島津飛翔記 (慶伊徹)
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序章 島津義久との対面





 

 

時は戦国。下剋上の許された時代。

 

各地の守護大名は戦国大名化、失墜した将軍の権威など物ともせずに支配する領土を我が物とした。何故こうなったのか。当然ながら原因は室町幕府最初期にまで遡ることになる。

鎌倉幕府を倒した後、後醍醐天皇を退けて自らの政権を築き上げた足利尊氏は、功績をあげた武将や土着の武将を次々と『守護』に命じた。また、鎌倉幕府の守護よりも大きな権限を与えたために、室町幕府の守護は領国一国の支配権を確立した守護大名へ成長する。

相対的に将軍の権威は弱まってしまった。

そんな中、将軍の専制政治を目指した6代将軍『足利義教』が、なんと守護大名『赤松満祐』に暗殺されるという前代未聞の大事件が発生。これを嘉吉の変という。

この事件によって幕府の権威は大きく低下し、逆に守護大名の力は上昇した。その結果として守護大名の家督争いに端を発した未曾有の大乱、俗に応仁の乱へ繋がっていったのである。

しかし、応仁の乱後も足利将軍家は中央政権の長としての実力をなんとか維持し続けていたが、有力な守護大名である細川氏によるクーデターが発生。『明応の政変』と呼ばれる事件によって10代将軍『足利義稙』は京都から追放され、細川氏の傀儡となる新将軍が擁立された。

これが決定的であった。

室町幕府は中央政権としての実力と権威を失い、世は群雄の割拠する戦国時代へ突入していくことになった。

 

当然ながら『この世界』でも戦国時代に至る流れは同じである。京の都は荒れ果て、遂には13代将軍『足利義輝』も逝去し、三好家の傀儡とも呼ぶべき足利義栄が14代将軍に就任した。

此処まではよかった。思惑通りだ。

歴史の年表が所々食い違っていることを度外視すれば、俺の思惑通りに事が運んでいると大いに頷ける。まさに計算通りだった。

 

ーーの、だが。

 

齢10歳となった俺。

何故か伊集院忠棟に憑依した俺。

元服と同時に忠棟と名付けられた俺。

祖先の悪名を晴らす為に頑張ろうかな俺。

そして2つ歳上の島津義久様に拝謁する俺。

 

おかしい事は一つだった。

 

(何で島津四兄弟が島津四姉妹になってるんですかねぇ)

 

吹っ飛びそうな意識をなんとか保ちつつ、俺は此処に至った経緯を思い返した。

走馬灯とも言う。

決して義久様が12歳と思えない大人びた美少女だったからじゃないんだよ。

 

 

 

 

俺は平成の世の鹿児島の地で生を受けた。

人口減少に歯止めが掛からず、街を歩いても年老いた方々しか歩いておらず、過疎化の象徴と称しても過言じゃない光景を眺めながら少年期を過ごした。

そして中学生になる直前、祖父から聞かされた。俺は島津家から国賊と唾棄された伊集院忠棟の直系の子孫である、と。

既に苗字は変わっていた。それでも倉に遺された家系図は本物であるらしく、この頃から俺は島津だけでなく戦国時代に興味を持っていった。

もしも俺が伊集院忠棟ならどうする?

国賊と評した島津を内から潰すか。

それとも未来の知識によって島津家を史実より発展させるか。

様々な選択肢。妄想であるが、幾度も繰り返したもしもの世界と共に俺は進学校として有名な高校へ進み、地元から通える鹿児島大学へ入学した。このまま地元の会社に就職して一生を終えると考えていた矢先のこと、まさに唐突といって差し支えないタイミングで戦国時代へタイムスリップ。原因は不明。目が覚めたら何故か伊集院忠棟に憑依してしまっていたんだから驚天動地の極みだった。

最初は夢だと思ったんだ。

祖先の無念を晴らしたい一心で描いた夢物語だと。直ぐに覚めると。むしろさっさと起きろよと俺自身を詰るほどだった。

にも拘らず、一週間経っても現代に戻らない事実から俺は漸く本当に戦国時代にタイムスリップし、それも伊集院忠棟に憑依してしまったのだと否が応でも理解してしまう。

勉学は努力すればなんとか。運動神経も人並み。持ち前は生来からの前向きさだけ。俺は日頃から想像していた祖先の悪名を雪ぐを決意。やってやろうじゃねぇかと乳母のオッパイを口に含みながら目を輝かせるのだった。

 

だが、俺は冷静である。

元々史実でも能臣として有能だった伊集院忠棟のお陰か、現代の俺よりも頭の回転が速くなった気がする。

良くある転生者などの内政小説で小さい頃から父親や主君に献策する場面があるが、幾ら麒麟児と持て囃されても元服すらしていない若造の話を真に聞いてくれるだろうか。

答えは否である。少なくとも俺には無理だ。

先ずは麒麟児という嬉し恥ずかしい異名を保ち続ける。そして信頼を得るのだ。祖父は島津貴久様の筆頭家老だし、父も島津家家中から一目置かれている。

つまり、だ。

元服するまでに祖父と父から絶対的な信頼を勝ち取れば、必然的に俺が持ち出した献策は貴久様の元まで届けられる。

正直、今すぐにでも献策したいんだが、余りに異質なものだと気味悪がられること必定。最悪の場合を想定すると廃嫡される可能性すら無きにしも非ずというギャンブルっぷり。

分の悪い賭けは真っ平だ。

故に此処は我慢。とにかく我慢が大事。

まさに雌伏の時である。

小さい頃から古典を学び、孫子の書き記した本を読み、政治を習う。祖父や父に愛想を振りまくことも忘れず、不気味な子と陰口を叩かれないように悪戯を行い、屋敷を抜け出しては年相応の遊びに興じたこともあった。

そして得た評価は麒麟児の如き聡明さと無邪気さを兼ね備えた少年。次期当主と目される島津義久様の筆頭家老という地位を仮とはいえ約束されたのだった。

でもなんつーか、上手く行き過ぎて怖ぇ。

いや、史実でも伊集院忠棟は義久様の筆頭家老だったけどさ。こんなに早くその地位を手に入れるなんてな。ビックリですわ。仮だけど。仮ってなんだよとなるかもしれんが安心しろ。俺もよくわかってないから。

でもなんかもう島津四姉妹のせいで吹っ飛びましたわ何もかも。しかも美少女って。既に着物の上からでもわかる胸の大きさって。12歳だよねこの方。あり得ない大きさだよ!

詐欺じゃね?

詐欺だよね、これ!

 

「殿、孫の伊集院掃部助忠棟をお連れしました」

 

鹿児島湾を望む場所に築かれた内城の一室にて、我が祖父である伊集院忠朗が平伏したまま俺を紹介した。当然、俺も平伏している。

つか、顔なんて上げらんねぇよ。義久様はチラ見で確認したけど。まさに仰天したけど。

ともかく相手は島津貴久様。島津氏15代当主。混乱の続いた薩摩を平定。そして昨年、朝廷や室町幕府及び島津氏一門のほとんどから守護として名実共に認められた英雄。後の世では島津家中興の祖と称えられる英君だ。

こうして向かい合うだけでも圧倒される。自然と頭が垂れるとはこの事だ。まだ目も合わせてないっていうのに。

やはり英雄は違うな。俺にこの威厳は醸し出せねぇ。この辺も史実の忠棟同様、裏方がお似合いって事かもしれない。

上座に腰掛ける貴久様は軽やかに言葉を返した。

 

「うむ。ご苦労であったな、忠朗」

「もったいなきお言葉」

 

慣れたように答える祖父。

無駄な問答は必要ないのか、即座に貴久様の視線に晒される俺。背中に嫌な汗かいた。

 

「して。その者が例の麒麟児か。先日元服したとは聞いたが。面を挙げよ、掃部助忠棟」

「ははっ」

 

史実と違う点二つ目。

この世界では諱の意味がなかったりする。

諱とは言うなれば実名のこと。

古来から中国では実名を口にすると、その霊的人格を支配できると考えられていた。実名を知れば相手を支配できるため女性に名を尋ねるのは求愛を意味し、実名を記した呪符で殺す事も可能とされた。

だからこそ実名をむやみに明かしたり、他人が実名を呼ぶことは禁忌ともされていたわけだ。口に出すのを忌む名前。故に忌み名。諱となったわけ。

つまりドラマやアニメ、ゲームみたいに信長様とか秀吉様みたいに実名で呼ぶことはあり得なかった。通称や官職名を使っていたらしいんだけど、どうしてかこの世界だと普通に諱で呼び合ってるんだよなぁ。

 

取り敢えず面を上げる。

貴久様の隣にチョコンと座る義久様の可愛らしいこと。齢40近いと思えない若々しい容貌を保つ貴久様に、三国一の美少女と呼んで差し支えない義久様の並んだ姿は確かに血の繋がりを感じた。美男美女すぎるんだが。

 

「伊集院掃部助忠棟にございます」

「ふむ。利発そうな良い顔をしておる」

「もったいなきお言葉」

 

恭しく返答しながら頭を下げる。

俺は貴久様を一度拝謁したことがあった。

内城に居城を移す前、貴久様は伊集院城を拠点としていた。薩摩を平定する以前の話である。島津実久と相争っていた時期、鹿児島に進撃する為と南薩における実久方の最大拠点だった加世田城を攻略する為だった。

その際、祖父に連れられて入城した俺は人知れず貴久様を遠目から視認した。四年も前のことだ。なのに全く老けた様子が見られないのはどういうことなんだぜ。

英雄は歳を取らないのか?

全盛期の容姿を維持できるとか?

なんだよそれ。某戦闘民族みたいだな。

 

「忠棟よ。我が娘、島津義久だ」

「うふふ、初めまして。島津義久よ」

「お目にかかれて光栄にございまする」

 

今代当主と次期当主。

島津家の今後を左右する最重要人物と相対する俺は今回の拝謁に意味を見出せなかった。

理由が分からん。俺が元服したからか?

にしても史実だとこれから西大隈を平定するんだから俺なんかと会ってる暇ないと思う。

只でさえ史実よりも年表が前倒しされているのに。

実例で表すと、貴久様が守護として認められたのは薩摩を平定してから十数年間経ってからだったのに、この世界だと二年で済んでいる。俺みたいな未来知識持ちの人間がいるやもしれんと仮説を持ち出したのはその頃からだった。

 

「義久と語るのは後にせよ。忠棟、お主を呼び出したのは他でもない。麒麟児と名高いお主に二つほど問うためだ」

「貴久様が、私如きに?」

「うむ。簡単な問いかけよ」

 

笑う貴久様を眺め、俺は何となく今回の招集理由を察した。

もしかして『仮』ってそういうことなのか?

 

「これから俺はどう動く?」

 

質問内容が鬼畜すぎるだろ!

アバウトにも程がある。

どう答えろってんだそんなもん!

