釘を刺されていたし、プロデューサーが変な気を起こす事は無い筈。

信頼していると言っていた割には、この島へ来るまではちょいちょいプロデューサーの元へちひろさんからお小言が来ていたらしいが。

ちなみに私は、プロデューサーなら絶対大丈夫だと確信している。

誰からのアプローチにもすげなく流すし。

 

 

さて、そろそろ私もトリップしてる奈緒でも誘って泳ごうかな。

折角こんなに綺麗な海なんだし、勿体無い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「疲れた…」

 

 

我ながら恥ずかしい位はしゃいでしまった。

泳いだ後はかなり身体が重い。

棒になった足を引きずりながら宿泊先へと向かう。

 

 

私は奈緒と。

文香はありすちゃんと奏と。

プロデューサーは一人。

残り二人のフリーダムで一つ。

系4つのコテージに、それぞれ一旦別れた。

 

 

鍵を使って開ければ、正面には広大な海が広がる綺麗な部屋。

ジャグジーやアロマディフューザーも完備。

それだけで、再びテンションが上がる。

 

 

「おおお…ここはあのフルボッコちゃんが…」

 

 

隣で感銘を受けている奈緒をしばらく自由にし、パパッとシャワーを浴びる。

据え置きのアメニティもとても高そう。

メーカーは…S.I?聞いた事が無い。

兎も角さっぱりし着替えると、奈緒はベッドにダイブしていた。

 

 

「ふかふかだ…っ?!もう上がったのか?!」

 

 

「はいはいお姉さんを自称するならもう少し落ち着こう?シャワー浴びたら?」

 

 

顔を赤くした奈緒がシャワーを浴びている間、私はのんびりと夕焼けを眺める。

水平線へと沈んでゆく太陽。

卯月や未央にも見せてあげたかったな。

 

 

上がった奈緒と紅茶を淹れて一息吐き、ダラダラと過ごす。

あぁ…最近、忙しかったな…

電波も無いし、完全に俗世から切り離されている。

何も考えずにゆっくり出来る事が、こんなに幸せだとは。

 

 

しばらくして、コンコンとドアがノックされる。

鍵は掛けてないよーと返すと、プロデューサーが大きなクーラーボックスを担いでいた。

 

 

「おーい、起きてるかー?そろそろ夕飯作るぞ」

 

 

「寝てないよ、奈緒じゃないんだから」

 

 

「お、おまっ!あたしをなんだと思ってるんだ!」

 

 

何となくカーテンを閉めてからコテージを出ようとする。

ふと見れば、空はさっきよりも雲で包まれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

少し離れたキャンプ場的な場所へ着くと、既に奏とありすちゃんが野菜を切っていた。

具材的にカレーかな?

定番中の定番だし、奈緒が喜びそうだね。

 

 

「あれ?他の3人は?」

 

 

「文香さんは…ひと段落したら、と…」

 

 

成る程、これではどっちが年上か分からないね。

トライアドプリムスもそうだけど。

 

 

「フレデリカと周子はまだ呼んでないわ。ちゃんとした夕飯が食べたいもの」

 

 

「…うん、大体分かった」

 

 

「八つ橋カレーやカフェオレ風カレーなんて単語、初めて聞いたわ…」

 

 

「…想像以上だったよ」

 

 

兎も角、四人いれば充分だ。

米は少し離れた所でプロデューサーが炊いている。

飯盒なんてお目に掛かったのは小学生以来だ。

 

 

奈緒に玉ねぎを担当して貰い、私は火を起こして鍋を沸かす。

8人分ともなると結構な量で沸騰するまでまだかかりそうだ。

その間にフライパンで軽く玉ねぎを炒め…あ、順番間違えた。

…まぁ、いいよね。

少なくとも八つ橋カレーが完成するよりは。

 

 

全員手際が良く、あっという間に待つだけになる。

プロデューサーは少し離れたところで何やら思案中。

なんだろう、夜忍び込むコテージを選別してるのかな。

 

 

さて、あとは待つだけになった事だし残りの3人を呼ばないと。

ありすちゃんと奏を派遣し、再び奈緒と二人でのんびり火を眺める。

ふふっ、加蓮が悔しがりそう。

 

 

待っている間に全員分の飲み物を用意しないと。

こういう場所でお酒とか飲めたら楽しいんだろうな。

なんて考えながら麦茶を開けた。

 

 

「あれー、フレちゃん折角カップケーキ持って来たのにー」

 

 

「それは食後のデザートでいいじゃない」

 

 

何が残念なのか分からない会話をしながらぞろぞろと全員集まった。

…カップケーキって、カレーの具に合わないよね?

なんだか少しずつ私の中の常識が壊れてきている気がする。

私までフレデリ化しない様に気を付けないと。

 

 

鍋の蓋をとれば、ザ・カレーといった匂い。

そうそう、やっぱりコレだよね。

服にシミを作らない様にだけ注意して食器にご飯とカレーをよそう。

 

 

「「いただきます」」

 

 

うん、悪くないかな。

普通のカレーでも、こういう場所で食べると尚更美味しいよね。

夕飯で涼しいし、風も心地よい。

あぁ…夏を満喫してるなあ。

 

 

と、そこへ何やら神妙な顔をしたプロデューサーが現れた。

手に持った書類を見ながら、うんうん唸っている。

…あ、プロデューサーの分よそってなかった。

 

 

「あー…ごっほん」

 

 

「本でしたら…後で、私の部屋へ来て頂ければ」

 

 

「違うと思いますよ?あと、ほんと何冊持って来たんですか?」

 

 

「おぉ、ありすちゃん面白いねー。本だけにほんとだってさー」

 

 

「違います!あと橘です!」

 

 

「…橘ちゃん、だいたい30冊くらい…」

 

 

「ありすでいいです」

 

 

「…続けていいか?」

 

 

プロデューサー曰く、もしかしたら明日の昼から大雨が降るかもしれないらしい。

だから今夜のうちにボートを使って本島にいるスタッフ達と軽く打ち合わせをしておきたいとか。

確かにこの島に来るには船が必須だし、雨が降ったら船が出せない。

日程の延期等、プロデューサーとしての仕事をしなければならないそうだ。

 

 

幸い、この島から本島までは数キロも無い。

視界が晴れていれば視認できるくらいには。

とはいえ泳いで行ける距離ではなく、今のうちにボートで渡っておきたい、と。

まとめると、こんな感じだ。

若干3名のせいでなかなか会話が進まなかったけれど。

 

 

まぁ、別に暫くの間私達はオフだから延長しても問題ない。

食材や飲料水は大量にあるし、困るのは未読本が尽きた場合の文香くらいだろう。

そんな感じだから、と言ってプロデューサーもスプーンを動かした。

 

 

「お菓子足りるかなー?」

 

 

「しゅーこちゃんの鞄の半分は和菓子だからだいじょーぶだよ」

 

 

「わぁお、歩く和菓子屋さんだー」

 

 

そんなこんなで食後ものんびりと過ごす。

プロデューサーは既に自分のコテージへ戻り準備をしている。

奈緒は延長した場合に備えてアニメの録画予約をして来なかった事を後悔していた。

 

 

幸せな時間。

だから、だろう。

 

 

あんな事になるだなんて、想像すら出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おい凛!起きろ!!」

 

 

「…あと5分」

 

 

朝、まだラジオ体操をする様な早朝。

私は奈緒に叩き起こされた。

…まだ眠い。

取り敢えず、お約束の返事をしてみた。

 

 

「…起きろよ…!プロデューサーが!」

 

 

その単語を聞いた瞬間、私は飛び起きた。

見れば、奈緒の目は真っ赤になっている。

 

 

まさか、まさか!まさか!

 

 

急いで顔を洗うことすらせずにコテージを飛び出す。

海辺の方には、既にありすちゃん以外の4人が集まっていた。

そしてその全員が、本島の方を見ている。

 

 

「ねぇ、何があったの?!」

 

 

そう叫ぶも、誰からも反応は無い。

けれど。

返事が帰ってくるよりも前に、私は見た。

 

 

海から突き出た岩場。

その上に打ち上げられた、壊れたボート。

そして…

 

 

半身ほど水中に沈んでいる、プロデューサーの身体を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うそ…」

 

 

ポツリ、と呟く。

けれど誰からも反応は無い。

全員が完全に固まっていた。

 

 

「…まだ、助かるかもしれない!行かないと!!」

 

 

「やめろ凛!風が強いせいで波が高い!今泳いだら凛まで流されるぞ!」

 

 

そんな事は分かっている。

けれど、じゃあ何もせずに居るだけなの?

このままプロデューサーが、波に攫われそうになっているのを見ている事しか出来ないの?

 

 

「…ボートは?もう一隻ないの?!」

 

 

「プロデューサーは…あれ一台しか無いって…」

 

 

奈緒の指先には、岩に乗り上げたボート。

つまり、私達があの岩場に向かう手段は無い。

既に少し雨が降り始めていた。

 

 

「あ…」

 

 

口を開いたのは誰だったか。

見れば、左半身も少しずつ海に沈み始めていた。

けれど、誰も動かない。

動いても、何も出来ないのだから。

 

 

「待って!」

 

 

叫んで近付こうとした。

けれど現実は非情で。

 

 

少し高い波が、左半身も飲み込んでいった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…この事は…ありすちゃんには…」

 

 

「…そうね、今不用意に不安にさせる必要は無いわ」

 

 

「雨がやめばスタッフも来れるだろうしね、その時に説明して対応は任せよっか」

 

 

非現実的な事が起きたからだろう。

皆んな、若干思考が鈍っていた。

何故だかテキパキと、事が決まっていく。

 

 

けれど、空気は非常に重い。

そんな雰囲気が強くて、何も言い出せず。

ありすちゃんにはまだ伝えないと言う事で話はまとまる。

そしてそれぞれ、一旦コテージに戻る事になった。

 

 

奏と文香はしばらく海辺に留まるらしい。

雨が強くなったら戻ると言っていた。

私も本当はその場にいたかったけれど。

辛そうな表情の奈緒を見て、手を引っ張ってコテージへ連れ戻す。

 

 

「…夢じゃ、無いよね」

 

 

「…そうだな…夢だったら良かったよな…」

 

 

虚ろな表情で返す奈緒。

まるで心にポッカリと穴が開いてしまった様だ。

ふらふらと視線を天井へ向け、ベットへ倒れ込む。

 

 

「…プロデューサー…!」

 

 

少しずつ、涙声になってきている。

無理に止める必要も無い。

私は、優しく奈緒を抱き締めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…皆さん、大丈夫ですか?」

 

 

あっという間に、陽は落ちた。

せっかくのバカンスなのに、何かをする気も起きない。

ずーっとコテージで何をする訳でも無くぼーっとしていたら、気付けば夕飯の時間になっていた。

 

 

けれど、食欲なんて沸く筈もなく。

何となくでもお腹に入れられる様に、奏はスープとサラダを作ってくれて。

特に何も考えず、私と奈緒は只管にただ箸を口元へ運んでいた。

 

 

「だいたいだいじょーぶ!だって八つ橋だよー」

 

 

「意味が分かりません。文香さんも、中々本を放さず…いつも通りでした」

 

 

雨は未だ止まない。

寧ろ昼間よりも強くなっている。

しばらくは、スタッフもこの島へは来れ無さそうだ。

 

 

窓の外では、高い波。

昨日はあんなに綺麗だったのに、今では恐怖の渦を巻いている様に見える。

あの中に、プロデューサーは…

ポツリと呟いた奈緒の言葉は、ありすちゃんには届かずに済んだ様だ。

 

 

「そうね…今日は特に遊べなかったし、フレちゃんと周子のコテージの方でトランプでもしましょうか」

 

 

「私はパスかな、一応宿題持ってきてるしやっておかないと」

 

 

「おいおい、もう学校始まってるだろ…」

 

 

「提出日まではセーフだよ。それに、奈緒に手伝ってもらうつもりだったから」

 

 

少しずつ、食卓が明るくなってきた。

元より宿題に集中出来るなんて思っていなかったけれど、奈緒に手伝ってもらうというのは妙案だ。

微積や複素は任せるとしよう。

 

 

「じゃ、お菓子広げて待ってるから」

 

 

「心臓止めて、待ってるねー」

 

 

何時もの雰囲気で、フリダーム二人は自分達のコテージへと戻って行った。

 

 

「洗い物は私達がやっておくから、奏達も行ったら?」

 

 

「そう?ならお言葉に甘えさせてもらうわ」

 

 

フレデリカと周子に囲まれるのが嫌なのか若干嫌そうな表情をしているありすちゃんの手を引き、奏も一旦出て行った。

残された私と奈緒で、淡々と食器を洗う。

文香の分は、ラップを掛けて冷蔵庫へ。

コーンスープは温かくても冷たくても美味しい。

きっとそのために、奏はコーンスープにしたのだろう。

 

 

「なんだかなぁ…皆んな、無理してる感じがする」

 

 

「それはそうだよ…だって…」

 

 

それ以上の言葉は飲み込む。

きっと言っても、良い事は無いから。

 

 

元気が無いのは当たり前の事。

それでもありすちゃんを不安にはさせまいと気を遣えるだけ充分だろう。

まだ12歳の子に、大切な人の死は重すぎる。

事務所に戻ってからなら、ちひろさんが上手く対応してくれるだろう。

 

 

そんな会話を奈緒としながら、テキパキと洗い終えた食器を並べる。

拭くのは明日でいいだろう。

ガスと電気を消し、自分達のコテージへと戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…はい、奈緒の分」

 

 

「待て、その宿題は凛の分だからな?」

 

 

「先輩でしょ、このくらいぱぱっと終わらせないと恥ずかしいよ」

 

 

「えー…ってか、案外覚えて無いもんだぞ数学の公式なんて」

 

 

「なら運動方程式でもいいよ」

 

 

この際だ。

一気に押し付けておこう。

 

 

カリカリと、シャーペンの音だけが部屋を埋める。

こうしてみると、案外集中出来るものだ。

寧ろ現実から目を逸らしたいからかもしれないけれど。

 

 

二時間もすれば、問題集の半分以上は埋まっていた。

この分なら最初の授業の日には間に合いそう。

よかった、これでニュージェネ間での面子は保たれる。

 

 

こんこんこん

 

 

と、丁度一息ついてコーヒーにしようと思っていたタイミングでドアがノックされた。

鍵は掛けてないよーと返すと、傘を片手にありすちゃんが辛そうな表情で立っている。

何か、あったのだろうか。

嫌な予感がした。

 

 

「あの…もしよろしければ、一緒にトランプでも…」

 

 

成る程、あの空間が辛かったようだ。

少しでも緩和為るために私達を呼びに来た、と。

きっと弄られっぱなしだったのだろう。

かわいそうに、矛先を奈緒に代えてあげよう。

 

 

「じゃ、丁度ひと段落したし私達も混ざろうかな」

 

 

「6人入れば大富豪も楽しいしな。少しお菓子持ってくか」

 

 

おそらくフルボッコちゃんの食玩が付いていたであろうチョコの箱を数個かかえ、周子達のコテージへ向かう。

扉を開ける前から、楽しそうな声が聞こえてきた。

というか、五月蝿い。

正直回れ右したくなる。

 

 

「わぁお、ありすちゃんが3人にふえたよー」

 

 

「まさか…伊賀の者なのか?!」

 

 

アホな会話をスルーし、テーブルを囲む。

既に奏が飲み物を用意してくれていた。

このコテージにいた3人の内で最年少な筈なのに一番大人だ。

 

 

「橘です!あと忍者は他の方のアイデンティティを取ってしまうので」

 

 

子供なありすちゃんはスルー出来なかったようだ。

ふっ…そのくらい聞き流せないと蒼は名告れないよ。

 

 

「階段は無し、ベーシックなルールでいいわよね?」

 

 

「ローカルルール多いしな…クラス替えの後のレギュレーション整備も醍醐味だけど」

 

 

そんなこんなで手元にトランプが配られる。

そう言えば、シンデレラプロジェクトの方でも夜通し醍醐味をやった事があるらしい。

その時の事を聞くと、杏ときらりは顔を顰めるけれど。

一体何があったのだろう?

 

 

「いぇーい、八切革命おわりーん」

 

 

「じゃーフレちゃんもあっがりー」

 

 

「よく3と4だけ残してましたね…革命されなければ上がれないじゃないですか。此処はもっと最善手を…」

 

 

結果、ありすちゃんは大貧民になった。

わいわいがやがや。

笑顔が飛び交う。

 

 

なんやかんや、楽しめてるな。

現実逃避かもしれないけど。

え、私?平民だったよ。

奈緒が貧民だった。

 

 

楽しい時間。

だけれど、私達は一つ忘れていた。

 

 

この場には、文香が居ないと言うことを。

 

 

ありすちゃんは本を読んでいると言っていたけれど。

本当に彼女は、いつも通り本の世界に入り込めていたのだろうか。

 

 

その時は、そこまで思考が回らず。

暫く馬鹿騒ぎした後に、お開きとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんこんこん!こんこんこん!

 

 

大きなノック音で叩き起こされた。

カーテンから覗ける外は、まだ太陽も出ていない。

誰だろう…こんな朝早くに。

 

 

「鍵は掛けてないよ」

 

 

眠い目を擦りながら、私は呟く。

当然声が小さ過ぎて扉の外までは届かなかっただろう。

けれど、そんなの御構い無しと言ったように勢いよく扉が開かれた。

 

 

「すみませんっ!此処に文香さんは居ませんか?!」

 

 

傘も差さず、ありすちゃんは肩で息をしていた。

それだけで只事では無いと分かる。

 

 

「どーしたんだー…こんな朝早くに…」

 

 

奈緒はまだ寝惚けている。

 

 

「文香?来てないけど…」

 

 

ありすちゃんの顔が青ざめる。

 

 

「居ないんです!私達のコテージにも!」

 

 

「っ?!詳しく話して!」

 

 

飛び起きた奈緒と、事情を尋ねる。

一旦ありすちゃんを部屋に入れ、タオルを渡す。

少しずつ落ち着いてきたのか、息が整ってきた。

 

 

「昨日の夜コテージに戻った時、まだ本を読んでました。けれど…真夜中に、傘を二本も持って外へ行ってしまって…」

 

 

…まさかっ!

 

 

「奏は起きてる?!」

 

 

「はい、フレデリカさん達の方に…けれど、文香さんがあっちにいる可能性は…」

 

 

それはそうだろう。

文香があのコテージへ行く理由は無い。

そもそも、何かそっちへ用事があったとして。

 

 

傘を二本も持って行く理由が無い。

 

 

「入れ違いになると困るから、ありすちゃんは自分のコテージに居て。私と奈緒で探してみる」

 

 

けれど、何となくだけれど。

文香の居場所には心当たりがあった。

きっと、もしかしたら。

彼女は…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小走りに傘を抱えて、私達は海辺へと向かう。

途中で周子と奏と合流した。

やはり、辿り着く結論は同じ様だ。

 

 

「…嫌な予感はしていたわ…でも、まさかね…」

 

 

「杞憂で済めばいいけど…奏達のコテージに戻ったら、本でも読んでるかもよ」

 

 

軽い冗談を飛ばすも、誰も全く笑わない。

当たり前だ、こんな状況なのだから。

重い足を無理やり前へと進める。

少しずつ、海辺へ近付いてきた。

 

 

…やっぱり。

 

 

「お、おい!あれ!」

 

 

奈緒が指を差すよりも早く、周子と奏は走り出していた。

砂浜の、ギリギリまだ波が届かない位置に。

 

 

傘を片手に、胸をもう一本の傘で貫かれて倒れている文香がいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「嘘だろ…」

 

 

隣では奈緒が呆然としている。

私の足も、止まってしまった。

 

 

衝撃的過ぎた。

ほんの十数メートル先には、昨日まで一緒に活動していたユニットメンバーが無残な姿で倒れているのだから。

あまりにも、非現実的過ぎる。

 

 

「…貴女達は、あまり近付かない方がいいわ」

 

 

「取り敢えず、被せる布だけ持ってきて貰っていい?」

 

 

気を遣ってくれた奏と周子に従い、私達は一旦コテージへと戻る。

その間、当然ながら無言。

言葉も何も出てこなかった。

 

 

クローゼットを開け、シーツを数枚取る。

思考がまだ追いつき切っていないからだろう。

文香に起きた事自体よりも、ありすちゃんにどう説明すればいいかを。

ずっと考えていた。

 

 

こんこんこん

 

 

扉が数回ノックされる。

けれど返事をする前に、扉は開かれた。

 

 

「あの…居ても立っても居られなくなってしまって…え?」

 

 

…最悪のタイミングだ。

よりにもよってシーツを運び出そうとしているところで、ありすちゃんに見つかってしまうなんて。

思わず舌打ちしそうになる。

 

 

「っ!何があったんですか!」

 

 

「えっと…あの…だな」

 

 

奈緒が言葉に詰まる。

当たり前だ、説明なんて出来るはずが無い。

私達ですら現実を正しく把握できていないのだから。

 

 

…もう、隠してられないね。

 

 

「…ついて来て。話さなきゃいけない事があるんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「嘘…ですよね」

 

 

「…ありすちゃん、あまり近付かない方がいいわ」

 

 

バツが悪そうに、奏は注意する。

未だ私と奈緒も少し離れた所からしか直視出来ない。

もっとも、それを直視と呼んでいいのか甚だ疑問ではるけれど。

 

 

既に到着していたフレデリカと周子が、ゆっくりと文香にシーツを掛けて運んでいた。

傘は既に抜き取ってある。

それから滴る赤い液体が、物語の悲惨さを物語っていた。

 

 

「プロデューサーのコテージに連れてくね」

 

 

「分かったわ。それじゃ私達は、一旦解散しましょうか」

 

 

「どうして…」

 

 

そんな淡々と進む光景を見て、ありすちゃんは叫ぶ。

 

 

「どうして!みなさんはそんなに冷静でいられるんですかっ!!」

 

 

誰も、答えられない。

多分現実について行けてないからだとは思うけれど。

そんな返事を、今のありすちゃんに出来るはずが無いのだ。

あれだけ文香を慕っていたのだから。

 

 

暫く続く沈黙。

最初に破ったのは、奏だった。

 

 

「そうね…それも説明しないといけないわね。その為にも、一旦コテージへ戻りましょう。凛と奈緒も来てくれると嬉しいわ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…そんな…プロデューサーまで…」

 

 

昨日起きた出来事を説明するのに、大分時間を要した。

ありすちゃんに出来る限りショックを受けさせない様に言葉を選びながら。

自分達の気持ちの整理がついていないのに。

それでも、きちんと説明した。

 

 

もうこうなってしまっては、隠す事に意味など無いのだから。

むしろ、きちんと全員で考えなければならないのだ。

そうすべき事が、出来てしまったのだから。

 

 

「問題は…そうね。果たして、本当に文香の件が自殺かって事よ」

 

 

「…そうだよな…幾ら何でも…」

 

 

傘で自分を突き刺すなんて無理がある。

そう続けようとした奈緒が、途中で言い難くなって言葉を止めた。

 

 

一人で傘を二本持ち、真夜中に海辺へと向かう。

それだけなら、プロデューサーを想っての行動と認識は出来る。

けれども、そのまま自殺してしまう様な人だっただろうか。

 

 

「事故でああなるとは思えないわ。自殺の可能性も無くは無い。けれど…」

 

 

一息ついて、奏は続けた。

 

 

「他殺、と言う可能性が大きい気がするわ」

 

 

「だよな…この島に、あたし達以外の奴がいないとも限らないし…」

 

 

むしろ、そうとしか思えない。

幾ら何でも自分に傘を突き立てるだなんて無理がある。

誰かにやられたとしか…

 

 

そして、そうなってくると。

懸念すべき事がまた出てくる。

 

 

「まだそうとは断定出来ないけれど、気を付けなくてはいけないわ。みんな、厳重に注意してスタッフを待ちましょう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「だよねー…そんな気はしてけどさ…」

 

 

周子達のコテージで一度話を纏める。

文香を近くで見ていただけあって、その考えに直ぐ至った様だ。

 

 

「もしかしたら強風に煽られただけかもしれないけれど、気を付けておくに越したことは無いわ」

 

 

「私達も、きちんと鍵を掛けないとね。幾ら何でも不用心過ぎたかも」

 

 

不安を紛らわすべく、少し戯けてみる。

当然そんな事で緩和されるはずもないが。

 

 

コテージを出る時は出来る限り二人以上で。

雨と風も強いし海辺には近付かない。

必ず鍵を掛ける、等。

注意すべき事を出し合って、話をまとめていく。

 

 

けれど恐らく、誰も言わないけれど。

心の何処かで一つ。

とある考えが浮かんでいた筈だ。

 

 

「さて…そんな気は起きないでしょうけれど、朝食にしましょうか」

 

 

「そーだね、何も食べずに体調壊すわけにもいかんし」

 

 

キッチンとテーブルのあるコテージへと移動する。

傘が一本足りない為、ありすちゃんは奏と共同で一本だ。

とは言え風が強いせいで、ズボンや靴は濡れてしまっているけれど。

 

 

鍵を開け、電気を付ける。

テーブルの上には食器が重ねられていた。

そう言えば、翌朝やろうと思ってだんだ…

完全に忘れてしまってた。

 

 

「トーストとサラダでいいわよね?」

 

 

「フレちゃんはコーヒーを御所望するよー」

 

 

「わ、私は紅茶で…」

 

 

先日事務所のカフェでブラックコーヒーを飛鳥と飲んでいるのを見かけたが、どうやらありすちゃんは無理をしていた様だ。

私は…ミルクティーにしようかな。

そう思って冷蔵庫を開けるも、中は空っぽだった。

 

 

「何も無い…牛乳はないの?」

 

 

「こういう場所にワザワザ持ってくる奴はいないんじゃないか?」

 

 

奈緒にバカにされた。

悔しいからインスタントコーヒーの粉を通常の二倍近くで淹れてあげる。

苦いけど噴き出さないくらいの絶妙な量だ。

未央から教えられて活かす機会なんて無いと思っていたけれど、人生何があるか分からない。

 

 

皆食欲はあまり無いけれど、それでもお腹は空いているようだ。

ゆっくりとだけれどトーストを齧る。

会話も少しずつ増えていた。

 

 

「じゃ、今回はあたし達が洗っておくよ」

 

 

周子とフレデリカが洗い物を請け負ってくれた。

お言葉に甘え、私と奈緒はコテージへと戻る。

雨は全く衰えていない。

途中強風が吹いたせいで、ズボンがかなり濡れてしまった。

 

 

鍵を開けて、エアコンで除湿をつける。

部屋もかなりムシムシしてきていた。

 

 

「軽くシャワーでも浴びようかな。奈緒は?」

 

 

「あたしはいいよ、髪乾かすの面倒だし」

 

 

面倒て…確かに奈緒の長さと量だとかなり大変そうだけど。

ぱぱっと身体を洗い、部屋着に着替える。

ドライヤーで髪を乾かしている間、色々と考えていた。

 

 

これから、どうすればいいか。

 

 

「奈緒ー」

 

 

「…んー…」

 

 

…寝ていた。

体力的にも精神的にも疲れてしまったんだろう。

部屋着に着替えるだけの元気すら残っていなかったみたいだ。

 

 

まったく…

 

 

ベッドの真ん中まで運んであげる。

ついでに横に添い寝して、背中をポンポンと叩いてあげるオプションサービス付きだ。

 

 

「…歳上とは思えないなぁ…」

 

 

本人に聞かれたら怒られそうな事をポツリと呟く。

割と普段から言っているけど。

 

 

ざあざあと、雨の音だけが響くコテージ。

少しずつ私の意識も薄れていった。

 

 

 

 

 

 

ザーッ!と、雨の音であたしは目を覚ます。

 

 

「…奈緒…な……お…………」

 

 

気付けば、眠っちゃってた様だ。

色々とあったせいで良い感じに疲れが溜まってたんだろう。

同じコテージの凛にみっともない姿を見られちゃったかもしれない。

はぁ…バカにされるネタを自ら提供しちゃうなんて…

 

 

ふと隣を見れば、同じベッドで凛が寝ていた。

もしかしたら、あたしを安心させる為に横に居てくれたのかもしれない。

はぁ…一応歳上だってのにな。

なかなかお姉さんっぽい所を見せてやれてない。

 

 

凛も寝てるし、起こしちゃ悪いな。

そう思って、そこで違和感を感じた。

 

 

なんで、窓が開いてるんだ?

