ある伯爵家子弟の評伝 (金柑堂)
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序文

更新が少々不定期ですがよろしくお願いします。


私はこれよりここにある一軍人、本来ならば私がこのようなものを書くまでもなく、人々によって多く語られるような生涯を送りながらも、実際にはこれまであまり語られることのなかった一提督の生涯を記そうと思う。

 

彼の生まれは特別変わっていたものではない。むしろ当時の世の中において、それは“平凡”とも称しうるものであった。国内に何千家と存在する貴族の中の一家に、嫡男として生まれた。父と親族より育てられ、勧められた道を勧められるままに歩んでいた。ただその途中で、とある出来事により彼は違う道を歩き始めた。偶然であろうと必然であろうと、彼が歩み始めた道はそれまでと全く違うものとなった。

彼はのちにこの出来事を“偶然とはいえ、起こったことを呪いたくなる出来事”と手記や友人との会話の中で述懐している。このことに関してはのちに記す。

 

彼の人生も、見方を変えてみれば平凡なものになるだろう。その可能性を秘めている。だが、その“視点”はかなり底意地の悪いもので、彼の人生を記すにあたっては不適格なものである。故に当然ながら、私はそれを極力排して彼の人生について述べていこうと思う。

思うに、彼の人生は平凡なように見えて、その中に異質なものがところどころにみられる。これといって特異的なものではないが、だからといって平凡でもない。私が幼き頃、彼の人生を初めて知り終えたときにはこのような、生意気に冷めた感想を抱いたものだった。

 

この軍人の生涯を記すに当たり、彼自身の手記と友人たちや彼の家族の回想録や現在開示されている公式資料に依った。今後、彼という人間とその生涯に関しての研究が進歩することを願い、これを記すものである。

読者の諸君が、彼の人生に触れていかなる思いを抱くかはわからない。だが、私にとってはその思いこそが、私の拙い試みの目的なのである。

 

宇宙歴一一三七年 スタイルズの自宅の書斎にて アルフォンソ・ルイス・チョムスキー

 



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誕生と幼年期

彼は帝国歴四五二年の七月五日に、帝国貴族リスナー伯爵家の嫡男としてこの世に生を受けた。父の名はシュテファン、母の名はマリー・フランツィスカといった。

シュテファンは軍人として帝国軍宇宙艦隊に在籍していたが、父親である先代伯爵ロベルトの急病を受けて帝国軍を退役し、それから間もなくして父がかえらぬ人となると、彼は伯爵家を継いだ。シュテファンは長男であり、下に弟が二人いる。

母親のマリー・フランツィスカは、数えて三代前の皇帝、強精帝オトフリート四世の孫にあたる女性で彼女自身もツェルギーベル男爵夫人という爵位を叙爵されている。彼女の母親であるイザベルはオトフリート四世の庶子で、この孫の誕生から五年後の帝国歴四五七年の夏に老衰で亡くなっている。。待望の跡継ぎが生まれたのはいいのだが、シュテファンは嫡男の名前に迷った。

生まれてくる前にはいくつか有力な候補が上がっていたのだが、いざ生まれたわが子に対面するとなると、それらも宇宙のかなたに飛んで行ってしまうらしい。

病院のベッドの前で椅子に座り、一族の家系図や帝国軍人名鑑などを傍らに、腕を組み、うんうんと唸りながら一時間ほど考えて、彼はようやく結論を出した。

 

エンゲルベルト・クサーヴァー・フォン・リスナー。リスナー家初代当主エンゲルベルトと四代目当主フランツ・クサーヴァーをその由来としたものだった。

シュテファンはこれで家がにぎやかになると思ったのだが、その後拍子抜けした。

彼、エンゲルベルトは両親と親族の語るところによると、とてつもなく寝つきの良い子供であった。“赤ん坊の仕事は寝ること”などとはよく言ったものだが、エンゲルベルトはそれを体現したような子供であった。そして寝た分、よく食べた。だが夜泣きが少ないこともあって、彼らをかえって心配させた。

エンゲルベルトはその後すくすくと成長し、五歳となった。文字を認識できるようになってから、母親のマリー・フランツィスカより文字と、軽い文法を教わっていた。彼はその翌年、正式に叔父達に引き合わされた。

 

リスナー伯爵家先代当主ロベルトとその妻ヨハンナの間には三人の息子がいた。嫡男がエンゲルベルトの父のシュテファン、二男がカール、三男のアルツールである。二男のカールは、現在式部武官の一人として新無憂宮(ノイエ・サンスーシ)に勤務している。末弟のアルツールは幼いころより音楽が好みで、またその才に溢れており、現在は宮廷お抱えのオーケストラの一員として、指揮者とヴァイオリンを始めとした弦楽器の奏者を務めている。彼ら三人は父ロベルトの勧めによってそれぞれの職務に就いたのでもなく、各々の適正と決断によるものであった。

 

六歳になると、エンゲルベルトには本格的に嫡男としての教育が始まった。だが、その内容はいくらか家庭環境に影響されている部分が多かった。

叔父のカールからは体力作りのための運動と発声練習、アルツールからはヴァイオリンをはじめとした楽器全般と音楽の知識を教え込まれた。この二人とも既婚者で、自分の家を継ぐ後継ぎもいるのだが、この甥には彼らの子供と同程度の熱心さで教え込んだ。

先ず成果が出たのはカールの教育で、式部武官に向いているかどうかは少々不明であったが、張りのある大きな声がでるようになり、普段の食生活と相まってしっかりとした体つきになり、体力もついた。その一方、アルツールによる教育は知識の面では成果を収めたが、実技の面では芳しくなかった。アルツールの評価によれば“形にはなっているのでそれなりに聞いていられるレベル”とのことである。

当主であるシュテファンと母親のマリー、そして伯爵家の家臣からは、帝国とリスナー伯爵家の歴史、それと帝国貴族に必要とされる諸作法や常識を教え込まれた。シュテファンは貴族の作法にとどまらず、帝国軍における作法やある程度の基本もエンゲルベルトに教え込んだ。それによりエンゲルベルトはある程度自分の進路を察した。親子の間で暗黙の了解のように理解されていることだった。

エンゲルベルトの貴族社交界御披露目は帝国歴四六二年の一月十日、彼が九歳のころであった。新無憂宮の黒真珠の間で開催された新年の祝賀会においてであり、そこで多くの貴族諸家も彼らの子弟の披露を行った。エンゲルベルトは両親とともに各方面への挨拶回りをし、そのあとは壁の花となって若い、食べ盛りの食欲を満たすことに専念していた。また彼はその宴会中ずっと仏頂面で、彼の両親を苦笑させた。

 

エンゲルベルトは、やがて始まったダンスの相手の誘いが来ないことにも動じなかった。その年に似つかない仏頂面で敬遠されていたのもあるが、彼はそんなものはどこ吹く風といった感じで音楽に耳を傾け、宮廷お抱えのオーケストラの光景を眺めていた。

「あの、ダンスの相手をしてもらえないでしょうか…」

すると、少し戸惑ったような声で、彼に後ろから声が掛けられた。振り向いたその先にいたのは、エンゲルベルトと同じぐらいの年の小柄な少女だった。彼女は艶のある長い黒髪を青いリボンで縛り、控えめだが品のある桃色のドレスを着ていた。誘いを受けた方は、このまま一回も踊らないのも対面が悪いと考えて、少女の手を取った。エンゲルベルトも少女も、貴族の備えるべき作法の一つとして、ダンスは教え込まれていた。公式の場で踊るのは初めてとあってエンゲルベルトは少々動きが固かったが、それは相手も同じことだった。

 

演奏が終わると、別れる前に少女に名前を問われた。エンゲルベルトの返しに少女はこう答えた。

「私はヘルダーリン伯爵家のエレオノーレと申します。以後お見知りおきを」

エンゲルベルトはそれに礼儀通りに返し、その場を離れた。

彼がこの宴会にて踊った相手はこの少女、エレオノーレ・フォン・ヘルダーリンだけであった。彼はその後声をかけてくる貴族たちと話しながら、やはり間を見つけては舌鼓を打っていた。彼の手記によれば、この新年祝賀会で彼が会話をした貴族の名前は、ヘルダーリン伯爵、フリーデベルト子爵、セレンドルフ男爵、ガープラー子爵、ヴェストパーレ男爵、マリーンドルフ伯爵、リヒテンラーデ侯爵と彼らの家族たちであった。そしてこの祝賀会には、この年で即位して六年になる皇帝フリードリヒ四世も出席していたが、母親のマリー・フランツィスカを見つけたため、後日、彼と皇帝は面会をしている。これは彼の手記にも、銀河帝国の記録にも残っているものである。

