孤島の六駆 (安楽)
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序章:孤島の第六駆逐隊
1話:青年が孤島に漂着しました、これより暁が安否の確認に向かいます


 

 

 

 空は鉛のように重い曇天。

 今にも降り出しそうな空模様で、遠雷の音が腹の底に響いてくる。

 海は鋼のように硬い凪。

 沖は暴風吹き荒れる惨状だというのに、波は立たず、凪いでいる。

 深海棲艦の支配する海域では当たり前の光景だ。

 

 どういう技術か。

 どういう魔術か。

 深海棲艦の支配海域では、気圧をはじめ、様々な現象が捻じ曲げられる。

 永遠に晴れる事無く、日光を遮断し続ける曇天。

 暴風でも波立たない、重油のように硬質な海面。

 大気は1気圧を維持できず、プラスにマイナスにと針が振れる。

 そして、人間も気がふれてしまう。

 人間の住める環境ではないのだ。

 

 そうすると、孤島の砂浜から海を眺める少女は、人間ではないということになる。

 長い黒髪を、後頭部の高い位置でひとくくりにして。

 袖を落として肩を出したデザインのセーラー服姿。

 すらりと長い手足、腕は肩から先を露出していて、足元は黒いストッキング。

 背は日本人女性の平均よりも、やや高めだろう。

 うーんと、難しい顔で唸る少女。

 その左目には、彼女には不釣り合いに大きい、黒い眼帯があった。

 傷が痛むというよりは、むずかゆいといった風に、時折眼帯の上から左目をなでる。

 

 

 特Ⅲ型駆逐艦1番艦・暁(あかつき)

 

 

 それが、彼女の名前。

 駆逐艦の魂を宿した艦娘だ。

 

 

 

 〇

 

 

 

 暁は浜辺で漂着物を物色しにきていた。

 深海棲艦に襲われた輸送船や客船から投げ出された漂着物だ。

 時折、こうして浜辺に打ち上げられるのだ。

 ほとんど波立たない海面でも、さざ波程度の揺らぎはある。

 加えて陸地に近付くにつれて異常な現象は緩和されるのか、浜辺にはちゃんと潮の満ち引きがあった。

 

 今日の浜辺に漂着したものは、それほど多くはない。

 船を形作っていたであろう木や鉄の破片。

 食料をはじめ様々な積み荷。

 時折人間が漂着することもあったが、そのほとんどはすでに亡くなっていた。

 奇跡的に一命を取り留めた者も指折り数えるほどには居たが、数日と経たずに気が触れて死んでしまう。

 ここはそういう海域。

 そういう領域の中にある島だ。

 

 

 暁は砂浜に正座して、合掌して目をつむる。

 死傷者への弔いと、漂着物を使わせてもらうことに許しを請う祈りだ。

 この孤島には鎮守府があったが、今は機能していない。

 外界からの補給が断たれた環境下では、こういった漂着物に頼らざるを得ない場面がどうしても出てくる。

 

 それと、自分たち艦娘が、襲われた船を助けに行けなかったという悔しさもあった。

 この孤島は深海棲艦の支配海域内にある。

 ひとたび海上に出れば、無数の敵艦から攻撃を受けることになるのだ。

 この孤島に残った艦娘は、暁を含めて4隻。

 全員暁型の姉妹たち、駆逐艦の艦娘だ。

 水上偵察機を運用できない駆逐艦では偵察もままらない。

 鎮守府の通信機能も故障しているのでSOS信号を受け取ることもできないのだ。

 

 そして、こんな深海棲艦が支配する海域まで難破船の貨物が流れ着くということは、海軍側が劣勢であるということでもあった。

 海軍側が、同胞である艦娘たちが、人を、物を、守りきれていないのだ。

 歯がゆい思いを、暁は噛みしめる。

 自分1隻が出て、あるいは妹艦も含め4隻で出たところで、この孤島から出られる見込みはない。

 遥か外海で襲われている船舶を守りに行くなど、夢のまた夢だ。

 何より、提督の命令なしに、艦娘が海上に出ることはできない。

 暁たち姉妹は、この島から出られないのだ。

 

 この孤島の鎮守府には提督が居ない。

 10年も前に、病に倒れてこの世を去っているのだ。

 すぐに海軍司令部に指示を仰いだが、しばらくして返ってきた指示は「待機」だった。

 艦娘は待機、それだけだった。

 その指示からすでに10年の歳月が経っているが、新たな指示はない。

 通信設備が死んでいるということもあるが、それだけではないと暁はわかっている。

 

 暁は、友軍の偵察機を、もう何年も見ていない。

 この孤島がある海域まで友軍が近づけていないのだ。

 海軍側が劣勢に立たされ、領海を深海棲艦側に奪われ続けている。

 それが、暁の推測だった。

 決して、見捨てられたのではないと、そう思いたかった。

 

 

 

 ○

 

 

 

 漂着物の中にあるものを見つけて、暁は全身がしびれる思いがした。

 砂浜に打ち上げられた木片。

 元は船舶の一部であろう木片には、人の上半身が乗っていたのだ。

 遠目には生死がわからない。

 うつ伏せに倒れている人物の生死を確かめようと、暁は歩いてゆく。

 ほんとは走り出したいのに、歩みはゆっくりで。

 確認するのが怖くて、体が思うように動かない。

 今までこの島に漂着した人間は、そのほとんどが亡くなっていた。

 そういった漂着者の生死を確認するのは、暁が自分に課した役目だった。

 妹艦たちが役割を代わろうと申し出るのを、この10年間、頑なに拒否し続けてきた。

 

 この鎮守府の提督が亡くなった時、暁だけは泣かなかった。

 自分が一番上の姉だからと、泣くのを必死にこらえていたのだ。

 人の死は痛ましいが、艦娘にとってはまた別の意味をも持つ。

 魂に焼きついた艦としての記憶が、悪夢のように蘇ってくるのだ。

 妹艦たちに悪夢を見せたくない。

 その一心で、暁は絶対に涙を見せずにいた。

 

 

 

「お願い……。お願いだから……!」

 

 生きていて。

 口の中で呟きながら、暁はようやく漂着者の元に辿り着く。

 脱力した体を横に向けにする。

 漂着者は男、青年だった。

 成人しているか否かというくらいの年齢だろうか。

 白いシャツにジーンズという格好で、靴は片方が脱げてしまっている。

 外傷がないのを確認した暁は、肩を小さく叩いて、小さな声で呼びかける。

 反応はない。

 

 視界がうるりと歪んでくるのを堪えて、青年の口元に手を当てて、胸元に顔を寄せる。

 さらに絶望的な気持ちになった。

 青年の口元に呼気はなく、心音は停止している。

 また、駄目だった――。

 

「……手遅れなんかじゃない……!」

 

 暁は目に溜まった涙を拭うと、青年を仰向けに寝かせ、蘇生を開始した。

 心臓マッサージと人工呼吸だ。

 これまで幾度となく漂着者に蘇生を試みてきたが、心肺停止状態から回復した者はいなかった。

 それでも、暁はあきらめたくはない。

 青年の体には外傷がなく、手足の壊死もまだ始まっていない。

 心停止してからそれ程時間が立っていないということだ。

 もしかしたら、暁が砂浜にくるまでは息をしていたかもしれない。

 そう思うと、なおさら諦める気にはなれなかった。

 

 幾度目かの確認。

 暁は青年の胸に耳を当てる。

 すると、暁の表情が驚きに変わり、明るくなっていった。

 

「息した……。息、吹き返した……!」

 

 青年の口元にはわずかな呼気が、胸元にはわずかな心音が、確かに感じられたのだ。

 暁はすぐに、青年の脇から手を入れ、上体を持ち上げてひっぱり上げる。

 青年を妹艦たちの元に連れて行き、治療を施そうとしているのだ。

 だが、一度青年を置いて鎮守府まで走った方が早いのではないかと気付き、青年を楽な姿勢で横たえ、走り出した。

 

「はやく、はやくみんなを呼んでこないと……!」

 

 呼吸は取り戻したものの、衰弱していることに変わりはない。

 この島の医療設備は万全には程遠い。

 それでも三番目の妹が、いつ漂着者が流れ着いても大丈夫なようにと、元々あった医学書とにらめっこして、医者の真似事くらいのことは出来ると言っている。

 

 早くみんなを。

 そう呟いて駆ける暁は、泣くまいと涙を留めている自分を自覚しても、笑っている自分には気が付かなかった。

 妹艦たちの前以外では決して笑わなくなってしまった暁が、この日初めて、嬉しさに顔をほころばせたのだ。

 

 

 

 ○

 

 

 

 この海域は深海棲艦の支配下である。

 あらゆる法則がねじ曲がる奇怪な領域だ。

 

 この島には鎮守府がある。

 しかし、この鎮守府には提督が居ない。

 

 取り残されたのは4隻の艦娘の姉妹。

 彼女たちは本来の姿よりも少しだけ大人になっていて、10年ものあいだ、ささやかな幸福と、目を背けたくなるような不幸と共に暮らしてきた。

 

 そしてこの日、ようやく新たな変化が、海を渡って辿り着いた。

 

 

 



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2話:漂着した青年が意識を取り戻しました、これより雷が問診を始めます

 

 

 

 青年が目を覚まして最初に見たものは、天井の木目だった。

 古い木造の建物という情報が、ぼんやりの頭の中に浮かぶ。

 自分が身を横たえているのがベッドだということもわかるが、体が熱を持ちすぎているせいか、感触が鈍い。

 閉め切られた窓に、ストーブの上で湯気を吹いているやかん。

 この部屋を暖めるための措置だ。

 

 青年は、それが自分のためになされた措置だと、なんとなく気付く。

 理屈ではない。

 完全に直感による理解だ。

 今が夏の入りだと知らなかったし、浜辺に漂着した自分が低体温症一歩手前の状態ということも知らない。

 しかも、心停止していたなど、青年の知る由もないことだ。

 それでも、青年は“なんとなく”で現状を認識していた。

 自分は非常に危険な状態にあったこと。

 そして、誰かがそれを救ってくれたということを……。

 

 カタンと、小さな物音がした。

 青年が身を横たえるベッドの右隣。

 椅子に座っていた人物が、うたた寝していて身じろきした時に発せられた音だ。

 座っていたのは、白衣姿の少女だった。

 

 誰だろう。青年がぼやけた視界のなか目を細める。

 髪は明るい鳶色のボブカット、赤いフレームのメガネが良く似合っている。

 白衣の下はセーラー服のようだが、スカートの丈が若干短い。

 少女が身動きするたびに太腿がちらちらと見えてしまう。

 思わず目を凝らすと、明るめのオレンジ色までしっかりと見えてしまった。

 

 青年が小さな寝息を立てる少女から視線を反らすのと、少女が首をかくんとさせて目を覚ますのはほぼ同時だった。

 半開きになった口元のよだれを袖でぬぐう少女は、青年が目を開けているのを見て椅子から転げ落ちそうになる。

 少女の表情が、びっくりから嬉しいに変化してゆくのを、青年は呆けたように見ていた。

 白衣の裾を翻して椅子から立ち上がった少女は、ベッドに飛びつくようにして青年の顔を真上から覗き込んだ。

 

「目が覚めた!? 意識は!? はっきりしてる!? あ、それと、言葉は日本語で大丈夫!? お腹すいてない!? 何か食べれそう!? その前に話せるかどうか……」

 

 白衣の少女は流れるように言葉を青年に浴びせかける。

 青年が目を覚ましたことがそれほど嬉しかったのか、ベッドの端を掴んだままぴょんぴょんと、まるで子供のように小さく飛び跳ねている。

 小さな子供がそのまま大人になったかのような仕草。

 互いの鼻が触れ合いそうな至近距離で見つめてくる少女に面食らって、青年は何を言ったものかと口をへの字にして閉口するしかできない。

 

 やがて、青年の困ったような表情に気付いた少女は、慌てた様子で一歩離れた。

 

「えっと、一気にいろいろ聞いちゃって、混乱するよね? まずは自己紹介かしら?」

 

 少女は白衣の襟を正すと、メガネの位置や髪形を直して手を背中側で組んだ。

 

「雷(いかずち)よ。かみなり、じゃないからね? この島では医務室を担当しているの。ようこそ、見捨てられた島の鎮守府へ」

 

 

 

 ○

 

 

 

「それじゃあ、ここがどこかと、今お兄さんが置かれている状況と、簡単に説明していくわ。わからなかったら聞き流していいから。質問はあとで受け付けるわ」

 

 雷は一息に言って、椅子に座って足を組み直した。

 青年はベッドに身を横たえた姿勢のままなので、雷が足を組み直した時に再びパステルオレンジと再会してしまう。

 気まずそうな青年の表情を不思議そうに見つめた雷は、こほんと咳払いひとつする。

 

「さてと。さっきも言った通り、この島には鎮守府があって……、今いるここがそうなんだけどね? でも、10年前に提督が亡くなられて、それっきり機能停止しているの」

 

 そうして雷は、青年に語り聞かせる。

 10年前、この孤島の鎮守府で何があったのか。

 

「この島は資源が豊富で、補給基地として運用されていたわ。でも、そこを深海棲艦に目を付けられちゃってね。この島に続く海路は悉く強襲されて、ついには孤立してしまったの。海軍本部の方は、何度も航路となる海域を奪還する作戦を試みたらしいんだけど、うまく行かなくてね。段々、奪還作戦の発令される頻度は少なくなっていったの」

 

 そうして、膨大な資源を抱えたまま、この島の鎮守府は孤立することになった。

 

「いくら資源が豊富でも、食糧や医療品がなければ人間の生活は守れない……。だんだん病気になる人も増えてきて、それに、深海棲艦に海域を乗っ取られたことで、この海域周辺の環境が変わってしまったの。……その、人が生きていくには、ちょっと厳しい環境に……」

 

 深海棲艦の支配領海では人間が正気を保てなくなるという部分を、雷は濁して青年に説明した。

 今まさにそういった環境下にある青年に不安を与えないためだ。

 

「鎮守府のみんなを護衛して島から脱出しようとした時には、もう動ける人は残ってなかったわ。それで、提督もご病気になられて……。提督の訃報をすぐに海軍司令部に伝えて指示を仰いだけれど、返ってきた指示は『待機せよ』だけだったわ。『艦娘は待機せよ』って……」

 

 肩を落とした雷だったが、すぐに姿勢を正して青年に視線を合わせる。

 

「私たち艦娘はね、提督の指示がないと出撃しちゃいけないの。日常生活や趣味、勉学は大いに結構ってことで許されているけれど、艤装を纏って海上に出ることは認められていない。だから、私たちは提督の指示があるまで、ずっとこの孤島の鎮守府で“待機”していなくちゃいけないの。指示をくれる提督が現れない限り、このままずっと……」

 

 青年はベッドの上で、体を起こそうとした。

 無意識的な動きだったが、衰弱した体は思うように言うことを聞かず、雷に「安静にしていて」と窘められてしまった。

 

「今この鎮守府に居るのは、私を含めて4隻の艦娘だけ。みんな駆逐艦で、私のお姉さんたちと妹。通信器は敵の空襲があった時に壊れちゃって、もう外とは連絡が取れないの。だから、10年前からずっとこの島で、姉妹で肩を寄せ合って暮らしてきたわ」

 

 そこまで言い終えて、雷は青年に質問を促した。

 しかし、青年はなんと言ったものかと口をつぐんでしまう。

 話が理解できなかったわけではなく、抱いた感情をどう言葉にしたらよいか、それに悩んでいるといった風に雷には見えた。

 

「じゃあ、質問はあとで受け付けるとして……。お兄さんのことを教えてちょうだい?」

 

 手にメモ帳代わりのバインダーと鉛筆を握った雷が椅子を引いてすり寄ってくるなか、青年は二重の意味で気まずそうに視線を反らした。

 

 

 

 ○

 

 

 

「それじゃあ、お兄さんは記憶喪失ってこと?」

 

 半ば問診になってしまったやり取りに、雷は思わずため息をこぼさんばかりの心境だった。

 この青年は記憶喪失だったのだ。

 青年には、この医務室のベッドで目覚める前の記憶がない。

 正確には思い出、エピソード記憶の欠落だ。

 文字の読み書きは出来るが、それを覚えるに至った経緯がそっくり抜け落ちてしまっている、という風に。

 

 さて、いったいどういうことだろう。

 雷は顎に手を当てて考える。

 まず考えが向いたのが、この青年が着ていた服や所持品についてだ。

 青年が漂着したの時の服装は、内地ではどこでも売っていそうなシャツとジーンズ姿で、これといって特殊な点は見られない。

 では持ち物はといえば、これが皆無。

 身分証明書をはじめ、財布のひとつも身に帯びていなかったのだ。

 

 暁の見た限りでは、今回の漂着物のなかに青年の持ち物らしき品はなかったという。

 漂着物は船舶の残骸や人間大のコンテナ等が主で、ポケットに入るサイズの小物の類は見当たらなかったのだ。

 それでも、まだ見落としがあるかもしれないと、暁は今も浜辺を捜索中だ。

 

 船舶の残骸や積み荷と一緒に漂着した以上、青年は乗船中に深海棲艦に襲われて海に放り出されたと考えるのが自然だ。

 それでも別の可能性を考えるのならば、入水自殺や強盗殺人という物騒な単語が思い浮かぶ。

 漂着時に片方の足には靴を履いていたので入水自殺の線は消える。

 体には人や獣に襲われたような外傷も見られなかったので、襲われたということもないのだろう。

 

 それでも、雷の頭の中には違和感がこびりついていた。

 彼女の本業は艦娘で、そういった捜査や調査の専門家でない。

 知識の裏付けがない以上説得力のある言葉など吐けるはずがないのだが、それでもおかしな点を挙げる事は出来た。

 この青年は、この孤島に漂着した数少ない生存者の中で、誰よりも素性が読めなかったのだ。

 

 例えば、軍服を着ているのならばほぼ海軍の人間ということで間違いないだろう。

 身分証なども含めれば完璧だ。

 服装や所持品で大よその見当も付けられる。

 他には、日焼け跡や筋肉の付き方、体型体格など、体に刻まれた生活の跡だ。

 外傷の跡などがあれば、医療をかじった雷ならばすぐにどういった事故にあったのかも把握できるはずだった。

 

 ところが、青年にはそういった、体から読み取れる情報がほとんどなかった。

 唯一はっきりしたものは、右腕の時計跡。

 左利きの人間は大よそ右手に時計をするため、日焼け跡が右手にできる。

 わかったのはそれだけだった。

 日焼け具合からわかったのは、この青年があまり陽の元に出るような生活をしていなかったということ。

 そして体型体格からわかったのは、青年は一般の成人男性としては平均的で、かつ健康体ということだ。

 筋肉の付き方からは、あまり体を動かすような生活をしていなかったと知ることもできた。

 

 そうすると、雷の抱く違和感はより強烈なものになる。

 この青年が何者で、どうしてこの島に漂着したのか。

 

 深海棲艦の脅威が存在する以上、艦娘の護衛なく船舶が海上を行き来することはない。

 雷がこの島で10年の時を過ごすあいだ、戦況は悪化しているだろうし、そうすると民間の客船などが海上に出るという線は消える。

 海に出るのはそのほとんどが海軍所有の軍艦や輸送船であり、それに民間人、ひいては一般人が乗り込むとは考えられないのだ。

 

 そうでなくとも、海岸付近に住まう民間人に避難勧告が出ている現状、高波にさらわれた等の事故も考えにくい。

 世界各地の情報がリアルタイムで飛び込んでこないのが悩ましい限りだと、雷は額を押さえ得るしかない。

 

 

 さて。ならば何故、この青年は流れ着いたのか。

 

 

 雷には、ひとつだけ思い当たる可能性があった。

 軍属ではない一般人が、海軍船に乗っているケースや、海岸付近への立ち入りを許されているケース。

 それは、艦娘を指揮する“提督”となる素質を持った人物に限られる。

 

 “提督”として艦娘を指揮するには、ただ指揮能力に優れているだけではいけない。

 まず真っ先に必要とされるのが、深海棲艦の支配海域でも正気を保っていられる特殊な体質だ。

 これまでこの孤島に漂着した生存者は、みな数日と経たずに気が触れて、自ら命を断ってしまっている。

 意識を取り戻した時点で正気を失うような兆候が見られるはずなのだが、今のところ、この青年にはそれがない。

 数日の経過観察が必要ではあるが、雷の見立てではこれまでのどの漂着者よりも、はるかに“安定して”いた。

 

 この青年は“提督”候補だったのだろうか……。

 雷はメガネの位置を直して、青年の顔を上から無遠慮に覗き込む。

 青年の反応はといえば、顔は真っ赤で照れきっていて、顔を逸らすことはしないものの、視線は左右に明後日にとぶれまくっている。

 照れ屋さん、というよりは女性慣れしていない反応だ。

 初心なのだ。

 

 雷は試しに、「ちょっとこの部屋暑すぎよね? ストーブいらなかったかしら?」などとうそぶいて胸元を開けて見せると、青年の下半身がしっかりと反応していた。

 シーツを押し上げて起立する物体をしっかりと確認した雷は、目を輝かせてあとで触診しようと力強く頷いた。

 

「……この様子なら、あの方法が使えるかしら……」

「ええ? な、なに……?」

 

 雷の発した呟きに、青年は情けない声色で聞き返す。

 すぐに青年から身を離した雷は、医務室のデスクの引き出しを開けて、あるものを取り出した。

 

「ひとつだけ、お兄さんに聞いておきたいんだけど……。お兄さんは、失った記憶にどんなイメージを持ってるの?」

「どんなイメージって、言われてもね……」

「直感でいいのよ? 忘れてしまって悲しい、とか。思い出したくもないくらいおぞましい、とか」

「そう言われても……。今まで持っていたものが手元になくて、それが重要だったかどうかもわからないって感触で……」

「思い出さないと、不安?」

「そう、かな。不安かもしれない、です」

「ああ、私たち相手に敬語や丁寧語なんて使わなくていいのよ? もっと言葉を崩しても大丈夫だから!」

 

 それより、と。

 雷は引き出しから取り出したあるもの、書類の束を胸に抱えて青年に問いかける。

 

「お兄さんは記憶を取り戻したいと思う? そうすることに、後悔しない?」

 

 青年は雷の言っている意味が呑み込めなかった。

 しばらく無言で考えて、これまでの人生で負った心の傷など思い出すかもしれないと、心配してくれているのだろうと好意的に受け取った。

 

「後悔は、思い出してみないとなんとも言えないけれど……。やっぱり自分が何者かは気になるよ。なんでこの、島? に流れ着いたのか。それと、もし家族が一緒だったら、無事だったのか……」

 

 青年の顔が曇る。

 もし、青年が海に放り出された時に、青年の家族か、あるいは友人か恋人かが隣にいたとしたら、その人物は今は無事なのだろうか。

 そういった面で心配する心が動くのなら、この青年は悪い人間ではないのだなと、雷は納得する。

 

「じゃあ、記憶を取り戻すためにリハビリしなきゃね? 大丈夫、私も手伝うから。調子が良くなったらでいいから、これをやってみて?」

 

 雷は胸に抱えていた書類の束を青年に見せる。

 題目や文章の数ヶ所が黒く塗りつぶされているが、それが何かの問題集であると、青年にも理解できた。

 

「――あ、ちょっと思い出して来たかも。僕たぶん、勉強とかあんまり好きじゃなかった気がする……」

「そうなの? でもそれ、記憶を取り戻すための大きな一歩よね!」

 

 笑顔で告げる雷の脳内にはある意図があった。

 エピソード記憶、思い出だけが欠如した状態ならば、体や頭が覚えていることはそのままのはずだ。

 鉄棒の逆上がりや、方程式を使った計算など、青年がこの歳までそういったものに触れてきていれば、必ずと言っていいほど通る道。

 雷が渡した問題集は、青年の基礎学力を計るためのもの。

 外観上日本人ではある青年だが、もし本当に日本国籍を持つ日本人ならば義務教育を受けているはずだ。

 最終学歴はどのあたりか。

 優等生か落ちこぼれか。

 どの科目に秀で、あるいは苦手としているのか。

 体調が良くなったら外に出て軽く運動してもらったり、機械など弄ってもらおうとも考えていた。

 もちろん、青年の適性を見るためで、力仕事を任せるためといった意図ではない。

 

(それに、もしこのお兄さんが“提督”の素質を持ってる人なら……)

 

 雷は、その先を努めて考えないようにした。

 それは見方を変えれば、この青年を利用するということになるのだから……。

 

 思いつめそうになる心を表情に出さないように、なるべく笑顔でいることを意識しようとする雷は、医務室の扉が控えめにノックされる音を聞く。

 確か、電(いなづま)がそろそろこちらの様子を見に来る頃なのだ。

 

 

 



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3話:電がお粥をつくって医務室にやってきました、これより青年に食べさせ……

 

 

 

 控えめなノックに雷が応えると、扉の向こうで「はわわわ!」と困ったような声が聞こえてきた。

 ノックに返事があったにも関わらず、扉を開けて入って来ないのは何故だろう。

 青年が訝しげな表情で開かない扉を見つめていると、雷が「あ……」と何かに気が付いたようだ。

 椅子から立ち上がってスタスタ歩いて行くと、扉を開けて外に居た人物を招き入れた。

 

「やっぱり! 両手が塞がってたんじゃない!」

「ご、ごめんなさいなのです……」

 

 雷に招き入れられて医務室に入ってきた人物は、雷と瓜二つの少女だった。

 暗い鳶色の髪をうなじの辺りでひとまとめにした髪型で、目元はやさしく緩んでいる。

 袖を落としたセーラー服の上からピンク色のエプロンを身につけた姿は、主婦というよりは母のお手伝いをする女子高生といった風だ。

 大きめの漆塗りのお盆を両手で持っていて、その上には小さな土鍋が湯気を上げていた。

 

「紹介するわ。妹艦の(いなづま)、この島では料理担当ね」

「あの、始めまして。電です……。あの、お兄さんは、体調大丈夫ですか? お粥つくってきたのですが、食べられそうですか?」

 

 問われた青年は、そこで自分が空腹かどうかにようやく意識が向く。

 この島に漂着する前の記憶はないが、少なくとも1日以上は腹の中に何も入れていないはずだ。

 胃袋は収縮しきっているのか、空腹は感じない。

 ただ、体を動かすのに必要なエネルギーが足りないことは、先ほど咄嗟に体を動かせなかったときに自覚している。

 早く何か食べなければという思いはあった。

 

 それよりも、青年には気になることがあった。

 先ほどのノックは電のもので間違いないだろう。

 しかし、彼女の両手は土鍋を乗せたお盆を持っているので、塞がっている。

 あの状態で、どうやってノックを?

 足だろうか。

 

 青年の視線に気付いた電が苦笑いしながら言うには……、

 

「あの、その……。おデコで」

「おデコで!?」

 

 ……額で、扉をノックしたのだという。

 よく見れば、確かに電の額は少し赤くなっているのが見て取れた。

 

 青年は絶句する。

 どうやったら頭突きであんな控えめなノックの音が出せるのだろうか。

 それよりも、扉の前で両手が塞がった電が、どうやってノックしようかと「はわわわ」しつつ、結局額でゴツンとやったのだろうかと想像すると、どこか微笑ましい気持ちになってくる。

 

「……あの、それで、食べられますか……?」

「食べます! わざわざありがとう」

 

 青年のありがとうに照れた様子の電は、はにかみ笑いでベッドの方まで歩いてくる。

 しかし、どういった異常現象か、電は何も障害物の無い部屋の中で足をもつれさせ、勢いよく前のめりに倒れ込んだ。

 ちょうど、青年の鳩尾の辺りにタックルする塩梅になり、思わぬ衝撃を浴びた青年はくぐもった悲鳴を漏らした。

 

 事態はこれで終わらない。

 青年の上に倒れ込んだ電の手からは、土鍋がお盆ごと消え去っている。

 転んだ時に放り出してしまったのだろう。

 そして、ここまでの事が起これば、青年にも何となく、この先の結末というものが予測できた。

 電の手を離れて宙高くに舞ったお盆と土鍋。

 それがゆっくりと回転しながら、落ちてくる。

 見上げる青年の顔目がけて。

 

 確か、湯気が上がっていたよなと、青年は落下を始めた土鍋をスローモーションの視界で見つめていた。

 熱いのがくるか。

 痛いのがくるか。

 それとも、どっちもか。

 ゆるやかに覚悟を決めた青年の顔面へ、しかし土鍋も粥も落ちては来なかった。

 

 これまたスタスタと歩いて来た雷が、まずお盆をキャッチ、続いて土鍋をキャッチ、そして宙を舞った粥がその中に納まって蓋が閉まり、難なく緊急事態を回避してしまった。

 

 見事な手際、というよりはもう手慣れてしまったという印象を受ける。

 彼女たちにとっては日常茶飯事なのだろう。

 

「ごめんねー。電はこんなだから、危ない現場を任せられないの。医療とか、機械とか」

「ご、ごめんなさいなのです……!」

 

 青年の腹の上で「はわわわ」と鳴いている電を宥め、雷はお盆を傍らにおく。

 危機が遠ざかった青年はと言えば、今さら心臓が早鐘を打ち始めていた。

 しかし、どういうわけか、鼓動の大きさがおかしい。

 何故こんなにドキドキしているのだろう。

 

 まさか……。

 青年はハッと何かに気付いたかのように身を強張らせ、まだ腹の上からどこうとしない(できないらしい)電を見つめる。

 困ったように眉を寄せた瞳は涙ぐんでいて、見つめているとどうにも胸がざわつくのだ。

 

「……もしかして。これが、恋なのか……?」

 

 ぼそりと呟いた青年は、次第に顔に熱が上がってくるのを感じ……、

 

 

「もー、電! 早くどきなさいったら! お兄さん蘇生させるとき暁が胸骨圧迫やりすぎて、胸骨にちょっとヒビが入ってるんだから、安静にしてなきゃ駄目なの!」

 

 

 ……などと雷が言ったことで、青年は自分の胸騒ぎがなんなのかを正しく理解した。

 蘇生の際に圧迫されて脆くなった胸骨の軋みと、どこでも転べる危なっかしい電がいつ飛び込んでくるかわからないスリル。

 それが、青年が感じた胸騒ぎ。

 危機感、本能のエマージェンシーコールだ。

 恋では、なかったのだ……。

 

 早とちりして恋とか言っちゃった自分に恥ずかしくなって赤面する青年の様子に、雷電は顔を見合わせる。

 電の方は本気で青年のことを心配していたが、雷は青年の心中を大よそ察していて、ふたりから一歩離れてニヤニヤと綻びそうになる顔を押さえていた。

 

 

 

 ○

 

 

 

「それじゃ、体起こすわね? 痛かったら言ってちょうだい」

 

 雷に介添えされて、青年はベッドの上で状態を起こした。

 食事をするために、仰向けの体勢から身を起こす必要があったのだが、その時になってようやく青年は自分が下着一枚纏っていないことに気付いた。

 全身にびっしり汗をかいている感覚もだんだんフィードバックされてくるし、何よりシーツに隠れた下半身の一部が元気よく起立したままであるのにも今さら気付いた。

 

 なんたることか。

 壮絶な顔で、青年は雷電の表情を盗み見る。

 雷の方は「わかってるわ。大丈夫よ!」と、慈愛と好奇心が合わさったような、聖母の笑みで見つめ返してくる。

 もう一方の電の方はというと、困ったような顔を真っ赤にして、そわそわと落ち着きがない。

 ちらちらと、青年とシーツの隆起に交互に視線を送っていて、気まずさや好奇心といった感情で複雑な気持ちになっているのだろう。

 

 青年と電が気まずい思いをする中、ひとり勝ち状態の雷は鼻歌を歌いながらお盆に乗った土鍋を開ける。

 

「……電、どっちがいい?」

「はい? なにが……」

「お兄さんに、ふーふーあーんして食べさせるのと。お兄さんの着替え持ってくるの」

 

 ぎくりと固まった電は、その場であわわわと顔を赤くしながら「き、着替えを取ってくるのです……!」と言って、医務室を飛び出して行った。

 遠ざかる足音が時々、壁にぶつかったり躓いて転んだりする音になるところを耳にすると、そうとう気が動転しているのだなと、青年は申し訳ない気持ちになる。

 

「気に触ったらごめんね? 電に悪気はないの。ただ、こうして普通に話せる人間の男の人って、すごく久しぶりだから……。元々人見知りする子では、あるのだけれど……」

 

 雷は独り言を語るように言うと、レンゲで土鍋から粥をすくって、青年の口元まで持っていく。

 

「ふーふーは、いる?」

「……い、いらないと思うよ」

 

 緊張したように口調をどもらせた青年は差し出されたレンゲにかぶりつく。

 熱かった。

 やんごとなき灼熱だった。

 一度宙に舞って空気を含んでいるのだから、少しは冷めていると高を括っていた。

 舌と上顎に灼熱を感じながら口を閉じることが出来ないでいると、雷が苦笑いしながらも水の入ったコップを持ってきた。

 

「これでも、ふーふーいらない?」

「……お、お願いします」

 

 

 

 ○

 

 

 

 食べ終えてしばらくしても口の中の痛みは引かなかった。

 これはもうしばらく尾を引くだろうなと消沈する青年は、ベッドに身を横たえることなく電の帰りを待っていた。

 これから着替えるというのに横になってしまっては面倒だ。

 それに食べてすぐ横になると牛になるとも言う。

 こういう言葉は覚えているのに何故思い出だけすっぽりと抜け落ちてしまったのかと、青年はため息交じりに窓の外を見る。

 

 空は灰色の曇天で、遠くに稲光が見え隠れする。

 海は鉛色の凪で、浜辺付近にならないと波の行き来が起こらない。

 本当に普通ではないところに来てしまったようだ。

 空も海も本来は青い色をしていると知識は告げているが、それを自らの目で見た“記憶”は抜け落ちてしまっている。

 本物の空と海を、忘れてしまっているのだ。

 

「窓の外が気になる?」

 

 食器を片づけながら聞いてくる雷に、青年はなんと返したものかと小さく唸る。

 

「……空の色も、海の色も、元はこんな色じゃなかった、ってことはわかるんだけど、どうだったか思い出せないんだ。確か青い色をしていたって、知識のうえではわかるんだけど、青い空と青い海が想像できない……」

「そっかあ……。私たちも、もう10年も青い海を見ていないかな……」

「もう一度、青い海が見たい?」

「そりゃあねえ……。でも、私たちが見たいって言うよりは、見せてあげたい人がいる、って感じかしら?」

 

 雷たち艦娘の姉妹たち以外に、青い海を見せてあげたい人がいる。

 自分のことではないだろうなと内心呟いた青年は、では、それは誰だろうかと黙考する。

 この島の外に居る人物だろうかとも思ったが、そもそも外界では空も海も普通に青い色をしているはずだから違うのだろう。

 窓の外の灰色を見て悩む青年だったが、その疑問は後々氷解することになる。

 

 やがて電が着替えを持って戻ってくると、それまで青年を見てしんみりしたりニヤニヤしていた雷が、ふと表情を消した。

 着替えを持ってきた電もどこか気落ちしたような表情をしていて、青年は自分がわるいことをしているような気持ちになってくる。

 

「あの、これ……。サイズはたぶん、ちょっと小さいと思います……」

 

 そうして着替えを置いて、雷と電は医務室を出ていった。

 ご丁寧に下着まで用意してあり、電が言うとおり、確かにサイズは小さ目だ。

 簡素なシャツとズボンで、丈が足りず七部丈のようになってしまっているのだ。

 青年がもう少し筋肉質だったら腕も腿も入らなかったかもしれない。

 

「……デザインというか、布地自体が結構古いのかな……」

 

 10年ものあいだ補給がなかったというのだから、この服も10年前のものなのだろうか。

 だとしたら、ものすごく大事に保管されていたのだなと、青年は匂いや着心地の感触からそう印象を受けた。

 襟元や袖口には糊が効いていて、ほつれも繕われている。

 

 後に青年は、この服の持ち主が、10年前に亡くなった提督のものであったことを知る。

 そして、雷が青い空と海を見せたかった相手というのも、その提督だったのだと……。

 

 

 



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波間①

 

 

 

 青年を医務室の雷に預け、暁は再び浜辺を捜索しに来ていた。

 雷の所見では、この青年はざっと見て素性が読めず、危険人物かどうかわからないそうだ。

 とはいえ、青年の体に蓄積したダメージと暁の胸骨圧迫で骨が少々やられているということなので、跳び起きて襲われることはないだろうと、あっけらかんと語っていた。

 

 ならば、青年の身分証や、身に着けていただろう装飾品から彼の正体を割り出そうと暁は考えたのだが、これが難航した。

 今回浜辺に漂着しているのは大物ばかりで、ポケットに入りそうなものや体に身に着けていそうなものが一向に見当たらなかったのだ。

 

 そもそも、青年がこの孤島に流れ着くまでの経緯が不明だ。

 漂着した複数のコンテナ類は、外界の食品メーカーのもので、別段怪しげなものではない。

 船舶による輸送中だったと考えるのが妥当だろうが、そうするとこの青年は船員の衣装を身に着けていないとおかしいのだ。

 

 暁が見つけた時の青年の服装は、これから散歩にでも出かけるかのようなラフなものだった。

 この時代、海に出るのならそれなりの装備が必要になる。

 兵士が身に着けるドッグタグのようなものがそうだろう。

 海上での仕事に付くものは刺青を掘ることもあるという。

 遺体の損壊が激しい場合等も想定して、どんな状態になっても本人だとわかる何かを、必ずと言っていいほど身に着けているものなのだ。

 

 だが、青年にはそれがなかった。

 無くしたのか。

 取られたのか。

 それとも、元々無かったのか。

 推測の領域では何とでも言えるので、暁はそこで考えを止めた。

 いらぬ考えを巡らせて、いざ青年が目を覚ました時に変な先入観を持ってしまってはいけないと考えたのだ。

 

「……でも、良い人だと、いいな……」

 

 顔をにやけさせて暁は呟く。

 久しぶりの漂着者が生きていたことが嬉しくて仕方ないのだ。

 青年が起きるまで看病しているのもありだったなと今さら思うが、こうして先走って飛び出して来てしまった。

 彼が起きた時に、身の回りのものが無かったら不安がるかもしれないからと……。

 

 暁は、この時とった行動を後悔することになる。

 青年が目を覚ますまで、彼の傍で看病していれば良かったと。

 そうすれば、“こんなもの”を見つけずに済んだのにと……。

 

「これ、は……」

 

 半ば砂に埋もれてしまっていた“それ”を、暁は見付けてしまった。

 手に取った“それ”をしばらく訝しげに見つめていた暁だったが、それが青年の所持品であると合点がいった瞬間、呼吸が止まりそうになった。

 

「……どうしよう。これ……」

 

 声が震えて、足に力が入らない。

 動揺して砂浜に膝を付いた暁は、長い時間をかけて問答を繰り返し、拾ったものを青年に渡さず隠しておくことに決めた。

 捨ててしまうという選択は出来なかった。

 捨てたつもりが、何かの拍子で青年の目に着いてしまうかもしれないと、そう思ったからだ。

 妹艦たちにも取得物の存在を内緒にしようとこの時に決めた。

 

 そうして拾った“それ”をポケットに隠して、暁は鎮守府跡に戻った。

 先ほどまでの浮かれたような笑顔を一緒に隠して……。

 

 

 



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4話:青年がようやく鎮守府内を歩けるまでに回復しました、これより風呂上りの響と鉢合わせするようです

 

 

 

 青年が孤島に漂着して1週間が過ぎた。

 衰弱していた体にもだいぶ力が戻ってきて、自分の足で立って歩けるまでに回復していた。

 今日からは医務室を離れ、鎮守府内にある一室を使うことになる。

 それまでは、雷と電の艦娘姉妹に何から何まで手を借りなければならず、このふたりには本当に頭が上がらなくなってしまっていた。

 

 雷には治療をはじめ、ベッドから起き上がれるようになるまでの身の回りの世話をしてもらっていた。

 体を拭いてもらったり下の世話までしてもらったりと、もう彼女の顔を見るだけで条件反射で顔が赤くなってしまう。

 もはや、青年の体の外側と内側で、雷が知らない部分はないとまで言える程だ。

 恥ずかしさに赤面して身を縮ませる青年に対して、雷は嫌な顔ひとつせず、むしろ顔を輝かせて体に触ってくる。

 笑顔を絶やさずここまで出来るというのは、プロ意識の塊なのだなと青年は感心するのだが、雷当人は生来の世話焼き症と、青年の体に興味津々だったために、むしろ好都合だったのだ。

 

 電は1日3食を医務室に運んできてくれて、それどころか最初雷がそうしてくれたように食べさせてくれた。

 お粥をはじめ固形物の少ないメニューだったが、味付けはレパートリーに富んでいて、青年の心を暖かく癒すものだった。

 電の手による多様な味付けは、味付けの好みを思い出すうえでも効果を発揮している。

 いろいろ食してみたところ、“子供が喜びそうな濃いめの味付け”が好きだというあまりに単純な結果に、青年はしばらくひとりで凹んでいた。

 しかしまあ、毎食食べさせてくれるのは青年としてはありがたかったので、文句の言いようはない。

 だが、時々口ではなく鼻に突っ込んだり、出来立てアツアツのものをデリケートな部分にこぼされそうになったりと、食事のたびにハラハラしっぱなしだったのも事実だ。

 以前雷に言われた通り、電という少女がドジッ娘だということを(しかも悪気が微塵もないことを)身を持って知る1週間だった。

 

 青年を助けた暁も、医務室に度々顔を見せていた。

 雷や電からは、暁のことを「大人ぶる子供」「責任感が強くていつも無理をする姉」といった話しか聞いていなかったので、ふと目が覚めて大きな眼帯が見つめていた時は魂が飛び出すかと思う程びっくりしたものだ。

 雷電姉妹同様、まだ幼さを残す少女が顔半分を覆わんばかりの大きな眼帯を着けていれば、それは驚きもする。

 胸に手を当てて動悸を押さえようとする青年を見た暁が、自分が驚かせたせいでヒビが入っていた胸骨が完全に折れてしまったのではと大慌てして、真っ青な顔で雷を呼びに行ったことも、今では笑い話のひとつになっている。

 

「お兄さんの体力が戻ってちゃんと歩けるようになったら、暁がこの島の中を案内するわ。それまでゆっくり療養してね?」

 

 笑顔でそう告げる暁を前にして、青年は努めて笑顔を絶やさないようにしていた。

 というのも、暁は漂着した青年を蘇生させんと、心臓マッサージと人工呼吸を行っている。

 それは青年の胸や口元に跡が出来るほどの長時間行われたものであり、それほど真剣に蘇生を試みてくれた相手に「唇が触れた」ことを意識して邪な気持ちを抱いてはいけないと、必死に平静を装っていたのだ。

 雷などは「そんなに気を使わないで、しっかり邪な気持ちになればいいのに」などと耳元で囁いてくるが、青年は断固として鋼の自制心を保った。

 

 だからだろうか。

 暁が青年と同じように、無理して笑顔を絶やさないようにしているのだと、気付くことが出来なかった。

 雷や電も、暁の様子が少しおかしいとは思ったが、青年の前だから緊張しているのだろう程度に考えていた。

 

 自分たちの力が及ばず漂着者が命を落とす時、決まって涙をこらえる姉の姿を目にしていたので、今度こそは救うことが出来てはしゃいでいるのだと、そう考えていたのだ。

 

 

 〇

 

 

 医務室を出た青年は、鎮守府内の廊下を歩いていた。

 まだ足腰に力が入りきらないが、杖や介添えに頼らず、リハビリのつもりでひとりで歩く。

 医務室を出る時に雷に一緒に行くかと声を掛けられたが、丁重にお断りしている。

 雷が至極残念そうな顔をするものだから、やはりお誘いに乗っておけばとも思ったが、それでは自分のためにならない。

 

 1日も早く復帰できるように。

 青年の、今の最大目標だった。

 暁が島を案内すると言っていたこともあり、青年は一層気合を入れ直す思いだ。

 ただ、やはり体力は完全に戻っていないせいか、時々廊下の壁に手を着いて休憩しなければ、再び医務室に逆戻りしそうな体たらくではあった。

 せめて自分に宛がわれた部屋までは辿り着きたいと、電が持たせてくれたメモに目を落とす青年だったが、その表情は苦笑いだ。

 メモ紙に掛かれたこの鎮守府の略図だが、電の表現が独特なのと、ところどころ封鎖されて行き止まりになっているので、幾度も回り道をすることになった。

 

 医務室で横になっている時に雷から聞いた話では、この鎮守府は深海棲艦の放った艦載機による空襲で、建物の半分以上が倒壊しているという。

 先ほどの封鎖された場所の他にも、床が無くなっている場所には板が張られ、割れた窓にも板、雨漏りが箇所にはブルーシートが掛けられてもいた。

 艦娘とはいえ女の子4人だけで良くやっているものだと、青年は感心を禁じ得ない。

 2日や3日のその場しのぎでなく、10年間、この倒壊しかけの鎮守府を修繕しながら住み続けてきたのだ。

 専門の人間が手を加えなければならないであろう部分を、自分たちで直せるところは直し、そうでないところは騙し騙しで持たせている。

 

 補修の跡を見て回る青年は、これならば自分も手伝えそうだなと呟き、それが失った記憶の手がかりではないかとおぼろげに考える。

 自分はこういった建築物に関わる仕事についていたのだろうか。

 補修跡に触れてみたり、棚に置かれている工具類を幾つか手に取って見るが、いまいちぴんと来ない。

 おそらく取り扱いは出来るであろうものの、それが本職であったかどうかと聞かれると、はっきり「そう」だと断言できる自信はないのだ。

 

 そう言えば、雷が何やらテストのようなものを見せてくれたことを青年は思い出す。

 どうせなら医務室を出る時に貰って来ればよかったなと、頭をかいてため息を吐いた時だ。

 

「……じー」

 

 背中に視線を感じた。

 口擬音付きでだ。

 青年は何となく、振り向くのを躊躇ってしまう。

 このまま振り向くと、あまり良くない結果を招いてしまうのではないかと、直感が告げているのだ。

 

 医務室で会った暁型の姉妹たちは、こちらを見れば真っ先に声を掛けてくるだろうことは、この1週間で身を持って知っている。

 雷などはこうして悪戯しそうな雰囲気はあるものの、医務室を出る時に何やら書類と格闘していたので、その線はないと青年は判断する。

 まあ、その雷が今、青年のことが心配になり、様子を見に行こうか、やめておこうかと、悩んでそわそわしているとは、この時の青年には知る由もない。

 

 そうして思い出すのは、まだひとり、青年が出会っていない艦娘の少女がいるということだ。

 確か次女の、2番艦の響(ひびき)という名だったと記憶している。

 自分の背中を「じー」っと見ているのは、その響ではないか。

 他の姉妹たちから聞く限りでは、この島の機器系統の管理を担当していること、初見だと感情の起伏がわかりにくいかもしれないとのことだった。

 

 いまいち確信が持てないが、ずっとこのままというわけにもいかない。

 背中に突き刺さる視線は「じー」から「じじー」に変わりつつあるのだ。

 振り向く前に、声は掛けるべきだろうか。

 

「えっと……。響さん、ですか?」

「話は聞いているよ。記憶喪失のお兄さん。そう、響だよ。“さん”はいらない。言葉遣いも気を使わなくていい」

 

 良かったと、青年は胸を撫で下ろす。

 背中越しではあるが、会話は成立している。

 これなら大丈夫だろうと振り向いた青年は、――機敏な動きで回れ右をして、響に再び背を向ける形となった。

 青年は首を傾げ腕組みしながらも、顔中にびっしりと汗をかき始めている。

 

「……なんで、何も着ていないの?」

 

 一瞬だけ目にした響という少女は、衣服を身に纏っていなかった。

 くせのある銀色の髪が伸び放題で、大事なところをちょうどよく隠してはいたが、漠然と全体を俯瞰する限り、一糸纏わぬ姿だったはずだ。

 顔立ちは暁たちと同じくやや幼さを残す少女のもので、話に聞いていた通り、感情の起伏が読みづらい表情をしていた。

 四肢はすらりと長く、出るところは出ていて、4姉妹の中では一番発育が良いのではないかと、青年の直感は告げている。

 

 青年の挙動に不審そうに首を傾げた響は、自分の有り様を見下ろして「ああ」と声を漏らした。

 

「これかい? 浴場のボイラーの調子が悪くてね、みんなしばらくは裏庭でドラム缶風呂なんだ。私は徹夜明けでさっきまでお風呂だったんだけど、着替えを部屋に忘れてしまって……。汚れたツナギを着て行くのも嫌だったから、裸というわけさ」

 

 淡々と言い終えた響は「で、それがどうかしたかい?」とばかりに首を傾げて疑問の視線を青年の背中に送る。

 

「……出来れば、タオルで前を隠してもらえるとありがたい、かな。お互いに……」

「? 見られて困るものでもないのに……。いいよ、ほら」

 

 いやいや、困るでしょうと青年が苦笑いで振り向き、――再び回れ右して背を向けた。

 

「ひ、響! 響さん!? 確かにタオルで隠してくれたけど! それだと上半身が! 胸が隠れてないよ!?」

 

 振り向いた時に青年が見たものは、腰にタオルを巻いて「どうだ」とばかりに仁王立ちする響の姿だった。

 表情に乏しかった顔が、先ほどに比べて若干得意げだったのは、青年の気のせいだったのかは定かではない。

 今回も重要なところは髪の毛に隠れて見えはしなかったが、風でも吹けば露わになってしまう、そんな危うさを孕んでいた。

 

「ん。小さいタオルだから全部は無理。隠したままだと歩きにくいし」

「お、女の子が、それでいいの!?」

「男女差別反対。ここではこれが普通だから、お兄さんが慣れてくれないと……」

「……これが、普通なの?」

 

 青年は頭を抱えたくなる。

 響の話を信じるならば、この鎮守府の4姉妹は風呂上りに裸で屋内をうろつくのが通常運行なのだ。

 まあ、誰にのぞかれることもなく、10年ものあいだ姉妹4人だけの生活となれば、確かに無防備になっても仕方がないことかもしれない。

 しかしこれでは、迂闊に部屋の外に出ることもできないのではないのだろうか。

 これから青年が御厄介になるとなれば、さすがに気を使ってもらえるとは思いたい。

 思いたいのだが、この響という少女を見る限り、そうそう改めてもらえるとは考えにくい。

 

「……まあ、僕はあくまで部外者だからね。強くものを言える立場じゃないのはわかってるよ……」

「お兄さん、気にしないことだよ。細かいことに囚われていては、大局を見失ってしまう」

「響はもうちょっと細かい部分に目を向けてみるといいんじゃないかな」

「姉と妹たちによく言われるよ」

 

 言われるのか。

 このマイペースな次女に、姉妹たちは手を焼いているのだろうなと苦笑いになっていると、廊下をぎしぎしと踏んでこちらへ歩いていくる足音が聞こえてくる。

 誰であろう、響の足音だ。

 しかし、何をするつもりだ。

 青年が緊張して固まっていると、響は青年の正面に回り込んで右手を差し出してきた。

 握手を求める手だ。

 

 なんて無茶なことをと、青年は顔を赤くして唸る。

 響の体を真正面から直視するわけにもいかず、かと言ってこの手を取らないわけにもいかない。

 なるべく視線を反らしつつ手を握り返せば、小さくて冷たい手の感触と、満足気な鼻息が聞こえてきた。

 

「これからよろしく頼むよ。新しい“提督”さん」

「ああ、こちらこそよろしく。……ん? 響、“提督”って、どういうことだい? 僕が何か?」

「あれ。雷たちから聞いていないのかい? ……これは早まったかな」

 

 表情は対して変わらないながらも、響はいかばかりか困ったオーラを出して「ふむむ」と唸る。

 だがそれも少しの間だけで、「うん、話してしまおうか」とひとり呟いている。

 

「暁たちはしばらく黙っていようとしていたのかもしれないけど……。お兄さん、お兄さんには……」

 

 響が神妙な顔で(もちろん、表情はあまり変わらないが)何かを告げようとした時、廊下をどたどたと走ってくる音が聞こえてきた。

 少しばかり脆くなっている床をぎっしぎっしと軋ませながら走ってきたのは、鳶色の髪の雷電姉妹。

 ふたりとも、どこか焦ったような、余裕を失くしてしまった顔つきで、廊下の向こうから青年と響の元へ走って来ていたのだ。

 

「お兄さん! ちょっとそこから離れて!」

「ぐ、具体的にには、響ちゃんから離れてください! なのです!」

 

 何をするのかと訝る青年は、雷電姉妹が医務室から持ってきたのであろうシーツの端を互いに掴み、大きく広げる様を目にする。

 まるで底引き網のようだな、などと、自分の中に眠っていた意外な知識に驚く青年だったが、その底引き網が自分たちの方に勢いよく走ってくるのを見て、血相を変えてその場から跳び退る。

 

 その場に残された響は「……お兄さん、謀ったね?」などとわけのわからないこと呟きながら、シーツに捕獲された。

 

「確保よ! 撤収するわ!」

「すみません、お見苦しいものを……! なのです!」

 

 響をシーツにくるんで簀巻きにした雷電は、勢いを殺さず廊下の向こうへ走り去って行った。

 

 見事なコンビネーションにぽかんと口を開けてその様子を見守っていた青年は、すぐ横が自分に宛がわれた部屋だと気付く。

 ぽつんと廊下に取り残されてどこか寂しくなった青年は、いそいそと扉を開けた。

 

 

 



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5話:青年もだいぶ体力が戻ってきたようです、これより暁が孤島の鎮守府を案内します

 

 

 

「お兄さん? いるかしら?」

 

 鎮守府内。

 青年が自分に宛がわれた部屋で腕立てをしていると、扉をノックする音と暁の声が聞こえてきた。

 はーいと間延びした返事をして扉を開けると、暁が両手を後ろに回し、そわそわしながら立っていた。

 扉が開いて青年の姿が見えた瞬間びくりと肩を震わせもしているのだが、青年には何故暁がそわそわしているのか、よくわからない。

 

「暁、大丈夫? どこか落ち着きがないみたいだけど?」

「へえ!? そ、そんな事ないわ! 私はいつも通りよ!?」

 

 そのいつも通りがわかる程長く彼女を見ているわけでは無いので何とも言えないが、少なくとも今の暁の様子を見る限り、落ち着きがないのは目にも明らかだった。

 

「……トイレ、じゃないよね……」

「さっき済ませてきました」

 

 青年は小さく独り言として言ったつもりだったのだが、暁は地獄耳を発揮して聞き取ってしまう。

 そわそわから一転、今度はぷんすかといった様子で頬を膨らます暁は、後ろ手に隠していたものを青年に押し付ける。

 

「これ、雷からだって。そのうち必要になる大事なものだからって言ってたけど、何が入っているの?」

 

 暁が押し付けて来たのは茶色の包みだった。

 サイズはA4程で、厚みは週刊漫画雑誌くらいはある。

 

 青年には思い当たる節がった。

 医務室のベッドで雷が見せてきた書類、何かの問題集だったと記憶している。

 わざわざ暁に持たせてくれたのかと、包みを受け取った青年は、封を開けて中を確認しようとして、びたりと動きを止めた。

 包みの中をを覗き込み目に飛び込んで来たのは、妙に肌色の面積が多い女性が表紙の雑誌だった。

 

 ――言わずもがな。

 青年は碌に中身を改めもせずに封をし直して、部屋の中、畳まれた布団の上へと放り投げた。

 青年の流れるような動きを見守っていた暁は、一拍置いて「え?」と首を傾げた。

 

「……結局、中身はなんだったの?」

「基礎学力を計るテストみたいなものらしいんだ。あれを見た瞬間嫌な気分になったから、記憶をなくす前の僕は勉強嫌いだったのかも」

 

 嘘半分真実半分で冷や汗をかきながらやり過ごそうとすれば、暁は素直に「なるほど」と納得した様子だった。

 

「じゃあ、こっちの包みは何かしら? これも大事なものだって言ってたけど……」

 

 暁は青年の目の前でもうひとつの包みを取り出し、あろうことか開けはじめた。

 うっと息を詰まらせて動きを止めた青年は、思わぬ不意打ちに身を固くしながら、暁の動向を見守る。

 何故もうひとつある。

 何故ふたつ一緒に渡さない。

 そして何故勝手に開ける……?

 

「……あら、これも問題集? こんなに大量にあるなんて、外の学生さんたちは大変なのね?」

「……うん。そうみたいだね。うん」

 

 何とか誤魔化せただろうかと、暁からふたつ目の包みを受け取った青年は、それも封をし直して布団に放った。

 ……これは、早いうちに隠し場所を見付けなければならない。

 確か、家事全般を担当しているという電が万が一掃除しに入ってきた時に、不可抗力で見つからないような場所に隠さなければ……。

 

 焦って変な方向へ飛び始めた思考の中、ふと青年は、記憶を失う前の自分もこういった事情で困った場面があったのだろうかと思いを馳せる。

 こういうトラブルを切っ掛けにして無くした記憶を取り戻せるかも、などと考えていたが、それは甘かったようだ。

 

「ところでお兄さん、体調の方は大丈夫? もしお兄さんさえよければ、前に言ってた通り鎮守府の中や島の中を案内しようかと思ってるのだけど……」

 

 医務室から出てこの部屋を宛がわれ、もう数日が過ぎている。

 部屋で筋トレをしたり、食事時に食堂に足を運んだり、あるいは迷子にならない程度には鎮守府内を散歩していた青年だったが、一通りすべてを見て回ったわけではない。

 何より、前もって暁が案内すると言っていたので、彼女が誘いに来るのをこうして待っていたのだ。

 

「僕の方からお願いしに行くべきだったよね」

「いいのいいの。それじゃあ行きましょう? 今日は暁がお兄さんをエスコートするわ」

 

 スカートの端をつまんでお辞儀した暁は、「さあどうぞ?」とばかりに、青年に手を差し伸べた。

 普通は逆なんじゃなかろうかと苦笑いしそうになった青年だが、ならばいつか、暁をエスコートすることがあればいいなと、その手を取った。

 

 

 

 ○

 

 

 

 そうして暁に連れられて、青年は改めてこの島の鎮守府を案内されることになった。

 とはいえ、そのほとんどがもうすでに顔を出したり通りかかったりした場所だったのだが、暁の得意げな説明に先回りする事無く頷いていた。

 

 電が担当する厨房から晩御飯のおかずをくすねたり(あとすっごいで怒られた)。

 雷が担当する医務室に顔を出したら、危うく膝枕で耳かきの刑に処されそうになったり。

 響が担当するボイラー室では響の姿が見えず、どこに居るのかと探してみれば、空のドラム缶の中でうたたねしていたり。

 姉妹たちの生活がおぼろげに垣間見えるような、そうでもないような案内ではあったが、青年はどこか微笑ましい気持ちになる自分を自覚していた。

 同時に、心苦しさも。

 

 島の警邏を担当する暁をはじめ、姉妹たちは4人だけで助け合って暮らしてきた。

 一見和気あいあいとしていて、この生活が普通なのだと振る舞っているが、その裏には様々な苦難があるのだろうことを察することは難しくなかった。

 

 たとえば、厨房や食料の管理を担当している電は、在庫の減り具合を見て毎食の献立を考えていた。

 この島の環境で自給自足は不可能であり、口に入れることの出来る食料は、無事に漂着物したものに限られる。

 次に物資が流れ着くのがいつになるのかわからない以上、無計画に飲み食いすることはできないのだ。

 

 医務室の雷などは、空いた時間を常に分厚い医学書を読むことに費やしている。

 この島に漂着して1週間ほどは医務室が寝床だった青年は、雷が知識の蓄積にどれだけの時間を掛けているかを知っている。

 あるときなどは大量の書類の山に上体を突っ伏して眠っていたこともある程だ。

 

 響は地下室でボイラーをはじめとする設備類を監視するため、ほとんどの時間を地下室で過ごしている。

 電気関係は重油炊きの発電機に頼り切っていて、それも型式が10年以上も前のものなので、いつ故障を起こしてもおかしくはない。

 説明書片手にメンテナンスに挑む響ではあるが、そこは本職ではないのでどれだけ手を着けられるかは定かではない。

 

 そして、暁もそういった辛い役目というものを担っている。

 

 

 

 ○

 

 

 

 青年は、自分が漂着した浜辺に来ていた。

 鎮守府を出て、少し坂を下れば件の浜辺だ。

 白い砂浜には、巨大なコンテナの残骸や、元は船舶の一部であったのだろう木片や鋼辺、その他、嗜好品や武器弾薬といったものまでが流れ着いていた。

 そして、人間だったものも……。

 

「――お兄さん、ここで待っていて!」

 

 暁は青年にその場で待つよう言って、波打ち際に向かって駆け出した。

 青年が遠目に見る限りでは、誰か人間が倒れているように見える。

 果たしてその人物が生きているのか否か。

 暁の反応を見守る限り、否だった。

 漂着者の前でしゃがみ込んだ暁は合掌すると、背嚢の中から使い古しのシーツを取り出して、漂着者の体を包み始めた。

 

 その作業を漠然と見守っていた青年は、暁が何故、青年の時のように蘇生を行わなかったかを知る。

 遠目に見る限り、漂着者には下半身がなかった。

 サメに襲われたのだろうかと考える青年だったが、この海域であれば深海棲艦に襲われたという可能性も充分にあり得る。

 もしかしたら自分がああなっていたのかもしれないと、青年は自分の運の良さを自覚せざるを得ない。

 

 暁は慣れた手つきで漂着者を布に包んで行き、ものの数分で作業を終えてしまう。

 もう幾度もこうした処置を行っているのだろう、暁の手元に迷いはなく、迅速だった。

 

 作業を終えた暁は、気まずそうな顔で青年を呼ぶ。

 

「ごめんね、お兄さん。……だけどね、重要なことなの。この人に見覚えはない? 何か、思い出さない?」

 

 漂着者の身元の確認だ。

 もしかしたら青年の関係者であり、何かを思い出すかもしれないと考えたのだろう。

 恐る恐る、漂着者の顔を覗き込んだ青年は、しかし何も思い出すことはなかった。

 

 

 

 ○

 

 

 

 遺体は念のため雷が検死を行い、火葬の後、島の共同墓地に葬られた。

 生前に信仰していた宗教が判れば葬儀の方法も変わってくるのだが、残念ながらこの遺体からはそういった情報を得ることは出来なかった。

 それでも、遺品となるものがあっただけまだマシな方だと、暁は残念そうに笑う。

 火葬を終えた遺体の中から指輪が見つかったのだ。

 この指輪が果たして、この遺体のものだったのか、それとも他人のものだったのかはわからない。

 だがこうして、遺骨の他に残るものがあったのだ。

 

「……もし、もしもよ? 私たちがこの島から出られるようになって、それで、この人たちを家族のところに送り返すことが出来るようになれば……。その人の生きた証が少しでも残っていれば、私たちがこうして生きていることに、ちゃんと意味があるんじゃないかな、って……」

 

 そう告げる暁の顔は、どこか疲れたような笑顔をしていた。

 生きることに疲れた顔。

 来る日も来る日も、繰り返し無力さを噛みしめて、擦り切れてしまった顔。

 妹たちの前では絶対に見せない顔なのだと、青年は察する。

 

 暁だけではない。

 おそらくは、ひとりきりになると、みんながこういった顔をしているのではないだろうか。

 青年はそう考えて、背筋が寒くなる。

 暁たち姉妹の絆を疑っているわけではない。

 だが、互いが互いに、このような顔を見せたくないと、誰かと一緒にいる時は無理してでも笑顔を保とうとしていたのではないか。

 他の姉妹たちに気を使ってか、あるいは元気付けるためだったはずの笑顔のせいで、自らの弱さをさらけ出す機会を遠ざけてしまっている。

 辛さを、自分ひとりで抱え込んでいるのだ。

 

 

 

 ○

 

 

 

「暁、聞いてもいいかい?」

 

 青年がそう言葉を発したのは、島の高台に案内された時のことだった。

 高台から見渡す風景は、お世辞にも絶景とは言えないものだった。

 空はどこまでも灰色の曇天で。

 海はどこまでも鉛色の海面で。

 この島にしても、生命の息吹のようなものは薄らいでいる気さえする。

 動植物にも元気がないどころか、動物に関してはほとんど姿を見かけない。

 

 こんなところに何年も居たら、きっと気が滅入ってしまうだろうと考える青年は、ここが本来、人間が生きていける環境下ではないと、まだ知らない。

 

「……なあに? お兄さん」

 

 暁は笑顔でそう聞き返す。

 青年にはもう、この笑顔が無理をしてつくっているものだと、わかってしまう。

 

「僕が“提督”になるには、何が必要か教えてくれないか?」

 

 暁の顔から表情が消えた。

 「どうしてそれを?」と、言葉もなく問いかけられたような気がした。

 

「……雷から聞いていたの? お兄さんが“提督”の素質がある人だって……」

「そうなのかい? それなら好都合だね」

 

 好都合。そう言った青年を、暁は信じられないものを見るような目で睨む。

 

「お兄さん、提督になることがどういうことか、わかってるの!?」

「わからないね。教えてくれるかい?」

「……提督になること自体は、全然難しくないわ。こんな状況で、辞令を持ってくる人も承認する人もいないけど、お兄さんは“無許可”で提督として活動することが出来る。提督になって、活動すること自体は、可能なの」

 

 言葉を止めた暁は青年の反応を見る。

 ここまでを理解しているかの確認だったが、青年は先を促すようにひとつ頷いた。

 

「……適正さえあれば誰でも提督になれるわ。でも、それはあくまで、人事部が許可した場合の話よ。いくら緊急事態とは言っても、お兄さんが辞令無しに提督として艦娘の指揮を執るってことは、許されないの。犯罪と同じなのよ」

「そうだろうね。それは、わかるよ。でも、それは咎められた時に考えよう。この島じゃ、咎める人はいないよね?」

「でも……!」

「心配してくれてありがとう。暁は優しいんだね」

 

 文句を言ってやろうと肩をいからせ意気込んでいた暁は、青年の言葉ですっかりその意気が引っ込んでしまった。

 

「僕のことを心配してくれていたんだね。巻き込まないように、犯罪者にしないようにって、考えてくれたんだろう?」

 

 重ねてありがとうと告げる青年に、暁はむぐぐと口をつむぐ。

 考えをきれいに言い当てられたことと、礼を言われたことで、悔しいやら恥ずかしいやらで顔が赤くなってしまい、青年から目を逸らす。

 

「でもね、暁。僕はやっぱり、この島を出なきゃ駄目だと思う。みんな無理して笑って、いろんな辛いこと抱え込んでいて……」

「わ、私たちのことは、私たちで何とかするわ!」

「じゃあ、僕は? 僕もずっと、死ぬまでこの島に居ろって?」

「そうは言ってない! 言ってないけど……!」

 

 暁の反論はすぐに消沈してしまう。

 島を出ることに異論はない。

 しかし、そのために青年を提督にするのは、駄目なのだ。

 青年に提督をさせて、もしも無事に人間の活動圏に脱出できたとしても、青年は法で裁かれることになってしまうのだから……。

 

 かと言って、このままこの島で無為に時間を過ごすことにも、暁は賛成ではない。

 雷が医学書を読みふけっているとはいえ、その知識や技術は本職の医師には程遠いし、島の設備も万全とは言い難い。

 青年が何らかの事故や疾病に掛かった時、対応できない可能性の方が遥かに高いのだ。

 

 ジレンマに頭を抱える暁に、青年は語りかける。

 

「僕がこの島に流れ着いたのには、何か意味があるんじゃないかって、ずっと考えていたんだ。月並みな考えなんだろうけれど……。きっと、みんなをこの島から連れ出すことが、僕がここに流れ着いた意味なんじゃないかな、って……」

「……私たちにだって、この島を出てやりたいことはある。やらなきゃいけないことがある。けれど、でも……!」

「僕を巻き込むわけにはいかない? 暁たちの背負っているものを、僕に背負わせるわけには、いかない?」

 

 言葉を先回りされて、真っ赤になって睨んでくる暁に、青年は安堵する。

 まだこんな顔も出来るのだと。

 

「ちょっとだけでも、僕に背負わせてよ。今の僕には記憶がない。背景がないし、抱えていたはずの問題や課題も忘れてしまっているから、今なら暁たちの荷を、ちょっとは背負えるんだ」

「お兄さんの記憶を取り戻すことはどうなったの? 諦めちゃったの?」

「諦めてはいないさ。ただ、それよりも暁たちの助けになるべきだなって、そう思っただけだよ」

 

 そして、少しでも暁たちの荷を軽くすることが出来たのなら、姉妹たちが再び作り笑顔でなく笑いあえる時が来るかもしれないから……。

 

 

 

「青い海を見せたい人がいる」

 

 青年が言うと、暁の肩がびくりと震えた。

 医務室で寝起きしていた時に雷から聞いていた話だ。

 それが、この島の、この鎮守府の今は亡き提督のことだと、青年は察していた。

 

 ――散歩の途中で迷い込んだ部屋。

 元は提督の執務室であった場所に迷い込んだとき、机の上に伏せられていた写真を、青年は目にしている。

 今よりも若い、というよりは幼い姿の暁たちと。

 暁たちに囲まれて、真ん中で笑みを浮かべている提督の姿。

 もう還暦を迎えているであろう老体で、背も青年よりは頭ひとつ低かったが、背筋がしゃんとしていて、何より優しそうな笑顔を浮かべている人だった。

 

 きっといい人だったのだ。

 きっと優しい人だったのだ。

 今の暁たちを見ていると、そう確信が持てる。

 

 

「……司令官のね、遺言なの」

 

 暁は高台から、遠くの海を眺める。

 水平線の向こうまで鉛色の海の、その向こうを見るように。

 

「“僕が死んだら、遺灰の半分をこの島に埋めてくれ。そしてもう半分を、故郷の海に撒いてくれ”って……」

 

 その言葉に、青年は先ほどの暁の言葉を思い出す。

 だとすれば、暁たちは、今は亡き提督の遺言を糧に、今日まで生きて来たというのだろうか。

 

「私たちは、人でもあるけど、艦でもあるから……。命令がないと戦えないし、行動の自由だってない。10年前の待機命令は今でも有効だけど……。でも、司令官の遺言も、ずっとずっと、有効なの。私たちが、生きている限り……!」

 

 強さを湛えた瞳で、暁は海を睨む。

 片方だけではあるが、その瞳には一点の曇りもない。

 

「暁は、偉いね」

 

 青年が何気なくそう言うと、暁はびっくりして言葉を失ってしまった。

 見開かれた暁の目が、青年を通じて誰かを見ている。

 提督なのだろう。

 そう確信する青年は、暁の目がじわりと涙を溜めるのを見とめた。

 

「……昔はね。子ども扱いされるのが嫌で、強がってばかりだったの……。子供扱いしないでって、頭を撫でないでって……」

 

 声に力がない。

 もう泣き出してしまう寸前で、それを堪えるために、全身の力を使って感情を押し留めているのだ。

 

「もっと、頭を撫でて貰えば良かったなんて……! 今さら……!」

 

 

 その日、暁は10年ぶりに人前で涙を流した。

 青年は何も言わず、子供の様に泣きじゃくる暁を見守っていた。

 頭を撫でてやれればとも考えたが、青年はそうはしなかった。

 それは暁の“司令官”だけのものだからだ。

 彼女の“司令官”ではない、まして提督でもない青年に、暁を慰めてやることはできない。

 

 

「海を見に行こう、暁。青い海を……」

 

 だから、青年は海へ誘う。

 もちろん、暁だけに向けた言葉ではない。

 

 鎮守府で待っている暁の妹たち。

 彼女たちにも問わなければならない。

 青年が提督として、彼女たちと共に戦っても良いかどうかを。

 

 

「お兄さんは、耐えられる? 自分の采配で、私たちが命を落とすかもしれないってことを……。人の形をした兵器に指示与えることを……。もし沈めてしまった時、それでも先へ進める?」

 

 涙を拭いた暁からの問い。

 それは、提督として振る舞う上で最も重要な心構えだ。

 

「誰も沈めたりしない。みんなで青い海を見に行くんだ」

 

 青年の言葉は綺麗事にも、無責任な物言いにも聞こえるだろう。

 根拠のない自信を、虚勢を張っているように見えたかもしれない。

 それでも、暁は青年を信じることにした。

 

 孤島に流れ着いた青年は提督になる資質を持った人物で、暁たちの現状を憂いて島を出ようと言ってくれた。

 運命にしては都合が良すぎるし、それに浜辺で拾った“あるもの”も気掛かりではある。

 だが、今を逃せば、もう外海にでるチャンスは二度と巡って来ないかもしれない。

 亡き提督の遺言を果たすには、もうこの青年に賭けるしかない。

 

 青年の善意に甘えよう。

 その好意に甘えよう。

 子供扱いを良しとせずにいた暁にとって、甘やかされることは多々あっても、自分から甘えるようなことは一度もなかった。

 なので、正しく甘えることが出来るかわからない。

 不安だが、よくよく人を甘やかしたがる雷に助けて貰おうと、漠然と考えていた。

 

 そして、もしも青年が罪人として裁かれる時が来るのなら、暁はその共犯者として名乗りを上げるつもりだ。

 青年を連れて追ってくる勢力から逃げ出すのもいいだろう。

 艦娘と提督は一蓮托生、……とまで言うつもりは、暁にはない。

 だが、巻き込んだ以上、せめてそれくらいはしないと気が済まなかった。

 

 この青年が自分たちの提督となるのならば、何があっても守りきる。

 提督に先立たれるなんて、二度と御免なのだ。

 もう二度と、別たれることなどあってたまるか。

 暁は決意を固めた。

 

 

 



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6話:青年と暁が鎮守府に戻ってきました、これより晩ご飯の時間です

 

 

 鎮守府に戻る頃には辺りはすっかり暗くなっていた。

 お腹を空かせた暁と青年が食堂の暖簾をくぐると、待っていた響たちがびくりと体を強張らせてまばらな挨拶をする。

 おかしな態度に、眉根を寄せるのは暁。

 青年の方は、3人の態度の理由を何となく察していた。

 高台でのやり取りを、こっそり後を付けて来た3人が聞いてしまったのだろう。

 青年が提督になろうとしていることと、暁の願いを……。

 

 ここで響たちにも打ち明けてしまおうかと考える青年だったが、せっかくの食事時を重苦しい空気にしてしまうのは忍びなかった。

 もう少し相応しい時間と場所を選んで告げようかと考えていたところで、隣りにいた暁が一歩前へ出た。

 

「みんな、ちょっと聞いて欲しいの」

 

 まさか。

 青年がそう思った通り、暁は高台でのことを包み隠さずにすべて話してしまったのだ。

 青年に止める隙を与えない程、力強く、淀みない口調で。

 すべてを聞き終えた響たちは、「どう言ったものか……」と、話しづらそうな顔を互いに見合わせていた。

 いずれは青年も暁も高台での話を打ち明けるであろうことは、響たちもわかっていた。

 しかし、まさかこんなに早くにとは思ってもみなかったのだろう。

 己の意見や主張は持っているのだろうが、まだそれをまとめきれていないのだ。

 

 欲しかった反応が返らず一層怪訝な顔になる暁は、今度は青年の方をじっと見た。

 青年からも何か一言ないのか、ということなのだろう。

 しかし、ほとんどすべてを暁が話してしまったので、もう言うべきことが残っていない。

 

 いや、まだあった。

 青年は「いいかな?」と一言発し、響たちの注目を集めてから、ゆっくりと語り始める。

 

「大よそは今、暁の言った通りだよ。僕は提督になって、みんなをこの島から脱出させたい。暁は快く快諾してくれたけれど、まだみんなの意志を聞いていない。聞かせてほしいんだ。みんなの意志を」

 

 3人の反応を待つ青年は、電がおずおずと手を挙げるのを見た。

 

「あの……。まずは、食事にしませんか? 冷めてしまうので……」

 

 料理担当の電に言われてしまっては逆らえない。

 青年と暁は神妙な顔で手を洗いに行った。

 

 

 

 ○

 

 

 

「お兄さんが提督になるの、私は反対じゃないよ?」

 

 もぐもぐと口を動かしながら言うのは響だ。

 行儀が悪いと雷に叱られ、しばらく黙々と咀嚼を続けながらも目だけで何かを訴えかけようと、半眼気味の視線が姉妹たちや青年の方を何度も行き来する。

 そして、ごくんと喉を鳴らして、

 

「――つまり、そういうことだよ」

「どういうことか、まったくわからないのです……」

 

 響本人はかっこよく決めたつもりなのだろうが、電が突っ込んだ通り、何ひとつわからない。

 ひとつだけわかるのは、響は青年が提督になることに反対していないということだ。

 理由を聞いても? と青年が問えば、響は口に入れようとしていた揚げ物を名残惜しそうに皿に戻した。

 

「脱出しないと後がないってことが、わかりきっているからだよ。詳しいことを言うと……」

 

 響は一度言葉を止め、暁の方を見る。

 おかずを口いっぱいに頬張っていた暁は、突然響に見つめられて動きを止める。

 何を言われるのだろうと不安になっている暁だったが、響は特に何も言わず、青年の方へ視線を戻した。

 

「詳しいところを話すと、私たちが艦娘として戦える限界が近いんだ。艤装面でね」

 

 響が言うには、艦娘の装備する艤装は定期的にメンテナンスが必要なものだ。

 オーバーホールなど行う際には、大規模な工廠施設に一定期間預けなければならない。

 

「でも、この島にはそういった大掛かりな設備はない。艤装を分解して部品を交換したり掃除したりは出来るようになったけれど、それでもブラックボックスの取り扱いは、艦娘には無理なんだ」

 

 艤装のブラックボックス。

 それは、艦娘にとっての科学的な面と対を成す、呪術的な側面だ。

 いわゆる“ありし日の艦船の魂”が封じられている部品であり、それをどうにか弄ることは専門の技師でないと不可能なのだ。

 艤装の科学面に触れることは出来ても、呪術面には触れられない。

 それは言うなれば、

 

「言うなれば、自分の頭を切り開いて、脳みそを自分で手術するようなものだからね」

「それは……、あたしでも無理かなあ」

「……食事中にする例えではないのです」

「ごめん電。じゃあ……、自分の心臓、いや魂を、……いやいや、しりこだま素手で引きずり出すような……」

「わざと言ってるのなら、当分冷凍ピロシキは食卓に並べないのです」

 

 電の強い物言いにショックを受けた響は、箸で摘まんでいたピロシキをぽとりと皿の上に落としてしまう。

 

 響の話を捕捉するならば、暁たちの艤装は10年以上前の規格のものであり、それを直し直し使っているということも問題だ。

 暁たちがこの島で10年の時を過ごすあいだにも、外界の情勢は確実に変化している。

 艦娘も、深海棲艦も、より進化した力を手にしていると見て間違いないだろう。

 時代遅れで不備もあり、オーバーホールも出来ていない艤装。

 もしかしたら、敵と交戦中に不調を起こして、取り返しのつかない事態になる可能性も高い。

 

 時間はどんどん先へと進んで行く。

 動けず立ち止まっていたまま、自分たちの装備がどんどん時代遅れになっていくのを、響は憂いていたのだろうと青年は察する。

 青年がこの島に漂着して、提督として活動できる素質があるとわかった。

 今このタイミングで動かなければ、もう二度とこの島から出る事も、戦うことすら出来なくなってしまうのだと、装備系を担当していた響は誰よりもわかっているのだ。

 

「けれどね、お兄さん。お兄さんが提督になることに反対はしないけれど、積極的に賛成することもしないって、覚えておいて……」

 

 それは、暁が言ったような軍規面でのことだろうか。

 青年は聞くが、響はそれ以降、揚げ物に夢中になって応えることはなかった。

 

 

「……私も、反対はしないけれど、大手を振って賛成はしかねるわね」

 

 響の意見に同調したのは雷だ。

 医務室生活もあって、この島では青年と一番長い付き合いだが、そんな青年が見たこともないような難しい顔を、雷はしていた。

 

 

 

 ○

 

 

 

「お兄さんに提督の素質があるっていうのは、もう暁から聞いているわね? じゃあ、その素質っていうのがどんなものなのか、私も古い資料を引っ張り出して、改めて調べてみたの……」

 

 雷が指摘するのは、青年が持つ提督の素質についてだ。

 

「……提督の選出は人事部の管轄だから資料が少なかったけれど、医療面の資料で気になる部分を見つけたわ」

 

 雷の他、みんなの箸がぴたりと止まる。

 医療面で気になる部分と言われて、何か悪い部分が見つかったのではと考えたのだ。

 

「提督の素質。その第一条件が、深海棲艦の支配海域にて健全な精神と思考能力を保ち、作戦指揮を行うことが出来る、というものね。ここまでは、大丈夫?」

 

 青年から頷きが返り、雷は話を続ける。

 

「それでね、この健全な精神を保持するって部分、結構ムラがあるみたいなの」

「ムラ、というのは?」

「素質さえあれば、この海域でも活動出来るけれど、活動し続けることが出来るかどうかは、別ってこと。ムラっていうのは、時間、期間のことね。つまり、どれだけ長期間、この海域で活動できるかってことなの」

「……じゃあ、僕は明日にでも、気がふれてしまうかもしれないってことかい……?」

 

 青年の不安を押し殺した声に、響や電が表情を強張らせて雷を見る。

 しかし、そんな視線を向けられた雷は思いつめた様子もなく、さらりと「大丈夫」と告げる。

 

「現時点では、お兄さんにそういった危険な兆候っていうのは出ていないわ。精神疾患に陥る前にはそれなりの兆候というものが必ず表れるものだから、私が見ている限り見逃すことはないわ。安心して?」

 

 ほうっと、食卓に安堵の空気が降りる。

 青年にとっては自らの精神の問題だが、暁たちにとっては鎮守府で働いていた人たちのことでもある。

 過去に起こった出来事については概略をかいつまんで聞いていた青年だったが、この鎮守府で働いていた人たちがその後どうなったかを聞くことは、なんとなく憚られたのだ。

 もしかしたら、彼女たちのトラウマになっているかもしれないからと、聞くのを避けていた部分が大きい。

 

 鎮守府の裏につくられた共同墓地。

 そこに立てられた墓石の数を数えることはしなかったが、そのうちどれくらいを漂着者が占め、どれくらいをこの鎮守府の人間が占めていたのかは、あえて聞かなかった。

 その中に艦娘のものと思わしき墓もあったので尚更だ。

 だが、提督となればいずれ向き合わなければならないことだと、青年は覚悟だけは決めておく。

 

「お兄さんはたぶん、提督の素質を検査するテストなんかを受ければ、特Aクラスの結果が出ると思うわ。いくらなんでも症状が安定しすぎているもの。……ただ、それだけに、ひとつ気を付けてもらわなきゃいけないことがあるの。いいえ……」

 

 “諦めて貰わないといけないこと”かしら、と雷は目を伏せて言う。

 これこそが本題だったと言わんばかりの気の落ち様だ。

 

「お兄さんの今の安定した状態って、記憶喪失の影響が大きいかもしれないの。もしかしたら、お兄さんが記憶を取り戻したら、バランスが崩れてしまって、精神が不安定な状態になってしまうかもしれない」

「それじゃあ、安全な海域に出るまで、当分記憶を取り戻すための試みは延期した方がいいってことだね」

「そうなるわ。ごめんね」

 

 済まなそうな顔でため息を吐く雷。

 

 ふいに、食卓に箸の転がる音が立った。

 みんなが音のした方を見れば、箸を落とした暁が呆然とした表情で固まっていた。

 幽霊でも見たかのような反応に周囲を見回す青年だったが、広い食堂の中には青年と暁たち5人しかいない。

 

「あの、暁ちゃん、どうしたのですか……?」

「へえ? え、ああ、なんでもない! なんでもないのよ!」

 

 電に心配されて、あははと不自然な作り笑いをする暁。

 いそいそと落とした箸を拾ったりする中、暁は右手でスカートのポケットを押さえていた。

 位置的には電だけがその様子を見ていたが、たいして気にも留めなかった。

 

 

「まあ、お兄さんのこともそうだけれど、私たちもそろそろ限界っていうのは、そうね。響の言うとおり。艤装の問題もそうだけれど、艦娘の肉体面でも、もう限界が近いの……」

 

 雷が言うには、艦娘の体は定期的に艤装を装着して同期しないと“人間として成長する”ものなのだそうだ。

 その成長速度は普通の人間よりも緩やかではあるものの、ご覧の通りに確実なものだ。

 今でこそ10代後半の年齢の少女の姿をしている暁たちだが、10年前は小学生かそこらの年齢に見られてもおかしくはない外見をしていた。

 10年で6、7歳程の成長を遂げたのだ。

 人間であれば問題視するものでもないが、艦娘としてはある弊害を招く。

 

「艤装がね、体に合わなくなってきているんだ」

 

 雷の言葉を引き継いだのは響だ。

 暁がこっそりとピーマンを皿に移してくるのを横目で見ながら、響は青年に1枚の写真を手渡す。

 写真を手に取った青年は、思わず味噌汁を噴き出しそうになる。

 そこに写っていたのは、シャンプーハットを装着して頭を洗う暁が、写真を撮られていると気付いて慌てて振り向こうとした瞬間を収めたものだった。

 

「あ、違った。こっちこっち。……別にそっちでもいいけれど」

 

 ピーマンを寄こされた意趣返しだろうか。

 今度こそはと手に取る写真は、青年も目にしたことのあるものだった。

 提督の執務室に伏せられていたものと同じ写真だ。

 写真の中の暁たちは件の艤装を装着しているのだが、これが当時の彼女たちの体にフィットする形だとすると、今の彼女たちにはだいぶ小さくなるのではと青年は考える。

 いわば、高校生がランドセルを背負うようなものだろうか。

 

「艤装のリサイズは、ブラックボックスにも関わることだから手を出せなくてね。今のところこっちで考案しているのは、補助艤装を増設してなんとか誤魔化そうってところなんだけど……」

 

 言葉と共に響きが雷を見る。

 その先は、雷の領分だと言わんばかりに。

 

「元々の艤装に加えて、その補助艤装が私たちの体にどんな負荷を掛けるのか、まだデータが足りないのよね。それに、私たちの体は、“人間としての”メンテナンスは毎日やっているけれど、“艦娘としての”メンテナンスは、もうずっと出来ていないの」

 

 艦娘としての体のメンテナンス。

 それは、定期的に艤装を装着して海上に出て、演習なり実戦なりを行うことだと雷は語る。

 定期的に艤装を装着して海上に出る艦娘は、人間のように成長することはない。

 艤装のブラックボックスに搭載されている“艦の魂”が、装着者である艦娘を“最適なサイズ”もしくは“最適な体調・体型”に保とうと働くそうなのだ。

 

 深海棲艦の支配海域で海上に出るということは、みすみす死ににいくようなものだ。

 ちょっとだけ、見回りや練習のつもりで海上に降り立ったが最後、という可能性も捨てきれないのだ。

 よって、暁たちはもう10年も艤装を装備して海上へ出ていないのだ。

 そもそも、通信回線が破壊される前に発令された待機命令のせいで、艤装の装着が出来なかったというのが大きい。

 

「……艤装を装着して出撃することは出来なくても、艤装のメンテナンスは待機中の行動に含まれていたのが幸いだったね。そうでなければ、今頃使える艤装がなかったはずだよ。希望が完全に絶たれていた」

 

 さて、ところで、今の暁たちが艤装を装着するとどうなるのか。

 それは、艦娘としての本領を発揮することになるので、四肢の欠損や内臓の損傷といった、人間で言えば致命傷になりかねない負傷をも、入渠ドックにて再生・回復することが出来るのだという。

 まあ、その副作用というか、元々の仕様に戻るだけだというか、人間としての成長が再び止まることにもなるというのが雷の見解だ。

 

「……ということは、雷」

「……ええ、そうね。響」

「な、なんでこっちを見るのよ! ふたりとも!」

 

 響と雷の視線が向かうのは暁だ。

 正確には、暁の胸に……。

 

「な、なによ! 背はみんなより高いんだから、別にいいじゃない!」

「その代わりおっぱいは最下位だけどね」

「生理が来たのも私たちの中で一番遅かったじゃない」

「……電、嬉しくって、お赤飯炊いた覚えがあるのです」

 

 いきなり話の舵が暁の発育の方に切られ、青年は努めて何も考えないようにと味噌汁をすする。

 そのうち、青年が気まずそうな顔をしているのに気付いた電が、明日以降のおかずを一品減らす宣言で脅しをかけ、話を無理やり元の方向に修正した。

 終始真っ赤な顔で青年の方をちらちらと見ていた暁には、同情を禁じ得ない。

 

 

「……そうすると、また艤装と同期する作業が必要になるのか……。ちょっと、気が重いね」

 

 艤装と同期するという言葉が響の口から出た瞬間、食卓の灯りが一段階暗くなったように、青年は思えた。

 響には「その時になったら話すよ」と言われ、それ以上の言及を封じられてしまう。

 

 

「そういうことで、私も、雷も、お兄さんが提督になることについては反対しないってことは、わかってもらえたかな」

「話がちょっと、というか、だいぶ脱線しちゃったけれどね。でも、お互いにどういうリスクがあるのかは知っておいた方がいいでしょう? お兄さんが提督になるにあたって、改めて説明はするけれどね?」

 

 暁、響、雷と、青年が提督になることに対しての意見を述べていき、あとは電を残すのみだ。

 他の4人からじぃっと無言の視線を向けられた電は、「はわわわ!」と慌てて茶碗だの箸だのを落っことしそうになるので、みんなで落ち着くまで宥めることになった。

 

 

「えっと、私は、その……。反対なのです……!」

 

 

 

 ○

 

 

 

 電は何度も口ごもりながらも、強い口調で「反対だ」と告げた。

 暁たちのように、なんだかんだと言いながらも反対はしない、という意見が返ってくると思っていた一同は「うん」と頷いた後に「ううん?」と唸って電を二度見した。

 

「電、理由を聞いてもいいかい?」

「はい。……私は、よく秘書官として、司令官のお手伝いをしていたのですが……。その、司令官の辛そうな顔、たくさん見てきたのです。だから……」

 

 だから、青年にそういった辛い思いをさせたくないと、そう言いたいのだろう。

 青年が提督として指揮を執るということは、艦娘の負傷や損失などの責任をすべて背負うということだ。

 電は、自分たちが負傷したり失われたりすれば、この青年が心を痛めるのではないかと危惧している。

 青年がこの島に漂着してから半月あまり。

 彼との生活を経て、そして雷たちから聞く話をもとに、電は青年がそういう人物だと判断したのだろう。

 

 この島から脱出しなければ、ゆるやかに終わりを迎えるだけだ。

 それがわからない電ではない。

 それでも、賛成とも、反対しないとも言えなかったのだ。

 

 そんな電の考えを、暁たちはもちろん、青年も察していた。

 半月のあいだ、青年も電という“人間”を見ているのだ。

 青年を困らせてしまって申し訳ないといった表情でうつむく電に、暁たちは微笑ましいといった顔で頭を撫でていく。

 青年も便乗して頭を撫でたところ、電は真っ赤になって縮こまってしまった。

 

 

「電の気持ちは嬉しいよ。さて、それじゃあ、どうしたら納得してくれるかな? 僕が提督になるのを」

「えっと、電の賛成がなくても、もう暁ちゃんたちが反対しないって……」

「いいや。ひとりでも反対の者がいるなら、僕は提督になるわけにはいかないよ」

「そんな……。でも、それじゃあ……」

「……って言うと、そんな風に電を困らせてしまうよね? どうしたらいいかな?」

 

 わかっていて「どうしたら良いか」と本人に聞くなど、無茶ぶり以外の何物でもない。

 それでも、真面目な電は箸を止めて懸命に妥協案を探そうとしている。

 

 

「あの、それじゃあ……。ふたつ、約束してください」

 

 電からの要求はふたつだ。

 

「ひとつは、なるべくなら、これからもみんなで、こうしてご飯が食べられるといいなって……。もうひとつは、もし誰かが沈んでも、悲しまないでほしいなって……」

 

 難しい要求だなと、青年は唸る。

 どちらの要求も、互いを失わせず、悲しまず、そしてそれを継続していくことだ。

 現状を打破するために動こうとしている以上、大小の変化は必ず起こる。

 その中で、変わらない今を守りながら進むのが難しいということは、記憶を失くした青年でもはっきりとわかる。

 

 しかし、青年はその要求を呑む。

 

「約束するよ、電。ご飯はみんな一緒に。そして、悲しまないために、誰もいなくならないようにする……」

 

 悲しまないようにするために、誰もいなくならないようにする。

 青年は、「おそらく……」と、あってほしくない未来のことについて考える。

 この中の誰かが居なくなったら、自分に「悲しまない」なんて真似が、出来ようはずがない。

 だから、誰も失わないために、自分にできる全力を尽くすしかない。

 

 今現在、青年が提督になった場合に求められていることは、ふたつ。

 深海棲艦の支配領域で活動出来ることと。

 そのうえで艦娘に命令を与えることだ。

 このふたつだけ。

 素質があれば誰でも可能なことだ。

 このふたつに、さらに誰も失わせないことを追加する。

 それさえ守れれば、電のふたつの要求を守ることが出来るからと……。

 

 

 

 ○

 

 

 

「一応これで、みんなの同意は得られたのかな?」

 

 食後のお茶をすすりながら青年が問えば、暁たちからはそれぞれ頷きが返る。

 暁などはすでにやる気になっているようで、テーブルに着きながらもそわそわと落ち着きがない。

 

「じゃあ、いよいよ明日から、お兄さんが司令官になるのね!」

「無許可、だけどね。それに、大真面目に提督業務を行うというよりは、この島を脱出する算段を立てるために、暁たちを身動きできるようにする、という感じかな?」

「うん。それであっているよ、お兄さん。……しかし、こうして司令官になってくれることになったけれど、私たちがお兄さんを利用しようとしている、とは考えなかったのかい?」

 

 響の何気ない発言に、ぴしりと食卓の空気が凍った。

 青年を、自分たちが身動きするために利用する。

 暁たちもそういう考えに至らなかったわけではないが、努めて意識しないように、口にしないようにしてきたことだ。

 雷などは、青年が漂着した時、真っ先にその可能性について考えている。

 

 だが、暁たちに“人を利用する”などという真似は出来ない。

 考え付きはしても、それを実行するには様々な制約があり、実質は不可能なのだ。

 だから、青年に提督になってくれとは頼めなかった。

 

 それでも、遠まわしに誘導することは出来たのではないか。

 たとえば、この島を見て回り、自分たちが置かれている状況を説明し、やるべきことがあると亡き人の思いを語り……。

 決して、青年に提督になることを強要するつもりはなかった。

 しかし、密かに、……いや、絶大な期待を抱いていたことも、嘘ではないのだ。

 その可能性に気付いた時、果たして青年は暁たちのことをどういう目で見るのか。

 

 この時、この中で一番焦りと恐れを抱いたのは、雷だった。

 青年に、提督になることを無理強いするつもりはなかったが、それでも、「もしかしたら」と期待はしていた。

 青年が自分たちの現状に心を痛めて、この島から出ようと言い出してくれることを、密かに願っていた。

 

 しかし、こうして期待通りになってみれば、襲ってくるのは後悔だ。

 亡き提督の遺言を果たしたいがためとはいえ、自分はなんということを考えていたのかと、雷は泣きたくなってくる。

 思い返せば意識の有無に関わらず、青年を提督に仕立て上げるよう、言葉を誘導していた気さえしてくる。

 事実、そうだったではないか。

 

 今さら青年が翻意するとは思えないが、これから自分たちを見る目が変わってしまうのではないか。

 そう考えると、青年が漂着してからの半月が、永遠に失われる気さえしてきて、不安で視界が歪みだすのだ。

 その半月は、楽しかったのだ。

 10年振りに、誰もいないところで、ひとりで笑うことが出来たのだ。

 

 

「僕を利用するって? うん。それは、そうなっても仕方ないんじゃないかな?」

 

 青年はたいして気にする風もなく、そう告げる。

 雷は、自分の肩がびくりと震えたのを悟られなかっただろうかと、両手で肩をさする。

 

「ずいぶんと楽観的だね、お兄さん」

「悲観的になってもしょうがないからね。記憶を失くして不安な部分はあるけど……。どちらにしろ、ここからは出なければならないし、それは僕ひとりでなんとか出来ることじゃないからね。だから、僕に提督の素質があって、本当に良かったと思っているよ」

 

 俯き、テーブルの湯飲みを見ながら青年の話を聞いていた雷は、恐る恐る顔を上げる。

 

「だって、これでみんなを助けることが出来る」

 

 そこには、はるか昔に居なくなった人が浮かべていた笑顔があって、雷はとうとう、泣き出してしまった。

 

 暁や電が心配そうに声を掛ける中、ただ「何でもない」と返して。

 したり顔する響に後で覚えていろと、怒り出しそうなのを抑えて。

 この笑顔を自分も取り戻そうと、雷は決意を新たにする。

 

 だから、雷は気が付かなかった。

 正確には、気に留めていたことを意識の外に追いやってしまっていた。

 食事時、青年が右手に箸を持ち、左手に茶碗を持っていたことを。

 右腕の時計跡から青年が左利きだと推測していた雷だったが、もうそんなことはどうでも良いとばかりに、今は泣くことにしか意識が回らなかったのだ。

 

 

 



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波間②

 

 

 

 外が薄明るくなる頃、青年は布団に横たえていた身を起こした。

 昨夜はほとんど眠ることが出来ず、寝返りを繰り返すばかりだった。

 暁たちの提督になると決意して、彼女たちから同意を取り付けて……。

 しかしそうなると、いよいよ緊張や不安が押し寄せてくるのだ。

 自分に出来るか。

 自分に背負えるのか。

 

 枕元には、電が持って来てくれた新しい服が置いてある。

 白い夏用の軍服と、手袋、そして軍帽。

 提督の制服。階級などに関わらず支給される、最低限のものだ。

 青年は無許可で提督として活動するので、襟章や袖章、軍刀などの品を身に帯びることはない。

 この軍服も、この島の前提督の予備品として保管されていたものを、電が青年の体に合うように縫い直したものだ。

 

 自分はこの軍服に見合う行いが出来るだろうか。

 ……海軍の許可なしに提督になろうとしているのだ、見合うも何もあったものではない。

 青年が考えているのは、自分がちゃんと暁たちの提督になれるのかという不安だった。

 

 幾度も自問しながらも、青年はついに、鮮やかな白に袖を通すことが出来なかった。

 踏ん切りがつかないわけではない。

 もう彼女たちと一緒に島を出ると決めたのだ。

 行動すると決めたのだが、それでも最初の一歩をどうしても躊躇ってしまう。

 

 青年は軍服を枕元に畳んで置き、ちゃぶ台の前で胡坐をかく。

 水を飲んで少し落ち着こう。

 それと、深呼吸を。

 いや、それとも、運動がてら早朝の島を散歩しに出かけようか。

 落ち着かない心が体を動かすよう急かす中、青年はふと、薄暗い部屋の中に人の気配を感じた。

 

 

 

 ○

 

 

 

 ことり、音を立てて、湯飲みがちゃぶ台に置かれる。

 湯飲みの中は白い湯気を立てる煎茶。青年が煎れたものではない。

 

「さあ、どうぞ。お飲みになって」

 

 ちゃぶ台を挟んだ反対側に居る人物が、青年にお茶を入れて差し出したものだ。

 

「ああ、これはどうも。いただきます」

 

 青年は恐縮そうに会釈して、湯飲みを手に取った。

 この部屋には青年しかいないはずなのだが、こうして青年でもない、暁たちでもない人物がいる。

 もちろん、この島には青年と暁たち4姉妹以外に人間はいないはずなので、6人目がいることなどあり得ないのだ。

 そんな異常事態にも関わらず、青年はまったく気にする様子もなかった。

 至極普通の、当たり前のことだとでもいうように、ちゃぶ台の向こう側の人物と世間話を始めたのだ。

 

 

「……何か、お悩みのようですね?」

 

 そう問われて、青年は湯飲みの中へと視線を落とした。

 

「……こうして部屋でひとりで考えていて、彼女たちがあんな風に擦り切れた笑顔を浮かべるようになったわけが、なんとなくわかる気がしたんです。辛い顔を、苦しそうな顔を見せないように。心配かけないようにって、一度無理を始めると、それをどんどん積み重ねていって……。もう素の顔を出せなくなる、被った皮をはがせなくなってしまうんだなって……」

「みんな、優しい子ですからねえ……。それで、余計に頑張ろうって考えてしまうのでしょうねえ。なるべく辛い顔を見せないように、と考えると、一緒にいる時間がどんどん減ってしまって、ひとりでいる時間の方が多くなってしまったのでしょうねえ……」

 

 そうして、ひとりで延々と思い悩む悪循環を繰り返し、擦り切れてしまったのだろう。

 青年が眠れなかったのは、自分もその入り口に立っていると気付いたからだ。

 

 これからはもう客人という立場ではない。

 暁たちと一緒にこの島を脱出するために行動するのだ。

 彼女たちの提督として、彼女たちに戦う指示を出さなくてはならない。

 それを、本当に自分が出来るのか。

 彼女たちの“提督”になれるのか。

 

 

「貴方なら、なれますよ。きっと」

 

 向かい側の人物が優しくそう告げる声に、青年は顔を上げる。

 

「貴方は言ったでしょう? 彼女たちの重荷を、ちょっとでも一緒に背負うと。それが、提督としての第一歩だったんじゃないかと、ボクは思うのですがね?」

「僕は……、もうその一歩を踏み出していると?」

 

 ええ、と。向かい側の人物は頷く。

 

「貴方が提督になったのは、彼女たちを助けたかったからだ。人が提督になる理由は様々です。故郷や愛する人を守るため、敵への復讐を果たすため、富や地位、名声を得たいがため……。しかし、貴方の理由は、そうじゃなかった。貴方の理由は、あの子たちだ」

 

 この島に漂着して、それまでの記憶を失っていて。

 確かに、自分が何者であるかという不安がなかったわけではない。

 しかし、それ以上に、暁たちのことが、心配だった。

 見ていられなかったのだ。

 

「貴方は、あの子たちのために提督になろうとした。ならば、あの子たちの提督は、貴方にしかなれない」

 

 青年はその言葉に、自分が勇気づけられるのを感じた。

 本来ならば暁たちに話すことなど出来ず、ひとりで延々と思い悩むしかなかった悩みだ。

 それが、こうして理解者となって背中を押してくれる人物がいた。

 自らも悪循環の一端となっていたかもしれない悩みを、こうして緩和することが出来たのだ。

 

「ありがとうございます。気分が楽になりました」

「それは良かった。これから、厳しい戦いになると思いますが、くれぐれも気を付けて……」

 

 そして、向かい側の人物はこう告げる。

 

「あの子たちのことを、どうかよろしくお願いしますね……」

 

 

 

 ○

 

 

 

 自室の戸を叩く控えめなノックの音で、青年は目を覚ました。

 ノックに次いで、電の心配そうな呼びかけがあり、青年は慌てて起きていると返事する。

 そうして身を起こして伸びをすると、どういうわけか、ちゃぶ台に突っ伏して眠っていたらしいことに気付く。

 ちゃぶ台の上には湯飲みがあり、中身のお茶の残りはすっかり冷めてしまっている。

 自分で煎れたものだろうかと、青年は訝しげに頭をかいた。

 

 昨晩はずっと眠れず、明け方まで意識がはっきりと覚醒していたはずなのだ。

 それがどういうわけか、気が付くとちゃぶ台に突っ伏して、お茶まで自分で煎れている。

 もしかしたら夢遊病の気があるのかもしれないなと、青年はあとで雷に相談しようと心に決める。

 

 着替えをと、布団の枕元に置いてある軍服を手に取る。

 昨晩は、これに袖を通す資格が自分にあるのかどうかと、ずっと悩んでいた気がする。

 しかし今は、悩みこそ無くなりはしなかったものの、もっと前向きな気分だった。

 

 誰かに背中を押してもらったかのような安心感と共に、青年は白い軍服に袖を通した。

 

 

 



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7話:

 

 

 

 部屋の前で待っていた電はいつものエプロン姿ではなく、彼女たち第六駆逐隊に支給された制服姿だった。

 と言っても、10年前当時の制服を彼女たちが着られるわけもなく、電が今の体型に合わせて縫い直したものだ。

 普段は暁しか被っていない帽子まで小脇に抱えている。

 彼女たちの正装の姿だ。

 

「おはようございます。ええと、司令……」

「電、ストップ」

 

 開口一番、電が“司令官”と呼びそうになるのを、青年は彼女の唇に指を当てて止める。

 まだそう呼んでもらうのには気が早い。

 せっかくだから、みんながいるところで正式に「このたび提督になりました」と宣言する方がいいと思ったのだ。

 

 唇に指を当てられ恥ずかしそうに身を竦めていた電は、青年の軍服姿を上から眺めていき、眩しそうに目を細める。

 この鎮守府に再び提督が着任することになり、彼女も感慨深いのだろう。

 

「お兄さん、良く似合っているのです」

「電もね。普段のエプロン姿もいいと思うけれど」

「むう。お兄さん、素直に褒められてくれないのです……」

 

 少しばかり顔を赤くした電は不満げに頬を膨らませ、部屋を後にする青年に続く。

 

 

「朝ごはんの前に寄って行きたいところがあるんだけど、いいかい?」

「もちろんなのです。というか、みんなもう、そこに集まっているのです」

 

 くすくすとおかしそうに言う電。

 どうやら考えを見透かされていたようだと、青年は苦笑いして頬をかいた。

 

 ふたり並んで向かうのは、提督の執務室。

 電が言うには、他の3人もすでにそこで待機しているのだ。

 

「緊張はしていない?」

「はい、実はちょっと……。昨日はあんまり眠れなくて……」

「僕もだよ。明け方近くまで起きていたみたいなんだ」

 

 ひとりでお茶など入れて飲んでいたら眠ってしまったと青年が話すと、電は不思議そうに首を傾げる。

 曰く、青年の部屋にはコンロやポットの類は置いておらず、どうやって暖かいお茶を煎れることが出来たのか、というものだった。

 言われてみればと青年は顎に手を当てるが、それほど重要なことではないとばかりに肩をすくめた。

 電の方もそれ以上追及することはなかったが、それとは別に思うところがあったようだ。

 

 

「あの、司令……、お兄さん。本当に、いいのですか? 大丈夫なのですか?」

 

 電の控えめながらもはっきりとした問いは、本当に青年が提督になっても大丈夫なのか、というものだ。

 昨晩、ふたつほど青年に要求した電ではあるが、それでもまだ、青年が提督として動くことに納得し切れていないようだ。

 無理に止めはしないものの、青年は本当に提督となることを是とするのか、それを確かめたかったのだ。

 

 電の気遣いに、青年はふと、視線を外して考える。

 そして、隣を歩く電の方を見ずに、こう問う。

 

「電、お願いがあるのだけれど、いいかい?」

「はい。なんでしょう……」

「僕がこれから提督としてやっていく中で、本当に無理そうだ、もうダメそうだと思ったら……。僕を止めて欲しいんだ。どんな方法でもいいから」

「どんな方法でもって……! ええ!?」

 

 物騒な想像をしてしまったのか、電が足を止めてぷるぷると震えだす。

 

「ああ、そこまで思いつめなくても……。逆効果だったかな。電にお願いするのは……」

「い、いえ! そんなことはないのです! ぜんぜん大丈夫なのです! お望みとあらば、料理人の命である包丁を持ち出しても!」

「あーあー、そこまで思いつめないで! ごめん、僕が悪かった!」

 

 目をぐるぐると曇らせ、本当に包丁でも取り出しそうな雰囲気の電を宥め、青年は困ったように笑う。

 

「ちゃんと説明するべきだったね。……その、僕はたぶん、提督をするうえで、いろいろ悩んだり抱え込んだりすると思うんだ。昨日もそれで眠れなかったくらいだし……。でも、きっと、それをみんなに打ち明けずに隠そうとする」

 

 電の表情が曇る。

 青年が言うのは、今までの電たちと同じになってしまうということだ。

 辛い部分を見せないようにと無理に笑顔をつくり、悩みをひとりで抱え込んでいしまうこと。

 

「だから、そうならないように、見張っていてほしいんだ。僕がそうなりそうだったら、無理やりにでも指摘して、止めてほしい」

「わかりました。でも、どうして電に?」

「電は、最後まで僕が提督になることに反対してくれていたからだよ。自分たちの事情よりも、僕のことを案じてくれたから、頼みたいんだ」

 

 今から提督になるというのに、もう弱音を吐いているなと、青年は自嘲する思いだった。

 本来ならば、こういった弱い部分を見せずに毅然としているのが提督なのだろうと、青年は考えている。

 しかし、自分にはそういったことが難しいだろうなとも、思っていたのだ。

 

「あの、暁ちゃんたちも、別にお兄さんを無理やり提督にするつもりでは……」

「わかってるよ。でも、反対はしないって明言させちゃった以上、その役目を任せるのはちょっと気が引けてしまてね。それに、今は動きを止めたくないんだ。結果が着いて来るかはわからないけれど、早く動き出したい」

 

 焦っている、というわけではない。

 ただ、ようやく現状から動き出せた以上、再び立ち止まってしまうことはしたくなかったのだ。

 

 電は自分だけ特別なお願いをされたことが、嬉しいような、申し訳ないようなといった具合だったが、やっぱり嬉しかったのか、曇り気味だった表情がすっかり晴れ渡っている。

 

「ふふ。今は、電が一番頼られているのですね」

 

 そうして、ふたりは提督の執務室に向かう。

 青年が歩幅を自分に合わせてくれていることに気付いた電は、はにかんだ笑みを浮かべながら先を急いだ。

 

 

 

 ○

 

 

 

 提督の執務室は、電が定期的に掃除しているのだそうだ。

 隅々まで掃除が行き届いているせいか、生活感のようなものはそれほどない。

 それでも、暁たちには10年前の残滓を感じ取るには充分だったようで、青年が入室した際には、どこかしんみりした表情をしていた。

 

 電はすぐに暁たちに合流して、執務机の前に整列する。

 机の椅子はすでに引かれてあり、さあ座ってくれと言わんばかりの状態だ。

 青年は緊張した面持ちで椅子へと向かう。

 暁たち一同がいつになく真面目な表情をしているせいか、こちらまで気を引き締めなければと考えてしまうのだ。

 

 しかし、同じように緊張してかちこちと固くなっている暁を見て、青年の方は逆に緊張が和らいでゆく思いだった。

 どこか微笑ましいと、場違いにもそう思ってしまうのだ。

 それに、暁の隣り。響などは、口の端がひくひくと動いている。笑うのを堪えているような震え方だ。

 ふと、そこで青年の中に悪戯心が湧いてくる。

 

「――響、暁の脇腹をつんつんしてあげて」

「――了解」

「ちょっとー!? なんでよ! 真面目にやろうとしてたのにー!?」

 

 隣りの姉をつんつんし始めた響と、青年の指示に憤慨する暁。

 

「肩の力を抜いたほうがいいかなって、思ったんだけど……。余計なお世話だったかな?」

「そうよ! せっかく真面目に……。って、響はもうつんつんやめなさい! 雷と電は混ざるなー! つんつん混ざるなー!!」

 

 妹たちにつんつんされて、暁は恥ずかしさと苛立ちで真っ赤になりながら青年に詰め寄る。

 

「お・に・い・さあん!?」

「ごめん。さあ、はじめようか」

 

 青年が仕切り直すように椅子を引くと、暁たちは再び執務机の前に整列する。

 今度は、みんなが肩の力を抜き、表情も先程よりはリラックスしたもの……、というよりは、気の抜けてしまったものになってしまった。

 でも、緊張でがちがちになってしまうよりはいいのかなと、青年は自分の甘さを自覚する。

 

「それでは、新しくこの鎮守府の提督になりました……、ええと、名前がわからないから、みんな好きなように呼んでください。それで、本日、現時刻を持って、10年前に発令された待機命令を解除。艦娘は作戦行動への参加を解禁します。海上へ出撃及び、深海棲艦との戦闘行為をも解禁」

 

 戦闘行為の解禁。

 そう告げたところで暁たちの表情は一瞬強張ったものの、互いの手を握り合って不安を堪えた。

 

「本鎮守府の最終目標は、深海棲艦の打倒ではない。この孤島からの脱出及び、故人の遺品を遺族に届けるもの、故人の遺言を果たすものであると定める。作戦立案から開始までは、随時打ち合わせをしていこう。そして、本作戦を遂行する上でもっとも重要な二項を告げる。毎日定時に食卓に着くこと。そして、自らを含め、誰も悲しませないために行動すること。――以上、なにか質問は?」

 

 暁たちからの質問はない。

 青年はひとつ頷くと椅子を引いて立ち上がり、無帽の敬礼を行う。

 一拍ほど間をおいて、暁たちも帽子を取り敬礼。

 そうして礼を解いて青年は椅子に座り直すと、深く息を吐いて緊張を解いた。

 

「……記憶をなくす前の僕は、絶対こういう、大勢の前でかしこまって話をすることが苦手だったと思うよ」

 

 困ったような顔で言う青年に、我先にと噛み付いたのは暁だ。

 

「そうね、30点ってところかしら? 口調が砕けているところがあったり、表現に曖昧な箇所があったり……」

「あ、暁は厳しいね?」

 

 つんつんのことをまだ恨んでいるのだろうか。

 対して、電などは昨夜青年に提示した条件をちゃんと含んでいたことが嬉しかったのか、満面の笑みだ。

 

 そこで、雷が質問を求め挙手する。

 先ほどのような堅苦しい雰囲気よりも、今のタイミングの方が良いと判断したのだろう。

 

「それで? 暁も言ってるけれど、曖昧なところはどうすればいいの? 作戦立てるための打ち合わせって言っても、私たち、特に響なんかは設備周りのこともあるんだし……」

「そうだね。そこは無理のない範囲で、みんなが集まれる時に少しずつ打ち合わせていこうと考えているよ。建て直したりしなければならない施設もあるだろうし。ね?」

 

 そう告げた青年が視線を向ける先は、言いたいことを言ってすっかり油断しきっていた暁だ。

 先日の島の案内の際、暁は艦娘に関わる施設、工廠施設や入渠施設へのルートを避けて通っていた。

 艦娘関連の施設を見せないようにしていたのは、青年に余計な思考を持たせないためだったのだろう。

 それが、期待通りというか、期待外れというか。

 青年はこうして提督の椅子に座ってしまっている。

 

「今度は、ちゃんと案内してくれるよね? 暁」

「もちろんよ。なんなら今からでも?」

 

 すっかり案内する気になっている暁を諌めるように、隣の響が姉の脇腹を突っついた。

 確実に大きなリアクションを得られるこの方法を、どうやら気に入ってしまったようだ。

 

「入渠施設は見てもらって構わないけれど、工廠施設は崩落している箇所もあるから気を付けてほしい。見て回る時は私も同行するから、必ず呼んで」

 

 青年が了解の意を返すと、響も雷も頷いて。

 暁からも電からも追加の質問はない。

 

「それじゃあ、最初の打ち合わせだけど。その前に、まずは朝ごはんだね」

 

 

 

 ○

 

 

 

 そうして、青年は暁たちを連れて、食堂へと進む。

 途中、電が思い出した様に、慌てて青年を呼び止めた。

 

「あ、あの! もう、司令官さんって、呼んでも……?」

 

 青年も暁たちもびたりと歩みを止めて、そう言えばすっかり忘れていたなと、気まずそうに目を細める。

 

「よろしく、司令官」

「あ、ずるい! 司令官、私にも!」

 

 響が我先にと握手を求め、雷が続き、出遅れた暁がそわそわし出して、一歩離れたところで電が見守っていて。

 青年はそんな暁たちの様子に、過去の彼女たちの姿を幻視する。

 今よりもずっと背が低く、幼く、しかし、艦娘としてしっかりと任務をこなしていたであろう、彼女たちの姿を……。

 

 暁たちは、噛みしめるように「司令官」と青年を呼ぶ。

 嬉しさや申し訳なさ、期待や不安。

 様々な感情を込めて。

 

 様々な感情が胸に渦巻くのは青年も同じだ。

 しかし、今はその感情を抑えて。

 提督となった青年は、彼女たちを連れて再び食堂へと歩を進める。

 

 

 




7話:提督が鎮守府に着任しました、これより艦隊の指揮を執ります



序章『孤島の第六駆逐隊』完

第1章『開発資材の獲得』へ、つづく


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第1章:開発資材の獲得
1話:開発資材


 

 

 

 空は今日も灰色の曇天で。

 海は今日も鉛色の硬質で。

 

 深海棲艦の支配海域では、空も海も青い色ではない。

 大気は一気圧を保てず、プラスにマイナスにと針がふれて。

 海水の比重とて、常に一定を保っていない。

 光は遮られ、色は失われ、あらゆるものが捻じ曲げられる中、それでも希望を灯す場所がある。

 

 とある孤島の、半ば倒壊した鎮守府。

 10年前までは補給基地として運営されていたこの施設も、今は機能していない。

 提督は病に倒れた。

 艦娘たちは、戦いの果てに沈んだ者、出撃したまま行方知れずとなった者、そして島に取り残された者がいた。

 鎮守府で働いていた職員たちも、艦娘の助けを得て、その多くは外海に退避することは出来た。

 だが、そう出来なかった者たちも、確かにいた。

 

 そうして、この孤島の鎮守府には4隻の艦娘の姉妹が残された。

 特Ⅲ型駆逐艦・暁型の艦娘、その姉妹たちだ。

 命令により艤装を纏って出撃することが出来なかった姉妹たちは、10年ものあいだ、この孤島で助け合って暮らしてきた。

 いつの日か、外界へ出ること機会を待ち望みながら。

 

 そして、10年経ったある日。

 この孤島に青年が漂着した。

 記憶喪失の青年は、姉妹たちの提督となって、一緒にこの孤島から脱出することを提案する。

 故人の遺言を果たすため。

 笑顔を取り戻すため。

 そして、己が何者かを知るために。

 朽ちたはずの鎮守府が息を吹き返し、立ち上がる……。

 

 

 

 ○

 

 

 

「というわけで、目下最大の目標は航路を確保することよ! いい?」

 

 鎮守府内、提督の執務室。

 ホワイトボードに大きく“航路の確保”とマーカーで文字を書いた暁は、振り返って注目を集めた。

 提督は執務机に座り、響たちは応接用のテーブルやソファーを引っ張り出して、執務机の真ん前に陣取っている。

 テーブルの上には人数分のお茶と、外国の缶クッキーが開けられお茶菓子として置かれていた。

 暁がテーブルの上のお茶菓子にちらちらと目線を送る様を、提督は微笑ましい気持ちで眺めていた。

 

 朝食を終えて、お茶を一服して落ち着いたのち、早速執務室にて今後の方針、作戦についての打ち合わせが行われることになった。

 今回の議長は暁が担当し、ホワイトボードの前で得意げに腕を組んでいる。

 はて、議長は書記も兼ねているものかなと、嬉々としてマーカーを手の中で回す暁を眺めつつ、青年こと提督は首を傾げた。

 まあ、本人がやると言っているのだから好きにしてもらおう。

 この鎮守府では自分が一番新入りなのだと、提督は暁たちの進行を見守ることにする。

 

 

「では何故、航路の確保が重要なのか? はい、響」

 

 暁がマーカーで指すと、響は椅子から立ち上がり議長兼書記である暁の方を向いた。

 しかし、口をもぐもぐさせるだけで一向に話そうとしない。

 食事時のように目で何かを訴えかけようとしているのだろうかと提督は考えたが、どうやら今回は暁を煽っているだけらしいとは、提督に耳打ちしてくる雷談。

 

 やがて暁がしびれを切らして声を上げようかという絶妙なタイミングで、響は提督の方を見てコホンと咳払いした。

 

「深海棲艦の支配領海ではあらゆる現象がねじ曲がることは、もう知っているよね? 大気の状態や天候、海水の比重、そして磁力もおかしな方向に働くんだ」

 

 参考になるからと、響はポケットから取り出した方位磁石を執務机に置く。

 その方位磁石は狂っていた。

 しばらくのあいだゆっくりと時計回りに回転したかと思えば、思い出したかのように停止したり、逆時計回りに高速で回ったりする。

 

 「これは……」と顔を上げる提督に、響は無言で頷き返した。

 

「磁場がね、おかしなことになっているんだ。これの影響で、一度海上に出てしまうと正確な方位を保持できなくなるんだ」

「なるほど。航路が歪んでしまう、ということだね?」

「磁気だけじゃないわ」

 

 そう補足の言葉を入れるのは雷。

 

「気流も海流もおかしくなっているから、従来の航海方法じゃ迷って遭難しちゃうわ。分厚い雲のせいで衛星に依存している機器もアウト。もし使える条件がそろったとしても、海上に出た途端おしゃかね。陸地であればだいぶ緩和されるのだけど、海上の“おかしさ”は陸の比じゃないわ」

 

 そう、肩をすくめて言うのは雷だ。

 クッキーを頬張り、考え込むように度々沈黙を繰り返しながら話を続ける。

 

 支配領海の海面は鉛色をしていて、暴風雨でも時化ないほどの硬質だ。

 その海面は不可解な磁場を帯びていて、電子機器を駄目にしてしまうのだという。

 唯一正常に稼働するのは艦娘の艤装関連であり、航路の確保となると水上偵察機の運用が必須となる。

 しかし――、

 

「私たちは艦種が駆逐艦だから、水偵を飛ばせないの。だから、司令官から出撃指示が出ていざ海上へ進出することが出来たとしても、道に迷っちゃう」

 

 それに、と。雷はクッキーをもう一口食べようと運び、口元で止める。

 

「……ここから一番近い陸地の鎮守府までは、駆逐艦の足でも最速で1週間はかかるわ。でも、そこが今現在無事かどうか、わからないの。そもそも、司令官が搭乗する小型艇を護衛しながらだと、もっと時間がかかるわ。そのあいだ、正確な航路の確保と、敵艦との接触を回避、万が一敵機と遭遇した場合の護衛戦闘……。とても、駆逐艦4隻じゃ話にならないわ?」

 

 現状の問題点を流れるように述べていき、しかし雷の表情は真剣であっても悲観的ではない。

 何やら策があるのだろうと、提督はその先を話すように促す。

 

「建造するのよ。水偵を運用できる艦娘をね」

 

 

 建造。

 工廠施設にて暁たちのような艦娘をつくりあげることだ。

 ということは、この鎮守府の工廠施設には建造ドックがあるのだろう。

 提督はひとり頷くが、どうも暁たちの表情は芳しくない。

 手段はあるが、それを実現するには問題がある、といった表情だ。

 

「なにが、問題なんだい?」

 

 提督が聞くと、暁たちは互いに顔を見合わせ、頷き合い、改めて提督の方を見た。

 

「この鎮守府にはもう、開発資材がひとつも残っていないのです……」

 

 困ったような顔の電がそう告げる。

 なるほどと、頷いた提督は、直後「ん?」と息を詰めた。

 

 話を聞く限り、それはもう手詰まりなのではないかと気付いたのだ。

 

 

 

 ○

 

 

 

 電がお茶の入った湯飲みを提督の手元に置く。

 礼を言って湯飲みを手にした提督は、説明を求めるように無言で暁を見た。

 

「まず、開発資材がどんな物かについて、補足しておくわね?」

 

 開発資材とは、艦娘の建造や兵装の開発に必須となる資材だ。

 “艤装核”とも呼ばれるもので、艦娘の艤装、そのブラックボックスの重要なパーツとなっている。

 原料となっているのは、第二次大戦中に建造され戦線に投入された軍艦、その一部だ。

 海中に没した残骸をサルベージして部品単位で加工したものを、海軍本部から各鎮守府に支給されるというのが、暁たちが艦娘として活動していた10年前の主な流れだった。

 

 しかし、開発資材の精製は、戦いが長引けば長引くほど困難なものとなる。

 古き軍艦が沈んでいる海域は現状、そのほとんどが深海棲艦の支配海域となってしまっているのだ。

 海域を奪還して資材を得られれば良いのだろうが、この孤島の現状を見てもわかる通り、戦況は劣勢の一途を辿っている。

 

「……さらに、深海棲艦も、この軍艦の一部を核にしているの。やつ等も私たちと同じ物を核にして生まれている。だから、海域を奪われるってことは、その分敵が増えて、私たち艦娘の建造される数が減るってことなのよね」

 

 暁の説明を聞き、提督はむうと唸ることしかできない。

 開発資材の入手経路が海軍本部からの一本だけとなれば、やはり現状手詰まりだ。

 だが、暁たちがこの方法をわざわざ提督に説明するということは、なにか算段があるのだろう。

 入手不可能となったはずの開発資材を入手する算段が。

 

 提督が期待の目を向けると、暁は得意げに鼻を鳴らし、マーカーを指示棒代わりにしてホワイトボードを指す。

 

「深海棲艦も私たちと同じように軍艦の一部を核にしているなら、それを倒して核を奪えば、資材として使えるんじゃないか、ってね……?」

 

 

 「おお」と膝を打ちそうになった提督はしかし、それは大丈夫なのかと動きを止める。

 いくら同じ軍艦の部品を元にしているとは言え、深海棲艦の核となっていたものを艦娘の建造に使用しても大丈夫なのだろうか。

 その疑問に応えるのは響だ。

 

「……まあ、安全面に関しては保障しかねる、としか現状は言えないね。本部の工廠施設で精製純化された物ではないという点と、深海棲艦の核だったという点がどう作用するのかは、やってみないと、なんとも……」

 

 でも、と響は続ける。

 

「この手に賭ける以外、今は方法がないんだ。それとも、司令官は無謀で危険な船旅の方をお望みかい?」

「それは……、ご遠慮願いたいかな。みんなと海の旅は魅力的だけど、またこの島に漂着して、みんなと出会った記憶を失うのは耐えられないよ」

「そしたら、また暁が介抱するから大丈夫よ! ねえ、暁」

 

 にんまりと笑んだ雷に水を向けられ、暁はどもりながら顔を真っ赤に染める。

 提督に人工呼吸した時のことを思い出したのだろう。

 真っ赤になったのは提督も同じで、そんなふたりの様子を見た電も「はわわわ」顔を赤くする。

 

 「もらい赤面……」と響と雷が目を細めるなか、「とにかく!」と暁が大声を上げる。

 

「危険なのは承知の上で、やってみるしかないわ! この問題をクリアすることが、脱出への大きな一歩になるんだから!」

 

 それが暁たちの総意だった。

 提督は今のところ、暁たちの策を否定するつもりはない。

 確かに無謀ではあるが、現状対案を出せるほどの考えは提督にはない。

 今は、この案を突き詰めるしかないのだ。

 

 

「……より詳しい手順を聞きたい。深海棲艦を倒して核を奪う。これは、わかったよ。そのために、今からどんな準備が必要になるんだい?」

 

 だからこそ、手順を洗い出し、どんな問題があるのかを確認してゆく。

 例え提督が気付かなくても、そうして再確認する中で誰かが問題を拾い上げるかもしれないからだ。

 

 マーカーを顎に当てた暁はしばし考え込んだのち、手順をホワイトボードに書きながら提督に説明してゆく。

 

「まずは、工廠施設を立ち上げて建造ドックの状態確認ね。入渠ドックの方もだけど、こっちはいつものお風呂の延長だからすぐに済むわ。それと、私たちが艤装との同期作業。建造ドックと艤装の同期は、場合によっては並行するか前後するかも。そして、艤装の同期が済んだら、そのデータを元にして誰が一番動けるかを確認。そこから、戦闘プランを打ち出すわ」

「……私たちは、だいぶ長い時間艤装から離れていたので、もしかしたらもう戦えなくなっている可能性もあるのです……」

 

 暁の説明に次いで、不安そうに告げるのは電だ。

 暁たちは10年ものあいだ、艦娘として艤装を纏わず生活してきたのだ。

 腕が鈍ってしまっているどころか、戦えなくなっていても不思議ではないのだと、雷が改めて捕捉を入れる。

 

「でもまあ、その場合は補助艤装なんかもテストするし……。最悪、全然駄目ってことになったら、司令官の輔佐を優先してやってもらうことになると思うわね」

 

 雷の言葉に、暁たちはしばらく無言で考え込んでしまう。

 提督はその様子を、戦えなくなるのが不安なのだろうと受け取った。

 4人全員が艤装を扱えないとなれば、そもそもこの島から脱出するという目的自体が破たんするのだ。

 ようやく機会が巡ってきたところにそれがダメだとなれば、ショックも大きいだろう。

 

 しかし、不安そうな電に対して、暁は考え込むことはあっても不安げな顔は見せない。

 

「もし、4人全員がダメだったら、その時は別の案を考えましょう? 例え私たちが戦えなくなっていたとしても、艦娘であることに変わりないんだから……。建造ドックだって無事かどうか怪しいんだし……。それに、やりようはいくらだってあるわ! ね?」

 

 励ますように言う暁は、涙ぐんだ電からクッキーを口に詰め込まれた。

 「何故だ……」と、憮然とした表情でクッキーを詰め込まれる暁は、そう言えば打ち合わせが始まってから一口も食べていなかったなと思い至る。

 電なりの優しさということにしておこうと考えたところで、立ち上がった雷が暁からマーカーを取り上げ、議長の代わりとばかりに仁王立つ。

 

「それじゃ、まずは工廠開けるところからスタートね。こっちは、暁と響に任せていい? 私の方は艤装と同期する際のメンタルケアの資料まとめておくわ。電は入渠ドックの調整ね。いい?」

 

 役割を取られた暁が憮然とした表情で雷を睨むが、口の中いっぱいに詰められたクッキーのせいでしゃべれもしなければ、美味しくてちょっと幸せな気分だ。

 

「司令官、それでいい?」

 

 雷が確認のため提督の方を見れば、暁たちもそれにならう。

 提督としてはまだまだ確認しておきたい部分は山ほどあったのだが、工程の進行を優先させることにした。

 施設の面で、そして艤装の面でも、暁たちの案が実現可能かどうかを、まずは確かめておきたかったのだ。

 

「わかった。その案で進めようか。僕の方はさっそく……」

 

 提督が立ち上がると、暁と響を呼ぶ。

 互いにクッキーを口いっぱいに詰め込んで無言で咀嚼を続けているふたりは、もぐもぐしながら提督の方に振り向く。

 

「工廠施設に案内してもらえるかな?」

 

 暁と響は無言で幾度も頷いた。

 

 

 



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2話:工廠施設

 

 

 

「じゃあ司令官、まずはこれを被って」

 

 工廠施設の扉を開ける際、響がヘルメットを手渡してきた。

 黄色いヘルメット、安全第一のステッカーとヘッドライト付きだ。

 響と暁も同じようにヘルメットを被っていて、ライトの点灯確認など行っている。

 

 こういった機器類を扱う施設はヘルメットの装着が必須だ。

 そうでなくとも、10年前の空襲の影響で崩れやすくなっている箇所も多く、危険なのだという。

 提督はヘルメットの顎紐を絞めながら、自らの気も引き締める思いで、暁と響が錆びて固くなった大扉を開けるのを見守る。

 しかし、錆びつきがひどいのか、なかなか開かない。

 

「……手伝おうか?」

「結構よ! 私たちだけで、充分なんだから!」

「あ、じゃあ司令官にお願いしようか」

 

 暁が「裏切り者ー!」と諸手を上げて抗議するが、響は涼しげな顔で受け流す。

 

「ここの大扉はもうずっと使っていなかったんだ。私はいつも、裏口の方を使っているんだけどね?」

「ええ? だったらその裏口から入ればいいんじゃないのかな?」

「それでも良かったんだろうけれど、ちょっと気を利かせたかったんだ。ここの扉が開くのを待っている子たちがたくさんいるから……」

「待っている子たち? たくさん?」

 

 全身に力を込めながら提督は聞き返すが、響は「頑張れ、頑張れ」と拳を小さく握って応援するだけで答えない。

 暁の方を見ると、響の言葉に「ああ、なるほど」手を打ち、一緒に頑張れコールに混ざる。

 

 その後、提督は小一時間ほど錆びた大扉と格闘を続けた。

 途中、響がレール部にオイルを注さなければ、全身の筋をおかしくしてしまっていただろう。

 そうしてぎりぎりと軋むような音を立てて大扉を開いた提督は、工廠施設に光が入った瞬間、光から逃れるように何かが素早く走り去って行ったのを視界の端に捉える。

 大きさは掌に乗るくらいのサイズで、広い工廠施設の至る所に居たようにも見えた。

 

 思わず大扉を開ける手を止めてしまった提督は、振り返って暁たちを見る。

 

「……今のは、なんだい?」

「大丈夫よ司令官。悪いものじゃないわ」

「大丈夫大丈夫。人体に害があるタイプのものじゃないよ?」

 

 暁の説明はともかく、響の意味ありげな物言いに冷や汗をかく提督だったが、意を決して大扉を開け放った。

 

 錆びついた大扉に反して、工廠施設の内装は小奇麗なものだった。

 と言っても建物自体は古くあちこちに錆びや劣化が見られ、雨漏りの跡なども少なくはなかった。

 提督が小奇麗だと感じたのは、工廠内の物品がきちんと整頓されていたからだ。

 工具類は木の板にしっかりと並べられ、部品や工材などはきちんと区画ごとに整列している。

 掃除も行き届いていて、クモの巣ひとつない。

 

 まさか、響ひとりでこれだけの広大なスペースを整理整頓してきたのだろうかと感嘆する提督は、またも視界の端で何かが動くのを察知する。

 柱や部品の陰から何かがこちらを覗き見ているのに気付き、目を凝らす。

 すると、二等身ほどの人の形をしたものたちがこちらを見ていたのだ。

 小人か何かだろうかと眉をひそめる提督に、「妖精だよ、司令官」と響がその正体を明かす。

 

 妖精。

 艦娘の建造や艤装の開発だけに留まらず、戦闘に入渠に情報収集にと、艦隊のあらゆる面をサポートする霊的存在だ。

 機器を司る妖精ということで、いわゆる“グレムリン”ではないかという説があるくらいだが、詳細は謎に包まれている。

 ……というのが、ここに来るまでに提督が読んでいた、艦隊運営指南書の一説だ。

 

 妖精たちは人間に対して、基本的に友好的だ。

 彼女たちを蔑ろにしなければ悪いことは起こらないので、努々妖精たちとのコミュニケーションを怠らないようにと、念を押すようなフォントで記載されていたのを提督は覚えている。

 というのも、指南書の巻末にあった事故事例のおよそ半数が、この妖精とのトラブルだったのだ。

 10年前の各地の鎮守府は、この小さな友人との接し方に相当苦悩していたのだろう。

 ちなみに、もう半数の事故事例が艦娘とのトラブルだったことは、ここでは割愛しよう。

 

 さて、その妖精たちはというと、響が発した「司令官」という言葉に反応したものか、おっかなびっくりと言った様子で物陰から出て来る。

 小さな声で口々に「司令官?」「司令官!」と提督を呼んだ妖精たちは、その白い軍服を目にする否や、顔を輝かせて走り寄って行った。

 嬉しそうに諸手を上げて、提督のズボンの裾を引っ張ったり、靴や足をよじ登ったりしようとする。

 

「彼らもずっと待っていたんだ。この島に新しい司令官がやってくるのを……」

 

 この妖精たちも、この島に取り残された一員だったのか。

 提督は自分の足元に集まった妖精たちを見渡す。

 その数の多さと、期待に満ちた円らな瞳。

 中には涙ぐんでいる妖精もいる。

 

 妖精たちもこの島を出たかったのか。

 海上に出て戦いたかったのか。

 それとも、暁たちの苦悩を憂いていたのか……。

 

 提督はコホンとひとつ咳払いして妖精たちの動きを止め、指南書にあったような海軍式の敬礼を行う。

 すると、妖精たちも提督の足元から離れ、整列して、提督に倣うように敬礼した。

 

「初めまして。新しくこの鎮守府の提督になった者です。若輩者ですが、どうか力を貸してください」

 

 提督の言葉に、妖精たちはびしりと敬礼し直す。

 そして「わあ」と諸手を挙げると一斉に提督に駆け寄りよじ登り始めた。

 よじよじとゆっくり、しかもたくさんの妖精によじ登られ(不思議と重さは感じなかった)、成すがままになっている提督は、助けを求めるようにしょぼくれた目で暁たちを見る。

 

「大丈夫よ司令官! 悪い子たちじゃないんだから!」

「いや、暁。それはわかるんだ。わかってはいるのだけれど……」

「大丈夫大丈夫。妖精をたくさん集めて、ひとりガリバーごっこすると楽しいよ?」

「……響はいったい、いつも何をしているんだい?」

 

 

 

 ○

 

 

 

 提督は結局、頭や肩に妖精たちを満載した状態で工廠施設内を案内されることになった。

 乗れるだけ乗っかった妖精たちに重さがなかったことが救いと言えば救いなのだが、耳元や頭の上でわーきゃーと喧しいのには苦笑いを禁じ得ない。

 響には「好かれているんだよ。大丈夫、問題ない」と言われたので、好感度的には今のところ良好なのだろうと、ひとまず胸を撫で下ろす思いだ。

 

「建造ドックは地下にあるの。足元に気を付けて、ゆっくり降りてきてね?」

 

 階段横のスイッチを入れて足元を照らした暁が、薄明るくなった階段を降りてゆく。

 その背中を追う提督は、防雨・防爆処理の施された蛍光灯がちらちらと明滅する様子に緊張感を刺激されて、息を飲む思いだ。

 不安定なこの灯りが、いつ消えてしまうかわからないという緊張感だ。

 そのためにヘッドライトがあるのだろうかと、手を頭上にやる提督に気付いたのか、響が背後から語りかけてくる。

 

「――停電になって灯りが一斉に消える。なんてことは、まずないよ。まだ、それだけ電力を消費する機器は、何も動いていないんだ。工廠も司令官の指示があって、やっと動き出すわけだしね?」

 

 思わず振り向いた提督は、響が何食わぬ顔でスカートの裾をつまんでたくし上げようとしているのを目撃してしまい、急いで下階へと向き直る。

 緊張を紛らわせてくれようという心遣いは(本当にそうか?)ありがたいのだが、これでは余計に緊張してしまう。

 妖精たちもきゃあきゃあと喧しく、頭痛の種が増える思いだ。

 

「球切れも一斉にはこないから大丈夫だよ。と言っても、管球にも限りはあるからね。もう新品の在庫がないから、今付けているもので最後なんだ。何本か間引いてやり過ごしているけれど、やっぱり補給がないのは痛手だね」

「……この階段の照明、見たところ急ごしらえのようだけれど。配線や取り付けは、響がひとりで?」

「ここは、そうだよ……。地下室を担当していた設備員のおじいさんに、いろいろ教えてもらっていたんだ」

 

 それ以上語らずに黙ってしまった響に、提督もそれ以上追及しようとはしなかった。

 その設備員のおじいさんは無事にこの島を脱することが出来たのだろうか、それともこの島で命を落としたのか。

 響が沈黙してしまったということは、後者の可能性が高い。

 今は無理でも、いつか話してくれる日を待とう。

 

「ちなみに言いそびれたけれど、今日のパンツの色は……」

「さあ、響。地下だ。地下に着くよ? 足元に気を付けて?」

「……あしらい方を覚えてきたね。接し方をちょっと変えないと……」

 

 提督が困ったような笑みを浮かべているあいだに、一行は地下1階に到達する。

 

 先行していた暁が地下照明のスイッチを入れると、先ほど提督が大扉を開けた時のように暗闇に潜んでいた妖精たちがわらわらと逃げていった。

 暁と響が新しい提督が来たのだと呼びかけると、これまた先ほどと同じように物陰から妖精が踊り出てきて、提督の体によじ登っていった。

 

「うん。僕は、山か何かかな。彼らにとって……」

「何を言っているのよ? 司令官以外の何者でもないでしょう?」

 

 暁が真顔でそんなことを言ってくるものだから、提督は自分の頭に乗った妖精をすくっては暁の頭や肩に移植するという不毛な作業を始める。

 次々と頭や肩に乗せられていく妖精に、暁はむっと顔をしかめるが、乗せられているものがものだけに怒ることが出来ない。

 ふたりがそんな茶番を演じているあいだにも、響は建造ドックを司る妖精たちとやり取りして、現状の確認を行ってゆく。

 

 

「……司令官、この建造ドックは現在……。おや、親鳥の心境かい?」

 

 はしゃぐ妖精たちを頭や肩に満載して憮然とした顔をしている提督と暁を一瞥して、響はいつもと変わらぬ調子で説明を始める。

 

「建造ドックは、現在停止中だよ。まあ、見てもらえばわかると思うけれど……」

 

 そう言葉を止めて、響はひとりで先へと歩いてゆく。

 提督と暁が後を追うと、その先には件の建造設備が鎮座していた。

 いや、建造設備だったものが、だろう。

 

「この鎮守府の建造ドックは3枠。主に使用されていたのは1号と2号ドックで、3号は予備。だけど……」

 

 響が言葉を失くした意味は提督にも理解できた。

 

 建造設備は、人間ひとりがゆうに入れる程度の広さがある筒状の機械に、パイプやコードがいくつも接続されているというものだった。

 材質は鋼鉄製だったのだろうか、今は赤錆びがひどく、筒状の正面に取り付けられている開閉口が開くかどうか怪しいものだ。

 その筒状の後ろには、セットになる様にもうひとつの筒状が設置されていて、まるで自動車組み立て工場のようなベルトコンベアやアーム類が並んでいる。

 前の筒状部分が艦娘の本体、人間としての体をつくり出す機器。

 後の筒状部とコンベア、アーム類が、艤装を構築するための機構。

 これらの機器を総合して、建造ドックと呼んでいるのだ。

 

 しかし、3枠ある建造ドックの内、メインの1号ドックは上階が崩落した瓦礫の下敷きになって潰されていたのだ。

 2号ドックは設備そのものが無くなり、雨水か海水かはわからないが、とにかく水に浸っていて。

 唯一無事だったのが、予備の3号ドックという有り様だ。

 

「10年前の空襲の際に、1階の資材倉庫の床が崩落して、1号ドックは破損圧潰。2号ドックは地盤沈下でさらに地下に沈んでしまったんだ。3号ドックは予備機として設置されてはいたけれど、部品を取り出して1、2号ドックに充てるようにしていたから、完全な状態ではないんだ」

「そんな……。これじゃあ、艦娘の建造なんて出来るのかい?」

「大丈夫だよ。こんなひどい状態ではあるけれど、艦娘関連の兵装や設備であれば、妖精さんは時間をかけて直してしまえるんだ。それに、3号ドックは部品を取り出しているだけだから、組み直してテストすれば、すぐにでも使用可能な状態に復帰できるはず。ただ、それには司令官の許可が必須なんだけれどね?」

 

 艦娘が待機命令を受けて出撃不可能だったのと同じ原理だろうかと、提督はヘッドライトを勝手にオンオフしている妖精を手に取って見つめる。

 提督の命令が有効な範囲が、今一ぴんと来なかったのだ。

 待機状態での艤装・兵装のメンテナンスは可で、出撃や建造ドックの再建は不可。

 それは……。

 

「……艦娘の生命に関わること、だからなのかな……」

 

 暁と響が何か言ったかと振り向いてきたが、提督はなんでもないと手を振って返す。

 手に取った妖精が小さな手で大きく丸をつくっているので、なんとなく当たりなのだろうかと、提督は納得しておくことにする。

 

 艦娘を建造で生み出すことは、新たな命をこの世に生み出すことに等しいものであり、出撃命令は艦娘が海上で轟沈する可能性を常に孕んでいる。

 そして艤装を破棄する“解体”は、艦娘が持つ深海棲艦との交戦能力を除外して、彼女たちをただの人間へと変えてしまうことだ。

 いずれも艦娘の生き死にを左右する重要ものだとすれば、確かに責任者たる提督の命令なしには触ることが出来ないのも頷ける。

 

 だが、そうだとすれば、この島に取り残された彼女たちに、緊急事態だとして独力で脱出する権利を与えても良かったのではないだろうかとも、考えてしまうのだ。

 指南書を隅々まで読み込めば、そういった局面での対応方も乗っているのだろうか。

 そう、提督が意識を宙に浮かせていると、妖精が顔面にべたりと張り付いて来た。

 

「司令官、建造ドックを修理する許可が欲しいって。3号ドックは2日もあれば復帰可能だそうだよ。1、2号ドックも時間をかければ元通りに出来るって」

 

 響の説明に頷いた提督は、顔に張り付いた妖精を丁寧にはがして床に降ろす。

 

「それじゃあ、建造ドックの修理をお願いできるかな。妖精さんたち?」

 

 しゃがみ込み、なるべく視線を低くしての提督の要望に、妖精たちは敬礼を見せると次々と地下室のあちこちに散ってゆく。

 その様子を見守りながら、ひとまず建造ドックの問題はクリアだろうかと、提督は安心と不安の入り混じった感情を嚥下する。

 

 

「建造ドックは問題なさそうね? じゃあ、艤装の同期……、は後回しにして、入渠ドックの様子を見に行きましょう?」

「電が滑って転んでお湯の中で溺れていなければいいけれど……」

 

 響の何気ない呟きに「そんな馬鹿なことが……」と言い掛けた提督と暁だったが、電ならばあり得ると、気持ち速足で地下室を後にした。

 

 

 



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3話:入渠場

 

 

 

 この鎮守府の入渠ドックは、工廠施設とは別の地下室に設けられている。

 ひとことで全貌を表すならば、旅館の大浴場のような湯場、だろうか。

 浴槽には今や薄紅色の湯が張られ、もうもうと湯気が立ち上っている。

 洗い場や床は綺麗に磨かれ、鏡は曇りなくくっきりと姿を映せる程だ。

 

 最近までボイラーが不調で使用できず、復旧したのはつい先日のことだ。

 今夜あたりから入渠場で足を延ばした風呂に入れるとは言われていたが、この光景を見れば期待が高まるというもの。

 事実、浴場を見渡す提督の表情は、心なしか輝いて見える。

 

「これで、ドラム缶風呂ともお別れかな」

「もしかして、名残惜しいの? 曇った不気味な夜空を独り占めできる、小さな小さな露天風呂が」

「うーん、いいや。振り返ると、苦い思い出しかないからなあ……」

 

 提督が苦い顔をすると、暁もまた表情を渋いものにせざるを得ない。

 

 ――それは、提督がようやく医務室暮らしを終えて、部屋で寝起きするようになった日のことだ。

 ボイラーの不調もあり浴室が使えなかったため、提督は鎮守府の中庭にて、おそらくは人生初となるドラム缶風呂と洒落込んでいた。

 火加減は電が担当し、これはこれで良いものだなと、体の力を抜いてくつろいでいた時だ。

 鎮守府の裏手から暁以下3名がぞろぞろと歩いてきたのだ。

 自分たちも風呂に入ろうとしていたためか、暁も雷もバスタオルを巻いただけの姿で、響に至ってはタオルすら持たずに堂々とした登場だった。

 

 これに驚いたのは、ゆったりとくつろいでいた提督と、火の番をしていた電だ。

 「はわわ!」「あわわ!」とふたりとも気が動転し、そのはずみでドラム缶がひっくり返り、提督は運悪くそのまま転がって行き坂道に突入、自分が打ち上げられた砂浜まで超スピードの小旅行と相成ったのだ――。

 

「……あの時は、ごめん。まさか、先に入っているとは思ってなくて……。つい、いつもの格好で……」

「僕もびっくりして慌てたのがいけなかったなあ……。あのまま動かずじっとしていたら、夜の坂道を転がって行くこともなかっただろうし」

「ふたりともいい経験になったね。ドラム缶に入って坂をすごいスピードで転がったり、それを追いかけて裸で坂道を駆け下りるなんて、一生に一度、あるかないかだよ」

「……確かにね。下手すると、勢い良く外に投げ出されて大怪我だったかもしれないしなあ……」

「……いくら焦っていたからって、響みたいに裸で全力疾走なんて……。レディ失格の振る舞いだわ」

 

 

 さて、一行は脱衣所まで戻り、靴下を脱ぎ(暁はストッキングごとするりと脱ぎ去り)、提督はさらにスラックスの裾をまくって、浴場へと足を踏み入れる。

 これから入渠施設の調整を行っているはずの電と合流し、施設の案内を頼む手筈になっているのだが、その電の姿がどこにも見当たらない。

 先ほど建造ドックで響の不穏な呟きを聞いていたものだから、余計に不安になってしまう。

 

 電の名前を呼んでも返事はなかったので、ちょうど持ち場を離れているところなのだろうか。

 準備も済ませたところだし、先に中を見学しようかと、暁が提案した時だ。

 ふと湯気が晴れて、奥の浴槽の様子が目に飛び込んで来たのだ。

 

「ねえ、ちょっと、あれって……!?」

 

 暁が血相を変えて声を上げる。

 奥の浴槽。その湯の中から、ハイソックスを履いた2本の足が生えていたのだ。

 見覚えのあるソックス。

 その持ち主が電であると、暁も提督もすぐに合点がいく。

 あまりの光景に誰もが言葉を失う中、3人の注目を集めていた2本の足が、ぴくりと動いた。

 

「電!?」

 

 それをきっかけに、暁と提督は弾かれたように、浴場の奥へと走り出した。

 濡れて滑りやすくなった床に足を取られそうになりながら、少しでも早く電の元へ向かわんと、浴槽の中にジャンプして飛び込み、じゃぶじゃぶと湯を切って進む。

 

 いつからあの状態だったのか。

 もし、提督たちが地下の建造ドックでやり取りをしている時にはもうこの状態だったのだとしたら、悔やんでも悔やみきれない。

 そうしてようやく電の足にふたりの手が伸びようかという時、「ぷは!」と苦しげな声を上げて電が体の上下を反転させ、湯から顔を出した。

 

「……ええ?」

「はわわわ!? 暁ちゃんも司令官さんもどうしたのですか!? 服のまま浴槽に入ったりして……!?」

 

 そりゃあお前もだよと表情で突っ込んだ暁と提督だったが、ひとまず電が無事だとわかると、脱力したように浴槽の淵に倒れ込んだ。

 

 

 

 ○

 

 

 

「大変、お騒がせしました……」

 

 入渠場の湿った床に正座して、電は深々と頭を下げた。

 髪も服もずぶ濡れになり、パステルイエローの下着が透けて見えるのを、提督は注視しないようにと努める。

 洗い場から椅子を持って来て座る3人が聞くところによると、浴槽底の排水口を締め直していたそうなのだ。

 ただ、そこは電というか、なんというか……。

 

 ――提督たちが入渠場を訪れる、ほんの少しだけ前のことだ。

 電は浴場を簡単に掃除して、浴槽に湯を張ってほぼ万全といった状態で提督たちを待っていた。

 しかし、まだかまだかと落ち着きなく歩き回り、入渠場の再チェックなど始めたところ、最奥側の浴槽の湯が渦を巻いているのを見付けてしまったのだ。

 浴槽の排水口がずれていたか、開いたままだったのか。

 そう考えた電が浴槽の淵から中を覗き込もうとしたところ、いつもの致命的なドジを発揮して湯の中に突っ込んでしまったというわけだ――。

 

「……電、やっぱり危なかったんじゃないのかい? 僕たちはてっきり、排水口に吸い込まれて上がって来れなくなっていたものだとばかり……」

 

 公衆浴場やプールといった大容量の水を溜める槽であれば、排水口も槽の大きさに比例して大きめにつくられるものだ。

 もしも、そういった槽の栓がされておらず、知らずに湯の中に入り引き込まれてしまったら、大の大人でも再び浮上するのは難しくなるだろう。

 

「あ、あの、それは大丈夫だったのです。入渠ドックのお湯はちょっと特殊な成分を含んでいるので、管理上安全装置があらゆる場所に設けられているのです」

 

 その安全装置は排水口のすぐ横にもあったようで、引き込まれてしまった電は冷静に対処して、安全装置を作動。溺れることなく助かったのだという。

 

「そもそも、今浴槽に張っているお湯は、艦娘が入渠して負傷を癒すものなので、潜っても呼吸が出来るのです」

「そうだったのか……。いやあ、本当に、無事で良かったよ」

 

 肌に張り付いた服をつまみ、その端を絞りながらも、しかし、と提督は新たな疑問を抱く。

 

「では、どうしてあんな体勢のままで? 何故すぐに上がってこなかったんだい?」

「……お湯に落っこちて服が濡れてしまったので、このまま潜って排水口を嵌め直してもいいかな、なんて……。その前も、うっかりソックス履いたまま浴場に入ってしまっていたので……」

 

 わざわざ服を脱いで潜るのが面倒だったので、服を着たまま作業を続行した。

 ……というのが、あの湯の中から2本脚が伸びていた不思議な光景の答えだった、というわけだ。

 

 改めて脱力した提督と暁に対し、響は至って澄ました顔をしていた。

 すべてお見通しだったのならば、走り出す前に一声かけてくれればよかったのにと、提督と暁は不満そうに響を見る。

 

 

「……というか。みんなその格好のままだと、風邪を引いてしまうよ」

 

 提督と暁の視線を意に介することなく、ひとりだけ濡れ鼠ではない響が言う。

 ちょうど、電も小さくくしゃみをしたところだ。

 

「いつまでも濡れた服のまま、というのも確かにまずいね。じゃあ、僕は脱衣所に下がっているから……」

「駄目よ司令官! その格好のまま上がったら脱衣所が水浸しになっちゃうわ。司令官もここで着替えましょう」

「でも、僕たち着替えを持って来ていないよ? ……待って、暁。僕も?」

「着替えならたぶん、雷が持って来てくれるわ。こうなるって、なんとなく察しがついているはずだから……」

 

 浴室を出ようとする提督の服を詰まんで引き留めた暁は、そのまま提督に背を向けて上着を脱ぎ始めた。

 電が「はわわわ!?」と動転して、提督が「あわわわ!?」と動転して、急いで暁たちから背を向けて。

 しかし、提督が向いた先には、電が丁寧に磨き上げたのであろう洗い場の鏡が輝いていて、暁のほっそりとした背中をくっきりと映し出していた。

 

 これはいけないと、その場に座り込んで目を瞑る提督だったが、背後から聞こえる水分を含んだ衣擦れの音と、暁たちの声が合わさって、非常にいけない気持ちになってくる。

 このままでは服も脱げない、湯にも浸かれないで、本当に風邪をひいてしまうそうだ。

 かと言って、後ろに暁たちがいる状況で身動きはまずい。

 進退窮まった状況。

 そこへ――、

 

「さあ、司令官も脱ごうか?」

 

 提督の背後から伸びた響の声と手が、がっちりと肩を掴んだ。

 その手がするすると肩から服のボタンへと滑り落ちてゆく。

 

「ひ、響? いいよ、自分で出来るから……」

「まあまあ、そう言わずに。ほら、ふたりも恥ずかしがっていないで、手伝って」

「ちょ、ちょっと! 響はどうして司令官脱がそうとしているのよ! なんで私たちがさっさと脱いで湯に入ったと思ってるの!?」

 

 暁の意図が“恥ずかしいからさっさと脱いで湯につかって隠れてしまおう”というものだと今さら理解し、提督は何故だか安堵して、ほっと胸を撫で下ろす。

 だが安心するのもつかの間、響の手が上着のボタンをするすると外してしまい、あっという間に濡れた上着を脱がされてしまう。

 

「響、ちょっと……! ……うん、ちょっと待とうか。何故、響まで裸になっているんだい?」

 

 上着を取り返そうと振り向こうとした提督は、背中に密着した響の布面積が限りなくゼロに近いことを瞬時に確認して目を背けた。

 ひとりだけ電トラップを回避したはずの響まで、何故か服を脱いで裸になっているではないか。

 

「何故って……。私も入ろうと思って」

「……今にして思えば、響に着替えを持って来てもらえばよかったんじゃないかな?」

 

 今さら気付いた提督の言葉に、さっさと湯に浸かってしまった暁と電は「その手があったか……」と衝撃を受ける。

 しかし響は「仲間外れはひどいな」と小さく呟くと、するすると肌着を脱がし、ベルトを緩め、手際よく提督を剥いてゆく。

 暁と電も最初は止めようとしていたのだが、前を隠すものがないからと湯の中から出られず、しかも提督が上半身裸になった時点で両手で顔を覆い、指のあいだからちらちらと動向を見守り出したのだ。

 

 これは裸に剥かれて醜態を晒すことになるのかなと、提督が悲壮な覚悟を決めたところで、やっと救いの女神が降臨した。

 

 

「私が居ないあいだに何やってるのよ!?」

 

 声は雷のもの。

 だが、その次に聞こえてきたのは、濡れた布で思い切り肉をひっぱたいたような、身も竦むような強烈な音だった。

 快音に思わず身を竦めた提督は、洗い場の鏡越しに、何故か響が2回転半ほど宙を回って顔から浴槽に落ちる光景を目の当たりにする。

 

 唖然として口を開けた提督が思わず振り向くと、見事に着地を決めたぞとばかりに両手を広げてポーズを取る響の姿があった。

 顔から着水したくせにと提督が苦笑いした次の瞬間、響は顔中にびっしりと脂汗をかき、両手で尻を押さえて湯の中でうずくまってしまう。

 提督がちらりと視界の端に捉えた響の尻は、人の掌の形で真っ赤に腫れ上がっていた。

 先ほどの雷の攻撃であることは確かだが、そもそも人ひとりを吹き飛ばす程の膂力に驚きを禁じ得ない。

 

 すごい音がしたものなあと、ふたりが険悪にならないかハラハラしていた提督だったが、響も雷も対して気にする風ではない。

 暁も電も呆れるか苦笑いするかで、まるでいつものことだと言いたげな雰囲気だ。

 状況について行けないのは、今のところ提督だけのようだ。

 

「……雷、少しは手加減を覚えた方がいい。お尻がふたつに割れてしまった……」

「元々割れてるでしょうに……。それと、みんなはさっさとこれを着る。はい、司令官にはこれね?」

 

 ため息を付いた雷は、今やパンツ1枚を残すのみとなった提督にバスタオルを渡す。

 

「もう振り向いても大丈夫よ? というか、鏡で全部見えてるかしら?」

 

 鏡で全部と聞いて暁と電が身を固くしたが、提督は急いで腰にタオルを巻いて見ていないよとばかりに首を振る。

 

 振り向いた先、雷は何故かスクール水着姿だった。

 どうやら暁たちに渡したのもスクール水着だったらしく、そして何故が電の分は色が紺ではなく白だ。

 

「どう? これなら司令官も恥ずかしくないでしょう?」

「うーん。違う意味で目のやり場に困るのだけどなあ……」

 

 気にしない気にしないと笑い飛ばした雷は、スクール水着と一緒に持ち込んでいたスポンジにボディーソープを垂らして泡立てはじめる。

 いったい何をと提督が冷や汗交じりに問えば、「洗うのよ? 司令官を」と、さも当然とばかりに返事する。

 

「司令官、島に流れ着いてからずっと、体拭くだけだったりドラム缶風呂だったじゃない? そろそろちゃんとしたお風呂に入りたかったんじゃないかなー、と思って」

「それはそうだけれど、雷にやってもらうようなことじゃあ……」

「いいからいいから、雷に任せて? それに……」

 

 隣りの洗い場から椅子をひっぱてきて座った雷は、スクール水着に着替えて恥ずかしそうにしている姉妹たちに(若干1名得意げな顔だが)振り向く。

 

「司令官に入渠ドックの説明ね。このままやっちゃいましょう?」

 

 

 

 ○

 

 

 

 雷の手によって体中丸洗いされてしまった提督は、自分が犬か猫か、そういった動物の類であれば良かったのにと、複雑な心境に陥っていた。

 この島に漂着して雷の診察を受けることになり、体の内外隅々まで見られ触られ、最早恥ずかしがることなど何もないと思っていたものだが、それが甘かったのだと自覚するに至った。

 問診や、体を拭かれたりといった接触があったのは、あくまで当時の提督が病人であったからで、提督自身もそうして自分の感情を割り切って受け入れたからこそ正気を保っていられたのだ。

 

 しかし、だからこそ雷の「はーい、お背中流しまーす!」は、相当に堪えた。

 親しくなった女の子が水着着用とはいえ、浴場で肌を密着させんばかりの距離感で自分の体を洗うというのだ。

 そして、今現在の提督は病人ではない、極めて健康な体調を維持している。

 その甲斐あってか、体の一部が意志とは無関係に粗相してしまうことにもなったのだが、雷に「いいのよ司令官、生理現象だもの! 健康な証拠よ!?」などと笑顔で言われ、頭の中が真っ白になってしまった。

 

 何よりもまずかったのは、当の雷がノリノリだったことだろうか。

 提督に対して何の遠慮もなく、さも当然といった風に行為に及んできたのだ。

 その接し方がまた絶妙なもので、男女のいかがわしい関係を匂わせるようなものではなく、まるで自分の息子か弟を風呂に入れてやっている風なのだ。

 これでは、ひとりで興奮していた自分が馬鹿ではないのかと、提督は余計に消沈してしまうのだ。

 

 

「あの……。司令官さんが遠い目をしているのです……」

「あれは敗者の目だね。自分の中の何かに敗北した目だ」

「雷があんなはしたない真似するからよ。レディにあるまじき行為だわ?」

「暁のレディ、久しぶりに聞いたわね。……まあ、やりすぎたとは思っているけれど、みんなお嫁に行ったら、いずれは旦那さんにしてあげることでしょう?」

 

 お嫁に行く気なのかと、雷に視線が集まるが、当人は困った顔で「ないない」と手を振る。

 

「はあ、駄目ね。司令官を見ていると、ついお世話したくなっちゃう……」

「それは、僕が頼りないから、なのかな……」

「ああ、気にしないで司令官! クセなのよ、クセ。私の性分みたいなものなの! 人の世話を焼きたがるというか、人の仕事まで取っちゃうというか……。司令官を見ていると、なんというか、こう……、構わなきゃって気持ちになるの!」

「やっぱり僕が頼りないからじゃ……?」

 

 

 まあいいかと、気を取り直して顔を上げた提督だったが、それでも目の前の光景が直視し難いことに変わりはない。

 暁たちは水着を(スクール水着だが)着てはいるが、それでも異性と共に入浴するなど、提督にとっては異常事態もいいところだ。

 こうして湯船に浸かっている今現在、暁たちとは適度な距離を保てているが、これが狭い浴槽に密着して押し込まれでもしていたのなら、1分と持たずに気絶する自信があった。

 記憶を失う前の自分は、こういった状況に陥ったことなどなかったのだろうなと、提督は目のやり場を探して視線を彷徨わせる。

 

「……あの、やっぱりこれは、まずかったんじゃ? 司令官さんも、目のやり場に……」

 

 控えめにそう告げるのは、先ほどから赤らんだ顔が通常状態になってしまった電だ。

 雷の持ってきたスクール水着の中で、何故か電のものだけは紺色ではなく白だったのは、前述したとおりだ。

 頭を洗われている時に、提督が何気なく雷に聞いたところ、「気持ち罰ゲームのようなものね?」と返答があったが、それは不注意で浴槽に突っ込んでしまったことに対してだろうか。

 

 その、電の着ている白いタイプが、ひどい。

 白という色の特性か、あるいは生地の質のせいか、下の肌が若干透けて見えてしまうのだ。

 サイズも電の体に合っていないようで、胸元や尻が生地からこぼれてしまいそうなのを、湯の中で必死に押さえている。

 先ほど響と電が小声で話していたのを耳にした限りでは、「きつきつ?」「お股のあたりが、結構厳しいのです……」と、バスタオルの方が何倍もマシだったと言わざるを得ない様子だ。

 

 互いの方を向けない、目も合わせられない状態では、説明をする方もされる方も堪ったものではない。

 

「……色はともかく、サイズ的には暁に渡すべきだったわね」

「どういう意味よ!?」

 

 そういうわけで、ぷんすかと可愛らしく怒った暁が電の前に出て視覚的にガードすることで、互いの目のやり場を確保する手はずとなった。

 響を見ても雷を見ても姿勢を前に傾けざるを得なかった提督にとって、直視できる暁の存在はまさに天使そのものだった。

 スクール水着も何だかんだで一番似合っているとさえ感じる――とは、暁が半眼で睨んでくるので絶対に口には出せないが。

 

 

「あの、それじゃあ、入渠施設の説明に入りますね?」

 

 暁の後ろから、電が入渠施設に関しての説明を始める。

 

「この入渠場は、艦娘にとってのお風呂と医療修復施設を兼ねているのです。長時間の入渠は、奥の個別ドックになりますね。いま電たちが浸かっているこのお湯には特殊な成分が含まれていて、負傷や体の不調を整える働きがあるのですよ」

「負傷というと、確か、四肢の欠損や内臓の損傷までも治癒してしまうのだったね?」

 

 提督は先日食卓で聞いたことを思い出す。

 確認を取るように暁を見ると(今は他の3人には目を合わせられない)、どういうわけか響が「うんうん」と頷いて湯から立ち上がった。

 素晴らしい均整の体をあまり見ないようにと、視線を憮然としている暁に固定したまま、響が語ることを耳に入れる。

 

「そうさ。艦娘の肉体、頭部を含むおよそ3割の部位が無事ならば、例え心停止していても元通りに再生出来てしまうのさ。だから、私たち艦娘には傷というものが残ったりしないんだ。包丁で指を切ってしまったり、暴飲暴食で内臓を悪くしたり、あるいは情事の際のキスマークも、ね?」

 

 そして響は「ほら」と水着の尻の部分をずらして、先ほど雷にひっぱたかれた箇所を見せてくる。

 確かに、鏡越しの遠目で見ても真っ赤であった尻が、瑞々しい肌色に戻っているではないか。

 

 なるほどと、思わず直視してしまい息を飲む提督だったが、その顔が徐々に茹で上がっていく。

 暁と雷が「はやくそれを仕舞え」と、右手でモミジをつくる体勢に移行しなければ、今頃提督は気を失っていたか鼻血を噴いていただろう。

 

 

「ああ、それと……。高速修復剤は、在庫すべてが期限切れになっていたのです……」

 

 電が申し訳なさそうに告げると、暁たちは「まあ、しょうがないか」といった納得の顔を見せる。

 そんな中、響だけがびくりと肩を震わせ、顔をこわばらせた。

 近寄ってきた雷が提督に耳打ちするには、その昔、響が高速修復剤のバケツを被って抜けなくなってしまい、1日中そのままで過ごしたことがあるのだという。

 トラウマなのだ。

 ちなみに、取れなくなったバケツは被ったまま入渠することで外れたとのこと。

 

 さて、その高速修復剤の話だが、文字通り艦娘の負傷や不調を瞬時にして回復してしまう薬剤のことだ。

 正確には高速修復促進B液という名称であり、10ℓバケツ1杯分を個別のドックに投入し、入渠ドックの湯であるA液と反応させて効力を発揮させるのが一般的な使用方法だ。

 だが、この高速修復剤は空気と反応するとすぐに酸化してしまい、また長期保存ができない仕様になっている。

 この鎮守府に残っていた在庫も、そのすべてが“期限切れ”になっていたのだという。

 

 困った顔の電が、説明を続ける。

 

「開発資材同様、高速修復剤も本部からの支給以外に獲得方法がないのです。一度に大量の修復剤を確保しても、期限内に使わなければ劣化してしまうので採算が悪いことと。10年前当時のこの鎮守府は、前線の資材補給基地だったので、艦娘は在籍してても、大規模な攻略作戦に参加することはほとんど無かったのです」

「そうか。深海棲艦と交戦する機会が少ないとなれば、高速修復剤も大量には必要ないと判断されたんだね」

「はい。そんなところに、突然戦況が悪化して、急いで本部に修復剤を発注したのも間に合わず、入渠できずに前線の支援に出撃することもあって……」

 

 そうして、この鎮守府に在籍していた艦娘の多くが負傷したまま出撃し、帰って来なかったのだという。

 入渠しているあいだにも敵の航空機が島を空襲に飛来する恐れがあり、かつ増援が間に合う状況でもなかったため、長時間の入渠が出来ない状態だったのだ。

 この島が資材確保に置いて重要拠点であったこともあり、死守しなければならないという思いが強かったのだろう。

 

 その当時、唯一前線で深海棲艦と交戦した経験のある暁と響に聞けば、「地獄だったわ」と感情の籠もらない答えが返ってきた。

 当時の提督が病に倒れたのもちょうどこの時期で、暁たちにとっては一番つらい時期だったのだろうなと、提督はその心中を察する。

 

 

 しかし、これで入渠場に機能が正常に働いていることが確認できたので、脱出作戦にまた一歩近づいたことになる。

 そうなると「次は艤装との同期かあ……」と、暁たちはみな一様に表情を暗くしてしまうのだ。

 艤装との同期作業がどういったものかを、提督はまだ詳しく聞いていない。

 しかし、彼女たちの暗澹たる表情を見るに、肉体か精神にかなりの負荷がかかるのであろうことは、想像に難くなかった。

 

 そんな時、暁が何か思い出したのか、湯につかる皆を見渡した。

 

「ああ。ところで、さっきの話だけれど。ジョージって誰? 日本の人? キスマークつけるってことは、エッチなの?」

 

 それは“情事”のことだろうかと、暁以外のみんながぽかんと口を開けて目を丸くする。

 

「……暁ちゃんには、ずっとずっとピュアなままでいてほしいのです」

 

 妹たちに優しい眼差しのまま頭を撫でられ、暁は憮然としていた顔をさらに険しくする。

 提督に「どういうこと?」と視線で問うが、その提督までも頭を撫でるのに混ざりはじめたので、涙目で全員分の手を振り払った。

 

 

 そんな和やかな空気のなか、提督はひとつ疑問を抱いていた。

 暁の左目、その眼帯のことだ。

 今は、風呂ということで眼帯を外している暁だが、その左目は不自然に閉じられている。

 

 入渠ドックの説明が確かならば、艦娘の負傷は傷として跡が残らないはずだ。

 現に響がその効力を実演していたので、それは疑う余地がない。

 ならば、暁のこの目は、いったいどうしたというのだろう。

 傷を負っている風には見えないが、だとしたら普段からあんな物々しい眼帯を着用していた理由とは。

 

 何気なく暁のことを凝視する形となった提督は、当の暁が顔を真っ赤にしていることに気付いて、慌てて顔を逸らす。

 もうどこにも視線を向ける先が無くなってしまったので、仕方なく俯いて水面を眺めることに。

 

 

 そうして初々しい状態が伝播していく中、雷が困ったように鼻から息を吐いた。

 

「もう、司令官ったら。すぐにとは言わないけれど、慣れてくれないと困るわ? これから毎日一緒に入ることになるんだから……」

 

 さも当然と言わんばかりの発言に、響以外は驚いて雷の方を見る。

 注目を集める形となった雷は「え、私何かおかしなこと言った?」と冷や汗交じりに言うばかりで、自分が爆弾発言を投下したという自覚が全くない。

 ついには響にまで窘められる有り様で、提督はそんなやり取りを歪む視界の中で見守っていた。

 

 こんな状態が、これから毎日続くのだ。

 正直に内心を吐露するならば、これほど喜ばしいことはない。

 同時に、これほど過酷なことは、そう他にはないだろうとも。

 

 もし、何か気の迷いで、自分の理性の枷が外れてしまったとしたら?

 不覚にもその先を想像してしまった提督は、今度こそ気を失った。

 

 

 



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4話:艤装同期

 その日の暁たちが暗い顔をしていたのは、目にも明らかだった。

 つい先日、浴場でのぼせて気絶した後のどたばたや恥ずかしさを、数日も引きずることがなかったのは、まあ良かったのかもしれない。

 しかし、彼女たちのこんな顔を見るくらいならば、いつまでも気恥ずかしいままの方が良かったとすら、提督は考えてしまうのだ。

 

 暁たちが気落ちしている原因はわかっている。

 今日は以前から話に上がっていた、艤装の同期作業があるのだ。

 提督が早めにと朝4時に身支度して食堂へ赴いたところ、すでに暁たちは集まっていた。

 誰ひとり口を開かない。

 暁と響は先にテーブルについていて、雷と電は厨房で調理中。

 なんでも数日分の食事を一気に作ってしまうのだと言うことで、寸動鍋がふたつと、さっと火を通すだけで食べられる簡単なものを幾つかトレーに並べていた。

 

「同期が終わった後の私たちは、しばらくは何も手に着かなくなると思うから……」

 

 重苦しい口調で暁は言う。

 それ程に過酷なものだというのだろうか。

 提督の心配そうな表情に気付いた暁は、それでも「大丈夫よ! 死ぬわけじゃないんだから!」と笑って見せる。

 無理をしていることが一目でわかる、痛々しい笑顔だった。

 

 そんな暁の様子に小さく息を吐いたのは、隣に座る響だ。

 心配そうな顔を崩さない提督をじいっと見ていた響は、いつも通りの平坦な口調で、しかし提督の方を見ずに語りかける。

 

「司令官は本当に同期作業に立ち会う気かい? 自分で言うのもなんだけど、あまり気持ちのいいものではないから。悲鳴や絶叫が苦手なら、遠慮しておいた方がいいと思うのだけれど……」

 

 それは、気遣いからの言葉だろうか。

 そう直感する提督だったが、気遣いだけではないのだろうとも察していた。

 暁や響の気まずそうな顔を見れば、艤装の同期作業というものが、あまり人に見られたくないものであるのは明白だ。

 

「みんなが嫌なら、僕は執務室で待機するよ。それとも、何かあった時のために近いところで待機していた方がいいかな?」

 

 提督の言葉に、暁と響と、厨房の方で作業していた雷と電もこちらの方を見た。

 出来れば立ち会いたいところではあったが、彼女たちの反感を買ってまでするべきことかどうか、いまいち判断が付かない。

 だから、暁たちの意志に委ねることにしたのだが、みんな一様に煮え切らない様子だ。

 結局、痺れを切らした暁がひとりで提督の立会を確定させてしまう。

 

「そう言うわけで、なにかあったら司令官も手伝ってね?」

 

 もちろんだと頷く提督は、響が不服そうに顔を逸らすのを見逃さなかった。

 

 

 

 ○

 

 

 

 ――艦娘は艤装と同期することによって、“ありし日の軍艦の魂”とより強く結びつき、海上にて縦横無尽の機動を見せる。

 その“同期”とは、具体的には彼女たちの名前の元となった軍艦の記憶を、人間の体に置き換えて追体験するというものだ。

 竣工から解体まで――、と言えば聞こえはいいが、二次大戦中の海軍の艦は、そのほとんどが戦いの中で没している。

 つまり、艦娘が艤装と同期するということは、自らが戦い、負傷し、そして死ぬ間際の光景を、その痛みや苦しみをも、追体験するということなのだ。

 

 

「――まあ、暁が言ったように、実際に死んだりするわけじゃないけれどね? ……それでも一時的に視力が喪失したり、手足が動かなくなったり、っていう症例はあるらしいわ。肉体面もそうだけれど、一番キツイのは精神面ね」

 

 朝食の後。

 立ち寄った医務室にて、雷は遠い目をして提督にそう告げた。

 暁たち3人は先に現場に向かい準備を始めているのだという。

 窓の外は、ようやく空が明るみ始めたくらいの時間帯だ。

 提督は雷に呼ばれ、艤装の同期に関する簡単な説明と、それに対する心構えをレクチャーされているところだった。

 

 一通り説明を終えた雷は、掛けていたメガネを白衣のポケットに入れると、デスクの上にまとめていた資料を提督に手渡す。

 昨日から雷が纏めていた、艤装同期における艦娘のメンタルケアに関する資料だ。

 資料にさっと目を通す提督だったが、とても短時間で把握できるような内容と分量ではない。

 

「時間がある時にゆっくり見て貰えばいいわ。これも所詮は気休めだから。専門のセラピストがいるわけじゃないから、どうにもね? その辺、私たちも覚悟だけは出来ているから……」

 

 そう言って笑う雷だったが、その手元は震えている。

 提督にその震えを気付かれて、慌てて手をポケットの中に隠そうとする雷だったが、「無駄なことか」とでも言いたげな顔をして、やめてしまった。

 

「今この場で取り繕っても、同期の時になったら、きっとかっこ悪いところ見せちゃうから……」

 

 自分を落ち着かせるように深く息を吐く雷だったが、どうにも平静を取り戻すことが出来ないようだ。

 提督が何か飲むかとインスタントコーヒーの瓶を掲げてみせるが、雷は苦笑いして首を振った。

 きっと、後で吐いてしまうからと……。

 

 提督はそこで、今朝の光景を思い出す。

 暁たちは今朝から、ほとんど何も口にしていなかった。

 いつもは朝食をおかわりするほど食欲旺盛な彼女たちが、お茶の一杯を口にするのも躊躇っていたのだ。

 それでも、水と少しのシリアルだけは腹に入れていたのは、食事で少しでも気を紛らわせるためだったのだろう。

 

 心配そうな顔をする提督を安心させるためか、それとも自分を鼓舞するためか、雷が医務室の中を歩き回りながら、自分の持つ知識を語り始める。

 

「本来、艤装の同期作業っていうのはね、定期的に行われるものなの。鎮守府所属の艦娘は、原則として72時間以内に一度、艤装と同期して肉体と精神を調整、艦の魂との結びつきを確認するの」

 

 そうして定期的に同期作業を行うのは、艦の記憶に“慣れる”ためなのだという。

 自らの体が穿たれ、炸裂してバラバラになる記憶でも、数回に渡って追体験している内に慣れていき、いなし方を覚えるというのだ。

 精神への負荷を逸らし、軽減する方法を、そうして覚えること。

 それは、実戦で四肢が欠損したり、体に風穴が開いたりすることを「平気だ」「軍艦時代もこうだった」からと、自らが“艦でもあるのだ”ということを強く意識することにつながる。

 重傷を負った際に平静を保ち、冷静に対処するための基礎となるのだ。

 

 だが、雷たち姉妹は、もう10年もその同期作業を行っていない。

 彼女たちに下された待機命令の中に、艤装の同期は含まれていなかったのだ。

 そんな状態で、10年ぶりに艤装の同期作業だ。

 雷の見立てでは、先に述べたとおり精神に相当な負荷がかかるという。

 命に別状がないことは確実ではあるが、心まで死なないとは言い切れないのだ。

 

 

 饒舌になった雷は、その勢いで軍艦・雷の戦歴まで語り始める。

 

「例えば、駆逐艦・雷の戦績はね……。C作戦、H作戦で戦果を挙げて、有名なところだと電と一緒に敵兵を救助したところかしらね? それで、最後は潜水艦の魚雷を受けて、彷徨い彷徨って暗闇の中。どこに居るのかもわからない、誰もいない闇の中で、ひとりで沈んでいったわ……」

 

 立ち止まり、震える肩を抱くようにした雷は、力が抜けたように、その場に座り込んでしまう。

 慌てて提督が駆け寄ると、雷は弱々しい笑顔を見せてきた。

 

「……こうして、わかっているのにね? 10年前は何度も同じものを見ているはずだし、昔の資料も読んだりして、これからどんな記憶を追体験するのか、わかっているはずなのに……」

「わかっていても、辛いはずだよ。自分が死ぬところを体感させられるんだ。辛くないはずがない」

「それでも、私はまだマシな方かな……。艦首切断とか、船体が真っ二つとか、敵艦載機にハチの巣にされたり、一晩中炎を上げて燃え続けたなんて艦もあったんだから……。電だって何度も艦首壊れてるし、暁は全身穴だらけにされたりで……。響は……」

 

 姉妹艦たちの最後を語る雷の顔は、まるで自らのことのように辛そうだった。

 座り込んだ雷を介抱する提督は、「……でもね」という、少しだけ希望に満ちた声を聴く。

 

「でもね、悪いことばかりじゃないのよ? 伏見宮提督や、工藤提督が居たから……。軍艦の雷が、彼らを好きだってわかるから、そこは全然嫌な記憶じゃないの。それに、短い時間だったけれど、暁型のみんなと一緒に居られた時間だって確かにあったわ。さすがに、10年には満たない時間だけれどね?」

 

 悪いことばかりでなく、良いことを考えて、雷は不安を中和しようとしていた。

 何とか立って歩けるまでに持ち直した雷に付き添いながら、提督は「他には?」と話を振る。

 良かったことをもっと引き出して、心を鼓舞しようと考えたのだ。

 

 しかし、雷は笑って首を振る。

 

「もう、そんなに心配しなくても大丈夫よ、司令官。それより、みんなのことをお願い。同期が終わったら、涙が止まらなかったり、ひとりで立てなくなったりする子が、絶対いるんだから。……私も含めてね」

 

 

 

 ○

 

 

 

 この島の鎮守府の出撃場は2箇所あったが、うち1箇所は現在閉鎖されている。

 10年前の空襲で、主に使用していた第一出撃場が破壊され、現在も瓦礫と岩が積み重なって塞がれているのだ。

 この鎮守府に住まう妖精の力を総動員しても、完全復旧まではひと月以上の期間がかかるのだと、翻訳役の響が言っていた。

 

 もう1箇所の第二出撃場は、島の裏手側、断崖絶壁をくりぬいて作られた小さなものだ。

 元々は駆逐艦や軽巡洋艦クラスの艦種が、第一出撃口の戦艦や空母といった強力な艦種の出撃を援護するため、先んじて出撃するために設けられた場所だ。

 第一出撃場の復旧に時間がかかる以上、当分はこの第二出撃場が主な出入り口になるとのことだ。

 

 そして、艤装の同期作業はこの第二出撃場の待機場で行われる。

 簡素な更衣室が横手にある、小規模なスペースだ。

 高い天井や壁面はコンクリート材質で、艦娘数隻分の艤装格納庫が鎮座している。

 入り口付近のパネルを操作すれば、指定した格納庫から艤装が取り出され、艦娘に装着されるという仕組みだ。

 

 

 提督と雷が第二出撃待機場を訪れると、すでに暁たちは同期作業の準備を終えていた。

 同期作業は長時間に及び、またその間、艦娘は一種の催眠状態となるため、専用のリクライニングチェアーが用意されている。

 薄暗い待機場の一角だけ照明の質が違い、その灯りに照られる椅子は、不気味の一言に尽きる。

 見ようによっては、死刑執行に用いられる電気椅子のようにも映るのだ。

 

 その椅子にはすでに暁が座っていて、響と電が横に立って提督たちを待っていた。

 各々が身に纏っているのはいつもの制服ではなく、頭部と手首足首のみを露出させた黒いインナースーツのような衣装だった。

 ダイバースーツよりも薄手であり、体のラインがよりはっきりと浮き出るものだ。

 

 こほんと、響が提督の元にやって来てこのスーツの説明を始める。

 

「このインナースーツは補助艤装の一種で、艦娘の肉体の保護するためのものなんだ。体温調節と、出血や四肢欠損時には患部付近の繊維が収縮して止血する働きがあるんだ。後は、筋肉が断裂した際に人工筋肉としての役割も果たすし、骨折の際には患部を固定する働きもある。製造メーカーは芝生重工だね」

「私たちの艤装はYDKRテクノロジー製で違うメーカーだけど、芝生重工は最初期から艤装の開発に携わっていて基礎をつくったところだから、他企業の艤装と互換性があるのよね?」

 

 響の説明を、更衣室の扉を開けたまま着替えはじめた雷が引き継ぐ。

 脱いだ服をロッカーの中に乱雑に放り込んで一糸纏わぬ姿になると、件のインナースーツを手に取って渋い表情になった。

 黒く心地よい肌触りの衣装を忌々しげに見つめ、意を決して袖を通してゆく。

 

 

「じゃあ、最初は私からいくわ? 一番最初に沈んだから、時間もそんなにかからないはずよ!」

 

 震えを抑え切れていない声で言うのは暁だ。

 強張った体を椅子の背に預け、さあ一思いにやってくれとばかりに固く目を瞑る。

 

 暁がそうして決意を固めると、響と電が頷き合ってパネルの操作に移る。

 時代がかった古めかしいパネルを操作すると、格納庫のひとつが展開し、中から艤装のひとつが取り出され、ゆっくりとその姿を露わにしてゆく。

 軍艦の煙突部分を模した機構は、暁型駆逐艦の正式装備である、背部艤装だ。

 

 クレーンの先に着いたアームが背部艤装をキャッチして、ゆっくりと暁の座る椅子まで運んでいく。

 自分の後ろ、その上部で艤装が止まったことを、音と振動で察した暁は、まるで注射を怖がる子供の用に固く目を瞑ってその時を待つ。

 ゆっくりと降りてきた背部艤装は、椅子の背部、接続用に肉貫された部分から暁の脇腹を挟み込むように接続される。

 そうして、艤装の同期作業が始まった。

 

 

 暁の言うとおり、彼女自身の同期作業は1時間もかからずに終了となる。

 だが、提督にとってその1時間は、これまで体験したどの1時間よりも長いものに感じられた。

 催眠状態に陥った暁は、同期作業中幾度もうわ言を繰り返していた。

 時には何らかの痛みに体を捩ったり、叫びを上げたくなる素振りを歯を食いしばって堪えたり、提督の目には、まるで拷問を受けているようにも見えたのだ。

 

 背部艤装との接続が解除されると、暁は糸が切れたようにぐったりと椅子の背に体を預けて動かなくなってしまった。

 全身汗まみれ、両目からは涙が零れつづけ、このままでは体中の水分をすべて出し切ってしまうのではないかとさえ思えるほどだった。

 

 

「暁? 暁! 大丈夫かい? 艤装の同期作業は終わったよ。もう大丈夫だよ! 暁!?」

 

 普段は大声など上げないはずの響が、珍しく叫ばん勢いで声を荒げるのに、暁の体がびくりと反応する。

 自分の顔を心配そうに覗き込む響にびっくりして、周囲の雷や電、そして提督の姿を見て、やっと自分が何をしていたのかを思い出したようだ。

 表情筋がうまく動かせないまま笑って見せるその様は、輪をかけて痛々しいものだった。

 

「……た、大したこと、なかったわね? 全然、全然へっちゃらよ?」

「じゃあまずは涙を拭きなさいよ? 立てる? 足に力入る?」

「な、泣いてなんか、いないんだから……!」

 

 響と雷に両脇から支えられて椅子から立ち上がった暁だったが、足に力が入らず前のめりに体勢を崩してしまう。

 それでも大丈夫だと言い張る暁を見ていられず、提督は暁の体を抱き上げた。

 びっくりして口をぱくぱくとさせている暁に構わず、提督は雷にこの後の処置を聞いてゆく。

 

「運ぶ先は、医務室じゃなくて入渠ドックにね? インナーは脱がさずそのままでいいわ。湯の中に頭まで突っ込んじゃっても大丈夫、息できるから」

 

 雷が要点を早口に述べていくのを記憶して、提督は暁を抱えて走り出した。

 

 

 

 ○

 

 

 

「あーあ。司令官にこんな格好悪いところ見せるなんて……」

 

 速足で入渠ドックへ急ぐ提督(走っていると、暁が気持ち悪いと言って口元を押さえたのだ)。

 その腕の中で、暁は残念そうに口をとがらせていた。

 相変わらずぐったりとした様子の暁だったが、しゃべり口はしっかりとしている。

 対して、その体は緊張して強張り、驚くほど軽く、流れ出てしまった水分のせいか、体温も平熱よりかなり下がってしまっているように感じられた。

 

「ほんと、10年前は3日に1回こんなことやってたなんて、信じられないわ。確かに辛かったり気持ち悪いと思うことはあったけれど、ここまでひどくなかったもの!」

「ブランク、というものなのかな? 3日に1度は同期作業を行う規則になっていたのは、こういった症状が起こるからでもあったのだろうね?」

「だったら同期だけでも許可してくれれば良かったのに……。これじゃあまるで、私たちに『もう戦うな!』って言ってるようなものじゃない……!」

 

 口をとがらせて言う暁に、当時命令を下した本部の人間は本当にそのつもりだったのかもしれないと、提督は考える。

 10年前に下された待機命令の内には、艤装のメンテナンスは出来ても、同期作業までは含まれていなかった。

 艤装そのものを整備はしても、艦娘が戦うための調整は、その中に含まれていないのだ。

 これを、どう捉えればいいのだろうか。

 

 提督が真っ先に考えたのは、これ以上この島の艦娘たちを戦いで失わせないための措置だ。

 出撃を制限して待機させ、救助隊を送ろうと考えていたのならば、そういった命令も頷ける。

 この島が重要な補給地点であったことも鑑みれば、ミスミス失うような采配はしないはずなのだから。

 

 だがそうだとすれば、救助隊は何故、この島にやって来なかったのか。

 敵の包囲網が厚く、救助を断念したという可能性も大きいとは思うのだが、どこか釈然としないものが喉奥に残るのだ。

 通信器が破壊されてしまったことも不運な痛手だ。

 これによって、この島の人員は全滅したのだと判断されて、救助が打ち切られたのかもしれない。

 

 

 様々な考えを巡らせていた提督は、ふと、暁が自らの服を弱々しくつまんで、何か言いたげな顔をしていることに気付く。

 

「ねえ、司令官。変なこと聞いてもいい?」

「なんだい、暁」

「私の体、その……。どこも、穴とか開いていないわよね? 血も出てないよね?」

 

 不安そうな声色に、提督は思わず足を止めてしまった。

 黒いインナースーツに包まれた暁の体にはどこもおかしいところなどない。

 暁の言うような穴も開いていなければ、出血もない。

 

 それでも、暁は不安そうに自分の体に手を這わせて、何度も負傷がないことを確認し続ける。

 まるで、見えない傷を撫でるように。

 

「……やっぱり、そうよね。怪我してないはずなのに。軍艦時代を追体験した時の感触がね、なかなか消えないの。今も、体中穴だらけになって……。燃料と、たくさんの命が流れ落ちていく感触が……」

「大丈夫。大丈夫だよ、暁。どこも怪我していないし、誰もいなくなってないよ? 同期作業は終わったんだ。もう、艦ではなくて、女の子の暁に戻ってもいいんだよ?」

「わかってる! わかってるけれど、消えてくれないの……!」

 

 ここまでひとつも弱音を吐かなかった暁だが、一度口にしてしまえば、もう止まらなかった。

 暁が自分の体が大丈夫か、どこも悪くないかと問うたびに、提督はひとつひとつ頷き、どこもおかしいところなどないと、暁は艦ではなく普通の女の子だと言い含めていく。

 

 先ほど雷に渡された資料の全てに目を通すことは出来なかったが、流し読みで要点を押さえることは、なんとか間に合っていた。

 艤装と同期が完了して、もしも艦としての記憶や感触が強く残留している場合は、艦娘が軍艦ではなく人間であることを強調して「人間側に引き戻す」のが重要だと書かれていた。

 あまりに艦の魂との結びつきが強いと、艦の側に引っ張られてしまい、人としての感情や考え方などを失ってしまう恐れがあるのだ。

 

 

 艦娘は、人としての心を失ってはならない。

 彼女たちをただの兵器だと考えている者たちからすれば、失笑を買いかねない考え方だろう。

 彼女たちを人としてしか見ていない者たちからすれば、何を当たり前なことをと憤慨されるもの言いだろう。

 だが、彼女たち艦娘が力を発揮するには、艦の魂と人の心、その両方が必要なのだ。

 

 人間では深海棲艦に対抗できない。

 兵器では深海棲艦に対抗できない。

 唯一、脅威に対抗しうるのは、人でもあり艦でもある、彼女たちだけだ。

 人の心と、艦の魂と、そのどちらが欠けてしまっても駄目であり、どちらか一方に偏りすぎても駄目なのだ。

 

 暁たちはこの10年で人の側に偏りすぎてしまっていた。

 だからこそ、艤装の同期でここまで精神に負荷が掛かってしまっているのだ。

 

 今の状態の彼女たちに精神の安定を与えるには、もう一度人間の側に引き戻す必要がある。

 その最も有効な方法が、食事や睡眠といった人間の生活サイクルを行う他に、話をする、触れ合うといった、単純な行為なのだ。

 だから、提督は暁の話を聞き続けるし、答え続ける。

 手を握ったり、頭を撫でたりもする。

 入渠ドックへ着くまでの短い間だったが、そうした処置を続けることで、暁の症状はだいぶ緩和されたように見えた。

 青白かった顔にもだいぶ血色が戻り、ふらつきながらもひとりで立って歩けるまでに回復して、自分の足で湯の中に入れていた。

 

 

「ありがとう、司令官。少しだけ楽になったわ。私はもう大丈夫だから、みんなのところに戻ってあげて?」

 

 暁に言われ、提督は逡巡しながらも浴槽の淵から立ち上がり、踵を返す。

 出来ることならずっとこのまま暁の傍に着いていたいが、まだ響たち3人の同期作業が終わっていない。

 これからあと3人ほど、この入渠ドックに連れて来なければならないのだ。

 

「……ねえ、司令官。後悔していない?」

「何をだい? 暁」

「私たちの司令官になったことを。こんなもの見せられる羽目になったことを……」

 

 後悔していないと短く言い残して、提督は入渠ドックを後にした。

 

 

 

 ○

 

 

 

 暁の後、同期作業は電、雷の順で行われた。

 どちらもそれほど長くは掛からなかったが、症状は暁の時よりもはるかに悪かった。

 電は一言も口を利けず、ずっと震えながら提督の服を握っていて。

 雷はうわ言を繰り返し、そもそも会話すら出来ない状態だった。

 それでも、入渠ドックの湯に浸けると、すぐに落ち着きを取り戻すことが出来たようだ。

 暁の両隣の個別ドックで、雷と電はすぐに力尽きて眠ってしまったのだ。

 

 眠ることも精神の安定を取り戻すために必要なことだが、同期時に追体験した内容が、今度は悪夢という形で再生されてしまう恐れもあるのだと、暁は語る。

 いっそうこの場を離れがたくなった提督ではあったが、暁がふたりを見ているから大丈夫だと言われ、最後にひとり残った響の元へ戻ることにする。

 

 

 提督が再び待機所を訪れた時、響はまだ同期作業の最中だった。

 普段こそ感情の起伏に乏しい彼女ではあるが、この作業に関しては感情の高ぶりを露わにしている。

 暁はじめ妹艦たちの身を案じて声を上げる姿は、艦娘・響のものであり、軍艦・響のものでものでもあるのだろうと提督は考える。

 こうして彼女が一番最後に順番を回したのは、駆逐艦・響が暁型の中では一番長い時間を生き抜いてきたからであり、その分同期作業にも時間が掛かると考えたからだ。

 

 椅子の背もたれに身を預ける響の手を握ると、微かな力で握り返された。

 反射的な行動なのだろうが、いつもの響ならば「わかっているさ」と得意げに返事したのだろうなと、提督は知らずの内に、口元に笑みをつくっていた。

 響の同期作業が終わったのは、それから数時間以上経った後のことだった。

 

 椅子から身を起こした響は、しばらくのあいだぼーっと虚空を眺めていた。

 すぐ隣で提督が手を握っていることに気付くと「やあ、司令官」と挨拶するものだから、一見して他の3人よりは症状も軽そうだなと、提督の目には映った。

 しかし、本当にそうか。

 心配した提督が抱き起そうとするのを、響は手で遮って拒否する。

 提督もそこでようやく、響が余裕を無くして、しかしそれを悟られたくないのだと気付いた。

 

 平静を装ってはいるが、その実まったく余裕がないといった風で、椅子からは自分ひとりで立ち上がろうとさえしている。

 しかし、同期中の感触が残っていて体の自由が利かないのか、すぐに体勢を崩して前のめりに倒れ込んでしまう。

 床に激突する前に何とか抱き留めた提督だったが、響は腕のなかでもがき、しきりに離れようとする。

 

「……ダメだ。司令官、はやく、離れて……!」

 

 震える声を荒げて響が言った直後、彼女の危惧していたことが起こった。

 うっと、胃袋がせりあがってくるような苦しげな声を出して、響は胃の中のものを吐き出したのだ。

 と言っても、朝からほとんど何も食べていない以上、吐き出されたのはほとんど水と胃液だけだ。

 響がしきりに提督から離れたがっていたのは、吐き気を我慢できなくなったからだ。

 

「……だから、離れてって言ったのに……」

 

 悪戯が見つかった子供の用に体を縮こまらせた響は、納まらない吐き気を堪えるように口元を手で覆う。

 提督は響の傍に寄り添い、背中をさすり続けた。

 

 

「……ねえ、司令官。どうして司令官は“これ”に立ち会おうなんて思ったんだい? “提督”は、こんなとこに立ち会う義務なんてないんだよ。そんな規則はないんだ。私たちの勝手に突き合わせて提督をやらせている身で、こんなものまで見る必要はないんだ……!」

 

 余裕を失った響からは、彼女が朝から抱いていたのだろう本音が次々と吐き出された。

 その変わりようにしばらく面食らっていた提督だったが、ひとつ頷いて、響を軽々と抱え上げた。

 驚いて目を丸くする響に「入渠ドックへ行くよ」と短く告げて、提督は歩き出した。

 その道行き、提督は朝から考え続けていたことを、少しずつ響に話してゆく。

 

「僕が立ち会いたかったからだよ、響。規則やそういったものじゃなくて、僕が本当に“提督”であったのなら、やらなければならないと思ったからだよ」

「同情かい? それとも正義感? 女の子が苦しむ姿に欲情する趣味でもあるのかい?」

「何もないよ、響。僕には何もないんだ」

 

 響は、次に言おうとしていた言葉を呑み込んだ。

 提督の反応が、自分の考えているものと違ったのだ。

 

「僕には、この島に流れ着く以前の記憶がない。でもね、ただ記憶がないだけじゃなくて、すべてが無いんだ。好きな食べ物も、好きな音楽や、趣味も、得意だったことも、好きだった人のことだって何ひとつ覚えていないし、わからない……」

 

 提督に抱きかかえられた響が見上げる顔は、ただ前を向いているように見えて、その先の何をも見ているようには思えなかった。

 

「空っぽなんだ。空洞で、何もない。自分の中から湧き上がってくるものが、何もないんだ。それが、たまらなく怖い。最初は全然そんなこと考えもしなかったのに、だんだん、日に日に、怖くなってくるんだ……!」

 

 その言葉を聞いて、そして自分を抱き上げる手に強張りを感じて、響はようやく、提督が何を考えていたのかを知る。

 この島に流れ着いた青年が、自分たちの提督になると決意した理由を。

 そこには、確かに同情や憐憫や、あるいは正義感があったのかもしれない。

 しかし、そんなことが建前になってしまう程、提督は恐れていたのだ。

 自分の中にある空洞に、空っぽに、虚ろに、恐怖していたのだ。

 

「こうして、この島で生活するようになっても、昔を思い出すような兆候が何もなくてね。だから、みんなが居てくれて、本当に良かった。みんなと一緒に居る時だけ、触れ合って、話をしている時だけ、僕の中の空白が埋まるんだ」

 

 それに、と提督は続ける。

 

「響は言っていたよね。響たちが僕を利用しているとは考えなかったのかって。――逆だよ。僕の方が、みんなに依存しているんだ。偶然、僕には提督の素質があって、みんなを助けることが出来て良かったって……。そう考えている自分に腹が立ってくるし、嫌になってくる……!」

 

 それは何故かと、響は問う。

 

「……僕には記憶がない。何もない。そんな僕は今日、苦しむみんなを見て、羨ましいとさえ思ってしまったんだ。自分のものじゃない記憶と痛みに、泣き叫びたい思いを我慢しているみんなをね。最低だよ……」

「……違うね。司令官のその顔は、羨ましいって顔じゃないよ」

 

 虚空を見ていた提督の目が、腕の中の響を見る。

 そこに居たのは、先程までの余裕を失くした響ではない。

 提督がいつも接している響だ。

 

「その顔は、私たちのことを羨ましいって考えている顔じゃないよ。悔しいって顔だ。確かに、空っぽの司令官は、自分に何もない負い目から、苦しむ私たちの痛みを、少しでも肩代わりしてやりたいって考えているかもしれない。実際に、そう考えているのだろうね。でも、それ以上に悔しいって思っている。その顔は、その悔しさは、怒りだよ」

 

 怒り。

 響の言葉に提督は面食らってしまう。

 近くに鏡がないので、提督は今の自分の顔を見ることができない。

 だから、響の言葉が本当かどうかを確かめるすべはないし、そもそもどうして自分が怒っているのかもわからない。

 

「私たちが苦しい思いをして、戦うための準備をしていることへの怒りだよ。この環境、この境遇に置かれていることへの怒りだ。司令官は、私たちのために怒ってくれているんだよ」

 

 そう言われたところで、提督に実感はなかった。

 怒りの感情というものを知識の上では知っているが、この島に来てからその感情を抱いたのは初めてだろう。

 記憶をなくす前の自分は、怒り方すら簡単に忘れてしまう程の大馬鹿者だったのだろうかと考えると、途端に恥ずかしくなってくる。

 

 そんな提督の顔を見上げる響は、いつもより少し力の抜けた顔をして笑うのだ。

 

「司令官がこんなに強い感情を顔に出すところ、初めて見たよ」

「響が余裕を失くすところもね?」

 

 お互いにひた隠しにしていたものを晒してしまったり、余裕がないところを見せてしまって。

 提督は気恥ずかしさで居た堪れなくなるが、響の方はいろいろ吐き出せて満足だと言いたげな表情だった。

 未だに追体験した痛みが残留しているはずなのに、それを感じさせない笑顔を見せてくる。

 

「司令官、まだ隠していることはあるかい?」

「僕は空っぽだって言っただろう? 本心を隠しておけるほど器用じゃないし、自分の心に気付けるほど敏感じゃないよ」

「そうみたいだね。だったら、私たちを助けたいと思ってくれたことも、確かな本心なんだよ……!」

 

 そうして、響は何事かを呟いた。

 提督は、確かにその言葉を聞き取ればしたが、日本語ではないその言葉を意味を計りかねて表情を曇らせる。

 

「スパスィーバ。ありがとうって意味だよ」

 

 

 

 ○

 

 

 

 そうして、艤装の同期作業はその日の内にすべての工程を終了した。

 明日以降からは実際に艤装を装備して水面に立ち、動作試験等を行うのだという。

 

 姉妹たち4人を入渠ドックに運び終え、脱衣所で一息ついていた提督は、響に言われた言葉を思い出していた。

 自分の感情に折り合いがつかずにもやもやしたものが胸の中に溜まっている気がする。

 確かに今、自分は空っぽではないのだろう。

 しかし、このもやもやした感情と、どう向き合っていけばいいのか。

 記憶をなくす前の自分は、こんな時にどうしていたのだろう。

 何か趣味に没頭したり?

 誰かに話を聞いてもらったり?