なんで、凛はあんなに苦しそうにあたしの名前を繰り返してたんだ?

なんで…白かったシーツは、こんなに赤くなってるんだ?

 

 

「…うそ…だよな?」

 

 

返事は無い。

少しずつ、現実を理解し始めた時。

 

 

あたしは奏達のコテージを目指して、走り出していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「奈緒はありすちゃんを連れて周子の方に向かって頂戴。私はフレデリカと凛の方に向かうわ」

 

 

奏とありすのコテージに到着すると、本を抱えたフレデリカも居た。

焦りながらも端的に状況を説明。

あたしを落ち着かせながらも話を纏めて指示を飛ばしてくれた奏に感謝し、ありすと共に周子のコテージへと向かう。

 

 

「…凛…大丈夫だといいんだけどな……」

 

 

「だ、大丈夫ですよ。きっと体調を崩してしまっただけです」

 

 

年下のありすに慰められながら、強い雨の中を歩いた。

もし、あたしがしっかりと起きていたら。

もしかしたら、助けられたかもしれないのに。

 

 

こんこん、と扉をノックする。

 

 

「あたしとありすだ、開けてくれないか?」

 

 

「はいはーい」

 

 

鍵が開く。

扉の先には、タオルを頭にかけた周子がお煎餅を咥えていた。

 

 

「どしたのーん?何かあった?」

 

 

のんびりと、お茶を出してくれる。

けれども今は落ち着いている場合ではないのだ。

だって…

 

 

「凛が…やられた…」

 

 

「…は?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…手遅れ、だったわ…」

 

 

「…そうか…」

 

 

残りの全員を集め、奏はそう報告した。

 

 

なんだかもう、何かを叫ぶ気力すら残っていない。

あたしはただ項垂れていた。

周子が気を利かせて背中をさすってくれている。

きっと普段だったら、その役割は凛のモノだったろうに…

 

 

すぐ横に、凛はいたのに。

あたしは何も出来なかった。

無力感が心を埋める。

 

 

「貴女が気にする事では無いわ…と言っても気休めにすらならないでしょうけど」

 

 

凛の身体は、プロデューサーのコテージへ運んだらしい。

奏は直ぐこのコテージへと来たからフレデリカ一人で運んだのだろう。

見かけに寄らず案外力がある様だ。

 

 

「窓は開いていたけれど、破られた形跡は無いわ。つまり、内側から開けたという事ね」

 

 

「凛はちゃんと扉の鍵は閉めてた筈だ。だとすると…」

 

 

言葉を続けるのが怖い。

恐らく誰もが思い浮かべているであろう事。

けれど、それを口にする訳には…

 

 

「…私から言わせて貰うわね」

 

 

はぁ…と、一息ついて奏は続けた。

 

 

「恐らく、凛は自ら窓を開けた。つまり…彼女の知っている人が…」

 

 

全てを行った。

そう言葉にしたとき、コテージは一気に鎮まった。

 

 

体感温度がぐっと下がる。

そんな気はしていた、けれど。

言葉にされると、余計にショックが大きかった。

 

 

「…貴女達を疑いたい訳じゃないけれど…そうとしか思えないのよ」

 

 

「あ、あたしじゃないぞ!あたしが凛を…そんな事!」

 

 

「分かってるわ。犯行は誰にでも可能だもの」

 

 

違う、そうじゃない!

そういう事を言いたいんじゃなくて…

 

 

空気がピリピリとしてきた。

つい昨日まで仲良く会話していた人が、途端に怖くなってくる。

誰もが、口を閉じたまま。

雨と時計の音だけが、コテージに反響していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結局その後、あたしは自分のコテージへと戻った。

ありすちゃんを不安にさせる訳にはいかないわ、と。

奏もたま、一人でコテージへと戻って行った。

フレデリカ、周子と三人でなら不安も紛れるだろう。

 

 

特にこの場合、一人よりも二人の方が怖いのだから。

 

 

はぁ………

 

 

大きく溜息を吐き、鍵を閉める。

窓から吹き込んだ雨で濡れている床もそのままに、私は再びベッドへと倒れこむ。

シーツは、奏かフレデリカが取り替えてくれた様だ。

 

 

…さっきまで、隣には凛が…

 

 

「嫌だなぁ…こんな空気」

 

 

誰かが誰かを疑っている。

そんな風になる日が来るだなんて、みじんも想像できなかった。

ほんの数日前まで笑いあって、励ましあって。

共に進んできた仲間だったのに。

 

 

何となく、部屋に居たくなくなって。

あたしは一度外の空気を吸おうとコテージから外に出た。

相変わらず雨と風が強い。

何時になったら、収まるんだろう。

 

 

「…あれ?」

 

 

遠くに、誰かの人影が見えた。

目を凝らせば、フレデリカの様だ。

その両腕には何かが積み上げられている。

何かを運んでいる最中みたいだ。

 

 

クーラーボックスか?

 

 

そんな事を考えている内に、姿は見えなくなった。

くそっ、雨のせいで視界が悪い。

まぁ後で聞けばいいか。

 

 

そう結論付け、あたしは再びコテージへと戻った。

 

 

少しでも落ち着く為にコーヒーを淹れる。

テーブルに乗った凛の宿題からは出来るだけめを逸らして。

ゆっくりと、一息つく。

 

 

…疲れてるなぁ…

 

 

再び襲ってきた睡魔に、コーヒーは大して仕事をしてくれなかった。

仕方がない、逆らわずに寝ておこう。

きちんと扉と窓に鍵が掛けられている事をチェックし、あたしは意識を放り投げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんこん、こんこん

 

 

ノックの音で目を覚ます。

 

 

「鍵は掛けてな…あ」

 

 

いい掛けて、途中で思い出した。

現状、そして鍵を掛けていたと言う事を。

 

 

のそのそと歩いて鍵を開けると、傘をさした奏が立っていた。

 

 

「そろそろ夕飯にしない?そんな気分じゃないなもしれないけど、倒れても大変よ」

 

 

「…そうだな、一応何か口に入れておくか」

 

 

「フレちゃんと周子が作ってくれてるわ」

 

 

傘を取り、雨の中奏と歩く。

それにしても…同い年の筈なのに奏はよくこんなに落ち着いていられるな。

その冷静さは素直に羨ましい。

 

 

「…なんだか、色々あり過ぎて頭が追いつかないよ。奏はよくそんなに落ち着いてられるな」

 

 

「私だって参ってるわよ…でも、他の子達を不安にさせる訳にはいかないもの」

 

 

頼りになるなぁ。

あたしも、そんな風に振る舞えたら良かったんだけど。

 

 

少し歩くと、向こうからありすと周子が歩いて来るのが見えた。

どうやら彼方のコテージには周子が呼びに行ったらしい。

少し二人の間に距離がある様に見えるけれど、それも仕方のない事だろう。

 

 

「夕飯はこのしゅーこちゃんが腕をふるってあげたからねー、味の保証はしないけど」

 

 

ようやく会話が出来た、と。

笑いながら言葉を掛けてくる。

少し離れた所からは、ありすが無表情で此方を見ていた。

 

 

「黒糖饅頭スープって言葉がさっき聞こえたけど、大丈夫なのよね?」

 

 

「流石に今はそんな事しないかな」

 

 

普段だったらするのだろうか?

 

 

他愛の無い会話を交わしながら、キッチンのあるコテージへと到着。

ありがたい事に、雨で服がびちゃびちゃになる事は無かった。

 

 

「あれ?ドア開けっ放しやん。奏最後開けっ放しで出てきたん?」

 

 

「バカにしないで、そんな事しないわよ」

 

 

一瞬にして空気が固まる。

幾ら何でもフレデリカがこんな状況で扉を開けっ放しにするとは思えない。

 

 

だとしたら…

 

 

…まさかっ!

 

 

あたしが走るよりも先に、周子はコテージへと駆け込んだ。

少し遅れて奏とあたしも追い掛ける。

 

 

「フレデリカ!大丈夫?!」

 

 

「…3人とも…あんま、近付かん方がいいかもよ」

 

 

周子がそう忠告してくる。

ありすをコテージの外で待たせ、あたしと奏は近付いた。

 

 

何かが倒れているのが見える。

 

 

それは、人の形をしていて。

床は赤いペンキをブチまけた様に染まっている。

 

 

「…うそ、だろ?」

 

 

両腕で身体を抱き締める様にして。

口に大量のフォーク・ナイフ・スプーンが突き刺さったフレデリカが倒れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もう言葉も涙も、何も出てこなかった。

心が麻痺してしまったのかもしれない。

目の間で起きている現象を、認識したくないからかもしれない。

 

 

フレデリカの身体は、周子が背負ってプロデューサーのコテージへと運んでいった。

その間あたし達は、椅子に座ってただぼーっとしている。

誰も口を開かない。

あまりにもショッキング過ぎて言葉が出てこないのだ。

 

 

テーブルの上には美味しそうなスープが五つ。

けれどうち一つは、決して手をつけられる事は無い。

 

 

「…早く、晴れると良いわね」

 

 

そんなありふれた世間話に対しても、返事は無い。

ありすはずっとテーブルを見つめていた。

 

 

「…ただいまー」

 

 

「ごめんなさいね、辛い事をお願いしちゃって」

 

 

コテージに戻った周子も、椅子についてまた黙ってしまう。

雨音はまだ、強いままだ。

 

 

「食欲なんて無いでしょうけれど、一応食べておきましょうか」

 

 

そう言って奏は、ゆっくりとスプーンを動かした。

ありすは、何かを警戒している様で食事に口をつけない。

当然あたしも、食事なんてなかった。

 

 

けれど、食べなければ。

せっかくフレデリカと周子が用意してくれたのだから。

そうは思っても、なかなか腕は動かない。

 

 

「いよし、あたしも食べよーかなー」

 

 

周子も、一息ついて腕を動かし始めた。

 

 

フレデリカの件について、なんとなく考えている事はある。

高確率で、可能性的には。

 

 

周子か奏が、犯人と言う事だろう。

 

 

ありすはコテージにいたらしいし、あたしが犯人でない事はあたしが一番分かっている。

となると、二人しか犯行可能な人物はいないのだ。

けれどそんな事、口に出したく無い。

これ以上嫌な雰囲気の中、晴れるまで待つなんて嫌だから。

 

 

「おいしいね、このスープ」

 

 

「ふふっ、貴方達が作ったのでしょう?」

 

 

「味見なんてしてないよ。大体目分量だったし」

 

 

既に二人は、何時もの雰囲気に戻っている。

怪しいと言えば何方も怪しい。

 

 

「にしても、何時になったらこの雨は止むのかしら」

 

 

「あ、それなら…」

 

 

ふと、周子が腕を止めた。

 

 

「さっき西の方の空を見たんだけどさ、雲が少しずつ薄くなってたよ。だから…」

 

 

お!もしかして!

 

 

「もう直ぐ……ゔっ!?」

 

 

…え?

 

 

バタン、と。

言葉の途中で、周子がいきなり倒れた。

 

 

「…周子?……周子!!」

 

 

「ちょっと、こんな時に悪ふざけなんてよして頂戴…周子?」

 

 

隣に座っていた奏が周子の元へ駆けつける。

 

 

「…大丈夫、ですか?」

 

 

「ありすちゃん、その食事に口をつけないでね」

 

 

冷静に、奏がありすへと注意を飛ばす。

少しずつ足元に、何かが広がってゆく。

 

 

あぁ、さっきも同じモノを見たな。

 

 

随分と、あたしは冷静だった。

床が血で染まっているだなんて、本来ならトラウマものなのに。

既に心は疲れ切っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…一旦、自分のコテージに戻るわ。貴女達も、鍵を掛けて気を付けて」

 

 

食器もそのままに、奏はそそくさと出て行ってしまった。

流石に堪えたのだろうか、と。

そう、昨日までのあたしならそう判断していただろう。

 

 

けれど。

 

 

「…奏さん、ですよね。この件の犯人は……」

 

 

ありすの一言で、あたしは改めて認識した。

二択から周子が外れた今、もう奏しかありえないのだ。

それ以外の人がこのキッチンのあるコテージには居なかったのだから。

 

 

「…もう直ぐ、晴れるって。周子はそう言おうとしてたよな」

 

 

「はい…だとしたら……」

 

 

スタッフは、もう直ぐこの島に来る。

それは奏も分かっている事。

 

 

ならば。

 

 

それよりも前に、何か行動を起こしてくる筈だ。

ありすの方へ行くかあたしの方へ来るかは分からない。

けれど、確実に。

何かしらのアクションがある筈だ。

 

 

「奏さんも、自分が疑われていると気付いてる筈です」

 

 

「だから自分のコテージに戻って準備を整えてる。そう考えるのが自然だな…」

 

 

結局周子が何故倒れたのかはっきりとはしていない。

けれど恐らく、毒的なモノだろう。

そして食事に毒を盛るチャンスがあったのは、奏しかいないのだ。

 

 

「…きちんと、作戦を立てましょう。これを奈緒さんに渡しておきます」

 

 

「これは…コテージの鍵じゃないか!」

 

 

「ここへ来る時、閉めずに出てきました。ですから私は鍵が無くても入れます」

 

 

でももしあたしが犯人だった場合、ありすに逃げ道はなくなる。

それをあたしに渡すと言う事は…

 

 

「信頼してはいます。けれども奈緒さんが私を信頼してくれているかは分かりません。ですから、その証として…」

 

 

「安心しろ、あたしは絶対に違うから」

 

 

「…一旦それぞれのコテージへ戻りましょう。一時間後に、私のコテージに来て下さい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…はぁー…」

 

 

一人でコテージへと戻り、大きく息を吐く。

緊張で胃が痛い。

色々な考えが頭を埋める。

 

 

なんで、こんな事をしたんだろう。

動機もなしにこんな事をするとは思えない。

何かしらの理由があるはずだ。

けれど、いくら考えても分かるはずがなかった。

 

 

取り敢えず、これからどう動くかだけ考えないと…

 

 

こんこん、こんこん。

 

 

立ち上がった時、扉がノックされた。

一瞬にしてあたしは身構える。

ありすは一時間後に自分のコテージに来てと言っていた。

 

 

つまり。

今ノックしているのは、高確率で奏だ。

 

 

「…奈緒…開けて」

 

 

怖くなって、居留守を使おうか迷う。

今開けてバッサリなんてまったくごめんだ。

よし、寝ている事にしよう。

それなら一番難なく流せる。

 

 

「……奈緒……」

 

 

ふと、何やら奏の声がおかしい事に気付いた。

何時もより覇気が無いと言うか、元気が無いと言うか。

そう、まるで。

 

 

今にも息絶えそうな、必死な声…

 

 

「どうした!奏?!」

 

 

いてもたっても居られず、あたしは扉を勢いよく開けた。

これでやられたらそれはその時だ。

それでも、やっぱり。

あたしは仲間を見捨てるなんて出来ない。

 

 

扉の先には、やはり奏が居た。

その手には大きな斧が握られている。

真っ赤に染まった、腕や足くらいなら両断出来そうな斧。

頭をやられたら、一瞬であの世へご招待されるだろう。

 

 

けれど、あたしがそれを恐れる事は無かった。

何故なら…

 

 

奏は既に、赤に染まって地に伏していたから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…は?」

 

 

思わず、間の抜けた声を出してしまう。

奏がやられた?何故だ?

そんな筈はない。

だって、おかしいじゃないか。

 

 

奏が犯人じゃないとしたら、一体誰が…

 

 

「奈…緒……これ…を、見て………」

 

 

息も絶え絶えに、奏はあたしに何かを渡そうとした。

何とかして両手を伸ばす奏から、あたしは何かを受け取る。

それは、さっきから存在感を主張している大きな斧。

 

 

そして一冊の本だった。

 

 

「おい!奏!!何があったんだ!」

 

 

返事は無い。

それ以降、奏の口が開く事はなかった。

 

 

「おいおい嘘だろ!だとしたら誰が!」

 

 

そこであたしは、一つの考えに辿り着いた。

序盤にその考えは放棄してしまっていたけれど。

 

 

この島には、まだ誰かが潜んでいるという事に。

 

 

よくよく考えれば、そうとしか思えなかった。

現時点で動けるのはあたしのありす。

そしてその両者に、犯行は不可能だ。

ならば、他にも誰ががいるに決まっている。

 

 

凛の件も顔見知りしか成しえないと思っていたけれど。

犯人が凛を脅し、あたしを助ける為に自分一人が犠牲になったと考えれば…

凛が冷蔵庫を開けた時中は空っぽと言っていたけれど、あたし達は前日文香のスープを冷やしておいたのだ。

誰かが勝手に飲んでしまったのだとしたら…

 

 

まずいっ!ありすが!

 

 

「…え?奈緒さん……?え…………?」

 

 

「よかった、ありす…………?」

 

 

心配になったのか、ありすはあたしのコテージの近くまで来ていた。

けれど様子がおかしい。

まったく此方へ近付く気配が無い。

なぜだ?

 

 

ありすの表情は恐怖にそまっていた。

一体、なんでだ…?

 

 

と、そこであたしは思い出した。

 

 

あたしは今、奏から受け取った大きな斧を持っているという事を。

そして足元には赤く染まった奏の身体。

客観的に見てどう判断されるかだなんて、考えるまでも無い。

 

 

「ち、ちがっ!」

 

 

「いやぁぁあ!!いやぁぁぁぁぁぁぁあ!!!」

 

 

走って自分のコテージへと戻って行くありすを、あたしは全速力で追いかけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雨は、既に上がっている。

あと少しすればスタッフが来る筈なんだ。

それまで、ほんとにあと少しでいい。

なんとかしてありすを守らないと。

 

 

見失ってしまったありすを探し、あたしは島を駆け回った。

コテージの鍵はあたしが持っているから、コテージに逃げ込んだとは考えづらい。

キッチンの鍵もあたしが持っている。

プロデューサーのコテージと奏のコテージの鍵は奏が持っていた筈だ。

一体何処に…

 

 

何処かに潜んでいるかもしれない犯人の事すら忘れ、あたしは一人で走り回った。

なんとかしてありすが襲われる前に見つけて誤解を解かないと。

皆んなでお互いを信頼して協力していれば避けられた事件なんだ。

絶対に見つけてみせる。

 

 

また再び、ポツポツと雨が降り始めた。

けれど空に雲は少ない。

この程度なら船を出すのに問題は無い筈。

 

 

「ふふっ…まったく、文香さんは…」

 

 

何処からか、ありすの声が聞こえてきた。

絶対近くにいる筈だ。

はやくありすの元へ!

 

 

「こんな時まで本を持たなくても…ほら、本が濡れちゃいますよ。防水の電子書籍に……」

 

 

見れば、崖に向かってありすが歩いていた。

 

 

「おーい!ありす!!」

 

 

けれど何やら様子がおかしい。

まるで見えない誰かと手を繋いで歩いているように不自然に片手が伸ばされていた。

そして、見えない誰かと会話をしている。

 

 

「あ、見て下さい!空に虹が架かってますよ!」

 

 

「おい!ありす!」

 

 

大きな声で名前を呼んでも、反応は無い。

そのまま、見えない誰かと共に歩き続けていた。

 

 

まずい!このままじゃ崖から!!

 

 

「とまれ!ありす!!」

 

 

「もっと、近付いてみましょうか。まるで空に橋が架かったみたいですね」

 

 

あたしの声は虚しく空へと消える。

 

 

歩き続けたありすは、そのまま崖から踏み出し。

あたしの視界から姿を消した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…ははっ…あたし一人になっちまったな……」

 

 

なんだかもう、悲しむ気力も無い。

兎に角疲れた。

いっそこのまま、雨に打たれて眠ってしまおうか。

 

 

どうして…こんなことに、なったんだ…

 

 

今更あたし一人が事務所へと戻れたところで…

もう、一緒に活動していた仲間はいないんだ。

せっかく、頑張ってきたのに。

 

 

ふと思い出したのは、あたしのデビュー曲。

あたしの為に必死に走り回ってプロデューサーが用意してくれた、あたしだけの歌。

もう、歌う機会も無いんだろうな…

 

 

なんとなく、口ずさんでみる。

 

 

雨の中、虹のかかった空を背景に。

ちくしょく、現状にぴったりじゃないか。

 

 

…あれ?

 

 

口ずさんでいて、何かがひっかかった。

止まっていた時が動き出した様に、一瞬にして思考が冴える。

 

 

最初に、プロデューサーが。

左半身が雨に打たれ、凛が近付こうとしたら波に攫われた。

 

 

二番目に、文香が。

一本傘を手に持ち、二本目の傘で貫かれ。

 

 

三番目、凛が。

あたしのすぐ隣で、あたしの名前を呼んで途絶えた。

 

 

四番目、フレデリカが。

自分を抱きしめる様にして。

口にスプーン・フォーク・ナイフ、つまり箸以外を刺されていた。

 

 

次に、周子が。

もう直ぐ晴れる、と。

言えずに倒れ。

 

 

その次に、奏が。

あたしの知らない本と斧を渡し、見せて。

 

 

最後に、ありすが。

雨の中手を繋ぐ様に、虹の橋へと向かって行った。

 

 

…なんだ、そういう事だったのか。

最初から犯人の狙いはあたし一人だった様だ。

その為に、他のみんなは…

 

 

だとしたら、そろそろあたしも狙われる頃だ。

 

 

けれど、最後まで思い通りになんてさせない。

最後に失敗させてやる。

それが、あたしに出来る唯一の事だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…ようやく、気付いたみたいだよ」

 

 

木々に隠れている私はそう報告した。

背後では、わいわいがやがやと皆が騒いでいる。

 

 

…隠れてるんだから、もう少し静かにしてくれないかな。

 

 

「…奈緒さんには、申し訳ない事をしてしまいましたね」

 

 

「でもありすちゃんノリノリだったよねー」

 

 

「それは…どんな演技でも、全力で挑まないといけませんから。あと橘です」

 

 

「電子書籍…素晴らしいですね。雨の中でも、外で読めるなんて…」

 

 

「はっくしゅん!…あー、寒い」

 

 

「プロデューサーだいじょぶ?ずっと海に浸かってて風邪ひいたん?」

 

 

「間抜けよね、一時間も半身海に浸して待機してたんだから」

 

 

…まぁ、見ての通り。

全員何事も無く普通に生きている。

プロデューサーは風邪ひいてるみたいだけど。

 

 

ネタバラシしてしまえば、ドッキリだった。

一人ずつ減っていくクローズドサークルもの。

無人島にコテージと言うこれ以上ないシチュエーション。

 

 

けれど普通に減っていくだけではつまらない。

そうだ、折角だし奈緒の持ち歌になぞらえて消えよう。

そう提案したアホなプロデューサーによって、それぞれ割と無理のある死に方をしていった。

 

 

プロデューサー、文香、私まではまだいい。

問題はそのあとからだ。

 

 

口に箸以外、つまり口に箸無いとか。

本と斧渡し見せる、とか。

幾ら何でも無理がある気がする。

ジト目を向けたところ、だって思いつかなかったんだからと逆ギレされたけれど。

 

 

奏もフレデリカも大笑いしていた。

そのくらいアホな死に方の方が面白いとか。

面白い死に方って何なんだろう。

 

 

そんなこんなでクライマックス。

そろそろ本人にネタバラシしないと。

そう思い、奈緒の方を見た。

 

 

…あれ?居ない。

 

 

「ねぇ、プロデューサー!奈緒が居ない!」

 

 

「は?凛が見張ってたのにか?」

 

 

「皆んなが五月蝿くて突っ込みに忙しかったんだよ!早く探さないと!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まずい!まずい、まずい!!

