やはりこの世界にオリキャラの居場所が無いのはまちがっていない。 (バリ茶)
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1話 非力な傍観者ってカッコ悪い






 

 

「今日は終了ー、皆おつかれー!」

 

 部長、葉山隼人の指示で部員全員が活動を止め、片付けの作業に取り掛かり始めた。今は顧問の先生より葉山の方が指示を下すことが多くなり、よもや顧問の存在意義が消えかけている。てか顧問の顔忘れた。

 そこらに転がったボールを集めていると、遠目にいつもの光景が。

 他のマネージャーより一足早く葉山の近くにタオルとカゴを持って向かっている。

 一色いろはだ。「葉山せんぱーい!」だって。羨ましい事この上ないね。

 

 

 ああ、悔しい。超悔しい。ほんっとうに悔しい。なんでだよ、俺めっちゃ積み重ねたじゃん。同じ中学通って、すごく頼れる先輩みたいな感じで接してきたじゃん。「――先輩いい人ですねー」って言ってくれたのに。凄く期待してたのに。

 追い打ちかの如く、終いには俺の呼び方……○○先輩になっちゃったし。他と一緒になった。寧ろ最近存在忘れられて、話しかけられないまである。もう泣きそう……。

 

「……帰ろ」

 

 帰りの支度を終えた俺は、さっさと校庭を立ち去り駐輪場へ向かった。……そこでまた見つける。

 

「………あれっ……どこやったか」

 

 あいつは―――比企谷八幡。いわゆる……ていうか普通に主人公。大多数に嫌われ少数に好かれるこの世界の主軸。がさごそとバックの中を漁ってる。カギでも探してるんだろうか。

 くっそう。転生してからめっちゃ頑張ったのに、あいつの周りの女の子を一人振り向かせることもままならない。それどころか相手にすらされねえ。

 なんとか同じクラスには入ったが、少々コミュ症をこじらせてた俺はグループ作りに失敗。見事にトップカースト組と無関係の立ち位置になってしまった。

 

 おかげで俺ガイル主役メンバーとは面識すらない。よって、一番近づきやすい由比ヶ浜結衣でさえ挨拶すら交わせない状況。

 どうしてこうなったわからん。……嘘だ。理由は全部知っている。 

 

 生憎、俺の自転車アイツの隣にある。ここは我慢して行こう。

 

「………」

「………」

 

 お互い無言。面識が無い人間だからではない。寧ろ比企谷八幡からすれば知ってる仲だ。

 

「…………奉仕部、終わったのか」

「……おう」

「そうか」

 

 何とも言えない状況。話が弾むでもなく、お互いに気を使って、それ以上何かを喋るわけでもなく。

 ポケットから取り出したカギをブッ刺し、開錠する。

 

「じゃ」

 

 彼に背を向けて自転車を押し始めると、後ろから声がした。

 

「………あ、ま、また明日な」

「……おう」

 

 彼と同じ返事を小声で返し、俺は自転車に乗る。一分しないうちに学校を後にした。

 

 

 

 

 

   ―――――――――――――☆―――――――――――――

 

 

 

 

「ただいま」

 

 リビングのソファで寝転がりながらピコピコスマホを弄ったり、チラチラテレビを見ている妹に向けて、俺は言った。言ったはず。だのに返事は帰ってこない。「んー」とか、せめてちょっとの反応でも見せてくれたら、お兄ちゃん嬉しいんだけども、マジ無言。超思春期。

 

 実は比企谷さん家の妹ちゃんと同学年で同じ学校だが、未だ俺は現物の比企谷妹を見たことない。妹は彼女を友達だと言っているが、小町ちゃんをウチに連れてくる時は、決まって俺は追い出される。

 何故と問えば、こんな答えが帰ってくる。「こんな恥ずかしい兄、見せたくないし」だそうです。ひどい。

 

 確かにそこまで美形でも無いし身長も高くはないけど、なに、ほら、アレだ、比企谷家のお兄さんとはいい勝負してると思うよ? 相手にすらなりませんでしたごめんなさい。

 

「今日母さん遅くなるから。……たまには自分で作れよ」

 

 それだけ言って、俺は二階の自分の部屋へ行く。

 いやはや、会話が成り立たないって辛いわ。

 

 でも、現実の妹ってこんな感じなのよね。もう「お兄ちゃん」とか「兄貴」とか呼ばれたの何年も前の話ですよ。最近じゃ名前も言わないし。

 ウチの妹曰く、「お兄ちゃん」って呼び方は俺が母親のことを「ママ」って呼ぶのと同じらしい。そう考えると、少しは納得できてしまう。確かに高校生の男子が母親をママって呼ぶのは、ちょっとね……。

 

 え、でもさ、君の友達に兄貴のことお兄ちゃんって呼んでる子、いるよね? てか俺も知ってるし。ヒッキー超羨ましい。妹一回交換しない? ケーブル持ってるから! あ、今はポケモンの交換ですらケーブル無しで出来るのか。科学ってすげー!

 でも、預けたら預けたで妹にフラグ立ちそうだ。主人公ってこえー!

 

 

 鞄を端っこにぶん投げ、ネクタイとブレザーを脱いでベッドに倒れこむ。

 暇だから少し浅い思考の海に沈んでみる。

 

 

 なんだかなぁ。こんなはずじゃなかったんだけど。

 ぶっちゃけ、転生当初は何でも出来る気がしてた。あわよくば幼少期のゆきのんとかヒッキーとかと、何かフラグ立てたりできるんじゃないかなぁ、とか考えてた時期もあった。

 

 でも、実際そんな甘くありませんでした。ていうか、一番最初に発見したの、中二の時の陽乃さんだし。なんか散歩してたら、公園で偶然見かけた。

 でもそれだけ。悲しいかなマジで普通の俺に、ハルさん先輩が興味を持つ訳もなく。

 

 それから、いろはす攻略作戦も容易く崩壊。サブレも普通にヒッキーが助けて、ガハマさんへ近づく理由も消滅。頭もあまり良いわけじゃないから、ゆきのんにも葉山にも全然近づけない。若者のノリは分からないのでウェイウェイしてる戸部っちとも、話したことすら一度として無い。

 

 更に俺のことを説明するなら、ヒッキーで言う、戸塚と小町がいないヒッキーみたいな存在だ。日本語おかしい。

 要するに俺は、社交性が無く文系科目が壊滅的で癒しが近くに無いヒッキーって感じですかね。それただの馬鹿なボッチじゃん。てかあの人程カッコよくねぇな俺。比べるもあの人で例えるのも全く以て失礼。

 

「つらーいなぁ……」

 

 そんなことをぼやいても意味なんて無いと知っているが、勝手に口が開いてしまった。

 仰向けで天井を見つめていた瞳を、カレンダーのある左に向ける。

 

 もうすぐ修学旅行だ。ここからの物語の展開は、かなり奉仕部と葉山グループ中心になってくる。余計、中には入りづらくなる。寧ろ彼らの物語を放っておいたら、俺はただの高校生活を送ることになる。

 

 そんなのは嫌だ。でも、邪魔をして崩壊するような話も見たくはない。

 どうすべきか。もう決まっていたことを再度確認する。

 

 

 妨害も介入もせず、遠くから彼らを眺めていようと、そう決めた。

 

 ていうか、それしかできないのよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

   ―――――――――――――☆―――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 昼休み。いつもの如くマッ缶を買いに行こうと思い席を立つと、尻目に葉山と戸部が話している姿が見えた。

 葉山の表情から察するに、恐らく……ていうか、確実に海老名さんの件だろう。きっとあの二人は放課後、奉仕部へ向かう。そこから今後の展開を考えると、少し顔が緩んでしまった。いったい何故。すぐに分かる。

 

 嬉しいのだ、単純に。自分の知っている物語が始まる、見たかったものが見れる。それも間近で。

 そういった思考が、ここが俺ガイルの世界なんだと再認識させてくれる。実感させてくれる。家族や生活の影響で冷め切った心に、ワクワクを与えてくれる。さあ、ワクワクするデュエルを始めよう!

 

「………はっ」

 

 俺は咄嗟に教室を駆け足で出た。そこから走って一気にトイレの個室に駆け込む。危ない。いや、マジあっぶねー! 気づけてよかったー!

 皆のいる教室で、綻ぶどころかめっちゃニヤついた顔をしてしまうところだった。てかしてた。全力で顔隠してたけど、それでも直視したら引くレベルにはキモイ顔をしていた。

 

 予想以上に、自分は俺ガイルが大好きなようだ。さっきまでの俺の顔は、きっとリアルタイムで俺ガイルが始まった瞬間のような顔だったはず。

 いつもいつも、始まった瞬間マッ缶開けて、ずっとニヤニヤしながら見ていた。

 

 週に一つだけの楽しみだったアニメ。唯一ずっと読んでいられたライトノベル。それが俺にとっての俺ガイル。そこに少しでも近づけると考えただけで、あの場面この場面を見れると考えるだけで、俺は極度の興奮に陥る。

 

 よっし! 放課後の奉仕部、ちょっと覗きに行こーっと! どうせ部活なんていてもいなくても変わんないし、まだ猫全開のいろはすしかいないし、今回はガハマちゃんの「マヂ!?」を聞きに行こう。かわいい。

 

「………うっし!」

 

 静かにガッツポーズをして、個室を出る。俺の目の前にはずっと便意を我慢していたらしき動作をしている男子生徒。……ごめんなさい。

 一応手を洗い、トイレを出る。放課後の楽しみに思いを馳せながら。

 

 

 

 

 

 

 

   ―――――――――――――☆―――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 草むらがガサガサする。猫かな? 鳥かな? 残念覗き魔でしたどうも俺です。

 ここは殆ど誰の目にも入らず、尚且窓から教室内の奉仕部の様子を見られるベストスポットなのだ! 入学1日目で見つけました! 友達出来ませんでした! 

 

 膝をつねることで興奮を抑えつつ、旅行雑誌を読んでその内容を、一般常識の範疇だとドヤ顔で言うゆきのんを見てまた興奮する。自制心が意味をなさなくて困る。俺こえー。

 

「……おっ」

 

 例の二人が入って来た瞬間、思わず声が出てしまった。自重せよ。

 

 

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 とんとん話は原作通り進んだ。先程海老名さんが退出した。そのあと少しの会話。多分ヒッキーは今ゆきのんに「もっと気ぃ使えよお前が」と心の中で呟いているに違いない。

 

 色恋の絡む依頼のためか、ガハマちゃんが「楽しみ~」と言いながら自分の座っている椅子を体ごと揺らしている。ウキウキしているの丸見えです可愛いです本当にありがとうございました。

 

 あ、あー……結局最後まで見てしまった。母親に今日は早く帰ってくるように言われてたけど、まぁいいや。大事な場面見れたし。

 ゆきのんとガハマさんも張り切ってるし、きっと楽しい修学旅行になるよ!(小学生並みの感想)

 

 満足気な表情を表に出しっぱなしで駐輪場に向かうと、横目にこっちを見てキョトンとしている城廻先輩を見た。手にはジョウロ。恐らく花壇の手入れでもしてたのだろう。

 でも、多分俺引かれたんだろうなぁ……。学校での表情は気を付けよう。

 

 

 

 

 

 

 そんなこんなで、もうすぐ修学旅行編開始~!

 

 

 

 




亀更新。( ´∀`)


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2話 自分から墓穴を掘っていくスタイル

亀どころじゃない





 

 

 気づいた時には、すぐそこには二人の男女の後ろ姿があった。お揃いの黒いパーカーでフードをかぶって、手を繋いで歩いている。男は至って普通に、女は見るからにウキウキしているようで、繋いでいない方の手をわざとらしく大振りしている。

 

 傍から見れば「ラブラブだアレ」とか「リア充爆発しろ」とか様々な言葉をぶつける格好の餌食だが、それでも誰の目にも仲睦まじいカップルに見えることは想像に難くない。俺も見ていてそう思った。……そう思ったのは、ほんの一瞬だったが。

 

 ――何かおかしい。何がおかしいのかは皆目見当がつかないが、俺はあの二人を見ていると妙な寒気がした。恋仲の男女への嫉妬でもなく、見せつけるような様子が気に食わないでもなく。……なんか同じこと言ったような気がする。

 しかし虫唾が走った。アレは普通ではないと本能が察知していた。分からない。何なんだアレ。

 

 俺は分からない何かに怯え、体から力が抜けていくように、思わずその場で尻餅をついた。

 男女を見ると、いつの間にか二人は足を止めていた。しかも向かい合っている。顔も近いし、まるで今にもキスをするぞ、とでも言うような姿だ。

 男が女のフードを掴み、そっと後ろに倒す。ずっと見えていなかった女の顔が見えた。

 

 ウェーブのかかった茶髪に童顔。女はどこをどう見ても『由比ヶ浜結衣』だった。

 え、何で? デート? 誰と? その疑問が湧いて出た瞬間、俺の目線は直ぐに男の方へ向いた。

 

 となれば、アレは葉山? それともヒッキー? 俺の中で由比ヶ浜結衣の隣に並ぶイメージが出来るのは大天使戸塚とその二人くらいだ。うむむ……。まぁ、どちらかと言えば結果は分かっている方だ。

 

 無論だが、俺以外でもあの男女二人を見ればもう片方の男が誰だかは大抵は想像出来るし、寧ろ確信に至れる。

 あれは絶対に比企谷八幡だ。間違いない。今更理由など語るまい。

 

 その確信と共に、疑問が一つ浮かんだ。ならば、何故自分はあの二人を見て恐れたのか。ネットのどこでも見たことがあるお似合いのカップル。いつもの自分ならそんな姿を見れば「俺ガイルが目の前にある」とか「ガハマかわいい」とかくだらない事を考えて、それでも嬉しくて仕様が無いはずだ。――なのに、何で?

 

 男は自分のフードに手をかける。ゆっくりと、ゆっくりと、素顔を隠している布を後ろに倒していく。

 

 顔が少しずつ見えてくる度に、自分の心臓の鼓動が早くなっているのを感じた。妙な寒気が再び襲ってくる。

 何なんだ、この感じは。アレは比企谷だ。絶対にそうだ間違いない。フードをおろせば比企谷の顔が出てくるはずだ。疑っちゃいけない。

 

 だって、由比ヶ浜の隣に立つ男なんて、比企谷以外に誰がいる? 戸塚? 葉山? そんなわけない。いつだって彼女の隣にいた男は比企谷八幡だ。

 

 男はフードをおろした。そしてその顔が露わになった。

 予想通り、頭のアホ毛に加えて目の腐っている、まちがっているラブコメの主人公―――

 

「…………は?」

 

 ―――では無かった。黒い髪で、澄んだ瞳をした、異様に顔が整っている男……、あれ? 誰だあいつ。見たことねぇぞ。おい、ちょっと待て。待てよ。待てって。誰だ。誰だよ。全く知らねぇ。どうなってんだよ、比企谷じゃないぞ。

 

 ちょっとガハマさん、何してんの? 何で目閉じてそいつを待ってるの? サブレ助けたのそいつじゃないよ? クッキーの依頼を受けてくれたのはそいつじゃないよ? 奉仕部にいないよ? ねぇ、そいつヒッキーじゃないんだよ?

 やめろ、由比ヶ浜に顔を近づけるな。お前にそんな資格ないだろ。何してんだよ。おい。

 

「――おい! おい、よせ! やめろ!」

 

 声を張り上げた。絶対に聞こえたはずだ。なのに何故止めようとしない?

 

「やめ――――――」

 

 俺の言葉を意に介さず、ついに二人は唇を重ねた。

 唖然としている俺を余所に、数秒後に二人は口を離した。由比ヶ浜はうっとりとした表情を。男は此方を見て、酷く歪んだ笑みを浮かべていた。嘲笑するような、勝ち誇ったような笑みを――

 

 

 

 

★ ★ ★

 

 

 

 

「……っぁ!?」

 

 声にならない悲鳴を上げ、勢いよく上半身を起き上がらせた俺の意識は完全に覚醒していた。夏ではないというのに、寝間着は汗でびっしょりだ。

 

 ――酷く悪い夢を見た。人生の中で一番恐ろしい悪夢。内容はハッキリと覚えている。いけ好かないすけこましの王道ラノベ主人公みたいな見た目の奴がガハマさんを寝取る……といった感じか。厳密には、彼女を【彼女】、つまり自分の女にしていたと言った方が正しいと思う。

 

 昨日から修学旅行編の彼らの物語にウキウキしていた気分がぶち壊された。

 あんなの見るなんて、私ちょっと疲れてるのかしら。……うぇ、結構ガチで気分悪い。

 

 着替えをクローゼットと箪笥から出し、覚束無い足取りで部屋を出る。目指す先は洗面所。嗽して顔も洗わないと駄目だ。めっちゃ気持ち悪い。

 

 洗面所で顔を洗って鏡を見てみると、自分の顔がかなり窶れていることに気が付いた。当然と言えば当然なのだが、いつもの地味な顔立ちがもうちょっと酷いことになっていた。例えるなら、出来損ないのヒッキーか。何かもう眼が凄い感じのアレ。これ以上的確な表現が見当たらん。

 

 リビングに行くと、寝ぼけ眼でもそもそと朝食を食べている妹の姿が見えた。よく見ると俺の分もある。俺も対面側に座り、朝食に手をつける。米に味噌汁と卵焼き。なかなか美味しそうですね。

 

 そこでふと、気になることがあった。今日は休日で親は熟睡中……。

 

「……そ、そういやさ。まだ母さん達寝てるよな?」

「は?」

 

 確認取ろうとしただけなのに、メンチ切られた。妹怖ひ……。最近の会話だと何かに付けて、この子「は?(威圧)」しか言わないの。お兄ちゃんお前と話す時、割りと本気でビビってるんだよ……。

 

 このまま怯んで会話をぶっ千切るのもアレだし、飲み物で喉に詰まった白米を流し込み、再び言葉を切り出す。

 

「す、すまん。……えーと、この朝メシ誰が作ったのかな〜……なんて」

「……美味しくない?」

 

 予想の斜め上を来た。会話にならぬ。どうしたらよいでござ早漏。漢字が違うで候。卑猥でござ早漏(復唱)

 

 でもよく考えてみたら、親は起きてないし、この朝食は妹が料理したのではないのだろうか。という考えに辿り着く。……あ、なるほど、感想が訊きたかったのね。

 

「いや、旨いぞ? 寧ろ最近食った飯で一番旨いまである」

「大袈裟過ぎてキモい」

 

 あれぇ? 褒めたのにいつの間にか俺貶されてる? こりゃ一体どういうことなんじゃ。俺にはさっぱりわからねえ。こいつの思考回路はとりあえず何かにつけてお兄ちゃん貶すって感じなのかな。なにそれこわい。いずれ殺されそう。

 でもお兄ちゃん折れない。だってお兄ちゃんだもの。慈愛の心を持って接するのよ!

 

「と、とにかく、結構美味しいぜ」

「……ふーん」

 

 多分ラノベかギャルゲーの妹なら今の言葉でちょっと俯いて照れながらも嬉しそうな表情をして読者兼プレイヤー兄貴達を萌え殺しにかかるのだろうが、残念ながらここはラノベながらも現実の世界。

 

 妹はとことん興味の無さそうな反応を示しましたとさ。めでたし。うむ、それでこそワシの血を受け継ぐ者よ……。少しドライなところは俺に似たのね。出来れば受け継がないで欲しかったなぁ、というお兄ちゃんの心境はきっと分かってくれません。寂しい。

 まぁこんな感じなら葉山とかでさえも俺の妹を攻略することは絶対に不可能だな(確信)

 

「ごっつぉーさんでした」

「……お粗末様」

「………」

「何?」

「な、何でもありません!」

 

 まともな返答をされたのがあまりにも久しぶりだったもんで、少しの間硬直してしまった。この子はツンツンしてて、ガチでデレの欠片も無い。と思いきや此方が期待していない時に限って、こうやってちょっと照れくさそうな小さい笑顔で不意討ちしてくるから怖い。そういうところ大好きだよ!

 

 妹が俺の妹だったこと(矛盾)に犇々と感動していると、いつの間にか俺の使っていた食器も台所へ持っていってくれた。優しみ!

 

「ねえ兄貴、そろそろ行こっか」

「一体どこへ行こうと言うのかね」

「私一回部屋戻るから、ポリ袋と軍手出しといて」

 

 食器を水に浸けてタオルで手を拭き、妹はさっさと二階の部屋に行ってしまった。

 えーと、うーんと、なーんだっけ。………ああ、今日は町内清掃だったか。忘れてたんこぶ。

 

 他にも忘れていたことがあったから、二階の妹にも聞こえるよう、結構大き目な声で階段から呼びかけることにする。

 

「家出る前に歯磨きしとけよー」

 

 二階から返事は帰ってこなかったが、多分聞こえただろう。

 俺もさっと歯磨きと着替えをすませ、二人分の軍手とポリ袋を持って家を出た。そのあと先に行くなと妹に殴られた。

 

 

 家を出て早3分。妹が近所の友達とどっか行っちゃったけど、黙々と真面目に作業に徹する姿は清掃員の鑑だって賞賛の声を浴びてもいいくらいには一人でゴミ回収続けてる。そこ、友達いないとか言わない。お兄さん怒ると怖いよ。

 

 今まで割とポジティブシンキングで生きてるけど、一人でゴミ回収とかやっぱりつまらないし寂しい。何が悲しくて誰かのポイ捨てを回収しなくちゃいけないんですかね。もう落ち込みまクリスティ。

 

 ポイ捨ては悪だな、とか思いながら公園のペットボトルを拾って、それが昨日自分が捨てたゴミだと知って更に落ち込む。やっぱりポイ捨てって悪だわ。

 くだらないことを考えながらも意外に作業は進んでて、本気で自分が真面目だなぁとか思いつつ袋を縛り、ベンチに腰を下ろす。

 

 遠目に自動販売機が見えたので、袋を置いてすぐに重い腰を上げた。幸い財布は持ってきているから、ここで一息つくことにする。

 

「迷うな~」

 

 そんなこと言っても指はマッ缶一直線に進んでた。俺ちゃん嘘つき。

 出てきたマッカンを取り出し軽く振り、ベンチに戻ろうと思ったとき、後ろに気配を感じた。どうやら他にも休憩したい人がいたようだ。

 少し急ぎ足で自販の前を退き、並んでた人の顔を確認してみる。

 

「……ぇえっ」

 

 あまりにも衝撃的だったもんだから、裏返ってしゃがれた声が出てしまった。それが聞こえたのか、並んでたその人もこっちに顔を向けた。

 

「あ、確かサッカー部の人だよね? おはよ~」

「ど、どうも……」

 

 家を出たばかりの引きこもりみたいな挨拶をしてしまった自分を恥じる。

 普通なら馴れ馴れしく感じるこの言葉使い、でも全然間違っていない。この人からしたらこれが普通だ。だってこの人は先輩で、俺は一つ下の後輩だから。

 

「……えっと、城廻先輩、近所でしたっけ……」

 

 やせいの めぐりんが とびだしてきた!

 

 

 

★ ★ ★

 

 

 

 今俺は絶頂している。そして極度の緊張に襲われている。マッ缶握ってる右手はずっと震えてるし、目線はあっち行ったりこっち往ったり。心臓も鷲掴みされてるような気分だ。

 

 何故かさっきの会話の流れから、この公園でめぐり先輩と一緒に休憩することになった。しかもベンチで隣同士で。

 なななななぜぜぜぜ……や、や、やばい。動揺は隠せているか。本当に隠せているのか。隠せていないと挙動不審の変態って感じで通報される。それぐらい(どれくらい)俺は今の自分の状況を把握しきれていなかった。

 

 いや、何でこうなったかが分からないわけではない。言ってしまえば、ただ単にこの今の自分の現実を実感することが出来ていないのだ。

 い、意味不明だ。何故俺がこんなおいしい展開を迎えることが出来ている!? わからん、わからんぞ! でも幸せだ! 生きてきた中で今この瞬間が一番幸福だ! 

 

 ヒッキーが言っためぐめぐめぐりん☆めぐりっしゅ効果(主な効果はリザレクションとデトックス、お姉さん属性の付与に加え、たまに見せる大人びた雰囲気にあどけない仕草の追加効果を得る。相手は死ぬ)は嘘じゃなかったようだ。寧ろこの言葉じゃ足りないまである。縮めてめぐレックス効果とか名付けてみようか。

 

 あとこっちにいた理由は、近所の友達の家に泊まっていたかららしい。俺はその友人様を崇め奉って神様と呼ぶことにする。

 

「あのー……霜月(しもつき)くん?」

「……へっ、は、はい、ごめんなさい」

 

 話しかけられてようやくこっちに戻ってきた。あのままじゃ多分いろいろ妄想するうちに爆死するところだった……危ない危ない。

 

 めぐり先輩に呼ばれて思い出したのが、自分の名前。俺は霜月大悟(だいご)! 普通の高校生さ宜しく!

 朝のHRは寝てるから出欠の返事はしてない。ようするに先生に毎日呼ばれてるはずの自分の名前を聞いてないので、それ以外で呼ばれる機会のない自分の名前を忘れていた。ぶっちゃけどうでもいいんだけどね!

 

 それより、遂に今世紀最大の会話が始まってしまった。なんとか嫌われないよう、名前を言えば顔ぐらい思い出せる程度にはめぐり先輩の記憶に俺を残したい。下手な会話は出来ん。慎重に行けよ! おう!(自問自答)

 

「缶、つぶれてるけど……」

「え!?」

 

 手元を見て、自分が興奮のあまりいつのまにかマッ缶を握りつぶしていたことを漸く理解した。手は液体まみれ。バカかよ俺……もう失敗した。終わりだぁ。嗚呼……。

 

「て、手ぇ洗ってきます……」

「あ、これ使って」

 

 笑顔で差し出してきたのは、すごくもの凄く超絶アルティメットハイパーいい匂いがしそうな綺麗で薄い桃色のハンカチ。

 感動のあまり涙が出そう。てか多分もう出てる。めぐり先輩驚いた顔してるし。ごめんなさい、ごめんなさい。

 

 こんなの惚れて舞うやろ。言葉の通り舞いそう。先輩のために全力でダンスしちゃう。

 しかし一瞬勘違いしてしまいそうにもなった。こいつ俺のこと好きなんじゃね? と。おいおい馬鹿かよ。本気で死ね。善意を好意に挿げ替えんなよ。ああ、先輩と別れたら、この後どっかで自分を100回くらい殴ろう。

 

「……ちくしょー」

 

 手を洗いながら、こんなことを思う。本当に何でこんなときでさえくだらない事を考えて失敗してしまうのか。

 

 めぐり先輩は優しくしてくれているが、あの人の中できっと俺は「頭がかわいそうな男子生徒」になってしまっているに違いない。それなら寧ろ忘れて欲しい。主にめぐり先輩のために。だって多分間違っていないし。

 

 めぐり先輩のハンカチで手を拭き、ベンチまで戻る。そして隣に座ることなく、立ったままにすることにした。

 

「すいません先輩。これ、洗って返します。学校で」

「気にしなくていいよ~。私もそれ使うから」

「で、でも……」

 

 なんかハンカチを返そうとしない変態みたい。でも実際どうしたらいいんだこれ。俺如きの手を拭いてしまったハンカチが、そのままめぐり先輩の手に触れてしまってもいいのだろうか。

 

 本来ならそんなはず無いが、このハンカチはめぐり先輩の物。返すのが筋だ。でも俺使っちゃったし……どうしよう、どうしよう。ああ、どうしよう――

 

「……あ、じゃあ洗って明日返して! 昼休みに、私の教室で――」

「……へっ」

 

 めぐり先輩は手元まで伸ばしたパーカーの袖で、軽く俺の頬を擦るように触れた。俺はその動作を、いつの間にか本当に流していた涙を拭うためのものだとは露知らず。

 

「待ってるね♪」

「……は、はい」

 

 そっと触れた自分の頬がまだ微かに湿っていたことで、それをやっと理解した。

 

 

 

★ ★ ★

 

 

 

 家に帰って、後悔をして、一体何回自分を殴っただろうか。馬鹿野郎……俺の馬鹿野郎。何で失敗してんだよ。全部ゴルゴムの仕業だ。ゆ"る"さ"ん"。

 

 結局、あの後は城廻先輩のご厚意で、隣に座らせてもらい、更にお話までしてくださった。本当にあの人は天使……いや神様……いやめぐりん様……(ループ)

 とにかく俺に優しくしてくれた。あの優しさに触れて、堕ちない男子はいない。もしいるとしたらそれはヒッキーくらいだ。やっぱり主人公ってバケモノだわ。本当に彼は理性の化け物ですね。

 

 話は変わって、そろそろ昼休み。実は今からハンカチを返しに行くところだ。めっちゃ緊張する。昨日からずっと返す時のシミュレーションをしていたのだが、全く良いイメージが湧かなかった。

 

 無難な返し方はお礼と謝罪を言って丁寧に渡して、さっさとその場を立ち去ることだ。俺があの人の近くに、長く居ていいはずが無い。居ていい男子は主人公だけだ。

 

 チャイムが鳴った。数回深呼吸して椅子を立つと、横から声がかかってきた。

 

「な、なあ、霜月」

「比企谷? どした」

 

 なるべく冷静を装って返事を返す。まさかヒッキーから話しかけてきてくれるなんて、思っていなかった。

 そこでまた、思わぬ言葉が飛んでくる。

 

「今日……さ。い、一緒に飯食わないか?」

「え、あ……」

 

 本当にそんな言葉が飛んでくるとは思ってなかったので、一瞬動揺してしまった。そのせいか、ヒッキーの顔がすこし引きつったように見えた。おっと、別に嫌なんかじゃない。寧ろ嬉しい。だからそんな顔をしないでくれ。

 

「えーと、少し用事あるから、教室で待っててくれるか? すぐ戻ってくる」

 

 なるべく笑顔で言うと、ヒッキーは少し安堵したように見えた。心配させてすまないね、少年。

 

 教室を出て、上の階を目指す。城廻先輩の教室は一つ上の階だから、少し距離がある。そのせいか、少し足取りは重かった。寄り道して時間潰そう、とか考えそうになり、その思考を吐き捨てる。迷っちゃいけない。

 

 それと、さっきのヒッキーを見て分かったのが、予想以上に自分が原作に介入してしまっていることだ。今はヒッキーだけだが、城廻先輩にも影響を与えてしまうかもしれない。本当にそれだけは避けたい。

 

 修学旅行後のヒッキーと奉仕部の動向はなんとか干渉せずやり抜こう。なんせいろはすが一番輝く時期だ。俺みたいなクソザコナメクジが関わっていいはずもない。

 ――やっぱり余計なことを考えてしまった。今は城廻先輩にどんな言葉をかけるのか、それだけを考えよう。

 

 

 もう教室の前まで来てしまった。高まる鼓動を深呼吸でなんとかしようとするものの、止まる筈は無かった。時間稼ぎはもういい、腹を括ろう。

 近くの先輩に声をかけ、城廻先輩を呼んでもらった。程なくして、城廻先輩が教室から出てきた。

 

 気を使ってもらって、ハンカチを貸してもらって、涙を拭いてもらった。返しきれない恩はこれから陰からこっそり返して行こう。そう決めて、口角を上げ、微笑の表情を作り出した。

 

「あの、城廻先輩……これ」

「あ、もう持ってきてくれたんだ。ありがと~」

 

 う、眩しい。目が、目がぁああ!!

 だ、だが、ここで怯むわけにはいかん。

 

「ハンカチありがとうございました。それと公園の時のこと、すいませんでした」

「えっ、謝らなくていいよ! こっちこそ何か気に触れるようなことして、ごめんね?」

 

 まさか自分が俺を泣かせたとでも思っているのかこの人は。なんじゃそりゃ。優しすぎるでしょうよ。やめてもっと好きになっちゃう。

 

「と、とにかくありがとうございました。城廻先輩」

「めぐりでいいよ~。それに、戻るときにゴミ袋持ってもらったし、こっちもありがとう~!」

 

 笑顔で両手を合わせてお礼を言ってきてくれた。あんなことでさえお礼を言ってくれる……。もう死んでいいかな、俺。

 き、切り上げよう。話を切り上げて、この場を離れよう。

 

「それじゃあ……」

「うん! またね~」

 

 ああ、笑顔だ。凄く笑顔だ。優しくて暖かい。天使だ。女神だ。言葉じゃもう表せねえ。ああ先輩、先輩――

 

 

 

 

「好きですめぐり先輩」

「―――え?」

 

 

 

 無意識に出たその言葉を理解したその瞬間、もう一度脳は機能を停止した。

 

 

 

 





感想とお気に入り登録いただきました。ありがとうございます。
更新はマイペースです。早かったり遅かったりします。
完結はさせるつもりなので、どうかお付き合い頂ければ幸いです。


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3話 『それ』は未来の暗示

 

 とんでもない爆弾をめぐり先輩に押し付けて暫し硬直した俺は、素早く頭を下げて急ぎ足でその場を去った。赤面していためぐり先輩がもう言葉で表現出来ないレベルで可愛くて卒倒しそうにもなったから、二つの意味で本当に死ぬかと思った。

 

 ――ぁぁあああ!! 何をしているんだぁああ!! 馬鹿か! バカなのか!? 

 本当に頭お菓子ぃ。何なの、脳細胞ハッピーターンで出来てるの?