 わからない。

 

 脱衣所の鏡に映る自分を見ても、当然鏡の向こうの提督は語りかけてくることはない。

 ただ、鏡の前の提督と一緒に、悩ましげな表情を浮かべるだけだった。

 

 

 



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5話:動作試験

 

 

 

 第二出撃ドック。

 島の停泊場となる第一出撃ドックの反対側にある小規模なスペースは、艤装の装着訓練場をも兼ねている。

 とは言っても、その広さはバスケットボールのコートふたつ分が精々で、艤装を纏った艦娘が全速力で移動するには狭すぎる。

 だが、単に艤装の動作テストを行ったり、足を止めて砲雷撃の訓練をするには、この程度のスペースで充分なのだ。

 

 提督はひとりで先にドックを訪れ、鎮守府の書庫に残っていた書物を持ち込んで読みふけっていた。

 電の指示で、テーブルと椅子を待機所に運んで待機していてほしいと言われていたのだ。

 ひとりで椅子に座り、分厚い書の紙面を静かにめくる。

 古い紙の香りにどこか懐かしさを感じるものの、失われた記憶を取り戻す手掛かりには、まだ一歩、届かない。

 

 この鎮守府の蔵書は10年前の空襲でほとんどの蔵書は焼け落ちてしまったと言うが、こうして残っているものも確かにある。

 管理は電が行っているという話で、なるほど、古い本ながら紙面に傷みが少ないのも頷ける。

 そうしていると、いつの間にかテーブルに上がって来た妖精たちが、数体掛かりで別の本を運んでくる様を視界の端に捉える。

 表紙を見れば、艦娘関連の専門書だ。

 これを読んで、少しは艦娘についての知識を肥やせと言うことだろうか。

 

「ありがとう。あとで読ませてもらうよ?」

 

 提督の言葉に、妖精たちは満足したように散ってゆく。

 

 

「何を読んでいるんだい? 司令官。艦娘の運用指南書かな?」

 

 そんな時、響の声が提督に問うた。

 紙面から顔を上げた提督は、待機所から現れた響の姿を見て、思わず「ほう」とため息を吐いてしまう。

 

 響はいつものセーラー服の中に補助艤装の黒いインナースーツを着込み、背部艤装を含めた完全装備状態で出撃場に現れた。

 背部艤装の両脇には魚雷発射管と、その発射管を防護するシールドが付与。

 爆雷投射機や探照灯、右肩から突き出る連装高角砲の砲身、そして暁型艤装の特徴ともいえる大型のアンカーが尻の上で揺れている。

 脚部には魚雷発射管を防護するものよりも細身のシールドが配置され、縦に折りたたまれて収納されたそれは、膝頭までの高さがあった。

 一度艤装と同期を果たしたお陰か、完全装備状態にもかかわらず響の様子は安定して見える。

 

 思わず見惚れてしまったと言わんばかりの提督の顔に、響は照れくさそうに顔を背けて頬をかいた。

 昨日の艤装同期作業のあと、余裕を失くした響に散々なことを言われたのは記憶に新しい。

 そのことを指摘すると「……さすがにそれは恥ずかしいから、はやく忘れてほしい」と、恥じ入るように響は言うのだ。

 提督の前で余裕の無い自分を見せてしまったことと、いろいろと吐き出してしまったことが余程こたえたらしく、朝から顔を合わせる度に不自然に避けられてしまうのが困りどころだった。

 しかし、この様子ならば嫌われているのではなさそうだと、提督はひとまずの安心を得る。

 

 安心と言えば、艤装同期後の響たちが思ったよりも早く復帰したことだろうか。

 同期作業からまだ一夜明けたばかりではあるが、今朝の響たちは特に悪夢を見たり、不調に悩まされたりということはなかった。

 ただ、ひとりで眠りに落ちるのはやはり怖かったのか、昨晩は4人一緒に身を寄せ合っての就寝となった。

 久しぶりに4人で枕を並べて眠ったのだと、電が嬉しそうにしていたのを見ると、提督の方まで嬉しくなる思いだ。

 ――まあ、何故か、提督の執務室に布団を敷いて、提督が資料を読み耽っている横で眠っていたのだが。

 彼女たちの安眠が約束されるのならばそれでもいいかと、提督は微笑ましい気持ちでそう思うのだ。

 お陰で彼女たちの意外なクセも目の当たりにすることになったのだが、それはまた別の話……。

 

 

「この本かい? 海軍史だよ、響。第二次世界大戦、太平洋戦争時代の海軍の動きを追っていたんだ」

「それは、戦術を学ぶため?」

「そんなたいそうなことを独学でやるのは無謀だよ。それに、僕よりもはるかに優れた戦術を知っている娘たちが、この島には4人もいるんだから……」

「では、何故?」

「みんなの、艦としてのみんなの動きを、追いたかったんだ」

 

 艦の魂に刻まれた記憶、昨日響たちが体験した記憶を、記録としてでも自分の頭の中に入れておきたかったのだ。

 艤装と同期して、艦としての記憶に苦しむ彼女たちを目の当たりにした提督が、思い悩んだ挙句に行きついた考えが、軍艦としての彼女たちの記録を追うというものだった。

 あの苦しげな記憶を肩代わりしてやれない歯がゆさを埋めるための卑怯な行為だとは思ったが、それでも何もしないまま普段通りに彼女たちと過ごすことは、提督には出来なかったのだ。

 痛みを代わってあげられないならば、せめてどんな痛みを秘めているのかを知ることで、少しでも理解しようとしたのだ。

 

 しかし、響の目に浮かぶ感情は、呆れや冷やかさだ。

 

「司令官は少し勘違いをしているみたいだね。そうして私たちの記憶を辿って、少しでも私たちのことを理解しようしてくれているのは、ありがたいのだけれど。提督が同じ痛みを得ることを、私たちは望んではいないよ?」

 

 響は言う。

 その痛みは“響”だけのもので、誰にも負わせてはならないものだと。

 同情も憐みも、怒りも悲しみも大いに結構だ。

 しかし、その記憶を、同じ痛みを、他の誰かに与えるようなことは、艦としても、人としても、絶対にしてはならないことだと。

 

「空っぽの司令官は何か背負うものを探しているのかもしれないけれど、私は、おそらくは暁も雷も、電も、自分の痛みを肩代わりして背負ってもらうことなんて、望んでいないよ。理解してくれることは嬉しいと思うかもしれないけれど。……あんな醜態を晒した身で、説得力はないかな」

 

 それが艦娘としての、誰かを守って戦う者としての矜持だなのだと、響は言う。

 

 提督はその言葉を素直に呑み込み恥じ入るが、それでも記録を追うのをやめる気はなかった。

 このまま何も見ず、知らず、わからずのまま提督を続けることは、絶対に出来ないと考え、それだけは譲らないつもりだった。

 そう響に告げると、響は満足したように笑うのだ。

 

「背負おうとはしなくていいんだ。理解もそれほど重要じゃない。私たち求めているのは、私たちを許容してくれる人だよ。司令官がそうして理解しようとしてくれているのは、私たちを受け入れるために必要なことだからだろう?」

 

 だから、司令官が司令官で良かったと。

 笑顔でそう告げた響は「おっと、司令官が被ってしまったね」と、いつもの調子で冗談めかしてしまう。

 その反応に嬉しいものを感じる提督だったが、同時に物悲しさのような感情も抱いていた。

 艦娘たちが提督に求めているのは、痛みを肩代わりする誰かではなく、理解者でもなく、彼女たちを許容して見守る者なのだ。

 その姿勢に、その考えに、提督は尊いものを感じる。

 これまで人として接してきた彼女たちが、戦う者であるということを自覚する。

 少し物悲しくて、しかし嬉しくもあるのだ。

 

「本音で話してくれて嬉しいよ、響」

「司令官、私はいつでも本音しか話していないよ? ただ、今まではちょっと、言葉を控えていただけさ」

「ああ、そういった部分まで遠慮なく話してくれるようになったのが、僕はとても嬉しいんだよ」

「私は司令官のことが嫌いではないからね。むしろ大好きなくらいさ。とても弄り甲斐がある。暁の次くらいにね」

「だからって私を弄って楽しむって、妹としてどうなのよ!?」

 

 待機場の方から暁の怒った声が響いて来て、がちゃんがちゃんと脚部艤装が鳴る音が近付いて来た。

 響と同様の完全装備の姿。

 顔付きもいつもより少しばかり自信ありげに微笑んでいる。

 

 

「司令官。ごきげんよう、なのです」

「ごきげんよう、暁。今日は顔色が良いね?」

「もちろん、やっとこうして艤装を着けて水上に出られるんだから!」

 

 腰に手を当てて得意げに言った暁は、大きく息を吐いて第二出撃ドックを見渡す。

 

「昔はね、よくここで練習したのよ? 夜戦大好きな軽巡3人組に混じって、こっそり出撃もしたし……」

 

 暁は懐かしそうに目を細めて言う。

 その目は出撃ドックの水面を通じて、過去の風景を覗いているかのように提督には思えた。

 暁が話題にしたその“夜戦大好きな軽巡3人組”は、もうこの鎮守府には居ないのだ。

 

 当事者よりも自分がしんみりしてはいけないなと目頭を押さえる提督に、暁はおかしそうに笑って見せる。

 

「もう、司令官ったら。そんな顔しないで? レディの晴れ姿なんだから!」

「そうだよ、司令官。10年前は水上でバランスが取れずにあっちこっち転んで回った暁の晴れ姿……」

 

 提督の後ろに隠れつつ余計なことを言い始めた響が、諸手を上げて怒り出した姉から逃げつつ過去のエピソードを語るという器用な真似を披露する。

 

 響が言うには、暁がこの鎮守府に着任したのは4姉妹の中では一番最後であり、地下の建造ドックで生まれたのだそうだ。

 着任当時は当然というか、艤装の扱いが下手で、指導役の電や、件の軽巡たちの後ろをくっ付いて行き、昼に夜にと演習を行っていたのだという。

 

 背伸びして年上の組に入っていく暁の姿を想像して微笑ましい気持ちになった提督だったが、電が指導役と聞いて、あまりにその姿をイメージできずに「むう」と唸る。

 そうしていると、その電たちも出撃ドックにやって来るのを横目に捉えた。

 

 

「あー、もう。なにやってるのよ。あの馬鹿姉たちは……」

「ふたりとも、昔みたいに元気いっぱいなのです」

 

 暁と響が艤装を背負ったまま全力疾走で追いかけっこを初めてしまい(がっちょんがっちょん喧しい)、後からやって来た雷と電は、呆れと苦笑を顔に浮かべてため息を吐いた。

 どこか懐かしいと言いたげなふたりの表情に、10年前はこんな光景が日常茶飯事だったのだろうと、提督は在りし日の光景を思い描く。

 

 さて、出撃ドックにやってきた雷と電も背部艤装を装着してはいたが、先に来たふたりのように魚雷発射管や盾といった装備の類は接続していなかった。

 提督が聞くところによると、なんでも雷電姉妹は10年前当時艤装に大きなトラブルがあり、今ではまともに動かせるかどうかすら怪しいのだという。

 

「雷ちゃんの艤装は、ちょっとダメージが大きすぎて……。おそらくブラックボックスにも損傷が届いていると思われるので、本部でオーバーホールしても持ち直すかどうかわからないのです」

「それは電も同じでしょう? というか、電の場合はもう、年数が年数なのよね……」

 

 難しい顔をして言う雷に、提督がどういうことかと聞くが、電が雷の口を塞ごうと躍起になっているので、無理に聞かないよと引き下がる。

 何か聞かれたくないような事情があるのだろう察した提督は、「いずれわかるわ」と雷の渋い顔に書かれていたので、確信を得た。

 

 

 さて、そんな雷電姉妹だが、雷の方にはもうひとつの変化があった。

 いつも雷が掛けていたメガネが、今日はない。

 

「ああ、これ? 視力が戻ったのよ。艤装と同期して再び“艦娘”になったから、入渠して体の不調が治療されたのね。最適化された、とも言うのかしら?」

 

 今までの雷たちは、艦娘としての力が限りなくゼロに近い人間、という位置にいた。

 それが、艤装との同期を果たしたことによって、入渠時の治療効果を最大限に受けられるようになったのだという。

 

「これからもう生理なんかも来なくなるから、楽でいいわ?」

「これでもう、虫歯も怖くないのです」

 

 ふたり両極端な感想を述べる雷電に苦笑いを浮かべる提督だったが、どうしても雷に視線が引き寄せられてしまう。

 今までメガネをかけている雷ばかりを見てきたせいか、今の彼女に違和感というか、物足りなさを覚えるのだ。

 そんな提督の様子に気付いた雷は、ふふと笑って提督にすり寄って行く。

 

「なあに?司令官。メガネかけていた方が良かった?」

 

 にんまりと笑みを浮かべて聞いてくる雷に、提督は「そうだなあ……」と顎に手を当てて雷の顔をまじまじと覗き込む。

 提督の思わぬ反応に、笑みを浮かべたまま冷や汗をかいた雷は、視線を逸らすこともできず、顔に熱を溜め込んでいく。

 

「……うん。どちらの雷も、僕は好きかな」

「じゃあ、日替わりにする?」

 

 その光景を間近で見ていた電が「日替わりってなんだろう……」と動きを止めて様子を見守っていたが、やがて手元の作業に戻った。

 

 そうしているうちに、いつの間にか暁と響は準備を終えていたようだ。

 第二出撃ドックの1番には暁が、2番には響が立ち、艤装のアンカーを足元のフックにセットしている。

 

「それでは、艤装の動作テストを始めるのです。妖精さん、スタンバイ?」

 

 提督が出撃ドックに持ち込んだテーブルの上に、電は古びたノートPCを置いて立ち上げる。

 暁と響のモニタリングを始めるのだ。

 ふたりの艤装のデータは、内蔵された通信システムでノートPCへとデータを送っているのだと言う。

 どういう原理だろうかと目を凝らした提督は、艤装とノートPCの両方で妖精が紅白の旗を振っているのを見て、なんとなく仕組みを察して深く考えないことにした。

 

「あ、司令官さんにもPCの使い方を覚えてもらわないとなのです! 出撃時の艦娘のモニタリングは、司令官さんの役目でもあるのです」

「ぼ、僕に出来るかな……?」

 

 いまいちノートPCを扱えるかどうかに自信がない提督。

 それもそのはずで、電の手元を後ろから見ているのだが、キーボードをタイピングする速度が尋常ではなく、画面上に表示が現れては消えてを繰り返している。

 果たして自分にこれだけの動きが出来るだろうかと冷や汗をかく中、雷が笑顔で提督の背中を叩く。

 

「司令官が気後れすることないわ? 電はこう見えても、私たちの中で一番最初に竣工してこの鎮守府に配属になったんだから。前の司令官とも一番長く一緒に居て、よく事務処理やってたって言うし……」

 

 そう言って提督を慰める雷も「まあ、私もこれくらいは出来るけれどね?」と何気なく言うものだから、提督としては今からもう特訓が必要だなと決意を新たにする。

 

 

「そっちの調整はまだ!? こっちはいつでも行けるわよ!?」

 

 出撃ドックに立ち尽くしたままそう大声で問うのは暁だ。

 彼女の体や艤装には今や無数の妖精が満載され、それらが暁の指示を受けて、各艤装の中にすうっと消えてゆく。

 背部艤装や、高角砲や魚雷の妖精たちだ。

 響の方も見ると、こちらは指示が出されていないのにもかかわらず、妖精たちは勝手に動いて艤装の中へ消えていった。

 

「艤装の妖精さんたちとは思念で意思疎通が可能なのです。と言っても、こちらから一方的に指示を出して了解してもらうのがほとんどで、あとは敵機を発見した際に電探や見張り員の妖精さんが“敵機発見”って思念を送って知らせてくれるのです」

「そうなのかい? でも、暁は直接、妖精さんと話をしていたようだけれど?」

「それは、響ちゃんに比べて、艤装の操作性が落ちているからだと思うのです」

「私たちも、前はしゃべらなくても妖精さんが動いてくれていたのよ? やっぱりブランク大きいのね。暁で駄目なら、私も直接しゃべらないとダメかしら?」

 

 

 やがて電の方の準備が整い、いよいよ艤装の動作テストが開始された。

 

 

 

 ○

 

 

 

 艦娘は水上に両の足で立つことが出来る。

 それは、彼女たちが“艦でもある”という概念を得ているからであり、艤装のブラックボックスが果たしている最大の働きとも言える。

 彼女たち艦娘はそうして水上に立ち、歩くというよりは滑るようにして移動を行うのだが、それは微速であればの話、あくまで“人が水面に浮いた場合”の話だ。

 艦娘が“艦として”の移動を行う時は、脚部艤装を展開して踵の下辺りに“仮想スクリュー”と呼ばれる非実体のパーツを発生させて“巡航形態”となる。

 船舶の推進を司るスクリューのような形状をしているのだとは電談で、提督はノートPCにてその概略図を見せてもらい「青白いスクリューのお化けみたいだ」と、ひとりで頷いていた。

 

 この“仮想スクリュー”を回転させることによって、艦娘は初めて肉体の動作に頼らない推進力と、船舶並みの速力を得る。

 さらに、駆逐艦や軽巡洋艦、あるいは高速戦艦といった速力に利がある艦娘には“高速巡航形態”という艤装変形機構が搭載されている。

 特Ⅲ型暁型である彼女たちの艤装にも、その“高速巡航形態”は採用されている。

 暁型や、同YDKRテクノロジー社製である睦月型の場合は、展開した脚部艤装を連結しサーフボード状の一枚板に変形、水平二連となった仮想スクリューにて高速巡航を行うとのこと。

 

「今日のところは、その高速巡航形態に移行できるかどうかの確認がメインね。この形態取れるかどうかで、今後の作戦変わってきちゃうから……」

 

 そう言う雷は、先ほどから難しい顔を崩さない。

 まるで自分にはそこまでの力が無いと言っているようだと、提督はそういう印象を受けた。

 

 

 抜錨して水面に出た暁たちは、今や巡航形態で水上を移動している。

 足を肩幅に開いたままスキーのように直進したり、時折スケートのような滑る動きで方向転換を行ったりしているが、ふたりともその動きを苦にした様子はない。

 ただ、響が終始無言で動作を続けるのに対し、暁の方は常に口頭で妖精に指示を出している。

 思念が妖精に伝わり辛くなっているせいだろうか、指示を出し続けることでようやく響と同等の動きが出来るといった具合だ。

 

 暁たちのそういった移動に関する動作の他に、電は艤装の動作状況の確認を行ってゆく。

 ノートPCに送られて来る情報を閲覧し、それをリスト毎にチェック。

 

「……主砲、動作良し。高角砲、動作良し。魚雷発射管、展開良し。爆雷投射機、探照灯も動作良しです。……響ちゃん! 水中集音機の調子はどうですかー!?」

 

 ノートPCの画面から顔を上げた電が声を上げると、水上、ヘッドホンの様な形状の艤装を調整していた響がぐっと親指を上げてサムズアップした。

 どうやら動作は良好らしい。

 

 

 そうして打ち出された結果は、暁、響ともに高速巡航形態への変形が可能であり、操作性も全盛期の動きとほぼ同等と言えるものだった。

 

「これなら響、補助艤装のスーツ要らないんじゃない?」

 

 雷が腕組みしながら言うと、響は「いやいや」と首を横に振る。

 

「今の鎮守府では、艤装の致命的な損傷は修復できない。出撃するなら艤装も私たち自身も、両方守るつもりで戦わなきゃいけない。スーツは万が一の時のために必須だよ」

 

 至って真面目に言う響に、雷は満足そうに頷く。

 その答えが聞きたかったと言わんばかりの反応に、響はふうと息を吐いて肩をすくめる。

 

 しかし、ここで疑問を抱いたのは提督だ。

 てっきり、艦娘たちはみんなこの黒いインナースーツを服の中に着用して戦場に出撃していくのだとばかり考えていたので、雷の「インナースーツがいらない」という考えが適用される者が居るのかと驚いたのだ。

 その説明は、響が行う。

 

「まあ、最初期にはこのインナーを着用せずに出撃する艦娘も、結構な数いたよ。私たちも、本来はこれを着なくても感度は良かったんだ。そもそも、こんなもの着ていたところで、戦艦クラスの砲弾が直撃すれば木端微塵だからね?」

 

 響たちがこの補助艤装を纏う理由は、単純に体が大きくなって、敵の砲雷撃を受ける面積が増えたことと、そうして負傷した場合にでも体を動かせるようにするという部分が大きい。

 確かに、子供の背丈ほどの大きさしかない駆逐艦ならば、それだけ被弾する面積を抑えられるなと、提督は納得しかけて「いやいや」と首を横に振った。

 自分が提督ならば、そうではなくとも艤装開発者ならば、そんな小さな駆逐艦たちに有効な防護艤装を着用させないはずがないと考えたのだ。

 

 同意を求めるように暁たちを見れば「まあ、そう思うよね」と苦笑いで頷かれてしまった。

 

「10年前時点の風潮では、この補助艤装はほとんどの艦娘が着用するようになっていたと思うよ。私たちの衣装が壊れやすいという特性もあったからね?」

 

 艦娘の衣装というものは、そのほとんどが着衣としての機能“しか”有していない、敵の攻撃に対してはほぼ無力に等しいものなのだという。

 その脆さの理由というのも、被弾や負傷の箇所を即座に確認できるように破れやすくなっていると言うのだが、あくまで女の子でもある艦娘からすれば迷惑を通り越して憤慨ものの仕様だ。

 

「まあ、そういうわけでこの黒インナーをみんな着るようになったのよね。さすがに目の前に敵しかいないとは言われても、ねえ?」

 

 雷が響の説明を補足してテーブルから離れて行ってしまうが、そうするとさらに不可解なことが浮き出てくる。

 

「艦娘の衣装が破れやすいのは負傷を即座に確認できるようにとのことだけれど、このインナーを着ていたら一目でわからないのでは?」

「ああ、これ、透けるんだ。透明になるんだよ」

 

 響の言葉に提督が反応するより早く、セーラー服の腹がめくられた。

 黒いインナースーツ越しにくびれた腹部が浮き出ているが、それが次の瞬間、響の肌の色に変わる。

 驚く提督に、響はしてやったりと目元を緩める。

 

「可視波長を弄って色を変えられるんだ。だから、普段は中に着ていても透明にしておいて“着ていない”ように見せかけることも出来るし、万が一被弾して服がボロボロになってしまった時は黒に戻して隠すことも出来る。芝生重工最大の功績とも言われているね」

 

 得意げに腹を見せてくる響に、提督は視線を背けつつ隠すようにと指示する。

 

 

 さて、一方でテストの結果に満足しなかったのが暁だ。

 響と同等、全盛期の動きが出来るとはいえ、妖精との意思疎通は口頭で行わなければならない。

 それは、あらゆる動作が一拍遅れることを意味する。

 戦場においては致命傷になりかねないタイムラグだ。

 

 水上から戻り、難しい顔でPC画面に表示されているデータを睨んだ暁は、自分の艤装の上で同じようにデータを見ていた妖精たちに、いくつか指示を出してゆく。

 

「背部艤装の高角砲を、右舷側から左舷側へ換装してちょうだい。それと、補助艤装の多目的アームの増設もお願い。左右に一機ずつ、彩樹機関のやつね?」

 

 改装指示の意図に提督は思い至らなかったが、響や電は「やっぱりそうするのか……」と暁の考えを知っているような素振りだ。

 提督がその意図に言及しようとしたところで、出撃ドックから不満の声が上がる。

 

「ちょっとー!? 終わったんならこっちのサポートお願いー!?」

 

 ノートPCに釘付けになっている提督たちに、いつの間にかひとりで出撃準備していた雷が不満げに大声を上げたのだ。

 

 

 さて、そうして今度は雷の番となったのだが、先のふたりとは打って変わって危なっかしいと言わざるを得ない有り様だった。

 水上を航行時に幾度も体勢を崩し、艤装の展開速度も目に見えて一拍遅い。

 背部艤装の調整や妖精たちとの疎通を密にすることでようやく安定した航行が出来るようにはなったが、それでも暁たちの動きと比較するとだいぶ劣ってしまうと言わざるを得ない。

 

 そして、ようやく姿勢が安定したのはいいが、今度は速力が出ないことが問題となった。

 暁型駆逐艦は航行性能に利があるはずなのだが、現状の雷の航行性能は全盛期の半分近くまで落ち込んでいたのだ。

 それから時間をかけて数々の補助艤装を試したが、ついに速力が上がることはなかった。

 無論、高速巡航形態への移行もままならず、予定していた開発資材奪取作戦はおろか、出撃も出来るだけ控えるというべきだという結論に至っている。

 

 

 現実を突き付けられ「ああ、やっぱり」といった表情でしばらく俯いて膝を抱えていた雷だったが、それで終わる彼女ではない。

 電に他系統の駆逐艦の艤装データを引っ張り出してもらい、暁たちを交えて何事か提案を始める。

 それは――、

 

「……防空特化の改装って、できないかしら?」

 

 それは、砲雷撃能力を捨てて対空装備を充実させる改装だ。

 

「今の速力だと、外洋に出て戻って来るのにも一苦労だし燃費悪いしで、砲雷撃も一歩遅れて足手まといになるわ。だから、私が出撃するとしたら、この島を守るために近海に陣取る形になると思うの。敵の空襲に備えるためね?」

 

 雷の提案に真っ先に反応したのは暁だ。

 テーブルを叩いて焦りを露わにする。

 

「ちょっと待ちなさいよ! 駆逐艦1隻で敵の空襲防げるわけがないでしょう!? 第一、空襲を察知してから出撃したんじゃ遅いわ!?」

「わかってるわ、暁。わかってる……。でも、気休めくらいさせてよ?」

 

 雷の悔しそうな、残念そうな顔に、暁はもう黙るしかない。

 速力が出ない以上、艦隊に組み込めば足手まといになることは、艦娘の雷ならば良くわかっている。

 まして、今回の開発資材奪取作戦の要は速力だ。

 自分が足手まといになるわかっていて、それでも着いて行くとは口が裂けても言えないのだ。

 

 だからこそ、島を防護するための防空特化改装を欲したのだが、そもそも駆逐艦1隻で迫りくる敵艦載機を相手取ることは無謀だ。

 駆逐艦の中には防空駆逐艦と呼ばれる対空能力に優れた艦も存在するが、もちろん雷はその種類ではない。

 速力も砲雷撃能力も低下ししてる現状、そういった改装をする道しか残されていないのだろうが、改装できたとしても運用の面で難が出てくる。

 雷本人の言うように、本当に気休めなのだ。

 

 

「速力はともかく、砲撃能力は何とかなりそうなのです。もちろん、防空仕様への改装も」

 

 そう告げた電がノートPCのキーを叩くと、奥の待機所で格納庫が展開する物音が響いた。

 出撃ドックのみんなが見守る中、クレーンアームがとある艤装を運んで来る。

 それは、駆逐艦が運用する連装砲に、寸動型の砲塔部と舵、スクリューを設け、自立稼働を可能にしたという代物だった。

 

「……これは、顔の無い連装砲ちゃんかい?」

 

 響がその艤装の正体を言い当て、雷が肯定するように説明を始める。

 

「はい、島津研究所の自立稼働型連装砲なのです。島風型の予備機として、ブランク状態のものがいくつか在庫に眠っていたのです」

「こっちから妖精さんに指示を出しても感度が悪いから、自立稼働の連装砲に独自の判断で動いてもらえ、ってことね? でも、そんなのうまく行くのかしら?」

「さあ……。こればかりは、時間をかけてテストしてみないと何とも言えないのです。島津研究所の初期型はワンオフでピーキーなものが多いので……」

「そんなこと言ったら彩樹機関の艤装なんてどんなオーバーテクノロジーって感じよ? 宙に浮く艤装があるわ、唯一近接兵装あるわで……」

 

 艤装談義を始める暁たちを見て、さすがは艦娘なのだなと、置いてけぼりにされた提督はさびしそうに笑ってその様子を見守る。

 艦娘にとって艤装とは、自らの半身であり、戦うための力であり、そして女の子としてのファッションでもあるのだという。

 そう聞いてしまうとこだわるのも頷けるというものだが、暁たちの中の誰ひとりとして艤装をファッションとして見ていないことが、彼女たちの余裕の無さを感じさせる。

 

 結局、その自立稼働式連装砲とのマッチングを数日かけてテストするということで、雷の艤装動作テストは終了となる。

 まだ戦える目はあるとわかったが、雷の悔しそうな表情は変わらなかった。

 

 

 さて、艤装の動作テストは電を残すのみとなった。

 いざ背部艤装を装着して出撃ドックに立つ電は、緊張からだろうか、足が震えてしまている。

 見守る暁たちもハラハラと落ち着きがなく、先程とは打って変わって緊張感に満ちている。

 

「で、では……! 電、艤装動作テスト、開始するのです!」

 

 精いっぱいの気合を入れて脚部艤装を展開した電は、水上に大きく一歩を踏み出した。

 電は「とぷん」と気持ちの良い水音を残して、水中に沈んだ。

 

 

 



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6話:昔話

 

 動作テストを終えた電は、体も乾かさず服も着替えず、ひとり待機場の更衣室に籠り、膝を抱えて俯いてしまっていた。

 

 意を決して水上に踏み出した電があっさりと沈んだ後、慌てて提督や暁たちが電を引き上げて事なきを得た。

 もしも、安全装置代わりでもあるアンカーを外して水上に出ていたとしたら、艤装の重さのせいでクレーンを使わなければ引き上げることもできなかっただろう。

 

 そんな危険な状況にあった電だが、引き上げられてすぐに動作テストを再開してほしいと願い出た。

 その申し出に、暁たちは渋い顔をする。

 出来れば今日は動作テストを切り上げ、日を改めようと考えていたのだ。

 しかし、どうしてもと食い下がる電に、提督が動作テスト再開の申し出を許可した。

 

 そうして電は再び水上に足を踏み入れようと試みた。

 しかし、どうしても足が水面に着かず、沈んでしまうのだ。

 幾度も調整を繰り返しやっとのことで水面に立つことは出来たが、今度は仮想スクリューが展開しないことが発覚する。

 出来るだけの手を尽くしたが、こればかりはどうにもならなかった。

 雷と同様に艤装のオーバーホールが必要という判定になったのだが、微力ながら推進力が生きている雷に対し、電は艦としての推進力を完全に失っていた。

 今の電が海上に出ても、人力で水上を滑る程度の速力しか出せない。

 雷以上の足手まといだ。

 

 そうして意気消沈した電は、暁たちの励ましの言葉も耳に入らず、待機場の更衣室に籠ってしまったのだ。

 

 

「……みんなは知っていたのかい? 電の艤装がもう駄目になってしまっていたって」

 

 提督が問うと、暁たちは申し訳なさそうに顔を伏せた。

 やはり、知っていたのだ。

 

「電の艤装は、定期的なメンテナンスはしていたけれど、オーバーホールはずっと出来ていないらしいんだ。ずっと秘書官の仕事をしていたせいで先延ばしにしていたらしい。それに……」

 

 事情を話そうとする響だったが、途中で口ごもってしまう。

 その先は、雷が引き継いだ。

 

「それに、そんなところに敵機の集中砲火食らっちゃったのよ。私を助けるために……」

 

 まるで、自分のせいで電が戦えなくなったのだと言いたげな雷の様子に、提督は大まかな事情を察するに至った。

 電の艤装は長期に渡ってオーバーホールを行わず、そこに敵からの致命傷を受けて駄目になってしまった、ということだ。

 

 この鎮守府には艤装をオーバーホールする設備は存在しない。

 日本本土の海軍本部まで赴かなければ、ブラックボックスの修復が出来ないのだ。

 しかし、秘書官という立場上、電は長期間この鎮守府を離れることが出来なかった。

 いや、自ら進んでそうしなかったのではないかと、提督は推測している。

 

 さて。それよりも今は、こうして落ち込んでしまった電をどうするかだ。

 こればかりは暁たちも腕組みして唸らざるを得ない。

 

 

「だって、あんな風に落ち込む電を見るの、初めてだもの……」

 

 悔しそうに言う暁は、力任せに帽子の上から頭をかきむしる。

 「おやめよ」と響にその手を止められ、憮然とした顔になる暁は、話し合いの輪から外れてひとりでテーブルに座ってしまう。

 

「今までお互いに、こうならないように逃げて来たんだ。そりゃ、見たことないはずだよ」

 

 響の斬り込むような言葉に、暁の背中がびくりと震え、雷は申し訳なさそうな顔でため息を吐いた。

 10年間、お互いがお互いを守るために距離を保ってきた結果だ。

 それは決して悪い判断ではなかったが、これから先もそうだとは限らない。

 

 人と人との関係には、いずれ限界がくる。

 恒久的に良好な関係を保ったままでいられる者たちなどいない。 

 それは、艦娘でありながら、より人間に近付いてしまった暁たちとて同じだ。

 

 暁たちも理解している。

 そろそろ限界だということを。

 もう自分たちの関係に、変化をもたらさなければならないということを。

 

「思えばさ。4人になってから、喧嘩したことも一度や二度じゃなかったけれど……、取り返しがつかなくなるような致命的なのは、なかったものね?」

 

 雷が姉たちに問えば、響は頷き、背中を向けたままの暁は俯く角度を深くする。

 そういった事態になることを避けてきたからだと言えばその通りなのだが、改めて向き合ってみれば、なんとも言葉にし難いものがある。

 相手のストレスにならなように良い顔だけを見せてきたものが、今さら本気で衝突出来るのだろうか。

 

「ああ、もう! こんなんじゃ私たち、大人になったのか子供のままなのか、わっかんないじゃない!」

 

 苛立たしげな暁の言葉に、提督はそれは違うよと告げる。

 

「大人になったとか、子供になったとかじゃなくて、人になったんだよ。たぶん」

 

 艦娘3人からぽかんとした顔を向けられて、自分の言葉に自信を失う提督だったが、おそらく的を大きく外してはいないのではと、確信も得ている。

 彼女たちの日常のおよそ半分を占めていたのは、艦娘として深海棲艦との戦いだ。

 海上に出て敵と戦うことが存在意義だった彼女たちが、その戦いを取り上げられた結果、どうなったか。

 閉鎖された環境下でお互いを気遣って、10年ものあいだ生活を続けてきた。

 互いに壁をつくってまで、その生活環境を維持するということは、相当なストレスに耐えてきたということでもあるはずだ。

 

 提督はこの島に漂着するまでの記憶を失くしているが、彼女たちのような関係を保つことがいかに難しいか、それは理解できた。

 いくら仲の良い姉妹でも、例え血を分けた家族でも、修復不可能なまでに壊れてしまった関係は、二度と元には戻らない。

 自分たちがそうならないように、互いに気をつかって来たからこそ、彼女たちは今こうして、再び戦いに出る準備を始めることが出来たのだ。

 

「ちなみに、喧嘩したことは一度や二度じゃないって言っていたけれど、普段はどうやって仲直りしているんだい?」

 

 何気なく聞いた提督だったが、暁たちは言葉に詰まったように押し黙ってしまった。

 まさか、喧嘩したままなのかと早とちりする提督だったが、暁が慌てて違うと両手を振る。

 

「何というか、その……。大人の解決方法、と言うか……」

 

 いまいち要領を得ない言葉に提督は首を傾げるが、響と雷は何やら思いついたようで、互いに頷き合っている。

 

「じゃあ、その方法でいこうか。私たちは準備するから、司令官は電を励ましてあげて」

 

 そう言い残した響は、暁と雷を連れて出撃ドックから引き揚げてしまった。

 待機場に取り残されしまった提督は、響に言われた通り、電を励ますために、更衣室の扉へと向き直った。

 

 

 

 ○

 

 

 

 更衣室の扉をノックする。

 しばらく待っても、呼びかけても反応が無いので、一言断って更衣室に入る。

 電は更衣室の中で膝を抱えてじっとしていた。

 せめて頭だけでも拭けと雷に被せられたタオルがそのままで、提督には彼女の表情がうかがい知れない。

 

「となり、失礼するよ?」

 

 断りを入れて電のとなりに座るが、反応はない。

 更衣室内は今や空調の音しかせず、静かなものだ。

 提督は、ただ電のとなりに座るだけで、話しかけようとも触れようともしなかった。

 それであって、彼女の言葉や行動を待つわけでもない。

 ただ、電のとなりに座っただけだった。

 

 

「……司令官さんは、何も言わないのですね」

 

 どれほどの時間が経っただろう。

 静かな更衣室にようやく電の声が生まれる。

 

「なんて声を掛けていいか、わからないからね。それに、電は今、僕の言葉が欲しいわけじゃなさそうだ」

「それは、その……」

 

 何かを言い掛けて、電は口ごもってしまう。

 のど元まで上がって来た言葉を口にするべきではないとう風に。

 

「となりに座っていても大丈夫だったかな? 嫌じゃあない?」

「そんな、嫌なわけでは……」

 

 言い淀む電の言葉を、そのままにする。

 その先を促すようなことはしない。

 話したければ話してほしいと考えてのことだったが、果たしてその思いが伝わっているのかどうか、提督は不安になる。

 かと言って、電にその確認をするのは憚られた。

 余計な気遣いや押し付けがましい考えで、彼女を押しつぶしてしまわないだろうかと、臆病になっていたのだ。

 

 嫌だとも言われなかったが、本当はひとりきりにしてほしかったのかもしれない。

 そうだったとしたら、本当に迷惑なことをしてしまったと思う。

 無言で苦悩する提督の横顔を、電はタオルの陰から見ていた。

 

 

「……もしかして、響ちゃんに何か言われたのですか?」

 

 突然響の名前が出てきて、提督はびくりと肩を震わせた。

 その様子に、電はタオルで顔を隠したまま、おかしそうに笑うのだ。

 いつもの電の笑みと声だ。

 

 電は頭に乗っていたタオルで頭を拭き、それを首にかけて、ようやく提督を見た。

 その目はいつもの電のようでいて、しかし提督の知らない人物のようでもあった。

 

「司令官さんは、私たちのことを理解してくれようとしているのですね?」

「余計なお世話だったかな?」

「そ、そんなことはないのですよ!? とっても嬉しいのです! ……でも、私たちは艦娘だから、司令官さんに余計な心配を掛けたくないとも思ってしまうのです。でも……」

 

 そうして再び口ごもる電は、今度はしっかりと、考えを、思いを言葉にする。

 

「電は、甘えちゃいそうで怖いのです。私たちのことを理解しようと、受け入れようしてくれる司令官さんに、どこまでも甘えちゃいそうで……」

 

 自制が利かなくなるからと、電は多くを話すべきかどうかを迷っていたのだと言う。

 艦娘の本分を忘れ、蔑ろにして、自分自身を駄目にしてしまうからと。

 

「僕が、もしもの時は止めてほしいって言ったから、余計に頼れなくなってしまったのかな?」

「いいえ、それは、そう言ってもらえたことは、素直に嬉しかったのです。司令官さんに頼ってもらえて、電は嬉しかったのですよ? でも、私も、暁ちゃんたちも、誰かを過度に頼るなんてことを、しなくなっていたので……」

 

 困ったように笑う電に、提督はどうしたものかと、自らも困った顔になってしまう。

 頼れとも言えず、無理をするなとも言えず、かと言って「提督として」などと息巻いて何かを言えば、それは電にとって無理をさせてしまうのではないかとも、考えてしまうのだ。

 

 しかし、そう考えていること自体が、電たちがこの10年間で積み上げてしまった遠慮の壁なのだろうなと、気付く。

 だから提督は、今まで考えていたことを、一度すべて脇に置いた。

 

「電、悩みがあるなら話して。これは提督からの……、お、お願いだよ?」

 

 命令、とまで強くは言えなかった。

 “お願い”という言葉で、ずるく逃げるのが精いっぱいだったのだ。

 

 “お願い”された電はと言えば、目を丸くして「ええええ!?」とびっくり仰天。

 ここまでの流れで、どうしてその結論に至ったというのか。

 提督自身そう考えて頭を抱えたくなるが、電はおかしそうに笑う。

 

「お願いするのが雷ちゃんだったら、大喜びで失神しちゃうところだったのです」

「それは……、大変だね。注意しないと……」

 

 その光景が容易に想像できるのが如何なものかと思うが、いずれ彼女にも同じことを言うかもしれない。

 今から覚悟しておかねばと提督は思うのだ。

 

 

「じゃあ、ちょっとだけ、お話を聞いてほしいのです。あんまり話し過ぎちゃうと、甘えて沼にはまったみたいに抜け出せなくなってしまうから、ちょっとだけ。電の艤装のお話と、この鎮守府のお話」

 

 はあ、と息を吐いた電は、遠い目をして提督の近くにすり寄っていった。

 ぴたりと肩をくっつけたのは、少しだけ甘える覚悟が出来たからだろうか。

 

 

「私の、電の艤装は、10年前に解体が決まっていたのです。“この駆逐艦・電”は、建造から今年で30年目。艦娘で言うと、もうおばあちゃんみたいなものなのです」

 

 さらりとした口調で、特に意を決した風もなく自然に、電は提督に告げた。

 10年間、誰にも話せなかったことを、ゆっくりと話し始めた。

 

 

 

 ○

 

 

 

 電が建造されたのは30年前。

 この孤島ではなく、大阪にある海軍の施設だ。

 彼女は最初期の建造ドックから産み落とされたプロトタイプなのだという。

 正式配属先は横須賀鎮守府、その後は各地の鎮守府を転々として、この孤島の鎮守府にやって来たのは20年も前なのだという。

 

「ここには、左遷みたいな感じで配属されたのです。私は、“電”の意志は、沈んだ敵も助けたいと考えている甘ちゃんだったので、海域奪還に躍起になっていた当時の司令官さんたちからは、ちょっと煙たがられていたのです」

 

 こんな辺境と言っても差し支えないような場所に配属となったことも、まあ仕方ないなと、電は考えていたのだそうだ。

 艦としての電の魂の声と、人としての電の想いがぴたりと一致してつくりだされた艦娘・電は、艤装の扱いならば最初期に戦線投入された艦娘の中では、誰にも負けなかったのだという。

 どれくらいの実力だったのかと提督が聞けば、「単艦で敵の戦艦級を複数沈めることが出来た」のだと言う。

 いまいちイメージ出来ない提督ではあったが、ひとまず凄かったのだろうことはニュアンスで伝わって来た。

 

 そんな圧倒的な戦力を誇るにも関わらず、電は敵を沈めることを良しとしなかった。

 なるべくなら、戦いたくない。

 沈んだ敵も救いたい。

 艦と人と、両方の電がそう考えていたのだ。

 

 平和を愛し、なるべくならば敵でも救いたいと願う艦娘の存在はしかし、戦力としての艦娘を欲する最前線の提督にはお荷物以外の何物でもなかったのだ。

 そうして各地の鎮守府をたらい回しにされて、最後に配属となったこの島は、鎮守府がやっと立ち上げられたばかりの最前線補給基地だった。

 

「亡くなったこの島の司令官さんは、電の考えを尊重してくれて、なるべく出撃させないようにって、気を使ってくれていたのです。その代わり、事務仕事やお掃除や、お料理なんかも、いろいろやりました。もちろん、遠征も建造のお手伝いも。……あまり公に出来ない、研究のお手伝いも。出撃して深海棲艦と戦う以外は、なんでもやらせてもらったのです」

 

 そうして、この鎮守府で提督の秘書官として活動することになった電は、今までの重苦しい悩みから解放されたのだと言う。

 1日ごとに新しい体験があった。

 他の鎮守府から艦娘が配属(電同様左遷が多かった)されて来たり、新しい機材が入ったり、補給に来た艦娘や人間たちとの出会いも、姉妹艦との出会いもこの島だった。

 

 姉妹艦や他の艦娘たちの面倒を見る日々は幸福なものだったと電は語るが、その表情はちっとも嬉しそうではない。

 ここまでの話を聞いて、提督は何となくではあるが、その理由に辿り着いていた。

 提督自身が感じていることで、これからより一層自覚しなければならないことだったからだ。

 

 

「ここでの日々が幸せだと思う度に、自分だけ戦わないことが申し訳なくて、素直に幸せだと思えなくなっていたのです。だから、電も段々、また戦いに出るようになっていったのです」

 

 再び戦場に立った電は烈火のような活躍を見せたが、同時に自分の力が衰えていることも悟っていたのだという。

 先に響が話した通り、それまで定期的にメンテナンスは行っていた電の艤装だが、出撃を控え事務仕事優先であったことや予算の関係もあり、大掛かりなオーバーホールは見送っていた。

 細やかなメンテナンスを続けてきたものの、ブラックボックスに致命的な損傷があることには、ついに気付けなかったのだ。

 損傷が発覚した時にはもう手遅れで、戦えば戦うほど艤装の操作性は落ちて行くだろうと診断され、近いうちに艤装の解体が行われることが決まった。

 

 艤装の解体、それは艦娘としての寿命を意味する。

 人の体と艦の魂とを完全に切り離し、深海棲艦と戦う力を二度と失うことだ。

 と言っても、電は艤装を解体してもこの島の鎮守府に残り、今まで通り事務処理を担当することが決まっていたそうだ。

 長年この鎮守府で寝起きし、様々な部署の立ち上げに関わってきているので、他の誰よりも内情を良く知っていたのだ。

 

 だが、電の艤装はすぐに解体されることはなく、継続して戦場に出る日々が続いた。

 その時期がちょうど、この孤島近辺の海域が徐々に深海棲艦の領域と化して来ていて、前の提督が病に伏せっていた頃でもあったからだ。

 日に日に動作が鈍くなる艤装を振るって戦う電だったが、徐々に成果を上げられなくなっていった。

 

 そして、前の提督が亡くなってしまう。

 その訃報を本部に伝え、電は返答を待たずに出撃ドックに立った。

 生き残ったこの島の人員を外海に退避させるための護衛と、囮となって時間を稼ぐための部隊が必要だったのだ。

 電は囮部隊の一隻として、出撃するつもりだった。

 後任の提督代理はすでに見つけていたので、その者に後を任せて。

 おそらく最後の出撃になる。

 そう覚悟して艤装を装着した電は、先ほどのように水上に立つことが出来ず、沈んでしまったのだ。

 

 

「……一番大事な時に、電の艤装は動かなくなったのです。この時、暁ちゃんは重症を負って入渠ドックに入ったばかり。響ちゃんはオーバーホールを終えた艤装の再調整中。雷ちゃんは脱出艇の護衛役で出撃していたのです。電と一緒に出撃するはずだったみんなは、先に出撃して行って……」

 

 そして、二度と戻ることはなかった。

 

 やがて、出撃した部隊の全滅を知らせるかのように敵機の空襲があり、鎮守府は焼き払われた。

 脱出艇に乗らず最後まで正気を保ってこの島に残っていた人間たちも、その時命を落としたのだ。

 電が後任代理を任せた提督代理も助からない重傷を負っていて、電に海軍本部からの「待機命令」を告げると、そのまま意識を失い、後日息を引き取った。

 

 そうして、この島には艦娘の4隻が残された。

 唯一島の外に脱出できたはずの雷は、脱出艇が安全圏まで逃げ延びたのを見届けると、護衛に着いていた他の艦娘たちの制止を振り切って、島に戻ってきてしまったのだ。

 雷の戻ってきたタイミングは最悪だった。

 敵の空襲の真っただ中だったのだ。

 駆逐艦一隻では応戦できるはずもなく、雷の艤装は深刻なダメージを受け、提督が動作テストで見た通り、安定性と速力を失っていたのだ。

 

「雷ちゃんが防空特化の改装を望んだのは、電のせいなのです。私がその時、雷ちゃんを助けようとして、無理な改装をして海上に出たから……」

 

 雷が防空特化の改装を願ったのは、10年前に電がそうしたからだと言う。

 今日の動作テストのように、沈む体を何とか水面に立たせるまでに調整した電は、雷に提案したような防空改装を行い、単艦で空襲の雨の中へ飛び込んで行ったのだ。

 そうして雷を救助して鎮守府へ帰還したのだと電は言うが、提督はそれだけではないと察していた。

 ただ防空仕様の改装を行って雷を助け出しただけならば、雷自身があそこまで改装に拘る理由が弱い。

 

 提督は、この鎮守府の状態を思い出す。

 ところどころ破壊されているにしては、やけに無事な部分が残っているなと、今にして思うのだ。

 無数の敵機が爆撃したのならば、跡形もの残らなず更地にされていてもおかしくはない。

 それが、跡形が残っているどころか、まだ人が住める状態なのはどういうことか。

 

 きっと、電は戦えてしまったのだ。

 20年にも及ぶ期間に戦場で培った技術と経験が、無理な改装を押して出撃したにも関わらず、敵機を圧倒してしまったのだ。

 

 

 

「……そして、それから10年経って。なんとなくみんな諦めかけてきたところに、司令官さんが流れ着いたのです。提督になる素質を持ちながら、おそらく誰よりも提督に向いていない、お兄さんが……」

 

 提督は電の言葉に背筋が凍るような感触を覚えた。

 思わず覗き込んだ電の瞳は、まるで海の底のように深く、すべてを呑み込まんばかりの優しさを湛えていた。

 見透かされている。

 提督が抱えている焦りや臆病さが、まだ響にしか打ち明けていないはずの内心が、この艦娘には見通されているのだ。

 

 慄く提督に、電は「だって……」と困ったように笑って見せる。

 

「司令官さん、電と似ているのです。考えていることがわかってしまうのですよ。それに、これからもっと、電とおんなじことで苦しい思いをするって、わかってしまうのです……」

 

 それはきっと、艦娘を戦わせておいて、自分は戦況を見守るしかできないという苦しさだ。

 提督自身、これから先、幾度もそういった場面で歯がゆく苦しい思いをするだろうことは予測していた。

 電はその痛みを知っている。

 秘書官として長年、様々な提督に寄り添ってきた経験と。

 自らが戦えなくなったことで初めて得た失望と。

 これから提督が得ることになる痛みを、誰よりも知っているのだ。

 

 提督は電を見て思う。

 この艦娘の痛みは背負えないと。

 同じ痛みを知っていて、しかし互いの傷の舐め合いなど、出来ようはずがない。

 この艦娘は、戦う者の痛みと、戦えない者の苦悩、その両方を知っている。

 提督がしたり顔で「キミの気持ちは良くわかるよ」などと、口が裂けても言えるはずがない。

 

 

「はあ……。司令官さんにお話を聞いてもらって、ちょっと心が楽になったのです。ありがとうなのです」

 

 いつもの電に戻ってそう礼を言われるが、提督は心から「どういたしまして」と頷けなくなっていた。

 そんな提督に、電はさらに笑みを深くして言うのだ。

 

「心が楽になったのは、本当なのですよ? ……自分の足で立つようになって、誰かに寄り掛かることをしなくなると、なかなか元には戻り辛くなるのです。私は、暁ちゃんみたいに真っ直ぐじゃないし、響ちゃんみたいに器用じゃない、雷ちゃんみたいに我慢強くないから……」

 

 だから、こうして提督に弱い部分を見せることが出来たのが、本当に救いになったのだと……。

 

 提督は考える。

 自分の中にある不安や焦りは、先程の悩みと一緒に横に置くことにした。

 向き合わなければならないものだと自覚してはいるが、今だけは彼女のことを考えよう。

 提督として、記憶のない青年として、電にしてやれることはないか。

 答えはひとつだけだった。

 今そうしているように、彼女の話を聞いてやること。

 それしか、出来ることがなかった。

 不甲斐ない自分の情けなさを恥じる思いはあるが、そんな自虐、自己満足の感情は不要だ。

 

「話してくれてありがとう、電」

 

 告げることが出来たのは、それだけだった。

 こう告げることしか出来ない。

 少なくとも、今は。

 

 これから先、もっと辛いことが待ち受けているかもしれない。

 その時、彼女の話を聞いてやれる誰かが必要だ。

 もしかしたら、電が内に秘めていたものすべてを、暁たちに打ち明ける日が来るかもしれない。

 それは明日かもしれないし、永遠に来ないかもしれない。

 だがそれまでは、提督がこの艦娘の寄り掛かれる場所になるのだ。

 もう二度と、ひとりで泣かなくてもいいように。

 

 

「司令官さん、電の支えになる、なんて考えていませんか?」

 

 あっさりと考えを読まれ、提督は観念したように「そうだよ」と告げた。

 

「余計なお世話、というわけでは全然ないのですが……。それでも、ひとりで泣きたい時だってあるのですよ? 誰にでも必要なことなのです。でも、今は……」

「今は?」

「こうして、ぴったりくっつきたい心境でした」

 

 肩と肩が触れ合っている状態から、電はさらにすり寄ってくる。

 

「それに、逆なのですよ? 司令官さんが電を支えるんじゃなくて、これからは電が司令官さんを支えていくのです! 出撃できない以上、専属秘書官決定ですからね。司令官さんだって、記憶が戻らなかったり、司令官さんやったりで、これからたくさん辛いことがあるはずですから……」

 

 これからたくさん辛いことがあるはずだから。

 電の言葉を聞いて、提督はなんとなくだが、これからのあり方を見つけた気がした。

 これから起こる辛いことを相殺して、プラスに出来るくらいの幸福を。

 難しいことだが、唯一自分にも取り掛かれそうなことだ。

 具体的な方法などすぐには思いつかないが、心構えはそうして行こう。

 

 電を励ますつもりが、逆に元気付けられる形になってしまいため息を出んばかりの提督だったが、これはこれで良いのかもしれないと自分を納得させる。

 傍に寄り添う電の安心しきった顔を見ていると、そう思うのだ。

 

 

 

 ○

 

 

 

 更衣室のドアを開けて響が入ってきた。

 暁と雷もいる。

 提督の肩にぴったりとくっついていた電が慌てて離れるのを、姉たちはどこかホッとした様子で見ていた。

 どうやら提督がうまくやったのだな、という顔をしているが、提督としてはそれを訂正する気はない。

 それよりも気になるところがあったのだ。

 響たちがそれぞれ手にしているもの。

 提督の疑問の視線のなか、響は手に持っていたものを掲げてこう言うのだ。

 

「それじゃあ、呑もうか?」

 

 響たちは各々、手に酒瓶を握っていた。

 なるほど、確かに大人の解決方法だ。

 提督は頷きかけて、「いや待て」と二度見した。

 

 

 



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7話:酒宴

 

 

 

 なんかもう、凄いことになってしまった。

 提督は料理の皿をテーブルに置きながら、苦笑いに笑む。

 先程から顔が苦笑いの形に固定されてしまったものの、悪い気分ではないのでこのままでもいいかなと思ってしまう。

 

 艤装の動作テストが終わった後。

 提督が落ち込んだ電を励ましているあいだに陽は沈んでしまい、すっかり夜になってしまっていた。

 手早く入渠を済ませた暁たちは、更衣室で宣言したように酒盛りを開始してしまったのだ。

 夕食という名のつまみは、艤装同期作業前に雷と電がつくり置きしていたものが、まだかなりの量残っている。

 提督は暁たち第六駆逐の面々をテーブルに座らせ、つくり置きされた料理に火を通したり温めたりしてテーブルに運ぶ作業を続けている。

 今日は提督自らが給仕役に徹しようと、響からこの酒宴の子細を聞いた時点で決めていたのだ。

 

 喧嘩したり、仲たがいしそうになった時に、彼女たちはこうして酒を入れて、有耶無耶にして来たのだという。

 決して衝突するに至った問題を解決するわけではなく、お互いの感情を一度フラットにするためのアルコールなのだ。

 提督はその説明に、首を傾げざるを得ない。

 そんな、諍いに発展するレベルに高ぶった感情に酒を注いだら、余計にヒートアップしてしまうのではないかと考えたのだ。

 だがそんな疑問は、今の雷と電を見てしまえば、たちどころに霧散してしまうのだ。

 先ほどから提督が浮かべている苦笑いの原因が、テーブルで肩を組んで笑いあっている雷と電なのだ。

 

 

 艤装の動作テストで出撃不可判定なった雷電姉妹だが、このふたりの呑んだくれて具合が極めて凄まじい。

 テンションが激しく上がったり下がったりを繰り返して、今はちょうど上がり傾向に入って落ち着いてきたところだった。

 アルコールが入ってからの雷電(肩組んで合体して離れないため、提督は雷電と一括りにした)は、まずは泣き、次に笑い、犬になり、猫になり、そしてまた呑んでを繰り返すのだ。

 雷はカルーアミルクやカシスオレンジ等の甘めのカクテルを。

 電は焼酎やウィスキー、日本酒といった、酒好き丸出しの選択だ。

 

 呆れ顔の暁と響が頬杖着きながら「雷、牛乳飲めないくせに、お酒に入れるとガンガン呑むのよね?」「次の日お腹下して大変なことになるけれどね」などと言っている。

 電に対しては「痛風」「虫歯」「肝硬変」「動脈硬化」「お尻が大きい」「類稀なる安産型」と魔法の呪文で煽るのだが、酔った電は寛大な心で「にゃははは」と笑い飛ばしている。

 もしかすると、今の電ならばいつものようなドジを踏まないのではないか。

 顎に手を当ててそう勘ぐった提督だったが、酒瓶をひっくり返しそうになって慌てているので、彼女もいつも通りだなと一安心する。

 

 

「お酒のような嗜好品も、漂着物の中にはあるのだね?」

 

 自らも席に着いて一息ついた提督が問うと、新しい酒瓶の封を切った響が「もちろんさ」と頷いて見せた。

 

「この孤島に流れてくる荷は、太平洋を横切ろうとしている貨物船のものさ。その大半が日本のものと言ってもいいくらいだよ。……あれから10年も経つのに未だ危険な海路に頼らざるを得ないのか、それともなんらか意図があってわざわざ海路を選んでいるのかは、定かではないけれどね。まあ、もちろん、酒類は年に数回巡り合うか否か、くらいの確率だけれどね。ただ、輸送品としてコンテナに満載されているわけだから、内容量は察してもらえるかな?」

 

 コンテナの中に満載された酒瓶を想像した提督は、さぞ壮観だろうなとため息を吐く。

 

「ところで司令官。ウォッカとは、ロシア語でどういう意味か知っているかい?」

「んん? いいや? 知らないね」

 

 突然、響がそんなことを聞いてくるものだから、提督は咄嗟に否と返してしまう。

 提督の頭の中に残っていた知識を改める限りでは、彼はロシア語に明るいとは言い難い。

 ロシア通の響が口にするワードが時折わからないことがあるが、彼女も気をつかってかなるべく日本語で話すようにしているため、今まで気にならなかったのだ。

 

 疑問を浮かべた提督に、気を良くしたものか、響は酒瓶のラベルを見えるように掲げて得意気な顔になる。

 

「――水、という意味さ?」

 

 提督が何か反応するより早く、響はウォッカの瓶を角度をつけてあおり始めた。

 目を見開いた提督が慌てて止めようとするのを、立ち上がった響はするすると回避する。

 踊るようにくるくると回って提督の手を逃れた響は、早速中身を空にした瓶を天に向かって掲げて、叫んだ。

 

「うううううぅぅらああああぁぁ!!」

 

 腹の底から咆哮した響は、酒瓶を左手に持ち替え、窓の向こうへ敬礼する。

 意味がわからず固まっている提督の後ろから、暁が「響、ロシアそっちじゃない」と指摘を飛ばし、響は回れ右して再度敬礼した。

 どうやらロシアの方角へ向けて敬礼しているつもりだったらしい。

 雷や電のように躁鬱のような感じはなくいつも通りなので、てっきり響は酒に強く、酔いもそれほどひどくはないと考えていた提督だったが、その認識を改めた。

 響も結構酔っぱらっている。

 まったく顔に出ないだけなのだ。

 

「大丈夫よ、司令官。響は一応、私たちのなかじゃ一番お酒強いの。それに、体が完全に艦娘になってる今らなら、入渠ドックに放り込んで完全回復しちゃうんだから……」

 

 呆れ顔の暁が言うには、艦娘は入渠することによって、二日酔いすらも「肉体の不調」として調整されるというのだ。

 便利すぎやしないかと呆れる提督だったが、緊急時の挙動を考えれば都合が良いなと頷かざるを得ない。

 ものの数分かそこらで体内のアルコールを完全に分解して酩酊状態から脱することが出来るのならば、非番の時でなくとも酒が呑めるということだ。

 羨ましい者にとってはこれほど羨ましいことはないだろう。

 

 提督がそんなことを口にすると、暁は「どうかしら?」と肩をすくめる。

 

「だって、お酒が好きな人って、ただお酒を呑むんじゃなくて、雰囲気まで含めて楽しむものなんでしょう? せっかく気分良く酔っているところに出撃警報なんて聞いたら、気分も雰囲気も台無しじゃあない?」

 

 そういうものなのかと提督が感心したように頷くと、暁はしばらく訝しげな顔をして、やがて「ああ」と何事かを思い出したように頷いた。

 

「そう言えば、司令官は記憶がないから、お酒飲んだことがあるかどうかもわからないのよね?」

「そうなるね。……試してみたい気はするけれど、ちょっと怖いかな」

 

 テーブルに並ぶ酒瓶と、興味津々といった艦娘たちの輝かしい顔を見て、提督は少しだけ身を引く思いだ。

 提督がこの島に漂着した際、電が様々な料理を出して、提督の味の好みを割り出すということを行っていたが、その中に酒の類は含まれていなかった。

 いざこうして酒宴が始まってしまったわけだが、提督は酒類に口をつける気にはなれなかった。

 たったいま暁に言ったように、怖かったのだ。

 

 アルコールの匂いを嗅いでくらりと眩暈がしたので、提督は自分がお酒に弱いタイプの人間なのだと思い込んでしまっているのだ。

 ただお酒が苦手な人間だったなのなら、まだいい。

 しかし、体質的に一滴でも入れてはならない人間が居るのだと、宴席の前に雷に脅かされていたことも、慎重さに比重を置く結果となっていた。

 

 

「司令かーん、無理して呑まなくてもー、いいのよー?」

「なのですー。電たちはー、無理に飲ませたりなんてー、しないのですよー?」

 

 「ねー?」と雷電が互いに頷き合い、優しい顔でそう告げるのを、提督は苦笑いしながら聞いていた。

 彼女たちが無理に酒を勧めてくるような性格でなくて本当に良かったと思いながらも、どこか寂しくもあるなと提督は感じていた。

 その寂しさを紛らわせるために、提督と同じく飲まずに妹たちを見守っている暁に話を振ることにする。

 

「みんなは、いつからお酒を? だいぶイケる口みたいだけれど」

「そうねえ……。電は、前の司令官の晩酌に付き合っていたから結構昔からだと思うわ。響はこの鎮守府の酒飲み勢に混ざって飲んでたし、前の鎮守府でも相当やってたんじゃないかしら? 雷は、この島に取り残されてからね。ちょうど今くらいにまで背が伸びで、おっぱいが大きくなって来た頃かしら?」

 

 意外と時期が疎らなのだなと頷く提督に、電と半ば合体していた雷がしゃっくりしながらテーブルに身を乗り出して語り出す。

 

「ひっく! ……艦娘がストレスを発散したりー、精神の安定を保つためにはー、人間と同様の日常生活を送る必要があるのー。特に、三大欲求は重要よねえ? 美味しいものたくさん食べたり、ぐっすり眠ったり、エッチしたりー。もちろん、お酒もひとつのストレス発散、精神安定の手段なのよー? 私たち駆逐艦はー、体が子供だったからー、味覚や趣向の問題でお酒呑む子少なかったけれどー、ちゃあんとアルコールを分解できるのよー?」

 

 感心したように頷く提督に、雷と入れ替わるように電が前に出る。

 

「それにもしー、急性アルコール中毒の症状が見られた場合ー、入渠ドックに放り込めばー、さっぱり全快するのですー。昔はこの鎮守府の呑兵衛さんたちがー、夜な夜なドックに放り込まれるなんてことものあったのですよー?」

 

 今の鎮守府の状態からは想像できない光景に「むむむ」と顎に手を当てた提督は、目の前の雷電が翌日げっそりした顔をして、暁と響の手によって抱え上げられ、入渠ドックに放り込まれる姿を幻視した。

 思わず吹き出してしまった提督に、笑われた雷電は猫になってにゃあにゃあと抗議を始める。

 

 まあまあと、テーブルの上を這ってくる雷電を手で制して押し留めていると、新しい酒瓶を抱えてきた響が椅子ごと提督の隣に移動して来た。

 今までのやり取りを聞いていたのか、酒瓶の封を切りながら話に参加してくる。

 

「まあ、そうは言っても、駆逐艦の体型はほとんど子供みたいなものだから、世間の眼やら、世論やらがうるさくってね? そんなわけで、私は前の鎮守府でウォッカをちょろまかしたのを咎められて、この鎮守府に送られて来たんだ。素行不良で左遷ってわけさ」

「そんなことがあったのかい? ……ん? 暁の話では、この鎮守府では普通にお酒を飲んでいたというけれど?」

 

 暁に聞けば、ちょうどつまみのフライを口に居れようと大口を開けていた動きを止めてムッとしてしまう。

 

「この鎮守府は、そこら辺緩かったのよ。艦娘に関する規定は、最低限の事項さえ守られていれば、後は各鎮守府の裁量にゆだねられる部分が大きいわ。響が前に居た鎮守府はがっちがちのきつきつで、ここは緩々ね?」

「なるほどね。そう言うことだったのか……」

 

 むすっとしてしまった暁の皿に自分の分のフライを分ける提督は(暁の機嫌はすぐに直った)、響が服の裾を小さく引っ張って自己主張していることに気付いた。

 小さなグラスにウォッカを注いでちびちびと舐めるように飲みだした響は、遠まわしに話を聞いて欲しいと言っているのだ。

 

「……呑みたい盛りの重巡や軽空母勢が夜な夜な楽しげに宴会を開いているのを、ジュース片手に見ていることしかできなかったんだ。……永久凍土の大地で、私だけボルシチを食べられない苦行に等しいよ」

 

 当時を思い出してか、珍しく悔しげな顔になって力説する響の皿にもフライを分けた提督は、席を立って次の肴を準備しにかかる。

 すると、暁が慌てて手伝うと言って席を立った。

 半ば一心同体となっている雷電が「逢引!? 逢引なのね!?」「なのです!? いやあん!?」などと煽るのに、暁はいつもとは打って変わって大人の対応でするりといなす。

 手慣れた感じがするのは、もう慣れっこになってしまっているからだろう。

 

 去り際、響が名残惜しそうな顔で手を伸ばしていたが、雷電に捕まってもみくちゃにされてしまった。

 提督は小さな罪悪感を抱きつつも、手元を休めることはない。

 次の料理を持っていったら、ちゃんと話につき合おう。

 そうして調理済みの料理を皿に分けていると、暁がため息を吐く音を背後に聞いた。

 

「無理して酔っ払いの相手しなくてもいいのよ? こんなことまで、提督の義務に含まれていないんだからね?」

「気を使ってくれてありがとう。……その、飲めないと、大変じゃないかい?」

 

 調理場から食堂の方を眺める提督に倣って、暁もそちらを見る。

 雷電がちょうど鬱に入ってさめざめと泣きだしたところに響が酒を投入して、躁の方に引き戻そうとしているようだ。

 しばらくそんな光景を眺めていた暁は、渋い顔で「うん、まあね」と歯切れ悪く言う。

 

「……正直に言うとね、私も呑めないわけじゃないのよ? でも、お酒の味って、どうしても好きになれないの。司令官と同じ子供舌だから」

「みんなと一緒に酔えないのは、寂しくはない?」

「それはそうだけれど……。でも、これはこれでいいかなって、思ってもいるのよ?」

 

 提督が用意していた皿をいくつか持ち上げて、暁は言う。

 

「呑むとみんな、あんな感じになるから、誰かひとりくらいは面倒見る役が必要でしょう? それにね、ひとりだけ素面で、妹たちが楽しそうに酔っているのを見るの、結構嫌いじゃないのよ? 姉の特権ってやつね」

 

 そう語る暁の顔は嬉しそうで、それでいて、どこか不満げでもあった。

 

「……みんなね、あんなに楽しそうに酔っぱらってるくせに、一番吐き出したいことは絶対に口にしないの。どれだけ酔わせてもボロを出さない。自分が抱えている一番苦しいことを、お墓の中まで持って行く気なんじゃないかしらね」

 

 酔っても口を滑らせないほど、各々の抱えているものは重たくなってしまっているのだという。

 

「……せっかくお酒飲んだのだから、嫌なことや不安とか、打ち明けられないことなんか話しちゃったとしても、仕方ないって思うのにね? 誰に似たんだか、みーんな変なところで頑固なんだから」

 

 しかし、暁は「でも……」と、両腕に料理の皿を満載したまま立ち止まり、首を巡らせて提督の方を見る。

 

「司令官が来てくれたおかげで、少しずつだけれど、みんな近くに寄って来てくれている気がするの。ちょっとだけ、ちょっとずつ、昔に戻れている気がするの……」

 

 暁の笑みははにかんでいるようにも、自嘲しているようにも見えて。

 提督はそんな暁に、何も言葉をかけることが出来なかった。

 

 

 暁と料理を持ってテーブルに戻る際に、隣接するテーブルでも宴会が開かれていることに気付いた。

 妖精たちの酒宴だ。

 電がお猪口やビール瓶の王冠にちょっとずつ日本酒を注いでいき、妖精たちひとりひとりが敬礼してそれを受け取って行く。

 つまみは揚げ物やジャーキー類ではなく、チョコレートや飴玉といった甘いお菓子だ。

 甘いお菓子で辛口の日本酒を飲むのかと提督が感心したように顎を撫でると、提督の接近に気付いた妖精たちがわらわらと寄って来る。

 

 ほろ酔い気分の顔を輝かせて口々に言うのは、「提督はお酒を飲まないの?」という疑問と、「ご一緒しません?」というお誘いだ。

 困ったように頬をかく提督の代わりに、暁が窘めるような口調で提督はお酒が飲めない(かもしれない)ことを告げると、妖精たちは「それは仕方がない」と、残念そうに項垂れてしまう。

 しゅんとしてしまった妖精たちを気の毒に思った提督は、何気なくテーブルに置かれたお猪口を手に取ってみる。

 むせ返るようなアルコールの匂いにちょっとだけ顔をしかめ、やっぱり戻そうとテーブルに視線を戻したところで、早まったなと身を固くする。

 お猪口を手にする提督を、妖精たちは期待を込めた目で見つめていたのだ。

 こんな目で見られてしまっては、飲まないわけにはいかないではないか、と。

 

 そんな考えを察した暁が「無理しない方がいいわ?」と少し強い口調で言うが、提督は大丈夫だと笑って、お猪口を一気にあおって見せた。

 妖精たちから「わあっ!」と歓声が上がり、暁が呆れたようにため息を吐く中、提督は得意げにお猪口を掲げて見せる。

 口の中や喉が火傷したかのような感触を味わったが、それも一瞬だけだ。

 余韻は残るものの、それほど辛くはない。

 なんだ、大丈夫じゃないか。

 そう安堵した直後、提督は右に傾斜して床にぶっ倒れた。

 

 

 

 ○

 

 

 

 提督が目を覚ますと、なんというか、すごい状態になっていた。

 

 時刻は朝で、場所は提督の自室だ。

 昨夜は暁たちや妖精と一緒に酒盛りとなっていたはずだが、ここで目覚めるまでの記憶がするりと抜け落ちている。

 再び記憶喪になってしまったのかと、じんわり不安が押し寄せてきたが、幸いなことに酒宴の時の記憶はすぐに蘇ってきた。

 妖精に勧められた酒を断れずにひと口あおり、すぐに気絶してしまったのだ。

 

 おそらくはあの後、暁たちに自室に運んでもらったのだろう。

 せっかくの酒宴に水を差してしまって申し訳ないなと考える提督だったが、しかし、だとすればこの状況も何かの罰なのかと、顔をしかめて唸らざるを得ない。

 今現在、提督が寝ている布団には、暁たち4人が潜り込み、ぴったりと密着していたのだ。

 各々が昨夜と同じ制服姿(中には随分とはだけている娘もいるが)なので、提督を部屋に運んでそのまま倒れ込むように眠ってしまったのだろうと察する。

 それにしても、こうなってしまっては身動きもままならないと、提督は渋い顔で、布団に身を横たえたまま周囲を見回した。

 

 

 特に酷いのは雷で、提督の頭をがっちり抱きかかえるようにして寝息を立てていた。

 普段は抱き枕でも抱いて眠りに着いているのか、昨夜は提督が抱き枕代わりだったようだ。

 幸せそうな寝顔のまま、「はい、あーんして? 美味しい?」「痒いところはなーい?」「しれーかんったら、もうダメよ、こんなところで……」と、寝言で新婚生活3連コンボを披露している。

 なるべく起こさないように抜け出そうと試みる提督だったが、ホールド具合がまた絶妙なもので、一歩間違えればそのまま首をこきりとやられてもおかしくない、非常に危うい体勢だ。

 そう言えば、その前の夜は確か電がこのホールディングの餌食になっていたなと思い出す。

 しかしまあ、悪夢にうなされていないようで良かったと、顔に押し付けられる柔らかいものにどう対処しようかと提督が唸ったところで、もぞもぞと脇の下に潜り込もうとしてくる何かが居た。

 暁だ。

 

 提督の左側にぴったりと寄り添った暁は、頭をぐりぐりと提督の脇の下に潜り込ませようとしていた。

 まるで子猫が親猫の体の下にもぐり込もうとするかのような仕草に、脇の下をくすぐられるような感触を覚えて、思わず身もだえしてしまう。

 普段は布団に潜り込むようにして眠っているのだろうなと、提督は子猫の様子を観察しながら苦い顔をする。

 脇の下に潜り込もうとするのもそうなのだが、出来ればすんすんと匂いを嗅ぐのも遠慮してほしいところだ。

 成人男性の脇の匂いなど嗅いでも心地いいものではないだろうにと思う提督だったが、暁の表情は存外幸せそうだった。

 まあ、無意識では仕方がないかと、雷がいる方とは反対側を向くと、少し離れたところに電が居た。

 

 控えめに提督の人差し指を握って眠っている電も、静かな寝息を立てている。

 彼女も悪夢にうなされていないようで何よりだと安堵した提督だったが、次の瞬間、電が口を開けて提督の指をくわえてしまい、ぎょっと目を見開く。

 力の限り噛み千切ってやる、というわけではなく、甘噛みする程度、咥える程度の力加減だ。

 幼い子供などが自分の指をくわえながら寝ているという知識が頭の中から引っ張り出され、電もそうなのだなと、提督は納得してしまう。

 ところで、指先という部位は神経が集中していて、人間にとってもっとも敏感な場所のひとつだ。

 提督の指先の感覚も鈍いものではなく、電の口内、唇や歯や、舌、唾液の感触まで鮮明に感じ取ってしまう。

 気まずさに冷や汗をかく思いだが、無理やり引き抜こうとすれば起こしてしまいかねないので、このままの体勢を維持するしかない。

 

 そして響は――、

 

 

「……響。何をしているんだい?」

「やあ、司令官。おはよう。ズドゥラストゥビーチェ」

 

 ロシア語で「ごきげんよう」という意味だよと、ひとりだけ起きていた響は捕捉する。

 しかしその体勢は何故か、提督に足四の字固めを掛けている真っ最中だったのだ。

 

「ああ、これかい? 司令官の上半身が占領されてしまっていたから、仕方なく下半身の方を実効支配することにしたのさ?」

「仕方なくか……。全部位無事に返還してくれると助かるかな?」

 

 響の「共同管理ではどうだい?」という提案に渋い顔で拒否を示して起き上がろうとするのだが、四の字固めがしっかり極まっているため下半身は動かせない。

 そもそも上半身は暁たちが拘束しているため、四方八方雁字搦めだ。

 何故こんなことに。

 そう疑問の表情を響に向けるが、響は空いた足で提督の下半身を弄繰り回すのに躍起になっていてそれどころではないらしい。

 

「……響? あの、やめてくれないかな?」

「おお、これは……。クセになりそうな不思議で斬新な感触だ。ハラショー」

 

 真面目な顔でお馬鹿なことをのたまう響にどうしたものかと困る提督。

 おそらくは昨夜、響の話を聞く前にこうして倒れてしまったので、八つ当たりしているのだろうなということは何となく察することが出来る。

 今度酒盛りをする際には、ちゃんと響の話を聞くと約束を取り付け、なんとか足の裏で下半身を弄繰り回すのは止めて貰えた。

 四の字固めだけは、どう頼んでもそのままだった。

 

 そんなことをしていると、部屋の扉を開けて、慌てた様子の妖精が入って来るのを、提督と響は視界の端に捉えた。

 工廠の、建造ドックを担当している妖精だ。

 おそらくは建造ドックの修復が完了したのだろうと察しが着くが、だとすれば何故こんなにも焦っているのかが気になった。

 その答えは、妖精自身の口から告げられる。

 

 

 ――建造が完了しました!

 

 

 告げられた言葉の意味を、提督と響はしばらく理解出来ずに、固まってしまった。

 

 数日前から妖精たちは建造ドックを修復するための作業に入っていたというのに、「建造が終了した」とはどういうことか。

 そもそも、艦娘を建造するための開発資材が残っていないからこそ、暁たちは再び艤装を纏い、危険を冒して外海に出ようと計画していたのだ。

 

「……開発資材もないのに建造が完了? そもそも、建造は提督の承認と、艦娘の立ち合いが必要なんだ。それなのに……?」

 

 響の困惑した声色に、提督は地下の建造ドックの状態を思い出す。

 

「確か、修復していたのは3号ドックだったよね? それで、1号ドックが圧潰、2号ドックが崩落で地下に脱落……。――10年前の空襲当時、崩落した2号ドックにて艦娘が建造中だった可能性は?」

「私は、そんな話は聞いていないね。そもそも、空襲の時は方々が混乱していたから、私も含めて正確な全貌を把握できている者が居ないんだ。妖精さんたちの証言も曖昧なことが多くて……」

 

 真顔で確認し合った提督と響は、一拍ほど間をおいて布団から立ち上がった。

 提督の上半身にしがみ付いていた暁たちを丁寧に引きはがし、急いで建造ドックへと駆け出して行った。

 

 

 



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8話:2号ドック

 

 

 

 結論だけを言えば、提督の推測通りのことが起こっていた。

 

 地下の建造ドックにて提督と響が見たものは、右往左往してざわざわと落ち着きのない妖精たちの姿だった。

 お互いに首を傾げ、おかしいおかしいと口々に言う妖精たちに案内された先は、案の定、地盤が陥没して沈んだはずの2号ドックの跡地だった。

 無事であった操作パネルに表示されているのは、部屋を訪れた妖精が告げるように“建造完了”の文字。

 沈んでしまったはずの2号ドックにて、艦娘の建造が完了したことを知らせるものだった。

 

「響。みんなを起こして、ここに集めてくれるかい?」

 

 提督の指示に、響は即座に敬礼して了解の意を示し、建造ドックを後にする。

 

「さあて、どうしたものかな……」

 

 立ち尽くして頭をかく提督の元に、妖精たちが椅子を持ってくる。

 提督は礼を言って座り、ぽっかりと崩落して海水で満たされてしまっている2号ドック跡地を眺めた。

 

「建造されたキミは、いったい、何者なのかな……?」

 

 

 

 ○

 

 

 

 それから、起きてきた暁たちを含めて建造ドックの調査や妖精たちへの聞き込みが行われた。

 わかったことは、3点。

 10年前の空襲当時、この2号ドックにて艦娘が建造途中だったこと。

 その時の崩落でドックが陥没したことにより、建造が中断されてしまったこと。

 そして、妖精たちが建造ドックの復旧を行う際に、今まで遮断されていたエネルギーが供給されて、建造が再開・完了したということだ。

 電力供給ケーブルが繋がっていたいたことも奇跡だが、それがまだ電力を通せる状態にあったことは更なる奇跡だと、工廠妖精を両腕に満載した響が興奮気味に説明してくれた。

 

 この建造ドックの真下は鍾乳洞窟になってたようで、地盤が陥没した際に、2号ドックはそこに落ちてしまったのだろうと妖精たちは語る。

 幾つかの送電ケーブルで宙吊りになった挙句、海水が流れ込んで水没。

 そのまま10年の時を経たとなれば、なるほど、確かに奇跡的な復旧と言えるだろう。

 

 

 さて、ここで真っ先に暁たち疑問に思ったのは、10年前当時“誰が”建造を行ったのかということだ。

 響が今朝方言ったように、艦娘の建造には提督の承認と、艦娘の立ち合いが必須となる。

 当時から秘書官として鎮守府全体の動きを追っていた電が知る限り、前の提督はここにいる暁の着任を最後に建造を行っていないということだった。

 

「そもそも、空襲の時に建造途中だったのなら……。10年前当時、建造を承認出来る人は、ひとりしかいないのです……」

 

 電の言葉を聞いて、提督もその人物について合点がいった。

 艤装動作テストの後に電から聞いた話に、亡くなった提督の代わりに、臨時で提督権限を与えられたという人物がいたはずだ。

 

「後任の、提督代理のことだね?」

 

 提督の言葉に電は頷く。

 代理とはいえ、その人物にも提督としての権限は与えられている。

 もちろん、建造を行うこともできただろうというのが電の見解だ。

 

「その方、……元々は陸軍の方で、この島には研修という形で滞在していたのです」

「……彼、良い人だったわ? 誠実で、真面目で、責任感が強い人だった」

「どことなく、今の司令官に似てるところがあるかもね?」

 

 当時の状況と、提督代理となった人物の人となりを聞く限り、10年前にこの建造ドックで起こったことの真相を察するのは容易かった。

 きっと“彼”も、じっとしていられなかったのだ。

 出撃した艦娘たちは帰還せず、敵機の空襲が鎮守府を襲い、焦燥に駆られた“彼”は建造ドックを起動したのだ。

 

 “彼”が建造ドックを起動したという証は、妖精たちが復旧したデータの中にしっかりと残っていた。

 しかし、その時に立ち会ったされる艦娘についての情報は、何故か復旧出来なかったのだそうだ。

 

 妖精たちと一緒にデータのサルベージを行っていた響は、床に胡坐をかき、眉根を寄せて難しそうに唸る。

 納得できない不可解さに、座りの悪さを禁じ得ない様子だ。

 

「……艦娘は必ず、所属する鎮守府が登録されているものなんだ。登録データを照合しなければ、艤装の装着許可も下りないし、もちろん出撃も不可能だ。それどころか、入渠施設だって利用できない。10年前当時がどれだけ混乱していたとしても、未登録の艦娘がこの鎮守府に居たとは考えにくいんだよ」

 

 

 結局、建造に立ち会ったとされる艦娘の正体についてはわからずじまいだった。

 現在手元にある情報から足跡を終えなかったことと、それよりも優先すべきことを先に取り掛かるべきだと判断したからだ。

 現在も水中に没している2号ドック。

 その中で建造が完了したばかりの艦娘を救い出さねばならない。

 

 2号ドックに閉じ込められている“彼女”と直接肉声でのやり取りは適わなかったが、幸いなことにモールス信号での意思疎通は可能だった。

 送電ケーブルに伝わる微弱な振動から、2号ドックの中の艦娘が内壁を叩いて信号を送っているとわかったのだ。

 “彼女”は自らが置かれている状況を大よそ理解すると、こちらの指示に従い助けを待つと返事をした。

 そうしてやり取りが出来るとこに安堵する面々だったが、話を続けるうちに、その顔が徐々に怪訝そうなものに代わってゆくのを提督は見ていた。

 

 まず、“彼女”の艦種が潜水艦であるということ。

 提督はてっきり、水上機が運用できる艦ではなかったことを暁たちが残念がっているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。

 サルベージしたデータによれば、元の建造所要時間が、明らかに潜水艦のものではなかったのだ。

 

 そして、“彼女”の名前を聞いて、提督以外のみんなは二度驚いていた。

 “彼女”の正式名称は三式潜行輸送艇。

 通称“まるゆ”と呼ばれている、陸軍発の艦娘だったのだ。

 

 

 

 ○

 

 

 

 提督と六駆の艦娘たちが勧めていた開発資材奪取作戦は一時中断し、水中に没したドックの中で身動きが取れない“まるゆ”の救出を最優先することになった。

 と言っても、その作業はほとんどが妖精任せの機械工事だ。

 提督たちが出来ることと言えば、定期的にまるゆに話しかけてやり取りすることと、現状進めている作戦やこの鎮守府で過去に起こった出来事をかいつまんで話してやるくらいなのだ。

 妖精たちの言では、サルベージに関する設備の工事は1日もあれば充分とのことなので、その通りに作業を任せている。

 

 提督たちは一度建造ドックから引き上げて、食堂にて朝食がてら今後の対策会議を行っていた。

 しかし、暁たちの顔は地下にいた時から晴れない。

 不満そうな顔は、今も水中で救けを待ち続けている彼女に対してのものではなく、何故“彼女”になったのかという、釈然としない疑問によるものだった。

 

 

「……いいえ、別に、まるゆが建造されたのが不満なわけじゃないのよ? ただ、彼女が建造された過程に、あまりにも偶然というか、イレギュラーな部分が多すぎるから……」

 

 暁が、まるで咎められやしないだろうかとばかりに小さくなりながら弁解するのを、提督は「怒っていなし、気にしないよ?」と告げて、自然な動きで頭を撫でた。

 今朝の暁の姿を思い出してか、無意識に頭を撫でてしまい、内心で「しまった」と焦る提督だったが、暁は恥ずかしそうに帽子を被って縮こまってしまうだけだった。

 どうしたものかと視線を巡らせるも、雷と電はにやにやしているだけで一言も発しないので、頼みの綱の響にすがるような視線を向けておく。

 響はそんな提督の視線をさらりと流して、データを印刷した用紙に蛍光ペンでチェックを入れていた。

 

「暁の言うとおり、あのまるゆが建造された過程には不可解な点が多い。建造時に立ち会った艦娘が不明なこと。建造途中で電力がカットされて緊急停止、そのまま10年もの時を経て建造を再開して、無事に建造が完了したこと。そして何より、元々建造されるはずだった艦種が途中で変更されたことさ」

 

 艦娘は、建造開始時に完了時間というものが明示され、それによってどの艦種になるのかが大よそ見当が着けられるのだという。

 そもそも、艦種を固定するために専用の開発資材を用いているため、建造が途中で中断されたからといって、再開後に艦種が変更されるのはあり得ないのだと、響は言う。

 

「確認したところ、10年前、2号ドックに投入されていた開発資材は、艦種・戦艦の艦娘を建造するためのものだったよ。建造所要時間から推定されるのは、――大和型戦艦だ」

 

 大和型戦艦。

 その単語を聞いた暁たちの表情は、目に見えて曇ってしまった。

 彼女たちが大和型の艦娘が建造されることを期待したわけではないということを、提督は知っている。

 10年前、この鎮守府には大和型の艦娘が居たのだ。

 電が最後の戦いに挑む際、共に戦場に出るはずだった艦の一隻が、かの戦艦・大和だったのだ。

 

 

「……ということは、2号ドックでは途中まで大和型戦艦を建造していて、10年間停止の後再開して、潜水艦・まるゆに切り替わったということかな?」

 

 提督の問いに、暁たちは「まあ、そうなるわね……」と頷くが、その顔はみな釈然としないものだ。

 どういう原理かと頭を捻るみんなが出した結論が、”海中に没したドックに水圧がかかるか浸水するかして、その状態、外界の環境に対応する為に、艦種が強制変更された”というものだった。

 もちろんただの推論であり、前例があるわけではない。

 

「そうなると、今現在2号ドックで救助を待っている艦娘は、大和型戦艦の肉体を持った、潜水艦・まるゆ、ということでいいのかな?」

 

 提督の続けての問いに、暁たちは「まあ、そうなる……、ええ?」と、頷きかけてその動きを止めた。

 しばし黙考するが、頭を抱えたり、難しい顔で首を傾げたりと、想像に難い様子だった。

 

「……そうよねー。建造が中断した時点で肉体が完全に構築されていたのなら、でっかい潜水艦がお目見え、って感じになるのかしら?」

 

 雷が人差し指を立てて告げた「でっかい潜水艦」を各々頭の中でイメージするが、誰もしっくりくる像を結べないようで、百面相が止まらない。

 

 そんな中、提督は手元の書を開いて紙面をめくっていた。

 以前、妖精たちから手渡された艦娘に関する書籍、海軍に登録されている艦娘の艦種毎の名簿だ。

 潜水艦の項で手を止めた提督は、その中でまるゆの名前を探す。

 

 艦娘・まるゆの元となったのは、厳密には潜水艦ではなく三式潜航輸送艇と呼ばれる、陸軍の開発した潜行輸送艇だ。

 コミカルな逸話に事欠かないこの艦は、第二次大戦中に38隻が建造されていて、艦娘としてのまるゆはその38隻の記憶全てを受け継いでいるとされている。

 名簿に載っている艦娘・まるゆの写真からは、小柄で気弱そうな少女だなと、提督は印象を受けた。

 

 2号ドックの彼女がこの通りの姿をしているかどうかは定かではないが、いち早く外に出してやらなければという思いは強い。

 しかし、2号ドックを引き上げるにあたって懸念があると、響から声が上がった。

 

 

「司令官、よく考えてみて欲しいんだ。建造途中で海中に没した2号ドックは、10年間海水に浸かっていた。ただの海水じゃなくて、この海域の海水、深海棲艦の支配海域の海水だ」

 

 この海域の海水に長期間浸かっていたことが、悪い方に作用するのではないかと響は懸念していた。

 動植物や物理現象までも変質させてしまう海域にあって、建造途中のまま長期間放置されていたドックに眠っていた艦娘。

 先ほどはモールス信号で意志の疎通は出来ていたが、もしも引き上げたドックから出て来た“彼女”が、艦娘の姿をしていなかったら……。

 

 提督は響の挙げた懸念に「確かに」と頷きつつも、それは杞憂ではないかと笑って見せる。

 

「だって、これから開発資材を獲得した後に、僕たちは艦娘の建造を行うだろう? その時用いるのは、深海棲艦から奪取した、純化されていない開発資材だ。みんなはもうリスクを承知で作戦に挑んでいるのだから、何を今さら、なんじゃないかな?」

 

 提督が首を傾げて問えば、懸念を示したはずの響が両掌を上に向けて肩を竦める。

 

「その通りさ。まあ、例え2号ドックのまゆるが深海棲艦になっていようと、救出は行うつもりだったからね?」

「あんな暗いところに、いつまでも置いておくわけにはいかないのです……!」

 

 最初からそのつもりで、ひとまず問題の確認だけしたということか。

 提督が六駆のみんなを見渡せば、困ったような顔をしたものは居ても、誰ひとり恐怖や不安を抱いては居なかった。

 響の言うとおり、本当にドックの中のまるゆが深海棲艦になっていたとしても、助ける気なのだ。

 

「それに、もし万が一中のまるゆが深海棲艦になっていたとしても、私たちに危害を加えることはできないわ」

 

 雷が自信満々といった風に人差し指を立てて言う。

 疑問を抱いた提督に応えるのは電だ。

 

「あの、深海棲艦は、陸に上がれないのです……」

 

 電が言うには、深海棲艦という“種”は陸に上がることができないのだという。

 その話を引き継ぐのは、腕組みをした暁だ。

 

「……人型をしていない駆逐級や軽巡級はもちろん、人型をしている空母級や戦艦級ですら、陸に上がることが出来ないのよ。この島が、そして私たちの命がこうして長らえているのが、その証拠ね? 実際に島に上陸なんてされていたら、私たちが司令官に会うこともなかったわ?」

 

 よって、深海棲艦によって陸地が占拠されることはないのだという。

 それでも、敵艦載機による空襲や、戦艦級による超長距離砲撃の危険はある以上、枕を高くして眠れるとは口が裂けても言えないのだが……。

 

「……なるほど。深海棲艦は、何らかの理由によって陸に上がることが出来ない。陸に上がるということは、彼女たちにとって、なんらかの不都合がある。そう考えても?」

 

 一同から頷きが返り、提督は納得しながらも「おや?」と首を傾げた。

 深海棲艦は海域を支配出来ても、陸地に足を踏み入れることはできない。

 この事実がなにやら重要なことのような気がするのだが、暁たちが至極当然といった風に話しているため、抱いた違和感がすぐに風化して行ってしまう。

 

 提督が再び深海棲艦の生態に着いて思いを馳せることになるのは、もう少し先のことになる。

 

 

 

 ○

 

 

 

 妖精たちが引き上げ設備の構築を急ぐ傍ら、提督と六駆の面々は、交代でまるゆとの対話に臨んだ。

 そうして、現在時刻は深夜を回ったところ。

 提督は、建造ドックに毛布を持ち込んで待機していた。

 未だに暗闇の中にいるまるゆが不安がった時に、誰かが傍に居た方がいいと考えたからだ。

 

 妖精たちが総力を挙げてサルベージ用の設備を構築するのを横目に見ながら、提督はまるゆの呼びかけに備えつつ、ひたすら書物を読み漁っていた。

 しばらく呼びかけがないのでもう眠ってしまったのだろうかと、少し不安になってくる。

 もし眠っているのなら、こちらから呼びかけることは迷惑になってしまわないだろうかと、呼びかけることを避けていたのだ。

 

 そうしてしばらく経った頃だ。

 提督がうつらうつらと船をこぎ始めた頃、控えめなモールスの振動を耳が捉えた。

 

 ――あの、誰かいますか?――

 

 微睡んでいた提督の意識は急速に覚醒し、急いでモールス信号の早見表を片手に返信を打つ。

 

「今は僕が、提督がいるよ。眠れないのかい?」

 

 ――時間の感覚があまりなくて。今は、夜ですか?――

 

「深夜2時を回ったところかな」

 

 ――す、すみません。そんな時間に呼びかけてしまって……――

 

「いいさ。僕はまだ、キミとこうしておしゃべりをしていなかったからね。名前は、まるゆだよね? まるゆさえよければ、まだ眠くないなら、少しお話しようか」

 

 

 提督とまるゆはモールス信号で言葉を交わす。

 話す内容は、六駆たちとのやり取りでどういうことを話したとか、ドックから出たらまず何をしたいか、そして、艦艇時代の記憶についてのものだ。

 

 ――お腹がすきました……。出られたら、まずご飯が食べたいです……――

 

「そうか。今朝には建造完了していたものね。何か食べたいものはあるかい?」

 

 ――カレー! カレーが食べたいです! 電がつくってくれるって言っていました!――

 

「カレーかあ……。好きなのかい?」

 

 ――好きな……、気がします! やっぱり、艦艇時代に乗組員が食べていたものは、美味しそうに感じるみたいです――

 

「艦艇時代か……。まるゆは、艦艇時代の記憶を辛く感じたりはしないかい?」

 

 ――まるゆは大丈夫です! 辛い記憶もたくさんあるけれど、楽しいことも嬉しいことも、たくさんありましたから!――

 

「へえ。楽しいこと、嬉しことか……。例えば?」

 

 ――ええとー、まずですねー……――

 

 

 まるゆは艦艇時代の思い出を得意げに語って見せた。

 曰く、潜水するつもりが上手く行かずに沈没してしまったり。

 敵艦の近くを日ノ丸掲げて堂々と通過したり。

 とある軽巡洋艦には“本当に潜水艦なのか?”と疑われたり。

 本国の輸送船に敵艦と間違われて体当たりを食らわされたり。

 あの戦艦・大和とも会ったことがあり、互いに礼を交わしている。

 

 ――それにですね、速力はあんまり出ませんが、潜水なら得意なんです! あの伊号潜水艦よりも深く潜れるんですよ!――

 

 敵の機銃掃射を避けるために潜航したところ、海底に激突してしまったというエピソードもあるのだという。

 微笑ましい思いでまるゆの話を聞いていた提督だったが、彼女の今の状態を思い出すと、やりきれない気持ちになる。

 暗い海中の中、ドックの内壁を必死に叩いて信号を送っているまるゆの姿を想像すると、早く助け出さねばと強く思うのだ。

 

 物思いに耽っていると、まるゆからの信号がぱたりと途絶えていたことに気付く。

 眠ってしまったのだろうか。

 まだ信号が途絶えてからそれほど時間が経っていないということもあり、提督は控えめに「眠ってしまったのかい?」と打電。

 反応はすぐにあったのだが、それは信号などではなく、ただドックの内壁をこつこつと叩いているだけの音だった。

 提督はその音が何かを言い淀んでいるように聞こえて、心音を抑えるように息を潜めて、彼女からの返事を待った。

 

 

 ――ここは、暗くて、寒くて……、寂しいです。早く、みんなの顔が見たいです。隊長さんの顔が、見たいです……――

 

 

 

 ○

 

 

 

 2号ドックの引き上げ準備が整ったのは、その翌朝のことだった。

 提督や六駆の面々、そして無数の妖精たちが見守る中、急ごしらえのクレーンが2号ドック跡地の水たまりに沈み、チェーンを潜らせていゆく。

 作業の進行を見守りつつも、提督は思いつめたように顔を伏せていた。

 昨晩のやり取りではっきりとわかったことがある。

 2号ドックのまるゆが艦娘としての人格を持っていることは疑いようがない。

 提督としても、一時でも早く彼女を外に出してやりたいと、強い思いを抱いていた。

 しかし同時に、ある考えもじわじわと提督の中に広がりつつあったのだ。

 

 “提督”としての立場で対応するならば、2号ドックの引き上げを中止するべきなのではないか。

 まるゆの建造過程にはイレギュラーな部分が多く、信じたくはないが、彼女が深海棲艦化している可能性も捨てきれない。

 いくら深海棲艦が陸上では無力だとは言え、そういった存在を引き上げて解放してしまうことが、正しいと判断だと言えるのだろうか。

 

 食堂にて、響に「彼女が深海棲艦化しているかもしれない」と言われた時、「その考えは杞憂では?」と返していた、あの時の心境は、もう提督にはない。

 もしも、ドックの中の彼女がすでに艦娘では無くなっていて、陸に上がると同時に暁たちに襲い掛かってきたら……。

 それだけでも暁たちにとってショックなことだろうが、そうなった場合、その深海棲艦を沈める役目を担うのは、他でもない彼女たち自身なのだ。

 

 今の時点でならば、2号ドックが海中に没している今ならば、まだそのリスクを排除出来る。

 繋がっている送電線をカットして電力を落とし、爆雷を投下して、その爆圧でドックそのものを破損、圧潰させる。

 ――そこまで考えて、提督は自分のことが怖くなってきた。

 今まで考えたことは、全て有り得る可能性であり。

 そして、2号ドックの爆破処理は、提督が命令を出せばすぐにでも実現可能だ。

 自らの言葉ひとつで、救助を待っている命をひとつ、摘み取ることが出来るのだ。

 

 そんな恐ろしいことはしたくない。

 提督とて、まるゆを引き上げて、外へ連れ出してやりたい。

 しかし、暁たちを危険に晒すかもしれない可能性を、このまま引き上げて良いとも思えない。

 

 

 歯噛みして、帽子を目深に被って目元を隠せば、誰かが手を握ってくる感触を左手に覚えた。

 電だ。

 いつの間にか提督の隣に立った電が、こっそりとその手を握っていたのだ。

 

「……きっと、大丈夫なのです。だから、深刻に考えすぎないでください……」

 

 相変わらず、電は何でも見通してくる。

 提督は深く息を吐き肩の力を抜いて、みんなの姿を、作業の動向を見守った。

 

 医療キットや毛布の類を準備して心配そうな顔の雷。

 引き揚げ作業を行う妖精たちと共に計器類の数値を睨む響。

 暁は誰よりも最前列に仁王立ちしていた。

 もしものことがあった場合、真っ先に矢面に立つためなのだろう。

 どこから持ってきたのか、軍刀まで持ち出している。

 そして、こっそり手を握って、隣にいてくれる電。

 

 みんなの姿に頼もしさを感じてしまうのは、提督として冥利に尽きるべきなのだろうか。

 それとも、そう感じてしまう己の未熟さを恥じるべきなのだろうか。

 提督の考え付いた可能性と手段など、六駆のみんなはすでに思い当たっているはずだ。

 しかし、その方法を提案することも、進言することもなかった。

 わかっていて、言わなかったのだ。

 

 例え、中の彼女がもう艦娘ではなくなっていたとしても、助け出す。

 敵であろうと、暗い海中にたったひとりで閉じ込めて置くなど、彼女たちの矜持が許さないのだ。

 

「……あまい考えだっていうのは、わかっているのです。もしかしたら、司令官さんの命が危なくなることも……。でも、だからこそ、その……。私たちに、任せてほしいのです……!」

「それが、みんなの決断なんだね? ……わかったよ」

 

 六駆の面々は、危険を承知で、あえてその道を進むのだ。

 危険を理解して、可能性を数洗いだして、そのうえで信じるのだ。

 可能性を上げることはしても、それを排除する手段を提示しなかったことは、提督に重荷を背負わせないためか。

 それとも、もしそうなっていた場合、自分たちですべてカタをつけるという意思によるものか。

 彼女たちとて、自らの命や、提督の命が危険に晒されることを知らないわけではないのだ。

 

 提督は、危険を排除するための指示を出さずに、このまま動向を見守ることにした。

 万が一のことがあった場合、自分や艦娘たちの命が損なわれることを理解した上での“見”だ。

 自らの責任を放棄して、楽で心地よい選択をしたとも思える。

 “提督”としては失格である判断だとも、胸に刻み込む。

 

 それでも、彼女たちが自分と同じ願いを抱いてくれていたことが、何よりも誇らしかったのだ。

 

 

 引き揚げられた2号ドックは赤く錆びつき、ところどころに凹みや亀裂が見られた。

 それらは地盤が陥没した際に出来たもので、水圧による破損ではないとは響談。

 よくこの状態で10年ものあいだ圧潰しなかったものだとも語っていた。

 

 扉部の開閉機構は腐食により動作せず、響がバーナーで溶断した後、暁がバールで扉をこじ開けた。

 中からは乳白色に濁った粘性のある液体が溢れてきて、それと一緒に人の形をしたものが、ずるりと流れ出てきた。

 タオルを持って駆け寄ろうとする雷を暁が手で制し、ドックから出てきた“彼女”の次の挙動を見守った。

 その肢体はほっそりとして長く、陽の光を浴びてこなかったかのような白をしていた。

 背は女性にしては高めで、おそらくは暁と同じか少し低いかといったところだろう。

 うつ伏せに倒れ、長い黒髪が液体の溜まった床に広がった。

 

 暁たちは警戒を解いてはいない。

 この時点では、まだ”彼女”がどちらなのか、判断出来ないのだろう。

 固唾を見守る中、“彼女”がゆっくりと身を起こす。

 

 異音が鳴った。

 びくりと肩を震わせた提督たちは、しかし「あれ?」と首を傾げる。

 今の異音、どこかで聞いたことがなかっただろうかと……。

 

「……誰か、お腹鳴った?」

 

 異音は腹が鳴った音だ。

 最前列の暁が、わずかに上体を起こした“彼女”から視線を外さずに、若干後ろに身を引いて問いかける。

 みんなが違う違うと首を振り、視線が再び“彼女”に戻った。

 

 長い髪に隠れて表情の見えない“彼女”は、かすれた声で何とか声を発する。

 

「――お腹が、すきました……」

 

 一拍間をおいて、提督たちは迅速に対応を開始した。

 

 雷が大きめのタオルを“彼女”に被せて体を包み、暁が介添えしてゆっくりと抱き起し、座らせる。

 そうしてようやく露わになった、まるゆの顔。

 太い眉毛が困ったような八の字をつくって、眩しそうに周囲を見渡している。

 提督が名簿の写真で見た彼女よりも、大幅に成長したその姿。

 六駆の艦娘たち同様、10年の歳月を経たかのような姿で、艦娘・まるゆはこの世界に誕生した。

 

 

「気分はどうだい?」

 

 提督は、まるゆの前で膝を付いて、目線を合わせ問いかける。

 突然の声にびくりと反応したまるゆは、ほっそりとした手を虚空に彷徨わせ、提督の顔にぺたりと触れる。

 傍に付いている雷が言うには、まだはっきりと目が見えていないらしい。

 肉体の不調等の検査も含め、これから入渠ドックへ移動する手はずになっている。

 

 提督は毛布にくるまったまるゆの体を軽々と抱き上げ、雷を伴って入渠ドックへと向かった。

 電は暁と響を連れて食堂へ。

 3人とも、これからカレーの仕込みをするのだと息巻いていた。

 玉ねぎを刻む前から鼻をすすっていた誰かが「やっと、たすけることが出来た……」と、小さく呟いていた。

 

 入渠ドックへ向かう最中、提督に抱えられたまるゆは、手を伸ばして提督の頬をぺたぺたと触り続けていた。

 

「どうかしたのかい? 僕の顔に、何か?」

「……隊長、暖かいです。人の体温、人の暖かさ……」

 

 まるゆは、まだ見えもしない目で提督を見て、にっこりと笑って見せた。

 

 

 



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9話:潜水艦

 

 

 

 入渠ドックに運ばれたまるゆは、その後医務室に移動して、雷の検査を受けつつ一晩を過ごすことになった。

 諸々検査した結果、まるゆの体にはこれといった異常は見られず、一晩は医務室にて安静にするという運びになり、再びみんなと対面することになるのは翌朝のことだった。

 彼女の晴れ姿を待ちきれなかった提督や暁たちが代わる代わる見舞いに訪れる中、雷が医務室前に仁王立ちしてそれらを追い払うという場面もあったが、扉の向こうのまるゆは元気そうに手を振っていた。

 

 そうして翌朝、改めて提督たちの前に現れたまるゆの姿は、六駆の面々と同じ制服を身に纏っていた。

 まるゆの元の艤装というか制服は白い水着であり、戦艦級の肉体を持つ今の彼女にはどうやっても着ることが出来なくなっていたのだ。

 制服は電が自分たち用に丈を直していたものがちょうど良く体にフィットしたのだが、どうしても胸元だけはきつかったようだ。

 スカーフを外して襟元を緩めても、胸元の布地が張ってしまうのは避けられなかったのだ。

 その着こなしに、暁などは握った拳をわなわなと震わせ「……何!? 何よあのおっぱいバルジ!! 絶対おかしいわ!?」と憤慨し、首を傾げる提督に半ば八つ当たりのように泣き付いて来た。

 どうやら、まるゆの肉体と自分の肉体とを比較して、惨めになってしまったのだとは電談。

 提督と電が一緒に宥めて落ち着かせるのにしばらくかかった。

 当のまるゆはといえば、服装のことにはあまり頓着せず、ずっと食べたいと所望していたカレーライス(ひと晩寝かせてあるのだ)に出会えてご満悦の様子だ。

 

 そうして朝食を摂りながら、潜水艦・まるゆの現状について雷から説明がなされるはずだったのだが、その雷が使い物になる状態ではなかった。

 大きな体ながら挙動が若干幼い新入りに対して保護欲が刺激されたのか、過剰にお節介を焼く……、というよりは、全力で甘やかし始めたのだ。

 事あるごとに「カレーどう? 辛くない?」「お水いる?」「ほら、口元。拭いてあげるね」「お代わりたくさんあるからね!?」などと休む間もなく話しかけ続け、暁はじめ姉妹たちから優しい目で眺められていた。

 これだけべったりと構われていては、まるゆもさぞ食べづらいのではないだろうか。

 提督も最初はそう思っていたのだが、まるゆは雷が構ってくるのを適当に躱し、しかしぞんざいにならない程度に相手し、しっかり自分の食事に集中している。

 上手くやるものだと暁たちが頷き合っているのだから、まるゆの手腕(?)も相当なものなのだろう。

 

 

 しかし、雷ではなくとも、まるゆの幸せそうな表情を見れば、自然と口元が緩んでしまう。

 自らもカレーライスに舌鼓を打ちつつ新入りの様子を眺めていた提督は、ふと別のことに興味が立った。

 

「そう言えば、カレーライスの材料はしっかり揃っているんだね?」

 

 「ん?」と反応を見せたのは暁だ。

 大口を開けてスプーンをくわえたところだったようで、提督に説明しなければと急いでもごもごしているが、言葉を返すのは響の方が早かった。

 

「人参やジャガイモのことかな? そうだね。根菜の類は常温でも日持ちするから、なるべく後回しにされるんだよ。足の速い食品の方が、どうしても優先的に食卓に並ぶことになるね。まあカレーに関して言えば、この鎮守府では毎週金曜日に。それ以外の時は、祝い事の時にこうして振る舞われるかな」

 

 響は暁は違い、スプーンの先ですくえる程の少量を口に運ぶようにして食べている。

 話しかけられた時にすぐに反応できるようにだろうと、提督は察する。

 しかし、いつもはもぐもぐと口を動かしながら目で語る響がそのスタイルを崩すということは、これはもしや新手の暁弄りだろうかと、提督は勘ぐってしまう。

 響が得意げな表情をしているので、おそらくはあたりだ。

 

 さらさらと解説を続ける響に聞き入りつつも、その向こうの暁が恨めしそうにスプーンくわえて見ているのが心臓に悪い。

 どこかのタイミングで彼女に水を向けねばと冷や汗をかくが、響がそれをわかっていて解説を続けているので、いかんともしがたい。

 暁がこうまで不機嫌になるのは、漂着物関連は自分の担当だというアピールだろうか。

 そろそろ暁が涙目になろうかというタイミングで、響はようやく話のバトンを姉に手渡した。

 椅子を譲られて釈然としないといった風ではあるが、暁は咳払いして、話を捕捉する。

 

「……この島に流れてくるコンテナの多くは食料品で、海外から日本へ向けてのものよ。当然、内容も日本人向けの品種や味付けのものになるの。カレーなんてその最たるものだし、もちろん材料も一通りそろっているわね。そもそも、日本風のカレーライスって海外でも結構評判良いのよ? だけどまあ、さすがにルーやお米まで日本の国産、ってわけにはいかないけれどね?」

「じゃあ、これは?」

「そこは、うちの鎮守府の台所担当の電の出番ね。日本産のカレールーが手に入らない場合は、保存している調味料や香辛料をブレンドしてルーを自作するのよ? 今回のお米はタイ米だけどね?」

 

 それは凄いなと電を見る提督だったが、当の台所担当は水をがぶ飲みしているところだった。

 響曰く、辛いものがダメなのだとか。

 それでよく調理できたものだなと苦笑いしつつ、提督は皿に残ったルーを、スプーンですくう。

 この島で目覚めて、食卓にカレーライスが並んだ回数は片手で数えられるほどではあるが、それでも提督は、記憶を失う前の自分がこの食べ物に対してどうあったかということに思い至っている。

 

 食べ始めは皿の手前側、ルーとライスの境界から。

 ライスの山を徐々にルーに浸して行くようにして食べ進めて。

 カツなどの大き目な具がある時は、全体の分量と均一になる様に。

 そして最後は、ルーがスプーンひとすくい分ほど余る。

 

 意識的にその流れに逆らってみようとすると違和を感じたので、おそらくはこの食べ方が体に染みついたクセなのだろうと提督は考える。

 カレーライスの味は覚えていなかったものの、その食べ方はこうしてクセとして体に残っていたのだ。

 

 しかし、そう言いったことがわかったとしても、提督は記憶を失う前の自分を思い出すことはなかった。

 習慣やクセから、以前の自分に思い至ることが出来ない。

 体に染みついた習慣が、記憶に、思い出に繋がってくれないのだ。

 まるで思い出だけがきれいに切り離されてしまったかのような喪失感を覚えるが、提督は寂しさのようなものを感じつつも、今はそれでいいということにしておきたい。

 以前、雷が話していたように、記憶を取り戻したことに対する精神の振れが、提督の適正に影響してくるかもしれない。

 

 提督は、これ以上喪失前の自分に思いを馳せないようにと、食卓に着く少女たちのことに考えを向けるように努める。

 クセや習慣が体に残っていることはそれとして、自分が今は提督であるという部分を疎かにしないようにしなければならない。

 自らの過去も重要なことだとわかってはいるが、それよりも重要なのは今であり、そしてその先だ。

 

「おかわりは、いかがなのです?」

 

 席から立ちあがった電がお盆を差し出しつつそんなことを問うてきて、提督はふと、おかわりを頼もうかどうかと腹具合を確認する。

 暁やまるゆが元気よく皿を差し出すの横目に見ながら、提督は自らの皿もそっと盆の上に置いた。

 

 

 さて、それはともかくとして、まるゆの今後の処遇についてだ。

 建造されたばかりのまるゆは艦娘としての練度はないに等しく、さらには彼女の本来の艤装もおそらくは適合しないであろうことが予想されるため、日を改めて伊号潜水艦用の艤装の同期テストを行うという運びとなった。

 もちろん、開発資材奪取作戦には不参加だ。

 本人にそれを告げたところ、了承はしたものの、若干不満げではあった。

 まるゆ自身、己の出自が特殊なものであると理解していて、そのせいだろうか、本来のスペック以上の活躍が出来るのではないかと、ひそかに闘志を燃やしているようなのだ。

 従来の三式潜航輸送艇の姿から大きく逸脱しているため、もしかすると伊号潜水艦に匹敵するスペックを有しているのではないかというのが、響や雷の予想だった。

 

 そのうち嫌でも出撃することになるのだと響が脅かすように言うのを、まるゆは「どんと来い!」とばかりに胸を叩いて得意げになって見せた。

 とはいえ、しばらくはこの鎮守府での生活に慣れるために、人として、そして艦娘として暮らすことになる。

 検査の結果異常が見られなかったとはいえ、これから先もそうだとは限らない。

 生活リズムの確立と、定期的な経過観察の後、それでも問題なければ、改めて艤装の動作テストに移るといった流れだ。

 

 

 そして、まるゆ救出のために一時中断していた開発資材奪取作戦が、いよいよ再開されることになる。

 組み立てを終えた3号ドックの動作は問題はなく、開発資材さえ入手できればいつでも艦娘を建造可能だという判断が、工廠の妖精たちから下されたのだ。

 

 

 

 ○

 

 

 

「開発資材奪取のための出撃は、夜間。遠洋に進出するわ?」

 

 朝食後。

 もはや恒例だとばかりに、提督の執務室にテーブルや椅子を持ち込んで作戦会議が行われた。

 議長は此度も暁で、ホワイトボードにマーカーで“夜戦!”と大きく書きつつ、そう宣言したのだ。

 

 腕組みしてマーカーを揺らしながら語る暁を、他の面々はお茶を片手に聞いている。

 まるゆが作戦会議初参加ということで緊張しているのではないかと思われたが、隣の雷が親馬鹿丸出しの状態なので、それもだいぶ緩和されているようだ。

 まるで母子のようなくっ付きようだが、みんなは早くも慣れてしまったようで、苦笑いするだけだ。

 

「作戦決行日は日没と同時に、暁、響、両名が出撃。高速巡航形態にて遠洋へ進出して、海域を周回していると思われる敵艦隊を叩くわ……!」

 

 

 深海棲艦という存在は、ある習性を持っている。

 複数の艦同士が1箇所に集まると、上位の個体に従うようにして群れを成す。艦隊を編成するのだ。

 たとえば、駆逐級と軽巡級が集まった場合は軽巡級を旗艦として艦隊行動を執り、そこに重巡級が加われば重巡級が旗艦として軽巡級・駆逐級を従える、といった具合だ。

 艦の数は多くても6、7隻程だというのが通説であり、それ以上の数になると艦隊をもうひとつ編成して別行動を執るのだという。

 

 そして、艦隊を編成した深海棲艦は、ある一定のルートを幾度も行き来するという習性をも持つ。

 この島の遠洋も敵艦隊の周回ルートだったらしいのだが、それはもう10年も前の話だ。

 深海棲艦側の支配海域拡大に際して補給路がまず断たれ、近海にまで侵入を許したものの、鎮守府が機能を停止してすぐに艦隊は引き揚げてしまい、それ以来、肉眼で確認できる距離に敵艦が現れたことはないのだという。

 

「……行動パターンの完全な予測は出来ないけれど、おそらくはまだ、この島の遠洋を周回している艦隊が居るはずだよ。根拠を挙げられないのが、苦しいところだけれど……」

 

 響は苦しげに息を吐きながら言う。

 表情や言い回しが芳しくないのは、明確な根拠を上げることが出来ないからだろう。

 出撃の許可が下りず、この島の近海ですら偵察出来ていなかったとなれば、データが揃わないのも仕方のないことだと提督は考える。

 

「そういう事情もあるから、資材奪取の前にもうひと工程加えることになるかもね。敵艦隊の周回ルートを割り出すために複数回出撃するの。もちろん、出撃は夜間限定よ?」

 

 はっきりとした口調で告げる暁に、提督はふと疑問に思ったことを聞いてみる。

 

「そこまで、夜間の出撃を推す理由は?」

「もちろん、そっちの方が目があるからよ? 生存率の問題、かしら? ……というより、陽の出ている環境下に駆逐艦が2隻いたところで、敵艦との力の差は目に見えているわ?」

 

 暁は、悔しさをにじませるように顔を俯かせる。

 

「……私たち駆逐艦は、はっきり言って貧弱よ。最大のウリは燃費と速力だけれど、ただそれだけ。火力に乏しく、雷撃能力もそこそこ。装甲だって、あってないようなものだし。それに、防空駆逐艦でもない私たちじゃあ、敵に航空戦力があった場合、むざむざ死に行くようなものだもの」

 

 自らを虐するような語り口のなか、「でもね?」と鋭く一言を加える。

 

「でも、夜戦なら、私たちにも勝ちの目が出て来る……!」

「その通りさ。夜戦でならば、例え相手が戦艦であっても落としてみせるよ」

 

 暁の言を引き継いで、響が力強い語調で宣言する。

 ふたりの話を聞いた提督は、しばし考え込むように手を組み顔を伏せた。

 

 昼の海戦では、敵の航空戦力に対して無力に等しく、そして暁たちも力を発揮できない。

 夜戦ならば、装甲以外の弱点をカバーすることが出来て、かつ戦艦相手にも後れを取らない。

 これだけを聞けば、確かに目がある夜戦で挑みたいという気持ちは、提督にも理解できる。

 

 しかし、提督はそれでも煮え切らないような唸りを零すだけだ。

 

「……不満なら、まだまだ夜間出撃が有効である根拠を並べることはできるよ?」

 

 怪訝そうに眉をひそめた響がそう言うのを、提督は「いや」と手を挙げて制す。

 

「どうも、提督としての考え方が甘いみたいなんだ、僕は……」

 

 歯切れ悪く提督が言うのを聞いて、暁たちは首を傾げる。

 提督の考えならば大よそ察する電でさえ、この時ばかりはみんなと同様に首を傾げ、この青年の心中を察することが出来ずに微かな不安を抱いていた。

 

「いや、そのね……。女の子たちだけで、夜に出歩かせるのは、どうなのかなって。思って……」

 

 言って、提督は俯いてしまった。

 暁たちは、大爆笑だ。

 あまりに見当違いな意見に、響までもが腹を抱えて苦しそうに笑っている。

 居た堪れない気持ちになった提督はといえば、机の横に置いていた帽子を目深に被り、机に突っ伏す勢いでうつむいてしまった。

 

「た、確かにね……! 内地の、普通の女の子だったら、それでいいと思うけれど……! まさか、艦娘にそんなそんなこと言う人……! あ、ダメだ……」

 

 提督に何か言おうとしていた暁は、もはや立っていられなくなったのか、お腹を抱えている響のところの突撃してふたり一緒に肩を震わせ始めた。

 

「司令官さん……。さすがにそれは、ちょっと……」

 

 何となく秘書官っぽいという理由で提督のデスクの近くに控えていた電は、口元に手を当てて必死に笑いを堪えていたが、しゃべろうとすると時折「ぷひゅい」と笑いが漏れそうになり、ついには背中を向けてしゃがみ込んでしまう。

 

「もう、司令官ったら。まるで年頃の娘を心配するお父さんみたいよ?」

「ええ!?」

 

 いち早く笑いが収まった雷に指摘されて、提督は内臓にダメージを受けたかのような呻きを上げて、脂汗をかき始めた。

 あまりにも的外れなことを口にしてしまったせいで、暁たちに失望されてしまったのではないかと焦りを帯びたのだ。

 だが、その考えこそが的外れであったようだ。

 

 響が、笑いが収まりかけた暁の脇の下をくすぐってブーストかけながら、ため息交じりに告げる。

 

「やっぱり、司令官は軍属の人じゃなかったみたいだね。いくら記憶喪失と言っても、艦娘をそう言う目で見る提督は、どの鎮守府を探してもさすがに居ないさ」

 

 恥じ入って真っ赤になってしまった提督に、響は加えてこうも告げる。

 

「冷たい水底に比べたら、夜の暗闇は暖かく希望に満ちているよ。艦娘は誰もがそれを知っているのさ。だから、私たちは夜を恐れはしても、立ち止まりはしない……」

 

 そう言われてしまえば、提督は夜間出撃に納得せざるを得ない。

 誰であろう、艦娘自身の口から発せられた言葉だ。

 これ以上に説得力に富んでいるものなどない。

 

 それはそうと、艦娘たちの爆笑は一時は収まったものの、暁が改めて語り出そうとした時に電のスイッチが入ってが再び笑い転げてしまい、それが連鎖。

 向こう10分ほどは笑いの時間となってしまった。

 艦娘たちの腹痛が収まるまで、提督は帽子を目深に被り、ひたすら耐え続けていた。

 

 

 

 ○

 

 

 

「さて、司令官に心配してもらったところに水を差すようで悪いけれど……。出撃するうえでもうひとつ、最大の懸念がある」

 

 爆笑の時間が終わり、緊張感のある雰囲気が取り戻された頃。

 響は起伏の少ない声で告げて、執務室に集ったみんなを見渡した。

 

「“ルサールカ”が、ひそんでいる……」

 

 初めて聞く固有名詞、おそらくは名前に、提督とまるゆは揃って首を傾げる。

 しかし、暁たちの表情は、提督が今まで見たこともないような厳しいものに変わった。

 

「敵の潜水艦だよ。“ルサールカ”という名前は私が付けた。級種は不明、誰もその姿を視認したことがないからね。もしかすると、姫級や鬼級といったカテゴリに属するのかもしれない」

 

 姫級や鬼級と呼ばれるのは、深海棲艦の中でも最も強力されている級種だ。

 艦娘としてはこの中で最も長い時間を稼働している電ですら、今に至るまでに片手で数えられるほどしか目撃・交戦の機会はなかったとされている程に稀な存在なのだ。

 もしも件の姫・鬼級であった場合、潜水棲姫、もしくは潜水棲鬼と名付けられるのだろうと電が告げるのを、他の六駆の面々は「考えたくない」とばかりに首を横に振る。

 

「“ルサールカ”は10年前当時、たった1隻でこちらの補給路をズタズタに引き裂いたんだ。それに、多くの仲間がこの敵潜水艦に沈められている。仇なんだよ……」

 

 その仇が、この海域にひそんでいるのだと響はいう。

 鎮守府が機能停止して10年も経っているというのに、かの敵潜水艦は、まだこの近海にひそんでいるのだと断定するのだ。

 

「何故そう言いきれるかって顔だね? わかるんだよ、司令官。10年前当時を知る私たちだからこそわかる。あの執拗さは、相手が深海棲艦であるということを差し置いても、異常だよ」

 

 単艦にて通商航路を破壊した“ルサールカ”は、その後もこの島の近海に潜み、数多の艦娘たちを狙い続けた。

 対潜装備にて身を固めた軽巡・駆逐級が輸送船の護衛に付くも、常に攻撃の機会を伺い、雷撃の有効射程を保持し続けていたのだという。

 この六駆の中では響が、直接その“ルサールカ”と一戦交えている。

 孤立した洋上での一対一だったそうだ。

 

「……丸1日以上、海の上と下とで互いの動向を探り合っていたよ。向こうは生態艤装の魚雷が尽きても時間を置けば回復してしまうけれど、こっちは弾切れになったらそれまでだ。こちらの爆雷が尽きたと思わせないように、かつ、向こうの残弾が尽きるタイミングを読んで、なんとかその場は脱することが出来たんだ」

 

 けれどと、響は続けて、帽子を目深に被り直す。

 

「生きた心地がしなかったよ。何が何でもこちらを沈めてやるって執念が、海面を貫いて体に突き刺さってくるようだった……」

 

 “ルサールカ”の語源は、スラブ神話に登場する水の精だ。

 川や沼に潜み、人を水底に引きずり込むことから、響はかの潜水級をそう名づけたのだ。

 

「“ルサールカ”はこの島にまだ私たちがいることを知っている。だから、出撃すれば、必ず追ってくるはずさ」

「もしかしたら、司令官さんの乗っていた船を襲ったのも、この“ルサールカ”かもしれないのです……」

 

 電の言に、提督は確かにそうかもしれないと息を詰める。

 もしかすると、その“ルサールカ”が自分の大切な人の命を奪っているのかもしれない。

 そう考えると、提督の心中には黒い靄がかかったかのような気持ち悪さが立ち込めてくる。

 失われた記憶に思いを馳せてしまいそうになるのを抑え、提督は響たちの話に耳を傾ける。

 

「唯一幸いなのは、“ルサールカ”の速力はそれほどでもないということさ。駆逐艦の高速巡航形態なら、振り切ることは容易だ。けれど、振り切るだけではダメだ。いつかこの島を出ようとする時、“ルサールカ”が健在ならば、確実にこちらに危害を加えてくる。それこそ、その身と引き換えにしてでも……」

「航路を確保するためには、いずれは戦わなきゃならない相手よね? 出撃時、対潜装備の調整は万全にしておかないとね……」

 

 

 と、その時だ。

 「あの……」と、控えめな声と共に、白い手が挙がった。

 まるゆが、控えめながらも意を決した表情で、手を挙げたのだ。

 隣りの雷は驚いた表情で新入りの横顔を見て、暁や響は互いに顔を見合わせつつも、頷いてまるゆの発言を促す。

 

 しかし、手を挙げて自己の存在をしたものの、まるゆは口をあわあわと開くだけで、何かをしゃべろうとしない。

 意見が言葉として纏まる前に、体が動いてしまったのだろうなと察した提督は、暁たちにまるゆの役割について何かないかと問う。

 彼女が艤装を纏って出撃できるようになったのならば、いったいどういった役割を任せるつもりだったのかを。

 答えるのは、暁だ。

 

「もちろん、まるゆにも働いてもらうつもりではいたのよ? というか、うちの鎮守府に潜水艦の艦娘が生き残っていたら、さっき話したみたいに遠洋に向けて夜間出撃する必要も薄くなっていたわ?」

 

 航路確保のため、水上偵察機を運用できる艦娘が必須となる。

 開発資材の奪取はそのために布石ではあるが、遠洋への夜間出撃にこだわっていたのは、この鎮守府に駆逐艦しか残っていなかったからだ。

 ところが、これに加えて潜水艦の艦娘がいるとなれば、話はまた違ってくる。

 

「……無理に深海棲艦から開発資材を奪取しなくても、海中に没している艤装核をサルベージ出来てれば、それで事足りるんだ。この近海には、多くの仲間が眠っているのだから……」

 

 響は言って、しかし、それは叶わないとも告げる。

 

「例えまるゆが出撃可能だったとしても、“ルサールカ”が目を光らせているあいだは、サルベージ作業などままならないよ。味方の潜水艦がいる状況では爆雷も使えない。味方を誤爆する恐れがあるからね」

 

 それゆえに、“ルサールカ”への対応を確定していない現段階では、まるゆに出撃の機会はない。

 

「ちなみに、遠洋への夜間出撃を延期して、先に“ルサールカ”への対応を行うという案は、今のところ無しよ」

 

 その考えに至っていた提督とまるゆは、暁に先回りされてうっと息を詰める。

 提督がその理由を問えば、暁は不甲斐ないと言いたげな顔で、帽子を目深に被ってしまった。

 

「……現状“ルサールカ”に対応できるのは、高速巡航能力の活きている私と響だけ。たった2隻で“ルサールカ”を相手取るには……」

「――頭数が足りな過ぎる。せめて味方に、軽巡級があと1隻、あるいは駆逐級が2隻いれば、“ルサールカ”の対応を優先しただろうね」

 

 それほどの相手なのか。

 硬い息を吐いた提督は、まるゆの方を見る。

 悔しそうに息を詰めて拳を握るまるゆを雷が慰めていて、諭す言葉に、ひとつひとつ噛みしめるように頷いていた。

 

 この件に関しては、雷と電も悔しい思いをしているはずだ。

 自分たちの艤装が万全ならば、すぐにでもこの脅威に対応する為に動くことが出来たのにと……。

 

 

「そういうわけだから、開発資材奪取が最優先ってことね。大丈夫よ、そのうち嫌だって言っても働いてもらうんだから! ね!?」

 

 暁が腕組みして言うのを、まるゆは幾度も頷きながら了承した。

 自分にもまだまだ機会があるのだと、そう言い聞かせるように。

 そうして作戦会議での決定に了承しつつも、まるゆは誰にも見えない位置で拳を握りしめた。

 悔しさか歯がゆさか、その心中を察する者は、新入りの挙動に気付きつつも、あえて触れずにいた。

 

 

 こうしてついに、開発資材奪取のため、暁たちは出撃することとなった。

 決行日は、明日の夜だ。

 

 

 



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10話:抜錨

 

 

 

「ねえ、響?」

 

 第二出撃ドック、その更衣室。

 暁は自分のロッカーの前で着ている服をすべて脱ぎ去り、隣りで着替えている響の方を見ずに声を掛けた。

 響はと言えば、ちょうどパンツを脱ぎ去って一糸纏わぬ姿になったところだ。

 生地が痛み始めているお気に入りの水色のパンツを指にひっかけてくるくると回し、響は姉の方を横目に見る。

 

「下着って、インナーの中に履くべきかな? インナーの上から履くべきかな?」

 

 暁の問いに響は「ふむ」とひとつ頷いて、くるくると指で回していた自分のパンツをロッカーの中に放った。

 

「……インナー着るなら、履かなくてもいいんじゃないかな?」

 

 暁たちが着用する補助艤装のインナースーツは、それ自体が下着のようなものだ。

 波長を弄って透明にしなければ、充分に局部を隠す役割を果たす。

 そういった機能がある以上、響としては下着をつける意味を見いだせなかったのだが、どうやら暁は違ったようだ。

 

「勝負パンツよ。響も履くでしょ?」

 

 そう言って暁が掲げたのは、まるで水着のようにハンガーに掛かった白と黒の下着だ。

 どちらもこの島に漂着した物資の中にあったものなのだが、高級感漂うそのつくりに気後れして、六駆の誰もが身に着けなかったものだ。

 それを、この出撃の時に身に着けていこうというのだ。

 

 ハンガーを左右の手に持ち真剣な表情で悩む暁に、響は半目で呆れ顔だ。

 

「勝負下着って……。あの夜戦大好き軽巡3人組に、ちょっと影響され過ぎじゃあないかな?」

「ええ? そうかしら?」

「それに、そのマントもだよ……」

 

 響の視線の先、暁のロッカーの中には軍刀と、黒いマントがかけてあった。

 どちらも、とある軽巡洋艦の改二艤装、その衣装のひとつだったものだ。

 暁が自らのロッカーに入れていたということは、出撃時にこれを身に着けていくつもりだったのだろう。

 

「戦友の遺品を着飾るのは、感心しないかな」

「そんなんじゃないわ! ……それにこれ、遺品なんかじゃないもの。あいつは、これを着る前にいなくなったんだから……」

 

 この衣装を身に纏うはずだった軽巡洋艦は、重雷装巡洋艦への改造を目前にして轟沈している。

 暁は、その瞬間を目の当たりにしている。

 

 

「……でも、そうね。響の言うとおりかも。居なくなったみんなと一緒に戦いたい、みんなに見守っていてほしいって、思っているのかもね」

 

 珍しく弱音を吐く暁に、響はインナーに足を通そうとしていた動きを止めた。

 今まで、妹たちの前では絶対に弱音を吐かなかった暁が、ここに来て弱気な姿を見せたのだ。

 10年振りの出撃で感情が揺らいでいる、というのもあるのだろう。

 しかし響には、暁の弱気の原因が、別のところにあるように思えていた。

 

 響が思い当たったのは、提督の存在だ。

 彼がまだ、この島に漂着したばかりの青年だった頃から、暁が何かと提督のことを気にかけていたのは、響以下、姉妹たちは知っている。

 提督の前で弱みを見せて以降、暁は妹艦たちの前でもあまり顔をつくらず、自然に振る舞うようになってきている。

 良いことだと、響は思う。

 しかし、だからこそ、そういった彼是を鑑みて今の暁を見ると、その弱気の原因が提督に由来するのではないかと、察するのだ。

 そう思い至るだけのことが、昨日あったばかりだから。

 

 

「司令官に対して、不満があるのかい?」

 

 何気ない口調で響が問えば、暁は目を丸くして妹艦を見返した。

 どうしてわかったのだと言いたげな姉の視線を、響はため息を吐きそうになるのを堪えつつ受け流した。

 わからないわけがない。

 いくらかの隔たりがあったものの、10年以上の時間を共有してきたのだ。

 変化があれば気付くし、それがおかしな変化であれば尚更だ。

 

 暁の変化はわかりやすいものでもなかったが、響は気付くことが出来た。

 響自身が提督に対して期待と、それ以上の不満を抱いていたから、というのもあるだろう。

 提督に対してまだまだ負い目の念が強い雷などは、まだまだ彼を提督として見ていない節があるし。

 電に至っては、正直なところ響でも良くわかっていない。

 あの妹艦は稼働時間が姉妹艦の中では一番長く、また人間として過ごした時間も最長なので、計りかねているのだ。

 

 

 響に内心を言い当てられた暁は、自分のロッカーの中を見つめて考え込んでしまっていた。

 だが、おそらくはロッカーの中など見ていない、目の焦点が合っていないのだ。

 視線が向けられているのは、己の内側だ。

 

「……私ね、司令官のこと、好きよ。彼が流れ着いてくれたおかげで、本当に救われた気がするの。でも、こうも思っているの。司令官は、私たちの司令官でもあるのだけれど、でもやっぱり、私たちが守るべき人間なんだって」

「それは、彼が提督ではなく一般人だと言うことかい? 私たちの背を見守り共に戦う者ではなく、背に庇って守るべき、か弱き者だと?」

 

 響の追及に、暁は無言で頷いた。

 そんな暁の姿を見て、響は何故暁がこんなにも弱気になっているのかを、改めて確信を得た。

 暁が求めていたのは、自分たち艦娘を送り出し、その背を見守る提督だ。

 だが、自分たちの司令官は、そんな提督像とはだいぶ異なる。

 どちらかと言えば内地に遠ざかってもらっている、守るべき一般市民なのだ。

 当初こそ、自分たちにも司令官が出来て喜んでいた暁だったが、提督と日々を過ごすうちに、提督としての彼とよりも一般市民としての彼を強く意識するようになっていたのだろう。

 そこに、昨日のあの一言だ。

 

 最初こそ大笑いしていた暁だったが、後になって、はたと気付いたのだろう。

 自分が、なんの訓練も受けていないような一般市民を、提督に仕立て上げているということに。

 提督への不満とは決して頼りないといったものではなく、本来守るべき者を戦いの場に縫い付けてしまったことへの後悔だ。

 だからこそ暁は、彼が提督になると告げた時に難色を示している。

 それを忘れたわけではないのだろうが、提督への好意が、楽しい日々が、考えを鈍らせていたのだ。

 

 そして、この出撃の直前になって、今さらに怖くなってしまったのだろう。

 この後に及んで、彼に戦いの結果を受け止めさせることを、恐れているのだ。

 

 

「私たちの事情に勝手に巻き込んで置いて、今さら不満があるなんて……。最低だわ、私……」

「まあ、司令官は軍属の人じゃあないだろうからね。昨日の、作戦会議の時の発言で、はっきりわかったよ」

 

 昨日の作戦会議で提督が発した一言に、艦娘たちはみんな揃って大爆笑となった出来事だ。

 あの時、提督自身も感じただろうなと、響は実感する。

 艦娘が、“人間でもある”という存在だということに。

 常人とは全く分かり合えないような価値観を、いくつか持っているということに……。

 

「でも、現状、彼に司令官をやってもらわなきゃ、どの道手詰まりなんだ。特に、生身の人間である司令官には事故死や病死のリスクがある以上、こうして協力してもらう他ない。彼もそれをわかっているはずだよ。現状彼にしか出来ないことを。自分が、適性はあっても“提督”には向いていないということも……」

「響は、司令官のこと……」

「暁と同じだよ」

 

 即答で返され、暁は黙り込んだ。

 今までの自らの言葉を思い返して、困ったように顔を赤くしてしまう。

 

「まあ、不満の量なら暁よりもだいぶ多いけれどね。司令官に言ってやりたいことは山のようにあるよ。でもそれは仕方のないことだから、言うべくもなし、さ。そもそも彼には、選択肢など無いに等しかったのだから……」

 

 深海棲艦の支配領域にたったひとり、記憶を失くして取り残されて、戦いの準備に駆り出される他、進む道はなくて……。

 それでも提督は選び、狭められた道を自分から歩いて来た。

 こちらが遠まわしに脅迫まがいなことをする前に、この島と艦娘たちの事情を見て、たったひとつだけ用意された選択肢を、自分の意志で選び取ったのだ。

 

「私は、そんな彼だからこそ、司令官を任せられる。そのうち、苦しんだり痛んだりでひとりで散々抱え込んでうじうじ悩みだすのが目に見えているけれど、彼はそれを承知で、私たちの背中を見送る役目を買って出たんだ。だから……」

 

 だからこそ、響は自らの決意を言葉にする。

 

「司令官、あまり泣かせないようにしないとね?」

 

 言って、響はインナースーツにようやく足を通した。

 

 響の言葉を受けて、暁は俯き、固まってしまった。

 悔しさが声となって漏れそうになるのを、腹に力を入れて抑える。

 彼が自分たちの司令官になると告げた時に、共犯者になることを決意したはずなのにと。

 その決意を忘れたわけではないが、日々の暮らしが緩みを生んでしまっていた。

 提督となった名前の知らない彼に好意を抱くほどに、彼は提督にはふさわしくない人物だと、そう強く思ってしまったのだ。

 

 深く息を吐いて、暁は隣の妹艦を横目で見る。

 よく考えれば、あまり感情を表に出さないこの艦娘が、他人のことをとやかく言うのは珍しいと、今さらに思う。

 響も提督に期待していて、そして不満をも抱いてもいると、はっきり口にしていた。

 それだというのにこうもぶれないのは、精神が鋼で出来ているのではと勘ぐってしまう。

 

「――誰が鋼の女だって?」

「言ってないんだけど!?」

 

 響に横目でにらみ返され、さっさと着ろとばかりにインナースーツを押し付けられる。

 

「決意が鈍るのは、何もおかしいことじゃないし、恥ずかしいことでもないよ。私たちは人でもあるのだから、そう言った気分や感情の“振れ”があってしかるべきだ。それが、深海棲艦に対抗する一要因になっているは暁も知っているはずだよ?」

「……自分の決意が鈍ったり、自分の決断を疑ったりしちゃった時って、響はどうしているの?」

「簡単だよ。更新するのさ」

 

 「更新?」と姉艦が怪訝な顔を向けて来るのを、響はハンガーに掛かった下着を手に取りながら頷き返した。

 

「もう一度、決意するんだ。迷ったら、何度でも決意し直す。もしかしたら、以前とは違った心構えになるかもしれないけれど、以前よりも良い方に舵を取れているなら、それでもいいんだ」

 

 響は言って、「ただ……」と付け加える。

 

「決意が揺らぎ、鈍るってことは、“決めた”段階では見えていないものが見え始めたってことだよ。だから、新しく決意し直す何かが必要だ」

「決意し直す何かって……」

「それくらい、自分で考えるんだね?」

 

 澄ました顔で言われて、暁は頬を膨らませて、受け取ったインナースーツをばさりと振った。

 乱暴に手足を通しながらも、暁の頭の中は少し前よりは断然はっきりとものを考えられるようになっていた。

 確かに、提督に対して不満や後悔はあったが、よく考えればただそれだけではないか。

 ただの記憶喪失の青年を提督に仕立て上げたことに負い目も感じているが、「それはそれ」とだいぶ前に割り切ってもいる。

 これからやることは変わらないし、続けていくことも変わらない。

 ただ、自分の不満と後悔と弱気とを、はっきりと自覚しただけだ。

 新たな決意の材料などいらない。

 

 しかし、響に指摘されなければ、不満を抱えてもやもやしたまま海上に出ていただろう。

 油断まみれの心境で敵の領域に突っ込もうとしていたかと思うと寒気がするし、そんなことで延々と素っ裸で悩んでいたのかと考えると顔に熱が上がってくる。

 

 

「……ダメね。悩みを打ち明ける、なーんて習慣がないと、わかっていても、抱え込んだままにしちゃう」

「それに気付けただけも良かったし、こうして話してくれたことは何よりの進歩だよ。10年間、私たちが避けてきたことなのだから……。それで? どっちにする?」

 

 響がハンガーを掲げてきた。

 暁は顎に手を当てて目を細め、しばらく黙考する。

 

 結局、暁が白、響が黒いパンツをインナーの上から履くことになった。

 そうして、勢い良くパンツを履いて気合を入れたはいいものの、ブラジャーの方はふたりとも着けずにそっとロッカーにしまった。

 暁のは胸元がスカスカで、響は胸元がきつくて着用出来なかったのだ。

 涙目になって拳を握る暁に、響は呆れた顔で肩を叩くしか出来なかった。

 

 

 

 ○

 

 

 

 暁と響が着替えているあいだ、提督たちは待機場のテーブルにてノートPCに向かっていた。

 艦娘の出撃が海上に出るには出撃許可が必須となり、提督がそのための承認を行う必要があったのだが……、

 

「……改めてこうして確認しているけれど。項目、結構多いんだね?」

 

 提督はノートPCに表示された承認項目にしっかりと目を通し、二度、三度と再確認した後やっとクリックしてチェックを入れる。

 

「もう、司令官ったら。詐欺師のつくった偽物の書類じゃないんだから、そんなに穴が開くほど確認しなくてもいいのよ?」

 

 後ろから画面を覗き込んでいた雷が呆れたように言うが、提督は「いいや」と画面から視線を外さない。

 

「みんなの生死にかかわることだから、見落としがあってはいけないよ」

「大丈夫大丈夫。全部チェック入れれば大丈夫なのよ、そんなの。全24項目すべてに目を通していたら、日が暮れちゃうわ? ほーら、さっさとチェックチェックー!」

 

 雷が肩を揉みながら先を勧めろと促してくるのを、提督は苦笑いしながらも、確認を怠るような真似はしない。

 そうして密着する提督と雷の様子を、テーブルの端、鼻から上だけを覗かせた人物が見ていた。

 まるゆだ。

 じっと、半目で穴が開きそうなくらいに強い視線をふたりに送ってくる。

 どうしたことかと提督と雷が見守れば、まるゆはキッと目元を鋭く細めて立ち上がり、速足でテーブルを迂回して、提督と雷に向かってダイブした。

 

「まるゆもー! 入れてくださーいー!」

 

 どうやら仲間に入りたかったようで、提督ごと雷に抱き着いたまるゆは、腕いっぱいに力を込めてロックをかけてくる。

 首が閉まる感触に提督は慌てるがどうにもできず、雷は笑いながらその極めを外す。

 それどころか、逆にまるゆの背後に回り込んでチョークを極めてしまった。

 「鮮やかなものだね?」と提督が感心したように言うのを、雷は「練習したもん?」と笑顔で答える。

 趣味だろうかと首を傾げる提督だったが、雷の相手をまるゆに任せて(逆だろうか?)ノートPCの画面に向き直る。

 

 出撃許可の承認項目を、提督は、実は以前にも目を通している。

 暁たちが艤装の同期作業を終えて、出撃ドック内の水面にて動作試験を行おうといった段階でのことだ。

 しかし、その時確認したのは試験出撃用の簡略化されたもので、いま目にしている本式のように、数十ページに渡りびっしりと文字が羅列されているわけではないのだ。

 先程雷が言ったように、この膨大な文字の羅列を逐一確認して理解する意味というのは、確かに薄い。

 契約書における同意の是非を確認するものというほど小難しいものではなく、これは単に艦娘の艤装のロックとして働いているが故だ。

 

 例えば、チェック項目のひとつに艤装の重量を減少させるというものがある。

 暁型の背部艤装は魚雷発射管やシールドを除いても100キロを超える。

 こんな超重量を背負っては、海上に出て戦うどころか、そもそも立って歩くこともできないし、骨格に異常をきたしてしまう。

 艤装の超重量を減少する仕組みこそ提督にはわからなかったが、それが彼女たちの枷として充分であったことは充分に理解できた。

 艦娘が、提督の許可なく海上に出ることが適わないといった理由だ。

 艤装のスターターの投入許可、艤装の重量減少、各種兵装のロック、仮想スクリューの展開回路の接続、等々。

 そう言った項目が24もの数があり、そして許可を出せるのは人間、提督のみだ。

 チェック項目はあくまでロック解除のための一動作、艦娘……少なくとも雷はそう考えているようだ。

 

 しかし、提督はそうは思えなかった。

 確かに承認項目は形骸化されているのかもしれないが、目を凝らせば新たな発見が山のようにあったからだ。

 例えば、各種兵装のロックに関する項だ。

 艦娘の半径数メートル以内にて人間の生命反応を感知した場合、兵装が自動的にロックされるという記述があるし、そもそも兵装の最終安全装置は外洋に出た時点でようやく解除状態となるという記述も初めて目にするものだった。

 深海棲艦の支配海域であるこの孤島においてはあまり意味のないことかもしれないが、これが本土周辺の鎮守府や近海であれば話は変わってくる。

 これは艦娘が誤って人間に対して攻撃を行えないようにという措置だろうと、提督は苦い顔をする。

 

 艦娘の艤装時の動きを制限する記述は、この他にもかなりの数見られた。

 中でも、海上において艤装の強制解除という項目には目を疑った程だ。

 いったい何をどうすればそんな事態に成り得るのかと困惑して、そして、そう言った事態を想定できないのが自分の考えの甘さなのだなと提督は思い知った。

 

 

 クレーンなどの動作を確認していた電が、通りがかりに「あまり気にしすぎるのも、ダメなのですよ?」と力を抜くよう窘められたが、提督はどうしても、自らの緊張を解くことが出来なかった。

 この思いつめ方はいけないなと自覚しながらも、それをやめることが出来ないでいる。

 これは性分なのだろうかとも考えるが、その答えは、記憶を失う前の自分か、“提督”となる前の青年を知る人にしか出せない。

 気分を変えるために時間が必要だと感じるが、もう出撃までに時間がない。

 暁たちが準備を終えて更衣室から出て来るまでに、なんとか平静を取り戻したいと考えていたが、それも叶いそうにない。

 

 もっと早くにこの承認項目に目を通しておくべきだったと後悔する。

 優先順位を完全に誤ったのだ。

 こんな重要な記述があるのならば一早く教えてほしかったと不満を述べたいところだったが、彼女たちなりの気遣いでもあったのだろうと思うと、そう無下にもできない。

 自分が考えすぎて深刻になっていると、提督自身も理解している。

 たった今目にした重要項目も、これからの出撃に直接関わってくるとは限らないし、例え熟読して吟味したとて妙案が浮かぶとも限らない。

 完全な素人目線での考えだが、何かあった場合に判断に時間がかかるのはまずい。

 

 そう言った部分まで、暁たちは提督に期待していないことは承知している。

 緊急時の対応などは彼女たちの方が良く知っている以上、提督の仕事は“是”の一言で許可を下すことだけなのだ。

 彼女たちが承認事項の詳細を熟読する必要がないと判断したのならば、それが正しいのだろう。

 提督が納得すればすべてが順当に行くが、その納得を今すぐ得るには、どうすれば良いか。

 

「……電、いいかな?」

 

 作業を終えて、後ろに控えて動向を見守っていた電に、提督は声を掛ける。

 電は笑顔で応じる。

 まるで、提督の問いをあらかじめ知っていたかのような笑みだ。

 

「これらの項目、要点を検索できるような機能はないかな? 緊急時に必要な項目をすぐに検索できるような……」

 

 これらの項目すべてに目を通していたら、日が暮れるどころか明日の朝になっても終わらないだろう。

 内容を熟読しないうちにチェックを入れることはしたくなかったが、このまま先延ばしにしても良くはない。

 ならば緊急時、即座に確認だけでも出来るようにしておきたい。

 例え有効な判断が出来なかったとしても、考えが及ばず右往左往するのは御免だ。

 出撃する彼女たちの、命がかかっているとすれば尚更だ。

 

「それならもう、緊急対応時のリストをつくってあるのですよ?」

 

 電に笑顔で告げられ、提督は急速に緊張感がしぼんでいくような感触を味わった。

 それはそうだと、心の中で苦笑いする自分がいる。

 いくらこちらを気遣ったとは言え、「不要だから話す必要がない」などと電が言うとは考えにくい。

 現に、提督の隣に移動した電はノートPCを操作して、件の重要項目リストのファイルを開いてゆく。

 

「もしかしたら、と思ってつくっておいて良かったのです。司令官さんはたぶん、こういうの見過ごせないと思ったので……」

「電には敵わないなあ……」

 

 安堵するように深く息を吐いて提督が言うと、ロックを極めた(極められた)まま動向を見守っていた雷とまるゆが、わあっと提督と電に襲い掛かった。

 もみくちゃにされながら、いつにもまして落ち着きがないなと感じるのは、今が出撃前だからだろうかと提督は思うのだ。

 立ち止まっていると不安がこみ上げて来るから、動いていたり、誰かに密着していたい。

 その思いは、考えは、理解出来る。

 昨日、失言して笑われたことを引きずっているのだろうなと、提督は内心のざわめきを悟られないように努めるので精いっぱいだった。

 

 会議の時は恥ずかしさしか感じなかったが、後々になって自分の認識に甘さに愕然としたものだ。

 自分が接して向き合っている彼女たちが“艦娘”であると、そういう認識が足りなかったのだ。

 今まで彼女たちを人間の女の子として見てた面が強かったからこその失言だったが、いざ作戦時となった場合に、その心境のままで挑むのは非常にまずい。

 今のように、要らぬ所で時間を食って、後々の状況に悪い影響を与えてしまうことだってある。

 彼女たちから許可を求められ“是”と返すだけの人形になどなる気はないが、だからと言って素人判断で意固地になってしまってもいけない。

 

 ……と、そんなことを考えている提督に、電は先ほどと同じ笑みを向けてくる。

 気にしすぎないように。

 考えすぎないように。

 優しく諭されているようで、やはりこの子には適わないなと、提督はそう思って、苦笑いするしかない。

 

 

 その時、ようやく更衣室の扉が開かれた音を耳にする。

 揚々と出て来たふたりの姿を目にした提督は、口を半開きにして固まってしまった。

 原因は、主に暁の格好だ。

 

 暁が身に纏っている衣装は、いつもの制服と帽子に加え、裾に白い波紋が刺しゅうされた黒いマントだった。

 マントは右半身を覆うように着こなされ、背部艤装を装着する空間を設けている。

 右半身を覆うようにしているのは、暁が主砲を左腕に装備するためだろうかと提督は推測する。

 そういった部分で納得することは出来るのだが、やはり根本的な部分で「何故マント?」と疑問してしまう。

 

「どうしたの? 司令官。お馬鹿さんみたいに口開けて」

「……うん。気にしないことに、しようかな? うん」

 

 「何がよ?」と、暁が不満そうに口をとがらせるのは、期待したリアクションがなかったからだろうか。

 口を真一文字に引き結んでじっと提督の顔を睨んだかと思うと、次の瞬間には「よし、大丈夫ね?」とひとりで完結してしまうので、提督には何がなんだかわからない。

 

 そんな姉とは対照的に、響の方はいつもの落ち着いた雰囲気で肩を竦めて見せた。

 響が着ているのは、黒い細身のコートだ。

 袖元や首元、腰回りもしっかりと引き締め、体の線に密着するようなデザイン。

 裾は膝上までの丈で、脚部艤装の展開に干渉しないようになっているようだ。

 動作試験時にテストしていたヘッドフォン型の複合ソナーも首に掛かっている。

 そして、腹回りには大きなベルトが装着されていた。

 機械的なデザインから察するに、おそらくはこれも艤装なのだろう。

 提督の視線に気付いた響が「爆雷のストッカーだよ」と捕捉する。

 

「“ルサールカ”対策の爆雷の予備さ。背部艤装に搭載している分では足りなくなるかもしれないから、予備を、こう、お腹周りに……」

「それは、敵の砲弾など受けて誘爆する危険はないのかい?」

「もちろん、あるさ。しかしどちらにしろ、敵の砲弾が頭に当たれば、問答無用で天国へ真っ逆さまだよ。そうでなくとも、私たち艦娘は誘爆して即死するレベルの武装を山のように積んで海に出るんだ。大した違いはないよ」

 

 響の発した言葉に、提督は「確かに」と頷かん思いだった。

 背部艤装の燃料タンクや砲弾や魚雷、すべて含めればざっと暁たちの艦娘の体積の半分くらいにはなる。

 それだけの危険物を体に巻き付けて戦うのだ、危険でないわけがない。

 

 そんななか、提督が特に気になったのは、ふたりが首から下げているものだ。

 懐中時計のように見えたのだが、よく見れば異なる機構を有していた。

 時計で言うところの文字盤が4つあるのだ。

 文字盤のうち2つは時計なのだが、もう2つが方位磁石のようなもの。

 提督の視線に気付いた暁が「これ? 補助艤装の羅針盤よ?」と、その補助艤装を向けて見せる。

 

「羅針盤って言っても、半分は時計なんだけどね? 時計ふたつは、所属鎮守府の時刻と、作戦行動時の座標での時刻を確認するため。羅針盤は目的地の進路確認と、これも帰投する所属鎮守府の方角の確認用ね。本当は艦隊の旗艦だけ持ってればいいものなんだけれど……」

「たった2隻では艦隊も何もないからね? 数も余っているし、個人で持つようにしているのさ」

「そうそう。妖精が勝手気ままに回しだすし、何が羅針盤って感じだけどね……。それと響、髪ね?」

 

 先に発進台へ向かおうとしていた暁が足を止めて、振り返りつつ響に告げる。

 「わかっている」とばかりに手を挙げた響の肩や背部艤装に、妖精たちが現れる。

 妖精たちが誘導灯のようなものを振ってサインを出すような動きを取ると、響の纏っている衣装の明度が落ちていった。

 黒や濃い色は光沢を抑え、白や明るい色は配色に黒を混ぜたかのような暗色へ。

 そして、響の髪も白から灰色を経て黒へと変化した。

 夜戦迷彩というもので、なるべく光源に反射する色を抑えるための措置なのだと、電が提督に解説する。

 

「……まあ、どうせ髪は纏めるのだけれどね? 一応の措置だよ」

 

 響はそう言いながら長い髪を纏めて、後頭部あたりで団子をつくっている。

 暁の方は髪を纏めないのだなと苦笑いした提督は(暁は雷とまるゆに捕まって髪を纏められていた)、ふと、「やっぱり、姉妹艦と言うだけあって似ているものだね?」などと呟いた。

 響が黒髪に近い色となったことで、暁と並ぶと顔付などが瓜二つであると気付いたのだ。

 姉妹艦なのだから似ているのは当たり前ではないのかと結論付けそうになったのだが、並んでポーズを取って見せる暁と響の姿に(ふたりともノリノリだ)、何故だか違和感が生じた。

 それを問おうする間もなく、「さあ、出撃なのですよー?」と、電に背中を押されて、提督は出撃するふたりに続いて発進台へと急いだ。

 

 

 

 ○

 

 

 

 第二出撃場内にある発進台。

 その機構は、言わば水の張られていない屋内プールのような形をしている。

 ひとつのレーン幅は5メートル程で、それが六つ並ぶ。

 深さは4、5メートル程あり、スタート台付近は転落防止の策で覆われていた。

 六番まである出撃レーン、その一番と二番のスタート台に、暁と響は立つ。

 一番レーンに暁、二番レーンには響。

 旗艦は暁だ。

 

 クレーンによって運ばれてきた背部艤装が装着され、後続で運ばれてきた魚雷発射管やシールド、脚部艤装や主砲を追加装備していく。

 装着と、それらの動作確認の様子を見守る中、ふと、まるゆが不思議そうに首を傾げた。

 

「おふたりの魚雷発射管、三連装なんですね? 魚雷は、酸素魚雷ですか?」

「違うわ。あれ、普通の三連装魚雷よ」

 

 まるゆの問いに雷が答える。

 確かに、暁と響の装備している魚雷発射管は三連装のものだ。

 

「四連装とか五連装の発射管もあるし、酸素魚雷もストックがあるんだけどね? あのふたりは三連装が使い慣れてるって言って、絶対三連装の通常魚雷なのよ」

「使い慣れない最新式よりも、使い慣れた旧式よね?」

「そうさ。それに、雷跡を残さない酸素魚雷よりも、雷跡を残す通常魚雷の方が使い道があるのさ」

 

 三連装の有用性を主張するが暁と響だったが、雷に「おばあちゃんじゃないんだから、最新式の使い方覚えなさいよ」と言われて、気まずそうに顔を逸らしたり、吹けない口笛を吹いて誤魔化し始めた。

 

 そうして一通りの動作確認を終えると、いよいよ出撃体勢への移行だ。

 

「ふたりとも、しっかりね?」

 

 雷は、それぞれの額にキスして頬を優しく叩いて激励。

 そうして提督たちの元へ戻ると、総員で揃って敬礼する。

 

 暁と響は脇に抱えていた帽子を被り直し、響はヘッドフォンを装着してコードを妖精に渡し背部艤装へと接続した。

 ふたりが提督たちに返礼すると、スタート台が下方へと降下を開始した。

 

 深層へと降下中に脚部艤装を展開して接続、さらにはスタート台から補助パーツが追加補強されて、長さ3メートル超の、サーフボード状の一枚板が形成される。

 進行方向側へ向く左側には、艦名と速度メーターが。

 逆の右側には仮想スクリューの回路ボックスと、巻き取られた状態のアンカーのチェーンが覗いている。

 スタート台がゆっくりと回転して、ふたりの左半身が進行方向を向く。

 駆逐艦の、高速巡航形態の完成だ。

 レーンに海水が通され、スタート台が着水。ボードが浮力を得て水上に浮いた。

 すぐに仮想スクリューが展開して、ゆるやかに回転を始める。

 ボードとスタート台を繋ぎとめていたアンカーが外れ、生じた推進力のままに前進を開始して、徐々に速度を上げていく。

 抜錨だ。

 

 艤装の重量を軽減された艦娘の体は軽く、静止状態からでもトップスピードに移行できるが、このレーン上での水上航行が最終確認の意味も含んでいるため、初動は緩やかなものになる。

 屋内プールのような発進機構から暗いトンネルに入り、誘導灯が灯るレーンに沿うように航行して、ふたりは徐々に速度を上げて行く。

 

「暁、出撃口から鎮守府外へ出ると同時に高速巡航開始だよ」

「……近くで張ってるの? ヤツが……」

「いいや。ただの勘だよ。とても嫌な勘だ……!」

 

 響の忠告通り、暁は目の前の景色が開けると同時に妖精に指示を出して高速巡航を開始した。

 緩やかな加速から、急加速へ。

 ボードの先端が天を仰ぐほどの角度で持ち上がるが、すぐに体勢を立て直して真っ直ぐに行く。

 ちらりと背後に目を向けると、ちょうど響が高速巡航を開始して、出撃口がゆっくりと閉じてゆくところだった。

 敵の侵入を防ぐため、出撃後は引きこんだ海水が一度排出されるため、例え“ルサールカ”が入り込んだとしても地面に打ち上げられることになるはずだ。

 そもそも響のソナーに反応がないということは、出撃口の真ん前の張り込んでいたという勘は外れたのだろう。

 

「……やっぱり、遠洋に出てから仕掛けてくるのかしら?」

「ここで仕掛けて来ないとなれば、その可能性が高いね。今のところは感無し。――このまま速度と間隔を維持。目標座標到達まで、およそ1時間」

 

 暁は視線を進行方向へ戻しつつ、夜空を見上げた。

 分厚い鉛色の雲に覆われた夜空には、月も星もない。

 それだというのに海上が仄明るく見えるのは、この一帯がもう深海棲艦の支配領域だからなのだろう。

 異常な環境下。

 10年ぶりの出撃。

 思うところは多々あるものの、今はただ進む。

 艤装の最終安全装置が解除される音が聞こえ、自分の意志もそちら側に切り替わった。

 鋼のような硬質な波間を、高速にて行く。

 

 

 



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波間③

 孤島の裏手側には、油田跡地がある。

 この鎮守府をはじめ、付近の前線基地への補給を支え続けた重要施設だったものだ。

 当然ながら、現在は稼働していない。

 それどころか、10年前の空襲時、この油田もこっぴどく爆撃されていて、今は残骸しか残っていないのだ。

 もっとも、“艦娘の艤装用の燃料を精製する”という口実があれば、妖精たちを送り込んで修復することも可能だが、それには艦娘が護衛に着く必要がある。

 今までは提督不在で出撃許可が下りなかったため、そもそも修復に乗り出すことは出来なかったのだが、例え艦娘が出撃できる状態にあったとしても、暁たちはこの油田の修復には着手しなかっただろう。

 

 この近海に“ルサールカ”が潜んでいる可能性がある。

 長時間の、しかも動かない大きな建造物を護衛することは、例え対潜装備で身を固めたとしても至難の業だっただろう。

 だから、油田を復旧するとしても、後回し。

 開発資材を奪取して建造を行い、艦娘の頭数を揃えられてから、やっと候補に挙がるような案件なのだ。

 

 その油田跡地を、艦娘が2隻、高速で通過する。

 暁と響だ。

 久しぶりに油田跡を間近で目にして、懐かしむような、複雑な表情を浮かべる。

 しかし、それも一瞬だけ、通り過ぎる頃にはすでに、視界は進行方向を見据えていた。

 これから遠洋に進出するのだ。

 

 

 

 ○

 

 

 

 海中には高速巡航する2隻のスクリュー音が届いていた。

 魚影ひとつない海中にこの音を拾うものなどいないかと思われたが、スクリュー音が遠退いてから、ゆらりと動く影があった。

 水質が異様な濁りを持ち、海中に差し込む光源がほぼ皆無であるこの海域では、海中にあるものの姿を判別することは難儀だろう。

 それでも、確かに海中には動く何かがあった。

 生物の生存に適さない環境下で活動できるとすれば、それは艦娘であるか、それらを指揮する提督であるか、あるいはもうひとつの存在に限られる。

 この海域の支配者、深海棲艦。

 

 姿こそ視認できるものではなかったが、その揺らぎの数はひとつではなかった。

 海中をうごめく影はふたつ。

 それぞれが透明度の低い海中を見通すかのような青白い視線を浮かび上がらせ、スクリュー音が遠ざかる方向を向く。

 

 そして、ふたつの影は動き出した。

 自らの速度こそ高速巡航状態の駆逐艦には及ばなかったが、この無音にも等しい海中においては、遠くの音まで良く伝わってくるため、追跡は容易だ。

 影が動く。

 こちらも青白い仮想スクリューが展開し、動作を開始するが、艦娘のソナーの探知範囲から外れてしまったため、気付かれることはない。

 海中に新たな揺らぎが生まれる。

 ふたつの影は目標へ向けて、真っ直ぐに航行を開始した。

 

 

 



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11話:夜戦

 

 

 

 風を切って進んでいるというよりは、目の前の大気の壁を潜って進んでいるようだなと、暁は高速巡航の感想を得ていた。

 10年前とは違った感触だ。

 それもそのはず。ここはもう、深海棲艦の支配領域なのだから。

 全てが、暁の知る海とは違っていた。

 風がなく、波がほとんど立たず、何より生命の鼓動が感じられない。

 海よりは湖に近いのだろうかと思い至るが、そもそも暁自身は湖というものを見たことがないので、正確な感想ではないなと残念を得る。

 

「響。なんだか海面が固い」

 

 高速巡航中に肉声でのやり取りは不可能だが、艤装がそれを可能にする。

 ちらりと、暁が背後を見やると、その言葉を耳にした響が頷いた。

 

「確かにね。膝を悪くしそうだよ」

「おばあちゃんみたいなことを……」

 

 呆れる暁だったが、確かにボードを伝ってくる感触はあまりよろしくないものだ。

 暁の知る海上では、もっと風が吹き、波も非常に柔らかく、そしてこんなに大人しくはない。

 時化の時などは身の丈を超える高さの波が連続しているため、航行するだけでやっとだったなと、苦い思い出が引っ張り出される。

 海だというのに、登ったり下ったりという表現が出て来るような場所だったはずだ。

 それこそ、現状のような高速巡航など、もっての外な環境下だった。

 

 そういった意味では、この海域では安定した航行が出来るのだろうなと思い、複雑な心境になる。

 何せ、高波や海流を計算に入れなくても構わないのだから。

 風もだ。今のところ、体を煽られるような風を感じることはない。

 これでは端が見えないほどの広さを持つプール上を疾走しているのと変わりない。

 腐敗した、しかし無臭な、大きな大きな水たまり。

 それが、暁と響が同様に得た、深海棲艦の支配領海の感想だった。

 

 

「……とはいっても、次の瞬間にはどうなっているかわからないわよね? 深海棲艦の支配領海は、まだまだわからないことだらけだもの。サンプルの方はどう?」

「妖精さんが、せっせと作業中さ」

 

 暁と響の脚部艤装、そのボードの上では、妖精たちがせっせと海水をプラスチック製の容器に採取して、ラベル張ったり簡易検査をしたりと走り回っている。

 

「今までは島付近の浅瀬でしかサンプルを取っていなかったけれど、この一帯のサンプルを持ち帰れば、もっといろいろなことがわかるだろうね」

 

 暁たちが遠洋へと航行する際、通過した海域の海水サンプルを持ち帰るという手筈になっている。

 情報収集の一環だ。

 深海棲艦の支配海域で長時間に渡って稼働したことのある艦娘というのは、10年前当時でもの五本の指で足りる数で、その海域の分析にまでは手が回っていない。

 唯一確定していることは、この海域ではあらゆる物理現象に信頼が置けないということだ。

 大気圧や海水の比重は気まぐれに数値を変え、動植物は生存を許されない。

 

 それでも、深海棲艦は言うに及ばず、艦娘と、適性を持つ一部の人間は活動出来る。

 他の勢力が立ち入れない、艦娘と深海棲艦の相対の場だ。

 

 

「こちら暁。通信の方は良好? 鎮守府、応答願います」

『はーい! こちら鎮守府所属、駆逐艦・雷よ! 通信状態良好ね? 大丈夫? ふたりとも、寒くなーい?』

 

 鎮守府の通信器は未だに機能を回復していないので、この通信は電の艤装を経由して提督のノートPCに送られている。

 此度の通信係は雷のようで、繋がった瞬間に心配ごとのマシンガントークが始まってしまい、暁も響も苦笑いだ。

 

「私たちは大丈夫よ。そっちこそ司令官、不安がってない? そわそわしてない?」

『あ、電です。司令官さんは、もの凄くそわそわしているのです。椅子に座っていられなくて、今もそこら辺うろうろしたり……、あ、帰ってきたのです』

 

 電から伝えられる出撃待機場の状況が容易に想像できて、暁も響も思わず噴き出してしまう。

 

「こちら響だよ。電、最終確認をしておきたいんだ。奪取目標は軽巡級以上。これに間違いはないね?」

『なのです。でも、持ち帰ることが可能ならば、駆逐級の資材でも構わないのです』

「それは……、軽巡級のもの奪取出来なければ、まずは駆逐級を頭数を揃える。その手順を追加する、ということかな?」

 

 電から「なのです」と返事があり、響は作戦工程に分岐を追加した。

 

 

 その頃、海水の簡易検査を行っていた妖精たちが、ひとつの結果を出していた。

 島から遠ざかるにつれて、海水中に含まれる塩分濃度が急激に高くなっていったのだ。

 

「海水に含まれる塩分濃度が通常の10倍以上もある。比重も大きい。……この海水の状態じゃあ、人は沈まないよ」

「沈まないって……。じゃあ、もしかして。司令官が流れ着いたのって……」

「この高比重の海水のお陰かも知れないね。人体は脱力すれば水に浮くように出来てはいるけれど、この海域じゃあ、もうそういった次元の話じゃない。暁は、死海って知ってる?」

 

 死海という名前だけなら、暁も聞いたことがあった。

 アラビア半島にある塩分濃度の高い湖で、湖水は大きな浮力を持つという知識も、伝聞だけならば頭の中にある。

 たった今巡航しているこの海域の海水がそうなのだと思うと、不思議な気持ちになる。

 

「この高濃度の塩分だと、生き物が住めなくて当然だ。この海水の条件に至るには、気温や地質が明らかにおかしいけれど、そんなことは論ずるだけ無駄かな。成分も塩化ナトリウムなどが主で、pHは高め。詳しい分析は、鎮守府に帰還してからになるね」

 

 「それに……」と、響は言葉を止めて、艤装に乗り込んでいる妖精たちと無言のやり取りを交わす。

 

「おかしな磁界が発生している。艦娘の艤装に支障を与えるものではないけれど、これが通常の電子機器だったらご機嫌斜めだったろうね。この現象はすでに観測済みだけれど、支配海域全土が“こう”なのだと思って間違いはないよ」

「電子機器が誤作動を起こす海域か……。オカルト的なところだと、魔の三角地帯とか、そういうものよね?」

「おやおや。暁はそういうオカルト話、怖がって見ない読まないものだとばかり思っていたけれど?」

「怖いもの見たさって、あるじゃない?」

 

 少しだけ肩を竦めて見せた暁に、今は取って置きの怖い話を披露するのはやめておこうと、響は話したい衝動を思いとどまった。

 おかしな磁界が発生する場所には、霊が集まりやすいというのがオカルト的な通説だ。

 その説でいけば、この海域には幽霊や亡霊がひしめいているということになる。

 無念や怨念を抱えたそれらは、天国にも地獄にも行けず、あるいは生前の故郷へ帰ることもできず、永久にこの水面に縛り付けられているのだろうか。

 そう考えると、響は自分の胸が痛むのを確かに感じた。

 

 もしその縛り付けられた霊たちが深海棲艦を生む原因と成っているのならば、どうすればそれらを救うことが出来るのだろうか。

 砲にて穿ち、魚雷にて微塵にするのでは、これまでと同じ。堂々巡りだ。

 では、自分たちが今からしようとしていることのように、すべての開発資材を集めてお祓いでもしてもらえば良いのだろうか。

 そうするにしても、すべての深海棲艦を打ち倒すという前提条件があるため、現実的ではない。

 そもそも、孤島の鎮守府から脱出を図っている最中の響たちには、手を付けられるような案件ではない。

 

 今すぐには手を付けることは出来ないかもしれないが、心の片隅には留めて置こう。

 黙考から意識を外界に戻した響は、前を行く暁の艤装妖精が手信号でサインを送っている姿を見とめる。

 鎮守府を発って1時間と少し。

 暁の艤装に搭乗していた見張り員妖精が、敵艦の姿を遠方に捉えたのだ。

 出撃時に響が想定していた通りに……。

 

 

 

 ○

 

 

 

 敵艦隊の編成は、軽巡級を旗艦として駆逐級が5隻続く。

 最後尾の駆逐級が編隊から大きく遅れていることに、暁と響はやり難さを感じた。

 

 こちらが高速で接近すれば、最後尾の駆逐級(敵六番艦と呼称)に気付かれ、本隊に迎撃態勢を取られる可能性が高い。

 

「――仕掛けるなら、速力を維持しつつ左舷側に大きく迂回して、敵六番艦を雷撃。そのまま本隊の後続に突っ込む形を提案するよ。旗艦の判断は?」

「その案で仕掛けたいけど、ちょっと迷ってる。さすがに重巡級が居たら尻尾撒いて逃げ帰ろうかなって思ってたけど……」

「中途半端に対応できそうな布陣なのが、嫌らしいね?」

 

 ここに“ルサールカ”への警戒が加わると、難易度はかなり増すことになる。

 仕掛けるなら、敵艦隊を全滅させる必要がある。

 1隻でも逃がせば、敵側に艦娘の存在を知らせ、他の敵艦隊の周回ルートに島が含まれる可能性が高い。

 そうなると、これからの出撃に難が出て来る。

 

「“ルサールカ”は単独勢力のはずだけれど、これも10年前当時の情報だ。今はまた違った動きをしてくるかもしれない」

「それ、他の敵艦隊と連携するってこと? そしたら……」

「“ルサールカ”も、沈めなければならなくなる。単独勢力だったはずの彼女が敵艦隊と連携するってことは、他の敵艦隊を引き連れて鎮守府正面に侵攻してくることでもあるのだから」

 

 そうなった場合、10年前の空襲の再来だ。

 あの地獄がまた繰り返されるのかと、暁は表情を硬くする。

 そんなことがあってはならない。

 

 鎮守府の安全を最優先とするならば、ここで敵艦隊の背中を見送り、“ルサールカ”をおびき寄せて沈めてしまうのが手だと、暁は考えている。

 しかし、対潜装備特化の響がいるとは言え、駆逐艦2隻で相手にするにはリスクが大きすぎる。

 ならば、そもそも出撃するべきではなかったという考えに至り、それは本末転倒だと暁は苦笑。

 

「危険は承知。どちらにせよやることは変わらないわ……。斬り込んで行きましょう?」

「了解だ。今のところ、どれも高い可能性ってだけで、確定した部分が少ないからね。確定したところをしっかり押さえて、臨機応変に行こうか」

「出来れば“ルサールカ”の存在の有無は確認しておきたかったけど……」

「頭も尻尾も、潜望鏡すら出さないね。ソナーにも感無し。居たとしても索敵範囲外だ。警戒続行」

 

 鎮守府との通信回線を閉じて、資材奪取工程に移る。

 

 敵六番艦に向けて、速力を維持し、間隔を保ちつつ接近する。

 敵艦を視認できる位置にまで接近した暁と響は、仄明るい暗がりの中、その姿を視認した。

 その形状は、全長は4、5メートルの長方形に近似し、全高は2メートルに届くか否かというところ。

 体表がほぼ黒一色である駆逐級ではあるが、遠方に位置する暁や響にもその後ろ姿を視認することが出来た。

 敵六番艦の姿、その色彩は、黒と言うよりは白に近い灰色だった。

 体表にフジツボの類が張り付き、動く岩場のようにも見えるのだ。

 

「……響。フジツボなんかが張り付いてるってことは?」

「まず、深海棲艦の支配海域は、動植物が生存するのに適さない環境だよ。そんなところを周回している深海棲艦がフジツボなんて張り付けているってことは、可能性は大きくふたつ。あのフジツボ自体が、深海棲艦の生態艤装であるか。もしくは、あの個体、あの艦隊が、支配海域外で活動していたことがあるか」

「周回ルート、支配海域外も含まれているのかもね? だとすると……」

 

 あの艦隊を追跡すれば、深海棲艦の支配海域外へ出る航路が見つかる可能性が出て来る。

 そう思い至り息を詰めた暁と響だったが、すぐに意識を平静に保つよう心掛ける。

 まだ可能性の段階で浮き足立ってはならない。

 あの駆逐級が支配海域外を航行していたという、確たる証拠はまだ何もないのだ。

 それでも、まだ外界が完全に深海棲艦の支配下に置かれていないという可能性は、孤島で10年間悶々としていた暁たちにとっては希望そのものだった。

 その希望の有無を、これから確かめに行くのだ。

 まずは必須となる開発資材を手に入れて……。

 

 

「響、敵艦隊があれの他にもこの海域を周回している可能性は?」

「無くはないけれど……。もう一個艦隊がいるならば、あまり離れた位置には居ないだろうね? 砲火を聞き付けて合流されると厄介だけど、燃料まだ安全圏だから、逃げようと逃げようと思えば逃げられる。だいぶ迂回する必要はあるけれどね?」

「“ルサールカ”の動向は?」

「今のところ、ソナーには掛かっていないよ。ただ、この辺はもう浅瀬ではないから、足を止めたら直下から仕掛けられる可能性もある。警戒継続だね」

「……響が二番艦だと、判断が楽になっていいわ?」

「だから暁を一番艦にしたのさ? そのあたり、司令官もちゃんとわかっているよね」

 

 力強く頷いた暁だったが、すぐに「……それ、信頼されていないんじゃない?」と眉をひそめる。

 しかし、すでに敵の姿を遠目に捉えている以上、不要な思考は排除だ。

 

 暁は背部艤装右舷側の魚雷発射管を引き出して右腕にマウント、進行方向へと指向する。

 後続の響も左舷側の発射管を引き出して、同様の構え。

 敵六番艦に魚雷を撃ちこみ、左舷側に大きく迂回して前方の敵艦隊を目指す動きだ。

 

「狙いは敵船体後部、魚雷搭載区画と想定されている箇所。一発でケリを着けるわ?」

「外したらフォローするよ。お先にどうぞ?」

 

 ならば心置きなくと、暁は敵六番艦へと狙いを定めた魚雷を発射した。

 砲雷撃には風速や海流といった要素の加味が必須となるが、この海域においてはそれらをほぼ無視して演算を行うことが出来る。

 艤装の補助があるとはいえ、艦娘はそれらの演算を暗算にて、しかも数秒にも満たない一瞬のうちに行うことが出来る。

 高い練度を誇る艦娘ならば、「だいたいこんな感じ?」と、それらの演算を感覚で済ませてしまう者たちすらいるのだ。

 そして暁と響は、その部類の艦娘だ。

 

 暁は三連装発射管の一番管、左側の魚雷を敵六番艦へと発射して、上体をのけ反る様に傾けて大きく左側へ舵を切った。

 それに続いて舵を切った響は、海中に潜り込んだ魚雷が高速で潜航して敵六番艦へと吸い込まれるのを見届ける。

 艦娘の搭載する魚雷の速度は、駆逐艦・艦娘の高速巡航時の速度を大きく上回る。

 とはいえ、亜音速で潜航するわけではないので、常に海面に意識を集中していれば、回避することは造作もない。

 しかし、もし一瞬でも他の些事に気を取られたのならば、そして気付かないうちに接近を許してしまったのならば、どうか。

 魚雷は敵六番艦の船体後部を直撃。

 爆音と炎を上げて、砕け散った破片が海面に降り注いだ。

 

「響、後方確認任せる! 敵艦隊が気付いて速度を上げた! こっちもこのまま接近するわ!?」

「大丈夫、敵六番艦はしっかり撃沈を確認。このまま旗艦・暁に追走する」

 

 徐々に速度を上げ始めた敵艦隊、新たに最後尾となった敵五番艦に向かって暁たちは追走する。

 敵艦隊は速度を上げつつ左舷側に迂回して、船体の横っ腹を暁たちへ向けて待ち構える動きだ。

 敵艦隊たちの側面の装甲……、フジツボが密集した地帯に亀裂が入り、蓋が開くように展開する。

 深海棲艦の生態艤装を展開し、横腹からは連装砲の砲身や魚雷発射管が覗く。

 

 このままでは単縦陣を取った敵艦隊に突っ込むことになるため、暁と響は一度右舷側へ大きく迂回して、改めて敵艦隊の背後を取ろうと動く。

 このまま暁たちも左舷側へ舵を取り、同行戦の形で砲雷撃戦に持ち込むか、あるいは敵艦隊を左右から挟み込んで攻撃する方法もあるだろう。

 だが、それをするには彼我の数が違い過ぎる。

 2対5では、集中砲火を受けて甚大な被害が出るのは目に見えている。

 だからこそ、敵艦隊の速度がまだ伸びきっていない今のうちに、有利な位置を確保しておきたかった。

 幸い速力ならば、まだまだ暁たちが優位だ。

 右舷側へ大きく迂回したものの、敵艦隊の後ろに着くことが出来た。

 魚雷の有効射程圏内だ。

 

 

 しかし、いざ雷撃を開始しようとした暁たちは、敵艦隊の動きに異常を見た。

 敵艦隊の内、三番艦に位置していた駆逐級が速度を上げず、ゆっくりと艦隊から脱落してUターン、暁たちに向かってくるのだ。

 

「あの駆逐級、速度が上がらなかったんだ……」

 

 艦娘で言えば、艤装の駆動系が不調で速力が上がらなかったようなものだろう。

 全身が生態艤装である深海棲艦においては、体機能の不調ということに他ならない。

 それ故、旗艦が囮役として差し向けたのだ。

 

 敵三番艦は、頭部にあたる部分に内蔵された巨大な単眼から莫大量の閃光を照射しつつ、咢を開きその奥から単装砲の砲身を覗かせ、暁たちへ突っ込んでゆく。

 対して、暁は背部艤装の高角砲にて牽制射撃しつつ、魚雷を放った。

 狙いは敵三番艦へ向けての一直線。

 真正面からの迫りくるうえに雷跡ははっきりと視認可能。

 敵三番艦は左舷側に舵を切って暁の魚雷を回避。

 直後、別の魚雷が高速で迫り、敵三番艦の横っ面に直撃、炸裂した。

 敵艦の回避先を読んだ響による雷撃の成果だ。

 

 

 2隻目を沈め、順調に敵艦の数を減らせてはいるが、暁は内心で焦りを帯び始めていた。

 たった今、敵艦から探照灯を照射されたことで、こちらの大まかな位置が割れてしまった。

 進行方向を予測され立ち回られると、こちらもさらに迂回しなくてはならない

 

 爆炎を上げて轟沈する三番艦を迂回して敵艦隊へと向かった暁は、目に飛び込んで来た光景に息を詰め、急いで左舷側へと舵を切った。

 同じく、体勢を大きく背中側に傾けて追走した響は、その直後大量の水を頭から被ってしまう。

 目の前の海面が爆ぜて、幾本もの水柱が上がったのだ。

 至近弾、敵艦隊の砲撃だ。

 暁たちが三番艦に対応しているわずかな時間で、敵艦隊は艤装の展開と陣形の構築を終えていたのだ。

 

 速力を落とさぬよう無茶な操舵で航行する暁たちは、敵艦隊がこちらと同等の速度を得たことを確認する。

 互いの砲撃の射程圏内からは大きく外れたものの、距離を離さず追走して来ているのだ。

 このまま距離を詰められ同行戦に持ち込まれると厄介だなと、響が次の動きを提案しようと暁を見れば、すぐに「雷撃用意!」と声が返る。

 旗艦の判断の速度に安心を得つつ、響は魚雷の次弾を装填して発射管を敵艦隊へと指向した。

 

「この距離なら、敵艦隊も雷撃で仕掛けてくるはずね?」

「でも今のままじゃ、細かい回避運動が取れないけれど、どうする?」

「敵艦隊の魚雷発射と同時に高速巡航形態を解除。高機動形態で敵の雷撃回避に専念する!」

「こちらの雷撃は、回避の後にだね。目標は?」

「敵艦隊、二番艦と四番艦との間を狙う。後続を足止めして前のと分断、まずは足が止まった方を確実に沈めるわ……!」

 

 暁が指示する傍から、敵艦隊の雷撃が開始された。

 駆逐級たちの背部が可変し展開した疑似魚雷発射管から、各艦三発ずつ、計十二の魚雷が暁たちの進行方向へ放たれる。

 軽い音を立てて海面に潜り込んだ疑似魚雷は白い雷跡を残して走る。

 暁たちの回避先まで計算され、どのルートで避けたとしても一発は当たるようにと仕掛けられたものだ。

 例え急停止したところで、速度が落ちれば敵艦隊の急速な接近を許してしまう。

 だからこそ、ふたりは高速を維持したまま、機動力を得ようと動く。

 

 脚部艤装に指示を送った暁と響は、まるで進行方向の障害物を避けるかのように、ボードを跳ね上げて海面から離れる。

 体が宙にある一瞬のうちに、ボードの接続が解除され、脚部艤装は変形。

 極短いスキー板状になった脚部艤装で、ふたりは海面に着水した。

 慣性によって体が進行方向へ引きずられそうになるのを、足運びと上体の傾けで整え、踵下部の仮想スクリューを再展開。

 減速回避ルート上を疾走してきた魚雷を危なげなく回避した。

 そのまま敵艦隊との距離を保ちつつ巡航する。

 

 暁たちの速度が落ちたことで、敵艦隊が船体を寄せてきた。

 駆逐級たちは腹部から展開した連装砲を指向して、艦娘たちが射程距離に入る瞬間を待ち続ける。

 しかし、砲撃の距離に届くよりも、暁たちの動きの方が早かった。

 

 響が背部艤装の収納から照明弾を引き抜き、手慣れた動作でセフティを解除、即座に発砲する。

 狙いは敵艦隊、旗艦の直上だ。

 炸裂した照明の灯りによって、暁たちは初めて敵艦隊の詳細な艦種を確認する。

 

 敵艦隊の旗艦を務める軽巡級は“ホ級”と呼称される、砲塔と船体の隙間から人間の上半身が生えたような形状の深海棲艦だ。

 頭部をすっぽりと覆う装甲は電探の役割を果たしているという説があるが、詳細は定かではない。

 軽巡ホ級に続く駆逐級はどれも“イ級”と呼ばれ、駆逐級の中では最も数が多いとされる艦種だ。

 

 その駆逐イ級の二番艦と四番艦との間を目がけ、暁と響は魚雷発射管を指向し、発射。

 同時に体を敵艦側へと傾け、ジグザグの動きで海上を疾走し、敵艦隊へと肉薄。

 照明弾で照らされた海上は明るく、暁たちが放った魚雷の雷跡がはっきりとその姿を見せる。

 迫りくる魚雷がこれほどはっきりと視認できるのに、回避しない手はない。

 

 敵艦隊、旗艦と二番艦は速度を維持してやり過ごし、四番艦は減速しつつ右舷側へ舵を切った。

 しかし、最後尾の五番艦は前の四番艦の動きを読めず、そのままの速度で突っ込み四番艦の船尾へと衝突してしまった。

 思いの他軽く、しかし硬質な音を立てて衝突した敵艦隊の後続は、四番艦が横転、五番艦が船体前部に若干の陥没を生じた程度の損害に留まった。

 だが、本当の損害はこれから起こる。

 暁と響がすでに、とどめの雷撃を放ったばかりなのだ。

 敵五番艦に吸い込まれた二発の魚雷は、爆発の花と破片の雨に姿を変えた。

 

「残敵3! 横転した敵四番艦を挟んで、敵旗艦及び二番艦との距離を保つ!」

 

 横転したままの四番艦を真ん中に置いて敵旗艦・二番艦と対角線上の位置を取れば、少なくとも雷撃されるリスクはかなり低く見積もることが出来る。

 四番艦を迂回するような動きを敵艦隊が取れば暁たちも対角線の位置を維持するし、接近しようものならそこに魚雷を撃ちこむまでだ。

 こうなれば敵艦隊は砲撃に頼らざるを得なくなるのだがと、距離を保ちつつ状況を整理していた響は、今まで意識の片隅に留めていたある重要な信号に、背筋が凍るような感触を覚えた。

 

 ソナーに感有り。

 ほんの一瞬だけだが、パッシブソナーが海中に敵影有りと示したのだ。

 突然襲ってきた緊張に全身が硬直してしまった響は、暁の叱咤する声に、咄嗟に反応できなかった。

 左足元に衝撃を感じ、響は己の不覚を悟った。

 瞬間、響の足元で魚雷が炸裂して、爆炎を上げた。

 

 

 

 ○

 

 

 

「響!?」

 

 敵艦との距離を保ちつつ魚雷の次弾を装填していた暁は、響が被雷する瞬間、何かに怯えたように身を竦める姿を目にしている。

 おそらくは“ルサールカ”の反応があったのだ。

 そう悟るや否や、暁は横転したままの敵四番艦に向けてとどめの魚雷を発射。

 そして、今まで保ってきた位置を放棄して、背部艤装の探照灯を迫りくる敵艦隊へ向けて照射した。

 

 響を射抜いた雷撃は、横転した敵四番艦から放たれたものだ。

 敵四番艦は横転しながらも魚雷発射管を展開、指向して、爆発炎上する五番艦の陰から雷撃の機会をうかがっていたのだ。

 その挙動こそ見逃しはしたが、発射された魚雷がふたりの元に到達するまでには距離も時間も充分あり、回避は造作もないはずだった。

 回避直前に“ルサールカ”の反応がなければ。

 その反応に、響が委縮しなければ……。

 

 

「響! 被害状況を報告! 出来る!? 響、返事!」

 

 呼びかけに返る声はまだない。

 聞こえるのは爆発によるハウリングとノイズだけだ。

 肉眼で姿を確認している余裕はない。

 響が無事だった場合、もはや目前にまで迫った敵艦隊をそちらに向かわせることなどあってはならない。

 残るは敵艦隊旗艦である軽巡ホ級、そして敵二番艦の駆逐イ級だ。

 すでに砲撃可能な距離にまで接近を許している。

 迫りくる敵艦隊を前に、暁は望むところだと腹をくくった。

 今まで散々避けてきたリスクを負う。

 ノーガードの殴り合い、砲撃戦だ。

 

 足を止め、敵艦隊に対して左半身を向けて半身になり、被弾面積を減らす。

 背部艤装の高角砲と左腕に固定した連装砲にて、敵二番艦へ向けて砲撃を開始した。

 狙いは敵二番艦、旗艦を撃つのは最後だ。

 

 周囲に守るべき船舶や負傷した仲間が存在せず、こちらの艦隊の数が敵と同等か上回っていたのならば、頑丈で攻撃力の高い敵旗艦を先に狙うことが可能だった。

 敵艦隊は旗艦の信号に従って艦隊行動を取るため、旗艦を真っ先に撃沈してしまうと、旗下の深海棲艦たちは統率を失って、まったくバラバラの行動を取るようになる。

 予想外、想定外の行動をだ。

 味方の数で押しきるだけならば、そうなる前に殲滅することも可能だろう。

 しかし、もしも味方の数が少なく、撃ち漏らしがあったら。

 そして、戦闘区域に取り残された民間の船舶や、負傷して身動きの取れない味方にそれらが向かってしまったら……。

 

 悪いイメージを振り払うように、暁は砲撃と、そして響への呼びかけを続ける。

 深海棲艦、それも人型からは程遠い駆逐級や軽巡級に比べると、艦娘は被雷箇所が圧倒的に少ない。

 海面の上に立つ形で活動する艦娘とって、被雷箇所となるのは海中に沈んでいる脚部艤装の一部となる。

 いかに高速で迫りくる魚雷とはいえ、これだけ被雷面積が少なく、そして雷跡が見えてさえいれば、雷撃を躱すことなど造作もない。

 

 しかし、だからこそ、被雷した時のダメージは深刻だ。

 両足をフリーにして航行する高機動形態ならば、まず片方の脚部艤装を喪失するだろう。

 推力を司る重要な機関の喪失だ。

 こうなってしまうと高速巡航形態への移行はおろか、通常の航行ですら支障をきたす。

 仮想スクリューの片方を喪失するということは、巡航速度が出せなくなるのだ。

 脚部艤装だけならばまだいいが、最悪足そのものが爆発で吹き飛んでいる可能性もある。

 そうなればあとはもう、敵艦隊の思うがままだ。

 

 そうはさせまいと意気込む暁ではあるが、己の限界はすぐそこに近付いて来ていた。

 暁の砲撃は敵二番艦に直撃、貫通してはいるものの、動力部を穿ってはいないのか、反撃を受け続けている。

 その間にも敵二艦からの砲撃は徐々に精度を上げ、暁はようやく魚雷発射管のシールドを前方に展開して守りとした。

 屋根のように傾斜をつけて、砲弾の威力を逸らすように調整した直後、敵旗艦からの砲撃が直撃して、片方のシールドが大きく歪曲してしまった。

 陸地のように足元の摩擦が少ないため、被弾した衝撃で後方に体が流される。

 仰け反った上体を立て直そうとしたところに被弾が続き、左舷側のシールドがアームから脱落。

 シールドが海面に着水した瞬間、爆発と水柱が上がった。

 敵艦隊の放った魚雷に接触したのだ。

 

 

 魚雷の爆発と至近弾で水柱が上がる中、態勢を整えた暁は再び連装砲の砲身を敵艦隊へ向けたが、その直後、まるで時間が止まったかのような錯覚を覚えた。

 敵艦隊から放たれた直撃コースの砲弾が、まるで空中に停止しているかのように見えたのだ。

 実際に砲弾が空中で停止したわけではなく、極限状態の集中力によってそう見えているだけだと、暁はこの状況を理解した。

 ならば動けと、砲弾を回避する動きを取ろうとはするが、意識が体に伝わってくれない。

 このまま直撃するという結果を変えることは出来ない。

 そう確信した暁は、出撃前の、響との更衣室でのやり取りを思い出していた。

 

 

「覚悟の、やり直し……!」

 

 

 砲弾は直撃する。

 その結果を受け入れる。

 問題は被弾した後、どう立て直すかだ。

 被弾確定箇所は左腕に固定した連装砲。

 弾薬が誘爆する範囲や破片による被害を予測して……。

 

 

 永遠とも感じられる時間の後、暁の連装砲に砲弾が直撃した。

 連装砲の装甲はひしゃげ、内蔵された弾薬が誘爆、砲自体が爆弾と化す。

 被弾と誘爆の衝撃を受けて、暁は転倒、海上を数メートル転がって停止した。

 海中に沈むことなくうつ伏せに倒れ伏した暁へ、敵艦隊が迫る。

 

 

 



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12話:帰港

 

 

 

 意識が途切れていたのは一瞬にも満たない時間だったはずだと、海面にうつ伏せた体勢の暁は、己の置かれている状況を再確認する。

 鎮守府遠洋にて深海棲艦の艦隊を強襲、彼我の数を2対2にまで持ち込むことが出来たが、暁、響、両名共被弾及び被雷。

 対して敵艦隊は健在で、旗艦である軽巡ホ級はほぼ無傷、二番艦の駆逐イ級は被弾がありながらも継戦能力を保持。

 現状の戦闘海域では爆発炎上していた深海棲艦の亡骸が海中に没してしまったため、彼我を照らす光源はほぼ無し。

 暁、響、両名ともに灯火系の装備は展開していないため、敵艦隊は今から再び索敵に入るだろう。

 しかし、ほんの数分まで砲火を交わしていた以上、暁の位置が割り出されるのは時間の問題だ。

 敵艦隊がこちらを見付るより先に体勢を立て直し、戦線に復帰する必要がある。

 

 暁は海面に手を着いて体を起こし、自らの被害状況を確認する。

 左腕部にマウントしていた連装砲は損壊、及び左腕部も骨折して使用不能。

 連装砲が誘爆した時の破片で背部艤装の高角砲と探照灯が損壊、使用不能。

 幸いだったのは、破片が魚雷に当たって誘爆しなかったことだろうか。

 魚雷発射管保護のシールドは左舷側が脱落、左舷側の多目的アームも動作不能。

 そして、暁自身の肉体へのダメージが、一番深刻なものだった。

 爆発した連装砲の破片が胴体に突き刺さり、一部は肺を貫いていた。

 かろうじで心臓や動脈は避けたものの、呼吸のたびに胸が痛み、じわりじわりと吐血する。

 生身の人間だったら緊急手術が必要な状態だったが、暁はこの負傷を問題ないと判断した。

 鎮守府に帰還して入渠すれば、この負傷も、左腕の骨折も完治するという安心があるからだ。

 精神的にもそれ程恐慌を起こしていないのは、先の艤装同期作業の時に艦船としての暁の記憶を追体験していたことが大きいだろう。

 砲撃を浴びて体中が穴だらけになる感触など、10年という時間を人として暮らした暁のままでは、耐えられなかったはずだ。

 提督に抱きかかえられて入渠場に運ばれた時のように、痛みと恐怖で頭が真っ白になる姿が目に見えている。

 

 大丈夫だ。

 自分はまだ戦える。

 人間には無理でも、艦娘ならば“この程度”で済ますことが出来る。

 心と呼吸を落ち着けて海面に片膝で立つと、そこでようやく周囲の状況確認に移る。

 砲撃が止んでいることから、敵艦隊がこちらの位置を見失っている可能性が高いと判断したものだが、概ねその通りだった。

 敵艦隊の姿をはっきりと視認することは出来なかったが、大よその位置は掴める。

 雷撃可能な距離ではあるが、未だに返信がない響を巻き込む可能性を考えると、即座の攻撃に映ることが出来ない。

 声を出せないながらも響への回線を開くが、聞こえてくるのはノイズだけだ。

 艤装の通信系が死んでいるなと判断した暁は、ならば響だったら、この状況をどう立ち回るかと考える。

 敵の魚雷を受けた以上、無傷では済まなかったはずだ。

 良くて脚部艤装の破損、最悪片足を失っている。

 そうして動きが止まったのならば、そのまま身を潜めて、攻撃の機会を伺うだろう。

 現状、光源がなく、敵味方の正確な位置もつかめていない。

 敵の姿をはっきりと認識するまで、攻撃体勢のまま身を潜めているというのが、暁の出した結論だった。

 

 

「……そうすると、敵かこっちか、どっちかが見つかって、砲雷撃が始まるまでは、響も待機しているはずよね?」

 

 攻撃開始の合図は、双方どちらかの砲火だ。

 雷撃される恐れもあるが、敵の魚雷も無限ではない。

 こちらの姿を確実に視界に収めるまでは使わないだろう。

 

「じゃあ、流れはこっちでつくれるわ……?」

 

 艦船の時代も、艦娘の時代も、やはり“暁”の仕事はこうだと決まっているのかも知れない。

 自嘲のような感情を振り払うように笑い飛ばし、暁は左目を覆っていた眼帯を引きちぎるように外した。

 不自然に閉じられていた左目が、わずかな痙攣と共に、ゆっくりと開いてゆく。

 

「――探照灯、照射」

 

 

 

 ○

 

 

 

 生態艤装というものがある。

 深海棲艦に由来する、体機能と一体化した武装のことだ。

 この生態艤装の概念を艦娘にも取り込むことができないかという考えが、艦娘の初期開発の最初期に提言され、実際に開発・試作運用段階にまでこぎ着けたものがある。

 背部艤装に付属する精密なパーツを排除して被弾時の損害を減らしたり、付属装備破損時の予備として機能するようにといった狙いがあったのだが、その開発は本当の最初期に打ち切られてしまっている。

 艦娘の肉体は強化保護されているとは言え、大部分は人間の女性とほとんど変わらない。

 生態艤装の負荷に、艦娘の肉体が耐えられないのだ。

 中でも、探照灯の役割を果たす眼球は、発生する莫大な熱量が肉体や脳を蝕むため、古鷹型重巡洋艦の一番艦に試験運用として搭載された一件のみで、開発を打ち切られている。

 暁の左目は、その古鷹型の生態艤装を移植したものだ。

 

 二次大戦中に探照灯を照射して囮艦となったことがある暁だからだろうか、生態艤装の適合自体には問題がなかった。

 しかし、実際の運用に至っては、本来の性能を存分に発揮するというわけにはいかなかったのだ。

 生態艤装の使用によるダメージは当然ながら、その効果時間は元来の性能よりも大幅に短く、照射時間は最大で60秒を下回る。

 その後は、高熱による火傷と、著しく機能を損なった脳で思考し、戦線を維持しなければならなくなる。

 囮艦としてならいざ知らず、旗艦として海上へ出るのならば、絶対に取らないはずの選択だ。

 だからこそ、ここで戦闘を終わらせる。

 探照灯の有効時間である60秒以内に、流れを引き込み、勝ちを掴む。

 

 暁が探照灯を照射したことで、敵艦隊の姿をはっきりと浮かび上がらせることが出来た。

 今や敵艦隊は並んで暁の方へと迫って来るところだった。

 砲塔を指向し、雷撃の用意を整える敵艦隊。

 その旗艦ホ級の横腹で、ふいに爆発が起こる。

 それを響の雷撃だと確信した暁は、全身に力を込めて前へと進み出た。

 敵旗艦が次の動きを判断するより先に、さらに動きを加えて揺さぶりをかけるためだ。

 

 背部艤装右舷側の多目的アームを稼働させ、魚雷発射管シールドの内側に固定しておいた装備の鞘をホールドして、前方へ引き出す。

 装備の形状は鞘に納まった刀だ。

 多目的アームを伝って走って移動してきた妖精が、刀の鍔を蹴って鯉口を切り、暁は逆手で柄を握り一気に引き抜いた。

 外気に触れた刃が音を立てて展開する。

 天龍型一番艦に搭載される近接兵装。

 刀剣状のこの艤装は、通称天龍刀と呼ばれている。

 

 艦娘の生態艤装の開発が提言される中、時を同じくして艦娘の近接兵装の開発もスタートしていた。

 しかし、これも生態艤装と同様、開発の最初期に打ち切られていて、初期に建造された一部の艦娘にしか近接兵装は採用されていない。

 深海棲艦に対して近接兵装による攻撃が有効ではないと判断されたことと、深海棲艦に接触することで“呪い”を受けるという報告があったからだ。

 

 踏ん張りの利かない海面において、刀剣類での攻撃は力の伝達がうまく行かずに悪手だという意見。

 そして、そういった足を止めて戦うような状況に陥るということは、すでに推力が死んで思うように動けない場合であり、そんな状態の艦娘にわざわざ敵は接近しないだろうという意見が、開発にトドメをさした。

 そもそも、常に動き速度を得て戦うことで被弾・被雷を含むリスクを排除しているため、足を止め速度を殺しての交戦は自殺行為に他ならない。

 得た速力を乗せて刀剣を振るうというやり方もなくはないが、それだけの速度が出た状態で体の一部を敵に接触させるなど、もってのほかだ。

 たとえ敵艦にダメージを与えることが適ったとしても、そのために振るった腕が、速度と敵の硬度によって破壊される。

 良くて骨折、悪くすれば腕そのものを喪失しかねない。

 

 それでも一部の艦娘に近接兵装が採用されているのは、願掛けや戦意高揚の意味合いが強い。

 旗艦などにおいては、指揮を執るために軍刀を掲げる艦娘も少なくはないのだ。

 この天龍刀もそういった戦意高揚の意味合いが強く、もちろん、暁にとっては規格外の艤装だ。

 補助艤装によるサポートもなく、ただ持ってきただけ。

 暁自身に剣術の心得があるわけでもはない。

 出撃前に響に言われた通り、戦友の遺品を着飾っているようなものだとも、確かに認める思いだ。

 しかし、それでもこの一刀とは共にありたかった。

 

 この刀の本来の持ち主は、自らが轟沈するまで、ついにこの刀を鞘から抜くことはなかった。

 暇な時間に手入れなどしていたものだから、暁もてっきり、戦場で幾度か振るったことのあるものだと勘違いしていたのだ。

 聞いて見れば肩透かしというか、一度も海上で抜刀したことがないのだという。

 そして、それはこの刀の持ち主の誇りでもあった。

 その持ち主が言うには、「こいつを抜くような状況に持ってくようなら、そいつは旗艦は失格だな」だそうだ。

 まったくその通りだと、暁は気が重くなるのを自覚する。

 しかし同時に、こうも思うのだ。

 もうそんな状況になってしまったのだから、とことん踏み込んでいこう。

 この刀の持ち主の、今際の一言を思い出す。

 

 

 ――ま、機会があれば、こいつで敵をぶっ叩いて見たかったけどなあ? お前も、そう考えたことねえか?