 

 

アレだけ思い詰めた表示をしていた奈緒だ。

何か変な気を起こしてしまう可能性がある。

急いで見つけてネタバラシしないと!

 

 

全員で島中を走り回る。

コテージには居ない、砂浜にも居ない。

 

 

「こっちには居なかった!そっちは?」

 

 

「…キッチンにも…いませんでした…」

 

 

このタイミングでキッチンにいる筈が無いよ。

随分と余裕そうだね。

そう突っ込む事すらせず、私は走った。

 

 

何と無く、一つ心当たりはある。

けれどそれは最悪の結末だ。

急いで島中の崖を探す。

はやく、早く!!

 

 

そしてついに、私は奈緒を見つけた。

 

 

「みんな!早く来て!」

 

 

急いで全員を呼ぶ。

続々と集まっている間、奈緒は。

少しずつ、崖の先端へと近付いて行った。

 

 

「奈緒!止まって!!」

 

 

「奈緒!止まれ!!」

 

 

声は届いている筈なのに。

奈緒の足は止まらない。

 

 

「ははっ…凛の声が聞こえるや……うん、あたしも直ぐ逝くから」

 

 

「ちがっ!」

 

 

涙を流し、それでも笑いながら。

 

 

奈緒は、その身を海へと投げ出した

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「奈緒……なおぉおおおお!!!」

 

 

プロデューサーが全速力で崖へと駆け寄る。

私達は、足が動かなかった。

 

 

うそ…そんな……

 

 

ショック過ぎて、意識が飛びそう。

まさか、そんな…

私達の悪ふざけで、奈緒が…

 

 

「…奈緒……嘘だよね………」

 

 

「…凛さん、落ち着いて下さい……」

 

 

私まで後を追うと思ったのか、文香が私の身体を抑える。

フレデリカと周子も、呆然としていた。

ありすちゃんは座り込んでしまっている。

 

 

「嘘…そんな…私達のせいで……」

 

 

今にも泣き出しそうなありすちゃん。

プロデューサーは崖から下を覗き込み、未だに奈緒の名前を叫んでいる。

 

 

…どうして?

 

 

「どうして…?どうして文香はそんなに落ち着いていられるの?!私達のせいで、奈緒は!」

 

 

「凛、文香を責めても仕方ないわ…悪いのは、私達全員なのだから…」

 

 

奏に諌められ、けれど私は落ち着いていられなかった。

私の大切な友達が、私達のせいで…

 

 

こんな事になるだなんて、想像も出来なかった。

 

 

「奈緒………奈緒!!ねぇ!」

 

 

私は叫ぶ。

現実を受け入れたくないから。

 

 

いやだ!こんな結末なんて!

奈緒を失うなんて。

絶対に認めない!

 

 

「ごめん!奈緒!!謝るから!!お願いだからっ!!」

 

 

ひたすらに、叫ぶ。

 

 

「嘘って言ってよ!ねぇ!奈緒!!!」

 

 

「あぁ、嘘だぞ」

 

 

「……………は?え??」

 

 

つい、と崖の方へ視線を上げれば。

プロデューサーに引き上げられた奈緒が、笑って立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ふーん………」

 

 

「あははっ、ごめんって」

 

 

笑いながら、プロデューサーと奈緒が近付いてきた。

頭では分かってはいる。

けれど、色々と追いついていなかった。

 

 

「…つまり、騙していたと思ったら騙されていたと言う事ね」

 

 

「逆ドッキリってやつかー、フレちゃんだいたい騙されちゃったよー」

 

 

…恥ずかしい。

ちょっと色々叫び好きだ。

 

 

「ドッキリ仕掛けてたんだからあたしの事責め辛いだろ、ふふーん」

 

 

「はははっ、みんな見事に騙されてたな。普段俺と奈緒を弄ってる仕返しさ」

 

 

プロデューサーを睨む。

ついでに奈緒も。

 

 

はぁ…確かに、騙そうとしていた手前強くは怒れない。

上手いやり方だね。

でもならこの感情をどこへぶつけようか。

 

 

「あっはははははははは」

 

 

「加蓮に面白い話を聞かせれやれるな!」

 

 

…よし。

取り敢えず、この二人にぶつけよう。

 

 

すーっと大きく息を吸い込み。

 

 

「ーーーーーこんのっ!!」

 

 

馬鹿!という言葉が。

島中に、反響した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はっくしょんっ!!」

 

 

「プロデューサー、はしたないよ」

 

 

「あー…完全に風邪ひいてるなこれ…」

 

 

結局、全て茶番だったという事だ。

まんまとはめられてしまった訳だけど。

あー…悔しい。

と言うか、恥ずかしい。

 

 

「あら、凛。謝るんじゃなかったの?」

 

 

「…奏、さっき涙目になったせいでメイク崩れてるよ」

 

 

ちょっとした仕返し。

しばらくは、このネタで弄られそうだ。

…はぁ…

 

 

既に空は、完全に晴れている。

水温は少々低いけど、問題無いとフレデリカと周子は泳ぎに行った。

相変わらず文香はパラソルの下、ありすちゃんに引っ付かれていて。

 

 

私の正面には、正座しているプロデューサーと奈緒が居た。

 

 

「…凛さん、そろそろ足が痺れて…」

 

 

「何か言った?」

 

 

「何でも無いです」

 

 

文香は、途中で気付いていたらしい。

一番最初に退場してプロデューサーの部屋で本を読んでいる最中に、奈緒とプロデューサーとの手紙でのやり取りを目にしたとか。

だからあれ程落ち着いていたのだ。

 

 

「はぁ………」

 

 

ため息が止まらない。

まだまだ怒り足りない。

 

 

けれど、奈緒が無事でよかった。

そんな考えのせいで、妙に本気で怒る気にはなれず。

流完全燃焼の怒りを少しずつ消費すべく、二人を正座させ続けた。

 

 

…そろそろ、許してあげようかな。

とは言えそう伝えてあげるのも恥ずかしい。

まるで私が子供みたいではないか。

 

 

…しょうがないな

 

 

「…そろそろ、折角だし泳いでこようかな」

 

 

わざとらし過ぎたかな。

もう怒ってない、とは口にしない。

けれど多分気付いているだろう。

 

 

「…凛」

 

 

「何、奈緒」

 

 

「謝ってくれないのか?」

 

 

「っ!!」

 

 

私が海を満喫するのは、もう少し後になりそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




元ネタは765の方のドラマCDより


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きっと甘くて、特別な

フレデリカハピバ


 

 

ふんふんふふーん、ふんふふーん

 

 

鼻歌交じりにアタシは歩く。

まだ少し冷えるビルの群れの中、両手をフラフラさせながら。

期待交じりの、不安交じりの。

そんな雰囲気の中、紙袋を横にならないように携えながら。

 

 

まーアタシは不安なんて無いんだけどね?

だってチョコ作るの楽しかったし!

世の中には楽しんだ者勝ちって素晴らしい言葉があるからねー。

だったらフレちゃんは常に勝者!

 

 

勝ち負けに拘る訳じゃないけど、敗者はねー…

フレちゃん歯医者さん苦手だし。

生まれてこの方虫歯になった事ないけど。

あ、もしかしてこのチョコを渡したら虫歯になっちゃったりしないかな?

 

 

冗談交じりにのんびり歩く。

少しずつ少しずつ、目的のものに距離を詰めるように。

ぱらぱらと街路樹の葉が舞う中。

詰め込んだものが、用意したものが、零れ落ちない様に。

 

 

みんな楽しそうだねー。

それもそっか、それもそーだよね。

だって今日はバレンタインだし。

今日だけチョコ屋さんになれば、フレちゃん大儲け!

 

 

いっぱいお金稼いだらどうしよっかなー?

先ず最初にお城を建てよー!

都会のど真ん中に建てたらみんなびっくりしちゃうかな?

自分のお城でコンサートなんて人類の夢だよねー!

 

 

太陽が雲に隠れて日が遮られ。

尚更寒くなり、手袋をつけ直して。

周りの人にばれないように。

変装の帽子とメガネを掛けなおして。

 

 

今日はバレンタイン。

世間的にはそれだけなんだけどね。

アタシにとっては、少しだけ。

ほんの少しだけ、とっても大切な日。

 

 

みんな、覚えててくれてるよね?

だってみんなのラブリーエンジェル、フレちゃんだもん!

みんな、祝ってくれるよね?

きっと盛大に、ドアを開けた瞬間にクラッカーなんか鳴らされたりしちゃってねー。

 

 

思い浮かべながら遠回り。

事務所まで、少し時間を稼ごうと。

なんとなく湧き上がった感情を。

完全に流してから、笑って入ろうと。

 

 

受け取ってくれるよね?

まったく、アタシから貰えるなんて幸せ者だねー。

喜んでくれるよね?

色んな気持ちと調味料を混ぜた、フレデリカオリジナル!

 

 

祝ってくれるよね?

忘れちゃってるはずがないよねー367日前にちゃんと伝えたし。

プレゼント、くれるよね?

現金だけど、欲しいものは欲しいから。

 

 

きっと、絶対に。

みんな祝ってくれるんだろーな、って。

そんな感じで一日中。

楽しい時間を過ごせるんだろうな、って。

 

 

でも、どうせなら。

もう一歩、近付きたいなー。

そして、出来れば。

向こうから、近付いて欲しいかなー。

 

 

慌ただしい日常のワンシーンに収まらないくらい。

特別でとびっきりスペシャルな1ページにしたいよね。

チョコよりも甘ーい気持ちをお裾分けしてあげなきゃ。

ケーキよりも柔らかい、そんな気持ちにして欲しいな。

 

 

でもまー、うん。

きっと埋もれちゃうかな?

アタシからのチョコレート。

特別なロードショーになるかな?

 

 

なんて、色々とごちゃまぜのスイーツを心に作って。

アタシが主役の一日を、巧く演出できるかなーって。

いつもと違う一日に抜け出せるかなーって。

事務所に着く、その一歩手前のシーンで。

 

 

キミは、待っててくれたね。

 

 

わぁお?フレちゃんを出迎えてくれたのかなー?

お勤めご苦労ー!寒い中大変でしょー。

フレちゃんがコーヒーでも淹れてあっためてあげよっか?

愛情込めたエスプレッソでもどーぞ?

 

 

え?もうみんなお祝いの準備してくれてるの?

まったくもー、バラしちゃったらビックリが7割になっちゃうじゃん。

…え?それよりも先に、誰よりも先に。

慌ただしくなる前に、騒がしくなる前に。

 

 

プレゼント、渡したかったから…?

 

 

…ふんふんふふーん、ふんふふーん。

いぇーい!じゃあフレちゃんのチョコと交換だねー。

はい、どーぞ。

そして、ありがと。

 

 

受け取った紙袋はあったかくて。

先にチョコ渡しておいてよかったよー。

だって、こんなにポカポカして。

アタシが持ってたら、チョコとけちゃうもん。

 

 

ねー、ちょっとだけ。

もう少しくらい、入るの遅くてもいーよね?

もう一つ、あげたいものが、届けたい気持ちがあるんだー。

ねー、いいよね?

 

 

きっと、今渡したチョコよりも。

もっともっと、甘いものだから。

 

 

 

 



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ふと、不安が増える一瞬

注意)台本形式です


 

 

ガチャ

 

肇「おはようこざいます、プロデューサー」

 

P「お、おはよう肇」

 

肇「……」

 

P「どうした?何かあったか?」

 

肇「…何か、ありませんか?」

 

P「…え?何かって…」

 

P(…考えろ、俺。プロデューサーたるもの、観察と解析を怠ってどうする)

 

P(髪型は…変わっていない。そもそも昨日別れたのが21時だからそれ以降美容院に行ったって事はないだろう)

 

P(次に服だが…上下共に、既に見た事がある。つまり服を新調もない)

 

P(だとすると…お)

 

P「珍しいな、ブレスレットなんて。随分お洒落じゃないか」

 

肇「先日のオフに、他の方と一緒に買いに行ったんです…どう、ですか?」

 

P(…どう。それはどっちの意味だ。ブレスレット自体を更に褒めるべきか、チョイスを褒めるべきか、似合ってるかを…)

 

P「…凄く似合ってると思うぞ。今日の服にぴったりだ」

 

肇「よかった…昨日の服には合わないと思って、今日初めて着けてみたんです」

 

P(…何故そう言いながら表情を曇らせる…何を間違った?いや、何か足りなかったのか?)

 

P(…賭けに、出るしかない…)

 

P「…どうせなら、ネックレスを着けて来てもよかったかもしれないな」

 

肇「そうなんです、私もそのつもりだったんですけど…しっくりくるものが、手持ちになかったので…」

 

P(…よし、セーフ。そしてこの続け方はつまり…)

 

P「なら、次のオフにでも一緒に買いに行くか?俺も多少なら選ぶのに助力できると思うし」

 

肇「いいんですか?では…お願いします!」

 

P(担当アイドル、藤原肇16歳)

 

P(一般的に清楚、落ち着いた雰囲気と評されているし俺もそう思っている)

 

P(まだこの年なのにかなりしっかりとしていて、周りをよく見れる女の子…なんだけど)

 

肇「そう言えば、昨日夜祖父と少し口論してしまって…」

 

P「まぁあの方も肇も、少し頑固なところが」

 

肇「おじいちゃんを悪く言わないで下さい」

 

P(…ご覧の通り、うん)

 

P(少しばかり、ほんのちょっとだけれど)

 

P(割と、めんどくさい所のある女の子だった)

 

P「…あの方は、誰よりも肇の事を思ってくれてるよ。今夜もう一回、電話を掛けてみたらどうだ」

 

肇「そう、ですね。プロデューサーが言うなら…」

 

P「もちろん俺だって、肇の事を思っているし分かってるつもりだ。元々、切っ掛けが欲しかったんじゃないのか?」

 

肇「確かに…そうかもしれません。すみません、身内の事を相談してしまって…」

 

P「そんなことは気にしないでくれ」

 

肇「そんな事、ですか?」

 

P「そうじゃなくて…その家族から俺は大切な娘さんを、つまるところ肇を預かっている身なんだから。相手の迷惑にならないところまではどこまでも助力するさ」

 

肇「…それだけ、ですか?」

 

P「えっとだなー…あの方とも俺は仲良くしていきたいし、出来れば肇と喧嘩はして欲しくないんだ」

 

肇「ふふっ…あの方なんて回りくどい言い方ではなく、肇のおじいちゃん、で大丈夫ですよ」

 

P「お、おう…まぁ笑ってくれるなら良かった。取り敢えず、上手くいくといいな」

 

 

 

 

 

 

~夜~

 

P「ふー、仕事終わり。そろそろ帰るか」

 

ぴぴぴぴっ、ぴぴぴぴっ

 

P「ん、電話だ。誰だろ…」

 

P「…スーーーーハーーー…よし」

 

ぴっ

 

P「もしもし、どうした?肇」

 

肇『こんばんは、プロデューサー。お仕事は終わってますか?』

 

P「今丁度終わって帰宅しようとしてたとこだけど、何かあったか?」

 

肇『…何かないと、かけちゃいけませんか?』

 

P「そ、そんな事はないぞ。特に用事が無くても掛けたくなる事ってあるよな」

 

肇『…いえ、伝えたい事はありますが。けれど確かに、急に声を聞きたくなる事もありますよね』

 

P「俺は肇の声を聞けて良かったよ。仕事終わりの癒しになる」

 

肇『ふふっ、それは良かった』

 

P「あ、ごめんよワンコールで出れなくて」

 

肇『それで…プロデューサーからアドバイスを受けた通り、さっき祖父に電話をしてみたんですが…』

 

P「上手くいっただろ?絶対大丈夫って信じてたよ」

 

P(若干賭けだが…頼む!)

 

肇『はいっ!おじいちゃんも、少し強く言い過ぎてしまったと謝ってくれました』

 

P「ふぅ、よかった」

 

肇『それで、なんですけれど…お礼と言っては難ですが、明日良ければ一緒に何処か出かけませんか?』

 

P「明日か?多分俺は大丈夫だけど」

 

肇『でしたら、行ってみたかった喫茶店があるんです』

 

P「おっけ、じゃあ昼くらいに…」

 

肇『…お昼、ですか?』

 

P「10時に事務所の最寄りに集合で大丈夫か?」

 

肇『はい、ではそれでお願いします』

 

ピッ

 

P「ふぅ…さて。明日も起きなきゃいけないしはやく帰らないと」

 

P「ガスよし、電気よし…あれ?キッチンにマグカップと紙が…」

 

~プロデューサーへ。良ければ冷蔵庫の和菓子と一緒にどうぞ~

 

P「…ありがとう、肇。あと帰る前に気付けて良かった」

 

 

 

 

 

 

~翌日、駅前~

 

P(よし、10時よりも15分早く着けたし大丈夫だろ)

 

肇「あ、おはようございます。プロデューサー」

 

P「お、おはよう肇。早いな、もう来てたのか」

 

肇「…プロデューサー、こう言う時は」

 

P「すまん、待たせたか?」

 

肇「ふふっ、今来たところです」

 

P「…ちなみに実際は?」

 

肇「…30分以上前に…」

 

P「悪いな、寒かっただろ。まだ店も開いてないところが多いだろうし、取り敢えず近くのカフェにでも入らないか?」

 

肇「そうしましょうか」

 

P「先ずは俺のお気に入りのカフェからだ。こっから歩いて3分もないくらいだから」

 

 

 

 

 

 

~割とお洒落なカフェ~

 

P「良さげなカフェだろ」

 

肇「ですね…以前、何方かといらっしゃったんですか?」

 

P「あー、事務所の人とな。いつか肇を誘ってみようと思ってたんだ」

 

肇「ありがとうございます。注文、どうしますか?」

 

P「肇が先に決めちゃっていいぞ。俺は後で」

 

肇「…パンケーキかチーズケーキのカフェオレセット…どっちかいいでしよう?」

 

P「どっちって…両方頼んじゃえばいいんじゃないか?」

 

肇「流石に、両方は食べきれないと思うので…」

 

P「うーん…」

 

肇「…プロデューサーは、何が食べたいですか?」

 

P「ん?俺はワッフルにしようとおもってたけど」

 

肇「…そうですか…」

 

P「こ、ここのワッフル前食べた時美味しかったからさ」

 

肇「…では、私はパンケーキだけにします…」

 

P(…ずっとチーズケーキの写真を見続けている…)

 

肇「…はぁ…」

 

P「じゃ、じゃあ俺チーズケーキにしようかな」

 

肇「いいんですか?」

 

P「それで肇と交換すれば両方食べられるだろ?」

 

肇「確かにそうですね!ではそうしましょう!」

 

肇「この後、何処に行くか決まってますか?」

 

P「取り敢えず近くのデパートにでも行こうかなと思ってたけど、行きたい場所とかあったか?」

 

肇「私は特に。プロデューサーが行きたい場所でしたら」

 

「パンケーキセットとチーズケーキセットです」

 

P「お、きたきた」

 

肇「美味しそう…いただきます」パクッ

 

P「いただきます」もぐっ

 

肇「…美味しいです」

 

P「やっぱ自分で作ること店で食べるのって違うよなぁ」

 

肇「普段、料理はするんですか?」

 

P「事務所のアイドルにお菓子とか作って貰った日は、何となく俺も挑戦してみるけど…普段はカップ麺か冷凍麺だな」

 

肇「…他の方から、お菓子、ですか…」

 

P(…やってしまった…いや、まだ掻い潜れる)

 

P「…は、肇は普段お菓子とか作ったりはしないのか?」

 

肇「私は…あまり、お菓子はありません」

 

P「まぁお菓子作るのって結構時間かかるからな」

 

肇「そうなんです…最近、結構忙しかったので尚更…」

 

P「ん、だとしたら今日俺と一緒にカフェと買い物なんかで良かったのか?他に何か予定が…」

 

肇「なんか、ですか…私と過ごすのは、プロデューサーにとって…」

 

P「いやいやいやいや、俺としては凄く嬉しいし楽しいけどさ。もし他に予定があったんだとしたら悪いな、って」

 

肇「ふふっ、そうですか。それは良かった…誘ってみたかいがありました」

 

肇「あ、チーズケーキ一口貰っていいですか?」

 

P「ん、あぁどうぞ」

 

肇「……」グッ

 

P(チーズケーキの皿を押し返された…)

 

肇「すみません、チーズケーキ一口貰っていいですか?」

 

P「ど、どうぞ?」

 

肇「……」グッ

 

P(…また押し返された…何故だ、食べないのか?)

 

肇「すみません、チーズケーキ一口。貰っていいですか?」

 

P「…なんで口開けてこっち向いて

 

肇「貰って、いいですか?」

 

P「…」

 

P「…あーん」

 

肇「んっ…美味しいです」

 

P「よかった、うん。美味しければ大丈夫だ」

 

肇「プロデューサーも、パンケーキ食べますか?」

 

P「じゃあお言葉に甘えて俺も一口貰おうかな」

 

肇「はい、どうぞ」

 

P「…皿ごとこっちに渡してくれると嬉しいんだけど」

 

肇「…嫌、なんですか?」

 

P「…あーん」

 

肇「はい、あーん」

 

P「うん、うまい。ついでにくすぐったい」

 

肇「ふふっ、まるで子供みたいですね」

 

P「周りの視線気にならないタイプだっけ?」

 

肇「アイドルですから、見られる事には慣れてます。勿論、今はバレない様に気に掛けていますが」

 

P「…強くなったな」

 

 

 

 

 

 

P「さて、そろそろ行こうか」

 

肇「あ、でしたら私が誘った訳ですし此処は私が持ちます」

 

P「いいよいいよ、この店は俺が紹介した訳だし、最後までエスコートさせてくれ」

 

肇「いえ、元はと言えば私が今日一緒に出掛けようと提案したんですから」

 

P「じゃ、割り勘でいくか。半分で大体500円くらい頼めるか?」

 

肇「ふふっ、了解です」

 

P「じゃ、先払って来ちゃうから待っててくれ」

 

P(…よし、合計で1500円ってのは肇も分かってるだろうけど、間違ってなかったみたいだ)

 

 

 

 

 

~店の外~

 

P「暖かいとこから出ると流石に堪えるな」

 

肇「ですね…手が悴んでしまいそうです」

 

P「手袋着けてくれば良かったな…丁度良い機会だし今日買ってくか」

 

肇「では、私が見繕ってあげます」

 

P「お、ありがたい」

 

肇「ところでプロデューサーも手が冷えてきてませんか?」

 

P「まぁ多少はな。でもまぁデパートまでそんなに距離ないし」

 

肇「私も、手が冷えてしまいそうで…」

 

P「今日はこの冬一番の寒さらしいからな」

 

肇「プロデューサー、私、手が冷えてしまいそうです」

 

P「……」

 

肇「プロデューサー?」

 

P「…俺の手も冷たいけど、大丈夫か?」

 

肇「きっと、すぐにあったまりますから」ギュ

 

P「…違いないな」

 

肇「ふふっ、周りからはどう見えてるでしょうね?」

 

P「さぁ…年の離れた兄妹

 

肇「どう見られたいですか?」

 

P「…もしかしたら、少し年の離れたカップルに見られてるかもな」

 

肇「かもしれませんね!」

 

 

 

 

 

~デパート~

 

P「ふぅ、寒かった」

 

肇「そうですか?私は暖かかったですよ、心まで」

 

P「サラッとそう言えるのって凄いな。流石アイドルだ」

 

肇「先ずは、では手袋から見ていきましょうか」

 

P「ところで、何時まで手は繋いでるんだ?」

 

肇「…プロデューサーは、放したいんですか?」

 

P「…しばらくこのままでいいか。変装もしっかりしてるし」

 

肇「では問題ありませんね」

 

P「エレベーター使ってくか。相変わらずこういう場所ってメンズ少ないなぁ」

 

肇「それは仕方ありません。でもきっと、いいものが見つかりますから」

 

P「肇がそう言うなら、俺は楽しみに待つだけだな」

 

 

 

 

 

 

P「さて、到着」

 

肇「お洒落な手袋が多いですね…プロデューサーに合いそうなのは…」

 

P「流石女の子、こういう所にくると直ぐに熱中するんだな」

 

肇「私を何だと思っていたんですか…」

 

P「一応手持ちはあるけど…うわあ、これ桁一つ間違ってるんじゃないか?」

 

肇「お洒落に金額を惜しんだり妥協したらダメですよ」

 

P「生活に困ってる訳じゃないし、この機会だからビシッと決めるか」

 

肇「そういえば、普段食事は手抜きなんでしたっけ?」

 

P「若干言い方辛辣じゃない?」

 

肇「折角ですし、夜は私が振舞ってあげましょうか?」

 

P「聞いてよ…って、流石にそれは不味いだろ」

 

肇「…私の料理が、ですか…?」

 

P「そっちじゃなくて、世間体的に。年頃の女の子を家に連れ込むなんて誤解じゃ済まされないから」

 

肇「誤解だけじゃ済まさせないなんて…」

 

P「違うから待って。一旦落ち着こう肇。先ずは手袋を選ぼうか」

 