 やってしまった。いや、これはガチでまずい。予想以上に自分はヤバい事を仕出かしている。「原作介入? しませんよ(*^-^*)」とか言ってた自分を殺したい。

 

 

 ……ちょっと落ち着いて、冷静に考えてみよう。

 実質的にめぐり先輩にフラれる……もといめぐり先輩が俺をフる決心をしてそれを実行に移すこと事態はあまり問題ではない。いや、まぁ大問題なんだけれども。

 

 大事なのはその後なんだ。俺が影響を及ぼしているのは、めぐり先輩以外にもう一人いる。その人はある意味本当はめぐり先輩より関わってはいけない人間……主人公、比企谷八幡。実はめぐり先輩の所へ行く前に、彼に昼食を共にしないかと誘われてしまっている。

 

 ぼっちで友達がいないからこそ真価を発揮するスーパーぼっちのヒッキーが、あろうことか昼飯を一緒に食べるような『友達』が存在しているこの現実を、軽視してはいけない気がする。いや、気がするではなく、してはいけないのだ。

 

 今後奉仕部が直面する危機で、もしヒッキーが俺に頼るような事があったら? それは誰も知らない『未知の領域』にこの世界線が突入してしまうということ。俺の知っている、俺の大好きな『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』という物語が消滅することを意味している。

 

 避けたい。そんなことは絶対に避けたい。だが、これは自業自得というものだ。俺が撒いた種だ。俺がケツを拭かなければ駄目だ。

 この問題の解決には、俺が物語に入らず、俺が関わらなくてもヒッキーが原作通りの動きが出来る為の策を練ることに他ならない。考えよう。元々無い頭をフル回転させるのだ。そして答えを導きだ――

 

「わっ」

「霜月……歩くときは前を見たまえ」

 

 さっきからいろいろ考えてるフリしてたけど、他者から見たらただブツブツ独り言呟きながら下向いて歩いている変態だって事に今気づいた。

 ぶつかったのは独身で三十路の怪力先生。確かヒッキーがこういうこと考えると直ぐに察して制裁を下すエスパー。どうやら俺が考えてることは分からないようだ。

 

「女性の胸に急に頭を埋めて来ておいて、更に失礼な事を考えるとは……君はなかなか肝が据わっているね」

 

 そう言って先生は指をポキポキ鳴らした。バレてーら。……いや、おかしくね? もう本当にエスパーでしょ。何で考えてることが分かるんですかね。読唇術で一儲けできそう。でも読心術すら超越してる感じはする。……読心術。……どくs

 

「あああぁぁッ! や゛め゛て゛せ゛ん゛せ゛え゛ぇえ!!」

 

 俺の顔面を両手で掴んできた。もうメキメキ音が鳴っている。

 

「喧嘩を売っているな、そうだろ霜月? 仕様がないから買ってあげるとしよう」

「こ、殺しに来てますよね!? ていうか何でわかるんですかッ! アイエエナンデ!」

 

 俺が逝きかけたところで頭から手を離し、平塚先生は軽くため息をついた。個人的に、この人は一番溜め息が似合う女性だと思う。

 

「まったく……君は自分の思考が言葉になって口から漏れていることに気づいていないようだな」

「そ、そんなバカな……」

 

 それただの頭おかしい人やん。いや、まぁ、自分が頭おかしいのは知ってたけど、無意識にゴニョゴニョ呟いてラノベ主人公ごっこしてるなんて思わないよ。事実、それをしていたことに気づいた今、正直驚いてる。そんなことをしていた自分に気がつかないとか、どんだけ疲れてんだよ俺。

 

 自分に呆れて溜め息をついた俺の頭を、平塚先生は乱暴に撫でて、そのまま俺の横を通って行ってしまった。先生はもう呆れを通り越しているのかもしれない。キモい一人語り聞かせてすみませんですた。

 今度からは気をつけます(出来るとは言ってない)

 

 

 

◆  ◆  ◆

 

 

 教室に戻ると、ヒッキーの姿はどこにもなかった。帰りが遅くて、呆れて何処かへ行ってしまったのだろう。

 わざとらしく肩を落とすと、珍しく腐女子代表格の海老名氏から声がかかった。

 

「霜月殿、もしや比企谷君をお探しですかな?」

「そうなんや。海老名どん、もし知っているなら比企谷はんがどこ行ったか、教えてくれへんかいな?」

 

 変な喋り方に対抗心を燃やして、それっぽいけど確実に間違ってそうな関西弁を使った。海老名さんはちょっと引いてる。しもつきの こうげき! こうかは いまひとつの ようだ……。

 

 まぁ別段仲が良いわけでもないし、そもそも話したのは初めてだ。当たり前の反応だし、寧ろ逃げなかったことに俺は感動している。あぁ、腐女子って良い人ばっかりなんやなって……(勘違い)

 海老名さんはまた直ぐに表情を戻し、悪そうな笑みを浮かべた。

 

「財布の中身を確認しながら、教室出ていったよ。パンは持ってたし、多分1階の自販機とかに行ったんじゃないかな?」

「そっか。じゃあ俺も行ってくるわ。サンキューね、海老名さん」

「いえいえ~。楽しい昼休みを~……ぐ、ぐふふ」

 

 両手で顔を隠してるけど、声が漏れてるんですねぇ……。

 え、なに、もしかして、はやはちから俺と比企谷――つまりしもはちに標的変えたの? 俺達いつの間にか、腐女子ネタの恰好の餌食にされていたのか……。そのうち盗撮されそう。比企谷の隣に俺がいる写真とか、何の需要も無いんで破り捨てといてくださいね!

 

 俺が何か言ったとしても、きっと海老名さんは俺ら二人をストーカーするつもりだろうから、ここは敢えて何も言わないことにした。

 

 弁当を持って教室を出ようとしたとき、一応教室全体を見渡してみる。いつもの場所で海老名さんはあーしさんと話しているし、どうやら今回は大丈夫そうかな。…………多分。

 

 とりあえず教室を出て、俺は急ぎ足で階段を駆け下りた。一階に着いたと同時に腕時計を見て気づいたが、昼休みの時間は案外残っている。そこまで急がなくても大丈夫そうだが、ヒッキーとのすれ違いが怖い。やっぱり急ごう。

 

 自販機が見えると共に、その近くにある人影も見えた。その人が誰か分かるや否や、直ぐに声をかける。

 

「比企谷ー!」

 

 俺の声に気づいたであろうヒッキーは、肩を一瞬びくつかせて驚いた。猫みたい。

 

「し、霜月、何でここに」

 

 焦っているようなヒッキ―の口から出たセリフは、見事に俺が言いたいセリフだった。教室で待っててくれと言ったのに、どうして、と。それを言葉にしたい気持ちはあったが、ここは抑えることにする。

 

「いや、まぁ、ここにいるんじゃないかと思って。それより、お前の今日の昼飯………随分と豪勢だな」

 

 苦笑いする俺の目線を追うように、ヒッキ―は俺から自分の懐へと視線を移した。そして「……あぁ、えっと……」と口籠る。

 

 ヒッキ―がマッ缶大好きなのは知っているんだが、昼にマッ缶を二本か。流石に糖分摂取し過ぎな気がする。糖質中毒目指してるのかしら。イライラしやすくなっちゃうから、やめようね!

 

「………これはっ、お、お前のだ」

「へ?」

 

 つい間抜けな声を出してしまった。

 

「えっなにそれは」

「だ、だから俺が二本飲む訳じゃなくてだな。このもう一本は、お前にやるって。い、いっつもマッ缶飲んでたろ」

 

 俺から目を背けながら、懐の一本を俺に片手で差し出してきた。

 何だろ、何か、何だろうね、この感覚。凄くね、何かね、ムズムズする。ムズムズリズム。

 

「いつもって……お前、まさか!」

「ばっかちげぇよ! 俺の斜め前の席だし、たまたま目に入るだけだ!」

 

 驚いたような態度を大袈裟にやると、ヒッキ―は必死に弁解してきた。特別Sという訳ではないが、あれこれ躍起になってストーカー疑惑を否定しているヒッキ―が、何だかちょっとかわいいと感じてしまう。やだ、私、本当にホモだったの……?

 

「だ、だから――」

「わーった、わーったよ。落ち着け。どうどう」

 

 まぁまぁと片手を前に開いて、ヒッキーを落ち着かせる。多分今、心の中で「俺は牛じゃねぇ」とか思ってそう。

 俺はとりあえずヒッキーからマッ缶を受け取り、持ってきた弁当をチラつかせて彼を見る。

 察しがいいヒッキーは、こっちだと言って自分のベストプレイスである場所へ俺を案内した。

 

 

 駐輪場近くの、数段程度しかない階段。もはや階段というよりただの段差レベルのこの場所が、ヒッキーのベストプレイス。

 

 二人並んでそこに腰を落とした。俺は弁当箱を開き、彼はパンの袋を開ける。

 漸く落ち着いて昼食を食べるころには、昼休みの時間はもう長くはなくなっていた。

 缶を開ける音が重なり響き、二人同時に缶に口をつける。双子もびっくりのシンクロに、俺が微笑を浮かべた時、涼しい微風が頬を撫でた。

 

 朝方は海から吹き付ける潮風が、まるでもといた場所へ帰るように陸側から吹く、だったか。確かに心地の良い風だ。ヒッキーがここをベストプレイスにした理由が、垣間見えた気がする。

 

 食べ終わった弁当をしまっていると、ピロリと携帯の着信音が鳴った。電話ではなくメールの、短い音。俺の使っているものとは違う着信音だったため、すぐにヒッキーのものだと気づき、彼の方へ視線を移す。

 ポケットから取り出して画面を見たヒッキーは、面倒くさそうな顔をした。

 

「どした?」

「ああ、妹に帰りにアイスとお菓子買って来いって頼まれた」

「………なんか、羨ましい」

「は?」

 

 このヒッキーのマジで何言ってんだコイツって感じの声音な。多分ヒッキーにはわからんのよなぁ……。

 

「うちの妹、かなりドライでさ。そうやって俺にメールしてくれたこと、一回もねぇ」

「一回も無いって、それは流石に………」

 

 俺の諦めたように笑っているのを見て、ヒッキーは言葉の続きを紡がなかった。

 

「………まぁ、諦めずに接してりゃ、なんとかなるだろ」

 

 俺の肩に手を乗せ、口角を釣り上げた。励ましているつもりなのだろうが、君はやっぱり作り笑顔がぎこちないね。

 

「比企ガエル君にしては、珍しくポジティブシンキングなのね」

「雪ノ下みたいだなそれ」

「心の声漏れてるぞ。てか男の前で他の女の話すんじゃねぇ」

「女の前で、だろ。お前は俺の彼女か何かか」

 

 俺は口を隠すように手を添え、わざとらしく照れて視線を泳がせる。

 

「……た、タイタンなのねっ」

「大胆の間違いな。ブラックサタンの幹部じゃないから俺」

 

 今日のヒッキーは妙にノリがいい。ていうか、こんなに声に出してツッコミをする子だったかしら。

 彼の様子を窺うと、わずかな間だったが確かに笑顔だった。これは俺が魔法カードのスマイル・ワールドを発動したからに違いない。多分お互い攻撃力が200アップしてる。

 

 くだらない事を考えつつも、俺自身も笑っていたことに気づいた。こんなに純粋に楽しい昼食は、ずっと無かったから、かもしれない。

 

「あっ」

 

 自分の腕時計に視線を落とすと、昼休みはもう終わりを迎えようとしていた。

 弁当を風呂敷に包んでゆっくりと立ち上がると、ヒッキーも俺に続くように立ち上がった。

 そしてすこし遠くにある金網のゴミ箱を見つけると、中身がなくなったマッ缶を持って彼の方へ向いた。

 

「比企谷」

「なんだ」

「あそこにゴミ箱あんだろ? ここから投げてどっちが入るか、勝負しようぜ」

「おう、いいぜ。これで勝った方が最強のお兄ちゃんな」

 

 ヒッキーの言葉に、思わず吹いてしまう。そんな俺を見ているヒッキーも、どこか楽しそうに笑っていた。

 目標を定めて、隣同士で並び、構える。

 

「「せーのっ」」

 

 

 投げた缶は円を描くようにゴミ箱へ落ちて行った。

 そして二つの音が鳴り響いた。

 一つは金網のゴミ箱に入り気持ちのいい音を、もう一つはコンクリートに落ち鈍い音を。

 

 

 ()()、入らなかったのは、俺の缶だった。

 

 

 

 





夢のことに触れられなかったので、それは次回。
あと、今回は話の進む速度が早かったので、次からはしっかりとした地の文を書きたいです。



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4話 盛り上がらないファーストコンタクト

 

 

 昼休み後は決まってイベントなどは無い。いつも通り訪れる放課後に生徒たちは歓喜し、或いは溜め息を零す。

 

 娯楽に興じる者がいれば、反対に生真面目に勉学に取り組む奴もいる。部活動に辛さを感じる奴もいるし、部室でラブコメする馬鹿野郎だっている。名前は奉仕部。

 

 自分の場合は、三番目に綴った、部活が只の苦行にすり替わってる人間だ。

 所属しているサッカー部は十分に人員が足りているし、葉山とか言う絶対的エースもいる。

 

 得るものは特に無いし、実際辞めたい。それに俺が退部したところで、別段何かが変わるわけではない。ただ、今まで親に部活に費やしてもらった金額を考えると、辛いと言う理由だけで退部するのは心苦しい所がある。

 

 とどのつまり、部活辛いっす。高校生の諸君ならば分かるであろうこの倦怠感は凄まじく身体に毒がある。嫌だ嫌だ、い゙ぎだぐな゙い゙ぃ゙ぃ゙……といった心境に陥る効果が確認されている。怖い。

 

 だけどそれを通り越して元気モリモリな奴も居たりする。葉山に至ってはリポビタン何本空けてんだよってくらいタフネス過ぎて引く。ファイト何発だよ。

 

 それでいて端正で様になる表情を崩さないのだから、やっぱり此奴はモテるのであろうな、と納得出来るでござる。加えて休憩時間は水道の前で洗顔お色気パーリー。水も滴るいい男とは言ったもんだ。

 

 今日はスポーツドリンク奢ってくれたから、葉山大好きになって、こうしてベタ褒めしてる。素敵、抱いて。

 

 そうそう、こうやって葉山は、周りに信頼されるような行動を毎日欠かさず怠らない。凄いと思う反面、そこまでする必要はあるのかと、疑問に思う時がある。

 

 実際交友関係が広すぎるせいで、一度に沢山の人を相手したのか、疲れ切った状態でサイゼで寝ている葉山を見たことがある。金魚のフンよろしく葉山の腰巾着こと戸部も一緒にいたのだが、寝ている葉山を起こそうとはしていなかった。

 

 意外でもないが、戸部も葉山の周りの事ぐらいは理解しているらしい。葉山に必要なのは、戸部のように理解ある友人だと、この頃思う。

 

 こうして俺は部活中、思慮に耽っている。やる事なんて特に無いから。

 

「霜月ー、そっち行ったぞー!」

「―――へ? あ、うぉわっ」

 

 突然飛んできたボール。おそらくパスなのだろうが、ボーっとしている奴に球を渡すなんて、頭がイかれた輩がいるなぁ。とか思いながら、取りこぼしたボールをなるべく早足で取りに行く。

 

 なんとか追いついたので、前にいるヤツにパスして、一息着く。すると後ろから軽く肩を叩かれた。

 

「ナイスパス、このまま前に上がろう!」

「お、おう」

 

 俺にパスした頭がおかしい奴は葉山だった。彼はそのまま前方へ走っていき、最近調子を取り戻してきた監督の叱責が怖いから、俺も前へ駆けて行った。

 

 パスを受け取った葉山はディフェンスの二人を抜き去り、ゴールへ球を蹴り飛ばした。しかしキーパーがそれを易々とキャッチし、俺の近くに待機しているやつにボールを投げる。

 

 葉山は少し焦ったような表情を見せた。―――仕方あるまい。必殺技を使うとするか。

 

「おっけいいぞ、こっちこっち!」

「おう! ―――あ゛っ!」

 

 声を出しすぎないよう気を付けつつ、手を上げる。するとそいつは俺を味方だと勘違いして、此方にボールをパスしてくれた。はっは、ざまぁみろ。葉山を出し抜けたと思って油断してたな小童め。チーム分けのビブスくらいよく見とけアホ。

 

 でも実際、これが上手くいったのは久しぶりだ。そんなたまーにしか決まらないフェイクに引っかかった男子部員は、凄い悔しそうな面白い顔をしている。おお、愉悦愉悦。

 

 素晴らしく歪んだ笑みをした俺は、悪い癖が発動した。少しばかりハイテンションになり、調子に乗るのだ。 

 

「行くぞ、戸部ぇッ!!」

「おっしゃ、めちゃんこテンション上がるっしょ!!」

 

 叫んだ俺は近くにいた戸部と一緒に前に出ていく。

 ていうか、めちゃんこって今日日聞かないね。

 

「見とけ葉山ぁッ!」

 

 俺は高らかに叫び散らし、一人立ちふさがるディフェンスに立ち向かう。

 まぁ仁王立ちで待ち構えてるし、ボールを股の下に通すだけの簡単なお仕事なんですけどね。

 

「ザ・ウォォォォル!!」

「戸部ッ」

 

 俺につられて叫んだ某稲妻11人のデブみたいな奴を抜いた後、斜め前にいた戸部にパスをする。

 

「オフサイドぎりぎり! 霜月君神業っしょ!」

「お前もさっさと決めちまえ!」

 

 返事の代わりに頷き、戸部は本気の顔になった。そして一人抜いた後にシュート。放ったのはループシュートだったが、うまいこと右を守ってたキーパーの左へ飛び、そのままゴールへ入った。君意外と葉山より上手なのね……。

 

 満足そうに此方に向かってきてハイタッチしようとした戸部に、気を使って合わせてやる事にした。

 

 バチンッ、とハイタッチを交わすと同時に、笛の音がグラウンドに鳴り響く。その合図は練習試合の終了を意味していた。

 それを聞いた葉山は軽く一息ついた後、俺達コンビの方へ向かってきた。

 

「凄いな、二人とも」

「だろ。俺と戸部が組めば、軽くお前三人分の力を発揮するんだ」

「霜月君からパス貰ったの、今日以外あんまり覚えてないけどね!」

 

 俺に肩を回しながら、へらへらと笑う戸部。地味に心に刺さる事言いやがったぞ、こいつ。

 そうさ。レギュラー組のお前らと違って、いつもベンチで快適に過ごしてんだよ俺は。実質ニートだよちくしょう。

 

「ははっ。……まぁ、今日のプレーを見て、監督も霜月のこと見直したんじゃないか?」

 

 マネージャーに渡されたタオルで額を拭いながら、葉山は視線を監督の方へ移す。その先には、なんか帽子を深く被ってニヤニヤ笑ってる監督がいた。

 本当に葉山の言う通りなのかな? と期待したのは一瞬で、監督が携帯の画面を見てニヤついていたことが直ぐに分かった。あー、もう。多分俺に関心示してないわ、アレ。

 

 わざとらしく肩を落として落ち込むと、戸部が軽く背中を摩ってくれた。いや、気持ち悪いわけじゃないから……。

 

 

 顧問が携帯をポケットに入れ、何事も無かったかのようにキリッと表情を引き締めた。今日は終了だー、と叫び散らすと、部員達は後片付けに勤しみ始める。

 あぁ、漸く終わった。今日は大活躍したから、いつもより疲労感が凄いことになってる。

 

 疲れ切った瞳でチラリと部室の方を見ると、葉山がマネージャーとラブコメしてた。おいこら、何楽しそうに談笑してんだ……こっちはなぁ……つか、れて…るん……… 何でまだそんな元気なんだよテメェ!!(逆ギレ) すげぇ!!(恍惚)

 

 感情の起伏を激しくして疲労感を誤魔化しているが、やっぱり疲れているのは事実。元々体力が無いのと普段全然運動していないのも相まって、心の中は真っ白に燃え尽きてるぜ……。

 

「んぉー? あれ結衣じゃね?」

 

 カラーコーンを集めていると、いつの間にか隣にいた戸部が、グラウンドの外から見える校門の方を向きながら唐突に言ってきた。

 俺も同じ方を向くと、そこにはゆきのんと腕を組んで歩いているガハマさんがいた。加えて満更でもなさそうな雪ノ下さんの表情。凄く……百合百合しいです……。

 

 ふと校舎の上のデカい時計を見ると、もう夕方は過ぎているような時刻を針が示していた。奉仕部やらの校舎内の部活が終わっていても、おかしくはない。

 それにしても、微笑ましい光景じゃのう。

 

「霜月君、今スッゲーおじいちゃんみたいな優しい目してるべ」

「ほっとけ」

 

 へらりと笑う戸部を無視して、再び小さいカラーコーンを集めていく。

 ―――集めていこうと思った、その時だった。ガハマさん達から目線を外そうとした瞬間、尻目に人影が見えた。二人の後ろに、誰かが居た。

 

 既に部活の終了時刻だし、別に誰が二人の後ろを歩いていても、何ら不思議は無い。けども好奇心と言うのは恐ろしくて、何故か気になった俺はその人影の方へ視線を移した。

 

「……あっ」

 

 ハッとした。まるで心臓が鷲掴みされた様な感覚に陥った。急に跳ねた心臓の鼓動は加速し、俺は抑え込むように自然と右手を心臓部に当てる。

 

 男だった。何の変哲も無い、何処にでも居そうなただの男子生徒。

 しかし、俺はそいつに見覚えがあった。いや、見覚えと言って良いものなのかは分からないが、知らない顔ではなかった。

 

 以前、俺は由比ヶ浜結衣と何者か分からない男が恋人の様に振る舞い、挙句接吻までする、という夢を見たことがある。

 嘘偽りなく本当に『ただの夢』だったのだが、目覚めの悪さは異常だった。その時はそれ以上の事は何も考えていなかったが、今になってみればアレは予知だったのかもしれないと思う。

 

 二人の後ろを歩いている男は、夢で出てきたその男にそっくりだった。冷や汗を流すと同時に、あの夢で見た虫唾の走る気色悪い笑顔が鮮明に思い出される。

 

 動揺で身動きが取れない。しかしハッキリと眼光はその男を捉えている。

 男が二人に近づくように、小走りになる。

 段々と、その速度は早くなっていく。

 

 ただの夢だろ、何焦ってんだ?

 馬鹿じゃねぇの。似てる人が居るだけだろ。

 そもそも夢と重ねること自体、失礼極まりない。

 

 様々な考えが脳内を駆け巡る。

 しかし絶対にこのまま見逃してはいけないと言う焦燥感が、直ぐに全身を支配した。

 

「このっ!!」

 

 俺はカラーコーンを放り投げ、膝を思い切り叩いた。瞬間、重りが外れたかのように足が軽くなり、目が覚めた。

 そして辺りを見渡し偶然見つけたのは、珍しく球拾いをしている一色いろは。

 

「一色! そのボール一個こっちに寄越せ!」

 

 突然怒号に近い声音で声をかけられた一色は、よく分からず狼狽している。構わず、俺は続けた。

 

「おい、早くしろ!」

「は、はい!」

 

 焦って返事をした一色は、片手でボールを此方に投げた。

 俺はそれを両手で取り、軽く上に投げる。

 落下するそのボールを、俺は男の方へ思い切り蹴飛ばした。

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 花壇から奉仕部の様子を見ていたら、先に男子部員が退室し、その後二人も退室した。

 僕の愛する由比ヶ浜結衣は、もう一人の女子部員と腕を組みながら校舎を出て行った。

 

 ああ、可愛い。可愛いよ結衣。この世の何よりも美しく輝いているよ。隣の子とくっつきながら幸せそうな顔をしているね。無垢で影一つ無いその笑顔が眩しいよ。でも本来ならその隣には僕が居るはずなんだ。ああ、勘違いしないで欲しい。その女の子の位置を取って食おうって訳じゃあ無いんだ。僕は君の、君の誰よりも特別な存在になりたいだけなんだ。聞いて? 僕ならその子より十倍は君を幸せにできる。十なんて全然足りないかな。でもこの数字はこれからきっと沢山増やしていけるよ。百でも千でも億でも兆でも無限に増やせる。それくらい君に幸福を齎すことの出来る存在なんだよ僕は。待たせてごめんね。こんなにも待たせてしまった。本来なら君が生まれたその瞬間から傍に居ないといけなかったのに、分からず屋な唾棄すべきゴミみたいな駄女神は君が高校生になってから僕を此処に送ったんだ。あ、でも後でそいつは殺しておくから、心配しなくてもいい。だから許してくれ。誕生したその瞬間から傍に居ることの出来なかった僕を許してほしい。でも、きっと寛大な君なら許してくれるのだろう? ふふ、やっぱり君は優しいね。その優しさに触れるだけで……いや、君の顔を思い浮かべるだけで僕はいつでもイってしまうよ。今日は替えのパンツを五十六着持ってきて、その全てを使い切ってしまったよ。いやはや、君の中に注ぐべき僕の遺伝子は、君を思い浮かべるだけで体外へ出て死んでしまうと考えると、やっぱり僕の全てが君を欲しているに違いないと分かるよね? 休日なんて君の写真でずっと快楽以上の境地へ陥ってるんだ。うぅぅ、早く君に僕を見て貰いたい。君に知ってもらいたい。君に近づきたい。君と話したい。君に触れたい。君に触れてもらいたい。君に撫でて貰いたい。君に摩って貰いたい。君に銜えて貰いたい。君に受け止めて貰いたい。君を襲いたい。君と―――

 

 あ、もう校門に近づいているね。今日も話しかけることが出来なかったけれど、君とそこそこ顔が整っていて美しい隣の子のツーショットで、今日は我慢するよ。

 今準備するね。小型カメラは少し使うのが手間だけど君の写真を撮るためならしょうがないや。

 少し二人の歩くペースが速いかな。僕も早く追いかけないと。待って待ってー。

 

 ―――ッ。

 何? これは……ボール? 僕の前に転がってきた物体は、サッカーのボール?

 まぁいいや、こんなの無視して早く――

 

「おーい! 悪い、そのボール取ってくれー!」

 

 グラウンドから男の人が来た。僕と同じくらい? 特別不細工でも端正な顔立ちでも無い、モブみたいな人。

 そんなことはどうでも良いのだけれど、ここまで来ると無視は出来ないかなぁ。

 

 僕は賢いんだ。男の人を無視して変に急いでも、質の良い写真は撮れそうにない。それどころか男の人に因縁付けられて面倒くさい事態になってしまいそうだ。

 時間はあるし今日は諦めよう。潔いでしょ? 結衣、君にはがっついていると思われたくないからね。

 あら、もう近くに彼が来てしまっている。

 

「はい、ボール」

「おお、悪いな。助かった」

「別にお礼は言わなくてもいいよ」

「そっか? ………うん、まぁいいや。じゃな」

 

 なんだろう、時間稼ぎ?

 妙に間を置いた会話に違和感を覚えた。

 まぁいいか。二人はもう見えないし、焦る必要は無い。

 でも、少し早めに帰った方がいいかな。

 

 

 

 

 

 

 明日から、楽しい修学旅行だからね。

 

 

 

 

 






感想、お気に入り登録頂きました。ありがとうございます。
2期の最初の部分から始まったのに、まさか修学旅行開始までこんなに時間かかるとは思わなんだ……。


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5話 一人増えているのは、やっぱりおかしい

「最初どこ行くんだっけー?」

「お菓子持ってきたぜ!」

「あれっ……財布……」

 

 普段の平日より騒がしいであろうとある駅のホーム。同じ班の仲間と駄弁っていたり、気が早いのかもう携帯で写真を取っていたり、財布を無くして絶望していたりと、周りの人達を見ていて楽しいので案外暇になることは無かった。

 

 俺の前にいる主人公君もガハマさんとコソコソ話しているので、今のところ順調に修学旅行を楽しんでいるのではなかろうか。ヒッキ―君、割と喋ってるときに自分が笑っていることに気が付いていない。

 

 そのせいかヒッキ―の笑顔で悩殺されて赤面気味のガハマさんを見て、ゆきのん殿は溜め息を吐いている。この溜め息がどんな意味かは分からないが、恐らく呆れているのだろう。クールな人だねぇ。まぁ、ゆきのん殿も少し顔赤いけどね!(嘲笑)

 

 さて、とりあえず幸せそうなラブコメ部は置いといて。

 数日前に会った、夢の男とそっくりな男子生徒。俺は今、彼を探している。

 

 あの時からあの男が気になり、下手くそな手回しをして何とか少しだけあの男についての情報を手に入れた。仕入れた情報を要約すると「盗撮疑惑のある危ないヤツ」だという。簡単にしすぎたが、なるほど分かりやすくヤバイ奴だ。

 

 しかし一つ大事な事がある。その情報はあくまでも疑惑なので、現状俺が勝手に探偵ごっこをしているだけということだ。もしあの男が無害な存在であった場合、俺は……まぁ、土下座でも何でも。靴だって舐めますよセンパイ。

 

「お、新幹線来たな!」

 

 誰かがそう言った途端、気が早い連中はホームの奥へ視線を運んだ。ぞろぞろと釣られて歩き出す生徒も複数いる。皆さんちょっと新幹線気になり過ぎじゃありませんかね……。目新しいものじゃ無いだろうに、千葉はそんなに田舎じゃない!(必死)

 

 新幹線の到着に気づき、先頭の班長と思われる数人が周りに声をかけ始めてた。移動ですな。今日も一日頑張るゾイ!

 キィーッと擦れるような音を上げながら、新幹線は停止した。早まる気持ちを抑え、生徒たちは順番に搭乗していく。俺の班は後ろの方なので、まだ入ることは無さそう。

 

 その間に、俺は眼を凝らして周りを見渡す。一人探偵ごっこでも構わないから、せめてあの男が安全であることを確認したい。自分が痛い事をしていることに自覚はあるが、これでも一応本気なのだ。今更逃げることは出来ぬぅ。 

 

 ―――見つけた。前から三両目。奉仕部二人は二両目で、クラスの中で俺達の班だけ三両目だ。あの男と同じ車両だから直ぐに接触出来るだろうし、今のうちに気を引き締めておこう。

 

「っしゃあ。行くか」

 

 呟いて車両へ歩き出す。気合、入れて、行きます!

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

「ん? 霜月どこ行くん?」

 

 俺が席を立つと、同じ班の奴に声をかけられた。

 えっと、ほら、よくあるじゃない。クラスの余りものが集合して出来る班。俺の班はまさにそれだ。誰に誘われるでもなく、ハブられた人間が寄り添って完成する平和な班。

 

 まぁ同じサッカー部の知り合いが居るので、ずっと気まずい雰囲気にはならない事がせめてもの救いか。知り合い以外も、のほほんとした平和そうな感じだから、一緒に行動する分には問題無さそう。

 

「ちょっと友達んとこ行ってくる」

「あいよ~」

 

 反応しつつ、班の皆はババ抜きに熱中していた。仲良さそうだなぁ。探偵ごっこなんか止めて混ざりたい……。おっと本音が漏れたでござる。

 兎に角、まずは怪しまれることなく抜け出せた。あの男を探そう。立ちながら周りを見渡すのは流石に不自然なので、とりあえず車両の間にあるトイレへ向かう。

 

 二両目と三両目を繋ぐ間の空間へ入り、そのままトイレには入らず二両目を少し覗く。

 扉に一番近い左の席で、主人公くんが大天使と添い寝している。ここの部分は少しうろ覚えだが、二人が隣同士の席にいる描写は確実に有ったので、おそらく概ね順調に原作通りの動きをしていると思う。

 

 安心してホッと胸を撫で下ろす。よかった、少し俺が挟まっちまったけど、どうやら悪影響は出ていないらしい。

 壁一枚で隔てられている向こう側の光景を、暫しボーっと眺める。やっぱり戸塚は可愛いなぁ、とか八幡呑気だな、とか思ってみたり。

 

 ―――あちら側へ行きたい。そう頭に(よぎ)った煩悩をすぐさま振り払う。ペチ、と軽く頬を叩き、気を引き締め直す。俺がやる事は別にあるのだ。

 

 

 ずっと観察してたけど特に何も無かったぜ!! イェア!!(血涙)

 俺が観察していた限りは、普通に友達と話したりお菓子食べてたりで、目立ったことは何一つなかった。恥ずかしい……。探偵ごっこも大概にしよう。

 

 まぁ、無駄な行動では無かったと思う。とりあえず俺が安心できた。これで気兼ねなく修学旅行を満喫できそう。

 

「………ん?」

 

 今は清水寺にいるのだが、何やらヒッキ―の様子がおかしい。前列の戸部と海老名さんを見張るためにガハマさんと二人で並んでいるのだが、なにやら顔をしかめている。

 

 なんというか、露骨に何かを鬱陶しく感じているような表情だ。偶然にも二人からそこまで距離は離れていないので、とりあえず二人の会話に耳を澄ませてみる。

 

「――由比ヶ浜」

「あー、姫菜達もう行っちゃいそう!」

「おい、由比ヶ浜」

「急ご! あ、何ヒッキ―?」

「俺の気のせいならいいんだが……何かお前の近くからピッピッて、変な音聞こえねぇか?」

 

 なんとなく聞こえたが、ヒッキ―が何か勘ぐっているようだった。当のガハマさんは「なんのこっちゃ」といった表情。人も多いし、誰かのケータイかカメラか何かだと、個人的には思うが。

 二人の番が回ってきた。案の定水を飲むガハマさんにドキドキするヒッキ―。かわいい。

 

 

★ ★ ★

 

 

 夜の旅館。一夜目の今回はガハマさんの出現場所が特定されてないし、暇だ。とりあえず平塚先生に攫われるヒッキ―とゆきのんを覗きに行こう。

 

 変に屁理屈こねてメンバーに混ざるようなことはせず、本当にそーっと遠くから観賞するだけ。それが一番。

 恐らくは一階のロビーなので、そこへ向かおう。

 

「………あらま」

 

 あっれーおかしいねー誰もいないねー。早かったかな? 消灯までに二人はラーメン屋から帰って来るし、このくらいの時間に旅館を出ないと間に合わないんじゃ……。

 

「――おっ」

「へ?」

「霜月、ここで何してんだ?」

 

 後ろから声をかけてきたのは――ひ、ヒッキ―。

 や、やべ、見つかった。これからイベントだったのかよ、き、聞いてねぇぞ!(逆ギレ)

 

 しかも何か……依頼に関しては可もなく不可もなくって感じの筈なのに、ヒッキ―が笑顔だ。いやあ、満面の笑みとかそういうんじゃなくて、なんとなく気分が良さそうな顔と言うか。

 

「奥に自販機とソファあるし、行こうぜ」

「お、おう」

 

 若干押され気味で、断りきれなかった。マジで何やってんだ俺。

 どうしようかと考えながら自販機の前に来ると、ヒッキ―の表情が少し曇った。そこで俺はひとつ思い出す。

 

「そーいや……この周辺にマッ缶なかったな」

「」

 

 絶句するヒッキ―。彼は間違いなくマッ缶中毒ですね、はい。

 渋々ブラックコーヒーを買い、俺も同じものを買う。そしてそのまま部屋に戻るのが最善の選択なのだが、なんというか、その、流れでヒッキ―の隣に座ってしまった。

 

 まぁ、過ぎてしまった事はしょうがない。ちょっとヒッキ―と話して、ゆきのんが来る前に撤退しよう。

 

「……えっと、初日だったけど、どうだった? 京都」

「んー、まぁつまらなくは無かったな。珍しい建物とか普通に感心したし」

「そっか。……あ、お土産とかもう買った?」

「八橋はまだだが……とりあえず妹に頼まれたあぶらとり紙は買ったな」

「あー、そういや俺も同じの頼まれてたなぁ」

 

 小町ちゃんと同じく、俺の妹も脂取り紙をご所望で。そんなもの使わなくても可愛いぞって言ったら殴られた。

 

「そういえばお前も妹いたな」

「お前の妹さんと同い年だゾ。……あぁ、妹から友達の話を聞くときは、決まって小町ちゃんって子の名前が出てくるなぁ」

「マジか………それ俺の妹だな」

 

 驚いた反応をするヒッキ―。前から知ってはいたが、原作ではヒッキ―との描写ばかりだった小町ちゃんが、自分の妹と仲良しの友達なのはなんだか嬉しい。

 

「我らの妹二人は惹かれあう運命だったのですね!」

「おっと、先走って百合の妄想をするのはやめてもらおうか」

「ハチマンお兄様ったら手厳しい」

 

「………何を話しているの?」

 

「「あっ」」

 

 何だか変に会話が盛り上がったところに現れたのは、凍ってしまいそうな眼差しをこちらに向けるゆきのん。―――しまった! 来ちゃった! 油断してた、来る前に消えようと思っていたのに。

 ゆきのんは定石通りヒッキ―の隣に座ってきた。こっちに聞こえないよう、小声で奉仕部活動について話している。聞こえてないのに内容が分かるのは読者の特権ですな。

 

「…………」

 

 そして無言で目の前を過ぎ去ろうとする不審者。

 しょうたいは ひらつかせんせい(ふしんしゃのすがた)だった! アローラのロコンいいよね。

 

「……くっ。と、とりあえず三人とも来たまえ」

 

 案の定ラーメン同好会に加入することになりました。困リーリエ。

 

 

★ ★ ★

 

 

 

 同好会解散の後、ゆきのんを見送って二人で旅館へ戻った。

 

 ―――流されてついて行ってしまったが、真面目にこれはまずい。非常に良くない状況だ。城廻先輩の件も含めて、俺はやらかしすぎている。

 本編において今回の平塚先生の口封じは、さほど物語には干渉しないイベントだ。しかしそこに不純物が混ざったとなれば、いよいよもってこれからの状況が予測できない。

 

 自分で望んでいた「彼らの青春を傍観する」という目的を、自分から壊しにかかっている。

 確かに、最初は彼らに関わることを望んでいた。しかし現実を見て、諦めたのだ。そして決意した。『自分で物語を壊すようなことはせず、ただ見守る』と。

 

 それがどうだ。今のこの状況。城廻先輩の時とは違い、明確に描写されていた物語のワンシーンに入り込んでしまった。

 手遅れになってしまうかもしれない。遂に雪ノ下雪乃と会話をしてしまったのだ。それも部員である比企谷が傍に居る場所で。印象に残らないはずが無い。必ず彼女の思考の片隅に俺が入り込んでしまう。

 

 ――まてまて。考え過ぎないようにしよう。

 今回のことは物語の本筋には関わっていない。強いて言えば比企が……ヒッキ―とゆきのんの平塚先生に対する信頼が少し深まっただけの話だ。そこに同伴しただけならば、きっと問題はないはずだ。でも――

 

「調子に乗るのは……よくないよな」

 

 トイレの洗面台の鏡に向かって、ポツリと呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






矛盾点などのご指摘を頂きました。ありがとうございます。
その他矛盾点誤字脱字などご報告いただけました場合、作者が感謝の意を込めて踊ります。


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6話 MAXハイテンションな俺にハイパー大変身

 

 

 

 消灯時間が過ぎて間もなく、宿泊している旅館の部屋は殆どが静まり返っていた。

 一部の男子たちは、こそこそと別のクラスの部屋に移動したり、スマホで明かりをつけながら遊んでいたりと、消灯前より盛り上がっている気はするが。

 

 そんな中、俺はそっと布団から身を起こし、静かに部屋を出た。未だに起きていた戸部たちに声をかけられたが、トイレに行くと言って誤魔化した。

 トイレに行くことはあながち嘘ではないが。

 

 一旦トイレの個室に入り、そのまま腰を下ろす。

 部屋からの外出が許可されていない時間帯に抜け出してきたこともあってか、少し心臓の鼓動が早い。三回ほど深呼吸を繰り返すが、心臓の鼓動は収まるどころか早くなってしまった気がする。

 

 しかし、こんなにもドキドキしているのは、何も消灯時間後に部屋を抜け出してきたからだけではないのだ。

 

「……あー、もう」

 

 口から漏れる言葉が、わずかに個室内で反響する。

 

「マジで、どうしよう」

 

 意味も無くトイレットペーパーを見つめたり、軽く唇をかんだり前髪をかきあげたりと忙しない。

 マジで、どうしよう。平塚先生に解放されヒッキ―と旅館に帰ってきてしばらく時間が経った後、俺はこの台詞を何回も繰り返している。

 

 旅館に戻ってきた後、ゲームやら枕投げやらで部屋の中は大騒ぎだった。ヒッキーは戸塚と何故か別のクラスなのにこっちに忍び込んでいた材木座に捕まり、俺は完全にフリーになった。

 もちろん同じ班の奴らは楽しそうに遊んでいたが、平塚先生に振り回され、その間ずっと緊張していたこともあってか、少し疲れた俺は遊ぶ気が起きず部屋を抜け出した。

 

 夜風に吹かれたい気分だったので、使われていない部屋のベランダに忍び込み、設置してあった椅子にどすん、と腰を下ろして、ゆったりしていた。

 その時―――

 

「ははははっ!」

 

 同じく宿泊に利用されていない隣の部屋から、そんな笑い声が聞こえてきたのだ――

 

 

 

 

 

 

 ――隣から笑い声が聞こえてきた。忍び込んだことがバレたのか、と一瞬ドキッとしたが、どうやらそういう訳では無いらしい。笑い声はすぐに収まったし。

 

 少し気になったので、ベランダから部屋の中に戻り、壁に耳をあてた。

 褒められたことではないのだが、思春期の好奇心は考えるよりも先に体を動かす実行力があるらしい。

 耳を澄ませてジッとする。するとさっきほど大きくはないものの、聞き取れる大きさの声が聞こえてきた。

 

「いけない……つい声を上げてしまったな。気をつけなきゃ」

 

 聞こえてくる声は笑い声の主と同じで、それ以外の声は聞こえてこない。

 なんだこいつ。まさか、一人で笑ったり、考えていることをわざわざ声に出して喋ってんのか?