 

 

 今からそうしてやる。

 深海棲艦相手にわざわざ刀で近接戦を仕掛けるメリットは、ちゃんと提示できる。

 此度の敵艦のように、軽巡・駆逐級と、比較的船舶の形状に近いものであればある程、人型の挙動に対して的確な対応を取ることが出来ない。

 相手が船舶に近い形状であり、こちらが人型であるからこその有利だ。

 しかし、接近によるデメリットの方が遥かに大きいため、絶対に取らないはずの挙動。

 それを、今から行うのだ。

 

 

 単艦で突っ込んで来た暁に対し、敵艦隊が動きを見せた。

 敵二番艦イ級が、旗艦ホ級の前に出たのだ。

 旗艦を庇う動きと言うよりは、先んじて砲撃し、自艦隊の被害を減らそうという動きだろうか。

 暁は砲撃の直撃コースを読んで回避の動きを取りつつ、敵二番艦との衝突コースをぎりぎりを巡航、右手に握った天龍刀を横に振り被った。

 そして交差する瞬間に、敵二番艦の横腹目がけて刃を滑らせる。

 刃の生み出す成果は斬撃ではなく、打撃。

 艦の船体を模して形成された刃は、艦娘の手にあり意志が伝わっている間は、刀としての斬撃ではなく艦船同士が衝突した際の衝撃を再現する。

 刃の打撃を食らった駆逐イ級は船体をくの字にへし折られ、衝撃波が疑似弾薬を打ったものか、爆発が起こった。

 

 対して、暁の方も無傷とはいかない。

 接触は最小限に留めたものの、打撃の余波は刀を持つ右腕を伝い、腕力と感触を奪った。

 握力が消えて柄から手が離れそうになるのを、多目的アームで無理やり手の甲の上から抑え込む。

 探照灯の方も限界が近い。

 燃え盛る炎の中に頭を突っ込んだかのような灼熱を感じながら、暁は一隻だけ残った軽巡ホ級へと向かってゆく。

 

 刀を振り上げ、朦朧と揺らめく閃光を発し接近してくる暁の姿を、果たして軽巡ホ級はどのように捉えただろうか。

 砲撃もなく、探照灯を照射し、その攻撃方法は船体の一部を衝突させるという敵の姿に、軽巡ホ級は後退を選択した。

 幽鬼のように迫りくる暁に恐れをなした、というよりは、衝突のリスクを避け、探照灯の照射範囲から逃れるためだろう。

 これに焦ったのは暁だ。

 ただでさえ限界が近い探照灯の照射範囲から逃れられてしまっては、敵旗艦を見失って取り逃してしまう恐れがある。

 だからと言って、このままホ級に接近すぎれば、響の雷撃の邪魔になる。

 ならばと、魚雷で相手の動きを制限しようと発射管を指向するが、動作が固い。

 

「さっき、被弾した時に……!」

 

 発射管の機能に異常が出たのだ。

 装填済みの魚雷を発射するのもそうだが、これでは装填に時間がかかる。

 魚雷では駄目だ。

 距離を取られる前に足止めする手段を。

 歯噛みする暁は咄嗟の判断で、手にした天龍刀をホ級へと投じた。

 インナーを人工筋肉化して、腕力を限界まで増強しての投擲だ。

 砲撃でも雷撃でもない攻撃に、ホ級の対応が遅れる。

 縦回転しながら飛来する天龍刀は、砲塔の指向先を迷ったホ級の人間体の部分、鎖骨の間に刃半ばまで突き立った。

 

 軽巡ホ級はそれでもまだ動いた。

 人間体の部位があるとはいえ、その全体は船体としての部分がほとんどを占めている。

 胴体への攻撃は致命傷には成り得なかったのだ。

 それでも一瞬、動きを止めることは出来た。

 ならば、もう暁の役割はほぼ完遂したと言っていい。

 ノイズ交じりの通信から、声が聞こえる。

 

『――ダズビダーニャだ』

 

 暗闇の中から砲撃の音と炎が生まれ、砲弾がホ級へと飛来する。

 ホ級の胴部から突き出た天龍刀の柄を直撃。

 衝撃で押し込まれた天龍刀はホ級の体内で砕け、破片がその体内を食い荒らした。

 一拍の間の後、軽巡ホ級の搭載疑似弾薬が爆発して、その船体から炎と煙とを立ち上らせた。

 

 

 

 ○

 

 

 

「被雷した時に脚部艤装が破損して、その破片で魚雷の装填器が故障してしまったんだ。通信系も不調。動きがあるまで息を潜めていたけれど、やはり暁が先に動いてくれたね……」

 

 合流した響は左足の脚部艤装を喪失していて、小型の予備艤装でバランスを取りながら航行していた。

 予備の艤装はボードのみで、仮想スクリューの展開機能は無い。

 高速巡航形態への移行も出来ないものだ。

 それでもかなりマシな方かなと肩を竦めて見せようとした響は、重傷を負いながらも安堵の笑みを浮かべる暁の姿に、言葉を失った。

 

「……まったく、もう……。心配させるんだから……。足は……、あるみたいね?」

「――まだまだ、化けて出るような存在にはならないさ。それより……」

 

 響の呆然としていた表情が、徐々に険しくなってゆく。

 

「暁の方が、重症じゃないか!? “眼”も使って……!」

「しゃべると、血も一緒に出るから……、話すの、ちょっとキツイわ? でも、体よりも、艤装のダメージの方が大きいの。まともに起動出来るのは爆雷だけ。魚雷発射管は、修理に時間かかるし……っ」

 

 体を折って咳き込み始めた暁に、響は慌てて接触し、その背中をさする。

 咳きをするたびに塊のような血が吐き出されて、暁はそのまま海面に膝を付いた。

 探照灯内臓の眼球が焼き切れ左顔面の皮膚が焼け爛れたまま、熱で朦朧とした息を整える姿に、響は「自分のせいだ」とつ呟き、歯噛みする。

 

 “ルサールカ”への警戒中、その敵影を捕らえた瞬間、思わず身がすくんでしまっていた。

 確かに因縁多く、そして恐ろしい敵ではあると自覚していたが、まさか土壇場で自分が固まってしまうとは夢にも思っていなかった。

 10年のブランクで感が鈍ったなどとは、口が裂けても言えない、完全なミス。

 響自身が隠していた臆病が、最悪のタイミングで出てしまったのだ。

 

 自分が硬直しなければ、暁がここまでの無茶をすることもなかった。

 もっと安全に、こちらの損害などひとつも出さずに、開発資材を奪取できていたはずだ。

 現に、暁は旗艦としてリスクを負わないように、慎重に立ち回っていた。

 その慎重さを崩させたのは、完全に自分の失態だ。

 

 出撃前に偉そうなことを言っておいてこの様かと、思わず涙ぐんだ響に、その頭に手が添えられる。

 見れば、暁が朦朧とした表情で、響の頭を撫でていた。

 撫でると言っても、暁の右手は天龍刀を用いた影響で、感覚が完全に死んでいるはずだ。

 インナーを人工筋肉化して、無理やりに頭を撫でる形に動かしているだけのものだ。

 

「……ダメね。こんな時くらいしか、お姉ちゃん出来ないなんて……」

 

 「しょうがないなあ……」とでも言いたげな困った顔の暁に、響はすぐに「違う」と、否定の言葉を告げることが出来なかった。

 暁にそういう役割を強いなかったのは、響や、六駆の妹たち皆だ。

 ひとりで負担を背負おうとした姉に、これ以上の負荷をかけないようにと振る舞ってきたはずなのに。

 結局は、こんな大怪我までさせてしまっている。

 暁だって、もっと頼って欲しかったはずだし、信頼して欲しかったはずだ。

 艦船としての姉妹関係など、あってないようなものだろうと響はひそかに思っていたが、それはあくまで艦船における話だ。

 艦娘としての姉は、ちゃんとその役割を果たす準備も、覚悟もしていたのだ。

 そんな姉の残念を思うと、響は申し訳なくて、帽子を目深に被ることしかできない。

 

 そうして閉じこもろうとする響は、姉の「まだまだ難しいなー」と、困った様にため息を付いて、再び海面に両の足で立つ姿を見る。

 体勢が崩れ、仰向けに倒れそうになるのを、響は慌てて支えた。

 二番艦の仕事に安心を得たものか、暁は笑んで、次の工程へと歩を進める。

 

「……時間、なさそうだから、さっさと資材確保、しちゃいましょう? 早くしないと、軽巡級の残骸が沈んじゃう……」

 

 暁が指さした先、軽巡ホ級の残骸は黒い泡となって海中に沈もうとしていた。

 

 

 背部艤装のアンカーをホ級の残骸にひっかけて、暁と響、ふたりで曳航を開始する。

 響の脚部艤装が不完全なため、通常の、巡航速度以下での曳航となる。

 黒い泡を発して崩壊した軽巡ホ級は、最低限の船体フレームと、そのフレームに繭のように癒着する黒い卵型のパーツを残している。

 艦娘に置き換えると、この黒い卵型のパーツが艤装核にあたる部分なのだろう。

 電の話では、この卵型のパーツに、開発資材が内臓されているのだという。

 

 曳航の途中、響はこの卵型のパーツに違和感を覚えていた。

 開発資材が内臓されているものだと電は言っていたが、大きさとしては小さな子供が膝を丸めて入れる程度なのだ。

 資材というのだから、内蔵されているのは海中に沈んでいるはずの艦船の部品か弾薬かといったところなのだろう。

 しかし、響の脳裏には嫌なイメージが憑りついていた。

 この卵型のパーツに、「人ひとりが入れるな」と想像したことがいけなかった。

 中に入っている開発資材が、人の形をしているのではないか。

 そう、勘ぐってしまうのだ。

 

 そして、それよりも響が気になるのは、暁の症状だ。

 今でこそ落ち着いて曳航作業を続けているが、その表情からは、だいぶ意識が朦朧としているのが伺える。

 破片で肺を傷付けたこともそうだが、生態艤装の探照灯を使ったのが不味かった。

 肉体のダメージは入渠で全快するが、脳にダメージを負った場合、記憶障害が起こる可能性が高い。

 艦娘にとって記憶は、思い出は、代えの利かない大切な部品だ。

 それが失われる可能性が濃厚となったのだと思い至り、響はもう気が気ではない。

 

 その喪失を一番悲しむのは、失わせてしまった響か、失ってしまった暁か。

 それとも、ふたりの帰りを待つ提督か……。

 

 

「暁? 意識は、はっきりしているかい? 無理そうなら、私ひとりで曳航するよ」

「大丈夫……。響は……、“ルサールカ”の警戒……、を……」

 

 言葉が途切れがちになっている暁に、響は焦りを強くする。

 敵艦隊との交戦中に一瞬だけソナーに反応があった“ルサールカ”も、今はすっかり姿を潜めている。

 ソナーの誤作動だったとは考えにくいし、“ルサールカ”ではなかったとしても、あの海域を潜航している勢力が確実にいたという事実は揺るがない。

 あのタイミングで仕掛けてこなかったというのならば、後はもう、開発資材を曳航して鎮守府へと帰投する、今このタイミングしかない。

 多くの懸念が頭の中で渦を巻き、自分の感が外れてくれればいいと強く願う響は、前方に光を見た。

 

「――まさか、鎮守府正面に、敵艦が……!?」

 

 息を詰めた響は、横目で暁を見る。

 同じように前方を睨んで呼吸を落ちつけようとしている暁だったが、誰の眼にも、もう戦える状態ではない。

 いま戦えるのは自分だけ。

 右腕で連装砲を構え、荒くなりそうな息を整えていると、ふと、暁から声が掛かった。 

 

「響。あれは、違うわ……」

 

 その声に息を詰めて戸惑う響は、自分の視野が狭くなっていたことに恥じ入る思いだった。

 暁が片方の眼を向ける先、ふたりに向けられる光は、点滅を繰り返し信号を送り続けている。

 光、探照灯の担い手は、ふたりを見送った妹艦、雷だ。

 提督に出撃許可をもらって、単独で出撃したのだろう。

 

 

「ちょっとおぉぉ!? 通信切ったまま繋がらなくなっちゃったから心配したのよ!? それに、……暁! 大怪我じゃない! 入渠の準備お願いしておいたから、早く、帰るわよ!!」

 

 帰る、鎮守府に。

 帰還できるのだと確信を得た瞬間、響の体を脱力が襲った。

 安心に、安堵に、気が抜けてしまって。

 しかしまだ、そうして気を抜いていい段階ではない。

 自分はまだ仕事を完遂してはいない。

 “ルサールカ”への警戒は、鎮守府へ帰投するまで続くのだ。

 

「私が暁の代わりに資材を曳航するわ? 暁は……、ほら、私の肩につかまって? 響、追手は? 大丈夫なの?」

「今曳航している“これ”を残して、すべて撃沈したよ。“ルサールカ”は、一瞬だけ反応があったけれど、それ以降姿を見せていない……」

「この直下にいる可能性もあるってことね? 対潜特化装備で出撃して大正解だわ?」

 

 暁と肩を組み、自らもアンカーをセットした雷は、準備完了の合図を響に送り、仮想スクリューを再展開した。

 

「……もう、こんなにボロボロになって……! ……治ったら、お説教なんだから……!」

 

 朦朧としている暁に額を寄せる雷は、語気も荒く、眼には涙が溜まっている。

 通信系の不調で連絡が取れなくなってから、こちらの安否が確認できず、今まで不安だったのだろう。

 自分が逆の立場ならと、響は考える。

 やはり、居ても経ってもいられないはずだ。

 単艦出撃という暴挙に出る気持ちも、痛いほどに理解できる。

 10年間、距離を置きつつ、壁をつくりつつも、共にあった自分たちだ。

 気にかけていた姉妹が永久に失われるかもしれない恐怖は、敵影への怯えに勝る。

 自らの油断でそうなっていたかもしれないと思うと、悔しさと共に涙が込み上げてくる。

 

 大きな後悔をひとつ、得てしまった。

 これは後々まで引きずってしまうなと考えて、ふと、暁が何か言葉を口にしたのを、響は横目に見た。

 雷からは「馬鹿なこと言ってるんじゃないの!」と叱る言葉が飛び出て来たが、響は暁の発した言葉に同意する思いだった。

 

 「――次は、もっとうまくやるわ?」と。

 

 口の端を持ち上げて、第六駆逐隊の一番上の姉は、そう言って見せたのだ。

 

 

 

 ○

 

 

 

 第二出撃ドックに辿り着いた艦娘3隻を、提督たちは悲鳴を上げそうになるのを堪えて迎え入れた。

 意識が朦朧としたまま曳航を続けていた暁は、体力的にも精神的にも限界だった。

 もはやひとりで体勢を維持出来なくなった暁に、提督は艤装の強制解除指示を出す。

 発進台に辿り着くより先に、暁の纏っていた全艤装の強制解除が行われる。

 雷に支えられながら到着すると同時、暁を抱き取った提督は、前もって用意していたストレッチャーに彼女を載せて、応急処置を始める。

 変わり果てた暁の姿に愕然とするよりも、少しでも早く処置しなければという思いが強かった。

 付属の計器類を繋いでいく中、暁が手を差し出してくるのを、提督は見た。

 その手を取ると、暁は声が出せなくなった口で、言葉をつくる。

 

 「――何か、言うことは?」と。

 

 提督はその問いを予想していて、掛けるための言葉を用意していた。

 

「お帰りなさい、暁。旗艦の大役、御苦労さま」

 

 

 その言葉が聞けたことに、暁は満足を得ていた。

 出撃前は、不安で響に弱音を吐いていたものが、まったくの杞憂だったと思い返される。

 暁の司令官は、ちゃんと司令官だった。

 おそらく誰よりも提督に向かない彼ではあるが、暁の欲していた言葉を、ちゃんとわかっていてくれた。

 出撃する艦娘の背中を見送って。

 帰還する艦娘に声を掛けてくれて。

 それが嬉しくて、このまま意識を永遠に手放してしまいそうになる。

 視界はぼやけてしまい、提督の姿は見えなかったが、おそらくは泣き出しそうな顔をしているはずだと、手に取るようにわかる。

 本当は両の足でドックに立って、胸を張って「ただいま」を言うはずだったのにと、そう思うと悔しくて仕方がない。

 

 だから、次はうまくやろうと、そう思う。

 提督に二度と、こんな泣きそうな顔をさせてたまるか、と。

 

 やがて、息を切らせた雷がストレッチャーに飛びつき、少しの衝撃と、からからと車輪が回る音が、暁の耳に聞こえてきた。

 これから入渠場へ向かうのだ。

 雷と、そして提督は着いて来ているなと、気配でわかる。

 響もだ。二番艦として役割を果たした彼女も、泣くのを堪えてストレッチャーに縋り付いてる。

 感触が消えてしまっている手でも、握ってさえもらえれば、その温度をはっきりと感じることが出来た。

 電は、一緒に着いては来ないだろう。

 曳航して来た開発資材を加工するという、重要な仕事があるからだ。

 深海棲艦から直接奪取した開発資材がどのような変化を起こすのか、まだこの鎮守府の誰もがわからないのだ。

 自分たちの仕事を無駄にしないためにと、きっと涙を呑んでそちらの作業に取り掛かっているのだろう。

 出撃場に居なかったまるゆは、おそらくは先に入渠ドックで準備しているはずだ。

 必要な場所に、居てほしい場所に先んじてくれるのは、雷の指示か、それとも自らの意志によるものか。

 どちらにせよ、後で褒めてやらなければ……。

 

 ちゃんと鎮守府が機能しているのが嬉しいと、こんな意識も途切れかけの有り様で思うのは、まったくどうして場違いかなと。

 そう思うこの感情は、自惚れだろうか。

 先に逝った仲間たちに、今の自分たちはどうだと、自慢してやりたい気持ちでいっぱいなのだ。

 しかし、残念ながら、まだ仲間たちのいってしまった場所へ向かうわけにはいかない。

 これでやっと、自分たちはスタートラインに立てたばかりなのだから……。

 

 暁は満足気な笑みを浮かべて、意識を手放した。

 

 

 



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13話:建造

 

 

 

 暁が目を覚ますと、医務室の天井が薄っすらと目に入ってき来た。

 自分がこうして意識を取り戻すまでの経緯は、微睡の中で大よそ整理が出来ている。

 暁たち、孤島の鎮守府の面々は、深海棲艦から開発資材を奪取することに成功した。

 孤島脱出までの全工程、その第一段階クリアだ。

 第二段階の艦娘建造に関しては、自分がこうして眠っている間に進んでいるだろうと、暁はベッドの上でわずかに伸びをした。

 負傷した箇所は入渠によって完全に修復されているはずだ。

 折れた左腕も動くし、麻痺した右手もシーツを撫でる感触がある。

 大きく息を吸い込んでも呼吸は苦しくはないが、幻痛のようなものはかすかに感じる。

 しかしそれも気にならない程度、日常生活に支障をきたす程度のものではない。

 少し療養すればこの幻痛も抜けてゆくだろう。

 

 

「――暁?」

 

 ベッドの傍らから、響の声がする。

 首を巡らせて見れば、文庫本を片手に足を組んで座っていた響が、驚いたような顔で暁を見ていた。

 

「響、設備系の点検に行かなくていいの?」

「……それは、司令官が来る前の話だろう? 今は、艦娘関連の施設を動かす余力を、妖精さんたちから分けて貰っているから……」

「知ってるわ? だからもう、インフラ周りに響が付きっ切りになる必要はない。でしょ?」

 

 ちゃんとわかっているぞと微笑んで見せれば、響の表情からようやく緊張が抜けていった。

 生態艤装の探照灯を使用したことで、脳機能への障害を恐れていたのだろう。

 確かにリスクは大きかっただろうが、そんなことで思い出を簡単に失ってたまるものかと、暁は思うのだ。

 眼も刀も、先に逝った仲間たちの残した力は、ちゃんと活路を切り開いてくれた。

 弔いと言う程のものではないが、「どう?」と得意げな顔で先に逝った仲間たちに問うてみたいところではあった。

 十中八九、山のようにダメ出しされるところまで想像に難くなくて、口元が引きつる思いだ。

 そして、居なくなった者よりも今居る者たちを充分に気に掛けろ、とも……。

 

「安心した?」

「ああ、安心したさ。……次は、もっと上手くやる」

 

 笑って、帰港時の暁と同じ言葉を告げる響。

 暁は満足そうに微笑んだ。

 

「なーにが上手くやる、よ! 心配かけてくれちゃって!」

 

 仕切りのカーテンが勢いよく開くと、白衣姿の雷が顔を真っ赤にして立っていた。

 暁も響も気まずそうに顔を逸らす中、雷はため息をひとつ吐いて、つかつかとベッドに歩み寄ってくる。

 その雷の表情が硬いことに、暁はすぐに気が付いた。

 頭の片隅に置いていた重要な部分がすぐに思考全体を占めてゆき、浅い微睡の中にあった意識が一気に覚醒した。

 

「……司令官と電は艦娘建造工程でドックに詰めてるし、まるゆにはいろいろ雑用任せているから……。当分、ここには誰も来ないわ?」

 

 誰も来ない。

 雷の言葉に、暁は不穏なものを感じる。

 傍らの響も表情が険しい。

 心当たりはあった。

 鎮守府に帰港してから丸1日以上は経過しているのだ。

 浜辺で拾った“あれ”が、ふたりの目に留まっても仕方がない。

 そろそろ、ふたりにも打ち明けるべきなのかも知れないと、暁はベッドの上で体を起こした。

 

「暁の服、洗濯するか修復するかで迷っていたら、ポケットの中から出てきたわ。これ、なに?」

 

 雷はあるものを、暁と響に対して掲げて見せた。

 白い腕輪だ。

 材質はシリコン、若干の伸縮性があり、一部がプレート状に平たくなっている。

 プレート部は何かに擦過して削られていたが、印字されている文字は薄っすらと残っていた。

 その文字を見た暁が、顔を伏せる。

 

 極地活動適正・甲

 

 そう、薄っすらと印字された文字が見えた。

 艦娘なら、艦娘に携わる仕事をしている者ならば、誰でもその意味を知っている。

 

「深海棲艦の支配領域における活動適正……。甲乙丙まであるその判定の中で最大が“甲”。でも、人間の適正限界は“乙”まで。10年前当時、人間の“甲”判定を得られるものは居なかった……」

 

 人間における活動適正は“乙”までであり、“甲”は有りえない。

 何故なら、適正“甲”と判断されることは、艦娘と同等の肉体と精神構造を持っていることに他ならないからだ。

 

 無言で問うように見つめてくる雷を前に、暁は観念したように、経緯を白状する。

 

「……浜辺に流れ着いた司令官を医務室に運んだあと、身の回りのものがないかと思って、また浜辺に行って、そして……」

「そこで、見つけたのね。それで、この腕輪が司令官のものじゃないかって、そう思った。そして、隠した」

 

 頷く暁から目を逸らし、雷はため息交じりに、手の中の腕輪を弄ぶ。

 

「この腕輪が司令官のものだっていうのは、暁。たぶん当たりよ? 司令官の、右腕の日焼け跡。あれ、時計の跡かなって思ってたけれど、この腕輪の跡だったのね。形状がぴったりだわ?」

 

 雷から確証が得られ、一度は顔を上げた暁だったが、深く息を吐いて、また俯いてしまった。

 自分ひとりで抱え込んでいた時点では、まだ「もしかしたら、自分の勘違いかも知れない」と、目を逸らすことも出来た。

 しかし、こうして複数人の元に晒され語られる段階になってしまっては、もう目の逸らしようがない。

 

「この腕輪通り、司令官が“甲”適正判定を持つのなら……。司令官は、艦娘と同等の体と、精神性を持ち合わせている……。ということになるわ……」

 

 雷が呟くように告げると、沈黙が下りた。

 帽子を目深に被って黙考していた響が、唐突に顔を上げる。

 眉根を寄せて口をへの字に結んだ、どこか釈然としない顔だ。

 

「……司令官、男だよね?」

「……そ、そうよね。あの骨格と胸板で女だって言われても、全然納得できないわ?」

 

 呼応した暁と頷き合った響は、揃って雷の方を向く。

 強めの視線でじっと見つめられ、雷は目を泳がせて一歩後ずさる。

 こうして見つめられる理由はわかる。

 鎮守府では雷が一番、提督の体に関して詳しい故だ。

 

「……正真正銘、男の人よ。司令官は。……ちゃんと、その、ついてたし。しっかり、おっきくもなっていたしで……」

 

 提督の姿と感触を思い出すように目を瞑った雷は、両手を宙に伸ばして、イメージする何かに振れるように動かす。

 その雷の挙動に、暁は真っ赤になってストップをかける。

 怪訝な顔で雷が問えば、響が半目になりながら「アウト。手付きが非常にいやらしい」と、人差し指で×をつくって口元に当てていた。

 雷も咳払いして「思い出す」のをストップして、両手を背中側に隠すようにした。

 

 さて、そうすると推測の範囲は絞られてくる。

 暁たちが外界と途絶された10年の間に、人間の中でも“甲”適正と判断される者が現れたか。

 もしくは――、

 

「――艦娘と同じ技術で、生み出されたか……」

 

 それは、医務室に集った3人が、一番否定したい推測だった。

 

 

 

 ○

 

 

 

 建造施設。

 その3号ドックの前で、提督は立ち尽くしていた。

 顔には憔悴の色があり、気を張ってようやく立っているといった様子だ。

 開発資材を奪取して帰港した暁の姿が、まだ目に焼き付いているのだ。

 送り出した艦娘があんな風になって帰ってくるのだと思うと、確かに提督とは辛い役割だ。

 だが、前線で戦う艦娘自身はもっとつらいだろうし、何より帰って来てくれただけありがたい。

 出撃した艦娘が帰還しない可能性もある以上、どんな姿になっても帰って来てくれてよかったと、提督は考える。

 

 出来れば、すぐにでも暁のところへ見舞いに行きたかった。

 雷からは、暁の体の傷は完治し、脳機能にも異常は見られないと報告を受けている。

 その報告に安堵を得るが、やはり無事な姿を自分の眼で確かめたくもある。

 しかし、その前に提督も役割をひとつ、果たす必要があった。

 

「司令官さん、準備完了したのです!」

 

 提督の元に駆け寄ってくるのは電だ。

 奪取した開発資材の加工を完了させて、その調整を今まで行っていたのだ。

 加工済みの開発資材はすでに、提督たちが前にする3号ドックに装填されている。

 あとは、艦娘立ち合いの下、提督が建造を承認するだけだ。

 

 3号ドック手前のパネルには、ふたり分の掌紋認証機能が、手を重ねられる時を明滅して待っている。

 早速認証をと手を伸ばした電だったが、その手が止まる。

 提督が微動だにしなかったからだ。

 

「司令官さん?」

「ああ。わかってる、電。わかっているんだ……」

 

 掌紋パネルに手を伸ばす提督だったが、その動きは触れるべき部分に触れずに止まってしまう。

 

「司令官さん……」

 

 やっぱりそうかと、電は眉根を寄せた笑みを浮かべ、伸ばされたまま震えている提督の手をそっと握り、降ろした。

 

「すまない。どうしても、これに承認を与えることを躊躇ってしまう。踏ん切りがつかない」

「それは、何故……、なのです?」

 

 提督の答えはわかっていたが、電はそう問うた。

 

「電たちのことを今日まで見てきたけれど、僕には艦娘という存在が、血の通った人間のように見えるんだ。そんな艦娘を建造するということは、つまり……。命をつくる、ということ、だろう……?」

 

 電は答えず、提督の言葉の続きを待つ。

 

「そう思ってしまうと、どうしてもこの建造を承認するのが、恐ろしくなってしまって……」

「命をつくることを、恐れてしまうと?」

「とても、罪深い行為に思えてしまって、ね……」

 

 そう告げて俯く提督に、電は仕方ないことだと息を詰めた。

 

 提督となった人間を多く見てきた電は、それらが大別して2種類にわけられることを知っている。

 艦娘の兵器性に偏った見方をするか、人間性に偏った見方をするか、その2種類だ。

 目の前の提督は後者の人間性に偏った見方をしているなと思うが、しかし、それらの提督とはまた違った面を持ち合わせていた。

 電の知る限り、どれほど艦娘に対して人のように接する提督でも、艦娘の建造を渋る提督は居なかった。

 艦娘を人間として、あるいは女子供として見て接する提督はいたが、命という括りでの視点は、この青年が初めてだった。

 

 彼がそう考えてしまう原因は、まだ彼に説明していない部分があるからだろうとも思うのだが、果たしてそれを話してしまっても良いのかと、電はもちろん、六駆の艦娘は迷っていたのだ。

 しかし、こうして建造を渋るような心情にしてしまったのならば、説明しなければならないなと、電は思うのだ。

 それが、提督にとって更なる重圧になるとわかっていても……。

 

 

「司令官さんは、こうして建造される艦娘が、どういった事情でこの形、人の形を取ったのか、御存じですか?」

 

 知るはずがないことを問えば、当然、提督は首を横に振って答えとする。

 そして次はこう問い返すだろう。

 

「それを僕に教えてくれるのかい? 電」

 

 怖いくらいに予想通りの言葉に、電は苦笑して頷いた。

 

「まず、こちらから質問なのです。司令官さんは、艦娘がどういった要素で構成されているのか、どれだけご存知ですか?」

 

 問いに、提督は指南書で読んだ限りの知識を引き出し、言葉にする。

 

「艦娘とは、第二次大戦中に現存した大日本帝国海軍の艦船、その魂を艤装に宿した少女たちのこと。艦船の魂は、その多くが背部艤装に艤装核として内蔵されていて、艦娘にとっての戦う力となっている。そういったオカルト染みた要素と、科学的な要素の混成がキミたちであり……」

 

 言葉をそこで止めて、提督は電を見た。

 その姿を見て、自らの手に添えられたままの、電の手を、両手で包み込むようにする。

 

「……その言行や心情は、生きた人間と大差ない。少なくとも、僕にはそう思える……」

 

 確信を込めて告げて、提督は以上だとばかりに目を伏せた。

 

「概ね、その通りなのです。では……」

 

 では、と。電は声をつくる。

 ここから、提督が知らなかった、知らされていなかった部分へ切り込むのだと、宣言する。

 

「電たちの、この体。肉体は、オカルトと科学、どちらの技に思えますか?」

 

 艦娘の肉体。

 それがオカルト方面の術によるものか、科学技術によるものか。

 提督は、科学の技だと答えた。

 電は、正解だとばかりに首肯する。

 

「艦娘の肉体は、科学技術によってつくられているのです。では、どうやってつくられているのかは?」

 

 首を横に振る提督に、電は少し言いよどむ素振りを見せつつも、答える。

 

「艦娘の体は、そのほとんどが、とある少女たちの細胞から培養された、クローン体なのです」

 

 クローン。

 その単語が理解と納得の形を取って腑に落ちる前に、電の言は続けられた。

 

「深海棲艦が正式にその存在を認められたのは、西暦2013年。しかし、目撃報告はそれより以前、2012年の段階で、数件ほど確認されていたのです」

 

 その情報は、提督も指南書を通して把握していた。

 深海棲艦の存在が正式に世界に公表されたのが、2013年。

 同時に、艦娘の存在も同年に公表され、対深海棲艦への攻略作戦が開始されている。

 しかし、目撃例自体はその前年の2012年にはあったのだという。

 

 提督は、嫌な感触が腹の底から登ってくるのを感じてた。

 公表の前年にあったのは、目撃例だけか、と。

 

「司令官さんもお察しの通り、目撃例だけではなかったのです。深海棲艦との接触で、実際に命を落とした方も、たくさんいたのですよ。……乗っていた船と、衝突して、海に投げ出されてしまった娘たちが……」

 

 提督はまさかと、しかし半ば確信を持って電を見た。

 

「艦娘の、その肉体の元となった少女たちは、深海棲艦が絡んだ海難事故で亡くなった少女たちなのです。電も、暁ちゃんたちも、現存する艦娘すべてが、かつて実在した“誰か”のクローン、なのです」

 

 

 

 ○

 

 

 

 暁型・艦娘の素体となった少女たちは事故当時、太平洋上の客船に乗船していた。

 暁・響の元となった姉妹と、雷・電の元となった姉妹とは、従姉妹同士だった。

 彼女たちはYDKRテクノロジーの重役の娘たちであり、なんらかの式典に参加するところだったのだと、記録上の情報を電は語る。

 その式典には、艦娘の艤装開発に携わっている各企業たちが名を連ねていて、その親族も多くが同船していたのだという。

 

 具体的にどういった催しだったかのは電自身も知るところではないが、“事故”はその式典の最中に起こったのだ。

 なんらかのトラブルが発生し、各企業の重役筋が急遽、ヘリで海上を離れるという事態が起きた。

 深海棲艦が出現したのは、その直後だった。

 おそらくは世界発となる深海棲艦の出現は、巨大な客船の沈没という結果を引き起こした。

 生存者は全体の一割にも満たず、乗船していた各企業重役の娘たちも、そのほとんどが帰らぬ人となった。

 事故当時はまだ春を待つ季節、海の水はさぞ冷たかったろうと、電は体験してきたかのような顔で語った。

 

 そこからの動きは迅速の一言に尽きた。

 各企業が合同で対深海棲艦専門の研究機関“海軍”を設立し、当時の日本政府の“協力”を取り付けた。

 海の見える領土から国民を内陸に避難させ、人の失せた海岸線には堅牢な堤防と研究施設群を建造。

 ちょうど一周忌となる翌年の春には、日本政府が深海棲艦の存在を公表。

 そして、5隻の艦娘が即座に実戦投入された。

 5隻の中には、ここにいる電の姿もあった。

 

 

「クローンで、しかも兵器だなんて……。そう、思いますか? 倫理的な面で、理解が得られるはずがない、と?」

 

 電はそう言うが、彼女が目の前にこうして立っているということは、理解が得られたか、得られずとも強引に進められたかのどちらかなのだろうと、提督は苦い顔をする。

 

「結論から言うと、世論の理解はもちろん、得られていないのです。なので、これは秘匿情報。艦娘に関係する人員しか知らないことなのです。これらの、艦娘関連の技術に関する情報統制には莫大な額のお金と、そして口止め料が手渡されました」

 

 その口止め料とは、艦娘の肉体を構成する技術を医療に転用したものや、補助艤装の技術転用のことを指すのだという。

 

「深海棲艦に対抗するために、願掛けの意味も込め“海軍”という名称で立ちあげられた組織には、多くの企業が艤装開発のため参加しているのです。この各企業が、艦娘の研究にて生じた技術を一般に普及させたことで、各国各機関への口止め料としたのです」

 

 転用された技術は主に肉体面、医療に関する部門だったという。

 艦娘の肉体修復技術を用いて、四肢の欠損や臓器の不調を癒すという試みだ。

 頭部を含め元の体の3割近くが残ってさえいれば、ひと月と経たずに肉体を元通りにするという技術は、世界を驚嘆させた。

 患者当人の細胞を用いて合成たんぱく質で構成された肉体は、失った器官の役割を本物以上に果たし、何より安価だった。

 宗教の都合上に問題がなければ低所得層の者でも再生治療が受けることが可能で、たとえ問題があったとしても、補助艤装のインナースーツや艤装開発の産物で生み出された義肢が、欠損箇所の役割を果たした。

 

 これらの技術転用は、電にとっては嬉しいものなのだという。

 自分たち艦娘が生まれたことで、手足と共に夢を断たれてしまった子供たちに、再び夢を取り戻させることが出来たからだと、照れくさそうな顔をして言うのだ。

 

「医療面に転用され、安価であることからも察してもらえる思うのですが、艦娘の体は、その、言ってはなんですが……、かなりお安く出来ているのです」

 

 素体の遺伝情報を内包した合成たんぱく質の肉体は、艦娘が纏う艤装よりもはるかに安価だった。

 例として電が口にしたのは駆逐艦1隻分の値段だったが、それを聞いた提督は自分の耳がおかしくなってしまったのだと、耳を塞ぎたくなった。

 いくら修復可能で替えが利く肉体であるとはいえ、あまりにも安価過ぎたのだ。

 目の前でこうして話をしている彼女に“コスト”という概念を当てはめることが、堪らなく悍ましい考えではないかと、そう感じたのだ。

 

 だからこそ、強く疑問する。

 

「……何故、亡くなった娘たちのクローンを、艦娘の肉体として?」

「理由は、いろいろあるのだと思います。まず、ジンクス的な面、オカルト方面で言えば、かつての軍艦と同じく、無念と共に海中に没したという背景が、艦の魂を呼び降ろすには適しているのだとか。気持ち、巫女さんのようなものなのです」

 

 艦娘を巫女に見立てると違和を感じてしまうあたり、自分にはオカルト方面の素養はないのだろうなと、提督は頭をかく。

 この巫女の概念はオカルト方面でのアプローチを重視する研究者たちに支持されていて、開発最初期の艦娘には巫女の装束を纏った者たちも少なくはないのだという。

 深海棲艦を“ケガレ”であると見なし、それらを巫女たる艦娘が砲や雷撃によって“払う”という考え方も支持されているそうだ。

 

「……何より、親御さんたちの意志が強く働いた結果なのだと思います」

 

 親御さんたち、というのは、彼女たちの元となった少女たちの親。

 各企業の重役筋のことだ。

 

「自分の娘が元気に走り回って、お話する姿をもう一度見たい。最初はそんな気持ちで、彼女たちを素体にすることを選んだのだと思います。でも、私たち艦娘は、ただ誰かの傍にいて、お話しするだけの存在ではありません」

 

 その通りだと、提督は息を詰める。

 彼女たちは戦う者だ。

 海上や海中を駆け、敵を穿つ者。

 娘の元気な姿を再び見たいと願い、そして叶えた者たちは、叶った願いの続きに、何を思ったのだろうか。

 

「性質が悪いことに、私たち艦娘の性格や考え方のパターン等は、元となった彼女たちのものを大幅に引き継いでいるのです。10年を人として過ごした電たちには、成長による“誤差”が生まれていますが、他の鎮守府で運用されている艦娘は、元の彼女たちと瓜二つだと言って過言無いと思うのです」

 

 そんな彼女たちが戦い傷つく姿を、娘を失った親たちはどういった心境で見ていたのかと、提督は理解に苦しむ。

 苦悩と共に見続けたのか。

 それとも、目を逸らしてしまったのか。

 

「そして、最も推されている説が、クローンには人の魂が宿らないから、なのだそうですよ」

「クローンに、人の魂が宿らない? それは……?」

「人の腹から生まれた子にだけ、人の魂が宿るという考え方なのだそうです。クローンは、元の人間から細胞を採取・培養してつくられた体。だから人の魂が宿らず、しかしそれ故に、艦船の魂を宿すための“容器”と成り得る。という考えなのです」

 

 そうは言うが、電自身はこの説をまったく信じていないのだそうだ。

 珍しく断定する電に理由を問えば、はにかんだように「なんとなく」と返すだけだった。

 

「司令官さんは、分霊という言葉をご存じですか?」

「ああ、聞き覚えがあるよ」

「艦娘の体は、素体情報と設備、資金さえあれば、いくらでもつくることが出来ます。もちろん、そこには開発資材という鍵が必要にはなります。そうやって形作られた肉体には、艦船の魂が呼び降ろされることになるのですが……。たとえばもしも、電を建造出来る開発資材がふたつあったとして、どちらも電を建造するように仕込んだ場合、どうなると思いますか?」

「それは、どちらかが……。いや、それで、分霊なのか……」

 

 艦船の神霊が祭られている本社から分霊されたとて、元の神霊が消滅するわけではない。

 この分霊を“魂”だとするのならば、電が問うたこの場合、建造によって2隻の艦娘・電が生まれることになる。

 

「性格や性能は、開発資材の状態にもよりますが、ほとんど同じ電が建造されるはずなのです。でも、それから先は、艦娘次第。その後に得たもの失ったものによって、艦娘の考え方や捉え方は、ベースとなったものからどんどんズレていくのです。この島で10年を過ごした、電たちのように……」

 

 そう、最初期から活動し、現在まで稼働を続ける艦娘・電は、話を締めくくった。

 

 

「ここまで聞いてもらってなんですが、司令官さんは困惑していると思うのです。艦娘の建造を承認させるための説明だったはずなのに、って……」

 

 提督はその言葉に頷いた。

 電がこうして秘匿情報を明かしてくれたこと、その意味を理解出来たからだ。

 

「……この話は、本来、提督となる人物ならば、誰しも知っておくべきことだったんだよね?」

「申し訳ありません……。司令官さんは、海軍所属ではない、臨時の司令官さんです。知らなくてもいい情報は、なるべくなら明かさない方がいいのではないかと考えて、あえて黙っていました。でも、それは……」

 

 それは、侮りだったと、電は深く頭を下げた。

 

「気遣ってくれたんだね、電。知ってしまえば、いよいよ後戻りできなくなるって。それに、僕がより一層考え込むようになってしまうって」

「それも、あるのですが……」

 

 電は歯切れ悪く言い淀む。

 

「司令官さんなら、そんなことはないって、わかっているはずなのに……。艦娘の“本当”を知ってしまったら、電たちへの見方が変わってしまうんじゃないかって……。そう考えると、怖かったのです」

「そうだね。確かに、ちょっと見方が変わったかな」

 

 提督のはっきりとした言葉に、俯いていた電の肩が震える。

 

「電も、他の彼女たちも、誰かに存在を望まれて、こうしてここにいるんだね。決して戦うためだけにつくられた命じゃない。少なくとも、僕にはそう思えたよ」

 

 笑んで告げる提督に、電はほっと緊張を緩め、そして罪悪感に襲われた。

 共にこの島を脱っする運命共同体に対して、隠し事はまだまだあるのだ。

 そのすべてをこの青年提督が知る必要はないし、彼とて理解に苦しむ部分は多いだろう。

 今回のような話をしたのは、提督にとって、これから艦娘と付き合ってゆくうえで必須だと電が判断したからだ。

 

 電たち六駆の姉妹や、すでに建造済みだったまるゆとは違い、これから建造する艦娘は、この提督の手によるものだ。

 この先何があろうと、彼女を生み出したことに対する結果を、提督は背負うことになる。

 良きことであれ、悪しきことであれ、だ。

 艦娘を一個の命として見ているのならば、尚更だ。

 

「話してくれてありがとう、電。僕の考えは変わらなかったけれど、そうだね……。少しだけ、前向きに考えてみようって、そう思えるようになったよ」

 

 提督は3号ドックを、その中に誕生するであろう、未だ見ぬ艦娘の姿を幻視する。

 

「この娘は、自分が生まれたことを、誇ってくれるかな?」

 

 提督は、待機状態の3号ドックを前に、電に問うた。

 電は「わからないのです」と応えつつも、「でも」と、続けた。

 

「生まれてきて良かったって、そう思ってもらえるように、していきたいのです……」

 

 果たして、そう思ってくれるかと、提督は黙して思案する。

 孤立無援の拠点から脱出するために建造されることになる彼女に、それ以外の意味と価値があったと、そう思ってもらえるには、どうしたら良いものか。

 方法はすぐには思いつかないが、それは今いる彼女たちと一緒に考えて行こう。

 彼女が少しでも幸福を感じてくれるようにと。

 

 提督は右手を上げる。

 電も同じように手を挙げて。

 そして、パネルに触れると“承認”の文字と共に、建造が開始された。

 

 

 

 ○

 

 

 

「――司令官には、これのこと、話すべきかな? それとも、黙っておくべき?」

 

 雷がそう告げた時、暁は肩の荷がまだ完全に降りていないことを、感触として得ていた。

 提督の出自に関わるかもしれない情報を、今まで皆に秘密にしていた。

 それが響と雷に発覚してしまったものの、当の提督に明かして良いかどうか。

 

「さっきはこれが司令官のものだって言っちゃったけど、日焼け跡だけで確定とするのにはちょっと足りな過ぎる。この島に流れ着いた時に、実際に司令官がこれをつけていたわけじゃないし、これを司令官のものだって断定は出来ない。……“甲”適正だって、そう言われても納得できるだけの精神状態ではあるんだけどね? うちの司令官は……」

 

 断定できないからこそ、悪戯に話すべきではないと、雷は秘匿に一票を投じる。

 

「それに、例え艦娘と同じような原理でクローン体をつくれたとしても、そこに人の魂は宿らないわ。私たちは、クローンの体と、オカルトの技で呼び降ろされた艦船の魂が合わさって、初めて精神、心が宿っているもの。性格や考え方のベース自体は、私たちの元になった人間の少女よ。けれど、そこに艦船としての記憶が上書きされるから、まったく別の存在になる。自分を“在りし日の艦船”だと考えている、戦う娘が……」

「でも、司令官の場合は、そうじゃないって?」

 

 響の問いに、雷は頷きを返す。

 

「まず、魂が宿らない体には、精神は生まれない。司令官が艦娘と同じようにクローン体だったとしたら、私たちのベース体のように深海棲艦絡みの海難事故で亡くなった背景を持っているか、何らかの艦船の魂が宿っているはず。でも、だとしたら男性なのは有り得ない。オカルト的に言えば、巫女としての役割を果たせないのよ……」

 

 そう語る雷が現状最も濃厚だとする推測が、肉体のほとんどを……、特に、頭部、脳機能を、再生治療によって修復されているのではないか、というものだ。

 

「……そう考えると、司令官の記憶喪失に、ようやく納得することが出来るわ。人間じゃあり得ないくらいに高い、極地活動適正も。頭部や脳機能の再生に関する症例は、こっちにまでデータが回って来てないから確証、というわけにはいかないんだけどね?」

 

 一息に言って肩を竦めた雷に、暁は目を伏せた顔でひとつ問う。

 

「ねえ、それって。司令官は、体のほとんどを再生治療しなきゃいけないくらいの大怪我をしてた。……って、ことかな……」

 

 まるで自分のせいでそうなったとでも言いたげな暁に、響も雷もそうじゃないと宥めるように告げる。

 

「艦娘が誕生したことで、司令官の大怪我……、したかどうかはわからないけれど、それを治す方法が確立された。そう考えても、いいんじゃないのかな?」

「そうよ。それに、暁は一度司令官を助けてるんだから。はっきりしないことでそんなに落ち込むんじゃないの!」

 

 ふたりの言葉に、噛みしめるように幾度も頷く暁だったが、そんな心情だったからこそ、響と雷が深刻そうな表情で顔を見合わせているのには、気が付かなかった。

 暁には思い至らなかった可能性に、ふたりは辿り着いていた。

 暁が見つけた白い腕輪、それがどう見ても医療用のものだとは思えなかったのだ。

 思い至るのは、実験動物に付与される“タグ”。

 艦娘の研究そのものが、そもそもそうではないかと、ふたりは歯を噛む思いだった。

 

 人体実験。

 

 それこそ確証もない推測だが、だからこそ有り得ないと一笑に伏すこともできなかった。

 手がかりを掴みはしたが、それはほとんど何もない段階から、多くの選択肢が存在する段階に来たに過ぎない。

 しかし、それでも一歩だ。

 

 腕輪のことを提督に明かすかどうかは、響が明かすに1票。

 暁は今まで腕輪を隠していたからと、票を放棄。

 医務室の扉の前でちゃっかり盗み聞きしていたまるゆは明かす方に1票を。

 明かす側に2票が入り、あとは電の判断を待つのみとなった。

 彼女はおそらく、明かす方に票を入れるだろうなと、暁は考える。

 

 そうして、この可能性の話を提督がどう受け止めるのか。

 暁は、それが気掛かりで仕方がなかった。

 

 

 







第1章『開発資材の獲得』完

第2章『雲の上の世界は』へ、つづく


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第2章:雲の上の世界は
1話:青い瞳に映るものは


 

 

 

 軽巡洋艦・阿武隈は不機嫌だった。

 何が不機嫌なのかと問われれば、「ぜんぶ!」と感情に任せて答えていただろう。

 とにかくそのような心境なのだ。

 

 阿武隈が身を置くのは外界から隔絶されている孤島の鎮守府。

 現在は深海棲艦の支配領海の範囲内となってしまっている場所だ。

 取り残された駆逐艦の艦娘が4隻、この島から出ることも適わず、10年もの長きに渡り燻る日々を送っていた。

 この鎮守府の提督はすでに亡くなり、本部から下った待機命令のせいで、艦娘たちは身動きを取れずにいたのだ。

 

 それから10年。

 この島にある青年が流れ着いたことで、止まっていた時間は動き出すこととなった。

 島に漂着した記憶喪失の青年を提督に据えての活動再開。

 孤島の鎮守府、脱出計画だ。

 

 

 島を脱するための初期工程は水上偵察機を運用できる艦娘を建造すること。

 そのために、深海棲艦を撃破し、その残骸から開発資材を奪取することが最初期の目標だった。

 当時、この島に存在していた戦力は、駆逐艦4隻に潜水艦1隻。

 その内、駆逐艦・雷は速力を失い高速巡航が出来ず、駆逐艦・電は艤装の機能ほとんど損なわれ、海上に二足で立つのがやっとという状態だった。

 計画進行中に偶然発見された潜水艦・まるゆもイレギュラーな部分が多く、実戦投入には時間を要すると判断された。

 そのため、開発資材の奪取は駆逐艦たった2隻で、夜間を狙って決行となった。

 負傷・損害等有りながらもなんとか開発資材の奪取に成功し、軽巡・阿武隈はこうしてこの鎮守府に生を受けることとなったのだ。

 

 こんな時期、こんな場所に生を受けたことを、阿武隈は悲観してはいない。

 自らが艦娘という存在であることは、建造時に刷り込まれた情報で理解しているし、自らのあり方に疑問を覚える程のうろたえもないのだ。

 自分が孤島の鎮守府の面々の立場だとしたら、同じ発案をして、同じ行動に移ったであろうことも推測できるので、彼女たちを恨むような心境にはどうしてもなれなかったのだ。

 

 よって、先程から不機嫌になっている理由というものは別にある。

 人に問われでもすれば「いーえ! ぜんぶですー!」と答えるであろうものだが、ひとりで物思いに耽っている時点では、わりと冷静に自らを見定めることが出来た。

 では、なぜ阿武隈は不機嫌なのか。

 

「……なんでみんなおっきいんですかー!? どう考えてもおかしいでしょー!?」

 

 現在、場所は鎮守府の入渠場。

 艦娘は皆揃って入渠の時間だ。

 

 

 

 ○

 

 

 

 阿武隈が気に入らなかった最たるものは、この島に取り残された駆逐艦たち暁型4姉妹、その姿だった。

 暁型駆逐艦といえば、その体躯は10~12歳ほどの子供のものであるはずだ。

 それがどうだ、この孤島の第六駆逐隊の艦娘たちは、誰もが17、18歳ほどの少女から大人の女へと片足を踏み入れようかという姿だったのだ。

 性格も一見して大人びいているかと思えば、デフォルト状態の面影を少なからず残していて、阿武隈の困惑を浚った。

 何より釈然としないのは、彼女たちを“先輩”と読んで接しなければならないことだ。

 

 軽巡洋艦・阿武隈といえば、第二次大戦中には駆逐艦を率いて様々な作戦に参加した名鑑だ。

 当然、艦娘としての阿武隈もそのような役割を帯びているのかと思いきや、ここではもっぱら教えられる側、命令系統の末端なのだ。

 本来ならば自分が駆逐艦たちの面倒を見て指示を出して、救けてゆくべきだったはずなのにと思うと、どうしてこんなことになっているのかと理不尽な憤りが腹の底から染み出してくる。

 完全に立場が逆転している上に、彼女たちの微笑ましい目線が、地味に鬱陶しいかったのだ。

 

「……それに。皆、出たり引っ込んだりしてるし……」

 

 ついでとばかりに釈然としなかったのが、彼女たちの体つきだった。

 阿武隈は自らの体つきを劣っていると見ているわけでは決してなかったが、それでも他の艦娘と裸の付き合いとなれば嫌でも目に入るし、意識もしてしまうのだ。

 中でも目を惹くのは……。

 

「ほら、まるゆー。来なさーい。頭洗ってあげる」

「わーい」

 

 湯船に口元まで浸かってぶくぶくと泡を立てている阿武隈の視界を、右から左に、背の高い潜水艦娘が走ってゆく。

 髪は長く背中でひとつ結びにしていて、眉は太めで。

 顔付は幼さを残しながらも体つきはすでに大人の領域にあり、胸元の双丘が動きにつられて大きく揺れた。

 その揺れが目に入る度に、阿武隈の額に青筋が浮いてゆく。

 度し難い理不尽さに耐えられず、思わず湯から立ち上がった。

 

「何ですか、あの超大型バルジ! あれで“まるゆ”!? 絶対おかしいです!!」

「そうよね!? アレ絶対おかしいわよね!?」

「うわあ!?」

 

 立ち上がって拳握ってひとり叫んだ阿武隈の隣り、同じように湯船から立ち上がった暁が腕組みして咆哮に追随したのだ。

 暁の背丈は阿武隈よりも若干高いのだが、その身体つきは控えめに美化してスレンダーだ。

 阿武隈も勝手に親近感など抱いているが、それでも暁は釈然としない人枠のひとりであることに変わりはない。

 

 憤慨の矛先を向けられたまるゆ当人はといえば、洗い場で雷に髪を洗われながら「なんか阿武隈さんと暁さんに理不尽にキレられました……」としゅんとしてしまい、雷に「世の中理不尽なことばっかりよね? 強く生きなきゃね? かゆいところなーい?」などと人生哲学の方に話の舵が切られ始めていた。

 何さあれは、と思いながら再び湯船に肩まで浸かった阿武隈は、隣りの暁も勢い良く浸かるのを横目に見て、眉をひそめる。

 

「……あの、髪。纏めないんですか……?」

 

 「ん?」と疑問符と共に首を巡らせた暁は、生態艤装内臓の左目こそ風呂用の眼帯で覆ってはいたが、髪は纏めず湯船に浸けるままにしていた。

 阿武隈はタオルで髪を纏めていたのだが、目につく限り他の艦娘が誰もそのようにしていない様を見て、もしかすると自分だけ違う常識をインストールされたのかと不安になったのだ。

 

 何を隠そう、阿武隈がこの鎮守府の面々と一緒に入渠したのは、今日が初めてなのだ。

 建造されてから今まで、暁たちが入渠場に連れ込もうとするのを頑なに拒否し続けていた阿武隈だったが、そろそろひと月が立とうという節目。

 時期的ににひとりで入渠する方が気まずくなって来て、こうしてここにいるわけなのだが、現実を見せつけられた衝撃は大きかった。

 体型のこともだが、入渠の作法もこの鎮守府には独特なものがあるのだと頭を抱え始めていた頃、計ったかのようなタイミングで助け舟はやってきた。

 

「入渠に慣れてしまうと、これが癖になるのさ」

 

 そう告げて阿武隈の隣り、暁とは反対側に浸かるのは響だ。

 暁と同じように、青みがかった長い白髪を纏めず湯に浸けている。

 

「この湯の成分には、艦娘の体を強制的に代謝させたり負傷箇所を修復する効果がる。髪も同じで、わざわざトリートメントしなくても、こうして一緒に浸かっていれば自然に補修されるっていう寸法さ」

「でも、それだと、だんだん物ぐさになってしまうのですよね」

 

 響の言を引き継ぐ形で現れた電は、阿武隈と同じように髪を纏めた姿で湯船に浸かった。

 ようやく仲間が現れたことでほっと安心する阿武隈ではあったが、その安心こそがどこか敗けた気になってしまい、釈然としないタイムは依然として継続中だ。

 

「阿武隈ちゃんは髪型凝っているから、セットたいへんだと思うのです」

「そ、そんなことないですよ……。形状記憶で、2秒であの形に出来ますから……」

「……なんだかんだで、阿武隈も物ぐさになって来ていない?」

 

 呆れた風な暁のもの言いに、反論できずにむぐぐと唸る。

 確かに、建造された当時こそ、髪型のセットは時間をかけて丁寧に行なっていた。

 それが、この鎮守府での日々を送るうちに、だんだん省ける手間は省くようになり、髪型のセット自体は形状記憶機能に任せている。

 そのうち、髪も皆のように纏めずに湯につかるようになるのだろうなと、容易に想像できるのが憎たらしい。

 それもこれも、こうして自らを囲むようにして湯につかる先輩艦娘たちの影響だと、阿武隈はむすっと表情を引き結んだ。

 

 そんな阿武隈を見て、同じ湯船に浸かる艦娘たちは満足そうに微笑むのだ。

 視線で「なんですか?」と問うた阿武隈は、皆から「なんでもなーい」と微笑みの返答。

 その視線の意味は、阿武隈にもわかる。

 妹分がここの生活に慣れて馴染んできているのが嬉しいのだ。

 見透かされているようでいけ好かないが、この鎮守府のこれまでを振り返れば仕方のないことだろうと、不服の当たり場をつくれず、もやもやしてしまう。

 

 こうして目をかけてもらって、期待されて気遣いをかけられてはいるが、自分はまだそれらの意志に報いることが出来ていない。

 まだ海面に足を着けることすらしていない、そういう肩身の狭さもあったのだ。

 建造されてすぐに訓練とはならず、まずはここでの生活になれることからスタートだと、鎮守府の方針として言われている以上、焦る必要はないはずだ。

 現に、ルンルン気分で髪を洗ってもらっているまるゆも未だに訓練課程に進んではおらず、そういった意味では阿武隈と同じ、ただの新入り状態なのだ。

 

 しかし、それでも焦る気持ちはある。

 この鎮守府は過去に前線補給基地として運用されていたので資材は豊富にあるが、それも無限ではない。

 そもそも現状、戦力として数えることが出来るのが駆逐艦2隻なのだから話にならない。

 昼間に空母級含む一個艦隊に空襲されればそれまでだし、戦艦級の砲撃を食らっても終わりだ。

 それに、この鎮守府近海に潜んでいるとされる潜水級の脅威もある。

 敵艦側がこちらを見付けて潰そうと思えばいつでもそのように出来てしまい、かつ、こちらはそれに対する緊急手段を持たない。

 

 それ故、今はじっと耐える段階。

 敵に発見されないよう篭城に徹して力を育てる時だ。

 やがてはこの鎮守府を放棄して深海棲艦の支配海域から脱出する計画。

 そのためには安全な航路を確保する必要があり、まずは水上偵察機を運用できる艦娘の力が、すなわち阿武隈の力が必要になる。

 偵察が出来るようになれば、活動範囲が格段に上がる。

 今までは敵空母級を警戒して夜間の出撃しか出来ない状態だったものが、昼間の活動をも可能にする。

 安全な航路を確保することも可能だろうし、もしかすると友軍と接触できるかもしれない。

 目的達成までの工程を、格段に進めることが出来るのだ。

 その重要な部分を自らが担うのだという自覚と重圧はあったが、阿武隈の気掛かりは他にあった。

 こうして、呑気に湯船に浸かっている先輩株の駆逐艦どもだ。

 

 10年もの間、艤装を装着できずに待機状態だった暁たちは、艦娘としてのデフォルトの姿よりも肉体がかなり成長している。

 その成長のせいで、艤装の操作性にノイズが生じてきているのだと、阿武隈は小耳に挟んでいた。

 第六駆逐隊の駆逐艦は、電が完全に戦力外、雷が速力系に異常が見られたため、鎮守府防衛の防空仕様への改造を検討中。

 開発資材奪取のため夜間出撃した暁と響には大きな異常が見られなかったが、帰港後の検査で艤装の操作性に若干の悪化が見られた。

 極端にではないものの感度が落ち、意識すれば妖精たちに指示することが出来ていた響でさえも、今後は発声と指運とで動作しなければならないそうだ。

 オーバーホールする施設がこの鎮守府には存在しない以上、このまま出撃を続ければ、いずれ暁型は戦えなくなる。

 それだというのに、この先輩株たちの呑気なこと……。

 

 このリラックスした雰囲気が、努めてそうされているものだとは、阿武隈も気付いている。

 いくら艦娘とは言え、肉体的にも精神的にも人間、女の子の部分がある。

 メンタルケアの専門医がいない以上、そういったストレスコントロールは自分たちでこなすしかない。

 悪いことばかりを考えずに、休む時はしっかり休むという方針を、先輩株がこうして自ら実践しているのだと思うと、やはりやりきれない思いを抱かざるを得ないのだ。

 

 彼女たちが戦えなくなる前に、道を切り開いてしっかりと固めて置きたい。

 それが、現状を再確認した阿武隈の、おぼろげな考えだった。

 

 

「阿武隈もここの生活に慣れてきたみたいだし、そろそろ司令官も一緒に入れるかしら?」

 

 浴槽の方にやってきた雷が聞き捨てならないことを口走るので、阿武隈は抗議の声を上げて立ち上がった。

 

「おかしいですから! なんで提督と一緒にお風呂入らなきゃならないんですか!? 提督は男の人ですよ!? ……あ! その、新鮮な反応だなーって顔、やめて下さい!!」

 

 阿武隈の言った通りの顔をしていた面々は、各々腕組みしたり顎に手を当てたり考え込むポーズを取った後、湯の中で集まってひそひそと話し始めた。

 

「はい! そこ! ひそひそ話しない! 陰口言われてるみたいでちょっと嫌です!」

「ごめんってば。阿武隈の言う通り、司令官と一緒にお風呂っていうのは、正直どうかと思ってたけど……」

「……なんというか、今さらなのです?」

 

 暁と電が困った様な笑みで「ねー?」と頷き合っているのを、「ねー? じゃありませーん!」と阿武隈が叱りつける。

 

「だいたい、提督が益荒男現人神になって私たちに襲い掛かってきたらどうするんですか!? お互い気まずくなっちゃうじゃないですかあ!?」

「あ、気まずくなるくらいで済むんですね阿武隈さん……」

 

 阿武隈の顔を真っ赤にしての訴えに、いつの間にか浴槽に潜水していたまるゆが反応する。

 

「しかしだ、阿武隈。うちの司令官は、もう何度も私たちと一緒に入浴しているんだ。だいたいは水着着用でもあったけれど、それで司令官が我を見失うこともなかったよ。何故なら……」

 

 一息に言って溜めをつくった響に視線が集まる。

 注目を存分に集めたことを確認した響は、人差し指を立ててこう宣言する。

 

「司令官はもはや、私たちの裸など見慣れてしまっているんだ。そう、司令官がこの島に漂着した当初から、雷が中途半端な色仕掛けやエロ誘導をしていたせいでね……!」

「え、私のせいなの! ていうか知ってたの!?」

「……暁ちゃんに海外のポルノ雑誌持たせて特攻させたこともあったのです」

「――は? ……ああ! あれか! うわあ!!」

 

 今さら自分が何を持たされていたのかに思い当たった暁が、真っ赤になった顔を湯船に突っ込んだ。

 「ま、敗けません!」となぜか張り合って潜水開始したまるゆを放って置いて、響はこの馬鹿話を決着の方向へ進める。

 

「だからこそ、これからは一層刺激的な感じでいくべきだなと、思うわけだよね」

「そうね。常時裸に白衣くらいは許されるかしら?」

「裸エプロンだとちょっと寒いので、裸割烹着あたりで手を打ってもらえるとありがたいのです。出来ればソックス有りで」

「そんなことする前に! 皆お風呂上りはちゃんと服着るようにしてくださーいー!」

 

 阿武隈の叫びに湯船から顔を出している面々は「はーい」と返事して、湯の中にいる連中は手を挙げて了解の意を示した。

 「なんで聞こえてるのよ……」と半目になった阿武隈が、浮上しようとする暁の頭を上から押さえつけ、本日の第一ラウンドのゴングが鳴った。

 勝者はもちろん阿武隈。

 姉艦由来のキメポーズをとって勝ち誇る長良型の末娘は、抱いていたモヤモヤやイライラが少しだけ発散されるのを感触として得ていた。

 その横、暁が半べそかきながら拳を握って「泣いてなんか、ないんだからね……!」と鼻をすする。

 入渠場の湯は特殊で、潜っていても呼吸ができる仕様になってはいるが、いきなりの攻撃にパニックになってしまったのだろう。

 そんな、暁型長女の情けない姿を目の当たりにした面々は、

 

「ワンちゃんが、群れの中で力関係をはっきりさせたような、そんな感じに見えるのです」

 

 という、電の冷静な分析に深く首肯した。

 

 

 

 ○

 

 

 

 曇っていて、それでいて薄暗くある夜空の下。

 鎮守府の庭に設置したドラム缶風呂の中で、提督は深く長い息を吐いていた。

 この、体を軽く曲げて入れる狭い湯船が、提督に取ってはとても落ち着く場所なのだ。

 艦娘たちと一緒の入浴となると目のやり場に困るし、緊張して体の力が抜けず疲れも取れないのだ。

 決して彼女たちと一緒という状況が嫌なわけではないのだが、やはり困るものは困る。

 提督という一応立場ある役割である以上、必要以上の粗相はしたくないものなのだ。

 以前の酒宴の時のようなひと口ノックアウトはもう勘弁願いたいし、あまり過剰なスキンシップに晒されては欲望に流されてしまうかもしれない。

 

「……流されるのかな。僕は……」

 

 思い至って、ふと考えてみれば、自らがそういった流れに身を任せる様を提督は想像できなかった。

 理性を保ち続ける自信こそなかったが、かと言って艦娘たちに襲い掛かる自分も想像し難い。

 結局は手を出せずじまいで軽蔑されるのが落ちだろうと、提督は安堵しつつ「それはそれで嫌だなあ……」と空を仰いだ。

 

 それに、と思い浮かべるのはひと月前に建造した新たな艦娘の姿だ。

 彼女との関係はまだまだぎこちなさが残るが、悪い方向に転ぶような舵は取っていないはずだと、そう思いたかった。

 この鎮守府の、提督や暁たちにとっての希望。

 そういった重圧を感じて欲しく無いと思うのは、やはり虫が良すぎるのだろうか。

 彼女の不満気な様子、燻った姿を、最近よく目にする。

 そろそろ動き出したいと考えているのだろう。

 

 

「提督? 湯加減はどうですか?」

 

 考えの渦中にいた艦娘の声がして、提督は首を巡らせる。

 そこには風呂上りの阿武隈が、Tシャツにホットパンツ、サンダルというラフな格好で、瓶の飲み物を両腕で抱えていた。

 薄着に、乾ききっていない髪と、湯冷めしないだろうかと心配になる提督だったが、当の阿武隈はそんなこと気にする風もなく、備品置きに使っているビールケースの上に持ってきた飲み物を並べていく。

 

「ラムネと、コーヒー牛乳と、あとフルーツ牛乳がありますよ。どれにします?」

「コーヒー牛乳を頂けるかな。阿武隈は?」

「私はさっき入渠場で頂いて来ました。あ、というか提督! 暁姉妹がお風呂上りに裸で徘徊するの、やめさせてください! みっともないったら!」

「……やっぱりそう思うよね。けれど、この鎮守府は元々、そういう規律面はゆるかったみたいだから……。ねえ?」

「ねえ? じゃありません! いくらゆるくても誰も見てなかったとしても、全裸で外まで出歩くようなのはただの痴女です痴女! もう、なんですか提督! 厳格なお家に婿入りしてあんまり強くものを言えない情けないパパみたいですよ!?」

 

 強い口調で糾弾されるものの、提督にはいまいち阿武隈の言ったようなシチュエーションが想像できなかった。

 阿武隈の言うことはもっともだが、彼女たちがそうして“いつも通り”をしているのは、それだけ緊張しないように生活できてるということではないか。

 新入りがいる手前、努めてそのようにしているとも取れるが、今の彼女たちならば自らに大きな負担をかけるようなことはないだろう。

 

「阿武隈はしっかりしていて、頼りがいがあるね?」

 

 誤魔化しの意図を込め、しかし本心からの言葉を告げると、頬を膨らませて腕組みしていた新入りは、驚いたように目を見開いた後、えへへと頬を緩ませた。

 褒められたことが素直に嬉しい様子で、六駆の面々が「昔の暁そっくり」と言っていたことを思い出す。

 その暁も昔のような仕草を取り戻しているよなと考え至った提督は、阿武隈が早くも嬉しいモードから復帰して再びお怒りモードに舞い戻った姿に苦笑する。

 

「もう、提督ー? 本当は皆の裸が見たいだけなんじゃないですか? だから厳しく注意しないんです! 執務室にエッチな本隠し持ってるって言うし!」

「いや、待つんだ阿武隈! 本を隠しているのは執務室ではなく、寝室の方だよ! ……あ」

「ほーらやっぱり! 提督のエッチ!」

 

 顔を真っ赤にした阿武隈の言葉に、提督は浅い湯船に沈んでしまいたくなった。

 先ほど阿武隈が言っていたシチュエーションを継続するならば、「肩身の狭い婿養子のパパが、エロ本の隠し場所を娘にうっかりバラしてしまった」といったところだろうか。

 多分に意味がわからなかったが、しかしダメージは大きかった。

 「うわあ……」と呻いて湯船に沈没するする提督の姿に、阿武隈は暁によく似ているなあと妙に感心した様子だ。

 そして、罪悪感を抱いたものか、少しだけ表情が暗くなる。

 

「あの、ごめんなさい。提督だって窮屈ですよね。男の人ひとりだけで……。気が休まる時なんてないんじゃないですか……?」

 

 一転、心配そうな表情と口調になる阿武隈に、提督は湯船の中に落ちたタオルをしぼって頭に乗せて、「そうだねえ……」と感慨深げに空を見上げた。

 曇って薄暗い夜空、星は見えない。

 あの雲の向こうには広大な星空が横たわっているのだという知識はあるが、記憶がないせいかそのイメージは漠然としている。

 

「最初はね、そりゃあ、緊張の連続だったよ。記憶がないから以前どうだったかはわからないけれど、僕はあまり女の人が得意じゃなかったみたいだから……。皆の普段の振る舞いにも、幾度も緊張させられてしまったよ。見ず知らずの美人さんが密着してくるわ、あられもない姿で歩き回るわで……」

「……今は?」

「今は、ちょっとだけ慣れて、気にならなくなったかな。いいや、ごめん、やっぱり緊張するものはするよ。でも、なんというか……。見ず知らずの他人じゃなくて、新しい家族のそういう面を見せつけられている気まずさ、とでもいうのかな?」

「阿武隈たちは、妹か何かですか?」

「家族にカテゴリすると、そうなのかなって。阿武隈は嫌かい?」

 

 小声で「嫌じゃ、ないです……」答えた阿武隈は、嬉しさと不服が混ざった複雑な表情をしていた。

 家族扱いも妹扱いも顔のにやけが止まらなくなるほど嬉しい様子だったが、それでもまだ何かが足りないと言いたげな部分を残しているようだ。

 物足りなさについては定かではなかったが、嬉しさの原因は大よそ理解できる。

 提督はそれを、艦娘の建造時に刷り込まれた好意のせいだろうと推測する。

 

 指南書にも記載されていたし、電からも聞いていたことだが、艦娘は自らの建造を承認した提督に無条件に好意を寄せるものなのだという。

 建造時に提督への刷り込むことにより、初期運用における摩擦を最小限にする目論見だ。

 もちろん、この好意は永遠に続くものではない。

 無茶な運用をしたり、艦娘に理不尽な要求・命令をしたりすれば悪感情が蓄積していくし、そうでなくとも共にあるうちに提督の人となりを見て好悪の落差は生まれるものだ。

 人間と同じなのだ。

 

 今こうして無条件の好意を向けられることを、提督はむずかゆく思い、そして申し訳なく思ってもいた。

 艦娘にとって、提督への第一印象を最初から決められているというのは、後々どれだけの苦痛となるのだろう。

 これからの動きの中で、阿武隈も提督に対する印象を自分で決めていくだろう。

 好かれるにしろ嫌われるにしろ、その時の彼女の感情を、自分は冷静に受け止めることが出来るだろうか。

 そう提督が考え、深刻な表情になろうかという時、くしゃみが出た。

 

「あ、湯加減湯加減。阿武隈がやりますね?」

 

 ドラム缶下の火に薪を放り、息を送るための竹筒を手にしたところで、阿武隈はこけた。

 嬉しくて調子に乗ってしまったせいか、慣れないサンダルなど履いたせいかはさて置き。

 体勢を崩せば火とドラム缶の方に頭から突っ込もうかという艦娘の姿に、提督は慌てて身じろきして、いつかのようにドラム缶ごと地面に倒れ込んでしまった。

 

「ああ、提督!?」

 

 湯と一緒に脱出することが叶わなかった提督は、これまたいつかのようにドラム缶ごと転がって、転がって、転がって坂に差し掛かる。

 ああ、またか。

 二度目ともなると、さすがに覚悟は出来ている。

 横倒れになったドラム缶の中で四肢を突っ張り、態勢を固定すれば、速度が付いた時に投げ出されることも体をぶつけることもないはずだと口元に笑みを浮かべた瞬間、阿武隈の悲鳴が響いた。

 

「提督!? 何で今のうちに脱出しなかったんですか!?」

 

 ああ、それもそうかと内心で額を打つ頃には時すでに遅く、提督を載せたドラム缶は坂を緩やかに転がり始めた。

 

 

 後日、あれだけ提督と一緒に入渠することを拒んでいた阿武隈がドラム缶風呂禁止を強く提案して、提督に緊張を強いる入渠の時間が戻ってきた。

 

 

 



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2話:華奢な体に背負うものは

 

 

 

 艤装を纏って第二出撃場の訓練用プールに立った軽巡・阿武隈は、とにかく落ち着かない気持ちでいっぱいだった。

 自分専用の真新しい艤装を纏い、初めて水面の上に二足で立って、ようやく訓練に移れるのだと高揚していたのが、つい先ほどまでのことだ。

 今は違う。

 水面に直立した体勢で固まってしまった阿武隈に、同じくプールを遊覧していた暁と響は訝しげな顔になる。

 

「……阿武隈? どうしちゃったのよ。早く訓練したいしたいって言ってたくせに」

「もしかして、スカートが気になるのかい?」

 

 暁に次いで響が発した問いに、阿武隈は自らの制服のスカートの前を押さえ、真っ赤になって頷いた。

 

 暁や響のように補助艤装のインナースーツを着ていない阿武隈の衣装はデフォルトの状態。

 すなわち、何かの拍子にスカートが翻れば、スカートの中が丸見えになってしまう状態なのだ。

 その事実に今さらながら気付いて身動きが取れなくなっている、というのが、今の阿武隈だというわけだ。

 

「恥ずかしがり屋さんねえ。海上じゃ私たち艦娘か、敵の深海棲艦にしか見られないから大丈夫よー」

「実際、そんなところ気にしてる余裕なんてないものだからね」

「で、でも! 今は提督がー! 出撃場に居るじゃないですかー!?」

 

 阿武隈が叫んだ通り、この第二出撃場には鎮守府の全人員が集結している。

 もちろん提督もこの訓練に視察として参加していて、今は電が操作するノートPCを横から眺めているところだった。

 水上で阿武隈が叫んだ声が聞こえたせいか、顔を上げ、なんとなくと言った具合に笑って手を振ってくる。

 そんな、人の気も知らない能天気さに憤りを感じ、同時に尊さを覚える阿武隈は、自分の背後から突然上がった水音と「そーれー!」という間の抜けたまるゆの声に、思わず身を竦ませた。

 

 潜水艦・まるゆもまた、今日が初訓練の日だ。

 彼女本来の艤装は衣装を含めて規格外となってしまったため、伊号潜水艦の艦娘用の紺色のスクール水着と背部艤装を装着しての試験運用だ。

 そして、皆に先んじて装備を整え潜水していたものが、阿武隈の様子に気付いて急浮上したのだ。

 水面に上半身を吐出させると同時にまるゆが行なったのは、阿武隈のスカートの尻を盛大にめくり上げることだった。

 阿武隈が慌ててスカートの尻を押さえる頃には、犯人はすでに「もぐもぐー?」と気泡を残して水中に退避。

 阿武隈は恥ずかしさが湧き上がると同時に、潜水艦という艦種の恐ろしさを改めて実感する思いもあった。

 

 ソナーの恩恵がなければ、水面付近に浮上されるまでその存在に気付けない。

 深々度からの雷撃を回避するのも容易ではない。

 海上からの攻撃も、あちらの姿を目視できない以上、やはり外部の感覚器官に頼らざるを得ない。

 こんな潜水艦、しかも推定姫級相手に丸一日持久戦やっていたという響はどれだけの強者なのだと、感心を通り越して呆れてしまう阿武隈だったが、それは先の開発資材奪取作戦時にリスクとして顕現していた。

 ソナーが一瞬だけ敵の姿を捕らえ、ほんのわずかな時間動きを止めてしまったことが、決定的なダメージとなって返ってきた来たのだと、響は当時のことを悔しそうに語る。

 半ばトラウマとなっているにも関わらず、よく切り抜けられたものではあるが、しかしその脅威は未だに健在だ。

 

 海上に出れば、その潜水艦ともいずれ戦わなければならない。

 さすがに浮上ついでにスカートをめくり上げるお茶目な敵ではないだろうが、それでも気配や姿に直前まで気が付かないとなると、緊張の度合いが違ってくる。

 海上で立ち止まった瞬間に、死亡率が急激に跳ね上がるのだ。

 よって、真っ先に阿武隈に提案されたのが高速巡航と対潜警戒だ。

 高速巡航の方は海上に出なければ訓練を行うことが叶わないが、対潜警戒は別だ。

 幸い、この鎮守府では響が教鞭を取ることが出来るし、まるゆという練習相手もいる。

 まるゆにとっても、海上の標的を狙う訓練になるので有用だろうとは阿武隈も思うのだが、やはりそれよりも先にスカートが気になるのだ。

 

 どうしても動きがぎこちなくなってしまう阿武隈の様子に、ううむと唸った暁はひとつの提案をする。

 

 ――そして、10分後。

 

 再び水上に立った阿武隈は歓喜とも恍惚とも言える表情で目を輝かせていた。

 

「なんですかコレ! 超しっくり!」

 

 その身なりに変化はない。

 変化したのは、目に見えていない部分だ。

 先程と同じく海中から浮上したまるゆが不意打ち気味に阿武隈のスカートをまくり上げたが、被害を受けた阿武隈当人は泰然自若として微動だにしない。

 それもそのはず、阿武隈はスカートの下にスパッツを着用していたのだ。

 「ず、ずるいですー!」と口を尖らせ悲鳴を上げるまるゆを爆雷持って追いかける阿武隈、その様子を遠目に見ながら、暁と響は再び黙考していた。

 

「ねえ、響。スパッツって、中にパンツ履くものよね?」

「……私の記憶が確かなら、そうだね」

 

 じいっと見つめる視線の先、阿武隈のスカートが翻り中に履いているスパッツが盛大に見えているわけだが、どうにも下着の跡が観測できなかったのだ。

 

「……まあ、あれも補助艤装の内だし。いいわよね?」

「この近海じゃ、艦娘が深海棲艦か、あるいは提督にしか見られないだろうからね。大丈夫さ」

 

 そういうことにして、水上・水中組は早速訓練開始となった。

 

 

 

 ○

 

 

 

「あーあれ。阿武隈ったら、スパッツの中にパンツ履いてないわね。刷り込み情報に誤差があったのかしら?」

 

 メガネ型の補助艤装を調整していた雷がそんなことを大声で口にするものだから、休憩がてらお茶を飲んでいた提督と電は盛大に噴き出してしまった。

 目前のノートPCは無事で、その矛先は両方とも雷の顔面に向かった。

 落ち着いた動作でメガネをはずして拭きはじめるも、「……これ、自業自得なのかしら」と不服そうな表情に、提督も電も苦笑いで平謝りだ。

 

「しかし、それもそうだね。海上に出ればそれほど気にならないのかもしれないけれど、皆の衣装、下はスカートだものね。やっぱり、最初は恥ずかしいと思ったものなのかい?」

 

 何気なくそう問うた提督だったが、「あ、今のもしかしてセクハラだったかい?」と途端に不安そうになり、雷電は微笑ましげに大丈夫だと諭す。

 

「確かに最初は恥ずかしい気持ちはありましたが、それよりも“何とかしなくちゃ”って思いの方が強かったのです。後の方になると、皆が着ているようなインナースーツが実装され始めたので、それで恥ずかしいのは何とかなったのです……」

「電はほんと最初期も最初期のプロトタイプだものねー。私の方は、周りに整備の人とかいろいろいたけれど、あんまり気にならなかったわ。その時は私もまだまだ子供体型だし、眺めて欲情するような人もいなかったわ?」

「雷ちゃん雷ちゃん、世の中にはうちの鎮守府みたいにちゃんとした大人じゃない人もいるのですよ? 駆逐艦のパンツ画像を丁寧に収集している司令官さんも居た程なので……」

「……それは、電が以前所属していた鎮守府かい?」

「私ではなくて、同期の吹雪ちゃんが所属していたところなのです。報告書に載せる用の参考写真などの撮影を艤装妖精さんに任せているのですが、何故かどの写真もパンツが映っていて……」

「……あー、聞いたことあるわ。当時本部の方で問題になったっていうアレね? 故意ではないのにそういった写真になってしまうって頭抱えてたって……」

「今でも、本部には大量の資料が残っていると思うのですよ。……吹雪ちゃんのパンツこれくしょん」

 

 それは、本人すごく嫌なのではと苦笑いになる提督だったが、同期の電曰く「めげずに頑張る子だからたぶん大丈夫」という話を鵜呑みにして納得しておいた。

 

 

「さあ。それじゃあ、こっちも再開よ? 電、補助お願いね」

 

 席を立った雷は白衣を脱ぎ捨て肩を回すと、クレーンで運ばれてくる背部艤装の降下位置に仁王立つ。

 

「――速力系をやられている雷ちゃん用に調整した結果、かなり重めの設定になってしまいました。その代わりに、防空能力は秋月型に引けを取らないはずなのです」

「でもまあ、足が遅くなってるんだから確実にランクダウンよね? 高速巡航用に割いていた制御系の容量を完全に排除して対空兵装の制御につぎ込んでるんだし。足の速い敵や、潜水艦に狙われたらまずアウト、ね」

 

 そう言いつつ艤装を装着してゆく雷を眺めて、提督が抱いた感想はごつくて重そうというものだった。

 暁型の背部艤装に搭載されている連装高角砲を10センチから12.7センチの後期型に変更して左右二門に増設。高射装置も搭載済みだ。

 シールド付魚雷発射管を背部から脚部へ移設し、背部艤装と腰との間に秋月型のガイドフレームを噛ませている。

 自立稼働型長10センチ砲搭載のためのスペースが空白なのは、まだ調整がうまく行っていないからだと電は語っている。

 さらに上から降りてきた腕部艤装はふたつ、集中配備された25ミリ三連装機銃。通称“ハリネズミ”だ。

 両腕にマウントする形でそれらを装備すると、もはや雷の全身は頭部くらいしか生身の部分が見えなくなってしまう。

 その頭部にも、メガネをかけて覆ってしまう姿は、さながら全身甲冑のようだ。

 メガネは今しがた調整していた補助艤装のものだろう。

 電探の役割を果たすこの補助艤装は敵影を捕捉する他にも演算の補助をも引き受ける。

 無理な増設で操作性が悪化した艤装を制御するには必須なのだとは雷談。

 

「各種動作に異常無ーし。これであと三式弾とか積めたら言うことないんだけどねー」

「雷ちゃん雷ちゃん、それじゃあ重巡や戦艦なのです。今のままでも駆逐艦にとっては重量過多なのですよ? 今は弾薬未装填だからいいものの、装填済みで海上に出れば艤装の荷重軽減があっても足元がだいぶ沈むと思うのです」

「そうねー、ここにまだ自立稼働型が乗るんだもんね……。で、その自立稼働型は?」

「司令官さんの後ろで待機しているのです」

 

 電の言葉に恐る恐る背後へと振り向いた提督は、そこに気配もなく鎮座していた存在たちに驚いて、思わず仰け反って椅子から転げ落ちそうになる。

 提督の背後に居たのは、艤装の動作試験の時にクレーンで連れてこられた自立稼働型砲塔、通称“連装砲ちゃん”と呼ばれる補助兵装だった。

 あの時と異なるのは、それらが計4体も居て、2体ずつに異なった特徴が見られたことだ。

 

「4体のうち2体が島風型専用の“連装砲ちゃん”で、もう2体が秋月型専用の“長10センチ砲ちゃん”なのです。どちらも暁型にとっては規格外なので、専用のプログラムを構築する必要があるのと……」

 

 言い淀むように言葉を切った電は、鎮座する自立稼働型を見渡して、困った様な顔でため息を吐いた。

 

「全然、“起きて”くれないのです」

 

 自立稼働型砲塔は本来、その専属の艦娘が艤装を駆動させなければ目覚めないものではあるが、テスト運用のスターターは設けられていて、こうした試験運用や調整の段階で起動することは可能なはずだった。

 しかし、テストスターターを入れても、これらの自立稼働型は“起きなかった”のだ。

 

「肝心の自立回路、内臓AIが完全に眠ってしまっているのです。経年劣化によるものなのか、何かしらのロックがかかってしまっているのか……。それがまだ探れていないのです」

「ロックが掛かっているなら……。ここが一番長い電が知らないなら、あとは響?」

 

 面々が水上へ視線を向けると、こちらの会話を聞いたかのような的確なタイミングで水上の響が「私も知らないよー」と手を振った。

 

「自立稼働型の内臓AIは、どちらかというと艤装核などと同じくブラックボックス寄りの部門なのです。私も齧った程度のなので、どこまで突っ込めるか……」

「ま、ダメなときはその時よね? 弱点がおっきくなったけど、要はその弱点を晒さなきゃいいのよね?」

 

 案のひとつがダメになりそうだというのに、雷は気落ちする素振りを見せない。

 最低限、海上に出て行う役割があることにほっとしているなというのが、提督の見立てだ。

 

「私は防空専念。他の皆は、鎮守府近海に敵を近付け無いようにしてくれれば、これで大丈夫じゃない? そもそも連装砲ちゃんたちは、速力落ちちゃった私が撤退行動を取る時のための砲撃支援ってところが大きいんでしょう?」

「それはそうなのですが、何事も想定外なことの方が多いのですよ? 制御系を対空兵装に多く割いているので、速力・砲雷撃能力はもちろん、対潜能力も若干落ちているのです。爆雷のストックスペースは充分以上に確保してはいるのですが、今の雷ちゃんだと通常の潜水艦でも後れを取る可能性の方が高いのですよ?」

「う。痛いとこ突かれちゃったなあ……。でも、潜水艦は怖いけれど、中途半端な防空能力じゃ意味ないし……」

 

 そうして電と雷が問答するのを横に、提督は待機状態で静止している連装砲ちゃんの1体の前にしゃがみ込んだ。

 提督の腰までの大きさしかないこれらの兵器が、自我を持って艦娘に着いて歩いていたとは、にわかに信じがたかった。

 砲口にキャップが掛けられた砲身に振れ、伝って砲塔部に触れる。

 冷たく無機質な温度と感触は、これが確かに彼女たちの艤装なのだと伝えてくれる。

 ここに並ぶのこれらは、かつてこの鎮守府で運用されていた艦娘たちの用いていた艤装のスペアだという。

 本来の主人でなければ起動しないとばかりに臍を曲げているのだとすれば、それはどこか物悲しくも、そして微笑ましくも思えてしまうなと、提督が顔にあたる部分……、コミュニケーション用の投影パネルに触れた時だ。

 

 低い駆動音が静かに響き、パネルが点灯し文字の羅列が生まれた。

 びくりと手を引っ込めて事態を見守る提督の目の前で、連装砲ちゃんは起動完了し、コミュニケーション用パネルに表情が灯った。

 そのパネルが、連装砲ちゃんが浮かべるのは疑問。

 首を傾げての(ほぼ砲塔全体を傾ける形になるが)疑問だ。

 

「……ねえ、雷? 電? これは……?」

 

 ぎこちなく振り向いた提督は、ぴたりと表情と動きを止めて固まってしまっている雷と電の姿を目にする。

 その無表情ぶりに少々恐怖を感じたものの、次の瞬間にはテーブルをひっくり返さんばかりの勢いで詰め寄って来た。

 

「うっそ、なんで起動したの……!? 司令官、いったい何したの……!?」

「いや何も、何も……! ああ、パネルに触れたよ。そうしたら急に起動したんだ」

「……パネルに掌紋認証が? ……でも、誰がそんな設定を……。そもそも鎮守府所属ではない部外者が触れたところで……」

 

 掴みかからん勢いで問答する雷と提督を余所に、ぶつぶつと呟き始めた電はひとりテーブルに戻ってノートPCを操作し始める。

 なにやら鬼気迫る表情で、提督はおろか雷も声を掛け辛そうにしている。

 

「あちゃあ……。電のアレ、久しぶりに見たわ」

「以前にもあんなふうに?」

「そ。うちの電ってドジッ娘のくせして、だいたいあらゆる事態を想定して対策を練っている節があるんだけれど、その分想定外のことが起こった時はそっちに注意が掛かりきりになっちゃうのよね」

「さっきも、想定外がと、いろいろ言っていたね。しかし、この鎮守府が一番長い電でも“これ”は知らなかったのだね?」

「実際、まるゆ建造の件も立ち会った艦娘が不明なままだし、言っちゃあもう想定外だらけよね?」

 

 艤装状態の雷がため息交じりに肩を竦めて見せると、起きたばかりの連装砲ちゃんもそれにならってリアクションを取って見せた。

 モーショントレースは正常に動作しているらしい。

 表情まで「やれやれ」と言いたげだ。

 

「もー! プロテクト掛けるならマニュアル残しておいて欲しいのです! 司令官さん、他の子たちにも触ってみて下さい! 端末に接続して検証を……」

「いやあ、それがね? 電……」

 

 電が表情で「まさか?」と問い、提督が表情と首肯で「うん、まさか」と答える。

 提督が触れていない他の個体たちも“起きて”いて、砲塔同士でわきわきと動いてコミュニケーションを取り始めていたのだ。

 

「あっちゃあ……。どうするー電? 起動条件再現するために一度眠らせる?」

「ううう、一旦落としちゃったら、また起動するかどうかわからないのです……。このままテスト起動状態で様子を見るしかないのです。明らかにマニュアルにはない、仕様外のプログラムが組み込まれているので……。それを解析しないことには、実戦に投入するにはあまりにも危険すぎます……」

 

 電は言いながら、連装砲ちゃんのうち1体を手招きして呼び寄せ、複数のコードでノートPCと接続し、そのまま解析作業を始めてしまう。

 そのあいだ、提督と雷で連装砲ちゃんたちとあれこれやり取りしていたのだが、少しの間も置かずに電がテーブルに突っ伏す大きな音が聞こえてきた。

 

「何かわかった……、ような感じではないよね?」

「いいえ、司令官さん。ひとつだけわかったのです。これは電には絶対にわからないどころか、手を出せないということが……」

 

 消沈する電が提督たちにノートPCの画面を向けて見せる。

 画面上にはなんらかの認証コードの入力画面となっていたのだが、どうにも提督には釈然としない感触が残った。

 このようなパスワードの類ならば、電が何とかしてしまうのではないかという思い込みがあったのだ。

 AI内臓の自立稼働兵装とはいえ艦娘の艤装自体に多くの制限が効いている以上、ここまで厳重なロックを掛けるものなのだろうかという疑問もだ。

 

「……この認証コードは研究者のものが必要なのです。艤装のブラックボックスを開放するのと同等の権限。電たちはもちろん、この鎮守府の誰もが、連装砲ちゃんの再設定を出来ない。それが、現状なのです……」

 

 

 

 ○

 

 

 

 4機の自立稼働型砲塔は雷と共に水上に出て訓練組と合流した。

 しかし、艦娘が訓練指示を出すも言うことを聞かず勝手に遊び回り、もはや訓練というよりは水遊びの様相を呈しているのが現状だ。

 火器管制のロックは有効であり、弾薬も装填していないので暴発の危険はない。

 また、人間や艦娘に対して敵対行動を取れないようにプログラムされているのため、現状は好きなようにさせている。

 連装砲ちゃんと長10センチ砲ちゃんを雷の直援にする計画は、認証コードという最大の壁が立ちはだかったため、計画は保留。

 結局、何故予備であるこの砲塔たちに研究者レベルのロックが掛かっていたかは、ついにわからず仕舞いだった。

 

 雷の艤装は秋月型のガイドフレームを除外して、自立稼働型の制御に回すはずだった容量を対潜系につぎ込むことで暫定とした。

 対空・対潜に特化させる形となったわけだが、速力系に難がある以上、誰かひとりを補助につけるべきではないかいう意見が出たが、これも保留して後々に先送りする形となった。

 そもそも、雷の出撃が必須となる状況というのは、もうこの鎮守府に敵艦載機が迫り、空襲を警戒しなければならない段階だ。

 その状況をシミュレートしてからでないと作戦を立て難いということもあり、今日のところは先に水上に出ていた組も訓練を切り上げて水遊びになってしまっているのだ。

 

 いろいろテストしたい艤装があったし、進めている改装計画もあったのだが、まあしょうがないかと、ノートPCを畳む電の表情は疲れ切っている。

 テーブルに突っ伏してマニュアルの再構築がどうのと呟いている様子には、なかなか声を掛け辛いものがある。

 その向こう、水上ではしゃぎまわる艦娘たちに視線を向ければ、提督の顔に浮かぶのは微笑ましげな笑みが8割、苦笑い2割といったところ。

 

「随分と人懐っこいAIたちなんだね? ああしているのを見ていると、とても兵器とは思えないよ……」

「島津研究所の艤装はどれもピーキーで他企業との互換性がないので厄介なのです。特に、ああいった自立稼働する艤装は他の企業機関では開発が進んでいないので、島津の専売特許となっているのです」

 

 電が言うには、あのようなマスコットのような外見や仕草にも意味があるのだという。

 深海棲艦の支配海域では物理現象がねじ曲がり、生き物の活動に適さない環境になるのだが、人間と動植物とではその効果範囲が極端に違うのだ。

 実質の支配海域外であっても、動植物たちはその異常を敏感に察知してしまい、人間より先に駄目になってしまうのだという。

 

「なるほどそうか……。ああいった外見や仕草は、愛玩動物の、ペットロイドの代わりも果たしているということなんだね」

「はい。さすがにこういった任務に動物は連れていけないのですよ。植物なども枯れてしまうか変質してしまって、逆に乗員の精神を病むという報告は、幾度か目にしたことがあるのです……」

 

 顔を伏せるようにして電は語る。

 彼女の長い艦娘としての生の中で、報告書の他に、そう言った光景を実際に見てきたのだろう。

 奇行に走る動物や奇形に成長する植物は、それだけで不安を掻き立てるものなのだと言う。

 そしてそれは、人間とて同じなのだ。

 

 自分はそのようにならぬよう気をつけねばと気を入れる提督ではあったが、先に話があった極地活動適正のことを思いだし、少しだけ陰鬱な気持ちになってしまう。

 人間では有り得ないと言われている甲適正者。

 自分がそうであると告げられたところで何ら実感は得られなかった。

 体や精神に変調を起こして彼女たちを不安がらせることはないだろうと安堵を得るが、自分という人間が異質なものであると事実を突き付けられたようで、心に霧が掛かったような感触が残った。

 記憶がないことを今まで以上に不安に感じる反面、だからこそ、それを振り払う意味も込めて、彼女たちの手助けにと没頭する原動力にもなった。

 

 指南書をはじめとする資料類の読み込みの他にも、暁などに戦術面での判断を仰いだり、響に艤装関連の講義を受けたりと、書だけではなく人からも教えを乞うことも始めている。

 実際に海上に出て立ち回る彼女たちの考え方や癖を、出来るだけ把握して覚えておきたいという考えもあったし、共にある彼女たちのことをもっと知らねばという思いもあった。

 特に、新入りふたりについては尚更だと視線を水上へ向けた矢先、阿武隈が浮上したまるゆにつまずいて盛大に転倒する場面を目の当たりにしてしまった。

 

「……失礼かなとは思うけれど、そう言った意味では艦娘の存在も、そうなのかな」

「はい? 何が、ですか?」

「癒されるよね」

 

 提督に笑顔で言われた電は照れて一瞬で真っ赤になり、すぐに「あ、阿武隈ちゃんとかですよね!? そうなのですよね!?」とあわあわし始め、ばしばしとテーブルを叩いた。

 

 こうして艦娘を“癒し”として見てしまうのは偏見かなと提督は思うが、周囲がそれを許してくれる環境であると再確認させられ、神妙な気持ちになる。

 そういった環境は、彼女たちの意識的な、あるいは無意識的な気遣いで成り立っている。

 もしもこの鎮守府以外で同じようなことを提督が言えば、即更迭という可能性も充分に有り得ると、指南書に添付されてた事件記録にはあった。

 皆の大らかさに感謝しなければなと思う反面、欲を言えば一緒に風呂に入れられたり寝落ちしてしまった時に添い寝されているのもどうにかならないかと思うのだが、そこまでは欲張りすぎかなと頭をかく。

 

 

「癒し、というのならば、連装砲ちゃんたちはこのままにしておきましょうか? 作戦時に運用することは出来ませんが、身の回りのお手伝いなどしてもらう分には、テスト起動状態でも問題無いはずなのです」

「そうなのかい? 兵器としての本分を果たしたいと言って、臍を曲げられないかな?」

「それは、どうなのでしょうね……。こうして“起きた”からには、何らかの役割を果たすためだとは思うのですが……」

「彼らの考えを聞いてみないとね。エネルギーはどれくらい持つんだい?」

「100%充填状態からならば、非戦時モードでの連続稼働は72時間程。およそ3日は持つので、その都度補給という形になりますね。専用の燃料タンクを増設すれば、更に長期間の連続稼働が可能になるのですが、これは認証コードがないと、なんとも……」

 

 艦娘から離れて稼働するタイプの自立稼働型は、その個体独自の燃料タンクを持つ。

 艤装本体から離れて作戦行動にあたるために必須であり、万が一海上で艦娘とはぐれた場合に自力で帰投できるようにと、燃料タンクを増設できる仕様にもなっているのだ。

 電の話を聞く限り、このままのテスト起動状態でも問題はないなと頷いた提督は、差し出されたノートPCのキーを叩いて許可証等に承認を与えてゆく。

 

 そんな提督の横顔を眺める電の表情は優しげで、先ほどの疲れ切った様子は成りを潜めていた。

 

「……私たち艦娘にとっては、司令官さんも癒し、なのですよ……?」

 

 電としては、口の中でもごもごと呟く程度の言葉だったのだろうが、提督は作業の手を止めて、しっかりと一言一句を聞き届けていた。

 無言の笑みで「それは?」と意味を問うてくる提督に、電は真っ赤にした顔を俯かせて、消え入りそうな声で応える。

 

「私たち艦娘は、司令官さんを通じて人を見るものなのです。なので、自分たちの司令官さんが無病息災であれば嬉しいですし、私たちの存在意義を再確認して安心もするのです。こうして指示を出してくれる人がいるということは、私たちは人を守れているのですね、って……」

 

 なるほど、艦娘の立場ではそう考えているのかと、提督は黙して頷く。

 悪い方に転べば依存の心理になってしまうような考えだが、それも彼女たちの仕様の内なのかと考えると、どうにも釈然としないものが腹の中に残ってしまう。

 提督を失い、この孤島で10年を過ごして来た六駆の艦娘たちが、そういった心理に傾かなかったわけがない。

 しかし、未だ誰もが依存の気配を見せないのは、彼女たちが努めてそうならないようにと自分を保ち続けてきたからに他ならない。

 彼女たちのそうした強さと、抱えて隠し続けてきた弱さの姿を、提督は知っている。

 

「……しかし、雷や響は攻めすぎだと思うのだよね? 抑圧からの解放を求める気持ちは、わからなくはないのだけれど……。さすがに、スキンシップが強烈すぎると言うか……」

「は、はわわわー……。す、ストレスを溜めこむのもあまり良くはないと思うのと、私以外は人間で言うと思春期真っただ中で多感な時期ということで、司令官さんに負担にならない程度で見逃して頂けるとありがたいのですが……」

「電も充分思春期していると思うけれどね?」

 

 非常に匙加減の難しい注文が来たなと、提督は苦笑いせざるを得ない。

 困った様に目を泳がせる電に善処するよと声を掛け、さあこれはいよいよ慣れるしかないのだなと、気持ちを切り替えるためにノートPCの画面に向き直った。

 

 

 



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3話:深き場所にて佇むものたちは

 

 

 

「それじゃあ、定例会議を始めようか。議題は、そうだな……。これからの私たちの運用の再確認と、それによっていずれ生じるであろう選択肢について、といったところかな?」

 

 提督の執務室。

 もはや恒例となった鎮守府の全艦娘が集結しての定例会議の時間だ。

 新入り組のまるゆと阿武隈も慣れたもので、自分の分のお菓子と飲み物を確保して「さあ、来ーい」とばかりに表情を引き締めている。

 そんな気の引き締め方をされてもと苦笑いする提督だったが、今回の議長である響は「その意気や良し」とばかりに腕組みして頷いて見せる。

 

「まずは、進めている脱出計画の情報更新っと……」

 

 いつも暁がそうしているようにホワイトボードにマーカーで書き込んだ響は、注目する皆に振り返り言う。

 

「さて、脱出計画に関する続報だよ。当初想定していたのは、安全な航路を確保した後この鎮守府を放棄して、迅速に深海棲艦の支配海域から脱出することだった。この案に今のところ変更はないけれど、それをするためには現時点でひとつ、大きな問題が発生している」

 

 それは? と皆が視線で問うなか、響はいつもと変わらない口調で続けた。

 

「この島から脱出できない可能性が出てきたんだ。――電?」

 

 一息に言って、響は続きを電に預ける。

 電はそれを受けて、執務室の隅にうずうずとした様子で待機していた自立稼働型砲塔たちに指示を出した。

 喜び勇んで動き出した砲塔たちは、執務室のカーテンを閉めて照明を落とし、備え付けのプロジェクターを展開してゆく。

 テスト起動状態とは言え、内臓AIたちは自らがこうした役割を求められていることを承知しているらしく、今のところ不満を訴えることもない。

 

 準備が整い、執務室の光源がホワイトボードを照らすプロジェクターの灯りのみになると、電は資料を手に席から立ちあがった。

 ……が、しかし、部屋が暗くて手元が見えず、結局は手元の資料を放って、皆でホワイトボードを見ながらの説明となる。

 

「私たちが当初想定していた計画では、偵察を重ねて安定した航路を確保の後、鎮守府の人員を小型艇に乗せて脱出、という手筈でした」

「その手筈のどこかに、問題が生じたのだね?」

「そうなのです。その小型艇が、調子が悪いというか……。この海域では、使えない可能性が出てきたのです……」

 

 深海棲艦の支配海域下における特性に、電子機器の不調がある。

 艦娘由来の技術を用いている機器でなければ、運良く起動できたとしても海上のど真ん中で停止してしまう、ということがあり得るのだ。

 

「……確か、この島から一番近い鎮守府までは、駆逐艦の足でも1週間。……だったよね?」

「そう。あくまで天候の影響を無視して、10年前当時最も安全と言われていたルートを行った場合の最短時間さ。実際には、補給や休息も考慮しなければならないし、予備の燃料・弾薬の搭載した小型艇を護衛しながらになるから、更に長期戦になるだろうね」

 

 響は言って、プロジェクターの画像を切り替えるように指示。

 映し出されたのは、その脱出に用いるはずだった小型艇だ。

 

「艦娘を任務地まで高速輸送するための小型艇。二次大戦中の隼艇を模した船体に現代の機関と電子機器を搭載した、懐古なのか近代なのかよくわからない代物さ。名前もそのまま“隼(はやぶさ)”。海自のミサイル艇の方の“はやぶさ型”とは違うから、ここ注意だよ?」

 

 艦娘の消耗を抑えるため、鎮守府を遠く離れた海域への輸送等には、この“隼”が用いられていたのだという。

 提督の中には、自らこの“隼”に乗り込んで現場指揮にあたる者もいるそうで、それを聞いた提督が「ほほう……」と顎に手を当て高揚しそうな口元を押さえると、艦娘総員から「ダメよ?」と考えを先回りしたダメ出しが来た。

 しかし、この“隼”も、この海域では不調を起してしまうのだという。

 

「メンテナンスや試運転自体はこれまでにも幾度か行っていて、特に異常等は見られなかったのです。それがここ最近になって、急にエンジントラブルや電子装備のシャットダウンが相次いでいまして……。陸地では何とか動きはする、と言った具合ですが、海上ではうんともすんとも言わなくなってしまう恐れがあるのです」

「ここ最近? それは、妖精さんたちの仕業じゃないのだよね?」

 

 提督が執務机の上に何故か居た妖精たちに問うと「ちゃうでー?」と揃って首を横に振っていた。

 本職のグレムリンがそう言っているのならばそうなのだろうと納得はするが、だとすれば当初から進めてきた計画がここに来て破綻してしまう。

 

「不調の原因はやはり、この海域の影響が?」

「それも考えられるね。ここ最近になって、というのが腑に落ちないところではあるけれど……。“隼”はあくまで高速輸送艇で、敵支配海域にまで突入した前例はなかったんだ。そもそも、私たち艦娘だって、敵支配海域に突入することは稀だったさ。10年前までは、の話だけれどね」

 

 “隼”に関しては試運転を繰り返し様子見するということになったが、実際に感触を確かめていた響と電の表情は芳しくなかった。

 この報告に不服そうな顔をしたのが阿武隈だ。

 せっかく、自分が水偵を運用して航路を確保するという大役を担ったというのに、肝心の脱出手段がこれでは意味がないではないか。

 そう言いたいだろうことは提督の眼にもはっきりと読み取れた。

 

「意味はあるよ、阿武隈。とても重要な役割だ。私たち、この鎮守府に取り残された暁型は、10年間外界と隔絶されてきた。漂着物の中には世界情勢を教えてくれる物はあったけれど、それは限られていた。世界的には人類が劣勢であるということこそ読み取れたが、詳しいところはわからない。司令官も記憶がないし、まるゆも阿武隈もこの鎮守府の生まれ。外の世界がどうなっているかを、私たちはあまりにも知らな過ぎるんだ」

 

 だからこそ、この偵察には大きな意義がある。

 響はそこまで念を押さなかったが、言わんとしていることは阿武隈にも理解できたし、それで納得することもできた。

 

「まあ、“隼”がダメとなった場合、最も原始的な方法に回帰して脱出、という案も無くはないかな」

 

 響が気持ち得意げに言って、ホワイトボードに「イカダ」とマーカーで書く。

 

「イカダをつくって、その上に予備の燃料や弾薬を積載するのかい?」

「その通りさ、司令官。通常海域ならば悪天候が最大の敵だけれど、敵の支配海域を抜けるまではずっと凪の海のはずだからね。推力は艦娘が牽引して稼ぐし、いざとなればイカダを分離して司令官を緊急脱出させることも可能だ」

「……緊急脱出。響、そのイカダ。材料は……」

「ドラム缶」

 

 提督は黙って、次の話へ進めるようにと指示。

 しかし、提督をドラム缶に積載して牽引するイメージが何やらツボに入ってしまった阿武隈を現実に引き戻したり、必死に運貨筒を推し勧めてくるまるゆをなんとか宥めるために、会議は一時中断となった。

 

 

「……さて、それじゃあ、ちょっと足場の再確認を兼ねて昔話でもしようか。この鎮守府の座標やこれまでの来歴など。司令官や新入り組に、私たちの置かれている現状を再確認してもらう意味も込めて、ね」

 

 

 

 ○

 

 

 

 ホワイトボードに投影された画像が切り替わる。

 映し出されたのは、左手側に日本を、そして右手側にアメリカ大陸西海岸を置く、太平洋の地図だ。

 その地図の真ん中あたりが拡大される。

 

「私たちの鎮守府がある孤島は北太平洋のほぼど真ん中。ミッドウェー諸島より北西に約50キロの地点、さらに50キロ北西に進めば、クレ環礁があるね。島自体は30年前に火山活動で海底山脈の一部が隆起したものだと言われていて、その隆起した島に補給基地兼鎮守府を建設したものがここ、というわけさ」

 

 この孤島の名は“水無月島”というのだそうだ。

 第二次大戦中、ミッドウェー海戦に日本が勝利した暁には、占領したミッドウェー島をそう名付けるという案があったのだと、電が横から捕捉を入れる。

 地理的にはアメリカの管轄ではあるが、10年前当時、実際に管理していたのは日本だったそうだ。

 国家間で何らかの取引が成されていたのだろうと電は睨んでいるが、その詳細までは定かではないらしい。

 

「正確には、ここは鎮守府ではなく泊地や前線基地というべきなのだろうけれどね。しかし、北太平洋の近海に展開していた前線指揮官たちが、うちの元司令官を頼ってくるものだから、事実上そちらへの指揮系統になってしまい、ここは補給基地なのに事実上の後方、鎮守府、という扱いになっていたのさ」

「あ、あの、響ちゃん……? ……最初は確かに、水無月島泊地、あるいは前線基地、だったのですけれどね? この島の防衛のため専属の艦娘が必須と判断されたためと、元司令官さんに前線指揮の権限が正式に付与されたため、泊地から鎮守府と変更されているのですよ?」

 

 電の捕捉訂正に、響が真顔で「そうだっけ?」と確認。

 うんうん頷く電に、響は腕組みして黙考し、何事もなかったかのように阿武隈が確保していたクッキーを強奪して誤魔化そうとした。

 涙目で抗議する阿武隈を、響は頬に手を当てて「もぐもぐー?」と口を動かしながら煽り、何故かまるゆも負けじとクッキーを詰め込んで「もぐもぐー?」とやり始めて。

 沸点に達した阿武隈がいつもの被害担当艦・暁に視線を向けた頃には、取り分を奪われると察知した暁が口一杯にクッキー詰め込んで苦しそうにしているといった有り様で。

 結局、半泣きの阿武隈に雷が自分の分のクッキーを分け与え、口にもの詰めて煽った3隻は電がそれぞれの頭に雷を落として成敗となった。

 

 

 頭に大きなたんこぶを拵えた響はそれを隠すように帽子を被り直し(かなり痛そうに顔をしかめて)、仕切り直しだとばかりに咳払いする。

 

「――さ、さて。この鎮守府の主な運用は、南西諸島海域や南方海域からの物資を備蓄し、その一部を北方海域へ輸送する他、深海棲艦の登場以来最初の支配海域とされる、ハワイ島の奪還を支援するものだったんだ……」

 

 深海棲艦が登場し、続いて艦娘が登場して、戦端が開かれた。

 それから1年と経たずに、深海棲艦側は最初にして最大の脅威を世に知らしめる。

 支配下に置いた海域の物理現象を歪曲させる力だ。

 

 ハワイ島が深海棲艦の侵攻により陥落した直後、アメリカ側によって核ミサイルの行使が提案され、それは即実行に移されている。

 しかし、放たれた2発の核ミサイルは、どちらも“不発”だったという結果が、記録には残っている。

 

「……深海棲艦の支配海域下では、物理現象は正常に働かない。核ミサイルは2発とも不発だった……」

 

 顎に手を当て噛みしめるように呟く提督は、半信半疑といった顔を上げて響の方を見る。

 

「まさか、核分裂反応が起こらなかった、とでも言うのかい……?」

「その通りだよ、司令官。と言っても、検証のしようがなかったろうね? 何せ、通常の計測器類では、敵支配海域下の現象を正確に把握できないから……。艦娘の艤装の演算機能で代用して、ようやく“どうやら不発だった”と信頼の置けない結論を出さざるを得なかったのさ」

 

 それが事実だとすれば……。

 そう呟いた提督の脳裏には、ある最悪の可能性が浮かんでいた。

 

「日本本土……。そうでなくとも、海岸に位置している都市が深海棲艦の支配領域になってしまえば……」

「原発などは、完全に機能を失うだろうね。他の発電施設でも深刻なダメージが入るだろうことが予想されるよ」

 

 これだけでも多大なダメージがだが、影響はそれだけに留まらない。

 

「電力の供給がままらなず、そして電子機器がおしゃかになるとなれば、生活レベルは昭和初期にまで後退すると予想されるね。それに、分厚い雲が人工衛星の恩恵を悉くシャットアウトするし、動植物にも悪影響を与える。極度の気温の低下と、人間に対しては精神汚染だ。人々は徐々に気が触れていって……」

 

 響は言葉を止めて、合掌して目を瞑った。

 その意味は、執務室にいる全員が理解に難しくないものだ。

 

 そういった敵侵攻に対する防護策として、本州太平洋側に防衛能力を有したメガフロートの建造計画が持ち上がっていたのだとは響談。

 この島に転属になる前は呉鎮守府に居たのだという響は、太平洋に面した海岸にそうした巨大な建造物が構築されていく様を複雑な思いで眺めていたのだと言う。

 そもそもは津波対策のためにと発案されたものが、深海棲艦の登場によって外敵の侵略を阻むものへと姿を変えたのだ。

 国を守るための措置なのだから良いことなのだろうかと黙する提督は、判断材料が少ないとして、それ以上の考えを一度保留にする。

 

 

 ハワイ島の陥落。

 それが、人間・艦娘対深海棲艦の、30年前から今に至るまでの泥仕合の始まりだったと、そう語るのは電だ。

 

「それまで、核ミサイルを撃てば短期終結が叶うという考えが、各方面にあったわけなのですが……。あ、核を用いるという、心情面や建前は別にして、なのです……。それで、決着するという充てが外れてしまったわけで、各方面大騒ぎになってしまって……。アメリカなどはこの辺からようやく艦娘の建造に本格的に着手し始めていて、宗教上の都合に問題がない海洋国家も、艦娘の開発・運用に乗り出しているのです」

「なるほど、艦娘に関しては、日本が一歩先を行っていたわけだね。しかし、アメリカ側は宗教上の問題はクリア出来たのかな? キリスト教では確か……」

「人間体がクローンである艦娘は、確かに宗教上の都合に引っかかるものではあったのです。なので、アメリカ側は艦娘の艤装面、オカルト以外の、科学分野でのサポートを確約して、その見返りに日本で建造された艦娘を輸入する、と言う形を、当初は取ることになりました」

 

 それが、アメリカ側の出だしが鈍かった原因なのだそうだ。

 “海軍”側から輸出する艦娘も、大日本帝国海軍の艦娘にとっては昔の敵国へ赴かなければならない事が負荷になるのではと慎重すぎる配慮がなされ、二次大戦中に活躍したアメリカ海軍の軍艦、その艤装核をサルベージして建造されたアメリカ艦の艦娘が赴くこととなった。

 とは言え、アメリカ側のこの問題は早期に解決することとなる。

 手薄なままの防衛線を抜けてきた深海棲艦の爆撃機に西海岸を焼かれ、世論は一気に艦娘の建造と運用の方向へと舵を切ったのだという。

 

 

「しかし、ここで問題になったのは輸送経路なのです。その頃になると太平洋上に安全な航路というものはほとんど無くなっていて、情報や物資のやり取りも困難になっていました」

「……情報や物資の輸送、いろいろやったらしいわよ?」

 

 そう口を挟むのは、早速自分の分のお菓子が無くなってしまって手持無沙汰な暁だ。

 

「特に日米間は、太平洋の海空が危険地帯になっちゃったから、空輸は北極圏経由にほぼ限定。空輸できない品物は貨物船に艦娘が護衛に付く、って感じだったっけ?」

「そ。それで私、その船団護衛の仕事がメインだったのよね……」

 

 暁に続いてそう告げるのは雷だ。

 お菓子の缶を開けて皆の皿に注いで回りながら、思い出すように虚空を見上げる。

 

「私、元々は佐世保鎮守府の所属で、本土から南西諸島行きの輸送艦を護衛するのが主な任務だったわ。それが、こっちの海域行きの護衛が足りなくなったから転属、って感じね?」

「……中部海域の輸送経路は、“ルサールカ”をはじめ、ヤツらにズタズタにされたものだからね。当時は船団護衛のための人員を各方面から集めていたから、この鎮守府に所属していた艦娘は一時期3桁にも登ったよ」

 

 そうして集められた艦娘たちだったが、護衛中に深手を負って長期の療養を強いられたり、敵地攻略に出撃して帰らぬものが出たりと、その消耗は激しかった。

 急場しのぎの寄せ集めと言うこともあり、各々の練度に大きな偏りがあったのも事実だ。

 こうした事態を重く見た海軍本部は、当時の最前線ともいえるこの水無月島泊地にある施設の設置を決定する。

 それまでこの島には存在しなかった“建造ドック”が、新たに増設されることとなったのだ。

 泊地から鎮守府へと名称を変えて、この孤島を本格的な前線基地に組み直そうという試み。

 水無月島の固有戦力の配置、船団護衛や攻略作戦に挑むための艦娘の建造と育成が、こうして開始されることとなる。

 そこで建造された第一号艦娘が、今ここにいる暁だったのだが、それはまた別の話だ。

 

 

 

 ○

 

 

 

「さて、ハワイ島・ミッドウェー諸島を支配下に置いた深海棲艦は、そこを拠点として、日本・アメリカ双方に、同時に侵攻を開始しているんだ。さながら、互いの敵を深海棲艦に置き換えての、在りし日のミッドウェー海戦の再現さ。日本側にとっては善戦出来ていたけれど、もうひと押し足りなかったif。アメリカ側にとってはミッドウェー島が取られて出鼻をくじかれたifからのスタートという感じかな。当時、日本側は艦娘を早期に実装していたから戦線を維持できたし、アメリカ側も最初は敗けが嵩んだけれど、お得意の物量で地味に押し返している」

 

 この北太平洋上での激戦は10年以上続き、どうにか均衡を保ってきた。

 日米が西と東から挟撃しているにも関わらず、敵の堅牢な防護を食い破れず、しかしこちらも食い破られることもなく、という拮抗状態が続いたのだ。

 そこへ、敵の通商破壊の本格化と、姫級・鬼級の侵攻という転機が訪れた。

 

「それまでは、単に艦隊を組んで一定の海域を哨戒するだけだった深海棲艦側が、明らかに戦略染みた動きを見せ始めたのさ。こちらの補給経路を破壊するのと同時、海上にでも拠点を構築することが出来る陸上型深海棲艦、姫級が徐々にその数を増やし、前線を圧迫していったんだ」

 

 海上に敵艦載機を運用するための飛行場を構築する姫級には、もうひとつ厄介な特性があった。

 それが、この島の現状のような環境の再現、支配海域の物理現象を歪曲するというものだ。

 

「では、敵支配海域下における物理現象歪曲の正体は、その姫級の能力だったというわけだね?」

 

 提督の問いに、響は是として頷く。

 

「姫級1体でハワイ島ほぼ全土をカバーできるくらいの影響力を持っていた。ミッドウェー諸島までを支配下に置いた時は、推定4体。10年前当時、最後にあった確認報告では、姫級が12体、鬼級が9体の一大勢力。今は、もっと増えているだろうね」

 

 敵の勢力は増して、こちらは備蓄こそ尽きることはなかったが補給路が断たれて、戦える艦娘の数が減少していった。

 そうして士気を挫かれた状態に追い打ちをかけるように、鎮守府の人員は海域の影響で精神を病み始めていたのだ。

 なるほど、それで敗北の道を辿ったのかと、提督はかつての戦況を頭の中にイメージして苦い表情になる。

 

 深海棲艦が10年前当時に水無月島に上陸しなかったのは、そうせずともこちらの機器や人員等を無力化出来たからなのだろうかと提督は考える。

 すると、彼女たち深海棲艦は、自らの力を十全に理解しているということなのだろうか。

 そのあたりの事情はどうなっているのかと提督が問えば、応えるのはこれまた電だ。

 

「戦術染みた動きを見せていることからも、彼女たちは己の能力を把握しているのは確実ではないかと予測されているのです」

 

 姫級・鬼級といった、ほぼ完全に人型となった個体に関しては、簡単な言葉を話すことがあると確認されている。

 当時の海軍本部はそうした個体たちと意志疎通が図れるのではないかと考え、艦娘を派遣して非戦闘の接触を試みた例がいくつかあったのだと言う。

 その接触作戦にはここにいる電と、かつてこの鎮守府に所属していた軽空母・鳳翔も参加しており、北方海域にて幼い少女の外見をした個体と邂逅したことがあるのだとか。

 電たちが接触した個体との意志疎通は驚くほど友好的に終わったのだが、他の接触作戦が軒並み失敗に終わったため、以降こうした接触作戦は行われなくなったのだという。

 そうしてわかったことは、姫・鬼級とそれ以外の深海棲艦の差異だ。

 

 “イロハニ……”と、いろは歌順にカテゴリ分けされている艦種は、基本的には人語を解さず生物と言うよりは自立兵器に近い特性を持ち、より上位の個体に従う習性を持っている。

 しかし、姫・鬼級らはそれらの等級を完全に配下に置き、かつ他の姫・鬼級といった深海棲艦とは協調したり敵対したりと、明らかな個としての意識が見られたのだ。

 それを自我であると、実際に姫級と接触を果たした電は語る。

 

「私が接触した個体が子供の外見をしていた、と言うこともあるのですが……。彼女たちは、自分が何か強い感情に突き動かされていることは理解出来ていても、そうして駆り立てる感情の正体がどういったものかまではわからない、といった風に受け取れました」

 

 感情を、強い憎悪や悲哀の感情を持ってはいるが、その感情を理解していない。

 それが、電が当時得た姫級への感触だった。

 彼女たちが自らの感情を正しく理解した時にどういった行動に出るのか。

 電たちはその答えをひとつ得ようとしていたが、結局それは叶わなかった。

 それが得られてさえいれば、これまでの10年も、これから先の未来も変わったかもしれないのにと……。

 

 

「姫・鬼級に話が飛んだのは他でもない。私たちが島を脱出するにあたって最大の難関となるのが、これらの敵海上拠点だからさ」

 

 脱出するにあたり、目的地は現状ふたつ。

 ひとつが北方海域、アリューシャン列島を目指すルート。

 もうひとつが南方海域、ソロモン諸島を目指すルートだ。

 

「10年前までは、ヤツらの支配海域はこの北太平洋上、ハワイ島・ミッドウェー諸島近海に限定されていた。他海域にも深海棲艦の出現は確認されていたけれど、ここいらのように支配下となった海域はなかったはずだ。しかし、それからもう10年も経っている。戦局が劣勢に傾いているのを察することは出来ても、具体的な分布までは定かじゃない」

「そっかあ……。北ルートも南ルートも敵だらけかもしれない、ってことかあ……」

 

 阿武隈が唸るように言って、ホワイトボードに投影された地図を睨む。

 脱出ルート上に拠点を構築している敵がどれだけいるかによって、作戦そのものが変わってくるのだ。

 

「もし、脱出想定ルート上に敵がひしめいているなら別ルートを割り出す必要があるし、脱出計画そのものを見直さなければならない可能性も出て来る。……すでにひとつ、小型艇の不調と言う大きな問題が発生しているけれどね? それに、もしも本当に八方塞り、逃げる隙もなく敵勢力がこの海域を覆ってしまっているのだとしたら……」

 

 そうだとしたら?

 言葉を止めた響に、提督は目で問いかける。

 

「……脱出そのものを諦める、という選択肢もある」

 

 歯切れ悪く言った響が帽子を目深に被るようにすると、阿武隈やまるゆが思わず、といった挙動で椅子から腰を浮かせていた。

 それはつまり、この孤島で世界が滅ぶか自分たちが滅ぶ時を、ただ待ち続けるということではないか。

 そう、阿武隈もまるゆも思ったのだろう。

 

 しかし、提督にはそれは違うのだと、なんとなく察することが出来た。

 おそらくは、それは最も難易度の高い選択肢だとも。

 

「この島を出るのを一番後回しにして、僕たちが本来やるべきことに専念する。そう言うことだね? 響」

 

 艦娘たちが訝しげな、あるいは確信に満ちた顔で提督を見る。

 響も、目深帽子の奥から肯定の視線を提督に送った。

 

「――逃げる足を止めて、踵を返しての一転攻勢。海域奪還のための戦いを始めるのさ?」

 

 告げられた言葉に、阿武隈は理解が追いつかなかった。

 いや、頭の中でもう「それは無理!」と結論が出ていたからだ。

 正面のまるゆも同じ思いなのか、不安そうに眉尻を下げた表情で艦娘たちを見回していた。

 

 海域奪還など、現状の戦力で出来るわけがない。

 動けるのは艦娘は5隻だが、そのほとんどが建造間もない練度0であったり、艤装の不調をようやく整えたブランク持ちだ。

 艦種も軽巡、駆逐、潜水艦と、決して決戦向きの揃えではない。

 

 極めつけはこの提督だ。

 記憶喪失の一般人であり、異常に高い極地活動適正以外はこれといって戦術面に明るいわけでも指揮能力に優れているわけでもない。

 彼は艦娘の、そして深海棲艦の専門家というわけでもない、戦いとは一番縁遠いはずの人間なのだ。

 

 それでも、この面々ならばやるのだろうと、阿武隈の中には確信のようなものがあった。

 

 

「……そうするには、今以上に艦娘さんを増やさないと……?」

 

 不安そうな眉で呟くように問うのはまるゆ。

 確かにその線でいくのだろうと、阿武隈はまるゆの不安そうな表情に概ね同意する思いだ。

 戦力層が薄いのならば、それを補強すればいい。

 阿武隈を建造した時と同様の工程を繰り返して、深海棲艦から艤装核を奪取し続けるのだ。

 奪取した艤装核を用いて建造を行なえば、それだけで敵の戦力を削ぐことにも繋がる。

 

 しかし、その方法は本当に最後の最後。

 もう他に打つ手がなくなった時のための手段であるはずだ。

 艤装核の奪取と艦娘の建造を繰り返したところで、その艦娘を決戦に耐えうる練度にまで育て上げるにはかなりの時間を要するうえ、ここは敵の支配海域だ。

 鎮守府内の施設で出来ることには限りがあり、かと言って鎮守府近海ですら出撃するには危険すぎる。

 

 それにと、阿武隈は自分の胸に手を当てる。

 海軍本部の工廠施設ではないこの鎮守府には、艤装のオーバーホールを行うための施設が存在しない。

 肉体が無事だったとしても、艤装の中枢にダメージが通ってしまえば、電のように海上に二足で立つことすら困難となる。

 そういった不調を回復させるための施設が不在であることと、そして阿武隈自身の特殊な出自こそが、最大の不安要素だ。

 阿武隈の建造に用いられた艤装核は、正規の加工手順を踏んでいない。

 現状は肉体にも艤装にも異常は見られないが、これから海上に出て任務に着くうえでどう変化するのかが全く分からないのだ。

 

 この鎮守府が単独で海域奪還に乗り出すということは、それらのリスクを承知の上で動くと言うことだ。

 脱出のために、誰も犠牲にならない方法を考えて、見つからずとも考え抜いて。

 それでも誰かを失うという可能性が確固として横たわるのならば、この面々は脱出を後回しにして、敵の包囲を食い破ろうとするだろう。

 

 戦況が不利な程度では、この六駆の艦娘たちが折れないであろうことを、阿武隈は知っている。

 1ヶ月と少し。短い期間ではあるが、彼女たちと生活や訓練を共にして理解しているのだ。

 島に閉じ込められて身動きが取れなかった10年こそが、彼女たちが本当の意味で折れていた時間。

 提督が着任してその現状を打開できた今、彼女たちはもう心折れることはない。

 少なくとも、この中の誰かひとりでも欠けるようなことにならない限り……。

 

 

 

 ○

 

 

 

「まあ、脱出するにしても、海域奪還するにしても、まずは情報が集まらなければ話にならないよね?」

 

 仕切り直すように響が声をつくる。

 情報収集、水偵運用に向けて、まずは海上に出ての実地訓練が必要になる。

 その実地訓練を行ううえでも、最大の障害が待ち構えている。

 

「“ルサールカ”がいる。まずはこの脅威を取り除かないと、満足に海上に出ることも叶わない。敵空母に見つかった場合、空と海中とで挟み撃ちにされるからね? だから……」

 

 響が提案するのは“ルサールカ”含め、敵潜水艦の掃討だ。

 目下最大の脅威である“ルサールカ”の撃退と、鎮守府近海を周回していると想定される敵潜水級の把握と撃退。

 水偵を運用して情報収集するにあたり、海中への警戒を最小限に出来るようにしておきたいという狙いだ。

 編成は阿武隈を旗艦として、暁、響がサポートに着いての対潜運用。

 雷は予定通り鎮守府の防空要員、まるゆは対潜哨戒のバックアップとしての運用だ。

 作戦はかなり長期に渡ることを想定して、1週間の準備期間の後に開始することに決定した。

 

 実地訓練がそのまま本番に移行することに、阿武隈は不満を抱かなかった。

 形はどうあれ、やっと海上へ出る時が来たのだ。

 サポート役となったまるゆも、ようやく動き出せることに高揚を見せてはいたが、やはり主力として戦いたいという思いがあったのだろう、素直に喜びきれない様子だった。

 

 

 そうして定例会議は終了して、各々の訓練や作業のために散って行き、阿武隈がひとりきりになった時だ。

 突然、発作のような感触が襲って来て、体を折ってしゃがみ込んでしまった。

 この発作は身体的なものではなく、精神的なものであると、はっきりと理解できた。

 不安だ。今まで心の片隅に居座って少なからず存在を主張していたものが、ここに来て心臓を食い破らんばかりに肥大化したのだ。

 涙ぐんできつく口を引き結んだ阿武隈は、しばらくの間、そうしているしかなかった。

 誰か自分を呼びに来ないよう、探しに来ないよう、こんな姿を見られないようにと、そう願わずにはいられなかった。

 

 

 



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4話:かつて有ったはずのものは

 

 

 

 “ルサールカ”討伐作戦及び、対潜哨戒開始の前夜。

 相変わらずの曇り切った夜空の下、阿武隈は鎮守府裏手の共同墓地に来ていた。

 入渠の時間になっても一向に姿を現さないまるゆを探しに出て来たのだが、果たしてかの潜水艦娘の姿は墓地の一角にあった。

 とある墓標の前にしゃがみ込んで微動だにせず、目を瞑り手を合わせている。

 いつからああしているのだろうかと眉をひそめる阿武隈は、特に足音を殺さずにまるゆの元まで近付いていった。

 阿武隈の接近に、まるゆは反応を示さなかった。

 後ろで立ち止まっても同じ姿勢のまま、まるで阿武隈の存在に気付いて居ないかのような振る舞いだ。

 

 むすっと頬を膨らませた阿武隈は、なんと言って驚かせてやろうかと周囲を見渡して、ふと、まるゆが前にしている墓石の名前に目が行った。

 そこに刻まれているのは誰の名前だったか。

 それを思い出す前に、答えはまるゆの口から発せられた。

 

「……武藤、提督代理さん。陸自から“海軍”に出向してきた方だったそうです」

 

 提督代理。

 かつてこの鎮守府の提督が病に倒れた折に、その代役を務めることとなった人物であり、ここにいるまるゆの建造を承認した人物でもある。

 阿武隈にとって今の提督がそうであるように、まるゆにとっては彼が、好意を持って意識する人物なのだ。

 しかし、その彼は、武藤提督代理はもういない。

 10年前の空襲時に瓦礫の下敷きとなり、命を落としてしまったのだ。

 

「お顔は写真で見たこともあるし、暁さんたちからお話はたくさん聞いているんです……」

「……すごく優しい人で、今の提督みたいな人だったって。阿武隈も聞きました」

 

 しゃがみ込んでいるまるゆの横に、阿武隈は腰を下ろした。

 スカートが汚れるが構いはしない。

 今日はもう、風呂に入って眠るだけなのだから。

 

「まるゆ、時々思うんです。まるゆがまるゆじゃなくて、ちゃんと本来の姿で……、戦艦の艦娘さんとして生まれていたらって。武藤提督代理は助けられなかったかもしれないけれど、この鎮守府のみなさんは助けられたんじゃないかって……。水偵飛ばして偵察したり、長距離砲撃でみなさん援護したり……」

「そうですね。そしたら、水偵運用できる艦が居るってことだから、阿武隈は生まれて来なかったかも……」

「あ……! ごめんなさい、そういう意味で言ったんじゃ……!」

「わかってます。わかってますから……。大丈夫大丈夫」

 

 慌てるまるゆに対して、阿武隈は気にしてないよと素っ気なく呟く。

 

「でもまあ、結局まるゆは、水偵運用できなかったんですよね?」

「はい……。晴嵐とか積みたかったです……」

 

 がっくりと項垂れるまるゆは、しかし、そんなことは些細なことだとばかりに、別の悩みがぶり返す。

 

「まるゆ、本来の性能よりはだいぶ戦えるようにはなっているのですが、水上機の運用は出来なくて、速力も大したことなくて……」

「運用は、運貨筒を用いた洋上補給と装備換装補助、あとは甲標的・甲による雷撃支援ですよね? 前線に出る側から言わせてもらえば、充分助かりますよ?」

「ありがとうございます……」

 

 礼を言うまるゆだったが、その表情に微かな不満の色があることを阿武隈は見逃さなかった。

 前に出て戦いたいと思っているのだ。

 六駆の艦娘たちが同じような顔をしているのを見ているし、何より阿武隈自信も同じ思いだからだ。

 好戦的、というわけでは、決してない。

 自らの役目を果たしたいという思いと、あとは提督に褒められたいという子供のような感情だ。

 

 しかし阿武隈は、そう考えているのが自分だけであることを、ここ最近で自覚するに至った。

 役目を果たしたいという思いも、提督に褒めて欲しいという思いも、艦娘ならば誰もが持っているものだ。

 持ってはいるが、それらとは別に、阿武隈にはないものを、この鎮守府の皆は持っているのだ。

 遺志。先に逝ったものたちから託された想いが、彼女たちの大きな駆動力となっている。

 それは、阿武隈とほぼ同期の新参者であるはずのまるゆですらそうだし、元々は部外者である提督ですら、そういった面があると感じていた。

 

 皆、もういない者たちの思いを背負って戦おうとしている。

 亡き人に故郷の景色を見せるために、この閉鎖された海域から脱しようとしているのだ。

 敗けられない戦い。

 失敗できない作戦。

 阿武隈は自分だけ、それを持っていないと思っている。

 自分だけ、誰かの遺志を背負っていない。

 こんな身軽なまま海上に立って大丈夫なのだろうかと思うのは、果たして見当違いな悩みなのだろうか。

 

 この場にはそんな悩みを察してくれる人も、気遣ってくれる人もいない。

 まるゆは今は自分の内側と折り合いをつけるので精いっぱいだし、何故か後をつけて来てた連装砲ちゃん(仮称1番砲塔)は、気落ちした様子の阿武隈とまるゆを励ますように背中を叩くだけだ。

 阿武隈とて、誰かに察してほしいとは思っていないし、必要以上に心配されるのは本意ではない。

 しかし、目をかけられないのもそれはそれで寂しいものだなと、この期に及んで思ってしまうのもまた事実だった。

 

 しばらくのあいだ墓地でしゃがみ込んでいたふたりと1機は、まるゆがくしゃみしたことを切っ掛けにして、ようやく入渠しようという手筈になった。

 いつもは雷がまるゆの髪を洗ってやる役だったが、今夜ばかりは阿武隈がその役割を買って出た。

 腰まで届く長い髪はひとりで洗うには確かに難儀するが、これを切ってしまえというにはあまりにも勿体ないなというのが阿武隈の感想だった。

 おそらくは、いつもこの髪を手入れをしている雷も、同じように考えているのだろうな、と……。

 

 

 

 ○

 

 

 

 その夜、阿武隈は眠れなかった。

 初出撃の前夜に高いびき出来る程、軽巡・阿武隈に設定されたメンタルは図太くない。

 自分の素体となった少女も、こんな風に夜眠れないことがあったのだろうか。

 そんなことを考えてしまうのは、遺志について考えていたせいか。

 不安や落ち着かない気持ちから逃れるように、阿武隈はパジャマの上にカーディガンを羽織って寝床を抜け出した。

 

 ふらふらと怠い体を引きずって向かうのは食堂。

 この鎮守府には夜間の飲み食いはあまりしないように、という緩いルールがあるだけだったが、阿武隈自身あまり遅い時間に食堂を訪れたことはなかった。

 食事量は朝昼晩と、鎮守府の皆で取る食事量で充分足りているし、そうでなくとも会議や訓練の休憩などで、何かと間食を挟む機会は多いのだ。

 こうして夜中に空腹を感じることも稀だなと思い、そんなことを考えていられる自分が恵まれているのだなと再確認する。

 

 自らが置かれている状況は確かに八方塞で、目標達成のために除外するべき障害も山ほどある。

 そんな中でも、この鎮守府の面々は提督も艦娘も悲嘆に暮れるばかりではなく、常に前を向いている。

 皆で同じ方を向いて、肩を組んで、脱落者を出さないように気遣い合いながら走ってゆく。

 そういう仲間の元に、そういう時間と場所に生まれたことは、良かったと思っている。

 これが、上下関係厳しくて剣呑な雰囲気の場所であったのならと考えると、途端に胃が痛くなってくる思いだ。

 

「……本来、そういうのが普通なのかな……」

 

 余所の鎮守府を知らないため、どういった環境が“普通”なのか、阿武隈にはわからない。

 強いて言えば、自分が今立っている場所こそが“普通”であるのだが、こんな状況でそう言えたものかなと、目を細めてしまう心境だ。

 

 

 夜の食堂、その厨房には先客がいた。

 エプロン姿の雷が、鼻歌を歌いながらおにぎりを握っていたのだ。

 この鎮守府で厨房に立つのは主に電の役割だったため、阿武隈は一瞬見間違えたかと目を擦る。

 

「ええ? なになに? 私がおにぎり握ってちゃおかしいって言うの?」

 

 そんな阿武隈の動作に雷は頬を膨らませて見せて。

 阿武隈はといえば、慌てて違う違うと手を振って。

 妙な間を一拍置いて、ふたり同時に噴き出してしまう。

 

「明日の出撃に向けての準備よ。洋上で食べる用のと、あとはお夜食用ね? 司令官と電が、まだ第二出撃場で最終チェックしてるの。だからお夜食の差し入れね」

「こんな時間まで、ですか……?」

 

 明日の出撃に向けて、各員の艤装関連の最終チェックをしているのが電。

 提督は許可・承認の関係でいちいち呼ばれるのは手間だということで、勉強も兼ねて一緒に作業中なのだ。

 

「というかー、出撃する面子は、明日に備えて休んでなきゃ駄目よー?」

「それ、雷もそうじゃないですかあ……」

 

 お互い眠れなかったのだなとわかって、阿武隈はどこかほっとした気持ちになる。

 こうして寝床を這い出てのが自分だけではなかったこともそうだし、雷のように実戦経験がある艦娘でもこうして緊張するのだと知って、二重に安堵を得る。

 そんなことを雷に話すと、それなら以前暁が、更衣室で勝負パンツ選びながら響相手に弱音吐いていたと聞かされて、阿武隈は思わず噴き出して、お腹を抱えて数分のあいだ動けなくなってしまった。

 

 

 第二出撃ドックに夜食を持っていくと、そこにはテーブルに突っ伏して寝落ちている提督と電が居た。

 ふたりの背には毛布が掛けられていて、傍で待機していた連装砲ちゃん(仮称2番砲塔)が「お静かに」と口に人差し指を当てるジェスチャー(構造上無理があるが、雷と阿武隈はそう察した)。

 肝心の作業自体はほとんど終わっているようで、後はもう寝床に放り込んでしまっても大丈夫かなと阿武隈は考えていたが、雷はこのまま引こうと、夜食だけ置いて退散の構え。

 起きたらまた確認作業など始めてしまうだろうから、このまま寝かせて置いた方がいいという判断だ。

 そういうものかと眉をひそめる阿武隈だったが、提督も電も渋そうな寝顔で「……艤装の、荷重軽減、……解除」「……荷重100%、……なのです」などと、寝言でよくわからないやり取りを展開しているのを目の当たりにしてしまうと、確かにその方が良いのかもしれないと納得してしまうのだ。

 夢の世界でいったい何やってるんだかと、阿武隈は苦笑いでふたりの毛布を掛け直して、雷と一緒に第二出撃場を後にした。

 

 

 

 ○

 

 

 

「何か飲む? ホットミルクとか……、あーお腹壊すといけないからホットココアね。ココアココア。ミルク入り。うん、その方がいいわ? ねえ?」

 

 自分が牛乳を飲めないからだろう、慌てて戸棚からココアの缶を取り出す雷を、阿武隈は困った様な顔で眺めていた。

 

 第二出撃場に夜食を差し入れて来た帰り、自室に戻ろうとしていた阿武隈は雷に呼び止められ、厨房に連れて来られた。

 どうせ眠れないなら、何か飲んでいこう言うのだ。

 てっきりお酒でも進められるのかと身構えた(建造記念の歓迎会の時、雷電がものすごい酒乱であることを身を持って知っているのだ)阿武隈だったが、ミルクを鍋で温めココアを投入している雷を見て、ほっと安堵する思いだ。

 いくら入渠で体調の調節が可能とはいえ、出撃前にお腹を下すなどもっての外。

 出撃前もそうだが、これが海上で、しかも交戦中に、などと考えると、もうそれだけで胃が痛くなる思いだ。

 

「……それにしても、牛乳。よく腐らずに流れ着きますね? 普通に冷蔵したんじゃ1ヶ月も持たないでしょうに」

「そうよね? 冷凍、じゃなくて、冷蔵、なのよねコレ。どうやら最新の技術を使ってるんだって、響が言ってたわ? ほんと、この島に取り残された10年で、外の世界は随分進んじゃったのね……」

 

 感慨深そうに言う雷に、阿武隈はどこか寂しさのようなものを感じた。

 姉妹同士で取り残されたとはいえ、やはり孤島生活は寂しいものだったのかと、これも“外”を知らない故の考えかなと顔を伏せると、ふわりと漂った湯気が前髪をくすぐった。

 阿武隈専用のマグカップ(でかでかと猫のドヤ顔がプリントされている)を差し出した雷は、早くも自らのカップに口を着けていた。

 

「取り残されて、時代遅れになって……。それでも私たちが戦えることは、暁と響が証明してくれた。私だって、戦えるんだから」

「私たち、ですよ。阿武隈だってやりますから!」

 

 ふんすと鼻息を荒げる阿武隈に、雷は安心したような深い笑みを浮かべて見せた。

 

「もう緊張は解けた? ぐっすり眠れそう?」

「う……。それは、まだ……」

 

 改めて明日に対する緊張を指摘されると、不安がぶり返してくる。

 雷に会って、話して、少しは気が和らいだ気がしたのだが、そうそう上手くはいかないようだ。

 

「ごめんねー阿武隈。せっかくリラックスしてたのに」

「いえ……。でも、ひとりになったらたぶん、また……」

「だったら、膝枕する? 眠るまで一緒にいる?」

 

 雷お得意の過干渉が始まったなと、阿武隈は苦笑いで身を引くが、今は確かにそうしてほしいかもと、弱気ゆえの変化を自覚していた。

 そうしてふと気付くのは、こうして甘えさせてくる雷はどうなのかという疑問だった。

 

「雷はいつもそうやって、甘えろ甘えろーって言いますけど……。雷は、誰かに甘えたくなる時って、ないんですか?」

 

 何気なく聞いた阿武隈だったが、次いで目にした雷の様子がいつもと違い、はっと息を飲む。

 一度、顔から表情が消えてしまう程の驚きを見せた雷は、それ以降、阿武隈と目を合わせられず、持っていたマグカップで顔を隠してしまったのだ。

 その反応から阿武隈が感じ取ったものは、気まずさや申し訳無さ、あるいは、悪戯を咎められた子供のそれだった。

 雷が隠していたものを、探られたくなかった場所に踏み込んでしまったのだ。

 

 今度は阿武隈が気まずくなる番だ。

 いつも誰かの世話を焼きたがって、ぐいぐい突っ込んでくる雷がこうなってしまうのは、いったいどういうことなのか。

 阿武隈はその原因を、人の世話を焼くことに何らかの後ろめたさがあるからだと、推測する。

 では、いったい何に後ろめたさを感じているというのか。

 動機の不純を感じさせているのはいかなる背景だったか。

 これまでの鎮守府での生活の中でのやり取りを思い出す限りでは、そう言ったものは見当たらなかったはずだ。

 判断材料がないではないかと考えを一度止めた時、答えは唐突に降って湧いた。

 

「……誰かに甘えたくなっちゃうから、誰かを甘やかしてるんですね?」

 

 言葉に顔を上げた雷の表情は、もう何年も老け込んでしまったかのように阿武隈は錯覚した。

 疲れ切った力ない笑顔、憔悴した表情。六駆の艦娘がこれまでに一度は見せたことのある顔だ。

 「ばれちゃった」あるいは「やっとわかってもらえた」。そんな表情はどこまでも痛々しさを感じるものだった。

 

 脱力して、そのままテーブルに蹲りそうになる雷に、阿武隈は「こいこい」と手招き。

 椅子に座った状態で自分の太腿をぽんと叩き、「ほら、おいで?」と誘う動きだ。

 困惑気味ながらも期待に頬を緩めた雷は、花の香に誘われるように阿武隈に引き寄せられ、そしてころんと阿武隈を見上げる形でその膝に寝転んだ。

 椅子を繋げて簡易のベッドを作り、阿武隈の手による即席の膝枕だ。

 

「……私ね、ずっと、誰かに甘えたいと思ってたの。建造されてすぐに、満足な訓練もなしに船団護衛に着いて、いっつも不安で、怖くて、心細かった。でも、所属部隊の皆は、私と同時期に建造された子ばっかりで、甘えるどころか不安定になっちゃう子ばっかりで……。だから、私が仕切ってお姉さん代わりもやっててね? ……それで、そうしている内に、気付いちゃったの」

 

 その言葉の先を、阿武隈は身を持って実感しているところだった。

 甘えられる側に回った途端、先ほどまで胸中に渦巻いていた不安や恐怖を、ほんの一瞬忘れたのだ。

 意識を向ければすぐに思い出すというレベルではあるが、楽になった感触は確かにあって、微睡の中から目覚めたかのようにはっきりとものを考えることが出来た。

 弱っている仲間のことを、自分よりも弱っていて可哀そうだと思うことで、自前の悩みを考えないようにしていると、そう言った作用を生じているのだろう。

 確かにこれは、楽になったその瞬間にひどい罪悪感が襲ってくるものだ。

 鎮守府の他の面々はどうなのかは定かではないが、少なくとも阿武隈はそう感じたし、雷がずっとそうだったのだと確証を得てしまった。

 

 そして何より、この感触は危険だとも、阿武隈は思うのだ。

 これは“毒”だ。心を圧迫しているものが霧散してゆく感触は強い薬の効力に似て、高い依存性を持つのだろうと察することが出来た。

 きっと癖になってしまったのだろうなと感じた阿武隈はしかし、自らの膝に頭を預けて力を抜く雷の姿に、ひとつの疑問を得た。

 

「……だったら、提督に甘えれば良かったんじゃ……」

「ダメ」

 

 はっきりと即答が返り、息を呑む。

 雷は泣きそうな笑みで、阿武隈を見上げていた。

 

「そりゃあさ、司令官は男の人だし、司令官さんだし、甘えたり甘やかしたりって、最初は考えていたけどね……? 考えていたけど、そうしようって思ったけど、やっぱりダメよ」

 

 何が、駄目なのだろう。

 

「だって、私たちが求めたら、司令官、絶対に断らないもん。私たちもダメになるし、司令官のこともダメにしちゃう。それが怖いの。べたべた甘えてどろどろになって、島を出るどころじゃなくなるのが怖いの。私は、自分がそうなるって、わかってるから……!」

「確かに、うちの提督はそういうの、断らなさそう……」

 

 あの提督は恐ろしいほど自分というものがない。

 真っ白なキャンバスのような、真っ新さと危うさがあると、阿武隈は感じているのだ。

 迂闊に近付き過ぎてぶつかってしまえば、出鱈目な色でおどろおどろしい絵に染め上げてしまう。

 意識的にか無意識的にか、あの提督と接したことのある艦娘たちは、それを理解しているのだ。

 だからだろうか、提督が島に流れ着いた当初、まだ提督ではなかった青年に対して「そうしてしまおう」と企んでいた雷は、その試みをすぐに放棄したのだ。

 無垢に触れて、我に返った。

 雷の口から発せられたことを大まかにまとめると、そういうことなのだろうなと阿武隈は困った様に笑んだ。

 

「それにね? 私たちが求めても、きっと司令官、本当の意味でダメになったりしないわ。ダメになったふりをしてくれるだけ。私たちに合わせて、私たちが変な笑顔を張り付けないようにって、そう考えてくれて……」

 

 だから、雷は全力で前を向くことに決めた。

 提督を不要な怠惰に付き合わせないようにと。

 どうせ合わせてくれるのならば、前向きであった方が良いはずだと。

 故人の遺言を果たすという目標が嘘だというわけでは決してないが、しかし、それを果たすための原動力、その最後の一押しが、提督の存在だったのだ。

 

「今でもね、怖くなる時があるの。さっきの阿武隈みたいに、私の理由に踏み込まれちゃったら、司令官に必要以上に優しくされちゃったら、私は……」

 

 もう、耐えられなかっただろう。

 二度と、提督の顔を見られなくなってしまったはずだと、雷は阿武隈の腹に顔を擦り付けながら、途切れ途切れに言葉を吐き出していた。

 

 そんな雷の有り様を、阿武隈は至極冷静に見つめていた。

 冷静と言えど冷徹ではなく、人の情の暖かさを持った瞳でだ。

 阿武隈が考えていたよりもずっと、皆それぞれぎりぎりで。

 それでも笑って、互いを気遣って距離を置いて、そうしながらも支え合って。

 しかし、ふとしたボタンの掛け違えですべて台無しになってしまうような、そんな危ういバランスの上に、この鎮守府は成り立っていて。

 それを理解しているからこそ、誰も彼もが自分勝手に振る舞えない。

 たった今、阿武隈は雷の抱えていた事情に触れたが、きっと他の皆もそういった面を持っているのだと考えると、どうしても苦い顔になってしまう。

 

 それと同時に、阿武隈は己が担うことの出来る役割がまだまだあるのだと自覚するに至っていた。

 自らが誰の遺志も継いでいないのならば、遺志を継ぐ彼女たちの支えとなればいい。

 それは、かつてこの島に流れ着いた提督が、自ら提督となって彼女たちの支えとなろうと決意した心境に良く似ていたことを、阿武隈自身は知る由もない。

 

「大丈夫ですよ……。ちゃんと支えますから……」

 

 呟くように言えば、返事は無言のみ。

 いや、かすかな寝息が返って来たというべきだろうか。

 雷は阿武隈の膝を枕にしたまま、夢の世界へと旅立っていた。

 その寝顔は険のあるものでも、笑みを浮かべたものでもなく、力が抜けて弛緩した穏やかな表情だった。

 

 阿武隈の膝枕が余程心地よかったのか。

 それとも、やっと安心できる場所を得られたという安堵からのものか。

 こんな安らかな寝顔なんて見せられたら、しっかりしなければと思わざるを得ないではないか。

 きっと笑顔で居続けるのも疲れるのだろうなと、寝顔に掛かる髪を梳いてやると、雷の姿が艦娘としてのデフォルトの姿に、幼い少女の姿に幻視出来て。

 彼女たちはどれだけ自分を取り落としてここまで来たのだろうかと、阿武隈は悲しい気持ちになった。

 

 

 

 ○

 

 

 

「もう……。ふたりとも、こんなところで寝ちゃって……」

 

 食堂の椅子で静かな寝息を立てている雷と阿武隈にそっと毛布を掛けたまるゆは、困った顔で静かに笑んだ。

 時刻はまだ朝の4時を回ったところ、この鎮守府で起きて活動しているのは、まだまるゆただひとりだった。

 まるゆは昨夜眠れなかったわけではない。

 誰よりも先に眠りに落ちてしまったが、その分目覚めるのが早かったのだ。

 悩みが堂々めぐりして疲れてしまったのだろう、その分目覚めはすっきりとしたものだった。

 自分はきっと本番に強いタイプなのだなとひとり思うまるゆは、立ち寄った食堂で雷と阿武隈が話しているのを偶然聞いてしまった。

 ふたりが話しているところに入って行くことは出来ず、食堂の入り口に座り込んで、ふたりが静かになってから、ようやくそっと足を踏み入れることが出来た。

 

 ふたりの話はすべて聞いていた。

 雷がまるゆに対して過保護だった理由を知ったところで、それで今までの関係が変わることはないと思っている。

 雷は人の面倒を見て自分が救われることに罪悪感を覚えていたようだが、まるゆ自身がそうしてもらって救われていたこともまた事実なのだ。

 ただ、こうしてふたりの話を盗み聞きしてしまい、雷が本当にして欲しいことがなんなのかわかったので、今度は自分が膝枕してあげようと、まるゆは笑みを浮かべてそう考えるのだ。

 自分がこんなことを言い出したら、雷は驚くだろうか。

 それとも、人が変わったようにべったり甘えてくるだろうか。

 考えれば考える程、その時が今から楽しみになってくる。

 それに、阿武隈が考えていた支えとなることに、まるゆも思い至っていた。

 今までは前線に出たい出たいとばかり考えていたが、それだけが己を果たすやり方ではないと自覚したのだ。

 

 かの武藤提督代理が命を賭して自分を建造してくれたことに報いたいと、まるゆは強く思う。

 その方法は何も前線に出て戦うだけではない。

 後方で彼女たちの戦いを補助し、支え続けることこそ本懐なのではないのだろうかと、そう言った考えがようやく納得の形となったのだ。

 自らが支えとなって、そして自らも滅ばずに有り続ける。

 それが、自らがここにいる意義ではないかと、そう思うのだ。

 昨晩まで悩んでいたのが嘘のように、今は気分が晴れ渡っていた。

 これで外の景色が真っ青の空だったのならどんなに良かっただろう。

 

 故人の遺品を故郷に、青空の下に送り届ける。

 その行為が確かに意義あるものだと、まるゆは再確認する。

 この場所が亡き人たちの思い出の場所であることは確かだが、この気の滅入るような環境では、きっと眠りも穏やかではいられないだろう。

 だから、必ずこの島を出るのだ。

 どれだけ時間がかかるかわからない。

 前の定例会議で話していたように、脱出から攻略に舵を切る可能性だってある。

 しかし、目標は変わらない。

 彼らを故郷に送り届ける。

 そして、この目で彼らの故郷を目の当たりにするという目的が出来たのだから。

 

「……まるゆ、頑張ります!」

 

 窓の向こうへ、誰にともなく敬礼して見せる。

 気のせいだろうか、見知った誰かが深い笑みで頷いてくれているような気がした。

 

 

 



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5話:彼方より迫る敵意は

 

 

 初めて足を踏み入れた海上は波も風も無く、ひどく寂しいものだなと、阿武隈は目を細めて灰色の大気を深呼吸した。

 対潜哨戒任務の初日。

 阿武隈を旗艦として二番艦に響、そして殿となる三番艦に暁を置いた第一艦隊は、高速巡航形態にて鎮守府近海に展開していた。

 高速にて航行する阿武隈たちが、風を生み、波を生む。

 それがなければ、この海域の時間が止まっているのではないかと錯覚しただろう。

 阿武隈はもちろん、以前一度だけ夜間出撃したことのある暁と響も、この海域の異常さを改めて自覚する思いだった。

 波の無い平面の海。

 灰色で硬い水質。

 ここが海上であることは響も暁も知っているはずなのだが、まるで湖ではないかと錯覚してしまう程の静寂だ。

 昼の薄明るい光の下で見るその光景は、やはり精神に来るものがある。

 まるで心を病んだ絵描きの、その絵画の中に迷い込んだかのような感触だろうか。

 水平線の向こうまで波が立たない広大な水面は、自分たちが航行しているこの場所が、もう地球上には存在しないのではないかと、そう不安を掻き立てるのだ。

 もしも外界からの漂流物が島に流れ着くことがなかったのなら、その思いはさらに強くなっていただろう。

 

 しかし漂着物の存在によって、まだ自分たちの鎮守府がこの地球上にあるのだと自覚することが出来たし、何より提督が流れ着いたお陰で、こうして鎮守府近海に踏み出すことが出来たのだ。

 

「……って言うと、提督が流されて来て良かったって言ってるみたいで、なんかやーね?」

 

 殿の暁が目を細めて言うと、阿武隈も響も後ろを見ずに口を横に広げて苦笑いだ。

 

 こうして比較的和やかに始まった対潜哨戒任務。

 此度の装備は対潜・索敵特化であり、主砲も魚雷も積みこそすれど、弾数は最低限のものだ。

 水面下の敵を探して掃討する、あるいは敵艦載機の反応を捕らえたならば、すぐに踵を返して撤退する。

 もしも敵機に見つかり、敵艦隊と交戦せざるを得ない状況となった場合は、鎮守府第二出撃場で待機している雷とまるゆが抜錨し、対空・対艦戦闘の用意と相成る手筈だ。

 リスクが大きい方に転ばなければいいなと、阿武隈と後続の響たちは艤装の機能を弄って迷彩を展開する。

 昼間の洋上迷彩。

 本来ならばダークブルーを基調とした色になるはずだが、この海域の色彩に合わせて調整した結果、暗いグレーに落ち着いた。

 あまり好きな色合いではないなと眉根を寄せる阿武隈だが、そう不平も言っていられない。

 水上の、ひいては空を行く敵に見つかってしまえば、今日のところは即座に撤退となってしまうのだから。

 リスクの最小化を選んだ結果、慎重になり過ぎていると思えなくもないが、そうしなければ一手読み違えただけで詰む可能性もあり得るのだ。

 

 そんな深刻な考えとは別に、阿武隈の頭の中では他の考えが展開していた。

 もちろん、敵艦隊のことは常に頭の片隅には置いているし、即座に対応できるだけの反射神経もある。

 緊張で委縮する段階はもう過ぎて、今は束の間の余裕を臓腑に置いたような心持だった。

 そうして余裕が出て来ると、ひとまず考えが及ぶ場所がある。

 

「提督は、どんな色が好きなのかな……」

 

 前髪を弄ってひとり呟く阿武隈は、背後からの視線がにやにやと気持ちの悪いものに変わったことを察して、努めて後ろを見ないようにと心掛けた。

 後ろで聞いている者がいるというのに乙女な独り言など呟いてしまうとは、これは余裕ではなく油断かと、改めて表情を引き締めん思いだ。

 しかし、そうして気を引き締めようとするとかえって力んでしまうようで、ちょうどいい塩梅と言う感触が得られない。

 

「阿武隈、余計な力が入っているよ。もっとリラックスだ」

 

 阿武隈の力みを指摘する響は自ら蛇行して余裕を見せ付けてくれるが、それで後続の暁と衝突しそうになるのはいかがなものか。

 それでも、暁は、響の急な挙動をぎりぎりのところで回避して、それどころか高速巡航中に2隻並んだり交差したり、終いには手を繋いでぐるぐる回り始める有り様には、阿武隈もさすがにぎょっとして背後を振り返らざるを得なかった。

 

「もう! ふたりとも何やってるんですかあ!?」

「阿武隈はあんまり真似しちゃダメよ? 前に式典で響とコレやって、那智さんにマジで怒られたんだから」

「……確かにあまりほめられたものじゃないけれどね。でも、練度を見せるには手っ取り早いのさ。夜間ならまだしも、視界良好のこの環境ならば、高速巡航からの急旋回も可能さ」

 

 実際に高速巡航の速度で曲芸染みた真似をして見せる2隻に言われてしまえば、確かに高い練度を誇っているのだろうと納得するしかない。

 しかし、それとこれとは別ではないかと頬を膨らませる阿武隈に、響は駄目押しとばかりに彼女の足元を指摘する。

 

「ほら、いつもの調子に戻ったら、きちんと対応できているよ。少なくとも私たちは、背面移動なんて教えた覚えはないからね」

 

 言われて初めて気付いたが、阿武隈は後続の響たちへ体を向けたまま、後ろ向きに航行していた。

 単にボード上で体勢を入れ替えて前後を逆にしただけだが、確かにこんな挙動は教わっていなかったし、やろうと考えたこともなかったなと思い至る。

 そもそもが狭い出撃場内での訓練のみで、こうして広い海域を巡航したことすらなかったのだ。

 それなりの場所に出れば、それなりの動きが出来る。

 これが基礎の積み重ねの結果なのだろうとは思うが、そう自覚するだけの感触はまだ手元に得られていない。

 幾度も出撃を繰り返し、時間をかけてそういった慣れや手応えを得ていくのだろうなと思考を臓腑に落として頷いていると、若干濃いめの視線を感じて恐る恐る顔を上げた。

 響と暁が、まだにやにや笑いを解いていないのだ。

 

「建造からもう1ヶ月以上も過ぎてるけれど、未だに司令官へのお熱は冷めていないようだね。熱々?」

「な、なんですかその言い方! お熱もお熱、熱々ですけど!?」

「なんで半ギレ気味なのよ。別に悪いことじゃないわ。まあ、個人差があることなんだけど……、そろそろ初期の刷り込みが薄れてくる頃、なのよね? だから、そろそろ司令官への好意が本物かどうか、はっきりしてくる頃なの」

 

 暁に言われて、阿武隈は今さらながらに体中の温度が上がってくるのを感じた。

 特に顔面が酷く、潮気の濃い大気を頬に浴びる度に、ひりひりと肌に染みてくるようだ。

 全身の毛穴からびっしりと汗が噴き出てきて、妙な脱力感に襲われている気もする。

 今までは“そういうものだ”と思ってなんとなく受け入れていたものが、ここに来てはっきりと自覚させられた。

 自分は、提督に好意を抱いているのだと、再確認させられたのだ。

 何が、刷り込みは薄れたか、だ。

 日に日に想いは募るばかりで、むしろ苦しいくらいだとも。

 不意打ちもいいところだ、こんな大事な時にするべき話ではない。

 顔を真っ赤にした阿武隈が後続を睨むと、返ってきたのは響の穏やかな笑みと、

 

「司令官のこと、好き?」

「わ、私的には! 全然、大好きですけれど!?」

 

 それが悪いかと問い返すように大声を上げても、響も暁も満足そうな笑みを浮かべるだけだ。

 まるで娘の成長を喜ぶお母さんではないか(まあ、この例えに阿武隈は実感を得てはいないのだが……)と鼻息を荒くしていると、鎮守府より通信が入った。

 秘書官の電からだ。

 

『あの、阿武隈ちゃん。たいへん言いにくいのですが、艤装のレコーダーが“入”の状態の時は、艦隊行動中の艦娘の会話はほとんどすべて録音及びリアルタイムで再生されているのでして……』

 

 さっと血の気が引いてゆく感触を血管に覚え、阿武隈は無言で電の言葉の先を待った。

 

『つまり、今までの司令官さんへのラブコール、ぜんぶ司令官さん本人に筒抜けなのです』

 

 表情を消して、ふっと息を詰めて下腹に力を込め、感情の波を堪える。

 恥ずかしくて轟沈しそうな気持ちを必死に堪えているところへ、困った様な提督の声色が紛れ込んで、阿武隈はびくりと強張った。

 

『ああ、阿武隈? 僕は阿武隈の、そのままの色が好きだよ。蜂蜜色の髪と、晴れ渡った空のような瞳と……」

「もう! 提督、青空見たことないかもって言ってたじゃないですかあ! それで晴れ渡った空なんて、わかるわけ、ないじゃないですかあ!!」

『でも、阿武隈の瞳はその色なのだよね? 綺麗な瞳、阿武隈の色だ』

 

 ダメ押しだった。

 阿武隈は高速巡航中にも関わらず、「なんでポエム……?」と呟くと、両手で顔を覆ってボード上でしゃがみ込んでしまった。

 先の好意に対する返答にも微妙になってはいなかったが、提督の口から自分の名前と“好き”という単語が続けて聞けて、顔がにやけたままで固まってしまうのを抑え切れないのだ。

 そんな阿武隈の様子に後続の響と暁は、しゃがんだままの姿勢でも問題なく航行できていることに、顔を見合わせて「練度ばっちり」と頷き合う。

 これを面白がった雷とまるゆが通信に割って入って「ひゅーひゅー!」「た、隊長が、ポエマーに……!」と茶化し始めたものだから、被害は阿武隈だけではなく鎮守府側にまで飛び火。

 執務机に突っ伏して顔を覆っている提督の姿を、電がしっかりと画像に収めていた。

 

 

 そうした馬鹿騒ぎの勢いが落ち着いてきた頃だ。

 阿武隈は、自分の装備しているヘッドホンの、電探の妖精たちが騒ぎ出す様を目と耳で確認する。

 対空電探に感有り。敵航空機の存在を察知したのだ。

 

「早速お出ましと言うわけだね……。阿武隈、敵航空機発見後の、その次の動きは?」

「ええっと……。全艦、機関停止。洋上迷彩のまま海上に静止して、敵航空機をやり過ごします。相手はまだこちらの存在に気付いていないから、止まっていさえいればやり過ごせるはず……」

 

 出撃前に、幾度も綿密に打ち合わせていた手順だ。

 目標はあくまで水面下の敵潜水級。

 ならば、空の敵は出来るだけやり過ごすように立ち回ろう。

 足を止めて迷彩に頼り、敵航空機をやり過ごす。

 これで見つかってしまった場合は、早くも戦闘態勢だ。

 

「――二番艦から進言。どうやら、その線でいくのは厳しいみたいだ」

 

 自らのヘッドホンの耳を押さえて告げる響に、阿武隈の背筋が凍る。

 

「ソナーにも感有り。敵潜水級1、恐らくは潜水棲姫、個別コード“ルサールカ”と推定。上空と海中とで挟み撃ちだよ。恐れていた状況さ。こんなにも早く……!」

 

 

 

 ○

 

 

 

 阿武隈の下した判断は、随伴した暁と響が想定していたよりも素早いものだった。

 対潜警戒を維持しつつ、戦闘形態へ移行。

 上下の敵を即座に迎え撃つ構え、その指示。

 足元に敵潜水艦がいる以上、推力を停止すればただの的になる。

 上空に敵航空機がいる以上、動きを見せれば発見される恐れがある。

 立ち止まることが出来ないならば、より自分たちが有利に立ち回れる位置に動いておきたい。

 これが任務開始初日ではなく、数日経って慣れが染みついてしまっていたのならば、判断にノイズが混じってしまっていたかもしれない。

 リラックスついでに集中力を取り戻した今だからこその判断速度だ。

 

「二番艦は敵潜水艦への警戒を継続! 三番艦は情報収集、敵航空機の挙動追って……、それと、敵本隊の位置を……!」

 

 後続に指示を出した阿武隈は返事も待たずに鎮守府への回線を繋ぐ。

 

「こちら第一艦隊、旗艦・阿武隈。敵艦載機及び敵潜水級を捕捉。これより戦闘形態へ移行します! 今のところ敵航空機がこちらを発見した挙動は見せていませんが、別働隊が動いているかもしれません。念のため鎮守府は防空警戒を……!」

『――こちら水無月島鎮守府、管制の電なのです。第二出撃場で待機していた雷ちゃんが、たった今出撃しました。続いて、換装用決戦装備搭載のまるゆちゃんが出撃します。こちらで座標を指定しますので、なるべく敵に発見されないよう気を付けて航行してください』

 

 「そんな無茶な……!」と表情を歪める阿武隈だったが、電の言う通り見つからないに越したことはない。

 とは言え、こちらの電探に引っかかる距離に敵航空機が現れたということは、あちら側もこちらを発見できるだけの距離に来ているということだ。

 水面下を行く潜水級からの攻撃を警戒して高速を保ち続ける以上、敵航空機に捕捉されるのは時間の問題だ。

 こちらが見つかるだけならまだいいが、鎮守府に敵の手が伸びては雷の負担が増すことになる。

 いくら防空特化の改装を行ったとは言え、たった1隻で敵航空機すべてを相手にさせるわけにはいかない。

 

「そうは言っても、たった3隻で敵本体を叩くなんて……」

 

 思わず弱音が口から漏れたが、後続の2隻は聴かなかったふりをしてくれたようだ。

 たった2隻で敵艦隊に夜戦を仕掛けた暁と響だ、これしきの状況は難易度の内に入らないのかもしれない。

 

 これから決戦装備を積載したまるゆと合流後、洋上にて装備換装して、敵機動部隊へ強襲をかけるのだ。

 手順は幾度も確認したし、そのうえで想定される事態への対応も頭に叩き込んでいる。

 落ち着いて手順通りに。

 されど臨機応変に……。

 

「――12時の方向より魚雷2! 取り舵急いで!」

 

 響の切迫した声に、阿武隈は思い切り体を背中側、左舷側へ傾けて舵を切る。

 直後、ボードのすぐ横で水面が破裂した。

 水柱がはじけて降り注ぐ中を進み、これはまずいと阿武隈は口元を引き締める。

 今の爆音と水柱で敵航空機にこちらの位置が知られたのではないか。

 そうして見つかれば、本格的に空と海中とで挟み撃ちにされてしまう。

 

「も、もしかして、“ルサールカ”は他の敵艦隊と連携を……!?」

「――ない、とは断言しきれないね。10年前ならばあり得ないで済ますことが出来ただろうけれど、今もそうだという確証はない」

 

 では、それが有り得るという可能性を追加して、作戦を即時見直しだ。

 

「合流地点の変更を要請します! 想定していたポイントよりも、なるべく鎮守府から離れた地点で決戦装備の引き渡しを……!」

『了解なのです。合流地点を更新、座標は各員羅針盤に送信済みなのです!』

 

 変動する羅針盤をちらりと見て、阿武隈は大きく舵を切った。

 足の遅いまるゆに合わせるとどうしても鎮守府に近い地点での合流となってしまうため、敵を惹き付けかく乱する意味も込めて、わざと遠回りしてタイミングを合わせるのだ。

 追って来ている敵潜水級は、依然ソナーの探知範囲ぎりぎりに出現と消失を繰り返している。

 位置を暁と入れ替えた響が爆雷を数弾投射して牽制としているようだが、芳しい手応えは返らない。

 

「響に変わって二番艦になった暁から確認。まるゆと合流後の動きは?」

「まるゆと合流後、阿武隈、暁両名が決戦装備へ換装。響は対潜装備のまま警戒続行。装備換装完了後、あたしの水偵を発艦させて、敵本隊の索敵を行います! 現状の最優先目標は、鎮守府に直接被害を出せる敵空母級! “ルサールカ”と推定される敵潜水級は、警戒・牽制を継続しつつも今回で倒し切る必要はなし! ……ああ、でも、チャンスがあったら確実に仕留める感じで!」

「いいわ、阿武隈。ちゃんと旗艦出来るじゃない?」

 

 暁に不意打ちされてどきりとしたが、動揺はすぐに落ち着けることが出来た。

 自分の判断に支持を得られる感触がこそばゆいが、残念ながら浸っている余裕はまだない。

 

 更新された合流地点へ向かう途中、“ルサールカ”の反応を見失ってひやりとする場面があったが、敵航空機の急接近が動揺する間を与えてはくれなかった。

 敵航空機の姿は、面長の草食動物の頭骨を模したような外観をしていて、機種は偵察機だと暁は断じた。

 腹に抱えている筒上のパーツは恐らく燃料タンクだと推測、長距離を飛行できる厄介なタイプだ。

 たった1機、敵空母へ帰艦せずにこちらへ向かって来たと言うことは、このまま単騎で阿武隈たちの後を着けて、味方の居場所や鎮守府の場所を割り出すつもりか。

 

 そうはさせまいと、再び響と位置を変わった暁が高角砲を撃ち続けるが、高高度を行く敵航空機に命中する気配はない。

 手持ちの高角砲では仰角が取りづらく、仰角を真上にまで上げられる長10センチ砲は換装用装備の中だ。

 そうした牽制も虚しく、高角砲は早くも残弾ゼロ。

 どうせ換装するのだからと、暁は艤装妖精に指示して高角砲をパージ。

 身軽になって先行する艦隊へ合流する。

 

「……着いて来るだけ。攻撃はしてこないのはわかってるけど、不気味で嫌ね」

「敵航空機に頭上を取られ続けて爽快な気分でいられる艦娘がいるのなら、是非とも会ってみたいものだね。きっと正気じゃないよ」

 

 

 

 ○

 

 

 

 合流地点に辿り着いた時、そこにまるゆの姿はなかった。

 ただ、運貨筒が2機、水上に浮いていただけだ。

 

「まるゆ!? まるゆはどこ!?」

 

 まさか伏兵にやられたのか。

 焦りを帯びた阿武隈の通信に、間延びした声はすぐに帰ってきた。

 

『こちら、まるゆでーす。海中に居まーす』

 

 敵航空機を避けて海中に潜航し、そのついでとばかりに海中を警戒していたのだという。

 確かに、と阿武隈は目線だけで空を見やる。

 こうして敵航空機を引き連れて来てしまったのだ、足の遅い潜水艦が水面から顔を出していたら、いい的だ。

 運貨筒が標的になる可能性もあったが、もしもそうなった場合は仕方がない。

 

 まるゆの判断が正解だったことは疑いようもないが、それにしても肝を冷やしたものだと、阿武隈はため息交じりに肩を落としつつも、口元を笑みの形にする。

 

「もう、びっくりさせないでよー」

『すみませーん。今のところ海中に敵影はなしでーす』

「うん。パッシブにも反応なし。阿武隈は早いとこ装備換装を始めようか?」

「阿武隈ー、お先にどうぞー?」

 

 敵航空機の方は暁が、海中の警戒はまるゆが担当してくれているので、こちらは無事換装を済ませられそうだ。

 2機の運貨筒のうち片方、軽巡用の装備が搭載されている方を開放して、作業用の多目的アームを起動させる。

 対潜装備、主に爆雷の残弾を響に譲渡し、お気に入りの腕部固定式の主砲や背部艤装の副砲を次々と装備してゆく。

 砲塔系の換装を終えて、ソナー代わりのヘッドホンを外そうとした時、耳に不穏な反応を捕らえた。

 パッシブソナーが海中から発せられた反応を感知したのだ。

 身に得た感触は、皮下に氷柱を差しこまれたかのような怖気だ。

 

「――まるゆ! 緊急浮上だ! 急いで……!」

 

 ぞっとして身を竦める阿武隈の傍ら、響が叫ぶように通信で呼びかける。

 しかし通信機から聞こえるのはノイズのみで、その代わりとばかりに、パッシブソナーは幾つも反応を拾う。

 海中で幾つもの音が生まれては消える反応。

 まるゆか、もしくは別の何者かが、海中で魚雷を使用したのだ。

 まさか敵潜水級と接触して、交戦状態に入ったのか。

 

 そう考え至った阿武隈は、それが想定していた中で最も悪い事態だと認めざるを得なかった。

 

 

 

 




 ●



 昼間の薄明りがわずかに差し込む海中で、まるゆは水面に対して頭を向けて、姿勢を垂直に立て直していた。
 自分たちの敵の存在を、ソナーによるものではなく、直感によって察知したためだ。
 パッシブソナーは海中を行くスクリュー音を捕らえてはいない。
 少なくともまるゆ以外には、海中で活動している存在はないはずだった。
 しかし、直感は“いる”と告げている。

 透明度0の海中では自分の鼻先ですら目視できない。
 気持ち悪い灰色に濁った海中ではあるが、しかしまるゆは、その海中にあるものの存在を確かに視認した。
 青白い燐光だ。
 己の視線の先、約20メートル以内に2対、不気味な青白い燐光が寄り添うように漂っている。
 いや、こちらを睨んでいるようにも見える。
 深海棲艦の放つ青白い光、眼光。それが2隻分だ。

 海上の阿武隈たちへ状況を知らせようとするのも忘れ、まるゆは青白い燐光に見入っていた。
 目を離せない。
 あれを逃がしてはならない。
 皆の元へ向かわせてはいけない。
 装備換装途中の味方を、敵の攻撃に晒すわけにはいかない。
 そう、敵だ。
 それはおそらくは、鎮守府の皆が“ルサールカ”と呼ぶ深海棲艦、敵潜水級。潜水棲姫。

 まるゆは、敵と邂逅したのだ。




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6話:不可視領域をゆくものは

 

 

 

 敵と邂逅したまるゆは、急ぎ水上の皆へ警戒を促すため通信を入れた。

 しかし、通信機からはノイズが響くだけで、水上とのやり取りが出来なくなっていた。

 今まで好調過ぎるくらいだった通信機がここに来て不調など、どう考えても出来すぎてはいないか。

 考えられる原因は姿を現した敵潜水級だ。

 かの敵が何らかの手段を用いて水上との連絡を断ち切ったのだろう。

 ならば、いち早く敵の存在を知らせなければならないが、どうしたものか。

 手っ取り早くアクティブソナーを打って水上のパッシブに感知させれば良いのだが、そうした場合、敵がどう動くか予測出来なくなる。

 尻尾を巻いて逃げてくれればひとまずこの場は御の字だが、しかしそうならなかった場合、まるゆ1隻では到底対処しきれない。

 

 しかし、やらねばなるまい。

 ここで水上の工程が滞れば、何処かでその帳尻合わせが起こるかもしれない。

 結果、全滅とはいかなくとも、誰かが居なくなる可能性も出て来るのだ。

 それは嫌だ。

 水上の装備換装がどのくらいまで完了しているのかはわからないが、今のところ”ルサールカ“に目立った動きはない。

 ならば、この状態を維持するのが最優先だ。

 水上の工程が次に進むまでいい。

 それまで、“ルサールカ”を足止めするのだ。

 

 

 しかし、ところでと、まるゆは首を傾げる。

 果たして向こうは、こちらの姿をどう認識しているのだろうか。

 それが、敵と相対したまるゆが抱いた素朴な疑問だった。

 海中は鈍色に濁りきって一寸先も見えぬほどの不可視環境だ。

 はっきりと見えていたはずの青白い眼光も今や弱まり、ふと気を抜けば見失ってしまいかねない。

 こんな環境下で活動するとなれば、視覚は退化しているのではないか、そう考える。

 ならば、頼りになるのは視覚以外。

 水の揺らぎや温度を感じ取る触覚と、血肉の香を嗅ぎ取る嗅覚や味覚、そしてソナーの代わりでもある聴覚か。

 予測されるのは、それらすべて。

 全身が生態艤装と言って過言ではない深海棲艦ならば、視覚以外のすべてを鋭敏にしていてもおかしくはないだろう。

 しかし嗅覚や味覚かと考えて、まるゆが思い至るのはサメだ。

 サメは怖いなあ……、などと調子外れなことを内心考えながら、まるゆは艤装のゴーグル横のスイッチをいくつか操作した。

 

 まるゆの本来の艤装は、このゴーグルのみだ。

 スクール水着は伊号潜水艦娘のものを着用して、両腕部には潜水艦の艦首を模した形状の水中用魚雷発射管を装備。

 仮想スクリューの展開装置である脚部艤装は大型化して、予備の魚雷を搭載するための収納を増設。

 そして背部艤装も伊号潜水艦のものを流用して、今回は甲標的・甲を1機マウントしている。

 潜水艦にしてはかなり重装備な方だが、この装備はあくまで味方水上艦に随伴して、雷撃支援を行うためのものだ。

 自らが艦隊戦の主役にはなれないだろうことをまるゆは自覚しているし、もはやそうなろうとも思っていない。

 今すべきことは、こうして邂逅した敵潜水級をここに足止めして、味方に被害を出さないことだ。

 そのためにまず、敵艦の位置を正確に把握し続ける。

 

 艤装ゴーグルの機能は水中で動く物体の音を拾い、それを形に変えて視認出来るというものだ。

 水中にて音のする方向へゴーグル越しの視線を向ければ、そこには動く魚の群れや巨大なクジラなどがコマ送りの形で映ることだろう。

 水上の音をもある程度は拾えるので、訓練時に水面で立ち呆けている阿武隈の尻を狙うのはたいへん容易なことだった。

 実戦となった今にして思えば、第二出撃場で訓練に明け暮れた日々は、本当に有意義だったなと強く頷く思いだ。

 そして、この機能が最も効果を発揮するのは、この深海棲艦の支配海域だと、まるゆは考えている。

 あらゆる生物の存在を許されない海域では、海中であっても等しくその通りであり、今や水中には艦娘か深海棲艦かのどちらかしか存在しえないのだ。

 ノイズとなる音がないのならば、この濁りきった海中でも敵の姿をはっきりと視認できるはずだ。

 そのはずだったのだが……。

 

「……しまった」

 

 まるゆは早速敵の姿を見失っていた。

 例え青白い眼光が消えたところで、このゴーグルを通せば敵の姿もはっきりと視認できるだろうと、艤装の機能を信頼しすぎていたようだ。

 上方、水上へ向かう敵影は無い。

 ならば下方か、もしくは背後に回り込もうとするだろうかと視線を前へ戻した時、まるゆは触れられるほど間近に迫った大きな咢を見た。

 咄嗟に腕部艤装の作業用アームを展開して受け止めるが、衝突の勢いは衰えず、どんどん後方へと流されてゆく。

 巨大な咢の持ち主は深海棲艦、その本体ではない。

 形状としては水上を行く駆逐級に見えなくもないが、水中で活動するまるゆには、この異形の存在がどういったものか、直感で理解していた。

 深海棲艦側の自立稼働型生態艤装。

 その基礎は、まるゆ自らも搭載している甲標的を模したものだろう。

 爛々と輝く青白い眼光を間近に捉え、先に見た二対の眼光の内ひとつが“これ”だったのだと確信する。

 では、本体である“ルサールカ”はどこだ。

 

「いけない……!」

 

 この敵自立稼働型は足止めだ。

 “ルサールカ”はまるゆの動きを封じて、水上に対して仕掛けるための安全確保を行うつもりだったのだ。

 悲鳴を上げる作業用アームで閉じようとする咢を強引に抑え、まるゆは急ぎ、水上の方へ視線を戻す。

 そこに、仮想スクリューも展開せずに急浮上をかける人型を認めた瞬間、まるゆは即座にアクティブソナーを起動した。

 まるゆを中心として全方位に放たれた緩い衝撃で、敵の咢が面食らって離れる。

 その隙にと、背部艤装にマウントしていた甲標的をリリース、浮上する敵影へと突貫させた。

 甲標的の航行距離はそれほど長くはなく、また魚雷の搭載数も2本と微々たるものだが、水上へ向かう敵の足止めにはなってくれるはずだ。

 そうして“ルサールカ”の足止めを甲標的に任せ、まるゆ自らは腕部艤装の魚雷発射管ロックを解除。

 巨大な咢の奥から魚雷の弾頭を覗かせる敵へと、攻撃を開始した。

 

 1発目は敵の発射した魚雷と衝突して炸裂、衝撃波が海中を掻き回して、彼我の距離を大きく開ける。

 咢の主を引きはがしたものの、それでもまだまだ近距離だと、まるゆは2発、3発と雷撃を続けるが、早くも体勢を立て直した敵には、もうかすりもしない。

 敵自立稼働型は大型ながら素早く、そして小回りが利く。

 一度距離を取られると、動きの鈍いまるゆの方が不利だ。

 焦りと恐れで震える腕で敵自立稼働型を追い、こちらに突貫してくる時を待つ。

 そうして敵をぎりぎりまで引き付けて、腕部艤装最後の4発目を発射する。

 直撃こそしなかったものの、魚雷は敵の頭頂部付近で炸裂、咢を持つ巨体は眼光を彩っていた怪しげな燐光が消失した。

 

 まるゆが変な声を上げて見守る中、敵自立稼働型は力を失ったかのように横倒しになり、ゆっくりと浮上を開始した。

 倒したと言うよりは一時的に無力化したようなものだろうかと、まるゆは脚部艤装の収納から魚雷を装填しつつ、荒い息を整えて上方を確認する。

 そこには甲標的と“ルサールカ”が接触した痕跡が“音”として残存している。

 甲標的は魚雷2発を撃ち尽くした後“ルサールカ”の雷撃の余波を食らって出力が低下、緊急浮上して離脱している。

 “ルサールカ”が水上に向かうのを見事阻止して、時間を稼いでくれたのだ。

 水上、装備換装中だった阿武隈たちは作業を終えて、たった今移動を開始したところだ。

 索敵を開始して、敵艦隊の元へと向かったのだろう。

 自分の役割は果たせたのだと、まるゆは安堵と共に一息ついて、そして表情を引き締めてやや上方を見つめた。

 上目使いでも見下す風でもなく、真正面から睨み付けるように。

 

 視線の先には、敵がいた。

 すらりと長い人型の姿。

 長い髪を一纏めにしていて、右耳の近くには髪留めのような装飾が見える。

 身に纏う衣装は海中に生じた揺らぎで裾を翻らせていて。

 腰や背中から幾本か無造作に伸びたコードのような部位は恐らく、先の自立稼働型とリンクして何らかの機能を発揮するのだろう。

 潜水棲姫、個別コード“ルサールカ”の姿だ。

 こうして“ルサールカ”の姿を間近で目にしたのは自分が初めてなのだろうなと、まるゆは息を飲む。

 10年前当時、丸一日中交戦状態だったと証言する響でさえ、この敵の姿を見ることは叶わなかったと言っていたからだ。

 艤装のレコーダは起動状態だ。

 この状況を生き延びて鎮守府に帰還出来れば……、例えそれが叶わなくとも艤装内のメモリが無事なら、正体不明だった海中の敵を検証出来るようになる。

 それだけでも、こうして敵と鉢合わせた意味があった。

 後はもう、この状況からどうにか生き延びるだけだ。

 それが簡単ではないことくらい、まるゆも理解している。

 あまりお利口ではない頭を痛めて、どうにか妙案をと表情を険しくした時、“ルサールカ”に動きがあった。

 まるゆに背を向けて、そのまま移動を開始したのだ。

 

「なんで……?」

 

 てっきり襲い掛かってくると思っていた予想が外れ、危機が去ろうとしていることに全身の緊張がほぐれてゆく思いだ。

 しかし、どういうわけか、“ルサールカ”が遠ざかる程に、頭の中で何かががんがんと不快な音を響かせている。

 所謂警鐘というものかなと頷いたまるゆは、ではどうしてそんなものが頭を割らんばかりに鳴り響いているのかを考える。

 そしてその意味に気付き、自らも急いで移動を開始した。

 敵は去ったのではなく、追跡を開始したのだ。

 “ルサールカ”はまるゆの存在を危険ではないと断じて、移動を開始した阿武隈たちを追い掛けて行ったのだ。

 

 

 

 ●

 

 

 

 仮想スクリューを展開して海中を行くまるゆの頭の中は、次から次へと湧いてくる疑問でいっぱいだった。

 その中で最も比重が重かった考えは、自分は放って置かれたのか、それとも後回しにされたのかだ。

 放って置かれたというのならば、まあ元々が戦闘向きの艦娘ではないとして認めることも出来ただろう。

 しかし、直前にあちらの自立稼働型を行動不能に追いやっていることを、“ルサールカ”が知らないわけがない。

 敵自立稼働型の撃退をカウントに入れていないのだとすれば、あの巨大な咢が浮いて行ったのは燃料切れにでもなったものだろうか。

 そう思った矢先、後方から急速に迫り来る気配を感じて、慌てて身を捻ると同時、右の脚部擬装が巨大な顎に捕らえられた。

 足元から這い上がってきた怖気を振り払うように脚部擬装をパージした直後、推力を生ずる大切な器官は飴細工のように噛み砕かれた。

 敵の自律稼働型は動きを取り戻していたのだ。

 あと少しでも判断が遅れていたら、右の膝から下を持っていかれていただろう。

 

 敵自律稼働型はまるゆにそれ以上の攻撃を加えることなく、先行していた“ルサールカ”に合流、コードのような器官で互いを繋ぐ。

 すると、“ルサールカ”の足裏に展開していた仮想スクリューが消失して、敵自律稼働型のスクリューが巨大化、駆動して海中に大きな揺らぎを生む。

 そうして莫大な推進力を得た敵は、潜水級とは思えないほどの高速で潜航し、まるゆとの距離を大きく伸ばした。

 その速度は魚雷にも匹敵するかと言わんばかりで、まるゆは遠ざかってゆく後ろ姿を睨むことしか出来ない。

 

 あんなもの反則だと眉をひそめたまるゆは、しかし待てと、敵の姿に疑問する。

 あれだけ巨大なスクリューの駆動音ならば、水上であっても敵の接近に気が付かない筈がはずがない、すぐにパッシブソナーに音を拾われて気付かれるはずだと。

 その疑問の答えは敵がすぐに実践してくれた。

 “ルサールカ”はある程度速度が乗ったところで自立稼働型の仮想スクリューを消失させ、自らは咢の主に体を寄せて水の抵抗を抑え、惰性航行となったのだ。

 推力を停止したと言うのに速度がまったく衰えないのは、敵自律稼働型のデザインが水の抵抗を極限まで抑えるような設計されている故か。

 これではスクリュー音がせずパッシブソナーが感知出来ない。

 そして、敵がこの動きを取ったと言うことは、水上艦のソナーの探知範囲に入ったと言うこと。

 水上の阿武隈たちを射程に入れる位置まで、猶予がないと言うことだ。

 

 まるゆはすぐに動いた。

 両腕の発射機構に装填済みの魚雷4本すべて、先行する“ルサールカ”目掛けて放ったのだ。

 直撃が望めるほどの精度はないが、それでもどれか1本でも敵の近くで炸裂すれば、水上の味方に危機を知らせることが出来る。

 果たしてまるゆの運が成せる技か、4本放った魚雷の内2本が“ルサールカ”の後方、高速潜航の余波で生じた揺らぎに当てられ、互いに接触、炸裂して海中に轟音と大きな揺らぎを生んだ。

 驚いたような急な挙動で後方を確認しようとした“ルサールカ”はその直後、海上から降り注いだ爆雷の檻に囚われた。

 魚雷が炸裂した時点で、“ルサールカ”の直上に誰かが居たのだ。

 深度も正確に計算され投射された爆雷が炸裂するかと言うタイミングで、“ルサールカ”は下方に直角にターンして回避行動を取る。

 それでも、炸裂の余波を受けてきりもみしながらの離脱だ。

 

 直撃すればいくら深海棲艦でもひとたまりもなかったろうと考えると、効果の範囲外のまるゆでも息を飲む思いだ。

 まるでサメのような挙動で直下へ消えて行った“ルサールカ”たちを見送ったまるゆは、水上の味方に意図が伝わったことに感涙して密かに拳を握った。

 海上の味方が魚雷の炸裂を感知して、攻撃に転じてくれたのだ。

 装備の関係上、対応したのは響だろうという確信がある。

 全員で足並みを揃えて残ったのだろうかと不安になるが、通信器は未だノイズの嵐で水上との連絡が取れないままだ。

 

 

 狙いを外され回避を選ばされた“ルサールカ”は、目標をまるゆに変更する。

 潜航して体勢を整えた後、先のような加速を生じてまるゆに突貫してきたのだ。

 今度はまるゆが慌てる番だ。

 腕部の魚雷は使いきり、装填は間に合わない。

 他に展開できる武装も搭載していない。

 敵の突貫を回避しようにも、速度の差は歴然。

 先ほど咄嗟に敵の咢を止めた時のようにすることは可能だろうが、今度は“ルサールカ”本体も一緒だ。

 水上の味方はソナーでまるゆが追い付いてきていることを察知しているだろう。

 そうすると爆雷による攻撃はもう出来ない。

 “ルサールカ”が自律稼働型との接続を解除して、巨大な咢が再び迫り来る。

 ひとまず受け止めればよいかなと、迎え撃つように両腕を広げたときだ。

 水上の方から高速で突っ込んできた何かがまるゆと敵自律稼働型の間を横切り、敵の勢いを削いだ。

 魚雷だ。

 まるゆはたった今横切ったものの正体を理解し、そして水上を見上げる。

 そこには、離脱したはずの甲標的が、全速力でこちらに向かって来る姿があった。

 

 魚雷も燃料も尽きた甲標的を海上の阿武隈たちが回収し、応急処置と補給を施した後に送り出したのだと、そう思い至ることは容易だった。

 まるゆの元まで辿り着いた甲標的の搭乗妖精たちは、通信途絶から不明だった水上の様子と阿武隈たちからの指示を伝えてくれる。

 

 ――海上にて妖精たちがまるゆの無事を知らせた後、阿武隈たちは敵艦隊の捜索を開始。

 しかし、響だけは高速巡航形態を解除して速度を落とし、第一艦隊から離脱。

 “ルサールカ”と対峙したまるゆをサポートするべく、単艦残ったのだ。

 そうして響から提案されたのは、水上と海中で連携して“ルサールカ”を倒すための作戦だ。

 現状のまるゆに実現可能なパターンを数十通りと、それを実行した場合の“ルサールカ”の反応パターンをもう数十通り。

 全ては覚えきれないが、その中で一際興味を引く案に、まるゆの意識は釘付けとなった。

 妖精たちの手短な説明を急いで臓腑へと流し込み、まるゆは了承の合図としてアクティブソナーを打って、敵への対応を再開した。

 

 

 

 ●

 

 

 

 海中を引き裂くように突貫してくる敵自律稼働型。

 その咢を、まるゆの予備魚雷を装填した甲標的が迎え撃つ。

 交差、接触、そして雷撃を交えながら、異形の艤装を徐々に海面へと誘導してゆく。

 敵を海面側へ誘導して、響の爆雷で仕留めようという、作戦の内の一案だ。

 敵自立稼働型の方は甲標的に任せておいても大丈夫そうだと、まるゆはようやく、自分が対応している相手に全神経を集中する。

 

 相対する“ルサールカ”が、一部の隙も見せてはくれないのだ。

 最後の魚雷を腕部発射菅へ装填しようとするが、“ルサールカ”からの雷撃を回避するのがやっとで、その隙を与えてもらえない。

 わかってはいたことだが、やはり艦としての性能に差ありすぎる。

 海中という三次元の移動を可能とする領域で、敵艦はあまりにも素早く、そして縦横無尽だ。

 攻撃を回避しながら海上へ誘導しようとしても、常に海底側の位置を取って遠間から仕掛けてくる。

 爆雷の射程に誘導するという狙いは即座に看破されていて、しかし代案を思いつく頭も時間も、そして海上の響と連絡する手段もない。

 時間をかけてどうにかなる問題でもないかと思い至ったまるゆは、響に作戦をもらった時からずっと頭を離れなかった案で行こうと決めた。

 艤装の機能を操作して荷重軽減を数%カット、艤装本来の荷重による潜航を行う。

 

 ふわりと、海中特有の浮遊感が消失し、金属の重さに引きずられるかのように、徐々に潜航速度が上がって行く。

 海上へ引きずり出すのが駄目ならば、逆に海底に引き込んで活路を開く。

 もしも“ルサールカ”が乗って来なくとも、背部艤装に搭載されたフロートで緊急浮上をかければいいし、まだ海面近くには甲標的が健在で、そして海上には響が構えている。

 一定の速度で海面から遠ざかって行く感触にじわりと染み込むような恐怖を覚えながら、まるゆは一瞬だけ、“ルサールカ”と同じ深度で目が合った。

 その表情に驚きや困惑の色を確かに見とめ、密かにしめたと拳を握る。

 敵はこちらの行動に合理性を見つけられなかった。

 性能差はあちらも把握しているだろうし、こうして“下”を取ったところでどうにかなるものか、という思いもあるだろう。たぶん、あるはずだ。

 それがどういうわけか、自ら沈んでゆくこちらの姿を見て、敵は考えるはずだ。

 ――何を企んでいる? と。

 

 初めて深海棲艦と邂逅したまるゆには、彼女たちが……、主に人型の姿をした深海棲艦たちが基本的にどう言った思考回路で動いているのか、わからない。

 しかしそれでも、この“ルサールカ”は追ってくるのではないかと言う、根拠の薄い自信はあった。

 少なくとも、まるゆのこの姿を自滅とみて海上を狙いにゆくようには思えない。

 単艦で活動を続けてきた潜水艦ならば、恐ろしいまでに慎重に立ち回ってきたはずだという、半ば尊敬のような感情を、まるゆはこの敵に抱き始めているのだ。

 だから、きっと追ってくる。

 追ってきた時が勝負だ。

 

 果たして“ルサールカ”は、自らも潜航を開始した。

 まるゆよりも潜航速度を上げて、さらに“下”を取ろうと立ち回るのだ。

 しめたと、まるゆはこの隙に最後の魚雷を装填、“ルサールカ”の位置を見失わないように視認を続けながら、アクティブソナーを打って下方の地形を再確認する。

 地形だ。海底列山と呼ばれる鋭角な海底山脈が、はるか海底に横たわっているのだ。

 30年前の地殻変動で水無月島が隆起したように、この近海の海底も大きく変動しているのだ。

 深度100メートルに満たない地点に足場と成り得る地点をいくつか見付け、まるゆはひとつ頷いた。

 減圧を始め諸々の制御を艤装に任せ、まるゆは“ルサールカ”の足跡を追い続ける。

 まるゆが海底の地形を利用しようとしているのだと、“ルサールカ”は判断したのだろう。

 先んじて海底に到達した“ルサールカ”は、隆起した岩盤に背中を預けるように潜航し、降りてくるまるゆに雷撃の照準を合わせる。

 しかし、今回ばかりはまるゆの雷撃の方が一足早かった。

 “ルサールカ”の進行方向目がけて放たれた魚雷は岩盤を直撃し炸裂、多大な岩と砂とを巻き上げる。

 先のように直角にターンして爆破の余波を危なげなく回避した“ルサールカ”は、まるゆがその巻き上がった砂煙の中に突っ込んで行く様に思わずと言った風に動きを止めた。

 

 いくら岩や砂を巻き上げたところで“ルサールカ”の動きに変わりはない。

 巻き上がった岩や砂の中からより大きな音を感知して、そこに待機していた魚雷を撃ちこむのだ。

 放たれ砂煙を割いて潜航した魚雷はしかし、“ルサールカ”の見立てよりも遠い位置で炸裂した。

 次の魚雷を用意しつつも、“ルサールカ”の挙動はかすかに鈍りを見せた。

 当てが外れたことに、何らかの不安要素を見い出したのだろう。

 それでもやることに変わりはないとばかりに、物音のする地点へ雷撃を続けるが、まるゆに直撃した様子はない。

 物音がするのは確実で、まるゆがそこに居て動いているのは確かなのだ。

 

 ――種を明かせば、“ルサールカ”は当然、水中では視覚が使えていない。

 聴覚と触覚のみで広大な海中の世界を把握して活動しているのだ。

 よって、巻き上がった岩や砂には目くらましの意味などない。

 あくまで目くらましとしては……。

 

 幾度目かの物音で、“ルサールカ”はようやく雷撃の手を止める。

 音が違う事に気が付いたのだ。

 まるゆの艤装の駆動音、仮想スクリューの音ではない。

 艤装の音ではなく、砕け舞い上がった岩がぶつかる音、故意に岩と岩とをぶつける音。

 まるゆが艤装の作業用アームを使って、巻き上がった岩に、そこらの岩を打ち付ける音だ。

 

 魚雷を無駄撃ちさせられたのだと、“ルサールカ”は気付く。

 深海棲艦が用いる燃料や、砲弾、魚雷といったものは、その体内で自動精製される。

 燃料は4割を切ったところで戦闘行動を放棄、弾数は2割程が一般的なところだろうか。

 個体差はあるものの、持てるすべてを空っぽにしてまで戦う艦など存在しない。

 少なくとも、姫級や鬼級といった、下級種に指令を出すような個体の命令がない限りは。

 そして、“ルサールカ”は姫級。上位種から命令されることなく、自ら思考して活動している。

 当然、魚雷の弾数管理も自ら行っていて、戦闘の続行・放棄の判断をも自らの領分の内だ。

 “ルサールカ”の魚雷、その残数はすでに戦闘放棄する領域をはるかに下回っている。

 燃料もすでに危険域に達していて、本来ならば戦闘放棄している頃であるはずだった。

 

 戦闘を放棄しなかったのは、10年間この海域に留まり、戦闘行動を取らなかったがゆえに感触が鈍ったせいか。

 あるいは、同じ海中と言う領域での戦闘になってしまったため、――まるゆが離脱せずに食い付いて来たためか。

 こうしていつの間にか自らが追い詰められていることを自覚した“ルサールカ”は、砂煙の中から何かが飛び出してくる様を感知する。

 また岩なのかと、“ルサールカ”はそう判断しただろう。

 まるゆのように音を映像に変換出来ない“ルサールカ”には判別が付かないのだ。

 飛び出して来たものが岩ではなく、まるゆが装備していた腕部艤装、駆動を完全に停止したものだったとしても。

 速度は緩やかで回避は容易、そう判断した“ルサールカ”は直後、腕部艤装がもうひとつ、高速で突っ込んで来る様を見る。

 迫る緩急ふたつの腕部艤装に気を取られた直後、同じように高速で突っ込んで来たまるゆに、“ルサールカ”の対応は大きく遅れる。

 何より突っ込んで来たまるゆが両腕を前に突きだし、ゴーグル奥の双眸は固く閉じられ「ふわあああ!」と悲鳴を挙げながらの突貫で、もう自棄になっているような雰囲気を“ルサールカ”も感じ取れた程だ。

 “ルサールカ”の回避も左右に退けるようなものではなく、思わず背を向けての全力逃走の形となってしまい、それが命運を分けた。

 “ルサールカ”の速度が乗る前に、その背から伸びたコード状の部位を、まるゆがむんずとつかんだのだ。

 最高速度に達する前とは言え、それなりにスピードが乗った状態で急制動をかけられれば体勢は大きく崩れ、立て直すまでにわずかな間が生ずる。

 まるゆはその隙に、艤装を解除してフリーになった両腕を“ルサールカ”の首に巻き付けた。

 そうして仕掛けるのは、雷仕込みのチョークスリーパー。

 決して解けぬようにと全力を込めて、左足のみの仮想スクリューで直進。

 海底に身を擦り付けるようにして目指す場所は、数十メートル先の海溝だ。

 潜航時にソナーで確認していた海溝へ誘導する所まではうまく行った。

 魚雷を無駄撃ちさせて、こうして接触距離まで接近することも。

 ここまでくればもう己の領分だと、まるゆは確信している。

 “ルサールカ”を掴んだまま安全深度を超過して、水圧で押し潰す。

 

「荷重軽減100%カット! ――急速、潜航!」

 

 海溝の闇の奥へと潜航する。

 我慢比べの時間だ。

 

 

 

 ●

 

 

 

 海底に頭頂を向けて、真っ逆さまに落ちてゆく。

 艤装の荷重軽減をすべて解除したとはいえ、身に残る艤装は背部と左脚部だけであり、重量としては先ほどの潜航時よりもむしろ軽くなってしまった程だ。

 加えて推進力も半減しているし、燃料の残りもわずかだ。

 しかし、燃料の残りが心許ないのは向こうも同じだと、まるゆは腕に込める力を緩めないようにと必死になる。

 チョークをかけて拘束している“ルサールカ”は、まるゆの腕の中で暴れ続けているのだ。

 懸念は深度か燃料か、それともエアーの残量か。

 死に物狂いで暴れ続ける“ルサールカ”に、まるゆはこの手段が正解だったのだと確信を得る。

 しかし、この姿勢を維持し続けるには限界がある。

 “ルサールカ”の体表と接触しているまるゆ腕、その皮膚がずたずたに引き裂かれ、出血が始まったのだ。

 深海棲艦の体表は所謂サメ肌というもので、鑢状になっている肌は剃刀と同等以上の鋭さを持つ。

 加えて、もがく“ルサールカ”がまるゆの腕に爪指を立ててひっかき続けるため、両腕の体積が時間と共に確実に減って行くのだ。

 チョークが解けることはないが、それよりも腕が引き裂かれ、断たれる可能性が出てきた。

 肉体へのダメージはそれだけでは済まない。

 自らも仮想スクリューを展開した“ルサールカ”は、強引に進行方向を曲げて海溝の壁にまるゆを叩き付け、押し付け擦り付けるように力をかけ続ける。

 背部艤装への深刻なダメージをゴーグルの表示が知らせ、徐々に機能を損なってゆく。

 喉の奥から血の香が昇って来ているのは、艤装のどこかが破損して、破片が体内に入り込んだからか。

 自らの限界が近いことを自覚しながらも、まるゆは早く落ちろと念じ続け、深くへと行く。

 

 ――勝負が決したのは、まるゆにとっての限界深度を超過して、しばらく経った頃だ。

 “ルサールカ”の体から力みが消えて、まるゆの拘束を引きはがそうともがいていた腕が、力を失ったのだ。

 仮想スクリューも消失してはいるが、まるゆはまだ拘束を解けない。

 自立稼働型が死んだふりを決め込んでいたこともあり、生死の判定に確信が持てないのだ。

 接触した肌はずたずたに裂けて、一番深い裂傷は骨まで達しているが、それでも“ルサールカ”の音を伝えてくれる。

 生態艤装の機能はそのほとんどを停止して、徐々に心音の間隔も空いてゆく。

 まだ息はあるものの、この深度から急速浮上するだけの燃料も時間も、もう“ルサールカ”には残されていない。

 そう判断したまるゆは、ゆっくりと“ルサールカ”の首に回した腕を解いた。

 

 ゆっくりと滑り落ちるように、脱力した“ルサールカ”の体が海溝に飲み込まれてゆく。

 落ちてゆく敵を、まるゆは息を荒げて見送る。

 怪しげな青白い燐光はもう弱々しく明滅するだけで、あれだけ殺気を放っていた眼光も消えてしまいそうで。

 その敵の目が、まるで泣いているかのように見えてしまい、まるゆは思わず手を伸ばしてしまった。

 

 彼女を抱えて浮上して、皆になんて言われるだろうか。

 例え敵でも助けたいと言った皆の言葉に嘘偽りがあるとは思えなかったが、それでもこの仇敵を前にしてはどういった顔をするのか、まるゆにはわからない。

 しかしそれでも、助けたいとまるゆは思ってしまった。

 彼女が海の底で死にたいと思っているかどうかなど知らないし、陸に挙げられることを屈辱と思うかもしれない。

 

「でも、こんな暗くて寒いところに、おいていけない……!」

 

 海中にひとり取り残されるのはきっと寂しいはずだ。

 少なくとも自分ならと、まるゆはそう思う。

 だから、助けるのだ。

 力を失った“ルサールカ”の腕は、海上の光を求めるかのように伸ばされている。

 自分の掌がずたずたなのも厭わず、その手を掴む。

 力強く、決して離さないように。

 そして、残った背部艤装と脚部艤装をパージ。

 艤装核を含め、最低限の生命維持機能を残して身軽になり、緊急浮上用のフロートを展開した。

 浮き輪状のフロートが急速に膨張し、まるゆと“ルサールカ”の体を海上へと引っ張り上げる。

 体内の圧力の調整は艤装に任せ、まるゆは手を離さず海上を睨み続ける。

 険のあった表情はしかし、耳に届く音で徐々に明るくなってゆく。

 “ルサールカ”の機能が停止しかかっているせいか、通信が回復して鎮守府や響たちと連絡が取れるようになったのだ。

 

 阿武隈と暁が無事に敵空母を発見、撃破したこと。

 響と合流した雷がアンカーを下ろし目印として、そこまで辿り着けば、後は水上の方で引っ張り上げてくれるらしいこと。

 そして鎮守府からは提督や電がまるゆを気遣う声が、次々に届いてくる。

 皆無事なのだと、嬉しくなって涙ぐんで、早く海上へと手を伸ばしてアクティブソナーを打ったまるゆは、件のアンカーをゴーグル越しの視界に捕らえる。

 これで帰れる。

 そうして一安心といった心地になった時だ。

 背部艤装が致命的な音を立てて、フロートの浮力が消失した。

 海溝の壁に激突した時に負ったダメージは思いの他深刻だったようで、ゴーグルに送られてくる損害情報はどれも絶望的なものだ。

 ここまで来たのにと、焦りを帯びて必死に手を伸ばす先、真っ赤な警告表示で埋め尽くされていたまるゆの視界にひびが入った。

 圧の調整を行っていた機能が破損して、水圧が一気にまるゆの体を押し潰したのだ。

 肺が潰れ、体内に残っていた空気全てを吐き出しながら、せめて彼女だけはと“ルサールカ”を引き上げようとするが、握っていた手の感触すらもう怪しくなっている。

 

 

 ――意識を手放したまるゆの体は、“ルサールカ”と共に沈降を開始した。

 

 

 



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波間④

 

 

 

 アンカーを引き上げまるゆを回収した雷は、響が先ほどから心ここに非ずと言った相で空を見上げていることに、今さらながらに気付く。

 大切な仲間を放って置いて、気を取られることなどあるものかと、何かきつい一言を見舞ってやろうと口を開きかけた雷はしかし、響と同様に視線を空に奪われてしまう。

 そこには、10年間目にすることのない光景があった。

 

「青い空……」

 

 不気味で分厚い雲が晴れて、その向こうの空が顔を覗かせていたのだ。

 提督の言ではないが、空の青い色を見たことがなかったかのような衝撃を雷は受けた。

 恐らくは響も、そして水無月島鎮守府の面々も同じことを考えているだろうと、不思議とそう確信できた。

 

「ねえ、まるゆ。見える? 空……」

 

 意識の無いまるゆに語りかける雷は、笑みを浮かべながらもわずかに顔を曇らせる。

 フロートで浮上していたまるゆは、その途中で艤装が破損、浮力を失って海底へと沈んでゆくはずだった。

 それが、海中で起こった爆発によって浮力を得て、回収用にと投下したアンカーにぎりぎり引っかかって、こうして生還を果たした。

 症状としては重篤だが、一命は取り留めた。

 しかし、目を覚ました時、まるゆがどんな顔をするだろうかと想像すると、雷はつらくなるのだ。

 

 まるゆは、自分が倒した敵を救おうとした。

 救おうとして、それが出来ず、逆に敵に救われたのだ。

 まるゆとの通信が途絶えてすぐ、響のソナーが水中での炸裂音を探知している。

 恐らくは魚雷が炸裂したものだと思われるが、まるゆの残弾は尽きていたはずだ。

 響の見立てでは、“ルサールカ”の搭載していた魚雷がなんらかの原因で爆発して、その余波でまるゆがアンカーまで押し上げられたのだと推測していた。

 その推測に、なるほどと、雷は頷かん思いだ。

 しかし、果たして本当にそうだったのかと、勘ぐる気持ちもあった。

 

 雷は自分の中の推測を、あり得ない話ではないと、そう思いたかった。

 “ルサールカ”は、自らを救おうとしたまるゆの命を、尽きるばかりだった余力で救ったのではないかと。

 回収されたまるゆは、あるものをその手に握っていた。

 歪曲した金属の、髪飾りのようなもの。

 それがソナー、艦娘の艤装であると、雷は確信を得ていた。

 響に意見を求めたところ、苦い顔と共に同意が得られてしまった。

 

 何故“ルサールカ”が艦娘の艤装を身に帯びていたのか。

 その答えは、鎮守府に帰還すればおのずとわかるはずだ。

 敵艦隊を撃破した阿武隈と暁は、回収できるだけの艤装核を曳航して、すでに鎮守府へと舵を取っている。

 こちらもまるゆと、艦首が損壊し機能を停止した敵自立稼働型を響が曳航する準備に入っている。

 頬に潮風を感じ、徐々に足元が波立って来る感触を確かめて、またひとつ確信を得る。

 深海棲艦の支配海域にて、歪曲していた物理現象が正常化されたという事実。

 それは、海域の支配者であった深海棲艦の効力が損なわれたと言うことだ。

 鎮守府近海に影響を及ぼしていたのが“ルサールカ”だったのだとすれば、彼女の死は確実となる。

 

 敵でも死は悲しいのだ。

 多くの仲間の命を奪った怨敵であったとしても。

 10年経っても、この感情だけは変わらなかった。

 自らもちゃんと戦えるのだと喜んでいた気持ちが霧散してゆくのを感じた雷は、目元を拭って移動を開始した響に続いた。

 

 

 結局のところ、この青空が維持されたのは時間にしてほんの数時間程。

 時間と共に再び分厚い雲が覆うのは、新たな姫・鬼級の敵が支配領域を広めんとして移動を開始したからだろうと、そう思い至ることは容易だった。

 事態が好転したのか否かは、この時点では誰にも判定を下すことは出来ない。

 それでも、駒を前に進めた感触だけは、誰の中にも確かに残った。

 

 

 



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7話:彼女たちに残された時間は

 

 

 

 まさか、またこうしてカレーライスが食べられるとは思っていなかったなあ、と。まるゆは医務室のベッドの上で、目を細め、それどころか表情を緩ませながら合掌した。

 “ルサールカ”と接触し交戦して相討ちとなった後、響、雷両名によって回収され、まるゆは無事鎮守府に帰投。即座に入渠ドックにぶち込まれている。

 肉体の損傷はその日の内に完治したが、その後2日ほど寝込んで、昨日ようやくお目覚めとなった次第だ。

 まるゆが目を覚ました時、鎮守府の誰も彼もが医務室のベッド脇にそれぞれ突っ伏していて、その光景に思わず涙が滲む思いだった。

 

「で、目を覚まして開口一番が“カレー食べたい”で、皆ずっこけさせてくれたもんね。もう」

 

 そう口を尖らせる雷だったが、表情には安堵がある。

 まるゆが目覚めるまでの2日程、カレー作りながら悶々としていたであろうことは容易に想像がつく。

 心配かけてしまって申し訳ないなと思う反面、こうして曜日関係なくカレーが食べられるなら毎度負傷してもいいかな、などと、口に出したら雷を落とされかねないことを考えてしまうのだ。

 無事に帰還できたからこその考えだが、そうして一息ついて思い出すのは、自分が離してしまった白い手のことだ。

 

 そうして表情を消して物思いに耽ってしまうと、雷はお代わりはどうかと勧めてくる。

 今は、先の戦闘のことを考えなくてもいいのだと、暗に言われているようで、申しわけない気持ちになってしまう。

 帰ってきたら雷のことを散々甘やかしてやろうと考えていたまるゆだが、やはり筋金入りの甘やかしには敵わないなと思い知らされる。

 ただ人を甘やかすだけでなく、弱っている者にどんな言葉が必要なのかを、ちゃんとわかっているのだから。

 

 響が医務室にやって来たのは、まるゆが2杯めをぺろりと平らげて一息ついた頃だ。

 雰囲気から、どうやら深刻な話が始まるのではと身構えるまるゆに、響は言いにくそうに告げる。

 

「“ルサールカ”の髪飾りから、かなりの情報を仕入れることが出来たよ。驚いたことに、まるゆとも無関係ではなかったんだ。……聞くかい?」

 

 まるゆの答えは最初から決まっていた。

 

 

 

 ○

 

 

 

 髪飾りの持ち主はトラック泊地所属の潜水艦娘、伊168。通称イムヤだと判明した。

 彼女の任務は水無月島とトラック泊地との輸送ルートを往復するもので、響たちも幾度か顔を合わせたことがあったのだという。

 そのイムヤの髪飾りを、艦娘の艤装を何故“ルサールカ”が身に着けていたのか。

 

「艤装のレコーダが奇跡的に生きていて、多くのことがわかったよ」

 

 10年前のあの日。

 水無月島の残存戦力が最後の戦いに向けて出撃したあの日。

 イムヤはたったひとり、海中にて“ルサールカ”と邂敵していた。

 出撃した水無月島艦隊に狙いを定めていた“ルサールカ”に対して、イムヤは半ば不意打ち気味に先制攻撃を仕掛け、海中にて交戦となったのだ。

 水中戦は長時間に渡ったが、双方燃料も魚雷も残量ぎりぎりとなったところで、イムヤが“ルサールカ”に致命傷を負わせ、とどめを刺した。

 生態艤装の機能を失った“ルサールカ”が黒い泡と化しながら海溝へと沈んでいゆく光景を、イムヤは苦しげな声で記録に残している。

 

