主人と柑橘とあせび (ゆきひな)
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プロローグ

「姫様が逃げたぞ。追え!!」

私が飛び出た部屋からしわがれた男の怒鳴り声が聞こえた。その怒声の命令を聞いて、すかさず部屋の外で待機していた兵隊さんが動き始めるのを私は背後から聞こえる足音から察しました。

 

私は止まらず走り続けた。角を曲がるときに、置いてあった高そうな壺に当たり、落下して割れる音がするが、そんなことを気にしている場合じゃない。背後からは複数のドタドタという足音だけが響いていた。赤絨毯が敷かれた廊下を滑らないようにほんの少し気を付けながら走る。天井に吊られたシャンデリアを輝かすほどの太陽の光が差し込んでいるのに、私の心はどんよりと曇っている。

 

 出口が見えたので私は迷うことなく飛び出る。紅いレンガを両端に敷き詰めた幅十メートルもある道が迎えてくれていた。その周りには芝生が敷き詰められており、私はそちらに身を移すことにした。芝生には木々が植えられており、それだけである種の森を連想させて隠れるのにはうってつけの場所だと思う。

 

 振り返ってみると立派な城とこちらに向かってくる手に槍を持った兵隊さんが見えた。鬼ごっこですか。いいえ、私、絶賛追われています。

 

 もう気分は最悪。とっさに部屋から飛び出してきましたから裸足の足で駆け回るのは痛い。それにこのドレス、膝下まであってふわっと外に膨らんでいるこのデザインはとっても可愛いのですが、走っている今では邪魔になって仕方ありません。

 

 うぅ、後ろからは兵士の皆さんが凄い形相で追っかけてきてますし、心がへし折れそう。涙目になってきました。

 

 えっ、何で追われてるかって?それは私がこの国の姫だからですよ。それもただのお姫様じゃないんです。なんと、わたし異世界からやって来たんです!!

 

 『地球』ってところから来たのですが、この世界の人たちはどうやら私の元の世界のことは知らないみたい。でも、地球から来た私はこの世界ではなぜだか『異性』から好かれまくってる。理屈は分かりませんが私から出てるフェロモンがこの世界の男性は好きみたい。地球にいたときはこんなことなかったんだけど。

 

 ともかく私はこの世界では逆ハーレム状態。ハンサムボーイたちに囲まれて幸せな日々を過ごしていましたのに。まぁ、私の大人の色気ってやつ……ごめんなさい。そんなに色気ないです。

 

 この世界に来て二年目、初めて来たときは高校一年。高校デビューをしていなかったから、髪は少しウェーブのかかった黒のセミロング。まだ一度も染めたことは無い。この世界では黒髪は珍しいらしい。

顔は少し童顔。綺麗系より可愛い系に入ると思う。背も低めで150cmぐらいしかないのもそんな印象を強める原因みたい。

 

 まぁ、それはそれとして少し疲れてきくる。流石に地球にいたころはサッカーをやってて、体力あったけどこっちの世界に来てからは姫様、姫様と温室でぬくぬくと甘やかされたおかげでろくに運動なんてしていません。こんなに走ったのは地球にいたころ以来?

 

 って、なんで私追いかけられてるんだろうって思い出したら何だか腹が立ってきた。それもこれも全部『奴隷システム』のせいだ。つい先日から施行されたこのシステムのおかげで、私を奴隷にしようと大臣や兵士たちが反乱、もう嫌になっちゃうよ~。私を奴隷にして国を乗っ取ろうとしているのは分かるけど、こうも早く行動に移すとは思わなかった。というわけでさっき大臣に無理やり奴隷にされそうになったのを何とかして逃げ出してきて今に至るというわけ。捕まったら奴隷にされてしまうので捕まるわけにはいかないのですが、もう足が限界だ。乳酸が溜まって足がパンパン、膝が笑い始めてる。

 

「も、もうだめ~」

 

 角を曲がったところで力の抜けた足は膝から崩れ落ちた。ふわっと倒れる私は来る衝撃に備ようと歯を食いしばる。だが、それは待てども待てどもやってこず代わりにポふっというクッションに飛び込んだような感じと柑橘系の香りが鼻孔をくすぐった。

 

 薄れゆく意識の中、

 

「君が悠莉姫?」

 

 多分、男の人の声だろう。顔を上げるが視界に靄がかかったみたいではっきりと見えない。いきなり出てきた自分の名前に最後の力を振り絞り頷いたところで私の意識は無くなった。 




初めまして。ゆきひなと申します
このサイトでは初投稿の作品になります。
まだまだ至らないこともありますが、皆さんからのアドバイス、感想を糧に作品を書き続けたいと思っています。
では、今後ともよろしくお願いします。


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奴隷システム

 

~奴隷システム~

 このシステムは、ライドニア大陸、ユーストン大陸、ブリタニア皇国並びにその周辺の島国において『奴隷管理システム局(SMS)』の管轄のもとに実施される。以下の規約に従い、このシステムの使用を許可するとする。なお、いかなる場合においても以下の規約を違反しない限りは、『奴隷管理システム局(SMS)』は干渉してはならない。

 

 1.本システムの影響下におかれる国では主人、一般人、奴隷の3つの身分に別れる。この場合の言葉の定義は主人は奴隷を一人以上持つもの、奴隷は主人と契約を結んだもの、一般人は奴隷を一人も持たずなおかつ誰とも契約を結んでいないものとする。なお、この関係の中に、機械、動物(人以外)は含まれない。

 

 2.主人と奴隷の契約は互いの同意が合って成立するものとする。なお、それは互いに心からの同意でなくとも構わない。

 

 3.奴隷になったものは主人から任意の場所に『刻印』が付けられる。なお、『刻印』のデザインは主人が決めれるが、他の主人と同じデザインにすることはできない。また主人は『刻印』のデザインを一つしか決められない。途中変更は不可である。

 

 4.主人は奴隷を複数人もっても構わない。その代わり、主人は奴隷一人一人に対し、最低限の生活を保障しなければならない。また、奴隷の年齢、性別、血縁関係などにおける制限はない。

 

 5.奴隷は複数の主人を持つことはできない。また、奴隷が別の奴隷を持つこともできない。

 

 6.主人の命令に奴隷は基本的には逆らえない。ただし、命の危険にさらされる可能性がある場合は自己防衛システムが働き無効となる。

 

 7.主人と奴隷は契約した瞬間から体調をリンクさせることが可能となる。なお、リンクの解除も可能である。また、主人は奴隷の能力をすべて共有することができる。奴隷は主人の元々の能力の半分を共有する。

 

 8.奴隷は主人に身体的な反抗はできない。ただし、言葉での反抗は許される。なお、命令に置いて言葉での反抗を妨げることはできない。ただし、身体的な反抗を命令に置いて強制的にさせることは可能である。

 

 9.他人の奴隷を自分の奴隷にするには互いの主人同士での同意が必要である。なお、この際には奴隷の意思は尊重されない。また、『刻印』は新たな主人のものに切り替わる。

 

 10.主人が奴隷になった場合、その所有していた奴隷たちは新たな主人の奴隷になる。

 

 11.主人が死んだ場合、奴隷は解放され、身分が一般人になる。その際『刻印』は消える。

 

 12.主人は奴隷を放棄することはできない。ただし、規約9の場合のみ有効である。

 

 13.『刻印』を他人に移植しても効果は得られない。また、『刻印』を規約11以外で除去しても奴隷であるということに変わりはない。

 

 14.月に一度『奴隷管理システム局(SMS)』から各主人のもとに監査員を派遣し規約に違反していないか確認する。

 

 15.主人が何らかの理由で奴隷を管理できなくなった場合、『奴隷管理システム局(SMS)』の名において主人の処分及び、奴隷の解放もしくは処分を行う。

 

以上を奴隷システムの規約とする。

 

ライドニア大陸代表 大日中帝国、第22代国王 李小蓮

ユーストン大陸代表 聖ネフェルティ大聖堂、教皇アテネ・ミラミ

ブリタニア皇国、第6代皇帝 レドモンド・ブリタニア

奴隷管理システム局、局長 篠崎鳴

この4名の名のもとに『奴隷システム』を2013年4月より施行する。 

 



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一つ目の刻印

 世界は大きく変わった。『奴隷システム』と呼ばれる新制度によるためだ。

 

 本来この世界では『奴隷』と呼ばれる存在が公にされることは無かった。人々は、そういった非道徳的なことを許すわけにはいかないという至極当たり前の自制心によって抑えられていた。しかし、四年前の『奴隷システム』施行の知らせが人々に波紋を起こさせた。この当時、世界は数百年ぶりの大不況と呼ばれるほどの経済危機に陥っていた。お金の価値は下がっていき、物価はどんどん上がっていき失業者も増えていくそんな時だった。2つの大陸とブリタニア皇国の各国の重鎮たちで決められたこの制度に国民は反対した。ある場所ではデモ行進が起き、酷いところではテロ行為まで起こる始末だ。しかし、そんな国民の意見を無視し続け『奴隷システム』はついにその施行日を迎える。そして発令から一か月、あらゆる売り上げの中で人身売買が圧倒的な数値を叩き出していた。それは経済不況を覆すほどのものだったという。

 

 人々は口ではこの制度を反対していたものの蓋を開けてみれば、国民の大多数は誰かを支配したいという欲に塗れていたということだろう。その一報の知らせを聞いたとき、人々は誰一人異論を唱えることは無かった。

 

 そして、ここにもまた一人、そんな欲に塗れた人間がいた。

 

 

 

 

 

「悠莉よ。世の中は全て金だと思うのだけど、僕は間違っているかい?」

 男は手のひらに札を数枚持ち、ひらひらと団扇で仰ぐような仕草をしながら目の前の女、悠莉に言った。男は中性的な顔をし、背も160cmぐらいと、やや小柄で守ってあげたくなるオーラを出しており、女性から見たら母性本能を擽るのだろう。しかし、その口からは残念な言葉しか出ない。悠莉に嘲笑を向けるが全く持って迫力は無く、子供が背伸びをして大人ぶっているようだ。滑稽、まさにこの言葉が当てはまると言っても過言で無いだろう。

現に悠莉と呼ばれた女性は、冷やかな視線を男に向けている。

 

 そんな悠莉の視線を気にしないかのように男は全体重を椅子の背もたれにかける。椅子は彫刻品のように細部まで細かく丁寧な作りとなっている。高級品と呼ばれる部類に当てはまるだろう。更にその部屋、部屋と呼べるかどうか疑問に思われる程の広さを誇るそこには、同じような椅子が数点とそれに合わせて作られたテーブルがある。床には真っ赤なカーペットが敷かれており、天井には大小様々な黄金のシャンデリアが神々しい光を放っている。壁際には壺や彫り物、皿などの骨董品が数メートル間隔で並べられている。

 

 まさに財により作り出された金持ちの家と言った感じだった。

 

「えぇ、旦那様。その考えは間違いですよ」

 ニコリと悠莉は微笑んだ。髪はこの世界では珍しい黒髪。それを肩のあたりまで伸ばしたセミロングだ。背は低めだが、その童顔と合わさって可愛らしい印象を持たれるだろう。そんな彼女の笑顔はそれだけで幾多の男共の心を射抜くこと間違いなしだ。だが、目の前の男は特別表情を変えることはない。寧ろ、自分の考えを否定され不満げだ。

 

 男は言い返そうと口を開こうとするが、それは悠莉の言葉で遮られる。

 

「旦那様、よく考えて見てください。幾らお金があろうとも、本当に欲しいものは手に入らないのです。この世界はそういう風にできているのですよ。それは旦那様が一番分かってるはずではないのでしょうか?」

 悠莉は言い終わると、スカートの裾を摘まんでぺこりと頭を下げた。悠莉はメイド服と呼ばれるものに身を包んでいた。この服はこの世界には無いのだが、悠莉が直々にオーダメイドで作ってもらったものだ。

 

 黒のワンピースと白のエプロンの間からは、平均よりも少し小さめだが確かな主張をしている膨らみが見える。膝下よりも長いスカートはふんわりとしている。そして、何より右手の甲にそれがあった。あせびと呼ばれる花を模したタトゥーのようなものだ。漢字で書くと馬酔木。その名前の通り、その植物の葉は有毒であり、馬が食べると酔ったような状態になるという。壺型の小白花を咲かせるそれはあまり有名では無い。

 しかし、この花は有名でなくともこのタトゥーは有名なのだ。『奴隷システム』 の象徴であり、悠莉が奴隷であるという証である『刻印』である。ということは目の前の旦那様と呼ばれている男が悠莉の主人であるということを導き出すのは簡単なことだろう。

 

「むぅ、そうだったな。済まなかった。悠莉よ」

 男ははぁ、と盛大に溜息を吐くと素直に頭を下げた。そんな彼を見て、分かっていただければいいのです、と悠莉は答える。

しかし、頭を上げた男は腑に落ちない顔で、ただな、と前置きをして言った。

 

「金で自由にならないのは、悠莉が金の管理をしていて、手を付けさせないからだろう。というか悠莉は『奴隷』、俺は『主人』間違いは無いよな?」

 

「まず、私がお金の管理をしているのは旦那様から任せていただいたからであり、仮に旦那様にお金の管理を任せると3日で奴隷の皆さんを含めた私達は無一文になってしまいます。それに旦那様にお金をお渡ししないのは研究費用だと言って風俗店『はにっ娘天国』に行かれようと「ごめんなさい。俺が悪いです」、分かっていただければいいのです。それに夜の相手なら私が……。いえ、何でも無いのですよ? それと二つ目ですが、私にとって旦那様は旦那様であり、私は旦那様の『奴隷』であっています。その事実は今この時も、そして、未来永劫変わることはないでしょう」

 男の問いに悠莉は一つ一つ丁寧に答えていく。男は終始、冷や汗が止まらなかったが、そうか、と最後に安心したように呟いた。

 

 むぅ、可愛い、とそんな旦那様に思いを寄せる乙女心を彼が気付くことは無い。男は本心から金が一番大事と思っていることを、何故そんな結論に至っているのかを悠莉は知っている。だからこそ、男を見ていると胸の奥がぎゅっと掴まれたような苦しい感覚に苛まれる。

 

 旦那様を助けてあげたい。

 旦那様に幸せになってもらいたい。

 

 そんな内心を悟られないように、女は失礼します、と一言言い扉を開く。一歩廊下に出て男に一礼し、扉を音を立てないようにゆっくりと閉める。

 