 

このフリードリヒ四世は、もともとなら帝位につく人物ではなかった。太公時代に放蕩の限りを尽くして、イゼルローン要塞建設の責任者であったセバスティアン・フォン・リューデッツ伯爵の賜死などで名高い吝嗇化の先帝オトフリート五世から勘当される寸前であった。四五二年の長兄リヒャルトの皇帝弑逆未遂の嫌疑による賜死から始まった一連の帝位継承をめぐった争いにより、帝位継承者が彼しかいなかったため、四五六年にゴールデンバウム王朝三十六代皇帝となったのである。その間、ロベルトが当主であったリスナー伯爵家はこれに深く関わることなく中立を保ち、シュテファンをはじめとした息子たちは各々の職務に精励していた。

 

マリー・フランツィスカの母、イザベル・フォン・ザイドリッツ子爵夫人は亡くなった時には八八歳と長寿で、太公時代のフリードリヒとも浅からぬ面識があった。マリー・フランツィスカも、母親に連れられて面会したことが幾度かあった。三代前の皇帝の庶子でとその娘という、準皇族ともいえるような立場であったためである。非常に温厚かつ読書と甘味、音楽鑑賞が趣味という至って平凡な女性であったこともその原因であるだろう。補足すると、彼の夫のフリッツ・フォン・ザイドリッツ子爵もまた、読書とゴルフ、飲酒と喫煙が趣味の同じような男だった。

 

祝賀会が終わると、エンゲルベルトは両親にしたがって新無憂宮を出た。

 

この祝賀会から六か月後、エンゲルベルトは十歳になると同時に、帝国軍幼年学校へと入学することとなった。この決定は二月にはエンゲルベルト本人に伝えられ、特に反対もなく受け入れられたが、入学までの間は両親と叔父達、そして家臣たちによる教育にさらに熱が入った。

 

 

 



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幼年学校入学

オーディンの銀河帝国軍幼年学校は十歳から十五歳までの五年間に、入学者に基礎体力や射撃、白兵戦技、操縦、礼儀作法などといった帝国軍人としての基礎を教え込む場所である。また、十歳から十五歳というその年齢に応じた、帝国史等の普通教育も行う方針となっている。ここを卒業した者は准尉として任官して軍務に就くか、士官学校に入学するかの二つの選択肢が存在する。学費は銀河帝国の国費で賄われているために無料であるが、卒業後任官を拒否して軍に在籍しなかったり、中途退学したりすると学費全額返還という規則が存在する。

 

エンゲルベルト・クサーヴァー・フォン・リスナーも、帝国歴四六二年の七月に其の門を叩いた。幼年学校に在籍中は上等兵待遇の軍属扱いが決まっていて、在学期間中は親元を離れて幼年学校の寮に住むこととなり、休日と祝日に外出許可が得られるシステムとなっている。だが、貴族の子弟が多く通うということもあってか、申請書類を提出しておけば、平日でも社交界などの用事に出席ができるというある種の“抜け穴”も存在していた。

 

当初、この幼年学校は士官学校同様貴族に対してのみ門が開かれていたが、ダゴン星域会戦を皮切りとした自由惑星同盟との慢性的、長期的な恒星間戦争により、貴族のみならず平民階級からの人材登用を計り、貴族の人的被害と軍全体の士官の数を補充するために、士官学校と並列して段階的に門が開かれていった。一律として全員に入学試験が課されるも。そこは軍高官や高級貴族の口利きなどの縁故による部分もはっきりと存在していた。

エンゲルベルトは二月の伝達以来猛勉強を開始し、入学試験では全体の十五番という成績で入学を果たした。この結果には、伯爵家の人々は驚いたそうである。どうやら予想外であったようだ。

 

大講堂での入学式を終えたエンゲルベルトは、そのまま案内役の教官に従って寮へと向かった。伯爵家の嫡男ということもあって、彼の大柄な体格はやはり周囲から目立っていた。

幼年学校の寮は原則的に二人で一部屋を用いることになっているが、そこは入学者数が奇数である時などによって、その都度変化が生じてくる。エンゲルベルトが入室したのは二〇九号室で、同居人はフランク・ベックという、平民の中級商家の三男坊の少年だった。

 

エンゲルベルトは学籍番号が早かったので先に入室しており、ベックはそのあとで入ってきた。どこかひどく緊張した様子であり、肩肘を張って、表情を強張らせながら入ってきた。

 

「卿は?私の同居人か?」

大きく、張りのある声がベックの鼓膜に響いた。エンゲルベルトは部屋にある椅子に腰を下ろしていた。先ほど配布された支給品の整理の途中だった。

「二〇九号室に配属になりました、学籍番号A-三二三、フランク・ベックです」

ベックがそういうと、エンゲルベルトは立ち上がった。

「そうか。私はエンゲルベルト、エンゲルベルト・クサーヴァー・フォン・リスナーだ。学籍番号はA-三八。新入生同士、これからよろしく頼む、ベック」

「ああ、よろしく」

エンゲルベルトが握手を求めると、ベックは差し出された手に戸惑いながらも握り返した。

握手を終えてからテーブルに向かい合って座ると、躊躇いがちにベックが聞いてきた。

「君は、本当に新入生なんだよね、フォン・リスナー?」

「ああ、今年で十歳だが」

「僕も同い年だけど、君、いや、卿はもう二つぐらい年上に見えるよ」

ベックが正直にそういうと、言われた人間は少し表情を険しくし、顎に手を当てた。

「私は、そんなに老け顔だろうか」

思わずため息交じりに出た言葉に、ベックは慎みながらも笑顔を浮かべた。

「その仕草だけで、卿はもう少し年上に見えるよ!フォン・リスナー!」

憮然とした同居人を見て、今度は少し声に出してベックは笑い、それにつられてエンゲルベルトも苦笑した。

 

入学式から二日の間は簡易な説明会が行われ、三日目から授業が始まった。座学にはついていけたという生徒も、持久走などの実学で音を上げる生徒が早くも出ていた。エンゲルベルトとベックは、持久走では他の生徒たちを追い抜いて先頭に立って、先導する教官の真後ろにつけていた。

この数日間過ごしてわかったことだが、自分の同居人はそれなりに神経が図太く、図々しいところがある。入学初日は猫を被っていたようで、流石に商人の息子といったところだった。

そしてこの同居人は、好奇心が旺盛で、度々伯爵家での生活や教育などについて質問してきた。身上がりを切望しているわけではなく、上流貴族というこれまで触れることのできなかった世界であるために興味が湧いたようだった。

「卿もあまりつまらないというか、面白くないことを聞くものだ」

エンゲルベルトは、思わずため息交じりにこう言ったものだった。

 

帝国軍幼年学校での教育カリキュラムは前述したような実学と座学、そして中等、高等学校に相当する普通教育で構成されている。単位制ではなく全て年度毎に設定される時間割に基づいてのことだが、エンゲルベルトはその中で、文学や歴史学などの人文科学系統の科目に力を注いでいた。幼年学校入学前の伯爵家での教育ではあまり触れることのなかった分野であったため、エンゲルベルトの好奇心がむけられたようだった。そして、外出許可が設けられている休祝日も、実家からの呼び出しやベックをはじめとしたまだまだ遊び盛りの学友たちの外出の誘いがない限りは、幼年学校の図書館で読書や課題の整理に取り掛かるか、伯父のカールにいつ会っても大丈夫なような肉体を維持するための自主訓練に励んでいた。

「外出許可の出た日でも図書館か運動場にいるエンゲルベルトの方がよっぽど教官らしく見えた」

そんな彼の様子を間近で見ていた同居人のフランク・ベックは冗談交じりに学友たちに語った。

 

前述したように幼年学校には貴族の子弟が多く通う。無論、その中で成績や実家の対立などで不仲になったり、言いがかりをつけたり、つけられる生徒がいないわけでもない。エンゲルベルトも、それに巻き込まれようとしていた。

「お前がリスナー伯爵家の嫡男か」

「如何にも。私がエンゲルベルト・クサーヴァー・フォン・リスナーでありますが、先輩は?」

自分を呼びつけた相手の制服は、二年生のものだった。

「コルプト子爵家のアドルフ・フォン・コルプトだ。我が家名には聞き覚えがあろう」

「そうですか。して、コルプトどの。私に何用でありましょうか?いくら今が昼休みとはいえ、次に運動場での授業とその準備を控えております故、できれば手短にしていただきたいのですが」