 そこまでを聞いたまるゆは、困惑の表情を浮かべることしか出来なかった。

 隣りで付き添っていた雷も同様で、しかし、何かしら思い当たる節があるのか、口元に手を当てて黙り込んでしまう。

 “ルサールカ”は10年前当時に、すでに討たれていた。

 では、まるゆが対峙したあの“ルサールカ”は、“誰”だったのか。

 その答えが想像に難くなかったためか、まるゆは響の言葉を落ち着いて聞き続けることが出来た。

 

「イムヤはこの鎮守府にて“あること”を成した後、自らの肉体に起こり始めた変化を、克明に記録に残している。自分の体から色が抜け落ちて、そして鑢のように鋭くざらついてゆく様を、声が続く限り記録し続けたんだ」

 

 イムヤは自らの体が深海棲艦のように変化してゆく様を、涙ながらに記録し続けた。

 記録は一度そこで途切れ、再びレコーダの機能が再開されたのは、ほんの1ヶ月ほど前。

 暁と響が、開発資材の奪取を目的として、夜間出撃した日だ。

 

 艦娘の深海棲艦化に関しては、10年前当時でもいくつか噂が立っている。

 噂、と言うのは、少なくとも水無月島鎮守府の艦娘やスタッフの中には、その実物を目にした者がいなかったからだ。

 戦いに不満や不安を抱く艦娘やスタッフが口にした話に尾ひれがついたもの。

 いつしかそう言われるようになっていたのだが、こうして音声記録にて証拠が出てしまったと言うことは、どこかの鎮守府でも症例が確かにあったのだろう。

 ただ、正式に記録が残されなかっただけで……。

 

 まるゆは、それらの話にひとつひとつ頷き、しかし別のことが頭から離れなかった。

 彼女が深海棲艦となってしまった事実に関しては、すでに彼女と対峙して戦ったという実感を持って納得している。

 ショックを受けていないわけではないのだが、しかしそれでも、心をかき乱さんばかりに気になることが他にあるのだ。

 

 

「あの、聞いてもいいですか?」

 

 おずおずと、遠慮がちに挙手をして、まるゆは発言の許可を求めた。

 首肯ひとつして発言を促す響に、まるゆは言い辛そうに口ごもりながら、苦しさを吐き出すように言葉をつくる。

 

「イムヤさんが鎮守府でしていた“あること”って……」

「艦娘の建造、その立ち合いだよ。イムヤは“ルサールカ”を倒した後鎮守府に退避して、空襲を受ける鎮守府内を生存者を探して駆け回ったんだ。そして、火の手が回る中、重傷を負ってもう長くはなかった武藤提督代理を見つけて、共に大和型戦艦の建造を、その承認に立ち会ったんだ」

 

 即ち、ここにいるまるゆの建造に立ち会った艦娘が、“彼女”だったのだ。

 今まで建造の立ち会い者がわからなかったのは、イムヤの艤装が変質して誤作動を起こしたか、もしくは艤装にかけられているリミッターが外れたかしたのだろうというのが響の見立てだ。

 

「……まるゆ、二度もイムヤさんに助けられたんですね」

 

 そう小さく呟くまるゆは、目を伏せて両手を、掌を見つめていた。

 

「冷たくて痛かったけど、絶対に離すもんかって思ってたのに……」

 

 顔を上げて見えるのは、沈痛そうな響と雷の顔だ。

 心配などさせたくはなかったが、どうしても問わずにはいられなかった。

 

「まるゆは、助けられなかったんですね……?」

 

 すぐに雷が「違うわ!」と叫び、もうそれ以上言うなとばかりにまるゆを抱き締める。

 自分の不足を嘆くまるゆに、雷はずっと「違うのよ、そうじゃないの」と、涙声で説き続けた。

 先に泣かれてしまったことで、まるゆはようやく、自分が泣きたかったのだと思い至る。

 しかし、出撃前に雷を散々甘えさせてやろうと誓ったばかりではないかと、努めて笑おうとして。

 そうして強がって見ようとはするが、結局は自らも眼窩から溢れてくる熱を抑えられなかった。

 

 

「彼女を助けられなかった。そう決めつけるのは、早計かも知れない」

 

 響がそう口を開いたのは、ふたりが一応の落ち着きを取り戻すのを待ってだ。

 

「“彼女”の撃沈は確実だ。私たちはその証拠を、この目で見ているからね。しかし、ならば、だ。まるゆは何故、イムヤの時のように深海棲艦にならなかった?」

 

 確かにそうなる可能性もあるのだろうなと、まるゆはどこか他人事のような心地で自分の体をまさぐった。

 今のところ苦しいとも痛いとも感じていないし、雷が診察した結果も健康体そのものだ。

 艤装核にも問題はなく、再び出撃することも充分可能。

 では、イムヤが“ルサールカ”となった事例と、何が相違しているのか。

 

「確証が得られない推測は脇に置いて、単純に本体が死んでいないから、という考え方も出来るのではないかな」

「待って響。それじゃあ、あの青空は?」

「私たちが想像しているものとは違う現象なのかもしれない。そもそも相手は、元艦娘とは言え深海棲艦だ。一度死んで蘇る、なんてことがあるのかもしれない。それに……」

 

 彼女が生きていると判断する上で、重要な根拠がもうひとつある。

 そう響が告げるのを、まるゆは期待を込めるような眼差しで聞き入っていた。

 

「私たちが鹵獲した敵自律稼働型。どうやら、完全に機能を停止していないみたいなんだ」

 

 

 

 ◯

 

 

 

 先の戦闘時に撃破した敵自律稼働型は響の手によって拿捕曳航され、鎮守府第二出撃場に拘束されていた。

 医務室からやって来た一同は、先に作業していた提督たちと「水揚げされた巨大魚」にしか見えない敵機の姿を、何とも言えない表情で眺めるしかできなかった。

 その敵自律稼働型の変化に気付いた雷が、「あ」と短く声を上げる。

 

「破損箇所、直ってきてない?」

 

 まるゆには撃破時の損壊具合はわからなかったが、他の面々の話を聞くに、敵自律稼働型はここ2日の間に自己修復を行っているということが判明したのだ。

 

「自己修復だけじゃない。疑似燃料や魚雷も自動精製が始まっているから、兵装区画を解放状態にして、燃料のブローと精製途中の魚雷を摘出するのを繰り返しているところさ。今はたいした速度じゃないけれど、本体の修復状況に応じて武装面の生成速度が上がらないとも限らない。それに、連装砲ちゃんたちの見立てによると、断続的に信号の様なものを受信しているらしいんだ」

「信号? それって……」

「“彼女”か、それとも別の個体から発せられたものか。これも確証が得られる答えには辿り着けないけれど……」

 

 言葉を止めた響は、困惑したような顔のまるゆを見やる。

 

「まるゆは、どういう風に信じたい?」

 

 どう信じるか。

 それは、事実を突き詰めるのではなく、あってほしい可能性を夢想することだ。

 この鎮守府の暁型の彼女たちにしては珍しい物言いだなと思いつつも、まるゆはその考え方が嫌いではなかった。

 決して楽観しろとは、そして、その考えに固執しろというわけではない。

 “彼女”の生存は絶望的であり、例え無事だったとしても、再び敵としてこの鎮守府の行先に立ちふさがるかもしれないのだ。

 そうなれば、涙を飲んで再び戦うのだろうなと、まるゆは己の中にぶれない軸を見付ける。

 この鎮守府の、自分たちの行先に“彼女”が立ち塞がるというのならば、攻撃することも、再び沈めてしまうだろうとも考えている。

 今度こそは、まるゆの方が沈められる可能性が高いのだとも、充分に自覚している。

 ただ、それでも、ささやかな夢に希望を見出してもいい。

 響はそう言ってくれているのだと知って、まるゆはようやく、胸中の靄が晴れる思いだった。

 

「“彼女”は生きているって、思います。それで、今度はきっと、ちゃんと手を繋げられたら、いいな……」

 

 

 

 ○

 

 

 

 さて、現状の再確認をしなくてはならないなと、提督は心地よいゆるみが生まれ始めた艦娘たちを眩しそうに見て、密かに息を正した。

 今回の戦いで得たものは多い。数えきれないほどだ。

 “ルサールカ”を討った影響によるものと思われる支配領域の一時的解除は、敵艦、姫・鬼級といった支配能力を持つ個体を倒せば海域を取り戻せるであろう根拠を確実なものとした。

 そして、分厚い雲が一時的に晴れたことによって、10年間閉ざされていた外界との通信が、ほんのわずかな時間ではあるが、回復したのだ。

 妖精たちの手によって修理された通信器からは、酷いノイズ交じりのものではあったが、外界からの声を確かに届けてくれた。

 

 こちらの声を受信したのは、北方は熱田島泊地所属の秘書官・大淀だった。

 向こうの提督と直接の言葉を交わすことこそ叶わなかったが、「必ず救出に向かう」という言伝を、提督も電も確かに耳にした。

 分厚い雲が再び空を覆い、ノイズ交じりの通信が途切れてしまった途端、電が感極まって泣き崩れてしまった姿に、提督も思わずもらい泣きしそうになってしまった。

 燻り耐えた彼女たちの10年が無駄ではなかったと、初めて報われたのだと思うと、提督は我がことのように嬉しかったのだ。

 

 

 一瞬だけ取り戻した青空の恩恵は、これだけではない。

 “海軍”本部から人工衛星を経由して、工廠関連のソフト更新が行われたのだ。

 空が陰るまでのわずかな時間、更新出来た項目はわずか数%ではあったが、それでも近代化改修をはじめとした艤装関連のデータは、これからこの海域で活動する彼女たちにとって有益なものだった。

 通信器等の設備を修理した妖精たちを盛大に褒め称えたいところだったが、しかし釈然としない点がひとつだけ残る。

 海域の支配が一時的にでも解除されると想定していなかったわけではないが、その可能性は限りなく低いだろうと踏んでいた提督たちは、通信設備の復旧を後回しにしていたのだ。工廠関連の受信機も同様だ。

 例え直っていて万全の状態だとしても、こんな敵支配海域の真っただ中では意味がない。

 そもそも脱出を最優先に考え、この鎮守府を放棄するつもりだったのだから、余計な手間は無い方が良いだろうとも思っていたのだ。

 

 その通信器や受信機がどうして万全の状態に整っていたかと言えば、提督たちの指示なしに、手すきの妖精たちが勝手に仕上げてしまっていたからだ。

 妖精たちの気まぐれゆえに起きた幸運かと提督は最初思ったが、よくよく観察して見ると、半分正解、半分ハズレといったような感触を得ている。

 提督や艦娘たちの願い通りに仕事をこなしてくれる妖精たちが大半ではあるが、それでもほんのわずかな数は、それらの仕事をサボっている姿が見られている。

 そして、そのサボっている妖精たちが何をしているのかと言うと、概ねその辺でゴロゴロしているだけなのだが、時折未着手の設備を弄り始めることがあるのだ。

 今回の件はそういったサボり組が成していた仕事であり、結果こうして事態が好転してしまったため、釈然としないながらも「ま、いっか」と、皆苦笑いで納得した。

 響などは蟻のような群体に見られる数の法則を解いていたが、それを聞き付けた妖精たちに甘いものを要求されて追いかけ回される有り様だった。

 

 また、試験起動状態だった連装砲たちが、非常事態モードで再起動を果たしている。

 工廠のソフト更新と時を同じくして、パスワードのロックが強制解除されたのだ。

 そうして再起動し、わずかながらアップデートを果たした連装砲たちは、友軍のものと思われる救難信号を複数受信している。

 受信した救難信号の内のひとつは、水無月島鎮守府所属の艦娘が装備していた自立稼働型連装砲から発せられたものであり、暁たちを大いに驚嘆させた。

 もしかすると、10年前当時に沈んでしまったと考えられていた仲間がまだ存命で、友軍の救助を未だに待ち続けている可能性が出て来たのだ。

 すぐにでも救出に向かいたかったが、発進地点が敵地のど真ん中と想定されていたりと問題が多い。

 あるいはこれが敵の策かもしれないと考え始めると、どうしても手持ちの情報が足りないことを認めざるを得なかった。

 救難信号の発信地点を調査するためにも、引き続き出撃して情報収集にあたる必要があるのだ。

 

 熱田島の提督が告げた言葉を、信じていないわけではない。

 だが、救けが来るまで何も行動を起こさず待ち続けているだけと言うのは、暁たちにも、そして提督にも出来ることではなかった。

 もちろん、自分たちが動いたせいで情勢が悪化する可能性もあるとは、充分に承知している。

 それでも、今助けられる距離にいる仲間を見捨てて置くことなど、出来るはずがなかった……。

 

 

 

 ○

 

 

 

「艦娘の数が足りないわ。脱出するだけなら現状の面子だけで何とかなるかも知れなかったけど、誰かを助けに行くなら、もっと仲間が必要よ」

 

 そう、暁が苦い顔で言うのを、提督は黙して聞く。

 いつもの定例会議、深刻そうな顔で告げる暁に、姉妹たちはわずかに驚いた様子だ。

 脱出から捜索・救出へと舵をきるのならば、確かに人手が足りない。

 それは皆実感しているし、これから先ますますその実感を新たにしてゆくだろうことは、想像に難くなかった。

 しかし、それを承知の上でも判断を急ぎ過ぎではないかと、提督ですらそう感じたのだ。

 特に、阿武隈などは自分の存在だけでは不満かと臍を曲げかねないなと皆危惧していたが、意外なことにその阿武隈も艦娘の建造に賛成だった。

 

「初の実戦を経て、手が足りないと、そう感じたかい? 阿武隈」

「そうじゃないんですけど……。いえ、手が足りないなって言うのは、確かにその通りなんです。でも、鎮守府近海くらいの敵艦隊なら、あたしと暁でも何とか出来ました。奢ってるわけじゃないですけど、自分たちが決して弱くはなんだって、あたし的には、そう実感しました。でも……」

 

 実戦を経て己の練度を実感したからこそ、これから相手にするかもしれない敵に通用するのかと言う不安が湧いてくる。

 それが、阿武隈が艦数を揃えたいと進言した理由、そのひとつだった。

 

「……今回だって、もう数隻多ければ、まるゆのサポートだって、鎮守府の警戒だって安全に出来たはずだと思います。もし、敵の編成にいたのが軽空母級じゃなくて正規空母級だったら……。あるいは戦艦級、もしくは姫・鬼級が控えていたとすれば……」

「判断が結果的に功を奏したから良かったものの、もしどこかで間違えていたら、って。そう、考えているのかい?」

「あ、いえ! 提督の判断に不満があったわけではないです! それは本当です! でも……」

 

 阿武隈は慌ててそう弁解して、そして俯いて、押し黙ってしまう。

 

 あの最悪の展開を、もちろん想定していなかったわけではない。

 しかし、いざそうなった時、阿武隈は頭の中が真っ白になって、身動きが取れなくなってしまったのだ。

 見かねた暁が指揮を代わろうとした時、動向を見守っていた提督がようやく口を挿み、そこからの指示はすべて提督が出している。

 その結果はご覧の通り、艦娘たちは1隻も欠けること無く、こうして会議室のソファーに落ち着いている。

 

 結果が良かっただけだということを、提督は自覚している。

 自分の下した判断で、誰かが居なくなるかもしれない。

 そう実感したからこそ、阿武隈は怖くなって、あの場で動きを止めてしまったのだ。

 そして、それを悔いている。

 提督に指揮を任せてしまったことを、悔いているのだ。

 指揮は提督の領分とは言え、この未熟な青年提督に負担をかけまいと決めていたにも関わらずだ。

 当の提督としては、そういった責任に関する分野をもっと任せて欲しいと思うのだが、それでは阿武隈の気が済まないらしい。

 

 阿武隈は自分と同じような、水無月島の戦力としての艦娘を求めた。

 脱出するためだけではなく、仲間の救出を視野に入れての提案だ。

 現状出撃できるのは電を除く5隻で、そのうち雷とまるゆは高速航行が行えないため、遠洋に出るには実質3隻での行動が多くなるだろう。

 これは“ルサールカ”を討つ前と変わりはない。

 しかし味方の救出となれば、交戦を避けられない場合の方が多くなるかもしれない。

 阿武隈が言ったように、現状の戦力では到底太刀打ちできない敵にあたる可能性も充分あり得るのだ。

 

 しかしその他にも、暁と阿武隈が建造を急ぐ理由があるのだなと、提督は察していた。

 

「よし。建造しようか。仲間を増やそう」

 

 あまりの即断に、電たちはおろか、建造を進言した暁と阿武隈も驚いて目を見開いている。

 阿武隈を建造した時のような逡巡や躊躇いは、もう提督にはない。

 自らが建造した艦娘に、「よくもこんな過酷な環境に産み落としてくれたな?」と恨まれる覚悟は、もう済んでいるのだ。

 

「いいの? 司令官」

「ああ。戦力増強を提案するということは、艦娘の数が揃えばもっと多様な手段が取れるということだよね? 皆の生存率も、仲間を救出できる可能性も、格段に上がるはずだ。そのための計画、案を、僕に教えてくれるかい?」

 

 もちろんだと即答した暁の声は上ずっていた。

 それを過剰に気に掛ける阿武隈の姿を見て、提督は自分の推察に確信を得る。

 焦りだ。時間を気にするが故の焦り。

 暁たちが海上で戦える時間、そのリミットを鑑みてのものかと思ったが、すぐに違うなと考えを改める。

 今回の出撃で敵艦隊と交戦した暁と阿武隈、そのふたりが同じく内包する危惧だ。

 

 

 その危惧の正体を、提督はすぐに聞くことが出来た。

 暁が、提督とふたりで話がしたいと言って、定例会議の後すぐに、他の面々を執務室から締め出したのだ。

 様子がおかしいと感じていた面々はそれを素直に承諾し、一言の文句も無く執務室を後にする。

 皆、提督に向けて、目で「頼んだ」と信頼を寄せた意志を示し、特に阿武隈のそれは人一倍切実だったようにも見えた。

 退出した皆には、阿武隈が事情を告げるのだろう。

 

 執務室でふたりきりになって、そう言えば暁とふたりきりの時間は久しぶりだなと、提督は照れたように笑む。

 暁の方も同じ考えだったようで、恥ずかしそうな締まらない笑みで応えた。

 その笑みのままであったなら、どれ程良かっただろう。

 提督はこの後すぐに、そう思うことになる。

 

「司令官、私ね……。艦娘でいられる時間が、もう、そんなに長くないかも知れないの」

 

 告げられた言葉の意味を、提督は最初、艤装の操作性の問題だと思っていた。

 

「この前の戦闘でね、ちょっとおかしなことがあってね……。その、体は、検査の結果なんともなかったの。ホントよ? でも、あの戦闘の後にね。敵機の撃沈を確認して、一息ついて、それで阿武隈に言われて、初めて気付いたの……」

 

 暁が眼帯を外す。

 生態艤装の探照灯が内蔵されている眼球はしかし、莫大量の閃光の代わりに、青白く怪しい光を湛えていた。

 青の光。深海棲艦の光だ。

 

 息を飲む提督の視線の先、暁のもう片方の目には涙があふれ、今にも零れ落ちそうに揺らいでいた。

 

「司令官、私……!」

 

 時計の針は、もう巻き戻せない。

 

 

 



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波間⑤

 

 

 

 “ルサールカ”と呼ばれていた深海棲艦の眼に飛び込んで来たのは、暗い夜空を明るく覆う分厚い雲の壁だった。

 自らが海面に浮いて漂っているのだと自覚した“ルサールカ”は、かつて自らが伊168と呼ばれる潜水艦の艦娘であったことを、おぼろげに思い出していた。

 しかし、その記憶はもう、かつて艦娘であったというだけの記憶だ。

 体が深海棲艦のものへと変貌を遂げた時に、多くの怨嗟とも言うべき感情と記憶とに自我を上書きされてしまい、もう自分が伊168と呼ばれた艦娘だとは思えなくなってしまったのだ。

 名前の無い深海棲艦。

 あの鎮守府の艦娘たちならば、自分に個別コードを着けていてもおかしくはないだろうなと、思考能力を取り戻した頭でそう考える。

 かつての怨敵と同じ“ルサールカ”なのか、それともまた別の名前を付けられたのかは定かではない。

 彼女にとって自分の名前など、最早どうでも良いことなのだから。

 

 勢い良く上体を起こし、硬質な海面にぺたんと座り込む。

 彼女の周囲には、海中で対峙したあの艦娘の艤装と思わしき鋼が幾つか浮かんでいる。

 どうやって浮力を得たのかは定かではないが、まあ自分がこうして海上に上がって来たのだから、こうした金属の類も浮上するのだろう。

 そう、取り留めのない考えことを考え、散らばった艤装の類を見渡していると、彼女の眼に止まるものがあった。

 ドラム缶を模した耐水耐圧性の収納ケース。サイズはせいぜい握りこぶし3つ分ほどだ。

 しばらくケースを弄って開口部を見つけると、爪でひっかけて器用に開く。

 中に収納されていたのは戦闘糧食、雷が出撃の前の晩に握っていたおにぎりが3つだ。

 息を飲んだように一度身を引いた彼女は、ひとつ、躊躇うように手に取って口に食む。

 すると、鮮やかな記憶が蘇り、涙があふれてきた。

 

 蘇った記憶は、かつて艦娘であった頃の記憶だ。

 任務の合間、港に仲間たちと並んで腰を下ろして、おにぎりを食べていた記憶。

 当時の戦況も辛く厳しいものだったが、皆確かに笑っていたし、誰も弱音を吐かなかった。

 深海棲艦の体となった今、もう味覚は機能していないが、あの時食べたおにぎりの味は鮮明に思い出せるのだ。

 米粒ひとつ残さず胃の中に収めた彼女は、涙を拭い鼻をすすって、もう一度周囲を見渡す。

 あの時、あの艦娘が緊急浮上のためにほとんどすべての艤装をパージしたのならば、うっかり“あれ”も一緒に脱落していてもおかしくはない。

 探せば、すぐにそれを見付けることが出来た。

 艦娘が身に帯びる艤装の中で、最も重要ともいえるパーツ。羅針盤だ。

 

 艦娘の羅針盤は深海棲艦の支配海域下にあって、唯一正確な方角を指し示す。

 この羅針盤が指し示しているのは、水無月島鎮守府の方角と、そして北だ。

 投棄された艤装と言うこともあり、鎮守府側で設定がリセットされる可能性もあったが、その時はその時だと、彼女は深く考え込むことはない。

 この羅針盤を、然るべき存在の下へと届ける。

 それが、自らが再びこうして、黄泉から送り返された意味なのだと、彼女はそう自覚した。

 本来ならば、あの時撃沈された自分は浮上すること無く黒い泡となって消えて、そして自分を沈めたあの艦娘が深き場所へと落ちるはずだった。

 それが成されなかったということは、あの艦娘は何らかの方法で深海棲艦の呪いに打ち勝ったということだ。

 海中へ没するだけとなったこの体は、ひとりでに彼女を助けるようにと動いた。

 ならば、彼女たちに賭けてみよう。

 もしかしたら、この争いが終わる日をこの目で、人と同等にまで復帰したこの眼で見ることが出来るかもしれない。

 それに、あの焼けるように熱い掌の感触は、未だに手に残ったままなのだ。

 

 向かうは北。北方海域。

 意識を向ければ、頭を割らんばかりの雑多な記憶と感情が濁流のように押し寄せて来る。

 それをひとつひとつ洗い出し、人類側にとって、そして艦娘側に対して最も友好的であったあの深海棲艦の存在を探り当てる。

 今現在の彼女が、どういう考えでこの海面を踏みしめているのかは定かではない。

 しかしそれでも、会って伝えるだけの価値はあるはずだ。

 

 そうして彼女は、名前のない深海棲艦となった彼女は、北方海域を目指し単独で移動を開始した。

 

 

 







第2章『雲の上の世界は』完

第3章『想い人の似姿』へ、つづく


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第3章:想い人の似姿
1話:9ヵ月後の彼女たち①


 灰色の空の下。姿勢を低くした高速巡航で海上を行く軽巡・阿武隈は、索敵機から報告があった敵艦隊の背後を視認した。

 後続をやや置き去り気味にしての突出となってしまい、後で提督や暁たちに怒られるだろうなと渋い顔になるが、それでも後続の面子が了承してくれたので、こうして好意に甘えて突っ走っている。

 今の水無月島鎮守府の第一艦隊は皆、前のめりに突っ走りたい面々ばかりなのだ。

 

 自らの速度が生み出す風にたなびく、左袖の腕章に視線を向ける。

 青地に濃い灰色のラインが入り、碇のエンブレムに“水無月島鎮守府”と白で印字されている腕章。

 阿武隈が背負うものの象徴。水無月島鎮守府が本格的に活動するに際して、所属鎮守府を示す腕章を復活させたものだ。

 10年以上前は各地の鎮守府や泊地で所属を示すマークを作成して身に帯びていたものだと、阿武隈は暁たちから聞いている。

 阿武隈としては実感がわかないのだが、各鎮守府に自分と同じ姿かたちの艦娘が居て、今この時も、各々自分と同じような、あるいは異なった任務に当たっているのだ。

 

 同じ名前と姿の艦娘が他にもたくさん存在する。

 しかしそれらは、同海域で出くわすということは、滅多にない。

 他鎮守府との合同作戦時には、同名の艦娘が同じ海域で活動することは避けるようにと、“海軍”本部より支給される指南書には記載されている。

 同名の艦が同じ海域に存在すると何らかのパラドックスが起こり、艤装の機能が原因不明の不調を起こしたり、あるいは艦娘自身の精神に不調を来すからだ。

 オカルト方面の現象ゆえに原因究明も対処方法も未だに確立されてはいないらしいが、現状はっきりしていることは、こうして所属を明らかにする物品を身に帯びることで、別鎮守府の同名艦娘とは別の存在であると、境界を設けることだけなのだ。

 

 水無月島鎮守府では腕章の他にも、ワッペンやロゴ入りジャージなどを皆で調子に乗って作り続け、新参組のある艦娘など「物販とかして儲け出ませんかねコレ」などと、わけのわからないことをのたまっていた程だ。

 そうでなくては鎮守府との演習を行うのもままらないないというのは、同名艦と接触したことが無い阿武隈には、やはり実感が湧かない。

 こんな腕章ひとつで、互いが同時に存在するという矛盾を誤魔化すことが出来るというのも眉唾物だ。

 響などに言わせれば、演習などにおいては仮想の敵対者として対峙することで、初めてその存在を許容されるのだとか。

 いったい何に許容されるのだと問えば、返る答えは自信無さげな「……海?」という一言だった。

 

 

 思考が別方面へ飛んでしまったなと、阿武隈は敵艦隊から目を切り、後方を見やる。

 二番艦以降が追いついて来ていることを確認し、自身も若干速度を落として、後方へ向けて声を張り上げる。

 無線封鎖の上、各艤装の通信機能をもカットしている現状、味方艦娘との意思疎通は声と手振りと、妖精を仲介とした非常にゆっくりした意思伝達に限られる。

 艤装の駆動音が邪魔するので身振り手振りが一番なのだが、交戦中となればそれでも間に合わない場合も出てくる。

 そうなる前に、敵艦隊に仕掛ける前に、味方の状態を確認しておきたかったのだ。

 

 敵艦隊の背後から仕掛けるは同行戦。

 向こうの速力が上がる前に、高速で追い抜き様に打撃を与えるのだ。

 かつて暁と響が夜戦で行った無謀な策。

 昼の明るさと、この高速ながらも艦数を揃えた編成であれば、難易度はさらに跳ね上がる。

 

「第一艦隊、敵艦隊に同行戦を仕掛けます! 旗艦・阿武隈に続いてください!」

「待って待ってぇ! 浅瀬は苦手なのおぉぉ!!」

 

 後続から了解の意が返ると思って敵艦隊へと視線を戻した阿武隈は、威勢の良い了解ではなく情けない涙声を耳にする。

 悲鳴の主は、第一艦隊二番艦を任されているドイツ製の重巡洋艦・プリンツ・オイゲン。

 軍艦時代に浅瀬で座礁した過去を持つ故か、艦娘となった今でも浅瀬に対して苦手意識を持っているのだ。

 艦娘がそう簡単に座礁するものかと苦笑いする阿武隈だったが、プリンツとその後続である利根の艤装を見てしまうと、その考えもあながち間違っていないのでは無いかと思えてくる。

 

 艦娘本来の艤装に追加される、大型の補助艤装。

 莫大な推力を得るための巨大な機関を複数と、防御性能を向上させるための分厚い装甲、そして追加され軍艦時代と同数となった砲塔や機銃の類。

 電探などのレーダー類を含め艤装の全パーツを一度分解して再構築すれば、彼女たちの元となった軍艦の縮形を再現するという徹底振りを見せるこの補助艤装、その特性から名前を“補完艤装”と呼ばれている。

 巡洋艦以上の排水量の艦娘に適用可能な艤装であり、そして、艦娘のプロトタイプたちが最初期に使用していた艤装の発展系でもある。

 荷重軽減をかけても水面が大きく歪むどころか船底が海中に沈み込むため、確かにプリンツの言うとおり、かなりの浅瀬ならば座礁する恐れもあるだろう。

 本来の軍艦の構造や動作に近付けることによってオカルト方面の力も増強されるようで、艤装本来の鋼の装甲に加えて不可視の力場の壁が発生して、敵の砲弾や雷撃が炸裂する衝撃をも削ぐのだと言う。

 

 接続点である腰を中心にコの字状の背部艤装及び砲塔類を装備した基本形態に、船体を模したパーツを分割変形させたもので両舷を挟み込んだ形が、現在のプリンツの姿だ。

 阿武隈のような脚部艤装を変形させたボードとは違い、喫水線以下にまで気を使わなければならないとなれば、確かにプリンツのような座礁の過去を持つ艦娘ならば、恐怖を覚えもするだろう。

 荷重軽減機能を用いてもその重量は四桁を超え、操舵も一筋縄ではいかない上に急な回避運動も取り辛い。味方同士で衝突する危険性も以前より遥かに高いものとなっているのだ。

 それでも、プリンツと利根は建造された初期からこの補完艤装に体を慣らしていたこともあり、今では体の一部であるかのように自在に扱う姿を見せてくれる。

 

 阿武隈とてこういった補完艤装を扱えないこともないのだが、対応速度が極端に落ちる点から使用を見送っている。

 艦隊の旗艦として行動することが多いため、後続の艦娘たちにまで気を配らなければならないとして、火力と防御力の強化を見送ってまでも身軽な艤装のままで水上を行くのだ。

 

 

「プリンツよ、ここいらの深度ならば座礁の心配は無用じゃ。ここよりも高雄たちが向かった先の方が浅瀬じゃからのう?」

 

 涙目のプリンツを慰めているつもりなのか、三番艦に位置する利根があっけらかんと笑って見せる。

 此度は索敵を重視した航空巡洋艦形態での出陣であり、右舷側には砲塔の列が、そして左舷側にはカタパルトを備えた万全の姿だ。

 無線封鎖状態での作戦行動中と言うこともあり、偵察機を展開して周囲の情報収集に努め、味方の別動隊の動きをも逐一阿武隈に報告しているのだ。

 

「阿武隈よ。高雄たちの第二艦隊は間もなく目的地に到着するぞ。こちらもそろそろ仕掛ける時じゃ」

「プリンツー? 大丈夫ですかあー?」

「わ、わかったから! だから、あとで暁もふもふさせてね……! 絶対たくさんもふもふするからね!」

 

 つまりは了解と言うことかと、阿武隈は勝手に頷いて、四番艦以降の後続をちらりと見やる。

 利根から後ろは、駆逐艦・巻雲、朝霜、清霜と夕雲型が続く。いずれもやる気に満ちた顔でしっかり着いて来ている。

 しっかり着いて来ているのだが、巻雲の口の端にはチョコレートを拭った跡があるし、朝霜は気持ち頬赤めで時折しゃっくりが見られる。

 じっと半目で後方を見やれば、巻雲も朝霜も明後日の方を向いて口笛を拭きはじめる。

 まあ、清霜がしっかり手振りで密告してくれるので良しとしよう。姉2隻はあとで間宮さんからこっぴどく叱られるといい。

 

 鼻息荒くそんなことを考えていると、肩にまで下りてきた見張り妖精にぺちぺちと頬を叩かれた。

 どうやら敵の艦数及び、艦種・等級がはっきりしたようだ。

 対する敵艦隊も、阿武隈たちと同数の6艦編成。

 

「敵艦6、単縦陣。旗艦からル、ル、リ、ツ、ロ、イ! 第一艦隊は魚雷発射の後、第一戦速で続いてください!」

 

 阿武隈の声に、此度は“ようそろ!”と了解の意が返る。

 安堵して息を吐き、阿武隈は即座に戦闘行動を開始した。

 

 

 ○

 

 

 脚部からボードへと移設した前方の魚雷発射管を指向して、一番から順に投下。即座に速度を上げつつ左舷側へ大きく舵を切る。

 敵艦隊の動きは速度を上げて位置を取り直すのではなく、砲塔を回頭させて即座に攻撃態勢を整えるつもりのようだ。

 回避を捨てた動き、と言えば聞こえはいいかもしれないが、要は砲雷撃を重点的に受ける後続の艦を見捨てての攻撃力保持だ。

 敵に戦艦級が2隻もいるのだからそういった強気のやり方もするのだろうと、阿武隈は冷静に思考して、しかしむっと眉根を寄せて怒りを押し殺す。

 

 そんな動きは、少なくとも自分たちは取らない。

 水無月島鎮守府の艦娘は、仲間を盾にして勝ちを拾おうなどとは考えない。

 提督がそんなことを許すはずがないのだ。

 もしも追い詰められた時に同じことを言えるかどうかは定かではないが、少なくとも阿武隈は、自分と提督はその意志を貫き通すのだと信じている。

 後続の朝霜が気持ちを代弁するかのように、「島生まれ舐めんなああ!」と威勢良くも可愛らしい声を上げている。

 

 そう、島生まれだ。

 この第一艦隊は皆、水無月島鎮守府の工廠施設で建造された艦娘たちだ。

 深海棲艦から奪取した艤装核を用いて建造された艦娘。

 見えないリスクを背負い、しかし前へと進むのだ。

 

 魚雷投下とともに速度を上げて、後続を意識しながら、阿武隈は右腕部にマウントされた単装砲を構えた。

 艤装も衣装も改造の際に新調したが、右腕の単装砲はそのままだ。

 お気に入りの品だという理由もあるのだが、旗艦で先陣を切ることが多いため、身軽なれど最低限主砲は残して置きたかったのだ。

 敵艦隊の六番艦は魚雷の直撃を受けて大破炎上している。

 砲も魚雷も潰れていることを一目で確認した阿武隈は、その前方で迎撃体勢を整えたばかりのロ級に仰角零度の砲撃を叩き込んだ。

 爆破炎上して黒煙を立ち上らせる敵艦ふたつは後続の姿をしっかり覆い隠してくれるはずだと、阿武隈は更に姿勢を傾けて加速、敵艦隊から距離を取った。

 

 味方から離れて突出すれば集中砲火を喰らうが、その分味方に向けられる砲身は少なくなる。

 やっていること自体は敵艦隊と同じだとも阿武隈は思うが、この突出は決して自らを捨てる策ではない。

 その証明だとばかりに、阿武隈は自らに降り注ぐ砲弾の雨を、危なげ無く余裕を持って回避してゆく。

 先に投下した魚雷の方向から敵艦隊の回避行動を予測、敵艦隊の回避位置からの阿武隈を砲撃するまでにかかる時間と精度を計算、その上で最も安全な回避ルートを行く。

 気の遠くなるような複雑な演算も、改造と近代化改修を重ねた艤装の恩恵があれば、こうも容易い。

 自分の頑張りという数値化出来ない項を無視したとしても、充分に成果を発揮できるだけの計算を持って行動するのだ。

 

 それにこうして、一撃離脱した阿武隈を追ってル級の砲が仰角を調整すれば、後続のプリンツたちはその懐に飛び込むことが可能となる。

 黒煙を裂いて敵艦隊に接近した後続は次々に砲弾を叩き込み、速度を落とすことなく離脱して阿武隈に着いてくる。

 味方艦隊に損害無し。敵艦隊は軽巡、駆逐級が大破炎上。

 このまま足を止めずにル級の射程から離脱して、魚雷の次発装填の後、再突入をかける。

 速度は落とさず、このままを維持して。

 

 魚雷装填機の駆動を耳で確認する阿武隈は、ル級の砲撃がまだ止まないことに意識を向ける。

 もうすぐル級の射程圏内からは逃れるが、どうやら最後尾の清霜に狙いを絞り、なんとしても1隻沈めようという腹積もりらしい。

 砲撃の精度も夾叉までになり、敵の装填の間隔からすれば、5秒後に清霜が直撃を喰らう。

 言葉も手振りも間に合わない。そう判断した阿武隈は、投射機から爆雷をひとつもぎ取り、手動で炸裂深度を再設定。後方へ放った。

 横の回転がかかった爆雷は緩やかに海中へ侵入し、設定上の最低深度で炸裂、平坦だった海面にわずかな起伏を生ずる。

 直後、清霜がその起伏に差し掛かり体勢を崩して傾斜して、――頭と艤装のすぐ横を敵ル級の砲弾が掠め、巨大な水柱を上げた。

 顔をひきつらせた清霜が「助かりましたー!」と手でサインを送ってくるのを同じくサインで返し、阿武隈は一足先にル級の射程から離脱した。

 

 全艦がル級の射程から逃れ、魚雷の次発装填。足並み揃えて再突入をかけようかと言うとき、利根が展開している偵察機とは別の航空機の機関音が迫って来た。

 阿武隈たちが進んできた方角から、その音の主は現れる。

 一式陸上攻撃機、12機編隊。水無月島鎮守府に新設された飛行場より飛び立った翼だ。それらが低空で敵艦隊に迫り、次々に魚雷を投下していったのだ。

 その結果は、敵艦隊の大破炎上。味方の損害は無し。文句なしの完全勝利だ。

 対空防御能力のある軽巡、駆逐級を大破に追い込んでいたことが吉と出たなと、阿武隈は一仕事終えてご満悦な陸攻の妖精たちに敬礼して、そして手を振って見送る。

 妖精たちもこちらに対して気さくに手を振り返してくれるのだが、誰も彼もがコクピットの中に乗り込んでおらず、巻雲などはずっとはらはらとして落ち着きなく見守っている。

 

 妖精たちの仕事に文句をつけるつもりなどさらさら無いわけではあるが、さすがに翼に載ったり尾翼にぶら下がったりして飛んでいる航空機隊を見ると、なんとも言えない気持ちになってしまう。

 提督曰く、「仕事はきっちりしてくれているのだから、彼らのペースでやってもらおう」ということだ。

 しかしまあ、この一式陸攻たちが発進した飛行場の管制管理をしているのが、何を隠そう我らが提督その人なのだ。

 いつぞやのようにサボり妖精たちが島の荒れ地を勝手に整えて、目を離した隙に飛行場を拵えてしまったことが、陸攻を運用することになった切っ掛けだ。

 それから半年、こうして実戦運用にこぎ着け、今では立派な戦力の一角となっているため、サボり妖精たちの手並みも馬鹿に出来ない。

 

 ――と言うかだ、と。阿武隈はぷくりと頬を膨らませる。提督も提督だと、不服の矛先は一気に提督へ向かうのだ。

 無線封鎖で現場の状況が確認できないとは言え、一応形だけでも責任者なのだから執務室に詰めていて欲しい。

 本来の“海軍”提督とは違って重要書類の確認等がないとは言え、フットワークが軽すぎるのだ。

 陸攻の管制ならば秋津洲などにやらせて置けば良いのだ。わざわざ提督が出る幕ではない。

 ……そんなことを頬を膨らませながら考えていると、後続の艦娘たちが口元に手を当ててによによとこれ見よがしに笑んで見せるので、これ以上は思案に耽ってはいられない。

 阿武隈的には非常に釈然としないが、艦隊の指揮を放ってまで物思いに耽っていられるものではないのだ。

 

 

 島に帰還する陸攻たちの内、最後尾の1機が敵機発見の発光信号を送ってくる。

 今しがた付近に着水した利根の水偵も同様だ。

 この近海にまだ敵艦隊が展開しているという知らせだ。

 

「こっち、南の方も敵の巣窟ってんだもんなー。最初の脱出案ってさ、南のルートもあったんだろ? 正気じゃねえよなあ……」

 

 速度を落とした阿武隈に倣って後続も速度を制限する中、五番艦の朝霜が両手を後頭部に置き、そんなことを聞いてくる。

 その言には阿武隈も苦い顔で頷かざるを得ない。

 今でこそ見送りとなった敵支配海域脱出計画だが、見送りにして良かったと、最初期に偵察を行った阿武隈は考える。

 

 思い出しただけでもぞっとする。

 北も南も敵ばかり。観測出来ただけでも、姫・鬼級で30を超えていた。

 少人数で、どれだけ敵に見つからないように気を付けても、脱出など不可能。

 それが、9ヵ月前に鎮守府内ではっきりと出された結論だった。

 

 

「阿武隈さん! 釣った利根四号から報告。敵艦隊は飛行場姫を含む6艦編成です! 飛行場姫は頭部に大きな裂傷有り。特徴から個別コード:スカーヘッドと断定。……ええっと、なんかもう飛行機いっぱい来るそうです! 真っ直ぐこっちに向かってきます!」

 

 “利根四号”を頭上に掲げた清霜が大声で阿武隈に報告しつつ、並走する利根の飛行甲板にクレーンで偵察機を降ろしてゆく。

 

「あたしたちが敵機やり過ごしちゃうと、第二艦隊の方に向かうコースかあ。陸攻の第二陣はまだまだ先……」

 

 逡巡するのも一瞬、阿武隈が次の指示を出そうとするが、後続の面々はすでにその内容を知っているかのように話を進めていた。

 

「では、もう一仕事じゃのう? 念のため、第三艦隊への連絡に1機向かわせるぞ?」

「こっちは対陸地用のランチャー積んでるから、ばっちりですね!」

「浅瀬じゃなければあ……、大丈夫!」

「飛行機も来てんだろー? 巻雲姉ぇ、高射装置持ってるかー? 間違ってマカロン……」

「ちゃんと装備してますー! 前の失敗蒸し返さないでくださーいー!」

 

 思わず笑みになりそうな顔を努めて引き締め、阿武隈は肺から空気を叩きだすように声をつくる。

 

「プリンツ、利根は三式弾用意! 巻雲、朝霜、清霜は長10センチ砲及びWG42準備! 砲撃戦、対陸地戦装備で行きます! 敵が航空機を運用してくる以上、天候の操作はないものとして挑みますが、充分注意してください!」

 

 威勢の良い了解の声を背に、阿武隈は再び速度を上げる。

 此度の第一艦隊の任は、あくまで第二艦隊が作戦行動を安全に行うための陽動だ。

 敵艦隊の眼を惹き付けど、死ぬ気で倒しにかかる必要はない。

 それでも、この威勢の良い面々ならば、姫級であろうと鬼級であろうと一掃出来てしまいそうな、そんな頼もしさを感じるのだ。

 

 水無月島鎮守府が脱出計画から友軍の救援活動に舵を切った9ヵ月前とは違う。

 今では第四艦隊までを編成できるほどの艦娘を揃え、練度も気合も充分だ。

 脱するが早いか、それともまさか、海域の奪還か。

 可不可はともかく、今はもう一仕事。

 陽動その2。相手は姫級含む敵艦隊だ。

 



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2話:9ヵ月後の彼女たち②

 海底が目視できるほどの浅瀬の上。前方に目を凝らす重巡・高雄は、本作戦の目標である巨大な影を視認した。

 広大な環礁地帯にぽつんと佇む影は、周囲に縮尺を比較出来るものが何もないせいか、近付いてみて初めてその巨大さを認識することが出来る。

 水無月島第一艦隊が敵艦隊の注意を惹きつけているあいだ、高雄率いる第二艦隊がこの巨大な影を調査することこそ、本作戦における要だ。

 巨大な影。座礁横転したそれは、見上げる程に巨大な軍艦の形をしていた。

 その軍艦は大小の砲を持たず、航空機発着艦用の甲板を備えた構造をしていた。航空母艦だ。

 全長およそ260メートルを超える長大な船体は、座礁横転していることで特徴的なバルス・バウが目視で確認できた。

 第二次大戦中の日本帝国海軍所属の航空母艦、翔鶴型を再現したものだなと高雄は判断する。

 

 極地突入作戦、というものがある。深海棲艦の支配海域へ突入し、影響力を保持する敵姫・鬼級を討つ作戦だ。

 水無月島鎮守府が機能停止して敵支配下に置かれる以前から、海域奪還のために敵支配海域への侵入は計画されてきた。

 その最大の課題となったのが、電子機器や機関が原因不明の不調を生ずる海域に、どうやって艦娘を輸送し、戦闘、補給、修理などを行うかと言う点だった。

 敵支配海域にて通常運用出来得るのは、艦娘の艤装とそれに関連した施設のみであり、“例外”を探すことに数年を要している。

 度重なる検証の結果判明したのは、近代兵器より以前の技術、具体的には二次大戦中に活躍した軍艦の機構を要する船舶ならば、支配海域での安定した航行が可能だということ。

 すなわち、艦娘の元となった軍艦の構造と機能を持つ艦船こそが、その“例外”だったのだ。

 “海軍”は二次大戦中に活躍した軍艦の構造と機能を再現し、かつ鎮守府としての機能をも内包した“移動する鎮守府”の建造を進め、その計画を“装甲空母建造計画”及び“超過艤装運用計画”と名付けた。

 

 高雄の目の前に横たわる翔鶴型は、その計画によって生み出された、移動型の艦娘運用施設なのだ。

 本来は航空機を運用するはずの飛行甲板を、艦娘が運用する艦載機をはじめ、対深海棲艦用の航空機を運用するための飛行場として運用。

 また、その甲板から艦娘をカタパルトで射出するという機能をも有している。

 まるでロボットアニメの世界だねと、高雄の後方を静かに着いて来る響が苦笑交じりに告げた感想に、高雄自身も苦笑で返すことしか出来なかったことは記憶に新しい。

 

 横たわる空母のすぐ側まで主砲を指向しながら接近した高雄は、周囲に敵影なしと判断し、後続の艦娘たちへと振り返る。

 水無月島鎮守府の第二艦隊は、第一艦隊のように島生まれの艦娘ばかりではない。

 響と、そして出戻りの天津風を除けば、この第二艦隊の面々は皆、他の鎮守府所属の艦娘なのだ。

 所属を示す腕章もワッペンも、響と天津風以外の面々はふたつ、左の袖に着けている。

 元々の所属を示すものと、水無月島鎮守府のものと、ふたつだ。

 

 旗艦を務める高雄自信も、水無月島で建造された艦娘ではない。

 極地突入作戦の際、件の装甲空母部隊の一角としてこの海域に突入し、仲間を失い孤立したところを水無月島の水偵に発見・保護されたのだ。

 しかしまさか、艦艇時代に世話になった朝霜に助けられるとはどんな運命の悪戯だろうかと、苦笑し涙したものだ。

 救助・保護され、しばしの休養を取った後、高雄は水無月島の第二艦隊の旗艦を任されることとなった。

 艦娘としての稼働年数が20年を越え、かつ旗艦としての経験も豊富ということで、提督や他の艦娘たちからの推薦があったのだ。

 他の水無月島所属の艦娘を差し置いての登用に、よくも不平不満が起こらなかったものだと、当時はひどく驚いたことを覚えている。

 

 この海域では名誉や武勲などがなんの役にも立たないと言うことを、皆が知っているからだと、高雄はそう考える。

 旗艦となった名誉に浮かれるよりも、任務を成功させて次へと繋げるための思考を重視する。

 自分たちに逃げ場がないことを理解しているからこそ、誰もが自分の役割を全うしようとする。

 そのうえで、孤立した味方はおろか、沈みかけの敵艦まで助けようとするのだから、とても正気とは思えない。

 

 しかし、そうした信念の元に高雄は救われ、ここでこうして艦娘としての本分を全う出来ている。

 仲間も、命令を与えてくれる提督も失った今、高雄には水無月島が全てだ。

 彼女たちを守り、この海域の外へ無事に送り届けることこそが、今自分がこうして水面に立っている理由だと高雄は考える。

 そして、この翔鶴型の調査はそのための布石となるかもしれないのだ。

 

 

 ○

 

 

「水無月島第二艦隊、旗艦・高雄以下、響、時雨、天津風、夕張、青葉、目標地点に到着。これより調査を開始致します」

 

 後続の艦娘たちに対して、静かに、確認するように告げる高雄に、それぞれから静かな頷きが返り、いよいよ作戦開始となる。

 響、時雨、天津風、夕張がそれぞれ主砲の代わりに搭載していた自立稼働型連装砲たちを展開して海上に投下、続いて艤装の各部増設収納から妖精たちを満載した発動艇を次々に降ろしてゆく。

 自立稼働型砲塔と妖精たちを翔鶴型の艦内に送り込み、内部の探索と情報収集を行うのだ。

 艦内への侵入経路を艤装付のパネルで確認する天津風と夕張は、自立稼働型たちのカメラアイを通じて、艦内の映像を撮影・記録する。

 持ち出せる資料が焼失している場合も考え、内部の様子や手がかりになりそうなものを映像記録に残しておくのだ。

 

 発動艇にて出撃した妖精たちは、翔鶴型の装甲が剥がれたわずかな隙間から中へと身を滑り込ませていたが、やがて焦れったくなったのか、各々が鋼の装甲に染み込むようにして侵入していった。

 物質と非物質の境界がないが故の芸当だなと、高雄は次々に艦内へ消えてゆく妖精たちを見送り苦笑を浮かべる。

 妖精には物質と非物質の概念が通用しない上に、彼女たちには基本、生死の概念すら存在しない。

 彼女たちは自らが「よし、死のう」と思わない限り消失することはない。例え作戦行動中に海に放り出されても、航空機搭乗時に撃墜されても、しばらく時間が経つとひょっこり姿を見せるのだ。

 

 この敵支配海域でたった1隻取り残され通信もままならない状況にあって、高雄の心の救いだったのがこの妖精たちだ。

 艤装の中に潜り込んでいる彼女たちがいなければ、救助が現れるまで高雄の精神は持たなかっただろう。

 

 

「僕も中に入るよ。お先に」

 

 そう告げて高雄の横を通り過ぎたのは時雨だ。

 この敵支配海域で5年の時を過ごした時雨の肉体は、共に作戦行動にあたっている響同様、10代後半の女のものへと成長を遂げている。

 眼鏡で目元を覆い視線を隠し、手の甲に“27”と刻まれたタトゥーにキスする仕草は、ここにいる面々の間でもすでにお馴染だ。

 

 脚部と艤装核を内蔵する腰部艤装以外を解除した時雨がすいと海面を進み、甲板の手すりに対して背中を向けて垂直にジャンプ。片手をかけて、逆上がりの要領で身を跳ね上げて、手すりに尻から軟着陸し、ほぼ真横となっている甲板に背中を預けた。

 泥濘よりも不安定で力の掛かりにくい水面を足場にした垂直跳び。艤装の補助なしに良くやるものだと、高雄は尊敬八割呆れ二割の心地で、こちらに向かって手を振りつつ移動を開始する時雨を見送った。

 肉体面の鍛練を怠らず、鍛え上げた分を体にフィードバックしているが故の荒業だが、長期に渡って栄養も休息も満足に取れていなかった時雨がここまで持ち直したのは奇跡的だなと、高雄は以前の彼女を振り返る。

 

 今から5年ほど前、輸送船団の護衛に従事していた時雨は、その任務の最中に敵艦隊の強襲を受けた。

 護衛していた輸送船団は壊滅、護衛の艦娘たちも、時雨1隻を除いてすべて轟沈している。

 本来ならばその時点で所属鎮守府の提督に報告し帰投するべきだったところを、時雨は敵艦隊を追って単艦で追跡を開始、敵の支配海域に突入してしまう。

 通信器が故障していたことと、なにより建造されてからずっと一緒に任務に当たって来た最愛の姉を目の前で失ったことが、時雨の自制心を完全に葬り去ったのだ。

 

 高雄とほぼ同時期に水無月島に拾われた時雨ではあったが、こうして共に任務に当たれるようになるまでにはかなりの時間を要したものだ。

 肝心の仇討ちの方は、水無月島の面々の協力もあり、およそ3ヶ月ほど前に、時雨自身の手による決着を高雄たちは見届けている。

 今ではすっかり気も抜けて穏やかになり、同室の龍鳳にべったりとくっつかれる姿をよく目にするようになった。他の艦娘たちと食事したり話しているところもだ。

 それ以前は常に張りつめた雰囲気を身に纏っていて、誰も彼もを近付けなかったというのに。

 

 

 時雨の姿が艦内に消えると「では自分も」とばかりに響が進み出て、競うように手すりに向かってジャンプするが、まったく届く気配がない。

 響とて10代後半の少女の肉体を得てはいるが、それはせいぜい学校の体育で良い成績を収める程度の身体能力に過ぎない。

 時雨のような、オーバーワークを体にフィードバックしていない艦娘では、到底届かない距離なのだ。

 無理な三角跳びに失敗して海面に背中を打ち付けた響は結局、夕張の艤装に搭載されたアンカーを甲板の手すりにひっかけ、チェーンを腕力で持って登攀する形に落ち着いた。

 しかし、それを見送る高雄が解せなかったのは、響は腕だけでチェーンをよじ登り辛そうにしている様子だった。

 てっきりまだ時雨の腕力に張り合っているのかとも思ったが、苦笑いの天津風が「違う違う」と口を挿む。

 高雄よりかは少し背が低いくらいの“この”天津風の存在にもようやく慣れてきたところだが、それでもまだまだ彼女を駆逐艦・天津風として認識してよいものか、やはり疑問が生じてしまう。

 

 響や時雨たちと同じく10代後半の少女のものに成長した体を補助艤装のインナーで包み、その上から彼女本来の衣装である陽炎型テスト機の制服を上だけ羽織った姿は、なんとも目のやり場に困るものだった。

 デフォルトの天津風の身長ならば太腿の中ほどまでを隠す上着の丈は、今の彼女が着ると臍がぎりぎり見えるか否かといった丈でしかない。

 インナーを着ているのだから問題ないとのたまう天津風ではあるが、それはすなわち、くっきりと浮き出た下半身のラインを人目に晒しても構わないということに他ならない。

 彼女の妹艦の浜風がしきりに自分と同じ陽炎型の制服を勧める光景は幾度も目にしてはいるが、どちらにしろ天津風はスカートを履くつもりが微塵もないのだろうというのが高雄の見立てだ。

 

 彼女、陽炎型駆逐艦9番艦・天津風は、元々は水無月島鎮守府に所属していた艦娘だった。

 鎮守府最後の出撃時に戦艦・大和をはじめとする艦娘たちと共に出撃し、そして帰らぬ人となったはずの艦娘のうち1隻だ。

 実際に天津風も戦闘中に負傷して艤装に深刻なダメージを負ったものの、奇跡的に生き延びて、当時はまだぎりぎり敵の支配海域ではなかった諸島の片隅に流れ着いたのだ。

 天津風の場合はそこからが地獄だった。

 

 艤装の通信器は破損していたものの、携行していた連装砲くんの救難信号は無事に発せられた。

 しかし、友軍の救援はいつまでたっても彼女の元に訪れなかった。

 その時の水無月島は鎮守府としての機能が完全にダウンしており、通信器も損壊していたのだ。

 もし仮に、通信器が無事で連装砲くんからの救難信号を受け取ることが出来たとしても、その時の水無月島には提督が不在であり、六駆の姉妹たちは艤装を纏うこともままならなかったはずだ。

 

 その間にも敵の支配海域は徐々にその勢力を拡大し、ついには天津風の身を置くエリアまでもが影響下となってしまう。

 長いサバイバル生活で精神は徐々に擦り切れ、唯一の話し相手だった連装砲くんの故障もあって、天津風は一時廃人のような状態に陥っている。

 もしも、敵支配海域で単独実験中だった夕張が天津風を発見しなければ、彼女は今でも物言わぬ抜け殻のままでいただろうとは、容易に想像がつく。

 今現在は天津風自身も、相棒の連装砲くんも限定的な作戦には参加できるまでに復帰している。

 

 さて、その天津風が言うことには――、

 

「ほら、内腿が擦れるでしょう? 弱点なの。響の」

 

 言われて、高雄は「ああ」と納得し、赤面した。

 艦娘の衣装というものは露出度が高いものが多く、高雄の衣装とてガーターベルトを装着した太腿を外気に晒している。

 響や天津風のような艤装の操作性に問題のある艦娘は補助艤装のインナースーツを着込んでいるわけだが、このインナーは頑丈な割にかなりの薄さを誇る。

 夕張をして「なんですこの超薄型は……、感度ばっちりじゃないですか……!」と戦慄させる程の代物で、体感としてはほぼ着用していないに等しいのだ。

 その夕張が、眉をひそめて首を傾げる。

 

「あれえ? インナー感度設定出来ない? この前の鬼退治で一時解除した時に、芝生重工のデータダウンロードしたでしょう? その元データ使って改良しておいたはずなんだけど……」

 

 共に響の登攀を見守っていた面々に対して不思議そうにそんなことを呟くが、高雄は件のインナーを着たことが無いのでさっぱりだ。

 支配海域の一時解除時に人工衛星経由で“海軍”本部から情報をダウンロードすることが定番となって久しいが、高雄とてそのすべてを把握しているわけではない。

 特に艤装関連は夕張や天津風の領分で、以前はそこに響も関わっていたはずだ。

 しかし響の方は第三艦隊の面々の訓練役として現場に出ることが増えたため、そのあたりは出戻りと新参の2隻に任せきりだったようだ。

 まあ、天津風が口元に指を当てて「しー!」と口止めしようとしているということは、そのあたりの情報を響には内緒にしておきたかったと言うことなのだろう。古馴染の悪戯心か。

 登攀途中で動きを止めた響が「今に見てろ?」と言わんばかりに笑みを浮かべ、手首の操作スイッチをいくつか弄り始めていたので、この問題は解決だ。

 

 響に続いて天津風がアンカーの鎖をよじ登って行く。

 その背中には自立稼働型連装砲の搭載スロットを保持したままで、ちょうど天津風の専用機である“連装砲くん”が居座ったままだ。

 非武装化して他の自立型砲塔たちの統括機として運用されている“彼”は、天津風と共に10年間、この敵支配海域を彷徨い続けた戦友だ。

 故障のため一時的に機能を停止していたが、夕張と合流した後、他の自立稼働型の遺品ともいえるパーツを継ぎ接ぎして応急修理され、復旧を果たしている。

 ボディの溶接跡や不揃いのパーツは痛々しくも見えるが、“彼”にとってはこの姿こそが誇りであり、同じ戦場で散って行った同型機たちへの敬意と弔いの意もあるのだと、内臓AIは新しいボディへの換装を頑なに拒否し続けているのだ。

 ……という面があったかと思えば、鎖をよじ登る主が重そうにしているのをその背中で煽ったりもしているもので、大概いい性格だなと、下から見上げる高雄たちの表情は微笑ましい。

 まあ、天津風が登りきった後の夕張が、チェーンの巻き上げ機能を隠していたことも大概だったが。

 

 

 そうして、海上には高雄ともう1隻が残され、内部へ侵入した面々が探索を切り上げるまで周囲を警戒することとなる。

 高雄としては、この片割れこそが最も気を揉む存在なのだ。

 

「ああああー、私も艦内に侵入してー、情報収集したいですぅー。うううう……」

 

 隣り、落ち着かない様子でそんなことをのたまうのは重巡・青葉。

 半年前に決行された極地突入作戦にぎりぎりで参加が決まり、高雄とは別の装甲空母に配属され、高雄たちと同じく1隻だけ生き残り、水無月島の水偵に発見・保護された艦娘だ。

 体の成長等はなく性格や思考もデフォルトに近いもので、高雄としては一番自分に近いタイプの艦娘だなとは考えているが、どうにもこの青葉に対しては苦手意識が拭えない。

 

「貴女は私と周囲を警戒よ、青葉。……青葉? さっきからもじもじして、まさか……」

 

 高雄の訝る視線の先、青葉は内股気味の姿勢でもじもじと体を震わせながら照れくさそうに頭をかいた。

 これ見よがしに盛大にため息を吐いた高雄は、額に手を当て横転空母の向こう側を指さす。

 

「……私はこちら側を警戒しますので、青葉はあちらを」

「いやあ助かります! 恩に着ます!」

 

 困り顔で頭をかいた青葉は踵を返し、内股気味の姿勢のまますいすいと艦の向こう側へと消えてゆく。

 食えない女だと、高雄はその後ろ姿に警戒を帯びた視線を向けた。

 

 “この”青葉がそうだという確証はどこにもないという前提の話だが、“海軍”において重巡・青葉と言う艦娘は、本部直属の間諜であるという噂を良く耳にする。

 曰く、青葉が着任した数ヶ月後に、提督が更迭され不正の記録が明らかになった。

 曰く、青葉が編成に組み込まれた艦隊が彼女を残して全滅し、彼女だけが敵の重要な情報を持って帰ってきた。

 曰く、艦娘・青葉には、最初から特殊な刷り込みが掛けられていて、本人の意思に関係なく、海軍本部の思惑を果たすような立ち回りを促されている。

 どれも噂の域を出ないこと、と言うわけではない。実際に起こった事件から発生した噂話。根も葉もないと言うわけでは、決してないものだ。

 艤装も彼女のものは特注品で、夕張でも弄れないと嘆いていたことも、その可能性を後押しする。

 

 この青葉も“そう”だとは、高雄とて断定出来ない。

 私生活や任務中の行動などを観察したうえで、確かに何やらきな臭いと感じる部分は山ほどある。疑う方に思考が傾いていれば、なんでもそう見えるのかも知れないが。

 しかし、そういった噂や疑念を無視して余りある程、高雄には青葉を疑いきれない気持ちもあるのだ。疑いきれないというよりも、憎めないというべきか。

 件の、時雨の仇討ちの時のことだ。一緒に出撃した青葉が、高雄を庇って轟沈寸前の重傷を負ったことが、そう思ってしまう原因かも知れない。

 どうかそれが致命的な隙にならなければ良いがと、ため息を吐く高雄の耳に、あまりこの場では聞きたくなかった水音が飛び込んでくる。

 

「ちょっとお! ちょっと青葉あ!?」

「わあわあわあ!? ちょっと高雄さん!? 脅かさないで下さいよう……! 変なところにひっかかっちゃいますから!! もう!」

 

 ビンゴだった。高雄は盛大にため息を吐いて、額を掌で打つ。

 今のこの有り様だって、青葉が本当にお花を摘んでいるのか否かは、実際に回り込んで確認しなければわからない。

 例え高雄の想像通りの光景が広がっていたとしても、その行為に偽装して何かをしているのかもしれない。

 ……と言うところまで考えて、やめたやめたと、高雄は苦笑交じりに肩を竦める。

 

「……お馬鹿、と言って差し上げますわ?」

「わわわ! ちょっと妖精さん! 撮っちゃダメ! ダメですー! 写真ダメダメええって、ああああ!?」

 

 まるで人体が水面に倒れ込んだような水音を努めて無視するように、高雄は翔鶴型の装甲に注視する。

 “装甲空母計画”で建造された移動型鎮守府は、高雄が知る限りでは計12隻。

 一番艦から十二番艦まである装甲空母は、その半数の6隻が、半年前の極地突入作戦でこの海域に侵入している。

 当然、作戦に参加する艦や、それに登場する顔ぶれは覚えているが、目の前の艦はそれらの記憶には含まれないものだった。

 初めて見る装甲空母。

 艦の番号を示す数字は剥がれ落ちてしまっていたが、日焼け跡はくっきりと残っていた。

 その番号は“0”。零番艦。高雄の知る“装甲空母計画”には存在しないはずの艦だ。

 

 艦内に侵入せずに外観を調査している妖精たちの見立てでは、この翔鶴型が座礁した時期は、ここ1年前後なのだという。

 当然、その頃には高雄が参加した突入作戦は計画されておらず、それどころか突入作戦そのものが見直されようとしていた段階だったはずだ。

 それが一転、突入作戦決行側に動きが傾いたのは、9ヶ月前。熱田島鎮守府が水無月島鎮守府のSOSを受信したことがきっかけだ。

 この翔鶴型が座礁した1年前と、水無月島からSOSが発信された9ヶ月前。

 そのあいだの3ヵ月間に何があったかを考えると、高雄は自分が険しい顔になるのを自覚せざるを得なかった。

 偶然の産物かと思われていた諸々の事象に、何者かの意図があったのではないかと、そう疑心が湧きはじめていたのだ。

 



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3話:9ヵ月後の彼女たち③

 翔鶴型の艦内に侵入した響は、先行していた時雨に追いつき、後続の天津風と夕張の到着を待って、探索を開始した。

 真っ暗な通路の奥へと、照明装備を点灯した妖精たちや自立稼働型砲塔たちがよちよち歩いてゆく。

 上下左右が90°傾き、両脇に天井と床が位置する通路は、不自然な歪みや損傷が見られた。

 ライトに照らされる通路は黒い煤が纏わり着き、艦内で火災が起こった証拠をはっきりと残している。

 

「……それだというのにスプリンクラーが作動した痕跡がないね? この翔鶴型のスプリンクラーは?」

 

 響の問いに、夕張が手元の資料の束をめくって唸りながら、待て待てと間も持たせようとする。

 

「ええっと、通路のスプリンクラーは湿式だから、高熱に触れるかヘッドに衝撃が加われば作動するはず。でも、こんなに天井まで煤だらけで、内装が一部溶けてる程の高熱なのに、作動した形跡なし。普通だったら、ありえないわ?」

 

 普通ではありえないのだとすれば、普通ではありえないことが起こったのだろうなと、響含む4隻は顔を見合わせて頷く。

 敵姫級か鬼級に強襲されたのだろう。

 己の支配海域下であれば、局地的に天候を操作したり、昼夜を逆転させることも可能とする敵だ。

 高熱を発しない炎、などというものが果たして敵に再現可能なのかは定かではないが、この海域、あの敵ならば出来てもおかしくないと、妙な信頼がある。そんな炎に巻かれては、艦娘とて対処方法がないという恐怖もセットだ。

 

「……でもコレ、スプリンクラーが作動しても、どうにもならなかったかも。ヘッドがなんか、塩みたいな金属みたいな物質で固着しちゃってるし、通路とかの構造物の融解具合を見るに……」

「焼夷弾かい?」

「ビンゴ。もしくは火炎放射器みたいに、粘性のある燃料に引火させるタイプの攻撃ね。しかも、広範囲を一瞬で包み込むレベルの。現時点で乗員の遺体が見つかっていないのは、全員無事に脱出できたか、それとも白骨すら残らない程高温で焼きつくされたかのどちらかが考えられるわね。後者だって、通常ならありえないわ」

 

 願わくば前者であってほしいというのは、ここにいる全員の総意だろうなと、響は唇を噛む。

 

 それにしても不可思議な点は、外観からは火災の痕跡が何ひとつ見つけられなかったことだ。

 妖精たちや自立稼働型砲塔たちが出火元を調べてはいるが、未だにその火元を特定できていない。

 パネル上で出火地点を暫定としても、艦内の至る場所に赤い点が灯ってしまい、まるでシミュレーションが出来ない有り様だ。

 

 帽子のつばを弄りつつ思考の海に没していた響は、前を行く時雨が両腕を広げて左右によたよたと寄ったり、万歳して天井となった通路脇の扉に手を伸ばそうとしている奇行を目撃する。

 映像に残して後で龍鳳に見せてやりたいなと、考えが横道に逸れるが、時雨の動きの意味はすぐに理解できた。

 敵空母の艦載機が、この通路を通過できるかどうかを計っているのだ。

 深海棲艦が運用する艦載機は、航空機然とした形状のものは意外と少なく、不気味な流線型をしたものや、ほぼ球体に近い形状を持つタイプなどがある。

 一定の速度を維持して飛行する流線型は論外としても、球体型は滞空能力を備えている個体がいたはずだと響は思い出し、表情を険しくする。

 この翔鶴型は敵艦載機に侵入され、内部から焼き払われたという推測が生じたからだ。

 

「だとすれば、わざわざ内部に侵入したのは何のため……」

「ねえ、それ、本当に内部に侵入して、ってことかしら?」

 

 響の思考を遮るように、背後の天津風が不安そうな声をつくる。

 怯えたような顔の天津風に、響は「内部に侵入して乗員を焼き払った」ことへの恐怖を覚えたものかと思ったが、それはどうやら違ったようだ。

 連装砲くんのパネルで夕張とシミュレーションを繰り返していた天津風が、響と時雨を呼び寄せてその成果を見せる。

 その映像によれば、先のシミュレーション映像とほぼ同じで、艦内の至る場所からほぼ同時に出火していた。

 先のものと異なる点は、その出火予測地点には若干のタイムラグがあり、映像にすると内側から外側へ向けて出火地点が広がって行くことだろうか。

 

 その意味を考える響の隣り、眉をひそめた時雨が小さく唸る。

 

「このシミュレーション映像が正解だとするなら……。敵は艦内に侵入がてら通路や区画を爆撃して行った、ってわけじゃなくて。全機が艦内の隅々にまで広がった後、ようやく爆弾を起爆させた、ってことになるよ?」

 

 それがどういう意味かを考えた響は、寒気を覚え体を震わせた。

 天津風の怯えの真意は、取られた手段にではなく、その手段を取るに至った思考と心情に対してだったのだ。

 これは本当に深海棲艦のやり方なのかと、響はそう疑問せざるを得ない。

 姫級や鬼級といった敵と交戦した経験は幾度かある響だが、その響でもこれだけ感情的なものを匂わせる手口は初めてだ。

 人間以上に感情的で、それでいて冷静さを失わず、細やかな工程を進める丁寧な残虐さを持ったものの仕事。

 

 じんわりと熱を含んだ泥のような不気味さを振り払うように、言葉を失った4隻は一度、出火原因の特定を保留にする。

 時間内にまだまだ探索するべき個所は山ほどあることもそうだが、妖精たちが興味深いものを発見したという報告を寄こしたのだ。

 

 

 ○

 

 

 先頭を行く時雨が立ち止まった先には、高熱によって不気味な開き方をした扉があった。

 その先、本来ならば居住区であるはずのエリアはしかし、そういった人間が生活するための施設を撤去して壁を抜き、何らかの設備類を搭載していたようだ。

 “極地突入作戦”に参加しているのは、この第二艦隊の中では高雄と青葉、突入作戦の前身となったものに参加していた夕張の3隻がそうだが、しかしその夕張をして、この設備は見たことのないものだった。

 

「確かに、見たことはないけれど……。でも、使われているパーツや配線・基盤から、ある程度はその用途を割り出すことは出来る。はず。ただ……」

 

 この設備も焼損が激しく、ほとんどが原型を留めていなかった。

 それでも、そんな区画にあって唯一、奇跡的に火の手が回っていなかった場所があった。

 最奥部の一角、そこには卵型で半透明のカプセルが鎮座していた。

 同じようなカプセルは焼損した残骸のみが壁伝いに幾つもあったが、不自然なまでに無事なものは、最奥部のこれひとつだけだった。

 夕張の見立てでは、艦娘をスリープ状態で保存して置くための設備なのだという。

 

「ええ、そう……。いやでも、“海軍”本部でもまだ試験段階だったはずなんだけどなー。凍結装置。完成したのかな……」

 

 口元を手で覆っての独り言もほどほどに、夕張は目の前の装置についての説明を始める。

 

「ほら、私や第二艦隊の皆みたいに、艤装解除状態で長期間過ごすと、普通の人間として体が成長しちゃうでしょう? そうすると、体の成長の応じてだんだん“ズレ”が起きて来て、最終的には艦娘なのに艤装を使えなくなる、ってことが起きるのよね。みなちんの電ちゃんみたいに」

 

 なるほどと、響はあごに手を当てて呟く。

 妹艦の電が艤装状態で水面に浮けなかったのはやはりそういった理由だったのだと、改めて夕張の口から裏が取れたのだ。

 実験中に敵支配海域に取り残されるまでは“海軍”本部所属の工廠施設に出入りしていたという経歴もあり、こういった設備関連への見識は電よりも頭ひとつ抜きんでている。

 

「で、艤装解除状態で艦娘の肉体の成長を止めるための装置がコレね。艦娘の肉体は100%合成たんぱく質だから、それに作用する液体……あ、建造時の白くてどろっとしたアレね? ……を、適正温度で処置すれば、こうしたコールドスリープが可能になるってこと。状態的には、ほら、みなちんのまるゆちゃん。あれと同じ状態なのよ。まるゆちゃんのは偶然の産物だったけれど」

 

 その説明で納得を示すことが出来るのは、やはり響だけだ。

 建造が中断されドックが海中に没したことで、当時のまるゆはこの凍結中の艦娘と同じ状態になっていたのだと夕張は語る。

 

「惜しむらくは物理資料のほとんどが焼失しているから、再現は難しいってところだけれど。でも、もしも、データだけでも持ち帰ることが出来たら……」

 

 そう言葉を止める夕張に、響は頷き、思わず口の端が上がるのを自覚した。

 艦娘の肉体を凍結出来るのならば、深海棲艦化しかけている暁を眠らせることで、その進行を遅らせることが出来るかもしれない。

 治療法が見つかるまでのあいだスリープ状態に出来るかどうかは定かではないが、響にとっては大きな希望のひとつがようやく手の届きそうな場所に現れたのだ。

 

「それで、このカプセルの中の艦娘は生きているのよね? まさか、電源抜けて死んだりなんて……!」

 

 天津風の縁起でもない発言に血相変えた夕張が慌てて設備をチェックするが、すぐに安堵の表情を浮かべ、中の艦娘が無事であることを示してくれる。

 自らも安堵に胸を撫で下ろした天津風は、連装砲くんに指示してその本体からコードを伸ばし、カプセル横のハブに接続。データの読み込みを開始する。

 

「……金剛型戦艦・三番艦の榛名ね。練度は観測史上最高値、所謂“指輪付き”ってやつかしら。でも……、なによこれ。所属鎮守府も、提督の名前も削除されている……」

「削除? 天津風。それは、データの破損、ではなくて?」

「そうよ。データ破損でも未登録でもなくて、削除。登録されていたものが、意図的に消された跡があるわ……」

 

 連装砲くんがログを読み込んだ限りでは、所属鎮守府と提督の名前が登録されていたことは確かなのだという。

 

「一度登録したデータを、所属鎮守府と提督のものだけ削除する……、その意図は? 誰か。思いつく人」

 

 響が手を上げて推測を募集するも、皆長考に入ってしまい挙手の気配はない。

 これはカプセルごと水無月島に持ち帰って調査した方が無難だなと、撤収の方へと舵を切る。

 カプセル型の設備は分解に1時間、主要設備含むパーツ類をすべて搬出するならば3時間と連装砲くんが判定し、すぐに妖精たちや自立稼働型砲塔たちが作業に取り掛かった。

 艦内の捜索はほぼ完了し、生存者無しという傷ましい結果を提督に報告しなければならないことに、響は気持ちが沈んでゆくのを顔に出さないようにするのがやっとだった。

 

 それに、この“榛名”だ。

 カプセルの中は乳白色の液体で満たされていて、中で眠っている彼女の姿は輪郭程度しか窺い知ることが出来ない。

 自らはこうして長い眠りに着き、そのうえ提督と所属鎮守府の情報が削除されているなど、彼女とその周辺に、いったい何があったというのだ。

 

「彼女に聞けばいいか。でも、眠り姫は目を覚ます時を待っているのかな?」

 

 響の考えを察したのだろう、搬出作業を手伝う時雨がそんなことを囁いてくる。

 どういうことかと視線で問えば、わかっているだろうと、時雨は肩を竦めてみせた。

 

「彼女の戦友や提督は、今どうしているのだろうね?」

 

 悲しそうに告げる時雨の言に、響は帽子を目深に被り直して表情を消した。

 この“榛名”が建造したてで進水すらしていない、という可能性は無いに等しい。“指輪付き”であるのがその根拠だ。

 “指輪付き”ほどの高練度となるまでに幾多の海を駆け抜けてきたのであろう彼女に、提督も仲間も居なかったはずがないのだ。

 この艦内の生存者は彼女1隻と結論が出てしまっている。

 どうか、彼女の知己がこの艦の乗員ではないことを祈ろうとは思うのだが、夕張が言いにくそうにしながらも確実な追い打ちをかける。

 

「ああ、それとね、もうひとつ悪い知らせ。この“榛名”の他に、もう1隻か2隻、空母の艦娘が搭乗していたはずなのよ。だけれど、船内にその痕跡は無し……」

 

 この移動型鎮守府である装甲空母は“超過艤装”とも呼ばれ、艦娘の艤装としての側面をも持っている。

 艤装核を中継して艦娘がこの“超過艤装”に同期、艦の機能全てをたった1隻で操るのだ。

 艦娘1隻の戦闘能力を格段に向上させるものかと言えばそういうわけでもなく、その操作の及ぶところは機関や操舵をはじめとした足回りに限定される。火器系統の操作にまでは手が回らないがゆえに、“超過艤装”として適用される艦種は、現状空母に限定されている。

 操舵による艦娘への負荷も多大なもので、黎明期に開発に関わった夕張は、実験の後遺症で廃人となり解体処分された艦娘を何隻も見て来ている。

 よって、艦娘が“超過艤装”を操舵する機会は、極地侵入時に艦の操作に異常が発生した場合に限定され、予備員を含め二人一組の交代制による運用がなされているはずなのだ。

 

「その艦娘の捜索は……」

 

 少なくとも今回は、断念せざるを得ないだろう。

 羅針盤付きの時計を確認した響は、外周を警戒している高雄も同じ判断を下すだろうなと考え、すぐに撤収の方へと考えを戻した。

 生存の可能性を信じたいが、今回ばかりはその根拠がない。

 翔鶴型の姉妹が存在したという確証はあるが、今現在も生存しているという証拠がないのだ。

 無線封鎖状態でこれ以上探索に時間はかけられない。

 あまり時間をかければ、撤退支援の準備をしている熊野たち第三艦隊を長時間一箇所に停泊させることになってしまう。

 陽動役の阿武隈たち第一艦隊が派手に敵を引き付けてくれているとは思うが、別働隊が動いている可能性も充分にありえるのだ。

 

 第一艦隊は上手くやっているだろうかと、最近調子に乗って無茶をし始めた阿武隈のことを思い浮かべていた響は、ふと、時雨が動きを止めて何かに意識を集中している姿を見る。

 同じく動きを止めた響は、微かな音を耳にする。それが雨音だと理解するのと同時に、ぞっと背筋に寒気を覚えた。

 

「ええ? 待って待って、この海域で雨って……!」

 

 夕張が顔をひきつらせて口にした言葉の先は、艦を強かに叩く無数の音にかき消された。スコールだ。

 天津風が驚いて大きな悲鳴を上げたことで、意識を取り戻した響たちは、妖精たちや自立稼働型砲塔たちに作業を急ぐように指示を出す。

 

「いやな雨だね……」

 

 時雨のにがりを帯びた表情での呟きに、響は概ね同意する心地で自らの手元を進めた。

 



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4話:9ヵ月後の彼女たち④

 航空巡洋艦・熊野は鈍色の海上でうんと背筋を伸ばそうとしたが、近くに作業中の駆逐艦娘たちがいることを思い出して、気分転換を思い留まった。

 現在の熊野は水無月島の第三艦隊・旗艦。今回の任務は、第一艦隊のような陽動でも、第二艦隊のような諜報でもなく、それらの艦隊が帰還する際の撤退支援だ。

 艦隊の帰投ルートに機雷を仕掛け、追撃してくる敵艦隊を罠にかけつつ撤退するための準備。それを、熊野率いる第三艦隊と、空母・千歳率いる第四艦隊で作業中なのだ。

 

 第四艦隊の分も含めて現場監督を任されている熊野としては、ここでだらしない姿を晒して士気を下げるわけにはいかないなと考えているのだが、そんな熊野を見てくすくすと笑いを噛み殺している声が背後から聞こえてくる。

 

「……初春? 何か?」

「そう気負わずともよかろうに。伸びや欠伸をしたところで、下がる士気がそもそものう?」

 

 ワイヤーの束を解いている初春がおかしそうな、言葉にすれば「しょうがなーいのーう?」とでも言いたげな顔で笑うものだから、熊野はむっすと頬を膨らませる。

 

「確かに、うちは艦隊、部隊と言った概念はあまり強くはございませんが……。わたくしの場合は、嗜みですわ。レディとしての嗜み」

「嗜んでものう……。レディぶっておるの、うちの鎮守府ではお主しかおらぬじゃろう?」

「暁に昔のレディへの憧れを思い出してもらうべく、奮闘中ですわ? 結構いい線言ってますのよ? ――それより、初春?」

 

 熊野の語調を強めた呼びかけに、初春の肩がびくりと震える。

 

「手伝いましょうか? ワイヤー絡まったの、解けませんのよね?」

「……助けてたもう」

 

 手先が不器用な初春が涙目で絡まったワイヤーを差し出すのを、熊野は「しょうがありませんのねえ」と受け取って一緒に解きはじめる。

 しかし、手先が不器用なのは熊野も一緒であり、結局は2隻揃って叢雲に助けを求めて呆れられる始末だ。

 

「まったく、何やってんのよもう……。手順は出撃前に確認してるし、こんなの何度もやってるでしょうに……」

 

 ため息交じりにワイヤーの絡まりを解きながらやり方を示す叢雲は、水上に正座して動向を見守る熊野と初春に解き方のコツなどを言い含めてゆく。

 こういった工作系の訓練は時間を割いて幾度も行ってはいるが、まだまだ熟練どころか一人前の域にすら達していないのが現状だ。

 第三艦隊の艦娘は建造されてから日が浅い者も多く、旗艦・熊野ですらまだ建造されて3ヵ月経つかどうかと言った時期だ。

 得手不得手の凹凸を埋めるだけの実戦経験は足りず、艦隊決戦よりもこういった支援活動や航空戦隊である第四艦隊の護衛を任されることが多い。

 旗艦こそ熊野ではあるのだが、その手際や判断には甘さが多く、実質は叢雲の助言で動いている部分が強い。

 

 ならば最早、叢雲が第三艦隊の旗艦をやればとも思うのだが、それには当の叢雲自身があまりいい顔をせず、何より提督が待ったをかけているのだ。

 以前、叢雲自身が漏らした弱音を聞くに、自分はそれほど肝が据わっていないからだと言うことらしい。

 突発的なトラブルに弱く、パニックを起こして咄嗟の判断が下せなくなる。

 その光景を実際に目の当たりにした熊野としては、確かに判断は自分の領域だなと頷く思いだ。こう見えて肝は据わっている方だと自負もしていることもあり。

 それに、気負ったり先走り過ぎると初春も諌めてくるので、案外この第三艦隊は人員のバランスが取れているのではないかとも思えるのだ。

 結成してから日は浅くも、それぞれの役割をしっかりと熟せているとも。

 

 しかし、そこで問題になるのは他の艦娘たちだろう。

 熊野らと同じく、不器用ながらも生真面目な浜風は、まだいい。彼女に至っては生真面目過ぎることの方が問題だから。

 問題は、その浜風にワイヤーの扱いをレクチャーしている漣と卯月の方だ。

 水無月島の暴走駆逐艦こと漣と卯月は、事ある毎に悪戯を仕掛けて、陸でも海でも艦隊を賑やかしてくれる。

 昨晩の入居時も、夕張がメロンの香りの入浴剤を入れてご満悦だったところへ密かにドリアン風味の入浴剤を混入し、滅多なことでは怒らないはずの夕張をマジ切れさせていたものだ。

 その後、ふたりして追いドリアン風呂に浸けられて成敗となったが(漣が「オイドリアーン!」と奇声を上げて浜風の腹筋を破壊していた)、彼女たちの悪戯はこれに留まらない。

 しかしまあ、やったらやったきり、と言うわけではなく、甘んじて罰を受けるという姿勢の上でやらかしている以上、これが彼女たちなりの接し方なのだろうと、熊野は溜息交じりにそう考える。

 

 仇討ちを遂げて抜け殻のようになっていた時雨を皆の輪に呼び戻したのもそうだし、何かときな臭い言行の青葉に密着したりするのもそうかもしれない。

 まあ、青葉も含めて悪戯・ドッキリを仕掛けるトリオになってしまっていると言えば、それまでか。

 とにかく、被害担当の高雄には毎度毎度頭が下がる思いだ。

 悪乗りする響は本当にやめてほしいが、電が雷を落とすので、まあ、つり合いは取れているのだろう。

 

 その問題児の漣と卯月は、今は浜風の手元に掛かりきりで、何か悪さをしようと言う兆候はない。

 いくら悪戯っ子とはいえ、作戦行動中にまでやらかすほど空気を読めていない娘らではないのだ。

 そうして考えが一周して、やはりこの艦隊はバランスが取れているなと気持ちを改める。

 練度不足は否めないが、それでも時間をかけて練度を積んでいけば、最前線で戦っている皆々と同等の活躍が出来るはずだと、熊野は信じている。

 いざその時が来たら、どう感じるのかまでは、さて置き。

 

 

 ○

 

 

 それにしても遅いものだと、熊野は胸騒ぎと共に息を吐く。

 一通り機雷の敷設が完了したことを確認し、後はひたすら待機の時間と言うことを旗下の駆逐艦娘たちに通達して、さて一息と言った時に、急に不安が込み上げてきたのだ。

 今回の作戦は無線封鎖状態で進行し、第二艦隊が座礁・横転した装甲空母の調査を終えるか切り上げるか、もしくは何らかのトラブルに見舞われるかした時点で封鎖解除、全艦隊撤退となる手はずだ。

 先程上空を通過した“利根四号”が発光信号にて伝達する限りでは、第一艦隊が“スカーヘッド”に喧嘩売りに行ったと、眩暈を覚える様な事態になっていた。

 それは帰りが遅くなるどころか、一歩間違えれば全滅する流れではないかと、熊野は悲鳴のような疑問の叫びを挙げている。

 陽動役のくせに深入りし過ぎなのだ。

 

 今は後方で控えている第四艦隊の艦載機も、第一艦隊の支援が行えるのは日が出ている間だけだ。

 日没まではあと1時間もない。航空機による支援が行えるのも、あと1時間足らずなのだ。

 島からの陸攻はあと一度だけ出撃が予定されているはずだが、もう満足に支援は出来ないだろう。

 夜間偵察機もあるにはあるのだが、基本的に偵察のみの運用で、戦闘支援を行えるだけの練度はなかったはずだ。

 今すぐ前戦に駆け付けたいという気持ちは強いが、それを制する気持ちはもっと強い。

 

 そもそも無線封鎖状態と言うこの状況こそが、熊野の不安の大元だ。

 提督たちが決めた作戦に不満などないし、もしもあるのであれば決定前に異議を唱えている。

 無線封鎖にあまり良い思い出がないのは、今の熊野がではなく、艦船時代の重巡・熊野にとってだ。

 どうしても苦い記憶としてフラッシュバックが起こってしまう。こうした無線封鎖の状態が尾を引く形で、姉妹艦が沈んだのだから。

 

 これも、敵側に無線を傍受する艦種がいると判明した以上、避けねばならないことだ。

 時雨の護衛していた輸送船団や、高雄や青葉の所属していた装甲空母を強襲した敵艦隊は、まるで人間側の動きを事前に察知していたかのような動きを見せたのだと、第二艦隊の外来組から証言が取れている。

 水無月島においてはそういった敵の先回りはまだ確認されていはいないが、時雨は支配海域付近にて、高雄や青葉等はこの海域の真っただ中で、そういった傍受の可能性を示唆している。

 敵には居るのだ。こちらの通信を傍受して、その内容を理解し、自分たちの有利に立ち回れる個体が。

 

 

「……もしも、私たちの通信を傍受出来る敵が居たとして、それはどんな敵だと思う?」

 

 深刻な顔で物思いに耽ってしまった熊野を気遣ってか、叢雲が熊野の補完艤装の端に腰かけながら、そんなことを問うてくる。

 「何で艤装に乗りますの」と半目でにらみ、熊野は問いに応えるべく頭の中に散らかっていた考えをまとめ上げる。

 

「推測できる像はふたつ、ですわ。ひとつは、こちら側の言語を理解している敵。最低限人間並みの知能を有している深海棲艦ですわね」

「ほう? 第一艦隊や第二艦隊の面々が時折遭遇するという、人の言葉を話す姫や鬼のことかや?」

 

 あごに手を当てて呟く言う熊野に、叢雲とは反対側に腰かけた初春がそう問い掛ける。

 叢雲と同じように、自分の艤装を脚部と腰部の最低限のパーツ以外を解除し、それらを変形、省スペース化して足場にしているもので、「どういう神経していますの?」と、熊野はやはり半目にならざるを得ない。

 

「人の言葉を話す深海棲艦は、もう10年以上前から確認されていますが、そのほとんどは怨念・怨嗟の言葉だけで、まともな会話が出来たという話は聞いたことがありませんの。実際に会話に成功したという例は、北方海域を縄張りとする北方棲姫の1件のみ。言葉は話せても会話が出来ないという判断が下され、同時にこちらの会話の内容も理解はされないだろうというのが、支配海域の外の通説でした……」

 

 だからこそ、敵を前にしてもいつも通り友軍艦や鎮守府と通信でやり取りをしていたわけだが、その通説がこの海域付近で初めて覆ったのだ。

 敵支配海域の内外から仕入れた情報を述べ、熊野はここまで口にした情報に「しかし」と前置きする。

 

「北のお姫様以外にも、そうした人間の言葉が理解できる深海棲艦が居ても、おかしくはありませんのよね? この場所は、敵の庭なのですから……」

「それは、この敵支配海域下でのみ有効な、独自の現象と言うことでしょうか?」

 

 今度の問いかけは浜風のものだ。

 熊野の補完艤装に我が物顔で腰かける2隻と違い、水面に自分の足で立っているのだが、1隻だけ立たせているのも忍びないなと熊野は唸る。

 補完艤装の形状を艦船に近いデフォルトのものから、高速巡航形態時に取る縦長のものへと変形させ、スペースを空け(座っていた叢雲と初春は艤装から転げ落ちて海面にへばりついた)、「お掛けになって?」と浜風に勧める。

 それには恐縮して両手を振る浜風だが、だったら頂きだと、漣と卯月が空いたスペースに転がり込んできた。

 

「それって要はさ、敵はこの支配海域限定で、漣たちの言葉を超翻訳できる、ってことっしょ?」

 

 漣の言が、概ね熊野が言いたかったことだと頷くと、補完艤装の端っこに座り直した叢雲が、眉根を寄せて頭をかいた。

 

「何それ、自分のお庭だと頭良くなるってこと?」

「……支配海域、と呼ばれるくらいですからね。敵側にとって有利な現象が起こるのは、確かにその通りかと」

 

 浜風が納得したように言うが、叢雲は解せない様子だ。

 

「うちで通信傍受の可能性があったのって、時雨と、高雄と青葉の時よね? 時雨の時はともかく、高雄や青葉の時は念のためって暗号使ってたって話よ? 暗号解読のノウハウまで、そんな超常現象で可能にするってこと?」

「さあ……。あるいは、そうではなくって。こちら側の暗号が故意に、向こう側へ渡っていた可能性もありますわね。像のふたつめですわ」

 

 熊野が顎に当てていた手をピースの形にして皆へ向ける。

 卯月が同じようにピースして見せるのを、熊野はピースをはさみの動きにして応える。

 

「深海棲艦との接触作戦は幾度か行われていて、成功例も1件だけあったのですから、当然向こう側の言語をはじめとするコミュニケーション方法を研究しているところもあるのでしょう」

 

 そういった深海棲艦に関する研究論文のようなものは、現状に対して影響力の大小を問わず、毎月数十件はアップロードされている。

 支配海域の一時解除時にそれらの論文のダウンロードも行なわれてはいるが、たった数時間では膨大なデータを取得する関係上、即戦力となる艤装関連や生存に関する項が最優先に設定され、論文の類は概ね後回しにされているのが現状だ。

 電の補佐としてテキスト関連に目を通すようになった熊野ではあるが、コミュニケーション方面で有用な論文は未だに発見できていない。

 

「それ、こっちの情報を敵に横流ししてるってこと? わちゃあ……、それって、かなりヤバくない?」

「本当に情報を横流ししていたら、確かにヤバい事態だと思いますわ。それに、こっちのやり方なら、敵が暗号の解読はおろか、こちらの言葉がさっぱりわからない場合であっても一方的な疎通は可能になりますもの」

「……その、後者の情報漏えいであった場合、いったい誰ぞ? ということになるのう……」

 

 自前の扇子を開いて口元を隠した初春が言う。

 もちろん、人間だろうと熊野は考えている。

 “海軍”本部も一枚岩ではないと、外部から来た高雄たちの言で知ってはいる。

 数ある鎮守府、企業や研究機関のどれかが、もしくは幾つかが、深海棲艦側へ最前線の情報を流していてもおかしくは無いのだろう。

 その手段や目的までは、さすがに定かではないが。

 

「……いいえ。みっつ目の可能性がありますわね」

 

 ひとつ目の像とふたつ目の像を重ねて露わになる形だ。

 卯月がもう片方の手もピースにして皆から「一本多い」と突っ込まれている姿に少しだけ微笑み、熊野はたった今まとまった考えを述べる。

 

「深海棲艦化した元・艦娘が、理念か私怨か、何らかの理由で、わたくしたちの行く手を阻んでいる。という可能性ですわ」

 

 ここにいる艦娘たちは、艦娘の深海棲艦化が眉唾物の噂話ではなく、現実に起こり得る現象だという考えを持っている。

 かつて潜水棲姫を討った伊168が同じく潜水棲姫となってしまったケースや、今現在深海棲艦化が進行している暁がいるためだ。

 そしてこの可能性は、水無月島鎮守府の古参組にとっては、最も考えたくないものだろうと熊野は考える。

 水無月島鎮守府のが機能を停止してから復旧するまでの10年で、敵の支配海域はかなりの広域に展開している。

 当時その海域で戦っていた艦娘は、一時的なものも含め、ほとんどが水無月島鎮守府の所属であり、暁型の姉妹たちや天津風の顔馴染であったはずなのだ。

 そんな顔馴染の似姿と戦うなど、いったいどれだけの苦痛だろう。熊野は、それ以上の想像を放棄した。

 

 

 ○

 

 

 可能性は幾つか挙がるが結論は出ず。

 まあ当然かと、熊野が気を抜いて伸びをして欠伸して、「ああ、しまった」と渋い顔をする。

 こうして緩んでしまわないように、ずっと気を張っていたというのに。

 見れば、つられた卯月も大口を開けて欠伸していて、それが浜風に、漣に、初春や叢雲に伝播してゆく。

 まるで戦いに身を置く者たちとは思えない緩さだなとは思うが、それも今この時が平和な証だ。

 

 初春に言われた通り、気負わずともまあいいかと思い始めた矢先、ふと、第三艦隊の皆の頬を風が撫でた。

 足元を見れば緩やかな波が起こっていて、卯月が顔を輝かせてその上に着水して足踏みする。

 熊野は風が来た方角を見て息を飲む。

 向こうの空が暖かな夕日の色に染まっていた。

 

 支配海域の一時解除。

 熊野をはじめとする第三艦隊の面々は、まだ見たことのなかった空だ。

 時刻通りの夕焼けが、潮風と緩やかな波を運んでくる。

 足元に伝わる揺れを感じながら、熊野たちは夕日を背負ってこちらへ向かってくる第一・二艦隊の面々の姿を遠くに見つける。

 

 皆が皆、雨天用の外套装備を纏っているということは、途中でスコールに見舞われたということだが、この支配海域下で天候が変化するという意味を悟り、熊野はさっと全身から血の気が引いてゆく感触を覚える。

 天候が変化したということは、敵艦の姫・鬼級と接触したということ。そして皆が外套を羽織っているということは、本来は捜索のみで撤収するはずだった第二艦隊の面々も戦端に巻き込まれたということだ。

 第二艦隊は旗艦の高雄と青葉以外は、情報収集用に非武装化した自立稼働型連装砲たちや発動艇を満載して、火力などほとんどないに等しかったはずだ。

 

 まさか、誰かが欠けてはいないかと帰投する艦隊に目を凝らす熊野は、しばらくしてほっと胸を撫で下ろす。

 自らと見張り員妖精が目視にて、全艦の姿を確認。阿武隈と高雄が手信号で“任務達成”と合図を送ってくる姿もだ。

 任務達成。それは陽動作戦と目標の捜索を完遂したという意味だろうが、それにしては成果が過大ではないかと熊野は思う。

 この夕焼けは、敵の姫級を倒したがゆえに生じたものだなと、そう察することが出来たからだ。

 先の“利根四号”からの連絡で“スカーヘッド”に喧嘩吹っかけに行ったとは聞いていたが、陽動どころか見事討ち取ってしまったというわけだ。

 

 まさか、自分たちにこの夕焼けを見せるためにわざわざ強力な敵に向かって行ったわけでもあるまいと、熊野は自惚れそうになる気持ちを努めて落ち着けようとするが、それでもこの景色には胸が高鳴るものがある。

 かつて鋼の体で戦っていた時代と同じ色が、まだこの世界には残っているのだ。艦の記憶に引っ張られ過ぎだとは思うものの、それでも美しさに目元が潤む。

 艦の熊野としては懐かしいもので、そして艦娘の熊野としては初めてのものだ。

 もちろん、第三艦隊の皆にとっても。

 

 懐かしさと未知への感動を同時に体感出来るというのは、艦娘という存在であることの最大限の役得なのではないか。

 そう小さく呟いて、少し詩人になりすぎたかとひとりで照れ臭くなった熊野は、皆の好奇に満ちた視線を誤魔化すように(お株を奪われた叢雲は仏頂面だが)、調子外れの大声で帰投する艦隊を迎え入れた。

 



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5話:9ヵ月後の彼女たち⑤

 出撃中の陸上攻撃機、その全機帰還を見届けた提督は、ほっと小さく息を吐いて、水平線の向こうへと沈んでゆく夕日を名残惜しそうに見送った。

 海域支配の一時解除はこれまでに何度か目にして来たが、日が沈む前のこの赤を目の当たりにしたのは今日が初めてだった。

 この島で目覚めて初めて青空を見た時もそうだったが、風景を美しいと思う感情が自分の中にも確かにあったことに、提督は妙な安心感を覚えていた。

 島で目覚める以前の記憶がない提督は、かつての自分もこうして風景に感動を覚えるような人物であったかどうかを知ることが出来ない。

 本当の自分は、彼女たちに慕ってもらえるような、笑顔を向けてもらえるような人物ではないのかもしれないのだ。

 過去を失くした状態でもうすぐ1年が経とうとしているが、未だに思い出す気配すらない。

 幾度も思い悩んだが、その度に、今は提督としての自分であればよいと、そう言う自分の形を保ってきた。

 

 以前の自分がどうであれ、今の自分は彼女たちの提督だ。

 そういう役割を得て己を保っている、と言うよりは、その役割に縋っているのだろう。

 己を証明する確たるものが無い身の上で、それでも良しと潔く生きて行けるほど、提督は己の精神が頑丈ではないことを自覚している。

 もしもこの先、記憶が戻らず、かつ提督としての役割を終える時が来たのならば、自分はいったいどうなってしまうのだろう。

 そこまで考えが巡って、提督は一度考えるのを止める。

 不安や悪い考えを幾度も巡らせるのは良くない。

 現状はこのままを保とうとすでに決めているし、例え記憶が戻ってもこの島で得た経験が消え去ってしまうわけではない。

 楽観するわけではないが、かと言って悲観もせずに。

 そうした自らの落ち着け方にはすっかり慣れてしまったもので、さて気持ちを切り替えるためになにか良いことを考えようかと言ったところで、傍にいた小柄な娘がふふんと得意そうに笑う顔に気付く。

 

「提督もだいぶ航空機の運用に慣れてきたかも。私も教官役として鼻が高いかも」

 

 得意げな声の主は飛行艇母艦・秋津洲だ。

 腕組みしてしきりに頷く彼女は艦隊には現在、編成されておらず、島の警備隊としての戦力となっている。

 大型の飛行艇である二式大艇の運用を担当している役割上艦隊に随伴して遠洋に出ることは少なく、整備以外の時間は基本暇だと言って、飛行場を管理する提督のところの遊びに来ているのだ。

 緊急事態となれば新設したエレベーターで出撃ドックまで直通でいけるということもあり、最早秋津洲がこの飛行場の主と言っても過言ではない。

 提督としても、別件で手が離せなくなった時に航空機隊に指示を出してくれる者が居るのはありがたいものだ。

 妖精たちの感覚に任せきりだと、どうしてもやりすぎたり行きすぎたりと、微調整が利かないところがあり、その都度人間や艦娘の感覚での注文はやはり大事なのだと思い知らされる。

 

 とは言え、無線封鎖状態での活動が続く昨今では、執務室に詰めていても居なくても同じということもあり、提督は陸攻の運用に掛かりきりとなっている。

 そのことに対して艦娘たちが、特に阿武隈などが不満を感じていることは知っているし、どう説得しても納得してはもらえないだろうなとも、なんとなく察している。

 帰投後の報告よりも入渠を優先させているのもそう。定例会議を食堂で行っているのもそうだ。

 ……改めて思い返して見ると、かなりの件数上がりそうで困ったなあと、提督は渋い顔になる。

 何も、これらの方針に全く意味などないわけではないと、一応胸を張って主張することは出来るし、執務室に詰めていないこと以外は阿武隈も概ね寛大だ。

 ただやはり、艦娘たちの胸中としては、自分や仲間たちの命を預かる者には軽率な行動を取って欲しくないのだろう。

 自分たちの帰りを待って、執務室に居てほしい。

 それは、提督とて理解しているつもりだ。

 

 やはり執務室で大人しくしていた方が良いものだろうかと、悩みが一巡する提督は、自分の靴をこんこんと叩く小さな気配を感じ、視線を下げた。

 提督の足元には、先ほど帰投した航空機に搭乗していた妖精たちが一列で並んでいた。報酬を要求しているのだ。

 提督は妖精たちを笑みで迎え、傍らにおいていた容器から金平糖をひとつまみ取り出して与えてゆく。

 もう恒例となった報酬授与の儀式のようなもの。

 食堂や執務室でまとめて渡すより帰投毎に手渡しされた方が、妖精たちにとっては気分が良いのだそうだ。

 提督もすっかりこの儀式を気に入ってしまい、今では航空機体の妖精たちひとつひとつの顔も見分けがつくようになってしまったほどだ。

 航空機隊の妖精たちだけではない。工廠や艤装、入渠ドックを管理している妖精や、いつも何かしらの突破口となってくれているサボり組も。

 しかし、此度は見慣れない妖精が列の最後尾に見えて、提督は思わず苦笑してしまった。

 他の妖精たちよりも頭ひとつ、……どころか、サイズがそもそも違う巻雲が、必死に体を縮めて妖精に成りきっていたのだ。

 作戦行動中の艦隊が帰還した姿は遠目に見えていたし、もうそろそろ誰かこちらに来てもおかしくない頃合いだと思っていたところなのだ。

 

「巻雲妖精も報酬を? 晩ご飯前だと間宮さんに叱られるよ?」

「内緒ですよ、司令官様! 内緒に、内密にぃ……!」

 

 口元に袖を当てて「しー!」とジェスチャーする巻雲に苦笑して、提督は容器を振って「おいくつ?」と問う。

 こういった駄菓子類も漂着物の中には含まれているが、それでも引き当てるのは稀だ。

 そもそも駄菓子ならば、鎮守府の台所を預かっている間宮に頼むのが確実なはずだが、普段のおやつに不満があると取られて臍を曲げられるのが巻雲としては痛手らしい。

 間宮ならばそんなことはないだろうとは思うのだが、以前3時のおやつ関連で拗ねられたことがあったなと、提督は苦笑交じりに思い出す。

 巻雲としても決して間宮を信頼していないわけではないのだろうが、まあ、こうして隠れてお菓子をねだることが後ろめたいが故の口止めか。

 提督も、巻雲がこうして仕入れたお菓子を独り占めするようならば、こうして横流しすることはなかっただろう。

 

 意地汚く溜め込むのが巻雲だが、決して宝箱の蓋が重いというわけではない。

 ルームメイトたちと夜な夜な話し込むことがあれば惜しみなく蓄えを開放するし、妖精たちに渡して何かと融通を利かせて貰う姿も提督は見ている。

 その恩恵だろうか、普段は艤装関連のことにしか手を出さなかったはずの妖精たちが、提督や艦娘たちの生活、人としての営みの部分に自らの技を提供し始めたのだ。

 以降、執務室や各艦娘たちの部屋に置く特注の家具をつくってもらったり、特注の衣装をつくってもらったりと、艦隊運用以外の面で妖精たちの協力を取り付ける場合は、まず巻雲に相談と言う流れが出来ている。

 漂着物のリスト係となっている浜風には、巻雲と一緒に賄賂を渡して口止めしているので今のところ問題はない。

 巻雲が取り出したお菓子の缶に、提督は容器の中の金平糖を注いでゆく。

 量が増える毎に笑顔が輝いてゆく巻雲を眺めながら、提督は他に駄菓子を持って来ていたかなと足元を見渡すが、今回はこれきり。

 巻雲の横に並んだ秋津洲が「にひっ」と笑って、ドロップの空き缶を差し出して「口止め料」を要求してくるのもいつものことだ。

 

 これで酒匂までもがこの場に居れば確実に量が足りなくなっていたが、駆逐艦並みに元気いっぱいの彼女は今、雑用を頼んでいてこの場にはいない。

 まだ建造されて日が浅く、この鎮守府では卯月と並んで末っ子のような位置にいる酒匂ではあるが、他の艦娘たちの手伝いや陸攻隊の訓練に付き合ってくれたりと、いつも誰かにくっついて歩いている。

 中でも提督と、ひいては陸攻隊との付き合いは長く、提督同様、陸攻隊それぞれの顔も覚えてしまっている。

 艦娘たちと妖精のことで話す際に、提督と酒匂、後は秋津洲あたりは「巻き髪の」「にやけ顔の」「そばかすの」「クロワッサン」「オレンジモヒカン」等々、お互いにだけ通じる特徴で話すものだから、他の娘たちから半目で見られたり細目で見られたりと、何かと忙しい。

 まあ、提督はともかく酒匂はそういった周囲の視線をまったく気にする素振りもなく、卯月同様提督にべったりとくっついて来るもので、阿武隈や叢雲あたりがいつも「きっちり提督らしくしろ」と説教してくるのが最近の悩みだ。

 

 提督らしく。

 ふと、提督は駄菓子抱えてほくほく顔の巻雲と秋津洲に、自分は提督らしくやれているだろうかと問うてみる。

 一拍置いて互いに顔を見合わせた巻雲と秋津洲は、提督に向き直って「難点」「白色」と、基準の良くわからない評価を下してくれる。

 はて、どう受け取ったものかと小さく唸る提督に、秋津洲は自分の取り分の金平糖を掌に少しだけ開けて、提督に差し出してくる。

 掌に乗っているのは、件の白色と、黄色と、橙、緑。秋津洲はその中から白以外の色をを除く。

 その意味はと目で問えば、秋津洲は発するべき言葉をまとめている最中のようで、口を閉じながら鼻が鳴る唸りを漏らす。

 

「あんまり、うまく言えないかもだけど……。私たちが知ってる提督は昔の人で、艦艇の提督なの。乗員に支持を出して、訓練して、一緒にご飯食べて戦って、一緒に生き残ったり沈んだりした提督。秋津洲たちはこの島の生まれたから、昔の提督のことしか知らない。それってたぶん、提督が聞きたかった“提督らしさ”とは、違うかも?」

 

 逆に問われて、提督は思わず額を打った。

 在りし日の英霊たちと比較して自分はどうか、などとは、恐れ多くて考えたことすらなかったし、そもそも最初から聞く相手を間違えていたことに、今さら思い至ったのだ。

 島生まれの、しかもここ数ヵ月の間に建造された巻雲と秋津洲に“艦娘を指揮する提督としてはどうか”などと、聞くべきものではない。

 帽子の上から頭をかいて恥じ入る提督に、秋津洲は掌の白を差し出して来る。受け取れと言うことらしい。

 見やれば、秋津洲は取り除いた緑を口に入れたところで、橙と黄色は巻雲がちゃっかり横からかすめ取っている。

 

「秋津洲たちは、目の前にいる提督以外の“艦娘の提督”を見たことが無いから、この提督しか知らない。けど、この提督が一番だって、いつも思ってるかも。……じゃなかった、思ってます」

 

 照れることもなくそう真正面からそう告げられては、提督は笑んで頭をかくしか出来なくなる。

 適わないなと、そう思い知らされる。

 建造されてたった3ヵ月余りだというのに、自らの中にぶれない軸をちゃんと持っている。

 秋津洲だけではない、この島で建造された艦娘の皆が、そうだ。

 精神面に問題を抱える娘も少なくはないが、それでもあやふやな指針で今日明日を生きると言ったことなどしない。

 それはかつての艦としての側面か、あるいはかつての人としての側面か。

 恐らくはそのふたつで成り立っているのだろうなと、提督は差し出された金平糖をつまんだ。

 

「司令官様司令官様! そこはお口で、お口で直接! がぶっと! じゅるっと!」

「ちょっとお!? それじゃ提督がただの変態さんかも!?」

 

 巻雲の無茶な要求に秋津洲がびっくりして声を上げて、それを眺める提督はどう反応したものかと口の中で溶ける表層の甘みを確かめる。

 気を利かせた方が良いだろうかと考えるも、そういった言葉の引き出しは驚くほど少なく、勉強不足だなと提督は自らを恥じ入る。

 

「秋津洲の、味がするね?」

「ああああ! 提督も無理に変態さんにならなくていいかも! 駄目だから! 一部喜ばせるだけだから!!」

 

 頭を抱えて地団駄を踏む秋津洲の有り様に、提督はなるほどと頷く。

 こういった行為で喜ぶ娘もいると言うのは初耳で(以前響が言っていたような気もするが)、望む娘にはそうしてやるのもいいかもしれないとも思い始めていたところなのだ。

 だが少なくとも、秋津洲にそういった嗜好は無いのだなと頷く提督は、「やべえ、めっちゃドキドキしたかも……」「もう、素直になればいいのに……」と小声でやり取りする艦娘たちの言に首を傾げる。

 

「……ちなみに提督? 秋津洲味って何味かも?」

「汗味。皮手袋風味」

 

 秋津洲は二式大艇を運用する関係上、その整備をも専属して担当している。

 それゆえに工廠で過ごす時間は夕張に匹敵し、出撃用の衣装よりもツナギ服姿の時間の方が遥かに長いのだ。

 皮手袋は整備を行う上では必要不可欠なもので、当然、着用も長時間に渡る。

 そうして熟成された掌が、件の秋津洲味を生み出すのだ。

 

「――提督、私もう上がります。秋津洲お風呂行きます」

 

 回れ右して足早に鎮守府へ帰投する秋津洲を追って、巻雲も提督に向けて袖を振りながら小走りに去ってゆく。

 遠くで「今度から絶対手洗ってから提督のとこ行くかも。絶対洗う」「いいじゃないそんなの。手の匂いなんて」「マッキは袖に手入れっぱなしでかなり熟成されてるでしょ? 発酵してるかも」「自分の匂いって落ち着きますー」などと楽しそうだ。

 確かに電なども寝ているときに自分の指を咥えていることがあるなと思いだし、そう言った癖のようなものはどういった経緯で染みつくのだろうかと顎に手を当てて考える。

 まさか艦艇としての癖ではなかっただろうし、だとすれば艦に乗員たちの癖か。それとも彼女たちの素体となった少女自身の癖だろうか。

 素体となった少女たちの癖だと考えるのが、提督としては一番しっくりと来るものだ。

 彼女たちは死してなお、クローン体と言う形で、艦娘の一側面として生きている。

 体に残る癖もそうした生きた証なのだと考えれば、彼女たちの存在の、なんと尊いことか。

 

 ならば、自分はなんなのだろうかと、艦娘たちのことを考える延長で、いつもその様な雑念に支配されてしまう。

 彼女たちが自らの癖から素体となった少女の記憶を辿れないように、提督もまた、失った自分の記憶を辿ることが出来ない。

 まるでもう取り返しが付かないのだと、そうはっきりと宣告されてしまったかのような絶望感は、ここ数ヵ月でもう慣れっこになってしまった。

 今を穏やかに、滞りなく過ごしていられる故の希薄化。慣れだ。

 

 

 ◯

 

 

 夕日が水平線の向こうに沈み夜の色が空を覆う前に、空は再び重く濃厚な灰色に戻ってしまった。

 残念だなと思いつつも、提督は再び晴れやかな空を望むことはない。

 空が晴れると言うことは、敵の主格を海の泡に還したと言うことだ。

 彼女たちの存在を等しく命と捉えるならば、晴空は命の灯が消えた証明でもある。

 提督は美しい空を臨む度に、敵の命を悼むことはおかしいだろうかと考える。

 まだ彼自身にはその答えが出せない。

 

 ふと、閉ざされて行く空気の中で、提督はある色を見付ける。

 飛行場付近、海を臨む崖に1本だけ立つ樹の枝には、ふっくらとした蕾が灯っていたのだ。

 提督はその樹が桜であることを初めて知る。

 敵の影響下にあって命を眠らせていたものが、ほんの僅かな正常な時間に目を醒まそうとしていたのだ。

 そういえば、暦の上ではとっくに春なのだなと、提督は頭の中のカレンダーを思い出す。

 

 提督がこの島に流れ着いてからまだ1年も経っていないが、様々なことが動き出し、自らも判断を下し進め、変化してきた。

 果たして、本当にこれでよかったのだろうかと、何度も自らの選択を振り替えることがある。

 未だに誰も、失ってはいない。

 艦娘同士で、あるいは自らと艦娘たちの間に致命的なレベルの溝も生じていない。

 取り返しがつかないかと思われる諍いも有りはしたが、短いながらも時間が解決してくれている。

 すべてが、とは言わないが、皆の努力と幸運の元に、綱渡りはなんとかバランスを保っている。

 ふとした切っ掛けで、次の瞬間には真っ逆さまに転落してしまうかもしれない綱渡りは、まだまだこれからも続くのだ。

 楽観できるほど余裕を持てる器ではないが、しかしだからと言って、悲観もしない。

 どんなことがあろうと進むと決めたのだ。

 振り替えることはあれど、立ち止まることはない。

 

 さて、果たして、この桜は満開の花を咲かせるだろうかと、提督は深刻な顔で崖の気を見つめる。

 この桜が咲く時は、敵の誰かが倒れた時だ。

 その時は願わくば、薄紅色が失われた命の弔いにならんことをと、提督は樹に一礼して、自分を呼びに来た酒匂と共に、鎮守府へ急いだ。

 

 

 



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6話:9ヵ月後の彼女たち⑥

 桃色の湯船につま先を着けて温度を確かめた駆逐艦・浜風は、下腹に力を込めつつ、ゆっくりと湯船の中へ体を滑り込ませた。

 湯の熱が刺すような痛みとなって肌の表面を撫でるが、この感触がないと風呂とは言えないなと、いつも思うのだ。

 浜風は自分が他の艦娘たちより、いくらかは熱めの風呂が好きなだけだと思っていた。

 しかし、そんな浜風の姿を見た姉艦の天津風が「あなた、タコみたいに茹ってるけれど……。大丈夫なの? マゾなの? お姉ちゃんに、何か出来ることはある?」と心配そうに聞いてきたもので、ああ、これはちょっと度が過ぎているのだなと、ようやく気付いたものだ。

 それでもぬるい風呂に入るのはどうしても我慢ならず、入渠ドックの一角は仕切りをつくって高温専用のエリアとなっているのだ。

 これが浜風ひとりだけならば、甘んじてぬるま湯に浸かるか、時間をずらして入り直すかと言うところだったが、熱めの風呂が好きな仲間が居てくれたお陰で正式に熱湯風呂エリアが成立したのだ。

 しかし後に、「提督の横にドラム缶風呂を並べて入ったら良かったのにー」などと漣に言われ、その手があったかと自分の考えの足りなさを呪った浜風だが、それはいつか実行しようと、今は心に秘める。

 本当に、同志である夕張には感謝の念が堪えないなと頷く浜風は、先に湯に浸かっていて緩み切った顔を見せる彼女に、くすりと笑む。

 浜風にとっては、姉艦である天津風と救助の時まで一緒に居てくれたという意味でも彼女は恩人だ。

 今でこそこうして表情豊かな夕張だが、この鎮守府に拾われた当初はまったく泣かず笑わずの無機質な有り様だったと言う。

 

 浜風が姉艦である天津風から聞いた限りの話では、諸島の一角で出会った当初の夕張は、まるで人形のような無機質さを帯びていたそうな。

 当時は天津風自身も、連装砲くんが機能停止していた影響で塞ぎこんでしまっていたもので、そんな夕張の様子にも疑問を抱かなかったのだという。

 艦娘は艤装を纏わない時間が長く続けば続くほど、艦としての側面が薄れ、人間として成長を遂げるものだ。

 この鎮守府の暁型の姉妹たちや天津風、そして艤装解除状態で単艦行動を取っていた時雨の例が、それに該当する。

 では、逆はどうだ。艤装状態で長期間を過ごした場合は。

 その答えが、先述した夕張の姿なのだ。

 艤装を纏わない時間が長ければ長いほど人に近付くように、艤装状態が長ければ長いほど、艦としての性質に引っ張られて、人の心と姿とを失ってゆく。

 それが、夕張が自身を検体として数年をかけた実験の果てに得られた結論だった。

 夕張が湯の中で間接の駆動や肌の質感を幾度も確かめるような動きを取るのは、その艦に引き寄せられていた時の名残を振り払おうとしているからだと、浜風は本人からそう聞いている。

 長時間の艤装状態では人間性の欠如はもちろん、艦娘の身体にも深刻な影響を及ぼすのだ。

 食事を取る必要は無くなり、睡眠も不要になる。

 体の関節は硬くなり、肌の質感はたんぱく質から金属のようなものへと変化する。

 まるで心が消失して、体が軍艦時代のものへと変化するかのようだったと、夕張は恐怖を帯びた饒舌さで語る。

 かつて大海を鋼の体で駆け巡ったとはいえ、一度人の心と体を得てからの変貌は、心に深い傷を残す結果となったのだ。

 

 それがどうやって今の状態まで持ち直したかと言えば、それはまあ簡単なもので、単に艤装を解除しただけなのだ。

 艦娘の艤装は用途や局面に応じて追加・解除可能なものとなっていて、今回の第二艦隊の面々が翔鶴型の艦内に侵入した時のように、水上に立つための最低限の艤装状態で活動することも可能だ。

 夕張は水面に二足で立つための脚部と艤装核を内包する腰部の艤装のみで、単艦この敵支配海域を彷徨っていたのだという。

 当然、缶類を内蔵する背部艤装がない以上推進力は得られず、移動は難破船やコンテナの残骸で作ったイカダで、しかも手漕ぎ移動だったと言うのだから驚きだ。

 敵に発見されればひとたまりもない姿にも関わらず今日までこうして生き延びているのは、当人曰く、運が良かったからだそうな。

 一時は廃材をかき集め即席で駆逐イ級の被り物を拵え難を逃れたこともあったそうで、眉唾な話がらも彼女ならば出来てしまいそうだと浜風は苦笑するしかない。

 

 さて、そうして天津風と合流して艤装を解除した夕張だったが、すぐに人間性を取り戻したかと言えばそんなことはなく、しばらくはお人形のような状態が続いたのだという。

 深海棲艦の支配海域。灰色の空と海とを臨む諸島の一角にて、心を壊した艦娘と、心を失くした艦娘と、壊れてしまった自立稼働型砲塔が、並んで体育座りしている姿を想像して、皆の無事が確保された今だからこそ、浜風は噴き出してしまう心境でいられるものだ。

 そうして体育座りのまま数日の後、夕張がぽつりと「……お蕎麦、食べたい」と呟いたことが切っ掛けで、天津風が「……天ぷら蕎麦」と返し、食べ物の名前を次々挙げて行くうちに空腹を思いだし、忘れていた味を思いだし、涙を思いだし、そして彼女たちは何年振りかに自分を取り戻したのだ。

 

「……そういえば、お腹がすきましたね」

 

 ぽつりと浜風が呟けば、目を細めた夕張が「そうねえ……」と、だらしない顔で同意。

 熱い風呂が好みの浜風ではあるが、鎮守府で一位二位を争う健啖家でもある。

 此度の入浴剤が桃風味と、食べ物関連であるのも空腹に拍車をかけている。

 先日のメロン風味に追いドリアンと言う悲劇があったばかりだが、そんなことは既に過去のものだ。

 芸人根性というものだろうか。漣も卯月も一度披露したネタは受けようが受けまいが二度は使わないという矜持があるようで、もう湯船に何かを混入することは無いだろうという、謎の安心があるのだ。

 しかしまあ、その暴走駆逐艦の片割れたる卯月は今回も何か仕込みを用意しているようで、落ち着きなくうずうずしながら暁に頭を洗ってもらっているのが少々気掛かりだ。

 その暁の髪をプリンツが、そのプリンツの髪を初春が。そして初春の髪を熊野が洗っている光景は、いつもの平和な入渠の風景だ。定位置に居るべき人物がいる光景。安心を得られる光景。

 

 湯船の中で身を捩って、浜風は姿勢を内向きにではなく外向きに、入渠ドック全体を見渡せるようにして、湯船の淵に腕と上体を乗せて寝そべった。

 夕張が「あら、おっきな桃さん」などとセクハラしてくるので、尻は湯船の中に浸す。誰が産毛たっぷりだ、失敬な、と、言われてもいないことを言われた気になってひとりで憤慨する。

 提督がこの島に流れ着いた当初は、この広大な入渠ドックの一角に暁型の姉妹たちがこじんまりと浸かっていたと言うが、今では20を超える艦娘たちがひしめき合い、毎度何かと騒がしい。

 ジャグジーエリアでは阿武隈や利根、時雨などが、普段の勇猛さを微塵も感じさせないほどにだらけきった表情で気持ちよさそうな呻きを上げているし、朝霜や響、高雄などはいつの間にやら持ち込んだ徳利で早速一杯ひっかけている。高雄はいつも説教して回る立場だったはずだが、最近はすっかり流され染まってしまっている。

 いつもは騒がしい青葉や漣だが、今日ばかりは大人しく、というよりは真剣な面持ちで叢雲や天津風たちと情報交換している。それもそうだ、敵の姫級“名前付き”を倒したこともそうだが、目標の装甲空母からスリープ状態の戦艦の艦娘が発見されたのだから。

 夕張と天津風で最低限の解凍処置をした後、雷が検査してこの入渠ドックに運ばれてくる手筈になっているが、まだその気配はない。今も雷の検査が続いていて、清霜がそれに付き添っているのだ。

 そう、清霜。何せ、彼女の憧れる戦艦の艦娘だ。興味は尽きないはずだ。

 

 第二艦隊の皆が得た情報は、浜風も帰投中に要点を聞いている。

 聞いてはいるが、あまり深くは考えていない。

 頭脳労働担当は他に何隻もいるし、己の領分ではないとも思っているのだ。

 しかし、そんな浜風をして、今回の調査結果は頭を痛めるものだった。

 件の装甲空母があの地点に座礁横転した時期と、提督がこの島に流れ着いた時期が、ほぼ合致するのだ。

 この敵支配海域下では海流といった概念は存在せず、漂流物の類いは何らかの力によって、漂い流れるようになっている。

 例えば、深海棲艦が艦隊行動を取って移動する際に生じた波や、海域支配者が天候を操作した際の余波などだ。

 仮に提督があの装甲空母の乗員だったとして、この島に流れ着く可能性はどれくらいだろうかと、浜風は考える。

 帰り際に計算を試みた夕張は「ノイズが多くて無理」と、算出断念していた。

 敵地も刻々と状況が変化するだろうし、約1年前の正確なデータが必要となれば、確かに答えを諦めざるを得ない。

 しかし、ならばと、考えるのは“そうだった”場合の可能性だ。

 提督があの艦の乗員だった場合。

 

 浜風がその先を思考しようとしたところで、皆からマークされている卯月に動きがあった。

 シャンプーハット(暁のお下がりだそうだ)で頭を洗ってもらっていた卯月は今や立ち上がり、尻の上の蒙古斑を浜風たちの方へ向けている姿だった。

 「ほら。うーちゃん、前世もウサギだったから」とウサギアピールの度に語られる薄青色は、確かにウサギの尻尾に見えなくないのが妙に悔しいところだ。

 さて、その悪戯仔ウサギは手に何か瓶のようなものを掲げて、得意気に語り出している。

 そう言えば、ここ最近は外界からの漂流物が増えたものだと、暁が言っていたのを浜風は思い出す。

 これも装甲空母による無謀な突入計画の余波でもあるのだろうが、艤装開発に携わっている企業連合が、敵支配海域にて生存者を確認したため、物資の投下を検討したものかも知れないとは、青葉談。

 そう言った漂流物の回収担当は浜風たち第三艦隊の仕事になりつつあり、悪戯盛りの漣や卯月に任せておいても良いものかと、鎮守府の皆は頭を悩ませているものだ。

 卯月が手にしている品もそうした漂流物のひとつかなと思い至った浜風は、しかし妙な予感に首を傾げ、掲げられた瓶の銘に目を凝らした。

 

「……育毛剤?」

 

 思わず訝しげな声を漏らしてしまった浜風は、確かにそういった品も日用品枠に含まれていたなと、頭の中のリストをひっぱりだす。リスト作成等は浜風の担当なのだ。

 しかし、育毛剤。艦娘には不要な品だ。

 艦娘の肉体はデフォルト状態が設定・登録されていて、たとえば永久脱毛などで毛根が死滅しても、こうして入渠すればスッキリリセットされる仕組みになっている。

 例外は時雨や浜風自身が行っているような鍛練のフィードバックや、暁型姉妹たちのような成長だが、それでも薄毛で悩むような肉体年齢までの成長データは取れていない。

 そもそもあれ男性用なのではと訝る浜風は、ふと自分の提督がサカヤキやスキンヘッドになっている様を想像して「それも、ありですね」と、顔を赤くして力強く頷いた。夕張からは突っ込まれたが。

 その間にも卯月の主張は続く。

 

「うーちゃん考えました。みんなみんな司令官のことが好き好きで、司令官もみんなのことが大大好き好きなのに、なーんで皆チューしたりギュってしたり、あんまりしないのかなーって」

 

 聞く者にとっては挑発的とも取れる発言に何隻かが水しぶきを上げて立ち上がったが(特に阿武隈が)、話の真意を確かめんと、何とか堪えて踏みとどまる。

 

「ちなみにうーちゃん、結構司令官とぎゅってしてます。昨日も一緒にお昼寝しました。うぇへへ」

 

 入渠ドックの扉が勢いよく開いて先に上がったはずの祥鳳がバスタオル一枚の格好で戻ってきたが、皆の視線に気まずくなり「……どうぞ、続けて下さい」とか細い声で告げて、入り口に正座した。どうやら聞いてゆく気のようだ。

 洗い場に居た漣も急いで走って行って「聞いていくんかーい!」とスライディング気味に突っ込みを入れているしで、たいへん仲が良い。

 

「で? それが何? 育毛剤と、どう関係あるのよ?」

 

 興味ない風を装っているつもりの叢雲が焦れたように問うのに対して、卯月は得意そうな顔のままふふんと鼻を鳴らして見せた。

 

「うーちゃん見ました。見てしまいました。司令官のお部屋に隠してあったエッチな本。金髪でばいんばいんのお姉さんがいっぱいでした」

 

 にわかに色めき立つ艦娘たちの中で、比較的冷静な者もいるのだなと、浜風は全体を俯瞰してそう察する。

 暁や響や、あとは阿武隈だろうか。比較的提督との付き合いが長い艦娘たちが「あ、わかったぞ?」という顔になっていると言うことは、これは新事実と言うわけではなく、古参組ならば既に知っていることなのだろう。

 少なくとも阿武隈よりも先に建造された面々は、提督の好みを把握しているという可能性が高いのだなと、実は見当違いの結論に浜風は力強く頷いた。

 提督の好みは浜風としてもたいへん気になる部分ではあるが、それよりも気になるのは卯月の方だ。

 ばいんばいんと育毛剤がまったく結びつかない。まだまだうーちゃんドヤ顔タイムが続くのかと唸る浜風に、頭のタオルを直した夕張が「いや、そこは、自分のおっぱい見てガッツポーズするところでは?」と控えめな疑問を入れてくる。

 確かにそうかもしれないが、浜風自身は自分の胸部装甲に自信があるどころか、逆にもっと量を減らしたいとさえ考えている。

 ……と言う相談を姉艦の天津風にしたところ、全力で涙まで流して止められてしまったのが、ついこの間のこと。

 さすがに「浜風のおっぱいは陽炎型の誇りなの! 希望なのよ!」と力説されてしまっては、なんだかよくわからないが、なんとなくそう言うことなのだなと思えてくるから不思議だ。

 

「そのお姉さんたち、お股の毛がふっさふさでした」

 

 卯月のその発言で、入渠ドックの温かく湿った空気が一瞬だけ凍りついた気がした。

 一拍置いて、慌てて自分の股間を気にし始める者と、苦笑いする者に二分され、これはこれで騒然とした空気が生まれてくる。

 浜風としては、全く気にしない風を装いながらも全くその通りに出来ずに挙動不審となっている姉艦に一言指摘してやりたかったが、何分距離が遠すぎた。

 しかし、これで卯月が育毛剤など持ち込んでいたのか、その意味がわかった。

 要は、提督のハートを射止めるために好みの外見に近付こう。具体的にはお股に生やそうという試みなのだ。

 

「……生えるんですか?」

「うーん……。元々の素体が体毛濃いめじゃないと、無理なんじゃないかなあ……」

 

 艦娘の体毛、主に頭髪などは切ってしまっても入渠ですぐにデフォルトの状態まで復元することは可能だが、元々設定されていない項目、……今回の場合は体毛の濃さだが、それは素体となった少女の体質に左右される。

 濃い者は濃いままに、薄い者は薄いままに、なのだ。

 陽炎型で言えば、浜風は有望株、天津風は絶望的と、思わず姉艦に対してひどい未来を夢想してしまい、妹艦は項垂れる。

 ただ、鍛錬のフィードバックが可能である以上、効果は期待できそうな気もするが……と顔を上げれば、夕張は首を横に振って見せた。

 

「ほら、艦娘の体って合成たんぱく質でしょう? 普通の人間が使うような薬品、化粧品なんかも効果弾いちゃう場合があるし、ましてあれは……」

 

 そう言葉を途切れさせて夕張が視線を向ける先、件の育毛剤は“男性用”。

 すなわち、艦娘には全く効果が期待できない代物だ。

 それでも、希望を見出した何隻かが、育毛剤を掲げる卯月の元へ集まり出して、怪しい宗教さながらの光景を展開している。

 下の毛が豊富であることが提督の好みかどうか定かではないというのに、皆揃って早とちりもいいところだ。

 

「……提督の好みの娘って、どんな娘なんでしょうね?」

「さあ? うーちゃんのエロ本情報だと金髪でおっぱい大きい娘、っていうのが、現状最有力候補らしいけどね。でもまあ、私もここ長いわけじゃないし、誰か特定の艦娘を特に、っていうのは聞いたことないかなあ……。だから、青葉にデータ収集、依頼中よ?」

 

 こっちもこっちで何をやっているのかと、良い顔でサムズアップする夕張から苦笑いで顔を逸らした浜風は、育毛剤を試そうと意気込んでいる一団に視線を向ける。

 その一団の中に深刻そうながらも頬を上気させ意を決したかのような表情の姉艦の姿を見付けてしまい、浜風は湯から跳ね上がって全力疾走で止めに行った。

 

 

 ○

 

 

 足元の石鹸に気付かず、滑って転んで頭を強かに打った浜風は、天津風に付き添われて脱衣場へ戻ってきた。

 まだ見ぬ姉艦に勝るとも劣らない落ち度だ。任務以外で医療用の個別ドックに入るなど、失態以外の何物でもない。

 脱衣場では先に上がっていた艦娘たちがすでに身なりを整えていたり、そうで無かったりと、やはり賑やかだ。

 鏡の前で並んで髪を整えるレディ部の面々を余所に、自分の体つきにコンプレックスを抱える姉艦をどう励ましたものかと、浜風はむむと唸る。

 長きにわたるサバイバル生活で満足に栄養が取れず、細身の体つきに成長してしまった天津風を前にして、「これはこれでいいと思います」や、「私はそちらの方が好ましいかと」「体質です」などとは、口が裂けても言えるはずがない。

 出来れば体を代わってあげたいと思うが、いくら艦娘でもそうはいかないのが難点だ。

 上手い言葉が思いつかないので毎度毎度抱きしめると言った形で誤魔化してはいるが、天津風の方もそうされるのは嫌いではないようで、彼我の体格差に唸りながらも表情は穏やかな部類だ。

 

 姉妹と言う括りで言えば、浜風にとっては自分の所属する第三艦隊がそういったものかなとは漠然と考えているが、同じ陽炎型の姉妹艦と言うことで人一倍目をかけてくれる天津風の存在はやはり特別なものだ。

 何も意識せず素直に「姉さん」と呼ぶ言葉が出て来るのは、この鎮守府の中ではやはり天津風だけなのだ。

 これが、姉妹艦が居ない者たちはどうなのかなと脱衣場を見渡せば、皆々それぞれが独自の姉妹感を持って互いに接しているのだろうことが伺える。

 熊野主催のレディ部もそういったもののひとつだろうし、祥鳳や漣、時雨や龍鳳と言った艦艇時代に縁のあった者たちは何となくそういった姉妹のような雰囲気になっている姿も見られる。

 こういった感覚は艦娘特有のものなのだろうかと疑問し、今日の姉艦は若干体温が高めだなとテイスティングする浜風は、訪問者の音を耳にする。

 

「はーい、どいてどいてー、通して通してー。あと、手が空いてる人は手伝ってー」

 

 脱衣場の入り口から良く通る雷の声と、数人の足音。そしてストレッチャーのものと思われるキャスターの音が聞こえてきたのだ。

 皆が視線を向ける先、脱衣場に入ってきたのは、雷と手伝いの清霜、そしてストレッチャーの上に横たえられた戦艦・榛名だ。

 こうして入渠ドックまで運ばれてきたということは、ようやく検査を終えたのだろう。

 にわかに集まり出した艦娘たちに、雷は白衣を脱ぎながら検査結果を説明する。

 

「肉体面に異常はなかったわ。今から入渠ドックの湯に浸けて本格的な解凍措置に入るから、夕張と天津風は手伝ってね。それと、この娘の介添えしてくれる子、誰か……」

 

 浜風は即座に挙手してその役を得る。

 清霜だけに任せておくのは心許ないなと感じたし、正直なところ、浜風自信もこの榛名には興味が湧いていたのだ。

 雷が脱衣場で準備し、夕張と天津風が計器類をセットしてゆくあいだ、清霜や時雨たちと共に、榛名を医療用の個別ドックに寝かせてゆく。

 先程まで自分が入っていたもので、動作は問題ないなと妙な安心感を得た浜風は、榛名の左手に光るものを見付ける。

 

「そう言えば、彼女は“指輪付き”でしたね」

「“指輪付き”ってすごく強いんでしょう? いいなあ、すごいなあ……!」

 

 顔を輝かせて未だ目覚めぬ榛名の横顔を覗き込む清霜に、しょうがないなと嘆息した浜風はしかし、“指輪”と言う単語にふと引っ掛かりを覚えた。

 「どうかした?」と時雨に問われ、浜風は表情を消して「いいえ」と首を振る。

 漂着物のリスト、と言うよりも漂着者の遺品リストの中に、確か指輪があったかなと、そんな考えが脳裏を過ったのだ。

 それがもしかしたら艦娘用の品という可能性はないだろうかと、そう勘ぐってしまう。

 浜風はその遺品の実物を見たことがなかったし、仮に“そう”だった場合、暁たちが気付かないはずがない。

 

 しかし、例えその指輪が艦娘用の品だったとしても、暁たちは運用しなかっただろう確信がある。浜風自身、自分が同じ立場でもそうだっただろう。

 そんなことを考えてしまうのは、こんな環境にあって、自分たちがまだまだ余裕を持っていられるからだろうか。

 だとすれば、提督と仲間たちに改めて感謝だなと、浜風は手近にあった清霜の頭を撫でる。時雨も混ざる。

 死んだように眠り続けるこの榛名には、そう言った仲間たちが果たしていたのだろうか。

 きっと居たはずだし、そして彼女に指輪を渡した提督は、今は……。

 

「今は僕たちが、彼女の仲間だよ」

 

 呟くのは時雨。

 誰に届けるでもなく放られた言葉は、かつての時雨自身に掛けられた言葉だろうかと息を詰めた浜風は、しばらくのあいだ、居合わせた皆と共に眠れる彼女の横顔を見守った。

 

 

 



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7話:9ヵ月後の彼女たち⑦

 煮立つ油に菜箸を差し入れるようにしてすくい上げたかき揚は、いつもよりも気持ち良い色をしているのではないだろうかと、給糧艦・間宮は笑み、頷いた。

 水無月島に来た当初は、こうも簡単にいかなかった。

 敵の支配海域では物理現象がねじ曲がる。

 その効果が及ぶところは兵器や電子機器だけではなく、厨房にある設備等も含まれ、それどころか発酵等の食材に関係する部分にまで及ぶのだ。

 陸地ではそれなりに影響が緩和されるものの、生鮮食品や発酵が工程に含まれる食品等は、やはり扱いが難しくなってくる。

 糠漬けが全く浸からないことに驚き、パン生地が膨らまないことにがっかりして、油の温度が上がらないことにやきもきして、建造されて初めて調理を失敗したことに、自信を無くし存在意義を疑って涙したものだ。

 挙句の果てには本領が海上であるはずの艤装状態で調理に挑もうとして、鎮守府の皆に全力で止められたこともあった。しかしまあ、その艤装の運用自体は、決して間違っているとは言い難い。

 

 給糧艦・間宮の艤装は敵支配海域においても通常海域同様の食品の管理と調理を可能とするものだ。

 それが、水無月島の艦娘たちに救助される際には破損していて、同じく救助された夕張や天津風が調子を取り戻して修理に取り掛かるまで、使用不能だったのだ。

 艤装の恩恵が無いからと調理場を遠退いては、自らの存在意義に関わると、当時の間宮は相当思いつめていたし、気が狂う程の思考錯誤を繰り返し、見ている側が心配する程の有り様だったのだ。

 そんなこともあったが、今では敵支配海域での調理にもだいぶ慣れてきたもので、温度の調節や味の管理なども、艤装の助けなしに通常海域と同じように熟せている。

 

 こんな環境下で毎食拵えていた電はいったい何者だと驚嘆する思いだが、自分のドジまで計算して成功率9割をキープできたのだと言われて唖然としたものだ。実践して見せてもらって二度唖然としたが。

 そんな電だが、今は台所を遠退き司令官の専属秘書官としての仕事に従事しているので、自分が“認められた”と考えてよいものだろうかと、そこが間宮の悩みどころだった。

 艦娘の数が増え、毎食分の調理量も格段に増えて、それまでにこの海域の調理法に慣れることが出来て本当に良かったと考えている。

 調理に不慣れなままであったのならば、鎮守府の皆の胃袋を満足させることは難しかっただろう。

 しかしまあ、そんな間宮の考えも杞憂の内ではあるのだ。

 厨房に出入りするのは、何も間宮一隻だけではないのだから。

 

「お疲れさまです間宮さん。私たちもお手伝い入りますね?」

 

 小走りな足音が聞こえ、調理場の暖簾を上げて入ってきたのは空母・千歳だ。

 風呂上りの髪を緩くまとめて三角巾を着け割烹着を纏った姿で、間宮が下拵えを中断していた揚げ物の残りに取り掛かってくれる。

 千歳の後に続くように龍鳳、祥鳳と暖簾をくぐり、間宮が準備だけはしておいた諸々の調理に取り掛かって行く。

 これでも先ほどまでは海上で任務をこなしていた第四艦隊、水無月島の機動部隊3人娘だ。

 任務後の入渠も早めに切り上げこうして食事の用意を手伝ってくれるのはありがたいが、ちゃんと疲れが取れているのかと、以前の間宮なら不安になったものだ。

 まあ、夕食後に改めて晩酌込みで入り直すのだから、その心配については杞憂だ。

 ただし、入渠状態での飲酒は飲んだ先からアルコールが分解されて永久に飲んでいられる状態になってしまうため、持ち込みはひとり一合までと固く取り決めている。

 入渠酒の件に関しては、高雄が取り締まっているはずなので大丈夫だろうと、間宮は安心する心地だ。

 そんななか間宮にとって困ったことと言えば、空母娘たちがその湯の中の酒盛りに提督を連れ込もうとしていることと、共犯として間宮当人をも抱き込もうとしていることだろうか。主犯は千歳だ。

 

 間宮としては、他の娘たちが提督に対してお盛んなのは構わないのだが、そこに自分を巻き込むのは遠慮してほしい考えている。

 その艦種の特性上、間宮は滅多に提督という人間と接触することはない。せいぜいが食事を取りに来たところに挨拶や世間話をする程度だ。

 加えて“この間宮”は建造されてすぐに極地突入作戦の補助員として編成されたため、提督どころか同じ艦娘に対してもまだまだ緊張してしまう部分がある。

 それでも、搭乗した装甲空母の乗員たちとは仲良くやれていたつもりだ。

 本当に短い間、1ヵ月にも満たない期間だったかもしれないが、間宮は確かに、あの艦の一員だったのだ。

 それが――、

 

「間宮さん? 大丈夫ですか?」

 

 龍鳳の声ではっと我に返る。

 間宮の意識が過去に呑まれている間に、龍鳳が茹った油から良い色になった揚げ物をすくってゆく。

 完全にやってはいけない失念をしていた。

 鼻筋を伝う汗をぬぐい、自己嫌悪で泣き出しそうになるのを、龍鳳たちが大丈夫だと慰めてくれる。

 彼女たちがこうして厨房に詰めてくれるのは、まだまだ不安定の域を抜けられない間宮をサポートする意味もあるのだろうなと、慰められる間宮当人は頷き、ただただありがたいと感涙する思いだ。

 

「……龍鳳、お酒の持ち出しはひとり一合までですからね」

「あ、ばれちゃいました?」

 

 まあ、慰めたりサポートしてもらえるのはありがたいが、それとこれとは別だ。

 それとこれとは別だが、予め用意していた徳利ひとつ、こっそりと手渡す。

 

 

 ◯

 

 

 今晩の分が一段落したところで、厨房の奥から食堂の方を見やる。

 そろそろ風呂上りの誰かがやってくる頃かなと思えば、ちょうど飛行場から戻って来た提督が、資料の束を手に入って来たところだった。

 厨房にいる間宮たちにカウンター越しに軽く挨拶して、もはや定位置となった席に静かに座る。

 食堂を訪れる時は何かしら読み物をしているなと言うのが、間宮が提督に対して抱く印象で、その横顔を遠くから見るのは嫌いではない。

 そんなことを考えていると、背後から忍び寄って来た千歳が優しい手つきで肩を掴み、「例の件、考えて頂けましたか?」と、にんまり笑んで聞いてくる。

 間宮としては幾度目かのお断りをいれるのだが、それで千歳が納得した様子はない。

 左右の肩口から交互に顔を覗かせて「まあまあ、そう言わずにー」「私たちと、提督と、一緒にー」「お風呂で晩酌しましょうよー」「ね、間宮さん?」と、にじりにじりと押してくる。

 こうしてべったりと纏わり着かれるのは、間宮としては別段嫌いではないし、風呂場での晩酌もむしろ望むところだ。望むところだが、しかし艦娘だけならまだしも“提督も一緒に”と言う部分が曲者だ。

 その部分があるからこそこうして頑なに拒否しているわけだが、千歳の余裕の表情を見ていると、いつまで意固地になっていられるものかと、冷や汗が流れん思いだ。

 

 建造組の中では阿武隈に次いでこの鎮守府が長いせいだろうか、器用で気が利く切れ者なのが、この千歳だ。

 頑なに拒否の姿勢を貫く間宮をこうして誘うのも、恐らく何らかの意図があるのだと確信はある。それも間宮自身にとってプラスとなる形の利だ。

 千歳に任せておけばきっとうまく行くのだろうという確信は、この鎮守府ではほとんど誰もが持っている共通の認識だ。

 しかし、だからと言って素直に頷けないのは、まだまだ慣れが足りないからだろうかと、間宮はそう考える。

 今日のところはもうあきらめて晩酌組のつまみを拵えに掛かっているが、その背中を盗み見てどこか寂しさを覚えてしまう。

 素直に誘いに乗れば良かっただろうか。いやいやしかし、提督と裸の付き合いとなると、さすがに……。

 そう、ひとりで問答しているものだから、間宮は提督の接近にまったく気が付かなかった。

 

「間宮、手伝うことはあるかい? 配膳とか」

 

 急に声が掛かったせいもあり、びっくりして過呼吸気味になる間宮に、カウンターの向こうの提督と妖精たちが大慌てだ。

 こんな時、真っ先にフォローを入れてくれるのが千歳だ。

 間宮の肩に手を置いて耳元で「落ち着いて」と囁き、提督や妖精たちには「気を付けてくださいね」のジェスチャー。

 

「用意はこちらでやりますから、提督は妖精さんたちのお相手でもしていてくださいね」

「あ、やんわりといらないって言われたね僕等」

 

 気持ちしょんぼり気味の提督が両手に腹ペコ妖精たちを満載して元の席に戻って行く。

 

「ああ、提督? ちょっとお待ちを」

 

 しょんぼりさんと腹ペコさんたちを呼び止めた千歳が、盆につまみの小鉢をいくつか載せて渡す。

 「お通しです」と笑んで渡すそれらは、千歳たちを含む晩酌組用にとつくっていたものだろう。

 酒のつまみに関しては千歳の得意とする部分であり、暇さえあればつくって試してを繰り返しているもので、レパートリーも豊富だ。

 つまみ系は千歳の領分と言うことで、間宮は勝手に自分の中で住み分けしているのだが、提督が濃い味好きで、しかも千歳のおつまみが概ね好評という事実に、どうにも複雑な心境になってしまう。

 千歳が全てを見透かしたように「間宮さんも何か、提督につくって差し上げればいいと思いますよ」などと言うものだから、余計に意固地になってしまう。

 入渠酒のお誘いと相まって、何かあるのではないかと、余計な警戒心が働いてしまうのだ。

 そんな内心を見透かしたかのように「慣れて行きましょうね」と囁き次の作業に移ってゆく千歳に、どう答えたものかと唸ることしかできないのが悔しいところだ。

 

 お盆を持って席に戻る提督の背中を見送る。

 その途中、Tシャツとパンツ姿で食堂に入ってきた高雄と鉢合わせて、下を履き忘れていることに気付いた高雄が慌てて逃げ出す場面があったが、提督の方は慣れたものだと苦笑い。

 あれを見てしまえば、一緒に入渠しても変に意識はされないのだろうなと確信するのだが、それはそれでちょっと悔しいなと思うこの感情はなんだろうと、間宮は眉根を寄せて小さく唸る。

 千歳が「恋ですよ、間宮さん。こーい」と言うのを「濃いですかあ、お味噌汁濃かったですかあ」と聞き流し、風呂上りの艦娘たちに配膳の指示を振り分けてゆく。

 先の高雄を始め、風呂上りの艦娘たちが続々と食堂に集まり出す時間帯だ。

 

 風呂上りの艦娘たちは普段の制服姿ではなく、各々の部屋着や寝間着に近い格好の者がほとんどだ。

 さすがに下着一枚のみと言った不埒者は数える程しかいないが、それでも体つきのたいへんよろしい艦娘たちの部屋着姿は、健康的な男子にとっては目の毒だ。

 そう、間宮は思っていたのだが、提督は表情を、態度を崩さず、いつもの調子でそれら悉くに気さくな反応をしてみせる。

 黒いスポーツブラとパンツ姿の時雨が挨拶しても気さくに挨拶を返すし(その直後、龍鳳が全力で時雨を連れて食堂を後にするし)、薄ピンク色のネグリジェ姿でくねくねしながら登場した漣には「大丈夫? 風邪を引いてしまうよ?」と心配そうに諭すしで(その直後、祥鳳が漣に当て身して気絶させて抱えて真っ赤な顔で食堂から逃亡するしで)、もう慣れっこになってしまい、大概のことでは動じなくなってしまったのだ。

 以前は初心な男子全開な有り様だったと幸せそうな顔で語る暁型姉妹の言に、その頃の提督にもお目に掛かりたかったものだと、残念な気持ちを抱く自らを、間宮は軽く握った拳で小突く。

 

 

 酒飲み勢の響や朝霜たちが提督たちのところからつまみを浚っていこうとするのを、阿武隈や熊野たちが窘めて高雄に引き渡してといういつもの光景に、間宮は安堵を覚えるものだ。

 彼女たちは無事に任務を終えて帰投したのだ。

 言ってしまえばそれだけの事実に、間宮は肩の荷をすべて降ろしたかのような、重い安堵を得る。

 自らの艤装が戦闘用の改装を受けられない仕様となっている以上、間宮が他の艦娘たちと肩を並べて戦うということは、まずありえない。

 今立っている場所こそが自分の領域、戦いの場だという思いも自覚もありはするものの、それでも悔しさのような感情を抱かずにはいられないのだ。

 自分以外の、“他の”間宮はそういった感情をどう処理しているのか、非常に気になるところではあるが、救援が辿り着けないこの孤島に有れば、この感情にはしばらくひとりで向き合うしかない。

 それとも、戦闘艦として活躍しながらもその性能を失った電に相談すべきだろうかと考えて、それは出来ないなと思い留まる。

 戦う力を最初から持たされなかった間宮と、元々持っていた力を失った電たちとでは、あまりに考えに差がありすぎる。

 自分の悩みが匙にも残らないほどにちっぽけなものだと、そう自覚することは、間宮にはまだまだ怖かったのだ。

 

 もの想いに耽っていると、エプロンの裾がちょいと引かれる感触を覚える。

 伏した目線を少し上げれば、提督のおさがりの大きなTシャツを来た卯月が心配そうに間宮の瞳を覗き込んでいた。

 

「間宮さんも一緒にご飯食べるぴょん。今日はエビフライがあるから、うーちゃんとっても嬉しいです」

 

 笑みそう告げる卯月に、咄嗟に言葉が出ずに、はにかみ笑いで「ええ」と頷けば、巻雲や酒匂や続々とやって来た面々手を引かれて厨房から連れ出される。

 間宮自身はまだ慣れないものだが、この鎮守府の食事はなるべく皆で取るようにとのご達しが出ているのだ。

 さすがに任務中で人が出払っている時はその限りではないが、それ以外の時間は間宮も共に食卓に着く。

 以前食堂を担当していた電の起っての願いとのことで、水無月島鎮守府規則の中ではかなり上位に位置している要項なのだ。

 席順などは毎度ばらばらだが、今日はどうしたことか、競争率の高い提督の隣りの席が空席だった。

 千歳の根回しだなと彼女を見やれば、新しい酒瓶の封を切ってウィンクして見せる。買収したのだろうか。

 

 提督の隣りという位置に緊張するが、提督の膝に得意げな表情で座っている卯月や、反対側の席を占拠して提督の腕にしがみ付いている酒匂の姿を見てしまえば、どうってことないなと思えてしまうのだから不思議なものだ。その光景を見て羨ましそうに指をくわえる祥鳳も。

 ただ、さすがに任務の報告があるので、阿武隈や高雄と言った旗艦を任されている艦娘たちは同じテーブルに着いている。それでも、一度食事が始まってしまえば資料は脇に置いたりと、食事に集中してくれるのは、間宮としてはありがたいことであり、気を遣わせて申し訳ないなと思うところでもある。

 報告自体は食前までに簡単に済ませてしまい、穴や抜けがあれば食後に捕捉、と言った具合だ。

 以前は提督の執務室で定例会議や報告など行なっていたが、今の艦数では手狭もいいところだ。

 艦娘全員が集まって話せる場所となれば食堂か入渠ドックかと様々案が出たが、結局は食堂と言う形に落ち着いている。

 もしかすると、これも自分への配慮だろうかと、間宮は配膳を手伝おうとするのをやんわりと止められながら思う。

 食事の支度に掛かりきりになり、そう言った定例会議などに出席できない場面も以前はあったが、食堂がその場になってからは、手先を勧めながら話の流れを耳にすることが出来た。お茶やお茶菓子も出しやすいということで、一部の艦娘たちが強く推すのも頷けるものだ。

 

 その艦種の特性上、自らはこうした“内”に入るものではないと考えていた間宮にとって、この鎮守府の規則は戸惑いはすれど、嫌いにはなれない。

 “慣れ”なのだなと、先の千歳の言葉を思い出す。

 水無月島に保護されて数ヵ月、まだまだ慣れないことばかりだが、こうして同じ食卓に着いていると、自分がこの鎮守府の一員なのだと自覚が湧いてくる。

 装甲空母での生活を忘れたり、その思い出を蔑ろにすることは決して無いが、ただ、新しい時間を始めるには何か区切りが必要なのかもしれないとは、間宮自身、ずっと考え続けていることだった。

 

 やがて、雷が入渠後半組を連れてきて、保護した戦艦・榛名の安否を報告した後、いよいよ夕食の時間となる。

 雑談が花となり箸と食器の音が生ずる中、間宮はじっと千歳の方を見る。

 朝霜や響たちと乾杯して杯を傾けていた千歳は、間宮の視線に片目で応え、待ってましたとばかりに口の端で笑む。

 入渠酒の件、了承しました。

 そう唇で言葉をつくった間宮は、隣りの提督を務めて意識しないようにと、味噌汁の器で口元を隠した。

 

 

 ○

 

 

 食後の後片付けのあいだ気の抜けた心地だった間宮も、食器を棚にしまい終える頃にはいつもの調子を取り戻していた。

 いきなり提督の隣りに座らされて生きた心地がしなかったが、いつもよりも間近で情報のやり取りを見聞きすることが出来たのは良い経験だった。

 艦隊運用の話をしながら、ちゃんと食べているものの味もわかっていると言った風で、そんな様子の皆に対して隣でそわそわしているのは自分がまだまだ作り手として未熟な証拠だろうかと、間宮は今さらになって思い悩む。

 提督を風呂に連れ込む計画も今晩はお流れになってしまっため、気分転換にプリンを仕込もうかとつくり始めれば、これがまた分量を間違えてつくり過ぎてしまう。

 さて、型が足りるかと戸棚探れば、カウンターの方に新たな気配。

 見やれば、卯月や巻雲や暁や熊野やプリンツ阿武隈初春清霜利根浜風時雨秋津洲と、お菓子大好き甘い物大好き大食い勢がカウンターの上に手と顔だけ出して整列、輝かしい眼差しでこちらを見ているのだからたまったものではない。テーブルの方で素知らぬふりをしつつ、ちらりちらりとこちらを伺う叢雲と高雄もバレバレだ。

 妖精さんたちも各部署の代表たちが詰めかけ、デザートの出現に心躍らせている。

 仕込んだばかりですぐに食べられるわけではないなどと告げたら心底落胆するのが目に見えているため、さてどうしたものかと困り顔で思案した間宮は、一計を案じて艦娘たちに油性マジックを差し出す。

 

「明日のデザート予約権ですね。ラップをかけて冷蔵庫に入れますから、その前に1個だけ、名前を書いていいですよ? ここにいる娘だけ、特別ですからね?」

 

 仕込んだ数は全員が3食分食べられるくらいには量がある。

 ここに集った者には優先して1個予約出来るという特典が付いたわけだが、各々それで納得したのか、好みの型を選んで名前をかき込んでいる。

 計りまで取り出して内容量を他と比べて精査している意地汚い巻雲には後でお仕置きだ。

 

 

 やがて集った皆々が名前を書き終え、間宮にお休みを言って引き上げていくのを見送る。

 そうしてトレー数枚分に及ぶ未成熟のプリンを冷蔵庫に収めてゆき、いざ扉を閉じる段階になって、間宮は表情を陰らせる。

 どうか、ここに収められた甘味が空になりますように。戦場に出ることが出来ない間宮の祈りだった。

 

 

 



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8話:9ヵ月後の彼女たち⑧

 夜間の単独潜航任務にも慣れてきたものだなと、まるゆは荷重軽減のかかった艤装状態で建造ドックに足を踏み入れた。

 現場にはすでに電たちが待機していて、計器類のテストを行っている。

 サポートで夕張や天津風らが付き添っていて、提督がいつも通りにそれらの作業を見渡して時折質問を挟んでいる。

 最近はこの面子での任務も定番となりつつあるなと、まるゆは面々に軽く挨拶してスクール水着の尻を直す。

 まるゆが建造された2号ドック。

 かつては基礎部が崩落して水没していた場所は、今は建造ドック自体を撤去して空白になっている。

 

 島の地下に海水が流れ込んだ空洞があることはまるゆの引き上げの時に判明しているが、その空洞が島の中心部まで続いていると発覚したのはつい最近の話だ。

 島の地下に巨大な空洞があるなど、水無月島鎮守府設立当初から籍を置いている電でも知らなかったことだ。

 もちろん、島に鎮守府を建設する際に地盤の調査等は行われており、その時には地下の空洞など観測されなかったはずなのだ。

 しかし、艦娘の艤装にて探針した結果は揺るぎないもので、ならばおそらくは、ここ10年のあいだに新たな地殻変動が起こったのだろうというのが、電たちの推論だった。

 大きな地震等は感知したことがなかったという暁型姉妹の証言から察するに、その地殻変動が起こったのは、ちょうど10年前の空襲時か。

 ただ空洞があるだけならば簡単な調査を行ってこの話は終わり、となっていたのだろうが、事態はそうもいかなかった。

 島のほぼ中心地に位置する一際巨大な空洞内に、大規模な金属の反応を感知したのだ。

 その規模から察するに、恐らくは戦艦か空母の亡骸が眠っているのではとの予測が立てられたのが、ついこの間のこと。

 艤装経由の探針ゆえに、この海域特有の誤作動と言う可能性は極めて低く、一時鎮守府内は騒然となったものだ。

 かつての軍艦の亡骸ならば艤装核が発生している可能性があるとして、連日まるゆが潜航して調査を行っているのだ。

 

 

 夕張と天津風がOKサインを出すのを確認して、まるゆはゴーグルを装着。敬礼と共に見守る提督たちに敬礼を返し、背中から2号ドック跡に潜入する。

 頭を下にして、艤装の荷重軽減をカット。質量と同等の重量を取り戻した艤装の鋼がまるゆの体を底へ底へと沈めてゆく。

 深度計を確認しつつ潜水し、底部に達する直前にくるりと上下を入れ替えて岩盤の層に両足で降り立つ。

 命綱代わりのケーブルを幾度か引っ張ると、クレーンで連装魚雷発射管が投下されてくる。

 艤装核が発生している可能性があるのならば、それが深海棲艦へと変質している可能性も充分に有り得る。

 そのため、最低限ではあるが艤装状態で調査は行われるのだ。

 発生した艤装核が深海棲艦になっているとすれば、艦種は潜水艦と推定され、かつ島の地下部と言うことでその能力は著しく減衰されているだろう、というのが天津風の見立てだった。

 なるほど確かにと、まるゆはその推測に概ね頷かん思いだが、それ以上に警戒はするべきだとも考えていた。

 この敵支配海域では何が起こるかわからない。

 大和型戦艦の艤装核から潜水艦へと変化したまるゆのように、あちらもかなり特異な個体へ変貌している可能性が充分にあり得るのだから。

 

 連装魚雷発射管を抱えて、移動は上下から前後左右のものへと移行する。

 水没した空洞は広いドーム状の箇所がいくつかあり、それらの箇所を繋ぐ天然の通路は、人ひとりがぎりぎり通れるか否かといった狭き門となっている。

 前回の調査はこの狭き門、中心部の空洞へと続く孔のところで切り上げ引き返しているが、今回はその先へ進むのだ。

 魚雷発射管をロックして孔の入り口付近に安置、まるゆ自身は慎重に狭き門へと体を滑り込ませる。

 胸や尻が少々引っかかり気味だが、問題なく通過。

 前回の調査時には髪がひっかる場面が多く進行を断念したため、今回はデフォルトの状態と同じまで切りそろえている。そのためか、侵入はスムーズだ。

 デフォルトのまるゆならば、こんな細道どうってことないのにな、などと考えるが、口にすれば阿武隈や天津風や暁などが理不尽にキレはじめるので決して口には出さない。口に出さなくてもキレられる時があるので困ったものだが。

 せっかくの高い背丈に豊満な体つき。元となった大和型や鎮守府のバルジ増設したい勢には申し訳ないが、これはこれで不便な部分もありますよと、まるゆはこれまでの生活を通じてそう実感を得ている。

 しかしそうは言っても、艦娘としての性能はデフォルトの自分よりも格段に上昇しているので、その部分については何も不満はない。

 それに、阿武隈のように建造組の駆逐艦勢に舐められることも少なく、それよりもちびっ子たちに対して時たまお母さんみたいな真似が出来るのは役得だ。

 

 

 そうだ、お母さんだ。まるゆはふと、そんなことを考え始める。

 実際にこうして「お母さん」という言葉を用いてはいるが、まるゆはそれが具体的にどういったものかを説明できない。

 母親と言う概念を知識として得てはいるが、それを実感出来るか、あるいは説明できるかと言われれば、艦娘は言葉に詰まってしまう。

 艦娘の運用周りの現場において、提督や妖精を除けば、そのほとんどの人員は“提督以外の男性”がその領域を占めるはずなのだが、現在のここ水無月島鎮守府においては、そもそも人間がいない。

 外界の様子を知る高雄たちにしても、提督や妖精以外との接触は稀だったと語るし、そんな環境で母親という存在を目にするなどさらに稀だったはずだ。

 雷やまるゆのことを時々「お母さん」と呼んでしまう駆逐艦の艦娘たちも、意図してその言葉を用いているわけではなく、なんとなくそんな言葉が口を突いて出るのだという。

 具体的な「お母さん」像を持っているのは、この鎮守府では六駆の艦娘たちだけ。特に、雷がそうなのだ。

 

 10年以上前、水無月島鎮守府の医務室を担当していた医師が一児の母で、本土に子供を残して来ていたのだという。

 その医師と雷はたいへん仲が良く、その当時から医務室は雷の領域だったのだとか。

 当時を語る雷の目元は優しくて、穏やかな時間が流れていたのだなと、その姿を思い出すまるゆはわずかに顔を曇らせる。

 その穏やかな時間が幸せであればある程、雷はその穏やかさに出会う以前を思い返してしまうのだ。

 彼女のように振る舞えていたら、水無月島に来る前の仲間たちとの関係も、もっと違うものになったのではないか。度々そう呟いて「なんでもない」と笑って誤魔化す姿を、まるゆは幾度も見ている。

 母のように振る舞えていたら、救えた何かがあったのではないか。それが、雷が人の世話を焼きたがる理由なのかとまるゆは考える。

 幸い、その医師は空襲のかなり前に配置転換でこの島を後にしているそうで、きっと本土かどこかで元気にやっているのではないかと、雷の希望を語る顔は明るいものだ。

 

 

 さて、廻った考えはひとまずここまでと、まるゆは表情を引き締める。

 もうすぐ通路を抜けて孔の先、中心部の空洞に到達する。

 

 

 ○

 

 

 細道を抜けて空洞内へと至ったまるゆは、全体の形状を把握するべくソナーを打とうとして、その手を止めた。

 ゴーグル横に付属するライトの灯りに、岩盤の層と底部の砂地がはっきりと映る。空洞内の水質が澄み切っていて、ゴーグルの機能を用いずとも物体を視認できるのだ。

 これは海水の透明度では無いぞと眉根を寄せたまるゆは、艤装妖精に水質のサンプリングを頼みつつ周囲を目視で確認する。

 水中ライトに照らされた空洞内、溶岩質の黒い岩肌を背景に粒子が反射してきらきらと輝く光景は、素直に綺麗だなと、吐息が気泡になって漏れ出る程だ。

 底部の砂を足の指でにぎにぎして感触を確かめながら、呆けて、しかし訝しげに先へと進む。

 鎮守府に地質学関連に詳しく者がおらず、どういった原理で島の地下にこの空間が形作られたのかは定かではないが、実際にこの場に辿り着いたまるゆの感想は、これはやはり自然の現象ではないな、というものだった。

 理屈ではなく直感が弾き出した答えで、説得力など欠片もないものだが、まるゆにはそう思えたのだ。

 絶対に有り得るものかと、目の当たりにした“かの姿”を見上げて思う。

 島の地下から観測された大規模な金属の反応、その艦影。

 それは今、まるゆに対して飛行甲板を晒した姿だった。

 

 航空母艦だ。その姿は戦闘での損傷と火災跡、そして長い年月を海中にて過ごした劣化の跡が痛々しい。

 この島を目指して出撃したという装甲空母の類ではない。

 恐らくはミッドウェー海戦で沈没した空母のうちのどれかだ。

 艦橋が船体の左舷側にあるということは、赤城か、もしくは飛龍。

 まるゆは荷重軽減をオンにして仮想スクリューを展開、船体の捜索を開始する。

 横たわる船体を迂回して、目指すは後方。

 以前、提督の横で盗み見た資料によれば、彼女の証は確か甲板後部に位置しているはずだと、そう覚えていたのだ。

 

 果たして、その後部甲板に“ヒ”の文字を見付けた瞬間、まるゆはゴーグル越しに涙があふれてくるのを堪えきれなかった。

 

「ここに、眠っていたんですね?」

 

 かつての大戦時に沈んだ艦艇たちは、最後に確認された地点こそ数多く報告が挙がっているが、艦娘や深海棲艦が登場して30年経った今でも、眠っている場所が判明していないものが多い。

 飛龍はじめ、ミッドウェー海戦で没した航空母艦たちもそうだ。

 こうして飛龍は意外なところに眠っていたが、他の空母たちは現在、その亡骸を確認されてはいない。

 ここは敵の支配海域だ。その姿を探すことは不可能でないにしろ、今となってはたいへん困難なものとなってしまったのだ。

 

 ゴーグル奥の涙を妖精に拭ってもらい、改めて飛龍の姿を目の当たりにしたまるゆは、その“ヒ”の文字のすぐ近くに淡く輝く何かを見とめる。

 最早見慣れた青白い燐光に、深海棲艦かと身構えたが、それは半分だけ当たりだった。

 その正体は深海棲艦本体ではなく、その核。艤装核だ。

 直径30センチほどの黒い楕円形の球体は、亀裂状の模様のような部分から青白い燐光を発していて、まるゆには何となくそれが“生きている”のだと察することが出来た。

 かつて阿武隈が建造された時に暁たちが深海棲艦から奪取して来たものとは違い、これはまだ“成っていない”核だ。

 その処遇をさてどうしたものかと、ケーブル内臓の有線回線で電に連絡を取り判断を仰ごうとした時だ。

 昆虫の繭のように甲板に癒着していた艤装核が、なんの前触れもなく剥がれ落ち、自重に従って落下を開始したのだ。

 血相を変えたまるゆは命綱ともいえるケーブルをパージして、仮想スクリューを急展開、艤装核が地面に接触する前に、なんとか抱き留めることに成功する。

 

 本来ならば観察に徹して不用意に接触するべきではなかったなと、キャッチしてしまった後で気付き、海中にも関わらず冷や汗が滂沱と流れ出る。

 腕の中の艤装核はずしりと重く、仄かに暖かく、そして、まるで意志を持っているかのように、ゆっくりと淡い明滅を繰り返している。

 確かにこれには命が、あるいは魂が宿っているものだなと頷かんばかりのまるゆは、せっかくこうして拾ってしまったのだし持って帰ろうかと意を決する。

 驚かれはするだろうが、破棄せよなどとは、電や提督ならば絶対に言わないはずだ。

 リスクを冒してまで自らを引き上げてくれた彼と彼女たちだ、この子をこのまま海中に沈めて置くなどしないだろう。

 

「大丈夫、ちゃんと運ぶから」

 

 艤装核を胸に抱き、ああこれはまたあの狭いところで突っかかるなと苦笑いして、そうして飛龍から遠ざかろうとした時だ。

 後ろ向きに進み、改めて飛龍全体を見渡したまるゆは、なんとなく陰影がおかしくないかと違和感を覚えたのだ。

 ゴーグル横のライトを調整して広範囲を照らし出し、ようやくその違和感の正体に気付く。

 飛龍の背後に、その船体よりもさらに巨大な岩塊が鎮座していたのだ。

 建造ドックからは確認できなかったはずの岩塊は、これもただの岩の塊ではないなと、まるゆは一目見て気付く。

 表面の質感や色彩が、今まさに腕に抱いている艤装核そっくりだ。これで青白い燐光でも発していれば“当たり”だなと頷き、まるゆはゴーグル横のライトを消した。

 空洞内を暗闇が支配し、光源が腕の中の艤装核のみとなる。

 その状態で数秒、もしかすると数分の間待っていたかもしれない。

 暗闇に目が慣れてきた頃に、その淡い発光は起こった。

 岩塊の輪郭を浮き上がらせるような青白い燐光は、不気味さと神秘さの両方で、まるゆはしばらくの間、口を半開きにしてその光景に見入ることしか出来なかった。

 しばらくして我に返ると、ひとまずは報告しなければと優先順位を思い出して、ケーブルを背部艤装に再接続、有線での連絡回路を復活させる。

 これでまた電や提督の悩みの種が増えるなと苦笑いしたまるゆは、腕の中の艤装核が同意するかのように明滅する様に、おかしそうに微笑み返した。

 

 

 ○

 

 

 艤装核を保護したまるゆは一時帰投の命令を受け、空洞内から離脱する。

 現状は確保した艤装核を引き上げることを優先として、後日改めて飛龍の調査に取りかかろうという提督たちの判断だ。

 ああして横たわる彼女には歴史的な価値と、そして30年続くこの戦いに変化をもたらす何かがあるかもしれないと考えられている。

 それに乗員の遺品なども引き上げなければと考えると、まるゆはいよいよ、自分の仕事の重大さに身が引き締まる思いだった。

 

 まるゆの姿が空洞内から消えてすぐ、横たわる飛龍に変化が起こった。

 音も振動もなく、砂状の底部に吸い込まれるかのようにして消失を開始したのだ。

 艦が動力を得て自ら動作するものではなく、まるで幽霊のように物体を透過してゆくかのような消失だ。

 質量などまるで無視した現象は、建造ドック上の提督たちにも観測されていたし、まるゆがまだこの場に留まっていれば、ある光景をその目に焼き付けていたかもしれない。

 艤装核を抱いて去って行った艦娘に向けて敬礼する、ひとりかふたりか、あるいは帽振れする幾名かの影を。

 それらが物言わず、海底に沈んでゆく姿を。

 

 

 




 第3章開始時点、水無月島鎮守府戦力表

 第一艦隊:阿武隈、プリンツ・オイゲン、利根、巻雲、朝霜、清霜
 第二艦隊:高雄、響、時雨、天津風、夕張、青葉
 第三艦隊:熊野、初春、叢雲、浜風、漣、卯月
 第四艦隊(機動部隊):千歳、祥鳳、龍鳳
 予備隊:暁、雷、電、まるゆ、間宮、秋津洲、酒匂

 計28艦

 ※内、肉体の成長が見られる艦娘:暁、響、雷、電、まるゆ、時雨、天津風



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9話:想い人の似姿①

「ああ、有馬提督。ここにいらしたのですね……?」

 

 微睡み気味の戦艦・榛名から零れた笑みと言葉に、その場に居合わせた提督と艦娘たちは表情と言葉を失った。

 目覚めたばかりで舌っ足らずな調子ではあったが、榛名は提督の顔を見て、確かにそう告げたのだ。有馬という姓を。

 そうしてすぐに眠りについてしまったため、発した言葉の真意を問うのは彼女が再び目覚めてからにならざるを得ない。

 にわかに騒がしくなりかけた医務室は、喧騒の域に達する前に鎮静する。

 艦娘たちが、提督の次の挙動に注視したためだ。

 榛名の告げた姓に驚いた表情をしていた提督ではあったが、すぐに電に海軍本部の名簿を検索するようにと指示を出す。有馬提督なる人物が、実在するかどうかの確認だ。

 了解の意を示し、慌てて医務室を後にする電を見送った面々は、提督が腰を抜かして座り込んでしまう様を見て、慌てて駆け寄る。

 大丈夫だと笑む提督の顔は、比較的付き合いの長い暁たちの目から見ても明らかなほどに、青ざめていた。

 自分を知っている者がこうして目の前に現れた。

 榛名が微睡に夢を見ただけだと一笑に伏すことも出来たはずだが、提督はその姓を重く受け取ってしまったのだ。

 

「僕は、榛名の言う“彼”なのかな……?」

 

 呆然と呟きを宙に投げる提督に対して、最初に動きを見せたのは暁だった。

 座り込む提督の真正面にしゃがみ込んで、その頬を両手でぴしゃりと挟み込む。

 

「司令官、執務室に行きましょう。電が検索をかけてるはずだから。答えが、出るかもしれないから……」

 

 暁が落ち着いた声色で告げるのは、自らを落ち着けるためでもあったのだろう。

 そう深刻そうな顔で告げられてしまえば、提督は座り込んでなどいられない。

 暁の手を借りて、まだ力の入りきらない足腰で立ち上がり、医務室を後にする。

 

 去り際、振り返って榛名の幸せそうな寝顔を今一度目にすると、嫌でも複雑な表情に成らざるを得なかった。

 もしも自分が、その有馬提督であったのなら。

 もしくは、そうでなかったのなら。

 考えを振り払うように、提督は医務室を後にする。

 

 

 ○

 

 

 ベッドに身を横たえ、見上げるは窓の外。

 眺める景色はどこまでも灰色の曇天。耳に届くのは遠雷。

 厚雲は奇妙な模様を浮かべては消えてを繰り返す。

 まるでロールシャッハテストのようだと目を細める榛名は、窓の外の風景から目を逸らす。

 艦娘の身なれば気分を害する程度で済むこの奇妙さは、受け取る側が人間であれば精神に不調を来すものだと、知識と経験の両方で理解していた。

 深海棲艦の支配海域。それなりに長い艦娘としての生の、その中でもたった二度しか突入経験がない、敵の本拠地ともいえる場所だ。

 二度、どちらの作戦でも数多くの友軍を失っている。ここはそういう海域であるはずだった。

 にも関わらず、窓の外から聞こえる艦娘たちの声は元気いっぱいで、この劣悪な環境をまるで気にした様子は伺えない。

 

 滅入った気分を変えようと、榛名はベッドの上で身を起こして再び窓の外を覗く。

 医務室の窓から臨むのは砂浜。そこには体操服にブルマといった、最早絶滅したはずの衣装を纏った艦娘たちがランニングの最中だった。

 

 “ここは敵地のど真ん中

  されど我らが艦娘ならば

  3度のご飯に重々感謝

  今日の訓練、粛々消化”

 

 ミリタリーケイデンスの一種だろうか、艦娘たちの元気な歌声が医務室まで届いてくる。

 

「うーちゃん月までうさぎ跳びー」

「ぴょん、ぴょん、ぴょんぴょんぴょん!」

 

 小気味よい問答の応酬に、榛名は自分の頬が緩むのを自覚する。

 駆逐艦娘が元気を失っていないのは良い鎮守府の証拠だと、かつて誰かが言っていた。聞いた当時はそういうものだろうかと聞き流していたが、今この時はその通りだと同意する思いだ。

 これまでの任務で各地の鎮守府や泊地を渡り歩いたものだが、駆逐艦たちの消耗が激しい場所は他の艦種も、提督をはじめとする人間たちも表情が死んでいた。

 駆逐艦という種の艦娘に「元気な子供の姿」を見ることで希望とする。そういう風潮があったはずなのだが、最前線で物的にも心的にも余裕を失った者たちほど、そんな考えから遠ざかってしまう。

 窓の外の風景を見る限り、ここはそういった場所のはずなのだがと、榛名がそう疑問する間にも、問答の応酬は続く。

 

「3時のおやつはなんですかー?」

「プリン!」「羊羹!」「落雁!」「カステラ!」「シベリア!」「ええ、ええっと……!」

「はいプリンツー、タイムアウトー! ダッシュー!」

 

 音頭を取っている叢雲が各員の掛け声を判定しているようで、アウト判定を食らったプリンツが隊列から外れて前傾姿勢になって全力疾走を始める。必死に、「バームクーヘンはドイツのお菓子じゃないんだからああ!」と叫んでいるが、そうだったのかと今さらながらに驚きを得る。しかし、早いなあ、揺れるなあと、疾走するプリンツを目で追う榛名は苦笑いだ。そもそも、掛け声が途中から大喜利になって来ているのは、この鎮守府のローカルルールだろうか。

 続いてアウト判定を食らった秋津洲が「厚化粧じゃないかもおお! ナチュラルメイクかもおお!」と、先のプリンツと同じように疾走してゆくのを、やはり早いなあ、揺れるなあと見送って、榛名は薄ピンク色の検査着の上から自分の胸元を確かめる。ある方ではあったと記憶しているが、窓の外の発育の良い娘たちや、かつての艦隊の仲間たちと比較すると、途端に自信が無くなってくる。

 

「いーつか私も戦艦にー……」

「無理ー」「無理ね」「無理ですね」「無理かも」「無理じゃの」「無理ぴょん」「無理ぴゃー」「残念だね」「現実見ろよー清霜ー」「ndk? ndk?」

「なーれーまーすー! 絶っ対っ、なれますからー!」

 

 そんな中、ちゃんと駆逐艦のデフォルト通りの娘も居て安心するあたり、嫌な娘だな自分はと、榛名はどうでも良い罪悪感に駆られる。

 

「じーつは叢雲、夜な夜な、夜な夜な……」

「さあざあなあみいぃぃ!」

「ktkr!!」

 

 後方に位置してた叢雲が鋭く漣の名を叫び、隊列を離れダッシュ。

 漣も隊列を離れ、追いすがる叢雲から全力疾走で逃げ出した。

 両者共良いフォームだなあ、まったく揺れないなあと呑気に眺める榛名は、自らの過去に思いを馳せる。

 建造当初は本土の鎮守府にて訓練に明け暮れたものだ。

 同じ金剛型の姉妹たちや、当時の鎮守府の所属艦娘たちと。窓の向こうの彼女たちのように。

 

 何年、何十年と戦い続けて、当時共に訓練した仲間は、全ていなくなった。

 深海棲艦との戦い、その最初期から戦い続けている艦娘ほど、仲間の顔を見るのが辛くなるものだ。

 居なくなった戦友と同じ顔の、しかし全く別の存在が隣を埋める。

 こちらは同じ艦娘との思い出を胸に抱くが、向こうはそれを知らない。

 それを受け入れられず、距離を置いたが故に、より悲壮な別れ方をしたことも、幾度もあった。

 そうした戦いを続け、心が擦り切れようかという時に、榛名はかの提督と出会ったのだ。

 後に彼女に指輪を与えることになる提督、榛名が有馬提督と呼ぶ人物だ。

 

 榛名は自分の左手薬指に淡く輝く指輪を優しく撫でる。

 夢心地ではあったが、確かに彼の顔をこの目で見た。

 彼の声を、確かに聞いたのだ。

 提督が生きていてくれて本当に良かった。

 この医務室で目覚めるより以前、榛名の最後の記憶は曖昧だ。

 南方海域は珊瑚海にて任務に当たるという打ち合わせに参加したことは覚えている。

 作戦海域へと移動するため、“隼”に乗り込んで移動していたことも。

 任務を終えたら皆で食事だ酒盛りだと、そんな他愛のない、しかし大事な話で盛り上がったことも、つい先程のことのように思い出せる。

 そして、確か目標地点に到達しようかという、まさにその時。敵の強襲を知らせる警報が鳴り響き、迎撃のため出撃したはずなのだ。

 しかし、その後の記憶が曖昧になっている。

 思い出そうとすると酷い眠気に襲われるのは、まだ自分が目覚めたばかりで寝ぼけているからだろうかと、榛名は自らの状態を再確認する。

 

 それでも、再び枕に頭を預け、安心した表情で「まあ、いいか」と呟くのだ。

 少なくとも提督は無事だったのだ。

 ならば、あの日の顛末を聞くことは出来るだろう。

 そうは思うのだが、榛名の胸中には漠然とした不安のようなものが、じんわりと染みを作り始めていた。

 

 

 ○

 

 

「有馬治三郎(ありま・じざぶろう)提督。階級は中将。所属は呉鎮守府となっていますが、実働として各拠点を転々としていたようなのです」

 

 執務室にてノートPCを操作する電、その後ろに暁型の姉妹たちや、阿武隈や高雄、夕張、熊野、青葉、千歳といった面々が控え、衛星経由でダウンロードした海軍本部の資料、その検索結果を見守る。

 榛名が口にした“有馬提督”なる人物が本当に存在するのか。そして、その容貌がこの鎮守府の提督と同じものなのか。

 結果は電が口にした通り、有馬提督なる人物は実在した。

 該当する苗字の提督は3名。その中で榛名を指揮していた人物はただひとり、電が読み上げた有馬治三郎提督その人だけだ。

 

「おそらくこの有馬提督で間違いないでのです。戦艦・榛名の運用実績があるのはこの方だけ。高練度の戦艦・榛名への限定解除措置の申請……、すなわち指輪の申請書類の提出履歴もあるのです」

 

 電の、背後へ振り向いての言葉に、艦娘たちはむむと唸る。

 榛名の発言、その信憑性が増して行くなか、それぞれが伺うような表情で、執務机にて手を組み聞き入る提督の姿を盗み見る。

 あの榛名はこの提督を“有馬提督”と呼んだ。そして、実際に有馬提督なる人物は実在し、戦艦・榛名を運用していた。

 記憶喪失の彼が、その有馬提督なのか。

 名簿付の写真を覗き見た艦娘たちは顔を真っ青にして俯き、そして提督に視線を送る。

 

 顔を上げ、立ち上がった提督は、電がノートPCの画面を向けてくるのを頷き、その人物の顔をいよいよ目の当たりにする。

 容貌は驚くほど似通っていた。鏡写し、瓜二つと言って過言ではないほどに。

 ただ、異なる点は確実にあった。その顔に浮かべている表情が違うことだ。

 写真の有馬提督は自信に満ちた笑みで、わずかに口の端を持ち上げた顔付きをしている。

 この鎮守府の艦娘たちならば、自分たちの提督がこんな表情をする人ではないと一目でわかる。提督が記憶喪失でなければ、顔が似ているだけの別人だとすぐに断じただろう。

 

「彼は、僕なのかな……?」

 

 そう、疑問を宙に放る提督の表情は、先程までのような呆け青ざめたものではなかった。

 気落ちした様子も興奮した様子もなく、いつも艦娘たちと話す時のような穏やかなものだ。

 動揺していないわけではないのだろうが、それよりも興味の方が上回っているのか。

 いずれにしても、この有馬提督の姿が自分と結びつかないのは事実のようだ。

 

「この有馬提督が司令官さんだと断定するのは、早計だと、電は思います」

 

 神妙な顔でそう告げる電は、その理由を挙げる。

 

「まず、この写真が撮影されたのは今から10年以上前。有馬提督が本土にいた頃のものなのです。その後、実働で各地を転々とするようになってしまってからは、写真の更新など行なわれていないようなのですよ」

「何よそれ。これ、若い頃の写真だってこと?」

 

 写真の中の有馬提督は2044年現在、30も半ばに差し掛からん年齢となっているはずなのだ。

 ただし、“存命ならば”という大前提が必要となる。

 

「有馬提督の艦隊は10年以上前、南方海域での任務中に消息を絶っています。目的地は珊瑚海だったようなのですね。当事の編成は7艦。戦艦・榛名もそこに含まれているのです。当鎮守府で保護した榛名と同一艦と見て間違いないですね」

 

 任務の詳細は閲覧不能となっているが、恐らくは極地突入作戦の前段のようなものだったのではないかと、そう告げるのは青葉だ。

 

「10年前当時の敵支配海域と言えば、ここいら一帯の海域……、ハワイ諸島一帯がメジャーなところですけれど、各海域にも敵の支配海域というものが拡大する動きはあったのですよ。ね、高雄さん?」

 

 そこで高雄に水を向けるのは、その勢力を拡大する敵支配海域で彼女が戦っていたことを知っているからだろう。

 青葉の言葉を、高雄が引き継ぐ。

 

「とは言っても、10年前当時のハワイ諸島一帯のような大規模な支配海域は、その当時はありませんでしたけれどね。ただ、資料にあった南方海域、珊瑚海は支配海域の拡大が進んでいたはずです。敵姫級や鬼級の目撃例が複数あり、それらが珊瑚海にて集結する流れがあったとは聞き及んでいますから……」

 

 当時の報告書を読む限りでは、有馬提督の任務は珊瑚海に集結する動きが見られた敵艦に対する初動対応、周辺調査や威力偵察までを行うものだったのだろうと、高雄は閲覧不能の箇所を推測する。

 その作戦海域への道筋で、有馬艦隊は消息を絶っている。敵艦隊に強襲されたのだろうと報告書には記されてはいるものの、高雄の言では当時最高練度の艦隊の一角であった彼女たちが、その程度で瓦解するとは考えにくいとのこと。所属する艦娘は7隻中3隻分の艤装の残骸と遺体が確認されたが、残り4隻と有馬提督の姿はついに確認出来なかったのだという。

 そして、10年以上の時を経て、かの艦隊に所属していた戦艦・榛名が所属不明の装甲空母より保護されて。

 その約1年前に有馬提督と瓜二つの、しかし記憶喪失の青年が水無月島に流れ着いた。

 

「ちょっと推測の領域の話になってしまうのですが、いいでしょうか?」

 

 挙手と共にそう問うたのは、手帳を指で開き口元に当てた青葉だ。

 有馬提督の周辺事情に関する推論だろうなと判断した皆は、無言の頷きを持って青葉の発言を促す。

 

「ええっとですね。青葉としては、この時点で一番不可解なのが、例の装甲空母なのですよ。内部の構造などは、青葉や高雄さんたちが所属していた装甲空母とほぼ同等のものだと発覚しましたが、これの所属がわかりません。零番艦なんて聞いたことが無い、存在しないはずなのですよ。ダウンロードした資料にもなかったはずです」

 

 装甲空母計画に関しては、本部の公開情報と高雄や青葉たち艦娘に知らされている情報に、ほぼ誤差は無いと、すでに確認が取れている。

 では、あの装甲空母はなんだったのか。恐らくは敵艦に完膚なきまでに蹂躙され、しかし榛名1隻が奇跡的に無事だったあの装甲空母は。

 

「現在持ち帰った情報の検証等を連装砲ちゃんたちに頼んでいますが、有力な情報はまだ上がって来てはいません。AIがノイズだと判断して弾いてしまっている情報があるかもしれないので、後々こちらでも精査する必要が出てきますが、ひとまず確実な点をひとつだけ」

 

 人差し指を立てて真面目な表情をつくった青葉は、執務室のホワイトボードに水性ペンでかき込んでゆく。

 羅列されるのは艦名。当時の有馬艦隊の編成だ。

 

「あの装甲空母・零番艦を操舵するには、最低でも1隻、運用レベルで2隻の空母の艦娘が必須だったはずです。そして、消息を絶つ直前の有馬艦隊の編成には空母・翔鶴及び瑞鶴の名前が有ります。その翔鶴型の姉妹は、有馬提督や戦艦・榛名と共に消息を絶った艦娘です。なので、もしかすると零番艦の操舵要員として最近まで活動していた可能性がある、かなーと……」

 

 最後の方が尻切れになってしまうのは、確かに繋がりそうな点同士ではあるが、まだまだ断定には程遠いからだろう。

 ノリノリで「確実な」などと先走ってしまったことを今さら恥じるように赤くなる青葉に、提督は礼を言って、「他には?」と皆に問う。

 

「推測レベルでいいんだ。現状、皆が考え至った推論を教えてほしい。確証を得るための情報が足りな過ぎるから、想定できるだけのことを想定しておきたい」

 

 真剣な顔でそう告げる提督に艦娘たちが頷く中、ひとりだけ意を唱えるのが雷だ。

 

「考えを出し合うのはいんだけれどね、でも……」

 

 そう口ごもる雷に、提督はわかっているよと告げて立ち上がる。

 

「榛名に事情を話さなければね。と言っても、僕もたいして把握し切れていないけれど……」

 

 自信なさそうに唸る提督に顔を見合わせた艦娘たちは、雷と高雄が提督に同行して、残りはこのまま情報の拠出に専念する。

 しかし、その人選に難色を示したのが暁だ。

 

「高雄がそっち行っちゃうと、こっちの思考レベルが落ちるんだけど……」

「おやおや、我が姉なるは妹たちの知能を信用していないと?」

「ちょっとお話が必要なのです……」

 

 両脇を響と電に固められた暁が「しまったー」と天を仰ぎ、提督に救いを求める視線を送るが、阿武隈や千歳に促されて執務室を後にする。青葉が「あとで艦内新聞刷って配達しますからー!」と声を掛けてくるので楽しみにしておく。

 わいわい騒がしい音を背中に感じつつ、提督の顔にはようやく笑みが戻って来ていた。これから深刻な話をしなければならないのは承知しているが、それでも心を明るく保つだけの余裕は取り戻せているらしい。

 

 さて、そうして医務室に向かう途中、雷が何かを思い出したのか、立ち止まって額を打った。

 申し訳なさそうな顔で「事後報告になるんだけど……」と上目使いに問うてくるが、提督はその内容をすでに察している。

 

「飛龍の建造が完了したのかな」

「そう、そうなんだけどね。ちょっと色々あって、巻雲に任せてこっち来ちゃったのよ。そこで、ほら、榛名お目覚めでしょう?」

 

 報告しようとしたタイミングで榛名が目を覚まし、提督の顔を見てからの一連の流れだ。

 巻雲が泣き付いてこないということは、その「ちょっと色々」は当時よりは悪化していないのだろうか。

 高雄が具体的な部分を斬り込めば、雷は言いにくそうにしながら「泣いてたの」と呟くように告げる。

 

「飛龍、泣いてたの。建造終わって、もう動けるようになって、それでもドックからずっと出て来なくて。それで、開けてみたら膝抱えて泣いてた」

 

 建造時のこうした感情の暴走は、雷や高雄曰く、よくあることらしい。

 これまでも、阿武隈がべそかいてなかなかドックから出て来なかったり、びっくりした酒匂が粗相したりと様々あった。

 かく言う高雄も、自らの建造当時は慌ててみっともない姿で提督や僚艦の前に飛び出してしまったとのことで、意外と抜けているエピソードを披露してくれている。

 

「私も、建造された時泣いてたらしいんだけどね。全然覚えてないの。なんで泣いてたのか。悲しかったのか怖かったのか、今となってはもうわからないわ」

「人も泣きながら生まれて来るというからね。そういった意味では、艦娘も人も同じなんだね」

 

 

 ○

 

 

 生まれたばっかでよく食うなーと、巻雲は自分が建造された時のことを棚に上げて、目の前で丼の中身をかっ込む空母・飛龍に呆れ返っていた。

 島の地下空洞にこつ然と現れ、そして姿を消した航空母艦の亡骸。そこから回収された艤装核。これの建造に立ち会うのは自分しかいないと志願して、建造が完了するまで三日三晩張り込んで、さあこんにちわと言うところで目に飛び込んで来たのは、膝を抱えて泣いている彼女の姿だった。

 理由を聞いても「わからない」と返すばかりで、そんな状況に困り果ててしまったのことも遠い昔のように感じられる程、今のこの光景に安心を覚えていた。

 

 昼飯時を大きく過ぎてしまった食堂には間宮以外誰もおらず、貸し切りのような心地だ。

 頬杖付いて巻雲が見つめる先。飛龍は薄ピンク色の検査着を纏った姿で、まだ鼻声で話す姿が先ほどの余韻を感じさせる。

 検査前に食事は控えさせるべきだとは思うが、「お腹すいた」と涙目で訴える娘に待てと言えるほど巻雲は理性的ではない。こと食事に関しては尚更だ。

 こいつ、もしやお腹がすいて泣いていたのかと勘ぐるが、ならば当然、自然なことだなと巻雲は頷く。そして、袖を大きく振って間宮に「自分も同じものを……!」と、食い意地の張った声を張り上げる。

 目の前でこんないい食いっぷりを見せられては、自分も食べないわけにはいかない。

 すると飛龍も口をもごもごさせながら笑顔で「おかわり」と手を挙げるものだから、間宮がなんというか、笑顔爆発だ。

 良い食べっぷりはつくり手をも幸せにするとは真実らしいと実感した巻雲は、ならば自分こそ負けていないはずだと鼻息荒くして丼が運ばれてくるのを待つ。

 

「いやあ、味も量も文句付けられないくらい最っ高! 生まれて来てよかったあ!」

「大げさだなあー、もう。お外どんな状況か知らないくせに……」

 

 呑気なものだと頬杖付きつつ口を尖らせれば、ほうじ茶が湯気を立てる湯飲みを手にひと心地、と言った風の飛龍は、不思議そうな顔を見せながらも笑って見せる。

 

「どんな時だってご飯がおいしく食べられれば幸せ幸せ。あとつくってくれる人と、一緒に食べてくれる人が居ればさらに善し!」

「うーん、どこにも反論する部分が無いのが悔しい!」

「反論する部分、ないんですね?」

 

 悔しそうに歯噛みする巻雲に困ったような呆れ顔で突っ込んだ間宮は、盆に載せた丼ふたつをそれぞれの前に置く。

 昼飯時を過ぎて夕飯を目前にした時間帯。間宮も忙しいだろうに、こうしてまかない丼を出してくれるのは、彼女自身のプライドによるところもあるのだろう。

 飢えさせることは罪だと毅然と言い放つ間宮だ。腹ペコ顔の飛龍を放って置けるはずがないのだ。

 まかない丼の上に乗るかき揚げは、昼のそば・うどん用のトッピングの残りだ。

 小エビと獅子唐、玉ねぎにゴボウと、巻雲の好きな組み合わせにオイスターソース風のタレが嬉しい。

 昼もうどんでお代わりまでして食べたものだが、こうして丼ものに生まれ変わると当然一味も二味も違って喜ばしい。

 確かに、飛龍の言うとおりだと巻雲は頷かん思いだ。

 美味しいものがこうして目の前にあるだけで幸せな気持ちになるし、どこか気も大きくなる。

 

「まあ、これからは巻雲が鎮守府の先輩として面倒見て上げますから、大船に乗ったつもりで任せて下さいよお」

「変だよね。私たち船だったのに、大船にって」

 

 互いの丼を静かにかちんと合わせて乾杯の代わりとして、ふたりで笑顔でかっ込み始める。

 箸の持ち方がどうだ、頬にご飯粒が付いているなど楽しげに話しながらの食事はしかし、間宮が飛龍の傍らにデザートを置いたことで一変する。

 

「んぎゃあ! 間宮さんそれ……」

 

 プリンの上に被せられたラップには“巻雲”と書かれている。

 泣きそうな顔でプリンと間宮の顔を往復する巻雲は、つくり手が笑顔ながら笑っていないことに気付き、こりゃあ時間差で拗ねられたなと歯を食いしばる。

 

「ええ、なになに。くれるの? さっすが先輩!」

「……ま、まあ。巻雲は先輩ですから? あげますよ? あげますとも……」

「すっごい顔してますけど大丈夫先輩ー?」

 

 宣言した手前主張を引っ込めるわけにもいかず、ぐぬぬと唸る巻雲の目の前で、飛龍は頬に手を当て美味しそうにプリンを頬張ってゆく。

 「先輩のプリンっ、超っ美味っしいぃぃ!」などといちいち告げるのは煽っているのか天然なのか。

 まあ、先輩としての株を上げることが出来たのだから良しとするべきだ。

 間宮もそれを見越してわざわざ巻雲のプリンを飛龍に与えたのだろう。この行為は決してお仕置きなどではないのだ。と思いたい。

 しかしこうして意固地になれば、「先輩、ほらあーん」と飛龍がスプーンに乗せて差し出して来るのにかぶり付くわけにもいかず、そっぽ向くしかないのが辛いところだ。誘惑に敗けて思わずぱくっと行ってしまったが、それはなんと言うか、間宮がいけないのだ。プリンが美味しいのがいけない。けしからん。

 拗ねられついでにコンボ決まらないかとヒヤリとしたが、「間宮さんおかわり!」「はい、ただいま!」と向こうで連打しているので一安心だ。

 

 

 それはそうと、巻雲は再び頬杖付いて、良く食べる空母の姿を眺める。そして、この娘は絶対に守らなきゃなあと、淡い決意を心中に滲ませるのだ。

 自らも建造される際に泣いていたらしいが、その時のことはあまり良く覚えていない。

 しかし、きっと生まれ出でる直前に見ていた夢は、燃え上がる彼女を終わらせた、まさにその瞬間だったのではないかと、今にして思うのだ。

 姉妹艦の風雲などが居れば、同じような考えに至ったのだろうかと考えるも、それはそれで気が滅入るばかりだなと頭を振る。

 明るく元気に、そして食べ物は美味しくで、いいではないか。

 かつての記憶に苛まれながらも、こうして幸せを噛みしめる瞬間がひと時でもあるのだから、それでいいのだと、この場所はそう教えてくれた。

 ならば、自分は先輩としてそれを伝えなければなと、プリンもうひと口貰ってからの丼お代わりに移行しようと思ったところで、時刻が夕食時となる。

 お互い食ったばっかりだが、だからと言って夕食が入らないはずがないよなと笑い合い、食堂を訪れた面々に自己紹介と相成る。

 いっそのこと今晩歓迎会を催そうかと言う話も出たが、榛名の一件が現在進行形とのことで、後日に見送りとなった。

 

 

 



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10話:想い人の似姿②

 清霜と酒匂に両脇を固められ鎮守府内を案内される榛名は、にこやかな笑みを浮かべつつも、時折その笑みが途切れてしまうことを自覚していた。

 せっかくの案内に対してどこか上の空な自分を恥じる思いだが、先の医務室での件はまだまだ自らの中で尾を引いているのだ。

 水無月島鎮守府の提督。この島に漂着した、記憶喪失の“彼”。

 顔も声もまったく同じなのに、彼は榛名の知る提督ではなかった。

 いや、まだそうだと決まったわけではない。記憶を失くしたせいで一時的に大人しい人格になっているだけで、ふとした拍子に、なんらかの切っ掛けで榛名のことを思い出すかもしれない。

 しかし、それは淡い希望というものだと、榛名は自分の考えに首を振る。

 榛名が眠っている間に、すでに10年以上の時が経過しているのだ。

 時の流れが確かならば、提督は既に30代も半ばの歳だ。それでいてあのような20代前後の若さを保っているなど、榛名でも有り得ないと苦笑してしまう。

 いくら敵の支配海域だとしても、時の流ればかりは未来へ進むことを止めることが出来ない。無論、遡ることも。

 

 廊下でふと立ち止まり、壁に貼られた鎮守府内新聞の記述に目を向ける。

 水無月島鎮守府の提督の姿を目の当たりにした榛名が、彼を「有馬提督」と呼んだことに、鎮守府内は一時騒然となったそうだ。

 今現在のこの状況がどういうことかと推測を走らせた艦娘たちが、様々な可能性を挙げ、それをまとめたのが今回の瓦版とのこと。

 数挙げられた可能性の中では、夕張の挙げた「榛名同様コールドスリープで現代まで眠っていた」と言うのが、榛名としては一番推したい説だろうか。

 そうだとすれば、彼が記憶を取り戻すことへの希望も持てるというものだが、夕張の推測に続きがあった。そのコールドスリープは人間に対しては不可能ではないか、というものだ。

 凍結は可能だとしても、解凍するための技術が人間には適用出来ないのだという。

 榛名の場合は艦娘の体と言うことで入渠ドックでの解凍措置が有効であり、だからこそ、リハビリもなくこうしてすぐに歩くことが出来ている。

 あるいは、提督の肉体がほぼほぼ再生治療を受けているかもしれないという可能性に頷くべきなのだろうかと考える。

 提督の極地活動適正は、人間では有り得ないはずの“甲”判定。肉体の大部分を合成たんぱく質に置き換えている可能性があるのだ。

 当時、榛名の記憶が途切れた後に、有馬提督が瀕死の重傷を負って、記憶を司る大事な器官までも再生せざるを得ない状況にあったのかも知れないと考えると、胸が締め付けられる。

 そうだとすれば、彼が記憶を取り戻すことが絶望であることを認めてしまうようなもので、気持ちが沈んでしまうのだ。

 

 「じゃあ、榛名は軽ーくタイムトラベルしちゃった、って感じかしらね? 過去から、今に」と、夕張が告げた言葉を思い出す。

 榛名にとっては「目が覚めたら未来になっていた」という体感だが、それにしては過ぎ去ってしまった大切な時間を知ることが出来ないというのは、あんまりではないかと、嘆きたくなる。

 再会した提督は自らの知る人物ではなくなっていて、かつての仲間たちの現在はわからなくなっていて。

 これから自分はどうしたらいいのだと、そればかりを考えてしまう。

 

 誰に従えばいいか、その答えは用意されている。

 誰と肩を並べて戦えばいいか、その答えもすでに目の前に置かれている。

 それでも、榛名はその答えに従うことを躊躇ってしまう。

 自らを動かすための大事な部品も、熱を上げるための燃料も、ごっそりと抜け落ちてしまっているかのようで、積極的に行動を起こしたり、あるいは考えを巡らせる気にはなれなかったのだ。

 考えるのはこうして、不安を蒸し返すような悪いことばかり。

 何もかもに置いてけぼりにされて、そして自らが走り出すための力が足りない。

 無気力とまではいかなくても、抜け殻のようではあるのだろうなと、それが榛名自身が己を顧みて断じた姿だった。

 

 このままではいけないと、そう思う。

 そう思うのだが、今は焦る心すら生まれない。

 

「榛名さん、大丈夫ですか?」

 

 意識が完全に飛んでいたようだ。

 立ちすくむ榛名の顔を、清霜が心配そうに覗き込んでくる。先行していた酒匂も速足でこちらに戻って来る。

 笑顔を忘れてはならないなと、榛名は頭を振る。

 どんな時でも笑顔でいたことが自らの強みだったはずなのに、それすら忘れているのか。

 今は彼女たちの好意に全力で応えるべきなのにと、笑おうとしても表情が硬くなってしまう。

 そんな時だ。

 

「あ。あんたたち。榛名も、ちょうどいいところに居た」

 

 案内の途中でばったり鉢合わせした叢雲が、榛名たちを呼び止める。

 見れば、倉庫の前に水無月島の所属艦娘たちが集まっていて、ざわざわと騒がしい。

 皆、部屋着だったり寝間着のままだったりと、海上に出るような衣装ではない、思い思いの格好だ。

 いったい何の集まりかと榛名が問えば、清霜と酒匂は声を揃えて「パンツ」と返す。

 空耳だろうかと、笑顔のまま固まった榛名は、叢雲が続けて「下着とか、衣類の在庫解放よ」と面倒くさそうに告げた言葉に納得する。

 

「着替え、あんたも必要でしょ。欲しいの見繕っていくといいわ」

 

 言われ、榛名は確かにと自らの姿を見下ろす。

 今身に纏っている簡素なシャツとジーンズは榛名の私物ではない。

 装甲空母に取り残されていた榛名には特殊な冬眠措置が施されていて、保護された時は裸一貫の状態だった。

 着衣は下着一枚存在せず、艤装の方もブラックボックスである艤装核を内包したコアユニット以外は、機銃や艤装妖精すらも付属していなかった。

 夕張や天津風が艤装や衣装の再構築を進めていると言ってくれているが、戦意すらも希薄な今、それらを進んで身に纏う気にはなれない。

 とは言っても裸のままこの鎮守府にお世話になるにはいかず、今身に着けている下着も少々体に合わないと言うこともあり、確かに着替えは欲しいところなのだ。そもそもブラが性に合わない。

 

「基本、好きなのを何着でも持って行っていいわ。ただし、競争率激しいから、好みがかち合ったら要相談ね?」

 

 倉庫の鍵の管理は叢雲が行っているようで、扉の前に集結してざわついていた艦娘たちは、鍵の担い手の登場に、さっと脇に避けて道をつくる。

 救世主の導きによって割られた海の如く、その間をモデル気取りよろしく優雅な足取りで進んでゆく叢雲の姿に、榛名は苦笑しながら清霜と酒匂に手を引かれて倉庫へ入って行った。

 

 

 ○

 

 

 天井の高い倉庫は漂着物のコンテナに収まっていた品々の保管場所となっている。ここではダンボールに梱包されたタイプの品々、主に衣料品だ。

 ラックに落下防止のロープがかけられ、それぞれの項にネームプレートが掛けられている様を眺め、きちんと整頓されているのだなと、榛名は感心して頷く。

 こういった日用品周りの管理は艦娘の任務の範疇外だとして、本土の鎮守府や転々としていた泊地などでは人間のスタッフに任せきりだったことを思い出したのだ。

 さすがに人の生存不可能なこの海域では艦娘が自力で成さねばならない仕事だなと思い、それにしても、こうした雑用に不満を抱いている様子が見られないのも新鮮なものだと、榛名は自然と笑みが零れる。

 艦娘に関連する以外でも己の役割があると、自分でも楽しいのではないだろうかと、以前からそう思って来た。

 かつての仲間たちの中には自らそうした仕事を引き受けていた者もいて、榛名自身もその部類だった。

 有馬提督旗下となってからは各地を転々として特定の拠点を持たない暮らしではあったが、余所様の手伝っても問題のなさそうなところには度々首を突っ込んでいたものだ。

 まあ、その多くは反感を買って追い返されたものだが。

 最前線ともなれば、どこも余裕がないことが常だった。

 物資もそうだったが、人の心もそうだ。

 

 そうした景色と比較すると、皆でダンボールを開封しているこの鎮守府の面々は本当に深海棲艦と戦っているのだろうかと疑問が湧いてくる程だ。

 建造されて1年にも経たない艦娘が多いと聞いたが、環境が変わればこうも変わるものなのかと、カッターを持つ手付きの危なっかしい酒匂に変わって榛名が開封を担当する。

 

「あ、このロゴ。榛名の艤装を扱っている企業の……」

「小西エレクトロの? 元は半導体の専門だったところよね?」

 

 ダンボールのロゴが目に映り思わず呟く榛名に、通りかかった夕張が何か話したそうな様子で寄って来る。

 キャラクターものなどの子供っぽいデザインばかりが満載されたダンボールにを脇に置き、夕張は企業関連の薀蓄を披露し始める。

 困った様に表情を引き攣らせる榛名を気にも止め無い様子に、「ああ、また始まったぞ?」とばかりに苦笑いとなった皆が、夕張の後ろで「スルー推奨」と手信号を送ってくる。

 夕張の話は大部分が榛名も既知だったため、推奨通り正面向きながら聞き流していたが、話が多方面に飛躍して、ある一点から重要な情報が混ざりはじめたため、表情を引き引き締めざるを得なくなった。