尊敬の念すら打ち破る不平不満を喉から飛び出す寸前で飲み込み、数秒間逡巡した後、俺は言葉を選びながら答えた。

 

「薩摩を平定し終えた貴久様は大隈平定へ向けて動くと思われます」

「理由は?」

 

間髪容れない問いに鼻白みながらも、俺は史実の歴史知識と変化している情勢を重ね合わせて、あり得る未来を想定して口にする。

 

「一つは居城を内城に移したことです」

 

伊集院城から鹿児島の内城に移った理由は明白だ。もはや薩摩方面で兵を動かす必要性がなくなったこと、今後兵を動かすのであれば大隈から北薩にかけてであり、また日向の伊東氏と対抗するにも鹿児島が便利であることに加え、海外貿易のことを鑑みれば伊集院の山の中では不便なこと。これら三つが挙げられよう。勿論、三面山に囲まれた要害の地であり、膨張していくであろう城下町に対応し得るのが鹿児島だったという点も含まれるに違いない。

計4つの理由だが、貴久様の今後の動きに関するのは一つだけだ。すなわち本格的な大隈平定に向けた本拠地移設である。

 

「ほう」

「もう一つの理由は、清水と加治木です」

 

そもそも既に大隈の清水城は落城している。

大隈国清水を本拠地とする本田氏を攻め立てたのは、何を隠そう俺の祖父である伊集院忠朗だ。本田氏は代々島津氏の国老を輩出する名家だったが、14代本田薫親が貴久様に叛き、約一年ほど前、祖父によって居城を落とされたのだ。

そして半年前、同じく祖父と父上に加え、樺山善久と北郷忠相らの軍勢に負けた加治木城主である肝付兼演は貴久様に降伏。薩摩のみならず清水と加治木周辺を占拠した。大隈平定への足掛かりは半ば整っている。

だが事ここに至っては『彼ら』も座しているわけにいかないだろう。必ず打開しようとする筈だ。

主君の表情を確かめながら、これに似た事を懇々と説明した俺に向けて貴久様は満足そうに頷いた。

 

「なるほど。とても10歳と思えぬ語り口だな。では忠棟。大隈平定の障害となる城はどこだ?」

 

これもまたアバウトだなぁ。

最終的に肝付氏の高山城か廻城かもしれないけど、それよりも前に落としておかないといけない要衝の城がある。

有名なお城だ。史実だと島津四兄弟の内、家久を除く全員が初陣を飾り、そして初めて鉄砲が合戦に使用された戦いの舞台となった城だ。

 

「岩剣城かと思われます」

 

どうして岩剣城なのか。

それは薩摩と大隈の国境に位置するから。

そして要害である岩剣城を落とすまでに至る道筋を史実と照らし合わせながら話し終えた俺は義久様と一緒に部屋から出された。

部屋の近くで待っていた女中に付き従い、俺は史実に於いて九州をほぼ全域支配する英傑の背中を追い掛けたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「忠朗よ」

「はっ」

「噂の麒麟児、誇張表現かと邪推したが何のことはない。事実であったようだ。齢10にしてあの洞察力とは。末恐ろしいものだな」

 

島津貴久は隠さずに胸の内を吐露する。

それは信頼の証である。

これまでに培われた伊集院忠朗の功績は伊達ではない。貴久の父、忠良の代から仕え続けた忠朗は遠慮なく主君に意見出来るほどの立場でもあった。

 

「まだまだ未熟者であります」

 

首を横に振る忠朗。

重臣の言動に貴久は苦笑した。

 

「心にも無いことを申すな。お主も忠棟の話に終始驚いておったではないか。隠し立ては誉められた所業ではあるまい?」

「申し訳ありませぬ」

「よい。だが、どうやらお主も先程の件は初めて聞いたようだな」

 

忠朗は首肯する。

孫の成長を喜ぶ反面、忠棟の出した完璧すぎる答えにどう対応していいのか彼にはわからなかった。

 

「はっ。実を言えば儂も驚いております。前者の問いはまだしも、後者の問いに対する答えと今後の展望は予想の範疇を超えていました故」

 

忠棟は西大隈の雄『蒲生範清』が主導となって、北薩においてなお島津氏に抵抗する渋谷氏、祁答院氏、入来院氏らの一族に、菱刈と北原も加えた島津討伐軍を結成し、挙兵。そしてその軍勢は恐らく加治木城へ向かうと予想した。

 

「先ず落とすべきは岩剣城とはな」

「殿、驚くべき部分はそこではなくーー」

「わかっておる。耳にした瞬間は驚いた。だが落ち着いて考えると理に適っておる。蒲生茂清ならいざ知らず、嫡子たる蒲生範清なら叛いてもおかしくはない」

 

蒲生茂清は容態が悪いと聞き及んでいる。近日中に死去する可能性はある。そして嫡子の範清が島津家と対立するのは容易にあり得る話だ。しかし、それを伊集院忠倉から、つまり忠棟は父親から微かに聞き及んだ情報だけで推察してみせた。

歴戦の国主とそれを支えた重臣を思わず納得させてしまうほど洗練された読みであった。

貴久は思う。まさに麒麟児だと。

そして口にした。瞬間的に思い付いた事を。

 

「忠朗よ、あの小僧は龐士元の生まれ変わりかもしれぬぞ」

「鳳雛、ですか?」

「うむ。それほどの才気有りと見た。予定通り忠棟を義久の筆頭家老とする。しかしまだ幼い。明日から義久と共に経験を積ませるが構わぬな?」

「ははっ」

 

忠朗にとっても良き話である為、異などあろうはずも無い。50歳を超えても尚、島津家家臣団で最も発言力のある翁は孫の将来に夢を馳せながら平伏したのだった。

 



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一章 川上久朗との成果

 

 

「やっと、完成か」

 

試行錯誤を繰り返すこと1年。二桁を超える木造の残骸を背に、俺は鹿児島に築かれた屋敷の庭で達成感に浸っていた。

長かった。本当に長かった。

ここまで農具の開発に苦労するとは予想外である。現代で読み漁った内政小説だとめちゃくちゃ簡単に作ってたってのにさ。

俺、これでも手先が器用な方なんだけどな。

 

「おぉ。源太、これが千歯扱きとやらか!」

 

隣で騒ぐのは俺と同い年の子供だ。

名を川上源三郎久朗。史実に於いて若い頃から知勇兼備の誉れ高く、その才能は忠良様や貴久様にも高く評価されていたらしい。家老職に任命され、谷山の地頭にまで任命されるという異例の大抜擢を受けている点から鑑みても相当優秀だったんだろう。最終的に義久様の命で老中となった。大出世すぎる。

ただこいつは結構早死にしてしまう。

それも島津義弘様を護るために。

まさに忠臣。俺も、見習いたいものだ。

 

「ああ。随分と手間取ってしまった」

「仕方あるまい。このような農具は俺も見たことがない。源太、初めてお主に相談された時は目を疑ったのを覚えておるぞ」

 

義久様と貴久様に拝謁叶ってから早くも2年の歳月が過ぎた。元服するまで驚くほどに緩やかだった時間は怒濤の如く流れていった。

貴久様の妙な質問に答え、部屋から追い出された俺だったが、義久様と初めて言葉を交わし、とても12歳と思えない貫禄ぶりに畏敬の念を抱いたことは今でも色褪ずに胸に刻まれている。

俺がこの方を天下人にするのだ。

そう考えると一刻でも早く献策したい欲求に駆られた。10年間で様々な観点から取捨選択した内政に関する献策は幾多にも重なっている。吐き出したい。認められたい。そんな気持ちを抑え込むのに苦労したものだ。

その後、祖父から改めて島津義久様の筆頭家老に任ぜられたと聞いた。早速その場で口を滑らせそうになったものの、裏付けを取るために1年間だけ我慢した俺を誰か褒めてほしい。まぁ取り敢えず、俺は万全の状態で内政チートを一つだけ口にしたのだった。

当初は懐疑的だった祖父。父上も顔を顰めていた。当然だ。あまりに奇抜。それでも話を聞いてくれたのは麒麟児という異名と築き上げた信頼からだろう。

微かに記憶にある方法を実演してみせた。

その結果は問題点がありながらも祖父と父上を納得させられる物だったらしく、すぐさま貴久様に話が行き、改良に次ぐ改良を重ねていき、最終的には俺を関与せずに最善方法まで辿り着いてしまった。

そんなにも欲しかったのかよ。

若干呆れる俺。気持ちはわかるけどね。

甘いのに飢えてたしさ、ずっと。

 

「まったく。砂糖の件といい、お主の頭はどうなっておるのやら」

 

そう、俺は砂糖を作りたかった。

種子島時堯は貴久様に服従している。鉄砲も見せてもらった。持たせてもらったけど半端なく重い。持ったままだと俺は走れないな。12歳の小さな身体ってこともあるけど。

兎にも角にも。祖父から『甘蔗』、つまりサトウキビが既に種子島にて栽培されていると聞いて、現代の頃に妄想して調べていた黒砂糖の製造方法を思い出したのだ。

史実だと西暦1688年に伝わるらしいがそんなこと関係ない。気にしてもいられねぇ。シラス台地のせいで面積の割りに石高の低い薩摩を本国にする島津家にとって切り札ともなる産業なんだからな。

白砂糖と比べて黒砂糖の製造は簡単だ。サトウキビの茎の絞り汁を加熱し、水分を蒸発させて濃縮したものを冷やして固める。酸性を中和し、不純物を沈殿させやすくするために絞り汁に石灰を混入。その後、高温で炊き上げる。浮いてくるアクを取るために、木箱の上部に布を貼ってしまえば勝手に入っていく仕組みである。途中から全部、試行錯誤の末に見つけた方法だ。つまり俺はあまり関与していない。恐ろしきは甘い物への執念か。

白砂糖の方法もかろうじて覚えてるが、其方は上手くいくかどうかわからない。ぶっちゃけるとほとんど忘れかけてる。製造過程は複雑だし、何より黒砂糖だけでも十二分に反則技だからな。

これだけで島津家の財政状況は明るくなるだろう。この時代、砂糖とはそれだけで凄まじい価値を持つ。

ただ人手が足りない。今年から本格的に着手する砂糖製造に必要な人員をどこから運んでくるか悩み、そして考え付いたのだ。

手頃な農具があったじゃないか、とな。

後家潰しという異名を持つ千歯扱き。

非効率な扱箸による脱穀は村落社会において未亡人の貴重な収入源となっている。その労働を奪ってしまうから後家潰しと呼ばれた。

本来は問題点となってしまうそれも、労働力を確保したい此方からすれば願ってもない話なのである。

故に製作に取り掛かった訳だが、万難を排する為に同い年の久朗に手伝ってもらってもなお此処まで苦戦するとは考えてなかったよ。

何とか間に合って良かったぁ。

ホッと一安心。

でも隣が本当にうるせぇ。

つかペシペシ頭叩くなって!

俺より身長高いからって調子乗んなよお前!

 

「ふむ、そうだな。叩き割ってもよいか?」

「よくねぇよ馬鹿野郎。殺す気か」

 

実際に出来そうだから困る。

コイツ、史実通り本当に優秀だ。

千歯扱きの製作図を見て、その用法を軽くだけど理解しやがったからな。本当に早死にが悔やまれる。

天才ってのは案外近くにいるらしい。コイツとの出会いは最悪だったけど、それでも今では腹を割って話せる貴重な友人である。

 

「あははは、源太相手なら楽だぞ。お主、知恵は巡るくせに武道はからっきしだからな」

「煩い! 俺とて人間。苦手なこともある!」

 

痛い所を突きやがる。

久朗の言う通り、俺に武道の才能は無い。

碌に槍を振るったこともない雑兵と一騎打ちすれば勝てるだろうが、武将として認められる腕前を持つ相手だと一蹴されること請け負いの弱さだ。残念なことに、誇張表現とかでは一切なくマジな話である。泣けてくるぜ。

12歳だからとかそういうことじゃなく、祖父や父上も認めざるを得ない運動神経の無さだった。無論、馬には乗れるけど。馬上槍とか無理無理。出来る人間なんて化け物だよ。

 

「むしろ無ければ困り物よ」

「は?」

 

久朗は和やかに笑う。

出来上がったばかりの千歯扱きを叩きながら続けた。どうでもいいけど壊すなよ、お前。

 

「なに、俺の立つ瀬が無くなってしまうだけのことよ。お主は知略で、俺は武術で島津家を盛り立てていこうではないか!」

「一々大声出すなって。ここはお前の屋敷じゃないんだぞ。イタ、イテッ、叩くな、叩くなって! 嬉しいのはわかったから!」

 

1年掛けて作り上げた。

殆ど自作だ。お互いに島津家家臣の嫡子であるが簡単に職人を使うわけにもいかないからな。暇を見つけては自分たちで木を切り、寸法通りに木を削り、歯はからみ釘が無いため竹を代用した。

怪我したり、諦めかけたり、出来なくて苛々してしまって喧嘩したり、紆余曲折がありながらも無事に完成したんだ。久朗のように大声出して喜びたくなる気持ちはすっごくわかるよ。

ーーただ。

何回も何回も背中叩くんじゃねぇ!