この答えにコルプトは鼻白んだ。

「世間知らずめ、我が家がどこと縁戚を結ぼうとしているのがわからんのか」

「して、コルプトどの。それに関して私に何かご用でしょうか。貴方の家の縁談は貴方の家の事項であります、もしや我が伯爵家に何か関係がおありですかな?」

「ぐ、言わせておれば」

「コルプトどの。これ以上用件がなければ、私は失礼させていただく。では」

「おい、待て!」

 

このように、門閥貴族出身の子弟から言いがかりやいちゃもんをつけられることが、エンゲルベルトには度々あった。リスナー伯爵家の三人の兄弟はそれぞれの分野が異なるにせよ、宮廷にその職と地位を得ており、またこのころ皇帝フリードリヒ四世の新たな侍従武官の候補として帝国軍退役少将シュテファン・フォン・リスナー伯爵の名前が挙がっているとの噂があり、それが貴族たちの妬み嫉みを買っていたようだった。

この噂は紆余曲折を経てリスナー伯爵家のもとにも届いていたのだが、当の伯爵はそんな噂を気にした様子も運動する様子もなく、普通に宮中に出仕して園遊会などに出席していた。

 

「畏れ多くも皇帝陛下の侍従武官の候補に既に一線を引いたこの老骨の名前が挙がることだけで身に余る名誉であります。されど、全ては皇帝陛下がお決めになることなれば、私はただただ皇帝陛下の御裁断をお待ち申し上げるのみでございます」

園遊会の席で、意地悪く聞いてきた貴族に伯爵は毅然とこう返した。

リスナー伯爵としては退役軍人である自分が現役に復帰するよりも現役の士官から侍従武官を任命すべきだとの考えがあった。現に大公時代のフリードリヒ四世の侍従武官であったリヒャルト・フォン・グリンメルスハウゼン子爵は当時少佐・中佐という階級で皇帝の傍らにあった。自分がその前例を破ってはならないと伯爵は考えていた。

 

この噂が届いたころ、定期的な連絡ついでに伯爵は息子にこの件について尋ねた。

「おまえはどう思うのだ、エンゲルベルト」

「噂であり確証は持てませんので断言しづらいのですが、それ以前に退役から現役へと復帰し、皇族の方々を含めた広義での侍従武官への就任の前例が記録に存在するかどうかが問題ではありますまいか、父上。最近、幼年学校で門閥貴族出身の生徒たちから面倒ないちゃもんをつけられていることを見ると、どうも本当のように思えてきますが」

「ふむ、そうか」

「それよりカール叔父上からは何か連絡はありませんでしたか?式部武官のカール叔父上なら何かご存知かと思うのですが」

「いや、カールからはその件に関した連絡はない。職務上の守秘義務もあるし、侍従武官の就任式は軍の人事発表の後で行われるのが慣例であるから、命令や情報が下りてこない限りわからないだろう」

この父子は、噂の真偽の判断材料として式部武官カール・フォン・ザイドリッツからの情報を頼りにしていた。

「そうですか、では人事発表を待つしかありませんな」

「そうだな。それといちゃもんの件だが、マリーについては何か言われたか?」

少し、父の語気が強まった。この人事に関する噂の一因を考えているようだった。

「いえ、母上に関しては何も。傍系なれども母上はオトフリート四世陛下の孫にあたられますので、母上に関して言ってくる愚か者はおりませんでしょう」

「だが、義父上も義母上とご結婚される折、いろいろと意地悪く嫌味を言われたりしたのだぞ?」

「御爺様、あのザイドリッツ子爵にですか…」

エンゲルベルトはそのことを聞いて眉間に皺を寄せた。

 

エンゲルベルトの母方の祖父にあたるフリッツ・フォン・ザイドリッツ子爵は趣味同様性格も平凡な男であった。少々華奢な体つきで、多少のジョークを会話に交える程度の、根は真面目な男だった。皇族に取り入って権勢を得ようとするわけでもなく、ただ黙々と近衛師団士官として新無憂宮の東苑警護の職務を務めている男だった。これに目を付けたのがイザベルの母クリスティーネ・フォン・シュテーラー男爵夫人だった。彼女に娘を授けた皇帝は早くに腹上死して後ろ盾はなかった。自分の娘は庶子とはいえ皇帝の娘、野心ある貴族に嫁がせて政争や権勢の道具にさせるわけもいかず、自分と娘の住処の警護を黙々とやり自分たちに接するときも野心を見せず懇切丁寧な対応をする、この凡庸な大佐に自分の娘を託すことにした。結婚の前には子爵夫人から色々と質問をされ、愛娘の幸せを保証すると宣誓して初めて七歳年上の妻を持つことができたと、ザイドリッツ子爵は娘婿、義理の息子と孫たちに語った。

 

フリッツ・フォン・ザイドリッツ子爵は帝国歴四四五年に帝国軍を退役した。最後の職位は帝国軍中将、近衛兵第三師団長で二〇歳での近衛師団入隊以来四十五年間の軍務を終え、現在はオーディンの邸宅で義理の息子と孫、執事と使用人たちと隠居生活を送っている。ザイドリッツ子爵の要請により、カール・フォン・リスナーはザイドリッツ家の養子となっていた。五年前に妻に先立たれており、現在八十二歳である。

 

「今後もおまえにはいろいろといちゃもんや言いがかりが来るだろうが、あまり気にしすぎてはいかん。軍人は、士官は罵倒される職業だ。今はその一例の実体験とでも思っておけ。それとたまには義父上に会いに行くか、手紙を書いて差し上げろ。お喜びになるだろう」

「畏まりました」

「それと、今度お前を閣下の御屋敷に連れて行く」

その言葉に、エンゲルベルトの表情が強張った。

「誠にございますか」

「無論だ。そうでなければこんな嘘は言わん。日時は又連絡する。念のために申請の準備はしておけ。では、励めよ」

「了解しました。父上、母上もお元気で」

 

通信が切れた後、エンゲルベルトはため息をついた。今後会う予定のできる相手が、苦手だったからだ。

 

 



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子爵邸訪問

エンゲルベルトは帝国軍幼年学校に入学する一年ほど前から、父シュテファン・フォン・リスナー伯爵に連れそって、多くの退役軍人の邸宅を訪れていた。

 

シュテファン・フォン・リスナー帝国軍退役少将の最終職務は帝国軍後方統括本部第一局第一課課長というものであったが、彼は帝国歴四四二年のパランティア星域会戦において、当時ハウザー・フォン・シュタイエルマルク大将が艦隊司令官を務めた帝国軍第七宇宙艦隊の後方主任参謀の准将として艦隊旗艦ヴァナディースに乗艦し参戦したという経歴を持っている。彼の上官が上級大将へと昇進し、軍務省次官に栄転するのとほぼ同じ時に彼も少将に昇進し最後の職務に異動となった。

 

この第七宇宙艦隊での経歴により、エンゲルベルトが引き合わされた退役軍人の3割ほどはバウムガルトナー退役中将やスウィトナー退役大佐などの第七艦隊の首脳陣だった。無論その中には元帝国軍第七艦隊司令官、帝国軍退役上級大将ハウザー・フォン・シュタイエルマルク子爵も含まれていた。帝国歴四六二年一〇月一五日、エンゲルベルトとシュテファンはオーディンにある彼の邸宅を訪れていた。シュテファン・フォン・リスナー伯爵の皇帝付侍従武官就任の噂が流れて始めてから一月ほど後のことだった。

 

「お久しぶりです、シュタイエルマルク子爵どの」

「これはリスナー伯爵、態々の御訪問痛み入る。閣下の御子息も大きくなられましたな」

「お久しぶりであります、子爵閣下。現在帝国軍幼年学校に籍を置いております」

「そうか、若きうちに勉学に励まれよ」

「全力を尽くします」

冒頭にはこのような体裁を整えるための形式的な会話が行われ、訪問者は子爵の勧めでソファーに腰を下ろした。

 

「少将、卿の息子は随分と敬礼が様になったな。奥方やザイドリッツ子爵殿も変わりないか」

「御心遣い痛み入ります。閣下も御壮健でなによりです」

「だが老い先短い身で後継ぎもない。執事のクラウスと慎ましく暮らしていくし、多少は長生きをして見せるつもりだ」

 

