あなざー ~もしも夜見山北中学3年3組に「現象」がなかったら~ (天木武)
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#01

 

 

「ハァ……」

 

 飾り気のない、無機質な天井を見つめつつ、僕はため息をこぼした。窓の外へと目を移すと麗らかな春の陽気と、それを証明するような暖かそうな日差しが降り注いでいるのが見える。そこでひなたぼっこ、なんてのも面白そうだし、どれだけ気持ちがいいことか。飛び出して行きたい衝動に駆られるが、残念ながらそれは出来ない。

 僕の体には機械から伸びるチューブが繋がれており、今も胸がジンジンと痛む。ここは病院、そして僕は病気を患って入院中の身。今横になっているベッドから離れることが出来ないというのが現状だからだ。

 

 こうなってしまった原因は肺のパンク、病名は自然気胸。要するに肺の一部分が破れ、空気が漏れ出してしまう病気だ。

 実はこれをやるのは今回で2回目。1回目は去年だった。息苦しさを覚えて病院へ行ってこの病気が発覚。入院することになった。

 前回は1週間程度の入院で済んだ。まだ症状が軽かったことが不幸中の幸いだった。とはいえ、あの胸の苦しさはどうも慣れるものじゃなく、嫌な感覚ではある。

 その嫌な感覚を再び体験したのは昨日の夜だった。まずいと思って症状を訴えて病院へ来たが、案の定再発しており、そのまま入院という運びとなった。

 まあ今回も症状は軽く、1週間程度で退院できるという話ではあったものの……。

 

 気がかりな問題はそこと別な部分にある。

 

「恒一ちゃん」

 

 病室の入り口が開き、顔を出したのは祖母だった。でも祖母とは普段から一緒に生活してるわけではない。そもそも僕は東京で暮らしていた。だが、親の都合で数週間前から母方の祖父母の家に預けられているのだ。そこで心機一転、新たな学校に転校するぞ、という矢先に起きたのがこの気胸だった。

 正直、まいった。学年が変わればクラスも変わる、それなら転校生として入ったところで比較的クラスには馴染みやすい時期のはず。そう思っていたが、入院のためにスタートダッシュでいきなりつまずいたことになる。

 元々人と接することは得意な方ではないので、これは少々手痛い事態だった。というか、自然気胸はストレスが原因とも言われているために、新たな環境に馴染めるか、ということを不安に思って再発したんじゃないか、とも思えた。

 

 とにかく、そんな風に余計な気を遣ってしまうのも僕の悪い癖なのかもしれないし、それが原因の可能性もないわけではないが、まあそういう性分なので仕方がない。

 だから今も「無理しないでいいよ」という祖母の手振りを無視して僕は上体を起こしてしまっていた。

 

「ごめんね、おばあちゃん。急にこんなことになっちゃって……」

「何言ってるの。病気なんだから仕方ないの」

 

 そう言って祖母は何やら荷物の入った手提げの紙袋をベッドの側に置いた。

 

「これ、着替えとか持ってきたから」

「ありがとう」

「それにしても難儀だねえ。こっちに来てすぐだってのに……。学校に顔を出すはずだったのにねえ……」

 

 一先ず笑って場を繕う。こういう時に間をもたせるのはどうにも苦手なのだ。

 

「ああ、恒一ちゃん。このことは……」

「あ、父さんには僕から連絡しておくよ。携帯あるから」

「そうかい、それじゃあ任せるね。……しかし、困った奴だねえ、理津子も(・・・・)

 

 父のことが出たからもしやと思っていたが……。ああ、やっぱりその話題になるか、と思わず僕は苦笑を浮かべた。

 

「こんな時にいないなんてねえ。大事な一人息子を私らに預けて、陽介さんと一緒にインドに行っちまう(・・・・・・・・・)んだから」

 

 

 

 

 

 理津子、とは僕の母、榊原理津子のことで、陽介というのはその夫、つまり僕の父に当たる。父は東京の某大学の教授で、詳しくはよくわからないけど研究職をしている。そして母はその助手。

 なんでも、若き講師だった父がまだ学生の母に一目惚れだか熱烈アタックだったか、まあ細かいことは忘れたが、ともかく付き合い始め、結婚したらしい。今でもそうだがまったくとんでもない父親だと改めて思ってしまう。

 そして15年前に母はこの地で僕を生んだ。実家の方が気が休まるし精神的にもいいから、ということだったらしい。その後僕がここに来たのは何度かあった気がするが、最も近いのは確か1年半前。2人とも都合がついたから、ということで母の帰省として一緒に来ていた。

 そんな母だが、父とは非常に仲が良く、大学でもおしどりの教授と助手で通っているらしい。いや、それはいいんだが、家庭を顧みずに研究に打ち込む父と母は親の姿としてはどうなのだろう、と時折思わざるを得ないこともないわけではない。

 

 とはいえ、そんな仲が良く、やりたいことをやれている2人の邪魔にならないようにしたい、というのは小さい頃から僕の心の中にはあった。だから前の学校では自分の食事は自分で作れるように料理研究部に所属していた。まあ両親へのあてつけの意味を込めて、の一面もあるが。

 ところが父はそれに一向に気づく様子はないし、母は母で気づいてはいるようだが僕がしっかりしているからという理由から、ますます研究に没頭していくのだった。でも僕のことで手間がかからずに済むならそれに越したことはないし、2人ともやりたいことがやれているのだからまあいいかとも思う。このことでどうこう言うつもりもなく、別に気にしないようになっていた。

 

 そんな中で父のインドへの長期出張が決まった。無論これまでの流れなら母はついていくと言うだろうが、間が悪いことに、僕は少し前に1度目の自然気胸を患ったばかりだった。

 その時に母に父についていくように言ったのは、他ならぬ僕だった。やはり両親の邪魔はしたくない、その思いからだった。結局悩みに悩んだ末、母は僕の提案を受け入れたのだった。

 

 その一方で、祖母はそれをあまりよく思ってはいないようだった。賛成はしかねるようだったが、それでも両親は無事インドへと旅立ち、僕も新たな環境で頑張ろうとしていた。その矢先の今回の2度目の発症。なんてことをしてくれたんだ、とこの胸に言い聞かせてやりたい。祖母としては「それ見たことか」と言いたい様子はあった。が、連絡手段が僕の携帯ぐらいしかなくて言いたくても言えない、というのは不幸中の幸いだろう。

 

 そんなことをぼんやり考えていると病室の入り口が開いた。現れたのはこの数日間で話す機会が多くなってきた看護婦の水野沙苗さんだ。

 

「あら、ホラー少年。今日は読書はお休み?」

 

 ホラー少年、というのは水野さんが僕に勝手につけたあだ名だ。確かに好きか嫌いかと聞かれればホラーは好きな部類に入るが、たまたま僕の荷物の中で目に付くところにあったのだろう、入院が決まった時に祖母が持ってきた荷物から出てきたのがホラー小説だったのだ。かつて読んだものではあったが、暇を持て余すよりはマシかと思って読んでいたときに水野さんがそれを目撃したことでこのあだ名をつけられる羽目になったのだった。

 彼女曰く、「病院なんていかにも(・・・・)な環境でホラーというジャンルを選択するのは、物好き、特に怖い物好き以外ありえない」らしい。そりゃあ確かに病院といえば心霊スポット、とかよく言われることもあるかもしれないが、別に僕はそんなことを気にしていない。そんなオカルトはありえない、と思っている。そして思っているからこそ、ホラーというジャンルを楽しめて読めるのではないかとも思う。

 

「ええ、まあ。ちょっと考えごとを」

「へえー。昔読んだホラー小説のことでも思い出してた?」

 

 実は水野さん、相当のホラー小説好きらしい。あれが面白いだのこれが面白いだの、個人的に貸してあげようかなんて話までされる。だから僕はそんなに好きなわけじゃありませんって。

 

「人をホラー小説ばっかり読んでるみたいに言わないでください。あれはたまたまですって」

「たまたまでラヴクラフトとか選ぶ? もし本当にたまたまだとしたら、素質あると思うわよ?」

「何の素質ですか」

「んー……。ホラー少年の素質? あ、もうホラー少年だっけ」

 

 アハハと彼女は笑うが、もう何が言いたいのかわからない。そう、最初はこんな感じで気さくなお姉さんだなと思って話していたのだが、勘違いが酷いというか思い込みが激しすぎるというか、そんなところがあると知ったのは初めて話したその日のうちのことだった。

 そしてとどめにドジと来ている。何もないはずのところで転んで僕のおなかに頭突きをお見舞いしてくれた時にその辺りの評価は揺るがないものになった。もう少し下だったら男としての大切な場所が危ういところだったし、上なら上で管に繋がっている先が危なかったかもしれない。こんな看護婦がいてこの病院は大丈夫かと不安になる。

 

「……あ、そうそう。それが言いたかったんじゃなくて。お客さんが来てるわよ」

 

 長い前置きの話だった。その後で、彼女はようやく本題を思い出したらしい。

 

「客……?」

 

 だが思い当たる節がない僕はその単語を反芻する。祖母は帰ったばかりのこの平日に、誰だろうか。

 その僕の問いの答え、水野さんの後ろから表れたのは紺のブレザーに身を包んだ男女だった。

 2人とも眼鏡をかけており、男の方は中肉中背で色白、女の方はちょっとぽっちゃり、と言ったところか。両方とも一見して秀才タイプ、とか真面目そう、とか分類されるだろう。

 

「こんにちは。榊原恒一君……ですね?」

「はい。えっと……」

「私達は夜見山北中学校3年3組の者です」

 

 男に続いて女がそう答えた。

 

「僕はクラス委員の風見智彦です。こっちは同じくクラス委員の桜木さん」

「桜木ゆかりです。はじめまして」

 

 「はあ、どうも」とあいまいな返事を返して僕は頭を下げた。「夜見山北中学」ということは、おそらく僕が転校する、現時点では「予定の」になってしまっているが、学校のはずだ。

 

「今日はクラスを代表してお見舞い、ってことで。……大変だったね。病気、って聞いたけど」

「ああ、うん。前も1回やってるんだけどね。経過は順調だからもうしばらくすれば退院できるだろうって」

「そうですか。それはよかった」

 

 桜木さんがそう言って笑みを浮かべる。愛想笑い、とはわかるが別に気分を害さない、むしろ逆に癒されるような笑顔だなとは思う。が、そこで間が空いた。やっぱりこの間は苦手だ。

 

「えっと……。榊原君、夜見山に住むのは初めて……?」

 

 その間を破るように口を開いたのは風見君の方だった。なんだか、少し妙な質問な気もする。

 

「住むの自体は初めてかな。母の実家がここだから、来たことはあるけど……」

「そうなんだ……。いや、東京の中学に通ってたのにこんな片田舎に来るなんて珍しいなって思ったから」

「風見君、あまりそういうのは詮索しない方がいいよ?」

「あ……。うん、そうだね、桜木さん」

 

 ……なんだろう、この違和感。風見君の方はなんだか照れくさそう、と言うか、どこか桜木さんの方を意識しがちに喋ってるけど、でも一方の彼女の方はそんな様子は全く見受けられない。

 ああそうか。なんとなく僕は2人の関係、というか、風見君はもしかしたら恋する少年なのではないかと感じ取った。頑張れ少年、と言ったところか。などと考えるとおじさん臭いかな、僕も同い年だし。

 

「いや、気にしなくていいよ。こっちには両親の仕事の都合でね」

 

 とりあえず彼のフォローはしておく。

 

「そっか。色々大変だね」

「そうでもないよ。親が放任主義だから面倒くさくないってところもあるし」

「へえ。ご両親は何のお仕事を……」

「風見君、あまり長居しちゃ悪いんじゃない?」

 

 自分の言葉を切るように重ねられた桜木さんの言葉に風見君はビクッと体を震わせた。

 わかった。もしこの2人が付き合うとしたら、風見君は間違いなく尻にしかれるタイプだ。そして桜木さんは大人しそうに見えて影から支配するタイプ。意外とお似合いの2人じゃないかな。

 同時におとなしそうな桜木さんがなぜクラス委員なのかもなんとなく判った気がした。おそらく彼女は頭もいいのだろうが、それだけの理由だけではないだろう。こうやって取りまとめるのがうまいから、そのポジションについているのだと思う。

 

「あ……。じゃあ榊原君、お大事に。学校で待ってるから」

「風見君、よろしく、の意味も込めて握手でもしていったら?」

「そ、そうだね。……じゃあよろしく、榊原君」

「こちらこそ、よろしく」

 

 風見君が右手を差し出し、僕もそれを握り返す。その彼の手は冷や汗をかいたように湿っていた。

 まあそうもなるだろう。気のある女性の前でいいところなく言いくるめられてしまっているのだから。

 

 転校後のクラスに顔を出すより先に、僕の中でクラス委員の風見君は難儀な人、そして桜木さんは一見大人しそうだが実質的な支配者、という印象で固まってしまった。




恒一の母である理津子は原作では故人ですが、「現象」がないために存命です。
なお水野さんのキャラは漫画版が元になっています。かなりコミカルなキャラクターで描かれていて、1巻ラストに4コマまで用意される優遇っぷりでした。


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#02

 

 

 夜見山北中学校からの来訪者と握手をしてから数日後。僕の容態は幸運なことに順調に回復へと向かっていた。

 今日は機械と体を繋いでいたチューブが取り外され、久しぶりに自由に歩き回ることが出来た。籠の中の鳥がその束縛から解かれればこんな気分なんだろうか、とも思う。ともあれ久方ぶりの自由を満喫するのも悪くはない。

 そう思い、昼食を食べてしばらく経った後に、僕は院内をふらふらと散歩していた。建物自体が新しい、とは到底言えず、むしろところどころガタ(・・)がきてはいるが、施設としては立派なこの界隈で1番大きな病院である。入院して以来ちゃんと中を歩いたこともなかったので、この機会に見て回るのもいいかと思っていたところだった。

 

 とはいえ、デパートや美術館、博物館だのといった娯楽施設とは根本から異なる。それほど見て回る部分もないわけで。結局小一時間も時間を潰すことはできず、30分ほどで先ほど出てきた病室へと戻る羽目になった。

 

「あれ、ホラーしょうね……わあー!」

 

 自分の病室のある階へ到着した僕を出迎えてくれたのは水野さんの派手な転倒姿だった。勿論床にはつまずくような要素のある物はなにもない。

 

「……大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫よ。これは転んだんじゃなくて、ここの病院の床は滑るからあなたも気をつけなさいね、ということを体を張って実演したわけで……」

「……要するに転んだんですよね?」

 

 僕の突っ込みは完全無視されることとなった。まるで何事もなかったかのように水野さんは立ち上がり、わざとらしくひとつ咳払いを挟む。

 

「コホン……。えーっと今ここに戻ってきたって事は、どこかに行っていたの?」

「ええ。せっかく管が取れたので、ちょっと院内を歩いてみようかと」

「あ、そうだったんだ。道理で。トイレにしては長いと思ったのよ。でも覗いてみてもトイレにいない風だったし」

「もしかして僕のこと探してました? 検温か何か?」

「探してたけど、そうじゃないわ。お客さんが来てたの」

「客?」

 

 脳裏に先日のあの意外とお似合いな(・・・・・)2人組みが思い出される。しかしそんな熱心にお見舞いに来る理由もないだろう。祖母は午前中のうちに顔を出しているから、1日に2度来るとも考えにくい。だとしたら……。

 

「君の叔母さん、って言ってたわよ。若くて美人の」

 

 やっぱり。これまで平日で仕事のために来ることができないでいる、と祖母からは聞いていた。今日は土曜日、僕が入院してから初めて顔を出せる日となったのだろう。

 

「まだ病室にいます?」

「ええ、多分。10分前ぐらいにいらしたかしら。その時はトイレだと思っていたから、しばらくしたら戻ると思うって伝えたし」

「わかりました。ありがとうございます」

 

 一先ずお礼を述べ、僕は速足に自分の病室を目指すことにする。

 

「あ! くれぐれも病院の廊下は走らないでね! 滑るからね!」

 

 いや、あなたじゃないんですから転びませんよ。大体言うほど滑らないし。

 むしろそこは看護婦さんとしては「管が取れたばかりなんだから体に負担をかけないように」とか注意すべきだろうとも思ってしまう。

 ともあれ叔母さんを待たせるのも悪い。帰ってしまっていたらそれこそ余計に申し訳ない。まだ帰っていないことを祈りつつ、速足で歩いた後で、僕は病室のドアを開けた。

 

「あら、戻ったのね、恒一君」

 

 祈りが通じたのか、彼女はまだそこで待ってくれていた。黒の長い髪を胸元まで垂らし、ベージュのブラウスと緑のパンツルックに身を包み、眼鏡をかけている女性。

 

「すみません、怜子さん。ようやくチューブが取れたので、ちょっと院内をぶらついてました」

 

 僕は素直に叔母の怜子さんに謝罪の言葉を述べ、ベッドに腰掛けた。怜子さんは近くにあった椅子に腰掛けており、向かい合う形になる。

 

「いいのよ。それより大切な甥っ子が入院したというのにこれまでお見舞いにも来れずにごめんなさい」

「気にしないでください。平日でしたし、怜子さんが忙しいのはわかってますので。僕の都合で怜子さんに迷惑をかけたくは……」

「コラッ。そういうこと言わないの」

 

 言いかけた僕の言葉は少し険しい顔の怜子さんに遮られる。だがそれは「怒られた」というより「叱られた」という言葉の方が似合うやり取りだっただろう。僕はどこか子供扱いされてるような、でもそれでも嫌な感じはまったくしないような、そんな感覚だった。

 

「あなたは理津子姉さんの大切な1人息子なんだから。私のことだって母親だと思って……って、それはちょっと無理か。私と姉さんは結構年離れてるから、どちらかっていうと姉さんかな。でも、余計な気遣いはしなくていいの。私を頼ってくれていいんだからね?」

 

 この人にそう言われると反論できない。実をいうと元々怜子さんとは面と向かって話すことが自体が苦手、と言うか、どこか緊張するところがあった。

 

 なぜなら、彼女は母に似ている(・・・・・・)からだった。

 

 それも今の母ではなく、若い頃の母。早い話が父が見初めた、まだ学生時代だった頃の母に似ているのだ。年が離れているとはいえ姉妹なのだから当然と言えばそうなのかもしれない。だが、若い頃の母と話しているようでどうにも居心地が悪い、と思ってしまうところがあった。たまに「男は母親に似た女性に恋をする」なんて話を聞くが、父親の遺伝子を継いでいるのならそれもあるのかもしれない。若き日の母の面影のある怜子さんと面と向かって話すとどうしてもどぎまぎしてしまう。……いや、これじゃ僕がまるでマザコンみたいじゃないか。断じてそれは無い、それだけはきっぱり否定したい。

 

「ありがとうございます。まあお陰様で順調に回復傾向にあるみたいだし、今日管が取れましたから。この分だともう少しで退院できそうです」

「そう、それはよかったわ。新しい学校に転校、っていうその時にだったものね。そのことは私もちょっと気にはしてたのよ」

「ああ……。そうですね……」

 

 何と無しに返事を返す。「余計な気遣いはしなくていい」と言われても、やはり気を遣わせてしまっているようでなんだかあまりいい心地はしない。

 

「……ねえ、恒一君。あそこにグラウンドがあるの、見える?」

 

 と、窓の外に目を向けていた怜子さんが、不意にそう切り出した。

 

「グラウンド? ……ああ、あの白っぽい建物の前にある」

「そう。今『白っぽい建物』って言ったのが、恒一君の通うことになる夜見山北中学校……通称『夜見北』よ」

「夜見北……」

 

 それをきっかけとしたように、怜子さんは付近の紹介を始めた。これを機に街中を紹介しておこう、ということだろうか。

 今僕が入院しているこの市立病院は夕見ヶ丘という地名に建っているのだそうだ。他にも朝見台という場所がある、とかこの街の地名にもなった夜見山という山がある、とか結構詳しく説明してくれた。

 

「他にも知っておいたほうがいいこと、とか、夜見北での心構え(・・・・・・・・)なんてのもあるけど……。まあそれはまた今度にしましょう。退院してから、続きは家で、ね」

 

 そう言うと怜子さんは立ち上がった。

 

「じゃあ面会時間終わっちゃうし、私はそろそろ帰るわね。元気そうな甥の顔を見れて安心したわ。せっかくよくなって来てるんだから、くれぐれも無理はしないように」

「無理、って言われてもここじゃ出来ないと思いますよ。……あ、よかったら玄関付近まで送りますよ」

「え? いいわよ、まだ恒一君は本調子じゃないんだし……」

「今日やっと少しは歩き回れるようになったんです。ずっと寝てても体なまっちゃいますし。送らせてください」

 

 多分これから大いに迷惑をかけるだろう、というか既に迷惑をかけてしまっているのだが、ともかくこれから一緒に生活するということを考えると、ここで点数を稼いでおく、というわけじゃないが見送りに行くのも悪くないだろう。やっと歩き回れるようになった、というのも事実だし。とはいえ、やはりこれも普段してしまう余計な気遣いなのかなとも思ってしまうが。

 

「そう? じゃあお言葉に甘えて、年下の王子様にエスコートをお願いしようかしら?」

「エスコートって言っても、入り口までですけどね」

 

 僕も立ち上がり、先導して病室のドアを開ける。

 

「うーん、恒一君はまだまだ若いわね。そんな風に言っちゃったら相手の女性をうまく口説けないわよ?」

「別に僕は怜子さんを口説こうなんて思ってませんよ」

「んもう、いけずねえ。ちょっとはこのおばさんに夢を見させてよ」

「僕のことを若いとか言いましたけど、怜子さんだってまだまだ若いじゃないですか。まあ僕との血縁関係は『叔母さん』ですけど」

「あら、なかなかうまいこと言うのね。少し評価しなおしたわ」

 

 別にうまいことを言ってるつもりも、世辞を言ってるつもりもないのだが、どうやら怜子さんは機嫌をよくしたようだ。

 が、そこまではよかったのだが、どうやらこの会話は廊下ですれ違った水野さんに一部聞かれていたらしい。

 

「おお? なんだかうまく口説いていたみたいけど、デートかい、ホラー少年?」

 

 ああ、めんどくさい人に聞かれてしまっていた。真面目に答えても疲れるので適当にあしらうことにする。

 

「違いますよ。叔母さんを入り口まで見送りに行くだけです」

「とか何とか言っちゃって、本当のところは……」

 

 なんだかまだ色々と言ってるようだけど無視でいいや。

 下を向いた三角形を表すボタンを押すと、丁度上の階から降りてきたところのエレベーターが開いた。中には誰もいない。パッと乗り込み、1階を示すボタンを押し、次いで閉じるボタンを押した。

 

「さっきの看護婦さん、仲がいいの?」

「ええ、まあ。僕が手持ち無沙汰にしてて、たまたまホラー小説を読んでるところを見られちゃって。それからあんな風に呼ばれて、何かと絡んでくるんですよ」

「ふうん……。……悪い虫がついた、なんてことにならないといいけど」

「え? 何か言いました?」

「え!? な、なんでもないわよ。恒一君はもてるわね、って言っただけ」

 

 いや、全然違うことを言ったと思うけど……。まあいいか。

 

「全然もてませんし、そんな風な対象じゃないと思いますよ」

 

 別に謙遜の気持ちも何もない。事実と思って、本心からそう言った。

 丁度そこでエレベーターが目的の階に着き、扉が開く。エレベーターを降りて1階のエントランスへ。面会時間がそろそろ終わるということもあってか、外へと向かう人がちらほらと目に入った。

 

「ここまででいいわよ。わざわざありがとう」

「いえ、そんな」

「じゃあお大事にね。もう少しの辛抱だから。何かあったら家に電話よこすか、お母さんに言伝しておいて」

「わかりました。ありがとうございます」

「いいのよ。それじゃ」

 

 笑顔を見せて僕に手を振りつつ、怜子さんは入り口の自動ドアから外へと消えていった。

 

「さて、と……」

 

 これからどうしたものかと思う。また院内をぶらぶらするのも悪くないが、さっきのでどうせ時間が潰せないことはわかっている。なら外に散歩、というのも考えたが、段々と日は傾いてくる頃だし、大人しく部屋に戻ろうと、僕は来た順路を引き返した。

 

 エレベーターホールに到着し、上へのエレベーターのボタンを押そうとボタンへと近づく。が、3基あるエレベーターのうちの1つ、1番の奥の扉が開いていることに気づいた。

 運がいい。閉まらないように上のボタンを一旦押し、その中へと滑り込む。自分の病室のある5階を押そうとしたところで――その1階下のランプが既についていることに気づいた。

 

「えっ……」

 

 思わずそう呟き、周りを見る。

 その時になって僕はようやくこのエレベーター内の状況を把握した。乗ったときはわからなかったが、エレベーターの隅に先客がいたのだ。いや、正確には「いたらしい」だろう。少なくとも僕が乗ったとき、そして自分が降りる階を押す瞬間まで、このエレベーター内には自分しかいないものだと思っていたのだから。

 

「あ……。すみません」

 

 とはいえ、先客がいたのは事実だ。反射的に駆け込みで乗ってしまった非礼を詫びる。が、詫びられた当人はそんなことなど全く気にも留めていない様子だった。

 少し落ち着いてからよく見ると、先客は僕と同い年ぐらいの少女だとわかった。その少女はどこか不思議、というか、奇妙な雰囲気だった。

 身長は小柄……まあ女子はこんなものかもしれない。でも目を隠すように伸びた前髪から覗く肌は今まで陽に当たった事はないのではないかというほど白かった。その前髪に隠れた左目、そこにあった物が思わず目に留まる。

 

 眼帯だった。白い、医療用の眼帯。

 

 ここは病院だから、怪我をしているから、つまり患者という可能性はある。でも、おそらく彼女はここの入院患者ではないと僕はすぐに判断した。

 その理由が服装だった。紺のブレザー、数日前にお見舞いと称して僕に会いに来た2人、そのうちの桜木ゆかりと同じ制服を着ていたのだ。

 

「君……夜見山北中学校の生徒……?」

 

 そういえば自分から進んで他人と接するのは苦手だった、と気づいたのは思わずその質問が口をついで出た後だった。だが彼女は答えない。いや、厳密には代わりに首の角度を縦に僅かに変えて頷いていた。僕の問いに肯定の意思を示した、ということだろう。

 眼帯に、否、それ以上に彼女自身から漂う不可思議な気配に意識を奪われつつも、彼女をよく見るとその左手に何かがあるのが見えた。

 

 人形。だが女子が好きそうな人形とは違う。かわいいという言葉からはかけ離れた、美しい、あるいは精巧な造りの、人によっては不気味とすら感じる可能性のある人形。

 

「その人形……お見舞い?」

 

 やはり彼女は答えない。話すことが嫌いなのか、と僕が諦めかけた、その時だった。

 

「届け物があるの」

 

 短く、どうにか聞き取れるほどの声で彼女はそう呟いた。

 

「待ってるから。可哀想な、私の半身が」

 

 チン、という音と共にエレベーターが止まった。見れば彼女の目的の階に到着したことが示されている。

 ドアが開くと同時、彼女は足音も立てずに歩を進めた。

 

「あ……君、名前は……?」

 

 僕の問いかけに彼女は足を一瞬止める。しかし振り返ることはせずに、

 

「メイ……」

 

 そう、呟くように自分の名を告げた。

 

「ミサキ……メイ……」

 

 その声と共に分厚い鉄の扉が閉まる。自然と、彼女の姿は見えなくなった。

 

 エレベーターに1人取り残された僕は、思わず今降りていった少女へと思いを馳せていた。

 奇妙な女の子だった。雰囲気もさることながら、手にした人形、その言葉……。

 

『待ってるから。可哀想な、私の半身が』

 

 要するに凄く仲がいい人が入院していてそのお見舞いに来た、ってことなんだろうけど……。だったらわざわざそんな言葉を選ぶ必要もないだろうし、なによりこんな面会時間ギリギリに来なくてもいいようなものを。

 それにしても……。存在自体が希薄なような、まるで本当はそこにいない女の子のようだ、とさえ思えた。事実、僕はエレベーターに駆け込んだときに彼女の存在に気づけなかったわけだし。

 

 再びチン、という音と共にエレベーターが開き、僕の病室がある5階に着いて一歩を踏み出し――そこで僕は気づいた。

 

 彼女が降りた階、それは日本では縁起が悪いとされる数字の階である4階(・・)だということに。

 

「……まさかね」

 

 こんな夜中からはまだ遠い時間から幽霊というのは勘弁してほしい。ホラーマニアの看護婦に影響されすぎたか、と思う。

 まあ夜見北なら登校後に会う可能性もあるはずだ。そこで確認できればいいだけのことだろう。

 そう思って深く考えることをやめ、だがやはり印象的な彼女の姿を忘れることは出来ないまま、僕は病室へと戻った。




追記:コミックスで病院は「夕見ヶ丘病院」と記述されていましたが、公式設定資料集は「市立病院」となっていましたので、名称は市立病院に統一することにしました。
また、設定資料集に明確に「4階の表示なし」とエレベーターの説明の部分に書いてあったのですが、そこだけは今から変えるのも厳しいので、原作と食い違ってしまいますがそのままいこうと思います。


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#03

 

 

 5月6日。結局1週間程度と目論んでいた入院期間は大事を取って10日間となり、退院日直後がゴールデンウィークと重なったこともあって、初登校の日はこの日までずれ込んでしまっていた。

 今は朝5時。眠れなかった、というわけでもなく、どうやら病院での規則正しい生活の名残のようだ。……まあ今日から登校となるわけだが、授業中に気胸が再々発しないか、とか、新しい環境で友達はできるか、という不安があったから、知らず知らずのうちに目が覚めてしまったという可能性は否定できない。

 こんな時間だが既に祖父母は起きているようだった。「年を取ると朝が早くなる」とはよく言ったものだと思う。茶の間を横切ろうとした時に台所の方で祖母が何やら作業している音が聞こえてきた。祖父は、と言うと……。

 

「おお、恒一か。早いなぁ」

 

 茶の間でテレビを見ているらしかった。僕に気づき、声をかけてくる。

 

「おはよう、おじいちゃん」

「恒一も今日から中学校かあ。中学生になったかあ」

「いや、僕はもう中学3年生だよ」

「そうかあ。大きくなったなあ」

 

 1年半前に会った時からこの兆候はあった。早い話が、祖父には認知症の気配があったのだ。最近は以前にも増してその様子が顕著になりつつあるようにも感じる。

 

「あら、恒一ちゃん、起きてたの。おはよう」

 

 僕と祖父の話し声を聞いたからだろうか、祖母が台所から顔を出してきた。祖母は祖父と違って全くそういった様子はない。未だしっかりしておりまだまだ元気、車の運転もお手の物だ。おかげで入院中もいろいろと助かったのは事実だ。

 

「おはよう、おばあちゃん」

「オハヨ、オハヨー。レーチャン、オハヨー!」

「はいはい、おはよう」

 

 呆れ声で僕は聞こえてきた3人目(・・・)に挨拶を返す。いや、その言い方は厳密には間違えているし、そもそもレーちゃんってお前の名前だろうと言ってあげたかったが、言ったところで効果がないだろうからやめておくことにした。今「挨拶」をしてきた相手は人間ではない。飼われている九官鳥だからだ。

 

「オハヨ、オハヨー!」

「怜子は今日も元気だなあ」

 

 この九官鳥を買ってきたのは祖母らしい。今の症状が見え始めた頃の祖父が、日中に「怜子はどこだ?」と自分の娘を探して時々辺りを放浪してしまうこともあったからだそうだ。2人いる娘のうちの片方がどこぞの馬の骨と知れない大学教授に連れて行かれてしまった、というのもあったのだろう。残ったもう1人の、つまり僕の母とは年が離れた娘は手元から離したくないという思いが強くあったのかもしれない

 そんなことがあり、その怜子さんの代わり、というわけじゃないけど動物を飼うことで気を紛らわすことが出来るのではないか、という話になったそうだ。その時に擬似的にでも話せる相手の方が症状がよくなるかもしれない、と九官鳥を選んだという。

 それ以来九官鳥を怜子さんと思い込んで話しかけることが多く、名前を決める時に「自分の分身みたいなものだから」と、怜子さん本人がレーちゃんと名づけたのだった。残念ながら祖父の症状はあまり改善された様子はないが、それでもレーちゃんと話してるときは嬉しそうにも見える。

 

「ご飯これから用意するから、もうちょっと待っててね」

「あ、気にしないで。僕が早く起きちゃっただけだから。ちょっと縁側で外の空気でも吸ってくるよ」

 

 僕はそう言い残して、言葉どおり縁側へと向かった。天気のいい外への戸を開けて縁側に腰掛け、一つ大きく伸びをする。うん、体の調子は悪くないみたいだ。

 一息ついたところでポケットに手を突っ込み、携帯電話を取り出す。さて、どうしたものかとそのまましばらく手にした携帯を見つめていた。

 

 父には退院前に一度電話をかけてはいる。気胸が再発したが心配するほどではない、ということを伝えるためだった。

 電話の向こうで父は少し驚いたようだった。だがその後で「まあ俺も2度やってるからな」と、言って笑っていた。いや、こちらとしては笑い事ではないのだが、「一度再発しただけだからもう次はないだろう」とも言っていた。どうも血筋だったらしい。が、根拠はそれしかないだろうと言えなくもないわけだが。

 しかし一応報告はしているため、別に今無理にかける必要はない。こちらが朝の5時過ぎだから、向こうは深夜2時ぐらいだろう。夜型の父だが、もう寝ているかもしれない。そう思い当たった時点で、別に今電話をかける、という選択肢を消し去ってもよかった。が、その携帯をポケットにすぐには戻せなかった。今日から新しい学校だから、何か踏ん切りがつかないために、親の言葉が聞きたいとか迷っているのかもしれない。

 

 まあいいか、とため息をひとつこぼす。もし父の邪魔をしてしまったとあれば気が引ける。そう思って携帯をポケットにしまおうとしたその時だった。携帯が震え出す。

 はたして発信者は、今自分がかけようとしていたその相手、父からだった。

 

「はい、もしも……」

『熱いぞ! インドは!』

 

 携帯を耳に近づけると同時。スピーカーから響いてきたやかましいほどの父の声に思わず耳を離す。それを一瞬迷惑に思いつつも、元気でやってることに変わりはないかという安心感も心の中に生まれていた。

 

「……何? どうしたの?」

『なんだ、挨拶だな。今日から学校だろう? お前のことだ、緊張でなんだか早く起きちゃった、とかなってるんだろうと思ってな』

 

 図星だ。さすがは親か、見抜かれている。

 

『そっちは朝の5時ぐらいか?』

「まあそんなところ。でもインドは夜中じゃないの?」

『ああ、深夜2時ってところだ。これから寝るところだ』

「そう。相変わらず夜遅いんだ。……母さんは?」

『理津子か? 今シャワーを浴びてる。なんなら電話を持っていってやろうか?』

「あ……ならいいよ。元気だってだけ伝えておいて」

 

 そもそも携帯は防水じゃないだろうに。前回も丁度買い物に出ていたとかで母の声は聞きそびれてしまったが、元気なようだから、と諦めることにする。

 

『そうか。……まあ気胸について前も言ったと思うが、俺も再発はしたが再々発はしてない。だから心配はするな』

 

 心配はするな、と言われてもそれだけではいそうですか、とは納得しかねてしまう。根拠が弱すぎるというか適当すぎやしないか。しかし父なりに僕を安心させようとしているのだろう。

 

「わかった。そう思うことにするよ」

『病は気から、だ。あんまり気にしすぎるな。だが一応健康には気をつけておけよ。お前は俺と理津子にとっちゃ大切な一人息子なんだからな』

「大切な……ねえ……」

 

 祖父母の家にその息子を預けたのに、と言おうかとも思ったが、母に父と一緒についていくように言ったのは僕だ。そしてその時に僕を信頼してくれたから今2人はインドにいるわけで、だったら余計なことは言わない方がいいと判断した。実際、大切に思ってるからこうやって電話をくれてるわけだろうし。

 

『ともかく、お前は俺たちの半身みたいなもんだ。怪我とか事故とかもやめろよ。あとは新しい学校を満喫でもして来い』

「うん、わかった。……じゃあ切るよ」

 

 「おう」という声を聞いた後で通話を終える。携帯をポケットに入れて何と無しに空を見上げた。

 

「半身……か……」

 

 そして今さっき電話の向こうで父が言った、僕に対する言葉を口にする。

 

『待ってるから。可哀想な、私の半身が』

 

 この間エレベーターで一緒になった不可思議な少女。その少女も、「半身」という単語を使っていた。

 

「ミサキ……メイ……」

 

 あの時の、言葉にしにくいような感覚。不気味、というよりミステリアス、というか。奇妙、というよりそれでいて惹かれるところがあったというか。彼女の名を呟きつつ、僕はその感覚を思い出していた。

 もしかしたら同じクラスだったりして。……いや、そんなよくあるドラマや漫画じゃあるまいし。そもそも学年が一緒かすらわからないか。

 

 一度大きくため息をこぼしたところで、

 

「恒一ちゃん? ご飯できましたよ」

 

 聞こえてきた祖母の声に空想をやめて意識を現実へと戻した。そして立ち上がりつつ祖母の方へ返事を返す。

 

「はーい! 今行くよ!」

 

 

 

 

 

「私がクラス担任の久保寺です。よろしくお願いします、榊原君」

「榊原恒一です、よろしくお願いします」

 

 祖母に送ってもらい、夜見山北中学校に初めて登校した僕は職員室へと足を運んでいた。今僕の目の前にいるのが担任の久保寺紹二先生だ。眼鏡をかけた痩せ型の体型は見るからに生真面目そうな、言ってしまえば事務を淡々とこなすような風格に見える。

 

「体の方はもう大丈夫ですか?」

「はい。体育は無理ですが普通に学校生活を過ごす分には問題ないみたいです」

「そうですか。それはよかった。……成績の方を拝見させていただきました。これだけの成績なら、授業に置いていかれるということもないでしょう。しかし気を緩めず、勉学に励んでください」

「あ……はい」

 

 僕が緊張しないように丁寧に話してくれているのかもしれないが、いやに丁寧すぎる話し方で逆に緊張してしまう。その口調と、さらに僕がさっき受けた印象も相俟って、なんだか普段から苦労しているような、どこか頼りなさそうな雰囲気にも見える。

 

「何か困ったことがあったら担任の私か……」

 

 そう言って久保寺先生は視線を後方へと逸らす。その視線の先には黒く長い髪を胸元に垂らした若い女性の先生が立っていた。

 

学年(・・)副担任の三神先生に相談するようにしてください」

 

 

 

 

 

 はっきり言って、授業は退屈だった。僕が前いた学校の進み方が早かったのか、今授業で教えられている内容は既に終わっていた。しかし転校初日からいきなり居眠り、などというのもまずい。が、不幸なことに今日は朝早くに目が覚めてしまったせいで、こういう状況になっては眠気が襲ってくる。僕はなんとか意識をつなげようと眠りそうになる目をこすりつつ、どうにか授業を聞こうとしてはいた。

 そうしつつ、だがどうしても集中しきれずに、左手の後方へ一瞬チラッと視線を移す。その視線の先、僕が集中できずに、先ほどからどうしても気になってしまっている存在。その張本人である彼女(・・)は相変わらず物憂げな表情で、外をぼんやりと眺めていた。

 

 

 

 

 

「榊原恒一です。よろしくお願いします」

 

 人前で挨拶する、という慣れないことをしているのは自分でもわかっていたが、転校してきたのだから、クラスへの挨拶がないということはまずありえない。嫌な緊張感で硬くなりつつ、僕はクラスメイトへ向けて頭を下げた。

 視線が一様に集まる、というのはどうも気分がいいものではない。テレビに出ている芸能人とか偉い政治家なんて人たちはよくこんなことに耐えられるなと感心してしまう。

 

「榊原君はご両親の都合でこちらに越してきました。本当は4月から登校の予定だったのですが、急病で入院したために今日からの登校となりました。皆さん仲良くしてあげてください。よろしいですね」

 

 クラスを見渡してみる。やや時期外れの転校生を珍しく見つめる目が多いが、嫌な視線(・・・・)は感じない。特に荒れてるというわけでもなく、平和なクラスかと密かにホッと胸を撫で下ろした。

 奥に向かっていた視線が手前に戻ってきた時、最前列に2人、知っている顔を見つけた。クラス委員の風見智彦と桜木ゆかりだ。桜木さんと一瞬目が会い、小さく微笑み返される。どぎまぎして思わず視線を逸らしてしまった。

 

「では榊原君はこの列の空いているところに座ってください」

 

 そう言って先生がさしたのは風見君が座っている列、廊下から2列目だった。空いている席は前から4番目、後ろから3番目。随分中途半端な場所が空いてるなと思いつつ、僕は席へと向かう。が、向かいつつ気づいた。本来僕は4月から登校予定、だったらこのクラスの編成時点で座席表は決まっていた、ということになるのではないだろうか。なるほどそれならありえる話かと勝手に納得することにした。

 

「今日は赤沢さんと高林君が休みですね。では朝のホームルームを始めていきましょう」

 

 先生がそう言った時、丁度かばんを机の横にかけて椅子にかけようとした時だった。窓際の列の1番後ろ、頬杖を着いて外を眺めていた少女の姿に「あっ!」と声を上げそうになった。その彼女との視線の間にいる隣の席の美少年が不思議そうな顔でこちらを見てきたので、怪しまれないように一先ず椅子に腰掛ける。

 やや間を開けてもう1度その少女の方を見つめる。今度は外ではなく机を見つめていたその顔に、間違いないと確信して、誰にも聞こえぬようにポツリと彼女の名を呟いた。

 

「ミサキ……メイ……」

 




レーちゃんを飼った理由が原作と異なってます。原作では直接的に「現象」が関係しているはずですので。
ですが、そもそも祖父が認知症気味になった原因も「現象」が少なからず関わっているのではないかと言ってしまえばそれまでなんですが……。
それから三神先生のポジションを変更してあります。


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#04

 

 

 誰にも聞こえない程度に、彼女の名をポツリとこぼす。ここまで4限の授業の間、彼女の方を時折見てはそう呟いていた。もう幾度そうしたかわからない。なぜか不思議と、そうやって彼女の名を口にしてしまっていた。

 まさか同じクラスだったとは思わなかった。よくあるドラマや漫画も馬鹿にしたものじゃないらしい。

 休み時間の度に、彼女と話そうとはしたのだが、転校生が珍しいのだろう、ここまで毎回の休み時間は全て話したがって声をかけてきてくれるクラスメイトによって時間を取られていた。クラスに馴染めるか、なんて悩んでいたのは取り越し苦労にも思えるほど皆明るく接してくれてとても助かった。が、ミサキメイと話してみたかった身としては放っておいてほしい、という気持ちがなかったわけでもない。

 

 と、授業を終えるチャイムが鳴る。4限目が終わり、これから昼食と昼休みに入る。

 前の学校では給食だったが、ここは弁当だ。以前は料理研究部なんてところに所属していた身としては弁当を自分で作る、なんていうのも面白そうではあったが、病み上がりということもあって今日は祖母が作ってくれた弁当になる。

 昼食となると仲の良いグループに分かれるのが多いようだ。クラスの中で何グループか出来ていて、話しながら弁当箱を開ける様子が窺える。

 また、この学校は昼食を取る場所も自由らしい。授業が終わった後、弁当袋を手にクラスを出て行く数名の姿が見えた。そのことに気づいた時に窓際へと視線を移したが、やはりというかなんというか、ミサキメイの姿はそこにはもうなかった。

 

 仕方ないか、とやや肩を落として弁当の包みを開く。祖母の特性弁当、とてもおいしそうだ。ありがとうおばあちゃん、と祖母に感謝した後で、いただきます、と食べ物へも感謝する。

 メインのおかずである鮭の塩焼きを箸でほぐし、ご飯と一緒に口に運ぶ。うん、やっぱりおいしい。もう1度ありがとうおばあちゃん、と心の中で感謝した。

 

 ふた口目を食べようとしたところで僕の席の脇に椅子が置かれた。驚いて顔を上げる。

 

「サカキ、飯一緒に食ってもいいか?」

 

 声をかけてきたのは、制服ではなくジャージの上着を羽織り、髪はやや茶髪で見るからにお調子者、あるいはムードメーカーという言葉が似合いそうな勅使河原直哉だ。僕がいる列の最後列らしく、先ほどまでも休み時間の度に僕のところに足を運び、声をかけてきてくれていた。最初は「榊原」と呼ばれていたはずなのだが、いつの間にか呼び方が「サカキ」になっている。

 

「おい風見、お前もそんなところで1人で食ってないでこっち来いよ! 王子、風見と席代わってやってくれるか?」

 

 「ああ、いいよ」と王子と呼ばれた僕の前の席で昼食を食べていた男子生徒が席を立つ。本来ここは彼の席ではなく和久井という生徒の席のはずだが、その前の席の生徒と仲がいいらしい。風見君の席はそのさらに前、入れ替わる形だ。その席を立った王子君と席を交換して風見君が僕の前の席に座る。だがその顔がやや不機嫌そうにも見える。

 

「……勅使河原、僕は1人で静かに食べていたんだから、巻き込まないでくれないか?」

「そう言うなよ、せっかく転校生が来たってのに1人で飯食わせてるなんて皆冷たいだろ? お前クラス委員なんだから、そういうところまで気利かせろよ?」

「……そういうことは本人を前にして言うことじゃないだろ」

 

 やや呆れたように風見君はため息をこぼし、眼鏡を軽く上げた。

 

「あ、サカキ、紹介が遅れた。こいつはクラス委員の……」

「風見智彦君でしょ。病院にお見舞いに来てくれたから」

「覚えててくれたんだ、ありがとう」

「いや、こちらこそ。再会の記念にまた握手でもしておく?」

 

 半ばジョークのつもりだったが、苦笑を浮かべた後で風見君は右手を差し出してきた。僕もその手を握り返す。今日はまるで湿った様子もなく、さらりと乾いていた。

 

「……なんだお前ら、何の儀式だ?」

「なんでもないよ。それより勅使河原君と風見君は……」

「あーサカキ、『君』はよせ。俺のことは呼び捨てでいい、俺も勝手にあだ名決めて呼んでるんだし」

「……じゃあ勅使河原、風見君とはどういう関係?」

「幼馴染だよ」

「どちらかというと腐れ縁、って言った方が正しい」

 

 腐れ縁、ねえ……。

 

「幼稚園の頃から一緒なんだよ」

「適当なことを言うな、勅使河原。小学校だよ。……まったくこいつは昔からこういう適当な奴だった」

「そういうお前だって昔はこんな優等生ぶるような奴じゃなかったろ。俺と随分やんちゃしたじゃねえか。それが中学になってからか? こんな真面目を絵に描いたような奴になっちまって……」

「いいだろ。どう変わろうと……僕の自由だ」

 

 ふうん、と相槌を打ちつつ僕はご飯を食べる。2人の話がつまらないわけではないが、お腹が減っているのは事実だし、ご飯はさっさと済ませて校内を歩いて見て回りたい気分もしている。

 ……というのは建前で、本音は校内を歩いて入れば彼女に会えるんじゃないかという期待があるからだ。このクラスの窓際で物憂げな表情を浮かべていた彼女、ミサキメイに。

 

「……そんなことよりサカキ! 俺と仲良くなった記念に、変わり者が多いといわれるこの3年3組の連中のことをちょっと教えてやるよ」

「……変わり者? そうなの?」

「ああ、そうだ」

「言ってるこいつが1番変わり者、というかやかましいけどね」

「うるせえ風見、横から茶々入れるんじゃねえ」

 

 はいはい、と風見君は黙って弁当を食べることに集中するようだった。多分この勅使河原という人間に対しては一度話し始めたら気が済むまで放っておく、というのがもっとも適切な対処法なのだろう。助け舟も期待できないし、ここは彼の紹介を聞いておくことにした。

 

「まずは窓際最前列。あそこにいるのはこのクラス最大派閥の赤沢一派の連中だ」

「赤沢? いや、その前に派閥って……」

「こいつが勝手に例えてるだけだよ。別に派閥間でのケンカだの闘争だの、そんな古臭いものはない、仲良しグループとでも置き換えておいて」

 

 風見君がフォローする。……でも君の言った「闘争」なんてのも随分と誇張された表現だと思うけど。

 

「赤沢は今日休んでるんだが、このクラスの陰の支配者、ってところかな。演劇部の部長。特に女子から人気があるし、男であいつに惚れてそうな奴も間々いる」

「お前とかな」

「う、うるせえ風見!」

 

 ふーん……。風見君が桜木さんを狙ってるように勅使河原はその赤沢さんって人を狙ってるのか。どんな人なんだろうか。

 

「……話を戻すぞ。その今、本来赤沢の席に座ってる眼鏡かけてパーカー着てるのが無表情っぽいのが杉浦。なんとああ見えて女子バレー部のエース、んで赤沢の信奉者、右腕ってとこかな。友達って枠を超えるほど赤沢と仲がいい。

 その杉浦と話してる目つきが悪そうなのが中尾。こっちは男子バレー部だ。あんな目つきで身長もあるから怖そうに見えるが、意外と根はいい奴だ。赤沢に首ったけだ。

 んでその近くにいる2人、ショートで茶っぽい髪のが綾野。演劇部だ。物事ははっきり言う明るい性格で他のクラスの男子からも人気がある。もう1人のセミロングの方は小椋。同じく演劇部。パッと見かわいいんだが、結構なブラコンでな。フリーターの兄貴がいるんだが、それにくっついて街中歩ってたって目撃例もある」

 

 「へー」とか「ほー」とか相槌を打ちつつ聞いていたが、勅使河原の情報量は半端じゃなかった。感心すると同時によくもこれほどまでクラスメイトの話が出来ると逆に呆れてもしまう。

 

「……風見君、勅使河原っていつもこんななの?」

「……こいつ、自分のクラスだけじゃなくて他のクラスもかわいい女子とかはチェックしてるからね」

 

 ああ、そうか。今ここまで聞いても女子4人に対して男子1人だ。クラスの紹介という名目をとってはいるが、要するに普段集めたデータを紹介してるだけか。

 

「それから教卓のすぐ前で1人でいるのがクラス委員の桜木。帰宅部で頭は学年トップクラス。赤沢と仲はいいんだが、そこのグループってわけじゃなさそうだな。ほわほわしてそうだが、笑顔に似合わず結構辛辣な言葉を投げかけられたこともある」

「それはお前にデリカシーがないからだ」

 

 お、やっぱり庇った。こりゃ本物だろう。

 

「うっせ。デリカシーだかデカ尻ーだか知らねえけどありゃあ裏に黒い物があるぜ。お前も気をつけろ」

「……桜木さんはそんなじゃないよ」

 

 ポツリと風見君は呟いたが、勅使河原には聞こえなかったようだ。まあその方が彼にとっては幸せだろう。聞かれたらいじられるのは目に見えている。

 

「話を戻すぞ。あとは……ああ、男も紹介しておくか。さっきこいつと席代わったのが王子。あだ名じゃなくて普通に苗字だ。吹奏楽部所属、玉子焼きが好物らしいが、本人に玉子っていうと怒るからやめとけ。それと話してるのが猿田、こっちも吹奏楽部。喋り方がちょっと珍しいが出身に影響してるとか何とか。あまり気にしないでおいてやってくれ」

 

 勅使河原の話を聞きながら弁当を食べ終えてしまった。話してる本人はまだまだ残っているが、こっちが食べ終わったことも自分の弁当が残っていることも気にしていないようである。

 

「あとは……。あ、廊下側の列に1人でいるのが多々良。王子、猿田と一緒で吹奏楽部。無口だけどフルートはめちゃうまらしい。しかも割りと美人。その後ろ、仲良さそうに話してる女子2人が松井と金木。付き合ってんじゃねえかと噂されるほど仲が良い2人だ」

 

 そこまで言ったところで勅使河原は辺りを見渡す。

 

「あとは……こんなもんか。水野だの川掘だのスポーツマンの男を紹介してもつまんねえし、そもそもこのクラス、教室の外で飯食う女子多すぎなんだよ」

「……柿沼さんとか自分の机で食べてるじゃないか」

 

 風見君が僕の肩越しに視線を飛ばす。その視線の先、三つ編みお下げで眼鏡をかけたいかにも、という女子生徒が1人で本を広げながら弁当を食べていた。

 

「パス。俺はタイプじゃない。……でもまあサカキがインドアな女子が好みって可能性もあるから紹介しておくか。図書委員の柿沼、見ての通り本の虫だ。とにかく地味。漫画とかじゃ1番化けるタイプ、なんて言われそうだがあいつはそんな気配もないしなあ」

 

 趣味が読書というのは僕と気が合いそうな気がしないでもないんだけど……。さすがにその見るからに小難しそうな本をご飯食べながら読み進めている姿を見ると気のせいだった、ってことになりそうかな……。

 

「……あ! そうだ! サカキ、ついでに校舎の中案内してやるよ。どうせ昼休みはまだあるんだし、飯食ったら暇だろうしさ。風見、お前も付き合えよ」

 

 僕の拒否権はなしらしい。とはいえ、特にやることもないし言葉に甘えることに何の不満もない。が、しかし……。

 

「……いいけど、お前、弁当全然食べてないだろ」

 

 風見君の指摘に僕も頷く。勅使河原がずっと話してる間、僕と風見君は順調に弁当を食べてたから良かったが、当の本人は話すことに夢中になりすぎたせいでまだ半分以上弁当が残っていた。

 

「あ……。……ちょっと待ってろ、今全部食べ終わってやる!」

 

 言うが早いか勅使河原は弁当を一気に口に掻き込み始めた。

 

「ちょ、勅使河原、そんなに詰め込んだら……」

「ごふぉ!」

 

 言わんこっちゃない……。胸を叩く勅使河原に風見君はペットボトルの水を手渡す。

 

「……ぷはあ、助かった。悪い、風見」

「貸しだぞ」

 

 腐れ縁、って言葉が本当に合う2人だな。やり取りを見ていてちょっと微笑ましい気持ちになりつつ、僕はそう思ったのだった。

 




杉浦・中尾についての部活は捏造です。確か明らかにはなってなかったはずだと思ったので。
でも水着回の見事なスパイクと、それ以上に高すぎる身体能力を見るに、彼女はバレー部でも問題はないはず……。


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#05

 

 

 勅使河原が弁当を食べ終えた後で約束どおり校内案内をしてもらうことになった。当初校舎自体にそこまで古い、という印象はなかったのだが、中を歩いてみると前にいた学校よりは遙かに年季が入っている。

 僕が在籍する3年3組のある棟はC号館というらしく、あとは職員室や実習室のあるA号館、それからB号館と案内してもらった。地方の中学校にしては、という言い方をしては失礼なのかもしれないが、前にいた中学校と同じぐらいの広さがある。が、どこもやはり建物の年季自体はかなり入っていた。

 その年季ということで言うなら、極めつけは0号館と呼ばれる旧校舎だった。

 

「0号館?」

「そ。これだよ」

 

 そう言って勅使河原が最後に案内したのはいかにも古そうな、2階建ての木造の校舎である。

 

「今じゃ美術室と第2図書室が使われてるぐらい。2階は使われてもいない。というか、立ち入り禁止になってる」

「へえ……」

 

 そういうところを見ると、やはり失礼かもしれないが、地方の中学校だなという印象を持つ。

 

「……とまあ校内はこんなもんだ。ま、困ったり迷ったりしたら先生か誰かに聞きゃあいいんだけどな」

 

 身も蓋もない発言は勅使河原だ。それを言ったらこの案内の意味合いが薄れてしまうだろう。

 

「ごめんね、榊原君。こいつこんなだから、なんだか無理矢理連れ出したみたいで」

「気にしてないよ。むしろありがたいぐらい」

 

 やはりこういう時には無理矢理にでも相手に合わせてしまう。悪い癖だ。とはいえ確かに感謝しているのは事実だが。

 

「そうそう。俺は感謝されることはしても迷惑がられることはしてないからな」

「あのな。榊原君はこう言ってくれてるけど、お前のその強引なところは……」

 

 歩きながら2人の口喧嘩が始まる。なるほど、こういうところも腐れ縁か、と思わず笑ってしまった。

 と、そんな具合で渡り廊下を歩いていた時だった。

 

「あ……」

 

 僕は思わず足を止める。まだ口論している2人は僕の様子に気づかないまま歩みを進めてしまっているようだが、今の僕にとってそんなことはもう気にならなかった。いや、正確にはそれ以上の関心事が目に飛び込んできた、というべきだろう。

 0号館の手前にあった中庭の、木陰にあるベンチ。春の麗らかな日差しが僅かに差し込むそこで、その光によって溶けてしまうのではないかというほど希薄そうに見える彼女(・・)の姿を見たからだ。

 

 見ると同時、僕の足は前を歩く2人のことなど完全に忘れ、彼女の方へと進んでいた。

 

「やあ……」

 

 自分でも緊張しているのがわかるぐらい乾いた声色だったが、構わず彼女に声をかける。だが僕の声が聞こえなかったのか反応がない。

 

「ミサキメイさん……だよね?」

 

 そこでようやく彼女は僕の存在に気づいたように顔の向きをゆっくりと変え、僕を見上げた。

 透き通るほどの白い肌に、やはり左目には医療用の眼帯。傍らには昼食だろうか、コンビニの袋がある。

 

「えっと……ここで昼ご飯? そのコンビニの袋……」

 

 しかし彼女は僕の質問に答えることなく、感情を読み取れないような無表情のまましばらく僕を見つめ、やがてゆっくりと口を開いた。

 

「……よかったの?」

 

 この学校で、初めて聞いた彼女の言葉はそれだった。主語も目的語も欠落した、そもそも問いかけの意味さえわからないその一言に、僕は何も返すことが出来ずに「えっ」とこぼしただけだった。

 

 不意に、彼女は傍らの袋を無造作に掴むとそのまま立ち上がった。

 

「……気をつけたほうが、いいよ」

 

 すれ違い様、二言目に彼女はそう呟いた。言葉の意図を図りかねて彼女の姿を目で追う。

 

「もう、始まってるかもしれない……」

 

 気をつけたほうがいい? もう始まってる?

 

 どういう意味かわからず僕は立ち尽くす。横を通り過ぎる彼女に声をかけることも一瞬忘れ、我に返った時にはもうミサキメイの姿は見えなくなってしまっていた。

 

 そう、それこそまるで消えた、いや、最初からそこにすらいなかったかのように……。その時春の風が吹き抜ける。温かいはずのその風が、このときだけは不気味なほど肌寒く感じた。

 

「おーいサカキー! 何やってんだ!?」

 

 僕を現実に引き戻したのはその勅使河原の声だった。

 

「俺と風見が話してる間に勝手にいなくなりやがって……。おまけに次は体育だ、さっさと着替えねえと間に合わなくなるぞ!」

 

 そういえばまだ昼休みだった。そして彼の言葉の通り、次の授業は体育。どうせ見学の僕は着替えもないからそれほど急ぐ必要はないのだが、まあそれは僕1人の都合の話だ。

 

「ごめんごめん」

 

 まだ不機嫌そうな勅使河原に謝罪の言葉を述べつつ、校内へと僕は戻る。が、ふともう1度振り返り、さっきまで彼女が座っていたはずの場所を見つめる。

 

 やはりそこには彼女が座っていた形跡はもうなく、初めから誰も座っていなかったかのように見えただけだった。

 

 

 

 

 

 体育の見学というのは退屈だ。皆が楽しそうに体を動かす中、グラウンドの端でそれを見ているわけだから。

 果たして僕が皆のように体を動かせるのはいつだろうか、と考えをめぐらせた後で、運動するクラスメイトから目を逸らして空を眺める。さっきまで晴れていたはずなのにどんよりと雲が広がってきていた。あいにく今日は傘は持ってきてはいない。とはいえ、今日の帰りは祖母が迎えに来ることになっている。降られたらまあその時か、と深くは考えないことにした。

 

「榊原君も見学なんだ」

 

 と、その時不意にかけられた声にその主の方を振り返る。色白で痩せ型の男子、廊下側一番後ろの席の高林君だ。

 

「胸の病気で入院してたからね。運動はしないようにって言われてるんだ。高林君は……」

 

 言いつつ、休み時間に彼と1度話した時に得た情報を思い出す。そこでまずい、と気づいたが後の祭りだった。

 

「僕は生まれつき心臓が弱いからね。だから、激しい運動はできないんだ」

「そっか……。ごめん……」

 

 やってしまった。こんな風に触れないほうがいい話題に触れてしまうとどうしても自己嫌悪に陥ってしまう。相手の気分を害してしまった、と申し訳なく思ってしまうのだ。

 そもそも彼は今日は遅刻で3限目からの登校だった。その時に聞いた話なのだから印象としては強かったはずなのに、昼休みのことで頭が一杯だったのか、すっかり失念してしまっていたのだった。

 

「あ、気にしないで。僕は全然気にしてないから」

 

 まるで僕の心の中を見透かしたかのように高林君はそう言葉を返してくる。僕は社交辞令と捉えて場を繕うように愛想笑いを作った。

 

「……というか、今じゃこの体にはきっと何か意味がある、そう思うようになったから」

「意味がある……?」

 

 言葉の意図がつかめずにその言葉を反復する。

 

「うん。確かに僕は生まれつき心臓が悪い。でもね、こんな風に他の人と比べてフェアじゃなく僕の体が出来てるのは、神様が僕に与えた試練なんじゃないか、って思うんだ。いつか皆のように思いっきり跳んだり走ったり、そんなことができる日がやって来て、試練を乗り越えたって思ったとき、自分はこんなに強くなったって実感できるんじゃないかって。だとしたら、僕のこの生まれつきの体には意味がある、そう思えるんだ」

 

 なるほど、そんな風な考え方もあるのか。まったく思いつかなかった。

 あまりにも前向きな高林君の言葉を、僕はただ驚いて聞くことしか出来なかった。気胸が再発した時、そんな風には到底考えられなかった。僕から言わせてもらえばたとえ体が弱くても高林君は十分強い、そう思えた。

 

「……いつか、思いっきり走れる日がきっと来るよ」

 

 いや、来てほしい、という願いも込めて僕はそう言った。一瞬驚いた表情を浮かべた高林君だったが、その表情が緩んでいく。

 

「ありがとう。……そうだね。いつか、そうなるといいな……。……なんて言っても、でもやっぱり体は正直なんだよね」

 

 意味ありげな一言に僕は彼の方へと視線を移す。見れば高林君は少し苦しそうな表情を浮かべ、胸の辺りを手で抑えていた。

 

「大丈夫? 保健室に……」

「大丈夫、いつものことだから1人で行けるよ。本当は今日休む予定だったのを無理して出てきたのもあるかもしれないし……。ちょっと保健室で横になってれば落ち着くと思うから」

 

 僕の申し出を断り、高林君が校舎の方へと歩いていく。無理にでも着いていこうか、とも思ったが、もし自分が同じ立場だったら余計な気を遣わせたくないと思うだろう。

 それに……。さっきのように考えられる彼はきっと僕なんかよりずっと強い。僕の助けなど必要ないだろう、と思ったからでもあった。

 

 高林君が校舎へと向かっていく。その背を途中まで見送った後で僕はベンチに腰掛けなおし、物思いに耽ることにした。

 2度目の気胸の時、またかと思うと同時に面倒なこの体を呪うことしかできなかった。でも、これにももしかしたら意味があるのかもしれない……。

 ……いや、ない、と思う。あんな風にポジティブに考えられるのは聖人君子か何かじゃないか。少なくとも僕にあんな考えは出来そうにない。

 

 まあいいか、とため息をこぼして今の僕が本来あるべき姿、すなわち「見学」に戻ることにする。今日は体力テストか何かか、今は男子が持久走、女子が幅跳びをしている。

 男子の方は勅使河原がぶっちぎり、風見君に一周差をつけていた。あんなに運動神経がいいのに……確か帰宅部とかいってた気がする。なんだか勿体無いような……。

 一方の女子の方は綾野さんの番らしく、幅跳びのための助走をつけ始めていた。が、踏み切る直前につまずいたのか、記録と言えそうにない距離を飛んだだけで不恰好に砂場に突っ込んだ。周りの女子から笑い声が起きている。

 その女子の中、「彼女」を探すが……。見当たらない。見学か、あるいは保健室にでもいるのだろうか。

 と、そこで僕はあることに気づいた。女子は全員見た顔――早い話がクラスメイトであり、男子も同じ。つまり1クラスのみで体育を行っているのだ。だが前の学校では2クラス合同で体育が行われていた。その方がサッカーやバレーボールなどの団体競技を行いやすいからだろう。

 

 そんなことを考えていたせいか、僕は近づく足音に気づかなかった。

 

「榊原君も、体育は見学ですか?」

 

 ベンチに腰掛けたまま、呆けたように前を見ていた僕はその声に驚いて、声の方を振り返る。

 掛けてきた声同様のほわっとした雰囲気の顔に特徴的な眼鏡。今朝壇上から緊張気味に転校の挨拶をした時に微笑み返してくれたのと同じ表情で、クラス委員の桜木さんがそこに立っていた。

 

「ああ……うん、まだ病気が完治、ってわけじゃないからね」

 

 そう言いつつ、彼女の全身をチラリと眺める。その右足に痛々しく包帯が巻かれていた。おそらく見学の原因はそれだろう。

 

「そう言う桜木さんは、その足が?」

「あ……そうなんです。昨日転んじゃって……」

 

 困ったような表情を浮かべ、桜木さんは右足の包帯を手で触れた。

 

「隣、座ったら?」

「あ。ありがとう」

 

 そのまま桜木さんがさっきまで高林君が座っていた場所に腰を下ろす。だが特に何を話すというわけでもなく、沈黙が流れた。

 やはりこういう沈黙はあまり好きになれない。何か話題を切り出そうと考えたところで、さっき頭に浮かんだことを思い出した。

 

「そういえば……体育って1クラスだけなんだね」

「3組だけが合同じゃないの。他は1組と2組、4組と5組が合同で……」

「3組だけ?」

 

 なぜだろうか。普通は端のクラスが余るはず。なのになぜわざわざ真ん中の3組だけが……。

 

「おかしな話ですよね」

 

 その言葉の通り、桜木さんは笑いながらそう言った。

 

「毎年違うの。去年は1組と4組、3組と5組が合同で2組だけが単独だったんです」

「なんでそんな風に……」

「担任の先生の『初仕事』の結果だから」

「『初仕事』?」

 

 何かの隠語だろうか。いまひとつ意味がつかめそうにない。

 

「この学校、毎年クラス替えがあって、担任も変わるんです。それでクラス担任が決まった時、各クラスの担任の先生たちが集まって、くじ引きをするんです。それが担任となったクラスでの初仕事。そのくじで体育が合同になるクラスと単独になるクラスが決まる、と」

「へえ……」

 

 はっきり言って、面倒じゃないかという感想しか出てこない。つまり体育の先生は毎年、いや、学年ごとに何組と何組が合同、と覚えなおさないといけないわけだ。不合理ではないかと思う。

 

「一応公平を期すために、奇数のクラス数の時はやるんですよ。やっぱり体育は人数が多い方が楽しいだろうから、ってことで」

 

 確かに「人が多い方が楽しい」というのはさっき僕が思ったことではある。それにくじなら一応公平でもある。

 

「でも、だったら3クラスと2クラスにすればいいんじゃない?」

 

 それでいいじゃないか、と僕は思って口にした。その方が時間割だって組みやすいだろうに。

 

「そういう案もあるんだけど……。でも3クラスだと体育の先生が色々まとめにくいとかなんとか……。それに2クラスだと授業中にクラス対抗で、なんてことも簡単に出来るし面白いからいいんじゃないかな、って私は思うな」

「ふうん……」

 

 少し意外だった。勅使河原情報によると桜木さんは非常に頭がいい、ということだったから、てっきり合理主義者だと勝手な想像をしていた。そこで出てきた「面白そう」という発言は少々予想外だった。

 

「でも単独クラスになっちゃうとそのクラスの体育のモチベーションが下がっちゃうのは事実だと思うけどね。ちなみに……久保寺先生もそのことは気にしてて。担任になって最初のホームルームで自己紹介の挨拶をした後、体育のくじで単独のくじを引いてしまってすまない、っていきなり頭を下げたんですよ」

「久保寺先生が?」

 

 こっちも意外だ。なんだか言っちゃ悪いが頼りなさそうな先生と思ったが、そうでもないらしい。

 

「先生、あんな感じだからよく誤解されるけど、クラス委員で先生と話す機会があって気づいたんです。実は意外と生徒思いな熱い心を持ってる人なんだって。……あとそれなりのユーモアさも」

 

 人は見かけによらない、か。勅使河原曰く「変わり者が多い」という3年3組は、どうやら担任まで入ってるらしい。

 

「だから、困ったことがあったら先生に相談するといいですよ。親身に答えてくれるから」

「何かあったら、そうするよ」

 

 今のところは特に困ってない。クラスの皆は転校生の僕に優しく接してくれてるし、前の学校で大分進んでいたおかげもあって勉強がついていけないというのも大丈夫そうだ。

 

「是非そうしてください。……あ、相談する相手はクラス委員の私でもいいけど」

 

 朝見せてくれたような微笑が再び目に入る。なんだかそれだけで心拍数が上がったような気がして、僕は思わず彼女から目を逸らした。

 目を逸らした先のグラウンドでは相変わらずクラスメイトたちが体を動かしている。そのまま目を空へと向けると先ほどよりもどんよりと雲が広がっていた。

 

「……あれ? そういえば高林君も見学だったと思ったけど……」

「さっき体調が悪いって保健室に。着いていこうと思ったけど1人で大丈夫だって」

「そっか。高林君、体が弱いけどその分心が強いから、そういう時断るんですよね。私もそう言われたことあるから」

 

 ふうん、と相槌を打ちつつ、やっぱり彼の心は十分に強いんだなと改めて実感した。次いで、この話の流れで忘れかけていた、本来いるはずなのにいないある人物のことを思い出した。授業を受けている生徒の中に姿は見えないが、ここに見学に来ているわけでもない彼女のことだ。

 

「あのさ……桜木さん」

「なんでしょう?」

 

 高林君の見学を知っていたクラス委員の彼女なら何か知っているのかも。そう思って切り出した。

 

「この体育の見学者って……」

 

 その時――。

 

 季節違いの春一番だろうか、ビュウと突風が吹き抜けた。

 

「きゃっ……!」

 

 思わず桜木さんが小さく悲鳴を上げ、僕も目を閉じて顔を風から背ける。

 そして背けた顔の先。目を開いた時に入ってきた校舎、その屋上。

 

 1人の少女の姿が目に入った。

 

「あ……」

 

 間違いない。彼女だ。

 

 そう認識すると同時、僕は半ば反射的にベンチから立ち上がっていた。

 

「あの……榊原君?」

 

 桜木さんの僕を呼ぶ声が聞こえる。でもそれに振り返ることなく、僕は校舎へと走り出す。

 

「榊原君!? どこへ……!?」

 

 やがて距離が離れたことと耳に入る風の音で、彼女の声は聞こえなくなった。

 

 

 

 

 

 彼女を目撃した場所へ向かうべく、僕は階段を駆け上がる。治ったばかりの胸が痛むが、気にも留めず1段抜かしで屋上へと向かった。

 最上段を上り終えると同時に扉を開ける。僕の願いが天に通じたのか、彼女はまだそこにいた。先ほど僕が見上げた時同様、屋上のフェンス越しに広がる世界を眼下に見下ろしていた。

 

「ミサキ……さん?」

 

 僕の声に彼女が振り返る。だがその表情に驚きの色は無かった。その顔は昼休みに見たときと同じ、色白な肌と、そして左眼を覆う白い眼帯――。

 

「君も体育見学なの? いいの、こんなところで……」

 

 ふう、と彼女はひとつため息をこぼした。それから一呼吸置いて口を開く。

 

「……いいの。私は。……そういうあなたこそいいの、榊原君?」

 

 今度は僕の質問に答えてくれた、と少し嬉しく思うと同時に、僕の名前も知っているということに気づく。まあ当然か、今朝自己紹介したばかりなのだし。

 

「体育の見学なんてどこにいても同じようなものだから……」

 

 本当は「ちゃんと見学してたけど、君を見かけてここまで駆け上がってきた」というのが正直な答えだろうが、そんな風に答えるつもりにはなれなかった。うまくはぐらかしたような答えを返してしまった。

 

「なら、私もそういうこと」

 

 だが彼女は特に気にした様子もない。いや、僕のそのはぐらかしにさらにうまく乗ってきた。

 

「えっと……ミサキさん……ミサキメイさん、だよね? どんな漢字書くの?」

「見るの見に……犬吠崎の崎。……メイは鳴くって言う字。共鳴の鳴……悲鳴の鳴……」

 

 見崎鳴、か……。でも崎を出すのに犬吠崎ときたか……。もっと違う例えなんていくらでもあっただろうに。

 

「あのさ、見崎さん。夕見ヶ丘にある市立病院のエレベーターで僕と会ったの覚えてる?」

 

 一瞬の沈黙を挟んだ後で、

 

「……さあ」

 

 と、彼女は短く答えた。

 

「人形を持ってたんだけど……。可哀想な自分の半身が待ってる、とかって。お見舞いか何か?」

「……そういえば、そんなこともあったかも」

「自分の半身、ってどういう意味? あと昼休みに言った『よかったの』とか、『気をつけたほうがいい』とか、『始まってるかもしれない』とかっていうのも……」

「そういう質問攻め、嫌い」

 

 初めて嫌悪の色を――いや、感情らしい感情を見せたこと自体が初めて、と言っていいだろう。嫌がった様子の彼女に反射的に「ご、ごめん……」と僕は謝罪の言葉を述べた。

 そして沈黙が流れる。

 

「……何も知らないんだ」

 

 間をどうするか僕が迷っていると、彼女は短くそう言った。

 

「何も知らない、って……?」

 

 また質問攻めは嫌いと言われるかもしれないが、思わずその言葉が僕の口を突いて出る。

 

「……何も知らないのね、私のこと(・・・・)

「君のこと……?」

 

 僕の質問に答えず、彼女は階段の方へと歩き出す。

 

「……私には、あんまり近寄らない方がいいよ」

「どうして……? それってどういう……」

「私に近づくと……。あまりいいことはないかもしれないから」

「いいことがないって……。なんで……」

「言ったよね? 質問攻めは嫌いだって」

 

 そう答え、あくまで僕の質問には答える気がない、と彼女は僕に背を向けて階段の方へと歩を進めた。

 

「……じゃあね。さ・か・き・ば・ら・君」

「待っ……」

 

 追いかけようとしてその足が一瞬止まった。気のせいだろうか。階段を下りようとする時に一瞬見えたその横顔、彼女のそれはなんだか笑っている(・・・・・)ように見えた……。

 

 金縛りにあったかのようにその場に立ち尽くしていた僕だったが、我に帰って階段へと駆け寄る。そこから下を覗き込んだが――。

 まるで煙のように消えてしまったか、はたまた最初からいかなかったとでもいうのか。階段を下りていく人の気配は全く感じることができなかった。

 




体育が1クラスのみである理由の辻褄合わせがどうにもこうにも……。


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#06

 

 

 翌日は朝から雨だった。

 

 1限目の授業は美術であり、美術室は木造の旧校舎である0号館にある。幸いなのは1階ということだろう。上の階なら雨漏りとか平気でしそうな雰囲気である。

 今僕はその美術の授業を終え、教室へと戻るところであった。案の定、というかなんというか、見崎鳴は授業中までは一緒の授業に出ているのを確認したのだが、授業が終わって教室移動が始まった時に姿を探すともう見当たらなくなっていた。

 ここまで消えるようにいなくなる、という状況が続くと、ホラー好き……というほど好きでもないが、水野さんにホラー少年なんて言われてる僕としてはこんな馬鹿げた仮説を立ててみたくなる。

 

 実は、見崎鳴はこのクラスに彷徨い続ける幽霊なのではないか。

 

 考えて、我ながら頭がおかしくなったかな、とも同時に思った。病院で出会った眼帯の美少女はクラスに彷徨う幽霊でした、とは小説ではよくありそうな話だ。雰囲気はまさしく、という具合だし、「自分に近寄るな」というのは自分に関わると呪われるから、と忠告してるなんて捉えることも出来る。

 

 が、これは現実だ。事実は小説よりも奇なり、とはいえ、そんな非科学的な現象(・・)が起こるわけがない。

 

「榊原君は、部活とか入らないの?」

 

 などと僕が黙り込んでくだらないことを考えていると、横から聞こえた声に頭は一気に現実へと引き戻された。声の主はクラスで僕の隣の席に座っている望月優矢君。一見すると女子にも見える顔立ちだが、れっきとした男子である。

 

「うん……考え中、かな」

「美術部とかどう?」

 

 その彼が美術部を薦めてくる理由は、先の授業でなんとなくわかっていた。

 今終わった美術の授業は果物のデッサンであったのだが、望月君が描いている絵を見た学年副担任であると同時に美術担当の三神先生が「何ですかこれは?」と彼に尋ねる出来事があった。その絵を覗き込んで、先生がそう言いたくなる気持ちがなんとなくわかり、僕は思わず苦笑した。

 目の前にあったモデルのレモンはただのレモンのはずなのだが、彼が描いたレモンには表情があり、それも不安に押しつぶされそうな表情をしている。

 

「レモンの叫びです」

 

 平然と彼はそう答えた。確かに有名なムンクの「叫び」に似ているようにも見える。

 

「……まあいいわ。でもそういうのを描くのは美術部での活動でやって頂戴」

 

 その三神先生の言葉で、僕は彼が美術部だと初めて知ったのだ。

 

「はい……。すみません」

「謝る必要なし。これはそのまま仕上げてしまいなさい」

 

 そんなやり取りがあったのだった。その後彼とは「叫び」について少し話したりもした。「叫び」と呼ばれる絵は世界に4点存在するとか、その中でどれが1番好きだとか、なぜ好きか、だとか。

 なんだかんだそれなりに話が合ってしまっていた。だからこその勧誘だろう、とも思う。

 

「うーん……興味がないわけじゃないんだけど……」

「だったら入りなよ。顧問は三神先生だし……」

「つーか、お前の場合はその三神先生が目的なんじゃないのか?」

 

 後ろから聞こえてきた声に僕達は振り返る。割り込んできたのは勅使河原だ。移動してる僕たちを見かけて絡んできたのだろう。

 

「そ、そんなことは……ないんだけど……」

 

 ……そうなのか、美少年。

 望月君が年上好きとは意外だった。またしても勅使河原の言うとおり、「変わり者の多い3年3組」に当てはまっている。

 しかし教師に惚れる生徒というのは……ドラマじゃあるまいし……。いや待て。身近にいい例があったことを思い出してしまった。そういやどこぞの両親(・・)は大学教授と生徒という身分で結婚したんじゃなかったか。そしてその結果ここにいるのが僕ということに……。

 ああもうやめよう。なんだか憂鬱な気分になりそうだ。外で降り続く雨のせいもあるだろう。ここは気分を変えるべく、何か話題を振ることにした。

 

「望月君は1年生の時(・・・・・)から美術部に?」

 

 まず頭に思い浮かんだのはいつ望月君が三神先生に惚れたのか。最初は少し当たり障りがないように、それとなく質問してみる。

 

「うん。元々美術には興味があったし、見学に行ったときに……三神先生……の描いた絵に引き込まれた、っていうか……」

 

 正確にいうと先生に引き込まれた、わけだ。口に出したかったが、それは僕より勅使河原の役割だろう、と黙っておくことにする。

 

「あ、あのさ、榊原君。三神先生ってどう……かな?」

 

 その望月君の問いかけに僕は一瞬考え込んだ。

 

「どう、ねえ……」

 

 転校してきた僕にいきなり振る質問としてはどうなのだろう、とは思う。もっとも、何かしら答えることができないわけではないが……。

 

「どう、って聞かれても……」

 

 僕は、言葉を濁すことにした。

 

「あ、うん……。そうか、そうだよね」

 

 濁した部分の意味を汲んでくれたのだろう、それだけで望月君はわかってくれたようだった。

 

「おい望月、あんまりサカキを勧誘するなよ?」

「……なんで勅使河原君が止めようとするの?」

 

 彼の質問は僕も聞きたいことでもあった。なんで勅使河原が止めようとするのだろう。

 

「こいつは俺と一緒に帰宅部になるんだよ。『帰宅部のエース』と呼ばれる俺の舎弟か右腕になってもらう、ってわけだ」

「……なんだよ、『帰宅部のエース』って。いや、それより僕は舎弟とか右腕とかになる気はまったくないからね」

「ひでえなあ、つれねえぞサカキ」

 

 はいはいと流しつつ、僕は考える。部活か……。今は病み上がりだし、それにもう3年だから、今から部活というのもどうしようかと思ってる。帰宅部でも別にいいけど、言うまでもなく勅使河原の舎弟やら右腕やらになるつもりはない。

 

 一先ず、近々定期テストがある。その後退院後初の定期検診。そこが終わってから考えることにしよう。

 窓の外、朝は小降りだったのにいつの間にか大粒の雨へと変わった様子を眺めつつ、僕はそう思っていた。

 

 

 

 

 

 1限目の美術の後は特に実技科目、というわけでもなく、つまりよく言われる普通の授業だった。実技でないと授業というものは大抵退屈になる。

 定期テストがあることはわかっている。わかっているのだが、やはり1度学習した部分をもう1度授業で聞く、というのはどうしても退屈だ。こんな言い方をしては教えている教師に失礼だとも思うが、授業なんて物はただでさえ退屈なのだから、1度聞いているものとなればそうもなるだろう。

 とはいえ、転校後の登校早々、2日目にして授業中に机に突っ伏すというわけにもいかず、板書を写したり該当する教科書の部分に目を移したり、そうやって形だけは授業を聞いていた。

 

 が、心はそこと別なところにある。

 時折、教科書を見るフリをして窓際、最後尾の席へと目を移していた。

 

 存在自体希薄にも見える彼女は、頬杖をつきながら授業中だというのにぼうっと外を眺めていた。天気も悪いし、雨しか見えないだろうに、何が面白いのか、彼女はほとんどずっと窓の外を眺めていた。

 そして休み時間になると案の定どこかへ行くのかいなくなってしまう。話そうにも話せない。いや、「近寄るな」と言われた以上、話しかけていいのかもわからない。嫌がることをやって嫌われるのは気分がいいものではないし。

 

 いやいや、そもそも僕が何をしたというのだろうか。嫌われるようなことをした記憶はないし、僕の質問にもほとんど答えてもらってない。そして彼女が言った意味深とも言える発言の数々……。

 気になる。気になるのなら、彼女に直接話しかけて究明すればいい。昼休みの前、4限目の授業中に僕の心はそう決まった。昼食を持って彼女を追いかける、それで一緒に食べながら話す。昼休みぐらいの時間があれば僕の疑問は多少は解決するだろうし、何より「彼女は幽霊かもしれない」なんて馬鹿げた妄想は消え去るだろう。

 

 4限目終了の鐘がなる。彼女が席を立つと同時に昼食を持って席を立とうと窓際に警戒しつつ机の上を片付ける。

 昨日同様のコンビニの袋を手に彼女が立った。今だ、と僕の弁当の袋を手に立ち上がろうとした。

 

 その時だった。

 

「榊原君?」

 

 昨日のように勅使河原が来たら適当に追い返して彼女を追いかようという心はあった。が、今かけられた声は昨日から通して初めて聞いた女子の声。

 男の(さが)か、女子の声には反応してしまうなんと悲しき習性だろう。上げかけた腰を下ろし、僕はその声の主へと目を移した。

 やや茶がかった髪を横に2つ分けて垂らし、キリッとした目元は強気な印象を受ける。昨日から通して初めて見る顔だった。一見して「少しきつそうな女子」という印象を持った。

 

「えっと……」

「急に声をかけてごめんなさい。私は赤沢泉美。昨日風邪で休んでいたから会うのは……一応初めてということになるわ、よろしくね」

「あ、よろしく……」

 

 ペースを完全に握られ、流れのままに僕は挨拶を返す。だが今の挨拶、なんだか歯に物が詰まったような言い方に感じたのも事実だった。

 赤沢泉美。確か昨日の勅使河原の情報だとクラスのリーダー格、とかだったか。なるほど、確かにそんな感じを受ける。付け加えるなら、その勅使河原が狙ってる相手というわけか。

 

「それで……僕に何か?」

「東京からの転校生、って聞いたから。一緒にお昼を食べながら話を聞きたいな、って思って。よかったかしら?」

 

 答える前にチラッと窓際へと目を移す。案の定、もう彼女の姿はそこにはなかった。ため息をこぼしたい気持ちをグッと抑える。

 

「どうしたの? 何か予定でも……」

「あ、ううん。なんでもないよ」

 

 こうなってしまっては仕方ない。もうどこに行ってしまったかわからないし、わざわざ僕のところに来てくれた女子の誘いを無下にするというのも申し訳ない。今日のところは本命の彼女の方は諦めることにした。

 

「東京の話、って言っても面白い話ができるかわからないけど……」

「大丈夫よ。私が興味あるのは榊原君……いえ、恒一君って呼ばせてもらうわね。……興味があるのはあなたのことだから」

「えっ……?」

 

 どういう意味だろう。初対面で名前で呼ぶだけじゃなく、僕に興味がある、って……。

 

「……ここ、いい?」

 

 気づくと赤沢さんの周りには数人が集まっていた。僕の周りの席の人は皆別な場所で食べているのか、それとも赤沢さんたちが来たから場所を空けたのかわからないが、丁度空いていた。今の声の主は斜め前の席から椅子を持ってきて僕の机にくっつけながらそう尋ねてきた。テンションが低そうな表情に眼鏡とパーカーが特徴的な彼女の名前は確か……。

 

「あ、ちょっと賑やかになるけど私の友人も紹介するわね。この子は杉浦多佳子。部活は違うんだけど、1年の時からクラスが一緒でね」

 

 そうだ、杉浦さん。勅使河原がバレー部のエースとか言ってた気がするが……本当かな? 眼鏡……まあ危ないとは思うけどバレーで眼鏡を掛けてる人はいるかもしれないし、部活の時はコンタクトとかかもしれない。でもそれより何よりスポーツやってると思えないほどテンション低いんだけど……。

 続けて赤沢さんは女子2人と男子1人を紹介してきた。

 

「あとこっちが綾野彩と小椋由美。2人とも私と同じ演劇部。それからこの背の高いのが中尾順太。バレー部よ」

 

 勅使河原情報はどれも当たっていた。その情報能力だけは素直に評価しようと思う。

 

「改めてよろしく、こういっちゃん」

 

 既に昨日1度顔を合わせていた綾野さんは気軽に声をかけてきた。僕の呼び方も「こういっちゃん」に決まったらしい。

 一方で小椋さんは「よろしく」と一言だけ口にしただけで、杉浦さんに至っては特に何も無しで早くも弁当をつついている。中尾君も同様だ。

 なるほど勅使河原、お前の言うとおり、ここは変わり者が多いよ、と思わず心の中で呟く。そのせいで表情が一瞬緩んだ。

 

「どうかした?」

 

 その僕の様子に目ざとく気づいたのは赤沢さんだった。鋭いというか、隙がないというか。

 

「ううん。ただ、昨日ある人から聞いた話を思い出し笑いしただけ」

「ある人から聞いた話……?」

 

 嘘は言っていない。と、言うか、なんとなくだがこの人に嘘は通じないように感じた、というのが正解だろう。

 

「お、今日はモテモテじゃねえかサカキ」

 

 と、そこで声をかけてきたのはその「ある人」の本人に他ならない勅使河原だ。その声を聞くなり、赤沢さんは彼の方へ視線を移す。

 

「勅使河原」

「な、なんだよ赤沢……。そんな怖い顔して……」

「あなた、恒一君にろくでもないこと吹き込んだでしょ?」

「な……! おいサカキ、お前こいつに余計なこと言ったのか!?」

 

 あれで気づけるのか。僕は感心の意味を込めてため息をこぼす。

 

「言ってないよ。『ある人から聞いた話を思い出し笑いした』っては言ったけど」

「それでなんで俺だってわかるんだよ!?」

「……なんとなくよ。カマをかけてみただけ。……でもやっぱりお前か」

 

 そう言うと赤沢さんは機嫌悪そうに、勅使河原を睨むように見つめた。

 

「お、俺は別に何も言ってねえよ。ただこのクラスの人間の情報をこいつにだな……」

「どうせ私のことは『裏で仕切ってる女番長』みたいに言って、『このクラスは変わり者の集まりだ』とか言ったんでしょ」

 

 思わず吹き出してしまった。予想通りいい勘をしている。

 

「おいサカキ! 笑うな! バレるだろ!」

「……やっぱりね。本当にしょうもない男」

 

 気のある彼女にばっさりと切り捨てられた勅使河原は少しかわいそうにも思えるが、多分彼はこのぐらいではめげないだろう。おそらく今までだってこのぐらいの扱いはされてるだろうと思ったからだ。

 

「ぐ……。お、おい中尾、黙々と弁当食ってないでちょっとは俺のことフォローしろよ!」

「知るか。自業自得だろ」

 

 求めた先の助け舟の中尾君にも見放され、勅使河原はがっくりと肩を落とした。

 

「……サカキ、昨日のこいつの評価は撤回だ」

「何の話だ?」

「なんでもねえよ!」

 

 中尾君の質問に答えず、勅使河原は口を尖らせて離れていった。どうやら今日は一緒に昼食を摂ることはなくなりそうだ。

 

「恒一君、あいつに何を言われたか知らないけど、あまり真に受けないでね」

「ああ……。うん」

 

 社交辞令的に僕は返事を返す。彼女としてはそれだけで満足だったようで、1つ頷くと、次に少し真面目な顔になって僕を覗き込んだ。

 

「……それで、さっきの話の続き。あなたに興味がある、って言ったけど……。恒一君、あなた、私とどこかで会ってない?」

 

 藪から棒におかしなことを聞くな、と僕は思った。同時にさっきの意味ありげだった挨拶はこういうことか、とも思っていた。確かに僕は夜見山に何度か来たことはある。あるが、地元の人と話したことなんてほとんどないし、ましてや自分と年の近い女子となればなおさらだ。はっきり言って話したとしても一言二言、いちいち覚えていないというのが正直なところだ。

 

「えっと……記憶にはないんだけど」

「本当に? この町に来たことはあるのよね?」

「母の実家がここだから何度かはあるけど……。ごめん、思い出せないよ」

 

 そう答えても赤沢さんは僕の顔をしばらくまじまじと見つめる。その後でため息とともに視線を机の上の弁当へと落とした。

 

「……そうか。ごめんなさい、私の記憶違いかも」

 

 そう言って弁当へと箸を運ぶ。

 

「……残念だったわね、泉美」

 

 が、杉浦さんのその一言に彼女は思わずむせた。

 

「な、何がよ!」

「導入としてはいい切り出しだけど、さすがにちょっとベタすぎ」

「ち、違うわよ! 私は本当に以前恒一君に似た人に会ったような気がしたから……」

「ムキになるところが余計に怪しいわよね」

 

 今度は小椋さんだ。

 

「ちょっと! 小椋まで!」

「モテる男は辛いね、こういっちゃん」

「綾野!」

 

 4人のやり取りを僕はただ苦笑を浮かべつつ見ることしかできなかった。最初は「きつそうな人」という印象だった赤沢さんだったが、こうやって顔を赤くして反論してる姿を見ると意外とそんなことはないんじゃないか、っても思える。

 ただ……。

 

「……フン」

 

 中尾君には僕の印象は悪く映ってしまったようだ。彼は赤沢さんに気がある、という勅使河原情報だから……僕と彼女が仲良く話しているのは不服なのだろう。

 やはり人付き合いは難しい。が、それでもこの短期間で僕と話してくれるクラスメイトがこれだけ出来た、というのは正直に嬉しかった。

 4人のやり取りを聞きつつ、僕の弁当の中身と共に昼休みの時間は過ぎていった。

 




前提設定から考えれば、美術部が活動を休止する必要はなかったはずだ!