 

「………ははっ」

 

 小さいながらも、つい自分の声が漏れてしまった。

 

 いや、あのね? わかるよ? そういうことしたい時期ってあるよな。実際俺もあったし、酷い時は左手が疼いたりしたもんだ。

 でも、なぁ……。流石に修学旅行先でその症状が発症するって相当だぜ? 皆で楽しんだり思い出作りに忙しい修学旅行で、自分に酔い痴れることはあまり無いと思うんだがなぁ。

 

 あー、でも、たまに思考を声に出してる俺が言えたことじゃないか。仲間の輪に入らず夜風を浴びてかっこつけたり、痛いことしてるのは俺も一緒だしな。

 

「これで、これで……! 旅行中の彼女の一挙手一投足は僕に筒抜けだ!」

 

 

 

 ―――何か今、聞き捨てならないような言葉を聞いた気がするんだが。

 

「結衣……結衣……んぁぁあっはっ、はぁ……! 結衣ぃいひぃぃ……はぁ、はぁ」

 

 結衣? まさかとは思うが、由比ヶ浜結衣?

 

「はぁあっは、あ、ぁうっ……! うっ、ふっ……! なんでっ、あぁんなぁぁ……奉仕部の男なんかと……!」

 

 

 

 ―――やばい。何がやばいってとにかくやばい。

 もしかして、とかじゃなく、奉仕部って単語が出てきた時点でこの「結衣」が指す人物は間違いなく、あの由比ヶ浜結衣だ。

 

 は? なに? え?

 嘘。何で?

 この声の主、もしかして、サッカーボールを拾わせた――新幹線で俺が怪しんでいたあの男子生徒?

 

 新幹線で様子を見てた時は全然そんな素振りは見せなかったし、降りた後も同じ班の人と楽しそうにやっていた。

 由比ヶ浜と比企谷が一瞬目の前を通った時も、眼中に無いかのように無視していた。目線がその二人に行くことすら無かったのに、あれポーカーフェイスだったのか……?

 

 俺の探偵ごっこが杞憂に終わったかと思ったら……。何なんだよマジで。

 とりあえず、だ。とりあえず一言一句漏らさず、此奴の言葉を聞いておこう。

 

「良い匂いだっ、あぁうっ! ふはっ! 結衣の、彼女の、あの子の、ああ゛! 君のハンカチぃ! 怪我をしていたとは言え! 見知らぬ相手にハンカチをそのまま渡してしまうなんてぇぇ、君はとんだ変態だなぁ…!? 危機感が足りないよ危機感が…! ふぅふ、ふううぅうぅぅ!」

 

 ふむふむ。どうやら部屋の向こうのアイツは、偶然譲り受けたであろう彼女のハンカチでナニをナニかしているようだ。

 ――そんなことが知りたかった訳では無いのですが!(逆ギレ)

 

「ひ、ひひっ、ひっ……! 遠隔操作ももう慣れたぞ……、下手に失敗するようなことは無いはず。うぃ、ひひっ! 寝息が! 寝息が凄い! もうほんとなんかとにかく凄い! 吸いたい! この息だけを吸って生きたい! ほんとに!」

 

 語彙力が著しく低下してて少し笑った。よほど愉悦に浸っているのか、全て言葉になって外へ放たれている。馬鹿な奴だなぁ。

 

 しかし、盗聴器なのか遠隔カメラなのか。いずれにせよ、今この瞬間でさえも由比ヶ浜結衣の現在が奴に筒抜けなのだ。放っておくわけにはいかない。

 

 にしても遠隔操作がうんたらとか寝息が聞こえるとか、結構ハイテクなもの使ってんな。変態のくせに生意気だ。……着眼点がおかしい? 俺もそう思った。

 

 

 ――暫くして。興奮が収まったのか、隣から扉を開ける音が聞こえた。どうやら部屋を出たようだ。

 

 凄い事を聞いてしまった。取り敢えず一旦この部屋を出て、どうするかゆっくり考えよう。 

 

 

 

 

 ―――そして現在。

 考えが纏まらず消灯時間になってしまい、布団の中に居たら眠ってしまいそうだったので、部屋を出てトイレに移動したのだ。

 

 このままでは状況は好転しない。もしかしたらヒッキ―が盗聴器的な何かに気が付く可能性が無きにしも非ずだが、それでもこの状況を明確に把握している俺が動かない理由は無い。

 

 うーん、あー、えーと、とりあえず、そうだな、よし。

 まず対処すべきはガハマさんの周りを遠隔操作でうろついている何かだ。

 

 

 確か、明日はお化け屋敷だかに行くはず。葉山が妙に邪魔してることにヒッキ―が薄々気づいたりする辺りか。

 とりあえずうまい言い訳をして班から離れて、バレない様に主役御一行様に引っ付いて行こう。

 

 隙を見てガハマさんの近くまで行って、あの男の使っている機械がどんなものか確認する。当面の目標はこれでいいか。あわよくば機械を破壊したいところでもあるが、ガハマさんやヒッキ―に存在を感知されて原作通りに事が進まないのも困る。

 隠密行動は苦手だが、気張っていこー!

 

 

 

 

 朝になった。緊張しているからか、皆が目覚める前に覚醒してしまった。

 起床時間まで一時間くらいあるし、自販機で飲み物でも買ってゆっくりするか。

 

 温かいコーヒーを買ってロビーのソファで寛いでいると、階段の方から足音が聞こえてきた。

 俺以外にも結構な早起きをした人がいるのか。

 

「あっ」

 

 間抜けな声が出て数秒、暫し体が硬直した。

 そしてようやく目の前の事を脳が理解した瞬間、俺は急いでソファから離れ柱の物陰に隠れた。

 

 奴だ。新幹線で俺が怪しんでいたあの男。

 その姿を見て、つい反射的に隠れてしまった。

 

 

 飲み物を買ってソファに座ったその男を見ていると、ふと、頭の中に一つの疑問が浮かんだ。

 

 あの目と鼻の先にいる男子生徒と、昨日の変態糞ストーカーは別人なのではないのかと。

 

 思えば俺は昨日の夜からずっと、俺が気にしていたあの男子生徒が犯人だと決めつけていた節がある。そのことで少し不安を覚え、悩んでいたのだ。

 前にサッカーボールを拾わせた時や、新幹線での友人との会話を盗み聞きした時といい、あの男の声はすでに知っている。

 

 確かに夜に聞いた声と似ていたし、他に疑うべき人物が俺の頭に浮かんでこないのは確かだ。

 

 しかし、だ。目の前のあの男子生徒が何かとんでもないことをやらかしたとか、怪しい事をしていたとか、そんな場面は見ていないし誰からもそんな事実を聞いてはいない。あくまで『噂』を聞いただけに過ぎない。

 犯人だと決めつけて詰め寄って、もしもあのストーカーとは全く関係の無い人物だったら?

 

  

 ―――ああ、いや、今更か。

 もしあの男が無害な存在だったら、土下座だって靴舐めだってすると、そう心の中で誓って昨日から行動していたんだった。

 

 あの男子生徒が犯人でなかったのなら、彼が不快な気持ちになって、俺がキモくて厨二病なサッカー部のヤベーやつってレッテルを張られるだけだ。

 

 運よく神様にわざわざ転生させて貰ったんだし、どうせ二度目の人生だ、もう吹っ切れてやりたいようにやろう。

 あいつが犯人で俺はなんとかしてガハマさんを守って証拠を突きつけてあの男を警察にぶち込んで終わりっ! 閉廷! 以上!

 

 早朝、ロビーの柱の物陰で、俺は静かに覚悟を決めた。

 おー、なんか凄いテンション上がってきた。

 

 

 

 

 

 時間は飛んで、日中の昼ごろ。

 全く格好良くない覚悟を決めた俺の瞳は、今にもお化け屋敷に入りそうなヒッキ―とガハマさんを捉えていた。

 当然ながら、ここからではガハマさんのすぐ近くに存在するであろう遠隔操作型の小さな機械は視認できない。

 

 近づきたいところではあるのだが、ここでは遮蔽物が少なく隠れるのが困難だ。

 今みたいに少し離れた店の中から眺めるのが精一杯。

 

 む。このままでは何も変わらないんじゃないか? 多少危険を冒してでも進むべきだろう。

 そう思ったら、いつの間にか彼女たちの近くの店へ、足は勝手に動いていた。

 覚悟を決めた分、いつもより考えたことを行動に移すまでの時間が短縮されているようだ。

 

 今のめちゃくちゃ調子に乗った状態の俺なら、何でもできる気がする。

 物事にはノリが必要だ。波に乗っている今こそ、遠慮せず調子に乗ってグイグイ行くべきだ。

 

 だが少しは冷静になった方がいい気もする。素早く、そして丁寧に。焦るだけではミスをするかもしれない。

 大胆且つ慎重にという矛盾めいているその心持ちで行くことにしよう。あれ? 今の日本語?

 

「ヒッキ―、私たちも入ろう!」

「お、おう」

 

 あ、もう始まってる。

 でも向かう先は結局お化け屋敷だから多少距離を離されても安心!

 

 ここで自分がお化け屋敷に入るかどうか迷ったが、あんな決められた道順で、しかもさほど広くない道幅、彼らに気づかれる可能性が非常に高い。ここは外で様子を見ることにしよう。別にお化けが怖いとかそういう事では無い。本当に本当。

 

 にしても川崎さん、お化け屋敷に入る前から若干顔が引きつっている。やっぱ苦手なんすね~。

 それに反して戸塚は全然平気そう。まぁ天使がお化けなんか怖い訳ないからね、しょうがないね。

 

 屋敷内に入る瞬間、急に怖くなったからか、一斉にヒッキ―に掴みかかるガハマさんと川なんとかさん。

 ごくごく自然に女子と触れ合う機会が沢山ある。これが主人公の力か……。でも少し距離を置いている戸塚は例外っぽいので僕が貰っていきますね!

 

 葉山達含めて全員がお化け屋敷内に入ったので、一旦店の外に出る。

 辺りを見渡してみるが、あの男の姿は無い。まぁわざわざ遠隔操作の機械を使うくらいだし、ガハマさんにバレては元も子もないから近くにいるはずもないか。手元でガハマさんの状況が手に取るように分かるんだし。

 

 ……うーん。あのガハマさんの一挙手一投足が手に取るように分かるとか、今更ながらムカついてきたな。絶対ぶっ飛ばしてやるあの野郎。

 その為にはどうしても証拠が必要だな。

 

 目標変更。あわよくばでは無く、今日中にヤツの機械を破壊しよう。

 修学旅行を潰してまでストーカー行為をするような奴だ、きっと使っている機械も本気で用意した物だろう。

 スカートの下から盗撮とかそんな甘い訳がない。ガハマさんを360度見渡せるような物を使っているはず。

 

 ならば奴の使っている遠隔装置はガハマさんからさほど離れた位置には無いと思われる。

 犯罪者の気持ちになって考えれば、俺ならそんな盗撮をするくらいなら是非とも一瞬一瞬の表情、それこそ体の隅々まで見たい。

 あの重度のストーカーなら同じことを考えているに違いない。なんて野郎だ許さん。

 

 

 もしもの時の為に、俺は店に戻って木刀を買ってから再び店を出た。

 木刀といえども、俺の買ったものはサイズが小さく、制服の中に隠せるくらいの小ささだ。この大きさなら変に注目されることも無いだろう。

 

 もしもの時、というのは、ヤツの盗撮器具を発見した時の事だ。

 見つけたらこの木刀で跡形もなく粉々にしてやるからな、覚悟しとけストーカー野郎。急に画面が暗転して驚く未来が見える見える。

 

 ああ、直ぐに壊したら駄目か、証拠にならなくなる。悔しいなぁ、早く壊してアイツの無様な悔し顔を見たいのに。てことは、この木刀買ったのは無駄遣い? 何か虚しくなってきた。

 

 お? もうお化け屋敷から出てくる頃か。何故か先に入った葉山達より先に川なんとかさんが出てきたし。

 じゃ、行動開始かな。バレない様にガハマさんに近づいて、先ずはヤツの盗聴器具を目視する。そして隙をみてそれを回収する。後はそれをアイツに見せつけて自白させれば終わりだ。

 

 ヤツが何か弁解しようとしても、まぁ指紋か何か証拠が挙がって来るだろ。いざってときはガハマさんにきついこと言わせて、それでヤツが発狂して暴れれば自白も同然だ。

 

 あんなに好いているガハマさんに拒絶されれば、精神崩壊待ったなし。

 あ、でも言葉攻めとか放置プレイが好きなマゾだったらどうしよう?

 

 いや、それは無いな。アイツは粘着タイプっぽいし、昨日の夜の言葉づかいからしてガハマさんを下に見ている。というか、既に自分の所有物にしたかのような物言いだった。ガハマさんを思いのままに蹂躙したそうなやつがマゾヒストなわけないか。

 

 

 葉山があーしさんにそろそろ移動しようかと持ちかけている。ガハマさんも「お化け屋敷の効果が出てるのかなぁ……」と、不安そうなセリフを言っている。

 アニメの展開通りだ。となれば次の目的地は、ゆきのんが虎の子渡しがうんたら言ってた龍安寺だろう。

 

 あそこではガハマさんはヒッキ―に付きっきりだし、ゆきのんが京都名所のメモを渡すというイベントもある。

 とりあえず知っている展開が終わるまでは様子見だな。

 

 

 メモ渡しのイベントが終わり、少し気が抜ける。ここからは一気に夜のコンビニまで場面が飛ぶので、その間のことは何も分からない。

 だが、これは逆にチャンスだ。知らない、予想できないことが起こるこのフリータイム、しかし悪い事ばかりではないはずだ。今はただ待とう。

 

 生憎、俺から見たら彼らは画面の向こうにいたキャラクターなので、そのオフショット的光景が目の前にあれば目の保養になるし、待つことが苦にはならない。寧ろずっと見ていたいくらいだ。

 

「……あ、来た」

 

 唐突に訪れた千載一遇のチャンス。唐突過ぎて一瞬怯んだ。

 ガハマさんがヒッキ―から離れて、一人で寺付近のお土産屋を物色し始めたのだ。幸い近くには葉山グループすらいない。

 

 恐らく気になる物が無ければ直ぐにヒッキ―か葉山グループの元へ戻るだろう。

 また都合よくこんな好機が到来するかなんて、分かったものではない。

 

 今しかない。今、近づくべきだ。

 最悪、存在を認知されても構わないから、どうにか彼女の周辺にある筈の盗聴器具を発見して回収しよう。

 

 都合のいいことに、彼女とは同じクラスだが面識はほとんどない。寧ろ俺の事を覚えていない、もしくは知らない可能性すらある。

 流石に同じクラスだし彼女のような人間なら一応俺の苗字と顔くらいは知ってそうなものだが、それでも構わない。同じクラスの奴が偶然同じ土産屋に居ても、親しくないなら話しかけてこないはず。

 

 そーっと近づく。もしも知られているにしたって、出来れば気づかれず仕事を終えたいのだ。わざわざ自分から存在を感じさせるようなことはしなくていい。

 ――しめしめ、背後の近くまで来てやったぞ。さぁどこだ、変態野郎の盗聴盗撮器具! 

 

「これってどんなお守りなんですか?」

 

 おもわず声が漏れそうになったがそれをグッと堪える。

 ガハマさんが手元のお守りを手に取って、急に店員に話しかけるもんだからびっくりした。

 店員は営業スマイルを崩さず、いつもの事のように話す。

 

「そのお守りは少々特別なんです~。それをお持ちの時に親族の方やご友人の恋愛成就がなされますと、それにならってご自分の恋愛成就を達成できたり運気が上がるお守りなんです~」

「へ、へー。凄いお守りなんですねー……」

 

 ガハマさんが割と真剣な目でそのお守りを見つめる。

 にしても回りくどいお守りだな。素直に運気アップのお守り買って、終わりでいいんじゃない?

 

 っていうかそんなこと言ってる場合じゃねぇ。早く見つけないと。

 畜生、どこだ…?

 

 時間があまりにも少ない。それにそろそろガハマさんもあのお守りを買って戻ってしまいそうだ。

 やべぇ、本当にまずい。どうすればいい、全然怪しいものなんか見当たらねぇ。

 

 何か、何かヒントみたいなの無いのか…!? ゲームじゃないけど、手掛かり的な何か…。

 

 

 ――――あ。昨日、ヒッキ―が。

 

『俺の気のせいならいいんだが……何かお前の近くからピッピッて、変な音聞こえねぇか?』

 

 ということは?

 

 ―――そう、そうだ。音だ。手掛かりはもしかしたら音かもしれない。耳を、耳を澄ましてみよう。他の雑音に気を取られず、彼女の周辺にのみ意識を集中させて。

 

 

 ――――――――

 

 

「―――聞こえた」

 

 僅かに聞こえた。車のウィンカー音の様な周期で流れていた。

 

 音を辿った先にあったのは、ガハマさんの制服の襟周辺で、微かに光る何か。微弱で、弱々しく点滅する何か。

 自然と足は彼女の方へ進んでいき、いつの間にか手はそこへ伸びていた。

 

 こちらに気づいたのか、今にも飛んでいきそうだった“ソレ”を、俺はそれを親指と人差し指で掴んだ。きゅっ、と。呆気なく。

 

「ひゃっ! ……え、え?」

 

 手に力が入り過ぎていたのか、少し制服も摘んでしまったようだ。

 てかなんだ今の声可愛すぎでしょ(変態)

 

「……あ、あの、えっと……何ですか?」

「へ? あ、いや、これは……その」

 

 あ、あー……あー! しまった! なんて馬鹿正直に行動しちまったんだ俺は!?

 ガハマさんに警戒全開の目で見られてる!

 めっちゃ引かれてる! その表情に俺は惹かれてる!(変態) 

 

 そうじゃなくて。そうじゃなくてさ。とりあえず謝って弁解しないと。

 

「あの、ごめん。大きい虫が襟に止まってたから、つい」

 

 指で摘んだ何かを苦し紛れに少し見せる。するとガハマさんは少し驚いたような表情になり、直ぐにいつもの笑顔な可愛い顔に戻った。

 

「わざわざ取ってくれたんだー、ありがと! ……あ、これ買います!」

 

 急いで会計を済ますと、彼女はこちらに手を軽く振ってから奥にいるヒッキーのもとへ走って行った。

 その後ヒッキ―の眼がこっちに向いたような気がするが、気のせいだと割り切って急いでその場を離れた。

 

 

 

 

 

 今俺がいるのは、いわゆる路地裏。誰の眼も届かないような場所で、俺は静かにガッツポーズをしていた。

 やった! やったぞ! やってやったぞ!

 

 指に挟んだ物体を、木刀を買った際に貰った透明な袋の中へ入れて、口を縛る。

 その銀色の物体は途端に激しく暴れだして、一瞬ビビった俺は袋を落としそうになったが、何とか持ちこたえる。

 

 どうやら俺が捕まえてきたのはビンゴのようで、明らかに虫ではない形状なのに袋の中を縦横無尽に駆け巡っている。

 だがサイズは小さく、尖った部分が殆ど無いため、袋に小さな穴ひとつすら空けられていない。

 

 こんなサイズなら遠目から見えなくても致し方ないな。音で場所が分かったとはいえ、点滅していなかったら、恐らく見落としていただろう。

 ミニマムで高性能な代わりに、点滅はどうしようも無かったらしい。変な機械だ。ストーカーが使ってるくらいだし、どうせまともな代物ではないのだろう。

 

 ――と、ここで俺は思った。

 これ、完全に俺の勝ちじゃね? と。この証拠があれば、自白させる方法ならいくらでもある。

 なんと、小さいながらもナンバーシールが付いている。おまけにこんな通販でしか手に入らないようなもの、どうにかすれば特定なんて直ぐだろう。

 

 おお、愉悦。自らの目的を果たせたときに感じるこの完全勝利の感覚。

 いいなぁ、頑張った甲斐があった。

 

 あ、そうだ(唐突)

 今この小型機械に向けて挑発すれば、あっちから来るんじゃね? 

 今の俺なら何でも出来そうな気がする。ヤツをぶっ飛ばして白状させてやろうかな。

 

 よし、と俺は気合を入れて、袋を目の前に持ってくる。そして

 

 

「ざまぁねーな、ストーカーの変態野郎。お前のくだらない企みはこれで全部パーだ。すぐにでもお前の事を警察にぶち込んでやるからな」

 

 

 一息おいて。

 

 

「あと、由比ヶ浜結衣には想い人がいる。もちろん、お前じゃない。お前みたいなヤツが何をしようと、絶対に彼女には振り向いてもらえないからな」

 

 

 静かに、そう言った。煽るように言ったつもりだったのだが、効果はあったのかな? 叫ぶように伝えるよりは効果があったと思いたいが。

 咄嗟に考えたセリフだったが、あんまり汚い言葉が出てこなかったのは、きっと俺の根が聖人だからだな。……冗談です。

 

 とにかく、これでガハマさんは完全に安全だろう。もう視姦されるようなこともないから、知らなかったにせよ、彼女には安心してもらいたいところだ。

 

 証拠も回収したし煽りも加えといた。

 そろそろアイツと決着の時だ。

 

 

 

 

 

 

 






ハイテンションだったとはいえ、主人公も大概ヤベーやつ。
感想頂きました、ありがとうございます。あと数回で完結です。


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7話 守るんだ

 

 

 

 

 

 

 なんとなく、目が覚めた。首まである掛布団を退かし、枕元に置いてある携帯を確認するが、設定したアラーム時刻より現在は1時間弱早い。

 どうやら本来想定していた起床時間よりも早く目を覚ましてしまったようだ。

 

 普段ならしっかりと決まった時間に起きれるのだが、まさか昨晩から緊張していたからだろうか?

 いろいろゴタゴタと忙しかったし、今日から始まる三泊四日の修学旅行が楽しみだったのは事実だ。

 

 生徒が駅に集合するのは朝7時で、僕はその20分前に到着すればいいかと思っていたのだが、こんなに早く起きてしまってはそうもいかない。

 僕は二度寝をしない派の人間だからこのまま布団に包まって時間を潰すという選択肢は無い。

 

 子供の頃から半ばマグロのような習性で、ジッとして寛ぐより何かをしていた方が落ち着く。

 なので、もう駅へ向かうことにした。準備は昨日の内に済ませておいたから、家にいてもやる事は無い。

 

 

 サッと制服に着替え、荷物を持って二階にある自室から一階に降りる。

 歯磨きと洗顔を済ませてさっさと家を出ようと玄関まで来た時、あることを思い出した。

 

「あ、姉さんの朝食作らなきゃ」

 

 誰に聞かせるでもない独り言を呟いた後、荷物を玄関に置いてキッチンへ向かった。

 

 夜更かしをしている訳では無いのに何故か朝がとても弱い姉の為に、実は毎日少し早めに起きて彼女の朝食を作っているのだ。

 普段はおっとり、というかどんくさい姉さんだが、朝はもっと酷くまるでナマケモノか動物園のパンダのようにびくともしない。

 

 まず、わざわざ起こしに行かないと駄目なレベルで爆睡している。音量が大きい目覚まし時計など彼女の敵ではない。

 そしてなんとか起こした後もおぼつかない足取りで階段を下りるので、いつも先に降りて彼女が足を踏み外しても受け止められるように下で待ち構えている。

 

 そんな姉は朝食を取っている途中でどんどん脳が覚醒していく。目が冴えてきて口数も少し増える。

 だがそれまでにかかる時間が圧倒的に多いので、彼女が支度を終える前に自分が先に家を出てしまうのだ。

 

 別段仲が悪い訳では無く、それどころか一般家庭の思春期の姉と弟に比べれば仲は良好な方だと思うが、この朝の習性のおかげで姉と一緒になって登校した回数は中学校の頃から数えても指で足りる程度だ。

 

 

 そこで料理中に思ったことが、姉さんは僕がいない今日、果たして遅刻をせずに登校できるのだろうか? ということだ。

 まあそれで遅刻しても正直自業自得だが、毎日起こしているこっちの身としては、起こさずにこのまま家を出てしまうのはなんだか後ろ髪を引かれる気分だ。

 

 よし、かなり早い時間だが、姉さんを起こしてしまおう。

 朝食にラップをかけてテーブルに置き、エプロンをソファにポイっと投げた。

 

 自分と同じく二階にある彼女の部屋に着き、ノックをするが案の定返事は帰ってこない。

 そのまま勝手に入ると、抱き枕にしがみ付きながらスヤスヤと気持ちよさそうに寝ている姉の姿がそこにはあった。

 

「姉さん、姉さん……起きて」

 

 近くまで来て声をかけるが、やはり反応は無い。肩を軽く掴んで揺らすが、眉一つ動かさない。

 何回も肩を揺らしてたまに頬を軽く引っ張ったり掛布団を退かしたりそれなりに大きさがある乳房を横からぽよんぽよんと動かしても―――

 

「―――って、なにしてるの!?」

 

 おや、いつの間にか起きていたようだ。すぐさま体を起こして僕から距離を取った。

 相手が姉なので最後の行動も特に思う所は無かったのだが、彼女には大有りの様だ。今度からは毎朝こうして起こせば時間短縮にもなるだろう。

 

 目を覚ましたはいいがまだ少し寝ぼけ眼の姉さんは枕元のスマホを手に取り、画面を表示させると怪訝そうな表情になった。

 

「あの……えっと、まだ5時過ぎなんだけど……」

「ごめん、早く起きちゃったんだ。でも早めに行くに越したことは無いし、悪いけどもう家を出るよ」

「えー……。あ、ご飯は?」

「テーブルの上にあるよ。まだ出来てからそこまで時間経ってないから、早く降りて食べてね」

「わかった……、ありがと」

 

 それだけ言い残して部屋を出ようと踵を返すと「あ、それと」姉から声がかかった。

 

「なに?」

「えっと……気を付けてね。ほら、お家に帰るまでが修学旅行だって言うでしょ」

 

 少し不安そうな表情の姉さん。

 僕としては明日、姉さんが遅刻しないかが心配だ。

 

「わかってるよ。行ってきます」

「うん、いってらしゃい。楽しんできてねー」

 

 不安そうな顔が一変、笑顔で軽く手を振ってくれた。僕のあの返答で安心してくれたからだろうか。

 

 ともかく、これで僕も安心して家を出れる。

 姉さんの顔を見るのも四日後だ。

 

 

 

 

 家を出て数分でバスに乗った。駅は少し遠いので歩いていくのはいささか体力がいる。金を節約してまで疲れる必要は無いだろう。

 車内の人数は少ない。流石は早朝、こんなに広々としたバスは久しぶりだ。

 

 少し気分を良くして窓から外を眺めていると、もう少し先にバス停があることに気づいた。

 しかし待っている人も降車する人も居ないので、バスはそのまま進むんだろうな、などと思っていたその時。

 

 そのバス停の少し先に、折れた杖を持って道に座り込んでいる男性の老人が目に入った。

 よく見るとすぐ近くに折れた杖の半分が転がっている。

 ―――僕は急いで降車ボタンを押した。

 

 お金を払い、急いでバスを降りてその老人の所へ向かった。

 近くに来て分かったが、老人は片方の手で腰をさすっている。

 

「あの、大丈夫ですか!」

「………ん? お、おう」

 

 老人は俯きながら、少し強がった声音で返事を返した。どうみても大丈夫ではない。

 

「宜しければ、目的地までご一緒させて頂けませんか?」

「わ、わりーってそんなの」

「いえ、お気になさらず」

「……そ、そうかい? わりぃな、兄ちゃん」

 

 観念した様子の老人から折れた杖を受け取り、荷物が入っているボストンバッグの中に突っ込む。

 そしてバッグの持ち手を前から肩にかけ、老人を背負って立ち上がる。これで荷物を持ちながら老人を運べるはずだ。

 

 昔から姉さんに一日一善を進められてきた僕にとって、これは今日の一善に過ぎない。

 困ってる人を全力で助ける、とか大層な目標を掲げるのでは無く、今日やることやしたいことの成功を祈って、一日一善を行う。それが姉さんに教えられた生き方だ。

 

 もちろん毎日怪我をした誰かを助けているとか、そういうわけでは無い。そこまでお人好しではないし。

 だが、目の前で悲惨な状況にある老人を見捨てるのは、朝の姉さんの『あの笑顔』に送り出された今日の僕には出来なかったというだけだ。

 

 あぁ、心の中で言い訳やら弁明やらするのは、なんだか恥ずかしい事をしてる気分だ。もう止めよう。

 

「おじいさん、どこまで行きますか」

「あー、本当に申し訳ないんだが、駅まで頼めないかね?」

「………マジで」

 

 このまま歩いて行ったら、ちょうど集合完了時刻10分前だ。

 早起きしてよかったかなと思う反面、決めた時間に起床していればこの現場に居なかったかと思うと複雑な気持ちだ。正直言うと面倒くさい。

 

 あー、もう。自分から声をかけたから止めるなんて言えないし、最初は見返りなんて求めてなかったけど、せめてジュース一本くらいなら要求しても怒られなさそうだ。いやまぁ、しないけどさぁ……。

 

 前も後ろも重さを感じながら歩く道すがら、さっきの『姉さんの笑顔に送り出されたから見逃せなかった』なんて言い訳を思い出して、つい「姉さん起こさなければよかったかな」と小さく呟くのであった。

 

 

 

 暫く歩いているうちに、いつの間にか駅に到着していた。

 駅には老人の知り合いらしき人物がいて、その人に老人を託すと「お礼がしたい」と言われたが、もう集合時間がすぐだったので断り、さっさと急いで集合場所へ向かうことにした。

 

 まぁ、途中急に催してきたので今はトイレの中なのだが。

 

「あー、もう。急がないと……お腹痛い」

 

 腹痛に耐えながら、腸内のモノを出しきったと確信した瞬間、さっさとトイレットペーパーで後処理をして水を流した。

 そして身なりを整えて、さぁ急ごうというところで、必然的にフックにかけてあるボストンバッグが目に入った。 

 

 ―――この中には、いろいろな『道具』が入っている。今回の修学旅行で使う予定の、沢山の種類の物が。

 

 昨晩は気合を入れて、興奮しながら用意した物をどんどんバッグに詰めていったが、今更ながら、少しだけ、不安な気持ちが心の根底に小さく渦巻いていた。

 

 下手をすれば、ただでは済まないかもしれない。そんな弱い思想が、殊更不安を煽る。

 家に帰るまでが修学旅行。そう言った姉さんの顔が浮かんだ。そしてその後の、屈託のない、あの笑顔が。

 

 心が痛む。これからすることは、褒められた事では無いから。

 僕がやろうとしていることは、僕自身が望んでやろうと思ったことだ。それにいつでも止められるし、やらない、と言う選択肢もある。

 やらないという選択肢を取れば、やろうとしていた事がバレて、姉さんを悲しませる、なんてことも回避できる。

 

 

 でも、やりたい。とても。もう引きたくない。無理してでも、ここから先に足を踏み入れたい。

 その思いが終ぞ消えることは無かった。ここまでリスクを考えてやめた方がいいって頭の中では考えているのに、本能がその正反対の事をしたいと叫んでいる。

 

 

 ふと携帯を確認すると、集合時刻五分前になっていた。だが、ここから集合場所まで走って一分もかからない。

 

 手を洗い、鎮痛な面持ちでその場を後にした。

 

 バカみたいだ。いや、馬鹿なのだろう。

 馬鹿みたいな欲望を必死こいて考えて抑えようとしている。

 

 昨晩まではその汚い欲望に突き動かされて、こんなにも本来の修学旅行には全く必要のない物をバッグに詰め込んでいたくせに。

 今更悩んでますよアピールして自分に酔うとかキモすぎる。本当にキモい、気持ち悪い。

 

 

 俯きながら集合場所へ向かって歩いていく。

 不安を抱えたまま大勢の人間がいる場所へ自主的に向かわなければならないことが、こんなにも気分が悪いことだとは知らなかった。

 

 

「遅れちゃう遅れちゃう!」

「うわっ!?」

 

 後ろからそんな声が聞こえた頃にはもう遅く、すぐにその声の主と、思い切り肩がぶつかった。

 その勢いで僕は転倒し、肩をぶつけた本人は急いでいた足を止め、転んだ僕のもとへ駆け寄ってきた。

 

 そのぶつかってきた本人の顔を確認するよりも前に、転んだ際に自分の右手の指の爪が一つ割れ、少しだが血が出ていることに気が付いた。

 痛いなぁ、誰だよ本当に。イライラす――

 

 

「ご、ごめんなさい! あの、私急いでてつい――って、指から血が!? あ、あの、ごめんなさい、どうしよう……。あ、ハンカチ! これ、使って下さい!」

 

 

 ―――あ

 

 

「あ、あのー……ていうかその制服、もしかしなくても総武高だよね? 確か絆創膏とかそういうの持ってる先生がいるはずだし、とりあえず集合場所までいかない?」

 

 

 ―――ゆ、ゆ

 

 

「ご、ごめんね!? 痛かったよね……か、肩貸すから!」

「――あ、いや、いいよ。本当に大丈夫。全然平気だし指も痛くないから、君は先に行ってて」

「え? で、でも」

「本当に大丈夫だから」

「……う、うん。ごめんね、本当に。先行ってるから君も早くね! あと、本当にごめんねー!」

 

 

 

 は、はは。あはは。

 全くもう。しょうがない子だ。

 大丈夫だって言ってるのに、同じ言葉を何度も繰り返すなんて――――

 

 

 

 

 

 

 ―――かわいいなぁ、結衣。

 

 

 

 

 

 

「……えっ、えぅっ、あ、あぇっ、うぅへっ」

 

 その場で蹲る。

 歓喜の嗚咽が止まらない。涙まで出てきた。

 

 さっきまで何考えてたんだろ? 頭おかしかったのかな?