ハウザー・フォン・シュタイエルマルク子爵は独身を貫いていた。帝国軍きっての名将であり養子に家名を託すという選択もあったのだが、彼はそれを望まなかった。彼はもともと伯爵家の三男で分家の男爵家を継ぎ、軍に入隊した。自由惑星同盟軍との数々の戦闘で武勲を挙げて今の地位まで至ったが、生家の伯爵家の遺産を巡った骨肉の争いなどを経験し、最後の遠征となったパランティア星域会戦の軍功に対する褒美として子爵へと昇級するも、それに伴った養子縁組願いの急増などに嫌気がさし、六〇歳で早々と引退して隠居生活を送っていた。第二次ティアマト会戦が終結した折、敵将たる自由惑星同盟軍宇宙艦隊司令長官ブルース・アッシュビー大将の戦死に対して実名を堂々と公表して弔電を送り軍上層部の忌避を買ったことで、華々しい功績にも関わらず元帥に昇進することなく軍務次官、上級大将で退役となった。そこが部下であった伯爵にとっては残念でならなかった。

 

「せめて養子にもらうなら、卿の息子のような男子が欲しかったな」

「これは御冗談を。父親の小官が言うのもなんですが、さして面白味のない息子ですぞ」

「だが軍人の、武門の息子としてはそれなりに様になっているではないか。それだけで十分なのだ」

エンゲルベルトはこの会話の間、出されたコーヒーを飲みながらやや憮然としていた。シュタイエルマルクが、蚊帳の外にあったもう一人の訪問者に目線を向けた。

「その表情も様になっているが、もう少し表情を抑えないと腹芸はできんぞ。エンゲルベルト」

「精進します。この次はより平然とした顔でお聞きいたします。子爵閣下」

「まぁ、このように可愛げがない愚息でしてな、閣下」

「だが面白味はあろう、少将。じつにからかい甲斐がある」

シュタイエルマルク邸に来るたびに、自分の父親とその元上官たる子爵はこのような悪辣な会話を本人の前でして見せるのだ。この邸宅を初めて訪れた頃こそ、エンゲルベルトは口実をつけて席を立ちたくなったが、最近はこの会話による恩恵を受けている身だった。

幼年学校ではあの噂が流れて以来、いちゃもんに限らず陰日向なく、公然と罵倒してくる手合いもいた。中には徒党を組む者もいれば、単独で来る者もいた。だがその全てにエンゲルベルトは平然と返した。目の前で平然と繰り広げられる意地の悪い会話よりは遥かにましに思えたからだった。無論、手や足を出したくなる時も幾度かあった。

 

このような会話をしていても、シュタイエルマルク子爵の表情は傍目からすれば苦々しいままだった。第二次ティアマト会戦が始まる前、彼は会戦に先立って病死した軍務尚書ケルトリング元帥の甥にあたるウィルヘルム・フォン・ミュッケンベルガー中将の訓示を「あれではまるで私戦を煽動するようなものではないか。アッシュビーとやらいう賊将ひとりを斃してそれでよしとするのでは、帝国軍の鼎の軽重を問われることになるぞ」と嘆いた経歴がある。彼は皮肉屋ではなかったが、冷徹で気難しい性格の要素が多分にあった。

 

長年、そんな上官に後方士官として仕えてきたリスナー伯爵としては表情を変えずに、隣でコーヒーを啜っている自分の息子をからかっている子爵の姿こそ新鮮だった。やはり、半ば世捨て人となった子爵でも、孫ほど年の離れた子供と戯れているときは楽しいと見えた。息子を連れてくるたびに、よかったと彼は内心思うのであった。

 

だが一方で、軍の元重鎮からからかわれて平然とできるようになった息子のことも心配だった。腹芸や忍耐の訓練にはなるだろう、だが後継ぎである以上いずれエンゲルベルトは妻を迎えねばならない。できれば若いうちの方が望ましい。あの社交界披露以来、なんども園遊会や祝賀会には連れて行っているのだが、其の手の話がまるで届いてこない。せいぜい続けて話しているのがヘルダーリン伯爵家のエレオノーレ・フォン・ヘルダーリン嬢ぐらいのものだった。新無憂宮でダンスを踊ったのが縁だったのだが、二人の関係に関して浮ついた話も届いてこない。むしろ、あの二人が互いを嫌いあっていて、会うごとに角を突き合わせているという噂が飛んでくる始末だった。この話を聞いたとき、伯爵は頭が痛くなった。

「軽口や皮肉の言い合いは、良い挨拶代りですな。この間は貴方に殿方としての魅力を感じません、などと言われました」

この噂について問いただされたエンゲルベルトは平然とこう答えた。

今度義父上とマリーに相談でもしてみようか、と伯爵は本気で考え始めた。

 

「だがそんな険しい顔では、おまえは当分妻を迎えられそうにはないな、エンゲルベルト」

「御心配なく、子爵閣下。幸いにも軽口と多少の嫌味と皮肉を言い合う相手はおりますので」

「ほう。それは男か、それとも女か」

「どちらにもです」

それを聞いて子爵は僅かに口角を上げた。自分の息子と話す時の義父の姿とは対照的だったが、上官のこのような姿を見られるのも感慨深いものがあった。

「公私にかかわらずそのような相手がいるのはいいことだ。年をとれば必ず愚痴を零したくなる、真剣に聞いてくれる人間もいいが、それを皮肉や軽口で受け流したりしてくれる人間もまたありがたい。その関係を大事にせよ、特に女のほうはな」

「はい、善処します」

エンゲルベルトは、少しだけ言いよどんだ。それに伯爵が少し驚いたような目線を向けた。

「どうした少将、卿の息子の交友関係で思うところでもあるのか」

「いえ学友ならともかく、令嬢と皮肉や軽口を言い合うとなると、妻の反応が気がかりでして」

伯爵はため息をつくように言った。

「意外だな。卿は奥方、マリー殿とは昔は口喧嘩をよくしていたというが?結婚する前も、した後も」

「口喧嘩で済ましてよかったのでしょうかな。とにかく、あれは義母上同様にかなり気の強い女でして。エンゲルベルトが生まれて少しは丸くなりましたが、今でも些か持て余しております」

エンゲルベルトも両親が口喧嘩をするのを目にしたことも、耳にしたこともある。大方の発端というか内容は、終わってみれば些細でくだらない事だった。

「だが、卿もそのおかげで気が引き締まるだろう?」

「ええ、なるべく怒らせて敵にしたくはありませんな」

「それは結構」

肩をすくめた元部下を見ながら、シュタイエルマルクはコーヒーを啜った。表情には少し微笑みの影があった。カップを置くと、子爵は手を組んだ。

 

「ところで少将、卿の名前が新たな陛下御付きの侍従武官の候補として挙がっているという噂が聞こえているが、事実か?」

「はい。調べましたところ、小官の名前が数名の候補の中に挙がっていることは事実のようでございます。ですが、そこから先はつかめておりません」

「それで卿はどう思っているのだ、少将。他のものが内定すれば必要はないのだが、もし卿に決まれば慣例により新無憂宮より使者が来て、辞令を言い渡すだろう。それを承諾するのか否か。考えを決めておくべきではないのか?」

かつての上官の言葉に、伯爵は少し俯きながら答え始めた。

「私は伯爵家の当主で退役少将です。僭越ながら、皇帝陛下の侍従武官となる資格は十分にありましょう。ですが、叶うならばお断り申し上げようと思っております」

「それは何故か」

「閣下もご存じのように、私は伯爵家継承のために退役した身です。侍従武官に就任するためにはまず軍務省で手続きを経て現役へと復帰しなければなりません。既に一線を退いたものを復帰させて侍従武官に充てては、その職務を望んで暗闘、政争を始める者が出るでしょう。そうなれば、陛下にお仕えする身でありながら、畏れ多くも陛下の宸襟を騒がせ奉ることになってしまいます。それは小官の欲するところではありません」

伯爵は、何かにおびえるような様子で言った。

 

「卿の本心、確かに聴きとめた。ならばあとは祈るのみであるな、少将」

「御心遣いありがとうございます、痛み入ります、閣下」

「それで、この件に関して卿の義父殿、ザイドリッツ子爵やグリンメルスハウゼン子爵に相談はされたのか。あの方々は宮廷のことに関しては詳しい。頼ってみてはどうだろうか」

「ご迷惑をおかけするのが憚られますが、近々助言を頂こうと思っております」

「そうか」

伯爵の言葉に子爵は頷いて、コーヒーを口に運んだ。

「それにしても、相変わらず卿は小心者だ。そこは変わっておらんな、少将」

「面目次第もございません、閣下」

「いや、私は褒めているのだ」

すぐに頭を下げようとする元部下を手で制し、シュタイエルマルクは続けた。

 