なお、原作からカットしてる部分、イベント発生時期をずらしてる部分等あります。本来美術の帰りに第2図書室に寄るはずですが、原作ではチャイムが鳴っても鳴がそこに残ってるわけです。しかしこれでそれをやると彼女は授業をサボることになってしまうし、かといって一緒に教室まで移動となると一緒に話す時間が早く着すぎてしまうということで丸々カット。
合わせて千曳さんの登場も後ろにずれる形になります。だから、そうはならなかったんだよ(CV千曳さんの中の人


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#07

 

 

 朝から降り続いていた大粒の雨だったが、午後に入ってようやくその雨足が弱まった。とはいえ、未だ傘をささないと濡れるレベルではある。

 授業が終わった時、携帯電話に祖母から着信があった。「雨が降ってるから迎えに行くよ」という内容だった。確かに病み上がりではあったが、今日は体調がいいし傘も持ってきている。何より、送り迎えをしてもらうところを他の生徒に見られるのはあまり気分がいいものではなかったし、それ以上に祖母に気を遣わせてしまっているようで申し訳なく思ったから、という考えから、僕はその申し出を断り、歩いて帰ることを伝えた。

 廊下での通話を終えてため息をこぼしつつ教室へ戻る。既に多くの人が下校するか部活動へと足を運んでいるようで、残っている人は少ない。定期試験が近づいてきたためにもう間もなく部活動が禁止になるらしく、そのために皆早々と教室を出た、というのもあるかもしれないなとも思う。

 

 なお、言うまでもなく見崎鳴の姿はすぐに消えていた。授業終了後、かばんに荷物を詰めて窓際に目を移したときには、もう席は机と椅子だけになっていた。

 

 やることが特にあるわけでもないし、このまま雨が止む気配もない。なら雨足の弱まっている今のうちに帰るが吉だろう。

 そう判断し、僕はまとめた荷物を手にして教室の入り口に向かおうとする。

 

「あの……榊原君」

 

 その時背後から聞こえてきた声に僕は思わず振り返る。そこに立っていたのは眼鏡が特徴的なクラス委員の桜木さんだった。

 

「帰り……1人ですか?」

「あ……。うん。おばあちゃんが迎えに来るって言ったけど断ったから」

「じゃあ、もしよかったら、一緒に帰りませんか?」

 

 予想だにしなかった彼女の提案に僕は思わずたじろぐ。

 

「お家、古池町の方でしたよね? 私は飛井町だから、榊原君の家と帰る方向が途中まで一緒なんです。もし榊原君がよければ、ですけど……」

 

 どういうつもりだろうか。まあ彼女はクラス委員だ、僕が転校してきたばかりだから、というだけかもあるかもしれない。

 しかし下校を共にする男女、となれば下手をすれば噂になりかねない光景だろう。しかも「転校生がいきなり女子と一緒に帰ってた」なんてのは、どこぞの噂好きな人(・・・・・)からすればとうも格好の話題のように思える。

 そうでなくてもそんな噂が流れてしまったら確実にクラスで1人いい顔をしない人を知っている。ここから痴情のもつれに発展して嫉妬に狂った()がナイフを持って僕を追い掛け回す、などという昼ドラめいた展開はないとは思うが、それでもいらぬ誤解を招きたくはない。転校早々波風を立てる、なんてのは平穏を愛する者には似つかわしくない行為なのだ。

 

「ありがとう。でもこの後三神先生に呼ばれていて帰るのは少し遅くなりそうだから……気持ちだけ受け取っておくよ」

 

 咄嗟に出まかせの嘘を言う。嘘をつくのは得意ではないが、桜木さんは何かを察したか、別に怪しんだ様子はないようだった。

 

「そうなんですか、残念。……フラれちゃいましたね」

「あ……そんなつもりは……」

 

 クスッと小さく彼女が笑った。

 

「わかってます、冗談ですよ。気にしないでくださいね」

 

 どこまでが本気だったのだろうか。見るからに真面目な彼女の意外な一面を見た気がした。

 

「じゃあ私はお先に失礼します。さようなら、榊原君」

「さようなら」

 

 桜木さんが教室を後にする。その背を見送りつつ、「裏に黒い物がある」と言った勅使河原情報をふと思い出した。

 あながち間違ってはいないのだろうか……。冗談を言ってくる辺り、ただの真面目なクラス委員というだけではないのかなとも思う。

 ああ、もしかしたら風見君は彼女のその辺りに惹かれたのかな、などと余計なことを考えつつ、やや時間差を置いた後、荷物を手に今度こそ教室の入り口へと向かった。

 

 

 

 

 

 雨が降る中を歩くとなれば傘をさす、まあ今の日本人なら至極当たり前のことだろう。殊に今日は朝から雨が降っていたのだ、傘を忘れる、ということはまず考えられない。

 しかし僕のやや前を歩く彼女(・・)は傘をさそうともせず、いや、そもそも傘を持っておらず、この雨の中を1人歩いていた。無論レインコートのようなものを着てもいない。

 

 事の発端は少し時間をさかのぼる。

 

 桜木さんが教室を出た後で僕も帰ろうとしたのだが、「三神先生に呼ばれている」などという嘘をついた手前、少し教室を出る時間を空けたとはいえそのまま真っ直ぐ昇降口へ、というのは気が引けた。ここはしばらくタイムラグを持って帰るのがいいだろうと適当に校舎をうろつき、時間をずらして帰ろうとしたところで――。

 

 雨の中、傘もささずに正門へと向かう彼女――見崎鳴の姿を見つけたのだった。

 

 最初は見間違いだと思った。まず、誰よりも早く教室を後にしたはずの彼女がなぜ今いるのかという疑問が浮かび、次にこの雨の中傘もささないということに対しての疑問が浮かんだ。

 先に述べたとおり今朝から雨だったのだ、傘を忘れる、ということはまずありえない。なら考えられるのは傘を使わずにいい状況、例えば車での送迎があったという場合。あるいは、意図的に傘を持ってきていない場合、そのどちらかだろう。

 が、僕の頭にありえないはずの第3の考えが浮かんだ。

 

 彼女に傘は必要ない(・・・・)のではないか。

 

 人間なら当然のごとく傘はさす。だが以前に立てた仮説――3年3組に彷徨い続ける幽霊、だとしたら。それなら傘など必要ない。雨に濡れようが――いや、そもそも濡れるのかもわからないが、何も困ることはない。着替える必要もなければ風邪を引くなんてこともないだろうから。

 そんな馬鹿げた考えが頭をよぎったせいで「彼女に駆け寄って自分の傘に入れる」という発想はすぐさま消え去ることとなった。そうでなくても彼女は僕にこう言ったのだ。「あんまり近寄らない方がいい」と。それを思うと声をかけよう、という気にもどうもなれずにいた。

 だがせっかく彼女を見かけたのに何の行動も起こさず帰る、などというのもどうにも勿体無いというか、せっかくのチャンスを棒に振るようでできずにいた。

 

 結果、僕が取った行動は声をかけるでもなく諦めるでもなく――つまり尾行、という非常に中途半端でよろしくないものとなってしまったのだった。

 普通に考えれば迷惑な行為だろうと思う。だが、だから声をかける、という結論には至れなかった。雨の中を歩く彼女はよく言えば神秘的、悪く言えば不気味であり、とても声をかけられそうにない。

 

 そもそも、クラスの人達にも結局ここまで聞けずじまいであることでもあった。確かに人付き合いがあまり得意でない僕はまずその場の対応をすることで頭が一杯になってしまい、そのせいで他の事、つまり見崎のことについて聞きそびれた、という面もある。実際今日の昼休み、赤沢さんが来た時はそうだった。

 とはいえ、毎度毎度そういうわけでもない。昨日の昼休みに見崎を中庭で見かけ、その後体育の時間に話してから、誰かに聞こうと思えばそれは出来ないわけではなかった。勅使河原辺りに話を振ればおそらく1分とかからずに解決するような問題だろう。

 だが、僕はそれをしたくなかった。「気になる」と思いながら、本心、あるいは心のどこかで今の奇怪とも思えるような状況を楽しんでいるのかもしれない。水野さんに話せば「さすがホラー少年」などとからかわれることだろう。そうなったら否定は出来ない。

 ともかくこのことについては「本人の口から直接聞いてみたい」という強い思いに捕らわれたから、クラスの誰にも尋ねず、こうして尾行をしているのだった。

 

 そうは思ったものの、既に家の方向から離れて久しい。このままだと病院のある夕見ヶ丘の方まで行ってしまう。家から完全に離れている。どこまでこんなことをするのか、自分でも悩みながら彼女の背を追いかけ続けた。

 だがその追跡は突然終わりを迎えることになる。

 

 角を曲がった彼女の姿を確認して僕もその角を曲がったのだが、そのときにはもう彼女の姿はなくなっていた。慌てて辺りを見渡すがどこにもその姿はない。

 消えたのではないか、やはり幽霊なのだろうか。また非科学的な空想をめぐらせたところで体がぶるりと震える。悪寒だろうか、それともただ雨に濡れたからか。

 ともかく、姿が見えなくなってしまったのでは仕方ない、帰ることにしようと来た道を引き返そうとしたところで、僕の目に物珍しい看板が入ってきた。

 

 ――夜見のたそがれの、うつろなる蒼き瞳の。

 

 確かに看板にそう書いてある。何かのお店だろうか。だが店の名前にしてはなんだか奇妙にも見える。

 もっとよく見るとこうも書いてあった。「どうぞお立ち寄りください。――工房m」。

 一体どういうところなのだろう。その店と思しきところにある、暗めで中がよく見えないショーウィンドウを覗き込み――。

 

「うわっ!?」

 

 予想もしていなかった陳列物に思わず驚いて僕は数歩後ずさった。心を落ち着けてもう1度その中を見てみる。

 

「人形……?」

 

 そう、そこに陳列されていたのは人形だった。

 それも女の子向け、というようなファンシーな人形ではない。どちらかといえばドール、という言葉の方がふさわしいだろう。美しく精巧な、しかしそれでいてどこか物悲しい表情の、少女の姿をした球体関節人形がそこに飾られていた。

 しばらくの間その人形に目を奪われていたが、先ほどの「どうぞお立ち寄りください」という文字を思い出す。そこでじゃあここはそういう人形を置いているお店かもしれない、という考えに思い当たった。少なくともわざわざそう書いてあるのだから、入ってもいいということになるはずだ。

 

 未だ降り続ける雨を避けるように軒先に体を寄せて傘の水滴を振り落とす。ドアを開けるのを一瞬躊躇ったが、好奇心が勝り、結局そのドアをゆっくりと開けた。

 

 

 

 

 

 中は薄暗く、意図的に照明を落としているように思えた。加えて肌寒い空気が満ちていた。雨、加えてまだ5月の頭だと言うのに冷房がついているようにも感じる。

 

「いらっしゃい」

 

 その時聞こえた声に、僕は驚いて声のほうへと顔を向ける。元々暗い室内のさらに暗がりの一角。そこにひっそりと、それこそ人形か、あるいは置物か何かのように老婆が座っていた。どうやら店番らしい。

 

「あ……あの、こんにちは……」

「おや、若い男の子とは珍しいねえ。お客さんかい? それとも……」

「えっと……。たまたまここの前を通りかかって、それで気になったので……。ここ、人形屋さんか何かですか?」

 

 僕の質問に老婆の口元が一瞬緩んだ気がした。

 

「人形屋……。そうだねえ、半分はそんなところ、もう半分は展示館ってところかねえ」

 

 老婆が腰掛けているところはカウンターのようになっており、そこに「入館料500円」と書かれたボードがあった。なるほど、展示館とはそういう意味かと思いつつ財布を取り出す。

 

「中学生かい? なら半額でいいよ。よかったらお茶でも出そうかい?」

「ありがとうございます。でもお茶は結構です」

 

 半額にしてもらったことに対してお礼を述べてお金を支払った。だがここで落ち着いてお茶を飲もうという気分にはなれそうにない。後半の申し出は断ることにした。

 

「ゆっくりして見ていきなさいな。他にお客さんもいないしねえ……」

 

 老婆の声を聞き流しつつ、僕は店内、いや館内のほうがいいか。ともかく奥へと足を進める。

 

 展示してある球体関節人形はショーウィンドウに飾られていたもの同様、どれも美しく精巧で、しかしどこか物悲しいものばかりだった。

 その美しさは見事だった。さながら人のようにも見えるそれらはまるで今にも動き出しそうな、身体という入れ物だけを残して魂だけを奪われたような……。しかしそんな彼ら(・・)、あるいは彼女ら(・・・)の姿は美麗による感嘆という思いを僕に与えると同時に、どこか心を不安にさせてもいた。

 まさに精巧な魂の抜け殻。今にこの人形達は自分にとって足りないパーツ――すなわち魂を求めて動き出し、僕に襲い掛かり、魂を奪い去っていくのではないか。ああ、我ながらホラー小説なんて読んでいたせいでそんな発想にいきついてしまうか、とも呆れつつそう思う。

 それでも食い入るように僕は人形を1つずつ眺めていく。立っている者、座っている者、互いに寄りかかりあっている者……。様々な人形があったが、そこで僕はなぜ不安に思ったかに気づく。確かに精巧すぎるが故に、という面もあった。だがそれ以上の原因として思い当たったのが、そのどれもが共通して笑っていない(・・・・・・)のだ。表情は暗く沈み、ある者は悲しみを、ある者は嘆きを、そしてある者は絶望を……。彼らの表情にまるで僕の心まで押しつぶされそうな錯覚を覚え、思わず生唾を飲み込む。

 

 奥の方まで来たところで張り紙を見つけた。「こちらにもどうぞ」と書いてある。見れば地下への階段のようであった。

 降りてもいいものかと入り口付近の老婆の様子を窺う。が、ここからではよく見えない。しかし張り紙があるのだから別にいいだろうと、僕はその階段を降りることにした。

 

 地下は、上の階以上に冷気が篭ったような、更に肌寒い空気が満ちていた。置いてあったのはやはり上の階同様の人形達である。

 しかし上の階の人形達と違うのは――こちらはより僕を不安にさせる、ということだった。

 要するにさっき抱いた「身体という入れ物だけを残して魂だけを奪われた」という感想をよりそのまま濃くしたような、言ってしまえば僕たちが普段触れることの出来ない「死の世界」から、入れ物の身体だけをこちらの「生の世界」へと返されたような、そんな人形達。

 再び喉を鳴らし、生唾を飲み込む。このままここにいたのでは僕までそちらの世界に連れられていってしまうのではないか、などという幻覚を抱きそうだ。でも同時にこの人形達が醸し出す悲愴的で破滅的な美しさにも惹かれ、戻るに戻れなくなってしまっていた。

 

 そういえば今日、望月君とムンクの叫びについての話をしたと思い出す。彼は「不安を抉り出してくれるような絵だから好きだ」ということを言っていた。なるほど、今ならそれが少しはわかる気がする。「美」とは「陽」、すなわち明るく華々しいものの中だけに存在するものではなく、「陰」、すなわちその逆で暗く陰鬱としたものの中にも存在するのではないか。いや、「陰」の中に存在するからこそより美しくその「美」が際立つのではないか。白鳥の鳴き声は死の際が最も美しいと聞いたことがある。光の下での蝋燭はただの火であっても、暗闇の中であれば眩い焔とも見える。それもそういうことなのだろうか。

 

 そんな考えが頭を巡る中、物言わぬ人形達に魅入られたように、僕は地下を歩いた。そしてその最奥、棺に入った人形を目にした時、思わず目を見開き、足が止まった。

 

「なんで……」

 

 無意識に言葉が口をついて出る。「なんで」、おそらくその続きの言葉は「似てるのか」といったところか。多分そう思ったから、その言葉を口走ったのだろう。

 

 棺に入った少女の姿をした人形はある少女――そう、他ならぬ見崎鳴に似ていたのだ。

 

 身長、髪型、雰囲気……。その彼女に似た人形を前にして、先ほど抱いた入れ物や魂といった感覚を思い出す。ではもしや見崎鳴という「入れ物」はこの人形であり、その「心」だけが一人歩きして今の彼女という存在を生み出しているのではないか――。

 馬鹿げている。有り得るはずがない。考えをかき消すように頭を横に振る。

 

 ――その時だった。

 

「……似てる、って思った?」

 

 人形(・・)から聞こえてきた声に耳を疑った。いや、落ち着け、人形が話すはずはない。言い聞かせるように心で呟くが、しかし心の臓は早鐘を打つのをやめようとはしない。

 と、その人形の棺の後ろ(・・)から現れる影があった。今の声は彼女のものとわかっていた。だったらこの棺の裏から、僕に声をかけてきたのだ。そう頭ではわかったが、それでも――。

 

「見崎……鳴……」

 

 心のどこかにあった信じられないという気持ちと共に、僕は彼女の名を呼んだ。先ほどまで雨の中を傘もささずに歩いていた、制服姿のままの彼女。しかし、その髪は濡れている様子はなく、制服も同様だった。まるで雨の中を歩いてなどいない、と言わんばかりのその様子……。

 

「似てる……よね」

 

 と、自分の分身にも見えるその人形を、愛おしそうに撫でながら彼女はそう呟いた。

 

「でもね、これは私であって私でない……。強いて言うなら、私の半分……。ううん、それ以下かも」

 

 半分――。ではもしかしたら本当にこの人形は彼女の……。

 

「なぜ、あなたがここにいるの?」

 

 僕がその疑問を口にするより早く、彼女が僕に問いかける。

 

「え、えっと……。たまたま、この辺を通りかかって、それでここを見つけたから……」

 

 まさか「君の後をつけてきた」と言うわけにもいかない。苦しい言い訳だが、僕はそう言ってごまかすことにした。

 

「い、いや、それよりどうして君こそここに?」

「……たまに降りてくる(・・・・・)のは、嫌いじゃないから」

 

 降りてくる――。その一言に背筋がゾワリと粟立った。それでは、まるで――。

 

「榊原君は、嫌いじゃないの? こういうところ」

 

 続けて僕は質問のタイミングを失う。こうなってしまうと相手に合わせてしまうのが僕の悪い癖であり、受け答えでいっぱいになってしまうというのがいつものパターンだった。

 

「あ……。う、うん。なんだか、ちょっと不安に感じるところもあるけど、綺麗っていうか、なんていうか……」

「ふうん……。こういうの、嫌いじゃないんだ。榊原君……」

 

 そう言いつつ、彼女は人形の顔を撫でるように、髪を掻き揚げた。それまで隠れていた髪の下、碧の眼が見える。彼女と――見崎と違い、その人形は眼帯などはなく、碧の両眼が虚空を見つめていた。

 その人形から見崎へと目を移す。僕の視線に、いや、僕が何を見ていたのかに気づいたのだろうか、彼女は自身の左目を覆う眼帯に触れた。

 

「気になる? 私のこの眼帯の下……」

 

 心を見透かされたかのようなその言葉に、思わず返事を返すことを忘れ、その無機質な白い医療用の布を見つめる。

 

「見せてあげようか?」

「えっ……?」

「……見せてあげようか?」

 

 2度繰り返された言葉は、2度目は少し声のトーンが低くなり、彼女の口元が僅かに緩んでいた。思わず喉を鳴らす。

 見たい。だが、それは越えてはいけない一歩のように感じ、一瞬返答に戸惑う。が、それでも僕はゆっくりと頷いていた。

 見崎が左手の人差し指と中指の間に眼帯の紐部分を挟み、耳にかかるそれをゆっくりとそれを外していく。そして、見えた瞳は――。

 

 ――夜見のたそがれの、うつろなる蒼き瞳の。

 

 そう、ここの入り口にあった看板に書いてあった、まさにうつろなる蒼き瞳、であった。いや、厳密には蒼というよりは碧――つまり棺の中の人形と同じ色をしていた。

 吸い込まれるような、美しい碧。その瞳に僕の心の中全てが見透かされそうに感じつつ、美しさのあまり僕はしばらくその瞳に釘付けになっていた。

 

「それ……義眼……?」

「そう。私の左目は『人形の目』なの。見えなくてもいいものが見えてしまう、だから普段はこうやって隠してる」

 

 見えなくても、いいもの……。一体どういうことだろうか……。

 もう何が何だかわからなくなり、思わず僕は右手で頭を抱えた。

 

「……ここはあんまりよくないかも。なんだか、『向こう側』へ引きずり込まれそうな感覚がするかもしれないから」

「ああ……」

 

 思わず相槌を打っていた。一度僕が思ったこと、そしてそれを裏付けるかのような彼女の言葉――。頭が混乱している。とにかく少し落ち着きたかった。

 

「上に行きましょ。そこの方が、ここよりは少しはマシだから」

 

 左目に眼帯を戻した見崎が先導して階段を上っていく。それに続いて僕も地下を後にした。

 1階に戻ると、ソファーがある場所まで僕を案内してくれた。そして彼女が座ったのを見て僕も腰を下ろす。

 

「落ち着いた?」

「……少しは」

 

 大きく深呼吸し、心を落ち着けなおす。その後で、何から質問するべきか思案する。だが聞きたいことが多すぎて何を聞くべきか、と悩む僕の気持ちなどお構いなしに、彼女はゆっくり口を開いた。

 

「ここにある人形……これはね、霧果が作ったものなの」

「霧果?」

「ここの2階が工房になってて、そこで人形を作ってる人ね」

 

 工房……。そうか、入り口に書いてあった「工房m」の主、それが霧果という人なわけか。

 

「地下の人形もその人が?」

「多分、ね」

「じゃあ1番奥にあった人形。なんであれは君にあんなに……似てるわけ?」

 

 一瞬の間を置き、

 

「……さあ?」

 

 短く、彼女はそう答えを返す。とぼけているのだろうか。だがそれを確かめる術はない。

 

「他に聞きたいこと、あるんじゃないの?」

 

 要するに質問を変えろ、という意味だろう。確かに人形の件は気になるが、それ以上に気になることがある。いや、人形の件も突き詰めればそこに行きつくわけだ。

 

「……体育の時間、屋上で話したことを覚えてる? 『あんまり近寄らない方がいい』って。あれ……どういう意味?」

 

 本音を言うと「君は幽霊とかでなく、本当に人間なの?」と聞きたかったが、甚だおかしい質問だろう。だからあの時言われたことで気になっていることを聞くことにしたのだ。

 

「……相変わらず榊原君は何も知らないまま、か」

 

 が、彼女の答えは僕が期待したような明確なものではなかった。

 

「それってどういう……」

「……ねえ、ある昔話をしてあげようか」

 

 質問をかき消し、何が嬉しいのか、彼女は口元を僅かに緩めつつそう話し始める。昔話なんかより質問に答えてほしかった。が、もしかしたらその昔話が答えになのかもしれない。何より、微笑を浮かべた彼女に、僕は完全に魅入ってしまっていた。聞こうとした質問をやめ、僕は彼女の話を聞くことにする。

 

「昔ね、夜見北にある生徒がいたの。その生徒は勉強も運動も出来て、その上性格もよくて、クラスの人気者だったの。ところが、3年になって、クラス替えで3年3組(・・・・)になった後、急に事故で死んでしまった……。クラスの皆は凄く悲しんだの。『嘘だ』『信じられない』って。

 その時、誰かがその子の机を指差してこう言ったの。『あいつは死んでなんかいない。ほら、今もあそこに座ってるじゃないか』って。……皆、人気者の死を信じられなかったのね。だから、そうやってその子がまだいるフリをし続けた……。学校側も協力して、卒業までそのフリは続き、卒業式にはその子のための椅子も用意されたらしいの」

 

 なんだろう、特に何かおかしい話じゃない。むしろ美談の類にも思える。一体見崎は何を言いたいんだろうか……。

 

「ところがね、卒業式が終わった後の集合写真で、おかしなことが起こったの。その集合写真の端に、いないはずのその子が確かに写っていた……」

 

 ゾクリ、と思わず何かが背中を走った。それまで伏せ気味だった視線を上げ、はっきりと僕を見つめつつ、彼女は続ける。

 

「それでね、その生徒……」

 

 思わず生唾を飲み込む。まさか……。

 

「……『ミサキ』っていうの」

 

 再び、僕の背中を何か冷たいものが駆け下りる。もしかしたら、と思いつつも、そんなはずはないと心では必死に叫んでいる。そんな非科学的、非現実的なことが起こるはずがない。

 

 では……目の前にいる「見崎」は何者なのだろうか。

 

「……それ……本当の話なの……?」

 

 僕の口から出たのは思っていた以上に乾いた声だった。その問いに彼女は答えない。ただ、小さく、クスリと笑っただけだった。

 

 事ここに至って、僕は非科学的だの非現実的だの、そんなことを言って先延ばしにするのをやめにすることにした。今僕の目の前に彼女は、見崎鳴は本当にいるのかいないのか。まずそれだけでも知りたい。本人の口からはっきりと聞きたい。

 そう思った時だった。僕の荷物の中から電子音が鳴り響く。最高(・・)のタイミングだ、何もこんな時に……と思ったが、発信主は母の実家、つまりどうやら祖母がかけてきているようだった。考えてみれば普段ならもうとっくに帰ってる時間だ。心配してかけてきたのだろう。

 

「ちょっとごめん……。……はい、恒一です。うん、大丈夫。遅くなってごめんなさい、ちょっと用事があって……。うん、もう少ししたら帰るから。……はい、それじゃあ……」

 

 祖母との通話を終え、僕が終了のボタンを押すとほぼ同時、座っていた見崎が立ち上がった。

 

「……嫌な機械」

 

 ポツリと彼女はそう呟き、僕に背を向けてさっき上がってきた階段を下りようとしている。

 

「あ……! ちょっと……!」

 

 僕の声を無視し、彼女の姿が次第に見えなくなっていった。

 追いかけようと僕は立ち上がるが――。

 

「閉店の時間だよ」

 

 入り口の方から聞こえた声に驚いて顔を向ける。さっきまで座っていたことにさえ気づかない、というか忘れていたのだが、店番をしていた老婆が僕に声をかけてきたのだった。いや、それにしては存在感がまったくなかった、と言ってもいい。

 

「今日はもうお帰り」

 

 顔を戻す。もう見崎の姿は見えなく、ため息をこぼして僕は入り口へと足を進めた。

 

「またおいで。興味があるならね」

 

 いかにもその後に「ヒッヒッヒ」などと西洋ファンタジーの魔女が付け足しそうな口調で言った老婆の言葉に、僕は頭を一つ下げてから、忘れずに傘を持って外へと出た。

 雨は上がっていた。雨上がりで冷えた空気を感じながら、僕は家路に着つく。

 さっきあそこで聞いてわかったことをまとめるために頭を働かそうとするが、どうにもうまくまとまらない。僕の頭は完全に混乱していた。

 

 と、そこであそこに入ったときに老婆が言った言葉を思い出した。

 

『ゆっくりして見ていきなさいな。他にお客さんも(・・・・・・・)いないしねえ(・・・・・・)……』

 

 三度、僕の背筋を冷たいものがゾクリと駆け下りる。

 

 それじゃあ……見崎鳴……。君はまさか、本当に……。

 




やだなー狂気に歪んだ風見君がナイフを片手に追い掛け回す展開なんてあるわけないじゃないですかー。


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#08

 

 

 鉛筆、あるいはシャープペンシルを走らせる音だけが教室に木霊している。教卓の付近に立っている久保寺先生は特に何を言うでもなく、板書をするでもなく、ただ僕達を見渡している。だがそれに何の疑問も感じはしない。なぜなら今はテスト中だからだ。

 それもただのテストではない。定期試験――中間テストだ。高校への進学を考えた際、内申書として判断材料にもされて成績にも影響してくる、2日間に渡って行われるテストである。

 だから皆真剣だ。言うまでもなく、僕も真剣なのだが、この定期試験最終科目になっている国語は手ごたえ十分という具合で、まだ試験時間は20分近く残っているが既に全問を解き終えて見直しも終わっていた。

 最後に名前が間違いなく書いてあることを確認したところで、僕は答案を裏返して静かに立ち上がった。制限時間内に終わった場合、教室を出てしまってもいい、ということだったからだ。現にこれまでのテスト中に数名席を立った生徒はいたし、この国語のテスト時間中においても既に1人そうしているとわかっている。

 

「見直したほうがよいのではないですか?」

 

 席を立った僕に気づいた監督役の久保寺先生が近づいてきて小声で話しかける。

 

「いえ、もう大分見直したので」

「……そうですか。いいでしょう。ホームルームがありますので、まだ帰らないようにだけしてください」

 

 他のクラスメイトの邪魔にならないよう、なるべく静かに廊下へと向かう。が、どうにも向けられていないはずの視線が痛い気がする。「出来る奴はいいよな」という嫉妬の目だろうか。……いかんいかん、きっと気のせいだ。それじゃクラスメイトの皆が悪者みたいになってしまうし、何より自分は勉強が出来るなんて自惚れているみたいだ。別に頭がいいほうじゃない、今のところは前の学校の授業進度が早かったおかげで、少し有利であるだけにすぎない。……まあ今の国語じゃそれはあまり関係ない気もするけど。

 ともかく僕は教室を出る。あのまま時間まで問題用紙と解答用紙と睨めっこしていてもよかったが、僕としては廊下に出たかった。教室の空気が嫌なわけじゃない。ただ、廊下である人(・・・)が待っているんじゃないか、そんな淡い期待があったからだった。

 

 廊下のガラス越しに見える外は、雨だった。果たしてそのガラスの外の風景を眺めている彼女こそ、僕が待っているんじゃないかと期待したその人だった。

 

「早いんだね、見崎さん」

 

 僕の声に彼女は首だけを僅かに動かし、窓の外に向けられていた視線が僕のそれと交差する。だが、まるで興味がないかのようにその視線はまた窓の外へと戻っていった。

 

「そういう榊原君も、ね」

「大丈夫なの? テスト……」

「大丈夫なの。私は」

「へえ……。すごいね。昨日まで休んでた(・・・・・・・・)のに」

 

 そう、あの人形館で見崎と会った翌日から、彼女の姿はクラスになかった。およそ2週間も姿を見せず、もしかしたらこのままずっといないのではないか、そんな風にも考えた。

 さすがに気になり、誰かに尋ねようかとも思った。だが、以前も思った「彼女の口から直接聞きたい」という思いが勝り、能動的に彼女のことを聞こうとはしなかった。しかし受動的に聞いてしまった(・・・・・・・)のなら仕方ないと納得しようという、めんどくさい思考で過ごしていたのだが、それでも彼女の話題は全く挙がろうとしなかった。やはり存在していないのだ、彼女は3年3組に彷徨う幽霊なのだ。そんな考えがますます裏付けられたような気もした。

 しかしテストの初日になって、彼女は現れた。しかも何度か時間終了前に教室を出て行く、という行為まで見せ付けて。普通に考えたらありえない。テスト直前まで休んでいたのに余裕で問題を解き終えた、ということか、あるいは諦めているのか。そして第3の考えとして浮かんできたのは、テストなど彼女には意味がないのではないか、ということだった。

 学校に来なかった――いや、いなかった(・・・・・)という方がもしかしたら正しいかもしれないが、そのせいであの日僕の背中を走った悪寒は、今でも胸の辺りにモヤモヤと解消されないしこりの様になって残っている。この気持ちを、転校してきてから今までずっと抱いている疑問を解消したい。見崎と話がしたい、直接その口から真意を聞き出したい。だから僕は教室を出てきたのだった。

 

「……雨、好きなの?」

 

 ずっと窓の外を眺めたままの見崎に僕は尋ねる。

 

「まあね」

「そういえば前に君が帰る姿を見かけたんだけど……。あの日も雨だったのに、なんで君は傘もささずに帰ってたの? 確か朝から雨だったから傘を忘れる、ということは考えにくいと思うんだけど……」

「雨は、嫌いじゃないから」

 

 答えになっていないのではないか。「雨は嫌いじゃないから傘をささずに来て、そして帰った」など、普通ではありえない。僕の心の中で彼女に対して抱いている疑念がますます膨れ上がる。

 

「……榊原君、そんなことよりもっと聞きたいことがあるんじゃないの?」

 

 心を見透かされたかのような言葉。その彼女の台詞に僕は意を決し、これまで頭の中で渦巻いている考えをまとめだす。

 

「……こっちに転校してきて君に会ってから先、なんだか気になることが多くて……」

 

 窓の外に向けていた彼女の隻眼である右の瞳が僕を捉える。

 

「最初に僕が君に会ったのが病院のエレベーター。次に学校で、その後あのお店。まるで僕の行く先々で、僕が来るのを待ってるかのように君がいる……。それから、君が僕に言った『あんまり近寄らない方がいい』って言葉。その真意を確かめようと、あのお店で尋ねた時に君が話した過去の『ミサキ』の話。それに……あのお店の地下にあった君そっくりの人形……。

 そういったもの全てを考えた時に……。なんでかな……。馬鹿なことだと思うし、ありえない話だと頭ではわかっている。わかっているけど……。見崎鳴、君は、もしかしたら……」

「……いないもの(・・・・・)だから」

 

 ドクン、と心臓が早打つ。あの日感じた悪寒が、再び背中を駆け下りる。

 

「いない……もの……?」

 

 彼女の目が細められる。――まるで笑っているかのように。

 

「皆には私のことが見えてないの。……見えているのは、榊原君、あなただけ、だとしたら?」

「な……!」

 

 頭の中でピースがはまっていく。……いや、本当はどこにどのピースをはめれば完成するか、自分ではわかっていたのに放棄していたピースが勝手にはまっていく、という方が正しいか。

 

 見えていない。皆には見えていない。見えているのは自分だけ。だとするなら、それは紛れもなく――。

 

「そんな……。そんなまさか……!」

 

 思わず右手で頭を抱える。ありえない。だが、頭を抱えた右手の指の隙間から見えた彼女の表情は――笑っていた(・・・・・)。あの時、屋上から校舎へと消えていったあの時のように。

 

 何かを話したい。だが、言葉が出てこない。いや、言葉を出せたとして、彼女に、「いないもの」の彼女に何を話しかければいいのだろうか。

 

 僕が悩みに悩んでいたその時だった。階段の下から誰かが駆け上がってくる足音が聞こえた。ジャージ姿から、体育の先生だとわかったが、どこか慌てているようにも見える。

 先生は3年3組の教室の入り口まで小走りで駆け寄ると、小さく数度ノックした後でドアを少し開けて「久保寺先生」と呼んだようだった。その後は「今連絡が……」「病院から……」と断片的にしか聞こえない。

 しばらくして体育の先生は僕達がいた方ではなく、向こう側の階段の方へと歩いていく。その後で教室の後ろの扉が開き、そこから姿を表したのは桜木さんだった。

 

「桜木さん……?」

 

 傘を手に、荷物も全て持った状態で、どこか慌てた様子だった。だが僕の声に彼女は足を止める。

 

「どうかしたの……?」

「あっ、榊原君。……母が交通事故に遭ったらしいんです」

「えっ……?」

 

 思わず僕は驚きの声を上げる。しかし彼女に焦った様子はなく、苦笑を浮かべて返してきた。

 

「あ……事故って言ってもそんな重大な事故とかじゃなくて……。傘さしで自転車に乗って細い路地を走っていた時にちょっとよろけたらしくて、その時に後ろから来た車と接触して転倒したとかって……」

「大丈夫なの……?」

「細道で車もスピード出してなかったのが幸いして大怪我ではないらしいんですが、足折っちゃったらしいです。不注意ですよね、母も。……って転んで捻挫した私が言えた口じゃないかな」

 

 困ったように桜木さんは小さく笑った。

 

「それで治療のために今病院らしくて。テストは解き終わっていたので先に抜けさせてもらうことになったんです」

「そうだったんだ……」

 

 半分僕は上の空で答える。桜木さんのお母さんが事故に遭った、と聞いたときは驚いたが、こんなことを言っては悪いが、命に関わるほど重大ではない、とわかってちょっと安心したところで――やはり隣にいる彼女のことが気になってしまっていた。

 

 今、桜木さんには目の前の彼女は見えていない、のだろうか……。

 

「そんなわけなんで……。私は先に帰ります。榊原君も傘をさして自転車に乗っちゃダメですよ。……あ、傘をささないで帰って、風邪で学校を休む(・・・・・・・・)なんてのもダメですけど」

 

 そう言って彼女は、僕の隣に立つ(・・・・)少女に視線を移した。

 

「雨が好きなのはわかるけど……。病み上がり(・・・・・)なんだから、まさか今日は傘を持って来たんですよね、見崎さん(・・・・)?」

 

 思わず僕は「えっ……?」とこぼしていた。桜木さんは確かに「いないもの」であるはずの見崎の方を見ていた。いや、だとしたら「いないもの」ではないということになるんじゃ……。

 

「あの……桜木さん……」

「はい?」

「見えるの……? その……見崎鳴……さんが……」

「え……?」

 

 きょとんとした表情で、彼女は僕の方を見つめて数度瞬きをする。それから再び僕の隣の少女の方へ視線を移し、そこで何かに気づいたように「あ」と言いながら手を叩いた。

 

「……もう、見崎さん、あまり榊原君を困らせちゃダメですよ」

 

 彼女は、見崎は答えない。ただ、桜木さんに背を向けてまた窓の外へ視線を移し、その時に口からため息が漏れたのが確認できた。

 

「榊原君、もしかして見崎さんに『自分に近づかない方がいい』って言われたりとか、昔あったっていう『ミサキ』って言う人の話を聞いたりとか、『皆には自分のことは見えてない』とか言われたりしたんじゃないですか?」

「え……? な、なんでそれを……」

 

 今度は桜木さんがため息をこぼす。

 

「やっぱり……。あのですね、榊原君。実は見崎さん、結構思わせぶり(・・・・・)なことを言うのが好きらしくて……」

「思わせぶり……?」

「榊原君がおそらく聞いたと思われるようなことです。ちょっと思い込みが強いというか、少し物事を大袈裟に言うというか……。なんて言ったかな……なんだかこの時期の少年少女が自意識過剰やコンプレックスから生み出される心理状況がどうのとかって病気みたいな名前があったような……。

 まあとにかくそれで反応を楽しんでるというか、彼女がそう演じてる(・・・・)風があるみたいなんですけど……。でも騙して困らせようとか、そういう悪気があるんじゃないと思うんです。私は彼女なりのコミュニケーションじゃないかな、って思ってて……」

 

 ああ、なるほど。思わず僕までため息をこぼしていた。

 と、同時になぜか納得してしまった。僕のクラスはなんて呼ばれてる?

 

「『変わり者の多い3年3組』か……」

 

 思わず呟いた。だったら、彼女ぐらい強烈な個性を持つクラスメイトがいてもおかしくはないのかもしれない。

 

「そういうことです」

 

 僕の独り言が聞こえたのだろう。桜木さんがそう言いながら微笑みかけてきた。

 

「……あ、思わず話し込んじゃった……。すみません、一応母が入院したということで早退なんで、お先に失礼しますね」

「うん。桜木さんも交通事故とか、あと雨で滑って転んだりとかには気をつけて。足怪我してたはずだし」

「はい。ありがとうございます。……やっぱり優しいんですね、榊原君」

「いや、僕はそんな……」

 

 面と向かってそういうことを言われるとどうにも照れくさい。思わず彼女から視線を逸らして右手で頭を掻く。

 

「うふふっ。……じゃあ榊原君、それに見崎さんも。さようなら」

「さようなら」

 

 前にもこんなことがあったかな、と、ある種の既視感(デジャヴ)を感じつつ、僕は彼女を見送る。階段を下りていくまで見送り、さらに足音が遠ざかるまでその方を見つめていた。足を捻挫していたはずだが、彼女は軽快な足取りで降りていき、すぐその姿は見えなくなった。

 

 足音が遠ざかったところで、さて、と僕はもう1人の彼女の方へと向き直る。先ほどからずっと窓の外を眺めている彼女は僕の視線に気づいているだろうに一向にこっちに向き直ろうとはしない。

 

「……つまんない」

 

 どう切り出そうか迷う僕より早く、先に口を開いたのは相変わらず顔は窓の外へ向けたままの彼女だった。

 

「いいところまで僕は信じ込んでたのに、って?」

 

 彼女は答えない。代わりにため息をついた。

 

「……じゃあ改めて質問。君は幽霊でもなんでもなく、ちゃんと存在する人間なんだね?」

 

 やはり彼女は答えなかった。だが僕が視線を逸らさずずっと見つめていることに観念したのだろう。再びため息をこぼして僅かに首の角度を変えて頷いた。

 

「怒らないの?」

 

 窓の外に向けられた視線の先を変えず、彼女が尋ねてくる。

 

「僕が君を? どうして?」

「……怒ってないの?」

「怒ってないよ。むしろ……すっきりしたというか、ホッとしたというか……そんな気分かな」

「すっきり……?」

 

 窓の外に向けていた視線が僕に注がれる。これまでは感情を読み取るのが難しいと思っていたが、明らかに疑問の色が浮かんでいた。

 

「うん。君は……見崎鳴は確かにここにいる。いないものでも、昔の幽霊でもなく、3年3組の生徒として確かにここにいる、ってことがわかったからね。それがわかったら……なんだか怒る気も起きないよ」

「……変わった人」

「君に言われるのは心外だな」

 

 その僕の返事に、彼女は小さくクスッと笑った。

 

「……そうね。私も榊原君も、変わった者同士かもね」

「かもね。だって3年3組だし」

 

 僕も思わず笑みをこぼす。と、彼女が右手を差し出してきた。

 

「じゃあ、変わった者同士……」

「……ああ」

 

 僕は彼女の右手を握り返す。冷たかったが、確かに血の通う、人間の手。

 

「これからよろしくね。さ・か・き・ば・ら・君」

 

 いつか聞いたかのような彼女の言葉だった。そして彼女はかすかに微笑む。

 その笑顔に思わず僕の視線は釘付けになった。これまでずっと触れられず、「正体」もわからなかったミステリアスな彼女。そんな彼女がようやく僕の目の前に「本物の人間」として現れた瞬間だったからかもしれない。

 

 僕達の両手が離れた、丁度その時、まるでそれを待っていてくれたかのようにチャイムが鳴った。憂鬱な中間テストが終わった瞬間でもあった。

 




Anotherなら死んでた、あなざーだから死ななかった。
階段降りててたまたま足を滑らせてたまたま傘が開いてたまたまそれが喉に突き刺さるなんてあるわけないじゃないですかー。


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#09

 

 

 翌日は、昨日の雨が嘘のように晴れ渡った空が広がっていた。段々と梅雨の時期が迫ってきて雨模様が多くなってきた、と感じていたが、そんな憂鬱を吹き飛ばしてくれるような晴天だ。やはり晴れの日はいい。

 同様に僕の心も晴れ渡っていた。中間テストが終わったから、というのは確かにある。が、ずっと心に引っかかっていたモヤモヤがようやく消え去ったから、という理由の方が大きい気がする。

 

 とはいえ、テストが終了してホームルームが終わった後、鞄に荷物を詰めて窓際の最後尾へ目を移すとやはりというかなんと言うか、もう彼女の姿はなくなってしまっていた。「これからよろしく」と言われたのに結局さっさといなくなってしまうのかと少し落胆しつつ、それでも拒絶されているわけではないと、何より「存在している」とはっきりわかっただけでもよしとすることにした。

 きっと今後話す機会も少しずつ増えてくるだろう。あの時少し話した桜木さん曰く「演じてる」風なところがある、ということだったし、ちょっと不思議な少女を演じている、あるいは元々僕同様人付き合いが苦手だから、ああやって人と接することを避けようとしているのかもしれない。そういう気持ちもわからないでもない。こんな考え方をするとおじさんっぽいと思われるかもしれないが、今自分達の年代が迎えている思春期というのは割りと複雑な心境だったりするのだ。

 例えば、中には親に反抗的になったり、自分は特別だと思い込み始めたりする人もいるのだとか。見崎の場合は後者が強く出てしまった形なのだろう。結果、その思い込みだけが先走りしてしまって今のようになってしまった。クラスでそれがどのぐらい浸透しているのかはまあこの後聞くこととしても、そこで丁度転校という形で現れた、何もわからない僕は彼女の相手としては最適だったわけだ。見事に僕は彼女の思わせぶり(・・・・・)な様子に騙され、「見崎鳴は幽霊かもしれない」などという、今思えば馬鹿げた発想まで抱くに至ってしまった。あのまま続いたら彼女はどこまでそれを貫くつもりだったかはわからないが、まあ僕のほうとしては彼女の存在をはっきりと「いるもの」として認識できたことでまずは満足だったりしている。あとはさっき思ったとおり、これから少しずつ彼女については詳しくわかっていくことだろう、と期待したい。

 

 そんなことを考えながら歩いていたせいだろう、いつの間にか校門を過ぎていた。今ではすっかり僕にとって「母校」となりつつある学び舎を見つめ、それからその視線を空へと移したところで、ああ、やっぱり今日はいい天気だと改めて思った。「雨は嫌いじゃない」と言っていた彼女は、こんないい陽気に対しては何と感想を漏らすのだろうか。

 

「よっ、サカキ!」

 

 と、1人物思いに耽っていた僕は背中を叩かれて思考を引き戻された。

 振り返れば今日の空のように快晴な……いや、どちらかというとそれよりも暑苦しい男である勅使河原とその彼の「腐れ縁」である風見君がいた。勅使河原はここ数日以上にやけにニヤニヤしていたが、風見君はいつも通りのようである。

 

「おはよう」

「おはよう、じゃねえよお前。こんな天気のいい日に何1人でボケーっとしながら歩いてるんだ? そんなんじゃお天道様も悲しむぞ?」

 

 なんだがいつも以上にテンションの高い彼に僕は思わず苦笑する。憂鬱なテストが終わったのだ、そうなってる理由はわからなくもない。が、朝からこのテンションに付き合うのも疲れるというか、正直面倒なので、とりあえず助け舟を出してくれ、と風見君に目で訴えかけてみる。僕の意思を汲み取ってくれたらしく、風見君はため息をこぼしつつ勅使河原の肩に手をかけた。

 

「勅使河原、テストが終わって浮かれるのはわかるがあまり他人を巻き込むな」

「なんだよ、やっとめんどくせえテストが終わったんだぜ? もっと明るく行こうじゃねえか」

「それもテストが帰ってくるまで、だろ。お前、今回の出来はどうだったんだ?」

「う、うるせえな風見! そういうお前はどうだったんだよ!」

「……まあいつもぐらい、かな」

 

 風見君のいつもぐらいはどのぐらいかはわからないが、どうやらあまり出来に納得はしていないらしい。視線を逸らした後で眼鏡を上げるいつもの仕草を見て、なんとなくそう感じた。

 

「サカキ、お前は……」

「聞くだけ野暮だよ。彼は国語の時間に大分余裕を持って退出してる。同類だ、なんて期待はもたないほうがいい」

 

 普段通り、といえば普段通りにも聞こえる風見君の物言いだが、ちょっと棘がないか、と突っ込みたい。しかし余計なことを言って関係が悪化するのは好ましくない、と僕は先ほど同様の苦笑で乗り切ることにした。

 

「……まあいい! テストが返されてダメだったとしても、まだ楽しみはある!」

「何かあったっけ?」

「サカキ、お前今日が何月何日か知ってるか?」

「5月25日だけど」

「そうだよ、5月25日。んであと1週間もすれば6月!」

 

 まあ確かに6月だ。でも6月だからなんだっていうんだろうか。むしろ梅雨に入って雨が増えてジメジメ、祝日がないせいで休日は少ないしロクな月(・・・・)じゃない。……ああ、6月だけに(・・・・・)か。……ダメだ、我ながらオヤジギャグがひどい。ますます億劫になる。

 

「……6月に何があるって言うんだ?」

 

 勝手に軽い自己嫌悪に陥った僕をさておき、風見君が質問を代わりにしてくれた。

 

「マジでわかんねーのか!? 衣替えだよ!」

「ああ、そうか。この暑い冬服から解放されるね」

「……いや、榊原君。こいつ冬服着てないから」

 

 あ、と思わず声をこぼす。灯台下暗し……いや違うな。ともかく目の前の勅使河原は冬服の上着を羽織っていない。というか、制服すら着ていない。下こそ制服だが上はシャツとその上にジャージという格好だ。むしろ彼が制服を着ているところを見た事がない。

 

「じゃあ勅使河原にとって衣替えとか関係ないじゃない」

「あのなあ、お前ら馬鹿か?」

 

 勅使河原が両手を僕と風見君の首にそれぞれ回し、肩を組んでくる。暑苦しいっての。

 

「衣替えってことはよ、女子が薄着になるってことだぜ?」

 

 嬉しそうにいった勅使河原の言葉と対照的、僕と風見君のため息は同時だった。

 

「どっちが馬鹿だよ……」

「まったくだ。お前は大馬鹿だ」

 

 僕に続いて風見君も酷評して肩から抜けようとするが、どうやらまだ勅使河原は僕達を逃がさない気らしい。

 

「な!? お前ら興味ないのかよ!」

「別に……」

「お前ほどはない」

「アホかお前ら!?」

 

 馬鹿からアホになった……。どっちの方がマシなんだろ?

 

「いいかお前ら、このクラスはレベル高いんだぞ。顔のレベルもそうだが……それ以上に男なら胸だろ、胸! 薄着になった時の最大の魅力、それは胸だろ!」

 

 ダメだ、こいつは来年起こるかもしれないといわれてるハルマゲドン級の馬鹿だ。先ほど同様目で風見君に助け舟を要求するが、海は大時化(しけ)で舟は出せないと首を横に振られてしまった。こうなったら嵐が収まるのを待つしかない。

 

「何はなくともまずは赤沢だろ! あの性格からも滲み出てるわがままボディは冬服でも完全には隠しきれていない……それが夏服になったらどうなると思う!? まさにロマンだよ、ロマン! これがわからないなんて青春してるとはいえないぞお前ら!」

 

 もう1回風見君に視線を送る。が、もう彼は聞かぬ振りを決め込んだらしい。おそらく右耳から入った話はまったく聞こえないまま左耳から抜けていくのだろう。ああ、便利な能力だな、それ……。

 が、そんな僕たちの様子は勅使河原にとっちゃお構い無しらしい。自分なりの青春を謳歌してる彼の口は止まらない。

 

「次に杉浦! 普段パーカー着てるから一見普通に見えるが……ありゃ間違いなく着痩せするタイプだ! 俺にはわかる! きっと脱いだら凄いぞ! あとは……桜木だな」

 

 あ、風見君の眉が一瞬動いた。

 

「元々見た目から若干ぽっちゃりだから……その辺は期待できる! ああ、その辺は一緒にクラス委員やってるお前に聞いた方が早いか。どうなんだ風見?」

「い、いや……。ぼ、僕はそういうところはわからないし……」

 

 ……この反応、実は気にしてるな、ムッツリ君め。いや、気にしてる女の子のことは見てしまうものか。

 

「お、その反応、お前わかってるんだな? やっぱ結構ボインちゃんなんだろ、桜木は?」

「私がどうかしました?」

 

 僕から見て頭2つ分離れたところから聞こえてきた声に、僕だけでなく勅使河原も風見君も思わず「うわあ!」と声を上げて数歩たたらを踏んだ。声の主は言うまでもなく桜木ゆかりその人で、彼女から1番近い距離にいた風見君は既に顔が紅くなりつつある。

 

「お、おはよう桜木さん」

 

 下手な誤解からイメージが悪くなるのは困る。特に風見君は死活問題だ。まずいところは聞かれてないことを祈りつつ、場を繕うために僕は挨拶を交わす。

 

「おはようございます。何の話をされてたんですか? 私の名前が出てたと思うんですけど……」

「あ……え、えーっとだな……」

 

 まずい。主犯格(・・・)の勅使河原は良い返しを思いついてないらしい。そうでなくてもこいつに任せるのはどうにも危ない。素人に爆弾の解体をやらせるぐらいの自殺行為と言ってもいい。

 

「あ、あのね、昨日テストを途中で抜けたのなんでかなって話になって……。で、僕が廊下で会ったから、って話をしてたところで」

 

 よし、我ながらナイスな出まかせだ。だから……2人ともその「えっ!?」って言う目でこっちを見るのはやめてくれ……。うまく合わせてくれ……。

 

「ああ、そうだったんですか」

 

 だが僕の心配と裏腹に桜木さんは納得したらしい。2人も空気を読んだらしく、頷いて合わせてくれている。

 

「それで……お母さんは大丈夫だったの?」

「はい、おかげさまで。足首を骨折したのでしばらく松葉杖は必要、とのことでしたが、数週間もすれば松葉杖なしで歩けるようになるらしいです」

「そっか……。よかったね」

 

 僕の言葉に彼女は「はい」と答えて微笑み返してくる。その後で、僕達3人を見てクスッと小さく吹き出した。

 

「3人とも……暑くないんですか? そんながっちり肩を組んじゃって……」

 

 誤魔化すことに意識がいっていてすっかり忘れていた。この天気のいい5月末に男3人肩を組んでたら暑いに決まってる。思い出したら暑くなってきた。僕は離れようとするが勅使河原がなぜか離してくれない。

 

「大丈夫だ、俺たちは男同士の友情を深め合っていたのさ! だから心配いらないぜ!」

 

 ……ついに勅使河原頭おかしくなったかな……。だが桜木さんはこれも特に気にした様子はなしに、

 

「ああ、そうだったんですか。……じゃあその友情の邪魔をしないように私はお先に教室に行ってますね」

 

 と、答えてあっさりとその場を離れて行ったのだった。

 その彼女の姿を見送ったところでため息と共に勅使河原がようやく組んでいた肩を離す。

 

「あー……。危なかった……」

「勅使河原……最後のあれはいらなかったんじゃないか?」

「何言ってんだよサカキ、あれがなくちゃ肩を組んでたのが怪しまれるだろ!」

「……あの言い訳だって十分怪しいさ」

 

 指先で額の汗を拭った後、普段どおりの仕草で風見君は眼鏡を上げる。

 

「それより榊原君、さっき言った桜木さんのお母さんの話って……本当?」

「あ、うん。昨日の国語はちょっと早く終わって廊下にいたんだけど、その時桜木さんが出てきて……。それで少し話したらそう言ってたんだ」

「そうか……。それで昨日……」

 

 何やら風見君は1人で納得している。そういえば久保寺先生は帰りのホームルームの時にも結局桜木さんの早退にまったく触れなかったし、ちゃんとした事情を聞いたのは初めてなのだろう。

 

「……まあいいや。さっさと教室行こうぜ。なんだか朝から疲れちまったよ」

「誰のせいだよ……」

 

 まだ考え込み気味の風見君に代わって僕が突っ込みを入れておく。

 しかし実際に憂鬱なテストは終わったわけだし、今日の天気も快晴、それに僕の心にあったモヤモヤも綺麗に消えているのだ、気分がいい日であることには変わりない。……一応断っておくと別に勅使河原みたいに女子の薄着などには……まったくではないが……勅使河原ほど興味があるわけではない。

 

 と、そこで一時限目は数学、もしかしたらいきなりテストが返される可能性があることに気がついた。まずい、いい気分はひょっとしたらそこで終わってしまうかもしれない。

 ……まあそうなってしまったらそれもやむなし。テストの答案は僕の手元にはないわけで、つまりもう賽は投げ終わって目も出ている、その目が何かを僕はまだ知らないという状況なわけだ。

 だったらもうなるようにしかならない、と考え付いたところで、僕は昇降口の靴のロッカーへと手をかけた。

 

「ん……?」

 

 が、僕のロッカーの中に入っていた1枚の紙切れ。ここに書かれていたことによって、天気が快晴だの一時限目に返ってくるかもしれないテストだの、そんなものは些細な問題になってしまったのだった。

 

『お昼、屋上で食べるので気が向いたら来て。 見崎』

 



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#10

 

 

 落ち着かない。今までのモヤモヤとした心とは別な、なんというか……。とにかく言えるのは授業はさっさと終わってほしい、ということだった。

 

『お昼、屋上で食べるので気が向いたら来て。 見崎』

 

 今朝、昇降口の僕のロッカーに入っていたこの1枚の紙切れ。このせいで僕は朝からずっとこんなだった。どういうつもりだろうかと時折見崎の方を伺ってみるが、相変わらず窓の外をぼんやり眺めていて僕の視線に気づこうともしない。あるいは気づいているのに無視してるのか、計りかねている現状だ。

 

 彼女は間違いなく「いるもの」だ。彼女の手は冷たくても確かに血の通った人間のそれだったし、桜木さんも彼女のことはわかっていた。それで「彼女は本当はいないのではないか。幽霊なのではないか」という、今思えば馬鹿げた僕の考えは全否定されたことになる。それはいい。むしろすっきりしたし、その方がありがたい。確かに「僕にだけ見えるクラスに居座る幽霊との学校生活」なんてのは面白いかもしれないが、事実は小説より奇なりとはいえそれは奇の度合いを超越してる。慌しすぎたり奇妙すぎるよりも平穏、平凡、平和の方を愛してしまう僕からすれば刺激が強すぎるのだ。

 が、人間というのはどうにも面倒くさい、あるいはわがままな生き物であるようで、あまりに平穏すぎると何かしらの刺激を欲しいと感じるらしい。だから僕は見崎の正体を追っていた時期は確かに心はモヤモヤしていたが、今になってみるとどこか楽しいと思っていた面があったことも否定できない。

 

 で、それが一段落着いたと思った矢先のこれである。彼女が幽霊でない、ということはわかったが、何を考えているかは未だに不明だ。正体についてようやくはっきりした翌日、いきなり昼食に誘ってくるとは夢にも思っていなかった。そりゃ何らかの刺激がある方がいいと思ったのは事実だが、もう少し平凡な日々を堪能したいという気持ちもないわけではない。

 チャイムが鳴る。四時限目が終了の合図。授業をしていた先生はきりのいいところまで話を進めて教科書を閉じた。これで昼食の時間だ。

 

 では平穏を愛する僕が取るべき選択肢は何だろうか。「行かない」という選択をすれば今日のところは平穏な日となるだろう。しかしそれでいいのだろうか。

 窓際最後列の席へと目を移す。早くも彼女の姿はない。いつものことだがいなくなるのが早いなと思いながら――僕は席を立った。

 

 今更考えるまでもない。もう答えは出ている。結局その正体がわかったとはいえ、見崎鳴という彼女によって僕の愛した平穏な日常などというものはもう過去のものとなってしまったのかもしれない。だったら……その過ぎ去った穏やかさを嘆くよりも、少々波乱でも見崎と一緒にいられる未来に目を向けたほうが、面白いかもしれない。

 ああ、そうだ。面白いということは悪くはない。結局僕もわがままな人間の例に漏れず、平穏を愛しながらも、心のどこかで刺激を求めてしまっているのかもしれないのだ。

 いや、この際そういうしちめんどくさい言い訳染みた考えは一先ず置いておこう。僕は彼女に魅かれているのかもしれない。それは異性としてか、と問われてイエスと言えるほど素直でもないし、なんだかこそばゆいし、まだ互いをよくわかってもいないからその答えは保留にするが、気になっているのは事実だ。もっと話してみたいと思っているのは本心だ。

 だから今日に限ってはどんな妨害があろうと僕は屋上に行く。心に強くそう決めていた。

 

「あれ、サカキ。お前飯は?」

 

 その決意の矢先、弁当袋を手に、僕の席に近づこうとしてきた勅使河原が声をかけてくる。これまでの昼食は時折1人で食べることがあったものの、大体はこいつが風見君や望月君辺りを誘って来ることが多かった。あるいは赤沢さんが仲のいい人たちを連れてきたのが2回ほどあったが、大体は一緒に食べる相手の中心は勅使河原であり、つまり彼が僕の行く手を阻む最後の番人、と言ってもいいだろう。……少々大袈裟だが。

 

「ごめん、ちょっと今日は用事があって……。僕抜きで食べて」

 

 そう言って教室の入り口を目指す。もう少し呼び止められるかと思ったが、「は?」と彼は一度は疑問の声を上げたものの、特に突っ込んで聞いてくる様子もないらしい。よし、番人はあっさり撃破だ。

 

 廊下に出る。目指すは屋上。今日は天気がいい。屋上で食べる昼食というのは格別なものかもしれない。いや、食事の味以上に、正体のはっきりした見崎と話せることのほうが心を占める割合としては大きいだろう。弾むような心のせいで思わずスキップで階段を上りそうになる自分を自制しつつ、あくまで平静に、僕は階段を上って屋上へと着いた。そういえば、「近寄らない方がいい」なんて言われたのもここだったっけ。

 ドアにある窓越しに屋上の様子を窺うと、朝の手紙の主が1人でぼーっと空を見上げているのが見えた。太陽の光を浴びているからだろうか、これまで希薄に見えていた彼女が心なしかはっきりと見える気がする。

 僕はドアを開けて屋上に出る。音に気づいて一旦彼女はこっちに視線をよこしたが、すぐに元あった空の方へと戻っていった。彼女の傍らにはビニール袋に入ったコンビニのサンドイッチとパックの飲み物が見える。まだ手をつけていないらしい。

 

「やあ。食べないで待っててくれたの?」

「……あと1分しても来なかったら食べようと思ってた」

「それは危なかった。でも君が教室を出るのが早すぎるんだよ」

 

 朝の手紙の主、見崎の隣に僕は腰を下ろす。それを確認するが早いか、彼女は袋から取り出したサンドイッチを開けつつ、「食べましょ」と短く僕に告げた。

 

「僕まだ座ったばっかりなんだけど……」

「私はもうずっと座ってるから」

 

 身も蓋もない発言だ。僕にわざわざここで食べる、と告げているわけだし、一緒に食べるのが相場だと思うんだけど……。そういう配慮というか思考というか、そういったものはこの不思議少女は持ち合わせていないのだろうか。

 まあいいや。これで僕がのんびり弁当を食べたとしたら「もう食べ終わったから」なんて言われて先に帰られかねない。せっかくの話せる時間をそれで早仕舞いにはしたくない。箸を取り出して弁当箱を開け、「いただきます」と食べ物への感謝を述べてから僕も昼食をいただくことにする。

 

「えっと見崎……さんは……」

「見崎でいいよ。前呼び捨てにしたし」

「……したっけ?」

 

 正直記憶にない。そもそも話した回数すら片手で数えられるほどだ。しかし本人がいいと言っているのだから、この際もうそれでいいだろう。

 

「じゃあ……。見崎はいつもコンビニのご飯みたいだけど、お弁当持ってこないの?」

 

 ああ、最初は無難な質問から、なんて思っていたが、我ながら無難すぎた。だが致し方ない。結局良くも悪くも僕は平凡な一学生なわけだし、そんな僕が出した無難な質問なわけだ。

 

「……まあね」

「お母さんとか作ってくれないの?」

「たまに料理するけど……はっきり言っておいしくないの、あの人(・・・)のは」

 

 あの人。自分の母のことをそう呼んだ彼女に僕は驚きを覚える。仲がよくないのだろうか。いや、しかし他人の家庭事情に首を突っ込むのもよくない。この質問は深く切り込まないようにした方がよさそうだ。

 

「そういう榊原君のは、お母さんが?」

「うちは母親が父親にくっついて今海外に行ってるから……」

「そうか。それでここに転校してきたんだった、か。じゃあ叔母さん、それともおばあさん?」

「これを作ったのは僕だよ」

 

 ちょっとばかり得意気に返す。そう、何を隠そう、このお弁当を作ったのは僕だ。朝食の支度をする祖母から台所のスペースを少々借りて作ったのだ。元々前の学校では料理研究部に所属してたわけだし、作ること自体は苦ではない。ただ、退院後の体調面という理由から1週間前までは祖母は台所を貸してくれなかった。それまではおばあちゃん特製弁当を食べていたわけだが、自分のことは出来るだけ自分でしたい、と今では自分の弁当は自分で作っている。男子が自分の手で弁当を作るなんて全くもって珍しい、物珍しい目で見られるのは間違いないだろう。こんな僕としてはいつの日か男子が自ら進んで弁当を作るなんて時代が来ることを願って止まない。

 

「……本当?」

 

 現に見崎も信じられない様子だった。ほっぺに着いたサンドイッチのマヨネーズを親指で拭って舐めつつ、彼女は尋ねてくる。流れるような仕草だったが、予想してなかったその動作は彼女の愛らしさと言うか可愛らしさを高めたようで、完全に不意を突かれた。そんなドキッとした内心を隠し、僕は続ける。

 

「まあね。前の学校では料理研究部だったから」

「へえ。意外。でも……美味しそう」

 

 彼女が僕の弁当箱を覗いてくる。今日のメニューはお弁当の定番卵焼きに豚肉と玉ねぎの甘辛煮、ミニハンバーグに特製ポテトサラダだ。……とはいえ、厳密には僕が作ったのは最初と最後の2つだけ。ハンバーグは既製品を使ってるし、甘辛煮は祖母が朝食のおかずに作ったものを拝借している。しかしこの甘辛煮がまた美味い。肉にも玉ねぎにもよく味が染み渡っていて、かつご飯の進むあまじょっぱい味付けなのだ。真似たいのだが調味料の分量を聞いても長年のカン、としか答えてくれない。そのせいで僕が真似て作ってみるとどうしても甘くなりすぎるかしょっぱくなりすぎるかで、この味が出ない。やむなく祖母がこれを作る時は決まって拝借して弁当に入れてくるのであった。……本音を言うとここに居候している間に味付けだけは覚えて帰りたい。

 

「食べてみる?」

 

 相変わらず僕の弁当箱を見つめてくる彼女に僕は問いかけた。

 

「……いいの?」

「うん、いいよ」

 

 この場合選択肢は卵焼きかポテトサラダだろう。褒められるとして自分が作ったものでないのは嬉しさが半減以下だ。僕は3切れ用意してある卵焼きを選択することにする。自慢じゃないが卵焼きは得意だ。

 が、卵焼きを箸で掴んだところで僕の手は止まった。……ちょっと待て。これは僕が「あーん」してあげるというシチュエーションだろうか。普通逆だ。女子の手作り料理を男子がやってもらう、というのが相場のはずだ。僕はあまりそういうのを読まないからよくわからないけど。

 いや、そもそもそれをやっていいのだろうか。ちゃんと話すのは実質ほぼ初めて、そんな相手にやっていいものだろうか。だが不幸というべきか、今日の見崎には箸がない。手づかみで食え、とも言えないし、箸だけを渡すのもなんだか悪いような……。

 

「……どうしたの?」

 

 が、彼女はそんな僕の心中など全くわからないらしい。ええいままよ、当たって砕けろだ。なんだか顔が熱い。僕は震えそうになる手をなんとか抑えつつ、箸で卵焼きを摘んで彼女の方へと差し出す。口を開けて彼女はそれを頬張った。……つまり完全に「あーん」をしてあげたことになる。なんだか心拍数が上がってしまった気がする。

 

「どう?」

「……美味しい」

 

 その言葉に僕はホッと胸を撫で下ろす。味が褒められたことも嬉しいが、まずこの場を乗り切ったことに対して、が先に出てきてしまっていた。彼女がどう思ってるかは知らないが……文句を言ってこないのだから怒っている、ということはないだろう。ならいい。それに次いでようやく味に対する感想への喜びが出てきた。やはり誰かに喜んでもらえると作った甲斐があるというものだろう。

 

「榊原君、料理上手なんだね」

「そうかな……。自分ではあまりわからないんだよね」

「でも美味しいよ」

 

 重ねて褒められた言葉に思わず照れる。社交辞令かもしれないとわかっていても嬉しい。

 

「……今度榊原君の料理をちゃんと食べてみたい」

「うん、いいよ。いつかうちにおいでよ」

「……うん、いつか、ね」

 

 そこで、会話が一旦途切れた。見崎は2切れ目のサンドイッチを口に運び、次いでパックのリンゴジュースを喉に流し込んだ。僕もこの機会に箸を進めておこうと、彼女に褒められた卵焼きをおかずにご飯を食べる。褒められたせいだろうか、なんだかいつもより美味しく感じる。

 

「他、何か話したいことないの?」

 

 僕がご飯を飲み込むのを待っていたのか、まさにそのタイミングで彼女はそう話しかけてきた。

 

「君の方こそ何か話とかあったんじゃないの?」

「別に。ただ一緒にご飯食べようと思っただけ」

 

 ちょっとだけ肩を落とす。別に過剰な期待はしてなかったし、一緒にご飯を食べられるだけでも嬉しいけど、やっぱり男子としてはこうなると少しいらない期待をしてしまったりするんだな、と思ったり……。

 

「質問してもらった方が話しやすいんだけど、何かないの?」

「質問攻めは嫌いなんじゃなかったっけ?」

 

 いつか、ここで聞いた言葉をそのまま彼女に返してあげる。それに困ったのか、あるいは機嫌を損ねたのか、彼女は一度僕から視線を逸らす。

 

「嫌い。だけど……今日は特別に認めます」

 

 思わず吹き出してしまう。彼女にしては珍しい目上の人が使うような口調だが、そこがまたギャップを生み出してどうにもかわいらしい。しかしそんなことを口走って機嫌を損ねては元も子もない。せっかく特別に認めてくれるのだ、この時間を謳歌しようではないか。

 

「じゃあ改めて。……見崎鳴、君は本当にここにいるんだよね?」

「……さあ? ここにいるのは3年3組に彷徨い続ける幽霊かもよ?」

 

 僕は失笑する。それは昨日、桜木さんによって否定された事実じゃないか。それでも主張する彼女は、変わり者というのは間違いないだろうが、ついでに意地っ張りかもしれない。そもそもコンビニで昼食を買ってくる幽霊というのもシュールな話だ。……そのシュールな話に気づかずすっかり信じ込んでしまって、いや、勝手に思い込んでしまっていたのは他ならぬ僕だけど。

 

「ま……僕はそれでもいいけどさ」

「……やっぱりつまんない」

 

 彼女は口を尖らせて、最後のサンドイッチに手をかける。まずいな、機嫌を損ねちゃったら特別に認められたのがなしになってしまう。

 

「それより……テストの日まで休んでたのは、風邪? 確か昨日桜木さんがそんな風に言ってたと思うけど」

「そう」

「雨に濡れて帰ったから?」

「……そう」

 

 2度目は答えまでに一瞬間があった。彼女なりに恥じらいがあったのかもしれない。

 

「なんで傘ささなかったの……って、持って来てなかったんだっけ」

「そう。雨は嫌いじゃないから。特に好きなのは寒い季節の、雪に変わりそうな雨……」

「へえ……」

 

 雨が嫌いな僕にはいまひとつわからない。特に冬の雨とか寒いし凍るし場合によっちゃ雪になるしろくなものじゃないと思う。が、捉え方は人それぞれだろう。別に文句があるわけでも口を挟む気もない。

 

「じゃあ今日みたいな天気のいい日は嫌い?」

「……別に。でも暑いのは、あまり好きじゃないかも」

 

 彼女の顔を見る。日の光を浴びたことがないのではないかと思うほどの白い肌が目に留まり、確かに室内にいるタイプかなと勝手に納得してしまった。

 

「見崎は昼ご飯はいつも1人でここで食べてるの?」

「いつもここなわけじゃない。でも、食べる時は大抵1人かな」

「クラス……友達とかは?」

「1人の方が落ち着くの。それに……他の人はあまり私に近づかない方がいいと思うし」

 

 ああ、そういう話だった。思わせぶりな、ってやつか。……でももしかしたら、見崎は1人になるように、そうやってみんなを遠ざけるようなことを言っていたりしてるんじゃ……。

 

「それ、僕にも前に言ったよね。あと確か『もう始まってるかもしれない』とかっても。あれ、どういう意味?」

「……私、人付き合いは得意じゃないから。だからあまり関わりを持たないようにしてるの。そんな中で榊原君が私に近づいたことで他の人から珍しい目で見られるんじゃない、って。それが『もう始まってるかもしれない』よ、ってことが……そう言った意味の半分」

「あとの半分は?」

 

 答えず、見崎はサンドイッチを食べ終えた。答えてくれないかな、と思って僕も弁当に手をつける。

 

「……榊原君はからかい甲斐がありそうだったから」

 

 が、返って来た予想外の答えに思わずご飯を吹き出しかけた。この無口な不思議少女に僕はそんな風に見られていたのか。確かに言ってることを大体信じちゃってたし、いいように騙されていたのは事実だ。言い返せない。

 

「だけど……今年のクラスは珍しいの。榊原君もだけど、私のことを気にかけてくれてる人もいるし。今までのクラスじゃそんなことなかったから、ちょっと意外。私には近づかない方がいいって言ってるのに」

「そんなこと言って……。友達はいたほうがいいと思うよ?」

「……いらない。必要以上に繋がるのは、好きじゃない。どうせこのクラスだってあと1年もしないうちに皆卒業してバラバラの進路になるんだから」

 

 見崎の言うことは一理ある。僕も人付き合いが得意な方ではないからなんとなくわかる。だから「腐れ縁」と言って仲良くしている勅使河原と風見君を見てると時々うらやましく思えることもある。だが同時にその人付き合い自体、どこか面倒に感じてしまっているのも事実だ。

 とはいえ、彼女の言ってることは極端すぎる。何もそこまで関わりあいを拒絶する必要はないはずだ。一方で、だからこそ「近寄らない方がいい」なんてことを言っていたのかもしれないとも思ったのだった。彼女にはそうしなくてはいけないような何か経験があって、そのためにこういう少々大袈裟と言うか思わせぶりな言動をしてしまっているのではないだろうか。

 

 考えすぎか。サンドイッチを食べ終えた見崎に対し、まだ弁当が半分以上残っている僕は箸を進めることにする。

 

「……質問はおしまい?」

 

 しばらく弁当を食べることに集中していたために、無言の時間が出来てしまっていた。普段の僕なら気まずさを感じて場を繕うはずなのに、なぜか今日はそれに気づかなかった。口の中にあるご飯を飲み込んでから口を開く。

 

「ごめん、お弁当を食べるのに必死だった。君は食べるのが早いから……」

「量が少ないだけ。小食なの」

 

 確かに彼女の昼食はサンドイッチだけだ。あとは飲み物のリンゴジュース。それも今飲み終えたらしく、彼女の口を離れたストローが外の空気を吸うために音を鳴らすのが聞こえた。

 

「急がなくていいよ。昼休みは長いし」

「そうは言っても、質問攻めを特別に認めてくれるのは今日だけでしょ? だったらさっさと食べちゃって、もう少し話をしたいんだけどね」

 

 見崎が、小さくクスッと笑った。

 

「……榊原君って面白いね」

「そうかな?」

 

 面白いなんて言われたことはあまりない。大抵「真面目」とか「礼儀正しい」とか、捉えようによっては「つまらない人間」と言われることが多い。まあ僕はそれでいいと思ってる、というか面白い人にはなれないと半ば諦めてるから直すつもりはなかった。でも……見崎に「面白い」って言ってもらえたのは……なんだか少し嬉しい気がする。

 

「ねえ、まだお昼休みの時間はあるし、食べ終わったら行きたいところがあるの」

「行きたいところ?」

「そ。いつも私が休み時間にいることの多い、私のお気に入りの場所」

 

 それを僕に教えてくれる、か。なんだか嬉しい。見崎との距離が一気に縮まった気がして、早くその場所に行きたいと僕は弁当をかきこむ。が、思わず詰まらせてしまい、左手で胸を叩く羽目になってしまった。

 

「……やっぱり榊原君って面白い」

 

 さっきは少し嬉しい、なんて思ったが今回はそうは思えそうにない。苦笑いだけを返し、僕は残りの弁当を食べ切るに専念することにした。

 




前話の補足がてら。Anotherは原作で舞台が1998年ということになっています。
なので前話の地の文にあった「来年起こるかもしれないといわれてるハルマゲドン級の~」というわけです。
加えて、今でこそ「弁当男子」たる単語が広まりつつありますが、当時からすると考えられなかったのだろうなとも思って恒一の心境を入れてみました。


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#11

 

 

 見崎が昼食を食べ終えた僕を案内してきた先は旧校舎の0号館だった。美術室がこの建物に入っているのは知っている。だが2階は老朽化のため立ち入り禁止のはず、なら見崎は僕を美術室に案内するつもりだろうか。

 

「ここ」

 

 そう言って見崎が指差したのは美術室ではなかった。「第2図書室」という表札のある部屋である。

 

「第2図書室……?」

「そ。私のお気に入りの場所」

 

 記憶を探り、そういえば勅使河原に校舎を案内された時に「0号館で使われているのは美術室と第2図書室だけ」と言われたような気がしたことを思い出した。しかし「第2」ということは、おそらく第1図書室よりも重要度の低い本――要するに古い本や書物が置いてあったりするのだろう。そんなところがお気に入りとは、どうにも見崎の考えはわからない。

 無造作に見崎が部屋の入り口を開ける。教室の扉とは違い、かなり年季の入った木の引き戸が上下のレールに沿ってゆっくりと開いた。中に入ると図書室特有の匂い――紙の匂いかインクの匂いか埃の匂いなのかはわからないが、とにかくそんな匂いが僕の鼻をついた。

 「失礼します」とも何も言わずに見崎は部屋に入っていく。僕もそれに続き、戸を閉めた。部屋の奥の方からは何やら誰かが話している声が聞こえていたが、丁度それが終わったようだった。

 ようだった、というのはこの部屋の独特の様相に理由がある。部屋の中には本棚しかないのかというような状況で、声の聞こえた方を見ても本棚目に入らないのだ。かろうじてその隙間から長机があることと、窓があってそこから光が差し込んできていることだけは確認できる。

 

「あれっ? 恒一君? それに……見崎さん」

 

 部屋の奥、この部屋と同義と言ってもいい本棚の陰から現れたのは意外なことに赤沢さんだった。予想外の人物に僕は目を見開くが見崎は特に驚いた様子もない。

 

「赤沢さん? どうしてここに……」

「千曳先生……ここで司書をやってる人が演劇部の顧問なの。今日から部活再開だから打ち合わせに、ね」

 

 そういえば赤沢さんは演劇部の部長と言う話だったっけ。それでこの部屋の主がその部の顧問、と。

 

「それより恒一君はどうしてここに?」

「私が案内したの。お気に入りの場所だから」

 

 僕が答えるより先に返答したのは見崎だった。それに対して赤沢さんは一度驚いた顔を見せたが、すぐ平常通りの表情を取り戻した。その辺りはさすが演劇部というところだろうか。

 

「へえ……。見崎さんも恒一君に興味があるの?」

「……さあ」

 

 誤魔化したように見崎は彼女に背を向け部屋の奥へと行こうとする。が、赤沢さんの鋭い視線もそれを追いかける。そこで板挟みとなって僕は果たしてどうしたものかと困ってしまった。

 

「……あ」

 

 が、そのまま一歩を踏み出そうとした見崎が足を止めた。そしてわずかに顔を赤沢さんの方へと向ける。

 

「……ノート、ありがとう」

 

 そう言われ、赤沢さんは数度目を瞬かせた。それから「ああ」と相槌を打つ。

 

「礼ならゆかりに言って。私はあの子がまとめたノートを届けただけだから」

「おかげでテストはなんとかなったかも」

「だから私じゃなくてゆかりに言いなさいって。……ほんと困った子ね」

 

 赤沢さんがため息をこぼす。……もしかしてこの2人意外と仲が良かったり?

 

「えっと、赤沢さん、見崎と仲いいの?」

 

 その僕の問いになぜか彼女は一瞬ムッとした表情を浮かべた。だがやはりすぐに表情を戻して答える。

 

「別にいいわけじゃないわよ。とっつきにくいとはいえ嫌いでもないけど。ただ同じクラスだし、長い期間休んだからちょっと心配しただけ。そこでゆかりがテストに出そうなところをノートにまとめておくから届けて欲しいって頼まれて届けただけよ。まあ家もそこまで離れてるわけじゃないしね。

 ……そもそもクラスで1人でいるから4月当初に声をかけてあげたのに『私に近寄らない方がいい』みたいなこと言い出すし。それで孤立しちゃうんじゃないかってゆかりも心配してるし、見るに見かねてたまに声かけてあげてるの。ここにはよく来るみたいだし、私も用事がある部屋だから」

 

 なるほど、赤沢さんとしてはあくまでゆかり……つまり桜木さんのためだから、ということを理由にしているようだ。なんだか素直じゃない物言いだなとは思う。

 と同時に赤沢さんと桜木さんが仲が良いということは予想外だった。いつも一緒にいる杉浦さんや同じ部活という小椋さん、綾野さん辺りまでは想像できたが、2人が話しているところをみたところはないからというのもあるのだろう。

 

「赤沢さんって桜木さんとも仲良いんだ」

「小学校が一緒だったのよ、5年の最初まで。その時に今の住所に引っ越したから小学校が別になって。しかもこれまではずっとクラス違ったんだけど、やっと同じクラスになってね。……私が知ってるあの子は真面目だけが取り得、みたいでクラス委員なんて柄じゃなかったのに。変わるものね」

 

 ああそういうことかと僕は納得した。夜見北は確かこの辺りの小学校が集まっている中学校のはずだ。だから引っ越したとはいえ、そこまで遠くなかった赤沢さんはまた桜木さんと一緒にこの中学に通うことになったのだろう。

 

「……まあいいわ。私は行くわね。お昼もまだだし。……ところで恒一君、明日は私とお昼、約束してくれない?」

「えっ?」

 

 僕の手にあった弁当袋を一度見つめてから、赤沢さんはそう提案してきた。話題が藪から棒だったために一瞬答えに戸惑う。

 

「ダメかしら? 今日見崎さんと食べたみたいだから、明日は私と、って思ったんだけど。見崎さんも明日はクラスで一緒にどう?」

「僕は……」

 

 チラッと見崎の方を窺う。僕としては別に構わないが、人付き合いを避け気味な彼女としてはもしかしたら嫌かもしれない。そう思っての確認だった。

 

「……私は構わない。榊原君がいいなら、ね」

「じゃあ決まりかな。明日は……教室で食べるよ」

 

 僕の言葉に一瞬間が空いたのは、顔を戻した時になぜか赤沢さんが面白くなさそうな顔をしているのが目に入ったからだった。提案してきているのはそっちのはずなのに、どうしたのだろうと思ったが、すぐ彼女は普段通り、いやそれよりもやや上機嫌な表情に変わっていた。演劇部のせいだろうか、随分と表情がころころ変わると思う。

 

「それはよかった。じゃあ明日は教室で。……あとこの後の授業に遅れないようにちゃんと戻ってくるのよ」

 

 まるでクラスの委員か何かのような一言を付け足し、赤沢さんは第2図書室を後にして行った。扉が閉められ、背後で見崎がため息をこぼすのがわかった。

 

「……授業遅れないように、か。さすがは『対策係』ね」

「『対策係』?」

 

 初めて聞いた単語に僕はオウム返しにそれを口にする。委員会は知っているが、そんな名前の委員会は聞いたことがないし、クラスの役職にもなかったはずだ。

 

「そ。赤沢さんと杉浦さんは小学校の時……多分さっき彼女が言った転校したときからじゃないかな。その時から今までずっと同じクラスだったらしいの。彼女、クラス委員を担当したことはないんだけど、クラスで何か揉め事や問題が起きるとクラス委員より先に首を突っ込んできて、なんやかんや2人でそれを解決してしまったらしくて。それから誰が呼んだか、『対策係』と謝意とある種の侮蔑を込めて陰で呼ばれるようになった……。今年は榊原君も見ての通り。彼女の周りには多くのシンパがいて、しかもクラス委員とも知り合い。……まさにクラスの陰の支配者よ」

「へえ……」

 

 そこで僕は怜子さんに教えてもらった「夜見北の心構え」のひとつを思い出していた。それは「クラスの決め事は守ること」。そうか、個より集団としての意志の方が優先されるべきこと、だと思っていたが、そういったクラスの支配権を持つ人間に背いてはクラスの総意に背くこととなり、下手をすれば村八分になりかねないという意味合いも含まれていたのかもしれないとも思う。……もっとも、赤沢さんのことをその程度で他人を嫌うような器の小さな人間だとはこれっぽっちも思ってないわけだけど。

 

「でも感謝はしてるわ。事実、私は休んでいる間に受け取ったまとめノートが役に立ってテストを乗り切ることが出来たわけだし。まとめてくれたのは桜木さんだけど、持って来てくれたのは赤沢さんだった。……他にもっと家が近い人もいたのにね。その辺りは『対策係』だからかしら」

 

 やはり赤沢さんはいい人らしい。ちょっと強引なところもあるというか、きつく感じる時もあるけど、そこまで含めて彼女、ということなのだろう。

 

「……立ち話が過ぎちゃったわね。奥に行きましょう。まだ、部屋の主に挨拶もしてないから」

 

 そこまで話したところで見崎は僕に背を向け、部屋の奥に着いてくるように促す。僕はそれに続き、本棚の先、長机があるさらにその奥に白髪交じりで眼鏡をかけた初老の男性が座っているのが目に入ってきた。まさにこの部屋の「番人」という呼称が相応しいような、見るからに無愛想で気難しそうな人だというのが第一印象だった。

 

「千曳先生、こんにちは」

「私を置いていつまで入り口で世間話を続けるつもりかと思ったが、ようやく来てくれたか。こんにちは見崎君。あと、先生はやめてほしいと言ってるはずだが」

「そうは言っても演劇部の顧問ですし」

「君は部員ではないだろう。だとするなら、所詮私はこの第2図書室の司書に過ぎんよ。……ところでそちらの男子は初めて見るね。というより、君が人を連れてきたこと自体私は驚きだが……」

 

 いきなり第一印象を訂正することになった。全然無愛想じゃない。この無口な見崎とここまで軽口を叩き合える人間がいるなんて。

 

「あ、え、えっと榊原恒一です。両親の都合でこっちに越してきて……。来て早々病気で入院しちゃって今月の頭に初めて登校したんですが……」

「ああ、3年3組の転校生か。私は千曳辰治。この第2図書室の司書と、あと演劇部の顧問をさせてもらっている。噂は色々と聞いてるよ。お人好しで騙されやすそうだ、とか、都会から来たのもあるし面白そうだ、とか」

 

 ……前者は見崎で後者は赤沢さんか。自分の知らないところで噂が一人歩きしている。なんということだ。

 

「まあ本しかないところだが、興味があるならゆっくりしていってくれて構わない。なぜか見崎君はここを気に入ってるようだしね」

「静かですから、ここ」

 

 そう言って自分が座るために椅子を引きかけ、だが見崎はそれを戻した。てっきり座るものだと思っていた僕は先に彼女が椅子を引いた場所の隣に腰を下ろしてしまっている。

 

「どうしたの?」

 

 しかし彼女は答えずに無言で僕に背を向けた。

 

「……ちょっと、千曳先生と話でもしてて」

「え? なんで……」

「……お手洗い」

 

 しまった……。野暮なことを聞いてしまった。口に出して謝るのもなんだかはばかられたので心の中で僕は頭を下げて謝る。

 しかし問題はその後だ。見崎が部屋を出ていったはいいが、千曳先生は僕に何かを話しかけてくるでもなく、司書席に座ったまま何かの本をずっと読んでいる。

 ダメだ、こういう沈黙はやはり苦手だ。何か話題を振って場の空気を誤魔化さないと耐えられないかもしれない。

 

「え、えっと……。千曳先生は……」

「だから先生はやめてくれ。……と言っても見崎君は全く直してくれないんだが。まあ部員には先生で呼ばれてるし、今更そこまで強制もしないよ。好きに呼んでくれていい」

 

 結局どっちがいいんだろうか……。まあ無難に「さん」で呼ぶことにしよう。

 

「千曳さんは……演劇部の顧問なんですよね?」

「そうだよ。……見えないか」

「いや、そういうんじゃ……」

 

 やっぱり第一印象復活。無愛想で気難しい人かもしれない。

 

「……人は誰しも仮面(ペルソナ)をつけて生きている。演劇というのはその己が身につけている仮面の上にさらに仮面をつける、ということじゃないかと私は思うがね。……まあ今も部員募集中だ。男子は少なくて貴重だからね。今からでも3年生にとって最後の公演になる文化祭には十分間に合うだろう。興味があるなら来るといい」

「は、はぁ……」

 

 なんだか言っていることが難しくてよくわからない。ひとつ言えるのは、僕は演劇部に入ることはないだろうということだった。

 

「えっと……。見崎はここに来るようになってから長いんですか?」

「そうだね……。2年前……1年生の時からもう来てた気がするな。それからは昼休みは勿論、放課後から授業間の休み時間までフラッと来ることまである」

「そんなに? ……よほどここを気に入ってるみたいですね」

「尋常ではないね」

 

 それで休み時間の度に見崎がいなくなる理由がなんとなくわかった。彼女はここに来ることがお気に入りらしい。「静かだから」と言っていたが、他にいくらでもそんな場所はあるだろうにとも思う。だがそういうわけだから、休み時間いつもいないし、放課後僕より先に帰ったと思ったら同じタイミングになった、ということなのだろう。

 

 ところが、会話はそれ以上続かなかった。どうやら千曳さんという人は相手によって話したりそうでなかったりするらしい。そこを置いておくにしても、僕とは初見だ。いきなり何か話せという方が無理があるかもしれない。かくいう僕もそうだ。

 仕方ない、と僕は席を立つ。この間をじっと座っているだけでは過ごしきれそうにない。幸いここは図書室、なら何か本でも探そうと本棚の方へと近づく。

 

 第2、というだけあってある本は相当に古い本か、あるいは郷土史、この学校にまつわる資料等が主だった。それなら、と僕はある本を探す。果たして目的の本は見つかり、僕はそれを手にさっきの長机に持って戻った。腰を下ろしてページをめくっていく。

 

「いた……」

 

 そしてその本のページをめくりあるところで手を止め、思わずポツリと呟いていた。

 

「誰が?」

 

 その時左の傍らから聞こえた声に思わず飛び上がりかけた。声をかけてきたのは見崎、丁度帰ってきたところだったらしい。立ったまま、僕が見ていた本を覗き込んでいる。

 

「それ……卒業アルバム?」

「ああ、うん。26年前(・・・・)の……」

「26年前……?」

 

 そう口にしたの見崎は、次いで千曳さんの方へ視線を送る。それを受けてか、なぜか千曳さんも立ち上がった。

 

「なんでそんな昔のを?」

「母さんがいるんじゃないかって。確かここの卒業生のはずだから……」

「どの人?」

 

 今後は先ほどの見崎と逆、右側から質問が飛んできた。さっき見崎の視線を受けて立ち上がった千曳さんが歩いてきて尋ねてきたのだった。

 

「えっと……この……」

「ああ、理津子君か」

 

 意図せず聞いた母の名に、僕は思わず千曳さんの方を見上げる。

 

「え……? 母のことを知ってるんですか!?」

「ああ……まあ……」

「……知ってるも何も、ほら、榊原君」

 

 そう言ったのは見崎だった。そしてその指差した先、アルバムの名前が並ぶ真ん中にあった名前に僕は思わず「あっ」という声を上げていた。

 そこにあったのは「千曳辰治」という、今僕と話していたその人と同じ名だった。

 

「まあ……そういうことだ。26年前、私はここの教師だった。だが今は司書だからね。だから『先生』いう呼ばれ方はなんだか背中がムズムズするんだよ」

「へえ……」

「それで……お母さんは元気?」

「ええ、おかげさまで。今は大学教授の父の助手をやっていて、インドに出張に行った父に着いて行っちゃいました。それで僕は母方の祖父母の実家のあるここに転校してきたわけで……」

「なるほど、そういうことか。……当時から猪突猛進なところがあるとは思っていたが、相変わらずか。君もなかなか苦労してるな」

 

 猪突猛進か……。確かにこれと決めたらひたすらやる人だし、だから大学講師と学生なんて間柄だろうと関係なく父と結婚しちゃったのかもかもれない。

 

「それにしても……。榊原君のお母さんが26年前のOGなんて、知らず知らずのうちに私は面白い皮肉を言っていたわけね」

 

 そう言ったのは見崎だった。意図を図りかね、今度は彼女の方に視線を移す。

 

「どういうこと?」

 

 それに対し、彼女は無言でアルバムの写真の中の1人の男子を指差した。いたって普通の中学生、という印象を受けたが、その後その顔の位置にある名前を確認し、再び僕は「あっ」と声をこぼしていた。

 「夜見山岬」。この街の名が苗字で、そして名前が「ミサキ」……。

 

「……もしかして、君が以前僕に話した『ミサキ』の話って……」

「なんだ、また見崎君が尾びれ背びれを着けて話したのか? ……やめてくれと言ってるのにこの子は」

 

 千曳さんにそう責められても見崎は肩をすくませただけだった。

 

「え……? 嘘……なんですか?」

「……なんと言われたのかね? その内容を聞かない限りは、一概に嘘とも本当とも言いかねる」

「えっと確か……」

 

 見崎の方に視線を送ったが、見て見ぬフリをされた。「私は答えないから、自分で説明して」と言わんばかりの表情。先ほどの千曳さんの感想同様、困った子だと思いつつ、僕は過去に彼女から聞いた「ミサキ」の話をした。

 

「……以上になります。その『ミサキ』というのはこの『夜見山岬』で合ってますか?」

「合ってる。だが……今のその話は……そうだな、2割は捏造(・・)されている。……まったく見崎君、いい加減にしてくれ。そこからよからぬ噂が広がったとしたら、当時担任だった私が棚に上げられるんだぞ?」

 

 そう言われてもやはり見崎は知らん振りで肩をすくめただけだった。ため息混じりに千曳さんが説明を始める。

 

「まず、『ミサキ』……つまり夜見山君が亡くなったということ自体が嘘(・・・・)だ、今も元気だと聞いている。というより、このアルバム(・・・・・・)普通に(・・・)写っているんだから、少なくともこの時点で亡くなっているということではないということはわかるだろう」

「あ、そうか……」

「よって『アルバムの写真にいるはずのないその生徒の姿が写っていた』という部分は嘘になる。……が、かと言ってその見崎君がしたという話、全てが嘘かというとそうでもない(・・・・・・)

「えっ……?」

 

 てっきり見崎がでっち上げたものだとばかり思っていた。だが思い出せば千曳さんは捏造部分は2割と言った。つまり、残りは本当、ということになる。

 と、不意に千曳さんが時計を見た。が、小さく舌打ちしたのが聞こえた。

 

「昼休みはまだありますよ、千曳先生。……少なくとも、過去の思い出話をするぐらいは」

「……見崎君、君は私が嫌いなのか? それとも困らせたいのか? ……まあいい。私が少し恥じるだけの話だからな」

 

 千曳さんが先ほどより大きくため息をこぼしたのがわかった。次いで、重々しく口を開く。

 

「……夜見山君は確かにクラスの人気者だった。いや、クラスだけじゃない。彼は生徒会長も務めていたし、学校全体から見ても知名度が高かった。所属していた陸上部の個人競技で全国大会にまで出場したこともあったしね。加えて学業も優秀、顔も性格も良いとなれば非の打ち所はなかっただろう。

 さて、夜見山君がどれほどの逸材かわかったところで、話は私が担任したクラスのことに戻る。26年前にも文化祭という行事はあってね。私のクラスで何をするかを話し合ったとき、創作劇をやりたいと言うことになったんだ。しかしどういったものをやるのか、概要すら全く決まらず話し合いは難航。そこで……ああ、そうだ、言い出したのは理津子君だ。まったく君のお母さんもとんだことを提案したものだよ。彼女は夜見山君の人気を逆手に取った。言い換えるなら、ある日、学校中の人気者のある生徒がいなくなってしまったら(・・・・・・・・・・・)どうするか。その役を当の夜見山君本人にやらせて、劇にしようと言い出したんだ」

 

 なんとなく、話が掴めて来た。つまり千曳さんが捏造を2割とだけ言ったのは、そういうことだ。見崎の話はほとんどがその劇に基づいている、だから8割を本当のこととして認めざるを得なかったのだろう。

 

「難航していたところの助け舟だ、皆それに乗ったさ。夜見山君本人でさえ『なんだか面白そうだ』と言い出したことで概要は決まった。あとは大体君が見崎君から聞いたとおりの話が続く。ただし、あくまでその劇中では『夜見山岬』という名ではなく、架空の人物として彼は演じていたがね。

 そして、さらに大きく違うとするならラストだ。結局あの劇は最後まで夜見山君が演じる人物をまだ死んではいない、存在しているはずだと皆が信じ、そう演じて卒業式を迎える。その卒業式が終わって皆がクラスに戻った後、不意にクラス全員に死んでしまったはずのその生徒の声が聞こえて来る。『皆ありがとう。お陰で僕は皆と一緒に卒業できる。でも僕はもう大丈夫。だから、皆はこれからの自分の人生を楽しんで生きていって』と。そこでその生徒の名を全員で呼び、『こっちこそありがとう』と言ったところで幕が下りる。そんな劇だったのさ。

 すなわち、その見崎君が基にした劇は本来美談なんだ。それをこの子はよりにもよってホラー要素を取り入れた内容に捏造して君に話してしまった、ということだ」

 

 ようやく、全ての辻褄が合った。つまるところ見崎は千曳さんから聞いたこの話を自分の都合のいいように勝手に作り変え、そして僕に話した。たまたま「岬」と「見崎」が合っていたから、というのもあるのだろう。元々が存在した話だっただけにやけにリアルな話だと僕は勘違いして捉えてしまった、というわけか。

 

「ちなみに……その劇、評判はどうだったんですか?」

「生徒からは上々だったよ。だが……教諭陣からは『生徒を亡くなったことにする劇はいかがなものか』と叩かれた。そして私はそれに対して何も反論できなかった。なぜなら……」

 

 そこまで言ったところで千曳さんは眼鏡を中指で上げ、肩を揺らして小さく笑った。

 

「……その台本を考えたのは、今現在演劇部の顧問(・・・・・・)をしている、当時の担任(・・・・・)だったからね」

「え……!? 千曳さんが考えた話なんですか!?」

「そうだよ。……あの頃の私はまだ若くて、熱くて、そして青かった。概要こそ決まったものの、生徒の間でストーリーを組み立てるのは難しく、時間だけが過ぎていった。それを見るに見かねた私が提案という形で少しずつ自分が考えたストーリーを出して行き……気づいたら結局私が考えたものそのものになってしまっていた。クラスの生徒からは感謝されたが、あれはあまりにチープすぎた。その反省を生かして演劇について研究するようになり……気づいたら今では司書という立場でありながら演劇部の顧問だ。全く恥ずかしい話さ」

 

 演技っぽく、千曳さんは自嘲気味に両腕を広げた。ああ、なるほど。それを見て、さっき言った仮面(ペルソナ)がどうのというのは、こういうことかと少し判った気がした。

 千曳さんは、「あの頃の私は熱かった」と言った。だが正確には「あの頃」ではなく、「今も」熱い人なのだろう。そうじゃなければ演劇の研究をしてまで、今も顧問をやる必要はない。何より、司書という立場でありながら顧問を引き受ける必要もない。

 だから、今現在千曳さんは仮面を着けているのではないだろうか。一見無愛想で気難しい、という人を演じつつ、本来は熱い人物。きっと演劇部の指導の時はその仮面が外れて、少し本当の彼が見られるのかもしれない。そう思うと、一旦は絶対演劇部はない、と思ったが、その仮面が外れた部分は見てみたいとも思ってしまうのだった。

 

「……どうだった、榊原君。なかなか面白い話だったでしょう?」

 

 そんな僕の心の中など露知らず、見崎は悪戯っぽく笑みを浮かべながらそう尋ねてきた。

 

「興味を惹かれたのは事実だよ。でも……面白い、というのとはちょっと違うかな」

「……というと?」

 

 今度は千曳さんだ。僕は彼の方に視線を移して続ける。

 

「だって千曳さんは26年前の劇を反省して、今も研究を続けて顧問をしているわけでしょう? その熱意は並大抵の物じゃないと思います。見崎が『先生』と呼ぶのが判った気がしました。僕もちょっと、そう呼びたい気分になりましたよ」

 

 千曳さんが驚いた表情を見せた。それを見て見崎がクスッと笑う。

 

「……やっぱり榊原君って変わってる」

「いや、君に言われたくないよ」

 

 実際見崎がなぜ言われても「先生」と呼ぶのをやめないのかは不明だが、当人がやめてほしいと言ってるのにやめないということは、少なからず尊敬の念があるからに違いないだろう。それにあまり人付き合いをしたがらない様子の見崎がこれだけ懐いているということは、やはり彼女を惹き付けただけの何かがあるはずだ。

 

 彼は、ひとつ咳払いを挟んだ。そしてわざとらしく時計を見上げる。

 

「……そろそろ昼休みも終わりだ。授業に遅れないように戻りなさい。……まあ、呼び方は君次第だ。好きにしてくれていい」

 

 最後の言葉はこちらに背を向けながら、どこか恥ずかしそうに、だった。思わず僕の唇の端が僅かに上がる。

 

「じゃあまた来ます、千曳先生(・・)

 

 全く赤沢さんといいこの人といい、どうにも素直じゃない人が多いような気がするなと勝手に思う。演劇部というのは普段の心をそうやって隠すところから始めるものなのだろうか。

 去り際、本棚から見えなくなる前に千曳先生の様子を探る。もはや仮面を付け直した彼は、僕が来た時同様に司書席に座って何かの本を読んでいるようだった。

 

「失礼しました」

 

 無言で部屋を出た見崎の代わりに感謝の言葉を述べ、第2図書室を後にする。またこの学校の楽しいスポットがひとつ増えた。卒業まで当面困りそうにないな、と思い、だがしかし同時に「しまった」と口に出していた。

 

「どうしたの?」

 

 見崎が怪訝そうに尋ねてくる。別に忘れ物の類じゃない。いや、厳密には忘れ物か。だがちゃんと持って行った弁当箱は持ってきてるし、それ以外に特に持って行った物はない。

 

「……君が質問攻めを許してくれるのは今日だけだったのに千曳先生との話に夢中になってすっかり忘れてた」

 

 数度目を瞬かせた後で、見崎はクスッと笑う。

 

「……やっぱり榊原君って変な人」

「だから君に言われたくないって」

 

 今日何度目かのそのやり取りをしたところで、予鈴がなった。早く教室に戻らないといけない。仕方ない、質問攻めは諦めるかと僕がため息をこぼしたその時。

 

「……別に、質問『攻め』じゃなければ、いつでもいいよ」

 

 ありがたいお言葉が僕の耳に届いてきた。ああよかった。それなら今日という日を悔やまずに済む。

 

「うん、それは嬉しいね」

 

 ともあれ、明日の昼は赤沢さんの予約が入っている。見崎も一緒とはいえ、ペースは完全に握られるだろう。

 まあいいか、と僕は深く考えないことにした。まだ5月の末、勅使河原が楽しみにしてる衣替えの6月になっても、それ以降も夜見北での学校生活はしばらくある。見崎にあれこれ聞くのはゆっくりでもいいかと、授業に遅れないように僕は教室への廊下を歩いた。

 




千曳さんようやく登場。が、どうにもキャラを崩しすぎてるような……。
さらに、鳴が以前話した「ミサキ」の話はこの方法で辻褄を合わせに行こうと前々から決めていたのに、どうにも捏造しすぎた感が否めないかもしれないです。

赤沢さんと桜木さんの関係は漫画版に近いものとして書いています。原作小説(そもそも原作小説じゃ赤沢・桜木両者ともほとんどモブ扱いなんですが……)やアニメでは接点がほとんどありませんでしたが、漫画版だと2人は親友同士ということになっています。

さらに、原作アニメ中に出た名簿から住所を割り出すというつわものがいたようで。公式設定資料集の住所の位置と見比べて、今現在赤沢・杉浦両者の住所が近いことと赤沢・桜木の過去の繋がりを両立させる方法として「赤沢が小学5年の時に桜木の家の地区(飛井町)の方から現在の家の地区(紅月町)の方に引っ越した」という設定を追加しました。


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#12

 

 

 はてさて、一体僕が「平穏」を愛したのはいつのことだっただろうか。目の前の光景を見ては、そう思わざるを得ないだろう。

 今は昼食時間を兼ねた昼休みだ。が、赤沢さんは昨日の昼休みにした約束をしっかり覚えていたらしい。かくいう僕も忘れていたわけではなかったが、彼女は今日これだけを楽しみにしてきた、と言わんばかりに、思い起こせば朝から目がギラついていたようにも感じる。