 いやぁ、情けないなぁ! 僕としたことが……こんなにも結衣への愛が薄れてしまったことなんて今まであっただろうか? 本当に情けない。昨晩まであんなに興奮していたのに。

 あんなにも正常な人間っぽく悩むフリをしてしまったのは、きっと朝の姉さんのせいだ。姉さんは人を惑わす力があるに違いない。

 あー、もう。バレたらなんだ? 心が痛む? 姉が悲しむ? だからどうしたんだ? それの何が問題なんだ? そんなことで僕は結衣への愛に疑いをかけていたのか? ああ、悔しい。本当に悔しい。タイムマシンとか無いかな? あったら直ぐに数分前に戻ってトイレで悩んでいる(笑)自分を殴りつけてやるのにああ悔しい。

 

 あ、どうしよう、これ。結衣から渡されたハンカチ。僕の血で汚れてしまった。洗濯して返さないとなぁ。

 え? いや、待て。返す必要があるのか。結衣は僕のモノなのに彼女の所有物を彼女へ帰す道理はどこにもないんじゃないのか。寧ろ彼女が自ら渡してくれた最初の大切なプレゼントだぞ、返して彼女の気持ちをないがしろにしたら元も子もない。本末転倒だ。僕が彼女を悲しませちゃいけないだろ。ふざけるな死ね。一度でもそんなことを思った自分に腹が立つ。後で数回自分を殴りつけよう。もっと自分を痛めつけて罰を与えたいところだけど、彼女に心配はかけたくないし、結衣の隣を歩いて恥ずかしくない程度に顔は整ってないと駄目だ。

 

 やっぱり一日一善じゃないか。正しい行いをしたらそれ相応の見返りがある。姉さんありがとう、この生き方を僕に教えてくれて。

 あ? いや待て。あのじいさんを助けた程度で報酬がこのハンカチ一枚? ふざけるな、安すぎる。報酬にたいしての労働が安すぎる。簡単すぎる。結衣のハンカチならもっともっと数十倍価値があるというのに。もっと正しい行いをしないと結衣に失礼じゃないのか? 結衣のハンカチに失礼じゃないのか?

 ううん、そんなことは無いか。それにそんな時間は無い。結衣なら受け入れてくれる。きっと僕の正しい行いが足りなくても、結衣ならそれ以上の幸せをくれる。

 あぁ、ごめん。本当にごめん。許してくれ結衣。こんなことを言った僕をどうか許してくれないだろうか。結衣は生きているだけで、それだけで僕は幸せだっていうのに、高望みしすぎてしまった。罰は受けるよ結衣。

 でもきっと結衣なら許してくれるんだろう。やっぱり優しいなぁ。聖母にもなれるくらい君は優しい。優しすぎるよ。

 君は優しいから、きっと奉仕部の彼にも温かく対応しているのだろう? だって彼は君の犬の命の恩人だからね。そこは僕も感謝しているよ。現時点では彼は僕よりも君を救っているからね、今の彼の現状は心底妬ましいし羨ましいけどそれが君から彼に与える報酬と言うなら仕方ないよね。

 

 ―――ん? 前方の男子生徒は、誰だったかな?

 

「あ、いた。探したぞー。大丈夫か?」

 

 そうか。確か同じ班の。

 あ、それに傍から見れば僕はうずくまっている状態だ。恥ずかしいなぁ。

 

「大丈夫か? みんなも心配してたぞ」

「うん、ごめんね、心配かけて。ところで今時間は?」

「集合時刻はもう過ぎたよ。まぁお前以外にも遅れてきた人はちらほらいるし、気にすんな」

「ありがとう。もう大丈夫、行こう」

 

 僕は立ち上がり、結衣のハンカチをポケットにしまい込んで、床に置いてあるボストンバッグを持ち上げる。

 この男の子は優しいなぁ、さりげなく遅れてきた人もいる、なんて嘘を言って気遣ってくれた。

 素直に感謝しよう。あのままでは僕はずっと思慮に耽っている所だった。

 

 

 新幹線が来たようで、みんな盛り上がっている。僕も指の痛みは引いた。

 よし、あちらに到着して一息つくまでは、自分の班でゆったり旅を楽しむとしよう! 善は急げ、とも言うけれど、焦ってもどうにもならない。

 冷静に分析して、僕は今かなりの興奮状態に陥っている。冷却時間が必要だ。さもなければいろいろとミスをしてしまうかもしれない。おちつけー、どうどう。

 

 荷物を上に置き、席に座る。うん、新幹線の座席もなかなか座り心地がいいな。

 さ、新幹線の旅を楽しもうか。

 

 

 

 

 

 宿泊先に荷物を置き、無事清水寺に到着。

 さぁ、始めよう。ここでやることは主に一つ。

 

 遠隔カメラを結衣の近くに忍ばせる事だ。動作確認には一週間かかったが、大体問題は無かった。

 問題と言えば――操作だ。遠隔操作。

 

 スマホを使って遠隔操作を行うのだが、実は遠隔操作の練習をする時間が殆ど無かった。何しろこのカメラが手に入ったのはちょうど一週間前だしね。小難しい設定やらなんやらで、操作練習を怠ってしまっていたわけだ。

 

 あぁ、言い訳はいけない。結衣の為なのに、本気になるのが遅かった僕の責任なんだから。

 ちゃんと動くことは分かっているし、あまり派手に動かさなければ結衣の近くに忍ばせることは出来る。

 

 スマホの画面で操作を始めると、カメラはとても不思議な浮き方で飛んだ。これが最先端の技術ってやつだね。

 そのままカメラを操作して、清水寺の人混みの中へ飛ばす。

 

 おっと、操作が難しい。それにしっかり飛んではいるものの、カメラが軽すぎて焦点が合わない。どんどん揺れるし、画面で確認しているが激しく視界が移り変わってなんだか酔いそうだ。

 まぁこんな感じで操作に手こずることは分かっていたし、人の居ない物陰に隠れて正解だった。こんなにもたくさん人が居る中で、人気のない場所を探すのも一苦労さ。

 

 さてと、ようやくカメラの視界で結衣と奉仕部の彼を見つけた。

 奉仕部の彼に見つからない様に、とりあえず結衣の……そうだな、脇辺りに忍ばせるか。

 

 このカメラの大きさならとりあえず見つからないだろうし、結衣の脇へ直行だ。

 

 

 

 

 

 今は宿泊先の旅館の中の、使われていない部屋の中だ。

 あ、そうそう、奉仕部の彼に感づかれた様な事を言われた時はヒヤッとしたよ。相変わらず洞察力はある気がするね。

 

 よーしここなら誰の眼も気にせずカメラを操作できる。座って寛ぎながらできるというのも利点だね。

 結衣は今同じ部屋の子達とカードを使って遊んでいる。僕のターン、ドロー。

 

 と、誰か別の子が部屋に入ってきた。何かを伝えに来た様子だ。

 なになに、音量を上げて聞いてみようか。

 

『私たちのクラス、お風呂終わったよー』

『言いに来てくれたんだ、ありがとー。よーし、私たちもお風呂いこ!』

 

 ―――はふっ。

 

 え、うそ、本当に!? そ、そうか、そうだった。お風呂というイベントがあったんだった。ああ、嬉しい。

 結衣の、結衣の生まれたままの姿を拝むことが出来る。他の女子の裸も一緒なのは解せないけれど、結衣の煌びやかな全てのありとあらゆる部分を目に焼き付けることが出来るなんて夢のようだ。

 あ、服を脱いだ。後は下着を脱げば全てが―――下着。結衣の……布。

 

「おお、ああ、そうだ、そうだそうじゃんあれが……」

 

 ポケットに手を突っ込み、あるものを取り出す。恐らく冗談抜きで僕の一生の宝物になるであろう布。

 そう、結衣のハンカチ。匂いを嗅ぎ、息を吐き、匂いを嗅ぐ。素晴らしい……おぉ、なんということだ。匂いが一切抜け落ちていない。どれだけ長い事このハンカチを、結衣は使っていたのだろう。結衣の匂いが薄れない。全く持って雲散しない。籠っているのだ。この中に濃縮されて閉じ込めてあるのだ。サービス精神旺盛だなぁ結衣は。エッチな子なんだからまったく。

 と、少し目を離したすきに、画面の中は一面桃色の桃源郷になっていた。カメラのレンズは上手い事曇らず、しっかりとその光景を映し出している。

 

 

 それを見て、つい、僕は、我慢が出来なくなった。

 

 

「―――はっ」

 

 どれくらい経っただろうか。気が付いたら、辺り一面白濁色の何かが散乱していた。

 暴走していたので詳しいことは覚えていないが、結衣が脱衣所から部屋へ戻って寝息を立てるまでは、引き込まれるように画面を凝視してハンカチを嗅ぎながら事を致していたんだろうと想像はつく。え? しっかり覚えてるじゃん僕。

 

 ど、どうしたものかな。とりあえず身なりを整えてこの部屋は出よう。

 

 

 

 

 

 

 

 後日。

 僕は慣れた手つきでスマホの画面を起動した。少し固まって行動することになり、人の目があったので、しばらく使うことが出来なかった。

 さて、起動!

 

『これってどんなお守りなんですか?』

 

 操作できない時は結衣の視線が届かない箇所に、内蔵してある小さい針でカメラを張り付けて置いたので、無事起動時に結衣の顔を確認することが出来た。

 

 ほほう、どうやらお守りを買っているらしい。

 店員さんから説明を受けて、真剣な表情でそのお守りを見つめている。

 

 うーむ、結衣の好みにとやかく言うつもりは無いしそれは失礼だし結衣への侮辱になるから絶対にありえないのだけど、僕個人としては……そのお守りは若干回りくどいと思うなぁ。

 よし、結衣の代わりに僕が僕と結衣の恋愛成就のお守りを買っておいてあげよう。楽しみだ、どんなお守りがあるんだろう? 恋愛成就だけじゃなくてその後に生まれてくる赤ん坊や夫婦生活まで幸せを長続きさせるお守りとかないのだろうか。あったらそれを直ぐに買いたいなぁ。もちろん欲張って幾つも買おう。君と僕の分。あとは君が無くしてしまった時用にいくつか! 

 ああ、ぅう、赤ん坊、なんて単語を想像したら別の事が頭に浮かんでしまうよ。うっ! ちょっと待って! 起ってしまう……まずい、性欲が。昨晩の君の姿を思い出してしまう、あの記録映像を再びここで再生してしまう。自室でもないのにアレを飛び散らせるのよくないな。なんとか…! 何とか耐えるんだ…! 今じゃない、後でいくらでもあの映像は見れるから今はがま―――

 

 

『聞こえた』

 

 

 ―――ん? 何だ、今の雑音。

 気にすることはないか、だって目の前の結衣はこんなにも美しいのだから。

 

 ――え、あれ、は? 後ろに誰かいる? あ、いや、僕の後ろじゃなくて、結衣の後ろに。

 今の声は誰だ? 奉仕部の彼の声じゃない。葉山君たちの声じゃない。当然戸塚君でもない。誰? へ? 結衣の後ろにいるのは。

 と、とりあえず一旦はなれ――

 

 

『―――きゅっ』

 

 

 そんな音が聞こえた後、画面が暗転した。

 隙間からわずかに見える人物の顔、あ、あれは結衣じゃ――結衣じゃない! 違う! 誰だこの男は!?

 

『……あ、あの、えっと……何ですか?』

『へ? あ、いや、これは……その。あの、ごめん。大きい虫が襟に止まってたから、つい』

 

 むし? 蟲? 虫だと? 結衣を見守るこの僕が? 虫だっていうのか?

 

『わざわざ取ってくれたんだー、ありがと! ……あ、これ買います!』

 

 何で、感謝しているんだい? 僕たちの仲を引き裂いている人でなしを、君はどうして感謝しているんだい?

 

 

 おい、おい。どこへ行く気だ。

 結衣が戻っていったぞ、奉仕部の彼のもとへ。よくない、よくないんだ。離してくれよ少年。結衣に悪い虫が付く。あの男は蟲なんだ。結衣に悪い影響を与えるゴミなんだ。離さなくちゃいけないんだあの男から結衣を。今すぐにでも。犬を助けたからなんだ? 結衣へのあの態度は何だ? 許せないんだ、結衣をないがしろにして高2病キメてるあいつが。結衣が話しかけているのに。結衣が構ってくれているのに。結衣が……あの結衣が! あの結衣がだよ!! それがどれだけ幸福な事か分かっているのかアイツは!! 結衣をまるで複数いるヒロインのように扱うアイツが許せないんだよ! 

 

 結衣は!

 

 唯一無二の! 

 

 僕のヒロインなのに!!

 

 

 だから離してくれよ。今すぐ解放してくれれば今回の件は目をつむってあげるよ。誰だってまちがいはあるからね。

 でもアイツは、アイツだけは常にまちがっている。まちがっているんだ。正せないまちがいを犯している。だからアイツだけは何とかしなくちゃいけないんだ。だから離してくれ。僕を――僕を結衣から遠ざけないでくれ! 分かっているのかこのモブが――

 

 

『ざまぁねーな、ストーカーの変態野郎。お前のくだらない企みはこれで全部パーだ。すぐにでもお前の事を警察にぶち込んでやるからな』

 

 

 

 

 

 

 は?

 

 

 

 

『あと、由比ヶ浜結衣には想い人がいる。もちろん、お前じゃない。お前みたいなヤツが何をしようと、絶対に彼女には振り向いてもらえな―――』

 

 

 

 

 っッッ

 

 

 

 

 携帯の電源を落とした。

 あのモブ男の言わんとしていることはわかったから。

 ―――なんだか、思考回路がショートしたような気がした。

 

 

 いつから知っていた?  そんなことはどうでもいい。

 

 どうして気が付いた?  そんなことはどうでもいい。

 

 あの男は一体何者だ?  そんなことはどうでもいい。

 

 

 

 

 

 

 

 ゆいに、わるいむしが、ついている

 

 

 まもるんだ

 

 

 ぼくがゆいを

 

 

 

 

 

  まもるんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 



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8話 俺達に居場所はない

 太陽はすでに落ち生徒たちが妙なテンションに陥り始める夜の旅館。そのロビーに設置してあるソファに座って自動ドア式の出入り口を凝視し続けている不審人物が一人。

 

 はい、俺です。いやぁほんと何してんだか。

 盗撮機に煽り全開の台詞を吐いたあれから、旅館に戻って数分で自分の間違いに気づいた。

 

 よく考えなくても分かる事だったのだ。修学旅行に来てまで一個人をストーカーするような危険人物が逆上したらどんなことをするのか、なんてことは。

 

 なのに俺はアイツを挑発するようなことを言って勝利した満足感に浸っていた。

 明らかな失策。証拠を掴んでから改めて行うような行為では無いだろうに。

 

 他にやりようはいくらでもあった。具体的な解決策は今でも思いついていないが、それでもあんなことは普通しない。

 

 テンションが上がっていた。調子に乗っていたのだ。何でも出来る気になって、更にトントン拍子に事が上手く進んでいったものだから、完全に冷静な判断力を欠いていた。

 

 

 まぁ、過ぎたことをいつまでも悔やんでいても仕方ない。失敗はこれから正せばいい。

 ということで、とりあえず俺はこのロビーであの男が現れるのを待っているわけだ。

 

 あの男も総武高の生徒だ。修学旅行というこの期間中に、生徒が帰ってくる場所は宿泊先のここしかない。

 よって、待っていれば来るはずだと思い見張っているわけだ。幸い証拠は手元にあるので、ガハマさんが盗撮されている心配はないから安心して自分の目先の事だけに集中できる。

 

 しかし戻ってきてから、数時間ここにいる。少し疲れたし、自販機で飲み物でも買って休もう。

 そう思ってソファを立った時、出入り口から人が入ってくる音がした。

 

 あの男か? と思って出入り口の方を見ると、そこにいたのは王道ハーレムラノベ主人公みたいな顔をしてるくせに醜悪な笑みを浮かべるあの男―――ではなく、緑色のパーカーを着ていて更に死んだ魚の様な眼をした少年。

 

 何だ、ヒッキ―じゃん。警戒して損した。

 俺が安堵して向かい側の自販機に行こうとすると、館内に入ってきたヒッキ―が、死んだ魚の様な眼をキラリと輝かせてこっちに小走りで駆け寄ってきた。

 

「霜月っ」

「なんだ比企谷お前かわいいな」

「……は? な、何言ってんだお前」

 

 俺がからかうとヒッキ―は僅かに赤面して困惑する。俺を見た瞬間嬉しそうな顔して駆け寄ってきたように見えたもんだから、ついからかってみたが、何だこの可愛い生き物は。

 きっと彼はついさっき、コンビニであーしさんにキツい言葉を言われた筈だ。どんなセリフだったかは忘れたが。

 

 トップカーストの女子とタイマンで話したら緊張するだろうし、その後に知り合いを見つけたら自然と嬉しくなってしまうんだろうな。

 そんな顔して話しかけてくるんだからヒッキ―は生粋の無自覚ビッチですね間違いない(勘違い)

 

「こんな時間に戻って来るなんて……コンビニでも言ってたのか?」

「まぁな。ていうか霜月こそ、何でまだ制服なんだ? そろそろ風呂が閉まっちまうぞ」

「……あ、あー。大丈夫。実はもう風呂入ったから。ちょっと制服が着たかっただけだから」

「な、なるほど……?」

 

 下手な誤魔化しをしたが、実の所お風呂に入るということを忘れていた。ついでにずっとここに居たので夕食も食べていない。班の皆にはうまく誤魔化して伝えておいたが、やっぱり少し怪しまれるだろうか?

 

「比企谷、俺がずっとここに居たこと、誰にも話さないでくれ」

「……お前ずっとここにいたのか」

「と、とにかく! 頼んだぞ比企谷」

「あー、おう。わかった」

 

 半ば押され気味のヒッキ―は了解してくれた。これでまた監視に専念できる。

 自販機で飲み物を買って定位置のソファに戻ると、ヒッキ―が俺の隣に座ってきた。

 

「霜月、そういえばお前」

「なんぞ」

「昼ごろ、由比ヶ浜とお土産屋で何してたんだ?」

「えっ」

 

 問い詰めるわけでもなく、素直に疑問を問いかけてくるヒッキ―に少したじろいだ。

 あー、やっぱり見てたかー。気のせいじゃなかったか―…。

 

 土産屋を離れる直前に遠目に見えたヒッキ―の視線。あれ、やっぱり俺を見てたのね。

 

「えっと……そう、虫! 由比ヶ浜さんの肩に虫がついてたから、取っただけなんだ」

「その前も何かウロウロしてなかったか?」

「た、確かに、お土産屋さんの周りは気になってたからうろついてたけど、そこに由比ヶ浜さんがいたのは偶然だって……」

「……そ、そうか」

 

 なんだか苦し紛れの言い訳だったが、取り敢えずヒッキ―も納得してくれたようだ。

 今ヒッキ―は奉仕部の依頼真っただ中だ。他の事に気を取られてはいけない。だから今は俺の事なんて無視してほしいくらいだ。

 

「それはそうと、霜月」

「な、なに?」

「あとどれくらいここに居るつもりなんだ?」

「それは――」

 

 またまた質問され、飲み物を飲みながら答えを考える。

 正直に言えばあの男が戻ってくるまでだが、そんなことをヒッキ―に伝えても意味は無い。

 

「――待ってるやつがいるんだよ。ちょっと出かけるとかで外に出て、もうそろそろ戻ってくるらしいんだ」

「なるほど」

「だからそいつが戻ってくるまではここに居るつもりだし、比企谷も別にずっとここに居なくても大丈夫だぞ」

「そ、そうか」

 

 小さく返事をしたヒッキ―はゆっくりとソファから立ち上がった。

 

「気を使わせて悪かったな、比企谷。一緒に待ってくれるつもりだったんだろ?」

「い、いや別に。気にしてねーよ。……じゃあ」

「ああ、お休み」

 

 ヒッキ―は「おー……」と返事を返してそのままクラスの部屋のある二階へ上がって行った。

 なんだか悪い事をした気分だ。もうちょっとここで彼と談笑していてもよかったかもしれない。

 

 さて、これで気兼ねなくあの男を待てる。

 ていうか、長い間待ってるんだしそろそろ帰ってきてくれないものだろうか。

 

 それとも怖気づいて逃げてしまったか? それはそれでいいかもしれないが、やっぱり野放しにしていい人間ではないし、さっさと帰ってきてくれないものだろうか。

 

 逆に、俺が煽ったから帰ってこないのではないだろうか。やっぱりあの行動はどう考えても悪手だった。全く状況が好転しないし、あの時の自分を殴りたい。

 

 

 

 ―――と、頭を抱えていたとき、出入り口の方から誰かが入ってくる音が聞こえた。

 

「――来たか」

 

 奴だ。以前サッカーボールを拾わせたあの男子生徒。

 ソファから立ち上がり、ポケットから袋に入った盗撮機を取り出す。

 

「おい」

「………」

 

 俺が正面に立ち声をかけると、ピタッと歩く足を止め、睨みつけるような眼で俺を見つめた。

 さぁ、証拠を見せて反応を窺おう。この男が犯人なのかどうか、その答え合わせだ。

 

「話がある」

「………」

 

 反応が無い。

 俺の声が聞こえているのかすら怪しい。

 

「聞いてるのか? 話があるって言ったんだ」

「………君は」

 

 かすれた声だが、漸く反応を示した。意思疎通が出来なきゃ話にならないし、黙秘を貫かれなくてよかった。

 

「俺は霜月大悟(だいご)。……あぁ、お前の自己紹介はいらない。とりあえずこれを見てくれ」

 

 右手に持った盗撮機の入った袋を、目の前に突き出す。

 瞬間、無表情だった男の顔が強張った。

 

「これ、なんだか分かるか? 俺はこれ、何に使うか……いや、何に使っていたのか、大体予想がつくんだけど」

「……そうか。君が」

 

 男が呟いた。が、よく聞こえない。

 

「なんだって?」

「君か。そうか、君だな? 錯乱していて、あまり覚えていなかったんだ。まさか自分から出てきてくれるなんて」

「お前―――」

 

 俺が言葉を紡ごうとした瞬間、男の拳が俺の腹にめり込んだ。

 

「うっ!? ……うっ、ぇぐっ」

 

 少し後ずさり、膝をつく。腹を抱えながらも、なんとか目線は男を逃さないように見上げる。

 決して油断していたわけではないが、それにしたって今の攻撃の速さは異常だ。まるで遠慮が無かった。殺す気なのか。

 

「何故気づいたのか、そんなことを聞くつもりは毛頭ないよ。過ぎてしまったことだしね。それより聞きたいのは」

「くっ……」

「どうして僕の邪魔をしたんだい? 君は僕に何か恨みでもあるのか、それとも結衣に思いを寄せているのか……いずれにせよ、理由が聞きたいんだ。聞かせてくれるまでは、手を出さずに待っていてあげよう」

 

 ―――本当にムカつく野郎だ。犯罪がばれたくせに開き直りやがって。更に上から目線ときたもんだ、とんだ頭のおかしい男だな。

 

 俺はゆっくりと立ち上がり、盗撮機を再びポケットに入れる。男は邪魔をする様子を見せず、俺を見たままだ。

 証拠が目の前にあるってのに、焦って奪いに来ようともしない。こいつは本当に自分の邪魔をした理由を聞くまで手を出さないつもりか。

 

 好都合だ。こちらとしても直ぐに殴り合いに発展しなくて助かった。もともと喧嘩は強くないし、自身も無い。

 とりあえず今はゆっくりと理由を話して、時間を稼ごう。そのうち誰かがロビーに降りてくるはずだ。その時に大声でも上げれば数の差で俺が勝てる。

 

「まぁ、そうだな……。理由としてはまず」

「簡潔に頼むよ。僕は気が短くてね」

 

 な、何なんだよー、もう。不良並に気の短い奴なのかコイツ。

 時間稼ぎは出来無さそうだな。今にも襲い掛かってきそうなオーラが溢れ出てるわ。

 

 そうなったら道は一つ。

 殴られる前に殴る。これに限るな。俺のパンチ力に期待なんか出来ないが、それでも不意を突ければなんとかなる筈。

 

 腹を抑えていた手を降ろし、両手をフリーにする。そして今一度目の前の男を睨みつける。

 

「分かった、分かったよ、話す。いいか、よく聞けよ」

「うん」

「お前を邪魔した理由は―――」

 

 続きの言葉を言う直前に、男の顔面めがけて殴りかかる。よし、これで一発――

 

「続きを言うつもりはないらしいね」

 

 入らなかった。しっかりと男の目の前で俺の拳が片手で掴まれている。

 嘘でしょ、反射神経よすぎじゃないですかね。ていうか、普通片手で掴めるものなのか、こっちはそれなりに勢い付けて殴りかかったつもりだったのに。

 

 俺が次の行動を悩んでいるうちに、男は足を勢いよく動かして俺は両足を蹴られた。

 いわゆる足払いというやつか。俺は転倒し、男に上から伸しかかられた。

 

 そして両手も男に掴まれ、殆ど身動きが取れなくなってしまった。不覚。

 こんなR18作品ご用達の押し倒しの態勢、俺が女だったら事案だ。いやぁ、犯されるゥ!

 

「おや、案外余裕そうな表情だね」

「あ、当たり前だ。証拠はすでに俺が持ってるんだから、お前にボコボコにされたところで」

「……そうか。じゃあどうして証拠を持っているのに、君はまだ警察を呼んでいないんだい?」

「―――――えっ」

 

 

 息が詰まった。直ぐに反論したかったのに、言葉が思いつかない。

 確かにそうだ、俺の手元には証拠がある。すでに事件は起きている。

 

 警察や教師に相談すれば、少なくとも今みたいな無様な醜態は晒していなかっただろう。

 今頃目の前のこの男は掴まって、俺の大勝利。

 

 なにも悪い事なんて無い。自分以外の力に頼れば、早期に幕引きを図れたかもしれない。

 平塚先生っていう、絶対に俺の味方をしてくれる大人だっている。

 

 なのに、どうして、俺は一人でこんなことを?

 

 困惑して、腕の抵抗する力が少し弱まった。すると男はおもむろに俺の耳元に顔を近づけた。

 

 

 

 

「……やはり、俺の青春ラブコメはまちがっている」

「――っ!?」

 

 今、コイツは何て言った? やはり……なんだって?

 

「お、お前、いま、なんて、いま」

「……ぷっ、ふふ……はは」

 

 目に見えて動揺している俺を見て、男はおかしそうに笑う。

 俺の目の前に、男の顔がある。あと少しで触れてしまいそうなほど、息がかかるほど近くに男の顔が。

 

「その反応、そっか。やっぱり君もそうなんだね。僕とは違う意味で結衣に執着している」

「ま、まさかお前」

「そうだよ。もう分かったと思うけど、僕も前世の記憶を持ってる……それも一部分を鮮明にね」

 

 あっさりと、男は衝撃の事実を話した。

 俺との共通点を、男は語った。

 

 

 前世の記憶。そして鮮明に記憶に焼き付いている一部分。

 

 それはきっと、さっき男が言い放った「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている」というワードと、それに付随する数多の情報。

 

 それが俺の持ち合わせている前世での一番大きい記憶。この世界で生きていくうちに他の記憶は薄れていくのに、その強烈な一部分だけは絶対に忘れることは無かった。

 

「どうしてそれを……!」

「ただ結衣のクラスメイトってだけで、彼女の危機と想い人に気づくなんて、都合がよすぎるだろう」

「だったら、お前だって由比ヶ浜結衣の想っている男を知ってるはずだろ……!」

 

 抵抗する力を強め、上半身を起き上がらせようとする。しかし男の力も強く、未だに先程の態勢のまま変化は無い。

 

「なのに、何でお前は――」

「そんなこと知ったことじゃない」

「は、はぁ?」

 

 男は眼の色を変えたように俺を睨みつける。既に額はお互い接触していて、相手の体温が額から伝わってくる。

 額から感じられる男の体温は、高熱のような熱さだ。今にも噛みついて来そうなほど興奮している。下手したら本当に文字通り噛みつかれる可能性すらある。

 

「この世界が前の世界と同じ物語を辿るとは限らないだろう? どうせ君だって、最初は結衣……いや、この世界の主要人物たちに介入したかったんじゃないのかい……?」

 

 男の息が荒い。額をグリグリと押し付けてくる。

 

 男の言う通り、確かに俺も最初は介入するつもりだった。

 痛い主人公から可愛いヒロインたちを奪い去りたかった。

 自分の思うままにこの世界を謳歌したかった。でも――

 

「間違ってるだろ、そんなこと……!」

「何が、何が間違っているって言うんだい?」

「元あった、完成されたあの話を破壊することが、間違いだって言ってんだ!」

 

 更に自分の腕の力を強めると、俺を押えている男の腕が少しだけ浮いた。俺の抵抗も無意味ではないようだ。

 しかし、それに比例して男の手の力も強くなる。まるでシーソーゲームのように、終わりが見えない。

 

「それは違うよ、君だって気づいてるはずだ」

「何がだよ!」

「力が無かったから、勇気が出なかったから介入をやめたんだろう?」

「そ、それは」

 

 違う、と言いたかった。

 しかし、それは違わないと心の何処かで思ってしまった。

 

 もし、もしも俺に簡単にヒロインを奪える力があったら。

 もしも主人公を越せる様な過去の経験があったら。

 もし転生させてくれた神に、自分を中心に都合よく物語が展開する能力を付与されていたら。

 

 きっと俺はそれらを駆使して、あれこれ好き勝手に暴れていただろう。

 今俺が彼ら彼女らの味方でいられるのは、単に『介入する為の力』が無いからだ。

 

 この男の言っていることは、きっと間違いではない。

 

「さて、本題に戻ろうか……君が警察や教師に頼らなかった理由……僕は分かるよ」

「わ、分かるわけ」

「分かるさ。君は―――物語が壊れることを危惧したんだろう?」

 

 あっさりと、男は言った。

 そして男は豹変したように、醜悪な笑みを浮かべた。夢の中で見たような、あの悍ましい表情を。

 

「そうなんだよなぁ!? 君は僕と同じでなんの特典も無く転生した、でも君は……僕と違って割り切ることが出来なかった! 中途半端に主人公に手を出して、それで後に引けなくなった! 今更物語は壊したくない! でも僕の事を修学旅行中に大ごとにすれば確実に奉仕部は依頼どころじゃなくなる! 盗撮犯の標的が結衣だとわかったら、皆慌てる! 他人の色恋をどうこうとか、そんなことしてる場合じゃないから! 奉仕部の二人はきっと結衣の身を案じて依頼なんて関係なく彼女に寄り添って傷心を舐め合う! そんなことになったら依頼の告白をやめさせることもできずにトップカースト組の仲には亀裂が生じて物語は知らない方向に進んでいく! それが怖かったんだろ!? だから誰にも頼らず、大した作戦も考えずに僕の前に立ったんだよなぁぁ!?」

 

 

 

 

 

 男は、完全に俺という人間の本質を見抜いていた。

 同じ転生者だからなのか、思っていることはお互いに一緒だったのだ。

 

 俺とこの男の違いは『踏み出す勇気』が有ったか、無かったか、ただそれだけ。

 

 この男は恐れることなく由比ヶ浜結衣に近づき、俺はただ彼らを外側から傍観していた。

 

 男は第二の人生を好きなように生きたいと踏み出し、俺は何かを恐れて直ぐに介入を諦めて妥協した。

 

「俺は……」

「中途半端な人間だな、君は。せっかく貰った新しい命でも妥協をして、自分の心に嘘をつく」

 

 男は押えていた手を離し、立ち上がった。あまりにも急で、俺は直ぐに立ち上がれなかった。

 そのまま男は振り返ることなく、出入り口に向かって歩いていく。

 

 俺は焦って立ち上がった。

 

「おい、どこに行くつもりだ!」

「電話で先生たちはうまく誤魔化しておいたし、君にも会えたし、もうここに用はないから」

「どこへ行くのかって聞いてんだ!」

 

 俺が声を張り上げると、男は面倒くさそうな表情をしながら振り返った。

 

「君には関係ないだろう、弱虫。既に勇気を出せなかった君に居場所なんてないんだ」

「……っ」

「少しだけ親近感が湧いたから、今回は見逃してあげる。くれぐれも僕の邪魔はしないでくれよ」

 

 男は吐き捨てるように言うと、出入り口の先の夜へと溶けて行った。

 

 直前に言われた言葉に思う所があったのか、俺は男を追いかけることは出来なかった。

 そのまま出入り口を見つめ、男が見えなくなっても俺はその場で立ちすくんでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日の昼ごろ。場面的に言えば比企谷が海老名姫菜に「よろしくね」と釘を刺されて少し経った後。

 正確には葉山グループと分かれた奉仕部三人が、嵐山駅周辺をうろつき始めたころ。

 

 俺はこそこそと隠れながらその三人を遠くから見ていた。

 

 

 昨晩、あの男に「居場所なんてない」と言われそのまま男を逃がしてしまった後、俺は部屋に戻らずロビーで思慮に耽っていた。それはもう、いろいろと考えていた。

 

 そして出た結論が「とりあえず様子を見よう」だった。

 あの男がこれから何をするかは分からないし、正直自分には無かった勇気を持っているあの男を邪魔するかは決めていない。

 

 でも、何もしないままなのは嫌だった。

 確かに男に言われたとおり、俺は中途半端な人間だ。

 

 介入を妥協したけれど、なんとなく機会があったから比企谷八幡に接触した。

 そうしたら思いのほか好印象だったので、その後も少し交流があった。

 

 気づいたら、いつの間にか彼とは昼食を一緒に食べるような間柄になっていた。

 介入なんてしないと言いながら、物語の主軸である彼と接触したのだ。

 

 何がしたいのか。このままじゃいずれ傍観では済まない結果になるかもしれない。

 これからあまり本筋には関わらない人間だが、城廻めぐりに告白なんてバカなこともした。

 

 傍観するつもりの建前と、介入したいという本心が混ざり合って、おかしな結果を生み出している。

 

 昨日の様子を見るに、俺は比企谷八幡と自分が思っている以上に親密な関係になっている。

 いわば友達だ。恐らくこのまま物語が進めば、彼が自分一人で物事を考える様な場面で、俺に助けを求めるだろう。

 

 うぬぼれならそれでいい。でもきっと、自分への彼の好意は気のせいではない。彼から見たら恐らく俺は『友人』だ。

 ぼっちな彼に、俺と言う友人がいる。ああ、なんてことだ、嘆かわしい。

 

 

 だからこのままじゃいけない。

 でも具体的にどうしたらいいか分からない。

 だから俺の結論は様子見になったのだ。

 

 

 遠目に見える、奉仕部三人。由比ヶ浜結衣……ガハマさんが買い食いをしながら、明らかに買い過ぎた量のそれを見て左右二人に呆れた視線を送られている。

 

 素晴らしい光景だ。とても胸が高鳴る。いつか見た場面を、別アングルから見ているのだから。

 もし俺が上手く介入できていたら、あの三人の間に俺がいたのだろうか。それとも比企谷……ヒッキ―の場所が俺に変わっていたのだろうか?