 

「やめろっての!」

 

無理矢理振り払う。

久朗は軽やかな足取りで躱した。

 

「おっ、と」

「とにかく、だ。本当にコイツで脱穀できるか確かめないといけない。ちょうど収穫の時期で助かったよ。稲、持ってきたよな?」

「もちろん」

 

片手で軽く持てる程度の数だが、これだけ有れば充分だろう。

早速、完成したばかりの千歯扱きを活用する時が来た。どうせ貴久様にお見せする時にも実践してみせるけどさ。

木製の台に付属した足置きを踏んで体重を固定。櫛状の歯の部分に刈り取った後に乾燥した稲の束を振りかぶって叩き付ける。そして引いて梳き取るのだ。

稲の場合だとこれで穂から籾が落ちるため脱穀は完了。扱箸と比較にならないほど脱穀の能率は飛躍的に向上する。

本当に完成したかどうかを計る試験は無事クリア。後はこの農具を祖父か父上、もしくは貴久様に見せるだけだ。

 

「ただなぁ」

 

問題点は一つ有る。

そのせいで島津家家中は俄かに慌ただしくなっていた。ついに『奴』が馬脚を現したというか、史実と違って『奴』は島津家に先手を取られそうになっているというか。それもこれも俺のせいなんだが。

 

「どうしたのだ?」

「ご祖父様や父上に加え、殿も最近お忙しくあられる。下手に時間を取らせるのはなんとも気が引ける」

「確かに。ならば義久様にお見せしよう!」

「義久様に?」

「うむ。義久様は次期島津家当主となられるお方なのだ。千歯扱きの件について報告するのは筋ではないか」

「そう言われるとそうだが、義久様とてお忙しいだろう」

 

俺は今日の仕事を終わらせている。

じゃないと千歯扱きを作っていられる訳がない。もしも仕事をサボっているところを見られたら怒鳴られる程度じゃ済まないんだよ。

なんにせよだ。義久様は未だ14歳。正式に家督を譲られてもいない上に、そもそも貴久様が殆ど執務に取り掛かっているため仕事量は然程多くない。義久様の筆頭家老である俺もまた然り。

こういう時は、能臣として優秀だった伊集院忠棟の頭脳に感謝する俺であった。少ない仕事だがあっという間に片付く。

 

「行ってみなければわかるまい。ともかく早急にお見せしに行こうぞ!」

「あ、おい!」

 

12歳の身体で千歯扱きを持つのは重労働以前に無理な話である。だからなのか、久朗は片方を持ち上げて、俺にはもう片方を持てと顎の動きで指図しやがった。

別に俺は了承してないっていうのに。

そもそも、結局内城に持っていくんなら、貴久様や祖父にお見せしに行くのと大差ない気がする。

いや。

これ以上は野暮になるか。

友人の嬉しそうで楽しそうな笑顔を曇らせるのも気が引けた俺は、仕方ないと口に出しながら久朗に倣って千歯扱きを持ち上げた。

うっ。中々に重いぞコレ!

 

「いざっ」

「この馬鹿力がっ」

 

自然と漏れる悪態もなんのその。

久朗は笑いながら歩き出す。

つられて、俺も安堵感から笑ってしまうのだった。

 

 

 

 

 

 

内城は簡単な屋形作りの平城である。

中世の城郭は多くの場合だと居館と別に、純粋な軍事拠点として攻め難く守り易い点から急峻な山に築かれた。

確かに山上に築かれた城は急激な斜面という利点もあるが、地形的な制約から曲輪を相互支援できるように配置するのが難しい。

史実では戦国後期以降、動員兵力の増加や鉄砲の登場などによって落城までの期間が短くなった。こうした戦術の変化を背景に、山城から平山城、平城へと形態が移っていく。

有名な平城といえば多聞城や安土城がある。

なんにしても平野の台地に築かれるようになった近世の城郭は、軍事拠点であると同時に大名の領国支配の拠点として、政治的又は経済的意義も重視された。

内城の場合だと東福寺城を後詰めの城として置いてある為、ことさら政治や経済を考えて設置されたお城と言えるだろう。

つまり俺が何を言いたいかというと——。

 

「平城で助かったよ。重たすぎだ、コレ」

 

内城の庭に置かれた千歯扱き。

此処まで運ぶのでも疲れた。

涼しげな顔の久朗は何なんでしょうかね。

化け物かな。化け物だろ、こいつ。

 

「情けないぞ。男児たるものこの程度で音を挙げてどうする。途中で門兵も手伝ってくれたではないか!」

「返す言葉もござらん」

 

反論するのも面倒だ。

最早見慣れた内城内部。太陽の位置から察するに申の刻間近か。現代の時間で直すと午後四時前後だろう。

義久様の下へ急がないと。足腰に喝を入れる俺を尻目に、久朗は一歩早かった。

 

「お主は此処で待っておれ。俺が義久様をお連れしてくる」

「え? あ、あぁ。頼むよ」

「委細承知。源太は息を整えておけ」

 

走り出す久朗の背中を眺めながら、俺は千歯扱きを背凭れ代わりにして腰掛けた。

農繁期の4月下旬。夕暮れどき特有の肌寒い風が額の汗を乾かしていく。

 

「ふぅ」

 

今の所、俺の評価は上々だ。

この2年間、大きな戦が起こらなかった。精々小競り合い程度。元服したての若造に采配を取らせる馬鹿もいないから軍事的な発言力は皆無だが、砂糖の件や帳簿の管理などの功で内政に関しては頼られるようになってきている。麒麟児という異名は元服した後も中々に役立つものだ。

これで問題ない。予定通りである。

初陣は恐らく岩剣城の戦い。

この戦で功を挙げれば大隈平定の際に従軍を許されよう。史実より早い九州統一を成し遂げる為には肝付家に10年も構ってられん。

いや、肝付兼続は優秀だったと聞く。それを一蹴するにも岩剣城の戦いで鉄砲の有用性を島津家全体に知らしめないとなぁ。

 

「あら〜。源太くん?」

 

つらつらと今後の予定を立てていると、唐突に聞き覚えのある間延びした声が耳に飛び込んできた。

咄嗟に跳ね起きる。

片膝を付き、主君の名前を呼んだ。

 

「義久様!」

「うふふ、源太くんは大袈裟ね〜」

「決して大袈裟ではありませぬ。義久様は次期島津家当主であられます故」

「もうっ」

 

あら可愛い。

14歳となられた義久様。

三洲一の美貌は変わらず。むしろ美少女から美女へ成長するに連れて進化している。胸の膨らみも衰え知らず。既に凶器と化しているんだが、動き辛くないんだろうか。

いやはや余計なお世話か。

ただ将来のお婿が妬ましい。

この巨乳を好き放題に出来るなんてな。

 

「源太くんと私には壁があるわね〜」

「主君と家臣。壁があって当然です」

「そうかしら?」

「はい」

「お父さんと忠朗みたいになりたいわ〜」

「鋭意精進していく所存」

 

2年間、共に仕事をこなした。

砂糖の一件も手伝ってもらった。

それでも相手は島津義久様。史実だと島津四兄弟を纏め上げ、ほぼ九州統一を成し遂げた英傑。女性に変化していようと変わらない器の大きさは俺と凄まじい隔たりがある。

——って、あれ?

 

「久朗がおられませぬな」

「久朗? 私は今日会ってないわよ〜」

「擦れ違い、か」

「それでね、源太くん。それは何かしら?」

 

義久様が指差すのは千歯扱き。

当たり前か。

こんな見たこともない農具が内城内に置かれていて無視するのは不可能だろう。

怪しげな物ならいざ知らず、これは俺と久朗の造りあげた物だ。自信満々に答える。

 

「これは千歯扱きと申しまする。俺と久朗で造りました」

「あらあら。そうなの〜?」

「はっ。こういう風に使いまする」

 

千歯扱きの使い方を実演して見せると、義久様は可愛らしく口許に手を当てながら感嘆の声を漏らした。

 

「まぁ」

「扱箸より効率的に脱穀を行えます」

「本当に源太くんの頭はどうなっているのかしらね〜。私も誇らしいわ〜」

「恐悦至極にございまする」

 

それから10分近く義久様に千歯扱きの説明を行い、この農具を貴久様にもお見せしたい意思をお伝えした途端、城内が慌ただしく喧騒に満ちてきた。

何事か。義久様と小首を傾げた直後、息を荒げた久朗が駆け付け、姫君の姿を見た瞬間に片膝を付いて報告した。

 

 

 

「蒲生範清、謀叛。加治木城へ向け進軍を開始しました。義久様におかれましては評定を行う故、直ぐに殿の下へ駆け付けるようにと仰せです!」

 

 

 

遂に初陣の時である。

 



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二章 島津義弘との確認

 

 

「知ってたけどさ。これは酷いぞ」

 

眼前に広がる断崖絶壁の崖。

天然の要害に築かれた山城として、まさに教科書通りに攻め難く守り易いを体現した岩剣城の全容を視認しながら俺は人知れず嘆息してしまう。

力攻めは愚策。どうしようもないな。

朝から晩まで力攻めすれば落とせるかもしれんが島津側の被害甚大となるだけだ。

今後のことを考えれば兵の消耗はなるべく避けたい。

下手すれば初陣の義久様か義弘様、そして元服したばかりの歳久様のどなたかが討死する可能性もある。

被害を抑えるためには、貴久様の思惑通りに戦を進めるしかねぇ。史実通りに行こう。

基本的に余計な事はするべきじゃない。

俺の発言権もまだまだ低いからな。

加治木城を包囲した蒲生範清を中心とする連合軍を釣る。野戦で勝利を飾る。岩剣城の城主を討ち取って混乱を助長させて一気に城内を占領。この大まかな流れに沿って、後は俺が少し修正すれば問題ない筈である。

その為に岩剣城の北部に陣取った訳だしな。

 

「ねぇ、源太」

「如何なされましたか、義弘様」

 

隣で不安そうに得物を持つ島津義弘様。俺と同い年だ。12歳になったばかり。しかしながら小柄な身体から考えられぬ程の槍の名手として名高く、此度の戦でも多大な槍働きを期待されている島津貴久様の次女であった。

史実でも武勇の誉れ高く『鬼島津』と恐れられた猛将だ。

有名なのは島津の退き口であろうか。関ヶ原の合戦で西軍敗北が決定的となった後、家康本陣に向けて異例の敵中突破による退却を図り、捨て奸と呼ばれる戦法を駆使し、紆余曲折ありながらも最終的に無事に薩摩本国へ帰国を果たした。

そんな島津義弘もこの世界だと可愛らしい少女である。青を基調とした鎧に身を包み、短く纏められた黒髪は麗しく芳しい。だが普段は快活な琥珀の双眸だけは、これから起こるであろう合戦のせいか小さく不安げに揺れていた。

 

「この戦、勝てるよね?」

 

将来は戦国時代でも屈指の猛将。

それでも未だ12歳の身の上である。

しかも初陣。不安にもなろう。

あまりに多くを求めるのは酷というものだ。

俺は義弘様を落ち着かせるように極めて冷静な口調で断言する。

 

「無論です。負ける要素が見当たりませぬ」

 

つか、俺は何でこんなに平静を保ってられるんだろうか。ふと気になった。

初陣だ。人が沢山死ぬんだ。負ける可能性だって微粒子レベルで存在するんだ。

なのにどうしてだろう。

気にしたら負けなのか?

これも伊集院忠棟の優秀さのお陰なのかな。

 

「岩剣城の堅牢さは私でもわかるよ。どうして負ける要素がないって言い切れるわけ?」

「義弘様。貴久様の考えた策の本質はどのようなものでしょうか?」

「蒲生たちを誘き寄せるんでしょ?」

「然り」

「でも、誘き寄せられなかったからどうするの?」

 

現在、蒲生たちは2500の兵を率いて加治木城を包囲している。

3年前に反島津連合から袂を絶った肝付兼演の守る城を落とし、北薩と西大隈から島津家の勢力を叩き出す為だ。

ここまでは史実と変わらない。

対して加治木城を守るのは肝付兼演だけではない。蒲生範清の謀叛を予想してあった島津家は2年の間に加治木城の応急普請を行った上に、貴久様の弟君であらせられる島津忠将様に200の兵を預け、前もって派遣してあった。これらの処置によって加治木城陥落の可能性は限りなく低くなったと言えよう。

 

「蒲生たちが加治木城を落とすのに腐心したら忠将叔父さんも危ないよ」

 

加治木城は、東を除いた三方は急峻な大地の上に築かれている。つまり山城だ。元々から堅城だったが、応急普請によって更に堅牢な城と化し、守将は貴久様の弟で島津家の血を引く優秀な忠将様である。

故にーー。

岩剣城を攻められていると知った蒲生範清の取れる選択肢は三つしかない。

一つは岩剣城を捨てて、兵の消耗も無視して加治木城を猛勢にて落とす。もう一つは加治木城から岩剣城へ兵を動かして祁答院良重の救援に向かう。最後に連合軍を解散させて本城へ戻る。このどれかである。

だが、渋谷氏を始めとした祁答院氏、入来院氏、菱刈氏、北原氏らを加えた連合軍を結成した時点で何も戦果を得ずに引き下がることは許されない。加えて加治木城の堅牢さ。

この二つの要因から蒲生範清の取れる選択は実質一つだけだ。

 

「心配には及びませぬ。奴らは必ず誘き出されます。岩剣城を攻められていると知れば必ず。何しろ岩剣城を抜かれれば蒲生本城は目と鼻の先。加治木城を攻略している場合ではありますまい」

 

もしも蒲生範清がトチ狂って加治木城に留まるなら、島津側は岩剣城を兵糧攻めしつつ帖佐平山城を落とせばよい。

加治木城救援はその後でも十分に間に合う計算だ。蒲生本城に攻め込むことも可能となろう。まぁ、あり得ない未来図だけどさ。

 

「おびき出してしまえば勝利は目前。背後から忠将様が撃って出て、我々は万全の状態で待ち構えます。後は二つか三つほど策を巡らせればお味方の大勝、間違いなしでございます」

 