「一つの人事でここまで気を回すのは辛いことだが、艦隊に必要な物資を預かる後方参謀にはそのような細やかな考え方が必要だ、剛毅であってはならん。確かに我々将帥や士官は戦場で兵卒と下士官を率いる身であるから、内心で恐れていてもそれを顔に出してはいかん。ならば勇気を友として彼らを率いるべきである。だが、卿は今後も宮廷に身を置くことになる。ならば今度は、恐れを友とすべきであろう。卿の大事なものを守るために。そのような考えの切り替え方は私にはできんよ。それができる卿を褒めておるのだ」

「有難うございます、閣下」

目の前で目頭の熱さを感じている元部下を見つつ、その隣の少年に子爵は未だ衰えぬ鋭い視線を投げかけた。それを受けて、エンゲルベルトは背筋を伸ばした。今の言葉をよく覚えておけ、お前が将来触れる世界はこういうものだ、ということのようだ。

 

「何時か艦隊の首脳部を集めて小さな宴会でもしてみるかね、少将?」

「それは結構なことですなぁ、閣下」

伯爵の顔に笑顔が戻った。このような善良で家族思いの父を持てるのを、エンゲルベルトは誇りに思っていた。

 

それから一時間後、リスナー伯爵父子はシュタイエルマルク邸を辞した。

この後もエンゲルベルトはこの老子爵にからかわれながらも、もう一人の祖父のように敬愛し、後に彼が老衰と肺炎でこの世を去るまで何度もこの邸宅に足を運んだ。それは、この時のように父と一緒の時もあれば、一人の時もあった。彼の葬儀の時は、シュテファンと同じかそれ以上に悲しんだ。

 

 



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帰省

 

帝国歴四六二年も終わりを迎え、新年が開けようとしていた。帝国軍幼年学校と士官学校では同年十二月二三日から年末年始の休暇に入り、学生たちは寮から実家への帰省が許された。だが、実家との折り合いが悪いなどの理由で、規制せずに年末年始をそのまま寮ですごすものもいた。エンゲルベルトは幼年学校の寮から伯爵家に戻り、学業での疲れを癒しつつ、シュテファンの付き添いで外回りなどをしていた。

 

結果として、帝国軍退役少将シュテファン・フォン・リスナー伯爵に侍従武官就任の辞令は下りなかった。リスナー伯爵はそれに胸をそっと撫でおろし、妻と義父、息子の前で安堵した表情を見せた。渦中の人物であった伯爵からしてみれば、今回の噂は最初から不思議としか思えなかった。リスナー伯爵はこの騒動に関してどのような意味でも運動をせず、坐して結果を待つ姿勢を取っていた。義父のザイドリッツ子爵や、グリンメルスハウゼン子爵、シュタイエルマルク子爵などの親しく信頼できる人物たちにその旨は伝えていた。

 

行動の判断材料として人事局の人事記録などを調べてみると、銀河帝国の最高権力者たる皇帝に限らず皇太子や皇女を始めとした各皇族に付き従う、広義の意味での侍従武官でも、一度退役した人間が侍従武官となる例はなく、全て現役もしくは予備役の士官から任命されていた。事が宮廷にかかわる武官の人事であるためある程度、というよりは一定以上の先例主義は仕方がないことだと、貴族社会に長く身を置くリスナー伯爵自身も理解している。だからこそ彼はこの噂を最初に聞いたとき、それなりに性質の悪い冗談としか思えなかった。

リスナー伯爵家は、過去二十四人の侍従武官を輩出している。その中でももっとも著名なのが、四代皇帝カスパー一世の時代に、帝国軍大佐として珍しく皇帝付侍従武官と近衛師団第一旅団第二連隊長の二職を兼務していた四代目当主フランク・クサーヴァー・フォン・リスナーである。

 

後世に編纂された銀河帝国ゴールデンバウム王朝史に残るように、四代皇帝カスパーは皮肉にも王朝の開祖、大帝ルドルフ・フォン・ゴ-ルデンバウムがかつて社会の害悪として排除迫害した同性愛者で、去勢して声帯の成長を妨げ、変声期をなくしてボーイ・ソプラノを保ったカストラートの合唱団を寵愛していた。

彼の先代の“灰色の皇帝”オトフリート一世の治世下から、“準皇帝陛下”と取り巻きから呼ばれていたエックハルト伯爵が専横をふるって実質的な帝国の最高権力者となっていた。彼はオトフリート一世の政務秘書官を務めて枢密院顧問官、御前会議書記などの要職を歴任し、さらには自分の娘エミーリアをカスパーに嫁がせて外戚となろうとしたが、前述したようにカスパーは同性愛者であったためにこれは空振りに終わる。

彼はそれに業を煮やし、カスパーが最も寵愛するカストラート合唱団のフロリアン少年を暗殺しようと試みた。そのような行動に出ようとしたエックハルト伯爵に対しカスパーの勅命を受けて、直属の近衛師団第八小隊を率いて彼とその側近、兵士たちを野イバラの間にて誅殺したのがフランク・クサーヴァーであった。帝国歴一二四年のことである。

この騒動の後、カスパー一世は黒真珠の間の玉座の上に退位宣言書と当分の生活には事欠かない程度の価値を持った、幾ばくかの宝石・貴金属類を持って、フロリアン少年と駆け落ちして行方不明となった。彼の在位は僅か一年であり、即位後僅か三か月で暗殺された百日帝グスタフに次いでゴールデンバウム王朝の中では二番目に短い在位期間である。

 

 

リスナー伯爵家は、この騒動までは男爵の爵位であったが、カスパーの叔父であるユリウス一世が七六歳で即位すると、皇太子であるフランツ・オットーの推薦によって伯爵へと爵位の昇進が武勲として与えられた。またこの三年後にフランツ・オットーの末娘アマーリエが、フランク・クサーヴァーの息子であるオスカーのもとに降嫁した。そのため、エックハルト伯爵の暗殺には、実行犯のフランク・クサーヴァーの背後にフランツ・オットー皇太子が存在していたのではないかとの噂が当時まことしやかに囁かれた。

 

この騒動以後リスナー伯爵家は皇族からの信頼を厚く受けるようになり、リヒャルト一世、カスパー一世、オットー・ハインツ一世、エーリッヒ二世、マクシミリアン・ヨーゼフ二世、レオンハルト二世、オトフリート三世と七人の皇帝の侍従武官を輩出し、皇后や皇太子の侍従武官を七名、皇女や皇子を始めとしたその他皇族の侍従武官を十名輩出して宮廷武官における確固たる権威と歴史を作り上げてきた。シュテファン・フォン・リスナーの妻であるマリー・フランツェスカを含めて計六回、皇族もしくは帝室の血縁者と婚姻関係を結んでいる。

 

エンゲルベルトが幼年学校で受けた言いがかりの数々も、発言者たちがリスナー伯爵の侍従武官就任をほぼ確実と見た故のものであったと考えられる。予想が外れるとなると、妬みが嫌味へとかたちを変えて彼に向けられることもあったが、リスナー伯爵家が今回の騒動では一貫して静観を決め込んでいたために、ある種の往生際の悪さが目立った。

 

エンゲルベルトが実家の伯爵家に帰省してすることとすれば、毎度毎度の外回りの同伴や園遊会への出席、冬季中の課題や積み重なっていた書籍の消化、肉体の状態維持が主で、それなりに暇をもてあます場面があった。

実家に帰ってきてまずやったことといえば、シュテファンに面会して、幼年学校での交友関係や今回の出来事に対する反応などの報告だった。

 

帰省した翌日、エンゲルベルトはシュテファンの部屋に呼ばれ、幼年学校での一連の自体の反応を報告した。一通りの報告を終えると、シュテファンは眉間を揉み、わずかにため息をこぼした。

 

「なるほど、コルプト子爵などの家の子息が絡んできたか。どこもブラウンシュヴァイク公爵やリッテンハイム侯爵の門閥に近い家だな。どう見るね、おまえは」

「大方彼ら単独の行動かと。名門閥族の宗家として、皇女殿下の降嫁のお話も出る両家としては、陛下の御不興を買いたくない時期と思いますが」

「そうだろうな。門閥の主家が、幼年学校にいるおまえへの対応に一々口を出すはずがない。面倒をかける」

「いえ、彼らは皆私の上級生です。それと、他の門閥の子弟と士官学校で会う可能性もあるのです。慣れる機会と受け取らせていただきます」

息子の返答に、シュテファンは少し笑みを零した。幼年学校に行っても可愛げのないところは変わらないか。

「ふむ、そうだな。幼年学校での付き合いは士官学校を抜いてもそれなりに長く続く。大事にしておけ」

「かしこまりました」

「それにしても、おまえのひとつ上の学年にゾンネンフェルス伯爵とブルッフ男爵の子息がいたとはな。少し調べが足りなかったか」

「ああ、クリストフどのとエミールどのですね。お二人とは、十一月の合同授業の際に班を組ませていただきまして、べックともどもお世話になっております」

「何はともあれ、頼れる上級生と誼を通じるのはよいことだ。特に、ゾンネンフェルス伯の子弟は血縁で言えばおまえの遠縁の親戚にあたる。交友を深めておいて損はあるまい」

 