肇「これなんてどうですか?」

 

P「おお、大人な感じだな。俺が持ってる100均の手袋よりよっぽどいけてる」

 

肇「あ、折角ですからプロデューサーも私に手袋を選んで頂けませんか?」

 

P「え、俺が選んじゃっていいのか?まぁ最近はファッションも少しは勉強してるけど…」

 

肇「プロデューサーに、選んでほしいんです」

 

P「責任重大だな…よし、普段の肇の服に合いそうなのを選ぶか」

 

肇「期待してますよ」

 

P「プレッシャーを掛けないでくれ…」

 

P「どっちがいいかな…」

 

肇「両方とも可愛らしいですね」

 

P「こっちの方が大人っぽいんだけど、もう一つの方も肇に着けて欲しいんだよな…」

 

肇「でしたら、一回両方とも私が着けてみましょうか?」

 

P「お願いしていいか?」

 

肇「勿論です」

 

P「…うーん、余計に悩むな…」

 

肇「…どうでしょう?」

 

P「…よし、大人っぽい方もいいけど、こっちだな」

 

肇「こっちの方が合ってましたか?私だったら、多分大人っぽい方を選んでましたけど」

 

P「もっと可愛い肇をアピールしていこう、とね。普段みたいな大人っぽい肇も良いけど、やっぱりこっちの方が可愛らしいかったし」

 

肇「可愛らしい、ですか…」

 

P「じゃ、これは俺からのプレゼントって事で」

 

肇「いいんですか?」

 

P「さっきも言ったけど、生活に困ってる訳じゃないからな。プレゼントさせてくれ」

 

肇「では、尚更夜は手料理を振舞ってお返ししないといけませんね」

 

P「…まぁ、考えておくよ」

 

P「さて、次はネックレス見に行くか」

 

肇「あ、服も見ていっていいですか?」

 

P「もちろん。色んな服の肇を見たいからな」

 

肇「プロデューサーも上手になってきましたね」

 

P「心からの本心だよ」

 

肇「わぁ、見てくださいこのスカート!」

 

P「割とかっこいい事言ってみたつもりなんだけどな…」

 

肇「…こっちも捨てがたいですね…どっちがいいでしょう?」

 

P(どっちが…どっちが正解なんだ。時間を…)

 

P「なら、両方試着してみてから決めようか」

 

肇「そうですね。ちょっと待ってて下さい」

 

 

 

 

 

 

 

肇「どうでしょう?」

 

P「…うーん、今のスカートもいいけど…」

 

肇「…似合いませんか?」

 

P「そう言うつもりじゃないけど、もう一つの方が似合ってたな」

 

肇「どっちの方が、可愛いと思いました?」

 

P「…どっちも、可愛いとは思ったよ。でもなんだろうな、色がシックリこなかったんだ」

 

肇「ですよね、私も鏡を見てそう思いました」

 

P「…じゃ、決まりだな」

 

肇「では、この二つのスカートと今私が着ているもの。どれが一番可愛いと思いますか?」

 

P「…今着ているのかな」

 

肇「ふふっ、私のお気に入りなんです」

 

P(…前に気に入ってるって言ってたの覚えてて良かった…)

 

P「さて、次はネックレス見に行こうか」

 

肇「あ、あのコートいいですね…あっちのスニーカーも…」

 

P「まぁ時間はあるし、のんびり見て回ろうか。取り敢えず荷物持つよ」

 

肇「ありがとうございます」

 

P「ははっ、本当にカップルのデートみたいだな」

 

肇「…ただのカップル、ですか?」

 

P「…同棲してるカップルみたいだな」

 

肇「同棲…だけ、ですか?」

 

P「…まるで夫婦みたいだな」

 

肇「ですね!では次のお店に行きましょうか」

 

 

 

 

 

 

 

 

P「ふぅ…結構買ったな」

 

肇「こう言った所に来ると、ついつい欲しくなってしまいますよね」

 

P「さて、そろそろネックレスを…」

 

肇「…あ、見てください。可愛いペアの湯のみです」

 

P「お、湯のみか。そう言えば俺の家、湯のみ無いんだよな…」

 

肇「でしたら今度、お作りしましょうか?」

 

P「うーん、そもそも家で飲むのって水かビールくら…」

 

肇「……」

 

P「是非ともお願いしようかな」

 

肇「ふふっ、畏まりました。とは言え直ぐに、とは言えませんし、今日はこのペアの湯のみを買っていきませんか?」

 

P「ペア、か…男で一人暮らしだし2個あってもな…」

 

肇「一つは、私のと言うことで」

 

P「いやいやいや、だから一人暮らしの男の家に…」

 

肇「嫌、ですか…?」

 

P「いやって訳じゃ」

 

肇「ダメ、ですか…?」

 

P「…うん、2個使う機会だってきっとあるよな。買って行こうか。折角肇が見つけてくれた訳だし」

 

肇「では、これは私からの贈り物にさせて下さい」

 

P「いいのか?」

 

肇「女性からの贈り物を毎日使う。素敵な事ではないですか」

 

P「まぁ普段お茶は飲まな」

 

肇「…使わないんですか…?」

 

P「飲む、メッチャ飲む。お茶は毎朝毎晩飲むから使わせて貰うよ」

 

P「お、そろそろ結構時間経ってるな」

 

肇「もう15時まわってますね…一旦何処かで落ち着きますか?」

 

P「だったら、肇が言ってた喫茶店に行こうか」

 

肇「そうですね、続きの買い物はその後で」

 

ウィーン

 

P「外寒っ…早く手袋着けよう」

 

肇「…私は、手袋は帰ってから開けます」

 

P「寒くないのか?」

 

肇「プロデューサーも、手袋を開けるのは帰ってからにしませんか?」

 

P「いや、それだと手が冷えちゃ」

 

肇「……」

 

P「…手、繋ごうか」

 

肇「はい!」

 

 

 

 

 

~良さげな喫茶店~

 

P「おお、洒落てるなぁ…」

 

肇「前々から気になってはいたんですけど、機会がなくて…」

 

P「お昼時は過ぎたからか、直ぐ座れて良かったな」

 

肇「あ、荷物ありがとうございました」

 

P「いやいや、こう言うのは男性の役目だからな」

 

肇「なら、料理を作るのが奥さんの役目ですね」

 

P「確かに奥さんが家で料理を作って待っててくれたら嬉しいよ。それは間違ってないんだけどさ…」

 

肇「家に食材が無いんですか?でしたら、後でスーパーに行きましょうか」

 

P「…取り敢えず、メニュー決めようか」

 

肇「ケーキも捨てがたいですけど、朝も昼もとなると色々怖いですね…」

 

P「何がだ?手持ちなら問題ないけど」

 

肇「カロリーとか、糖分とかです。アイドルなんですから、気に掛けないと…」

 

P(…女性と、体型やカロリーの話はしたくないんだけどな…)

 

P「…肇なら大丈夫だろ。まだまだ痩せ過ぎなくらいだし」

 

肇「それは普段から気にしているからです!それに、太るだけでなく肌が荒れてしまったり…」

 

P「…取り敢えず、飲み物だけ先に決めちゃわない?」

 

肇「そうですね…では、私は紅茶で」

 

P「んじゃ俺はアメリカンコーヒーかな」

 

肇「アメリカンコーヒー、好きなんですか?」

 

P「正直コーヒーの違いなんて分からないけど、アメリカンって強そうだからな」

 

肇「プロデューサーも、もう少し拘りを持ってみたらどうですか?」

 

P「アイドルや仕事に関して以外はどうもなぁ…趣味と呼べる趣味もないし」

 

肇「でしたら、今度私と一緒に陶芸なんてどうですか?もしかしたらハマるかもしれませんし」

 

P「ん、まぁ機会があればな」

 

肇「プロデューサーの次のオフは何時ですか?」

 

P「…今手帳ないから、明日でいいか?」

 

肇「…すみません。プロデューサー自身の事を考えずに、色々と…」

 

P「気にしないでくれ、肇に色々誘ってもらえてありがたいよ」

 

肇「…今日も…いえ、何時も。私からばかり色々言ってしまって…私、めんどくさいですよね?」

 

P「……そんな事は」

 

肇「…その質問自体がめんどくさい、って顔してますよ…」

 

P「…コーヒーが苦くて顔を顰めてるだけだ。砂糖貰っていいか」

 

肇「どうぞ…角砂糖二つですよね?」

 

P「ほら、そういうところ」

 

肇「え?」

 

P「昨日の差し入れもだけど。肇はちゃんと周りを見て、周りの事を考えて行動してるんだよ。意識してかどうかは分からないけどさ」

 

肇「それは…でも…」

 

P「俺はそんな肇を信じてる。だからめんどくさいなんて思わず、ちゃんと俺の為に色々言ってくれてるんだって思ってるよ」

 

肇「プロデューサー…」

 

P「ん?なんだ?」

 

肇「そう言えば、まだコーヒー来てないんですけど」

 

P「…コーヒーを飲んで苦くて顔をしかめる未来が見えたんだよ」

 

肇「…つまり、プロデューサーはやっぱり私の事を…」

 

P「まって今のいい感じのセリフ本心だし結構恥ずかしかったんだけど」

 

肇「…ふふっ、冗談ですよ。プロデューサー、本気の表情をしてくれてましたから」

 

P「ふう…よかった」

 

肇「誤魔化そうとした事は後で」

 

P「…お手柔らかに頼むよ」

 

肇「ところで、プロデューサーは未来が見えるんですか?」

 

P「…見える、超見えるよ。明日朝、肇と合って昨日買ったスカート似合ってるなって言ってる俺が」

 

肇「では、一つ見て欲しいものがあるんですが」

 

P「なんだ?まぁ白状すると未来なんて見えないけど、予想と願望なら言えるぞ」

 

肇「今日の夜、プロデューサーは誰と食卓を囲んでいますか?」

 

P「……」

 

肇「今日の夕方、プロデューサーは誰とスーパーで食材を選んでいますか?」

 

P「……」

 

肇「私だって不安です。もし本当に嫌がられたら、なんて。ふとした時、そんな不安が増えていくんです」

 

P「嫌がるだなんて、そんな事はないさ。でも」

 

肇「さて、そんな私がそんな不安を抑え込んで本音を届けたんです。プロデューサーも、本音で返して下さい」

 

P「…めんどくさいなぁ」

 

肇「…プロデューサー…」

 

P「散らかった部屋片さなきゃいけなのいがめんどくさいし、食器出すのも洗うのもめんどくさい」

 

肇「…ふふっ、家事は得意ですよ」

 

P「食材取る時一応賞味期限チェックするのも、袋に詰めるのも」

 

肇「もちろん、お手伝いしますから」

 

P「…何より…こんな風に遠回しでしか言えない自分がめんどくさい」

 

肇「似た者同士、ですね。私達」

 

P「…車出すから、夜は遅くなってでもちゃんと帰るんだぞ?」

 

肇「プロデューサーの事ですから、食事したら動くのもめんどくさくなってしまうんじゃないですか?」

 

P「辛辣だな」

 

肇「そうなって欲しいから、かもしれませんよ」

 

P「…急にストレートになったな」

 

肇「今まで、私が曲がってたって事ですか…?」

 

P「…変わってなかったか。ある意味一直線かもな」

 

P「さて、じゃあ飲み物飲んだらネックレス選んでスーパー行くか」

 

肇「まるでネックレスがついでみたいですね…」

 

P「もちろん本気で選ぶよ。やる事羅列すると真ん中はそんなニュアンスっぽくなっちゃうけどさ」

 

肇「…ところで、プロデューサー」

 

P「ん?なんだ?」

 

肇「今日の私、どうですか?」

 

P「…服は凄く似合ってるし、鞄もブーツもお洒落だ。あと…」

 

肇「あと、なんでしょうか?」

 

P「…可愛かった」

 

肇「…可愛かったの前に何か意味が含まれてる気がするんですけれど」

 

P「…気の所為じゃないか?」

 

肇「それと、ですけれど」

 

P「ん?」

 

肇「さっきプロデューサーはブーツ、と言いましたけれど。ブーツにも色々種類があって」

 

P(…あぁ、ほんとめんどくさ可愛いなぁ)

 

肇「聞いてますか?ですから褒める時はちゃんとその名称等を細かくーー

 

 

 

 

 

 



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トモダチメール

輝子
世にも奇妙なアレ


 

 

「……ふ、フヒ…なにが友達百人出来るかな、だ…」

 

 

今日の仕事は、みんなの歌だった。

私達五人のユニットで呼ばれ、歌ったのは一年生になったなら。

周りのみんなは、楽しそうに歌っていた。

きっと小学生だったころの自分を思い浮かべでいたんだろう。

 

 

…こ、心がシンドイ…わ、私だって、トモダチなら沢山…

 

 

そう思って、キノコの原木を見て気付いた。

百人もいない、と。

 

 

しまった…こないだのホームパーティで、トモダチが減ってる…

 

 

別段だからと言って何か困る訳でもないけれど。

少し、なんとなく。

ほんのちょっぴっとだけ、悔しかった。

私にだって、トモダチは沢山いるんだ、と。

そう、心を勇気付けたくて。

 

 

ぶーん、ぶーん

 

 

そんな折、一通のメールが届いた。

今時メールなんて珍しいな。

そもそも前からメールなんてこなかったけど。

…自分で考えてて哀しくなるな。

 

 

「…なになに?トモダチメール?」

 

 

なんだこれ。

トモダチメール?

意味が分からないぞ…

あ、あれか?ネット上でトモダチを作ろうみたいなやつか?

 

 

内容は、凄く簡潔的だった。

 

 

『お望みのトモダチ内容を入力して下さい。翌日お届け致します』

 

 

な、なんだ?余計に意味が分からないぞ。

これはあれか?

ネットの通販みたいなものなのか?

莫大な請求金額さえこなければ多分払えるし…

 

 

そ、それじゃあ…

 

 

『身長8cmくらいのシイタケ君を…』

 

 

送信。

 

 

…私は、何をやってるんだ。

完全に通販じゃないか。

そんな事したって何があるわけじゃないのに。

うん、疲れてるんだな。

 

 

寝よう。

 

 

 

 

 

ピンポーン

 

 

…朝か。

日光が眩しいな…

なんで世界はこんなに明るいんだ…

 

 

おっと、お客さんが来てるみたいだな。

こんな朝早くに私の家に誰が…って、宅急便か。

そう思って覗き穴を覗く。

…誰もいないぞ?

 

 

ガチャ

 

 

ドアを開ける。

誰もいない。

…こ、こどものイタズラか?

こどもは朝から元気だな…

 

 

…ん?

 

 

足元に、段ボールが開けて置いてあった。

そしてその中には、10cm弱くらいのシイタケ。

…なんでシイタケ?

イタズラか?

 

 

…あ、そうだ。

昨日、なんか怪しいメールに返信したんだった。

あれ、本物なんだな。

通販みたいだ…。

 

 

あれ、お金とかいいのかな。

…まぁ、いいか。

後から何か言われても、シイタケの代金ならそんなに高くないだろうし。

 

 

今日も明日も休みだし、家でトモダチの世話をするとしよう。

新しいトモダチが来たから、みんなに紹介しないと。

ほ、ほら、みんな…転入生だぞ。

と、トモダチになってあげるんだ。

 

 

霧吹きを使って、ばい木に水を吹きかける。

…ふ、フフフ…トモダチが増えたぞ…

…あ、もう抜かれてるから育たないな、こいつは。

仕方ない…朝ごはんに頂こう。

 

 

 

 

…よし。

昨日は本数や状態を指定しなかったからいけなかったんだな。

なら、今日は…

 

 

『シイタケ君を10本くらい、まだ育てられる状態で』

 

 

送信。

よ、よし。

明日の朝が楽しみだな。

 

 

 

 

 

 

ピンポーン

 

 

…届いたのかな。

眠い目を擦りながらドアを開けると…

よ、よし!

トモダチが…沢山…

まだ育てられる。

 

 

原木には10本くらいのシイタケ君。

これは…トモダチ百人も夢じゃないな。

いける…いけるぞ。

ふふふ…私は幸せだな…

 

 

取り敢えず、日陰に置いて霧吹きをして…

あ、どうせなら…

これを機会に…よし。

タケノコ君とも、トモダチになってみよう。

 

 

メールは…夜でいいか。

どうせ届くのは明日だからな。

 

 

 

 

 

 

ピンポーン

 

 

お、きたきた。

ドアを開けると…おお、デカイ。

立派なタケノコだ。

しかも、要望通り植木鉢ごときたな。

 

 

さて、こいつは…だめだ。

シイタケ君の隣に置いといたら喧嘩しちゃうか。

タケノコ君は…日光に当てなきゃいけないんだったな。

こいつはベランダに置いておこう。

 

 

 

 

 

 

…ふ、ふひっ…

明日は午後から、街で食レポか…

つ、つらいな…

やりますよ?私はちゃんとやりますよー

 

 

あ、そうだ。

それなら、午前中は空いてるし。

食レポ得意そうなトモダチを作るのもいいかもしれないな。

…本当に届くかどうか、まだ分からないけど。

 

 

『食レポが得意なトモダチ』

 

 

よし、送信。

…ほんとに、これ来るのか?

 

 

 

 

 

 

ピンポーン

 

 

「…はーい…今開けますよー」

 

 

ガチャ

 

 

「おはよう!輝子ちゃん!会えてよかった!」

 

 

…なんだ?何が起こってるんだ?

目の前にはとっても元気そうな女の子がいて。

私に向かって、元気よく挨拶してきてる。

なんだろう…あ、そうか、夢か。

 

 

「今日は一緒に食レポごっこするんでしょ?」

 

 

「…あ、そ、そうだったな…ちょっと待っててくれ…」

 

 

ほっぺたをつねる…い、痛いぞ。

夢じゃないのかこれ…

…あ、そうだ。

昨日の夜、トモダチメールを送ったんだったな。

 

 

だとしたら、これは凄いぞ…

希望通りのトモダチが、沢山手に入るじゃないか…

 

 

急いで顔を洗って着替えて。

午後の撮影用の荷物をカバンに詰め込み、玄関へ。

届いたトモダチの女の子は、ニコニコして待っててくれた。

…な、なんだか眩しいな…

 

 

「よ、よし…い、行こうか…」

 

 

「うんっ!」

 

 

 

 

 

人が沢山いるデパートのレストランフロアで。

私達は、のんびりご飯を食べていた。

 

 

「うわぁ、このエビプリプリ!キノコの食感とマッチしてて凄く美味しいね!」

 

 

「お、おおう…凄いな、そんなに直ぐに言葉が続けられるなんて…」

 

 

これは、見習わないとな…

今日の午後に向けて、色々と参考にしよう。

そのまま色んなお店で、少しずつ一品ずつ料理を食べて。

毎回彼女は、多種多様の表現を用いてレビューしてた。

 

 

よ、よし。

こういう時は、こう言えばいいのか…

苦手な食べ物っぽいな、それ。

…おお、好きな人には堪らないでしょうね、って言えばいいのか…

勉強になるな。

 

 

…おっと。

そろそろ一回事務所に行かないと。

 

 

「わ、悪いけど…私は次の用事があるから…」

 

 

「え…じゃ、じゃあまた明日か近いうちにまた一緒にご飯食べようね!」

 

 

「そ、それじゃ…」

 

 

「あ、連絡先交換しない?」

 

 

「ご、ごめん…職業上、人にはあんまり連絡先教えられないんだ…」

 

 

「そ、それじゃ私の連絡先だけ渡しておくから!」

 

 

そんな時、私は目を少し伏せていたから。

彼女の表情を、見れていなかった。

この時少しでも、本当のトモダチみたいにきちんと目を見て話していたら…

 

 

 

 

 

 

撮影は、なかなか上手くいった…と思う。

直前に上手い人と一緒にいたからな。

うん、持つべきは優秀なトモダチだな。

さて…と。

 

 

明日は午後からラジオの収録か…

どうせなら、トークが上手い人とトモダチになっておきたいな。

午前中はそのトモダチとおしゃべりして。

そうすれば、ラジオの収録も上手く話せるかもしれない。

 

 

『トークが上手い人』

 

 

送信。

これでよし。

…あれ、ベランダに置いておいたタケノコ君がいない。

そういえば、その前日に届いたシイタケ君達もいない…

 

 

なんでだ?

ドロボウなんて事もないだろうし…

ま、まさか…

ベランダに置いておいたから、カラスに持ってかれちゃったのか…?

 

 

オォォォーマイガァァァァァ!!

あ、すみません五月蝿いですね…ふ、ふひっ。

 

 

 

 

 

ピンポーン

 

 

「はいはーい。星の輝子の家ですよー」

 

 

ガチャ

 

 

「おはようございます、輝子さん。今日はとってもいい天気ですね、風も心地よいですよ」

 

 

「そ、そうだな…洗濯物がよく乾きそうだ」

 

 

おお、これまた凄いな。

お互い初対面の筈なのに、会話が続けられそうだぞ。

トークが上手い人って、相手が返しやすい事を言うのか。

これは…いいな、勉強だ。

 

 

 

 

喫茶店で、カフェオレを飲みながらのんびり会話する。

常に相手の女の子は笑顔で頷いて、私が続けやすいように話題を振ってくる。

 

 

「それで、輝子ちゃんはシイタケがトモダチなんだ!」

 

 

「う、うん…お、おかしいか?」

 

 

「ううん。私だってぬいぐるみに名前つけてたし、別段変じゃないと思うよ?休日はその子達と遊んでるの?」

 

 

凄いな、ほんとに。

会話が弾む…そ、そうか。

会話の最後に相手に対する質問や同意を求めればいいんだな。

そうすれば、次の会話が生まれるんだ。

 

 

今日のラジオ収録、上手くいきそうだな。

…お、そろそろ時間だ。

 

 

「ご、ごめん…そろそろ、次の用事があるから…」

 

 

「そ、そっか。また一緒にお話ししようね?」

 

 

「そ、そうだな…あ、悪いんだけど連絡先教えて貰っていいか?」

 

 

「はい、これ私の電話番号。何時でも掛けていいからね?」

 

 

 

 

 

 

それから、私は仕事の前日や午前中はトモダチを作って色々と学んでいた。

野菜収穫の撮影の時は農家の娘さん。

スポーツ番組の前には体育会系の女の子。

バラエティ番組の前日にはクラスの人気者っぽい子。

 

 

毎日が、上手くいっていた。

私も、色んな人と会話して成長できた…と思う。

メールをすれば、新しいトモダチが出来る。

トモダチ百人も全然夢じゃない。

 

 

そう言えば、明日はまた食レポか。

一番最初に一緒にご飯食べた子に連絡してみようかな。

折角連絡先教えて貰ったし。

 

 

ぷるるるる、ぷるるるる

 

 

…あれ?出ないぞ?

お掛けになった電話番号は、現在利用されておりません?

おかしいな…ま、まさか。

私に、適当な番号を…

 

 

いや、もしかしたら私が番号を間違えてただけかもしれないな。

もう一回確認してかけ直してみよう…

…ダメだ、繋がらない。

 

 

まぁ、いいか…

それならそれで、新しいトモダチを…

 

 

『食レポが得意なトモダチ』

 

 

送信。

…あれ?出来ないぞ?

なんでだ?もしかしたら電波が悪いのか回線がパンクしてるのかな。

 

 

ぶーん、ぶーん

 

 

…お、メールだ。

なんだ…?

 

 

『ご利用のトモダチ人数が上限に達しました。以降は、あなたがトモダチとなる番です』

 

 

…え?どういう事だ?

回数制限があったって事か?

も、もっと考えてからメールするべきだったかな…

 

 

そう思いながら、メールをスクロールして。

私は、息が止まりそうになった。

 

 

『あなたには、他の方の希望通りのトモダチとなって頂きます。容姿は相手の要望通りのものとなります。相手が次のトモダチをメールで要求した時点で、あなたはいなくなります』

 

 

 

 

 

う、うそだろ…?

な、なんだこれ…

いなくなる…え?