初めての拝謁の際、調子に乗った受け答えのせいか、その後何度か貴久様に意見を求められたことがあり、これまた自重せずに史実より有利な状況に持ち込めるような献策をしてしまった。

その最たるものが東郷氏への工作でありまして。伊達に2年前から準備していないのだ。

自信満々な口調が功を奏したのか、懇切丁寧に説明し終えると義弘様は明るく元気に頷いた。最早不安げな様子は垣間見れない。

 

「そっか。源太が言うなら大丈夫よね!」

「もったいなきお言葉。義弘様は他の将兵を動揺させないよう、普段通りのお姿でおられますようお願い致します」

「うん!」

 

手槍を扱きながら義弘様は去っていく。

踵を返した義弘様の背中を眺める俺。

少女の身ながら、人の上に立つ者が備えるに相応しい凛々しさと逞しさを感じ取れた。

一刻前は見えぬ負け戦を連想して怯えていたのに、自信を取り戻しただけで膨れ上がる覇気は島津貴久様の次女であることを否が応でも考えさせられてしまう。

 

 

「よくもまぁ、あそこまで口が回るものよ」

「た、忠良様!?」

 

 

全く気配を感じなかった。

気が付けば隣で腕組みをしている初老の翁。

岩剣城に進軍する最中、初めてご尊顔を拝謁したばかり。島津四姉妹の祖父、即ち貴久様の父君であらせられ、父子揃って『島津家中興の祖』と称えられるほどの名君であった御仁は島津忠良様である。

驚愕に目を見開き、慌てて片膝を付く俺。

しかし忠良様は「よいよい」と破顔しつつ岩剣城を見上げた。

 

「伊集院家の麒麟児。なるほど、噂には聞いておったが確かに12歳の小僧と思えぬ口の回りようじゃな」

 

忠良様の耳にまで届いてたのかよ。

嬉しいやら恥ずかしいやら。

流石に砂糖や千歯扱きの件は聞いてない筈。

何しろ貴久様に家督を譲った後は加世田城にて半ば隠居の身であったのだ。

岩剣城の戦いに参陣することは史実からわかってたし、言葉を交わせたら不躾ながら頼みたいことが一つ有ったんだが、貴久様に負けず劣らずの威圧を醸し出す翁と相対した俺はぶっちゃけ呑まれそうになっていた。

 

「はっ。恐れ入りましてござりまする」

 

咄嗟に答える。

忠良様は一点を見つめたまま言い放つ。

 

「義弘の不安は当然のものじゃ。未だ武将として未熟である証じゃが、初陣であるなら尚更のう」

「今はもう、不安を抱いていないかと」

「お主の口八丁に乗せられてな。アレでも儂の孫娘。心底勝つと信じておる相手の言葉でなければああも容易く不安は払拭されぬ」

 

頭を振って口を閉ざした忠良様は初めて俺を見た。30センチ近い身長の差から見下すように見下ろし、一挙手一投足を見逃さないように注視する様はまるで尋問しているみたいである。

自然と喉が鳴った。

ゴクリ、と生唾を飲み込む。

腰に差した刀で斬られる未来が脳裏に浮かんだ。下手なことを言えば殺される。失礼ながらこの時、本気で命の危険を感じた。

 

「問いだ、小僧。岩剣城をどう見る?」

「天然の要害に築かれた堅城かと」

「であるか。ならば力攻めは愚策であるな」

「はっ。故に貴久様も策を用いました」

「蒲生範清らを釣るか。決戦はどこぞ?」

 

内城にて行われた評定に忠良様は参列していない。貴久様の策に関しては断片的に聞いただけだろう。

にも関わらず本質を理解している。

義弘様と違うのはやはり経験であろう。

貴久様と共に争乱の最中に遭った薩摩平定を成し遂げたのは伊達ではないということだ。

 

「岩剣城北部、平松かと」

 

間髪入れず答える。

史実でも平松で野戦を行い、激戦の結果、島津軍は勝利を収める。不満があるとすれば岩剣城にも猛攻を仕掛けていた故に被害甚大となり、戦後に蒲生氏や祁答院氏を追撃できなくなったことである。

ならばこの世界では一気に攻め落とさねばならない。

 

「ふむ。お主が此処に陣取ったのは己で武功を挙げる為か?」

「否。伏兵を用い、数少ない損害で最大限の勝利を得る為であります。俺は祖父に呆れられるほど武術の才がありませんから」

「ふ、ふははははは!」

 

何故か大笑いする忠良様。

陣の周囲を固める兵士たちが何事かと此方を見る。こっち見んなよ。恥ずかしいだろ!

義久様も小首を傾げてどうしたのって聞いてこないで!

忠良様は口許を綻ばせたまま続けた。

 

「武術の才を持たぬと宣言する武将など初めて見たわ。麒麟児と持て囃された愚か者と思いきや己が分を弁えておる。不思議な小僧じゃな」

「もったいなきお言葉」

 

身の丈を知り、分を弁える。

現代社会でも必要なことである、

出る杭は打たれるというしな。

残念なことにあまりにも異質な存在は叩かれてしまうのだ。織田信長の奇行然り。時代時代に合った思想や行動を厳守しないと俺も何時うつけ者と断じられるかわからない。

島津家家中の信頼を手に入れる為には常に冷静で、驕らず、着々と功績を重ねていく他ない訳だ。

まぁ面倒くさいけどな。

忠良様には見抜かれているらしく、軽く頭を叩かれた。

 

「無駄な謙遜じゃ。して、貴久に献策したのか?」

「平松に関してはまだでございます」

「それは義久に武功を立てさせる為か?」

「忠良様のご慧眼には敵いませぬな」

「小僧の申すことよ」

 

カラカラと快活に笑う忠良様。

年老いて皺の寄った優しげな顔の笑うお姿は英傑と思えず、知らぬ人が見れば孫の言葉に喜ぶ好々爺にしか見えないだろう。

 

「じゃがお主は元服したての小僧よ。例え理に叶っていようとも実績の伴っていないお主の策では新納忠元、鎌田政年は納得せんじゃろうな」

 

史実だと島津忠良の四天王と称された内の2人の名前は耳にしただけで心臓が震える。

新納忠元、鎌田政年。

何度か話したことはあるが、あの2人を説き伏せられるような実績を確かに俺は持っていない。だが、その件については考えがある。

 

「承知致してござりまする。故に評定の際に義久様から献策してもらおうと愚考しております」

「ならぬ!」

 

瞬間、一喝された。

近くで叫ばないでくれよ。耳が痛ぇよ。

義久様も大丈夫かしらって心配しないで。なんだか心まで痛くなるから。取り敢えず放っておいてくださいお願いします。

 

「自ら考えた策は己が口で献策すべし。責任を主君に押し付けるなどもっての外じゃ!」

 

それだと新納さんや鎌田さんが納得しないって言ったのは忠良様じゃん。

俺だって理解してるから仕方なく義久様から献策して貰おうと考えたのに。

 

「なれど、俺ではーー」

「心配するでない。儂がおる」

「忠良様?」

「評定の際はお主も参列せよ。義久の筆頭家老なのじゃから早めに経験しておくに限るからな。貴久には儂から伝えておこう」

 

え?

マジで?

戦評定に参加できるの、俺が?

元服して2年の若造では島津家の戦や今後を左右する評定に参列する権利を持たない。貴久様からしてみれば陪臣でしかないからだ。

島津家家中を唸らせる功績を立てるか、直接の君主である義久様が家督を継いで直臣となるか、そのいずれかで無ければ参加を許されないだろう。

早くても三年後だと予想してたのに。

忠良様万歳!

島津日新斎様万歳!

何が功を奏するかわからないもんだな!

 

「感謝の言葉もありませぬ!」

「よいよい」

「忠良様、そのご厚意を無下にするようで心苦しいですが、此度の戦が終わり次第、一つ献策したい義がござりまする」

「儂にか?」

「はっ」

「ふむふむ。なれば死する訳にもいかんな」

 

はっはっはっ。

高笑いしながら立ち去る忠良様の背中に向けて一礼した後、俺は喜びのあまりスキップしながら義久様の元へ急いだのだった。

 

 

 

 

 

 

島津忠良は本陣へ馬を走らせた。

堅牢な岩剣城を攻め立て始めるのは明朝である。息子である貴久と二つ三つ言葉を交わらせる時間は十二分に有った。

本陣を守護する兵士たちが元当主の存在に片膝を付く。家臣たちも同様だ。彼らに挨拶するのは戦が終わってからにしよう。

今は久方ぶりに心踊る生意気な小僧について貴久と語らねばならないのだから。

 

「忠良様、お久しぶりでございまする。本陣に何用であられますか?」

「おぉ、忠朗か。お主も老けたのう」

「人であるなら誰でも老けまする」

「忠朗の申すことよ」

 

伊集院忠棟の生意気さは祖父譲りか。

間に挟まれている伊集院忠倉は何とも面白みのない真面目な男であるのが悔やまれる。父譲りなのか能吏として有能だからこそ島津家家中でも一目置かれているのだがーー。

閑話休題。その話はまた今度である。

 

「貴久はおるか?」

「殿ならば此方におられます」

「ふむ。忠朗も付いてこい。此度の訪問、お主の孫息子に関することじゃぞ」

「忠棟のーー。承知仕りました」

 

貴久の筆頭家老として参陣している伊集院忠朗に案内され、忠良は貴久と3日ぶりに相対する。余計な問答は脇に置いて、すぐさま本題に移った。

 

「先程な、例の麒麟児と会ってきたぞ」

「忠棟ですか。孫が如何なされましたか?」

 

忠朗の疑問に、忠良は簡潔に答えた。

 

「今後の戦評定に参加させる。異論は認めんぞ。既に小僧と約束して来たのでな」

「父上、忠棟は未だ12歳の身ですぞ!」

「義久の筆頭家老なのだろう。早めに経験を積ませておくに限る。此度の戦に勝てば、本格的に大隈平定に取り掛かるのであれば尚更のう」

「しかし早すぎまする。我々が承知したとしても、忠元や政年らは反対するでしょうな」

「其方とは儂が話を通す。お主に話したのは島津家当主が承諾したという裏付けを欲しただけよ」

 

新納忠元にしろ、鎌田政年にしろ、貴久からならいざ知らず元当主である忠良から頼まれれば断りづらいだろう。

当主の貴久によるお墨付きがあれば尚更だ。

加えて伊集院忠棟は次期当主である島津義久の筆頭家老である。これら3つの要素を鑑みれば、首を縦に振らざるを得ない。

 

「父上が誰かを優遇するのは珍しいですな」

「全くです」

「貴久よ。儂がお主の娘たちをどう評したか憶えておるか?」

「? 勿論でございます」

 

島津忠良は島津四姉妹をこう評した。

『義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て他に傑出し、歳久は終始の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり』と。

一昨年の事である。

義久は12歳、義弘は10歳、歳久と家久は8歳と7歳という幼さでありながら、忠良は彼女たちの才能を見極めて将来を期待していた。

だがこう思っていた。

彼女たちの才能を結集したとしても、薩摩大隈日向の三州もしくは九州統一を成し遂げるのが精一杯だろうと。

天下には僅かに届かないだろうと。

 

「儂はのう、貴久。あの生意気な小僧に義久たちが持ち得ない『才』を見た。一瞬ではあったが夢を見たのだ。島津家が天下を取るという夢をな」

「父上……」

「忠棟の戦評定の参加、良いな?」

 

眼を閉じて押し黙る貴久に念を押すと、現当主の隣に佇む忠朗が先に諦めたように肩を竦めた。

忠朗は思考する。

元当主の人物眼は並外れた物があると。

その御仁が天下を取るに必要な人材だと評したのだ。仕方ない。この翁も孫のためなら泥を被ろうではないかと決意した。

 

「忠良様にこうも認められるとは。私には出来過ぎた孫でございますな」

 

筆頭家老の諦観な口調を聞き、貴久も腹を括ったらしい。嘆息を一つ。手にした扇子を膝に叩き付け、共に薩摩平定を成し遂げた肉親を見上げる。

 

「父上」

「どうした?」

「俺は2年前、忠棟と言葉を交わした際、奴を龐士元の生まれ変わりだと評しました」

「大陸の鳳雛か。ふはははは、なるほどなるほど。それは言い得て妙かもしれんなぁ!」

「戦評定の参加、俺も了承しました」

「そうかそうか。儂は今から忠元たちの元へ急ぐのでな。これにて御免」

 

本陣に訪れた時のように、忠良は年齢を感じさせない動きで乗馬し、風の如く新納忠元の敷いた陣へ駆けていくのだった。

 



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三章 蒲生範清との合戦

 

 