 授業が終わると同時、あの人は「作戦開始!」と言わんばかりに友人と「対策係」の面々に目で合図を送った。それを受けてからの皆の行動は迅速だった。まずは赤沢さんが僕を逃がすまいと、弁当袋を手に笑顔と共に僕を確保。その間に前、斜め前、隣と周囲の机を中尾君と綾野さんが僕の席へと寄せてきた。前の席の和久井君はいつも昼はいないが、今は隣の望月君もいない。そして斜め前は綾野さんだから、自分の席を寄せてきた形になる。こうしてあっという間に僕の机を入れて4つの机が合わされることとなった。その僕の対面のになる形で、赤沢さんが机に弁当袋を置く。

 

「どたどたしてごめんね。でも恒一君。昨日の約束、覚えてるでしょ?」

 

 別に忘れていたわけではなかったのだが、この状況下では仮に忘れていたとしてそうは言えない雰囲気だろう。「そりゃ勿論」ととりあえず相槌を返しつつ、だが同様の約束をされた彼女はきっともういなくなってるんだろうなと思い、僕はチラリと窓際を窺う。やはりというかなんというか、見崎の姿はそこになかった。相変わらず消えるのが早いなと思いつつ何気なく反対の廊下側に目を移したところで、僕は我が目を疑った。

 なんと、見崎はまだ教室にいたのだ。いや、いたというか、教室から出られなかった、という方が正しいだろう。後ろの扉から教室を出ようとしていた彼女の左腕を、廊下側の席の杉浦さんががっちりと掴んでいのだから。

 

「……何?」

「何、じゃないわよ。泉美が今日一緒に昼食を食べる約束をしたって。『見崎さんが教室から出て行きそうになったら止めてほしい』って言われてたから、私はそれを実行しただけ」

「……そういえば、したかも」

 

 どうやら杉浦さんは見崎が教室内に戻ろうとしない限り掴んだ腕を離さないつもりらしい。見崎もそれをわかってか、ひとつため息をこぼした後で教室の中へと引き返し、僕の席の側に近づいてきた。

 

「やっぱり出て行こうとしたのね。多佳子に頼んでおいて正解だったわ。……そんなに私と食べるのは嫌かしら、見崎さん?」

「別に。忘れていただけ」

 

 さらっとそう言った見崎だったが、対照的に赤沢さんは眉が一瞬動いたようだった。せっかくの楽しい時間になるだろうに、そんな態度でそう言っちゃ逆効果だろ、見崎……。とりあえずその場をなんとかしようかと僕が口を開きかけた時。

 

「のれんに腕押し、ぬかに釘。……泉美、この子どこまで本気で言っているかわからないんだし、そんなことでいちいち目くじら立てても疲れるだけよ」

 

 これまた見崎同様さらっとそう言いながら近づいてきたのはその彼女を止めた張本人、杉浦さんだった。涼しい顔をして割と言ってることは辛辣だ。要するに「無駄なことはやるな」と言っているわけだ。つまり、見崎の言っていることを怪しいと思ってもにあれこれ突っ込むだけ無駄、と彼女は割り切っていると言うことになる。

 

「そうは言うけど……」

「おい、赤沢。サカキの周りに集まって何だ? まさかお前こいつのこといじめたりしてるんじゃないだろうな?」

 

 と、ここでそんな場の空気などおかまいなしに質問をぶつけてきたのは勅使河原だ。どこか不満そうだった赤沢さんはその捌け口をどうやら見つけたらしく、ジロリと彼を見つめて返す。

 

「恒一君と昼ご飯を食べる約束を昨日しただけよ。あんたは呼んでないから来なくていい」

「おいおい! そりゃねえぜ! なんだよサカキばっかり、俺も混ぜろよ!」

 

 つっけんどんにあしらわれようが、冷たい言葉を投げかけられようが、彼は今日も立ち上がる。勅使河原、お前のガッツと執念は称賛に値するよ、などと勝手に思いつつ僕は苦笑を浮かべる。まあ放っておいても入ってくるような男だとわかってはいるけど、一応フォロー入れておこう。

 

「僕は構わないよ。……もう結構な大所帯になりそうだし、せっかくだから」

「お! さすがサカキ、わかってるじゃねえか! やっぱり持つべきものは友だね!」

 

 はいはい、お前の場合僕と食べるってことにかこつけて赤沢さんにお近づきになりたいだけだろ、なんて思いつつ、それは飲み込むことにした。お調子者だが、彼が言ったとおり「友」であることには変わりない、と僕は思ってる。

 どうやら赤沢さんもそれで了承したらしい。「まあ恒一君がそう言うなら……」とこのことにはこれ以上突っ込まないようだ。そこでひとつため息を挟み、赤沢さんは振り返り、最前列にいる女子に声をかけた。

 

「ゆかり、あなたもどう? いつも1人だし、たまには一緒に」

「……いいの? 邪魔じゃない?」

「そんなわけないじゃない。大体もうここまで大きくなったら1人や2人増えても変わらないわよ」

「じゃあお言葉に甘えて……。まあ、いつも聞き耳立ててるだけの輪に入るのも、たまには悪くないかもね」

 

 そう言いつつ、一旦開けかけた弁当箱を持って、彼女は近づいてきた。……だがちょっと待ってほしい。今桜木さんは「聞き耳立ててるだけ」と言った。つまり、普段から話を盗み聞き……というわけではないだろうが、話をこっそり小耳には入れている、ということだろう。確か「表向きの委員長は桜木さんで裏の支配者は赤沢さん」というようなことを勅使河原は言っていた気がする。だがさっきの物言いから深読みすれば、そんな風に思わせておいてその実、裏の裏(・・・)、つまりやはりこのクラスを仕切っているのは桜木さん、という構図なのではないだろうか、などと思ってしまう。

 僕がそんなことを考え込んでいるせいで難しい顔になっていたからか、はたまたその心中まで実は見抜かれていたか。桜木さんは僕に微笑みかけながら近づいていた。

 

「じゃあ泉美に誘ってもらったし……。お邪魔しますね」

「風見! お前も1人じゃなくてこっち来て一緒に食えよ!」

 

 その桜木さんの隣、1人で食べようとしていた風見君に勅使河原は声をかける。何を隠そう、彼は桜木さんが呼ばれたときにこっちを気にしていたようだった。見た目は渋々と、だが本心では喜んでであろう、ゆっくりと立ち上がった。

 

「あれ? 僕の席……。なんで皆榊原君の周りに集まってるの?」

 

 その時聞こえてきたのはいつの間にか席を占領されている僕の隣の望月君だった。別な場所で昼食、というわけでなく何か用事で席を空けていたらしい。

 

「ああ、赤沢がサカキと一緒に飯食うってなったらこの大騒動だ。……ってか、昼飯も食わずにお前どこ行ってたんだ? 愛しの三神先生のところか?」

「えっ!? どうしてわかっ……。い、いや、そんなことはいいから! 僕どうすればいいの?」

「入っちまえよ。椅子は王子のところからでも持って来い。あいつ猿田とどっか行ったみたいだし」

 

 ……勅使河原じゃないけど本当に大騒動だ。クラスの半分ぐらい来てる気がする。改めて確認してみよう。

 まずは僕を中心として、右隣に見崎、それから杉浦さん、赤沢さん、中尾君、綾野さん。その右脇には一応小椋さんがいるけど、有田さんと中島さんと話してるし、赤沢さんに誘われたからとりあえずいる、という形らしい。さらに僕の左隣には遅れてきたはずなのに勅使河原が鎮座し、さらに風見君と望月君という編成だ。……本当に半分いるんじゃないか、これ。

 

「じゃあ……。なんだか大ごとになっちゃった感じもあるけど早いところ食べま……ってちょっと見崎さん!? あなた協調性って言葉知ってる!?」

 

 赤沢さんの言葉に僕の右隣に目を移すと、既に見崎はコンビニのおにぎりの包みを外しているところだった。マイペースと言うか、空気を読まないというか……。

 

「のれんに腕押しだって、泉美。この子じゃないけど、さっさと食べましょ」

 

 そういうと杉浦さんも弁当箱を開け始めた。赤沢さんも諦めた様子で大きくため息をこぼす。

 

「……じゃあもう各自勝手に食べて勝手に話すってことで。はいいただきます」

 

 最後の方は投げやりだった。見た目少し豪華に見える弁当箱を彼女が開ける。やはり中身もそれなりに豪華だった。僕の弁当よりも数品、おかずが多い。

 ……などと他人のお弁当を眺めていても仕方がない。僕も自分のものを食べることにして蓋を開ける。今日はアスパラのペーコン巻きとブロッコリー、冷凍食品の白身魚のフライにきんぴらごぼうとお約束の卵焼きだ。今日はちょっと気合を入れたのでフライ以外は手製である。きんぴらは多めに作って朝食にも出してもらった。実は怜子さんから「おいしい」と太鼓判をもらっている。

 赤沢さんはそんな僕の弁当をまじまじと見つめていた。何度か一緒に食べたこともあるのに、今日は特に見てきている気がする。

 

「えっと……赤沢さん。僕のお弁当、何か変かな……?」

「ううん、全然。ただ、おいしそうだな、って思って……」

「おいしいよ。しかも自分で作ってるんだって」

 

 その声に、場の全員が声の主へと目を移した。発言したのはてっきりずっと黙り込んだままでいると思っていた見崎。「なんであんたが味まで知ってるのよ」と言いたげな表情で赤沢さんは彼女を見た後、今度は僕の方へ視線を移してきた。

 

「恒一君」

「な、何?」

「今見崎さんが言ったこと本当?」

「おいしいかはわからないけど……。今日のだと、フライ以外は一応僕が作ったよ」

 

 へえー、とかほおー、とか周りから声が上がる。……やっぱりこの年で弁当を作ってる男子って珍しいんだろうな。

 

「……是非食べてみたいんだけど、いいかしら?」

「あ、じゃあ卵焼きを。一番自信あるのはこれだから」

 

 正直言うと、こうなるのはある程度予想できた。だから今日は卵焼きを普段より多めに作ってある。……大体倍ぐらい。だから、さっき赤沢さんにまじまじと見られたのだろうとも思うわけだが。

 

「じゃあ遠慮なく……」

 

 赤沢さんはひょいと箸で卵焼きを一切れ掴んだ。「んじゃ俺も!」とか言って隣から勅使河原もさりげなく持って行く。

 

「おいしい……!」

「ほんとだ、うめえ! サカキ、お前すげえな!」

 

 褒められたのは素直に嬉しい。が、この後の勅使河原を見張っておかないと僕のおかずを全部持っていかれそうだったので、愛想笑いを返しつつ、僕は手元に自分の弁当箱を戻そうとした。が、刺客は意外なところにも潜んでいた。まず綾野さんが「じゃあ私も」なんて言って一切れ、「せっかくなんで」とか言って桜木さんも一切れ。たしか8切れ分作ったはずだから半分残ればいいかと思って手元に寄せると、なぜか3切れしか残っていない。赤沢さん、勅使河原、桜木さん、綾野さん。4切れ残るはずだ、計算が合わない。あれ、と思って辺りを見渡すと、いつ取ったか気づかなかったが、杉浦さんも卵焼きを頬張るところだった。食べたところで無言の無表情でこちらに左の親指を立ててくる。意外すぎる行動だったが、おいしい、という意思表示らしい。まあそれは嬉しいのだが……。

 

「サカキ、もう一切れくれよ!」

「じゃあ僕も……」

「あ、僕も食べてみたい」

 

 手元に弁当箱を戻したところで勅使河原、風見、望月と言う3連打を受け、僕の卵焼きは自分の口に運ばれることなく全滅してしまった。さらば、僕の自信作……。今日は味の出来を確認できなかった……。

 

「榊原君って料理も出来るんですね」

「おいしいよ、こういっちゃん。明日から毎日私のためにおかず作ってもらいたいぐらい」

「……皆そこまで言うなら私もさっき取るんだったかな」

 

 ここまで有田さんと中島さんと話してた小椋さんまでそんな風に言い出した。女子陣に褒められて嬉しいが、この流れ、もしかして僕の食べるおかずがなくなるんじゃ……。

 

「安心しろ小椋、こいつのおかずまだ残ってるから」

 

 ほら来た。言い出したのは言うまでもなく勅使河原だ。勘弁してほしい、僕の昼食がご飯だけになってしまう。

 

「勅使河原、お前は加減とか自重と言う言葉を覚えた方がいい。榊原君が食べる分のおかずがなくなるだろう」

「……とか言いつつ、お前だって卵焼き取ってたじゃねえか」

「二切れも持っていった奴に言われたくない」

 

 まあ僕から言わせてもらえば五十歩百歩なんですけどね。それでも評判がよかったからよしとしよう。幸いこれ以後のおかずは死守できそうだ。これだけあれば昼食を済ませられるだろう。

 

「ねえ恒一君、なんでそんなに料理上手なの?」

 

 残ったおかずを食べつつ、ご飯を口に運ぶ僕に赤沢さんが興味津々と言った様子で尋ねてきた。

 

「前にいた学校で料理研究部だったんだ」

「へえ。料理、好きなの?」

「特別そういうわけでもないんだけど……。両親がいないことが以前から多かったから、食べる時1人でも困らないようにって」

「しっかりしてるんですね、榊原君」

 

 その桜木さんの言葉は否定したかったが、さすがに「親への当て付けという意味もある」とは言い出せなかった。まあ最初はそんなきっかけだったが、実際最近は料理すること自体楽しいと思えている。そういう意味で言うと赤沢さんに言われた質問の答えはイエス、になるわけだ。

 

「恒一君は……料理が出来る女の子の方が……好み、かな……?」

 

 と、不意に赤沢さんがそんなことを尋ねてきた。どこかばつが悪そうに視線が宙を泳いでいる。

 

「うーん……。どうだろう……。でも共通の話題で盛り上がることは出来そうだよね」

「そ、そうよね。……そうか……料理か……」

 

 何やら彼女はブツブツとつぶやき始めてしまった。それを右肘で小突いた杉浦さんが一言。

 

「……泉美、ない袖は振れない、って言葉知ってる?」

 

 ……やはり辛辣だ。要するに彼女は「あなたには無理」と言ったわけだ。それを聞いた赤沢さんは目をキリキリと釣り上げ、杉浦さんに食ってかかる。

 

「ちょっと多佳子、あなた私には無理だって言いたいの!?」

「お嬢様はお嬢様らしくしてなさい、ってこと。高嶺の花というのは摘めないもの、そしてあなた自身が高嶺の花なのだから下界に下りる必要はないのよ」

「でも……無理が通れば道理引っ込む、と言う言葉もあるから。泉美、頑張るだけ頑張ってみたら」

「そ、そっか……。ありがと、ゆかり。うん、やってみる……」

 

 ああ、赤沢さんはその言葉の意味をわかってなかったらしい。それは「間違ったことが推し進められると正しいことが行われなくなる」という意味合いで、一見フォローしているようで全く関係ないことわざのはず。というか、深読みすると「あなたの料理がおいしいと思われるぐらいなら、この世界の料理は全ておいしいってことになる」なんていう風にも取れてしまう。なんとも怖ろしいことをさらっと言う人だ。

 

「……桜木さん、それ使い方間違ってる」

「あら、そうだった? 無理、って言葉を聞いて真っ先に思い浮かんだのを言っただけだったから」

 

 そう言うと彼女は杉浦さんの鋭い視線を気にもかけない様子でうふふと笑って誤魔化した。……ああやってさらりと交わされてしまってはどこまで本気だったか全然わからない。やはり裏がある人なのだろうか。もしかしたらこの人と付き合うのは……大変なことになるかもしれないよ、と心の中で風見君に忠告しておく。まあ聞こえるはずもないし、僕の考えすぎの線もある。結局は彼自身が決めることか、というところに落ち着いた。

 

 そんなことを思いつつ、僕は右隣の見崎にふと目を移した。彼女はおにぎりを1つ食べ終え、飲み物に手をつけるところだった。だがコンビニの袋はもう中身がないように見える。

 

「見崎……お昼おにぎり1つだけ?」

 

 僕の問いかけに彼女は無言でコクリと頷く。

 

「小食なの。……昨日も言ったかもしれないけど」

 

 いくら小食、と言ってもおにぎり1つじゃお腹がもたないんじゃないかとも思ってしまう。何かおかずを分けてあげたいところだが、生憎こちらも自分の分がかかっていてそれも難しい。というか彼女は箸を持っていないわけだから、分けるとなると昨日のように食べさせてあげる、という形になってしまうだろう。この状況でそれはあらぬ誤解を招きかねない。

 小食と言っているしいいか、と思うと同時に、僕に振られる話題もひと段落ついたようだったので、とりあえず自分のお弁当を食べ進めることにした。が、見崎の方を見ていて気づいたが、さっきまで桜木さんに突っ込みを入れていた杉浦さんが今度は見崎の方をじっと見つめている。別に怖いわけではないが、あの無表情で見られるのは……何か悪いことをしてしまっただろうか、みたいな気分に僕はなってしまう。見崎は気にしていないのだろうか……。

 

「……何? さっきから私のことをじっと見て」

 

 見崎もその視線には気づいているようだった。僅かに首を動かし、眼帯をしていない右の目で杉浦さんと視線を交錯させる。

 

「気に障るようだったら先に謝るけど、見崎さん、あなたその眼帯はいつから?」

「……小さい時よ。悪性の腫瘍で」

「そう……。実はずっと気になってて、小学校の時……私とは違うクラスだったけど、あなたとそっくりだった人を校内で見かけたことがあったの。でも5年生の時かな、その人は転校したらしくて。あなたじゃないのかな、とは思いつつも、でも眼帯はつけていなかったしどうなんだろう、って気になってたの」

 

 なぜか、見崎はクスッと小さく笑ったようだった。そして左目の眼帯を一度撫でてから答える。

 

「……それ、私のドッペルゲンガーだったんじゃない?」

 

 また始まったかな……とある程度慣れっこの僕はそう思えたが、彼女とあまり親交のない人々にとってはどうやら全く予想できなかった展開だったようだ。皆が固まってしまっている。

 

「知ってる? ドッペルゲンガーって、見てしまうと悪いことが起きるらしいよ……」

 

 再び見崎がうそぶいてみせる。空気も固まってしまっているし、ここはひとつ僕が誤解を解いておいた方がいいかもしれないと、口を開きかけた時。言われた当の本人、杉浦さんの口からため息がこぼれるのを確認した。

 

「……その迷信を言うなら、本人とドッペルゲンガーが出会うと命を落とす、でしょう。そうじゃなくてもこの世界には似ている人間が3人はいるって言うし。……ドッペルゲンガーなんて言い出したってことはあなたじゃなくて違う人、要するに他人の空似ってことね。それがわかっただけでも少しすっきりしたわ、ありがとう」

 

 そうあっさりと言うと、杉浦さんは見崎への興味を無くしたかのようにお弁当と向き合った。当の見崎は僕にかろうじて聞こえる程度の小声で「……つまんない」とだけボソッと呟く。やっぱり面白がっていっていたのか……。

 と、そこで「……ジャキガン系か」と小声で呟いた声が聞こえてきた。聞こえてきた方向、その声から今のは小椋さんだったと思う。だが「ジャキガン」とは一体なんだろうか。尋ねたいところだが、彼女とはあまり面識がないために、どうにも声をかけにくい。他に聞いていた誰かが突っ込むだろうと期待したが、残念なことに誰にも聞こえてなかったらしい。まあいいかと、深く考えないことにして僕は弁当を食べ進めることにした。

 

「……ねえ、恒一君」

 

 そして四方山話をしつつ昼休みも過ぎ、僕の弁当の中身もようやくなくなってきた頃、改めて赤沢さんは僕のことを呼んだ。さっき料理関係の話になった時のように、視線が宙を泳ぎ気味だ。

 

「その……。今度、お弁当を作るの挑戦してみようと思うの。もしその時よかったら、だけど……食べてもらってアドバイスとかほしいんだけど……いい?」

 

 あれだけ杉浦さんに言われたのにやる気は十分らしい。ならそのやる気を削ぐようなことを僕が言うわけにもいかないだろう。頷いて了承の意思を示した。

 

「うん、いいよ。僕に出来る範囲でいいなら」

 

 それを聞いて彼女はパッと表情を明るくした。以前も思ったが、感情をダイレクトに表情に出すな、と思う。演劇部の影響なのだろうか。一方で同じく演劇部であるはずなのに「喜」か「楽」の表情しか見せたことのない綾野さんが、やはりその「楽」の方の表情、つまりニヤニヤしつつ僕に語りかけてきた。

 

「こういっちゃん、まずい時ははっきりとまずい、才能がないって言ってあげなよ。その方が泉美も諦めがつくだろうから」

「ちょっと、綾野!」

「せいぜいない袖を振ることね」

「多佳子まで! ……もう、やってやろうじゃないの! 無理が通って道理を引っ込めてやるわよ!」

「……だからそれ意味完全に間違ってるって」

 

 冷静な杉浦さんの突っ込みも今の赤沢さんには聞こえないようだ。そんな様子に、大笑いしてる勅使河原をはじめとして、今日集まって昼食を食べた人達は皆笑っている。見崎は、と様子を窺うと声には出していないようだったが、表情を僅かに緩めてはいるようだった。

 

 結局、今日の昼休みはあまり見崎とは話せなかった。だがたまにはクラスの皆とこんな風に騒ぎながら食べる昼食というのもいいかもしれない。赤沢さんの手料理は……周囲のあの反応の様子じゃはっきり言って期待出来そうにはないが、作ってきたらそれにかこつけてまたこうして食べることになるだろう。それも悪くない。

 なんだかんだ、転校してきてもうすぐ1ヶ月になる。そこでこうしてクラスに馴染めていることにどこかホッとしつつ、優しくしてくれているクラスの皆に、僕は感謝せずにはいられなかった。

 



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#13

 

 

 6月になった。やはりこの季節はどうしても好きになれない。湿気は多いし雨の日も増える。かくいう今日も朝から小雨気味だ。だが、今頃勅使河原辺りは「衣替えだ!」とか言って薄着になった女子を見てきっと喜んでいることだろう。

 きっと、というのは今日は彼と顔を合わせていないからだった。と、いうより、僕は今日学校を休んでいる。今いる場所は学校ではない。かつて入院していた市立病院である。

 別に気胸が再発した、というわけではない。今日は退院してからほぼ1ヶ月ということでどういう具合なのか再検査の日だった。検査の予約をした時間は11時。外来は午前しか予約を受け付けていないことに加えて、そこそこ患者の多い病院ということで仕方のないこととはいえ、なんでこんな中途半端な時間しか空いていなかったのだろうかとも思う。おかげで病院の前に登校してもよくて2限まで、終わる時間次第だが、その後登校してもおそらく5限と6限しか出られない。しかも6限は体育と来ている。行ったところで見学するしかなく、そのことで昨日はどうしたものかと頭を悩ませていた。

 

 そこで助言をくれたのは、いい具合にビールを飲んで酔いの回った怜子さんだった。僕の悩みを打ち明けると、あの人はあっさりと一笑に付してしまった。

 

「恒一君は真面目すぎるのよ。もっと抜くところは抜かないと、肺だけじゃなくて体までパンクしちゃうわよ?」

「そう……ですかね?」

「私だったらもう検査にかこつけて1日休んじゃうけどな。テストの成績も問題ないんだし、休養だと思えばいいじゃない?」

「いや、まあそうは言いますが……」

「大体最後の6限目が体育で見学確定なんでしょ? なら午後行く必要は無し。で、1限目は美術だっけ? それこそ休んだって問題ないし、その後いられてもせいぜい2限目までなんだったら、別に午前も行かなくていいじゃない」

 

 怜子さんにそうはっきりと言われてしまっては、どうも言い返すことが出来なかった。確かにテストの成績は特に問題なかった。言われた通りに休養として考えてしまっていいのかもしれない。

 そんなわけで結局僕は1日学校を休むことにした。普段より遅く家を出るとなんだかサボっているようで当初は良心が咎めたが、病院に着くと「まあしょうがないか」なんて気持ちが浮かんできて、結局自己を正当化することで誤魔化してしまった。そうじゃなくてもこれから面倒な検査があれこれあるわけだ。その前に待ち時間もある。見れば今日は随分と患者さんの数も多そうだ。これはもしかしたら予定時刻に検査を始めてもらえないかもしれないなと先行きに不安を覚えつつ、僕は受付を済ませることにした。

 

 

 

 

 

 なぜか、僕の嫌な予感というものはやけに当たる気がする。そんな嫌な予感どおり、検査は予定時刻にははじまる気配はなく、僕の前にまだ数人待っているような状況だった。

 

「ごめんなさいね。緊急の患者さんが入っちゃって……。結構時間押しちゃうかもしれません」

 

 水野さんではなかったが、看護婦さんにそう頭を下げられ、まあ仕方ないかと僕はとりあえず待つことにした。

 が、結局検査を一通り終え、「5日後に結果が出ますので、また今日と同じ時間に来てください」と言われて会計を済ませたのは昼時も過ぎ、13時を回った頃になっていた。

 いい加減お腹が減った。帰りに適当なところで食べるか家で食べるか迷いつつ、これなら今日1日休みという連絡を入れておいて正解だったとも思うのだった。

 

 そんな余計なことを考えながらだったからだろう。病院の廊下、その角を女の子が曲がってきたことに気づくのが一瞬遅れた。あっ、と思ったときにはもう遅く、僕とその子は正面から衝突してしまった。

 

「わっ……!」

「きゃっ……!」

 

 ぶつかった、と認識した時にはもう互いに尻餅をついてしまっていた。幸運だったのは女の子の身長が僕より結構低かったことだろう。顔面同士がぶつかってしまっていたら、病院の中で怪我をしたなんて馬鹿げた事態になっていたかもしれない。いや、安心するのはまだ早い。もし外科系の患者さんだったら今ので怪我が悪化、なんてことにもなりかねない。

 

「ごめんなさい! 大丈夫で……」

 

 だが、そんな心配より先に出てきたのは驚きの感情だった。そのために僕は思わず言葉を切り、彼女の顔をまじまじと見つめてしまっていた。

 

「いったぁ……。あ、こっちこそごめんなさい。大丈夫、なんともないですよ」

 

 そう言われて本来は安心していいはずなのに、僕の心は完全に上の空だった。そして彼女の方も僕がずっと呆けていたことに気づいたらしい。

 

「あの……そちらこそ大丈夫ですか……?」

「見崎……」

「えっ……?」

 

 無意識のうちに僕はそう口からこぼしていた。が、こぼすと同時に何を言っているんだという自責の念が襲ってくる。

 確かに目の前の彼女は見崎鳴によく似ていた。だがその両目は同じ色、かつて見たような翡翠の義眼ではない。他人の空似にしても似すぎと思いつつ、一先ずもう一度謝って誤解だけは解いておこうと僕が口を開きかけたその時――。

 

 見崎に似た彼女は、思いも寄らない一言を口にした。

 

「どうして……私の名前(・・)を知ってるの……?」

 

 

 

 

 

「ここだよ、私の病室」

 

 そう言って彼女――ついさっき僕とぶつかった女の子が案内してくれたのは4階にある405号室だった。ここに来るまでに軽くではあるが彼女と話し、そうしたところ「もっと話が聞きたい」と言って僕を自分の病室に案内してくれたのだ。

 彼女の名は藤岡未咲。そう、僕は見崎という苗字(・・)を思わず口走っていたつもりが、意図せず彼女の名前(・・)を呼んだことになってしまったらしい。しかも驚くことに彼女は見崎のいとこだという。

 そういえば先日、昼食を食べている時に杉浦さんが見崎に色々聞いていたことを思い出した。あの時彼女は「ドッペルゲンガー」なんてことを言っていたが、もしかしたら杉浦さんが昔見たことがある見崎に似た女の子というのは、目の前の彼女のことかもしれない、とふと思った。

 

 それにしても名前と苗字がこうも奇妙に一致、それもいとこ同士とはいえここまで似ているなんてことがそうそうあるものだろうかと僕は思っていた。見崎が言ったとおり「ドッペルペンガー」なんて言葉がどうにもしっくりきてしまう。

 そうして招き入れてもらった病室、そこには人形が飾ってあった。お世辞にもかわいらしいとは言えない、女の子が好きそうなファンシーな風体とは真逆の、精巧でどこか不気味にも見えなくはない人形。その中の1つに僕は見覚えがあった。僕が見崎と初めてエレベーターの中で会ったとき、彼女が持っていた人形に他ならなかった。そもそもあの時、彼女が降りたのは4階だ。そこで改めて、間違いなく彼女は見崎鳴と知り合いであると思うのだった。

 

「それで……榊原君、だっけ?」

「うん、榊原恒一だよ」

「鳴とはどういう関係? まさか……恋人とか?」

 

 クスクスッと笑いながらそう問いかけてくる藤岡さんは、なんだか見崎を明るくして性格を真逆にしたような印象だった。普段見ている見崎とのギャップを感じつつ、僕は苦笑を浮かべてその問いに答える。

 

「クラスが一緒なんだ。実は僕もここに前入院してて、その時見崎に偶然会って……」

「え!? そうだったの? ちなみに……何の病気?」

「自然気胸。肺がパンクしちゃう病気、ってところかな。前1回やってて、それが再発した感じ」

 

 うーん、と藤岡さんはしばらく唸った後「……わかんない!」とあっさり答えた。この辺りも見崎と似た容姿なのにギャップが凄まじい。頭の中で補正するのが大変だ。

 

「でも退院できたんでしょ?」

「お陰様で。1週間ぐらい入院した後退院できたよ。丁度1ヶ月前かな」

 

 そこまで答えたところで、見崎がその時に人形を持ってきているということは藤岡さんはその時からずっと入院しているのではないか、ということにようやく気づいた。だとすると重い病気なのかもしれない。

 

「そっか。いいなあ、退院できて。……私の場合すぐに退院、ってはいかないから」

「そうなの?」

 

 あくまで、直接的に病名は聞かないようにする。なんだか誘導尋問をしているようで嫌な気分もあったが、やはり直接聞くのはどうにも悪い気がしたからだ。

 

「うん。白血病だからね……」

 

 その病名を聞いて思わず僕は言葉を失った。予想していたより重病だった。明るく振舞う彼女からは全く想像できなかったのだ。

 

「あ、でももうそろそろ退院の目処が立ちそうだって。早ければ今月中には退院できるかも、って言われたの。医学の進歩って凄いよね」

「そっか……。よかった……」

 

 思わず自分のことのように僕はホッとため息をこぼした。それを見ていた藤岡さんが小さくクスッと笑う。

 

「え……? なんで笑うの?」

「だって……。私達今日、っていうか今さっき初めて会ったんだよ? なのに榊原君ったら、私のことなのにそんな感慨深いため息をこぼすから……」

「そう……だね。変かな?」

「うーん、ちょっと変わってるかも」

 

 なんと言うことだ。見崎だけでなく「未咲」からも変わってると言われてしまった。これで僕も晴れて「変わり者の多い3年3組」の仲間入り確定、と言ったところだろうか。

 

「でも……嬉しいかな。鳴も私のことを自分のことのように心配してくれたし、こんなに思ってくれる人がいるって、私って幸せなんだなって思うの。病気も白血病ではあるけど、化学療法だったかな? 治療が効果的に効いていい方向に向かってるみたいだし。……ああ、そういえば私が白血病だって言った時、鳴ってば『私の骨髄を使って』って言ってきたんだっけ。……確かに鳴からもらうのが1番だっていうのはわかってたけど、あの子も無茶言うよね」

 

 そう言うと藤岡さんは少し目を細めた。ここまで話を聞いて、僕はようやく見崎が彼女を「半身」と言った意味がわかった。見崎は心から藤岡さんのことを心配している。だから大袈裟でもなんでもなく、「かわいそうな半身」とあの時に言ったのだ。クラスでは人目を避けるように、誰とも接しようとしなかった見崎とは思えない、意外な一面を見たようにも感じていた。

 

「……なんかごめんね、ちょっと暗い感じにしちゃって。……あ、そうだ。今度は榊原君の方から話してよ。鳴が学校でどんななのか、とか、あと榊原君のこととか」

「見崎が学校でどんなか、ねえ……」

 

 まさか「ついこの間まで本当に幽霊だと思ってたよ」と言うわけにもいかない。かといってクラスメイトとあまり接しようとしていない、何てことを言ったら藤岡さんが心配し始めてしまうかもしれない。仕方ない、ここは当たり障りのない僕自身の話でもしようかと思った、その時だった。

 

 不意に、ドアがノックされた。個室だからということで思わず病室にまでお邪魔して話しこんでしまったが、よくよく考えれば、いや考えなくてもここは病院だ。検温やら何やらがあるだろう。あまり長居するのも悪いかと、入ってくる人に合わせて僕はお(いとま)しようかと考えていた。

 

「未咲? 入る……よ……」

 

 だが、その訪問者はどうやら僕を帰してくれそうになかった。この部屋の入り口を開けた彼女(・・)は僕の顔を見るなり固まった。それはそうだろう。僕だってまさかこのタイミングで彼女が登場するとは思ってもいなかった。

 

「お! グッドタイミング!」

 

 だが藤岡さんだけはどこか楽しそうにそう言った。その彼女と瓜二つの、だが眼帯を左目にかけた少女――見崎鳴は怪訝そうに僕を見つめ、後ろ手に扉を閉めながらゆっくりと口を開く。

 

「……どうして榊原君がここにいるの?」

「今日退院後の定期検査だったんだ。それで学校を休んだんだよ。その後終わって帰ろうとしたところでたまたま藤岡さんとぶつかって……」

「びっくりしたよ。『ミサキ』って、いきなり名前呼ばれたんだもん」

 

 何が面白いのか、藤岡さんはずっと笑顔だった。対称的に見崎はあくまで普段通りの無表情のまま病室の奥の椅子へと腰を下ろした。

 

「さてさて、役者は揃った、というところですかな」

 

 やはり藤岡さんはニヤニヤとしている。何やらよからぬことを考えているんじゃないかと思い、場の空気を誤魔化すように辺りを見渡したところで、僕は目に入ってきた時計におやっと思った。

 

「……見崎、ちょっと来るの早すぎない?」

「何が?」

「だってこの時間……まだ6限目中のはずじゃ……」

「あーっ! 鳴ってばまた学校抜け出してきたの!?」

 

 今確かに「また」と言った。ということはこれは今に始まったことじゃない、というわけだ。

 

「……6限目は体育。どうせ私は見学だから、いてもいなくても一緒」

「あ、そうか……。って、帰りのホームルームとかは?」

「いいの。久保寺先生、その辺りは寛大だから」

 

 先生、完全に生徒に舐められてます。一発バシッと言ってやってください。ああ、それが無理なら桜木さんか赤沢さん辺りに頼むのもいいかもしれない。特に赤沢さんは「対策係」らしいから、きっと対応してくれるだろう。

 てっきり真面目だとばかり思っていたが、見崎の意外な不真面目な一面を見て僕は思わずため息をこぼす。……いや、よく考えたら体育の時にちゃんと見学してなかったからそこまで真面目でもないのか。

 と、その時、ベッドの上から僕のため息を見つめる視線に気がついた。……なんだか嫌な予感がする。そして、僕の嫌な予感は今日もそうだったように割と当たるのだ。

 

「……ところで鳴、前置き無しでズバッと聞くけど、ズバリ榊原君とはどういう関係?」

 

 ああ、やっぱり当たったかと思わず僕は苦笑を浮かべた。さっきそれらしい質問をしてきたのもあってもしかしたら、とは思っていた。この年頃の女子はそういう話題がどうも好きらしい。そして藤岡さんもその例に漏れていなかった、というわけだ。

 僕は答えず見崎の方に回答権を投げる。さっきもう答えたから、というのが半分、見崎はどう思ってるのか気になったから、というのが残り半分の理由だった。

 

「別に。ただのクラスメイト。それもちょっと変わってる」

 

 即答。加えるなら少し早口でまくし立て気味にあっさりと言い放たれた。別に過剰な期待をするつもりは毛頭なかったが……。見崎、いくら僕でもそれは少し傷つくかも……。

 

「あらら。こりゃ全然脈無しかな。期待が外れちゃった。ドンマイ、榊原君」

 

 藤岡さんは全く悪びれた様子もなく、あっさりとそう言った。仮にも男子としてこれは少々ショックを受けざるを得ない。あまり効果はないだろうとわかりつつも、肩を落として見せて「ちょっと凹みましたよ」と一応アピールしてみせる。だが意外なことに、効果なしと見込んだ僕の予想とは裏腹、見崎はひとつため息をこぼすと明らかに僕から視線を逸らして独り言のようにボソッと呟いた。

 

「……ま、いい人だし面白い人だとは思うけど、ね」

 

 本人としてはフォローのつもりだったのだろう。だがその「面白い」を素直に言葉のまま果たして受け取っていいのだろうか。僕が悩んでいる一方、藤岡さんは愉快そうにクスッと笑っていた。

 

「……前言撤回。まあそこそこ仲良くやってるみたいね。鳴、学校のこととかあまり話そうとしないから、うまくやっていけてるのかちょっと心配だったの」

「未咲が心配することじゃないよ。それに……未咲は私のことより自分の体のことを気にかけないと」

「そうは言うけどさ。ここにいてもつまんないんだもん。……榊原君がここに入院してたんならもっと早くに出会えてればよかった」

「いや……。その時僕はまだ学校に行ってなかったわけで、見崎との面識もなかったから、仮に廊下ですれ違っても全然知らない人、で終わっちゃったんじゃないかな……」

「もうー! 榊原君ってば夢がない! ねえ鳴、本当に面白い人なの?」

 

 そう言われても困る。自分自身、「面白い」なんて自覚したことは基本ないわけで、あくまで見崎の感性でそう言ったのだから、弁解は彼女にしてもらいたい。

 

「……さあ? 私は面白いと思ったけど、ね」

 

 喜ぶべきか、悲しむべきか。どう反応したらいいかもわからないので、僕は愛想笑いを張り付けて誤魔化すことにした。そんな僕の笑いにつられてか、藤岡さんもクスクスッと笑い出す。そして連鎖的に見崎も小さく笑いをこぼしていた。

 

 と、そこで再び不意にドアがノックされた。開いた扉の先には看護婦さんが体温計を片手に姿を見せている。

 

「藤岡さん、検温の時間です。……あら、今日は随分賑やかだったのね」

 

 来た看護婦さんが水野さんじゃなくてよかったとちょっと思ってしまった。あの人がここに来たら間違いなくからかわれていたところだろう。

 その時見崎が座っていた椅子から腰を上げた。少し早い気もするが、おそらく帰るのだろう。頃合もいい、僕もそれに合わせようかと思った。

 

「あれ……。鳴、もう帰っちゃうの?」

 

 どこか寂しそうに藤岡さんは見崎にそう問いかける。

 

「丁度いいタイミングだし、あまり長居しちゃ悪いしね。それに……私より先に榊原君が来ていたんなら、彼と話して大分気晴らしになったんじゃない?」

「まあ……それはそうだけど……」

「またすぐ来るから。それに、未咲ももうすぐ退院だろうし、そうしたら約束通り遊園地に行こう」

「あ、覚えててくれたんだ。……そうだ、その時榊原君も一緒に、ってのはどう?」

 

 一瞬、見崎はチラリと僕の方を見た。状況を把握できていないので僕は首を傾げるしかなかったが、何やら見崎はそれで納得したらしい。

 

「……未咲がその方が良いっていうなら、ね。榊原君の方には後で私から詳しく言っておくから」

「うん、わかった。その方がきっと楽しいだろうし。……じゃあ鳴、今日も来てくれてありがとう。あと、榊原君も」

「あ、うん。じゃあお大事に」

 

 見崎は僕より先に扉の方へ歩いて行く。僕もそれに続き部屋を出ようとしたところで「あ、榊原君」と藤岡さんに呼び止められ、顔を彼女の方に向けた。何やら彼女はニヤつきながら僕を手招きしている。なんだろうと思って近寄ると、腕を掴まれてぐいっと顔を彼女の耳元にまで寄せられた。

 

「ちょっ……。藤岡さん……」

「榊原君、さっき、鳴は君の事を『ただのクラスメイト』とか言ったけど、異性関係であんな反応の鳴を見たの、実は初めてなの」

 

 小声で、入り口の付近の見崎に聞こえないように彼女は僕の耳に囁きかける。

 

「さっきはあの子の手前、『脈ない』とか言ったけど……。私のカンだと、多分脈ありだと思うから。だから頑張ってね、色男」

 

 そう言うと、彼女は僕の背中をバシンと叩いた。その表情には無邪気な笑顔が浮かんでいた。

 ……脈ありだって? 確かに他のクラスメイトを避け気味なはずの彼女なのに、僕にだけは普通に接してくれているのは事実だ。でもそれだけで脈ありなんだろうか?

 

「……榊原君? どうしたの?」

 

 そんな僕達2人の様子を見崎は部屋の入り口で怪訝そうに見つめていた。思わず考え込んでいた僕の反応が一瞬遅れ、とりあえず「何でもないよ」とだけ上の空で返して彼女の方へと歩いていく。

 

「そうそう、なんでもなーい。……じゃあまたね、鳴、榊原君」

 

 笑顔で手を振る彼女の表情を最後に見て、僕達は病室を後にした。が、そうしたはいいが、先に病室から出た見崎は僕のことなどまるでお構い無しにエレベーターホールのほうへと歩いて行ってしまっている。

 

「あ、ちょっと待ってよ見崎!」

 

 こういう行動をしてても脈ありと言えるのだろうか。どうも女の子のことはわからない。

 幸い、エレベーターは来ている途中だった。少し遅れて僕がエレベーターの前に着くまで彼女はそこで待つこととなり、置いていかれずにすんだ。

 

「待っててくれてもいいじゃない」

 

 僕は不満をこぼすが、彼女は何も返さない。エレベーターが到着する音がして扉が開く。中には誰も乗っていなかった。見崎が先に乗り、後から僕が乗って1階のボタンを押す。

 

「そう言えば……。君と初めて会ったのもここのエレベーターだったっけね」

 

 あの時、藤岡さんへのプレゼントであろう人形を片手に、この4階で降りていった彼女。それをふと思い出しながら僕は見崎にそう話しかける。

 

「……そう? もう忘れた」

 

 だが今日の彼女は不機嫌なのだろうか、あまり僕の話に食いついてこようとしない。なんだかちょっと寂しいような……。

 でも藤岡さんは「脈あり」とか言っていた。こんな態度を取られていて本当にあるのだろうか……。まあちょっと探りを入れてみようかな、という気分に、なぜか今日はなっていた。

 

「見崎……もしよかったらさ、どこかお店寄っていかない?」

 

 言ってからなんて古典的な誘い方だと我ながら後悔した。今時こういう誘い方があるのだろうか。だが、実のところ僕は昼食を食べ損ねている。さっきまではずっとお喋りしていたせいですっかり忘れていたが、昼食には遅すぎる時間とはいえ今現在空腹なのだ。

 

「いい。喫茶店とか入るの、あんまり好きじゃないから」

 

 しかしそんな提案はあっさりと却下されてしまった。普段の僕ならここで引き下がっただろう。だけど今日は彼女の不機嫌そうな態度が気になったというか、学校で話せなかった分もう少し話したいというか、そんな理由から諦めずに続けた。

 

「じゃあ家まで送っていくよ。見崎の家がどこだか知らないけど……」

 

 その僕の言葉に、エレベーターを降りて病院の入り口に向かって歩いていた彼女の足が止まった。そして普段通りの無表情で振り返って僕を見つめる。

 

「……榊原君、私の家、知らないの?」

「えっ……? 知らないけど……」

「ふうん……。そう、知らないんだ……」

 

 なぜかそういうと、彼女は意味ありげに僅かに笑った。そして、先ほどまで僕の誘いを断っていたとは思えない一言を口にしたのだった。

 

「じゃあ……。今から私の家……来る?」

 




未咲の病名ですが、原作、コミックス、ひょっとしたらアニメの最初の頃もかもしれないですが、腎臓病になっています。が、アニメ化された0話では白血病になっています。
ですので、これはアニメ版の0話を基にしてあります。

実のところこの辺りの辻褄合わせは少し考えたところでして、原作等ではずっと入院しているような描写があるので、「元々病気で入院していて、現象によってそれが悪化して命を落とした」という解釈が出来るのですが、アニメ版の場合突然病気になってしまったようにも見受けられます。というか、ずっと入院したままだと「鳴と未咲が一緒に遊びに行く」という0話が成り立たなくなってしまうとも思いますが。
そうなると、「そもそも現象があったから病気になって命を落とすことになったんじゃないのか」という考えも思い浮かんだのですが、彼女が入院していないと鳴が病院に来る理由がなくなってしまいますので、「病気自体は起こり得た事で、命を落としたことだけが現象の影響」と捉えることにしてあります。本文中じゃ現象関係触れられないんで、ってかそもそも存在してないので、ここでの補足ですみません。


ちなみに、少し0話ネタバレになってしまいますが、冒頭で未咲が「ものもらい」って言って鳴と対照的に右目に眼帯をしていて、最初は2人を似せるための演出だろうなとしか考えませんでした。
が、ちょっと深く考えて、実はこのものもらいは伏線でこれが原因で白血病になったのではないか、とか思ったわけです。そうなると上記の考察においても「病気になる可能性自体はあった」という理由付けになるために都合がいいですし。
しかし、医療に少し明るい友人に聞いたところ「普通に考えて順序逆じゃねえか」と言われました。「白血病で免疫力が落ちるからものもらいになって、ついでに自力じゃ治せなくなるんだから、少なくともものもらいが原因で白血病はないだろ」とからしいです。ちょっとうろ覚えですが……。
ですので、あれはあくまで眼帯をつけることで鳴と対照的に描くための演出に過ぎなかった、ということになるらしいです。


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#14

 

 

 女子の家に行く。それは僕にとって未知の領域だった。まだぐずついた天気の空は小雨を降らせていたが、見崎は傘をささずに歩いている。僕も気にするほどの量ではないと同じく傘は閉じたまま持っていた。が、そんなことは今は意にも介さない。見崎の家に行く、というだけでなんだか緊張してしまっていた。

 ……まずい。なんとかこの緊張感を紛らわせたい。話でもして気を紛らわせたいところだったが、実のところ、病院を出てからあまり話していない。「今日学校はどうだった?」と聞いても「別に。普段通り」で会話は終わってしまい、それから無言の時間が続いていた。

 何か話す話題を考えていた僕の頭に、さっき藤岡さんの部屋にあった人形のことを思い出す。そういえば最初彼女に会ったときに持っていた人形の他に数体あったはず。気に入っているのだろうか。

 

「ねえ見崎」

「何」

「さっき、藤岡さんの病室に行った時……以前君が持っていた人形と同じような物が他にもあったんだけど、あれって……」

「私が持って行ったの。未咲、あの子達を『かわいい』って言って気に入ってくれてるみたいだから」

 

 ……かわいい? あれが? どうも僕には理解できない感覚だ。その辺りは見崎同様どこか変わってるのかもしれない。

 

「君と容姿は似てると思ったけど……そういう変わってるところも似てるんだね、藤岡さん」

「……『も』ってことは、私は変わってる、って言いたいの?」

「あれだけ色んなこと言っておいて自覚なし?」

「……私から言わせてもらえば、榊原君こそ変わってると思うよ」

 

 でしょうね。何せ僕は「変わり者の多い3年3組」の一員ですから。でもそれを君から言われるのは心外だな、見崎。

 まあこんな他愛無い会話でも、少し出来ただけで多少は気が紛れたのは事実だった。ようやく心に余裕が出来、一度深呼吸して辺りを見渡す。そこで、あることに気づいた。

 確かこの辺りは以前僕が見崎を追いかけてきて、彼女を見失ったところの辺りのはずだった。確か住所でいうと御先町の辺り。……そういえばその読みも「ミサキ」だ。つくづく今日は「ミサキ」に縁のある日だと思う。

 だがそんなのはまだ驚きの序章に過ぎなかった。彼女が歩いていった先にあったのは「夜見のたそがれの、うつろなる蒼き瞳の。」だった。戸惑う僕を尻目に彼女は平然とお店兼展示館の扉を開ける。

 

「ちょ、ちょっと見崎……家に案内してくれるんじゃ……」

 

 僕の言葉などお構いなし、彼女は中に入るらしい。仕方ない、と僕もそれに続いた。

 

「いらっしゃ……。なんだい、鳴かい」

 

 そして、店番をしている老婆のその一言で、ようやく事態を把握した。そう、何と言うことはない、ここ(・・)が見崎の家、ということだったのだ。

 

「どうしたんだい、わざわざこっちから入ってきて。……おや、後ろの男の子は確か……」

「どうも……」

 

 そう言って僕はばつが悪そうに頭を下げることしか出来なかった。そんな僕のことなど関係ないとばかりに鳴が口を開く。

 

「クラスメイトの榊原君。以前来た時にここを気に入ってくれたみたいだから、ついでに上がっていったらって話になったの」

 

 いや、ここに興味があったのは事実だけど君の家だとはつい数十秒まで知らなかった、と抗議したかった。だがそうしても事態をややこしくするだけだろう。諦めて、僕は見崎に全部任せることにした。

 

「そうかい。鳴の友達なら、今日はお金はいいよ。館内見学ならゆっくりと見ておいき。他にお客さんもいないしねえ……」

 

 いつか聞いたようなセリフを聞き流しつつ、僕は見崎に続いた。そうだ、そういうことだったのだ。「他にお客さんもいない」とはそのままの意味だったのだ。あの時地下には見崎がいた。だが、彼女はこの家の住人であって「客」ではない。だから、店番の老婆は何もおかしなことなど言ってはいなかったのだ。

 

「今のが天根のおばあちゃん。私にとっては大叔母に当たる人ね」

 

 説明しつつ、見崎は地下への階段を降りていく。かつて見た光景と同じ、人形達の姿がそこにはあった。相変わらず空気は少しひんやりしている気がするが、以前ほどは不安を感じずにいた。あの時は「見崎鳴」という人物が本当にこの世に存在しているのか、などという、今思えば馬鹿げた考えを抱いていたからだろう。

 

「……榊原君、以前ここで会った時、こういうのも嫌いじゃない、って言ったよね?」

「あ、うん。凄く精巧な人形で……物悲しそうに見えるけど、よく出来てるっていうか……」

「未咲もね、ここを気に入ってるって。ここにある人形をかわいいって言って。以前からよく欲しいって言ったの」

 

 そうか。あの人形、似たようなものをどこかで見たことがあると思ったらここの物だったのか。見崎がこの家の住人、ということであれば納得できる。

 僕はそんな風に1人で考え込みながら人形を見つつ歩いていたが、見崎は普段から歩いているからだろうか、特に気にした様子もなく部屋の奥へとさっさと歩いていってしまった。その奥、棺の中に入った彼女そっくりの人形が一瞬目に止まる。だがやはり彼女はそれも気にしない様子でその棺のさらに後ろ、カーテンの裏側へと消えていってしまった。

 

「あ、見崎……」

 

 呼びながらカーテンをめくって、僕はあの日のカラクリを理解した。あの時、なぜ彼女はこの棺の裏側にいられたのか。そして、「たまに降りてくるのは嫌いじゃない」と言ったその言葉の意味。

 カーテンの裏にはエレベーターがあった。おそらく、上が住居になっていて、これで行き来が出来るのだろう。だとするなら、「降りてくる」というのは別に死後の世界やら天国からやら、そんな意味合いでは全くなく、単に上から降りてくる、というだけの話だったのだ。

 今になって思えば全くもって考えすぎもいいところ。見崎の思わせぶりな言動も相俟って僕の妄想と言ってもいい考えは勝手に暴走してしまっていたわけだ。あの頃の自分に「ドンマイ」と声をかけてあげたい。

 

「どうかした?」

 

 だがエレベーターに乗る彼女はそんな僕の心中など露知らず、早くしてとばかりにそう尋ねてきた。確かに君の言ったことは全部当たっているけど、もっとわかりやすく言ってくれればあの時からわかっていたのに、とも思いつつ、僕はエレベーターに乗り込んだ。とはいえ、あの時まるで幻影を追うように見崎を追いかけていたのは楽しかったのも事実だ。今更何か言うほどでもないか、と僕はため息をこぼしてそれでお終いにしようと思うのだった。

 

 エレベーターを降りてから案内された先のリビングは解放感ある近代的な造りで、今僕がお世話になっている家とは真逆と言ってもよかった。

 

「適当に座って。何か飲み物でも持ってくるから」

 

 お構いなく、ととりあえず返し、僕は手近なソファに腰を下ろした。ややあって、紅茶の缶を2本持った見崎が戻ってきた。

 

「これしかなかったから……。どっちがいい?」

「君が好きなほうを選んでいいよ」

 

 付け加えるなら一応コップに移すとかした方がいいよ、とも言いたかったが、お邪魔になっている身であれこれ言うのもどうかと黙っておくことにした。聞きたい、というか、言いたいことは他に山ほどある。

 

「……それで、榊原君は本当にここが私の家だって知らなかったの?」

 

 彼女はミルクティーのほうを選んだらしい。僕にレモンティーの缶を差し出しながら、そう問いかけてきた。

 

「知らなかったよ。つい数分前まではね」

「……てっきりわかってるものだと思ってた。あの時地下であなたを見たときびっくりしたし。追いかけてきたか、住所を調べたかしたんだとばかり」

「白状すると……。確かにあの時は君を追いかけてた。でも丁度この辺りで見失って、それでこのお店が目に入って、興味があって中に入ったんだ。……そりゃ見失うわけだよね。だってここが君の家だし」

「そういうこと。……でも私のこと追いかけてきたんだ。どうして、そこまでして? そんなに気になったの?」

 

 紅茶の缶を机に戻しつつ、見崎は右の瞳で僕を真っ直ぐ見つめてきた。なんだか、その目を見ていると彼女に嘘や誤魔化しは通じないような気がしてくる。別に今更隠すほどのことでもないか、と正直に答えることにした。

 

「そもそも君は僕に対して相当思わせぶりに振舞ってたわけでしょ? だから、元々気にはなってたよ。それに加えてあの日……。雨が降っていたのに、君は傘もさそうとせずに歩いていた。それがなんだか……不思議と気になったって言うか、良く言えばミステリアスな雰囲気で、追いかけてみたいと思ったって言うか……」

 

 僕の自白を聞いても、彼女は顔色ひとつ変えなかった。ただ、「ふうん……」と相槌を打っただけだった。もしかしたら怒っているのかもしれない、という考えが頭をよぎる。

 

「もし君を勝手に追い回したことを怒ってるなら、謝るよ」

「別に。……だけど、榊原君、やっぱり変わってるね」

 

 だが見崎はそのこと自体は別に気にした様子もなく、むしろやはり僕のことを「変わってる」と言ってきた。まあ勝手に女子を追いかけていたらどう言われても仕方ないだろう。もっと罵詈雑言をぶつけられないだけマシと言ったところだ、と自分に言い聞かせて愛想笑いで誤魔化すことにした。

 

「でもこれでわかったでしょ? ここが私の家ってこと」

「じゃあ『工房m』の『m』って……『見崎』の『m』?」

「ちょっと考えれば、わかることだと思うけど」

 

 ということは、以前話した「霧果」という人形を造っている人が彼女の親に当たるわけだ。響きから言って女性だとは思う。だがその母親を彼女は以前「あの人」と呼んでいた。見崎は、親の仕事をよく思っていないのだろうか。

 

「……それで、他に何か聞きたいことは?」

「今日も質問攻めを認めてくれるの?」

 

 少し悪戯っぽく笑って僕は返す。ひょっとしたら機嫌を損ねるかな、とも思ったが、見崎は少し面白くなさそうな表情を浮かべた後、あっさりと許可してくれた。

 

「……いいよ。じゃあ今日も特別に認めます」

 

 まったくいつぞやと同じじゃないかと僕は小さく笑いをこぼした。では遠慮なく質問をしようと思う。でもさっき思った親との関係は……あまり触れない方がよさそうな話題だ。じゃあ今日病院で出会った彼女のことを聞こうと思う。

 

「えっと……。藤岡さんと本当に仲いいんだね」

 

 だが、その話題が出るとなぜか見崎は僅かに眉をしかめて視線を机へと落とした。なぜだろう、すごく仲がいいように僕には見えたのに……。

 

「……ごめん。その話は、ここではしたくない。別な話にしてもらえる?」

「あ……。うん」

 

 何か都合が悪いのだろうか。「ここでは」と言ったが、それがどういうことだかいまひとつよくわからない。だがやめてほしいと言われたのに続けるのは申し訳がない。ひとまず無難なところに落ち着こう。

 

「じゃあ……。さっきあまり答えてもらえなかったんだけど、今日の授業、どんなだった?」

 

 少し考えた様子の彼女だったが、

 

「別に普通。いつも通り」

 

 やはりそうあっさり答えられてしまった。まあ仕方ないかとも思う。が、その後で少し考え込んだ様子で付け足してきた。

 

「……1限目の美術は望月君が浮かれてた。ま、いつものことよね。あとは3限目の英語で勅使河原君が相当酷く発音を間違えてクラス中皆笑ってたかな。……それから、赤沢さんはなんだかいつにも増して不機嫌そうだった」

 

 なんだか見崎がこれだけクラスメイトのことを話すのは意外なようにも思える。だが少し考えれば彼女も3年3組の一員なのだから当然といえば当然だ。

 

「もし授業のノートを借りたい、っていうなら私じゃない人から借りて。私はノート適当にしか取ってないし、その方がいいと思う。桜木さんとかまとめるの上手だから。あるいは風見君とか」

 

 まさか病院であんな流れから見崎に会うとは思ってもいなかったから、学校に持って行くような物は何も持ってきていない。もし見崎の家に行く、とわかっていたら持ってきてノートを写させてもらうのもよかったが、本人が拒否している以上、それも無理と言う話だったのだろう。

 

「桜木さんはノート上手くまとめてそうだよね」

「この前休んでてコピーを借してもらった時、すごく丁寧にまとまってた。さすが学年トップクラスの成績だと感心しちゃった」

 

 そういえば以前ノートを貸してもらったと言っていた気がする。届けたのは赤沢さんという話だったっけ。そのノートのお陰で随分学校を休んでも何事も無くテストを乗り越えられた、というわけか。

 

 見崎が机の上の紅茶に手を伸ばす。僕もそれに合わせて缶の中身を喉に流し込んだ。話はひと段落、次は何か話題を変えようかと思う。

 

「他に何か……」

 

 彼女も僕と同じに思ったらしく、そう切り出したその時。部屋の扉が開いた。

 

「鳴? 帰ってきてるの?」

 

 そこに立っていたのは女性だった。頭から外したバンダナと何やら作業着らしいその格好から、この人がここの工房で人形を造っている霧果さんに違いないのだろう。

 

「お母さん」

 

 そして見崎がその人を「母」と呼んだことで、僕の予想は当たっていたとわかった。僕は立ち上がって「お邪魔してます」と頭を下げる。

 

「あら、珍しいわね、鳴が誰かを連れてきて、しかも男の子なんて。クラスのお友達? それとも部活動の……」

「クラスメイトの榊原恒一君です。以前下のギャラリーにお客さんとして来てもらった事もあって」

 

 おや、と思う気持ち半分、やはり、と思う気持ち半分。そんな心で僕は見崎の言葉を聞いていた。

 他人が首を突っ込むことでは無いのだろうが、やはり見崎と母である霧果さんの間には微妙な距離間があるように感じられた。なんだか、他人行儀というかなんというか……。

 

「そう。若いのに珍しいわね。人形に興味があるの?」

「まあ興味があるというか……。何と言うか、惹き付けられた、とでも言うんですかね……。入り口にあった人形を見て、もっと見てみたくなった、みたいな……」

「へえ、なんだかそう言ってもらえると作った者としてはちょっと嬉しくなっちゃうかもね。それで、榊原君はどの子がお気に入り?」

「ええと……」

 

 まさかここまで色々突っ込んで聞かれるとは思っていなかった。思わずしどろもどろになってしまう。「どの子がお気に入りか」などと聞かれても、正直覚えていない。……いや、気に入っているというより気になっている、という人形ならあった。見崎にどこか似ていた、1番奥の棺の中の人形。だがあれは何だか訳有りのようにも思える。果たして聞いていいものか。僕がそう思っているところで、見崎が横から口を挟んできた。

 

「……榊原君、そろそろ帰りの時間、大丈夫?」

 

 言われて時計を見て「あ」と思わず声をこぼした。気づけばもう夕方、祖母には「昼過ぎぐらいには帰れると思う」と言っておいただけだし、さすがにそろそろ帰らないと夕食にも差し障ってくる時間になる。それじゃあそろそろお(いとま)しようかと口を開きかけた時。

 

「……私、榊原君のこと送ってきます。この街に越してきてまだ日が浅いから、迷ってしまうといけないんで」

「あら、そう」

 

 畳み掛けるように、見崎はそう続け、霧果さんもそれで納得してしまった。当の僕はまだ帰るともなんとも言っていないのだが……。まあそろそろ帰らなくてはいけなかったのは事実だ。紅茶の缶の中身を空け、荷物を手に立ち上がる。

 

「じゃあこれで失礼します。お邪魔しました」

「またいつでもいらしてね」

 

 優しげな言葉と対照的、霧果さんの表情には特に何の色も浮かんでいなかった。親子仲が悪いのだろうかとやはり余計な心配をしてしまいつつも、僕は見崎に促されて彼女に続いて部屋を出た。

 

 

 

 

 

 既に時間帯は夕暮れ、日は優に傾いている。見崎の家にあまり長居したつもりはなかったが、その前に病院に大分いたのが大きいのだろう。そしてそこで昼食を食べ損ねていることを改めて思い出した。思い出すと急にお腹が減ってくる気になるのが人間だ。早いところ家に着いて夕食を食べたいという気持ちが浮かんでくる。

 だが、それをさておいても僕はまだ見崎ともう少し話したかった。本当は聞いていいものか迷っている部分もある。しかし、彼女は今日も質問攻めを認めてくれたはずだ。だったら、と自分を奮い立たせることにした。

 

「見崎……いつもあんななの?」

「何が?」

「お母さん……霧果さんと。なんだか話し方とか他人行儀みたいだし……」

「そう? そんなものじゃない?」

 

 このことはあまり話したくなさそうだった。ならやはりきわどい話題かもしれないが、もうひとつ心に引っかかっていたことを聞いてみようと思う。

 

「さっきさ、藤岡さんの話題を出した時に『ここではしたくない』って言ったよね? それって、あの家で話すとまずい、ってこと?」

 

 見崎は答えない。やはりよろしくない質問だったかと僕が思ったところで、彼女がひとつため息をこぼすのがわかった。

 

「……知りたいなら、教えてあげないこともない、か」

 

 そう言って見崎は足を止め、首を動かした。彼女の視線の先には小さな公園がある。

 

「榊原君、時間、もう少し大丈夫?」

「え? ああ、うん……」

 

 見崎は公園へと入っていった。なんだろうかと思いつつ僕は後を追う。彼女は鉄棒の前まで行き、背中を鉄棒に預ける。そして先ほど同様にため息を、今度はより大きくこぼした。

 

「あれはね、しょうがないの」

「しょうがない……?」

「そう。あの人……霧果は、私の本当のお母さんじゃないから」

「えっ……?」

 

 他人行儀。そうか、血が繋がっていないのなら、そうなってしまうのもわからないでもない。だが一体どうしてそうなったのだろうか。

 

「霧果……本当の名前はユキヨっていうんだけど、昔流産しちゃって、その後子供を産めない体になってしまったらしいの。一方で、あの人にはミツヨという二卵性の双子の姉妹がいた。そのミツヨは双子を出産したの。だけど、経済的に厳しいこともあって、2人を育てるのには不安があった。そこで、その双子のうちの片方を見崎家に養子に出すことにした……。需要と供給のバランスが合った、というわけね」

「もしかして、それって……」

「その時に見崎家に養子に出されたのが、私。そして……霧果……ユキヨの双子の姉妹であるミツヨが嫁いだ先の苗字は……藤岡(・・)……」

 

 そういう、ことだったのか……。それは似ているはずだ。いとこ、とはいえ似すぎだと思っていた。それはそうだろう。見崎鳴と藤岡未咲は双子の姉妹(・・・・・)なのだから。

 だから、「半身」という見崎の藤岡さんに対する言い方は実は過剰でもなんでもなかったのだ。双子であるならその例えは言い得て妙だろう。なんとも奇妙な巡り合わせだ。

 さっき藤岡さんが白血病の骨髄移植の話をした時、「鳴からもらうのが1番だってわかっていた」と言っていたはず。僕は病気のことは詳しくないが、そういう場合、血縁関係が近いほうが移植の相性がいいとか聞いたことがある気がする。双子だったらなおさらだろう。

 

「私も未咲も薄々気づいてはいたの。いくらいとこでも似すぎだな、って。誕生日も一緒だったからなおさら。だけど小学5年生ぐらいの時かな。天根のおばあちゃんがうっかり口を滑らせちゃって。それではっきりとわかったの。その時の霧果……お母さんの慌て様といったらなかった」

「……君と藤岡さんがいとこじゃなくて本当は双子の姉妹だったってことはわかった。でも、それがどうしてあそこで話したくない、って事に繋がるの?」

「今言った一件以来、あの人は余計に私を手放したくない、って思ったみたい。私と未咲が会うこともあまり好ましく思ってない様子だったし。……元々未咲の家とはあまり遠くなかったんだけど、それをきっかけに藤岡家は少し遠くに引っ越しちゃって。それで未咲と会うのも難しくなったの」

 

 そこで僕は先日の昼の時、杉浦さんが言っていた話を思い出した。確か見崎に似た人が5年生の時に転校した、と言っていたはず。その見崎に似た人というのは他ならぬ藤岡さん、そしてその理由はこれだったのか。

 

「見崎はそのことに反対しなかったの?」

「……したかった。私も未咲と離れたくなかったから。だけど……あの人はそれを認めてくれなかった。さっき言ったとおり手放したくない、って心があったんでしょうね。基本放任主義なんだけど、そういうところだけ厳しいっていうか……。まあ、わからなくもないんだけど」

「え……? どうして?」

「あの人は……生まれてくることが出来なかった本当の我が子にまだ未練があるの。同時に、また我が子を失うことを怖れている。だから、ああやって人形を造り続けているわけ。……地下にあった私に似てる人形を覚えてる? 多分、あれはあの人が本当の我が子を思って造った作品だと思うの」

 

 あの地下室で見崎に会った時、彼女は人形を「私であって私でない」「私の半分かそれ以下」と表現した。その言葉の本当に意味するところが、今になってわかった。見崎もあの人形も、霧果さんにとっては「子」という存在になるのだろう。だがそれと同時に、その「子」は、「母」の渇いた心を満たすことの出来ない存在……。

 

「感謝はしてるの。実の娘じゃないとはいえ、あの人は多分人並み以上に私を大切に育ててくれた。左目を病気で失った時だって、私のためにって義眼を作ってくれたもの。……でも、あの人にとっては所詮私はお人形なの。生まれてこられなかった子の代わりとしての存在価値しかない、ただの人形……」

「そんなこと……」

「ない、って言いたいの?」

 

 言いたかったことを見崎に先に言われてしまい、僕は口を噤む。僕にそんなことを言う資格などないのかもしれない。見崎のことも、家のこともまだわからないことが多い。そう思うと、今先を越されたのは何だか咎められるようでどうしても申し訳ない気持ちになってしまった。

 

「……やっぱり榊原君って変わってるね」

 

 だが、見崎の口から出たのは非難の言葉ではなかった。彼女は夕暮れの、たそがれに染まる空を見上げながらそう言ったのだ。

 

「自分でも少しひねた考え方だってはわかってる。だから、こんな話をしたら呆れられるだろうな、って思ったのに」

「……見崎の言いたいことは解る気がするよ。僕が言えた口じゃないかもしれないけど……。でも、これだけは言いたいんだ。見崎は人形じゃない。ちゃんとした人間じゃないか。

 僕はあの地下室で人形を見てたとき、なんともいえない感覚に襲われていた。どうしてこの人形達はこんなに物悲しそうなんだろうか、って。今の見崎の話を聞いて、それを造ってる霧果さんのことが少しわかった。だから、あの時に感じた考えがより強くなってるんだ。あの人形が物悲しそうなのは入れ物でしかないから、魂……つまり心を求めているんじゃないんだろうかって。

 ちょっと妄想めいた話かもしれないとは思ってる。でも……見崎、君には心があるじゃない。藤岡さんのことを本当に心配してる優しい心があるじゃない。だから、見崎は人形じゃないよ」

 

 今思えば、我ながらよくもまあここまですらすらと言えたものだと思う。だがそう思っていたのは紛れもない事実だった。僕にはあれこれ言う資格はないかもしれない。そう解っていてもなお、見崎が自分のことを「人形」と言ったことだけは、どうしても否定したかった。

 彼女は幽霊でも人形でもない、血の通った人間だ。初めて病院のエレベーターで見かけたときからどうしても気になっていた、ミステリアスな彼女。そんな彼女を幽霊じゃないかなどと考えて追いかけ、やっと捕まえた時のあの手は、間違いなく血が通っていた。だから、どうしてもそう言いたかった。

 

 きょとんとした様子で見崎が僕を見つめる。次いで僅かに表情を緩めて、再び空を見上げた。

 

「……やっぱり榊原君って変わってるよ」

 

 さっきと同じようなセリフだったが、今度は断定系だった。これまでは喜んでいいものか計りかねる「変わってる」という評価だったが、今回ばかりは喜んでいいだろう。

 

「こんな話をしたの、榊原君が初めて。未咲に言ったらあの子申し訳なく思っちゃうだろうから、言えないでいたの。……そっか。人形じゃない、か。なんだか……ちょっと嬉しい、かな」

 

 そう言って、彼女は少し笑った。そんな表情の見崎を見るのはひょっとしたら初めてだったかもしれない。思わず珍しい表情に見とれてしまっていた。

 

「でも……」

 

 不意に見崎が左目の眼帯を外した。一度見たことのある翡翠のような美しい義眼が僕を見つめる。

 

「この目だけは、『人形の目』なんだけどね。あの人が……お母さんが私のために作ってくれたものだから」

「そういえば……。前に『見えなくてもいいものが見える』とか言ってなかった? あれ、本当?」

 

 本当のはずはないことなど、言われなくてもわかっていた。だが一応そう尋ねてみる。彼女は一瞬意外そうな表情を浮かべた後、案の定何かを含むような顔へと変わった。

 

「……さあ? どうかしら、ね?」

「じゃあそういうことにしておくよ」

 

 予想通りの回答に、僕は前もって用意しておいた答えを返す。するとこれまた予想通り、彼女はどこか面白くなさそうに僕から目を逸らした。

 

「……つまんない」

「僕は変わってて面白いんじゃなかったの?」

 

 鬼の首を取ったり。反論できずに僕を見つめなおした見崎は、ややあって小さく吹き出した。

 

「……そうね。変わってて、面白い」

 

 答えながら、見崎は左目に眼帯を戻していく。なんだかそれが少し勿体無いような、もう少し見ていたいようなそんな感覚に襲われて、僕は口を開いた。

 

「眼帯、やっぱりつけるんだ」

「だって……不気味じゃない?」

「そんなことないよ。すごく綺麗だと思う」

 

 眼帯を戻し終え、彼女は意外そうに僕を見る。別に嘘を言ったつもりはない。初めて見たときにまるで吸い込まれそうだった、碧に輝く翡翠のその目は心から美しいと思っていた。

 

「……やっぱり変わってる」

「かもね。もう否定する気もないよ」

「じゃあ……榊原君といる時は、時々眼帯外そうかな……」

 

 是非ともそうしてほしい。それほどの綺麗な目を隠しているなんて勿体無いと思う。なんだか、2人の間にだけ秘密ごとが出来たみたいで少し嬉しかった。

 

「……長話しちゃった。あんまり遅いとあの人も心配するかもしれないし、榊原君もそろそろ帰った方がいいんでしょ?」

「そうだね……。だんだん日も暮れてくるし、暗くなる前に帰った方がいいかな」

 

 僕としてはもっと話していたかったが、見崎の言っていることももっともだった。また昼食の時や第2図書室で話せばいいだろう。

 公園の入り口まで戻る。そこで彼女は足を止めた。おそらくここで別れることになるのだろう。「送っていく」というのはどうやら建前だったらしい。

 

「帰りの道……大丈夫?」

「うん。何度か歩いたことがあるから」

「そ。じゃあ、ここで。……またね、さ・か・き・ば・ら・君」

 

 いつか聞いたような口調でそう言うと、彼女は僕に背を向けた。僕も「じゃあまた」と返し、家路を急ぐことにした。見崎の背中を少し名残惜しく見つめ、踵を返す。

 

 病院での検査だけで終わると思っていたが、予想もしなかった1日になったと思う。藤岡さんとの出会いに始まり、見崎の家にお邪魔して、そして彼女のことについて話す……。さっきも思ったことだが、今日は「ミサキ」尽くしな1日だった。ここにかつて千曳先生が受け持ったという、母さんと同級生の「夜見山岬」まで絡んできたらフルハウスだったことだろう。

 ああ、そういえば、とタイミングを見計らったかのようにお腹が鳴った。今日は昼食を食べ損ねていたんだった。空腹は最高の調味料、今日の夕飯はさぞかしおいしいに違いない。その昼食を抜いた分を差し引いても、今日は楽しい1日だったと改めて思ったのだった。

 




展開としては原作を踏襲した話に。
ただ病院から帰ってきた設定で書いているために見崎は制服なわけで、そこで原作どおりの逆上がりをやるとスカートの中身が……と思ったのでそこは割愛しました。


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#15

 

 

 6月6日、僕は今日も病院に来ている。5日前の検査の結果がわかる日だからだ。予約の時間は前回と同じく11時。今日も学校はあるため、やはりその中途半端な時間に対してどうすべきか再び頭を悩ませたのが昨日の夜だったのだが、またしても少し酔い気味の怜子さんの「別に休めばいいじゃない」というありがたい助言により1日休むことにしていた。

 1度やってしまったから慣れたのか、病院へと向かう道中の時点から、今日は休んだことに対してそれほど罪悪感が浮かんでこない。これに味を占めてサボり癖が付かないようにだけはしないといけない。中間試験は終わったが、この後は期末試験もあるし、さらに長い目で見れば高校受験なんてものも控えている。もっとも、サボり癖を付けるつもりなど自分としてはさらさらないつもりだが、人間というものは未知なる感覚やら堕落やらを知ってしまうとどうにも戻れなくなる、という可能性はあるわけだ。だからこそ古い時代の旧約聖書から、知恵の実を食べてその味を知ってしまったアダムとイブは神によって楽園を追われた、と描かれているのだろう。

 まあそういう点からすると、僕はある意味知恵の実を食べてしまった、と言ってもいいのかもしれない。実際、検査の結果を聞くために病院に来なくてはいけないことは事実だが、その後藤岡さんの病室に見舞いと称して話をしにいくつもりでいるわけなのだから。そういう若干(よこしま)な考えもあって、今日は学校を休んで病院に来ることを大して苦としていないわけでもある。

 ああ、これはいかん。両親の日本不在の間に息子がグレて(・・・)しまった、ということになったらインドにいる両親はおろか、僕を預かってくれているおじいちゃんおばあちゃん、そして怜子さんまでショックを受けることになってしまうではないか。それはまずい。

 

 ……どうにも病院の待ち時間と言うのはこういう取り留めのない妄想をするのにうってつけの時間らしい。暇を潰すように一応本を持ってはきたのだが、それも大した読まずに僕はぼーっとそんなことを考えていた。今日は待っている患者の数は前回ほど多くは無い。ただ、病院内のスタッフの人達だろうか、白衣やナース服を着た人が多く歩いていたようには感じた。

 そんな上の空だった状況に加え、病院関係者が多く往来していたからだろう。僕にとってはこの病院の名物看護婦と言ってもいい人物の接近に全く気づかずにいた。

 

「あれれ、ホラー少年。今日は読書もせずに考え事?」

 

 不意に声をかけられたために、思わず飛び上がりかけてしまった。こんな呼び方をこの病院内で、いや、そもそも僕の知っている範囲でしてくる人なんて1人しかいない。

 

「ああ、水野さん。どうも」

「今日はどうしたの? また悪くなった?」

「いえ。数日前の検査の結果が出たので、それを聞きに来たんですよ」

「あ、そういうこと。まあ再入院になっても心配は無用よ。そうなった場合はスーパーナースのこの私がちゃんと責任を持って看護してあげるから」

 

 謹んで遠慮させていただきます……。別に水野さんのことが嫌いなわけではないけど、この人のドジっぷりに付き合わされたら治る病気も治らないんじゃないか、と思ってしまう。

 

「それよりいいんですか、こんなところで油売ってて。まあ見たところ随分と暇そうですけど……」

「暇じゃないわよ。昨日今日と大変だったんだから。そうじゃなくたってこの病院、人少ないんだし。……それはさておき、結果を聞くだけならそう時間はかからないわよね?」

「え? ええ、まあそう思いますが……」

 

 この間のように待たされて予定時刻より大幅に遅れる、なんてことが無ければという前提付きだけど。

 

「その後は学校?」

「いえ、今日は休むと連絡してあります」

「あら、サボタージュ? その年でサボり癖が付くと後々大変になるわよ?」

「『真面目すぎるから適当に抜くところは抜いた方がいい』って、怜子さんに言われたんですよ」

「怜子さん……。ああ、あの美人な叔母さんね。顔に似合わず案外適当なのね」

 

 それをあなたが言いますか、と心の中で突っ込みを入れておく。まあ厳密には水野さんの場合適当、というよりドジ過ぎと言う方が正しいわけではあるが。

 

「じゃあ今日はこの後暇なわけね?」

「そうですね」

「私も今日は昼にあがりだから、ここで会ったが百年目……じゃなくて何かの縁だし、一緒にお昼でもどう? 奢るわよ」

「え……? いいんですか?」

「昼食を食べてから帰るつもりでいたから。用事があるなら無理にとは言わないけど」

 

 これは正直言って予想外だった。前回病院に来た時は色々あってお昼を食べ損ねてしまったわけで、今日はさっさと帰って家にあるもので何かを作って食べようかと思っていた。しかしせっかく誘われたのだし、たまには外食するのも悪くない。

 

「じゃあお言葉に甘えて……」

「よしよし、そうこなくちゃ。それじゃ13時にロビーで待っててもらっていいかな? もしかしたら少し待たせちゃうことになるかもしれないけど……」

「それなら大丈夫ですよ。御馳走になるんだし、そちらに合わせます。それにそのぐらいの時間のほうがこちらとしても都合いいですし」

 

 思わず本音を口にしてしまったわけだが、言ってからまずかったと後悔した。そんな意味ありげな一言を言ったらこの人が食いつかないわけがないじゃないか。

 

「都合? 何、この病院で検査以外に何かあるの? もしかして……この病院に恋人でも入院してるとか?」

 

 ほら、やっぱり食いついてきた。さてどうやって誤魔化すものかと僕が頭を悩ませている時だった。

 

「あ、水野さん。悪いけど手が空いてるなら手伝ってもらえる? 上に上げなくちゃいけないものまだまだあるから、人手が必要なのよ」

 

 丁度いい具合に彼女の先輩看護婦さんだろうか、横から声をかけてきた。それを聞いて水野さんはつまらなそうに唇を尖らせながらも僕との会話を切り上げることにしたようだった。

 

「もう、人使い荒いんだから……。ま、しょうがないか。じゃあ榊原君、13時にロビーでね」

 

 そう言うと水野さんは早足で廊下を歩いていった。余計なことを聞かれずに済んだ、と僕は思わず胸を撫で下ろしてため息をこぼす。それとほぼ同時、「榊原さーん」と呼ばれる声が聞こえてきた。今日の時間はほぼ予定通り。これなら藤岡さんのところに顔を出しても悠々予定時刻に間に合うなと思いつつ、僕は待合場所の椅子から立ち上がった。

 

 

 

 

 

 医師からの検査結果の報告は実に事務的なものだった。「今のところ特に問題はないね。生活にも全く支障が出てないみたいだし心配ないと思うけど、あと1ヶ月ぐらいは激しい運動は控えた方がいいかな」と、前もって用意されていたと思われる文言を読み上げるように告げてきた。とにかく問題なし、という事態は喜ぶべきであろう。後はまた1ヵ月後に検査のために来るように言われた。そこで問題なしと判断されればある程度の運動も解禁、さらには1ヶ月おきの検査も3ヶ月おきに伸びる、とのことだそうだ。

 そんな結果に安堵しつつ前回よりもはるかに安い会計を済ませ、僕は4階の405号室に向かった。藤岡さんは実につまらなそうに昼時のワイドショーを眺めていたが、僕が来たとわかると途端に顔を輝かせた。それから学校の話やら見崎の話やら前回も話したような話が始まる。

 が、結論から言うとそれも長くは続かなかった。昼時、ということで丁度食事の時間となったのだ。さすがに食事中の彼女を邪魔するのは悪いと僕はお(いとま)することにしたのだが、次の僕の来院が7月頭であることを告げると「もうここにいないかも」と彼女はどこか嬉しそうに言っていた。今月末に退院する目処が立ったらしい。それは喜ばしいことだと思いつつ、僕は彼女の病室を後にし、入り口付近のロビーの椅子に腰掛けて持って来た本を読みながら水野さんを待つことにした。

 

 その水野さんが現れたのは約束していた13時を15分ほど回ってからだった。業務が少し伸びてしまったらしい。彼女は私服姿で、これまで見ていたナース服以外の服装は新鮮に思えた。そのまま車に乗せてもらってファミレスに到着。そして現在に至る。

 ……至るわけなのだが。

 

「あの……。水野さん、もしかして疲れてます?」

「あ……。わかる……?」

 

 そりゃわかるでしょ、そんだけどんよりされて机に突っ伏されたら……。

 これだけ疲れているということはドジを起こす確率も飛躍的に上昇していたはず。車が事故らなくてよかったと心から思わずにはいられない。

 

「昼に上がったってことは……。もしかして夜勤ですか?」

「そうなのよ。しかも聞いてよ、昨日の深夜に使う人もほとんどいなかった相当ガタの来てた古いエレベーターが故障しちゃってさ。幸い1階に止まってたし誰も乗ってなかったから怪我人は出なかったんだけど、地下2階までストーンと落ちちゃったらしくて」

「うわ……」

「ナースステーションにいたら轟音したから驚いたのなんのって。お陰で今日は原因調査だのなんだの、さらにはスタッフ用のエレベーターも以前の点検から大分経ってるから一斉点検するって止められちゃって病院の裏側はもうてんやわんやよ。患者用はさすがに止めるわけにいかないし点検してからさほど時間経ってないっていうから、外来が減る午後から数台ずつ交代で点検するらしいけど。それで今日はスタッフ総出で医療に必要な物資を人力で運ばなくちゃならなくなっちゃったってわけ。患者用のエレベーター1つぐらい封鎖して使っちゃえばいいのにさ」

 

 ああ、それで、と僕は納得した。今日はやけに病院スタッフが多い気がしたのはそういうわけだったのか。だとするなら「暇そうですね」なんて水野さんに声をかけたのは見当違いも甚だしいというところだろう。

 

「でも危なかったわ。まああのエレベーターなんて乗ったことすらないんだけど。もし乗っていたらと思うとぞっとするわ。ダミアンに呪い殺されるわけだったわけね。日付も日付だし」

 

 僕は「ホラー少年」などと言われているが、正直言ってそこまで詳しいわけじゃない。が、そのぐらいは知っていた。たまたま見た、というやつだ。それに今日はよりによって「6月6日」なのだから、その辺りもかけているのだろう。

 

「でもそれ、さっき水野さん『昨日の深夜』って言いましたよね? だったら『6月5日の深夜』じゃないんですか? だとするとダミアン関係ないと思うんですけど」

「そういえばまだ日付またいでなかったような気も……。って、いいのよ、細かいことは! だったら6月6日のマイナス1時とかでいいじゃないの!」

 

 もう何を言っているかわからない。ただひとつ言えるのは、この人はどうあってもあの有名なホラー映画にこじつけたがっている、と言うことだった。

 

「それに1階から地下2階だとすると落下したのは2階分でしょう? 確かあの映画はもっと高い場所から落ちたはずだし、それに落ちたこと自体じゃなくてその後切れて落ちてきたワイヤーの方が問題のように描かれていたと思うんですけど……」

 

 僕としては難癖をつけようと思って言った事だった。が、これはどうやら完全に逆効果だったらしい。ニヤッと水野さんによくない(・・・・)笑みが浮かぶ。

 

「へえ……。1じゃなくて2の方を、しかもそこまで詳しく出してくるとはさすがホラー少年。私の見る目は確かだったわ」

 

 言われるまで今言った内容が「1じゃなくて2」であることすら知らなかった。数年前に何のきっかけか忘れたが、ふと見てしまった映画、としか覚えていなかったからだ。その中でも特にエレベーターのシーンだけは鮮明に覚えている。エレベーターが最上階付近から落下したものの助かった、と思っていた直後に上から落ちてきた切れたワイヤーによって胴体が真っ二つにされしまうなんてトラウマもののシーンは、見てしまった後しばらくエレベーターに乗りたくないと思ってしまうほどに強烈なインパクトだったのだ。

 

「まあいいわ。ホラー少年がやっぱりホラー好きだってわかったところで本題に入ろうかしら」

「本題?」

 

 本当は「やっぱりホラー好き」ってところは否定したかった。が、話の腰を折るのもよくないと飲み込むことにする。

 

「ええ。弟から聞いたんだけどね。……ってにっが! コーヒーにっが!」

 

 「本題」に入ろうとした矢先、コーヒーを口に運んで水野さんはむせた。話題を自分で変えておいて自分でその話の腰を折る。僕がわざわざ話の腰を折るのを我慢したのに、である。なんという自爆話法だ。しかしお節介焼きかもしれないんが、ここは突っ込まずにはいられない。

 

「ちょっと、この店のガムシロ偽物なんじゃないの? 全然甘くなってないんだけど」

「そもそも入れてないでしょ……」

「そんなはずないわよ」

「そんなはずありますよ。大体そこにガムシロの空の容器が1つもないじゃないですか」

 

 あなたが今飲んだのは正真正銘ブラックコーヒーです。そりゃ苦いでしょう。

 だがそんな当たり前の説明では彼女は納得しなかったらしい。何やら小難しく考えながら、今度はちゃんとガムシロップをコーヒーに入れる。

 

「私は確かに入れたはずなのに入ってなかった……。ダミアンの仕業かしら? なんだか話がホラーめいてきたわ……」

「めいてないです。あと6月6日だからってなんでもかんでもダミアンのせいにするのはやめてください」

 

 まあ夜勤で疲れてるんだろう。入れたか入れてないを覚えてないというだけだというのに、なぜこんなに話をでかくしようと出来るのだろうか。そこに呆れつつ、話を「本題」と言った方向へと戻そうと僕は思った。

 

「それで、本題ってなんです? 弟がどうのとかって……」

「ああ、弟から聞いたのよ。……榊原君、クラスでハーレム作ってるんだって?」

「……は?」

 

 話が突拍子もなく飛んだために僕は間の抜けた声を上げてしまった。ハーレムとは何ぞや? 僕はそんなものを作った記憶は微塵もありはしない。

 僕にしては珍しい声を上げたからだろう。水野さんは続ける言葉を切って少し考え込んだ。それから「ああ」と言って手を打つ。

 

「言ってなかったっけ? 弟、榊原君と一緒のクラスなのよ。水野猛、知らない?」

 

 そういえば……いた気もする。勅使河原が「スポーツマン」とか言ってたような。バスケ部だったっけ。

 

「まああんまり弟と仲良い方じゃないんだけど。どうも榊原君の転入先が弟のクラスらしいから、ちょっと学校でどんな感じか聞いてみたの。そしたら弟が言ってたのよ、『昼休みにクラスの女子集めてハーレム作ってる』って」

 

 ……激しい誤解だ。曲解だ。そして冤罪だ。僕はそんなものを作っているつもりは毛頭ない。あれは赤沢さんを筆頭に、半ば強引に行われている昼食会、といったようなものだ。……もっとも、見崎と2人で食べてるところを目撃されていたらそこは言い訳も何もできないのだろうけど。

 

「弟さんに僕がそれは違うと言っていたと伝えてください……。僕はそういうつもりは全くありませんから」

「でも『つもりはない』ってことは女子を集めてるのは事実なの?」

「集めてる、じゃなくて集まってくる、ですけどね。実際昼食の時に女子が来ることがあるのは否定できません」

「おお!? さすがもてる男は辛いわね」

「やめてください。だからそんなつもりはありませんって」

「そうよねー。本命は405号室の子だもんねー」

 

 目の前にあるドリンクバーの炭酸を飲もうとした僕の手が止まる。……なんでこの人が藤岡さんのことを知ってるんだ?

 

「あの……。水野さん、なんで藤岡さんのこと知ってるんですか?」

「あ、藤岡っていうんだ。かわいいの?」

「えっと……。いや、ちょっと待ってください」

 

 迂闊なことを言うのはやめておこう。そりゃ見崎と似てるってのもあるが藤岡さんはかわいい。が、それをこの人の前で口にするのは、ミステリ小説で「こんな殺人鬼のいる部屋にいられるか! 俺は1人でも部屋に戻るぞ!」と言うのと同義だ。要するに自爆は免れない、ということになる。

 だったら触らぬ神に祟りなしだ。余計なことは言わずにおくに越したことはない。

 

「……繰り返し同じ質問になりますが、なんで水野さんが藤岡さんのことを知ってるんですか?」

「さっき言ったと思うけど、今日はエレベーターが使えないから荷物の運搬に私まで駆り出されたのよ。それで運搬してる時に4階でたまたま榊原君を見かけてさ。405号室に入ったのは見えたから、4階の人に聞いてみたら榊原君と年の近い女の子だって言うじゃない。そりゃ本命に違いない、って思ったのよ」

 

 なんということだ。病院内でもっとも知られたくない人に知られてしまった。いや、あの病院でこの人の他に知られて困る人なんていないんだけど。

 だがこれは放っておくと少々面倒なことになってしまうかもしれない。少なくともこの人の誤解だけは解いておいたほうが絶対にいいだろう。……解ければ、という前提の話ではあるが。

 

「確かに僕は彼女を知ってます。知り合いの知り合い、ってところですかね。検査前に水野さんに会った時にポロッと『そのぐらいの時間の方がこっちとしても都合がいい』って言ったのは、彼女のお見舞いに足を運ぼうと思ってたからです。でも本命とか、そういうつもりはありませんよ」

「はいはい。じゃあそういうことにしておいてあげるわ」

「本当ですって。……まあ通じないでしょうけど」

「そこまで言うなら信じてあげるけど……。じゃあ何、今榊原君フリーなわけ?」

「いや、フリーって……」

「あーでもまだ中学生か……。まあ5年後とかなら考えてやらんでもないよ?」

 

 なんですか、上から目線のその態度……。生憎僕には某望月氏辺りと違って年上趣味はないんですよ。大体あなたも僕のような子供にかまける前に本気でお相手でも見つけたらどうですか?

 ……と、言ってあげたいところだったが、残念ながら僕はそこまで言えるほど度胸があるわけではなかった。苦笑を浮かべて流しておくのがもっともな対応だろう。それに今日はこの人もちで昼食をご馳走になるわけだ。

 

「……ところで、今日僕を昼食に誘ったのはそういうどうでもいい話のためですか?」

「どうでもよくはないわよ。私は榊原君の行く末を心配して……」

「はいはい、それはそれはありがとうございます」

 

 どうやら余計な心配はしなくていいらしい。本当にただ四方山話(よもやまばなし)をして、ついでに自分の昼食の時間と被ったから誘ったようだ。

 だったら話は適当にしつつ、自分にとって致命的な勘違いやら誤解やらだけは避けるようにしておけばいいかと、僕は彼女の話に合わせることにした。

 

 

 

 

 

「恒一君、ちょっとここ座りなさい」

 

 夕食後の一休みを経てお風呂から上がったところで、部屋に戻ろうとしていた僕は怜子さんに呼び止められた。手には缶ビール。既にそれなりに酔っている様子が窺える。が、どうも声の雰囲気は真面目なように感じられた。とはいえ、目が据わっているのは酔っているからかそれとも真剣な話なのかは測りかねる。とりあえず言われた通りにおとなしく僕はキッチンの椅子に座ることにした。

 

「えっと……なんですか?」

 

 ビールの缶をやや乱暴に机に置き、怜子さんも椅子を引いて腰かける。今の様子からこれは酔っているな、と僕は判断した。「進路どうするか決めたの」というような真面目な話だったらどうしようかと思ったが、これならそういうことではないだろう。愚痴をぶつけられるとか酔った勢いで絡まれるとか、そういう類だと高を括る。

 

「今日、学校を休んだわね?」

「あの、それは怜子さんが休んでいいと……」

「ええ、そうね。確かに恒一君は成績もそこまで問題でもないし、元々真面目すぎるから。だからそれはいいの。私が聞きたいのはその先、……お昼はどうしたの?」

「えっと、外食を……」

「母もそう言ってたわね。それで恒一君にしては珍しいと思ったから質問なんだけど、どこで食べたの?」

 

 まずいかもしれない、と直感的に思う。この誘導尋問(・・・・)が行きつく先はどこかがうっすらと見えた。

 外食をする、と言ってもこの辺りで入れるお店など高が知れている。せいぜいが入りやすい、という点でチェーン店だ。そのチェーン店と言うものは大別すると2つだろう。牛丼やらラーメン屋といった1人で入ることが多い店、ファミレスのような1人では入りにくい店だ。もっとも、ハンバーガー店の場合はどちらにも当てはまるかもしれない。

 その上でこのやりとりをまずいと思っているのは、あいにくと僕は嘘を着くのが苦手なのだ。誘導尋問されたら素直に答えてしまうしかない。だから、今の質問に対しては大人しくこう答えざるを得ないのだ。

 

「その……ファミレスで……」

「へえ、ファミレス。随分といいところで食べたのね。……で、そこに1人で入ったってことはないわけでしょ?」

「まあ……そうですね」

「誰と行ったわけ? 学校をサボった誰か、とかだったら非常に問題になるわけだけど」

「看護婦さんですよ。僕が入院していた時に担当してくれた水野さん。丁度今日夜勤明けで、帰る時間が僕と被っていたから誘われたんです」

「ああ、なるほどね」

 

 相槌を打ちつつ、怜子さんの顔が僅かに引きつるのを僕は見逃さなかった。もしこれが「サボった学校の同級生ですよ」と言っていたら、はたしてどれほど露骨に顔色が変わったことだろうか。

 

「弟さんが同じクラスなんです。それに加えて僕の担当をした縁もあったし、ということで……」

 

 フォローを入れたが、それでも怜子さんの表情は普段より冷たく感じられた。さてあとはどう話を付け加えるかと迷っていたが――。

 

「恒一君。私は理津子姉さんからあなたを預かっている以上、悪い虫がつかないようにしないといけないと思っているの」

 

 それより早く、怜子さんは次の言葉を口にしていた。仕方なく僕は「はぁ……」と曖昧な返事を返すしかなくなる。

 

「年上趣味があるというなら止めはしないけど、女性と付き合うなら、出来ることならもっと年の近い女性と健全的に付き合うべきだと思うわ。年上に(たぶら)かされた、なんてことになったら、私はどんな顔をして帰って来た姉さんに会ったらいいかわからないもの」

 

 さっき水野さんの時も思ったことだけど、僕には某望月氏のような年上趣味はありませんって。そこだけは否定しておいた方がよさそうだ。

 

「別に水野さんはやましい心があって僕を誘ったとかじゃないと思いますよ。……まあ5年後なら考えてやらんでもない、とかものすごく上から目線では言われましたが。でも僕にそんなつもりは毛頭ありませんし、今怜子さんに言われた通り、付き合うなら年が近い女性を望みますね」

「……そっか。私みたいなおばさんじゃ相手にしてもらえないか……」

「え……」

 

 ちょっと、これは僕はどう答えるのが正解だったんですか? 結局解答が八方塞だったのでのではないでしょうか?