 

 ああ、そうなっていたら、どれだけ楽しいのだろう。ヒロインとして完璧な二人と、あわよくば途中加入の一色いろはに囲まれて奉仕部生活を送れていたのかもしれない。 

 

 

 おっと、妄想が過ぎたか、現実を見よう。

 辺りを見渡してみるが、あの男の影は見えない。

 

 もしかして何もしないのではないか?

 そう思いながら奉仕部の尾行を続けていると、唐突に後ろから声をかけられた。

 

「ねぇ」

「は、はい?」

 

 俺は焦って振り返った。そこに居たのは――

 

「もしかして、邪魔しに来たの?」

「お前……」

 

 あの男だった。昨日姿を消してから何をしていたのか知らないが、その眼はある種の決意に満ちていた。

 まるでこれから何かするぞ、とでも言いたげな、自信満々な顔だ。

 

「止めてくれよな、居場所のない中途半端な君が、今更僕を止めようだなんて思うのは」

「……い、いや、そういう訳には」

 

 ぼそぼそと俺が言った瞬間、脇腹に衝撃が走った。

 どうやら男が俺の脇腹を思い切り蹴ったらしい。

 

「いぃっ……」

「見逃してあげるって言ったのに……君は馬鹿だなぁっ!」

「がっ!?」

 

 更にもう一度蹴られ、俺はよろめく。そして男は俺の胸倉を掴んで引き寄せた。

 

「僕はこれから結衣と結ばれるんだ。君は邪魔なんだよ……」

「………そんなこと」

「なに?」

 

 男は掴む力を強める。まるで鬼の形相だ。思わず怯みそうになった。

 

 確かにこの男は俺に無いものを持っている。だからここまで大胆な行動を取ってこれた。

 ガハマさんに介入することを恐れず、勇気を踏み出した。

 転生の際の特典なんか無く、俺と同じ条件だったのに、俺が出来なかったことをやろうとしている。

 この男なら出来るのだろう。行動力も勇気もある。同じ転生者でも俺はきっとコイツに劣っている。

 

 

 でも、俺だって、もう様子見だけをするのは終わりにしたい。

 少し先には守りたかった光景があって、目の前にはそれに害を成す敵がいる。

 

 劣っていようが、介入する勇気がなかろうが、それが俺だ。

 コイツとは違う。

 

 

 ――――お? よく考えたら、コイツ犯罪者。ただの盗撮魔じゃね? 

 

 なのに介入がうんたらとか新しい命で妥協とか、わけのわからんこと言って俺を混乱させやがったのか?

 

 転生者だとかそれよりも大前提として、こいつは犯罪者。ストーカー盗撮間の見抜き変態クソ野郎じゃん。

 

 何をビビってんだ俺……呆れた。なんか凄い目力で睨みつけてきてるけど、ただの変態だろ? 笑っちゃうぜ、めっちゃ滑稽だな。

 

 どうせ今からしようとしてることも誘拐だろ。僕は結衣と結ばれる~とかキモすぎるわ。どうせ陰キャキモヲタクなのに童貞まで拗らせてるとか救えないなぁコイツ。

 

 何か笑いがこみ上げてきた。こんな奴に怯んでたのか俺。

 

 まったく、変態犯罪者ストーカーが調子のり過ぎだろ。

 

「そんなこと、俺が知るか!」

 

 胸倉を掴んでいた手を腕を振って払いのけ、男の腹を正面から蹴飛ばす。

 少し距離を取れたか。

 

「……何のつもりだ。君は邪魔だと――」

「あー、もう。だから言っただろ」

「……なに?」

「そんなこと俺が知るかってな!」

 

 俺は前に突き出した手のひらを自分の方へ向けて、指をクイクイと動かして挑発する。

 

 なに、簡単なことだ。

 奉仕部の依頼はもうすぐ終わる。これから数十分後に海老名さんにヒッキ―が告白して、奉仕部の仲に亀裂が入ったまま修学旅行編は終了。

 

 つまりコイツを見逃す理由が無い。こいつをぶっ飛ばして数十分押えてればそれでいい。そうすれば修学旅行編はいつの間にか幕を引いているはず。

 

 ヒッキ―たち奉仕部の三人ももうすぐ告白をする場所に移動するはずだ。

 それまで時間稼ぎ。あわよくばコイツを気絶させる。

 

 簡単だ。おー、なんかテンション上がってきた。いわゆる調子に乗ってる状態になったか。

 調子に乗ってる時の俺がどれだけヤベーやつなのかは、俺が一番よく分かってる。

 

 調子に乗った今の俺ならきっとコイツにも勝てる。何せ遠慮が無いからな。

 よっしゃ、気持ちは最強ハイパー無敵チートラノベ主人公だ! イキリオタク全開で行くぜ!

 

「かかってこいよクソザコ野郎!」

「急に調子に乗って……痛い目を見ないと目が覚めないかな?」

 

 そういって男は懐に手を伸ばすと、金属部分が見える小さな物体を取り出した。

 そして指で金属部分を展開し、こちらにそれを向けてきた。

 

 あ、あれ。それって――

 

「ナイフは反則じゃないですかね!?」

「何のルールも無いのに、反則も何もないだろう」

「バッカお前、今のは完全に泥臭い男の殴り合いになる雰囲気だったろうが。凶器持ち出すとかヤンデレ彼女か!」

 

 若干うろたえる俺に構わず、じりじりと男は距離を詰めてくる。

 

「訳の分からないことをいちいち吠えるな……!」

「あー、分かった。完全に理解した。お前それでガハマさんのこと刺すつもりだったんだろ。うわー、嫉妬見苦しいわー、ないわー。とんだヤンデレだな、お前。でもお前可愛くないし気持ち空回りしてる止めた方がいいぜ。そもそもヒッキ―と張り合う時点で勝ち目無いから、ガハマさんお前の事すら知らないから。自分の気持ちだけ相手に理解して貰おうとか図々しいにもほどがあるね。……わかった! お前絶対前世でも童貞だっただろ! いや、拗らせてるし絶対そうだな、うん、間違いない。まぁ? 俺も童貞のまま死んだけど? 女性経験無いの丸わかりのお前と違って彼女いたし? はい俺の勝ちー雑魚乙!」

 

 

 俺のイキリ全開の低レベル罵倒ラッシュは、どうやら頭に血が上った状態のあの男には効果があったようだ。めちゃくちゃ怒った顔してる。まぁ昨日めちゃくちゃ言われたし、お返しだ。

 

 今ならあの男に冷静な対処をするだけの余裕は無いはず。今がチャンス。

 

 俺は懐を漁り、とある物を取り出した。

 黒色で短めの、昨日俺が買った木刀だ。

 相手がナイフだってんなら、俺は木刀を使う。侍魂を見せてやる。

 

「オラくらえっ!」

「なっ!」

 

 まぁ、投げるんですけどね、初見さん。

 投げた木刀は男の腕に当たり、一瞬の隙が生まれた。

 

「0.1秒の隙がある!」

 

 某太陽の王子よろしく隙を見逃さずに相手のナイフを持った手を蹴り上げる。

 うまく当たり、男の持っていたナイフは少し遠くの路上へ飛んで行った。これで男は丸腰。

 

 すると男は急にこちらへ駆けだしてきた。

 

「きっさまぁ!」

「うぐっ!」

 

 男の素早いストレートを腹に受けてしまった。自然と足が後ろへ下がり、もたつく。

 丸腰なら行けると思ったが、やっぱりこいつ喧嘩慣れしてんのかなぁ。パンチがいちいち重いんだよ。すげぇ体に悪い。

 

 よろけた隙に回し蹴りを喰らい、更に腹に膝蹴り、畳みかけるように右頬を思い切り殴られた。

 まったく容赦ねぇ。

 

 鼻血を出しながら俺は地面に倒れる。流石にダメージがデカい。すぐに起き上がれない。

 

「そこで寝てなよ」

「ま、待て! おい待て! 止まれ―! バカ―! このハゲー!」

 

 立ち上がれずに叫び散らす俺を気にも留めず、急いでナイフを回収してから奉仕部三人がいる方へ向かう男。

 

 

 なんか俺ザコすぎない!?

 ま、まずい。なんか上手くいけばゆきのんがあの男に背負い投げとかやってくれそうだけど、急に襲い掛かってきた人間にそんなことするほど瞬発力がいいとは思えない。

 

 ていうかナイフ持ってるし。さっきの俺の苦労はなんだったんだ……。

 

 足を止めることなく、三人へ向かって走る男。

 

 くっそ、無理しろ、俺! どうすれば……そうだ、手を噛もう! 他の痛みで一時的に腹の痛みを和らげる! ていうか体にムチ打って無理させる!

 

 親指の付け根に噛み千切るくらいの勢いでガブっと歯を立てる。

 

ひっへぇぇぇ(いってぇぇぇ)!!」

 

 少し血が滲んできた。これなら口寄せの術とか出来そうだな。

 とりあえず復活! なんとか無理できそうだ!

 

 急いで立ち上がり、奉仕部たちのもとへ走り出す。

 

 げっ、あいつヒッキ―と取っ組み合いになってやがる!

 急がないとヒッキ―が刺されちまう!

 

「ライダーキック!」

 

 横から男を飛び蹴り。男は蹴られた勢いで標識に思い切りぶつかり、膝をつく。

 

「ぐっ!? ま、また君か!」

「何度でも邪魔するぜ、お前が諦めるまではな」

「し、霜月? お、おい、何がどうなってんだ?」

 

 後ろからヒッキ―の声がかかる。説明している暇はないから、さっさと逃げて欲しい。

 

「いいからとりあえず逃げろ!」

「いやでも、相手凶器持ってるぞ…」

 

 一向にヒッキ―が引いてくれない。

 俺の身を案じてくれるのは凄く嬉しいが、お前が怪我したら元も子もないんだよなぁ。

 

 

 俺が次の言葉をヒッキ―に伝えようとした瞬間、男がナイフを持って走ってきた。

 

「―――うぐっ!」

「邪魔するなぁあぁぁ!!」

 

 うまく避けれず、ナイフが腹に刺さってしまった。しかし男は力を緩めず、ぎりぎりとナイフに込める力を強める。

 

 痛みと言うかそういうのがよく分からないことになっているが、なんか取り敢えず気持ち悪い。表現しがたい不快感が全身を支配している。

 

 だが、男を押える力は緩めない。逆にナイフが止め具になっているのか、男の腕を固定できている。

 

「離せよ! 彼女に危害を加えるつもりはない! 刃物を向けたりなんかしない!」

「じ、じゃあ……ぅ゛っ…! お前が今、持ってる物は……何だ!?」

「これは彼女の周りにいる蟲を消すための道具だ! だから安心しろ! 離せ! 離せよ!」

「な、なぉ……ぁぐっ、ぅ、ふぅっ、なお、さら……離すわけには、いかねぇ……」

 

 その言葉を聞いた男のナイフを持つ手の力は更に強まり、流石に一瞬だけ力が緩んでしまった。

 

 その隙に男はナイフを腹から抜き取り、空いている方の手で俺の顔を殴った。俺は仰向けに倒れる。

 

「結衣、もう大丈夫だ。邪魔者はもういない! さぁ、行こう!」

 

 男は血濡れの手で奉仕部三人へ近づいていく。

 ヒッキ―はまだ折れていないが、ガハマさん……なによりゆきのんが恐怖に震えて動けなくなっている。

 

 目の前で人が刺されたら誰だってこうなるだろう。寧ろ悲鳴を上げてないだけマシだ。

 

 しかし恐怖で硬直したゆきのんが、逆にガハマさんの自由を奪っている。

 

 このままじゃヒッキ―のみならずゆきのんまで刺されてしまう。

 

 なんとか、立ち上がらないと……そう自分を奮い立たせていると、目をつぶって恐怖を必死にこらえているゆきのんが眼に映った。

 

 そして意を決したように、ゆきのんは目を開いた。

 

「ゆ、由比ヶ浜さん、逃げて!」

 

 驚くことに、ゆきのんはそう言ってガハマさんを掴んでいた手を離し、両腕を広げて男の前に立った。

 ガハマさんを庇うように、前に立ったのだ。

 

 うわー、かっこいい。嘘でしょ。今にも失禁しそうなくらいビビってんのに、友情がそれを押し殺しているのか? 不謹慎だけど、涙目のゆきのんが可愛い。

 

 ていうか強すぎでしょ、ゆきのん。やっぱ、メインヒロインは格が違うな!

 

 

 こりゃ、倒れてる場合じゃねぇ。

 一人の女の子が友達を守るために体張ってるんだし、俺だって物語を守らなきゃな!

 

 気合と気力と根性で、自分の体を奮い立たせる。

 ここが最後の正念場だ。

 

 ゆっくりと、だがしっかりと、俺は立ち上がった。よかった、体が言うことを聞いてくれた。

 俺は駆けだして、後ろから男に全身で掴みかかる。

 

 今度はナイフで刺されないよう、腕ごと体全体で締め付けるように押える。

 

「君みたいなモブの出番は終わってるんだ、いい加減にしろよ霜月大悟!」

「いい加減に、すんのは、て……てめぇの、方だ! 好き勝手ガハマさんを盗撮した挙句、俺のみならず他の人間にまで、危害を加えよう……としやがって、ぜってぇ……許さねぇ!」

 

 俺はそのまま男を持ち上げ、後ろに下がっていく。

 

 後ろに、走っていく。

 そして何かに足が引っかかり、俺たち二人は道路に寝そべる形になった。

 

「どうして邪魔するんだぁぁぁああ!!?」

「お前が気に入らないからに決まってんだろ、物語を壊すような事しやがって」

 

 ああ、それとな―――そう言葉を紡ぐ数秒前、俺たちの目と鼻の先に大型トラックがあることに気が付いた。

 どうせ避けられず、このまま跳ね飛ばされる。まぁ、恐らく死ぬ。

 

 

 だがその前に、この男に伝えなければならない事がある。

 

「お前は何か勘違いしてるようだが」

「うわぁぁぁ! 車がぁっぁ!」

「この世界に()()()居場所はないぞ―――」

 

 

 言った瞬間、僅かにブレーキ音は聞こえたが、俺たち二人はまとめてトラックに跳ねられた。

 

 掴んでいた腕は跳ねられたときに離したので、男は何処かへ吹っ飛んだ。

 俺も当然吹っ飛ばされたが受身は取れず、強い衝撃を受けてボロ雑巾のように道路に横たわった。

 

 

「霜月っ!」

 

 

 声が聞こえる。ヒッキ―の声だ。

 神のいたずらか、はたまた俺の耐久力が頭おかしいだけなのか、いずれにせよ俺には僅かに意識があった。

 

「おい! しっかりしろ霜月!」

 

 すぐ近くまで駆け寄って、膝をついて俺の心配をしてくれている。

 正直視界は真っ赤だし、ヒッキ―の表情はよく分からんが、声は聞こえてくる。

 

 

 よし、好都合だ。これからヒッキ―にも言いたかったことがある。

 死ぬにせよ死なないにせよ、どうせ直ぐに俺の意識は飛ぶ。その前に伝えなければ。

 

 

 俺は手を伸ばし、ヒッキ―の胸倉を辺りを掴み、自分の顔の近くまで引き寄せる。

 

「し、霜月?」

「……き、け」

「大怪我してんだぞ!? と、とりあえず喋るなよ…!」

「い、い、……か、ら………きけ」

 

 なんとか声を絞り出すが、口の中は鉄の味でいっぱいだ。それに喉もなんだか違和感がある。

 だが、悠長なことを考えている暇は無い。とにかく、彼に伝えないといけない。

 

「い、いか……よく聞け……」

「……ああ、わかった」

 

 少し間を置く。

 

 ぼそぼそ喋っても、伝わるかどうか分からない。

 だったら、寿命を縮める結果になるとしても、しっかりと伝えなければならない。

 

 ハッキリとした、いつもの口調で。ちゃんと伝わるように喋る。

 

 そのつもりで、一旦深呼吸をする。ついでに口の中の血も飲み込む。喉の奥が痛んだ気がしたが気にしない。

 

 

 ヒッキ―の耳を最大限まで俺の口に近づけ、そして口を開く。

 

 

「お前が見た光景は、お前には何も関係ない。たまたま同級生が喧嘩して車に引かれただけだ。お前は奉仕部の依頼を最優先で考えるんだ。お前が本来やろうとしていたことをやれ。いいか、絶対だぞ」

 

 

 脳が揺れる。ハッキリと喋った分、先程ぼそぼそと喋った時とは、比べ物にならないほど脳に負担がかかっている。

 くらっときた。まずい、意識が飛ぶ。あともう少し、もう少しだけ伝えなくちゃならない。

 無理をする。人生で一番の無理をして、残りの内容を伝えるんだ。

 

 

「俺が死んだら俺の事は忘れろ、お前に霜月大悟なんて()()はいなかったってことにしろ。そして俺が生きて……んぅぐっ!? ごほっ!」

 

 血反吐を吐いても無理をする。死んでも伝える。

 

「お、俺が……い、いきて、たらぁ、は、ぅっ、………絶対に、俺の見舞いには来るな」

「………は? お、おい、霜月――――――」

 

 

 

 

 

 

 

 僅かに聞こえてくるヒッキ―の声を最後まで聞くことなく、俺の意識は暗転した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 感想と評価いただきました、ありがとうございます。まだ続きます。
矛盾点誤字脱字等の報告を頂きました、本当にありがとうございます。



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9話 なにもいわないで

 

 12月24日。毎年のように繰り返される聖夜を楽しむ街の喧騒から離れた、静かな住宅街の夜道を、緩慢な足取りで私は一人歩いていた。

 何処からともなく吹いた冷たい夜風が首筋を撫で、思わず身震いをして両手をコートのポケットに突っ込む。大して温かくはないが、突き放すような冷たさの風に肌を晒すよりは幾分かマシだった。

 

 まさかここまで冷え込む時間帯に帰路に着く事になるとは思ってもみなかった。友人達と中学生最後のクリスマスを楽しんだはいいが、遊び呆けて気づけば夜。流石に深夜ではないが、それでも普段なら自宅にいて然るべき時刻なのは間違いない。

 それ故、妙に足取りが重い。家に着いたらきっと、両親にはこっぴどく言われるのだろう。親の叱責が怖いというのは、一体何年振りだろうか。

 

 夜間に点灯する見慣れた玄関の光が目に入った。もう家に着いてしまった。

 まぁ、自己責任だ。叱責は大人しく受け入れよう。

 

 なんとも情けない覚悟を決めて、私は家の中へ踏み込んでいった。靴を脱いでリビングの方を見ると、中は薄暗かった。既に眠ってしまったのだろうか。

 リビングに足を踏み入れて目に入ったのは、ソファで倒れこむように眠っている母と、テーブルで酒をチビチビ飲んでいる父だった。

 父は私に気づき、人差し指を立てて自分の口の前に添えた。静かに、という意図をくみ取り、音を立てない様テーブルに近づき父の向かい側の席に座った。

 

「おかえり」

「うん、ただいま。……ごめんなさい、帰りが遅くなっちゃって」

 

 両手を合わせてなるべく申し訳なさそうに謝る。直ぐ近くに眠っている人がいるし、大声で怒られることは無いだろう。でもやはり少し怖い。

 然し身構えている私をよそに、父は怒りでも呆れでもなく、微笑を浮かべていた。

 

「楽しかった? クリスマスは」

「う、うん。まぁ…」

「そっか」

 

 そう言って、父は黙った。父の表情は一切変わらない。まるで、何かを諦めてしまったような眼をしている。酔っているからだろうか? 想像していた叱責の矢が飛んでこないことに、少し違和感を覚えた。

 

「あの……えっと、怒らないの?」

「楽しかったんだろう。怒る理由はないよ」

 

 父はビール缶を口元に傾けて、その中身を切らした。新しい物を冷蔵庫から持ってくるべきだろうか。そう思って椅子から立ち上がろうとした瞬間「なぁ、美加」と父が口を開いた。美加、というのは私の名前だ。

 名前を呼んだはいいが、父は私と目を合わせようとはせず、ビール缶をテーブルに置き、俯いたまま言葉を紡いだ。

 

「こんな遅い時間に……帰るってことは、よっぽど、ッ、楽しいクリスマス……だったんだね? 美加は、良い子だな」

「……お父さん、どうしたの?」

 

 様子がおかしい。私は立ち上がって、俯いている父の近くに寄った。

 そこに来て見えたのは――涙。余りに急な事態に私が狼狽えて後ずさると、嗚咽を漏らしながら、父は震える手で私の手を握った。

 急に手を握られて少し吃驚したが、ここで一つ、大事な事を思い出した。

 

 泣いている父を、私は以前にも見たことがある。それは二ヶ月前の―――つい最近の出来事だ。

 

「お兄ちゃんの、大悟の…ッ、分まで、楽しんでく……くれたん、だよなッ」

「……お父さ――」

「もう意識は戻らないかもしれないって、お医者さんに言われたんだよッ。だから、もう大悟のことで気に病む必要はないから、せめて、アイツの分まで……」

 

 段々と父の声は小さくなっていく。掠れた声音で絞り出すように「もう、部屋に戻りなさい」と呟き、父は掴んでいた私の手を離した。

 私が後ずさると、父はテーブルに突っ伏した。声を殺しながら泣いている。そんな父の姿を見ていられなくなった私は、逃げるようにリビングから出ていった。

 

 

 部屋に戻り、コートを脱ぎ散らかしてそのままベッドに倒れこんだ。暖房を入れていない部屋のベッドは幾分か冷たかったが、今はそんなこと気にならなかった。それよりも先ほどの父を見て、胸中を掻き立てる謎の焦燥感を私は気にしていた。

 

 二ヶ月前、修学旅行へ行った兄が交通事故にあった。トラックに撥ねられたらしく、生きているのが奇跡だと医者は言っていた。ギプスや包帯に包まれて眠っている兄を病院で見たとき、母は膝から崩れ落ち、父は涙を流しながら歯噛みして真下の床を睨んでいた。

 病院に搬送されてから二ヶ月、未だ兄の意識は戻っていない。

 

 心配、などと言う言葉で片付けては駄目な筈なのに、先ほどの父の「大悟は意識が戻らないかもしれない」と言う知らせで、兄の回復はもはや絶望的なのだろうと思うどこか冷静な自分がいる。家族が目覚めないかもしれないと言うのに、一体なぜ、私はこんなに薄情なのだろう。

 

 ふと、携帯電話を開き、今までに撮った写真を見返してみた。機種は何度か変えたが、SDカードには数年前に撮影したものがいくつか残っている。

 兄と私の写真。その様なモノがないかと、フォルダを漁っていく。しかし掘り出されていく物は友人や綺麗な風景の写真ばかりだ。

 

 探し始めてから暫くして、ついに兄の写真が無いのかと焦り始めた頃、一つの動画を見つけた。僅か一分足らずの、数年前まで兄が通っていた中学校の校庭が映っている、そんな動画。

 イヤホンを接続し、再生ボタンを押す。一瞬ロードをした後、止まっていた記録が動き始めた。

 

 画面にはユニフォームに身を包んだ兄が映っていた。内容は中学時代に兄が所属していたサッカー部の試合らしい。

 画面の中の兄は仲間からボールを受け取り、敵陣へ切り込んでいった。

 

『お兄ちゃん、がんばれ―!』

 

 途中、当時の私の声が響いた。それが聞こえたのか定かではないが、兄は周囲の仲間にパスを出さずに進んで行った。進行を妨げようとする敵チームをギリギリで躱し、そのままシュート。

 放たれたボールを相手キーパーは捉えることが出来ず、攻撃はゴールネットに突き刺さった。

 鮮やかなシュートで点数が増えたことに喜び駆け寄ってくるチームメイトを兄は軽く受け流し、撮影している私の方を向いた。

 兄は満面の笑顔で此方にピースをしてきた。そして私も兄にピースサインを返したところで、動画は終わった。

 

 動画の再生を終えた画面を、私はまだ見つめていた。そうか、そうだった。今更思い出した。

 

 兄は以前、サッカー部のエースだった。試合では何回か活躍していたし、自宅ではよく私の遊び相手になってくれていた記憶がある。自慢の兄、と言う程でもないが、少なくとも中学を卒業するまでの兄のことを、私は好きだったと思う。

 兄が進学してもサッカーを続けると言った時も、きっと今後も良好な関係の兄妹でいられると、あの時の私は信じて疑わなかった。

 

 

 でも兄は総武高校に上がってから、人が変わったように大人しくなった。

 

 妙に私に気を使うようになり、遠慮がちな態度を取るようになった。生き生きとしていた瞳は、日を追うごとに常に疲れているような――まるで死んだ魚のような眼に変わっていった。

 加えて今迄あまり興味を示していなかった文庫本を読み耽っていたり、一人で小さくぶつぶつ呟いていたりする兄に少し距離感を感じて、軽口を言い合ったり同じ部屋でゲームをすることも無くなった。

 

 昔の兄の面影は見えなくなり、まるで誰かの真似をしているように感じるようになった。

 丁度その頃中学校の新しい友人たちと親しくなり、一緒に遊ぶようになったこともあってか、一方で孤独な印象を受けるようになった兄への関心は薄れていった。

 

 兄なんて別にどうでもいい。

 そう思い始めた時からだろうか、彼と会話をしなくなったのは。

 

 

 携帯電話を手放し、仰向けになって部屋の天井を見つめた。思い返してみれば、一番最近兄と会話をしたのは兄が修学旅行に行くよりも前だ。

 町内清掃があった休日の朝。母は眠っていたので兄の分も含めて私が簡単な朝食を作った。私が先に食べている途中で兄もリビングに降りてきたが、以前のように「おはよ」とは言ってくれなかった。

 その後の会話も、兄はなんだか余所余所しかった。話している相手は自分の妹だというのに。

 無論、私の態度に非が無かった訳では無い。距離感を感じてつんけんした態度を取ってしまった自覚はある。

 そんな時だったからこそ、食べ終えた兄が笑顔で「ごっつぉーさんでした」と言った時は、凄く嬉しかった。一瞬だけでも元気な頃の兄が見えた気がして、思わず返事を返してしまったくらいだ。あの時少々表情が緩んでしまったが、バレなかったか心配だ。

 

 

 二ヶ月前の記憶に浸かっている途中、ハッとした。どうやらずっと天井を見つめたままだったらしい。

 そそくさと下着と寝間着を用意し、部屋を出て一階の風呂場へ向かった。そして衣服を脱いで洗濯機に入れている途中に、休日に見た兄の笑顔をまた思い出した。

 兄は確かに人が変わった。人は成長するにつれて変わっていくものだ。勿論兄とて例外ではない。だが、それを言い訳にして、兄妹間の仲を離したのは自分だ。

 このままでいたくない。兄には目覚めてほしいし、今までのことを謝ってもう一度仲の良い兄妹に戻りたい。

 

「明日、お見舞い……行こうかな」

 

 そう呟き、私はバスルームの戸を引いた。

 

 

  ☆

 

 翌日、昼まで家で過ごしてから、支度をして徒歩で病院へ向かった。家から兄の眠っている病院まで、そう距離は無い。住宅街を抜けて、賑やかな街を少し横切ればすぐだ。

 途中、コンビニに寄り道をする。ここで少し待機する理由があるのだ。

 飲み物を二本買い、コンビニの外で壁に背を預けつつ遠くを見据える。時間的にはそろそろだろうか。 

 

「おーい、美加ちゃーん!」

 

 遠くに見える人影が私の名前を呼んで手を振りながら近づいてくる。ここで待っていたのはあの彼女だ。

 頭の天辺にある跳ねたアホ毛と時折見える八重歯が特徴的な女の子が、息を切らしながら私の前にやってきた。

 

「小町、大丈夫? はい飲み物」

「はぁ、はぁ……あ、ありがと!」

「そんなに急いでこなくても。大して時間には遅れてないし」

「んっ、ぷはっ! えっと、実は昨日夜更かしして……起きるの遅くなっちゃったから急がないと間に合わないかなって。ごめんね…!」

 

 そう言って両手を合わせて頭を下げてきたのは、同級生でクラスメイトの比企谷小町だ。昨日の夜にメールで兄の見舞いの話をしたとき、自分も行く、と言ってくれた。

 見舞いはあまり騒がしくしてはいけないので一人で行くべきだと思ったが、兄のことを気にかけてくれるのが素直に嬉しかった私は、小町を連れて兄の容体を見に行くことにしたのだ。

 

「気にしてないよ。それより、いこ」

「あ、うん、そうだね……」

 

 なんだか小町の様子が変だ。チラチラと頻りに視線を近くの書店へ向けている。

 

「小町? 何か買いたい物でもあるの?」

「え、えーっとぉ、その、なんと言いますか……」

 

 小町はモゴモゴして歯切れが悪い。見舞いに付き合わせている私が言うのもなんだが、買い物はまた後ではいけないのだろうか、と思った。それとも見舞いの品に本でも買ってくれるのだろうか。

 私が妙な様子の小町を訝しんでいると、彼女は意を決したように私と目を合わせた。

 

「美加ちゃん、あの、お見舞いの件なんだけど」

「うん」

「もう一人だけ、一緒に連れて行ってもらえないかな?」

 

 小町はどこかぎこちなく、申し訳なさそうに頼んできた。うるさい人でなければ、兄の見舞いに来てくれるのは嬉しいので、もちろん私は構わない。しかし何故、小町はこんなにも申し訳なさそうに頼み込んでくるのだろうか。

 私が了承すると彼女は私の手を取り、コンビニの向かい側にある書店へ引きずるように連れて行った。

 

 この地域に昔からある、少し古ぼけた印象を受ける小さな書店だ。書店の中に客は見当たらず、がらんどうとしていた。

 しかし奥に一人だけ、文庫本を数冊手に取り、注目作の表紙を見て回っている男性がいた。見た限りでは中高生のような印象を受ける。

 小町は私に「あの人なんだけど」と小声で呟き、その男性に声をかけた。

 

「おーい、お兄ちゃーん」

 

 えぇっ、と私は思わず間抜けな声を漏らしてしまった。呼びかけで小町に気づいた男性は此方の方を向いた。

 

「おぅ、小町か。珍しいな、こんな所に来るなんて」

「別に本を買いに来たわけじゃなくてね。……あー、えっと、ちょっと話があるんだけど」

 

 呼び方からして小町の兄であろう人物は、怪訝な表情をした。何と言うか、如何にも面倒くさそうな顔だ。しかし彼は話を一蹴せず、持っていた本を一旦棚に戻してから私たちの方へ歩いてきた。

 

「なんだ、友達も一緒だったのか」

「うん。ていうか、お兄ちゃんは一人? 雪乃さんとか結衣さんは?」

「何で真っ先にそいつ等が……。昨日コミュニティセンターでクリスマス会やったばっかだし、暫く奉仕部の活動は無いから、あの二人とは当分会う機会ねーよ」

 

 彼は面倒くさそうな表情で自分の頭をかいた。一応小町の隣には私がいるのだが、目の前の彼は気だるげな態度を隠そうとはしていない。外出先で妹と鉢合わせたから不機嫌なのだろうか? まぁ、分からなくもない。私も友達と遊んでいるときに家族に声をかけられたら少し鬱陶しく思うかもしれない。

 小町にお兄さんがいたなんて聞いてなかったなー、なんて考えながら二人の話をぼーっと眺めていると、私が会話に入っていないことに気づいた小町は「それはそうと」と兄妹での会話を切り上げた。

 

「紹介するね。この人が兄の八幡」

「兄です。小町がいつもお世話になっております」

「お兄ちゃんうっさい。あ、でね、この子が――」

「あ、待って小町、自分で言うから」

 

 小町の声を遮り、兄の比企谷八幡の方を向く。自己紹介くらいは、自分でした方が良いだろう。

 

「は、初めまして、霜月美加です。いつも小町ちゃんとは仲良くさせてもらってます」

 

 何だか改まった挨拶と言うか、硬い感じになってしまった。聞かされたお兄さんも固まってしまっている。もう少し馴れ馴れしい方が良かったのだろうか。

 と、考えている間にもお兄さんは呆けたような表情のままだ。先程の挨拶はそこまで引かれる様なものだったのか。心配になったのであの、と声をかけると、お兄さんは我に返った。

 

「あ、あぁ、すまん。えっと、美加ちゃん、だったか?」

「はい、そうですけど…」

「もしかして……その、なんつーか」

 