岩剣城周辺に布陣してから4日。

本格的な城攻めを開始してから丸2日が経過した。昼夜問わず攻め立てる。日本に於いて初めて合戦にて使われる鉄砲の轟音が鳴り響けば、風切り音を鳴らす数多の弓矢が天高々と弧を描き、戦意高々な島津兵が大手門を破らんと猛勢を掛ける。

しかし敵もさることながら必死に籠城を続ける。祁答院良重自ら先頭に立ち、城兵を鼓舞しながら蒲生範清率いる連合軍の救援を待ち続けた。

まさしく一進一退の攻防である。

銃弾に加え、火矢による損害は大きいが城内の士気は上々。兵糧も問題なく蓄えてある。後は如何に敵の数を減らし、救援に駆け付けた連合軍と足並み揃えて島津軍を挟撃するかであった。

ーーなんて。

岩剣城城内では考えられている事だろう。

島津兵2000を釘付けに出来ている事から此度の戦、島津家全体に大打撃を与える大勝であるとも。

だが甘い。

そう断じざるを得ないな。

本陣で行われる戦評定の参加を許された俺は貴久様から最も遠い末席に腰掛けながら、ここ2日間の城攻めを反芻した。

結論から評するに島津軍は手を抜いていた。

ともかく兵の損失を少なくするように動いている。岩剣城の東南に位置する白銀坂に陣を張った新納忠元殿も貴久様のお言葉通りに無理な突撃は控えているぐらいで、北部に陣取った義久様も基本的に包囲に参加しているだけだ。

戦意高揚な義弘様は策を理解していながらも唯一不満そうだった。いや、どうやら忠元殿も焦れったくあるようで貴久様に噛み付いている。曰く、総攻撃を仕掛けるべきだとか。

もう少し待てば平松で決戦が始まる。

義久様が兵を損なわせないように指揮しているのはこの為だ。

無論、主君に進言したのは俺である。

義久様率いる300の兵はこれからが本番。

その大役を得るためにも此処からは俺の仕事だった。

 

「殿、岩剣城を包囲して4日。城攻めを始めて早2日。何を悠長にしておられますか!」

 

忠元殿の威勢の良い言葉に数人の家臣が我が意得たりと頷いた。然り然り、と口にする者もいる中で、鎌田政年殿が膝を叩いて貴久様に詰め寄り催促する。

 

「城内の敵、戦意高揚なれど寡兵であらせられる。殿が蒲生範清の兵を待っておられるのは存じ上げるが、挟撃される可能性を潰す為にも此処は総攻撃を仕掛け、一刻も早く岩剣城を攻め落とすのが上策というもの」

 

確かに上策かもしれない。

短時間で落城できる平城ならな。

岩剣城だと大手門に繋がる道は狭い上に一つしかなく、三方は急峻な崖だ。降伏する兆しも見えない中に於ける無闇な城攻めは攻め手の被害が拡大するだけだろうに。

 

「政年の言葉、我が意得たり!」

「おお。忠元もそう思うか!」

「殿、ならば我らに下知してくだされい。必ずや大手門を破り、城内のことごとくを血で染めてさしあげましょうぞ!」

 

いや、歴戦の武将である忠元殿と政年殿が理解していない訳がない。

島津忠良の四天王の座は猪武者では務まらない。実際、新納忠元は親指武蔵と呼ばれ恐れられた武将でありながら、和歌を詠み合うなど文化人な側面を持ち、史実において長宗我部信親の遺骸を引き取りに来た谷忠澄に対して討ち取ったことを陳謝したという礼節を弁えた武将でもあったとされている。

何か理由があるな。初めての戦評定だから確信を持てないが、何やら焦っている様子が見受けられる。

功名を欲しているのか。

ならば何故だ。

俺みたいな若造ならまだしも、既に家老職の中でも飛び抜けた武功話を持つお二方がどうして功名に焦る必要があるというのか。

ーーいや待て。

もしかして俺か。俺のせいか!

 

「落ち着きなされい!」

 

考えがまとまり掛けた直前、祖父の大声が評定の間に響いた。義久様の隣に腰掛ける筆頭家老は威厳のある口調で喧騒に満ちそうな場を収めた。

 

「政年殿、忠元殿。見ての通り岩剣城は堅城ぞ。無駄に兵を失う必要はござらぬ。此処は当初の策の通りに事態を進めるがよろしいかと存ずる」

 

だが、政年殿も黙っていない。

鋭い視線を祖父に向ける。

まるで扱いた手槍のようだ。

本陣にて行われる戦評定。

合戦の勝敗が懸かっているからなのか、まさに血の降らない戦模様。舌戦と呼ぶべきか。

12歳の身で体験できたことはまさに僥倖だったな。忠良様に心底感謝である。

この経験を糧としないと勿体無さすぎる。

 

「お言葉ながら。忠朗殿、城内の兵と蒲生の軍勢に挟撃される危険性については如何がお考えか」

「政年殿の仰られる通り、岩剣城に控えるは寡兵。この伊集院忠朗が命を賭して包囲しておく所存に御座る」

「儂らはいざ知らず、末端の兵士たちは背後を突かれてると知りながら正面の敵に集中できようか。否、出来まいて!」

「さようで御座る。此処は総攻撃を以て他になし!」

「然り!」

「然りじゃ!」

 

忠元殿の危惧もわかる。

人は背中を突かれた状態で平静を保っていられない。武将なら顔に出しても逃げ出すことはないが、例え精強な島津兵であろうと一人また一人と逃亡兵が出ることは十分にあり得る。それは最終的に前線の崩壊に繋がっていくだろう。

政年殿の掛け声に合わせるように、功名を欲しがる家臣たちが立ち上がる。

それでも貴久様は何も言わず、義久様たちも慣れていないからか家臣たちの熱気に呑まれている。忠良様はひたすら目を瞑っていた。

俺はどこで仕掛けるか悩む。

蒲生範清が加治木城の包囲を解いたのは今朝のこと。到着は2日後。俺の策が上手く行けば蒲生率いる連合軍を一蹴しつつ、城内へ付け込みも狙える。理に適った策だと思うが若造の練った策だと捻り潰されたらお終いだ。

故に千載一遇の好機を待っているのだが、それは家臣の一人が発した台詞によって舞い降りた。

 

「よもや忠朗殿、臆病風に吹かれたのではありますまいな」

 

来たぁ!!

 

「臆病風とは無礼千万であるぞ!」

 

言葉を失ったかのように沈黙を保っていた俺が突然、口角の泡を飛ばしながら椅子から立ち上がったのだ。

評定の間が一気に静寂に包まれる。

俺は12歳という若輩者であることを忘れたように捲し立てた。忠良様も認めた口の回る様を見せてやろうじゃねぇか。

 

「そのような謂れは武門の名折れ。如何にご祖父様に向けた言葉であろうと、我々伊集院家に向けた罵倒であると捉えるが返答や如何に!」

 

伊集院家に喧嘩売ってんのかコラ!

意訳するとこうなる。

戦評定の熱気に当てられたとは言え、祖父を罵倒した新納忠元殿のご子息である新納忠堯殿に鬼気迫る口調で返答を求めるが、見計らっていたかのように忠良様が仲裁に入った。

 

「忠棟、落ち着け」

「しかし!」

「落ち着くのじゃ。儂らが相争えば敵方の思う壺ぞ」

「くっ」

 

一旦引く。

忠良様に噛み付いても仕方ない。

此処は主導権を半ば引き寄せただけで良しとしよう。どうやら忠良様は俺に策を言わせたいらしいしな。

 

「忠堯も言葉が過ぎる。忠朗は薩摩平定に最も貢献した武士の一人じゃ。臆病風に吹かれたなどお主が口にしていい言葉ではない。分を弁えんか!」

「も、申し訳ありませぬ」

「しかし忠良様。尊敬するご祖父様を罵倒されたのです。聞き逃すことなど到底出来ませぬ!」

 

元島津家当主の背筋を凍らせる大喝に忠堯殿が萎縮した。

気持ちはわかるよ。恐ろしいよな。

兵を鼓舞する手際の良さ。舌を巻くほどの指揮の巧みさ。まさに名将だ。加世田城で半ば隠居していると思えない現役っぷりである。

そんな人生の大先輩から叱られたのだ。

俺もそうなる。誰だってそうなる。

此処は新納親子にも手柄を立てさせるべきだな。咄嗟に策の一部を変えた俺に、忠良様は意味ありげな視線を送りながら口にした。

 

「忠棟、ならばお主の策を申してみよ」

「……よろしいのですか?」

「貴久、良いな?」

 

一拍の間が空き、貴久様も頷いた。

 

「無論です。忠棟、策を申せ」

「ははっ」

 

これにて準備は整った。

もしも忠元殿の言葉を遮り、理に適った策を披露しても無礼だと怒鳴られた挙句に潰されるだけだったと思う。

戦評定に参加するのは初めてな為、誰かが率先して意見を尋ねてくることもない。家臣たちの前で貴久様と忠良様が12歳の若造を特別扱いするのも不可能。功績が無く、発言力も無ければ献策するだけでも一苦労である。

全く世知辛いものだ。

しかし一連の流れによって貴久様と忠良様から献策の許しを得た。

ようやくだ。ここからようやく始められる。

俺は練っていた策を披露した。

そんなに難しい物でもない。

練度の高い島津兵なら十二分にこなせる。

鉄砲の有用性も知らしめることが可能だ。

そしてーー。

俺の策は認められ、岩剣城の戦いは佳境に入ったのだった。

 

 

 

 

 

 

2日後、卯の刻。

午前6時。朝靄立ち込める中、2500の兵を引き連れた反島津連合軍は岩剣城北部に広がる平松にて布陣した。

帖佐平山城を背にして魚鱗の陣を敷いていることから奴らの動きは察するに余りある。

彼らからしてみれば兵数で上回っている上に一刻も早く岩剣城を救援しなければならないからな。岩剣城の守将は祁答院良重。その嫡子であり帖佐平山城から出撃してきた祁答院重経による焦りも効いているのかもしれねぇ。

俺からしてみれば祝着の極みだ。

蒲生範清と相対する島津兵は貴久様率いる1200人余り。兵力差は約2倍である。

しかし、平松の決戦を予期していた島津軍は堅陣を築いていた。幾多にも柵を巡らせ、その中には100丁の鉄砲隊を配備。岩剣城に持ち込ませた全ての鉄砲を並べたのだ。

この柵を越えて、鬼と称された島津兵を薙ぎ払い、烏合の衆とも取れる連合軍総出で岩剣城の救援に迎えるかどうか。

俺なら白旗あげるな。

恐ろしいなんて物じゃない。

そして策はまだある。

……まだあるのだ。

 

「ねぇ、源太くん」

 

平松西部に『天ヶ鼻』と呼ばれる山がある。

義久様と義弘を中心とした300の島津兵は息を殺して合戦の始まりを待っていた。

貴久様の判断の下、狼煙が打ち上げられる。

瞬間、山を駆け下り、連合軍の側面を衝く。

義久様は後方で指揮を執り、義弘様は最前線にて槍を振るう手はず。300の内、半数は騎馬武者だ。唐突な伏兵の登場に浮き足立つ蒲生軍を一蹴に伏してくれるだろう。

いや、油断は禁物だ。

もしかしたら策を読んでいる可能性もある。

もし伏兵の存在を気取られていても、それを挽回する策を用意しておかないといけない。

俺がもしもを考えて頭を巡らしている中、義久様が小声で話しかけてきた。

俺は山間から覗く両軍の布陣を眺めながら答える。

 

「如何なされましたか?」

「岩剣城の包囲はあれだけでよかったの?」

「問題ありませぬ。忠良様の統率力ならば如何ほどの心配もいりますまい。新納忠元殿と忠堯殿も千載一遇の好機をみすみす逃すような武将にあらず」

 

平松の決戦にて大勝を収めても、岩剣城が頑固に抵抗しては兵の損失が大きくなるだけである。

故に其方も策を用いた。

岩剣城から出撃する兵数は約300と言ったところか。ここぞとばかりに祁答院良重、西俣盛家が先陣に立って遮二無二に突撃してくるだろう。此処で島津軍を退却せしめないといずれ兵糧が切れて、城内は餓死者で埋め尽くされることとなる。

待ち受けるのは島津忠良様が率いる200人の兵士。残り300名は忠元殿と忠堯殿が統率。そして用いる戦法は島津を代表する有名な物だ。

 

「釣り伏せだったかしら?」

「はっ」

 

敵軍と一戦交え、わざと敗退する。

追撃に移る敵軍を伏兵を敷いていた場所まで誘導し、四方八方取り囲んでから包囲殲滅する島津軍の十八番となっていく戦法だ。

忠良様なら難なくこなせるだろう。

50を超えてもなお衰えぬ覇気を醸し出し、任せておけと鍛えられた胸板を叩いた様は既に隠居を楽しんでいる翁には見えなかった。

そして岩剣城を落とす為にもう一つ戦術を付け加えた。

 