 

「では……、“艦隊司令部”がようやく、試験運用にこぎ着けたのですね?」

「そうなのよ! って言っても、私は年単位で敵支配海域彷徨ってたから話は高雄から聞いたんだけれどね? ああ、っていうか、榛名の活動していた頃からやっぱり構想自体はあったわけね?」

 

 構想も何もと、榛名はその先を言い掛けて口をつむぐ。

 彼女たちに話しても良いことか、その判断を迷ったのだ。

 

「有馬提督が、その“艦隊司令部”の試験運用に関わっていた、という話ですか?」

 

 タイミングを伺っていたのだろう、榛名たちの会話に参加したのは高雄。

 レースがふんだんにあしらわれたデザインの下着や、種類様々なガーターベルトを自分用の小さな段ボールに満載した姿が、なんと言うか、今の生真面目そうに引き締めた表情とかみ合わずに、榛名は苦笑気味になってしまう。

 高雄の言葉は真実であり、そして榛名が伏せようかどうかと逡巡していたことそのものだった。

 なるほど高雄だ、と。榛名は内心、納得して頷かんばかりの心地だ。

 高雄型の艤装は“それ専用のスロット”を最初から設けた状態で運用されていると聞いたことがあるし、話によればこの高雄は20年来のベテランだ。

 彼女が艦隊司令部の試験運用に関わっていても何ら不思議ではないし、有馬提督のことを知っていたとしてもおかしくはない。

 

「まだ実装には程遠い段階ではありますが、熱田の木村提督が短時間の起動に成功したという報告も上がっていますね。……私の装甲空母部隊の提督は適正が低かったため、今回の突入作戦での運用は見送りましたが、結果、提督と旗下の艦娘は引き際を間違えることがありませんでしたわ」

 

 やりきれない思いを噛みしめるような表情を高雄は見せる。

 高雄の所属していた装甲空母部隊は、高雄を含め数隻の艦娘が囮を務め、この海域から脱出している。

 仲間たちと共に沈むはずだったところを自分だけ助けられた高雄としては、心中は複雑なのだろうと榛名は察する。

 その空気を変えんとしたものか、夕張がわざとらしく声を上げて高雄の話を引き継ぐ。

 

「そ、そしてその、艦隊司令部! うちでも試験器を各艦隊旗艦の艤装に搭載済みなのよね! 無線封鎖状態で任務に当たっている今こそが使い時かなあって思うんだけれど、なかなかタイミングがねえ……」

 

 腕組みしてしみじみ言う夕張を余所に、榛名の表情は複雑だ。

 艦隊司令部を試験運用するということは、あの提督も適正があると言うことに他ならない。

 有馬提督との共通点が見つかり、安堵するべきなのか、そうするべきではないのか。

 そんな悩みが湧き上がる榛名の頭上に、ひらりと何かが舞い降りる。

 空気を孕んで羽毛のように舞い降りたのは、榛名にとっては見覚えのあるもの。そして忌々しい記憶を呼び起こさんばかりのものだった。

 

「ダズル迷彩柄! コレダズル迷彩ですよね!? 榛名さん、清霜コレもらってもいいですか!?」

 

 目を輝かせた清霜がわざわざ榛名に伺いを立てるのは、その柄がイコール榛名と言うイメージが確立されているからに他ならない。

 艦艇時代の逸話として、艤装に遠近感を狂わせる目的で白黒の縞柄の迷彩を施した榛名だが、艦娘になって驚いたことは、その迷彩が下着の柄にまで反映されていたことだ。

 下着の柄になっただけならばまだ「何もそこまで……」と苦笑いする程度のダメージで済んだのだろう。それがあろうことか、広報用の資料にばっちりと記載されてしまっていたのだ。

 その資料は艦娘の関係者だけではなく、守るべき世間一般の市民へ向けたものでもあり、少なくとも着用している下着の柄を確定で一種類知られているという事実に、当時の榛名は頭を抱えたものだ。

 任務で各地へと赴くその先々で「今日はダズル迷彩柄ですか?」と挨拶代わりに聞かれ、顔から火を噴いたことは一度や二度ではない。

 水無月島に保護され、当時の衣類など一枚も手元になくて、ああこれでダズル迷彩ともお別れできるなと、ちょっと名残惜しく感じていたものがすべて綺麗に吹き飛んでしまった。

 榛名に出来ることと言えば、パンツを握りしめる清霜の手を握り、「それを履いて、立派な戦艦になってくださいね」と励ますくらいだ。

 彼女の夢の糧となるのならば、これまで自分が受けてきた辱めにも何らかの意味が生まれるはずだと強がって「さあ。新しい榛名、デビュー」とダンボールの中から取り出した下着は、なんと言うか、榛名には下着には見えなかった。

 

「おや? それを選ぶとは榛名、さすが指輪付きともなると、お目が高いのう?」

 

 気持ち嬉しそうな利根の物言いに、榛名は疑問の表情を向けることしか出来ない。

 その形状は足を通して履くタイプの下着ではなく、長方形に近い形の一枚布だった。布地が気持ち固めだと感じるのは、外周部にワイヤーか針金を使っているためだろうか。

 榛名が真っ先に類似物を連想したのは生理用品のナプキンだが、それにしては形状が異なりすぎるなと頭を痛めていると、得意げに腕を組んだ利根がその正体を明かす。

 

「Cストリングスと言ってな? こうして、前と後ろを挟むような形で着用するのじゃ」

 

 わざわざ私服のホットパンツの上から着用手順を実践して見せる利根に、榛名は言葉と表情に詰まり、高雄と夕張が慌ててやんわり窘めに入る。

 しかし、利根の衣装、その航空巡洋艦仕様を思いだし、榛名は苦い納得の頷きを見せる。

 「察して頂けたようじゃの?」と、利根の背後から顔を出した和装姿の初春がしゃがみ込んでCストリングスの入っていたダンボールを物色し始める。どうやら彼女も愛用しているようだ。

 

「これはのう、妾や利根のような衣装の者にとっては大変重宝するものなのじゃ。前にペタッと張って、後ろできゅっとなる感触がたまらんでのう……」

「吾輩のあの衣装でパンツの紐なんぞ見えてしまってはみっとも無いからのう? 初春のような体にぴったりしたつくりの衣装や和服などでは、パンツの線が見えぬので便利なのじゃ」

 

 得意げに語る利根に生返事する榛名は、皆の視線が一方向へ固定される様を見る。

 視線の集中する先は叢雲。なるほど、艤装や衣装の規格は初春と同じ企業のもので、彼女の衣装もまた、体の線をはっきりと浮き上がらせるものだったのだ。

 皆に尻を向けて鼻歌交じりにダンボールを漁っていた叢雲は、さすがに視線を感じてこちらへ振り向き、無言の視線集中にびくりと全身を震わせる。

 ビビり気味に「な、何よ、皆して……」と声を震わせる叢雲に、時雨が音頭を取って合図して、駆逐艦たちが飛び掛かった。

 しばしもみくちゃになる駆逐艦たちを眺めた榛名は、巻雲の「ちゃんと履いていました! 薄ピンクのレース!」とパーカーの余り袖で時雨に敬礼し、時雨もにっこり敬礼で返す。

 「私服なんだから当たり前でしょ!?」と憤慨する叢雲にそれはそうだと頷くが、では普段はどうだというのかと思い至ったところで、続いて何故か阿武隈が餌食になった。どうやら逃げ出そうとしていたところに目を付けられたらしい。

 「……駆逐艦、ウザい。超ウザい……」と涙目で悪態をつく阿武隈はスパッツを数点仕入れるだけなので、あれはまさか下に何も履いていないのではと不安になる。駆逐艦たちの報告も「ネイキット!」だったのだが。

 傍らにやって来た青葉に視線で「あれ、履いていないんですか?」と問えば、にっこりと「履いていませんね」と返され逆に困ってしまう。

 

「榛名さんの時代はまだインナー着用しない艦娘も居ましたが、今では着用率9割ですからねえ。下を履かない娘も結構増えて来ているんですよ? 艦娘は生理とか気にしなくていいので必須ではないですからねえ」

「……その、青葉も?」

「いやあ、あはははは。黙秘しますー」

 

 誤魔化して身を引こうととする青葉だったが、自分の取り分のダンボールが卯月と漣に物色されているのを見て、血相を変えて走り去ってゆく。

 抜けているのか狙っているのか良くわからないなと目を細める榛名は、かなりきわどい布きれを掲げて走り去る漣と卯月を全力疾走で追いかける青葉を見送る。

 黒いほぼひも状のものに電探アイコンの装飾が付属したものと、薄青い透けた布地にソナーアイコン装飾が付属したもの二種類。恐らくは艤装の開発に携わる企業の、艦娘をイメージしてデザインされたものだろう。

 あんな攻撃的なタイプを選ぶなど食えない女だなと目を細めるが、何故か無関係なはずの祥鳳が顔を覆って蹲っているので、後で彼女にこっそりと渡そうとしたのかもしれないなと、どことなく優しい気持ちになってさらに目を細めてしまう。

 目を細めたまま視線を泳がせれば所在なさげに体育座りをしていたまるゆと目が合い、「まるゆも履いていませんよ?」とばかりにパーカーの裾をめくってスクール水着の下を見せてくるが、それは出撃用の衣装ではないかと口を突きそうな言葉をぐっと飲み込む。

 

 

 しかし、こうしてピンポイントに物資が流れ着くのはどういった奇跡かと勘ぐる榛名は、シンプルなパステルカラーの下着を選ぶ電が簡単なことだと笑むのを見る。

 鎮守府が稼働再開する以前は島の浜辺にコンテナが漂着することを願うばかりだったが、今は第三艦隊の皆が定期的に鎮守府近海を巡回し、漂着物を確保するのだという。

 

「9ヵ月前、敵姫級を撃沈してから現在まで、敵首級を倒した際には人工衛星経由でデータのやり取りを行なっているのです。その時に、物資の到達経路の計算なども行われているのですよ。どこで投下すれば無事に水無月島近辺まで漂流するか、そのデータを海域解除のタイミングで本部に送信して、安定した経路を割り出しているのです」

 

 こうして敵支配海域に物資を投下するのは、復旧を果たした水無月島への支援や脱出経路の確保と言う名目もあるが、来たる反攻作戦に向けての布石でもあるのだと電は語る。今までは、支配海域内の情報は帰還した艦娘からの報告に依存していたが、ど真ん中に拠点が普及して友軍の救助など開始してしまったのだから、これを使わない手はないと海軍本部は考えたのだろう。

 向こうからは物資と情報を。こちらからは周辺情報を。こうしたやり取りの末に装甲空母計画が強行されてしまったことは電としては遺憾ではあるのだろうが、それも後続がすぐに突入を強行しなかったのは、対策を考えるだけの余裕がまだ向こうにもあるということなのかと榛名は察する。

 本当にじり貧で余裕が無くなれば、人間、無理や無茶を平気でやるものだと理解しているし、実体験として身に染みている。

 そしてそれは、艦娘でも同じなのだと、榛名が俯き奥歯に力が入って行くのを自覚せざるを得ない。不快な記憶が込み上げ始めたのだ。

 

 何とか腹の底から湧き上がるものを抑えられないだろうかと苦悩する榛名は、浜風が腕に衣類を抱えてこちらを伺っていることに気付く。

 榛名の着替え用にといくつか見繕って来たらしいのだが、すぐに天津風がストップストップと止めに入る。

 聞けば「浜風はセンスがない」とのこと。

 

「浜風ったら下着は支給品のダサいやつの色違いしか着けないし、私服もジャージとか動き易くてほとんど露出無いヤツだしで、姉艦として心配になるわ……」

 

 確かに、浜風が着用しているのは体格に対して大きめのトレーニングウェア(しかしまあ、胸の辺りは布が張っている)だ。姉艦の天津風がチューブトップのブラに下はサスペンダー付のミニスカートと言った恰好なので、確かに真逆の趣味だと言える。

 

「いえ、姉さん。お言葉ですが、皆さんのような、あんな布面積の足りない下着、私はちょっとよろしくないかなと。あと姉さんは私服も大概です」

「ふりふりとか、ひらひらとか、あとすけすけとか、イヤ? 布地が薄いと排熱効率がいいのよ?」

「それ以前の問題です! 姉さんの持っているそれも、皆さんが持ってるあれも……! なんですか! 布の面積が足りな過ぎです! こんなものは下着ではありません、ただのエッチな布です!」

 

 そういう用途の物でもあるのだがなあと言う皆の視線を一向に反射する浜風のチョイスは、確かに布面積多めの支給品のスポーツタイプだ。色も黒、グレー、水色、薄ピンクと味気ない。

 聞けば、胸や尻など完全に布で覆わないと落ち着かないとのことで、そうなるとスポーツタイプかジュニア用しか種類が無く、かと言って浜風のサイズではジュニア用が壊滅的だ。

 

 布面積の大切さを力説する浜風の剣幕に、榛名は身を引いて笑みつつも、目頭が熱くなるのを自覚する。

 有馬提督旗下で動いていた時も、駆逐艦・浜風と一緒だったからだ。

 目の前の彼女と同じように、体を冷やすのはいけないと声高に力説して、他の艦娘に手袋や靴下、挙句腹巻などつけるよう強要していたのがとても懐かしい。

 この浜風も同じで、さすがに腹巻はなかったが寝具用の手袋や靴下を数点ダンボールに入れていた。

 

 電が見せてくれた報告書によれば、榛名の戦友だった彼女は襲撃時に沈んだ艦娘のうち1隻だ。

 確か直前まで食べ物の話などしていたはずだったなと、榛名は懐かしさのせいか、つい「ロブスター」と口走ってしまう。

 きょとんと表情を消した浜風はすぐに顔を輝かせ、「もしや、食べたことが……?」と興味深々といった様子で問うてくる。

 いいえと首を横に振った榛名は、手に取った赤い布地を手で弄びながら、かつての約束に思いを馳せる。

 

「当時、オーストラリアのお店を予約していて、任務が終わったら皆で食べに行くはずだったんです。もうずいぶん経ってしまったので、お店自体無くなってしまったかも知れないですね……」

 

 

 ○

 

 

 さて、目当ての品を選んで手に取ってとなれば、試着という結論に流れ着くのは当然かと、おもむろに服を脱ぎだした面々を眺めて榛名は微笑ましい気持ちになる。

 建造開けの飛龍が特に面白い。空母は別にサラシ褌厳守ではないことに驚愕したり、浜風に勧められたスポブラの装着感に感動したりと忙しそうだ。ここの空母3人娘は何かとセクシーだったりアダルティなデザインで攻めているので、確かにああいった簡素なものは推薦されなかったのだろう。

 その向こうでは半裸の暁とプリンツが手四つの状態で膠着していて、漣と卯月が脇腹を突くタイミングを伺っているのを視線で牽制している。以前立ち寄った泊地で耳にした“でっかい暁”扱いされているのかと思いきや、響が言うには妹属性付与されて可愛がられているのだとか。

 何故膠着状態かと言えば、暁にもっとセクシーなデザインを履かせようとプリンツが駄々をこねているのだとか。しかし、候補の品を真っ赤な顔の酒匂が手に取ろうとするのを「酒匂にはまだ早いの! 駆逐艦と同じヤツね!」とプリンツが制止したりするもので、そちらも妹扱いかと、榛名は首を傾げて笑ってしまう。

 

 先ほどまでは驚いたり困ったりと忙しかったが、こうして皆で何かをしている内に、自然と笑うことが出来ていた。慣れが来たのだ。それでも、これほどすんなり“慣れ”が来るとは、まだまだ微睡の中にある記憶を探っても、極稀だった筈だ。

 初めての場所、しかも敵地のど真ん中だというのにこの慣れた感触を思い出すのは、余程自分が鈍りきっているのか。それとも、それだけこの場所に穏やかな時間が流れているからなのか。

 榛名としては後者の方が良いなと笑んで、自分も着ているものをいそいそと脱ぎ始めたその時だ。

 倉庫の扉を控えめにノックする音が聞こえ、次いで提督の声が聞こえた瞬間、艦娘たちに緊張が走った。

 

 浮き足立つ皆の中で最も冷静な初動を見せたのは阿武隈で、片手を挙げて「大丈夫、提督はすぐに入ってくるような紳士じゃないから。残念」と素早い手信号で合図し、全艦の動きを一瞬で統率する。

 さすがは第一艦隊旗艦と感心する榛名は、次いで千歳が天津風に連装砲くんの出撃要請を出す様を見て、視界の端をダンボール掲げた連装砲くんがよちよち歩いてゆくのを見送る。

 

「……連装砲くんが持っているのは?」

「あれはね、男性用下着よ」

 

 榛名が虚空に投げた呟きを拾ったのは下着姿に白衣を羽織っただけの雷で、連装砲くんの行く末を見守る榛名の手を取って静かに移動を開始する。

 見れば、今やほぼ全艦が一糸乱れぬ隠密行動で倉庫の扉付近に位置し、「行ってくる」と合図して扉の向こうへと消えてゆく連装砲くんを厳かな敬礼で見送った。

 突如始まった奇行を何事かと見守る榛名は、なんとなくその正体に勘付きはじめていた。

 扉の向こう、連装砲くんと提督のやり取りを盗み聞こうというのだ。

 

「……あの。普通、逆では?」

「うちではこうなの。今はね」

 

 では、後々何か変わるのだろうか。榛名は考えを放棄して、ひとまずは自らも興味が尽きない扉の向こうに耳を澄ませる。

 

「……おや、連装砲くんかい? ……なんだい、皆が中で着替え中? そうだったんだね。……僕にも、おすそ分け? ありがたいね、そろそろ替えが欲しかったところなんだ」

 

 扉の向こうのやり取りを脳内で視覚化することは容易だったが、これはなんというか、榛名にとっては背徳感を刺激されるものだった。

 艦娘側も早速祥鳳がダウン気味で鼻の辺りを抑え始めたので、気を利かせた漣が奥へ連れて行ってしまった。やはり曳航は駆逐艦の役割らしい。

 

「――そう言えば榛名。有馬提督という方は、トランクス派だったのですか? それともブリーフ派?」

 

 隣りの浜風が突然そんなことを大真面目に聞いてくるものだから、榛名は思わず咳き込んでしまい、扉の向こうの提督から大丈夫かと声が掛かる。

 

「あ、有馬提督は……。概ね、ボクサータイプだったと記憶しています……」

 

 榛名が記憶を辿り辿り告げると、艦娘たちから静かに「おお……!」とざわめきが起こる。

 これバレてますけれどと冷や冷やするが、壁の向こうの提督は呑気なもので、連装砲くんとのやり取りは楽しげだ。

 

「ええ? 今回はボクサータイプに挑戦してはどうかって? そうだねえ……、挑戦することは大事だよね。……え、ここで着替えろって?」

 

 間宮がダウンして巻雲に曳航されてゆくのを横目に見送りながら、ならば今までこの提督はトランクス派だったというわけなのだなと榛名は頷く。

 さすがに彼までパンツ履いていない勢だったわけではないだろうと悶々とし始めた榛名は、外の提督が鋭く驚きの声を上げた拍子に壁面の出っ張りに頭をぶつけてしまう。

 

「……これは、なんと言うか……。いいね! しっくりくるよ! なんと言うか、うん。新しい世界の扉を開いてしまったみたいだね?」

 

 提督の「新しい世界」発言で榛名含む幾隻かが吹き出し、腹を抱えてダウンした熊野と叢雲を青葉が曳航していった。

 踏み止まりはしたものの浜風と時雨のダメージが深刻で、体をくの字に折って静かに笑い転げている。

 口元を扇子で覆った初春が「鍛えておるのに腹筋が弱いのう?」などとのたまっているが、その初春自身もかなりきつそうだ。

 提督が駄目押しとばかりに「この碇のマークがいかしているよね?」と発した瞬間、初春は響を巻き込んで轟沈した。

 向こうで漣と卯月が笑うのを堪えた表情で睨めっこしているが、あの様子ではあと10秒も持つまい。10秒待たずに朝霜が止めを刺した。

 

 自らも笑いを堪える榛名は、どうしてこんなにも早く慣れが来たのか、その意味を漸く理解していた。

 こんな鎮守府の一員でありたいと、榛名自身がそう願って来たからだ。

 有馬提督の下での活動に不満があったわけではないが、実働として各地を転々としていた艦隊はどこへ行ってもよそ者や部外者だった。

 「戦果が上がれば、嫌でも鎮守府の頭に据えられるからなあ」ボヤいていた有馬提督のためにと、旗下の艦娘たちはそうなるようにと奮戦したことを榛名は覚えている。

 それは後々に、この鎮守府のような暮らしを目指しての道のりだったのだと思うと、ここで暮らす彼女たちのことが、より一層愛おしくなる。

 榛名のことをもうお客様扱いしていない娘も多く、あと数日もすればすっかりこの鎮守府の一員として接して来るだろうことが、どうしても想像に難くないのだ。

 ずっと望んでいた場所にいつの間にか自分が居て、しかしそこには、共に手を取って辿り着きたかった人たちの姿はない。

 涙が出て来るほど笑い合っている現状でも、胸中には未だ靄のようなものが掛かっていた。

 

 

 



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11話:想い人の似姿③

「一緒に寝るのですか!? 提督と!? ええ!?」

 

 寝間着姿の榛名は傍らの漣に対して思わず大声を上げてしまう。

 時刻としては、良い子はもう寝る時間だ。

 倉庫で衣料品を確保した後、入渠に食事にと駆逐艦の娘たちに引っ張り回されて、ようやくひと心地着いたかと思ったところに、メインディッシュが待っていた。

 苺なのか人参なのか良くわからない野菜柄のパジャマ姿の漣は、榛名の反応にたいそう満足したようで、人差し指を立てて「厳密には違うのだなあ」と語り出す。

 

「榛名が考えてるみたいな、オトコとオンナのそゆことじゃないよーう。ま、合宿とか修学旅行みたいなノリで、提督と一緒に雑魚寝って感じかな。割と定期的にやってるのさこれ」

 

 なるほどと頷く榛名は、道理で寝間着姿で枕を抱えた艦娘たちがぞろぞろと集まり出しているなと苦笑いする。

 卯月や清霜、酒匂と言ったパジャマ姿の駆逐艦娘組だけでなく、祥鳳やプリンツ、そして今回は巻雲に手を引かれた飛龍がいる。

 初参加の飛龍などは、蕎麦殻の枕を見つめて「わひゃあ……、初夜だよ初夜。お願い多聞丸、見守っててね……!」などと不穏な言葉を呟いている。

 

 さて、そうしていざ提督の寝室へと赴いたはいいものの、その部屋の前では枕を頭に載せた阿武隈が胸の前で罰の字をつくっていた。

 ダメ、とはどう言うことだろうかと首を傾げる榛名は、他の艦娘たちが今日は解散、といった雰囲気になっていることに気付く。

 建造されて日が浅い飛龍も戸惑っているようで、何かこの鎮守府の暗黙のルールが発動したのかと勘ぐれば、帰り際に漣が説明をしてくれる。

 

「今晩は暁の日だからさ、延期かなあって」

 

 帰投する群れに追い付いた阿武隈が言うには、先走った彼女がやって来た時に、ちょうど暁が入って行くところだったのだとか。

 気遣ってふたりきりにしようという配慮なのだろうが、そうだとすればやはり疑問が残る。

 ふたりきりにしてやろうということは、提督と暁のどちらかが、もしくは両方がそういった感情を相手に抱いていて、皆がそれを後押ししようとしているのかと、榛名はそう考えたのだ。

 しかし、問うてみれば答えは否。ふたりとも別にそのレベルの感情を互いに抱いてはいないだろうというのが、漣の見立てだった。

 

「暁も司令官に甘えたいぴょん。でも、うーちゃんたちがいる前だと、それが出来ないぴょん」

 

 前を歩く卯月が振り向き告げる言葉に、榛名もようやく納得する。

 一応はこの鎮守府の古株である以上、暁にも体面のようなものがあるのだろう。

 それを察するこの娘たちも娘たちだが、手引きしているのが漣なのは確実だなと、榛名は確信していた。

 

「え、漣が気を回したり手回ししたりするのはなんでかって? そりゃあねえ。前世からの因縁ってヤツかなあ……」

 

 それは、駆逐艦・暁と漣が一時期同じ駆逐隊に編成されていた史実に関する部分かと問えば、返る答えは「それも有る」。

 

「託されちゃってるんだよねえ。“前の”漣からさあ……」

 

 そう言って漣が取り出すのは古びた手帳。

 シールや落書き、あるいは汁物の飛沫が付いた跡などが見られるそれは、名前のところに“漣”と書かれている。

 ここにいる漣のものではなく、かつてこの鎮守府に所属していた漣のものなのだという。

 

「同じ漣だから、ってわけじゃないんだろうけれど、物置の隅に転がってたの、なんとなく勘で見付けちゃってねえ。で、うちの暁もだいたい難しい娘だから、面倒見なきゃなって」

「……それで、託されたと?」

「それもあるけれどさ、それだけじゃないんだよねえ……」

 

 漣が建造されたのは今から4ヶ月前。

 立ち会ったのは暁だったという。

 

「生まれて飛び出て、なーんか一発かましてやろうかと思ってたんだけど、なんか物凄い泣きそうな苦しそうな顔されちゃってさ。ああ、こいつ何とか面倒見なきゃなあって、漣さんは思ったわけなのですよ?」

 

 聞けば、そもそもこの鎮守府の暁は重大な欠陥を持って生まれ、後々に再建造という形で生まれ直すという特殊な生い立ちをしている。

 生態艤装の探照灯を左目に搭載したのはその再建造時で、それ以前は肉体や艤装に不調を抱えながら任務に当たっていたのだと、漣の日記には書かれていたのだという。

 水無月島鎮守府で初めて建造された艦娘であり、まるゆがサルベージされるまでは水無月島鎮守府最後の艦娘でもあったのだ。

 

「そういうわけでさ。いろいろ不安定になることもあるんだけれどさ、なんていいうか、変に隠すこと覚えちゃったからさあ。ま、そゆとこまだ子供なんだけどねえ……」

「……隠し事が出来ない人の場所が、必要なのですね」

 

 榛名が言葉を引き継ぐと、漣は鋭く指差し「それね!」と笑む。

 

「ま、暁だけじゃないけどねー。ご主人様によばーいかけてる娘」

 

 ふふんと鼻を鳴らしながら漣が口を滑らせると、その肩を阿武隈と祥鳳が両サイドからがっちりと抱き寄せ、据わった眼で「その話、詳しく」と威圧して空き部屋へ連れて行こうとする。

 身の危険を感じた漣は悪知恵企む頭をフル回転させ、どうやら榛名に水を向けることを思い付いたようだ。困惑顔の新入りを見て、冷や汗交じりに「にやり」と笑む。

 

「そ、そう言えば指輪付きってことは、カッコカリーしてるってことで!? 有馬提督と夜の営みはどうだったのでしょー、か! はい榛名さん!」

「いやあー、青葉も気になりますねえ! はい!」

 

 暖かく見守る姿勢でいたものが勢いよく火の粉が降って来て、何故か青葉まで降って来て、榛名は顔から火が出んばかりに真っ赤になって俯いてしまう。

 これは何やら面白い話が聞けるのではと目線で阿武隈や祥鳳を唆す漣。やきもち妬きの第一艦隊旗艦が「今回は見逃します」と頷く様を、榛名は確かに見た。

 先行してた駆逐艦や飛龍たちも戻ってきて、どうせだから今晩は大部屋で話し明かすぞという流れになる。

 

「ちょっと待ってください! 夜の営みの話なんて! 駆逐艦の娘もいるんですよ!?」

「大丈夫ぴょん。うーちゃんお酒飲めるから」

「清霜も辛口大丈夫よ?」

「酒匂は甘いお酒がいいなあ……」

「いえ、そう言う話ではなく」

 

 榛名が集まった面々に視線を巡らせ、恐らくは今ここにいる面子の中で一番権限を有しているのだろう阿武隈に救いを求めると、何を思ったのか頭に載せていた枕をくるりと回し「Оh Yes!」の面を向けて力強く頷いて見せる。

 この場の最高権力者から許可が出てしまったことに愕然として、榛名は赤らんだ顔を両手でぺしぺしと叩く。そもそもYES/NO枕片手に添い寝しに行く阿武隈の度胸に、榛名は恐れ入るばかりだ。

 阿武隈たちにとっては、自分の提督のことかも知れないのだから、それは確かに気になるところなのだろう。そうでなくとも、水無月島の彼女たち、特にこの島の外に出たことのない艦娘たちにとっては、余所の提督と艦娘の関係と言うのは充分興味の対象だろう。

 榛名にとって、有馬提督との思い出を語ることは別段苦痛ではない。

 問題は、勢いに乗って語り過ぎてしまわないか、自制心を保てるかどうかが不安だった。駆逐艦の娘たちの前では語れないような話も山ほどあるのだ。否、山ほどどころではない。

 しかしまあ、酒を入れるわけではないのでその心配は杞憂かと思いきや、大部屋ではすでに千歳たち酒飲み勢が酒瓶を並べて待ち構えているもので、軽く眩暈を覚えてしまう。

 卯月や清霜がお酒云々と口にしていた意味がようやく理解できた。

 最初から提督のところが駄目だった場合はこうして集まろうと段取りしていたのだ。

 

「榛名と飛龍の歓迎会もまだでしたからね? ついで、と言うわけではありませんが……」

 

 気持ち前哨戦のようなものだと笑む千歳は、榛名と飛龍を上座へと案内する。

 お夜食が出ることに感激している飛龍の隣り、これはもしかして嵌められたのではないだろうかと鈍い汗をかく榛名は、酔い潰されて暴走しないようにと意を決し、宴に挑む。

 

 

 ○

 

 

「皆に気を使わせちゃったかしら?」

 

 お互い、横向きの視界で向かい合って布団の中。

 小声でそう呟く暁に、提督はそうみたいだね視線で返し、扉の向こうの騒がしさが去ってゆくのを確認する。

 こうして暁が部屋を訪れる頻度は前よりも格段に増えていて、皆が気を使ってその日は乱入を控えるという流れが出来つつあった。

 艦娘たちが提督の寝室を訪れることは稀ではない。

 なんでも夢見が良くなるともっぱらの噂で、それで彼女たちの精神にゆとりが生まれるのならば、こうしていることに対する後ろめたさも薄れてしまうなと、表情は困り顔になってしまう。

 六駆の娘たちやまるゆだけだった頃は、こうした行為にいちいち緊張して寝付けなかったものだが、今は2分以内に意識が落ちるまでにリラックス出来るようになっている。

 しかしまあ、卯月や酒匂など、体温高めな娘に伸し掛かられると寝苦しくて夜中に目が覚めてしまうのが困りものだ。

 その点は暁も同じではあるのだが、彼女の場合は寝苦しいとまではいかず、冬場は凍えることがなくてたいへんよろしいと提督は思う。

 逆に、誰かが横で寝ていないと眠れなくなるのではないかと不安になることもあるが、そう言った時は必ずと言っていいほど雷が滑り込んでいるので、彼女たちの間で何かローテーションのようなものが組まれているのかもしれない。

 

 そうして別のことに気をやって眠気のままに落ちようかという時、布団の中の暁がもぞもぞと身じろき、いつもの行動を開始する。

 提督が寝間着代わりにしている特大サイズのTシャツの腹からもぞもぞと身を潜らせ、襟元から「ぷはっ」と顔を出して合流、至近距離で目と目とが合って、ようやくいつもの体勢に落ち着いた心地になる。

 暁のこの行為のお陰で海外の特大サイズTシャツの襟は伸びきってしまい、定期的に他の艦娘たちに“おさがり”として卸されている。

 作業着代わりにでもするのだろうかと思っていたが、何故か彼女たちもこれを寝間着にするもので、年頃の娘たちの心境はよくわからないなと、提督は唸るしかない。

 以前は暁もこんな真似はしなかったのだが、朝起きたら提督と暁の間に卯月が挟まっていたこと原因だろうか。

 暁としては誰が乱入して来ても意に介すことはないのだろうが、ここ最近は別だ。

 こんな身動きも取れないくらいに密着したくなるほど、提督の体温を欲しているのだ。

 

「……ねえ、司令官。私たちが提督と艦娘の関係じゃなかったら、どんな関係に見えるかな。こうしているのって」

 

 あまりに唐突な、突拍子もない問い。

 そうだねえと、思案する提督だが、思い当たるケースはひとつだけだ。

 

「兄妹じゃないかな」

「そうよね」

 

 納得した、という声色の暁は深く息を吐いて、提督の首元に顔を埋めた。

 下になった左腕を枕にすることに躊躇いがないあたり、ずいぶんと遠慮が無くなったものだと、提督は困った様に笑む。吐息が酒気を帯びているので、少しお酒を入れて来たのだろう。

 果たしてこれが健全な兄妹の関係かと問われれば、提督は自信を持ってその通りだと断言することが出来ない。

 手に入る情報が明治・大正時代の耽美な小説や漣が進めてくる漫画に限定されているため、どうにも世間一般における兄弟姉妹のイメージが固まらないのだ。記憶喪失ついでに、その辺の価値観もごっそりと抜け落ちてしまっているは思わなかったもので、気付いた時に愕然としたものだ。

 まあ、うちはうち、と言うことで。水無月島鎮守府に限定して“これで良し”としている現状、余計なことを考えるのも野暮かなと、手が無意識のうちに暁の頭を撫でる。

 こうして彼女の頭を撫でることも、それこそ提督となった当初は躊躇われていたものだが、今では暁の方からせがんでくる。

 これで子守唄でも歌えれば良いのだろうが、以前総員に「提督、音痴ですね」硬い笑顔で言われてショックを受けて以来、人前で歌うことは無くなっている。

 

 暁がこうして、自分たちが提督と艦娘ではなかったらと、“もしも”を語るということは、それだけ今が怖いのだなと提督は察する。

 深海棲艦化の兆候が見られ、出撃を控えている暁ではあるが、それはあくまで控えているだけに過ぎない。

 要所要所、重要な局面では暁も抜錨して前線に立っている。

 しかし、そうして仲間と共に海上に立つ、その折に体感する現象こそが、暁自身の不安を誘うものであるのは確かだろうと提督は思う。

 もうとっくの昔に自分が深海棲艦になっているのではと時折恐慌しそうになることが幾度かあったが、卯月が「お肌つるつるだから大丈夫ぴょん」と頬ずりしながら告げて以降、表立って不安そうにすることは無くなった。

 ただ、時折こうして密着して温度を求める。その頻度が多くなったと言うだけで。

 

 今夜だって、有馬提督の件があったから、弱気を刺激されてここに来たのだろう。

 もしかすると、提督のことを気遣っての来訪かもしれない。

 艦娘たちには弱い姿をかなり見せてしまっている提督故、暁自身、自分のことよりも提督の方が気掛かりだと考えていても不思議ではない。

 

「あのね、司令官。私、その、お兄ちゃんとか妹とか、正直良くわからないの。艦の方の記憶はあっても、人間の方の記憶はないから……。でもね、だからかな。こう思うの」

 

 暁は右目だけで提督を見つめて、思いつめたように告げる。

 

「兄妹なら、もし離ればなれになっても、ずっと家族で居られるって思うから。ほら、お父さんと娘だと、娘はお嫁に行っちゃうし、奥さんと旦那さんだと離婚したりでしょう? でも……」

「兄妹なら、そう言うのは無いから?」

 

 頷きに自信の色が見られないのは、暁も自分が口にした考えが世間一般的なものではないとわかっているからだろう。

 それでも、提督はその考えを肯定する。ここは水無月島鎮守府なのだ、外界ではないどころか、敵地のど真ん中なのだから。

 ここでは、それでいい。

 では、ここを離れて別の場所へとなれば、どうだ。

 

 提督が有馬治三郎その人だったとすれば、暁が最初に抱いていた懸念が無くなる。

 記憶喪失とは言え本業の提督であったのだから、罪には問われないかもしれない。10年以上前の任務失敗に関して追及される可能性は充分に有り得るが。

 現状でも、この素性の知れない青年には、海軍本部からは“特例”という心強いお墨付きが出ているので当面の心配はないと楽観している。

 

 しかし、もしも自分がと、その先を考えようとしたところで、提督はふたりだけの空間に第三者の存在を感じた。

 酒気を帯びた、と言うよりべろべろんに酔っぱらったプリンツが、Tシャツの上から暁の背中に引っ付いて、幸せそうに目を細めていたのだ。

 部屋の前で引き返した面々は今晩は酒盛りだったのだなと思い至る提督は、幸せそうなプリンツに対して暁の表情がどんどんむすっとむくれていくのを見る。

 別段プリンツのことを嫌っているわけではないのだろうが、今この時に水を差されたことに拗ねているのか。

 提督が「拗ねないで」と暁の頭を撫でると、「拗ねてません」とふくれっ面で乳首をつねってきた。八つ当たりだ。

 

 

 ○

 

 

 気持ち飲み過ぎてしまっただろうかと、榛名はお猪口を盆の上に置いて大部屋を見渡した。

 室内を薄暗くしているのは、榛名の話を聞こうと集結した面々のほとんどが寝入ってしまったからだ。

 酔い潰れるのを見越して最初から敷かれていた布団をキャンバスに、個性的な寝相の絵が自由に展開されている。

 大の字になっていびきを発している飛龍を隣りの巻雲が定期的に裏拳で黙らせていたり、青葉や夕張そして漣はなにやら悪巧みしているかのような寝顔で微笑んでいるし、阿武隈と祥鳳は互いに抱き合いながらも「提督、提督……」と呟いたり、何かと見ていられない。

 時雨や高雄は、酔いつぶれた酒匂や清霜を連れて入渠ドックへ行ってしまったので離席中。しゃっくりする度に両サイドの髪が犬の耳のような形に跳ねる時雨を皆で弄り倒していたら、照れ隠しに龍鳳が関節技をかけられ、何故か「ありがとうございます!」と連呼していたのはそういうプレイだったのだろうかと首を傾げざるを得ない。高雄と叢雲のワインの銘柄当てに巻き込まれたプリンツと秋津洲がいつの間にかどこかへ行ってしまったが、いつものことだと誰も追わないのがいかにもこの鎮守府らしい。

 熊野はお肌に悪いと言って、船をこき始めた利根や卯月やまるゆを連れて先に引き上げてしまっている。就寝前に顔面を美容パックで覆う人類を(艦娘だが)初めて目撃して、内心拍手していたことは内緒だ。

 

 今起きているのは榛名と、テーブルを挟んで向かい合っている千歳。そして今しがた三度目のダウンから復帰して早速一杯ひっかけはじめた朝霜だ。

 駆逐艦の中でも、それどころか艦娘の中でもかなりの酒豪であるとされる朝霜だが、この鎮守府でもその称号は不動のものだった。

 ただし、榛名が今まで出会ってきた朝霜と異なる点は、すぐにダウンして寝落ちてしまうことだろうか。

 すぐに酔いが回って寝落ちて、しかしその分復活も早く、今はケロッとした様子でウイスキー(しかもロックだ)をちびちび舐めている。ダウンしてからの復帰は、それは酒が強いことになるのだろうかと甚だ疑問だが、こうして断続的にでも長時間、かなりの量を飲んでいられるので、“強い”でいいのかもしれない。

 朝霜の傍で猫のように丸くなっている猫耳の響が寝言で「……今夜ばかりは不死鳥の名をキミに譲るよ」などと言っているが、これ実は意識があるのではと榛名は勘ぐるばかりだ。

 

「ささ、榛名も。呑み直しのもう一杯」

 

 ご機嫌な顔の千歳がお猪口に注ぐ一杯は、一升瓶からだというのにほんのりと人肌に暖かい。

 どういうことだと目を細める榛名は、深夜の通販番組のような笑顔で一升瓶を掲げる千歳と朝霜の姿を見てさらに目を細める。

 仕組みと言えば単純なものらしい。朝霜の体温が高さと抱き癖を利用して、ダウン中に一升瓶を抱えさせる。そうして復帰した時には熱燗レベルの温度に暖められているというわけだ。

 しかし、いくら駆逐艦の高い体温とはいえ、熱燗レベルまで加熱されるのはいったいどういう原理だろうか。反応に困る榛名は、向こうで夕張と漣がむくりと上半身を起こし、「売れる」と拳握って呟いて再びぶっ倒れる様に、こちらも本当は起きているのではと勘ぐってしまう。

 

「……そう言えば、似たようなことを秘書官の加賀でやろうとした提督が居ましたね」

「その提督の末路は?」

「一升瓶で殴打されて全治二ヶ月。その間、秘書官が付きっ切りで看病したんだとか」

「あら、病んでる」

 

 口元を押さえて上品に笑う千歳だが、そんな上品な笑みが起こるような話だっただろうかと榛名は困り顔だ。

 間宮や阿武隈からちらりと伝え聞いてはいたが、確かにこの千歳はつかみどころがない。

 飄々としているという風ではなく、これは余裕がある者の態度だ。器の大きさや懐の深さから生まれる落ち着きだろうか。

 そのうえ、飲ませ上手で聞き出し上手とくれば、いつの間にか話すつもりのないことまであれこれ口を突いて出て来てしまい、何度冷や汗をかいたかわからない。

 

「それにしても、有馬提督。聞けば聞くほど、うちの提督とはいろいろ正反対の方なのね。酒豪で性豪だなんて」

「ええ……。お酒には滅法強くて、たいそう女好きで。毎晩、必ず誰かが夜のお相手していました。私も、その……」

「そりゃあ、うちの提督も変わんないんじゃないのか? やることやらないだけでよ?」

 

 グラスから口を離さない朝霜が言うが、確かに同衾まではその通りだなと榛名は唸る。

 

「それにね。うちの提督、別にお酒に弱いわけじゃないかもしれないの」

 

 千歳が言って、窓の方を見やる。

 そこでは妖精たちの酒盛りが行われていて、今宵は納豆を肴に一杯やっている様子だ。

 千歳が注目しろと言うのは、妖精たちが取り囲んでいる酒瓶のことだろう。

 その銘柄を見た時点で、榛名も合点が行った。

 

「スピリタス・ウォッカ……。まさか、あれを原液で?」

「妖精さんたちは気にせずがぶがぶいける口ですが、人間にとってはあまり。艦娘でも厳しいですよね? 朝霜」

「……ありゃあ、酒じゃないな。ただのアルコールだ」

 

 つまみの残りのナッツ類をまとめで齧る朝霜に「そりゃそうだ」と内心突っ込みたい榛名だったが、千歳に話の主導権を握られているため口を挟めない。

 

「暁たちの証言を聞く限りだと、どうやらこれじゃないかって。もちろん、その当時呑んだのがスピリタスかどうかは今となっては確かめるのは難しくて、それ以来提督もお酒を避け気味になってしまったから、真実は闇の中。でも、避けているだけで、呑めないわけじゃないかもしれないの。だから、もしかしたら、ね?」

 

 その可能性は榛名にとって朗報なのか、そうで無いのか。

 千歳の真意はなんだと眉をひそめた視線の先、杯を傾け片目でこちらを見る千歳は、まあ飲み終わるまで待ってと所作を緩やかにする。

 

「しばらくの間、うちの提督のことを有馬提督だと思って接してもいいんじゃないかしら。榛名の知っている有馬提督だったら、それで良し。そうで無かったら、そうで無かったなりに接すればいい」

「そんなに簡単に……」

 

 目が覚めたらもう10年以上の時間が流れていて、仲間の半数は既に亡く、もう半数も所在がつかめない。

 自分が何故眠らされていたかのかも、定かではないのだ。

 そして無事だと思っていた提督も、どうやら自分の知る人物ではないかもしれない。それだというのに微かな希望を匂わされ、常々気が気ではない心境に立ち戻ってしまう。

 しかし、そんな心境に“立ち戻ってしまう”ということは、それ以外では“いつもどおり”を取り戻せているということではないのか。

 割り切れているわけではないし、切り替える動きもまだまだ鈍く拙い。 

 だが、良きことに浸れるくらいには自分を取り戻せているのかもしれないと、榛名は眉を下げた顔で千歳を見る。

 

「あるいは、本当にひと晩一緒に寝てみるのもいいかもしれませんね。オトコとオンナの、と言う意味で」

 

 楽しそうに告げるのだが、その実大真面目な提案なのだろうことを察し、榛名は耳まで真っ赤になってしまう。

 その様子に不思議そうな表情をする千歳が「もしかして、あまり経験が?」と問うに対して、慌てて手を振って「最低でも週一ペースでした!」と答えなくてもいい部分を暴露してしまう。

 「盛んね」「盛んだな」と神妙に頷き合う艦娘たちから顔を逸らして両手で覆ってと忙しい榛名は、確かにそれほど頻度は多くなかったはずだと記憶を辿る。否、重要な部分はそこではない。

 

「それとも、やっぱり指輪付きともなると、他の提督と寝るのは浮気に?」

「そ、そう言う意味も、確かにありますけれど……!」

 

 榛名は言いにくそうにしながらも、眉を立てた視線で千歳と朝霜を見据え言う。

 

「おふたりは、あの提督以外の方と体の関係をと言われた時、はい喜んでと、そうなりますか?」

「嫌です」

「やなこった」

 

 あまりにあっさりと返答が来てしまい、逆に榛名の方が困った顔になってしまう。

 即答した2隻はと言えば、盲点だったとばかりに頷き合い、榛名に対して土下座の姿勢で頭を下げる。

 提督以外の人間とのやり取りを想像できないが故の盲点だったと言えばその通りだが、だとすれば彼女たちは、この島を出た後のことなどを考えていないのだろうかと、榛名はそう疑問する。

 

「あーいや、考えてないわけじゃないんだぜ? 巻雲姉や清霜とか、あと漣と卯月とか。島生まれの駆逐艦で寝る前に集まった時なんか、流れてきた本土のるるぶとか広げてさ、もしも島を出て本土に行くことがあったら、ここに行ってみようとか、あそこでメシ食おうとかさ。いろいろ話、するんだぜ?」

「それに、艦艇の自分たちが生まれた造船所めぐりとか。当時、母港へ戻ることが出来ずに沈んだ娘たちは、特に行きたがっていますよ」

 

 しみじみと語るのを聞いてしまうと、何も考えていないわけではないのだなと納得出来る。

 しかしまあ、偏ってはいるのだなとはっきりそう思うのは、その偏りが許される場所であるからか。

 先の宴、有馬提督との馴れ初めなどを問われるよりも、外界の景色や食べ物、どんな人々が暮らしているかを聞かれる割合が多かったなとも思う。

 そう問うてくるのはほとんど駆逐艦の娘たちで、彼女たちの質問攻めが始まってしまえば、他の娘たちは薄い笑みで、それらの姿を見守っていた筈だ。

 彼女たちは、自分たちがいつかこの場所を離れて行くのだと自覚してはいても、そうした興味の分野について考えるばかりで、現実的な問題を詰めるまでには至っていないのだろう。

 いけないことだと叱るつもりもないし、その資格は自分にはないと、榛名は思う。

 ただ、外界のことを知る者の助けが必要だなとは、強くそう思う。

 

 酒の入った高雄がそう漏らしていたように、島の外へ連れ出すことが、こうして水無月島に拾われた己の役割なのだと、なんとなくではあるが、榛名もそう思い始めていた。

 彼女たちの考え方に合わせるわけではないが、そもそも自らの事情については、現状何もわからないのだ。

 自力で真実に辿り着くことは困難だろうし、それこそ調査してくれている彼女たちに任せるしかない。

 ならば、自らの事情はひとまず横に置いてもいいのではないかと、そう思えてくるのだから不思議なものだ。

 そう思い至って、対面で頬杖付いて笑む千歳を見ると、これも彼女の思惑の内なのではないかと、そう勘ぐる心も生まれてくる。

 釈然としないことがあるのだとすれば、そうして考えを誘導されているとしたところで、別段不愉快ではないところだろうか。

 こちらの不利にならずに、しかし気が楽な方向へと流れを向けてくれている。

 ただ、これは気が利く、気が回るというよりは、一種の老獪さではないかとも思えてくるのだ。

 建造されて1年にも満たない彼女にその言葉を当てはめるには、あまりにもあんまりだなとお猪口を傾ける榛名は、対面の2隻が言葉を失ったようにこちらを見つめていることに気付いて、気付かぬ内に何か粗相でもしていたかと不安になる。

 

「いや、さ。榛名、ザルだよな」

「顔色ひとつ変えないなんて……。私もそれなりに呑む方ではあったけど、ちょっと自信なくなりますね」

 

 言う2隻の顔は赤い。

 朝霜は何度目かのノックダウンだが、千歳はここに来てようやくだ。

 自覚はなかったが酒には強い方だったのかと訝る榛名は、それでもひとつ勝った気になって、少しばかり嬉しかった。

 

 

 



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12話:水無月島鎮守府の長い一日①

 足元の水面の感触を確かめつつ、空母・飛龍は姿勢を前に倒して緩やかに速度を上げた。

 鎮守府裏手の第二出撃場は、建造上がりやリハビリを必要とする艦娘たちの訓練の場となっていて、それは第一出撃場が復旧した今でも変わりはない。

 飛龍は本日が初訓練。基礎的な動作や理論などは建造時に刷り込み教育されているし、その動きに適した形に肉体が調整された状態でロールアウトするため、後はこうして実際に水面を踏みしめ体を慣らす工程となる。

 基礎的な“慣らし”の時間は最低30時間は設けるようにと海軍本部側で規定されていて、それはこの水無月島でもそれは硬く守られている。

 既に一通りの動作がこなせるとしても、規定時間は厳守。時間の空いてしまった艦娘ならば、後は自主トレーニングの時間だ。

 軽巡や駆逐をはじめとする水雷組は対潜攻撃の強化訓練としてまるゆを借り出していたのだとは、飛龍のお目付けで第二出撃場に詰めている巻雲談。

 巻雲と朝霜、そして清霜は同時期に建造され、訓練課程も一緒に進めていたのだが、その3隻掛かりでも、まるゆにはたった一度も爆雷を当てたことが無いのだとか。

 

「当ったんないの、全然。体おっきくなってるけど推力自体は大して増えてないって言うから、楽ちんかなーって思ってたけど、ぜーんぜん。数で押してもフェイントかけても全然読んでくるしで。逆にこっちが撃沈判定もらうしで……」

 

 実戦を経て身に付いた勘というものか、それともまるゆ自身の野生が成せる技なのか。

 夕雲型の時もそうだが、第三艦隊の駆逐艦5人娘で挑んでも結果は変わらなかったのだという。

 敵の姫級をほぼ相討ちのような形で轟沈させたというのも、そうした体験談を聞けば真実味が出て来るものだなと飛龍は唸る。

 いずれにしても、巻雲たちや利根、プリンツが建造されるまでは前線に出て、阿武隈や千歳たちと死線を掻い潜ってきた猛者であるのは確からしい。

 基本弄られ役に落ち着いているあのおっきな潜水艦娘の顔を頭に思い浮かべる。

 今でこそ、周辺海域の調査で単艦出撃する機会が増えて前線を離れたまるゆではあるが、一時期は駆逐艦たちの間で「絶対怒らせてはいけない人」リストの上位に居たというのだから苦笑ものだ。

 

 さて、教官役の祥鳳の指示に従って、飛龍は脚部艤装を展開する。

 空母の艦娘、特に弓を用いる艦種は水上にて射形を取るため、足場を安定させる必要が出て来る。

 最初期の空母たちは補助艤装の恩恵無しに二足で水上に立ち、そのうえでなお完璧な射形を成立させていたと言うのだから恐ろしいなと、飛龍は笑うしかない。水上で射形を整えることの難しさを、改めて実感したからこその笑みだ。

 それ故に、変形し連結した脚部艤装の形状は確固とした足場、艦の底部を模したような楕円形のステージ状となる。

 波風の影響などをある程度緩和するためのバランサーを内蔵したステージは、確かに足場の安定を約束するが、大波や強風による傾斜まではその限りではない。

 そんな悪天候を再現していない、凪いだの状態の水面であっても、揺れるステージ上での射形は困難を極めた。

 空母艦娘の弓式発艦システムは正しい射形を取ることによって“艦載機が無事に甲板より飛び立った”と言う結果を再現するものだ。

 よって、射形に乱れがあれば発艦は失敗し、最悪の場合複数の艦載機を一度に喪失することになる。

 揺れる足場を不動の地面と同等のものとして射形を成立させるのは至極困難であり、加えてその状態である程度の速度が無ければ艤装のロックが外れない仕様であることも焦れる要因だ。

 地上基地の滑走路とは異なり、艦上の飛行甲板の長さは圧倒的に短い。よって、実際の空母ではある程度の速度を稼いで風を迎えなければ発艦に支障を来すのだが、飛龍にしてみれば何もそこまで再現しなくても良かろうにと口を尖らせん思いだ。

 とは言え、静止状態でも発艦シークエンスは構築可能らしい。向かい風と速度が乗らなかった分を仮装フライヤーを展開して補うとのことで、これが物凄く疲れるのだとか。

 肉体的にではなく精神的にでもなく、目には見えない“霊力”のようなものを著しく消費するとのことで、以前無理矢理にそれを行った龍鳳が、入渠後に三日三晩も寝込んだという。

 

 しかし、そう不平を漏らしても居られない。

 自分よりもはるかに飛行甲板の長さが足りないはずの祥鳳が安定した発艦シークエンスを構築する姿には、ただただ素直に感嘆するばかりだ。

 さすがは、朝は誰よりも早く床を出て、庭で上半身裸になって乾布摩擦している御仁だ。

 トレーニングはかつての一航戦並みにこなし、厨房にも良く顔を出して、しかし提督のことを考えている間は別人のように隙だらけな姿を見せるのはいかがなものかとも思うが、そう言ったところで力みを抜いているのだろうと考えると、ますます侮れない。

 敗けてはいられないぞと、焦りが生まれてくる。最初から空母として建造された身であるという艦艇時代の背景が、そういった感情に駆り立てている部分もある。しかし、最も強く体を押すのは「このままでは置いていかれる」という、正体の良くわからない恐怖だ。

 早く、自らが実戦で使えるようにならなければとも思うが、その思いに反するように体は強張り、思うような成果を上げられない。足踏みさえ覚束ない。

 そうして挑戦を続けて幾度目か。体勢を崩して転倒して、ようやく祥鳳から「待った」がかかった。

 

「あまり根を詰め過ぎるといけませんよ。規定時間はまだまだ残っているのですから、ゆっくりと慣らしていきましょう」

 

 手を差し伸べてそう言ってくれる祥鳳の顔をまともに見るのが辛いが、それでも情けない笑みを浮かべてしまうのは、やはり悔しいからなのだろうか。

 

 

 そうして一時休憩と言ったところで、榛名が第二出撃場を訪れた。

 テーブルでひとりでお菓子食ってる巻雲に挨拶した榛名は、その向こうに吊るされているものを見て、顔も体も硬直させてしまった。

 まあ、確かにと、飛龍たちもそちらに視線を向けて概ね同意する思いだ。

 天井クレーンで吊るされたそれは、真っ白な塩の塊のような姿をしていた。

 かつて水無月島で鹵獲した、敵姫級の自律稼働型生態艤装なのだという。

 鹵獲した当初はこんな姿ではなかったのだが、いつの間にかこうして真っ白な粒子状の物質に覆われてしまったのだとか。

 その形状から「魚の窯焼きみたいだ」と言う話が出て、いつの間にか“かまちゃん”とあだ名が付けられる。

 巻雲に説明を受けている榛名も「かまちゃん!? コレかまちゃんって言うのですか!?」と頓狂な声色で聞き返している。

 こうして遠巻きに見る程度ならばただの平和なオブジェなのだが、夕張の話では「……コレ、なんか成長してます」とのことで、一時鎮守府内が騒然となったらしい。

 “かまちゃん”を鹵獲して第二出撃場に吊るしてからおよそ9ヵ月余りで、約2倍の大きさにサイズアップしているのだそうだ。

 

「……大きくなって、どうしようというのでしょうね?」

 

 一同、テーブルに着いて一息。巻雲が水筒に入れて持ってきた熱いお茶がカップに注がれ、テーブル下の背嚢からは御茶請けの麩菓子が新たに取り出される。

 巻雲から貰った麩菓子を手に深刻そうな顔をする榛名だが、鎮守府の面々は特に気にした様子はない。

 卯月や清霜などは観察日記を付けているし、まるゆなどは時々話しかけて受け答えしているというのだから恐ろしい。自律稼働型砲塔たちも気さくに挨拶のような仕草をしている姿が見られているとのことで、同じ自律稼働型として何か通ずるものがあるのかもしれない。

 

「そう言えば、榛名はどうしてこちらに? 清霜の姿も見えませんが」

 

 麩菓子の端を小さく齧る祥鳳の問いに、榛名は当初の目的を思い出して手を打った。

 聞けば、榛名の艤装の再構築などを行っているから第二出撃場へ来るようにと夕張に言われていたらしい。

 話をすればなんとやら、奥の格納庫からツナギ姿の夕張と秋津洲が出て来る。

 聞けば榛名の艤装や衣装を再構築するとかで、採寸が必要になるらしい。

 同時に、艤装との同期もこのタイミングでやってしまうのだとか。

 

「感覚的にはつい先日まで前線で戦っていたはずなのに、いつの間にかブランク10年以上だものね。インナー着る必要が出て来るかもしれないし、艤装の各管制システムに狂いが出てるかも知れないしだから、そこら辺の調査もね」

 

 巻雲のストックから勝手につまみ食いし始めた夕張が言うには、榛名の艤装、その基礎部自体はもう構築が完了しているのだという。

 あとは当人が装着して“慣らし”の工程に入るだけなのだが、それには艤装核との同期作業が必須となる。

 体感的には艤装を解除して1ヵ月も経っていないとはいえ、実時間では10年を超えている。

 10年間艤装から離れていた暁型の姉妹たちでもかなり精神に負荷がかかっていたため、榛名の場合は同期に慎重を要すると、提督の判断で周辺準備に時間をかけているのだ。

 

「それと、艤装の基礎部分は完了しているんだけど、補完艤装がまだなのよね。戦艦クラスの補完艤装となるとまだまだ時間が掛かっちゃって。だから、もしも緊急で出撃するって場合は格納庫で眠ってた金剛型の補完艤装を流用することになるかも。ちょうど、戦艦・比叡の防御タイプが丸々手付かずで残ってたから」

 

 比叡と言う艦名に榛名が反応して肩を震わせる姿を、麩菓子を咥えた飛龍は見る。

 姉妹艦の名前が出たのだから当然かと俯く飛龍は、そう言えば自分には姉妹艦と言う概念が薄いなと今さらながらに思い至る。

 同じ二航戦の蒼龍は、なんと言うか魂の双子のようなものだし、だとすれば改飛龍型である雲龍型が妹たちといったところだろうか。どちらにしろこの鎮守府にはいない。空母は新参の飛龍を含めて4隻。正規空母は飛龍だけだ。

 まあ、傍らの先輩面した駆逐艦が妹替わりでいいかと頭をぐりぐり撫でれば、目を細めた不思議そうな視線が返ってくる。

 

「と言うか榛名。出撃するの大丈夫かも? しばらく安静にしててもいいと思うけれど……」

 

 秋津洲が心配そうな顔で気遣うが、榛名は薄く笑んで大丈夫だと、確かに告げる。

 

「いろいろと吹っ切れたわけではないのですけれど、榛名の本分を果たすことに変わりがあってはいけないなと、そう思っただけです。榛名にも出来ることがあるのなら、やらないと。……それにそろそろ、働かずにご飯食べてばかりだと、ちょっとその……」

「帰投後のごはんは美味しいですからー」

 

 すでにおやつをたらふく頬張っている巻雲が言っても説得力がなあと目を細める飛龍は、しかし運動後のご飯は確かに美味しいなと頷き、ならば帰投後によりご飯が美味しく感じるように、現状の課題をクリアせねばと意気を入れる。

 休憩終わって、さてもうひと訓練と言った思い出立ち上がる飛龍。しかし、祥鳳が次の訓練はまた明日にと告げて出鼻を挫いてくる様に、巻雲を巻き込んでズッコケそうになる。

 

「鎮守府周辺海域の定期巡回で、午後から出撃なんです。第三艦隊と、私たち第四艦隊で」

 

 

 ○

 

 

 第一出撃場の広さは第二出撃場の約4倍ほど。

 天井も高く、使用できるクレーンの数も第二出撃場の比ではない。

 その天井クレーンで吊られて移動しているのは、空母たちの補完艤装、その待機形態だ。

 形状はかつての艦艇そのものを模した1/70縮尺だが、その内部は科学技術とオカルトの塊だ。

 特に空母の補完艤装は飛行甲板を備えている特性上、水上にて困難な弓式の発艦システムに頼らなくとも良いという大きな利点がある。

 海上にて速度さえ稼げれば艦載機発艦に困難が無くなるのだと聞いた飛龍は、自分も最初からこれ使えばいいのではと疑問するも、いいやと首を横に振る。

 なんとなくそれは楽をするようでいけないという考えが脳裏にあるのだ。

 これは古い考え方なのだろうかと唸る中、クレーンで降下してきた空母の補完艤装たちは“隼”の後部格納庫に収納されてゆく。

 

 敵支配海域での“隼”の運用は計器類の不調により困難を極めたが、超過艤装運用計画の資料を基に妖精たちが再構築を行い、どうにか運用レベルにまでこぎ着けている。

 補完艤装を収納する必要があるため、ベースとなっている従来の隼艇型よりも大型な甲型魚雷艇を模した形状が選択された、しかしその内部の機構はベースとなった魚雷艇よりもかなり変わってしまっている。

 そう薀蓄を語る夕張の横、“隼”後部に増設されたハッチの開閉確認をうっとりとした様子で見つめるのは清霜だ。

 榛名のお目付け役から離れていたのは、第三・第四艦隊の出撃準備の手伝いをしていたというのもあるが、榛名に戦艦の補完艤装を早く見せたくなって、提督に掛け合っていたからなのだとか。

 「もうすっごいんですよ! すっごいの! 1/70の戦艦の模型みたいで! 強そうで格好良くて!」と両手を振って語彙乏し目で榛名に力説する清霜。それを遠巻きに見る飛龍は、最終確認を行い“隼”に乗り込んでゆく艦娘たちを見送る。

 いつか自分もああして出撃してゆくのかなと思いを馳せ、今のままではいつになることやらと溜息を吐く。

 

「さあ、じゃあ第一出撃場も空いたことだし、清霜お待ちかねの補完艤装、お目見えと行きましょうか」

 

 夕張が告げて、壁に備え付けのパネルを幾つか操作して見せる。

 奥の格納庫、その重々しい扉がゆっくりと開いてゆき、クレーンで吊られた長大な鋼が姿を現す。

 1/70スケールの在りし日の姿は清霜の顔を感動に輝かせ、榛名の顔を切なそうに歪めた。

 補完艤装は、金剛型は二番艦・比叡のもの。かつてこの鎮守府には戦艦・比叡が居たという証だ。

 

「比叡姉さまは……」

 

 姉艦の、この島でのことをと、榛名は考えたのだろう。

 しかし、今ここに居る面々は水無月島が再稼働してから建造された者たちで、夕張に至っては外部からの参入者だ。

 かつての所属艦のことを聞きたければ暁型の姉妹に聞くべきかなと考えた飛龍は、もう1隻、かつての水無月島鎮守府を知る者が居たことを思い出す。

 

「比叡の話、聞きたい?」

 

 天津風だ。夕張たちと同様のオレンジ色のツナギ服、その上を脱いで袖を腰まわりで結んだ姿。

 チェック用のパットとタッチペンを手にこちらへと来るのは、比叡の補完艤装が引っ張り出されたからだろうか。

 出戻りの天津風ならば比叡のことを知っているだろうなと思う飛龍だが、その思い出が楽しい物ばかりでは無いだろうなとも、彼女の表情からなんとなく察していた。

 

 

 ○

 

 

「比叡。この鎮守府の古株の1隻だったのよ。10年前、最後の出撃の時も一緒だったわ。大和や鳳翔たちと一緒。それで……」

 

 天津風を庇って大破して、そのまま水煙の向こうに消えたのだという。

 悔いる声色の言葉を、榛名はロッカールームのカーテン越しに聞いていた。

 

 艤装の同期を行うに際して、専用の衣装に着替えるためだ。

 榛名の艤装は既に構築済みだが、衣装の方がまだと言うことで、ロッカーに残っていた比叡のものを拝借する流れとなったのだ。

 補助艤装のインナーを着用し透過措置を施すと、すぐに自分の肌の色が露わになる。

 最近改良が加えられた最新版の仕様だろうか、手首や関節部等に白い文字が浮き上がり“異常なし”等の表示が表れては消える。

 試しに手の甲を抓って見ると、赤い文字で“痛い?”と返ってくるのでどうしたものか。

 

「比叡さん、どんな方だったんですか?」

 

 カーテンの向こう、いつもよりもだいぶ落ち着いてしまった清霜の問いに、天津風は「んー」と虚空を見上げて思案する構え。

 以前の姿をすぐに思い出せない、というよりは、何から話したものかと思案しているものだろうか。

 

「余所の比叡がどうかはわからないけれど、うちのは料理上手だったわよ」

 

 ああ、と。榛名は胸元をサラシで覆い締め付けながら苦笑する。

 元となった艦艇にまつわる逸話を受け継いでしまったものか、それとも誰かが吹聴した噂話か、比叡に料理をさせてはいけないというのが、榛名が任務で各地を転々としていた時に耳にした通説だった。それがどうやら、この鎮守府では違ったらしい。

 

「うちの提督の……、ああ、前のおじいちゃん提督の方ね? ……と、割と初期の方から一緒に活動していた艦娘で、会議や会食なんかに同行することが多くって、そういう席だとお酒入って気が大きくなって、からかってくるような人も多くてね? そういう、艦娘のジンクスのこと」

 

 自分もそういうことが多分にあったなあと、榛名はソックスを履かんと片足でバランスを取りながら、しみじみと思い出す。

 そういった提督同士やお偉いさんたちとの会合の際、酒が入った彼らの話題の常となるのが、自分たちのジンクス、かつての軍艦時代のエピソードだ。特に、特徴的な逸話を持ってる娘は苦労したのだろうことは、想像に難くない。

 

「それでね、比叡のこと馬鹿にした余所の提督を、うちのおじいちゃんが思いっきり叱りつけて。それがもう、一喝って言うレベルじゃなくて、窓にひびが入ったって。普段、絶対に声を荒げる人じゃなかったから、みんなびっくりして何も言えなくなっちゃって。比叡の方が恐縮してあたふたし始めて……」

 

 その場に居たのが比叡ではなく自分であったとしても、あたふたしただったろうなと。小袖に腕を通して前を合わせる榛名は、写真で見た老提督の姿を想像して思う。

 その一件以来、比叡は料理をするようになったのだそうだ。老提督が自分のために怒ってくれる人であることは嬉しかったのだろうが、だからこそ、温厚を常としている人にそうした振る舞いをさせてはいけないと、比叡は考えたのだとか。

 

「そうして、いざやってみれば、ジンクスなんて全然関係なくて。どんどん上達して。当時の水無月島鎮守府の艦娘の中だと一番料理上手かったんだから。逆に、うちは鳳翔が料理出来なかったくらいだからね? 目玉焼き失敗してたし」

 

 「えっ」とカーテンの向こうで皆が動きを止めて静かになる様子が、榛名には手に取るようにわかった。

 こちらも思わず動きを止めてしまったが、何か失礼な気がしてそそくさと翡翠色のスカートを履いてゆく。しかし、フックを止めようとすると、それが出来ないことに気付き、愕然とする。サイズが一回り小さいのだ。「比叡姉さま、超スリムです……!」と姉艦に思いを馳せた榛名は、衣装の自動調節機能を用いて腹囲を拡張する。酷い敗北感だ。

 

 「でもさ」と、今まで黙して話を聞いていた飛龍がぽつりと問いを灯したのは、天津風の話がひと段落したあたりだ。

 

「最後の出撃になるって分かっていて、なんで比叡は補完艤装を使わなかったの?」

 

 それは、榛名も疑問に思っていたことだ。

 最後の出撃となるのだから、ありったけの装備で構えてゆくものではないのだろうかという疑問。他に意図があったのならば、それを記録に残して置くものではないだろうかとも。

 

 そもそも当時の天津風たちは、島から退避する人員が安全圏へ到達するまでの時間を稼ぐ手筈だった。

 ならば補完艤装はいらなかったのかと新たな疑問が生まれるが、天津風にもそのあたりはよくわかっていないらしい。

 その時はちょうど、建造ドックで武藤提督代理が大和型戦艦の建造を開始していた頃なのだが、だとすれば、電でも知らなかったことを比叡が知っていたことになり、どうにも腑に落ちない。

 

「たぶん比叡は、これで終わりだって、思ってなかったんじゃないかな?」

 

 電探型のカチューシャをセットする榛名は、更衣室にやって来た響の声を聴く。

 響は当時、オーバーホールが完了したての艤装が調整中で最後の出撃に同行できなかったとは、後に榛名が本人から聞くことになる話だ。

 

「時間稼ぎどころか沈むことになる可能性の方が高いとわかっていて、それでもなお、帰って来ようとしていたのか。それとも、いずれ鎮守府が再稼働する可能性に賭けていたのか……」

 

 今となってはもうわからないこと、と言うわけではないらしいとは響談。

 

「補完艤装の方に音声記録が残っているんだ。ほんの10秒くらいのね。劣化が酷くて一度再生したらもう二度と聞くことが出来ないから、まだ誰も再生して聞いてはいないんだ」

 

 榛名はカーテンを開けて、そこで各々立ったり座ったりの姿で待ち受けていた艦娘たちを見る。

 夕張たちと同じオレンジ色のツナギ姿の響が片手を上げて軽く挨拶するのに応じ、しんみりした顔が徐々に輝いてゆく清霜を経由して、視線の行きつく先は天津風だ。

 問うのは、何故、未だに誰も彼女の声を聴こうとしないのかだ。

 その問いを向けられた先、天津風は、困った様子で、一足先に更衣室を後にする。

 

「聞こうと思えば出来るのよ。本来は艤装と同期したときに再生されるようになっているもので、設定弄って、レコーダーだけ取り出すことだって可能なの。でも、しない。したくない。出来ない。怖いから……」

 

 背を向けて、振り返らずの言葉には、どこか反論を許さない響きがあった。

 天津風も未だに割り切れないものがあるのだなと、榛名は自らのことのように理解する。

 仲間と共に出撃して、自分だけが生き残って。

 そんなことは日常茶飯事だった。有馬艦隊に居た時だけではない。

 しかし、どれほど多くの別れを経ても、どうしてもこれだけは“慣れる”ことが出来ないのだ。

 

「艤装と同期する榛名は、たぶん比叡の声を聞くことになると思う。ごめんね……」

 

 その謝罪は、故人の言葉を榛名にだけ背負わせてしまうからだろうか。

 

 

 ○

 

 

「……ある人が、言っていました」

 

 艤装の同期準備の最中、榛名は思い出したようにそう告げる。

 その言葉を聞く者はいない。夕張と天津風は計器類の最終確認でこの場を離れている。自分に対して語りかける言葉だ。

 

「いつだって人は、亡き者の言葉に縛られる、と……」

 

 遺言、今際の言葉は、聞いた者の人生を、その言葉によって縛り続ける。

 「だから自分は、そんなものを残さないように生きるのさ」と、そう笑って告げた彼は、しかし自身が物悲しそうな顔をしていたことに気付いていない様子だった。

 榛名自身も経験はある。それだけ多くの戦場を駆けてきたのだ。仲間の最後を看取ったことも、後から遺言を受け取ったことも一度や二度ではない。

 この鎮守府においては、暁型の姉妹たちが老提督からの遺言を託されているし、漣がかつて居た同名艦の願いを受け継いでいる。

 他の艦娘にも、特に島生まれではない者たちには、それなりに経験があるだろう。敵の目の前にいる限り、そう言った言葉を得ることは避けられない。

 そうなった時、無邪気に笑う彼女たちがどうなってしまうのか。榛名はその想像を、頭を振って断ち切る。

 

 同期が始まる。

 補完艤装との同期も同時に行うため、要する時間は果てしないだろうと、事前に説明を受けている。

 微睡、足元が揺らいで、ゆっくりと底へと落ちてゆく感触を全身に覚えながら、榛名は異音を耳にする。

 蓄音機の針が落とされたかのような独特の音は、しばらくのあいだ無音を再生し続けたが、その最後の方。微かにかすれるような声を、榛名は確かに聞いた。

 

 “お願い、みんなを守って”

 

 かつてこの島に居て、もういなくなってしまった姉艦の声。

 榛名は顔を悲痛に歪ませて、そして泣き笑い。

 比叡が、この音声を誰にも聞かせたくなかったであろうことが、わかってしまったのだ。

 彼女の言葉、その願いに嘘偽りはないのだろう。

 だからこそ、聞いた者の行く末を縛り付けてしまう。

 榛名は届いた願いの声に応えるつもりだ。

 自分の姉艦からの時間を超えたお願いだ。果たさずに居られようものか。

 

 それに、艦娘に対して“守って”と告げる言葉は、なんとも的確過ぎた。

 自分たちを構成する一部が、かつて守れなかったことへの悲嘆を、確かに含んでいるのだから。

 特に、半ばで果てず、終わりを目の当たりにした榛名にとって、これ以上の言葉はない。

 そのすべてを追体験するべく、長い白昼夢が始まった。

 

 

 



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13話:水無月島鎮守府の長い一日②

 密閉された空間に居ても外気を肌で感じ取ることが出来るというのは、やはり特殊な感覚なのだろうなと、駆逐艦・叢雲は“隼”の操舵室でそんなことを思案していた。

 超過艤装としての“隼”を操舵するのはいとも簡単だ。自らの艤装を中継して“隼”の管制システムに同期、意志ひとつで各機能を展開する。ただそれだけ。

 自らの肉体が、素肌は鋼に、心臓は機関に置き換わった感覚というものは、確かに大昔艦艇であった艦娘でなければ受け入れがたい感触だろう。

 以前、艤装状態で敵支配海域を彷徨っていた夕張が艦の側へ引きずり込まれて人間性を喪失していったという話を聞いて、“隼”との同期など大丈夫なのかと恐怖していた頃が懐かしい。

 実体験してみればどうと言うことはなくなった。ただ長期間同期状態になければ良いのだなとわかったからには、その役割を積極的に買って出るようになった。

 こうして超過艤装と同期して人以外の感覚と感触を得ている間は、少しばかりそういった自分の弱さから遠ざかることが出来るのだと、そうした錯覚に浸れるからだ。

 

 人の姿と艦の記憶を得て生まれた己は、どういうわけかデフォルトの叢雲よりは精神的に不安定な傾向にあるらしい。

 深海棲艦から奪取した艤装核を建造に用いた故の変調かと最初は疑ったものだが、聞けばこうした誤差はかなりの症例があるのだとか。

 単に自分が他の個体より気弱なだけだと知って、安心したし、悔しくも思った。そもそも他の皆がしっかりし過ぎなのだ。

 何故自分だけこんなに脆弱なのだ。そんなことを四六時中考えている時期もあったが、今はそればかりではいられなくなっている。

 第三艦隊の面々が、そんな不毛な時間を与えてはくれないのだ。

 

 操舵室の後部、艦娘たちの待機スペースとなっている部屋は、いつも通りに騒がしい。

 普段は漣が第四艦隊の方の操舵を担当しているが、今回は浜風がその役割を担当しているせいもあって、ピンク色が二乗で煩いのだ。

 はしゃぎ回る桃色一号と二号を熊野や初春も時折手刀や扇子で小突いて窘めるが、今は2隻とも将棋盤に意識が集中しているせいか、いつものようなキレがない。

 初春はともかく、熊野は集中すると周りが見えなくなる性質なので、漣と卯月が後ろ髪を三つ編みにしていてもまったく気付く気配がない。それに気を取られた初春が笑いを堪えて盤面から注意を逸らしてしまい、結果詰めを誤るのもいつものこと。

 「ああ! 妾の穴熊があ! 1枚1枚脱がされてゆく……!」と上がる悲鳴を背中に、穴熊が破られるなど、どれだけのへまをやらかしたのかと、叢雲は大きなため息をつく。

 

 水無月島鎮守府を出撃してまだ30分程度。最初の予定ポイントまではもう少し時間がかかる。

 操舵室の壁に掛かった地図にちらりと目をやり、改めてルートを確認する。羅針盤が働いているので航路を違えることはないだろうが、念のためだ。

 予定されたポイントは3ヵ所。海軍本部とのやり取りで、その近辺が安全にコンテナが流れ着くだろうと推測された場所だ。

 支配海域外から投下された物資は、そのすべてが水無月島周辺まで到達するわけではない。海流が完全に停止したこの環境下では、水上を行く物体は慣性の赴くままに緩やかに動く。

 もしも付近で艦隊戦などあれば、その余波で物資があらぬ方向へ流れてしまう可能性の方が高いのだ。

 敵支配海域と言うだけあって、敵艦隊も単艦から艦隊までかなりの数がこの海域を行き来している。そんな中で水無月島に物資が流れ着くように計算するのは、どれだけの演算を必要とするのか、叢雲は考えたくもない。

 これも以前、夕張が水上の物資の流れを計算しようとして断念していたので、艦娘1隻やそこらでどうにか出来る問題で無いのだろう。

 ただ、安心を得ることがあるとすれば、そうした高度な演算能力が海軍本部には健在で、そしてこちらを支援してくれる動きが生じていることだ。

 確かに「よくもこんな、どん底の環境に生み出してくれて」と提督をなじる気持ちがなかったわけではない。実際に口に出したことも一度や二度では済まないくらいには記憶にある。その度に、誰も見ていないところで泣いて謝ったことも。

 しかし、内も外もが連携して、この環境下から何かを起こそうと考え動き出している現状が、叢雲はどうしても嫌いになれないのだ。

 無論、向こうには利害だなんだと面倒くさい事情もあるだろうし、組織的にも決して一枚岩ではないと高雄たちか伝え聞いて知っている。

 それでも、「なんか、良いなあ。そういうの」と、叢雲は思い、ひそかに笑むのだ。

 

 

 三号艇の隣りを並走する四号艇から連絡が入ったのは、最初の予定ポイントへ到着しようかと言った時だ。

 祥鳳が発行信号でこちらの注意を引き、手信号にて改めて連絡する。その内容に、叢雲は慌てて“隼”の速度を絞るように思念を制御する。

 敵の航空機、その機影を千歳の艤装妖精が発見し、向こうは艦載機の発艦準備に入ったというのだ。

 背後の船室からどたどたとやってくる面々に早口で説明した叢雲は、安全が確保されるまで船内で待機せよと熊野が声を発するのを聞く。

 

「叢雲はそのまま“隼”の操舵に集中してください。あとの皆は艤装を装着して側面出撃口へ。私も補完艤装込みで後部出撃口で待機いたしますわ」

 

 各々即座に持ち場へと散ってゆく中、叢雲は窓の外、四号艇の後部ハッチより補完艤装状態で抜錨した千歳が、速度を上げて艦載機を発艦させて行く様を、驚きと疑問を詰めた視線で見送る。

 1/70スケールの全通甲板式空母。その艦橋部分がごっそりと右後方へスライドして、そうして空いたスペースに千歳本人が収まって艤装と接続している体勢だ。最低限の速度を得るための巡航形態、艦載機を発艦させるだけならばこの形態でも事足りるというわけだ。

 次々と甲板から飛び立ってゆくのは艦上偵察機の彩雲だ。腹に増層を抱えた高性能機は敵影向けて殺到し、あっという間に視界から姿を消す。

 艤装の見張り妖精の目を借りなければ目視することも満足に出来ない故に、敵機の件は千歳たちに任せることにする。

 こちらはこちらで、やることがあるのだ。

 

 “隼”側面の出撃口が開放される。命綱代わりのアンカーをパージして、初春たちが出撃したのだ。

 兵装は対空対潜強化の乙丁統合パック。ソナー爆雷と対空機銃、そして長10センチ砲と高射装置でワンセットだ。

 緊急出撃時に判断を迷わないようにと、いくつかの兵装をパッケージで用意しておけるのは装備まわりが比較的小型である故の強みだが、軽巡以上の艦種のように補完艤装が運用出来ればいちいち兵装転換する手間もかからないのになと、ため息が出る。

 駆逐艦の補完艤装は電が以前使用していたものを基礎として試作品を構築しているが、量産を見送られたこともあり、実装は難しいようだ。

 ただ、それでも試作の雛型を動かせるまでにこぎ着ける当たり、夕張が海軍本部の工廠施設に出入りしていたというのは本当なのだろう。

 そんな夕張がうちの鎮守府に居て、これでそれ専用の設備さえ整っていれば、暁たちの艤装をオーバーホールして完全に復帰することも可能かもしれないというのに……。

 そう考えてしまうのは、まだまだ自分たちだけでの任務は不安なのだなと、叢雲は自分の臆病を改めて自覚した。

 

 速度を落とせば敵潜水級に狙い撃ちされるリスクが発生するため、“隼”の速度をいつでも上げられるくらいにまで減速し、出撃した駆逐艦娘たちが対潜哨戒を開始する。

 向こうの四号艇は浜風が操舵しているので、その分も含めての哨戒活動だ。

 こういう事態に備えて、第四艦隊の方にも何隻か駆逐艦を配属させるべきだと進言してはいるが、今から建造を行い実戦に出るまでには、もう数ヵ月の時を要するだろうことは想像に難くない。ひと月前に建造された酒匂がようやく実戦に出ようかと言う頃だ。ここに飛龍の訓練と榛名のリハビリとが重なるとなれば、今から建造を始めても遅くはないはずだ。

 敵から奪取した艤装核のストック自体は幾つかあるはずだし、駆逐艦の手は幾つあっても足りないというのは水無月島鎮守府の共通認識だ。今回の任務から帰投したら改めて提督に進言して見てもいいだろうとひとり物思いにふける叢雲は、減速する“隼”の前に躍り出た卯月が「潜水艦はー、いないぴょーん」と手信号するの姿に苦笑して、「いいから前に出るな」と返す。

 卯月も妹分が出来ればもっと落ち着くだろうかと考え、一緒になって悪戯三昧になる姿が思い浮かんで苦笑してしまう。叢雲自身も同じ吹雪型の妹分がいれば、自分ももっとしっかりするのだろうかと考える。否、きっと今より無理をして取り繕ったりするだろうなと、悪い方へ思考するのはやはりいつもの臆病か。

 

「熊野、準備できましたわ。後部ハッチ展開、お願いいたします」

 

 補完艤装のチェックを終えた熊野から伝声管を通じて指示が入り、叢雲は“隼”の後部ハッチを展開する。

 左右に開いた後部ハッチより滑り落ちるようにして、航空巡洋艦型の補完艤装を纏った熊野が抜錨する。

 艦橋部及び煙突部を背面に装着して、右舷側に主砲搭載の前部甲板、左舷側には航空機発艦用のカタパルトを搭載した後部甲板、そして喫水線以下の装甲は分割変形して脚部艤装と連結。速度を抑え小回りを重視した高機動形態だ。

 三号艇と四号艇の間を縫うように航行する熊野は左舷側カタパルトを展開、しかしカタパルト自体は使用せず、甲板上で待機していた回転翼機を発艦させる。

 次々に飛び立ったカ号観測機たちは対潜哨戒に参加。駆逐艦たちに並走して上空へと昇ってゆく様はまるで蜻蛉のようだなと叢雲は思う。蜻蛉の実物を見たことはないが。

 カ号が提督のお気に入りと聞いて以来ずっと重用している熊野にも困りものだ。

 どこがそんなに気に入ったのだと以前提督に問うたところ、正面からの面構えがどことなく間抜けな顔に見えて親近感を覚えるのだとか。まあ確かにと、その場に居合わせた皆々が納得の色を浮かべた直後、何故か二式大艇を担いできた秋津洲にぶっ叩かれていたが。

 四号艇の向こうに見える龍鳳や祥鳳も、千歳同様の補完艤装を展開、その飛行甲板より固定翼機を発艦させて対潜哨戒に加わっている。

 これでようやく初期展開状態と言ったところだが、もうすでに目的地周辺に到達する頃だ。

 “隼”の操舵室、前方の窓の向こうには、水上を漂うコンテナの群れが小さく見え始めていた。

 

 

 ○

 

 

 コンテナの数は全部で4つ。どれも、長方形の40フィートタイプだ。

 外観に印字されたロゴは艤装開発を行なっている企業連合のものではなく、どうやら海外の一般企業のもの。

 水無月島へ向けて投下されたものならば、浸水や腐食を防ぎ海上を進むようにとフロート状の機構を有しているはずだが、これらにはそれが見られない。

 と言うことはだ、と。叢雲は操舵室に留まり腕組み足組みしつつ、コンテナの正体を推測する。

 恐らく、このコンテナ群は計画的に投下されたものではなく、商船などが襲われて投棄されたものだろう。

 水無月島行きの措置が成されていないことと、いくつかのコンテナに損壊が見られることがその根拠だろうか。

 まったく、護衛の艦娘は何をしているのだと愚痴りたいところだが、そう言った愚痴こそいずれ自分に返るものだと戒める。

 今のところ電探にもソナーにも敵影は無し、初春たちはコンテナとの距離を保ちつつ外周を回って目視で観察している。

 散乱した品が危険物かどうかの判断も必要だし、何より負傷した人間や艦娘が付近に居る可能性もあるのだ。

 第二艦隊の時雨などは、水無月島に救助されるまでの5年間、こうした投棄コンテナや浮島で生存するための物資を確保していたとのことで、そう言った妄執に取り付かれた艦娘がコンテナで息を潜めていてもおかしくはない。

 あるいは、コンテナの中に敵艦がぎっしり詰まって息を潜めているかも、などとは、臆病ゆえの妄想だろうか。

 破損して生じた亀裂の向こう、遠目に見る暗闇の奥に、赤い目の姿を幻視してしまい、慌てて頭を振り、目頭を押さえる。

 

 敵機の追跡に出た彩雲も未だ戻らないこの状況、出来ることは目標の観察と、今後の方針を判断することだ。

 自らも艤装を装着して海上に降り立った叢雲は、千歳が顎に手を当てて難しい顔をしている姿を見る。

 悩んでいるのは、鎮守府へ帰投するタイミングだろう。こうした漂流物回収の折りに敵機と遭遇してしまった場合、可能な限り交戦は避けて水無月島へ帰投するようにと、あらかじめ取り決めている。

 無線封鎖しているので直接電信は入れず、敵機を追跡したのと同様に彩雲を放って鎮守府に情報を知らせるのが今後の流れだ。

 

「そもそも、なんで敵機追跡しちゃったのよ?」

 

 敵機の存在に気付いた時点で、こちらの機関を停止。迷彩機能でやり過ごす手もあったはずだ。

 しかし、千歳とてその考えに至らなかったわけではないだろう。何か懸念があるのだ。

 

「……敵機の挙動にちょっと違和を感じちゃって。なんと言うか、こちらの存在には気付いているだろうなとは、思ったのだけれど、離脱のタイミングがおかしくて」

 

 どういうことかと疑問する叢雲に応えたのは、こちらも表情を怪訝そうなものにした祥鳳だ。

 

「偵察機の性質上、敵艦を発見して艦種と隻数、進行方向を確認したら、すぐに母艦へ帰投して通達しようとするものです。しかし、あの敵機は千歳が出撃して彩雲を発艦させるまで、こちらとの距離を保っていました。まるで……」

 

 こちらが同じく艦載機を発艦させて、敵を追うのを待っていたかのようだ、と。

 馬鹿なと、叢雲は口ではそう発しながらも、その可能性を笑い捨てることが出来なかった。

 では、敵はこちらが偵察機を差し向けるのを待っていたというのか。いったい何のために。

 わざわざ敵の本体にまで連れて行こうというつもりではあるまい。ならば、偵察機を引き付けてどうしようというのだ。

 黙して唸る叢雲の耳に、仲間たちの話が聞こえてくる。龍鳳と浜風だ。

 

「このコンテナを鎮守府に曳航するかどうかも決めないといけませんね。フロートが無いのでちょっと手間になってしまいますが……。浜風、彩雲が戻るまでに作業は終わりますか?」

「どうでしょう。快速の彩雲ならば、敵機の1機や2機、すぐに追い付き撃墜して帰投するかなとは思うので、もっと時間が欲しいところですが……」

 

 コンテナの方を見ながらのふたりの会話。その様子を、叢雲は息を詰めて見つめていた。

 あれ、何かがおかしいぞと。焦燥感のようなものがそう告げているが、これはいつもの臆病から来る妄想ではないか。

 ただの悪い癖だと、そう証明してくれるものが欲しくて千歳を見やれば、しかし機動部隊旗艦の表情は険しいままだ。

 視線を叢雲の方に向けて、その悪い予感を肯定するかのように頷いて見せるのだ。

 彩雲がまだ帰投していない。快足を誇る彩雲が追い付けないとなれば、敵機も相当のものだ。それなりに練度の高い敵空母が控えている可能性が高くなる。

 

「そうだ、空母だ……」

 

 何気なく呟いた叢雲は、自らの発した言葉にぞっと寒気を覚えた。

 叢雲は艦娘として建造されて以来今日まで、敵空母の姿を見たことがない。

 

 9ヵ月前、水無月島鎮守府が潜水棲姫を撃沈して支配海域を一時解除した交戦があった。

 空母・千歳と祥鳳の2隻は、その時に撃破した敵の艤装核より建造されている。

 つまりはそれ以降、敵空母級を撃破していないということになる。敵艦隊に空母が編成されていなかったのだ。

 単にこの海域に空母系の敵艦隊が数少なかった、などとは、口が裂けても言えるものではない。

 ハワイ諸島を含む中部海域には、日米双方の航空母艦の亡骸が眠っているのだ。空母級の敵艦が少ない、などあり得るだろうか。

 もしも、敵艦隊を統率するものが、空母だけを1箇所に集結させているのだとしたら。

 ほぼ同じタイミングでその考えに至ったのだろう、千歳が鎮守府への帰投を提案する。

 大事を取って逃げ帰る。臆病者と笑われても構わない。もしもこの嫌な予感がすべて的中してしまったら……。

 

「帰投しますわー! 皆さーん、帰りますわよー!」

 

 熊野が周囲を警戒していた初春たちに声を掛ける。

 緩い速度でコンテナの周辺を回っていた駆逐艦たちが手信号で了解の意を示し、こちらの物々しい雰囲気に警戒を強めながら“隼”の方へと戻ってくる。

 その駆逐艦たちの背後、叢雲は先ほどの妄想と同じ光景を見た。

 自分たちから見て一番手前側に位置する破損したコンテナ。その生じた亀裂から、白い細腕がぬるりと突き出されたのだ。

 その手にあるのは深海棲艦が体内で精製する疑似魚雷だ。

 

「後方警戒! 回避しなさい!」

 

 叫び、叢雲は即座に高速巡航形態に移行して、帰投中の駆逐艦たちに向けて吶喊した。

 初春たちはすぐに叢雲の訴え通りに後方を警戒、水中を行く魚雷の雷跡を視認、最低限の回避軌道で白い泡の線を見送った。

 魚雷と入れ違いに叢雲が初春たちの前へと躍り出る。背部艤装よりアームで接続された砲塔は既に展開済みで、後方の熊野がタイミングを合わせて砲撃をコンテナに叩き込む。

 手前のコンテナにふたつ、みっつと弾着し、あっさりと外装を吹き飛ばすと、そこには敵の姿があった。

 深海棲艦。その外見、艦種はおそらく潜水級だ。

 コンテナの中に潜み物音ひとつ立てずに艦娘たちが接近するのを待っていたというのか。

 叢雲は自らの考えにおかしいと心中で叫びながら、途切れる間もなく砲撃を叩き込んでゆく。

 普段は海中に潜む潜水級だが、コンテナ上で身動きが取れなくなっているところを攻めるならば簡単だ。

 速度と質量の雨を叩き込まれた敵艦は瞬く間に圧潰。砲弾や破片が擦過して生じた火花が敵本体から流れ出た疑似燃料に引火して爆発に至る。

 その瞬間だ。突如、パッシブソナーに無数の反応が生じたのだ。

 

「こやつ……! 否、こやつら、コンテナの底に張り付いておったのか!?」

 

 動向を見守っていた初春が背部艤装の爆雷ストッカーを展開する。

 同様に爆雷を用意する叢雲は、ならばこの敵は水無月島の艦娘たちがコンテナを回収するのを知っていたということになるぞと歯を噛みしめる。

 遠巻きに観察されていたことに驚き半分納得半分だが、腑に落ちない点はまだあった。

 敵は何故、このタイミングで仕掛けてきた。

 わざわざコンテナに潜り込み、あるいは底に張り付いて、上手くすれば鎮守府を急襲出来ただろうにと考え、すぐに違うとその考えを否定する。

 潜水級、それも現状、ざっと二個艦隊分の数だ。奇襲こそ成功するが、それだけだ。鎮守府近海は浅瀬で、彼女たちの行動範囲は大幅に制限される。すぐに緊急出撃した対潜装備の艦娘たちに掃討されるのが落ちだろう。

 ならば、最初からここで仕掛ける気だったのか。

 海中を行く潜水級を初春と挟み込むように追った叢雲は、海中の敵が扇状に散開する動作を見る。

 爆雷の檻に囚われないために僚艦との感覚を開けたのかと思ったが、その行動の意味はすぐに明かされた。

 潜水級たちが次々と魚雷を発射し、その行き先は艦娘たちではなかったのだ。

 即座に陣形を組み直した艦娘たちから大きく外れた魚雷の行き先は、投錨して停泊中だった“隼”。第一波が手前の三号艇に直撃し、爆発炎上。四号艇へと向かう魚雷は機銃で薙ぎ払われたが、潜水級たちはばらばらに動き、距離を取って雷撃を続行する動きだ。

 

「“隼”を狙うってことは、ここで私たちの足を挫くってこと……?」

 

 叢雲が思い出すのは、高雄が水無月島に救助された時の話だ。

 敵は孤立した艦娘に救難信号を発信させ、そうして救助にやって来た別の艦隊を強襲しようと試みていたらしい、という話。

 無線を傍受している可能性があるという敵、姿のわからない統率者の手先かと、足下に浮上してきた白い両手の間に、伸長展開した槍を突き込んだ。

 機雷除去を目的とした掃海具、その概念を流用した槍ではあるが、こうした近距離直下の敵に対応できるのがありがたい。

 高速巡航とまではいかずとも、それなりの速度が乗った状態での使用は、自らの負傷や欠損を招くためご法度。こんな状況でなければ使い出がないと日々思っていたが、いざその状況になってみればこれほど心強いものはない。

 

「“隼”を放棄! 敵潜水級の殲滅に専念してください!」

 

 熊野が指示し、旗下の叢雲たちは即座にその通りを実行する。

 “隼”2隻の喪失は痛いが、熊野がドラム缶型燃料カートリッジを甲板に満載しているため、燃料面での懸念は薄い。

 周囲に潜む敵潜水級を急ぎ掃討して、燃料補充の後、高速巡航形態で水無月島に帰投するのだ。急を知らせる彩雲は既に千歳が発艦させている。

 無線封鎖状態のままこの状況を切り抜けるにはそれしかないかと、最後の1隻に槍を突き立て動きを止めた叢雲は、各々が周囲の状況確認のためにコンテナや炎上する三号艇から距離を取る姿を見る。

 

 臆病だ臆病だと自分を責めててきたが、いざという時こうして動くことが出来たのは幸いだった。

 こちらに向かって大きく手を振る卯月に溜息交じりで手を振りかえしていた叢雲は、視線の先、その卯月が目を剥き急いでこちらに駆けつけてくる姿を見る。

 血相変えて、お願いだから間に合ってくれと言わんばかりの顔。叢雲の視線は、ふと自らの足元に落ちた。

 沈みゆく敵潜水級と場所を交代するように、複数個の何かが海上に顔を出したのだ。

 叢雲はそれが機雷であると直感する。深海棲艦、自立稼働型の生態機雷だ。

 白く細長い触腕のようなものが叢雲の脚部艤装に絡み付き、発光部が淡い青白から鮮烈な赤に転ずる。

 「ひぃ」と悲鳴を呑み込んだ直後、叢雲の足元で生態機雷が炸裂した。

 

 

 ○

 

 

 突如上がった轟音に、熊野が息を詰めてそちらを向いた瞬間、同時にある動きが生じた。

 砲雷撃の直撃しなかったコンテナから、何かが次々と海上に放たれたのだ。

 黒い球状の本体に白く細長い触腕がいくつか生えた姿。敵の機雷だと判断し、機銃を展開しつつ、先程の轟音はそれによるものかと歯噛みした瞬間、背後から初春の鋭い声が走る。

 

「熊野! 足元じゃ!」

 

 咄嗟に仮想スクリューを急回転させ、バラスト水を強制排出。艤装回りの海面を押し出そうとしたが、遅かった。

 脚部艤装と連結した補完艤装に纏わり着いた生態機雷が炸裂する。寸前のところで補完艤装を解除し脱出した熊野だったが、内部タンクや積載していたカートリッジの燃料に引火。誘爆が連鎖して爆炎と破片が舞い上がる。

 敵はこちらの足を挫き、絡め取ってきた。件の統率者とやらは絶対に性格が悪いに違いないと悪態突いた熊野は、海上に仰向けに倒れた叢雲を抱き起す卯月の姿を目の当たりにする。

 

「……うそ、ですわ」

 

 体から力が抜けて思わず動きを止めてしまった熊野は、初春に背中をど突かれてようやく我に返る。

 直後、背後の初春が爆炎に包まれた。

 破片と爆炎に全身を炙られ、爆発の余波で海面に倒れ込んだ熊野は、炎を纏って倒れ込んだ初春の姿に言葉を失う。

 艤装の消火機能が働いて早期に火は消し止められたが、初春は意識を失ったまま目覚めることはない。

 叢雲も初春も、これまで熊野の背中を支えてきた2隻だ。その2隻が瞬く間にこうなってしまったことを、現実として受け止められない。

 体を起こしたものの立ち上がることが出来ずに座り込んでしまった熊野は、自分がもう何も考えられなくなってしまったのだと気付くことも出来ない。

 目の前の光景に加えて、艦艇時代の記憶までがフラッシュバックを起こし、取るべきだった最善の手段をと、その手は通信器に伸びた。

 

 

 



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14話:水無月島鎮守府の長い一日③

 任務中の第三、第四艦隊より無線封鎖を破っての通信が入った直後から、水無月島鎮守府の内部は即座に動き出していた。

 “隼”一号艇と二号艇のアイドリングが始まり、重巡級以上の補完艤装が急ぎ搬入されてゆく。

 物々しい雰囲気。水無月島の空気としては稀な部類だなと、二号艇の操舵室で時雨は息を吐いた。

 通信によると、敵が漂流するコンテナ内に潜伏し待ち伏せして、“隼”1隻を喪失。叢雲と初春が大破だ。

 敵潜水級は掃討したものの、今度は敵側の生態機雷がばらまかれ足止め。取り乱した熊野が提督を呼ぶ声を最後に通信は途切れている。

 仲間の負傷が確実となった上に、敵機の追撃後に通信断絶だ。逸るのも無理はない。

 かく言う時雨も、いつもよりも余計に体に力が入っているのを自覚している。

 これほどの切迫した空気は、自らの仇討に決着が付いた3ヵ月前以来だ。鬱屈した状態から回復して心穏やかに日々を過ごしていたものが、再び当時の空気に逆戻りしてしまった。

 構うものかと、そう思う。仲間を救助し、敵を排除し、島に帰れば何もかも元通りだ。榛名と飛龍の歓迎会も疎らだったものが、今度は正式なものを準備している。そうしてまた、ここでの日々を再開するのだ。

 

 二号艇に第二艦隊の面々が乗り込むのを確認して、時雨は“隼”を出撃させた。

 見送りに来ていたまるゆや飛龍は不安そうな顔で手を振っていたが、その隣の暁は仏頂面だ。

 ああ、これは後々自分も出ると言いだすだろうなと思い至った時雨は、お願いだから止めてくれと制止する気持ちと、それでも頼もしいと思う気持ちを同時に得ていた。

 暁の深海棲艦化の影響は、時雨も目の当たりにしたことがある。確かに強力無比な駆動ではあったが、それは同じ駆逐艦として恐怖と不安を覚えるに難くない光景だった。

 あれはもはや、駆逐艦と言う艦種の括りに縛り付けられたものではない。まったく別の何かだ。

 見ている側が恐れる程の有り様なのだから、変質した当人こそ気が気ではないはずだ。

 頼もしくはあるが、やはり出撃してほしくはない。

 そしてそれは、止む無く救助を求めた彼女たちとて同様だったはずだ。

 

「あ、もう陸攻が出てる。秋津洲ね」

 

 海上へ出てすぐ、窓の外を見た夕張が呟いた。

 一号艇と二号艇に軽く挨拶するように掠めて飛んでゆく陸攻たちは、自分たちよりも早く現場に駆けつけてくれるだろう。

 その陸攻たちの背後を急速に追いかけてゆくのは、二式飛行艇。島の裏手である第二出撃場から先んじて発艦したもの。秋津洲の仕事だ。

 大艇の発艦を見届けてから飛行場までエレベーターで上がり、陸攻の管制に着いたのだろう。

 これから提督が身動きの取れない状態になるのだから、いつも以上に張り切っているのだろうと、時雨は困った様な笑みを浮かべた。

 “艦隊司令部”をこの局面で投入するなど博打ではないだろうかと、そう言った懸念も大きい。しかし、だからと言って“隼”に乗り込まれるのはもっと困るので仕方なしか、というのが艦隊の総意だ。

 

 

 偵察を行っていた利根の水偵から速報が入る。

 “隼”の進路上、戦艦級含む敵の二個艦隊が接近中だというのだ。

 

「別働隊? 救援に向かう私たちを叩く狙いでしょうか……」

 

 高雄の言に、時雨はすぐに頷くことが出来なかった。

 確かに、極地突入作戦でこの海域に入った装甲空母部隊は通信の後に強襲を受けているし、散り散りになった味方の救難信号に敵艦隊が引き寄せられたことも確かだ。

 しかし、このやり方はどうなのだ。

 

「……高雄。キミが救助された時のことを覚えているかい?」

 

 時雨の、背後の仲間たちへ視線を向けずの問いに、第二艦隊の面々はしばし動きを止めて沈黙した。

 視線を集める形となった高雄が咳払いひとつして、「ええ、覚えていますわ」と声をつくる。

 

「私の場合、実際に救難信号を発したわけではありませんでしたが、周辺を哨戒していた敵艦隊に捕捉されてしまった、という状況だったはずです」

「そうだね。水無月島の皆が偶然哨戒中だったから、高雄は一命を取り留めた。けれど、この状況は?」

 

 時雨の発現の意図が理解できなかったのか、高雄が困った様に皆を見やる。

 そこで「なるほど」と呟きを発したのは、連装砲くんのモニターに別の画像を展開していた天津風だ。

 

「時雨が言いたいのは、何故救援に駆け付けた艦隊の行先に待ち伏せていたのか、ってことでしょ? なぜ、救難信号を発した第三・第四艦隊の方に合流してトドメを差さなかったのか」

 

 その場合、考えられる意図はふたつあると、天津風は皆を見て声をつくる。

 

「ひとつ、高雄が言ったように救援に来た艦隊を強襲するのが主眼だったこと。ふたつ、ならば、先に救難信号を発した第三・第四艦隊に対しては、その場に居合わせた戦力だけで充分と判断されたか、もしくは全て撃沈する必要がなかったか」

「あれあれ? ってことは、青葉たちの方が本命だったってことですかね? でもそうすると……」

「二個艦隊で、どうにかなると思っているのかな」

 

 響が怪訝そうな顔で言うのは、自分たち第一・第二艦隊の戦力ならば、例え戦艦級を要する二個艦隊であっても遅れを取ることがないと確信しているからだ。

 もしも待ち伏せを仕掛け、こちらの戦力をおびき出して叩くという意図があるのならば、本命となるこちらにはもっと戦力を配置していないとおかしい、と言うのが時雨の言だ。

 

「それとも、最初に二個艦隊で私たちを足止めして、それから敵の方も救援を呼ぶんじゃあ? わざわざ待ち伏せをするんだから、こちらの通りそうなルートに戦力を分散させて置いて、私たちと接敵した艦隊が救援を呼んでって……」

 

 夕張の推測はしかし、天津風が難色を示す。

 

「それはあるかもしれないけれど、向こうが艦隊同士で通信を取っている痕跡は、現状では確認できていないわ。連装砲くんたちの“耳”には敵の通信らしき波形は観測されていないの。これ、最初からこの配置で行くってことをあらかじめ決めていたってことよ。そして現状で敵同士の通信の痕跡がないってことは、熊野たちの方には敵の援軍は向かっていないってこと」

 

 最初から待ち伏せは二個艦隊。熊野たちのところも同様で、現状ではそこに敵の増援は向かってはいない。

 

「確かに、致命打を与えることは出来るだろうけれど、でもそれだけだ。手ぬるいんだよ。中途半端過ぎる。僕が敵なら、もっと徹底的にやるね」

「待ち伏せ部隊の数を揃えるとか、ですか?」

「うん。最低でも戦力が三倍以上になるように配置するかな。第三・第四の方を討つにしても、こちらを討つにしても……」

 

 仲間の救援に向かうとなれば、戦力はそれなりの規模を整えるものだ。

 敵に潜水級がいると報告があったため、念のため対潜装備は充実させている。

 そこに戦艦級を有する二個艦隊をぶつけて艦隊戦に持ち込めば、対潜特化の駆逐艦たちは満足な働きが出来なくなる。

 そこまでは「確かに」と、時雨も無条件で頷かんばかりだった。

 しかし、それにしては待ち伏せが少なすぎる。

 今のところ、利根の水偵からは他の敵艦隊の動きは報告されていないし、敵艦隊同士で通信している痕跡もない。

 件の統率者が用意した戦力がこれだけだと言うならば拍子抜けであり、即座に仲間の下へ駆けつけることが出来るという希望に変わるだろう。

 戦力を分散させて、高雄をはじめとする重巡たちが直接ぶつかって、駆逐・軽巡は対潜装備で救援に向かってもまだお釣りがくる。

 

「……もしかして、それを狙っている?」

 

 救援に出た第一・第二艦隊を、さらに分断させようという意図、その可能性。

 判断するための情報が少なすぎるなと頭を振った時雨は、一号艇と発光信号でやり取りしていた夕張が「敵艦隊を迂回して救援に向かう」との連絡を受け取り、先行した一号艇を追って舵を切った。

 

 

 ○

 

 

 敵はこちらの行動を遅延させるのが目的なのかと、時雨は厳しい操舵に冷や汗をかきつつ喉の奥で唸った。

 航路上の敵艦隊を迂回して加速をかけた矢先に、突如眼前に渦潮が発生したのだ。この海域で渦潮が自然に発生するなど有り得ない。

 敵の首級がまだ、周辺に潜んでいるのだ。

 

「推定姫・鬼級が最低1隻は確定。そいつが統率者でなければ、2隻で確定かな?」

 

 響が呟くように言うが、誰も頷きすら返さない。

 各々思考し、判断する時間なのだ。次のこちらの判断はどう下し、どう立ち回るか。そして、敵の次の手はなんだ。

 向こうの盤面、その全貌が見えない現状では、どこにどれだけ戦力を投入すればいいのか、その判断材料が足りない。

 並走する一号艇、利根たちの水偵も未帰還の機体が出始めた。加えて先行した大艇や陸攻たちからの続報もない。速度的にはすでに目標地点に到着しているはずなのに。

 

「……かと言って、再び通信を行えば、敵にこちらの動きを察知される、か。確かにこの局面こそ、艦隊司令部の使いどころではありますが……」

 

 高雄が言葉を濁すのも無理はない。

 試験起動こそ幾度か行ってはいたが、此度は本番なのだ。いつもサポートに着いていた夕張や天津風がこちら側に来てしまっているので、付き添って作業しているのは電と間宮の2隻。艦隊司令部の起動確認を待っていては救援が間に合わなくなる可能性が高いとして、先んじて出撃した自分たちだが、こうして偵察機からの情報が入らなくなると判断が苦しくなる。

 それに、と。時雨は体に掛かる負担に眉をひそめる。この渦潮だ。敵の首級を無力化しなければ大きく足止めされたまま。渦潮を避け、あるいは脱している内に迂回したはずの敵艦隊に捕捉される恐れもある。

 

「優先順位を確認しようか」

 

 告げて、皆の注目を集めたのは響だ。

 帽子を目深に被り、人差し指を立てた姿。

 

「私たちの最優先は第三・第四艦隊の救援だ。そこに認識の相違はないね?」

 

 艦娘たちから同意が返るのを見て、響は頷く。

 響の提案は、あえて向こうの用意した障害に引っかかりに行くことだ。

 

「例えばこの状況。私たちは救援に向かい急いでいる。それを妨害する艦隊や障害を発生させるということは、考えられる意図は大まかにふたつ。私たち全員をここで足止め、第三・第四艦隊の方へ行ってほしくないのか。それとも、救援のための戦力をここで分散させたいのか」

 

 この渦潮、船体の大きな“隼”や重巡以上の補完艤装では抜け出すのに多量の燃料を食うことになるが、駆逐艦や軽巡程度のサイズならば左程無理せずに抜け出すことは可能だ。先を急ぐのならば、軽装な艦が先行するという判断を下すだろう。あくまでこの状況だけを見れば。

 

「そうして駆逐艦や軽巡を引きはがすと言うことは、やはり残った重量級に潜水級をぶつけてきますか」

「そして、分散して先行した駆逐・軽巡の方には戦艦級などの重量級か、空母系を当ててくるかもしれない」

 

 空母という単語が出て皆が息を飲んだ様を、時雨は同じ気持ちで見ていた。

 確かに時雨は、この海域で空母の姿を見ていない。9ヵ月前の一時解除の際には敵の編成に組み込まれていたのだというが、それ以降空母の姿を見なくなったのだと、響の言で確認は取れている。

 そうして弾き出された敵の意図。

 

「敵は水無月島の戦力を吐き出させて、鎮守府を空にして。そのうえで島を空襲するつもりなのかもしれない」

 

 そのための遅延かと、時雨は拳を固く握りしめる。

 ならば、水無月島の位置がすでに敵に知られている可能性がある。

 しかし、もしもそうだとしたら、この敵は随分と嫌らしいなと、時雨は顔を歪ませる。

 期間としては、最低でも半年は準備に費やしたはずだ。

 この支配海域で空母系の深海棲艦を集め、こちらの戦力を伺い計って。

 そして、そのうえで余力を引きずり出してから叩いて行こうとしているのだから。

 

「優先順位を再度確認するよ。確かに島への空襲に対して防護を固めるべきだとは思う。けれど私たちはもうこうして出撃してしまったし、仲間を見捨てて引き返すという選択肢は、最初から存在しない。別に、島を見捨てるなんて考えはないよ。予備隊として雷や酒匂が対空装備で構えているはずだし、雷電や飛燕の用意もある」

 

 だから、こそこのまま前に進むことを、響は高雄に進言する。

 判断を渋っていた高雄だったが、一号艇の方、阿武隈たちからも同様の提案がなされ、肩を竦めて笑んで見せた。その案で行くのだ。

 艦隊を再編成する。先行し救助へと向かう組に阿武隈旗下、夕雲型駆逐艦の3隻と、第二艦隊からは響と時雨が同行する。夕張と天津風はこのまま重巡たちの援護として“隼”に残ることを選択する。

 側面の出撃口に降りた夕張が対潜装備への換装を開始し、操舵室の窓の向こう、一号艇の側面出撃口から乙丁統合パックへと換装した朝霜たちが飛び出してゆくのを見ながら、さて自分はどうしたものかと時雨は思案する。

 先行する面子に自分も含まれているのだが、高速巡航能力を失った自分ではこの渦潮を脱することは困難を極める。

 さてどういうことかと皆に問えば、揃って一号艇の方を指さすものだから、なんとなく察してしまった。そっちに飛び移れと言うことだ。

 

「まったく、回りくどい物言いにしてしまったからと言って、こんな風に仕返ししなくても……」

 

 二号艇の操舵を天津風に任せ、艤装状態の時雨は並走し接舷した一号艇へと飛び移る。

 要は、一号艇を渦から脱して持っていけと言うことなのだ。

 敵はおそらく、“隼”2隻をここで置いてゆくだろうと想定していた可能性がある。ならば、1隻持っていければ艦娘たちの消耗を抑えることも出来、あるいは敵の計算を狂わせることが出来るかもしれない。

 しかし、“隼”の巨体で渦潮を脱出することは困難だ。超過艤装と同期して操舵する艦娘の負担は大きく、ならば確かに、自分の役目だなと時雨は笑んで一号艇の操舵室へと乗り込んだ。

 水無月島に拾われた頃から、ろくに戦えなくなってしまった体を何とかしようとして、いろいろ試したものだ。“隼”の操舵はその一環で、鎮守府の中では自分が一番うまく扱えると自信もある。

 それに、彼女たちがその役割を自分に任せるというのは信頼の証でもあるのだと時雨は思う。一度ならず二度くらいは彼女たちの信頼を裏切った身としては、これ以上の期待外れはさすがに御免だ。

 

 後部の待機室、時雨に向けて手を振った利根とプリンツが補完艤装と同期して後部ハッチから出撃する。

 “隼”を通じて得られる感触を持って2隻の離脱を確認し、時雨は機関に負荷をかけて渦から脱するために舵を切った。

 

 

 ○

 

 

「阿武隈ちゃんからの発行信号。周囲に目視できる敵影無し、だって」

 

 清霜の報告に了解の意を示した時雨は、1隻だけ“隼”の外で哨戒活動を行う阿武隈の姿に苦笑する。

 確かに警戒が必要な時間帯ではあるが、電探や見張り員は“隼”に登場していても効果を発揮してくれるため、一秒でも長く体を休ませて置くのが得策ではないかと思うのだ。

 しかし、緊急事態に対応するために先んじて外に出ていたいと言う気持ちがわらかないわけでもなく、やはり時雨としては困ったなと、そんな顔をせざるを得ない。

 困ったことと言えばもうひとつ。背後の待機室でいきなりお菓子食い始めた夕雲型の娘たちだろうか。

 

「……響もなに一緒になって食べてるの。余裕の表れ?」

「余裕ないところを見せてばかりだと指揮に関わるからね。旗艦がああして先行しているなら、二番艦は落ち着いてなきゃ」

 

 そうして「時雨も食べるかい?」と、問いと共に差し出されたチョコレートスティックを、上体を捻って背後へ向きながら口に食んだ。

 “隼”と同期した状態で物を食べても大丈夫とは新発見だ。あとで夕張に教えてやらねばと頷く時雨は、窓の外、阿武隈が発光信号で「あたしの分! 残して置いて!」と眉を寄せる姿に、やはり苦笑。

 夕雲型たちも「はーい」と手を挙げて見せるだけでは伝わらないのではと思うのだが、巻雲はしっかりと量を持ち込んで来ている様子だ。

 自分たちの分だけでなく、熊野たちの分もあるのだろう。この緊急時に何を持ち込んでとため息をつかん思いだったが、今は口の中の甘みと共に笑みが浮かぶ。

 

 さて、迂回に迂回を重ねて遠回りして、ようやく目標地点に辿り着こうかという時だ。

 各員の電探が新手の存在を察知した。しかしそれは、先ほどのような艦隊ではない。

 

「単艦だ。しかも、ものすごい速度でこちらに向かって来てる」

 

 単独で活動し、しかも高速巡航能力を持つということは、敵は駆逐級か。

 肌がざわりと粟立つような感触に二の腕をさする時雨は、直後、響の「違う」と切迫した声を聞く。

 

「見張り員からの報告。単艦にてこちらへと接近するのは、完全人型。おそらくは姫・鬼級……。いや、すまない、訂正だ。敵、暫定戦艦級。戦艦レ級だ」

 

 響の発した重苦しい声に時雨は息を詰めるが、朝霜たちは一瞬ぽかんと呆けて「なんだそりゃ?」と言わんばかりの間の抜けた表情を晒す。

 

「……おいおい、そいつ南の方が住処だろう? ハワイ旅行って、昔の日本人旅行客じゃあるまいし……」

 

 言葉を切った朝霜が窓の外を凝視し、「あ、やべえ」と小さく呟いて、急いで側面の出撃口へと走って行った。

 しかし朝霜の言も確かだ。戦艦レ級の観測されている海域は南方に限定され、他の海域での目撃例は時雨でも聞いたことがない。

 何故自分のテリトリーを離れてこんな海域まで赴いたのかは定かではないが、今は対応に集中するべきかと、見張り員妖精の目を借りて敵の姿を視認する。

 まだかなりの遠距離にぽつんと姿を確認できる深海棲艦は、響の言うとおり完全人型。人間で言えば15、6歳程の少女の姿に黒いフード付のパーカーのような衣装を纏った姿だった。足元は重巡級の艦娘が用いるような艦の底部を模したようなボード状の生態艤装に両足を預けていて、見る限り高速戦艦の艦娘が出せる最高速度をゆうに超えている。

 そして最も特徴的な部位は、彼女の腰部生態艤装だ。南方にて観測された戦艦レ級は先端に咢のある一尾を持っていたが、この個体はその先端が四叉に分れ、長さも身長の3倍ほどはあった。尾の分れ方も、太い1本の尾が中ほどで二股に別れ、さらに先端近くで二股に分かれていると言った風だ。

 “隼”付きの連装砲ちゃんが検索をかけ照合した結果、個体コード:“バンシィ”という名がヒットする。10年以上前から活動する厄介者だ。

 

 その“バンシィ”に対して、阿武隈が速度を上げて肉薄する。

 敵の初動を抑えて注意を惹き付け、“隼”に搭乗している皆へが準備するまでの時間を稼ごうというのだ。

 無茶だと歯噛みする時雨は、伝声管を通じて響の声を聞く。

 

「時雨、兵装転換を要請するよ。乙丁統合パックから甲型兵装に転換」

「待って響。それは無茶だ」

 

 口ではそう窘めながらも、時雨の手元は兵装転換の操作を進めてゆく。

 甲型兵装は艦隊戦を想定した、砲雷撃能力に特化したパッケージだ。

 夕雲型駆逐艦にすればデフォルトの装備となるが、対潜対空で待機していたため、これから換装する必要が出て来る。

 しかし、敵はあの成りでも戦艦級だ。確かに魚雷装備は有効だが、あの速度で動作する対象に雷撃を当てるのは至難の業だろう。

 

「なるほど。その手で行くんだね?」

 

 響の意図を理解する頃には、時雨の手元は既に完了していた。

 いつでも出撃できる旨を伝えた時雨は、敵の動きを確認して、そして訝しげに眼を細めた。

 尾の先の咢、その口角横からせり出した副砲の連打で阿武隈の接近を妨げていたレ級が、おかしな動きを取り始めたのだ。

 四叉に分かれた尾を高く、天に向けて伸ばす姿。

 レ級から大きく距離を取った阿武隈もその動きの意味がわからずに警戒の視線を向ける中、時雨は“隼”を急旋回させて、レ級から距離を取るべく最大船速。

 鼻でもぶつけたのだろう巻雲の疑問の涙声が伝声管から大きく響くが、血相を変えた時雨は静かに「跳ぶ気だよ」と返す余裕しかない。

 時雨の言うとおりのことが起こった。尾を高く掲げるように上げたレ級は、その尾を勢いよく海面に叩き付け、その反動で上空へと跳び上がったのだ。

 大きな弧を描いての落下予測地点は、“隼”の進路上。狙いはこちらだ。

 ならばと再び急旋回して落下地点から逃れようと動いた時雨だったが、敵の動きはこちらの予想を大きく超えてきた。

 尾で海面を叩き飛び上がった反動で、宙にあるレ級は縦の回転を得ていた。その状態から、重心を本体から尾の先の咢へと移行、回転と落下地点を修正したのだ。

 

 “隼”の真上に落ちてくると、連装砲ちゃんの演算は弾き出した。

 もう数秒も猶予がない。今から舵を切っても確実に余波は食らう。下手をすると転覆の恐れもある。

 時雨は判断した。

 手元のスイッチ類を操作して、側面の出撃口で待機している響たちを強制排出。

 背後であたふたしていた連装砲ちゃんのボディの縁を掴むと、操舵室の窓を開けて外へと力任せに放り出した。

 

 直後、“バンシィ”が“隼”の操舵室に着地。と言うよりは着弾して、超過艤装の船体を操舵室もろとも粉砕した。

 

 

 



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15話:水無月島鎮守府の長い一日④

 戦艦レ級、個体コード:“バンシィ”の突然の動きに対応できず、阿武隈はその光景をただ声も無く見ているしか出来なかった。

 突如、海面を尾で叩いて跳躍した“バンシィ”が、時雨の操舵する“隼”に向けて着地、と言うよりは着弾して船体を破壊したのだ。

 速度の乗った“隼”から放り出された駆逐艦たちは、海面をごろごろと転がって衝撃を逃がし、即座に体勢を立て直して巡航速度に復帰する。

 “バンシィ”の落下を察知した時雨が咄嗟に側面出撃口の響たちを強制排出していなければ、この破砕に巻き込まれ、ただでは済まなかっただろう。

 阿武隈は呆然とした己の頬にぴしゃりと両手で活を入れて、状況確認を開始する。

 時雨の手によって放り出された連装砲ちゃんを抱き起して響たちと合流、手短に打ち合わせた後、散開して情報収集を開始した。

 

 速度を保ちながら慎重に、広範囲に飛散した“隼”の残骸周辺を捜索し始めた時だ。突如残骸と化した装甲の一部が跳ね上がった。

 表情を引きしめ右腕の単層砲を向けた先、そこには先ほどの“バンシィ”の姿があった。

 フードの上に被った破片を頭を振って払う姿に、阿武隈は歯噛みして即座に砲撃した。

 仰角零度で放たれた砲弾は“バンシィ”の右側頭部を掠め、衝撃でフードが後ろに翻る。躱しもしない。この敵には軽巡の単層砲など脅威の内に入らないのかと顔を歪ませた阿武隈は、露わになった敵の顔に心臓を鷲掴みにされたかのような感触を得る。

 

 呆けて隙だらけになった阿武隈に対応するのだろう、“バンシィ”が姿勢を傾け尾の先端を前に向けんとして、しかしその動きを止めた。

 粘りのある澄んだ音が阿武隈の耳にも届く。“バンシィ”の尾の叉分かれした箇所に、赤いワイヤーが複数本、絡み付いていたのだ。

 

「……時雨!?」

 

 阿武隈の叫ぶ先、先の“バンシィ”と同じく瓦礫と化した装甲の下から時雨がその姿を現した。

 ワイヤーは時雨の腰部艤装に接続された束から引き出されている。

 対機雷用の掃海具を転用した補助艤装だ。ワイヤー自体に切断力は無いに等しいものの、人体レベルならば容易に切断できる程度の強度を持つ。敵に捕縛されるなどされた時には自らの四肢を絶って緊急離脱するといった用途も想定されている多目的装備だ。

 時雨自体はおそらく、“バンシィ”が直撃するより先に操舵室下のブロックに退避して艤装を装着したのだろう。あれだけの短時間で響たちを逃がして反撃に出るなど、さすがは仇を追って5年も単艦行動を取っていた艦娘ではないなと慄く阿武隈は、しかし時雨の表情が優れないことに焦りを覚える。

 時雨自身に不調があるのではなく、あの装備では対抗できないと直感したのだ。

 

 “バンシィ”がワイヤーを外さんと尾を振る。その動作ひとつで、時雨の腰部艤装が破損して弾け飛んだ。

 速度や膂力のある敵にひっけられたケースを想定して、一定上負荷がかかると自壊してパージされる仕組みとなっているのだ。

 当然、阿武隈もその補助艤装の特性は知っていたが、そのワイヤー1本1本の末端に爆雷が括りつけられているのは予想外だった。

 括りつけられた爆雷は引っ張られた力の方向に、“バンシィ”の方へと緩やかに舞って、その足元に着水。ワイヤーが彼我を繋いでいるため、海中に没した爆雷が有効な効果範囲から離れることはなく、炸裂。海上にて疑問の仕草を取る“バンシィ”の足場を大きく掻き乱した。

 

 艦娘も深海棲艦も水面を足場とするため、そこが揺らげば当然2足での直立は困難となる。

 単なる波の揺らぎと違い、複数の爆雷が炸裂した衝撃で爆ぜた水面は、到底足を着いて立っていられるようなものではない。

 わずかに体勢を崩した“バンシィ”だが、それでも転倒することはなかった。

 データによれば、向こうも10年来のベテランだ。それしきの揺らぎ、すぐに対応するだけの順応力があるということか。

 速度を保ちつつ観察していた阿武隈は、“バンシィ”が体勢を崩した直後、時雨が後転してその場から離脱し、背後の装甲板を持ち上げ構えて、まるで盾にするかのような動きを見る。

 そして、ようやく時雨たちの意図を察するに至った。

 浮き沈みのようやく収まった“隼”の残骸の下、白い雷跡が幾つも敵の足元へと殺到したのだ。

 四方からの魚雷。体勢を崩した“バンシィ”からはその雷跡が見えず、例え見えたとしても、もう遅い。

 

 タイミングをずらして到達した魚雷が直撃、炸裂が連続する。

 連装砲ちゃんを小脇に抱えて大きく距離を取るように退避する阿武隈は、その途中、爆発の余波を追い風にして緩やかに離脱する時雨の襟首を掴んで回収、速度を上げた。

 他の皆に聞こえるようにと、阿武隈は大きく息を吸い、声を発する。

 

「巻雲以下、朝霜、清霜は急速にこの場を離脱! 友軍の救援に向かってください! ここはあたしたちで抑えます!」

 

 その声に反応したものか、爆炎を半ば吹き飛ばすように“バンシィ”が姿を現した。

 回避が出来ないと悟った瞬間、尾の先の咢、その上顎の装甲を盾にしたようで、突起部がわずかにかけ、平面部には目に見える亀裂が生じている。守ったということは、あの状態からの回避は困難であり、そして本体に直撃すれば無事では済まないのだということだ。

 本体への雷撃、もしくは爆撃が有効なのだと確信した阿武隈は直後、抱えていた時雨に襟首を掴まれ上体を下方に引っ張られた。一言の断りもない強行の結果、阿武隈の頭部に直撃コースだった瓦礫を鼻先で回避するに至る。“バンシィ”が尾の先の咢で手近な瓦礫を咥えて持ち上げ、方々艦娘に向かって投じているのだ。

 かなり距離を取っていたはずの響や夕雲型たちも届くほどの膂力だ。清霜が直撃を食らった様を遠目に見てヒヤリとする阿武隈と時雨だったが、ちょうど扉の部分が外れていたようで、運良く難を逃れている。

 

「何あれ! 便利すぎなんですけど……!」

「パワーがある腕の代用って、遥かに有効な武器だよね。しかもあれ、まだ本来の用途じゃない」

 

 憤慨する阿武隈の小脇に抱えられた時雨の言。“バンシィ”がまだ、咢に内蔵された砲を展開していないと言うことだ。まだ敵は本来の戦い方をしていない。

 抑えると言ってしまった手前、阿武隈は意地でもやる気だった。まあ、さすがに大破レベルの負傷が確実となれば一歩引いて観察に徹するものだが、現状こいつがどこかに行ってしまうのが一番まずい。

 各艦隊が今現在も必死の抵抗中だ。第三・第四艦隊はもちろん、敵姫級を討ちに行った高雄たちの動向も気になる。もしも、ぎりぎり持ち堪えているという場面に強力な新手が割り込んだとなれば、誰かが沈む可能性が格段に上がってくる。

 だから、この敵はこの場に足止めする。可能ならば、味方に何らかの動きがあるまで。

 何故、こちらに対して“これ”が差し向けられたのかは甚だ疑問で仕方がないが、向こうが“ここ”を確実に抑えようとしているのだと仮定しておく。

 件の統率者の思いを推測するならば、向こうにも阿武隈たちの存在が一番厄介なのか。それとも一番潰しやすいと考えているのか。

 

 時雨からのサインを横目に確認した阿武隈は頷きひとつ見せて、小脇に抱えていた時雨を脇に放った。

 転がって着水の衝撃を緩和、即座に立ち上がって航行状態に移行した時雨は、同じく阿武隈の手を離れた連装砲くんと連れ立ってこの場を離脱する。

 阿武隈自身は砲を構えて“バンシィ”の周辺を巡る動きだ。

 どういうわけか、あの敵は跳躍と直撃を行ってから、まだ一歩もその場を動いていない。

 

 艦娘でも深海棲艦でも、海上で互いの存在を認識したのならば、その動きを止めてはいけないというのが定石だ。

 阿武隈はこの海域の流儀しか知らないが、少なくとも今まで相手してきた敵は、皆そうだったはずだ。無論、自分たちも。

 ならば、この敵の不動はなんだ。彼女が姫鬼級に連なる練度を誇れど級種で呼ばれていることから“その上”の命令には絶対に従うものであるというのは確定している。

 果たして“その上”の指示か、それとも彼女独自の判断回路による停滞か。

 

 動きは唐突に起こった。

 “バンシィ”の四尾の先の咢が、それぞれ付近の海面に“噛み付いた”。

 海水を、まるで動物の分厚い皮層に牙を立てるようにして噛み付き、そして“バンシィ”本体もその身を前へと傾ける。

 阿武隈はその体勢に見覚えがあった。時雨や浜風が100メートル走のタイムを計る際、そのスタート時に取る体勢。クラウチングスタート。戦艦級である彼女が初速を稼ぐための手段だ。

 海面に噛み付いた尾に力を込め引き絞る姿は弓を引き絞る様にも似て、足首の無い足裏が海面から離れた瞬間、“バンシィ”は海上を瞬発し、疾走する。

 行く先は見当が付いている。先行する巻雲たちだ。まだ阿武隈でも目視できる位置に夕雲型の3隻はいる。初速を稼いだ後に例のボードを形成して、高速巡航状態に移行すのだろう。

 させるものかと、阿武隈は既に準備している仕掛けを起動する。水柱を上げて疾走する“バンシィ”の足元が爆ぜ、四尾の体躯は転倒して海面に叩き付けられた。

 “バンシィ”が“隼”を破壊した際、情報収集のため予め放っておいた甲標的からの雷撃だ。

 

 海上を転がる“バンシィ”は、転倒した勢いを殺すことなく、すぐに対応してきた。

 四尾のうちのひとつ、その咢の内で重苦しい駆動音が響き、上下の顎が展開。その内側には深海棲艦の生態爆雷が1ダース、綺麗に整列していたのだ。

 海面を転がる動きのままに、“バンシィ”はその爆雷を投射、海中の甲標的を爆圧で遠ざける。

 データを一見した限りでかなり多芸な敵だとは予想していたが、爆雷まで使ってくるのは完全に予想外だ。戦艦級だけではなく水雷系の艦種の能力も保持しているということは、対応を大きく変えなければならないかもしれない。

 速度を上げた阿武隈が判断を迷っているわずかな時間に、“バンシィ”は次の動きに移る。

 爆雷を投射したのとは別の尾の咢が重駆動音を発し、展開。上下の咢を大きく180°展開して現れた姿を、阿武隈は最初飛行甲板かと思った。しかし、その飛行甲板状に変化した咢から勢いよく小型の影が射出されるのを目の当たりにして、すぐにカタパルト付きだと目標に対する認識を修正。発艦後に急上昇し、阿武隈の左上方より真っ直ぐこちらに降下してくる敵艦載機、腰部にマウントしていた連装機銃を二丁、手に取って迎撃を開始する。

 狙うのは艦載機の主翼や尾翼に当たる箇所だ。宙で爆弾に当てて炸裂すれば、閃光と爆煙で残存機を見失う可能性が出て来る。

 

 そして、“バンシィ”本体の動きからも注意を外せない。体勢を立て直した“バンシィ”は微速ながらも速度を上げていて、3つ目の咢から連装の砲身を覗かせ、こちらを向いているのだ。

 敵の砲撃は即座に行われた。仰角を合わせずの連打は阿武隈本体を狙わず、後退しながら敵機を迎撃する軽巡の退路を穿つ。脚部艤装を高速巡航から高機動へと変形させ、ジグザグに後退。“バンシィ”の砲の口径を視認した阿武隈は、迎撃を疎らにして敵機を引き寄せ、両脚部艤装外側の魚雷発射管を指向、発射する。

 敵艦載機が引き返して魚雷を迎撃できない距離まで引き付けた。対応するならば“バンシィ”本体がそうせざるを得ない。

 果たして、微速で航行を続ける敵艦は、魚雷の接近に合わせ、尾の咢を海面に叩き付けるという形でその脅威を排除した。水面下を一気に打撃出来るのは厄介だし、何よりこちらへの対応が慣れてきている。その証拠にと、阿武隈はいつの間にか足元にまで迫った魚雷を連装機銃の掃射で薙ぎ払う。こちらが一手攻めれば、二手で返すようになって来ている。仕掛ければ仕掛ける程、対応が最適化されて反撃の密度が増す。

 なんでこんなのがこちらに差し向けられたのかと、阿武隈はべそをかきたい心境だった。

 艦隊を組んで出撃すれば敵の鬼姫をも打ち倒すことはやってのけるが、単艦でこの敵を押し留めて置くのはいささか負荷が大きい。

 しかし、今の阿武隈は単艦ではない。

 

 “バンシィ”が阿武隈に対応しながら速度を上げ、飛散した“隼”の瓦礫群から抜け出そうとした時だ。

 彼女の足元にワイヤーが絡み付き、海中に眠っていた機雷群が一斉に浮上する。時雨の仕込だ。連装砲ちゃんの演算を用いて短時間で機雷を設置、阿武隈がその位置を通過するようにと誘導したものが功を奏した。

 こうなれば“バンシィ”は速度を落とす必要が出てくる。そうなれば足止めは完成だ。立ち止まっての砲撃が来る可能性もあるが、相手が動けない以上回避は容易。先程のように海面を叩いてのジャンプは、機雷が誘爆して海面がかき乱されるため飛距離は稼げないだろう。

 果たして敵は、速度を落とさずに機雷の群れへと突っ込んだ。機雷程度ではダメージにならないのかと焦る阿武隈は、その考えが間違っていたことを目の当たりにする。“バンシィ”の腰部に新たな生態艤装が構築されつつあったのだ。それは先ほど時雨が見せた掃海具のワイヤーを模したもの様で、速度をそのままに自ら身を時計回りに回転、蠢き笑う自律式のフロート部を射出して、機雷を連結するワイヤーを切断してゆく。

 

 艤装を奪われる。阿武隈は焦りと共にそう感じた。

 掃海具の転用は水無月島がここ最近で実用レベルにまで間に合わせたものだ。他の鎮守府にも構想や資料自体はあるものの、まだ正規品の配備には至っていないはずだ。元々敵に掃海具の概念を持つ生態艤装があった可能性もあるが、あの敵に限定しては「この場で作り出した」と考えた方が釈然とする。

 それに、今や“バンシィ”の両の手には、新たに連装機銃が構築されていた。敵の生態艤装式故か細部こそ異なるが、基礎は阿武隈の連装機銃とほぼ同一のものだ。あの敵は自らが目にした艤装を再現することが出来る。そう確信する。戦艦という艦種にも関わらず爆雷投射機を配備しているのはそのためか。

 

「敵の艤装の容量はどうなってるのよ、もう……!」

 

 悪態突きながらも迫りくる敵航空機を全て撃ち落とした阿武隈は、右腕の単層砲で機雷を直接砲撃、炸裂させて“バンシィ”を足止めしようと試みる。炸裂し水柱が上がる中を、“バンシィ”軽い身のこなしで回避すると、展開したままのカタパルトから新たな艦載機を射出する。行先は再び阿武隈かと思いきや、敵の編隊は先行した夕雲型を追う動きだ。

 まずい。焦りと共に敵艦載機への対応をと動き出す阿武隈だが、“バンシィ”の砲撃が行く手を阻む。砲撃に、そして魚雷だ。“バンシィ”の四つの尾の咢は、今や三つが展開し、砲と魚雷を展開してこちらに対応している。

 

 阿武隈が逆に足止めを食らっている間に、敵艦載機は時雨が対応する。

 背部の連装砲をパージし、代わりに連装砲くんをセット。失った砲撃管制能力を取り戻した時雨は、阿武隈同様、両手の対空機銃と背部の連装砲くんの砲撃で敵機を撃ち落とす。機銃ならばまだしも砲撃で航空機を落とすなどどうかしているとは思うが、元の時雨はそれくらいはやる艦娘だったとすれば口を噤まざるを得ない。

 

 “バンシィ”は対応を変えてくる。一度後退して“隼”の残骸の中へと突っ込むと、尾の咢を使ってそれらをかき集め、互いの材質を瞬時に溶接、巨大な船底を構築する。砲と雷撃に対する防御ではないなと阿武隈は即断する。敵の防御能力はあんなものが必要なほど柔ではない。目隠しだ。砲雷撃を避けるためではなく、次の挙動に対応させないための目隠し。

 姿が隠れたことで判断が鈍る。いよいよこちらが後手に回ったかと思う阿武隈だったが、“バンシィ”の構築した目隠しは瞬時に爆散した。予備の機雷が残骸の中に残っていて、巻き込んだそれらの爆発物を砲撃によって無理やり炸裂させたのだ。遠くに、時雨がパージして投棄した連装砲を構えた響の姿が見える。阿武隈たちの対応能力を凌駕された時のバックアップとして見に回っていたのだ。

 

 しかし挑発のつもりだろうか、響は腰部にマウントしていた照明弾を引き抜き、天に向けて発砲する。この場に置いては不可解な行動。それは“バンシィ”の動きをも止めるに至った。爆炎と瓦礫の中からほぼ無傷で現れた“バンシィ”は、煙の尾を引きながら天に昇る閃光を視線で追い、しかしそれ以上の興味を失ったかのように、響に向けて咢三つから砲門を展開する。

 即座に回避行動を取ろうとした響だったが、“バンシィ”が前傾になり瞬発する姿に目を剥くのが阿武隈の位置からでも視認できた。フェイントだ。砲撃せんと展開した砲門たちが、本体に引っ張られて海面に叩き付けられる様が哀れに思えるが、それどころではない。

 あのままでは“バンシィ”が響に接触する。接触距離での交戦はご法度だ。特に、戦艦級の膂力では駆逐艦に勝ち目はない。救援にと、ボードを切り返して急加速を入れようとした阿武隈は、真正面に迫った砲弾を自らが転倒するという形で回避する。本体に引きずられる形となった尾の咢がそれでも砲撃を行い、阿武隈と時雨に牽制を加えているのだ。

 

「響……!」

 

 逃げろと、そう叫ぶ間もない。海上を疾走して吶喊してくる“バンシィ”に対して、響は速度を持って退避の一手。手と背の連装砲で砲撃こそ行っているが、それは“バンシィ”の体表に傷ひとつ負わせることは適わない。あと10秒もせずに、“バンシィ”が響に到達する。そう思われたが、10秒待たずに“バンシィ”の足元が爆発して、白亜の人型は海面を転倒した。

 酸素魚雷による数キロ先からの超長距離雷撃。夕雲型の仕事だ。転倒した“バンシィ”が立て直す間もなく、時間差で到達した魚雷が炸裂する。先の雷撃時に敵の感触を得ていたのだろう。超長距離にも関わらず、狙いは恐ろしく正確だ。

 転倒した“バンシィ”の脚部は破損。白い表層が破断して、内部の黒い基礎部が露わになっている。疑似燃料か潤滑剤の一種だろうか、青黒い流体を血液のように噴出する様が、敵だということを差し引いても痛々しい。

 

 しかしまったく、先に行けとと言ったのに、本当にうちの駆逐艦たちは言うことを聞かない。重要な場面では特にそうだ。後でお仕置きが必要だ。間宮に頼もう。

 わずかな安堵と共に阿武隈がそう呟いた瞬間だ。遥か遠方にて、魚雷の炸裂音が轟いた。

 

「そんな……」

 

 数キロ先、最早視認できる距離には居ない夕雲型の誰かが負傷したことを直感する。

 “バンシィ”の四つ目の咢は今や上下に開き、生態式の魚雷発射管を覗かせていた。先の雷撃で感触を掴んでいたのは巻雲たちだけではなく、“バンシィ”もまた同様だった。嫌な記憶が呼び起こされる。初めて出撃した時の記憶だ。

 振り払うように時雨に指示。すでに時雨が夕雲型たちの方へと向かっていることに安堵し、阿武隈はボードを切り返して“バンシィ”へと向かう。体勢を立て直しつつある敵には響が対応中だが、こちらの仕込みはあらかた使い切り、新たに仕込んでいる時間はない。

 道すがら甲標的を回収して魚雷を装填、再投下したところで砲撃が来た。咢ふたつは砲撃・雷撃仕様で阿武隈を牽制し、ひとつは待機状態、そして残るひとつで響を直接打撃する動きだ。海面に叩き付けると振り上げる動作が工程に組み込まれるためか、動きは常に横薙ぎと袈裟打ちに限定。切り返す動きではなく、振り回して速度を落とさずの連打が行く。

 響は距離を取るも“バンシィ”は即座に詰める。初速こそ軽量な駆逐艦に利があるが、速度が乗れば重量のある戦艦級に追いつかれる。かと言ってこの状況、左右に退ければ尾の咢の伸びて捕らえられる。拮抗しているこの状態も、あと数秒も持たない。頼みの甲標的は既に読まれていたのだろう、四つ目の咢から投射される爆雷に退けられる。

 

 そして、阿武隈の目の前で響が捕まった。速度の乗った“バンシィ”の一撃が足元を掬い、態勢を崩した体躯を咢が捕らえたのだ。咄嗟に魚雷をすべて投棄してシールドで咢を防ぐが、アームが不吉な悲鳴を上げて歪曲してゆく。シールドごとアームごと万力の如き膂力で押しつぶされ、最後の頼みであるインナーも機能を損ない、骨格が歪む音が阿武隈の耳まで届く。

 骨格が歪み、内臓が押しつぶされようとも響は動いた。投棄した魚雷の弾頭を機銃で撃ち抜き足元を爆破。これで“バンシィ”の足元を崩そうとしたのだろうが、かの敵は破損している脚部で軽やかに跳ぶ。短距離のバックステップ。着水の衝撃、そして“バンシィ”本体の重量で破損した脚部がさらに圧潰するが、それでも足場を崩されるよりはマシだというのか。

 “バンシィ”は響を拘束している尾を上へと持ち上げる。咢の力で押し潰すのではなく、海面に叩き付ける動き。戦艦級の超重量を高高度まで跳躍させる尾の一撃だ。手前に引き寄せて圧潰するのを待つのではなく、響きが何らかの対応を見せることを理解しているのだ。背部艤装のほとんどを圧潰せしめた上での念押しに、響は最後の抵抗を試みる。

 

「探照灯……?」

 

 破損を免れた探照灯を照射。しかし、それは“バンシィ”へ向けてのものではない。明後日の方向への閃光は、妖精たちが千切れた小さな装甲版を用いて点滅状態を作り出す。発行信号の代用、そのメッセージを読み解いた阿武隈は焦りを帯びて、即座に次の動作へと移行する。

 

 ――主砲、仰角調整。咢の開閉部なら、徹甲弾で破壊出来る可能性が高い――

 

 果たして、発光信号の通りのことが起こった。響を拘束している咢、その接続部が破砕して、銀髪の影が宙に放り出される。

 予測の範疇外の事態が起こったためか、“バンシィ”がステップを踏んで大きく後退。入れ違う形で飛び込んだ阿武隈が響をキャッチして、全速力で“バンシィ”の射程から離脱を計る。

 追跡しようと体勢を傾けた“バンシィ”は、すぐにその動作を止める。自分の咢を破壊した主が迫っていることを察知したのだ。

 

 

 ○

 

 

 高速戦艦の補完艤装による高速巡航形態は、待機形態を縦に細長く引き伸ばした形が基礎となる。

 初速こそ駆逐・軽巡には及ばないものの、最大加速は艦娘の中では最高速度を誇る。煙を上げて加熱する砲身にとっては心地よい速度だろう。

 照明弾の閃光を道しるべにしなければ、ひとつ最悪の結末を迎えていたであろうと確信する。

 探照灯の発行信号替わりなど、あの状況で行うなど肝が据わっている。彼女もやはり、長きに渡り戦い続けた艦娘なのだ。

 

 白と翡翠と、そして腕章の青の色を翻す身、その目は敵と味方の姿を視認。

 速度を落とさず、敵の注意がこちらに向いていることを確認。

 

「ここからは、榛名がお相手致します……!」

 

 榛名が敵と接触する。

 

 

 



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16話:水無月島鎮守府の長い一日⑤

 高速巡航状態で最も注意すべきは自らの位置取りだと、風圧に髪を流す榛名は口元を引き締める。

 敵の支配海域は日出日没の位置が目視ではわかりにくく、方角の感覚を羅針盤に任せる他ない。

 そのうえで戦闘区域における自分の位置を確かなものとするのは、味方の位置と、そして敵の位置だ。

 速度の乗った状態だと、この位置関係が急速に変化するため、常にレーダーと目視との両方での確認が必須となる。

 味方側、発光信号にてこちらに位置を知らせてくれた響は、阿武隈が曳航して敵主砲の射程を逃れつつある。骨格や内臓にかなりのダメージが通ったとのことだが、今のところ命に別状はないらしい。

 そして敵は、主砲の砲門をこちらに指向しつつ、速度を上げて並走する。

 戦艦レ級、個体コード:“バンシィ”。泣き妖精の名を冠するかの深海棲艦の出現は、榛名たち有馬艦隊が消息を絶った後であると、ここ数日の資料で確認している。

 何らかの因果を感じざるを得ないが、今はこの敵の対処に集中する。

 

 速度を保持し、砲塔を指向し、仰角を調整する。

 補完艤装の高速巡航形態は、待機形態を縦に長く伸ばし、艦橋や煙突を含めたパーツを斜め後ろへスライドさせ、そうして生じた空白に榛名自身が収まり、元々の背部艤装を接続した体勢。幾本ものコード類で体の動きに遊びを持たせ、今は進行方向へ左半身を向けた体勢での高速行だ。

 重巡級の高速巡航形態と同様の機構だが、出力も航続距離もこちらの方が遥かに上。そしてそれは、火力も同様だ。

 敵に指向した砲塔。前甲板の一番砲塔から順に、榛名は砲撃を開始する。

 

 

 ○

 

 

「……はあ?」

 

 重症の響を曳航していることも忘れ、阿武隈は気の抜けた声を上げてしまった。

 彼女自身、戦艦の艦娘の戦いは初めて目の当たりにするのだが、それは己の想像を遥かに凌駕するものだった。

 馬鹿げている。発射した砲弾がひとつの夾叉も無しに、全弾“バンシィ”に直撃したのだ。観測機を上げていないし、高性能のレーダーを搭載しているわけでもない。

 相手も脚部の修復が間に合っていないとは言え、かなりの高速航行で、回避運動も行っている。その回避した先で全弾当てるのは、敵の挙動や周囲の環境を完全に読んでの技だろうか。

 合流し並走する時雨が表情を硬くして彼我の戦艦級の撃ち合いを見据えているのは、彼女の全盛期を“噂”と言う形で知っていたためだろうか。

 “バンシィ”の反撃で被雷したのは清霜で、両脚部が損傷して航行不能となったものを巻雲が曳航。朝霜が護衛に着いて、すでに戦闘区域から離脱したとのことだ。

 ならばこちらも離脱に専念するべきだ。阿武隈は響の曳航を時雨に任せ、単装砲に次弾を装填し、両の手に連装機銃を構える。こうして形ばかりの護衛の姿勢を取っては見たものの、戦況はすでに自分たちが関わることの出来るレベルを超えている。

 

「高雄も言っていたらしいね。阿武隈も聞いているかい? 榛名の所属していた有馬艦隊は、10年前当時の、最強の一角だったって」

 

 有馬提督の素性を探るために執務室へ集まった時のことだろうと、阿武隈は最近の事件に思いを馳せる。

 もちろん、覚えている。高雄の緊張した面持ちは、当時の彼女たちの噂を聞いたことがあるためだろう。

 かの榛名の初弾命中率は9割を超えるとのことだ。

 

「榛名はあれを、ほぼ勘でやるらしい」

「……馬鹿じゃないの?」

 

 思わず率直な感想を口から零してしまう阿武隈だったが、並走する時雨もそれを非難する気はなく、むしろ激しく同意するかのような表情をしてる。確か、暁や響も、演算処理を勘でやると言っていたが、戦艦級となれば情報量は駆逐艦の比ではないはずだ。

 榛名の砲撃は続く。断続的な砲撃は面白い程“バンシィ”の本体に吸い込まれていき、敵の防護障壁が複数枚、目視で確認できる程のものが生じている。

 淡い赤の六角形を連ねたような障壁は、高威力の砲弾に反応して出現する仕組みのようで、阿武隈たちが交戦した段階では一度も発生しなかったものだ。障壁複数枚で威力と速度を減衰させ、それでも直撃。阿武隈たちが目にする限り、その減衰込でも“効いている”様子だ。

 あれを直に食らえば“バンシィ”の本体でもひとたまりが無いのだという確信は、榛名が圧倒して勝利を収めることへの期待と、その真逆の考えを艦娘たちの胸中に生じる。

 “バンシィ”が適応を始めたのだ。

 

 最初は障壁が生じずに、砲弾が“バンシィ”本体を掠めただけに留まったが、やがては本体にかすりもしないようになる。

 榛名が行なっている読みを、“バンシィ”が真似し始めたのだ。

 艤装であれば砲撃管制に置き換えられる部位も、深海棲艦にとっては生態。すなわち、自らの肉体の延長だ。暁たちや榛名が砲撃管制を暗算でも出来るように、“バンシィ”も暗算で砲撃管制を行うのだ。

 敵の観察眼は健在で、生態艤装の機能面以外の分野、感覚や勘と言ったものまでもを模倣し始める。同じ戦艦級と言えど、榛名1隻で対応しきれるのかと訝る阿武隈の視線の先、榛名が戦い方を変える姿を見る。

 

 主砲の仰角を再調整。それは“バンシィ”を狙うものと、そうではないものの二種。

 果たしてその砲撃は敵に着弾せず、敵の周囲に幾本もの水柱を上げる結果を引き起こす。

 立ち上る水柱を掻い潜って榛名を視認しようとした“バンシィ”は、その直後、自らの頭部を顎から脳天に向けて鋭い衝撃が貫くのを感じた。

 目線が天を仰ぎ、修復中の脚部が海面から一瞬離れるという現象。食らった当人はいったい何が起こったのか、即座に判断が付かなかっただろう。

 遥か遠方でその様を見ていた阿武隈たちも同様だ。正確には、その現象が理解できなかったのではなく、理解に苦しんだという感触が正しいだろうか。目にした光景を認めたくなかったのだ。

 

「砲弾を、海面で跳弾させたの……!?」

 

 確か漣の読んでいた漫画でスナイパーがアサルトライフルでそんな芸当をやってのけた場面があったなと思い出すが、艦娘の砲撃でそんなことが可能なものか。

 勢いよく時雨の方を見るが、白露型の二番艦は「僕に聞かないでよ」と疲れた笑み。普段は何でも聞いてよと嘯いて見せ、今日身に着けている下着ですら気さくに教えてくれるというのに。

 しかし、実際に阿武隈たちの目の前で、件の現象は成った。

 立ち上る水柱を隠れ蓑に放たれた榛名の砲弾は海面を跳ねて、“バンシィ”の下顎を強かにかちあげたのだ。

 驚くべきはこの打撃がたった一度で終わらず、“バンシィ”に復帰のタイミングを与えぬようにと連打で行われたことだ。

 通常の砲撃と合わせての連打。顎を打たれた“バンシィ”が脳震盪を生じて気絶することがないと初弾で確認しているので、この連打は敵の行動の遅延と妨害と、物理的な破壊を目的とする。

 障壁を砕き本体を打撃して着実に敵を削り取る動きに勝ちの目を見出す阿武隈たちだが、やはりこれも“バンシィ”が適応してくる。

 

 上下から襲い来る砲弾に対して、尾の咢ふたつを合わせ盾として防御。障壁と装甲の傾斜で砲弾をいなす動きに転ずる。そして残りひとつの咢は砲撃形態で、榛名への砲撃を開始する。攻防一体の姿はしかし、榛名とて同じだ。

 

“迷彩機能、展開”

 

 唇の動きをそう読んだ阿武隈は、榛名の艤装に白と黒の縞模様が生じてゆく様を見る。ダズル迷彩だ。距離感を狂わせる用途のあるこの迷彩措置は、補完艤装の能力を持って拡大される。その結果はすぐに現れた。榛名の艤装を掠めはじめた“バンシィ”の砲弾が榛名本体を穿つ。しかし、その瞬間に艤装を含めた榛名の姿が消失する。

 “バンシィ”が穿ったのは榛名の虚像。拡大解釈された迷彩が生み出した陽炎だ。目標を見失った“バンシィ”の挙動が鈍ったわずかなタイミングで榛名の攻撃は再開され、“バンシィ”が攻撃に移る頃には再び迷彩で生じた虚像を穿つことになる。

 

“一番砲塔、徹甲弾装填”

 

 水柱と跳弾とで布石は打った。敵はきっと海面の跳弾を演算している最中で、いずれはダズル迷彩も己の力として適用するだろう。ならば、そうしてこちらの技を奪い取る隙に、徹甲弾であの分厚い装甲と障壁を纏めて貫き、早々に勝負を決める。阿武隈たちとの連戦を経て、それでなおこちらの武器や戦い方を模倣するだけの艤装容量があるのならば、長引けば長引くほどこちらが不利なる。

 水柱の目隠しを縫った跳弾が“バンシィ”の装甲をひっかいたタイミングで、榛名は一番砲塔から砲撃を行った。通常弾頭とは異なる感触を確かに体に感じているのだろう、次弾を装填して油断なく敵の挙動に備える姿は揺るぎない。

 

 果たして、榛名の放った徹甲弾は“バンシィ”の咢の装甲を破砕する。

 傾斜のせいで貫通とはいかなかったが、咢ひとつの機能を確実に砕いた。これでふたつ目だ。上顎が真っ二つに割れ、下顎も幾つもの亀裂が生じているところを見るに、砲や魚雷を展開するわけにはいかないだろう。脚部の修復と合わせてもかなりの遅延が見込めるはずだ。

 榛名は畳みかける。徹甲弾を一番砲塔だけでなく二番砲塔にも装填。先の攪乱と跳弾の工程を繰り返しつつも威力のある砲弾で確実に“バンシィ”の守りを削って行く。 

 ようやく勝ちの目が見えてきた。阿武隈が安堵と緊張を同時に覚える中、しかし“バンシィ”は動きを見せた。もはや使い物にならなくなった砕けた咢を盾にして、残りの尾は海面を噛む。急制動に本体が引っ張られて前傾となり、先のようなクラウチングスタートの体勢へと移行する。また海面を走る気かと焦る阿武隈たちだが、その動きを読んだ榛名が目標を“バンシィ”本体から海面へと移行。咢がしっかりと噛み付いている周囲の海面に砲弾を落として、海面そのものに大きな揺らぎを与える。ゆらぐ海面を噛んだ咢が力を引き絞ろうとすると、その海面を引きちぎる形となってしまい、駆け出す前の力を溜めることができない。

 

 敵の手を封じての一方的な連打は続くが、それも終わりが近い。

 再度動き出した“バンシィ”の速度が、目に見えて落ち始めている。脚部の修復に専念できぬまま榛名への対応を迫られ、逆に損傷を深めているのだ。たった1隻で敵戦艦級と渡り合うのはこちらもさすが戦艦級との思いだが、果たしてこの両者は、同じ戦艦級の枠として扱ってよいのか甚だ疑問だ。片やカテゴリエラーの敵戦艦級に、片やブランクを感じさせない動きで艦娘でも不可能な芸当をこなす味方の戦艦級。

 もはや自分たちの立ち入ることが出来ない領域で勝負が決するなと吐息した阿武隈は、背筋に寒気を覚える。“バンシィ”が戦い方を変えてきたのだ。

 

 

 ○

 

 

 あと3発以内に本体へ届くなと、榛名は敵に蓄積されたダメージと残弾を確認して、小さく頷いた。

 艤装との同期作業を強制終了して慌ただしく出撃したが、それほどのブランクも感じずに未知の敵を制することが出来そうだ。こちらの真似をするにしても、もうこの局面ならば勢い任せに押し切ってしまえる。敵においては、出来ればこのまま防戦に徹していてほしいところだがと思考する榛名は、そう思い通りにはいかないことを目の当たりにする。

 “バンシィ”は損傷した咢ふたつを盾にする動きこそ先程と同様だったが、残るふたつの咢は砲門を展開して砲撃体勢に入ったのだ。こちらが砲撃を読むとわかっていての挙動かと眉をひそめた榛名は、その砲口の行先がこちらを向いていないことを目視して、血相を変える。周囲との位置関係を改めるよりも先に、補完艤装を切り返して海上をドリフト、ほぼ直角にターンして敵の砲口が狙う先へと急ぐ。

 遠間でこちらの挙動を見守っていた阿武隈たちも気付いただろう。“バンシィ”の狙う先は、もはや榛名ではなく、大破した仲間を曳航中の夕雲型だ。彼女たちはもう安全区域まで離脱したと思っていたが、いつの間にかこちらが追い付いてしまっていた。

 

「……違う」

 

 榛名は自らの考えに否と首を振る。誘導されたのだと気付いたのだ。確かにこちらの動きを模倣して手を返してくる敵だが、ならば先の阿武隈たちとの交戦で、自らに有利な位置にこちらを誘い込むことを考えてもおかしくはない。曳航中の駆逐艦は速度を出せない。狙うならば恰好の的だ。

 位置関係には気を付けてはいたはずだが、敵への対応に集中しすぎた。これはブランクなどではない。榛名の元々持っていた悪い癖だ。フォローを他の艦娘に任せて攻撃に専念するのが常であったが故に、周囲の状況を把握しなければならないのに、それを怠ったのだ。敵は刻一刻と変化する状況に順応し続けていると言うのに、自分は以前と何も変わっていないのだと歯噛みする。

 目視できる位置に夕雲型の姉妹たちが見えると同時、“バンシィ”が砲撃を開始した。初弾からすでに夾叉、至近弾に煽られた巻雲が体勢を崩して速度が落ちる。威勢の良い声を上げる朝霜が砲撃の射線上に躍り出るが、海面を跳ねて来た砲弾の直撃を食らい、爆炎が上がる。

 牽制の砲撃で“バンシィ”の目前を穿って水柱を立ち上げた榛名は、前のめりに倒れて動かなくなった朝霜を抱き上げ離脱する。咄嗟に連装砲を盾にしたのだろう、朝霜の両腕は真っ赤に染まり、直視できないほどに痛々しかった。気を失ってはいるが、幸いなことに命に別状はないようだ。

 

 “バンシィ”の砲撃は止まない。水柱で目隠しされた状態でも正確に砲撃して、巻雲の行先を確実に奪ってくる。速度自慢の駆逐艦がその勢いを削がれればその先は無い。朝霜を抱きかかえたまま、榛名は意を決する。直後、舵を撃ち抜かれ操舵を奪われた補完艤装で、水上を錐揉みするようにして制動をかけ、ついに転倒した巻雲たちの前へと躍り出る。

 

「決戦形態へ移行!」

 

 足元のペダルを思い切り踏込み、求める姿を口に出した瞬間、“バンシィ”の砲弾が榛名に直撃した。

 

 

 ○

 

 

 両足を膝下から断たれ、失血死寸前の朦朧とした意識の中で、清霜はそれを見た。

 横倒しになった視界の先、倒れた自分たちを守るようにと仁王立つ戦艦・榛名。その補完艤装が変形する。

 背にした艦橋及び煙突部分が分割変形して、背部艤装を覆うさらに巨大な背部艤装を構築。

 前後部の甲板が喫水線部から上下に分割して、甲板部は内側からせり出てきた装甲に砲塔を覆われ、長大なアームで背部艤装の左右に接続。

 残った艦底部は半分以下の長さに変形・縮小しつつも、榛名本体の足元を堅牢に覆い、海面下では巨大な仮想スクリューが徐々に構築されてゆく。

 そうして生じた姿に、清霜は敵の姿を重ね視る。

 榛名の肩や背部を覆う鋼は戦艦ル級の生態艤装に酷似しているし、前後の甲板が変形して生じた巨大な盾は彼女たちの生態艤装そのものにも見える。

 しかし、その姿に不気味さも嫌悪も感じることはなかった。

 これが、彼女の戦う姿。防御に重点を置いた、補完艤装の決戦形態。

 分割変形して生じた後部三対の煙突からは、青白い排熱が陽炎となって宙を歪ませている。

 “バンシィ”からの砲撃は連打で続くが、それを回避する必要はすでにない。敵のものと同様の障壁が榛名の周囲を覆って防御しているのだ。

 敵の赤色とは違い、こちらは淡い青の色。

 清霜の朦朧とした視界の中で、赤を纏った速度が堅牢な青へと殺到する。

 

 

 ○

 

 

 朝霜を巻雲に預けた直後、“バンシィ”がこちらに吶喊してきた。

 遠距離からの砲撃は強化された障壁で防ぐことが出来るが、本体が直接打撃を加えてくるとなれば話は別だ。こちらは舵をやられて操舵に支障をきたしているので、これを好機だとして“バンシィ”は距離を詰めてきたのだろう。

 視界の端でこちらに笑んで見せた清霜は阿武隈が回収し、急速離脱。

 申しわけなさが腹の底から昇ってくるが、もう周囲へ気を配っていられる段階は過ぎている。敵がこちらに接触してくるのだ。

 榛名は疾走する敵を迎え撃つべく、両の巨大なシールドを前方へと展開して、腰部周辺へと変形接続された単装砲群で敵の足元を穿ち続ける。

 防護障壁は敵の砲雷撃や上空からの爆撃にこそ有効だが、接触距離での運用は、まして艤装の一部を用いての直接打撃には対応していない。元は衝突時の衝撃を和らげる目的で搭載されたものを、霊的な側面を強化して“壁”としているものだ。接触程度ならばダメージをほとんど通さないだろうが、艤装による直接打撃はその限りではない。艤装同士の衝突ならばまだしも、さすがに砲塔で殴るといったケースにまでは、拡大解釈は適応されないらしい。咢状の部位で噛み付いて来るのも同様だろう。

 

 単装砲群の砲撃で敵の足元を穿って遅延するも虚しく、“バンシィ”は榛名と接触する。

 速度を乗せた咢の衝突を両の巨大な盾で受け止めて防護。衝撃で後方に流されそうになるのをスクリューの回転を上げて押し留めるが、押し留めきれない。後方へと流される。出力は向こうの方が上だ。これで敵の脚部が完全な状態だったらノックバックして大きな隙が出来ていたはずだ。“バンシィ”の咢ふたつが機能停止していなければ、ここで榛名の敗北が確定していたところだ。

 こうした接触戦に対応している補完艤装ではないが、榛名自身はそういった状況を想定していないわけではない。

 敵の咢を受け止めたシールドをアームのパワーで押し返し、がら空きになった“バンシィ”の本体へと単装砲群の砲撃を叩き込む。敵の側に障壁すら生じない微々たる攻撃ではあるが、弾着の煙がわずかな目くらましとなる。

 その間に、背部に位置する排出口よりドラム缶型燃料カートリッジが1ダース、まとめて排出される。緊急出撃故に燃料タンクの増設措置が間に合わず、カートリッジで不足分を賄うしなかったのだ。自動補給が行われたと言うことは、メインタンクの残量が2割を切った合図だ。機関フル稼働で補完艤装を扱えるのは、良くて10分。決戦形態で仮想スクリューを限界まで酷使している現状では、それよりも早く限界が来るだろう。

 この敵を前にして、補完艤装無しに勝ちはあり得ない。補完艤装の能力をフルで使える10分以内に決着させる。その算段は既に榛名の頭の中にあり、逡巡する時間も惜しいとばかりに、即座に実行に移す。

 

 “バンシィ”の咢を押し留めている両のシールドがそれぞれ左右に展開して、内臓されていた計4門の主砲がその砲身を覗かせる。至近距離からの砲撃。余波で自らが大破することも厭わない捨て身の攻めだ。

 全砲門に徹甲弾を装填済み。単装砲群の弾着の煙が未だ晴れないこの時しか隙はない。シールドを展開した音でこちらの動作が勘付かれている可能性は高いが、このまま押し切る。榛名の押し殺した「斉射」の声。4門の砲が火を噴き、しかし同時に敵の砲火も煙を割いて襲い掛かった。敵もこの距離から砲撃を試みたのだ。互いに障壁が発生しない距離での砲撃。あちらも自壊を厭わない捨て身に出た。

 砲火の殴り合いは長くは続かなかった。向こうも全力で砲撃を叩き込んでくると考えていた榛名は、その予測が裏切られたことを確かなダメージとして受け取った。“バンシィ”の咢。機能を失ったはずのひとつが驚異的な速度で修復を果たし、榛名の背部艤装に回り込んで噛み付いたのだ。狙われたのは燃料カートリッジの排出口。開閉部が設けられ脆くなっている箇所だ。排出音で悟られたのかと思う間もなく、燃料流出によって出力が低下する。

 次の瞬間、榛名は海面に引きずり倒された。衝突しての押し引きならばまだしも、圧倒的な膂力で強引に横転させられては成す術がない。バランサーが機能する間もなく引きずり倒された榛名は、敵が砲撃を止めて、こちらを無力化するべく動き出す様を見る。復帰したものを含め3つの咢が補完艤装に喰らい付き、引きちぎり始めたのだ。シールドを歪め、砲身をねじ切って、アームを引きちぎって。力強く、着実に、戦う力を奪ってゆく。

 

 

 その光景を、榛名は感情の抜け落ちた顔で眺めていた。

 万策尽きて絶望したのでもなければ、全力を出して燃え尽きてしまったのでもない。ああ、これで終わるのかと、自らの有り様を受け入れてしまったのだ。防護のためにと密集させた補完艤装を少しずつ引きはがされながら、榛名が思うのは出撃前のことだ。艤装との同期作業を強制終了して出撃したものだが、ここに至るまでの道中にも、目の前の敵と戦っている最中にも、記憶の追想は行われていた。それは艦艇の榛名としてのものだけでなく、艦娘としての榛名の記憶までをも追い掛けたものだ。そこで、榛名はついに思い出した。有馬艦隊が壊滅した日の記憶を。

 

「……有馬提督は、もうどこにもいないのですね?」

 

 榛名は確かに思い出している。

 自らの目の前で、有馬提督の体が吹き飛ばされる様を。

 頭部も、心臓を含めた上半身も、肉片すら残らなかった。

 歪む視界は、水に落ちた提督の帽子を拾い上げて、そこで記憶は途切れていた。

 

 有馬提督の死は確実だ。あんな木端微塵の状態からの再生など、人間には不可能だ。

 もしも水無月島の彼が有馬提督になんらかの縁がある人だとして、榛名の知る有馬提督当人では、決してないのだ。

 力を削がれながら思うことは、もうこれで終わってしまおうという、消極的な自滅。

 彼女たちが離脱するための時間は充分に稼いだはずだし、敵の力を大きく削ぐことが出来た。

 深海棲艦の自己修復能力は驚異的だが、それは決して全能ではない。

 急速な高速修復は生態艤装の容量を著しく損ない、深海棲艦の寿命を縮めるのだ。

 暫定戦艦級の大容量と多彩な機能を有しているこの“バンシィ”とて、そこだけは例外ではないはずだ。

 

 前面にかき集めて防御とした艤装のほとんどが引き千切られ、榛名と“バンシィ”はついに互いの顔を目の当たりにする。

 かの敵の顔を目にした瞬間、榛名は鏡を見ているのかと錯覚した。

 互いの顔のつくりこそ異なるものの、浮かべている表情が同じだったのだ。

 全てを諦めきったかのような、表情の抜け落ちた顔。まるで人形のような。

 今の榛名の表情だ。“バンシィ”はそれを鏡写しに真似ているに過ぎない。

 なるほど、“バンシィ”という名前の元となったのは、彼女が襲った艦娘たちの表情だったということか。

 最後の瞬間に泣き叫ぶ者の顔を真似したが故の名前だったのかと、敵の背景を悟った榛名は、“バンシィ”の動きが止まったことに気付く。

 同じ表情で自らを覗き込んで来る敵。これはこちらを観察しているということなのだろう。

 彼女が襲った艦娘の中に泣き叫ぶ者はいても、自分のように無気力のままに諦めた者はいなかったということだろうか。

 

「あなたは、大切なものを失ったことがありますか?」

 

 動きを止めた敵に、榛名は問いかける。

 答えが返ることを期待してはいないが、意外にも敵はその問いに反応を見せた。

 口を開き、何かを言おうとする仕草。

 “バンシィ”という名前の由来、泣き叫ぶという動作を行うことから喉や声帯は存在するはずだが、それが言葉を発する形にはなっていないのだろう。

 それでも言葉を発しようとしているのは、こちらの言葉を理解しているが故か。

 

 “バンシィ”が問いかけに応じようとしたことで生じたわずかな時間。

 それは、敵のほんの気まぐれから生じたものか、重要な意図があったかは、榛名にはわからない。

 しかしそれでも、己の命運を分けるのには充分な時間だった。

 

 “すまない、榛名”

 

 幻聴だろうか、耳元に声が届く。

 懐かしい声。もう二度と聞くことが出来なくなってしまった声だ。

 御迎えでも来たのだろうかと無感情に思う榛名は、かの声のその先を聞く。

 

 “戦艦・榛名の全艤装、その機能を停止。補完艤装を含む全兵装を強制解除”

 

 榛名を支えていた艤装のすべてが機能を失い、ただの鋼に還る。

 水上に浮く力すら消失して、榛名は海中へと没していった。

 その動きにつられた“バンシィ”が前につんのめると、榛名と入れ替わりに海中から別の艦娘が頭を出した。

 困った様な、あるいは申し訳なさそうなその艦娘の顔と目が合い、“バンシィ”の次の挙動がわずかに遅れる。

 艦娘の方、水無月島鎮守府所属の潜水艦・まるゆは、その困った様な顔のまま背部艤装を展開。

 現れたのはWG42、対地攻撃用のロケットランチャーだ。

 

「ご、ごめんなさあい……!」

 

 対地装備を展開したまるゆが、至近距離での全弾発射。

 威力こそ“バンシィ”にとっては些細なものだったが、弾着の煙は広範囲に拡散して煙幕の役割を果たした。

 自らが攻撃されたことにようやく気付いた“バンシィ”が尾で海面を打撃する頃には、まるゆは急速潜航して海中に退避。

 海中からの攻撃が来るのかと立ち上がって身構えた“バンシィ”はその直後、何者かが高速で背後を通過した感触を覚える。艦娘の艤装、その駆動音がしたことは確かだったが、それにしては背後を通過されるまで気が付かなかった。“バンシィ”にとっては初めての感触だ。

 海中と海上と、双方に対して警戒が必要かと構えた“バンシィ”は、複数の敵がこの地点に集結しつつあることを察知した。

 

 

 



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17話:水無月島鎮守府の長い一日⑥

 海中に没した榛名は、何者かに羽交い絞めにされて連れ去られている現状に対して、まったく理解が追い付いていなかった。

 水中での高速巡航が可能な潜水艦の仕業だろうとあたりを付け、しかし何故だと、そして誰だと疑問する。自分と入れ違いにまるゆが浮上してゆく姿を見ているので(手を振っていた。振りかえす余裕はなかったが)、彼女の仕業ではないことは確実だ。

 考えが答えに辿り着く前に、榛名は羽交い絞めの主が目標としていた地点に辿り着いたことを悟る。拘束が解かれ、緊急浮上用のフロートが働いて体が浮上を開始したのだ。そうして海上に浮上した榛名は、投錨して停泊中の“隼”が目の前にあることを見とめる。“隼”五号艇だ。

 自分よりも後発でまるゆも居たとなれば、五号艇を操舵しているのは電だし、暁も来ているのだろう。榛名が緊急出撃する際、彼女たちもまた出撃準備の最中だった。彼女たちの到着まで時間を稼ぐことが出来たのは幸いだったと思う反面、間に合わなければ良かったのにと、そう思う自分が確かにいた。

 死にきれなかった。そのことに悔しさを覚え、しかし安堵するのもまた正直な気持ちだ。しばらくのあいだは、後悔と安堵を交互に繰り返す時間だ。

 

「無事で良かったのです」

 

 クレーンで榛名を引き上げた電が安堵の表情で言う。

 申しわけなさに言葉もない榛名は、せめて何か一言をと口を開くが、言葉は出ず。そうしている内に事態は動き出してしまう。

 耳に炸裂音が響いてくる。WG42が敵に着弾した音だと経験が告げるが、同時に無謀だという言葉も口から出そうになる。

 あの敵を、“バンシィ”を倒すための有効な手段は、榛名が思い付く限りでふたつだ。彼女よりも重量級の戦艦で、出来れば数隻掛かりで、力押しにねじ伏せるか。あるいは手数をふんだんに用いて、彼女にとってすべて初見の手札を切って削り潰すかだ。どちらも、水無月島の現状の戦力では適うはずがない。

 しかし、電は“隼”を抜錨させて動き出した。今度こそ無謀だという言葉が口を突くが、言われた電は「確かに、そうかもしれない」と、困った様な表情で榛名を黙らせる。その表情は「しかし」とも語り、その先は彼女の言葉として発せられた。

 

「私たちは無茶をしても、無理や無謀を推し進めたことは一度もないのです。動くならば必ず勝算を見出して最大限を。敗けが確定するならばダメージは最小限に。いつだってそうやって来たのです。鎮守府再稼働から今まで、誰も沈まずやって来れたのは、そのお陰かも」

 

 力強い言葉に、榛名は自分が責められているような気持ちになる。全員で戦って全員で生還することを最低条件として来た彼女たちにとって、自分の行いは許されるべきものでは、決してないのだろう。罰を受けよう。誹りも甘んじて。生き延びたのだから、生き延びてしまったのだから、それが己に課された義務なのだと拳を痛める程握りしめる榛名は、電がこちらをじっと見ていることに気付く。非難の色がわずかに見えるが、安堵や優しさがその大半を占める視線と笑み。

 

「今回だって、誰も失わせるつもりはないのですよ。そのために、皆が自分に出来るだけの無茶をする。それが、司令官さんと電たちで決めた、一番大事なことなのです」

 

 “隼”の速度を上げて行く電は、なんらかの予感を得たものか、一度小さく身を震わせて進行方向へと向き直った。

 

「榛名はもう充分無茶をしたので、ここまでなのですよ。ここから先は、皆の無茶の時間なのです」

 

 

 ○

 

 

 濛々と広がる煙を遠目に、阿武隈は何事かと目を剥いた。

 すぐにWG42の弾着煙だと察するが、それは榛名の補完艤装には搭載されていないはずの装備だ。

 まさか、榛名に続いて暁たちが救援に来たのかと感極まるが、しかし彼女たちが来たところであの敵をどうにか出来るものかと嘆く気持ちもある。“バンシィ”は強敵だ。自分たちと榛名と、そして暁たちの足並みが揃えば、撃沈とまではいかずとも撤退させることは出来たかもしれないのに。

 俯いて拳を握る阿武隈の股下を、高速の影が通過する。ソナーに頼るまでもない、敵潜水艦だ。しかも、かなりの高速航行能力を持つ。それがどういうわけか海面すれすれの位置で航行しているのだ。海上に位置する阿武隈からでも敵の全貌は視認でき、これなら爆雷を用いずとも単装砲で打撃を与えられるとすら思えてくる。

 実際に砲を構えて敵に向ける阿武隈は、この敵の正体を直感していた。9ヵ月前に、まるゆがほぼ相討ちの形で撃沈したはずの“ルサールカ”だ。やはり生き延びていたのかと表情が険しくなるのを自覚しつつ、しかしなぜこうして敵水上艦に自らの姿を晒すのかと疑問する。“バンシィ”の救援のために囮になるつもりなのかとも考えたが、もしこの敵が本当に“彼女”ならば、有無を言わさず海中から一撃見舞うくらいはするはずだ。

 敵の意図が読めず攻撃に踏み切れない阿武隈は、高速航行する“ルサールカ”と、黒煙の中にいる“バンシィ”の両者を警戒しつつ、自らの速度を緩やかに上げて行く。砲口が向く先は“ルサールカ”だ。“バンシィ”に対しては、ランチャーで攻撃した誰かがすでに対応を行っているはずなので、そちらはそちらに任せる。自分はこの敵の姿を見失うべきではないなと方針を固めたところで、阿武隈は自分の耳に届く音に気付いた。

 先ほどから小指の先ほどの違和があったが、ようやくそれがモールス信号だと像を結ぶ。発信者はわかっている。“ルサールカ”だ。息を詰めて耳を澄ませる阿武隈は、信号の内容を理解するまでにかなりの時間を要することになる。頭の中で、口の中で、彼女からのメッセージを繰り返して、それがどういうことなのかを精査して……。

 

 長く深く息を吐いて全身に力を行き渡らせた阿武隈は、視線と砲口の先で“ルサールカ”がターンすると同時に、脚部艤装のボードを切り返して自らの背後へと向き直った。そして、未だ黒煙が晴れない中にいる“バンシィ”に対して単装砲を構え直す。ひどく回りくどいメッセージだったと頬を膨らませる。「おにぎり おいしかった」など。あの日、あの海域で戦っていた自分たちにしか意味が通じないではないか。どういうわけか、今日この時において、“彼女”はこちらの味方らしい。頼もしいと思うべきなのだろうが素直にそう思うことは出来ず、どこかそわそわと落ち着かない気持ちになる。第一、協力関係になったからと言って、連携はどうするのだ。いちいちモールス打っていては“バンシィ”に気取られてしまうではないか。

 しっかりしろと自らに活を入れる。この場においては自分が旗艦なのだ。“ルサールカ”と連携を取る方法と、付近に残存する味方勢力の安否の確認をと考えを巡らせたところで、背後に気配を感じた。人の気配だ。背部艤装に搭載された機能が立ち上がろうとしているのだ。

 

「提督……!」

 

 阿武隈が、己が主を呼ぶ。呼応するかのように、“艦隊司令部施設”が起動した。

 

 

 ○

 

 

 “海軍”本部は幾歳続く深海棲艦との戦いの中で、敵支配海域における有効な指揮手段を模索してきた。敵の領域の外側から内部へと、安全に通信を行い艦隊に指示を送るための手段をだ。艦娘の艤装由来ではない通信器では、支配海域の内側で作戦行動に当たる艦娘に指示が届かない。通信係としての艦娘を支配海域のぎりぎり外に待機させる案も早期には考案されたが、護衛の艦隊ごと敵の標的にされて、かつ距離が開き過ぎると通信そのものが行えなくなるという難点から廃止されている。

 

 思考錯誤を重ねた結果、支配海域における指揮手段は、現状ふたつに絞られることになる。

 ひとつは、支配海域にて生ずる精神の変調を抑えるための薬物を投与し、提督自身が直接乗り込むというもの。“支配海域外から安全に”という本来の意図をまるで無視した手段ではあるが、この方法が2044年現在において一番有効と判断されるものだった。この投薬処置が主軸となってしまったがために、装甲空母による支配海域への突入作戦が強行されたのだが、そもそもこの薬の効果には個人差があった。上手く効果が現れない場合は支配海域外にあっても内部と同様の幻覚や幻聴を発症し、作戦に参加した提督の中には早期に海域を離脱した者も少なくはなかった。

 もうひとつは“艦隊司令部施設”の運用だ。艦娘の艤装にこの機能を搭載して、支配海域の外に居ながら艦隊周辺の状況を把握して指揮を執るといったものだが、この案はつい最近まで実験すらをも見送られていた。この艤装の機能を運用するには、提督にある素質を要求することになり、それは結果として直接支配海域へと突入することと何ら変わりがなかったのだ。そもそも、通信器同様に距離の問題がクリア出来ていない。

 

 その“艦隊司令部施設”が起動する。水無月島鎮守府における運用は、本来想定されていない支配海域内での起動。そして、無線封鎖用に夕張が調整した多重展開モードだ。通信距離の課題はクリア済みであり、かつ提督当人の極地活動適正から精神の変調が除外される。ここに、数ヵ月前に熱田島鎮守府の提督が行った起動実験の資料が加わり、諸々の細やかな課題をクリアする鍵となった。

 機能を搭載している第一から第四艦隊までの各艦隊旗艦、そして一部の単艦行動を取っている艦娘の背部艤装が、重く低く、そして高速の駆動音を発する。そうして生ずるのは、人の気配だ。水無月島鎮守府は執務室に増設された専用の設備。それに接続された提督の気配。その気配が、艤装の機能を用いて顕現する。

 阿武隈を始め、機能を搭載した艦娘たちの肩に、小さな影が両の足で降り立つ。それは一見して艤装妖精の姿ではあったが、他の妖精には決して有り得ない特徴を有していた。その身に纏う衣装が、提督が身に纏う軍装なのだ。艤装の機能を通じて、提督の精神を妖精と言う形で顕現させた姿だ。

 

「各艦、状況を報告」

 

 落ち着いた声で艦娘たちに呼びかける提督は、今や複数の風景を同時に認識していた。己が妖精の姿となり、そして複数体同時に存在して、それぞれ別々に思考して言葉を発する。それであって提督自身の意識は分割せずにひとつを保持している。夕張に言わせれば「かなり無茶な解釈に頼らざるを得なかった」らしいのだが、提督にはさっぱりだ。

 だがそれが、無線封鎖中の現状における一番の利点だ。通信器を介さず艦娘たちとやり取りし、吸い上げた情報を即座に全体で共有出来る。以前構想を聞いた際に思わず「ずるいね?」などと口走った提督に、「その分、可視化されていないリスクが山ほどありますから」と夕張が脅かすように、明るい表情で告げたことは記憶に新しい。

 自分がたくさん居て、それぞれ違う言行を取っているのに、意識はひとつだけ。その矛盾を今は努めて意識しないようにと心掛けて、提督は各艦隊から情報を拾い上げる。

 

 “バンシィ”に対応中の第一艦隊旗艦・阿武隈の肩からは立ち上る黒煙が視認でき、海中を行く“ルサールカ”の気配が読み取れる。遠く、負傷した響たちが“隼”五号艇に収容されてゆく光景を視認した提督は、操舵中の電の側からも状況を確認する。破損の軽微な巻雲と時雨はそのまま五号艇に残って治療と護衛とを行う流れだ。大破した響たちは一命は取り留めたものの、まだまだ危険な容態だ。こちらの判断が固まるまで処置は続行されるだろう。

 そんな中、提督は毛布にくるまった榛名が驚いた表情で固まっている姿を見て、電の肩から降りてそちらの方へと駆けてゆく。ぽかんと口を開けて固まった榛名は、自分の近くまで寄ってくる妖精の姿を視線で追い、ようやく「提督……?」と小さく呟くことが出来た。“艦隊司令部施設”が起動できる段階にまでこぎ着けていたことも驚きだが、そうして妖精の姿となった提督に二度驚いた。他の面々に取り乱した様子が見られないのは、すでに提督のこの姿を見慣れているからだろうか。

 

「すまない榛名。艤装をパージする前に一声かけられれば良かったのだけれど……」

「いいえ、提督。お声は届いていました」

 

 何せ、声が同じものだから、あの世から向かえが来たのかとも思ったほどだ。しかし、そうだとすれば、それは榛名の知る有馬提督ではないなと、こうして助かったからこそ改めて考え至る。有馬提督は、艦娘が自らの後を追って命を絶つような真似を良しとする人ではなかったはずだと、今さらに思い出す。そして榛名は、そんな有馬提督の思いを蔑ろにして自らの我を通せる程、我がままにはなれない。

 

「提督、お願いがあります」

 

 榛名の嘆願を、小さな提督は黙して待つ。

 

「提督のお傍で、最後まで戦わせてください」

 

 最後まで。その言葉が意味するところは、提督とて理解している。しかし提督は、榛名の嘆願に頷くことは出来ない。心情的なところではなく、権限の領域での話だ。1年近くの時間を提督として活動してきた身ではあるが、あくまで特例として海軍本部からお墨付きをもらっているという立場に過ぎない。次の通信までに海軍側の体制が変わり、提督の扱われ方も不利なものへと変わるかもしれないのだ。

 榛名はそういった事情を理解しているし、提督が返答に困るであろうことも察している。それでもいいのだ。この小さくなってしまった提督がどう応えるのかを、榛名は聞きたいのだ。

 

「心強いよ、榛名」

 

 まったくと、榛名は体の力を抜いて緩んだ笑みを浮かべる。性格や言葉遣いがまるで正反対のくせに、こういう時の言い回しだけは、榛名の知る提督とそっくりなのだ。

 水無月島で目覚め、事情を聞かされ、以来提督との接触は避けるようにしていた。会話をすることも。彼が自分の知る提督ではないのだと、認めるのが怖かったのだ。自分の傍を離れて行った艦娘たちと同様、提督までもがそうなのかと。

 それらの悲しみが消えたわけではない。吹っ切れたわけでも、不安が無くなったわけでもない。ただ、榛名はもう大丈夫だと、自分の内心を確かめた。自分は今し方、一度沈んだのだ。これまで溜め込んできた靄は、艤装と共にほとんど洗い流されてしまったのだから。ひとつだけ我がままが通ればいいなと微かに思うのは、彼が自分の最後の提督であればいいな、と。そして、比叡が守った水無月島で戦いを終えられればなと、淡い希望を願うように、そう思うのだ。

 

 差し出された小さな手と人差し指で握手する榛名は、そう言えばこんなことをしている時間があるのかと眉をひそめるが、提督は問題ないと頷いて見せる。こうして榛名と相対している間にも、各艦とのやり取りは同時進行している。

 

 

 第二艦隊旗艦・高雄の側からは、ランチャーを連打し煙幕を維持する夕張の無茶な駆動と、利根とプリンツが敵姫級に致命打を叩き込んで撤退させる光景が確認できる。指揮と情報収集に徹して速度を落とした高雄と天津風の護衛には、青葉が対応している。視界の端から端へと瞬時に移動し、艤装を複雑に変形させて敵の多様な艦種に対応する彼女の横顔は、提督が見たことのないものだ。それでいて、提督の存在に気付くと笑顔で手を振って来るもので、「うしろ! 青葉うしろ!」と、高雄と天津風をハラハラさせている。

 

 第三艦隊旗艦である熊野の側から目の当たりにした光景は、思わず目を背けたくなるものだった。緊急避難用の風景偽装バルーン(小さな岩場を模した形状だ)の中に避難しているのは第三・第四艦隊の面々だ。先に受けた報告の通り、叢雲と初春が大破し重症。一命は取り留めたらしいが、このまま治療を受けることが出来なければ肉体の方が持たない。

 応急処置を行っていた龍鳳と浜風は険しい表情を浮かべていたが、提督の出現を目にすると少しだけ表情をほころばせた。しかし、旗艦である熊野は座り込んで膝を抱えたまま動こうとしない。震えと嗚咽の合間にはひたすら「ごめんなさい」と誰かに謝罪する熊野へ、提督はだいぶ小さくなってしまった手で彼女の頬を撫でて労いと慰めの言葉をかける。苦しそうな熊野を撫でつつも、提督は熊野の艤装を経由して所在のわからない漣たちの姿を探す。

 

 “艦隊司令部施設”は艦隊旗艦と一部単艦行動中の艦娘に搭載しているものだが、艦隊旗下の艦娘たちにはその子機が搭載されており、そちらの方へ姿を現すことも可能だ。漣は負傷した祥鳳を護衛して退避している最中。卯月は敵航空機の機銃の雨を掻い潜って高速巡航中だ。熊野たちがバルーン内へ退避しているのは敵航空機の強襲を受けたが故で、ぎりぎりまで攻撃機を発艦させていたため逃げ遅れて負傷した祥鳳を漣が護衛して退避。卯月は皆が退避する時間を稼ぐために自らを囮として単艦離脱したのだ。

 

「う、うーちゃん、ちょーっと、無茶しちゃったぴょん……!」

「そうみたいだね。救援は?」

「要らないぴょん。当たる気がしないぴょーん」

 

 直後、爆撃機の落とした爆弾が間近で炸裂して、卯月の涙と鼻水が一気に噴き出したので救援は必須だと判断する。

 

「それより、千歳とはぐれちゃったぴょん……」

「大丈夫だよ。こちらで位置を確認したから」

 

 ハンカチを取り出しつつ卯月を安心させるように囁いた提督は、すでに千歳の肩にも姿を現している。仲間たちから遠く離れた位置で中破状態の補完艤装を立て直していた千歳は、提督の出現にほっと息を吐き、しかしすぐに表情を厳しいものへと変えて、第三・第四艦隊が敵と接触してから現在までの状況を簡潔に報告してくれた。千歳自身は卯月と同様に囮として飛び出したが、そうしたお陰で思わぬ収穫があったようだ。

 

「……そうなのか。では、あと少しだけ時間を稼げば、この局面は何とか切り抜けられるということかな」

「楽観するのは早いですけれど、ね。では提督、ご指示を」

 

 千歳に促された提督は頷き、各艦の位置関係を今一度確認して、一声を発する。

 

「各艦、行動を開始せよ」

 

 提督の一声で、全艦が同時に動き出す。この海域に展開した艦娘と深海棲艦の動きを俯瞰で追っていた者が居るとすれば、その動きが変化したことを確かに感じ取っただろう。艦娘側の全艦が、ひとつの命令系統の下に行動を開始した動きを。

 高雄旗下第二艦隊は回避行動中の卯月たちの護衛に向かい、“隼”五号艇が速度を上げて退避中の熊野たちを収容に向かう。

 そして、“バンシィ”への対応だ。

 

「敵、戦艦レ級、個体コード“バンシィ”に対応する。彼女に対して有効範囲に位置する艦娘は、手を貸してほしい」

 

 阿武隈の囁くような「ようそろ」の声が頭上から返り、遠く海面に頭を出して口を大きく開けていたまるゆが慌てて敬礼で応ずる。モールスで返答を送ってくるのは海中に潜む“ルサールカ”だ。自律稼働型生態艤装を再び身に帯びた彼女は水中から機会を伺っていて、いつでも攻撃に転ずることが出来る構えだ。

 “彼女”の協力は完全に予想外で、提督は正直戸惑いが拭いきれなかった。電たちの出撃準備中に第二出撃場の“かまちゃん”が暴れ出し、様子を見に行ったまるゆを捕縛して脱走した際には肝を冷やしたが、こうして味方の布陣を確認して、ようやくひと心地付けた思いだ。敵にすれば恐ろしく、しかし味方となれば、これほど心強いものはない。

 

「さあ、準備は整ったよ。暁?」

「レディを待たせるなんて……。司令官のエスコートがあるまで意地でも動かないんだから!」

 

 とは言いつつも、頬を膨らませる暁は海上を高機動形態で疾走中だ。暁の肩の上で、提督は「ごめんよ」と頬を撫でて機嫌を取り、黒煙を割いて移動を開始しようとする敵の姿を視認する。

 “バンシィ”が警戒するのは海中から頭を出してランチャーを撃ってくるまるゆと、海上と海中に新たに生じた高速の影。そして、一番注意を割いているのは、“バンシィ”の有効射程から離脱を試みようと舵を切った“隼”五号艇だ。

 第一艦隊がこの敵と最初に接触したときも、“バンシィ”は単艦で向かってくる阿武隈を無視して、“隼”の破壊を優先させた。そういう命令を受けているのかもしれない。破壊の手段は先と同じく、高高度へと跳躍した後に自重と速度を持って対象へと着地するというもの。例え直撃を免れたとしても、余波で“隼”が転覆する可能性は高い。

 いざその手段をと、尾を海面に叩き付けて跳躍した“バンシィ”は、高度が少しも上がらないうちに下方へと引っ張られる。その力のままに、勢いを殺し切れず海面へと叩き付けられた。

 

 

 ○

 

 

 上手く引っかけたものだと、暁は破損した錨鎖の巻き取り機をパージして海中に落とす。“バンシィ”が跳躍した直後にアンカーを投擲して、破損した脚部にひっかけて、あらかじめ海中に埋没させていた反対側の錨鎖を“ルサールカ”が“かまちゃん”を使って保持。“バンシィ”が高度を稼ぐ前に海面へと落とすことに成功した。海中での支援がなければアンカーをひっかけた暁も一緒に宙に投げ出されていたかもしれない。それで“バンシィ”の勢いを削ぐことは出来ただろう。だが、次いで“バンシィ”と綱引きとなれば、膂力の面ではもちろん、艤装の構成材質が持たなかったはずだ。

 

 宙から引きずり落とされた“バンシィ”はといえば、勢いのままに海面を転がって周囲と自らの状況を再確認するところだった。“隼”五号艇が有効範囲外に遠ざかってしまい、追撃は周囲の艦娘たちの妨害で困難になったことを察する。海上には先ほどから彼女の足を止めている阿武隈と、そして常に視界の端に映るばかりの高速の影。

 それよりも海中の2隻こそ最も警戒すべきだと判断する。うち1隻は先ほどからぽかぽかとランチャーで攻撃して来て鬱陶しいばかりだが、もう1隻は深海棲艦、本来なら“バンシィ”に命令を与えて操れるはずの上位個体だ。それが何故艦娘側に味方するのかまでは、“バンシィ”は考えない。ただ、的確に対応するべきだと思考して、展開する生態艤装のひとつは爆雷装備だ。体勢を立て直すも脚部の破損がひどく、速度は期待できない。これまでの交戦を振り返り、彼女たちが高速修復のタイミングを与えてくれるような手ぬるさは持ち合わせていないだろうと判断。脚部及び尾の咢ひとつの修復を見送り、現状のまま対応することを決める。

 敵の艦種は軽巡、駆逐と、砲火が脅威となる艦娘ではない。警戒すべきは潜水艦を含む魚雷装備だろうと判断し、今も海中から次々と魚雷を放ってくる“ルサールカ”に対応するため、爆雷を投じようとした時だ。

 

「阿武隈」

 

 その声は先ほどから聞こえ始めたものだ。“バンシィ”の記憶容量は人間の提督の声だと答えを弾き出すが、何故それが姿もなくこの場にあるのかまでは答えが及ばない。艦娘たちが無線封鎖を続けている以上、新たな艤装の力かと推測するが、その提督はただ艦娘の名前を読んだだけだ。名前を呼ばれた彼女に何が出来るのかと、かすかな疑問を見送ろうとした“バンシィ”は、その結果を即座に目の当たりにする。投射直前の爆雷に軽巡の砲弾が直撃して、誘爆を引き起こしたのだ。

 “バンシィ”は軽巡の砲撃を甘く見ていたわけではない。先の榛名との激突の際にも、単装砲の威力が自らの本体を傷付けるに足るものではないと、性能面だけではなく実感として得ていたのだから。直撃による被害は軽微と判断したが、当たりどころが最悪だった。もしも先の交戦で同じような真似をされていたのならば、“バンシィ”とて咢内部への攻撃を警戒しただろう。

 だからこそ、これより先は咢内部への直接攻撃が警戒網に追加される。展開目前の爆雷ならば、駆逐艦の砲火でも誘爆を引き起こすのだから。そしてそれは、海中の潜水艦たちへの対応手段をひとつ、手放すことに他ならない。海中からの雷撃は今なお続くが、疑似魚雷の蓄えが尽きないものかと、“バンシィ”の中に新たな疑問が生ずる。

 

 何故これほど魚雷を次々に放てるのかと“バンシィ”は疑問しているのだろうなあと、海中のまるゆは敵の内心を察していた。確かに、“ルサールカ”本体の疑似魚雷には限りがあり、それらは“バンシィ”への対応を開始した直後に使い切ってしまっている。“かまちゃん”に内蔵されている予備も同様だ。“ルサールカ”が今現在発射しているのは、元はまるゆが搭載していた予備の魚雷だ。まるゆはタイミングを見計らってそれら予備魚雷をパス。受け取った“ルサールカ”はそれらに接触し、瞬時に生態式の疑似魚雷へと変貌させて、まるで自らの予備であったかのように見せかけているのだ。

 まあ、そちらの方が性能的にも扱いやすいのだろうなと新たな予備魚雷をパスするまるゆは、“ルサールカ”と度々目が合うことに、どこかむずかゆさにも似た気持ちを得ていた。向こうもこちらを気にかけているのだなと思うと心がざわつくし、交戦中でなければ彼女と話したいことが山ほどあるのだ。しかし、今はお預け。阿武隈の働きのお陰で、“バンシィ”は海中に位置する潜水艦たちに対して、正規ではない方法での対応を迫られることになったのだから。

 

 滑るようにして自らの足元へと吸い込まれんとした疑似魚雷を、“バンシィ”は尾で海面ごと薙ぎ払ってやり過ごす。海中で爆発が生じ、無力化に成功した感触を得て、魚雷への対応は確定した。艦娘たちがどれだけのストックを用意していようとも、弾数は無限ではない。一発やり過ごすごとに負傷する懸念がないのならば、この方法を続ければいい。尾を海面に叩き付けるだけならば、咢が破損して機能を失った尾でも可能であり、そうすることによって残りふたつの咢を有効に運用することが出来る。

 爆雷や魚雷、艦載機といった装備では砲火で咢ごと潰されかねないため、敵への対応は主砲に限られる。さすがに砲口内に砲弾を通して内部を爆発させるような芸当は敵も取らないだろう。もし出来得るのだとしても、その時の対応策はすでに用意してある。

 現状、自らを取り囲む4隻に対してならば、膂力と砲火で充分対応可能だと“バンシィ”は判断する。最悪、榛名の時のように近接戦に持ち込んでしまえば、駆逐、軽巡のパワーなど容易に押し潰してしまえるとも。だから、自らの背後から吶喊仕掛けて来る駆逐艦に対して、警戒する以上の意識を割くことはなかった。

 まるゆがWG42で攻撃を開始した直後、新たに水上に出現した高速の影。駆逐艦ではあるのだろうが大きな違和感を残すその姿。咢を振りかぶった“バンシィ”は、タイミングを合わせて背後に迫った暁を打撃する。外した。タイミングこそ完璧だったものの、吶喊して来た暁が急加速と共に姿勢を低く落とし、打撃の真下を通過したのだ。

 

 暁は“バンシィ”の脇を通過するタイミングで、先程パージしたものとは逆側に位置するアンカーを放つ。目標は“バンシィ”が振りぬいたばかりの尾、枝分かれした内の1本だ。錨鎖の感触で掛かり具合を確かめ、巻き取り機を操作、錨鎖を放出して、そのまま高速で通過する。“バンシィ”にとっては意味がわからない行為だろう。膂力で劣る駆逐艦がわざわざ錨鎖で彼我を繋ぐ意図はなんだ、と。

 

 “バンシィ”の脳裏を過るのは、先の時雨の手管だ。この錨鎖を引っ張らせて何らかの連鎖を起こすつもりなのか。艦娘の装備は、特に駆逐・軽巡級のものは、この短時間にほとんどを目の当たりにした。そこから考えられる組み合わせをすべて割り出し、脅威に成り得るものは生じないと判断した“バンシィ”は、暁を引き寄せんと力任せに錨鎖を引く。

 

「司令官!」

「許可。荷重軽減、全カット」

 

 錨鎖のたわみで引きの衝撃がくるタイミングを予測した暁は、提督からの許可を得て艤装の荷重軽減機能をカットする。総量合わせて三桁の重量が一気に速度に加算され、錨鎖を引いたはずの“バンシィ”が逆に尾を引っ張られる形となった。体勢を崩してよろめくに留まった“バンシィ”だが、暁の方はその比ではない。突如発生した重量と衝撃を緩和するために、脚部及び背部艤装の一部を変形させ、肉体に負担が掛からない形状を保持。それでも襲い掛かる負荷に歯を食いしばる暁は、首を巡らせて“バンシィ”が体勢を崩した様を、確かに見る。

 

 追撃は即座に行われた。“ルサールカ”の雷撃が海中から迫る。“バンシィ”は海面を打撃する動きを取るが、思うように尾を振ることが出来ず、至近距離での炸裂を許してしまう。4つの尾はひとつの幹が枝分かれしている構造であるため、その末端ひとつを拘束すれば全体の動きを阻害することになる。この尾の構造によって重心の移動などを行い予測不能の動作を行ってきた“バンシィ”ではあったが、此度はその体構造が仇となった。荷重軽減をカットした駆逐艦の艤装の重量は1tには届かなものの、かなりの重量を誇る。綱引きで優勢とまではいかずとも、少しの間動きを止めるには充分だ。

 “バンシィ”はこの錨鎖を、“ルサールカ”の雷撃を支援するためのものであると判断した。ならば、これは早々に振りほどいてしまうべきだと、力任せに錨鎖を引きつつ、暁に向けて砲撃を開始する。榛名の砲撃を目の当たりにした“バンシィ”にとって、己の砲撃を初弾で命中させることなど、もはや造作もない。角度とタイミングをずらして3発、同時着弾するように計算しての砲撃が行われた。

 

 砲撃が来ると読んだ暁は、荷重軽減機能を再起動して、即座に錨鎖の巻き取りを開始。力任せに引っ張られるその勢いには逆らわず、錨鎖を回収しつつ加速してゆく。暁の進行方向は、“バンシィ”の進行方向に対して反対側。彼我を錨鎖が繋いでいるため、どれほど加速しようと距離を取ることは叶わず、逆に互いが円を描くような軌道で接近するだけだ。そんな暁の挙動までもを予測しての砲撃なのだろう。砲火と共に宙を裂く砲弾3発、暁は直撃すると確信した。

 ならばと、火花と白煙を上げる巻き取り機ごと錨鎖をパージして、その反動による加速を得て距離を取る。それでもぎりぎり回避には足りないと判断するや否や、両弦側のシールドを展開し、組み合わせて傾斜を付ける。直後、砲弾こそ3発とも直撃したが、その被害はシールドの全損と、空の魚雷発射管及び腕部主砲の損壊に留まった。暁本体と速力には影響がなく、急加速で黒いマントを翻し“バンシィ”の射程から離脱する。

 

 その姿を見送る“バンシィ”の中で、違和感が膨張を始めていた。己が砲撃が暁に対して全弾直撃したにも関わらず、本体へダメージが通らなかったことが原因ではない。致命打ではなく、仕込でもない行為。暁の挙動の意図が掴めなくなったのだ。先の錨鎖による捕縛を“ルサールカ”の雷撃支援のためかと判断したが、「もしや、違うのではないか」と、新たに疑念が生じてきたのだ。

 それに、とばかりに“バンシィ”が視線を向ける先は、駆逐艦・暁のその姿だ。“バンシィ”とて10年余りの歳月を戦い抜いてきた深海棲艦だ。その彼女の目から見ても、かの暁の姿は駆逐艦という艦種にあって、かなりの大柄に見えた。デフォルトの仕様とは大きく異なるのは確かだが、それは先の響や時雨とて同じであったはずだ。それらの大型化した駆逐艦たちは速度や火力の面で大きく劣化していたはずだが、この暁の挙動はなんだ。性能が減衰している他の大型な駆逐艦たちと違い、速度のキレが尋常ではない。仮想スクリューの回転速度もそうだが、高機動形態で高速巡航形態の最高速度をはるかに上回っているし、時折ステップを踏んで海面を跳び走るような動きをも見せるのだ。

 “バンシィ”はそんな挙動を取るものたちを知っている。自らをも含めた完全人型の深海棲艦がそうだ。類似点ならば他にもある。左目の眼帯奥から漏れ零れる粘ついた青白い燐光や、無機物であるはずの各部艤装が時折有機物のような質感に変質し、鼓動するかのように脈打つように見えるのもそうだ。それに、あの暁の艤装は静かすぎる。艤装妖精の数が他の艦娘に比べ、圧倒的に少ないのだ。砲弾や魚雷を搭載していなかったのも、そもそもそれ専用の妖精が居らず、艤装が稼働できないが故なのか。

 

 彼女も自分たち深海棲艦と同等か、それとも近しい存在なのかと疑問するも、それは一瞬だけ。そうして答えが出るわけでもないので、思考を其処までに留めておく。それよりも重要なことは目の前への対処だとばかりに、“バンシィ”の手には新たな生態艤装が構築される。アンカーと、それを繋ぐ錨鎖だ。暁が展開した艤装を見て盗んだもの。アンカーと名打ってはいるが、機能としてはシンカーそのもの。荷重軽減機能こそ再現されてはいないが、並みならぬ膂力の持ち主の手に振り回せる重しが生じたことは脅威に変わりない。

 そうして敵の新たな艤装を奪い取った“バンシィ”は、その有効な用途を高速で模索する片隅で、暁のこれまでの挙動をもう一度洗い直すべきではないかと、違和感や疑問が危機感にまで悪化していた。先ほどの、榛名との交戦までとは何かが決定的に違うのだが、具体的に何が違うのかが判然としない。判断材料を探すだけならば、“材料不足”という結果を含め、すぐに答えが出てくるはずだ。わずかな時間でいい。そうして短時間の思考に割くための猶予を、暁たちは与えなかった。

 

 “バンシィ”の後方で盛大な水音が立つ。ソナーの動向を注視していたため、何が起こったのかすでに理解している“バンシィ”だったが、それでも意図が掴めぬまま背後へと振り返る。海中にて雷撃を続けていた“ルサールカ”が、この局面で自らの本体を海面に浮上させたのだ。白の髪と白の衣装の裾を翻し、深呼吸するかような仕草を取ると、両の足でぺたぺたと海面を走り出した。打ち合わせていなかったのだろうか、“ルサールカ”のその姿には、距離を取って介入の機会を伺っていた阿武隈も口を開けて困惑している。

 

 外野の反応など気にするべくもない“ルサールカ”は、両手に機銃を発生させて“バンシィ”に向けて射撃開始。致命打でも何かの引き金でもないこの攻撃に対して、かの敵は反応を示さない。ただ、疾走して射撃する“ルサールカ”の姿を目で追うだけだ。そして、“ルサールカ”にとってはそれで充分だった。海中にて、まるゆの頭上から手信号にて行動を指示してきた提督の要求は、これで概ね達成することが出来た。疑似弾薬をすべて使い切った機銃を軽々と放り捨てると、そのままトンボを切って海中に舞い戻る。

 

 同時に、異変は起こった。“バンシィ”の尾や咢に引っかかったままのアンカー及び錨鎖が変質して生き物のように蠢き、又分かれした尾を拘束すると、その末端が勢いよく海中に没したのだ。尾を通じて、海中に没した錨鎖が、その先で何かとつながる感触を得る。バランスを崩して尻もちを突く形となった“バンシィ”は、ようやく敵の意図を理解する。暁が引っかけてパージしたアンカーと錨鎖を“ルサールカ”も生態艤装として再利用したのだろう。戦艦の船体を錨鎖で拘束し、潜水艦がそれを海中で引っ張るなど、まるでナンセンスな構図だが、双方が深海棲艦であれば話は変わってくる。