 ドアが閉まる瞬間、ふわぁっと柑橘系の爽やかな香りが吹き抜けた。



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二つ目の刻印

「旦那様、何をなさっているのですか?」

 部屋に入った悠莉は鼻に刺す異臭に顔をしかめた。薬品のにおいが充満したこの部屋は換気はされているようだが、匂いがするのは変わらない。部屋の奥、様々な薬品や古今東西の医学書が並べられた本棚の奥に男がいた。男は数十の試験管に様々な薬品を入れては三角フラスコ内で混ぜている。机の上には薬品類の他にページの開かれた本が一冊と植物の葉が数枚、そしてこの世界では辺境の地、ノイタニアにしか育ってないと言われるライチィの実が置いてあった。ライチィの実は青緑色の堅い皮に包まれたテニスボールほどの大きさの果物で皮を剥けば淡いピンク色の果肉が顔を出す。種は真ん中に大きいのが一つだけある。味は甘いがしばらくすると舌が異様な痺れを起こすという食用には向かないものだ。

 

 男は、悠莉のほうを振り向いた。保護眼鏡とマスクを外し、実験をいったん中断する。

 

「あぁ、ちょっと新薬の開発をな。地上だと、『水銀の涙』が流行り始めたみたいだし。いつここに飛び火するかも分からねぇからな」

 『水銀の涙』、世界三大病の一つで、『メデューサの呪い』、『異常(アブノーマル)』に並ぶ危険度だとされている。体中に痛みが走り、涙が出てくるのだがその涙が外部の空気に触れると水銀のように光沢を帯びた液体になり、やがて固まって瞬きできなくなり失明するという病気だ。数百年に一度のペースで流行るこの病には特効薬がまだ開発されていない。もし、薬が開発されれば数億円というお金が手に入るだろう。

 

「そうですね、旦那様。私はともかく他の『奴隷』のみなさんは皆が皆、病気に免疫がある方ばかりではないのですしね。流石、旦那様。いつも、旦那様は私達、『奴隷』のことを考えてくださり感謝しています」

「う、急にどうした照れるじゃないか」

 男はいつもより素直な悠莉に、恥ずかしさを誤魔化すように実験を再開した。悠莉に背を向ける男の耳は赤くなっている。

 

(もう少しからかってみましょうか。)

 悠莉は部屋の奥へ進み出す。床には無造作に本が散らばっており、床の9割ほどが隠れている。僅かに出来ている足の踏み場を辿って、男の後ろに回り込んだ。音を立てずに背後に回り込んだ悠莉に男は気付く様子は無い。悠莉は背後から男の様子を伺い、実験が一区切り着いたのを見計らって男の首に腕を絡めた。男の白衣越しの背中に胸を押し付けるような形だが、悠莉はお構いなしだ。柑橘系の香りが悠莉の鼻腔をくすぐる。

 

「ちょ、おま、何やって!?」

 突然の出来事に男は声を荒げ、動揺を露わにするが、むやみに動けば薬品を零してしまうかもしれないため、力付くで振り払うことはできない。それをいいことに悠莉は更に密着を計る。男の正面に交差されている手で男の胸板を服越しに触る。妖艶にその指先を触れるか触れないかぐらいの距離感を保ちつつ、這わせる。男の耳にふぅーと風を送れば、ビクッとする様子を悠莉は楽しむ。もっと、もっとと思い、悠莉が頬を擦り付けようとすると、

 

「……悠莉、発情しすぎ」

 その男からの一言で、悠莉の動きが固まった。先ほどまでの妖艶さなど今はなく、背中には悪寒が走り、額からは冷や汗が出ていた。柔らかな肢体は今は緊張でがちがちに固まり、空いた口は塞がらないとばかりにぱくぱくと金魚のようになっている。その表情は子供が怒られている時のような表情だ。

 

「いくら俺がお前の能力を引き継いでるからって、効果覿面すぎるだろ。少しは耐性を……あー、それが無理な能力だから俺は悠莉を求めたんだけどな」

 男はニコニコと笑いながら、自身の首に巻きついている悠莉の腕をやんわりと解く。奴隷システム規約7、主人は奴隷の能力をすべて共有することができるにより、男は悠莉の能力を100%使うことができる。

 

 腕を解かれた悠莉は顔を真っ赤にして屈辱と怒りに震えていた。自身の能力によって行ったのかもしれない行動に対する屈辱、そしてなによりも、旦那様に対する自身の気持ちを能力によって引き出されたものと言われた時、胸にはどす黒い感情が沸き上がり始めていた。自分の気持ちは偽物で、紛い物だと言われたようだった。旦那様を慕い、恋したあの日の出来事さえも自分の意志では無いと、あろうことか旦那様に断言された様で冷静になれなかった。心のど真ん中に杭を打ち込まれた感じだ。

 

「……な……か。」

「どうした?悠莉」

 小刻みに体を震わせ、握り拳をした手は痛いほど爪が食い込んでいる。下唇を噛み締め耐えているのだが、堪えきれない雫が頬を伝う。ひくっ、と嗚咽を漏らす音で男は悠莉に気が付いた。

 

「旦那様の馬鹿ぁぁぁぁぁ!!」

 悠莉は叫ぶや否や、床に落ちた本を気にせずに一目散に部屋から出ていった。バンと乱暴に閉められた扉が軋む。

 残された男は暫し、呆然としていたがやがてはぁ、と溜息を吐くと「やめだ、やめ」と言い、実験器具を片付け始める。たが、先程の言葉が響いていたのか、心ここにあらずと言った感じで、三角フラスコを落としてしまい、床に破片が散らばる。

 

「はぁ~」

 再び深いため息が部屋に響き渡った。

 

 



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三つ目の刻印

 男の住んでいる家はそれはそれは豪華な家だ。外観は洋館のような作りとなっており、本館と別館の二つに別れている。壁はしみ一つ無い白壁と清潔感漂っている。建築技術の発達しているミストルティアの職人たちが見れば10人中、10人が感嘆の声を漏らすだろう。洋館から離れたところには離れの小さな小屋もある。また、本館と別館の間には世界各国から集められた色鮮やかな花の数々が植えられた花壇がある。さらには、敷地を囲むように鉄柵が四方に並べられており、唯一北側にのみ高さ数十mの巨大な鉄製の門が侵入者を拒むように立っている。

 

 ただし、この門から外側は50m程しか地面が無い。何故ならこの土地は地続きではなく、空に浮かんでいるからである。

 

 

 

「ご主人様、また悠莉様が地上へ落ちて行きました」

 男は目の前の少女、確か整備部長のアリエスだったか。赤髪をボブカットにした少女は身につけているメイド服の裾を弄りながら、主人である男にそう告げた。身長は平均的で痩せ過ぎずかと言って太っているわけでもない。少し垂れ目な彼女は柔らかな雰囲気を纏っている。そして、彼女の右手の甲には、やはりあせびの『奴隷の刻印』が刻まれている。

 

「今月に入って悠莉が落ちたのは何回目だ?」

 男はアリエスの報告を聞き、呆れ気味に尋ねた。

 

「4回目になりますね」

 男の溜息が室内に響き渡った。そう、悠莉は何故かいつも門から一歩外へ出れば、足を踏み外して地上へとダイビングするのだ。地上からの高さはおよそ4000mであり、悠莉は富士山よりも高いと言っていたから高いのだろうと男は思う。ってか、富士山って何だ? と男は未だに疑問に思っている。

 

 それはそれとしてだ、悠莉が落ちるのはいつものことで、それなりの耐久魔法を施して置いたので問題はないだろうが、やはり男は心ここにあらずといったようで指で忙しなくテーブルを叩いている。

 

 そんなご主人様の様子を見ていたアリエスは心にモヤモヤとしたものを抱いていた。ご主人様が悠莉様に施した耐久魔法は世界トップクラスの防御力を誇り、たかが4000mの高さから落ちた程度では痣の一つも出来ない。何をそんなに心配してるんだ、という思いと悠莉様にだけ見せるご主人様の態度に対してモヤモヤしている。この気持ちは嫉妬だろうか。奴隷の分際でこの様な罪を犯すなど、とアリエスは反省する。

 

「どうした? アリエス。何か怖い顔してるぞ」

 異変に気付いた男は、アリエスの顔を覗き込む。それを受けたアリエスの顔はみるみる真っ赤に変わっていく。男はそんなアリエスを不思議に思い、首を傾けるがアリエスは更に悪化していく。

 

(な、な、な、何をしていらっしゃるのですか!? ご主人様! あぁ、なんてお顔をしていらっしゃるのですぅ!? 可愛過ぎます。うはっ、そんな首を傾けられて純真無垢な顔で見られたら、うぅ、今すぐぎゅっと抱き締めたい。あぁ、ご主人様なんですから、エッチな命令の一つや二つしてくださってもいいのに。いっそ、この屋敷からご主人様を拉致りましょうか)

 

 そんなアリエスの暴走に、鈍感な男は気付くことは無い。背中に寒いものが走れば、風邪かな、などと言い出す始末だ。嫉妬、強欲、色欲、怠惰、憤怒、暴食、高慢の七つの大罪の中に鈍感もいれて八つの大罪にして欲しいものだ。

 

「何でもないです。気にしないで下さい」

 寧ろ、もっと気にして下さい、と心の中でアリエスは呟く。そ、そうか、と男は言った後、

「それにしても悠莉は落ちすぎだよな。柵建てたりしてるんだが効果は薄いみたいだし、何かいい案はないか?」

 困り顔で尋ねる。

 

「そうですね~。門をご主人様の認証なしでは開閉できないような仕組みにしてはいかがですか? ご主人様ならそれくらい2,3日も掛からないと思うのですけど」

 アリエスは普通の職人なら数か月はかかるような作業を、男は2,3日で終わらせられると思われている。いや、実際に終わるのだから凄いのだが。実際、門の認証システムは、魔力を流してその魔力から認証するものがこの世界の主流だが、それでもそんな仕掛けを作れるのは世界中を探しても少ないぐらいだ。

 

「あー、それな、考えたんだがそれにすると他の奴らが出入り出来なくなるだろ。俺だって常にここにいるわけじゃ無いしな」

「では、いっそ地上に引っ越しますか? それなら落ちる云々は考える必要はなくなりますけど」

 そのまま地上でご主人様と愛の巣を、なんて余計な思考を飛び交わせているアリエス。

 

「それは駄目だ。この場所は変えない。勝手に捨てたりするといろいろと不味いことになりそうだしな」

 男はこの土地をくれたあの女のことを思い出す。何を狂ったのか、ストーカー気味の求婚を迫ってくるあいつは今はどのあたりにいるのだろうか。三年ほど前に会って以来、顔を合わせていない。

 

「そうですか。……というよりですね、ご主人様。悠莉様が落ちるのはいつものことですので、今更どうのこうの対策を施そうと効果は得られないのではないでしょうか? 幸い、いまだに怪我もしていらっしゃらないですし。それとですね、報告遅れましたが悠莉様はどうやら北側から落ちられたみたいでですね。あそこは人攫いがよく起こる無法地帯と噂されるスラム街のあたりではないでしょうか」

「おい、それを早く言え!! スラム街だと……いますぐ俺も出る。警備部から二人、連れてきてくれ」

 アリエスの言葉を聞き、急に慌てだす男。その表情には焦りが浮かんでいる。

 

「はい、かしこまりました」

 アリエスが言い終わる前に、男の姿は部屋から消えていた。アリエスも男に言われた通り、警備部の人間を呼びに行く。その道中、

 

(ご主人様もあそこまで慌てなくても。あの『奴隷の刻印』がある限り、悠莉様に手を出す物好きな方はいらっしゃいませんのに)

 それでも、男に心配される悠莉のことを少し羨ましく思うアリエスであった。



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四つ目の刻印

「兄様、お足元にお気を付けてください」

「兄ちゃん、今日もかっこいいよ。あ、肩に埃が。とってあげる」

「兄様、危ないです。もう少しこちらに」

「おい、兄ちゃんにわざと肩ぶつけようとしたでしょ」

 

 本日の天気、快晴なり。

 そんな天気とは裏腹に男はうんざりした顔でスラム街を歩いていた。無法地帯と呼ばれるこの場所にルールなんてものは無い。『奴隷システム管理局』の管轄外のここではシステム自体はあるものの、ここで何をしようが一切干渉されない。

 

 それはこのスラム街の特徴が影響している。ここに住む人間に戸籍は無い。社会から隔離され、人権を剥奪された者達の溜まり場だ。王族の人間、政府の元重鎮、大富豪として名が通っていたもの、犯罪者、はたまた、普通の女、子供まで様々だ。だが、全てに共通するのは二度と表舞台に上がることは無いということだ。

 スラム街は表向きは無法地帯だが裏の顔は政府や権力を持つものが、社会的抹殺、ゴミと判断した人間を闇に葬り去るためにできた場所だ。

 

 スラム街には店などは無く、朝の5時に物資が政府のヘリで空から落とされてくる。その物資を巡り、日々、抗争が絶えないため、治安はかなり悪い。また、それ以外には闇商人達が違法武器などを密輸してくるぐらいしか物資を手に入れる方法は無い。勿論値段は高額だ。故にスラム街には、法など無く力こそ全ての弱肉強食が色濃く反映されている。そんな環境だからこそ大なり小なりの規模の闇組織が数十個、存在している。

 

 つまりは、スラム街はかなり危険ということだ。まして、一人でスラム街へ行くなど自殺志願者か馬鹿か余程腕に自信のある猛者ぐらいだ。だから、男は護衛を二人つける様に言った。言ったのだが、

「兄様、先程からこちらに敵意を向けている集団がいます。いかがしますか?」

「兄ちゃん、あたしに任せてよ。あんな奴ら、やっつけちゃうよ!!」

 男の周りで存在感を放ちまくる2人の少女は目立ち過ぎていた。

 

 その少女達は瓜二つで、双子である。

 男を兄様と呼んだ少女は姉のソラ。身長は150cmあるか無いかぐらいの小柄でまだ、第二次性徴を迎えていない体は子供らしい。顔は小顔でブルーな眼はクリッとしている。桜色の唇はプルンとしており、鼻も整っている。くすんだ金髪をゴムで右に纏めたサイドテールと少女の笑顔があわされば、一輪の可憐な花が満開となるようだ。

 