 

 

急いで今までに貰った連絡先に片っ端から電話を掛けるもの、誰にも繋がらない。

メールの通りだとすると、既に…

…って、ことは…容姿も変わるってことは、もしかして…

最初に送られてきたシイタケ君やタケノコ君は…

 

 

う、うわぁぁぁぁぁぁぁ

うう、嘘だ…そんな事…

もしそうだとしたら…

 

 

ぶーん、ぶーん

 

 

め、メールだ…

ドッキリ大成功とか、そんな内容であってくれ…

 

 

『相手:○○ ○○○さん。住所:○○県○○市○○。希望:少し暗くて、少し歌の上手い女の子』

 

 

 

 

 

 

 

翌日朝、私は始発に乗ってその女の子の家に向かった。

そこまで遠くない、電車で30分もあればつく家に。

それでも、もし私が相手の要望に応えられず。

ほかのトモダチを求めてメールを送ってしまったら…

そう考えると、動かずにはいられず。

彼女が起きて少しくらいのタイミングでインターフォンを押せるように、近くでスタンバッテいた。

 

 

部屋の電気がついた。

よ、よし…

大丈夫だ、会話も少しは上手くなったし…

もともと、相手は少し暗めの女の子を要望してるくらいだ。

 

 

…ふー…

い、いくか…

 

 

ピンポーン。

勇気を振り絞って、インターフォンを押す。

ガクガクと足が震えそうになる。

それでも、不安を相手に察される訳にはいかない。

 

 

ガチャ

 

 

「お、おはよう…○○ちゃん。きょ、今日は…曇ってるけどいい天気だな」

 

 

 

少し暗い女の子を要望しただけあって、相手の○○ちゃんも少し暗めの子だった。

だからこそ、私なら大丈夫だ…多分。

話のテンポはそんなに良くないけど、ちゃんと続いてる。

上手く、相手の期待通りのトモダチになれてる…

 

 

「ね、ねぇ輝子ちゃん。良かったらカラオケにでもいかない?」

 

 

「か、カラオケか…あ、あんまり行った事なかったけど、行ってみようかな」

 

 

彼女はあまりトモダチがいないらしく、だからこそカラオケに行ってみたかったらしい。

私もあまりカラオケに行った経験はないけれど、大丈夫だろう。

むしろ、カラオケに行きたかったからこそ少し歌の上手い女の子を要望したのかもしれない。

わ、私で大丈夫かな…

 

 

 

 

 

お互いオドオドしながら受付を済ませ、カラオケルームに入る。

カラオケあるある…なのか分からないけど、お互い一曲目を入れられない。

少し、沈黙が続く。

こ、これは…まずいな。

 

 

し、仕方がない。

私が一曲目を入れよう。

 

 

「そ、それじゃあ…わ、私が先に歌っても大丈夫か?」

 

「お、お願いしていい?カラオケって流れでなんとかなると思ってたけど、最初に曲いれるの緊張しちゃうね」

 

 

「そ、そうだな…」

 

 

一曲目、どうしようか…

下手過ぎると、相手の気を損ねちゃうかもしれないし…

歌い慣れてて、有名な紅にしよう…

 

 

ピッ

 

 

「へー、輝子ちゃんってこういう曲歌えるんだ」

 

 

「ま、まぁな…」

 

 

イントロが流れ出す。

私はマイクを握り締め、大きく息を吸った。

聞き苦しい歌は聞かせられない。

だから…全力で。

 

 

 

 

 

 

 

「…ふ、ふぅ…大声で歌うって、楽しいな…」

 

 

「そーだね。うん。凄く上手かったと思うよ」

 

 

よ、よかった…

○○ちゃんは満足してくれたみたいだな。

これなら、あとは流れでなんとかなって…

 

 

「…少し上手い、って希望出したのに。上手過ぎて私が歌いづらいじゃん」

 

 

「…え?」

 

 

う、うそだろ…?

待ってくれよ、私は頑張って歌ったじゃないか。

 

 

「次は、普通くらいって希望出さなきゃ」

 

 

「ま、待ってくれ…い、いまのは歌い慣れてて…」

 

 

「いいや…今のうちにメールだしちゃお」

 

 

彼女の指がスッスッと動く。

待って、待ってくれ。

頑張ったじゃないか。

私は、○○ちゃんと気が合ったじゃないか。

 

 

「送信、っと」

 

 

「私達は、トモダチになれ

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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気づいた日から、つまりごっこと呼ぶ日から

何かの前日譚的なお話


 

 

はー…疲れた

体力はなんやかんや自信があるんだけどねー

いかんせんユニットメンバーが…

 

 

え?いや、不満自体は特に無いよ?

じゃなきゃ杏は直ぐサボってるし。

サボってばっかなイメージかもしれないけどねー。

実はこのユニットメンバーでのレッスンはサボった事が無い…筈。

 

 

杏がリーダーに任命されちゃってる訳だしね。

やる事はちゃんとやるよ?

てゆーか杏が引っ張らないとあの二人は動いてくれないし。

文香ちゃんもフレデリカちゃんも、任せられる事は全部任せてくるからねー。

 

 

肇ちゃんも実際分かってるでしょ?

フレデリカちゃんはあんな感じだけど、実際は出来るって。

文香ちゃんも、ステージに立つとキャラ変わるし。

やれば出来るのにやらないだけなんだよ。

 

 

…杏も、もちろんそうだったけどね。

 

 

色々あったんだよ、色々ね。

あー、うん。

しょうがないなぁ、コーヒーのんで落ち着いてからでいーい?

 

 

…よし。

とは言え何から話そうかねー…

杏的には、あんまり真面目な話はキャラじゃないし。

でもまー、肇ちゃんならいっか。

 

 

肇ちゃんって、スリーエフのプロデューサーの事どれくらい知ってる?

…変な人、ねー…間違ってないよ。

元はフレデリカちゃんの専属プロデューサーだったし、変な人じゃなきゃ務まらないからね。

 

 

文香ちゃんの話は…聞いた事もない、と。

まぁ文香ちゃんは自分の事話したがらないもんねー。

じゃ、フレデリカちゃん自身については?

…とーぜん知らないか。

 

 

その辺は、まぁ本人に聞いてって事で。

正直杏も全部知ってる訳じゃないからねー。

よし、じゃー杏視点の物語になるけど。

話していこっか。

 

 

私が、ちょっとだけ変わった。

ごっこなんて遊びを始めた、面白可笑しい日になるまでのお話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ワンツー、ワンツー!」

 

 

手拍子と共に、トレーナーさんの大きな声がレッスンルームに響く。

それに合わせてレッスンを受けている子たちがステップを踏んでくるくると動き回る。

いつもと変わらないダンスレッスン。

杏が部屋の端で座ってサボってるところまで含めてね。

 

 

ちょっと違うところと言えば、あんまり見慣れないアイドルが二人いたことくらいかな。

見たことないって事は割と新入りな筈なのに、金髪の方は周りに負けないくらいピシッと決めてて。

もう一人は見るからに運動が苦手そうで、現に少し遅れながら息を切らして。

辛いなら辞めちゃえばいいのに、なんて事はさすがに言わないけどね?

 

 

それぞれに目標や夢があるんだろうし、だから今こんなに汗水流して頑張ってるんだろうし。

杏は別にこれ以上やらなくても、なんとかこなせるくらいにはなっちゃったからやらないけど。

必要最低限で最大の結果、がモットーだからね。

それで困った事はないし、今のところ。

 

 

お手洗い行ってきまーす、みたいな雰囲気出しながらレッスンルームから退避。

居てもやらないなら居なくていいしね。

トレーナーさんももう何も言ってこなくなったし。

体力自体はそんなにはないけど、今やってるやつ程度ならパパッと出来ちゃうから。

 

 

ルームのドアを閉めると、中の声は殆ど聞こえなくなる。

ソファでのんびりしてから部屋に戻ろ。

そんなことを考えてゴロンとしてると、一人の男の人が現れた。

いや、元からいたんだけどね、杏が気づかなかっただけで。

 

 

「双葉さんはレッスン受けないんですか?」

 

 

「…割と敬語無理してる?杏が言う事じゃないけどタメでいいですよ?」

 

 

「…成る程…でもま、察したり見る力はある訳だ。お互いタメ口でいいよ」

 

 

珍しい奴だな。

それが杏の第一印象だった。

明らかに年下から若干タメ口でタメでいいよ?なんて怒る人もいるのに。

もちろん怒らせるつもりがある訳じゃないけどね?

 

 

見た感じ割と若そうだけど、この人もなかなか頭自体は回るみたいだね。

今のやり取りで多分お互い色々と気付いてるし。

事務所ですれ違った事は何度かあったけど、ちゃんと会話した機会はない。

アイドルと一緒に歩いてるところも前に見た記憶はないし…

 

 

「あの新入りの子のプロデューサー?ついでに貴方も」

 

 

「半分あたり。俺は別に新入りじゃない、表に立つ機会があんまりなかっただけかな」

 

 

裏方なのに表…なんて笑ってるこのプロデューサーは、多分キャラ的に金髪の方のなんだろうね。

 

 

「お、当たり。宮本フレデリカさんの担当やらせて貰ってる、今後何かあると思うからよろしく」

 

 

「まだ杏何も言ってないよ。私は双葉杏、知ってはいた感じ?」

 

 

「面白い子だな、と常々。うちの事も仲良くしてくれるとありがたいな」

 

 

まぁ話に聞いた事くらいはあるか。

となると、件のフレデリカちゃんの付き添いみたいな感じでここにいるのかな?

まぁ杏からしたらどっちでもいっか。

 

 

 

 

 

 

 

 

だるいなー、なんて思いながら部屋へ戻るレッスン終わりの事務所の廊下。

まぁダンスレッスンだったからサボっちゃったし疲れてる訳じゃないけどさ。

上手い事プロデューサーを言いくるめる為の言い訳を考えながら。

飴玉片手にのんびり歩く。

 

 

途中で見掛けた自動販売機で飲み物を買おうと思ったけど残念な事に財布はロッカーに置いてあるカバンの中。

仕方がないから部屋の冷蔵庫に冷やしてあるお茶でいいや。

 

 

それにしても、最近あんまり面白くないな。

楽しく楽してなつもりだったけど、なんだかなぁ…

いや、不満か?って言われたらはっきりとは言えないけどね。

今はある程度安定してるからやめるつもりもないし。

 

 

まぁそんな感じで。

私は完全に舐めきってたんだよね、色々と。

だから、自分で言うのも難だけどさ。

気が回りきってなかったんだよ。

 

 

扉を開けて部屋に戻る。

お疲れ様ーなんて言ってソファに寝転がるも、返事が返ってこない。

プロデューサーはキーボードカタカタしてるから集中して気付いてないのかな?まぁいいや。

って、軽く思ってた。

 

 

今日この後何しようかな。

帰ったらどのゲームやろうかな。

そんなことを考えてたら、ようやくプロデューサーから声が掛けられた。

 

 

「…双葉さん、少し真面目な話をいいですか?」

 

 

「ん?いいよー」

 

 

直感的に、何かヤバい気がした。

でも、今更気付いてももう遅い。

既に何かは決まっちゃってる。

 

 

まずったなー…レッスン流石にサボりすぎたか。

これからはちゃんとうけておかないと。

お小言もらうのは杏じゃなくてプロデューサーの方だもんね。

 

 

なんて、まだ現状を理解し切れていない杏に。

現実を、突きつけられた。

 

 

「一ヶ月以内に引き継ぎ先が決まらなかった場合、双葉さんはーー」

 

 

私が色んな事に気付いて変わる切っ掛けは、最悪の切り出しからだった

 

 

 

 

 

 

 

その後事務的なやり取りをして、気づけば私は家に着いていた。

やっぱり、トレーナーや他の人からちょいちょいクレームはきてたらしい。

また、本人のやる気も見受けられなかったから。

そして一番の理由として、プロデューサー本人の意思らしい。

 

 

見る目がないなぁ、なんて言うつもりはないよ。

現に誰かの前で頑張るって事をしなかった訳だし。

仕事だけ出来ればそれでいい、って世界でもないからね。

杏の性格は自分で言うのも難だけど一般受けしやすいものでもないし。

 

 

「…どーしよっかね…」

 

 

この様子だと、引き継ぎ先が見つかるかどうかも怪しい。

悪評じゃないにしても、割とグータラしてるところは色んな人に見られてるし。

それで更に本人のプロデューサーが手放すだなんて、ねぇ。

コミュニケーションをとろうとしなかった杏に非があるし、そもそもサボってたから何も言えないけど。

 

 

あー、もうちょっとは表面にも頑張りとかを出すべきだったのかなー。

テスト終わった後に勉強しよ、ってなる学生みたい。

いや杏は学生なんだけどさ。

 

 

明日のレッスンは真面目にやろう、なんて明日の自分に願いを託す。

…そもそも、私はアイドルを続けたいのかな?

 

 

 

 

 

 

 

翌日、昨晩の願いは叶ったみたいで杏はちゃんとレッスンを受けていた。

珍しいじゃないか、なんてトレーナーに言われたけどスルー。

そんな事より、次にすべき事を考えるので頭がいっぱいだったから。

もちろん別の事を考えながらでもこの程度のダンスなら出来るしね。

 

 

小休止になって、飲み物を買おうとレッスンルームを出る。

何時もだったらこのままふらーっと帰ってただろーけど、今そんな事したら完全にアウト。

はぁ…それにしてもちゃんとダンスレッスン受けてるなんて久しぶりだな。

最初から適度にやってればこんな事には…

 

 

「…今更考えても無駄だし、これからを考えるかなぁ…」

 

 

「おやおや?難しそーな顔してどーしたの?」

 

 

背後から声を掛けられた。

この時は気付かなかったけど、よくよく考えたら背後から表情を見られる筈が無いんだけどね。

そこはまぁ、流石フレデリカちゃんって感じかな。

 

 

「ん?めんどーな事になったなって。君はフレデリカちゃんでいいの?」

 

 

「わぁお、フレちゃんの事知ってるなんてまさかファンの人?サインあげよっか?」

 

 

…こりゃまたホントに凄い新人だね。

あのプロデューサーの株がかなり上がったよ。

 

 

「君は杏ちゃんでいーのかな?サインになんて書けばいーい?」

 

 

「いやサインはいいよ。私は双葉杏だよ、まぁ名前だけなら聞いた事があったのかな?」

 

 

まぁいいや、飲み物買って戻ろ。

そう言って手をヒラヒラさせて、自動販売機へと向かう。

そんな杏に向かって、フレデリカちゃんから。

 

 

「ねー杏ちゃん。アイドルやってて楽しい?」

 

 

その一言で、杏は完全に縫い付けられた。

 

 

「レッスン、あんまり楽しそうじゃなかったからねー」

 

 

「…どーだろうね。実際杏にも分かんないや」

 

 

真面目にそんな事を考えるなんて柄じゃないけど、直接突き付けられると逃げられなかった。

なんで杏は、アイドルを続けようとしてるんだろう。

なんで楽しいって即答出来ないのに、やろうとしてるんだろう。

 

 

「楽しまなきゃ損だよー?こんなに今までやった事ない事が出来るんだもん!」

 

 

ふふーん、なんて鼻歌まじりにフレデリカちゃんはレッスンルームに戻って行く。

けれど杏は、しばらく動けなかった。

いやー、ほんとにすごい新人だね。

あのプロデューサーじゃなきゃ担当なんて出来ないよ。

 

 

さて、まぁここで真面目に自問自答してるとレッスンに遅れちゃうし戻らないと。

取り敢えず飲み物をかってルームに戻る。

なんとか滑り込んで鏡の前に立ち、トレーナーの指示通りのステップ。

 

 

実際、こーゆーレッスンを楽しいって思った事はないかな。

やらなくても出来るし、当たり前の事を繰り返してて楽しい訳ないからね。

そんな時、なんとなーく鏡に映ったフレデリカちゃんに目をやると。

物凄く楽しそうな笑顔で、完璧に踊っていた。

 

 

ほんとに楽しそうだね。

こっちまでなんだか楽しくなってくるよ。

 

 

なんとなく、負けないくらい杏も一生懸命踊ってみた。

そりゃーもう周りを圧倒するくらいに。

これでも割と自信はあったからね、やらないだけで。

周りの人達が動きを止めてる事に気付かないくらい、鏡に映ったフレデリカちゃんに負けんと全力で。

 

 

 

 

「あー…久しぶりにこんなやった気がするよ…」

 

 

「流石杏ちゃんだねー」

 

 

レッスンが終わって茹でられた餅みたいに床にへばりついていると、フレデリカちゃんが話し掛けてきた。

あんなにずっと踊ってたのに元気だなぁ。

それに多分、まだまだほんとは上手いだろーし。

 

 

「普段は必要最低限のパフォーマンスしかしないからね…自分で思ってたより体力落ちてたよ」

 

 

「じゃースポーツジムの会員にならないとねー」

 

 

お、そーゆーネタもいけるんだ。

そんなアホな会話をしながら着替えて、フレデリカちゃんとお別れ。

それにしても、楽しみながら踊ったのもほんと久しぶりな気がするよ。

 

 

部屋に戻ってもやる事ないし、この後は仕事も無いから家に帰ろ。

そんな事を考えながら廊下を歩いてると、自動販売機前の椅子で疲れ果ててる女の子がいた。

さっきレッスンルームで見た気がするけど…誰だっけな。

 

 

「大丈夫?お茶でよければ飲む?」

 

 

「あ…ありがとうございます…」

 

 

「えっと…名前聞いていい?」

 

 

「鷺沢、文香と申します…」

 

 

面白いほど会話が続かない。

ってゆーかお茶飲むの早いよもうなくなってるじゃん。

遠慮しろなんて言えないけど、して欲しかったかな。

買えばいいんだけどさ。

 

 

「私は双葉杏だよ。こんな所で何してるのさ」

 

 

「その…私は、あまり体力が無いので…部屋へ戻る前に、少し休もうと…」

 

 

「ふーん、杏が言えたことじゃないけど体力付けないと大変だよ。あとストレッチも忘れずにね」

 

 

空になったペットボトルをゴミ箱に放り投げ、パタパタと手を振ってお別れ。

これ以上一緒にいても特に会話なさそうだからね。

 

 

「あの…このお礼は、必ず…」

 

 

「…いいよ別に、文香ちゃんも頑張ってね」

 

 

 

 

 

家に帰って暖房を入れて、ポテチとコーラを完備させてゲームをポチポチ。

でもやっぱり、今日のフレデリカちゃんの言葉が頭にこびりついて集中出来なかった。

 

 

楽しんでる?ね…

 

 

実際に久し振りに今日割と本気で踊った時はかなりのめり込んでたけど、後からくる疲労がしんどいからなぁ。

楽しかったか?って言われたら、まあ否定は出来ないけど。

それでもずっと本気でだなんて体力持たないし。

ここぞって時だけでよくない?まぁそのせいで今の状況になっちゃってるんだけどさ。

 

 

でもほんと、久し振りに勝ちたいとは思ったかな。

勝ち負けじゃないけど、こう…ね。

しばらくは真面目にやるのも悪くないかな、って。

 

 

ゲームをほっぽって身体をほぐす。

一旦頭を空っぽにしてのんびり足を伸ばしたり腕をの倒したり。

リラックス出来るし、案外ストレッチも悪くないね。

普段はあんまりやらないけど、これからはやってみるのもいいかもしれない。

 

 

さて、と。

解決しなければいけない目先の問題は別にある。

このままだと、私は新しい配属先が見つからず今の事務所にはいられなくなる。

それは全力で避けたい事だった。

 

 

なら他の事務所にしてみたらいいじゃない、なんて考えは思考の外に叩き出す。

それは今の事務所が大手というのも大きな理由だけれど。

それよりも、ちょっとだけ一緒にやってみたいな、って言うアイドル仲間が出来たから。

もちろん今までにも居たっちゃいたけれど、どっちかって言うとこう…なんだろ?

 

 

まー兎にも角にも。

今までよりも少しちゃんと頑張ってみて。

それで次が見つからなかったら諦めるしかないかな。

今やってみて無理なら、多分この先にきっと同じ事になってただろうしね。

 

 

 

 

 

翌日事務所に着くと次のオーディション用の書類が渡された。

結構大きな学園ドラマらしく、杏は引き篭もり役らしい。

うん、まぁぴったりだよね、イメージ的には。

ここはしっかり抑えておきたいし、さっさと台詞全部覚えちゃわないと。

 

 

てくてくとレッスンルームに向かいながら目を通す。

オーディション時の台詞自体はそんなに多くない。

って事は、その数回の発言のチャンス内でしっかりと審査員に目をつけて貰わないと…

出来レースでもない限り、多分大丈夫。

 

 

「…お、双葉か。次のオーディションはうちのフレデリカも受けるみたいだから、合格したらよろしくな」

 

 

「おはようございます。あれ?フレデリカちゃんもう?結構デカいアレな気がするけど」

 

 

そんな感じで書類片手に歩いてたらフレデリカちゃんのプロデューサーに会った。

…杏が口出しできる事じゃないけど、流石に早過ぎる気がするな。

エキストラなら兎も角、多分このプロデューサーの口振り的にちゃんとしっかりした役がありそうだし。

 

 

「何事も経験ってな。正直言って半々くらいだから後はフレデリカのコンディション次第だ」

 

 

「それなら大丈夫なんじゃない?フレデリカちゃんなら何時でも絶好調っぽいキャラだし、プレッシャーにやられるなんて事もないんじゃない?」

 

 

「…どうだろうな。あとよければなんだけど、ちょいちょい気に掛けてやってくれないか?」

 

 

「別にそれくらいならいいよ…あ、報酬に飴くれたりしない?」

 

 

「おっけー美味しいやつ用意しとくから。頼りにしてるぞ」

 

 

頼りにしてる、ね。

杏自身が特に何かやるべき事って言うのはあんまりないだろうに。

それに、久し振りに誰かに頼られた気がする。

なんだろうね、こう…キャラじゃないなぁ、なんて。

 

 

とは言え頼られちゃったからにはやらないと。

積極的にこっちから話しかけていけばいいのかな?

そんな事しなくても向こうからマシンガントーク仕掛けてきそうなものなのに。

 

 

 

 

ボーカルレッスンは恙無く終了した。

いや、むしろ杏が真面目にやってて逆にまた驚かれたくらいなんだけどさ。

伊達に飴舐めてないよ、発声に関係あるのか知らないけど。

 

 

フレデリカちゃんも、自由に楽しそうに歌ってた。

時折少しふざけてるのか音程が外れてる事もあったけど、ちゃんとやれば問題無いみたい。

そう言えば、文香ちゃんはちょっと声出すの辛そうだったかな。

まだ慣れてないって感じなのか、大きな声を出せていなかった。

 

 

とりあえず、フレデリカちゃんはいつも通りだし特に何もなさそうだね。

そもそもあのプロデューサーから、オーディションを受けるってまだ聞いてないのかもしれないけど。

新入りとは思えない堂々とした振る舞いとあの見た目があればなんとでもなるでしょ。

 

 

「でねー、昨日行ったカフェが凄くおしゃれだったんだー!星三つ半くらい!」

 

 

「なんともまぁ反応に困る評価だね」

 

 

で、件のフレデリカちゃんは現在杏に向かっていろいろな事を喋っていた。

カフェに行った話、レポートの締め切りが迫っている話、顔のある観葉植物の作り方。

半分くらい意味が分からない会話だったけど、会話として成り立ってるなら問題無い。

にしても、ほんとにフリーダムな感じだね。

 

 

「あ、そうだそうだ。プロデューサーからもうオーディションの事聞いてる?」

 

 

「あーうんうん、オーディションね。だいじょーぶだよ?フレちゃん審査員ごっこよくしてるもん」

 

 

…ふーん、成る程ね。

そう言えば、まだ特に何かステージに立ってみたりオーディションを受けたりって話は聞いてないしこれが初めてなんだろーね。

そして、うん。

あのプロデューサーが少し心配してる理由が分かった気がする。

 

 

だからこそ、杏が頼られたんだろうし。

だからって、何が出来るわけでもないけど。

 

 

「まー役になり切れば大丈夫だよ。あとはほんとに緊張しない事かな」

 

 

「フレちゃんのフランス語図鑑に緊張の漢字はないよー?」

 

 

「そりゃフランス語なら漢字はないだろうね」

 

 

のんびり着替えながら、帰りの支度を済ませる。

帰って昨日のゲームの続きしたいからね。

今日はもうやる事はないし、セリフも大体頭に入ってるし。

特にアドリブいれられそうな場所もなかったし、こうなると後は自分の演技力次第。

 

 

そのままフレデリカちゃんと別れて、一度自分の部署の部屋に寄って帰宅の旨を告げた。

当のプロデューサーはカタカタとキーボードを叩くのに夢中で生返事しか返ってこなかったけど。

あー、ボーカルレッスンだけじゃなく、久し振りに自分の歌いたい歌を歌いたいな。

1カラでも寄ってから帰ろうか。

 

 

…ん、そうだ。

さっきフレデリカちゃんもこの後は帰るだけって言ってたし丁度いいじゃん。

そうと決まればサクッと行動。

カラオケいかない?ってラインを送れば杏が丁度事務所を出る頃に返信が来た。

 

 

『おっけー!どこいる?コイル?ソレノイド!』

 

 

『事務所出たとこで待ってるよ』

 

 

 

 

 

 

 

 

「ボエー!!」

 

 

「ほんとにボエーって歌う人初めて見たよ」

 

 

さてさてやってきましたカラオケボックス。

二人で二時間、まぁこのくらいが丁度いいんじゃないかな?

あー、カラオケ来たのも久しぶりな気がする。

何歌おうかな、ゲームの主題歌とかフレデリカちゃん知らなそうだし。

流行に則って恋のダンスみたいな曲にしようかな。

 

 

「杏ちゃん、何歌うー?」

 

 

「これにしようかな。フレデリカちゃんも歌えるでしょ?」

 

 

ピッと送信すれば曲が流れ出す。

採点はいらないし音程バーもいらない。

楽しく自由に歌うのが一番だからね。

 

 

「ふふふふふんふんふーん!」

 

 

「歌詞、画面にちゃんと表示されるからね?」

 

 

…なんで杏が振り回されてるんだろ。

普通なら逆なのに、フレデリカちゃん相手だと…なんだろうね?