 

「冗談よ、冗談。ただ一応釘刺しておこうかな、と思ってね。なんでも最近じゃクラスでも大人気らしいし、あまり節操のない行動はダメよ、と言っておきたかったの」

 

 ……よくご存知で。今日1日で2回も年上の女性から似たようなことを言われるとは思ってなかった。特に怜子さんの場合、若い頃の母に似ているというせいもあってなんだか母さんから小言を言われているような気になってしまう。

 

「……どうしたの恒一君。なんか笑ってるみたいだけど」

 

 そしてその考えはポーカーフェイスということが出来ない僕の顔に苦笑と言う形でそのまま出てしまっていたらしい。怪訝そうに怜子さんが尋ねてくる。

 

「ああ、すみません。……なんだか若かった頃の母さんに言われてるみたいに錯覚してしまって。写真で見たことしかないんですけどね」

「ははあ、なるほど」

「なので……怜子さんがさっき言った『おばさんじゃ相手にしてもらえない』って言うのは、あながち外れてもいないわけですよ。ただ、『叔母さん』は漢字で書くほうになりますが。要するに……なんだかどこか母の面影を被せてしまうんです。マザコンですかね」

 

 手玉に取られっぱなしというのもちょっと面白くないと思ったので、僕はそう返してみた。

 が、どうだろうか。効果覿面とばかりに怜子さんは固まってしまった。ビールの缶を手にしたまままるで彫刻のように動かない。

 

「あ、あの……怜子さん?」

 

 僕の呼びかけに、ようやく彼女は我に返る。そして手に持った缶の中身を口元に寄せると傾け、中身を全て飲み干したらしかった。

 

「まさか恒一君からそういうカウンターが飛んでくるとは予想してなかったわ。……今日は私の完敗ね」

「いつから、しかも何の勝負してたんですか?」

 

 さあ、と言いたげに怜子さんは肩をすくめて立ち上がった。冷蔵庫の方に向かったところを見ると新しいビールを探しに行ったのだろう。

 

「怜子さん、あまり飲みすぎないでくださいよ」

「そういう小言を言われると、私も恒一君を息子だと思っちゃうんだけど?」

 

 どこが完敗だろうか。見事なカウンターへのカウンターじゃないか。

 

「あ、話は終わりだから。まあ要するに付き合うなら健全なお付き合いをしなさい、節操のない行動だけは慎みなさいって言いたかっただけだし。もっとも、いらない心配みたいだったけどね」

「肝に銘じておきますよ。じゃあ僕は部屋に戻ります。……重ねて小言になっちゃうかもしれませんけど、お酒はほどほどにしてくださいね」

「仕方ないでしょ。今日は酔えないみたいなんだもの」

 

 既にビール3本ほど空けておいて何を言うか、と心の中で突っ込む。ついでに酔えないなら無理に飲まなくてもいいものを、とも。

 しかし晩酌は怜子さんの楽しみなのだからあまり余計なことを言うのも野暮と言うものだろう。部屋に戻って明日の準備を適当に済ませたらさっさと寝るかと僕は席を立ち上がった。

 

「それではお先に。おやすみなさい、怜子さん」

「ん。おやすみー」

 

 ゴソゴソと冷蔵庫の中を漁る怜子さんに背を向けて僕は部屋へと戻る。今日丸1日休んでからの明日の学校だが、憂鬱感はない。どうやらまだサボり癖は付かずに済みそうだと思いつつ、むしろその心配はあと1ヶ月とちょっともすると夏休みになるのだから、それが明ける時にするべきかもしれないとも思ったのだった。




ダミアン……言わずと知れた「666」で有名な映画に登場する人物。ちなみに自分は2だけ何かの拍子で見たことがあります。ホラーは得意じゃないので進んで見たわけじゃないのだけは確かです。アニメにおいても水野さんが結構深くこのネタに切り込んでいたので入れてみました。そうじゃなくてもあのシーンはオマージュっぽいですし……。


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#16

 

 

 暑い。ただただ、ジメジメと暑い。別に前の学校はクーラー完備とかそういうわけでもなかったので、授業中の体感温度としては変わらないはずだが、それでも夏場に入った教室は暑かった。今年は梅雨が長引くとか、そんな話もあり、雨が多くて湿度が高いのも拍車をかけていたのだろう。

 しかしそれでも担任の久保寺先生はほぼ毎朝のホームルームで、暑さを感じないような穏やかな口調で僕達に語りかけてきたものだった。

 

「心頭滅却すれば火もまた涼し。昔の人はいいことを言ったものです。暑いと思うから暑いのです。よろしいですか。授業に集中しましょう。そうすれば、暑さなど忘れることが出来ます。もう間もなく期末試験も待っています。皆さんのこれからの進路に関わる大切な試験です。くれぐれも気を抜かないように。よろしいですね」

 

 さすがは担任の先生だ。今日も素晴らしいご高説、もっともな意見である。そう、中間テストが終わって次は期末テスト。中学3年である今、気を抜いている暇はない。

 皆一様に緊張しているようだった。まあ中にはテストが嫌だと渋い顔をしていた生徒や、ここまで言われても普段と変わらない涼しい顔をしていた生徒もいたことだろう。しかしどんなに逃避をしてもテストはやってくるのだ。

 

「もし困ったこと、私の授業でわからないことがあれば遠慮なく、職員室の私のところまで聞きにきてください。出来る限り力になりましょう」

 

 ここまでは担任として、久保寺先生の言っていることは見事だった。だが、最後の最後、付け加えるように言った一言でクラスの皆がずっこけかけた。

 

「……何より職員室はクーラーが効いててここより快適ですからね。私も相談はそこでしたいものです。では、一限目を頑張ってください。私は安息の地へ退散させてもらいます」

 

 後ろの方から「横暴だー! 教室にもクーラーをつけろー!」という勅使河原の非難の声が聞こえてくる。しかし先生は不敵に僅かに笑っただけでそのまま教室を後にしてしまった。

 

「……ねえ望月。久保寺先生、あんなこと言うんだ」

 

 思わず僕は隣の望月にそう尋ねる。なんだかんだ気の弱そうなところがあったからか、気がついたら勅使河原同様僕は彼を呼び捨てにしてしまっていた。だが彼はそれを気に留めている様子もない。

 

「たまにね。見た目と裏腹に意外と熱かったり、あんな風にジョークとばすことはあるんだけど……。いっつも雰囲気が雰囲気だから嘘か本当かわからないことが多くて困るんだよね。今日のは確実にわかったからまだいいけど」

「ジョークセンスに問題ありよ。どこまで本気かわかんないからねー、久保寺先生」

 

 斜め前から綾野さんがこちらに身体を向けて会話に割り込んできた。

 

「こういっちゃんが来る前の4月の頭の頃とかそれはそれはひどかったよ。普段通りのあの深刻そうな声で『いいですか。私は懸命に教えるつもりですが……。もし教え方が悪くてわからない、ということがあれば責任を取るつもりです。そうですね、包丁でも持ち込んで……この場で首でも掻っ捌きましょうか』とか言い出してさ。もうクラス中ドン引き」

 

 身振り手振りで当時の様子を再現する綾野さん。そういえば彼女は演劇部だったか。そのせいかやけに再現がうまい……気がする。まあ僕はその場にいないから判断は出来ないが、先生の独特の雰囲気は出ていた。その様子に周囲の人達も小さく笑っているようだった。思い出したのもあるだろうが、やはり彼女の再現度が高かったのだろう。

 

「まあ咄嗟にいいんちょが『先生、それはちょっと笑えない冗談ですよ』って至極冷静に切り返したから大分空気戻ったけどさ」

 

 ああ、そこはさすが桜木さん。なんとなく予想できる。きっと笑顔を張り付けながら、しかし凍りつくような声で言ってのけたのだろう。きっと先生も一瞬驚いたに違いない。……いかん、桜木さんに対する印象が勝手に固まってきてしまっている。見抜かれたときが怖くなってきてしまう。

 

「あれはなかったよね。その点、今日のクーラーはまだマシだよ」

「でもずりーよな! なんで教師ばっか!」

 

 僕達の会話が聞こえていたのだろう。後ろから勅使河原の声が響いてくる。

 

「若いうちの苦労は買ってでもしろ、ってことじゃないの」

「じゃあなんだ杉浦、お前はこの暑さが気にならねえのかよ?」

「別に」

 

 振り返ると実に涼しそうな顔で杉浦さんはそう答えていた。というか、こんな日でも彼女は袖無しのパーカーを相変わらず着込んでいる。そこを見る限り、本当に暑くはないのだろう。

 

「そんなに不満なら、将来あんたが教師にでもなって『生徒にも快適な学習環境を提供しましょう』とか言ってみたら? それで教育現場が変わるかもしれないわよ」

「教師だぁ!? 俺が!?」

 

 突拍子もない声を勅使河原が上げる。それにつられるように後ろの方で笑いが起こった。

 

「勅使河原君が教師ってのは……想像がつかないね」

 

 と、高林君。

 

「無理に決まってる」

 

 これは王子君だ。

 

「キャラじゃないし」

 

 王子君の隣、江藤さんまで追撃をかけてきた。さらにとどめとばかりに無言で本に目を落としながらであったが、勅使河原の隣の柿沼さんまでもが首を縦に振っている。

 

「お、お前らなあ!」

 

 再び勅使河原が非難の声を上げたその時、丁度授業開始のチャイムが彼の声を掻き消した。ほどなくして一限目、数学の先生が教室へと入ってくる。勅使河原は不満そうに恨み言を全て飲み込み、桜木さんの「起立」というはっきりとした声に渋々立ち上がる。次いで聞こえた「礼」という言葉に、僕達も一緒にではあったが、彼は絶対にならないであろう教師に対して頭を項垂れたのであった。

 

 

 

 

 

 それからほぼ勉強漬けの日々が始まった。前の学校でのアドバンテージが無くなった僕も今度は余裕ではいられず、勉強する時間が中間試験の時より目に見えて増えた。

 そうなると帰宅部である僕は部活に楽しみを見出すことは不可能なわけで、学校内での楽しみを息抜きにしたくなるわけだが、如何せんこの梅雨という時期は言うまでもなく雨が多い。つまり屋上やら中庭やらで見崎と昼食、という楽しみも奪われてしまう。おかげで彼女と食べる機会もめっきり減ってしまっていた。とはいえ、クラスにいれば毎度毎度勅使河原が寄って来るし、それなりの頻度で赤沢さんもクループを連れて来てくれるおかげで、孤立するという事態が起こらないのは喜ばしいことだろう。その時に見崎も一緒に、ということもあるにはあったが、これまでのように2人きり、ということはなくなってしまっていた。

 しかし、よくよく考えればこれまでが特別だったような気がしないでもない。彼女といるのは、まあはっきり言ってしまえば楽しい。しかし、別に僕を避けてるというわけではないだろうが、元々彼女はあまり人とは接したがらない性格であろうから、向こうから声をかけてくるということはなかった。かといって僕も挨拶ぐらいはしてもその程度で、休み時間や放課後にいつの間にかいなくなる彼女を捕まえるのは困難であった。

 

 なんだか面白くない。彼女の正体を追い求めて必死だったあの日はもう遠く過ぎ去ってしまったような、あの頃のモヤモヤしながらも、どこか胸が高鳴るようだった思いを感じることはもうないのだろうか、などと思ってしまう。

 もっとも、そんなことをこの場で口に出せば失礼になる。今は半ば恒例となりつつある昼食会の最中。赤沢さんに申し訳が立たない。

 

「どうしたの恒一君? ないとは思うけど、来週のテストで悩み事?」

 

 だが口に出さなくても、どうも僕は顔には出てしまう性格らしい。赤沢さんは僕の顔を覗き込みながらそう尋ねてきた。

 

「いや、そういうわけじゃないんだけど……」

「赤沢、こいつに限ってそれはねえと思うぞ? このクラスじゃ桜木とお前とこいつは頭がいい3トップじゃねえか」

「そういうあんたは逆3トップだけどね、勅使河原。フラットスリーって奴?」

「ひでえ! しかも絶対意味わかってねえで使ってる! あとでサッカー部の川堀から正しい使い方聞いとけ!」

「……それから学年順位だと僕より風見君の方が成績優秀だったからね」

 

 彼の名誉のために僕は補足しておく。事実、クラス内の成績順はまず桜木さんがぶっちぎりトップ、次いで赤沢さん、風見君、その後で僕なわけだ。しかも前の学校でのアドバンテージのおかげでこの位置につけることができただけであって、おそらく次はもう少し落ち込む可能性が大いにある。

 もっとも、桜木さんは県内でも指折りの難関進学校を目指しているらしく、風見君もその彼女と同じ学校を志望。赤沢さんは都内の私立を狙ってるとかで3人とも成績に見合う進路先を考えてるようだ。一方の僕は……まだ明確に進路も決まってないけど。

 

「でも僅差だったからね。僕も油断は出来ないよ」

 

 と、普段通り眼鏡をあげつつ風見君。なんだか目の敵にされてるみたいであまりいい気分はしない。そもそも僕は争う気は全くないわけだ

 

「風見君、テストは優劣を決めるものじゃなくて、授業の理解度合いを確かめる意味合いの方が強いんじゃないかな? だから誰かと張り合うのもいいけど、真の相手は自分自身だと私は思ってるけどな」

 

 そこでそう言って僕にフォローを入れた形になったのは桜木さんだ。そして彼女にそう言われたとなれば……。

 

「そ、そうだね桜木さん。……なるほど自分との戦いか。言われてみれば、そうかもしれないね」

 

 やはりあっさりと掌をひっくり返した。彼女のが気になるのはわかるが、自分の意見を持つということも大切だぞ少年……。

 

「真の敵は自分、つまり思わぬところにいる……。敵は本能寺にあり、か。……ただし、向かうは尻馬に乗った形で、と」

 

 ボソッと呟くように杉浦さんがそう言った。幸いと言うべきか、聞こえたのは僕と勅使河原ぐらいだったらしい。「おい杉浦、今のどういう意味だ?」とこういうのに疎い彼は聞き返すが彼女は答えるつもりはないらしい。

 彼女はこう言いたいのだ。「敵は予想外のところにいた」あるいは「真の目的は違うところにある」。まあここまではいいだろう。明智光秀の有名な台詞だ。問題はその後。「自分の意見でなく他人の意見に便乗した状態で向かおうとしてる」、つまり流されるままに意見に乗った君は明智光秀ではなくその手下でしかなかったんだよ、と言いたいわけだ。相変わらず涼しい顔をして難しいことを辛辣に述べる人だ。

 

「……そういや泉美、お弁当を作るって話はどうなったの?」

 

 と、そこで赤沢さんの弁当箱を覗き込みながら、意地悪そうに綾野さんがそう尋ねた。それに対して質問された主は顔を赤くしながら反論する。

 

「い、今はテストの勉強期間中で忙しいからまだなのよ! テスト終わったらやるの!」

「あーはいはい。『明日から本気出す』ってやつねー」

「ぐっ……! 見てなさいよ、綾野! あんたが謝るようなすごいの作ってやるんだから!」

 

 赤沢さんは凄みを利かせて見せたが、綾野さんは堪える様子はない。「はいはーい」と軽くあしらっている。その辺り、さすが演劇部仲間といったところか。

 とはいえ、今は赤沢さんが言ったとおりテストの直前期間。部活動は原則禁止のはずで、演劇部も活動は出来ていないはずだ。その辺りもあって、普段より話す時間が足りないとかでちょっかいを出した、なんてこともあるのだろう。

 

 僕がそんな取り留めのないことを考えていると、段々と昼休みは終わる時間に近づいていた。皆昼食はもうとっくに食べ終わっており、「じゃあそろそろ」みたいな空気が流れて次の授業の準備へと移るため、自分の席へと戻っていく。

 それにつられて僕も次の授業に備えるかと思った矢先、ワイシャツの袖の左側が引っ張られた気がした。目を移すとそれは気ではなく、確かに見崎が僕のワイシャツを摘んでちょいちょいと引っ張っている。

 一応彼女もさっきの場にはいた。いるにはいたが、ほぼ一言も発してはいない。いつも赤沢さんに半ば強引に参加させられている、という感じではある。が、以前そのことについて聞いてみたら「別に嫌じゃない」ということだったので、それはそれでいいのだろう。ということはこれから話そうとすることはそれに対する文句だとか、そういう類ではないと思う。

 

「どうかした?」

「……お願いがあるんだけど」

「何?」

「放課後……時間ある?」

「まあ帰って勉強するぐらいしか予定なかったけど……どうして?」

 

 その僕の問いに対し、見崎は一瞬答えを躊躇った様子だった。だがすぐに僕を見つめなおして続きを口にする。

 

「勉強……教えてもらいたいの」

 

 

 

 

 

 まさか見崎の方から勉強の誘いが来るとは思ってもいなかった。こういう時の勉強会というのは一体どこがお約束なのだろうか。互いの家だろうか。放課後の教室だろうか。

 だが見崎が指定したのはそのどちらでもない、図書室であった。なるほど図書室、確かにお約束の場所といえなくもないだろう。

 しかし、そこはさすが見崎鳴。彼女が指定した図書室は普通の、皆が使用する第1図書室の方ではなく、当然のようにひっそりとたたずむ0号館の中にある第2図書室の方だった。

 

「予想はしてたけど……やっぱりここなわけね」

 

 前もって「図書室」とだけ告げられ、しかしB棟1階にある第1図書室を普通に素通りした瞬間、もうここしかないだろうなとは思っていた。そうでなくてもここは見崎が「好きな場所」といったところでもある。それを思えば当然の結果といってもよかっただろう。

 

「嫌だった?」

「そんなことはないよ。ただ……なんかやっぱり見崎らしいな、と思って」

「……褒めてないでしょ」

 

 勿論あまり褒めているつもりはない。普段はこんなやりとりをすると彼女は機嫌を損ねてしまい、つんけんされてしまうこともあるのだが、今日は僕に勉強を教えてもらう手前、どうやらそれが出来ないでいるらしい。僕としてはそれは好都合、というかまあ普段からかわれている分たまには少しやり返すのもいいだろうと思うのだった。

 

 古びた木の引き戸を見崎が開ける。当然のように「失礼します」はなし。だがそれが彼女が来た、という合図として、もしかしたら部屋の主の千曳先生には伝わっているのかもしれない。

 

「……見崎君か? 今は部活禁止期間中だ、そうじゃなくても部活動は本来君にとっての部室である隣でやってくれ」

 

 案の定、先生は来たのが見崎だということはわかっていたらしい。だがその見崎に続いて僕も本棚の陰から顔を出すと少し驚いたようにこちらを見つめてきた。

 

「なんだ、部活をしに来たんじゃないのか」

「今先生がおっしゃったとおり禁止期間中ですし。今日は勉強をする場所に、と思ってここに来たんです」

「ここは君の個人空間じゃないんだよ? この部屋の主である私の身にも少しはなってもらいたいな」

「でも部活禁止ですし、だったら顧問の先生もお暇なんじゃないかと」

 

 諦めた風に、千曳先生はため息をこぼした。

 

「……別に私も部活動を見ないのなら特に用はないからな。あまり遅くまでは残らないように」

 

 それきり、千曳先生は僕達への興味をなくしたかのように机の上の本を読み始めた。それを確認してから見崎は窓際の席に腰を下ろし、僕もその隣の席に座る。

 

「さっき部活って言ってたけど……見崎、演劇部なの?」

「違う。……言ってなかったっけ? 美術部」

「美術部の部室は本来ひとつ奥の美術室だ。なのにこの子は時々ここでスケッチをしているんだよ。私としては部室でやってほしいがね」

 

 本を読みつつ、千曳先生がそう補足してくれた。そうか、見崎は望月と同じ美術部だったのか。初めて知った……。

 そういえばこの間見崎の家に行ったとき、霧果さんが「部活動の」と言いかけたことを思い出した。今思えばあの時は2人のギクシャクした関係とか、藤岡さんのこととかで頭が一杯で忘れていたのだった、とようやく気づく。

 

「見崎、絵描くのが好きなの?」

「描くのも好きだけど……見るほうが好きかな」

「そうなんだ……。あ、もしよかったら描いてる絵見せてよ」

 

 が、これは少しばかり配慮を欠いた頼みだったかもしれない。彼女は一瞬、戸惑ったような表情を見せた。

 

「……あんまり見せるものじゃないから。完成したら、見せてあげないこともない、かな」

「でも美術部って文化祭で展示とかあるんじゃない?」

「……ある、かな」

「じゃあどちらにしろそのときは見崎の作品を見られるわけだ」

「ここに描いてるものとは違うけど、ね。……そういう榊原君こそ、部活入らないの? 望月君に美術部に勧誘されてたでしょ? 確か美術系の学校も考えてるとかって……。今から入部しても、文化祭の展示には作品間に合うと思うよ」

「僕は……」

 

 正直、返答に困った。実を言うと絵はうまくないのだが美術に興味があり、そっち方面の学校に行こうかと思っている、とは以前怜子さんと相談したことがある。だがあの人自身が兼業画家なわけで、大抵親から反対されるだの潰しが利かないだの、かなり現実的なことを言われてしまった。だがそれでも「やってみる前に諦めちゃうのは、かっこ悪いんじゃない」とも言われ、現在進行形で悩んでいる。

 だから美術部に入るということ自体、まんざらでもなかったりする。しかも見崎がいるとなればなおさら悪くないと思えてしまう。とはいえ、今はテスト準備期間中。この後は夏休みに入るわけで、それが空けてから入部となると文化祭まで日が浅い。作品を作るとして展示までこぎつけられるか、その前に部内での人間関係はうまくいくかとか心配になってきてしまうのだった。

 

「……君達は勉強しに来たのだろう? なら、雑談はほどほどに、その目的を果たしたまえ。……そして榊原君、部活動に困ってるなら演劇部は変わらず部員募集中だ。うちに来てくれても構わないよ」

 

 と、ここで千曳先生が横槍を入れてきた。しかも勧誘付きで。演劇部も面白そうといえばそうだが……。まあ僕にはあまり向かないんじゃないかと思う。

 そんな風に自分の中で考えをまとめ、千曳先生の誘いを断る意味でも「さて」と僕は荷物の中から筆記用具を取り出した。

 

「それで見崎、何を教えてほしいの?」

「基本的に理数系全般。国語と英語は問題ないんだけど、数学は今回結構危ないかも」

「ああ、そういえば中間の時も国語は相当時間余してたっけ。英語も得意なんだ」

「……英語かっこいいと思うんだけど。だから好きなの。ありふれた文章を英語で言うだけでなんだかかっこよく聞こえるし。欲を言うとドイツ語とかイタリア語とかのほうがかっこいいと思うけど、中学校じゃ教えてくれないから、それは今後の楽しみにしておくの」

「やっぱり……見崎変わってるね」

 

 英語がかっこいい。うん、今まで1度も抱いたことのない発想だ。なんで国によってこんなに言語が違うんだ、としか僕は思ったことがなかった。まったく昔の人はなんでバベルの塔なんてものを作ろうとしたのか、とまで思ったことがあるほどだ。彼らがそんなものを作ろうとしなければ神々の怒りを買うことはなく、今日(こんにち)でも僕達は共通の言語で話すことが出来たのだろうから。

 ……などと、まあそれを本気で信じているほど信心深いわけではないし、世界がこれだけ広ければそれは独自に言語が生まれるだろうということもわかってはいる。とはいえ他の言語、特に英語を「かっこいい」という目で見たことはやはり今までないだろう。

 

「……英語、かっこよくない?」

「あまり思わないかな。それよりは古き良き日本人の、慎み深い言い回しや表現のほうに僕は感銘を受けるよ」

「ならやはり演劇部に入るのはどうだろうか。それこそ古き良き日本人の……」

 

 まずい、話がややこしくなってきた。時々千曳先生という人がどんな人かわからなくなる。最初は小難しい人だと思ったけど、予想以上に面白そうな人だとは思う。だけど、それと演劇部に入るかはまた別な話だ。

 このまま目的を果たさずに時間だけを浪費するのはよろしくない、と僕は見崎に「じゃあまず数学から……」と事態を進めるように促す。彼女は教科書とノート――それもお世辞にもきちんと板書を取れてるとは言いがたいノートを僕の前に開いてみせた。

 

「それで……。どこがわからないの?」

「よくある話。……どこがわからないのかわからないの」

「あのねえ……」

 

 こりゃまずい。今日1日では到底終わりそうにない。しばらくはここ通いになるかもしれないと僕は頭を抱えた。だがまあそれもいいだろう。「人に物を教えることは自分に教えていることとも同義である」と言う言葉を聞いたことがある。もっとも、言った人は忘れた。もしかしたら僕かもしれない。とにかく、僕は復習が出来るわけだし、何より……見崎とこうやって放課後一緒にいられるのは、正直言って嬉しい。

 

「……じゃあとりあえず今回の範囲だから……中間テストの後のところからいくよ」

 

 今日授業で使ったページから大分戻して、僕は見崎の数学を教えることとなった。そして早くも不安感が胸を覆い始める。

 一体今何ページ戻しただろう。これをやりなおすとなると……。いや、考えるのはよそう。他ならぬ見崎からの直々の頼みなのだ。そして僕はそれを引き受けたのだから、出来る限り力になってあげようと、先月ぐらいにならった部分の解説を始めたのだった。

 

 




設定資料集のお陰で色々とすごく捗る


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#17

 

 

 そして、期末テストは無事終わりを迎えた。見崎に頼まれたために数学と、あと数学のせいでほとんど時間が取れなかったが一応理科も少し見てあげた僕としては自分のテストの出来と同じぐらい見崎のテストも気になっていた。

 しかし余計な心配だったらしい。終わってから聞いてみたところ「まあ、多分大丈夫」という答えが返って来たのだった。どうやらまずい点数による補講、追試の類は免れられそうだ。

 かくいう僕も可も不可もない程度に手応えはあった。前回のようにクラス上位につけることは難しいだろうが、怜子さんに渋い顔をされることもないだろう。これで憂いは断てたというものだ。

 もっとも、勅使河原辺りはテストが終わった直後から青ざめていたから相当まずい出来なのだろうが。まあその辺りは冷たいようだが、僕の関係する範疇を超えている。いつか杉浦さんが言ったことではないが「若いうちの苦労は買ってでもしろ」とでも考え、補講やら追試に励んでいただきたい。

 

 かくして夏休み前の最大の障害は無事終わりを迎え、あとは登校日も数える程度となって夏休みを待つだけとなったと言ってもいい、7月の土曜日。僕は市立病院に来ていた。定期検査である。今回はテストが近辺にあったということで、なんとか土曜日に予約をねじ込んでもらった。お陰で学校を休まずにすむ。

 長引くとか言われていたはずの梅雨はどこへやら、今日はジリジリと太陽が照りつけ、外を歩いているだけで汗が吹き出てくる。ああ、こんなことならおばあちゃんにちょっとお願いして送ってもらえばよかったかなと若干甘えた考えを抱きつつも、僕は市立病院に到着し、受付を済ませた。

 病院内はほどよくクーラーが効いてそこそこ快適だ。おかげでここまで歩いてきた時の汗は全部引いていた。

 それでも検査はやはり面倒なものだった。先月のように混んでいなかったことは救いだろう。結果は3日後、今回は少し無理を言って朝一の早い時間に予約を取ってもらった。これで遅刻で登校出来ることだろう。

 

 検査を全て終わらせて会計を済ませた後は、恒例になりつつあった、405号室への訪問である。だが、目的の部屋の主はそこにはいなかった。かかっている表札が違う人の物になっている。なんとなくは予想していたし、そこで間違えて入るのも恥ずかしいので、近くを歩いていた看護婦さんを呼び止めて聞いてみることにした。

 

「何かしら?」

「あの、405号室の藤岡さんに面会に来たんですけど……もう退院されました?」

「405……ああ、藤岡美咲さんね。先週末に退院されましたよ。経過も順調で、あとは自宅で様子を見ながら、という形になったみたいで」

「ああ、そうですか。それはよかったです」

 

 出来れば、連絡はほしかったけど。でもそう思うと同時、僕は彼女の連絡先を知らないことにようやく思い当たった。僕と彼女の接点は見崎であり、その見崎も何も言わなかった。というか、テスト対策で忙しかったからだろう。月曜日に会った時にでも聞けばいいか、と僕はお礼を言ってその場を立ち去ろうとした。

 が、その看護婦さんがまじまじと僕を見つめてくる。……なんですか、僕は不審者じゃないですよ。

 

「ねえ君、もしかして……水野さんが言ってた405号室だった子の彼氏君?」

 

 なるべく静かにするべき病院で、危うく盛大に抗議の声を上げるところだった。あのドジっ子ナース、またあることないこと言い回ったのか……!

 

「違います。……あの、確かに僕はここに入院してたこともあって水野さんは顔見知りですけど、あの人の言うことを信用しないでください。こっちとしてもあることないこと言われて困ってるんです」

「ああ、やっぱり。まああんまり本気にはしてなかったけど。でももてそうでうらやましいぞ、少年」

 

 ……そうですか。この病院の看護婦さんって皆こんなノリなんですか。意地でも気胸を再発させないようにしよう。この人たちのおもちゃにされるのが目に見えてる。

 

「じゃあ僕はこれで失礼します。ありがとうございました」

 

 あれこれ言われる前に逃げるに限る。まだ何か言いたそうな看護婦さんを尻目に、僕は早足でエレベーターのところへと退散し、丁度降りてきたエレベーターに飛び乗った。

 

 

 

 

 

 帰りは昼時ということもあって容赦ない暑さに拍車がかかっていた。どこかで昼食とかもいいかと思ったが、この暑さではどこかで食べるよりもさっさと帰って涼みたい衝動の方が勝ってしまう。とりあえず真っ直ぐ帰ろうかと家への道を進み、この辺りで割と賑わっている紅月町の辺りまで来た時だっただろうか。

 

「おや? こういっちゃんじゃないかい?」

 

 聞こえてきた独特の呼ばれ方に、僕は声の方へと振り返る。こんな呼び方をする人は1人しかいない。そしてその僕の予想に違わず、そこに立っていたのは私服姿の綾野さんだった。普段制服しか見ないからとても新鮮……というか、ファッションに疎い僕でもかなりのお洒落さんだとわかる格好である。

 黒っぽい帽子を被り、いくつかチェーンで繋がったチョーカーというものだろうか、首元を寂しくないように飾って、上は半袖Tシャツに下はキュロットのスカート、そこに本来上着のデニムのシャツを巻いて、荷物と思しきリュックを片方の肩にだけかけていた。

 女の子にとってはこのぐらい普通なのかもしれないが、僕からすると随分と気合が入ってるなと思ってしまう。「いやあこれからアイドルグループのオーディションがあってね」とか言われても信じてしまいそうなぐらいの格好であった。

 

「ああ、綾野さん。こんにちは。どこかにお出かけ?」

 

 そんなわけでそれだけめかしこんでどこに行くのか気になり、僕は尋ねてみる。

 

「んー。まあ特に目的とかないんだけどね。せっかくの休みでいい天気だし、家でゴロゴロしてるのも勿体無いなーと思って、ちょっと出かけてみようかなってとこ。中心部行けばそれなりに時間潰せそうなところはあるしね」

 

 この暑い日によくもまあ「勿体無い」という考えだけで出かけようと気持ちになれるなと、素直に感心してしまった。しかも「ちょっと出かけるだけ」でそれだけお洒落するのか……。女子ってすごいな……。

 

「そういうこういっちゃんは?」

「僕は病院の帰り。ほら、胸の検査の……」

「ああ。そういえば。こっち来て最初入院してたんだっけ。普段元気そうだからすっかり忘れてたよ」

 

 そう言うと綾野さんは屈託のない笑みを僕に向けてきた。本当に明るい人だ。そして活発的。さっき思ったことだが、こんな暑い日に進んで外に出ようというだけで、十分そう言えるだろう。……でも確か運動はてんでダメだったはずだけど。

 

「時にこういっちゃん、これから用事何かある?」

「えーと……ないよ。暑いから家に帰って涼もうと思ってたぐらい」

「それはよろしくないなー。……最近の若いもんはすぐそうやって軟弱なことを言い出すんじゃのう」

 

 わざわざ声を低くしての、ステレオタイプの塊ともいえるその物の言い方に僕は思わず苦笑を浮かべる。言ってる本人だって僕と同級生だ、「最近の若いもん」とか言われても困る。

 

「とにかく、じゃあこの後暇なんだ?」

 

 今の作った声がまるで嘘であったかのように、今度は普段通りに声を戻して彼女はそう尋ねてきた。

 

「まあね」

「そろそろ昼時だけど、お昼って食べた?」

「ううん。まだ。それも帰って食べようかと思ってた」

「じゃあさ、こういっちゃんがよければでいいけど、一緒にどっかで食べない?」

 

 ……なんと、予想外のお誘いだった。確かに今言ったとおり僕は家で食べようと思っていたし、断る理由も特にない。

 

「僕は構わないけど……。綾野さんこそいいの? どこかに行くんじゃ……」

「だから適当に歩こうとしてただけだって。ノープランのぶらり1人歩きの旅。そして旅は道連れっていうじゃない。そういうわけで、お昼一緒に、いい?」

「いいよ。あ、場所はお任せするよ。僕はこの辺りお世辞にも詳しいとは言えないから」

 

 一応お金はそれなりにある。学生のランチなら十分足りるだろう。……コース料理が出てくるようなすごいところに連れて行かれた挙句に「奢って」とか言われなければ、だが。

 

「よしよし。これでこういっちゃんとデートってわけだ」

 

 勝手にそんなことを言って、綾野さんは満足そうに頷く。いや、デートって……。

 

「あの、綾野さん……」

「あー冗談だって、冗談。そんなの泉美にばれたら何されるかわかったもんじゃないし。それにもう1人(・・・・)の方にも、ね。あくまで私とこういっちゃんはたまたまここで会って2人ともお昼がまだだったから一緒に食べる、ただそれだけなのだ」

 

 そう言って勝手に納得した様子で彼女はうんうんと頷いた。……まあそれでも見ようによってはデートとか取られてしまうかもしれないが。しかし同級生と昼食を食べるぐらいよくあることだろう。……多分。

 

「ま、仮にデートとしてもこの辺りじゃ適当にぶらつくか、遊ぶところとしては遊園地は……あるにはあるけどあそこは朝見台の方でかなり遠いもんなあ。なによりあんま立派じゃないし。やっぱり食事が妥当ってことになっちゃうか。……でも繰り返すけど、これはデートじゃありませんからね」

「はいはい、わかったよ。それで、どこに案内してくれるの?」

「そうだなあ……昼食……。うん、チェーン店よりはちょっと値が張っちゃうけど『イノヤ』にしよっか。喫茶店だけど、おいしいよ。ここからならそこまで遠くないし、中心部の方に行けるし、何より面白いものも見せられそうだし」

「面白いもの……?」

 

 イノヤ、という名前だけは聞いたことがあった。確か望月の家の方だったはず。

 

「それは行ってからのお楽しみ、ということで。……それでは参ろうか!」

 

 元気に綾野さんが僕の前を歩き始める。全く明るい人だなあと思いつつ、僕はそれに続いた。

 

「綾野さん、テストどうだった?」

 

 一緒に歩くのに無言と言うのも寂しいので、僕はまず無難な質問をぶつけてみる。期末テストは丁度昨日で終わったところだ。話題として一番適当だと思ったのだ。

 

「んもーこういっちゃん、今日と明日ぐらいはそのこと忘れさせてよー。こういっちゃんはいいかもしれないけど、私そんな成績よくないんだし」

 

 が、これは裏目だったらしい。つまらなそうに口を尖らせ、彼女に小言をぶつけられてしまった。

 

「ご、ごめん……」

「はい、違う話題。どうぞ」

 

 いや、あの、どうぞと言われましても……。

 僕が本当に困り顔でどうしたものか戸惑っていたからだろう。ややあって、彼女はため息と共に助け舟、というか話題を出してきた。

 

「……じゃイノヤの話でも。私は時々行くぐらいなんだけど、泉美があそこのお店に結構足を運ぶらしくてね。なんでもあそこのコーヒー……なんだっけ……ハワイ何とか……ハワイコナ? ハワイアンココナッツ? とにかく、それがお気に入りなんだってさ」

「へえ……」

 

 そう言われてもコーヒーのことはよくわからない。苦くて飲めないのだ。カフェオレならなんとか、というレベルである。

 

「はい、じゃあ次は君の番だよ」

「え、僕の番って……」

「私が一巡先延ばしにしてあげたんだから、何か話題出来たでしょ?」

 

 出来ません。そんなすぐ何か話題を思いつけといわれても……。元々喋り好きというわけではないのだ、はっきり言って無理である。

 そしてやはりそれを見るに見かねてか、先に口を開いたのはまたしても綾野さんだった。

 

「……こういっちゃんアドリブ弱いって言われるでしょ?」

「弱いって言うか……。え、その前にこれアドリブなの?」

「んー……。違うかな? でも提示された話題に咄嗟に反応するのは重要なことらしいよ。部活でたまにやってるし」

「ああ……。そういえば綾野さん演劇部だっけ」

 

 そこでようやくそのことを思い出し、同時に話題が出来たことに少し安心した。

 

「うん、そ。……生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」

 

 急に始まった彼女の1人芝居に一瞬虚を突かれる。だがここまで彼女のペースに振り回されたおかげか、なんとかすぐに我に返ることが出来た。

 

「上手だね」

「……本当にそう思ってる?」

「思ってるよ。……元は詳しくは知らないけど」

「じゃあうまいかどうかなんてわかんないじゃない」

 

 彼女は頬を膨らませる。それがまたどことなくかわいらしい。

 

「でもこの間の久保寺先生の真似はうまかったよ」

「先生の? ……ああ、クーラー云々の時のあれね。まあ先生真似しやすいからね。……真似をしやすいからと言って、そうやって人を馬鹿にするような態度はいただけませんよ、榊原君。よろしいですか?」

 

 再び披露された先生のモノマネに僕は思わず声を殺して笑った。文句なくうまい。知ってる人なら大方笑うことだろう。

 

「うまいうまい。さすが演劇部」

「……こういっちゃん、うちの部を根本から勘違いしてるでしょ。うちはモノマネ部じゃないの、演劇部だよ? それに演技については私より泉美の方がすごいわよ。普段あんなきつそうだから、高飛車な役とか男装の麗人みたいなのは元から完全にハマり役だけど、おしとやかな役からいかにもヒロインな役まで、なんでもやっちゃうんだから」

「ああ……。そういえば赤沢さん、部長だっけ。そうなんだ……」

 

 あの赤沢さんが、ねえ……。あまり想像できない。

 

「文化祭が演劇部3年生の最後のステージになるから、その時に泉美の演技見るといいわよ。……ってその時は私もステージの上か。私のことはあんま見なくていいから。あとうちのクラスだと由美だね。由美はわかるよね? 小椋由美。その2人だけ見とけばいいよ」

 

 そうはいかないだろう。うちのクラスの女子3人、その時はちゃんと見ようと思う。

 

「あ、そういえば」

 

 その演劇部云々の話で思い出した。僕と見崎がしばしば世話になるあの部屋の「主」は、確かその部の顧問だったはず。

 

「ん? どうかした?」

「千曳先生。演劇部の顧問なんだよね?」

「へえ。こういっちゃん、千曳先生のこと知ってるんだ。うん、そうだよ。うちの顧問。……こういっちゃんから見て先生ってどういうイメージ?」

「どういう、って……」

「堅物で、口数少なくて、なんか気難しい、みたいな?」

 

 お見事。適確すぎる評価にもう何も付け加えられなかった。

 

「私も最初はそうだと思ったんだけどね。あれでいて演技指導すごく上手なんだよ。指導するときの演技とかすごいかな。普段の雰囲気はまるで嘘みたいに役に入り込むっていうか、言うなれば何かが乗り移ったみたいな感じ」

「乗り移る?」

「そ。私達は『憑依した』とか例えてるけどね。初めて見たとき鳥肌が収まらなかった記憶があるよ」

 

 やはりなかなかに熱い人だ、千曳先生……。そんな演技を見てみたい気もするが……演劇部に入るのはためらわれる。普段「やってください」って頼んでも多分やってはくれないだろうしなあ……。

 

 僕がそんなことを少し考え込みながら歩いていた時だった。不意に腕が掴まれる。そのまま路地の曲がり角の方へと引っ張られた。引っ張った主は隣を歩いていた綾野さんに他ならなかったわけだが、だったら事前にそういうことは言ってほしい。正直ちょっと痛かった。肩が外れたりでもしたらどうしてくれるのだろうか。

 

「痛っ……! 綾野さん、どうし……」

「しーっ! ……見て、こういっちゃん」

 

 右手の人差し指を口の前に立てながら、空いてる左手の人差し指で彼女は何かを指差す。僕も物陰からその先へと視線を移した。

 そこにいたのは1組の男女だった。背の高い高校生ぐらいの男の人と、その隣にそれより年下そうな、女性にしても小柄と言っていい、おそらく見崎と同じぐらいの身長の女子が並んで仲良さそうに歩いていた。綾野さんほどではないにしろ、女子の方もなかなかおしゃれをしている。だがなぜ綾野さんが僕に静かにするように言ってあの男女を指差しているのかわからない。

 

「……あのカップルがどうしたの?」

「こういっちゃん気づかない? よく見てよ。多分あいつ(・・・)が横向けば気づくと思うし」

 

 あいつ? ということは彼女はあの人達を知っているのだろうか。

 ……などと思っていた矢先、少女の方が横を向いた。そしてその横顔に思わず「あっ!」と声を上げそうになり、慌てて口を塞ぐ。

 

「ね? わかった?」

 

 口を塞いだまま数度頭を縦に振り、ようやく落ち着きを取り戻した僕は口に当てた手をどかした。そう、あの横顔は間違いなく同じクラスの……。

 

「あれ……小椋さん?」

 

 綾野さんと仲が良く、同じく演劇部所属の小椋さんだ。僕と直接話したことはあまりないが、赤沢さんの招きで昼食会の時はよく顔を出していた。

 

「そ。……由美め、やっぱりいたか。もしかしたらこの辺歩いてるかなーとか思ってたら、ビンゴね」

 

 ……ということは綾野さん。「目的がない」とか言いながら小椋さんが行きそうな場所を把握しておいて、見かけたら茶々入れようとしてたわけか……。

 

「……でもこの状態でからかいに行くとこっちがやぶへびになりそうだし、声はかけないでおこうかな」

「やぶへびって……。いや、その前に隣の人……彼氏? 少し年離れてそうだけど……」

「彼氏……。まあ彼氏っちゃ彼氏か。……あれ、あいつの兄貴よ。名前は小椋敦志」

 

 驚きの声を上げかけて、そこでかつて勅使河原が言っていたことを思い出して僕は納得の声を上げた。確か「結構なブラコン」とか言ってた気がする。パッと見、それなりに年が離れているように見えるのにあれだけ仲良さそうに歩いていたら……そりゃそう言われても仕方ないかもしれない。

 

「あいつの兄貴ってひきこ……フリーターでさ。結構ネットで怪しげなサイト覗いてたり匿名掲示板に張り付いたりしてるらしいの。私もよくわかんないんだけど。で、そんな兄貴にあいつはべったりくっついてるのよ。おかげで色々普通の女子中学生が知らないようなマニアックな情報まで知ってたりするわけで。……ほら、以前見崎さんのことを『ジャキガン系』とか言ってなかった? 多分あれもそう。兄から仕入れた情報なんだと思う」

 

 なるほど……。普段のあまりいい表情を僕に向けない小椋さんからは想像できない。だが現に今、横顔で見える彼女は物凄く楽しそうに笑っていた。……はっきり言ってあんな表情は初めて見た。杉浦さん程ではないにしろ、僕は彼女の笑顔をあまり見たことがなかっただけに非常に意外だった。

 

「あ、角曲がる。……ほら行くよこういっちゃん!」

「行くって……。どうせ声かけないんでしょ?」

「かけられないけど、どこに行くかは気になるでしょ!」

 

 綾野さんは尾行をやめる気はないらしい。なんだか物凄くやる気の彼女を見ては、止めるに止められなかった。ため息をこぼしつつ僕は彼女についていく。

 しかし、それはすぐ終わることとなった。2人が行きついた先はある喫茶店だった。仲良くその店の中へと入っていったところまでを確認して「あちゃー」と綾野さんが困ったような声を上げる。

 

「どうしたの?」

「……こういっちゃん。店名」

 

 そう言われて店の看板を見て僕は彼女が言いたいことを把握した。店の看板にはこう書いてある。「喫茶店・イノヤ」。つまり、僕達の目的地に先に入られてしまった、と言うことになる。そしてさっき彼女が「やぶへび」と言ったのは、彼女と僕が一緒に歩いているのを見られては勘違いされる可能性があるから、ということだろう。

 まとめるなら、イノヤでの昼食がなくなった、と言い換えてもいい。既に小椋兄妹がいる以上、ここで僕達が入って行ってはあらぬ誤解が発生する可能性がある。そうでなくても向こうもこっちに見られるのはあまりいい心地はしないだろう。どこか違うところを提案しようと僕は綾野さんに声をかけようとするが、

 

「……もうちょっと待ってみよう。出てくるかもしれないし」

 

 何に期待してか、綾野さんはそう言った。だったら、と暑い中、日陰でしばらく待つ。だが数分しても2人が出てくる様子はなかった。

 

「……いや、まあよく考えたら出てきたら出て来たで、てっしーかもっちーがいてまずいと思って出てきたって辺りだろうから、どの道無理だったか」

 

 そう言うと彼女は大きくため息をこぼす。

 

「どういうこと?」

 

 その発言の意図を図りかね、僕はそう尋ねた。

 

「ここね、結構来る人多いのよ。さっき言った泉美でしょ。あとてっしーも来るし、風見もたまにあいつに連れられてくるかな。ちょいと値段は張るけどたむろ(・・・)するにはもってこいの場所だし、雰囲気いいしね。まあもっちーの場合はそういう事情抜いて来るんだけど」

 

 そういう事情を抜いて? なぜ望月だけそうなのだろう? 僕が首を傾げているのがわかったのだろう。綾野さんは「ちょっと待ってて」と言い残し、潜んでいた場所から歩き出す。そのまま、何気ない様子で店の前を素通りした。そして陰の方に入ると僕を手招きして呼ぶ。その招きに応じて僕は彼女の元へと駆け寄った。

 

「由美の奴、丁度奥の方に入ったみたい。助かったわ。……あのウェイトレスさん、見える?」

 

 そう言って彼女はガラス越しに1人の店員と思しき女性を指差した。美人なお姉さんがオーダーを取っている様子が見える。年の頃20代半ば、といったところだろうか。

 

「うん。あの女の人がどうかしたの?」

「……あの人の名前、望月知香さんっていうの」

 

 望月。それで僕は彼女が言いたいことを察した。

 

「じゃああの女の人って……」

「そ。もっちーのお姉さん。ただし、異母姉……『腹違い』ってやつね」

「腹違い……」

「さて、こういっちゃんもここまで言えばなんとなく次に私が何て言いたいかわかるでしょ?」

 

 次に何て言いたいか? ……なんだ? あの人は望月の異母姉で年が大分離れている。そして望月はたむろとかいう事情抜きに来る――。

 

「あっ……。もしかして……」

「さて、思い当たる節があるようだね。では君の推理を聞こうかな、名探偵こういっちゃん」

 

 演劇部特有の雰囲気を出した声で綾野さんはそう語りかけてくる。しかし誰がいつから名探偵に……。まあいいや。

 

「もしかして望月の年上趣味って……。あの人が原因ってこと?」

「素晴らしい! ……まあ確証はないけどね。でもまことしやかにそう言われてるよ。もっちーの年上趣味は、あのお姉さんが原因じゃないか、って。ついでに言うと、さっき言った『面白いもの』って、まあこれのことなんだけどね」

 

 へえ、と思う。兄が大好きな小椋さんに異母姉に憧れを抱く望月。うーむ、やはり3年3組は変わり者が多い。

 

「とにかく……。イノヤは今日は諦めるしかないか……。まあそのうち泉美に誘われるんじゃないかな? その時にでも来るといいよ。ただ、コーヒーを強制的に飲まされると思うけど。私もそうだったし」

 

 あははと困ったように綾野さんは笑いを浮かべた。

 

「しかしそれはさておくとして……。お昼どうしよう?」

「確かこの辺りにファミレスあったよね? そこでいいんじゃない?」

「ファミレス……ああ、あった! こういっちゃんよく知ってるね!」

「まあね。この間水……入院中に仲良くなった看護婦さんに連れてきてもらったから」

「ああ、なるほどね」

 

 そう言うと綾野さんは道がわかるのだろう、先頭を切って歩き始めた。が、少し歩いたところでよくない(・・・・)笑みと共にこちらを振り返る。

 

「……こういっちゃん」

「何?」

「その看護婦さん……うちのクラスの水野猛の姉でしょ?」

「え……? どうしてそれを……?」

「あ、本当にそうなの? いやさ、苗字言いかけてやめたから、私も知ってる人の身内とかかなーと思ってカマ(・・)かけてみたの。確かあいつの姉看護婦だったって聞いてたし。……それにしてもこういっちゃん、この程度でひっかかっちゃうなんて、わかりやすすぎ」

 

 ニマニマと笑顔を浮かべながらそう言われても、もはや返す言葉もない。同時に、綾野彩恐るべしとも思うのだった。

 

「別に僕と水野さんは……」

「大丈夫、わかってるって。今日の私と同じみたいなもんでしょ? たまたまご飯食べに行っただけ、と。……だってこれはデートでもなんでもないんだし、ね」

 

 そう言いつつ、綾野さんは今度は普段通りの笑顔を僕に向けてきたのだった。「喜怒哀楽」でいうなら「喜」と「楽」しかないんじゃないか、と思わせるような明るい彼女の表情。なんだか、それが少し眩しかった。

 

「だから今日のことは2人だけの秘密だからね? ……特に泉美には絶対言わないでよ。さっきの水野の姉のことも含めて」

「うん、わかったよ。そうする」

「よろしい。……じゃあさっさと行こうか。由美尾行してたらお腹減っちゃったしさ。それに何より暑いもんね」

 

 そう、彼女の言うとおり暑い。いい加減涼みたい。そんな風に思いつつ、僕達は昼食を取る予定のファミレス目指して歩き始めた。

 




綾野さん当番回。
割と下の名前で呼ぶことが多いみたいなので(赤沢さんのことは泉美、杉浦さんのことは多佳子って呼んでたはず)仲のいい小椋さんも多分下の名前で呼ぶだろうと想像して書いています。劇中では互いに呼び合うシーンはなかった……はず。
彼女の格好はアニメの4話の私服ということで描いてますので、それをイメージしていただければ。なお、その分のおかげでか、彼女は設定資料集で見開き分で2ページという、アニメオリジナルの実質モブとしては破格の待遇を受けています。これは風見や千曳さんというそこそこ重要キャラと同じページ数ですので、かなりの好待遇になると思います。
自分にとっても綾野さんは結構好きなキャラで出来れば生き残って欲しかったので、明確に死亡シーンが描かれなかったことに一路の希望を抱いてもいました。
が、公式の座席表でその思いは無残に打ち砕かれました……。
そんなことを思い出しつつ、この話を書いた次第であります。やっぱり彼女には笑顔が1番似合うと思うんですよね。


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#18

 

 

「合宿を考えています」

 

 LHR(ロングホームルーム)で僕達全員になにやらプリントを渡しながら、久保寺先生はそう言った。

 

「合宿、とは言いましたが、このクラスでの思い出作り、とでも考えてくだされば結構です。まあ本来なら、それは修学旅行で行うべきなのですが、あいにくこの学校では修学旅行は2年生の秋と決まっていてもう終わってしまっていますからね……」

 

 えっ、と僕は思い、隣の望月の肩をたたいて顔を近づける。初耳だ。僕が前いた学校では修学旅行は3年の秋だったはず。なのにここはもうそれが終わっているのだろうか。

 

「……何?」

 

 小声で望月が返してくる。僕も手を添えて、典型的なひそひそ話の格好で彼に話しかけた。

 

「……もう修学旅行って終わってるの?」

「終わってるよ。去年の秋に東京に行ったよ。東京タワーに上ったかな。勅使河原君辺りから聞かなかった?」

「……ほんとに?」

 

 なんということだ。僕の中学時代は修学旅行を経験することなく終わってしまうということらしい。

 

「なんで2年の秋なの? 普通3年の秋じゃない?」

「えっとね……」

「榊原君、私語は感心しませんね」

 

 普段こういうことには寛大……というか甘い久保寺先生に注意されてしまった。「すみません……」と僕は素直に謝罪の言葉を述べる。

 

「ですが……。転校生であるあなたの疑問ももっともでしょう」

 

 しかも驚くべきことに先生は僕達のひそひそ話を耳に入れていたらしい。……なんという地獄耳、もしかして普段甘かったり適当にしている部分は、実は全部わかっていてその上で見逃しているのではないかとさえ思えてくる。

 

「榊原君は、この学校の文化祭がいつ行われるかわかりますか?」

「えっと……11月ですか?」

「おいサカキ、お前学校行事の予定ぐらい把握しておけよ!」

 

 後ろから勅使河原の文句が飛ぶ。余計なお世話だ……。僕はお前と違ってそこまで学校行事に興味があるわけじゃないんだ、と心の中で反論する。

 

「この学校の文化祭は10月の頭、夏休みが空けると早くも文化祭の準備が始まります」

 

 なんと、そうだったのか。それはまったくわからなかった。しかしそれも意外だ。普通、というか前の学校は11月頭だったから、1ヶ月は早いことになる。

 

「なぜその時期なのか。それは部活動の3年生の引退時期に関わっているんです」

「引退時期……?」

「はい。運動部の場合、夏の中体連を最後に3年生は引退扱いとなりますが、文化部は明確な線引きが出来ない。そこで、文化祭を最後に引退扱いにしようとなったわけです。しかし、それが11月ではそこから受験モードに切り替えるのは少し遅いのではないか。そこで10月に文化祭が行われ、3年生はそこで引退になるのです」

「こういっちゃんは帰宅部だから気になんないかもしれないけど、特に私の所属してる演劇部とか吹奏楽部とかはそこそこ重要な問題なんだよね、これ。結構文化祭人集まるしさ。やっぱ文化祭で最後締めたい、って思うし、せっかくなら部で3回参加したいって思いがあるわけよ。もっちー、美術部もその文化祭に展示するものを目標に今作業進めてるんじゃないっけ?」

 

 補足した綾野さんはそう言って背後の望月の方へと振り返る。彼は頷いて今彼女言ったことを肯定した。そういえば以前見崎と話した時にそんなことを言っていた気もする。

 

「他にクラスでの出し物もありますし、3年生にとってはそこが一区切りとなるのです。……そういうわけで、文化祭が終わると3年生は受験モードに入るわけです。しかし、その後で修学旅行では浮ついた心のままで勉強に集中できない……。そう考えた教職員の意見によって、2年の10月末と、ずっと前から決まっているのです」

 

 へえ、と思うと同時にどうにも納得しかねてしまう。……別にその修学旅行の後で受験モードに入ればいいじゃないか。いつの時代に決まったか知らないが、そんな教職員様方の決定のおかげで僕は修学旅行に行きそびれてしまうわけだ。そもそも2年の秋じゃ「修学」という言葉に相応しくないではなかろうか。3年の春先とかでも良いだろうに。……まあその場合も僕はまだその時期じゃ胸が不安だから諦めることになったか入院中だったんだろうけど。

 

「……少々脱線してしまいましたが、話を戻しましょう。つまりこのクラスで修学旅行に行くことはないわけで、だったら思い出作りに、という意味を込めて合宿を考えています。場所は咲谷記念館。夜見山にある保養所です。……幸いこのクラスには高林君もいますしね」

 

 そう言うと先生は廊下側1番後ろの高林君に視線を送る。彼はそれを受けて軽く頭を下げた。……なぜ高林君がそのことと関係があるのだろう?

 

「日程は8月8日から10日までの2泊3日を考えています。2日目は天候次第ですが夜見山を登り、そこにある夜見山神社を清掃する予定です」

 

 「ええーっ!?」と後ろから勅使河原の抗議の声が飛ぶ。僕も彼ではないが、何で合宿で山を登って挙句神社の掃除までしないといけないだろうかと思ってしまう。

 

「勅使河原君、夜見山神社はこの街においては貴重な文化財ですよ? ですがそれを市もまともに管理していない。嘆かわしいとは思いませんか? 古き良き文化財を大切にし、先人に敬意を払い、改めて今我々がここに存在できるのはそのおかげだと実感しながら生を全うしていかなくてはならないのです。よろしいですか?」

 

 うーむ、さすが国語の先生。古文を習うこともあるからか、そう言われると妙に説得力がある。

 

「……ともかく、参加不参加は皆さんにお任せします。私としてはなるべく全員の参加を望むところですが、強制はしません。各人での予定や都合とうまく相談の上、夏休みに入るまでにプリントを提出してください」

 

 合宿か……。いや、これはもはや合宿と言う体裁のクラス内思い出作りとか、親睦宿泊とか、そういう類だろう。面白そうだな、とは思う。でも見崎は……どうするんだろうか。

 チラッと彼女の方へと視線を移す。だがやはりというか、普段と変わらず、物憂げな表情で外を眺めている姿が見えただけだった。

 

 

 

 

 

 翌日、僕は勅使河原から昼食を丁度食べ終わった辺りに電話を受けて呼び出された。

 

『今日休みだし暇だろ? おもしれえ話があるから3時にイノヤに来いよ。あ、場所はわかるか?』

 

 面白い話なら別にここですませればいいだろうとも思ったが、まあ暇なのは事実だった。そしてイノヤの場所もわかる。丁度1週間前、綾野さんに店の前までは案内してもらっているからだ。

 

 そんなわけで2時過ぎという1日でもっとも暑い時間帯のうだるような夏の暑さにうんざりしつつ、指定された時間の10分前にはイノヤについた。カランカランと来客を知らせる音と共に扉を開けると、「いらっしゃいませ」という女性――確か望月の異母姉の知香さんだったか――の挨拶を受ける。思わず「あ、どうも……」と反射的に答え、どうしようかと迷っていた時。

 

「恒一君? こっちよ」

 

 店の奥から僕を呼ぶ声が聞こえた。そっちに目を移すと赤沢さんが手招きしている。珍しい。普段つんけんしてる相手である勅使河原の誘いに彼女が乗るなんて。

 

「よかったわ、来てくれて」

 

 向かいの席を促されたので、僕が彼女と向い合うように席に着くと同時、まずそう言ってきた。

 

「勅使河原から急に呼び出されたんだけど……。赤沢さんも?」

 

 そう尋ね返すと、どこか彼女の表情が不機嫌そうに変わる。

 

「まあね……。あんな奴の頼みなんて、本当は聞かなくてもよかったんだけど。今日はたまたま部活もなかったしね」

 

 ということはまた綾野さんがその辺りを徘徊している可能性も、小椋兄妹が一緒にいる可能性もあるわけだ。先週のようにこの店に入ってきたらどうするのだろうか……。いや、もしかしたら勅使河原はそれを狙ってる可能性もあるわけだろうか?

 

「いらっしゃい。泉美ちゃんのお友達?」

 

 と、そこで知香さんが僕のところに水を運んできてくれた。

 

「ええ。クラスメイトの榊原恒一君」

 

 赤沢さんからの紹介を受けて僕は頭を下げる。

 

「望月のお姉さん……ですよね?」

 

 まさか僕がそのことを知っているとは思っていなかったのだろう。意外そうな表情を見せた後、彼女は再び笑顔に戻った。

 

「ええ、望月知香です。いつも弟がお世話になってます。お話は色々聞いてますよ。……それで、ご注文はどうします?」

「あ、えっと……」

 

 僕はメニュー表を手に取る。……おお、なかなかにいい(・・)値段だ。これを「チェーン店よりちょっと値が張る」で済ませた綾野さんに突っ込みを入れたい。ここの飲み物1杯であの時食べたファミレス一食分ぐらいはまかなえてしまうのではないだろうか。

 

「私と同じ奴を」

 

 そして一瞬迷って無難にアイスティーにするか、と思った僕をさておき、赤沢さんは得意気な表情でそう言った。チラッとカップの中を窺うと茶色の液体が見えた。ああ、やっぱりと思っていまう。

 知香さんは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに「かしこまりました」と営業スマイルに戻る。次いで一礼して場を去っていった。

 

「赤沢さん……飲んでるのはコーヒー?」

「そうよ」

「僕コーヒー苦くてダメなんだけど」

 

 一応、言うだけ言ってみる。綾野さんに「どうせ飲まされることになるよ」みたいに言われていたから、ある程度は覚悟していたが。

 

「ここのコーヒーは本物よ。飲めばわかるわ」

「ハワイアン……なんとかってやつ?」

 

 彼女は驚いたように目を見開いた。しかしすぐ普段通りの表情に戻って僕の間違いを訂正する。

 

「ハワイコナ・エクストラファンシーよ。……詳しいじゃない。本当は好きなんでしょ?」

「違うよ。人から聞いただけ」

 

 そこで彼女は「ふうん……」と僕から目を逸らして何かを考え込んだ様子だった。次いで手元のカップを口へと運び、それからゆっくりと戻す。

 

「……勅使河原?」

 

 一瞬、何のことかわからずに首を捻った。直後に「人から聞いただけ」と答えた、その「人」が誰かを尋ねてきたのだと思い当たる。

 

「ううん」

「じゃあ綾野ね」

 

 思わず言葉を失ってしまった。僅か2回の解答権で当ててしまうなんて。そして僕の様子で彼女はわかってしまったらしい。「やっぱりか……」と呟く。

 

「なんで……わかったの?」

「なんとなく。『ハワイコナ』を『ハワイアン』なんて陽気なネーミングに変えて、かつ恒一君と仲が良さそうで私のコーヒーの趣味を知ってる情報通な人間……。加えて、恒一君は知香さんのことも知ってたわけだから、イノヤのことまでペラペラ喋る人間、となればその2人ぐらいしか思いつかなかったのよ」

 

 見事な推理力。僕は華麗に墓穴を掘ってしまっていたらしい。このままだとあまりよろしくない。このまま突っ込まれて色々聞かれては、綾野さんに「泉美には絶対言わないで」とこの間言われたのに口を割ってしまいそうだ。

 

「お待たせしました」

 

 と、困っていた僕の元へ助け舟が出された。知香さんが注文を受けたコーヒーを持ってきてくれたのだ。僕はコーヒーには疎いので、匂いの感想を言えと言われても芳醇ないい香り、という人並みな言葉しか出てこない。

 

「騙されたと思って、飲んでみて」

 

 だが赤沢さんは匂いよりも味の感想を求めているらしい。まあ救いはさっきの綾野さんの話はもう二の次になった、と言うことだろう。とはいえ、さっきも言ったとおりコーヒーは苦手だ。しかしせっかく勧めてるんだから、飲むのが筋と言うものだろう。慣れない匂いを鼻孔に感じつつ、僕は一口、液体を飲み込んだ。

 

「どう?」

「苦い……けど、おいしい」

「でしょう?」

 

 まるで自分のことのように赤沢さんは得意気な表情だった。これならどうにか飲めそうだ。僕はもう一口、コーヒーのカップを口に運ぶ。

 

「……ねえ、恒一君」

 

 コーヒーのカップをずっと見つめていた僕は、名を呼ばれてようやく彼女が僕を見つめていることに気づいた。あまりに真剣というか、まっすぐというか。何か重要なことを言い出しそうな雰囲気に、手にしていたカップを置く。

 

「何?」

「……前にも聞いたことなんだけど、私と以前、どこかで会ってない? 確か春の時点で1年半前にここに来たことがある、って言ったわよね? つまり、私が1年生の9月ぐらいの時だと思うんだけど」

「ああ……確かにここに来たのは夏と秋の境目ぐらいだったような気もするかな」

「その時に私に会ってるはずなの。一昨年の9月後半……。思い出せない?」

 

 一昨年の9月後半? 確かに僕が以前ここに来たのは4月時点で1年半ぐらい前、だったはずだから、それで計算自体は合ってるはずだ。だけど……赤沢さんに会った記憶があるか、と問われるとどうしても思い出せない。というよりそもそもあの時どうしてたかもあやふやだ。確か両親に連れられてここに来て、今お世話になってるあの家で適当にのんびりしてたような記憶しかない……。外を散歩はしたかもしれないけど、それも僅かな時間だし……。

 

「……ごめんなさい。やっぱり何でもないわ。きっと人違い……。忘れて頂戴」

 

 僕が難しい顔で悩んでいるのを見かねたのだろう。赤沢さんはひとつため息をこぼし、目の前のコーヒーを口に含んだ。

 しかし思えば転校後に初めて一緒に昼食を食べたときも全く同じ事を聞いてきているはずだった。だとするなら、彼女には何か強い確証でもあるのだろうか。

 そのことを尋ねようと僕が口を開きかけたとき。

 

「お! 2人とも来てるじゃねえか!」

 

 イノヤの入り口が空くと同時、勅使河原と望月の2人が入ってきた。それにしても勅使河原の服……。アロハシャツってやつだろうか、随分といいセンス(・・・・・)をお持ちのようで。

 勅使河原の顔を見ると赤沢さんは露骨に不機嫌そうに表情をしかめた。そしてコーヒーカップを持って僕の隣の席に移ってくる。

 

「え、何だよそれ!? 俺そんなに嫌われてる?」

「はっきり言われたい?」

「いやまあそれも悪くねえが……。って、そもそも、嫌なら俺の呼び出しを断ればよかっただろうがよ!」

「イノヤでやるっていうから、久しぶりにここのハワイコナを飲むのも悪くないと思ったのよ。……あとは恒一君も来るっていうし」

「あーやっぱり。保険かけてサカキも来るって言っておいて正解だったぜ……」

 

 あ、僕って赤沢さんを呼ぶための保険だったんだ……。まあ特に用事があったわけじゃないし気を悪くしたつもりもないけど、顔にすぐ出てしまうのが僕なわけで。思わず苦笑しつつコーヒーを口に運ぶ。ああ、苦いけどおいしい。

 

「おいサカキ、そんな顔すんなって。保険ってのは半分ぐらいは冗談だよ」

 

 じゃあやっぱり半分ぐらいは赤沢さんを呼び出す口実に使われたわけか、と改めて思う。しかしそれはいいとしておこう。

 

「じゃあ残りの半分は?」

 

 ニヤッと勅使河原がよくない(・・・・)笑みを浮かべる。……数ヶ月付き合ってるとわかる。大体こいつがこういう顔をする時はよからぬことを考えてる時だ。

 

「ご注文は?」

 

 そこで知香さんが注文を取りに割り込む。勅使河原はわざわざ喫茶店に来てコーラ、望月はメロンクリームソーダなんて甘ったるいものを頼んでいた。……そこで僕は喫茶店の「茶」は何の「茶」だろうか、などとくだらないことを考えてしまう。それは紅茶の「茶」じゃないのか。こんな暑い日は普通誰かアイスティーなるものを頼んで然るべきだろうなどと突っ込みを入れたくなる。事実、赤沢さんに強制的にコーヒーを注文されなかったら、僕は無難にアイスティーを頼んでいるところだった。

 もっとも、そんな些細な僕の主張などどうでもいいことだ。半分赤沢さんを呼ぶための保険、もう半分は今のところ不明の僕が呼び出された理由を知りたい。

 

「知ってるかサカキ、今の女の人……」

「望月のお姉さんでしょ。異母姉って聞いたけど」

「あ……、榊原君そこまで知ってたんだ……」

「なんだよ、知ってたのかよつまんねえ。綾野辺りから聞いたか? ……まあいいや、じゃあ早速話を進めるか。実はイノヤは夜になると酒も出してるわけなんだが」

 

 そういえば、入り口を入ったときにボトルキープというものだろうか。壁にお酒のボトルが置いてあった気がする。

 

「ちょっと前にここに来てる常連さんが望月のお姉さん……知香さんに絡んでいったらしいんだ」

「コーラとクリームソーダ、お待たせしました。……絡むというか、夜はここでお酒の提供もするわけなんですが、私はここのマスターである猪瀬さんのお手伝いをさせてもらっていて、お酒を注ぎながらお話の相手をさせてもらうこともあるというだけですよ」

 

 知香さんが勅使河原と望月の飲み物を運んできつつ、会話に割って入ってきた。そのまま会話に参加するようなので、お仕事は一旦中断と言うところだろうか。しかし、ということはこのお店は夜はバーとかスナックとか、そういう形態をとるわけだろうか。……その2つの違いはよくわからないけど。

 同時にこのお店の名前の由来がわかった。なるほど、マスターが猪瀬さんだからイノヤ、というわけか。

 

「それで常連さんの中に松永克己さんという方がいるんです。元々はここの出身らしいんですけど、今は隣町の海に面したリゾートホテルに住み込みで働いていらっしゃるらしくて。それでもここは馴染みの店だそうで。私とは少し年が離れてはいるんですが、お互いに夜見北出身だったということもあって、いらしていただくと話が盛り上がるんです」

 

 馴染みということは学生時代から通っていたのだろうか。ということは今の猪瀬さんは2代目かな、とか、同じ学校出身だと学年が離れていても共通する話題はあるものだよな、とか割とどうでもいい事を考えながら僕はその話を聞いていた。

 

「それで私のことをえらく気に入っていただいたらしくて……。『自分はホテルの裏方だけど連絡をくれれば格安で泊まれるように口添え出来るから』って、番号を残していってくださったんですよ」

 

 そう言うと、知香さんは携帯の番号らしき数字が書かれたその人の名刺を机に差し出した。するとどういう理由か、勅使河原がそれを僕の前に持ってくる。

 

「……なんで僕の前に持ってくるの?」

「こっからが本題なんだ。まあ本当は誘われたのは知香さんだが、行けないって話でな」

「はい。お店もありますし、それに……。そういうお誘いを受けるのはあの方(・・・)にも申し訳がないので……」

 

 あの方。その言い方でなんとなく事情を察した。そしてなぜ彼女がここで働いているのかも。

 

「知香さん、ここのマスターの猪瀬さんと結婚を前提に付き合ってるんだよ。だからここで働いてるってわけだ。……ドンマイ、望月」

「な、なんでそこで僕が出てくるのさ」

 

 見事に僕の予想は勅使河原によって裏付けられた。……ドンマイ、望月。

 

「んで、知香さんからもう少し詳しく聞いたら、その松永って人、15年前(・・・)の夜見北3年3組の卒業生らしいんだ」

「あ、僕達とクラス一緒なんだ」

「大切なのそこじゃねえよ! ……サカキ、お前気づいてないだろ? お前の身近(・・)に、確か15年前の卒業生……まあ3組かはわからねえけど、いただろ?」

 

 考えるまでもなく、その人は思い浮かんだ。そして勅使河原が言いたいこともわかってきて苦笑を浮かべるしかなかった。

 

「……じゃあ何、要するに『誘っていただいた知香さんは行けないけど、代わりにあなたの知り合いであろう人とその甥っ子が友人と一緒にお邪魔したいから、良きに計らってくれ』ってことを頼み込みたい、ってわけ?」

「さすがサカキ! 物分りがいいぜ! しかも保護者役までお願いできるから一石二鳥!」

「……相変わらずくだらないことだけは頭が回るのね、あんた」

 

 そして赤沢さんは辛辣に勅使河原のプランに感想を述べた。僕から言わせてもらっても、その思考力を少しでもこの間の期末テストに回していれば、受ける補講の数はもっと少なくてすんだだろうにと思わざるを得ない。

 加えて、僕が呼ばれた理由をもう一度考えてなんだか悲しくなってきた。半分は赤沢さんを呼ぶための保険、そしてもう半分がこれ。つまり頼むための要員として、ということなわけか……。

 

「う、うるせえ! 大体夏のクラス合宿は山だろ? だったらあとは海と相場が決まってるじゃねえか!」

「……一理、あると言えるわね」

 

 あるんですか赤沢さん……。当の勅使河原の方はそれで機嫌を良くしたらしく、さらに饒舌に続ける。

 

「だろ? そこでサカキの出番だ!」

「怜子さんを使え、ってことでしょ。……でもそもそもその松永って人と面識あるかわからないよ?」

「だから今日呼び出したんだよ。ただでさえクラス合宿もあるんだし、予定を詰めるなら早い方がいい。とにかく、帰ったらすぐ聞いてくれ。んでわかり次第俺に連絡。今日明日中にメンツほぼ確定させて、月曜に学校で予定とかまとめるつもりだ」

「一応聞いておくけど、何人でいつを考えてるの?」

「期間はクラス合宿にも被らない、その前を考えてる。向こうの都合次第ってところだろうが、7月末から8月頭がベストだろうけどな。人数は……赤沢、お前の家の車なら10人ぐらい乗るんだろ?」

 

 ハァ、と赤沢さんは大きくため息をこぼした。

 

「……あんた、それで私を呼んだわけ?」

「そんなんじゃねえよ! 俺は……その……どうせ行くならお前もいたほうが楽しいだろうなと思って……」

「私はそうはぜんっぜん思ってないけど」

 

 勅使河原はがっくしと肩を落とした。ああ、今日もダメだったか。しかしきっと彼はまた立ち上がる。この程度でめげる男ではないだろう。頑張れ勅使河原。陰ながら応援してるぞ。

 

「ともかく、うちにワゴンはないわ。普通に5人乗りの乗用車……ドライバーはうちの人間をつけられるから乗れるのは4人ね。あとは顔見知りと言う前提になるけど、恒一君の……」

「うちの叔母さん……怜子さんの車だね。うちも5人乗りのはずだから4人まで。合計8人かな」

「よっしゃ。まずはサカキからの連絡待ちだ。それが取れ次第、各員1人ずつ誘うって事でどうよ?」

「……いいけど、なんであんたが他人の家の車の分まで仕切ってんのよ」

 

 まったくだ。大体怜子さんからオッケーが出るかどうかもわかってないってのに。

 

「あ、僕の分の枠は赤沢さんが使っていいよ。女子1人っていうのもなんだから。杉浦さん辺りに声かけてあげて」

「いいの、望月?」

「うん。僕は行けるってなったら、それだけで十分だし」

「俺は風見に声かけてみるか。サカキは……鳴ちゃんか?」

 

 ニヤニヤしながら勅使河原が尋ねてくる。なんだかその笑顔は殴ってやりたい衝動に駆られるな……。そしてそれ以上に赤沢さんがなんだか不機嫌そうな表情でカップに残ったコーヒーを一気飲みしたのが怖い……。

 

「まあ……一応かけてはみようかな。来なそうだけど」

 

 あの白い肌の彼女に海は似合わない気がする。……クラス合宿の山も同じだけど。まあもしこの勅使河原プランがうまくいって行く、という話にまとまったらダメ元で誘ってみよう。すっかり温くなってしまった赤沢さんオススメのコーヒーを飲み干しながら、僕はそう思った。

 

 

 

 

 

「え、何? 松永克己って……マツじゃん! へー、あいつ隣町のリゾートホテルで働いてたんだ」

 

 帰宅後、夕食前に離れから母屋に戻ってきた怜子さんに今日のイノヤでの話をしたところ、彼女と松永克己は勅使河原の読みどおり同じ15年前の同級生、それもなんと同じ3年3組でそれなりに仲がよかったらしい。

 

「じゃあ怜子さんは松永さんを知ってるんですか?」

「知ってるも何も同じクラスどころか同じ美術部だったのよ。……それでなんだっけ、うまいこと話をつければリゾートホテル格安、って話よね?」

 

 今、この人物凄く話を掻い摘んだ。これは行く気満々だ。

 

「え、ええそうです」

「日付は7月末か8月頭、それで9名で出来るだけ安くって言っておけばいいのね? 了解了解……」

 

 ギラリと怜子さんの目が輝いた気がした。ああ、これはもう決まりだ。僕が受け取った名刺を差し出すと彼女はそれをもぎ取る勢いで奪い取り、電話の前へと走っていった。僕はため息をこぼしてリビングのソファに腰掛けて適当にテレビをつける。といっても、電話はリビングにあるので怜子さんが何を言っているのかはほぼ丸わかりの状況だ。

 

「あ、もしもしマツ?」

 

 怜子さんは明るい雰囲気を作り出して饒舌に話を始めた。「久しぶりねえ」とか「結局あの頃から好きだった絵の道に進んでさあ」とまずはよくある世間話から。そして次第に話を核心へと進めていく。

 

「……それで何、あんた今隣町のリゾートホテルで働いてるんだって? ……え? ああ、小耳に挟んだのよ。……あ、そうそう。そういうこと。話早くて助かるわ。……ハァ!? 飲み屋で絡んだ若い女の子には格安で泊めてあげるって約束するのに、同級生かつ同じ部活であった私とその甥っ子達には何のサービスもないっての!? あんたそんな薄情な男だったっけ!?」

 

 僕は素直に顔も知らない松永さんに同情した。こうなると怜子さんは強い。強いというか、押し返せない。もってあと数秒、うまいこと言いくるめられて僕達の海への旅行は決まるだろう。そもそも怜子さん自体、さっき話を振ったときに完全に「海行きたい」オーラを出しまくっていた。

 

「……もう一声! こっちは中学生がほとんどなのよ!? ……そこをなんとか! よしわかった、私が直々にあんたの晩酌に付き合ってあげる! これでどうだ! ……何ィ!? 私じゃイノヤの店員以下だって言いたいわけ!? 女はすぐ化けるのよ!? あの頃の私を考えてるならそれの10倍は美人になった姿を想像しなさい! ……した!? ほら、そんな美人があなたの気の済むまでタダでお酌よ、お得でしょ!」

 

 恐るべし、怜子式交渉術。うちの母も千曳先生に「猪突猛進」とか言われていたし、父さんとの結婚で反対された時も今の妹のようなこの様子で押し切ったのだろうか……。それも血筋だとしたら怖い。

 流れるテレビのニュースも全く意識に残らず、そんなことを考えてながら話を聞いていたが、そろそろまとめに入るらしい。

 

「……そう、7月末か8月頭。……うん、うん。……まあそこはしょうがないか、こっちで何か準備すればいいわけでしょ? ……はいはい、オッケー、完璧。やっぱ持つべきものは友よね。じゃあそういうわけで、なんか無理言って悪かったわね。……え? まったくだって? そこは思ってても言わないところよ! まあいいわ、じゃあよろしくねー」

 

 電話を切ると満足そうに怜子さんは僕にVサインを見せる。結果は聞かなくてもわかる。海行きは決定だ。

 

「それで……どうなりました?」

「7月31日から8月1日まで1泊2日。宿泊費用はなんと1人2500円ポッキリ!」

 

 安っ! 一応リゾートホテルのはずなのに。どんな交渉をしたんだろうか……。

 

「ただし、夕食朝食抜き……実質素泊まりね。まあ朝は適当に私がコンビニにでも買出しに行くか何かするし、夜はバーベキューセットでも持ち込んで食べるってことにすればいいんじゃないかな」

「そうですね。ああ、でも行った時の昼は……」

「んじゃそこはバーベキューセット持ち込むんだから、オプションの鉄板焼きとかで何か……。そうだ、恒一君焼きそばとか作ってよ」

「ええ!? 僕がですか?」

「料理研究部だったんでしょ? 普段作る料理もおいしいんだし、それと似たようなものじゃないの? それに夜のバーベキューも仕切りはお願いしようと思ってたのよ」

 

 それは僕の範疇を越えている。無茶振りというやつだ。……まあ焼きそばとバーベキューぐらいなら、正直言って焼くだけだからなんとかならないでもないけど。

 

「じゃあ勅使河原に連絡しちゃっていいですか?」

「いいわよ。あ、予算3000円にしておいて。食費とその他諸々でそれでいいでしょ」

 

 まさか本当に3000円なんて破格の値段で一泊二日の海旅行があるとは思わなかった。僕は携帯を取り出し、電波のいい縁側に行きながら勅使河原の番号を探す。その後ろで怜子さんが「水着どうしようかなー……」と随分楽しそうな声で呟くのが聞こえた。

 




本来夜見北の修学旅行が2年の秋なのは「現象」で過去に事故があったから、というのが原作の原因なのですが、本編で書かれている通りの理屈で時期を変更していません。

……と言うのが建前。本音は咲谷記念館での「平和な合宿」をこの後描きたいからというのが主な理由です。本編中の理由なら合宿をやる理由としては一応筋は通ってると思いますし。
断じて「修学旅行とかどうしろってんだよ……どう書いたらいいか全く想像もつかねえ……」と思ったからなどと言うことはありません。ありませんったらありません。

なおイノヤのマスターらしい猪瀬さんと知香さんの関係ですが、アニメ版での苗字は望月のままですが、原作では既に結婚しているらしく猪瀬知香、という名前になっています(ちなみに漫画版は不明です)。本編中の設定はその間を取ってる形となっています。


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#19

 

 

 7月31日。まだ太陽が昇っている途中の時刻に、僕の家の前に人が集まってくる。自前の赤い車に荷物を積み込みながら、怜子さんは「あ、おはよう」と来たメンツに声をかけた。「おはようございます」と真っ先に挨拶を返したのは望月。やや遅れて今日も素晴らしい(・・・・・)ファッションセンスの勅使河原と夏の太陽が余り似合わない風見(・・)君もそれに倣う形になった。

 

「あとはお嬢様が送ってくるんだっけ?」

「らしいです。皆向こうの方だからまとめて乗せてきてくれて、それから分乗するって」

「そっか。そのままでもいいけど……。こっちがむさ苦しくなっちゃうもんね」

 

 すみません怜子さん、ここにいるのが男ばっかで……。

 そんなことを思っていると1台の白い乗用車が近づいてくるのが見えた。うわ、高級車っぽい……。案の定、降りてきたのは赤沢さん達だった。

 

「お待たせしてしまってすみません」

「いいえ、こっちの男子諸君も今到着したところだし」

 

 気にしていない様子で怜子さんはそう返す。その赤沢さんの後ろ、乗ってきた人たちが降りてきた。中尾君、杉浦さん、そして桜木(・・)さん。しかし中尾君の様子がおかしい。どうも車酔いをしているようだ。

 

「……この距離でも酔うのね」

「お、俺は乗り物に弱いんだって前から……うっぷ!」

 

 かわいそうな中尾君の背中を杉浦さんがさすってあげている。こう言ってはなんだが、あんな風に面倒見がいいとは普段の様子の彼女からは想像できない姿だ。

 

「一応渡した酔い止めは飲んだみたいなんですが、あの様子じゃどこまで効くか……。私も乗り物は強い方じゃないけど、中尾君があそこまでだとは思ってなかったから」

「まあ仕方ないわね……。あいつの乗り物酔いは今に始まったことじゃないし……」

 

 それでもなんとか中尾君は少し落ち着いたらしく、杉浦さんに心配そうにされながらも「ま、まかせろ……」と到底まかせられない返事を返してこっちに近づいてきた。

 

 これでドライバーを抜いた参加者8人、全員が揃ったことになる。

 

「……では今日と明日、よろしくお願いします」

 

 なぜか整列気味に並び、赤沢さんの掛け声で全員が今回ドライバー兼保護者役である怜子さんに頭を下げた。……クラス委員の桜木さんいるはずなのに仕切ったのは赤沢さんだった。ちなみに赤沢さんの家の車の方は専属のドライバーさんらしい。今日は送ったら明日また迎えの時に来るのだそうだ。……お嬢様だ。

 

「はい、こちらこそよろしく。……ま、今回は恒一君の叔母ってことで一応保護者代わりなんで、何かあったら私に報告して頂戴ね」

 

 そう言って怜子さんは皆に笑顔を返した。それで皆の表情が緩む。

 

「さて、じゃあどう分乗するか決めましょうか」

「望月は怜子さんの車の前でしょ?」

「うん……ってなんで決まってるの!?」

「あれ? 嫌だった?」

「う、ううん! 文句はないよ! ないけど……」

 

 まあ年上趣味の君はそこ以外場所はないだろう。本人も希望だったようだし。

 

「中尾はうちの車の前に乗るといいわ。前の席の方が後ろよりは酔いが多少は抑えられるはずだから」

「う……。すまねえ、赤沢さん」

「恒一君はどうする?」

「僕は怜子さんの車の後ろに」

「そう。じゃ勅使河原、あんたうちの車の後ろに乗んなさい」

「お!? マジで!? 了解了解! 風見もこっち来いよ」

「……ああ」

「それで、残ったのは多佳子とゆかりだけど、どうする?」

 

 赤沢さんに振られて2人が顔を見合わせる。

 

「杉浦さんに任せますよ」

 

 笑顔とともに桜木さんは選択権を彼女に一任した。だが難しい顔で杉浦さんは悩んでいる。

 

「……ジレンマ、ね」

「アンビバレントな乙女心って奴ですね」

 

 じろっと普段の冷たい視線で杉浦さんは桜木さんを一瞥した。が、桜木さんは応えた様子は全くないらしい。それにしても2人の会話の内容がイマイチわからない。

 

「なんだか勘違いされてそうな気がするけど……。まあいいわ。……中尾の世話は慣れてるし心配だから、泉美の家のほうに乗るわね」

 

 どうやら決まったらしい。怜子さんの車には前に望月、後ろに赤沢さん、僕、桜木さん。赤沢さんの家の車には前に中尾君、後ろに勅使河原、風見君、杉浦さん。

 

「ちょ、ちょっと待てよ赤沢! お前自分家の車に乗るんじゃないのかよ!?」

「私はそんなこと一言も言ってないけど」

 

 しれっと赤沢さんはそう答えた。そしてお約束どおりがっくしと勅使河原は肩を落とす。だがめげるな勅使河原、また立ち上がるんだ! ……本当に打たれ強さだけは感服するよ。

 

「杉浦もむさい男2人と後ろに1人はまずいだろ……。俺が後ろに……」

「年寄りの冷や水って言葉知ってる? あるいは老いては子に従え、でもいいけど。病人は黙って酔いにくい場所に乗ってなさい。どうせあんたの後ろは私になるし、なんならシート倒してもいいから。……勅使河原の間に風見挟んでおくから大丈夫よ。ただでさえ真面目ぶってる上に、今ダウナー入ったから問題なさそうだもの」

 

 見れば勅使河原同様、風見君もがっくしと肩を落としている。……あ、そうか。桜木さんがこっちに乗るからか。と、いうことは向こうの車は車酔いしてる中尾君、狙いが外れて落ち込む勅使河原に風見君、元々があんな具合の杉浦さん。……テンションがすごいことになってそうだ。勅使河原が復活しない限り、車内で会話すらないんじゃないか……。

 

「恒一君、早く乗ったら?」

 

 まあ向こうのことは僕の預かり知らないところだ。赤沢さんにも促されたし、僕は僕で怜子さんの車に乗ることにする。

 ……ところが、だ。既に後ろの席の奥には桜木さんが座っている。そして赤沢さんは自分より先に僕に乗ることを促してくる。

 

「……赤沢さん真ん中じゃないの?」

「いいじゃないですか、榊原君両手に華で」

「……ってゆかりが言うからね。まあ私は何でもいいから、早く乗って」

 

 なんだか断れる雰囲気でもないので従うことにした。……あとから勅使河原&風見コンビの嫉妬が怖い気もするけど。

 

「じゃ、行くわよー!」

 

 そう言うと怜子さんは景気よくエンジンをふかし、車を発進させる。後ろの車の様子は知らないが、中は御通夜ムードだろう。一方こっちは久しぶりにドライブできるとかで怜子さんは上機嫌だし、年上趣味の望月は前の席で満足そうだ。僕の両側の女子も特に不満な様子は見せていない。

 じゃあ僕はどうか、と言われると……。実のところ、少し残念ではあった。両手に華、と言われても言い返せないこの状況でそんなことを思うのは少々気は引けるし、勅使河原と風見君にそれがばれたらただではすまされないだろう。だがそれを引いても残念だと思った理由は言うまでもなく、見崎が今回この場にいないということだった。

 

 

 

 

 

 怜子さんが松永さんに無理矢理約束を取り付けて僕が勅使河原に連絡した後、僕は見崎を誘うつもりでいた。なんだか勅使河原にからかわれた手前、少し気は引けたが一緒に行きたいという気持ちは事実だ。

 ところがそこで肝心なことに気づいた。僕は彼女の電話番号を知らない。その日はもう日が落ちていたから直接行くというわけにもいかず、翌日に彼女のお店兼お宅を訪ねることにしたのだった。

 

 僕が今お世話になってる家の住所である古池町から見崎の家のある御先町まではそこそこ遠い。加えて夏と言うことで暑い。しかしその手間と彼女を誘うことを天秤にかけたところ、余裕で後者に振り切れたので、翌日僕は彼女の家を訪れることにした。

 彼女の家、「夜見のたそがれの、うつろなる蒼き瞳の。」の場所は勿論わかっている。しかし問題はお店である1階から入るべきか、居住区の3階から入るべきか。お店兼展示館の1階入り口からは数度入ったことはある。その脇には階段があり、ここを昇れば3階に行けるとは推測できるが、行ったことがないために行ってもいいものか計りかねる。

 まあ長居をするつもりもない。見崎に会って少し話すだけの用事だし、慣れている方から入ればいい。それにまた霧果さんの作品を見るのもいいかとも思い、僕は1階のお店の方から入ることにした。

 

「いらっしゃ……。おや、君は……」

 

 入り口を開けて入ったところで、天根と言ったか、店番の老婆は僕の顔を覚えていてくれたようだった。

 

「こんにちは。ちょっと鳴さんに用事があって伺ったですが……。ここから入るのが1番慣れていたもので……」

「ああ、そうかい。ついでに見ていくかい? 他にお客さんもいないしねえ……」

 

 半ば決め台詞のようになっている最後の一言に僕は思わず苦笑を浮かべる。だが逆に好都合だ。ゆっくり見て回れるし、見崎と話も出来るだろう。

 

「そこのソファで待つかい?」

「いえ、出来れば地下の方も見て回りたいのですが……」

「ほんと好きなんだねえ。じゃあ鳴には地下に来てもらうように伝えておくよ。それからお代はいいよ、鳴の友達からもらうわけにもいかないしねえ」

 

 素直に感謝の気持ちでもって僕は天根のおばあさんに頭を下げた。彼女は内線か何かで連絡を取ってくれるようだ。僕は1階の方はほどほどに、地下への階段を降りる。初めて来た時はひんやりとした空気が充満していると思ったが、今日は外の暑さのせいもあってそれが心地よい。

 地下の人形達は、相変わらずだった。何かを求めるような、一見すると不安にさせるような表情のドール達。球体関節による四肢と精巧な造りに感嘆のため息をこぼしながら見ていったところで、おや、と思い僕の視線が止まった。多分新作なのだろう。以前来た時は見かけなかったものだ。だがそれは作りかけで、顔に表情があり胸の部分までは出来ているのに、まだ四肢がない。

 僕にとってはそれだけが異質に見えた。いや、周りから特に浮いているとか、そういうわけではない。一見すれば変わらない、造りかけの人形のようだった。しかしなんというか、その表情は僅かに他と違うというか、悲愴にのみ囚われているわけではないというか……。

 要するに、わずかに希望を抱いているような、何か光を見つけたような、そんな思いがその人形の中に内包されているような気がしたのだった。

 

「こんにちは、榊原君」

 

 そして聞こえてきた、予想外(・・・)の声に僕は振り返った。そこに立っていたのはこの人形たちを造った主――霧果さんだった。

 

「あ、ど、どうもこんにちは」

 

 てっきり見崎がくるとばかり思っていた僕は思わず動揺して、挨拶に詰まってしまう。

 

「ごめんなさいね、驚かせてしまったみたいで。……鳴はちょうど今買い物に出ちゃったところなの。もう少ししたら戻ってくると思うけど、よかったら上がっていかない?」

「いえ、すぐすむ話ですし……。それまでここを見学させてもらおうと思ってましたから」

「そう、造った人間としては喜ぶべきかしらね」

 

 言葉と裏腹、特に霧果さんはなんの感情も篭っていないようにそのように返した。次いで沈黙が広がる。ああ、やっぱりこれは苦手だ。僕は誤魔化そうと、さっき見ていたまだ腕と足のない、違和感を感じた人形の方へと目を移していた。

 

「その子……。最近手がけたの」

 

 霧果さんが僕が見ているものに気づいたのだろう、そう説明してきた。

 

「だけど造っているうちに……なんだか違う、って思いがふとよぎって。……でも、廃棄しようとしても出来なかった。それで、そこに陳列してあるのよ」

 

 だとするなら、僕が感じた違和感は間違えていなかったのかもしれない。造っている本人が感じている以上、それはそういうことになるだろう。

 

「……鳴、最近少し変わってきてね」

 

 不意に、霧果さんは話題を変えてそう切り出した。

 

「今度クラスで合宿があるそうね? あの子、学校のことも部活のこともあまり話さないし、そういうイベントも参加自由なら私に何も相談せずに不参加にすることが多かったんだけど……。参加していいか、って聞いてきて。……それだけじゃなくてお弁当を自分で作れないか、とかって相談もしてきたりして。私も料理はダメだから、結局教えられずじまいだったんだけど」

 

 そうだったのか……。まあ普通に考えたらいいこと、なのだろう。以前来た時に見た2人のギクシャクした関係はなんだがあまり心地よいものではないように思える。

 

「……私の勝手な推測だけど、鳴がそんな風に変わったの、榊原君のおかげなんじゃないかな、って思ってるの」

「僕の……?」

「ええ。だって、あの子は今年の4月まで、学校のこととかほとんど話そうとしなかった。……まあ私も聞こうとはしなかったけど。でもそのお弁当の話のとき、なんでか聞いてみたの。そしたらあの子……。『クラスで定期的に食事会みたいにご飯を食べることがあって、今のままだと少し寂しいから』って。あなたを連れてきただけでも驚いたけど、その話を聞いてますます驚いたわ。しかもその輪の中心は榊原君、あなただって言うじゃない」

 

 若干誤解がある。あれは赤沢さんが半ば強引にやっている会で、確かに僕は中心にいるかもしれないが、決して実行している側ではないのだ。しかしあの場にいるのは事実であるし、別に否定するまででもないか、と思う。

 

「男女間の関係云々までは私は口を出さないし本人達に任せるけど……。榊原君、出来ることなら鳴と友達でいてあげて。……いえ、あの子から間接的とはいえ『半身』を取り上げてしまって……しかも未だ前に進むことの出来ない私が……言っていい事ではなかったわね……」

 

 そう言うと霧果さんは僕に背を向け、この部屋の奥、エレベーターが隠れたカーテンの手前にある棺に入った人形に近づき、そっと頭を撫でた。

 そのあたりの事情は見崎から聞いている。一度流産してしまったことで子供を産めない身体になってしまったこと。養子として見崎を藤岡家から引き取ったが、かつて我が子を失ったショックからもう2度と我が子を手放したくないという怖れのために藤岡家と疎遠にしつつあること。そしてその心を埋められないと知っていながら、今撫でている人形をおそらく産まれてくるはずだった我が子の代わりとして造り、さらに今も人形を造り続けていること。

 何かを言いたい。だが、ただの他人でまだ子供である僕にそこに首を突っ込む権利など、口を挟む資格などあるのだろうか。それでも、やはり何かを言いたかった。ならばせめて、と僕は口を開く。

 

「僕も……見崎さんとは仲良くしたいと思っています。たまに僕が振り回されちゃうこともあるけど、一緒にいて楽しいですし……。だから、いい関係を築けていければいいなって思います」

 

 驚いたようにその僕の言葉を聞いていた霧果さんだったが、不意に小さく吹き出した。次いで小さく咳払いし、少し優しげな表情に変わって僕に語り掛けてくる。

 

「……榊原君。それって、聞きようによっては完全に告白よ?」

「え……えっ……?」

 

 そんなつもりは全くなかったのに……。なんだかまずいことを言ってしまったようで、急に恥ずかしくなり、顔が熱くなってきた。

 

「でも……嬉しいわ。鳴をそこまで思ってくれる『友達』がいるってわかっただけで。……これからも鳴をよろしくね」

「あ……はい、こちらこそ……」

 

 言ってから、これもなんだか違うんじゃないかと言う気がしてきた。案の定、霧果さんは小さく笑っている。

 

「……まあさっきのあれは、あくまで『友達』として言った、ということで捉えておくわ。鳴には言わないでおくし、あの子にも……言っても気付かなそうな子だけど、あまり迂闊なことは言わない方がいいと思うわよ?」

 

 返す言葉もない。僕は項垂れて「わかりました……」と答えるしかなかった。

 

 と、その時、カーテンの陰からエレベーターが開く音が聞こえた。多分見崎が帰ってきて降りてきたのだろう。

 

「榊原君……?」

 

 そう言ってカーテンをくぐり、僕と霧果さんというツーショットを見て見崎は少し驚いた様子だった。

 

「おかえりなさい、鳴。ごめんなさいね、丁度いいタイミングで買い物なんて頼んでしまって」

「……ううん、別に。買った物は冷蔵庫に入れる必要があるもの以外はリビングの机に置いておいたから」

「そう、ありがとう。……榊原君に上がっていくように提案したんだけど、大した話じゃないからここで待つって。だから少しお話してたのよ。……じゃあ私は戻るから、あとは鳴、よろしくね」

 

 そう言うと、霧果さんは入れ違いで見崎が乗ってきたエレベーターに乗り込んだようだった。だが霧果さんの気配が消えても見崎はしばらく何も話そうとしない。なんだか、不機嫌そうにも見えた。

 

「あの……見崎?」

「お母さんと……あの人と何を話してたの?」

「いや、別に世間話だよ。仲良くしてくれてるみたいでありがとう、とかこれからもよろしくお願いするね、とか」

「……ふうん」

 

 見崎が右の目で僕を見つめてくる。すると、不意に彼女は左目の眼帯を外した。そして今度は両方の目――と言っても左目は美しい翡翠の義眼でだが、見つめてきた。

 

「……嘘は、言ってないみたいね」

「左目で見るとそんなことがわかるの?」

「……気がしただけ」

 

 よかった。いつもの見崎だ。突然眼帯を外したから少し驚いてしまった。

 

「それに榊原君はこの目が綺麗だ、って言ってくれたし。……だから、ね」

 

 そういえば以前そう言ったっけ。事実、彼女の碧の義眼は美しい。さっきも目があった瞬間、まるで吸い込まれるような錯覚を覚え、同時に本当に嘘をついたらばれるような気にさえなっていた。

 

「……それより急にどうしたの? 口頭で済むような用事なら電話でもくれればいいのに」

「その電話番号がわからないから来たんだよ」

「……名簿、もらってないの?」

「何かあったら勅使河原から連絡来てたしあんまり気にしてなかったけど、なかったみたい。今度久保寺先生からもらうよ」

「そっか……。だからここが私の家だってわからなかった、ってことか」

 

 ああ、そう言われてみればそうか。名簿には住所が書いてあるだろう。本来なら持っていないわけがないのだが、転校するはずだった日を前に入院だの色々ごたごたがあってその辺りがうまくいっていなかったということのようだ。

 

「それで、何?」

「なんか勅使河原が『クラス合宿は山だから海に行こう』みたいなことを言い出してさ。トントン拍子に話が進んじゃって、参加費用1人3000円で隣町の海沿いにあるリゾートホテルに1泊2日で小旅行することになったんだ。食事は出ないから自分達で作ることになるけど……」

「それの誘い?」

「そう。どうかな、って。7月31日と8月1日なんだけど……」

 

 と、日付を聞くと同時に見崎の表情が僅かに曇った。もしかすると日程的に都合が悪いのかもしれない。

 

「……ごめんなさい。興味はあるの。だけど……その日は外せなくて……」

「そっか……」

「……その日の少し前に父が久しぶりに戻ってくるの。普段は海外を飛び回ってるから、久しぶりの休暇とかで。それで、両親と別荘に行くって事が決まってて」

 

 なるほど、久しぶりの家族水入らず、ということか。それにしても別荘とは……。ちょっとうらやましい……。

 

「埋め合わせ、ってわけじゃないけど、合宿には参加するから」

「うん。本当は海も一緒に行きたかったけど……仕方ないね」

 

 言ってから、これもさっき霧果さんに突っ込まれた「聞きようによっては」ってやつじゃないかと若干後悔した。それで顔を赤くする僕だったが、見崎は特に気にした様子もなく僕に背を向けてメモ帳らしきものに何かを書いている。

 

「どうしたの?」

 

 僕の問いに答えず、見崎はペンを走らせ、そのメモを僕へと手渡した。そこには数字の羅列が2つ並んでいた。

 

「はい」

「……これは?」

「連絡取る時不便だと思ったから、携帯の番号。上が私の、下が未咲の」

 

 えっ、と思わずそのメモと彼女を2度ほど見比べてしまった。さっきまで眼帯を外していた彼女が、今は眼帯を戻そうとしている。

 

「……何?」

「見崎、携帯持ってたの?」

「持たされてるの。……言わなかった? お母さん、私のことを手放したくないって思ってるって。だから持たされてるの。……いつも監視されてるみたいで本当は嫌なんだけど」

「ああ。だから『嫌な機械』って言ったんだ」

 

 まあね、と彼女は返す。でも持ってるなら持ってるでもっと早く言ってくれればよかったのに……。僕は見崎からメモを1枚受け取り、自分の番号を書いて返した。俗に言う「ワン切り」というものをやりたいが、あいにくここは地下なので電波が悪い。

 

「榊原君の番号、未咲に教えてもいい?」

「勿論。……ああ、そういえば退院したんだよね。お祝いとか……」

「それを兼ねて、そのうち何か考えてるから。多分あの子から連絡が行くと思う。……あまり期待はしないで楽しみに待ってて」

 

 そう言うと、見崎は僕に背を向けた。本音を言えば一緒に海に行きたかっただけに少し残念ではある。

 

「じゃあ次は合宿で、かな」

「そうね。……じゃあね、さ・か・き・ば・ら・君」

 

 いつも通りの様子で彼女はカーテンの陰へと消えていく。その彼女と、部屋のもっとも奥にある棺に入った彼女に似た人形。その両者を一瞬見つめた後で、僕も踵を返して階段の方へと向かった。

 

 

 

 

 

「恒一君、聞いてる?」

 

 そんな僕の回想は隣から不意にかけられた赤沢さんの声によってかき消された。「ああ、うん」と僕は適当な相槌を打ってそれに答える。

 

 結局、見崎が来なかったことでもっとも顔の広い赤沢さんに僕の分の枠を譲ることになった。ちなみに日曜日の時点では勅使河原は風見君に連絡したものの「受験の夏だから」という理由で断られたらしく、僕の分も空いたので2枠が空きとなっていた。残りの2枠は、赤沢さんが行くと決まった直後、まずは杉浦さんに連絡を取ったらしい。そこで杉浦さんは中尾君に連絡を取ったそうだ。……なんだか意外だった。さっきも中尾君に優しく接していたし、もしかして杉浦さんは彼に気があるのではないか、と思ってしまう。……もっとも、怖いからそんなことは聞けない。あるいは、普段一緒に行動していることが多いから連絡したのだろうか。……よし、今の考えということにしておこう。それがもっとも無難だ。

 その状態で月曜を向かえ残りの2枠をどうするか、となり、赤沢さんは桜木さんを誘うことを提案した。演劇部の人達とは交流がよくあったが、桜木さんとは小学校以来あまりここまで交流していないから、と言っていた。桜木さんはあっさりそれを了承した。こうなればあと1人は簡単に集まる。僕は勅使河原を小突いて「もう1回風見君誘ってみたら? 腐れ縁でしょ?」ともっともなことを言って誘わせ、ふたつ返事しそうな勢いで彼は前日の発言を撤回して食いついて、今のメンバーに確定したわけである。

 

「それにしても海か……。久しぶりだわ」

「そうなの? 泉美の家なら海の近くに別荘とか持ってると思ってたんだけど……」

「ゆかり……あなた私のことどういう目で見てるのよ?」

「お嬢様でしょ? 今日乗ってきた車だって随分といい車だったし、小学校の時に新築して引っ越した先も立派な家だったし。……そもそも中学生のくせにコーヒー好きでお気に入りがハワイコナだとか言ってる時点で完全にお嬢様じゃないの。あれってブルーマウンテンに次ぐ高級豆じゃなかった?」

「べ、別に良いじゃないの! 好きなんだから!」

 

 僕を通り越して行われる2人の会話に、僕はぽかんとしたまま聞き役に徹することしか出来なかった。本当に仲が良いんだと改めて確認する。昼食会の時も何度か話すことはあったが、まさかここまでお互いに気が置けない間柄だったとは。

 

「どうしました、榊原君?」

 

 そんなぼーっとしていた僕が気になったのだろう。今度は桜木さんがそう尋ねてきた。

 

「あ、いや、2人本当に仲が良いんだな、って改めて思ったから」

「そんなに意外かしら? 勅使河原と風見だってでこぼこなのに息合ってるじゃない」

「言われてみればそうなんだけど……」

「泉美は私よりも杉浦さんや演劇部の人といる方が多いように思えるからじゃないかな。飛井小学校にいた時はあんなに私にべったりだったのに……」

「べ、べったりって何よ! そういうあんただって引っ込み思案で真面目しか取り得がなかったじゃないのよ。それが夜見北に入ったらずっとクラス委員やってるとか聞いてびっくりしたわよ」

「大体入学して最初って成績いい真面目そうな人に先生がクラス委員頼んでくるものじゃない? 泉美もそうじゃなかった?」

「私は断ったわよ、面倒だったもの。……って恒一君が全然会話に入れてないじゃないの!」

 

 いやいや、おふたりのお話を聞けてるだけでも楽しいですよ。事実、普段全く絡んでいるところを見ない2人が仲良さそうに話している光景というだけで十分に興味をそそられる。

 なお、今赤沢さんは僕が会話に入れていない、と僕だけを対象に言ったわけだが、前の座席の2人のことはまったく気にしなくていいのである。さすが年上趣味の望月と言ったところか、怜子さんとそれは嬉しそうに話していたからだ。

 

「恒一君も聞き役に回ってないで、何か話してよ」

「そう言われてもねえ……」

「榊原君、急に話振られるの苦手そうだから」

 

 桜木さんが小さく笑った。おっしゃる通りで。この間綾野さんに「アドリブ苦手でしょ」と言われたが、こんな具合に急に話を振られると話題をどうするか考えてしまうのだ。

 

 と、その時。前の方での会話も途切れた、いや、厳密には途切れさせられた(・・・・・)らしい。運転席の方から舌打ちらしき音が聞こえてきた。直後、望月がビクッと体を震わせたのがわかる。

 

「……あのトラック、右車線のくせにチンタラ走ってんじゃないわよ」

 

 あ、始まったか、と僕は苦笑を浮かべる。実は怜子さん、普段温厚だし優しくていい人なのだが、酒癖が悪いことと、このハンドルを握ると性格が変わる、というか運転が荒いというところが非常に問題なのだ。

 今もどうやらイラッときてしまったらしく、エンジンをふかして煽り気味に前の車に続く。そして右車線を走るトラックより左車線側から前に出た瞬間、ウィンカーを上げて一気にトラックの前へと滑り出た。……そう言えば出る前に「安全運転でお願いしますよ」って念を押すのを忘れていてたとようやく思い出す。

 

「ったく、大人しく左車線走ってろってのよ。……あ、ごめんなさいね望月君、それで、なんだっけ?」

 

 そして全く気にした様子もなくこれである。これには望月も完全に引いてしまったらしく「あ、え、えーと……」と言葉を濁すばかりだった。

 

「……なかなか過激なのね」

 

 そんな一連の流れを見ていて、赤沢さんが一言。

 

「まあね……。母方の血筋なのかな。おばあちゃんも未だに車運転するから、登校してしばらくは送ってもらったし。……夜見山に何度か来た時も両親で交代で運転したんだけど、父さんより母さんの方が運転荒かった記憶もあるよ」

「女性というものはそういうものかもしれませんよ? 二面性がある、というか」

 

 ……さすがにここで「じゃあ桜木さんも?」と聞き返すほど僕には勇気がなかった。今僕に見せている笑顔はそんなことを感じさせないようにすると同時に、その質問をさせない、という強制力まで持っているようにも感じていた。

 

「否定は出来ないかもしれないわね。……まあ私の場合演劇部だから、そういうところを意図的に使い分けて演じなくちゃいけない部分もあるんだけれど」

「文化祭の時の演劇部の泉美を見るときっと榊原君もびっくりすると思いますよ。……今年は何やるの?」

 

 その話題になると赤沢さんは少し機嫌を損ねたように窓の外に視線を向けた。

 

「……創作」

「へえ。どんな感じの?」

「中世物よ。王妃となるべき人を巡って婚約を交わした王子と、その王妃を愛してしまったが故に、叶わぬ恋と嫉妬に狂って王子に刃を向ける騎士の物語」

「で、泉美の役は?」

「……後者」

 

 桜木さんがクスッと笑いをこぼした。それを赤沢さんはやはり不機嫌そうに見つめる。

 

「何、そんなにおかしい?」

「ううん。本当に泉美って色んな役やるんだなあって。2年の時は創作劇で空を飛ぶことを夢見る女の子の役だっけ? それで1年の時はシンデレラで主役だったし」

「……よく覚えてるわね」

「有名な話じゃない。『1年で演劇部の主役を務めた子は本番直前まで演技に悩んでたのに、ある日を境に見事にシンデレラを演じ切ってみせて、文字通りのシンデレラになった』とかって。校内新聞で取り上げられてた気がしたけど?」

 

 うっ、と赤沢さんは言葉を詰まらせ、今度は少し恥ずかしそうに窓の外へ視線を移した。

 

「ほんとよく覚えてるのね。……でも、あの時わかったこともあった。ほんの些細な、何てことがない出来事も、人によっては運命とも感じられるし、別な人からすればそれは取るにも足らないことでもある。……そしてそんな出来事のおかげで、私はあの時主役を演じ切ることができた」

「そのおかげで2年目も主役になったと。それで、今年も?」

「……一応は」

「え、じゃあ赤沢さんって3年連続で主役をやるの!?」

 

 普通部活動なんてのは年功序列じゃないが、学年が上の人がいい役をやるものだろう。それを3年連続とは演劇部はよほど人材不足なのだろうか。

 

「そういうことになるわ。ちなみにさっき言った劇の配役、王子役は綾野だから。……王子なのに綾野とはこれ如何に」

「何うまいこと言った気になってるの」

 

 2人が笑った理由を考え、しばらく経ってからうちのクラスの王子君とかけてることにようやく気づいた。ということは……。

 

「赤沢さんと綾野さんの殺陣が見られるの?」

「殺陣ってほどでもないわよ。大したことやらないし」

「さらに王妃役は小椋さんだったり?」

「残念。その役は別なクラスの3年の子がやるわ。あの子はメイドの役。それで王子の命令で私が演じる騎士に探りを入れて、不穏な空気を感じて持ち込んだワインで騎士の毒殺を謀ろうとする。ところがそれがばれて斬られて2階から落ちて死んじゃうの。そのことをきっかけに騎士が王子に反旗を……ってあんまり言うと面白みがなくなるわね。まあそんな感じの創作物よ」

 

 へえ、と僕は相槌を打ちながら聞いていた。面白そうだ。今から文化祭が楽しみになってくる。

 

「それにしても大変ね。男子がいないから、王子役も騎士役も女子がやるんだ?」

「そ。……恒一君、今からでも入部してくれない? ……ああ、でもそうなったら王子役か。それはダメだわ、私嘘でもあなたは斬れないもの」

「じゃあ騎士が王妃じゃなくて王子を愛するが余り、って脚本を変えちゃえば?」

「変えられるわけないでしょ! そもそも騎士は本来男よ! ……ゆかり、あんたの頭の中そんな感じなわけ!?」

「私は違うわよ? ……柿沼さん辺りはその辺に理解ありそうだし、小椋さんもお兄さんの影響で知識ありそうだけど」

「な、何言ってんのよ! 恒一君に変なこと吹き込まないで!」

 

 大丈夫です、赤沢さん。今の話全然ついていけませんでした。

 そして2人のペースに乗せられて聞きたかったことを聞きそびれてしまった。話の流れを止めるようで悪いと思いつつも、僕は口を開く。

 

「ごめん、ちょっと話戻していいかな?」

「ええ、どうぞ」

「赤沢さん、3年連続主役なんだよね? 1年生の時、3年生いなかったとか? 普通主役って学年が上の人がやるものだと思ってたんだけど……」

 

 僕からの率直な質問に赤沢さんは一瞬困ったように眉を寄せた。そして少し考え込んだ様子の後で話し始める。

 

「……私が入部した時の演劇部は3年生が4人、2年生が2人だった。私の学年からは6人ぐらい入ったんだけどね。それで、3年生が結構ストイックな人達で。『役とは自分がもっとも入り込める存在でなくてはならない』みたいなポリシーを持ってて。役を決める時に全員で一度一通り全ての役をやったの。その上で顧問の千曳先生と相談して、自分達にもっとも合う役を選んだ。そこで先輩達は私を主役に推したのよ。……はっきり言って困ったけどね。別に先輩たちにいびられたわけじゃなかったけど、『演技自体はすごくいいけど、何かもう少し足りない』みたいなことは言われ続けてた。それをずっと悩んで探してて……。あとはさっきゆかりが言ったとおり。あることを境に『変わった』って先輩達に褒められ、無事その年は演じ切ることが出来た。

 翌年は先輩達2人が主役を辞退して私に押し付けてきたからやることになったってだけ。本人達が納得してるなら、ってことでやらせてもらったけど、一昨年と、あと今年の役よりは正直言ってやりやすかった印象かな」

「純粋な女の子の役だったものね。……本来の泉美なわけだもの」

「ちょ、ちょっとゆかり!」

 

 クスクスッと桜木さんは笑った。どう反応すべきか、僕は少々困る。

 

「……ちなみに恒一君は私のことどう見てるの?」

 

 と、不意に赤沢さんがそんな質問をぶつけてきた。どう、と言われても……。

 

「……言いたいことははっきりと言う、芯の強いしっかりした女性、って感じかな」

 

 なぜか桜木さんが吹き出した。当の赤沢さんもなんだか少し面白くなさそうな顔をしている。

 

「ご、ごめん……。なんかまずいこと言った?」

「……いいわよ、別に。まあそう見られるでしょうから」

「演じていたのがいつの間にか本当になってた、ってやつかしら?」

「ちょ……! ……じゃあ恒一君、ゆかりのことはどう見てるの?」

「さ、桜木さんのこと?」

 

 彼女は普段見せてるような笑顔を僕に見せてきた。う、ううむ……。なんと言ったらいいだろうか……。

 

「えーと……。頭がよくておしとやかで優しそうな印象、というか……」

「何よそれ! ゆかりばっかり贔屓じゃない!?」

「そんなことないわよ泉美。……榊原君、割と私のこと見抜いてるみたいだし」

 

 ……え? これまた何かまずいことを言ってしまったのだろうか……?