エンゲルベルトとベックの一年上の先輩、クリストフ・フォン・ゾンネンフェルスはゾンネンフェルス伯爵家の次男で、シュテファンの言ったように、エンゲルベルトと彼は血縁上親戚になる。両家の間で婚姻が交わされたことはないのだが、これにはある理由があった。

 

何度も記すように、エンゲルベルト・クサーヴァー・フォン・リスナーの母、マリー・フランツィスカは強精帝オトフリート四世の傍系の孫である。オトフリート四世の庶出子は、確認されているだけでも六二四がおり、成人した三八八人が当時の帝国の主だった貴族になんらかのかたちで婚姻を結び、多額の礼金と結納金で貴族財政を思わぬかたちで圧迫した。

帝国軍元帥エドマント・フォン・ゾンネンフェルス伯爵は自由惑星同盟との戦いで勇敢に戦い、幾度か目に見えた武勲を挙げて皇帝からの信頼も厚く、軍の要職についていた。武勲に恵まれた彼だが、結婚運には恵まれなかった。彼は妻を三度にわたって亡くしたが、その再婚相手はすべて皇帝の庶子であった。度重なる婚姻による財政の圧迫、皇族の妻への心労、そして妻たちとの度重なる死別。そして、その結婚運の悪さに導かれるようにして、彼は四十代半ばでこの世を去った。彼とは親友であり戦友であった帝国軍中将ブルッフ男爵は、彼の死を評した際の有名な舌禍で、軍を追われることとなった。

そのように結婚運に恵まれなかったゾンネンフェルス伯爵だが、唯一の救いといってもいい存在は彼の子供たちだった。エドマントは四人の妻たちとの間に一男二女をもうけたが、幸いにも腹違いのこの子供たちは確執を抱くことは少なく、伯爵家の分裂というある種想定された悲劇は起きなかった。

 

こうして、帝国の貴族界にはある種奇妙な、広大な規模を持つ血縁関係が生じているのであった。

 

「合同授業の班の継続性は強いと聞いておりますので、これからも幾度となく彼らと会う機会はあるでしょう」

息子の言葉に父は軽く頷いた。

それから少しして、使用人が二人分のコーヒーを運んできた。シュテファンは濃いめのコーヒーを好んでいる。彼はコーヒー党であるが、砂糖などはその時の気分で入れたり入れなかったりと、特に拘りのある人物ではなかった。

伯爵家には、来客などの用途のために多くのコーヒーや茶類が用意されている。エンゲルベルトはその中で育ったが、特に好んだのはシロン星産の上質なダージリンか、ウヴァなどの紅茶であった。だが、コーヒーも父ほどではないが好いている。故に、こうして父と机を共にするときは、同じものを飲むようにしていた。

 

「幼年学校のコーヒーはどうだ、不味いか」

使用人が去り、二人きりになると、シュテファンはそう聞いた。少し口元が緩んでいる。

「はっきり言って、微妙といったところでしょうか。貴族の子弟も通うために、最低限の質的努力はしているようですが、国家運営の学校であれば致し方ないことは父上もご存じではありませんか」

「おまえの味覚が劣化していないか聞きたかったのだよ。伯爵家の嫡男である以上、軍務の最中ならともかく、軍用のコーヒーを美味い美味いと思いながら、がぶがぶ飲まれては困るのだ」

「家に帰ってから聞かないでいただきたいですな、父上、困ります」

少し表情を険しくして、エンゲルベルトは返した。その反応を見て、シュテファンははっきりと笑みを浮かべた。

「なに、向こうで聞いても結果は変わらんだろうよ」

シュテファンの笑みに、エンゲルベルトはさらに表情を険しくした。

 

 

その後エンゲルベルトは一月九日までリスナー伯爵家に滞在し、翌日の朝に幼年学校の寮へと戻っていった。



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従卒研修

幼き日々も、過ぎるのは又早い。時間は人々の間を平等に流れていく。学校に限らず、人間の集団の行動の計画は、主に時間によって規定される。帝国軍幼年学校は当然、その例がいたり得ない。起床に始まり勉学や食事そして一日の終わりにあたる睡眠まで、その全てが時間で拘束されている場所である。

 

教官によっては、教場の座席も規定されるが、食堂の席に関しては基本的に自由である。

帝国歴四六六年六月二十一日、エンゲルベルトは少々遅れて夕方の食堂に入り、食事を受け取るとベックの傍に座った。

 

「遅かったじゃないか」

「家から連絡が入っていた。また申請書類を書かなければならないかもしれないらしい」

「相変わらず羨ましいな、おおっぴらに休めて」

ベックは意地悪な笑みを浮かべて冷やかした。それにエンゲルベルトは軽く眉間に皺を寄せた。

「馬鹿を言うなフランク。その分後につけが回ってくるんだ。その後に回す時間ももうあまりない」

「おいおい、忘れたのかリスナー。卒業まではまだ一年あるじゃないか」

「その一年のうち、私にとっては三か月が消えるんだよ」

「三か月消えるってことは、従卒実習を受けるのか」

「ああ、その件でも先ほど話していた」

「そうか。志願者募集の期限もそろそろだったからな」

 

従卒とは高級士官の身辺の世話を職務とするもので、現役の兵が行ったり、軍属が行ったりと担当者が分類される場合がある。帝国軍幼年学校では、約五年間の在学期間のうち、最上級学年の内の三か月を従卒の実習に割り当てることのできる制度が存在する。士官学校に入る前に実際の帝国軍の軍務に触れるというのがこの制度の大方の趣旨である。

 

この制度は、基本的に志願制である。故に希望者は従卒実習志願申請書というものを幼年学校の首脳部宛てに提出しなければならず、その期限があと二週間ほどに迫ってきていた。

「俺たちの知っている先輩方も、受けている人はそれなりにいたからな。まぁ妥当なところか」

 

ベックはそう感想を漏らした。

ゾンネンフェルス、ブルッフの両生徒はつい先日卒業式を終え、現在は士官学校への進学の準備を進めているようで、彼らは昨年の同時期に志願して憲兵隊などで従卒実習を行っていた。

「卿の立場なら、副官はともかくとして、従卒をする機会は今回しかないからな。伯爵が勧めるのも分かるような気がする」

「皮肉か、それは」

ベックの言葉に、少しエンゲルベルトは表情を険しくした。

「いや。単なる事実だ。まぁ、卿の今の成績なら軍務省や艦隊司令部付の従卒だって夢ではない。俺はとにかく士官学校に上がることに専念する」

「では、お互い努力するとしよう」

その翌日、エンゲルベルトは従卒研修志願申請書を幼年学校校長宛に提出した。配属希望先は第一候補が軍務省、第二希望が宇宙艦隊司部となっており、至って平均的な解答と言えた。

 

 

この従卒実習制度は、別に貴族の子弟にのみ制限されたものではない。原則として対象学年の全生徒に解放されているが、配属先には個人の成績や本人の縁故など様々な要素が介入して決定される。

故に軍に存在する伝手を用いて、自分に都合の良い配属先を探そうと必死になる例も存在する。またその逆の、特定の志願者に対する妨害が行われたりする例というのも存在していた。

 

エンゲルベルトの期末考査での成績は同期の中の五番、普通に優を与えられる席次である。たとえ実習による短期間の従卒派遣とはいえども幼年学校の代表であるため、幼年学校の首脳陣は軍の要職などに関係する職場には基本的に優秀な席次の生徒を配属するという習慣があった。

 

しかし今回その習慣が一部破られた。志願申請書を提出してから一週間後の六月二十八日、エンゲルベルトは幼年学校校長アドルフ・フォン・リルター中将に召喚され、校長室ドアの前にいた。

 

「中将閣下、リスナー四年生。入ります」

「うむ、入りたまえ」

リルター中将の許可を得て入室すると、校長の他に教頭のシェッター少将が立っていた。

 