 水上での綱引きとは違い、此度の相手は海中だ。海中に没した錨鎖の位置も悪い、力の支点となる尾の根元だ。体を捻っての脱出も困難で、こうなっては自らの手で錨鎖を引きちぎるか、あるいは海中に潜む敵を力任せに引きずり上げるかしかない。尾で海面を叩いての跳躍も、先程暁にひっかけられた時の感触を思い出す限りでは飛距離を稼げないだろう。

 そうして“バンシィ”が対処を思案するわずかな間に、満を持して攻撃が開始された。耳をつんざく不気味な音はサイレンにも似て、それら複数が頭上から降ってくる。その気配を確かに感じ、“バンシィ”は暁たちと接触してより初めて空を見上げた。

 

 目前にまで迫った艦載機の爆弾が目標を寸分も違わず直撃して、爆音と炎と黒煙を噴き上げ、衝撃を打つ。“バンシィ”に対応中の艦娘たちの中では、一番離れた位置にいる千歳の仕事だ。補完艤装を決戦形態に移行したその姿は、身の丈の3倍以上の巨大な柱状格納庫を右背部に設け、右腕に巨大なグローブ状の艤装を装着したもの。グローブの五指はそれぞれ伸長展開しさらに3つに分割されて、その先端は十字型のアニメイターへと可変。操り糸の類は存在せず、誘導灯を模した赤と緑の点灯が見られる。格納庫内の艦載機を全機同時に発艦させるための誘導システムだ。

 本来ならば左側にも同様の格納庫とグローブを設けて左右対称の形状となるはずだが、中破した補完艤装では右側だけの展開で精一杯だった。それでも、“バンシィ”への対応を開始した直後に、千歳が保有する残存14機は爆装にて全機発艦している。“バンシィ”に気取られぬよう、彼女のほぼ直上、雲の中で機会を伺っていたものが、このタイミングで急降下を開始したのだ。

 

 直上からの攻撃に対して、拘束され尻もちを着いた形となっていた“バンシィ”は回避も防御も取れず、爆撃を直に身に受けるしかない。尾の咢4つを固められ、噛み砕きによる錨鎖の解除は不可能。立ち上がって無理やりに引きちぎろうにも海中の方で錨鎖の伸縮等の力加減を上手く調整しているのか、拘束を解くどころか立ち上がることすら出来ない。

 そもそも、足元に生ずる微細な気泡によって海面が崩れ、両足で立つことすら困難だ。直下で潜水艦たちがメインタンクをブローしている姿が容易に想像できる。先に“ルサールカ”が姿を見せたのはエアを補充するためか。そういえば、もう1隻の潜水艦も度々浮上して頭を出していた。

 しかし、こんな真似をして彼女たちの本体が持つものか。“バンシィ”はその考えを否と放り捨てる。潜水艦たちの残存エアが尽きる前に、ここで終わらせる気なのだ。

 

「――おかわり、いかがですか?」

 

 聞こえるはずのない艦娘の声が耳に届き、直後、新たな爆撃が4つ、間隔を置いて“バンシィ”を打撃する。狙いは正確で執拗、頭部を含む本体への攻撃だ。航空機の爆撃と言うこともあり防御機能の障壁は発生するが、余波はそれを貫通して身に届く。榛名との交戦で手ひどく損傷した防護機能を修復出来ていないのだ。新手に戦艦級や空母級の姿を視認出来ていれば防御機能の高速修復を優先させたはずだが、この状態に陥ってしまってはもうそれは叶わない。迎撃の手段に関しても同様だ。対空機銃の集中配備は現在拘束されている尾の咢に内蔵された機能であり、先ほど奪った手持ちの連装機銃は、最初の爆撃で両腕を損傷したため、両手ごと新たに作り直す必要がある。アンカーと錨鎖など真似ている場合ではなかったと、“バンシィ”は敵側が、こちらと接触した時点ですでに詰みに入っていたことを今さら悟る。

 6度目の爆撃で障壁の発生機能が完全に損傷し、爆炎と衝撃が直に本体を砕き焼いた。生態艤装のフードが焼けて上空への視界が通ると、今から自分を焼きにくる影が幾つも見えた。その光景、人間の感覚で再現すれば、力尽きて倒れ伏した死に体の真上を旋回する禿鷹にも見えたのだろう。自らの内側から湧き上がってくる何かを抑え切れず、“バンシィ”は口角を破けんばかりに開いて、喉奥よりもさらに奥、体の底からから叫びを上げた。

 

 

 ○

 

 

 その叫びが呼び寄せたものか、敵航空機の姿が遠くに現れ始める。徐々に数を増やし空を覆わん密度で展開する敵航空機群は、“バンシィ”への対応を行っている艦娘たちに向かって真っ直ぐ侵攻して来ている。あと数分と経たずにここ一帯が爆撃の有効範囲になると判断した提督は、全艦に攻撃中止を指示、即座に離脱を促す。

 提督が指示を送る直前に、“バンシィ”は自ら拘束を解いて脱出を果たしている。破損した脚部を修復する素振りも見せず、脇目も振らず一目散の離脱。追撃はしない。こちらも逃げる時間だ。

 

 他の艦娘たちはすでに目標を達成しつつある。高雄旗下第二艦隊は退避中の漣と祥鳳を無事に保護、輪形陣を維持して合流地点へと進行中。第三・第四艦隊の面々は“隼”五号艇が回収。途中、卯月が並走して来たため、電がクレーンを使って吊り上げ回収している。“バンシィ”に対応していた面々もすでに離脱を開始。機関に異常が出た千歳がかなり遅れ気味だが、まるゆが速度を落とし、いざという時に備えている。

 そうした中、敵の情勢を探っていた天津風が、ひとつの流れを掴み取った。敵の通信らしき波長を感知したのだ。敵の通信を解析し、敵航空機が現れた方角から敵母艦の大まかな位置を、連装砲くんたちが演算で割り出す。そして“隼”五号艇に搭載されていた彩雲の予備機を、龍鳳が仮想フライヤーを展開して発艦させた。まずは上空に展開している航空機、その母艦の位置を探り、そこを経由して敵の司令塔を特定しようとする流れだ。

 

 これで敵の尻尾を掴めるだろうかと、皆の心が早くも反撃に傾きかけた時だ。各艦娘たちの肩に顕現していた提督の姿にぶれが生じた。艦娘たちが口々に提督を呼ぶ中、妖精化した提督は苦しそうに身を折ると、その姿は消え失せてしまう。“艦隊司令部施設”の駆動も緩やかになって、徐々に終息に向かっている。鎮守府の側で何かトラブルがあったのかと、艦娘たちの間で焦りが生まれるが、今はもう指示通りに進むしかない。

 直前に指示された合流地点へと各々全速力で突き進む中、ただ1隻だけ反転した艦がある。暁だ。合流地点へ向かわず鎮守府へ引き返そうとしているのは明白で、阿武隈が急いで止めに入る。

 

「暁! ダメ、残り時間も少ないのに……!」

「でも司令官が……!」

 

 制止を振り切って鎮守府へ帰投しようとする暁に対し、阿武隈は正面に回り込んで、両手で駆逐艦の頬を張るように掴む。頬を打つ衝撃に驚く暁は、正面に構える阿武隈の、涙を堪え歯を食いしばっている姿にもう一度驚き、憑き物が落ちたかのような心地になる。

 

「提督は私たちへ指示を下しました! この後の行動はすべて決まっています! それに従ってください! お願いだから……!」

 

 血を吐くような叫びの主は泣きそうな顔をして、そんな顔をされては暁も従わざるを得ない。体の中から溢れ出しそうなものを堪える2隻は、“艦隊司令部施設”が再び駆動する音を耳にする。エラーから回復したのかと息を飲む2隻は、次いで顕現した妖精の姿に、一瞬表情が抜け落ちる。再び肩の上に姿を現した妖精は2隻が良く知る提督のものではなく、口元に立派な髭を蓄えた容貌していたのだ。

 

 

 



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18話:水無月島鎮守府の長い一日⑦

 頭の奥にまで届くような鈍痛に叩き起こされた提督は、自分が執務室の“椅子”から転げ落ちていることを、部屋の内装と目線の高さとで察する。自らが置かれている状況は即座に理解出来た。

 執務室に増設した“椅子”、提督の精神を妖精化して艦娘の元へ顕現させるための変換機。“艦隊司令部施設”の要ともいえるこの設備は、艦娘が艤装と同期する際に座する、あの椅子に良く似ている。それが今や、崩れてきた天井の破片に潰され損壊してしまっていた。あのまま座りこけていたら自分の頭も半分ほどに凹んでしまっていただろうなと冷や汗をかく提督は、自分を椅子から引きずりおろした命の恩人を下敷きにしている体勢に申し訳なさを感じる。

 

「助かった。間宮が引きずりおろしてくれなかったら、僕の頭も凹んでしまっていたよ」

「提督! こんな時に冗談なんて……!」

 

 「本気さ」と間宮の上から立ち上がろうとする提督ではあったが、力の入り方がおかしく、上手く立ち上がることが出来ない。今の今まで自らが妖精の姿となっていて、しかも複数体が同時に存在している状態だったのだ。いくら提督の適性上それが可能だとはいえ、こうして元に戻った瞬間に揺り返しは来る。この揺り返し、後遺症を抜くために“艦隊司令部施設”運用後数日は絶対安静が必要だと夕張たちには言われていたが、こんな状況だ。いつまでも間宮の上でもぞもぞとしてはいられない。

 立ち上がった提督は、天井の崩落や火災への消火対応を妖精たちに任せて執務室を後にする。道すがら、間宮から状況報告を受けながらも、その有り様は目にも耳にも明らかだ。妖精たちがあちこちで火災の消火活動にあたり、空襲を知らせるサイレンの音がけたたましい。“バンシィ”への対応を行っていたエリアへ現れた敵航空機隊とは別の編隊。こちらが空襲の本隊なのだろう。

 

「現在、雷さん酒匂さんが水無月島近海で防空対応中。秋津洲さんが航空機を出撃させて迎撃に当たっていますが、敵の編隊が途切れず……」

 

 こうして鎮守府への空爆を許してしまったと言うことか。千歳から大まかな推測を聞き及んではいたが、敵は本当に半年以上の時間、空母系の深海棲艦を集めて戦力を整えていたのだろう。こちらの索敵に今まで引っかからなかったと言うことは、拠点としている場所がそれだけ中部支配海域の端の方ということか。支配海域の一時解除時では標的となった姫鬼級を中心とした範囲しか衛星写真が明瞭化しなかったため、彼女たちが息をひそめていた区画に見当が付かない。つかないが、提督の思考は何となく「南方だろうか……」と南の方に向いていた。南方海域を根城にしている戦艦レ級がこれだけ北上して来ている現実もあり、“彼女”がこの時のために呼び寄せたとも考えられる。

 

「そうだとしたら、“彼女”は今日でここを終わらせるつもりなのかな……?」

 

 それは困る。彼女たちの帰る場所だ。それに、いずれ旅立つべき場所でもある。いつかはここを巣立って行くとはいえ、その日までは無くてはならない場所であるはずだ。

 間宮の肩を借りて、向かう先は島の飛行場直下の格納庫。壁や天井に伝って張り巡らせた伝声管は所々歪んだり破損したりで声が届かないため、現地で直接指示をする試みだ。鎮守府の外を突っ切れば機銃掃射の的になるため、一度地下を経由して進む。窓の外から見る限りでは、新たな迎撃機が発進している姿が見られない。何らかの原因によって、管制役の秋津洲が新たに航空機の発進を指示出来ない状態にあるのだ。

 

 

 ○

 

 

 酒匂の弾が敵に届く。機銃の射線上を掠めた敵機が翼から煙を噴いて傾き、放たれた砲弾が吶喊してきた敵機を正面から粉砕する。艦艇時代でも終ぞ体感することのなかった実戦の感触は不思議なもので、高揚と焦燥の入り混じった奇妙なものだった。ただ、その奇妙な高揚感に浸っていられる程の余裕は、今の酒匂にはない。語彙も貧弱なままに言うのならば「島がヤバい」。乙型兵装で共に出撃した雷と合わせても、このたった2隻の防空体制ではあまりにも力足らずだ。

 遠目に、鎮守府から火の手が上がる光景を目にしているのも焦燥にひと押しする。間宮が着いているので提督は無事ではあるだろうが、やはり本拠地を攻撃されているにも関わらずこうして防戦に徹していなければならないのはつらいものだ。鎮守府の次は飛行場に目標を変えたのだろう、敵航空機群はもはや酒匂や雷を素通りして島の飛行場へと殺到する。砲弾の届かない高高度へ上昇してからの急降下爆撃。もはや駆逐・軽巡の出る幕ではない。

 

 それよりも気掛かりなのは、先ほどから迎撃機の姿を見ていないことだ。敵が攻撃目標を飛行場に切り替えたのは確かだが、そうだとすれば迎撃機はどうした。もう長いこと、友軍機を見ていない。

 

「雷ちゃん! 飛行場から後続が出てこないよ!?」

「秋津洲に何かあったのかも……。救援に行くわ!」

 

 言って脚部のボードを切り返した雷に追走しつつ、しかしどうやってと、酒匂の脳裏には最悪の光景が浮かぶ。鎮守府の第一出撃場は、島への空襲が始まった当初に攻撃されて崩落してしまっている。補完艤装込みで出撃準備していた飛龍が出鼻をくじかれ、急いで第二出撃場へ行くと言っていたが、その第二出撃場をも即座に崩されている。艦娘が出撃し帰投するための設備が真っ先に攻撃を受けているのだ。艦娘が新たに出撃することはもちろん、帰ってきた皆を安全に収容することも不可能だ。

 当然、こうして海上に展開している自分たちも、正規の方法では帰投できない。どんな裏技を伝授されるのかと期待半分恐れ半分で雷の次の言葉を待つ。

 

「島の砂浜から上陸して、全艤装パージ。そして走る! 走って走って、鎮守府の裏手のシェルターから地下格納庫まで行って再艤装。エレベータで飛行場に出るわ。そこから反撃再開よ!」

 

 無茶苦茶だと、酒匂は悲鳴を呑み込む。無茶苦茶だが、しかし他に方法が思い付かないのも事実だと、真っ青な顔で雷の後を追う。途中、雷が「あ、司令官起きたみたい。廊下歩いている」と呟いたものだから、思わずよそ見して前を行く背中とぶつかりそうになってしまう。確かに、間宮に肩を借りて廊下を行く提督の姿がちらりと見えて、ホッとする反面、執務室に爆弾が直撃したのだと考えると冷や汗ものだ。自分の撃ち漏らしが引き起こした結果だが、そう言ってしまうには撃ち漏らしの数があまりにも多過ぎて泣きたくなる。なんとか泣かずに耐えていられるのは、自分の前を走って引っ張ってくれている背中があったからだろう。

 機能の劣化した駆逐艦たちの事情は、間近で見聞きして来たため酒匂も良く知っている。特に雷は暁たちと比較してもかなり“ダメ”な方だったため、再艤装化にたいへん難儀したケースだ。天津風や時雨のデータを参考にすることが出来て、ようやく長10センチ砲ちゃんたちを搭載した乙型兵装で戦えるようにはなったが、この現状を体験してしまっては今までの蓄積に意味があったのかと不平のひとつも上げたくなるだろう。

 しかし、雷はそんな暇はないとばかりに、機能の衰えた仮想スクリューをフル回転させて航行する。彼女にとっては、こうして海上で戦うことが自分の取れる手段のひとつに過ぎないのだ。やれることはまだまだある。出来得ることなら何でもやる。艦娘として戦えなくなっても何かを果たせるようにと、幾度も考え抜いたが故の迷いの無さなのだろう。

 

 上陸。砂浜の半ばまでを滑走した2隻は速度が落ちる前に艤装をパージ、勢いをそのままに短い距離をジャンプして砂浜に着地。そして艤装核を内蔵した腰部のパーツのみの状態で砂浜を駆け出す。艤装と同時にパージした長10センチ砲ちゃんたちが上空警戒で砲身を上げる脇を駆け抜ける酒匂は、いつものタイヤ引きより全然楽だなと、笑みすら浮かべる自分に驚いていた。体力作りとは言え艦娘が陸上走ってどうするのだと常々思っていたが、なるほど、これは役に立つ。すぐに雷に並んで、提督がよくドラム缶に入って転がってゆく坂を駆け昇る。鎮守府裏手へと回り、シェルターの取っ手を2隻で勢い良く持ち上げて開放した。

 安全確認のためにと雷がシェルター開口部に残り、酒匂が先行してステップを降りてゆく。鎮守府や飛行場への爆撃の音と衝撃がステップを伝い、手足を震わせる。攻撃を受けているのだという実感は先ほどから身に染みていたものの、艤装状態か否かでは心許無さの度合いが違う。今の状態で攻撃を受けてしまえば、なんの反撃も出来ず、それどころか身を守ることも出来ずにただやられるだけなのだ。初実戦の高揚の熱がすっかり冷めてしまった。

 顔を青くした酒匂がふら付きながら地下に降りると、待ってましたとばかりに雷が降ってきた。ステップを使わずの降下。数メートルの高さをクッション無しに飛び降り、四肢を着いた着地と同時に素早く前転して衝撃を逃がし、即座に立ち上がって、ふら付きながらも走り出す。唖然としてその背中を見送った酒匂は、次いで長10センチ砲ちゃんたちが同じように落下して来る気配を背後に感じた。衝撃を逃がすどころかろくな着地が出来ず、酷い金属を立てて動かなくなる姿を目の当たりにして、いよいよ顔色が真っ青になるが、次の瞬間には何事もなかったかのように起き上がる姿に言葉を失う。軽い動作確認と自己診断を行った後、唖然として固まっている酒匂の尻をジャンプして叩いて発破をかけて、先行した雷を追い掛けて行く姿が元気すぎる。

 これは頼もしいと勇気を奮い立たせるべきなのかと首を傾げん思いだが、「緊急事態、緊急事態」と涙と鼻水を酒匂は呑み込み、震える足で暗がりに消えた雷たちを追って走り出した。

 

 

 ○

 

 

 提督が飛行場直下の地下格納庫へ辿り着いた時、そこでは妖精たちが消火活動の真っ最中だった。敵の爆撃によって滑走路行きのエレベータが1機故障。次いで発生した火災の消火活動を開始して今に至るのだという。妖精たちから大まかな経緯を聞いた提督は秋津洲の所在について問うが、誰も見たものはいないらしい。火災発生時にはまだ飛行場で管制を行っていたはずだと言うが、消火活動に人手を割かれて誰も“上”の状況を確認していないのだ。

 さてどうするかと逡巡する間もなく雷たちが別ルートから走って来たものだから、提督はすぐに再艤装と攻撃の許可を下し、雷が長10センチ砲ちゃんたちを伴って予備機の格納庫へと駆けてゆく。少し遅れて酒匂がやって来て、何か言いたそうな顔で口をぱくぱくさせていたが、やがて敬礼ひとつして雷の後を追って行ってしまった。背中に「気を付けて」と声をかけると、振り向いて飛び跳ねて手を振って来たので恐らく大丈夫だろう。

 妖精たちに作業続行を告げた提督は、次いで間宮に飛龍の所在を確認するように指示し、自らはエレベータ横のステップを登って自力で飛行場へ出ることを試みる。稼働できるエレベータはまだ残っているが、昇降時に爆撃されればひとたまりもない。とは言え自力で上がるのも無茶なもので、爆撃の余波が衝撃となって壁を打ち、握力を奪ってくる。時雨や浜風に誘われてトレーニングを始めたのが、つい最近のことだ。こんな事ならもう少し前から体を鍛えておくべきだったなと、後悔ひとつ、脇に退ける。

 

 ようやくステップを上りきって目の当たりにする光景に、提督は顔を険しくして体の震えを抑えんとする。飛行場の滑走路は今や、墜落した敵と味方の機影の残骸が炎と黒煙と陽炎を立ち上らせていた。秋津洲の姿は見つけることが出来なかったが、彼女がいる場所は大よその見当が着いている。地上に全身を乗り出した提督は、一直線に航空機の地上格納庫へと駆けてゆく。屋根の一部が崩れて塞がれてしまった入口から秋津洲の名を呼び、退けられそうな瓦礫を力任せに排除して中へ進む。

 熱気と黒煙が肌を焼く中を進めば、秋津洲の姿はすぐに見付けることが出来た。地上格納庫の入口付近で、うつ伏せに倒れていたのだ。伏せるような体勢だったため煙を吸い込むことはなかった様子だが、崩れてきた瓦礫に足を挟まれて身動きが取れない状態だ。人ひとりでは到底退けることが出来ない重量の瓦礫の積載だ。駆け寄って、彼女の名を呼ぶも意識はない。脈があったことが不幸中の幸いだったかと立ち上がった提督は、梃子に出来そうな物を探して視線を巡らせる。

 足元からは咳き込む音が聞こえて来たのはその時だ。秋津洲が意識を取り戻したのだ。

 

「提督、今すぐここから逃げて……」

 

 咳き込み掠れる声で言う意図は理解している。地上格納庫は炎と煙に包まれ、そして天井がいつ崩れて来てもおかしくない。敵の爆撃機も迫っているのだ。そんな場所に指揮官である提督が長居してはならない。今ここで提督が意識を失ってしまえば、最悪死亡するようなことがあれば、水無月島鎮守府の機能はその時点で停止する。それ以前に下している指令は有効ではあるが、それを完遂してしまえば再び指示を待たねばならなくなる。身動きが取れなくなるのだ。

 それを承知で、提督はこの場に留まり続けた。手直にあった鉄の棒(恐らくは天井の一部だ)を引っ張り出したところ、火災で加熱されいたもので思わず放り出してしまう。軍手を持って来れば良かったなと、薄手の白手袋の上から再び鉄棒を掴んで瓦礫の下に差し込む姿に、秋津洲は眉根を寄せて「もう、馬鹿!」と掠れた叫びを上げる。

 

「提督がそういう人だってわかってるけど……、今回ばっかりはダメかも! ここで提督に何かあったら、皆の“これから”が無くなっちゃう!」

「そうだね、その通りだ。秋津洲が正しいよ。絶対皆、そう言うって、わかっているさ。でも、嫌だね」

 

 最後の「嫌だね」を吐き捨てるように発した提督は、梃子でも動かない瓦礫に顔をしかめ、鉄棒を肩で支え、全身を使って持ち上げようとする。

 

「皆には悪いけれど、きっと僕は良い提督にはなれないよ。正しい判断だけを行なうことは出来ない、正しい命令だけを下すことなんて出来ないよ。そういう提督には、僕はなれない」

 

 瓦礫を押し退けて秋津洲を引きずり出す。止まっていた血流が再開されて苦悶の表情を浮かべる秋津洲は、それすらも提督のせいだとばかりに涙ぐんだ顔で睨んで見せる。それでもいいさと目を細めた提督は、秋津洲を抱きかかえて立ち上がる。地上格納庫のエレベータはご覧の有り様なため使用は見送る。他のエレベータも同様だ。登ってきた時の様に手足を使ってステップを降りるしかないが、秋津洲を抱えたままでは困難だ。彼女だけを先に降ろすにしてもロープが必要になるし、下で誰かが待機していないと、現状では危険だ。

 崩れそうな地上格納庫から脱出しようとした提督は、航空機の音に慌てて陰に身を隠し、伏せる。直後、新たな爆弾が滑走路を直撃して、爆発の衝撃が格納庫を打った。断続的に続く爆撃に、陰から身を乗り出して外の様子を確認することも出来ず、衝撃と音に耐える時間が続く。建物が長くは持たないであろうことは明らかだ。秋津洲はずっと「提督の馬鹿」と繰り返していたが、度重なる衝撃のせいか、意識が朦朧として来ている。「ああ、その通りだ」と返す提督は、後でみんなにしっかり怒られようと歯を食いしばる。そして、秋津洲を抱え直して、活路を探して首を巡らせる。こんな状況下にも関わらず、ひどく落ち着いた心地だった。鎮守府再稼働から今まで、ずっとこんなことになってしまった時、自分はどうするのだろうかと、夜な夜な考え続けていたからかもしれない。そして、そんな事態に陥った時は、ずっとこうすると決めていたのだ。

 

 そんな時だ。ふと人の気配を感じ視線を上げると、軍装の男がひとり、傍らに立っていた。大男と言って過言ないその体躯は、腕を伸ばして真っ直ぐ一方向を指さしている。大きめの排水ピットに繋がる側溝を指し示すその意図を、提督はすぐに理解した。秋津洲を抱えたまま、身を低くして、急いでその場所まで走り出す。敬礼でこちらを見送ってくれる大男に、小さく礼を呟き、提督はグレーチングが外れた側溝へとスライディング気味に滑り込んだ。

 その直後だ。地上格納庫にダメ押しの一撃が加えられ、炎上し倒壊しかけていた建物に止めを刺した。

 

 

 ○

 

 

 じんわりと冷たさが体に染み込んでくる感触に、秋津洲の意識は一気に覚醒した。水底に沈む悪夢の感触にひどく似ていたため、条件反射的に覚醒を果たしたのだが、その直後体を襲ったのは急浮上の感触。そうしてようやく、自分が今まで水の中に居たことを理解する。正確には排水ピットの中だ。自らを抱きか開ける提督の服があちこち擦り切れたり汚れたりしているのは、側溝を経由して辿り着いたからだろうと察する。空を見上げれば地上格納庫の屋根が無くなって、気持ちの悪い曇天が覗いている。倒壊するぎりぎりのタイミングだったのだと悟り、火照った体に冷や汗が流れる。

 排水ピットの中から立ち上がった提督は荒い息を繰り返していたが、秋津洲が意識と取り戻したことに気付くと口元をゆるめていつもの顔になる。ぷいと顔を逸らした秋津洲は、そのまま提督と目を合わせられなくなってしまっていた。排水ピットに潜り格納庫が倒壊して、それからこうして空気のある場所に出て来るまで、自分たちは水中にいたことになる。それまで、呼吸はどうしていたというのだ。意識が朦朧としてはいたが、呼吸が苦しくなかったことは体感として残っている。想像力豊かに考えを巡らせてひとりで熱を上げている秋津洲は、提督が身を屈めて再び水中に没した感触に何事かと肩を竦めた。

 敵機がまだまだ、島の上空を旋回しているのだ。爆弾を投下した敵機の形状は、この位置からでも良く見える。海洋生物のマンタを無理やり飛行機にしたかのような歪なもので、機体前方に二門の疑似機銃スロットが有り、後部には回転式の機銃台座が設けられている。あの疑似機銃でかなりの迎撃機がやられたのだと、秋津洲は声を潜めて提督に囁く。爆撃後も上空に残って制空維持するあの敵機に対して、こちらの迎撃が追い付かなかったのだ。

 

 あの敵機が空に居座り続けている限り、この場所から移動するのは危険だ。格納庫の倒壊に巻き込まれる心配はもうなくなったが、今度は機銃掃射の雨に晒される危険が出てきた。今でこそ瓦礫が折り重なって提督と秋津洲の姿を隠してはいるが、これだけ丹念に旋回を続ける敵機だ。見つかるのは時間の問題かもしれない。

 提督と共に退避可能な場所をと探せば、目に付くのは一番近くのエレベータ。提督が自力で登ってきた箇所だ。迎撃機の昇降がある以上、敵機もこの箇所に目を光らせているだろう。例え急いでエレベータまで駆け寄ることが出来たとしても、地下までの数メートルの距離を秋津洲を抱えたまま飛び下りるのはリスクが大きい。足を負傷したことで自分がお荷物になっているなと息を詰めた秋津洲は、提督の顔が曇る様に眉根を寄せる。おそらく、提督自身が囮となってその間に秋津洲を退避させるなどと姑息なことを考えているのだろうなと的確に察した秋津洲は、彼の胸元を拳で小突く。

 

 そうして万策尽きようかと言う時、変化は地下の方からもたらされた。脱出経路として目を付けていたあのエレベータ、その天井部分が突如内側から爆発して吹き飛んだのだ。何事かと目を見張る提督に、腕の中の秋津洲は「長10センチ砲ちゃんの砲撃だよ」と囁く。黒煙と破片が宙を舞う中、間髪入れずに地下から出現したものがある。それは青白い輪郭を持つ半透明の非物質。弓を用いる空母系の艦娘が緊急時に展開する飛行甲板、仮想フライヤーだ。

 たった今地下で展開されているであろう光景を脳内に思い浮かべた秋津洲は、提督もきっと同様のことを考えていたのだろうと察する。提督は大きく息を吸い込み、力の限りの大音量で声を上げたのだ。

 

「空母・飛龍の全艤装、地上展開を許可! 行動を開始せよ!」

 

 直後、仮想フライヤー上を滑りなぞるようにして放たれた矢がエレベーターの孔から射出され、宙で爆ぜた。矢から複数に分かたれ白煙に包まれたそれらは、降下を開始した直後の敵機をすれ違いざまに機銃で叩き落とし、島の上空で旋回していた敵機のさらに上を取る。鈍い陽光を浴びたそれらは、軽やかに宙返りして急降下、旋回中の敵機へと殺到する。白煙を晴らし現れたその姿は、零式艦上戦闘機。

 煌めく翼に見蕩れる秋津洲は、提督が自分を抱え直してエレベータまで走り出す姿に、軍服の胸元にしがみ付く。飛龍の仮想フライヤーはすでに消失して、第二次攻撃隊が発艦する気配はない。エレベータのすぐ近くで腰を落とした提督が下階へ向けて呼びかければ、雷や酒匂の元気な声と、気の抜けた飛龍の声がそれぞれ返る。飛龍の声量から、たった一矢放っただけでも相当に消耗していることがわかる。かなりの無茶をやらかしたのだ。

 

「司令官! 艦戦が時間を稼いでいる間に、奥の八番エレベータに!」

 

 雷の呼びかけ通りに、提督は秋津洲を抱えて奥のエレベータまで走る。すでに昇降機能は復旧し、上昇してきたエレベータからはぐったりした顔の飛龍が現れる。息を飲む提督たちの姿を見付けると、怠そうな顔を不敵に歪めて「初陣、初陣」と笑んで見せる。ふら付く体を提督に支えられ眉がハの字に下がったが、秋津洲が肩を叩くと、こちらの頭に手を置いて、そして歩き出した。

 

「見てろよ多聞丸……!」

 

 

 ○

 

 

 両手で頬を張って大声上げて、提督たちを背後に庇うように立った飛龍は、ゆっくりと射形に入る。とはいえ、体に力が入らない。先程の仮想フライヤーでの発艦でほぼほぼ体力を使い果たしてしまった気すらするのだ。話しに聞いていた通り、体の中の、何か致命的なリソースがごっそりと失われたかのような感触を飛龍は得ていた。もう一度同じような発艦手段を取れば、気を失って二度と目覚めない気さえしてくる。しかし、あと一射。地下の皆が迎撃準備を整えるまででいい。あと一射分の艦戦が必須となるのだ。

 上空で奮戦している零も長くは持たない。早く次の手をとはやる飛龍は、目がかすみ体に力が入らない自分に恐怖を覚えた。体の不調が悪化することへの恐怖ではない。自分が全く使い物にならずに終わってしまうかもしれないという恐怖だ。訓練の時間から「置いて行かれる」ことを漠然と恐れていたが、いよいよそれが現実となる時間がやって来たかのような心境だ。考えが悪い方に傾いて行こうとしているのを自覚するも、それを振り払ったり脇に置いたりはまだまだ出来ない。だからこそ、地下から提督が声を張り上げて命令を下す姿をありがたいと思う。そうして命じられることによって、ようやく切り替えが可能になる。自分の内側で決着を付けている時間がないからこそ、外から引っ叩かれる方が、今はいいのだ。

 

 仮想フライヤーは展開した。長大な飛行甲板の亡霊は姿がぶれ、少しばかり霞んでいても、この一射だけはその役割を果たすだろう。問題は追い風だ。先の地下からの一射はその追い風も無理やりに“あるもの”として扱ったが、それ故に多大な負荷が体に掛かっている。もう一度はそれをこなせそうにない。こればかりはどうにもならないかと焦りを噛みしめる飛龍は、撃墜された敵機が苦し紛れに爆弾を投下する様を視界の端に捕らえる。それを利用することに躊躇う時間は必要なかった。

 時間とタイミングは充分に間に合うと頭の中で演算を行い、立ち位置を改め新たに射形を整えてゆく。そして、投下された爆弾が飛行場の滑走路を直撃し、炸裂し、瞬時に爆風が体を叩くその瞬間、飛龍は矢を放った。放たれた矢は破片を上手く躱して艦載機として“成立”し、上空の迎撃へと加わる。内心で拳を握らんばかりの飛龍だったが、気が付くと残心も取れずに膝をついている自らに、呆れた笑みが浮かんでいた。爆風の圧と、体に直撃した破片が、遅れて痛みとしてやってくる。酷いのは破片よりも衝撃だ。体内と外で圧が変化したのか、音が聞こえず、吐き気まで込み上げてくる。泣きそうになるのを体を追って叫んでやり過ごすが、そうすると今度は気を失いそうになる。体力と気力を消耗する速度が速すぎるのだ。上空の戦闘の音が遠退く。

 

 耳と意識がはっきりしたのは、対空砲火の音を聞いたからだ。慌てて顔を上げた飛龍は、自分がどれだけの時間意識を失っていたのかと焦るが、周囲を見渡してすぐに安堵に変わる。零が上空の敵機を抑えている間に地上に上がってきた雷と酒匂と、そして長10センチ砲ちゃんたちが地上運用モードで敵機の迎撃を開始していたのだ。

 

「敵機そのものを狙わずに! 自分の担当エリアのみを砲撃して、宙に弾幕の面をつくるんだ!」

 

 いつの間にか提督も地上に戻って来ていて、飛龍の傍で皆に指示を送っている。肩に提督の上着が掛かっていることに今さらに気付き、「やったよ多聞丸……!」と密かに拳を握った。

 

「飛龍? お目覚めかい? 立って歩けるかな」

「立てはするけど、歩くのは無理かなあ……。言っとくけど、下がらないからね? 無理やり抱っこなんてしたら、ごねるから」

「それじゃあ抱っこは次の機会だ」

「……あれ、なんか旗立っちゃった?」

 

 砲撃中の酒匂が首だけ巡らせて「ずるいー!」とごねるが、これは提督、ごねた娘みんなに対応する流れだろうかと飛龍は渋い顔になる。ともかくここから引く気はないのだ。手繰った矢筒がからであることを手指の感触で確かめ、エレベータの孔に向かって「間宮さんおかわり!」と一声叫ぶ。「はい、ただいま!」の返事、一拍遅れて新たな矢筒が射出されてきたのだが、間宮はいったいどうやったのだろうか。

 

「艦戦の援護は嬉しいけれど、どうもそれだけじゃ足りなくなりそうよ?」

 

 雷が震える声で告げる。その視線の先を見た飛龍は、立ち上がりかけた足腰から力が抜けて行く感触に絶望を覚えた。島の南南東方面より、新たな敵機の機影を目視にて確認したのだ。機影が遠方にあるにも関わらず、しかしそれを目視で確認できたのには理由がある。それらが空を覆わんばかりの数だったからだ。敵航空機の第二次攻撃隊。こちらの弾数や補給のタイミングを鑑みるに、現状の戦力での迎撃は不可能な数だ。

 提督は即座に退避の指示を下した。雷を殿として、飛龍と酒匂は再び地下へ。悔しさに歯を噛んで行動を開始しようとした艦娘たちは、しかし目に飛び込んできた光景に動きを止める。

 

「……ねえ、敵機。落ちてる?」

 

 酒匂の言葉通りのことが起こっているぞと、飛龍は遠目にその光景を見つめていた。水無月島に向けて一直線に飛来する黒い敵機群が、次々と火を吹いて海面へと吸い込まれてゆくのだ。こちらの迎撃機はすべて撃ち落とされているし、飛龍の艦戦も残っているものは上空への対応で手いっぱいなはずだ。

 いったい何が起こっているのだと呟く提督の疑問には、驚きに声を上げた雷が答える。

 

「敵機、二種類いるわ! 島を攻撃してきたのと同じ黒いのと、白くて丸いやつ!」

 

 提督も双眼鏡でようやくその姿を確認し、ホッと安堵のため息を吐く。目を丸くした飛龍や酒匂が無言でどういうことだと詰め寄ると、「間に合ったんだ」とよくわからない返答だ。

 

「熱田島鎮守府所属の鹵獲機隊。援軍が来てくれたんだよ……!」

 

 提督の声が熱を帯びていることに驚く飛龍は、再び敵機群へと視線を戻す。白い球体上に近い機体には、確かに熱田島鎮守府のエンブレムが確認できる。本当に援軍がやって来たのだ。

 

「……ちぇ、これから大活躍するところだったのに」

 

 強がりの言葉が出たのは何故かはわからなかったが、これでようやく意識を手放してもいいのだなと考えた瞬間、飛龍の視界は真っ黒に染まり、前のめりに倒れて行った。

 

 

 ○

 

 

 あ、酔う。これは酔う。絶対。巻雲は己の体調をそう直感した。何しろ操舵が荒々しい。“隼”五号艇を駆る電のキレと、敵機が至近距離に落とした爆弾(これは電が直撃を回避している、ということでもあるのだろう)が炸裂して生ずる波が、“隼”の船体を叩き揺らすのだ。電の操舵がなければ収容した皆がお陀仏なのだが、それしてもこれは酔う。負傷者への処置をあらかた済ませて袖口で口元を抑えていると、同じように口元を抑えて座り込んでいる浜風と目があった。仲間、仲間ー、とハイタッチを求めるも、手が触れ合う前に大揺れで2隻とも床に転がった。乗ったことはないが、ジェットコースターと言うものはおそらくこんな感じなのだ。そう確信を得る。

 

「みんな、あともう少しの辛抱なのです! 見えてきました!」

 

 電の声に、手すきの者たちが“隼”の窓に駆け寄り、あるいは船室から跳び出て、“見えてきた”ものの正体を目の当たりにする。波しぶきをくぐった先、蝿の様に敵機が群がる中を進む巨影があった。全長200メートルを超える船体は三門の砲塔と後部飛行甲板を搭載した姿。前回の衛星通信時にはデータが存在しなかったはずの、航空戦艦の超過艤装・伊勢型のそれが、波をかき分け敵機を振り切ろうとしている。

 

「向こうさんも攻撃を受けているみたいだけれど? こちらも迎撃に出る?」

 

 問うたのは時雨で、彼女の背後では漣と卯月がいつでも出撃可能だとばかりに拳を振り上げている。

 

「その必要はない。貴様らは現状“隼”内で待機、こちらと合流次第、速やかに負傷者を移譲させろ」

 

 はやる艦娘たちを諌めるように告げる男の低い声は、電の背部艤装に乗った妖精から発せられた。提督の衣装に身を包んだ口髭の妖精、その正体は熱田島鎮守府の提督、木村少将のものだ。提督が“艦隊司令部施設”から放り出された直後、タイミングよく暁たちの下に現れたのが彼だ。先んじて提督から合流地点への座標は指定されてはいたが、負傷者への対応準備などの確認を行うために、彼自らが妖精化して確認しに舞い降りたのだ。

 

「この妖精さんはお髭が生えているぴょん」

「うちの提督もこれくらいダンディならねえ……」

「無精ひげじゃなくてちゃんと手入されているってのがポイントよね」

 

 卯月や時雨、漣たちの呟きからやんややんやと初めてしまう艦娘たちに、木村提督はため息を吐くようなジェスチャーで肩を落として見せる。

 

「……髭は秘書官の趣味だ。昔から髭はやせとうるさくてな」

 

 まさかの身の上話に、叱られるのではとすくみ上っていた面々から肩の力が抜ける。声の質やしゃべり方から厳格そうな人物だと判断していた浜風などは、卯月や時雨が物怖じせず木村提督を突っついている様に眩暈がしたが、あわあわと手を振るだけでどうしたものか。ひとまずべっこう飴勧めておく。

 

「それより木村提督。超過艤装が敵機に襲われていますけれど、本当にこちらから支援は……」

「くどいぞ、空母・千歳。満身創痍の貴様らにこれ以上の働きはさせられん」

 

 それにと、木村提督は電の肩の上で身を回し、自らの城を仰ぎ見るようにする。

 

「熱田島から連れてきた、精鋭ばかりが19隻。侮ってくれるな、水無月島」

 

 

 ○

 

 

 超過艤装・伊勢の後部甲板が稼働する。その広大さから飛行場の概念を適用して攻撃機の発艦を担っていた場所だが、水無月島への支援のために鹵獲機隊が発艦したため、敵航空機には残存機のみでの対応となる。その残存機も、この海域に至るまでに消耗し、今艦上で戦闘を繰り広げているのは悪運強く生き延びたものたちだ。エレベータで新たに上昇してくる影は無く、しかし、その後部甲板のカタパルトは稼働した。本来であれば水上戦闘機の発艦に用いられるはずのカタパルトだが、超過艤装においては別の存在を射出する用途に割り当てられている。艦娘をカタパルトで射出するのだ。

 

「出撃は重巡以下! 阿武隈と霧島はお留守番よ! 対潜対空、充分に注意なさい!」

 

 艦橋の拡声器からは木村提督の秘書官である駆逐艦・霞の甲高い声が発せられ、後部甲板で出番を待っていた艦娘たちが「ようそろ」を返す。先陣を切るのは駆逐艦だ。磯風を先頭として、若葉、曙、潮、秋雲、風雲と続く。射出され、宙で大きな弧を描き、ボードの緩衝機能を用いて着水。即座に仮想スクリューが発生・回転し、ボードの先端を上げてウィリー気味に行く。

 最後の抜錨となった風雲は射出され宙で弧を描いている最中に運悪く敵機と接触、咄嗟にボードを両脚に分割、右脚部で敵機の翼を掠めバランスを奪って、自らは安定した着水を果たした。翼から煙を噴いて墜落して行く敵を横目に「良し」と拳を握ると、艦橋の拡声器から霞のお叱りが届く。

 

「こら! 風雲は敵機キックしない!」

「そこに居たのー!」

 

 言い訳ひとつ置いて腰部の爆雷群を展開してゆく。次いでソナーの反応に息を呑むのは、かなり浅瀬に入り込んでしまったからだろうか。操舵に集中している伊勢と日向もわかっているはずだとは思うが、下手をすれば座礁しかねない。

 敵潜水艦の脅威が無いことを艤装妖精が艦橋に報告すれば、いよいよ重巡級以降の出撃となる。先手は熱田と水無月、両鎮守府の腕章を腕に巻く重巡・那智と足柄だ。元は水無月島鎮守府所属であったのがこの2隻だ。島を去って以来各地を転戦していたものが、今回の航空戦艦による救援で、いよいよ古巣へ帰還を果たしと言うわけだ。

 気合の声と共に出撃する2隻の後には鳥海と筑摩が続き、対艦戦闘の用意となる。とはいえ、目視できる範囲では敵航空機以外の脅威はない。海中に潜む敵も無しだなと装備を対空優先に切り替えてゆきながら、しかし遠目に高速で迫る艦影を見とめる。

 

「何あれ……」

 

 水無月島所属の“隼”だ。あちらもあちらで敵航空機の攻撃に晒されているが、銃撃や爆撃を完璧に予測したかのような正確さと鮮やかさで回避している。終いにはドリフト気味に風雲のすぐ脇を掠めて伊勢の横っ腹に停止を果たした。即座に負傷者を超過艤装に収容する流れに移っているため、風雲は慌てて対空支援を開始。横目にちらりと姉妹艦の姿を見付け高揚するが、うち2隻が重症で心臓を鷲掴みにされたような心地になる。同様に姉妹艦が負傷している若葉もそうだろうか横目に彼女を確認するが、何分表情がわかり辛いのでどうしたものか。

 

「ちょっとお! 敵機多いよ! こっちは艦載機出せないの!?」

 

 防空対応中の秋雲が悲鳴のような声を上げる。確かに、迎撃機の数が足りないとは風雲も感じている。北方棲姫から借り受けた丸いのは先行して水無月島鎮守府の救援に向かってしまっているし、こちらの陸攻も消耗が激しい。空母の葛城はつい先日の負傷がまだ癒えず、入渠ドックで眠りっぱなしだ。無論、出撃の許可は下りていない。現状では新たに出せる航空機が無いのだ。

 自分たちで防空対応に専念するしかないなと口の端を歪める風雲はしかし、後部甲板に現れた人物を見て目を見開く。

 

「鳳翔!? やる気!?」

 

 自分たちより頭ひとつ背が高いくらいの彼女が、風に身を打たれながら後部甲板の縁に立っている。艤装の操作性が落ちて出撃は控えるようにと宣告されていたはずの彼女が何故と、疑問する視線の先、鳳翔の手には島田機関製のクロスボウ型発艦装置があった。装甲空母・大鳳の主兵装として知られるそれは、経験も浅いままに実戦投入される空母にとっては、その場しのぎながらも信頼がおける艤装だ。しかし、開戦当初から現存する彼女がそんなものに頼らざるを得ないほど消耗しているのかと思うと、風雲の表情は強張ってしまう。

 それでも何かしたいはずだと、風雲は彼女の所作を見守る。鳳翔の袖には、先の那智や足柄同様、腕章がふたつある。彼女もまた、水無月島の所属だった艦娘なのだ。負傷者の移送中の艦娘たちが鳳翔の名を呼ぶ声が幾つか聞こえる。当時の彼女を知る者がいるのだ。その声を聴いてしまっては、最早彼女は手を抜けない。

 

 鳳翔はクロスボウのグリップを右手から左手に持ち替えて握り、水平ではなく垂直に構える。左右の弓がそれぞれ三倍の長さに伸長し、張り直された弓弦を指でなぞって確かめた鳳翔は、マガジン後部に右手を添えて、左手のグリップを可変させて、横ではなく縦に握るようにする。経験が浅い空母でも使用可能と言うことは、その使い手が練度を上げた姿にも対応しているということだ。使い手の成長を見越して設計された発艦装置の、これが第二形態。より弓道の射形に近付いた形は、鳳翔がまだ完全に力を失ってはいないという証明でもある。

 マガジンから延びる青白い仮想の矢、その羽を摘まみ、大弓でするように引き絞る。大弓とは異なる得物で、しかし射形は成立して、艦載機の発艦は果たされた。そうして残心までを正確に成した鳳翔ではあったが、そこで力尽きて姿が見えなくなる。おそらく倒れたのだろうという悪い予測と、留守番の霧島たちがフォローしたであろうという良い予測がある。

 

 ともあれ、これで防空の手数は格段に増えた。超過艤装を守るのに手いっぱいで、自分たちを狙う爆撃や雷撃にまで手を割けないのが現状だった。後は敵の増援さえなければこの場を凌ぎ切れるなと勝ち筋を確信した風雲は、超過艤装の巨体がかすかな異音を発しているのを耳に捕らえる。最初は自分の背部艤装の音かとも思ったが、徐々に遠雷のような音圧に達してゆく不快な音に、これはまずいと背後へ振り返る。

 

「スクリューがいかれてるの……? 伊勢!?」

 

 第一砲塔上で超過艤装の操舵を担っていた伊勢が、頭を抱えて天を仰ぐ姿が目に飛び込んでくる。どうやら本当にスクリューをやってしまったらしい。この支配海域の海水、その異常な水質が引き起こしたトラブルだ。たった今も足を付けている海水は、敵が自らの装甲を修復したり、疑似燃料を精製するために必須となる成分を含んでいる。それが姫級や鬼級ともなれば、新たな生態艤装を瞬時に構築するための材料にもするだろう。通常の船舶が長時間航行するだけでスクリューのシャフトや羽を損じ、舵の機能を損なう。それ故に艦娘の艤装では仮想スクリューでの航行が基礎となっているが、超過艤装にはその機能が搭載されていない。これまでは速度を調整してスクリューを気遣う航行を心掛けてきたが、敵機を回避するために速度を上げたのが凶と出た。

 そして、どうやら舵も一緒に逝ったらしい。徐々に右舷側へ逸れてゆくのを何とか制御しようとする伊勢の大仰な手振りを見送った風雲は、それほど間を置かずに超過艤装全体が大きく振動して減速、停止する姿に、ため息とともに額を打った。幸いだったことは、その頃にはもう敵航空機はあらかた片付いていて、増援も周囲には確認出来ずと報告を受けたことだろうか。

 

 警戒は解かず、防空姿勢のまま次の指示を待つ風雲は、遅れて合流を果たした水無月島の2隻を遠目に見る。駆逐艦・暁と軽巡・阿武隈だ。阿武隈はこの伊勢型にも乗船しているが、こちらの阿武隈とは随分と雰囲気が違うものだ。目を細め、あちらの方が頼りになりそうだなと余計なことを考えた矢先、風雲はその異常を目の当たりにした。阿武隈に肩を貸されて並走していた暁が、高速を保ったまま自ら離れ、全艤装をパージして海面を水切りするかのように前転、緊急浮上用のフロートを発生させてそれに背中を預けたのだ。

 いったい何事かと、驚き呆けた風雲の表情は、次の瞬間には引き攣った。暁がパージした艤装の個々が、まるで生き物のように蠢き、膨張したかのような動きを見せたかと思えば、自壊して鋼に戻り、海中へ没して行ったのだ。目の前でわずかな時間だけ展開された、この光景はなんだ。全身にびっしりと発汗した感触に今さら気付く風雲は、暁が横たわるフロートを曳航した阿武隈がこちらに接近して、敬礼と共に自己紹介と負傷者収容の許可を求める姿に、夢うつつのような心地で対応する。再度敬礼して阿武隈が離れてゆくということは、自分はちゃんと対応したのだろうなと、風雲は自信なさげに身を竦ませて、先の光景を頭の中で再生する。

 パージした艤装が生き物のように蠢くなど、いったいどういう機能によるものだ。事前に深海棲艦化しかけている艦娘がいるとは聞いていたが、あれがその姿だというのだろうか。すれ違ったフロート上の暁は、肉体の成長の件はさて置き、ひどく消耗した様子だった。あんな物を身に纏っていれば当然かとも思うが、あれのパージがもう数秒遅れていたらと考えると、寒気が止まらない。

 

「すごいところに来ちゃったなあ……」

 

 ここ数日ですっかり見飽きてしまった曇天を仰ぎ、風雲は誰にともなく呟いた。自分たちは彼女たちの救援に来たのだ。再起した水無月島から艦娘たちを収容して、この支配海域を脱するために。

 しかし、目の前で座礁してしまったこの巨影を思うと、この曇天とはもう少しだけ長い付き合いになると確信せざるを得ない。工作艦・明石や妖精たちの手を総動員しても、月の単位で時間はかかるだろう。それまで敵の攻撃が無いことをと祈りつつ、こちらを睨んでいる磯風に叱られないようにと警戒を新たにした。

 

 

 



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波間⑥

 戦艦レ級、個別コード“バンシィ”は、“隼”の瓦礫の上に膝を抱えて座り、海上を慣性のままに流されていた。かの交戦より半日が経過し、周囲は鈍い暗闇に包まれている。すでに本体や生態艤装の修復は完了していて、いつでも再出撃可能な構えではあるが、“指揮者”から追撃の指示は受信していない。そもそも、“バンシィ”の自我はしばらく動きたくないと、そういった感情を得ていた。

 上位種より与えられた指示のままに敵を打撃することは、この10年で幾度もあった。しかし、今回は何かが違った。蓄積したセオリー以外の動きばかりされて、久しく使っていなかったはずの領域ばかりを稼働していた気さえする。“指揮者”がこちらに航空機を差し向けなければ、あのまま削り切られていた可能性が高いと判断できる。単独での運用における限界を、“バンシィ”は感じていた。

 これが、駆逐・軽巡級などを複数伴っていれば、結果は少しだけ違ったものになったかもしれないが、他の艦種では速度の乗った“バンシィ”に追いつけず、連携も何もない。かといって、速度を殺して連携を取ったところで、あの敵は逃げるという選択肢を取るだろう。自他の損害を考える限り、それが妥当な判断だと、“バンシィ”は彼我の思考にそれほど差がなかったはずだと確信を得る。

 

 さて、何故、あのよう結果となったのか。再思考する。こちらは単艦運用であり、向こうは艦娘たちに加えて深海棲艦・姫級を要する艦隊での運用だった。そして、提督という要素がそこに加わった。提督に変わる存在ならば、こちらには“指揮者”が居るが、向こうとは条件が別だろうなと察する。

 では、敗因はやはりこちらが単艦であったことか。しかし、そうなると“バンシィ”には今回の敗走が必然であったと認めなくてはならなくなる。認めること自体は構わない。構わないが、そうなるとこれ以降も自らの敗走が確定することになる。個々を潰すことに、それ程の労力がかからないことは確かだが、此度の敵は中々“個”にならない。常に艦隊として動いて来るし、互いが互いの動きを察して予測不能の動きを取ってくる。そこに、提督だ。彼の指示が下り、敵は一見して奇策とも思える動きで、こちらを詰めてきた。いくら高度な演算能力があろうと、最初から除外している領域で攻められては対処が間に合わない。

 

 ならば、こちらも艦隊で行くのが最良だと、“バンシィ”は己の内側に声を響かせる。“指揮者”の命のままに動き、想定外の消耗を経て、“バンシィ”はようやく模倣ではなく模索することに思考を伸ばす。“バンシィ”はこの10年の間に、3隻分の艦娘の艤装核を鹵獲し、体内に保有している。普段は尾の増設及び火器管制に当てているそれらの核。その残存メモリから元の艦娘の人格を再構成して、自らの補助ブレインとして設定する。彼女たちに対抗するためには、彼女たちのパターンを学習する必要がある。

 “指揮者”からの指示はしばらくは来ない。北からの増援のせいか、戦力を再編成する動きが共有情報から確定している。しばらくの間、時間にして5184052秒は余白が出来る。その間にサブブレインをどれだけ構築できるかが鍵となる。

 そして、攻め方も変えていかなければならない。自らがしてやられたように、一を多で攻める。なかなか単艦行動を取らない彼女たちではあるが、振り返ると要所要所で単艦行動が見られたのも確かだ。その隙を、確実に狙う。そのためには、“指揮者”の指示が来ないこの期間にどれだけ情報収集出来るかで出来が決まってくる。

 

 方針を決定した“バンシィ”は即座に行動に移った。






第3章『想い人の似姿』完

第4章『かえりみち』へ、つづく


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第2.5章:空白の9ヵ月の話
1話:第二艦隊①


「キミを看取るのは、これで何度目になるだろうね?」

 

 そう、時雨が発した問いかけは、あくまで自分の中での呟きだ。返答を求めてのものでは、決してない。

 何故なら問いかけた先、大切な存在であるはずの彼女は、既に人の言葉を発することが出来ない姿になってしまっていたから。

 かつて軍艦として大海原を駆け、幾年を経て人の姿を得て再び戦う定めとなって、かつての姉妹たちと再開出来たことは、確かな幸福として胸に刻まれている。

 だからこそ、その喪失感は想像を絶していた。

 人として体と心とを得て、初めて、かつて共に戦った乗組員たちの想いを共有出来た。

 しかし思うのだ。こんなにも苦しいのならば、物言わぬ心無き鋼のままであれば良かったのにと。

 

「有明も夕暮も先にいってしまったよ。またボクだけが、取り残された……」

 

 決壊した涙腺から滂沱と涙を流しながらも、その声に震えや淀みはない。

 顔面の各機能が連動していないのだ。各々の部位がバラバラに機能を始めている。

 目は涙を。口は滑らかに悲痛な言葉を。しかし顔全体を見れば、恐らくは笑っているのだろう。

 顔の機能が壊れてしまったが、それももう些事だ。笑顔を向けるべき相手は、皆再び黄泉に還った。

 

「ねえ、白露。キミは、人の姿と思いを得て、幸せだったかい?」

 

 返るはずのない答えを、このまま永遠に待ち続けていたい。

 このままここで自らも果ててしまいたいと、時雨の心にじんわりと死が染み出してくるが、彼女の中の怒りを司る器官はそれを許さず、振り払う。

 ありったけの敵意で見据える先、白い影がある。

 艤装の見張り員の目を通じて確かめるのは、仇である敵の形だ。

 深海棲艦。完全人型に変異した個体である彼女は今、海上にぺたんと座り込んでケタケタと笑い声を上げている。

 艦種は潜水棲姫。個別コードは“ナックラビー”。

 通常海域と敵支配海域を行き来し、輸送船団の強襲を主にしている個体。時雨たちの護衛する輸送船団を強襲した張本人だ。

 輸送船団は全滅、護衛の艦娘たちも時雨を残して沈んでしまった。

 寒々しい星空の下、炎上する輸送船が互いの姿をはっきりと映しだす。

 互いが互いを認識しているにも関わらず、敵意も戦意も、時雨の方にしかない。

 あの敵はこちらに対して敵意すら抱いてはいない。

 湧き上がる衝動のままの行いがうまく行って、嬉しくて可笑しいのだ。

 まるで人類のような姿を取りながら、その精神性はあまりにも人類とかけ離れている。

 これならば宇宙人と交信した方がまだ話が合うはずだと、時雨は心中で冗談を呟き、自らの怒りの温度を冷たく保つ。

 

 耳障りな音を残して消えてゆく“ナックラビー”の姿を、時雨は決して目を離すことなく追い続ける。

 必ず追い付いて、この手で滅ぼしてやる。己の大切なものすべてを奪い去ったあの悪魔に、必ず砲と雷撃を叩き込んでやる。

 艤装の損壊具合が酷く、推力を失っていなければ、今すぐにでもあの憎き仇に喰らい付いてやったというのに。

 しかし、だからこそ、このままで良かった。

 腕の中で永久に眠る少女に別れを告げる時間が必要だったから、今だけは見逃してやる。

 ただし、次は無い。

 

 奇跡的に無事だった通信器から提督の声が聞こえてくる。

 状況の報告と帰投を促すものだ。すでに救援部隊が出撃したとも聞こえてくる。

 冗談じゃない。このままおめおめと逃げ帰れと言うのか。

 

「そんなこと、御免だね……」

 

 時雨は報告と帰投の命令に逆らうことにする。

 本来、提督からの命令は絶対であり、拒否しようとしてもセフティが動作して、肉体と艤装を艦娘の意志に反して行動させることも可能なはずだった。

 しかし、時雨は“逆らう”ことに成功する。戦闘のダメージで艤装の機能に重大な損傷があったためか、それとも原因は別にあるのか。

 そんなことはどうでもいいとばかりに動き出そうとする時雨は、揺らぐ海面に映る自分の顔が、その目が真っ赤に染まっていることを見とめる。

 艤装が損傷したことで肉体の維持にも支障が出たのかと、自らの脆弱さに失望を覚える。

 こんな真っ赤な目、まるで彼女たちのようではないか。そう憤る気持ちと、ならばどこまでも落ちてやろうという潔さが綯交ぜになって、腕の中の愛おしい亡骸を手放すことへの未練を振り払う。

 

 胸元で手を組ませて、その手に握らせるのは小さな懐中時計。

 そして「メリークリスマス」と小さい呟きを。

 海中時計はクリスマスプレゼントとして彼女に渡すはずだったものだ。

 腕時計の類は手腕と共に損失する可能性が高いとして、こういった首から下げる品を送るのが艦娘の間では主流だ。

 そういった流行に疎い彼女が何を用意していたのかは、もう永遠に知ることは出来ない。

 

「それじゃあ、ボクはもう行くよ。もしも、もう一度生まれ変わることがあったなら……」

 

 その言葉の先を、時雨は口にすることはなかった。

 顔を突き合わせればああだこうだと言い争いしてばかりだった彼女が静かに沈んで行くのを見送って。

 手の甲に“27”と刻まれたタトゥーにキスして。

 無残にほつれてしまった三つ編みを解いて。

 炎上する輸送船を背に、海上を力強く踏みしめるかのように、歩き出した。

 艦娘としての役目も矜持もすべてをここに置いて、ただ敵を追って進む。

 

 

 



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2話:第二艦隊②

 肉体も精神も限界かと思われたまさにその時、電探妖精が敵襲を知らせる。好都合だと重巡・高雄は笑み、砂浜に横たえていた体を起こした。

 敵の支配海域とは言え季節は冬。緯度はほとんど日本と同じであるがゆえに、外気は身を切るように冷徹だ。

 遮へい物の一切存在しない環礁地帯。わずかばかりの砂浜に穴を掘って埋まる姿は埋葬直前の死体にも似て。

 衣装の保温機能が損なわれ、半ば延焼してぼろ布となってしまった上着を纏って体を暖めていた時間もようやく終わる。

 真っ白に濁る吐息が煙のように霧散するのを視界の端に捕らえ、もうすぐ自分もこうなるのだと、高雄は決死の思いを湧き上がらせる。

 

 極地突入作戦に失敗し、何隻かの僚艦と殿を務め、自分だけがこうして生き残ってしまった。

 高雄の所属していた装甲空母部隊はこの海域を離脱することが出来たはずだ。自分の仕事はしっかりと果たしたという自負はある。

 しかし、それだけでは足りない。

 先に逝った僚艦たちの元へ逝く前に、敵をもう何隻か道連れにしなければ面目立たない。

 ここまで良く体も心も持ってくれた物だ。これも艤装妖精たちのお陰だなと感謝の念を示すが、その妖精たちの顔はどれも晴れない。

 当然だ、自らの宿っている主が、これから敵と刺し違えに行こうとしているのだから。

 出来ればこの妖精たちは誰かに拾ってもらえればなと、高雄は最後の心が掛かりを思う。

 あるいは、水無月島鎮守府の艦娘たちが救助してくれるだろうかと、淡い希望も抱くのだ。

 

 そう、水無月島だ。

 10年前に敵の手に落ちたと思われていたかの鎮守府はその機能を取り戻し、敵支配海域のど真ん中から反抗を開始したのだ。

 ここで無様な姿を晒すことは、彼女たちに対しても面目が立たない。

 敵地に取り残された高雄がここまで気力を繋いだのは、艤装妖精たちの癒しもあるが、同じ艦娘が孤立無援のこの環境下でも戦い続けていたからに他ならない。

 せめて一目でもと思ったが、それも叶いそうには無くなった。

 遠洋にて轟いた砲声、間もなく間際の海岸に、背後の砂浜に、着弾の水柱と砂煙が幾つも立ち上げる。

 霞む目を凝らして視認する敵艦隊、その数は6。あの遠間から砲撃が届くのならば戦艦級がいる。2隻だ。他の4隻は形状から軽巡級が1、駆逐級が3と断定。

 駆逐級1隻は連れて行きたいところだが、何分戦艦級のお陰で間合いに入るのは難しい。

 

 艤装核が内臓されている基礎ユニットにガイドレールを接続、荷重軽減が機能して鋼の重さがふわりと和らぐ。

 本来であれば、提督の指示なしに艤装の接続すら単独ではままならないはずの艦娘だが、高雄は“艦隊司令部施設”の試験運用艦としての適性上、ある程度の権限を保有している身だ。

 艤装の診断が即座に行われる。

 無事な砲塔は背部側の第四砲塔のみ。燃料はもう満足に戦うだけの量は残されていない。砲弾も然りだ。

 魚雷発射管は両弦とも損壊。魚雷自体はかろうじて1本だけ予備が残っていた。手動ならば使えるなと、かすかな幸いに笑む。

 脚部艤装の診断を終えた妖精が仮想スクリューの展開可能を示し、高雄は片膝を付いた状態から両手の指を砂に付き、前傾にのめり、抜錨した。

 

 体の傾斜と艤装含めた重量を利用してのスタートは即座にその身を海面へと到達させ、両の脚部艤装が着水した瞬間に青白い燐光が足元に出現、莫大な推力を発生させた。

 高速巡航形態への移行が不可能な今、敵の砲撃を足さばきで回避する他ない。幸いこの程度の砲撃ならば回避軌道を割り出すのは容易だ。

 水柱の間を縫って進む高雄は、単縦陣に構える敵艦隊の後方へと回り込むように疾走する。敵艦隊の動作は機械的で無機質なものだ。こちらが動きで誘いを入れれば、意図した通りに動いてくれる。

 しかし、此度はその意図の通りにはいかなかった。敵艦隊の後方へと回り込もうとする高雄に対し、最後尾の駆逐級は反転、吶喊して来たのだ。

 馬鹿な。高雄は思わず言葉を漏らし、砲塔を迫る駆逐級へと指向する。ここは陣形を乱さずに単縦陣を保つはずの所だ。

 まさか旗艦が特殊な個体なのかと横目に確認するも、別段特徴的なところがない戦艦ル級。とても奇策を弄するタイプには思えない。

 

 ならば、入れ知恵している者がいるなと、高雄は迫り来る駆逐級を仰角零度の砲撃で屠り、その爆炎に隠れつつ確信する。

 この海域にはなんらかの方法で通信を傍受する敵がいると、高雄は踏んでいる。

 高雄が所属する装甲空母が強襲を受けた際、交戦に不利な地形に追い込まれてから敵の増援が現れている。敵は6艦編成の一個艦隊だけではなく、それら複数が統率者の意志の元に動いているのだ。

 そしてその統率者こそが、無線傍受の能力を持つ敵だと高雄は断ずる。海域突入時、強襲があったタイミングは必ずと言っていいほど、他の装甲空母部隊との連絡を行って一時間も経たぬ内だった。行き当たりの遭遇戦と考えるにはあまりにも都合が良すぎる。

 今相手取っているこの一個艦隊も、その統率者の遺志の元に使わされたものだろうか。

 救難信号を出さずに様子を見ていたため、確証は得られないのが悔やまれる。

 

 違和感を覚えたのは、交戦を始めてからすぐだった。

 敵の攻撃が散発過ぎる。砲火はそれこそ雨のように降り注ぐが、どれも身の危険を感じるレベルの精度ではない。

 吶喊してくる敵の動きも単調と言うか、迫力が感じられなかった。

 こちらを沈めようという動きではなく、消耗させるかのように弄る責めだ。

 

「……まさか、ここで私が救難信号を出すのを待つつもり? それとも鹵獲を?」

 

 ステラーカイギュウと言う海獣が、かつてこの地球上に居た。

 艦艇の重巡・高雄が建造されるよりもはるか昔に存在し、人類によって乱獲されて絶滅した種だ。

 海獣たちは仲間が傷付けられると大挙して押し寄せ、助けにやってくるという習性を持っていた。

 その習性を利用されて狩人たちの恰好の獲物となってしまったわけだが、敵艦隊の統率者はそれを同じことを高雄で行おうとしているのだなと、傷付いた重巡はそう察して、顔に苦い笑みを浮かべて見せる。

 そうはいくものか。手足がもがれようとも決して助けを呼ぶ声など上げはしない。

 

 ル級の砲撃に動きを制限される高雄へと、軽巡級以下が殺到する。戦艦級が支援砲撃を行い、軽巡・駆逐級が各々の距離で戦うための方法か。

 まるで歩兵と歩兵戦車の関係に似ているなと吐き捨てた高雄は、好都合とばかりに接近する片っ端から砲撃で沈めてゆく。残弾と威力を計算しながらの攻撃はしかし、吶喊してくる敵艦の執拗な喰らい付きで随時修正を余儀なくされる。

 

 ここまでされれば、この敵艦隊の役割を理解することは容易だった。かの統率者はこの一個艦隊と引き換えにしてでも高雄を鹵獲しようとしているのだ。

 その証明だとばかりに高雄が砲撃を止めて距離を取ると、敵艦隊もその動きを変えた。自壊をも恐れぬ決死の動きから、戦意を収めた観察する動きに。

 推測が当たったことに、高雄の額に冷たい汗が流れる。

 こうなってしまえば、即座に判断を下さなければならない。

 体と艤装の動きが自由な内に、自らを終わらせる。その手段を行使しなければ。

 敵が高雄に戦意なしと判断するか、あるいは高雄が戦意ある姿勢を見せれば、攻撃は再開されるだろう。鹵獲のための嬲りが始まるのだ。

 とは言え、砲塔にはもう弾薬が残っていない。機銃も副砲も潰れてしまっていて、攻撃に用いることが出来るのは1本だけ残った予備の魚雷のみ。使い道は、たった今決まった。

 もう敵を2隻も道連れにしたのだ、そろそろいいはずだ。自分の手で幕を引ける内に……。

 

 収納から予備の魚雷を引き抜くと同時、艤装妖精が警戒の声を上げた。

 高雄の左足に、海中から延びた腕が絡み付いていたのだ。

 こんな浅瀬もいいところまで潜水級が侵攻しているなど、高雄は可能性すら考えていなかった。

 眼下の光景に高雄は背筋を凍らせ息を飲む。

 敵潜水級は1隻ではない。視認できるだけでも6つの影が海中を行き来しているのだ。

 敵は6艦編成の一個艦隊ではなく、そこに6隻の潜水級を含めた二個艦隊だった。

 

 海中の敵への対応を判断するわずかな間に、高雄は駆逐級の接近を許してしまう。

 高速で迫った駆逐級が小さく跳ねて、右腕を手にした魚雷ごと咢に捉えられる。

 抗えぬ膂力と速度で海面を引きずられる過程で、患部の痛覚はすぐに喪失し、同時に咢の向こうの手指の感触も消える。

 これで、自らを処することは適わなくなってしまった。

 あとはもう命が尽きるか、根を上げて助けを呼ぶまでこの蹂躙は続くのだ。

 艦娘としての最後も惨めなものかと高雄は心中で吐き捨てる。

 軍艦の時代よりも長く現役であれたことが誇りであることに違いはないし、かつての姉妹艦や縁のある艦たちと言葉と感情を交わすことが出来たのは、何にも代えがたい宝だった。

 だからこそ、こんな最後はあんまりではないかと、ずっと堪えてきた涙が零れ落ちるのを止められない。

 艦の時代も、艦娘となっても、自らの死を味方ですらない者に委ねなければならないとは。

 出来るだけ苦痛を感じないように、心を閉ざす機能が備わっていればなと、高雄は自嘲する。

 

 

 ――あきらめんなああああ!!

 

 

 幼くも、しかし鋭い叫びが鼓膜を引っ叩いたのは、心折れて諦めかけていた、まさにその時だ。

 通信器が受信したのは幼い声、それが駆逐艦の艦娘の声だと悟り、高雄は意識を取り戻す。

 横倒しになった視界の端、水煙を上げて迫る幾つかの影を確かに見たのだ。

 

 

 ○

 

 

 表情を怒りの形に引き締めた駆逐艦・朝霜は、高速巡航形態で浅瀬を駆る。

 後続の艦隊を置いて大きく突出する形となってしまったが、そんなことに気を割いてはいられない。

 名も知らぬ味方が嬲り殺しにされるのを、黙って見ているわけにはいかない。

 こちらの叫びが受信されたのか、敵の咢に捕らえられた艦娘がわずかに身じろく。

 まだ生きている。

 絶対に助け出す。

 しかし、どうやって?

 対象の艦娘が敵に捕まっているこの状況、下手をすれば味方にトドメを刺してしまいかねない。

 方法を何も思い付かないことを嘆くが、打開するための知恵はすぐにもたらされた。

 高速巡航する朝霜の背中に追い付いた響が声をつくる。

 

「朝霜は私と友軍の救助に当たってくれ。潜水級たちは後続に任せよう」

「ああん? 巻姉たちに任せるのはいいけどよ、あれどうやって助け出すんだよ?」

 

 高雄を鹵獲したまま遠洋に向けて舵を切った駆逐級、その行先を阻むように敵潜水級からの雷撃が迫る。

 速度を落とさず回避行動を取りながら、「対機雷装備を使う……!」と響。

 目を見開いて息を飲む朝霜だが、すぐに表情を引き締める。

 速度を上げた響が朝霜の前へと躍り出て、腰部艤装の一部を展開する。

 

「――こちらは水無月島鎮守府所属、駆逐艦・響。重巡・高雄、艤装核内臓ユニット以外の全艤装をパージして待て。あと、ちょっと歯を食いしばって、舌を噛まないようにしていてくれ。痛いよ?」

 

 通信にて呼びかけ、見張り員妖精の遠目で確認する限り、響が何をしようとしているのかを高雄は理解したようだ。

 息を入れ直して腰部の艤装核内臓ユニット以外をパージした高雄は、全身に力を入れ、捕らえられた右腕を引きちぎるかのように、思い切り引っ張り始める。

 患部の袖口を染め上げる赤が、みるみる内に広がってゆく痛々しい光景は、朝霜の位置からでも良く見えた。

 

 高雄を拘束する駆逐級の横を、響が高速で通過する。

 そのわずかなタイミングで、駆逐級に捕らえられている高雄の腕にワイヤー状の何かが巻き付き、瞬時に切断した。

 対機雷用装備。掃海具の概念を用いたワイヤーだ。

 機雷型の深海棲艦に対しての装備ではあるが、こうして肉体を切断する用途への転用をも、水無月島では考案していた。

 まるゆが潜水棲姫“ルサールカ”と接触距離で交戦した経験上、人型、もしくは半人型の深海棲艦との接触距離での交戦が今度も起こり得る可能性は高いと水無月島鎮守府の艦娘たちは判断した。

 今回のように腕や脚を拘束された際に自力で、もしくは他者の手を借りて脱するための措置のひとつがこれだ。

 

 結果はご覧の通り。

 右の二の腕から先を切断され海面へと放り投げられた高雄は、さらに後方から迫る叫び声に従って体を丸める。

 高機動形態へと脚部艤装を変形させた朝霜が、腰を落とし両腕を広げて「こいよおお!」と気合を入れた叫びを上げたのだ。

 海面を跳ね転がって来た高雄を、朝霜は気合で頑張ってキャッチ、即座に高速巡航形態に移行して戦闘領域から離脱を試みる。

 腕に抱いた重さを確かめながら、驚いて呆けてしまった高雄の顔に、朝霜はしんみりとした感情が湧き上がってくるのを自覚する。

 

「高雄かあ、レイテを思い出すな?」

「……貴女は朝霜ね。縁起でもない。でも、確かにあの地獄に比べたら、どんな苦難も生ぬるいですわ」

 

 皮肉気に告げる高雄に、朝霜は額を寄せて「もう大丈夫だぞー」と笑む。

 あまりに距離が近い行動に高雄は戸惑っている様子だったが、目じりに涙が滲むのは見逃さなかった。

 感傷的になって泣き出しそうになっているのだなと判断した朝霜に、高雄は伝えるべきことがあると声を震わせる。

 無線傍受の可能性。すぐに響の判断で無線封鎖の指示が発令され、手信号や口頭のみに連絡手段を限定する。

 戦艦級の射程から逃れた朝霜は一息ついて、高雄に心配はないと念を押す。

 ひとつは高雄の安否に関して。

 もうひとつは、すでに敵艦隊への対応、その工程が段取りされていることに関してだ。

 

「見ていてくれよ。うちの鎮守府の皆、強いんだぜ?」

 

 お手並み拝見したいなと呟く高雄だったが、もう体力が限界のようで、瞼が重そうだ。

 切断した右腕部の応急処置を行ない、待機中の“隼”へと帰投する朝霜は、遠目に白い人影を目撃する。

 敵の姫・鬼級かと息を呑み身構えるが、次の瞬間にはその姿は霧のように消え失せてしまっていた。

 

 

 ○

 

 

 高雄が次に目を覚ました時、体に不規則な振れを感じた。

 これは船の上だなと薄目を開け、天井や内装の様子から“隼”だなと判断。

 敵の支配海域で運用可能なタイプが開発されていたのかとかすかな驚きが生まれるが、すぐにそれは違うなと否定する。

 恐らくは超過艤装技術の流用で、艦娘の艤装をこの“隼”と同期して操舵しているのだろう推測する。

 水無月島が支配海域の解除時に衛星経由で情報交換を行っていることを鑑みて、その可能性が高いなと高雄が判断したものだ。

 

 切断されたはずの右腕が“寒い”と感じるのは幻肢感覚だろうなと、経験から己の状態を考察する高雄は、頭上から「鎮守府に帰投するまで治療は待ってね」との声を聴く。

 視線を巡らせれば鳶色の髪が目に入る。メガネと白衣、そして年齢的には10代後半の少女の姿をしているが、高雄には彼女が艦娘であることが直感でわかった。

 自らを雷だと名乗った少女は、高雄の救助に至った経緯について説明し、その副産物としてもう1隻艦娘を保護出来たのだと礼を言ってくる。

 高雄の隣りにはもう1隻、艦娘が寝かされていたのだ。

 

 伸び放題の傷んだ髪に隠れて顔は見えないが、制服から白露型駆逐艦の艦娘だと推測。手の甲の“27”のタトゥーから第二十七駆逐隊に縁のある艦と目標を絞って行き、そう言えば数年前に帰投命令を無視して敵艦を単艦追跡して行方をくらませた艦娘が居たなと思い出す。

 

「ええ、じゃあこの娘がその時雨なの? でもこの娘の姿は……」

 

 時雨の姿は雷と同様、10代後半の少女のものへと成長している。

 栄養失調の症状が出てはいるが、入渠ドックで充分回復可能な領域だそうだ。

 

「艤装を外して5年もの間、ずっとひとりで仇を探して? そんな長期間、ご飯とかどうしてたのよ、いったい……」

 

 それはこちらが聞きたいところだと内心呟く高雄ではあったが、推測は可能だ。

 水無月島に取り残された彼女たちがくすぶっていた10年のあいだに敵の支配海域は拡大し、各鎮守府や泊地をも呑み込んでいる。

 ハワイ諸島とトラック島との航路上には人口の浮島が幾つも設置されていたこともあり、時雨は放棄されたそれらの施設に立ち寄り補給を行っていたのだろう。

 

「早く、いっぱいご飯食べさせてあげなきゃ……」

 

 意識を取り戻す兆候すら見られない時雨の額に自らの額を当ててそう呟く雷の姿に、高雄は少しの不安と大きな安堵を覚える。

 ゆっくりと意識が沈んでゆく中、耳には“隼”に戻った彼女たちの戦果報告が飛び交っている。

 彼女たちは本当に、敵地のど真ん中から反旗を翻したのだ。

 一度心がどん底まで落ちた高雄にとっては、何よりも勇気を奮い立たせることだった。

 

 

 



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3話:第二艦隊③

 目を覚ました時雨の目に飛び込んできたものは、焦げ茶色の荒い木目の色。医務室の天井の色だった。

 木造の建物で雨風を凌ぐのは久しいなと思い、しかしそんな場所に足を踏み入れた記憶はない。仲間の仇を追って浮島を渡り歩いていたのだ、そんな場所に辿り着くはずがない。

 ならば自分は、途中で力尽き、偶然通りかかった味方艦隊に救助されたと言うことになるのだろうか。

 情けなさにため息が出る。自分に失望を憶えるねと、暖かなベッドの中で寝返りを打った時雨は、横倒しになった視界に白い色が映り込む様に眉をひそめる。

 

「おや、お目覚めかな。駆逐艦・時雨」

 

 少女の低めの声、それを発した主は、何故かナース服に身を包み、パイプ椅子に足を組んで座っていた。手にはトルストイがあり、ページは最初の方からまったく進んでいない模様だ。

 この白いコスプレ艦娘を時雨は知っている。しかし、メモリーの中にある彼女とは明らかに姿かたちが違っていて、困惑に言葉も出ない。

 

「この衣装かい? 救援物資の中に紛れ込んでいたのさ。ちゃんとミニスカで白タイツでカーディガンまで付属されているなんて、いったいどこの司令官の趣味なんだろうね?」

 

 ナースが足を組み直した際に、白いタイツの奥に薄っすらと黒いレースが垣間見えた。

 「ああ、駆逐艦・響か」と、まったく明後日の方向から正解に辿り着いてしまった時雨は、気だるげな息を吐いて天井を仰いだ。

 デフォルトの姿とはずいぶんかけ離れた外見をしているのは自分と同じような事情があるからだろうとあたりをつけ、真っ先に問うのは自分の艤装は無事なのかという部分。

 

「艤装核を内蔵した腰部ユニットは無事だよ。艤装状態を解除して、自分で持ち歩いていたみたいだね」

「……ずっと肩に担いで移動していたよ。いい筋トレになるんだ」

「マッチョ気取るのはいいけれど、それにしてはキミの体はいささか栄養不足な気がするね?」

「これでも年頃の女の子だからね。少しダイエットしたい気分だったのさ」

 

 時雨が澄ました顔でしれっとのたまえば、響は鼻を鳴らして肩を竦めて見せる。それだけ言う元気があれば大丈夫だね、とも。

 

「諸々の事情は追々話すとして、当面キミはリハビリに専念することになるよ。入渠で負傷や欠損は修復出来ても、萎えや衰えは元通りに出来ないからね。特に、成長という形でそうなってしまったのならば、尚更だ」

 

 そうなってしまった先輩格が言うのだから信憑性に関しては折り紙付かと、目を閉じ頷きつつ静聴する時雨は、次いで艤装のブランクに関する話を耳にして、体の中に溜まっていた負の感情を務めて表に出さないようにと力を込めた。

 仇を追って、命令違反までして、そうして5年も彷徨っていたというのに、ここで艤装が使い物にならなかったとすれば、すべてが水の泡になる。

 叫びだしたい気持ちを抑え付ける時雨はしかし、自分の中にもうひとり、冷静な自分が居ることを自覚する。その、冷めた目をしたもう1隻の自分が言うのだ。

 艦娘として戦えないのならば、それ以外の方法で戦えばよい、と。

 そんなことが可能かどうかはさて置き、時雨は確かにその通りだと自分を納得させることに成功した。自分がどうなろうと、やることは変わらないのだ。

 

「さて、それじゃあ患者さんは入渠の時間だよ。そちらの患者さんも起きた起きた。まずは着替えないと」

 

 その時になって、時雨は医務室にもう1隻が身を横たえていることに気付く。

 窓際のベッドに居るのは重巡・高雄。上半身を起こしてシーツを肌蹴た体は裸で、右の肩から肘にかけてを包帯で覆っている。

 そう言えば自分も裸だが、今さら羞恥心などと鼻で笑う時雨は、シーツを跳ね退けてベッドから起き上がる。

 想定していたよりも体が軽く、力も入らずにふら付くところを響が支え、ようやく二足で立って伸びをする。

 「なんてはしたない……!」とでも言いたげな顔をする高雄の視線をものともしない時雨は、隣りに立つ響が口元に手を当てて思案気な顔をしている姿を見る。

 

「時雨、キミは露出の癖は?」

「残念ながら。羞恥心は建造ドックの中に忘れてきたから、丸出しで練り歩こうが大勢に見られようが、大して快感を得られないんだ」

「なるほど、同志が増えるかと期待していたんだが……」

 

 すまないねと肩を竦めて見せた時雨は、響の口にした“増える”の部分に引っ掛かりを覚える。

 それは、彼女と性癖を理解し分かち合う同志が他にもいると言うことだ。

 この鎮守府ないし泊地の風紀はいったいどうなっているのだろうかと、それほど興味も無いことに思いを馳せていたところで、医務室の扉がノックされる。

 女の、艦娘の声で入ってよいかと問う声に、響はどうぞと返し、背後で慌てている高雄を余所に、扉は開かれる。

 

 入ってきたのは割烹着風の衣装を纏った潜水母艦・大鯨と、ダンボール箱を三つ重ねで両腕に抱えた背の高い人物だ。

 笑顔で先に入室した大鯨は、素っ裸で突っ立っている時雨の姿に血相を変えて、急いでダンボールの人を医務室から追い出して扉を閉めてしまう。

 ああ、あれがこの鎮守府の提督かなと頷いた時雨は、大鯨が泣きそうな顔でバスタオルを被せてくるのを黙ってされるがままにしている。

 

「もう! 響ちゃんですか!? 露出仲間に引き込もうなんて、そうはさせないんですからね!」

「あれ、悪いのこっちかな?」

 

 ばつが悪そうに目深帽子で誤魔化そうとする響を(ところがナースキャップだ)特にフォローしようともせず、時雨は被せられたバスタオルを胸の位置で巻いて形を整える。

 これから入渠だというのだからちょうどいいとばかりの余裕の仕草に、展開の速度に付いて行けない高雄はシーツを手繰り寄せてぐったりと項垂れた。

 

 

 ○

 

 

 入渠場は医療用の個別ドックに身を落ち着けた高雄は、ようやくひと心地付けたものだと深い息を吐いた。

 時雨が目を覚ましてからの響は、なんと言うかスイッチが入ったというか、ギアをようやく三速に入れ始めたかのようになってしまい、それまで高雄と何気ないやり取りをしていたのがウソのように、涼しい顔で猥談を始めてしまったのだ。

 しかも、お互いが感情の起伏をそれほどはっきりとさせていないものだから、彼女たちが内心で興奮に猛っているのか、それとも冷めた冗談で気分を暖め直しているのか見当が付かず、発言ひとつにいちいちびっくりして気を揉むことになってしまった。

 ここの響は気分屋で、拾った時雨は皮肉屋で。

 まあ、人間として経た年数が長いとああいった成長が得られるというのは、その経験がない高雄にとってはたいへん興味深い光景だった。

 それ以上に、疲労を覚えるものでもあったのだが。

 

 しかし、これでやっと落ち着くことができる。

 時雨は隣の医療用ドックに肩まで浸かって親父のようなうめき声を上げているし、響は諸々やることがあるのだと、交代の者を呼びに行くと言って姿を消してしまった。

 見知らぬ場所で放置されるのはあまり気分が良いものではないが、ひとまずはこうして落ち着くことが出来たのだ。この隙に自分のペースを取り戻そう。心を落ち着かせよう。

 

 ところがどっこい、青葉が来た。ハイレグきつめの競泳水着姿で、その顔には満面の笑みが。手には耐水性の手帳とペンと、恐らくレコーダのような細身の機材を胸の谷間に差してのご登場だ。

 

「はい、響ちゃんと交代でやってきました青葉です。実はこの鎮守府の所属ではありませんが、皆さん同様しばらくお世話になるのでなにとぞよろしくお願い致します!」

 

 色々な部分で立派なものをお持ちの彼女に口角が引きつる思いだが、平常心を忘れてはならない。高雄は腹式呼吸で自らを落ち着ける。

 

 それよりも、軽い挨拶の中に引っかかる単語を残しているのが気になった。

 この鎮守府の所属ではないという部分だ。それは、高雄や時雨と同様に、この敵支配海域のど真ん中で救助・保護されたと言うことだろうか。

 問うてみれば大正解。青葉も装甲空母部隊の一員として、支配海域への突入作戦に参加したのだという。

 幾つか腑に落ちない点はあったが、今はそれを詮索するにも情報が足りないなと押し黙る高雄は、笑んだ青葉が間近まで迫っていることに気付いて、「ひっ」と悲鳴を呑みこんでドックの壁まで後退する。

 

「そういうわけで、皆さんの所属や趣味などインタビューしまして、プロフィール作成を任されているわけなのです。なので、質問に答えて頂けるとー、青葉嬉しいかなーと。はい」

 

 その手はすでに手帳とペンを構えて万全の態勢を整えている。

 当たり障りのないことをと頭を捻って視線を泳がせているところで(クロールで泳いでいる利根と目があった)、入渠ドックに来客があった。

 ボディの溶接跡が痛々しい自立稼働型砲塔を従えた二人組。片方は軽巡・夕張だとすぐにわかったが、もう片方が誰かは、しばらくのあいだ理解できなかった。

 青葉が「あ、天津風も入渠ですか?」と元気よく声を上げたことで、ようやく彼女の正体が天津風だと理解する。

 先の時雨や響同様、この天津風の姿もデフォルトの仕様から大きく外れたもので、一目でどの艦娘が判別が付かなかったのだ。

 特徴的な白銀のツインテールは吹き流しの代わりにバレッタで止めていて、その他にはタオル1枚身に纏わない豪快な立ち振る舞いだ。

 それでいて彼女の体躯は見ていて心配になる程のスレンダーで、それが表情に出てしまったのだろうか、真っ赤になった天津風は「栄養不足! 漂流中の栄養不足がいけなかったの! 成長期の栄養不足が!」などと、必死の弁明を始める。

 

 確かに、隣りで気持ちよさそうなうめき声を上げている時雨とは大きく異なるなと考えていると、「鍛え方が違うのさ」と、いつの間にやらしたり顔に変わっている白露型の姿があった。

 むむむと口元を引き結んで眉を寄せる天津風をからかおうとしたものか、時雨はドックに背中を預けた体勢のまま、組んでいた足を軽く開いて見せる。

 Mの字の形に足を開いたその意図は、高雄にもはっきりと理解できた。だが口にはしないし、それ以上考えないようにと目を細めて努める。

 天津風が悔しそうな顔で「来世は立派なイエティになるんだからいいの!」などと吐き捨てるが、それは乙女としてはどうなのだ。

 

 まあ確かに、ここに集った艦娘たちは量が豊富な方ばかりなので、天津風がそう感じるのも無理のないことだ。

 かく言う高雄も人一倍豊富な部類で、天津風の隣りで苦笑いしている相方の夕張とて同様。

 目の前でにこにこしている青葉はどうかと水着の股間部を引っ張ったら本気でびっくりしていたので逆にこちらが驚いてしまったが、まあ彼女とて富める者たちの一員だった。

 成長と言う形で変化を遂げたにも関わらず、その恩恵を余すことなく得ることが出来なかったのは気の毒としか言いようがない。

 

 加えて、青葉が湿った視線で天津風を上から下までねっとりと舐め回し、「ふわーお」と煽って見せるものだから、陽炎型の特殊仕様艦は相棒の連装砲くんと一緒に飛び込みからのボディプレスに移行。高雄は巻き込まれた。

 

「わあああ! ちょっと、ツーマンセルはずるいです! それに金属! 相方ほぼ金属ですから!」

「ボディは鋼! 心も鋼! 決して折れない鋼の漢気! それが私の連装砲くんよ! さあ、次は平面がいい!? それとも角!?」

「ああん! 柔らかい部分が少ないボディがダブルで青葉を打撃しますう! 肋骨とか骨盤とか角ばったパーツが地味に痛いですー!」

「……あの、こっち怪我人なのですが」

 

 修復したての右腕に触らないようにと距離を取ろうとする高雄だったが、個別ドックの入り口でファイト始めてしまったため脱出は困難だ。

 救けを求めて左右に視線を彷徨わせるも、我れ関せずの時雨に苦笑いで見せている夕張にと、どちらも期待できそうにない。

 唯一の希望の光は狙い澄ましたかのようなタイミングで戻ってきた響だったが、その体は首からタオルをかけてマイ風呂桶を頭に載せて絶妙にバランスを取った姿。

 桶の縁からこちらを見ている戦艦の艦橋(あれは扶桑型だ)、今から入渠して遊ぼうという気満々のスタイルに、高雄は呻いて天を仰いだ。

 

 

 ○

 

 

 予約済みだった四番の医療用個別ドックに身を落ち着けた夕張は、まだ硬さの残る四肢の間接を伸ばしながら、響が夕雲型たちの教練に入る姿を見る。

 実際の艦艇の模型を湯に浮かべて陣形を整え、敵艦に対してどう対応するかを駆逐艦たちに説明させている。基礎教育の一環だ。

 夕張が天津風と共に水無月島に拾われた頃から教練役は響の役割となっているようで、島で建造された艦娘たちにこうして指導する姿はよく見られる。

 

 最初の方こそ不安そうに見守っていた隣りの高雄も、今は安心しきった表情で駆逐艦たちの声に聞き入っている。

 油断しているとまた不意打ちされるんだけどなあと思う夕張ではあったが、そこはあえて言わないで置こうとひとり頷く。

 この鎮守府の空気に慣れるにはその方がいいと判断したのだ。まあ、黙って見ていられず手出し口出しはじめてしまったので、そのあたりは大丈夫だろうか。

 指導と言う名の口出しに熱が入り始めたあたりでまるゆが急浮上して、胸元押さえて過呼吸気味になっていたが。

 

 問題はその向こうの個別ドックで青葉のインタビューを受けている時雨だ。

 脱走した時雨の噂は、夕張も耳にしたことがある。

 ちょうど、この支配海域にて調査を始める直前という時期でもあり、本部の方から調査開始の日取りを見直すように命令が下ったことを覚えている。

 それもそうだと、夕張は警戒を表に出さないよう平静を装って時雨の姿を盗み見る。彼女は“命令に背くことが出来た”艦娘なのだ。

 

 艦娘にとって、提督から言い渡された命令は絶対だ。

 無意識レベルへの刷り込みや艤装のロック機能を始め様々な要因が絡まった結果、艦娘が提督の命令に逆らえないというのは、地球上の物理法則と同等のものだと夕張は考えている。

 それが何故、命令を無視できたのか。これも様々な要因が絡み合っているだろうなと脳内のリストを引っ張り出す夕張は、その中で一番危険な可能性だけを抽出する。すなわち、艦娘ではなくなりかけている可能性だ。

 

 艦娘が深海棲艦へと変質している実物を、夕張はこの鎮守府で目の当たりにしている。

 興味と危機管理の両面から彼女に関するデータを計測し検証している現状だが、その結果、変質途中の艦娘には提督の命令が絶対ではなくなったことを確信するに至った。

 と言っても、端から見れば不自然なところなど何もない光景だったろう。暁と提督が喧嘩した一部始終、困り顔の提督の頼みに、顔を真っ赤にした暁がそっぽを向いて逃げ出した、という場面。

 ふたりが人間であれば何も疑問など生じない、ごく自然な光景だったはずだ。

 しかし片方が艦娘である以上、それは有り得ないはずの出来事だ。提督の頼みを断り、その場から立ち去る。本来、艦娘はそれすらも許されない存在であるはずなのだ。

 

「ところで時雨さん、その赤い目は? 色度調整が機能していないのでしょうか?」

「わからないんだ。遭難する直前にこうなってしまったみたい。僕が単艦行動を取っていた5年の間に、この目に関して何か情報出ていないかな」

「そのあたりなら夕張さんが詳しいと思いますよ、はい」

 

 盗み聞いていたところにいきなり無茶な水向けだ。

 ストレッチ中だった肩関節が微妙な音を立てたが入渠中なので問題ないだろうか。

 それよりも、2隻してこちらを見ているのが酷く心臓に悪い。

 特に時雨の方は不気味に微笑んでいるもので、何か良からぬことを考えてはいまいかと、夕張はもはや視線を逸らすことも出来ず、苦笑いを浮かべるしか出来なかった。

 

 

 ○

 

 

 厨房から響いてくる奇声に慄く高雄と時雨を前にして、特に表情を凍り付かせて肩を竦める時雨の姿に、天津風はひとつ優越感を得ていた。

 水無月島の食堂が初めてだという2隻にとっては、まあたいへん驚く光景だろう。かく言う天津風も最初は吃驚して椅子から転げ落ちたものだ。

 奇声の主は厨房担当兼専属秘書艦の電と、最近救助された給糧艦・間宮だ。

 敵の支配海域では通常の調理器具が誤作動を起こすため、火を使うにも最新の注意と何があっても挫けない心が必要だ。

 その心得を、敵支配海域の調理歴10年であるところの電が、新参の間宮に叩き込んでいるのだ。

 しかし、なぜ奇声が上がるのかを天津風は知らない。暁たちも首を横に振るので聞いてはいけない部類の話なのだろう。

 これで最上型重巡の四番艦など加わった日にはひどい有り様になるなと苦笑して、ため息ひとつ、小さく吐いて食堂を見渡す。

 

 最後の出撃の前に見納めしたはずの景色を、またこうして目にするとは思わなかった。

 あの時と比べて、多くのものが変わってしまっている。

 自分たちや暁型の姿がそうだし、この食堂に出入りする面々もそうだ。

 10年が経ったのだ。経ったのだが、その経過を目にしていないがため、懐かしいはずのこの場所が、どこか別の場所ではないのだろうかと錯覚する。

 厨房で奇声を上げているのは比叡と鳳翔であったはずだし、向こうのテーブルで悪巧みしているのは夕雲型の三姉妹ではなく軽巡の三馬鹿だったはずなのだ。

 大和がその巨体を揺すってそわそわしていた向いの席には、夕張が居て同じようにそわそわしていて。

 那智と古鷹が昼間から呑むかダメだとやっていたところには千歳と阿武隈がいる。

 

 過去の光景が二度と戻らないことくらい、天津風も理解している。

 だからこそ、今見ている風景を焼き付けようと、強く思うのだ。

 新参の彼女たちも含めて、誰かが欠けることがあってはならないとも。

 そうして、運ばれてきたきつね蕎麦に感涙する夕張を眺めつつ、自分のお揚げを箸でつまんで彼女の丼に送る。

 蕎麦の登場にお揚げプラスときて二乗できらきらし始めた夕張の姿に、そんなにそばが好きかと嘆息する天津風だが、そんな彼女の蕎麦好きが自分たちの明暗を分けたのかと思うと馬鹿にも出来ない。

 彼女が蕎麦好きでなかったら、もしかすると今もあの環礁地帯でモアイよろしくオブジェクトになっていたのだろうと、嫌な想像が働く。

 

 食に対する執念が壊れかけた自我を救い出し、そして修理された連装砲くんの信号が水無月島に受信され、自分たちは救助されるに至ったのだ。

 もう二度と皆とはぐれることも、沈むこともあってはならないと、そう決意を新たにする。

 そのためには、天津風自身を含め、戦うための力が損なわれた艦娘たちに、力を取り戻す必要がある。

 出来るはずだ。かつての実験艦がここに2隻、揃っているのだから。

 だからどうしたと言われればそれまでだが、要はゲン担ぎや根性の問題かなと、天津風は青葉の丼から勝手に餅を強奪して自分の丼を力うどんにする。

 

「強奪も水無月島の掟ですか!?」

「わたしの身勝手よ」

 

 「うわあ、自由ですね!?」と元気な青葉は丼を手に席を立ち、いそいそとカウンターに餅のおかわりをもらいにゆく。

 それが何故か、お団子頭の利根と最後のエビ天を賭けて野球拳を始めてしまう。

 

「……あの。野球拳もこの島の掟ですか」

「一部でやってる娘いたわね。具体的には今その辺に」

 

 高雄の問いに答えつつ、天津風は横目で隣りの席を見る。

 我関せずと言った顔で静かに麺をすする響は「私じゃないよ。酔いに身を任せた艦娘たちが悪いんだ」などと呟き視線を泳がせる。

 

「ちなみに、先に全部脱がされた方が勝ちだよ」

「詳しいですわね」

「もちろんさ。これからどうなるかもね」

 

 鋭い打撃音がふたつ響き、半裸の利根と青葉が引きずられて食堂を後にする姿を目を細めて見送った天津風は、「何もこんなところまで昔みたいじゃなくても……」と溜息だ。

 しかし、なるほどと頷かんばかりのこともある。

 人の営みは受け継がれるのだ。人に、場所に。

 そう思い至ってようやく、天津風はかつてのこの場所と今のこの場所が地続きであることを意識する。

 まあ、隣りで澄ましているこいつが繋いだのだと認めたくはなかったが、功績が大きい故、せめて小言は控えておく。

 

 そして、決闘者2隻が仕置に連れて行かれた隙を見て、時雨がちゃっかりとエビ天を掠め取って行った。

 

 

 



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4話:第二艦隊④

 しばらくはこの鎮守府に慣れるため、海上には出ずに屋内でのリハビリに専念する。

 響が告げた言葉に、特に不満があるわけではない。しかし、この衣装はどうなのだと、時雨は渋い顔で唸りながら思うのだ。

 目覚めた時に響が着ていたナース服とは異なる、今日日イメクラでもお目に掛かれないような、丈の短いナース服だ。しかも、色は黒。

 “そういうこと”をする前提のつくりであるためか、股下5センチも無いのはまあいいが、いったいどこの提督の趣味だと天を仰ぐ。

 自分のところの所属ではなかったはずだと、時雨はかつての鎮守府の提督の性癖を思い出す。

 

 こういった海軍本部や他の鎮守府からの贈り物を、ここ水無月島の面々は好意的に受け取って身に纏っているのだとか。

 まあ、艦娘の衣装自体がよくできたコスプレ見たいなものだとも考えている時雨にとって、こういった衣装に対する慣れは早いのだが、その他の面子が辛そうなのはいかんともしがたい。

 同様にナース服を着せられた高雄などは、丈の短さが気になってまとめに歩くことも出来ないのだ。

 真っ赤になって必死に裾を押さえている高雄を、通りかかった朝霜が煽ること煽ること。歩けば丸見えなのだから、まあ仕方ないと言えば仕方ないのだが。

 

 それよりも重要なのはトレーニングだとばかりに、時雨は鎮守府内のトレーニング施設を訪れる。

 艦娘である以上、体調や筋力などは入渠時に調整が入るため、必要以上のトレーニングは必須ではない。

 むしろ、気晴らしや趣味の領域以外では時間の無駄となるとされているため、どの鎮守府でも過度のトレーニングを奨励してはいないのだ。

 しかし、そうは言っても艦娘の元となる存在や“海軍”の体質上、軍隊並みのハードワークとまではいかずとも、高校の全国大会常連校並みの運動量はキープしていると言っていい。

 そして、時雨が所属していた鎮守府は、かなりのハードワークを艦娘に課すことで知られていた。

 時雨自身としては、それに関しては否応なく、そう言うものだと割り切って取り組んでいたもので、特に思い入れはない。

 それが、こういった状況になって初めて、かつての習慣が名残惜しくなったのだ。

 敵への復讐心を保ちつつ、萎えた体感を取り戻すには、何よりも必要な行為に思われたから。

 

 果たして、トレーニングルームには先客がいた。

 背の高さから最初は軽巡か重巡級の艦娘かと思ったが、髪質から暁型だなと気付く。

 先にあの響の姿を見ていたがゆえの気付きだろう。この鎮守府の暁が、先客としてそこに居たのだ。

 腰まで届く長い髪は後頭部で一纏め、帽子で上から押さえつけている。

 身に纏うスポーツブラとトレパンは、くたびれ生地が薄くなっていて、お気に入りを着古しているのだなという印象を受けた。

 今までトレーニングしていたのだろう、全身汗だくで、薄い胸元は輪郭がはっきり判別するほど透けて見える。輪郭を意識するほど量が無いのが悲しいところだが。

 そして眼帯だ。眼帯が衣装に付属する艦娘は何隻か知っているが、暁型はその限りではなかったはずだがと思い至り、しかしどうでも良いかと時雨は浅い溜息を吐く。

 

「リハビリ? 機材は24時間いつでも使えるから、後片付けだけきちんとやってもらえば大丈夫よ」

 

 一息に言って、ようやく自らを暁だと告げて握手を求めた駆逐艦に、時雨も倣って手を差し出す。

 互いの手に触れた瞬間に、時雨は幻覚を見た。目の前の暁が、敵に見えたのだ。

 深海棲艦、完全人型のそれに。表情が険しくなって行くのを自覚するも、向こうも同じような顔をしていたために力が抜けた。

 理解に理屈はいらなかった。互いに、同じような症状を抱えているのだ。緩やかに深海棲艦へと変貌する病を。

 

 リハビリがてら、その深海棲艦化の先輩とも言える暁から話を聞くことが出来たのは幸運だった。同時に、彼女が出撃を制限されているとも。

 自分も“そう”だと知られてはまずいかと焦りを生ずる時雨ではあったが、その時は別の手段に移ればいいだけだと、悪い考えを振り払う。

 ではその手段をと、考え事をしながらダンベルを持ち上げたのが悪かった。

 回復し切らない握力に加えて汗の滑りが、金属の重量をつま先に落下させるという不幸を招く。

 隣りでストレッチしていた暁が片足を突き出し、足の甲と足首の間でダンベルをキャッチしたので事なきを得たが、そうでなければリハビリ以前に再び医療用ドックに逆戻りしていただろうと、時雨は自分の情けない姿を幻視する。

 リハビリと言うだけあって、ちゃんと立ち会い人の役割を果たしているのだ。

 この鎮守府で目を覚ました時から感じていたことだが、ここの面々の優しさが少しだけむず痒く感じてしまうのは、そう言った直接的であったり、もしくはさり気ない優しさに自分が慣れていないからだろうか。

 

 そんなはずはないと、時雨は自分が所属していた艦隊のことを振り返る。

 現世においては、輸送艦護衛任務専属の駆逐隊。

 かつて鋼の時代に共にあった、第27駆逐隊の皆だ。

 口を開けば皮肉を言い合い喧嘩ばかりしていた姉と、それを微笑ましげに見守ってくれていた初春型の僚艦たちと。

 決して仲が良いなどとは口が割けても言えないような有り様ではあったが、自分たちの間には絆と愛があったのだと、時雨は断ずることが出来る。思いやりだって然り、だ。

 それ故に、復讐を果さんとする自らが、こうして長らえたのだとも。

 

 そう思い至り、時雨は自分が優しさに慣れていないわけではないのだと、気付き頷く。

 明け透けにものを言い合う間柄が隣に居ないだけなのだ。

 そして、そんな人物とはもう二度と出会うこともないだろうなと、ため息を浅く吐き出した。

 

「考え事や思いつめることがあるのは別にかまわないけれど、まずはその服で筋トレするのやめたらどう?」

 

 確かに、こんなコスプレ衣装で筋トレとは片腹痛い。あの姉艦が生存していれば、指差し腹を抱えて笑っていただろう。

 あの時のことを思い出して高ぶり噴出しそうになるのを、ナース服を乱暴に脱ぎ去って誤魔化す。

 その様を呆れたように見ていた暁は、着替えやトレーニングウェアが必要だと、後で倉庫に行くようにと言い付ける。

 

「ああ、後でいいんだね?」

 

 言質を取ったとばかりに、時雨は服を脱ぎ去った格好のままトレーニングを再開してしまう。

 憮然とした表情の暁が露出狂なのかと問うてくるので、趣味ではないと時雨が返せば、ならばナルシストだなと断定された。

 内心ムッとした時雨ではあったが、確かに一理あるかもなと、トレーニングを続行する。

 後々、暁が大鯨らにこっぴどく叱られることになるのだが、時雨は澄ました顔で、努めて知らないふりを決め込んだ。

 

 

 ○

 

 

 これは少々難しいことになっているなと、天津風は天井クレーンで吊るされた雷を眺めつつ呻きを上げた。

 吊るされた駆逐艦に何か思うことがあった、と言うわけではなく、雷の艤装に発生しているエラーがかなり深刻だったのだ。

 専門的な用語をなるべく排して簡潔にその現象を述べるならば、艤装核が駆逐艦としての動き方を部分的に忘れている、というもの。

 

「……簡潔にしてみて思ったけれど、コレさっぱり意味わかんないわね」

「もう降りていいの?」

「まだよ。もうちょっとデータ取りたいから……」

 

 手元の液晶パットを操作しながらため息を噛み殺す天津風は、傍らで雷のスカートを下から覗き見て記録している連装砲くんを思い切り蹴飛ばして第二出撃場のプールに叩き落とす。

 油断も隙もあったものではない。つい先日も、天津風の入渠風景の一部始終を記録した映像を提督に見せに行って「肉体美だね?」などと感想をもらったのだと自慢して来て頭を抱えたものだ。

 当人としては主である天津風の魅力を余すことなく提督に売り込んでいるつもりなのだろうが、正直余計なお世話も甚だしい。

 終いには他の艦娘の記録と比較したデータを突き付けて「敗けてるよ! もっと頑張らないと!」などと励ましているのか煽っているのかわからないことをほざいてくるのだ。

 

 気を取り直すように、天津風は這いずって上がってきた連装砲くんにデータを整理させる。

 さて、艤装核が駆逐艦としての動き方を部分的に忘れている、と言うこと。

 それはすなわち、ここにいる雷の人体と艦艇である雷の魂の繋がりが疎遠になっているということだ。

 繋がりを保つための艤装核がダメージを受けたせいで、ここ水無月島に流れ着いた提督のように記憶喪失状態にあるのだと、連装砲くんは結論付けている。

 

「ねえ、それって記憶が戻ったりするの?」

「どうかしら。提督の方は詳しくはわからないけれど、こっちはちょっと深刻よ」

 

 雷の艤装核に見られた喪失は、エピソード記憶の喪失ではなく、手続き記憶の喪失。人間であれば使い慣れた道具の使い方を忘れたり、毎日通っていた道を忘れたり、と言った具合のものだ。

 こういった分野に関する欠損ならば、艦娘由来の技術である短期学習装置にて改めて刷り込むことが可能ではあるが、しかしこと艤装核においては、話は違ってくる。

 

「……艤装核関連は海軍本部工廠のスタッフじゃないと弄れない。色々試したいことはあるんだけれど、ここじゃどうにもならないわ……」

 

 天津風の言に、吊るされたままがっくりと肩を落とす雷。内心では天津風も同様の気持ちだ。

 天津風とて、雷と同様に艤装核にダメージが蓄積されている身だ。

 10年ぶりに島に帰投して、艤装との同期を果たし(泣いて吐いて、幼児退行までやらかした)、海上に二足で立つことが出来た時は感涙を禁じ得なかったが、その涙はすぐに質の異なるものへと変化した。

 海上での活動に時間制限があることが発覚したのだ。

 一見して異常なく駆動するかに見える艤装も、一定時間を過ぎると急激に機能を損なっていき、酷い時は海中に没してしまう。

 そしてその制限時間は、水上で活動する度に目減りしていくのだ。

 次に水上に立つときは、もう1分と浮いていられないかもしれないと考えると、怖くて泣き出したくなる。

 

 しかし、感情に任せて泣き出すことは憚られた。

 人の目がある、という部分もあるが、自分よりも深刻なヤツが吊るされて笑っているのだから、ひとりだけめそめそしていられない。

 それに、希望はまだ潰えてはいないのだ。

 

「はーい、お待たせ!」

 

 新たに第二出撃場に入ってきたのは夕張だ。

 オレンジ色のツナギ服に袖を通し、天津風と同様に液晶パットを携えた姿。傍らには連装砲ちゃんの1号と2号も付き従っている。

 遭難中に聞いた話だが、この夕張は本土の海軍本部工廠に出入りしていた秘蔵っ子なのだとか。

 艦娘が自らの心臓部であるブラックボックスを弄れないのは彼女とて同様ではあるが、この夕張は艤装を騙す手段ならば三桁の数を上げることが出来る。

 

「さあ、今から皆の一番恥ずかし部分、御開帳しちゃうんだから……!」

 

 頼もしいのか恥ずかしいのかよくわからない感情に襲われて、天津風は苦笑と共に自らの肩を抱いた。

 

 

 ○

 

 

 ようやくまともな衣装に着替えることが出来てひと心地(体にぴったりとフィットする黒のセーターとジーンズだ)、といった気分の高雄が第二出撃場を訪れると、水無月島の所属艦娘のほとんどが集結したところだった。

 今から何が始まるかと思えば、なんと高雄の艤装を開けるのだとか。

 理解が追い付かず眩暈がしたが、先に来ていた時雨が(オーバーオールにキャップと、どこかのティーン向け雑誌のモデルのような格好だ)集まりの方を指さして「止めるなら早くした方がいいよ」と肩を竦めて見せる。

 まったくこの皮肉屋はと、ムッとした高雄がずかずかと歩調も荒く歩んでゆけば、気付いた夕張がその顔に焦りを浮かべる。

 

「艤装の持ち主に断りもなく、いったい何を?」

「いやあ、艤装って厳密には海軍の備品であるわけで、個人の所有物と言うわけでは……」

「屁理屈はよろしい。貴女が私の艤装を開ける大義名分を今すぐ述べることが出来たのならば、この怒りを矛先を見事収めて見せましょう?」

 

 張り付いたような笑顔で慇懃な言葉遣いになる高雄に、夕張は「ならば簡単だ」とばかりに笑んで見せる。

 指を三本立てる。

 

「大義名分を言わせてもらうわ。高雄の艤装選んだ理由、それは大まかに3つ。ひとつは、重巡・高雄という艦娘の艤装が、構造的にある程度の余白を設けられているという点。“艦隊司令部施設”の試験運用艦娘である以上、ある程度のスペースが必要となるは必然で、そしてその余白があればあるほど“開けた”時に他の機能に触って思いがけない誤作動を誘発するリスクを軽減させることが出来るの」

 

 一息に言われ、高雄が反論を思い付く間もなく、夕張は次の理由を述べる。

 

「ふたつ目、ここに集まった艦娘の中では、高雄。貴女の艤装が一番デフォルトに近いの。他の子達はダメージ増し増しだったり敵の艤装核を精製・純化しないで建造に用いたものばかりだから、“本来であればどうなっているのか”と“現状”との比較がやり難いのよ」

 

 ふたつ目の理由には、高雄もなるほどと頷かざるを得ない。

 頷かざるを得なかったが、横目にある人物の姿を見とめてしまったものだから(気楽そうに笑っていて腹が立つ)、眉をひそめ、言わざるを得なかった。

 

「……それなら、私ではなく青葉の艤装でも良かったのでは?」

「ちょっと、ちょっと高雄さんひどくないですか!? 青葉の大事な大事な恥ずかしい部分がこんな公の場で御開帳されちゃうのですよ!?」

「私は断りもなく御開帳されるところだったのですよ!?」

 

 逆ギレ気味の高雄を諌めるように、夕張は3つ目の理由を述べる。

 

「理由3つ目。青葉の艤装は特注品で、私でも“開ける”ことが出来ないの。構造的には皆のとそんなに変わらないはずなんだけど、短絡させる箇所とか誤動作させる箇所がまったく違ってて、下手にやろうとすると青葉が沈む」

 

 一瞬、「それはそれで……」と視線を逸らした高雄に、青葉がひどいひどいとすがり付く。

 まあ、もうすっかり皆その気になっているところをごねてもみっともないなと、高雄は艤装の開放を良しとした。

 この夕張が鳴り物入りだという話は前もって聞いているし、それに各々の艤装に差異が生じているのだとすれば、それを知っておくのも後々役に立つはずだと自分を納得させる。

 ただ、前もって恥ずかしい部分を御開帳などと銘打たれてしまったせいで、この場に提督がいることがどうにもやり辛い。年頃の男子がだ。

 自らの好みにはかすりもしないはずの彼だが、ふとした瞬間にときめきを覚えることが難儀なものだと苦悩する高雄の目の前で、彼女の艤装が開放されてゆく。

 

 開放の対象となるのは艤装核を内蔵した腰部ユニットだ。

 緊急時に全艤装をパージしても、これだけは艦娘自身と接続したままとなる部分。

 このパーツばかりはどの艦娘も同一規格のもが用いられていて、だからこそ生じた差異をはっきりと認識できるのだと、夕張は作業の手を進めつつ語る。

 

「さあ、御開帳ー」

 

 そうして開放されたユニットの中身に、集まった艦娘たちから感嘆の声が上がる。

 ユニットに内蔵されていたのは、乳白色の卵のような部品。艤装核の姿だ。

 核の大きさはそれこそ鶏の卵程で、皆から見える位置には赤い鳥居のマークと三桁の番号が刻印されている。

 その番号に疑問を示したのは、水玉模様のキャミソールワンピースに軍帽という、ちぐはぐな格好のプリンツ・オイゲンだ。

 

「ねえバリィ。この、ナンバー059って何? 製造番号?」

「これは艦娘の登録ナンバーよ。プリンツならプリンツに、高雄なら高雄にそれぞれ割り当てられている番号ね。これは高雄の艤装核だから、重巡・高雄の艦娘には全て、このナンバー059が割り当てられているってわけ」

 

 そうして高雄の艤装核を囲んで夕張のご高説が始まるわけだが、その間艤装の持ち主は心中穏やかではいられなかった。

 自分の魂と言っても過言ではない大切な場所が皆の目に晒され続け、それがどういうものかを声高に語られているのだ。

 しかも、興味深そうに艤装核を覗き込む艦娘たちが口々に「綺麗」「つるつるだな」「すべすべですー」「しっとり滑らか」「艶めかしいのう」「ちょっと濡れている?」などと率直な感想を述べるものだから堪ったものではない。

 新手の羞恥プレイに顔を真っ赤にして俯くしか出来ない高雄。

 その横顔に向けて青葉が無遠慮にシャッターを切るものだから、無言で立ち上がって逃げるフォトグラファーを追いかけ回した。

 

 そうして高雄の恥辱の時間が終わると、次に開放されるのは暁の艤装核内臓ユニットだ。

 理由はもちろん、現時点では唯一深海棲艦化が確実とされている艦娘だからだ。

 夕張が工具を用いて丁寧に開放作業を進める中、当の暁はと言えば、ずっとそわそわして、何故か身に纏っているマントの裾を握りしめている。

 わかる。わかるわ。その羞恥。高雄がそう内心で頷く中、暁はちらりちらりと提督を横目で盗み見て、すり足気味に近寄って、しかし忍び寄って来たプリンツに背後からハグされついでにがっちりと拘束されて自由を奪われた。

 不満の雄叫びを上げつつ抵抗する主を余所に、その艤装核は露わになる。

 

 暁の艤装核を目の当たりにした者たちは、まず一様に言葉を失った。

 思考が停止した、と言うよりは、高雄の時と何か違うことがあるのかと疑問する形のものだ。

 形状としては高雄の時同様の卵型で、鳥居のマークもナンバーも刻印されている。

 ただ一点、異なる部分を上げるとすれば、暁の艤装核は黒曜石のような漆黒色をしていた。

 

「これが、深海棲艦化の影響ってわけね」

 

 夕張も予想はしていたが確信は持てないでいたのだろう。

 それが、ここに来て確信するに至ったのだ。

 黒く染まった艤装核。

 それが、深海棲艦化の症状なのだ。

 

 不安そうに眉を下げる暁を、彼女を捕まえたままのプリンツが抱きしめる腕に力を込める。

 その光景を見て一安心といった心地の高雄だったが、その気持ちは遠くない未来に霧散することとなる。

 

 続いて、希望する他の艦娘たちの艤装をも開放していったのだが、驚いたことに、ほとんどの艦娘の艤装核が、暁同様に漆黒色をしていたのだ。

 阿武隈たちをはじめ、敵から奪取した艤装核を用いて建造された艦娘はもちろん、敵支配海域で長期間活動していた天津風や夕張、そして時雨の艤装核も同様だった。

 

 

 



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5話:第二艦隊⑤

 グローブに内蔵されたスイッチ類を指の動きで操作しつつ、これはこれで張り合いの無い仕事だなと、時雨は他の者に悟られぬように溜息を噛み殺した。

 久々に足元に感じる海面の感触は、以前自らが体感したものとはひどく変わってしまっている気がした。

 敵支配海域に突入した5年前当時、すぐに艤装を外してしまったがゆえに、この硬い海面を踏みしめる時間はさほど多くはなかった。

 この海域の感触を足に覚える機会を、自ら放棄してしまったのだ。

 

 だから、こうしてリハビリがてらの機雷掃討任務は、感触を取り戻すうえでは最適かと思いつつも、退屈であることは否めない。

 水無月島の活動圏に定期的に発生する深海忌雷。それらの処分が、今の時雨の主な任務だ。

 両の腰部に接続した掃海具、そこから掃海艇を複数解き放って、グローブ内のコントローラーで動きを微調整する。

 互いの触腕を伸ばし繋ぎ寄り合わせて連結している忌雷どもをこれで断ち切ってゆくが、そうする傍から勝手に動いて襲ってくるので、お目付け役の潜水母艦・大鯨や三式潜水輸送艇ことまるゆが、海上と海中の両面から伸縮機構のある棒状の艤装で突いて爆発させている。

 これなら最初から突いて爆発させた方が手間がないのではと思う時雨だが、自分のリハビリも兼ねていると理解しているので、口はつぐむ。

 後にこちら側の機雷も敷設する作業があるため、そちらの方面でもリハビリメニューが組まれているはずだからとも。

 

 退屈ではあるが、それは時雨が海上での感触を取り戻しつつあるという意味でもある。

 航行に支障がないことは確認済み。あとは、背中の連装砲の代わりに収まった自立稼働型砲塔がデータを収集して、艤装核に刷り込むためのパターンを再構築できれば上出来と言ったところか。

 

 それにしても、お散歩気分で敵を掃討する大鯨やまるゆの肝の太さには驚くばかりだ。

 建造された時から最前線となれば、常在戦場という言葉を意識する機会も無かったのだろうか。

 時雨は否だと首を振る。

 最前線で生まれ、戦い続けるも、彼女たちは平和な時間の存在を蔑ろにはしていない。

 そんな心の在り方をどう言ったものかと口をへの字に曲げる時雨は、こちらをちらりちらりと伺う大鯨の様子にさらに渋面を作る。

 

 彼女と艦艇時代に縁があったのは確かだ。

 より正確には、彼女が改装され空母となった姿である“龍鳳”に、だが。

 時雨自身にも思うところは無くはないが、それでも彼女に対して自らが“時雨”として向き合ってよいものか、そう言った葛藤がある。

 自分はデフォルトの時雨よりもだいぶ捻くれているのだと、多くの人や艦娘に言われ続けていたから、そう思ってしまうのかもしれない。

 わかっているし、知っている。

 艦娘としてこの世に顕現した駆逐艦・時雨は、真面目で素直でとても良い娘で、今の自分とは真逆の存在だ。

 素体となった娘がさぞ育ちが良かったのだろうとも言われているが、そのあたりの事情は知る由もない。

 思うに、そう言った素体の性格を基礎とした時、駆逐艦・時雨として内側に秘めて隠していたい部分を表に晒しているのが自分なのだと、捻くれ者はそう考える。

 “前”に縁があったものたちからは身を引かれるし、同一艦の時雨と対面しても顔をしかめられたものだ。

 当たり前だ、自分の隠している部分、見せたくはないはずの部分を明け透けにして平気でいられるなど、それこそ時雨には耐えられないはずだ。

 だからだろうか、27駆の皆といる時間は心が安らいだ。

 こんなに擦れてやさぐれていてもそれでいいのだと言ってくれたし、事あるごとに喧嘩を吹っかけてくるあの姉も、本当に替えが利かない大切な存在だったのだ。

 

 こんなことになるのなら、一度くらいは普通の時雨みたいに素直に振る舞って見れば良かったと思わなくもないが、それはそれで絶対にあの姉がからかってくる。確信があるのだ。

 ならば、この島の面々はどうなのか。

 今のところ、脱走前に感じていたような息苦しさは無い。

 せいぜい高雄が「ずいぶんと皮肉屋ですわね」と片眉上げてちくりと言うくらいだ。不快に思うどころか逆に好感が持てるのが彼女の人徳かなとも思う。皆に弄り倒されているので大目に見ているという節もあるが。

 そんな中にあって、自分を時雨として慕って世話を焼こうとしてくる彼女の存在に、居た堪れない気持ちになる。

 

「ボクは、キミの望んでいる時雨じゃないよ」

 

 さあ昼食だ、おにぎりを握って来たのだと、意気揚々と並走してくる大鯨に、時雨は思わず悪態をついてしまう。

 すぐに、そんなつもりはなかったのだと弁解したかったが言葉は出ず、しかし大鯨は気にしていない様子で懐の包みを差し出してくる。

 

「貴女が時雨ちゃんとしてこの海に舞い降りたのなら、貴方は紛れもなく時雨ちゃんなの。他の娘とはだいぶ違うのかも知れないけれど、私にとっては守ってあげたかった大切な僚艦なのよ」

 

 だから、また会えて嬉しいのだと告げる大鯨は、「それに、自分の考えていたイメージと違っているから別人だなんて、そんなの酷いと思わない?」と、眉を寄せて食いついてくる。

 ご最もだと降参したいところだったが、それでは自分がいっそう出来損ないな気がして、やはり素直に認めたくない。

 こちらがどうであれ、自分はこうあるのだと、大鯨の言葉には彼女の強さがにじみ出ている。

 独善にも聞こえる言い草ではあるが、こちらが嫌だと言えば、彼女は素直に身を引くつもりなのだろう。

 どれだけ性格が違っても人は人。どれだけデフォルトからずれてしまっていても、彼女はこちらを時雨として認識する。

 

 これはやり辛い。こんなにべったりとした好意を向けられたことがなかったからだと思い至り、今さらに27駆の皆が気をつかって自分に接してくれていたことに辿り着く。

 こういった付き合い方が苦手だとわかっていて、あのような距離感を保っていてくれたのだなと、もう戻らないものに思いを馳せる。

 かつてあったものが得難いものだったのだと、失ってから幾度も思い知らされるのは、まるで地獄のようだ。

 

 地獄と言えば、まあこの状況もそうだろう。

 緩く並走しては引っ付いてくるこの僚艦。

 どうしたものかと視線を逸らせば、向こうでおっきい三式潜水輸送艇が大口開けておにぎりを食んでいる。

 あれを見ていると深く考えすぎるのが馬鹿らしく思えてくるなと、時雨は引っ付いてくる大鯨の頭をくしゃくしゃに撫で繰り回して誤魔化すことにする。

 

 戦時も戦時、最前線の真っただ中。

 それだというのに、こんなにも平和な面々と一緒に、自分を立て直していこう。

 復讐心を穏やかに保ちながらもそう考えるに至った時雨は、それがすぐに揺らぎ波立つ心地を味わうことになる。

 視界の端に、無視できない兆候を見たのだ。

 海面に体の一部を、黒いヒレ上のパーツを露出させて高速で移動する敵。

 深海棲艦は潜水棲姫。こんな奇行を行うのは個別コード“ナックラビー”以外に考えられない。

 討つべき仇が、こうも簡単に姿を現したのだ。

 

 

 ○

 

 

「まるゆが抑えます!」

 

 動きを止めた3隻の内、即座に対応を開始したのは海中に身を置くまるゆだった。

 時雨が爆雷を用意するまでに敵の初動を抑え、時間を稼ぐのだ。

 一度は潜水棲姫と引き分けた身だが、此度もそう出来るという楽観は微塵もない。

 だから出過ぎた真似はせずに、あくまで時間稼ぎなのだと、まるゆは甲標的をリリースして敵艦へと先行させる。

 あちらは背びれが露出するほど海面すれすれを潜航しているにも関わらず、かなりの速度を保持しているし、直角なターンを繰り返して軌道が読めない。

 だから、甲標的で追い立てて行先を限定して、魚雷でさらに行先を制限する。

 そう考えて雷撃準備を整えるまるゆだったが、こちら側にターンして来た“ナックラビー”が真正面は衝突コースを突っ切って来て、慌てて急速潜航して深みへ逃れる。

 

 動きが読まれているのではないか。

 過った考えにまさかと焦り、もう一度手順を立て直そうとするが、今度は先ほどよりも前の工程で妨害が入る。

 こうまでされればもう確信だ。

 この敵はこちらの考えを読んでいる。

 対して、相手の動きは全く予測出来ない。

 甲標的を回収して手元で構えなおすも、“ナックラビー”は回避行動を取る素振りもなく、こちらの射程圏内をジグザグに行く。

 この動きそのものが回避行動なのかと思い数発魚雷をばらまいたところ、2、3発が直撃してまるゆはぎょっと目を見開いた。

 致命傷ではなかったものの、確実に敵の力を削いだはずの攻撃だ。それだというのに敵の挙動に変化はない。

 攪乱ならばそこから意図を逆算できるが、この敵はそんなものとは無縁な思考と動作でこちらを翻弄している。

 少なくともまるゆの目にはそう映った。

 これまで相対したどの深海棲艦も、こんな自由奔放な挙動を取る個体はいなかったはずだ。

 

「惑わされないで。やつは正気じゃない、動作や思考を読み取ろうとするだけ無駄だよ……!」

 

 時雨からの忠告がモールス変換で降りてくるが、じゃあどうしろと言うのだと、まるゆが涙目で敵を狙い続けるなか、“ナックラビー”は更なる動きを見せる。

 

 潜水棲姫“ナックラビー”、その体は女性の上半身に魚類の下半身といった、まるで人魚のような構造を基礎としていて、背部や腹部にヒレ状の生態偽装を複数張り付けた姿だ。

 海中を高速で縦横無尽に駆動するその体が、一度深海へと消えたかと思えば急浮上して、勢いをそのままに海上へと跳ね上がった。

 まるでイルカショーでも見ているかのような光景に、海中にいたまるゆはもちろん、海上で補給用のコンテナを展開していた大鯨も思わず手を止めて固まってしまう。

 敵の奇行に対して即座に反応出来たのは、時雨ただ1隻だ。

 主砲も魚雷も未だ制御系が構築出来ていない身で戦う手段は、今のところ爆雷のみ。

 グローブの上から手の甲に口付けした駆逐艦は、自立稼働型砲塔の背部に増設したストッカーから次々と爆雷を射出。

 それらを脚部艤装のヒールで蹴って跳ね上げ、敵の着水地点に円を描くようにばらまいてゆく。

 タイミングは完璧、海上高く跳ねた敵が再び海中へと身を没した瞬間に炸裂する罠はしかし、“ナックラビー”が海面にへばりついてごろごろと転がる動きで回避される。

 

 その動きを、時雨は予測していなかった。

 そもそも、敵の次の動きを予測など、最初からする気はない。

 次にどんな奇行が来ようとも、現状において取れる手段を持って即座に対応する。

 その心構えは5年前から出来ているのだ。

 時雨は己の速度を徐々に上げながら、新たに射出した爆雷を足の甲で蹴って海面をスキッドさせ、何故か這って逃げる“ナックラビー”に直接命中させ、爆破する。

 海中のまるゆには何が起こっているのか全く分からず、海上にて動向を見守っている大鯨も時雨のしなやかな挙動に見入っている。

 

 海上での爆撃を重ねダメージが蓄積された“ナックラビー”へと、時雨が迫る。

 しかし、さすがは敵の首級ということか、これだけ攻撃を重ねても彼女はけたけたと笑うだけで、まったく意に介した様子はない。

 

「それなら、沈んでも笑っていられるか確かめてやる……!」

 

 速度を上げ距離を詰めるに至った時雨は、敵が笑いながら海面に両手を付き、むくりと上体を起こす姿を見る。

 “ナックラビー”の下半身部に変異が生ずる。

 幾つも纏わりついていた黒いヒレの一部が生き物のように蠢き肥大化して、有蹄類の脚部のような形状を作り上げてゆく。その数は4。

 魚状であった下半身部は馬の胴体に酷似した変異の途中で止まり、ひどく中途半端な姿を露わにする。

 かの妖精の名の通りの姿に変異した深海棲艦は、馬がそうするように後ろ足で立つと、ひづめの4足で海面を踏み荒らす。

 暴れ馬そのものの動きで時雨が放つ爆雷を後ろ足で蹴り返し、時雨は自分の方へと返ってくる脅威に舌打ちして、即座に対応する。

 

 腰部の掃海具を展開する。

 掃海艇部分を射出して返って来た爆雷を捕らえると、ワイヤーをグローブに握りしめ、担ぐように構えて、自らの体を時計回りに回転させる。

 そうして遠心力を生じ、ワイヤーの先でトップスピードに到達した爆雷を再び敵に叩き付けた。

 炸裂箇所は頭部、人間であれば重要な器官を数多く内蔵している急所中の急所だが、そこを破壊されても敵はなお動く。

 半壊した頭部から青黒い粘性のある液体を滂沱と溢れさせた“ナックラビー”は、手の届く距離に至った時雨に対して、その手を伸ばす。

 白く長い手が掴むのは時雨の細い首。

 なけなしの速度が完全に殺され、足が海面から浮いた状態で停止した時雨は、敵の目を真正面から見つめ返す。

 このまま片手で握り潰さんばかりに力が込められることは誰の目にも明らかであり、よって時雨の次の行動を推測するのも容易だったろう。

 掃海艇を繋いでいるワイヤーが翻り、敵の手首を拘束。断ち切らんとする。

 

「ダメです! 時雨ちゃん離れて!」

 

 大鯨の声を背中で拒絶して、時雨はグローブにてワイヤーの挙動を操作。

 しかし、切断の用途にも改良されたはずのワイヤーは敵の手を断ち切ることが出来ず、せいぜい表層に切れ目を入れて流血させる程度に留まる。

 力はもちろんのこと、速度が圧倒的に足りないのだ。

 ほとんど静止状態からの運用では、本来の切断力が発揮できない。

 ならば、ワイヤーの強靭さに頼って断てる領域までやるだけだと歯を剥く時雨は、“ナックラビー”がその手に力を込めていない現状を訝しむ。

 否と、すぐに感じた疑念を捨てる。

 この敵は何をやって来てもおかしくはない。

 今もこうして、半壊した頭部を笑みの形にして、艦娘の領分から外れた手段を目の当たりにして、爛々と目を輝かせているのだから。

 

 不意に、時雨の体が前のめりに沈み込む。

 “ナックラビー”が時雨の首から手を離し、緩やかに潜航を開始したのだ。

 焦りを帯びる駆逐艦の顔を眺めながら、余裕を感じさせる動きで敵は海中に姿を消した。

 こうなると、彼我の艦種の差を嫌でも思い知らされる。

 潜水艦はともかく、水上艦である駆逐艦の肉体は、艤装を展開している間は水に沈まない。

 時雨の体は敵を捕らえたはずのワイヤーに引っ張られ、海中へと引きずり込まれてゆく。

 力は向こうが格段に上。このまま海中に引き付けられた場合、海面に押し付けられて潰されることになるだろう。

 瞬時にはじき出された計算では、掃海具の強度限界が来るよりも海面に圧殺される方が早い。

 

「我慢比べのつもりかい? いいよ、付き合うよ……!」

 

 自分の死に様を幻視した時雨は、海中に引きずり込まれるワイヤーに己の左腕を噛ませて楔とする。

 ようやく手の届くところまで辿り着いた仇だ、掃海具をパージして脱出するという選択肢は最初から投げ捨てている。

 ワイヤーの噛んだ左腕が海面にめり込んで、海中へ引きずり込まれる動きは止まった。

 しかし、本来全身で受けるはずだった負荷が左腕一箇所に集中して、柔な細腕は一瞬で破裂したかのように噴血する。

 肉は駄目だが骨はもう少し持つはずだと、時雨は痛みを堪えるように口をつぐんだまま、背部ストッカーの爆雷をありったけ周囲に投下する。

 自らをも巻き込む決死の攻撃はしかし、海中の“ナックラビー”が急発進したことでふいにされる。

 背後の水柱が遠ざかる音を耳に、手元の激痛に耐える時間が始まる。

 艦娘にとって海面は足場であり、移動する速度によっては舗装された路面に匹敵する摩擦が生まれることになる。

 腕の肉が削げ指が幾本か飛んでゆく光景に歯噛みすると同時、突如首の動脈が断ち切れて血が噴き出した。

 深海棲艦の手が触れた箇所だ。人間離れした握力で握りつぶされずとも、その鑢の様にざらついた肌は簡単にこちらの皮膚を傷付け、動脈すらも断ち切る。

 計算されたかどうかはわからないが、結果としてそうなった。何より頭の位置を低くし力んだのが致命的だ。

 自らの出血量から意識が落ちるまでの時間を計算した時雨は、もう自分ひとりではどうにもならないことを悟り、脂汗を浮かべた顔から表情を消した。

 

 海面を引きずられまま速度は急激に上がる。左腕も、我慢比べも、もう限界だ。

 意識を手放すのが先か、海面に頭をすり潰されるのが先かと考えたところで、背中の自立稼働型砲塔が異様な駆動音を上げ始めた。

 妖精たちが慌てた様子で艤装の中を走り回る感触が伝わってくる。

 耳に聞こえてくるのは「仮設機、限定モードで起動!」と妖精たちが叫ぶ声。

 表情の消えた顔に疑問を浮かべた時雨、その肩に、ふわりと何かが降り立った。

 横目に見るそれは、まるで妖精のような輪郭をしてはいたが、それはあくまで輪郭のみ。

 その姿は黒く塗りつぶされたような、あるいはノイズが走ったかのような白と黒の色彩を混ぜこぜにした、異様なものだった。

 

『駆逐艦・時雨。キミはひとつ思い違いをしている』

 

 何さ。そう口に出したかったが、それはもう心の中だけに留まる。

 

『今この状況に対応しているのは、キミだけではないよ』

 

 妖精の輪郭が発する声。

 どこかで聞いた声だと記憶を辿る時雨は、「ああ、ダンボールの人か」と、顔もおぼろげな水無月島の提督を思い出す。

 そして彼の言葉の意味を考える間もなく、突如海中で爆発が起こり“ナックラビー”が失速した。

 海上を恐るべき速度で引きずられていた時雨にとっては堪ったものではない。

 慣性によって宙に投げ出され、限界を迎えた左腕の骨が断ち切れ、腰部の掃海具も損壊。

 速度を維持したまま海面を水きり石のように転がった時雨は、浮上して奇声を上げる“ナックラビー”の姿を逆さまに見る。

 いったい何がと、焦るように険しくなる表情は、次の瞬間ぎょっと目を見開くものへと変わる。

 先程半壊した頭部が海中で起こった爆発によってさらにダメージを受けたのだろう。海面で激痛にのたうつ“ナックラビー”の後方、黒い球体を両手で掲げたまるゆが、ゆっくりと浮上して来たのだ。

 手にしている黒い球体は先ほどまで処理していた深海忌雷、その取り残しだ。

 先の爆発はあれにぶつかったものだなと察する時雨は、まるゆが容赦なく敵に忌雷を叩きつける姿に息を飲む。

 

 自分が攻撃しても痛がる素振りも見せなかったくせにと歯噛みする時雨は、次の“対応”を目の当たりにする。

 時雨とまるゆの足止めによって、ようやくこちらに追いついて来た大鯨が、準備していた装備を展開する姿だ。

 鈍色の球体をワイヤーで繋いだ形状は、こちらも機雷。

 深海棲艦側と違って自立稼働するものではない。比較的浅めの海域と言うことで係維タイプを用意していたものだ。

 大鯨はそれを“ナックラビー”の足元に射出。

 破損が拡大した頭部を庇うように押さえて立ち上がったばかりの有蹄脚に、ワイヤーが絡み巻き付いて接触、瞬時にして敵の足元に炸裂の花が咲く。

 “ナックラビー”は悲鳴のような声を上げながら有蹄脚を自ら切除して、元の人魚のような姿に戻ると急速潜航。すぐにこちらの索敵圏内から姿を消す。

 咄嗟に「待て!」と手を伸ばそうとした時雨は、自らの肘から先が消えた腕に歯噛みして、意識を手放した。

 

 

 ○

 

 

 それからは散々だったと、時雨は水無月島の医療用ドックで目覚めてから今までを、トレーニングルームの一角から振り返る。

 大鯨はじめ様々な艦娘たちからのお説教と謹慎の言い渡しと、そして泣きたくなるような気遣いの数々に心を痛めるばかりだった。

 自分が思っていた以上にこの場所に受け入れられていたのだと自覚して、ならばなおさら、仇との決着を付けねばと思うのだ。

 あの忌々しい仇は、時雨を追って来た。

 “ナックラビー”の顔を、その目を至近距離で見たとき、時雨はそう、根拠のない確信を得ている。

 あれは自分を追ってここまで来たのだ。

 ならば、自分がこの島の面々を危機に晒してしまったことになる。

 自分にそんなことを考える心が残っていたことに驚き、そしてその程度の思い詰め方で仇を討とうとしていたことに情けなさを覚えた。

 

 あの時点で出来ることは、取れる手段はすべて使い切ったと考えていたが、それは間違いだった。

 この後に及んでまだ、自分1隻ですべてを終わらせるつもりでいたことを、こうして生還して自覚する。

 手段を選ばず、あらゆる手を尽くして仇と対峙するべきだったと、この時ようやく時雨は思う。

 単艦ではなく艦隊で当たるべきだった。

 そしてそれは、新たな仲間を危険に晒すことでもある。

 

 今さら、自分にそんなことが出来るのかと、時雨は自問する。

 出来るだろうと答えは出るが、すべてが終わった後でより大きな後悔に蝕まれるところまで、はっきりと予知できるのだ。

 どれだけ冷めても冷徹になりきれない。

 そんな自分だからこうして仇討などしているのだと、面白くもないのに笑みがこぼれてくる。

 

 ダンベルのウェイトを増やしながら苛立たし気にため息を吐き出していると、艤装の修復の件だろうか、夕張と天津風が訪ねて来た。

 

「トレーニングもいいけれど、そんなにむきむきになってどうするの?」

 

 腕組み、呆れたように告げる天津風を、上から下まで舐めまわすように見つめて、鼻で笑うようにしてやれば、ツナギ姿の駆逐艦は傍らの連装砲くんでこちらを亡き者にしようとしてくる。

 夕張が止めなければ鋼の角で殴打されていただろうなと、どこか他人事のように考えて、そして今日はルームの使用者が多いなと、新たな来訪者に眉根を寄せる。

 高雄に青葉、そして響だ。服装からトレーニングする気などさらさらないような面々が何をしに来たのかと言えば、そんなものは決まっているなと嘆息する。

 

「時雨、私たちに何か言うことは?」

 

 澄ました顔で告げる響を上目でねめつけ、時雨はウェイトを置いて皆に向き直った。

 誰もかれも、こちらがしゃべるまで動かないぞと、そんな忍耐のある者などいない。

 時雨が何も言わなければ、自分たちで勝手に動くだけだと、言外にそう告げているが丸わかりだ。

 だが、皆はこうも思っているはずだ。

 時雨は絶対に言うと。その言葉を口にするはずだと。

 単艦で敵を撃沈させることが困難だと思い知ったのだから。

 知った顔をされるのは不愉快極まりなかったが、なかなかどうして、その不愉快な感情が心地よく思えてくる。

 

「ヤツを倒したい。仲間の仇を討ちたい」

 

 頷きが返り、笑みが返る。

 もはや自分1隻でどうにか出来ることではないと理解してしまった。

 だから、新たな仲間を頼ることにする。利用すると言い換えてもいい、その方が邪魔な良心が痛まないはずだ。

 そしてここに揃った面々は、そんな時雨の考えなど最初からお見通しで、それでもなお力を貸そうとするお人好しなのだ。

 

「ボクに力を貸して」

 

 思えば、水無月島の第二艦隊はこの時結成されたようなものだなと、時雨は後に振り返る。

 

 

 



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6話:第二艦隊⑥

 執務室でダンボールの片付けをしている提督を横に、暫定結成された第二艦隊の面々がテーブルを占拠。

 菓子やら飲み物やら持ち込んで、ホワイトボードには“対策会議”の大きな文字。

 プロジェクター役の連装砲くんがスクリーンに投影する参考資料を眺めながら、夕張や天津風がその都度解説を入れるという形で作戦会議は進む。現在は敵の周辺情報をかき集めている段階だ。

 ここで纏まった内容をあとで第一艦隊の面々と擦り合わせることになるのだが、会議が多いのもどうかなと肩を竦めるのは時雨。

 そこは大丈夫だと、青葉が議事録を取りながら言う。

 情報を出し尽くして纏め終えたら、高雄の助言を交えて幾通りかの作戦を立案する流れとなっている。

 現状の水無月島の戦力で遂行可能な案を。

 第一艦隊の毛色は考えるよりも動くが早いといった風なので、こちらから最初に幾つか案を示して、「じゃあ、これとこれで行こう」と返事をもらうばかりにしておく、と言うのが響の狙いらしい。

 

 そうして始まった対策会議だが、時雨としては不思議な心持ちだった。

 作戦会議は提督はじめ人間たちの仕事であり、自分たち艦娘は参考意見を述べる以外は決定された命令に忠実に従うのみだったからだ。

 こうして艦娘が作戦会議の主導権を握るのは新鮮なもので、提督がこの会議を片耳に他の作業をしている姿には、正直笑みが込み上げてくる。

 この島ならではの光景だと、そう小声で告げてくるのは高雄だ。

 

「これが通常海域であれば、国内外は方々に確認や許可等を求めなければならず、もっと時間がかかってしまうでしょうね。どこか一箇所が遅れたりごねたりしたら、それだけでチャンスがふいになる。国の内外の情勢によって取れる手段が変わってくるのは遣る瀬無いものです……」

 

 感慨の籠もった高雄の口ぶりに苦労していたのだなと眉を上げる時雨は、確かに自分もそういった権益等の問題で割を食った試しがあったなと、思い出して臍を噛む。

 護衛対象の輸送船が他国の領海を通れず、仕方なしに敵支配海域すれすれの危険地帯を行かざるを得なかったばかりに、時雨は今ここにいるのだ。

 共通の敵が現れたとしても、人類は中々一枚岩には成れないものだねと皮肉気に笑う捻くれ者は、自分が興味を向けられる情報がようやく出てきたことに、足を組み直して気持ち前のめりになる。

 

 夕張曰く、かの潜水棲姫“ナックラビー”は、元は別の個別コード呼ばれていたのだとか。

 

「艦種は同じく潜水棲姫。個別コードは“メロウ”ね。時雨が接触した“ナックラビー”の、最初の姿よ」

 

 プロジェクターに映し出される姫の姿は、時雨も目にした“ナックラビー”のもの。

 その本体は以前から人魚のような形状をしていて、4足の有蹄脚が生ずる変異を得たのちに個別コードが変更されたのだとか。

 

「敵艦とは言え、そう簡単に個別コードが変更されることはないわ。だから、それだけあの敵が稀な存在だってこと」

 

 人差し指を立てて続ける夕張の言によれば、“メロウ”は変異によって、その基礎行動パターンが完全に崩壊している。

 つまりは、狂ったのだ。

 

「狂ったように見えているだけ、っていう可能性も無くはないけれどね。でも、そうだとしたら、彼女の奇行に説得力のある解説が出来ないのが痛い所かしら」

 

 海面に自らのヒレを露出させて、わざわざ目視で見つかりに行くなど、他の敵潜水艦はもちろん、姫鬼級でもまずありえない奇行だ。

 その奇行の原因を推測し語るのは天津風。

 連装砲くんが投影する画像を切り替えて映し出すのは、皆が最近見た光景だ。

 

「敵の行動パターンが狂った原因が、艤装核にある可能性が高いわ」

 

 艤装核を複数個内包している深海棲艦の存在は、公開資料にも幾つかその記述が見られる。

 それらの敵は容量の増大や機能拡張と引き換えに、本体の短命化と言う運命を背負うことになるのだとか。

 

「“メロウ”が他の艦から艤装核を奪取して“ナックラビー”となった。とするのが一番自然な流れなのだけれど、そうするに至った動機がはっきりしないのよねえ……」

 

 天津風の言を引き継いだ夕張が言うには、深海棲艦にも自己保存の概念は存在していて、上位種からの命令が無い場合は自らを保護し、数で不利ならば戦闘を避けて逃走する動きも見られるのだとか。

 姫鬼級にまで位階が上がってしまった個体に対してまでその概念が適応されるのかは定かではないが、単独もしくは少数で暗躍する潜水艦としては如何なものかと、夕張は締めくくる。

 海中から水上艦を狙い、長期に渡って敵を追跡・待ち伏せするのが常である彼女が、その寿命を削ってまで新たな機能を得ようとしたのは何故か。

 

「それはやっぱり、本体の短命化を推してでも拡張したい機能があった、と言うことなのではと、青葉思うのですが。その動機とやらを、“メロウ”の活動記録から追えはしませんかね?」

 

 愛用のペンを振って告げる青葉の言を受けて、連装砲くんが“メロウ”の来歴をスクリーンに羅列してゆく。

 それらを上から眺めていた面々の中で、やがて眉をひそめたのは時雨だ。

 

「補給艦と衝突し頭部が損壊? これは実際に起こったことかい?」

 

 連装砲くんが頷き、その時の詳細を更に投影してゆく。

 口元に手を当てて固まった時雨の顔色は悪そうで、執務室に集った皆は、彼女が何らかの核心に辿り着いたことを察する。

 時雨にその核心を問うた響は、力の抜けた白露型が小さく艦名を呟くのを耳にする。

 

「グロウラー。大戦当時、彼女の撃沈にはボクが絡んでいる。“メロウ”のこれまでの来歴が、そっくりそのもの、彼女のものに当てはまるんだ」

「ちょっと待って、“メロウ”は深海棲艦で、艦娘の彼女とは……!」

「落ち着いて、天津風。もちろん別人さ。ボクは実際に艦娘のグロウラーと会ったことがあるからね。仲間思いのとても良い娘だったよ」

 

 でも、と時雨は続ける。

 それはあくまで艦娘の彼女であり、深海棲艦としての彼女とは別なのだと。

 

「どちらも、同じく艤装核を基礎として生まれるんだ。例えば駆逐艦・時雨の艤装核があったとして、それが海中で怨念無念溜め込めば深海棲艦としての時雨になる。この場合は駆逐級がそれだろうね。イ級かロ級かはさて置き。そして、工廠施設にて建造を行えば、艦娘としての時雨になる。このふたつは似ているようで決定的に異なるよ」

 

 その決定的な違いについて時雨が追及することはなかった。

 それよりも重要なことは別にあったからだ。

 

「“メロウ”が取り込んだ艤装核は、ブラックフィンのものだよ。これは確信だ」

 

 時雨の言に対して、アメリカ側の記録を閲覧していた夕張が苦い顔で「ビンゴ」と天を仰ぐ。

 “メロウ”によって艦娘・ブラックフィンが撃沈され、その艤装核が奪われたとの記録を見つけたのだ。

 

「つまりこれは、グロウラーの無念や怨念を保有する深海棲艦が時雨に沈められないようにと、時雨に対するジョーカーを確保した、ということ?」

 

 思案し皆に問う高雄に、誰もまだ明確な返事を出来ずに黙り込む。

 確証はないが、そう受け取ることも出来る流れではあると、しばらく経ってそう告げるのは響。

 いつの間にか焙じ茶を入れていた提督から盆で人数分を受け取った響が、それを各々の前に置いて行く。

 

「皆、艦娘のジンクスについては、どこまで?」

 

 問えば「概ね」と返事があり、響は頷いて、連装砲くんに新たなデータの提示を要求する。

 

「艦娘のジンクス。それは、“前”に起こり得たことが今回も起こり得るというもの。例えば、艦艇としての自分が沈んだ時の編成を艦娘で再現したとすると、同様の結果となる可能性が格段に跳ね上がる。例えば、艦娘・時雨がスリガオ海峡は西村艦隊の時と同様の編成に組み込まれた場合……」

「ボクだけ助かって、他の皆は沈む、だね。知っているよ。だから、そう言ったジンクスを信じる提督たちの間では、“前”に縁のある編成を避けるような傾向が強いよね。西村艦隊はおろか、南雲機動部隊や“天一号”なんて、もっての外だ」

「そう。そしてこれは、艦娘だけでなく、深海棲艦にとっても適応されるジンクスなのではないか、という話さ」

 

 羅列された項の中から響が抽出したのは、深海棲艦の艦隊がとある飛行場を砲撃した事件だ。

 

「戦艦級2、軽巡級1、駆逐級9からなる深海棲艦の艦隊が、ソロモン諸島はホラニア国際空港を夜間砲撃した事件だね。この編成と場所とで思い当たるエピソードは? ……はい、青葉。早かった」

「恐縮です。1942年当時に旧日本軍が行った、ヘンダーソン飛行場への攻撃ですね。かつての場所と、そして編成された艦種がぴたりと合致していて、この事件があった2017年当時においては、深海棲艦の出所は日本なのでは? と、ちょっと国際的に悶着あったことを覚えていますよ」

 

 挙手と共に青葉が告げた言葉がそのまま答えだ。

 深海棲艦は艦種と数が揃えば、こうした昔をなぞる真似をすることが確認されている。

 再現される事件は旧日本軍が関わったものもあれば、米軍や他の勢力の艦隊が行ったものまでが含まれ、それらの事件から深海棲艦がある目的を持って動いているのではないかと、そう論ずる者たちを数多く輩出する切っ掛けとなった。

 重要なのは場所ではなく編成であるとされる説が現在の主流ではあるが、人類側が行う実験は限定的なものばかりであり、加えて先に述べたような各勢力の利害や世論諸々が枷となって、検証は思うような成果を上げられてはいない。

 

 深海棲艦は過去をなぞる。

 過去の通りに行動した果てにどのような結末を求めているのかは、定かではない。

 過去の状況を再現すること自体が目的なのか、それともその先に大いなる到達地点があるのか。

 彼女たちとの戦いが長引けば長引くほどデータは蓄積されていき、確証は厚みを増すだろうが、今はそれを議論する場ではない。

 

「深海棲艦の自己保存がどのレベルでのものかは正直わからないけれど、グロウラーの核から生じた“メロウ”はブラックフィンの核を得て、同一の艦に沈められた記憶と沈めた記憶とを得た。その矛盾に苦しみ、狂ってしまったと、私は考えるよ。そして、敵がそういった宿命を得たのならば、敵か時雨か、どちらかが沈むことになる」

 

 響がそう告げるも、やはり「何故」の部分は見えてこない。

 再び沈黙の時間が訪れる中、知恵熱が回って熱暴走気味になった天津風が真っ赤な顔で席を立つ。

 そうして何をするのか思えば、連装砲くんのボディにおでこをくっつけて冷やし始めるではないか。

 確かに金属質の彼はひんやりとしていそうだが、向こうも放熱で相当温度が高いのではと、時雨は呆れ笑いになる。

 

 しかし、時雨としてはそこまでを知ることが出来て、一安心といった心地だった。

 自分が沈むか。敵が沈むか。その二択に状況を絞り込むことが出来そうだから。

 そして、例え自分が沈んでも、この島の皆ならば確実にあの敵を沈めてくれるという確信がある。

 復讐を遂げるのは自分の悲願ではあるが、止めを刺すのは自分でなくとも良い。

 だから、情報を纏め作戦を立案する段階になって、時雨はひとつ提案する。

 時雨自らが囮となって、敵を誘い出す作戦を。

 

 

 ○

 

 

 そうしていざ作戦が始まってしまえば、決着は何とも味気なく、あさりとしたものとなった。

 時雨を囮にして敵を、“ナックラビー”をおびき寄せる作戦は、目標の捕捉から1時間も経たずに、目標の撃沈までを完了した。

 此度は水上艦や潜水艦を率いての登場となった“ナックラビー”だったが、水無月島の第一艦隊と単艦出撃した暁がそれらの露払いを引き受け、危なげなく見事に引きはがして見せた。

 “ナックラビー”に対しては第二艦隊の6隻で当たったが、分が悪いと見るや、かの敵は脇目も振らずに逃走を開始。

 しかし、空から見張っていた艦載機隊たちからの報告で、逃走ルートに予め張っていた網を起こすことは簡単だった。機雷による足止めだ。

 そうして逃げ場を探す“ナックラビー”に追いついた第二艦隊は、ものの数分の交戦で彼女の息の根を止めてしまった。

 対潜装備に特化させた響や夕張はまだしも、潜水艦に対して有利を持たない青葉が善戦していたのは驚きだった。

 高雄がおかしいと喚いていたのも、もはや見慣れた光景になってしまっていたが。

 

 いざ仇を討った感触を掌を握って確かめる時雨だったが、何の感慨も湧かなかった。

 沈まず海上に浮いた彼女の残骸に対しても、もうこれ以上目を向ける気にも、触れる気にもならない。

 終わったのだ。皆の力を借りて終わらせた。

 実感がわかずにすべての感情が抜け落ちてしまう心地の時雨は、ここからが始まりだと、すぐに知ることになる。

 

「……待って、おかしいわ。海域の限定解除が起こらない!」

 

 声を上げる天津風の方を向けば、そこには構えを解かない仲間たちの姿があった。

 敵の姫級を討った際には、彼女が存在していた区画の海域支配が一時的に解除されるというのがこれまでの流れだったはずだ。

 それがないと言うことは、敵はまだ終わっていないと言うことか。

 砲と掃海具とを再び立ち上げる時雨は、敵の残骸が微動し再起動する様を見る。

 “ナックラビー”を討ったことで、“メロウ”が呼び起こされたのか。

 変異する途中の敵に対して、そうはさせるかと攻撃を集中するが、敵上位種の展開する障壁のような現象が砲雷撃を阻む。

 

 響が信号弾を空に放って、残敵の確認に向かった第一艦隊と暁を呼び戻す。

 しかし、彼女たちが戻るよりも先に、敵の変異が収束した。

 その姿は“ナックラビー”でも“メロウ”でもなく、そもそも潜水艦としての特徴をひとつも備えていなかった。

 かなり大柄だった敵の体格はおよそ半分ほどに縮小して、両脚部の代わりに艦艇の底部と平べったい魚類を掛け合わせたかのような生態艤装が備わる。

 両の手には口径の小さい砲が、背部には生態式の魚雷発射管が、そして、深海棲艦の頭部を覆うバイザーのようなパーツが現れる。

 その姿があまりにも知っている誰かに似ていて、時雨は胸を締め付けられた。

 

「白露……」

 

 弱々しく呼びかけた先、駆逐棲姫に変異した敵は、乱杭歯を見せるように口を開き、駆逐艦の名を呼んだ。

 

 

 ○

 

 

 それから先の記憶は曖昧だった。

 いや、曖昧にしてしまわなければ、とても耐えられなかったはずだと、憔悴した顔の時雨は膝を抱えて思う。

 倒したはずの仇が変じた姿は、その仇によって奪われたはずの彼女だった。

 彼女は名前を呼んだ。駆逐艦・時雨の名を。

 以前のような活力のある声量と流暢な口調ではなかったが、確かに白露型一番艦の彼女のものだった。

 

 何故、敵がこのような変異を果たしたのかはわからない。

 しかし、時雨は彼女を守るように行動してしまった。

 誰もが固まってしまい、時間が止まったかのようなあの場所で、高雄が辛そうな顔で彼女に砲を向けた瞬間、時雨は己の砲で高雄を撃っていた。

 艦娘同士で砲を向け合えばセフティが掛かることは知っていたが、深海棲艦化が進行した今の時雨にとって、その機能はないも同然だ。

 回避の目がない至近距離での砲撃はしかし、高雄に直撃することはなかった。

 間に入った青葉が身を挺して、それを防いだのだ。

 

 それがさらに艦隊の動きを止める結果となり、時雨は彼女の手を引いてその場を脱することが出来た。

 誰もが理解が追い付かずに身動きが取れずにいる中、響だけがこちらに砲口を向けて睨んでいた姿は、はっきりと瞼の裏に焼き付いている。

 様々な感情が綯交ぜになったあの目。第二艦隊の面々から大きく距離を取った今でも、あの目が見ているような感触を首筋に覚えて落ち着かない。

 時雨は自覚する。自分は仲間を撃ったのだ。

 所属は違うが同じ艦娘だとか、そういう話ではない。

 あの水無月島の彼女たちを、時雨は仲間だと、家族と同然に思っていたのだ。

 撃って、逃げ出して、そして身を押しつぶさんばかりの後悔を持って、ようやくそれを実感した。

 

 時雨は今、環礁地帯の一角に、駆逐棲姫と共に潜伏している。

 風景偽装バルーンをいくつか展開して、その内のひとつに2隻で身を潜めているのだ。

 敵の航空機ならばまだしも、味方の目を騙し通せる程の精度はない。

 しかし、時間が自分たちに味方する。もうすぐ夜だ。

 空から捜索するには最早遅すぎる。

 夜間に艦娘たちがこちらの捜索に出向くか、あるいは夜明けを待って偵察機を投入する手筈となるだろう。

 

 駆逐棲姫の方は、今は眠ってしまっている。

 眠るという表現が彼女たちにとって正しいかは定かではないが、少なくとも稼働状態にないことは確かだ。

 外側の変異が収まり、内部の最適化でも済ませているのだろうなとあたりをつけ、膝を抱えた時雨は触れられる距離にある彼女の姿を伺う。

 脚部の生態艤装を砂浜に半ばまで潜らせて、少しだけ前のめりになって俯いて、髪で表情が隠れていて……。

 夜中に突然出くわせば驚いて肝を冷やすことは必至だろうと、こんな時にも関わらずそんなことを考えてしまう。

 

 隣りで眠るのは、5年前に失われた僚艦だ。

 推測にすぎないが、あの日、“ナックラビー”は白露の艤装核を鹵獲していたのだろう。

 それが、かの潜水棲姫の撃沈に際して表に出てきた。

 夕張や天津風ではないのでその辺りの事情に詳しくはないが、時雨は己の理解が及ぶ範囲で、そう推測を終える。

 彼女は時雨が手を引いても抵抗しなかった。

 こちらの名を呼んだと言うことは、艦娘であった時の記憶がわずかながら残っているのか。

 それを確かめようにも、眠った彼女を起こすのは躊躇われる。

 次に目を覚ました時、彼女はもうこちらの名を呼ぶことは無く、撃つべき敵として牙を剥くかもしれないのだから。

 

 そうであればどれ程良いかと、時雨は思う。

 仲間を撃った自分は、もう人の側へ、艦娘たちの場所へは帰れない。

 水無月島には帰れないのだ。

 しかしだからと言って、深海棲艦の手先となって、彼女たちの敵となるのも無理だ。

 先は咄嗟に仲間を撃ってしまったが、二度目は無い。

 時雨は仲間を撃てない。

 そして、隣りの彼女を手に掛けることも出来ない。

 あるいは、自らの深海棲艦化が進行して、彼女と同じになってしまえばとも思うが、それこそ自力でどうにかなる問題ではない。

 選べず、進めず、立ち止まった駆逐艦は膝を抱えて小さくなるしかなかった。

 

「……帰りたいよ、白露」

 

 夜が更けて、襲って来た睡魔に耐えられずに落ちてゆく時雨は、自分が泣きながらそう呟いたことに、気付かなかった。

 隣りに座する駆逐棲姫が、その様子をずっと見つめていたことにも……。

 

 

 ○

 

 

「じゃあ、敵があの姿になったのは、ちゃんと意味があってのことだと、そう言うのかい?」

 

 水無月島の近海にて停泊中の“隼”。

 後部デッキにて艤装状態のまま待機中の響は、同じく艤装状態で待機中の夕張の言に、眉をひそめて問いかける。

 時雨が駆逐棲姫を連れて逃亡を図ってからすでに半日。

 空からの捜索は一時中断され、夜明けを待って千歳と祥鳳が艦載機隊を発艦させる予定だ。

 水上機母艦から空母に改装したタイミングであり、訓練上がりの夜偵の数も少ないと嘆いていた千歳の姿に、皆は労いの言葉をかけて、彼女を休ませている。

 

 さて、夕張の言う、駆逐棲姫の件だ。

 潜水棲姫“ナックラビー”が5年前に駆逐艦・白露の艤装核を鹵獲したという推測は、時雨が思い至ったものとほぼ同じだった。

 しかし、その目的はやはり対・時雨を想定したものであり、彼女の撃沈を最終目的に据えているのではないかと、夕張は語る。

 

「深海棲艦の上位種には、どういうわけか艦娘の特徴を模したものたちが数多く確認されているわ。艦娘が変じたものだからではないか、と言う説が主流だけれど、もうひとつ無視できない説があるの」

 

 夕張は“セイレーン”という個別コードを口にする。

 歌で船乗りを惑わすその妖精の名は、艦娘にとって不吉な響きを覚えるものだ。

 “セイレーン”の個別コードは個体に付けられるものではなく、轟沈したと思われる艦娘の特徴を持った深海棲艦に付けられるものだ。

 そして“セイレーン”たちは、沈んだ彼女が親しくしていた艦娘の下に現れると、幾つかの報告が上がっている。

 

「それって、仲間の姿を真似て、こっちの戦意を削ぐってこと?」

 

 船内で休憩中だった暁がひょっこりと顔を出す。

 響はコーヒーを、夕張は頷きを持って、気が立っている駆逐艦を迎え入れる。

 

「沈んだ仲間に化けて真似をするメリットは、艦娘の戦意喪失だけかい?」

 

 響の問いに、夕張は言いにくそうに俯きながらも話を続ける。

 ただ艦娘に擬態するだけならば、艤装核を奪取する必要はない。

 敵は鹵獲した艤装核から、艦娘だった彼女の人格や趣向、経験をも獲得する。

 その中には、鹵獲された彼女が知り得る艦娘側の情報までもが含まれていて、敵の狙いの主となるのはその情報なのだと、夕張は荒くなりそうな語気を抑えて告げる。

 

「行動パターン、補給等の余力の有無、誰と誰が仲が良い悪い、哨戒シフトに至るまで、敵はすべてを浚って行くわ。そのうえで、“セイレーン”は自分の似姿を覚えている仲間たちを水底に引き込もうとするの。あるいは、そうして彼女に縁があった艦隊の足を止めている間に、別の敵艦隊が別方面を攻撃したり、ってね?」

 

 よって、消耗率の高い駆逐艦には作戦概要以上の詳細な情報が告知されない場合も多い。

 艤装核を鹵獲されても敵に情報が渡らないようにとの措置だ。

 そうして艦娘の間で情報の格差が生まれはするが、それが仲間への不信感につながるようなことは、ほとんどないのだとか。

 艦娘たちは、そうした指示の意図を知っているし、作戦と個人の感情とを概ね切り離すことなど造作もないのだ。

 ただ、敵が愛する仲間に化けて出てきたら、そしてそれが、自分たちを脅かそうとしてきたのならば、どうだ。

 そうされて冷静でいられる程、艦娘は兵士になりきれない。

 特に、日や経験の浅い娘は尚更だ。

 

 あるいは、艤装核の鹵獲を防ぐため、戦闘不能に陥った艦娘を雷撃処分するための訓練も、他の鎮守府では積んでいるのだそうだ。

 その役割を担うのはやはり駆逐艦が多く、“前”に経験のある艦娘が率先して志願する姿も稀ではない。

 そうする理由はと言えば、艦艇の時代にそれを行ったのだから、ジンクスから言えば自分が任された方が確実だという後ろ向きな自負と、仲間にその役割を任せたくはないという意識からだとか。

 

 水無月島にはない部分ねと告げる夕張は、暁が目に見えて渋面をつくる様を見る。

 話によるものか、それともコーヒーの苦みによるものかと苦笑する夕張は、響が目深帽子で目元を隠す仕草に、何故か胸のざわつきを覚えた。

 自分はいったい何を感じ取ったのかと、夕張がその正体に気付く前に、顎に手を当てた思案顔の響が声をつくる。

 

「すると敵は……、もう“セイレーン”と呼ぼうか。彼女は駆逐艦・白露の艤装核を鹵獲し、姉妹艦のすべてを被って時雨を騙し、沈めるつもりでいると言うことか」

 

 そうなると、すでに時雨は沈められている可能性が高い。

 こうしてはいられないと動き出そうとする暁を、響が首根っこを掴んで止める。

 

「現状をよく考えて、暁。青葉が大破で高雄がメンタル大破。第一艦隊は健在だけれど、昼間突っ走り過ぎて疲労が全然抜けてない。今満足に動けるのは私と暁、夕張、天津風に、まるゆ、雷だ」

「何よ、充分じゃない」

「皆、今の暁に速度を合わせられない。私たちはともかく、雷とまるゆは亀だよ亀」

 

 亀が海面に頭を出して不満そうな顔をしたが、皆概ね無視した。

 

「じゃあ、私だけでも行くわ」

「それもストップ。こちらが想定する最悪の事態は、もう時雨が沈められていることではないよ。彼女があちら側に回ることだ。艤装核を奪われるか、深海棲艦化が進んで敵になるか。どちらにしても、暁単艦では荷の方が勝つ。それに……」

 

 仲間を討てる?

 響の問いに、暁は固まった。

 ようやく暁を抑えていた手を離して、響はさらに問う。

 

「仲間だったものを討てる? 当人を、その僚艦を」

 

 暁をはじめ、水無月島の娘たちのほとんどには、そんな経験あるわけがない。

 他の所属であったものたちも同様だろう。

 だから、響は自分も行くのだと立ち上がった。

 

「そもそも、暁の出撃には致命的な時間制限がある。天津風や雷にもね。切り札はここぞという局面まで温存しておかなければならないのだから、私が先手を務めるのは必定だよ」

「それは、そうだけれど……」

「まあ、心配することはないよ。時雨はまだ沈められていない。敵は、やろうと思えばあの場ですべてを終わらせることも可能だったんだ。それをしなかったと言うことは、まだ何か、隠された理由があるのさ」

「何よ、その隠された理由って」

「あとで話すよ」

 

 まだ休んでいろと暁を船内に下がらせて、響は夕張に寄り添って耳元で囁く。

 

「響、それは……」

「念のため、だよ。私はこれ以上仲間を失いたくはないし、仲間だったものを誰かに討たせたくもない。水無月島の所属が仲間を討ってはいけないんだ。それをするのは私の役目だ。何故なら……」

 

 その先を、響は口にしなかった。

 口にしなかったが、それで夕張は確信する。

 

 響の内緒の要求は「艤装を弄って、敵味方の識別機能をカットして」というものだ。

 この響は仲間を討ったことがある。

 そしてそれを、恐らくは誰にも打ち明けたことがないのだ。

 

 

 



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7話:第二艦隊⑦

 明け方。耳に届く航空機の音で、時雨は目を覚ました。

 立ち上がることはせず、四肢を砂浜に着いて体勢を整え、周囲の音を探る。

 風景偽装バルーンの中に差し込むのは大して明るくもない、この敵支配海域の日差しだ。

 と言うことは、時雨の隣りから姿を消した彼女はまだ討たれていないと言うことになる。

 

 駆逐棲姫は姿を消していた。

 時雨を手に掛けることも無く。

 

 時雨はなりふり構わずにバルーンから脱して海上を疾走する。

 艤装の迷彩機能を使って髪まで灰色と化し、姿勢を低くして速度を上げる。

 核への刷り込みは成功し艤装の機能を取り戻してはいるが、本来の性能には程遠く、高速巡航形態への移行もままならない。

 それなりの速度は出せるようになったが、それでも望む領域には届かないのだ。

 昨晩寝落ちるまで姿を消していた艤装妖精たちが戻っていなければ、彼女を探すどころか、やみくもに走り回って力尽きていただろう。

 

 駆逐棲姫こと白露を見付けた場所は、身を隠していた環礁地帯からそう離れてはいなかった。

 ただ厄介なことに、付近を周回していた敵艦隊と合流してしまい、さらには水無月島の面々まで向かっているところだ。

 乱戦になるか、ならば自分はどうするべきかと歯噛みする時雨は、様子がおかしいことに気付く。

 目視できる距離まで接近して目の当たりにした光景は、味方であるはずの敵艦隊から攻撃を受ける駆逐棲姫の姿だった。

 

「……なんで」

 

 深海棲艦の上位種となった彼女に対して、どうして下位である艦種が牙を剥く。

 その疑問に答えてくれたのは、復活した艤装妖精だった。

 

「識別コードが、艦娘のまま……!?」

 

 つまり、敵艦隊にはあの駆逐棲姫が艦娘に見えているのだ。

 それでも、下位の艦種に命令を下せるはずの駆逐棲姫がどうしてそれをしない。まさか出来ないのか。

 

 時雨は歯を剥いて、最大船速で敵艦隊に吶喊する。

 その姿を見た駆逐棲姫は、今までの無抵抗が嘘のように、ようやく反撃らしい反撃を開始する。

 期せずして、時雨と駆逐棲姫対敵艦隊と言う構図が出来上がる。

 そこに先行してやって来た暁が合流。形成は一気に逆転、と言うよりは、暁が即座に敵艦隊を沈めて勝負を決してしまった。

 

 荒い息を整えつつも、時雨は希望が見え始めていると感じていた。

 一部始終を暁は目視しているし、安堵した表情で「なんとかなりそうね?」などと信号を送ってくる。

 これは時雨と駆逐棲姫だけではなく、暁にとっても希望が見え始めたことになる。

 敵の姿となりながらも、こうして艦娘としての記憶と識別コードを持ったまま復帰した一例が出来たのだ。

 解析すれば、時雨や暁の深海棲艦化をどうにか出来るかもしれない。

 駆逐棲姫を鹵獲し保護する、大義名分を手に入れたのだ。

 

 仲間を手に掛けて置いて虫が良すぎるというのは承知の上だ。

 それでも、彼女をこのまま沈めずに済むのならば、時雨は自分の命を含めたすべてをかけるつもりでいた。

 

 しかし、その決意も希望もすぐに、駆逐棲姫の砲撃を持って打ち砕かれることになる。

 時雨は己の腹に穴が開く感触を、撃たれてからしばらくしてその身に得た。

 駆逐棲姫が撃ったのだ。時雨を。昨晩までは攻撃する素振りなど微塵もなかったというのに。

 

 力なく海面に膝を付いて転倒する時雨は、血相を変えた暁の即座の駆動と、それに遅れを取らない俊敏さを発揮する駆逐棲姫の姿を見る。

 速度は同等。火力も然り。暁の方が戦い慣れている部分があり手数も豊富だが、駆逐棲姫は破損箇所を高速修復して対応している。

 逆に、暁の方には制限時間があり、それが仇となる。

 

 何よりも、暁の身の捌き方が鈍いように、時雨には見えた。

 手数を重ねる駆逐棲姫に押され始め、弾薬が早くも底を突く。

 天龍刀や軍刀まで引っ張り出しての防戦一方は、今の彼女の性能からは考えられないほどに受け身だ。

 不調を抱えているというよりは、躊躇っているかのような素振り。

 

 その光景を目の当たりにして、時雨は再度、大きな後悔を身に刻む。

 仇討を協力させるどころか、こんな役割まで仲間に課したのか。

 

 妖精たちが腹部の応急処置を始める中、それを無視するように時雨は立ち上がった。

 決して立ち上がって戦線に復帰できるような負傷ではなかったが、それでも一歩一歩と歩き出し、走り出した。

 戦況は、響が合流したものの、大きな変化はない。

 響の方は駆逐棲姫を沈めるつもりで立ち回っているようだが、それで性能差を埋められるものではない。

 そうしている内に第一艦隊の面々も合流して、ようやく決着かと思われたが、そうはならなかった。

 攻撃の機会など幾度もあったはずが、阿武隈たちはそれを放棄して距離を取ってしまったのだ。

 

 自らの速度を上げながら訝しげに様子を伺う時雨は、第一艦隊の面々が艤装に不備を覚えたように見えた。

 しかし、すぐに違うと首を振る。

 艤装のセフティが働いて、攻撃に転ずることが出来ないのだ。

 駆逐棲姫は艦娘としての識別コードを発したままであり、これでは艦娘側が彼女を攻撃することは出来ない。

 セフティを解除するには提督の許可が必須となり、無線封鎖状態の今、それを行う機会は巡って来ないかもしれない。

 現状で彼女を攻撃することが出来る艦娘は、暁と響、そして時雨だけだ。

 

 そう考え至った瞬間、時雨は考えるよりも先に動き出していた。

 口の中に溜まった血を吐き捨て、徐々に速度を上げながら戦いの渦中へと殺到する。

 体に力が入らず、こうして海上を走るのがやっと。

 主砲を発射する衝撃を体で抑え込むことは不可能だ。

 だから、掃海具を使う。ワイヤーで断ち切る。

 前回は速度が足りなかったが、今度はやれるはずだ。

 

 暁の制限時間が来て、彼女の全艤装が自動でパージされる。

 すぐにフロートが働いて沈没を防ぎ、響がそれを背中に庇うようにして後退を開始。

 追撃のために速度を上げんとした駆逐棲姫はしかし、彼方からの砲撃によってその機先を制される。

 離脱したはずの第一艦隊だ。

 旗艦である阿武隈の肩にはあの黒い妖精の輪郭がノイズ交じりの姿を浮かべていて、提督の許可が下りたことを確信する。

 

 走り出してしまえば到底追い付けないはずの駆逐棲姫がこうして足止めされたことは、まさに奇跡としか思えず、時雨は追い付き接触した彼女の首元に、切断の力を巻き付けた。

 互いの進行方向は真逆。ワイヤーの強度と速度で、今度こそ切断は成るだろう。

 力の限りの悲鳴を喉元ですり潰した嗚咽は、長い金切り声となってくぐもり、不備がないようにと徐々に上げていた速力を、一杯に振り切らせた。

 彼女の背後を通り抜ける一瞬、時雨は懐かしい声が何かを呟くのを聞いた気がした。

 

 

 ○

 

 

 雨が降った。

 敵支配海域の限定解除。

 分厚い雲が晴れた空は、さらに鈍く黒い雲で覆われていて、大粒の雨を海面に叩きつけてくる。

 

 艤装の運用限界時間を超過し、膝上までが海中に没してしまった時雨は、ただ上を向き、雨に打たれ続ける。

 駆逐棲姫の亡骸は黒い泡となって、先ほどようやく海に溶けた。

 彼女の最期を見送るのはこれで幾度目だろうかと、顔を強かに打つ雨に何をも感じることが出来ずにいる。

 辛い思いが大きすぎて、心が正しく動くことを放棄している。

 もの言わぬ鋼よりも今は心がここにはないと、そうは思うが、言葉はひとりでに吐き出された。

 

「何が、メリークリスマスだ。そんなもの……」

 

 吐き捨てるように呟く言葉の先、再び敵の支配下としての姿を取り戻そうとする空と海は、ほんの少しの間だけ、雨を雪に変えて、鈍色の宙を舞った。

 

 

 ○

 

 

 それから時雨は、倉庫奥の物置部屋にひとりで閉じ籠もった。

 内側から鍵をかけ、棚を重ねて扉を塞ぎ、一日中膝を抱えて過ごした。

 

 水無月島に帰港し修復を終えた後、時雨には特に懲罰の言い渡しも、制裁が加えられることもなかった。

 猛る思いや憎悪を皆が思い留めたというわけではなく、そもそも皆最初から、そんなつもりなどなかったのだろう。

 本当にいい趣味をしているものだと、横倒しになった視界のまま、時雨は残りかす程の皮肉を思う。

 

 自分への一番の罰は、こうして罰せられないことだ。

 外からの圧力がないと、もう自力で立てないくらいに疲弊しているのに、誰もぶってくれない。

 意図してそうしていないのは、わかっている。誰もそのやり方を知らないのだ。

 何よりも、誰も時雨を責めるつもりがなかったのだろうことが、余計に痛みとなる。

 

 外の世界を知っている艦娘ならば、形式的なやり方は実行できるだろう。

 ただ、そうした結果がどうなるかを考えて、恐れてしまっているのだ。

 つくづく、軍隊ではない。そして大人でもない。もちろん、人間でも。

 余りある時間の中で、時雨はそう結論付けた。

 

 この島に10年閉じ込められていた暁型の姉妹はもちろん、人である彼ですらそうなのだ。

 彼女たちの優しさは、もう自分を救ってはくれない。

 ならば、自分から立ち上がる気には?