 

「何々『そう』というのは、一見そうであって実はそうでもないかもしれない、という風にも取れるんじゃないかな、って。……いいところ見抜きますね、榊原君」

 

 桜木さんの笑顔はさっきと変わらなかった。が、その意味合いが明らかに異なっていたように感じた。……墓穴を掘った。自分がそこに埋まらないように祈らなくてはならない。

 

「後ろの盛り上がってる諸君、そろそろ目的地に着くわよ。……それにしても恒一君はモテモテだったわね」

 

 そこで前から怜子さんがそう割って入ってきた。今の話をちゃんと聞いていると「モテモテ」なんて簡単な一言じゃすまないんですが……。

 

「なんだかあっという間だったわ」

「そうね。車酔い心配してたけど、泉美と榊原君のおかげで大丈夫だったし。……泉美は帰りもこの車に?」

「恒一君がそうするなら、そのつもりだけど」

「私は向こうに乗るかも」

「そうなの?」

「榊原君の勘がいいから、言っちゃうけど……飴鞭のつもりでいたし」

 

 桜木さんは普段通りの笑顔を浮かべている。赤沢さんはわからない様子で首を捻っているが、僕には彼女が言わんとしていることがわかってしまった。彼女は、風見君が自分に思いを寄せていることを知っているのだ。そして知っている上で飴鞭……つまり来る時は別な車で鞭、帰りは同じ車ということで飴と使い分けるつもりなのだ。……風見君、君はとんでもない人を狙っているんだね……。

 同時にやはりこの人は間違いなくあのクラスの裏の裏の支配者だと思うのだった。「女子の二面性」か。……頼りにしてます、決して逆らいません、委員長。

 

 車が止まる。目的地に着いたのだ。赤沢さんの家の車も到着したようだった。

 これから海が待っている。だがその前に……。もう1台の方のこの車内の会話を全く知らない2人の顔を想像する。おそらく、彼らからは「お前ばっかり」みたいな恨み言をぶつけられるんだろうなと、僕は早くも先行きが不安になっていた。

 




Q.原作アニメの水着回において足りなかったものは何でしょう?
A.特典だか何かで公開されたのに既に退場済みだったために幻となった桜木さんの水着

というわけで座席1つずつ詰めてもらって風見・桜木ペアを追加してあります。
ちなみに本編中で杉浦さんと桜木さんがどっちに乗るか迷うシーンがありますが、書いている当人がどっち乗せるかで相当迷いました。結果として本来はここで退場済みだったために出番がないはずの桜木さんを優先させました。

なお、中尾の乗り物に弱い設定は捏造です。朝家の階段で転んで頭打ってたとかあるわけないじゃないですかやだなー。


それから詳しくは11話の後書き部分で補足してありますが、「赤沢さんは小学4年までは桜木さんと同じ学校で、5年になるときに家を新築して今の住所に引っ越した」という設定を取っています。これで桜木さんとの接点という漫画版の部分をのこしつつ、現住所が紅月町であることの整合性が取れていると思ったので。


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#20

 

 

 いつから思い始めたことだったか、僕の嫌な予感というものはやけに当たる気がする。いや、本来はそんな毎度毎度当たるわけでは無いのだろうが、プラシーボ効果というものだろうか、実際それが的中する確率よりも体感率の方は高いように感じてしまうわけだ。しかしそもそもそんな超常現象的な超能力のようなものは僕は信じていない。要するにそんな気がした、ほらやっぱり当たったという結果論であり、今回も感想としてはそんなものだった。

 つまり何が言いたいかというと、さっき思った嫌な予感は的中したというわけだ。僕は今不良に絡まれて体育館の裏に連れて行かれたいたいけな生徒よろしく、この暑い中勅使河原に肩を組まれて小言をぶつけられている最中なのだ。

 

「いいよなあ、お前はよ。赤沢に桜木、両手に華かよ? おまけにドライバーも美人な叔母さんと来た。……まあそっちは望月の担当だっただろうが。

 だがそんな天国のようなそっちに対してのこっちの車内の様子が聞きたいか? いいや聞きたくなくても聞け。いいか、ずっと吐きそうでいてしばらくしたら寝た中尾と、それを起こさないように俺たちに静かにしてろと言ってくる杉浦、んでそれに従うしかない俺と風見。

 何だこの差? その間お前は前の車で女子とよろしくやってたわけだろ? んん? まったくうらやましい奴だよな、お前は。おいしい思いしやがって。ほれ風見、お前も何か言ってやれ」

「……僕は榊原君はもっと硬派な人だと思ってたよ。それが赤沢さんや見崎さんじゃ飽き足らず、あまつさえ桜木さんまで……」

 

 いや、それは誤解だ、誤解。大体あそこに見崎いないだろと言いたい。だからその俯き加減で眼鏡の角度を直すのをやめて欲しい。風見君らしからぬ怖さがある。

 その前に勅使河原には組んでる肩を離してもらいたい。暑苦しいことこの上ない。大体乗り分けを決めた時だって赤沢さんが「うちの車に乗りなさい」って言っただけで、勅使河原はそれを勝手に思い込んで乗ったわけだろうから僕に罪はないだろうと主張したい。

 だがどんなに正当性を主張しようと、僕の意見は通らないだろう。正義が勝つとは限らない。真っ当な理論が通るとは限らない。むしろ勝ったものが正義であり、通った理論こそが真っ当という本末転倒な事態がまかり通るのがというのが世の常だ。そうであるとするなら、悲しいかな、彼曰く「おいしい思い」をした僕の意見など到底通るはずもなく、そして通らない意見を通そうとしても疲れるし面倒なだけなので、大人しく僕は彼の気が済むのを待つという、我ながら非常に大人と思える選択を取っていたのだった。

 

「あー……。やっとすっきりした……」

 

 と、そこで茂みの陰で杉浦さんに背中を擦られていた中尾君が戻ってきた。途中から寝てたという話だったはずだが、やはり酔いは残ってたらしい。だが顔色はすっかりよくなった様子だった。

 

「お、もう大丈夫か中尾?」

「おう、まかせろ。やっぱり酔った時は吐くに限るな」

 

 それは未成年としては不適切な発言と言うか、本来の意図とずれていると突っ込みたい。怜子さんがたまに言っているのを聞いた気がする。だがこの状況、僕は余計なことを言わず黙っている方がいいだろう。

 

「じゃあ中尾も混ざれ」

「何に?」

「サカキをしめる(・・・)会だよ。俺たちの車があんな悲惨な中、こいつは赤沢と桜木といちゃついてたんだぞ? お前はなんとも思わねえのか?」

「……そりゃ赤沢さんと仲良くしてたってのは癪だけどよ、どうせ俺がその場にいても乗り物酔いのせいで自分のことで精一杯だからどうしようもなかったと思うぞ。……つーかこっちの車が悲惨な理由ってほとんど俺のせいじゃねえか。……一応悪いとは思ってるけどよ」

 

 期待した援護がなかったことに勅使河原は思わずたじろぐ。……なるほど、以前勅使河原が「根はいい奴」と言ったのはこういうことだったのか。

 

「くっ……。『遅れてくるアタッカー』に期待した俺が馬鹿だった……」

「な! てめえ、その呼び方をするんじゃねえ!」

「……『遅れてくるアタッカー』?」

 

 思わず僕はその単語を反芻する。勅使河原は攻撃目標、というか絡む対象を僕から中尾君に変えたらしく、ニヤニヤ笑みを浮かべながら説明を始めた。

 

「ああ。こいつがバレー部だって話は前したな? で、俺より身長低いくせにこいつ部内じゃ指折りのアタッカーなんだよ。……ところが試合で登場するのは大抵終盤。俺が以前見に行った練習試合の時もそうだったしな」

「おい! お前見に来た時とかあったのかよ!?」

「女子と同じ会場で試合あるって話だったときだな。赤沢が杉浦見に行くっていうから、こっちは公共交通機関を使って行ったんだよ。あいつはマイカーだったけど。んで『あれ? 奇遇じゃねえか?』をやろうとしたわけだが……」

「見事に撃沈した、と。まあ典型的過ぎるもんね」

 

 うるせえ、と勅使河原が僕の肩から腕をスライドさせてヘッドロックの姿勢に移行して来た。癖とはいえ突っ込むんじゃなかった……。

 

「……で、そのまま帰るのもなんだから自分の学校の試合ぐらい見ていこうかと思ってな。そしたら二つ名の通りこいつが出てきたのは1セットを取られての2セット目、9対12で負けてて後がないときだった。ところが出てきたこいつはそっからはバシバシスパイク打ち込みやがってよ。そのセットと次のセットと連続で取って、試合ひっくり返したんだよ」

 

 へえ、と僕は素直に感心の声を上げる。中尾君すごい人なんだ。

 

「でもそんなにすごいなら最初から出てれば楽勝なんじゃ……」

「そう、そこがこいつの問題でよ。まあ俺はあんまり勝負事ってのは詳しくないんだが、ああいうのって『勝てる』って思い込んだ辺りから足元をすくわれるらしくてな。そこからひっくり返されると精神的ダメージもでかくて勝てるはずの試合を落とすなんてこともあるらしい。多分それも一理あるんだろう」

「一理?」

「本当のところは簡単な話だ。……さっきまでのを見ての通りこいつは乗り物に本当に弱い。だから試合でベストな力を発揮できるコンディションになるまでに時間がかかるってことなのさ。それでつけられた二つ名が『遅れてくるアタッカー』ってわけだ」

 

 ああ、なるほどと思わず納得してしまった。つまり遠征だのなんだの、移動が伴っときは中尾君はいつもあの調子なのか。……なんて難儀な。

 

「ほら男子達、いつまでたむろしてんの? 荷物たくさんあるんだから、さっさと運びなさいよ!」

 

 と、その時聞こえてきた声の方へと僕達は顔を移し――ヘッドロックを極めていた勅使河原の腕が僕から離れた。そしてぽかんと口を開けてその声の主を見つめる。

 今それを言って来たのは赤沢さんだった。ただし、いつの間に着替えたか、既に水着である。いや、彼女だけでなく女子全員が既に水着だった。浮き輪……というかシャチを模ったフロートというものだろうか、それを水色のビキニに身を包んだ赤沢さんは、上が赤で下がデニム風な水着姿の杉浦さんと共に頭の上に担いでいる。その後ろには白地に緑色の縞模様の、下はパレオを纏った桜木さんも荷物を抱え、怜子さんもいつ買ったのか白のワンピース水着で荷物を持っていた。

 

「非力な女子ばっかに荷物運びさせる気? バーベキューセットとか大型の物もあるし、着替えたら重いの運んでよね」

 

 言い残して女子達は海の方へと先に行ってしまった。それを見送り、姿が見えなくなった辺りで「イエス! イエスッ!」と突然歓喜の雄たけびを上げながら勅使河原が渾身のガッツポーズを決める。……ああ、暑さで頭がおかしくなったか。

 

「見たかお前ら、おい! 桜木、杉浦、赤沢……3年3組の胸四天王(・・・・)のうち3人の水着だぞ! レア物だ、レア物! クラスの野郎どもに自慢したらさぞかしうらやましがられることまず間違い無しだ! いやあ無茶だと思ったこの計画を思いついてよかった! 格安プランを組んでくれた叔母さんを持つ榊原()にも感謝しなくちゃな!」

 

 これは酷い掌返し。さっきまで責められてたはずなのに今度は褒めちぎってバンバンと僕の背中を叩いてくる。痛いって。

 

「杉浦は普段パーカーで誤魔化してたが試合のユニフォームとかでわかってたけどよ……。赤沢さんって着痩せするタイプだったのか……」

「何だ中尾、お前気づいてなかったのか? しかも言うほど着痩せしてねえよ、俺はとっくの昔から気づいてたぜ。あのわがままボディはとても隠し切れるものじゃねえ、ってな。……もっとも、桜木は言うまでもなく気づいてたが」

「……来てよかった」

 

 ボソッと風見君が呟いたのが聞こえた。ムッツリ君め。それにしてもさっき勅使河原は「四天王」と言ったわけだが、今回来たクラスメイトの女子は3人。あと1人は誰だか、少し気になる。

 

「勅使河原。四天王ってことはあと1人は誰になるの?」

「お? サカキもやっぱり女の子は胸は大きい派か? 鳴ちゃん一筋だと思ってたのに」

「……あのなあ」

 

 一応否定しておこうと思ったのに勅使河原はその猶予すら与えないらしい。そりゃあ見崎は胸はないが……って否定するところはそこじゃない。だが僕が反論してもおそらく聞こえないであろう雰囲気で、こいつは既に考え込むモードに入っている。

 

「そうだな……。渡辺か佐藤か……。ああ、意外と金木とか多々良って線もあるかな。俺としては佐藤を推す。しかしまあ要するに4番手はどんぐりの背比べだ」

「江藤は?」

「中尾の目は本当に節穴だな。あいつ水泳部だろ? その練習風景を拝ませてもらったことがあったが、胸自体はそこまででもない。……泳ぎのフォームはすげえ綺麗だしスレンダーな体型も綺麗だったけど」

「4番手などどうでもいい。大切なのは1番さ」

 

 クックックと笑いながら風見君が眼鏡をクイッと上げた。どうやら普段見られない桜木さんの水着姿を拝めたおかげでテンションがおかしいことになってるらしい。

 

「お、いいこと言うねえ風見。そう、この場にいない4番手のことより、いる3人が重要だ! 今はそのことを満喫しないと……」

「ねえ、なんでもいいけど荷物早く運んじゃおうよ。また赤沢さんに怒られるよ?」

 

 そこに思春期の会話に全く混ざろうとしなかった少年の言葉が飛び込んできた。言った主である望月は既に着替え終わり、重そうな荷物を運ぼうとするが1人ではそれが出来ないでいる。

 

「……あ、お前にとっちゃぜんっぜん関係ない話だったな。ごめんな。四天王とか言ってるけど、お前の場合そういうの関係なくこの場じゃ一強だったもんな」

 

 完全に興味の失せた顔で、かつ棒読みで勅使河原はそう返した。他の2人もそれで興味を失ったらしく、やれやれという様子で着替えを始める。僕も始めないと置いていかれるか。

 

「え、ちょっと何? 何か僕悪いことした?」

 

 大丈夫、何もしてないぞ望月。ただ問題があるとするなら……同級生の女子の話題に全く食いつこうとしない、お前のその全然ぶれない年上趣味だけだ。

 

 

 

 

 

 着替えを終えて海岸に荷物をまとめ、まずは昼食と言う話になった。ちなみにここに荷物をまとめたのは、格安の裏口プランであるためにチェックインは夜18時以降にして欲しいという松永さんからの頼みを怜子さんが受けたからだそうだ。中部屋2つをなんとか確保してもらったが、他の客との混乱がないように遅くしてもらいたい、とのことだった。そのため今少し早めに昼食、さらに陽が傾いてきたら適当にバーベキューでもして腹ごしらえをし、その後寝床に行こうという計画となっている。

 なお料金が料金だけに本当に泊まるだけの待遇で、風呂も大浴場ではなく中部屋に一応取り付けられているユニットバスを使ってほしいということらしい。まあ他の正式料金払ってるお客さんの邪魔になるのも申し訳ないし、格安で無理を言っているのはこっちだから仕方ない。海で遊んで、そのままリゾートホテルと銘打たれている、海に面した施設で寝られるというだけで十分だろう。

 

 まあそこまではいい。問題は今現在のこの状況だ。昨日までの話から食事もつかないから僕が担当になると言う話は聞いていたし食材も準備もしていた。そしてバーベキューセットを準備し、オプションで上に鉄板を乗せ、夜の分まで含めた随分と量のある食材を改めて確認したところまでは文句はない。

 ところがそこまで準備が終わると「じゃあ後は任せたぜサカキ! 飯が出来たら呼んでくれよな!」とか言うなり勅使河原は海へと走って行ってしまった。気持ち良さそうに「ヒャッホー!」なんて叫び声まで残しながら。

 そしてそれに続く形で次々と皆その場から海へと走っていったのだった。なんと怜子さんまで「ちょっと行ってくるわね」とか言い残して行ってしまったのである。結局その場に残ったのは昼食担当の僕と、おそらく僕を1人にするのが悪いと思って残ってくれた桜木さん、あと彼女が行かなかったから残ったであろう風見君の3人となってしまったのだった。

 

「皆行っちゃいましたね……」

 

 苦笑を浮かべつつ桜木さんが呟く。まさか誰もいなくなるとは思っていなかったのだろう。僕もここまでだとは思っていなかったけど。

 

「まあいいよ……。昼は具材切って炒めればすぐ出来るように焼きそばの予定だし。だから桜木さん達も行って来ていいよ?」

「いえ、さすがに榊原君1人じゃ大変でしょうから手伝いますよ。料理はそこそこ出来るんで。……風見君は、行かなくてよかったの?」

 

 飴と鞭……飴の部分か……。多分彼は残るだろう。料理が出来るかはわからないけど。

 

「あ……。うん、2人だけに任せちゃうのはなんだか申し訳なく思ったから……」

「そう。ありがとう」

 

 そして桜木さんは彼に微笑んで見せた。……うまい飴だ。人の使い方を熟知している。見事に風見君はその飴に食いついたらしく、どぎまぎとした様子で視線を逸らしている。

 

「い、いや大したことじゃないよ。……あ、でも僕料理は自信ないけど……」

「じゃあバーベキューセットの方に火を起こしてもらってもいい?」

「わかった。やってみるけど……火ってもう入れちゃっていいの?」

「鉄板大きいから熱が行き渡るまでに時間かかりそうだし、2人がかりで材料を切るならそこまで準備に時間かからないから」

 

 僕は前もって用意しておいた、彼が料理が出来ない時用の分担を頼んだ。その間に僕は桜木さんと材料を切っていく。……なんだか僕と桜木さんが同じ作業をやってるというのは彼に少し申し訳ないが、料理が出来ないと言った以上は仕方ないと思っていただく他ない。

 

 悪戦苦闘した様子だったが、彼はなんとか火をつけることに成功したらしい。そして鉄板が暖まっていく間に僕達も材料を切り終えた。油を引いてそれを炒め始め、ヘラでかき混ぜていく。

 これが結構な重労働だった。普段作る量より遥かに多いせいだろう。加えて夏の炎天下、太陽の下でしかも熱された鉄板での炒め物だ。暑いことこの上ない。そんな僕の様子を見かねて途中で風見君が交代してくれた。彼としては彼女の前でいいところを見せたいという思いもあったのかもしれないが、やはり代わってすぐに汗だくとなった。まあいいところを見せられるように頑張っていただきたい。

 その間に僕は食料品の荷物の中からもっとも巨大と言ってもいいものを取り出す。「焼きそば」というこの料理のメイン、麺だ。だがそのサイズが尋常ではない。

 

「業務用の1キロ麺……。使うところは初めて見ました」

 

 桜木さんが苦笑を浮かべる。事実僕も手にするのは初めてだ。大型スーパーでたまには見かけたが「誰が買うんだこんなの」と思っていたものを僕は今手にし、袋の口を破く。

 

「え……それも入れるの?」

「入れないと焼きそばにならないしね」

 

 どうやら風見君としては段々と腕の方が限界らしい。そこにこのキロ単位の麺が加わるとなるとたまったものではないといったところだろうか。だがもう少しだけ頑張ってもらおう。1キロの麺を鉄板に一気に乗せる。そこでヘラを受け取って交代。丁度タイミングよく麺をほぐすように桜木さんが水を少し入れてくれた。さすがわかってる。

 あとは麺が切れすぎないようにほぐしながら、蒸し焼き気味に炒めて味をつけるだけだ。そろそろ味付けか、というところで風見君に再び代わってもらう。そこで桜木さんが横からソースで味付け。よし、我ながら見事に共同作業を演出したぞ、などと思わず満足してしまう。

 

「ソース、どのぐらい入れます?」

「とりあえずバーッと目分量でいいんじゃないかな?」

「……男の料理ですね」

 

 そんなものかな? 普段はちゃんと計ることが多いが、この人数分となるとそんな細かいことは言っていられないし別にいいと思う。万能の中濃ソースではなく、わざわざ買った焼きそばソースを桜木さんは麺に絡ませ、風見君はそれを混ぜていった。

 いい匂いがしてきたことで昼食が出来つつあると気づいたのだろう。海に行っていた皆が戻ってくる。フロートだのビーチボールだの……。随分と楽しそうに遊んでいらっしゃったようで。

 

「おお、すげえ! うまそうじゃねえか! 風見、お前がこれ作ったのか?」

「……僕は手伝っただけだ。料理は出来ないからね。ほとんど榊原君と桜木さんの指示だよ」

「でも助かったよ。これだけの人数分を調理したのは初めてだったし」

 

 言いつつ、割り箸で1本麺を食べてみる。うん、大体いい感じだ。「もういいよ。ありがとう、風見君」と礼を言うと、彼は大きく天を仰いだ後で荷物をまとめたビーチパラソルの陰にあるシートに腰を下ろした。意外に重労働だったが、彼女にいいところ見せようと張り切ってたもんなと思う。その間に桜木さんは手際よく紙皿と割り箸を用意してくれた。とにかく焼きそば自体はこれで完成だ。

 

「出来たよ。少し残して盛るから、もっと必要な人はここから持っていってね」

 

 9等分ではなく多少は残るように分配しつつ、僕は紙皿に盛り付ける。そこに桜木さんが紅生姜を乗せ、割り箸をつけて手渡していく。最後に自分たちの分、僕は風見君の分も皿も持って、彼の隣に腰を下ろした。

 

「お疲れ様。手伝ってくれてありがとう」

「いや、僕は言われたことをやっただけだから……」

 

 少し照れくさそうに彼は眼鏡を上げ、僕から紙皿を受け取った。なお、味の方については既に遠くから勅使河原の「うめえ!」という感想が聞こえてきている。その点は一安心していいだろう。

 いただきます、と食べ物への感謝の気持ちを述べてから僕も早速自分で作ったものを頬張る。……うん、さっきの味見でも思ったが悪くないだろう。何より夏の炎天下の中、外で食べる焼きそばというものがおいしくないはずがない。

 

「……なんか、気を遣わせちゃったみたいで逆に悪かったね」

 

 「ああ、おいしい」と一言感想をこぼした後で、風見君は僕にそう言ってきた。野暮なことは言いっこなしじゃないか、と思う。それに彼女は僕なんかよりもっと大変な存在だぞ、とも。

 

「全然。量が量だったから人手が欲しかったのは事実だし。……まあ僕は陰ながらああいう場を作ったり応援するぐらいしか出来ないんだけどさ」

 

 本当に言いたかったことは心にしまって僕はそうとだけ述べた。が、風見君はなぜかそれで咳き込む。

 

「ど、どうしたの?」

「い、いや別に僕は彼女のことをそう思ってるとかじゃなくてだよ。その、あくまでクラス委員として尊敬してるというか、成績が優秀なことに感心してるというか……」

「はいはい……」

 

 まあ彼がそう言うのならそういうことにしておこう。……全然隠せてないけど。彼は誤魔化すように焼きそばを口に含む。

 

「そういう榊原君は……」

「うん?」

「今回寂しくなかったの? 見崎さんがいなくて……」

 

 うーむ、それは今さっき僕が言ったことに対する反撃だろうか……。別に僕の見崎に対する感情は君の桜木さんに対する感情とは違うよ、と断っておきたい。

 

「まあ本当は来てほしかった気もするけどね。でも外せない用事みたいだし、仕方ないかなって」

「勅使河原に交渉役までまかされてた手前、断れないだろうしね」

「だからそういうんじゃないって」

「じゃあ榊原君は見崎さんのこと、どう思ってるの? なんだか一緒にいる印象が強いんだけど……」

 

 どう、と言われても困る。そもそもそんなに一緒に……。言われてみるといるかもしれないけど……。唸りながら僕は焼きそばを口へと運ぶ。

 

「赤沢さんから結構アプローチあるみたいなのに全く応えようとしないし。てっきり僕は……見崎さんに気があるものだとばかり思ってたけどね」

「気、って……」

 

 ……そうなんだろうか。確かに初めて病院のエレベーターで見かけたときからなんともいえない不思議な感じは抱いていたし……。その後も学校で彼女の存在を追いかけるように過ごしていたのも事実だ。正体がわかった、というか僕の思い込みだったとわかったときはホッとすると同時にどこか少しガッカリしたような気分で、なのに彼女に屋上での昼食に誘われてまた落ち着かない気持ちになった。でも実際一緒に食事をしながら話したら、そんなことは全くなくただ楽しかった。そして今日来られない、と聞いたときは落胆したのも事実だ。

 だがそれって気がある、とかそういうことになるのだろうか。もう一唸りして焼きそばをすする。風見君は何がおかしいか、そんな僕の様子に声を殺して笑っているようだった。

 

「……複雑だね。僕が言えた口じゃないけど。せめて彼女がここに来てくれていれば、少し話して榊原君も心の整理ができたかもしれなかったのにね」

 

 そう言われても、返す言葉がなかった。なんだか今までは勅使河原やら風見君やら望月やらを見ていて、見ている側だったから気楽だったのかもしれない。だが自分が実際当事者側と言うか、同じらしい立場に立つと……どうにもこうにも簡単な話じゃないように思えてきた。要するに対岸の火事に対してはいくらでも口を出せるが、実際自分の足元にも火が飛んできたとなると話が別だ、ということだろうか。杉浦さん辺りがそんな風に言って来そうな気がする。

 まあそんなことを言って誤魔化しているが、「見崎のことをどう思っているか」と聞かれると、やはりさっきのように返答に困る。勿論嫌いではない。では好きかと言われれば嫌いではない以上イエスと答えざるを得ないわけだが、「like」ではなくて「love」なのか、と問われると、答えられない。恥ずかしい、とかそういう類ではなく、さっき風見君に言われたように心の整理が出来ない、ということだろう。……自分としてはそう思って逃げたいだけなのかもしれないが。

 どうなんだろうな、という思いを込めて天を仰ぎ、僕はひとつため息をこぼした。それを見ていた風見君がまた声を噛み殺して笑い出す。

 

「……ごめんごめん。まさかそんな深刻に考えるなんて思ってなかったよ。僕が言ったことはあまり気にしなくていいよ。答えを出すのは榊原君だし、それも時間が解決してくれるかもしれないわけだからさ」

 

 それもそうか、と思って僕はまた焼きそばを口に運んだ。ソースが香ばしくておいしい。彼が言ってくれたとおり、今考えても詮無いことだろう。今日はせっかく海に来ているわけだし、それを満喫する方がいい。合宿には来ると言っていたのだから、またその時にでも話して、ゆっくり考えればいいことかと思うことにした。

 

 と、そこで「おいサカキ、風見、そんなところで食ってないでこっち来いよ!」という勅使河原の声が聞こえてきた。……あいにくこっちは結構な重労働が終わったところで疲れてるんだ、もう少し座っていたい。

 

「榊原君、どうする?」

「もうちょっと座ってる。疲れたし」

「そっか。僕は行って来るよ」

 

 だろうね。桜木さんあそこにいるし。じゃあ、と言い残して彼は皆の方へと小走りで駆け寄っていく。その間に、僕は箸を進めることにした。半分ぐらいは食べ終わったところで、それにしても疲れたしちょっと陰で昼寝でもしようかな、などと思ってしまう。しかしそれではせっかくの海が勿体無い気もする。

 見れば、皆談笑しながら楽しく食べてるようだった。さっき心の中で今日は今日で満喫した方が良いと思った手前、ここで寝てしまうのはあまりよろしくないだろう。いい具合に休めたし、そろそろ僕も輪に入ろうかなと思いつつ、何気なく辺りを見渡し――僕は我が目を疑った。

 

「嘘……?」

 

 ここから少し離れた岩場の辺り。そこに、1人の人間の姿を見たからだった。ここからでは遠くてはっきりとわからない。だがあれだけ小柄なら女性とわかる。そして麦藁帽子を被り、僅かに見えた顔の目の部分に、白く被さっている物が見えた気がした。

 そう思ったと同時、僕は食べかけの焼きそばを置いて立ち上がり、駆け出していた。

 

「あ、おいサカキ! どこ行くんだ!?」

 

 後ろから勅使河原の声が聞こえてくる。そりゃいきなり砂浜を走り出せば心配もされるだろうが、今は足を止めている時間も惜しい。一刻も早く「彼女」なのか、確認したい。

 

「ごめん! すぐ戻るから!」

 

 首だけを後ろに向けてそう叫び、僕は岩場へと近づく。そして近づくに連れてその姿が次第にはっきりとしてきた。

 

 「僕の嫌な予感はよく当たる」などと思うことはあるが、そんなのはここに来た時にも思ったとおり、ただなんとなく思っているだけのことで、僕は基本的に運命とか神様とかを信じない。超常現象の類もだ。……それは確かに転校した当初は、誰かさん(・・・・)のおかげで幽霊がいるのではないかなどと思い込みかけたこともあるが、基本的には信じていない。

 だが今日、この時に限っては、運命だの神様だの、そういうものの存在を少し信じてみたい気になっていた。

 

「見崎……?」

 

 岩場の潮溜まり、ヒトデか何かをつついていたその少女は僕の声に驚いて顔を上げる。遠めに見たとおりの麦藁帽子、眼帯に隠れた左目、そして一緒に来た女子たちのような着飾った水着ではなく、学校指定のスクール水着という格好。なんて運命的だろうかと心の中で喜ぶ僕を尻目に、普段よりも明らかに驚いた表情で、僕が本来「この場にいて欲しかった」と願った対象の少女は、疑問系でもって僕の苗字を呼んだ。

 

「榊原……君……?」

 




以前も書いたとおり中尾と杉浦のバレー部設定は捏造です。公式設定資料集には何も書かれてないので、おそらく本来は帰宅部と思われます。あるいは3年になった時に対策係をやるから部を辞めた、とか。

桜木さんの水着の柄は前話の後書きに書いた特典だったかにあった柄に基づいています。
ちなみに3年3組胸四天王の4人目ですが、自分の意見は勅使河原に全部代弁してもらったとおり佐藤さん派です。身長も女子にしてはあるほうなので胸もあるのではないかと。
あとは出番全然ないのにおそらくかわいいから人気の多々良さんも意外と捨てがたいと思っています。


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#21

 

 

 聞けば見崎の家の別荘はこのすぐ側にあるらしい。それで丁度彼女は海の方に出てきていたところだったそうだ。なんという偶然だろうか。いや、さっきの僕の考え方からすれば運命……違うな、それはいささか大仰だ。ともかく僕はこの幸運に素直に感謝することにした。

 

「まさかこんなところで会うと思わなかったよ。……で、何してるの?」

「ヒトデ」

「……それは見ればわかるよ」

「かわいいなって」

 

 ……答えになってない。まあかわいいからいじりまわしていた、ということはよくわかった。

 

「泳いだりしないの?」

「得意じゃないし。……そういう榊原君こそいいの? 皆と遊びに来たはずじゃないっけ?」

「今昼食中。見崎は食べた?」

「食べてきた」

「そっか……。重労働して僕……と厳密には桜木さんと風見君で作った焼きそばがあったんだけどね」

 

 それを聞くとヒトデをいじっていた見崎の手が止まった。そして彼女は立ち上がる。

 

「……それ、まだある?」

「え? ……あるかな? おかわりする人用にある程度は残しておいたけど、勅使河原辺りが食べてそうな気もしないでもないかな」

「そっち、行ってもいい?」

 

 なんと、僕が誘う前に彼女の方からそう切り出してきた。これは予想外で僕は一瞬固まってしまったが、すぐ大きく数度頷く。

 

「勿論。……でもいいの? 両親に連絡とか……」

「夕方ぐらいまでに適当に戻れば、多分大丈夫。それにどうしても心配なら探しに来るだろうから。……霧果は、そういう人だし」

 

 そう言って、「早く行きましょ」と見崎は僕の前を歩き始めた。見崎と会えたことは嬉しかったが、なんだか……彼女と霧果さんの距離が後退してしまったような気がして、少し残念だった。

 この間、今回の旅行を誘いに行った時、彼女は霧果さんに敬語を使わなかった。そして「あの人」とは言ったものの、「霧果」と名で呼ぶことはなく、極力「お母さん」と言っていたように感じた。その前に話した霧果さんとの話も相俟って、少し仲が進展したのかなと思っていたのだ。だがやはりそう簡単なことではなかったらしい。あるいは、僕が前回の時に勝手に思い込んでいただけかもしれない。

 

 まあそれは置いておくとしよう。今は素直にこの偶然……あるいは運命に心から感謝したい。「この場にいて欲しい」と願った彼女が、目の前にいるのだから。

 僕が1人で走っていったのに人を連れて戻ってきたことに皆も気づいたらしい。おそらくあの中でもっとも視力がいいであろう勅使河原が「あれ? サカキといるの見崎じゃねえの?」と叫んだのが聞こえた。次いで「ええ?」とか「ほんと?」とか驚きの声の中に「ああ!?」というなんだか聞いてはいけない声も。……今の赤沢さんの声だった気がするけど……聞かなかったことにしよう。

 

「うお、本当に見崎だし。なんでここにいるんだ?」

「別荘がこの近くなの。そこに両親と着てたから、たまたま」

「別荘って……。お前んち金持ちなのか?」

 

 勅使河原の質問に見崎は淡々と「どうだか」と答えた。他にも誰か何か聞いてきそうな雰囲気だったが、「それより」と珍しく彼女の方から会話を遮った。

 

「……お昼に食べたっていう焼きそば、まだ残ってるの?」

「あ、わりい。俺が残り全部食っちまった」

 

 これまた珍しく、露骨にショックを受けた表情を浮かべ、「そう……」と言って彼女は俯いた。そんなに食べたかったのかな……。

 そこで僕はあることを思い出して「あ」と意図せず声に出していた。いやでもそれはまずいというかあまりよろしくないというか……。

 

「どうしたの?」

「……見崎、そんなに焼きそば食べたかったの?」

「うん」

 

 またまた珍しく即答。そこまで食べたいならいいか、と思うことにした。

 

「あんまり残ってないし僕の食べかけでよければまだあるはずだけど……」

「食べたい」

 

 はい、わかりました。ここまではっきりと物を言った見崎を見たのは初めてだ。そんなに食べたいなら僕の残りを譲ろう。……正直言うと腹6分目もいってないから後で絶対お腹すくだろうけど。

 幸い僕の焼きそばはまだ残っていた。日陰のパラソルの影に紙皿に乗った焼きそばがある。

 

「榊原君のって、これ?」

「そうだよ。今違う割り箸持ってくるから」

「いいよ別に」

 

 いけません。僕は彼女が食べ始める前に箸を取り上げた。不満そうな視線を受け流しつつ、新しい割り箸を持ってきて、割ってから彼女に渡す。それを受け取るが早いか、彼女は焼きそばを口に運んだ。

 

「……おいしい」

「そう? よかった」

「やっぱり榊原君って料理上手なんだね」

「これは炒めて味付けただけだから、別に腕は関係ないと思うよ。……味付けたの桜木さんだし、目分量でソースお願いしただけだし」

 

 ふうん、と相槌を打ちつつ彼女は食べる手を止めない。本当はお腹減っていたのだろうか。

 

 チラッと皆の方を見るとどうやら海といえば恒例のスイカ割りをやるらしい。そういえば食材の中にあったっけと思う。割る役はなぜか望月らしい。勅使河原がいいように適当に誘導して混乱を招いているのが見える。

 

「見崎さん、別荘がこの近くにあるんですか?」

 

 と、そこで輪の中から抜けてきたのか、桜木さんが見崎の隣に座りつつそう問いかけてきた。思わず反射的に皆の方に目を移すとやはりというか、風見君の視線が彼女を追っている。……あ。危ない少年、よそ見してると望月に殴られるぞ。

 

「まあね」

「でもよかったですね。見崎さんも興味はあったみたいだし。榊原君もその方が嬉しいでしょうから」

「あ……。えっと僕は……」

 

 思わず言いよどんでしまった。一旦誘ってるんだから何も動揺する必要はなかったじゃないか。

 

「……いいの? 桜木さん、私なんかに構ってて。スイカ割り、終わっちゃうよ?」

「花より団子、って杉浦さんだったら言うのかしら? 食べられればそれでいいので。……さらに言えば、そんな非効率的にスイカを割るぐらいならちゃんと等分で切った方が可食部は増えるでしょうし。まあイベントとしての側面が強いんでしょうから、楽しんでる皆に水をさす必要はないんで黙ってますけど」

 

 実に現実的と言うか、達観した物の見方だ。大人びてるというか、それを通り越して悟ってるとも思えてしまう。

 

「……まあ非効率的だからと一概に否定する気はないですけど。今輪を抜けてきたのは叩く役が望月君じゃ命中するまで時間がかかるだろうし、したところで一発じゃ無理だろうと思ったからと言うのと、そこにかこつけて日陰に入るついでに見崎さんと少しお話したかっただけですから」

「私なんかと話しても、楽しいことなんかないと思うけど」

「そんなことありませんよ? 現に榊原君は楽しそうですし、今の私もそうだから。……近づかない方がいい、とかって言われた人間に近づけただけでも、ね」

「……根に持つタイプ?」

 

 見崎の問いにクスッと笑って桜木さんは応えた。冗談だ、という意味だろう。見崎に通じてるのかは疑問だが。

 

「……あ、叩く役が勅使河原君に代わるみたい。今度は割れると思うんで、行って来ますね。見崎さんも焼きそばそろそろ食べ終わるんだし、榊原君と来たらいいと思いますよ」

 

 そう言うと桜木さんは立ち上がった。本当に話をしに来ただけのようだ。クラス委員として見崎を心配したから声をかけにきたのかな?

 見ると見崎は焼きそばを食べ終わったようだった。去っていく桜木さんの背中を見送った後で何やら視線を落として手で胸の辺りをポンポンと叩いている。

 

「……どうしたの?」

 

 別に驚かせようというつもりは微塵もなかったのだが、なぜか見崎は僕の問いかけにビクッと体を震わせた。

 

「……なんでもない」

 

 その時、輪のほうから歓声が聞こえた。どうやらスイカは見事に割れたらしい。じゃあ行こうかなと思う僕より先、意外にも見崎が立ち上がった。

 

「スイカ食べたい。……あと、焼きそばおいしかったよ」

 

 それはありがとう。でも……見崎って意外と食い意地が張ってるのだろうか。とにかくせっかくだから僕もスイカを食べようと、日陰から立ち上がった。

 

 

 

 

 

 スイカの食べ方と言うのは人それぞれだ。赤沢さんや桜木さんのように特筆すべきことなく食べる人。勅使河原のように一気に口に頬張った後で迷惑にも種を吐き出す人。中尾君のように塩を重視する人。杉浦さんのように神経質気味に種を全部取ってから食べる人。

 

 そういう意味で言うと、食べ終わってからの海の満喫の仕方も人それぞれだった。とりあえず海に来たのに1度も水に入っていないのもどうかと思って僕も適当には泳いだ。医者に何か言われていた気がしたが、あまり無理をしなければいいだろう。見崎も誘ったが、眼帯が濡れるからか、いいと断られてしまった。

 あまり泳ぎすぎて体に負担をかけて気胸が再発、となっては洒落にならないので、望月と適当にじゃれ合いはしたが、それもほどほどに僕は陸に戻ってきた。見崎が1人で孤立してしまうのではないかという心配もあったからだった。だがそれは杞憂だったらしい。そういえばいつの間にか他に泳いでる人がいなくなったなと思ったら、勅使河原と中尾君と風見君は海釣りに興じているらしく、女子はそれを見ているようだ。

 

「なんか僕と望月しかいないと思ったら皆ここだったんだ」

「勅使河原が『釣りやろうぜ』とか言い出してね。全然やり方わからないのに無理矢理やらされてるんだ」

 

 とかなんとか言いつつも、風見君としては大物を釣っていいところを見せたい、とかってところだろう。他2名もそうかもしれない。

 

「で、何か釣れた?」

 

 無言で赤沢さんは勅使河原の側にあったバケツを傾けてこっちに見せた。中には何も入っていない。

 

「坊主よ」

「骨折り損のくたびれ儲けね。適当なところでやめた方がいいわ」

「ひでえぞ杉浦! そういうこと言ってると釣れてもわけてやらねえからな!」

「いいわよ。どうせ釣れないし」

 

 そう決め付けて杉浦さんが立ち去ろうとした時。「おおっ!?」と勅使河原が興奮気味に声を上げた。どうやらかかったらしい。

 

「こいつは大物じゃねえか!?」

「嘘? マジで……?」

「……嘘から出た誠、かしら」

「来た来た……! うおりゃあ!」

 

 気合の声と共に勅使河原は一気に釣り竿を引き上げた。そして釣り上がった物が赤沢さんの頭の上に乗る。

 

「……何よこれ」

 

 頭から垂れてきた緑色の葉っぱ状の物を掴んだ赤沢さんの手がわなわなと震える。彼女の頭には昆布だろうか、海草の類がカツラのように乗っかっていた。というか、昆布って釣るほうが難しいんじゃ……。

 

「何が大物よ! しかもよりにもよって私の頭の上に! 馬鹿にしてんの!?」

 

 そして彼女はその水を含んだ海草を全力で勅使河原へと投げ返した。「ぶぺっ!」とか間抜けな声を上げて彼はその直撃を受け、卒倒する。うわ、足元岩場だったけど受け身取れたかな……。

 

「……身から出た錆の方だったか」

 

 僕の心配をよそに、それを見た杉浦さんは「自業自得」という意味の辛辣な一言で締めたのだった。

 

 

 

 

 

 それからもしばらく遊び倒す時間は続いた。また泳いでみたり、望月を砂で固めてみたり。その後流れ的にビーチバレー……のようなものということになったが、一応体のことがあるので僕は遠慮しておいた。男子対女子のような形になっているが、杉浦さんのスパイクがえげつない。さっきから何度勅使河原が顔面を狙われているかわからなかった。一方の「遅れてくるアタッカー」はさすがに女子相手に本気は自重しているのか、鋭く打ち込んでいるものの杉浦さんに拾われることが間々あるようである。……まあ遠慮無しの女子と一応気を遣ってる男子だから、総合的に女子の方が有利かもしれない。というか、望月がなぜか女子側だし、杉浦さんが完全に独壇場だ。涼しい顔してなんて身体能力だ……。

 ともかく、あそこに入るのはちょっとためらわれたので、ビーチパラソルの陰で早くも一杯始めた怜子さんのところにでも行こうかと思った。だがその前に辺りを見渡すと、見崎がなにやら砂山のようなものを作っているのが目に入ってくる。考える間もなく、僕の足はそっちへと向かっていた。

 

「何してるの?」

 

 僕の問いに彼女は一度だけ、僕の顔を見てからまた砂山の方へと顔を戻した。

 

「別に。ただ、なんとなく作ってるだけ」

 

 その「なんとなく」に僕もつきあわせてもらおうと思う。砂を集め、頂上付近へと持って行って固めていく。見崎は一瞬驚いたように体を震わせたが、すぐ元の様子に戻り、僕と一緒に砂山を作っていった。

 

「僕達はこの後夜もここで食べる予定だけど……見崎は別荘に戻る?」

「一旦戻って、もう1回来る予定。あの人達と食べるより、クラスの皆との方が……楽しいし」

 

 楽しい、か……。以前の見崎じゃ、そんなことは言わなかったような気がした。霧果さんが言ったとおり少し変わって来ているのだろうか。

 でも、やはり家族仲はあまりうまくいっていないらしい。そこまで首を突っ込むのはでしゃばりとわかってはいたが、少しその話題に触れてみることにした。

 

「今回お父さんが帰ってきてるから、だったよね? 何してる人なの?」

「さあ。この間言ったとおり世界を飛び回ってる、ぐらいしか知らないし、興味もない。……それでたまに帰ってきて、こうやって家族サービスっていうの、家族の真似事」

「真似事って……」

「結局、私とあの人たちは繋がっていないから」

 

 特に何の感慨も無さげに、見崎はそうあっさりと言った。そして沈黙が広がる。……やっぱりこの沈黙って物は苦手だ。

 

「でも見崎は……藤岡さんとは繋がってると思ってるんでしょ?」

 

 どうやら彼女は山を作るのを終わり、今度はトンネルを掘り出したらしい。僕の方からもそれに合わせて採掘作業を始める。

 

「……私の『半身』だから、ね」

「つまり繋がってるっていうのは、血、ってこと?」

 

 ゆっくりと見崎は首を横に振る。

 

「そういうことじゃないの。藤岡の叔父さんや叔母さん……私にとって本当の父母とは別に繋がっているとは思わないし」

「じゃあ精神的に?」

 

 掘り出したトンネルは崩れることなく、順調に掘り進められていく。見崎は僕の問いに少し考えから「かもね」と返した。

 

「でも四六時中そんな風に繋がってるのって疲れるじゃない。それに……もしその繋がりが途絶えてしまったら……。それはそれでもっと辛いだろうから」

 

 ひょっとしたら僕は自分の気づかぬ間に「ああ」と声をこぼしていたかもしれない。藤岡さんのことだとわかったからだ。彼女は白血病だと言っていた。もしかしたら命すら危うかったかもしれない病気だ。そこで彼女が「半身」を失ってしまっていたのだとしたら……。

 

「前も言わなかった? 結局今のクラスだって1年で皆バラバラになっちゃう。学校というくくりで見ても3年経てば同じ。……だったら、無理に繋がらなくたっていい。たとえ繋がってもいずれそれは途切れてしまう……」

「だから見崎は……」

 

 そこまで言って僕は続きを言うことをやめた。埒の明かない僕の勝手な推測に過ぎないからだった。

 だが続けるなら、こうだ。「だから見崎は、『近寄らない方がいい』なんて言ったの?」。

 彼女が思わせぶりな行動をしているのはまあ個性というか癖のような部分はあるのだろう。でもその中の一部、本能的に他人を寄せ付けないようにそう振舞っているのだとしたら。繋がりが途切れてしまうことを怖れるあまり、わざと遠ざけるような言動をしているのだとしたら。

 

 いや、やめようと僕は目を閉じて頭を軽く左右に振った。それこそ埒の明かない妄想だ。なぜなら、本当に繋がることを拒絶するなら、僕とこうしていること自体が矛盾すると言っていいからだ。

 

「見崎は……繋がることが嫌なの?」

 

 聞くべきか迷った挙句、結局僕はそう尋ねた。一瞬間を挟み、彼女は首を横に振る。

 

「全部が全部じゃない。でも、親だから、とか友達だから、って理由でずっと繋がってるなんて、やっぱり疲れるし嫌だって私は思う。……あ」

 

 そこで、僕の手は彼女の手に触れた。両側から掘り進めて行ったトンネルが通った、と言うことだ。

 

「……繋がったね」

 

 見崎が言ってる意味合いと違うとはわかっている。でも僕は、あえてそう言った。それに対して彼女はゆっくり頷く。

 

「たまには、繋がってもいいんじゃないかな。……いつも、っていうのは嫌なのかもしれないけどさ」

「……そうね。たまには、ね」

 

 そう言うと、見崎は触れていた僕の指先を軽く握ってきた。以前も感じたことのある、人形などではない、確かに血の通った人間の手。

 

「私は人形じゃなくて心がある人間だものね。繋がれるのは……心が無くては出来ないもの」

「うん。そう思うよ」

 

 と、そこで少し大きな波が僕達が作った砂山を流して行ってしまった。「ああ……」と思わず僕は落胆の声を上げる。見崎もひとつため息をこぼしたが、なんとめげずにまた作り出すようだった。

 

「まだ作るの?」

 

 無言で彼女は頷く。そういう創作作業は美術部だから慣れているのだろうか。さすがに僕はもう1度付き合おうという気にはどうしてもなれず、少し日陰に行くことにした。

 

「ちょっと疲れたから、日陰に行ってるね」

 

 再び彼女は無言で頷いた。それを確認し、僕はビーチパラソルの方へと踵を返す。そこで怜子さんが見慣れない男性と話しているのが目に入ってきた。無精ひげを生やし、髪も特にこだわった様子はない。男性にしては小柄な体格だと思う。親しげな様子から、おそらく今回の被害者、と言ってもいい松永克己さんだろうと推測した。

 

「お帰り、恒一君」

 

 怜子さんの足元にはビールの缶が既に1本転がっている。もう2本目か、と思わず僕は苦笑を浮かべていた。

 

「へえ、君が怜子の甥っ子か」

「榊原恒一です。松永さん……ですよね?」

「おう、そうだ。よろしくな。……で、今回のこの無茶振りの張本人は君かい?」

 

 それに対しても再び苦笑。確かに怜子さんに話を通したのは僕だが、そもそもの発起人は勅使河原だ。

 

「そんなの誰だっていいじゃない。……それより聞いてよ恒一君。マツってば久しぶりに私に会うなりなんて言ったと思う? 『お前本当に怜子か?』だってさ!」

「んなこと言ったってよ。俺が知ってるお前は絵にしか興味が無いような野暮ったい奴だったからな……。あの時は全然パッとしなかったし。それがこうも化けるとは驚きだぜ。イノヤの姉ちゃんには敵わないけど、お前のお酌なら喜んで受けるぞ」

「ちょっと最後の聞き捨てならないわね? こんな美人を目の前にして言う台詞? 恒一君からも何か言ってやりなさい」

 

 何か、といきなり振られても困るのだが、松永さんに教えておいた方がよさそうなことは教えておこう。

 

「知ってるかもしれませんが……。イノヤのウェイトレスさん……知香さんはあの店のマスターと結婚を前提に付き合ってるらしいんで……。口説いても無駄かと……」

 

 露骨に松永さんが衝撃を受けた顔をした。そして項垂れる。……知らなかったのか。

 

「……だよなー。あんな美人が相手いないわけないよなー。そこで迂闊なこと言ってこの事態招いちまってるし……。あーもうあの店行くのやめようかな……」

 

 それは困る。僕がイノヤの営業妨害をしたみたいじゃないか。

 

「よしよし、私が夜慰めてお酌してやるから。それで我慢しなさい」

「……そうする。まあイノヤには世話になってるし、話し相手としても飲み屋としても最高だからなあ。結局行くのはやめられねえだろうな」

 

 ため息をこぼしつつ、松永さんはそうぼやいた。まあ何はともあれ、これで僕が営業妨害したということはなくなったようだ。

 

「そういや、甥っ子君も美術部かい?」

「いえ、僕はこっちに転校したばかりなんで……」

「姉さんが陽介さん……旦那さんにくっついて、大切なひとり息子を私達に預けてインドに行っちゃったのよ。それで今年夜見山に来たの」

「ああ、そうなのか。てっきりこいつの甥だし美術部なのかと」

「考えていなくはないんですが……。もう3年の夏でもうすぐ2学期ですし」

 

 今言ったとおり美術部自体に興味はあった。が、結局後に後にと回していたらこの時期になってしまっていた。なのでもう部活は諦めるつもりでいた。

 

「別に本当に入りたいなら、いいんじゃないの?」

「え……?」

 

 ところが、怜子さんはあっさりとそう告げてきたのだった。まさかそう言われるとは思ってもおらず、僕はその声の主を見つめ返す。

 

「どうせ文化祭に展示するもの作ればそれで活動になるからな、あの部」

「出たよ、幽霊部員め」

「……松永さん幽霊部員だったんですか?」

「言うほどじゃないぞ。ちゃんと週に1回は顔出してた。……毎日のようにあのボロ部屋に行ってたこいつが異常なだけだって」

 

 そう言いつつ、松永さんは怜子さんを指差して見せた。それに対して彼女は不満そうに頬を膨らませる。

 

「あんたは不真面目すぎたでしょうが! それで夏休み明けて、しかもしばらく経ってからようやく文化祭の作品に手つけはじめて。それでギリギリ間に合わせたんでしょ?」

「お前そういうどうでもいいことほんとよく覚えてるな。……まあ今こいつが言った通りでな。だから、夏休み明けてからだって作品制作は間に合うぞ? 立体で粘土細工お勧めだ。形整えて固めて色塗っちまえば終わりだからな。俺はそれで制作だけなら実質1週間で仕上げた。何作るかで散々迷ったが」

「コラ! 恒一君によくないことを吹き込むな!」

「じゃ、じゃあもし僕が本当に美術部に入部したい、ってなったら、夏休み終わってから入部させてもらって、作品を作って展示することも可能なわけですか?」

 

 怜子さんは数度目を瞬かせた。もし可能なら、短期間でもいいから美術部に所属してみたい。それで作品を作って展示する、そういうのも悪くないと思っていた。

 

「マツって前例があるし、確かに油絵とか時間かかるのは厳しいかもしれないけど……。短期間で作れる作品なら可能よ。……でもいいんじゃない、とか言った私が言うのもあれだけど……大丈夫? クラスでの出し物もあるわけでそっちにも時間割かれるし、あまり短期間だと部内の人間関係もうまく作れないかもしれないわよ?」

「クラスとの兼ね合いはなんとも言えませんが……。人間関係は多分大丈夫です。望月も見崎もいますから」

「……なるほど。その2人目が狙い、か」

 

 いやそんなことは……。ないとは言い切れませんが……。

 

「まあいいわ。それは恒一君の問題だから。すぐ結論出さないで、まだ夏休みなんだしもう少し考えて、その上で出しなさい。ね?」

「はい。そのつもりです」

「いいから入っちまえって。そして俺の後輩になれよ甥っ子君」

「ちょっとマツ! 変な勧誘しないでよ!」

 

 肯定も否定もせず、僕は松永さんに渋い笑みを返した。今から部活に入るのも悪くないかもしれない。夏休みの間に考えておこう。ついでにもし入ろう、と思ったら作るものまで決めておくといいかもしれない。

 ……それより何より、この松永さんという人は本当に陽気な人で、そして怜子さんと仲が良かったんだなという方が驚きだった。「お互いにお相手募集中ですよね?」とかおちょくってみるのも面白そうだったが、さすがにそこまでの危ない橋を渡るだけの勇気はなかったので、僕は大人しく2人の仲良さそうなやり取りを眺めることにした。

 

 

 

 

 

 その後、日が傾き始めた辺りで夕食ということになった。時間としては少し早いが、皆はしゃいだためにお腹が減ったのだろう。夜はバーベキューということで、材料を切るといったような下ごしらえの準備は昼同様僕と桜木さんでやったが、焼くのは風見君、中尾君、杉浦さんと複数人交代で行ったので、僕は焼いてるだけで食べられない、という事態はなんとか避けられた。感謝の言葉を述べたら「まあこのぐらいは俺にも出来るからな。まかせろ」と中尾君に言ってもらった。やっぱりなんだかんだ根はいい人のようだ。

 なお、見崎は一度別荘に引き返して両親の許可を取ってきたのだろう、一旦姿を消した後で水着ではなく私服に着替えて再び戻ってきていた。メンツを見れば普段の昼食会のようだが、違う場所でやっているということもあるのだろう。皆会話が弾んでいる様子だった。

 

 食事が終わった後は部屋に荷物を移し、再び砂浜に出てきて花火という、まあ海に来たらお約束といってもいい流れとなった。だがその途中で見崎は霧果さんから電話があったらしく「戻って来いって言われちゃった」と少し寂しげに言って去っていってしまった。「じゃあ前の約束の通り、今度は合宿でね」と言い残して。

 残念ではあったが、すぐ赤沢さんやら勅使河原やらに絡まれて仕切りなおしたので、一応は気は紛れた。ちなみに勅使河原が「虎の子の打ち上げ花火だ!」と意気込んで火をつけた花火が予想以上にあっさりと終わってしまったため、「虎は虎でもそれじゃ張子の虎ね」と杉浦さんに辛辣に突っ込まれた場面もあったりした。

 

 そんなこんなで予定の日程を終え、まだ9時前だというのに部屋に入った僕達は疲れからほぼダウン状態だった。用意された中部屋は和室、ロケーションは今は夜だからわからないが、日中ならかなりいいものとなるのだろう。本来は布団を敷かれていてもおかしくはないのだが、さすが格安裏口プランということで布団は自分達で敷くこととなった。皆だるそうに布団を敷き、そこに倒れこむ。このまま寝てもおかしくない状況だ。

 

「やべえ……。マジで眠い……」

「まだ9時とかだけど……もう寝ちゃう?」

「……いや、待てサカキ! それは勿体無いぜ! だって合宿は咲谷記念館だろ? あそこ確か宿泊の客室は相部屋が多かったはずだ。となるとこんな風に野郎共大人数が集まって駄弁るなんて出来ないってことになる」

「勅使河原君……なんでそんなこと知ってるの?」

 

 望月のその発言には同意だった。しかし知らなくていいことまで知ってるのがこいつなわけで。僕はそのことに大した疑問は抱かなかった。そして勅使河原も取るに足らない質問と捉えたらしい。

 

「そこでせっかくなんだ、こういうときのお約束と行こうぜ!」

「それって……怪談ってこと?」

 

 怯え気味に望月が尋ねる。美少年は怖い話が苦手なのかな。

 

「……あ、お前にはその方がいいかもな。お前にとっちゃそれ以上に興味がないことだろうからな」

「何それ? どういうこと?」

「枕投げだろ」

「はい中尾君、お手つき1回目だ。……修学旅行とかの夜は女子の話って相場が決まってるだろ? しかも今日は胸四天王の3人が降臨されて水着をご披露なされたんだ、反省会も兼ねてそれを俺たちは話さなくてはならない! ……そういうわけで、三神先生とか知香さんとかにしか興味のないお前は蚊帳の外だ、ってこと」

「と、知香さんは関係ないでしょ! 一応血が繋がってるんだし……」

「甘いぞ望月! 世の中には兄妹だろうとイチャイチャしてる張りに仲がいい連中もいるんだ! 小椋を見ろ、あんなダメ兄貴……って小椋に聞かれたらすげえ怒られるだろうけど、ともかくそんな兄貴にベタベタして街中歩いてるんだぞ? 見かけたこっちが気を遣って見つからないようにするとかどんだけだよ。まあそんな例もあるってことだ。……とはいえ、腹違いでそれやると洒落にならない場合あるけどよ」

 

 だったら言うなよ、と僕は心の中で突っ込んだ。それに望月の場合「お姉さんが好き」というより完全に「年上の女性が好き」という趣向なわけで、小椋さんの例とは違うだろう。

 

「まあいい。早速反省会だ。……まずは1日前の発言を撤回して参加した風見()、桜木の水着が見られたんだ、来てよかっただろ?」

 

 ニヤニヤしながら、勅使河原は風見君を覗き込む。彼は明らかに動揺した様子で眼鏡を直しつつ顔を背けた。……反応がわかりやすすぎる。

 

「な、何のことだ?」

「とぼけたって無駄だぜ、ムッツリ君よ。お前日曜に俺が誘ったときは『ただでさえ合宿があるのに、これ以上受験の夏に遊んでる暇なんてあるか』とか言ってたくせに、赤沢が桜木誘った瞬間にコロッと態度変えやがって。お前もクラス一のあのけしからん胸を拝みたかったんだろ?」

「お前と一緒にするな! 僕はそういうやましいことじゃなく、桜木さんが来るっていうから単純に……」

 

 ああ、少年よ、それは墓穴だ。だが勅使河原の反応を見るに、奴も薄々は気づいていたのだろう。「ほほう、やっぱりか」などと言っている。

 

「お前、桜木のこと狙ってるだろ?」

「ね、狙ってるとか……。そういう言い方……」

「いやいい、わかってる! 皆まで言うな! 腐れ縁の俺とお前の仲だ、2年の時に桜木と同じクラスになってからなんかお前が変わったなってのは気づいてたからな。今日ようやく確信が持てたぜ、まあ頑張ってあいつと一緒の難関学校目指してくれや!」

 

 愉快そうに笑いながら勅使河原は風見君の背中をバンバン叩いている。迷惑そうな顔をしていた彼だったが、「……そういうお前は」と反撃に出た。

 

「ん? なんだ?」

「赤沢さんにいいところ見せられたのか? 今回もいいようにあしらわれてただけな気がしたんだが」

 

 思わず「ぐ……」と勅使河原が言葉を詰まらせる。この反撃は効果的だったらしい。

 

「う、うるせえ! 大体最初の分乗の時点でおかしかったんだよ! 普通に考えたら自分の家の車に乗るものだと思うだろうがよ!?」

「……でも乗ってもらわなくてよかったぜ。乗ったら俺のせいでお通夜だった」

 

 文句まで今度は中尾君に遮られ、再び勅使河原は言葉を詰まらせる。

 

「中尾、お前は人が良すぎるんだよ!」

「でも事実だろ」

「だからって違う車で赤沢はそこのサカキと仲良くお話してたんだぞ? してたんだろ、望月?」

「……ごめん、どうだったか覚えてないや」

「……あ、そうか。お前ドライバーと話すことで精一杯だったもんな。ごめんな」

 

 ここに到着した時同様、白けた顔と棒読みで勅使河原はそう返した。「何それ!?」と望月が反論するが、奴は無視を決め込む。

 

「……ともかく、おそらく赤沢と、あと桜木とも仲良く話してたであろうサカキをどう思うよ、風見に中尾? やっぱ一発しめとかないか?」

「あ、あのさ……」

 

 まずい、矛先が向いてきた。なんだか面倒なことになりそうだな、などと思った矢先。ここで望月が会話に割り込んできた。

 

「なんだよ。クラス女子の話なんて年上趣味のお前にゃ関係ないことだろ?」

「それはそうだけど……。ってなんでそういうことになってるの!?」

「お前が見てるのは愛しの三神先生だけだもんな」

「う……。い、いやそうじゃなくて! 僕が聞きたいのは今の流れで風見君を誘うのはわかるけど、なんで中尾君も入ってるの、ってこと!」

「ハァ? お前見ててわかんねーのか? こいつ完全に赤沢シンパだろ? あいつに何か頼まれたら『はい赤沢様! 地の果てまででもお供しますぅ』って感じじゃねえか」

「……おい勅使河原、表出ろ」

 

 まあまあ、と僕は中尾君をなだめる。……いや、なだめるのはいいんだが、それで矛先が向いてくる可能性は十分にあるんだよな……。

 

「それは確かに中尾君と赤沢さんが一緒にいるのはよく見るけど……。僕はどっちかっていうと赤沢さんよりも杉浦さんがいるからだと思ってたから……」

「あ? どういうことだ望月?」

「だから……。中尾君って杉浦さんに気がある……っていうか、てっきりもう付き合ってるものだと……」

「あぁ!?」

「だってさ、割と誰に対してもドライで冷たい感じな杉浦さんだけど、中尾君にだけはやけに優しいじゃない。今日だって車での移動が終わった後、酔ってる時ずっと側で介抱してたわけだし。普段もなんだか他の人と違うように接してるように感じるし……」

 

 思わず中尾君は無言になって考え込み始めた。しばらく間があって「……まあ」と切り出す。

 

「俺もあいつも男女で違うとはいえ部活一緒だからよ。俺の乗り物酔い癖とかも知ってるし、クラスでの付き合い以上に部で話すことはあったが……。あいつが俺を? ……いや、そんなはずが……」

「……なるほど、こいつは面白くなってきた」

 

 そこで目を光らせる勅使河原。本来なら、こいつにこういう話題を与えてはいけないのだ。

 

「俺としてはこの会議中に『てしなか同盟』を作ろうかと思っていたが、その必要もないかもしれないらしいな!」

「なんだそのだっせえネーミングの同盟」

「俺とお前の同盟だよ! ……このままじゃサカキに赤沢を取られかねない状況だからな。俺と中尾で同盟を組もうと思っていたんだが、お前が杉浦に流れるというのなら同盟をあきらめることもやぶさかではない!」

「勝手に決めんな。そして無理して難しい言葉使うな。……杉浦みたいだ」

「なるほど、結局気にしてんのな、あいつのこと」

 

 再び「やっぱ表出ろ」と中尾君が不機嫌そうに勅使河原に返した。それに対して同じように僕がなだめる役に入る。が、今回は同じ展開にはならなかった。やはりというかなんというか、勅使河原は僕に矛先を向けてきたのだ。

 

「……ところで、ここまで『我関せず』みたいな顔をしてなだめる役とかやってるけどよ、榊原君」

「な、何だよ……」

「よかったなあ! 一旦来ないってなったのに鳴ちゃんが来てくれて!」

「い、いや……別にそれは……」

 

 まずい、ついに来てしまった。どうにかこうにかうまいこと煙に巻くしかない。

 

「俺ご自慢の2.0の視力でも見つけられなかったのに、よくあの距離で見崎がいるってわかったなお前!」

「ま、まあ……なんとなく……」

「なんとなく! そりゃあれか、2人は運命的な赤い糸で云々とかってやつか!? それでお前は夏休み明けたら見崎がいる美術部にまで入部を考えてる、と!」

 

 ……待て待て! なんでこいつが僕と怜子さんが話していた内容まで知っているんだ!?

 

「ほんと、榊原君!? 美術部入ってくれるの?」

「まだ検討中……。それより勅使河原、なんで僕と怜子さんがその話してたの知ってるの?」

「俺の視力と聴力を甘く見てもらっちゃ困るな。ビーチバレーやりながらお前と叔母さんと、あと松永さんの会話はちょこちょこ耳に入れてたのさ。伊達に『帰宅部のエース』と言われてるだけのことはあるってことよ!」

 

 モンスターか何かか、こいつの身体能力は。それだけ高スペックなら何か部活やれよと言いたい。

 

「榊原君、美術部入ってよ。短期間でも文化祭に出展できれば大丈夫なはずだし……」

「怜子さんもそう言ってくれたんだけど……。まあまだ考え中かな。どっちにしろ夏休み明けないと入部も無理だろうし」

「是非来てよ。部長には僕の方から説得……しなくてもいいのか。とにかく粘土細工とかの制作ならそこまで時間もかからないだろうし、十分文化祭に間に合うだろうから」

 

 ああ、それはもはやある意味伝統化しているのか。松永さんと同じことを望月にも言われ、そんなことを思ってしまった。

 

「なんでもいいからお前は美術部に入れ。そうすりゃ鳴ちゃんと仲良くなって、赤沢はお前を諦めざるを得なくなって、俺もお前もハッピーじゃねえか」

「勝手に僕の学校生活を決めないでよ……」

「俺はお前のためを思って言ってるんだぜ? あと俺のためでもあるが。なあお前らもそう思うだろ?」

 

 そう言って勅使河原はしばらく発言のなかった中尾君と風見君の方に話を振ったが――2人からの反応はなかった。今日の遊び疲れが出たのだろう。もう既に寝てしまっていたのだった。

 

「寝ちゃってるね」

「……んじゃ俺らも寝るか。いい加減眠いし。続きは合宿の時か、そのうちイノヤででもやるか」

 

 続きあるのかと突っ込みたかったが僕はそれを飲み込むことにした。僕もちょっと今日ははしゃぎすぎて眠い。しかしなんとか勅使河原の言及は煙に巻くことはできたな、と思っているうちにだんだんと思考がまどろんでくる。そんな中、見崎に会えたということは嬉しく思いながら、眠りにつくのだった。

 

 

 なお、翌日の帰りは特に何もなかった。帰りの車は桜木さんと杉浦さんが入れ替わった形となったが、僕を含めた後ろ3人、いつの間にか寝てしまっていて気づいたら家の前に着いていた、ということを付け加えておきたい。

 




水着回がいつまで経っても終わらない疑惑が発生したので、最後の方はちょっと駆け足気味になってしまいました。加えた部分が多いのもありますが、そのせいで原作のアニメから削ったシーンも出ています。タコのシーンは残すべきだったかも……。
怜子さんと松永さんは原作でも仲良く話してた様子がありましたし、2人とも美術部という公式設定があるのでこういう感じにしてみました。

挿絵機能が実装されたので、次の話で使えそうならちょっと使ってみようか考えています。といってもキャラの絵を載せるとかは出来ないですが。自分絵は全然描けないので……。


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#22

 

 

 格安の海での小旅行から1週間が経った。海の次は山、今日からは2泊3日のクラス合宿だ。が、山とはいえこの街の名前にもなっている夜見山はそこまで標高が高いわけでもない。ハイキングや散歩気分で十分登れてしまう高さである。祖母が話してくれたことだが、若い頃はよく祖父と一緒に登ったことがあるらしい。街が一望できて、特に夕方時は綺麗だと教えてくれた。

 今回久保寺先生がメインイベントに「清掃」として据えた対象である夜見山神社は中腹にあり、距離としてはさらに短い。2日目はまず山頂まで登って昼食、それから帰り足に夜見山神社を清掃して宿泊場所まで戻るというスケジュールだ。まあ思い出作りとして登山、というかハイキングというのは悪くない試みではあるだろう。

 

 宿泊場所の咲谷記念館はその夜見山の麓にある。そこまでは各自で移動、ということだった。その宿泊場所に到着し、外観を眺めて僕は思わずため息をこぼす。見るからに古い。0号館といい勝負が出来るんじゃないかと思ってしまう。

 だが実のところここの情報は多少仕入れてはいた。まだ学校が夏休みになる前、例によって見崎と共に第2図書室に行った時の事だった。クラス合宿があることを見崎が千曳先生に告げると「またやるのか」という反応と共に、色々と話してくれた。なんでも、久保寺先生は3年のクラスを受け持つと決まってこの「合宿」をやるのだそうだ。思い出作りと神社の清掃という名目らしい。過去に既に2度ほど行われている、と千曳先生は教えてくれた。加えて咲谷記念館も、元は地元の企業の保養所だったのだが、後に夜見山北中学校に寄贈されたものらしい。その時の事業主か寄付主かである、咲谷なんとかさんの苗字からとっているのだとか。年数的に結構古い、というのはその時に聞いた情報である。

 加えて部活動で合宿として使うこともある、ということだった。千曳先生が顧問である演劇部も下旬に合宿を予定しているそうだ。他にも運動部が基礎体力作りと言う名目で頂上まで数往復したり、文科系の部活も演劇部の他に吹奏楽部が個々の技量上昇を目指して少人数でアンサンブルするために使う、といったこともあるらしい。もっとも、一番大きな場所は食堂で次が2部屋ある多目的室という建物の造りのため、使用用途は大分限られてしまうのだそうだ。演劇部で合宿をする際も、基本的には多目的室2部屋に分かれて絡みの多い役同士での練習となり、仕上げとして全員で練習する時に食堂を数度借りる、という使い方をするらしい。その辺は元々保養所だったから仕方ない、とも千曳先生は付け加えてくれた。

 

 その情報を仕入れていてもこの外観の古さは、先ほどのような感想を十分に抱かせてくれる。前情報なしで感慨深げな声を上げるクラスメイトの目に、この建物はどう映っているのか少し興味が沸く。そのクラスメイトに関してだが、なんと欠席者なしの全員参加という「よくて6割かな」なんて僕の予想を完全に裏切る形となっていた。高校受験対策として夏期講習を受けているような人もいたようだが、この日程が土日に被せてあったために1日だけ休むことにしてきた、という人がほとんどだったようだ。

 

「そろそろ集合時間ですが……。どうやら皆さん揃ったようですね。嬉しい限りです。参加率100%というのは、実のところ予想していませんでしたからね」

 

 そしてそれは担任の久保寺先生も同じ考えだったらしい。僕達を眺めた後で、感慨深げにそう言った。

 

「ではまずは記念撮影といきましょう。この建物の名前の彫られた青銅板を中心に、うまく左右対称になるように……」

 

 言いつつ、久保寺先生は1番端へと立った。「咲谷記念館」と名の彫られた板は身長の低い人間がかがんでも十分に見える高さにある。そこに数人をかがませないとカメラに収まりきらないと判断しての配慮だろう。その先生の場所より内側に参加率100%の人々はどう並ぼうかとあれこれ相談しながら並んでいく。……いや、「参加率」でいうなら100%ではなかった。

 

「あの……三神先生、隣いいですか?」

 

 聞こえてきたのは望月の声だった。そう、その言葉の通り、学年副担任の三神先生も同行していた。一応表向きは久保寺先生が声をかけたことになっているが、多分望月も部活の時辺りに誘ったのだろう。つまり参加率は100%を超えている、と言ってしまっていいわけである。そしてさらにもう1人。

 

「両先生方、もう少し中央に寄っていただかないと入らないですね」

 

 カメラのファインダーを覗きながらそう言っているのは千曳先生だった。こちらも久保寺先生に声をかけられた……と思いきや、なんと先生が合宿をする際は同行させてもらっているらしい。道理で過去の合宿の話に関して詳しいわけだ……。

 

「恒一君、隣いいわよね?」

 

 そんなことを考えていると聞こえてきた声に僕は声の主に目を移す。僕の右手側には赤沢さん、その隣に杉浦さんが見える。海でも一緒だった仲の良い2人か、と思っていたが、どうも赤沢さんの視線が僕を通り越してその奥に行っている気がする。振り返るといつの間にかそこに立っていたのは見崎。これには思わず僕も驚いた。

 

「……何?」

「いや、いつの間に、って思ってさ。ちょっとびっくりした」

「……フン、ちゃっかりしてるのね」

 

 右手側から小声でそんな言葉が聞こえてきた。どういう意味だろうかと彼女の方を振り返るが既に知らぬ顔で明後日の方を向いている。

 

「よっしゃ、んじゃ俺は赤沢の前、と……」

 

 そこで、そう言いながら勅使河原は中腰で彼女の前に入ってきた。それをご丁寧に彼女は一旦靴を脱いでから背中を足蹴。勅使河原はつんのめり、前に転びかける。

 

「いってえ! ひでえぞ赤沢、何すんだ! 服が汚れるだろ!」

「ちゃんと靴は脱いだわよ」

「あ、それなら……っていいわけねえだろ!」

 

 ついにこの男はノリツッコミまで会得したのか……。この打たれ強さにはまったく敬意を表したくなる。どうやら杉浦さんも同じ心境らしく、「……ほんと見上げた根性だわ」と彼女なりに褒めているようだった。

 そんな杉浦さんの奥には中尾君がいる。先週の海での一件があるからだろうか。さらによく見れば館の名称がある板の左右にはかがんで風見君と桜木さんがいる。クラス委員だから、中央にいるのは当たり前といえばそうなのだが、なんだか見事に先週の海での組み合わせになってるんだなと思ってしまうのだった。

 

「……これでギリギリか。それじゃ、撮るよ。皆笑って」

 

 普段通りあまり愛想のない様子で千曳先生はファインダーを覗き込みながらそう言った。そんな硬い声で笑えと言われましても、と突っ込みたい。それでも皆心なしか、表情はどこか穏やかなようだった。中学生最後の夏休み、そこでのクラスによる思い出作りだ。思うところは人それぞれだろう。それでもきっと先週の海と同じように楽しい思い出になるんだろうなと、僕はふと思ったのだった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

 咲谷記念館自体は上から見るとコの字型になっている、2階建ての建物だ。まず入り口をくぐって内装を見て、改めてその年季を感じる。天井から立派なシャンデリアがぶら下がり、左右対称な造りの階段が形式美を生み出している……気がする。柱も傍から見ると立派で、年代を感じさせるものだと思った。

 

「これはこれは久保寺先生、よくいらっしゃいました。今年はまた大勢で……」

 

 そう言って出迎えたのはここに住み込みで働いているという沼田という老夫婦だった。今話しているのは妻の方で名は峯子というらしい。夫の謙作の方は見た感じ千曳先生以上に愛想がなさそうな雰囲気だった。そして今の口調から察するに、やはり先生はここを数度利用していて老夫婦と面識があるらしい。

 

「またお世話になります、沼田さん。毎度のことですが、今回もよろしくお願いします。……特に今年はそちらの身内も預かっている身ですから」

「ええ、まああまりそれで今年を特別だとは思ってませんが……。体のことだけは心配で。うちの郁夫(・・・・・)は元気にやってますかね?」

 

 その沼田妻、峯子の言葉にほぼ全員が「えっ」と驚いた風に郁夫と呼ばれた生徒――高林郁夫の方を振り返った。

 

「うちの、って……。高林、お前の親戚か何かか?」

 

 クラス中の皆が思っているであろう疑問を、真っ先に勅使河原が口にする。

 

「母方の祖父母なんだ。10年ぐらい前からかな、ここの管理を任されたって」

 

 ああそういうことか、と僕は納得した。だから久保寺先生は宿泊施設としてここを使う、と言った時に「高林君がこのクラスにいる」と付け加えたのはそれが理由だったのだろう。

 

「建物はこんなですけど、一応冷房は入ってますので各部屋で利用してください。あと、料理の方も期待してくれていいですよ。普段はうちの人だけなんですが、強力な助っ人が来てくださってるんで」

 

 ニコニコと笑顔を浮かべつつ、沼田妻は僕達を通り越した先に視線を送った。それがどこかばつが悪そうに視線を逸らした初老の人物に向けられたものだと気づき、またしても皆が驚いた反応を見せる。

 

「千曳先生には実のところこの合宿の度に協力してもらっているんですよ。料理の方も手伝っていただいて」

「まあ……。料理は私の数少ない趣味だからね。一昨日から先乗りさせてもらってソースなりなんなりを仕込ませてもらっている」

 

 これまた生徒の間で挙がる驚きの声。そりゃ驚くだろう、比較的面識のある僕でさえ初耳だ。と同時に「だからこの数日間の部活が顧問不在だったのね……」という赤沢さんの呟きも聞こえてきた。というか、数日前にから仕込み作業をしているとか、どんな本格的な料理だろう……。同じく料理を趣味としている僕としては非常に気になる。これで今後は話題に困ることもないような気もしてきた。

 

「では、今日は特に予定もありませんので、各自部屋に荷物を置いたら夕食まで自由とします。各々親睦を深めるなり、館内を見て回るなりするとよろしいでしょう。部屋割りはこれから渡しますしおりに乗せておきました。相部屋となりますが、仲が良い人と思われる人同士をこちらで勝手に組み合わせました。しかしもし不満があれば申し出てください。可能な限り対処します」

 

 しおりを受け取り部屋割りを確認する。僕の部屋は202号室、中央の階段を上って左側に奥ばった場所、望月と相部屋だった。他の人の組み合わせを見てみると風見君と勅使河原、赤沢さんと杉浦さん、綾野さんと小椋さん、松井さんと金木さんなど、非常にクラス内の事情を把握していると言っていい組み合わせに思えた。やはり久保寺先生、見ていないようでクラスのことよく見てるみたいだ。

 ちなみに見崎の部屋は223号室、僕のいる部屋と丁度対照的に反対側となる。桜木さんと同室らしい。しかしこの部屋割り、左右に男女を明確に分けてある。

 

「なお、見てわかるように男子は中央階段の左側、女子は右側とさせてもらいました。……もし男女を交互に、などとして互いの部屋の行き来をしやすくしたことで深夜に何か(・・)などということがあっては事です。日中、健全なお付き合いをしている限り私は口を出すつもりはありませんが、消灯時間後の夜中はやめてください。監督役である私が槍玉に挙がりますので。よろしいですか」

 

 これも先生なりのジョークだろうか。少々ブラックジョークな類ではないかと思える。事実笑っている人もいないわけではないが苦笑といった具合だ。

 

「それでは各自部屋に移動後、自由行動としてくださって結構です。一応貴重品は常に持ち歩くようにしてください。何かありましたら、1階の101号室に私が、102号室に千曳先生が、110号室に三神先生がいますので、そこまで連絡を」

 

 

 

 

 

 2人部屋ではあったが、宿泊部屋はなかなか豪奢な雰囲気だった。古臭い、という野暮ったさはなく、言うなれば「いかにも推理小説に出てきそうな洋館」と言ったところだろうか。2人1組の部屋の構造と相俟って、アリバイ工作云々を考える場合にはもってこいな造りじゃないかなとかふと思ったりした。

 

「榊原君はこの後どうするの?」

 

 部屋に荷物を置き、望月が尋ねてくる。特に何をしようとは考えていなかった。まあしかしせっかく雰囲気ある建物なんだし、ちょっと館内を歩いて回るのはいいかなと思う。

 

「適当に散歩かな。夕食はおいしそうだって話だし、それまでにお腹すかせておいたほうがいいだろうから」

「僕も歩き回ろうかなと思ってたんだけど……。部屋の鍵、どうしようか?」

「いるなら僕がかけておくよ。でも貴重品って言っても財布と携帯さえ持ってればあとは盗られるような物ないし、クラスの誰かがそんなことをするとも考えたくないし」

「なんていうか……榊原君っていい人っていうか、人がいいよね」

 

 ……そうだろうか? でもクラスメイトを疑うような真似はあまりしたくないし、したところで心地よいものでもない。実際財布と携帯以外で取られてそんな困るものは、少なくとも僕は持ってきていない。

 

「じゃあ鍵は任せるよ。僕も別に盗まれて困るようなものはないし。……じゃ先にその辺ぶらぶらしてるね」

 

 そう言って望月はいそいそと部屋を出て行く。その辺ぶらぶら、ね……。何はなくともまずは110号室に直行だろう、きっと。

 そんな呑気に他人のことを言っている場合ではないか、と僕も腰を上げた。とりあえずぶらぶらはしたい。が、どうせするなら見崎を誘ってしたかったりする。だが彼女は1人でいることを好むし、静かな場所が好きとかいう変わり者だ。もう既に1人になれる場所を見つけてそこに落ち着いていたりするんじゃないかという不安はある。……建物隅の階段とかに座ってそうだ。割と本気でイメージできる。しかし一方で桜木さんを風見君が連れ出しているなら、まだ部屋にいる可能性はあるわけだ。そっちに賭けてみようかと、館内の見取り図も乗っているしおりを手に、僕は部屋の入り口へと向かう。

 廊下には既に楽しそうな話し声やら、活気が溢れていた。そんな中を歩き、女子側の部屋の方に行く時に自然と大きな窓から裏庭が見えるわけだが、そこでは複数人でバドミントンをしてるらしい姿も見受けられた。どうやら運動部系の男子のようだ。まったく準備が良い。やけに荷物が多い人がいると思ったらそういうことだったのか。

 そんな中央部分を突っ切り、女子側の部屋の方へ。幸い、と言うべきか誰ともすれ違わなかったが、なんだか気まずさを覚えつつ、僕は直線の廊下を直角に曲がって右奥の見崎がいるはずの223号室の前に着いた。一度深呼吸をし、ドアをノックする。

 

「見崎? いる?」

 

 だが返事がない。再度ドアを叩いてみるがやはり反応なし。こりゃもうどこか行っちゃったかと諦めてため息をこぼし、場を離れようとしたその時。

 

「あれ、榊原君? もしかして見崎さん探してる?」

 

 ひとつ部屋をまたいで221号室から出てきたのは有田さんだった。学校では窓際の列で見崎の2つ前の席にいる彼女は明るい性格なので時々話したことはあるが、それほど親しいというわけでもない。そんなわけでなんだかそこで認めるのもばつが悪いというか恥ずかしいため、「まあ……ちょっと用事が……」とか言って言葉を濁すことにした。だがそんな僕の心の中などお見通しだと言わんばかりに彼女はニヤッとあまりよろしくない笑みを浮かべてから笑いを噛み殺したようだった。

 

「用事ね、どんな用事か聞いてもいいけど……。まあうちの部屋の柿沼さんもさっき辻井が来て連れ出したし、そこで見崎さんと相部屋の桜木さんもさっき風見が連れて行ったよ。一緒に館内散歩とか考えてるんでしょ?」

 

 ああ、男とはどうしてこうも短絡的で行動を読まれやすい生き物だろうか、などと考えてしまった。風見君は無事桜木さんを連れ出せたようでよかったな、と思う一方、あまり話したことはないが辻井君と柿沼さんというペアは耳にしたことがなかったので少し驚いた。だがよく考えてみれば2人とも本を読んでいることが多い気がする。そういう意味で気が合うのだろう。……そういえばさっき推理小説のトリックに云々とか自分で思ったんだった。もしもミステリ小説が好きなら、こういう場所は是非とも歩きたいものなのだろう。