「リスナー候補生、卿を呼び出した理由は他でもない。卿の従卒実習に関してだ」

一呼吸おいてからリルター中将は口を開いた。

「卿は皇帝陛下と帝国の忠実な藩屏として幾多の武勲を挙げた伯爵家の嫡男として相応しい成績を示し、日々鍛錬に励んでいると教官たちから聞いている。卿のようなすばらしい生徒を持ち、帝国軍の次代の人材を育成する幼年学校校長として私は実に光栄に思う」

「恐縮であります、中将閣下。全ては教官方とよき学友たちのおかげと思っております」

「その謙虚な姿勢も実に宜しい。そんな卿を見込んで一つ話がある」

「なんでありましょうか、閣下」

エンゲルベルトの言葉を聞いて、校長が教頭に視線を送る。軽い咳ばらいが一つ。

 

 

「リスナー四年生、卿には従卒実習として、装甲擲弾兵総監部付第十八連隊司令部に出向してもらう」

教頭からの宣告にエンゲルベルトは面食らった。彼は一応の希望配属先として軍務省を希望していた。そもそも装甲擲弾兵への幼年学校からの従卒の派遣記録はこれまでなかったはずだ。ここまで希望を無視した大規模な配属先転換は聞いたことがなかった。

 

「リスナー四年生、卿が驚くのも無理はない。これまでに装甲擲弾兵へと輪が幼年学校から従卒実習生を派遣ことはなかった。だが、今回に限っては事情が違うのだ」

自らの目の前に立つ学生の沈黙を驚きと捉え、中将は話を続けた。

「今回、急ではあるが装甲擲弾兵側より幼年学校へ従卒研修の打診があったのだ。試験的に従卒の実習を受け入れてみたいとな。当然我々も驚いた。今までそんなことは一度もなかったのだから。ここまではわかるな」

「はい、校長閣下」

「故に誰を派遣するべきかを検討した結果。卿という結果に至ったのだ、リスナー候補生。卿は白兵戦技において学年の首席、射撃に関しても実に優秀だ。また休日も肉体の維持鍛錬に努めている。そんな卿を除いて適任はいないのだ」

「恐縮であります、閣下」

「卿の後輩たちのため、ひいては帝国軍の将来のためだ。引き受けてくれるかね」

校長の言葉に一瞬逡巡しながらも、エンゲルベルトに選択肢はなかった。これまでの生活で叩き込まれた敬礼をし、言葉を返した。

「了解しました。リスナー四年生。装甲擲弾兵総監部付第十八連隊司令部における従卒実習の任、謹んで拝命いたします」

「うむ。それでこそ栄えある帝国軍幼年学校の最上級生である」

「ですが校長閣下、少しだけお願いをさせていただいてよろしいでしょうか」

嬉しそうな教頭の頷きの後にエンゲルベルトは再び口を開き、その内容に校長の眉間に皺が寄った。

「なにかね」

「今回の試験的な実習の派遣に関しまして、私が着任までに準備すべきもの、あるいは持参すべきものを実習先である第十八連隊に問い合わせていただけませんでしょうか」

「よかろう。問い合わせの結果は卿の宿舎へと転送しておく」

校長と教頭の表情がやや険しくなったが、渋々校長は了解した。

「閣下の御配慮に感謝いたします」

「用件は以上だ。下がりたまえ」

再び敬礼をして、エンゲルベルトは校長室を辞した。二人の答礼はやや粗雑なものであった。

 

 

 廊下に出て寮へと戻る間、エンゲルベルトは先ほどの会話と今回の配属について考えていた。

 装甲擲弾兵側から申請があったというのは大方嘘だろう。勇猛で知られる装甲擲弾兵がこのような面倒事を自ら抱えたがるはずもない。それに、軍属と将官の関係性であれば、即座に命令を下してしまえばそれで終わり。先ほどのような婉曲な説明をする必要はなかったはずだ。

 

 

自分の部屋に戻ると、すぐにエンゲルベルトは伯爵家へと通信をかけた。シュテファンに一連の事態に関する報告をした。

「命令である以上、引き受けざるをえないのは仕方ない。お前はまだ下士官待遇の軍属とはいえ実質は軍人なのだ。故に、腐らずに配属先にて全力を尽くし、我が伯爵家嫡男として恥じない振る舞いをするように」

シュテファンは少し表情を険しくしながらエンゲルベルトにそう諭した。

「無論です、父上」

「それで、今回の件。お前はどう見ているね。遠慮なく言ってみなさい」

「大方、私か父上に対する嫌がらせなのでしょう。しかも軍に対してそれなりに大きな影響力を持った人物の介入があるのではないでしょうか。試験的な配属とはいえ、実質的に前例を破らせたのですから」

「では首脳部からの召喚と説明、それとお前からの要請を受け入れた件はどう見るね」

「配属先で私が腐って、自分たちに責任が回らないようにするための保険でしょうか」

「それも一理ある。だが、これは主に私に向いていると考えるべきだろう。後で私から何かしらの抗議を受けても、『今回の件に対する経緯と理由はちゃんと説明し、息子の了解はしっかりととってある、それに彼自身からの要請にも応えた』という言い訳ができるようにね」

「なるほど、父上に対する保身ですか」

エンゲルベルトは、そこまで考えが回らなかったことに、少し俯きながら返した。

「幼年学校の校長というのはどこかの門閥などに偏りすぎては務まらないし、選ばれない職務だ。これで公平を保とうとしているのだろう」

シュテファンは僅かに苦笑して一度言葉を切った

「だがこれもいい経験だ、とにかく三か月間全力でやってくるのだな」

「了解しました。吉報をお待ちください」

シュテファンの言葉に、エンゲルベルトは以前よりも頼もしげに見える敬礼で返した。そしてその夜、彼は珍しく深酒をしてマリー・フランツィスカを驚かせた。

 



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従卒着任

 幼年学校校長室でのやり取りの三日後、エンゲルベルトのところに校長からの書類が来ていた。実習に際して必要な幼年学校からの持参物は白兵戦技の授業に用いる装備一式と官給品の制服などであった。装備一式の部隊への配送は手配してくれるようであるが、そのほかのものは持参せよとの回答であった。

 そして六月二十八日の朝、エンゲルベルトは着任のため帝都オーディン郊外にある装甲擲弾兵第一駐屯所へと向かった。

 

 第一駐屯所は装甲擲弾兵総監部からは割と近いところに設置されていて、非常時の緊急出動などに備えられている。近くには練兵場なども存在しており、そこで日々の訓練が行われている。まだ十四歳であり、正式な軍人でもないエンゲルベルトは無論、装甲擲弾兵総監部に来たことなどなかったので、回答に付与されていた情報を頼りに十八連隊の司令部へと向かった。

「そこで止まれ。幼年学校の生徒がなぜこんなところにいる」

連隊司令部のある建物の前にたどり着くと、衛兵担当の兵士にそう呼び止められた。どこか咎めるような響きだった。階級章は伍長のものであった。反射的に、エンゲルベルトは姿勢を正し、敬礼する。

「自分は帝国軍幼年学校所属のエンゲルベルト・クサーヴァー・フォン・リスナー四年生であります。幼年学校より装甲擲弾兵第十八連隊クラウスニッツ連隊長殿の従卒を拝命し、着任に参りました」

 エンゲルベルトの報告に伍長はいぶかしげな表情を隠さず、彼をその場で待機するように言い、上官である軍曹に確認を取りに中へと踵を返した。すると数分後に、浅黒く日焼けした、ひどく大柄な軍曹がやってきた。年は四十代後半から五十代前半といったところだろうか。

「お前がエンゲルベルト・フォン・リスナー四年生だな」

「はい、軍曹殿」

「連隊長室まで案内したいが、着任の挨拶まで時間がある、ついてこい。駈足だ」

怒鳴るような声でそう言うと、すぐに軍曹は別の方向へと走り出した。エンゲルベルトも持参した荷物の入ったカバンを持ちながら軍曹の後を追った。幼年学校のどの教官よりも威圧感のある声だった。

軍曹について行った先にあったのは、実に小さな建物だった。二階建てで、外観の様子からして部屋数は少なさそうだった。軍曹はその建物に入り、一階の小さな部屋に彼を連れて行った。

「ここがこれからのお前の部屋だ。荷物を置いたらすぐに司令部へとまた戻るぞ。整理は夜に戻ってからにしろ。今度も駈足だ」

「はい」

再び、エンゲルベルトは軍曹の後を追った。

 