 時雨は、しゃがんで自分を見下ろすもうひとりの自分に、そう問われた。

 真っ青な澄んだ目をした、素直な娘が目の前にいる。

 

「無理だよ。ボクは強くない。他の時雨みたいに弱さを隠して他人に接するなんて出来ないんだ……」

 

 いつもは気にもしていなかったデフォルト様の幻が、今日は長らく視界に居座っている。

 ひとりになったからだと、そう自覚する。

 これまでは仇討ちに感けて目を背けていたはずの彼女に対して、とうとう真正面から向かい合うべき時が来たのだろう。

 支えを失い立ち上がれなくなって、そうして求めたのは強い自分の幻だ。

 

「ボクを乗っ取って、動かして、彼女たちを安心させてあげてよ。キミにはそれが出来るんだろう?」

 

 枯れた声での嘆願は、失望を浮かべた眼差しに一蹴。

 幻は程なくして姿を消した。

 自分にすら愛想を尽かされるのかと笑みが起こるが、立ち上がる活力には程遠かった。

 

 

 ○

 

 

 そうしてどれくらいの時間が過ぎ去っただろうか。

 敵の支配海域とは言え昼夜はあるもので、朝になれば窓から差し込む鈍い朝日に顔を叩かれる。

 今日もそうして無気力に目を覚ました時雨は、横倒しの視界に昨日までは存在しなかったはずの物体が映り込み、眉をひそめる。

 冷蔵庫でも入りそうな大きなダンボール箱が横倒しに置いてあり、油性マジックで「うーちゃんのおへや」と歪な文字の表札付だ。

 思考を放棄した頭で注視していると、横の穴から幼い顔が出てきた。

 生意気そうなぷっくりした頬で床を這ってこちらまでやってくるのは、駆逐艦だろう。睦月型だ。

 

「うーちゃんはお腹が空きました。餌を与えて下さい」

 

 生憎ウサギの餌を切らしているのだと言う気力もない時雨は、眼球だけ動かして周囲を見渡し、人参のグラッセの缶詰を指さして見せる。

 

「うーちゃんは人参が食べられません」

「そんなことを言うと、間宮に怒られるよ?」

 

 返事があって嬉しかったのか、駆逐艦・卯月は笑みを残してダンボールの中に帰ってゆく。

 程なくして小さな寝息が聞こえてきた。

 いったいなんだったのだと笑む時雨は、皮肉ではない笑いはいつ以来だろうかと頭の片隅で考え、自らも二度寝の姿勢に入った。

 

 

 ○

 

 

 次に目を覚ました時、狭い物置部屋の中がいつにも増して埃っぽかった。

 なんだなんだと上体を起こして見渡せば、三角巾を頭に当ててハタキを手にした駆逐艦が忙しなく働いている。

 綾波型の漣だなとメモリが彼女の正体をはじき出すが、先の卯月同様、何故新顔がこんなところに居るのかと意識が向く。

 大方、建造上がりの初任務に、厄介者の世話を任されたのだろうとあたりを付ける。

 それとも、事情を聞いたこの2隻が独断でこうしてやって来たのかもしれない。

 いや、2隻ではないなと、時雨は怠そうに身を起こす。

 

「ほら。あんたそこ、どきないさいよ。邪魔なの! じゃーまー!」

 

 水モップで追い立てる叢雲に物置部屋の隅に追いやられると、そこには将棋盤を取り出し埃を払っている初春が居て「一局、どうかえ?」などとサボるつもりの勝負のお誘いだ。

 将棋など大して得意でもない時雨だったが、初春の弱さはその比ではなく、5回目の待ったに投げやりに頷いていると、奇声を上げた重巡が横から滑り込んで来て、将棋盤ごと初春をひっくり返してしまう。

 重巡・熊野だなと、右からヘッドスライディングして左へと流れてゆくのを目線だけで追えば、掃除中の漣や叢雲を巻き込んで大騒ぎだ。

 半ば泣きギレで邪魔する連中の尻をモップの柄でしばき始めた叢雲に、彼女はこれから苦労するねと苦笑い。

 

 そうして仕切り直してもう一局というあたりには、いつの間にやら掃除は終わっていたようだ。

 三角巾の連中は姿を消し、代わりに浜風がもきゅもきゅと昼飯を頬張っていた。

 三種類のおにぎりが各3つ。すでに半分以上がこの陽炎型の胃袋に消えている。

 

「食べますか?」

「……それ元々ボクのじゃ?」

 

 大鯨が毎食を置きに来ていることは知っている。

 食器を取りに来て、手を付けていないことにがっかりして、そして扉の前で食べて帰ることも。

 空腹感は忘れて久しいが、腹部の負傷が完治してからまだ何も胃に居れていないので、消化器系が機能するかどうか、自信がない。

 何より、彼女たちと同じ食事を取ることは躊躇われた。

 

 そんな恐れと逃げとを忘れさせるかのような食べっぷりを目の前で見せつけられれば、何も口にしなかったことが馬鹿らしく思えてくる。

 最後のひとつであった紫蘇を巻いたものを手に取って口に。具は秋刀魚の甘露煮だ。

 小骨までほろりと崩れる程に良く煮込まれていて、かなり濃いめの味付けだが紫蘇と刻んだ柚子の風味がそれを和らげる。

 ようやく間宮が本領を発揮した、と言うものではなく、これは大鯨の手によるものだなと、すぐに合点が行く。

 彼女でなければ、自分の好きなものが三種類もピンポイントで選ばれるわけがない。

 

「……大鯨は、どうしている?」

 

 問うた言葉は誰にもぶつからずに、宙に溶けた。

 顔を上げればもう誰も居なくなっていて、自分はどれだけ胡乱になっているのだと、時雨は盛大にため息を付いた。

 扉の向こうから熊野が「また来ますわ」などと言うものだから、ああそうかいと、投げやりに手を振りながらも、顔は嬉しそうに笑んでいた。

 たまたま目に入った洗面台の鏡がその様子を捕らえていて、どこか気恥ずかしくなって体ごとそっぽを向くが、胸の中で膨らんだ気掛かりが無視できないものとなり、時雨は立ち上がった。

 ふら付く足取りで洗面台まで辿り着き、鏡の中の自分を凝視する。

 そこに居たのは確かに、この支配海域で5年の時を過ごした、復讐心と共にあった時雨のはずだが、ひとつだけ以前と異なる箇所があった。

 血の様に真っ赤だった目が、今は澄んで落ち着いた青の色に染まっていたのだ。

 

 

 ○

 

 

 わけがわからず釈然としない心持ちではあったが、それでも「また来る」と告げた新入り連中を心待ちにして、そわそわと過ごす日々が続いた。

 そう、続いた。熊野たちはあれから一度も、この物置部屋を訪れていない。

 まあ、向こうも訓練やら何やらがあって、こちらに顔を出す時間も捻出できていないのだろうとは思うのだが、それでも子供のように機嫌を損ねていることを時雨は自覚した。

 落ち着かずに立ったり座ったりを繰り返す時雨は、鏡の向こうの青い目の自分がぷくっと頬を膨らませていることに、よりいっそう不機嫌になる。

 そうして小一時間そわそわして、やはり落ち着かずに天井を伝う配管を掴んで懸垂始めたところで、誰かの足音が迫るのを耳に捕らえた。

 今日はひとりかと、床に着地して、速足気味の歩みで体当たりすように扉を開ければ、面食らった大鯨が目の前に居た。

 一瞬、頭の中が固まった気がしたが、すぐにそれはそうだと納得する。

 新入りの連中がここに来ずとも、大鯨はいつも来ていたはずではないか。

 

 溜息交じりに頭をかいた時雨は、もはや後ろに戻ることも躊躇われ、正面から彼女に向き合わざるを得なかった。

 大鯨は改造によって潜水母艦から空母へと艦種を変え、名も龍鳳と改めた姿だった。

 少し背が伸びただろうかと思うも、そもそも自分がデフォルトよりも背が高いのだと心の中で額を打つ。

 そして、泣き怒りを堪えるかのように表情を強張らせている龍鳳の姿に、心の中で額をもう一発。

 弁明の言葉など、もちろん用意していない。謝罪の言葉も。ご機嫌を取るための気遣いもだ。

 

「ボクの処分は? 一向に執行役が来てくれないのだけれど?」

「私がそうです」

 

 龍鳳が言うと皮肉か本気かわからずに固い汗が出る。

 続く龍鳳の言を聞いて、時雨は眩暈を覚えた。

 時雨は無罪放免とは成らず、一定期間、独房にて禁固刑だったとのこと。

 唖然とした顔のまま振り返り、扉の上を見れば、物置部屋の表札が“どくぼう”に変わっている。

 

 こんな茶番で濁す気かと、腹の底から熱が上がる時雨は、龍鳳の言の続きを聞く。

 

「時雨ちゃんへの懲罰は以上を持って終了しています。あとは提督が、今回の一件で生じた損害は自分の責任であるとして、本部へ報告書を送ることになるでしょう。本土へ渡った際に、法廷への出頭も」

 

 言葉の意味を、すぐには理解できなかった。

 説明を受ける中で唖然は愕然に変わる。

 提督は今回の一件で生じた損害はすべて自分の采配が行き届かぬ故のことだと、そう言った旨の報告書をすでに作成している。

 艤装に不備を抱え、復讐の対象に対して感情的になっている駆逐艦・時雨を運用し、味方艦隊に負傷と損害を与え、敵艦を匿おうとしたことを。

 次の海域限定解除の際に、幾つかの情報と共に、“海軍”側へと送信する手はずは済んでいるのだ。

 

 何故そんな、自分が不利になる真似をと、時雨は困惑のままに龍鳳の肩を掴む。

 

「黙っていれば痛い腹を突かれることも無いのだろうに、何故そんなことを? これじゃあ、彼が本土に渡った際に不利になるだけじゃないか。外の目の監視がないここなら、全てをなかったことに出来るのに……!」

「その通りですよ、時雨ちゃん。“海軍”側の規定した条項を守りつつ、やむ得ず捻じ曲げて行動している部分もかなり多いですが、今回のこれは格別です。鎮守府のローカルルールで有耶無耶に出来る限度を超えています」

 

 これが通常海域において起こった事件であるのならば、駆逐艦・時雨は解体処分、提督は解任となるのが最低限のラインだろう。

 だが、ここの提督は時雨を期限付きの謹慎処分とした後に、提督自らが本土へ渡った際に法廷に出頭するという判断を下している。

 しかも、夕張たちに艤装面の裏を取らせて、言い逃れできないような資料まで拵えて、だ。

 

 時雨は理解できなかった。

 何故わざわざ、未来で不利を得る。

 それこそ龍鳳の言ではないが、鎮守府のローカルルールで有耶無耶にしてしまえばいい。

 今回の一件を握りつぶしてしまえばいいではないか。

 

「もしも同じ立場だったら、時雨ちゃんにはそれが出来ますか?」

 

 言われて、時雨は自分が逃げて来たものと向き合っていると自覚する。

 自分が味方を撃ったことを、見逃してくれなどと言えるわけがない。敵となった彼女を匿おうとしたことも。

 彼女が存命であったならば、すべてを差し出してでも嘆願しただろうが、もうそうする理由もない。

 それでも、自分に対する厳格な罰が必要だという思いは残った。

 そう感じたから、こうして裁かれるのを待っていたのだ。

 法でも私刑でもいいからそうしてくれと思う気持ちは、そう感じていたのは自分だけではなかったのだと、ようやく気が付く。

 

 提督は責任を感じつつも、それを放棄した。

 より正確には、さらに上位に預けた、となるやもしれないが。

 ただでさえ人手が足りない水無月島鎮守府において、艦娘1隻を解体する損失と今回・今後のことを計りにかけて、時雨の運用続行を決めたのだろう。

 そもそも彼自身が、艦娘の解体を命令できる人物ではないのだ。

 そうした逃げが彼にもあったのだろうが、だからこそ未来に置いて裁かれる道を確定させた。

 幾度か外界と情報のやり取りをしたおりに、“海軍”側からお墨付きをもらったものを、その見逃しや融通を蹴ってまで。

 

「皆はそれに賛成なの? 提督がいずれ裁かれることを?」

「誰も賛成する娘なんていません。でも、私たちは艦娘なんです。ここでは、この海域ですら、そうした彼是に対して権限を得ることを、許されていないのですよ……」

 

 暁が暴れたと捕捉があったがそれは聞き流して。

 時雨は問う。どうすれば提督を説得できるかを。

 その方法を伝えるために、龍鳳がここに来たのだろう。

 

「提督に対して私たちが提案出来る案はひとつ。皆ですべてを水に流して、今まで通りを続けることです。それには……」

「そんなこと青葉が許さない。高雄も、響も。ボクは味方を撃ったんだ。敵を匿おうとした。裏切り者だよ?」

「時雨ちゃんが許せないのは、時雨ちゃん自身ですよ」

 

 断定されて腹が立ったが、腹を立てられるくらいには気力を取り戻せていることに気付き、顔を歪めて黙り込んでしまう。

 

「時雨ちゃんがこれまでの様に、罰を求める姿勢を解除して第二艦隊に復帰する。そうすれば、提督に考え直してほしいと、水無月島所属全艦からの署名を集めてあります」

 

 龍鳳の後ろに隠れていた自立稼働型砲塔が進み出て、コミュニケーション用モニタに署名欄を展開する。

 確かに全艦分の署名が当人の直筆(読めない字が多いのはご愛嬌か)で並ぶ中、ひとり分の空白がある。

 自分が書くための場所だぞと、直接的な示唆に苦笑が浮かぶ。

 

 ひとに罪を背負わせたくないならば、自らが抱える許しがたい罪に目を瞑れと、そういう無茶な話だ。

 

 ここに署名してしまえば、時雨は最期の時を迎えるまで、自分の罪を裁かれることも、許されることもなくなる。

 提督が未来で不利を被ることを人質に、こんな脅迫をされているのだ。

 

「……ひどい話だよね。提督は、皆が提督のことが大好きだと知っていて、こんな方法を取るんだ」

「そうですよ。それが、私たちです。この島でのローカルルールなんです」

「厭らしい考えだね、彼」

「発案は電ちゃんだとか」

 

 なるほど、それは厭らしいなと、時雨は笑みのまま指を動かし、パネルに自らの艦名を刻む。

 弱い自分には到底、自分の罪を許すことなど出来ないだろう。ひとからの許しを受け入れることも。

 自分以外の時雨でも、そんなことは不可能なはずだ。

 しかし、それを隠して他者に悟らせないことならば、出来る。彼女には可能なのだ。

 悲痛を心の奥に隠して穏やかに笑う彼女には、こんなこと造作もないはずなのだから。

 

「あと、ひとつだけ、考えを改めておいて欲しいことが」

 

 しゃがみ込んでの署名の最中に龍鳳は言う。

 この鎮守府は、戦う力を、戦意を失ったと判断された場合は、敵であっても救うことを掲げているのだと。

 

「彼女を助けようとしたことは、やり方は間違ってしまったかもしれませんが、その意志は決して間違えではありませんよ?」

「他にいい方法が、あったのかな……」

 

 そんな方法があったのならば、仲間を撃つことも無く、彼女が隣に居られたのだろうか。

 ありえたかも知れない未来に涙が滲むが、それはいつか、きっと叶えられるのだと、時雨はそう信じたい。

 この鎮守府の提督と艦娘たちは、その方法を考え続けてここまで来たのだから。

 

 

 ○

 

 

「そうそう、青葉さんが個人的に貸しが出来たのでいろいろ手伝ってほしいと言っていましたし、夕張さんや天津風ちゃんが、艤装関係のことで話があると。雷ちゃんも呼ばれてましたね」

「他には?」

「響ちゃんが、すまなかったって」

 

 謝る側がどちらかを間違えているねと肩をすくめた時雨は、龍鳳に手を引かれて歩き出す。

 目下、時雨に与えられる任務は、クリスマスパーティの飾りつけを手伝えというもので、それらにはすでに建造上がりの暫定第三艦隊が取りかかっているのだとか。

 パーティの準備ならば仕方がないなと倉庫の物置部屋を後にする時雨の横を、自立稼働型砲塔がすれ違う。

 開けっ放しの物置部屋の中に誰も居ないことを確認し、埃っぽい部屋を外界から遮るかのように、そっと閉じた。

 

 

 



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波間⑦

 意識が覚醒し薄目を開けた駆逐艦・時雨は、すぐに自分が泣いていることに気付いた。

 メモリの整理が行なわれ、懐かしい記憶が夢と言う形で再生されていたのだろう。

 辛くも幸せな時間だったと、そう断言できる。

 染みるように思い出される現実に比べればと、そう言った前置きが不可欠ではあったが。

 

 時雨は現在、熱田島鎮守府に身を置いている。

 水無月島を発った超過艤装・伊勢型は熱田島へと辿り着き、艦娘たちは空路で本土へと送られた。

 オーバーホールを終えた皆が新たに希望する配属先はやはり水無月島であったが、故郷への帰還は難しいものとなってしまっていた。

 恐れていた情勢の変化、“海軍”本部の体勢の揺らぎ。

 そういったものが一度に起こり、敵支配海域への窓口でもあった熱田島にて長期間の足止めを食らってしまったのだ。

 時雨の場合は命令違反に脱走にと、その周辺彼是への処分があったが、それはまた別の話。

 こうして、ぎりぎりのタイミングでこの場所まで戻って来れたことが、今は一番の幸いか。

 

 あれから敵支配海域の一時解除は一度も行われていない。

 敵の首級が新たに倒されることがなかったのだと言えばそれまでだが、それは島に残り、あるいは帰り着いた彼女たちの動きが定かではない、ということでもある。

 届かない便りを想うかのような日々が続いたが、だからこそ、準備を万全とすることが出来た。

 

「おや、お目覚めかえ? 先まで龍鳳が来ておったのじゃがの」

 

 固くなった関節をストレッチでほぐしていると、扇子を口元に当てて笑む初春の姿があった。

 第二改装を受けた艤装を早く皆に見せびらかしたかったのだと一目でわかる素振りに、どうしても笑みを堪えることが出来ない。

 

「もうちょっと早く目が覚めていれば、お別れを言うことも出来たでしょうに」

 

 ため息交じりに言うのは、こちらも第二改装を果たした叢雲だ。

 御自慢の長槍をあっさりと捨て去った清々しい姿で、しかしどこか手持無沙汰のような素振り。

 微笑ましげな顔で立ち上がる時雨もまた、その姿は第二改装を果たしたものだった。

 損なわれていた航行能力も砲撃管制能力も取り戻し、それ以上を発揮出るようになった。

 

「今生のお別れじゃないよ。ボクたちはこの波間の続くところで共にある。どの海に居ようとも、たとえ隣りに居なくとも、ボクたちは一緒さ」

 

 歯の浮くようなセリフを告げて立ち上がる時雨に、水無月島は第三艦隊の2隻は気恥ずかしさに顔を赤くする。

 確かにまあ、以前の時雨ならばここは痛烈な皮肉を披露するところであったのだろうが、今は違うのだ。

 

 龍鳳や高雄、青葉に、伊勢・日向と言った面々は、水無月島への道行を放棄して、本土へと向かう選択を行なった。

 時雨たちがこの戦いを終わらせるために帰郷するように、彼女たちは戦いが終わった後を見据えての戦いを始めたのだ。

 共にあるとは言え、確かに一言、彼女に告げておけば良かったと、時雨は思う。

 時雨と龍鳳が別れた後、そのジンクスについては、もはや語るまでもない。

 しかし、だからこそ、別れの言葉は不要かとも思う。

 龍鳳は時雨の目覚めを待たなかった。伝言もない。

 そんなものは不要だろうと考えていたからこそだ。

 

 別れを告げなかったこともそうだが、その宿命を覆す意気が、自分たちにはあるのだ。

 これからの戦いは、そういったジンクスを受け入れ、しかし討ち果たすための戦いとなるのだから。

 

 

 ○

 

 

 港にはすでに、今回の里帰りで共に行く面々が揃っていた。

 再起不能と診断された状態から奇跡的な復帰を果たした那智と足柄に、曙に巻雲、そして朝霜だ。

 ツインテールからサイドテールに髪型を変えた利根に、継ぎ接ぎだらけの自立稼働型砲塔を傍に置く夕張に。

 飛龍も葛城も祥鳳も、空母系の娘たちは揃いの鉢巻きで気合を引き締める。

 見知った顔ばかりで一安心かと思えば、頭を抱えたくなるような新顔も数多く、時雨としては妙なやり辛さも感じるところだ。

 皆そうして、爛々と熱を宿す瞳でこちらを見返してくる中、1隻だけこちらに背を向けている艦娘が居た。

 

 黒い癖毛の髪に帽子といった後ろ姿は暁型のもので、デフォルトよりも成長した背中は、彼女が水無月島に居た証だ。

 振り返り、無感情に近い顔を、真っ赤な目をこちらに向けた響は、かすかに笑みを浮かべた。

 彼女がよく、ここまで自分を取り戻したものだと、時雨は我がことのように嬉しく思う。

 姉妹たちとの別れが尾を引いているのは確かだが、それでもここまで自分を立て直したのだ。

 

「私や利根も、役割としては高雄たちと共に行くべきかと考えたけれど……」

「キミはこっちだよ。“響”の悲願は、キミが一番よく知っているはずだ」

 

 幾度も小さく頷く響を見ていると、そう言ったものとは別の考えがあるのだろうなと、時雨にはわかってしまう。

 

「皆に早く会いたいね」

 

 小さな頷きがひとつ、そして前を向く暁型の眼差しが日の沈む方角から逸らされた。

 もうすぐ夜。出航の時刻だ。

 

 超過艤装・千歳型の指揮を執るのは、ようやく全快した木村提督であり、その傍らには霞も健在。

 時雨は先頭に立って、新たな超過艤装に乗り込んでゆく。

 いつもは殿を務めていた身で、あえて先頭に立つのは、血気盛んな連中の歩みを抑えるためだ。

 後続の皆は赤い目を爛々と輝かせて、足取りは確かで力強く、頼もしい。

 頼もしいが、それは同時に不安を覚える頼もしさでもあった。

 

 時雨をはじめとする今回の支配海域突入組は、ふたつの改装を受けている。

 ひとつはオーバーホール後の第二改装。

 もうひとつは、指輪無しに深海棲艦化を制御し力に変えるための措置。

 再起不能と診断されたはずの那智と足柄が再び海上に立てるようになったのも、そして伊勢と日向が再び艤装を纏って戦えるようになったのも、この措置が上手く働いたが故だ。

 自分の症例がそれらの研究に一役買ったことを誇らしく思う時雨ではあるが、その代償を考えると、素直に喜ぶことは躊躇われる。

 常に赤い目に変ずることから“血眼”と呼ばれたこの措置は、艦娘の寿命を大きく損なうものだ。

 那智も足柄も、こうして復帰を果たしはしたが、次の出撃でその寿命を使い切ることが確定している。

 時雨にしても、もしかすると次が最期かもしれないのだ。

 

 だが、行く。

 赤い目の艦隊が行く。

 それは里帰りか墓参りか。

 どちらも似たようなものかと意気を入れる艦娘たちの、その目は夜の暗闇に赤く映えた。

 

 

 



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第4章:かえりみち
1話:


 何故こうなったと、航空戦艦・伊勢は冷や汗交じりの表情を俯かせて、火の消えた七輪を覗き込んでいた。

 着火までは良かったのだが、一瞬閻魔のような火柱が上がったかと思えば、次の瞬間には種火すらも掻き消えて、何故か霜が張っていた。

 わけがわからない。種火が消えるだけならまだしも、何故に霜が張る。

 これが、敵支配海域下における物理現象の歪曲と言うことかと、非常に深刻な事態に喉奥から唸りが漏れ、それは叫びに変わった。

 

「スルメ炙れないじゃん……!」

 

 だな、と短く返すのは、傍らで文庫本を片手に釣糸を垂らしている、麦わら帽子を被った日向だ。

 頬を膨らませた伊勢の非難の視線をものともせず、しかし火の消えてしまった七輪を横目に見る表情は残念そうだ。

 

「……みりん干しが」

「ほらあ! ほらああああ!」

 

 指さして声上げて非難してくる伊勢を遮断するように麦わら帽子を目深にする日向は、超過艤装の甲板上で何やってんだかと嘆息する。

 熱田島からこの超過艤装・伊勢型で出撃して、敵支配海域に突入。水無月島まであと数十キロという距離に来たところで、海域に展開中の彼女たちが敵艦の強襲を受けていると彩雲からの知らせを受け取った。

 こちらも応戦の用意を整えて、そうして航空戦力による支援を展開したと思えば、次はこちらが標的だ。回避に専念するも、この海域においては無茶な方法を取ってしまったなと、今さらながらに思うが、あの時はあれが最善だったはずだ。

 超過艤装はスクリューと舵に深刻な損傷が生じ、復旧には早くて1ヵ月強の時間が必要だという。この巨体を半年もかからずに修復してしまうのだというのだから、妖精たちの力は底が知れない。

 

 それまで、自分たちはこの海域に足止めだ。当初の想定では水無月島の艦娘たちを収容して離脱となっていたが、出撃前に色々課題が追加で詰まれたのだと木村提督が頭を抱えていたので、もしかすると1、2ヵ月では足りないくらいの時間が必要になるやもしれない。

 その場合、懸念の数が格段に増える。復旧作業中の超過艤装と水無月島を、新たに敵戦力が強襲すること。そして、木村提督の、この海域における活動リミットだ。

 まあ、その辺は、特に後者は自分たちが考えるべきではないし、余計な口出しは無用かなと、日向はようやく七輪に向き直る。

 

「どうしたものかなこれは。固形燃料に変えてみるか?」

「ええ? 炭で焼くのがいいんじゃん。遠赤外線がなんかいい仕事するんだよ?」

 

 ああ、こいつ絶対に仕組み解ってないなと頷いた日向は、傍らの背嚢からツナ缶を取り出し、同じく背嚢から予備の靴紐を取り出し手早く細工して、アルコールランプに似た仕掛けを拵える。

 満面の笑みで拍手する伊勢に口角を上げた得意げな笑みで日向は返し、火が点けられそうなら何でもいいのだなと、先ほどの遠赤外線はどうしたと相方を心中で小突く。

 後で缶詰も美味しくいただく二段構えの策はしかし、擦ったマッチが着火ではなく爆発するという結末を持って、半ば振り出しに戻る。

 

「……この海域は、どうやら魚介類が嫌いらしいな」

 

 釣り糸を垂らしても小魚1匹掛からなかったのだからそうに違いない。

 共に項垂れる伊勢の背後、新たな人影が甲板上に現れたことを日向は認識する。

 

「朝霜ちゃん、いたよ居た居た! 戦艦2!」

「名前呼べ名前。お前戦艦なら何でもいいのかよ……。ってか、伊勢と日向じゃねえか!? おおい、元気でやってるかあ……!」

 

 現れたのは水無月島鎮守府所属の夕雲型駆逐艦・朝霜と清霜だ。

 先の交戦で負傷した彼女たちは、超過艤装内の入渠ドックにて修復を行っていたのだ。

 甲板に姿を現した2隻は、負傷した両腕を包帯で固めた朝霜が、負傷した両足を包帯で固めた清霜を肩車して手長足長状態だ。この姿でバランス悪く艦内を歩いていたところを鑑みるに、完治には程遠いものの、元気なことは元気な様子だ。

 そもそも、入渠してまだ3日も経っていないにも関わらずここまで回復したのが奇跡的だ。

 

 立ち上がって両手を広げて2隻を迎え入れる伊勢。日向も思わず立ち上がって、かつての戦友との再会に敬礼して見せる。

 

 それからしばらくして火種の問題が解決し、甲板上で七輪囲んで酒盛りとなった訳だが、これまた伊勢が渋い顔で取り出したものに、夕雲型の2隻は揃って顔を渋くする。

 

「いやあ、熱田出るちょーっと前から梅酒仕込んでてさ? 水無月島に到着する頃には飲み頃かなあって計算だったんだけれど……」

「これ、全然浸かってねえじゃん。酒じゃねえよ、アルコールだよコレ。ホワイトなんとかだ」

 

 朝霜の言に、梅酒未満をひと舐めした清霜は、確かにと首を傾ける。

 支配海域に突入する直前まではちゃんと工程通りに使っていたものが、海域に突入した瞬間に“止まった”のだろう。下手をすると毒性に変異すると間宮が言っていたので、これは安全な方だったのだなと、氷砂糖をぽりぽり齧る。

 伊勢と日向の話しを聞くに、彼女たちは超過艤装の操舵を担当している役割上、こうして留守番しているらしい。

 他の艦娘たちはと言えば、超過艤装の医療用ドックで入渠中の艦娘たちと工作艦・明石を残して、皆が水無月島へと移動してしまったのだという。

 顔合わせに打ち合わせに色々あるのだろうが、何か決定したり変化が有ったりすれば航空機を飛ばしてやり取りする手はずになっている。

 諸々の決定次第では、朝霜も清霜もこのまま超過艤装に残り、故障箇所の復旧を終え次第、引き上げてきた皆と共に島を去るかもしれないのだとか。

 

「……まあ、なんにせよ、すぐには動けないだろうな。さっきの定期連絡でうちの木村提督と水無月島の提督が揃ってダウンしたと一報あった」

「なんだなんだあ? なぐり合いでもしたのか?」

「ほら、“艦隊司令部施設”運用の後遺症よ。木村提督もやめとけばいいのに妖精化して先導にし行っちゃうしでさあ?」

 

 双方の提督が不調となれば、確かに脱出計画を進めることも難しいだろう。

 艦娘たちに与えられた範囲で出来得る細事を進めていく流れになるだろうなと話す日向は、朝霜のにんまりとした顔を見る。

 

「んじゃ、木村提督が復帰するまで毎日呑んだくれていられるわけだな」

 

 アタリメをしゃぶってもごもごしゃべる朝霜を小突く伊勢に、それを穏やかに眺めている日向の姿。

 それらを眺める清霜は、先日の遭遇戦が夢であったようだと錯覚する。

 負傷の痕が夢ではないとはっきり告げているが、こうして穏やかな時間を過ごしていると、自分の身に起こった欠落すら微睡の向こうに沈んでいくような気がする。これも入渠の効力のひとつだと、確か響が言っていた。

 その響はまだ、医療ドックから出て来れない状態だ。

 先の戦闘で、肉体と艤装の両方に致命的なダメージを負ってしまったのだ。暁も付き添いで艦内に残っているので心細くはないだろうが、後で酒持って見舞いに行こうと、並べられた酒未満のアルコール類を吟味する。

 

 しかしまあ、生きていれば大丈夫だと、清霜はひとつ頷く。

 他の面々がどうなったかなど、気になることや聞きたいことが山ほどあるが、ひとまず命は繋いだのだ。生きていればどうにかなる。抱えていた苦悩が払拭されるかもしれないし、こうして遠くの味方が助けが来るかもしれない。いつか戦艦になれる日も近い。

 だからまあ今は、あまり難しいことを考えずに薬品といった趣の酒をあおっていると居ると、甲板上に新たな人影が現れた。

 

「ええ……、なんで甲板でスルメ焼いてるの……?」

 

 困惑した声を発するのは、航空母艦・葛城だ。

 長期の入渠がついさっき明けたのだが、そうして見れば超過艤装は座礁しているわ、明石以外は見知らぬ負傷艦ばかりだわで、知っている艦娘を探して艦内を彷徨っていたのだろう。声が震えていたし、伊勢たちの姿を見付けて体の強張りが解けた様を、清霜は確かに見ている。

 

 さて、新たな肴兼呑み面子の登場に伊勢や朝霜が目を光らせている姿に日向の方を見れば頷きひとつ。すなわち、第二ラウンドだ。

 後々、妖精たちが「自分たちの仕事中に宴会やられて、なんかしゃく」と反乱が起き、甲板で酒盛りしていた面々は仲良く海に放り投げられたり、入渠が開けたばかりの響が「私も呼ぼうよ……!」と珍しく声を荒げて、いつも通りに近い大変な有り様だった。

 

 

 ○

 

 

 駆逐艦・若葉は深夜の暗闇の中、全身に汗をかいた身を布団から起こした。

 現在位置が敵の支配海域のど真ん中とは言え、まだまだ寝苦しい季節とは言い難い。悪夢を見たが故の覚醒ではあるが、その内容を覚えていない当たり、いかんともしがたい。

 艦艇時代の追想によるものか、あるいは深海棲艦として活動していた時期の残留メモリが再生されたのか、判別が付かないからだ。

 

 若葉が生まれた場所は超過艤装・伊勢型の建造ドックだ。

 熱田島鎮守府から水無月島へ向けての救援に向かう際、木村提督は超過艤装に搭乗させる艦娘についてかなり悩んだのだとは、以前伊勢たちから聞いた話だ。

 先んじて支配海域に突入した装甲空母部隊のほとんどがここ、水無月島に到達することが適わず、海軍本部は一時突入作戦を中断して、その内容の見直しを行っている。

 その見直しの中のひとつに、搭乗艦娘の制限の項目が、新たに付け加えられることとなったのだ。

 前期突入組は艦種に関わらず計15隻までの搭乗が認められていたが、今回の後期突入においては半数の8隻にまで縮小されている。

 「何故縮小を?」と憤慨する若葉ではあったが、本部の決定に逆らうことが出来ない木村提督のやるせなさも理解はしている。

 伊勢型への搭乗は木村提督の秘書官・霞をはじめとする8隻が選抜されたものの、その内まともに海上戦闘が行えるのは那智と足柄の2隻に限られ、とても戦力とは言えない有り様だった。

 

 それ故に、木村提督はある手段を用いて艦娘の頭数を揃えんとした。水無月島鎮守府で行われたように、敵から奪取した艤装核を用いて艦娘の建造を行ったのだ。

 その結果建造されたのが、若葉をはじめとする駆逐艦たちや、鳥海や筑摩、阿武隈と言った巡洋艦級。そして、熱田島鎮守府より艤装核の状態で持ち込まれた空母・葛城だ。ここに漂流中だった霧島や潮等が加わり、現状の熱田島航空戦艦部隊となった。

 幸運だったことは、実戦経験豊富かつ、他鎮守府や泊地で教官役を任されていた艦娘が多かったことだ。新造艦娘たちの練度の伸びはどの鎮守府の基礎メニューをはるかに凌駕するもので、若葉自身辛くはあったが、それ以上に多大な充実も得ていた。悪夢を意識し始めたのは、そんな矢先だった。

 

 艦艇時代の記憶が夢と言う形でフラッシュバックすることがあるとは聞いていたが、自らが体感した夢は、そう言ったものとは異なった。

 何せ、自らが同じ艦娘に討たれる光景を、鮮明に思い出すに至ったからだ。それらの夢が自分だけではないと発覚し、航空戦艦内は一時騒然としたものだ。那智と曙などは元々あった距離がさらに開いてしまったように思えるし、海上での訓練や作戦行動中にパニックに陥ってしまう艦娘もあった。

 それでも、入渠や同期作業の度にそういった悪夢が遠退いてゆくことが救いだっただろうか。思い出す限りにおいて、自分が艦娘を攻撃したことのある個体ではなかったことも。

 今回の夢は内容をよく覚えていなかったので、恐らくは鋼の記憶の残滓だったのだろう。深海棲艦だった頃の記憶も、今ではぼやけたものとなって久しく、判別は難しい。

 そう結論付けて心を落ち着けようとしているが、もはや夢という現象に対して過敏になり過ぎていた。

 

 そのあたり、同じ境遇であるはずの水無月島の面々はどうなのだと姉艦に問うてみたところ、どういうわけか、それほど苦にしていないらしい。

 初春たち曰く、この島の艦娘たちは時折提督の寝室に侵入して夜を明かすことがあらるらしいのだが、そうするとどういうわけか、夢見がよくなるのだとか。

 なんだそれはと鼻白んだ若葉ではあったが、熱田側の阿武隈も同様のことを言い出したものだから、途端に信憑性が湧いてしまった。

 そんな馬鹿な話があるものかと、怒り心頭となった磯風が浜風を巻き込んで提督のところへ突撃。翌朝別人のようにしおらしくなってしまったので、もはや確証と言って過言はないだろう。

 そういうわけで、初春がしきりに提督のところへ行こう行こうと誘ってくるが、そんな気恥ずかしい真似が出来るわけがない。思わず寝なくても大丈夫だと言って断ったら本当に眠らないのか横で確かめておるぞと布団を並べられたので、これがまた困りごとだ。

 困りごとで、そして幸いなことだ。

 

 今や若葉の布団にもぐりこんで寝言を呟いている初春だが、初対面では艤装は大破、体は大やけどと言う酷い有り様だった。

 それが、超過艤装に収容されて3日足らずで全快して立って歩けるまでに回復し、入渠ドックを管理していた明石も驚いていた。損傷を負った他の艦娘たちも予定入渠時間よりも格段に早く上がったもので、「若さかしら……」と、何故か足柄が暗い顔をしていた。

 さて、そうして復帰した初春だが、それからはまあ若葉にべったりなのだ。入渠明けの顔合わせで「若葉じゃ! 若葉がおるぞ! のう提督、若葉じゃぞ! 若葉ああああ!」と介添えしていた提督の背中をばしばし叩いた後に諸手を上げて駆け寄って来た時は、正直かなり引いたものだ。同時期に入渠明けとなった叢雲も、あんな初春は初めて見たと、若葉以上に引いていた。

 しかしまあ、同じく妹艦と対面した利根がまったく同じような反応をしていたのだとも聞き及んでいるので、のじゃの一族の間ではかなり一般的な部類なのかもしれない。

 

 その姉が、こちらの胴体を探して手を伸ばしてくる。

 抱き癖があるとかでいつもは抱き枕を抱えているそうなのだが、最近の抱き枕はもっぱら若葉だ。

 困りものだ。困りものだが、これがまた安心を誘うものだからどうかしている。

 寝言や寝息ひとつで、暗闇の中でも彼女たちが確実にそこにいるとわかって一安心だと考えるのは、夜という時間に敏感な艦娘たちにはよくあることらしい。

 それ故にか、艦娘はひとり部屋よりも複数人で部屋を分け合って居住することを好む傾向にある。特に、夜に沈んだ娘は尚更だ。

 まあ、艦艇の若葉が沈んだのは夜ではなかったのだが。

 

 頬に張り付く髪を後頭部の方に流して周囲を見渡せば、なんというか、駆逐艦をはじめとする艦娘たちが死屍累々といった風で雑魚寝している。

 宴会の時などに使っている大部屋に布団を敷きつめて大人数での雑魚寝は、午前中に勃発した熱田島VS水無月島のビーチバレーが発端だ。各鎮守府の精鋭が本気も本気の全力でぶつかって熱くなって面子を変え途中から競技まで変えて、夜遅くまで体を動かしていたのだ。

 ふたつの鎮守府が合流してはやひと月、微妙に考え方が合わなかったり気が合わなかったりした連中が躍起になってしまったということもあるが、そもそもこの環境は運動しないと体に悪い。極地活動適正の高い艦娘でも気が滅入ってしまうのだからどうしようもない。

 わだかまりが解消されたかどうかはさて置き、こうして枕を並べて眠ることが出来るまでになったのは僥倖と言うべきかと、若葉はそう思う。

 最初の頃、本当に仲が悪いように見えた鳥海と秋津洲が重なって眠っているなど、ひと月前には想像もしなかった光景だ。

 変な強がり方をしていた磯風がいびきかいて緩んだ顔で寝ているところなども初めて見たし、秋雲の姿が見えないのは今も気の合う面々と語り合っているからだろう。

 巻雲と飛龍に隅っこの方に追い詰められている風雲はご愁傷様だし、漣にコブラツイスト掛けながら寝ている曙は、なんだあれ。寝言で会話している利根型姉妹も。

 これから脱出期間含め長い付き合いになるのだから、まあいいかと、若葉はいそいそと立ち上がった。

 

 昼のあいだ動き過ぎたというのもあるが、何分飲み過ぎもした。

 夜中に起きてしまうのも致し方なしかと伸びをすれば、下半身に衝撃が加わり内臓が不穏な動きをする。姉が寝ぼけて若葉の下半身に纏わりついてきたのだ。

 目が慣れてきたとはいえ、こんな暗闇の中で止めてほしいものだと、若葉は姉を引きはがしにかかる。

 尿意を我慢して乱暴になってはいけないぞと、深呼吸して努めて落ち着き払い、寝間着が肌蹴てほぼ半裸な初春をやんわりと引きはがすことに成功する。一緒に履いていた下着まで脱げ落ちたのは完全に計算外だった。

 お揃いだからと言って姉がCストを進めてくるのを、なんとか紐で妥協してもらったのがまずかったか。勝手がわからず気持ち緩めに結んだものが、この局面でほどけ落ちてしまっていた。

 上に着ているシャツは裾がぎりぎりで心許無い。このまま堂々と出歩くなどもっての外。提督たちに見つかってしまった日には、恥ずかしくてどうにかなってしまう。若葉とてメンタルは年頃の乙女なのだ。

 足踏みするまでに堪えた尿意に、さてどうするかと逡巡する間もなく、大部屋の襖が勢いよく開いた。

 心臓が止まるかと思った若葉は、大口開けて欠伸した秋雲が、襖を開け口に手を当てた姿勢で固まっている様に、安堵とも焦燥とも付かない感情を得る。

 まずは提督たちではなかったことに感謝するべきかと頷き、次いで秋雲ならばまあ良しかと胸を撫で降ろす。

 自らの感情を順に整理していった若葉は、秋雲が大仰な手振りでサムズアップをつくり「えんじょーい」と言い残して襖をしめて足早に去ってゆく様に疑問を覚える。

 こんな姿故に誤解したものかとも思ったが、普段から不規則言動の多い彼女のことだ。例えあることないことねつ造し、誰に彼にと吹聴したところで、概ね誰も信用するはずがない。

 

 そんなことよりバラスト排出だ。若葉はやはり下を履いてから向かうべきだと、落ちた布地を探す。

 初春がそれを抱きしめるようにして丸まっている姿を目の当たりにして、思わず頭の中が真っ白になってしまった。

 

「くそ、第二ラウンドか……!」

 

 

 ○

 

 

「しかし、なんだ。この鎮守府は揚げ物が出される頻度が異常じゃないか?」

 

 配膳コーナーに肘付いて立ち飲み状態の那智の言い草に、明日の下拵えを手伝っていた潮は、確かにと頷いた。鱈の切り身に小麦粉、卵液とパン粉を塗してトレーに並べる流れ作業が楽しくて鼻歌でも歌い出したい心地だったが、湧いた疑問にふと素に戻ってしまう。

 揚げ物が多い理由として潮が考えたのは、少し悪くなった素材でも安全に食べられるようにするためだ。ソースなどを加えて濃いめの味にすれば、多少は味も誤魔化せるかなとも思ったもので、それを電に問うて答え合わせすれば「それも理由のひとつ」と微笑みが返る。気持ちジンクスのようなものなのだと、そう告げるのはカツ系の衣を担当している足柄だ。

 

「水無月島の伝統というかねえ。ほら、油って水よりも軽いし。それで、揚げるって行為とかけて、沈むのを防ぐような願掛けなのよね。揚げ物食べたら沈まないぞ、って」

 

 なるほどそんなジンクスがと、感心したように頷く那智と、それに倣うのはグラスを傾ける響だ。というか、2隻とも現と元で水無月島の所属であるはずなのに知らなかったのだろうかと首傾げて視線を向ければ、感心したような頷きのまま顔を逸らされた。

 

「姉さんはあんまり顔に出ないからあれだけれど、酔ってると話聞いてないし覚えてないしでたいへんなんだから……」

 

 足柄の呆れたような物言いに、それはここ最近でしっかり認識したなと、潮はこの海域での日々を振り返る。

 前期突入計画にて装甲空母に搭乗した潮は、支配海域突入直後の敵襲で艦隊からはぐれ、単艦で敵地を彷徨うこととなった。

 艦隊とはぐれ、僚艦ともはぐれた潮が浮島のひとつに辿り着いたのは幸運だった。

 そこから熱田島に拾われるまでは気の狂うような何もない日々が半年以上続くのだが、出撃前に間宮から渡された羊羹がなかったら遭難した最初期の時点で心が折れていたと確信する。

 

 その間宮とも、ここ水無月島で再会することが叶った。

 こちらは彼女のことを一目で判別できたが、間宮の方はそうはいかなかった。何せ、半年の漂流を経た潮の肉体は急成長を遂げ、身長は頭ひとつ分も伸びて、間宮と目線の高さがほぼ一緒になってしまっていたのだ。

 困惑する間宮が頬に手を当てつつ「潮ちゃん……、のお姉さんですか?」などと頓狂なことを問うて、その場に居合わせた漣と曙に「それは私です」と真顔で突っ込まれていたのが印象深い。

 

 その間宮は今、鎮守府地下の工廠に呼ばれ出向いている。

 ここ最近は中々厨房への出入りは少なく、なんでも彼女のような給料艦や大型艦などに実装される艤装を、後付けで増設準備をしているのだとか。

 それに付いて問えば、厨房の奥から出てきた鳳翔が解説を入れてくれた。

 

「格納領域の増設を行うのですよ。木村提督からの指示で」

 

 格納領域とは名の通り、その艦娘の元となった艦艇とほぼ同等の収容スペースを亜空間に設けること。

 潮としては、漣が言っていた「ああ、RPGゲームのアイテムボックスみたいなもんね」という例えが一番理解しやすかっただろうか。

 艤装や弾薬を始め、食料品や衣料品などをも固有の空間に収納できる優れものではあったのだが、艤装開発の最初期に制限がかけられた部門でもあるのだとか。

 

「色々と問題の多い技術だったからなあ。足柄、覚えているか? うちの大和の……」

「あー。艤装や弾薬と一緒におっきなケーキいくつか収納したら、戦闘時に取り出した46砲の上に載ってて焦ったってやつね?」

 

 その光景を想像して思わず噴き出した潮は、同じように噴き出し腹を抱えた響が、配膳コーナーの窓から姿を消す様を見る。

 ちなみに件の惨事が起こった時は海上で敵艦隊と交戦中であり、大和は46砲の上にケーキ載せたまま戦って勝って帰って来た。

 当然、主砲を放った衝撃でケーキは無残に吹き飛んでしまい、クリームまみれの憮然とした顔で帰投した大和の姿に、誰もがぎょっとしたという。

 当時の老提督も「じいちゃん悲しいわ。そんなプレイ教えたつもりないよ?」と頭を抱え、大和も「大和も食べ物を粗末にするつもりは……」と涙ぐんでいて。

 その場に同行して一部始終を見ていた響がやはり、腹筋が破壊されて蹲って動けないくなってしまっていたのだとか。

 

「そんなことがありまして、格納領域の運用は慎重を規すようになりましたね。補完艤装や燃料・弾薬を収納する際は、あらかじめ専用のコンテナに各々の収納物を振り分けてから、固有空間へ収納する、という方針になっているんですよ?」

 

 寸動鍋で湯気を立て始めた琥珀色のスープをお玉で救い、小皿に取って口元に運ぶ鳳翔が、格納領域のその後の運用秘話を笑いながら話す。

 小皿に唇をつけて「あち」と舌を出す姿にいつも通りだな笑む潮は、水無月島の暁型たちも同じように微笑ましげな視線を向けていることに気付く。

 彼女たちにとっては旧知の仲である鳳翔だ。特に、鎮守府活動停止直前の出撃で帰らぬ人となってしまったと思われていた彼女が、こうして元気な姿を見せているのだ。嬉しくないはずがない。

 伊勢型の上で暁や電と再会した時も、間宮の時と同じような天どんをやらかしていたが、そうして成長した彼女たちの姿にこそ、元水無月島の面々は感極まっていた。

 

 こうして調理場に集った那智や足柄も普段と違ったような顔を見せるもので、しかし那智の方は響と一緒になってつまみが出てくるまで配膳コーナーで粘るのはどうかと、潮は思うのだ。何だかんだでカツの切れ端揚げ始める足柄も。

 食べ盛りが多いのも(もちろん潮も含む)、呑める口が多いのも伊勢型の中と変わらないが、やはり旧知の仲であるからか、自分たちへの時とはまた違った接し方に思える。ここでの彼女たちの方が、伊勢型の中に居た時よりも、少しだけ振る舞いに余裕がある気がするのだ。

 足柄はこうして調理場に出入りするのは伊勢型の中でも同様だったが、雷が詰めている医務室に良く顔を出すのは意外に感じた。かつては雷と共に医務室の手伝いなどしていたそうで、白衣姿が驚くほど似合っていた。

 那智の方もこの響とは旧知の仲であり、酒瓶持って連れ立っている姿をよく目にしている。そして、そう言う時は千歳や朝霜が必ずと言っていいほど追加の酒瓶持ってやってくるのだ。ほら来た。高雄と叢雲も一緒だ。伊勢や日向が未だ留守番なのが悔やまれる。

 

「でも、このタイミングで格納領域を増設するってことは……」

「やはり、木村提督はこの島に留まる気なのだろうな」

 

 何気なく呟かれた言葉に、潮は身が固くなるのを自覚する。

 何か重要なことをさらりと言葉に乗せられた気がするのだが、はっきりどういうことだと疑問を述べるだけの域に考えが達していない。

 そして幸か不幸か、この場に居合わせた潮以外の艦娘たちは、大よそそれがどういうことなのかを理解している様子で、どうにも聞くに聞けない心持になってしまう。

 しかも皆して、潮もなんとなくわかっているものだと思って、正式なお達しが出るまでは他の者には口止めをと、人差し指を唇に当てて見せる。

 

 皆いちいち仕草がセクシーだなあと苦笑いした潮は、このまま流れに身を任せようと思い至った。考えるのを放棄したとも言う。

 ここで聞かずともいずれ明らかになるであろうことは確定している様子だし、心の準備などはいつも間に合わないので、ここは開き直ろう。

 流れに身を任せるのは悪いことではない。漂流中は幾度か彼方から食料品の入ったコンテナが流れてきたこともあったし、遠くに白い影が海面から顔出して手を振っていた気もする。

 今にして思えばこちらに味方した彼女だったのかと納得するが、その当時はもっと焦っても良かったのではないかと、今さらながらに鈍さは大事だと思い知った。

 

 さて、そうして酒につられて集まった呑み人たちにと、足柄が揚げたカツの切れ端を卵でとじて皿で出す。

 何故か厨房で調理している面々の分まで用意されたそれを潮はありがたくいただくことにしたのだが、これが滅法辛かった。

 足柄の味付けが基本辛目であることは伊勢型で寝起きしていた時から意識してはいたが、ここ最近は特に気合が入り過ぎている様子だ。

 鳳翔と電が口を半開きにして渋面をつくっている様を困惑気に見る足柄は、そんなに辛くしたつもりはないのだと必死に弁明していた。

 

 

 ○

 

 

 2隻の阿武隈はここ最近、よく共に行動する姿が見られるようになった。

 お互い出自に関してはほぼ同様ではあるが、その後の環境や経験の差から、明らかに異なる個体であるなという印象を、互いも他の面々も抱いている。

 片や第二改装の衣装であり、片や第一改装の衣装である、ということもある。所属を示す腕章も然りだ。片や勇ましく、片や臆病な気質の持ち主であることもそうだ。

 しかし、それだけではどうにも落ち着かないという思いは互いに抱いていた様子で、ならばと頭髪の色彩を微妙に弄ることでようやく納得という形を得ている。

 水無月島の阿武隈は髪の内側に青のグラデーションを、熱田島の阿武隈は赤を。

 衣装が違うのだからそれでいいのではと野暮なことを言う者もいたが、いずれは熱田の阿武隈も第二改装を受けるであろうと考えていた水無月島の阿武隈は、その意見を真っ向から突っぱねた。

 

 そして、その2隻は夜も更けた時刻に連れ立って鎮守府の外へと歩み出していた。目的地は水無月島の提督の部屋、その縁側だ。

 物陰からこっそりと、縁側に腰を落ち着けて手にした書に目を落としている提督の姿に見入っているのは双方同じだが、熱田の阿武隈の方が、やや顔に熱を帯びた風であるのが見て取れる。

 実際にお熱なのだと、打ち明けられた水無月島の阿武隈は、ショックのような、または非常に嬉しいような複雑な心境でここ最近を過ごしていた。

 

 熱田から救援にやって来た艦娘たちの中で(主に船内で建造された面々だ)、水無月島の提督に一目惚れ、という症状を得ている艦娘が何隻か存在している。

 熱田勢の中では特に鳥海が重症だった様子で、提督と食事時や廊下などでばったり出会うと、顔合わせ当初は険悪だったはずの秋津洲の後ろに隠れてしまう姿がよく見られる。

 刷り込みとしては木村提督に対する好意が大半を占めているのは言うまでもないのだろうが、年齢が離れているせいか、それは父親に向けるような感情であることが大半なのだとか。

 磯風など木村提督のことを「親父」と呼んでしまい、焦って提督と訂正する姿が見られるように、熱田勢の木村提督に対する感情は概ね父親のようなものらしい。

 

 では、水無月島の提督に対してはと問うたところ、熱田の阿武隈からは「小さい時からご近所さんだった憧れのお兄さん」との返答があり、一緒に居た漣や秋津洲たちと共に「なるほど!」と叫んで膝を打つ場面があった。

 そして、その憧れのお兄さんの動向を陰から覗き見ているのかと言えば、なんとなくそれが楽しい行為に思えてしまった、というのが水無月島の阿武隈の内心だ。所属の違う同名艦と連れ立って、という部分が特にそうなのだと、互いに思っている節があるのだ。

 普段ならば愛しの彼の姿をしばらく見つめた後に満足して引き上げる流れとなっていたのだが、今宵に限っては見逃せない場面が生じたため、2隻は音を立てないように姿勢を直して観察を続行する。隠密行動は十八番なのだ。

 

「こんな暗がりで読書か。勉強熱心なのは良いが、目を悪くするぞ」

 

 腹の下に響いてくるような低い声。療養を終え、霞の介添えを受けた木村提督の声だ。

 “艦隊司令部施設”の運用によって消耗したものか、双方の提督は敵襲を切り抜け顔合わせをした後、死んだように寝込んでしまっていたのだ。

 復帰は水無月島の提督の方が早く、木村提督は中々後遺症が抜けずに寝て起きてを繰り返すひと月だった。こうして歩けるまでになったのはつい先日のことで、それまでは提督が霞のお小言にちくちくやられながら、両艦隊の指示に奔走していた。

 その霞はと言えば、木村提督を提督の隣りに座らせると、自らはその横にくっつくようにして澄ました顔で腰を下ろす。彼女本来の衣装の上から“海軍”所属に支給されるネイビーのコートとベレー帽を纏った姿は、漣や卯月や夕張などから「隊長機だ! 特別強いヤツだ!」と好評らしい。清霜も目を輝かせていた。

 阿武隈たちは「あれ夫婦?」「だいたい夫婦」と認識を共有して頷き合う。

 

「……葉隠か?」

「磯風に勧められまして」

 

 文庫本を閉じて表紙を見せる提督に、木村提督は「俺の本棚にあったヤツだな」と、少し口角を上げて嬉しそうな声色になる。

 

「年頃の娘なんだからもっとこう、ここの娘らの様に漫画でも読めばと言っては見たが、なかなか硬さが抜けないやつでな」

「頼もしい娘ですよ。この前も夜通し説教されました」

「……すまんな。ところで貴様、本は?」

「読みます。皆が勧めてくれるので。以前は漫画がほとんどでしたが、熱田の娘さんたちが来てからはかなり幅が広がりました」

 

 そう告げる提督の傍らに積んであるのは、SFやら児童文学やら。

 時折、カラオケマスターやら格闘技の教本などが混じっているが、木村提督の表情は誰の趣味か一目でわかるぞと嬉しげなものだ。

 しかしその表情は、積み本の背表紙を下に辿ってゆくにつれて曇ってゆく。

 

「おい貴様、何故にポルノ誌まで積まれている。まさかうちの誰かが……」

「いえ。これはうちの艦娘たちが。以前から、何冊か廊下に並べ置かれていることがありまして。おそらく何らかのメッセージだとは思うのですが、なかなか理解が及ばず……」

 

 木村提督は渋い顔で「貴様。それはな、貴様……」と言い掛けたが、勢いを失って言葉を途切れさせる。傍らの霞も呆れた顔で、何も言うまいと憮然としている。

 物陰から盗み聞いている阿武隈たちはといえば、片方は動揺で顔を真っ赤に、口元を両手で覆って疑問符を浮かべているが、もう片方は「あー、あれ私やったことあるぞ」と顔を覆って俯いている。

 

「……あの、どういうこと」

「市場調査です。提督の好みの特定と偏向のために、漂着物を廊下に撒いて観察するの」

 

 なんと言うことをと慄く熱田阿武隈だが、興味の矛先は彼の好みに及ぶ。

 しかし、興味と期待の眼差しを受けた水無月阿武隈の、その表情は渋い。

 

「提督、律儀に全部拾っていくし、全部吟味するしで、あんまり効果がなかったり……。最初は初心な反応だったって暁たちは言ってたけれど、なんかだんだん慣れちゃったみたいで……」

「そんなあ……」

 

 最新情報獲得ならずかと項垂れる阿武隈たちは、気を緩めたわずかな間に、提督たちの話が方向を変えたことに気付く。

 

「明日、皆を集めてくれ。ひと月近くも時間を食ってしまったが、俺もようやく本調子だ。そろそろ今後の方針を正式に告げねばならんからな」

 

 木村提督の言に、提督はもちろん、盗み見していた阿武隈たちも身を固くした。

 脱出のための算段は熱田勢の側で打ち合わせられてはいたのだろうが、超過艤装の損傷と提督たちの不調によって、計画自体が延期されていた。

 いよいよ、それが再開されるのだ。

 

「今すぐとは言わんが、荷物はまとめて置いた方がいい。妖精たちの頑張りで、超過艤装の修復は予定よりも早く片が付きそうだからな」

「ではやはり、この島を……」

「脱出することになる。安心しろ、貴様らは熱田経由で無事本土まで送り届ける手筈になっている」

「その先は――」

 

 提督は語調を強めて木村提督に問う。その先、本土まで渡ったその先はどうなるのか。

 

「貴様の身柄は海軍預かりになるな。一応の戸籍も用意してある。その後どうするかどうかは貴様次第……」

「いいえ、木村提督。僕ではなく、彼女たちがです」

 

 語気を更に強めた提督に、歴戦の司令官はわかっているとばかりに苦笑する。

 

「水無月島艦隊としては、解体されることにはなるだろうな。まずは全艦オーバーホールだ。その後、戦線に復帰可能だと判断された娘たちは、各地の鎮守府に割り振られることになるだろう。一応希望する先は申請できるが、まあそれが通る可能性は高い」

 

 提督はその言葉に疑問を覚える。そういった希望先は通らないものではないかと思ったのだが、どうやら違うらしい。

 

「ここ1年足らずで、敵支配海域の縮小が確認された。縮小と言うよりは、敵の統率者が戦力を一箇所に集中しているために、環境を変異させている敵の姫級や鬼級がそれに呼応して、本来存在していた地点よりも遠ざかった、ということなのだがな」

 

 それは、水無月島が活動を再開しなければ起こり得なかったことだと、木村提督は語る。

 補給のための海路が回復し、各地では守りの地盤固めが始まった。

 万年戦力不足だった最前線基地に補給と戦力増強が行われ、ようやく余裕が生まれてきたのだ。

 

「統率者の目的を断定することは出来んが、貴様らがこうして狼煙を上げたことで、息を吹き返したものがある。貴様らの功績だ」

 

 水無月島の阿武隈は、自分の提督が顔を俯かせる姿を目の当たりにして、隣りの同胞にここを去ろうと提案する。

 木村提督の言葉に感極まる彼の姿を、これ以上見ているわけにはいかないと、そう思ったのだ。

 

 

 



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2話:

 両の拳を握り開いて感触を確かめた風雲は、わきわきと自在に稼働する手指に「よし」と頷き、己の隣りに向き直った。

 そこには妹艦である清霜が、なんぞやと笑顔で座り待ち構えている。

 風雲は浅く開いた手指で、妹艦の頬に触れる。指の腹で頬の感触を確かめるように、なぞり、さすり、皮膚と肉の下にある骨格を感じ取る。

 ひとしきり表面をなぞる動きを続けると、次は指と掌とで頬を揉みほぐす動きに移る。柔らかく形を変えては戻り、頬肉と一緒に優しく引っ張られた他の皮膚が、清霜の概ね笑顔の表情を変えてゆく。

 されるがままの清霜は嫌がる様子がなければ不平を漏らすこともない。姉と妹のスキンシップだと考えているのだろうと、風雲は物わかりのいい妹に嬉しくなる。

 スキンシップ、まさに肌の触れ合いだ。意味は異なるがシップと言う響きが船のシップを掛かっていて尚良い。

 

 艦船としての風雲と清霜は当時、船体を並べて航行することはなかった。

 こうして艦娘となって共に戦えるようになったわけだが、それが果たして良かったのか、そうではないのか。

 風雲は思う。こうして愛おしい妹を撫で繰り回せるのだから、素晴らしいに決まっていると、清霜の頬を堪能する。

 指で優しく摘まむと張りのある伸びが見られ、くすぐったそうな呻きが漏れる。もっちもちだ。入渠するよりも精神的に穏やかになってゆくのを実感する。やはり妹艦はいいものだ。

 清霜の向こうで憮然としている朝霜も妹艦だが、あれはダメだ。噛むから。

 

「なんでえ、清霜ばっか。なんでえ……」

 

 あたいだって妹だいと、口の中で不平を甘噛みした朝霜は、至近距離で行われる姉妹の営みを恨めし気に見つめる。

 まあ、確かに自分が悪かったかなと、そう思う部分はある。

 今の清霜と同様のことを風雲にされた時に、恥ずかしがって思わず噛み付いてしまい、それが思いのほか深手だったがために、姉はこちらに対して警戒心を抱いてしまったのだ。

 ただ、朝霜にも弁明はある。あんなわきわきと滑らかな手指の動きを見せられてしまえば、そりゃあ噛みたくもなる。歯ごたえを確認しなくてはならないという使命感に駆られてしまうのだ。実際、人の指の硬さと柔らかさは、口寂しさを紛らわせるために甘噛みするにはちょうどいい塩梅なのだから。

 酔っぱらって提督の指を噛み千切ろうとしたこともあったが、艤装のセフティのお陰で何とか事なきを得た。

 しかし、最近は歯形が残るようにもなって来ているので、朝霜も強敵との戦いを経てパワーアップの段階に来ているのかもしれない。漣の持ってた漫画で予習したので、そのあたりはばっちりだ。

 

 ただまあ、自分にも非があるとは言え、あの空気に混ざれないのは正直悔しいところだ。ほっぺのもちもちさならば、自分も自信があるのだ。

 自らの頬を摘まんでこねる朝霜は、自分と同様の存在が居るなと、背後に感じた悪寒に振り返る。憮然とした顔の巻雲と飛龍がそこにいたからだ。

 朝霜が「なにさ」と問えば、2隻とも「べーつにー」と返す。

 まあ、気持ちは同じだとわかっているのだから聞くまでもなかったのだが、ではこのやり場のない感情をどうしたものか。と言うか、飛龍まで嫉妬させるとは、清霜が罪作りなのか、風雲がたらしなのか。

 マイナス方面にテンション上がって3隻並んでくるくる回り出したい心境だったが、変化は外よりもたらされた。

 スケッチブック小脇に抱えた秋雲が食堂の暖簾をくぐり、こちらを見付けてやって来たのだ。ここ一帯の光景を眺め見て口の端を持ち上げる。

 

「なぁにぃ風雲ぉ、まぁたスケベな手つきで妹触ってぇ」

 

 途端に顔を真っ赤にして固まる風雲に、されるがままになっていた清霜が「風雲ちゃんスケベなの?」と追撃する。

 立ち上がってオーバーな弁明を始める風雲の姿に、畳みかけるなら今だと朝霜は椅子から腰を浮かせたが、煽る言葉が咄嗟に出てこない。

 自分の語彙の足りなさを呪う朝霜は、他2隻も同様であることに半分安堵、半分がっかりといった心地で、ひとまず囃し立てるために口笛だけ吹いておく。

 巻雲と飛龍も混ざって三重奏だ。巻雲は口笛吹けていないが。

 

 その間にも秋雲の煽ること煽ること。舌戦ならば圧倒的に秋雲に利があり、風雲はもはや立ち上がって威嚇するしか出来ない。

 するとまあ、秋雲は狙い澄ましたかのように小脇に抱えていたスケッチブックを展開。「私に、ひどいことする気でしょう……!」の大文字テロップが出現したかと思えば、スケッチブックを胴に当て捲り、あらかじめ描いてあった自分の衣装の破れた差分を露わにする。

 こんなことがあるはずだと、わざわざ仕込んでいたのは明白だ。隙を見て煽ろうとしていたことも。

 小破、中破、大破と、嬉々としてリズムよく差分を捲って行き、その後の次のページをちらりちらりと端だけ捲って焦らすのがいやらしい。

 これにパニックを起こしたのは風雲で、清霜への弁解もそこそこに、秋雲へと殺到して跳び付き式の膝蹴りを連打で見舞う。

 向こうのテーブルの時雨が「ムエタイだね?」などと目を光らせているのはさて置き、風雲の膝蹴りを浴びたスケッチブックにダメージが蓄積されてゆく。

 「ああもう、これもうリョナだよリョナ」と距離を取って煽る秋雲、次いで清霜に「風雲ちゃんリョナなの?」と追い打ち喰らって、風雲は食堂から逃げ出した。

 

 まあ、調子に乗り過ぎていた陽炎型のラストナンバーに関しては、風雲と入れ違いでやって来た磯風に手刀叩き込まれて黙らされた。

 それでもめげずに浜風の背中に隠れて磯風をも新ネタで煽り倒す所を見ると、もはや頼もしく思えてくる。直後、続々と食堂に入ってきた熱田の重巡勢に手刀連打で喰らってダウンしていたが。

 

 そうして食堂に集結した水無月、熱田の艦娘たちを見渡した那智は、復旧したばかりの伝声管に向かって声を張る。

 

「今から何が始まるの?」

 

 両陣営の艦娘たちが集結した壮観な景色を端のテーブルから眺める清霜は、なんとなく答えがわかっているものの、そう呟いてしまう。

 超過艤装でお留守番だった伊勢や日向まで、そして向こうの工廠や入渠ドックを取り仕切っている明石までこちらに来たとなれば、これから先の展開は明白だ。

 

 大淀やツナギ姿の天津風がスクリーンやらプロジェクター(連装砲ちゃんたちの機能を転用したものだ)を設置していき、執務室の様子を映し出す。

 

 

 ○

 

 

「向こうは皆、集まったようだな」

 

 伝声管を通じてもたらされた那智の報告に頷いた木村提督は、執務室のソファに座り直し、提督へと向き直った。

 伸び放題だった髭をしっかりと手入れ出来てご満悦、といった映像を昨日連装砲ちゃんたちが持ってきたが、そんな嬉しげな表情とは無縁の厳しい顔が、そこにはある。

 水無月島のこれからの動きを正式に通達するために、所属するすべての艦娘たちを集めたのだ。そのほとんどは食堂で執務室のやり取りを見聞きすることになるのだが、工廠にて待機中の夕張や明石などはそちらからだ。

 特に夕張はここ連日工廠に籠りきりで、提督もしばらく顔を見ていない。

 なにやら榛名の眠っていたカプセルから情報を引き出せそうだと、そう告げていたのが一週間ほど前のこと。

 超過艤装で油売っていた明石も加わっての試みはしかし、まったく経過が伺えていない。

 何か進展があれば飛んでくるくらいはする娘だと知っているが故、進展はないのだろうなと、提督はテーブルに置かれたお茶を、電に礼を言ってひと口。

 

 執務室に居るのはふたりの提督を除けば、秘書艦の2隻、電と霞だけだ。

 いつもきりりと張りつめている霞が電と小声で談笑する姿は新鮮に見えたが、この2隻はどうやら旧知の仲なのだとか。

 彼女たちの前世である艦艇時代のことかと思いきや、10年以上前に彼女たちは合同作戦に参加していたのだと言う。

 水無月島の老提督と、熱田の木村提督と、そして作戦中に急遽加わった有馬提督の艦隊が、北方海域を呑みこもうとしていた深海棲艦の一団の攻勢を未然に防いだのだ。

 途中で加わった有馬艦隊は提督、艦娘共々顔見せすることはなかったが、当時の話を聞いた榛名が声を上げて立ち上がって手を打った姿を見て、知らずのうちにニアミスしていたのだなと、当時合同作戦に参加していた艦娘たちや木村提督が不思議そうな面持ちになっていた。

 

 昔はさて置き、今からは未来における大事な話をする時間だ。

 命令ひとつ、辞令ひとつで済ませられることにこれだけの時間と用意をかけてくれたということは、木村提督はかなりこちらに対して気をつかってくれているのだなと、提督は新しく出されたお茶菓子に手を付けようと伸ばした手を、慌てて引っ込める。

 こんなところまで普段通りではいけないなと口元を引き締めて、向かい合う形となった木村提督の方を盗み見れば、その挙動に明らかな違和を覚えた。

 テーブルの下を気遣うように片足を上げ、降ろしたかと思えばもう片方を上げて。

 下に何かいるのかとそちらを盗み見ても、そうした行動を取らせるようなものはそこには存在しなかった。

 不思議そうな顔で眉をひそめる提督に、木村提督は気まずそうに「いや、猫がな……」と呟き咳払いする。

 

「さて、改めて。熱田島鎮守府を仕切っている木村だ。まずは俺の復帰に時間をかけてしまったことを詫びよう」

 

 木村提督は語りつつ、傍らに寄ってきた連装砲ちゃんの頭部モニターから食堂の様子をちらりと窺い、しかしすぐに提督へと視線を戻して表情を引き締める。

 彼の背後に控える霞も、目を伏せ表情を消して木村提督の発する言葉に聞き入っている。ここ1ヵ月の間、何かと口やかましくアドバイスをくれた彼女だが、やはり本来の主の下に居るからだろうか、落ち着き払った佇まいだ。

 きっと良い提督と秘書艦の関係なのだなと小さく頷いた提督の、その後頭部を、後ろに控えた電ががすがすと小突いてくるのは、どうしたことか。

 

「よく聞け、水無月島。貴様らはこれから超過艤装・伊勢型に搭乗し、一度熱田島を目指す。そこから陸路・空路を経由して本土へと移送され、全艦オーバーホールを行う。その後、戦線に復帰出来る艦娘は希望する鎮守府・泊地への転属だ。希望はなるべく、拾い上げるつもりだ」

 

 昨夜前もって聞いていた内容を、提督は噛みしめる。

 食堂で待機している艦娘たちの反応を目にすることが出来ないのが気掛かりだが、今は木村提督の言葉の先を待つ。

 

「熱田までの道行、その指揮は貴様が取れ。霞を秘書艦に着ける」

 

 真っ直ぐ正面から目を見て告げられた言葉に、提督は反応できなかった。

 何故自分が、と言うよりは、何故木村提督自らが指揮を取らないのかと、そう疑念が湧く。秘書艦の彼女までこちらに補佐として着けて、だ。

 

「俺はここに留まる。それが、海軍本部の下した命令だ」

 

 

 ○

 

 

「足柄さん、どういうこと?」

 

 喧騒が静かに広がるなか、雷はテーブルの向かいに座る足柄に問う。

 水無月勢の中に木村提督の言葉を予想通りだと受け止める者が居れば、熱田勢の中にも聞いていない、どういうことだと声を上げる者もいる。

 雷とてなんとなく事情は察しているが、自分の考えが当たっているかどうかの答え合わせを求めているのだ。

 

「例えば、大きな犠牲を払っても成果を上げられないとわかっていたとしたら、人はそれを行うと思う?」

「昔の話? もうそういう時代じゃないのよ。当時とは全然違う。思想も多様になって、戦っている相手も異なるわ」

「だからこそよ。だからこそ、少ない犠牲で多くを救えるのだとしたら、その行為には大義が生まれてしまうわ。思わぬところから可能性の芽が生じてしまったのだから」

 

 憂いの眼差しで告げる足柄。

 雷は答えが合っていたことに胃が痛くなる思いだ。

 だから、素直にどういうことかと聞いてくる酒匂にだいぶ癒される。

 利根と筑摩も自分は知っているという素振りを見せずに素直に聞けばいいのに、とも。

 

「人が留まる必要があるのよ。この島に」

 

 雷が告げた通りのことを、モニターの向こうで木村提督も発する。

 

 

 ○

 

 

 水無月島が再稼働したことによってもたらされた恩恵は、提督やこの島の艦娘たちが考えているよりも遥かに大きいものだった。

 それは補給路の回復や経済の立て直しだけに留まらず、無期限延期とされていた反攻作戦の見直しにまで及ぶこととなる。

 

「その反抗作戦が、実行されると?」

「兆し有りだ。だが、そう簡単にはいくまい。各地もこの1年足らずでようやく足場固めを始めたばかりだからな。俺がこの島に留まるのは、そのための時間稼ぎである、というところが大きい」

 

 支配海域の中心部にあって敵の目を惹きつけることとなった水無月島だ。

 敵の襲来はこれからも続く。それどころか、本格化されるだろうというのが、木村提督の睨みだ。

 水無月島の側でもそういった予測は以前から行われていて、そのための対策も微力ながら行われてはいたのだ。

 今回の敵襲でそのほとんどが霧散してしまったのだが、だからこそ、ここから先この島に留まることがどれ程無謀か、提督は痛いほど理解している。

 しかし、木村提督はそうする必要があると語るのだ。

 

「ここに人間が、提督としての役割を果たせる存在が居るということに、どういうわけか敵の統率者はご執心だ。それこそ、拡大した支配海域を縮めてまで戦力を補強しようとしているのだからな」

 

 そうして敵の目をひきつける。

 その意図は提督も理解しているが、だからこそ聞き捨てならない部分がある。

 

「失礼ながら、木村提督の極地活動適正は……」

「乙判定だ。投薬してぎりぎり甲判定の端っこに引っかかる程度だな。これ以降、艦隊司令部施設を運用しなければという条件付きならば、半年は持たせられる」

 

 半年と言う期間を聞いて、提督は即座にダメだと呟いた。

 失言を隠そうともしない態度。発言も向こう側に筒抜けではあったが、熱田側はそれを重々理解しているからだろうか、提督を咎める素振りは見せない。

 

「半年もあれば交代の者がここまでたどり着く可能が生ずる。もし万が一俺が再起不能となっても、戦況は1年前よりかはだいぶ好転しているはずだろう」

「しかしそれでは木村提督が……!」

「その先の世界を、貴様らに任せたい」

 

 提督は「不可能だ」という言葉を吐き出す前に呑みこんだ。

 問題はそこではない。何故彼が、自分たちに先を任せるかだ。

 

「理由か。貴様らに任せたい理由。ひとつは若さ。ひとつは特異性。そしてひとつは、貴様らが希望だからだ」

 

 言葉を切って、木村提督は内ポケットを手で弄る。

 しかし、一向に何かを取り出す素振りがなく、髭を蓄えた顔に疑問を浮かべていると、傍らに霞に小さく小突かれ始めた。

 疑問する提督は、背後の電が「煙草を取り上げられているみたいなのです」と苦笑する声を聞く。

 やがて諦めたように盛大にため息を吐いた木村提督に、提督は茶菓子の中にあったココアシガレットを勧める。背後の電も得意げにサムズアップだ。

 困り果てたように眉を寄せた木村提督は渋々と言った様子でココアシガレット唇に食み、眉を上げて小さく幾度も頷く。感触は悪くないらしい。

 

「……本土に渡れば、貴様等は英雄だ。たったひとりで反抗を開始した提督と、その艦娘たち。その報は多くを勇気づけ、誰もが忘れかけていた希望という言葉を思い出させる。いいか、希望だ。生きてゆくうえでは必要不可欠なもののひとつだ」

 

 ココアシガレットを咥えた語り口が熱を帯びる。

 昨夜も聞いた通り、提督にはすでに仮の戸籍まで用意されていて、受け入れ態勢は万全の状態。

 艦娘も可能な限り希望する転属先へ振り分けられることになっている。

 気が引けるほどの好待遇。元々脱出を考えていた提督にとって、今のところ断る要素はひとつしかない。

 

「木村提督の安否が、唯一最大の気掛かりです」

「命令だ。余程のことがない限り、今さらどうにもできん」

「それでは彼女たちが……」

「納得出来ないかも知れないな。しかし、俺は旗下の納得を求めてはいないぞ」

 

 告げた木村提督がちらりとモニターに視線を向ける。

 食堂の方で動きがあったのだ。

 

 

 ○

 

 

 磯風は携えていた軍刀をひっつかんで席を立った。

 隣りに座っていた浜風は「親父に、物申してくる」と、震え押し殺したような声で告げる磯風を止めようと、自らも席を立つ。

 木村提督が告げた「余程のこと」を起こしてやろうという意思を持つものと、それを諌めようとするものと。

 そうした動きが食堂のあちこちで生ずるなか、伝声管を通じての一言が下りた。

 

『全艦娘は直ちに、その反抗の意志と動作を治めよ』

 

 木村提督の声だ。

 それは絶対の強制力を持って、まず磯風の足を止めた。体の動きを。そして、手にした軍刀が滑り落ちる。

 磯風を止めようとしていた浜風も同様にその動きを制限された。

 見れば、食堂内で起ころうとしていた動きが、緩やかに停止する方向に傾いてゆく。

 艦娘たちは誰もが理解する。これが、自分たちが人ではなく艦娘であるという、最大の差異。

 

『俺も出来ればこんな真似はしたくなかった。こんなことを言いたくはなかったよ。だが、気持ちはありがたい。感謝する』

 

 反抗の遺志が萎んでゆく。

 声に反して動けてしまったものも、周囲の様子を見ていそいそとその動きを抑え、再び席に着く。

 そして一度座ってしまえば、後は悶々と考える時間だ。

 どうにか木村提督に命を掛けさせることを止められないか、そう思考する時間がやってくる。

 執務室では提督が雲をつかむかのような問答を繰り返し、木村提督の宣告の、その先を言わせまいと時間を稼いでいる。

 頭を抱える磯風の背を撫でながら、浜風はそう判断した。

 

 一を聞いて十を知ると言えるほど、自分たちの提督は頭が良いとは、浜風とて考えていない。

 しかし、だからと言って、こんな重要な話を中断させるような問いを繰り返すとも思えない。

 恐らくは木村提督が痺れを切らして提督の言葉を遮るまで、この無意味な問答は続くはずだ。

 ならばと、浜風が視線を向ける先は、自分が所属する水無月島鎮守府は第三艦隊の面々だ。

 すでに皆、どうすればその「余程のこと」が起こせるかを考え始めている。

 漣と卯月の口から突拍子もない意見が次から次へと発せられ、叢雲と初春が選定……、と言うよりはほとんど却下している。

 それらを口元で手を組み黙して聞いていた熊野が、ふと顔を上げる姿を浜風は見る。

 

「……木村提督が残るという事は、残って戦うという意味ですの?」

 

 発せられた言葉の意味を、浜風は即座に呑みこむことが出来なかった。

 しかし、隣りの磯風はすぐにその意図に気付いた様子だ。

 

「島に残って敵を惹きつけると言うのならば、こちらの戦力が健在であると、敵に示す必要がある。ならば、私たちとて親父と共にあることが出来るということではないのか?」

 

 もはや木村提督の呼び方を訂正すらしなくなった磯風が必死の形相で周囲に同意を求める。

 木村提督がこの島に留まることが覆らないというのならば、せめて最後まで傍に居たいと、そう考えたのだろう。

 すでに第二艦隊の面々から同様の意見が出ていたのか、那智を中継してその問いは執務室へと届けられる。

 返答は、少しの間を置いてあった。

 

『俺がこの島に留まる以上、確かに何隻かの艦娘にも残ってもらうことになるだろう。しかし、その選抜は熱田を出る時に、すでに決めてある』

 

 判断材料に乏しい情報に磯風の表情が曇る。

 そして、木村提督の続ける言葉によって、さらに陰る。

 

『敵の艤装核を用いて建造された艦娘及び、敵支配海域で3ヵ月以上の期間運用された艦娘は、その選抜の限りではない』

 

 

 ○

 

 

 何故と、提督は今度こそ無意味ではない問いかけをする。

 木村提督とこの島に留まる艦娘、その選抜基準の話だ。

 

「“白落”というワードがここ最近のうちに、新たに海軍本部の用語に加わった。何かわかるか」

 

 問いに、提督は頷く。

 そんな用語など聞いたこともないが、この海域で彼女たちの戦いを目の当たりにしていれば容易に想像が付く。

 

「艦娘の、深海棲艦化のことですね?」

 

 肯定は目を伏せたしばしの沈黙。

 語り出す合図は小さなため息と、そして苦笑だ。

 

「……艦娘への基礎教育は、しっかり教本通りにやっているようだな。最近建造されたばかりの艦娘に抜き打ちで問うてみたが、しっかりと理解している様子だった」

 

 恐らくそれは、ここ3ヵ月の間に建造された第三艦隊の面々や、酒匂、飛龍と言った艦娘たちのことだろうなと提督は察する。

 それらの艦娘たちが食堂で焦り出したりほっと胸を撫で下ろす様が、しっかりと想像できる。

 

「これは貴様らの方がよく理解しているだろう。艤装状態で長期間が経過すると、艦娘はかつての鋼に近い存在になる。艤装解除状態が長ければ、その逆で人になる」

 

 もちろん理解の及ぶところだと考える提督ではあったが、同時に不穏なものが胸中に生ずる。

 まだ言葉にされていないパターンがある。新たな用語が生ずる原因となったパターンが。

 それに、自分たちが関わっていることも。

 

「では、艦娘としての運用を継続した場合は?」

「それは、経年や戦闘ダメージの蓄積によって、徐々に艤装の操作性に支障が生じます」

「そうだ。想定される運用限界は、年数にしておよそ23年程だと言われている。もちろんこれは、艤装核へのダメージを加味せず、かつ日に12時間以内と言う限定された条件下でのことだがな」

 

 戦場に身を置くのが艦娘だ。

 つまりは、運用限界はそれよりもだいぶ短く設定されているのだろう。

 その年数を超過すると、艤装の操作性が悪化することはもちろん、入渠時に負傷が回復しにくくなるなどの症状が出始める。

 水無月島の面々にも同様の症状を得ているものがいるなと傍らを気にすると、こっちを見るなと専属秘書艦に小突かれた。

 

「さて、問題は、だ。敵の支配海域において、つまり、この海域において運用され続けた艦娘がどうなるかだ」

 

 その宣言が、すでに答えと同義だった。

 

「……3ヵ月以上と言う期間は」

「第一段階が発症するか否かのぎりぎりの時間だ。症状は、軽い肉体の変異や入渠後も癒すことの出来ない精神の不調。貴様のところでは、こういった症例は見られなかった様子だな」

 

 暁や時雨の例があったが、それ以外では特にそういった不調の報告は受けていない。

 雷が内々に握りつぶしているのかもしれないが、もしそうだとしても、なんの考えもなく彼女がそんなことをするはずがないという信頼がある。

 

「第二段階では、こちらの命令を無視する、と言う行動が可能となる。先程も、俺の命令を無視してしばらくの間動いていたものがいたな?」

 

 「いたのですね?」と、モニターを見ることが出来ない提督は表情に出し、「いたのだ」と木村提督が表情で返す様を見る。

 

「どこぞの時雨が命令違反した時は、ちょうどのその状態だったのだろうな。敵の支配海域付近での任務を継続して行っていたというのもその要因のひとつだろう」

 

 名前が出た時雨だが、彼女は食堂で注目を集めつつも飄々としている姿が想像できる。

 

「このころから入渠時の回復力が格段に上昇する。より短時間で戦線に復帰できるようになるのだ。超過艤装に収容された貴様らの記録で、この説が確定された」

 

 そして第三段階で、深海棲艦と同様の発光パターンを帯びるようになる。

 青白い燐光を、提督は幾度も彼女に見ている。

 

「これが事実上の最終段階だ。そうなってしまえば、もはやオーバーホールすら不可能だ。艤装を侵蝕し変異させ、最悪艦娘自体を食い潰すだろう」

 

 では、暁は?

 提督の言葉を出さずの問いに、木村提督も言葉を発すること無く肯定する。

 食堂で聞いている暁の様子が心配で、木村提督の方を向いている連装砲ちゃんをこちらに向けんと立ち上がろうとする提督を、電が肩に手を置いて止める。

 話はまだ終わっていないのだ。

 

「しかし、深海棲艦化をぎりぎりのところで食い止める方法が、現状3つある」

 

 ひとつは、単に艤装を纏って出撃しないというもの。

 聞くまでも語るまでもない方法を脇に流し、木村提督が語るふたつめの方法は“艦隊司令部施設”を同時運用するというもの。

 

「艦娘と深海棲艦との、一番決定的な差は?」

「妖精が艤装の操作に関与していないことだと考えています」

 

 多々ある彼我の差異の中で、それが一番決定的だと提督は考えている。

 その考えが正解ならば、提督が妖精として“乗船”している状態の艦娘は、深海棲艦にならないと言える。

 ならば自分が艦娘たちと共に戦う限り、彼女たちがあちら側に行くことはない。

 もたらされた情報に震えと言う形で高揚を感じる提督は、しかし、すぐにその気持ちが裏切られることを遠くない未来に知る。

 

 伝声管を通じて工廠の夕張が発言を求め、木村提督の下と食堂のスクリーンに、新たにワイプが出現する。

 映し出されたのは真っ青な顔の夕張で、何があったのかを問い詰めたい衝動を抑え、提督は発言を促す。

 

『あの、言うべきことはたくさんあって、まだ全然纏まりきっていないのですが、早急にお耳に入れておきたいことが、ふたつほど……』

 

 提督たちの無言での催促に、夕張は震える唇で声をつくる。

 

『まず、提督はこれ以上の“艦隊司令部施設”の運用を控えて下さい。そして、この海域の外に、敵支配海域の外に出てはいけません。そのどちらか片方でも破られた場合、提督の命に関わります』

 

 

 ○

 

 

 榛名の眠らされていたカプセルから夕張たちがサルベージした情報は、装甲空母零番艦にて行われていた実験の記録だ。

 その中に、提督の出自に関する項が見つかったのだ。

 

「装甲空母零番艦の研究員の手記。暗号化され保存されていたそれを、復元することに成功しました」

 

 手記によれば、今現在提督と呼ばれている彼は、厳密には人間ではない。

 人間の細胞から精製した精子と、艦娘の卵子を使って誕生した、新たな種なのだという。

 その、たったひとつの成功例。極地活動適正が甲判定であったのは、水無月島に流れ着いた彼、ただひとりだけだった。

 

「培養カプセル内での急成長と刷り込み短期学習によって、肉体面でも教養面でも成人男性の基準を満たしていますが、彼が生命として誕生してから実時間で5年ほどの年月しか経っていません」

 

 夕張の目にする食堂内の風景が一気に慌ただしくなったが、その様子に心動かされる余裕は、彼女にはもう残されていなかった。報告を続ける。

 

「たった5年で成人していることからも理解してもらえると思いますが、彼の寿命は人間のおよそ五分の一から四分の一。この島ですでに1年程の時間を過ごしているため、提督の寿命はあと10余年ほどと推定されます」

 

 食堂からも、執務室からも音が消えた。

 この静寂の中でさらに言葉を続けなければならないことに夕張はひどい吐き気を覚えたが、心配そうにしている明石にこの役目を譲ることは、絶対に憚られた。

 

「そしてこの寿命は、あくまで人として、この敵支配海域において生活していればの話です。“艦隊司令部施設”を運用する度に、提督の寿命は大きく損なわれます。そして……」

 

 敵支配海域を脱し通常海域へ出た瞬間、彼の死亡リスクは跳ね上がる。

 彼の免疫系は、通常海域では正常に機能しないのだ。

 彼はこの海域でしか生きられない。

 

「以上の情報から、軽巡・夕張は、提督の支配海域脱出作戦・参加への反対を進言します」

 

 震える声のままに言い切った夕張は、執務室の木村提督が血相を変えて立ち上がり、傍らの霞に強い口調で諌められる様を目にする。

 それはそうだろう。木村提督は最初から、自らがこの島に留まり、伊勢型の指揮を彼に任せるつもりだったのだから。

 それが叶わなくなったどころか、彼をこの海域から連れ出すことすら困難と発覚した。

 作戦の変更を余儀なくされる。先程皆が頭を抱えていた「余程のこと」が、こうしてもたらされてしまったのだ。

 

 言うべきことを終えてなお気が重くなってゆくのを感じる夕張は、執務室モニターの提督が呼びかけている声に、我に返る。

 

『夕張。気分は? 大丈夫かい?』

 

 即座に返事をと思うが、なかなか意志を言葉に変換することが出来ない。

 たっぷり時間をかけて待たせておいて、ついに首を横に振ることしか出来なかった。

 

『ありがとう夕張。僕が何者なのか、ようやく知ることが出来たよ。感謝しきれない』

 

 彼にとっては悲願のひとつがようやく叶ったのだ。

 しかし、これはあんまりではないかと顔を上げ、モニターを見るも、提督の表情は穏やかだ。

 恐れや不安よりも、純粋に興味を満たすことが出来たことへの満足。

 その表情に、夕張はぎりりと奥歯を噛みしめる。

 彼は、自己保存への執着が圧倒的に欠けている。

 自らが損なわれ失われることに対して、何も感じていないのだ。

 そう、怒りすら込めて見つめる先、穏やかな表情の中にわずかな変化を見付ける。

 写真や映像などで日に何度も見ていた彼のことだ。夕張にはそれがどういった変化であるか、即座に理解出来た。

 

『あとで、もっと多くのことを教えてくれるかい?』

 

 憑き物が落ちたように強い感情が萎んでしまった夕張は、頷き、敬礼して、連装砲ちゃんのモニター部を明石の方へと向けた。

 

 

 ○

 

 

 執務室では木村提督が頭を抱えていた。

 食堂と工廠の様子を映す連装砲ちゃんは、もはや木村提督の方だけを向いていない。

 提督は言うべきことがあるとばかりに木村提督を呼ぶが、「待て」とばかりに大きな掌を向けられる。

 こちらの言わんとしていることは木村提督もわかっているのだ。だからこその「待て」だ。

 提督の背後に控えている電も、今は傍らに来て彼の肩に手を置いている。

 それを言ってはならないとばかりの表情に、心配されているのだなと、嬉しさと気恥ずかしさを覚える。

 

 しかし、言わねばならない。

 木村提督にそれを命令させるのは憚られる。それが彼の役目だとしても、これは自分で告げるべきだと、提督はそう考える。

 命令されるよりも自分から名乗り出た方が良いだろうとも。

 その役目を、自分の意志で選びたかった。

 

「僕が留まります。僕なら、10年もたせることが出来ます」

 

 一度顔を上げた木村提督は、大きな手で顔を覆うと項垂れてしまう。

 木村提督の傍らに控える霞も表情が険しく、それは提督の肩に手を置いている電とて同じだろう。

 食堂の方も、提督の出自が明かされ騒然としていたところに、動きがひとつ加わる。

 暁が立ち上がって、駆け出したのだ。

 向かう先はここ、執務室だろうと容易に想像が付く。

 彼女の行動を止めようとする動きと、こちらに向かわせるためにそれらを阻止しようという、ふたつの動きが起こる。

 

 何か呼びかけようとするも、首謀者がすでに食堂を脱してしまった後だ。

 食堂に残った面々はと言えば、取っ組み合いが始まってしまい、とても話を聞いてくれそうにない。

 まずいことになったな思う反面、それでも自分から言わなければならなかったという思いは変わらない。

 あとは、木村提督がどういった判断を下すのかだ。

 

「……希望を連れ帰ることが叶わないとはな。無念でならない」

 

 掌で顔を覆ったままに告げられる言葉は、それだけで木村提督の答えを現していた。

 納得など出来ないであろうことは、その渋面から見ても確かだ。確かだが、彼は提督の提案を是とした。

 そう判断せざるを得ないか、あるいはその方が都合の良いことが多いと、彼の持つ諸々の情報を繋ぎ合わせた結果が告げているのだ。

 

「しかし、いいか? 念を押しておくぞ。貴様は10年もたせるなどと吹いてくれたが、それはあくまで貴様が負傷しなかった場合、病に掛からなかった場合に限られる。不慮の事故は、不測の事態はいつ何時でも起こり得るということを努々忘れるな」

「はい、充分に」

「それに、“艦隊司令部施設”を運用した後遺症は貴様を確実に蝕む。今はまだ問題ない様子だが、猫の気配を感じるようになったら、努々気を付けることだ」

 

 猫。先ほど木村提督も口にした単語だ。

 その気配を感じるようになれば、いよいよ不味いということか。

 漣や卯月に動画で見せてもらったことがあるので、その存在や姿形、鳴き声は知っている。ただ、実物に触れたことがなく、その感触を知らない。

 そんな提督を心配してか、木村提督は真面目な顔のまま身振り手振りで「いいか、猫と言うのはだな?」と始まってしまい、傍らの霞に「落ち着け木村」と強い口調で諌められている。

 

「……必ずだ」

 

 一通り提督に対してあれこれとまくし立てた木村提督は、しばらく息を整えるために黙した後、そう呟いた。

 

「貴様の命を繋ぐ方法を見付け、貴様の艦娘等を送り届けよう。約束する」

 

 ここまでの道中ですら難儀したというのに、今からそんな約束をされてもと困り果てる提督ではあったが、訝る気持ちはまったくなかった。

 彼は約束を守るのだろうと、そう確信する。

 もしかしたら本当に提督が延命出来る方法を見付けてくれるかもしれないし、以前よりも元気になった彼女たちを連れて来てくれる気もするのだ。

 楽観だなとも思うが、それが大事だとも確かに思う。

 

「司令官さん? 楽観するのもいいのですが、これからが一番厳しい所なのですよ?」

 

 電がいつもの調子でそう告げて、肩に置いた手に徐々に力を込めてくる。

 少し痛いくらいの力加減に、怒っているのだろうかと思い顔色を伺えば、その色もあり。

 

「ごねる皆をどうなだめすかすか、今からしっかり考えるのです」

「どうしようね? ひとまずは暁かなあ……」

 

 食堂を飛び出したにしてはまだ現れないなと、つい背後の扉の方を見てしまう。

 途中で思い留まったのか、それとも誰かに足止めされて、ここまでたどり着けないのか。

 どちらにせよ今のうちに暁を落ち着かせる方法を思い付かなくてはならない。

 

 ソファに座り直して、さてどうしたものかと息を詰めれば、突如対面の木村提督が己の額を打った。

 

「ひとつ言い忘れていたことがあったな。艦娘の深海棲艦化を食い止める方法、その3つ目だ」

 

 すっかり抜け落ちていた項に、提督も電も、そして霞までもが、声を上げて木村提督の方を向いた。

 

 

 ○

 

 

 暁は満身創痍の体を引きずって歩み、執務室の扉を開いた。

 開くというよりも叩き割るという感触に近い当たり、相当参っているのだなと、心身の状態をそう自覚する。

 まあ、腰に風雲やら鳳翔やら、おまけにプリンツやまるゆなどがぶら下がっていては、それはそれは、疲れもする。

 

 提督が島に残ると発すると同時、体が勝手に動いて走り出していた。

 食堂の入り口に立ちふさがった那智を避けるため、コース変更し窓から脱出して、正面玄関から鎮守府内に再突入。

 響や雷、阿武隈たちや、皆が脱走を阻む勢力を食い止めてくれたことが嬉しかった。

 だが、「へいへい、眼鏡はすっこんでな!」と熱田側の約3隻に対して喧嘩売った漣はどうあっても庇いきれない。ただただ、命が無事であることを祈るばかりだ。

 

 そうしてもつれる足で廊下を駆け抜ける途中、なぜか階段のところで膝抱えてしょぼくれていた風雲とぶつかって転倒した。

 2隻揃って状況が呑み込めずにわたわたしている間に、なぜか薙刀持った鳳翔が追って来たので、隠し持っていた天龍刀を伸長展開して応戦。

 風雲まで敵に回っていよいよ追い詰められそうになったところで、なぜかプリンツがこちらに加勢。

 以降、十数分に渡る白兵戦の後に、こうして執務室に辿り着くことが叶った。

 まるゆがどのあたりで参戦したのかまったく覚えていないあたりが厄介だ。今までどこに居たのだこいつは。

 

 しかしいざこうして提督の下にやってきたものの、なんと言うべきかが全く頭の中から抜け落ちている。

 感情的に動いて言葉を置き去りにし過ぎだとは思うが、ここは感情に任せて突っ走っても許されるべきだと理性を退ける。

 提督がこの島に留まるのだ。

 自分たちだけここを離れて。

 嫌だ、ダメだと、涙と共にようやく言葉を発することが出来そうだと見つめる先、提督はこちらを迎え入れるように立ち上がっていた。

 その手には見慣れないものがあり、なぜか電が口に手を当てて、顔は真っ赤に、小さく飛び跳ねて興奮している。

 

「暁、これを受け取ってくれないかな」

 

 提督は掌に載せた小箱を開く。

 中に入っていたのは照明の灯りを反射して輝く指輪だ。

 

「ええ? あ、ありがと……」

 

 頭の中が真っ白になったままそれを受け取って。

 連装砲ちゃんのモニターを通じて食堂からの驚きの声が吐き出されたのと、腰にぶら下がっていた連中の思わずといった心地の拍手も頭に入って来ない。

 ひとまずは、提督に礼を言えたことは褒めてもらうべきだなと、暁は未だ混乱覚めぬ心地で頷いた。

 

 

 



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3話:

 夜の砂浜。流木などを材料としてつくられたベンチに座る暁は、自らの左手の指に光る指輪を複雑な気持ちで空にかざす。

 月など見えようはずもない、敵支配海域の夜だ。

 どうあってもロマンチックな雰囲気にはならないのが自分達らしいと、自然と苦笑気味に口角が持ち上がる。

 そうしてひとりの世界に浸っていると、傍らに座る響が肘で脇腹を小突いてくるものだから、いつかのように変な声が出てしまう。

 拳を振り上げて威嚇するのもほどほどに。何せ隣りには自分たちの司令官もいるのだから。

 

 夜の浜辺に提督と、暁型の四姉妹が並んで座り。

 思い出すのはこの島の鎮守府が再稼働した時のことだ。

 提督である彼が、この浜辺に流れ着いて、もうすぐ1年になる。

 たった1年でここまで来て、たった1年でここまで来てしまった。

 当初は断念せざるを得なかった脱出作戦も、救援のお陰でこうして叶おうとしている。

 

 島の鎮守府に取り残され、脱出を望んでいた暁型の姉妹たちと。

 彼女たちのために提督となった、造られた人である彼と。

 互いの行先は、ここで分かれることとなる。

 

 暁型の四姉妹は明日、この島を去る。

 暁を始め、多くの艦娘が自分は残るのだと、その正当性を声高に主張したが、提督はそれらすべてをやんわりと説き伏せて荷物を纏めさせた。

 提督と共に島に残るのは榛名と霧島と、建造から日が浅い酒匂、漣、卯月、それに格納領域を搭載した間宮。

 そして熱田からの救援である非戦装備の明石と大淀。

 戦力として運用可能なのは実質5隻。

 空母の艦娘であり、建造されて日も浅いと主張する飛龍が最後まで食い下がったが、それも先日ようやく説き伏せることが出来た。

 圧倒的な航空戦力を保持する敵艦隊に対して、空母たった1隻残ったところで戦力にはならないと判断されたのだ。

 

 委細合切承知で納得といった心地の艦娘は1隻も居なかったが、それでも渋々、あるいは気持ちを切り替えて荷造りに勤しんでいた。

 清霜などは「お土産たくさん持ってきますからね?」と、提督にるるぶを押し付けて来て、どこの地方のどんなものが良いのかと問い詰めてくるしで、それを見付けた他の艦娘たちがこぞって荷造りを放り出して手出し口出しして来るもので、霞が常時お冠だ。

 その荷造りも、もう3日も前に完了して、大半はすでに伊勢型に運び込まれている。

 あとは明日の旅立ちを待って、各々自由時間だ。

 

「そうは言っても、皆平常運転なのですよ。トレーニングしたり、読書やゲーム、艤装の点検、それと、司令官さんと一緒にいることも」

 

 ここ最近までは資料整理で忙殺されていた電もすっかり手が空いてしまい、暇を持て余して鎮守府内を彷徨っていたそうだ。

 古巣の調理場はすでに人手がいらず、かと言って、どこへ行っても自分のスペースが空いていない気がして、しょんぼり執務室に戻って来て。

 

「それで、司令官さんと一緒に鎮守府を回ると、どうしてか前と違った見方になるのですよね。どうしてでしょうね?」

「おやおや、いつの間にそんなあざとい言い回しで司令官の気を引くようになったんだい? 姉さん悲しいよ」

 

 響が口元を手で覆い流し目で煽って、電はしどろもどろに立ち上がって。

 拳握っての非力な打撃はしかし、盾にされた暁にすべて吸い込まれる。

 

 それを眺める提督の表情は穏やかだが、眉が寂しげに伏せられている。

 しばらく彼女たちとはお別れなのだ。この島で目覚めてから、いついかなる時でも共にいた彼女たちとの別れだ。

 しかし、これは今生の別れではない。

 

「皆ね、隠し持ってたお菓子とか日用品以外は、ほとんど自分の部屋に残して行くみたい」

 

 転属希望先はここなのだと、雷が告げる。

 そしてちゃっかりと、電が姉に反旗を翻して立ち上がった隙に、提督の隣りに座り直す。

 提督が「みんな?」と問えば、「ほぼほぼ」と肩を竦めて見せて。

 

「ほとんどはこの島に帰ってくるつもりみたいだけれど、時雨なんかは命令無視して脱走した件がどうなるかまだわからないし、夕張は本部の工廠に戻るよう話が来ている見たい。高雄や潮みたいに救助した娘は、一度本来の所属に戻される見たい。青葉は……、ちょっとわからないわね。元々自分の物を増やす娘じゃなかったし、現像室の鍵も漣たちに預けちゃったし。それに鳳翔は……」

 

 指折り数え述べる雷に、提督は彼女たちとも再会出来ればなと、淡い希望を想う。

 そんなしんみりした気持ちをひっぱたくように、雷の言葉は提督の安否を気遣うものへと続く。

 

「一応、医務室は大淀に引き継いだけれど、大丈夫? 主治医が変わるとそれがストレスになったりするっていうし……。大淀を信頼していないわけじゃないのよ? 彼女も20年来のベテランだもの。だけれど……」

「雷ちゃんみたいに触診って言って司令官さんの体弄らないので大丈夫だと電は思うのです」

「司令官が寝ている間にとても口では言えないようなことをするような妹艦よりはだいぶ、ねえ?」

 

 先ほどまでいがみ合っていた響と電が結託するものだから、今度は雷が立ち上がって拳を振り回す番だ。

 そうして先ほど同様に盾にされて打撃を一身にその身に受ける暁が、ついに爆発した。

 纏わり着く妹たちを弾き飛ばすと、指輪の輝く左手をかざして威嚇する。

 するとまあ、響以下は仰け反ったり苦しげに呻いたりするものだから、気を良くした暁がかざした左手を右から左へ薙ぐように振ると、妹たちどころか提督まで一緒になって薙ぎ払われた。

 電が「指輪の魔力なのです!」などと悲鳴を上げて、吹っ飛びついでの後方宙返りに失敗して腰を痛めた響に覆いかぶさって追撃した。

 

 

 ○

 

 

 入渠中の榛名は突然、桃色の湯船から立ち上がり、指輪の輝く左手を虚空にかざした。

 共に湯船に浸かっていたものたちがどういうわけか眩しそうに身を仰け反らせるなか、榛名は体をうねらせ掛け声まで気合を入れて、周囲を左手で薙ぎ払った。

 居合わせたものたちは洗い場の面々までがノリノリで薙ぎ払われてゆく中、飛んで行った眼鏡を探してあたふたする霧島が何事かと、ほぼ双子の姉を問い詰める。

 

「何なの!? 自慢!? 嫌味!? 自己主張!?」

「いえ、その。やらなければならない気がして……」

 

 

 ○

 

 

「どうしたの霞ちゃ……、わあ! 眩しい! 指輪眩しいよ! どうしたの! 自慢なの!? 嫌味なの!? 自己主張なの霞ちゃん!?」

「逃げろ、逃げろ清霜! 霞がご乱心だ! 指輪の魔力であたいらを薙ぎ払う気なんだ!」

「うっさいわね! やらなきゃいけない気がしたのよ!」

 

 

 ○

 

 

 絶大な力を発揮して妹たちを制圧する暁を前に、「魔力ねえ」と、提督は複雑な心境になる。

 榛名や霞などもその指にしている、この指輪。

 白落、深海棲艦化の侵攻を食い止め、艦娘の存在を保ったまま“それ以上の力”を発揮させるための安全装置なのだとは、木村提督に告げられるまで知らなかったことだ。

 電たちも限定解除のための品だと考えていたが故に(それ以上に“ケッコン”の側面が強いと考えていたようだが)、指輪を渡した当初こそ動転していたが、執務室に詰めかけた艦娘たちが「結婚式をします!」と断言してしまったもので、さらに動転することとなった。

 当の暁はと言えば「いや、そんな、そこまでしなくても……」と尻込みしてしまい、この鎮守府のレディは思い切りが足りないと方々から煽られて、すっかりやる気になってしまった。

 話に入り辛そうにしていた木村提督も「なんだ、俺は、仲人でもすればいいのか……」と怪訝そうな顔で名乗り出て、霞から投げやりにど突かれていた。

 

 指輪の真の機能に関して、何故、電たちも知らずにいたのか。

 それは、それらの情報が提督の中でも一部の者にしか開示されていなかったからだ。

 

 木村提督からもたらされた最新資料。

 それを夕張や明石が読み解き説明するところによれば、艦娘の白落は艤装核に澱のようなものが溜まるために起こる現象なのだという。

 艦娘と海の戦いに携わる者たちの間で長らく“呪い”と呼ばれていたものの正体がこれだ。

 溜まった澱が艤装核から溢れ出して他の艤装へと転移、侵蝕して、艦娘をあちら側の存在に変えるのだ。

 指輪の機能はその澱が溜まる艤装核の枠を拡張して猶予を設けつつ、敵側へ変じかけている変化そのものを出力系などに転用したシステムとなっている。

 また、白落を抑えたことによって提督の命令が正常に機能するため、艦娘が我を忘れて命令を無視することがないのだとも。

 現に、提督に反抗できなくなった暁が頬を膨らませて不満そうにする場面が以前よりも増えたのだが、指輪を眺めていると「へにゃり」と頬が緩むので、ほぼほぼ相殺されるというのが現状だ。

 仮の結婚式をしてからというものの、暁は膨れているかにやけているかのどちらかで、漣には“忙しいハムスター”とあだ名されていた。

 

 しかしそうすると、最初期に指輪を身に帯びることになった榛名たち有馬艦隊の面々は、その試験運用艦だったのではと憶測が生まれることとなる。

 有馬提督の意図するところであったかは定かではないが、装甲空母零番艦で行われていた研究の中には、確かに艦娘の白落を防ぐ目的のものがあり、指輪の機能に関しても木村提督からもたらされた資料とほぼ同等のものが見受けられた。

 これに関して榛名はと言えば、例え実験か何かであったとしても、有馬提督との絆は真実だから良いのだと、諸々の雑念を吹っ切った清々しい顔で笑い飛ばしたものだ。

 その直後「榛名は、提督の義理のお母さんでもありますからね」と胸張って言い放って、その場を凍り付かせていたが。

 

「大丈夫よ、司令官」

 

 物思いに耽っていた提督に、不意に暁の声が降る。

 顔を上げれば、腰に手を当て立つ暁の姿がある。

 その顔の左側を覆う眼帯からは、もうあの光が漏れ出ることはなく、笑顔には少しも陰りがない。

 

「私が皆を本土まで連れて行くんだから。そして、元気になって戻ってくるの」

「今でも充分、元気に見えるけれど?」

「今よりずっとよ。そしてこれからもずっと……」

 

 この浜辺から始まったのだ。

 だから、ここに帰ってくるまで終わりにする気はない。

 暁はそう告げて、照れくさそうに笑うのだ。

 

 

 ○

 

 

 水無月島を経つ日の朝、熊野は鳳翔の姿を探していた。

 いつも通りに早朝の鍛練を終えた風呂上りの祥鳳に聞いても、今日に限っては彼女の姿を見ていないのだという。

 出発まで時間はまだまだある。彼女もいつも通りにどこかの掃除を始めてしまったり、厨房に出入りしているのだろうとは思うのだが、今日に限っては胸騒ぎがするのだ。

 落ち着きない仕草で廊下を歩いていると、同じような調子の葛城と鉢合わせ、すぐに同様の考えと目的であることを悟る。

 2隻で連れ立って彼女の姿を探すもその痕跡は無し。

 すれ違う他の艦娘たちに聞いても同様だ。

 

 この出発の日にいったい何をと落ち着きない仕草の熊野に、葛城は怪訝そうな視線を向ける。

 そんな調子になってまで、鳳翔のことを気に掛ける理由が熊野にはあるのかと、そう疑問する表情。

 気付いた熊野は立ち止まって、バツが悪そうに視線を逸らす。

 

「葛城は入渠が明けるまで伊勢型の方に居ましたから、当時の私がどんな体たらくだったかご存じありませんのよね?」

 

 不思議そうに首を傾げる葛城に、熊野は熱田勢がやって来た当初の自らの事を語る。

 

「私、任務中にやらかしまして、それで、しばらく引きこもっていましたの」

 

 以前、時雨が勝手に占拠して引きこもっていた倉庫奥の控室に、熊野もまた引きこもっていた。

 僚艦の負傷に気が動転し、旗艦を務めていた身で作戦に穴を開けてしまったことを、ずっと引きずっていたのだ。

 提督も僚艦たちも、あの時のことは仕方ないし、お咎めも無しだと言ってくれる。

 その言葉はありがたかったが、かと言って自分を許せるかどうかは別だ。

 自らを罰するという意図こそ、なくはない程度だったが、要は皆に顔向け出来なくなって引きこもってしまったのだ。

 そんなことをしても皆を悪戯に心配させるだけだと理解もしていて、余計に自責の念がつもり、日も経って外に出辛くなってしまった。

 

 このまま狭いスペースでミイラになってしまおうかと、どうしようもない考えが堂々巡りをしていた頃、いつの間にか鳳翔が室内に居て驚いたものだ。

 鍵は熊野が持っているし、マスターキーは以前時雨がねじ切ってしまっていたので、正規の方法で扉を開ける手段はなかったはずなのだ。

 かと言って力任せにこじ開けた形跡もなかったもので、どうやったのかとぼそぼそとと問えば、トイレの窓から侵入したのだとか。

 

「無理やり入るのもどうかと思ったのですが、せめて食事だけでもと……」

 

 泣き腫らしてかすんだ目に、味噌汁の湯気はよく染みた。

 それじゃあ自分はこれでと、そそくさと扉から出てゆく鳳翔の姿を、熊野はしばし呆然として見送ったものだ。

 無理やり扉をこじ開けて出て来いと言うわけではなく、早くこの場所から出るように説得するでもない彼女の動きに、何故か笑みが込み上げてきたのだ。

 いつの間にか当然の様にそこに居て、気が付くと居なくなっていて、まるで妖精たちの様ではないかと、おかしくなったのだ。

 

「それからしばらくして自分から外に出て、初春と叢雲にすごい叱られまして、浜風に泣かれまして、漣と卯月にからかわれましたの」

「……どうして、外へ出ようと思ったの?」

 

 あまり感情を込めずに放たれた葛城の疑問に、熊野は「だって」と、苦い笑み。

 

「毎食持ってトイレの窓から入って来られたら、堪ったものではありませんのよ?」

 

 おかしそうに口元を隠して言う熊野に、葛城は唖然とした顔をして、そして「確かに」と苦笑した。

 

「だから私、あの鳳翔にはきっと頭が上がりませんの。恩人であるというものそうなのですが、ここ最近はなんというか、ふと目を離すと消えてしまいそうな気がして……」

 

 熊野が口にした懸念を、葛城も同じように感じていたのだという。

 

「鳳翔さん、ここに来るまでにかなり無茶したみたいで。その影響かわからないんだけれど、私が入渠明けてこの島で再開した時、おんなじ様に思ったの。なんていうか、いつもと変わらないはずなのに、存在がどんどん希薄になってるっていうか……」

 

 そんな不安のまま、大先輩と慕う空母たちの元を早朝から訪ねて回り、熊野とほぼ同じルートを辿って追い付いたのだ。

 

 そうして2隻で早朝から鎮守府内を探し回っても見つからず、ついには伝声管を使って鎮守府内に呼びかけようかと言う時だ。

 ちょうど差し掛かった執務室から、提督が姿を現すところだった。

 

「鳳翔を探しているのかい?」

 

 何故それをと疑問する2隻だったが、すぐに鳳翔の居場所を知っているのだと理解する。

 しかし、それにしては提督の顔色は優れずにいて、胸中に不安が立ち込めて来る。

 

「もう時間がない。別れを告げるならば、早くした方がいい」

 

 

 ○

 

 

 鳳翔の艤装がすでに解体されていて、この2ヵ月あまりの時間を彼女は人として過ごしていたのだと、熊野も葛城も知らずにいた。

 それも当然のことで、鳳翔が木村提督に口止めを願い出ていたのだ。

 彼女の艤装が解体されたことを知っていたのは、木村提督と秘書の霞と、そして解体に立ち会った明石たち。

 水無月島の面々や熱田側の駆逐艦たちはそれを知らされずにいた。

 薄々気付いている者も少なくはなかったが、毎日元気いっぱいな彼女の姿を前に、事情を問うことを躊躇ったのだ。

 

 熊野たちが重い足を引きずるようにして執務室へ入ると、鳳翔は執務机に伏して眠りに落ちている姿だった。

 先ほど提督がやって来た時、鳳翔はちょうど執務室の掃除を終えたところだったようで、机の写真を前に、懐かしそうに見入っていたのだとか。

 

 彼女がまだこの鎮守府で活動していた頃の写真だ。

 懐かしそうにそれらを眺める鳳翔を前に、提督はいつも昔話をひとつせがむ。

 すると鳳翔は毎朝ひとつだけ、かつて自分が活動していた頃の話を、提督に語りはじめるのだ。

 なかには他の艦娘から聞いた話もあったが、鳳翔の口から語られるそれはまた別の意味を持ち、提督のここ最近の楽しみでもあったのだ。

 そうしてここ数ヵ月でいつも通りとなってしまったやり取りをするうちに、ふと鳳翔からの返事が無くなり、この姿となっていた。

 

 葛城が鳳翔の傍で膝を付き、囁くように呼びかける姿を、熊野は立ち尽くしたまま見守る。

 何故と、多くの者に黙っていたのかと問い質したいと思っていた気持ちが、あの安らかな寝顔を見ると霧散してしまう。

 彼女はここに帰ってくることを望んでいて、それを果たしたのだ。

 鳳翔自らが望んだ場所に、彼女は帰ってきた。

 

 それから程なくして執務室に艦娘たちが集まり、彼女たちに見送られるようにして、鳳翔はその姿を消した。

 艤装の解体から数ヵ月をかけて、ゆっくりと確実に艦艇の魂と離れてしまった肉体は、目を離した一瞬の内に揮発して空気に溶けて。

 最初からそこに誰も居なかったかのように空になった執務机に、誰もが言葉を失くしていた。

 海で沈まなかった艦娘の、陸での最期の姿を鳳翔は見せた。

 それは水無月島の艦娘たちや熱田の新規建造組にとっては、自らが迎える最期かもしれず、またこの最期に対して思うところはひとつやふたつではなかっただろう。

 

 ただ、熊野はこうして誰かに看取られる最期を羨ましいと、そう思ってしまう。

 故郷に帰ることが出来ずに果てた、艦艇としての記憶がそう感じさせるのかもしれない。

 囁くように話す葛城に対して、消える直前まで夢の中から語りかけるような口ぶりだったもので、彼女は苦しみや悲しみなどとは程遠い場所に行ったのだと、そう察することが出来たから。

 彼女の遺書もそうだ。毎日毎日書き直されて、1日ごとに中身が膨らみ、もはや日記のようになってしまっていて、彼女がこの2ヵ月をどれだけ大切にしていたのかが伺えた。

 死を恐れていないわけではなかった。

 それ以上に、毎日が楽しかったのだ。

 

 そんな最期を見せられたからだろうか、執務室を後にした熊野は呆然として、記憶も足元も覚束なくなっていた。

 とは言っても、提督に心配そうな顔をされて大丈夫だと答えたことははっきりと覚えているし、立ち止まって振り返ろうとする背中を青葉に押されて大発に乗り込んだことも確かだ。

 ただ、その道行、鎮守府の風景などがさっぱりと抜け落ちていたのだ。

 見慣れた景色としばしのお別れだというのに、それらを目に焼き付けることが出来ないほど、余裕がなくなっていた。

 

 大発が水無月島を発つ最中、島の小さな港を振り返る熊野は、見送る皆の中に鳳翔の姿を見付けて息を呑む。

 そして、そこでようやく体の力が抜けて、残る皆に手を振りかえすことが出来た。

 皆から少しだけ離れたところで小さく手を振っていた鳳翔。

 その隣りには、彼女よりも少しばかり背が低い御老体の姿があったのだ。

 写真で幾度も目にした老提督。彼等の遺品を故郷に届けんと旅立つ暁型の姉妹たちを見て、微笑んでいる姿が。

 

 隣りで大声を上げ両手を振って見送りに応える葛城に気をされつつも、負けじと熊野も声を張り上げた。

 必ずもう一度この場所へ帰ってくるのだと決意する傍ら、もしも自分も終わる時が来るのならば、やはりここがいいのだと、ようやくそう自覚するのだ。

 

 

 



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4話:

 戦艦・霧島は風呂上りの髪を扇風機に当てて乾かしつつ、脱衣場の長椅子に腰を落ち着けていた。

 足を組み、手元の資料を見つめる視線は険しく細く、歪められている。

 風呂上りのため、眼鏡が常時曇り気味になるので外さざるを得ないのだ。それにクールダウンのためにと、薄手のキャミソールを着ただけの姿だ。

 しかし眼鏡がないと資料の小さい文字が見えずらく、まるで老眼の気分だなと、口の端でかすかに笑む。

 霧島の素体となった少女が眼鏡をかけていたからと言う理由で自らの視力もそれに合わせているわけだが、敵との交戦時にはきちんと視力が矯正されるようになっている。

 常にその状態でもと昔の仲間には笑われていたものだが、オンオフの切り替えは大事なのだ。

 それに、頭脳派を気取るなら眼鏡は必要不可欠だ。素で視力が悪いことも然り。そもそも眼鏡を愛しているし、眼鏡をかけた自分の顔も好きなのだ。しょうがない。

 漣や卯月に聞かれたらからかわれること必至だと、勝手に想像して咳払いするも、真正面でエア頬杖付いてこちらの顔色を伺っていたので手遅れかと頬が引きつる。

 

「つか、霧島さーん。扇風機回ってるんだからさ、眼鏡かけても大丈夫じゃ?」

 

 漣の何気ない発言に「まさか」と苦笑いして眼鏡をかければ、これがなんと曇らない。

 それもそのはず、曇りの原因となる熱の籠もりを即座に吹き飛ばしているのだから。

 なんだこの盲点はと俯く霧島の肩を、漣と卯月は優しく叩く。

 

「そんなんだからさー、4番艦は頭脳派気取りの脳筋ばっかって、言われるんじゃない?」

「そ、そんなの初めて聞きましたよ!? いったい誰が!?」

 

 どこかの4番艦がくしゃみする姿を一瞬幻視したが、3隻は努めて無視した。

 

「そーだそーだぴょん! うーちゃんは脳筋じゃなくてスケベ枠です!」

 

 諸手を上げて抗議する睦月型4番艦の姿に、漣と霧島はしばし固まる。

 そして、どこかの4番艦がくしゃみする姿を一瞬幻視したが、3隻は努めて無視した。

 

「霧島さーん、4番艦はスケベ枠だって」

「ないですから。……いえ、一概に無いとも言い切れませんが。しかし、ウサギに関して言うならば元ネタは3月からなので、ひと月違いですよ? まあ、連中ほぼ年中発情期らしいですが」

 

 眼鏡の位置を直しての霧島の発言に、漣と卯月が大仰に頷いて彼女の肩や脇腹を叩いてくる。

 ようやく頭脳派なところを見せてくれたなと感心している風な扱いに、これは馬鹿にされているなと確信する霧島ではあったが、歯を磨きながらやって来た酒匂の姿を視界の端に捕らえ「ほうら、阿賀野型一番のスケベボディが」と、漣と卯月を嗾ける。

 歯磨き途中で対応できない酒匂に無慈悲に襲い掛かる駆逐艦たちを眺めながら、人数減っても賑やかなものだなここはと、苦笑しため息を漏らす。

 

 ここ水無月島鎮守府から多くの艦娘が旅立ってもう1週間になるが、こうも賑やかだと寂しい気分を感じる暇もない。

 ……などとは霧島自身の強がりで、ふと立ち寄った食堂に喧騒がなかったり、船渠場がやけに広く感じたりと、寂しいと言うよりも怖くなる瞬間の方が強いというのが、彼女の正直なところだった。

 まあ、その度にこうやってピンクやら薄紫やらの髪色が襲ってくるものだから、その度にムッとして、そしてホッとしての毎日だ。

 特にピンクは1隻厄介なのが増えたもので、悪乗りが過ぎる毎日なのだ。

 その度に、間宮のお仕置きが光るわけだが。

 

 概ね双子の姉である榛名も同様の調子で、不安そうにそわそわして、常に誰かの後にくっついてる姿がよく見られる。

 しかしまあ、さすがに風呂ともなればひとりでリラックスできるようで、今ちょうど脱衣場に戻ってきたところだ。

 そうして湯気がやって来て再び眼鏡が曇るものだから、霧島はもはや資料を畳んで天を仰ぐ。

 

「でも、何故こんなところで資料を?」

 

 そう問うのは、榛名に続いて脱衣場に戻ってきた間宮だ。

 規格外サイズの持ち主であるが故か、ピンクの2隻が跳ねながら「間宮さーん、ちょーっと、ジャンプして見ようか」「ぴょん、ぴょんって」などと煽るもので、間宮は困り果てて仕方なしといった苦笑でジャンプして、傍らの虚空から瓶の牛乳を取り出している。

 増設された格納領域の成せる技だなと目を光らせる霧島は、榛名までノリノリでジャンプする姿に頭を抱える。

 最近精神年齢が急激に下がった気がするほぼ姉から瓶を受け取って礼を告げ、間宮の問いにはなんと答えたものかと苦い笑み。

 

「入渠している時や、上がった時のリラックスした状態で、もう一度検証したかった部分があったもので……」

 

 そう告げて、いつの間にか自分を取り囲むかのように集まった艦娘たちへと、霧島は件の資料を差し出して見せる。

 すると、皆の表情は明らかに難しいものへと変わるもので、やはりこれは難しい問題なのだなと短く嘆息。

 

「……この島の地下に出現した、超巨大サイズの艤装核、と思われる物体に関して。こればかりは、夕張や天津風、そして明石を交えて調査しても、詳細が明らかになりませんでしたから」

 

 いつの間にか島の地下に出現していた巨大な艤装核。

 まるゆが定期的に潜航して調査を行ってはいたが、まだ詳細を明らかにするほど情報は集まってはいない。

 飛龍の時の様に、新たな艦艇の亡骸が出現することも無く、かの存在は今も島の地下にて静かに明滅を繰り返すだけなのだ。

 

 調査にもうしばらく時間をかけたいと考えていたのは携わった誰もが同じだったようで、夕張と天津風は島を去る直前までに、ありったけのアプローチを資料に残している。

 それは霧島たちをはじめ島に残った艦娘でも可能なものもあれば、明石などの特殊な艦娘でないと手を出すことが出来ないような内容まであり、さてどれから手を付けたものかと連日会議が開かれていた。

 とは言え、“これ”についてばかり話し合っても居られず、話題には挙がるものの後回しにされているのが現状だ。

 

「でもさ、漣たちに出来ることは限られてるよ、霧島さん。そもそも、まるゆがいないから、直にあれを観察することも出来ないっしょ。“これ”だけのために潜水艦建造するの、ご主人様も反対していたし」

「私だってそうです。ただ、得体の知れないものを腹に抱えている以上、万が一の可能性も捨てきれないかと。もちろん、悪い方の」

「そうでしょうか。榛名には、“これ”が悪いものには思えないのですが……」

 

 ふんわりとそんなことを口にする榛名に、霧島は困った表情になる。

 頭を使わずに感覚でしゃべっているなと思念を送れば、即座に察して違うと否定の意。そして弁明が始まる。

 

「ほ、ほら、飛龍がいたからこそ、あの時の空襲は切り抜けることが出来たのですよ? 提督も無事に秋津洲を救出しました」

「まあ確かに、結果から見ればそうかもしれないわね。でも、だとしたら“これ”は何故、空母・飛龍を? 彼女でなければならなかったのか、他の空母系の娘でもよかったのか。あるいは、今回のような結末を望んだが、彼女しか送り込める娘がいなかったのか……」

 

 考え出したらきりがないところに、今の水無月島鎮守府にはこうした議論が出来る艦娘が少ない。

 明石や大淀も交えて話をしたかったが、彼女たちは共に入渠していない。

 いつもは全艦一緒に入渠という流れだったが、今夜ばかりは別件があったのだ。

 

「明石と大淀は、今は執務室ですね。提督の検査結果が出たので……」

 

 2隻とも夕食時に暗い顔をしていたので、間宮も気にしていたのだろう。

 装甲空母零番艦の乗員が残した手記。そこから得た情報より提督の正確な寿命を割り出したり、日常生活を送る上で注意する点などを洗い出していたものが、ここに来てようやく纏まったそうなのだ。

 

「ああ、あれね? けちけちしないで漣たちにも教えてくれればいいのに」

「提督もそうおっしゃっていましたが、まずは提督個人が聞くべきだと、大淀が。それだけ重大なことだというのもありますが、提督を個人として尊重しているからこその判断ではないかと」

 

 霧島の言に首を傾げるのは、榛名以外の艦娘たちだ。

 その反応もわからなくはない、と言うのが霧島の感想だった。

 “提督”という役割を持つ以外の人間と接触したことのある艦娘ならば概ね持っている価値観であるがゆえに、当然島生まれや日の浅い艦娘にはそれがない。

 彼を提督ではない一個人として見る、と言われても想像が付かないだろう。

 まあ、彼に名前でもあればまた違ったかもしれないが、それはさすがに酷かと霧島は唸る。

 伊勢型で本土へ渡ることが出来ていれば正式な戸籍も得られたはずだが、どうも提督自身はそれに感謝しつつも気乗りはしない、といった風に霧島には見えたのだ。

 彼自身が提督という役割以外に己の在り方を見い出せていないのかとも思い、そうだとすればやはり歪だと言わざるを得ない。

 

 彼。つくられた人である提督は、誰でもない。

 人としてのしがらみを持たずに生まれた彼は、自ら望んで提督となった。

 彼は、自分が何者であるという証明を欲していたのではないかと、霧島は思うのだ。

 そして提督と言う役割を得た現在、“提督以外の自分”と言う可能性を閉じてしまっているでは、とも。

 

 今にして思えば、何故あれほど艦娘たちに好かれていたのかも、納得出来る予測が立つ。

 建造時の刷り込みや個人の好みの問題を超えた理由があると、件の現象に対して、霧島はそう考えていた。

 彼は、誰でもないがゆえに、愛しい誰かの面影をその中に見ることが出来る。

 それは艦艇時代に共に戦った誰かかもしれず、あるいは艦娘の素体となった少女たちが恋していた誰かかもしれない。

 誰でもない提督の彼は、そういった誰かの面影を、その像を確かなものとする。

 

 かく言う霧島も、好みのタイプではないが目で追ってしまう、気になってしまうという症状に少しばかり悩まされた時期があった。

 今でこそ、そういった感情抜きに提督と接することができるし、むしろ好ましさで言えば以前よりも増している程だ。

 それは日課のボイストレーニングに付き合ってくれているからかもしれないし、寝言でハモっていたと榛名が証言したせいかもしれない。

 

 しかし、彼に見るのはあくまで面影であり、彼そのものではない。

 もしも、面影の主と彼とを並べれば、選ばれるのは確実に彼ではない方なのだ。

 

「……代用品」

 

 人間としての、提督としての。あるいは両面での代用存在。

 もしくは存在しないはずの、モニターの向こうの誰かか。

 そう考え至って、霧島は己を恥じて身を震わせた。

 

 気が付くと卯月が心配そうな顔をしていて「風邪ひくぴょん。いい加減、ちゃんとパンツ履くぴょん」とミントグリーンの色を差し出してくる。

 妙な間の後にくしゃみひとつした霧島は、次いで咳払いひとつして資料を再び脇に置き、受け取った下着に足を通した。

 

 

 ○

 

 

「では、改めて提督の体質に関することで、再確認を……」

 

 脱衣所で霧島たちが騒いでいる頃と同時刻、場所は執務室。

 神妙な表情の明石と大淀を前に、提督は困ったなと笑むところだった。

 性質上、どうしても深刻な話になってしまうというのは夕張の時に実感しているし、肩の力を抜いてと言ったところでそうもいかないことも理解している。

 だから、言うだけは言って、後は本人たちに任せることにする。

 

 大淀が口にした通り、今は提督の体質に関する彼是を再確認する時間だ。

 ひと月前の会議の席で夕張が告げたように、装甲空母零番艦からサルベージした研究者の手記には、提督の出自に関する項があった。

 あれからさらに情報を拾い上げ精査し、提督の正確な寿命を割り出そうというのが主な狙いだった。可能ならば延命の方法も。

 

 日々健康的な生活を送れば、当初の想定通り、その寿命は10年足らずと結果が出た。

 今回、最新情報として告げられるのは、新たに判明した体質のこと。

 提督である彼は、所謂人間と艦娘の交雑種のようなものであり、短命なのは既知として、生殖能力をほぼ持たないことがわかったのだ。

 それらの説明に「なるほど」と、提督は以前図鑑で見た動物たちのことを思い出す。

 ライガーなどの動物たちと自分を重ねる瞬間が来るとはまさか考えても見なかったが、どうやら自分はそういったものに似た存在のようだ。

 

「……雷がどういうわけか“お墨付き”をくれたのだけれど、それは考え違いだったということかな?」

「あの、いえ、提督。子孫を残す能力がほとんどないのであって、性行為自体は、その……」

 

 頬を赤らめつつ説明を重ねる大淀に「知っているよ?」と笑んで見せれば、赤い色が頬から耳にまで広がる。

 提督の気を抜いた態度と冗談とに、ようやく明石が歯を見せた苦笑を浮かべてくれたことが幸いだろうか。

 

「ああ、それに捕捉しますとー、“ほぼ”子供が出来ないのであって、かなり天文学的な確率で可能性が生じます」

 

 明石の捕捉に「どれくらい?」と提督が問えば、桃色の髪は顔を険しく歪めて「七桁の回数やって、一度あるかないか」と答える。

 確かにそれは現実的じゃないねと苦笑すると、明石は同様に笑んで、大淀は眼鏡が曇るレベルで発熱する。

 

「ええと、現実的にお世継ぎ残すならば、提督が生まれた時と同様の方法となるでしょうけれど……」

「その方法までは、サルベージ出来ませんでした。もし具体的な方法を拾い上げることが出来たとしても、それを艦娘由来の設備であると妖精さんがジャッジして構築し始めるかまでは……」

 

 なるほどそうかと唸る提督に対して、何か言いたげな2隻が大きく前のめりとなって顔を近付けてくる。

 ちょっと後ろに仰け反りつつ発言を促せば、躊躇った挙句に大淀が「やはり、お世継ぎを残すことに?」と問うてくるものだから、提督は笑って「今は考えていないよ」と手を振って見せる。

 

 こうして改めて告げられると、確かに自分は人ではなかったのだなと、形の無い実感を得る。

 艦娘と同様の刷り込み教育の成果も中途半端で、提督となった当時、頓狂なことを言って彼女たちに笑われたことを思い出す。

 しかしそうすると、自分は最初から提督となるべき存在としてつくられたわけではなかったのだなと、目深帽子で思案する。

 これに関しては明石が挙手。零番艦では極地活動が可能な人間の、その代用品を研究していたのだと解説を始める。

 

「極地、つまりはここ、深海棲艦の支配海域下での活動を前提とした代用人間の研究。あの零番艦で主に研究されていたテーマですね。支配海域において活動可能な人材が揃えば反攻作戦の準備もかなり進めることが出来ますし、何よりもこの世界が敵に完全に支配された状況を、あの艦の研究者たちは見据えていたようです」

「それは、深海棲艦の支配海域が、海域だけに留まらず世界全土を覆ってしまったらと、そういう状況を見据えてのことかい?」

 

 頷く明石の言によれば、提督のような代用人間と艦娘を、対深海棲艦の前衛に据える構想もあったのだとか。

 構想だけで終わるはずだったそれを水無月島鎮守府が果たしてしまったことは、果たして吉か凶か。現状の提督たちには判断材料が乏しい。

 

 さて、そうして代用人間を用いた計画が進んだ場合、本来の人間はどうするのかと言えば、大きくふたつの道を歩むことになる。

 ひとつは、自分の遺伝子情報をもった代用人間を残し、それそのものを“次世代”とすること。

 もうひとつは、艦娘たちが世界を取り戻すまで、人間たちはコールドスリープで眠りに付くことだ。

 

「ひとつ目の道は、支配海域でしか生きられない代用人間を“次世代”とするため、海域奪還を放棄して変貌してしまった世界で暮らすというものなのかな?」

「はい、提督の体質に関しての記述が見られたため、その可能性が高いかと」

「もうひとつの方は、完全に私たち任せですよねコレ。某和製のアニメーションを思い出します。原作の方」

 

 ちなみに人の姿を捨て去るやり方ならば、人間を妖精化するというものがあったのだとか。

 しかし、長時間妖精の姿でいると、人間としての自意識が消滅して本来の妖精と見分けが付かなくなってしまうため、この研究は別の部門に引き継がれることとなった。

 “艦隊司令部施設”への技術転用だ。

 

「司令部施設、本体のメンテナンスは?」

「万全ではありますけれど……。提督、本当に……」

 

 歯切れの悪い明石を前に、その懸念は最もだと提督は頷く。

 夕張が情報を公開した時点では、“艦隊司令部施設”を運用するリスクについて、すでに概ね纏められている状態だった。

 運用する度に提督の寿命を縮めると断言されたその設備、それを用いることを好ましく思う艦娘は、少なくともここにはいない。

 その事実に提督はありがたいなと笑み、しかしそれを用いてしか開かない扉があるのだと息を詰める。

 

 島の地下に眠る、超巨大艤装核に対するアプローチのひとつに、“艦隊司令部施設”を用いたものがあったのだ。

 その巨大さゆえに建造用として精製・純化することはまず不可能だとされているかの艤装核に対して、“艦隊司令部施設”の効力によって妖精化した者が接触するという案だ。

 当初は提督を接触端末にと考えていた夕張ではあったが、資料にはそれ以降の記述が無い。検証の前に記述する手を止めたのだろう。

 恐らくこの続きを検証する前に、サルベージした情報の結果が出てしまったのだなと察する提督は、手詰まりになったならば一考するべき案だと、この方法を頭の片隅に、しかし重要な位置に置く。

 

 それに、内部だけに気を割いてはいられない。外部に対しての動きにも気を配らなくてはならないのだ。

 水無月島鎮守府が健在であると、かの“統率者”に知らしめる必要がある。

 伊勢型がこの島を発った日から、それは既に行われている。

 榛名と霧島、2隻の金剛型の補完艤装、高速航行タイプのそれが出撃し、島を見張る敵艦たちを翻弄・攪乱、時に撃沈しては生還する、という動きを繰り返している。

 それでも未だに空襲がないということは、敵の航空戦力はまだ回復しきっていないのかと提督は思うが、すぐにそれは違うのだろうと考えを否定する。

 あれだけ周到に準備してきた敵だ。必ず何らかの策を講じてくる。

 もしもその時が来たら、この島の面々は地下に籠って逃げの一手と出来るが、それらが伊勢型の方へ向かってしまったらと考えると、気が気ではいられない。

 伊勢型の出航前に増産した航空機をありったけ積み込んではいるが、それらは熱田島に着くまで持ってくれるだろうか。彼女たち自身にしてもそうだ。

 楽観したくはあるが、見送った暁たちの顔を思い出すと、そうも言っていられない。

 

 動きも情報も少ない現状維持に苛立ち、つい手元の封書に手が伸びそうになるのを抑える。

 その動きを幾度繰り返しただろうか。

 木村提督から手渡された、最終作戦概要の封書だ。

 開けて中を見てしまえば、それ以降、恐らく見ないふりは出来なくなる。

 そう自覚しているからこそ、この封を破ることが出来ずにいるのだ。

 その作戦は少なからず、しかし確実に、犠牲を要するものだと直感しているからだろうか。

 彼女たちの誰かが確実に失われるとわかっていて、その判断を下すことは出来ない。

 自分はつくづく提督の器ではないなと悔しくなり、結果、現状維持への苛立ちを抑えている。

 

 楽観は出来るが、不安はなくならない。

 一息ついて暁たちの笑った顔を思い出して、ようやくいつも通りに戻れる心地だ。

 彼女たちが帰ってくるまで繰り返す毎日だ。こんなところで根を上げてはいられない。

 実際に出撃する彼女たちの消耗を考えれば、もっと安全なやり方を考えるべきが自分の役割だ。

 ならばと、大淀と明石を下がらせて、これから連装砲くんたちにお付き合い頂こうかと言ったところで、両脇を2隻にがっちりと固められた。

 

「……何かな?」

「提督、御存知ですか? 発想の種が下りてくるのは、お風呂やトイレと言ったリラックスできる空間なのだそうです」

「知っているよ、大淀。けれど、正直実感はないかなあ……。ほら、トイレに入っているとよく阿武隈が気付かずに入って来てびっくりさせてしまったり、風呂時には祥鳳だったりで、意外と落ち着かないものでね」

「て、てーとくー? それは故意だったんじゃあ?」

「そうかもしれないね。慣れたからいいのだけれど」

 

 心中お察し致しますと苦笑した2隻はしかし、そのまま提督を席から立たせる。

 もう一度何かとと問えば、両面から「そろそろ入渠してください」と、ぴしゃりと告げられる。

 食事時には必ず顔を出すようにはしていたが、ひとりになると彼是と考え続けてしまい、気が付くと朝だったことも少なくはない。

 控えめに言って、そろそろ彼女たちの前に出られるレベルを超過しようとしていた、ということだろう。

 間宮や他の皆には失礼なことをしたなと頭をかき、明石に言われるならば相当ダメだねと笑んで見せれば、ピンク色の髪は口角を上げた張り付き笑顔のまま足早に提督を船渠場へと連行した。

 

 

 ○

 

 

「なんつうかもう、さ。全部あいつひとりでいいんじゃないの?」

 

 駆逐艦・秋雲は伊勢型の側面から交戦の様子を眺めつつ、乾いた笑いを浮かべた。

 水無月島を発った超過艤装・伊勢型。その道行は順風満帆とは、もちろんいかなかった。

 連日昼夜を問わずに敵襲があり、その度に艦娘たちは出撃を繰り返しているのだ。

 故郷を想って憂う暇もなく訪れる敵襲に、しかし全体で見れば消耗は微々たるものだ。

 確かに燃料・弾薬の目減りはあるが、それは当初予定されていたレベルに達していない。

 “彼女”がほとんど毎度出ずっぱりで、そしてほとんどの敵を撃沈しているからだよなと、秋雲は乾いた笑みのまま、視界の端から端へと高速移動する彼女の姿を追う。

 

 仮想スクリューの青白い燐光を海中に走らせ疾駆するのは、暁型1番艦の彼女だ。

 駆逐艦としての艦種をはるかに凌駕する彼女の性能には、指輪の効力で“白落”を抑えたことにより、安定と言う概念が新たに加わった。

 以前ならば時間経過によって艤装が浸食され変異する症状に悩まされていたが、もはやそんな心配はない。

 燃料と弾薬が尽きるまで、あるいは彼女の体力と気力が続くまで、戦い続けることが可能となったのだ。

 

 それが良いことか悪いことか、秋雲は考えたくもないなと首を振る。

 彼女の活躍によって自分たちの消耗が抑えられているのはありがたいが、温存されている身としては心苦しいものなのだ。

 かつて彼女が感じていた思いを知り、そしてその彼女は全力で戦って爽快そうに笑んでいる。

 嫌でも筆が進むものだなと、ようやく手を止めた秋雲の隣り、シャッターを切る音が聞こえてくる。

 

「あんなに動き回っているのに、よく描けるものですよね?」

 

 問うてくるのは祥鳳で、二眼レフカメラを首から下げた姿だ。

 島に居た頃は青葉と組んで鎮守府内新聞部だったそうで、カメラは彼女の担当なのだとか。

 

「いやねー、目で追って描いてるわけじゃなくて、じっと見てる中で強烈に印象付いたワンシーンを誇張して描いてるのさ。で、細部を確認するためにちらちら見直しているわけで」

 

 なるほどと納得して頷く祥鳳は、再びファインダーへと向き直る。

 秋雲に言わせればシャッターチャンスの方がはるかに難しいと思えるものだ。

 あれだけ縦横無尽に動き回り、停止している瞬間などありはしない高速戦闘の最中、それでも祥鳳がシャッターを切る回数は少なくない。

 その瞬間を待つ集中力と忍耐力は他の艦娘の追随を許さず、そしてチャンスをものにする腕前は確かなものだ。青葉がカメラ担当を願い出るのも頷ける。

 葛城が島に居た頃、空母の艦娘の後ろにくっついて歩いていた時期があったのだが、この祥鳳には特に懐いていた記憶がある。

 それだけ彼女の射形に一目置いていたのだろうとは容易に想像が付くが、彼女が脳内花畑な煩悩の塊だとは、果たして気付いていたのだろうか。

 

「良いの撮れたー?」

「どうでしょう。こればかりは、現像してみないと何とも。デジタルではないので」

 

 現像するまで成果を確認できないのはもどかしいなとも思うが、祥鳳はそれすらも楽しんでいる節がある。

 それに、現像してみないと、などと彼女は言うが、シャッターを押した瞬間には完成がどうなるかわかっているのだろう。

 空母系の艦娘の、特に弓を用いる者たちの得手なのだろうなと笑む秋雲は、戦いの音が止んだことに今さら気付く。

 敵は駆逐・軽巡級のみの三個艦隊という数の暴力に対して、彼女はたった1隻でそれらを撃沈してしまったのだ。

 

 クレーンに釣られて引き上げられている途中の暁が、こちらに向かって単装砲を握った手を振ってくる。

 まったくいい笑顔だなと苦笑する秋雲は、彼女が両の手にする艤装を目にしてさらに苦笑。

 暁が右手に持つ単装砲はピンク色に染められ、つぶらな瞳と口角を上げた顔が描かれている。砲身がまるで長い鼻にも見える風だ。

 左手の連装砲は白に染められへの字の口。どことなくデフォルメされたウサギの顔に見えなくもない。

 それぞれ、卯月と漣の主砲であった“ピノキオ”と“ムーンビースト”だ。

 何かと主砲に顔を描いたりベルトにシール張ったりする潮の影響だが、そういった艤装へのペイントは水無月島でもかなり流行したものだ。

 古参組の響なども、主砲を黒く塗装して半眼に×の字口の顔を描いていたのを、秋雲も記憶している。

 

 島に残った2隻の駆逐艦は防空・対潜に特化した改装を行ったため、そうして降ろすことになった主砲を暁が譲り受けたのだ。

 それらをわざわざ艤装して戦うのは、残してきた彼女たちといつでも共にあると、そう言った心持なのだろうかと秋雲は思う。

 やんちゃ盛りのちびっ子のイメージしかなかった暁型だが、その成長した姿には驚かされるものがある。

 そして、果たして自分が同じ立場だったのならば、彼女たちの様に在れただろうかと、そう幾度も考えてしまうのだ。

 

 嘆息するこちらをきょとんと眺めている祥鳳に、「書き残しておきたい被写体が多すぎてさ?」と肩を竦めて見せれば、こちらも同じだとカメラを向けられる。

 そうして描き手と撮り手が互いを画に残してその場を去った後。この日は運良くもうひとつ、被写体に有り付く事が出来た。

 伊勢型の艦内に設けられた休憩スペースに、帰投した暁を挟んで眠る、暁型4姉妹の姿があったのだ。

 敵襲のたびに出撃を繰り返していた暁はもちろん、妹たちの方もそれぞれの役割を果たすため、休息もそこそこに動き続けている。

 姉妹たちがこうして集まっているということは、それらにひと段落が付いたのだろう。

 

 さて、いざこうして恰好の被写体を目の当たりにして思うことは、断りもなく描いてしまっても良いのだろうかというもの。

 隣りの祥鳳も困った様に笑むものだから、ならば事後承諾と言うことで、ペンが走り、シャッターが切られる。

 静かな寝息を立てる姉妹たちは当分夢の中であろうことは確かなもので、彼女たちがずっとこうして穏やかな寝顔を浮かべていられんことをと、秋雲はそう願わずにはいられなかった。

 

 

 ○

 

 

 超過艤装・伊勢型を護衛しての、夜間の無灯火航行の最中。

 重巡・足柄は姉艦である那智の不穏な動きに眉をひそめた。

 何をするかは概ね見当が付くが、ぴたりと思った通りの結果となれば、溜息すらもったいないと目を閉じる。

 

「ちょっと姉さん? 任務中にお酒?」

 

 暗闇でも見通せる目は、彼女が懐からスキットルを取り出す様を確かに見た。

 水無月島に滞在していた頃、曙からもらったのだと呑む度に自慢していた品だ。

 妖精たちの手による特注品は艤装とほぼ同等の素材で構成されており、いざという時は弾除けにもなるのだとか。

 いつも左の胸元に忍ばせているそれは、彼女の体温を吸ってほの温かいはずだ。

 

 中身をひと口あおった那智は、それを足柄の方へと投げて寄越す。

 受け取った足柄は同じようにしてひと口。

 温い液体が喉を焼く感触と共に胃に降りてゆく。

 味はわからない。

 この足柄は今まで呑みやすいカクテル類を好んで口にしてきたから、というのもあるが、それ以前に味覚が機能を失っているのだ。

 

「ガタが来ているの、嫌でも自覚させられるわ」

 

 なるべく感情を込めずに言って、スキットルを投げ返す。

 艦娘として長く戦ってきたのだ。どう足掻いてもその時は来る。

 むしろ、無理を通してきた身でよくここまで持ったものだと思う。

 足柄自身も、姉の那智も。

 今回の任務、水無月島の艦娘たちを熱田島へ送り届ける仕事を持って、自分たちも引退だなと考えていた。

 割り切っていたはずだが、鳳翔の終わり方を目の当たりにして、次はいよいよ自分たちの番だと、感傷的になってしまったのだ。

 

 果たして、自分たちも彼女のように終われるのか。

 鳳翔が姿を消したのと同時刻、工廠に保管されていた彼女の艤装核もまた、同様に消失したのだそうだ。

 彼女の艤装が解体された際に摘出され、新たに艦娘を誕生させることも、深海棲艦に変異することもないだろうと、そう診断されたもの。

 役割を失い、なお残った艤装核。その消失の意味を、鳳翔が満足を得て逝ったものなのだろうなと、足柄は思う。

 自分にその時が来たら、果たして彼女と同じように満足を得られるのだろうか。

 

 きっと同じことを考えているはずだと姉を見れば、歴戦の重巡はもうひと口が進まない模様。

 酒に酔えなくなった身で酔った振る舞いを続けるのはさぞ辛かったろうなと、妹は姉の心中を察する。楽しく呑める仲間ばかりだったのが尚更辛い。

 打ち明けるくらいなら墓まで抱えて騙し通そうとするのは、お互い悪い癖だなとかすかに笑んで。

 

 そして、もう笑い合ってはいられない時間となっていたことを、これから思い知らされることとなる。

 

 電探が敵の存在を感知する。

 すぐに戦時の感覚に切り替わる2隻だったが、その表情は焦りに凍り付く。

 夜間の索敵を電探に頼っている身ではあったが、それでも目と耳は未だに衰えていないはずだった。

 それでも発見が遅れ、そして対応するには遅すぎだ。

 

「伊勢! 日向! すぐに回避行動を……!」

 

 足柄が悲鳴のように叫ぶ、その頭上。

 敵航空機の群れが姿を現したのだ。

 充分な高度を稼ぎ、機関を落とし惰性に身を任せ、伊勢型へと殺到する。

 敵航空機群は伊勢型へと飛び込んでいき、その内の何機かが艦橋に激突した。

 

 

 



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5話:

 時刻は深夜。照明を落とした超過艤装・伊勢型の艦橋にて、駆逐艦・電はこれまでの航海を振り返っていた。

 水無月島を発ってもう2週間が経つ。敵襲は止むことがないものの、現状それらを危なげなく撃退出来ている。

 敵勢力に航空機の姿が見られないこともあるが、何より大きいのは“指輪付き”となった暁の驚異的な性能だろう。

 同じ駆逐艦として、そして姉妹艦としては羨ましく思えるほどの活躍だ。それを素直に喜べるのは、やはり指輪によって“白落”の症状を抑えることが出来たからだろうか。

 強大な力を安定して発揮出来るからと、いささか張り切り過ぎな部分もあるが、燻っていたこれまでを想えば諌める気も起きない。自分の分まで戦ってくれていると思えば、尚更だ。

 

 ただ、あれだけの駆動を続けて、揺り返しが来ない無いわけがない。

 現状は補給も整備も行き届いてはいるが、艦娘としての寿命は確実に損なわれるだろう。

 当直として隣りに座っている霞とて、“指輪付き”として戦い続ける道を選んだものの、たった数ヵ月でその寿命を使い切っている。

 次に出撃したら、もう二度と海面には立てないと診断されたがゆえに、専属の秘書艦として旗下に発破をかけて来たのだ。

 海上で戦えずとも、艦娘としての本分を失っても、やれることは幾らでもある。

 知己が自分たちと同じように考えていたことを、電は嬉しく思う。

 

「生き急いでいるのよ。あんたたち」

 

 小声で告げる霞に、電は顔も向けずに頷いて見せる。ご最もだ。

 確かに自分たちは生き急いでいる。その自覚はある。

 そして、暁に関して付け加えるならば、彼女は甘えん坊なのだ。

 自分たちを本土に送り届け、そして水無月島に帰るまで戦う力が有ればいいと考えているはずだ。自分たちの本来の目的さえ果たせればいいと。

 戦えなくなったらそこで終わりだと考えていて、戦えなくなった身で彼と共に生きようとは、考えていないのだ。

 自分たちの司令官は、暁がそんなことを考えているとは露も思わないはずだと、電は嘆息を隠さない。

 

 彼の下で自分を終わらせたいのだと考えてしまうのは痛いほどに共感できるが、ならばなぜ霞の様に彼の下で在り続けようとは考えられないのか。

 折角指輪までもらったのだ。姉妹の中で一番甘えん坊なくせに一番上の姉なんてやっている彼女が、ずっと彼の隣りに在り続けることが出来ればと考える電は、自らの肩を抱いて足をじたばたさせる。

 霞に白い目で見られるが構わないし、気にしない。

 得られた幸福に満足するべきだと思うが、それがもっと良い形に、望む形にならないかと考えてしまうのは、傲慢か。

 幸せの中にもやもやしたものを抱えていると自覚する電は、艦橋に新たな人物が入ってくる姿を見る。

 

「木村提督? 眠れないのですか?」

 

 人前に出る時はいつもしっかりと襟元を正していた木村提督だが、今は軍装を着崩した姿だ。

 元々口数が少なかったものがさらに寡黙になってしまい、顔色も悪く見える。

 投薬によって極地活動適正を維持している身もそろそろ限界に近いのだとは雷談で、連日連夜、猫の幻覚に悩まされているのだとか。

 先日も霞に猫耳と尻尾が生えた姿を幻視したらしく、目頭を押さえつつ何度も霞の顔を見るという行為を繰り返していた。

 まあ、見るだけならばよかったのだが、あろうことか猫耳の輪郭を触り出したもので、なにやらお互い新境地に至った様子だ。

 そんなふたりが、こうして目の前で一緒にいるものだから、電としては口元に手を当ててにまにまするしかない。

 何か言いたげな顔までお揃いな提督と秘書艦の姿に、自分ももう少し提督といちゃこらすれば良かったなと、電は今さらに後悔の念を膨らませる。

 

「……いや、あんたたち、こっちから見ても異常なくらい散々いちゃこらしていたでしょうに。あれで足りないの?」

「全然足りないのです! もっとあんなことや、こんなこと……、やっぱり足りないのです!」

 

 鼻息荒く反論する電。身を引く霞は自らの提督の方を見て「何か助けろ」と目線で訴える。

 

「辛抱しろ、電。まだ熱田までの先は長い。望み通り水無月島に戻るには相当の時間を要する。今からそんな調子では身が持たんぞ?」

 

 呆れた様子を隠そうともしない木村提督の言に、電は頬を膨らませてそっぽを向いていしまう。

 体は大きくなってもそういうところは変わらないのだなと、しみじみといった風に頷く霞に対して何か言い返そうとした電は、歴戦の秘書艦が怖気に体を震わせる様を見た。

 此度の襲撃にいち早く気が付いたのは、霞だった。

 

 電は急いで艦橋の窓に張り付き外界の様子を探る。

 だが、その時にはもう直感が「遅すぎた」と告げていた。

 迫りくる悪意から身を守らんと姿勢を低くした瞬間、艦橋の天井部が爆発した。

 

 

 ○

 

 

 これはしてやられたと、伊勢型の後部甲板を目指して駆ける高雄は、黒い海に向かって吐き捨てる。

 敵は航空機を用いた夜襲を行ない、それは向こう側にとって多大な有利をもたらす結果となった。

 敵機が艦橋に衝突した当時、そこに居たのは当直の霞と電、そして木村提督だ。

 電と霞は事なきを得たが、霞を庇った木村提督が重傷を負ったのだ。

 破片と火傷との処置を行うために医務室へ運ばれ、その時点で艦内の皆は、敵の狙いが木村提督であったことを確信する。

 提督が重篤な状態にあれば、艦娘に出撃の命令を下せる者がいなくなる。

 夜襲を行った敵航空機群は既に全機が海の藻屑となったが、そのタイミングを見計らっていたのだろう、軽巡・駆逐級からなる敵艦隊が続々と姿を現している。

 敵は網を張っていたのだ。

 

 新たに艦娘が出撃できない今、頼みの綱は哨戒中だった那智と足柄、そして曙と潮だけだ。

 木村提督の手当てと並行して、水無月島への救難信号もすでに発している。敵の“統率者”にこちらの動きを知られることになるが、もうそんなことに構っていられる段階ではない。

 提督たちの準備が、“艦隊司令部施設”が起動するまでの時間を稼げればそれでいいのだと、高雄は伊勢型後部甲板のエレベータ前に辿り着く。

 高雄は提督の命令無しに単独で出撃可能な数少ない艦娘だ。

 この局面を切り抜けさえすれば、後は皆が繋いでくれるはず。

 そう意を決して、エレベータで昇ってきた自らの艤装を立ち上げていると、視界の端を先客が走り抜けた。

 

「青葉!? どこへ!?」

 

 艤装状態の青葉が、長大な補完艤装を片手で引きずって後部甲板を駆け抜ける。

 そのまま勢いをつけ、手すりを蹴って、カタパルトを使わずに海面へと飛び降りたのだ。

 わけがわからず手が止まるが、まあ青葉だということで首を振って作業に戻る。

 元々彼女の身の回りには謎が多い。今さら、青葉も提督の命令無しに出撃できると聞いても、それほど驚くことではないだろう。

 問題は、彼女が1隻で行った、という部分だ。

 

 確かに彼女は強い。

 高雄は“ソロモンの狼”が実際に戦う姿を見ているからこそ、そう断言できる。

 水無月島や熱田島の艦娘たちの中で、単艦で最も強いのは、恐らくは彼女だ。

 暁や榛名といった例外もあるが、それすらもやり込めるだけの力が有るはずなのだ。

 だからこそ危ういと、高雄は艤装の診断時間にもどかしく爪を噛む。

 

 青葉は強い。というよりは、その場面・状況に合った働きを隙なく出来るのだ。

 艦隊を組めばその編成の弱点を埋めるような立ち回りで底上げするし、それが複数個艦隊ならば全体の弱点を補強するように働き続ける。

 彼女の支えがあったからこそ、第二艦隊はおろか、水無月島の艦隊がこれまで戦って来れたのだと、高雄は考えている。

 買いかぶり過ぎかとも思うが、彼女が抜けた場合を考えると、上手くいく像が見えなくなるのも事実なのだ。

 

 しかし青葉は、単艦で出撃した際には、そうした立ち回りを一切捨て去るのだ。

 己の全力を持って切り抜けられる局面ならば、隙なく全力を根こそぎ使い切る。

 命がけでなくては切り抜けられない局面ならば、考える時間も取らずに真っ先に命を放り投げる。

 この水無月島に来た彼女は、そういう艦娘だ。

 だから、単独行動をさせられない。艦隊に編成して見張っていないと、危なっかしくて見ていられないのだ。

 提督が彼女の下に現れることが出来ない今は、尚更だ。

 

 艤装の出撃前診断が終わる。

 搭載する燃料・弾薬は最低限に留め、提督が顕現した後にコンテナに搭載したものをカタパルトで射出してもらうように妖精たちに言い付ける。

 己の補完艤装も同じく後回しにして、その分燃料タンクの増設などを行って、長期戦に備える構えを。

 今は1隻でも多く出撃して戦線を維持することを、そして先走った馬鹿が沈まないように見張らないと。

 そう考えた高雄が後部甲板から飛び降りて着水した瞬間、己の行動が裏目に出てしまったことを悟る。

 険しさを増した高雄の視線の先。

 そこには補完艤装のほとんどを破壊され、流血と火傷で全身を真っ赤に染めた青葉が、敵戦艦級と対峙していたのだ。

 四つ又尾の怪物。戦艦レ級、個体コード“バンシィ”が、既に間合いを詰めていた。

 

 

 ○

 

 

 迫りくる砲火の音を耳に、暁は焦りを帯びていた。

 最近の戦果を振り返り、もはや自分に敵はいないと密かに思い上がっていたものが、1秒ごとに打ち砕かれてゆく。

 この力は提督の命令無しに振るえるものではないと、改めて思い知らされた。

 わかった、もう充分だから、早く出撃の許可を。

 身に纏うのを待つばかりの自らの艤装を前にして、暁は拳を握って崩れ落ちる。

 

 外の状況は拡声器を手にした伊勢と日向が声を張り上げて艦内に知らせてくれている。

 超過艤装の操舵に集中しなければならず、戦線に加われないのはさぞ辛いだろうとあの2隻の内心を悟る。ここでこうして立ち止まっている自分などとは大違いだ。

 哨戒中だった那智と足柄たちはまだ戦線を維持しているが、自分たちに先んじて出撃した青葉が“バンシィ”とぶつかって重症だ。

 今は高雄が持ち堪えているが、それも長くはないだろう。

 提督が出現するまではただの娘と変わりなくなってしまった艦娘ではあるが、それでも出来ることはあるはずだと、皆消火活動や見張りや破損個所の修復に回っている。

 

 それだというのに、暁は真っ先にここに来た。

 自分にはこれしか出来ないと思い込んだのか、それともこれこそが最優先だと考えたのか。

 暁の他にも艦娘たちはこの場を訪れていたが、焦れたように他の場所へと駆け出して行った。

 どの道、提督が現れなければ艤装状態にもなれないと知って、早々に自分を切り替えて行ったのだ。

 切り替えられない暁は、未だここに留まっている。

 

 提督の命令を無視できるまでに深海棲艦化が進んだとはいえ、自ら艤装状態となれるかどうかは、また別の話だ。

 最初から艤装状態であるのならば、セイフティも提督の命令も、一切無視することが出来ただろう。

 しかし、艦娘が艤装状態となること。この一点に関してだけは、提督の許可が不可欠だ。いくら自分の艤装だからと言って、あるいは命令が強制力を失っているからと言って、それが覆ることは、決してない。

 肉体と艤装とを分離できることが、最大の安全装置なのだ。

 

 高雄のような一部の艦娘には自ら艤装状態になる権限が与えられているが、そういった艦娘たちは即座に戦場へ飛び出している。

 そして、ここに留まっている暁には、そう言った権限はないのだ。

 

「司令官……!」

 

 早く早くと願い、指輪のある左手を覆うように右手を被せて祈り続けていた暁は、そこでひとつの可能性に気が付く。

 しかしそれは、暁の司令官や僚艦たちに対する裏切りではないかと、それをすることは躊躇われた。

 躊躇ったが、それも一瞬だけだ。

 きっともうすぐ司令官はやってくるが、自分はそれを待ってはいられない。

 誰かが敵を抑えなければ、この伊勢型は航行不能となる。

 青葉が即刻対応しなければ、そしてそれを高雄が引き継がなければ、こちらの懐に入り込んだ“バンシィ”は既に伊勢型の横っ腹に大穴を開けていたかもしれない。

 そうなれば、皆を熱田まで送り届けることが出来なくなる。

 亡き人たちの遺物を、故郷に届けることが出来なくなるのだ。

 ここで終わりだ。

 

「そんなこと、させない……!」

 

 勢い任せに指輪を引き抜けば、目の前で待ち構えていた艤装がぐにゃりと歪む。

 思った通りだった。もうこの力を纏うことに、誰の許可もいらない。

 生き物のようにうねる鋼が体に食い込んでくる痛みに涙目になる暁は、視界の端に言葉を失って立ち尽くす妹の姿を見付ける。

 色覚が狂って白黒となった視界の中、まだ自由が利くうちにと、手の中の指輪を投げ渡す。

 

「預かって。お願い」

「暁!」

 

 響の制止を振り切って、暁は力任せに抜錨した。

 

 

 ○

 

 

 “艦隊司令部施設”を起動し妖精化した提督が伊勢型の艦内に出現した時、状況は一応の落ち着きを見せたところだった。

 電や霞たちから状況を聞きつつ、空母系以外の艦娘たちに出撃許可を下してゆく。

 情報収集と諸々への許可を並行して行う提督は、暁の下に顕現できないことに息を詰め、焦り、取り乱しそうになる。

 体の中から溢れ出そうになる不安を押し殺して、カタパルトで次々と射出されて行く艦娘たちを見送っていると、憔悴した顔の響がやって来た。

 許可が出ているにも関わらず艤装状態にもならない響。訝しる提督は、ふらふらとした足取りの主の手に、見覚えのある指輪を見付ける。

 

「響、出撃だ。皆を支援しつつ、各艦の位置を再確認しよう。誰もはぐれてしまわないように……!」

 

 提督の言葉に幾度も頷く響だが、ふら付いた体を思うように動かせないらしい。

 出撃準備中だった阿武隈に介添えされてようやく立っていられる姿に、響の出撃は見送るべきかと迷いが生じる。

 

「提督、大丈夫。私が付いています」

 

 そう阿武隈が告げる。背中を押してくれる頼もしさに、安心して響を任せることが出来る。

 響を阿武隈に任せた提督は、妖精化した己をさらに複数に分け、稼働中の全艦の下へと現れて各艦毎に指示を下してゆく。

 駆逐艦たちに曳航されて帰還する途中の重巡たちに話を聞いて、ようやく暁の行方を知ることが出来た。

 

 暁が指輪を外して出撃する直前、救援に現れた潜水棲姫“ルサールカ”が“バンシィ”を惹きつけてくれたお陰で、強力な敵を伊勢型から引きはがすことに成功したのだ。

 いざ着水して目標を見失った暁は伊勢型に迫る敵艦隊を片っ端から叩いていったかと思えば、背部艤装に搭載されていた探照灯を照射、伊勢型の護衛を放棄して離脱している。

 それを最後に、彼女の姿は確認されていない。

 

 そこまで聞いて、提督と阿武隈は頷き合い、すぐに行動を開始した。

 阿武隈が右腕部のカタパルトを展開し、夜偵を射出。

 彼女以外にも夜偵を搭載した艦娘はそれぞれカタパルトを起動、伊勢型周辺の索敵と暁の捜索とで編隊をふたつに分ける。

 そうして空からの捜索を行ったことにより、暁が伊勢型から離脱した意図はすぐに腑に落ちることになる。

 伊勢型の前方は二時の方向、数キロ先に青い炎を上げる敵艦の残骸を見つけたのだ。

 

「破片の形状と大きさから、PTたちだと断定。暁はこれを食い止めるつもりだったんだ……!」

 

 そう声を上げるのは響だ。

 息を吹き返したように表情を引き締めた駆逐艦は、敵の残骸と炎を辿って暁の行先をなぞる。

 残骸の中には重巡級や戦艦級の姿も幾つか見られ、これだけ多様な艦種をたった1隻で退けたのかと感嘆するも、ではその分の弾薬類はいったいどこから捻出したのだと、恐ろしい疑問を呼び起こした。

 予備ストッカーの分と含めても、撃沈した敵の方が遥かに多いのだ。

 最悪の事態を察して表情を陰らせる阿武隈は、先を急ぐ響の背中を見て、さらに沈痛な顔になる。

 肩に乗った提督が頬を優しく叩かなければそのまま泣き出してしまわんばかりの心境だったが、全てを見届けるまではそれも出来ないと、力任せに頬を張った。

 

 

 果たして、響たちは暁の姿を見付けることが出来た。

 小鬼たちの残骸が青い炎を上げて燃え盛る向こうに、彼女の姿はあった。

 しかし、全身を覆うように纏ったマントの下が不気味に蠢いている様を見て、阿武隈はその足を止めてしまった。

 間に合わなかった。全身から力が抜けて、足元から崩れ落ちそうになるのを堪えるのが精いっぱいで、暁に向かって速度を上げた響を止めるのが、少しだけ遅れた。

 

「指輪を……! 今ならまだ……!」

 

 普段の余裕や慎重さを欠片も失った行いはしかし、暁の側から放たれた砲弾が小鬼の残骸を直撃、引火した疑似燃料が爆発し火柱を上げたことによって足止めされる。

 海面に尻もちをついた響。追い付いた阿武隈は、力の抜けてしまった駆逐艦が再び動き出さないようにと後ろから抱きかかえ、もはや敵となってしまったかもしれない彼女に対して砲を構える。

 自らの行為に吐き気を堪える阿武隈は、それでも砲を下ろすことはしなかった。

 響がこうなってしまった現状、暁を終わらせることが出来るのは自分しかいない。

 だからお願いだと、炎が遮る向こう側に居る彼女を想う。

 御願いだから討たせないでくれ。自分たちの提督に、そんな命令を下すような真似はさせないでと。

 そして、彼女を討つ命令を下さないでくれと、肩の上の提督と視線を合わせられず、さらに思う。

 

 その思いが通じたものか定かではないが、暁は反応を示した。

 自分たちに対して右掌を向けた姿。

 卯月から譲り受けた単装砲を人差し指にひっかけ向けられた掌は、青白い燐光を内部に灯し、変異の真っ最中だった。

 

「近付いちゃ駄目……!」

 

 暁がノイズ交じりの声で告げる言葉の意味を、阿武隈は即座に理解する。

 深海棲艦への変異はもう止められない。そして今の彼女は、自分の装備では沈めることが出来ない。

 暁の体を覆うマントの隙間から見える姿は、魚雷の炸裂や砲弾の直撃によって欠損した箇所が驚くべき速度で修復・変異を繰り返しているというものだった。

 手持ちの全砲弾、全魚雷を用いても、変異途中の彼女を沈めることは適わない。響の分を用いても結果は同じだ。

 

 ではこのまま、彼女が変わり果てるのを見ているだけかと歯噛みする阿武隈は、咳き込み体を折った暁の、その言葉の先を聞く。

 言いつけを守らず勝手して御免なさいと、子供の様に謝る暁は、逡巡し、そして怒られることを恐れるかのような様子で続けるのだ。

 

「司令官、お願いがあるの……」

 

 命令して。

 暁はそう、提督に願った。

 

「最期まで暁として戦いたい」

 

 もはや提督の命令などなんの強制力も持たない身となって、それでも暁は艦娘として振る舞うことを欲した。

 提督は逡巡もしなかった。返答を待つ間など与えずに、暁に対して声を張り上げたのだ。「駆逐艦・暁!」と。

 

「命ずるよ。僕たちの障害となり得るすべてを退けろ。敵を倒し、そして救い、それを終えることが出来たのならば、必ず水無月島に帰還せよ!」

 

 変異途中の暁の目が、提督の姿を捕らえた。

 小さな妖精となった体で、提督は再度、帰還までが命令だと声を張る。

 

「待っているよ。暁が帰ってくるのを」

 

 提督と2隻の艦娘は、炎の向こう側に居る彼女が笑った姿を、確かに見た。

 肉体の変異に苦しむ彼女はそれでも立ち上がって体勢を立て直し、はっきりと了解を唱える。

 顔の左側を覆う眼帯を引きちぎるように外せば、そこには変異を終えた新たな瞳があった。

 その瞳は既に、新手の襲来を補足している。

 

「暁、出撃します――」

 

 そうして、炎の向こうにあった彼女の姿が消えるのを、提督たちは見送った。

 変異した探照灯を敵に向けて照射し躍動する、彼女の後ろ姿を。

 

 

 ○

 

 

 暁の離脱にばかり心を奪われている時間は、提督たちにはなかった。

 彼女の背中を見送った正にその瞬間にも、伊勢型へ迫る脅威が途切れることはない。

 それどころか、“ルサールカ”が惹き付け引き離したはずの“バンシィ”が、再び姿を現したのだ。

 まさか彼女がやられたのかと艦娘たちの間に緊張が走るが、安否を確認している時間は無い。

 即座に陣形が整えられる。重巡たちを前に、駆逐艦たちを後ろに置いて、“バンシィ”を迎え撃つ構え。

 反攻戦と言うよりは正面衝突に近い形となるだろう。

 

 対する“バンシィ”は、此度は自ら艦隊を率いての再来だ。

 敵重巡級以下が前面に出て、その後ろには戦艦級が控えた布陣。

 暴力的な数だが、それでも現在展開している彼女たちならば充分に対応可能な戦力差だ。

 ただし、“バンシィ”を除けば、という大前提が必須だが。

 

 その“バンシィ”自体は艦隊の中間に位置取り、各艦隊の指揮と、なにやら伊勢型の様子を気にする素振りを見せる。

 何を気にしている。木村提督の生死か。

 こうして妖精化した提督が艦娘の下へ顕現している以上、向こうも木村提督が無事ではないと確信しているはずだ。

 ならばこれ以上、伊勢型の何を気にする。

 

 重巡たちが敵艦隊の前衛と接触した直後、バンシィ”は動きを見せた。

 今まで艦隊の指揮に徹していたものを突如として放棄、尾を海面に叩きつける跳躍を見せたのだ。

 そこまでは皆予想済みであり、対策は既に用意されている。

 

「熊野」

「高雄から操作権限の譲渡を確認! 射出してくださいな!」

 

 熊野の裏返り気味の叫びと同時、カタパルトに準備されていた高雄の補完艤装が射出される。

 弧を描いて伊勢型へと飛来する敵を正面から迎え撃つ軌道。“バンシィ”は宙で己の軌道を変えること無く、自らに向かって放たれた鋼の塊を打ち砕く勢いで尾を展開しようとする。

 その動作を迎え撃つように、熊野の声は響く。

 

「補完艤装、決戦形態へ移行ですわ!」

 

 

 ○

 

 

 “バンシィ”は眼下の熊野が叫ぶ言葉の意味を理解していた。

 先々月の榛名との一戦で見た艦娘の補完艤装。

 その決戦形態は艦艇としての形状から艦娘が纏うような変化を生ずるものであったはずだ。

 

 自らに迫りくるのがそれだと理解しているし、もちろん対処法も用意してある。

 主のいない補完艤装はこちらを捕食するサメの様に展開して、“バンシィ”の本体を捕らえんとする。

 その挙動に、“バンシィ”は抗わなかった。

 敵の鋼にわざと捕獲され、こちらから侵蝕して生態艤装に変貌させる。

 その目論見よりも少しだけ早く、眼下の駆逐艦たちが砲を空に掲げた。

 

 提督が指示を下すまでもなく、駆逐艦たちは対空装備で飛翔体となった敵を撃ち落とさんとする。

 長10センチ砲に機銃にと、弾幕となって降り注ぐ先は、補完艤装の増設燃料タンク。

 高雄が自分の補完艤装を後出しにしてまで燃料・弾薬を限界まで詰めさせていたものだ。

 “バンシィ”が補完艤装を乗っ取るよりも早く、火薬庫と化していた鋼の塊は爆発する。

 誘爆に次ぐ誘爆で宙に火の玉が生ずるが、それでも駆逐艦たちは砲を下げない。

 この敵がこれだけで終わるなどとは、誰も考えていないのだ。

 

 その予測通り、“バンシィ”は火だるまになった状態から次の動きに繋げてきた。

 本体へのダメージは痛手も痛手だが、障壁によって致命傷にならない程度に緩和されている。

 そしてこれ以上の攻撃を身に受けることはないと判断し、戦闘行動を継続。

 本体は未だ宙にあったままで、爆発でひしゃげた補完艤装の装甲板を尾の咢で引きはがすと、複数枚を同時に、伊勢型へ向けて投じたのだ。

 狙いは複数箇所。そのうちひとつが艦橋に向けて飛来したことで、“バンシィ”の狙いを、あるいは彼女を従える“統率者”意図を、艦娘たちは察しただろう。

 “バンシィ”に課せられた最優先課題は、艦娘側の命令系統を断つこと。

 そして、それをただ黙って見過ごすほど、この艦娘たちは大人しくはない。

 

 もう誰も居なくなった艦橋に向けて飛来した装甲板こそ無視し、それ以外の箇所に飛来したものは、ことごとくすべてが艦に到達する前に撃ち落とされる。

 

「させると思うてか! 貴様……!」

 

 驚異的な速度と正確さで飛来物を撃ち落とした利根が、最前線をプリンツたちに任せ、姿勢を低く保ったまま“バンシィ”に向けて殺到する。

 空中での爆発によって大幅にズレた“バンシィ”の着水地点へと向かうのは、至近距離で砲撃を叩き込まんとするためだ。

 目を見開き歯を剥くその姿は、僚艦の負傷に憤怒したものであるのは確かで、こうなってしまうと阿武隈でも提督でも諌めることは困難だ。

 しかし、そんな激情の中にあっても、動作は普段よりも正確無比であり、単独で敵戦艦級を複数沈める働きをしたことを、僚艦たちは知っている。

 

 上空から降り注ぐ疑似機銃からの射撃をカタパルトを盾にして防ぎつつ、左腿の魚雷発射管より魚雷を2本、左手で引き抜く。

 “バンシィ”が4つ尾を用いて宙で軌道を変え、着水地点をずらすであろうことは、先の戦闘データより知っている。

 だから利根は、その場所を割り出して先回りし、軌道修正不可能なタイミングで砲撃する構えだ。

 

 着水時を狙われると判断した“バンシィ”は、最早避けようとはしなかった。

 爆発の衝撃と炎に焼かれながらも、身に纏わり着いた補完艤装の残骸のお陰で重巡の砲撃程度ならば容易に防げる。

 至近距離で砲撃を食らうのは確かに痛手だが、艦娘たちの布陣を一瞥した限りでは、前回のような予測不能な脅威は無いと判断したのだ。

 

「目と耳、貰うぞ……!」

 

 盛大な水柱を立てて伊勢型の右弦付近に着水した“バンシィ”は、タイミングを合わせて接敵した利根がそう呟くのを耳にする。

 直後、利根が砲撃したのは三式弾。補完艤装の残骸ごと“バンシィ”を打撃し、瞬発信管によってさらに炸裂。未だ直撃を避けていた燃料タンクや弾薬庫に盛大に着火させる。

 炎と爆音と衝撃とを身に受けながら、“バンシィ”は前回の戦闘と同じ流れに傾きつつあると予感を得ていた。

 この航巡はこちらを詰めに来ている、戦艦レ級こと“バンシィ”をここで終わらせる手段を用意している、と。

 確証は足りないが、だからこそ“バンシィ”は演算機構をフル稼働させて、艦娘たちの次の手を予測する。

 

 同時に、手の届く距離にやって来た獲物を確実に捉えることも視野に入れる。

 着水からのトップスピードは利根を追いつめることなど造作もなく、尾の咢を使えば捕獲は確実だ。

 本体に纏わり着いた補完艤装の残骸を引きはがし、尾を伸ばして、艦娘を捕らえる直前で、咢を展開。そこへ、カタパルトが突っ込まれた。先の機銃の攻撃によって損壊したカタパルトだ。

 役割を果たせなくなった艦娘の艤装を噛み砕き、根元から引き千切り、その間にも三式弾の砲撃は仰角零度で叩き込まれる。

 それ自体には大した威力がない攻撃だが、確かに目と耳を、レーダー類が次々と損なわれる。

 鬱陶しげにそれらを振り払う“バンシィ”は、歯を剥いた航巡が叫ぶ姿を見る。

 

「筑摩あぁぁ!」

 

 咆哮と同時、“バンシィ”の背部に砲撃が着弾する。

 どこからの砲撃かは、すぐにあたりが付いた。

 深海棲艦と艦娘が衝突する最前線、そこから大きく離れた場所からの砲撃だ。

 距離から予測するに、重巡級の砲撃がぎりぎり届く距離。

 艦隊の頭上を越えての砲撃はなるほど、利根型2番艦の得手であったものだ。

 思考がそこまでたどり着いて、“バンシィ”の次の行動は決まった。

 

 抵抗する利根をようやく咢の内側に捕らえ、持ち上げて、砲撃のやってくる方向へと掲げるようにする。

 主砲群を積載した艤装が引っかかって咢が閉じ切らなかったが、この航巡の右腕を巻き込み、内臓を確実に潰した。

 艦娘が戦場で本体を再生する術を持たない以上、この航巡が戦線に復帰することはもう不可能だ。

 先程この航巡がカタパルトでそうしたように、“バンシィ”は艦娘を砲撃に対しての盾にする。

 すぐに圧潰させても良かったが、対象が存命ならばこちらへの砲撃を断念せざるを得ない。

 自らが導き出した解答ではなく“統率者”の受け売り通りの行動ではあるが、状況としては有用であると判断したのでそうしておく。

 

 そして、フリーな咢を即座に爆雷投射機へと兵装転換して、爆雷を足元にばら撒く。

 重巡の遠間からの砲撃は、こちらに障壁がある以上決定打にはなり得ない。

 電探やソナーが機能を損なっている現状、脅威となるのは海中からの攻撃だ。

 艦娘側の潜水艦の総数は把握していないが、確かランチャーでこちらの動きを妨害して来たのがいたはずだ。

 先ほどの潜水棲姫が健在で、身を潜めて機会を伺っている可能性も捨てきれない。

 

 次点での脅威は航空機。現在は夜間、艦娘側から航空機の発艦はなく、空母系の艦娘も戦線に姿を見せていない。

 夜間飛行の訓練を積んだ高練度の艦載機を艦娘側は持っているかもしれないが、この状況ならば確実に“バンシィ”を狙ってくるだろう。

 そうした空からの攻撃にも、この“盾”は有効なはずだ。

 

 そうして対応を整えたところで、彼方からの砲撃が止むことはなかった。

 向こうはこちらの状況を正確に把握しているのかと思いきや、砲撃は幾度か盾にした利根に直撃して、彼女の艤装の破損を招く。

 この艦隊は味方を犠牲にして戦果を得るという選択肢を持つものたちだったかと、そう考えを改めようとした“バンシィ”は、自らが捕らえた航巡の表情に危機感を覚える。

 

「……あれは良く出来た妹じゃ。例え提督の命令に背けるようになろうとも、吾輩の命令には逆らえんよ」

 

 血の塊を吐き出す航巡の言に、そして先に一戦交えた青葉型の行動とを照らし合わせ、“バンシィ”はようやく思い違いを自覚する。

 この艦隊は味方を犠牲にして戦果を得るという選択肢を持たない。

 自らを使い潰して得た有利を味方に引き継ぎ、勝利を得んとするのだ。

 この航巡の肩に提督の姿をしたあの妖精がいないことを、即座に判断基準に加えるべきだった。

 水無月島の艦娘たちは、提督の目が無いところではこうした手段を選ぶのだと、先の戦いで見ていたはずではないか。

 

 艦娘側は今、ふたつの指揮系統で動いていると、“バンシィ”は判断した。

 提督の命令に従って動いているものと、それに従わず独自に動いているものたちと。

 

 ならば、この航巡の狙いも見えてくる。

 尾の咢に捕らえている利根を砲撃すれば、彼女の存在と引き換えに咢ひとつを潰すことが出来るだろう。

 しかし、それは代償として等価以上の益を艦娘たちにもたらすのだろうか。

 疑問しながらも“バンシィ”は利根を圧殺する判断を下す。

 そして、そのタイミングで艦娘側から新たな動きがあることも予見していた。

 予見していたが、まさか夜偵が接触すれすれまで接近して、機銃で攻撃して来るとは予想外過ぎた。

 

 かすり傷にもならない攻撃、そして1秒にも満たない思考停止から復帰した“バンシィ”は、珍しい艦種が戦線に出たことに注意を向ける。

 千歳だ。空母から水上機母艦へと艦種を変更した姿は、新たな夜偵を次々と発艦させている。

 爆撃能力もない夜偵を増やすためにわざわざ出て来たのかと、千歳から注意を逸らそうとする“バンシィ”は、自らの内側から届く声に対して、ひとつ頷いた。

 爆雷の数を追加して、投射範囲を拡大。密かにこちらの隙を伺っていた甲標的からの雷撃を阻止する。

 あの水上機母艦は甲標的母艦でもある。わざわざその姿で出てきたと言うことは、この戦場に対する支援だ。決定打の投入では、決してない。

 だからこそ、それらを決定打に変ずる手段はあるのか、内側の仮想人格に問いかける。

 

「……一足、遅いのじゃ」

 

 利根の左腿の魚雷発射管が、咢の内側で駆動する。

 即座に咢ひとつを放棄する判断を下した“バンシィ”は、内側から響く声が囁き程の声量から一喝レベルに跳ね上がったことに、これまでの思考がリセットする。

 『向こうの動きに乗るな、合わせるな』と、そう告げる声に頷き、尾を振って利根を放り捨てた。

 そして尾で海面を打って跳躍する“バンシィ”は、艦娘たちの仕込みを上空から目の当たりにする。

 魚雷の軌跡が幾つも、“バンシィ”の進行経路を通過したのだ。

 それは艦娘が発射したものもあれば、深海棲艦側から放たれたものも数多く、旗下が疑似魚雷を放つように仕向けられたことは明白だ。“バンシィ”自身が、その進路へと誘導されていたことも。

 艦隊への命令権は“バンシィ”が保持しているが、細かな指示までは与えていない。

 駒を動かすよりも自らが直接対処する方が多かった経験上、旗下に細やかな指示を与えていなかったものが、こちらの動きから推測されて、逆手に取られたのだろう。

 

 本当に利根ごとこちらを沈めるつもりだったのか思えば、放り出した航巡はすぐにまるゆが回収して離脱している。

 こうなると、利根が本当に提督の命令を無視して動いたのかは疑問が生ずることになるが、内側の声が『敵に合わせるな』と一喝した以上、もう余計なことは考えない。

 

 そして、こうして宙に離脱したのだから、当初の目的に方向修正することが叶う。

 幸いと言うべきか、艦娘たちに対応していた間に並行して進めていた演算が完了して、目標地点を割り出すことに成功したのだ。

 第一目標はここからだと遠いため、突入するのは第二目標。

 宙で重心を尾の方へ移し、回転によって落下軌道を変更。

 “バンシィ”は伊勢型の船体後部へと突入した。

 

 

 ○

 

 

 木村提督への処置を行なっていた雷は、急に体の自由が利かなくなったことに息を詰めた。

 艤装の操作性悪化と、軽微な深海棲艦化の他には、これと言って異常などなかったはずの身だ。

 それがこうして異常を感じたと言うことは、敵の何らかの攻撃によるものだと推測。

 拡声器を通じて伝えられた「“バンシィ”が超過艤装・後部格納庫に侵入」との報で確信に至った。

 後部格納庫は艤装類の保管庫でもある。

 

「わたしの艤装、壊されたんだ……!」

 

 諸々の感情が溢れ出そうになるのを堪え、雷は手元の処置に戻る。

 艤装が破壊された影響だろう、たった今まで傍らに居たはずの提督が消えてしまったことに不安や恐怖が込み上げてくるが、それで手元を疎かに出来るほど、雷は弱くない。

 艤装が破壊されたからどうしたというのだ。

 駆逐艦・雷として在れないからと言って、“雷”に取れる手段がなくなったわけではない。

 

「こっちはね、それを10年以上、考え続けてきたのよ! 積み上げてきたの! いっぱい、いーっぱい! これくらいで……!」

 

 処置完了まであと少しという時になって、目が霞んで来た。

 眼鏡をしていてもこれかと笑い吐き捨て、震えの収まらない手で処置を続ける。

 ここが敵の支配海域内でなければ、最新の医療機器によって木村提督の処置は危なげなく済むはずだったのだ。

 艦娘の艤装に纏わる諸々では、生きた人間に対して手を加えることが出来ない。

 こういった状況に対応出来ないのだ。

 あるいは病院船の艦娘が乗船していればとも思うが、彼女たちは絶対数が少なく、その所属のほとんどは本土に集中しているため、望みは薄い。

 

 だからこそ、伊勢型に乗船してからの雷は、艤装と同期を行っていない。

 あくまで同じ“人間”として処置が行えるように、艦娘としての在り方を半ば放棄したのだ。

 

 胸を張って誇るべきだとは思うが、どうしてもそういう心境にはなれなかった。

 今、医務室には雷ひとりだ。

 電も霞も、木村提督の安否を気にしながらも現状に対応するために艦内を駆けまわっている。

 ここは雷が居れば大丈夫だと、信じているのだ。

 たったひとりでいることへの不安はどうしても拭いきれない。

 それでも、応えなくてはならない。その信頼に。

 

 しかし、体は限界を形にしてくる。

 左手の指先が消失を始めた。

 艤装を解体した鳳翔が消えた時と同じ現象だ。

 歯を食いしばって涙を堪え、早く早くと手元を進める。

 

「わたしはまだ何も、満足してないんだからね! こんなところで、こんなところで!」

 

 誰にも看取られず終わりたくない。

 それは雷が艦娘として始まった日からずっと抱え続けていた恐怖だ。

 こんな最期になることを考えない日など、1日としてなかった。

 それでも、だからこそ、この処置だけは完遂する。

 この縫合さえ終えれば、後は霞たちや自立稼働型砲塔たちが後を繋いでくれる。

 自分の役割を完遂できる。

 

「……そうすれば、きっと」

 

 皆、きっと褒めてくれる。

 

 

 生まれて初めての手術は無事に終了。

 処置の全工程を完遂して、ほっと一息付いた瞬間、雷の視界は闇に覆われた。

 一寸の光も見えぬ暗闇に囚われた恐怖は、自らの役割を完遂したという誇らしい気持ちを瞬時に葬り去った。

 取り乱して余計なものに触れてはならないと、膝を丸めて小さくなる雷は、ふと体を包む暖かさをその身に感じる。

 見えずともわかる。電が戻って来たのだ。

 途端に安堵を覚えた雷の耳に、外界の音が遠退きかけた耳に、囁くような声が届いた。

 

「よく頑張ったね、雷。偉いよ」

 

 雷が知る彼の声。欲しかった言葉。

 それらを聞いて、雷は安心してしまった。

 同時に、こんな最期になって、皆に申し訳ないとも。

 だから口を突いて出るのは、震えを隠せもしない、強がりの言葉ばかりだった。

 

「寒くないの。怖くない。怖くないわ。大丈夫なんだから……」

 

 

 ○

 

 

 悲鳴のような叫びが速度を持って敵に叩き付けられた。

 叫びの主は秋津洲。格納庫で大暴れする“バンシィ”に半ば抱き着く形でタックルを強行。

 そして己の艤装のクレーンからフックを射出して、“バンシィ”の開けた大穴の外へ。伊勢型の船外は外壁に固定する。

 艤装のウィンチまで悲鳴のような駆動音を発し、秋津洲ごと“バンシィ”は伊勢型の外へと放り出された。

 足場が固い床面であったことで、あるいは狭い格納庫内という場所であったことから“バンシィ”に対して有利を得たが、ここから先はそうではなくなる。

 海上に出ればその有利は瞬く間に無に帰す。いくら怒ろうともそれを忘れる秋津洲ではない。

 だからこそ、新たに錨鎖を射出して己と“バンシィ”を強固に繋ぐ。

 接触距離にあれば、尾の咢は秋津洲の体を捕らえ難く、“バンシィ”自身がその肉体を用いて引きはがすしかない。

 そこから先の工程は、正直考えていない。

 だが、一刻も早くこの敵を外に放り出さねばならなかった。

 

 “バンシィ”は伊勢型の格納庫に侵入し、待機状態にあった艦娘の艤装を幾つか破壊した。

 誰の艤装が破壊されたかまでは、正確に把握できているわけではない。

 しかし、確実なことが3つある。

 破壊された艤装の中に、木村提督の処置中であった雷のものがあったこと。

 その艤装の核が、尾の咢に呑みこまれる光景も確かに見た。

 そして、被害を最小限に食い止めようと隔壁類を操作していた天津風が、暴風のような破壊に巻き込まれ、成す術がなかったことも。

 

 宙に投げ出され、時間の流れを遅く感じる中、秋津洲は敵の顔を至近距離で見る。

 この敵はこちらを沈めることに対して何の感情をも抱いていないのだと、怒りを込めて睨む先はしかし、鏡写しの憤怒ではなかった。

 それで噴き出した怒りが治まることはなかったが、この敵が前回の交戦から何らかの変化を得た可能性に思い至る。

 しかし、それに対して思いを馳せる余裕は、今の秋津洲には残されていなかった。

 着水までのわずかな時間。こちらに残された有利とされる時間をどう使い切るか。

 

 加熱する高速演算は半ばで途切れることになる。

 “バンシィ”の腹部に増設された機銃が発射され、接触距離にあった秋津洲の腹部に全弾余すことなく叩き込まれたのだ。

 口元まで上がってきた血の塊をどうにか飲み下し、見下ろす海面から投げ渡される凶器に右手を伸ばす。

 魚雷だ。艤装も肉体も大きく損壊して海中に没しかけている利根が、まるゆに支えられながらもこちらに投げ渡したもの。

 意図は理解している。わざわざ信管を弄って、直接叩きつけるだけで爆発するように仕込んでいたのだろう。

 ただ、秋津洲には受け取ったそれを、“バンシィ”に叩きつけるだけの力は残されていなかった。

 だから、組み付いた“バンシィ”の脇下から腕を回して、魚雷の位置を敵の後頭部に固定する。

 この距離で爆発すれば、致命傷にならずとも修復に時間と余力を割かなければならないはずだ。

 

 こちらの意図を察したのだろう。“バンシィ”が下方へ、そして戦線とは無縁の方角へ向けて砲撃を開始。

 駆逐艦たちの、あるいは遠間から機会を伺っていた筑摩の砲撃を遮るものであろう手段に、秋津洲は勝利を確信する。

 本命は千歳の夜偵部隊だ。こちらと“バンシィ”に接触せんばかりの距離まで接近して、機銃の一撃を叩き込むことが出来れば……。

 

 その時を待つ秋津洲は、魚雷を掴んだままの自分の腕が宙に舞う様を見て表情を凍らせる。

 砲火を受けて煌めくのは掃海具のワイヤー、先の戦いで“バンシィ”に奪われた艤装だ。

 その強靭さはこちらの艤装とは段違いで、彼我を拘束した錨鎖も易々と断ち切られ、秋津洲は改めて宙に投げ出された。

 そもそも空中に投げ出された時点で、もうこちらに有利などなかったなと自嘲して、自分など破壊して余りある暴力が油断なく振るわれんとする様に、薄目を閉じる。

 背中に、幼い罵声が叩き付けられたのはその時だ。

 

 “バンシィ”と秋津洲の直下で機会を伺っていた夕雲型たちの声だ。

 朝霜と清霜が射出したアンカーが宙にある秋津洲の艤装を捕らえ、引き寄せる。

 それでもぎりぎり、尾の一撃の届く範囲からは逃れられないかと思われたが、彼方からの砲撃によって“バンシィ”自体に余計な回転が加わり、飛行艇母艦を救い出すことに成功する。

 宙で身を回して追撃をかけようとする“バンシィ”に対しては、そうはさせぬと巻雲が主砲と噴進砲で妨害。

 よって、行き場を失った敵の力は、着水地点から逃げずに留まった巻雲に叩き付けられた。

 水柱と共に、破壊された艤装の破片が高々と舞い上がるなかへ、両腕に主砲を構えた朝霜が咆哮し吶喊。

 “バンシィ”に接敵するも、翻ったワイヤーによって主砲を両腕ごと切断される。

 

 それでも叫び、前のめりに行こうとする先を、横合いから体当たり気味に時雨が弾き飛ばした。

 敵が待ち構える射程距離に勢い良く突っ込む形となった時雨は、自分の得手でもあるはずの技に身に纏った艤装を寸断されて、終いには首に切断の力が巻き付いた。

 

 清霜に支えられながらその光景を見ていた秋津洲は、落ち着いた面持ちの時雨の目が、真っ直ぐ“バンシィ”を見据えている姿に、言い知れぬ焦燥感を覚える。

 意識が断たれるその時まで、真正面から敵に相対する姿勢なのだ。

 頼むから逃げてくれと、加勢したい気持ちに、体も艤装も付いてこない。

 彼方からの砲撃も止んでしまっている。筑摩に何かあったのか、それとも撃つのを躊躇っているのか。

 自分を放って時雨の援護をと清霜を見るも、秋津洲を抱えたまま固まっている駆逐艦には、それ以上掛けるべき言葉が見つからない。

 

 仲間の最期となるはずの光景はしかし、敵が動きを止めたことで、最期の瞬間が引き伸ばされた。

 速度を緩めず、それでいて攻撃の手をすべて止めて微動する“バンシィ”。様子がおかしいのは明らかだ。

 彼女の表情からはその意図を読み取れなかったが、それは明確な形となって現れた。

 “バンシィ”の腰部から、四つ又に分かれた尾の他にもう1つ、新たな尾が出現したのだ。

 

 深海棲艦特有の変異によるものかと、出血多量で意識が遠退きかけている頭で思考する秋津洲は、提督を経由した夕張の声を聞く。

 

 

 ○

 

 

「……時雨と“ナックラビー”の一件から、天津風と考えていた計画があったの」

 

 破壊され、周囲から炎が昇る艤装格納庫にて、動かなくなった天津風を膝に乗せた夕張が、虚ろな目で語る。

 

「複数の艤装核を保有すると言うことは、そしてそれを機能拡張に用いると言うことは、それだけ保有艦の寿命と自我を損なうものよ。“バンシィ”が複数の艤装核を保有していることは、前回接触した時に収集したデータからも明白。だから、仕込んだの」

 

 天津風の頬に触れて、互いの温度差を確かめる連装砲くんから視線を外し、夕張は大穴の空いた格納庫の外、炎と音が止まない戦場を見る。

 

「艤装核に、対抗プログラムを付与したわ。もしも“バンシィ”が再び私たちと接触したら、そして誰かの艤装核を鹵獲するような真似をしたのならば、変異を誤動作させて、暴走するように……!」

 

 深海棲艦の変異パターンの解析は暁や時雨という症例があったため、ほんの一部だけではあるが、しかし重要な基礎部分を解析することは出来た。

 対抗プログラムの内臓先は、発案である夕張と天津風と、そして艤装に新たな刷り込みが必要だった雷と時雨だ。

 艤装核に手を加えるという禁忌に手を出した代償は高く付いたが、検体である4隻はそれを今まで隠し通せた。

 

 そして“バンシィ”は、雷の艤装核を鹵獲した。

 今回こちらの艤装核を鹵獲した意図が、情報収集であったのか機能拡張のためだったのか、またはそれ以外の目的があったのかは、定かではない。

 そういった敵側の事情はさて置き。格納庫を破壊し、天津風に致命傷を与えるその瞬間、彼女がしてやったりと笑んだ姿に、果たして敵は疑問を覚えただろうか。

 

 

 ○

 

 

 5つ目の尾が暴走して、“バンシィ”自らに喰らい付く。

 全生態艤装の操作が甘くなり、緩んだワイヤーから時雨は脱出を果たした。

 ワイヤーに引っかかったお下げが左耳ごと持っていかれたが、それを気にする余裕はない。

 遠ざかろうとする駆逐艦を追おうと手を伸ばした“バンシィ”は、その手に刃が突き立つ様を見る。

 駆逐艦・叢雲の伸長展開式の長槍だ。それを投射した主は今、宙にあった。

 

 伊勢型のカタパルトで射出された葛城の補完艤装。全長およそ4メートルのそれは、兵装のほとんどを撤去して船体としての役割しか持たない通称“桟橋”。

 突貫で機関を内蔵し、現在は不安定ながら航行能力を得たものだ。その飛行甲板上に、片膝を付いた叢雲と初春の姿があった。

 補完艤装の主である葛城は、艦橋部が船体後方にスライドしたことで生じた空間に自ら納まり、腰部艤装と補完艤装とを接続した姿。

 弧を描いて落下軌道に入るなか、かの敵が行ったように全身を使って宙で方向をずらし、斜め上から“バンシィ”に突っ込む。

 打撃と着水が同時に起こり、間を置かずにフル回転となった仮想スクリューが速度を生んで、艦首に張り付けとなった“バンシィ”を伊勢型から大きく引きはがす。

 

 敵が暴走状態の今、障壁は機能していない。

 砲雷撃でも致命打を与えることが出来ると、叢雲の一撃が通ったことで確証は得ている。

 だが、もうそれを行えるほどの艦娘は、海上に展開していない。

 敵艦隊を抑えている重巡たちはもちろん、補完艤装の速度に着いてこれる駆逐艦はもういない。

 伊勢型に残っていた空母勢も負傷した艦を救助するために出撃したが、攻撃に加われる程夜に慣れた艦はいないのだ。

 つまりは、この3隻で決めるしかない。

 

「出来るの? 私たちに……」

 

 補完艤装を操作する葛城が青ざめた顔で呟く姿に、飛行甲板に乗った叢雲と初春は顔も向けずに薄く笑む。

 言葉も掛けず、気遣う仕草も無く、ただ表情が「出来る。今からそれを証明する」と語る。

 

 状況の把握を済ませた“バンシィ”が復帰する。

 “桟橋”の艦首に胸部から下を密着させた体勢から、尾の咢を砲撃仕様に換装して、開口。

 その瞬間を狙い、甲板の前方に位置していた叢雲が、タイミングを合わせて己の主砲を敵の咢に突っ込んだ。

 即座に砲撃。己の主砲ごと咢ひとつを潰し、こちらを捕獲しようと開いた咢に対しては、その口内に向けて予備の長槍を放る。

 咢の内側で展開した長槍は閉口をわずかに遅延させ、やはり叢雲はそのまま砲撃を叩き込んだ。

 全身に汗をかき体の震えが止まらないが、敵の動きに対応出来ているぞと、叢雲は呼吸すら忘れて追撃する。

 暴走する5つ目の咢が3つ目の咢を押さえているため、“バンシィ”の取れる手段は大きく制限される。

 尾のひとつを抑えたため跳躍は不可。取れる手段は戦艦級としての膂力に頼ったものか、その他の生態艤装によるものか。

 あるいは、この“桟橋”を侵蝕して、向こうの生態艤装に造り替えるか。

 

 “バンシィ”が選んだのは、まず速度を削ること。

 無事な咢で海面に噛み付き、“桟橋”の速度を殺さんとする動き。

 体感できるほどに速度が落ちたことを悟った葛城は、仮想スクリューの回転を更に上げて対抗するが、不安定だった機関が焼き付き、限界を向かえる。

 内部から煙が上がり、“バンシィ”に持ち上げられる形となった補完艤装を、葛城は放棄する。

 腰部の接続をパージして離脱。船体後部が持ち上がり、つんのめった叢雲がどこかへ飛んでゆく中、それでも甲板上に身を置く初春の姿を葛城は見る。

 

「妾は正直、もの事を考えるのが苦手じゃ」

 

 時間の流れを遅く感じる中、いったい何を言っているのかと疑問する葛城は、初春が止めを決めるのかと、宙に投げ出されながらもその動向を注視する。

 

「それでも、わかることはあるぞ? この瞬間のために、皆が布石を積み重ねてくれたことくらいは……!」

 

 声を張る初春は、懐から取り出した扇子を広げてひと扇ぎ、それを“バンシィ”に向けて放る。

 「お主にはこれが、何らかの意味がある所作に見えるかえ?」と問いかける先、“バンシィ”はゆらりと舞う扇子に目を奪われる。

 “バンシィ”は宙に舞う扇子に注意を惹き付けられるも、それを対して意識はしなかった。

 材質こそ艦娘の艤装と同質のものを使用してはいるが、それだけだ。先の叢雲の槍のように攻撃力を秘めているわけではない。

 注意を向けるべきは、目の前の艦娘の次の挙動だと、扇子の向こうの初春に注視する。

 そして気付く。初春の艤装から、二門あったはずの主砲が消えていることに。

 

 すぐに、どこかへ飛んで行った叢雲がその主砲を手にしたのだと“バンシィ”は判断した。

 しかし、その叢雲は視界の端で、うつ伏せの姿勢で海面にへばり付いている。

 では、消えた主砲はどこへ?

 その答えは、左弦側に感じた気配によって明らかになる。

 レーダー類を根こそぎ駄目にされていた“バンシィ”にとって、そうした直感の類は未知の感覚であり、新鮮で、そして恐怖に値するものだった。

 初春の主砲が、宙に浮いていたのだ。

 

 ――艦娘の素体となった少女たちの中には、所謂超能力や霊能力を有する者が数多くいたそうだ。

 そういった娘たちの多くは空母などの艦載機運用能力を有する艦艇との相性が良かったとされているが、一部は駆逐艦たちに振り分けられた。

 それ等が初春型であり、特に一番艦である初春には、最も能力の高かった娘が選ばれたそうだ。

 クローン体でもその能力を発揮できるのか等の懸念はあったが、それは空母系の艦娘たちが巻物等で艦載機の発艦を成立させることや、今の初春の姿こそが、その答えだ。

 

 左舷側に突如出現した主砲に、“バンシィ”は左腕を掲げて対応した。

 接触距離での砲火は“バンシィ”の左腕部を破壊し切れず、余波で主砲の方が損壊する。

 そして本命と見られる攻撃は、“バンシィ”の背後を確実に取った。

 背後に回り込んでいたもうひとつの主砲。

 砲撃にタイミングを合わせてブレーキにしていた尾を跳ね上げて、それをも破壊する。

 これで目の前の駆逐艦の攻撃の手はすべて潰した。

 見たところ、この初春型は魚雷発射管を装備してない。

 先ほどの様に魚雷を投げ渡すような存在も、もう近くには居ない。

 そう、“バンシィ”は判断しただろう。

 

 それどころか、力を使い切ったのだろうか、初春の頭上に浮いていた艤装が光を失って、糸が切れたかのように落下する。

 背部の艤装類も同様で、ランプが赤く明滅したかと思えば、光を失って停止してしまう。

 艦娘からの攻撃を凌ぎ切ったと、“バンシィ”は確信しただろう。鼻先に何かが接触する、そんな予感を得るまでは。

 それは、ここにあってはならないもの。魚雷1本。1秒もせずに接触する。回避は不可能だ。

 補完艤装が着水して加速を得る瞬間に、初春が利根から受け取ったもの。

 秋津洲に投げ渡されたものと同様に、信管を操作して接触するだけで炸裂するように仕組まれたものだ。

 どこから取り出したものだと疑問する“バンシィ”は、それがずっと目の前にあったものだと悟る。

 扇子から注意を外す際に、その後ろに隠れていた魚雷からも、注意を外してしまっていたのだ。

 

「奥の手じゃ」

 

 血の気が失せて唇まで真っ白になった初春の声は、かすれた小さなものではあったが、“バンシィ”には明瞭に聞き取ることが出来た。

 対応は間に合わず、魚雷は“バンシィ”の顔面へと吸い込まれ、炸裂した。

 

 

 ○

 

 

 何でこんなことになったのだろう。

 電はそう、未だ夜明けの遠い黒い海を虚ろに眺め、呟いた。

 たった2時間だ。たったそれだけの時間で、どれだけのことが起きただろうか。

 木村提督が重症を負って、僚艦が何隻も居なくなった。

 負傷艦も数多く、皆現実を受け入れ難く俯いている。

 電自身もそうだ。これまでの長い艦娘としての生の中で、幾度もあったはずの出来事だ。

 前線を退いていた時間が長すぎたのかと考え、それは違うと首を振る。

 こんなこと、慣れるはずがないのだ。

 

 顔を上げるといつの間にか隣りに霞が居て、とても見れたものではない酷い顔をしていて。

 ぼそぼそと呟くように、纏め上がった伊勢型の現状を報告してくれる。

 超過艤装・伊勢型は、損傷こそあったものの健在で、このまま航行可能だ。

 敵が格納庫で暴れたために、一部機能の復旧に時間を要するが、それ以外は支障なし。

 支障をきたしたのは、乗員の方だ。 

 

 木村提督はなんとか一命を取り留めた。

 今のところ容態も安定しているが、意識は戻らない。

 もちろん、提督として艦娘に命令を下すことは出来ない。

 負傷の度合いで言えば主力であるはずの重巡たちが特に酷く、那智と足柄は再起不能だ。

 元々ここまで持ったのが奇跡であった彼女たちだけに、再び目を覚ますことなく艦娘としての生を終えるかもしれないとの診断は心が痛い。

 駆逐艦たちの消耗も著しくはあるが、負傷の度合いは重巡たちほど酷くはないし、深海棲艦化の影響で回復速度は格段に上がっている。

 最も酷いのは、無事だった彼女たちかもしれない。

 戦いに出て帰ってきたものも、戦いに出られずにいたものも、一様に生気を失って動かなくなってしまった。

 以前の様に皆が無事であったのならば、生きてさえいれば、違っただろうかと電は思う。

 

 今回は違う。

 仲間が居なくなったのだ。

 

 雷が消える瞬間を看取った。

 冷たくなった天津風の姿に呆然とする夕張と連装砲くんの姿を目の当たりにした。

 そして、提督から暁の離脱を伝え聞いた。

 

 姉たちが、再会した古い友が、一度に居なくなってしまった。

 略式の葬儀を終えても、未だにその現実を受け入れられずに居て、頭が考えることを拒んでいる。

 これは罰か。幸せの、さらにその上を望んだ罰か。

 

 そうして自責の念に駆られる時間を、敵は与えてくれなかった。

 哨戒中の夜偵が敵襲を知らせる。

 手すりを握ってしゃがみ込んでいた体が跳ね上がるが、そのまま動かなくなる。

 現状対応可能な戦力はどれくらい残っているか。

 伊勢型の速度を上げて逃げ切ることは可能か。

 判断材料を洗い出すところまではいつも通りに出来るが、そこから先はぴたりと止まってしまう。

 いつもの様に判断が下せない。答えが出せない。

 敵が迫っているというのに。

 

 考えが同じ地点をループする。

 敵襲は此度も多段。第一波と接触し交戦する間に第二派が到達する。

 伊勢型付近での交戦は流れ弾が当たる危険性が高く推奨できない。

 かと言って、距離を取っての迎撃は艦隊の足を止めることになる。出撃した艦娘たちと、伊勢型の両方をだ。

 ならばルートを再計算して、交戦を避けて逃げの一手はどうだと光明を見出すが、続報は3方向からの挟み撃ちだとダメ押し。

 それに、伊勢型の速度を上げ過ぎればスクリューがいかれて航行不能のリスクが生ずる。

 徹底抗戦しようにも戦力が足りない。ここまでの航海を暁に頼り過ぎていたのだと、改めて思い知らされる。

 

 言葉を発せず、口を開くことしか出来ない電の隣りを、誰かが駆け抜けた。

 助走をつけて、手すりを蹴って跳躍し、眼下の黒い海面に着水する。

 提督と共に幾度も見送った後ろ姿は、艤装状態の阿武隈のものだ。

 これまでと異なる点がひとつあるとすれば、こちらに振り向いた彼女の瞳が、綺麗な空のような青から、血のような赤に変わってしまっていたこと。

 何故、艤装状態で伊勢型から飛び降りたのかは、聞かずともわかる。 

 敵を抑えるつもりなのだ。

 たった1隻で行くつもりかとの電の叫びは、甲高い調子はずれの叫びにかき消される。

 熊野だ。先ほどまでブレザーのほつれを縫っていたものを面倒くさそうに放り投げて、阿武隈に倣うようにして飛び降りたのだ。

 彼女たちだけではない。清霜に風雲に、浜風に磯風。筑摩、鳥海と、出撃可能な艦娘は次々と飛び降りてゆく。

 敵襲に備えて艤装状態のまま待機していたのが裏目に出た。艤装を纏ってさえいれば、彼女たちはもう、独自の判断で出撃可能なのだ。

 

 提督に彼女たちを止めてくれと願う電は、しばらく前からその提督の姿がないことに、今さら気付く。

 木村提督の代役を担うため、提督はこれから再度妖精化して、伊勢型の指揮を執る。

 長時間運用の負荷を抑える設定変更のため、一度“艦隊司令部施設”をオフにしている現状を、敵は再び狙ってきた。

 だが、もう2時間前とは違う。もう何隻もの艦娘が、命令の楔から解き放たれてしまった。

 海上に集まった艦種と編成を再確認した阿武隈は、自分たちを見下ろす電たちに伊勢型はこのまま行けと指示を送る。

 

「……そんな、置いてなんか行けないのです!」

 

 悲鳴のような電の言葉に、阿武隈は苦笑いで違うと告げる。

 

「伊勢型を狙う敵を退けたら、私たちはそのまま水無月島に帰投します」

 

 馬鹿なと、霞が血相を変えて吐き捨てた。

 現在位置は水無月島から2週間かかって辿り着いたのだ。艦娘たちが無補給で帰れるような距離ではない。

 叱りつけるように戻るべき理由を数挙げて行く霞に対して、阿武隈はわかっていると笑って見せる。

 悲鳴のような言葉に背を向け、再編成した艦隊のひとつを自ら率いて、敵の初動を抑えに行く。

 あとで提督にも叱られます、とも言い残して。

 

「確かに、ここで立ち止まってしまっては良い的だな」

 

 血が滲むほど手すりを握りしめた日向の言を、霞は黙れと一喝する。

 

「どいつもこいつも勝手なことばっかり! 提督に変わって指示は私が出すから、勝手に動けるからって、勝手に動くな! 停止! 一旦停止!」

 

 後部甲板上に居た面々も、海上に降りてしまった面々も、一様に動きを止めて霞の方を注視する。

 顔を真っ赤にした朝潮型は、先ほどまでの青ざめた様子を微塵も感じさせない剣幕で、拡声器も無しに声を轟かせる。

 

「私は秘書艦よ? 現状、全責任は私にあるの、わかる!? 行くなら行く、残るなら残るでいいわ! ただし、それはあんたたちの判断じゃない! 私の指示よ! 持ってくのは燃料と弾薬だけで充分! 責任とかそういう余計なものは、全部ここに置いて行きなさいな!」

 

 一息に言った霞は息を吸い直し、今度は伊勢型艦内に向かって声をつくる。

 

「伊勢、日向! 速度上げて、離脱急いで! くれぐれもスクリューやらないように! 千歳は水上機母艦モードのまま夜偵運用! 空母たちは夜明けに備えて、艦載機の確認は万全に! あと格納庫! “隼”2隻の投下準備、急いで!」

 

 涙目でまくし立てる霞の前に、いつの間にか熱田の阿武隈が立っていた。

 

「何よ、あんたも行くっていうの? あんたは水無月島の阿武隈じゃないのよ? 練度も低いし第二改装じゃない。あんたが行ったところで、何が出来るって言うのよ!?」

「それでも頭数は多い方が良いです。“隼”の操舵も訓練しました。それに、こんな私でも強くなれるって、教えてくれた人がいますから……」

 

 熱田の阿武隈が海上を見やれば、水無月島の阿武隈が困った様に笑んで見せる。

 その姿に、霞は拳を握りしめ、わなわなと全身を震えさせる。

 怒りが爆発するのかと焦る電と阿武隈は、秘書艦の消え入りそうな声を聞く。

 

「必ず皆で、生きて島に辿り着きなさい。そして私たちがあの島に戻るまでに、もう誰も沈ませないくらいに、強くなりなさいな……!」

 

 笑んで頷いた阿武隈は手すりを飛び越えて、海上の面々に加わった。

 それらを見送る霞の小さな後ろ姿に、電はやはり、慣れるものではないと涙を堪える。

 何も出来ずに仲間を見送るしかない心境など、どうして慣れようと言うのだ。

 

 

 



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6話:

 駆逐艦・磯風は虚ろな目で、無風に萎れる吹き流しを見つめていた。

 天津風の髪飾りであった吹き流しだ。

 ふたつあったものを浜風共々譲り受け、お互いの艤装に括りつけてある。

 いま目にしているのは浜風の艤装に掲げてあるもので、風が無くともかすかな揺れと動きが見られる。

 艤装の駆動によるものではない。顔を覆って嗚咽を噛み殺している浜風の震えが伝わっているのだ。

 

 泣くという行為は悲しみを受け入れるという意味があるのだと、誰かが言っていた。本で読んだ一文かもしれない。

 その考え方で行けば、浜風は天津風の喪失を受け入れている最中と言うことになるし、自分は受け入れられていないのだなと、磯風はそう思う。

 受け入れられないのか、受け入れることを拒否しているのか。

 艦娘となる前には、鋼の時代には幾度もあったはずなのに、まるで初めてのことの様に動揺している。

 これが人の姿を取ることで得られたものかと思えば、なるほど確かに、不便極まりない。

 

 しかしそれでも、亡き者の遺品から目が離せなくなるのは、全方位を知覚出来るはずの自分の視野が一点に狭まるのは、自分は悲しんでいるのだと、そう自覚させられる。

 熱田島所属の磯風は、建造されたから今までで初めて、仲間の喪失に立ち会った。

 同型艦で姉でもある、天津風の喪失に。

 

 そうしてどれだけ意識を狭めていたものか、“隼”の船室に熱田の阿武隈が戻っていたことにしばらく気が付かなかった。

 見張りも出撃も交代で行っているというのに気を抜き過ぎだと焦る磯風を、阿武隈はまだ座っていろと落ち着ける。

 

「今は風雲と清霜が出ているから。ふたりはまだ休んで」

 

 笑んで告げる阿武隈の背後、戦闘糧食を抱えた潮が顔を覗かせて「食べます? 食べられますか?」と表情で問うてくる。

 残念ながら食べられそうにないと首を振る磯風の元へ、それでもふたり分以上の数が積まれ置かれて、さてどうしたものかと眉をひそめれば、妖精がどこからともなく缶切りを取り出してきこきこと規則的な音を響かせる。

 妖精化した提督だ。無理にでも食べろと言うのかと、心の中で反発が生まれるも、確かにそうするべきかと缶を手に取れば、いつの間にか傍らの浜風が大口でおにぎりに噛み付いている。

 

 目を丸くして見つめる先、目を真っ赤にした妹艦はまだ泣いている。

 まだ泣いているが、泣いているだけではない。

 こうしていつもの様に食事することで自分を取り戻そうとしているのか。

 ならば、自分はどうする。

 肩に乗る妖精提督をじっと見ても、彼は何も言わない。

 掛けるべき言葉が思い付かいというわけではなく、自分ならば、駆逐艦・磯風ならば大丈夫だという信頼によるものか。

 以前、この提督には提督としての在り方や人としての在り方等を大見得切ってまくし立てたことがあるが、それが今さら申し訳なかったと思えてくる。

 恥を忍んで言葉を作るならば、何か言ってほしい。

 しかし、そんなこちらの考えなどお見通しで、あえて黙っているというのならば、自分はもうどうするべきか、それをわかっているからだと考える。

 

 思い至って、ようやく安堵が得られた。

 自分に命令を下し背中を見つめる者がいるというのは、安堵に一役買うものだ。

 何かあれば、その時ははっきりと指示が下るのだ。

 だからそれまでは思う通りにするといい。

 提督の視線をそう受け取った磯風は、綺麗に開いた牛缶をそのまま浜風に手渡した。

 自分で食べるだけの気力がないので、人の食べている姿を見て活力を貰おう、そう考えたのだ。

 

 

 ○

 

 

 伊勢型から離脱して敵を掃討した面々は、そのまま投下された“隼”へ搭乗し、執拗に追いすがる残敵の撃破に乗り出した。

 早々に敵を撃沈出来ればすぐに伊勢型へ追い付けるかもしれないという淡い期待もあったが、続々と出現する敵艦隊によって、その道は断たれた。

 むしろ、それらの敵を放置しては伊勢型へ被害が及ぶため、こうして後続を足止めする他に手はなかったはずだとも思う。

 あちらの守りは残った艦娘たちが入渠明けに立て直しているだろうとは思う。

 重巡たちはともかく、駆逐艦たちの回復は早まるだろうと予測が成されていたはずだから。

 

 だからと言って、向こうの心配がなくなるわけではない。

 あの巨体を背にしていては思うような迎撃が出来ないことを、あの夜襲の時に初めて知ることとなった。

 暁に戦線を任せていたのが仇になったと、そう言わざるを得ないことに、水無月島の阿武隈は唇を噛むしか出来ない。

 背中に守るものを置かないことで全力を発揮出来るなどと、どうして誇れようというのか。

 それは、伊勢型に残った面々も同じはずだとも……。

 

「阿武隈さん?」

 

 潮の声に慌てて顔を上げると、向こうの顎とこちらの頭が強かに接触した。

 割れんばかりの激痛だ。向こうも相当に痛いだろう。

 呼びかけられるまで他者の存在が視界から外れていた。

 疲労のせいもあるだろうが、これでは磯風たちに小言のひとつも言えなくなる。

 

 潮の呼びかけは、彼女の記憶に残る浮島の分布に関するものだった。

 敵支配海域へと突入し取り残された半年間、潮は浮島に身を潜めて敵をやり過ごしていた。

 その間に辿った浮島を利用する。

 まだ無事である浮島を経由し補給等を行って、自分たちは水無月島へと返り付くための算段を立てている。

 現状はまだまだ戦えるが、まだ戦えるというだけ。

 こんな海の上では入渠も出来ない。艤装の修復もだ。

 長大な超過艤装の恩恵はもうない。

 

 しかし、今は“隼”が2隻もある。

 元々水無月島の艦娘たちと提督は、これに乗ってこの支配海域を脱するつもりだったのだ。

 こうして実際に取り残されてみて、やはり無謀な考えだったと、改めて思う。

 だが、今の自分たちはその無謀を推してでもやらなければならないのだ。

 哨戒シフトは重巡もしくは軽巡1、駆逐2で組んである。

 あとは浮島にて補給を行い休息を取りつつ、羅針盤を頼りに島へと帰り付くだけだ。

 

 水無月島の方でも、こちらを支援するべく動き出している。

 榛名と霧島が高速型の補完艤装を待機させ、阿武隈たちが有効距離まで帰り着いた際には緊急出撃。

 あらゆる敵を蹴散らして迎えに行くのだと、戦艦姉妹が意気込んでいるのだとは提督談。

 

 それだというのに、阿武隈の表情が晴れることはなかった。

 榛名たちが迎えに来ればこちらの安全が保障されたも同然だという思いはある。

 だからそれだけに、そこに至るまでの道中があまりにも険しいことも理解しているのだ。

 

「あの、少し休んでは……」

 

 控えめな潮の声に、阿武隈は薄目を閉じて首を振る。

 提督にも再三に渡って言われているが、どうしても落ち着いて座っていられない。

 こうして潮に提案を持ちかけられなければ、今も海上で警戒に当たっていただろう。

 

「わかっているの。でも、動いていないと、その……」

 

 泣いてしまいそうだからと、阿武隈は困った様に笑むのだ。

 

 

 ○

 

 

「……そう。じゃあ今のところ、島に帰った連中は無事ってわけね」

 

 超過艤装・伊勢型の前部甲板。

 小さな提督の言に、霞は腕組みを解いて深く息を吐いた。

 ひとりでいる時ですら表情を厳しく張りつめさせていたものが、ここに来てようやく力を抜くことが出来たのだ。

 これで、木村提督の容態が急変すること無く、無事に敵支配海域を抜けることが出来れば、その時はすべてを忘れて大の字で倒れることが叶うだろう。

 昼のぬるい天候の中を、伊勢型は修復を行いながら航行中だ。

 艦橋にはシートが張られ、船体後部はむき出しのまま、妖精たちの手による修復が行われている。

 

 木村提督が重篤の今、代わりに水無月島の提督が指揮を執ってはいるが、そのほとんどは許可を下すに留まっている。

 方針決定のほとんどは霞と電が行い、それは今のところ上手くいっている。

 あれから敵襲が一度もなく、出撃も最低限に抑えられているから、という部分もあるだろう。

 そんな現状を、霞は解せずにいた。

 自分が敵ならば、この機会を逃すことはないだろう。ここで一気に片を付けるはずだと。

 敵がそうして来ないのは、何らかの理由があってかと再び腕組みする霞は、提督が誰かに向かって手を振る姿を見る。

 ちょうど、電が前部甲板にやって来たところだ。

 黙して目だけで「どう?」と問えば、首を横に振る答えが返る。

 医務室から出られなくなった響の見舞いに行っていたのだ。

 

 暁が離脱し、雷が消失して以降、響は部屋から一歩も外に出なくなった。

 誰が呼びかけても答えず、食事も摂らずの日々が続き、つい先日、意識を失っているところを発見されて船渠へ担ぎ込まれたばかりだ。

 艤装との同期も数日行っておらず、衰弱した肉体が回復するには時間がかかる。

 明白なのは、肉体よりも心の衰弱の方が著しいことだろうか。

 例え回復したとところで、戦線に復帰するにはかなりの期間を要することは避けられない。

 電にしてみれば、姉妹たちが失われ、最期に残った響だ。

 この状況に対して不安を感じ、しかし同時に安堵してもいるのだろうなと、霞は嘆息気味に情報交換を切り出した。

 

 情報交換といっても、その出所は索敵機からの報告と、提督経由の話に限られる。

 外界の情報が得られないのは支配海域に突入した時と同様だが、それでも敵姫級などと対峙し撃沈した際の海域一時解除で、断続的に外界からの情報を得ることは可能だった。

 

「……敵の“統率者”が姫鬼の投入を控えているのは、ほぼ確実なのです。伊勢型の皆が救援に来てくれた数ヵ月前を最後に、敵は空母級どころか大物すら温存しています」

「意図は明白よ。姫鬼級の喪失に伴う海域一時解除で、こっちと外界とで情報のやり取りをさせないため。そして、大量の水上戦力を投入しての消耗戦を仕掛けて来ているわ。しかも、こっちじゃなくて、島に帰った阿武隈たちの方を狙ってね」

 

 敵の手による情報封鎖、そして消耗戦。

 狙いは水無月島に帰還しようとしている戦力への打撃。

 こちらから提督経由で渡せる情報などたかが知れていて、今も戦いの渦中にいる彼女たちを支援できないのが心苦しいと霞は息を詰める。

 しかしならば、こちらが無事に支配海域を抜けたという報で向こうを安心させてやるのが一番の土産かと顔を上げた先、眉根を寄せて懸念を露わにする電の横顔を見る。

 

「……現状、向こうより早く、私たちの方が詰む可能性があるのね?」

 

 頷く電と、彼女の手に乗った提督の姿を、霞は見る。

 妖精化を持続する提督に掛かる負荷の問題かと、そう考え至ったが、すぐに違うことを目の当たりにする。

 電の手に乗る提督の姿にノイズが走り、輪郭を残して黒くなってしまったのだ。

 息を飲む霞が何か言葉を発する前にその変化は元通りになったが、言い知れぬ不安を胸中に抱かせるには充分すぎた。

 

「もちろん、こうしていることそのものが、司令官さんの寿命を損なう行為であるのは確かなのです」

 

 しかし、それよりも直近の問題があるのだ。

 

「“艦隊司令部施設”の有効圏外に出ようとしているのです。その範囲を出てしまえば……」

 

 妖精化した提督は、この伊勢型に顕現することが出来なくなる。

 超過艤装・伊勢型に、そして艦娘に命令を下せる者が居なくなるのだ。

 伊勢型に搭乗している艦娘たちは今、命令系統と最大の安全装置を失おうとしていた。

 

 

 ○

 

 

 索敵機の帰還を待つ鳥海は、交代後も船室に入らず、ずっと外を眺めつづけている筑摩の姿に不安を覚えた。

 同じ熱田島所属であり、同じく深海棲艦から奪取した艤装核より建造された艦娘同士だ。

 利根の髪を留めていたリボンをひとつくすねてサイドテールにするも、この無風の海では長い髪が風に揺れることはない。

 

 現世における境遇こそ似ている互いだが、鳥海はこの重巡洋艦のことを良くわからずにいた。

 大破して重傷を負った姉のことが心配なのか、それとも、その原因の一端を担った自らを悔いているのか。

 恐らくはそのようなところだろうかと、鳥海は去った巨影のことを想う。

 

 鳥海自身に限って言えば、姉妹艦である高雄のことを心配はしていない。

 まったく、これっぽちもと、そういったレベルでは決してないのだが、彼女は自分よりも生存能力に長けていることを知っているのだ。

 “バンシィ”とぶつかった際も、艤装の損壊具合に比べて肉体の損傷は驚くほど軽微なものだったと聞かされている。

 そもそもが“艦隊司令部施設”の試験運用機として割り当てられていた彼女だ。

 性能的にも、そして当人の気質としても、慎重さを失わずに立ち回ったはずだ。

 

 それでも、あの惨状は避けられなかった。

 あの程度で済んだと、そう考えるべきかとも思うが、そう簡単に割り切れるものではない。

 友が重症を負う姿を目にしてしまっては、尚更だ。

 

 思考に没していた鳥海は、筑摩が大きな動作を取ったことで我に返る。

 何事かと身構える先、彼女は手すりから身を乗り出して彼方へ目を向けていた。

 敵航空機の接近を悟ったものかと思ったが、姿を現したのは鳥海の水偵だ。

 付近に着水したそれを潮が釣って言うには、近海に敵影無しとのこと。

 

 伊勢型と別れてからこれまで、敵襲はあるものの、その頻度は以前の比ではない。

 特にここ最近はめっきりと数が減り、もう3日も“敵影無し”が続いている。

 空も海上も、そして海中もだ。

 こうなってくると、戦力を一ヵ所に集中させてどこかで待ち伏せているのではと考えざるを得ない。

 それがこちらに来るか、向こうに及ぶか。

 そう考えると気が気ではないし、考え出したらきりがない。

 現状は大丈夫でも、次の瞬間にはと、幾度も背筋を震わせている。

 どうすれば高雄のように慎重に、そして冷静に立ち回ることが出来るものかと、力なく天を仰ぐ鳥海は、視界の端で潮が耳まで真っ赤に変色する様を見て訝しる。

 

 潮の視線を目で追って、思わず頓狂な声を上げてしまう。

 筑摩だ。目を離した少しの間に、彼女は着ているものすべてを脱ぎ去り、なんの躊躇いも見せずに海に飛び込んだのだ。

 お手軽な自殺かと血相を変えて筑摩を引き上げんとする鳥海は、一度沈んだ彼女が海面に顔を出して息継ぎする姿に、混乱して頭の中が真っ白になる。

 

「このところ、お風呂にも入れていなかったでしょう?」

 

 きょとんと、まるで子供のように告げる筑摩に、鳥海は言葉を失った。

 気が違ってしまったかとも思ったが、単純に肝が太いだけなのではないか。

 “隼”が停泊中でなければ遥か彼方に置き去りだというのに、このような行為に及べるだけの豪胆さを持っているとは思いもしなかった。

 仲間であっても、まだまだ知らないことが多いものだと、鳥海は艤装から予備のフロートを取り出す。

 この海域の海水は塩分濃度が高く人体が沈み切ることは稀だが、念のためだ。

 赤と白で色分けされた浮き輪を筑摩に被せると、にっこりとほほ笑み返してきた。

 

 確かに筑摩の言わんとしていることも一理ある。

 頼りであった浮島が、そのほとんどが破壊されていたがゆえに、ここまでは“隼”内の備蓄で持ち堪えているのだ。

 まだまだ水無月島まで距離がある以上、節約できるものは節約しなければならない。

 

 しかしこれは良いのだろうかと、視線を逸らした先には小さな提督が居て「気を抜くことも重要だよ」と笑んで見せる。

 提督にそう言われてしまえば、鳥海としては反論も何もできない。

 仰向けの姿勢で海面を漂う筑摩を横目に、まるで彼女の姉のようだなと嘆息して、ああそうかと思い至るものがある。

 単純に言えば利根の真似をしているのだろうが、こんな状況に陥って、自分はどうするべきかと考えた結果なのかもしれないとすれば、納得は出来る。

 無茶な動きこそ謹んで欲しいところだが、こうした余裕の確保の仕方は見習うべきかと、そう思わなくもない。

 提督が見ている前で裸になるなど、もっての外だが。

 

 しかしまあ、休息中であるはずのプリンツや熊野までが裸で飛び込んできた時には、さすがに阿武隈共々声を上げたものだ。

 それでも、伊勢型を離れてから初めて、ようやく声を上げて泣くことが出来たプリンツの姿を目の当たりにしては、それ以上何も言えなくなる。

 早く自分を取り戻さないと、今共にある仲間が居なくなってしまうかもしれない。

 だから、無理にでも以前の自分を取り戻そうとしている娘たちが多いのだと、鳥海は感じていた。

 

 駆逐艦たちも重巡たちの振る舞いに触発されて、概ね自由に振る舞うものが何隻か居たが、誰も咎めるものはいなかった。

 誰かが誤って本当に沈んでしまわないようにと、ずっと海中で待機しているまるゆには頭が下がる思いだが、彼女自身、今の顔を見られたくはないのかも知れない。

 妖精化した提督が彼女の方にも顕現しているのでそれ以上の不安は無いが、問題があるとすれば、その提督の方だ。

 

 今も鳥海の肩に立って寄り添っているこの妖精。

 この姿でいるだけで、彼の寿命は確実に損なわれるのだ。

 そのことについて何か言っても「普通に生きていても死に向かっているよ」と返されてしまい、反論が出来ない自分がもどかしい。

 こうして彼が隣に居るだけで安らぐが、ならばこそ早く島に着いて彼の下へと駆けて行きたい。

 友が隣に居れば、自分と同じことを考えていただろうと、そう思い至れるのだ。

 

 その友からの便りは意外な形で“隼”の下へと届くこととなった。

 恐るべき航空機の音。

 しかしその音が頼もしい味方のものであると、誰もが知っていた。

 二式大艇だ。増設した格納領域に補給物資を満載した飛行艇。

 水無月島のエンブレムが横腹に塗装されたそれが、雲を擦るように現れた時の感動を、それを言葉に表す術を、鳥海は持っていなかった。

 

 

 ○

 

 

 医務室を飛び出して来たのだろう、久しぶりに床から起き上がった響は、付き合いの長い電の目から見ても怖い顔をしていた。

 そんな顔をするのは当然かと思うし、何よりその顔の原因が電自身にあるとなれば、こちらとしては弁明のしようもない。

 

「どういうこと!? 電の艤装を解体するって……!?」

 

 かすれ気味の声を押し殺すように問うた響に、電は先に告げた通りだと、神妙な顔でそう返す。

 数分前に伝声管を使って全艦に告知したことだ。

 これより電の艤装を解体し、彼女を仮の提督にする。

 “艦隊司令部施設”は木村提督が使用していたものが伊勢型に搭載済み。

 後は艤装解体後に電が同期テストを行い即運用状態にまで立ち上げる手筈となった。

 

 不確定要素が多い彼是ではあるが、しかし電は、自分ならそれらの項を確実にパスできると踏んでいた。

 

「電はプロトタイプなのですよ、響ちゃん」

「それがどうしたというんだい? 後発のクローンたちと何が……」

「違うのです。プロトタイプは、最初の5隻は、クローンではなく、生きた人間を素体にしているのですよ」

 

 響の表情が固まった。

 隣りで聞き流そうとしていた霞も同様だ。

 

「電には、人間だった頃の記憶があります。自分の名前も、家族や友達のことも覚えているのですよ。あの事故があった日のことも……」

 

 そうして電は、自分の人間としての名前と、家族構成や身辺に関する彼是をすらすらと口にして見せた。

 それが事実かどうか、今の響たちに裏を取る術はない。

 夕張が、魂がふたつあることへの矛盾について叫んだが、それは先日自らが解説したことであるはずだと返され、膝から崩れ落ちる。

 例え嘘だったとしても、電の語った“あの日の事故”は、どんなノンフィクションよりも真実味を帯びて感じられるものだった。

 

 電自身に選択肢はなかったという。

 生きた人間を素体にしたとは言うが、生きているだけの状態だったと知ったのは、艦娘になった後だ。

 それからプロトタイプたちは、ふたつの過去に苛まれることとなる。

 艦艇の姉妹として経験した惨状と、人間の姉妹として経験した別れのふたつとを。

 

「司令官さんの例があるものの、クローン体の皆だと、艤装が“人間からの命令”だと認識するかどうか、それが定かではないのです。でも、生きた人間を素体とした電なら、より確実であるはずなのです」

「……なら、鳳翔や雷みたいに消えたりしないよね? そのままの電でいられるんだよね……!?」

「いいえ、響ちゃん。最初の数年で体はすべて合成物に置き換わっているので、消える時はたぶん皆と一緒……」

「じゃあ駄目だよ! 解体なんてさせられない……!」

 

 声を荒げた響が電に掴み掛かり、千歳や祥鳳によって引きはがされる。

 それでも、もがき暴れる響の横を、肩をいからせた霞が通過。そして響同様に、電に掴み掛った。

 

「ふざけんじゃないわ! なんで、あんたが消えるかどうかの賭けに出る必要があるのよ!? 黙って聞いてれば、根拠も何もないただの推論じゃない! それで皆を騙して我を通せるとでも思っていたの!?」

「ぶっちゃけその通りなのです。でも、伊勢型に乗船している艦娘の中で、一番艦娘として役立たずなのが、電だから……」

「そんなの私だって同じよ!? もう出撃できないの! 次に出撃したら、私はあんた以上の役立たずになる! だったら、その役割は私だっていいじゃない!?」

「霞ちゃんはそうはならないのですよ。熱田島鎮守府で秘書艦を長年続けていたということは、木村提督と交友のある他の提督やスタッフの方々に顔が知れているということ。艦娘の身でも発言力だってあるはずなのです。爪弾きものだった電とは違う」

「そんな、だからって、だからってあんたが消えて良いはずないでしょう!?」

 

 伊勢と日向に引きはがされても響と同様に暴れもがいていた霞だったが、やがて力尽きたかのように脱力し、大人しくなってしまった。

 困惑する電は、霞が消え入りそうな声量で内心を呟く姿を見る。

 

「……あんたたち姉妹には助けられてばっかりよ。艦艇だった頃も、今も! 私は、あんたたちに何も返せない! 恩も義理も! 何も!」

 

 語気も荒く顔を上げた霞の目には、涙が溢れていた。

 阿武隈たちを見送った際にも泣くのをぎりぎり堪えていたものが、ここに来て限界を超えてしまったのだろう。

 艦艇時代の悔恨と現状とを重ねてしまったが故の感情の発露だ。

 電自身にも覚えがあり、彼女たちの気持ちは良くわかっている。そのつもりだ。

 それでも、そこを推してやらねばならない。

 だから、それをわからせるようにと、電は霞と、そして響を抱き寄せる。

 