まぁそんな感じで一曲歌い終えれば、後はもうカラオケ特有の流れのあれ。

次々に曲が予約され、交互に、一緒に歌う。

 

 

うーん、やっぱりいいねカラオケは。

歌ってる間は何も考えなくていいし、楽しいし。

フレデリカちゃんも楽しそうに歌ってるし、うん。

来て正解だったみたい。

 

 

「楽しいしっていいねー」

 

 

「そりゃ楽しんでるんだからそうだろうね」

 

 

フレデリカちゃんのその発言は、一体どんな意味だったのか。

杏と同じなのかもしれないし、違うかもしれない。

結局のところ、似てるんだろうね。

まぁ難しい事なんて考えず今は楽しもう。

 

 

二時間なんて歌ってるとあっという間で、直ぐに退室時間の連絡が来た。

延長はせず、そのままマイクを片付けて退室。

あー、歌った歌った。

 

 

「楽しかったねー、杏ちゃん」

 

 

「うん。フレデリカちゃんも歌上手かったし、やっぱりアイドルなんだなー私達、って感じかな」

 

 

「また誘ってねー、フレちゃん毎日がエブリワンだから!」

 

 

「また近いうちに誘うよ。杏もレッスン終わりなら割と空いてるから」

 

 

そのままお別れして帰路へ着く。

自宅へ着いてシャワーを浴びで布団にごろん。

誰かと遊んだ後に一人でいると襲ってくるあの感覚からおさらばする為にゲームの電源を入れる。

フレデリカちゃん、オーディション受かるといいなぁ。

 

 

 

 

 

あーやる事ない、暇。

休日、特にやる事もなくなって時間を持て余していた。

ゲームはクリアしちゃったし、今から発注しても届くの夜とかだしなぁ。

外に出てもやる事ないし、何しよ。

 

 

ちなみにオーディションは受かったよ。

演技力には自信があるからね。

フレデリカちゃんがどうだったかはまだ知らないけど。

 

 

あ、飴屋にでもいこうかな。

折角時間があるんだし、ちゃんとしたお店の飴を買うのも悪くないかもしれない。

そうと決まればパパッと着替えて外へ。

てくてく歩いて電車に乗って、中野へゴー。

あっという間…じゃないけど目的の飴屋。

 

 

店の外まで甘い匂いがするね。

うんうん、ここなら杏の求める飴が見つかりそうだよ。

ガラス張りの壁に沢山の飴の小袋が掛けられててオシャレだし。

飴を作ってるところを見るのも楽しそうだね。

 

 

「…多過ぎて迷うね。ここからここまで全部って言ってみたいよ」

 

 

「印税だけで生活できるくらい売れれば、一つずつならいけるんじゃないか?」

 

 

「ん?お、フレデリカちゃんのプロデューサーじゃん」

 

 

飴を眺めていったりきたりしていた杏に話しかけて来たのは、あのプロデューサーだった。

珍しい事もあるもんだね、こんな場所で会うなんて。

普段のスーツ姿とは違って、どこにでもいそうな休日のお父さんみたいな服装で。

いっちゃあれだけど、まぁオシャレではないね。

杏も人の事言える格好じゃないし、誰かに会う予定がなかったんだろうから問題ないけど。

 

 

「で、休日にどうして飴屋にいるの?プロデューサーも飴好きだったりする?」

 

 

「いや、双葉が言ったんだろ。飴よこせーって」

 

 

「あーそうだった。そこまで横暴な言い方した覚えはないけどね」

 

 

って事は、わざわざあんな約束の為に飴屋にまで来たんだ。

スーパーとかコンビニで売ってるやつで構わないのに、休日使ってまで来るなんて。

 

 

「一応人に渡すものだからな。どう言うのがあるのか調べてたら珍しい店を見つけたから気になったんだよ」

 

 

「凄いよねー作ってるとこ見れるなんて。うどんみたい」

 

 

のんびり飴が作られていく光景を眺めながら、飴の小袋をてにとっていく。

綺麗でカラフルな模様の飴は、今までで見た事ないくらい綺麗だった。

見た事ないものって、見るだけでなんだか楽しくなるよね。

それが自分の好きなものなら、尚更。

 

 

「あ、支払いは俺が持つぞ」

 

 

「いいの?ありがとこっからここまで」

 

 

「おい」

 

 

良識の範囲内で選び、支払いはお願いしちゃう。

いやー、来てみるもんだね。

 

 

「あ、この後まだ時間あるなら近くのカフェ行かないか?」

 

 

「いいよー別に。やる事なかったからふらふら来てみただけだし」

 

 

 

 

 

 

 

からんからん、と入り口のベルを響かせて喫茶店に入る。

こう、ザ・喫茶店みたいな古い感じの装飾のお店。

普段あんまり入らないから新鮮だね。

 

 

「いい雰囲気の店だろ、お気に入りなんだ。あ、支払いは俺が持つから」

 

 

「それじゃ遠慮なく。コーヒーとバニラアイスで」

 

 

「すみませーん、コーヒー二つとバニラアイスで」

 

 

そのままコーヒーを傾け、のんびりと過ごす。

こういう休日もいいね。

普段行くようなカフェもいいけど、なんか落ち着くよ。

流れる音楽がゆったりとしたクラシックなのも一役買ってる気がする。

 

 

「あ、そうだ。まずはオーディション合格おめでとう」

 

 

「ありがと。それでフレデリカちゃんの方は?」

 

 

「ダメだった。思ったようにいかなかったみたいでな」

 

 

そっか、おっこっちゃったか。

一番最初のオーディションだから引きずらないといいけど。

やっぱり緊張してたのかな。

それとも、役を演じようとしちゃってたのかな。

 

 

多分ありのままのフレデリカちゃんなら受かってた役なんだろうし。

まぁ初めてだし、硬くなったり不自然になっちゃうのもしょうがないけど。

で、杏をカフェに誘ったって事は…

 

 

「いつも通りだけど凹んでるかもしれないから、何か気晴らしに誘いたいんだけどな。どっかなんかないか?」

 

 

だよね、うん、普通凹むよね。

さてさて、どっかないかな、ときたか…

 

 

「やっぱカラオケとかじゃない?良い気晴らしになると思うよ」

 

 

「なるほど、カラオケか…誘ってみるかな」

 

 

ふむふむ、と首を縦に振りながら…ん?

 

 

「あれ?プロデューサーってタバコ吸うの?」

 

 

「あ、そうだった。プライベートの時にしか吸わないようにしてるんだよ」

 

 

「別に杏はいいけど、煙こっちに吐かないでね」

 

 

ふーん、吸うイメージなかったけど。

まぁ人の事だからとやかくは言わないし、事務所にいるときは吸わないようにしてるらしいから。

ふー、っと煙を吐き出して、コーヒーを一口のむプロデューサー。

なんていうか、大人だね。

杏は吸う予定もつもりもないけど。

 

 

「まぁ杏も手助けはするよ。飴買ってもらっちゃったしね」

 

 

「助かるよ、凄く。あと俺が喫煙者だって知ってる人少ないから、あんまり言わないでくれよ?」

 

 

 

 

 

 

翌日、ダンスのレッスンを受けた。

フレデリカちゃんはいつも通り、笑顔で踊ってる。

ただなんとなく、楽しそうじゃないね。

ちょっと必死になってる…うん。

ほんの少し前の私みたい。

 

 

…さて、どうするべきかね。

気晴らしにはあのプロデューサーが誘うだろうし、今杏が出来るのはレッスンに付き合うくらいかな。

フレデリカちゃんが杏に言ったんだから、それをまるっと返してもいいよね。

 

 

「ねぇ、フレデリカちゃん。レッスン楽しんでる?」

 

 

「もっちろーん!フレちゃんは何時でもハッピースマイルモンスターだよ?」

 

 

どっかで聞いた事があるね。

まぁいいや、とりあえず…

 

 

「ありがとね、フレデリカちゃん」

 

 

「あれ?アタシなにかしたっけ?」

 

 

「さぁ?でも兎に角、私はフレデリカちゃんと一緒に踊ってて楽しいよ」

 

 

「わぁお、フレちゃんも杏ちゃんと一緒に楽しめて楽しーよ?」

 

 

誰かと一緒に何かを頑張る。

それがなんとなくだとしても、負けたくないからだとしても。

案外、楽しい事なんだって。

フレデリカちゃんは、今どうだろーね?

 

 

少なくとも、少し前の杏に気付かせてくれたのはフレデリカちゃんだし。

今のフレデリカちゃんが忘れてるんだとしたら。

今度は、私の番。

 

 

それじゃあとは。

あのプロデューサー次第かな。

 

 

 

 

 

 

からんころん

 

 

また、この喫茶店に来た。

まだ二回目だけどなんとなく居心地が良い。

ぐるっと店内を見渡すけど、まだ来てないみたい。

コーヒーを頼んで、のんびりスマホをいじる。

 

 

からんころん

 

 

お、きたきた。

今日杏を此処に呼んだ人が。

 

 

「ごめん、今来たとこ」

 

 

「見れば分かるよ。あとそんなに待ってないから」

 

 

プロデューサーもコーヒーを注文して一服。

普段は禁煙席にしかいかないから、未だにタバコの臭いは慣れない。

嫌いじゃないけど、どうにもね。

 

 

「まずは、ありがとな。いつもの調子に戻れたみたいだ」

 

 

「杏は何もしてないよ。単にフレデリカちゃんが立ち直りが早いんじゃない?」

 

 

お互い笑いながら、コーヒーカップを傾ける。

杏のは砂糖とミルク入りだけど。

苦いのは、嫌いだからね。

 

 

「誰かと一緒に何かをするって楽しいねーだってさ」

 

 

「それはプロデューサーに対してじゃない?カラオケ行ったんでしょ?」

 

 

「だれのおかげかくらいは分かるよ。これからもよろしくな」

 

 

これからも、ね。

はぁ…嫌な事を思い出しちゃった。

コーヒーが途端に苦くなった気がする。

 

 

もう直ぐ、なんだよね。

あぁ…良い感じになってきたんだけどな。

身から出た錆、過去の負債が今になって一気に押しかかってくるなんて。

 

 

「「それなんだけどさ」」

 

 

杏の状況を伝えようとして。

文脈を無視して、プロデューサーが口を開いた。

一体なにがそれなんだけどさ、だよね。

まぁ多分、気付いたんだろうけど。

 

 

「双葉の状況は理解してる。不器用と不器用は合わないからな」

 

 

「なに言ってるの?兎に角まぁ、杏はもうすぐ

 

 

「なぁ、双葉」

 

 

また、突然遮られる。

まるで杏に、それを言わせないようにするかの様に。

 

 

「俺としてはまだ諦めて欲しくない。だから此処に呼んだんだ」

 

 

「ちょっと話についていけないかな。もう少し詳しく話して貰っていい?」

 

 

「きっと双葉は、フレデリカから色々教えてもらっただろ?でもそれ以上に、双葉はあいつを支えてたんだよ」

 

 

「杏にそんなつもりはないけど?」

 

 

「無意識のうちかもしれないし、元々持ってた才能だからかもしれないな。少なくとも双葉は、誰かを支えたり纏めるのに向いてる」

 

 

「めんどーな事は嫌いだけどね」

 

 

「そんな双葉に提案だ。とあるユニットを企画してるんだが…リーダー、やってみないか?」

 

 

「話聞けよ」

 

 

まったく、めんどーな事は嫌いって直前に言ってるじゃん。

はぁ…察しがいいのも困り者だね、お互い。

もう話の流れで嫌でも分かるよ。

 

 

…安心したら、なんだか力が抜けてきちゃった。

一気にコーヒーを流し込んで、お代わりを注文する。

砂糖もミルクも入れない。

今は苦くていいや。

 

 

「受けてくれるか?杏」

 

 

「否定すると思ってる?プロデューサー」

 

 

 

 

 

ある程度は話が固まってたみたいでね、後はスムーズに進んだよ。

そんな感じでそんな風に、杏は今のユニットのリーダーを務めてる。

最近みんな忘れがちだけどね。

なんていうかまぁ、恵まれてたよ。

フレデリカちゃんも、杏も、プロデューサーも。

きっと文香ちゃんもなんじゃないかな?深くは知らないけど。

 

 

ユニットを組んでから、疲れる事が増えたけどね。

フレデリカちゃんは自由になになにごっこーって遊びまわるし。

文香ちゃんは…最初はなんだか必死だったけどね。

フレデリカちゃんに感化されて、いつの間にか凄く楽しそうだし。

 

 

…別に。

杏は何もしてないよ。

今までも、これからも。

だからきっと、みんなそれぞれ頑張ったんだよ。

 

 

もちろん、杏も今が凄く楽しいよ。

何時まで続けられるのかなんて知らないけど、少なくとも今は精一杯楽しんでるつもり。

めんどー事も多いけどね。

自覚があるなら直そうか。

 

 

うーん、まぁ。

未だにタバコの煙は嫌だけど。

少しずつ、慣れてはきちゃってるかな。

 

 

今の話はもちろん全部内緒だよ?

さて、と。

そろそろまた部屋にもどろっか。

あの二人を放置してると、後々疲れるの杏だからね。

 

 

…満更でもない、ね。

否定はしないよ。

でもまぁ、もう少しマイペースにいきたいかな。

あの二人に巻き込まれると…

 

 

振り回されて疲れるし。

新鮮なおふざけばっかりだし。

ごっこなんてアホやってばっかりだし。

新しい発見ばっかりだし。

 

 

すっごく、楽しいからね。

 

 

 

 

 



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変わり始める日へ、或いはごっこと呼ぶ日へ

何かの前日譚、杏、フレデリカ、文香の続き


 

ふぅ、沢山食べてしまいましたね。

こんなペースで焼肉だなんて、少し体型が怖いですが。

毎度毎度、軽く済ませるつもりなんですけれど…

文香さんやフレデリカさんにあのテンションで誘われると、つい行きたくなってしまって。

 

 

なんだか、オフの日も殆ど一緒に遊んでいる気がしますね。

実際はそうでもないかもしれませんが、ユニットのメンバーといると一日一日が濃すぎるので。

そしてまたクタクタになって。

むしろ、オフの日の方が疲れている気がします。

 

 

レッスン後に焼肉なんて、重い筈なんですけどね。

疲れた身体にエネルギー補給!なんてあの二人は言っていますが。

本当に、パワフルなユニットです。

振り回されて、更に疲れてしまうくらい。

 

 

…ですから。

これから私が何かを喋っていたとしても。

それは、疲れたせいでの独り言です。

なんて、前置きは必要ありませんね。

 

 

杏ちゃんが話してくれた様に。

私もまた、このユニットに加入出来て。

こんな慌ただしい日々を送れて。

とても、楽しいんです。

 

 

杏ちゃんから話を聞いた時。

きっと、私だけじゃなくて。

みんな、そうだったのかもしれない、と。

そう思いました。

 

 

…コーヒー、お代わり貰いましょうか。

少しばかり長くってしまうかもしれませんから。

このユニットで、真面目な話をする日がくるなんて思いませんでした。

ふふ、冗談ですよ。

 

 

お砂糖もミルクも大丈夫です。

なんとなくですが、今はブラックで飲みたい気分なので。

大した理由はありません。

本当に、なんとなくです。

 

 

熱っ…格好がつきませんね。

あ、誤魔化そうとしている訳ではありませんよ?

こんなに油断した姿を見せられる様になって。

それもまた、私にとって大きな変化なんです。

 

 

これから話すのは…そうですね。

とある女の子が、一人じゃなくなるまで。

或いは…ごっこだなんて、ふざけるみたいに。

誰かと楽しめる様に変わる日への。

 

 

そんな、お話です。

 

 

 

 

 

たんたんたん

 

 

遅くまでレッスンルームに一人で残り、私はステップの練習をしていました。

鏡に写った私は汗を流し、それでも表情は崩さずに。

指先まで意識して、目線を意識して。

ファンの方々に、プロデューサーに、最高のパフォーマンスを魅せられる様に、と。

 

 

覚束なかったダンスを上手くこなせる様になってゆく。

出来なかった事が少しずつ出来る様になってゆく。

そんな感覚が心地良くて。

それを実感するのが嬉しくて。

 

そして、もう一つ。

もう直ぐ私はユニットを組むそうです。

既にデビューはしていましたが。

そしてまだ、相手の方が誰かを教えて貰っていませんが。

 

 

誰かと一緒に、並んでステージに立てる。

誰かと一緒に、歌って踊れる。

それがとても楽しみで。

また、新しい自分を見つけられそうで。

 

 

その為にも。

相方となる人と共に進むためにも。

相方となる人に迷惑を掛けないためにも。

もっともっと、私は上手くならなければいけません。

 

 

とは言え、最近は寒くなってきましたし。

体調を崩すわけにもいきませんし、終わりにしましょうか。

パパッと着替えて事務所を出ると、冷たい空気が頬を撫でます。

ほんの一週間前までは冷房がフル活動していたと言うのに、今ではコートが欲しくなるくらい。

 

 

ですが、そこまで寒くもありません。

私の心が、温まっているからでしょうか。

新しい事に、新しいものに手を伸ばせる。

楽しみで、嬉しくて。

 

 

「ふふっ」

 

 

スキップしそうになるくらい弾む心を無理やり抑え、暗くなった道を歩きます。

からからからと道端で舞う枯葉の音が心地良くて。

びゅう、とビルの隙間を抜ける風の音が気持ち良くて。

未来の自分に思いを馳せて。

 

 

家に着くと直ぐにシャワーを浴び、夕飯を済ませます。

その間も、頭を埋めるのはユニットのこと。

どんな人とユニットを組むのか。

どんな歌を歌えるのか。

 

 

布団に入っても、なかなか寝つけません。

期待と不安の未来は、とても煌びやかで。

体力は大丈夫だから、もっとリズム感を磨いて…

夢を思い浮かべながら、夢の世界へと落ちてゆきました。

 

 

 

 

 

翌日事務所へ着くと、何やら少し慌ただしい雰囲気でした。

至る所で色んな人が会話していて。

学校で時たまある、誰々と誰々が付き合っただと別れただの、そう言った雰囲気です。

 

 

とはいえ、今の私にそんなことを気にしている余裕はありません。

今日も一日張りきろうと意気込み、部屋の扉を開けます。

そろそろ、ユニットの相手を教えてくれてもいいんじゃないでしょうか?

そんな感じで、プロデューサーへと視線を向けました。

 

 

「…おはよう、肇」

 

 

「おはようございます、プロデューサー」

 

 

なんだか少し、歯切れが悪いみたいで。

なんとなく、少しだけ。

嫌な予感がしました。

 

 

なんでしょうか?

暗い雰囲気から一転させて、何か大きな良い知らせがあったり。

私を驚かせる為に、少し勿体ぶっているんでしょうか。

 

 

「ユニットの話なんだけどな…」

 

 

「はい!」

 

 

ようやく、ついに!

そう、喜びの頂点まで達しそうな。

そんな瞬間。

 

 

「悪いけど、企画が流れてしまって…少し、ゴタついててな…」

 

 

私の期待と希望は、一気に地面へと叩きつけられました。

 

 

 

 

 

その日は、そのままレッスンを受けました。

流れたとは言え、次の可能性はありますから。

今はゴタついているけれど、落ち着いたころには。

またきっと直ぐ、ユニットを組める。

 

 

そうやって、また心に期待を持たせて。

なんとか、難しいレッスンをこなそうとして。

けれど、噂話程度ですが。

耳に、挟んでしまったんです。

 

 

なんでも、事務所内でアイドルとプロデューサーとの恋愛があって。

そのプロデューサーはクビになってしまったそうです。

そして、そのクビになったプロデューサーのアイドルと。

私はユニットを組む予定だった、と。

 

 

おそらく今のプロデューサーはとても真面目な人ですから、あの人から話を聞くのは難しいでしょう。

だから、私の前任のプロデューサーから少しでも話をきければ、なんて。

別に、前任のプロデューサーが不真面目と言うわけではありません。

ただ、少しでも情報を集めたかったから。

 

 

そう、考えてしまって。

そして、知ったんです。

 

 

そのクビになったプロデューサーと言うのは、私の前任のプロデューサーで。

私とユニットを組む予定だったアイドルと、恋愛沙汰を起こしてしまった、と。

 

 

 

 

集中するのは得意なので、他の事は頭から叩き出しレッスンを終えました。

何かを考えていると、思った通りに動けなくなりそうで。

ユニットの件について考えていると、動きが鈍りそうで。

自分以外の事なんて考えていては、自分の夢が遠ざかりそうで。

 

 

着替えると部屋へ寄る事もなく、一人でさっさと家に帰りました。

昨日と同じ事をしているだけなのに、何時もよりも心は重く。

シャワーを浴びるのも夕飯を作るのも面倒臭くて。

ただ一人、部屋でぼーっとしていました。

 

 

とても、楽しみにしていたのに。

折角のチャンスだったのに。

先へ進む機会だったのに。

何かを掴める、そんな筈だったのに。

 

 

なんで…そんな、恋愛だなんて。

それも、私の元プロデューサーで。

それも、私のユニット相手の予定の方で。

それも、こんなタイミングで。

 

 

どうせなら、最初からユニットの話なんて知らなければ。

ここまでガッカリする事は無かったのに。

どうせなら、最初からユニットの話なんてなければ。

ここまで悔しい思いをする事はなかったのに。

 

 

…そう、ですね。

他の人のせいで迷惑を被るくらいなら。

私の夢が遠ざかるくらいなら。

それなら、いっそ。

 

 

私は、一人でいい。

 

 

 

 

翌日からのレッスンは、今まで以上に頑張りました。

他の人達が談笑したり休憩している時間も、皆が帰った後も。

もちろん、無理のない範囲で、ですが。

体調を崩しては元も子もありませんから。

 

 

少し前に受けたオーディションもしっかりと受かっていて。

学園ドラマのクラスメイトと言うあまり大きな役ではありませんでしたが、しっかりとこなしました。

うちの事務所からは他にも二人ほど出演していたそうです。

特に興味もなかったので、それが誰かは知りませんでしたが。

 

 

一人でも大丈夫。

むしろ、一人だからこそ。

私は、私らしく。

精一杯、全力で出来る。

 

 

そんな折でした。

レッスンを終えて部屋へ戻る前に飲み物を買おうとしていたところで。

 

 

「君が、藤原肇さんだよね?お茶でいいか?」

 

 

とある男性に、話しかけられました。

 

事務所にいるという事は関係者でしょうし、ありがたくお茶を受け取ります。

そのまま近くのソファに腰を下ろし、キャップを開けて。

 

 

「ありがとうございます。はい、私は藤原肇ですが…貴方は…?」

 

 

「おっとごめん、俺は宮本フレデリカのプロデューサーだ。もうすぐ双葉杏も正式に担当になる」

 

 

宮本フレデリカさん。

双葉杏さん。

どちらも、名前を聞いた事はありました。

というか、さっきまで同じレッスンルームにいましたから。

 

 

宮本フレデリカさんの事は、よくは知りませんが。

まだこの事務所に入ってそんなに経っていない筈なのに、ダンスも歌も上手くて。

それでいて、ハーフ特有の綺麗さと可愛らしさがあり。

それを全て覆うくらい、フリーダムな方。

 

 

双葉杏さんは…以前から、名前を聞く機会が多かった気がします。

レッスンをサボって、ダラけていて。

言って仕舞えば、悪評が多かったですね。

ステージパフォーマンスは兎も角として、仕事に対する姿勢があまり良くない、と。

 

 

「ある程度は知ってる感じか…まぁいいや。それでなんだけどさ、これそっちのプロデューサーに渡して貰えるか?」

 

 

「構いませんが…何故、私経由で?」

 

 

「まぁ言っちゃえば、肇さんにユニットのお誘いだよ。是非ともうちの

 

 

「お断りさせていただきます」

 

 

即断、即答。

そう言う話でしたら、これ以上聞く必要はありません。

ペットボトルのキャップを閉め、立ち上がります。

 

 

双葉杏さん。

宮本フレデリカさん。

その二人とユニットを組んだとして。

間違いなく、また私は迷惑を被るでしょうから。

 

 

「この書類はきちんと渡しておきますが、私は参加するつもりはありません。では、失礼します」

 

 

 

 

 

 

「で、肇はそれでいいんだね?」

 

 

「はい。私は、これからもソロで活動していくつもりです」

 

 

「なら、肇の意思を尊重するよ」

 

 

書類を担当のプロデューサーに渡し、またレッスンルームに向かいます。

もっと、もっと。

上手くなって、上を目指して。

その為にも、頑張らないといけませんから。

 

 

「あれ、まだ人が…」

 

 

珍しく、他の誰かが残ってレッスンをしているみたいですね。

ドアを開けると、一人の女性が鏡の前で踊っていました。

綺麗な長い髪を揺らし、まだあまり上手とは言えないステップを踏んで。

汗が顔を流れるのにも構わず、必死そうな表情で。

 

 

「…あ、おはようございます」

 

 

「おはようございます。ええと…」

 

 

「鷺沢、文香です…」

 

 

綺麗な方ですね。

それに、一人で残って苦手であろうダンスを練習だなんて。

きっとこの方も、目標があって。

その為に、頑張っているのでしょう。

 

 

でも…

 

 

「無理は良くありませんよ。随分と必死そうにしていましたが、笑顔を保つ事も大切です」

 

 

「…そう、ですね…少し、休憩しましょうか…」

 

 

座って水分を補給する鷺沢さんに代わって、私が鏡の前に立ちます。

たんっ、たんっ。

何度も練習したダンスを、さらに完璧に。

何度も何度も繰り返して、積み重ねて。

おかげで、失敗する事なく、笑顔を崩す事もなく。

 

 

「…上手ですね…私も、はやく…」

 

 

「焦る必要はありません。私だって、失敗を繰り返して、長い時間をかけてようやく出来るようになりましたから」

 

 

たんっ、たんっ

 

 

ステップの音だけが、レッスンルームに響きます。

休憩を終えて、鷺沢さんも私の隣で練習を再開しました。

ところどころで躓き、うろ覚えの箇所もあったのでしょう。

けれど、二人で、同じダンスを。

 

 

会話もない、そんな時間が。

とても心地よくて。

楽しくなって、夢中になって。

鏡に映った二人は、凄く…

 

 

「…ふぅ、そろそろ終わりにしましょうか」

 

 

「私は…もう少し残って、練習を…」

 

 

「鷺沢さん。身体を休める事も大事ですよ。一緒にストレッチして、今日は終わりにしませんか?」

 

 

「…それも、そうですね…練習に付き合って下さって、ありがとうございました…」

 

 

体をほぐして、今日はおしまい。

鷺沢と別れて、私は一人で帰りました。

また、明日からも。

私は、頑張らないと。

 

 

 

 

 

 

「ふぅ…」

 

 

レッスンを終えて、私は自動販売機前のソファに座っていました。

まだ、覚束ないところがあって。

それを完璧に仕上げる為にも、一息ついたら練習しないと。

重くなった足で無理矢理身体を起こそうとした時。

 

 

「ねーねー、肇ちゃん」

 

 

金髪の方から、声を掛けられました。

にこにこ笑いながら、私の隣に腰掛けてきて。

確か名前が…

 

 

「なんでしょうか。ええと…宮本フレデリカさん…ですよね?」

 

 

「わぁお、フレちゃんの事知ってるの?もしかしてエスパー?」

 

 

「いや、同じ事務所のアイドルじゃないですか…」

 

 

と言うか、その理論だとフレデリカさんもエスパーですからね。

それにしても、綺麗な方ですね。

喋ると台無しですが。

 

 

「よく言われるんだー、喋らなければ美人って。でもさー、じゃあ喋れば超美人って事だよね?」

 

 

「ポジティブですね。それで、何かありましたか?」

 

 

「えっとねー、これからご飯食べに行くけど一緒にどうかなーって」

 

 

「嬉しいお誘いですが…私はまだ、レッスンがありますから」

 

 

「ありゃ、振られちゃったかー。こんな超美人のお誘いを断るなんて人生の12割損してるよ?」

 

 

「来世にまで掛かってるじゃないですか…すみません、それでは」

 

 

本当に変わった方ですね。

そのままフレデリカさんとお別れして、立ち上がります。

そして、レッスンルームに向かおうとした時。

 

 

「また誘うからねー、肇ちゃん。気分が乗ったら一緒に、ねー」

 

 

「はい、いつか機会があれば」

 

 

この時は、まだ。

その言葉の意味が、分かっていませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

そのまま私は一人でまた練習しようとレッスンルームへ入ります。

いつかと同じように、鷺沢さんが一人で練習していました。

彼女も、凄いですね。

私が言えた事ではありませんが、一人でずっと苦手な事に挑んでいるなんて。

 

 

以前よりも、格段に上手くなっていて。

ところどころまだ朧げな箇所でも、笑顔は崩れずに。

ずっと一人で練習した、その成果でしょうか?