 そんな他人のことは置いておくにしろ、まずは自分のことだ。どう答えるものかと僕が悩んでいると「わかったよ」と言いたげに有田さんは手をひらひらと振って見せた。

 

「いいや、聞くまい。そんな野暮なことは聞かないでおこう。……見崎さんなら佐藤と渡辺の部屋に入っていくのを見たよ」

「佐藤さんと渡辺さん……?」

 

 えっと確か……見崎と同じ列の窓際の2人だったはずだ。あまり話したことはない。が、見崎は席が近いわけだから、もしかしたら仲が良くて会いに行った、とかだろうか。でもあの見崎に限ってそれがあるとも思えない。

 

「218号室だよ。そこの角曲がって3部屋目ぐらいだったと思う」

 

 ありがとう、と感謝の言葉を述べて僕は言われた部屋へ向かう。コの字型に作られたこの建物の端部分から中央部分へ。角を曲がって3つめ、確かに有田さんの言ったとおりそこが218号室だった。しかしノックしていきなり「見崎いますか?」というのも変な話だし、さあどうしようかと僕が若干迷っていた時。その部屋の扉が空いた。

 

「……榊原君?」

 

 そして部屋から出てこようとした女子生徒が僕の苗字を呼ぶ。それは紛れもなく見崎だった。

 

「あれ、榊原君どうしたの?」

「……その質問する? 見崎さんのお迎えに決まってるじゃない」

 

 長身でポニーテールな佐藤さんの質問に、大人びた印象でおでこが出てる髪形の渡辺さんは茶化し気味に返した。……というか、「その質問する?」とか言っておきながら本人を前に結局あなた言っちゃってるじゃないですか、と突っ込みを入れたい。とりあえず、2人の話は流すことにした。

 

「……見崎、なんでこの部屋に?」

「ちょっと……用事があって」

「用事?」

「私にね。びっくりしちゃった」

 

 そう言ったのは見崎の前の席の佐藤さんではなく渡辺さんの方だった。これは意外、彼女の言葉ではないが僕もびっくりだ。

 

「渡辺さんに用事、って……」

「榊原君、その呼び方はちょっと失礼かも」

「え……? 呼び方? 失礼?」

 

 見崎が何を言っているのかわからず首を傾げる。ややあって「……あ、そういうことか」と何かを察したらしく渡辺さんが声を上げた。

 

「もしかして私の名前のこと言ってるのかな」

「名前?」

「私の名前って『(さん)』だから。『渡辺さん』って言うと、実はフルネームを呼ばれてるのと同じになっちゃうのよ」

 

 なるほど……。じゃあどう呼べばいいのだろう。「渡辺珊さん」だろうか? 長い。

 

「……やっぱ見崎さん変わってて面白いわね。珊にサインもらいに来たってのも意外だったし」

「サイン?」

 

 あれ、渡辺さん有名人だっけ……? 勅使河原は何も言わなかったはずだ。実はアイドル、なんて話なら間違いなく奴はそういう話をするような人間なのだが……。

 

「実はさ、私ちょっと学外でバンド組んでてベースやってるんだ。それで見崎さんがさっき部屋に来て急にそのことを言い出してサイン欲しい、って。全然有名なバンドじゃないんだけどね。びっくりしちゃった」

「へえ……。そうなんだ。僕音楽はあんまり詳しくないけど、どんな感じのバンドなの?」

 

 僕の問いに答えず、渡辺さんは困ったような表情を浮かべ、視線を同室の佐藤さんの方に流した。それを受けて彼女も苦笑を浮かべつつ、答えを放棄した当人に代わって教えてくれた。

 

「……デスメタル」

 

 思わず、僕は固まる。さっき言ったとおり音楽に詳しいわけではない。だがデスメタル、と聞いてそれが何かわからないほどでもない。要するに彼女は、その大人っぽい外見に似つかわしくなく、と言っては失礼かもしれないが、非常に過激な音楽を演奏するバンドのベース、ということらしい。凄まじく意外である。

 

「あーあ、榊原君にも引かれちゃったか」

 

 やれやれと言わんばかりにオーバーリアクションで渡辺さんはショックを受けた、とアピールしてみせる。まずい、引いたというより意外すぎて反応できなかった、というのが正しい。

 

「あ、いや引いたとかじゃなくて……」

「でも意外でしょ? この話すると皆に驚かれるんだよね。だからあまり無闇に口外しないようにしてたんだけど……。それをまさか見崎さんが知ってるとは、こっちが驚いちゃったよ」

 

 そう言うと渡辺さんは誤魔化すように笑いつつ、頬を掻いてみせた。確かに彼女がデスメタルのベース、というのも意外だが、それを見崎が知っていたことも意外だ。

 

「とにかく、見崎さんの用事済んだみたいだから、榊原君に返すね」

「いや、返すって……」

「2人で館内でも歩くんでしょ? いってらっしゃい」

 

 渡辺さんと、さらに間髪入れずに佐藤さんに雪崩式に畳み掛けられ、僕は返す気力も失ってしまった。もう見崎も「用事は終わった」とばかりに部屋から完全に出ているし、まあいいかと思うことにする。「じゃあどうも、失礼しました」と一応挨拶を述べ、見崎の方を振り返った。

 

「……書いてもらった色紙、部屋に置いて来たいから、館内を歩くのは部屋に戻ってからでもいい?」

「全然。……でも見崎よく渡辺さんのこと知ってたね。しかもサインまでもらうなんて……。ライブとか行ったの? ファン?」

「頼まれたの。未咲にね」

 

 ミサキって君じゃない、と言おうと思ったところで彼女が言うミサキにようやく思い当たった。

 

「ああ、藤岡さんか。……彼女そういう音楽聞くんだ」

「結構過激なの聞くみたい。それで中高生のバンドが集まって演奏したイベントがあったらしくて。それに行った時にかっこいいと思ったバンドが、渡辺さんが所属するところだったんだって。ちょっと話して同じクラスだって言ったらサインもらってきて、って」

「聞く曲も意外だけど、それ以上にミーハーだってことも意外だ……。それにしても藤岡さん病み上がりじゃないっけ? そんなイベントとかまた無茶するなあ……」

「リハビリとか適当な理由つけて行ったらしいよ。まあ体に何もなかったし、いいんじゃない? ずっと病室にこもりっぱなしで、あの子も発散したかっただろうから」

 

 そうか、と僕は見崎に言われて初めて気づいた。確かに体のこともあるが、彼女はずっと病院にいたのだ。自分と同じ年頃の、それも明るい性格の活発そうな少女だ、それは自由に遊びたかったのだろう。そのことを気づける辺り、やっぱり藤岡さんは見崎にとっての「半身」なんだな、と改めて思う。

 しかしそれはそうとして、1回行ったイベントで見たバンドの人が見崎と同じクラスだからサインもらってきてくれと頼むというのは……。やはりミーハーだなあと思う。

 

「ちょっとサイン見せてもらえる?」

 

 そして渡辺さんがどんなサインを書いたのかも興味を引かれた。プロじゃないんだろうからそんなすごいものでは無いのだろうと甘く見ていたのだが……。

 無言で見崎から差し出された色紙を見て驚いた。なんて書いてあるかわからないが、おそらく英語で書かれたであろうバンド名と彼女の名前があるのはわかった。しかしこの字体を崩して書いている辺り、なんだがプロが書いたような、はっきり言ってかっこいい。これは絶対サインの練習しているだろう……。その下の方に「ミサキさんへ」と、ここだけ字体を崩さずに書かれていた。

 見崎が足を止める。気づけば彼女の部屋である223号室の前だった。

 

「すぐ戻ってくるから、ちょっと待ってて」

 

 そう言って彼女は手を差し出した。あ、と気づいて僕は色紙を渡す。それを受け取って部屋の中に入り、彼女は言葉通りすぐに出てきた。

 

「お待たせ。……それで、館内を歩くの?」

「まあ……珍しいからね。あまりこういうところ来たことないし。見崎がよければ、だけど……」

「……そうね。こういう雰囲気の建物は嫌いじゃないし悪くないかも、ね」

 

 よかった、どうやら一緒に歩いてくれそうだ。とはいえ、この建物はあくまで元々保養所だったのだから、見て回るようなところはそんなにないかもしれないが。

 そんな僕の考えなど知ったことではない、と見崎は「行きましょ」と先を歩き始める。一応誘ったのは僕なんだけど……。というか、

 

「見崎、鍵いいの?」

 

 と、疑問が僕の口を次いで出た。まあ言ってる自分もかけてはいないのだが、女子の場合もう少しセキュリティに気を遣ったほうが良いような気もする。

 

「いいの。桜木さんも別にいいって言ってたし」

 

 無用心な気がしないでもないが……。まあ本人達が良いと言っているのだし言及しないでおこう。

 

「それで、どう歩くの?」

「2階は全部客室だろうから……。あ、多目的室があるのか」

 

 手に持ったしおりに目を落としつつ、僕はそう呟いた。丁度角部屋の比較的広いスペースが多目的室となっていて、2階の左右に1つずつ存在している。ここからならすぐ目と鼻の先だ。

 

「鍵かかってたよ。使うときは許可がいるんじゃないかな」

 

 が、既に見崎が調べていたらしい。すぐそこなので実際歩いてノブを回してみるが、やはり閉まっている。

 

「ほんとに閉まってるね。じゃああまり見るところないかな」

「中央階段の反対側にバルコニーがあったかも」

 

 しおりを再度眺めて、確かにバルコニーという文字を確認した。さすが「こういう雰囲気の建物は嫌いじゃない」というだけあってよく見ているようだ。とりあえずそこを目指してみよう。

 来た道を引き返す形で角を曲がる。女子の部屋が並ぶ客室の扉を左手に廊下を進み、フロント部分に出る。バルコニーを見ようとしたが、その手前、置いてあるソファーに金木さんと松井さんが座って話している様子が目に入ってきた。この2人本当に仲がいいな……。でも確か同室だったはずだから、ここで話さなくても、と思ってしまう。

 ともあれバルコニーはどんなかな、と視線を移し、そこに行くのは無理だということを悟った。バルコニーには既に先客がいる。風見君と桜木さんだった。……彼は先週一緒に海に行ってからなんだか吹っ切れたような気がする。もしかすると桜木さんと一緒だった帰りの車で何かあったのかもしれないけど……。それを知ってるとしたら勅使河原だろう。が、僕が聞いたとなるとやぶ蛇になりかねない。まあ僕としては「頑張れ少年」と応援するしかないわけだ。

 

「バルコニー、先客がいるみたいだから先に1階を見て回らない?」

「……なんで?」

 

 なんで、と来た。彼女からも2人がいるのは見えているはずだ。もっとも、その辺り気を遣うということが出来ないというかわからなそうなのが見崎と言ってしまえばそれまでではあるが。

 

「今風見君と桜木さんがいるじゃない。邪魔しちゃ無粋だと思うけど」

 

 ふうん、とだけ彼女は答えた。やはり、というか理解しきっているわけではない様子だ。

 

「……まあいいよ。榊原君に任せる」

 

 それは助かるよ、と僕は肩をすくめた。そして見崎と2人、並んでフロントの中央階段を降りる。こういう大階段を降りていると、なんだかおとぎ話の類のお城の立派な階段を降りているような感覚を覚えるな、なんて思ってしまう。しかも傍らには見崎。シチュエーションとしてはありなのかな、とか邪な考えも浮かんできてしまった。……いかん、こんな浮ついているところを勅使河原にでも見られたらそれこそからかわれかねない。せめて表情が緩まないようにだけは気をつけておこう。

 階段を降り、まずは左手側へ。広い間隔で扉が2つある部屋だが、しおりによると食堂らしい。まだ食事の時間には早いが、中の様子を見てみたいとノブに手をかける。しかしどうやらまだ鍵がかかっているようだった。残念。

 

「ここは?」

「食堂だって。でも鍵がかかってるみたい」

「蹴破ったりしないの?」

 

 そこでそんなことを言い出した見崎に思わずため息がこぼれる。もしやったとしたら僕は怒られることになるじゃないか。非常時ならまだしも、今はそういう時ではないだろう。が、諦めて先に行こうとする僕と対照的に、彼女はまだ鍵穴をじっと覗いてその場から動こうとしなかった。

 

「そこは夕食の時に入れるから、その時に見ればいいんじゃない?」

「……榊原君、ヘアピンとか持ってない? 開けられる気がする」

 

 再び、僕は深くため息をこぼした。まったくこの子は普段どんな漫画を読んでるのか、それともドラマを見てるのか。その場を離れようとしない見崎に痺れを切らせ、僕は腕を掴んで引き摺るようにそこから連れ出すことにした。

 

「だから夕食の時に見ればいいじゃない」

「……つまんない」

 

 不満そうな見崎の声が聞こえたが、ここは流させてもらう。しおりによるとその隣が厨房。ここは覗くわけにはいかないだろう。作業の邪魔をしては悪い。が、それを知らない見崎は当たり前とばかりに僕に尋ねてきた。

 

「ここはいいの?」

「ここは厨房だって。入ると邪魔になるから」

「でも料理をする身としては気になるんじゃないの?」

「そりゃなるけど……。でも邪魔しちゃ悪いよ。もし入るなら、後で千曳先生辺りに了解を取ってからかな」

 

 僕としては至極真っ当な言い分を述べたつもりだった。しかし見崎はやはりご不満らしく、相変わらず面白くなさそうな表情で「つまんない」と再び呟いた。

 

「そう言わないで。……って、ここが非常口、あとそこの角を曲がったら客室と非常階段があるだけか……」

 

 これでは見崎じゃなくても「つまんない」という感想が出てきてしまうだろう。結局こっち側は見るところがなかったということになる。非常口は鍵の部分にカバーが付いているのを見ると本当に非常時以外は開けないほうがいいだろう。そう思いつつ非常扉に近づいた時。その角の右手奥、階段があるはずのところから男女1組の生徒が現れたのが見えた。そこでまだ見崎の腕を掴んだままだったと気づき、慌てて離す。

 

「あ……。や、やあ、榊原君」

 

 戸惑った様子で声をかけてきたのは僕とあまり面識のない辻井君だった。その後ろには眼鏡に三つ編みのいかにも文学少女、という佇まいの柿沼さんがいたのだが、らしくなくなにやらメモ帳のような物に何かを書き込みながら辺りを真剣に見渡している。よく見ると2人とも眼鏡のコンビ、それにそういえば読書仲間だったか、さっきの有田さんの話と合わせて思い出した。

 

「榊原君も館内探検?」

「まあ……。そんなところかな。辻井君も?」

「うん、こっちもそんなところなんだけど……」

「……そこの非常扉は、開けられない?」

 

 不意に、僕達の会話に柿沼さんが割り込んできた。あまりに急だったので一瞬戸惑ったが、すぐ「ああ、うん」と返事を返す。

 

「鍵のところにカバーがかかってるから、本当に非常以外は開けないほうがよさそう」

「そう。……しおりによるとそこは裏庭の手前に繋がってるわけだから……。まあいいか」

 

 そんな風に言いつつも、彼女は非常扉のドアノブに手をかけ、やはり開かないことを確認してからその扉を触ってみたり叩いてみたりしている。

 

「……何してるの?」

「彼女、こういう古い建物に非常に関心があるらしくて、テンション上がっちゃったみたいでさ。いいネタが思いつきそうってちょっと一緒に歩くことになったんだ。まあ僕も興味あるし」

 

 熱心にメモを取る柿沼さんの代わりに辻井君が答えてくれた。

 

「ネタ、って……。ミステリとか? 書くの?」

「僕も彼女も、趣味でちょっとね。ちなみにミステリは僕の担当。確かにこういう推理小説にもってこいな建物は興味深いよ。ただ彼女の担当はどっちかっていうと……ホラーかな」

「ホラー!?」

 

 それは非常に意外だ。彼女は文学とか史書とかそういう類を読むものだと、あってもせいぜいミステリーだろう、と勝手に思い込んでいた。……ああ、ホラー好きなら1人いい人(・・・)を思い出した。今度紹介しようかな。

 

「……この分厚い鉄の扉をいとも容易くこじ開けるなり引き裂くなりして侵入してくる怪人とか、想像しただけで面白いと思わない?」

 

 コンコンと扉を叩きながら柿沼さんはそう言った。それは……。ちょっと興味を引かれるかも……。だが今の発言はいかにも文学少女という風貌の彼女からのギャップが凄まじい。そしてそれに同意してしまうとまた誰かさんに「やっぱりホラー少年だ」とか言われそうなので、あまり考えないようにした。

 

「あとは厨房と食堂……。多分覗くのは無理だよね」

「食堂は鍵がかかってたよ。厨房は確認しなかったけど、作業の邪魔しちゃ悪いから……」

「ありがと。じゃあ一通り回った、と。……辻井君、207号室だよね? 部屋行っていい?」

「へ!? な、なんで……」

「私の部屋、ベランダがないの。ある部屋を見ておきたい」

 

 そういうことか、と辻井君は呟きながらため息をこぼして柿沼さんの懇願を受諾した。しかし今のため息は……安堵なのか失望なのかはちょっと興味をそそられる。

 

「じゃあ今来た階段から戻ろう」

 

 一方的にそうまとめ、彼女は僕達に背を向けた。辻井君も「まあそういうことで……」と困った様子で彼女に続く。それにしてもメモまで取るとは、柿沼さんは随分とこの建物に執着のご様子だ。

 

「……変わってるね」

 

 そして2人が見えなくなってからポツリと呟かれた見崎の感想に一旦同意しかけて、いやそれを君が言うかと思いなおした。しかし言っている事はごもっともだ。さすが「変わり者の多い3年3組」と呼ばれるだけの事はある。

 

「それで、2人の後を追って階段上がる?」

「反対側も見てからがいいかな。自販機、ってあるし、飲み物のラインナップと価格は調べてみたいかな」

「……榊原君も十分変わってる」

 

 それ以上に変わってる君に言われたくないよ、と心の中で返した。それに自販機のところには「談話スペース」なる記述がある。多分2階にあったようなソファが置いてあるだけだろうが、この建物で客室と食堂以外で変わってそうな場所と言ったらそこと2階のバルコニーぐらいなものだろう。まあもともと保養所だったわけだから仕方がないといえばそうだが。

 あまり期待はできないな、と思いつつ僕達は来た道を引き返して1階の反対側へと向かうことにした。

 




誰得モブ回。
今回名前を出したクラスメイトは佐藤さん以外は全員原作アニメの合宿に参加してます。公式にあるような座席表を見てもらうと名前と顔一致すると思いますが、合宿時の特徴をちょっと紹介。若干ネタバレあるかも。
・有田松子……キャミソール着てた女子。これで名前の読みが「しょうこ」。
・佐藤和江……合宿不参加。長身ポニーテール、見崎の前の席。
・渡辺珊……最後逃げようとしてシャンデリアの下敷きになった人。でも助かったらしい。ちなみにデスメタルのベースは驚愕の公式設定。CVの明坂聡美さんにデスヴォイスで1曲お願いしたいところ。
・金木杏子、松井亜紀……廊下側の席の百合カップル。先に刺されたのが金木、助けを求めてきたところで刺されたのが松井。
・辻井雪人……モップ持ってた人。その後シャンデリアの下敷きになるが逃げ延びた。
・柿沼小百合……渡辺、辻井同様にシャンデリアの下敷きになりつつ生き残った人。三つ編み眼鏡。CV南條愛乃さんをもう少し有効活用してもらいたかった。

それから挿絵機能を使って館内見取り図を載せてみました。制作時間ペイントで2時間ぐらい、公式設定資料集から多少いじってあります。
客室の設定に「ユニットバス」という表記があったので、いわゆるトイレ・洗面台・風呂の三点ユニットが各部屋についているものと考えました。そのためにトイレもっと少なくていいだろうと考え、公式設定では2階でトイレになっている部分を削って多目的室に変えてあります。その方が施設として使いやすそうですし。
また、自販機の脇を談話スペースとし、非常階段扱いの両端の階段を普通の階段としてあります。

ついでに参加人数を変えたことで部屋割りをアニメから大きく変更してあります。蛇足的ですが一応設定としては以下の通りを考えました。見取り図に乗せる余裕なかったのでここに。

101:久保寺 102:千曳 110:三神
202:榊原・望月(部屋まで含めてアニメ版以外の原作通り、アニメだと恒一1人部屋で望月が203) 205:王子・猿田(アニメ版通り) 206:前島・川掘(アニメ版通り) 207:水野・辻井(座席前後、仲良さそう) 208:中尾・米村(座席前後) 210:高林・和久井(持病持ちコンビ) 212:勅使河原・風見(腐れ縁)
213:赤沢・杉浦(言わずもがな) 215:綾野・小椋(演劇部コンビ) 216:金木・松井(アニメ版通り) 218:佐藤・渡辺(席近い、仲良さそう) 219:中島・多々良(原作セリフなしコンビ、仲良さそう) 220:江藤・藤巻(運動部繋がり) 221:有田・柿沼(アニメ版通り) 223:見崎・桜木(部屋はアニメと同じ、組み合わせは半ば消去法的に)

以上、本編以上に完全に誰得な長い後書きとなってしまってすみません。


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#23

 

 

 

 中央の大階段の下は物置となっていて通り抜けは出来ない。迂回して大階段の前を通る。立派ではあるが落ちてきたら怖いだろうなというシャンデリアを見上げつつ、正面から見た場合の左側へと足を進めた。

 こっち側はまず事務室、隣接して管理人室と僕達は入れない、というか直接的に関係のない部屋が続く。その隣のオープンな場所が談話スペースとなっている。

 案の定、というか、そこは既に数人に占拠されていた。自販機は2台、その前に数人が座れるソファが背中合わせで2つずつ置いてある。そこに座っているのは猿田君、王子君の吹奏楽部コンビに同じく吹奏楽部の多々良さん。さらにその多々良さんの前の席である藤巻さんと、運動部繋がりで軟式テニス部である藤巻さんの同室の水泳部の江藤さんの5人だった。

 

「お、またペアぞな」

 

 独特な口調で茶化し気味に言ってきたのは猿田君だった。そう言ってる君達も男女一緒にいるじゃないか、と返したいが不毛なことになりそうなのでやめておくことにする。

 

「また、ってことは何人か通ってるの?」

「辻井柿沼に中尾杉浦。三神先生と望月も入れちゃっていいのかな?」

 

 茶髪気味の、東京にいたころはそこそこ見ていたような「いかにもイマドキの女子」という雰囲気の藤巻さんが指を折って数える。風見桜木ペアはこの前を通過していないのか。

 まあとりあえずその話はほどほどにして僕は2台ある自販機のラインナップを見る。……こういう古い建物だから古い自販機、かと思ったら街中で見るものと対した変わらないものが、別メーカーで2台あるだけだった。大抵ホテルの自販機というものは少し値段が高めな気がするのだが、それが据え置きというだけでも善意を感じる。

 

「榊原君も柿沼さんと一緒でネタ探しか何かかい?」

 

 僕があまりにしげしげと自販機を眺めていたからだろうか。不意に王子君がそんな風に尋ねてきた。

 

「そういうのじゃないよ。古びた建物だし、置いてある物も変わってるのかなと思って見てただけ」

「ああ、そういうことか。随分熱心だったから同じ趣味を持っているのか、あるいは自販機マニアか何かだと思ったよ」

 

 何だ、自販機マニアって……。少なくとも僕はそういう趣味は持ち合わせていない。

 それにしてもやはり、というか、談話スペースと銘打たれた場所は自販機と申し訳程度にソファ、それからついたてで仕切られた形で公衆電話が2台あるだけだった。本当の意味での合宿向けの施設、ということになるのだろう。

 

「何もないでしょ、ここ。部活の合宿場所としてお世話になってて、その点ではいい場所だけど……。そういう目的がない場合、遊ぶものがないと退屈になる場所なのよね」

 

 と、自慢の長い黒髪をひと撫でしつつ多々良さん。そういえば吹奏楽部はここを合宿場所に使っているという話だったか。道理で詳しいわけだ。

 

「ま、一応対策としてトランプを持ってきてるから、暇で暇で困った時は一声かけてほしいぞな」

 

 そう言って猿田君は屈託の無い笑みを向けてきた。無いとは思うが、もしものことを考えて「その時はよろしく」と一応返事を返しておくことにした。

 

「榊原君、先行こう」

 

 そこで見崎にそう促された。確かにまだバルコニーに行っていない。先生達の部屋にある方の階段から上に行くかと考え、「じゃあもうちょっと見て回るから」と言い残し、僕はその場を離れることにした。

 そうして談話スペースから離れて角を曲がった辺りだった。それまで僕を引っ張るように歩いていた見崎が速度を緩め、ため息をこぼしたのがわかった。

 

「……愉快な人達だとは思うけど、疲れる」

「思っててもそれは口に出しちゃダメだよ。特に本人達の前じゃ」

 

 まあ見崎の気持ちもわからないでもない。彼女は静かな場所を好む傾向があるようだし、人付き合いも得意な方ではないだろう。とはいえ、心配して声をかけてきてくれてるわけだからそれを無下に扱うのもあまりよろしくないとも思うわけだが。

 

「そこの階段から上に行くと、榊原君の部屋の近くに出るんだよね」

「えっと……。しおりの見取り図によるとそうだね」

 

 今僕達がいる付近の角部屋が客室の中で1番大きな106号室。おそらくここは4人ぐらい入れるのだろう。このまままっすぐ進んで千曳先生の102号室と久保寺先生の101号室を過ぎれば階段があるはずだ。そこを目指そうと足を進め、102号室の前を過ぎようとした時だった。

 

「……ああ! なぜ私の愛は届かぬというのか! どれほどまでに請おうと、祈ろうと、我が願いが叶わぬというのなら……。私は絶望と共にこの手を血で染め、そしてあの方の愛でそれを洗い流そう!」

 

 突然、部屋の中からそんな声が聞こえてきて、思わず僕と見崎は身をすくめて足を止めた。今の声は赤沢さんのはずだ。はず、というのは、普段の彼女の声以上に張った凛々しいものだったために一瞬わからなかったのだ。次いで今度は聞き取れないが、何かあれこれと言っているような男の人の声が聞こえてくる。

 

「……そっか。ここが千曳先生の部屋、ってことは演劇部の練習してるのね」

 

 見崎にそう言われてなるほどと納得した。そういえば海に行った時に車の中で聞いた話だと、「叶わぬ恋と嫉妬に狂って王子に刃を向ける騎士の物語」とかだったはずだ。今のセリフから察するに大詰めの辺りの部分だろう。それにしても……。

 

「赤沢さんすごいな……。普段と別人みたい」

「文化祭の演劇部、毎年面白いよ。赤沢さんの演技もとても上手だし」

「桜木さんもそう言ってたかな。ちょっと聞いただけだけど、今のでなんとなく納得できたよ」

 

 同時に、さっき談話スペースで中尾君と杉浦さんが一緒に歩いていた、と聞いたのを思い出した。仲が良い赤沢さん達演劇部の面々がこの部屋で練習しているとなると杉浦さんは1人だったかもしれないわけで、そこで中尾君が声をかけて一緒に歩くというのは普段の顔ぶれから演劇部を抜いた場合としてもなんらおかしくはないのだろう。……というのは建前としても十分に成り立つ。本当のところは……本人たちのみぞ知る、と言ったところか。

 

「……上行こう。なんだか練習を盗み聞きしてるみたいであんまり良い気分じゃないかも」

 

 同感。それにストーリーも楽しみにしているのだから、それを知ってしまってはやはり文化祭での面白みも減ってしまうだろう。見崎と並んで、そのまま階段の方へと向かうことにした。

 

 両脇の階段は中央階段と違い、あくまで補助的な役割らしい。階段の幅も人2人が通れる程度で、この館の入り口を入ってすぐ目にするそれと比べると半分以下のサイズでしかなかった。それでも中央階段に遠い角を曲がってからの客室の住人にとって助かることは間違いない。あまり考えたくないが、もし火災が起きた場合、いち早く1階に逃げるには僕や見崎はこの両脇にある階段を使った方が早いのは確実だろう。

 そんなことを考えながら階段を上り切ると、確かにそこは201号室だった。僕が割り当てられた202号室の前を素通りし、角を曲がって男子の部屋の入り口を右手に歩く。フロント部分の吹き抜けに出ると、まだ先ほどのソファで金木さんと松井さんは話しているようだった。が、バルコニーには誰もいなかった。運がいい。今度こそ行きたかった場所に行けるなと思いつつ、僕は外の空気の元へと出る。

 しかし、少し残念なことに思ったよりもバルコニーは手狭だった。あと2人も来たら結構な人口密度になりそうな程度の広さしかない。まああくまで外の空気を取り入れるために窓を作って、ついでに入り口上のスペースを有効活用しようという感じの場所なのだろう。多分。

 

「あんまり広くないね」

 

 少し遅れて出てきながら、見崎も僕と同じ感想を抱いたようだった。ただ、そのすぐ後に「まあこのぐらいの方が落ち着く雰囲気だけど」と、彼女としてはこのぐらいのスペースでも好印象らしかったが。

 ここからは中庭と入ってきた門がよく見える。眺めとしてはなかなかいい。今は夏場なので外の空気は少し暑いが、ここは丁度日陰になることもあって不快なほどではない。元はどこかの企業の保養所、ということはお酒を飲んだ後ここで夕涼みなんてこともあったのかもしれない。とはいえ、酔った状態で足元がおぼつかないのではここから落ちる可能性も否定できないわけで、いくらここが2階とはいえど落ち方が悪ければ大怪我や命に関わる場合もあるだろう。……まあどの道飲酒年齢に達していない僕が今考えても詮無いことではある。

 と、そんなことを考えながら視線を彷徨わせると、中庭を歩く1組の男女を見つけた。見れば望月と三神先生。やはり部屋を出た後、彼は110号室に直行したらしい。池、と呼ぶには少々小さい気もする水溜りの前で何やら話をしている。池と建物をバックにデッサンしたら面白そう、とか話しているのだろうか。

 そこでそういえば、とふと思い出した。先週の海の時に美術部のOBOGと話した内容。まだ見崎には言っていなかった。

 

「ねえ見崎」

「何?」

「もし僕が夏休み明けに美術部に入る、って言ったら、見崎は、その……嬉しい?」

「……榊原君、美術部に入るの?」

「まだ未定。だけど先週海に行ったときにちょっとそういう話が出て。なんだか文化祭に間に合うように作品展示さえ出来るなら問題ない、みたいな話も聞いたからどうするか迷ってて」

 

 だが僕の期待した反応とは異なり、見崎は特に喜ぶでもなく、ただ「ふうん」と相槌を打っただけだった。ちょっと反応が薄かったことに……まあショックといえばショックだ。

 

「入部したとして、作品の予定あるの? 何か制作? 粘土辺り?」

「あ、やっぱりそれ部内で慣習化してるの?」

「短期間で出来るから、困ったらそれっていうのは半ば伝統っていうか、逃げ道みたいにはなってる」

 

 やはり15年ぐらい前からその風習は変わってないらしい。いや、ひょっとしたらその話をした当人の松永さんが作り出した風習なのかもしれないが。

 

「見崎はどうしてるの? 絵描いてるんだっけ?」

「油絵。……でも夏休み明けてからじゃ絶対間に合わないよ」

「だよね。まあまだ考え中だし、入るってなってもおとなしく伝統に則って粘土細工辺りにするつもりだけど。ただ、美術関係に興味はあるし、もし可能なら何かちょっと制作してみたいって気はあったからさ」

「そう」

 

 またしても薄い反応。別に彼女目的で入部したい、と言っているわけでは無いのだが……。それが理由の何パーセントかを占めていることは否定できないわけで。それに対してこうも微妙な返事が続くと、前向きに考えていた気持ちが少しげんなりしてしまうのは否めなかった。

 

「……館内歩き終わったし、そろそろ部屋に戻ってもいい?」

 

 そして追い打ちをかけるように彼女はそう切り出した。元々見崎は静かな場所で1人でいることを好むことが多い。そんな彼女を連れまわしたのだから半ば無理を聞いてもらった、と言っても過言ではないだろう。となれば、そこで「ダメ」とは言えず、僕は「まあ歩き回ったもんね……」と適当なことを言ってお茶を濁すことしか出来なかった。

 じゃあまた後で、と言い残して見崎がバルコニーから去ろうとする。ああ勅使河原よ、お前の気持ちが少しわかった。本当にお前という奴は打たれ強いんだな、なんてことを考えてため息をこぼしつつ、中庭を何気なく眺めることにした。

 が、遠ざかった気配が止まった。それに気づき、僕は思わず一旦外に向けていた顔を館の方へと戻す。その察知した気配は間違っていなかったと証明するかのように、見崎は顔こそこっちを向けていなかったがまだその場で足を止めていた。

 

「……さっきの、美術部の話だけど。強要するつもりはないけど、榊原君が入部してくれるなら、私としては嬉しい……かな」

 

 ポツリとそう言い残し、今度こそ見崎は館内へと戻って行った。やや面食らった形となり、僕は彼女の姿が客室の方に消えていくまで呆然と見続けることしか出来なかったが、その姿が消えてから思わず再びため息をこぼしていた。

 ……今のはずるい(・・・)ですよ、見崎さん。一見まったく興味なさそうに振舞っておいて、去り際にその一言。本人としては意図的にやったわけでは無いのだろうが、人間というものは一旦ないと諦めかけた物があった時というのは、嬉しさを倍増して感じるんじゃないかと思っている。

 これは後で部屋に戻ってきた望月に相談するしかないようだ。彼女にそう言われてしまった以上、僕としてはこの案件は前向きに検討せざるを得ないのだから。

 

 

 

 

 

 これまで述べてきている通り、咲谷記念館は地元企業の保養所だったところを、夜見北に寄贈された施設だ。だが、保養所というのはホテルとはノットイコールだ。……いや、今現在僕の心の中でその断定系は「はずだ」という推論が入る形に弱まっている。と、いうのも……。

 

「すげえ、なんだこのハンバーグ! めちゃうめえ!」

 

 勅使河原が発したその一言に尽きる。この料理の味はその辺のお店のレベルを遥かに越えている。それこそ、どこかの高級ホテルの夕食のハンバーグと間違えるほどだ、とまで言ってしまっても過言ではない。事実、僕と彼だけの舌がおかしいことでないのは他のクラスメイトのざわめきにも似た「おいしい」と聞こえてくる感想からも裏付けされているだろう。

 

 今は夕食の時間である。大抵こういうところの食事というものははっきり言ってしまえばあまり期待は出来ない。配膳されたメニューを見たときに僕の中でその気持ちはより強くなった。洋風ということらしく、プレートに盛られたご飯とメインがハンバーグ、そこに付け合わせとしてフライドポテトと人参グラッセ、茹でたブロッコリー。さらにサイズは小さいがエビマカロニグラタンも付け合せに並んで鎮座していた。それからグリーンサラダにスープ。ほぼお約束といってもいいメニューだな、と失礼ながら僕は見た瞬間には思った。ただ少し違うとすれば、スープがどうやら冷製スープらしい、ということだった。大抵このラインナップならコンソメスープ辺りが無難というか妥当というか、作る側としては面倒ではないだろう。しかし冷房が効いているとはいえ暑いこの季節に暖かいスープではなく冷たいスープを選んだという点は僕の中で評価が高かったというか、どちらかというと違和感の方が強かった。冷製というのは冷ますというだけでも何気に手間がかかる。それをわざわざ選択したということが、はてと心の中で引っかかっていた。

 

 そしてメインのハンバーグを一口食べた瞬間、その違和感は間違いなかったと確信したのだった。これは勅使河原じゃなくても冗談抜きでうまいと思う。元々の肉の品質、焼き方、捏ね方、おそらくその辺りも素晴らしいのだろうが、何よりこのハンバーグを「ホテル級」とまで思い込ませた所以(ゆえん)は、かかっているデミグラスソースだ。これは素人はおろか、失礼かもしれないがその辺りのファミレス程度では到底真似できない。このソースがハンバーグを噛み締めた時に溢れる肉汁と、肉本来の味を殺していない絶妙の焼き具合と捏ね具合に合わさることによって、まさにプロ級の味を演出している。これは尋常ではない。

 

「喜んでいただけたようで光栄だ」

 

 そう言ったのは食堂と厨房を結ぶ扉から出てきた千曳先生だった。さすがにコック帽こそ被ってはいなかったが、長い髪を後ろで1つにまとめ、服の上にエプロンを着けている。そういえば料理が趣味とか言っていたはず。ということはこれを作ったのはこの人ということになるのだろうか。

 

「特にソースは前乗りした一昨日から仕込んである。……さすが本格的な調理設備のある施設は違う。私の家では長時間ソースを仕込むのは難しいが、ここなら遠慮なく長時間、材料もふんだんに使って作ることが出来るからね。肉の方も知り合いに頼んでいい肉を仕入れて挽かせてもらっている。それから暑いだろうからスープは冷製にしてみた。こっちもそれなりに手はかかっているから、おいしいと思ってもらえると嬉しいね」

 

 無愛想にそう述べた千曳先生だったが、なんだか普段よりどこか得意気な表情だった。かく言う僕も自分で作った料理を見崎に「おいしい」と言われた時は嬉しかったし。ちなみに勧められた冷製スープはじゃがいもをベースにその他の野菜も使ったポタージュらしい。これがまたおいしい。これだけの人数分を作るのは骨であろうに、丁寧に作られている感じがスープを通して伝わってくる。やはりそのうちコツなどを聞かねばなるまい。

 

「確かに部活の合宿の時にちょっと夕食作りに手を貸したって話は聞くことがあったけど……。本格的にやるとここまでだとは想像してなかったわ……」

 

 そう呟いたのは同じテーブルの赤沢さんである。部屋が同じ望月と食堂までは一緒に来たのだが、夕食のテーブルは自由、ということで言うまでもなく彼は僕と同じテーブルには着かなかった。さてどうしたものかと僕が考えるより早く、既に部活の練習は終えていたのだろう、赤沢さんが杉浦さんと中尾君を連れて僕を同じテーブルに誘ったのだった。まだ見崎は来ていなかったし、そこで彼女の誘いを無下にするのもなんだか気が引けたので今同じテーブル、ということになっている。

 

「料理をする榊原君からみてこの味はどうなの? やっぱりおいしい?」

「それはもう。このソースは数日かけて仕込まないと多分出来ないよ」

「泉美の場合、聞かなくても専属料理人の作る料理の味と比較してわかるんじゃないの?」

「いるわけないでしょ、そんなの! ……まったく人のことを何だと思ってるの?」

「お嬢様でしょ」

「俺もてっきり赤沢さん家にならいると思ってたんだが……」

 

 杉浦さんと中尾君にそう畳み掛けられ、思わず赤沢さんは押し黙った。次いでポツリと「……いたらもっと腕前上達してるわよ」と呟くのが聞こえる。

 

「……まだ諦めてなかったのね」

 

 そういえばそんな話もあった、とその話になって思い出した。つまり僕も忘れていたわけで、てっきりもう諦めたか立ち消えになったと思っていた。今の杉浦さんの一言じゃないがまだ諦めていなかったのかとも思う。得手不得手は人によってあるわけだし、そうじゃなくても赤沢さんは頭が良いうえに、噂話と盗み聞きから演劇の方もかなりすごいとわかる。あれもこれも出来てしまったのでは天は二物どころか三も四も与えているということになってしまう。

 ……まあそうは思ったが、下手なことを言って刺激するのもよろしくないだろう。沈黙は金だ。僕は余計なことは口にせず、黙ってこの料理の味を堪能しようと思った。

 

「ちなみに明日の夜の献立はビーフシチューの予定だ。もう仕込み終わっているから、これから1日寝かせることになる。明日の登山と清掃で腹を空かせておいてもらいたいところだ」

 

 千曳先生がそう言い終えたところで、おお、と生徒達から歓声が上がる。今日のハンバーグがこれだけおいしいのだから、明日のビーフシチューも期待できる、ということだろう。事実僕も楽しみだ。

 

「さあさあ、皆育ち盛りなんだからどんどん食べてくださいね。ご飯のおかわりも用意してありますから」

 

 そう言って管理人の妻の方が食堂隅の机に大きな炊飯ジャーを置いた。確かにこれだけおいしいおかずならご飯も進みそうだ。

 

「ハンバーグのおかわりはないんすか!?」

「残念だがそれはない」

 

 そこで調子に乗った勅使河原だったが、あっさりと退けられた。まあおかわりはなくても、ソースをなんとか手軽に作れないか、暇を見つけたら後で聞いてみたいとは思う。とにかく、食事は間違いなく豪華な合宿だなと思うのだった。

 

 

 

 

 

 食後は再び自由時間だった。さすがに外は暗くなっており、出来るだけ館内で過ごすように先生に言われたこともあって、館内は先ほど歩き回ったときより明らかに人の気配が多くなっていた。望月も今度は出歩かずに部屋にいるようだったので、かねてから考えていた美術部入部の件を相談してみることにした。彼も海に行ったときにちょっと話したこのことを頭に入れていてくれたのか、さっき2人で歩いているときに少し話題に上がったらしい。望月も三神先生も特に問題ないだろうという見解らしく、男子は少ないから短期間でも是非、と言われた。元々前向きに検討していて段々と心は入部の方に決まりつつあったので、これはありがたいと思う。

 そこまではよかった。その辺りまでを望月と話したところで、ノックもなしに部屋に乱入者が現れた。その男の名はトラブルメーカーの勅使河原。奴は入ってくるなり青ざめた表情で「ああ、やべえ、やっちまった……」などと呟いて肩を落としている。

 

「何、どうしたの?」

 

 こんな様子のこの男は珍しい。何か本当にまずいことでもやってしまったのかと思い、心配してそう尋ねたのだが――。

 

「赤沢に致命的に勘違いされちまった……」

「勘違い?」

「俺はあいつをダメ元でバルコニーにでも誘おうと思っただけなんだよ。それであいつの部屋の前まで行ったところで、ちょうどあいつと出くわして……」

 

 ああ、心配して損した、とちょっと思ってしまった。部屋の前まで行った、確実にそう言った。つまりこの男はあろうことか2階の右側、つまり女子の部屋の方に行ったということになる。日が昇っているうちはまだいいかもしれないが、さすがに夜のこの時間に女子側に行くということはなんだかあまりいい気分ではないというか、下心があるようで気が引ける。だから部屋でおとなしく望月といたわけだが、それをまったく考えずに勅使河原は特攻したらしい。

 

「で、誘えたの?」

「それどころじゃねえよ! あいつ、俺を見るなり『なんであんたが女子の部屋側にいるのよ』とか『部屋覗くつもりだったんでしょ』とか、あることないこと散々ぶつけてきやがって……。今日のはやべえ、マジでやべえよ……」

 

 自業自得だろ、と言いたかったが、ここまで落ち込んでるこいつにさらに冷たい言葉を浴びせるのはなんだかかわいそうだった。望月と目で合図し、仕方ないと励ますことにする。

 

「大丈夫だよ、きっと。赤沢さんもそんなに根に持たないと思うし。相手が勅使河原君ならいつものことだと思って多分明日には忘れてるよ」

「望月……全然フォローになってない……」

 

 僕達のこんなやりとりにもこの男は何も返してこない。これは相当に重症だ。とりあえず「あんま気にすんなって」とか、「赤沢さんもそんな気にしてないと思うよ」とか適当にフォローを入れるが、効果が薄いらしい。部屋の壁を背に体育座りという実にこの男らしくないへこみ方をしている。

 どうしたものかと困っていたところで、ようやく助け舟が現れた。勅使河原と同じ部屋の風見君だ。一応事情を説明したのだが、「いつものことだし自業自得だからいいよ。寝れば忘れるのがこいつだし。迷惑かけてごめんね」と一方的に引き摺って部屋を後にしたのだった。

 

 それで完全に調子を狂わされてしまった。望月にはまだ相談したいことがあったのだが、もうそういう気分ではなかった。段々と消灯時間も近づいてきていたし、交代で入浴を済ませ、明日の山登りに備えてその日は消灯時間にはもうベッドに入ることにした。

 

 が、少々気合を入れすぎたらしい。朝食後、出発まで随分と時間に余裕があると思ったら、夜見山神社の方は30分もしないうちにその前を通過、その後も山登りというよりはハイキング気分で、辛い道などほとんどなかった。そして1時間程度で山頂へ到着。確かに祖母に言われたとおり見晴らしは非常にいい。夕暮れに染まる町並みをここから眺めたらさぞかし素晴らしい景色だろう。

 時間としては少し早いが、そこでお昼ということになった。お弁当はやはり千曳先生が手を加えたらしく、非常においしかった。いっそ小料理屋とか開いた方がいいんじゃないかと思う。いい景色を背景に写真を撮る人もいたようで、しばらく食休みをしてから来た道を引き返すこととなった。

 

 夜見山神社まで降りて戻ると、既に千曳先生が待機していた。「文化財を大切にすべきという久保寺先生の考えには全くもって同意だからね」ということらしい。夜見山神社はこの街の名前がついているというのに、思ったより小さい。が、境内の中は手入れが行き届いているとは言いがたく、やはり合宿前に先生が言ったとおり「市もまともに管理してない」という状況らしい。暑い中での作業は大変ではあったが、クラス全員ということが幸いしてさほど時間がかからずに作業を終えることが出来た。

 

 結論から言ってしまえば、その後は特に何も無かった、というところだろう。夜のビーフシチューは思わず部屋全体からため息がこぼれるほどに美味であったし、食後は時間という万能薬によって復帰した勅使河原が中心となってあまり話したこと無いようなクラスメイトとカードゲームに興じたりもしたが、初日の見崎との館内探検のような心躍るようなイベントは特に無く。と、いうか、2日目以降は見崎と話すこともあまりないままに合宿は最終日までの日程を無事に消化してしまった。

 しかし代わり、と言っては何だが、彼女以外にも普段クラスであまり話さないような人達と話せたとは思う。渡辺さんやら柿沼さんやら、意外な一面も見れたことだし。それに、僕の勝手な思い込みかもしれないが、見崎は「たまに繋がるのは悪くない」と言ってくれたが、四六時中「繋がっている」のはあまり好ましくは思わないのではないか、と考えている。が、少なくとも僕が美術部の話を振ったとき、「入部してくれるなら嬉しい」と言ってくれたのは確かだ。だったらその答えで十分だろう、と思うのだった。

 

 何はともあれ、2泊3日のクラス合宿、3年3組の皆との楽しい思い出となったことだけは確かだった。

 




原作では合宿1日目までしか描かれていないので(厳密にはしばらく経った後の様子の恒一と鳴が歩くシーンはありますが)原作の時間を越えることになります。
楽しいクラス合宿で火事が起こったりシャンデリアが落ちてきたりバトロワみたいな展開が起こるわけないじゃないですかーやだなー。

ちなみに千曳さんの料理上手は漫画版の設定です。おそらくあの人が唯一コミカルに描かれた場面かと。


一応誰も得しないと思うけど、今回名前出したモブクラスメイト紹介。
・猿田昇……語尾に「ぞな」とつけて話す男子。吹奏楽部所属でクラリネット担当。王子といることが多い。
・王子誠……恒一の後ろの席のイケメン。猿田同様吹奏楽部所属でクラリネット担当。原作の合宿ではバックドラフトで黒焦げに。通称「王子焼き」。
・多々良恵……黒髪ロングの美人な女子。吹奏楽部所属でフルート担当。合宿不参加で台詞もないのに人気があるらしいキャラ。かわいいからかな。
・藤巻奈緒美……茶髪ショートの女子。合宿不参加で特に台詞もなかったが、軟式テニス部という公式設定だけは存在する。
・江藤悠……恒一の斜め後ろ、王子の左の席のショートカットの女子。合宿不参加で特に台詞もなかったが、水泳部という公式設定があり、設定資料集に競泳水着姿のバストアップの絵がある。


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#24

 

 

 夏休みも終わりに近づいた、まだまだ残暑が厳しい時期。夏休みの宿題もほぼ終え、それだけではなく受験の対策もしないとな、と1学期の復習を適当にやっていた時のことだった。不意に僕の携帯が震える。勅使河原め、こんな時期なのに遊びに行こうとか言い出すのか、などと思いつつ発信者を見てそれは間違えた予想だったと悟った。

 ディスプレイに表示されたその名前は、あまりにも意外だった。どうしたんだろう、と思いつつ、僕は通話ボタンを押して応答する。

 

「はい?」

『……あの、榊原君?』

「ああ、うん。そうだよ」

『そう。『ミサキ』だけど』

 

 思わず、声を噛み殺して笑ってしまった。通話を始めたときからなんだか作った声(・・・・)だと思ったが、やっぱりそういうつもり(・・・・・・・)だったらしい。もう少し付き合うのも悪くなかったが、なんだか騙すようで気が引けたので、さっさと「もう気づいているよ」と伝えることにした。

 

「それで……どうしたの、藤岡(・・)さん?」

『……違う。私は未咲じゃない』

「はいはい。見崎から君の番号を既に教えてもらってるから、フリをしてもわかってるよ」

 

 僕がそこまで言って、ようやく彼女は諦めたらしい。小さく吹き出した後で短い笑い声が聞こえる。

 

『……なーんだ、つまんないの。榊原君ならうまく騙せると思ったのに』

「それは申し訳ないことをしたのかな。……でも僕なら、ってどういうこと?」

『なんか榊原君って人がいいっていうかお人好しっぽかったからさ。てっきり私がこうやって鳴のフリをしたらうまく手玉にとれるんじゃないか、って思ったの』

 

 ……なんだか望月だったかにも「人が良さそう」と言われた気がする。僕ってそんな風に人の目から見られているのだろうか。まあそこまで気にするほどでもないし、悪いことでもないとは思うけど。

 

『でもダメだったか……。っていうか、なんで鳴は私の番号教えちゃってるのよ? ……あ、嫌だった、って意味じゃないからね。最初からバレバレだった、って意味で』

 

 そしてそうやってわざわざ訂正してくる辺り、藤岡さんも人が良い……というより良い人だなとは思うのだった。それはともかく、そろそろ電話をかけてきた本当の理由を聞こうかと思う。さすがにこれまで話してたことだけを目的にかけてきたということは……。ない、と藤岡さんの場合言い切れないのかな、とも思ってしまった。そういう楽しそうなことには率先してやりそうだ。

 

「それで、まさか僕を茶化すためだけにかけてきた、ってことはないよね?」

『まあ、ね。……榊原君、来週の出来れば平日、予定空いてたりしない?』

 

 来週、といえば夏休みの最終週だ。しかし特に予定はない。宿題もその気になれば十分今週中に終わらせられる。

 

「いつでも大丈夫だよ」

『ほんと? じゃあお互い夏休み最後の週になるはずだから、早い方がいいかな。来週の月曜日、遊園地に行かない?』

「遊園地……?」

『そ。朝見台の方にあるの。あんまり大きくはないんだけどさ、私が入院する直前と鳴と一緒に行って。それでその後入院しちゃった時、退院できたらまた行こうって約束してたの。段々体調も良くなってきて病院の先生からも日常生活に支障がない程度まで回復した、ってお墨付きをもらったから、ちょっと遅くなっちゃったけど私の退院祝いも兼ねてまた行こうって鳴と話してて。もし榊原君の都合がよかったら誘ってみようと思ったの』

 

 この片田舎、と言ってもいい夜見山市に遊園地なんて娯楽施設があったことが驚きだった。が、ふと記憶をめぐらせると、以前綾野さんと街中を歩いた時に彼女がそんなことをチラッと言っていたような気がしないでもないと思い出した。

 とにかく来週特に用事はないし、問題はない。しかしなぜ平日にこだわるのかな、とはちょっと思った。

 

「全然構わないよ。……でもなんで平日?」

『鳴がさ、人ごみ嫌いだからって。それに平日の方が待ち時間少なくて乗り物とかも乗れるだろうし。……と言っても、言うほど充実してる施設じゃないんだけどね』

 

 ああ、それは納得。特に前者は十分すぎる理由だな、と思ってしまうのだった。

 

「確かに見崎はあんまり人多いところとか好きじゃなさそうだもんね。……うん、いいよ。来週の月曜日空けておくよ」

『ありがと。じゃあ鳴には私から連絡しておくね。えっと待ち合わせは……』

 

 こうしておそらく夏休み最後の思い出となるであろう、遊園地という予定が決まった。しかし思い返してみれば海、合宿、そしてこの遊園地と、全て見崎と一緒ということになるのかと気づき、海の時に思った「運命」なんて言葉がふと頭をよぎったのだった。

 

 

 

 

 

 幸い月曜日は晴れだった。藤岡さんに指定された待ち合わせ場所が少々不安だったので、前日に前もって祖母に聞いてみたら丁寧に教えてくれた。……誤算があるとすればそこに怜子さんがいた、ということだろう。場所を聞くなり、「何、遊園地にでも行くの?」と切り出してきたのだった。僕はそこで素直に肯定したわけだが、今思い返せばそこでの肯定とは愚行に他ならなかった、とわかる。それを聞いた怜子さんはよくない笑みを浮かべて「デート? 気になるあの子と?」とからかってきたのだった。さらに、誤解を解こうと2人じゃなくて3人だ、ということを述べると「ほんと、モテる男はつらいわねえ」なんて勝手に納得されてしまったのである。

 あんなやり取りをすると、やっぱり海に行ったときに「松永さんと独り身同士お似合いじゃないですか?」とか言っておけばよかったような気もするのだった。だがそれこそ杉浦さん辺りが言いそうなことだが後悔先に立たず、というものだろう。あるいは後の祭りか。どうせ言ったところで手痛いしっぺ返しが来るのは目に見えている。なら言わせたいように言わせておけばいいじゃないか、と自分に言い聞かせて適当にかわしたのだった。うむ、我ながら大人な対応だろう。素晴らしい。

 

 そんなことを考えているうちに僕は待ち合わせの場所に着いた。予定時刻の10分前。女子2人を待たせては申し訳がないと少し早めに家を出たが、いい具合だったらしい。まだ彼女達は来ていない。

 住所でいうとこの辺りは朝見台、という地名になる。僕が今寝泊りしている家のある古池町からは西の方だ。目的の遊園地はここからさらに北に少し行ったところにあるらしい。しかし遊園地といえば観覧車、だろうが、ここからそれらしいものは見えない。まあ一応それなりに街中なので、建物の陰になっている可能性は否定できないとも思う。

 と、そこで僕の方へと歩いてくる2人の女子を見かけた。目的の人物に違いないだろうとしばらく見つめていたが、近づいてくるにつれて思わずぎょっと目を見開いた。2人とも服装は異なる。が、以前病院で2人が並んだのを見た時にも思ったことだが、そっくりなのだ。そこまでなら僕もさほど驚いたりはしない。問題は無表情でこちらに歩いてくる2人とも(・・・・)眼帯をつけている、ということだった。ただし、1人は左目に、そしてもう1人は右目に。

 

「やあ……。どうしたの、2人とも……」

「問題です」

 

 僕の質問には答えず、左目に眼帯をつけた少女がそう口を開いた。

 

「『ミサキ』はどっちでしょう」

 

 次いで右目に眼帯をつけた少女が。……また面白い悪ふざけを思いついたのか、と僕はため息をこぼす。

 

「……こっち。僕は学校でずっと会ってるんだし」

 

 左目に眼帯をつけた方の少女を指差し、僕はそう答えた。だがもう一方の少女はなにやら嬉しそうに表情を崩した後で「ブーッ!」とハズレの効果音を口にする。

 

「正解はどっちも『ミサキ』でしたー!」

 

 ああ、と言われてようやく気づいた。そういえば藤岡さんの名前は未咲だった。どっちが「ミサキ」か、と問われれば確かにどっちもそうだろう。……とはいえ、屁理屈じゃないかとも思える。

 

「……未咲ってば子供なんだから」

「ちょっと鳴、何お姉さんぶってるの? 鳴だって結局乗ってきたじゃないの」

「そんなことより。榊原君、もしかして待った?」

「ううん、今来たところ。……久しぶりだね、藤岡さん」

「そういえば電話ではこの間話したけれど、顔を合わせるのは久しぶりだよね」

 

 確かに顔を合わせるのは久しぶりだった。というか、まだ3回目とかな気もする。それでももっと会ってる気がするのは、瓜二つな見崎とずっと会っているからだろうか。

 それはともかく、結構な重病で入院していたはずだが、今見る限り元気そうで何よりだった。が、表情は明るいがどうにも目にかかる眼帯が気になる。僕を驚かせるためだとは思うが、一応尋ねてみることにした。

 

「それで藤岡さん、その眼帯は……。ものもらいか何か? それとも単純に僕を驚かせるため?」

「後者だよ。以前は本当にものもらいになっちゃったときがあってさ。この小道具はその時の余り物。……でもこうやって鳴と2人対称に並ぶと、なんだか鏡に互いを映し合ってるみたいでね」

 

 小道具と来た。しかし実際彼女が言ったとおり、互いに異なる目に眼帯をした2人が並ぶと本当に鏡を見ているようだった。見崎がよく口にする「半身」という言葉がピタリと当てはまるように感じる。まあ何はともあれ、特に病気等でないというのはいいことだろう。現に藤岡さんが外した眼帯の下はなんともない様子で、単に僕をからかうためだけだったとわかった。

 

「立ち話もなんだし、歩きながら話しましょ。目的はあくまで遊園地なんだから」

「もう、鳴ってばそんなに遊園地に行きたいの?」

 

 そして2人が先導して歩き始める。見崎は「そういうわけじゃないけど」と言っているが、嫌がる様子は全く見せておらず、むしろ嬉しそうである。まあ今回は藤岡さんの退院祝いを兼ねて、という話だった。なら、彼女にとっての「半身」がこんな風に元気にしていることは、きっと何より嬉しいことなのだろう。その場に僕が招待されたということはありがたいことだなと改めて思いつつ、楽しそうに話す「ミサキ」達に続いて歩いた。

 

 

 

 

 

 着いた遊園地は思った以上に小ぢんまりとしていた。前もって藤岡さんから「あまり大きくない」と聞いてはいたが、それでもどこか寂れているというか。まあ失礼かもしれないが商業施設もないようなこの街になぜかある遊園地だ、こんなものだと言ってしまえばそれまでかもしれない。

 

「んー、やっぱり前に来た時も思ったけど、こんな小さかったっけ?」

 

 そして事前情報をくれた当の本人がそう言い出したのだった。僕の考えは間違っていなかったということになるのだろう。

 

「前に来た時も言ったと思うけど、私達が大きくなったからじゃない?」

 

 そんな彼女に見崎はあっさりと答える。しかし残念ながら僕は初めてなので、「大きくなったから変わった」という感情は持てない。それでももっと子供の頃なら、パッと見なんてことはないあのジェットコースターももっと大きなものに感じたのかもしれないとは思う。

 

「よし! 全制覇への第一歩、まずはジェットコースターからいこうか!」

 

 不意に、藤岡さんはそう言い出した。……いくら小ぢんまりとしている、と思ったとはいえ、この遊園地を遊びつくすつもりなのだろうか。

 

「未咲、あんまり無理はしないでね。せっかく退院できたんだから……」

「大丈夫だって。病院の先生だって問題ないって言ってくれてるんだし。……じゃあ榊原君、早速いこう!」

 

 見崎の忠告を完全に聞き流した藤岡さんはそう言うなり、僕の腕をつかんで引っ張り始めた。

 

「え……あ、あの藤岡さん?」

「ちょっと未咲!」

 

 藤岡さんに連れられる僕を追いかけつつ、見崎は彼女にしては珍しく勢いのある声を上げた。もしかすると今のは素の彼女なのかもしれない。そうやって素の彼女を出せる相手、彼女にとっての「半身」。こんな風に元気になってくれて本当によかったと思う。そんな彼女の退院祝いを兼ねているのだから、僕もできるだけ彼女の無茶に付き合おうかと思うのだった。

 

 

 

 

 

 確かに、僕が「彼女の無茶に付き合おう」なんて思ったのは事実だ。だが、いくらなんでも無茶が過ぎた。傍から見ると大したことのないように見えたジェットコースターも、見るのと乗るのとでは全然違うわけで。絶叫マシーンが好きというわけでもない僕は割と内心ビクビクだったのだが、藤岡さんは「キャー」とか言いつつも両手離しなんてことをして乗っていたのだった。まったく危ない。しかも乗り終えた後は後でケロッとした顔で「こりゃあと数回乗らないと気が済まないかな」とか言い出したのだ。さすがにそれは勘弁してほしいと僕が懇願し、見崎も同意したためになんとか複数回乗るような事態だけは回避できた。

 が、その次が問題だった。今度はコーヒーカップ。藤岡さんはご機嫌な様子でカップを回してくれたのだが、そこで僕が見事に酔ってしまった。そんな回された覚えはなかったのだが、どうも直前のジェットコースターが効いていたのかもしれない。この間海に行ったときに怜子さんのやや荒っぽい運転でも酔わなかっただけに、ちょっと自分としてはショックだった。

 そんなことで結局気を遣わせてしまったようで僕は非常に申し訳なく思ったのだが、「むしろ謝るのはちょっと調子に乗っちゃったこっちだし、この後はメリーゴーランドとか榊原君じゃ尻込みしそうなのにいこうと思ってたから」とフォローしてもらった。やはり世話を焼かせてしまったようにも思ったが、実際メリーゴーランドに乗り終わった後、2人は子供しかいないようなミニSLに普通に乗りに行ったわけで、確かにあれでは僕は尻込みするなと感じたのだった。

 

 とりあえず休憩所でしばらく休んでいたおかげか、大分体調は良くなってきた。そろそろ合流しようか、と思ったが、どうやら今度2人が向かう先はゴーカートらしい。さすがにこれも……ちょっとパスかなと考えてしまい、僕は上げかけた腰を下ろした。

 と、そこで2人の女子が視界に入り、僕は思わず声を上げそうになった。あれは間違いなくクラスメイトの金木さんと松井さんだ。合宿の時も一緒にソファに座って話している様子は見かけていたし、普段もずっと一緒にいて相当仲が良いことは知っていたが、こういうところにまで一緒に来るほどだとは……。まあ向こうはこっちに気づいていないようだし、邪魔をしては悪い気もしたし、何より見崎と一緒というところをクラスメイトに見られるのはちょっと気まずかったので、気づかぬフリをすることにした。

 

「あー楽しかったー」

 

 ややあって、2人が僕のところへと戻ってきた。反射的にさっき見かけたクラスメイトがいた方へと視線を移してみるが、もうそこにはおらず、僕には気づかないでどこかへと行ったようだった。

 

「ん? 榊原君どうかした?」

「いや、なんでも。……だけどしばらく休んだおかげか、調子は大分よくなったよ」

「そう、それはよかった。……でも榊原君も乗りたかったんじゃない、メリーゴーランド」

「あとミニSLもね。ゴーカートもなかなかスピード出るし楽しかったよ?」

「うーん……。正直あまり魅力は感じなかったかな……。やっぱり尻込みしちゃうかも」

「そっか。ま、しょうがないかな、男の子だもんね」

 

 そう言うと藤岡さんは屈託のない笑みを見せてきた。次いで2人も僕の近くに腰を下ろしてくる。

 

「それで……。2人も休憩? それともそろそろお昼?」

「あーもうそんな時間か。でも……お昼どうしようか、鳴」

「フードコートを使ってもいいけど、出来れば遠慮したいかも。……あんまりおいしくないし」

 

 こういうところは得てしてそういうものだよ、と言いかけたがまあ黙っておくことにした。こういった場所で食べるご飯というものは、味よりも雰囲気を楽しむものだ、とも思う。しかしこんなことを言っては失礼かもしれないが、平日の昼下がりだ、客もまばらなこの遊園地ではそういう雰囲気も楽しめないかもしれない。

 

「まあ……あと残すところ観覧車ぐらいだし、早めに切り上げて外で食べよっか? その後は適当にブラブラするとか……。あ、鳴達の学校を見てみるのとかもいいかも」

「未咲、病み上がりなんだからあまり無茶しないでね。でも外で食べるのは賛成かも。その方がおいしいだろうし、それに……クラスの人、ここにいるみたいだから。あんまり見られたくない気もするし」

「あ、見崎も気づいてたんだ」

 

 こく、と見崎が頷く。しかしその話を聞いてなぜか藤岡さんは目を輝かせた。

 

「え、鳴のクラスメイト!? 誰々、もしかして渡辺さん!?」

「違うよ。席も遠いし、話したことない人達」

「……ああ、そういえば渡辺さんのサイン欲しがってたの、藤岡さんだったっけ」

 

 今度は藤岡さんが、先ほどの見崎と違い勢いよく数度頷いて荷物の中からサインを取り出して自慢げに僕に見せてきた。うん、それもうこの間見せてもらったんだ……。

 

「いいでしょ、かっこいいでしょ?」

「まあサインはかっこいいと思うけど……。あの渡辺さんがバンドやってて、それもデスメタルのベースっていうのは……。普段大人っぽく見える彼女からは想像出来ないな……」

「パフォーマンスすごかったよ。同じ中学生とは思えないぐらい。見に行ってよかったって思ったもん。確か夜見北って話だったはずだったから鳴に聞いてみたらクラス一緒だって話でさ。思わずサイン頼んじゃった」

「よくわかったね、うちの中学校だって」

「クラスは違ったけど、転校した後の小学校は一緒だったからね」

「転校……」

 

 言いかけて、その理由を僕は察した。失言だったかもしれないと思わず見崎の表情を窺ったが、彼女は特に気にかけた様子もなかった。

 

「まあ……ちょっと親の都合でね。夜見北の学区外なんだよね、残念なことに」

「そっか……」

 

 このことについてはあまり深く突っ込まない方がいいだろうと思った。見崎が藤岡さんに僕にどこまで話したのかわからないし、2人にとってはナーバスな問題であろうからだ。

 

「それで……未咲、観覧車に乗るの?」

 

 話題を変えるべきか僕は迷ったが、それより先に見崎がそう話題を切り替えてくれた。正直、少し助かったと思ってしまう。

 

「そりゃあ勿論。遊園地の締めは観覧車でしょ?」

「そう。……私、下で待ってるから。榊原君と2人で乗ってきて」

「え……」

 

 どうしてまた。高所恐怖症だろうか。

 

「あ……。もしかして鳴ってば、あの時のこと気にしてるの?」

「あの時……?」

「そ。前にここで観覧車に乗った時ね、鳥がガラスにぶつかってきたの。そしたらその衝撃のせいか扉が開いちゃってさ。幸い地上付近だったし私達も扉から離れてたから大丈夫だったんだけど、扉開いたままの観覧車ってかなり怖いのね。下手なジェットコースターなんかじゃ相手にならないぐらいのスリルだったよ」

「じゃあ見崎はそれが怖いから下で待ってるって?」

 

 しかし彼女は首を横に振って否定する。

 

「またまた、強がっちゃって。ほんとは怖いんでしょ?」

「……別に怖くないよ。でも未咲と榊原君が2人きりで話したのって入院してたときが最後じゃない? だったら、いい機会じゃないかな、って」

「はいはい。じゃあそういうことにしておいてあげよう。……それじゃ榊原君、行こう」

「あ……うん」

 

 なんだろう、見崎は気を遣ってくれたのだろうか。それとも単純に怖いだけなのだろうか。

 

「うーん……。半々かな」

 

 観覧車の方へ歩きつつ、藤岡さんは僕の心を見透かしたかのようにそう呟いた。

 

「鳴が気を遣ったのか、それとも本当に怖がってるのか、考えてるんでしょ?」

「え……? な、なんで……」

「顔に出てる。……榊原君ってばわかりやすい」

 

 ……否定したかったが当たっている以上言い返すことも出来ない。そんなに僕って顔に出るだろうか。

 そんな話をしているうちに観覧車乗り場に到着する。係員の人は少し気だるそうに僕達をゴンドラの中へと誘導した。そして僕達を乗せたゴンドラはゆっくりと上昇していく。

 

「でもさ、鳴も気を遣うところ間違ってるよね」

 

 段々と窓から景色が広がっていく。向かい合うように座って、藤岡さんはそう呟いた。

 

「どういうこと?」

「本当は私じゃなくて鳴がここにいなくちゃいけないのにさ」

「えっ……」

「だって……榊原君、好きなんでしょ? 鳴のこと」

 

 見つめられつつぶつけられた、予想もしていなかった質問に思わず固まってしまった。次いで慌てて答えようとしたが「いや、僕は別に……」などとしどろもどろになってしまう。そんな僕の様子を見て藤岡さんは笑った。

 

「なあんだ、やっぱりか。だって言ったじゃない、榊原君顔に出てるって」

 

 いたずらっぽく笑う彼女に対し、僕はどう返したものかと思わず考え込んでしまった。そんな僕を見て、再び彼女は笑い声を上げる。

 

「……冗談だって。もう、榊原君ってすぐ本気にするし、ほんとからかい甲斐あるよね」

「それ……褒めてる?」

「んー、少しは。確かに榊原君って人がいいのはわかるけど、すぐ騙されちゃうのはちょっと人よすぎかな、っては思うな。……ま、そこが君のいいところでもあるだろうし……だから鳴もあんな風に心を開いてくれてるんだと思うけど」

 

 そう言って、彼女は窓の外へと目を移す。その表情はなんだか複雑に見えた。

 

「鳴ってさ、私とは普通に接してくれるけど、学校のこと話したがらないし、もしかしてクラスの人とうまく付き合えてないのかな、って少し心配だったの。ほら、あの子ちょっと変わった性格してるから、余計にね。……でも杞憂だったみたい。だって今日の鳴、私と2人でいるときと全然変わらない……ううん、それよりもっと生き生きしてたかも。それって、榊原君がいたからじゃないかなって思うの」

「そう……かな」

「そうだよ。……それに、私は鳴に後ろめたさって言うか、申し訳なさをずっと感じてるの。榊原君、鳴から私達の詳しい話、聞いた?」

 

 一瞬、素直に答えるべきか迷った。基本的に秘密な内容である、ということは見崎から聞いたときの感じからわかっていた。だが「知らない」と嘘を言ったところで、下手な僕では見抜かれてしまうのが関の山だろう。それに見崎にとっての「半身」である彼女になら話してもいいことかもしれない。だったら、と素直に答えることにした。

 

「一応は。……君と見崎が本当は双子の姉妹だったけど、いろんな事情から見崎が養子に出された、ってことは聞いた」

「うん、そう。私が見崎家に引き取られちゃうと『見崎未咲』になっちゃうから。多分そんな理由で、鳴はユキヨ叔母さん……霧果さんの方が榊原君にはわかりやすいか。とにかくそんな名前だけの理由で鳴は見崎家の養子になった。……でもなんだか鳴にばっかり苦労をかけちゃってるみたいで、私はすごく後ろめたかったの。4月にここに来た時もその話になって……。その時も鳴は私が気にすることじゃないって言ってくれたけど、でも……」

「藤岡さん……」

 

 その気持ちはわかるよ、なんて安っぽい同情の言葉はかけられないと思った。これは当事者たちでなければわからない苦悩であろう。僕の両親は家を空けることが多く今も海外とはいえ、一人っ子で基本不自由ない生活を送ってきた僕にはそれに対してあれこれと言う資格さえないように感じる。

 答えに詰まり、僕は窓の外へと何気なく視線を移した。僕たちの乗る観覧車は最高高度付近に近づいたらしく、山々に囲まれた盆地のこの夜見山市がよく見える。

 

「……確かにさ、私はずっと鳴に申し訳なさを感じてた。だけど……今なら、ほんの少しだけどそれでもよかったのかな、って。なんだか不思議な運命のめぐり合わせなんだなって思えちゃうんだよね」

「え……?」

 

 その回答に詰まった沈黙を裂いて藤岡さんはそう言った。思わず何が言いたいのかを図りかね、僕は疑問系でもって相槌を打って彼女の次の言葉を待つ。

 

「だって、鳴が見崎家に引き取られなかったら、多分榊原君と鳴がここまで仲良くなる、ってことはなかったんじゃない? それってつまり、私と榊原君がこうやって話すこともなかったのかもしれないわけで。……それでもやっぱり私だけ本当のお父さんとお母さんと一緒に暮らしてることを正当化は出来ないと思うけど、でも鳴は実際榊原君と出会えた。偶然か運命かわからないけど、だけどそんな偶然や運命が複雑に噛み合わされて、この世界って成り立ってるんじゃないかなって思うんだ」

 

 この世界、とは話のスケールが壮大だ。見崎辺りが突然言い出しそうな内容だなという気もしたが、双子の姉妹だし、似ている部分があるのかもしれない。

 それに……偶然や運命が複雑に噛み合わされて、か。そう思うのも悪くない。両親の海外出張、気胸の再発、1ヶ月遅れの転校。4月からを振り返っても、どれか1つが欠けただけで僕は見崎とここまで仲良くなることはなかったのかもしれなかったのだろうから。

 

「だから、ってわけじゃないけど……。榊原君、鳴と仲良くしてあげて。……って、もう十分仲良いか」

 

 その一言を聞いて、失礼だとは思いつつも、僕は思わず笑いをこぼしてしまった。それも偶然か運命だろうか。だって、その発言は……。

 

「ど、どうしたの榊原君? ここ、笑うところ?」

「ごめん。……霧果さんも僕に同じようなこと言ってたな、ってふと思い出してさ」

「叔母さんが? ……そっか。鳴、ちゃんと色んな人に愛されてるんだ……」

「霧果さんとはちょっと難しい距離感みたいだけど……。それにクラスでも積極的に、ってほどじゃないけど、クラスメイトと一緒にお昼食べたりすることもあるし、彼女もあまり嫌がってはいないみたい。……まあ過度に付き合うと疲れる、とか言い出しちゃうけど」

 

 ああやっぱり、と言いつつ目の前の彼女は苦笑を浮かべた。その様子がどうにもお姉さんのように見えて微笑ましい。

 

「私とはいいみたいだけど、他の人ととか人ごみとか、結構嫌うもんね」

「そうだね。でも、たまには繋がるのも悪くない、って言ってくれたよ。自分は人形じゃなくて心がある人間で、心がなくちゃ繋がれないからって」

「繋がる、か……。鳴らしいといえば、らしい言い方よね」

 

 そう言って苦笑から優しい表情へと移った藤岡さんは、先ほどよりもさらにお姉さんのようだった。次いで、改めて僕の方をまっすぐ見つめる。

 

「……やっぱり、鳴にとって榊原君は特別な存在みたい。だから……鳴のこと、お願いね」

「いや、お願いって言われても……」

「もう、鈍いなあ。付き合っちゃいなよ、2人とも」

 

 そんな勝手に人の恋愛を決められてもなあと今度は僕が苦笑を浮かべる。だが……それもまんざらでもないといえないのかもしれない。結局夏休みが明けたら美術部には入る予定でいる。とはいえ、受験が控えているのだから、色恋沙汰などと浮ついた気持ちでいるのもどうかとも思っていたりする。何より……恥ずかしい話だが、僕から切り出す勇気はないだろう。

 

 と、そこで観覧車が段々と地面に近づいているのがわかった。なんだかずっと話続けていたような気がする。

 

「あー、もうおしまいかあ……。本当は榊原君に見晴らしのいいところからこの街を紹介しようと思ってたのに……。もう1周しようか?」

「ありがたいけど、遠慮するよ。見崎が待ってるだろうし」

「まあ、そうだね。あまり待たせるのも悪いし、もしかしたら焼き餅焼かれちゃうかも」

 

 いやいや、それはないだろう。僕は軽く手を振るだけで否定の答えとしたが、藤岡さんはよろしくない笑みを浮かべてさらに突っ込んでくる。

 

「甘いよ、榊原君。……女の嫉妬は怖いんだから。覚えておいた方がいいよ」

 

 嫉妬ねえ、あの見崎が。ちょっと想像出来ない。それでも教訓として一応頭の片隅ぐらいには置いておくことにしよう。

 

「まあいいや。ともかく……話せてよかった。なんか相談乗ってくれたみたいですっきりしちゃった。ありがとね、榊原君」

「ううん、こちらこそ」

 

 その僕の返答を聞いて、見崎の「半身」である彼女は屈託のない笑みを向けてきた。見た目は見崎と瓜二つなのに、性格は正反対。そんなギャップがどこか面白く、しかし見崎のことを気にかけ続けていた彼女は、間違いなく「半身」なのだろうと改めて確信したのだった。

 終点、係員が扉を開け、僕達は外に出る。そして観覧車の中でずっと話題になっていた見崎の姿を確認し、合流すべくそこへと足を進めた。

 




ある意味で0話の再現。要するに未咲回を用意したかった、というのが本音だったりします。
観覧車での過去の件ですが、さすがに原作0話の通りにするのは気が引けると言うか、現象さん補正かかってると思ったので、それより少しライトにしてあります。

未咲の住所関係について補足のようなものを。
原作、及びここまでの話である通り大叔母が口を滑らせて小学5年のときに双子の姉妹であることを言ってしまい、そのせいで距離を取るために引っ越した、という設定を取っています。
しかし0話で住居自体はまだ夜見山にある、というニュアンスで未咲が話しているので、小学4年いっぱいまで杉浦と同じ小学校(紅月町周辺)→小学5年から渡辺と同じ小学校(朝見台周辺)へと引越し、ただし中学は夜見北の学区外のために別中学ということで整合性を取りました。


なお、金木松井ペアですが、0話でも後姿だけ出ています。0話において鳴と恒一以外の3組生徒で出てるのはこの2人だけだとか。
ジェットコースターのシーンの付近ですので、気になって手元に0話がある方は見てみるのも面白いかもしれません。


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#25

 

 

 夏休みが終わった。海だ山だ遊園地だと、思い返せばなんだか随分と遊び呆けていた気がする。しかし出された宿題はちゃんとすませたし、受験の夏ということは意識していたので、1学期の復習やらなにやらも適度にやっておいた。

 この休みが明けてからは文化祭の準備がだんだんと始まるという話である。やれるうちにやれることはやっておかないと、結局後から泣きを見るのは自分と言うことになる。そうでなくても、この2学期が始まって早々、文化祭のクラスでの企画如何に関わらずに僕は忙しくなることが確定していた。

 

「……そういうわけで、今年の5月に僕のクラスに転校してきた榊原恒一君が入部してくれることになりました。文化祭までの短い期間だけど、皆仲良くしてあげてください」

 

 今僕がいるのは古びた0号館、そこにある美術室だ。結局僕は文化祭に作品を展示したいという思いが強く、怜子さんと再度相談した上で、短期間でもいいからと美術部への入部を決めたのだった。

 先に紹介をしてくれた望月が僕に挨拶を促す。部員は全員で20人弱、今日は休み明けのミーティングということでほぼ全員が来ているという話だった。勿論見崎もいる。男女比は2対8か3対7か。そんな女子の方が多いという状況に少々緊張しつつ、僕は立ち上がってまず軽く頭を下げた。

 

「榊原恒一です。美術は得意な方ではないんですが、興味があったので作品展示に参加させてもらいたいと思い、入部させていただくことになりました。3年のこの時期で短い付き合いになってしまうかと思いますが、よろしくお願いします」

 

 部員の方からまばらに拍手が返って来る。一応歓迎を意味するのだろう。まあ社交辞令として僕は受け取っておくことにした。

 

「今望月君からあったとおり、榊原君は今年度からこの街で暮らしています。わからないこともまだあると思うので、短期間になってしまうけど皆仲良くしてあげてね。……さて、夏休みも明けたことだし、そろそろ本格的に文化祭を視野に入れないといけない時期です。前々からテーマを決めて取り掛かっていた人は問題ありませんが、まだの人は……」

 

 僕が座った後で顧問の三神先生がそう引き継ぎ、普段通りのミーティングとなったようだった。一先ず挨拶は終わった、と内心少しホッとする。人前で話すというのはどうも得意になれそうにない。

 

 ミーティングが終わるとそのまま作業に移る人、帰る人、まばらだった。望月に聞いてみたところ「基本的には自由だから」という話であった。……だから松永さんのような幽霊部員みたいな人が出てくるわけか。

 さらに美術部は本来この美術室ではなく、美術部の部室を活動場所としているらしい。今日のようにミーティングで多い人数が集まることがわかっている日や、作業する人が多くなって部室が手狭になるとここを借りるという方式を取っているのだそうだ。ということは、僕からすると帰った、と思った人達も部室で活動している可能性はある。

 

「あの、榊原先輩は以前はどこにいたんですか?」

 

 それより何より、なぜかミーティングが終わった後、後輩の女子生徒が数人僕の周りに寄ってそんなことを聞いてきたのだった。まるで5月に初めて3組に登校したときのデジャヴ、転校生というのは珍しいのだろうし、しかもこの時期の入部というのも相俟っているのだろう。

 

「東京だよ。こっちには両親の都合で」

「えー、そうなんですかぁ?」

「3年3組ってことは、さっき望月先輩が同じクラスって言ってましたけど、見崎先輩もですよね?」

 

 こっちに来てこの方、後輩と話したことは基本的にない。そういうわけで自分が「先輩」とか言われることも違和感だし、それ以上に望月や見崎もそう呼ばれているのはどうにもおかしな雰囲気だった。

 

「先輩、見崎先輩と仲良いんですか?」

「まあ……悪くはないけど」

「えー、そうなんですかぁ?」

 

 さっきのセリフを再度再生したようなその声を聞いて、本能的にこの子はちょっと苦手だなと思ってしまった。まあ明るいは明るいのだが、同じく明るい女子ということで真っ先に脳裏に浮かんだ綾野さん辺りと比べるとどうも周囲に合わせているだけというか、なんだかフワフワした感覚を覚える。

 

「何やるかって決めてます?」

「粘土細工が短期間で出来るって聞いたから。それにしようと思ってるよ」

「耳早いんですね。毎年結構いるみたいなんでいいと思いますよ」

 

 どうも後輩と話すなんていう慣れないことをしていると疲れる気がする。顔見知りの望月に助けを求めたかったが、奴は完全に先生とマンツーマン指導モードに入っていてこっちの世界に戻ってきそうにない。前もってここに作業用具を持ってきている辺り、最初からそのつもりだったのだろう。見崎は部屋の中から既に消えていた。帰ってしまったか、部室で作業しているのか、あるいは第2図書室に行ったのか。ともかく今日は初日だし、あまり長居しなくてもいいかと僕は荷物を手に腰を上げた。

 

「ごめんね。今日はそろそろお(いとま)させてもらおうかと。用具の準備もまだだし」

「えー、そうなんですかぁ?」

「受験勉強とかもありますもんね」

 

 まあね、と一応相槌を打っておく。もう一度望月の方を窺ってみたが、やはり邪魔をしないほうがよさそうだ。このまま美術室を出ようと「じゃあまた」とだけ部の後輩に述べ、僕は部屋を後にした。

 

 部室に顔を出してまた絡まれるのも面倒だ。それに、見崎のことだから人が多いこんな日は多分部室にはいないだろう。そう考え、おなじく0号館にある第2図書室の扉をノックし、「失礼します」と一応ことわってから部屋に入る。相変わらず本棚で見通しが悪く、部屋に誰がいるか、それともいないのかもわからない。本棚地帯を抜けて長机がある場所まで出たところで、見崎がそこに座ってスケッチブックを開いているのをようやく確認できた。

 

「よかった。帰っちゃったかもしかしたら部室かな、って思った」

「こういう日の部室は人が多いからあまり行きたくない。……榊原君こそ、部活動初日なのにいきなり帰っちゃっていいの?」

「美術部は基本的に活動を個人に任せてるんでしょ? 今日は何も用意してないし、話が通じそうな望月は完全に違う世界に行っちゃってるから……。まあ仕方ないかなって。それに後輩の子と話すと……君じゃなくても疲れるって言いたくなっちゃうしね」

「そういうのは、思ってても言わない方がいいんじゃなかったの?」

 

 いつだったか言ったことをそのまま彼女に返され、僕は苦笑を浮かべる。次いで普段この部屋の「主」がいるはずのカウンターへと目を移し、そこが空席であることを確認した。

 

「千曳先生は?」

「演劇部の方に行ってるんだと思う。あっちもミーティングか、あるいは練習じゃないかな」

「ああ、そっか」

 

 などと他人事のように言ったが、演劇部が追い込みをかけているということは、それだけ文化祭が迫っていることを意味するわけで。つまり僕ものんびりしてはいられず、さっさと展示物の制作に取り掛かったほうが本当はいいということだろう。

 とはいえ、さっき述べたとおり何も準備していない。知識はゼロではないが、ある方とも言いがたいので、その辺りは望月に相談して揃える物を確認してからにするしかなかったりする。そういうわけで、やっぱり今日は別にいいかと、僕は見崎の隣に腰を下ろそうと椅子を引いた。

 が、彼女は僕が近づくのに合わせて描いていたスケッチブックを閉じてしまった。見ようというつもりは……ないわけではなかったが、そこまで過剰に反応されると逆に気になってしまう。

 

「見られるのは嫌?」

「……書きかけだし。ちょっと恥ずかしい」

「そっか」

 

 嫌だというものを無理に見せてもらっては申し訳がない。僕はそれを諦めることにする。が、そうなると今度は2人とも手持ち無沙汰になってしまうために、何か話題を見つけないといけなくなるのである。僕は話題が無くての沈黙はあまり好きではない。

 

「榊原君、前の学校の文化祭はどんな感じだったの?」

 

 と、何を話そうか考えていると珍しく見崎のほうから僕に話しかけてきた。少し驚いたが、質問に答えるために少し黙り込んで記憶を探る。

 

「……クラスによってまちまちかな。お化け屋敷とか、色んなゲーム用意したいわゆる縁日みたいなものとか。固いものだと地域の歴史をまとめて教室内にパネル形式で展示したのとかもあったよ。……ウケは悪かったみたいだけど」

「そっか。どこも大体同じ、か」

「見崎は去年と一昨年何やったの?」

「……忘れちゃった。美術部の方で手が回らなかったし、私がいなくてもなんとかなるような企画だったから」

 

 見崎らしいといえばらしい回答だった。クラスの人と距離を置いていたのだろうな、というのはなんとなく想像できる。でも、去年までの彼女を知らずにこういうのもなんだが、今年はクラスに馴染んでいるようだし、少しは企画に参加するんじゃないかな、と勝手に思ったりしている。

 

「まあクラスの方は出来る人がやれば済むことだから。明日のLHR(ロングホームルーム)で企画の話し合いがあるだろうけど、運動部や帰宅部の人中心に何か企画を出してそれになるんじゃないかな」

 

 しかし見崎は今年も特にクラスの方には関わるつもりはない、という口調だった。確かに美術部は展示制作を終わらせなくてはいけないのだから、出来る人がやればいいわけとも思ってしまう。桜木さんが仕切って勅使河原や風見君辺りを中心に何かやれば大丈夫なのだろう。僕もそっちより、見崎を見習って新しく入部した美術部の方を考えるべきか、などと思っていた。

 

 

 

 

 

「では、今年の文化祭の出し物について話し合いたいと思います」

 

 翌日のLHR(ロングホームルーム)は昨日の見崎の予想通り、文化祭の出し物についての話し合いとなった。普段教師がいる卓上に桜木さんが立って仕切り、風見君が書記のように板書するらしい。普通は字の綺麗な女子が書くんじゃないかな、なんて勝手な偏見で思わずその2人を見てしまった。なお、担任の久保寺先生は窓際にパイプ椅子を置いて、どこか難しい顔をしながら「基本的には生徒の皆さんでまとめてください」と言わんばかりに見守っている。

 

「何か案がある人がいたら……」

「どうせ最後多数決になるんだし、とりあえずお決まりのパーッと書いとけよ風見」

 

 桜木さんの発言をかき消すように、後ろからそう声が飛んだ。振り向かなくてもわかる。発言主は勅使河原だ。

 

「……お決まりって何だよ」

「お決まりだろ。お化け屋敷だの、縁日だの、上がりそうなの書いておけよ」

 

 そんな勅使河原の発言にどこからともなく「芸がねえなあ……」という嫌味が聞こえてきた。出所は明らかではないがおそらく窓際男子の列、運動部のうちの誰かだろう。

 

「おう、今芸がねえって言った奴誰だ!? 文句あるなら何か意見出せよ!」

「はい、勅使河原君そこまで。じゃあお化け屋敷と縁日、って意見で受け付けますね。……他に何かありますか?」

 

 さすが桜木さん、手馴れている。うまくまとめて次へ……といきたいところだろうが、またしても後ろから「はいはーい」という声が聞こえてくる。

 

「まだ何か?」

「ってか、まず教室使うかステージ使うか決めたほうよくねえ?」

 

 そこで出た勅使河原の発言に僕はおやと首を傾げた。意図を図りかねて脇の望月を小突く。

 

「何?」

「今あいつが言ったこと、どういう意味?」

「どういうって……。あ、そうか。榊原君が前いた学校じゃ教室で何かやるだけだったのか」

 

 僕は首を縦に振る。まあ部活数の問題もあるのかもしれないが、ステージは基本部活やら有志やらが使うためにクラスが何かということはなかったのだ。

 

「今勅使河原君が言ったとおり、教室を使うかステージを使うか選べるんだよ。ステージの方は抽選になっちゃうけど……。でもそれなら劇とか合唱とか、そういう方法で済ませることも出来るんだ」

 

 なるほど、と納得した。さらにそこでそういえば千曳先生は26年前に文化祭で劇をやったと言っていたはずだとようやく思い出した。同時に、望月はさらっと「済ませる」と言ったと気づく。ひょっとしたら彼としても部活の方で手が一杯なのかもしれない。出来ることならクラスの出し物は楽に終わらせたい、とか考えているのだろう。

 

「それはステージが取れる、という前提になってしまうので……。まずは取れなくても大丈夫なように教室を使う出し物をまとめた方がいいんじゃないか、と私は思ってます。その上でステージの方がいいとなればそちらの出し物を検討する予定です」

「まあ正論だけど……。でもステージ取れたら劇とかでいいんじゃねえの? 幸いこのクラスに演劇部3人いるんだし。そこを軸にすりゃウケいいと思うんだけど」

 

 気楽そうに勅使河原がそう言ったところで、窓際最前列の赤沢さんが奴の方に鋭い視線を返したのがわかった。明らかに機嫌を損ねている。それを証明するように「ちょっといいかしら」と彼女は挙手して発言の許可を求めた。桜木さんが頷き、赤沢さんは立ち上がってクラス全員を見渡すように振り変える。

 

「今どこぞの能天気が言ってくれたとおり、確かにこのクラスに演劇部は3人いるわ。……でも申し訳ないのだけれど、あまり過剰評価してほしくないというか、重役を一方的に無理やり押し付けられる形は出来れば遠慮してもらいたいの。身勝手かもしれないけど、文化祭は演劇部において活動を披露する最後の機会で、私達はそこで見てくれた人に『いい舞台だった』と思われるような演技をしたい。そう思って結構長い期間取り組んできた。……そうやって時間をかけて作ってきた役の他に、全く違う内容で違う人物を演じろ、と言われるとどうしても中途半端になってしまう怖れがあるの」

「なんか泉美だけ悪者にしちゃうみたいで嫌だから、私からも。プロだったら同時に複数役とか難なくこなせるんだろうし出来なくちゃいけないのかもしれないけど、いくら少しは演劇についてかじってるとはいえ私達中学生の部活でやってるレベルだから……。それに私もだけど、それ以上に泉美は今年セリフの量も多いの。だからあまり負担を強いることはさせてあげたくないって言うか……」

 

 続けて綾野さんが立ち上がってそうフォローを入れた。確か赤沢さんは主役級のはず、そりゃ今擁護されたようにセリフ量も演技量も多いだろう。

 

「勿論劇をやる、と決まったなら協力出来る範囲で惜しまず手伝わせてもらうつもりではいるわ。かじった程度でもノウハウはあるわけだから」

「大体てっしー気楽に今劇、って言ってくれたけど、わかってる? 劇ってセリフ言って演技だけすりゃいいってものじゃないんだよ? 既存のものをやるならまだいいけど、オリジナルとなったら脚本が必要になるし、それから大道具小道具、場合によっては照明演出とかやるかもしれないから、そこにも人員を、可能なら知識ある人間を割かないといけない。泉美が言ってる『ノウハウ』っていうのはその辺り含んでるわけだからね」

 

 今度は小椋さんだった。期待していた演劇部3人からの集中砲火を受けて、さしもの勅使河原も反論できないようだった。

 

「ただもう1度言っておくけど、だから嫌だというわけじゃないの。クラスの総意に背くつもりはないし、出来る範囲で、って前提条件は着いちゃうけど協力は惜しまないつもりよ」

 

 そこまで言って、赤沢さんはようやく腰を下ろした。一応風見君が黒板に「劇」と書くには書いたが、この様子では票はあまり期待できないだろう。

 

「ありがとう泉美。……今赤沢さんから意見があった通り、加えてステージが取れるかという問題も劇にはあります。それは覚えておいてください」

 

 うまく話をまとめ、「他にありませんか?」と再び桜木さんが皆に意見を求める。が、ここでまたしても発言したのは懲りない例の男だった。

 

「んじゃ合奏は? 吹奏楽部も3人いるだろ、このクラス」

「クラリネット2本とフルート1本はいいとして、他はリコーダーでも使ってもらうつもりか?」

「バランス悪すぎぞな」

「赤沢さん達の発言を借りるわけじゃないけど、私達だって所詮中学生の部活のレベルよ。私達をメインに据えての協奏曲(コンチェルト)なんて到底不可能だし、曲を編曲するとかなったら劇の脚本と同じか、それ以上に深刻な問題になるわ」

 

 そして再び吹奏楽部の3人――王子君、猿田君、多々良さんの3人にそう畳み掛けられて勅使河原は返す言葉も無く黙った。教壇の上で風見君が「書いたほうがいいのか」という顔で桜木さんの表情を窺っているが、彼女はそれを察して首を横に振った。委員長権限でボツらしい。

 

「勅使河原君には悪いけど、今の3人の意見とステージ前提という条件から、その案は難しいと判断させてもらいます。教室でやればいいじゃないかとも言われそうですが……先生、騒音苦情が来る可能性は?」

「十分にあり得ます。ステージが無難でしょう」

「ということです。……他にはありませんか?」

 

 ようやく勅使河原が全開にしてきたアクセルを少し緩めたようだ。後ろからの深く考えない意見が飛ぶのが止んだ。が、代わりにクラス内には周囲の席と人と小声で話す声が聞こえる程度で、明確な意見が上がらなくなってしまった。まあ文化祭の話し合いなどこんなものだろう、とは思ってしまう。

 

「さっきの劇、という話に関連してですが。これは公開時間を設定すれば教室でも不可能ではないかとも思います。ただ、教室でやるとなったらステージよりは狭いので、広々と使えないとは思うけど……」

「あの……」

 

 その時、おずおずとした声が後ろの方から聞こえてきた。勅使河原と同じ方向だったが明らかに異なる女子の声に、思わず僕は振り返る。見れば他の生徒も振り返っているようだった。

 

「それならいっそ舞台上で、という形式にこだわらない方がいいんじゃないかと思います」

 

 挙手したまま、しかし立ち上がらずに、勅使河原の隣の席の彼女は三つ編みに眼鏡という見た目に相応しく、そう控えめに述べた。

 

「柿沼さん、それについてもう少し詳しくお願いします」

 

 壇上から名を呼ばれ、そこで彼女はようやく立ち上がった。しかし視線はどこか自信なさ気に下の方へと向いている。

 

「えっと……。劇、と言い切るより、芝居、という括りで見るならもっと別の手法があるのではないかと……」

「つまりどういうことだよ?」

 

 と、隣の席の勅使河原。彼には悪気も責める気もなかったのだろうが、彼女はその身をビクッと震わせた。

 

「だから……。舞台じゃなくて、映像作品……言ってしまえば短い映画を作って上映するのはどうでしょうか」

 

 おお、とクラスから感心したような声がどこからともなく起きた。なるほど、いい案だと思う。

 

「確かにそれなら上映時間を決めて教室を開放すればいいわけだから……ステージの問題は解消できそうですね」

「今のゆかりの意見に加えて、一発勝負じゃないから舞台で起こりうるセリフのど忘れや予想外のアクシデントも回避できるわ。演技についても納得できるまで一応やり直しは可能だろうし、そういう意味でいうとさっき私が『負担』と言った面もある程度は緩和される形になるんじゃないかしら。……ただ、映像なら映像で別な問題もあるでしょうけど」

 

 はい、と頷いて提案した彼女は先を続ける。

 

「まずは映像を記録するので、撮影媒体……ビデオカメラ等が必要になります。映像の質は置いておくとして、そのぐらいならクラスの誰かの家に、最悪でも私の家にあるのであまり心配してないですが。次にそれを多数の人間に見せるわけですから、映像を映し出す機材……プロジェクターとかもですね。こっちは放送室にあれば借りられそうですが、それが無理なら問題になりそうです。あとは劇同様に脚本や大道具小道具、それからステージ上だけで演じるわけではないので、脚本にあわせてのロケ地なども考える必要が出てくるかと思います。さらに、撮影技術や編集技術を持つ人も必要です」

 

 すごい。普段物静かな柿沼さんがこれだけ饒舌に話した、と言うことも意外だったが、それ以上に言っていることが全部的確だと思えたことに驚いた。

 

「……言いたいことはまだありますが、その段階まで話が進んでないと思うので私からはこのぐらいにしようかと」

「なあ柿沼、その口調だと……。もし映画に決まったとしたらその後のことまで何か考えてるのか?」

「……まあ」

 

 見崎がよくやるような曖昧な返事を勅使河原に返しつつ柿沼さんは腰を下ろす。それでも勅使河原は切り込む質問をやめる気はないらしい。他の生徒もまだ彼女の方を振り返っている人が多い。……僕もだが。

 

「どの辺まで考えてんだよ? まさか……脚本もう出来てたりとかすんのか?」

「さすがに決まってもいないのに書きはしないけど……。頭の中にあるものを流用すれば、書けと言われて書けないこともないかも」

 

 座ってからの勅使河原への返答だ、正式な発言ではない。だがこれにはまだ彼女の方振り返っていたクラスメイトは思わずどよめいた。事実僕も「書けないこともない」という発言を聞いたら驚くしかない。

 

「なあ桜木、柿沼が考えてるっていう話聞いて、それで面白そうならもういっそ映画制作ってことでいいんじゃねえのか?」

「ちょっと勅使河原、それは横暴じゃないの? ……と言ってもまともに意見も出てないし、まあ委員長のゆかりに任せるしかないんでしょうけど」

 