「電を助けたいと思うなら、今一緒にいる皆を助けてあげてほしいのです。それが、電にとっての一番の救いなのです」

 

 当然というか、納得などあるわけがない。

 それでも響には思いは伝わったと、電は考えている。

 同型の姉妹艦。同じ鎮守府で過ごし、その後10年閉じ込められて、同じ人に好意を抱き、そして同じ目的のために島を出た。

 10年を共に過ごして生じた溝は埋まることはなかったが、それ以上に価値ある時間を共有できていたと、電はそう信じている。

 

「……電、絶対に消えちゃだめだよ。おじいちゃんの故郷に行きたがっていたのは、電が一番そうだったじゃないか」

「響ちゃんは人見知りなので、ひとりにはさせたくないのです」

 

 いつの頃の話だと苦笑する響を押しのけるようにして、霞が電の額を引き寄せた。

 

「条件があるわ。途中であんたがリタイヤしたら、次に艤装を解体するのは私よ。他の艦娘に、こんな大役任せられないわ」

「なるべくそうならないように頑張るのです」

 

 そして、電はしゃがみ込んで、妖精の姿をした提督を手に取って持ち上げて、視線を同じ高さに合わせる。

 

「……最後まで司令官さんの支えになるって、いざとなったら司令官さんを止めるって約束していたのに。司令官さんには支えてもらって、助けてもらってばっかりだったのです」

「支えてもらっていたさ。僕だけじゃない。水無月島の皆がそうだった。電には、助けてもらってばかりだよ」

「もっと、お話したいことや、やりたいことがたくさんありました。たくさんあったはずなのに、今はそのどれもが遠すぎます」

「帰りを待つよ。帰ってきたら、いくらでもその続きが出来る」

 

 力ない笑みで首を横に振る電は、輪郭がぶれ始めた提督を自らの肩へ乗せ、騒ぎを聞き付けて集まった皆を見渡す。

 語るまでもなく、先に告げた通りだと、工廠までの道を開けてくれと、笑って頷いた。

 

 この日、駆逐艦・電の艤装が解体された。

 現存する艦娘のプロトタイプ、その最後の1隻だった。

 

 

 ○

 

 

 荒い息を整える間もなく、阿武隈は大きく舵を取った。

 敵戦艦級の砲撃が長良型の残像を掠め、余波が艤装と体を打撃する。

 敵の精度が上がっているのかと歯噛みして、鼻先が海面に触れそうな体勢から魚雷を投じ、急速離脱をかける。

 いつもの癖で旗下から大きく距離を置いてしまったが、敵の狙いが阿武隈に集中したため、潮も清霜も無事だ。

 良くないことだとは重々承知してはいるが、どうしても前に出過ぎてしまう。

 提督に何度も諌められているというのに、気が付くとそれを蔑ろにしている自分が居て、自己嫌悪が思考の四隅に染みついている。

 

 仲間が頼りないというわけでは、決してない。

 誰かが居なくなるのが怖くて、その恐怖に突き動かされているのだ。

 長らく入渠出来ていないが故の精神の不調で、その症状を覚えているのは阿武隈だけではない。

 深海棲艦化の影響、というよりは、深海棲艦から奪取した艤装核を用いて建造されたが故の弊害だろう。

 以前、熱田島所属の艦娘たちが訴えていたように、自らが深海棲艦であった頃の記憶がフラッシュバックするという症状が出始めたのだ。

 水無月島を目前にして、出撃不能となる艦が出始めた。

 

 眠れば夢で、起きていても白昼夢という形で悪夢は繰り返される。

 阿武隈の場合はそれが軽微であったため、こうして出撃時間を延ばして戦線を維持している。

 敵襲が散発的であるのが何よりも厭らしいなと、不快感を振り払うように敵軽巡級をすれ違いざまに砲撃。急所を一撃で破壊して轟沈せしめる。

 厄介な敵戦艦級を除けば、後は駆逐級が2隻だ。

 今回もどうにか切り抜けることが出来そうだと、阿武隈は油断なく息を入れ直して、敵艦隊撃破までの流れをイメージする。

 しかし此度は、そのイメージに別の要素が割り込んだ。

 

「あれ、真っ暗だ……」

 

 たった今まで昼間の鈍い曇天であった空間が暗闇に覆われてしまっている。

 すぐに“夜”なのだと理解が追いついた。

 しかし何故と、そう疑問するのも一瞬。肩に提督の姿がないことに気付いた途端、呼吸が苦しくなり、取り乱しそうになる。

 そんな状態で改めて目の当たりにした敵の姿に、今度こそ息が止まる思いだった。

 

 阿武隈に向けて探照灯を照射し吶喊してくるのは、満身創痍の暁だ。

 左の眼窩に搭載した生態艤装の探照灯は莫大量の、しかし不安定な閃光で阿武隈を照らし出し、その主は幽鬼のようにふら付きながらも確実に迫ってくる。

 咄嗟に、阿武隈は後退を選んでいた。

 混乱する頭は暁に呼びかけることに思い至らず、来ないでくれと、砲を装備していない左腕を掲げて戦意がないことを主張。

 それでも、彼女には届かないであろうことを、理解してしまう。

 この光景は、阿武隈の艤装核を持っていた深海棲艦の記憶なのだ。

 

 敵との交戦中に、こんな白昼夢に気を取られてしまって。

 それでも阿武隈は、この悪夢を振り払おうとはしなかった。

 こちらを追おうとする暁の表情は鬼気迫るものがあり、同時に悲しそうに歪められている。

 敵から艤装核を奪取することが、あの島を脱するためには必要不可欠であった。

 だから無謀を推して出撃し、しかし彼女は、本当は戦いたくはなかったのだろうとも思う。

 

 暁と共に戦った時間はそれほど長くはなく、そしてほとんど彼女の背中を追いかけているだけだった。

 戦う彼女の姿に真正面から向き合うのは、終ぞなかったことだ。

 そして、こうして相対して目の当たりにしたように、1隻で戦い続ける道を行ってしまった彼女のことを思う。

 

「私、きっと役に立つから……」

 

 自分の胸元に突き立った刃。

 この直後に砲撃によって押し込まれる致命的な打撃。

 深海棲艦だった自らの死ではあるが、これから彼女たちの家族に加わるのだという安心が、恐怖を根こそぎ振り払った。

 そして聞こえる。

 提督が自らの艦名を叫ぶ声が。

 

 

 ●

 

 

「阿武隈!」

 

 提督の声を合図にするかのように、視界は現状に復帰する。

 昼間の鈍い空の下、接触距離にまで迫った駆逐級、その大きく開かれた咢へと、右腕にマウントしている主砲を突っ込ませた。

 即座に砲撃。右腕と主砲一門を引き換えに敵1隻を撃沈。高い代償ではあったが、単装砲の弾はどの道今ので打ち止めだ。

 熱田の阿武隈や重巡たちに弾薬を融通してもらう手もあるが、現状に対応するには間に合わない。

 

 インナースーツの袖が収縮し、即座に止血が行われる動きに目も向けず、阿武隈は射程距離にいる残りの駆逐級へと、左手で高角砲を抜き放つ。

 腰部に増設した副砲群をも用いて撃沈せしめるも、ぎりぎりで発射された魚雷がこちらの進路へと走る。

 回避可能な攻撃だ。幾度もそうしたように体勢を傾け強引に針路を変えようとして、それが出来ずに体が傾斜、海面に接触し、転倒した。

 結果的に回避は成ったが、体のあちこちを打撲。即座の診断結果で骨折がなかったことに息を付くが、起き上がって速度を上げようとした瞬間、体の奥から致命的な破砕音が聞こえた。

 肉や骨の砕ける音ではない。

 それよりも、もっと致命的な断末魔だ。

 肩に居た提督の姿がない。

 加熱する脚部艤装が海中へ没している様を見て、阿武隈は今の破砕音の正体に気付き、顔を歪めた。

 艤装核が砕けた音だ。致命傷は敵からの攻撃ではなく、蓄積された疲労によるものだった。

 

 機関が停止し、荷重軽減が解除された鋼が本来の重量を取り戻して重力に従う。

 手足を巻き込む前にそれらは強制パージされたが、フロート類が軒並み作動せず。

 この海域の塩分濃度は高く、人や物がたいして沈まないように作用するものの、現状それは何の救いにもならない。

 敵戦艦級が健在であり、先の雷撃によって傾斜している身を立て直して、こちらに砲撃を加えんとしているのだ。

 沈まず、中途半端に海上に留まってしまったため、逃げることも防ぐことも適わない。

 この身には、あとは祈ることしか出来ないのかもしれない。

 そうだとしても、最期まで提督に傍に居て欲しかったなと、阿武隈は我儘を思う。

 

 敵の砲火を目に。音は遅れてやってくるはずだと構える身は、自分と砲撃の間に誰かが立ちふさがった姿を見る。

 自らとほぼ同じ背格好。熱田の阿武隈が、射線上に割り込んで来たのだ。

 

 

 ●

 

 

 潮が阿武隈たちの姿を見つけた時、敵艦隊はすでに撃沈された後だった。

 肩に乗る提督から「阿武隈の艤装に異常が起きて、あちらに居られなくなった」と告げられ、待機中であった艦娘たちは、出撃可能であるものが総出で救援に向かったのだ。

 予備の水偵をすべて発艦させての捜索は、瞬く間に良い知らせと悪い知らせとの両方を運んで来た。

 良い知らせは、水無月島の阿武隈が無事であったこと。

 そして悪い知らせの方を嘘だと否定したい一心で速度を保持していた潮は、艤装の機関が停止するとともに、自らの心臓をも止まってしまいそうな思いだった。

 

 水無月島の阿武隈は上半身を海面から覗かせ、作動して救命ボートの形に膨らんだフロートに捕まって救援を待っていた。

 そしてフロートの上には、もう1隻の艦娘の姿があった。

 青ざめた肌はあちこちに赤い飛沫を覗かせ、黒い上着を被せられた上半身は、本来あるべき部分が欠けていた。

 熱田の阿武隈であった彼女に、もう命がないことは明らかだった。

 

「……提督? そこに居ますか?」

 

 フロートにしがみ付く阿武隈の声。

 目が見えなくなってしまったのか、阿武隈は顔を上げ、鼻先で提督の姿を探そうとする素振りを見せる。

 彼女の下に寄り添った潮と提督は、その最期の頼みを聞く。

 

「近代化改修を、お願いします」

 

 阿武隈の言う近代化改修は、現在普及しているプログラムの更新や最適化とは異なるものだ。

 深海棲艦との戦いが始まった当初に考案された、複数の艦娘を1隻に統合するというもの。

 艤装核の複数個保有と同様に、意識や記憶をも統合され、混濁し、最悪の場合発狂することから廃止されたはずの機能だ。

 10年の間、外界から隔絶されていた水無月島では、その機能がまだ生きている。これまで使用されることがなかったというだけで。

 

 水無月島の阿武隈は艤装核を、熱田の阿武隈は肉体を損なった。

 本来ならば消滅を待つばかりとなった彼女たちではあるが、それぞれが失ったものは、まだ無事なのだ。

 彼女たちを統合する。水無月島の阿武隈の肉体と、熱田の阿武隈の艤装核を同期させる。

 混濁は避けられないだろうが、成功すれば2隻とも消失するという結果だけは回避できるかもしれない。

 ただし、そうして統合された彼女が、自分たちの知る阿武隈のままだという保証はない。

 

 阿武隈の提案を聞いた潮は、頭の中が真っ白になってしまっていた。

 普段通りの逃避癖が発揮されたものだが、今この時に置いてそれでは駄目だと、必死に考えを巡らせようとする。

 しかし、普段の癖がそう簡単に覆ることはない。

 海面に膝をついて固まる潮は、肩に乗っていた提督がぴょんと飛んで、阿武隈たちを乗せたフロートに飛び移る様を目にする。

 

「……もし近代化改修に失敗しても、熱田の阿武隈の艤装核は無事ですから、それで……」

「その艤装核を用いて建造を行ったとして、それはもう、僕たちの知るキミたちではないんだよ」

「わかってます。だから、積み上げたものをゼロにはしたくなくて、こんな、無茶なお願い……!」

 

 言葉の途中で泣き出してしまった阿武隈は、提督が鼻先に触れる手にすがるように顔を振る。

 阿武隈はもちろん、提督とて辛いはずだと、潮はふたりの話に入り込めずに思う。

 水無月島の提督にとって、この阿武隈は、彼が初めて建造した艦娘だ。

 それがこうして、目の前で失われようとしていることに、どうして耐えられるというのか。

 

「もうじき榛名たちが迎えに来る。そうすれば……」

「鎮守府に帰れるんですね? 私も、彼女も」

 

 笑む阿武隈に、提督が「必ず上手くいく」と力強い言葉をかける姿に、潮は驚きを隠せなかった。

 潮がこの提督のことを見てきたのは、ほんの数ヵ月の間だけだ。

 自らが見た彼の姿も、人から伝え聞く彼も、楽観的ではあれど、決して確証の無いことは口にしなかったはずなのだ。

 それを知らない阿武隈ではないはずだが、彼女は嬉しそうに、安堵したように笑っている。

 例え自分が失われるとしても、大切な人が必ず助かると信じてくれている。

 それだけで、彼女の幸福は充分すぎたのだ。

 

 

 ○

 

 

 提督の軍装を纏う艦娘の姿に違和を感じなくなるのは早かったと、霞は艦橋の片隅で思う。

 妖精の手による修復を経て、鋼の巨影は瞬く間にその姿を取り戻した。

 元通りに修復された艦橋には、霞や響をはじめ複数の艦娘の姿と、そして提督の姿がある。

 提督、軍装を纏うのは艦娘であった電で、真っ直ぐ前を睨んでいたはずの眼差しが、ふっと笑みに歪む。

 

「皆、暇なのですか? 艦橋がちょっと賑やかなのです」

 

 はにかみ気味に電が言うとおり、艦橋に集った艦娘たちは霞や響だけではない。

 海上で哨戒中の艦娘以外は、ほとんどがこの艦橋に身を置いているのだ。

 しかし、提督姿の艦娘が言うような賑やかさは、この場にはない。

 皆張りつめた表情と雰囲気で、消えてしまいそうな灯を見守っているかのようだ。

 

 実際にそうしているのだという自覚が、霞にはある。

 電が艤装を解体し、水無月島の提督に別れを告げてから数日。ここまでの航海は怖いくらいに順調だった。

 超過艤装に不調は無く、敵襲も無ければ艦娘にもそれ以上の不調は見られない。

 これまでの敵襲がなんだったのかと憤りたくなるほどに、何もない。

 敵の“統率者”がこちらへの興味を完全に失ってしまったかのようで、霞はやはり解せない気持ちを抱きつつ、どうかこのまま通常海域へ辿り着いてくれと願うばかりだった。

 しかし、もしそうならずに敵襲があったのならば、ここにいる艦娘たちは我先にと戦場に飛び出して行くだろう。

 1秒でも早く敵を沈めてこの艦橋に戻り、灯が消えていないことを確認するために。

 

「そんなに注目されると、恥ずかしいのです」

「は。何を勘違いしてんだか……」

 

 悪態突いては見る霞だったが、自分の言葉に欠片も嫌味が含めていないことに眉が寄る。

 言葉通りの感情が乗せられないは向こうも同じようで、どこか余所余所しいはにかみ笑いで誤魔化している。

 誰も彼もがそういった心地で過ごす中、電にべったりとくっついた響だけは、感情むき出しの正直者のままだった。

 ここ最近は何をするにしても電にくっついている響の姿は、霞の目にも、そして水無月島の面々にとっても新鮮だった様子だ。

 それがこの雰囲気を作り出す原因の一端であるとは言え、誰も責められない。責めるつもりもない。

 もしも電に最期の時が訪れるのならば、彼女の傍に居てあげてほしい。

 

 本当に縁起でもない言い方だなと嘆息する霞は、艦内に響くサイレンの音に表情を険しくする。

 所属不明の航空機の接近。

 巻雲や朝霜が即座に艦橋を飛び出して行き、それに続こうとする響は、時雨に襟首を掴んで引き留められる。

 

「あんたの持ち場はここよ」

 

 曙が吐き捨てるように呟き、先を急ぐ。

 呆然と立ち止まった響を置いて、各々は持ち場へと駆けて行く。

 空母も重巡も全てが海上へと飛び出し、全員で戦闘のダメージを分散させようとしていることは明白だ。

 引き留められた響はそれを追わず、電も彼女たちの行動を制することはしない。

 それどころか、電はこの状況下にあって、ようやく安堵できたとばかりに力を抜いた笑みを見せるのだ。

 

「大丈夫、敵ではないのですよ」

 

 言葉の通り、艦内に元気な駆逐艦の声が届く。

 敵支配海域では遮断していたはずの無線通信だ。

 それを行うと言うことは、支配海域内部にはいなかった勢力が新たに現れたと言うこと。

 

『こちら熱田島鎮守府所属、駆逐艦・杉! 伊勢型のお迎えに上がりました!』

 

 霞がふらふらとした足取りながら艦橋の窓に辿り着くと、ちょうど空を覆っていた曇天が途切れて行き、昼間の青空が顔を出すところだった。

 敵支配海域の脱出はここに完了した。

 即座に戦闘態勢は解除され、危険な敵支配海域まで迎えに訪れた超過艤装たちに合流する。

 霞が所属していた熱田島鎮守府の警戒隊であったものたちや、前期突入作戦に参加していた超過艤装隊が護衛として同行。

 これだけの戦力が揃えば、熱田島までの道行は保障されたも同然だと、霞の顔にもようやく笑みが戻った。

 

「ねえ、電? 青い空と海よ……」

 

 表情を緩めた霞が提督の方を振り向く。

 そこには、主を失った軍帽を抱え、膝を付く響の姿があるだけで。

 駆逐艦・電であった少女の姿は、もうどこにもなかった。

 

 

 ○

 

 

 清霜はふら付いた足取りで工廠を後にし、皆が集まっているはずの執務室へと向かおうとした。

 歩みは遅い。長旅の疲労が抜けきっていないこともあるし、気が重いからだという理由もあるかもしれない。

 だから、潮がまだ地下の建造ドックから上がって来ないことに気付いても、戻って呼びに行くだけの気力はなかった。

 地下へ続く階段に座って彼女の気が済むのを待つ。

 自分は気が済んだかと問われれば、清霜は絶対に首を横に振るだろう。

 それがわかっているからこそ、こうして引き上げてきたのだ。

 

 阿武隈たちの処置は無事に完了した。

 肉体が損壊した熱田の阿武隈と、艤装核が破損した水無月島の阿武隈との統合は、その全工程を無事に完了した。

 しかし、そうして一体化した彼女が目覚めることはなかった。

 肉体にも艤装にもこれといった異常は見つからず、ただ、眠り続けている。

 2号ドックを改良したカプセルの中で延命する彼女の姿に、その前で泣き崩れる潮の姿を目の当たりにして、清霜は以前自らが考えていたことをもう一度考え直す。

 

 生きてさえいれば、たいてい何とかなるのではないか。

 あの光景を見た後では、もうそうは思えなくなってしまっていた。

 延命するも、彼女は目覚めることはない。

 どうすれば目覚めるか、誰にもわからないのだ。

 水無月島の清霜が建造された時から面倒を見ていた阿武隈は、物言わぬ姿で鼓動を刻み続けている。

 自分はあまりにも無力過ぎた。

 だから、こうして頭の中に声が聞こえてくるのかもしれない。

 幻聴。力を欲するかと問いかけてくる声が。

 

 その声の主が何なのかと考えている内に、清霜は自分が執務室に辿り着いていたことに気付く。

 泣き腫らした潮も隣りにいる。

 水無月島において動ける全艦が、執務室に集まっている。

 時計を見れば、清霜が工廠を出てからかなりの時間が経過していた。

 胡乱になっているなと唇をかみ、その視線は提督に向けられる。

 

 提督は椅子に座って項垂れていた。

 やつれてしまったように、もう何歳も歳を取ってしまったようにも見える。

 誰も、こんな彼の姿は見たくなかったはずだ。

 提督自身も、こうした姿を見せたくなかったはずだ、とも。

 なんだかんだと、これまでは皆無事に生還していたものが、今回ばかりはそうはいかなかった。

 提督の考えが、あるいは人柄そのものが変わってしまってもおかしくはない。

 そういう喪失だった。

 

 不意に、提督は立ち上がり、机の上にあった封書を手に取る。

 一部の艦娘が息を呑む音が聞こえた。

 手に取られたのは、最終作戦概要。

 深海棲艦との戦いを終わらせることが出来るかもしれない一手を記したものだ。

 それを手に取ったと言うことは、提督が自棄になったのか、それとも考えるのを止めてしまったのか。

 清霜にはわからなかったが、それでも目深帽子の下の瞳が逡巡している姿は、はっきりと確かめた。

 

 伏せられた目。視力を喪失した左目を、似合わない大きな眼帯で覆った、片方だけの目。

 

「僕は、皆の帰りを待つ。そのつもりだよ」

 

 囁くような声量。

 艦娘たちのざわつきの方が大きいはずだが、提督の声ははっきりと耳に届いた。

 

「もしかしたら、皆が帰って来るまで、僕は生きていられないかもしれない。だから、時計の針を速めてしまおうと考えている」

 

 それは深海棲艦との戦いを終わらせるという宣言に他ならない。

 戦いが終われば、きっと皆、帰って来てくれる。

 望みの薄い可能性を、それでも信じているのだ。

 

「だから、これから大きな無茶をするよ。皆の考えと相反することもたくさんすると思う。それでも、一緒に戦ってくれるかい?」

 

 誰もが、嫌だとは言わないはずだと、清霜は考えていた。

 そうでなければ、自分たちはこの島に戻ってこなかった。

 逃げ出すことなど不可能な環境にあったことは確かだが、そんな選択肢は最初から視野に入れていない。

 

「……ご主人様さあ、漣たちがご主人様のこと、めっちゃ好きだって知ってて、あえてそれ言う?」

 

 呆れた様子の漣の言葉に、提督は苦笑気味に頷いた。

 ふんと鼻息吹いた漣は、腰に手を当てたままつかつかと提督の下へと歩み寄ると、握った拳を「えいや」と彼の腹に叩き込んだ。

 一部の艦娘が悲鳴を呑みこまんとする中、提督は微笑ましげに笑っているし、殴った側の漣も笑みだ。

 どういう状況だろうこれはと混乱が生まれる中、清霜は漣の言わんとしていることには概ね同意する気持ちだった。

 

「皆が帰ってきてほしいのは漣たちだって一緒なの。ご主人様が下がってろって言ったって、漣たちは勝手に手伝うんだからね!」

 

 それはそれはと笑んだ提督が、拳を痛め脂汗を浮かべて蹲っていた漣を立たせると、横合いから卯月が「えいやえいや」と腹に連打を入れて行く。

 そこに若葉や浜風が追撃して、清霜も跳び付くように参戦。

 呆れたように静観する衆は、プリンツの参戦までは黙って見守っていたが、榛名が助走を付ける素振りを見せたところで全力で捕縛した。

 その横を奇声を上げた熊野が走り抜ける。助走の乗った美しいクロスチョップは提督には届かなかったが、一塊になっていた皆を巻き込んだので、もしかすると成功だったのかもしれない。

 

 じゃれ付きたい盛りの艦娘たちがひとしきり襲い掛かった後、提督は最終作戦概要の封を切った。

 途端に執務室が静まり返るが、その温度を提督の笑みが和らげた。

 そうして、清霜は何となくであるが、気付いてしまった。

 提督は怒ることが出来ないのだ。おそらくは泣くことも。

 

 艦娘以上に歪につくられた人の似姿は、封書の中身に目を通す前に、とある詩を朗々と読み上げる。

 

「……僕の命のろうそくは短く、夜明けまでは持たないかもしれない」

 

 とある作家の詩。

 世界大戦を生き抜き、戦後作家となった元飛行機乗りの詩。

 ロアルド・ダール氏の人生モットーだ。

 

「ならば、両の端から火を灯し、敵も、味方も、すべてを明るく照らし出そう」

 

 それは直訳ではなく、提督なりのアレンジが入っていて、本来の意味とは別物になっているなと清霜は感じた。

 しかし彼が、この詩を気に入っていることは間違いようがないとも、そう思う。

 だってこれは、まるで自分たちのことのようなのだから。

 

「嗚呼、愉しきかな。光の舞は……!」

 

 

 




6話:主役気取りの舞台装置は、己の信じた方向を照らし出す



第4章『かえりみち』完

第5章『大和の帰還』へ、つづく




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波間⑧

 迫る敵へ、両碗の砲を指向し、砲弾を叩き込む。

 魚雷は先ほどすべて放ってしまったし、機銃もほとんど破壊されてしまった。

 探照灯も、魚雷発射管を守っていたシールドも損壊。

 残るは手と足だけ。航行能力と砲撃能力だけだ。

 そうして残ったのが基礎的な部分で良かったと、暁は思う。

 艦娘としての基礎中の基礎。

 これだけならば、例え意識を失っても、体がひとりでに動いてくれる気すらするのだから。

 

 しかし不意に、機関が止まる。

 砲撃も止んでしまった。

 不調か弾切れかと焦りを帯びる暁は、自らが掲げた砲塔の上に、妖精が1体、ぽつんと立ち尽くしている様を見る。

 脱いだ帽子を両手の指で摘まみ、申しわけ無さそうな顔をしているこの妖精の姿を見て、本当の時間切れが来てしまったことを確信する。

 

「今まで一緒に戦ってくれてありがとう、艦長」

 

 笑む暁に、妖精は涙ながらに敬礼して消失した。

 暁の艤装から、搭乗していた艤装妖精、そのすべてが姿を消す。

 静かになってしまった身で思いを馳せるのは、かつて提督と一緒に頭の上や肩に妖精たちを満載して歩いた記憶だ。

 共にあった彼女たちともこれでお別れ。もう二度と、共に海を駆けることはない。

 

 では、それでもこうして海上に立っている暁はなんだ。

 乗員が居らずともひとりでに動く船を、人は幽霊船と呼ぶだろう。

 人の操作が無く、判断がなく、そして生活がない船。

 自分はこれからそういうものとなる。

 

 足下、海中で揺らめく仮想スクリューが砕けて、青白い光が踝や脛を伝って体中を這い回る。

 暁の艦娘としての時間は、ここで終わった。

 

 

 ○

 

 

 そして再び目を覚ました時、己が暁としての自我を保持していることにひどく驚いた。

 周囲に艦影無し。航空機も、陸地も漂流物も見えない。

 恐ろしいまでに何もない、鈍色の海上に、暁はただ1隻立っていた。

 

 自らの肉体と艤装は大きく変異していた。

 それは変異と言うよりは同化と言う方が正しく、暁の体はそのものが艤装に、生態艤装に置き換わっていたのだ。

 体格こそ成長した己のままで、髪の色が妹のように真っ白に変じていた。

 生態艤装は元の艤装の名残を残していて、背部の高角砲は咢の上顎部に砲塔が有り、咢を開けば探照灯が備わっている。

 魚雷発射管とシールドもより大型になって左右に備わり、これならば戦艦の砲撃にだってびくともしないのではと、期待に気分が高まってくる。

 

 しかし、その高まった気分は他の部位を目の当たりにするに従って、次第に萎んでいった。

 両碗は黒いギブスを嵌めたような形状で、こちらも背部と同様に連装砲と探照灯を一体化したかのような形状をしていた。

 何よりもショックだったことは、脚部は人のそれとはかけ離れた形になっていたことだろうか。

 以前相対した駆逐棲姫と同様に、大腿から下が消失し、代わりに咢付のフロートが両弦側に備わっていた。

 自分の意志に応じて、あるいは反してがちがちと顎を鳴らす連中のことを、受け入れられるような、そうでもないような、そんな微妙な心境になる。

 まあ、連装砲ちゃんたちと同じようなものかと思えば愛着も湧くかと思ったが、背部のやつは頭に噛み付いて来るのでそんな気は失せた。

 軍帽が装甲化していなければ特大の歯形が付いていたはずだ。

 

 こうして自らを省みて、まず真っ先に思ったことは、意外と落ち着いていて、変異を受け入れられると言うことだろうか。

 負の感情に支配されて暴風の様に荒れ狂うかと思われていたものが、心の中は凪そのものだ。

 何らかの措置によるものかと考えを巡らせる暁は、それが当たらずとも遠からずだったことをすぐに知ることとなる。

 しかしまずは、最初の試練が彼女に降り注いだ。

 

 頭を殴られたような衝撃に襲われ、暁は前のめりに倒れ、変異した両腕を海面に付いた。

 この衝撃、痛みは、外部からのものではなく、内部からのものだ。

 だからこそ、防ぎようがないことも理解してしまった。

 暁の頭を内側から打撃したのは、情報だ。

 空から、あるいは陸から、海に流れ着いた情報。

 降り注ぎ、流れ着いた終着点がここだ。

 足元に広がっている海と言う領域が、そういった情報の収集装置の側面をも担っていると、この姿となって初めて理解する。

 そして、それらの情報が、暁を呑みこもうとしていることも。

 

 濁流の様に押し寄せる情報を抑制する手段がない。

 少しばかりの演算能力などなんの役にも立たない。

 自らの枠組みを破壊して押し寄せる情報を取捨選択することが出来ないのだ。

 元からあった暁としてのすべてが呑まれて押し流される。

 自我を繋ぎとめてゆくものは何もない。少なくとも暁自身の中には何も。

 

 深海棲艦というものを、割れんばかりの頭で理解する。

 こうして情報の汚濁に洗い流され、最期に残ったものが、深海棲艦としての自らを決めるのだ。

 全て洗い流される。

 恐怖しか残らない。

 滂沱と流れる涙から自分のすべてが流れて行きそうな気がして、暁は双眸を変異した両腕で覆う。

 覆うことは出来ない。

 精々が抑えるだけ。

 指輪をはめることが出来ないこの手では。

 

 仲間たち、提督や姉妹たちのことを強く思ってはいけないと暁は考えた。

 消え入りそうな自我の中に留めて置けば、やがて塗りつぶされた後の自分は、彼女たちを害する存在になる。

 艦娘から深海棲艦へと変じた彼女たちがそうだったように。

 それでも、どうしても考えてしまうのだ。

 愛しい人たちのことを。その人たちが安らげる場所を。

 

 ならばせめてと、暁は背部の高角砲に命ずる。

 その砲で自分の頭を撃ちぬけと、味方を害するものとなる前に、自らを終わらせろと。

 しかし、背後の砲はその命令を拒絶した。

 さっきまでは駄犬の様にこちらの頭に噛み付いていたくせに、今になって困った様に萎れて見せるのだ。

 

 

 もはや成す術は無いかと、痛みに蹲った暁は、不意にその負荷が軽くなる感触を覚えた。

 軽くなるどころではない、痛みが引いて、顔を上げられるまでになった。

 そうして呆けた暁の目から、痛みとは別の涙が頬を伝う。

 彼女たちの艦隊に編成されたことによって、情報の流入は分散され、こちらで障壁を構築するだけの時間を稼ぐことが出来た。

 これでもう、情報の汚濁に洗い流されることはない。

 その手伝いをした彼女たちの姿を目の当たりにして、涙が熱を帯びる。

 軽巡棲姫ばかりが3隻、暁を取り囲んで佇んでいた。

 攻撃の意志はない。古い仲間を迎え入れるかのように武装解除した姿。

 

 立ち上がった暁は(とはいっても足がなく、上体を起こすような形ではあったが)、自らの正面に佇む1隻へと進み出る。

 こちらを子ども扱いすように、あるいは淑女に対してそうするかのように膝を付いた彼女へと、自らが羽織っていたマントをかけてやる。軍刀もだ。

 彼女がずっと欲していたものだ。

 遅くなってしまったが、これでようやく、おめでとうと祝福することが出来る。

 その後ろに控えていた彼女には、取り込み変異することを免れていた刀を放る。

 受け取ったそれを、彼女は引き抜き刃を確かめる事無く、腰に収めた。あのときから変わっていないのだ。

 もう1隻の彼女に対しては、特にない。

 臍を曲げるかと思われたが、彼女は何も欲することなく笑んでいる。暁のこの姿だけで充分だとばかりに。

 

 

 再会の感涙もそこそこに、情報共有は瞬時にして行われた。

 言語を捨てて暗号に頼った会話ならば、1秒とかからずに重要な情報をやり取りできる。

 なるほど、これでは人類が深海棲艦に対して遅れを取るわけだと嘆息した暁は、自分のこれからの動きを決める。

 

「やることがあるの。皆、手伝ってくれる?」

 

 あえて言語でそう発すれば、3隻とも長らく使っていなかったはずの声帯で「ようそろ」の声をつくる。

 例え深海棲艦となろうとも、この身は未だに駆逐艦・暁だ。

 提督の最期の命令は、この時点においても、そしてこれから先の未来においても常に有効であり、暁はそれを完遂するつもりだ。

 

「司令官たちの障害となるすべてを倒して、助けて、それで全部が終わったら……」

 

 鎮守府へ帰投するのだ。

 だから、まだ帰れない。

 これからすべての障害を退けに行くのだから。

 

 

「私の命の蝋燭は短く、夜明けまでは持たないかもしれない……」

 

 艦隊の先頭に立って進む暁は、知らぬ間に提督が口ずさんだ詩を、自らも声に乗せていた。

 海から拾い上げた情報だ。

 彼が今、どんな気持ちでいるのか。それが我がことの様にわかるのが辛かった。

 だから行く。提督の命令を果たしに。

 彼我にとって残された時間は、あまりにも少ないのだから。

 

「ならば、両の端から火を灯し、敵も、味方も、すべてを明るく照らし出そう……」

 

 ああ、愉しきかな。光の舞は。

 まるで自分たちのことを歌っているかのようで、暁はすぐにこの詩が気に入った。

 

 

 



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第5章:大和の帰還
波間⑨


 ふと顔を上げた雷は、己の置かれた状況を即座に呑みこむことが出来なかった。

 思考が再開する直前の記憶は、木村提督の処置を完了した後、己に肉体が消滅するというものだったはずだ。

 戦艦レ級、個別コード“バンシィ”に艤装核を鹵獲され、しかし夕張が仕込んだ対抗プログラムによって、変異の暴走を引き起こしたはずだ。

 ……そのはずだが、こうして雷の自我が保持されていると言うことは、その試みは失敗だったのだろうか。

 

 落胆し、思い詰めるように顔を伏せた雷は、そこでようやく、自らの体がどうなっているか、その異変に気付く。

 雷の下半身は、こたつの中に潜り込んでいたのだ。

 思考も言葉もしばらく動きを止める中、顔に湯気のようなものが掛かる感触で再び目線を上に。

 こたつを挟んで正面、何故か金剛型戦艦・比叡が土鍋の蓋を開けて具を投入している最中だった。

 

 思考に負荷が掛かるなあと、口を開けてその様を見まもっていた雷は、その比叡がかつて水無月島に所属していたあの比叡であると気付く。

 鍋を整えるこの手際の良さ。とても他鎮守府の比叡であるとは思えなかったのだ。

 何より、袖に水無月島の腕章がある。

 

「あ、ちょっと待って、白滝は最後よ。最初に入れると固くなっちゃうから」

 

 右手側からの声に聴き覚えはなかったが、その姿でどの艦娘かは判別が付いた。

 長良型軽巡・五十鈴だ。懐にぬいぐるみのようなものを抱えつつ、身振り手振りで比叡に指示を出してゆく。

 その袖に揺れる腕章を目にして、雷は彼女がかつて有馬提督の下に居た五十鈴であると確信する。

 現在は水無月島に身を置いている榛名の、かつての仲間であったはずの彼女だ。

 

 自らも彼女たちも、何故こんな真っ暗な空間でこたつに入って鍋囲んでいるのかは定かではないが、互いに共通する点はすぐに洗い出すことが出来た。

 雷含め、戦闘で失われたとされている艦娘だ。

 ここに雷の例を当てはめるのならば、敵に艤装核を鹵獲された艦娘である、という推測が出来る。

 では、彼女たちの艤装核を鹵獲した敵は?

 

 雷はそこまで思い至って、ようやく五十鈴が懐に抱いているぬいぐるみを注視した。

 微動だにしない人型だなとばかり思っていたが、よくよく見れば戦艦レ級。そのデフォルトモデルがちょこんと五十鈴の懐に収まっていたのだ。

 あんぐりと口を開けたまま敵であるはずの彼女を注視していると、唐突にきょろんと雷の方へと顔を向けた。

 蛇に睨まれたカエルの様に、体が固まって鈍い汗が溢れてくる中、レ級はこたつの中にもぞもぞと身を潜り込ませ、五十鈴の対面へ、雷から見て左手側へ移動する。

 

 何故に敵と鍋を囲んでいるのかと、雷の表情は険しくなる。

 かつてのこと。今は亡き鳳翔が北方棲姫とお料理している動画を見たことはあるが、それは人類に対して友好的な彼女であったからこその光景だったはずだ。

 戦艦レ級は、個体コード“バンシィ”は、自分たちを幾度も危機に陥れた存在だ。

 思うところは多々あるがと眉根を寄せて敵の姿を見る雷は、彼女の姿に違和感を覚えた。

 

「尻尾、ひとつだけなの?」

 

 思わず漏れ出た言葉の通り、かのレ級の尾はひとつだけ。

 体格がデフォルトに近しいものであることからも、彼女が“バンシィ”であるとは考えにくい。

 

「この子は“バンシィ”じゃないわ。艦種も名前も忘れちゃってて、今は鹵獲者である“バンシィ”の姿を借りているの」

 

 対面の比叡の声。

 顔を上げた雷は、懐かしむような眼差しが自分を見つめていたことに気付く。

 皆を見守るような、頼れる仲間の視線。

 かつて失われたはずの彼女であると確信するに至り、目頭が熱くなる。

 

「久しぶり。雷。背、伸びたね」

 

 

 ○

 

 

「それはつまり、比叡も五十鈴も、そこのレ級もどきも、“バンシィ”に鹵獲された艤装核から人格を再構成されたものだって言うのね?」

「今の貴女もよ。水無月島の雷」

 

 4隻で鍋を囲み、雷は皆から状況説明を受けていた。

 この異様な空間は“バンシィ”の内部ストレージであり、比叡たちは10年以上前に“バンシィ”によって鹵獲されたのだという。

 水無月島の勢力と接触し交戦、その後逃走した“バンシィ”がこちらに対応するため、生態艤装の制御容量に割いていた艤装核3つを再起動。

 核に残っていたメモリから比叡等の人格を再構成し、学習を開始したのだ。

 

「それで? この鍋も学習の一貫?」

「以前ならば、ね。今現在は、この子のメモリを呼び起こす切っ掛けづくりの側面が強いけれど」

 

 “バンシィ”は完全に撃沈されたわけではなく、現在は自己修復中だ。

 それを証明するかのように、暗黒色の天井ががぱりと開いて光が差し込み、同時に顔面の削り取られた巨大な頭がこちらを覗き見てきた。

 あれが“バンシィ”の現在の姿なのだ。

 この「家のミニチュアの屋根を開けて中を覗き見る」ような行為も実際に起こっているわけではなく、“バンシィ”や雷たちが共有しているイメージだ。

 雷たちはこの内部ストレージに閉じ込められていて、“バンシィ”は定期的にその様子を観察している、と言うことなのだろう。

 

 あまりの光景に上を向いたまま固まる雷は、巨大な削顔が去り、屋根が閉じて暗黒が支配するまで呼吸すら忘れる有り様だった。

 

「“バンシィ”、前回の戦いで頭部を著しく破損したものだから、修復に時間がかかっているのよね。命令系統だもの。そこを突いて、私たちは好き勝手しているわけなんだけれど……」

「その切っ掛けをつくったのは、貴方たちよ。水無月島の雷」

 

 夕張が仕込んだ対抗プログラムが効いているのだ。

 変異の暴走は一時的に収束したものの、修復の過程で致命的な再構築の仕方が行われているのだとは五十鈴談。

 

「……骨折箇所が曲がってくっ付いちゃってる感じかしら」

 

 思わずの呟きには、3隻からの同意が得られた。

 ならば、こちらからくっ付き方を矯正してやることも出来るのではないか。

 

「何よそれ。“バンシィ”を乗っ取る気?」

「そこまでいかなくても、彼女の行動を抑えられれば上出来。“バンシィ”が戦線に復帰しちゃったら、“統率者”は確実に水無月島にぶつけてくるわ。皆への危険を減らさなきゃ」

 

 “統率者”の名を出した時、五十鈴の表情が曇る様を、雷は確かに見た。

 もしかするとその正体を知っているのかと訝しむも、彼女自身から「薄々勘付いているんじゃない?」と確証が得られてしまった。

 

「貴女の人格が再構成される時に、いろいろ見たわ。……こんなことになっているなら、私も手伝わないわけにはいかないもの」

 

 そう告げて思い詰めたような顔をする五十鈴だったが、レ級もどきが箸をぐーで握り器に顔を突っ込むように食事する姿を目の当たりにした瞬間、まるで人間の母親の様に声を上げての説教が始まった。

 思わず身を引いてその光景を眺める雷は、対面の比叡が「最近よくあること」と苦笑する様を見て嘆息する。

 

「この子がこっち側に着いてくれれば御の字なんだけれどね」

「比叡、どういうこと? この子は私たちと同じ艦娘じゃ……」

「そこも含めて、わからないの。こうして再構成された彼女が艦娘であったのか深海棲艦であったのか。あるいは艤装核の状態で取り込まれたのかもね」

 

 難しそうに眉根を寄せ、しかし微笑ましげな視線を絶やさず、比叡は言う。

 

「今のうちに私たちの持ちえる情報を与えて感化させて、こちら側に着いてもらう。そうできなければ、最悪の場合、“バンシィ”がこの子を仮の命令系統に押し上げるかもしれないから」

 

 それは、水無月島を襲う脅威の復帰を意味している。

 このレ級もどきが“バンシィ”の表層に押し上げられてしまえば、“統率者”の制御下に置かれ、即座に敵戦力として動き出すだろう。

 彼女を感化してこちらに引き込むと言うことは、結果的に水無月島への脅威を抑えることにもつながるはずだ。

 なるほどと、雷は思う。

 まだまだ自分に出来ることはたくさんあるのだと、そう考えると、肉体を失って尚、活力が湧いてくる気がする。

 

 こたつから出た雷は、手足で這ってレ級もどきの元まで擦り寄り、先に五十鈴がそうしていたように、小さな敵の似姿を抱きしめるようにして座り直す。

 

「怖ーいオカンがお説教してますねー。こっちは優しいママですよー?」

「あ、こら雷。不用意に甘やかさないの! ちゃんとこの子の将来のことも考えなさいな!」

 

 抱きしめたレ級もどきは顔を上げて、逆さまの視界で雷を見つめてくる。

 無感情というよりは無垢な表情で、瞳にあるのはおそらく興味の色だ。

 この子はまだ真っ新な子供なのだ。

 それを、自分たちの価値観に染めるのは罪深いことの様に思えたが、ならばあえて罪を犯そうと雷は決意する。

 新しい戦いの始まりだ。

 

 それに、こうして子供に何かを教えるという行為は、自らが常々憧れていたことではなかったかと、こんな状況下に置かれ、ようやく思い出すのだ。

 

 

 



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1話:それは鋼の揺り籠か、あるいは棺桶か

 軽巡・酒匂は高速巡航形態を維持し、艦隊の先頭に立って海上を疾走する。

 速度の上がり過ぎを意識したものか、補完艤装に備わったミラーで背後の旗下を確認し、速度を微調整して陣形の保持に努める。

 単縦陣にて目指す先は、ある地点へ向けて進行中の敵艦隊。その横っ腹だ。

 

 本来ならば阿武隈が居るべき位置に自分が立つとは思っても見なかったが、その位置を代わることに対する諸々の感情は、すでに鎮守府に置いて来た。

 今いる位置は、彼女が戻るまで自分が守るべき場所、その役割だ。

 旗艦を任された当初こそ戸惑い、大いに失敗をやらかしたものだが、皆の助けもあって徐々に板について来ている。

 最近では顔付も変わってきたとよく言われるが、酒匂自身にその自覚はない。

 ただ、髪を伸ばし始めたので、その点は確かに変わったものだという覚えはある。

 入渠時の調整をカットして伸ばし始めた髪も腰のあたりまで届き、普段は後頭部で括って一纏めにしている。

 休みの日は皆が髪を弄りに来て三つ編みにされたり巻かれたりと忙しいが、そういった楽しみが増えたのは嬉しいことだ。

 

 だから、その日々を続けるためにも、全てにおいて気を抜けない。

 水無月島の提督が乗り出した最終作戦。

 それとはあまり関わりがないが、しかし重要な作戦を、現在は遂行中なのだ。

 彼女を取り戻すことが出来れば百人力の戦力となり、敵に渡ってしまえばこちらの不利は確実。

 酒匂としても、勇壮な彼女の姿をこの目にしたいと常々思っていたのだ。

 だから、今回の作戦に対する思い入れは人一倍と言って過言はない。

 

 過言ではない。過言ではないが、思い入れならば彼女たちも負けていないはずだと、酒匂はもう一度ミラーで背後の旗下を確認する。

 酒匂の背後には駆逐艦が5隻。その中には浜風と磯風の姿もある。

 この2隻にとって、艦艇時代に最期を共にした彼女の存在は大きい。

 普段から鬼気迫る表情で任務に挑む2隻ではあるが、今回は輪をかけて怖い顔をしていると感じる。

 未だ必須訓練時間を満たさず、鎮守府近海の警備から離れられない初霜や雪風、それに涼月とて、この編成に加わりたかっただろうとも。

 

「酒匂、敵艦隊捕捉だ。どう攻める?」

 

 妖精の信号経由による、二番艦・若葉からの進言。

 見れば、もはや視認できる位置に敵艦隊の姿があった。

 単縦陣にて真っ直ぐ目標地点を目指す、敵6艦編成の姿。

 それを真横から見据える酒匂の表情が、薄っすらと硬直してゆく。

 

「回り込んで、突っ込むよ」

「後ろから?」

「正面から!」

 

 大きく舵を取った酒匂に続くように、駆逐艦たちは速度を保ちつつ体を傾けて、そして立て直す。

 若葉が問うたような背後からの回り込みでは、速度を上げてやり過ごされる可能性がある。今回のような場合ならば特に。

 だから、少々の破損は承知で、敵の進路を塞ぎ、速度を削ぐ。

 敵艦隊の編成は旗艦側から、戦艦2、軽巡1、駆逐3の6艦。

 正面に回り込んで、魚雷で敵の足を止めるのだ。

 駆逐・軽巡の砲撃程度ならば、その堅牢さで押し切ろうとする戦艦級も、魚雷の接近は回避せざるを得ないはずだ。

 もしも旗艦が戦艦級1隻を盾にする判断を下したとしても、それは敵の力を確実に削ぐことにつながる。

 

 こちらの存在に気付いた敵戦艦級が砲塔を指向する間に、正面への回り込みは完了していた。

 艤装のグリップから右手を離し、後列にサインを送って突撃を指示。

 速度をさらに上げての反攻戦。梯子型陣形で敵艦隊の正面に構え、各艦次々と魚雷を投下する。

 対する敵艦隊は酒匂の読み通り、旗艦を盾にした強行突破を仕掛けてきた。

 この時点で、酒匂は確信を幾つか得る。

 艦隊の旗艦が盾となって自らを使い潰す動きを取ると言うことは、その後続が旗艦の代わりを務めても支障ないと言うこと。

 そして、この敵艦隊はさらに上位の深海棲艦の指揮の下に行動しているという確証だ。

 艦の喪失を前提として練られた動き。

 自分たちは決して行わないはずの動きだ。

 

 敵艦隊の旗艦ル級は盾砲型の生態艤装を前面に展開して、魚雷の炸裂を一身受けつつ進行する。

 敵への打撃は心が痛む。こればかりはどうしても慣れることがない。

 艦艇の時代に実戦経験がなかったが故かと考えていたが、それは自らが身を置く場所が、そう言ったことを忘れないだけの余裕を残してくれているからだと、酒匂は思うのだ。

 

 敵旗艦が爆発炎上し、海中へと沈みゆく。

 その背後から、後続の艦隊が何事もなかったかのように進み出てこちらへと殺到する。

 仲間の喪失を気にも留めない、そんな素振りを微塵も見せない敵の姿に、酒匂は硬直させたはずの表情を歪ませた。

 その在り方が彼女たちの本意であるかは定かではないが、自分はああいった存在にはなりたくないと唇を噛む。

 そして、そんな世界に行ってしまったかもしれない仲間のことを思うと、さらに胸が痛むのだ。

 

 敵艦隊とのすれ違いざまに砲撃戦は行われた。

 彼我の損傷は同程度の軽微。

 敵を確実に沈めるのではなく、受けるダメージを最小限にする接触だ。

 高速で背後へと去ってゆく敵艦隊は、新たな旗艦へと繰り上がった戦艦ル級以外、攻撃の意志は見せない。

 敵は目的地へと速度を上げつつ、新たな旗艦であるル級だけがこちらへ砲撃を開始する。

 狙いは、こちらの艦隊最後尾の清霜だ。

 戦艦級の有効射程を離れるまで続くであろう攻撃は、確実に精度を上げて峡嵯となる。

 清霜に援護をと酒匂は思うが、しかしそれはいらないだろうと即座に判断する。

 

 清霜は半身となって味方艦隊に追従しつつ、自らに迫る砲弾に対して長10センチ砲を掲げる。

 確実に己の身を穿つ一撃ならば、狙いを定めることなど造作もない。

 言葉にせずとも彼女の背中からはそんな思いが読み取れて、そして実際にル級の砲弾を空中で撃ち落としてみせた。

 爆砕した砲弾が破片となって降り注ぎ、清霜の体と艤装を散弾の様に打撃する。

 態勢を崩して転倒するかというところを、五番艦に位置していた風雲が背後から支えて持ち直し、全艦、敵の射程から離脱を果たす。

 

 たいして足止めにもならなかったが、主力がこの場に到着するまでの時間稼ぎは出来た。

 視界の端、巨大な水柱を上げながら高速で疾走する味方の影を遠目に見る。

 それは瞬く間に進行中の敵艦隊へと激突して、砲雷撃どころか接触しただけでそれらを蹴散らしてしまう。

 接触した駆逐イ級がくの字に折れて空高く舞い上がる様には、後続の磯風たちも同情のため息を禁じ得ない様子だ。

 前後に分断された敵艦隊が、砲撃体勢を整え応戦しようとするよりも先に、海面を跳弾してきた砲弾が駆逐級を順に吹き飛ばしてゆく。

 宙へと跳ね上がった敵に対して、さらに砲撃が加えられた。

 空中で打撃するのは最早冗談とも思える光景で、つくづくあの姉妹は規格外だと酒匂は苦笑する。

 

 瞬く間に敵艦隊を轟沈せしめた味方は水上をドリフト、というよりはスキッドして酒匂たち水雷戦隊を追い抜いて行く。

 水無月島の第一戦隊、榛名と霧島だ。

 互いの高速型補完艤装を変形合体させた超高速巡航形態は、現在運用されている艦娘の中で最高速度の名を欲しいままにしている。

 すれ違いざまに片手を上げて挨拶した彼女たち。その姿はすぐに水煙の向こうへと消えてゆく。

 向かう先は、目標地点へと向かっている敵の別働隊だ。

 大淀の読み通り、敵は艦隊を複数に分けて目標地点を目指していた。

 その艦隊数は10を超え、現状の水無月島の戦力では、とても対応しきれるものではない。

 

 ならば、少しでも敵の進行を遅らせて、こちらの本命が先に目標地点へと接触を果たすまでだ。

 それまで、酒匂含む水無月島の艦娘たちは敵の動きを抑える必要がある。

 先の榛名や霧島が向かえば瞬く間に敵を撃沈出来るだろが、広範囲に散った敵艦隊をすべて沈める前に、どれか一個艦隊が敵に接触してしまう。そうなってしまえば作戦は失敗だ。

 だからこそ、酒匂たちは最も目標地点に接近した敵を抑える役割を担った。

 敵艦隊の分布は熊野の索敵機が教えてくれるし、鳥海率いる第二戦隊も動いてくれている。

 

 もたらされる情報を元に次のポイントへと舵を取ろうとした時、酒匂の背部艤装が黒煙を吹き、機関が異音を上げ始めた。

 敵艦隊と砲火を交わした時のダメージだ。

 致命打こそ避けられたものの、放って置けば航行能力に支障が出始める。

 このままでは旗艦としての役割を果たせなくなる。

 そうなる前に作戦から離脱するべきかと唇を噛むと、若葉から退避の進言があった。

 

「酒匂がすべて負うべきことではない。ここは下がるんだ。代役は任せろ」

 

 感情を押し殺した若葉の指摘が頼もしい。

 逡巡する時間も惜しいとばかりに、酒匂は自らの離脱を決めた。

 臨時旗艦を若葉に、曳航役を浜風に頼み、速度を上げた仲間たちを見送る。

 数が減り水雷戦隊というよりはもはや駆逐隊となってしまったが、彼女たちは皆死線を潜ってきた艦娘だ。

 特に、殿でこちらに手を振ってくる清霜の姿は心強さにひと押しした。

 

「浜ちゃんごめん。会いたかったよね?」

「作戦が成功すれば、いつでも会いに行けます」

 

 苦笑いする浜風の気遣いが心に痛かった。

 

 

 ○

 

 

 まるゆは密かに海中を進み、目標地点付近で浮上を開始した。

 味方の現状の動きは、頭上に位置する妖精化した提督(シュノーケルを装着した海中仕様だ)が教えてくれる。

 熊野の索敵機の情報からも、周囲に敵艦隊の影がないことは確かだ。

 問題は、これから接近する対象だ。出会い頭に攻撃を受けることは既にわかりきっているので、浮上してからは迅速に、そして慎重に進めなければならない。

 だから、こちらの存在をぎりぎりまで知られないよう、浮上しつつ距離をも詰める。

 浮上と潜行とを繰り返し、腹部が海底にすれる程の浅瀬を行く。

 プリンツなら絶対に近付けない位置だなと薄く笑みが浮かび、安全策のデコイを先に浮上させた。

 大型の運貨筒。中には仕掛けがしてあり、砲撃が直撃すれば即座に爆発するように仕掛けられている。

 これを浮上した潜水艦に見立て、目標の注意を引き付けるのだ。

 

 安全策は狙い通り、即座に目標からの攻撃を誘い出した。

 頭上の海面が広範囲に亘って爆ぜ、かき混ぜられる。

 余波は海中をも打撃してまるゆの船体を押し流そうとするが、その衝撃には逆らわず、利用して、デコイから距離を取る。

 運貨筒が爆発、炎上するタイミングに合わせて、まるゆは急速浮上し海面へと躍り出た。

 そして、背中に搭載していた特二式内火艇に提督が跳び移るのを感触で察知し、ロックを解除。

 

「いけぇ、カミ車ぁ!」

 

 まるゆの背から内火艇が射出されるようにして発進、水面を跳ねるようにして目標地点へと向かう。

 提督の他には陸戦装備の妖精たちがひしめき合い、わいわい喚きながら揚陸後の動きを確認し合っている。

 水飛沫を掻い潜った先、提督は今回の目標である物体を間近に見る。

 それは小島のような規模の鋼の塊だった。

 ほぼドーム状となっているそれは、幾つもの艦艇の模型を高温に加熱して一握りに押し固めたかのような歪さで、各所に点在する捻じ曲がった副砲や機銃が絶え間なく火と音を噴き続けている。

 

 10年以上前に沈んだはずの、水無月島所属であった艦娘の成れの果てだ。

 彼女は沈むことなく、この姿で今日まで長らえ続けた。

 艦娘から艦の側へと傾き、格納領域に搭載されていた複数の補完艤装を己を守る要塞に造り替え、その命を繋ぎ続けていたのだ。

 彼女の名は大和。大和型戦艦一番艦・大和だ。

 此度、水無月島の皆が救わんとして行動する、その目標だ。

 

 彼女を発見できたのは、まったくの偶然だった。

 軽空母へ改装を果たした熊野の航空機運用訓練の最中、道に迷った索敵機がこの要塞に攻撃を受けている深海棲艦の艦隊を発見したのだ。

 調査の結果、外装の側面に水無月島のエンブレムが見とめられ、外装となっているのが補完艤装であると断定。これが戦艦・大和であると確証が得られた。

 彼女を救い出すことが出来れば、最終作戦への大きな布石となる。

 何より、失ってばかりの自分たちにとって、彼女を救うことは、折れ砕けてしまいそうな心を繋ぐ理由にしては、あまりにも大きなものだったのだ。

 

 最早鋼の要塞と化した大和に内火艇が揚陸、提督はじめ妖精たちが即座に降り立ち、駆け出した。

 提督たちの揚陸を感知したものか、副砲と機銃の群れが旋回し、小さな影を打ち据える。

 銃砲の雨を姿勢を低くして掻い潜る提督たちではあるが、大半の妖精たちは風に舞う木の葉のように蹴散らされる。

 死と言う概念がない妖精たちにとって、これもひとつの陽気な行事のひとつでしかないのだろうが、提督にとってはそう思えない。

 死にはしないが、彼女らとて消滅する。その多くが何食わぬ顔で再会の杯を交わすものだが、消えたまま姿を現さない個体も、確かにいるのだ。

 それを承知で嬉々として、こうした危険に身を投じる妖精たちは少なくはない。

 彼女たちが何のためにそうした行動を取るのかは、妖精たち自身でもはっきりとわからないのだという。

 妖精たちはきっと、何か大切な目的のために、無意識の内にこうしているのだ。

 人や艦娘に味方して、力を貸すのもその目的のためだろうと提督は考えている。

 例えそれで自らが失われようとも、彼女たちは自らの在り方を曲げることはない。

 だから、提督はすべての妖精たちに敬礼を送り、死の雨の中を駆け抜ける。

 再会すれば盃を。

 叶わなければ弔いを。

 今は彼女たちの声を背に行くだけだ。

 

 目指す場所は鋼の要塞、その内部へと続く亀裂だ。

 そこから内部へと侵入し、大和の艤装核と接触、彼女の自我を呼び起こす。

 しかし、その道行は閉ざされようとしていた。

 目標地点まで目前と言う時、真正面に位置する待機状態であった副砲群が一斉に動き出し、その砲身を提督に指向したのだ。

 火を吹けばこちらなど消し飛んでお釣りが来る。逃げ場はない。

 妖精と化した姿での死は、人としての死ではない。他の妖精たちと同じように時間を置いて元通りに復帰するだけだ。

 それでも、提督本体の寿命は確実に損なわれるだろう。

 承知の上だと、提督は小さな体でなお姿勢を低くして砲火を潜り抜けようとする。

 砲群の動きが止まり、いざ砲撃と言う時、彼方からの攻撃がその動きを阻害した。

 まるゆの搭載しているWG42の支援攻撃だ。

 提督を投下したら急速離脱だと打ち合わせていたはずなのに、こうしてその場を動かず、こちらを助けてくれる。

 

 水無月島の所属の中では一番古い付き合いとなってしまった彼女だ。

 その彼女が出撃前に言っていたことを覚えている。

 自らが望まれ、しかし成ることの叶わなかった姿。その力。

 まるゆを建造した彼が望んでいたはずの希望を取り戻してほしい。

 

 その期待に応えるまでだと、提督は飛び込むようにして、要塞の亀裂に侵入を果たした。

 

 

 ○

 

 

 胡乱な己が自我と言う形を取り戻しかけていると、彼女は思う。

 来訪者の存在は、それだけ強い刺激だったと言うことだ。

 敵味方の区別なく、近付くものを攻撃するだけの存在となって久しかったが、それらを掻い潜ってこちらの懐に入り込んだのは、どうやら味方のようだ。

 こちらに語りかけてくるのは若い男の声。

 浮かんだイメージは妖精のそれだったが、恐らく本当は人間の形をしているのだろう。

 提督。その言葉を忘れた日は無かったはずだが、ずいぶんと懐かしい響きに感じられた。

 人間的な感情を失ったこの身でも、涙が温度を保つような、そんな響きがある。

 

「来るのが遅くなってしまってすまないね。目覚める気には、なれるかい?」

 

 問いかけの意味を、彼女は思う。

 それは、再び艦娘として戦いに身を投じる覚悟があるかということだ。

 最後の出撃における大敗は、悪夢と言う形で彼女を苛むだろう。艦娘の身に戻れば。

 物言わぬ鋼に近い今は、そうした悪夢を無為にやり過ごせる。痛みも悲しみも感じなくていい。

 

 だが、提督の問いかけはひどく魅力的だった。蠱惑的と言ってもいい。

 自分にはまだ機会が与えられる。それがどれだけ幸福なことか、彼女は知っている。

 艦娘の時代も、艦艇の時代も、機会には恵まれなかったと思う。

 果たせなかった諸々が多すぎて、悲嘆がひとりでに化けて出そうだ。

 今の自らの姿が、恐らくはそれなのだ。

 

 だが、再び目を覚ませば、どうだろう。

 毎夜訪れる悪夢と引き換えに、得難い機会を手にすることが出来るのだ。

 ただの一度も得ることの適わなかったもの。そしてその先にあるものを、目の当たりにすることが叶うかもしれない。

 それは、彼女が考えているような華々しいものではないかもしれない。

 目覚めなければ良かったと後悔する可能性の方が高いくらいだ。

 

 それでも、彼女は再び目覚めようと思った。後悔ならば甘んじて受けようとも。

 幾度悲嘆を抱いて沈むことになろうとも、戦い続けることでしか果たせないものがある。

 過去と現在の無念を晴らして未来への道を繋ぐ。

 そのために、彼女は提督の声に導かれることにした。

 大和は長い眠りの時間を終えた。

 

 

 ○

 

 

 朦朧としていた意識がはっきりしてくる。

 目に移る風景は、薄明りが照らす洞窟のような場所。

 大和が身を置くのは、彼女が作り上げた要塞の中だ。

 ただ、体をがちがちに固めていた鋼の感触が今は薄く、温泉のような桃色の湯の中に自らはあった。

 すぐに入渠場の湯だと思い至る。

 己が纏っていた補完艤装の材質を再利用して、仮の船渠を作り上げたのだと合点が行く。

 この要塞の中で、これから己の修復が行われるのだろうと思うと、安堵の息が漏れる。

 まだまだ人の感情を取り戻し切れてはいないが、自分が安心しているのだと、それだけははっきりと理解できた。

 

「お目覚めの気分はどうかな? それと湯加減の方は?」

 

 若い男の声がする。提督の声だろう。

 固まった関節に負荷をかけないよう、ゆっくりと声の方へ首を巡らせれば、軍装姿の妖精が傍らにあった。

 恐らくは彼が提督なのだ。

 

「大和はもっと熱いお風呂が好みです」

 

 舌の回りはあまり良くはないが、言葉選びはまあ及第点だと、そう思う。

 不躾な物言いに提督は笑んで、湯の温度を上げて入浴剤を投下するようにと妖精たちに指示する。

 湯の色と同様の桃の香に、長らく忘れていたはずの空腹を覚えるが、気の利いたことに食事は用意されているようだ。

 湯の上に揺蕩う大きな盆。その上に整列する色とりどりのおにぎりは、この仮船渠がある地点に物資を運搬してくる輸送艇が毎日運んでくるのだとか。

 未だ会ったことのない仲間に感謝し、しかし今の自分の体では食事もままならないなと悲嘆にくれる。

 体がまだ自由に動かないのだ。感覚も覚束ない。

 湯の中にある自分の腕が、人の腕の形をしているかすら怪しい。

 もっと自由に体が動かせるようになるまで流動食をチューブで流し込まれるのではと考えたが、しかしならば、このおにぎりはなんだ。

 

 その答えはすぐに、隣りに位置する人物によってもたらされる。

 湯衣を纏って大和に寄り添うこの艦娘に、この大和自身は会ったことがなかった。

 しかし、それでもわかる。彼女が何者か。

 

「陽炎型の、浜風ね?」

「ずっとお会いしたいと思っていました」

 

 銀色の長い髪が涙ぐんだ目元を隠し、それはこちらが言いたかったことだと、大和は言葉を呑みこんだ。

 艦娘であった時代に出会えなかった旧知が多すぎた。彼女もその内の1隻だ。

 浜風の背後で自らを指さして自己主張している、桃色髪の工作艦の彼女も。

 

「本当はキミの本体を連れて水無月島へ帰投したかったのだが、それが困難であったため、このような形を取らせてもらっているよ」

 

 提督の言によれば、大和の肉体を再構成することには、一応成功した。

 だが艤装核は、この要塞の材質と強固に癒着していて、切り離すことが困難なのだ。

 だからこそ、敵支配海域のど真ん中で湯治状態を続行中。艤装核のサルベージにはもうしばらく時間がかかる。

 

「それまで、不肖浜風がお世話をさせて頂きます」

 

 「お手柔らかに」と笑んだ大和は、先の提督の言葉の中に、懐かしい響きを見付け、かつてを思い出す。

 水無月島だ。大和が所属していた鎮守府があった場所。

 最期の出撃の後、あの島の今に至るまでの姿を知らない。

 

「それを語る義務が、僕にはあるね」

 

 高いところから飛び降りた提督が、浜風の用意していたお椀の上に着地、流されて大和のところまでたどり着く。

 

「キミに話すよ。キミが水無月島を離れていた間のことを。今から約2年前、僕があの島に流れ着いてからのことを。あの島に取り残されていた、彼女たち姉妹のことを」

 

 

 



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2話:果たすべき過去の在り処、未来を得るための僅かな布石

 大勢の乾杯の声と、杯が合わさる音が食堂内に響き渡る。

 水無月島鎮守府の食堂だ。夕刻、作戦成功の達成感をあらわにした面々の声を、大淀は喜ばしく思う。

 このところの皆は張りつめた顔ばかりで、今のような緩んだ笑みを見たのは久しぶりなのだ。

 提督の杯にお酌すると、駆逐艦たちが建造の若い順に列を成して乾杯にやってくる。

 それらの小柄な娘たちと杯を合わせ、後続になるほど話す時間が増えて。

 提督の下を離れた艦娘たちも、いつもの編成とは違う輪を作っていて、それはこれまでの生活の中で失われたはずのものだと、大淀は考えていた。

 

 熱田からの救援が艦娘たちを乗せて旅立ったあの日から、1年近くの歳月が過ぎた。

 水無月島の面々も変わりゆく中、提督だけが、以前と同じような笑みを絶やさなかった。

 変わらずにあろうとしているのだ。片方の視力を失い、杖なしでは立ち上がるのが困難となった身でなお、彼女たちがいた時間と同じ自分を保とうとしている。

 それが日に日に難しくなっているのは目にも明らかだが、提督はそのあり方を変えようとはしない。

 彼女たちの帰りを待つための彼の姿があるからこそ、自分たち艦娘が安心して変わってゆけるのだ。

 

 敵支配海域における艦娘の、新たな運用方針。

 その結果を、その姿を、大淀は日に日に実感するに至る。

 髪だけでなく手足もすらりと伸びた酒匂、清霜や卯月と言った娘たちも以前より頭ひとつ分も背が伸び、若葉は最近ブラジャーを着けるようになったし、漣などは見違えるように色っぽさが増したものだ。

 艤装との同期間隔を大きく取って肉体の成長を促し、深海棲艦化の進行を遅らせる。

 かつてこの島に取り残された暁型の娘たちの様に、艦娘たちは艤装との距離を取った。

 当然、肉体の成長に伴い操作性は悪化、白と黒の追体験は精神に過大な負荷をかけてくる。

 それでも、そう言った変化の良さを受け入れて日々を送れていたのは、そうして過ごしてきた例がすでにあったからだろう。

 一部の艦娘たちは姉妹艦が新たに建造されたことによって、自分がひとつ上の立場になったと自覚を新たにしている。

 妹艦である菊月が建造された卯月がいい例だろうか。頑なに「ねえさん」と呼んでくる菊月に対して意地でも「うーちゃん」と呼ばせようとしてるやり取りは、最早この鎮守府では見慣れたものだ。

 逆に姉の方が遅れて来てしまった綾波型や陽炎型は、その扱いを悩ましく思っている節もあるようだ。

 基本半脱ぎの格好で鎮守府を歩き回る雪風に対して、どうにかして服を着せようと試みる磯風や浜風。

 あるいは、姉艦である狭霧を猫かわいがりして困らせている漣や潮がそうだろうか。

 

 居なくなった者たちに思いを馳せるばかりではなくなった日々ではあるが、彼女たちを忘れたことは1日たりともない。

 それは後続の接し方に表れているし、自らの肉体の変化に対する気持ちの置き方に受け継がれてもいる。

 彼女たちという前例が、今を進む自分たちに続いているというのは、大淀自身も感じていることだ。

 だから、早くと、逸る気持ちも理解できる。

 この戦いを終わらせるための戦場をと、そう願う気持ちも。

 今回の大和奪還で、皆はこれまでの負債を少しは返せたという気持ちになれただろうし、何より自分たちに自信を取り戻せたのではないか。

 明日から彼女の修復に取り掛かるため、今日の宴も早めにお開きだ。

 しかし各々、まだまだやることは山積みなのだ。

 

 杖を手に椅子から立ち上がろうとする提督を介添えしようとするが、それは笑顔で拒否される。

 まだまだそんな歳でもないよと、そう笑む彼の顔には深い皺などなく、確かにまだまだ若さを保っている。

 保っているが、それでも大淀は、週一のペースで彼の髪を黒く染め直している。

 そうで無ければ、艦娘たちは日に日に白髪の領域が増えて行く提督の姿を痛々しく見ていただろうと、そう確信がある。

 彼自身の種としての寿命は、もう幾許も残されていないのだ。

 下手をすれば最終作戦に辿り着くまで持つかすら怪しい。

 それを承知で、彼は時間を進めることを選んだのだ。

 

「今日は久しぶりに、たくさん笑った気がするよ。僕も、皆も」

 

 杖を付き、壁に手を添えて歩む提督に寄り添う大淀は、彼の気の抜けた笑みに苛立たしさにも似た感情を覚える。

 この笑みが失われる前に、自分たちの目的を果たすことが出来るだろうかと。

 まだまだ猶予はあるはずだが、乗せるべき数字が欠けている計算に対して意味などあるのだろうか。

 敵の大本の正体すら未だに掴めずにいるというのに。

 

「それを、これから探りに行くんだ」

 

 提督の声に意識を戻す。

 工廠施設内。地下へと降りる階段は狭く、暗く、明滅する灯りの照らす先は、尚暗かった。

 

 

 ○

 

 

 脱衣所の扉を開けたプリンツは、向かい合って対峙する白と桃色を見る。

 若干の体格差がある彼女たち姉妹は、湯上りの体から湯気を立ち上らせ、脱衣所の温度と湿度をわずかばかり押し上げていた。

 各々異様な構えを取りながらも微動だにせず、相手の出方を伺っている。

 湯から上がってきた艦娘たちが次々と、白桃の脇を視線ひとつ向けただけで通り過ぎ、時折「風邪ひくよー」と声もかかる。

 

「……艦娘が風邪などひくものか」

「いやいや、お菊ちゃんは風邪ひくぴょん」

「まるで馬鹿だと言いたいのか!」

「髪の毛乾かすの嫌がってたら艦娘でも風邪ひくぴょん! 今のうーちゃんたちは限りなく人間に近い艦娘だぴょん」

「ねえさん大丈夫か!? 難しい言葉なんて使って、頭がおかしくなったらどうする!?」

 

 額に青筋浮かべた卯月が構えていたドライヤーのスイッチを投入、菊月に向けて放たれた風はすぐに熱を帯びた。

 ヘッドロックしつつドライヤーで菊月の髪を熱する卯月は、しきりに自らのことを「うーちゃん」と呼ばせようと頑張るが、菊月の方も強情なもので、意地でも「ねえさん」呼びを続けてヘッドロックに抵抗する。

 何を強情なと思うプリンツではあったが、原因が原因だけに、菊月の気持ちもわかるのだ。

 

 伊勢型が去ってから建造された彼女たち駆逐艦は、再稼働した水無月島鎮守府においては第五期建造組となる。

 駆逐級の艤装核は敵から奪取したストックが数多あり、人手が足りない鎮守府にとって建造しないという選択肢は存在しなかった。

 この第五期建造組に関して特別な点があるとすれば、最初期から新たな運用方針に沿って訓練課程を進めることが決まっていたことだろうか。

 最初から艤装との同期間隔を大きく取ったことで、人としての成長は大いに促進された。

 それでも成長には個人差があり、菊月の建造前から新運用で挑んでいた卯月との体格差は中々埋まるものではない。

 「やったあ、出たぴょん。うーちゃんの妹艦一発ツモ」と喜んでいた卯月も、生まれた時から反抗期真っ盛りな妹艦には、こうして手を焼いている。

 それとなく、菊月に「何故そこまで?」と理由を問うてみたことがあったのだが、それはプリンツにも理解し得るものだった。

 

「……こんなにおっきくて頼りがいがあるのだ。これでは、“うーちゃん”ではなく“ねえさん”だ」

 

 そう寂しそうに、拗ねたように呟く菊月の横顔は忘れられない。

 かつて鋼の時代の彼女たちは、同型艦の夕月含め二航戦所属でもあった仲だ。

 睦月型の娘たちは姉妹としての上下の関係よりも、横並びの家族の関係性を構築する者たちが多いと、確か大淀が言っていた。

 そんな中にあって、決定的に上下を意識せざるを得ないものを見せつけられた妹の側は複雑なのだろう。

 

「姉さんの方が、一足先に大人になってしまったような?」

 

 それかなーと、通りがかりに一言を残す筑摩に頷きを返す。

 

 複雑なのは他も一緒かと、視線は周囲に向く。

 「ドックでダムつくるのは禁止だ」と額を押さえながら説教する磯風に対して、当事者の雪風は「自信作です!」とまったく噛み合わない。

 ついでとばかりに湯場の方から「すごいです! これはすごいですよ!?」と初霜の声が聞こえてくるのもいかがなものか。

 陽炎型や初春型も、どちらかと言えば「姉妹」よりも「戦友」としての関係性が強くはあるらしく、この島で過ごした側の艦娘と価値観が噛み合わないことも多い。

 そう言った噛み合わなさは概ね時間が解決してくれてはいるのだが、人間としての側面が強く出ている昨今では、まあすんなりといかないものだ。

 そんな軋轢ともいえない程の些細な衝突は度々あり、今も目の前で展開されようとしていた。

 菊月が同期建造組の狭霧と涼月を巻き込んで構えを取り、臨戦態勢に入ったのだ。

 

「お菊ちゃんが白のスリーカードなら、うーちゃんたちはピンクのスリーカードだぴょん!」

 

 構えた卯月の隣りにセクシーウォークでやって来た漣が並び、3隻目が入れるようにと開けた真ん中に、しかし誰も飛び込んでは来なかった。

 そう言えば明石は大和修復のためにと、宴の後早々に鎮守府を発っている。

 その護衛と、大和の世話係にと浜風も同行し、白の勢力も最大の切り札を欠いた状態だ。

 本来なら白の側に暁型のクール妹と夕雲型の子供番長が加わって、いらんところを引っ掻き回すはずなんだけどなあ、などと、プリンツは眺める景色に対して、どうしても「欠けている」と感想を得てしまう。

 

 目にする風景の中、ここにはいない家族の姿を幻視するのは未練か。現実を受け入れられずにいるだけか。

 思い出すのはプリンツ自身のことだ。

 このプリンツ・オイゲンが建造されたのは、第一期の後半。ちょうど千歳の後で、夕雲型三姉妹や利根の前となる。

 艤装核入手の経緯も特異なものだったそうだ。

 プリンツの艤装核を保有していた重巡級は、ある日突然鎮守府近海に現れ、半壊した軽巡級の船体を抱えて海上を彷徨っているところを、暁たちに保護されたのだという。

 自身も轟沈寸前の状態だった重巡級はそのまま活動を停止し、軽巡級共々艤装核だけが残った。

 もちろん、建造当時のプリンツがそんなことを覚えているわけがなく、「遥か昔の友好国だけれど人種違うわー」と、やり辛そうな環境に生まれてしまったなと、そう思っていたものだ。

 そんなやり辛さも、自分のことを力いっぱい抱きしめてくる暁のせいで、すぐに感じなくなった。

 この人種はこんなにも接触過多だったろうかと混乱するも、次第に彼女たちが「家族になろうとしている」のだと気付いた時は、天を仰がんばかりの気持ちだった。

 生まれた国や言葉や出自はどうあれ、艦娘である自分たちは、同じ時代を生き抜いた鋼の魂をその身に宿しているのだ。

 それ以外のしがらみはいらない。この島の皆とは、家族と言う概念で繋がっているのだから。

 

 だから、「欠けている」と感じてしまうのだと、プリンツは自分の気持ちを結論付ける。

 普通の人間ならば、家族の喪失に対する向き合い方の大よそは手続きや時間が解決してくれると、大淀が言っていた。

 そうした手続きなどをしたのは天津風たちだけであり、時間が解決するのを待つという姿勢は、プリンツには取れない。そういった納得の仕方が出来るような精神性を、自分が持ち合わせているとは到底思えないのだ。これから得て行くことも不可能だろう自信がある。

 ならば、このまま今を続けるしかない。

 欠けてしまったことを受け入れられずに懊悩するも、新たに家族は増えるのだ。

 もう失わせないことだけが、自分に出来る最大の逃げだと、プリンツは脱衣所の隅から丸テーブルを持って来て、一触即発の白桃の勢力をわけるようにそれを置いた。

 

「この勝負、私が預かります!」

「出たなラッキーガール!」

 

 漣の突っ込みに目礼を返し、テーブルに置くのは2リットルのプラスチックの容器。中身は牛乳、米国のメーカーが販売しているもので、サムズアップした戦艦・アイオワがパッケージを飾っている。

 紙パックか瓶が主流の日本では馴染のない容器であったせいか、暁型の姉妹が孤島生活を絶賛満喫中であった最初期、雷がこれを洗剤だと勘違いして衣類にぶちまけたという話があった。彼女の牛乳へのトラウマをより強固なものとしたエピソードだ。

 

「これを先に呑み切った方を勝ちとします。お触り禁止、おしゃべり禁止、噴き出したら即刻退場。メンバー交代はいつでもおっけー。おっけー?」

「い、異議ありだ!」

「はいお菊ちゃん」

「ピンクが絶対笑わせてくるだろう!? こんなの向こうが勝つに決まっている!」

「そこは知恵と勇気で何とか。はい開始」

 

 無情なスタートにわたわたと慌てる白の勢力に対して、桃色コンビは早速容器の蓋を吹っ飛ばして漣が一気に中身を呷る。そして卯月が白の勢力へ向けて、無言真顔のラバウルダンスを披露し始めた。

 対する白の勢力は桃色と目を合わせないようにと背を向けて菊月が容器を手にするが、ダンシング卯月がその正面に回り込んで牽制。

 あわや噴き出すところを回避した菊月たちはスクラム組んで互いに向き合い、外野から投げ込まれたストロー三本を使って各々一気に容器の中身を吸い始めた。

 

 きっと雷が見たら卒倒するような光景だと、プリンツは白桃を中心に他の艦娘たちが輪になる中、一歩引いた位置からそれを見つめる。

 プリンツの様に、誰かが居なくなったことを受け入れられない者も少なくはないが、決して今を疎かにはしていない。

 皆帰ってくるなどと、奇跡のようなことを考えているのは提督くらいのものだろうとプリンツは思う。

 自分もそう信じるもののひとりだと、胸を張って言えずにいる。

 いつかそう言える日が来るかはわからないが、もしも提督の望みが叶えられた時に、自分が笑えていないのはマズイ。

 だから、ぐちゃぐちゃして纏まりのない心持のまま、こうして今を続けるしかないのだ。

 

 

 結局のところ、ふたつの勢力は牛乳2リットルを飲み干すことが出来ずに勝負はドロー。

 白桃の一団は審判役のプリンツ諸共間宮からお叱りを受け、この後1ヵ月間の食堂の手伝いを言い渡されることとなる。

 

 

 ●

 

 

 暗がりの中に淡い光を感じたのだろう。彼女が意識を持ち上げたと、提督は感じていた。

 己の姿は今、“艦隊司令部施設”を経た妖精のものだ。

 この姿を持って、目の前の存在と意志疎通するための回路を繋いでいる。

 妖精の姿を取らねば、今の彼女に通ずることが出来ないのだ。

 最終作戦における、一番最初の足掛かり。

 彼女が人類に対してどのような感情を抱いているかを確認する。

 対話と言う形を持って、これからそれを行なうのだ。

 

『叶うならば、私は戦後の世界を支える建材と成りたかった。子供たちの学び舎を支える土台に、各地への交通を支える屋台骨になれればと願っていた。しかし、叶わなかった』

「それは未練?」

『未練にも満たない感情の切れ端だ。自らが沈まずに戦いが終わったならば、ああなることはわかりきっていた』

 

 彼女の意識はかつてを懐かしむ響きがあり、どこか寂しさを感じさせるような色を持つ。

 こうして彼女と交信できるまでにはかなりの時間を要したが、いざ対話して見れば、だいぶ人の情に感化されたものだと思う。

 

「かつての艦艇たちが艦娘として再び海上へ立つ時代となって、キミだけが未だにそうなっていないのは、そうした未練未満の感情がそうさせるのかい?」

『迷いだ。“私たち”は迷っている。建造の試みは一度失敗しているし、そのせいで重要な工程の進みを遅らせてしまっている』

 

 提督は問いを止めて、彼女の話すままに任せることにする。

 お茶を入れてゆっくりと、と言いたいところではあったが、生憎と周囲の風景は暗い海の底で、何より時間は限られてる。

 

『私たちはあまりにも人の感情に影響を受けてしまった。だから、人の姿を取って水面に立てば、必ず大きな揺らぎを生んでしまう。今ですら“こう”だ』

「だから、迷っている」

 

 返るのは沈黙で、ならば肯定だろうかと提督は頷く。

 

「キミが生まれることで、この戦いにようやく終わりが見える。再現行動はキミの二番艦がほとんどすべてを熟してくれたらしい。あとは、キミが生まれるだけだ」

 

 返る言葉はない。

 それでも提督は続ける。

 

「すまないが、僕には時間がない。急かしてしまって申し訳ないが、僕たちはキミを救い上げに行くよ」

『そこに、怒りと悲しみしかないとしても?』

「それでもさ。だからこそ、とも。怒ったり悲しんだりといった、人にあるべき機能が欠けている僕がそこに行って、ようやく感情ひと揃えだ。話はそこからさ」

 

 距離が取られるという感触があった。

 彼女が身を引いたのではなく、こちらが設定していた制限時間が迫っているせいだ。

 「またここに来るよ」と、言葉を残しての去り際、彼女から焦りを帯びた声が届く。

 

『彼女は立ち塞がる。この海域の内と外とで、進めるべき工程を完了させてきた。すでに終わりが見えている』

 

 断片的な言葉のひとつひとつに頷いて、提督は確信をひとつ得る。

 彼女は多くを知っている。そのうえで語ることが出来ず、自ら手が出せない。

 かつて建造が失敗したのも、何らかの未来が確定することを恐れてかと推測が立つ。

 

『それに、私はもう、こちら側での体を手に入れてしまった。戦う事は避けられない……』

 

 

 ○

 

 

 意識が急速に持ち上げられる感覚の後、ぼやけた聴覚に徐々に音が戻ってくるぞと、提督は幾度となく味わった感触を再びその身にしていた。

 提督を呼ぶ複数の声が徐々に大きく、耳に痛いばかりになる前に、重く感じる右腕を上げて制止の合図。

 心配そうな艦娘たちの顔を前に、提督は息を整え、宣言する。

 

「彼女は生まれることを迷っているようだ。そして、戦うことは避けられないらしい」

 

 工廠に集った艦娘たちが息を呑む声が聞こえたが、その表情はどれも「ようやく来たか」と、これから告げる言葉を待ち望むものばかりだ。

 提督にとっては頼もしくもあり、決して口には出さないが申し訳なさもある。

 

「改めて、最終作戦にて僕たちが行うべきことを告げようか」

 

 “椅子”から身を起こそうとするが、脱力した体はそれを許さない。

 大淀が差し出した軍帽を受け取って目深に被り、深く息を吐くようにして告げる。

 

「マーシャル諸島はビキニ環礁へ全力出撃。同海域ににて顕現した、戦艦・長門の艤装核を保有する深海棲艦を撃沈。彼女の保有している艤装核を奪取し、長門の建造を行う」

 

 提督の宣言は伝声管に乗って鎮守府のあらゆる場所へ届けられた。

 食堂で洗いものと明日の仕込みを行っていた間宮たちも、風呂場で馬鹿やって右往左往していた連中も、そして安置所となっている2号ドックで時間を潰していた艦娘たちも、鎮守府のすべてがその声を聞いた。

 

「最新情報が更新されていなければ、唯一、戦いの終了条件を示した論がこれだ。彼女の側と接触して確証は得られなかったが、僕はこの方法を推し進めるよ」

 

 外界と途絶して1年の時が過ぎている。

 木村提督よりもたらされたこの最終作戦概要は当時の最新版であり、更新されている可能性もある。

 それでも現状、このやり方で行くと提督は決めていた。

 もちろん、この作戦に固執するわけではない。

 他に解決を論ずる作戦が見当たらなかったからだ。

 

「彼我で行われてきた再現行動の、その最も重要な工程が一番最後になる。彼女の建造を持って、この戦いはようやく終わる。今はそう信じるよ……」

 

 

 ○

 

 

「それでは、戦艦・長門の艤装核を奪取して、彼女の建造を行うことこそが、この戦いの終了条件であると?」

 

 真剣な顔で拳骨よりも大きなおにぎりを頬張りながら問う戦艦・大和に、まるゆは微笑ましげに頷いた。

 

「それが正解って、保証がありませんけれど。隊長はそれを信じて進もうとしています」

 

 物資や建材の輸送でほぼ毎日休みなく要塞島に通うまるゆにとって、こうして大和と話す時間は貴重な日課となっていた。

 むしろ気持ちしては、大和に会いに行くついでに物資・建材を届けに来ていると言っても過言ではない。

 自らに増設した格納領域に大型の運貨筒を複数搭載し、鎮守府から要塞島へ。

 大量の物資・建材を下ろすには時間が掛かり、それが済むまでの時間、まるゆは身も心も温まる休憩の時間だ。

 

 要塞島の内装は以前よりも本格的に「洞窟内に沸いた温泉」といった風情を醸し出している。

 これで露天であればと大和は言うが、支配海域の空を眺めながらと言うのは風情だろうかと、まるゆにとっては甚だ疑問。

 確かに、まるゆが2号ドック跡地から引き揚げられた時期は、提督が露天の下ドラム缶風呂を決めている光景を幾度となく見てはいるが、あれはまた別ものの気がする。

 どの道、この支配海域内で露天風呂の風情を楽しむのは無理なのではないかと首を傾げるまるゆは、大和が半分に減ったおにぎりに視線を落とし、目を伏せる姿を見る。

 

「大和は、お荷物になっていますよね……」

 

 小さく告げられた言葉に、まるゆは首を傾げたまま「そんなことないと思いますよ?」と。

 気遣う風でもなく、かと言って大和の考えを否定するでもなく、自然に放たれた言葉だったからだろうか。逆に大和の方が首を傾げてしまった。

 

「でも、最終作戦の進みが……」

「作戦決行まで、まだ時間がかかると思います。“統率者”の正体もわかっていないし、今の水無月島の戦力だと、たぶん道中で力尽きます」

 

 困った様なまるゆの言に、大和は一応の納得を示した。

 現状の水無月島鎮守府の戦力は20隻ほど。

 数もそうだが艦種に偏りがある。潜水艦の枠としてはまるゆが唯一で、空母としては航巡から改装を行った熊野1隻だ。

 この戦力では敵から空を取ることは難しく、夜間の海中も心もとない。

 対して敵の数は未知数であり、“統率者”の正体も未だ明らかではないのだ。

 

 しかし、今から戦力を増強するには時間が掛かりすぎる。

 特に空母系の艤装核は鎮守府には残っておらず、敵の編成にも空母系が含まれていないあたり、“統率者”の意図は明白だ。

 足りない戦力でどう立ち向かうか。

 そう疑問する大和の、渋い顔で腑に落ちた様子に、まるゆはひとつ頷いた。

 

「大和はまだ、必要とされているのですね?」

「戦力としてだけじゃないです。貴女に会いたかったひとがたくさんいるんです」

 

 きっと、暁型の姉妹たちが彼女の無事を知ったら喜ぶはずだ。

 再び一緒に戦ってくれるとなれば、尚更だ。

 まるゆ自身に望まれて、しかし叶わなかった力と姿が目の前にあるのだ。

 彼女の奪還に繋げられただけでも、自らが引き上げられた意味はあった。

 

 自分を卑下しなくなってしばらく経つまるゆではあるが、やはり自分に求められた願いを果たせなかったという思いは残る。

 大和ならば、きっとそれを果たしてくれる。そう信じている。

 それに、この大和自身がまるゆの活躍を喜んでくれているのも、そう考えるのに一役買っているだろう。

 

「他人の気がしないの。同型艦の艤装核で生まれたから、かしら?」

 

 それはまるゆにもわからないが、確かに親近感のような情は、大和と出会った時から抱いていた。

 鎮守府の皆に対してそう感じているように、最初からこの艦娘は家族であると、そう確信が持てたのだ。

 鋼の時代に一度だけ垣間見えた時の記憶だろうか、それとも艤装核に刻まれた大和型の記憶がそう思わせるのだろうか。

 

 そして、だからだろうか、わかることもある。

 まだ戦艦・大和の再現は、まだ完了していない。

 

「……敵との戦いが過去をなぞっているという話は聞いたことがあります。各艦にとって、果たすべき因縁があるとも。そして大和のそれは、恐らくまだ……」

 

 そもそも大和型の艤装核は数が少なく、本土にはすでに存在していない。

 水無月島鎮守府が10年振りに外界の情報を取得した際、その時点で稼働中であった大和型は2隻。

 しかし、戦える状態ではなかった。

 

 強力な力を持った艦であるが故に温存され、戦線に投入される頃には取り返しが付かない。

 昔日と同様の、あるいはそれよりも過酷な状況に投入され、ある意味同じ結果を辿ってきたのだ。

 それで再現が完了したかと言えば、どうやらそんなことはなかったようだ。

 

「この、再現行動? ……には、何か成立条件のような、明確なものが、あるのでしょうか?」

「まるゆは詳しくないですけど、単純な勝ち負けで決まるようなものではないらしいです」

 

 最終作戦概要に記述があった再現行動。

 艦娘の数だけそれらはあるが、しかしすべてを果たす必要はない。

 深海棲艦発生の鍵となった“ある艦”の再現を完遂すれば、他の艦娘が悲嘆を変えたままであろうと、“戦いは終わる”とされている。

 その項を艦娘たちに読み聞かせた提督の言によれば、成立条件は個体の納得によるところが大きいのだとか。

 

「つまり、昔日の焼き直しをして、勝とうが負けようが、“これで良かった”と納得することが? 諦めでは、ダメなのですよね……」

 

 戦艦・大和にとっての果たすべき過去とは何か。

 まるゆは漠然と、彼女が沈むこととなった坊の岬沖海戦がそれにあたるのではないかと考えている。

 同様の状況に陥る可能性はこれから充分にあり得るが、それを打開するなど可能なのだろうか。

 そう考え込む大和に、まるゆはぐいっと顔を近付ける。

 

「今度はまるゆも一緒に戦います!」

 

 納得できる勝ちで、次に進みましょう。

 拳を握っての言に、大和の顔が綻んだ。

 彼女の望む結末がどんなものかはまるゆにはわからないし、想像もつかない。

 しかし、彼女は立ち上がり、再び前へ進む意志を新たにした。

 いつの間におにぎりを食べ終えた大和は、ややでん粉質の残る手で、まるゆの手を握る。

 「うわあ、べったべた」と、まるゆは嫌がるでもなく、笑顔で握られた手の感触を確かめる。

 

「一緒に戦える日を、楽しみにしていますから……!」

 

 

 ●

 

 

 執務室。椅子に浅く座り項垂れる提督は、ぼやけた視線を足元に送る。

 そこには白い仔猫が1匹、両足の間を八の字に行き来していた。

 時折こちらに顔を向けて、ひとつ鳴く。

 餌をねだっているのか、一緒に遊びたいのか、定かではない。

 

 白い仔猫はしばらくそうしていると、壁の方へ小さい歩幅で歩いてゆき、壁に溶けるようにして吸い込まれた。

 直後、白よりかはややすすけた色の仔猫がどろりと這い出て来て、大きく頭を振ると、別の方から歩いて来た黒い仔猫や茶色の仔猫と混じりあって三毛猫になった。

 3匹分が融合したからだろうか、仔猫から成猫となったなったそれは、扉の方へとゆっくりと歩いてゆき、やはり壁に吸い込まれると、色とりどりの無数の仔猫となって部屋の中に転がり出た。

 

 ころりと生まれた仔猫たちはその場で毛繕いすると、一斉に提督の方を向き、元気よく駆けてくる。

 思い思いに体をよじ登ってくる仔猫たちに、どこか艦娘たちのような部分があるなと薄く笑む提督は、体感するようになってしばらく経つこの現象に、いよいよ後戻りできない体になったのだなと自覚する。

 以前、木村提督が口にしていた、猫の幻覚だ。

 深海棲艦の支配海域。まっとうな生命が生存を許されない環境にあって、しかしこうして現れる猫たちは、いわば警鐘のようなものなのだとか。

 精神の正常さを損ない始めているというサイン。第一段階の発症。五感に訴えかけるエラー表示だ。

 

 支配海域での活動を前提に生み出された提督ですら、この現象を目の当たりにした。

 それは、通常の人間と同様に、精神を損ない掛けているということか。

 

「敵支配海域における精神の錯乱に関しては、まだまだ有効な対策が打てずにいます。木村提督が行っていたような投薬措置が精いっぱいで、それでも数ヵ月の生存が限界とされていました」

「なるほど。そうすると、通常海域では生きられない僕にとっては、やはりいよいよ、後には引けないと言うことだね?」

「司令官さん、あの……」

「それに、こうしてキミと対話している時間のことを、覚えていられるようになったんだ。僕自身が、そちら側へ傾きかけているということなのかな」

 

 ねえ、電。

 そう告げて顔を上げた提督の視線の先、扉の前に所在なさげに佇む、駆逐艦・電の姿があった。

 かつてこの島で過ごした時間そのままの姿、提督の専属秘書艦であった彼女だ。

 

 伊勢型で水無月島を去った電は、代理提督となるため艤装を解体し、支配海域を脱した直後、艤装核を残して消失している。

 その事実を提督は知る由もなかったが、こうして目の前に現れる彼女の幻によって、彼女の最期を含め、この海域の外の事情を察するに至った。

 もたらされる情報が確かだという保証などなかったが、提督は幻の彼女の言を信じた。

 そしてそれらは結果的にはすべて真実であり、伊勢型が去ってから今までの提督の行動を支え続けている。

 

「電は今、艤装核だけが残った状態なのですが、こうして仮想体として意識は残っているのですよ」

 

 幽霊のようなもの、なのです。電はそう、困った様に首を傾げて見せる。

 だから、もたらされる情報も彼女の知り得た確かなものなのだと。

 

「本当に、キミには頭が上がらないよ。電。そんな風になってまで、僕たちを助けてくれる」

「これは、電の迷いでもあるのです。自我が消し去られようとすることに恐怖して、新しい艦娘として生まれ直すことも怖がって……。だから、このまま宙ぶらりん。皆のことを考えているつもりで、終わった命にしがみ付いているのですよ」

「僕はまたキミと話せて嬉しいよ。キミが居なくなったことも知らずに今も過ごしていたかもしれないと思うと……」

「よしてください。そんなこと言われると、生まれ変わるのが惜しくなってしまいます」

 

 仮想体となった電の意識が消えない限りは、彼女の艤装核は再建造を行えない。

 すでに試みは幾度か行われているのだが、電の建造は今のところ失敗続き。

 まるで、彼方にある彼女のようだと、提督は感想を得た。

 

「長門さんも同じ気持ちなのでしょうか。迷っているとおっしゃってましたが……」

「彼女には悪いが、その迷いごと救い上げに行くよ」

「司令官さんは強引なのです」

 

 冗談めかして言ってはいるが、電の表情は切なそうだ。

 艤装核が物質として存在していると言うことは、未練があると言うこと。

 生きて、やり直したいことがあるのだ。

 

 かつてこの島に帰り着いて、そして消えて逝った鳳翔とは違う。

 過去を果たすと言うことは、鳳翔の様に未練を断ち切って、人としても艦としても、戦いから永久に手を引くと言うことだ。

 己の存在をかけてでも覆したいものがある。

 それは、艦としてだけの問題ではない。

 

「電がこうして幽霊になったのは、駆逐艦としてではなく、人の側としての未練が大きいのかなって……」

 

 困った様に笑う電は、鳩尾の辺りで両手の指をいじいじとさせていたが、やがてゆっくりと提督の元へと歩み寄り、椅子に浅く座る彼の頭を抱きしめる。

 

「自分が消えてしまうことを覚悟していたはずなのに、いざこうして司令官さんとまた話せるようになって、そうしたら、消えるのが怖くなって……!」

「嬉しいと思うべきなのかな。それとも、誰かの重荷になってしまっているのを恥じるべきか。僕が、誰かの未練になるなんて」

 

 すすり泣きの顔を上げた電は、袖で目元を拭いながら、「えい!」と提督の頭にチョップを見舞う。

 一発だけではない。連打だ。

 

「司令官さんのことが気掛かりなのは、電だけではないのですよ。皆、皆そうなのですから」

「僕が頼りなさ過ぎて、皆が安心できない?」

「……それも、ありますね」

 

 泣いていた電が少しだけ笑って、提督に最後のチョップを見舞った時だ。

 不意に顔を上げた電が、思い詰めた顔で彼方に視線を向けた。

 その姿を目に、提督は目頭を押さえ、杖を手にゆっくりと椅子から立ち上がる。

 

 同時に、大淀が執務室の扉を勢いよく叩き開けた。

 提督の体によじ登っていた仔猫たちの姿は既になく、電の姿もなかった。

 息を切らせながらも報告をしようとする大淀を落ち着かせ、彼女が息を整える間を持って発言を促す。

 

「よ、要塞島に向けて進行する敵艦隊を確認。その数20、さらに増加すると予想されます」

「緊急出撃。榛名、霧島、両名を高速巡航形態で先行させる。敵艦種に空母の姿は?」

「確認できてはいませんが、敵艦載機多数接近。最低でも4隻以上の空母系深海棲艦か、あるいは姫・鬼が2隻以上は確定かと」

「熊野1隻では荷が勝つ、索敵機による情報収集を指示。陸攻を先行して発進させよう」

 

 杖を突いて歩き出す提督を大淀が支え、執務室を後にする。

 “艦隊司令部施設”によって妖精化し、最前線の状況確認と指示を送るため。

 現状要塞島に最も近い戦力は、大和の復旧作業中の明石と護衛の浜風、そして荷卸し中のまるゆだけだ。

 榛名と霧島が最高速度で向かっても1時間はかかる。

 視界の端に映る電の顔は不安げなもので、嫌な想像を掻き立てた。

 

 

 



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3話:二姫が深層を疾走し、喪失した痩身は再び輝き

 降りしきる爆弾が要塞島の天蓋を叩き、轟音と震動は内部へと伝導する。

 専用改修を受けた連装砲を手に、仮設ハッチから身を乗り出した浜風は、砲身を空へ向けるよりも先に、急いで身を要塞の中へと身を戻した。

 こちらが出るタイミングを計っていたものか。仮設ハッチが展開して数秒後に、敵機より投下された爆弾が足場に到達したのだ。

 こちらの動きを読んでいるのだろうか。試しに、とばかりに身を乗り出そうとした浜風は、やはりすぐに身を隠す。

 炸裂が連打で来た。破片が盾にした背部艤装の表面に届く。

 身を乗り出した瞬間に死ぬ。感触としてわかる。

 

 動きを読まれているのではなく、いつ身を乗り出しても当たるように爆弾を投下しているのだ。

 数と練度、そして何より執拗さが圧となって押し寄せてくる。

 今すぐにこちらを殺し切ろうという動きではなく、制圧射撃に近い。

 要塞島の中から戦力を出さないようにするための攻撃。

 浜風を、と言うよりも大和をここから出さないようにするための攻撃だろう。

 こうして制圧行動が行われていると言うことは、次は増援が大挙して押し寄せ、本当に要塞島を制圧するはずだ。

 

 どうするべきかを浜風は考える。

 この爆撃の意図が破壊ではなく制圧ならば、今はまだ大丈夫だ。こちらが沈むまでに時間はある。

 その間に脱出するのは可能か。結論から言えば、不可能だ。

 浜風1隻なら、あるいは明石1隻ならば可能だが、大和は駄目だ。

 火器系統を優先して修復を行って来た今の大和には、この要塞島を脱出して水無月島に帰り着くだけの航行能力はない。

 例え航行能力を取り戻していたとしても、艤装核の取り出しが完全ではない今、大和はこの要塞島から離れることが出来ない。

 

 仮設ハッチの脇に身を寄せ息を整える浜風は、手にした武装の確認をすることしか今は叶わないことに苛立ちを募らせる。

 自分1隻が単艦で突出して事態が好転するのならば、なんの躊躇もなくそれを行うだろう。深海棲艦化が進んだ今の浜風ならば、それが可能なのだ。

 しかし、そう都合よく事態を動かせるわけがない。駆逐艦が1隻、無意味に沈むだけだ。

 沈むのは駄目だ。意味や価値と言った彼是に関わらず。

 身を削って次へ繋げるやり方を推す気持ちは浜風にもあるが、それはあくまで最後の手段だ。

 短絡的になってはならない。

 今のこの身は艦であり人。思考能力と戦闘能力と、そして感情を併せ持った生命だ。

 己の考え得る限りを考え、出来得る限りを尽くす。

 それが、二度と失わせないと誓った自分たちの在り方だ。

 

「その通りだ、浜風」

 

 背部艤装に内蔵された“艦隊司令部施設”の駆動音は、提督の声と合わせて安心感をもたらしてくれた。

 

「僕とまるゆで出る。援護を頼む」

 

 要塞の奥に向けた視線は、出撃準備を整えたまるゆの姿を映し出す。

 空からの打撃を回避するために、たった1隻の潜航輸送艇で行くのだ。

 

「榛名と霧島が向かっている。彼女たちが到着するまでの時間を稼ぐよ」

「りょうかいです……!」

 

 従来の潜水艦たちの装備を流用した姿がクラウチングスタートの体勢を取り、短く敬礼した浜風が笑顔で「ご武運を」と告げて、仮設ハッチの外へと躍り出る。

 まるで棺桶のようだと揶揄された背部艤装をアームで頭上へ掲げて盾として、両の手の連装砲と増設された機銃で天を撃つ。

 度重なる爆撃は浅瀬の水面をかき乱し、満足に足場を整えることが出来ない。

 己への直撃コースへ投下される爆撃は無視し、まるゆが走るコースを確保。

 輸送艇の巨体が脇を滑らかに駆け抜け、無事に水中へ消えてゆくのを見届けた瞬間、盾にした背部艤装に致命打が叩きこまれた。

 仮想スクリューが途切れ荷重軽減が解除され、半身が海中へ没した浜風へと、爆撃は降り注ぐ。

 それらの破壊の力は、艦娘が居た地点へと吸い込まれて性能通りの爆発を見せた。

 仮設ハッチの影から身を乗り出した明石が、クレーンを射出して浜風を緊急回収していなければ、その爆発に巻き込まれて木端微塵になっていただろう。

 

「間に合った! 秋津洲流デリック運用術!」

「……あの飛行艇母艦は幾つ技を?」

「そんなことより修復です!」

 

 明石のクレーンにひっかけられたまま要塞島内部へと引きずられてゆく浜風は、ゆっくりと閉じて行くハッチの向こうへと、たった今喪失したばかりの右手を掲げて敬礼し続けた。

 

 

 ●

 

 

 爆撃機の影を頭上、海面のさらに上に感じつつ、まるゆは単艦で海中を潜行する。

 要塞島への爆撃は継続中であり、その内訳の一部がまるゆを狙う動きを見せはじめていた。

 比較的安全な深度を保ちつつ提督と共に頷き合う。敵は今海上にあるこちらの戦力を確実に沈めようとしていると。

 

 そうはさせない。

 眉を立てた視線の向ける先は、要塞島へ向けて真っ直ぐに航行する敵艦隊の姿を捕らえた。

 

「まるゆ、敵を足止めするよ。こちらのダメージは最小限に。そして、敵は沈める必要はない」

「航行不能か攻撃不能な状態に追い込むんですね?」

「その通りだ。敵“統率者”はそうして消耗した艦を捨て駒として運用するだろうが……」

「海中のまるゆには、体当たりは出来ませんよね」

 

 まるゆの本体が海中にある以上、これまでの敵の様に後続の盾とする事も出来はしないだろう。

 だからしばらくは、こちらが一方的に敵を叩くことが出来る。

 ソナー情報が視覚化されると、敵艦隊の前衛である駆逐級が単横陣にて迫るところだった。

 こちらの逃げ場を絶って爆雷で沈めようと言う意図。わかり易過ぎて、そして避けがたい。

 逃げるだけの速度もないまるゆは、早速奥の手を切ってゆくことにする。

 

 増設した格納領域から顔を出すのは大型運貨筒。

 要塞島への物資輸送のために複数個を内蔵していたもので、荷卸し下ばかりの中身は空だ。

 密閉された大型の張りぼては多量の空気を内蔵し、その全長が海中に姿を現した瞬間、急速に浮上を開始した。

 海上にあった敵駆逐級たちにはそれが、急速浮上を開始した潜行輸送艇に見えただろうか。

 即座に爆雷は投射され、海中を掻き回すようにして炸裂。

 爆圧の中を浮上する大型運貨筒は損傷を得ながらも海面に到達。逃げ遅れた駆逐級の腹を打撃し、それを押し上げ、姿を現した。

 

 転覆した駆逐級が復帰する間もなく、彼方から砲弾が叩き込まれ、彼女たちの味方ごと大型運貨筒をただの鉄くずに変えた。

 まるゆは深度をそのままにして、砲弾の飛来した方角へと舵を切る。

 ソナーにはまだ反応がない。かなり遠方からの砲撃だが、戦艦級の敵も控えているのだと確信は得られた。

 先行していた航空機の爆撃に、戦艦級も合流して砲撃を行う手筈なのだろう。

 前衛の駆逐級は進行方向への露払いだ。

 いくらでも代わりが居る、欠けてもいい壁。

 ならば、それらを欠くことなく、敵の本体に届いてやる。

 

 道行に空っぽの運貨筒を浮上させて囮とし、まるゆは敵戦艦級の布陣を目指す。

 足止めの目的は変わらず、次点で要塞島にとって脅威と成り得る戦艦級を押さえるのだ。

 方法は簡単。戦艦級には対潜能力が備わっていない。

 護衛の駆逐級たちは先と同様に運貨筒を浮上させて物理的に無力化出来る。

 頭の中で手順を反芻するまるゆは、提督の警戒を促す声にすべての思考を一時停止した。

 

 敵の主力である複数の戦艦級。それを護衛する駆逐級や軽巡級の数はその2倍か3倍といったところだが、それ以外の艦種がこの海域には存在した。

 それらは今まで機関を落として身を潜め、まるゆの接近に際して再び動きを取り戻す。

 同じ領域で活動するものたち。複数の敵潜水級がまるゆに向かって吶喊して来たのだ。

 

 奇襲に泡を食うまるゆは魚雷で応戦するが、あらゆる方向から襲い来る敵は1隻、また1隻と組み付いてくる。

 装備を物理的に破損させる気かと焦りを帯びるが、敵は組み付く以上の行動を取ろうとはしなかった。

 それで充分だったのだ。あとは、浮上するだけ。海上、敵駆逐級たちが投射する爆雷の、その炸裂深度までまるゆを運ぶだけだ。

 

 このままでは組み付いて来た敵潜水級ごと爆破される。

 潜航輸送艇であるまるゆには、水無月島の駆逐艦たちが持つような掃海具等の近接兵装は搭載されていない。

 しかし代わりに、まるゆには彼女専用とも言える兵装が残されている。

 右手首の増設装甲をパージし、内蔵されていた九四式37ミリ砲を手に収める。

 グリップに握力を込め、こちらの首を絞めるようにして組み付いていた潜水級の頭部に砲口を押し当て引き金を絞った。

 本来は対艦装備のこの砲だが、接触状態ならば威力の減衰も最低限に抑えられる。

 

 ちかちかと閃光。海中に一瞬だけ、墨を流したような黒が混じり、正面の敵が力を失ってゆっくりと海底に落ちてゆく。

 即座に砲を捨て、次を取り出すまるゆ。抵抗の意志と動きを止めない艦娘に対し、潜水級たちも黙っているわけにはいかない。

 各々が搭載していた対艦装備の機銃類を指向し、それらを接射。

 光と黒い色に赤が混じり始め、しかし浮上は止められない。

 内臓されていた最後の砲を握り、背中に回して最後の1隻を撃ち抜く頃には、海上から投射されていた爆雷がそこら中に漂っていた。

 逃げ場はない。

 

 

 ●

 

 

 損害を確認し終えたまるゆは、ため息を小さな気泡として吐き出した。

 元々無い方であった航行能力を著しく損ない、兵装もほとんどが使用不能。

 “艦隊司令部施設”にも異常が生じ、妖精化した提督の姿は砂嵐の蠢く輪郭だけとなってしまっていた。

 指示はノイズ交じりだがかろうじで聞こえ、榛名と霧島が到着し海上の制圧を開始したことを伝えてくれる。

 自分の役割はここで終わりかと思うまるゆだが、戦況が好転したわけではない。

 

 対艦戦闘ならばこちら側に利があるが、敵は航空機を大量に投入して来ているのだ。

 情報収集用の索敵装備で出撃した熊野では対空戦を行えない。

 榛名たちの水戦でもまだ足りない。

 島の陸攻が参加してようやく五分。

 幾ら水上艦の動きを止めようとも、制空権を奪われれば元も子もない。

 

 空を取れない水無月島側は、榛名、霧島の両名が敵へと潜行して敵“統率者”を叩く案が進言されているが、提督や大淀たちが待ったをかけて協議中。

 幾ら超高速巡航形態があろうとも、その策を遂行する金剛型の消耗は計り知れない。

 最悪、敵の本隊に辿り着く前に轟沈する可能性が高いと出て、回避を優先とした消極的な戦いが新たに提案されたところだ。

 

 ならばとばかりに声を上げるのは、要塞島の巨大な殻を破ろうとする大和だ。

 まだ艤装核の切り離しが完了しておらず、かつ彼女の航行能力は著しく損なわれたまま。

 戦えたとしても、浮き砲台どころか歩く砲塔。敵にとってはいい的でしかない。

 

 まるゆはといえば、提督からは救援が来るまで生存を最優先とする指示が与えられているが、そうしているうちに戦況が悪化するのは目に見えていた。

 自分に出来ることはもうないのかと、そう眉根を寄せるまるゆは、ひとつの考えに至る。

 敵の“統率者”に、直に接触することを。

 

「それは危険だ。キミを1隻で行かせるわけにはいかない。第一、まるゆ。キミの航行能力はもう……」

 

 足の裏に生ずる仮想スクリューは不安定な明滅で、回転しようとも推進力を生ずることはない。

 どの道もう出来ることはないかと海中で仰向けになるが、それを否と振り払うことが出来た。

 

「まるゆは1隻じゃないです。隊長が一緒です。そして……」

 

 海中の音を映像に変換するゴーグルは、キャビテーションを纏って海中を高速で行く艦影をはっきりと視認する。

 彼女は生きていると、信じていた。

 そして、この海域へと戻って来たのだ。

 モールス信号を介してのやり取りで、こちらの意志は伝わった。

 直角にターンしてこちらへと急速接近する影は、すれ違いざまにまるゆを確保し、そのまま目的地へ向かって高速巡航を開始した。

 

 久しぶりに見る“ルサールカ”の姿は痛々しいものだった。

 白いザラついた肌はところどころが亀裂がはしり、剥離して黒い下地がむき出しとなった部分が見られる。

 とくに右側の損傷が激しく、その側の手足は欠損している。

 自己再生が追い付いていない。というよりは、もうそれを行えるだけの余力が残されていないのだろう。

 高速巡航する“かまちゃん”も装甲が剥がれている箇所が多く、キャビテーションを纏っての加速力も以前より格段に衰えている。

 無理はさせられないなと頷くまるゆは、白黒ノイズの姿となった提督がぺしぺしと頬を叩く様に、ぎくりと肩を震わせる。

 

 提督の命令。その強制力が弱まっている。

 まだ赤目になってはいないが、新運用の適応が間に合わなかったのだろう。

 深海棲艦化は確実に進行しているが、以前の暁の様に、それを力とする段階には至っていないのだ。

 

「まるゆは、自分が居なくなることで誰かが悲しむって、知ってます。だから、大丈夫」

 

 苦しい言い訳だと、提督は思っただろうか。

 今すぐ島には戻らない。

 敵の姿を明かしに行くのだ。

 本当は帰りたくて仕方がないが、そうすることによって、今まで皆で積み上げて来たものが、すべて終わってしまう。

 それがわからないくらいに頭が悪ければと、そして、もっといいやり方を見付けられるくらいに頭が良ければなと、そう思わずにはいられない。

 だが、自らの死を確実とするわけでは、決して無い。

 

 “統率者”を、その姿を光学画像に残すだけでも収穫だ。

 それを行ったなら、すぐに“ルサールカ”に離脱してもらおう。

 最悪の場合、艤装核内臓ユニットだけでも切り離して島に返す。

 “このまるゆ”は居なくなるかもしれないが、艤装核は残る。

 

 色々と吹っ切れたと思っていたが、まだ自分の在り方に不満や未練があったのだなと、こんな状況で自覚させられた。

 しかし、やはり思うのだ。

 こうして戦っていて、己が失われることがあろうとも、艦娘は何かを残して逝ける。

 居なくならないのが一番なのは、身を持って知ってはいるのだ。

 それでも、どうしようもない時だって必ずある。

 そこに保険が掛けられていることに、どうしようもなく安心を得てしまうのは、自分が弱いからだとまるゆは思う。

 

 それでも、ただ弱いだけではない。

 先に提督に告げたように、まるゆは1隻で戦っているわけではない。

 提督が居て、水無月島の仲間たちが居て、そして今は“ルサールカ”が味方に居て。

 彼女に希望を託して建造を行った者たちがいて、そしてまるゆ自身の中には在りし日の自分たち、38隻の記憶すべてがある。

 充分だと思う。

 決して孤独ではないとわかった今は、以前よりもずっと心強い。

 

 

 ●

 

 

 自力では到底出せない速度で海中を行くまるゆは、頭上が暗くなったことに、いよいよ息を詰めていた。

 鈍い陽の光が海中まで届かないのは、海上を無数の敵艦が覆っているからに他ならない。

 水上艦であれば、空を覆う航空機の群れに対して恐怖を抱くのだろうが、まるゆにとっては今がそれだ。

 ざっと数えただけでも、今この時海上に展開している敵艦は、水無月島の総戦力の10倍以上。

 水上艦だけならば、対等どころか戦力差をものともしない自分たちだとまるゆは自覚しているが、敵航空機の存在はそれを覆す。

 空を取られている現状、勝ちの目ははるか遠くにある。

 

 だからとでも言うように、自らの自立稼働型生態艤装を駆る“ルサールカ”は、敵空母を探して海中を行く。

 敵駆逐級たちが展開する爆雷の檻。その炸裂を回避し続け、滅茶苦茶な軌道を描いて敵艦隊のさらに懐へと入り込んでゆく。

 魚雷は使わない。それは倒すべき敵のために確保しているのだと、その横顔を眺めるまるゆは彼女から言語化されない意志を感じ取った。

 代わりとばかりに空っぽの運貨筒を浮上させてささやかな邪魔をする。

 “統率者”の姿を収めるだけのつもりだったが、こうして空母狩りのために標的を探しているとは、おかしな気分だ。

 

 しかし果たして、敵艦隊の編成に空母系の姿は見られなかった。

 ならば、答えはひとつだ。

 今、頭上にしている敵艦隊は、要塞島を襲う後衛部隊。

 本隊を後方に据えたアウトレンジ戦法。

 かつての戦いの変遷に乏しいまるゆではあったが、艦娘としてその戦い方に固執する傾向が強いとされていた個体の話は聞かされていた。

 そう、聞かされていたのだ。

 榛名がかつて共に戦った、有馬艦隊の両翼がそうだったと。

 何故と疑問するも、その答えをまるゆは得ることが出来ない。

 “統率者”に直接問えば、明らかになるだろうかと、進行方向を向いた時だ。

 

 自立稼働型生態艤装の速度が落ちて、挙動が大きく傾いだ。

 体表を覆っていた気泡が一気にはじけ、それでもまるゆたちを前へ押し出そうと、彼女たちが乗っている背中側を前へと傾ける。

 “ルサールカ”が自らと生態艤装を繋ぐコードを無理やりに引き抜き、それをまるゆに向けて差し出す。

 まるゆはそれら複数のコードを受け取ると己の体に巻き付け、半壊した“ルサールカ”の本体を引き寄せる。

 互いに体をたわめ、膝を曲げ、生態艤装を足場に、思い切り蹴り出す。

 

 背後、長い付き合いだった彼が砕ける音がする。

 振り払うように、右足の裏に復帰した仮想スクリューが駆動。

 “ルサールカ”の左足のスクリューと合わせてようやく一対の推進力となり、頭上の敵艦隊から逃れんと進む。

 ダメージの蓄積した体では、深みに逃れてやり過ごすことも叶わず、すぐ目の前にまで迫る生態爆雷に怯えながら行くしかない。

 恐ろしさよりも焦りを強く感じるまるゆは、爆雷の炸裂で掻き回される海中で、再び敵潜水級の姿を目の当たりにする。

 向こうの速度は脅威にはなり得ず、容易に接触されることはないだろうが、捕まれば今度こそ終わりだ。

 

 詰みが近い。退路がどんどん断たれてゆく現状に、呼吸が絞られるような感触すら覚える。

 そうして視野が狭まっていたせいか、こちらに追いついてきた仲間たちの存在に、しばらく気が付かなかった。

 頭上を行くのは敵だけではない。

 水無月島の駆逐隊。改良型タービン搭載の高速対潜仕様だ。

 

『皆、速度は?』

『――ここに!』

 

 旗艦を務める若葉の横に綾波型と夕雲型が並び、背後に白波を上げる速度を持って、密集する敵艦隊に吶喊。

 間近に迫る敵の砲火を確実に回避して、展開した爆雷を次々と海中に投じて行く。

 迫る敵潜水級を退け、まるゆたちの進路を確保する動きだ。

 

『空からは爆撃、海上からは砲雷撃と逃げ場がないけれど、だからこそ密集している敵艦隊に突っ込んだ』

 

 ノイズ交じりの姿の言に、なんて無茶なと呟きが漏れる。

 度胸というより無謀そのもの。

 人のことを言えたものではないが、ならば礼以外は口にしない。

 わかっていたはずだ。次に誰かが無茶をする時は、皆がそうする時だと。

 誰かひとりに負荷が掛かって潰れないよう、皆で無茶をするのだ。

 そのきっかけを作ってしまったことに目を背けていたが、提督を通じて伝え聞く皆の言葉は、陰りひとつない。

 

『あら、もうはじまってます? 空の喧嘩、水戦でちょっとだけ混ざれます?』

『筑摩ダメ! 熊野んがスツーカ積んで若葉たちの援護に行くから、そっちをサポートだよ!』

『ちょっとそこのプリンツ・オイゲン! わたくし今は索敵機しか積んでいませんのよ!? 陸攻の到着を待ちなさいな!』

『残念だったな。陸攻隊は要塞島の守りに付く為、そちらには不参加だ。後発の駆逐隊はこの磯風に続け! 先行した酒匂に追いつき、要塞島を中心に輪形陣を敷く……!』

 

 皆、嬉々とし過ぎではないだろうか。

 そもそも通信フルオープンで、敵にこちらの動きを隠すつもりもない。

 陽動なのか開き直りなのか、その意図まで説明はされなかったが、皆の肉声がリアルタイムで耳に届く。

 苦笑するまるゆだが、この方が断然いい。

 敵が悲哀と憤怒に駆られて戦うならば、自分たちは気楽に迎え撃てばいい。

 提督が推し進めるこのやり方を、先に行った彼女たちはどう思うだろうか。

 

「きっと笑って、しょうがないなって……」

 

 思ってくれている。そう願う。

 そしていよいよ、敵本隊の影を間近に捉えた。

 

 

 ●

 

 

 敵空母部隊は、30隻以上の空母級、軽空母級を中心に置き、その倍数以上ある駆逐、軽巡級が輪形陣を組んで護衛していた。

 中心部には一際巨大な反応があり、姫、鬼級が複数体、その傍らに寄り添っている。

 海中からの接近に対して駆逐級や軽巡級が動くが、ここぞとばかりに搭載していた大型運貨筒を全展開。

 浮上する多量の囮に敵が気を取られている間に、まるゆたちは敵空母級たちの下へと辿り着いた。

 

 彼女たちの頭部に接続されている、あるいは頭部そのものとなっている甲殻部が、獣が大口を開くかのようにして開放。

 開放角度は後頭部側180°に至り、まるで舌を突きだすかのように滑走路が延長される。

 次の攻撃隊の発艦準備が整わんとしているだ。

 

 まるゆは即座に動き、“ルサールカ”はそれに答えた。

 互いを繋いでいたコードを解き、“ルサールカ”は海底側に頭頂を、足先を海面側に向けて、身をたわめる。

 まるゆは彼女の足裏に己の足裏を合わせるようにして、彼女の体から延びたコードを手繰って自らも身をたわめる。

 互いを引き寄せるように力を溜めた後、まるゆがコードを手放した動きを合図に、それぞれの力を開放させた。

 “ルサールカ”は海中へ、そしてまるゆは反動で海上へと昇る。

 

 海上へ躍り出たまるゆは、敵の姿をよく確認もせずに、唯一無事であったWG42を全弾ばら撒く。

 見もせずに放って直撃するくらいには、今の彼女たちは密集しすぎていて、こちらへの対応など出来ようはずもなかったのだ。

 致命打には成り得ないが、敵艦載機発艦の妨害は成った。

 発着艦機能を損なった空母級たちは、その修復に時間を奪われるはずだ。

 

 そしてまるゆは、敵“統率者”と正面から対峙する。

 その姿は記録にあった空母水鬼のものに近いが、衣装や生態艤装の形状などは大きく異なっていた。

 禍々しく見えるその姿は力強く、綺麗で、そして哀愁が全身を覆っていた。

 白く長い髪は怒りに逆立つように波打っているが、その表情は今にも泣き出しそうだ。

 だが、それももうじき終わる。

 

「きっと皆が、貴女を救いに行きますから……!」

 

 直後、護衛の戦艦棲鬼たちの機銃が火を吹き、まるゆは再び海中に沈んでいった。

 

 

 ○

 

 

 鎮守府に帰投した艦娘たちの、その魂の抜けたような雰囲気に、提督は体の力が抜け落ちる感触を味わっていた。

 妖精化していた後遺症がまだ抜けていないが、そんなものとは到底度合いの違う喪失感だ。

 もう二度と立ち上がることが出来ないかもしれない。

 そう頭の片隅で思いつつ、皆から一歩進み出る若葉に発言を促す。

 

「三式潜航輸送艇・まるゆの轟沈を確認した。艤装核も回収できなかった。回収できたのは、これだけだ……」

 

 そう言って差し出された品に、提督は目を離せなくなる。

 杖に体重を預けながらふらふらと歩み、そうして彼女の残したものへとたどり着く。

 まるゆの正式装備である、あのゴーグルだ。

 外観の状態から戦闘の激しさが伺えるが、奇跡的に内部に保存されたデータは無事であり、それらはすでに解析に回されていると若葉は告げる。

 

 だから、ここにあるのは完全に役目を終えた彼女の抜け殻だ。

 叱ってやりたいし、褒めてもあげたいのに、それを聞くべき彼女はここにはいない。

 

「少し、ふたりきりにしてくれるかい?」

 

 提督は何を言っているのだ、などと顔を歪ませたのは、まだ日の浅い艦娘たちだけ。

 駆逐艦たちは破損したゴーグルを提督に預けると、敬礼ひとつして無言でその場を後にした。

 残された提督は出撃場の通路に座り込み、手前に置いたゴーグルを指ではじき続ける。

 モールス信号となって送られるメッセージにはしかし、いつまで経っても応答はなかった。

 

 

 



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4話:迷い、燻る心が終わる時

 駆逐艦・狭霧は、今の鎮守府に空気に困惑していた。

 敵“統率者”が要塞島へ侵攻し、それを迎え撃つために水無月島は全力出撃。

 要塞島への侵攻は止まったものの、三式潜行輸送艇・まるゆは島に帰ってこなかった。

 帰って来たのは彼女の遺品だけで、しかしその中に残されていた情報は、島の艦娘たちの中にあった火に燃料を注いだ。

 

 生じた火は、赤黒く禍々しい憎悪の火ではない。

 酷く澄んで安定した、ガスバーナーが放つような青い火だ。

 綺麗で静寂で、有害なものなど発することなど無いかと思える輝きはしかし、個々人の内包するエネルギーすべてを急激に消費しているかのようで、見蕩れつつも、それに気付いて怖くなる。

 

 狭霧は第五期建造組の駆逐艦娘だ。

 だから、この島が歩んできた歴史を伝え聞く形でしか知らず、先行組が抱いている感情をすべて共有できていないことに、もどかしさを感じていた。

 皆が同じ方を向いているのに、足並みを合わせられないでいる。気がする。

 打ち合わせや準備で忙しく駆け回っている時はいいが、こうしてふと休憩と言った時間になると、同様の感情がまた巡ってくるのだ。

 

 そして、その思いを共有するのは自分たちだけではないと、とある一室に入って再確認する。

 鎮守府の倉庫奥。埃っぽい物置部屋には、涼月と菊月が難しい顔をしてテーブルに突っ伏していた。

 第五期建造組である5隻は、特別仲が良いというわけではないが、周囲の空気に馴染めず、こうして同じ心持の連中で集まることが多い。

 そうした時は決まってこの場所だ。

 かつてこの島に居たという駆逐艦・時雨や、この島唯一の空母となってしまった熊野などが引きこもっていたという逸話があるここに、どうしてか狭霧たちは集まってしまう。

 勝手に疎外感を感じて、自分がこの場に居るべきではない、場違いな存在だと思ってしまって、しかしその感情を共有する仲間が共にいた。

 艦娘が3隻も入れば少し手狭に感じてしまうこの場所に、狭霧の後から初霜がやって来て。

 それでも窮屈さを感じるどころか、逆に安心を覚えてしまうのだ。

 

 初霜が盆に載せて運んで来たお茶で一服。

 ふと、気持ちがいつもとは別の場所に落ち着いたせいか、狭霧は普段は考えなかったような部分が気になりだした。

 第五期建造組は同じ駆逐艦という艦種でありながら、その遍歴は大きく二分する。

 開戦前や開戦後早期に沈んでしまった方と、終わりまでを戦い抜いた方と。

 狭霧自身は早くにリタイヤした組だが、同じような境遇の菊月とは考え方も異なる。

 もしも、狭霧自身が別の鎮守府で菊月と同時期に建造され、寝食を共にしたのならば、たいして話すことも、仲良くなることもなかったのではないかと、そう考えてしまう。

 

 そんな場違い感が当たり前になって、それでも慣れてしまった昨今。

 では、どうしよう、というのが、狭霧たちが集まった時に生ずる話題だった。

 場違い感はわかったし、そう簡単に払拭できるわけではない。

 いっそのこと無視して、挑むべき作戦に集中すればいいのだ。それが出来るのならば。

 

 誰かに道を示して欲しいわけでは決してなく。

 ただ、これからを生きるための軸を見付ける手がかりは欲していた。

 堂々巡りは幾度となく繰り返した。

 今顔を突き合わせている面子では、答えが出ないとわかりきっている。

 そうして今回も重苦しいだるさを背に抱えたまま、無為な時間を過ごすのだ。

 少なくとも狭霧はそう思っていた。

 血相を変えた雪風が、扉をぶち破らんばかりの勢いで物置部屋へ入って来るまでは。

 

 

 ○

 

 

 鎮守府の外へ出た狭霧たちがまず感じたものは、鼻孔を刺すような潮風の香りだった。

 風が海の香を運んでくる。波の音を。肌に纏わり着く湿度を。井の中から見たかのような青空を。

 

 深海棲艦の海域支配が限定解除された。

 水無月島の近海数十キロメートルという、限られた区域のみだ。

 一体何故と疑問するも、異常を感じて先に外へ出ていた磯風が、血が滲むほど握りしめた拳を正門に叩きつける動きで、思考が止まる。

 

「……自らの取れる手段と、その効果を熟知している。なるほど、敵は、この“統率者”はどこまでも……!」

 

 そこから先は言葉にはならなかった。

 ただひたすら正門を拳で打撃する磯風を、半泣きの雪風が制止して。

 唖然としてその様に見入っていた狭霧たちは、自分たちの後から杖を突いてやって来た人物の気配に、しばらくの間、気が付かなかった。

 

「今日は随分、天気がいいね?」

 

 呑気な口調で陽の下へと歩いて出て行く提督の姿に、狭霧は呼吸が閉塞し、全身から汗が噴き出す感触を覚えていた。

 体感が先行して、その理由は遅れて再生される。

 だがそこの頃には、提督は杖を突き損ねて転倒して、自力で起き上がることすら困難な程の衰えを露わにした。

 

 

 ○

 

 

 医務室の天井を眺めるのは、随分と久しぶりな気がする。

 若干の焦げ跡が残る医務室の天井を見てもそう感想が出てくる程、提督はこの島で目覚めたあの日のことを鮮烈に覚えていて、力の入らない口元で笑ってしまう。

 自分が何者かもわからない地点からスタートしたこの島での生活は、今思い返してもひどく充実していたのだ。

 今、提督という役割を得ている彼が生まれた場所と言ってもいい。

 様々な選択を迫られてきたし、後悔は常に付きまとった。

 それでも、選ばず停滞を選ぶことを良しとした覚えはなかったはずだと、提督は病床から身を起こす。

 

 左手側、窓から見える風景は夕暮で、この赤の色はとても綺麗だと素直に思える。

 自分が生きられない環境であるからこそそう思うのかと、定かではない思いなど脇に置いて、まずは自分の役割を果たさなければならないなと、向き直るのは右手側。

 そこに居たのは狭霧たち、第五期建造組だ。

 心配そうにこちらを見る彼女たちに対して、まず口を突いて出た言葉は「すまないね」だった。

 

「キミたちに迷いを背負わせてしまっている。進むと決めて、それに乗ってくれる皆が居て。でも、途中参加では、どうにも乗りきれないものだよね?」

 

 反応は様々。

 バツが悪そうにそっぽ向いたり、弁明しようと躍起になったり、あるいは、何故わかったとばかりに目を丸くする者も居て。

 わからないわけがない。

 そうした悩みを抱えていた艦娘は彼女たちだけではなかった。

 誰もがそうしたものを抱えるも、自力で、あるいは誰かの助言や助力を得て、そうした悩みを踏み越えて先へ行った。

 そういった光景ばかり見てきたものだから、自分の出る幕などないものだなあと、提督は常々思っていたのだ。

 以前から水無月島で生活していた彼女たちは、そうして悩み立ち止まる時間はとうに過ぎてしまっていて。

 しかし、“今”の流れの途中で生み出された彼女たちとしては、確かに戸惑うしかないだろうとも、やはり思うのだ。

 

「生き急いでいるところに付き合わせてしまって、すまないと思っているよ。でも、これもすぐに終わりが来る。だからその時まで待って……」

「イヤです」

 

 提督の言葉の先を遮ったのは狭霧だ。

 普段から人の話を聞く側に回ることが多い彼女にとって、こうして誰かの言を途中で遮ることは、建造されて以来なかったことだ。

 周囲も、そして自分自身が一番戸惑いつつも、狭霧は否定の意を言葉にする。

 

「大きな戦いが終わるまでなんて、待てません。だって、それが終わったら、提督はもう、居ないかもしれないのに……!」

 

 こうして不自由している身だ。見ている彼女たちにとっては、ひどく頼りなく映るだろう。

 居なくなった後で好きにしてくれ、などとは確かに無責任すぎる。

 

 しかしだからと言って、彼女たちに同じ心持までを強いることは避けたかった。

 彼女たちと同じ方向を、徐々に速度を上げながら進んでいるという自覚はある。

 互いが互いのブレーキとして機能していたはずだが、それらがすでに効果を失いつつあることも。

 

「失うのは、もうたくさんだ。だから、ひとつだけ皆に命令するよ」

 

 身構える駆逐艦たちに願うのはただひとつ。

 

「生きて、この戦いの終わりを見届けてほしい」

 

 ふんと、鼻を鳴らす音がした。菊月だ。

 何を今更と、彼女の顔がそう、言外に告げている。

 

「私は元よりそのつもりだ。途中退場する気は毛頭ない。あわよくば親玉の首を攫って手土産にしてやろう!」

 

 小さな体で腕組みして、不遜さや尊大さを主張しようとしているものの、膝の震えは隠せない。

 

「戦いが終わって、それで司令官とお別れだと思ったら、大間違いだぞ?」

「そうです! 私たちは、これからなんです……!」

 

 菊月の真後ろに位置していた涼月の声

 身長差のせいで睦月型の後ろに立ってもまったく顔が隠れないもので、前に位置していた菊月がびくりと震えて背後を二度見する。

 

「提督。“待つだけ”は、辛いですか?」

 

 振り絞るかのようなか細い声。

 凉月の艦としての背景を鑑みればあまりにも重い問いだが、提督はもちろんだと即答する。

 

「だから、動き続けることを選んだよ。今、缶の火を落としてしまえば、もう二度と火は灯らないかもしれないから……」

「では私は、提督と一緒に動き続けることを選びます。私も、待っているだけじゃない、その先が欲しいのですから……!」

 

 拳に力を込めての涼月の言は、彼女の前に居る菊月を押し出して提督に押し付ける形となり、初霜が慌てて止めなければ白一色のサンドイッチが出来上がるところだ。

 先行組のような“これまで”が無いならば、これから先を欲する。

 

「提督の命令、了解しました。でも、生きて終わりを見届けるのは私たちだけじゃありません」

 

 涼月の背中から身を乗り出して告げる初霜は、皆の視線が集中するとすぐに隠れてしまうが、しばらくすると顔を半分だけ出して、しかし滑舌ははっきりと。

 

「戦いの終わりを見届けるなら、提督も一緒じゃなきゃダメです」

 

 言うことは言ったぞ、うん。とばかりに頷く初霜だったが、皆は「他には?」と目で聞いてくるもので、困り顔で視線を彷徨わせるしかない。

 そうして彷徨わせた視線の先、雪風が普段の半裸からきっちりと正装を着こなした姿に変わっていて、初霜だけでなく皆がぎょっと二度見する。

 

「雪風もかい?」

「はい! 司令と妹たちに、かっこいいところを見せるのです!」

 

 なるほど確かに、今日の雪風は中々に決まっている。

 帽子に手袋に、何よりスカートをちゃんと履いているのだ。

 意気は充分と言うことか。

 

 やる気満々の雪風が手を差し伸べてくれるものだから、負けていられないと思って手を取って立ち上がりそうになる。

 そんなところをその場に居た皆や、医務室の外でこちらの様子を伺っていた皆が雪崩れ込んで来て止めようとしてくれるものだから、思わず笑ってしまう。

 視界の端、電が思い詰めた顔をしているのが気になった。

 

 

 ○

 

 

 要塞島の天蓋に居た大穴の修復跡を、大和は虚ろな目で眺めていた。

 先日、自らが砲撃して開けた大穴を、浜風が不器用ながら一生懸命塞いだものだ。

 敵の侵攻を抑えるために単艦出撃した彼女の危機を知り、居ても経っても居られなくなって、砲声だけでも届けとばかりに、修復を終えていた一番砲塔で砲撃を行ったのだ。

 それで、天蓋には大穴。砲撃の余波を受けて転がって行った明石は二日間の入渠。

 大和自身は機能制限を施されて謹慎中。

 ほぼ軟禁状態の現状においてさらに謹慎中とは笑わせる話だが、笑う気になど一切なれなかった。

 

 彼女はもう居ない。

 動けない自分を助けるために、先に行ってしまった。

 自分が足を引っ張っているなどと思うのは、行った彼女に対して失礼だ。

 だから、早く。そう逸る。

 何も出来ない時間が早く終わって、もう自分は大丈夫なんだと彼女に言いたい。

 一緒に戦うことは叶わなかったが、ならば終わりをこの目で見るのだ。

 

 艤装核の切り離し作業は、今朝無事に完了した。

 明石が無事であればもっと早く作業は成っていただろうが、頭を冷やす時間が得られたので逆に良かったのかもしれない。明石にはすまないことをしたと思っているが。

 現状を再確認する。

 敵の侵攻は一時的に停止したが、偵察機からの情報によれば、この要塞島の近海に続々と集結しているらしい。

 それも、空母を後衛に置いたアウトレンジ。

 前回と同じやり方で攻めようという腹積もりなのだろう。

 確かに、数が多い向こう側ならそれで事足りる。

 

 こちらはと言えば、意気こそ失ってはいないが、支配海域の限定解除で提督が消耗を強いられている。

 最早提督の命令が強制力とならない艦娘が増えた昨今だが、それは必ずしも良いことではない。

 ブレーキの喪失、判断の短絡化、深海棲艦化の促進。他にも悪い方に考えればきりがない。

 提督を失わせるわけにはいかない以上、こちらは準備に時間をかけてはいられないだろう。

 大和自身は準備万端、いついつでも出撃可能だ。

 敵の攻撃目標がまず“ここ”だというのは、先の戦闘でもわかっている。

 だからと、大和は自分の仕事を再認識する。

 

「ここを攻めるには少し骨だと思わせること。数さえ投入すれば潰せる程度と思わせて、出来るだけ多くを引き付ける」

 

 そのうえで生還するなど奇跡の領域ではあるが、やるのだ。

 どの道長期戦にはならない。榛名たちが超高速巡航で一気に“統率者”へと接敵するだろう。

 しかし、まるゆの持ち帰ったデータによれば、敵“統率者”は複数体の空母棲姫や戦艦棲姫を従えて入る。

 それらをすべて、あるいは掻い潜って“統率者”を討つことは、ここで踏み止まるよりも過酷なはずだ。

 

 だから、向こうの戦力まで吐き出させるよう、自分を最大の脅威だと思わせなければならない。買いかぶられなければならないのだ。

 1隻きりでそれが出来るだろうかと顔を伏せると、傍らに寄り添われる感触に、困った様な表情になってしまう。

 

「今度も一緒ですよ。今度は一緒に、切り抜けるんです」

 

 1隻ではない。

 ありがたいし、嬉しくも思うが、此度も自分の戦いに付き合わせるのかと思うと、胸が痛む。

 そんな大和の内面など手に取るようにわかるとばかりに、浜風は正面に向き直り、両手で戦艦を頬を包む。

 

「貴女が付き合わせているのではありません。私が、一緒にいたいのです」

 

 長く伸ばしていた髪をバッサリと切って整えた姿が近付き、互いの髪が触れて絡んでしばらくして、銀色はゆっくりと離れた。

 頬を赤くして息を荒くした大和は呂律の回らない口元をあわわと震わせて。

 

「……ちゅーされるかと思いました」

「お、おでこ! おでこですよ!?」

 

 療養中のピンクが口笛吹いて囃し立てるものだから、潜水艦でもないのに潜って逃げたピンクに対して浜風は手持ちの爆雷をしこたま放り込んで照れ隠し。

 

「もう爆雷は必要ありませんから! 対空装備で固めて下さい!」

 

 何かを吹っ切った良い顔で湯衣を脱ぎ去り放り捨てた浜風は、色々揺らしながら湯の中を豪快に行く。

 自分もこれから決戦だ。大和は湯の中から立ち上がり、衣装を纏うために一度髪を纏めようとするが、手先の感触がまだ戻りきらず、上手く纏めることが出来ない。

 二度、三度と失敗するうちに、明石が背後に回り込んで代わりに髪を纏めてくれる。

 療養はもういいのかと問えば、工作艦がそう何日も休んでいられないと困り顔だ。

 

「……艤装の操作に支障ないとはいえ、やっぱり不便ですよね」

「支障無しなら良し、です。幸い今は、手伝ってくれる頼もしい仲間が居ますから」

 

 簡易の脱衣所の向こうから浜風が慌てて自分がやるのだと騒ぎ出すが、明石が「すでに仕事を終えてしまったぞ」とドヤ顔で煽る。

 

「……わかっていますよね?」

「ええ、もちろん」

 

 明石の問いに、大和は即答。

 その澄ました反応が面白くなかったのか、明石は表情をむっと引き締めて、大和の艤装核ユニット接続準備に移る。

 

「手先の感触が戻らないのはリハビリ不足なんかじゃないですよ。……もう、その段階まで来ているんです」

「わかっています。自分の体のことですから」

「艤装を纏って戦えるのだって、正直あと一回が限度です」

「かと言って、今を乗り越えなければそもそも次だってやって来ません。わかっていますよ、明石」

 

 工作艦の手が止まる。

 そのまま待つ大和は、己の背後、絞り出すような声を聞く。

 

「沈みさえしなければ、どんな損傷だって直します。でも、こればっかりは私にもどうにも出来ないんです。戦える艦娘として貴女を永らえることは出来ない」

「メンテ不足に老朽化に、さらには無茶な変異で艤装核へのダメージも深刻。これを直して永らえさせろなんて、死を覆すような無茶を要求することは、大和にだって出来ません」

 

 その言葉を聞いたところで、背中で不満を押し殺している工作艦は納得するまい。

 だからその時はと、以前から考え続けていた計画を推し進めるよう念押すのだ。

 

「その方法だけが、大和が最後まで皆さんと一緒に戦える方法です」

「貴女の妹が聞いたらなんて言うか……」

 

 きっと同じようにするはずですよ、と。大和は手鏡越しに明石に笑んだ。

 

 

 ○

 

 

 出撃前の雰囲気にしては妙に落ち着きがないなと、重巡・プリンツは腕組みし目を細める。

 普段ならばその落ち着きのない輪の中に居るか、一歩引いた位置からそれらを見ていたものだが、今はそれらと相対する位置にあった。

 この喧騒を諌め、纏める側にいるのだ。隣りの清霜に「どうしよっか?」と顔を向けて丸投げ気分にもなる。

 敵“統率者”、仮称個別コード“クレイン”に対する迎撃作戦を臨む最終打ち合わせがこの有り様だ。

 不安や不満を露わにしている、ということでは決してない。

 皆ようやく、余分な力が抜けたのだ。

 

 今まで同じ方向へとブレーキの壊れた状態で突っ込もうとしていたものを、「待て、少し待て」と互いに制動をかけて、ようやく微速の状態にまで安定させたのだ。

 第五期建造組の功績だとも言えるし、さすがにあんな姿の提督を見せられては一度落ち着かねばとも思うもの。

 

 そして、隣りの清霜の方はと言えば、諸手を振り上げて「言うこと聞かないとー、阿武隈ちゃん起きて来るよー! いーのー!」などと発するものだから、出撃場に集った全艦の動きが一瞬止まる。

 止まるが、すぐに喧騒を取り戻すものだから、眠りに着いてなお、阿武隈の存在は大きかったのだなあと、感心の溜め息しか出ない。

 先行して建造された艦娘たちは次々と離脱してしまい、もはやプリンツと清霜が一番の年長者だ。

 年長者となってしまったからにはこうして仕切って段取りしてと、そういう役割を任されるものだが、適役は他にも居るよなあと、僅かに不満。

 まるゆがそういったリーダー的な位置から距離を取っていたのも少し狡いと思ってしまうが、だからこそ自分たちが頭にされたのだなと、そういった確信はある。

 

 鎮守府に置いては提督に次ぐ権限の持ち主となってしまえば、己が沈むリスクを最大限排除するよう立ち回らなければならなくなる。

 各々の判断で動けなくはないが、それはあくまで単艦の判断としてだ。艦隊運動の範疇ではなくなってしまう。

 伊勢型が支配海域を脱する時と同様の状況に陥る危険性がある。単艦が単艦として最善の動きをしようとすれば、散発的に、しかし確実に轟沈する可能性は上がる。

 そんなことは最早、誰も望んでいない。海の神様にだって、誰も連れていかせない。

 だから、この位置は戒めだ。自分以外の誰かがやればいいとは思うが、自分がやるべき役割とも思っている。

 

「……だって筑摩じゃ危ないし、熊野はメンタルが不安定だし。鳥海は一番向いている風な感じなのに一番向いていないしで……」

「あの、聞こえるように言ってます? プリンツ・オイゲン。ねえ? 一応私、戦時中は旗艦を務めた経験も……」

 

 鳥海の眼鏡が曇り出したので、両手を小さく上げて「まあまあ」と雑に諌めておく。

 サイドテールを揺らしてにこにこ寄ってくる筑摩は、どこか洒落では済まされない雰囲気を醸しているので、姿勢を低く低く。

 実際、自分や清霜でなければ酒匂を推したいプリンツではあったが、彼女は今回大和の護衛に徹するため、指揮を任せることは避けたかった。

 それにと、プリンツ自身にも、自らが艦隊旗艦と動く有利な点は理解している。

 味方に大和が、そして敵側に“クレイン”が居る以上、発生する再現行動は太平洋戦争をクローズアップした形を取るはずだ。

 そこにプリンツ・オイゲンの枠は用意されていない。ならば、自由な位置で立ち回ることが可能なはず。

 もしも敗色濃厚となろうとも、その時のことも考えてある。

 こうして、皆の前で宣言するべきセリフも。

 

「それではー、アドミラールから一言」

 

 隣りの清霜が「がっかりだよ」とばかりに眉を下げた顔で見てくるが、ラッキーガールは多くを語るべきではないのだ。

 椅子に深く腰掛け、杖を支えに蹲るようにしていた提督は顔を上げて、びっしりと汗を浮かべた真っ青な顔で笑んで見せる。

 今や時計の針が進むごとに新たに合併症を引き起こしている提督ではあるが、だからこそ口が利けるうちに話が欲しい。

 

「僕からはふたつ。まず、今回の作戦においては、無線封鎖を解除する。全通信回線をオープン状態で行くよ。敵側にこちらの動きが読まれる可能性はもちろんあるけれど、この機会にそれを逆に利用しよう」

「誤情報たくさん送って飽和攻撃ぴょん!」

「この日のために、新しい暗号組んだのが役に立つっしょ?」

 

 得意げな顔で告げる漣に対して「それネットスラング……」と指摘する艦娘はこの場には居ない。

 

 これまでは敵に動きを知らせないよう、無線封鎖しての作戦行動を基本としていたが、通信傍受を逆に利用するという策は常に話し合われていた。

 そのタイミングに関しては幾つかの案が上がったが、概ね最後の手段という形で見送られてきた。

 最後の手段を、今回の作戦に投入するのだ。

 

「もうひとつ。無線封鎖解除に合わせて、本作戦の動向を衛星経由で本土へ送信するよ。せっかく、この島の周囲が支配解除されているんだ。またとない機会だよね」

 

 叶うならば、今は遠い場所に居る家族たちに、自分たちが健在であると知らせたい。

 これが最後になるのかもしれないから、という悲観的な理由もあるが、決してそれだけではない。

 勝敗の有無に関わらず、ここ、最前線が大きく動くのだ。

 動向次第で本土や“大浮島”が動くための指針をつくることにもなるだろう。

 

 そしてプリンツ自身としては、故郷に自分の活躍が届けばいいと、そう思う。

 アドミラールヒッパーの姉妹たちに、勇壮なビスマルクに、貴女たちの姉妹は最も過酷な環境下で戦っているぞと。

 貴女たちの姉妹が得た家族は、こんなにも心強いのだと。

 そんな連中の旗艦が、このプリンツ・オイゲンだ。

 沈むわけにはいかない理由ばかりが積まれてゆく。

 

「ああ、ごめん。あと、もうひとつだけ」

 

 息を整える提督の口からは、たった今思い付いたのだろう、みっつめの言葉が発せられる。

 

「僕に、終わりの先を見せて。この戦いの終わりの、その先を」

 

 示し合わせた訳でもなく、全艦の敬礼が揃う。

 自分たちもそれを望んでいるのだと、再確認させられる。

 

 いい傾向だと、プリンツはそう頷く。

 この提督にはもっと欲深く、多くを望んでもらわなければならない。

 こんなところでぽっくり逝かれてしまっては困るのだ。

 彼にはまだ、この島に帰り着く皆を待つという、重要な役割が残されている。

 だから多くを望み、その望みを叶えるために、しぶとく生き永らえてもらわなければ。

 

 さて、と。プリンツは軍帽を深く被り直す。

 ささやかな戦力ながら、総力戦だ。

 最終決戦がまだ後に控えているが、出し惜しみは無し。

 これまでは守りに、そして逃げに徹しすぎた。

 燻る時間はもう終わり。

 今度はこちらから仕掛ける番だ。

 

 

 



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5話:ある終わりの開始地点・前

 戦艦・大和は固く閉じていた瞼を見開く。

 耳には空襲を知らせるサイレンが多重に反響して聞こえている。

 眼前、要塞島の仮設ハッチが展開し、朝霧が内部に流れ込む。

 日傘型の電探を改造した大傘を右手に、外へと踏み出す。

 早朝の静寂は、空気は、すでに焦げ臭い死の臭いに満ちている。

 粋なものではない。

 肌に触れる空気は湿っていて、油と煤と、時折爆弾の破片をも運んでくる。

 戦いの空気に、しかし、大和は高揚しない。

 取り戻したいくつかの感情の中でも一際負の方面に偏った、重苦しいものばかりが胸にある。

 人の身を持って感じることが出来た素晴らしいものすべてが、まるでなかったことになってしまいそうな、そんな心境。

 恐らくは敵の胸中。深海棲艦へと変わってしまったものたちの心境なのかと思う。

 ならば終わらせるべきだ。

 自分を果たし、敵を果たし、彼が望む終わりの先を取りに行く。

 

 頭部艤装が展開して、即座に情報収集が開始される。

 此度の作戦は全通信回線オープンで行く。敵にこちらの情報が筒抜けになることすら策の1つとして用い、その動向を衛星経由で本土や拠点各所へと公開するのだ。

 自分の戦っている姿が、誰かに届くのだ。

 支配海域外に知人が居るものならば高揚を覚えるのだろうが、大和にとって一番その姿を見せたかった相手はもういない。

 だから、その娘が居る場所まで届けとばかりに、これから大暴れするのだ。

 

 一歩一歩、ゆっくりと歩む大和の周囲は陽炎によって空間が歪曲しているようにも見える。

 艤装の排熱による青白い陽炎とは別に、大和が増設した格納領域によるものだ。

 その空間の歪みが彼女の姿を覆い隠すことはなく、逆にその存在感を際立たせる。

 

 要塞島から完全に姿を現した大和へと、敵航空機は急降下を始めた。

 まだ着水して間もない、速度が乗らない状態の今こそ、爆撃で確実にダメージを与えようという意図だろう。

 来るがいい。こちらは元より速度を出すつもりは毛頭ない。逃げも隠れもしないのだ。

 大傘の内側はモニターになっていて、空を覆わんとばかりに展開する敵航空機の数と装備を正確に把握する。

 左手を真っ直ぐ前へと伸ばし、指を揃えた掌を上へと向ける。

 すると、艤装のあちこちで軽微な金属音が重なり、対空兵装の展開が完了する。

 針山のような対空機銃は各々の銃口を空に向け、各機銃には妖精たちが大和の号令を待ちわびる。

 

「対空射撃、開始」

 

 静かな発声は、大和の戦いの合図となった。

 艦娘の艤装の中では最も軽く、強大な敵にとっては目くらましにしかならないような武力ではあるが、それが三桁の数になれば別の戦力に変貌する。

 給弾のタイミングをつくるため対空射撃は散発的に開始され、いずれ全機銃がそれぞれの銃身を加熱させる。

 隙間なく空を刺す砲火は、敵機が近付く隙を与えない。

 何万にも及ぶ排莢は浅瀬を熱し、海面を湯気に変えて消失させる。

 脚部艤装が海水に反応して駆動する構造上、このままでは戦闘続行が不可能となるため、大和はさらに一歩、もう一歩と前へ進む。

 10年ものあいだ自分を守っていた殻を捨てることに何の躊躇いも感慨もなかった。

 あったとすれば、あの場で彼女たちと過ごした時間のこと。それすらも振り払うように前へ出る。

 

 敵潜水級が足元に迫っている情報を、視聴覚ではなく通信から知る。

 情報は大型のヘッドフォン式探針儀を装着し、大和の艤装の影に隠れるように追随していた浜風からもたらされたもの。

 この浅瀬ではこちらは爆雷を遣えず、しかし敵も雷撃を行えない。

 だから、敵潜水級たちは生態艤装による攻撃ではなく、接触距離での白兵戦を仕掛けてくる。

 次々と海中から身を出して近付いてくる敵潜水級を攻撃するには、大和の副砲は最適だ。

 

 空への対応をする片手間とばかりに、大和の副砲群は浮上した潜水級の本体へ次々へと吸い込まれてゆく。

 ひとつひとつが重巡・軽巡級の主砲クラスだ。それらが連打で敵に吸い込まれ、その姿を破片と燃料、残骸へと変えた。

 艤装の影に居る浜風もヘッドフォンを片手で押さえながら、海面下の情報と大和へ語りかける。

 返答する余裕こそないが、浜風がこうして話しかけてくれることで、大和は戦いに傾き過ぎそうな自我をかろうじで保っていた。

 通信によって水無月島の動向は逐一伝わってくるし、幾度か挟まれる予想外の動きに微笑ましさを覚えるが、それも集中しすぎると聞こえなくなる。

 この大和という個体の欠点だ。戦いにのめり込むと周りが見えなくなる。

 視野狭窄もいいところだし、水無月島の艦隊に編成されていた時期は、一度も旗艦を務めたことはなかった。

 常に誰かに付き添われ、しかし、いつもひとりで戦ってきたのかもしれない。

 現在から振り返ると、後悔する戦いばかりだった気がする。共に戦った仲間たちに対して申し訳ないとも。

 

 今は違う。敵へ対応しながら、周囲に気を配る余裕すらある。

 敵の攻撃がまだ対応可能な範疇にあるから、というのもあるだろう。

 それでも要塞島を出た直後のような心持ではなくなっていた。

 戦いに対して義務感や悪感情が多くを占めていたものが、徐々に塗り替わってゆく。

 忘れていた。戦うのがこんなに楽しい。

 敵を倒して破壊し滅ぼすことが、ではない。

 仲間たちとひとつの目的に向かって、方角は別々ではあるが、進むのだ。

 楽しくないわけがない。

 同時にひどく申し訳なくも思う。

 こんなに楽しいことに、自分は水を差していたかもしれない。

 ただ1隻、視界を狭め、誰かにフォローを任せて。心配をかけて。

 

「……大和? 大和!? 泣いていますか!?」

 

 浜風の問いかけに、大和は「いいえ」と即答。

 流れる涙を拭うのは、泣いてる事実を肯定することになるのでダメ。

 だから笑顔のまま、戦いを続けるのだ。

 まだまだ現状のままで対応可能な範疇に留まる。

 これしきでは沈みすらしない。

 このままこちらの弾薬が底を付くまで続けるのだとしたら、それは永遠に来ないだろう確信がある。

 

 掌を天に向けた位置から人差し指をくいと動かし、格納領域から己の背後へ向けて巨大なコンテナを取り出す。

 コンテナはひとりでに駆動し、開放、展開。複数の小型コンテナとアームが忙しなく動作し、次々と大和の艤装へ装填されてゆく。

 敵機が来ると言うなら幾らでも迎え撃つ。現状を維持するだけならば1日中でも続けられる。

 大和型並みの格納領域を保有するまるゆが何日もかけて運び込んだ物資だ。使い切る方が難儀するだろう。

 こんなものかと、出来る限り全身に余裕を滲ませ、微速で前進を開始する。こちらへ手勢を割かなければ、このまま“クレイン”の下へ向かってしまうぞとばかりに。

 それならそれで構わない。このまま空を制圧することだって可能だ。砲撃で敵を穿つことも。

 

「さあ、厄介者が戦線に加わってしまいますよ……?」

 

 足取り優雅に踏み出す。

 敵の対応が形になるのに、そう時間はかからなかった。

 

 

 ○

 

 

「抜錨! 全艦出撃!」

 

 水無月島鎮守府は第一出撃場。

 大淀の号令で艦娘は次々と出撃してゆく。

 敵航空機が大和へと集中し始めたため、水無月島への攻撃が一時手薄となり、出撃するタイミングが回って来たのだ。

 真っ先に海上へ飛び出すのは榛名、霧島両名。2隻の補完艤装を合一させた超高速巡航形態は最高速度を維持し、目標地点への最短ルートを行く。

 後続との速度差が著しいこの艤装で戦うということは、味方と足並みを合わせず戦うということだ。

 艦隊の動きではなく、艦娘の性能限界を試す無謀。

 蝋燭の残りを著しく損なうやり方を推し進めてきたこれまでを、榛名は唇をかみしめつつ、しかし振り返りはしない。

 自分たちには時間がなく、だから時計の針を進めようと決めて、こんな無茶を続けてきた。

 決して自分たちを省みなかったわけではないが、改めていける程の余裕はなかった。

 このまま進むと決めた。終わりまで。出来ればその先まで。

 

 それでも、無線封鎖をしていた時期よりはマシなはずだと、榛名は各艦が上げる声に耳を傾ける。

 今や各艦が思い思いに無線に自らの動きを告げては動くを繰り返している。

 敵を攪乱するためだと銘打たれている策ではあるが、その実敵にとっては無意味に等しいだろうと確信している。

 敵は最早、こちらの動きなど気にはしないだろう。榛名はそう考えている。

 かつて共に戦った彼女ならば、物量という力を手に入れたのならば。

 そして最早、それらを小出しにする時期は過ぎているのだ。

 

「どちらかと言えば、こちら側への横槍を警戒する色が強いものです。この乱雑なトーク合戦」

 

 隣りの霧島が言うには、島の外の人間側からの横槍を牽制する意図の方が強いとの事。

 今や水無月島周辺の海域支配は解除され、外界との情報のやり取りに置いて障害は無くなった。

 だからこそ、この総力戦を公開するに至ったわけだが、そこで危惧されたのが、霧島が言ったような人間側の勢力からの干渉だった。

 ただ援軍・援助をくれるのならばこれ以上に嬉しいことはないが、そうではない勢力も数多い。

 

 そう言った諸々へのけん制としてのこの無線ではあるが、まったく無意味な言葉を並べているわけではない。

 “F作業”に入ったという報告ひとつとっても、駆逐隊たちの場合は対潜掃討に入ったという意味だし、重巡戦隊ならば敵影見えるまで各々好き勝手、と言った具合だ。

 冗談が得意なわけでもなく、言い回しにも工夫を凝らせない榛名としては、実直に目の前の状況を告げるしか出来ず、日ごろからもっと上手い事言おうと頭を使って置けば良かった後悔が先に立つ。

 

「霧島、マイクチェック入りまーす」

 

 口を「え」の形にしてほぼ双子の妹艦を見やる榛名は、眼鏡の位置を直した手をそのまま前方を指さす形にした霧島が横目でこちらを見つつ、「はい、3、2……」とカウントダウンを始める様に、慌てて視線を先へと戻す。

 敵の防衛線に到達したのだ。単縦陣で無謀にも砲撃を開始する敵駆逐級に対して、こちらは加速して吶喊。

 敵艦隊の横腹ど真ん中へ無遠慮に突っ込むなど、もはや艦の動きではないなと嘆息するも、これが中々嫌いにはなれない。

 迂回せずに最短距離を、敵艦隊の中心部を目指す。

 そんなこちらの意図はお見通しだとばかりに、蹴散らし置き去りにした敵の残存部隊からは雷撃が、そして進む先からは戦艦級の砲撃だ。

 

「マイクを変えましょうか」

 

 ぽつりと呟く榛名に霧島は頷いて、機関が焼け付くほどに加速させた補完艤装をパージして、複縦陣にて待ち構える敵艦隊へと進ませる。

 減速を忘れた合一補完艤装は微かな波に足を取られて前につんのめり、縦の回転を得て敵艦隊を強かに打撃した。

 パージの衝撃で宙に放り出された榛名と霧島はと言えば、姿勢を乱さぬよう両手を広げてバランスを取り、高速で迫る海面を最低限のステップで駆け抜け、格納領域から新たな補完艤装を取り出し、展開し、再艤装状態となって速度を取り戻す。

 

「デユエット続行、次の曲目は?」

「……ええ、と。“アナタのハートにバーニング・ドライブ”」

「あらやだ、ごりごりにニッチな選曲。金剛お姉さま呼んでこないと」

 

 聞いたら怒るなあ、などと半笑いの榛名は、速度を上げて敵陣の中心を目指す。加速する。

 

 

 ○

 

 

 上空からの攻撃だけならば丸1日でも持ち堪える自信はあった。

 しかし、だからこそ、大和の側に二個艦隊も差し向けられたのは充分すぎる釣果であり、“クレイン”が水無月島の艦娘を1隻たりとも生かしておくつもりがないと、確信する。

 

「主砲、1番から3番まで装填。目標、敵戦艦級。1番から順次砲撃開始!」

 

 主砲を解禁する。

 砲撃する度に海面に新たな波紋が生まれ、大和に寄り添っていた浜風は余波がダメージとならない位置まで離れざるを得ない。

 空を裂き弧を描く砲弾は峡嵯を経て目標に着弾。

 戦艦級の装甲をも易々と砕き、敵艦隊を即座に轟沈せしめる。

 これしきでは負荷にすらならない。空に対し、海上に対し、海面下の察知は浜風が担ってくれる。

 迫る雷撃には三式弾を装填した3番砲塔で対応。

 すべての歯車が噛み合っている。絶好調だ。絶好調過ぎた。

 

 白熱化して変形した機銃の砲身を交換する区画が増えたため、対空網に僅かな穴が生ずる。

 敵機はその穴を見逃さなかった。

 まずは敵機の特攻だった。対空機銃の連打で残骸と化した球状型の航空機が爆弾を抱えたまま直撃。

 潰された区画を担っていた穴を埋めるため、対空射撃の密度が薄くなる。次はそこを狙われる。

 機銃だけでは対応出来なくなり、三式弾を対空網へ加えはじめる。

 そうすれば今まで魚雷に対応していた部分が疎かとなり、海面下の右脚部艤装に雷撃を受ける。

 僅かな傾斜はものともしないが、流れが悪い方へ傾き始めている。

 敵艦隊も増援が迫る。今度は倍の四個艦隊。倒せば倍数を、あるいは乗数を差し向ける気か。

 

「修復! 入りますよ!」

 

 背後から聞こえてきたのは明石の声。

 迷彩装備を解除した工作艦は、大和の背後に張り付き己の艤装を全展開。

 戦闘行為を続行する大和の現状を維持しつつ、明石は修復を開始する。

 それでも間に合わない。

 敵の攻撃が浜風にも及び始め、大和自身への復旧速度は破損と拮抗。

 砲弾の破片が目元を掠め、一瞬だけ視界が霞む。

 致命的な一瞬、砲弾の飛来は既に予測されていたので、前へと突き出していた左手を己を守るようにすれば、届いたのは着弾音と僅かな余波だけ。

 薄く目を開けて前を見た大和は、そこに1隻の軽巡が背を向けて立っている様を見る。

 長い髪を結って後ろに流した背中に、大和は艦艇時代の白黒の記憶がフラッシュバックする。

 思わず「矢矧……?」と呟くも、すぐに違うと首を振る。

 敵戦艦級の砲弾が直撃してひしゃげてしまった増設バルジをパージして、阿賀野型軽巡・酒匂は対空装備を展開。

 増設されたミラーで背後の大和へ視線を返し、前へと進む。叫ぶ。

 

「酒匂旗下、水雷戦隊は大和を中心に輪形陣! 対空、対潜警戒! 誰も沈まないで! 沈ませないで!」

 

 悲鳴のような号令に、一際大きな了解の意が返り、水無月島の増援は到着する。

 磯風が、雪風が、初霜が、そして凉月が、大和を囲むように輪形陣を構築。対空射撃を開始する。

 呆けた顔のまま周囲を見渡す大和は、彼女たちがそれぞれ敬礼したり手を振ったりして、短くも参加の挨拶をする姿を見る。

 誰もが大和に指揮を求めず、守りは任せて好きにやれと、各々好き勝手に防空対応を開始。

 指示らしい指示は、酒匂が最初に発した曖昧なものだけだったが、それでも各々が自分の配置と役割を理解しているためか、ちゃんと艦隊の動きに近付いてゆく。

 建造されて日が浅い艦も居るだろうに、こうして高い連携を見せてくれる。

 多くの時間を訓練に、それも、この時のために費やしたことは想像に難くない。

 それでいて、彼女たちは“これ”に囚われたりしていない。

 誰もがここを終わりとする気がない。ずっと先を見ている。

 

 彼女たちの、そして今は大和の提督でもある彼は言ったのだ。

 終わりの先を見せてと。

 

「大和だって、その先を……!」

 

 言葉の代わりに、砲声を轟かせる。

 

 

 ○

 

 

 “F作業”に入った重巡・鳥海は、妖精たちの口を通じて伝えられる各所からの情報に、自分の口元を緩ませていた。

 隠そうとしてもバレバレなのは先ほどプリンツに指摘されたばかりなので、もはや隠すこともしない。

 率いる重巡戦隊の仕事は遊撃で、榛名と霧島が大暴れしているため、基本的にはあまり仕事がないものだ。

 ならば大和たちの方へ加勢に行ってもとは思ったが、自分たちの仕事はこれから先が本番であるため、今はひたすら温存の時間。

 敵戦力がこちらに向かって来れば迎撃に移る手はずとはなっているが、当分それは無いだろうと確信する。

 

 大和の側が敵の注目を集めて離さないのだ。

 敵の航空戦力や水雷戦隊のほとんどがそちらへと侵攻を続けている。

 あの強大な火力に動かれると厄介だと“クレイン”が判断したものかと思うが、本当のところは違うのではないかと、鳥海はそう思い始めている。

 彼女は旗下を使って再現行動を起こそうとしているのだろう。かつてあった日の焼き直しを。

 そのため、彼女への攻撃は微力を差し向けるところから初めて、徐々に負荷を増やしてゆく。

 彼女1隻だけを沈めるのではなく、必要な艦数が揃うまで焦らし、集まった同胞諸共、という考えなのだろう。

 

 なるほど、確かに効率的だ。

 そう頷く鳥海ではあったが、それにしては何かがおかしいとも感じていた。

 まだ漠然として言語化出来てはいないが、言葉を選ばずに形にするならば「舐めすぎていないか」だろうか。

 

「そこは、手を抜き過ぎてはいないか、では?」

 

 のほほんとした顔の航巡・筑摩に指摘されて思わず眼鏡を直すが、確かにその通り。

 こちらを沈める気は余るほどに抱いているのだろうが、それにしては雑すぎる。

 物量任せの押し切りが出来るからと言って、これではあまりにも杜撰過ぎるのだ。

 時間をかけるのは、こちらの感情ごと水底に沈めてしまおうという意図か。

 鳥海は敵の意図に、それ以上のものを感じる。

 何かを待っているのだ。

 こちらと同じように、増援の到着を待っている。

 

「あら? 龍鳳リングイン。塩撒きを始めましたの?」

 

 編成唯一の空母・熊野が妖精に聞き返し、皆は一瞬動きを止める。

 来た。鳥海は拳を握り、皆はそれぞれの動きを再開する。

 空母支援のために同行していた卯月と菊月が戦隊を離れ、手を上げて明後日の方向へ離脱。筑摩はさらに別方向へ加速する。

 熊野は飛行甲板をはじめとする航空戦装備をパージして、格納領域から重巡としての艤装を展開し、艤装化した。

 

「打撃戦は久しぶりですの」

「あの変な掛け声も?」

「気合の声ですのよ? 全身に力が入りますの」

 

 そうだったのかと投げやりな理解を示す面々は、各々艤装の診断と残弾の確認を手早く済ませ、次の動きに移る。

 こちらの増援が到着したのだ。これから合流を果たしに行く。

 

 

 ○

 

 

 敵の増援は留まることを知らなかった。

 最早どれだけの敵航空機を落としたかもわからないし、どれだけの敵艦を沈めたのかも数えていない。

 

 そのおかげで“クレイン”へと向かった榛名たちへの障害をある程度こちらへ引き付けることは出来たが、よってこちらが戦線を維持できなくなってきている。

 問題は数かと、大和は今さらに思い知らされる。

 大和1隻だけならすでに潰れていたが、増援のお陰でここまで持ちこたえた。

 しかし逆に、艦隊の動きとなってしまったため、連携の隙に敵戦力がねじ込まれているのが現状だ。

 物量任せの面攻撃。例えこちらの練度を上げたところで、突破されるのは時間の問題だったはず。

 その時間をなるべく引き伸ばし、そして逃げ切りを狙いたかったが、それが適わない段階まで来ている。

 あと数分もすれば、脱落する艦が出始める。

 そうなってしまえば、艦隊としての死はもうすぐだ。

 もはや巻き返せない。

 

 だからこそ、こちらにも増援がもたらされるとは夢にも思わず、しばらくの間、我を忘れて固まってしまった。

 

「――今から撃墜数抜くなら! 何機落とさなきゃいけねえんだ! なあ!」

 

 前に出た酒匂を狙って放たれた爆弾は、彼方から飛来した大型バルジによって防がれる。

 更にと降り注ぐ爆弾を対空機銃で撃ち落として合流するのは、大型の艤装を纏い、巨大な増設バルジを両翼に備えた夕雲型駆逐艦・朝霜だ。

 真っ赤な目の駆逐艦娘、その袖には水無月島鎮守府と熱田島鎮守府、両方の腕章がある。

 

「数に拘らないで戦線を支えなさいな! 疲れた味方よりも先にへばったら恥よ!?」

 

 同様の艤装を纏った艦娘がもう1隻合流し、朝霜と共に酒匂の両翼を固める。

 朝潮型の霞だ。両翼のバルジを接続して右脇に回し、両腕に装備した対空機銃で天を掃射。

 

「皆わかっているでしょうけれど、改めて言うわ! これは天一号作戦じゃないわ。坊の岬の焼き直しなんかじゃないの!」

「じゃあ何さぁ! 霞ぃ!」

「ちょっと騒がしい同窓会よ! ねえ、そうでしょ! 大和!」

 

 酒匂から離れて輪形陣に加わる朝潮型と夕雲型は、大和に軽く手を上げて挨拶。

 そして、さらにまだ加勢は居るぞと、掌で彼方を差す。

 

「初霜がおるなら、もう少し早く合流するべきじゃったのう?」

 

 被弾して傾斜しかけた初霜を抱き留めたのは、大きな扇子で口元を覆った初春型のネームシップ。

 言葉が出ない妹艦を明石の方へと押しやり、初霜の担っていた位置を埋めるべく対空装備を展開する。

 

「雨は上がった。なら、次は雲が晴れる時だよね」

 

 左舷側から接近する重巡棲姫に魚雷が直撃。体勢を崩した敵の頭上に、踵落としが落ちた。

 奇襲の初撃を成功させた艦娘は、海面に叩き付けられバウンドした重巡棲姫へと追撃する。

 己の背部に接続されていた主砲を分割して両腕に担い、敵の腹部に押し当て、砲撃したのだ。

 飛び散った疑似燃料の雨をよけて、致命傷を受けてもなお砲を下ろさなかった敵のその腕へ、頭部へと、掃海具を転用したワイヤーが絡み、裁断する。

 白露型駆逐艦・時雨が、戦線に加わる。

 

「敵の数が多い? じゃあこっちも増援よ!」

 

 輪形陣に加わるのは艦娘だけではない。

 10数機を超える自律稼働型砲塔たちが各艦の下へ寄り添い、対空射撃を開始。支援に加わる。

 それらの指揮を統括するのは、陽炎型駆逐艦の天津風。

 デフォルトの姿であり、かつて水無月島に居た彼女とは違う個体だ。

 思わず対応の手を止めてしまった艦娘たちに対して、天津風は「な、なによ……」と戸惑いを隠せない。

 それでも、彼女の傍らに佇む継ぎ接ぎだらけの連装砲くんの姿を見れば、各々は事情を察するに至れる。

 

「同窓会。いい響きじゃないか。再会する仲間が、愛おしい家族が健在なことは……」

 

 いつの間にか戦列に加わっていたその艦娘は、静かに告げた。

 纏う艤装は朝霜や霞の様に大型化され、巨大なバルジを携えた姿。

 背が高く、くせの強い髪は黒くて長く、しかし次の瞬間に真っ白に彩られた。

 

「水無月島鎮守府所属、駆逐艦・響、輪形陣に加わる。私自身のために、そして誰かの代わりにこう言うよ」

 

 大和の記憶の中の少女が、己へと振り向いた目の前の艦娘と重なる。

 

 

「今度は、一緒だ」

 

 

 



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6話:ある終わりの開始地点・中

 綾波型駆逐艦・潮は空を見上げ、吐き出しそうになった溜め息を呑みこんだ。

 水無月島鎮守府への空襲は、数刻前に収まった。

 敵航空機は今でも島の近海を周回してはいるが、自律稼働型砲塔たちの射程に入るような動きは見せない。

 

 敵機の大半は、現在は大和の方へ集中しているはず。受信機に耳を傾ける限りでは、大和たち以外の水無月島艦隊が敵航空機に襲われた報は受け取っていない。

 まだ誰も沈んでいない。今はまだ。

 こちらが不利であることは最初からわかっていたものだから、“その時”に備える心構えは一応出来てはいる。出来てはいるが、覚悟などない。

 はやく。はやく終わってくれと、嫌気や怖気を纏って、しかし進むしかない。

 この戦いが終わって、皆無事で笑って、そして晩ご飯だ。朝ごはんになるかもしれないが。

 

 空爆の跡地、対空射撃を継続し破損した自律稼働型砲塔を爆心地から引っこ抜き、まだ動ける自律稼働型砲塔たちに運ばせる。

 島に残った戦力は、潮と、給糧艦の間宮、そして非戦装備の大淀のみ。

 陸攻の運用と砲塔たちへの対空射撃を仕切るのは大淀たちでも出来たが、潮はあえて自分からこの任を選び取った。

 大淀たちには提督の補佐をやってもらう必要があるし、何よりこの島の地下にはまだ眠り続けている仲間が居る。

 逃げ場は自ら捨て去った。逃げる気など毛頭なかったが、自分自身に念を押したかった。

 

 戦況は好転の兆しを見せてはいない。

 敵の前衛の大多数は大和たちに集中し、斬り込んでいった榛名たちも未だ“クレイン”を射程に捕らえてはいない。

 数で不利なこちらだ。時間をかければかける程、勝てる見込みは減って行く。

 だから早くと急く潮は、ふと怖気を感じて彼方を見た。

 水無月島の周辺海域が支配解除されている現状、降り注ぐ日差しは強く、風は生暖かい。

 そんな、極ありふれているはずの風景を突風が襲った。

 島に群生している木々をすべて薙ぎ払わんばかりの衝撃は、鎮守府の窓を粉々に砕き、潮の体を数メートルに渡って吹き飛ばした。

 無事だった自律稼働型砲塔たちに介添えされて起き上がれば、目に飛び込んできたのは、彼方に巨大な雲が昇る光景だ。

 

「……うそ」

 

 光はなかったはずだ。

 だからそれは、この島よりもはるか遠くで引き起こされた現象であり、たった今身に喰らったのは、その余波に過ぎないと確信する。

 この兵器を使えるのは艦娘でも深海棲艦でもない。

 自分たちが守るべきはずの者たちだ。

 打撲と擦過傷と、全身を切り刻まれたような痛みは、しばらくのあいだ、感じなかった。

 それよりも失望感の方が勝ったのだ。

 

 だが、それでも、無事だった受信機から響く声が、潮を立ち上がらせた。

 

『……すまん、水無月島。一機抜かれた! 不可能だとわかっちゃいるが、逃げてくれ! 頼む!』

 

 血を吐くような誰かの声は、一呼吸の間に雑音となり、そして消えてしまった。

 だが、その声は確かに受け取った。

 こちらを害するものは確かに居る。

 そして、守ろうとしてくれている者たちも、確かにいるのだ。

 孤立無援を経験してきた身で思うことは、こちらを案じてくれているだけでありがたいという気持ち。

 

 だから戦える。迎え撃つことが出来る。

 視認できる限界の高さに、それは迫っていた。

 支配海域の影響を考えてか、ご丁寧に二次大戦時の姿、そのままの翼だ。

 ここにいるのが自分で良かったと、潮は思う。

 あんなもの、榛名たちには見せられない。

 きっとあれは、誰かの大義なのだろう。

 だから、迎え撃つこちらにも、それは確かにあるのだ。

 

 自律稼働型砲塔たちが運んできた背部艤装を接続して、陸上運用モードで展開。自分専用の長10センチ砲を手に、砲塔で空を指す。

 投下される前に撃ち落とすことは不可能な射程。だから、長10センチ砲の最大射程距離で落とす。

 

「提督、地下へ避難してください」

 

 いつの間にか、間宮たちに介添えされて外に出て来ていた提督を背中に感じ、潮は振り向きもせず、目標に対して視線を絞る。

 もし地表へ届く前に撃ち落とせたとしても、信管が作動してしまえば光と衝撃波で島は焼き払われる。

 そんな場所に提督が居て良いはずがない。

 

「大丈夫だよ、潮」

 

 しかし提督は、場違いなほどに穏やかな声で安心を口にする。

 彼方から破壊の種が投下され、いよいよ緊張で視界が狭まるなか、誰かの手が空へ向けられた気がした。

 

 空が破裂するような音が轟き、水無月島の上空は瞬時にして、鈍い曇天に覆われた。

 事態を呑み込めず固まる潮は、力を放つことを禁じられた兵器が海中に落ちて、そのまま二度と上がってくることが出来なくなった様を、横目で追った。

 砲を下ろす動きで前を見れば、見慣れた背中がそこにはあった。

 長良型軽巡六番艦、阿武隈の背中が、目の前にある。

 

 待ち望んだ金色の髪は、毛先の方から徐々に黒く染め上げられ、その衣装も黒く禍々しく塗り替えられてゆく。

 心臓が凍り付くような思いで彼女の変貌を見守る潮は、提督が重ねて「大丈夫」と告げる声に、鼻をすすって涙を呑む。

 変貌を終えてこちらへと振り向いた彼女は、かつてと変わらない笑みで潮の名を呼んだのだ。

 左袖の腕章はふたつとも健在で、両側頭部に流れる黒髪の房の中には赤と青の色が混じる。

 短く「ただいま」と告げた彼女は、再び天にその手を掲げ、号令とするように呼びかける。

 

 呼応して、地面を砕いて立ち上がるのは、自律稼働型砲塔よりもふたまわり大きな影。

 白と黒と灰色と、一門だけの砲を宿して生まれたのは、砲台小鬼。

 それが7機、次々と地中から身を起こしては、曇天に向けて砲身を、その仰角を上げて見せる。

 島の周囲、支配海域の曇天下を旋回していた敵航空機が、待っていたかのように攻撃を開始したのだ。

 それら敵機に対応すべく、砲台小鬼たちは各々勝手に対空射撃を開始してしまう。阿武隈であった深海棲艦の指示を待たずに。

 対艦用の砲塔しか持たない彼らは、それでも空を穿ち、ある個体はその辺に居た自律稼働型砲塔を頭の上に乗せて対空射撃を担わせる。

 

 耳を塞ぎつつその光景を見守る潮は、彼女が自分の指示を聞けと諸手を上げて喚く様に苦笑が浮かぶ。

 それでも相手にされなくなった彼女は拗ねたように砲台小鬼の向う脛を蹴飛ばし、思い出したかのように振り向いて、潮を抱きしめた。

 待ち望んだその時が今だ。

 出来ることならば永遠にこうしていたかったが、目覚めた彼女にはするべきことがある。

 だから、自分から身を離して、彼女を送り出すのだ。

 

「深海棲艦。離島/軽巡棲姫は、これより提督の旗下に入ります」

 

 そう、胸に手を当てて、ふたり分に反響する声質で自らを告げた彼女は、その先を提督に求めた。

 介添えしていた間宮たちを下がらせ、杖の助けなしに立つ提督は、彼女に向き合う。

 

「キミに個別コードを与える。“スプリガン”、命ずるよ」

 

 互いが互いを懐かしむも、その時間を引き伸ばそうとはしない。

 

「皆を守って」

「了解です」

 

 軽やかな敬礼ひとつ。新たに名付けられた力は、踵を返すと、二手に分かれた。

 “スプリガン”と名付けられた深海棲艦は2体に分離し、髪に青の色を残す1体は坂を駆け下り、髪に赤の色を残す1体は地中から更に小鬼を呼び起こす。

 彼女の旗下である砲台小鬼は、彼女の命令が無くとも各自の判断で敵を穿つ。

 彼女はそれらの間を走り抜け、「あ、分離出来る。分離……」と呆けている潮の隣を駆け抜け、島の斜面を中腹まで下ったところで跳躍。

 大きな弧を描いて数キロ先の海面に着水すると、フロート型へと変貌した脚部が莫大な推進力を生み、加速。

 仲間を守るための駆動を開始した。

 

 

 ○

 

 

「それじゃ、秋津洲、いっきまーす!」

 

 片言の英語で「せーんきゅー、ぐーっどらーっく!」と告げて(護衛の兵士たちからはサムズアップと流暢な英語が返り)、艤装状態の秋津洲は高速輸送機からパラシュート無しで降下した。支配海域外、上空からの無謀な進入だ。

 両手足を広げて落下速度を抑え、分厚い雲の中を抜け、やがて眼下には鈍色の海面を望む。砲火の音と色も。

 帰ってきたのだ。敵地であり、故郷でもあるこの場所に。

 敵側の目で見れば、突如上空に艦艇が現れ落下してくるといった、さぞ滑稽な事態に映っていることだろう。

 それでもジョークを介する器官がないためか、反応は挙っての対空砲火だ。

 一秒ごとに敵の有効射程に接近してゆくのを、ただ何もせずに待っている秋津洲ではない。

 背後、上空より分厚い雲を割って、そして加速を得て降下してきた二式大艇を、掲げた両手にキャッチ。速度を上げて対空砲火へ突入する。

 

 秋津洲の目的、そのひとつは敵の目を自分に引き付けること。

 そしてひとつは、救援物資の散布だ。

 直撃コースに収束しつつある火線、それを遮るように、格納領域からコンテナを吐出させ、下方へと投下する。

 敵の対空射撃がコンテナの外装を食い破り、内部の弾薬類を直撃し大爆発が起こる。

 濃密な黒煙が一時、空を染めた。

 秋津洲は生じた黒煙の中へと突っ込み、吹き飛んできたコンテナの残骸を盾に、そして足場にして、さらに跳躍し、再び急降下する。

 目標地点、座標が間違っていなければ、この近海で対“クレイン”強襲部隊は合流するはずなのだが、黒煙や火線が邪魔で目視は適わない。

 このまま海面に着水すれば、秋津洲は敵陣のど真ん中にただ一隻で降り立つことになる。

 その先を想像して背筋が震えるが、しかし決して自分一隻ではないぞと、喉奥で呻く。

 こちらには二式大艇がいる。そして、仲間たちは必ず合流する。

 

 海面が近い。

 秋津洲は己の格納領域に収納されていたコンテナをすべて下方へ向けて展開する。

 落下の勢いを得て射出されるように投下されたそれらは、対空射撃中の敵艦隊を直接打撃し、あるいは海面をひっぱたいて敵艦隊に混乱を引き起こす。

 無事海面に辿り着いたコンテナは衝撃吸収用のバルーンと特殊薬剤を噴出させて衝撃を殺し、そうして噴出された薬剤は霧状となって一帯を白く染め上げる。彼我の視界を一時、塞ぐ。

 敵艦隊の“目”が目視から電探に切り替わるには、それほどの時間はかからないだろう。

 その前に、秋津洲自らが海上へ復帰する。

 

 秋津洲は二式大艇に急上昇の指示を出し、自らは背部艤装のクレーンを展開。大艇の腹に設けられたU字にフックをひっかけた。

 二式大艇は指示通り海面ぎりぎりで急上昇。つられて上空へ逆戻りしそうになる秋津洲は、ウィンチを起動させてワイヤーを放出。

 脚部艤装から海面に着水してバランスを保つと、背部のクレーン丸ごとをパージして海上に復帰した。

 二式大艇に引っかかったままの艤装だったものが海面を白波立ててひっかいて、進路上に居た駆逐級をひっぱたいて行くのを見送りながら、思いの他勢いが付き過ぎたなとつま先を浮かせるようにしてブレーキの構え。

 

 だが、減速するには遅すぎた。

 まだ“目”を切り替えていないのであろう敵駆逐級と目が合う。

 進路上に居る駆逐級は、待ち受けるかのように大口を開けて見せたのだ。

 両腰の錨鎖を海中へ投じての減速も、あるいは片方だけの錨鎖を落として方向を変えるのも間に合わない。

 「最悪ラムアタックかもおぉぉ!」と目を見開くも、大口を開けていた敵駆逐級は真横から衝撃を受け、くの字に折れて海面を転がって行った。

 

 折れて転がって行った駆逐級をしばらく目で追った秋津洲は、その駆逐級が爆発した衝撃と破片から身を守らんと顔を背けた。

 そして、勢いを殺し切れず敵駆逐級が居た地点に差し掛かった時、柔らかい何かにぶつかってそのまま海面を流れ、しばらくして停止した。

 柔らかくて、そして暖かいこれは何かと顔上げれば、眼鏡越しの視線と目が合った。

 

「弾薬が底を尽きたので直接打撃して見ましたが、使えたとしても一回きりですねこれは」

 

 高雄型重巡・鳥海だ。

 眼鏡の位置を直した鳥海は、破損した脚部艤装をパージして、インナースーツを透明化させて骨折箇所を確認。

 痛みよりもその見た目に顔を歪ませ、インナーのカラーを黒に変更して補強処置、予備の脚部艤装を格納領域から取り出した。

 脚部艤装が自動でフィッテングされてゆく様から視線を外した鳥海は、身を起こした秋津洲が眉間にしわを寄せて自らの掌を凝視する様に息を詰めて疑問する。

 

「……前より育っているかも」

「驚くべき急成長を遂げましたね。新規運用の影響でしょうか」

 

 通りがかったピンク髪の艦娘たちが「あの2隻また胸の話しているぴょん」「しっ、見ちゃいけません。巨乳がうつるから」ひそひそ呟きつつ補給して通過。

 まあ、ともあれ、と。掌を鳥海へと向けて心を落ち着けた秋津洲は、続々と合流しては敵艦隊を退ける味方艦隊に手を振りつつ、負傷艦へ肩を貸す。

 

「股関節も痛めているから、高速巡航も高機動も無理かも」

「補給しながらゆっくりと向いますよ」

 

 コンテナが次々と展開してゆき、合流を果たした各艦への燃料と弾薬の補給を開始。

 幾つかは着水の衝撃を殺し切れず破損しているが、それでも合流した艦娘へ補給して余りある。

 

「戦況は?」

「水無月島艦隊及び熱田艦隊所属の対“クレイン”部隊はほぼ合流しつつあります。一部道草食っていますが、こちらか、あるいは大和たちの方へ合流するでしょう。問題は……」

 

 敵か味方か識別不能な艦影が、幾つか確認されていると連絡があった。

 水無月島からは阿武隈がゴスロリ艤装で出撃したとあり、真実なのか冗談なのか、これまた判断に困るところだと鳥海は嘆息する。

 ちょうど、右舷側を黒っぽい阿武隈っぽい何かが通過したが、駆逐艦たちが群がって行ったので無視した。

 重要事項は二点。“クレイン”の元へと辿り着くか、大和と同様に敵艦を引き付けるか。

 

「よって私は、先ほどまでと同様に、それ以外の事態へ対応する形を取ります」

「お供するかも。というか……」

 

 補給を済ませて先に発つ仲間たちに敬礼して見送り、秋津洲は対潜装備を展開した。

 パッシブソナーは海面下に無数の敵影を捕捉している。

 

「こんなの、放っておけないかも」

「手間をかけます」

 

 

 ○

 

 

 榛名は顔を上げて空を見た。

 上空、背後から現れて先へ行くのは艦娘の艦載機。烈風はじめ、新旧の入り混じった艦載機群は、どれも艦上戦闘機。機体側面には、熱田島鎮守府のエンブレムが輝いている。

 熱田島鎮守府からの救援。皆が帰ってきたのだ。

 

 速度を落とす。左舷側より接近する艦影は、妙高型重巡・那智を旗艦とする水雷戦隊だ。

 水無月島から熱田島への帰路が最後の出撃になるかと思われていた妙高型の姉妹が、こうして旗艦を務めている。

 何らかの措置によって機能を取り戻したものか、問うよりも先に、再会を喜ぶように手を振った。

 那智が簡単な手信号の後に、敬礼して笑む。後続は足柄、巻雲、風雲、秋雲、曙と駆逐艦が続き、遠くに遅れて空母3隻が続く。飛龍に葛城、そして祥鳳だ。千歳は少しばかり離れた海域にて超過艤装を待機させ、夕張や新入りたちと共に海域の情報収集に当たっている。

 そうして熱田からの帰還組を見渡した榛名は、彼女たちの目が一様に赤い事に違和感を覚えた。何らかの改装によるものだとは思うが、どうにも悪い予感がする。

 考えが表情に出たせいか、那智が怪訝な顔で眉を寄せる。

 

「合流地点で見かけなかったが、何があった?」

 

 ああ、自分の知る那智だと、安堵を得た榛名は事情を話そうと一拍息を置き、その間に役目を霧島に取られた。

 

「深海忌雷です。目標地点の半径数十キロに渡って設置されていました」

「超高速巡航形態でも突破は困難か」

「突破すれば戻れなくなり、足並みが崩れます」

 

 本作戦の標的である“クレイン”を中心として同心円状に設置された深海忌雷は、互いの触腕を連結させて海面に顔を出し、「そこにいる」事を主張するようにひしめき合っていた。接触すれば連結した忌雷たちに誘爆して広範囲を爆破する。

 

「おそらくは、“クレイン”はそれを合図にするはずです」

「忌雷への接触をトリガーにして、守りの為に残しておいた艦載機を展開するつもりか」

 

 “クレイン”が膨大な数の空母型深海棲艦を己の周囲に集めている事は、まるゆが残したデータから確証が得られている。その大部分は大和たちの布陣に向けて展開しているはずだが、自分たちの守りを疎かにするほど、敵はこちらを侮ってはいないはずだ。問題は、それらの守りをいつ、どのタイミングで運用するかだったが、敵の現状の布陣を見て、霧島はそう結論付けた。

 深海忌雷を設置した範囲は、“クレイン”側がこちらを撃沈出来るだけの艦載機を展開する為には充分な範囲なのだろう。金剛型2隻が超高速で突っ込んだとしても、空母を護衛する敵艦は盾の様に、山の様に布陣しているはずだ。離脱は可能だろうが、再突入時には、敵の攻撃が三次元化する。

 だからと言って、現状の合流した戦力での突破も困難だ。高速巡航可能な艦娘による水雷戦隊とは言え、艦隊運動していればそれだけ被弾する確率は上がる。

 そして、こちらの航空戦力では敵戦力と拮抗しえない。飛龍たちが展開した艦載機はどれも艦上戦闘機。制空権を確保する事はまず不可能だと予想されるため、艦爆、艦攻の展開はない。敵に空を自由にさせない為の、苦し紛れの防御に過ぎない。

 

「最前の手は、忌雷を無力化して進軍。“クレイン”側の艦載機発艦のタイミングを少しでも遅滞させる事です」

 

 それには駆逐艦による掃海作業が必須となるが、その行為を敵艦隊が見逃すとは考えにくい。加えて、深海忌雷は自律稼働する。自爆してこちらの存在を知らせるような行動を取ってもおかしくはない。

 霧島の説明を隣で聞く榛名は、いよいよ手詰まりではないかと息を詰める。もっと味方の数を増やして、対等な物量で挑めば勝機はあるかもしれない。だが、敵の物量に匹敵できるだけの艦娘を確保するのは、この時点に至っては不可能だ。深海棲艦の支配海域にて活動経験のある艦娘の数が少なすぎる。通常海域との狭間での交戦経験がある艦娘は数多いが、この支配海域の中心部で立ち回れる艦娘となると、数が限られてくる。ただ数だけを投入したところで、戦力として数えられるものではない。

 だからこそ、水無月島・熱田島の所属艦隊がこの戦いに臨んでいる。現運用にて最も支配海域での活動経験を有する艦娘たちが集結しているのだ。

 

 黙して歯噛みして、何か良い考えはないかと唸る榛名は、那智が僅かな時間思案して、すぐに耳元の通信機に手を当てる姿を見る。

 

「霞、そちらの状況はどうだ」

『は!? 何よ余裕よ! 余裕!』

「時間はないか」

 

 なおも喧しく騒ぎ立てる霞との通信を即座に切断した那智は、単艦で先行する。

 

「ならば私が道を付けよう。最後の仕事だ」

「那智姉さん! ここで使うのね!?」

 

 使うさと発した那智から、旗艦権限が足柄に移譲される。

 いったい何を使う。黙せず言葉にした榛名には、巻雲がわたわたと手を振りながら口早に説明する。

 

「白化(ホワイトアウト)! 一時的に深海棲艦になる使い切り最後の手段です! 使ったらもうそこでお終い! 艤装核が損傷して艦娘としての形を保持できなくなります!」

 

 皆の赤い目はそれかと息を呑んだ榛名は、何故今ここでと、口に出す事はしなかった。この状況を打開できるからだ。

 一時的に深海棲艦と化すとして、ならば鬼姫級に匹敵する格を得る事が出来るのだろう。それは、階級の低い他の深海棲艦に命令できる事を意味する。

 榛名たちを目指して進行中の敵艦を下がらせる事が叶い、深海忌雷たちを無力化する事も可能なはずだ。

 

 だがそれは、重巡1隻の喪失と釣り合うか。親しい仲間の喪失と、秤にかけられるか。

 提督の命令なしに行動できるまでに劣化した自分たちを止められる者はいない。

 自らで選択を覆さない限りは。

 

「案ずるな。10秒も持たない。その後は塵も残さず泡となって消える。これ以上、敵は増えない」

『ならば、その白化、あと10秒待とう。那智』

 

 榛名の肩に妖精化した提督が顕現した。一同は幽霊でも見たかのような面持ちで黙した後、病院からふらりと抜け出す老人を見つけたかの様に焦り出した。

 

「なんで艦隊司令部施設使っているんですか提督!? もう持たないって言われているんですよ!?」

『今日は午後から曇り空になったから、調子がいいんだ』

「あ、秋雲さん知ってる。これ絶対大丈夫じゃないやつだ」

「自分の手首切っておいて、あ、今日はいつもより出血量が少ないから大丈夫よ、て言っているようなものでしょこれ。私もよくやる」

「風雲!? いつも切っているのは手首じゃなくて指だよ指! お料理全然上達しないからお姉ちゃん心配だよ!?」

「ハローハロー、生き急ぎクッソ提督」

『皆、10秒ありがとう。“スプリガン”』

「あたし、寝起きなんですけどぉ……!」

 

 水雷戦隊の脇を、誰かによく似た軽巡棲姫が通過。深海忌雷の輪に向かって一直線に向かう。

 誰が止める間もなく、軽巡棲姫は海面を強く踏んで跳躍。忌雷群の頭を飛び越えて着水し、その先へと加速した。

 何事かと、ようやく砲塔を旋回させた艦娘たちは、忌雷の群れが動く様を見る。

 互いを強固に繋いでいた触腕を解いて、思い思いの方へ漂い出した。まだ近接距離に艦娘がいるというのに、課されていた命令から解放されたかのような姿に、榛名は那智がしようとしていた事を先の軽巡棲姫がやってのけたと確信する。

 

「榛名の見間違いじゃなければ、今の阿武隈ですよね?」

『寝起きで髪型をセットする間もなかったから。顔を合わせるのが恥ずかしいんだよ』

「……深海忌雷なら言う事聞いて貰えるんですね彼女」

 

 眼鏡の位置を直ししみじみと頷いた霧島は、艤装が合体状態継続の榛名と頷き合って、阿武隈の後を追った。

 死に場所を取り上げられた那智は呆然とそれを見送り、背後から接近してきた曙に思い切り尻を引っぱたかれた。

 

「作戦続行! 警戒陣!」

 

 旗艦を無視して先頭を行く曙に習い、駆逐艦たちは那智の尻を叩いて彼女に続く。

 

「駄目よ、那智姉。きゃっ、とか声出さなきゃ」

 

 足柄だけ尻を叩かず、ひと撫でしてから警戒陣に加わった。

 

「き、貴様らあぁぁ!」

 

 哀れみの情を感じて近寄って来た忌雷たちを蹴散らすように、那智は速度を上げて旗下を追った。

 

 

 ○

 

 

 大和は損壊した一番砲塔をパージして、傾いた体の重心を立て直す。

 すぐにバランサーが働いて左右の重量差を均一に保つが、それでも徐々に、右に傾斜を続けてしまう。

 集中配備された機銃群は大きく抉られてしまい、砲塔も三番砲塔を残すのみ。

 明石の戦線離脱が大きな痛手だった。負傷艦を複数同時に修復しながら、自らも機銃で対空防御に参加。燃料弾薬にはまだ余裕があったものの、明石自体が修復不能の疲労破損で戦線を離脱せざるを得なかったのだ。今は初春と初霜と、涼月と、そして天津風の連れてきた自律稼働型砲塔たちが、彼女の守りに着く。

 明石の離脱で今まで保たれていた布陣は崩壊。

 各艦は分散して確固撃破されるよりも、大和を中心に密集して対空砲火の密度を上げた。

 悪手中の悪手。自分が指揮を取れと言われれば絶対に許可しない愚策。足を止めたこちらは最早、狙い撃ちの的にしかならない。

 空に対してだけではない。海上からの、海中からの打撃も一か所に集中する形となる。

 響が、霞と朝霜が、大型のバルジを艤装していなければ、もっと早く全滅していただろう。

 

「バルジで砲弾逸らすなんざ、まるで艦の戦いじゃねえよな」

「私たちは艦娘なの!」

 

 大和の演算機構を有線接続して、敵砲弾の直撃コースを予測。バルジの傾斜で砲弾を反らす。

 艦娘の艤装でなければ出来なかったやり方だが、こんなものはセオリーにはない。こんなやり方を思いつかざるを得ないほどに追い詰められた。

 

 敵の砲火が来る。

 はるか遠方に、こちらを狙う姿を見る。

 戦艦棲姫。背後に巨体な雄体型生体艤装を従えた一対の姿。

 放たれた砲弾の行き先は容易に予測できた。こちらの頭部を奇麗にそぎ落とす弾道を。

 迎え撃つ。三番砲塔を旋回、最後の一式徹甲弾を装填する。

 時間がかかる。艤装に残存している妖精たちが減ってしまったから。初霜や雪風の艤装妖精を借り受けて何とか艤装を運用している体たらくだ。文句どころか、感謝しか出てこない。

 だがその間に、敵側は砲撃を開始する。

 身を堅くしたその一瞬、急速後退した酒匂と響がこちらに衝突、大和の巨体をわずかに後方へ押し流した。

 砲撃は酒匂に直撃した。敵の徹甲弾は響が咄嗟に展開した大型バルジを貫通、その内側位置する軽巡のバルジを深々と貫通し、酒匂が膝蹴り気味に蹴り上げた脚部艤装で止まった。

 

「被害は!?」

「膝をやりました……」

 

 砲弾こそ体に届かなかったものの、破損した脚部艤装の破片が大腿から膝にかけて突き刺さっていた。大量の出血は止まらない。インナーの破損で止血能力が喪失している。

 響が大穴の開いたままのバルジを傾斜させ、酒匂と共にゆっくりと前に出る。下がりはしない。

 

『霞、朝霜、ダズル迷彩展開』

 

 響の肩上、妖精化した提督の指示に、両艦は即座に対応。敵の射線上に新たな防壁を急造する。

 もうわずかも残っていない余力をここに集中する。終わりが見えない戦況の中、この一撃に掛ける価値は薄いというのに。

 

「いやあでもよ、一太刀返して欲しいじゃん」

「私たちの砲撃じゃ傷ひとつ付けられないでしょ。悔しいわけじゃないけれど」

 

 大和のこの砲撃を最後にするのではなく、一時の到達点とする事を皆は望んだ。

 

「大和は次の攻撃に集中してください」

「撃った後の事は、撃ってから考えればいい」

 

 両翼を支える浜風と磯風は告げて、最後の爆雷を海中に投じた。

 同時に、後方で海面が破裂する。大和へ向かっていた魚雷を、時雨が震脚気味に踏み砕いた音だ。水煙に赤の色が混じる。悲鳴は聞こえなかったが、時雨が片足を喪失したことは容易に想像がついた。

 

「右足喪失っと」

 

 大した事はないとばかりに告げた時雨は海面に片膝を付くようにして体勢を整えると、手持ちの爆雷を一度に海中へと放り「ほら、あっちへ行きなよ」と、まるで虫でも追い払うかのようにして脅威を遠ざける。

 

「応急修理! 入ります!」

 

 雪風の元気な声が砲火の声をかき消すように響く。

 砲の代わりに雪風が手にしたのは、掌サイズ程の消火器型艤装。ホースの代わりに如雨露状の噴出口を備えたそれは、緑色の本体の側面に「高速修復材」の文字がある。

 艤装妖精が2体がかりで安全ピンを引き抜くと、雪風は如雨露状の噴出口を時雨に向けてレバーを握り込み、泡状の修復材が負傷した時雨の背中に降りかかった。

 

「違うよ雪風、もうちょっと下」

「背中の火傷も一緒に修復です!」

 

 「気付かれていたよ」と罰が悪そうな顔をする時雨は、皮膚が剥がれ落ちるかのようなむず痒さを経て、負傷した患部が修復されてゆく感触に肩を竦める。背中から下って、負傷箇所の右足を重点的に塗布し、残りは後頭部に向けて放出された。

 

「頭は大丈夫だよ」

「念の為です!」

「顔も可愛いから大丈夫だよ」

「雪風の方が可愛いです!」

 

 「あ、このやろう」とばかりに振り向いた時雨の顔面に多量の泡が降り注いだ。

 思わず笑みがこぼれそうなやり取りを耳に、ようやく徹甲弾の装填が完了したことで、大和は表情を引き締める。照準をと、身構える視線の先、敵の砲弾が再度こちらに飛来した。酒匂が対応に動こうとするが間に合わない。大丈夫だと、彼女に掛けた声は届いただろうか。

 敵の砲弾はやはり、大和の頭部を削ぎ落す直撃コース。好都合だとばかりに、大和は右手を掲げてその時を待つ。瞬時にして敵の砲弾は飛来し、大和が掲げた右手に直撃した。掌が爆ぜ、腕の肉が徐々に削がれて行く様をゆっくりと知覚しながら、肘の骨に引っ掛けるようにして無理やり右後方へと角度を変えた。

 一拍遅れて衝撃波が全身を叩き、結い上げていた髪がばらばらと解け、自分から噴き出した流血が周囲に撒かれる。

 周囲が上げる悲鳴の声は、片耳が逝かれてしまったせいで良く聞こえない。だから重ねて、大丈夫と声を作った。

 狙いは定まった。右半身が後方に引っ張られるようにして傾斜する中、それを勢いとするようにして左腕を前方へと掲げた。

 最後の徹甲弾は放たれた。それは、惚れ惚れするような奇麗な弧を描き、いずれにも防がれる事無く、戦艦棲姫の頭部へと吸い込まれ、その背後に控えていた雄体型生体艤装が彼女に覆いかぶさるようにして庇った事で、彼の頭部を吹き飛ばした。

 

 砲火は止まないが、大和は少しばかり音が止まってしまったかのように感じていた。

 遥か彼方にて、被弾するはずだった戦艦棲姫が泣き叫んでいる。自分の身代わりとなって爆ぜ砕けた雄体を抱きかかえて、沈まないようにと必死に抱き上げようとする。彼女と目が合った。その目には憎しみなど欠片もなく、大切な伴侶を失ったかのような悲しみがあるばかりだった。

 10年前に、同じような光景に覚えがあった。同じように徹甲弾で、戦艦棲姫を砲撃した時だ。その時も此度と同様に雄体が盾となって、戦艦棲姫本体は永らえたが、沈みゆく自らの半身に興味もなく、こちらに憎悪を向けるばかりだったと記憶している。

 当然、今目の前にしているのはあの時の彼女ではない。艦種こそ同じだが、まったく別の個体だろう。だから、個体差だと断じる事も出来たはずだ。

 しかし、大和はそうは思わなかった。年月を得て、彼女たちにも新しい在り方が生じたのだ。元々持ちえたものを再認識したのか、あるいは外部からの影響を受けたのか。いずれにせよ、彼女たちは自分たちや人間たちと、そう変わらない存在になりつつあるのだ。

 

 そう考え至った時、大和は自分の役割が終わったかのような心地になっていた。まだ敵の砲火は止まず、1秒気を許せば仲間がいなくなる事に変わりはないが、どこか憑き物が落ちて体が軽くなってしまった気さえするのだ。

 手は止めずに、対空砲火を再開し、頭は三式弾の残数をすぐに弾き出すが、大和は最早、自分が海上において果たす役割を終えたのだと悟る。戦艦・大和の再現行動の完了。自分の納得が、自分の望まない形で訪れた。不思議と嫌な気分ではなかったが、敵の損失を悼む気持ちは確かに心に生じていた。

 あんなに戦う事を楽しみにしていたのに、楽しかったのに、今は早く終わってしまえと願うなど、なんという我侭だ。だから、その我侭を全力で果たそうと、余力を惜しまず使い切る術をと、演算を開始した時だ。

 

 急に、視界の右側が暗くなった。損傷によるものかと思われたが、皆も同様に右舷側を気にかけているので原因は別かと息を呑む。この期に及んでまだ敵は隠し玉を仕込んでいたのかと、そう歯噛みするも、どうやらそうではないらしい。

 敵艦隊の攻撃が止んだ。右舷に暗さを感じたその時から、暗がりの方角から、徐々に砲火も音も消えて静寂が来る。

 右舷側から夜が来る。夜を纏って何かが来る。

 

 

 



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