 第十八連隊司令部が置かれている建物と先ほどの建物は駈足で十分ほどの距離であった。帰りは荷物がない分体が軽かったのが救いであった。練兵場が近いためか、かすかに上官の罵声らしき声のかけらがエンゲルベルトの鼓膜を揺らし、装甲服を着用した兵士たちが訓練を行っている様子が視界に入ってくる。一人だけ幼年学校の制服である自分がやけに異質で異物のように感じ、一抹の心細さを感じた。

 帝国軍装甲擲弾兵第十八連隊の連隊長はハンス・クラウスニック大佐という人物で、この男は装甲擲弾兵に所属している下級貴族出身の士官たちなどは除いて、かなりの貴族嫌いであった。帝国軍に入隊する前に、様々な場面で煮え湯を飲まされてきたかららしい。自分の従卒が連隊長室に入り着任の報告をする間、クラウスニックは顔を上げようともしなかった。

沈黙が重くエンゲルベルトにのしかかってくる。それが徐々に辛くなってくる頃になると、おもむろに書類から顔を上げて、大佐が口を開いた。

「リスナー従卒。貴様、幼年学校の上からどう聞いている」

短く、熊が唸るような声が大佐の歯の間から聞こえてきた。

「はい、今回の配属は試験的なものであり、装甲擲弾兵総監部より打診を受けたとリルター中将閣下より伺っております」

「なに、試験的だと?相変わらずやってくれる!」

苦々しげに言い、誤って噛んでしまった葡萄の種を吐き捨てるように大佐は続けた。

「いいか、こちらからは向こうに何も打診などしていない!第一、幼年学校のひよっこなど、例え平時の従卒とはいえ俺たち装甲擲弾兵が必要とすると思うか?思ったことを言ってみろ」

「いえ、私は連隊長殿の従卒であって衛兵ではありません。なので、不必要ではないかと思った次第です」

半瞬の内に答えるべきか否か、逡巡したが命令を優先したエンゲルベルトの回答にクラウスニック大佐は獰猛な笑みを浮かべて笑って見せた。思わず笑い声が聞こえた。

「なるほど、伯爵家のボンボンと聞いていたが、それを察せるだけの頭はあるらしい。いいだろう。本来ならばだとこの後すぐに送り返す予定だったが、気が変わった」

そう言うと大佐は傍らにある端末で通信をかけた。短い通信を終えると、大佐は気を付けのままで待機している従卒に視線をやって再び口を開いた。

「まぁ気を落とすな。大方貴様は配属先に軍務省か宇宙艦隊司令部らへんを希望したようだが、向こうに行くよりもずっといい経験をさせてやる」

 クラウスニッツ大佐はどこか茶化すように言った。装甲擲弾兵に配属されるというのは、確かに同期の誰にもできない体験ではあるだろう。クラウスニック大佐の性格に少し慣れてきたのか、あるいはもう染まりつつあるのか、エンゲルベルトはそんなことを思った。

数分後、先ほど荷物の案内などをしてくれた軍曹が入ってきて、エンゲルベルトの隣に立った。軍曹に答礼すると、大佐は説明を始めた。

「彼はヘルムート・シュミット軍曹、貴様もさっき会ったはずだ。つい一年前まで、装甲擲弾兵の新兵練兵場の訓練教官を九年に渡って務めていた」

エンゲルベルトが左に目線を送ると、浅黒く日焼けした横顔が先ほどより大きく見えた。

「わかっていると思うが、貴様の現状は幼年学校の授業があるとはいえ、良く見積もって入りたての新兵に毛が生えた程度の存在が精々だ。だが、今さら任務は変えられん。よってこの二か月という実習期間で、貴様を精々“装甲擲弾兵の従卒”として鍛え上げてやる」

 エンゲルベルトは、この上官が単に戦場の勇者であるだけではないことを察した。先ほどの駈足もなども含めて、着任を採用試験に仕立てていたようだった。

「まずは約一か月半、軍曹の訓練に付き合え。その後、軍曹の所属する第十八連隊第一大隊第一中隊にて、通常の練兵に混ざってもらう」

「はい、連隊長殿」

久々に口を開き、エンゲルベルトは自分の言葉がやけに乾いているように感じた。自分の実習が思わぬ方向へ向かっていることに緊張してきた。

「無論、派遣先の部隊司令官として幼年学校首脳部に貴様の従卒実習に関する報告書を書かねばならぬので、朝と昼食時、夕刻には此方に戻って従卒としての職務に当たってもらう、いいな、リスナー従卒」

「はい、連隊長殿」

エンゲルベルトの返事を聞きながら、大佐は自分の腕時計をみた。今日初めて名前を呼ばれたのを思い出した。

「シュミット軍曹、先ず一六〇〇までこいつを預ける。軽くしごいてやれ。一六一〇からは従卒の任に戻らせるように。従卒業務に関してはその際に説明する」

「了解しました」

「では両名とも下がってよろしい、また一六一〇にまた顔を出せ」

大佐の言葉に二人は敬礼し、連隊長室を辞した。

その日から、エンゲルベルトは期限付きながら装甲擲弾兵第十八連隊の一員となった。シュミット軍曹の課す訓練は確実な経験に基づいたもので、こちらの体力的限界を即座に見抜いてきたが、容赦はなかった。その中で、エンゲルベルトは座学を挟んで行われる幼年学校の体育や白兵戦技教習がいかに天国であったかを思い知らされた。それほどに苛酷だった。

 

 

 意外に根性がある。基礎もまぁ、この年齢にしては悪くはない。着任日を含めて二日間に行われた一連の訓練を見ながらシュミット軍曹はそう感じた。

 途中で前職のように罵倒もしてみたが、喰らいついてきている。見かけによらず負けん気が強いらしい。肉体もそうだ、幼年学校とはいえ多少の軍隊経験でつくものだけではない。入学前から鍛えようとするか、相当な量を在学中にこなすしか方法はない。その過程にあまり興味はないし、どちらであろうと問題はない。

 シュミット軍曹は久々に鍛えがいのある新兵を寄越されたことを連隊長に内心感謝していた。かつての訓練教官としての腕が鳴る思いだった。エンゲルベルトは、連隊長の言いつけどおりに朝、昼食時、夕刻は従卒としての仕事を行い、昼間はシュミット軍曹による訓練を行った。一日の職務から解放されると、与えられた部屋の寝具の上に倒れ込むほどに疲れていた。

日々の食事は練兵場と連隊司令部の間にある食堂で食べた。最初は周囲の兵卒や士官たちから奇妙なものを見る目で見られたが、シュミット軍曹による一対一の訓練を受けていることを知ると、かつての訓練教官を思い出した兵卒たちがからかうように声をかけてくるようになった。

「随分と長続きしているそうだな、昨日軍曹から報告があった」

配属から十五日後の朝、大佐は書類を見ながら右傍らに立つエンゲルベルトに行った。彼の左隣には、連隊長付副官のウルリッヒ・ヴェツィオーラ中尉が立っていた。中尉はそれなりに気の利く男で、従卒の業務に関しては大方彼から教わった。

「シュミット軍曹殿とのおかげであります。軍曹殿には感謝の言葉もありません」

エンゲルベルトはそう返すしかなかった。十五日たって漸く、ついていくのがやっとの段階から少しだけましになった感じがしてきていた。

「そうか。貴様、意地だけはそれなりにあるらしいな。それは実に結構」

 この手の新兵が鬼教官の過酷な訓練に歯を食いしばって食らいつくとなると、理由の大方が意地か後戻りできない事情によることを大佐は経験から察していた。この従卒の場合、幼年学校に適正不足として送還されるより、そうされることで生家である伯爵家の武門としての家名と自尊心に傷をつけることが嫌なのだろう。全く、青臭くて結構なことだ。

 そんな内心を反映してか、これまでの間に幾度か目の前の少年に見せた獰猛な笑みがクラウスニックの顔に浮かんだ。

「ありがとうございます、連隊長殿」

「馬鹿者。戦場では意地だけでは生き残れん。後残り半月で軍曹から盗める者はなんでも盗め。貴様が教わっているのは幼年学校の薄っぺらな白兵戦技の教材ではないのだ」

より低いうなり声が、大佐の歯の間からこぼれてきた。

「失礼いたしました。気を引き締め、精進いたします」

「よろしい、昼食後直ちに訓練に戻れ。いってよし」

「失礼いたします」

エンゲルベルトが敬礼をしてから連隊長室を出るとき、ヴェツィオーラ中尉がやけに驚いたような顔をしているのが見えた。その光景が、やけに印象的であった。

 

 



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