 一方、男を兄ちゃんと呼んだのは妹のウミ。容姿は姉のソラとほとんど同じで、唯一、髪を左側で纏めたサイドテールになっていることぐらいしか違いは無い。ニコニコと男に向ける笑顔は明るい向日葵のようだ。

 二人は共に悠莉お手製のメイド服に身を包んでいる。そして、2人の右手の甲にはあせびを模した『奴隷の刻印』が刻んである。

 

 見た目は酷似している二人だが、内面は全くと言っていいほど違う。姉のソラはおしとやか、対して妹のウミは活発、元気というものだ。警備部に属する彼女らは頭脳派のソラ、実践派のウミといったところだろうか。

 

 そんな相反する二人には共通の好意を抱く対象がいる。目の前の男だ。ソラとウミが男に好意を向けているのは、とある出来事がきっかけなのだが、それは別の機会に話そう。ただ、その好意は重過ぎる。

 男の通る道に水たまりがあれば、布を敷き靴が汚れないようにする。男の服に埃が付いているのを見つければ、隅々までチェックし服を綺麗にする。男に肩をぶつける者がいれば、そいつの肩を切り落とすんじゃないだろうかというほどの殺気を向ける。先ほども双子を引き連れているため目立って仕方がない男に敵意を向けている集団の目をくり抜きに行こうとするソラとウミを慌てて男が引き留めたぐらいだ。それほど少女たちは男を過保護と呼べるほど愛している。屋敷では悠莉がいるので二人は大人しくしているが、悠莉がいなければ男を監禁して食事から排泄に至るまで全て管理したいと思うほど男を溺愛し、その独占欲は日に日に悪化しているのではないかと男は感じている。

 

「なぁ、兄ちゃん。どうしてあたしたちを止めるんだ?」

「そうですよ、兄様。あんなやつら兄様の害にしかなりません」

 不満の声を上げる二人の様子は周囲に目立ちすぎている。苛立っているため大きくなった声が新たな野次馬を呼び寄せている。

 

「あのな、お前ら。俺たちはここに戦争を吹っ掛けに来たわけじゃないんだぞ。悠莉を探しに来たんだ。ここはただでさえ治安が悪いのに、あいつの能力がさらに影響して取り返しのつかないことになってもおかしくない状況だってのに」

 男は周囲に目を配れば案の定、男を取り囲むように武装した人間たちが侮蔑と好奇の視線を向けていた。侮蔑は男、好奇はソラとウミに向けられたものだろう。

 

「……中級組織『シザー』ってとこか。まあ、表立った不良組織《アウトロー》って言うのが救いだろうな」

 男は取り囲み周囲の人間を見て言う。彼らの肩や腕には、カニのハサミを模した『奴隷の刻印』がついている。それはつまり、彼らの身分は奴隷だと言うことを物語っていた。

 

「ソラ、ウミ。身から出た錆だ。お前たちで何とかしろ」

 男の気怠げな一声で、二人は臨戦体制に入る。ソラの手には鉄製の丸棒が、ウミの手には棍棒が握られている。

 

「分かりました、兄様」

「最初からそう言ってくれたら言いのに、兄ちゃん」

 ニコリと男に二人は微笑んだ。その表情は頑張るぞ、とばかりにやる気に満ち溢れている。そして、周囲に目を配るその瞳には殺気が宿っていた。

 

「警備部隊長、ソラ」

「同じく警備部隊長、ウミ」

「「兄様(兄ちゃん)の為に、推して参る!!」」

 



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五つ目の刻印

 うー、にゃー。

 どこかで猫の声が聞こえた。

 

 うぅ……あぁ……。

 ここではうめき声しか聞こえない。地に伏せるのは、人、人、人。泥と、真っ赤な血に浮かぶそれらは惨劇としか言いようがなかった。

 

「兄様、終わりました」

「兄ちゃん、あたしの活躍見てくれた!?」

 ニコリと双子の少女、ソラとウミは己が主に笑顔を向ける。二人の体には傷一つなく、返り血すら浴びていない。二人が持つそれぞれの武器には血がべっとりと付いており、鉄さびのにおいと女性特有の甘い匂いが不協和音を奏でている。殺し合い、というより一方的な殺戮を行ったとは思えないほど清々しい無邪気な笑顔を浮かべていた。

 

 歪。それが似合いすぎていた。

 

「腕を上げた様だな。ソラ、ウミ」

 男はそんな二人を褒める。その言葉を受けて二人はますます破顔した。

 

「ただ、ちっとばかし詰めが甘かったな」

 男は倒れ伏している人間の一人を見る。その眼はどこまでも冷え切っており屋敷にいる男の瞳とは全く違っていた。

 

「……あぁ、思い出したぜ……」

 荒く息を吐きながら、そいつは立ち上がる。己が武器である大剣を杖代わりにしてやっと立っていられるほど、そいつは追い詰められていたが、それでも、ソラとウミを相手にして立ち上がれるだけそれなりの強さをもっているのだろう。まぁ、それなりだが。と男はぼんやりと思っていた。確かにそいつは『シザー』のリーダーを名乗っていたと思う。懸賞金は600万ぐらいと、一般家庭の平均年収ぐらいだ。

 

「異能の名家『黒森』。数年前まで軍事商業の市場を牛耳っていたが、実際はその独自の異能で功績を築き上げた一族。だが、つい最近、ばったりと『黒森』の存在もその異能も消えた。そう思ってたんだが、まさかその生き残りがいたとはな……」

 『シザー』のリーダーはくつくつと笑い声を漏らす。

 

「合成と分解を司る一族、それも双子か……。くくく、愉快、ゆか……」

 そいつの体がビクンビクンと突然痙攣した。黒目が上に上がり、やがて白目になる。口をぽっかりとあけ、その端からは涎が伝っている。

 

「……うるさい」

 ぽつりと『シザー』のリーダーの背後から不機嫌な声が聞こえた。『シザー』のリーダーの胸からは一本の手が生えていた。じわりじわりと服を赤に染め上げていく。親指以外の四本の指をぴったりと合わせて手刀の形にした手は極限まで鍛え上げられた一本の刃物と化していた。じわりじわりと服を赤に染め上げていく。

 

「あいつらは今は『黒森』の人間じゃない。俺の奴隷だ」

 男は捻るようにして胸を貫いている手を抜き取り、自身の手に付いた生臭い血を振り払う。それと同時支えを失った『シザー』のリーダーの体は重力に従い崩れ落ちる。

 

 死体と化したそれを冷ややかな眼で見る男。

 

「兄様……」

「兄ちゃん……」

 双子が肩を震わしながら目の前の光景を見ていることに気づき、柔らかな表情に切り替わった。

 

「あぁ、悪い。スイッチが入っちまった」

 後頭部を描きながら男は申し訳なさそうに言う。先程までの嫌な感じは全く無くなっていた。

 

「いえ、兄様がそうなった時に止めるのも私達の役目」

「兄ちゃん、ごめんね……」

 二人とも謝罪の言葉を述べ、場の空気が重くなる。それを察したのか男は、さっさと悠莉を連れて帰るぞ、と言ってとっとと歩いて行ってしまう。

 

 二人は先を行く男の背中を追いかけながら自分達の不甲斐なさを悔やんでいた。自分達を闇から救い出してくれた男に何をすることができるのだろうか。やはり、自分らでは男の隣りには立てないのか。

 そして、脳裏に一人の女性が思い浮かんだ。黒髪セミロング、私達も着用しているメイド服を優雅に着こなす悠莉様。私達が男の次に尊敬する方であり、いつも男の隣りにいる女性。そんな位置(ポジション)に居られる悠莉様を羨み、妬んだことも一時期あったが、悠莉様はそんな私達の気持ちをすべて受け止めた上で、男の近くにいさせてくれた。悠莉様が男の隣りに立っていられる存在であるということが私達との決定的な差なのだろう。

 

 先程の旦那様の暴走も悠莉様なら容易く鎮めることが出来たに違いない。多分同じ能力者同士だから分かるがそこに悠莉様の能力は関係なく、それ以外の思いとか気持ちとかで成せる技なのだろう。とソラとウミは考える。

 

「あ、旦那様~」

 数キロほど歩いたところで、男を呼ぶ声が聞こえた。元気そうに手を振るその姿を見て男の頬が緩んだ。いつも通りの悠莉が、男の元に駆け寄って来ていた。

 

「大丈夫だったか?」

 男は悠莉を手元に引き寄せると、確認するように問いかけた。ペタペタと悠莉に触れ怪我をしていないかを確かめる。怪我が無いのを確認すると、ホッと安堵の息を漏らした。

 

「……ちょっといい?」

 男が安心したのを見計らったようにタイミング良く、男に声をかけた者がいた。女の子という表現が正しい少女は平均より細身。髪の色は灰色で、お世辞にも綺麗とは言い難い。顔は整っているのだが、そこには表情と呼べるものが無かった。能面と言う表現がぴったりなほど喋る時の口の動き以外は一切動いていないように見えるのだ。服はここスラム街から東に行った『学問の街ジェレニウム』のセントルチア女学院の制服の物だろう。淡いクリーム色のニットに半袖のワイシャツ、膝より短いスカートに黒のニーソックスという出で立ちだ。半袖シャツから伸びる腕は、病的なほどに細く、そして青白かった。

 

「旦那様、こちらの方が私をここまで案内してくださいました」

 悠莉は二人の間に立ち、男に少女を紹介する。

 

「……別にそういうわけじゃない。貴方達には早急にここから立ち去って欲しいだけ」

 少女は顔色一つ変えること無く、開口一番そう切り出した。そのダークグリーンの瞳からは妙な威圧感が漂っている。その言葉を受け、男の表情は一瞬曇るが、すぐに元の表情に戻る。

 

「あぁ、分かった。すぐにここを出る。悠莉を助けてくれてありがとな」

 男の返答にソラとウミは物言いたげな顔をするが、その口からは言葉を発することは無かった。男は踵を返し立ち去っていく。それを黙って、少女は見送るのだった。

 

 

 

 

 

「兄様、良かったのですか?」

 帰り道、男にソラが耳打ちをした。どうやら先ほどの女の提案を了承した男の態度を怪しんでいるようだ。

 

「良いんだよ。あれと揉めると厄介なことになる。それに向こうは向こうでこれ以上、自分たちの領域を荒らされるのを危惧しているんだろ。別に向こうから喧嘩を吹っ掛けてこなければ荒らしはしないっていうのにさ。まぁ、ともかくだ、今は大人しく帰るよ」

 男はそう言って、ソラの頭をぽんぽんと優しく触る。

 

「あぁ~、ソラだけずるい。兄ちゃん、あたしも」

「旦那様、私にもお願いします」

 頬を染めるソラの様子に気が付いたウミと悠莉が距離を詰めてくるが、男は面倒くさいと言わんばかりにずんずんと進んでいく。

 

「今日の晩飯が楽しみだ」

 男は茜色の空に向かって、そう呟いた。夕日が照らし出す地面には四つの影が重なり揺れていた。

 



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五つ目の刻印の裏側

 暗い。そこは闇のように暗かった。光は無い。太陽も蛍光灯も蝋燭も月明りさえも無い。何も見えず、何もない。そんな空間はある一室だった。窓のない部屋。

 

「『シザー』は壊滅したようだな」

 地を揺るがすような男の低い声がその一室に響いた。

 

「いいのか、あれはお前のところの傘下だろ?」

 声変わりするかしないかぐらいの男の声がべつの方向から響いた。

 

「別にいいわよ。あんな下っ端組織の一つや二つ、代わりなんていくらでもいるわ」

 女の声がした。その声には呆れ以外の感情は篭っていなかった。

 

「……相手は“古の奇術師”。寧ろ、『シザー』程度の首で事を穏便に済ませられただけマシ」

 幼い少女のような子供の声が返ってきた。

 

「ソレデ、ヤツヘノタイショハドウスル? アノオトコノコトダ、スデニオレラノコトハカンヅイテイルハズダ」

 片言の言葉を話す男の声には、緊張の色がこもっている。

 

「……様子見」

「「「「同意」」」」

 片言の男の質問に6人目の少女が答えた。声に覇気が感じられない。物寂しい感じだ。そしてそんな中、7人目が声を上げた。

 

「おいおい、仮にもこのスラム街を統べてるお前らは何、弱気になってんだ? 大級組織の王よ、暗殺集団の長よ、闇社会の首領よ。俺達が恐れるに足る男か、あれは」

 ちゃらん、ちゃらんと金属同士がぶつかり合う音と共に、やけに挑発的な男の声が場を支配した。

 

「『リバース』の長か」

 低い声の男は口を開いた。

 

「貴様が“古の奇術師”に対し、どのような評価を下そうが貴様の勝手だが、我らもあの男に対する評価がある」

「そしてよ、私達はあの男を超危険人物と見ている」

「……全員の総意」

「つまり、分かるよな? 俺達の言いたいこと」

「ムダニヤツヲシゲキスルナ。ムコウガテヲダサナイカギリ、コチラハカンショウシナイ」

「私達は組織であって、個では無い。そこをもう少し考えるべき」

 忠告とも取れる六人の発言を受けてもなお、その男は姿勢を崩さなかった。

 

「組織であって、個ではない、ねぇ。俺もお前らも組織の前に個だぜ? 個が集まっての集団だ。集団の中には、俺みたいに虎視眈々とあの男の首を狙いたい奴だっている。そんな奴がお前らの組織にいないと言い切れるか?皆が穏健派なのか?違うよな。中には過激派だっているんだぜ? もしかしたらそれは少数かもしれないし、お前ら以外の全員かもしれない。可能性としてはありだろ? まぁ、ようするにだ、俺は考えを変えるつもりは無いということだ。ただ、今すぐにあの男と戦争を起こそうって訳じゃない。それこそ今は様子見、準備期間さ。ちゃんと策は用意するし、あの男を引きずり出す演出も、過激派が参戦しやすい環境もな。それなりに善戦してやるよ」

 男の饒舌な話にその場にいる6人は口を挟むことが出来ずにいた。

 

「まぁ、お前らも参加したくなったら勝手に入れ。と言っても無理矢理にでも巻き込ませてもらうがな」

 ゾクリと六人の背筋に悪寒が走る。刹那、ヒュンという風切り音と、その後に何かが地面に叩きつけられる音が響いた。

 

「あっぶねー。いきなりだもんな。まぁ、俺を仕留めようとしたその判断、嫌いじゃないぜ。最も相手が俺ってのが悪かったな」

「……」

 ガサゴソと暫し音がなったが、やがてその音もなくなり、無音になる。その様子を残りの5人は声を出せず、身動き一つ出来ずに時が過ぎるのを待つしかなかった。

 