 

 

「練習、よければ付き合いますよ?」

 

 

「…あ、肇さん…すみません、そろそろ私は…」

 

 

「あ、そうでしたか。お疲れ様でした」

 

 

そんな、ありきたりな会話。

そこで、終わりにすれば良かったのに。

 

 

「この後、何か予定があるんですか?」

 

 

そう、尋ねてしまって。

 

 

「はい…ユニットの方々と夕食を…」

 

 

「…え?鷺沢さん、ユニットに…?」

 

 

「はい…自由過ぎて、振り回されてはいますが…とても、楽しい方々で」

 

 

ぴぴぴっ、ぴぴぴっ

 

 

「…ふふっ。すみません、それでは…お疲れ様でした」

 

 

おそらくユニットのメンバーに呼ばれたのであろう鷺沢さんの後ろ姿を、私は呆然と眺めていました。

当然、その後の私は練習に集中できず。

ただただ、時間だけが流れてゆきました。

 

 

 

 

 

 

休日。

以前から決定していたソロライブも近づいて来て。

日々のレッスンが厳しくなり、自由に動ける時間も少なくなり。

久しぶりに、のんびりと私は釣り堀に糸を垂らしていました。

 

 

特に何も引っかかりませんが。

こうして、何もせずのんびりとしている時間が気持ち良くて。

…と、以前ならそう思えた筈なのに。

今は…焦りを、感じていたんです。

 

 

思い返すのは昨日の出来事。

 

 

ほんの数週間くらい前までは。

鷺沢さんは、あそこまで上手くなかった筈なのに。

なのに、驚くほどの成長をして。

すぐにでも、私を追い抜いてしまいそうなくらい。

 

 

実際は、まだまだ負けるつもりはありませんが。

つまり、そのくらい。

彼女の成長は早く。

何が彼女を育てたのか、それを考えて。

 

 

悔しくて、意味もなく焦って。

悩んだところで、何もなく時間だけが過ぎて。

結局その日は、一匹も釣れませんでした。

 

 

 

 

それから、1ヶ月くらい経って。

私は様々な仕事をこなしてきました。

生まれて初めてガラス張りのエレベーターに乗って。

ソロライブも終えて。

 

 

夢にまで見たソロライブ。

沢山の方が応援してくれて、沢山の方が見てくださって。

私の全力を尽くし、きっと皆さんは満足して下さって。

ライブは、大成功に終わって。

 

 

そして、感じてしまったんです。

ふと、思ってしまったんです。

私の限界は、ここまでなんじゃないか、って。

私一人の物語は、これで終わりなんじゃないか、って。

 

 

もちろん、ライブで何か後悔が残った訳ではありません。

強いて言うなら何度だってやりたいですし。

きっとその度に、全力で最高のパフォーマンスを魅せる自信はあります。

ですが。

 

 

きっと、そこまでなんです。

それより上でも、下でもない。

ならば、それなら。

私は、このままアイドルを続けて。

 

 

次に、上に、進めるんでしょうか?

 

 

 

 

 

そのまま、1週間。

次の目標も見つからず、自分が何をどうしたいのかもわからず。

ただただ、レッスンと仕事を消化していく毎日で。

疲労だけが溜まる日々が続きました。

 

 

周りの人たちは、どんどん上達してゆきます。

様々な仕事をして、ライブをして。

そんななか、自分だけが道に迷ってしまったかのような。

出口のない迷路を一人で歩き続けている様な。

そんな感覚で。

 

 

レッスンをしても、自分で上達を実感できず。

置いてけぼりななか、誰かが引っ張ってくれる事も道を示してくれる事もなく。

もう、限界かもしれない、と。

レッスンを終えて、悩んでいる時に。

 

 

「ねーねー肇ちゃん。歌うのって好き?」

 

 

「嫌いなのでしたら、アイドルにはなってなかったと思いますよ」

 

 

また、フレデリカさんに話しかけられました。

レッスンを終えたばかりなのに、元気ですね。

こっちはヘトヘトなのに、彼女の体力は無尽蔵なんでしょうか?

 

 

「じゃーさ、カラオケ行かない?」

 

 

「…そうですね、今日はこの後は空いてますし、構いませんよ?」

 

 

 

 

 

 

「やって参りましたカラオケルーム!視界はこのアタシ、宮本フレデリカとー!」

 

 

「え…ふ、藤原肇でお送りします…なんなんですか?これは」

 

 

「フフーン!パーソナリティごっこ?」

 

 

「なんで疑問系なんですか…」

 

 

カラオケなんて、久しぶりですね。

歌うだけならレッスンでいくらでもやっていますし。

そもそも、誰かと遊びに来る事自体が久しぶりな気がします。

 

 

「曲なににするー?あんずのうた?」

 

 

「一曲目からエグくありません?」

 

 

「じゃー最近流行ってるPaPにしよっか」

 

 

「P一個少なくありませんか?!」

 

 

どうにも、フレデリカさんと一緒にいると振り回されてしまいますね。

そのまま交互に曲を入れて、採点もいれて。

なんやかんや、楽しかったですが。

 

 

「ねーねー、デュエットしない?」

 

 

「デュエット、ですか…構いませんが…」

 

 

思えば、誰かと一緒に歌った事なんて今までなかった気がします。

そんな私の、おそらく初デュエットは、散々でしたが。

フレデリカさんは自分のパート無視してこちらのパートも歌ってきますし。

音程のバーが二本あるせいでどっちを取ればいいのか分からなくなったり。

結果、点数はお互いが一人で歌うより低めで…

 

 

「…ふふっ」

 

 

「誰かと一緒に歌うって楽しいよねー?」

 

 

「そうですね。点数低いですし、歌いづらいですし…悪くありません」

 

 

さて、次の曲を入れましょうか。

どうせでしたら…デュエット曲がいいですね。

 

 

 

 

 

終了の時間が来るのはあっという間でした。

かなり歌って満足したので、時間の延長は無し。

そのままカラオケボックスを出て。

駅まであと5分くらい、そろそろお別れと言うタイミングで。

 

 

「ねー肇ちゃん。最近楽しい?」

 

 

フレデリカさんから、そう問いかけられて。

私は、黙り込んでしまいました。

 

 

「それは…」

 

 

最近、楽しいか。

それを問われて、悩んでしまって。

即答出来なくて、それが悔しくて。

俯いて、なかなか顔を上げられなくて。

 

 

「…それじゃーさ、カラオケ楽しかった?」

 

 

「それは勿論です。今日はありがとうございました」

 

 

そう言って、私は少し早足で駅へと向かいました。

フレデリカさんが完全に見えなくなったところで、ふぅ、と一息。

いけませんね、気持ちを切り替えないと。

明日は撮影ですから、気合を入れなければいけません。

 

 

帰って、もう一度セリフの確認をしないと。

噛まない様に、間違えない様に。

私一人の仕事ですから、失敗しても何の言い訳も出来ません。

きちんと、やりとげないと。

 

 

ふと、時間を確認しようとして。

近くの家電量販店の店頭にならんだテレビが目に映り。

アイドル特集をやっているニュースの。

その画面端に表示された時間を見ようとして。

 

 

枯葉が散る街で、街の雑踏は大きく。

沢山の人が行き交う大通り。

チラシ配りの人、スピーカーを使って演説している人。

そんな渦の中。

 

 

私は、見つけてしまいました。

一目で、分かってしまいました。

テレビの画面を見ている後ろ姿は。

最後に見たときより、ずっと痩せこけていたけれど。

 

 

「…!貴方は!!」

 

 

「…あ…久しぶり…」

 

 

私の、元プロデューサー。

私のユニットの話が流れてしまった、その元凶の一人を。

 

 

 

 

 

それからの事は、よく覚えていません。

ただ、ひたすら私が怒鳴っていた事は覚えています。

おそらく、きちんとした言葉になっていなかったかもしれません。

それくらいに、周りの人の事なんか頭に入らず。

 

 

私は、怒りをぶちまけていました。

 

 

あなたがあんな事さえしなければ。

私はこんなに、悩む事もなかったのに。

あなたが余計な事をしなければ。

私は、もっと先に進めていたかもしれないのに。

 

 

溜め込んだ言葉を叩きつけ。

溜め込んだ怒りは加速度的に増し。

怒鳴る事しか出来ない自分に自己嫌悪し。

それでも、口は止まらず。

 

 

ずっと、ずっと叫んで。

そして。

最後に叫んだ言葉だけは。

しっかりと、覚えています。

 

 

「私は…私は!誰かと頑張りたかったのに!!」

 

 

言葉と同時に涙が溢れ。

悔しくて、悲しくて。

私は、走ってその場を立ち去りました。

 

 

もう、限界かもしれませんね。

布団の上に崩れこみ、そう感じました。

これ以上頑張っても。

ただただ、辛いだけな気がします。

 

 

明日の撮影で、最後にしよう。

これからは、特に仕事は入っていませんし。

そう決めようとして台本をぼんやりと眺めていた時。

一通の、ラインが届きました。

 

 

…フレデリカさんですか。

今日はお疲れ様とか、楽しかったよ、とか。

そう言った感じでしょうか?

 

 

『明日、アタシ達の部署に遊びにおいでー』

 

 

…?

随分と唐突なお誘いですね。

まぁ、撮影は午前中で終わりますし。

お昼くらいに、最後の挨拶に行ってもいいかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

撮影を終えて、事務所に戻ります。

そういえば、フレデリカさんの居る部屋が何処か聞いていませんでした。

自分のプロデューサーに場所を聞いて。

エレベーターを使って、ゆっくりと向かいます。

 

 

到着して、扉を開けようとして。

そう言えば、一度フレデリカさんの担当プロデューサーの誘いを断ってしまっている事を思い出して。

後悔と気まずさを押し殺し。

勇気を出して、扉を開きました。

 

 

「おはようございます、フレデリカさん」

 

 

「わぁお、肇ちゃんが一番乗り!さぁ焼肉にレッツゴー!」

 

 

「お、良かった…杏が楽出来そうだね」

 

 

「肇さんですか…申し分無い相手ですね」

 

 

…え?

 

 

 

 

 

 

 

 

「いぇーい!炭火焼肉だー!」

 

 

「特コースですか…期待が高まりますね」

 

 

「あー…ドリンクバーって実際けっこーめんどくさいよね」

 

 

「…あの、未だに話が全く理解出来てないんですけれど…」

 

 

いや本当に、ついていけません。

え、何が起こっているんですか?

文香さんがこのユニットに加入していたと言うことも驚きでしたが…

何故、焼肉?

 

 

「今日は焼肉の日なんだってさー、誰かが言ってた」

 

 

「多分フレデリカちゃんじゃないかな。あ、ここドリンク注文するタイプだ」

 

 

「…お肉は…まだ、でしょうか?」

 

 

「文香さん…あの、流石に注文してないのに出てくるお店は無いと思いますよ?」

 

 

私の知っている文香さんと違う…

文香さんって、そう言う人物でしたっけ?

それと、私の覚悟と緊張返して貰えますか?

 

 

「…で、ですよ。取り敢えず何故私がここに居るのか説明して貰っていいてすか?」

 

 

「だってほらー、肇ちゃんもスリーFに入れるでしょー?」

 

 

…え?

私が、ユニットに?

即答即断、素気無く断ってしまったのに?

 

 

「…藤原、だからですか?」

 

 

もしかしたら。

昨日のあの一件を。

フレデリカさんに、見られてしまっていたのかもしれませんね。

 

 

「まぁ兎に角、大体名前がFだったから誘ったんだよー」

 

 

「大体Fって…一個しか無いんですけど…」

 

 

きっと、フレデリカさんの事ですから。

そんな簡単な理由ではないんでしょう。

ですが、言いたい事が多すぎて、考えるべき事が多すぎて。

その後は真面目な事を考える余裕も無いほど、ふざけた流れに流されてしまいました。

 

 

フレデリカさんがふざけて。

文香さんが悪ノリして。

杏ちゃんと私が振り回されて。

そんな、馬鹿らしい空間が。

 

 

とても、楽しくて。

 

 

きっと、文香さんがこんなにも明るいのは。

このユニットが、それだけ楽しいものだからでしょう。

文香さんと杏ちゃんと入れ替わりで、以前誘われたプロデューサーがやってきました。

ドナドナを歌ったせいで食べられなくなった仔牛を食べるために、なんて理由でしたが。

 

 

「それで…どうだった?藤原さん。このユニットを見て」

 

 

ふぅ…と、四人分の仔牛を平らげて苦しそうなプロデューサーに。

そう、問い掛けられました。

 

 

「そうですね…とても騒がしくて、大変そうで」

 

 

うるさくて、自由で。

フリーダムで、楽しそうで。

もし、一緒に活動する事が出来たのだとしても。

ものすごく、疲れてしまいそうで。

 

 

「…私も…私も、こんな人達と…」

 

 

一緒に、楽しく。

文香さんが楽しそうに、それでいて上達していたこのユニットで。

あの杏ちゃんが振り回されるくらい、楽しそうなこのユニットで。

私をここまで気に掛けてくれた、フレデリカさんとプロデューサーのいるユニットで。

 

 

「もちろん俺たちは歓迎するよ」

 

 

「いいんですか?一度は断ってしまっているのに。それに、スリーエフなのに四人で」

 

 

「FはフォーのFなんだー、多分ねー」

 

 

「それに、フレデリカも言ってただろ?また誘うからねー、って」

 

…もう、まったく。

本当に。

 

 

まっすぐ進む事しかできない私が。

それなのに、表面しか見ることのできなかった私が。

今、こうやって涙を流してしまいそうな私が。

悔しくて…嬉しくて、多分笑顔じゃない表情をしている私が。

 

 

まるで、馬鹿みたいじゃないですか。

二人に、笑われてしまうじゃないですか。

自分でも、笑えてしまうじゃないですか。

だから…

 

 

「よろしく、お願いします」

 

 

 

 

 

 

その後は、杏ちゃんも知っている通りですね。

あっという間に話は進んで、私はこのユニットのメンバーになりました。

最初のうちは嬉しさや驚きや恥ずかしさで、素直になり切れませんでしたが。

それでも、楽しかったのはまぎれもない事実です。

 

 

誰かと一緒に頑張って。

誰かと一緒に歌って。

誰かと一緒に練習して。

誰かと一緒に…ステージに立って。

 

 

以前の私では見つけられなかったものを、次々と手に入れて。

以前の私では触れられなかった事に、次々と体験して。

以前の私では考えられなかった様な。

そんな日々を、送る事が出来ました。

 

 

今では、文香さんと二人のユニットもありますから。

月下氷姫、素敵な名前ですよね。

一番最初の私の願いだった、誰かと二人でユニットを組む事。

それすらも、叶ってしまいましたから。

 

 

…その後、あのプロデューサーとは一度も会っていません。

会って仕舞えば…きっと、また。

私は怒鳴ってしまいそうですから。

もちろん、その担当だったアイドルが誰かも知りたくありません。

 

 

難しい話は、これくらいにしましょうか。

真面目な話よりも、遊んでいた方が。

楽しい事をしていた方が。

絶対に、充実した日々を送れますから。

 

 

今が、とても楽しくて。

このまま、ずっと続けば、って。

そう、私は思っています。

だから…

 

 

これからも、よろしくお願いしますね?

 

 



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本の旅に想いを添えて

ふみふみー


 

 

初めて読んだのは、絵本でした。

まだ幼く文字が読めなかった頃、母に寝室で読んでもらった絵本。

語り手である母の声を通して、画かれた絵を通して。

私は初めて、自分以外の世界を知って。

 

内容は今思い返せば拙いものですが。

子供騙しと言っても差し支えないくらい、子供っぽい内容でしたが。

それでも、私は確かに愛を感じ。

当時は何度も母にねだって読んでもらい。

 

そこから、でした。

自分が暮らしている世界とは全く違う、遠くの物語を知って。

もっと、もっと知りたくなって。

全ては……そこから、始まったんです。

 

 

 

次に手にしたのは、昔話でした。

文字を自力で読めるようになって、少しずつ文の意味が分かるようになって。

初めて、自分一人で読んだ本。

それは、絵本以上に不思議な世界が広がっていて。

 

海外の童話の様な、少し暗いエンディングを迎える話も。

報われないお話も、素敵な終わり方をするお話も。

日本の昔話の様な、作者不明のおとぎ話も。

スッとするお話も、後に引きずってしまいそうなお話も。

 

その全てが、私をより強く文字の世界に引き込んで。

どんな終わり方でも、お話の世界に引き込まれて。

たくさんある本を、図書館で借りては読んで、返しては借りて。

もっともっと、文字の世界に触れたくなってゆきました。

 

 

 

次に読んだのは、新聞でした。

リビングのテーブルの上に、朝と夕方いつも乗っていた新聞紙。

朝起きるのが楽しみで、学校から帰るのが楽しみで。

それを読んで、私は私の過ごす世界の事を知り始めました。

 

新聞と言うのは、とても素晴らしいものです。

本と同じで、自分がその地に赴く事なく世界を知れるのですから。

今までに読んだ昔話や絵本程素敵な終わり方をするものばかりではありませんが。

それでも記事の一つ一つが、現実に起こりうる物語で。

 

もちろん、その全てが真実だと言うわけではありません。

けれど、全てが本当ばかりで偽りの全く無い物語なんて。

誰かの主観の混ざっていない、客観的なストーリーだけなんて。

それもまた、つまらないものですから。

 

 

 

小学生に上がってから読み耽っていたのは、小説でした。

ラブストーリー、ミステリー、ホラー、その他膨大な数の分類。

読んでも読んでもきりがなく。

自分一人で読み切れる量なんてたかが知れていて。

 

そんな大き過ぎる本の世界を実感する事で。

私は尚更幸せになりました。

私が生きている限り、ずっと新しい物語に出逢えるのだと。

どれだけ読んでも、際限なく広がってゆく世界の全ては手に入らないのだと。

 

小説の主人公や登場人物に感情移入したり、息が詰まりそうな張り詰めた空気のサスペンスを楽しんだり。

私が成れないからこそ、遠くの世界の、別の世界の住人に憧れて。

けれど、この頃からでしょうか。

私は些か、私が住んでいる世界の事を蔑ろにし始めていたのかもしれません。

 

 

 

自分が動く事なく、沢山の世界に触れられてしまう。

だからこそ、尚更自分は動かなくなっていって。

自分は物語の登場人物になんて成れない、と思っていて。

だからこそ、どんどんと本の世界に入り込んで。

 

当たり前……ですよね。

物語の主人公になれる様な人物は。

私が読んでいて憧れる様な人物は。

それ相応に、その為の努力をしていたのですから。

 

キラキラしている面だけを見ていては。

活躍している、輝いている面ばかりが写される本を読んでいては。

気付けない事ばかりで、当然私は気付けなくて。

遠い世界に憧れる事すらも忘れ、ただその世界に気分だけ浸るだけでした。

 

 

 

更に成長し、叔父の古書店の手伝いを始めてから手に取ったのは、学術論文でした。

一つのテーマを突き詰めて、理論立てて結論を出す。

それもまた、私の心をくすぐって。

今まで読んでこなかったジャンルなだけに、また幼心を取り戻した様に読みふけりました。

 

今まで読んできた文字の世界の中で、最も現実的な構成。

科学に基づいた検証、納得のいく締め。

私が一時期没頭していたのは、今私がいる世界と同じ場所のものだったからかもしれません。

異世界の不思議な法則でも御都合主義の恋愛小説でもなく、実際にこの世界での文章展開だから。

 

古書店のレジで暇を持て余している間は、論文と小説とを交互に読んで。

別の世界を旅しては、またこの世界に戻ってきて。

著者の苦労に、積み重ねた努力に思いを馳せてみたりして。

いったりきたりとふわふわした感覚が心地よかったのを覚えています。

 

 

 

新しく私が手を伸ばしたのは、年代記でした。

年代毎の出来事が纏められた編年史。

そんな歴史書は、当然ながら過去に起こった物事で。

より、近さを感じていて。

 

流れを知った上で読む史実は、一つ一つを見る以上に面白いもので。

現実なのに遠くの世界の様な感覚で。

どんな思いで、かの人物達が行動していたのか、など。

後から答え合せで読む感覚が、気持ち良くて。

 

けれど、やはり。

同じ世界な筈なのに、私とは違う、と感じていました。

私には歴史に名前を残せる様な、文字で纏められる様な大きな事なんて出来ませんから。

近くて遠い、と言う感覚は、少し胸に刺さりました。

 

 

 

遠くの世界に憧れながらも、絶対に不可能なんだと理解してしまっていて。

私は自分から動こうとなんてしていなくて。

ただ一人、この古書店の奥で。

一人でページを捲り、世界を巡り。

 

そんな日々の繰り返しが、ずっと変わらず続いていくものだと思っていました。

いえ、他の選択肢を知らなかったんです。

ずっと、そうして過ごしてきたのですから。

そもそも、他の道を知らなかったのですから。

 

……はい、そうです。

貴方がこの古書店に入って、扉を開けて、新しい風を連れてきて下さるまでは。

文字の世界だけを旅していた私を。

現実の世界で羽ばたかせてくれた貴方が来て下さるまでは。

 

憧れるだけの存在から、憧れられる場所に立たせてくれて。

眩しいと思っていた存在にまで、私を輝かせてくれて。

もちろん、文字の裏に隠された努力や苦しさを知る事にもなりましたが……

どんな時も、ページを捲る様に、貴方が背中を押してくれましたから。

 

まだ読んだ事のなかった世界を、読む事がなかっであろう世界を。

私は文字より先に、自分で経験出来てしまいました。

文字ですら知らなかった、知る事がなかったであろう世界を。

私は読むよりも先に、自分で知ってしまう事が出来ました。

 

 

 

……少し、長くなってしまいましたね。

紅茶のおかわりは、如何ですか?

……そうですね、すっかり暗くなってしまいましたし……もうしばらくしたら食事に……

え、今は何を読んでいるのか、ですか……?