 お兄さんの歯切れが悪い。私が首を傾げると、お兄さんは小さく息を吐き、意を決したように私と目を合わせた。

 

「君、もしかして兄貴とか居たり、しないか?」

「え? はい、一応ひとり…。高2です」

「兄貴の名前、大悟…だったりするか?」

「そうですけど……も、もしかして兄のお知り合いですか?」

 

 お兄さんは頷いた。

 まさか、こんなところで兄の知り合いと出会えるとは思わなかった。それも友達のお兄さん。なんという巡り合わせだろうか。

 私はお兄さんの前にずいっと乗り出した。もしかしたら兄の話が聞けるかもしれない。

 

「あの、兄とは! その、お友達なんですよね?」

「あ、あぁ。そう、だな。友達……だな」

「修学旅行の時なんですけど、兄はどうでしたかッ? えっと、車に轢かれそうになっても気づかないくらい舞い上がってたとか、死にたくなるくらい何かを思いつめてたとか、誰かにフラれたとか!」

 

 言い終わった後に気づいたが、お兄さんが若干引く程度には、捲し立ててしまった。隣の小町も吃驚した表情だ。

 恥ずかしくなった私は数歩後ろに下がり、すいませんと頭を下げた。別に気にしてないとお兄さんは言ってくれたが、初対面でこれは流石に失礼だ。恥ずかしい。あと恥ずかしい。更に言うと自分の顔は林檎のように赤くなっている。

 私の大声が聞こえてしまったのか、奥の店主が訝しんだ面持ちで此方を見つめている。それに気づいた小町に促され、私達三人は書店を後にした。

 

 

 結局のところ、お兄さん――比企谷先輩もお見舞いに来てくれることになった。

 最初に誘った時は約束があって行けないと渋っていたが、小町も一緒になって懇願してくれたおかげで先輩は折れてくれた。

 書店を出て暫くしてから病院に到着した私は、先輩と話しつつ兄の病室へ向かっている。

 

「比企谷先輩、一年の時から兄とお知り合いだったんですね」

「まぁな。そう頻繁に会ってた訳じゃねーけど」

 

 先輩は頬をかいて苦笑いした。話によると、兄とは一年生の頃の学園祭で知り合ったらしい。先輩が財布を無くして、同じクラスの(よし)みと言って財布探しを兄が手伝ったことがきっかけだったと話してくれた。

 そんな話をする隣の先輩を見ていると、ふと兄の面影が重なった。やつれた瞳、歩くときの猫背。特に眼に至っては、兄とは違って腐り具合に年季が入っているように感じた。……大分失礼な事を考えてしまった。

 心の中で謝罪しつつ、階段を登り終えたので病室がもう直ぐな事に気が付いた。

 

「すいません、一応言わせてください。まだ意識は戻っていないので――」

「静かに、でしょ? 美加ちゃんは心配性だなー」

「一番騒がしそうなヤツはお前だけどな、小町」

 

 確かにー、と小町はおどけた。これでも親友なので、小町が大事なところで弁えることは知っているし、先輩は元から大人しい部類の人だと分かっている。余計な心配をした自分が恥ずかしい。

 そうこうしている内に、病室の扉の前についた。

 入る前に少し緊張してきた私は、おもわず隣の小町に話しかけた。

 

「眠っている人には、なんて言葉をかけたらいいのかな」

「うーん、私がどうこう言うのはちょっと違うような気がする。美加ちゃんが思ったことを言えばいいと思うよ?」

 

 それに、と続けた小町は私の耳元で囁くように言った。

 

「お兄さんは美加ちゃんのこと大好きだし、美加ちゃんがお見舞いに来たから嬉しくて目が覚めるかも――」

 

 なんてね。と小町はウィンクした。そんなことで目覚めてくれるなら、お医者様も苦労しないだろうに。

 しかしその言葉は嬉しかったし、緊張もほぐれた。流石は親友の小町だ。空気が読める点とあざとかわいさなら世界一だろう。

 すっかり心が楽になった私は、少し重い病室のドアを横に引いた。

 

「来てやったぞー、兄貴――」

 

 病室に入って目に入ってきたのは、数ヶ月前とあまり変わらない状態の兄―――

 

 

 ――ではなく。

 

 

「何だこれ、ゴム硬いし全然外れねぇ……」

 

 ベッドの上で上半身を起こし、無理矢理自分で人工呼吸器を外そうとしている兄の姿だった。

 

 えっ? と小町が言った。

 はッ? と先輩が驚いた。

 しかし私は声すら出なかった。

 

 おかしい。どうなっている。

 脳の理解が追いついていない。

 

 兄は意識不明だったはずだ。もう意識は戻らないかもしれないと医者は言い、母は寝込み父が泣き散らすほど回復は絶望的だったはずだ。少し前まではベッドに横たわって、包帯で巻かれて、その(まぶた)を閉じていたはずだ。

 そんな兄が今、目の前で口元の機器と格闘をしている。鬱陶しそうに頬辺りにあるゴムを引っ張っている。

 

 混乱する頭を必死に整理しながら、震える手を抑えながら、ゆっくりと一歩、また一歩と兄に近づいていく。

 

「―――あ、あに、き……?」

「やっぱナースコールでも――え?」

 

 此方に気が付いた兄は口元の機器からゆっくりと手が離れていく。その手は自分の膝に置いた。

 それと反対に私の両手は自然と前に上がっていった。 

 兄貴が、起きている。目の前で、瞼を開いて、近づく私を見ている。顔がやつれている。髪は伸びたし、髭も生えている。

 しかし、瞳には生気が宿っているように感じた。その眼で私を捉え、兄は口を開いた。

 

「み、美加?」

「――ッ!」

 

 名前を呼ばれた瞬間、私の中で、何かが破裂した。

 兄に駆け寄り、背中に手を回し、胸に顔を(うず)めた。

 兄が少し狼狽えたような声を出したが、気にしない。気にしていられるほど、今は余裕が無い。

 

 腕で温かみを感じる。私の頭上から静かな兄の息が分かる。どくんどくん、と兄の胸から心臓の鼓動が聞こえてくる。生きている。生きて、起きている。

 間近で感じるこの人は、決して意識不明の状態ではない。

 

 少しも動かずにそのままでいると、何も言わず、兄はそっと私を抱きしめた。そしてゆっくり私の頭を撫でた。

 何回も。まるで赤子をあやす様に撫で続けた。

 

 兄の服に、湿っている部分があることを頬で感じて分かった。これはきっと、私の涙で出来たものだ。

 背中に回した手で、兄の服をギュッと掴む。そして更に顔を胸に押し付ける。

 

「―――美加」

「…ッ! ……、っがぃ」

 

 上手く言葉が出せない。大声で泣き叫ばないよう自制し、なんとか小さい声を絞り出すだけで精一杯だった。

 

「ぉっ、ねが、い……」

「美加?」

「いまは、な゛にも、いわな、ぃ……でっ」

 

 しわがれた声音で懇願した。

 

 比企谷先輩はどう思っているだろうか。

 小町はなんと言葉をかけてくるのだろうか。

 兄はいつ、私に離れろと言うのだろうか。

 

 考えても分からず、私はただ、そのまま兄の胸の中で嗚咽し続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 





次回は主人公視点に戻ります。
感想とお気に入り登録頂きました、ありがとうございます。
また投稿期間が空いてしまいました。次回こそなるべく早く投稿しますので堪忍してください……。


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10話 お前それマジ?

 

 

 ―――声が聞こえた。少しばかり音が遠く感じるが、確かに人間の話し声が鼓膜に響いたのだ。

 目の前は真っ暗で、意識はあるようで無い。自分でもよく分からない状態だ。気持ち的には休日の朝に二度寝をしようとしている時のような感覚だ。こう、起きていた筈なのに、気が付いたらいつの間にか数時間経過していた、みたいな。

 

 泥濘で彷徨うかのような感覚に、少しばかりの心地よさを感じつつも、直ぐに不快感が湧いて出た。

 手足が動かなかった。それどころか、瞼を開くことすら儘ならない。俗に言う、金縛りのような感覚に似ている。だが、ハッキリと意識があるのかと問われれば、ある――と断言できる自信はない。聞こえてくる会話はいつの間にか別の人間の声に変わっていたり、気が付いたら声は聞こえなくなっていたりする。微睡む感覚が永遠に続くように、体が常に宙に浮いているような感覚に体が支配されていた。

 

 されていた。そう、されて()()、だ。つまり過去形。俺は今、上述したような状態ではなくなっている。

 今、と言っても、正確に意識しているわけではない。いつの間にか、と言った方が正しいのだろう。さっきまで夢心地だったような気もするし、最初から意識が覚醒していたような気もする。

 

 軽く手さぐりする。柔らかい、滑らかな感触が手のひらに広がっていった。これは……毛布、掛布団かな? 俺は今、布団の中にいるのか? ――お、うん、なるほど。そう分かった途端、自分が布団の中で眠っているって理解できた。

 現状理解に満足したので手の触感から一旦意識を話し、次はもう少しで瞼を開けそうな顔の上部分に意識を集中してみる。

 何とか開けそうだ。まるでテープを張り付けられているかのように重い瞼に力を入れる。ぐぐぐっ、と力むと、次第にただ暗いだけの視界に別の色が差し込んできた。

 まだ目は全開にはならない。次第に、なんだか疲労感が湧いてきた。とりあえず今日のところは休もう。瞼を開くのはまた今度。そんな感情がふつふつと心中に広がっていく。

 

 いや、ダメだ。いい加減、現状をもどかしく思っているのだ。さっさと目覚めて、状況を確認したい。ずっと目を閉じているからなのか、脳も覚醒しきらない。そのせいかなんだか記憶もあやふやで、意識して思い出すことができない。起きないと、状況は前に進まない。

 僅かに動く指で、自分の太ももをつねった。

 

「………ぃ」

 

 痛い。そう言いたかったが、喉がからからで声が出ない。何だか口の中が気持ち悪いし、水が飲みたい。

 寝続けるよりも覚醒したい欲が上回り、起きなきゃダメだと思った瞬間、体が少しだけ言うことを聞くようになった気がした。

 ぐいっと無理やり上半身を起こした。腕を膝の上に乗せ、首はだらんと下に向いた。完全に力が入るわけではないが、なんとか起きるためのスタート地点に立てたようだ。

 しかしまだ瞼が鉛のように重い。このまま目を開かなかったらまた眠ってしまいそうだ。二度寝を危惧し、指で目を擦る。すると先程までとは打って変わり、瞼が軽くなった。ようやく目を開けられそうだ。

 ゆっくり、ゆっくりと眼を覆う外壁を上と下に開いていく。そして視界が次第に明るく――

 

「うげぇーッ!」

 

 思っていた以上に外の光が眩しく、眼球に深刻なダメージを負った俺はつい吸血鬼に殴り飛ばされた時の様な声が出てしまった。な、何だこのパワーはッ!? かふっ…。

 思わず再び瞼を閉じる。この光は眩しすぎる。外は朝方か、もしくは快晴の日中か。

 とりあえず目はゆっくりと慣らしていくとして、他に出来る事はあるだろうか、と思った時に、口元に違和感を覚えた。

 唇が妙に蒸れているし、少し息がしづらい。そっと右手を口元に寄せると、指先に硬い感触が伝わってきた。なんだ。

 薄目で口元を見ると、緑色の妙な物体が口と鼻を覆っていた。よく見ると小さい穴が幾つか空いていて、物体の端を触るとゴムの様な感触があった。

 

 少し、冷静に状況を整理して行こう。

 まず、俺が今いる場所。体の下の柔らかい感触や腰まで覆ってある布の存在から推測するに、俺は布団かベッドにいるのだろう。

 そして――眩しさに慣れたので、目を完全に開いた。目の前には白い掛布団、左には緑色の線が映し出されている機械、そして右には窓があった。

 窓の外を覗くと、沢山の車が止まっているとても広い駐車場が見えた。それも高所から見ているようだ。ここは建物の3、4階辺りか。

 そして口元の妙な機械。見た限りでは、ドラマ等で見たことのある人工呼吸器だ。そう、呼吸を補助する機械。

 

「え」

 

 マジ? え、なんで。

 なに、俺、もしかして……入院してんの? 全然体痛くないのに。恐らく長い間眠っていたので、久しぶりに体を動かす際にいろんな箇所が鈍かったり倦怠感もあったりする。だが致命的にどこかが痛むのかと問われれば、答えはNOだ。元気もーりもり!

 とりあえず、今は自分自身の力で呼吸できている。口元の鬱陶しい補助器具を外してしまおう。

 頬に張っているゴムを引っ張り、人工呼吸器を口から遠ざける。が、思った以上にゴムが固い。完全に外れないし、止め具をちゃんと外さないと壊れてしまうかもしれない。 

 だが、呼吸器をつけたままでは、少しばかり息が苦しい。まるでマスクを何重にも取り付けているような気分だ。

 ヤケになって、これでもかというほど呼吸器を引っ張って口から離す。機材と肌の間に隙間が出来ると、冷たくておいしい空気が口の中に入ってきた。あぁ、いい。とても。

 くっそー、この人工呼吸器ごときが生意気な。

 

「なんだこれ、ゴム硬いし全然外れねぇ……」

 

 思わず声に出た。そして邪魔くさい器具と格闘すること1秒。部屋の戸を引くような音が聞こえた。思わず、音がしたほうを向く。開いたのはこの部屋のドアだ。来客だろうか。しかしそれどころではない。

 

「―――あ、あに、き……?」

「やっぱナースコールでも――え?」

 

 聞き慣れた声が耳に入ってきたことにより、俺の手は硬直し、口元との格闘は一旦終わりを迎えた。

 目に映ったその人物を視認すると、俺の手は人工呼吸器からゆっくりと離れていった。そして手が膝に乗る頃には、俺の思考は少しばかり整理がついた。

 目の前にいるのは―――妹。そう、妹だ。俺の妹の美加。目を見開いて、小さく口をぱくぱくしている。この世のものとは思えない光景を見たような表情だ。

 俺は今病院にいて、俺がいる部屋に家族が入ってきた。つまり――お見舞いか。にしても、美加の様子はまともではない。彼女は一体どうしたのか。

 心配になったので、とりあえず声をかけることにする。

 

「み、美加?」

「――ッ!」

 

 俺が呟くようにそう言った瞬間、美加は急にこちらへ駈け出してきた。え、なに、刺されるの? 俺の妹ってそんなに病んでた? やばい、くる、間に合わない! せっかく意識取り戻したと思ったら何故かってあぁもう目の前じゃん終わったさよなら我が人生―――

 

「おぉっ」

 

 体全体に揺れを感じ、思わず声が漏れ出た。俺の思考が纏まらないうちに、美加は俺に抱き着いてきた。胸に顔をうずめ、背中には手が回っている。ちなみに腹には何も刺さっていない。安心。

 

 ―――って、そうじゃない。違う。待って。ちょ、なに、えっ、俺の妹が、俺に? はい? 抱き着いてきた?

 えっと、その、ちょっと待って。確か、持ち合わせている記憶を頼りに思い出してみると、俺ってこの子に嫌われていたはずなんだが。挨拶は返してくれないし挨拶も無。もう凄いレベルで嫌われていたはず。それが言い過ぎにしたって、兄に飛びついてくるほどお兄ちゃん大好きっ子ではなかったような。

 なんと、声をかければいいのか。なんだよどうしたー、とか、おぉ可愛い妹よー、とか? もしくはもっと茶化した方がいいのだろうか。

 俺がくだらない脳内会議をしている間も、懐にいる妹は何も言ってこなかった。それどころか、顔は胸に押し付けてくるし、背中に回っている手は更に力が入ってきた。襟首辺りの所で切り揃えたボブカットの黒髪からは、シャンプーの匂いと女の子特有の不思議な香りが混ざり合って脳を刺激する甘くて危険な香りが漂ってくるし、思わず体が固まってしまった。

 これ、もしかして冗談を言っちゃあいけない雰囲気なのかしら。こう、なんとなーく優しく受け止めないと逆に空気読んでない駄目な男みたいな?

 不安なので、とりあえず俺も美加の背中に左手を回した。―――うん、何も言ってこない。もしかして俺が自分から触れたら「調子のんな変態」とか言って殴りかかって来るかもしれないと思ってたが、どうやら杞憂に終わったようだ。

 これなら、もう一度別のアクションを起こしても怒られなさそうだ。よし――と意気込んだ俺は、使っていない右手をそっと美加の頭に乗せた。そして何も言ってこないことを確認し、そのまま右手を動かして頭を撫でた。そして、それを何回も繰り返す。

 お、おぉ? どうした、どうしたのだ妹よ。マジで何もしてこないぞ。お兄ちゃん大好きアピールして俺を勘違いさせて、狼狽する俺の様子を見て笑いに来たんじゃないのか。

 気が付けば、胸元が少し湿っていることに気が付いた。なんだ、もしかして涎か鼻水? あぁ、俺が気が付かないうちに服を汚しに来たのかしら。それなら納得できますねぇ!

 

 ……えっと、本当にどうした。言い訳みたいに色々と逡巡したが、胸を濡らしているのは涙だともう気が付いている。

 泣いてる。いつも家では俺の相手をせず、友達を呼ぶ日は家から俺を追い出し、二人で町内清掃に出かけたらいつの間にか近所の子と何処かに行ってしまうような、俺に無関心なあの妹が。

 心の底から狼狽して落ち着かない。とりあえず、一旦声をかけよう。

 

「美加?」

「……っ!」

 

 声をかけた瞬間、美加がビクッと肩を揺らした。そして殆ど聞こえないほど小さい声で、まるで嗚咽するかのように何かを呟いた。声が震えているし、自分自身も焦っているのか、うまく美加の言葉が聞き取れない。

 美加、と名前を呼んでみると、破ける程強く俺の服を掴んでいる彼女は絞り出すように声を出して返事をした。

 ―――今は、何も言わないで。彼女はそう懇願すると、再び声を殺しながら泣き始めた。

 なに、何なの? 本当にどうした。起きて直ぐに妹にすすり泣きを超至近距離でやられて、お兄ちゃんもわけがわからないよ。

 だがしかし、いつまでも戸惑っていては状況は好転しない。冷静に、そして落ち着こう。

 おぉ、よしよし大丈夫だぞ、お兄ちゃんはここにいるからなー。小声で宥める様にそう言いながら、妹の背中を軽くぽんぽんする。

 ん? 何も言うな、と言われた直後? 知らん、そんなことは俺の管轄外だ。何もしないで固まっているより、安心できるような言葉をかけて背中を摩ってあげる方がいいに決まっている。かのヒキペディアには載っていない情報、出来るお兄ちゃんの常識だ。

 受け手一辺倒ではなく、妹を想って行動するのがお兄ちゃんなのだよ。ふはは、これが俺の包容力。

 

「……ぅうっ、ばかぁ…」

 

 調子に乗ってたら様子が悪化したような気がする。今必要なのは包容力じゃなくて空気を読む力らしい。はっきりわかんだね。はぇ~。

 未だ懐で丸まっている妹を宥めつつ、再び入り口に目を向けた。そこにはポカンとして立ちすくんでいる、俺と同い年くらいの少年と、およよとハンカチで自分の涙を拭いている女の子がいた。

 ―――って、ちょっと待って。あの女の子、小町じゃね? チラリと見える八重歯にぴょこんと跳ねた触覚みたいな数本の髪の毛。見紛うことの無い、妹キャラランキングで常にランクインしている本物のあの人。

 はぁー、マジかー。遂に比企谷妹と邂逅したかー。うわぁ、可愛いなぁ。整ってるなぁ。何アレ、もうかわいさの暴力でしょ。川なんとかさんの弟くんが必死に追い縋ろうとするのも頷けるなぁ。

 顔に添えているハンカチもクマさん柄でかわいさポイント高い。

 

 っていうか、もしかして彼女、この光景をみて涙しているのか? よかったねぇ、感動だねぇ、とか呟きながらぺしぺしと隣の少年の腕を叩いている。

 あぁ、なるほど、そうか。俺も馬鹿だな。本当に馬鹿だ、ようやくいい加減に気がついた。

 つい数分前まで、俺は手探りで少しずつ自分の状態を確認していた。そうしなければならないほど、体がどういう状況なのか忘れていた。一言で言えば、俺は記憶が薄れるほど長く眠っていたかもしれないのだ。

 こうなる前の記憶はまだあやふやだが、少なくとも俺は病室で誰かと会話した記憶は無い。つまり何かしらあって気を失ったまま入院し、今の今まで意識を取り戻さなかったのだろう。

 偶然見舞いに来たらずっと眠っていた人物が意識を取り戻していて、それを見た友人がその人物に飛びついて泣きじゃくっていたら、困惑するかもしれないが確かに少しは感動しそうな場面だ。

 まぁ俺への好感度がマイナスに振り切っていた妹が、こんなに身を案じてくれるほど距離が縮まってしまっている現象については、未だ不明瞭な点が多いが。

 それとも、あの美加がこんなになるほど、俺の状態は酷かったのだろうか? そこが気になるが、今は現状の把握で手一杯だ。こうなった理由は追々思い出す事にしよう。

 

 ふと、入り口の妹系ヒロインから目を離し、胸元の美加の様子を見てみた。ずっとしがみ付いて泣いていたようだが、どうやら少しは落ち着いたらしい。荒かった呼吸は静かになり、体の震えも既に治まっている。

 そのうち自分から離れるだろうと思い、摩っていた右手を一旦止める。入り口にいる客人には、少し見苦しい場面を見せていたかもしれない。気を遣わせていただろうし、謝罪も込めて挨拶をしようと妹から目を離して顔を上げた。

 そこに居た比企谷小町と少年は―――うん? 少年、……少年? 小町の隣にいる少年は―――あぁ、マジか。うーん、困った。大変困った。一体どうすればいいだろうか。

 目を細め、ほんの数秒の間だけ逡巡する。次第に浮かび上がって来た案を実行すべく、美加の背中から離した左手を彼女の肩に移動させ、数回肩を軽く揺らす。

 そして鬱陶しかった人工呼吸器をむりやり外し取り、彼女の耳元に口を近づけた。

 

「美加。俺ちょっと喉が渇いたから、病院の売店で何か飲み物を買って来てくれないか?」

 

 優しくそう呟くと、美加は「ぇっ、あっ」とほんの少し狼狽したが、こくんと頷いたあと俺から離れて立ち上がり、早足で病室から出て行った。そんな様子の美加を目で追った小町はハっと我に返ったような表情になり、俺に一度お辞儀をすると美加の後を追いかけて行った。

 残った少年はその様子を見た後、何を如何したらいいのか分からないのか、少し身じろぎをしたあとに俺の方を見てきた。

 俺は少年の顔をじっと見つめた。いや、顔では無くその先にある瞳をじっと見た。そして目を細め、下を向いて彼との視線を外し、小さな溜息を漏らした。

 

「……まぁ、とりあえず、入れよ」

 

 そう言うと、少年は頷いてから遠慮がちなゆっくりとした足取りで病室の中に入ってきた。その後ベッドの隣にある腰かけを俺が軽く叩くと、少年は意図を察してそこに座った。

 ……あー、えっと。そんな風に、少年は自ら話の切り口を探している。そして何か思いついたのか、あぁそうだ、と言った。

 

「体の具合……どうだ?」

「あー、まぁ、大丈夫」

 

 返事を返したが、少々素っ気なかったか。自分自身が何を言って欲しかったか分かっていないのに、こんな態度では失礼極まりないだろうに。……なんか、面倒くさい彼女みたいだな、俺。いやまぁ、女性に失礼なんだけどさ。

 目の前のに座っている少年―――比企谷八幡は、俺の返事を受けて押し黙ってしまった。普段の学校でのやり取りなら「こいつ面倒くせぇ…」と呆れるのかもしれないが、生憎俺は今覚醒したばかりの病人。余計に気を遣わせてしまっているのだろう。

 申し訳なく感じた俺は、今度は自分から会話を切り出すことにした。

 

「そういえばさ、今日って何月何日だか、わかる?」

「今日は……12月26日、だな」

「あー、なるほど。今年は俺、クリスマス寝過ごしちまったかー」

 

 ははは、とわざとらしく笑った。だがまだ比企谷は俺に気を使っているのか、小さく苦笑いをしただけだった。

 ここはちゃんと話さないと、彼も納得しないか。本題に入らないと、話は進まない。

 

「比企谷」

「……あぁ」

「何で、来たんだ? 俺の見舞い」

 

 それは、と言って、比企谷は俯いて口を噤んだ。

 実は先程入り口で彼を見て、思い出したことがあるのだ。彼と交わした約束。いや、交わしたなんて烏滸がましい。約束などではなく、俺が一方的に押し付けただけのただの願望。

 俺の見舞いには来るな。確か、そう言った記憶がある。断片的にだが、その周辺の記憶も思い出してきた。

 

「あの時言ったこと、覚えてるか。忘れてたんなら、別にかまわないんだけどさ」

「お、覚えてるに決まってるだろ。あんなときに言われたこと、そう簡単には忘れるわけ無い」

 

 比企谷は焦って弁明し、しかし俺と目は合わせず視線を泳がせていた。その様子を見て、まぁ本人は忘れてはいなかったのだろうと確信した。美加か、もしくは比企谷小町に半ば強制的に連れてこられたに違いない。

 そして何より、こうやって彼を問い詰める様にしているのは、全くの筋違いだ。

 根本的に、俺が比企谷――いや、ヒッキーに見舞いに来ないで欲しかった理由は、彼を攻め立てる理由にはならない。何故なら、来ないで欲しかった理由は、見舞いに来たらヒッキ―に大きな問題が降りかかるとか、俺が迷惑するとか、そういう事では無く、完全な俺のエゴだからだ。

 

 かなり、思い出してきた。ていうか完全に記憶が戻った。

 そう、俺がヒッキ―に見舞いに来ないで欲しかったのは、単に時間が惜しいと思ったからだ。

 ヒッキ―は修学旅行のあと、生徒会選挙や奉仕部間の仲の亀裂や一色いろはの応援やクリスマス会など、過労死するレベルで短期間にイベントが盛りだくさんある。

 そんな一分一秒も惜しいときに、わざわざ俺の見舞いになんて来たら、絶対に時間が足りなくなるし余計な事を考えさせてしまう。俺ガイルの物語に、入院した友人に謝るとか、勝手に死にかけた人間について思い悩む、なんてイベントは存在しないのだ。

 俺の大怪我とヒッキ―を取り巻く問題に、共通点など一つも無い。いろいろ悩んで抱え込んだヒッキ―が眠っている俺の前で「なぁ、俺、どうしたらいいんだ?」なんて悲劇の主人公みたいな独白なんてしてしまったら、それこそ原作崩壊だ。

 奉仕部を取り巻く問題を解決したり、本物を望む身勝手な自分自身に思い悩んだり、それでも個性的な仲間たちに助言を貰いつつ最終的に自ら自分の道を切り開くからこそ、ヒッキ―は比企谷八幡――主人公たり得るのだ。そこにスプラッタよろしく惨い怪我をして入院する意味分からない変なキャラクターの影は必要ない。

  

 つまり、時間がもったいないから俺の所には来ないで、原作通り自分の事を解決して♡ ということである。

 それとクリスマス会が終了してから夕方の奉仕部でのイベント後、正月まで大した出来事は無かったはずなので、12月26日から30日までの間なら、俺の見舞いに来てもあまり問題は無いはず。

 なので年内のイベントを無事終わらせたヒッキーは、別に俺の見舞いに来て委縮なんてしなくていいのだ。

 

 あー、ちょっと待って。ヒッキー、本当に無事にイベント終わらせたのかな? 何故か修学旅行での俺の影響をまるっと無視して考えてたけど、あの時ゆきのんとかガハマさんも近くにいたよね…? 何か悪影響出てないかしらっ、いや少しは出てるかもしれないけどしっかり物語通り進んでいるのかしらっ!? もしかしたら、まだ奉仕部の二人と喧嘩してたりする? ていうか戸部の告白現場に間に合った? ちゃんと本物が欲しいって言った?

 あぁ、まずい、心配だ。聞こう。本人から、怪しまれない程度に探りを入れよう。

 

「でも、霜月。俺、約束破っちまって――」

「それはいい、別にいいよ! 許すマジ許す超許す」

「――は?」

「それより!」

 

 ぐいっと身を乗り出して、顔をヒッキ―の近くに寄せた。興奮のあまり、自制が効いていない可能性が無きにしも非ず。

 とりあえず、聞かせてもらおうか。俺が眠っていた間、何があったかを。全て喋ってもらうぞ!

 

 

 

 ★  ★

 

 

  

 昼ごろに美加が買ってきてくれたペットボトルの水の、最後の一口を飲み終えてキャップを絞めた。そしてペットボトルをベッドの隣の腰かけに置き、ふと外が気になったので窓から外を眺めた。

 俺に間抜けな悲鳴を上げさせた陽の光は跡形も無く、ガラスの一枚向こうは寒風が吹き荒ぶ真っ暗で冷たい闇が広がっていた。

 美加が持ってきてくれた俺の携帯を起動させると、時刻は深夜の2時を示していた。夜勤の看護師以外は眠って静まり返った夜の病院の一室で、貸切部屋なのを良い事に暖色の小さい明かりを点けて夜更かしをしているのが、今の俺だ。見つかったら怒られるが、結局見つからなければどうということは無い。バレなければ犯罪じゃない精神だ。

 結局のところ、幸いにもヒッキーからは沢山の事を聞き出せた。聞いてはいけないことまで知ってしまったような気もするが、既にいろいろ盛大にやらかしているのでもう少しだけ開き直ってもいいだろう。

 どうやら殆ど本筋通りの結果になっているらしい。いろはすが生徒会長になって、デスティニーランドも行き、クリスマス会も無事に終わったと。

 その部分を聞いているときは、俺は心底安堵していた。問題なく進んだということは、正月明けも通常通りの展開が待っているということだ。安心して年を越せる。

 

 と、それだけで話は終わらなかった。聞いた限りでは、疑いようも無く物語通りなのだが、その人物たちが少しばかり不自然だった。

 救急車が俺を搬送しているときに、既に奉仕部の女子二人がその場から居なくなっていた、と聞いた。ヒッキーは俺が「お前は自分の事だけやれ」と言ったことを覚えていたので、二人に俺とあの男の事は深く聞かなかったらしいが、二人が冷静さを取り戻すのが思ったより早かった、とヒッキーは感心していた。

 うん、それはいいこと、の筈なんだけど。そんな速攻で立ち直れるなんて、鋼のメンタルすぎないか。ゆきのんに至ってはガハマさんの盾になる、なんて危険な真似までしたのに。

 本筋道りに進むに越したことは無い。ない……のだが、やはり少し不自然だ。

 

 コンコン、と、突然入り口のドアをノックする音が響いた。まずい、看護師さんが様子を見に来た。俺は思慮を中断し、明かりを消して布団の中に潜り込んだ。とりあえず間に合ったか? 

 布団の中で警戒を続けていると、ドアを開けて室内に人が入ってくる足音が聞こえた。

 かつんかつん、と、刻一刻と音がこちらに近づいてくる。一体、こんな夜更けにどうしたのかというのか。良く考えたら様子を見に来るような時間ではないし、ドアの外に漏れ出るほど強い明かりは使っていなかった。

 しゅる、と音が聞こえた。俺の掛布団も、爪や指先で触るとそんな音が出る。って、まさか俺の掛布団を触ってんのか?

 

「あの、起きてますか」

 

 病室に入ってきた人物は幼い子供のような声で、掛布団の上から俺を揺らし始めた。

 え、誰だ。明らかに看護士さんの声じゃないし、でもこの時間にこの場所に来れるのは病院の関係者くらいだし……。

 警戒した俺は未だ返事を返さずにいるが、あのー、あのー、と自信なさげにその人物は呼びかけを続けた。

 うぅ……、と落ち込み始めたあたりで、俺は途端に焦燥感に駆られた。何というか、もうこれ以上無視を続けてはいけない気がする。そのうち起きているのがバレそうだし、なにより俺を呼び掛けている人物が泣きそうになっているのだ。このままでは俺の良心が耐えられない。

 

「お、起きてるよ」

「ほぇっ」

 

 返事を返して布団を退け、上半身を持ち上げて首をその人物のほうへ向けた。見た限り齢10前後の少年だか少女だか判別が難しい子は、そんな俺の反応に変な声を上げて吃驚した。

 起き上がったはいいものの、どう会話をしたらいいのか分からないので、とりあえずじっと目の前にいる子供観察した。

 背丈は小学校高学年の平均くらいで、肩まで伸びている髪の毛は金色。瞳は黒いが、恰好はとても普通の子供のそれでは無かった。

 背中に見える白い小さな翼。頭のてっぺんにある黄色い輪。そして純白の大きな布をそのまま上からかぶったような服装。

 

 本格的に自分の頭が心配になってきた。目の前のこれ、俺の脳が誤認識してるだけだよな。こんなコッテコテの、いかにも天使ですよ~みたいな見た目の子供が、こんな真夜中の病院に化けて出るなんてありえない。

 それとも、もしかしてガチのお迎え? ヒッキ―達が帰った後、実は死んじゃってたとかそういうオチ? さぁ共に逝きましょうとか言われちゃうやつ?

 

「嫌だ、逝きたくない! 我が生涯に沢山の悔いあり!」

「何を言っているのですか……?」

 

 布団に包まって抵抗する俺を、子供は本当に心配するような瞳で見つめた。間違いなく困惑している。いやまぁ、俺もかなり混乱してるんだけど。

 しかし子供の反応を見るに、お迎えではない可能性がある。話さないと事は進まないだろうし、取り敢えず質問でもいいから会話をしなければ。

 布団を退け、改めて子供の方に体を向ける。じっと見ていると分かったが、目の前の子はとても整った顔立ちをしている。ぶっちゃけ可愛い。ミニ雪ノ下な鶴見留美といい勝負だ。

 と、そんなこと考えてる場合じゃないか。

 

「えっと、取り乱してごめん。俺、霜月大悟っていうんだ。きみは?」

「あ、はいっ。わたし、ハルと申します。こちらから名乗らず、申し訳ございません」

 

 そう言ってハルと名乗る少年……少女? あー、面倒くさい、少女でいいや。かわいいし。そんなあどけない印象を受けるハルは、俺に頭を下げた。

 小さな子に謝られると、なんだか罪悪感が押し寄せてくる。気にしていないよ、と俺が優しく言うと、あっはい、すみません、と言ってハルは申し訳なさそうにしつつ頭を上げた。

 

「……そんなことより、ハル…ちゃん? は、どうしてこんな所に来たの?」

 

 よ、呼び捨てで構いません、と言いながら、ハルはベッドの近くにスリッパを置いた。そういえば今日は一歩もベッドから動いていないので、誰かにスリッパを持ってきてもらうのを忘れていた。昏睡状態だったので、何ヶ月も履物を近くに置いておく必要がなかったからか、近くにスリッパの類は見当たらなかった。

 どうぞ、とハルが言ったので、俺はスリッパを履き、ベッドから立ち上がった。

 

「これから霜月様においで頂きたい場所があるので、そちらへ向かうとつっ。……途中でご説明させていただきますねっ」

 

 台詞を噛んだことが恥ずかしいのか、明らかに赤面しつつハルは俺を病室の外に連れて行った。

 うぅ…、と少し俯くハル。うん、かわいい。饒舌に言葉を喋れない年齢の子が、頑張って難しい言葉を喋ろうとする様子は、なんとも微笑ましいものを感じる。ちょっとむつかしかったな、お兄ちゃんきにしてないぞ! がんばったな!