「と、いうわけだから俺を殺すも生かすもご自由に。じゃあな」

 かっかっと部屋の出口に男が歩く音が聞こえる。ギィーとドアが開くとともに外の明かりが部屋を僅かに照らし、その男の横顔を映す。くすんだ銀髪を肩にかかるぐらい伸ばしたその男は何かを思い出したように、部屋の中に顔を向けた。その時の顔は、酷く子供じみていた。

 

「言い忘れてたが、組織名『リバース』今日限りで変更だ。新しい名は……」

 

 

 

 

 

 

 

「『新時代の幕開け』だ!!」

 



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六つ目の刻印

「料理部長のナタリーが風邪?」

「はい、今朝より高熱が出ております。疲れからの風邪のようでウィルス性のものでは無いですのでご安心下さい。ただ、体を動かすのは酷なので、ナタリー様には休養を自室で取らせます。旦那様、よろしいでしょうか?」

 悠莉は丁寧に許可を貰おうと話を進めて行く。

 

「まぁ、別にいいけど。俺も今からナタリーの見舞いに行くよ。ついでにあいつの風邪を半分程、引き受ければ大分楽になるだろう」

 男は軽い感じで言う。『奴隷システム』規約7にあるように、奴隷と主人の体調をリンクさせることで男の言うようなことをするのは可能なのだ。

 

「そうですか。あまり無理はなさらないで下さいね、旦那様」

「無理なんてしてないぞ? ただの風邪だろ。それぐらいなら問題無い」

 心配そうに言う悠莉に男は不思議そうに言う。

 

「ですが、旦那様。ナタリー様が急遽休みと言うことは、今週の料理担当は、チユさん一人になるということです」

 その言葉を聞き、眼を見開く男。そして、ぎこちなく口を開けば、

「他の料理部の人間は、「旦那様、シェイ様もココさんも、本日は下界へ食料の調達に出掛けて居られますので、いらっしゃいません」……だよな」

 がっかりと肩を落とす。男の落胆した様子に、有能なメイドさん、悠莉は横目で男を見ると、これまた表情一つ変えることなくワゴンに乗せていたティーカップに紅茶を注いでいく。ダージリンに似た匂いのするセルンティーと呼ばれるこの紅茶は、この世界での中流貴族がよく愛用するものだ。ティーカップからは湯気が出ており、紅茶の香りが部屋中に漂い始める。

 

「旦那様、どうぞ」

 ニコリと笑顔を浮かべて悠莉は男へ白の丸皿に置かれた紅茶の入っているティーカップを、男の机に置く。その隣には角砂糖と一本の銀のスプーンが入れられた器も置かれている。

 

「お、ありがとな」

 男は一言そう言って、紅茶を口に含む。紅茶の香りが脳を刺激し、落ち着いた気持ちになっていく。

 

「……美味しい」

 男が漏らした一言に、悠莉はわずかに顔を綻ばせた。

 

「ふぅ~」

 紅茶を飲み終わると男は盛大に息を吐いた。

 

「やっぱり、今日の料理担当はチユになるのか? あいつの料理は何というか、料理じゃないもんな。料理というより生物兵器ってほうがしっくりくると思うんだが」

「旦那様、チユさんは彼女なりに頑張っていますよ。最近では料理部長のナタリー様に魚の捌き方を教わっていらっしゃいます。その頑張りをそのようにおっしゃるのは些か配慮に欠けているのではないのでしょうか。それとですね……」

 悠莉は怒ったように言うが、突然、口調を平常運転に戻した。

 

「旦那様の後ろに、チユさんはいらっしゃいます」

「!!」

 悠莉の言葉に男はバッと言う効果音が付きそうなほど勢いよく振り返った。そして、みるみる顔色が悪くなっていく。

 それは目の前の少女、朱色の髪をヘアピンで右に留めており、顔は小顔、瞼は二重で桜色のプリッとした唇が印象的な小動物を思わせる彼女、チユも同じでありその顔は青ざめてプルプルと肩を震わせていて、その眼には今にも溢れんばかりの涙が溜まっている。ダムはもう結界寸前といった様子。

 

「いや、違うんだ……」

 男は必死に言い訳しようとするが、その声に驚いたのかチユはビクリと更に肩を震わせる。

 

「ご、ごめんなしゃい。わ、わたしのせいで。あ、あの、こ、今度はちゃんと作りますから、す、捨てないでください。お願いします」

 びくびくと男の様子を窺いながら、チユは訴える。この少女は他の奴隷たちとは経歴が違う。本来奴隷になるのは、経済的に貧しいものが自身の身を売って金に換えたものや、人攫いに合ったもの、あるいは両者の合意によって意図的に傍にいるために契約するものなど様々だ。勿論、前者は奴隷商人と呼ばれる者たちにより奴隷市場などで売られるのだが、チユの場合は少し違う。非合法売買と呼ばれる手法で流れてきた奴隷だ。奴隷市場などは政府が公に認めたいわば自治がしっかりと出来ている場所であり、そこで売る商人はすべて政府から許可を貰っている。故にそこでは犯罪行為が起こることはほぼ無く、また買いに来る客も貴族や王族、軍人とガラの悪い客はお断りということが多い。

 

 しかし、非合法売買とは名前の通り犯罪ギリギリ、いや犯罪レベルのことなど普通に起きているようなものだ。調教。薬物、身体改造などは当たり前。もちろんガラの悪い客がほとんどであり、金さえ払えばどんなことだって試しにやらせてくれるそんなシステムだ。別名、闇市場と呼ばれ、売られている商品の価値は奴隷市場よりも3倍以上はする。勿論そこで売っている商人たちは、無法地帯スラム街を行き来するようなものがほとんどであるからその交渉術は飛びぬけていい。そして何より、『能力者』と呼ばれるものが商品として売りに出されるのが多いのもまた最大の特徴であり、一部の権力者たちが目を瞑っている最大の理由だろう。

 

 そして、チユもまた非合法売買を経て、奴隷になったものだ。2度目の主人。そう、チユにとって男は2人目の主人であり、彼女自身は奴隷を二度経験している。

 

「あ、あの、何でも……しますから。す、捨てないで」

 チユがこんなにも怯えるのには、1度目の主人による影響が大きい。本来の彼女の核とも言える意思は、過去にグチャグチャに壊されている。それは今でも完璧に修復出来たわけではない。

 

「あぁー、旦那様が……」

 悠莉は男の耳元でボソリと責める。勿論、声のボリュームは男にしか聞こえない。

 

「俺はチユを捨てないから、泣くな。もうお前の主人は俺だ。あの下衆な奴じゃない」

 男はゆっくりと怖がらせないようにチユに近付く。そして、少女の頭を優しく撫でるのだった。

 

「だから、安心しろ。ここはお前の居場所だ。俺はお前の味方だ」

「御主人様……」

少女の胸が暖かくなっていくのをチユは感じていた。

 

「わ、分かりました。チユ、もう泣きません。御主人様のお役に立てるよう頑張ります。美味しい料理を作って来ますので楽しみにしてください」

 タタタッと駆けて行き、背中が小さくなって行くチユへ男は手を伸ばすがその手は虚しく空を切った。

 

「旦那様、もしやと思いますがチユさんが心を込めて旦那様だけの為に作られた料理を食べないなんて言いませんよね? 旦那様は御心の優しいお方ですから、ね?」

 悠莉が無表情で男との距離を詰めてくる。それは否定の言葉は許しませんよ、と妙に圧力をかけてくるものだ。

 

「なぁ、今更だが悠莉が作るって選択肢は……」

「却下です」

 男がぼそりと呟いた一言を悠莉は問答無用で切り捨てる。

 

「分かったよ。食べればいいんだろ。その代わり、医療部の奴らには連絡入れといてくれ。本当にあいつの料理はシャレにならんからな。食べて気を失って、目を覚ましたら天国なんてことザラだからな。頼んだぞ、悠莉。」

「かしこまりました、旦那様」

 やや投げ槍気味な男を前に悠莉は淡々とした様子でいる。

 

「では、失礼いたします」

 ワゴンを押しながら優雅な動作で悠莉は部屋から出て行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「旦那様のために、医療部へ行かなければなりませんね。あぁそれと今日の夕食は旦那様のことでゴタゴタしそうですので、料理部の方は大変でしょう。私が奴隷の皆さんのために何か夕食を作って差し上げねばなりませんね」

 今日も悠莉はご機嫌だ。



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七つ目の刻印

「なぁ、悠莉よ。今月で何人目だ?」

 ある日の昼下がり、男は窓から庭を眺めながら言った。色とりどりの花が咲き誇っている花壇にジョウロで水をあげている整備部のメルトが視界に入っている。垂れ目で大人しい印象の少女だ。

 

「4人目となっております。旦那様」

 男の横に立つ女、悠莉は淡々と答える。本日の悠莉の格好はいつもと同じメイド服。平常運転だ。対する男も上はカッターシャツ、下は黒のズボンと普通な格好だ。

 

「だよな。いつもはこんなに多かったっけ?」

「いえ、今月は6月ですから、その影響でしょう」

 ジューンブライドと言いますし、と悠莉は付け加える。この屋敷にはおよそ悠莉やアリエス、ソラやウミも含めて数百人の人間が居る。殆どが目の前の男に『刻印』を入れられている。そんな彼女達だが、奴隷だからといって未来を奪われたわけではない。男の計らいで婚約が決まれば、屋敷から出て独立していいようになっている。ただ、奴隷の刻印は、主人が死ななければ消えず、かといって婚約相手に移譲してもトラブルの種になるため、男の奴隷という身分は常に付き纏う。

 

「ああ、なるほどな、納得」

 うん、うん、と首を振る男。

「それにつきまして、人材不足が否めません。サラに、リリ、スミレ、それに医療部長のミライ様がいなくなったのは、大きいです。ミライ様は、何かあれば家を訪ねてもいいと仰られていましたが……」

 悠莉は今月、屋敷を去って行った4人の名前を言う。

 

「ミライか、あいつの医療技術は神がかってたからな。だが、ちょくちょくミライのとこに行くわけにはいかないだろ。向こうには向こうの生活があるわけだし。代わりの医療部長はキリにやってもらうとして、人数は補充しないとな」

そう言って男は何処かへ電話をかけ始めた。

 

「響か。ああ、俺だ。明日から3日間、響の家に泊まりにいく。予定は大丈夫か?……来るのは俺一人か?って、いや、悠莉も一緒だが。……露骨に不機嫌になるなよ。……あぁもう、そういうこと冗談でもいうな。響は結婚して、旦那がいるだろ。は、何時でも離婚の準備は出来てる、……あのな、響の旦那、名前は忘れたがあれとは上手くいってないのか?なら、別に離婚する必要は無いだろ。……しょんぼりすんな。まぁ、いいや。取り敢えず明日から来るから、じゃな」

 男は電話を切った。

 

「響のとこに泊まることになったから」

「響様なら、港町ギャリングに住んでいらっしゃいますね。あそこは確か、月の終わりに大規模な奴隷市がありましたね。ということは、そこで人員補充をするつもりですか?」

 港町ギャリング、ラインストン大陸の東側、海沿いにある街で奴隷システムが始まるまでは水産業が盛んな街で有名だったこの街は奴隷システムの導入後、各大陸への玄関口として世界各地から風土品や、特産物が集まった。と、言うのは副産物の様なもので、実際に中心を占めていたのは『奴隷候補』だ。まだ、奴隷の刻印を刻まれていない一般人の中から、金銭的なトラブル、あるいは身寄りがいない子供、人攫い、そんな様々な理由を持つものが商品として売られる。勿論、政府公認の市なため罪になることはない。

 

「あぁ、ここ最近、『能力の覚醒』の反応は見られなかったからな。特別、行きたい場所もないし、無難にギャリングで掘り出し物を見つけるよ」

「分かりました。では、明日の泊まりの準備をして参りますので、失礼します」

 悠莉はぺこりとお辞儀をして、部屋を後にした。

 

 

 

 

 日付は変わり翌日。

 男と悠莉は港町ギャリングへ来ていた。予定より2時間ほど遅れての到着だ。なぜなら、屋敷を出る際、アリエスやソラやウミら奴隷達に捕まってしまい、自分達を連れて行け、とせがまれたからだ。説得に説得を重ね、何とか妥協案として悠莉が、旦那様の部屋に自由に立ち入りしてもいい、と言ったのが決め手となり、彼女らは諦めてくれた。日頃、男の部屋の掃除は悠莉が行うので屋敷の他の人間が部屋に入る機会など殆ど報告がある時ぐらいだ。部屋には、ベットと机、本棚に着替えの入ったタンスぐらいしかないのに、そんな部屋に入って何が面白いのか、と男は思う。

 

「旦那様、奴隷の皆さんも納得されたのですし、深く検索されるのは辞めてはいかがですか?」

 隣を並んで歩いている悠莉は男に釘を刺す。鈍感な旦那様は気付かれないと思いますが、奴隷の皆さんにもプライバシーというものがありますし、何より私と同じ気持ちを抱く同志のためです、と心の中で悠莉は意気込む。

 

「まぁ、いいけど。っと、市だな。相変わらず賑わってるな。財政界の大物に、軍事大国のトップ、あれはエルーシア王国の第一王子じゃないか?」

 市場が開かれている街の中心部、広場には世界各国の衣装に身を包んだ商人や人々がいた。殆どが一般庶民だが、中には国の重鎮達の姿もちらほらある。

 

「貴族や王族の方々にとって奴隷市は一種の社交場のようですね。顔合わせによる交流、奴隷選びの目利き、そして、購入における財力のアピールと他の国々への威圧も含んであるいわば、公務みたいなものでしょう」

 男は悠莉の話を聞きながら、ぼんやりと見渡していた。広場を囲うように建てられている建物群を背に商人達は地面に絨毯やシートを敷き、陣取っている。シルク生地の服に身を包み、金持ちの雰囲気を醸し出している商人は、客である各国の重鎮らより僅かに貧相な格好である。そして、並べられた商品。性別、年齢、体格様々だが、大抵の女性は全裸あるいは薄いボロ布で腰や胸元を隠してあるぐらいだ。中には、服に身を包んである女性もいるが、肌に痣があるなど素肌を見せれば見栄えが悪いために商人が着させているに過ぎない。男性も腰に布が巻いてあるぐらいだ。