「城主を野戦にて討ち取り、敗走した城兵が大手門から逃げ込む隙を衝いて岩剣城に殺到し、城内の混乱に乗じて雪崩れ込めば、城を落とすことなど造作も無きことにござりまする」

 

俗に『付け込み』と呼ばれる戦法だ。

短時間で、かつ最小限の被害で城を攻略することが出来ることから、頻繁に使用される戦法であった。

 

「あくまでも釣ることに拘ったのね〜」

「はっ。遠征するだけでも疲弊します故。謀叛を起こした者に我々が疲弊してまで付き合う必要はないかと存じ上げまする」

 

兵糧を始めとした様々な物資を戦場に運ぶだけでも莫大な金銭、労力を使ってしまう。

三州平定や九州統一に使うならまだしも、蒲生範清の発端とした此度の戦で疲弊するのは割に合わない。

だからこそ釣ったのだ。

戦は起こさず収めるが上策。

始まってしまったからには致し方無し。

最低限の損失を以て、最大限の利益を得なければならない。

故に奴らを利用する。

北薩に於ける親島津と反島津の色分けを明確にした上で、義久様と義弘様に武功を挙げさせ、これからの合戦の主流となる鉄砲の有用性を島津家全体に知らしめる。

その為に犠牲となってもらおうじゃないか。

そんな歪んだ想いが顔に出ていたのか、義久様は悲しげに目を伏せた。

 

「源太くん、怖いわ〜」

「これも偏に島津家を想えばこそでござりまする。どうか、平にご容赦下さりますよう」

「はぁ。お祖父様が源太くんを気にいるのわかった気がするわ〜。少し似てるものね〜」

「え?」

「ううん。なんでもない」

 

頭を振り押し黙った義久様。

眼下に広がる両軍の布陣を見下ろしている。

俺も周囲に倣って口を閉ざした。

それから一刻経っただろうか。

義弘様の辛抱が限界に達した頃だった。

 

「来た」

 

敵が動いた。

濛々と立ち込める砂塵の中から、鯨波の声を上げながら駆ける蒲生勢。島津軍の築いた堅陣も何のその。数に物を言わせて押し倒そうと迫り寄るがーー。

耳を劈くような轟音が鉄砲隊から響き渡る。

天ヶ鼻にまで届いた銃声は伊達じゃない。刹那、蒲生率いる連合軍の兵士たちがもんどり打つようにして倒れた。

続けて、島津家の弓隊が前進。鉄砲隊が弾を詰め替えるまでの間、矢の雨を降らせる。

鉄砲と弓による間断ない攻撃に敵の脚色も鈍るが、2倍の兵力による押出しと父を助けるという祁答院重経の奮戦もあって、遂に堅陣の一角に到達。激しい喊声を上げながら、柵を押し倒そうと群がっていく。

蒲生範清、祁答院重経自ら手槍を振るい、混戦の中に飛び込んだ。

鉄砲隊は尚も銃声を轟かす。

100の鉄の塊が面となって襲い掛かる。

蒲生勢は堪らず進軍を停止するが、祁答院重経の突出のせいか陣形は何時の間にか魚鱗から鋒矢に変化していた。

 

「ここだ!」

 

思わず叫んだ。

義弘様も既に乗馬済み。

義久様に於いては軍配を持ち、周囲を固める兵士たちに突撃の準備をさせていた。

それ程までに絶好の機会。

鋒矢の陣は、魚鱗の長所と短所のどちらもより特化した物である。強力な突破力を持つ反面、一度側面に回られ、包囲されると非常に脆い。また陣形全体が前方に突出し、主戦場が本陣より常に前方を駆けていくため柔軟な駆動には全く適さないわけだ。

つまりは好機。ここを逃してはならない。

今、300の兵で側面を衝けば勝ち確定だ!

そして貴久様も見抜いていたのか。

最適な瞬間に狼煙が打ち上げられた。

 

「皆、私に着いてこい!」

 

義弘様が先陣切って駆けていく。

300の兵士が鯨波の如く山を下る。

伏兵の存在に気付かず、側面に弱い陣形であり、鉄砲隊の援護射撃も重なって、瞬く間に敵軍は総崩れとなった。

断末魔の叫び声をあげながら蜘蛛の子のように散らばっていく。

この時代、現代の軍隊に存在する小隊長のような指揮官はいない。統括する武将さえ討ち取ってしまえば、残りの兵士は逃げた方がいいのか、戦っていいのかわからなくなり、否が応にも混乱の極みに達してしまう、

貴久様の軍勢も堅陣の奥から突撃。側面と正面から追撃を食らった連合軍は遂に敗走散り散り。このまま行けば史実通りに奴もーー。

 

「祁答院重経、島津義弘が討ち取ったり!」

 

まさかの義弘様が討ち取っちゃったよ!?

12歳だよね?

3日前なんか怯えてたのに。

女になっても、幼くても、猛将は猛将であるということか。流石は島津四姉妹。大陸でも鬼と恐れられた一族。紛れもなくチートだ。

いや、なんにしろ。

 

「我々の勝ちだ。勝鬨を挙げろ!」

 

死屍累々に重なった連合軍の兵士たち。

惨状と死臭に蓋するように大声を発する。

島津兵は生き残った安堵感と極度の緊張から解放された故の疲労感もなんのその、天にも届けとばかりに右手の拳を突き上げた。

その姿を馬上から眺めて数瞬、俺もようやく現実を受け入れて勝鬨に参加した。

勝った。勝ったんだ!

俺は馬に跨りながら吐息を漏らす。

初陣に勝利した。それも己の策によって。

達成感に満ち溢れるかと思っていたが、どうやら身体はそれ以上に休息を求めていたようだ。

顔は微笑み、瞳を閉じて、少しだけ休もうかなと考えた直後、右肩に焼け付くような激痛が走った。

 

「な、にーーっ?」

 

経験したことのない鋭痛。

右肩に視線を向ければ一本の矢が突き刺さっていた。流れ出る血液。赤い体液を認識した途端、4日に及ぶ対陣の疲れも重なったのか意識が歪み、馬上から落ちてしまった。

 

(……そう、だよなぁ)

 

霞行く意識の中で反省する。

ここは本物の戦場だ。

勝ち戦だろうと油断は禁物だった。

全く、今回は教訓になることばかり。

 

「次は、完全な勝利、を……」

「源太くん。源太くん、しっかりして!」

 

義久様の心配げな声に押されるように、俺は今度こそ完全に意識を手放した。

あぁ、死んでいたら嫌だなぁなんて考えながら。

 

 

 

 



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四章 島津忠良への嘆願

 

 

「怪我の様子はどうかしら?」

 

岩剣城の戦いから早くも2週間。

戦後処理の真っ最中であるにも関わらず、俺は政務に励むこともなく伊集院家の屋敷でひたすら治療と休養にあたっていた。

勝鬨を上げている中、肩に受けた鏃傷。

馬から落下した為に頭部にも打撲を負った。

疲労と激痛から意識を失い、目が覚めたら鹿児島に帰還していたのだから驚きである。

伏兵を指揮した功を以て、義久様を大将とした軍勢で帖佐平山城を陥落させ、そのまま入来院氏の支配する土地を瞬く間に席巻する予定だったのに、どうやら最初から一足先に鹿児島へ戻る手筈だった忠良様と共に義久様も帰ってきたらしい。

帖佐平山城及び入来院氏の土地は加治木城から駆け付けた忠将様と貴久様で占領したと聞く。東郷氏に加え、薩州島津家も協力してくれたとのこと。これらは予定通りだ。その為に2年も掛けて両家に工作したんだからな。

岩剣城の戦いは完勝。

忠良様は無事に釣り野伏せを成功させ、新納忠元殿たちも付け込みを完遂。要害に築かれた堅城をいとも容易く落としてみせた。

兵の損失は少なく、鉄砲の有用性も知らしめた。義久様は伏兵の指揮によって、義弘様も初陣で敵武将を討ち取るという快挙を成し遂げ、誰に聞いても此度の戦は大勝だったと満足気に頷く出来だった。

惜しむらくは義久様が得るはずだった武功を霧散させてしまったことか。

欲張りかもしれないが、今後の為にも出来るだけ武名を得ておくべきである。

評定の際の発言力然り、家督相続の際にも必ず重要になってくる。

貴久様は薩摩を平定し終えた。そしてこれから大隈の平定も成し遂げるだろう。稀代の偉人だ。紛れもない英傑だ。その跡を継ぐ義久様にも相応の武功を求められることは必定である。武家の家督相続とはそういうものだ。

故にーー。

岩剣城の戦いを足掛かりにして武功を積み立てる算段だったが、やはり何もかも上手くいかないということなのか。

怪我を負ってしまうわ、手柄を取られるわ。

島津家が飛躍したことは目出度いことなんだけどな、うん。

 

「殆ど完治しております、義久様。要らぬ心配を掛けさせてしまい面目次第もございませぬ。すぐに政務に復帰します故、ご容赦を」

 

わざわざ俺の屋敷に足を運んで下さった義久様の目的は家臣のお見舞いである。手土産を持った状態で。正直な話、滅茶苦茶驚いた。

寝たきりで応対するのは不味い。

武家がどうとか、麒麟児の異名がどうとか関係なく、常識的な判断として起き上がろうとした俺を、義久様はいつも通りの笑顔で制した。

 

「あらあら。起き上がっちゃ駄目よ〜。お父さんからも休ませておけって言われたもの」

「殿が?」

「そうよ〜。砂糖製造の発見と千歯扱きの開発、それからこの前の合戦による大功を持って休暇とするですって。本当素直じゃないわよね〜」

 

鉄砲と騎馬隊を縦横無尽に操り、速攻で帖佐平山城を始めとした各支城を落城させた貴久様。勢いのまま蒲生氏一族の北村氏が守る北村城も落とした英傑は既に鹿児島への帰還を果たしている。

蒲生氏と祁答院氏に対する備えとして、加治木城の防衛に貢献した弟君に岩剣城を与え、今後の作戦行動に必要な配置は完了済み。来年か今年の末にでも行動に移すに違いない。

だから俺は休んでる暇なんて無いと思う。

むしろ寝たきりで暇だから政務したい。

仕事中毒者じゃないよ?

でもネットも無ければテレビも無いんだ。

時間を持て余すってのがこんなにも苦しいとは想定外にも程がある。

元服するまでは古典を読んだり、政務に関して学んだり、体を動かしたりして時間を潰せていた。

今回ばかりは無理だ。我慢ならん。

無理言って職務に復帰させてもらおうかな。

絶対義久様が許してくれないと思うけどさ。

 

「島津家家臣として当然の働きをしたまでで御座りますれば、改めて休暇など頂かなくとも」

「駄目よ〜。休める時に休んでおかないと」

 

遮られた挙句、頭を軽く叩かれた。

普段から義久様は心優しい姫君だが、柔らかい声音からすると意外な頑固者である。

俺まで強固に否定したら無駄な問答になる。

仕方ないな。

現代の年齢も合わせたら俺のほうが大人だ。

ここは先に折れてしまうのが筋だろう。

 

「……承知、仕りました」

「素直な子は好きよ〜」

 

頬に手を当てて、微笑みながら言われても。

年下の少年を慌てさせようという意図しか感じられないぞ。

年々こういう悪戯っ子な一面を見せるようになってきた義久様。心を開いてもらえるほど信頼されるのは嬉しいが、反応に困る言動は出来る限り慎んでほしいです。

切実に願います。

 

「お戯れを。しかし義久様は何故ここに?」

「筆頭家老の容体を心配するのは君主として当然のことじゃないかしら?」

「痛い所を突きまするな」

「だって〜。源太くんの君主ですもの」

 

言い回しも独特になってきたなぁ。

2年前はもう少し素直だったんだけど。

 

「?」

 

布団に包まりながら首を傾げてしまう俺。

義久様は布団の傍に腰掛けている。常人離れした美貌も何故か深緑の畳とよく似合う。微笑んでいるから尚更か。美形はお得である。

 

「君主と家臣は似るっていうじゃない?」

「俺は平然と痛い所を突くような輩では御座りませぬ」

「そうね。どちらかと言えば変な事に熱中する麒麟児さんですものね〜」

 

ん?

機嫌が良いかと思ったが逆なのか?

何だか刺々しい。薔薇の鞭を振り回しているみたいだ。

良からぬことをしてしまったか。

いやいや、身に覚えが無いぞ。

怪我をしたのは意識を取り戻した時に謝罪してある。2週間はここで暇を持て余していたんだ。義久様はおろか、誰にも迷惑を掛けていない自信がある。

こうなったら直接尋ねるしか無い。

俺は意を決して訊いてみた。

 

「……何やらご機嫌が優れぬご様子。如何なされましたか?」

「源太くんのせいよ」

「俺、で御座いますか?」

 

早速予想外である。

しかも間髪入れずの返答だった。

マジで何なんだ?