 今の勅使河原も赤沢さんも、どっちも座ったままの発言だ。先ほどの柿沼さん同様正式ではない。言ってしまえば「野次」とかそういう類でも済ませられるかもしれない。だが桜木さんはしばらく教卓に目を落として少し考えた後で口を開いた。

 

「……柿沼さん、もしよかったら考えていることを少し話してもらってもいいですか? それから他の出し物について再度意見を募集して、その上で多数決を取って出し物を決めたいと思いますので。それで映画制作、ということになったら皆の賛成次第ではありますが、脚本をお願いすることになるかもしれないと思います。……それでもいいですか?」

「わかりました、それで構わないです。じゃあ……」

 

 そう言って柿沼さんは再び立ち上がった。一度心を整えるためか息を吐いて、口を開く。

 

「まず、舞台は洋館。雰囲気があって広義の意味での密室を作り出すには、それがもっとも適切で楽ですので。……そうですね、クラスか、あるいは部活での登山中に数名が道に迷ってしまい、強い雷雨で困り果ててところでその館を見つけてそこに駆け込む、というきっかけ辺りが妥当でしょう」

「補足。『広義の密室』っていうのは所謂『吹雪の山荘』とか『海が荒れた中の孤島』とか、そういう脱出不可能な、ミステリでよくある状況のこと。これによって登場人物達はそこから逃げられない、という前提条件をつけることが出来るわけだ」

 

 挙手はしたものの、座ったまま辻井君がそう付け足した。柿沼さん同様、眼鏡をかけた彼は合宿のときの話でミステリが趣味と言っていたはずだ。

 

「んでどうすんだ? 今のお前と辻井の話からすると殺人事件が起こって誰かが名探偵となって解決、とかか?」

「……それをやりたいなら辻井君に頼んで。私の担当じゃない」

 

 右側の口やかましい男子を一瞥してそう一言。「勅使河原、ちょっと黙ってなさい」という赤沢さんの援護もあって、奴も黙って聞くことにしたらしい。

 

「……話を続けます。ところが、その館に駆け込んだ仲間達が1人、また1人と命を奪われていく……。天候を理由に逃げ出すことも出来ない、一体その館で何が起こっているのか。この中の誰かがやったのではないかという疑心暗鬼に駆られ、姿見えぬ殺人鬼に怯える……」

「それ……さっきてっしーが言ったミステリじゃないの……?」

 

 綾野さんからの質問を首を横に振って彼女は否定した。さっき言ったとおり、そして合宿の時も聞いたとおりミステリは辻井君の担当。彼女の担当は……。

 

「トリック等は稚拙でいいです、ミステリ要素はあくまで副次的なものと思ってますので。詰まったら、辻井君に助力を求める予定です。……私が描きたいと思っているものはそういった推理ものではありません。趣味が悪いと思われるかもしれませんが、姿なき殺人鬼に追い詰められていき、人が疑心暗鬼に陥る、恐怖のその様……。つまり、ホラー作品を考えています」

 

 これにはクラスから驚きの声が上がった。無理もないだろう。僕だって初めて聞いたときは驚きを隠せなかった。彼女は文学少女か、あってミステリだろうと思っていたのだから。

 

「人ならざるもの……怪人のような存在を出してのパニックホラーという案もやぶさかではなかったりしますが……。文章ではそれは簡単でも映像となると特殊メイク等が面倒かと思ったので先ほどの『見えざる殺人鬼の恐怖』という形でまとめようと考えました。理由は単純に、その館には悪霊、あるいは死霊の類がいて、館に入ったメンバーの誰かに取り憑いたから、ということにするつもりです。なので、犯人……という言い方だとやはりミステリっぽくなってしまいますが、その役もこのクラスの中の人で演じてもらいたいと思っています

 ……もしこの案が通るとして、私からお願いしたい点は3点あります。まず1点目、この舞台……つまりロケ場所ですが、是非とも咲谷記念館を使わせてほしいと思っています。この間の合宿の時にかなり歩かせてもらったのであそこをイメージしてこのプロットを考えましたし、場所としても近場でいいかと。少しずるいかもしれませんが高林君もいるので確保は難しくないと思います」

 

 なるほど。伊達にあの時館内を歩き回って熱心にメモを取っていたわけではないということのようだ。

 

「2点目、いなければ私がなんとか出来ないこともないのですが、映像や音声編集のノウハウがある方がいれば、非常に助かります。演技や小道具で補いきれない部分は編集作業でなんとかごまかしたいので。特に前提条件を『雨の山荘』とする場合、暗さは夜にロケを行うことで何とかできるにしろ、雨音は合成でどうにかしたいところです。私もそこそこ精通しているつもりですが、もっと詳しい方がいればお願いしたいと思います」

「あ、それならうちの兄貴詳しそうだしできるかも」

 

 そう言ったのは小椋さんだった。だが言い終えると同時に「あ」とこぼし、やってしまったという表情が浮かぶ。……まあ隠さなくても彼女がお兄さんと仲が良いことなんて皆知ってるんだろうけど。

 

「い、いやあのさ、ほら、うちの兄貴やけに色んなこと詳しいから、もしかしたらできるんじゃないかなーと思って……」

「お前別に今更隠さなくても……」

「ちょっとてっしー! あんま余計なこと言わないでよ!」

 

 勅使河原じゃなくても今更と思ってしまう。どの道クラスの8割方は知っていたことだろう。そんな2人のやり取りなど気にした様子もなく、柿沼さんは続けた。

 

「ではもし決まったら小椋さん、お兄さんに話と確認を取ってもらえると助かります。最後、3点目。これはなるべくならそうしてもらいたいと思っていることです。しかし無理強いは出来ませんので、あくまで本人の意思を尊重した上で、ということになりますが……」

 

 そう言うと柿沼さんは視線を窓際、それも最後尾へと移す。そこに誰がいるのか、僕は確認しなくてもわかった。予想通りと言うか、自分には関係ないとばかりに彼女はずっと外の方を眺めていた。

 

「……犯人役は、見崎さんにお願いしたいと思っています」

 

 クラスがざわめいた。だが当の見崎本人はそこでようやく自分が呼ばれたと気づいたのだろう。何事かと顔をクラスの方へと戻す。そしてクラスメイトの全員の視線を受け、状況が把握できないとばかりに、

 

「……え?」

 

 とだけ、呟いたのだった。



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#26

 

 

「……やっぱりね。そういうことだったんだ」

 

 僕の目の前の彼女は、そういうとくつくつと笑いをこぼし、肩を震わせた。ややあって、その顔がこちらへと向けられる。紫のセルフレーム眼鏡、そのレンズの奥から冷たい双眸がこちらを見つめていた。

 

「言い出したあんたが1番怪しいじゃないの。だったら簡単なことじゃない。……疑わしきは罰せよ。お前を死へと還せば、この惨劇は終わる……!」

「はい、カット」

 

 横からかけられたその一言に、目の前の彼女――杉浦さんの表情に憑いていた凄味が落ちた。次いでため息をこぼす。

 

「多佳子、悪くないけどもうちょっと、憎悪っていうのかな、そんな感じ出せない?」

「……どうやるのよ」

「どう、と言われても言葉で説明するのは難しいわね……。とりあえず、それは頭に置いておいて。そのうち私の家で強化合宿でもやるから。……あと見崎さんは台詞を早く覚えること。基本的に感情を押し殺した感じでいいってことだから、演技自体は今のでいいと思うわ。でもいつまでも台本持ったままじゃ格好つかないわよ?」

 

 赤沢さんにそう言われ、見崎はつまらなそうに視線を宙に彷徨わせる。

 

「……そうは言われても、台詞、多いから」

「多くないわよ。主役級の犯人役なのにこれすごく少ないじゃないの。舞台じゃないから直前に台本確認できるしリテイク可能とはいえ、頭に入れちゃった方がやりやすいわよ」

「えっと……赤沢さん、僕は?」

「いいんじゃないの。完全に普段通りの恒一君でいいような脚本だし」

 

 そう言った赤沢さんはどこか不満そうだった。まあ一応ダメ出しはされていないのだから良しとすることにしよう、と考えることにする。

 

 今は文化祭に向けて準備の最中である。結局、クラスの出し物は賛成多数で柿沼さん脚本の短編映画と決まった。それが今から1週間ほど前のことである。

 と、なると、脚本家の3点目のお願いである「見崎に主役級である犯人役を頼みたい」という話が浮上して来るわけだ。その時点で一応ちゃんとしたストーリーをわかってからの方がいいかもしれないと桜木さんは提案したのだが、なんと柿沼さんは翌日までに話を書き上げてくると言い出し、実際台本形式ではあったが物語を書き上げてきたのであった。それを読み、なぜ彼女が見崎を主役級に据えたかったのかを理解した。

 柿沼さんは、物語のキーとして見崎の眼帯と、その下にある義眼を使いたかったのだ。どういう経緯かわからないが、彼女は見崎の義眼のことを知っていた。台本中に「翡翠の目」という単語があることからも、はっきりわかっているらしい。その上でのキャスティング、というわけである。

 だが見崎は目の話題にあまり触れられたくない素振りを見せていたはず。そうでなくても「やれる人がやればいい」と、我関せずというスタンスを取っていた。そんな理由から僕としてはてっきり断るものだと思っていたのだが、「確かにこの話なら、私が適役だとは思います」と、判断をクラスの総意に任せたのだった。結果、柿沼さんの希望通りに見崎の役は決まっている。

 

 それまでなら僕にとっても対岸の火事だった。「美術部の方もあって大変だろうけど頑張ってくれ」などと思っていたわけだが、何を思ったのか、勅使河原の奴がそこで「じゃあ主人公サカキしかねえだろこれ」とか言い出したのだ。無論僕は異議を唱えたのだが、悲しいかな、民主主義の原則と言ってもいい多数決の過半数の賛成によって主役をやる羽目になったのだった。もっとも、見崎ほどキーな人物なわけでもなく、さらには死ななくて(・・・・・)いいわけで、他の人に比べたらその辺り楽そうではあったが。

 なお、その死ななければ(・・・・・・)いけない役として、今見崎と対峙していた杉浦さんと桜木さん、それから風見君と勅使河原がキャスティングされている。ちなみに勅使河原は立候補だった。が、柿沼さんに「真っ先に殺される役」に配置されるという扱いを受けている。それ以外の3人分の役はくじ決めで、演劇部3人も役を割り振られる可能性はあった。が、当たることはなかったために演じはしないが全体を統括する役割として裏方に回っている。

 

 柿沼さんの描いたストーリーは、はっきり言ってしまえば単純だった。クラスでの登山中に雷雨に遭遇する、山の中に古びた洋館を発見して逃げ込む、そこで惨劇が起こる。あらすじはこんなところである。しかし単純ということは柿沼さん自身も自覚しているらしく、「15分ぐらいのショートムービーを考えているから、余計な部分を出来る限り省いての単純かつわかりやすいストーリーになるようにした」との弁であった。小難しく伏線を張るだとか、奇抜な映像技術を用いるだとかしなくても、見た人間に「恐怖」を感じてもらえればホラーとしての体は保てる、暗めの咲谷記念館は古びていることもあって十分にそれを醸し出せる、とのことだそうだ。

 今練習していたのは後半から佳境にかけて、起承転結で言うと転の辺りの部分に位置する場面だ。風見・勅使河原両名が何者かによって命を奪われ、そのことから殺人鬼がこの中にいるのではないかと互いに疑心暗鬼に陥っていく。そこで、不意に見崎が眼帯を外してこう切り出すのだ。

 

『私は、小さい時にこの左目を失った。でも、それ以来、この目には見えないはずのものが見えるようになったの……』

 

 そして見崎は杉浦さんがこの館に巣食う悪霊に取り憑かれた犯人であると告げ、それに対して彼女は逆上する、といったところだ。

 

「榊原君、お疲れ様」

 

 そんなことを思い出しつつ、一旦出番が終わったために台本を片手に少し離れた僕に声をかけてくる男子がいた。スポーツマンの水野猛君。元々は彼と数度話したことがあるかどうか、という程度の仲だった。のだが……。

 

「ああ、水野君」

「大変そうだね、主役」

「うん、まあ……」

「でも姉貴がすごい楽しみにしてるってよ。ホラーの映画やるって言ったら食いついてきたし、榊原君が主役だって聞いたらなおさら」

「主役って言ってもね……」

 

 水野君は僕が病院でお世話になった看護婦である水野沙苗さんの弟である。つまり、人のことを「ホラー少年」とか勝手に呼んでいるあのホラーマニアが、どうやら弟さんに文化祭で何をやるのか聞いたらしい。そこで「ホラー映画」なんて答えが返ってきたら話に飛びつくのは自明なわけで。しかもそこで僕が一応主役、となれば「さすがホラー少年だ」などと言う様子は目に浮かぶようだった。事実、あの人はあることないことを弟さんに吹き込んだようで、水野君から「やっぱ適役だったんだな」みたいなことを言われたわけである。

 まあ結果的にそれであまり話したことがなかった彼と話すきっかけを持てたことは事実なのだが、どうも水野さんは過大評価というか、相当期待しているらしい。言っては悪いがたかが中学生の、一応アドバイスを演劇部からもらってるとはいえ基本はずぶの素人が作る映画と呼べるかもあやしいかもしれない代物だ、そんなに期待されても困る。大体僕だって主役、というくくりではあるが、受動的に動く主人公なために見崎より見せ場は少ないし、能動的に動く杉浦さんの役や受動的ながらも最終的に行動を起こす桜木さんより動きもない。死ななければならない2人よりは出ている時間は多いが、先の3人より控えめである。もっとも、それはありがたいことではあるわけだけど。

 

 そもそも僕は夏休み明けから美術部に所属することになって、クラスの企画と同時並行で展示制作も行わなくてはならない。前もってある程度進めていた見崎や望月と違い、状況としては切羽詰った状況にある。とはいえ、クラスはクラス、部活は部活なわけだ。決まってしまったことを嘆いても仕方がない。幸い、と言うべきか、制作するものは大まかに決まっていて、望月に相談したところ「十分間に合う」と助言された。ならその言葉を信じ、クラスと部活と二足のわらじを履き切ってみよう、とは思う。

 

「はい、じゃあ今日はここまで。……まあこの調子ならなんとかなると思うわ。でも出来るなら台詞は覚えちゃうように」

 

 演技指導の役割を担っている赤沢さんがそうまとめる。これで今日のクラスの出し物のために割く時間は終わりとなるようだった。

 文化祭を3年生最後の区切りとしている部活は多い。その影響もあって、クラスのための時間は時間割によるが長くて授業終了後から2時間程度、その後は部活へと移行する形になっている。これは正直助かる、というか、そうでないとせっかく入部した美術部で展示作品が完成しないということになってしまう。ただ幸いなことに、今ところ経過は順調なために十分余裕を持って間に合いそうだった。松永さんが1週間で仕上げたというのもなんだかわかる気がする。

 

 それはさておき、今日のクラスに割く時間も終わりということで水野君も僕との話を切り上げ、仲の良い窓際の列の人達のところへ行くようだった。入れ替わるように、どこか物憂げというか、まあ普段から物憂げな雰囲気ではあるが、そんな感じの見崎が僕のところへと近づいてくる。

 

「お疲れ」

「……疲れた。赤沢さんにいっぱいダメ出しされちゃったし」

「みたいだね。それで、今日は部室行く?」

「そっちも追い込みかけないと、危ないから」

 

 放課後に見崎と美術部室のある0号館へと向かうのは、2学期が始まってからの僕のささやかな楽しみになっていた。いつも部室に顔を出すと言うわけではないようだが、隔日ぐらいで部活に出ているようである。無論僕は間に合う、と言われていてもやはり不安ではあるので毎日部室に行っているのだが、見崎は以前からやっていたわけで、そこまで切羽詰ってはいないようだった。加えて彼女は油絵を展示作品にしているため、色が乾くのを待たなければならない。よって短期間ではなく長期のスパンで作業を進めざるを得ないと言うわけだ。

 とにかく、展示作品を仕上げるためにも貴重な放課後の時間はなるべく大事に使いたい。クラスの皆には「じゃあ部活があるから」と挨拶もほどほどに、部室へと向かうことにした。

 

「そういえばさ」

 

 階段を降りながら僕はふと気になっていたことを思い出して、見崎に尋ねかける。相槌も無く首も動かさなかったが、視線だけ僅かに僕に向けたようだった。

 

「見崎はクラスの出し物に元々は乗り気じゃなかったんだよね?」

「まあね。クラスの人達でやればいいと思ってたから」

「じゃあなんで柿沼さんに主役を頼まれて、それを受けたの?」

 

 一瞬、間が空く。嫌がっているのかと少し不安になったが、どうやらそうではないようだった。

 

「……クラスの総意だと思ったのが、半分」

 

 やや考えた様子の後で、見崎はそう述べた。それを聞いて怜子さんに「夜見北の心構え」という名目で「クラスの決め事は守ること」と言われていたことを思い出したが、そこまで重視されることだろうか、と改めて思ってしまう。

 

「あとの半分は?」

 

 まあそれはさておき、見崎の残りの理由が気になった。別に柿沼さんは強制してはいなかった。「出来ることなら」と言ったし、なるほどと思う理由からのキャスティングではあったが、それでも「クラスの総意」と言い切るほどのものでもなかったはずだ。

 

「……見えなくてもいいものが見える目、なんてところに魅かれたから、かな」

 

 ああ、と僕は思わず苦笑を浮かべた。なるほど、普段見崎が口にしていることと一緒ではある。なんというか、見崎らしいとは思う。思うが……。

 

「でもさ、台本だと君の義眼がキーになってるのはわかったじゃない。その上で眼帯の下を晒すことには……その、抵抗はなかったの?」

 

 見崎は自分の義眼を人に見せるということをあまり好ましく思っていないようであったことが、どうしても気になったのだった。僕に見せてくれることはあるのだが、他の人にはほとんどないようであったからだ。

 

「ない、って言ったら嘘になるけど。でも別にいいかなっても思った」

「柿沼さんがなんで君の目のことを知っていたかは、わかる?」

「さあ。この街は市って言ってる割に大きくないから、どこからか風の噂ででも聞いたのかもね」

 

 大らかというか、適当な回答だった。僕が気にしていることを、当の本人はほとんど気にしていない様子だ。どうも勝手に僕が考えすぎていただけらしい。当人が気にかけていないのだから、このことは深く考える必要はないか、と思うことにした。

 

 そんな話をしながら歩いているうちに、いつの間にか部室に着いていた。ドアを開けると活動している人が目に入って来る。文化祭前ということを考えると少し少ないぐらいだろうか。美術室を借りることなく部室内で収まっているという時点で特に多い、というわけではなさそうである。

 

「あ、見崎先輩に榊原先輩。こんにちは」

「こんにちは」

 

 確か2年生だったと思ったが、入り口付近にいた女子がまず僕達に挨拶を交わしてきた。それにつられるように部室内の数名が僕達に声をかけてくる。僕は一応声に出して返したが、見崎は視線を向けて軽く顎を引いただけだった。

 

「今日も一緒なんですね」

「まあ……クラス一緒だし」

「本当にそれだけですか?」

 

 どうにもよろしくない笑みを浮かべつつ、その子は僕達に、いや、僕にそう尋ねてきた。まったく女子というのはそういう話が好きなのかな、と思いつつ見崎に視線を移すと、もう彼女は関係ないとばかりに自分の作品のある部屋の奥へと移動していたのだ。なるほど、こうやって交わせば良いのかと少し感心しつつ、僕も自分の作業に取り掛かるべく部屋の奥へと足を進める。

 

 準備をしながら、先にそれを終えて取り掛かり始めた見崎の方に視線を移した。初めて見たときは思わずドキリとした、彼女の展示作品であろう油絵。描かれていたのは少し物悲しそうな1人の大人の女性だった。一見して彼女の母、霧果さんに似ている。だが僕がその絵を見て「ドキリとした」のは、その女性の顔の部分が斜めに引き裂かれたように描かれていたからだった。超絶技巧、とまで言ってしまっても差し支えない、キャンバスが破かれているのではないかとさえ錯覚するその絵は、しかし技術の素晴らしさに感嘆すると同時に言いようのない不安のようなものを覚えたのだ。

 見崎がどんな気持ちであの絵と向き合っているのかはわからない。僕が気軽に聞いていいような話題でも無いようにも思える。だから、より不安になってしまうのかもしれなかった。加えて、望月が言うにはほぼ完成状態で最後のニス塗りのために乾燥させていたところだったらしい。しかし夏休みが明けると再び彼女は筆を取ったということだった。修正しているのか、出来が不満だったのかは図りかねるが、一度完成といってもいい状態にあったものに再び手を加えている、ということで不安感のようなものが増してしまっているようにも思えた。

 

 ……いかん。確かに気がかりではあるが、それを気にしても何もならないことだ、ということはよくわかっている。そもそも、見崎の家庭の問題に僕が首を突っ込むのもあまりよろしいこととは言えないだろう。夏休みの海の時は少し後退したようにも感じてしまったが、その前は一旦は前進したようだった。なら、それできっとうまくいくのではないだろうか。

 とにかく、今僕は自分の作品を完成に向けて作らなくてはいけないのだ。クラスにも時間を取られ、貴重な放課後である。まず目の前のことに集中しようと、作業に取り掛かることにした。

 

 

 

 

 

 日が傾いた夕暮れ時。部活を終えた僕は渡り廊下でその黄昏を感じつつ、0号館から昇降口の方へと向かっていた。少々残念なことに、今僕は1人だった。見崎は、というと……。作業を始めて1時間ぐらい経った頃。作業に集中していて僕の気分がいい感じに乗ってきた頃合の時に先に帰ってしまったのだった。油絵という性質上ある程度乾いてからじゃないと次にいけないとかで、今日はこれ以上作業出来ないということらしい。さすがに自分の現状を考えると「じゃあ僕も帰るよ」と言うわけにもいかず、一緒に下校するのは諦めていた。

 その反動かはわからないが、粘って作業していたせいで下校時間ギリギリとなっている。校舎内のひと気もまばらで、見知った校舎内とはいえ少々不気味だ。しかし昇降口に着いて傾く日の光を見るとそんな考えは一蹴されたのだった。その日が落ちきってしまう前にさっさと帰ろうと思う。

 

「あれ……。恒一君?」

 

 そう思いながら下駄箱に上履きを収めて下足を取り出したところで名前を呼ばれた。見れば声の主は赤沢さん。どうやら今から帰るところらしい。

 

「今帰りなの? 随分残ってたのね」

「美術部の展示作品がまだ製作途中だから」

「そっか、夏休み明けてから美術部に入部したのよね。……そんな折にクラスの劇でキャスト任されたのか。なんだか申し訳ない気がするわ」

「いや、別に赤沢さんが気にすることじゃないよ。そもそも言ったの勅使河原だから。……ところで、赤沢さんも今まで演劇部?」

「そうよ。千曳さんに演技指導受けてたら、ちょっと熱が入ってこの時間になっちゃったの」

 

 演技指導、と聞いて合宿を思い出す。あの時もクラス合宿の自由時間に赤沢さんは千曳先生の部屋を訪ねて練習していたはずだった。主役とはわかっているが、随分熱心だと思う。

 

「それで……。恒一君はこれから帰るだけ?」

「うん。暗くなる前には帰りたいし」

「じゃあ……。途中まで一緒に帰ってもいいかしら?」

 

 提案されて、そう言えば赤沢さんと帰るなんてのは初めてだと気づいた。勅使河原や望月辺りと一緒に帰ったことは多かったが、女子でいうと見崎以外はこんな風に帰るタイミングがたまたま一緒になった綾野さんぐらいだったかと思う。

 

「全然構わないけど、道一緒かな」

「古池町よね? 私紅月町だけど、途中までは一緒よ」

 

 地名を言われてもまだピンと来ない。とにかく、僕より遥かに土地勘のある赤沢さんが一緒と言うのだから、間違いはないだろう。

 

 僕が了承の意図を伝えると「よかったわ」と返事し、彼女は僕の前を歩き出した。さすがクラスの陰の支配者、なんて言われるだけのことはあるということだろうか。こうやってリードしてる姿がよく似合ってるように感じてしまう。

 

「どうしたの?」

 

 そんな僕の心の中を読んだかのように、赤沢さんはそう尋ねてきた。いかんいかん、ちょっと今の考え方は(よこしま)だった。

 

「なんでもないよ。ただ文化祭近いのはわかるけど、随分部活熱心にやってるんだなって思って」

「それ……恒一君が私に言う台詞? そっくり返したいけど」

 

 発言の意図を図りかね、僕は首を傾げる。それを見て、ため息をひとつ挟んでから彼女は口を開いた。

 

「なんでこの時期に美術部に入ろう、なんて思ったの?」

 

 目の前の横断歩道の信号が丁度赤に変わる。赤沢さんはまず足を止め、次いで僕の方を振り返りながら面と向かってそう尋ねた。

 

「気を悪くしたなら謝るわ。でも、3年の2学期、それに文化祭の準備もあるとわかってたはず。にも関わらず、おそらく身内にも相談した上ででしょうけど、美術部の入部を決めた。それがちょっと気になってたの」

 

 この件に関してこれだけストレートに理由を聞かれたのは、もしかしたら初めてだったかもしれない。怜子さんには前々から相談していたから決めたときも特に突っ込まれなかったし、勅使河原や望月辺りは探り探り聞いてきた感じだった。……まあ海での話があるからかもしれないとも思う。

 思わず言葉に詰まる。別に前置きされたように気を悪くした、とかじゃない。こうやって率直に質問してくるのはいかにも赤沢さんらしい。ただ、今までなかったために少し狼狽してしまったのだ。

 

 信号が青に変わった。僕は足を進め、それで信号が変わっていたと気づいたらしい。赤沢さんも歩みだしつつ、視線だけは僕の方に向けている。段々と道は河川敷へと入っていた。

 

「元々美術には興味があったんだけどね。でもこっちに来て早々入院だったから、機会を失っちゃって。そうこうしているうちに夏休みになっちゃったんだけど……。海に行ったときに松永さんと怜子さんと話して、短期間の入部期間でも作品を完成させられれば展示は出来る、って聞いたから、やってみたいと思ったんだ」

 

 嘘は言っていない。それが理由の全てか、と問われればノーと言わざるを得ないが。

 赤沢さんは少し歩くペースを落とし、しばらく僕の顔を見つめていた。それから顔を前へと戻して口を開いた。

 

「そういうわけね、納得したわ。中学最後の文化祭だものね、何か残したいって気持ちはよくわかる気がする。……ごめんなさい、なんだか探りを入れるようなことを聞いてしまって」

「そんな、別に……」

「恒一君が何を作っているかは、聞かないでおくわ。文化祭の時の楽しみにしておきたいから」

 

 そう言った彼女は、相変わらず前を向いたままだった。そのために表情を窺うことが出来なかった。だけどその声色は、言葉の内容ほどあまり興味がないようにも聞こえてしまった。

 だから何だというつもりはない。だけど、なんだか赤沢さんらしくない雰囲気を感じてしまったというか、そこが少し気がかりだった。

 

「ここ、曲がるのよね?」

 

 そのことを尋ねようか迷っていたところで、先にそう声をかけられた。夜見山川の河川敷を歩いてきたわけだが、よく見るとこれ以上川に沿って歩くと道を引き返すことになるところだった。

 

「私、もう少し行ってから橋渡らないといけないから」

 

 さっき気になった赤沢さんの様子を窺うが、特に変わってはいなかった。ひょっとしたら思い過ごしかもしれない。

 

「話せて楽しかったわ。じゃあね、恒一君」

「うん、さようなら」

 

 最後の挨拶も普段通りに感じた。やはり思い過ごしなのだろう。そう思って河川敷の道を直角に曲がってしばらく歩いて――ふと、僕はあることに気づいた。

 このまま道なりに進めば家に着く。望月や勅使河原と帰るときにいつも通っている道と全く同じだ。引き返さずにすんだということ自体は嬉しい。気になったのはそこじゃない。

 

 なぜ、赤沢さんは一度の確認もなしに僕がこの道で曲がるということを知っていたのだろうか。

 

 今の住所が古池町ということは知っていたようだし、夏休みに海に行く時、家まで来たのだから場所はわかっているのだろう。でもそうだとして、僕が通いなれているのを知っていたかのように、さっきの角を曲がらないと通り過ぎてしまうことまではわかるものだろうか。

 ……いや、ちょっと考え過ぎと思う。一度家まで来たのだから道をわかっていた、というだけの話だろう。

 

 日はもう沈もうとしていた。ふと足を止めて振り返ってみると、夕日が夕見ヶ丘をその名の通り映し出し、夜になろうとしている。そのまま分かれた赤沢さんの姿を探そうとしたが、もう見当たらなかった。諦めて夕日を背に浴びながら、僕は家路を急いだ。

 



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#27

 

 

 時間というものは熱中していると早く過ぎる、とか言われている。もっとも、実際に時間が早く過ぎるわけなどなく、あくまで体感的にそう感じるだけに過ぎないわけだ。なんでも、脳を使うか使わないかで体感速度が変わるらしく、忙しい時ほど短く感じて単純作業を続けるような時ほど長く感じるという。

 そういう意味で言うと、ここしばらくの期間の時間経過は早かった、ということになるだろう。あるいは時間があってほしいという僕の願望のようなものも含まれているのかもしれない。とにもかくにも「時は金なり」と言われるその貴重な時間はあっという間に過ぎてしまったわけである。クラスの誰かさんなら「光陰矢のごとし」とか言いそうだとふと思う。

 

 ……とまあ半ば現実逃避気味にそんなことを考えたわけだが、何を隠そう今日は既に文化祭当日となってしまったのだった。夏休みが明けてからここまで、本当にあっという間だった。

 結論から言えば美術部の作品は1週間ほど余裕を持って無事完成した。もう少し早く終わるかと思っていたが、なんだかんだとずれこんでしまったわけで、やはり予定というものはある程度余裕をもって立てないと厳しいようだ。

 というより、むしろ時間に追われたのはクラスの方だった。ロケの予定は文化祭の2週間前、そこで撮り終えてあとは宣伝用のビラだのポスターだのといった広報活動に移行する予定でいた。ところが1度で撮り終えることができず、高林君に無理を言ってその1週間後に再び咲谷記念館を借りてロケを行ったのだ。結果、最も負担がかかったのは脚本兼編集係という重役を担った柿沼さんであり、実際文化祭が近づくにつれて普段より体調が悪そうというか眠そうな様子も窺えた。とはいえ、編集はある程度小椋さんがお兄さんに頼んでくれていて、一晩でやってくれたために思ったほどではなかったとも言っていたわけだけど。

 そんなわけで完成が駆け込みとなってしまい、クラスで出来た映像を見た時は既に文化祭の3日前となっていた。学校の備品であるプロジェクターとスクリーンを放送室から借りて、実際の上映の確認がてら皆で見たわけだが、素人ゆえの荒っぽさこそあるものの一応映像作品としての体は成していると僕は思った。クラスの皆も概ね高評価な反応のようだったが、脚本を書いた当の柿沼さん本人は「ホラーよりもサスペンス寄りになった」とか少し悔やんでいるようだった。

 

 いずれにせよ、クラスの出し物は完成したわけで。あとの準備物は事前に完了していたために滞りはなかった。特に広報用のポスターは美術部である望月がかなり気合を入れて描いたのでいい具合に出来上がっていた。……若干ムンクっぽい気がしないでもないが。

 さて、あとはいざ文化祭が始まってお客さんを入れてお披露目、となるわけだ。全校生徒を集めての開会式も終え、来校者の人達が校舎内に増え始めた。そろそろ我らが3年3組の記念すべき第1回目の上映が始まる時間であるが、今僕がいるのは校舎の屋上。それも1人で、である。

 なぜこんなところにいるのかというと、開会式の後で姿を消した見崎を探しに来たからだった。まあ彼女は元々あまりクラスに関わらないスタンスだったわけで、ましてや自分が主役級の映像を見ようという気にはならないのだろう。でも一応メインキャストなのだから、見てくれたお客さんを見送るぐらいはした方がいいんじゃないかと、僕は呼び戻しに来たわけだ。しかしここか第2図書室と思っていたけど、どうやらこっちは外れだったらしい。かといって第2図書室まで行くのはここからは少し遠い。そもそもいるかもわからない。

 

 仕方ないか、と屋上から校舎内に入ってくる人々を見下ろしつつ、僕はため息をこぼした。そろそろ初回の上映が始まる。見送るだけなら終わってから戻ろうかと思ったが、どうもそれだと文句を言われそうだった。なぜなら、今現在ポケットに入れている携帯が震え始めたからだ。取り出して発信者を確認し、やっぱり勅使河原かと再びため息をこぼしつつ僕は電話に出る。

 

「……はい?」

『はい、じゃねえよ。どこほっつき歩いてるんだよ、お前は。メインキャストのお前も見崎もいないんじゃ終わった後の客の見送りどうすんだよ? もう初回の上映時間になるぞ』

「別に僕がいなくても他の人達でやってくれればいいじゃない」

 

 まあ、いいわけないと言われるのはわかっている。だが、今戻るということは上映される作品を見る、ということだ。出来が悪い、なんて毛頭思っていない。僕のことはさて置くにしても、皆一生懸命自分の仕事をこなしてたし、演者も精一杯演じていた。見崎の力演は撮ってたときだって思わず背筋がゾクッと来るようなものだった。

 じゃあなぜ見たくないのかというと、何言うことはなく自分の演技を見たくないのだ。赤沢さんや綾野さんといった演劇部の面々を始めとして皆に誉められたものではあるが、やはり改めて見るのは恥ずかしい。何度も見るのは可能なら遠慮したいところではある。

 とはいえ、勅使河原が言っているのももっともだ。毎回いるのも大変だろうが、せめて初回上映時ぐらいはいるのが筋というものだろう。

 

『それでいいわけねえだろ。せっかく上映終わったってのに主役不在じゃ締まらないだろうが。どうせ見崎も近くにいるんだろ? さっさと連れて戻って来い』

「探してはいたんだけどね。今は一緒じゃないよ。出来れば終わった後の見送りのタイミングで戻りたかったけど……。とりあえず僕だけでも戻ろうか?」

『おう、そうしてくれ。赤沢がよ、主役がいなくてどうすんだとかちょっとヒスっちまいそうなんだよ。あいつ演劇部の舞台近いからどうでもいいことでもピリピリしてるし……』

 

 そういえば演劇部のステージは明日だったはず。演劇部として最後の舞台の本番前日とあれば、確かにナーバスにはなりそうだ。

 

「わかった。じゃあ今から戻るから」

『後ろから入れよ。前は鍵かけてあるからな』

 

 クラスの設営には僕もいた。だから教室内に暗幕を引き、黒板の前にスクリーンを置いたために前の扉を締め切ったことは知っている。「言われなくてもわかってるよ」と答えて通話を終了。どうにも足が重いがクラスに戻ることにする。

 

 足が重いのなら直行しなくてもいいだろう。せっかくの文化祭だし、とか自分に言い訳をして少し寄り道をすることにした。

 夜見北は4階に1年生の教室があり、3階に2年生、2階に3年生となっている。つまり屋上から降りてくると他学年の出し物を見れるわけだ。教室の中には入らないが、前を通って何をやっているのか見てみる。

 いつだったか勅使河原が言った「お約束」は各学年に1つはあるようだった。少し興味を引かれたのは、以前僕が「受けが悪い」と評した地域の歴史をまとめた展示だ。1年生がやっていたのだが、僕はここに住み始めて短いので夜見山の名前の由来だとか地域ごとの景観だとかには関心がある。チラッと見ただけだが、どうやら見やすいように写真を多用してパネルに張り出したり、地域密着型とも言うべきか、住んでいるお年寄りにインタビューして話をまとめたりしてあるようだ。そういう真面目なのがなおさら1年生っぽくてよろしいとか感じてしまったりもする。

 その教室に入って展示を見たいのは山々だったのだが、勅使河原に急かされた以上さっさと戻らないといけない。4階と3階の教室の前を素通りし、3年生の階である2階へと到着。あまり戻りたくない気持ちを抑えながら3組の教室の前まで戻ってきた。もう上映は始まって冒頭部分は終わったぐらいだろう。

 戻ってきて驚いた。上映予定時間を張り出した看板があったのは教室を出たときと一緒だったので知っていた。だが、今はその脇にもう1つ立て看板が用意され、「現在の時間は満席となっております。大変申し訳ありません」と書かれた紙が貼り付けてあるのだ。

 

「あ、こういっちゃん戻ってきたんだ」

 

 その看板に気をとられて気づかなかったが、教室後ろの入り口付近に机と椅子があり、そこに綾野さんが腰掛けていた。おそらく入場整理やら呼び込みやらの役割だろう。

 

「勅使河原から電話かかってきてね。……今満員なの?」

「初回なのに大入り満員、大盛況。待っててくれた人全員入れる前に席埋まっちゃったから、入場制限かけてその看板慌てて作って設置したの。委員長が次も満員なら上映ペース増やした方がいいかも、って言ったぐらいだよ」

 

 それはなんとまあ……複雑だ。皆が一生懸命作った出し物を多くの人に見てもらえるというのは嬉しいことだが、個人的に自分の演技を見られるというのは恥ずかしい。

 

「で、中入るんでしょ? 泉美、カリカリしてるから顔見せた方がいいと思うよ。左側開けて入れば暗幕で隠してあるから入っても大丈夫だし」

「勅使河原にも言われたんだけど……。赤沢さん、そんなにピリピリしてる?」

 

 机に頬杖を付き、綾野さんはため息をひとつ挟む。

 

「意外とね。あの子、本番前は結構神経質になるから」

「綾野さんも明日主役じゃなかったっけ?」

「まあね。でも私はそこそこ神経太いから。……って言いたいところだけど、今から緊張はしてるんだよ、こう見えてね。……とりあえず、中入って泉美に顔見せた方いいよ。余計な心配かけさせないように」

 

 やはり入って自分の演技をまた見ないといけないのか。出来ることなら避けたいが……。

 

「……自分の演技、あんまり見たくないんだけどね」

「なんで? すっごくよかったじゃん、特にラストとか。こういっちゃん演劇部入ればいいのにって思ったぐらいだよ?」

 

 彼女としては誉めているんだろう。だけど、そう言われるのがやはり恥ずかしいのだ。

 

「ま、じたばたせずに中に入りたまえ。女を待たせるのは罪な男のすることだよ。ましてやそれが……」

 

 そこで綾野さんは意味ありげな笑みと共に口をつぐんだ。

 

「それが?」

 

 続きを促そうとしたが彼女は答える気はないらしい。「いいから入りたまえ」と似たような発言を繰り返すだけだ。続きは知りたいところだが、赤沢さんがピリピリしているというのは事実らしいし、ここはやはり中に入るしかないのだろう。そうなれば流れでまた作品を見ることになるのだが、致し方ない。

 綾野さんに「お疲れ様」と労いの言葉をかけて、教室の中へと入ることにした。扉の開閉時に光が入らないよう工夫された暗幕の隙間から教室の中の様子を窺う。……確かに人が多い。用意した椅子が全て埋まり、立ち見の客まで若干いるようだった。そこから視線を少し上げ、映像が映し出されているスクリーンへと移す。物語も中盤に差し掛かった辺りだった。風見君の部屋からキャストが出てきたところ、ということは彼の出番はもう文字通りおしまいとなってしまったわけだし、勅使河原の出番も終わったということか。

 クラスメイトの控え場所でもある教室の後ろ、ロッカー前へと暗幕をくぐる。そこからもスクリーンの映像が見えるようになっているために控え場所にいた生徒達はそっちを見ていたようだったが、僕が入ってきたことに気づいたのだろう。数人がこっちへと目を移してきた。

 

「あ、サカキ! やっと戻ってきやがったか」

 

 上映の邪魔にならないように普段より相当声のトーンを落として勅使河原が話しかけてくる。

 

「おっせえよ、俺も風見も出番終わっちまったぜ?」

 

 はっきり言ってそんなの僕には関係ないし知ったことじゃない。……とストレートに言うのもなんなので、「悪かったよ」と適当に済ませ、不機嫌だと散々言われている赤沢さんに一応謝罪しておくことにした。

 

「えっと、赤沢さん……」

「ようやくね。主役不在で見送りしなくちゃいけないのかと思ってたわ」

「その……ごめん」

 

 腕を組んだまま、彼女はため息をこぼす。

 

「別に責めるつもりはないけど。ただ、見に来てくれたお客さんを初回ぐらいはキャスト総出で見送った方がいいんじゃないかと思ったのは事実よ。……で、見崎さんは一緒じゃなかったの?」

「少し探したけど見つからなかったから、僕だけでも戻ってこようと思って」

 

 そう言うと、赤沢さんは少し意外そうに僕の方を見つめた。そして短く「そう」とだけ返す。

 

「……まあいいわ。毎回見送りにいろ、なんて言うつもりはないし、今回だけはお願いって事ね」

 

 それきり、スクリーンの映像へと視線を戻してしまった。……なんだか意外だ。勅使河原はさっき「ヒスっちまいそう」とか大層なことを言っていただけに、もっとお冠だと思っていた。しかしそこまで怒っていないのならそれに越したことはないだろう。

 

 さて、その件はもういいとしても、これからが問題である。上映が終わるまでやることがない。「あ、見送りには戻ってくるんで」とも言い出せない状況。かといって静かにしてなくちゃいけないから勅使河原と世間話なんてのも無理だ。

 仕方ない、あまり見たくなかったが映像を見ることにしよう。

 

 物語は丁度終盤へと差し掛かる頃だった。風見・勅使河原両名の出番が終わり、残った僕と見崎、杉浦さん、桜木さんの4人が疑心暗鬼に陥っていくところだ。

 

『どうなってるのよ! 誰が2人をやったのよ!?』

『とりあえず落ち着いて。僕達が分かれた後に起こったことなら、この後は一緒にいるほうが……』

『落ち着けですって!? 2人も殺されてるのよ、落ち着いてなんていられるわけないじゃない! それに一緒にいるって……この中に殺人鬼がいるかもしれないのに一緒にいろっていうの!? 私は独りででも天気が回復するまで部屋に閉じ篭らせてもらうわよ!』

 

 スクリーンには普段のクールな様子からは想像出来ないような、取り乱した杉浦さんが映っている。最初の頃はぎこちなかったが、赤沢さんに猛特訓してもらったらしく、撮影した時も思ったことだが本当に切羽詰ったような演技だ。

 

『でもそれでまた襲われるなんてことになったら……』

『その時は自分の身は自分で守るわ。そういう委員長、あなたは誰かに守ってもらうつもり?』

『わ、私は……』

『そこまでにしましょう。……茶番はもういいわ』

 

 2人の会話に見崎が割り込む。ここのカメラは見崎の視点で撮られており、つまり映像内の僕を含めた3人の視線が一気に集まる。

 

『どういう意味よ!?』

 

 攻撃的な杉浦さんの一言でカメラは4人全員を写す視点へと切り替わる。そのまま今度は左目の眼帯に手をかける彼女1人をアップにするアングルへと変わった。

 

『私にはわかる……。誰が2人を殺したのか。そして、誰がこれからも残りの人間を殺そうとしているのか……』

『何を……言ってるんですか……?』

『私は、小さい時にこの左目を失った。でも、それ以来、この目には見えないはずのものが見えるようになったの……』

 

 見崎が眼帯を取り両の眼でカメラを見つめる。見る者を引きこむような、美しくも繊細な翡翠――。瞬間、教室の中にわずかに感嘆の声が漏れたのがわかった。

 

『この翡翠の目が教えてくれる。この館に巣食う悪霊に取り憑かれ、生者としてではなく死者となってしまった、本来存在しないはずの者が、誰なのか……』

『ちょ、ちょっと待ってください見崎さん。悪霊とか死者とか、どういうことなんですか?』

『私の部屋に、以前住んでいたと思われる人の日記があったの。この館は元々いわくつき(・・・・・)の建物だったらしくて、日記には次第に悪霊によって狂気に飲み込まれていく様が描かれていた。……私のこの目は、見えなくていいものが見える。だからわかるの。その悪霊が、誰に取り憑いているのか……』

 

 そして見崎は、ゆっくりと腕を上げて指をさす。それに合わせてカメラのアングルが見崎からその指先の方へと移った。

 

『私のこの左目は、あなただと告げている』

『そんな……』

『杉浦さんが……?』

『……やっぱりね。そういうことだったんだ』

 

 しかしスクリーン内の杉浦さんは、視線を一斉に浴びつつも全く動じない。代わりに、台本片手に練習していた頃よりも遥かに冷たさを増した、鋭い眼光で見崎を睨み返した。

 

『そんなこと、言い出したあんたが1番怪しいじゃないの。だったら簡単なことじゃない。……疑わしきは罰せよ。お前を死へと還せば、この惨劇は終わる……!』

『何を……!』

 

 映像内の僕の台詞が言い終わるより早く、杉浦さんの右手に銀の何かが煌く。部屋に置いてあった果物ナイフだ。無論、撮影の際使用したのは切れるはずのない小道具であるが。

 それを彼女は見崎に向けるでもなく右手に持ったまま、ゆっくりと口を開いた。

 

『最初からあんたが怪しいと思ってたのよ。何が見えないものが見える目よ。そうやって私を犯人に仕立て上げて、自分の疑いを逸らすつもりでしょ? ……そもそもここに避難するように勧めたのも私の記憶だとあんただったはず』

『……だから、そのナイフで私を刺そう、ってわけ?』

『その態度は自分が殺人鬼です、と肯定したと捉えていいのかしら?』

『待ってください! クラスメイト同士が命を奪い合うなんて……!』

『この期に及んでまだそんなことを言ってるの、委員長? 昼行灯(ひるあんどん)もいいところじゃない? この状況、2人を殺した人間がこの中にいるのは明白。そしてその子は私が犯人だと言い出した。混乱を誘って私達を同士討ちでもさせるか、自分から疑いの目を背けさせて混乱に乗じるつもりじゃない? どう考えても怪しいじゃないの』

『でも……怪しいからってそんな……』

『じゃあ黙って殺されろって言うの!?』

 

 激しい剣幕で杉浦さんが怒鳴った。次いで訪れる一瞬の静寂。この辺りも最初の練習の頃から比べるとまるで別人のようになった部分だ。

 

『私はやってない。たとえ誰も信じてくれなくとも、私自身がそれは真実に他ならないと知っている。そして、私自身殺されるつもりもない。ここから絶対に生き延びてやる……!』

 

 続けて静かに、しかし明らかに敵意に満ちた言葉が、スピーカーを通して教室に響き渡る。言い終えると同時に彼女はゆっくりと足を踏み出した。

 

『……やっぱりダメです!』

 

 そこへ暴走するクラスメイトを止めようと桜木さんが背後から抱きつく。それを振りほどこうとする杉浦さん。そして2人はもつれ合う。刃物を持った人間と止めようとする人間、そんな2人が揃ったら、あとは昼ドラでよくある展開だ。

 

『ああっ……!』

 

 悲鳴とも困惑とも取れない声と共に画面の中の桜木さんが崩れ落ちる。そして床に赤い血溜まりが広がった。それを見て、刺してしまった当人の手から凶器が零れ落ちる。

 

『そんな……委員長……。私、あなたに対してそんなつもりは……』

 

 その瞬間、画面を一瞬黒い影が横切る。ゆっくりとカメラが横切った影をパンしたその先に――杉浦さんに体を預けるように密着した見崎の姿があった。

 

『あんた……やっぱり……!』

 

 その手には、杉浦さんが握っていたものと同じようなナイフが握られていた。赤い染みが広がる腹部を一瞬映した後で、アングルが切り替わる。特訓の成果だろう、怨嗟の言葉を吐き出した杉浦さんの表情は憎悪そのものと言ってもよかった。が、不意にそれが消え、彼女も己が刺してしまった人の横へと崩れ落ちる。

 

「……手前味噌とは思うけど、なかなかいい顔してたわね、私」

 

 と、先ほどスクリーンに映し出された表情と真逆、普段通りの無表情で観賞していた杉浦さんがポツリと呟いたのが聞こえた。いやはやなんとも対照的、やはり彼女は憤怒やら憎悪やら、そういう表情より今のような特に色のない表情の方が似合っていると思う。

 

 一方、今後の展開を知っているために僕はそんな思いを馳せ、同時に自分の番も近づいてきたかとか考えていたわけだが、物語の方はそろそろ佳境。これで生き残っているのは僕と見崎の2人だけ。見ているお客さんの側としてはどう締めくくってくるのかが気になる頃だろう。

 

『終わったの……?』

 

 画面の中の僕が問う。血糊の滴るナイフを手に、しかし彼女は答えず、加工された音ではあったが、雨の音だけが響いていた。

 

『終わったんだよね……?』

 

 再度、画面の中の僕は問いかけた。だがやはり彼女は答えない。代わりに天を仰ぎ、小さく息を吐き出し、左手で義眼の前を覆った。

 

『さっき……言ったよね? 確か、犯人は彼女だ、って。だって君のその目には見えなくてもいいものが……』

『……私のこの左目には見えなくていいものが見える。だから、誰に悪霊が取り憑いているのか、それがわかる……』

 

 見崎の肩がわずかに上下する。ややあってそれが止み、ゆっくりと見崎が僕の方へ、カメラの方へと首を傾けた。直後、後付の特殊効果であろう、画面が一瞬光り轟音が轟く。すなわち、雷に映し出された形となり、左手をずらして翡翠に輝くその目を見せつつ、あくまで無表情のまま彼女はゆっくりと口を開いた。

 

あるわけないじゃない(・・・・・・・・・・)そんなこと(・・・・・)

 

 ヒュン、とナイフを振り、まだ垂れていた赤い液体が飛ぶ。次いで彼女はゆっくりと歩き出す。

 

『でもね、さっき言ったこと、何も全てが全て嘘ではないの。この館に巣食う怨霊、あるいは悪霊。それがいるのは本当よ。だって……今も私にささやきかけてくれるもの。……血が足りない、もっと血が欲しい、って』

『待っ……!』

 

 スクリーンの中でナイフを持った見崎が、僕の声を無視して駆け出す。間一髪、それを避けた代わりに体勢を崩して尻餅。いよいよ獲物を追い詰めたと、彼女は順手に持っていたナイフを柄の根元の部分を支点にして逆手へと持ち返る。そして、覆い被さるように僕目掛けてそれを振り下ろした。

 

 今だから言うと、僕はこの時演技ということを忘れかけていた。練習のときは見崎、というかそもそも異性と接近する、というだけでできるかという不安やら恥ずかしい気持ちやらで散々ダメ出しされたのを覚えている。なのに、実際オッケーが出たこの時はそういう心は微塵もなかった。というより、練習していたからかろうじて「避けて尻餅をついた先にある、さっき杉浦さんが落としたナイフを手に取り、逆に彼女に向ける」という台本に書かれていた通りの行動が出来たのだと思う。

 

 画面の中で、彼女の手から逆手に持ったナイフが滑り落ちる。次いで、彼女はもたれかかるように僕にその体を預けた。

 

『見崎!』

 

 叫び、彼女を仰向けに寝せる。小道具用の血糊が、彼女の腹部を赤く染めていた。

 

『よかったの……これで……』

『なんで……どうして……!』

『さっき言ったことは本当……。でも、自分の意思で止めることが出来なかった……。だけども……それももう終わり……。だから……これでいいの……』

『いいわけないじゃないか!』

『いいの……。だってこれでこの館の呪いは解けて……何より私は……あなただけは傷つけたくなかったから……』

 

 ランナーズハイという言葉がある。走り続けると気分が高揚し、普段以上の走りができるだか疲れを感じなくなるだか、そういったものだったと思う。そこに似せようとするなら、あの時の僕はプレイヤーズハイとかアクターズハイとでも言うべきだっただろうか。あるいは以前千曳先生の話を聞いたときに出た「憑依する」というものだろうか。演技、ということをすっかり忘れ、あたかも本当の出来事であったかのように感じ、しかし練習をしていたためになんとか段取りは踏まえられていた、という状態だった。

 

 だからあの時、作り物の血糊とわかっていても、見崎が真っ赤に染まった手で僕の頬に触れた後、力なく垂れていくその手を握った時は、まるで本当に見崎が死んでしまうのではないか、自分がこの手で殺めてしまったのではないかと錯覚したほどだった。

 

 結果、最後の僕の慟哭シーンはもはやアドリブと言ってもいいほど練習とかけ離れたものになってしまった。同時に、今僕がそれを見直すのはいささか恥ずかしい。彼女の名を叫び、小道具を使ったでもなく涙を流す自分の様を、今現在冷静になった自分が見るのは到底無理だ。ここを見たくなかったから部屋に入ってきたくなかったと言うのに。

 

「……いや、いつ見ても名演技だよな、これ。お前すげえよ」

 

 そんな僕の心を知ってか知らずか、傍らの勅使河原が肘で小突いてきながらそう言ってきた。からかい半分、感心半分と言ったところか。恥ずかしいので無視を決め込む。どうせこれが終わったら外に出て見送りで、後はしばらく自由時間を取れることだろう。自己嫌悪しながら文化祭を見て回って、忘れるのがいい。

 

 映画自体はもう終わる。暗転して僕の最後のナレーション、それからスタッフロールで終幕だ。

 

『こうして、惨劇の夜は終わりを告げた。正当防衛とはいえ、自分の手で殺めてしまった少女の傍らで、僕は気づいたら眠ってしまったらしい。天候が回復して陽の光りで目を覚ました僕は我が目を疑った。

 

 傍らにいたはずの少女が、いなかった(・・・・・)のだ。

 

 それだけではない。その後の調査でも彼女の指紋や血液すら検出されなかった。クラスメイトに聞いても誰に聞いても、そんな人間はいなかったと皆口を揃えてそう言った。

 では一体彼女は何者だったのだろうか。彼女を刺してしまった感触は確かにこの手に残っているはずなのに、あの最後に傷つけたくなかったと言ってくれた言葉もこの耳に残っているはずなのに、その少女はどこにもいなくなってしまったのだ。

 

 そう、まるで初めから彼女は『いない者』であったかのように……』

 




劇中劇をどうするか、具体的には構成は練れていたのですがどう表現するかで迷いに迷って4ヵ月半も滞ってしまいました。場面転換して三人称に切り替えるのも考えたのですが、結局恒一視点であくまで劇であることを強調しつつ、そこそこ劇中劇の内容もわかるようにこの形にしてみました。

さて、劇中劇ですが、原作に対するアンチテーゼといいますか(あなざー自体がそうといえばそうなのですが……)原作を読んでいた時に自分が予想した結末、という考えで書いています。要するに読んでるときは「死者」は見崎なんじゃないか、と思ったわけで。いい意味でそれは外れたので見事彼女は未だにヒロインなわけですが。
また、原作っぽい展開を劇中劇でやってみる、という試みもありました。どちらかというとアニメのラストの方ですかね。

とにかく劇中劇で大分難儀しました。が、実を言うとこの後の演劇部の方ももう1度別な劇中劇を描く予定でいるため、また難儀しそうです。


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#28

 

 

 かくして我ら3年3組の創作映像作品「The Eye-ing ~アイイング~」第1回上映は無事終わりを迎えた。なお、このタイトルは脚本の柿沼さんが希望したものであり、ある有名なホラー映画のタイトルをもじったのと、物語のキーであった見崎の「目」にかけてこれにした、とのことだった。タイトルを決める際、勅使河原が難癖をつけようとしたが、「だったら『呪いの館』にでもする?」というど直球な名前をそう責任者に提示されては反論もできないというものだ。……まあ僕としては自分のナレーションのラストで使った「いない者」というフレーズがしっくりきてるのでそれでもいいかと思ったが、ある意味で大オチの核心をつくものなために、今回の最大の功労者のネーミングにどうこう言おうという気はまったくなかった。

 

 それはさておき、今は初回上演を見てくださったお客さんを見送っている最中である。見崎はやはりいないが、それでも実際演じていた人間が見送るのはなかなか悪くないもので、「よかったよ」とか「怖かったー」などという感想を生で聞けるとやってよかったという思いはこみ上げてくるものだった。ただ、やはり「最後のあのシーン、熱演だったね」なんてことを言われるとどうも恥ずかしいわけだが。

 しかしこの場に見崎がいないのは少々勿体無いと感じる。「あの犯人役だった眼帯の子はここにいないの?」と聞いてくる人は少なくなかった。義眼に興味がある様子の人もいれば、「あのナイフ片手に首を傾けてこっちを見たときの顔、すごく怖かったって伝えておいてください!」なんて言って来る若干ミーハー気味な女子もいた。この場に見崎がいたら大人気だったろうに。そんな風に人に囲まれる見崎なんてレアな図柄も見られたかもしれない。

 まあいない者ねだりをしてもはじまらない、劇中で「いない者」と呼んだだけに。……我ながらイマイチだった。ともかく、まさかここまで好評で色々話しかけてくるお客さんが多いとは思わず、嬉しい悲鳴で僕は対応に追われていた。

 

 が、嬉しい悲鳴が本当の悲鳴に変わりそうな事態が起こってしまった。見送りの人の中から、「おーよかったぞ、ホラー少年!」などという声が聞こえてきたのだ。

 

「げっ……。水野さん、今の見たんですか……?」

「見たんですか、じゃないわよー。よかった、すっごくよかった! そこら辺の金使って映像キャスト豪華なだけのホラー映画より遥かによかった! 喜びたまえ、これで君は名実共に立派なホラー少年になったのだよ!」

 

 何言ってるんだこの人、と思わず突っ込みたくなる。名実共に、ってなんだよ……。

 

「いやあ弟から話聞いたときにこの日に合わせて早々に有給取っておいて正解だったわ! ストーリー自体は割りと有り触れてる内容だけど、逆にそこに好感持てるわね! シンプルイズザベスト! 犯人役の子がこっち見るシーンとかいかにもツボ抑えてあってよかったわよ! あとタイトル! 偉大なるあのホラー映画の金字塔にかけてる辺り、これ考えた人筋金入りのホラー好きに間違いないでしょ!? あとで紹介してよ、きっと1日中語らえるわ!」

 

 これはひどい。いつにも増してテンションが高い。このマシンガントークを越えるようなガトリングトークは放っておいたら延々続くんじゃないかと不安になる。

 しかし幸いなことに、見送りのメンバーに彼女の弟、水野猛君がいた。彼は「おい姉貴、いい加減にしろよ」と止めに入ってくれたのだ。

 

「何よー、褒めてるんだからいいじゃないのよ」

「主演を独占すんなよ。他に話したい人だっているだろうし、何より榊原君も迷惑してるだろ」

「してるわけないでしょ。彼が入院してるときは面倒見てあげた仲なのよ?」

 

 いえ、はっきり言って迷惑してます。そして誤解を招くようなことを言うのもやめてください。

 とにかく、水野弟は水野姉をなんとか抑えることが出来たようで、その隙をついて別な人が感想を述べに近づいてきた。そこで僕が話しているのを見て水野さんも諦めたのだろう、弟さんと会話を交わした後で名残惜しそうに去っていった。

 

 と、そんなこんな、色々な対応に追われていたおかげで、僕はその場を離れることは出来ないでいた。そのため、見たことのある背中を見つけはしたのだが、それが遠ざかっていくのを目にしつつも見送ることしかできなかった。声をかけたかったのだが、話しかけてくるお客さんはひっきりなしにいる。見間違いか、あるいはまあ後で声をかけに来るだろうと思い、その場はお客さんの対応に専念することにした。

 

 しばらくしてようやくお客さんの見送りが終わった。受付担当を残してその場にいた全員が流れ的に教室に入り、ミニ反省会のような雑談会へと移行していく。

 

「いやあすげえじゃねえか、大好評! まさかこんだけとは思ってなかったぜ!」

 

 すっかり気を良くしているらしい勅使河原はハイテンションでそう切り出した。

 

「まったくね。ここまで好評価だと、演技指導した甲斐があったってものだわ」

「柿沼さんもほんとご苦労様! 脚本の評判いいし、映像編集も見事だよ!」

「……私としてはやっぱりもっといかにもなホラーにしたかった」

 

 まあまあ、とそこはその場の全員でなだめる。どうも彼女はもっとホラーホラーしたかったらしい。さっきミーハー気味の女子が言ったことじゃないが、見崎がナイフ片手に首を傾けたあのシーンはかなりホラーだったと思うのだが……。

 

「とにかく、かなり好評みたいですし、次の上映での人の入り具合を見て、回数を増やそうか考えてます。そうなるとクラスの皆の負担も増えることにはなってしまいますが……」

「いいってことよ、桜木! 俺演者だったから事後の仕事免除されてるけど、こんだけ評価良けりゃやる気出ちまうぜ! 客整理とかは出来るしじゃんじゃんこき使ってくれよ! な、風見!」

「あ、ああ。そうだね。僕も勅使河原の意見に賛成だよ」

 

 やはりここでポイントを稼ぎに来たか、少年。まあよきかな、クラス皆の助けになることだ。ただ、僕は辞退させていただこうと思う。また自分の演技を見るのは少々堪えるものがある。

 

 そんなこんな、ひとまずの成功を皆で喜び合っていた、そんな時。

 密かに教室の後ろのドアが開いたことに気づいた。他の人達は会話に夢中だったからだろうか、気づいた人はほとんどいない。入ってきたのは左目に眼帯をつけて短く揃えられた髪の女子。一見すれば(・・・・・)今回の創作劇で主役を務めた見崎鳴に見えるだろう。

 だが僕には違うとわかる。まあ理由は色々あるが……。1番大きいのは彼女が私服(・・)という点だ。

 

「あれ? 見崎じゃね? なんだよお前、見送りにも来ないで今頃のこのこ来やがってよー」

 

 その勅使河原の一言で皆が彼女の存在に気づいたらしい。一気に視線が集まる。しかし彼女はよほど神経が太い(・・・・・)のか、全く堪えた様子がない。

 

「ちょっと見崎さん? 最初の上映の見送りの時にいなかったのに今頃ご登場とはどういうつもりかしら? それにその服装……制服はどうしたのよ?」

 

 赤沢さんが棘のある一言を投げかける。が、やはり、というか、彼女は何も答えない。

 無視された、と感じたのだろう。舌打ちをこぼす音が聞こえた。ああ、これはまずい。このままだと誤解を広げかねない。当初は穏便に済ませたかったが、当の本人がこれだけどうどうと入ってきているのだから、もう細かいことはいいだろう。赤沢さんからの二言目が出る前に、僕は口を開く。

 

「ところで、今現在この部屋は関係者以外立ち入り禁止だけど」

 

 その僕の一言で、ようやく彼女は反応を見せた。一瞬肩をビクッと震わせ、僕の方を仰ぎ見る。

 

「……何言ってるの?」

 

 彼女のセリフに同調するように周りの視線も僕へと集まってくる。……なんだか僕が注目の的みたいになってしまった。これはあまり面白い(・・・)展開ではない。種明かしをしようかと僕が口を開きかけた、その時。

 

「……あなた、『ミサキ』でしょ? 藤岡未咲(・・・・)。何してるの?」

 

 予想していないところから彼女の本名(・・)が飛び出したことに驚き、僕はその声の主を見る。見れば、他のクラスメイトも、そして呼ばれた藤岡未咲本人(・・)もその様子だった。

 

「あーっ! さゆりん(・・・・)じゃない!? 柿沼小百合、そうでしょ!?」

「そうだけど……」

「うわー、ひっさしぶりー! 元気してた!? 5年ぶりだっけ? 変わんないねー! あ、さっきの映画の脚本書いたんだっけ? よかったよ、あれ! さっすがさゆりん!」

 

 もはや見崎のフリ(・・)をする気もなし。彼女はキャーキャーと騒いで柿沼さんと2人だけの世界に入りつつある。そんな2人についていけないとばかりに、赤沢さんはため息をこぼして僕へと声をかけてきた。

 

「恒一君、何か知ってるんでしょ? さっき彼女が入ってきた時に『関係者以外立ち入り禁止』って言ってたし。どうも見崎さんじゃないみたいだけど、彼女何者?」

 

 今この場にいる、状況を知らない人達皆の疑問だろう。やれやれと僕もため息をこぼし、答える気が全くない本人に代わって解答することにした。

 

「彼女は藤岡未咲さん。このクラスの見崎鳴の……従妹だよ」

 

 双子の件は伏せて、表向きそういうことになっている従妹、で僕は彼女を紹介した。それを聞いてその場にいた事情を知らないクラスメイト全員がざわついた。その頃になって、いや、おそらく柿沼さんに促されてだろうが、ようやく藤岡さん本人は全員に改まって頭を下げ、挨拶を始めた。

 

「あ、お騒がせしてしまってすみません。私、このクラスの見崎鳴の従妹、藤岡未咲です。いつも鳴がお世話になってます」

 

 そう言うと、左目につけていた眼帯を外す。そこには本来見崎にあるはずの「翡翠の目」はなく、見た目こそそっくりであれど見崎鳴とは別な人であることをはっきりと表していた。

 

「見崎さんの……従妹!?」

「マジかよ!? すっげえそっくりじゃねえか! ってか見崎の苗字と同じ名前だし!」

 

 口々に皆が思ったことを話し始める。だが彼女のの正体を知っている僕の興味はそこと別なところにあった。

 

「柿沼さん……藤岡さんのこと知ってたの? さっき藤岡さんに渾名か何かで呼ばれてたみたいだけど……」

「ええ、まあ……」

「さゆりんとはね、私が小5になる時に転校するまで親友だったの。書いてる物語が面白くて、いつも読ませてもらってたんだ」

「見崎さんの義眼のことは……前もって未咲に聞いて知ってたの。だから、以前からそれを使った案は考えていたこともあって、犯人役を見崎さんにお願いしたくて……」

 

 なるほど、とようやく事態を把握した。柿沼さんが見崎の目のことを知っていた理由、犯人役に彼女を推薦した理由。加えて、そういえば藤岡家は霧果さんの要望だったか少し遠くに引っ越した、という話も思い出した。柿沼さんとはそのときまで仲が良かったということか。

 その時、「……ああ、そういうことか」という声が聞こえてきた。声の主は杉浦さん。何事かと僕が問うより早く。

 

「何がそういうことなのよ、多佳子?」

「泉美、以前言わなかった? 小学校の時見崎さんそっくりな子を見かけてたけど、5年生ぐらいの時に転校して行った、って。……藤岡さん、だったかしら? 柿沼さんと一緒ってことは私とも同じ小学校のはず。転校する前は紅月小に?」

「はい、そうです。転校した後は朝見台小ですけど。……というか、さっき映画で鳴に刺された人ですよね!? すっごかったです! あの鳴に刺された瞬間の顔、とても怖かったです!」

「あ、あはは……ありがと。……やっぱりね。何が『ドッペルゲンガー』よ。性格真逆だけど容姿はくりそつ(・・・・)な従妹が、我が母校に在籍してたってだけの話じゃない。幽霊の正体見たり枯れ尾花ってことね」

 

 「はぁ?」と勅使河原は解説を求めるが彼女はそのつもりはないらしい。後学のためにも、彼には後で辞書を引いてもらうなり誰かに聞いてもらうなり、自主的に調べてもらいたいところだ。

 ともあれ、予想外の藤岡さんの登場でクラスが混乱気味なのは事実だ。「朝小に見崎さんそっくりな子っていたっけ……?」などと有田さんや佐藤さん、渡辺さん辺りが話している。

 そこでざわめきを切り裂き、「あーっ!」という声が響く。もう声の主を確認するまでもない。今現在この場のトラブルメーカーとなっている藤岡さんその人だ。

 

「渡辺珊さんですよね!?」

「え!? え、ええまあ私の名前はそうだけど……」

「あのベーシストの『SUN』ですよね! この間鳴に頼んでサインもらったんです! 同い年なのに演奏かっこよかったし私ファンになっちゃって……」

「ちょ、ちょっと待って! ベーシストとか、私そんな大したものじゃないし!」

 

 ……ミーハーだ。サインをもらった、と聞いたときから思っていたがそれ以上にミーハーだ。さっきの杉浦さんへの絡みといい相当だ。彼女がいて今クラスが盛り上がってるのは事実だが……一応反省会も兼ねているから、あまりかき乱されると困るところだろう。

 

「藤岡さん、クラスの皆と仲良くしているところ申し訳ないんですけど、これから少し今後の方針も話し合わないといけないんです。ですので……」

 

 やんわりと、しかしはっきりと席を外してほしいという意図を込めて発言したのは桜木さんだった。さすがクラス委員、まとめるのがうまい。というか、ここで引かないとはっきり言って後が怖い。

 

「あっ……。そうですよね。すみません、私調子に乗ってはしゃいじゃって……。鳴がさっき見送りの場にいないものだからってつい出来心で潜り込んじゃいました……」

「いえ、いいんです、わかっていただければ。じゃあ……榊原君、彼女を案内して一緒に文化祭を回ってきてはどうですか?」

「えっ!? 僕が!?」

 

 と、そこで不意に僕に矛先が向いたために、意図せず間の抜けた声を出してしまった。

 

「はい。彼女と顔見知りみたいだし、メインキャストに追加で役割を分担するのもなんなので。まあ気が向いたときにまた見送りにでも戻って来てもらえれば十分ですよ」

「でもメインキャストっていうなら、桜木さんも……」

「私は早々に杉浦さんに刺されて退場してますし」

「……なんか引っかかる言い方よね、それ」

 

 杉浦さんの抗議の声に対し、彼女は無視を決め込んだらしい。あくまで僕に笑顔を向けてくるだけだった。こうなってはやむを得ない。委員長の方針に従うことにした。

 

「じゃあ……お言葉に甘えて」

「はい。いってらっしゃい」

 

 クラスメイトの集中するまなざしを――特に本番前だからか、やけにピリピリしたような視線を赤沢さんから感じたが――僕は藤岡さんを連れて校内を回ることにした。部屋を出ようと言うところで再び藤岡さんが皆に頭を下げる。

 

「じゃあこれで失礼します、お邪魔してすみませんでした。映画、すごく面白かったです。あと、鳴とも仲良くしてあげてくださいね」

 

 そう言い残し、彼女は仲が良かったという柿沼さんに笑顔で手を振って部屋を後にした。手を振られた柿沼さんの方は無表情ではあったが、一応右手を上げて応えているようではあった。とりあえず僕もそれに続き、教室を後にする。

 まあそれはいいのだが、どうにもこうにも……。これはあとで勅使河原辺りにいいようにいじられるんじゃないかという予感だけはしてならなかった。

 

 

 

 

 

「それで、どこに案内してくれるの、榊原君?」

 

 さっきまでの騒動をまったく反省した様子もなく、傍らを歩く彼女は楽しそうに僕に尋ねてきた。

 

「その前に藤岡さんさ……。よくああいうこと出来るよね……」

「ああいうこと?」

 

 あれだけのことをやっておいて「記憶にございません」とばかりに指を顎に当てて考え込む彼女を見ていると、本当に見崎の「半身」かとどうにも疑問に思えてくる。

 

「見崎のフリをして平気で部屋に入ってきちゃうってこと」

「ああ、そんなことか」

 

 そんなこと、ではすまないと思うのですが……。だがそれでも彼女にとっては取るに足らない些事らしい。

 

「だって部屋出た後、あそこで普通に榊原君と話しても面白くないじゃない? しかも脚本さゆりんだったし、主演のくせに鳴はあの場にいないし……。だったらもう潜り込むしかないと思わない?」

「思わないよ……。少なくとも僕は」

「むー、そんなもんかな……。榊原君はさ、探究心というか冒険心みたいなものをもっと持ったほうがいいんじゃないのかな?」

「君が持ちすぎなだけだと思うよ」

 

 あはは、と笑いながら「そうかもねー」などと彼女は他人事のように答える。そんな彼女の様子に僕はため息をこぼすしかなかった。

 

「それで最初の話に戻るけど、どこに案内してくれるの?」

「どこって言われてもね……」

「あ、じゃあ最初に鳴探そうよ」

 

 なるほど、それはいい案だ。しかしもしかしたら……探しているだけで文化祭が終わってしまう可能性もある。

 

「実は初回の上映前に心当たりある場所に行ったんだけどいなかったんだよね……」

「他に心当たりある場所は?」

「あるにはあるけど、いるかどうかは」

「じゃあこれ使えばいいじゃん」

 

 そう言って彼女は懐から携帯を取り出す。ああ、そうか。何故気づかなかったのだろう。今なら番号がわかるんだから、その方法があったじゃないか。

 言うが早いか、藤岡さんは慣れた手つきで携帯を操作し、電話を耳元へ近づける。ややあって、あまり周りの目を気にした様子もなく話し始めた。

 

「あ、もしもし鳴? そう、私。鳴のクラスの映画見たんだけど、教室にいなかったからどこにいるのかなと思って。……え? 何気にしてるの? すごくよかったじゃん、あの『そんなわけないじゃない』とか言うシーンとかさ。……あーもう電話じゃ色々話し足りないから今いる場所教えてよ! ……はいはい、旧校舎の美術室の前ね。……ああ、大丈夫大丈夫。榊原君一緒だから迷わないよ。それじゃね」

 

 通話を終え、携帯をしまいつつ彼女は僕の方を見上げる。

 

「というわけで美術室前で待っててくれるってさ」

「旧校舎……0号館か。やっぱり第2図書室の方だったのかな」

 

 あそこは彼女にとってお気に入りの場所だ。今日もきっとスケッチブックで何かを書いたりしていることだろう。

 

 そう思い至ったところで、あることに気づいた。

 

「そうだ、見崎の展示品ちゃんと見てなかったっけ……」

「え? 展示品?」

「うん。美術部は文化祭に創作物を展示して……」

 

 そこまで言ったところで、失敗したという後悔が若干押し寄せてくる。確かに見崎のあの油絵が最終的にどうなったのかは見たい。見たいが、このまま藤岡さんを連れてあそこに行くということは、少々よろしくない事態になるのではないかという考えに至る。

 

「あ、じゃあ鳴の作品が展示されてるんだ。……あれ? 確か榊原君も学期明けから美術部に所属した、って鳴が言っていたような……」

 

 つまりは、そういうことである。さっきの映像作品の演技もそうだが、自分が急ごしらえで作ったあの作品を他人に、それも知っている人間に見られるのはやはりどこか恥ずかしいのだ。

 

「やった! じゃあ私2人の作品見られるんじゃん! ほらほら、早く行こうよ! 美術室ってこっちでしょ?」

 

 そんな僕の心など露知らず。彼女は案内役のはずの僕より前を歩き先導し始める。文化祭のパンフレットに校内の見取り図もある。だから間違えないのだろう。

 

「それにしても榊原君のクラスの人、面白い人ばっかだね。さゆりんいるし、珊さんいるし」

「『変わり者の多い3年3組』なんて言われてる。……君も余裕で入れると思うよ」

「えー? そうかな?」

 

 自覚無しですか……。あれだけミーハーにキャーキャー騒いでいたというのに。まあミーハーついでだ、もう少しそれで話を膨らませてみよう。

 

「藤岡さんさ、さっき部屋に入ってきた時に『どこ行ってたんだ』みたいに言ってきた髪2つに結んでる子と、入り口で受付やってたショートカットの子、覚えてる?」

「えーっと……。あのちょっときつそうな人? なんとなく覚えてる。後のほうの人は……うろ覚えだけど」

「あの2人、演劇部なんだけど明日の劇で主役なんだってさ。見たい?」

「え、ほんと!? 見たい見たい! ……よーし後でもう1回榊原君のクラスに行ってどの人がチェックしておこう」

 

 いやはやまあなんと言うか……。この様子では明日劇が終わった後にうちのクラスに来てサインとか求めそうだ。

 

 そうこう話をしているうちに0号館に着いてしまった。見崎は、と探すより早く、美術部の展示を見に来る人を避けるように廊下の隅に1人たたずんでいる姿が目に飛び込んでくる。

 

「鳴、やっほー!」

 

 藤岡さんも彼女を見つけたようで、人懐こい笑顔を浮かべながら駆け寄る。それに対し、見崎は特に反応はなく、藤岡さんに抱き疲れても無反応のままだった。

 

「どうしたの鳴? ご機嫌斜め?」

「……未咲、3組の映画見たんでしょ?」

「そりゃ勿論ばっちり。いい演技してたじゃない」

 

 それを聞くと見崎の眉が僅かに、面白くなさそうに動いた。

 

「あ、もしかして恥ずかしがってる?」

「……あまり見られて嬉しいものじゃないし」

「そんなことないって。さっきも言ったけどあの振り向いた瞬間の表情、ばっちりだよ。帰り際のお客さんも皆そのこと言ってたみたいだし」

 

 はぁ、と見崎はひとつため息をこぼした。おそらく彼女も僕同様、褒められるとしてもどうもむず痒い思いをしているのだろう。

 

「……あんまりその話したくない。なんだか、本当にやりたくないのに榊原君を刺さなくちゃいけない衝動に駆られたような思いで演じてたから、あんまりいい気分じゃなかった」

「あ、僕も一緒。なんだか本当に見崎を刺しちゃったみたいで。……見崎じゃなくても、親しい人の命を奪うとか、考えただけでもぞっとするよ」

 

 そんな同意見を述べた僕達2人を見比べた後で、藤岡さんはニヤニヤと笑みをこぼす。

 

「いやあお二人とも気が合うご様子で……。さすがあの映画の主役とヒロイン、ですねぇ」

「だから未咲、その話はやめてって」

 

 見崎にしては珍しく強い語気だったのだろう。「はいはい、了解」とそれ以上藤岡さんはからかおうとはしなかった。僕としてはそれは非常に助かる。

 

「……で、見崎は第2図書室にいたの?」

「今は入れない。さすがに部屋主も不在だからか、鍵がかけてあった。仕方ないから美術部の部室にいたの」

 

 確かに少し考えれば防犯と言う面から考えて第2図書室は施錠しておくのが妥当。なら仕方なく部室という選択だったわけか。

 

「一応。……赤沢さんが主役不在で見送るのは遺憾だとお冠だったよ」

「犯人役だった私がいたら皆寄ってくるでしょ? そういうの……好きじゃないし」

「そうだねー。『犯人役の子いないの?』って言ってる人いっぱいいた」

 

 藤岡さんの補足を受け、再び見崎はため息をこぼした。

 

「少し悪いとは思うけど、この後もお客さんの見送りに行くつもりはないから。……ま、それはいいや。展示品、見に来たんでしょ?」

 

 そういえばそうだったと思い出す。同時に、自分のあれが見られるのかと思うと、またしても少し重い気持ちになるのだった。

 だが見崎はこっちに関しては特段そんなことはないらしい。さっさと美術室へと入っていってしまう。遅れて僕達もそれに続いた。

 

 美術室の中にいる人の数はまばらだった。美術部の制作物という見る相手を選ぶということに加え、離れた旧校舎なせいもあるのだろう。

 展示されているものは様々だった。僕が制作したような粘土細工や、見崎が取り掛かったはずの油絵。その他定番の水彩画や意外なところではコラージュなんてやった人までいる。それらを眺めながら藤岡さんは「へー」だの「ほー」だの、関心した声を上げていた。

 

「……で、鳴のは?」

 

 ある程度見たところで彼女はそう尋ねてきた。それに対して見崎は無言で油絵の1つを指差す。どうやら見られることにそれほどの抵抗はないらしい。実のところ、僕もちゃんとした完成品はまだ見ていない。楽しみにしつつ、その絵へと近づいていく。

 

「へぇ……」

 

 今の藤岡さんのそれは、これまでの声と明らかに違うトーンだとわかった。かくいう僕も、意図せず感嘆の声を漏らしていたかもしれない。

 見崎の油絵は、かつて見たときと比べて変わっていた。以前見たキャンバスが引き裂かれたようなその超絶技巧はそのままに、しかし半分の顔は変わらず物悲しそうであったものの、もう半分は対照的に安らかな表情へと変わっていたのだった。付けられているタイトルは「半身」。

 

「……見崎、この絵のモチーフ……霧果さんだよね?」

 

 聞こうか迷ったが、僕は思った疑問を口にする。

 

「……まあ、ね」

「でもどうしてタイトルが『半身』なの? 僕の中でその言葉を聞くと……その、君と藤岡さんを思い浮かべるんだけど……」

「あの人も……お母さんも、同じじゃないかって思ったの」

「同じ?」

「そう。お母さんは流産で我が子を失った。それこそ、我が身の半分を失ったようなものだと思う。……確かに私は養子ではあったけど、我が子のように愛情を注いでもらった。でもいくらそうしてもらったところで、養子の私じゃその心は埋められないんじゃないか。だからああやって人形を作り続けてるんじゃないか。ずっとそう思ってた」

「鳴……」

 

 どこか申し訳なさそうに、藤岡さんは見崎の方を仰ぎ見る。だがそれに対して見崎は首をゆっくり横に振った。

 

「そんな顔しないで、未咲。……今の話にはまだ続きがあるの。確かに私は霧果の実の子じゃない。だけど、人並み以上に注いでもらったであろう愛情は本物だと思ってる。なら……きっと私達は血の繋がりとか関係なく、いつか親子として繋がれるんじゃないか。そうも思えるようになってきたの」

「見崎……」

 

 正直言って驚いた。夏に会ったときは少し余所余所しく霧果さんのことを呼んでいたために心配したのだが、杞憂だったか、あるいはちゃんとお互いに話し合って、一時的に齟齬が生まれていただけかもしれない。もしくは、たまにしか帰って来ないと言っていた、今も世界を飛び回っているであろう彼女の父の存在もあるだろうか。とにかく、見崎がこのことに自分なりに、そして前向きに解決を目指しているとわかって、安心したような、改めて彼女に感心したような、そんな感覚を覚えていた。

 

「だからね、これはそうなった時……お互いに『繋がった』時に、お母さんが見せてくれるであろう表情を願って、半分を描き変えた絵。……夏休み明けから手直しなんて結構無茶やったおかげで、制作完了がギリギリになっちゃったけど」

 

 それでも、僕はこの絵を、月並みな言葉で申し訳ないが、心から素晴らしいと思った。キャンバスが破けているのではないかと錯覚させるような見崎の超絶技巧もさることながら、願いを込めて描き直された絵。この絵の通りになってほしいと、僕は思うのだった。

 

「……鳴、変わったね」

「そう?」

「前はもっと……悲しいような絵が多かった気がした」

 

 そう言って感慨深げな表情を浮かべた後で――藤岡さんは突如ニヤッと笑みを浮かべて顔の色を一新させた。

 

「……さあ! 次はお待ちかね、榊原君のだよ!」

 

 ああ、そうだった。見崎の見事な絵といい話ですっかり忘れていたが、そういえば僕のもここに展示してある。そして彼女はそれを見るためにここに来たのだった。

 あいにく僕は見崎のように「見られても構わない」というほど自分の作品に自信があるわけでない。なにせ入部して短期間で、自分としては全力を尽くしたつもりでも、結局は突貫工事となってしまったことは否めないからだ。

 それでも案内しないわけにはいかないだろう。粘土細工が展示してある一角へと足を運び、「これだよ」と、決まりの悪そうに自分の作品を紹介した。

 

 もしかしたらからかわれるとか、見崎の素晴らしい油絵の後と言うこともあるから笑われて、「もっと頑張りなよー」とか冷やかされるのも覚悟していた。だが2人ともそんな反応は微塵も見せず、お世辞にも出来がいいともいえないであろう僕の作品を何やら思うところあるように眺めているだけだった。

 

「何か……感想とかは?」

 

 さすがに不安になり、思わずそう尋ねる。しばらく考えた様子の後で、見崎が口を開いた。

 

「……なんか、榊原君っぽい」

「うん、榊原君っぽいよね」

「……それ、褒めてるの?」

 

 馬鹿にされたわけではないだろうが、褒めてるとも捉えにくい。どう反応したらいいか、逆にこっちが困ってしまった。

 

「だってこれ、鳴の影響受けてるでしょ?」

「まあ……否定できないね」

「だけどこういうの……嫌いじゃないかも、ね」

 

 なんだか複雑な心境だが、まあよしとしよう。慣れない作業を、クラス出し物と並行して短時間で仕上げたにしては上出来、そう思うことにする。少なくとも、目の前の2人にはそこそこ好評価のようだ。

 

 僕は改めて自分の作品へと目を移す。実に単純な、右手の手首から先だけを模して粘土で作った制作物。「繋がり」というタイトルをつけたその作品を、やはり自画自賛する気にはなれず、僕はどうしたものかと思いながら目を逸らすことしかできなかった。




ホラー映画とか怖くて見られないので、もじってつけたタイトル元の映画は評判でしか知りません。

本編でも述べましたとおり、藤岡さんは4年まで紅月小→5年から朝見台小という設定で書いています。以前確か赤沢さんの設定で4年まで飛井小→5年から紅月小ということを書いたかと思いますが、行き違いになった形になります(ちなみに、桜木さんは飛井小出身、杉浦さんは紅月小出身の設定です)。
有志がまとめたモブの住所表から適当に小学校名つけて、「おそらくそこに通っていたんだろう」なんて考えで書いてるだけなんですけどね。

あと渡辺さんの「デスメタルでベースをやっている」までは公式設定ですが、「SUN」なんてベタベタなネーミングはオリジナルです。「珊」だしまあそれでいいかと深く考えてもいなかったり。


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#29

 

 

 文化祭2日目。まだ開場時間となっていない今は朝のホームルーム中だ。上映仕様となっているため教壇も生徒用の机もない我らが3組の教室だが、生徒は来客用の椅子に適当に腰掛けて壇上の久保寺先生の話に耳を傾けている。

 

「素晴らしい客入りです。委員長である桜木さん主導で上映回数を増やしたそうですが、それでも滞りなく大好評……。担任としてはこの上ない喜びです。……ああ、思い出せば職員会議で各クラスの出し物の確認の時、『いくら創作劇とはいえ、生徒同士が傷つけあうような内容のものはいかがなものか』と槍玉に挙げられたものでした。それでも皆さんのやりたいものをやってこその文化祭だと主張し続けた甲斐があったというものです」

 

 まだ文化祭は今日1日残っている。しかし先生は早くも無事に成功して終了したと言わんばかりの、何やら熱の篭ったような雰囲気でそう述べていた。

 

「先生、まだ文化祭は終わってません」

 

 そこで桜木さんが冷静な突っ込みを入れる。それに我に返ったか、「……そうでしたね」と言ってからは、普段の久保寺先生だった。

 

「それでは今日も大きなトラブルなく、クラス展示として上映会が出来ることを祈っています。しかしそれであると同時にうまく時間を見つけ、文化祭を回ってみてください。中学生最後の文化祭です。是非とも楽しむように。……よろしいですね」

 

 相変わらず適当なのかどうなのか、掴みどころのない先生だ。だがさっき言った話が本当なら、僕達が今回のショートムービーを作れたのは、先生が無理を通したからとも言えるのかもしれない。その辺りクラス思いではあるのかな、とも思うのだった。

 

「では私から事務的な話は以上です。今後、今日の予定等はクラス委員の桜木さんにお願いします」

「はい」

 

 先生は教壇を降り、代わりに桜木さんが教壇に上がってこちらを見渡す。

 

「昨日はご苦労様でした。上映回数を増やしましたがまだまだ人気なようですので、今日も増やそうと思っています。改訂版の予定表を張っておきますので、分担された方で不都合な点がありましたら私に言ってください。それから……」

 

 チラリ、と桜木さんは窓際の椅子に腰掛ける赤沢さんの方へと視線を移す。

 

「今回の創作劇で演技指導役を買って出てくれた赤沢さんと、綾野さんが主演の演劇部の上演は14時からですので、是非皆さん足を運んでください」

「ちょ、ちょっとゆかり! あんたその場で関係ないこと言ってんじゃないわよ! 職権濫用よ!?」

 

 動揺した様子の赤沢さんの声にクラスから笑い声が上がる。しかし桜木さんは堪えた様子はまったくない。

 

「あら泉美、関係なくはないわよ? なんで上映時間、わざわざ13時台と14時台外してるって、演劇部見たい人多いと思ったからだもの。……あ、演劇部の主演はさっきの2人ですけど、クラスメイトの小椋さんも出演します。あと、ステージ発表のその前の枠は吹奏楽部ですので、このクラスから王子君、猿田君、多々良さんが参加します。さっき言ったとおりその時間は上映を外してますので、皆見に行ってあげてください」

 

 誰が始めたか、なぜか拍手が飛ぶ。どうせ勅使河原辺りだろう、「楽しみにしてるぜ」みたいな声が飛んできた。それを受けて当の6人は困ったように縮こまってるだけだった。

 ともあれ、今日は文化祭の最終日、2日目だ。 

 

 

 

 

 

 クラスの客入りは今日も好調だった。一応終わった頃を見計らって時々見送りに顔を出してみたが、出てくるお客さんは皆満足そう、かけられる感想も好評価なら嬉しい限りだ。……それでも最後の部分に触れられるのは避けてもらいたかったが。

 

 そうこうしているうちに時間はもう13時。僕は今体育館で、ステージ上の吹奏楽部の演奏を堪能している。最近の流行の曲を数曲やって、こういうお祭り騒ぎに定番な盛り上がる曲が演奏されている。

 

「むう、面白そうだと思うけど……。私としては珊さんのバンドの演奏聞いてる方が興奮するなあ」

 

 僕の思いと対照的、そんな感想をボソッと述べたのは、左隣で腕を組みつつ何やら小難しい顔をした藤岡さんだった。彼女は今日も来ると言うことだったので、演劇部を見るのに体育館に行くのならその前の吹奏楽部からどうか、と誘ってみたところ乗り気だったためにここにいるのだった。

 ちなみに、見崎は僕の右隣で特に何を言うでもなくステージを眺めている。昨日同様美術部の部室に篭っていることを突き止め、僕と藤岡さんで引きずり出したのだった。もっとも、演劇部のステージは見るつもりでいたとのことではあったが。

 

「吹奏楽ってなんだか大変そうなイメージあるからかな。楽器も高そうだし」

「バンドで使う楽器だって高いんじゃないの?」

「うーん、まあそうだね。バイトとかして買おうと思ったけど高校に入ってから、って親に言われちゃったし」

 

 ということは彼女は高校に入ったらバンドデビューをする予定でいるらしい。面白そうだ。ライブの際には是非お邪魔したい。

 そんな話をしているうちに、一応ながらとはいえ聞いてはいたのだが、吹奏楽部のステージは終わってしまった。体育館の中はその演奏を賞賛する拍手で包まれる。個人的にはクラスメイトのソロなんてものを聞いてみたかったのだが、それはなかったようだった。おかげで多々良さんがフルート、王子君と猿田君はクラリネットとわかってはいたが、実際にどんな音だったのか分からず仕舞いである。

 

「よーし、次はいよいよ期待の演劇部ね! 榊原君のクラスの主役2人はちゃんとチェックしたし、楽しみ!」

 

 そして彼女の関心は早くも次の演劇部の方へとシフトしていったようだった。

 

 改めて僕は手元のビラを見る。パンフレットの間に挟まれていた、今回の演劇部の公演について詳しく書かれたものだ。パンフレット中にも部の紹介文のスペースはあるものの、限られているために詳細な内容までは触れられない。また、他の団体やクラスの物に埋もれてしまうのも事実だった。

 そこで演劇部は前もって部費を割いて自前でビラを製作し、配布する文化祭のパンフレットの間に挟んでもらっているらしい。1度のみのステージ、かつそれなりに伝統のある部ということで多少優遇されているようだ。

 

 そのビラにはインパクトのある絵が描かれている。演劇部と美術部を兼部している2年生が書いた絵だとか綾野さんが言ってた気がする。右側に剣を構えた騎士と思われる人物と、左側に女性をかばうようにその前に立つ男性が描かれた、影絵調の絵だった。そのため、3人とも顔は黒く塗り潰されて表情を窺い知ることは出来ない。

 だがこの構図こそ下に簡単に書かれているあらすじとタイトルそのものであろう。タイトルは「演劇部創作劇 悲恋の騎士」。あらすじには「ある国に聡明な王子と、彼に忠誠を尽くす騎士がいた。しかし、その王子と結ばれるべき姫を目にしたとき、騎士の心は揺れ動く。これは、反逆者の烙印を捺され適わぬ恋とわかりながらも、己の愛を貫こうとしたある騎士の物語です」と書かれている。

 さらにその下にはキャストやスタッフがまとめられている。「騎士:赤沢泉美(3年3組)」「王子:綾野彩(3年3組)」という表記がまずあり、3年1組の姫役の人を挟んで「メイド長:小椋由美(3年3組)」という表記も見つけた。そこそこ重要な役らしい。確か夏に赤沢さんが「私が斬る」とか言ってた気もする。3組の演劇部員はすごいもんだと思うのだった。

 が、そう思うと同時……。いくらなんでもメイド長がちょっと小柄すぎる人選だったんじゃないのかな、とも思ったりする。少し意外なことに小椋さんはクラスで見崎や柿沼さんと並んでかなり背が小さい方なのだ。メイド「長」というには、少々不釣合いな身長じゃないかな、なんて思ったりもしたが、本人をそんなことを前に言ったら間違いなく怒られるだろうなとは思うのだった。

 

「……お客さん、増えてきたね」

 

 今さっき小椋さんと同身長、とか思った見崎に右側からそう声をかけられ、僕は辺りを見渡す。確かにさっきの吹奏楽部のときよりお客さんが増えてきていた。まあ我が3年3組もこの時間はフリーにしてあるから、見に来る人も多いだろう。

 

「早め、っていうか吹奏楽部のときからここにいてよかった。こんなに人が増えるなんて、すごい人気なんだね、演劇部」

 

 今の藤岡さんの言葉じゃないが、すごい人気だと思う。このままだと用意された椅子は埋まり、立ち見も出るかもしれない。一応クラスメイトが出ている、ということで吹奏楽部のステージからここにいて正解だったと思う。

 

 結局、「演劇部の創作劇は、間もなくの開演となります」というアナウンスが流れた頃には用意された椅子はほぼ埋まっていた。それにつられてか、隣の藤岡さんがやけに興奮した様子だった。

 

 さらにしばらく経って、小学校の時の学芸会を思わせるようなブザーの音と共に、幕が上がった。それと同時、会場から溜息とも感嘆とも取れない声が僅かに漏れる。原因は探るまでもない。かく言う僕だって思わずそんな言葉を漏らしそうだったし、隣の藤岡さんは隠そうともせず「かっこいい……」と呟いていたからだ。

 

『どうした!? それでは我らの主をお守りすることなど、叶わぬかもしれぬぞ!』

 

 今、よく通る凛々しい声を上げたその人、男装である赤沢さんに、皆見入っていたのだ。あの長い髪がどういう手品を使ったのか短くまとめられ、甲冑、というほどではないにせよ防具らしきものに身を包んでいる。それがさらに時折きつそう、とも見える容姿端麗な顔と合わさってまさに「男装の麗人」という言葉がぴったりだった。なるほど、3年連続主役は伊達じゃないと思えてしまう。

 手作りであろう城の中庭を思わせるようなセットをバックに、開演と同時に殺陣、というほどでもないが、切りかかる他の兵役の子の攻撃を避け、峰で反撃を打ち込む演技を彼女は見せる。どうやら、訓練の様子のシーンのようだ。

 

『よし、今日の訓練はここまで! 各自鍛錬は怠るな! 我らの主をお守りするために!』

『はいっ!』

 

 一斉に返事を返しただけだったが、赤沢さんに比べれば脇役であろう一般兵士役の演劇部員の演技は、やはり彼女ほどの迫力はないな、などと思ってしまう。でもそれを言い出したら、ずぶの素人で創作映画を撮った僕達の演技はどんなものか、という話になるだろう。

 

『今日の訓練も精が出るね、騎士長』

 

 そのセリフと共に、ステージの袖、つまり舞台上では城内から、という設定だろうが、1人の男装した人物が姿を現す。こちらもよく似合ってる。ショートカットの髪と、普段通りの明るい表情はまさに「王子」という役にぴったりであろう、綾野さんだ。

 

『これはこれは殿下。ご機嫌麗しゅう』

 

 王子役の綾野さんに片膝を付いて挨拶をする騎士役の赤沢さん。まるで普段と立場というか態度というか、そういったものが真逆であることにギャップを感じずにはいられない。

 

『それで、本日はいかがなされました? 我々の訓練のご見学に?』

『いや、正式な発表はまだだけど、君には先に会っておいてもらおうと思ってね』

 

 そう言って王子――綾野さんは「メイド長」と舞台袖に声をかける。「はい」という声と共に現れた2人に、再び体育館から溜息が漏れた。

 メイド長、と呼ばれた小椋さんはやはり予想通り、その肩書きの割には小柄で少々不釣合いではあったが、クラシックなメイド服がよく似合っていた。が、会場の反応は彼女に対してではないだろう。

 もう1人、明らかにお姫様、というのが相応しい格好の女子が現れた。派手過ぎず、しかし華やかな衣装を身に纏ったその3年1組の女子は違和感なく衣装を着こなしていて、かわいらしい顔立ちと相俟ってまさに適役と言ったところだろう。勅使河原辺りに聞けば詳しい情報を知ってそうだ、などとふと思った。

 

『お初にお目にかかります、騎士長様』

『こちらこそ、初めまして。……殿下、こちらは?』

『私の妻となる予定の……まあ現段階では婚約者だな』

『おお……。なんとお美しい……』

 

 赤沢さんの演技は普段と全く違う彼女を見ているようだった。クラスの創作映画で演技指導してもらっていたときも薄々感じてはいたが、本人は「かじっただけ」と言いつつも、まさにその役になりきっているように感じた。

 そこで舞台が暗転し、ナレーションが流れる。

 

『初めて目にした王妃に、騎士は動揺を隠せなかった。彼は彼女の美しさに心を魅かれた。抱いてはいけない気持ちと分かりつつも、彼はその心を抑えられないでいく……』

 

 ちょっと展開を急ぎすぎるナレーションかな、とも思った。が、あらすじに大まかにストーリーは書いてあるのだから、まあこんなものかとも思う。

 

 その後は騎士の揺れ動く心を中心に展開するストーリーだった。王妃となるべき人と話す度に次第に心が揺れ動いていく様子を赤沢さんは見事に演じていたように感じたし、綾野さんも綾野さんで、騎士長と普段通りに接するようにしながらも、その様子を薄々感じつつあるような王子の役を演じているようだった。