 

 それら商品は首から値段の書かれた木の板をぶら下げており、値段は大小様々だ。男性は20代ぐらい、顔、労働力として使えるかなどが金額をあげる要因になる。逆に子供や中年以上は平均より安い。女性も似たようなものだが、男性と違うのは子供も割りと高値で取引されることが多い。それは、一般的に男性は労働力、女性は性奴隷としての認識が強いからだ。

 

「旦那様、些か周りが騒がしい様ですが」

 悠莉の言葉通り、男らを見る野次馬でここら一帯は溢れていた。

 



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八つ目の刻印

 その二人は異常に目立っていた。

 男女のペアだ。女性のほうはそれはそれは美しい美貌を持っていた。百人の男に聞けば皆きれいだというし、同性である女性からも憧れの眼差しで見られること間違いないだろう。

 

 女性は悠莉と呼ばれていた。この世界では珍しい黒髪。それを肩の辺りまで伸ばしており、良く手入れされているのだろうサラサラと透き通るように艶やかだ。背は低め、童顔と言うのも合わさってやや幼く見えるが一つ一つの仕草は非常に品のあり上品だ。メイド服には皺一つ無く、その生地も一級品と呼ばれるものだろう。

 対して男の方は中性的な顔をしていて、男らしさのカケラも無く貧弱そうな体つきをしている。身につけている服も有名ブランドのものでは無い。それでも服自体はいいものであるがやはり隣りに立つ女性と比べれば、見劣りしてしまう。

 

 お世辞にもこの男女のペアは釣り合っているとは言えないだろう。

 

 そして、その男には女とは違い憎しみの視線が注がれていた。どうしてお前がそこにいるんだ、どうしてお前がその女性から笑顔を向けられているんだ、と。しかし、男はそれに気づいた様子は無く、女との距離が離れることはない。

 

 ふと、そんな二人に近付く影があった。

 

「やあ、御嬢さん。そんな白けた面の男より、この僕と一緒に市を回らないかい? 何なら僕が君をその男から買い取ってあげるよ」

 にこやかな笑みを浮かべ、話しかけたのはそれはそれはお金持ちの坊っちゃんと言った感じの男だった。脂ぎってテカっている肌、やや大きめの丸めがね、首のしたには蝶ネクタイがあり、お腹は少し出ている。髪型は絵に描いたような坊っちゃん刈りで、小太りな男だ。何処かの貴族なのか彼の後ろには従者と思われる黒服のスキンヘッドと、奴隷と思われる女性がいた。女性の首には黒に白のラインが入った革製の首輪があり、そこからじゃらじゃらと鎖が小太りの男の手まで伸びている。服もボロボロで所々、糸が解れており見苦しい。容姿も綺麗だと思われるが、今の彼女は憔悴して頬も痩せこけ、眼も虚ろだ。地面はコンクリートなのに靴は履いておらず、裸足と見るからに痛々しい。奴隷、正にその本来の意味を明確に表したような光景が広がっている。

 

「それで、そこのお前。いくらでこの女を僕に譲る? 金ならくれてやる。3000万でどうだ? お前の様な庶民にとっては大金だろ? 何ならもう少し増やしてやっても良い。そのお金で新しい奴隷でも買うといい」

 偉そうな言い分に外野で見ていた野次馬達も思わず眉を片方下げてしまう。そんな中、悠莉の隣りに立つ男は冷静だった。小太りの男の鼻に付く言い方もどこ吹く風だ。暖簾に腕押し。男は無視する選択肢を選ぶ。我、干渉せずとばかりに視線は市場に並ぶ商品に向けられ、品定めしている。

 

「どこの誰だか知りませんが、そんな提案をされても私は迷惑です。そもそも名前ぐらい名乗るのは最低限のマナーでしょう。そんなマナーすら守れないような人に貰われる気にもなりませんし、私は生涯、旦那様の奴隷で居続けます。それは未来永劫変わることのない確定事項ですので早急に諦めることをお勧めします」

 無視をし続ける男の代わりに悠莉が答える。その間もなお、男は一切二人のやり取りに目を向けない。そんな男の態度に腹を立てたのか、突如、小太りの男は悠里の手首を無理やり掴み自身の胸元に引き寄せた。バランスを崩しながらも後ろに佇む従者に背中を支えられ体制を整える小太りの男。一方、引き寄せられた悠莉は嫌悪感を露わにしている。男に掴まれた手首を必死に抜こうとしているが男女の力の差は埋められない。

 

「僕の名前はマルコ。ギーシュ家の三男だ。分かっているのか、上流貴族の僕がお前のような庶民を相手しているのだ。それなりの対応をするのが、礼儀だろうが。それとも貴族であるこの僕をもてなすことも出来ないのか? やはり、庶民は結局は庶民でしかないと言うことかな。まあ、いい。言葉が通じないようなら無理矢理にでもこの女は連れていくからな。この女はお前のような庶民より、貴族であるこの僕にこそ相応しい。さあ、行こう」

 マルコは男に対して一方的に侮蔑の姿勢で捲し立てると、嫌がる悠莉の手首を握る力を一層強め、歩き出した。歩調が合わず足が縺れそうになる悠莉を気に掛ける素振りすら見せない。そんな様子に野次馬達の何人かは拳を握り締めたりして怒りをぶつけようとするが、相手が貴族、それも上流貴族の名家、ギーシュ家と知り、怒りを鞘に収めるしか無かった。

 

「……おい」

 そんな中、地の底から響く様な低い声がした。男だ。その眼光は鋭く、それだけで人を殺してしまえそうだ。

 

「上流貴族だか、ギーシュ家だか知らないがそれがどうした。その程度のことでいちいち威張るな。そもそもお前の家が名家なのは先代ジョゼフ・ギーシュの功績の賜物であることをお前の様な親の七光り坊っちゃんはよく勘違いする。それとだ、別に俺のことを馬鹿にするのは構わないが、俺の奴隷に手を出すのは見逃せないな。そもそも俺は自分の奴隷を他人の奴隷にさせるつもりはない。それにうちの奴隷は、3000万なんてちんけな価値なわけ無いだろ。せめて国一つぐらい用意できたら、交渉の席についてやってもいいぞ。まぁ、お前みたいな坊っちゃんには無理な話だろうがな」

 男はマシンガントークさながらにマルコを貶す。そんな男の言葉に頭に血が上った男は悠莉の手首を掴んで居た手を乱暴に離し、男の胸倉を掴んだ。ギッと二人の視線が火花を散らす。其の間に悠莉は男の背後に回り、その背中に体を隠す。

 

「ふざけるのもいい加減にしろよ。僕は貴族、お前は庶民だ。庶民は貴族の上には立てないんだよ。そんな戯言を吐いて、強がらずに僕に素直に平伏せ。この貧乏人が」

「……マルコ様、その辺でお止めになられた方が」

 一瞬即発の雰囲気を破ったのは今まで静観していたマルコの従者のスキンヘッドの男だった。

 

「使用人のくせに何の真似だ? この僕に逆らうつもりか?」

「いえ、そういうわけではありません。マルコ様、あの女の手の甲、あれはあせびの模様です。それにあの男、件の賞金首の顔写真に似ております」

 スキンヘッドの男の言葉にみるみるマルコは顔を青ざめ、胸倉を掴む力すらも抜けてしまったようだ。

 

「きょ、今日のところは、み、見逃してやる」

 お決まりの台詞を言って、マルコは逃げるように走り去って行った。そんな中、従者のスキンヘッドの男は、悠莉達に一礼し、奴隷の女性はマルコに引き摺られる中、男の方を名残惜しそうに見ていた。

 

 

「なぁ、悠莉。賞金首ってどういうことだ?」

「さぁ?多分この間のスラム街のことではないのでしょうか?それよりも旦那様、今から市を回られますか?」

 マルコらの姿が完全に見えなくなった頃、男は口を開いた。

 

「今日はいいや。なんかやる気が下がった。今から響のとこにいって、早く休みたい」

「そうですか。では、そのように」

 男が市の出口へ向かうのを半歩後ろから悠莉はついて行くのだった。

 

 

 

 

 

 

 

(それにしても賞金首の話題が出た時はびっくりしました。まさか、旦那様が指名手配されていたのはスラム街以前からで、その懸賞金の額が王国一つ分だとは口が裂けても旦那様に伝えるわけにはいけませんからね)

 



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九つ目の刻印

「響ぃー。いるかー」

 男はドアに向かってそう叫んだ。周囲は森に囲まれており、空気も美味しい。涼しげな風が吹き、夏の到来を予感させる。空は青く雲一つ無い。そんな青空の下、男の目の前にはログハウスが建っている。材質はほとんど木で出来ており、ウッドデッキもある。

 

「はい、今行きまーす」

 部屋の奥から女性の声がすると、ドタドタと足音が近づいて来た。隣にいる悠莉は表情一つ変えること無くドアが開くのを待っている。

 

「あ、旦那様ー、いらっしゃい。上がってくださいな」

 ドアが開き、中から甘い匂いが吹き抜けた。そして、ひょっこりと顔を出したのは黒縁メガネを掛け、長いストレートヘアーをポニーテールにした女性だ。髪の毛を結んでいるゴムは水色と白色の二色で構成され、髪の毛の根元をきゅっと絞っている。黒とベージュのボーダに鮮やかなサテン生地のオレンジのバルーンスカートという着こなしは6月のじめっとした雰囲気を吹き飛ばす元気系な印象を与える。ただ、それだけでは幼く見えるのだが、大ぶりのピアスが群と大人の魅力を引き立てている。

 

「おう、失礼するぞ」

 男は玄関で靴を脱ぎ、先に部屋に入る。続いて悠莉も入ろうとするが、玄関で男を迎え入れていた響がその存在に気が付いた。先ほどまでのにこやかな表情はなく、キッと目じりを釣り上げるその様子は黒縁眼鏡と相まって視線は鋭利な刃物と化していた。しかし、そんな刃物を寄せ付けない芯の強さを持つ悠莉はあろうことか、その刃物を素手で掴みにかかる。

 

「どうなさいました? 響さん。旦那様は部屋の奥へ行ってらっしゃいますよ。私何かに構っている場合ではないでしょう? それとも、響さんは貴方の愛しの旦那様を自宅にお招きしたのにもてなすこともできないのでしょうか?」

 この言葉に青筋が浮かぶ響であるが、内心の動揺を悟られまいとすぐに表情を戻し、部屋へと踵を返す。その後ろ姿に悠莉は懐かしさを覚えた。彼女と会ったのは2年ぶりだ。2年前まで男の奴隷として、共に奉仕していた頃を思い出させていた。響とは先程のようにたわいの無い口喧嘩をしたものである。

 

「おーい、悠里。お前も早く来いよ」

「はい、かしこまりました」

 過去に思いを馳せていた悠莉は男に呼ばれ、現代へと戻ってきた。音を立てないように男の元へ行くと、彼はリビングのソファに腰掛けている。男の正面には木製のテーブルがあり、その上には数種の花が生けられた花瓶が置いて有る。

 

「それにしても、いい感じの部屋だな。響の旦那の趣味か?」

 男は部屋を見渡して言う。白一色で統一された部屋の壁には山の絵が描かれている掛け軸が吊るされており、その下には高そうな壺もある。白色の光を放つ蛍光灯が部屋全体を照らしている。ダイニングキッチンは広めで数人の人間が同時に調理できるスペースも有り、調理器具も一通り揃っているようだ。食器棚もあり、様々な国で使われている皿が2組ずつある。

 

「えぇ。あの人は料理とか趣味ですから」

 響はそう言って、大きめのバケットを持って来た。中には輪になっているパンのようなものが入っていた。甘い匂いが漂い、白や茶色、ピンクなど色鮮やかにデコレーションされている。

 

「ドーナツって言うものです。悠莉に前に教えてもらって」

 響はそう付けたし人数分のティーカップ、中にはレモンティーをテーブルに置いて行く。

 

「へぇー、これがドーナツか。初めて見る。悠莉の生まれ故郷の料理何だろ?富士山といい、ドーナツといい俺の知らないことばかりを知ってるな。今度、連れて行ってくれよ」

「いえ、辺境の地ですのでわざわざ旦那様のお手を煩わせる訳には行けません。それに私自身、どのようにして帰るのか分かりませんから」

 悠莉はそう言いながら男の隣に座る。悠莉はこことは違う異世界から来ていた。そして、二年間この世界のとある王国の姫として君臨していたが、とある事情によりその国は地図から消えている。

 

「それよりも旦那様。早くしないと紅茶が冷めてしまいますよ」

 悠莉に言われ、それもそうだなとドーナツを口に運ぶ。その様子を緊張の眼差しで響は見ていた。手はテーブルの下でグッと握り拳を作っている。

 

「美味いな」

 男の感想に響は満開の華を咲かせる。もう一つ食べていいか、と言う男にどうぞとバケットを男の方へ寄せた。隣の悠莉も美味しいですね、とレモンティーとドーナツを交互に食す。バケットのドーナツはあっという間に無くなった。

 

「あ、そう言えば旦那様は明日も市に迎われるのですよね?誰か目星の方は見つかりましたか?」

 皿を片付けていた響は男に尋ねる。

 

「んにゃ、まだ見つからない。後二日で当たりを引くのを祈るしかないな」

 対して、男の口調は呆気ないものだ。見つかればラッキー程度だろう。

 

「それよりも響、ほれ、ちょっと早いが出産祝い」

 男はご祝儀袋を響に手渡す。袋は結構な厚さになっており、中身は相当な量だろう。

 

「こんなに悪いです」

「いや、気にすんな。ベビーカーとか服とかにしようと思ったんだが、そう言うのは響とお前の旦那で選びたいだろ。お前らの初めての子供なんだから。その金はそう言うのを買う時に使ってくれたらいいし、自分達の稼ぎで揃えたいなら、出産後に俺の奴隷達と昼でも一緒に食べる予算にでもしてくれ。あいつらも喜ぶと思う。ただ、子供の顔は落ち着いたらでいいから見せろよ。きっと響に似て可愛いんだろうな」

「ありがとうございます。奴隷である私にここまでしてくださって」

目尻から溢れてくる涙を人差し指で拭いながら、男に礼を言う響。

 

「泣くな。はい、これでお終い。俺は寝るから適当なところで起こして」

 男は耳まで真っ赤にした顔を隠すようにソファに寝転がり、背もたれの方に顔を向けるとすぅすぅと寝息を立て始める。

 