頭上にハテナマークが踊る俺に、義久様は如何にも私怒ってますと言いたげな顔で口にした。

 

「お祖父様から聞いたの。戦評定の時、忠堯に食って掛かったのは私に手柄を立てさせる為だって」

 

悠々自適の楽隠居野郎!

何を勝手にネタばらししてやがる!

よりにもよって義久様に。

タチが悪いのは暴露した現場に俺が居合わせなかった事だ。話した内容を把握出来てないことが何よりも恐ろしい。

ここは誤魔化そう。

悪いことをしたわけじゃないと思うが、どうやら主君の逆鱗に触れてしまったようだし。

 

「忠良様の勘違いではないかと」

「はぁ」

 

ため息を一つ。

呆れた様に続けた。

 

「源太くんならそう言うわよね〜」

 

少しだけカチンと来た。

 

「事実を申し上げるなら、ご祖父様を罵倒した忠堯殿に食って掛かったのは感情を制御しきれなかったからです。策を採用してもらったのは偶然にすぎませぬ。義久様を別働隊の大将に据えたのは状況を見極めた冷静な判断が可能だと思ったからでござりまする。故に忠良様の推測は的外れであり、俺が義久様だけに手柄を立てさせようと考えていたとは到底あり得ぬ暴論にござりますれば、そのお考え違いを正しく直してもらいたい所存に御座る」

 

そもそも義久様に告げないのは理由がある。

史実に於いて島津四兄弟は全員優秀だった。

義久は薩摩本国にて全軍の統括を図り、義弘は前線にて武勇を振るい、歳久は兵站の管理や他の勢力に対して工作を行い、家久は寡兵によって大軍を打ち破り島津家の発展に多大な貢献をしたとされている。

恐らく島津四姉妹も同じだろう。

義久様の部隊指揮は14歳と思えなく洗練されており、義弘様の武勇も若干12歳と信じられない練度を誇っている。元服したばかりとは言え、歳久様の能吏としての才覚は比肩する者が少ない程だ。こうなると家久様も史実と同等の才を持っていると考えるべきだろう。

そして——。

困るのは優秀すぎる妹たちの存在だ。

今後、島津は三州だけに留まらず、九州全土の平定、そして行く行くは天下統一に向けて邁進していくこととなる。

その際、義久様は島津家の当主として、薩摩本国にて政務を取り仕切る役目に従事する可能性が高い。逆に義弘様は島津軍の総大将として合戦に赴き、数々の武功を挙げていく。

両者を比較してみよう。

華やかなのはどちらなのか。

武家の長として相応しいのはどちらなのか。

義弘様と考える者が間違いなく出てくる。

そして、合戦にも出ず、本国に籠りっきりの義久様に対して家督を譲るように迫る者も現れるかもしれない。

義弘様本人にその気が無くとも担ぎ上げる者たちからしてみたら関係ない。何食わぬ顔で姉妹の仲を裂き、義久様を糾弾し、島津家を無用な混乱に巻き込むことだってあり得るわけだ。

だから今なんだ。

三州を平定する前に武功を挙げておく。

新参者の口を黙らせる程の功名を得ておく。

そうすれば、近い将来に待ち受ける家督相続争いも事前に鎮火させることが出来ると思うから。

 

「大丈夫よ、源太くん」

 

なのに義久様は笑っていた。

心配し過ぎだと言わんばかりに頭を撫でる。

 

「大丈夫だから、ね?」

「……義久様は暢気であらせられまする」

「源太くんが忙しないと思うわ。先のことは誰にもわからない。今はゆっくりと、落ち着いていきましょう?」

「……」

「それとも源太くんには未来が見えてるのかしら?」

「未来が見えていれば怪我を負うこともなかったでしょうな。初めてお会いした際、あのような失態を犯すこともなかったでしょう」

「ふふ、そうね」

 

愉快そうな義久様と違い、俺は唇を噛んだ。

自分で口にして気付いたのだ。

俺は未来を見ているわけじゃない。

これから起こる史実を知っているだけだと。

だがそれも狂いが生じている。

年表の違いだけでなく、有名な武将の女性化然り、婚姻関係から親子関係まで異なっていることばかりだ。

それを見極めていく必要がある。

そうしなければ義久様を天下人にする事はできない。俺の野望を叶えることはできない。

 

「肩、痛かった?」

「それはもう。思わず気絶する程に」

「あらあら。源太くんってば、強がりなのか素直なのかわからないわね〜」

「否定できぬことは強がりませぬ」

「弘ちゃんに一太刀で負けたことも?」

「無論。義弘様に勝てずとも恥にはなりますまい。あの方の武勇は天下一に御座ります」

「そうね〜。私も勝てないものね〜」

「義久様は軍勢の指揮を磨けばよろしいかと愚考します。策は私か歳久様が練り、義弘様や久朗、忠堯殿が戦場を駆ける。未来の島津家も明るいものとなりましょうぞ」

「ふふ、そうね〜。その為にも源太くんには早く政務に復帰してもらわないとね〜」

「故にもう大丈夫だと言っておるではないですか……」

 

新緑の季節に差し掛かる麗らかな昼頃。

想いを新たにした俺は右肩に触れた。

この傷に誓おう。

ここは戦国乱世の生き地獄。

例え俺が歴史の知識を知っていようとも、何時殺されるかわからない未知の世界なんだ。

油断は大敵。まさに九死に一生。

これからは弱敵だろうと全力で踏み潰す。

そして、まぁ。

竹中半兵衛や黒田官兵衛みたいな軍師として伊集院忠棟の名前を残したいなぁとか楽観視する辺り、俺もまだまだなんだろうなと思った。

 

 

 

 

 

 

義久様が内城に戻られてから数時間。

戌の刻、午後8時を過ぎた頃だった。

祖父も父上も内城にて政務に掛かり切りだ。

伊集院家の屋敷には数人の家人しかいない。

それを見計らったのか、突如忠良様が訪ねてきた。アポ無しの訪問に面食らう俺。島津家の人間は他者を驚かすのが趣味なのか、と無礼千万な邪推をしつつ、今度こそ身体を起こして向かい入れようとしたが、またもや機先を制されてしまった。

 

「よいよい」

「しかし……」

「怪我人に無理をさせるつもりはないからのう。 傷口が開いては元も子もない。今は大人しくしておれ。俗に言う、年長者からの有難い説教じゃ」

 

ここまで強く押されては抵抗できない。

したところで無礼に当たる。

昼間の義久様の時と同様、俺は布団に横たわったままで忠良様を出迎えた。実際の戦国時代なら斬り殺されてもおかしくないよな、コレって。

取り敢えず落ち着かないんだけど、それでも俺は顔に出さないように注意しつつ首を縦に振った。

 

「承知仕りました」

 

忠良様は満足気に首肯した。

 

「うむ。して調子はどうじゃ?」

「すこぶる良好です。肩の傷も痛みませぬ」

「それは祝着の極み。お主に死なれては困るからな。精々長生きすることじゃ」

「まだ12歳の若輩者。死ぬつもりは毛頭ありませぬ。忠良様こそお身体に気をつけねばなりませぬぞ」

「ふははは。小僧の申すことよ」

 

豪快に笑う忠良様。

年表が宛にならないとは言え、史実と照らし合わせればまだ15年近く生きるであろうことを確信させる破顔だった。

それから十秒笑い続け、喉が渇いたのか、腰から下げていた竹筒の中の水を一気に飲み干した。これまた豪快な飲みっぷりだった。

今でも十分に当主としてやっていけそうだな、この人。釣り野伏せを易々と実行できたことからも明らかである。

そんな人が夜遅くに尋ねに来たんだ。

何か意図があってのことだろうよ。

 

「本題に入りまする。何用で御座ろうか、忠良様」

「これは異なこと。お主から申してきたではないか。岩剣城の合戦が終わった後、儂に献策したいことがあると。よもや忘れたか?」

「いえ、覚えておりまする」

「ならば良いが」

「……もしや、そろそろ加世田城へお戻りになられる予定ですか」

「明後日には此処を立とうと思うておる」

 

つまり俺のせいか。

忠良様の立場としては別に無理して訪ねてくる必要などなかった。殆ど隠居の身である上に、相手は12歳の小童。献策したいと口にしても取り次ぐ必要すらない明確な隔たりが存在するからだ。

それでもわざわざ足を運んでくださったのは俺が義久様の筆頭家老であり、良くわからないが気に入って貰えたからだろう。

ともかく素直に詫びる。

完全に俺の失態であった。

 

「申し訳ありませぬ。わざわざご足労願うなど。面目次第も御座らん。伏して謝罪致しまする」

「よいよい。所詮は隠居の身。急いで戻る必要もないのじゃが、お主の献策は加世田の地でこそ活かされるのじゃろう?」

 

我が意得たりとばかりに口角を吊り上げる忠良様は、悪戯の成功した少年の如き円らな瞳を浮かべた。

俺も釣られて口許を綻ばせた。

 

「然り」

「であればこそよ」

「忠良様には足を向けて寝れませぬな」

「その物言い、忠朗そっくりよ。麒麟児と謳われるお主とて血には逆らえぬか!」

「ご祖父様と父上の薫陶を受けております故」

 

にしても、である。

意外な程、ポンポンと口から言葉が出る。

忠良様には申し訳ないが、長年共に戦場を駆け巡った戦友。否、まるで竹馬の友と談笑している感じだ。

不思議な感覚だった。

ただ不愉快な感覚でないことは確かだった。

 

「して策とは何じゃ?」

「はっ。実は……」

 

砂糖による金銭確保。

千歯扱きによる労働力確保。

思案中である鉄砲や南蛮船建造の為の工業都市の他に、もう一つ、島津の軍事力と中央への影響力を増大させる為に必要な策がある。

話していく内に忠良様の眉間に皺が寄る。

険しい表情は浮かべながら聞き終えた忠良様は、手に持っていた扇子でおもむろに自身の膝を打った。

 

「——なるほど。確かに加世田城を居城とする儂にしか出来んな。元当主であることも計算の内か。ほとほと12歳と思えぬ小僧よ」

 

瞑目する忠良様。

俺は無理矢理身体を起こした。

 

「どうか、協力してくれませぬか?」

「貴久には誰から申す?」

「俺から直々に。砂糖の件もあります故」

「実現すれば島津家の財政状況は更に明るくなるな。異国の技術すら何処よりも早く導入できよう。その為の金銭は砂糖で得るか」

「未だ夢物語。最初は赤字になるやもしれませぬ。しかし三年も経てば黒字に転じまする故、どうかご協力お願い申し上げまする!」

 

俺は膝を詰め、さらに迫った。

この策は千歯扱きや砂糖よりも重要だ。

島津が天下を取るに必要不可欠でもある。

だから——。

 

「……」

「伏してお頼み申し上げまする!」

 

態度を明確にせず、ひたすらに沈思する忠良様に向けて俺は平伏した。

それでも微動だにしない元当主。

やはり無理か。無理なのか。

この策には税の変動も関わってくる。

元当主とはいえ、鶴の一言でどうにかなるとも考えにくい。強硬な手段に及ぶ必要も出てくるかもしれない。

そうだとしても俺は頭を下げる他ない。

俺には誰かを動かす権力などないんだから。

そして時間が経つこと3分前後。

忠良様は、ゆっくりと頷いた。

 

「……委細承知した」

「本当ですか!」

 

思わず笑顔が溢れた。

愁眉は開き、さらに一歩詰め寄った。

忠良様は諦めたように頭を振る。

 

「悪い案ではない。問題は国人衆との折り合いじゃが儂の方でどうにかしよう。これも年長者の役目じゃ」

「はっ。このご恩、一生忘れませぬ!」

 

戦評定の参加といい、忠良様には本当に世話になった。本当に足を向けて寝られない。

無礼とかではなく、心の底から感謝しているからだ。

普通は12歳の小僧による献策なんて一笑に伏して当然。むしろ真面目に聞く方が馬鹿馬鹿しいと俺ですら思うのにな。

 

「よう言いおるわい、この狐めが」

「狐とは、酷いです」

「ならば狸か?」

「狸だけはご勘弁を!」

 

それは徳川家康の通称です!

狐も嫌だけど、狸よりはマシですから。

つーか、狐って呼ばれてる戦国武将っていなかったっけ?