 

「あ、あの、霜月様」

「ん、なに?」

「その、差し出がましいことは承知しているのですがっ。……あの、満面の笑みでずっとわたしを見つめるのは、遠慮して頂きたく……」

 

 隣を歩いていたハルは、目を逸らしながらそう言ってきた。おっと、しまった。保護者モードが入ってしまっていたか。

 俺がごめんごめんと平謝りすると、ハルはすみませんと言いつつ、俺の隣を歩きながら事の説明を始めた。

 

 ―――曰く、俺とあの男の戦いの結果を巡って、数名の神々が賭け事をしていた、らしい。

 身体能力や意識の差などで俺よりあの男の勝利に賭けた神々の方が多く、ハルの上司に当たる神も当然、そちらに賭けていた。そして判定の結果俺が勝ったので、ハルは勝負に負けた上司の尻拭いをさせられている、とか。

 うん、おかしいね。神様ってなんだろうね。なに、それとも転生者の争いを賭け事にするほど、他にやること無いの? 暇を持て余した神々の遊びなの?

 どうやら、一定時間ガハマさんを誘拐し続けられたらあの男の勝ちで、それを完全に阻止出来たら俺の勝ちだったそうだ。あの男には、俺とヒッキ―とゆきのんを捻じ伏せて、ガハマさんを誘拐して長い間逃亡できるくらいのポテンシャルがあった。ので、神々は(こぞ)ってあの男に賭けた。

 しかしあいつは直前の俺の煽りもあってか、少々冷静さを欠いてしまった。そのせいもあり、ほぼ負け確定だった俺が勝ってしまったのだった。

 

 賭けに負けたハルの上司は、賭博に使用した人間に衝突による世界の歪みの修正を任された。しかし俺やあの男がこの世界に干渉した時間があまりにも長かったため、俺たち二人の存在を無にすることは出来ず、現状を無理矢理もとの方向にずらす、という決定を下した。

 そのため、ゆきのんやガハマさんは目の前で起こった惨劇に不思議と関心を見せず、それを訝しんだヒッキ―も深くは追及しなかった。

 それに加え、俺はもともと、あの事故で瀕死だったらしい。それどころか、本当なら即座に死んでいた、とハルに言われた。

 腹に深い刺し傷を負い、体の数か所を殴打され、吐血し、車両にブッ飛ばされてコンクリートに叩きつけられる。……うん。たしかに、これで死なない方がおかしい。こんなになって二ヶ月で全回復したら、絶対そいつ人間じゃないね。あれ、もしかして俺って人間じゃないのでは……。

 

「なぁハル。俺って実は改造人間とかアマゾンとかだったりする? 腹に風穴空けられても人間の肉を食えば治っちゃうアレ?」

「そ、そんなわけないじゃないですかっ。怖いこと言わないでください……」

 

 ハルは頭を横にぶんぶん振った。どうやら実はバケモノでしたーみたいなオチではないらしい。

 

「治ったのは上司の神の権能です。もはや自然治癒で回復できる状態では無かったので、後で完全に傷が癒える……えっと、いわばおまじないの様なものをかけさせて頂きました」

「なるほど。……え、でもさ、俺を助ける必要あったのかな。存在を完全に消そうとするぐらい邪魔なのに」

「貴方に賭けた神様からの要請です。せっかく転生させたんだから殺すな、とのことで。負けた私の上司は言うことを聞くしかなく――」

 

 なるほどなぁ、と俺が相槌を打っていると、ハルは急に立ち止まった。

 目の前には病室の入り口があり、その近くには鉄パイプの椅子が一つ置いてあった。そしてそこには一人の男性が眠りながら座っていた。服装を見る限り、この男性は警察官とか、その類の職業だろうか。にしても、何でこんなところに。

 俺が顎に手を添えて訝しんでいると、隣のハルがこっちを向いた。

 

「この病室の中にいる人は現行犯なので、目覚めるまでこうやって交代で警察の方が監視しているんです。霜月様をご案内するために、今は眠ってもらっていますが……」

 

 え、現行犯? 俺がそう聞き返すと、ハルは頷きつつ病室のドアを開けた。

 中はカーテンに完全に包まれていて様子を確認できないベッドが一つと、完全に個室だった。部屋の照明は点いていないが、うっすらと暖色の明かりがカーテンを透過していた。どうやらあのベッドの周辺だけ明かりがあるようだ。

 ハルに案内され、ベッドに向かう。そしてカーテンの隙間から中に入ると、そこには男性が寝転がっていた。

 俺とハルに気づき、その男性は顔だけを此方に向けた。

 

「やぁ、霜月大悟」

「お前……」

 

 無表情で語りかけてきたのは、まぎれも無くあのストーカー男だった。枕元には無理に取り外したであろう人工呼吸器があり、右目と左足は包帯でぐるぐるに巻かれていた。

 どう見てもひどい状態だった。しかし男は何事も無いように、ここに座りなよ、とベッドの隣に置いてあった椅子に俺を手招きした。

 俺が困惑していると、ハルは「彼との会話が、貴方には必要なことだと思ったので…」と言いバツの悪そうな顔をしてから俺に頭を下げた。

 

 ――まぁ正直驚いたが、話さないと駄目か。思えば直ぐに殴り合いになって、こいつとまともに会話した事は殆ど無かった。この状態なら動けないだろうし、暴れはしないだろう。

 俺は覚悟を決めて、椅子に座った。男の表情は一切変わらず、上半身だけを起き上がらせて首を回してコキコキと音を鳴らした。

 そして俺の顔を見て、軽いため息をついた。

 

「相変わらず、君は憎たらしい顔をしているな」

「随分なご挨拶だな。なに、俺の顔を見たら煽らずにはいられない体質なの?」

「多分そうかもしれない。僕は君の事が好きじゃないから」

 

 男が少しだけ笑った。くっそ、相変わらず性格悪いぜコイツ。だがここで「俺だってお前なんか好きじゃないんだからねっ」とか言い返したら、それこそ変にツンデレっぽくなっちまう。安易な言い返しは我慢しよう。

 俺は喉まで出かかった言葉を一旦引き止め、それを飲み込んでから会話を切り出した。

 

「ていうか、何で生きてるんだよお前」

「君と同じさ」

 

 男はそう言いながら、ハルの方に少しだけ目を向けた。あぁ、なるほど。

 せっかく転生させたんだから殺すな。その神の言葉の中には、俺だけじゃなくコイツも入っていたのか。

 何故それを知っているのか、と聞こうとしたが、それは直前で思い留まった。そんなことは愚問だ。どうせ俺より先にハルから聞かされたのだろう。

 

「そんなことより、君をここに呼んだわけだが」

「お前がハルに頼んだのか?」

 

 そうさ、と言いながら、男は枕の下に手を突っ込んだ。そしてそこからカバーがかかっている一冊の本を取り出し、片手で俺に差し出してきた。

 

「はい、これ」

「え、なに」

「この本を渡したくて、君を呼んだんだ」

 

 男は微笑しつつ本を俺に押し付けた。

 一体、何の真似だろうか。目覚める前は凶器を持ち出してまで戦った憎いはずの相手に、本を渡す? えぇ…(困惑)

 とち狂ったのか、はたまたハルの天使の光にでも当てられて親切に目覚めたのか。いや、絶対前者だな。コイツに限って改心とか絶対ありえない。現にコイツから謝罪の言葉は一つも聞いてない。

 どうせ悪趣味か嫌がらせの為の本だろうな、と確信しつつ、受け取った本のカバーを外して表紙を確認した。すると目の前の男から一言。

 

「それ、僕たちが転生した後に発売した俺ガイルの新刊」

「やりますねぇ!!(歓喜)(感謝)(涙がにじむ)(ほぼ新品の状態)(この世界では入手不可)(コーナーで差を付けろ)」

 

 俺は思わず大声を出してしまった。そしてハルが出来ればお静かにと涙目で言ってきたが、それを無視して俺は表紙を食い入るように見つめた。

 あ゛っ!!!!!(絶命)

 

「……き、きみ、少し大げさじゃないか?」

「うるせぇよバカ黙ってろよバカふざけんなバカマジほんとありがとう」

 

 なんか男が狼狽してるが知らん!

 ゆっっっっきのん!!! わ、わた、ぽ、ぽんかん―――うわあぁあぁ!!(爆発)ウンメイノー

「何でお前が新刊持ってるんだ!?」

「ちょ、ちょっと霜月様――」

「んむぐっ!」

 

 背後からハルに手で口を押えられた。落ち着いて、落ち着いてくださいーっ、と小声ながらも必死になっているハルの声を聞いて、俺は少しだけ冷静さを取り戻した。少しだけ。

 軽くハルの手の甲をペチペチ叩いて一応は大丈夫だという意志を伝えると、ハルは「絶対もう叫ばないでくださいね…」とだけ言うと、口から手を放してくれた。

 俺は椅子から退き、男に詰め寄った。今度はなるべく大きな声は出さずにしないと。

 

「改めて聞くがっ、なんで、持ってるんだ…!」

「え、えっとね。僕を転生させた神様が、勝負には負けたけど結衣以外に欲しい物ある? って聞いてきたから、最新刊をくださいって言ったら、それが枕の下に」

「お、お前もう読んだのか?」

 

 当然、と言いながら詰め寄る俺をグイグイと手で引き離す。そうか、もう読んだか。じゃあこれは暫く俺が預かってもいいと言うことだな。

 

「じゃあこれ、借りていいんだな?」

「ていうかあげるよ。貰ったのは二冊だし。君には僕が読んだあとの開封済みで十分でしょ」

「うわっ、マジか、助かるわ……。サンキューな本当に」

「……うん」

 

 本に再びカバーをかけ、両手で握って自分の胸元に寄せた。やった、やったぞ! これで地球の危機は去った!

 俺が感涙していると、男は軽いため息をはいた。何だ、もう返せって言っても返さないぞ。

 

「呆れたな。自分を殺しかけた人間に礼を言うなんて」

「え、いや、それとコレとは別だろ。俺なんて別に転生させてくれた神様と話なんてしてないし」

 

 俺がそう言うと、男は自分の眉間に手を寄せた。まるで頭痛を押えるように。

 どうした、と声をかけると、男は手を離して此方を向いた。

 

「それを譲る代わりに、一つ頼み事をしてもいいかな」

「ん? まぁ、変な事じゃなければ」

 

 改まって頼み事なんて、一体どういう風の吹き回しだろうか。俺に出来る事は少ないし、頼みが犯罪だったら俺には聞けない。

 今までの事を許してくれ、なんて言う奴じゃないことは知ってるし、逃亡を手伝ってくれ、なんて言われても駄目だ。本の事は感謝しているが、さっき言った通りそれとコレとは別。

 真剣な顔の男を見て、俺も表情を引き締めた。

 

「僕が目覚めたのは今日の夜。入り口の外に居る監視の警察官が眠らされてだ。そろそろ目覚めたことはバレるだろうし、怪我も殆ど治ってしまっているから明日のうちには警察病院に連行されるだろう」

「おう、そうだな。罪を償いに行って来い」

「馬鹿言わないでくれ。僕は自分のしたことを後悔していないし、話の根底はそこじゃない」

 

 じゃあ何だ? 俺が聞き返すと、男は少しだけ俺に顔を近づけた。

 目が据わっている。真剣な表情で、殆ど俺を睨みつけているような感じになっている。

 それほど大事な頼みごとだと言うことだろう。

 

「僕が牢の中に居る間だけでいい。結衣を守ってくれ」

「………ん?」

 

 よく分からなかったので、もう一度言ってくれと聞き返した。男は眉を潜めたが、繰り返す様に同じ言葉を俺に伝えた。

 ―――なんと、愚かな。俺はつい、吹きだしてしまった。そんな俺の様子を見て、男は分かりやすく不機嫌になった。おいおい、怒るなって。笑ったことは謝るけどさ。

 いやー、まさか()()そんなこと言うなんて。分かってないなぁ、この男は。

 

「僕の頼みは聞いてくれない、ということでいいのかな?」

「いやぁ、別に。他の頼みがあるなら聞いてやってもいい。でもさ、その頼みに関しては、俺がやる必要が全く無いんだよ」

 

 肩を竦めて言うと、男は首をかしげた。まぁ、説明しないと分からないか。全部を捨ててガハマさんを自分の物にしようとした奴だし。

 

「だって主人公がいるじゃん。比企谷八幡、お前も知ってるだろ」

「……い、いや、だからと言ってだな」

「この世界のヒロインは主人公が守ってくれるよ。最新刊読んだのなら、お前だってよく分かってるだろ」

 

 宥める様に言うが、男はまだ食い下がってくる。

 突然俺の後ろ隣りで待機していたハルに目を向けた。

 

「転生した人間が、結衣を狙うかもしれない…! いるんだろ、僕たちの他にも」

「えっ、あ、いいえっ! 貴方たちの他にこの世界に移り住んだ魂は、今の所ありません」

 

 ハルが胸の前で両手をぶんぶん振って説明した後、俺は「な?」と男に言った。

 男が心配するようなことは無い。結局俺たちが荒らしまわった後も、この世界の物語は順調に進んでいるのだ。モブが四六時中ヒロインを守る、なんて話は物語じゃない。もしそんな話があれば、そのモブにどんな生い立ちや設定などが組み込まれていても、モブはサブキャラ、上手くいけば主役にすらなれる。重要な役割を持ったキャラクターは創造主がどれ程ただの背景やモブだと言い張っても、大切な事を背負った時点でモブはモブでは無くなるのだ。

 俺はモブキャラだ。だから俺がガハマさんを守る必要などなく、主役である彼が彼女を守ってくれる。たとえ彼が不本意でも、きっと世界がそうさせる。

 ――だからこんなことを俺に頼む必要は無い。そういった意志を男に伝えると、男は不服そうな顔をしながらも身を引いてくれた。

 そこで俺はニカッと笑い、男の肩を軽く叩いた。

 

「ま、変な転生者がヒロインを奪おうだなんて言ってやって来たら、俺が止めてやるよ」

 

 お前と同じように、な。

 その言葉に男は観念したのか、呆れたようにフっと笑い飛ばして、再びベッドに寝転んだ。

 神は人間で賭け事をするくらい暇なのだし、新たな火種を求めて誰かを転生させてくるかもしれない。もしそうなったら、俺が何度でも止める。たとえそいつが良いヤツでも、ヒロインや主役に仇なす存在なら容赦はしない。

 

「殺し合った仲だしな。一応、部外者から彼女を守るっていう点なら、聞き届けたぜ」

「……そうか。なら、安心だな」

 

 男は穏やかな表情になり、もう寝るよ、と言って目を閉じた。俺もベッドから離れ、おやすみ、と言った。

 そしてカーテンを潜り抜け―――ようとした瞬間、クールに別れると言った空気をぶち壊してでも聞きたいことが、一つだけ思い浮かんだ。

 俺は振り返り、軽く男の肩を揺らした。男は目を開けて、体は起こさずに瞳だけを此方に向けた。

 

「わり、最後に聞きたいことがあるんだけどさ」

「なんだい?」

「お前の名前、聞いてなかった。よかったら教えてくれ」

 

 あぁ、そういえば。と男は思い出したように呟いた。機会があれば刑務所を訪ねて面会とかするかもしれないし、ハルからも名前は聞けるかもしれないが、本人から直接聞きたい。どうせ、今後顔を合わせる機会は極端に低い、もしくは会えないかもしれないのだ。名前くらいは、と思った。

 男は俺と目を合わせ、その口を開いた。

 

 

優希(ゆうき)。城廻優希だ。……あぁ、姉さんとは知り合いかい? できれば宜しく伝えておいてくれ」

「――――は?」

 

 こいつの名字、今なんつった? はぇ? しろ? めぐり? しろめぐりってあの城廻?

 

「マジ?」

「うん、マジ。……あ、姉さんはああ見えてガード硬いから、狙ってるなら頑張ってね」

 

 

 どうでもいいようにそう言った優希をよそに、今世紀最大の衝撃が俺の頭をかち割った。

 

 

 ―――――なに衝撃的な告白してんのお前ぇぇぇぇ!?

 

 

 ―――――いや、質問したのは君だろ。

 

 

 無意味な問答が暫く続いた。

 

 

 

 

 

 





早く投稿できませんでした。すいません。
すいません許してください何でもしません許して下さい(横暴)


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最終話 やはりまちがっているようで間違っていない

 年始の初詣帰りの電車はそこそこ混んでいた。といっても運よく空いた席を見つけたので自分は座っていたため、混雑はさほど気にならず。

 隣に座っている子連れの女性の肩にぶつからないよう、深く座り込んで体を力ませる。子供と楽しそうに談笑してる時に隣の人と肩が触れ合ったら雰囲気が悪くなると思う。個人的な見解だけど。

 

 暖かい車内で少しウトウトしつつ、ここ最近の事を思い出してみた。

 といっても別段何かあった訳では無い。神様だとか天使だとか、まともに考えたら頭が変になりそうな連中による超常的な力で、身体の損傷が全て完治しきって退院しただけだ。

 医者の先生たちも混乱していたが、それもそうか。回復スピードおかしいものね。仙豆食べたZ戦士並みの早さですよ。

 

 初詣は家族全員で行ったが、俺がトイレに行ってる間に皆先に電車乗って帰った。どぼじでぞんなことずるのぉ゛。

 というわけで一人寂しく電車に乗っているわけだが、ここで問題がひとつ――

 

「そういや、こっち方面でよかったのかよ」

「……えぇ」

 

 ――目の前にゆきのんと八幡がおります!

 あ、いや、狙った訳では無くてね? 本当に偶然なんだよな。

 初詣なんて行く人は沢山いるわけだし、それに電車で奇跡的に乗り合わせる可能性だって砂粒程度しかないと分かってたんだけども。

 もはや何か特別な力に導かれている可能性すらある。スタンド使いはスタンド使いに引かれ合うからね、しょうがないね。

 

「居ても居なくてもいいって楽だし、誰も困らせてないだろ? 世の中いるだけで雰囲気悪くする奴いるし……」

「それは自己紹介かしら?」

「そうそう、だからなるべく人に接しない様に生きてきたんだよ」

「ふふっ」

 

 俺は今喋っている二人の後ろの席に座っているためその表情は窺えないが、まあ二人とも微笑を浮かべている事でしょう。たしかアニメ2期の10話だっけこれ……。

 久しぶりに俺ガイルって感じの光景をみて心が豊かになった。いいよね、語彙力なくなるよね。

 

 って、俺の降りる駅ここだ。

 ――あ? 待ってね。降りるには目の前のドアから出ないと間に合わないんだ。それで目の前には今降りようとしているヒッキ―がおる。そんでここはドアが閉まる直前に「比企谷くん。今年もよろしく」てやる大事な場面なのよ。

 

 ……せんせぇ、ぼくどうやっておりればいいですか。

 

 迷っているうちに、いつの間にか俺の隣に居た親子も降りていた。やばい、間に合わない。

 そうこうしている間にドアは閉まり、俺は帰ることが叶わなくなってしまいました、めでたしめでたし。

 

「ふぅ。―――あっ」

 

 ゆきのんが振り返った瞬間、別れ際の二人をじっと見つめていた俺と彼女の目が合ってしまった。ひぃ……無理、原作ヒロインの圧がすごい……。

 

「……ど、どうも」

 

 

 

 ◆  ◆  ◆

 

 

 

「……そう、体の調子はもう大丈夫なのね」

「まぁ、はい、おかげさまで(?)」

 

 空いた隣に座ってきたゆきのん相手にテンパってよく分からない返答をした俺をよそに、彼女は意外にもホッとしたような表情になっていた。

 修学旅行の時の記憶は、この世界の輪から外れた連中が介入した影響で、ゆきのんの中ではあやふやになっている。

 簡潔にまとめると、ガハマさんが変態に襲われそうなところを庇ったと思ったら、名前も知らない同級生の男子生徒が飛び込んできてなんやかんやあって二人が車両に跳ね飛ばされた後、よく分からないけどそれは一旦置いといて戸部が海老名姫菜に告白する現場に直行した、という状況なのだが、神様だかなんだかに記憶を誤魔化されたせいで違和感を感じていない。

 

 つまり彼女の操作された記憶の中で俺は「友人を助けてくれたような気がするナイフで刺されて車に引かれた名前も知らない同級生」ということになっているらしい。情報量が多すぎるッピ!

 俺がそんなことを考えていると、ゆきのんが優しい声音で語りかけてきた。

 

「あの時は本当にありがとう。私、勢いよく飛び出しておいて、その後の事は何も考えてなかったのよ。貴方がいなかったら、きっと私も直ぐに退かされて由比ヶ浜さんを守れなかった」

「いやいや、凶器を持った人間の前に出れるなんて、相当凄い事ですって。俺はアイツの事を前から知っていたけど、急に出てきた不審者に対してあんな行動とれる雪ノ下さんの方がよっぽど……」

 

 なんとか言葉を紡ぐが、そもそも今のゆきのんの修学旅行時の記憶は無理矢理パズルのピースを押し込んだような歪な形で成立しているので、あまりあの時の事を掘り返さない方がいいだろう。まともに考えたらあの状況は普通じゃ無さすぎる。

 なんでもいいから話題を変えよう。

 

「それより、奉仕部の方はどうなんですか? なんか、クリスマスにイベントやったとかなんとか」

「それは……ええ、恙なく進行できたわ。それからは特に依頼も無いわね」

「あ、そ、そうですか」

 

 会話が終わり、沈黙が訪れる。不思議とゆきのんは居心地の悪そうな顔はしていないが、俺はもう限界寸前だ。

 無理ーーーー!!! 話すような話題も無ければ共通点も無いので!! いわば「別に仲良くはないけど何回か話したことはある知り合いの知り合い」みたいなもんだぞ……どうしろってんだ。

 ポーカーフェイスをなんとか保ちながら頭の中はトルネードのごとく混乱している俺に、ゆきのんは思わぬ質問を投げかけてきた。

 

「貴方は……その、比企谷くんの友人なのかしら」

「へ? な、なんで」

「部室で何回か霜月というワードが彼の口から出てきたから。彼、小町さん以外の人の話は滅多にしないのよ。そんな彼がわざわざ言うくらいなのだから、もしかしたら……と思ってしまって」

 

 考えるような表情をしながら言うゆきのんに対して、なんと返していいか分からない。ハッキリと友達ではないと断言するべきなのか、それとも濁した方が良いのか。

 ようやく転生者とかいうよく分からない連中の騒動が鳴りを潜めたので、俺を原作には存在しない「比企谷八幡の友人」としてゆきのんに定着させるのはまずいのでは。

 無理無理かたつむり。今の俺では考えを纏めることは出来ない。

 

「えっと……ひ、比企谷が友達だって言うなら、友達……なのかな?」

 

 俺がそう言うと、ゆきのんは小さく笑った。え、なに。

 

「貴方のその穿った見方、比企谷くんに似てるわね」

 

 それだけ言うとゆきのんは立ち上がり、ドアの近くに立った。どうやらこの駅で降りるようだ。座ったまま見送るのは失礼かと思って立ち上がった俺に、ゆきのんは優しく微笑みかけてきた。

 

「学校で会うことは滅多にないでしょうけど、困ったことがあったら頼って頂戴ね」

「え? それってどういう――」

 

 俺が言いかけた瞬間にゆきのんは電車を降り、振り返りざまに返事を返した。

 

()()()は奉仕部だから」

 

 電車のドアが閉まり、俺はそれ以上彼女の表情を窺うことは叶わなかった。

 

 気を許していない他人にはあまり柔らかく対応しない彼女だが、俺にあんな親切心を見せてくれたのは、やはり歪ながらも友人の命の恩人だから、だろうか。

 なんだかそれは、自惚れている気がしなくもない。俺はただ、自分と同じ状況の犯罪者と、醜い小競り合いをしたにすぎないのだから。

 

 ……待って、ゆきのんの俺に対する好感度が上がってしまったのでは??(イキリ)

 

 

 

 ◆  ◆  ◆

 

 

 

 年明け最初の昼休み。資料運びの手伝いをさせられている影響で職員室を出入りしていると、見覚えのある人物を目撃した。

 ただその人物とはあまり話さない方が良いというか、話す勇気が無いと言うか。

 なんとか気づかれない内にその場を後にしようと思ったが、先生に呼び止められてしまった。ちょ、お礼の缶コーヒーとかいらな―――あ、気づかれた。

 

「霜月くん?」

「お、お久しぶりです」

 

 やせいの めぐりん が とびだしてきた!

 

 

 仕事が終わった後、彼女――城廻めぐりに導かれるままに、校庭が見える外のベンチに腰を下ろした。

 彼女は少し暗い表情をしているが、その真意はまるで分からない。

 

 俺が彼女を避けたかったのは、文明崩壊レベルで気まずくなるからだ。

 実の弟が刺したひとつ下の後輩で、しかも前から面識があるときた。もうこれ以上考えられる最強の気まずいシチュは無いだろう。

 一応、意識を取り戻した俺がまだ病院のベッドに居る時に、お互いの家族を交えて話はしたのだ。聞きたくない謝罪の言葉はこれでもかというほど聞いたし、うちの家族の怒気を孕んでいる妙に落ち着いた声も沢山拝聴させていただいた。

 

 あの場で特に居心地が悪かったのは先輩だろう。もはや謝罪以外に何を言いえばよいのかすら分からず、弟の責任を自分たちで背負う羽目になっていたのだから。

 

 そのあたりで、俺は死ぬほど申し訳なくなった。

 何せ、あの優希は生前からヤバいヤツだったのだ。この世界での教育が影響で歪んだ訳では無く、転生前から倫理観の外れた奴がそのまま成長しただけので、城廻一家には何も落ち度はない。あいつと同じ世界出身として申し訳ないばかりである。

 

 なので彼の家族からの謝罪は聞きたくないし、直接会えばまたそれを聞くことになるだろう。しかもそれが城廻先輩の口から出るとなると、もう耐久力が紙になってしまう。

 ( 0M0)<オデノココロハボドボドダ!!(俺の心はボロボロだ)

 

 そして今、ふたりでベンチに座っているわけだが、これからどうなるのか見当がつかない。

 再び城廻先輩に謝られるのか、それとも「よくも弟を……!」と首を絞められながら復讐されるのか。……ちょっと興奮してきた。

 

「霜月くん、前に……さ」

「ま、前? ――あ、もしかして……あのときの?」

 

 伏し目がちなめぐり先輩が言っているのは、もしかしなくてもあの時の事だろう。

 『(めぐり)先輩、好きッス!』って言った時のあれだ。ちょっと誇張した。

 

 勢いだけで告白したあの時。

 いや、今考えても頭おかしいな。大して付き合いもないし、前日に話しただけの関係なのにアレは無い。

 結局答えが出される前に俺は逃げて、今に至る。

 

 ということは、今返事がもらえる、ということだろうか。

 

「うん、そう、それ」

「せ、先輩、あれは……その、その場の勢いというか、なんというか」

「ごめんね、返事がこんなに遅くなっちゃって」

 

 苦笑いした先輩が、一呼吸置いてから口を開いた。

 今世紀最大に心臓が脈を打っている、いやまぁ、答えは分かってるんだけど、如何せん目の前で言われるとなると、やはり緊張してしまう。

 構える。答えを貰う準備は出来た。

 

「やっぱりあの気持ちには、答えられない……です。ごめんなさい」

「……は、はひ」

 

 死ぬほど申し訳なさそうに謝る城廻先輩を見て、思わず噛んでしまった。

 わ、分かってた、分かってたさ……。落ち着け、自分が今までやってきたことを思い出せ。

 ひとつでも彼女から好かれるような事をしたか、いやしてない。寧ろマイナス補正がかかるような事しかしてない。弟を車両衝突に巻き込むとかその最たる例でしょ。当たり前の結果なんだ、よなぁ。

 

「俺の方こそ、その、いろいろ申し訳ありません。先輩、あんなに苦労してるのに」

「あまり謝らないで欲しいかな。私、返事をしたかっただけだから」

 

 先輩は俺に微笑みかけると、校庭でサッカーをして遊んでいる生徒たちへと視線を変えた。

 俺も釣られるように生徒たちを見て、元気だと感心してしまう。まだ一月で寒風もやまないのに、あんなに元気にはしゃげるのは素直に羨ましい。俺なんて既に手がかじかんでいる。

 手を擦り合わせて温めていると、何か違和感を感じた。少し周囲が、温かくなったような、そんな気が。

 

 ―――っと、あれ、まって? 先輩、さっきより距離近くない?

 隣に座っているといっても、サッカーボール一つ分くらいは両者の間に隙間があったのだ。だから少しは緊張せずに話せていたつもりだったのだが、いつの間にか肩が触れ合いそうなくらいまで距離が近くなっている。

 

 ?????????????????(音割れポッター)

 

 ちょっと、ほんとに……! 何で!?!? めぐりんなに!? 

 ハッ、まて。

 もしかして俺が自然と距離を詰めていたのか? だとしたらやばい、早急に距離を開けなければ。

 

 ずりずりと左へとゆっくり体をずらす。よし、これで距離が離れ―――

 

「……んしょ」

 

 ――てないですね何ででしょうね。

 離れた分めぐりんが距離をまた詰めましたね。

 もう少し離れれば――あれ、もう左にずれる場所が無い。手すりがあるのみで、更にめぐりんが距離を詰めてきたので結局二人の間の空間はほとんど無くなってしまった。詰めた分距離を詰められる。これは無限ループか? 実は俺、死に戻りして……!

 

 流石にもう逃げられない。俺が横に詰めてさらにめぐり先輩が俺の方に詰めてきたので、もはやめぐり先輩の反対側にはもう一人座れるくらいの隙間が出来てしまった。

 

 どゆこと?? 何でさっきのフラれた流れでこうなってんだ??

 もしかしてまた神様だか天使だかが介入したのでは――

 

「ねぇ、霜月くん」

「は、はい!」

 

 逡巡に陥る隙すら与えてくれず、めぐり先輩は俺に話しかけてくる。

 

「こんなこと聞くの、きっと凄く最低なことなんだけど……」

「な、何でしょうか……!」

「―――まだ、私のこと好き?」

 

 微笑を浮かべたまま、めぐり先輩は俺の眼を見ながらそう言った。

 

 

 言葉を無くす、とは、こういうことなのだろうか。

 先輩の意図が読めない。

 何故いま、そんなことを聞くのか。俺のことふ、フッタンデスヨネ?

 

 思わず固まってしまい、直ぐに返事を返せなかった。

 しかしめぐり先輩は少しも動かず何も言わず、俺の返事をじっと待った。

 

 その好意に甘えて、俺は先輩からを目を離せないまま、自分の気持ちを考え始めた。

 

 城廻めぐりというキャラクターはもともと好きだった。出番はさほど多くないが、存在感を放っていて、悪い印象も受けない。生徒会に奉仕部のメンバーがいれば……なんて話をした時には「え、うわぁ、エモ……無理……すき……」となり語彙力が三歳児まで戻ったほど。

 

 そしてこの世界に来て、外からは分からなかった彼女の優しさに触れた。

 転生前とは違って見えたし、実際に話してみて「うわぁ、エm(略」となった。

 つまり好きで。

 相手の事は考えないで一方的に好意を押し付けたゴミみたいな俺に、未だに優しくしてくれている。天使か。

 

 未来永劫、この気持ちが変わることはないだろう。俺は俺ガイルが好きだし、城廻先輩が好きだ。

 でもこの先の『原作云々』の事を考えれば、俺は今ここで「嫌いです」とハッキリ言ってすぐに立ち去り、金輪際彼女とは話さないのがベストであることを知っている。

 だから、俺はそれを言葉にする。彼ら彼女らが活躍するこの世界(物語)に、オリキャラの居場所など無いのだから。

 口を開き、言葉にする。もうあなたのことは――

 

「すきですめぐり先輩」

「えっ、本当に?」

 

 

 ―――????????????????(脳がオーバーフローを起こし爆発)(死亡)

 

 

 何言ってんの?

 

 

「あ、あれっ? あの、先輩っ」

「そうなんだ……そっかぁ」

 

 自分の発言を信じられずに滝のごとく汗を流して狼狽している俺をよそに、先輩は少しだけ赤くなりつつも笑っていた。かわいい。は? 違う、そうじゃない。

 なんで反対の事言ってるんだ俺は。嫌いだって、そう言えば全てが丸く収まるのよ?

 なんだか頭の中がバグってる。もう間に合わない。なんか、いけない気がする! 敗北の方程式は決まった!

 めぐり先輩は再び、もはや言葉が出ずに固まってしまった俺の眼を見た。

 

「私ね、負い目があったの」

「……お、負い目?」

「うん。その……弟の事でいろいろあったから、霜月くんが言うなら、何でもしてあげようと思ってた」

 

 ん? いまなんでもするって―――待って、冗談かませる雰囲気ではない。今は彼女の話を聞かなければいけない、真面目に、うん。

 

「でもそれだと、霜月くんに余計重荷を背負わせるんじゃないかって思って。弱みを利用して誰かをずっと思い通りに出来るほど、きみは強い人じゃないから」

「お、俺、弱いですか……?」

「ふふっ。だってきみ、すぐ泣いちゃうじゃない」

 

 いたずらっぽい笑みを浮かべるめぐり先輩にドキッとした。すき。

 これは俺が墓穴掘った時の話か。妄想のしすぎでいつの間にか缶ジュースを握りつぶして、めぐり先輩にハンカチ貸してもらって、もう情けなさすぎて涙がこぼれた時の。今思い出しても泣けてくるな。

 

「だからそういうのは止めておこうと思って、ハッキリと私の意志を伝えました。結果的には私に都合のいいようになってしまって……」

「ちょ、その、謝らないでください! あの、それより……なんで俺に聞いたんですか? その、好きかどうかなんて」

「……んーと、それはねー」

 

 めぐり先輩はまた少し距離を詰めてきた。

 もう肩どころか腕同士がくっ付いてしまっている。

 

「私のさっきの返事は、きみに告白された何ヶ月も前の、あの時の私の気持ちでね」

「は、はい」

「もし、今もまだ、きみの気持ちが変わっていないのなら―――」

 

 

 ―――まだチャンスはあるかもねって、伝えたかったから

 

 

 耳元でそう囁かれ、俺の身体は地蔵のごとく固まった。

 そして機を見計らったかのように、昼休みの終了を告げるチャイムが校庭まで鳴り響いた。

 

「じゃあ私、もう行くね」

「―――」

 

 そう言って、先輩は校舎の中へと姿を消した。

 生まれて初めて女性に耳元で囁かれて、しかもそれがめぐり先輩だったことによる衝撃で未だに体を動かせないままでいると、右手に違和感を覚えた。

 右手を見てみると、そこには小さく折りたたまれたメモ用紙が一枚。

 焦ってそのメモ用紙を広げると、そこには英数字の羅列とメッセージが一行。

 

『私のメアド』

 

 い、いつの間に――って、体を寄せてきた時か。

 何回も何回もメモ用紙を凝視し、夢ではないのかと頬を抓る。とても痛いので夢じゃない。

 ついにめぐり先輩のメールアドレスまで手に入れてしまった。なんということだ。

 

 めぐり先輩は俺に『チャンス』と言った。

 被害者の立場を利用して彼女を思い通りにするということを、俺が出来ないと分かったうえで。

 しない、ではなく、出来ない。それは確かにそうかもしれない。

 俺はあのもう一人の転生者をダシにして城廻めぐりを利用するなんて、考えてもみなかった。

 もし俺が転生前の記憶を保持していない状態であの状況に陥っていたら、もしかすれば彼女にたくさんの罪滅ぼしを要求していたかもしれない。

 だが、今回の事は俺と優希だけの責任であり、彼女に罪なんてものは無い。俺はそれを理解している。

 城廻めぐりは被害者だ。そして優希を刺激して犯行を悪化させた俺は加害者で、犯罪を犯したとはいえ大切な弟を大怪我に追いやった事実は消えはしない。

 

 そのうえで、先輩はチャンスをくれた。これは彼女なりの罪滅ぼしなのだろうか。それとも―――いや、分からない。

 要約すると「したいようにすればいい」ということだろうか。それで自分が振り向くかは俺次第だ、と。

 めぐり先輩の中で、霜月大悟という存在は『弟を大怪我させた張本人』というだけのものではない、ということなのだろうか。数か月前の俺との交流は、彼女にとって意味のあるものだった……のか?