「かしこまりました」

 悠莉の声は空気と調和した。

 

 

 

 

 

 

「ところで響さん。私のレモンティーに睡眠薬を入れるとはどういうことでしょうか?一体、私を眠らせて旦那様と何をするつもりだったのでしょうか、ね?」

 メイドさんは何でも知っている。

 



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十の刻印

「旦那様、今回も収穫は0ですか」

「あぁ、そうだな」

 夕陽が沈み始めた頃、男は帰路についていた。レンガの歩道に映る二人の影がゆらりゆらりと揺れている。一日、市場に張り付いた結果、得たものは二人に向けられる好奇な視線と男への侮蔑、そして悠莉がいかにモテるかの証拠だ。決して男が目的としていたものでは無く、虚しさだけが彼の心を苛む。

 

「明日に期待だな」

 男の呟きは風に流されて行った。

 

 

 

 

 彼女が妊娠したと知ったのはつい最近のことだ。僕はその知らせを聞いたとき、とても嬉しかった。彼女のお腹の中に新しい命があると思うと不思議な気持ちになる。昨日は出張で帰れなかったから彼女のお腹に耳を当てて早く我が子を感じたい。そう思い、帰り道を急ぐ。

 

「ふ、ふふ~ん♪」

 下手くそな鼻歌を歌いながら歩けば、目の前にはマイホーム。

 

「ただいま~」

 ドアを開ければ明かりのついた玄関が僕を迎えてくれた。そして、奥からお帰りなさい、という愛する妻の声。あぁ、幸せだ。靴を脱ぎ、部屋へ入ると僕は目を剥いた。

 

「よっ、響の旦那さん。久しぶりだな」

 骨付き肉に噛り付いている男がそこにいた。その隣にはエプロンとドレスを足したような服の美女が、控えており、男の向かいの席には愛する妻、響が笑顔を男に向けている。

 

「お、お久しぶりです」

 この人と会うのは結婚の挨拶に伺った時以来だ。隣の美女は初めて見る。

 

「まあ、緊張するな。今日はあれだ。出産祝いだ。まだ生まれてないけどな。離婚しろとかじゃないから安心しろ」

 そう言いながら、男は二本目の肉に手を伸ばす。其の間に僕は響の隣の席に座り、スーツにシワが無いかを確認し身なりを整える。

 

「それでだ、今日は聞きたいことがある」

 男はそう前置きをして言う。

 

「噂で聞いたが、奴隷を強制的に他人の奴隷にする行為が行われているらしい。主人の意思に関係無しにな。それが『奴隷システム』の不具合なのか、それとも何らかの機材を用いたものなのかは知らん。奴隷管理局に勤めている君は何か知らねえか?」

 そんな話は初耳だ。奴隷システムに不具合が起こっているという報告は無い。

 

「じゃあ、質問を変える。現段階の『奴隷システム』においてそういった強制的に主人を変えれる抜け穴はあるか?」

「分かりません。ただ、奴隷管理局の資料庫を探せば何か見つかるかもしれません」

 僕の言葉に男はうーん、と一度唸った。

 

「あまり深入りはするなよ。何か嫌な予感がする。ヤバくなったら直ぐに手を引け。お前には響と生まれてくる子供もいるんだからな」

 男の声はいつになく真剣だった。

 

 

 

 

「旦那様、奴隷市も最終日ですね」

 港町ギャリングでの奴隷市も遂に三日目。今日は一際、訪れている客の数が多かった。何故なら今日は最終日ということもあり、商品が値下げされる確率が高いからだ。奴隷を維持するのにも食費や生活費などの費用がかかるので商人にとってはあまり手元に置きたく無いのだ。というわけで、通常なら高値の商品に庶民がありつける可能性があるので毎回、最終日は混雑している。

 

「ところで、旦那様。良さそうな方は見つかりましたか?」

「ああ、今のところ3人な。あそこのターバンつけた商人が売ってる奴隷。あれはエルフだな。知能抜群、回復系の魔法も覚えるから医療部にはもってこいだろ。それと向こうにいる背の低い髭のおっさんが売ってるやつ。あそこで売られてる2人は、どっかの王族か、上流貴族の娘ってところだろ。然も、片方の藍色の髪の子は『能力の覚醒』の兆しが見え始めてる」

 男の指差す先を悠莉は順に見る。

 

 耳が細長くクリーム色の長髪の女性はエルフだ。普段露出の少ない服装を好む彼女にとって、ボロ布同然の服は露出の量は多く羞恥に頬を染めている。

 別の場所では2人の女性が売られていた。

 釣りあがった気の強そうな目、鼻は高く上唇はツンと出ている。金髪の縦ロールは陽光に照らされて光り輝いており、また、服を何も身につけさせられていないその裸体は肌ツヤも良くスタイルも抜群だ。自分が観衆の前で裸体を晒されようとも屈することない意思の強さが伺える。

 片や、カチューシャで前髪を上げ、ウェーブの掛かった藍色の髪を肩の当たりまで流している少女は行き交う人々と視線が合うたびにビクッと肩を震わせている。そのアーモンド型の瞳は潤んでいた。しかし、男の言うとおり彼女からは言葉では表し難い人を惹きつけるカリスマ的センスが感じられる。

 

「では、旦那様、あの3人をお買い上げになるのですか?」

「ああ、予算的には……」

「一億ほど用意できております。」

 悠莉は淡々とした口調で答える。男はそうか、とだけ答え背の低い髭のおっさんがいる売り場へと行く。

 

「お客さん。どうなさいました?」

 男の存在に気付いたおっさんは低い声でそう尋ねた。

 

「いや、ちょっとな奴隷を買おうと思って。何かオススメはあるか?」

 男は無知を装うために困ったように言った。

 

「オススメですか。それならこの金髪の嬢ちゃんなんてどうでしょう? かのブリタニア皇国の第6皇女様です。理由合って奴隷の身分に落ちましたが、お客さんの気にすることではありません。強きでなかなか言うことを聞かないと思いますが、そう言った女を調教するのも楽しみでありましょう?」

 おっさんは下卑た笑みを浮かべるが、男が笑わないでいたのを機嫌を損ねたと思ったのか別の奴隷を勧め出した。

 

「なら、この藍色の髪の少女はどうです? 男子禁制、女だけが住む島、女人島から攫って来たレア物だ。勿論、誰も手を加えていない初物。値段は少々張りますが、お客さんほどの方なら、大丈夫でしょう?」

 おっさんは男の隣に立つ悠莉を見て言う。男の奴隷であることを彼女の刻印から察したのだろう。商人から見てみれば黒髪を持つ悠莉はレア中のレア、最高級品とされても過言ではない。

 

「それで、いくらだ?」

「四千万でどうでしょう?」

 おっさんの提示額に男は不満の色を見せる。

 

「高くないか?」

「ならあの金髪の嬢ちゃんもいれて七千万でどうだ? こっちも商売だ。これ以上は安くはできないな。他にも買い手の当てはいるしな」

「分かった。買……ちょっと待て、あの子は?」

 男は何かに気づき、売り場の奥を指差した。青髪、それも凄く色素の薄い空色の髪を無造作に肩より少し長いぐらい伸ばされている。体の起伏は少なく、足も病的なまでに細い。その時、強い風が吹き抜けた。風が木々の枝を揺らし、葉が舞い落ちる。そんな背景の中、夏の涼しげな風が少女の髪を優しく撫でる。少女は片手で髪を抑え、目を細める。木々の隙間から差す木漏れ日が少女の端正な顔を映し出す。

 

 一枚の絵ができていた。

 

「あぁ、あれですか。あれは駄目だ。足は動かせない。だからろくに仕事もできない。それに田舎から流れて来たからか訛りも酷い。外見はいいが、やっぱり役立たずは売れないからそろそろ処分しようか迷っていたんだ。あんな価値の無いようなやつ誰が好き好んで買うんだ、って話だ。」

「……」

「もしかして気に入りましたか。お客さん。なら先程のにこいつを……」

「いや、この子だけでいい。」

 男の言葉に売り手であるおっさんは一瞬、動きを止めるがすぐに商売へと移る。

 

「では、いくらで?」

「一……だ」

 男の声は道行く外野の喋り声によって、掻き消される。

 

「百万じゃ売れないな」

「一億だ。一億でその子を買う。足りるだろ」

 男の言葉におっさんは信じられないとばかりにコクコク頷くが、悠莉が一億の入った封筒の中をおっさんに見せると飛び跳ねるように奥へと行ってしまった。

 

「良いのですか? 旦那様。一億もあればこの店の商品は全部買えましたよ。本当にお金は大事にしないといけないのに、全く愚かですね」

「うるせーな。あの子に価値が無いって言われて、イラっと来たんだよ。悪いかよ?」

「いえ、短絡的だなと。それでも、そのようにお考えになられる旦那様が私は大好きです」

 微笑む悠莉に、男は罰の悪そうに顔を背ける。

 

「旦那、こちらが商品です」

 少女を乗せた台車を押して来たおっさんはすっかり態度が変わっている。

 

「はい、金な」

 男は封筒を渡すと、少女と目線を合わせるためしゃがむ。

 

「ほれ、手を出せ。奴隷契約するぞ」

 男の出した右手を不思議そうに少女は見つめる。

 

「どうしてうちのことをあんなに高く買い取ったん?うち、足動かせんし、何もしてあげられへんよ」

 予想外の訛りに男は思わず吹き出してしまう。

 

「そんなことは無い。今、俺を笑わせた。それに他にもできる事はあるさ。だから、俺は君を買った」

 男は無邪気に笑う。それに釣られる様に少女も笑みを浮かべた。

 

「良かったぁ。うちを買ってくれたのがえぇ人みたいで。ありがとぉ」

 下に伸ばし気味のイントネーションが少女の訛りなのだろう。

 

「ほな、よろしくなぁ」

 少女は男の手に自分の手を重ねた。その瞬間二人を淡い光が包み込み、少女の手に『奴隷の刻印』を刻み込んでいく。ふわりと浮くような浮遊感に身を委ねればあっという間に光は霧散した。

 

「はい、終わり。よし、帰るか」

 男はしゃがんだまま少女に背中を向け、手を後ろにやる。いわゆるおんぶのポーズだ。ほら、乗れという言葉に初めは躊躇っていたが、やがて観念したように少女は遠慮がちに手を伸ばした。なぁ、重くない?と男の耳元で少女が囁く。少女の体は軽かった。ほとんど重さを感じさせないぐらい、それこそ、病的なまでにだ。

 

「軽いよ」

 男の言葉にホッと少女は息を吐く。

 

「なぁ、名前はなんていうんだ?」

 帰り道、男は少女に尋ねた。

 

「あんなぁ、うちの名前はな……」

 

 周囲の雑音が静まり返った。

 

「サチっていうんよ」

 男の頬を涙が伝った。

 

 



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十一の刻印

「あ、御主人様。おはようございます」

 男の姿を確認するや眩しい笑顔を向けたのは整備部のメルトだ。緩やかなウェーブがかかったサラサラヘアーは、陽光に当てられキラキラと光っている。少し垂れ目がちで、柔らかな優しい印象を相手に与えている。

 そんな彼女はどうやらお仕事中のようで、中庭の花壇に咲きほこる世界各地の色とりどりの花に水やりをしていた。彼女達、整備部の仕事は屋敷の清掃、生物や植物の育成、屋敷内の備品の管理等だ。

 

 屋敷に住む奴隷には各自仕事が与えられており、それぞれ『~部』に分けられている。現在、整備部の他にも屋敷には、警備部、料理部、医療部、裁縫部の計5つの部署がある。そこには原則として一人、部の代表である整備部長のアリエス、例外的に警備部隊長は二人、ソラとウミだが彼女らを最終的に纏めているのは常に男の側に居る悠莉だ。

 

「おはよう、メルト。どうだ、花の調子は?」

 男は挨拶を済ませ、如雨露でしゃがんで水をやっているメルトの隣りに同じようにしゃがみ視線を花に合わせる。

 

「はい、旦那様。お花さん達は凄く元気がいいです。旦那様のくれた肥料のお陰ですかね。それとですね、旦那様に頼まれていたライチィの実の栽培に成功しました」

 メルトの報告に男は満面の笑みを浮かべる。

 

「よくやった。ライチィの実は辺境にしか無かったから、自分で取りに行くのは面倒だし、かと言って商人から買うとなると高いんだよな。これで研究の方は楽になる。助かったよ」

 喜びを露わにする男を見て、メルトは照れたように後頭部を掻く。

 

「いえ、御主人様のお役に立つのは奴隷としての務めですから、お褒めの言葉を頂けるなんて……」

「うん? そんなもんか。メルトが頑張ったことを褒めただけだろ?そんなにかしこまらずに素直に受け取れ」

 男は目の前に咲く黄色の花を突つきながら言う。

 

「……では、そうします」

 渋々と言った様子で納得するメルト。如雨露からは、ポタポタと水滴が零れるばかりで、中に水は入っていない。

 

「そうだ。メルト、他に仕事はあるのか? 無いならこれからお前を連れて行きたい場所があるんだ」

 男の提案にメルトは花壇の水やりが終わったらいいですよ、と言って水を汲みに行った。

 

 

「これは、蜜柑の木ですか? 御主人様」

 別館の裏、敷地の南東にその木はあった。

 

「ああ、ユーストン大陸のココヤシ村の蜜柑だ」

「ココヤシ村ですか……」

 メルトは声を低くして言う。ココヤシ村はユーストン大陸の端のほうにある、特産品の蜜柑で有名な町だ。だが奴隷システムが施行される少し前に謎のエネルギー爆発により、村ごと消失した。勿論、村人ごと消えたため特産品である蜜柑の生産は中止、ココヤシ村の蜜柑は絶滅したと思われている。今現在はココヤシ村の跡地には孤児院が立ち、身寄りの無い子供達が住んでいるとメルトは聞いていた。

 

 もう一度、メルトはその木を見る。幹は力強くどっしりと構えており、そこから伸びる枝は風に揺れていた。青々とした葉がうっそうと茂り、小ぶりな蜜柑が実をつけている。そして、その木の根元には、一つの墓が建てられていた。墓石には千紗という文字が掘られており、ミヤコワスレという菊科の青い花が数本供えてある。男は黙々と墓石を掃除し、花瓶に入っている花を新しいミヤコワスレの花に取り替えた。そして、墓石の前で男は目を瞑り、手を合わせる。つられる様に男の後ろでメルトもそれに倣う。