 

……ふふっ、料理本です。

これもまた、貴方と出会わなければ手を伸ばさずにいたものだと思います。

私を変えて下さった貴方へ。

私の新しい世界への旅立ちに。

 

私の想いを、添える為に

 

 

 

 

 

 

 



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ありすと、シャンプーになったP

前半台本形式
人を選ぶ内容です


 

 

P「なぁ、ありす」

 

ありす「なんですか?」

 

P「シャンプーって、いいよな」

 

ありす「…質問の意味がよく分かりませんが…」

 

P「お、今のは文香の真似か?すっごい似てたぞ!」

 

ありす「似せたつもりはありませんが、私の溢れ出る大人オーラがそう見せてしまったのかもしれませんね」

 

P「そんな大人なありすにお願いがある」

 

ありす「ふんすふんす、大人な私は寛容ですから?頼みがあるのでしたら聞いてあげますよ」

 

P「シャンプーの利点って、何だと思う?」

 

ありす「…精神科、調べてあげましょうか?」

 

P「いや精神科でシャンプーはされないし、そもそもシャンプーに精神科は必要ないだろ」

 

ありす「あ、もうそれ以上喋らなくて大丈夫です」

 

P「成る程、シャンプーは喋らない…確かにそれは一つのメリットだな」

 

ありす「なんですかメリットって…」

 

P「知らないのか?シャンプーと言えば弱酸性のあれだろ」

 

ありす「もう少し、会話を成立させる努力をしてもらっていいですか?」

 

P「ほーん…ありすは大人なのに、行間を読む事が出来ないんだな」

 

ありす「…余裕です。余裕で行間くらい読めますが?」

 

P「よし、そんな聡明で明快なありすよ。シャンプーって、いいよな。この言葉にどれほどの思いが込められてるか分かるか?」

 

ありす「…挙げるとしたら、まずはシャンプーのアイテムとしての重要性ですね」

 

P「ふむ」

 

ありす「日常生活において、身体を清潔に保つという事は必要最低限のマナーであり、ルールです」

 

P「確かにそうだ。他の人と会う時に髪の毛がボサボサだったり臭ったりしたら大変だからな」

 

ありす「その為にも、シャンプーは必須です」

 

P「その通り。他には?」

 

ありす「ええと…いい匂いがしますし、髪を綺麗に保てます。他の方に良い印象を与えるだけでなく、自分自身も精神的に良い状態となれる事」

 

P「ふむ…よしよし、いいぞ」

 

ありす「…ですが、私が分かるのはここまでです」

 

P「よし、そろそろ採点に入ろうか…まず、日常生活において必需品である。これは最もだし、とても重要な事だ」

 

ありす「よし…!」

 

P「かわいい。いい匂いがすると、相手も自分も良い気持ちだしな」

 

ありす「ですよね」

 

P「だからな、ありす…」

 

ありす「プロデューサーさん…」

 

P「俺はな、シャンプーになりたいんだ」

 

ありす「…」

 

P「待て、無言で出て行こうとするな。挨拶は社会人としての最低限のマナーだぞ」

 

ありす「いえ、今口を開くと汚い言葉しか出てきそうになかったので」

 

P「そんな汚さを洗い流すのが、シャンプーだ。飲シャンと言うものがあるが、あれは口を綺麗に、ひいては言葉遣いを綺麗にする為にやる事なんだよ」

 

ありす「…本当は?」

 

P「シャンプーめっちゃ飲んでみたい。良い匂いするし絶対美味しい。かわいいアイドルが愛用してるシャンプーを取り込んで幸せを感じたい」

 

ありす「今までありがとうございました」

 

P「まぁ落ち着け、全部聞けばありすも分かってくれるから」

 

ありす「橘です。よく分からない事しか言わない人と仲良くなったつもりはありません」

 

P「冷蔵庫にとちおとめがあるんだが…橘さんが食べないなら、あしたちひろさんにあげるかな」

 

ありす「ありすで大丈夫ですよ、プロデューサーさん。私達の仲じゃないですか」

 

P「そう言う大人な対応出来るところ凄いと思うぞー」

 

ありす「それで…分かってしまったら色々と終わりのような気がするんですけど…」

 

P「そもそもさ、人間って言うのは遠いからこそ、それに憧れる生き物なんだよ。普通の人だからこそアイドルに憧れて精一杯レッスンする。だろ?」

 

ありす「それは…確かにそうですけど…」

 

P「そんな憧れは、遠ければ遠いほど強くなる。それの、最も遠い場所にあるのが無機物…つまり、シャンプーなんだよ。無機物全般の利点として、自分の意思では動けないってのもあるが…」

 

ありす「一理ある…んですか?」

 

P「だから、俺がシャンプーになりたいと強く思って、願ってしまうのは至極当然な流れであって、尚且つそれを周りの人は協力してやらなきゃならないんだ。俺がみんなの夢を支えてきたように」

 

ありす「…私に、何をさせるつもりですか?」

 

P「話が早いじゃないか。今からお前は…」

 

ありす「…ゴクリ」

 

P「俺に、シャンプーされるんだ」

 

 

 

 

〜シャワールーム〜

 

P「さあ、ありす。そこに寝っ転がってくれ」

 

ありす「いつの間に事務所にこんなシャワー用のベッドが…」

 

P「ところでありす。再三言っているが、人間は遠いものに憧れて、その延長線上の無限に遠い場所が無機物だ」

 

ありす「難しい言葉でごまかそうとしないで下さい」

 

P「言っちゃえば、俺は自分がシャンプーになれないって事くらい、わかってるんだよ…」

 

ありす「プロデューサーさん…そんな、そんな悲しそうな顔をしないで下さい」

 

P「…すまないな。どうにも、なんども言ってきた筈なのに…自分の夢が叶わない事を自分の口で言うのは、辛いもんなんだ…」

 

ありす「…大丈夫です。わたしが、協力してあげますから…一緒に、叶えましょう!」

 

P「まぁ、そこで少し変則的だが…共通認識を活用しようと思う」

 

ありす「共通認識…同じ物事について、複数人が同一のものと認識する事、ですよね?」

 

P「そうだ。例えばありす、これは何だ?」

 

ありす「…シャンプーですが?」

 

P「いや、これはアルミ缶だ」

 

ありす「…何を言ってるんですか?どう見てもこれはシャンプーで…」

 

P「そう、今のままだとありすが正しい。多分他の誰が見てもこれはシャンプーだと認識するだろう。けれど…」

 

ありす「けれど…?」

 

P「もし、事務所にいる人全員がこれをアルミ缶だと言ったら?日本中の人、もっと大きく全世界の人間がこれをアルミ缶だと認識したとしよう」

 

ありす「…なるほど、これをシャンプーだと認識しているのは私一人だけ、と言う訳ですね」

 

P「そうだ、これをシャンプーだと証明する人はお前以外一人もいない。みんながこれをアルミ缶だと認識している。すると…」

 

ありす「…理論上、これはアルミ缶になる」

 

P「そうだ。世界中の全員がこれをアルミ缶なんだってお前に言ってみろ。多分お前の認識も、自分の脳が嘘をついているんだ、本当はこれはアルミ缶なんだ、と考えて…そうなっていく筈だ」

 

ありす「…それで、それをどう利用するんですか?」

 

P「今からお前はこのシャンプーでその小さな綺麗な頭を洗われる…そう、このシャンプーを…」

 

ありす「…シャンプーを…?」

 

P「俺だと認識しろ」

 

ありす「え、無理です」

 

P「思い込め。演技するとき、役に入り込む時にそう考える筈だ。自分は今はこんな役の女の子なんだ、この目の前の人は父親なんだ、と言った感じで」

 

ありす「まぁ…確かにそうですけど…」

 

P「今まで演技のレッスンで培ってきた力を今活かせ。このシャンプーを…俺だと思い込むんだ」

 

ありす「…やれるだけ、やってみます」

 

P「ふっ…そうこなくっちゃな」

 

 

 

台の上に寝っ転がったありすは、両手両足の力を抜いて無防備な状態を晒す。

腹を上に向け、目を閉じて。

それはもう完全に、生き物として俺に服従を誓う体制と言っても過言ではないだろう。

そう、こいつは…無機物に、服従したのだ。

 

その事実が、俺の心を掻き立てる。

より、シャンプーになりたいと言う思いが強くなる。

より、ありすを無防備な状態にしたいと思ってしまう。

だからゆっくりと台を傾け、ありすの頭を洗面台の中へと押し込んだ。

 

シュッ、と、まだ未使用のシャンプーのボトルを開ける。

俺の人生の再スタート地点。

それは、ありすに立ち会ってもらい、ありすによって生み出される俺の人生。

もうそれだけで、心が喜びに震えた。

 

けれど、それだけではダメだ。

俺がシャンプーになったのならば。

手足のようにシャンプーを動かして。

ありすに、悦びを与えてあげなくては。

 

「…いくぞ、ありす」

 

そう宣言し、俺は掌に落とした適量の俺自身をありすの頭皮に泳がせる。

ヌル、ヌルと広がり、瞬く間にありすは俺に覆われた。

泡立つありすの小さなソレは、少しずつ、少しずつ。

俺と、合体していった。

 

「…やっぱり、他の人にシャンプーをして貰うのってくすぐったいですね」

 

ありすは、まだ気付いていない様だ。

この行為の、本当の意味に。

ならば、教えてあげなければならない。

そう思って、俺は口をありすの耳に近付けて…

 

こう、つぶやいた。

 

「なあ、ありす。このシャンプーは…俺なんだぞ?」

 

ピクッ。

少しだけ、ありすの足の指が動いた。

気付いてしまったのなら、あとははやい。

一つ一つの行為を、そう言う意味で変換してゆくだけだ。

 

「…あっ…」

 

すすっ、と指でありすの頭皮をなぞる。

滑らかな髪の毛一本一本に、俺自身を塗り込む。

毛穴にすらも、ソレを擦り込み。

ありすの内部を、犯す。

 

「……んんっ…」

 

少しずつ、少しずつ。

お互いの意識が、塗り替えられてきた。

ありすはコレを、俺だと思い込めている。

そんなありすを見ることによって、俺もコレを俺自身だと思い込める。

 

ぐちょぐちょと音をたてて搔き回すたび、ありすの身体は反応した。

指でありすの小さなソレ(頭)を擦るたび、足が伸びた。

少し強く押すたび、ありすはナニかを感じて太ももを擦り合わせた。

そんなありすに、俺自身がシているのだと考えると、俺はよりシャンプーになる。

 

最早俺はこの部屋において、完全にシャンプーだった。

 

ありすはもう快感に抗うことを辞めたのか、だらしなく口を開けて天井を眺めている。

ありすの小さなソレ(頭)から、ぼたぼたと俺が垂れ落ちる。

けれど俺は更に、自分自身を解き放って白い体液を塗りたくった。

その度にビクンッと震えるありすの身体が、堪らなく愛おしい。

 

俺は、シャンプーだ。

密接している今ならありすのソレが丸見えなんだ。

だから、どこが気持ちいい場所かよくわかる。

どこが、洗って欲しい場所なのかよくわかる。

 

ギュッ

 

「んぁっっっ!…ふーっ…ふーっ…」

 

すこし強くオレを押し付けると、ありすが大きく跳ねた。

大きな声を出さない様にと両手で開きっぱなしの口を押さえるありす。

それがまた俺を奮い立たせ。

より大きな快感を与えようと、強く強くオレを塗り込んでかき混ぜた。

 

「んぁっ〜っ!…んっ…んんっ…!!」

 

両太ももをゴシゴシと擦り付けているありすの目は、トロンと蕩けて最早何処も見ていない。

頭だって、きっと真っ白だろう。

ただただ、次の刺激でキモチヨくなろうとしているだけな筈だ。

だから…

 

「…っと、一回止めるか」

 

「…え?」

 

俺は、自分の動きを止めた。

ありすにこれ以上オレを塗り込んでかき混ぜていると、ありすは思考を手放してしまうだろう。

それでは、ダメなのだ。

共通認識によって、俺がシャンプーになる為には。

 

「…その、プロデューサーさん…」

 

「なんだ、ありす。お前には冷静でいて貰わなきゃいけないんだ。俺をシャンプーだときちんと認識して貰う為に」

 

苦しそうな、それでいて次を求めようとするありす。

少しずつ落ち着きを取り戻し始めていて、それでいてさらなる快感を求めようとするその瞳。

そんなありすに、俺は一つ提案をした。

 

「なぁありす。俺がシャンプーになっている間、ずっとシャンプーって言い続けてくれないか?」

 

「…それで、続きをしてくれるなら…」

 

再び目を閉じ、シャンプーと唱え始めたありす。

よし、そうだ、それでいい。

それによって俺は、より強くシャンプーでいられる。

そして…

 

ゴリッ

 

「シャンプああっっっ!!…ふー…シャン…」

 

口を閉じる事が出来ず、喋り続けなければいけない為に。

ありすはその声を、止める事が出来ない。

与えられた快感を、悦楽を、口にしなくてはならない。

良い。

 

シュッ…シュッ…

 

「シャン…んんっっっ!んっ…プー…ふー…シャン、プー…っ!」

 

口からよだれを垂らしながらも、可愛らしい愛嬌とシャンプーは止めないありす。

これだけやっても、尚さらなる快感を求めるありす。

そこにいるのは、クールなアイドル橘ありすではなく。

キモチヨさとシャンプーを求める、一人の女で…

 

「んっ…あぁぁぁぁっっっ!!シャン…っ!!」

 

俺は、ラストスパートをかけた。

もっと、もっとありすをオレ塗れにして綺麗にしたい。

オレ自身で染上げたい。

可愛いありすの、シャンプーで居たい。

 

「ふー…っ!ふー…シャ…ンッ!あっっ〜っ!」

 

もっと、もっとだ。

俺はシャンプーで、ありすのソレを弄って。

ありすの求めるモノを提供して。

ありすにとって日常的に必要なモノに…!

 

「イッ!シャンっっっ!んぁっ〜〜っっ!!」

 

 

 

 

P「どうだった?ありす」

 

ありす「…ふぅ…悪くありません…んっ…で、ですが…」

 

P「ですが…?」

 

ありす「こ、これからも…プロデューサーさんがシャンプーになる為に練習したいのでしたら…その、お付き合いします…」

 

P(そう言うありすの目は、完全に誘っていて)

 

P(俺は、もっとシャンプーになりたくなって)

 

P「ありす…」

 

バタンッ!

 

ちひろ「ありすちゃん!大丈夫ですか?!」

 

P(直後、シャワールームに突入してきたちひろさんによって俺とありすは引き離され、そのまま俺は連行された)

 

ありす「ち、違うんです!プロデューサーさんはただシャンプーに…っ!プロデューサーさん…いえ、シャンプーさんっ!!」

 

ちひろ「これは…あなた、こんな小さな女の子を洗脳して!!」

 

P(あぁ、神様よ、願わくば)

 

P(刑務所から出てくる頃には、シャンプーになる技術が発達していますように)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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千川ちひろの角隠し

白いパックマンをつけるお話


 

「似合ってますか?」

 

「とても似合ってますよ。俺じゃなければ騙されてるくらい綺麗です」

 

「お小遣い一ヶ月千円生活してみますか?」

 

「今日日小学生でももう少し貰ってますって…」

 

 待ち焦がれた、恋い焦がれたその日は、心配も杞憂に雲一つない快晴の空で迎えられました。

 着付けを終えてまず最初に披露したかった貴方からの言葉は、相も変わらず愛の感じられないもので。

 恥ずかしさを誤魔化しているって事くらい、分かってますからね?

 

「冗談ですって。ちひろさんみたいな綺麗な人が綺麗な白無垢を着るなんて、鬼に金棒ですね」

 

「褒めてますか?それ」

 

「そう言えば、その白いパックマンみたいな頭のやつって角隠しって言うらしいですよ」

 

「角隠し切れてないぞ?とでも言いたいんですか?」

 

 けれど、こんな軽口を叩き会える関係が、私にとってはとても心地よいものでした。

 私が大好きなこんな時間を、これからもずっと続けていけるのだと思うと。

 とても、嬉しくて。

 

「貴方もとても似合ってると思いますよ。着慣れないなぁっていうそんな表情も含めて」

 

「そりゃ人生で初めてですから…黒五つ紋付き袴なんて早口言葉みたいですよね」

 

「おやおや、緊張してますか?そんな貴方にはじゃん!お買得エナドリセット!」

 

「どう見ても一本なんですけど何がセットなんですか…それと、なんでエナドリ持ち歩いてるんですか」

 

「なんと今なら先着一名様に千川ちひろの人生プロデュース権を…すみません、ちょっと恥ずかしいので今のは無かった事に…」

 

「その…恥ずかしいこと言って自爆するのやめません?」

 

 ついついテンションが上がりすぎちゃいました…

 でもその代わりに、貴方の照れた顔が見れたのでオッケーです!

 部屋の隅で着付けを手伝ってくれた茄子さんが、とてもとても笑顔でこっちを見ているのが少し怖いですけど。

 

 エナドリを持ち歩いている理由ですか?

 だって、その…もしかしたら、この後貴方が必要になるかもしれないじゃないですか…

 詳細は言いませんよ?言いませんからね?

 だからその、ニヤけるのやめて貰っていいですか?

 

「それにしても、晴れて良かったですね」

 

「裏方の俺たちからしたら、人生で一度の晴れ舞台ですからね」

 

「人生で一度にさせて下さいね?」

 

「そこは信頼して下さいって。俺はちひろさん以外に靡いたりしませんから」

 

 …ニヤけてませんからね?

 さらっとそういう事が言えてしまうのは、貴方の良い所なのか悪い所なのか。

 勿論、信頼はしていますけれど、不安になってしまうのが女という面倒な生き物で。

 ついでに貴方にもっとそう言う言葉を言って貰いたいとか、そう言う理由じゃありませんから。

 

「…そうですか…どうですかね。若くて可愛い女の子に囲まれてますから、つい…なんて事に絶対やめて下さいよ?」

 

「プロデューサーとしての俺の熱意、ちひろさんなら分かってるでしょう?」

 

「それもそうでしたね。貴方はアイドルバカですから」

 

「アルパカ?」

 

「言ってません。唾をつけるなら私だけにして下さい」

 

 部屋を覗きに来たアイドルや関係者の方々が、私達の会話を見てため息をつきながら帰って行きました。

 すみません、私の花婿相手がこんな馬鹿で。

 

「あー…これから一生俺の収入が完全に把握されるんですね…」

 

「ふふっ、一生最大限まで搾り取らせて貰います」

 

 言ってから、何かのダブルミーニングに気付いて。

 お互い顔を赤らめて、目を逸らしました。

 学生ですか貴方たちは!…自分達の事ですけど。

 

「そう言えば、どうして和装なんですか?何か思い入れがあったりしたんですか?」

 

「いえ、以前貴方と初詣に行った時、浴衣姿が綺麗だって…その、言ってくれたじゃないですか…」

 

「あー…似合ってますよ、とっても」

 

「…遅いです、まったく…」

 

 はぁ…これだから朴念仁は。

 私が貴方からプロポーズの言葉を引き出すまでにどれだけ陰ながら、時には明らさまなアプローチをしたと思ってるんですか。

 最終的には貴方からの言葉でこの日を迎えられたから良いですけど。

 

「…それで、本当に私で良かったんですか?」

 

「当たり前じゃないですか。俺はちひろさんの事が大好きですし、こうなりたいって望んだんですから」

 

「あんなに他の子達からアプローチされていたのに?」

 

「…え、そうなんですか?でもまぁ仮にそうだとしても、俺は彼女達アイドルのプロデューサーでいたいですから」

 

 本当、けんもほろろの朴念仁ですね。

 でもそれだけ悪く言えば紋切り型の、良く言えば真摯な態度だからこそ皆が貴方に憧れたんだと思いますけれど。

 勿論、私もです。

 

「さて、そろそろ行きますか。貴方は何か言い残したい言葉はありますか?」

 

「そんな、俺が死ぬわけじゃないんですから…ん、でも結婚は人生の墓場って言うし…」

 

「冠婚葬祭の婚と葬を同時に行えるなんてお得ですよね」

 

「そう言うちひろさんの前向きで貪欲な考え方、俺は好きですよ」

 

 ふふっ、それに。

 それ以上に、お得どころか。

 人生で一番良い買い物をした、って思わせてみせますから。

 

「そう言えば、もう千川さんって呼ぶ事も無くなるんですね。初対面の時や喧嘩した時は呼んでましたけど」

 

「貴方の苗字はそのままなんですよね。まったく、一人で抱え込むなんて贅沢でズルいですよ。ですから…」

 

 その苗字を。

 

 私が、貰ってあげます。

 

 

 

 

 

 



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一番大きな向日葵は

ふみあか!


 

「さて!文香ちゃん、到着しました!!」

 

「ふぅ……長い道程でした。ですが、ついに……」

 

 本日の天気は快晴中の快晴。

 雲一つない一色の空は、何処までも広がっていて吸い込まれてしまいそうです。

 七月に入って初めての屋外での撮影でしたが、何事も無く終わらせる事が出来て良かったです…が。

 梅雨の湿気とバトンタッチしたかの様に、火傷しそうな猛暑と日光が私達に降り注いでいます。

 

 日焼け対策の日傘を畳み、私は木陰に座り込みました。

 葉の間から漏れた陽の光は、私の足元まで降り注ぎます。

 風の心地よい涼しさと足元からの温もりは、少しずつ私の体力を回復させてゆきました。

 茜さんは、立ちっぱなしどころか今にも走り出しそうな表情をしていますね。

 

「暑いですね……」

 

「暑いですね!ですから私達ももっと熱くならなければいけません!!」

 

 そんなプラス思考の茜さんと私が来ているのは、現場から少し(茜さん談)離れた向日葵畑です。

 撮影が終わり、午後は何も予定が無かったので折角という事で訪れてみました。

 都会では見られない様な風景を眺め、普段の疲れを癒そう……と、思っていたのですが。

 思った以上に道程は長く、到着する頃には私の体力は底を尽き掛けていて。

 

 そして……

 

「……まだ、満開には程遠かったですね……」

 

「残念ですね、折角来たからには一面満開な風景を見たかったのですが!」

 

 向日葵は、まだその花を開いていませんでした。

 夏の蕾が開ききるのは、まだ少し先だった様です。

 

 

 

 

 

「……はぁ……」

 

 向日葵の開花期間は約1週間で、それは向日葵畑によって七月上旬から八月下旬にかけて大きく幅があります。

 残念ながらこの向日葵畑は、この期間はまだ咲いていませんでした。

 ほぼ緑一色に広がる畑には、私達が求めた風景は見つかりません。

 買い求めていた本が売り切れてしまっていた時の様な落胆が、私に襲い掛かりました。

 

 ここまでの道程が、全て徒労に終わってしまった気がします。

 こう言った場所に訪れるのであれば、事前にこの向日葵畑の開花期間を調べておくべきでした。

 茜さんも、明るく振舞ってはいますが内心がっかりしているかもしれません……

 そう思うと、私の心は疲れた足以上に重くなります。

 

「すみません……きちんと、調べてから……」

 

「溜息はいけませんよ文香ちゃん!幸せが逃げてしまいます!!」

 

 ここで、また1.2週間後に訪れましょう、などといった気の利いた言葉を言えれば良かったのですが……

 残念な事に、私も茜さんもスケジュールが詰まっていてその余裕はありません。

 他の向日葵畑なら別の期間にも咲いているかもしれませんが。

 アイドルと言う仕事の関係上、いつ空くかも分からずそれが重なる保証もないので…

 

 考えれば考える程、悔しさが胸を埋めてゆきます。

 溜息をついたところで、これ以上逃げる幸せも無いくらいに。

 そんな迷信を信じている訳ではありませんが、もし本当なのだとしたら私は今までどれほど溜息をついて今を迎えているのでしょう。

 それくらいには、心は重くて。

 

「ええと、あまり私は気の利きそうな言葉を考えるのは苦手ですが……」

 

 それでも、と。

 茜さんは続けました。

 

「私は文香ちゃんと一緒にお散歩出来て、とても楽しかったですから!」

 

 ……そう、ですか。

 満開の笑顔を咲かす茜さんを見ていると、自分が何故沈んでいたのかすら忘れてしまいそうなくらいです。

 

「……やはり、迷信じゃないですか……」

 

 ふふっ、と。

 思わず笑みが溢れてしまいました。

 

「では、少し休憩したら……のんびりと、園内を巡りましょうか」

 

「おや、急に笑顔になりましたね!笑顔はいい事ですし素敵ですが、何かありましたか?」

 

「新しい事に……茜さんが、気付かせてくれましたから」

 

 頭上に疑問符を乗せたままの茜さんと、途中で買ってきたサンドイッチで昼食をとりました。

 疑問に対する回答は、もう少し秘密にしておきましょう。

 

 

 

 

 

 軽食を食べ終え、私達はまだ咲いていない向日葵畑をのんびりと巡り始めました。

 私は日傘を差してのんびりと歩いているので、一番大きな向日葵の茎や葉を探して走り回る茜さんとは少し離れていますが。

 

「見て下さい文香ちゃん!すっごくおっきいです、これは咲けばこの向日葵畑で一番大きくなるに違いありません!!」

 

 そんな満面の笑みで此方を向く茜さんが、眩しくてたまりません。

 向日葵が咲く前だからこそ、咲いた時に思いを馳せて楽しむ事が出来る。

 ついさっきの私では、決して思い浮かぶことなんてなかったでしょう。

 そんな彼女の笑顔は眩しすぎて、日傘からも睫毛からも漏れて私の目を眩ませました。

 

 彼女がステージに立った時、ファンの皆さんはいつもこんな風景を見ていたのでしょうか。

 燃え盛る太陽にも負けないくらい、今を謳歌している茜さんは。

 きっと、満開を迎えたこの向日葵畑のどれよりも……

 

「そう言えば、さっきは何に気付いたんですか?」

 

「……なんだと思いますか?決して、難しい物事ではありませんが……」

 

 駆け寄ってきた茜さんは、思い出した様に疑問符を浮かべました。

 もしかしたら、とても簡単な事ですが。

 彼女自身では、気付けないかもしれませんね。

 

「ええと……溜息を吐いたら、幸せが逃げる事でしょうか?!」

 

 そのくらいは元から知っています。

 そして……

 

「ふふっ……その逆です」

 

「逆、ですか?」

 

「溜息を吐いたら幸せになれる、だなんて……本のどこにも、書いていませんでしたから」

 

 溜息を吐いたら、茜さんが元気を分けてくれましたから。

 一緒に散歩出来て楽しかった、と言ってくれましたから。

 

「難しい事は分かりませんが、それで文香ちゃんが幸せになれたなら私も幸せです!」

 

 そう言って一瞬照れたような、そして直ぐに満開の笑顔を咲かす茜さん。

 ……ふふっ、どうやらこればかりは本人ではどうしても気付けないかもしれませんね。

 

「向日葵が咲いてても、まだ咲いてなくても!満喫しようとする気持ちが大切ですよ!!」

 

「いえ……向日葵は、もう……咲いていましたよ」

 

 それも、きっと一年中。

 それに気付けず再び疑問符を浮かべる茜さんには。

 今度一緒に、満開の向日葵畑を訪れた時に教えてあげます。

 

 貴女の笑顔が、一番大きく咲き誇っていますよ、と。

 

 



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