 

 卑劣な人間になりきれない俺を案じて、彼女はあの発言をしたのかもしれない。

 いやでも―――と、つまるところ、俺はめぐり先輩の真意を測りきれない。俺には理解できないのだ、彼女の考えを。

 

 それでもこれは、その名の通りチャンスなのだろう。上手くいけばめぐり先輩と――という。

 マジで? なんか、えっ、そんなチャンス貰っていいのか。

 

「えー、うそ、どうしよう!」

 

 我慢できずに、つい声が漏れ出てしまった。やべっ。

 あ、いや今は昼休みが終わって5限目が始まった時間だ、周囲には誰もいない。はず。

 

 ……心配なので周りを見渡してみる。

 んー、誰も居な、い、いな、あっ……(察し)

 

「ヒッキ―……」

「……あっ」

 

 自販機でマッ缶を買っている比企谷八幡を発見。しかも目が合ってしまった。て、てめぇー、見やがったな。

 俺はすぐさま立ち上がって彼の傍まで走って行った。ヒッキ―が若干狼狽しているが、知った事では無い。

 

「比企谷、お前いつからそこにいたんだ」

「い、いやっ、ついさっきだ。お前の声のデカい独り言なんて聞こえてないから安心しろよ」

「聞こえてんじゃねーか! 忘れろ!」

「そう言われてもな……」

 

 明らかに面倒くさそうな顔をするヒッキ―。

 我ながら少し大げさすぎたかもしれない。

 鬼気迫るような表情を崩し、俺も一本マッ缶を買い、二人で並んで移動することになった。

 俺は手のひらでマッ缶を転がしつつ、隣の主人公くんに問いかけた。

 

「もう授業始まってるけど、お前何してたの?」

「いつもと同じく外で昼飯食ってたんだよ。ほら、担当教員が休みだから今日の数学自習だろ。だから急ぐ必要もねぇかなって」

「あー、そういえばそうだった」

 

 相槌を打ちながら、缶を開けて非常識な甘さのコーヒーを口の中に流し込んだ。

 釣られるようにヒッキ―も缶を開けて、いつもの味を噛みしめている。

 

 そういえば、と、以前ゆきのんに言われたことを思い出した。

 比企谷の友人なのか。あの言葉が頭の中でグルグルしている。答えになっていない答えは彼女に返したが、結局のところ俺はヒッキ―をどう思っているのか考えてみた。

 前からそこそこ仲の良いヤツで、そこそこ一緒に昼飯を食う。彼にとって俺は材木座や戸塚のような気の知れた知人という枠に入っている人間なのかどうかは分からないが、俺は彼を―――友達だと、思っているのかもしれない。

 

 確かに彼は物語の主人公だ。俺の知っているキャラクターだ。

 だが、しかし。今自分の隣にいる彼はれっきとした人間で、物語の中では無かった諸々を俺は知っている。

 

 思うに。

 俺は彼をいちキャラクターではなく、隣を歩く友人として、認識しているのだろう。

 それはやはり間違っているのだろうか。

 原作どおりに、アニメどおりに、そんなことを言っていても俺は彼と知り合った。

 俺の中にある彼に対するこの感情は、ただ見守る対象へ向ける物では無いと理解している。

 

 俺はこの世界に生まれ落ちた。たまたまそこには自分の知っている物語があって、たまたまそれを覚えていた。

 覚えていた、だけだ。俺にとって比企谷八幡は、出会うべくして出会った高校時代の『友人』で、それがたまたま昔の世界で知っていた物語の主人公というだけなんだ。

 

 彼を色眼鏡で見るのは、人間として扱っていないも同然だ。そんなことをするのが、本当に友達と呼べるのか?

 俺はこの友達より、昔の世界のこだわりを優先させるのか?

 

 ―――ふと、少しだけ熱が冷めた気がする。自分はいったい何に必死になっていたのだろうか。

 ここは、俺の生きる世界だ。彼ら彼女らの物語が終わったとしても、この世界は終わらない。俺は消えたりしないし、美加も、優希も、父さんも母さんも、奉仕部の二人も、いろはすも、めぐり先輩も、隣にいるこの比企谷もその存在はこれからも紡がれていく。

 

 ここは「やはり俺の青春ラブコメは間違っている」という物語が存在しているだけの世界で、彼は誰かが描いたキャラクターではなく、俺やこの世界の皆が知っている比企谷八幡というただ一人の人間だ。

 彼の知り合いには、霜月大悟という存在がいる。俺がいる。そしてその存在はこれからも有り続ける。

 

 

 もう、いいんじゃないか? 俺は俺の人生を生きても。俺はこの世界の異物じゃない。この世界に生まれた一人の人間なんだ。

 あの物語に固執して、彼ら彼女らを色眼鏡で見るのはもう止めよう。ただ一人の友人として、彼と接して行こう。ただ一人の生徒として、奉仕部を頼ろう。

 

 

 ……だ、だって、もう遅いじゃん。めぐり先輩のメアドは貰っちゃったし、ゆきのんにも頼ってねって言われたし、ヒッキ―とだって長い付き合いになっちゃったもん!

 もうここは俺の知っている俺ガイルじゃあないから。俺という存在が完全に食い込んじゃってるから。

 

 転生者じゃなくて、霜月大悟として生きていく。ヒッキ―の友人として生きていく。そうすることで誰かに咎められる訳では無い。だって、ここは、俺の生きる世界なのだから。

 

 

 ま、待って。もしかしてヒッキ―が俺のこと、別に友達だと思ってなかったら……あぁ、うわ、俺ってかなり悲しい奴ってことになるな。

 今の状況、俺が勝手に友達面してるだけだし……。

 不安になってしまった! もう本人に聞いてしまおうか??

 

 一気に缶の中身を飲み干し、彼が歩くのを止めさせるかのようにずいっと彼の前に出る。

 ヒッキ―は困惑している。が、今だけでいい、聞いてくれー! 悟空ー!

 

「ひっ、比企谷、あのさっ!」

「……え、なに、告白されんの俺? ちょ、そっちの方向には興味が無いといいますか……」

「ち、ちげーよ! なんでそうなるんだよ!」

「じゃあ、何なんだよ。いったい」

 

 あ、ええっとね、ヒッキ―、その、あのっ……え、なにこれ!? ラブコメ!?

 

「放課後ぉっ、さ、サイゼ行こうぜ!?」

「何でそんなテンション高いんだよ」

 

 面倒くさそうに後頭部をかく彼をよそに、俺はその場で返事を待った。ごくり。

 

「いや、別にいいけどよ。今日は部活ねぇし」

「マジで」

「おう」

 

 当たり前のように返事を返してくれた彼を見て、俺は呆気にとられてしまった。

 あ、いや、そりゃそうなるよな。前の世界で友達に「俺たちって友達だよな?」なんて聞いたことなかったわ。

 放課後にファミレスに一緒に行く。これって、友達だよな。

 

「ていうか霜月」

「な、なに」

「流石にそろそろ教室戻らないとまずいんじゃねーの?」

 

 彼の言葉でハッとした。確かに!

 

「走るぞヒッキ―!」

「由比ヶ浜みたいな呼び方やめろ……っておい、待てって!」

 

 

 廊下を駆け抜ける俺とヒッキ―。

 数十メートル先に平塚先生が見えたような気がするけど気にしないぜ!

 ―――俺たちの戦いは、これからだ!!

 

 

 

 

 

「止まれ馬鹿ども」

「「ヒィッ」」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





気が付けば1話初投稿から3年半。本当は半年かからずに終わらせるつもりだったんですけども。
これにてヒッキ―によるオリ主攻略ルート小説は終わりとなります。
お気に入り登録や評価、感想や誤字脱字報告なども頂けて嬉しかったです。
とてもここだけでは伝えきれませんが、本当にありがとうございました まる


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特別編 トラブル続きの後日談

ショートショート形式になってます



 

 

 

 

 こんにちは休日、久しぶりに兄妹で出かけています。年始はいろいろバタバタしていたが、最近はようやく落ち着いてきた今日この頃。少し困ったことがある。

 

 退院してからというもの、美加が俺にべったりなのだ。別に悪い気はしないし、むしろお兄ちゃん感動でむせび泣きそうなんですがね。

 

 ……いや、あのっ、一緒に風呂入ろうとするのはどうなんだ? このまえ湯船で鼻歌歌ってる途中で、急に風呂場に押し掛けてきたときは心臓止まるかと思ったわ……。

 

 どうやら俺の眠っている間に彼女の中では何かが変わったらしく、それにならって俺もたどたどしい雰囲気で接するのは辞めた。昔みたいに、もっと近い距離で。

 美加が積極的になってくれたのも、彼女と仲が良い比企谷妹のおかげかもしれない。グッジョブ、小町さん。

 

「ねぇ兄貴、お昼どこで食べる?」

 

 もこもこの温かそうなパーカーを着て隣を歩いている美加が、俺の袖を引いて声を投げかけてきた。

 現在俺たちがいるのは街中で、これといって目的もなくぶらついている。そろそろ時間帯もいい頃だし、がっつり食える場所にでも行こうか。

 

「そうだなぁ。んじゃあ、巨匠比企谷八幡氏おススメのラーメン屋でも行くか」

「なにそれ……」

 

 呆れたような表情の妹を引き連れて、路地裏を歩いていく。

 これから向かう先は、あの一色いろはにも「うまい」と言わせた最強のラーメン屋である。

 10.5巻よかったよね……。

 

 

 

 訪れた店内に腰を下ろし、二人して同じ種類のラーメンを注文した。別に合わせなくてもいいと言ったのだが、同じものが食べたい、とのこと。お前俺のことが好きなのか?(自意識過剰)

 

 数分待てば、俺たちの前には湯気の立った熱々のラーメンが運ばれてきていた。二人して手を合わせて、食事のあいさつをしてから割り箸を手に取る。

 俺はレンゲでスープを味わいつつ、隣を見る。そこにはなにやら目をキラキラさせて麺を頬張る妹の姿が。気に入ってくれようでなによりである。 

 その様子に安堵し、俺も麺に手を付けていく。うむ、美味なり。こんなラーメン屋も知っているし、比企谷兄妹は有能ぞろいだな。

 

 

 ───ふと、美加とは反対の隣……つまり俺の左側から、妙に甘ったるい声が聞こえてきた。

 

「あの~、先輩。あれって……」

 

 ふわふわな栗色の髪の毛に、大きい宝石のような瞳。どこまでも見覚えのある、サッカー部のマネージャー。

 

 

 やせいの いろはすが あらわれた!

 

 

「うわっ、あれってハチじゃねぇか?」

 

 その隣には見慣れた友人、比企谷八幡。二人とも私服で、店内の天井を見つめている。

 ……あっ、10.5巻だこれ。めちゃくちゃいろはす成分高めの番外編だぁ。

 なんだったかな、確かデートプランの予行練習? だか何だかで、ヒッキーをいろはすが連れまわす話だったような。

 

「ねっ、ねぇ、兄貴っ、ハチが飛んでるし、逃げよ……!」

 

 相変わらずかわいいなぁ、いろはす。あざとさと殊勝さとまっすぐさを兼ね備えた、完璧後輩。ヒッキー、この子を選ぶ選択肢も考えておいてくれると嬉しいぞ。この世界はもう俺ガイルの世界じゃないし、アナザールートを進んでくれても一向にかまわん。

 

「あっ、一色! そっち行ったぞ、逃げろ!」

「うわわぁっ、こっち来るな──あっ」

 

 

 

「……(。´・ω・)ん?」

 

 

 唐突に股間を襲う、灼熱の感覚。自分の下腹部を見ると、そこにはひっくり返ったラーメンの器が。

 右を見れば口に手を当ててプルプルしている美加。左を見れば真顔のヒッキーと、絶句しているいろはすが。

 

 そしてほんの一瞬訪れる静寂。その瞬間、体の異常を脳が冷静に感知する。

 

 

 

「───あ゛ぁ゛ぁ゛っ゛っ゛ぢぃ゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ッッ!!!」

 

 

 

 

★  ★  ★  ★  ★

 

 

 

 

 

 週明けの月曜日は、放課後になっても倦怠感が抜けきらない。サッカー部の練習も気合が入らないし、今日はもう帰ろうかな。

 そんな適当な気持ちで戸部とボールのパスをしていると、校庭の端っこから悲鳴が聞こえてきた。俺も戸部も、思わずそっちに関心が向く。

 

「なんだ?」

「おっ、おー……霜月くん、あれハチだべ!」

 

 校庭の端に見えるのは、サッカー部の女子マネたちの周囲をブンブン飛び回るハチと、逃げ回る阿鼻叫喚の彼女たちの姿だった。

 

 またかよ! なんなの、最近はハチブームか何か?

 一昨日は股間にいろはすのラーメン(意味深)ぶちまけられて大変だったんだぞ、あのハチ野郎……(殺意)

 

「おい戸部っ、あのハチ殺すぞ!」

 

 了解っしょ! と元気な戸部の返事を聞き、二人してコールドスプレーやら殺虫剤やらを武装して、ハチのもとへ駆け出した。

 

 逃げ回っている女子マネたちを追いかけるハチの前に立ちふさがり、武器を構えた。

 しかし……。

 

「こえぇー! 霜月くんあとは頼むわ!」

「あっ、コラ逃げんな!」

 

 すたこらさっさと逃げた戸部は見限り、改めて正面を向いてハチと向かい合う。

 ───なっ、なんだこのプレッシャーは……! くぅ、敵前逃亡した戸部の気持ちもわかるぜ……。ていうか俺も逃げてぇ。

 

 ブゥン、とこちらに飛んでくるハチ。じょっ、じょじょ上等じゃい! かかってこいコラ!

 

「このコールドスプレーで凍らせて──」

 

 右から攻めてきたハチに、コールドスプレーを大量噴射した。

 

 

 しかし、いつの間にかハチは俺の左にいた。

 これは──デビルバットゴースト!? 素早いステップで幻影を作り出し、相手を欺く伝説の技……だと……。

 

「アイシー〇ド21かテメェェ!!」

 

 喚く俺の横を通り過ぎるハチ。あくまで狙いは女子マネってわけか、このエロ野郎!

 ……エロ野郎ってなんか語呂よくね?

 

「きゃぁっ! 葉山先輩たすけてぇ!」

 

 ハチが目前に迫って葉山の名を叫ぶ女子マネこといろはす。何で目の前の俺じゃないんじゃい!

 あーもう、くだらないことを考えている暇はない!

 

「うぅっ、先輩……!」

「いろはすぅっ!!」(いまの先輩ってヒッキーのことだよね!? いろはすルート来たか! 勝った、第三部完ッ!)

 

 脳内ラブコメが全力でフル回転している俺は、いろはすを庇うようにハチに背中を向けた。

 その瞬間、後頭部に言い知れぬ違和感と激痛が。

 

 

 プスッ。

 

 

「───ぃ゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ッッあ゛ぁ゛ぁ゛っ゛っ゛!!!」

 

 

 

 

★  ★  ★  ★  ★

 

 

 

 

 保健室のベッドで寝転がっている俺は、ぽけーっとアホみたいな顔で寝ていた。寝ているといっても姿勢のことで、目は開いたままだ。

 どうやら俺を刺したハチは大して毒性がなかったらしく、保健室で応急処置を受けた俺は少し安静にしているだけでいい、とのこと。

 

 それにしても暇だ。これならサッカーの練習してたほうがマシだったな。

 そんなことを考えながらボーっとしていると、ガラガラと保健室の戸が引かれた。誰かが来たみたいだ。

 ちょっとドキドキしていると、俺のベッドを覆っているカーテンが少し開かれた。そこから見えた人物の顔は、とても見慣れたもので。

 

「霜月先輩……だいじょぶですか……」

 

 心配そうな表情をしているのは、つい数十分前に俺が助けたいろはすだ。どうやら練習を切り上げたらしく、その服装は制服に変わっている。

 俺は上半身を起こし、軽く笑って見せて無事を伝えた。するといろはすはホッと胸をなでおろし、後ろ手に持っていた缶ジュースを手渡してくれた。これは……。

 

「なんでマッ缶?」

「何持ってけばいいか分からなくて、葉山先輩に聞いたら『霜月は昼休みいつも比企谷と一緒にマッ缶飲んでるよ☆』て言ってたので……」

「だからって病人にこれか……いやまぁ飲むけど。サンキュな」

 

 カシュっとプルタブを開け、缶の中にある非常識な甘さの液体を口に流し込んでいく。うむ、旨い。

 

「あの、霜月先輩……ありがとうございました」

「いいってことよ」

 

 なんだか遠慮がちに礼を言ういろはす。結局最後まで俺の名前は呼ばれなかったけど、ヒッキーへの好感度が垣間見れたから許すぞ。

 俺の平気そうな表情を見て、何を思ったのか、いろはすはベッドの横の椅子に腰かけた。

 特別何かを話すつもりも無いので、そのまま俺はマッ缶を味わう。

 

 

 数分後、ふといろはすから声がかかった。

 

「霜月先輩って、先輩と仲いいんですか?」

「その先輩って誰だよ」

 

 俺の意地悪な返事に、いろはすはムッとした表情で返す。ほっぺが膨らんでてかわいいね。

 いや、まぁ、分かってるけども。いろはすが名前を呼ばずに『先輩』とだけ呼ぶ人物なんて一人しか心当たりないしな。

 

「……比企谷とは友達だよ」

 

 観念して、溜息を吐きながらそう言った。いろはすは意外そうな顔をしていたが、別に嘘じゃないので訂正はしない。

 まぁヒッキー、俺以外にも戸塚とか材木座とか友達いるけどね。

 

「意外ですね、霜月先輩って友達いたんですか」

「おもて出ろお前」

「冗談ですよ~」

 

 にひひ、といたずらっぽい笑みを浮かべる女子マネ。ヒッキーじゃなくて俺の心配かよ、余計なお世話じゃいアホ。

 

 

 ……ていうか、一色いろはとまともに会話したの、今日が初めてじゃないか? なんだかんだラーメンの時はすぐに帰宅して、それ以前は論外。むしろ修学旅行前の時期なんか「原作通りに~」なんて考えて、自ら彼女を避けてたほど。今思うとアホみたいだな。

 てかそう考えると、最初から一色いろはに「からかうような接し方」をされるのって、めちゃくちゃ距離感おかしくないか? ほとんど話したことも無い先輩相手なんて、あのいろはすならすぐに会話を切り上げてすぐに退出しそうなものだが。

 

 一色いろはという少女は、興味の無い人間にはとことん興味がない人間だったはず。戸部との会話とか見てたら分かるぞ。猫すら被らずに、正面から「面倒くさい」オーラを出すような性格だ。

 生徒会長になって、意識を改めたのだろうか。彼女が生徒会長に就任した時期は、俺は病院のベッドの上で眠りこけていたので、意識の変化などはこの目で確認していないのだが……。

 

 ──あぁ、そうか、分かったぞ。

 

「最近比企谷とはどうなの、うまくやっていけそう?」

「……はっ?」

「あいつ結構面倒くさいから、もっと積極的でも大丈夫だぞ」

 

 俺の急な発言を聞いて、いろはすは一瞬呆然とした。

 そして脳内で言葉の意味を理解していくと同時に、みるみる耳が赤くなっていく。

 

「なななっ、なに言ってるんですか!」

「ちょろはすかわいい」

「私が可愛いのは当然ですよ! それより誰がチョロインですって!?」

 

 赤面して激高するいろはす。そこまで言ってないんだけどね。

 

 

 彼女が俺と距離感が近い理由。それは考えるまでもなく、比企谷八幡の影響だろう。あのヒッキー先輩の友達となれば、そいつがどんな人かはおのずと答えは出てくる。

 ありがとうヒッキー、可愛い後輩ができたよ。あといろはすルートに行け(豹変)

 

 

 ぷんぷんになってしまったいろはすは、もういいですと言って保健室から出ていった。帰り際に「……お大事に」と言ったのを、俺は聞き逃さなかった。おまえかわいいな!

 

 

 

 

 

★  ★  ★  ★  ★

 

 

 

 

 

 数日後の放課後、俺はコンビニでお菓子やら飲み物やらを買い漁り、帰路に着いていた。明日は祝日なので、家でゴロゴロする用の贅沢セットを購入したのだ。美加の分もあるぞ!

 

「~♪」

 

 優雅に鼻歌を吹きながら歩く。少し前に保健室でいろはすとお話しできたので、気持ち的にかなり舞い上がっているのは事実だ。いやぁ、後輩がいるっていいですねぇ。自分に敬語で話してくれる女の子なんて、今までコンビニバイトの店員くらいしかいなかったからなぁ。

 

 

 ちょうど街中を過ぎた辺りで、見慣れた住宅街の景色が見えてきた。このまま少し先まで歩けば、近所の公園もある。

 ……あの公園、いろんな意味で思い出深いんだよな。

 めぐり先輩と初めて会話した場所だし、俺が彼女に弱みを見せた場所でもある。なんかいい思い出と忘れたい記憶が交互に存在しているので、あの公園は妙に思い出深いのだ。

 

 んー、ちょっと寄ってみるか。別に何かするわけでもないけど、帰り道に公園があったらとりあえず寄る、みたいな習性ない? 俺はある。心はまだまだ中二病なので、主にブランコに揺られながら物思いに耽るとかやりたい。

 

 

 ───あっ、あれ?

 

「ニャァ」

「ふふっ……にゃぁ~♪」

 

 こっ、公園でノラ猫と戯れている、あのほんわかオーラを纏った女子生徒は!

 ──やせいの めぐりんが あらわれた!

 

「……あれっ、霜月くん?」

 

 脳内でいつも通りくだらない事を考えていたら、めぐり先輩に存在を気づかれてしまった。優しそうに微笑んだ彼女は、こちらに軽く手を振っている。どうやら俺はジッと彼女を見たままだったらしい。公園の入り口で、コンビニ袋を引っ提げて、女子高生を眺める男。……おっと、通報は待ってくれたまえ。

 無視するのは論外だが、だからといって馴れ馴れしく挨拶するのも憚られる。とりあえず軽く会釈をしてから、俺はゆっくりとほんわか女子の方へ歩いて行った。

 

 俺が近づいてもノラ猫は逃げるそぶりを見せず、むしろ俺の靴に顔を擦りつけてくるくらい人懐っこい。こんなに距離感が近い猫ならば、めぐり先輩が(ほだ)されてしまうのも無理ないな。

 ……ていうか、めぐり先輩の家ってこっち方面じゃなかったような。

 

 俺も彼女と同じように膝を曲げて屈み、猫を軽く撫でながらそれとなくめぐり先輩に声をかけた。

 

「どうしたんですか、こんなところで。めぐり先輩の家って、この公園とは反対の方向ですよね?」

「えっとね、友達のおうちへ泊まりに来たんだ~。……えへへぇ、にゃぉ~♪」

 

 微笑んだまま猫を撫でるめぐり先輩。……先輩のご友人、やはり神だったか。再びその恩恵に肖るときが来るとはな……! 

 というか、可愛い。猫の真似をする先輩が宇宙破壊するレベルでかわいいんだけど、どうしたらいんだこれ。そろそろ俺の心臓止まるぞ。その心臓貰い受ける!

 

 しかし会話が途切れて気まずくなるのはダメだ。とりあえず俺から話題を振っていこう。

 

「てことは先輩、明日はお友達と遊ぶ予定なんですか」

 

 ……あれっ、なんか気持ち悪い質問になってんぞ? なっ、なんかこの質問キモくねぇ!? 泊まるってことはすなわち遊ぶってことも同義なのに、改めてそれを聞くって「俺とは遊んでくれないんですか?」みたいな意味に聞こえないか!? やべー!!(緊張で混乱しているため冷静な判断ができていない)

 

「んーん、明日も学校でお昼まで用事があってね。こっちの方が総武高に近いから、泊めてもらうの」

 

 猫を見ながら呟く先輩。どうやら質問を深読みされることは無かったようで安心だ。

 それにしても、明日も学校で何かしらやるなんて忙しいな。せっかくの休日なのだし、友達と遊ぶか家で休むかしたいだろうに。

 

「お疲れ様です、めぐり先輩」

「えぇ~、霜月くん、それ皮肉に聞こえるけど」

「え゛っ、あっ……すっ、すいません!」

 

 目を細めためぐり先輩に軽く肩を小突かれる。というより、ツンツンと触られているだけのような。

 やっ、やめてぇ! 思春期の男子に気安いボディタッチは……マ°っ! あぁ゛↑ッ!!(好きになる音)

 ……ちょっとおちつけけけ。取り敢えずだけど、こんな所で会えたのはとてつもない幸運だ。とにかく会話を続けて……なにかアピールしよう。いつまでも奥手じゃ、先輩に振り向いては貰えない。

 

 

「あのっ、困ったことがあったら手伝いを───」

 

 

 言いかけた瞬間、めぐり先輩の目の前を『ハチ』が通過した。

 その不快感を掻き立てる羽音を聞いためぐり先輩は吃驚して、思わず体勢を崩してしまい── 

 

「わっ、ハチっ! こっち来ないで──」

「うわっ──」

 

 

 まさしく神のいたずらか。

 こちらに倒れてきた先輩に押され、俺は仰向けの体勢で地面に寝転がってしまい……めぐり先輩は俺の上に覆いかぶさった。

 

 先輩の両手が俺の顔の真横に置かれ、下半身は完全に俺の身体の上に乗り、顔は野球ボール一個分もないほどの近距離。

 

「あっ……」

「……せっ、先輩……」

 

 お互いの息が当たるぐらい、呼吸が大きく聞こえるほどの、ほぼゼロ距離。もう一歩間違っていたら、彼女の顔は俺の顔面に覆いかぶさり、その唇も重なってしまっていたかもしれない……そんな風に思えてしまう程、彼女との距離は近すぎた。

 なんだか腰や胸辺りに柔らかい感触が当たってるし、目の前の宝石のような輝く瞳から目を離せない。

 

 

 気がつけば、不快感を煽るようなハチの羽音は聞こえなくなっており、俺たちの周囲は静寂が支配していた。

 近くの道路は車も通行人も通らず、近くにいたはずのノラ猫すら姿を消し───まるでこの世界に俺たち二人だけしかいないのでは、なんて思えてしまう程に、目の前の音しか聞こえない。

 トクン、トクンと、俺の上半身に当たっている彼女のシャツ越しの大きな胸から、俺と同じ……あるいはそれ以上に激しい心臓の鼓動を感じる。

 お互いの眼と眼が合い、相手の少し火照った頬から視線を逸らせない。瞬きすらできず、息と息が交差する。

 

「──」

 

 まるで時間が止まったかのような錯覚に陥る。お互い何も言葉にできず、また思考すらも止まっているのか、ただ目の前の瞳を見続けている。

 

 

 

 

 

「──ッ!」

 

 一体どれほどそうしていたのか。一分か、十秒か。

 気がついた時には、顔を真っ赤にしためぐり先輩は俺の上から離れ、二人して立ち上がった後に顔を反らした。

 何とも言えない気まずさと羞恥心がせめぎ合い、お互い相手にどんな声をかければいいのかが分からない。

 

 ……それでも俺は男なので、やっぱりここは俺から!

 

「あのっ、先輩」

「わっ、忘れて! ごめんねっ、変なの押し付けちゃって……! あのっ、ふっ、不可抗力だから!」

「こっこ、こちらこそすいません!」

 

 とにかく相手に謝り倒す両者。普通に考えて元凶はあのハチなのだし、お互い罪は無いはずなのだが、なんというか、謝りたかった。というか、言うべき言葉がそれしか見つからない。

 

 

 

 ──数分後。ほんの少しは落ち着いたので、いまは二人でベンチに座っている。

 真っ赤だった肌はまだ少し熱いが、頭はそれとなく冷静だ。

 とりあえず会話を持ち直して、ハチが来る前に俺の言いかけていた言葉を告げる。

 

「あのっ、なにか手伝えることとか……ありませんか」

「……うーん、明日は個人的な用事だから、特に無いかなっ」

 

 あまりにも笑顔であっけらかんと言い放つめぐり先輩に、思わず苦笑いしてしまう。なんつーか、容赦ない……。

 

 いやまぁ、出来る事が無いなら、でしゃばるのは良くないって分かってるけども。

 だけど、めぐり先輩は三年生だし、そろそろ自由登校の時期になる。そうなれば、高校で会う機会なんてほとんど無くなるだろう。

 奉仕部が開催するバレンタインのイベントで、姿を確認することはできた。でもこの世界で同じようになるとは限らないし、そもそもそのタイミングしか会えないなんて、いくらなんでもチャンスが少なすぎる。

 

 ……めぐり先輩にアピールする時間が、圧倒的に足りない。せっかく振り向いてもらえるような機会を彼女から貰えたのに、このままじゃ意味が無い。

 どうすりゃいい。もういっそのこと、思い切ってデートにでも誘ってみるか? いや段階飛ばしすぎだな。もっと距離感を縮めてからじゃないと、普通に断られちまう。

 えぇっと……何かないか。

 

 ──あっ、明日の用事は確か午前中で終わるって、先輩は言ってた。そのあとの時間が暇なら……こう、何かできるんじゃないか?

 

 思いついたように顔を上げて、期待の眼差しでめぐり先輩の方を向いた。

 

「先輩っ、明日のお昼過ぎとか──」

「そういえば明日ってお昼から雨らしいね!」

「………そっ、そうっすね……」

 

 俺の瞳から光が消えた。ははは……なんて乾いた笑いが口から漏れて出ていく。

 終わったぁぁ!! はいっ、終わりぃぃぃ!! 一発KOッ! カンカンカン!(ゴングの鳴る音)

 

(もっ、もう潔く諦めよう……)

 

 心にケリがついてしまった俺は、ゆっくりと立ち上がった。これ以上この場に留まっても辛いだけである。もう会話は切り上げて、めぐり先輩をお友達の家まで送り届けたら、帰ろう。

 

 

 先輩の方を向いた。そろそろ帰りましょう、そう言おうとして───制服の袖を、軽く引っ張られた。

 何事かと思ったら……先輩が、なんというか、目を細めていたずらっぽい笑みを浮かべて俺を見上げている。なっ、なんだ……?

 

「そういえば明日って、お昼から雨がふるらしいね」

「……へっ? えっ、えっと、それは、さっき……」

 

「あぁー、私ってうっかりさんだからなぁー。もしかしたらぁ───カサ、忘れちゃうかもなぁー」

 

 わざとらしく大袈裟に告げたあと、ベンチに座ったまま、その蠱惑的な眼差しでチラッと俺を見つめる先輩。

 そんな彼女の行動に狼狽してしまい、俺は何も言うことが出来ない。何を言えばいいか分からない。

 なんだっ、どっ、どういうことだ!? これは、これは何だ!?

 

「せっ、先輩っ、それってどういう」

「………聞いちゃうの?」

「──ッ!」

 

 その、まるで挑発するかのような瞳は、俺の言葉を塞き止めた。口角を少しだけ上げ、怪しげに微笑んでいる。

 一種の妖艶さを感じるその笑みを見て、後ずさりそうになった足を踏ん張って止めた。

 

 

 これって、もしかしなくても──またチャンスを与えてくれているのか。

 明日は雨がふるけれど、カサを忘れるかもしれない。その言葉から想像できる、俺の言うべき言葉を、彼女は知ってて待っている。

 いや、むしろ言わされようとしているのか。この状況、もはや自分に他の選択肢なんてない。目の前の小悪魔は、完全に俺の退路を断ってしまったのだ。

 

 ……なっ、なんか掌の上で転がされているように感じるな!?  

 めぐり先輩は、あえて俺から誘う形で事を運ぼうとしている。それは彼女の優しさか、それとも……。

 いやっ、迷ってる暇なんてないだろ。どんな形であれ、これは俺にとって絶好の機会だ。

 言ってやるさ、先輩が言わせようとしている言葉を。……その上で、明日は先輩の予想を上回る行動をしてやる。負けたままじゃいられねぇからな!

 

 

「あのっ、お昼頃! 俺がカサを持って先輩を迎えに行きます!」

「本当? やったぁ、霜月くんは優しいなぁ~」

 

 えへへ、なんて笑いながら、俺の手を借りてベンチから立ち上がる先輩。まるでエスコートをしているかのようだ。

 

 

(……ふっふっふ、めぐりん先輩、今のうちに余裕ぶっているがいい! 明日の俺は、あなたの予想を上回る立ち回りをして見せましょう! そしてあっという間に……惚れさせてやるぜッ!!)

 

 今世紀最大のやる気に満ち溢れた俺の内心を知ってか知らずか、彼女はやさしく微笑んだ。せいぜい頑張りな……そういう意味だろうか。

 心の中では既に明日の予定を組み始めている。まだ完全に決まりはしないが、きっと先輩の想像を遥かに超える行動をしてやる。

 

 

 

 

 そんなふうに意気込んでいたら、いつのまにかめぐり先輩は俺の耳元に顔を近づけていて

 

 

 

 

「明日の夜、私の家(ウチ)───誰もいないんだけど」

 

 

 

 

 

 小さな声で、そう囁いた

 

 

 

 

 

 

 

 ───??????????????

 

 

 

 

 

 

 

 それだけ言い残し、めぐり先輩は「またねっ♪」と手を振りながら公園を小走りで去っていった。

 その場に残されたのは、哀れにも最後までほんわか小悪魔に弄ばれていた少年のみ。

 

 

「………………うぅっ、すっ、すきっ……」

 

 

 頭の中を支配した思考が、口から簡単に漏れ出る。リンゴのように赤くなった自分の顔を両手で覆い隠して、その場にうずくまった。

 惚れさせるなんて、夢のまた夢。逆に自分が惚れさせられてしまった。

 俺が彼女に勝てる日は、果たして訪れるのだろうか。 

 

 たぶん無理なんだろうな、なんて思いつつ、頭の中で散らばってしまった明日のプランを組み直すのだった。

 

 

 

 

 




ハチ「また俺なにかやっちゃいました?」


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