 

「ご主人様、この千紗さんという方はどなたなのですか?」

 メルトの質問に男は表情を暗くする。

 

「千紗は俺の……」

 男の口が開きかけた時、

「旦那様ー、こんなところにいらしたのですか?」

 まるでタイミングを見計らったかのように、悠莉は別館の陰から飛び出した。彼女はいつものメイド服を皺一つつけずに着こなしている。

 

「あぁ、どうした? 悠莉」

「旦那様の言いつけ通り、サチ様が起きられましたので呼びに参りました」

 男の一歩後ろに下がり、一礼をして悠莉は機械のように抑揚の無い声で答える。それを受け、男は先程の暗い表情などしていなかったように破顔した。

 

「おぉ、早くサチのとこに行かないと。今日も楽しみだな~」

 奴隷市から帰って来て一週間、男はずっとこの調子だ。

 

「旦那様、楽しみで浮かれているところ申し訳ないですが、メルトさんが困った顔をしておられますよ」

 悠莉の言葉を向け、メルトは背筋を伸ばした。

 

「あ、悪い。メルトにはこの蜜柑の木の世話をして欲しいんだ。もう代わりの種が無いから枯れさせないようにしてくれ。出来るか?」

「はい、やってみます」

 男の言葉に気合満々に答えるメルト。早速木の幹に触れたりして、蜜柑の木の状態を確認している。

 

「それとこの場所のことは他言無用な。知ってるのは俺と悠莉とメルトだけだ」

 分かりました、と手だけを挙げて答えた。その様子を見て、男は苦笑するが悠莉がサチの話をすれば、慌てて走り出す。

 

「それでメルトさん。木を弄る振りなどせずに私に聞きたいことがあるのではありませんか?」

 男の後ろ姿が見えなくなると悠莉は後ろにいるメルトに声を掛けた。

 

「ばれてましたか。流石ですね、悠莉様。聞きたいことですよね。それはありますよ。多分、この屋敷にいる殆どの奴隷の皆さんが思っているのでは無いですか? どうして、御主人様はサチ様をあそこまで気に入っていらっしゃるのですか? 私には分かりません。確かに御主人様は優しい方ですが、今までは私を含め、他の奴隷の方にも一定以上の好意を見せることはなかった筈です。だからこそ、御主人様に好意を越えた愛情を抱いていた人達も互いに争うことなく均衡を保っていられたんです。なのに、サチ様のような方が現れたら……。別に御主人様がそれを望まれるのでしたら、我々奴隷は全てを受け入れます。我々は御主人様の奴隷ですから。ただ、中にはそう簡単に引き下がらない者もいる」

 メルトはこの屋敷の、男の未来を案じて言う。自分達の様な愚か者に人として生きる権利を与えてくださる恩人である男を想い、彼女は言う。

 

「それだけですか? 言いたいことは」

 悠莉が淡々と確認する。

 

「メルトさんの考えは分かりました。ですが、私はメルトさんには賛同できません。何故なら私は旦那様が決めたことには全幅の信頼を寄せています。旦那様がサチ様を気に入っておられるなら私達はそれに従うのは当然。仮に否定され、旦那様やサチ様に危害を加える様ならこの私が相手になりましょう。それに、メルトさんは勘違いをしていらっしゃる」

 悠莉はそう言って、表情を柔らかなものにした。

 

「旦那様はどんなことがあろうとも私達を、少なくとも自分の奴隷を見捨てることはありません。旦那様はお優しい方ですから。それに旦那様は私達の悲しむ顔を見るのが一番嫌いなんです。だから、安心してください。貴方たちの旦那様への想いはそのままで良いのですよ。旦那様は全部受け止めてくださります。少し鈍いのが玉に瑕ですが……。それにサチ様はそういったことに目くじらを立てる方ではありません。あの方は自分に対する恋愛感情に人一倍、敏感であり敬遠されていますから」

 悠莉の言葉に終始俯いていたメルトだったが、そうですか、と行ってとぼとぼ屋敷に戻って行く。

 

 残された悠莉は小さくなって行くメルトの背中を見つめる。

 

「確かにメルトさんの考えうる可能性も零では無いですね。取り敢えずはアリエスさん、ソラ、ウミそれとナタリー様には警告をしといたほうが良さそうですね」

 悠莉は背後を振り返り、墓石に視線を向ける。その目は何かにすがるように揺れている。

 

「……サチ様のことや奴隷のことを旦那様は本当はどのように考えているのでしょうか? きっと千紗様なら分かっているのでしょうね。旦那様がこの世でただ一人愛した貴方なら」

 その答えは返って来ることは無い。

 

 

 

 



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十二の刻印

 カランカランと氷と氷が当たる音がした。冷んやりとした液体が喉を通る。男は料理部のナタリーが持ってきたオレンジジュースを飲み干した。透明な硝子のコップには水滴が浮かんでいる。そのコップを足の低いテーブルの上に置いて、目の前で少女がちびちびと飲んでいる、実際は一口が小さいだけなのだが、まだコップの半分もオレンジジュースが残ってあるのを羨ましそうに見ていた。

 

 7月に入り一週間が過ぎ、蝉の鳴き声とともに本格的な夏が到来している。今年の夏は例年よりも暑さが厳しいと世間では言われていた。奴隷達もいつものメイド服から衣替えをし、スカートは膝より上のミニ、上も肩から手に掛けて布を無くした夏服仕様だ。そんな猛暑のおかげで男も、そして少女もテーブルにぐったりと体重を掛けている。

 

 少女の名前はサチという。青よりも薄い空色の髪は肩のあたりで切り揃えられており、艶やかでしっとりとした髪は陽光を反射して輪を描いていた。気怠げに細められた目が、前髪の隙間から覗く。端正な顔立ちをしており、中々の美少女だろう。彼女は白のワンピースに身を包んでおり清潔感漂っている。そのワンピースの肩口から伸びる腕は細く病人のように白い。体の起伏は少なく、またこの暑さだというのにサチはベージュの腰掛けで自分の足を隠していた。

 

 サチは足が動かない。医療部のキリの診断では、彼女の足は今後絶対に動くことはないと言う。生まれつき足が動いていなかったわけではなく、一年前に事故で足が突然、動かなくなったとサチは男に話した。そのため、この一年で足を動かすことはなくなり、その足は筋肉が落ち、細くそして病人のように白く冷たいものとなっている。それはサチのコンプレックスになるほどで、足を隠している理由にもなっている。

 

「そんなに見ても、やらへんよ」

 男の視線に気が付いたサチはコップを手元に引き寄せて言った。先程までコップがあった場所には水滴が底の形を映し出している。

 

「気にするな」

 男はコップに視線を向けたままそう答えた。外からはソラとウミを中心とした警備部の訓練の掛け声が鳴り響いている。男は部屋の中の温度が一度増した様な気がしていた。

「気にするな……言うても」

 コップを上に持ち上げれば、男の目線も上に上がり、口を付けて飲めば、男の視線はサチの薄桜色の唇に吸い寄せられる。

 

「仕方ないな~。えぇよ、一口なら」

 居心地悪そうにしていたサチは男の視線に耐えられなくなり、自分のコップを男の方へ置いた。男は嬉々とした様子で、ありがと、と一言言うとそのコップを口元へと運び出した。

 

「あっ……」

 男が口をつける寸前、サチが何かに気づいたように声を上げるが、生憎男の耳には届いていないようだ。男は言われたとおり一口飲むと、そのコップをサチに返す。サチは受け取ったコップをまじまじと見つめ、そしてぼんっと効果音が出そうなほど顔を真っ赤にした。不思議に思った男はサチの顔を覗き込むが、その際にサチもちらりと男を見ているところだったため、二人の視線は絡み合う。無垢な男の瞳と動揺して左右に揺れるサチの瞳は数秒の時間を空けて、サチが逸らすという結果に終わった。

 

「どうした?」

「っ、なんもあらへんよ!!」

 やや強い口調になってしまうサチだが、コップを見ながら数秒葛藤した後、踏ん切りがついたように残っているオレンジジュースを一気に飲み干した。溶けかけの氷だけがコップに残る。

 

「あ、そういえばもうすぐ夏休みが始まるみたいだな。ネルや静流達が言ってたんだがな、7月の末に夏祭りがあるみたいなんだ。よかったら、サチもどうだ?」

 男はふと思い出したように提案した。ネルと静流は男の奴隷で平日は『学問の街ジェレニウム』のセントルチア女学院に通う生徒だ。セントルチア女学院は名前の通り女子校で小中高一貫の金持ち高校となっている。世界各地にある学校の中でも上位の位置にある学校で、高値な教育費に見合う授業の質、教師の力量、学園内の設備が話題を呼び、貴族の娘を中心に生徒達は構成されている。

 

「うちはええよ。足動かせんし、御主人様に迷惑かけられへん……」

 サチは膝掛け越しに足を撫でながら、暗い表情で言った。その瞳には諦めの色が強い。そして、彼女の瞳が揺れた。外で元気に駆け回る警備部の姿が見えたのだろう。

 

「なぁ、サチ。あいつらみたいに外を出歩けるなら、夏祭りに来るか?」

「歩けるなら、うちかて御主人様と行きたいよ。でもな、うちが歩くなんてないねん……。もうこの足は動かへんねん……」

 男の言葉にサチは悔しそうに歯噛みしながら自身の足首を爪が食い込むほど強く握り締めた。そんな表情を見た男はポツリと呟いた。

 

「作るよ。サチが歩けるように」

 男の目はいつにもなくやる気に満ち溢れていた。コップに氷はもう無い。

 

 

 

「それで旦那様。サチ様のためにそう言ったのは良いが、中々良いアイデアが浮かばずに私に泣きついて来た、と。そういうことですね?」

「はい、御尤もです」

 仁王立ちする悠莉の前には地面にひれ伏す男の姿があった。男の後ろには机の上に乱雑に置かれた万年筆があり、床には大量のクシャクシャに丸められた紙が散らばっている。悠莉はその一つを手に取るとそれを広げ始めた。足にギブスのようなものを付けて、無理矢理動かす様なものが大まかに描かれているが実際に使用するには些か不便だ。

 

「では一つ、旦那様に教えてあげましょう」

 悠莉は万年筆で先ほどの紙の裏に書き始めた。紙の上で細い指先が滑らかに踊る。すらすらと止まることない動きに男は釘付けになっていた。

 

「はい、書き終わりましたよ」

 数分経った後、悠莉は手を止めて男に紙を渡した。紙には真ん中に背もたれ付の椅子があり、椅子の足の代わりに丸い輪がサイドに1つずつ描かれている。座って足が来るあたりには足をおく場所があり、背もたれからは二つのグリップが伸びている。

 

「それは私の故郷にあった車椅子というものです。タイヤ……いえ、その輪っかの円周上にはゴムと呼ばれるものが使われています。こちらでいうと、メルトさんが育ているウルの木の樹脂と旦那様が持っていらっしゃる硫黄を混ぜて、加熱したものを型に入れて冷ましたら出来上がりますよ。細かい部分までは覚えてませんが、旦那様ならこれで充分ですよね?」

 悠莉の説明に男はだいたい分かった、と言いながら、悠莉の書いた絵に細かい部分を書き足していた。その目は爛々と輝いており、自分の世界に入り込んでしまっている。そんな中、悠莉は一礼してそっと部屋から出て行くのだった。

 

 

 

「おーい、サチぃ」

「どうしたん?御主人様。そんなに慌てて」

 ドタドタと部屋に駆け込んで来た男は、その顔に笑顔を浮かべて、ちょっと来て、と言い、ベージュの腰掛けごとサチをお姫様抱っこした。その胸にサチを抱えたまま、男は廊下を駆ける。サチは顔を真っ赤にして男のことを見上げていた。唇を噛みしめて、幼い子供のように男の服をぎゅっと掴んでいる。ドタドタと響く足音が止まり、サチは視線を男からずらした。そこは一際開けた空間で、屋敷のロビーに当たる。天井には黄金のシャンデリアが吊るされており、真下のそれを輝かせていた。車椅子だ。

 

「サチ様、お待ちしておりました」

 メイド服の女性、悠莉が背もたれから伸びるグリップを押すとキュルキュルと音を立てながら前進した。男はサチをそこまで連れて行き、そのクッションの置かれた背もたれ付きの椅子にそっと彼女を降ろした。

 

「サチ様の為に旦那様が作ったのです。まさか私が助言をしたとはいえ、僅か3日で本物とほぼ変わらない性能なものを作られるとは……流石です、旦那様」

「まぁ、良いだろ。そんなことは。それよりもサチ動かしてくれよ。このハンドルを回すと前進で……」

 男は車椅子での動作を一つ一つ丁寧に教えて行く。初めは戸惑い気味だったサチも熱心に教える男に習って車椅子を自分で動かして行くうちに、その表情に灯りがさした。

 

「嘘や。夢みたい。うち、もう動かれへんと思っとたのに。なあ、御主人様、うちのほっぺ抓ってくれへん?夢なら早く冷めて欲しいねん」

 男は言われたとおり、サチの頬を抓った。

 

「いわぁい……痛い」

 ポロポロとサチの頬を涙が伝い、男は慌てて手を離した。

 

「あ、ごめん。強く抓り過ぎた?」

「違うんよ。嬉しくてなぁ。ホンマにウチ動けてるって思うたら嬉しくてなぁ。夢じゃないって分かったら、涙が止まらへんねん」

 ゴシゴシとその細腕で涙を拭う。サチの笑い混じりの泣き声に自然と男にも笑みがこぼれた。

 

 

 

(旦那様やサチ様には悪いですが、車椅子はそこまで便利な代物では無いんですよね。ちょっとした段差で身動きの取れなくなることもありますし。いっそ、屋敷を改築してしまいますか。改築費は旦那様に死ぬほど稼いでもらいますが)



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十三の刻印

「お金を効率良く稼ぐにはどうしたら良いと思う?」

「そんなことを言う暇があったら働いてください、旦那様」

 月が真上に登る頃、男はお叱りを受けていた。今宵の月は満月で月明かりが屋敷を照らし出す。

 

「でもな、一週間で二億稼げなんて無茶言われてんだぞ、俺は」

 男はピースの形にして二を悠莉にアピールする。対して、お風呂上がりの悠莉は薄い黄色の花柄が描かれているパジャマ姿で男の訴えを面倒くさそうに聞いていた。

 