 そんな風に日常の様子を中心に物語が進んでいき、いよいよ物語が進むと思われる部分。王子がメイド長を呼び出し秘密の依頼をするシーンとなった。

 

『殿下、密談とは……』

 

 舞台上の証明は暗め、舞台の上手側に寄った綾野さんを前にかしこまった様子の小椋さんが話を窺っている。なお、舞台が薄暗がりなことを生かしてか、下手側は次のセットの準備をしているようだ。

 

『実は……最近、騎士長が我が姫とやけに親密なように見えてだな……』

『それは私も感じております』

 

 普段の2人の話の中じゃ絶対使わない言葉遣いだな、などとまたも思わずギャップを感じる。それでも「クラスメイト同士」ではなく「王子とメイド長」として見られるのは、やはり2人がいい演技をしているからだろう。

 

『あれは私の妃となるべき者だ。それ故、たとえ騎士長であろうとも……彼女に手を出すことを看過は出来ない』

『殿下のお気持ち……重々承知しているつもりです』

『そこでだ……。君に探りを入れてもらいたい。そこでもし彼が彼女に対する二心、あるいは好ましくない兆候が僅かにでもあれば……。心惜しいが……私は彼を許すことは出来ない』

『それは……よろしいのですか……?』

『背に腹は変えられない。我が姫は私の物なのだ。私は彼を己の右腕、己の剣と思うほどに信頼しているが……持ち手を斬る呪われた魔剣なら、それは折るしかない』

『……心得ました』

 

 舞台が暗転する。下手側で準備されていたであろうセットを中央にもってくる様子が窺える。大型のセットらしい。

 再び証明が点灯した時、思わず声を上げそうになった。というか、脇で藤岡さんが「うわあ、あれ手作り!?」と僕の気持ちを代弁してくれている。

 少々荒いが、見るからに城の一部屋とわかるセットだった。断面図とでも言うべきか、2階の騎士長の部屋を横に見開いて見やすくした形である。1階部分はやや省略されていて等倍ではないが、2階、ということが重要なのだろう。確か夏に赤沢さんが言っていた。「メイド長は斬られて2階から落ちる」と。実際窓際の脇の部分は足元を隠してあるが、ここにマットなどが隠してあるのだろう。高さはさほどでもないとはいえ、ここから落下、となると怪我の可能性もある。しかしそれ以上に聴衆に与えるインパクトは抜群なはずだ。

 

『……ああ、私は一体どうするべきであろうか』

 

 セットの部屋の中、苦悩の騎士が椅子に腰掛け、独り言をこぼすところから始まった。

 

『この心を彼女に伝えるべきであろうか。しかし、それは私には許されざる行為……ならばいっそ……いや、何を考えているのだ、私は』

 

 その独白は、まるで本当に騎士が苦悩しているように思えた。思わず見入っているそこで、スピーカーからドアをノックする効果音が響いてくる。

 

『……誰だ?』

『私です。少々お話が』

『ああ、メイド長か。入っていいぞ』

 

 メイド長役の小椋さんは、部屋の入り口に何かを置いてからセットのドアを開いた。

 

『失礼したします。突然の来訪、申し訳ございません』

『いや、かまわない。それで、話とは?』

『このところ、王妃様とのお仲が随分と睦まじいように感じられましたので……』

『ははあ、それで殿下が妬かれていると? ……それはまいったな。いらぬ勘違いをさせてしまうかもしれぬな』

『本当に、勘違いだけで済む話でしょうか?』

 

 騎士――赤沢さんが僅かに身じろぐ。それだけで、雰囲気というか空気というか、それらが一気に変わったとわかった。

 

『……何が言いたい?』

『ご無礼を承知で申し上げます。……ご自分の身分をわきまえてください。王妃様は殿下にとっての姫君なのです。あなた様にとっての、ではありません』

『身分をわきまえるのは貴様だ! 誰に向かって口を利いている!』

 

 声を荒げ、騎士が立ち上がる。が、すぐに我を取り戻したらしく、再び椅子に腰を下ろした。

 

『……さっき言われたことは重々承知しているつもりだ。以後は殿下に誤解のないよう振舞う』

『誤解のないように、ですか……』

『なんだ?』

『いえ、独り言です。私の方こそ先ほどの出過ぎた発言を詫びさせてください。……ああ、そうだ。騎士長様が最近何やらお悩みのようでしたので、特製の果実酒をお持ちしたのですよ。よろしければご就寝前に一杯いかがです?』

『それは嬉しいな。気が利く、さすがはメイド長だ』

 

 賞賛の声に相槌を打ちつつ、メイド長は先ほど部屋の入り口に置いた何かを手に、再びセットの部屋の中へと入ってくる。ワインボトルとグラス。先ほど言った特製の果実酒だろう。ただ、夏に聞いた話ではそれは……。

 

『きっと心地よくお眠りにつけるはずですよ』

 

 言いつつ、メイド長はボトルから液体をグラスに注ぐ。が、それはここから見てもわかるほど手が震えているようだった。素なのか演技なのか、判断しかねるところだろう。まあ僕には演技だ、とわかる。その果実酒が何か、夏にあらすじついでに赤沢さんに教えてもらってわかっているからだ。

 ワイングラスを手にとり、騎士が口元へ運ぶ。だが飲もうとしたところで、その手が止まった。

 

『……ああ、せっかくの特製果実酒という話だ。君も一緒にどうだ?』

『いえ、私は……。それに、グラスはひとつしかありませんし』

『では、先に君にこの一杯を譲ろう』

『そのような畏れ多いこと……』

『私が良いといっているのだ、気にするな』

 

 騎士はメイド長にグラスを差し出す。が、彼女はそれを受け取ろうとしない。

 

『どうした? 畏れ多いなどと謙遜するな。……もっと畏れ多いことをしようとしているのだろう?』

 

 メイド長の肩が震える。目に見えて取れる動揺。

 

『やはりそうか。飲めぬか。……毒が入っている特製果実酒では飲めぬだろうな!』

 

 声色を変えて叫び、グラスの中をぶちまける。この辺りの赤沢さんの、演技のスイッチの入れ替わりは見事だ。メリハリが利いている、というものだろうか。

 

『な、何故……』

『わかったのか、か? 優秀なメイド長が、何ゆえ酒を注ぐ際に緊張する必要がある? ……先ほどの手の震えは尋常ではなかった』

 

 ゆっくりと騎士が立ち上がる。対照的に気圧されるようにメイド長は数歩後退。

 

『……殿下の命令か?』

『殿下は……ご自分の姫君を取られるのではないかと不安に思っております。そして、先ほどあなた様は『誤解のないように』としか答えなかった。もし微塵にでも二心があるのなら許すなと、殿下は私に申されました。ですが、殿下にご自分が潔白であることを弁明なされば……』

『己を偽る弁明に、果たしてどれほどの価値があろうか! ……私はあの方を愛してしまった。その心を偽るなど、如何にしてできるというのか!』

『殿下に反逆なさるおつもりですか!』

『それでしか私の愛が成し得ないというのなら、そうせざるを得ない!』

『……ご無礼をお許しください!』

 

 交渉決裂、実力行使。メイド長は懐から短刀を取り出し、それを突き刺そうと駆ける。騎士はそれをかわし、振り返ったメイド長に対して手にした剣を上から振り下ろした。

 

『ああっ……!』

 

 悲痛な声と共にメイド長がよろめき、セットの端から下、つまり1階へと落下した。思わず客席から驚嘆の声が上がる。

 

「うわ、今リアルな落ち方したけど……あのメイド長の人大丈夫かな……?」

 

 そして傍らから聞こえた藤岡さんの意見は僕もごもっともと思った。おそらくマット等敷いてはあるだろうが、さっきの小椋さんは頭から落ちたように見えた。これだけ観衆を惹きつけたのだから渾身の演技と言えばそうかもしれないが、同じクラスメイトとしては怪我はしてもらいたくない。

 

『……ああ! なぜ私の愛は届かぬというのか! どれほどまでに請おうと、祈ろうと、我が願いが叶わぬというのなら……。私は絶望と共にこの手を血で染め、そしてあの方の愛でそれを洗い流そう!』

 

 合宿の時、千曳先生の部屋の前で聞いたセリフ。あの時もそうだったように、おそらく何度も練習したのだろう。忠誠と愛の間で揺れ動き、最後は己の愛を取った。そんな様子が、この一言から伝わってくるような、熱の入った演技だった。

 

 舞台が暗転する。次いで、照明がつく前から金属同士がぶつかるような効果音がスピーカーから流れてきていた。ややあって、照明が点灯される。

 先ほどのセットは片付けられていた。代わりに夕焼け、あるいは炎を連想させるような赤い照明の中で、騎士役の赤沢さんと王子役の綾野さんが剣を交えている。周囲には最初のシーンで騎士に訓練をつけられていた兵達が囲んでいるが、手を出していない。

 

『手は出すな! これは私と騎士長の問題だ! ……なぜだ、騎士長! 私に忠誠を尽くしてくれていたのではないのか!?』

『確かに私は貴殿に忠誠を誓いました。ですが、あなたへの忠誠を誓い続けることは、私が姫君に抱く、この心を捨てろということと同義。……私には己の心を偽ることなど出来ようはずもありません!』

 

 再び2人が切り結ぶ。しかし設定上は騎士長と王子だ。圧倒的に騎士が有利。力負けした形となり、王子は尻餅をついてしまう。切っ先を向ける騎士だが、その両者の間に王妃が割り込んでくる。

 

『姫様、そこをお退きください』

『出来ません。……なぜこのようなことをなさるのですか? あなたはこの方の右腕……忠誠を誓われた騎士ではないのですか?』

『おっしゃるとおりです。しかし、私はあなたを愛してしまった……。この愛が叶わぬというのなら、私にとって忠誠などいかほどの意味がありましょうか!』

『彼女を愛しているのは私だって同じだ、騎士長!』

『黙れ! あなたのは愛ではない、ただの独占欲だ! そもそも政略結婚で互いに結ばれるようになった愛など、真の愛と呼べようか!』

『それは違います騎士長様! 私もこの方を愛しております!』

『……何が愛か』

 

 うつむいたままの騎士――赤沢さんがそう述べると同時、王子役の綾野さんが剣を手に立ち上がって飛び出しかけ――そこで止まった。それは明らかに演技ではなく、予定外のことで足を止めた、と僕には分かった。綾野さんの顔に動揺した表情が浮かんでいたし、僅かに口元が「泉美」と目の前の彼女を呼んだかのごとく動いたように見えたからだ。

 そして顔を上げた赤沢さんは、目に涙を溜めていた。小道具で小細工する暇はなかった、間違いなく彼女自身の涙だ。このクライマックスの局面、引きこまれるような演技だった。

 

『……私のこの愛は永遠に伝わることはないというのに……何が愛かッ!』

 

 騎士が踏み込む。中腰姿勢だった王子が飛び出す。大上段に構えた騎士の剣が降ろされるより早く、王子の剣はその胸を突き刺し――たように見え、である。あくまで体の後ろを通しただけだろうが――騎士は膝からその場に崩れ落ちた。

 

『……ああ、やはりあなたは美しい……。私は、あなたのことを……』

 

 王妃を見つめつつそこまで述べ、騎士は前のめりに倒れた。舞台が、徐々に暗転していく。

 

『こうして、騎士は命を落とした。身分違いの恋をしてしまったために、己の心を偽れず、それこそが真実の愛と信じて疑わないままに亡くなった悲恋の騎士。これは、そんな騎士の儚くも切ない物語だったのです』

 

 そのナレーションが実質終わりの合図だったのだろう。拍手は始まったのこそまばらだが、すぐに体育館を割れんばかりの音量に膨れ上がった。

 再び照明が着き、キャストのカーテンコールとなった。それぞれの役の人達が一歩前に出て頭を下げていく。赤沢さんのところで、拍手の音量はより一層大きくなったようにも感じた。「ブラボー!」なんて声もどこからかとんだかもしれない。しかし彼女はどこか恥ずかしげに、その体育館中の賞賛を受け取ったようだった。

 

 

 

 

 

「いやーすごかったね、演劇部」

 

 体育館を出ると同時、開口一番に藤岡さんはそう感想を述べた。全く同じ感想だった僕は頷き、どうやら見崎もそうだったらしく僅かに首の角度を変える。

 

「特に最後、榊原君のクラスの赤沢さん! あの場面で本当に涙流すとか見入っちゃったよ!」

 

 これまた同意見。さすが演劇部の部長、と思える。

 

「……でもクラスの劇の時、榊原君も小道具無しで泣いてたよ」

 

 ここで初めて反対意見だ。見崎、それは黙っておいて欲しかったな……。

 

「え、そうなの!? あれ録画だから目薬とか使ってたと思ってたんだけど……。榊原君もすごいじゃん!」

「いや、あれはなんというかその……。見崎、余計なこと言わないでよ」

「余計なことじゃないよー。褒めてるんじゃん」

 

 思わず僕はため息をこぼした。あの時のことはよく覚えていない。が、後から映像を見て涙を流していたんだから、そういうことだろう。まあ厳密には思い出したくないだけなんだけど。

 

「それで、この後どうするの?」

「私は時間まで見て回りたいなー。鳴、榊原君、いいでしょ?」

「別に構わないよ」

「僕は……ちょっとごめん」

 

 見て回るのもいいが、なんだか今は少しそういう気分でなかった。それで、思わず断ってしまった。

 

「え……? どうして?」

「クラスの方、任せっぱなしにしてるからさ。たまには見送りにもいた方いいかな、とか思って」

「……話はしたがらないのに見送りには行くんだ」

 

 鋭いところを突いてくるのは見崎だ。反論に困る。

 

「まあまあ、いいじゃないの鳴。そういう鳴こそ行かないの?」

「絶対行かない。……恥ずかしいから」

「なら、榊原君がその分まで行ってくれてる、って思うことにしないとね」

 

 これはナイスフォローだ。「そういうことだよ」と同意の意思を示しておく。

 

「じゃあね、榊原君。また」

「うん、また」

 

 2人と別れ、僕は教室へと向かった。

 

 さて、今言い訳に使った「見送り」というのは実は理由の半分だ。もう半分は、演劇部の面々に直接会って感想を伝えたい、なんて、あまり僕らしからぬ理由からだったりする。その場にミーハー気味な藤岡さんがいるのはちょっと困ったことになるかもしれないので、申し訳ないと思いつつも1人を選んだのだった。

 とはいえ、演劇部も終わったからすぐクラス展示の方に戻ってくるとは思えない。反省会のようなものがあるかもしれないし、部内でミーティングとかもあるかもしれない。それまでは言い訳に使ったクラス見送りの方を、あくまで見送る時だけいるということでこなすか、と思うのだった。

 

 

 

 

 

 結局、本来の目的を果たせたのはクラス最後の上映が始まる頃だった。段々と文化祭自体の時間も終わりに近づき、もしかしたら全体の閉会式まで顔を合わせられないかな、とも思ったが、綾野さんが戻ってきたのだった。なお、僕は中にいたくないので率先して廊下での受付役を買って出ていた。

 

「あれ? こういっちゃんどったの、自分出てる映画見るの嫌なんじゃなかったっけ?」

「だからここで受付。綾野さん、というか、演劇部の人達戻ってくるの待ってたかったから」

「え? 私? 何々、何か用?」

「いやもう単純に劇の感想。……さすが本場演劇部、って思ってさ」

 

 それを聞くと彼女は一瞬きょとんとしたが、すぐ普段通りの愛想の良い顔に戻った。

 

「やだー、もうこういっちゃんったらそんな改まって」

「綾野さんの王子役、すごくよかったよ。緊張したんじゃない?」

「緊張……。よりも焦ったかな、今回は」

「焦った?」

 

 思ってもいない一言に僕はオウム返しにその単語を口にする。すると彼女は神妙そうな顔で「そうなんだよー」と言って眉を寄せ、右手の人差し指を眉間に押し付けた。

 

「いくら本番にトラブルは付き物とはいえ……」

「え、何かあったの? 見てた分には全然気づかなかったけど」

「あ? ほんと? ならいいんだけど。……由美さ、泉美に斬られた後セットから落ちたじゃん?」

「うん。でもマットとか敷いてたんでしょ? ただ、それでもなんか頭からいったからリアルであると同時に危なかった気もしたけど……」

「なんだ、気づいてるんじゃん。実はさ、あいつあれで首ちょっとやっちゃって……」

 

 僕が驚きの声を上げるより早く、「ああ、大したことはないよ」と彼女は前置きをする。

 

「軽いむちうちみたい。だからほら、カーテンコールのときのお辞儀とかぎこちなくなかった?」

 

 言われてみると……。いや、思い出せなかった。となると、彼女は痛みを我慢してあの場に立っていたということだろうか。

 

「由美には悪いけど、そっちはまだいいわ。……問題はラストよ、ラスト」

「ラスト?」

 

 両手を広げてやれやれというジェスチャーを見せつつ、しかし表情は困ったような色を見せつつ、彼女は口を開いた。

 

「なーんであの子はああいうことやるのかねー。前もって一言でも言えばこっちも了解したのに。腹が冷えちゃったよ」

「それを言うなら冷やすのは肝だよ。……で、何に冷やしたの?」

「アドリブよ。泉美の奴……まさか本番の最後の最後でアドリブ入れてくるなんて聞いてなかったしさー」

「え……」

 

 最後のあれがアドリブ? そこでふと、思い出した。確か綾野さんは一旦立ち上がって飛び出しかけ、躊躇したように足を止めたはずだ。

 

「あの、最後に飛び出そうとしてやめたやつ?」

「……ばれてるんじゃん。そうだよ。ちょっと待って……。ほら、これ台本」

 

 そう言って綾野さんは台本を見せてくれた。随分と書き込まれてかなり力が入っていたことが分かる。その中の最後の方、そこには「騎士:何が愛か!」というセリフのところに「これと同時に飛び出す」とメモが入っていた。

 

「王妃のセリフに逆上して騎士が斬りかかり、それを王子が飛び出して止める。そのはずだったのに、あの子、そのキーワードのセリフを言ったのに動かなかったのよ。……しかも涙なんて流してるしさ」

「あれ……泣いてたのもアドリブなの!?」

「まあそのぐらいは、泉美なら出来るって分かってたけど、セリフ増やして動きを遅らせてくるってのは考えてなかったわ。基本的に練習に忠実で、アドリブなんてほとんど入れない子だから、なおさら。……でもま、そこまでまずったわけでもなし、結果オーライって思いたいわね。その辺、見てたほうとしてはどうだったの?」

「ああ……。うん、綾野さん動揺してたっぽいのはわかっちゃったけど、全体で見ると基本的に問題ないと思うよ」

「んじゃいっか。部内でも別に糾弾された様子なかったし。……あ、でも泉美は気にしてるかもね。終わった後謝られたし」

 

 そんな綾野さんの言葉は、僕の頭を素通りしていく。今僕は何か考えようとしてもまともに考えられないだろう。

 

 赤沢さんの最後のあれ(・・)がアドリブだったということが、信じられないことで頭が一杯だった。

 

 いつだったか彼女が言ったはずだが、何が「ずぶの素人」だろうか。彼女の演技は月並みな言葉で申し訳ないが、凄みがあった。しかも最後は涙を流し、アドリブまで入れて……。

 素晴らしい演奏を生で聞いた後とかはこういう気持ちになるのかな、なんてふと思ったりした。多分、興奮してるというか、当てられた(・・・・・)という状態なんだろう。

 

 何にせよ、部屋の中から聞こえてきた「榊原君、入場始めていいってさ」という望月の声で僕は我に返った。これから最後の上映の案内をしないといけない。来たばかりだというのに今さっきまで話していた綾野さんも手伝ってくれるらしく、ひとまずは自分の現在の仕事を全うすることにした。




劇中劇はそうそうやるものじゃないと痛感しました。


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#30

 

 

 夕暮れの帰り道、僕は1人で河川敷を歩いていた。結局のところ、クラスの出し物は大好評という範疇を超え、全クラス中の文化祭最優秀賞なんてものにまで選ばれてしまった。おかげで勅使河原は大はしゃぎだし、久保寺先生は涙声で「教師冥利に尽きると言うものです」などと言い出すし、文化祭終了後のホームルームは相当浮ついたものだった。

 文化祭の片付け自体は明日になる。今日は冷めやらない熱のまま、この後「打ち上げ」と称して遊びや食事に行く人達も多いことだろう。かく言う僕も勅使河原に誘われた。が、どうにもそういう気分にならず「疲れちゃったから」と断っていた。

 なぜだろうか。クラスの手伝いをさほどやってもいないのだから、別に言い訳に使った疲れというのは言うまででもなくさほどでもない。ただ、体のほうはそうでも心の方がクラス出し物で創作劇なんてものをやって、自分も主役なんてものをやったからそっちは本当に疲れていたのかもしれない。しかしそれよりも、本場演劇部の赤沢さんの演技にやはり当てられた(・・・・・)らしく、余韻に浸ると言うか圧倒されたと言うか、なんだか心が落ち着かず、とりあえず1人になりたい気分だった。

 

『泉美の奴……まさか本番の最後の最後でアドリブ入れてくるなんて聞いてなかったしさー』

 

 綾野さんの言葉が頭をよぎる。一度アクターズハイだかプレイヤーズハイだか、なんとなく経験したような気になっているから、わからなくもないとも思える。赤沢さんはあの時もしかしたら、そんな風になっていたのかもしれない。あれがアドリブかと思うと、正直言って今でも心が震える。ともかく、それもあってあの演技は本当に素晴らしいもので、クラス出し物でやった自分の演技を「まあ我ながら……」なんて思っていた自分としては恥ずかしく思ってしまうものだった。だから、1人こうやって帰っているというのもあるのかもしれない。

 

「ま……一晩寝ればいろいろ冷めるか」

 

 自分に言い聞かせるように呟き、ふと道路わきの土手を下る。そのまま河川敷に腰を下ろし、空を見上げて息をひとつ吐いた。

 

 夕焼けが綺麗だ。そして、勅使河原に半ばでまかせで言ったはずなのに、なんだかやけに疲れた感じがした。今日は別にそこまで見て回ったわけでもないし、あまり見たくない自分の演技を見たわけでもない。それでもなんだか釈然としないでいるのは文化祭の余韻に浸っているのか、はたまたやはり赤沢さんの演技に当てられてなのか。まあもう少しこうやってここで川の流れと夕焼けを眺めていてもいいかなとか思う。

 

 そういえば、以前もこうやっていたことがあったような気がしたのを思い出した。母の帰省についてきたときだったか。当時住んでいた場所の景色ともまた違って、今みたいに河川敷から川の流れと夕焼けをただぼうっと眺め、なんだか綺麗だなとか思っていたこともあったような。

 

 そんな風に過ぎた日に思いを馳せていた、その時。

 

 

「痛ッ!」

 

 カコン、という音と共に頭に何かがぶつかったのを感じた。見れば転がっているのはアルミ缶。それは痛いわけだ。スチール缶でなかっただけまだ救いかもしれない。

 そんなことを考え、頭をさすりつつ缶を手に取って眺めていると、「すみませーん!」という声が聞こえてきた。声の方を振り返ると自分と年が同じか少し下であろう中学生っぽい女子と、その後ろから保護者と思われる男性が駆け寄ってきている。

 

「すみません、うちの娘が蹴った空き缶がぶつかってしまったみたいで……」

「ごめんなさい、本当にごめんなさい。狙ったつもりは全然ないんです」

 

 平謝りに2人は頭を下げてくる。別にもともと怒ってるつもりもないし、これだけ頭を下げられると逆にこっちが申し訳なく思ってしまう。「いや、いいですよ。別になんともないですし」とその場を立ち上がって去ろうとしたのだが。

 

「あ、お兄さん……」

 

 不意に、缶をぶつけた女子がそう切り出した。はて、面識があっただろうか。記憶を探ろうとすると――。

 

「さっき見てきた夜見北文化祭のクラス映画で主役やってた人ですよね!?」

 

 ああ、直接の面識はまったくなかったようだ。そして知らぬ間に僕は多少有名人になってしまったらしい。彼女の父親も父親で「おや、本当だ」などと言って笑っている。……あまりこっちとしては笑いたいことでもなかったりするのに。

 

「面白かったですよ、あの映画!」

「あ、それはどうも……」

「いやあ実は私はあの学校のOBなんだけどね……。最近はすごいもんだ。私のときは劇がせいぜいだったのに」

 

 そんなことを言って親子共にノリノリになってしまった。気分をよくしていただいたのは嬉しいが、あまりあれを褒められると、やはりどうしてもむず痒い。

 

「ありがとうございます。……ああ、僕はそろそろ帰らないといけないので」

 

 親子には悪いが、適当に言いつくろってその場から逃げ出すことを決めた。

 

「ああ、そうですか。とにかく、娘が缶をぶつけてしまってすみません」

「大丈夫ですよ、気にしてませんし、大したことありませんから」

「あ、なんだか引きとめてるようで申し訳ないけど……。そういえばまだ千曳先生はそちらに残っていらしたと聞いたもので。クラスを担当しているとか?」

 

 まさか知った名前が出てくると思っていなかった。帰ろうとしていた僕だったが、その質問に面食らってもう少し話してみようと思った。

 

「千曳先生をご存知なんですか?」

「昔担任していただいたことがあって。あの人も長いことここにいるもんだ」

「今はクラスは持ってません。たまにお世話になってる第2図書室の司書と、あと演劇部顧問です」

「へえ、司書か……。だから会いそびれたのかな。……ああ、もし会うようでしたら、でいいんですが、一言伝えておいてください。夜見山(・・・)がよろしく言っていた、と」

 

 そこで、父親の口から出たその一言に思わず僕が固まる。夜見山。目の前の人物は今確かにそう言った。

 

「夜見山……?」

「珍しい苗字でしょ? この街と同じ苗字なんだ。だからお父さんが母校の文化祭を見に連れて来てくれたんだよ」

 

 娘さんがそう補足してくれたが、頭に入ってこない。夜見山、そして千曳先生が担任だったこともある人物。

 

「あ、あの!」

 

 僕に背を向けて「さようなら」と言いかけたその後姿へ、声を投げかける。

 

「夜見山さんの……お名前は……」

「私かい? ()だよ。夜見山岬(・・・・)。……ああ、そういえば君のクラスの創作劇も、犯人の名前は『ミサキ』さんだったかな。私は当時3年3組だったし、そこまで同じだと因果なものだね」

 

 そういうと、今度こそ夜見山岬その人は「じゃあこれで」と僕に背を向けなおした。娘さんも手を振ってくる。それにつられるように僕も手を振りつつ、頭は全く別なことを考えていた。

 

 夜見山岬。

 

 当時母の同級生で、千曳先生が担任だった時にクラスの創作劇として実質主役を演じた人物。そしてその話は見崎によって尾びれ背びれをつけられ、転校してきた当初の春先、僕の耳に怪談まがいの情報として入ってきた。

 なんという数奇な巡り会わせだろうか。巡り巡って、僕はとうとうその夜見山岬本人と会話を交わすことが出来た。藤岡さんが以前「偶然や運命が複雑に噛み合わされて、この世界って成り立ってるんじゃないか」と言ったのも、今なら分かる。当時は大げさだと思っていたが、こうも巡り合わさってはあながち外れているとも言えないだろう。

 

 予想外の事態ではあったが、なんだか少し気分転換にはなったし、帰ろうかと思う。この河川敷はいい場所だが、座っているとあまりいいことがないらしい。缶が飛んでくる呪いでもかけられているのかと思えてくる。

 

「……えっ?」

 

 そこまで考えたところで、意図せず疑問の声を僕は上げていた。今、なんと思ったのだろうか。「缶が飛んでくる呪い」。確かにそう思った。なんでそう思うまで忘れていたのだろうか。

 既視感(デジャヴュ)。そう、さっきの缶がぶつかった時になぜそのことに気づかなかったのだろうか。僕の「ミサキ」を巡る輪の起源に存在するであろう、夜見山岬に会ったことで、不意に記憶の蓋がこじ開けられたのかもしれない、という妄想すら抱く。

 

 僕は以前、ここで今日同様に空き缶をぶつけられたことがあった。

 

 そのことをはっきりと思い出すと同時に、おぼろげながらそのときの記憶も呼び覚まされてくる。今日僕に缶をぶつけたのと、年が同じぐらいの少女。謝ろうとしたのだろう、慌てて土手を駆け下りようとして転び、立ち上がるのに僕が手を貸して……。

 

『ごめんなさい! ちょっと気が立っていて、丁度足元に缶があったから、つい……』

『この街の人じゃ……ないですよね?』

『いいな……都会。私、都会に憧れてて』

『また……会えるといいですね』

 

 ああ、そうだった。断片的に、しかし蘇るその記憶に僕は左手で頭を抱えた。

 なぜ、今の今まで忘れていたんだ。もしかしたら、あれは、あの時の女の子は彼女(・・)だったのではないだろうか。だから今まで、あれほど熱心に……。

 

 

 

 

 

 文化祭の片付けはさほど苦ではなかった。美術部としては作ったものを持って帰るだけだし、クラスのほうも設営を解除するのはさほど手間ではない。わざわざ丸1日を片付け期間としているのに、ものの数時間もかからずに僕が関わった関係の片付けは終わってしまった。

 だが問題はそこではない。片付けの間、いや、昨日の帰り道からずっと頭の中を占めていること。それを話そうと該当者を探したのだが、彼女(・・)はクラスのほうにまだ顔を出していなかった。部の方が忙しいからだろうか。待つついでに勅使河原や望月と言ったいつものメンバーの話に、適当に相槌を打つ。

 

「お、演劇部お疲れー」

 

 しばらくしてから、不意に勅使河原はそう声を上げた。演劇部3人、クラスのほうへと戻ってきたのだ。

 

「クラスの方の片付け、もう終わってる?」

「そりゃな。特に何したわけでもないし」

「なんかごめんねー。任せたみたいになっちゃってさ。衣装小道具大道具その他、結構演劇部は片付けるもの多かったんだわー」

「気にすんなって。それよか、昨日の劇すっげえよかったぜ。……あ、小椋、首大丈夫か?」

「……痛い。まあ大したことないって言われてるけどね」

 

 演劇部3人に勅使河原が絡む。それに合わせるように、僕はそっと席を立ち、彼女の肩を叩いて小声で呼びかけた。

 

「赤沢さん」

「何?」

「あの……話があるんだけど」

 

 その一言に、彼女は僅かに目を丸くした。次いで、視線を外して一度息を吐き、僕を見つめなおす。

 

「……いいわ。ちょうど私もあったし。出来れば2人きりで話したいから、屋上でいい?」

 

 僕は頷く。それを確認するが早いか、彼女は方向転換し、足早に教室を後にした。僕も遅れまいとそれに続く。

 

「おい赤沢、どこ行くんだよ?」

「ちょっと野暮用よ。……余計な詮索しないで頂戴」

 

 こうピシャリと言われてはさしもの奴も反論は出来ないようだった。何か言いたげではあったが諦めた様子で演劇部残りの2人と話を続けることにしたようだ。 

 

 着いた屋上には誰もいなかった。10月ということもあってか、風は少し肌寒くなってきている。

 

「それで、話って?」

 

 手すり付近へとゆっくり歩きつつ、彼女は背を向けたまま僕に尋ねかけた。

 

「赤沢さん、ずっと言ってたよね? 僕と会ったことがないか、って。……まだ、確信じゃないんだけど、2年前……つまり、ここに転校してくる1年半前、夜見山川の河川敷に座っている時、空き缶をぶつけられたことがあったんだ」

 

 一瞬、肩が震えたように見えたが、赤沢さんはこっちを向くことなく、屋上の手すりに肘を乗せて体を預ける。

 

「何でずっと忘れてたんだろう。あの時、缶をぶつけたのは、もしかして……」

「何でずっと忘れていたのか、答えは簡単よ。……そんなの、恒一君にとって取るに足りないことだったから」

 

 やはり彼女は、背を向けたままだった。だが、ため息をこぼしたのは、わかった。

 

「……ほんと恒一君ってそういうところ読めないわよね。『もしかして』じゃなくて、嘘でもそこは『やっぱり以前から会っていたんだね』とか言いなさいよ……」

「えっと……ごめん……」

 

 何に対しての謝罪か、いまひとつ分かっていないが僕はそう口にしていた。そこで彼女はようやくこっちを振り返り、今度は手すりに背中を預ける。

 

「……おかげでこっちも色々話そうとしてたことがめちゃくちゃになっちゃったわ。……まあいいけど。恒一君の問いに答えてあげる。その時缶をぶつけたのは……確かに私よ」

「やっぱり……」

 

 だから、彼女はあんなに熱心に「会ったことがないか」と聞いてきたのだ。一緒に帰ったときも、一度もなかったはずなのに僕がどこで曲がるのか、それを把握していた。あの日、僕が曲がるその道までは一緒に歩いたからだ。

 

「でも恒一君はそんなことは忘れていた。……夏に海に行った時に言ったわよね? 『何てことがない出来事も、人によっては運命とも感じられるし、別な人からすればそれは取るにも足らないことでもある』って」

 

 確か言っていた気がする。つまりそれが……。

 

「それが、私とあなたの、初めての出会いよ。私は運命的とさえ思えた。だけど……恒一君にとっては取るに足らないことだったのよ」

「そんなこと……」

「ない、って言うつもり? でも、忘れてたんでしょ? なら、そういうことなのよ。……いいのよ、それを責める気はないから。だって、普通に考えたらちょっと会って話しただけの、名前も知らない相手のことなんてすぐ忘れちゃうじゃない」

 

 そうかもしれない。なのに、赤沢さんは覚えていた。それはなぜか、知りたい。

 

「じゃあ、どうして赤沢さんは僕のことを……」

「……私が1年の時、演劇部でシンデレラをやって、その主役に抜擢されたはいいけどいまひとつうまくいっていなかった、ってことは知ってるわよね?」

「うん……」

「ガラスの靴を履いて舞踏会に行ったシンデレラは王子様と恋に落ちる。よくある、簡単な話よ。……でもね、演じるとなったらそうはいかなかった。私も人並みに恋ぐらいはしたことがあったつもりだった。でも、初めて会った相手をいきなり、それも王子様だなんて経験はなかった……。だから、どう演じたらいいのか、わからずにいたわ」

 

 そこで、赤沢さんは一度深呼吸を挟んだ。そして、ゆっくり口を開く。

 

「そのときに会ったのが……。あなただった。あの日も練習がうまくいかず、むしゃくしゃして缶を蹴ったら人に当たって、慌てて謝りに行こうとして、土手で転んで……。その時差し出された手の主を見たとき、私は直感したわ。きっと舞踏会で王子様に手を差し出されたシンデレラはこんな思いだったんだろうな、って。それこそ、この人こそが私にとっての白馬の王子様なんだろなとまで思えたわ。……ああ、ここ、笑うところよ。大体缶をぶつけたのが運命の出会いとか、ロマンの欠片もないじゃない。私の口から言えたものじゃなかったわ」

 

 そう言って彼女は自嘲的に小さく、わざとらしい笑いを挟んだ。だが僕はそんな気にはなれず、そしてどう答えていいのかもわからずにいた。

 

「そのおかげか、私の演技は最終的に絶賛された。……校内新聞には『文字通りシンデレラとなった』なんてことまで書かれたわ。だけど、シンデレラは王子様と一緒になっただろうけど、私はそうはならなかった。……そして今年の4月よ」

 

 もう、段々と何が言いたいのか、鈍いと自覚している僕でさえわかってきた。だが彼女の独白とも言える話は続く。

 

「恒一君、あなたが転校してきた。……ああ、厳密には5月だったかしら。まあ細かいことはさておき、あなたを見たとき、私の心臓は高鳴ったわ。……かつて1度だけ会った、あの時の人が、今目の前にいるんですもの。

 ……でも、あなたは私と会ったことなんて忘れている。それに……アプローチかけたって全部空振り。もう脈がないんじゃないか。そうも思ったわよ。……思ってたはずだったのよ。

 ……でも昨日、適わぬ恋に悩む騎士を演じたあの時、練習のときは一度もなかったのに、本番に限って……そんな適わぬ愛を願い続けて散っていくこの騎士は、なんて切ないんだろう、って思ってしまった……」

「それで……アドリブが……」

 

 独り言のように呟いた僕の言葉だったのだが聞きとがめたのだろう。赤沢さんは露骨に顔をしかめる。

 

「誰から聞いたの? 綾野? ……まったくあいつってば余計なことばっかり言うんだから。

 ……ええ、そうよ。だから斬りかかる演技の瞬間に思ってしまった。……己の愛こそ誰よりも深いと信じて疑わないのに、どうして王妃はそのことをわかってくれないのか。いえ、なぜそんな互いに愛し合えないという星の元に出会ってしまったのか。

 そう思ったら、本来は『怒り』の感情でもって、逆上して斬りかからなければいけなかったのに、『悲しみ』という感情に摩り替わってしまっていた。

 同時に……私はどうだろうとも思った。そんな不幸な騎士とは全く違う立場にある。なら……私は騎士のような障害はない。アドリブで口走ってしまったような『永遠に伝わることはない』などということはない。伝えようと思えば、自分の気持ちは伝えることが出来る。……昨日舞台を終えて家に帰ってから、ずっとそのことばかり考えていたわ。

 そして……私の心は決まった。今日、この気持ちを伝えよう。そう、心に決めた」

 

 赤沢さんが手すりから背を離す。姿勢を正し、真正面から僕を見据えた。

 

「恒一君。初めて会ったあの日から、私はあなたのことがずっと好きよ」

 

 告白されると、わかっていた。僕も一応は人間だ。鈍いながらも、彼女がこれだけ改まって何かを言うなら、それしかないとわかっていた。

 

 だけど……。僕はその心に応えることは出来ない。赤沢さんはお世辞とかを抜きにして魅力的な女性だと思う。芯の強いしっかりとした性格には魅かれるし、僕のことをずっと思っていてくれた、という言葉も嬉しい。いや、嬉しいを通り越して勿体無いぐらいだ。

 そんな風に思っている。思っているのは事実だ。でも……。

 

「……ごめん」

 

 そう、述べるのが精一杯だった。でもそれだけじゃまるで彼女を拒絶しているみたいじゃないか。そう思って続けてフォローの言葉を述べようとしたところで、赤沢さんの右手が僕のその先を制していた。

 

「それ以上は言わないで。……恒一君が優しい人だということはよく分かってる。でもね、そこでフォローしようというのは……逆に酷よ」

「赤沢さん……」

 

 彼女はかざしていた手をひらひらと横に振って、再度僕のその先の言葉を遮った。次いで、両手を広げて肩をすくめてみせてから、天を仰ぐ。

 

「……ああ! なぜ私の愛は届かぬというのか! どれほどまでに請おうと、祈ろうと、我が願いが叶わぬというのなら……。私は絶望と共にこの手を血で染め、そしてあの方の愛でそれを洗い流そう!」

 

 不意に、彼女はここが舞台かと錯覚するような張られた声を上げた。確か昨日の劇で赤沢さんが演じる騎士が発したセリフだ。

 次いで、一瞬だけ作ったその空気をかき消すように、彼女は小さく、しかし自嘲的に笑う。

 

「……馬鹿よね。自分の気持ちを言葉にして相手にはっきりと伝えようともせず、そんな行動を起こしてさ。あんなの、自分が愛した人が悲しむだけじゃない。自分だけの愛を押し付けるなんて、そんなの愛じゃないわ。百歩譲ってそういう形の愛が存在するとしても、私は認めない」

 

 何も応えられないでいる僕に、彼女は優しく微笑みかけた。普段見ることのないような、慈愛に満ちた笑顔。

 

「だから、私の恋はここまででいいの。恒一君の恋路に口を出す気もないし、無論私の気持ちを押し通すつもりもない。あなたが望む人と一緒になってこれから歩いて幸せになれるのなら……私にとってそれが1番嬉しいから」

 

 そう言うと、彼女はゆっくりと屋上の入り口のほうへと歩いていく。その彼女の目から、僅かに何かが零れたように見えた。

 

「赤沢さん……!」

「さっきも言ったでしょ、恒一君」

 

 何か言葉をかけなくてはいけない。しかし、そんな思いで声をかけた僕に、彼女は背を向けたままで応対した。

 

「恒一君が優しいのはよくわかってるわ。でもね、その優しさが時には逆効果になることもあるかもしれない、ということは忘れないで。……あなたは優し過ぎる、もっと人に厳しくてもいいと思うわ。

 ……それからもう1点。この私の告白を蹴ったんですもの、あなたは自分の思い人と必ず両思いになって、私が嫉妬するぐらい見せつけるぐらいはして頂戴。それなら……私も諦めがつくから」

 

 彼女の姿が屋上から消える。が、僅かにそこから身を乗り出し、付け加えるように声が響いてきた。

 

「ああ、あと肝心なこと言い忘れてた。……出来ることなら、これからも『いい友達』ではいてもらいたいわ。中学校最後の学年のクラスメイトだし、10年後とかに同窓会で会ったみたいな時は余計な気を使わずに話せるような間柄でいたいから……ね」

 

 そう言い終えると「それじゃ」という言葉と共に、赤沢さんの気配が校舎の中へと消えていった。

 

 それでもしばらく、僕はその場に立ち尽くすことしか出来なかった。

 結局、僕は赤沢さんの気持ちに何も応えてあげられなかった。おそらく涙を流していたであろう彼女を、会ったことを忘れていたというのにそれを咎めもせずずっと僕のことを思っていたと告げた彼女を、ただ黙って見ていることしか出来なかった。なのに、赤沢さんは優しかった。

 

『あなたが望む人と一緒になってこれから歩いて幸せになれるのなら……私にとってそれが1番嬉しいから』

 

 拳を握り締める。別に男だからとか女だからとか、そういうのを言い訳に僕は使いたくないが――ここまで言ってもらえたのに彼女の意思を踏みにじったら、もう男じゃない。そのぐらいの分別は僕にだってつく。

 緊張し過ぎたからか、意気込み過ぎたからか、胸が一瞬ズキッと痛んだ。でも、こんな痛みなど、と瞬時に意識からそれを消し去る。赤沢さんが押し込めた思いに比べたら、取るに足らないはずだ。彼女の思いは心から伝わった。だけど、僕はその気持ちには応えられない。そうも分かっていた。

 

 屋上を後にする。きっと、ここには後でもう1度来ることになる。そのときはさっきと違う女性と、そして今度は聞く側から話す側に変わって、この場を訪れるんだろうと思いつつ、屋上を後にした。

 

 

 

 

 

 屋上を後にした僕は一路教室へと戻る。目的の人物は十中八九、そこにはいないだろう。なら教室に戻る理由はただひとつ、その彼女を呼び出す魔法のアイテム、携帯電話をあいにくかばんの中に入れっぱなしにしてしまったからだった。

 

 教室に入ると同時、何人かの視線が僕に集まるのを感じた。が、それを無視して僕は足を進める。

 既に教室は片付けやら掃除やらも終わっていて、どうやらもう帰っている人もいるようだった。事実、窓際の席へチラリと目を移すと、赤沢さんの机からは荷物が綺麗に消えており、あの後すぐに帰ったものだと推察できる。

 

「サカキ」

 

 自分のカバンから携帯を取り出すと同時、勅使河原がそう声をかけてきた。表情が硬い。対照的に望月が動揺している様子から、なんとなくこいつが言いたいことを察した。

 

「ちょっと面貸せ」

「……わかった」

 

 目的物の携帯をポケットへと入れ、勅使河原の後に続く。止めようとしているのか望月が何かを言いたそうだったが、軽く愛想笑いを作ってごまかしておくことにした。そして後ろの扉から教室を出ようとしたその時。

 

「……泉美を泣かせたこと、許さないから」

 

 ポツリと、不意に聞こえた声に思わず足が一瞬止まる。その声の主である杉浦さんの表情を確認するなり弁明するなりしたかったが、いや、と自分を抑え、勅使河原についていくことにした。

 階段の踊り場、到着と同時に振り返った奴の表情は、明らかによいものではないと一目で分かった。

 

「お前……どういうつもりだよ!」

「……何が?」

 

 火に油、と分かっていてもあえてそう答えた。言いたいことはなんとなく分からないでもないが、まだ確証はない。

 案の定、勅使河原は隠そうともせずに怒りの表情を浮かべた。続けて左手で僕の制服の胸元を乱暴に掴み、力任せに詰め寄った。反射的に数歩後ずさり、背中が壁にぶつかる。

 

「赤沢のことに決まってるだろうが! あいつ……見るからに泣きながら教室に戻ってくるなり荷物まとめて帰りやがった。あの杉浦が何かを聞こうとするより早く、だ。そして続けてお前が来た。その前にお前と赤沢が一緒に教室を出て行くのを俺は見てる。なら……原因はお前だろ!」

「確かに……そうだね」

「赤沢に何言いやがった!」

「……それは言えない」

 

 掴まれた手に力が篭るのが分かった。再度、背中が壁にぶつかる。

 

「言えねえだと!? じゃあ代わりに言ってやろうか! お前……赤沢に告られたんだろ! なのにてめえはそれを振りやがった、違うか!?」

 

 ノーコメント。いくらなんでもデリカシーがなさ過ぎる。だがそれをここで言ってもこいつは納まらないだろう。僕は沈黙を通す。

 

「なんでだよ!? あいつはずっとお前ばっか見てやがった。それはお前だってわかってたろ? なのに何でだよ! なんであいつを悲しませるような答えを出したんだよ! そんなに見崎がいいのか!?」

 

 具体的に名前を出されては、さすがにここで黙っていられるほど僕は人間が出来てはいなかった。思わず頭に血が上り、奴を睨み返す。

 

「お前には関係ないだろ! これは僕と赤沢さんの問題だ!」

「てめえ……!」

 

 勅使河原の右拳が固められ、振りかぶられる。一発殴ればこいつの気も済むだろう。それで済まないにせよ、多くて数発がいいところだ。血が上りながらも頭は冷静にそう分析し、来ると思って身を硬くしたのだが――。

 その拳が飛んでくることはなかった。上げた右手を震わせながら落とし、次いで左手も離して僕の胸元から離れていく。そして彼は大きくため息をこぼした。

 

「……やめた。俺らしくねえわ」

「勅使河原……」

「だってよ、そうじゃねえか。ここは『せっかく恋の最大のライバルが減ったんだ、ラッキーだぜ!』とか言った方が、俺らしいだろ?」

 

 そう言って、おどけた様子の勅使河原は、もう普段通りの彼に戻っていた。だがどこか無理をしている。そう分かる様子だった。その証拠に、彼は僕に背を向けて話し出す。

 

「……あいつの泣き顔見たら、思わずカッとなっちまってよ。……悪かったな、サカキ」

「いや……」

 

 気持ちは分からないでもなかった。教室を出る間際に赤沢さんの親友である杉浦さんにも言われたことだし、好意を抱いていたという勅使河原なら彼女の泣き顔を見て激高するのも頷ける。殴られなかっただけでも御の字、と言ってもいい。

 

「……先教室行ってるわ。杉浦は……まあなんとか説得しておくからよ」

「期待しないでおくよ」

 

 僕の軽口に、彼は背を向けて歩きながら左手を上げて応えただけだった。今言ったとおり、その件はあまり期待しないでおくことにしよう。

 

 それより、と僕は携帯を取り出す。さっき教室にはいなかったが、まだ彼女が学校内に残っていることを祈りつつ、電話帳から彼女の番号をコールした。

 何度かの呼び出し音の後、電話は繋がった。

 

『……もしもし』

「見崎? 今まだ学校にいる?」

『第2図書室にいたけど……。どうしたの、携帯にかけてくるなんて……』

「話があるんだ。屋上に……いつも一緒に昼食を食べてる屋上に来てもらいたいんだ」

 

 

 

 

 

 さっきまで赤沢さんと2人きりだった屋上へと再び戻ってきた。風はやはり先ほどまでと同じく、少し肌寒い。だがそれを特に気にする余裕もなく、僕は心を落ち着かせようと一度大きく深呼吸する。緊張しているせいか、それに呼応するように胸の奥がわずかに痛んだ気がした。

 もうすぐ見崎が来る。伝えるべきことは決まっている。だが、その伝えるまでの道筋をまだ決め切れていない。

 半ば勢いで電話をしてしまった、という思いはある。それでもこのことをいつまでも保留したままというのはよくないし、何より赤沢さんに合わせる顔がない。たとえうまく言葉に出来なくても自分の思いだけは見崎に伝えよう。そう思っていた。

 

 しばらくして、屋上の入り口の扉が開いた。姿を表したのは僕が呼び出した相手である見崎鳴。彼女は僕の姿を確認すると、ゆっくり、普段通りの足取りで歩み寄ってきた。

 

「どうしたの、急に。電話じゃなくて直接話したいこと、って」

「……僕達さ、ここで一緒によくお昼ご飯食べてるよね」

 

 ああ、やはりいきなり本題に入る勇気はなかったか、と自己嫌悪。当たり障りのないところから話を切り出してしまった。

 

「そうね。……今日はお昼持って来てないけど」

「まあ、そうだね」

「それで、お昼の誘いじゃないなら、なんで?」

「えっと……」

 

 やはり切り出せない。ばつの悪さを感じ、思わず彼女に背を向け、手すりの方へと足を進めた。背後から彼女が距離を保とうとしている様子は分かる。

 

「……僕が見崎と初めてちゃんと話したのも、ここだったよね」

「……そうだっけ」

「そうだよ。体育の授業の、見学の時。不真面目に見学してる君は、ここから校庭の様子を眺めてた」

「そう……だったかも」

「ここにいる君の姿を見て、僕はここまで駆け上がってきた。そして話しかけた。その時……なんて言ったか覚えてる?」

 

 全くもって話が進まない。進められない。焦るように、心臓の鼓動が大きくなるのを感じる。

 

「……なんだっけ」

「『私には、あんまり近寄らない方がいいよ』だよ。今なら笑い話だけどさ、あの時はまるで本当に君が幽霊か何かか、そんな風にさえ思えたよ」

 

 ドクンドクン、と心が早鐘を打つ。つられるように、呼吸も少し荒くなってきているかもしれない。

 

「それを鵜呑みにしてくれたなら……。それはそれで面白かったけどね。だけど、私はここにいる」

「そう。幽霊でもなんでもなく、君は、見崎鳴は確かにここにいる。そんな君に最初は振り回されて、でもなんだかんだ一緒にいる時間は増えていって……。そして、段々気づいていったんだ」

 

 いや、正確にはそれは違うかもしれない。本当に初めて病院のエレベーターで見たあの時から、もう僕はその思いにたどり着いていたのかもしれない。

 赤沢さんは「白馬の王子様」と言ったときに「笑うところ」と言った。だが、僕は笑えなかった。それは、二重の意味で、だ。ひとつはそのジョークで笑えるほど、あの時余裕がなかったから。そしてもうひとつは、その言葉の意味が「一目惚れ」だとするなら、僕も見崎に対してそうだったからだ。

 僕はゆっくりと見崎の方へと振り返る。そして彼女をまっすぐに見つめる。が、恥ずかしさを感じたのか、見崎は視線を逸らした。

 それでも、構わない。数歩、前へ。彼女との距離を詰める。変わらず胸は早鐘を打ち、痛いぐらいだ。だが、あとはもう自分の思いを言葉にするしかない。

 

「見崎、僕は……。僕は、君のことが――」

 

 その時――。

 

 文字通りの激痛が、僕の胸に走った。言いかけた言葉の続きを口にすることなど到底適わず、胸を押さえて膝から屋上の床に崩れ落ちる。

 

「榊原君!?」

 

 耳元で聞こえるはずの見崎の声が遠い。耐え難いほどの激痛と息苦しさに反して頭は随分と冷静で、彼女にしては珍しく焦った表情をしているな、なんてことを思っていた。

 

「どうし……さかきば……しっかり……」

 

 途切れ途切れに聞こえてくる見崎の声が段々と遠くなっていき――。

 

 僕は、そこで意識を手放した。




前回の後書きで書き忘れたけど、小椋さんが2階から落ちてブリッ死とかあるわけないじゃないですかーやだなー


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#31

 

 

「ハァ……」

 

 いつかと同じく、無機質な天井を見上げて僕はそうため息をこぼした。そしてやはりあの時と同じく僕の体には機械から伸びるチューブ。つまるところ、今僕は病院のベッドの上、ということだ。

 

 よりにもよって、あの時、あのタイミングで3度目のパンクが起きてしまったのだ。

 

 もしも神様の野郎なんてのが存在するなら、それはきっと相当に性格がひねくれているか、あるいは人間を困らせてその様を眺めるような悪趣味の持ち主なんじゃないかとさえ思ってしまう。なんでまたあのタイミングで……。

 しかし今になってよくよく考えてみると、兆候はあった。緊張というか、慣れないことをしているせいで胸がちょっと苦しいのかな、なんて程度にしか考えていなかったが、今からしてみればそれこそが黄色信号の表すサインに他ならなかったのだ。

 そして僕は再三のその注意と警告を無視し、結果爆弾は爆発した。それもここぞ、という瞬間に。まったくもってとんでもない不発弾を抱えてしまったものだ。

 

 だが結論から言うと、もうその不発弾が爆発する危険性はほぼ取り除かれている。

 3度目の気胸発症であった今回、今まででもっとも重い症状が出たわけで、気が付いたときはもう病院のベッドの上だった。傍らには仕事どころではないとほっぽり出して来たであろう怜子さんが今にも泣き出しそうな顔でいてくれて。救急車が来るほどの騒ぎになったらしく、屋上からクラスメイトや教師が協力して僕を担いで降りてくれて、そのまま救急車が到着と同時に病院へ直行。短い間だったとはいえ、意識を失っていた、ということになる。

 そして容態が落ち着いてきて数日、医師に外科手術を薦められた。さすがに3度も再発した以上、何かしらの対策と今後のことを考えて、ということだった。今現在保護者代わりである怜子さんと、あと電話でインドにいる両親にも了解を取り付け、手術をしてもらうことと相成った。

 それにしても藤岡さん辺りが言ったことか、「医学の進歩は日進月歩」とはよく言ったものだと思う。手術後の経過は順調、もう1週間もしたら退院できると言われた。チューブにつながれてはいるものの、今日はかなり調子がいい。手術、ということもあったせいかまだクラスメイトで面会に来た人はいなかったが、来るなら今日かな、なんてことを思っていた。

 

「調子はどう、ホラー少年?」

 

 そんなことを考えていた僕に声がかけられる。同時に体温計を差し出された。ああ、この人の世話にだけはもうならないようにしようと思っていたのに、現実は非情だ。結局また僕はこのドジっ子ナースである水野沙苗さんのお世話になることとなってしまったのだった。

 

「大分いいですよ。あなたがドジかまして悪化させてくれなければ」

「む。それは聞き捨てならないわ。私のおかげで、日に日に回復していってると思ってもらいたいわね」

 

 それはどうだろうか。少なくとも入院患者の僕に個人的に本を読ませようと、自分のコレクションを勝手に持って来るのはよろしくないと思う。……まあベッドの上が暇なのは事実なのだが。

 

「水野さんのおかげかどうかは、図りかねますが。……あ、熱は測れました」

 

 検温完了の合図の音を聞いて、僕はオヤジギャグ(・・・・・・)を交えつつ、体温計を彼女に返した。「36.7度……平熱ね。洒落は寒いけど」と言いつつ彼女は筆を走らせる。

 

「そろそろ学校のほうは下校時刻? 今日あたり、誰かお見舞いに来てくれるんじゃない?」

「そう思いますし、それだと話せるから嬉しいですが……。あの、こんなこと言っちゃあ悪いですが、僕のが終わったらさっさと次の部屋行ってくださいよ。あなたがいるときに誰か来ると気まずいというか……」

「あら、何言ってるの。勿論それを狙ってるんじゃないの」

 

 ニヤニヤとよろしくない笑みを浮かべつつ、彼女はまだ部屋を出ようとしない。僕の嫌な予感は当たる気がする。だから、このタイミングで誰か来るんじゃないかという気がしている。そんなわけで、いいからさっさと出て行ってくれと僕が急かそうとしたその時。ドアが軽く2度、ノックされた。

 

「ほら来た。ギリギリまで待ってた甲斐があったってものね」

 

 得意げな水野さんと、対照的にため息をこぼす僕。ドアは僅かに開いて中の様子を窺っているようだったが、それだけで僕は誰が来たのかを察した。というより、その人(・・・)じゃないと困るという思いもあった。

 

「面会かしら? 入って大丈夫よ、私は出るところだから」

 

 そのナースの言葉に、中の様子を窺っていたドアが開いた。そこに立っていたのは予想通り、そして僕が誰よりも来ることを望んでいた見崎だった。だが不運なことに今この場には水野さんがいる。しかも面会の相手が女子となればこの人が食いつかないわけがない。

 

「あら、女の子? ……って『アイイング』の犯人役の子じゃない。映画の中でカップルなだけかと思ってたけど、モテる男はつらいわね、ホラー少年」

「そう思うんなら空気読んでくださいよ」

「はいはい、わかってますよ。お邪魔虫は消えますって。彼女と仲良くやってくださいな」

 

 全く本当にこの人は……。空気が本当に読めないのか、意図的に読んでないのか。

 笑うに笑えないジョークを残して、水野さんは見崎と入れ替わるように部屋を出て行く。見崎は普段と変わらない表情のまま、僕の近くへと歩み寄る。

 

「榊原君、今のって……」

「水野沙苗さん。クラスの水野猛君のお姉さん。ホラーマニアで文化祭の映画を大いに気に入ったってさ。……一応言っておくけど、僕はあの人には君のことは何も言ってないよ」

「そ。まあ、そうだと思ったけど」

 

 言いつつ、見崎は用意されていた、主に怜子さんが座っていた椅子へと腰をおろす。

 

「具合、どう? 手術した、って聞いたけど……」

「見ての通り。大分良好だね。あと1週間もしたら退院だってさ」

「そう。よかった。……目の前でいきなり倒れたんだもの、びっくりしちゃった」

「ああ……。そうだったね。心配かけてごめん」

 

 もっとも、謝るべきはそこ以上にあるんだろうな、とも思う。結果的に最後まで伝えられなかった僕の言葉。それをはっきりと、伝えなくてはいけないと分かっている。

 

「クラスの皆も心配してた。今日この後何人かお見舞いに来るって」

 

 ああ、それは嬉しいがまずい(・・・)。なら、やり残したことをさっさと済ませないといけない。

 

「えっと……あのさ、見崎。その……あの時、言いそびれたこと……」

「大丈夫なの?」

 

 何に対しての「大丈夫」なのか、思い当たらなかった。言葉を切り、僕は思考をめぐらせる。

 

「あの時、榊原君は私に何かを言おうとして、病気が再発した。今もしそれを言ったらまた再発しちゃうんじゃない?」

 

 思わず、苦笑。

 

「大丈夫だよ。今思い出すと、あの時はその前に胸の痛みを感じるには感じてたのに、僕がその警告を無視してたからってのはあるし。それにもう手術したから再発の可能性は大幅に減少してる」

「でもわからないよ? 私、厄病神かもしれないし。……館に巣食う悪霊か怨霊に取り憑かれた、ね」

 

 またしても苦笑。その辺、いつもの見崎だと思うと同時に、ひょっとしたら彼女もこれから僕が伝えようとしていることに薄々は気づいていて、それで強がっておどけて見せているだけなのかもしれないとも思うのだった。

 

「もしそうなら……あの映画みたいな状況になっても、君を刺さなくてもお互いに助かる方法を探すよ。そうやってハッピーエンドで終わった方が、いかにもB級映画っぽくていいと思わない?」

「……そうかも、ね。でも、柿沼さんは嫌いそう」

 

 確かに、と三度目の苦笑。だがそこまでで僕は顔を引き締める。前置きはもう十分。後からクラスメイトが来るとも見崎は言っていた。なら、あの時の続きは早く終わらせようと思う。

 

「……見崎、あの時、言いそびれたこと」

 

 その僕の言葉を聞き、何かを言おうとして、だが彼女はその口を閉じた。表情が固くなり、僕から視線を逸らす。が、その視線を戻すと同時、一度閉じた口をゆっくりと開いた。

 

「……榊原君。一応私も人間だから……鈍いなりに、何を言いたいかはわかってるつもり。だから……」

「それでも、言葉にして伝えなくちゃいけないんだ。だって、言葉ではっきり伝えなくちゃ、『繋がる』ことも中途半端じゃないかなって、そう思うから」

 

 もう、彼女は反論も抵抗もしなかった。姿勢よく座ったまま、屋上の時と異なり、僕の方をまっすぐ見つめる。

 

 一度大きく息を吸い、そして吐いた。

 

 胸は、苦しくない。今度こそ邪魔は入らず、ごまかすようなこともせず、はっきりと言える。

 

「見崎。僕は、君のことが好きなんだ」

 

 静寂。特に何の反応をするでもなく、僕の告白を聞いても彼女は顔色一つ変えず、視線を逸らすこともしなかった。逆に僕の方がなんだか恥ずかしくなってきてしまうような気がする。

 

「……それで?」

 

 しばらくして、ようやく見崎は口を開いた。だが、発された言葉はそれだけだった。そのまま彼女は立ち上がり、窓際へと歩いていく。

 

「それで、って……」

 

 見崎さん、返事をまだもらってないんですよ、と心の中で愚痴る。もし答えが「ノー」だったら、と思うと……。

 だがそれは杞憂だとすぐにわかった。夕日をバックにこちらを振り向いた彼女の顔は、らしくなく少し赤く上気していると分かったからだった。

 

「それで、何か新たにやらなくちゃいけないことがあったりとか、今後私達の関係って変わるものとか、あるものなの?」

 

 実に、見崎らしい答えだなと思うのだった。明確に「イエス」と答えたわけではないが、これはそう捉えていいものだろう。

 

「ないかもね。ただ……区切りを付けたかったな、って思って。迷惑だったら、ごめん」

「迷惑なんかじゃないよ。そんな風に思われてるんだな、って思うと、私も嬉しい、かな。……でも、やっぱり榊原君って変わってるよね。こんな私を好きなんて、さ」

 

 ごまかすように、伏せ目がちに見崎は最後に付け加えてそう言った。が、「ただ」と付け加える。

 

「……『繋がる』こと自体は嫌いじゃないけど、やっぱりずっとっていうのは疲れると思うから。その辺りはほどほどにしてもらいたいけど、ね」

 

 これまた見崎らしい物言いだ。思わず小さく笑いをこぼし、「わかったよ」と僕は了承の意思を伝えた。

 要するにこれまでと何も変わらないかもしれない。でも、僕は彼女に自分の気持ちを伝えたし、彼女もそれを受け取った。だから、最低限けじめはこれでつけたんだと思う。やるべきことは、終わった。

 

 ふう、とひとつため息をこぼし、彼女は椅子へと戻って腰をおろした。そしてチラッと時計を見上げる。

 

「……そろそろ、か」

「何が?」

「私に許された時間。あるいは、シンデレラにかけられた魔法が解ける時間」

 

 何を言いたいのかいまいち分からないと僕は首を捻った。だが彼女は気にかけた様子もなく、カバンから何かを取り出して僕の方へと差し出す。

 それは、人形だった。一目見て、霧果さんが作ったものだとわかる。サイズは小さいが、あの独特の雰囲気が出ていたからだった。しかしその人形の表情は霧果さんの作品に共通していたような悲壮感に満ちたものではなく、どこかに僅かながらも救いを見出されていたような、そんな表情に見えた。

 

「榊原君が入院した、ってお母さんに言ったら、お見舞いに行く時持って行って、って。……文化祭、来たんだって。それで榊原君の作品を見てすごくよかったって伝えて欲しい、って言ってた」

 

 そして今の見崎の話を聞いて、この人形に対して抱いた感想はあながち間違えていないんじゃないかとも思えたのだった。

 霧果さんは文化祭に来た。僕の作品を見た、ということは美術室にも行っている。そうなれば、当然自分の娘の作品も目にしているはずだ。

 果たしてその時、どんな思いでその絵を見ていたのか、僕には想像でしか分からないし、自分にとって都合のいいような解釈しか出来ないとも分かっている。でも、血を分けていないとはいえ、自分の娘が描いたあの絵から、霧果さんは何か救いのようなものを感じ取ったのではないだろうか。そして吹っ切れて、こういう人形を作ったのではないだろうか。

 もっとも、どれも「そうであってほしい」という僕の独りよがりな願望が込められていることは重々承知している。だけどこの人形からは、そんな願望があながち間違いでもないよ、というメッセージが伝わってくるようにも感じていた。……ああ、でもそれも願望か、とも思う。

 

「……じゃあ、私はそろそろ帰るから」

 

 不意に、見崎はそう切り出した。まだ来てから30分と経っていない。せっかくお互いの心は伝え合えて、もっと話したいことはたくさんあるのに。

 

「もう帰っちゃうの?」

「また来るから。今度は未咲も連れて。私に許された時間は、もう終わりだから」

 

 彼女は立ち上がり、さっきと同じ言葉を言って部屋の入り口へと歩いていく。そこでくるりとこちらを振り向き、微笑とともにいつものような別れの挨拶を告げるのだった。

 

「じゃあ、またね。さ・か・き・ば・ら・君」

 

 扉の陰に彼女が見えなくなるまで、僕は手を振って見送った。

 結局、これを「恋人同士」と呼んでいいものか困る。つまるところ特筆して変わりそうなことは何があるわけでもなく。まあそれでも僕と見崎は「繋がる」ことは今後も出来るんだろう、そんな風に思っていた。

 

 さて、これで伝えそびれてしまった僕の心も伝え終え、胸の不発弾も無事処理された。文化祭も終わって全てが一件落着、あとは今後の進路のことを考えそこに集中しないといけないのかな、なんて僕が思っていたところで――。

 

 再びドアがノックされた。「どうぞー」と僕が答えると、扉を開けて入ってきたのは3人。赤沢さんと杉浦さんと桜木さんだった。そのうち、赤沢さんの髪を見て僕は目を丸くした。彼女のトレードマークとも言える、長く2つに分けられた髪はばっさりと切られ、両脇の2人と同じぐらいの長さにまで短くなっていたのだ。

 

「こんにちは、恒一君。元気そうね」

「赤沢さん……その髪……」

「それは後。まずはゆかりから」

 

 驚く僕を尻目に、赤沢さんはその場を仕切る。誰も椅子に腰掛けようともせず、指名された桜木さんが「はい」と一歩前に出て話しかけてきた。

 

「具合、どうですか?」

「まあ……。おかげさまで。手術も成功したし1週間もすれば退院できるって」

「そうですか。それはよかった。クラス一同、早く回復して登校する日を待ってる、とクラス委員として伝えに来ました」

 

 桜木さんの話は形式的だった。それだけで話すことは終わり、と踏み出した一歩を戻して後ろに下がる。

 

「次、多佳子」

 

 今度は杉浦さんが一歩前に出た。そして彼女にしては珍しく、少し困ったような顔でゆっくり口を開く。

 

「その……。あの時ひどいこと言ってごめんなさい」

「ひどいこと……?」

「許さない、って……」

 

 言われる今の今まですっかり忘れていた。赤沢さんに促されたのもあるのだろうが、全く律儀なことで、と思う。律儀ついでに、彼女風に返してみよう。

 

「わざわざ言いに来てくれたんだろうけど、別に気にしてないよ。……あれだね、『律義者の子沢山』ってやつ?」

 

 一瞬、虚をつかれた表情を彼女は浮かべた。が、お株を奪おうとしていったことだと気づいたのだろう。すぐに普段通り、無味乾燥な表情へと戻る。

 

「……その使い方は若干ずれてると思うけど。私は大義名分を守っただけよ」

 

 なるほど、あくまで「建前上、謝罪に来た」と言いたいらしい。杉浦さんもそれで言いたいことは終わりとばかりに一歩下がり、さらに踵を返した。

 

「じゃあ泉美、私達廊下にいるから」

「え、廊下に、って……」

 

 先に歩き出した杉浦さんに続きつつ、桜木さんがそう言ってくる。

 

「私はクラスの言葉を、杉浦さんは自身の謝罪の気持ちを伝えに来ただけだから。1番話したかったのは泉美だし、このまま部屋に居座るなんて野暮な真似はしない、ってことですよ」

「ちょっとゆかり!」

 

 赤沢さんに強い口調で名前を呼ばれても冷やかした彼女には堪えた様子もない。「では失礼しますね」と挨拶を残し、杉浦さんと共に2人で病室を出て行ってしまった。

 

 こうして部屋に取り残されたのは僕と赤沢さんの2人。ところが、向こうは椅子に腰を降ろしたはいいが、話を始める様子がない。こういう沈黙は落ち着かない。仕方ないと、僕の方から切り出すことにした。

 

「あの……赤沢さん……。その……髪切った?」

 

 が、ようやく口にした僕のその一言を聞いた途端、赤沢さんはプッと小さく吹き出した。

 

「何それ? 『髪切った?』って……。ウケるんだけど」

「え? あ、えっと……」

「見ての通り切ったわよ。恒一君、あなたのせいで」

 

 思わず返答に詰まってしまう。しかし彼女は再び小さく吹き出し、口を開いた。

 

「……冗談よ、からかい甲斐あるわね。ちょっと吹っ切りたい気持ちだったから。イメチェンで切ったのよ。どう? 私ショートも似合うでしょ?」

 

 どう答えたものか、困ってしまった。とりあえず曖昧に「ああ……うん……」と口にする。

 

「……まったく、そこは嘘でも『似合ってる』って言うところよ。……もう、嫌になっちゃう」

「ご、ごめん……」

「そしてそうやってすぐ謝る。言ったでしょ? 恒一君が優しいのはわかるけど、度が過ぎるのは逆効果だ、って」

「うん……」

「まあいいわ。前置きはこのぐらいにして、本題に入りましょうか」

 

 そう言うと、赤沢さんは一度深呼吸を挟んだ。

 

「……ちゃんと、あの子に自分の気持ち伝えた?」

 

 無言で、僕はゆっくりと頷いた。それを見て、赤沢さんは「……そう」とだけ短く答える。

 

「なら、私が言うことは何もないわ。そこでけじめもつけられないような男だったら……蹴り飛ばすところだったけど。わざわざ1番手を譲ってあげて正解だったわ」

「それ……どういうこと?」

「今日ぐらいから恒一君と面会できることは知ってた。だから、1番をあの子に譲ってあげたのよ。2人きりになれるよう、他に邪魔入らないように勅使河原辺りには今日は来るなって根回しして、私達の来る時間を前もってあの子には伝えておいて、ね」

 

 だから見崎は時間を気にしていたのか。それで「許された時間」と言っていた。しかし……「シンデレラにかけられた魔法が解ける時間」は少々ずれているとも思える。

 

「まあもうそういう仲(・・・・・)になったであろうに、こういう話は変かもしれないけど……。あの子に感謝しなさいよ。私はあの時帰っちゃってたから多佳子から聞いた話だけど。恒一君が倒れたとき、見崎さん、血相を変えて教室に駆け込んできたって」

「え……」

「後にも先にも、あんな焦ってる見崎さん見たのは初めだった、って多佳子は言ってたわ。あ、ゆかりも言ってたわね。ここに担ぎ込まれた時のこと、覚えてないの?」

「かなり重度のパンクだったから……。相当苦しくて意識を失っちゃってて」

 

 「ああ、それはごめんなさい」と形式的に彼女は謝罪した。次いでそのときの状況を詳しく教えてくれた。

 

「ゆかりは職員室に直行して久保寺先生に報告に。他の男子……勅使河原とか中尾とかね。その辺りは屋上に行って、あなたを担いできたそうよ。そのおかげで到着した救急車にスムーズに乗せられて、ここに担ぎ込まれた、ってわけ」

 

 なんとなくは怜子さんから聞いてはいたが、そこまで詳細に聞いたのは初めてだった。退院してクラスに顔を出したら皆に礼を言わないといけないだろう。

 

「私はその日そのことを知らずにいてね。夜、多佳子から電話がかかってきて、初めてそのことを知って……。学校に行ってから見崎さんにそのときのことを尋ねたわ。そしたら、『2人きりで話をしてる最中に急に胸を押さえて倒れた』って。あまり深く聞き出すのも野暮だし、最中、って言ったから、とりあえず私がお見舞いに行く前に話つけられるように、先に行きなさいってけしかけたの。言っておいて正解だったわね」

 

 そしてそのクラスメイト以上に赤沢さんにはお礼を言わねばなるまい。わざわざこれだけ気を使ってくれたのだ、感謝しても仕切れないぐらいだ。

 

「……ありがとう、赤沢さん」

「何よそれ。嫌味? それとも皮肉?」

「いや、そんなつもりは……」

「振られた男にお礼言われて喜ぶ女がいると思う? ……とか言ってみたいけどね。今のは無しで。そのお礼は、素直に受け取っておくわ」

 

 なんだか、以前話したときより僕に対してフランクになってるように感じた。多分、余計な気を使うのをやめた、とかなのだろう。同時に、これが本来の彼女の姿なのかもしれない、とも思うのだった。

 

「さてと……。私はそろそろ帰るわね。元気そうだし、ちゃんとけじめはつけたみたいだし、何より私との約束も守ってくれてるみたいだし」

「約束……?」

「……ほんと無粋ね。いい友達でいて欲しい、って言ったじゃないの。普段通り話してくれたし、それは心配しなくてもよさそうね」

 

 忘れていたわけではなかったが、赤沢さんの雰囲気に圧倒されてしまったというか、気にかける余裕がなかった。

 

「あとの約束については……まあおいおい、ね。とにかく、この私を振った以上、あなたは幸せにならないといけないのよ。わかってる?」

「そんな横暴な……」

「横暴でもなんでもないの。そこは『わかった』とか『任せろ』とか男らしいこといいなさい。もっとも、言っても私は皮肉を返すけどね」

 

 思わず苦笑するしかない。嫌われての行為ではないだろうが、どうも今までと態度が変わりすぎている気がしてならない。

 

「……そこで『なら僕もうまい返しを見つけるよ』とか言い返してみなさいよ。……まったく、なんで私こんな相手を好きになっちゃったんだか」

 

 言いたい放題言って、彼女は椅子から立ち上がった。そしてそこでわざとらしく「あ、そうそう」と付け加える。

 

「私、勅使河原と付き合うことにしたから」

「……え!?」

 

 付け足し、のレベルを遥かに超えた予想外の一言に僕は思わず今日1番の声を上げていた。そんな僕に対し、彼女は怪訝そうな目を向ける。

 

「何よ、そんな声出して……」

「い、いや……。だって……」

「意外? まあ意外よね。でもさ、あの馬鹿、私が恒一君に振られたって知ったら、ここぞとばかりにしつこかった今まで以上にアプローチかけてきてさ。傷心の女を口説くとか汚いって言ってやったら、あいつなんて言ったと思う? 『お前のためを思って今まで自重してたけど、サカキがお前を振ったなら俺がお前を支えるしかねえだろ!』だってさ! 思い上がりも甚だしいっての。……でもそう思いながらも、あいつってそんなに私のこと思ってたんだな、って思っちゃってさ」

 

 天井を仰いで、彼女はひとつ息を吐き出した。

 

「まあ吊り橋効果みたいなもんだろうってわかってるし、長続きしないかもな、なんて気もしてる。同時に、恒一君への当てつけもあるかもしれない、とも思ってる。……だけど、あの馬鹿に付き合ってみるのもいいかもな、なーんて思っちゃったりしてね。とにかく、恒一君にそのことは報告しておこうと思って。

 あと……ゆかりと風見、多佳子と中尾、柿沼さんと辻井も、なんかだいいムードみたいだけどね。文化祭ってこういうカップル多くできるイベントなのかしらね。特にゆかりとか、風見に呼び出されてストレートにガツンと言われたとかって。風見もやるときはやる奴なのね。おかげでゆかりったら普段のあの策略ぶってる余裕もどこへやらって感じよ。私に思わず報告してくるほどだものね。『一緒に頑張って同じ高校に行こう』とかどぎまぎしながらオッケーしてたみたいだし……」

 

 そこまで言ったところで、不意に病室のドアが勢いよく開けられた。「ちょっと泉美! なんでそんな詳しく説明してるのよ!」という、桜木さんらしからぬ声が聞こえてくる。

 

「あら、ごめんなさい。口が滑っちゃったわ」

 

 わざとらしく、かついたずらっぽくそう嘯いた赤沢さんは、なんだかこれまでの「きつそう」というイメージから、「いたずら好き」と言ったような、クラスメイトで例えるなら綾野さんみたいな印象へと変わっていた。

 もしかしたら、これが本来の彼女なのかもしれない。演劇部である彼女は、知らず知らずのうちに「印象のいい女子」を演じようと、それこそかつて千曳先生が言ったような仮面(ペルソナ)をつけていたのかもしれない。そんな仮面など付けなくても赤沢さんは十分魅力的なのに、とか思ったが、それこそ彼女に言ったら「嫌味かしら?」と返されるのは目に見えている。沈黙は金。ああ、そういうところも今後は成長するように心がけようか、などと思うのだった。

 

「……榊原君、今さっき泉美が言ったことは忘れてくださいね? 特に、くれぐれも、風見君本人や見るからに口の軽そうな勅使河原君には言わないように。言ったら……まあ言葉にしなくてもわかりますよね?」

 

 満面の笑みと共に、しかし明らかにどす黒いオーラを出しながら桜木さんは僕にそう言ってきた。この空気で言われては、「う、うん。わかったよ」というより他に選択肢はない。あいにくと、せっかく胸を手術して成功したのだから、それをふいにするような自殺願望はないのだ。

 一方で杉浦さんは普段通りの無味乾燥だった。「別にばれてもいいわよ」と言いたげ、逆に中尾君とどんなやり取りがあったのか、こっちの方が興味があるぐらいだった。

 

「ゆかり、そのぐらいにしておきなさい。丁度いいタイミングで顔出したってことは盗み聞きしてたかもしれないでしょうけど、それは水に流してあげるから。

 ……まあなんだか色々まとまりつかなくなりそうだし、もう今日のところは私は帰るわね。恒一君も、退院してできるだけ早く戻ってきてね。私達の3年3組に、ね」

 

 そう言い残し、3人は病室を後にしていった。嵐が過ぎ去ったかのような静けさに、安堵だろうか、思わずため息をこぼす。

 赤沢さんは、「私達の3年3組」と言った。そう、中学校生活最後のクラス、僕が所属している夜見北3年3組。これから先は受験勉強が主になってしまって、今までのようなイベントごとは少ないかもしれない。

 

 だけど、このクラスに在籍できたことを、僕はきっと誇りに思うだろう。「変わり者の多い3年3組」の一員として、退院して登校したら、高校受験のことは考えつつも、楽しみながら残りの中学校生活を一緒に謳歌したい。

 その「一緒に」という対象は、僕の気持ちを伝えて受け取ってくれた見崎もそうだし、「友達でいて欲しい」と願った赤沢さんもそうだし、馬鹿やって巻き込んできてくれる勅使河原もそうだし、部が一緒とか何かと世話になった望月もそうだし、あのクラスの皆がそうだ。

 

 本当に、いいクラスに転校することが出来たんだなと、僕は密かに、さっきは恨んだ神様に感謝することにした。

 が、その直後、やはり神様を恨むこととなってしまった。扉を開けてニヤニヤした表情のまま入ってきたのは、もう説明不要の水野さんだった。

 

「いやあもてる男は辛いねえ、ホラー少年。何々、さっきここであった話、詳しく聞かせてよ?」

 

 回復に専念して、この病院をさっさと退院しよう。このナースに絡まれるのはもうこりごりだ。そして3年3組に帰ろう。僕はつくづく、そう思うのだった。

 




まあアニメ版で風見をガツンとやったのは赤沢さんなんですけどね!


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#32(最終話)

 

 

 そして、季節は流れた。

 退院後は完全に受験モードだった。久しぶりに登校したクラスの空気もなんだか少し変わっていたし、大きな学校行事を終え、次は各々の目標に向かって、という雰囲気が感じられた。

 特に勅使河原、風見両名の奮起具合は凄まじいものだった。風見君は桜木さんと同じ学校に行こうという約束をした、と赤沢さんから聞いていたが、どうやら勅使河原も同様に赤沢さんと同じ学校を目指すらしい。というか、そこは夜見北から多くの学生が進学する高校だそうで、クラスからも杉浦さんや中尾君をはじめとしてそれなりに多くの人がそこを目指す、とのことだった。以前赤沢さんは「都内の私立に行くかも」とか言っていたことがあった気もするが、実際は早い段階からそこへの推薦に切り替えていたようだ。しかし桜木・風見両名が目指す高校ほどの難関ではないにせよ、成績が芳しくない勅使河原にとっては推薦などありえるはずもなく、実力からしても十分難関であり、それ故これまでにないほど真面目に勉強していた。もっとも、付き合っているはずの(・・・)赤沢さんが教えることも多かったようで、本人はそれほど苦でもなさそうだったようだが。

 なお、「はずの」というのは、どう見ても勅使河原は彼女の尻に敷かれっぱなしで、対応もこれまでとさほど変わらずいたからである。つんけんに扱うのは当然として、冷たい言葉を投げかけて突き放し、勉強を教えて出来なければ罵る。それでも勅使河原曰く「これがあいつなりの感情表現なんだよ!」ということらしく、まあ本人が喜んでるなら別に人の恋路に口は出さないかと思うのだった。

 望月は美術を専門にやりたいということでそっち方面の高校に進むらしい。ただ近くにそういった学校がないとかで、普通科の高校から美術系の大学にするのか、高校から専門的にいくのか、最後まで悩んでいた様子だった。

 

 さて、それで僕と見崎はどうなったかというと――。

 

 

 

 

 

「で、いつ夜見山を出るの?」

 

 2人きりの屋上。胸章(・・)を風になびかせつつ、見崎は僕にそう尋ねてきた。早いもので今日は卒業式。そして今は体育館での式を終え、教室で最後のホームルームを前に空いた僅かな時間であった。

 予定よりも式が巻き気味だったこともあり、ホームルームまでの時間は予定より少し長く空くこととなった。そのため、クラス別で仲のいい人同士が話したりしていた。

 そこでふらりと教室を出て行く見崎を見て、思わず後をつけたのだ。着いた先は案の定というか、屋上だった。僕が彼女と初めてちゃんと話した場、気持ちを伝えようとして僕が倒れた場。

 

「あと数日はここにいる予定かな。両親とも今日帰って来るし、元の家の方の掃除とか、向こうの方も色々やらないと」

「……そっか」

 

 見崎は屋上に来たのが僕だと確認するとほぼ同時、質問をぶつけてきた。そういえばここ最近ゆっくり話していなかった気もするから、当然と言えば当然かもしれない。

 

 今彼女が言ったとおり、僕は夜見山を出ることになった。

 

 両親が戻ってくるために、元の家に帰る。そのため、実家のある高校を受験して無事合格。そこへと進学することになった。

 なお、学部は最後まで迷い、怜子さんに何度も相談した。その結果、「それ一本と決めたのでないのなら、潰し(・・)の効く普通科にしなさい」と言われたのだった。美術関係に進学するにせよしないにせよ、普通科なら選択肢が広く、何より彼女自身がそうだったから、ということだった。

 ちなみに見崎は赤沢さん達の高校とは別なところに合格している。ただ、藤岡さんと同じ高校らしい。ならさびしい思いをしないでは済むのかな、とか思っていた。

 

「……戻ろっか。ここからの景色も見納めかな、って思ったら、なんだか来ちゃっただけだし」

「ああ、なるほど」

 

 見崎はここと第2図書室がお気に入りだった。あとは中庭にもよくいたような気もする。だが何もホームルームが終わってからでも良かったろうに、とは思ってしまう。とはいえ、着いてきた僕も僕だ。彼女の言うとおり一先ず教室に戻ろうと思う。

 

 教室のドアを開けると、もう全員が席に付き、久保寺先生が教壇で待っているところだった。まずい、待たせてしまったかもしれない。「すみません……」と謝罪しつつ、僕は自分の席に腰を下ろす。

 

「……全員揃いましたね。2人だけ駆け落ちでもしたかと少々不安だったので安心しました」

 

 クラスの何人かが笑うのがわかったが……。さすがに笑えない。まあ特段隠しているわけでもないので知っている人がほとんどなのかもしれないが、今のはちょっと……。

 

「先生、最後なんですから笑えないジョークはやめてください」

 

 見るに見かねたか、最前の桜木さんから叱責する声が飛んだ。再び軽く笑いが起きる。一方で先生がため息をこぼすのがわかった。

 

「……最後まで桜木さんはきつかったですね」

「事実を述べてるだけですから」

 

 きっぱりとクラス委員にそう言い切られ、さしもの先生も少しショックだった様子だ。だがすぐ持ち直したか、咳払いを挟んで僕達を見回す。

 

「……我が3年3組30名全員、こうして無事に、皆元気に卒業できることは、非常に喜ばしいことです。これから先、辛いこと、苦しいこと、たくさんあるでしょう。ですが皆さんは、それでもその壁を乗り越え、強く生きていくことの出来る生徒達だと私は信じています。1年間という短い期間でしたが、皆さんは私の誇りです。こんな頼りのない担任ではありましたが、着いてきてくださりありがとうございます。そして皆さん……卒業、おめでとう」

 

 そう言って、久保寺先生が頭を下げた、その時だった。

 

「3年3組、全員、起立!」

 

 凛とした、桜木さんの声が教室に響く。反射的に僕は立ってしまい、それは他の皆も同様のようで、打ち合わせをしたでもなく全員が示し合わせたかのようにほぼ同時に立ち上がっていた。

 

「クラスを代表して、感謝の意を述べたいと思います。久保寺先生、1年間、本当にありがとうございました!」

 

 そして深々と礼をした彼女に倣い、クラスメイトも「ありがとうございました!」と礼をする。クラス全員の感謝の気持ちは本物だろう。つかみどころのない先生ではあったが、少なくとも、僕は感謝の気持ちで頭を下げていた。

 それを受け、とうとう久保寺先生は感極まって涙を流し始めた。「ああ……教師冥利に尽きる瞬間です……」とこぼしている。そこでひとつ息を吐き出し、最後はあくまで普段通りの様子で、締めの言葉を述べた。

 

「……この後は、皆さんの時間です。この中学校最後の思い出を作る時間としてください。この言葉をもって、ホームルームを終了させていただきます。それでは皆さん、有意義に時間を過ごしてください。……よろしいですね」

 

 

 

 

 

 クラスでの最後のホームルーム後は各々思い思いの時間を過したようだった。他のクラスの友達に会いに行く人、部活の後輩に会いに行く人……。だがあいにくと僕はその辺りの関係は薄い。転校して1年だから他クラスに知り合いはいないし、美術部も所属期間は短い。

 と、なれば、息子の門出を待っている保護者に会いに行くのがいいかなとも思い、僕は校庭に出た。大抵こういうとき、「第○回夜見山北中学校」と書かれた看板をバックに記念撮影、なんてのがお約束だ。

 ただ、両親は今日帰国ということで、「式自体に間に合うかどうかぎりぎり」とも言っていた。だからまだ来ていないのかもしれないな、などと思いつつ、校門付近へと近づいて行った時。

 

「来たか、恒一! 待ってたぞ!」

 

 ここしばらく電話でしか聞いたことのなかった、時折かしましいとすら感じる声を久しぶりに生で聞いた気がする。インドにいたせいか、出国前よりいささか日焼けした様子の父と、そして――。

 

「……母さん」

 

 父に寄り添うように立っていた母を見て、なぜか安心感を覚えてしまった。結局電話で話せた機会はほとんどなく、母とは言葉を交わすのすら懐かしく感じていた。

 

「久しぶりね、恒一。なんだか、少し大きくなったんじゃない?」

「なんだなんだ、やっぱり俺より母さんの方が恋しいか?」

「別にそんなんじゃ……」

「ほれほれ、久しぶりの再会なんだ。甘えろ甘えろ」

「だからそんなんじゃないってば」

 

 2人とも相変わらずな様子で、どこかホッとした。この感じでは、インドでも仲良くやっていたに違いない。

 

「まあいい。ほれ、息子の晴れ姿だ。写真に撮るぞ」

 

 言いつつ、父はカメラを取り出した。が、そこで僕はふと思い出す。

 

「あ、ちょっと待って」

「なんだ?」

「1人足りない、ってでしょ?」

 

 母の言葉に僕は頷く。「ああ、そうか」と父もそれでわかったらしい。

 

「探してくるから」

 

 僕は校門を離れ、校舎の間のアスファルト部分である人を探し始めた。卒業式ということで人が多い。もしかしたらここにいないのかもしれない。そうも思ったが、案の定、目的の人物が女子生徒数名と一緒に記念撮影をしている姿を見つけた。

 

「三神先生」

 

 胸章から卒業生と分かる女子数名との撮影を終え、一瞬迷ったが、僕はそう声をかけた。彼女は少し驚いたのか、数度瞬きを挟んだ後で、僕に返す。

 

「何かしら?」

「記念撮影をしたいので、校門まで来ていただけますか?」

 

 ふう、とため息を漏らすのがわかった。かくいう僕も顔色にやや苦味が混じっているであろうことを自覚してはいる。

 

「……ええ、わかったわ」

 

 僕が先導し、先生が続く。やや歩き、両親が見えてきたところで、背後の足音が早くなるのを感じた。そして、僕を追い越し、彼女は僕の母を見て、涙声で口を開いた。

 

「……理津子姉さん(・・・・・・)

「久しぶりね、怜子(・・)

 

 三神先生――三神怜子(・・・・)はそう言って母と抱き合った。

 

「恒一のことありがとう。……ちゃんといい子にしてた?」

「ええ、それはもう……。ちゃんと最後まで……今の今まで……私の言った『心構え』を守ってくれて……」

 

 怜子さんが僕に聞かせてくれた「夜見北での心構え」。その中でもっとも重要なのが「公私の区別をつけること」、すなわち――。

 

『あくまで学校では、私は学年副担任で美術部顧問の三神先生、なんだから。怜子さん、なんて呼ばないように。私も恒一君のことは榊原君、ってちゃんと呼ぶからね』

 

 家では眼鏡をかけて髪をまとめた、僕にとって叔母の怜子さん。学校ではその眼鏡を外して髪を解いた、学年副担任兼美術部顧問の三神先生。

 珍しいこともあったものだと、最初は戸惑ったが、段々そのことには慣れていった。そして僕も怜子さんも、ちゃんと区別をつけることは出来たと思う。例えば、美術部に入部するか迷った時も、僕は家で「怜子さん」に相談したわけだが、「三神先生」としてではなく、美術部OBの「怜子さん」としてアドバイスをくれた。

 

「恒一、怜子はちゃんと面倒見てくれた?」

「勿論。……なんだか、若い頃の母さんに何か言われてるみたいで、ちょっと照れくさかったりしたけどね」

「お! さすがは俺の息子だ、お前もそう思ったか! いや俺も昔の理津子を見てるようでなんだか嬉し……い、いてて! おい理津子、足! 足踏むな! お前は今でも美人だよ!」

 

 そんな2人のやり取りに、僕も怜子さんも思わず吹き出して笑ってしまった。

 

「……ったく冗談だって言うのに。ま、記念撮影といこう。折角だ、4人で写りたいところだが……」

「では、私が撮りましょう」

 

 その時聞こえてきた声に、僕も、怜子さんも、母も、そろって「あ」と声をこぼしていた。そしてその3人の中でもっとも大きな反応を見せたのは、他ならぬ母だった。

 

「千曳先生! お久しぶりです。まだここにいらっしゃったんですね」

「司書としてだがね。……榊原君から聞いたよ。旦那さんに着いてインドに行ったとか。三神先生の苦労が目に見えるようだ」

 

 母さんは苦笑を浮かべていた。が、怜子さんはゆっくり首を横に振る。

 

「そうでもなかったです。姉さんの代わりは勤まらなかったかもしれないけど、榊原君……恒一君と一緒に過せたこの1年は楽しかったですから」

「それは僕もですよ、怜子さん」

 

 本心だ。別にお世辞などではない。だが怜子さんはそれを聞くと、驚いたように僕を見つめ、涙を浮かべた。

 

「……もう! そういうこと言うのずるいわよ! ……泣いちゃうじゃない」

「じゃあずるいついでに。……1年間ありがとう、怜子さん」

 

 いよいよ彼女は顔を両手で覆って泣いてしまった。本当はまだ言いたかったのだが、さすがに少々恥ずかしい気もしたので、これは心の中で感謝の気持ちを伝えるに留めることにした。

 

 ――ありがとう、もう1人のお母さん。

 

 

 

 

 

 怜子さんを入れての4人での記念撮影を終え、「最後に友達に会ってきなさい」と言われた僕は、一先ず両親の元を離れて校門付近を歩いていた。しばらくして目的の人物を見つけた。彼女に歩み寄るより早く向こうもこちらに気づいたらしく、目的の左目に眼帯をつけた彼女は母親と二言三言交わしてから、こちらに近づいてきた。

 

「私に用?」

「ええと、まあ……うん」

「……お母さんからの伝言。榊原君に『ありがとう』って」

 

 思わず考え込んでしまった。何か霧果さんにお礼を言われるようなことを僕はしただろうか。

 

「なんか……色々変わったよ。私に対する考え方って言うか、接し方って言うか。普段の態度も、かな。私も、自分で少し変わったと思ってるけど。……少しは、あの人の娘に近づけたのかな、なんて思っちゃったりしてる」

「別に僕は何もしてないよ」

「かもね。でも、私は榊原君に会えて変わったって自覚してるよ。私にとって……大切な人……なわけだし」

 

 なんだか、改めてそんなことを言われると照れてしまう。まあ実際僕にとっても見崎は大切な人なわけだ。否定をする気はない。

 

「たまにはこっち、来るんでしょ?」

「まあ、母さんの実家があるからね」

「そのときはうちに来て。お母さんも喜ぶから」

「それもいいけど……たまには僕の家の方にもおいでよ。美術館めぐりとか、どう?」

「……それもいいかも。たまには、ね」

 

 ああ、これからは遠距離恋愛なんてものになるのかな、なんて思ったりする。でも見崎は常に「繋がる」のは疲れる、と言っていた。なら……このぐらいが丁度いい距離なのかもしれない。

 だけど夜見山を離れるのは少し残念な気もしていた。1年間という短い期間ではあったが、いつの間にか、ここは僕にとって第2の故郷になっているような気もする。

 

 1年間世話になった校舎を見上げる。決して豪華といえないその学び舎は、それでも僕にとっては大切な母校だ。だけど……。

 

「だけど……。だんだんと忘れていってしまうものなのかな……」

 

 中学校生活の1年間など、これから先長いであろう人生を考えるとほんの一瞬かもしれない。今年1年色々経験したつもりでも、振り返ろうとするともう思い出せないようなこともある。それがこれから先、時間が進むに連れてもっと忘れていってしまうのであろうか。

 

「そうかもね」

 

 不意に、独り言のようにこさっきこぼした一言に見崎が反応してきた。彼女にしては少し珍しく、覗き込むように僕の方を伺ってくる。

 

「……そんなに忘れたくない? ずっと覚えていたい?」

「――勿論」

 

 考える暇も必要もなかった。

 人はいつか忘れてしまうかもしれない。忘れられるから人は前進出来るのかもしれないし、忘れた方がいいことというものもあるのかもしれない。

 それでも、この1年のことだけは忘れたくないと思う。

 

 不意に、「おいサカキ、見崎! 記念写真撮ろうぜ!」という声が聞こえてきた。声の主を確認するまでもない。勅使河原だ。近くには赤沢さん、望月、風見君、桜木さん、杉浦さんと、昼食を共に食べていたようなメンバーが揃っている。

 

「……行こっか、見崎」

「うん」

 

 僕達はクラスメイトのところへと歩き出した。

 歩きながら、僕は心の中でクラスへ感謝の気持ちを述べる。

 

 僕は10年後でもきっと覚えているだろう。1年間、この街で生活したことを。この学校で、3年3組で生活したことを。

 ありがとう、夜見山北中学校3年3組。僕の、中学校生活最後のクラス。

 

 冬の名残のある少し肌寒い風を、僕は門出を祝う祝福の風と捉え、1年間クラスを共にした皆のところへと向かった。

 

 

 

(了)




 これを書こうと思ったきっかけは、アニメ版でクラスメイトに大幅にてこ入れがされ、しかしそれが「現象」によって蹂躙されていくという様を見てなんだかやるせない思いになったから、だったと記憶しています。
 無論、「現象」があってこそのAnotherですから、クラスメイトなんてのはキャラが立ったとしても本来はスパイスに過ぎません。ですが、もしこの子達が「現象」なんてものがなかったらどうなっていたんだろう。そんな心から、二次創作してみたいと思うようになりました。
 が、身の丈をわきまえず、力量不足にも関わらず、分を超えたことをやろうとして、やりたかったことが中途半端に終わった感は否めません。本来は小椋辺りを筆頭にもう少しクラスメイトを推す予定だったのですがそれも中途半端、そっちを重視した分しわ寄せを食った形となり、結果赤沢さんの扱いもいまひとつパッとしない、いわゆるラブコメとしては書き手の技量不足、学園日常ものとしても微妙、という様になってしまったのは自覚しています。

 「現象がなかったらどうなっていたか」というアンチテーゼの元、短くまとめるなら見崎の正体が明らかになる8話辺りでまとめきるのが無難だったと今になっては思います。が、誇張表現しつつ赤沢さんをはじめとして他のクラスメイトも書きたいと欲張ってしまい、結果全32話という形になってしまいました。
 ただ、先に述べたキャラ云々に加えて、見崎と原作では故人で(0話以外)存在しない未咲のやりとりだとか、見崎と霧果さんの距離感を近づけたいだとか、原作を模した形の劇中劇だとか、そして何よりも、どうしても最後をやりたかったんです。原作で死者とはいえ肉親同然の人物を手にかけ「さよなら」としか言えなかった恒一に「ありがとう」と言わせたかった、そんな思いで最後の方は駆け抜けました。

 そんな無駄に長い、しかも山も谷もあまりなかったような文章だったかもしれません。それでも読んでいただいたことは本当に嬉しく思います。ありがとうございました。


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