「はい? 旦那様、二億ではなく三億ですよ。それとそのお金でサチ様のために屋敷を改築されるのでしょう?旦那様にとっては嬉しい出費ですよね」

 まさか集められないわけ無いですよね、と悪徳商人の様な顔はせず、悠莉は無表情で男に念を押す。男は鼻をフンっと鳴らすと、

「まぁ、サチの為なら仕方が無いな。うん、仕方無い」

 納得する様に何度も首を縦に振る男に、悠莉は一枚の封筒を渡す。墨により真っ黒に塗られたそれはその上から白で髑髏が描かれていた。

 

「何だこれ?」

「はい、この封筒の中にはここ最近の賞金首らの情報が記してあります。懸賞金の額から、顔写真、罪状、出身地に戦闘スタイル、目撃情報など全て私と警備部のキンカ様で調べ上げたものです」

 悠莉の説明を聞きながら、男は封筒から紙を取り出す。紙の左上に写真が載ってあり、その隣に名前や懸賞金の額、年齢などの大まかなプロフィールが乗ってあり、下に細かい情報が書かれていた。

 

「よく調べ上げたな。“銀銃士”みたいな中堅から大物クラスの“緋色の剣士”、“拳王”に公式で指名手配発表されていない“不死鳥”、“白の姫”、“全喰い”まで。一体どんな情報網を使って手に入れたんだ? まぁ、キンカのことだ、犯罪スレスレなんだろ?」

 男はパラパラと書類を見ながら、悠莉に言う。彼女は提灯のような光源を手にしており、闇夜に光を差し文面を浮かび上がらせていた。二人の影が瓦屋根の上で踊っている。風は涼しく、二人の頬を優しく撫でる。

 

「いえ、犯罪スレスレなど御冗談を。犯罪スレスレではなく、列記とした犯罪ですよ。まぁ、旦那様の前にはこの世界の法など無意味ですので構いませんよね? それに私とキンカ様にかかれば裏の情報など筒抜け、旦那様のエロ本の隠し場所も筒抜けですよ」

「ちょっと待て。は? エロ本だと。んな物、買った覚えはないぞ。」

 男は自身は無実だとばかりに両手を挙げてアピールする。悠莉は、そうでしたかね? と小首をかしげた。

 

「はて、会議室からこの間出てきた艶本、『巨乳女学生のそこまで魅せちゃう?』というタイトルからも旦那様の趣向にあったものだと思ったのですが。旦那様以外にこの屋敷には男性の方はいませんし、女性、それもそう言ったものに興味のありそうな方は裁縫部のネルさんぐらいですしね。ですが、あの方は巨乳派ではなく貧乳好きだったのでこの本には興味のない筈ですが、まあ、いいでしょう。深くは検索しないでおきます」

 ちらりと艶本をチラつかせながら悠莉は話す。その本の表紙は教室と思われる場所で着崩れた制服を身につけた女性が女の子座りで上目遣いをしているものだった。その本が悠莉の手により仕舞われるのを男は横目で確認すると、気怠そうに口を開いた。

 

「ネルね。あいつはそういえば筋金入りのレズだったな。男の俺には全然懐かない。セントルチア女学院では大規模な派閥を作って崇められているとネルの担任から連絡を受けたし、俺はあいつの将来が心配になるよ」

「それは、ネルさんの人の心を掌握するカリスマ性が成せる技ではないでしょうか? まぁ、性癖があれなのはどうかと思いますが、それも個性と思えば」

 悠莉の考えに、「嫌、それはないだろう」と男はぼそりと漏らす。瓦に映る影が轟と揺れた。悠莉が提灯を持つ手を変えたからだ。

 

「旦那様。そろそろ行かれてはどうですか?」

「あぁ、分かってるよ」

 男は書類を封筒に戻し、それを片手に闇夜に消え去る。何時の間にかピタリと風は止んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 闇夜に紅の花が咲いた。一つ、二つ、三つ。飛び散る鮮血が地に叩きつけられ、染めていく。聞こえるのは断末魔の悲鳴。倒れ伏すのは苦悶の表情を浮かべた男達。男達の体には一本の切り傷が付けられており、そこから液体が溢れ出している。緩やかに流れ出るそれはじわりと広がり加速していく。

 キラリと薄暗く狭い路地裏に一つの輝きが生まれた。刃だ。日本刀が上下に振られ、血が跳飛ぶ。それを手にした男は鞘に刀を納める。カチンと小気味良い音が響いた。口を真一門に結ぶ男からは表情が読み取れないが、その緋色の瞳が存在感を強調している。腰にぶら下げた刀は妖刀『桜花』と呼ばれるもので、その刀の危険度はSランクとされている。

 ふと、緋色の瞳が闇を捉えた。射抜くような視線が闇に形を与えていく。

 

「お前が“緋色の剣士”だよな。うん、間違いない。資料通りだな。懸賞金は8000万か」

 小柄で中性的な顔立ちをした男が口を開いた。お世辞にも強そうという雰囲気は微塵も無い。男は手元の書類と目の前の“緋色の剣士”を交互に見比べている。対して、通り名を呼ばれた“緋色の剣士”が取った行動は単純だった。鞘に収めた刀を抜き、一閃、男の首を跳ねたのだ。どさりと重たい音が路地裏に響き渡る。

 

「おいおい、いきなりだな。痛いじゃねぇか」

 体から分離した筈の生首が言葉を発した。薄ら笑いを浮かべた男の表情には焦りも苦しみも無い。体の方は地に足を付け、仁王立ちの状態だ。

「貴様、妖術使いか。気味が悪い」

 “緋色の剣士”は顔をしかめた。妖術の類は世間一般から見て余り好印象を持たれるものでは無い。内容は呪いや、幻覚など負の要素が大きく、その効力も強いものがほとんどだ。だが、その分、術者は高いリスクを背負うため、妖術に手を出すものは極僅かである。それに何より、一般人から見たら気味が悪いの一言に限るだろう。

 

「うーん、妖術とは違うがまぁいいか。それより俺は今、金が欲しいんだよ。それでお前は8000万払えるの? 払えるなら見逃してやるよ。払えないなら、分かるよな?」

 ニヤリと悪どい笑みを浮かべて、男は言う。“緋色の剣士”は柄を握る手に力を込めたが、ガサガサと言う路地裏にの奥からの足音に意識が向かう。

「ご、御主人様。そ、そんな首だけのじょ、状態ではは、迫力無いですぅ……」

 闇夜にもう一つ影が揺らめいた。体をビクビクさせ、自信なさげに伏せられた目は恐る恐る男の顔色を伺う。その様は小動物を連想させる。メイド服に身を包んだ少女の名はチユと言う。料理部に所属している朱色の髪をハート型の可愛らしいヘアピンで右に止めているチユは恐る恐る、男の首を持ち上げた。緊張で手がプルプル震えているが落とさないように指先に力を入れている。

 

「助かったよ、チユ。体のとこまで運んでくれ。」

 首だけの男の指示に従い、チユは仁王立ちの体に近付き、背伸びをしてその生首を元の場所に戻した。切断面同士がくっ付き、皮の下の筋肉が蠢いて、線が無くなっていく。男は首を回して、“緋色の剣士”を見た。

 

「返答は払えない、でいいよな。じゃ、その首、貰い受けるぜ」

 ニヤリと男は笑う。それを最後に“緋色の剣士”の意識は深い闇の底に落ちて行った。



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十四の刻印

「悪いな。チユ」

 石造りの立派な建物、街の換金場から出て来たチユに男は開口一番、そう告げた。入口にはたくさんの鎧を着た兵隊が換金場を警護をしており、不法にお金を強奪しよう人間がいたなら、容赦なく取り押さえれるようにだ。そんな彼らは入り口付近でうろうろしていた男をマークしていたが、チユの登場により男は人を待っていたと分かると視線を外した。

 

 男の手には妖刀が握られており、対するチユは“緋色の剣士”の首と引き換えに手に入れた8000万が入った小袋を手にしている。小袋の中には世界共通金貨が80枚ある。世界共通のコインは、ほとんどの都市やその近隣の村で使われているもので、その価値は金貨1枚、100万の価値がある。銀貨は100枚で金貨1枚、銅貨は100枚で銀貨1枚、アルミコイン100枚で銅貨1枚という通貨になっている。ちなみに一般庶民が一日に稼ぐ金額は銀貨一枚ほどであった。

 

「き、気にしないでくだしゃい。ご、ご主人様のお、お役に立つのは、う、嬉しいことですから」

 顔を赤くして、若干瞳を潤ませているチユは、男の胸に金貨の入った小袋を押し付けるように渡した。男はそれを受け取ると、ふと思い出したように呟いた。

 

「そういえば、なんでチユがこっちに来たんだ? 悠莉のことだから警備部の誰かを付き添いに出すと思ったんだが」

「あの、悠莉様がご主人様と一緒に行動して、世界を知りなさいと、お、仰っていました。そ、それに警備部の方は別件で出払っているらしいです」

人通りが激しい街路を歩きながら、男の問いに男の隣を歩いていたチユは自信無さげに答える。しょんぼりと俯いてしまうため、人とぶつかりそうになるが、その度に男が微妙に彼女の体をずらしてあげていることに気づかない。

 

「ふーん。悠莉がそんなふうにね。んじゃ、この街の観光でもするか。次の賞金首がいるはずの場所はもうちょっと先のほうだしな」

 男は周りを見渡しながら言う。レンガ造りの家が立ち並ぶこの街は冒険者が集まる場所として有名だった。なぜならラインストン大陸の北側に位置するモンドベールの街は、世界各地にある冒険者ギルドの総本山があるからだ。街の中央に存在する冒険者ギルドは、世界各地の賞金首、依頼、ダンジョン、各国の情勢などの情報が集められ、冒険者に配られているライセンスがあれば情報を引き出せることができる。また、訪れた冒険者たちをバックアップするために街の約4割が鍛冶屋、商店、宿屋などで埋め尽くされている。

 

 ここでいう冒険者とは、よくゲームなどで言う魔王や魔物を倒すようなものではなく、ハンターのようなものだ。冒険者にはいくつか種類が有り、犯罪を犯した賞金首を捕まえることを専門にした賞金首ハンター、ギルドに集まった依頼をこなすミッションハンター、未開拓の地やダンジョンを発見、攻略する開拓ハンターなどに分けられる。最も、ほとんどの冒険者は数年、冒険者として行動し、力量を付けたら故郷に戻り村を守ったり、王国の兵士として雇ってもらっている。また、冒険者になるには、冒険者ギルドでの審査と、5年以上活動している冒険者からの修行を受けることが条件となっている。それらをクリアすることで、初めてライセンスが発行され冒険者の仲間入りとなる。

 

 ライセンスを持っているとギルドで様々な情報が得られるのを始め、各国へ行くための船に自由に乗ることができ、また、国へ入るときに通行税や滞在税といったものを払わないでよくなるなどの特典がついてくる。さらに各地で功績を上げれば、その冒険者へ国王などから直々に声がかかるなんてこともあるため、冒険者は非常に人気のある職業だ。ただし、危険も付き物でいつ命を落としてもおかしくはないし、ライセンスを狙った人間に暗殺されることもよくある。

 

「最近、モンドベールの外はラティス王国と反乱軍との戦いで流れてくる敗残兵が略奪まがいのことをしてるらしいし、危険らしいな。次の賞金首を倒しに西に行かないといけないし、チユ、お前冒険者になってみるか?」

 男は冗談交じりの笑みを浮かべて、チユに言った。それを受けたチユは自分には無理だと縮こまっている。

 

「まぁ、そうだろうな。チユには向いてないよ。そんじゃ、どうしよっかな。見聞ねー。なら、飯を食べに行こう。冒険者御用達の安い定食屋があるんだ。チユは料理部だからそこで料理を学ぶのがいいかもな」

 そんじゃー行こう、と男はチユの手を引っ張って定食屋へと向かう。チユは早足で向かう男に目を向け、次いで男に握られている自分の手を見て、心の中に暖かいものを感じていた。こうして、人と手をつないだのはこの男だけだ。

 

 彼女の過去はあまりいいものじゃない。父親に逃げられ、育児放棄をしていたチユの母は毎日、酒と男に溺れる日々を過ごしていた。いつも顔の違う知らない男を家にあげ、チユを奥の部屋に閉じ込めて、彼女の母は快楽に溺れていた。数時間奥の部屋から出ることを許されず、何もない部屋で感情の篭らない瞳で壁ばかりを見つめていた。男が帰ったと思えば、母は酒に溺れ、きつく娘に当り散らす。

 

『アンタなんか産むんじゃなかった』

 蔑んだ目で実の母親に言われ続けた日々はチユにとっては日常であった。そんなある日、遂にチユは金と引き換えに奴隷商人に売られることになる。男に貢ぐ金のなくなった母親が、資金を集めるために行なったのだ。それからチユは奴隷としての心得、行動を教え込まれ、商品として市場に出された。そして、そこで思い出したくもないアノ男に買い取られた。奴隷としての最低限の生活すら保証されず、馬車馬のように働かされ、性奴隷として心を穢され、感情の篭らない人形となっていた。ただ、これもあの頃のチユにとってはただの日常であった。

 

「そこの定食屋はな、肉料理がうまいんだ。特に唐揚げ定食と生姜焼き定食は絶品だぞ」

 顔だけを振り返ってにこやかに話しかける男にチユも思わず笑顔になる。かつて自分の日常を非日常に変えてくれた男は今もこうして私の手を握ってくれる。そのことに堪らない嬉しさを感じていた。

 

『あー、あれだ。なんて言ったら分からないけど、とりあえず好きなものを見つけろ』

 あの日、絶望の淵に立っていたチユに後のご主人様と呼ぶことになる男は言った。照れくさそうに、それでいて投げやりに放たれた言葉は凍りついたチユの心を溶かしていき、世界に色を取り戻させた。

 

「あの、ご主人様」

「ん、どした?」

 唐突にかけられた言葉に男は返す。引っ張られているチユは決意したように言葉を紡いでいく。

 

「私は今、す、すごく幸せです。そ、それとですね、私にも好きなものが、で、出来ました」

「? そうか、良かったな」

 急に言われた言葉に一瞬、男は首をかしげる。それを見てチユは微笑んだ。

 

(ご主人様は忘れてるかもしれない。でも私にとっては大切な言葉だったのですよ)



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