 

「ならば小僧、お主は狐よ。狡猾じゃ。だがそれも一興である。儂は加世田に戻り、お主の策を実現させようぞ。故に、小僧も気張ってみせい。伊集院家の麒麟児ならばな」

「承知致しました」

 

それから二つ三つ言葉を交わして、夜も更けてきたからか忠良様はそろそろ帰るかのうと立ち上がった。

腰を叩き、肩を回す。

精神的な老いはいざ知らず、肉体的な衰えは着実に忠良様を蝕んでいるのだとわかる動作だった。病気にしては元気だし、純粋な歳の積み重ねによる老いだろうなと判断した。

岩剣城の戦いが促進させたのかもしれない。

忠良様は振り返り、手をひらひらと振る。

顔は笑顔で、口は綻び、目は優しげだった。

 

「ではな、小僧」

「伊集院掃部助忠棟に御座りまする」

「ふははは。小僧で十分じゃろうが」

 

一歩踏み出した。

 

「お主と語り合うと、昔を思い出して楽しかったぞ」

「え?」

「さらばじゃ」

 

足早に屋敷から立ち去る忠良様。

最後の不思議な台詞に首を傾げながらも、俺は元当主の協力を取り付けられたことに満足して勢いよく枕に顔を沈めた。

 

「昔、か」

 

よくわからん。

毎日暇していても眠気はやってくる。

俺は抗う気も失せて両目を閉じた。

待っていましたとばかりに睡魔が襲撃。

貴久様への献策はいつ頃にしようかと考えながら、睡眠の海に沈んでいくのだった。

 

 

 

 

 



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五章 島津貴久への試練

 

 

一月に一度行われる評定。

島津家の今後を左右する大事な会議である。

岩剣城の戦いから一年と三ヶ月。

その間に行われた二回に及ぶ島津家の遠征は敵方に猛威を振るった。各支城を落とされても必死の抵抗を続けていた祁答院氏と蒲生氏だったが、今年の五月、つまり二ヶ月ほど前に遂に耐え切れず降伏することとなった。

菱刈氏も従属した結果、北薩と西大隈から反島津の勢力を一掃されたことになり、島津家は薩摩国内部の足場を完全に固めることに成功したのである。

加えて、去年から始まったばかりの砂糖製造も事前の準備に時間を費やしたからか、順調な推移を見せており軌道に乗ったと言えた。

家臣たちは島津家の未来には前途洋々たるものが待ち受けていると確信する。

勇猛果敢な武士が集い、次世代を担う島津四姉妹は皆優秀で、尚且つ彼らを率いる当主も当代一の英傑だと信じているからだ。

島津貴久の神々しさ、凛々しさ、雄雄しさ、精悍さ、懐の大きさ。世に存在する麗句全てを並べても足りないものだと、とある家臣は蕩けた表情で語った。

だが、人とは誰にも言えぬ本性がある。

伊集院忠棟が歴史知識を知っているように。

島津貴久にも隠された一面があるのだ。

その一端は、いつもの如く評定の後に露わとなった。

家族団欒である。気が緩んでしまうのだ。

 

「……行ったか?」

 

伊集院家の麒麟児不在の評定は特に大きな問題もなく終了した。

家臣たちは一同に部屋から出て行く。

各々に託された仕事を持ち、来月の評定にて当主から直接お褒めの言葉を預かろうと躍起になる者もいた。

そんな中、瞑目したままの貴久の問いに、義久を除いた四姉妹がそれぞれ答えた。

 

「はーいお父様。みんな無事に出て行きましたー」

 

島津家久。この時、11歳。

五月の合戦にて初陣を果たした。

天真爛漫で素直な末っ子は誰からも好かれる人気者である。姉たちに負けず劣らず優秀だが、喜怒哀楽の激しい姿は子供らしさを残しており、それがまた人気を増長させる一端であった。

 

「足音も遠ざかってるしね」

 

島津義弘。この時、14歳。

岩剣城の合戦にて初陣を果たし、見事に祁答院重経を打ち取った島津家一の武勇を誇る姫武者である。

五月の合戦にも参加しており、縦横無尽に兵を率いる様はまるで武神。身体が成長するに連れて槍捌きも激烈なものへと進化しており、新納忠元も舌を巻くほどの上達ぶりであった。

 

「評定も無事終わりましたし、戻ってくる者はいないかと。忠棟も鹿児島にはおりませんから安心してよろしいのでは?」

 

島津歳久。この時、12歳。

義弘と同じく岩剣城の合戦で初陣を果たす。

武勇ではなく能吏として才能を発揮。軍略の才も十二分に存在し、今や貴久の隣で意見を口にするほど様々な知識を取り込んでいた。

役職柄、義久の次に忠棟と接する機会が多い為、彼のことはそれなりに尊敬している。本人に伝えるつもりも知られるつもりも無いけども。

 

「だぁぁぁぁ〜〜〜〜」

 

そして——。

家臣たちから尊敬の念を掻き集めている島津貴久当人は、愛娘たちの言葉を聞くや否や床に寝そべった。見事な大の字である。

口は半開き。漏れるのは言語に非ざる無意味な単語の羅列だ。誰がどう見てもだらしない格好だと答えよう。

 

「あら、お父さんお行儀が悪いわよ〜」

「ふんどし見えてるよ!」

「うにゅう〜〜」

 

齢16となった島津義久の諫言も完全無視。

まさに馬の耳に念仏である。

着物の裾から覗く褌だが、家久からの注意も聞こえてないのか貴久は寝転がったまま動こうとしない。ごろごろと転がり続ける。

義弘はやれやれと肩を竦めた。

 

「全然可愛くないよ」

「うん。可愛くないね」

「むしろ気持ち悪い、かな」

 

同意した家久の上から辛辣な言葉を重ねた義弘は、冷めきった視線を実の父親に向けた。

真面目で何事にも一生懸命。

幼き頃から武術を重んじている故に礼儀作法は身に染みついている。そんな愛する次女の暴言に貴久は目を見開いて飛び起きた。

 

「義弘、そんな言葉遣い誰に習ったの!?」

「源太から」

 

即答である。

貴久の脳裏に浮かぶのは義弘と同い年である伊集院家の麒麟児。十代前半の小僧と思えない頭脳から繰り出される献策のお陰で、島津の力を四年前より飛躍的に上昇した。

親馬鹿な貴久としては否定したいが、歳久よりも高い才能だと認めざるを得なかった。

彼の打ち出す策は有効で、今後の情勢と浮き彫りになるだろう問題点を読む力はまるで未来を見通しているのではないかと錯覚させてしまうほど正確であった。

ただ貴久としては複雑である。

忠棟は大人びている。10歳の頃からだ。

そして長女、義久の筆頭家老だ。

何か間違いが起きてしまったらと思うと、夜も眠れない。忠棟と義久が口付けを交わすという悪夢で目覚めて刀を握ったこともある。

実際、義弘に悪影響を及ぼしているではないか!

 

「た〜だ〜む〜ね〜!!」

 

怨嗟を重複させた声で奴の名前を叫ぶ貴久。

義久は慌てることなく冷静に妹の言葉を理解したらしく、慟哭する父を尻目に涼しげな顔で義弘に訊いた。

 

「あらあら。でも久朗と話している時、源太くん活き活きしてるものね〜。弘ちゃんも二人に混じること多いし、そのせいかしら?」

「そうかもね」

「あいつ〜!」

「忠棟は良くやってくれてますよ」

 

煽る義弘。怒る貴久。困る義久。笑う家久。

家族の関係を如実に示した表情の一覧。

それらを眺めた歳久は思った。

ここで私だけでも味方になっておかないと父上が暴走して何か仕出かすかもしれないと。

しかし、下手に褒めるのも恥辱の極みだ。

故に無機質な声音のまま庇ったのだ。

 

「うっ。それは俺だってよくわかってるけどさ、でもさ……あいつのせいで去年ぐらいから超忙しくない!?」

 

三女の有無を言わせない発言に、貴久は一瞬だけ言葉を詰まらせた。

確かに良くやってくれている。

その事を否定するつもりはない。

砂糖の件も、千歯扱きの件も、そして一年前から進める事業に関しても薩摩と島津家の発展を真に願っていることだと理解している。

それでも不平不満があった。

想像以上の多忙さに、四人の愛娘と触れ合う機会があからさまに減少した昨今、貴久は叫ばずにいられなかったのだった。

 

「その話は何度も聞きました、父上」

「全然休まる日がないんだってば!」

「耳にたこが出来るぐらい同じことを聞いてるわよ〜?」

「くつろぎたいんですー!」

「お父さんは忙しいのが嫌なの〜?」

「それならそのままでいればいいじゃない」

「やだよ!」

「どうして?」

「当主としての示しがつかないじゃん!」

 

歳久、義久、家久、義弘。

順番に発言した言葉の応答は、その全てが島津家当主として不釣合いな我が儘過ぎる内容だった。

最後に関しては娘全員が嘆息する。

既に示しなど付いていない。

咄嗟に口にしようとした歳久は言い過ぎだと思い直し、それでも言わずにいられなかったのか、唾棄するように貴久を評価した。

 

「かっこつけですね」

「格好はつけたいお年頃なんですぅ!」

 

駄目だ、この人。

義弘は素直に突っ込んだ。

祖父である島津忠良は60歳も半ば。

島津貴久は彼が二十代前半の子供だと聞いたことがある。

つまり単純な計算だった。

 

「お父さん、もう40越えてるじゃない」

「あー!」

「な、なに?」

「言っちゃった。義弘言っちゃった!」

 

気にしないようにしてたのに!

子供のように口を尖らす四十代の男。

そんな男に追い打ちをかけるのは、皮肉なことに実の娘たちであった。

泣きっ面に蜂。踏んだり蹴ったり。血も涙もないとはこの事だろう。

 

「事実ではないですか」

「そろそろ隠居する年齢よね〜」

「義久ヒドイ!」

 

泣きじゃくる貴久。

こんな当主の姿を家臣たちに見られたら島津家は瓦解してしまう。

しかし、それも一時的なものだ。

長女であり、落ち着いた性格と貴久に匹敵する大器を開花させつつある義久に家督を継がせ、事無きを得る可能性の方が高いのだが、此処で貴久に告げるのは少々酷というものだろう。

本格的に可哀想になってきた。

四姉妹は視線で意思疎通を図り、頷き合う。

当然ながら口火を切ったのは歳久だった。

 

「話を戻しますよ。忠棟の件ですが、彼を認めたのは父上なのですから私たちに文句を言われるのは困ります」

 

まさしく正論。

反論すら許さぬ一刀両断。

貴久は肩を落とした刹那、打って変わって目を輝かせた。まるで童心に戻ったように嬉々として語り出す。

 

「えー、そっかー。じゃあ、適当な罪状押し付けて島流しにするっていうのはどうかな」

「そんなの出来るわけないでしょ!」

「あらあら」

「源ちゃん可哀想!」

「無理かー。ならさ、あいつが加世田城から戻ってきたら夕餉に毒っぽいものを入れて寝込ますとか」

「ひどくない!?」

「あらあら、まぁまぁ」

「義ねぇの筆頭家老の話だよ?」

「うふふ、わかってるわ〜」

「……ならあいつ、戦でへろっと流れ弾に当たって……」

「え、なに?」

「最後何て言ったのー?」

「ううん、なにも言ってないよ!」

「……物騒すぎます」

「本当ね〜、ふふ」

「だから義ねぇの筆頭家老の話だってば、源太の為にもお父さんに——」

 

義弘の台詞は続かなかった。

終始隣で笑顔を浮かべていた義久だったが、改めて彼女の表情を視認してみると、目だけが笑っていないことに気付いた。

穏やかな微笑みの裏に隠れた激情。

久し振りに見た、と義弘は冷や汗を掻く。

優れた為政者という明るい一面。

敵対する勢力を容赦無く駆逐する暗い一面。

その二つを同時に兼ね備えた傑物。

それが島津義久。

島津四姉妹の長女の特徴である。

家族だからこそ知る長女の恐ろしさだった。

 

「源ちゃんにそんなことしたらお父様でも嫌いになるからね!」

「い、家久!?」

「そうね。私も嫌いになるかも」

「義弘まで!?」

「私は、まぁ政務処理として困ります」

「私は言わなくてもわかるわよね〜」

 

家久が吠え、義弘が便乗し、歳久も一応賛同した挙句、義久の放つ絶対零度の視線に屈服した貴久は、それでも現状の忙しさに不満を漏らした。

 

「でもでも。本当に困ってるんだもん!」

 

だがそれは嬉しい悲鳴である筈だ。

義弘の知る限り、島津家の治める領土は拡大している上に、金銭的な面に関しても順調に蓄えを増やしている。

島津家の悲願である三州平定に向けて、水軍の発足も視野に入れ始めているぐらいなのだから、その成長速度は推して知るべし。大隈平定へ動き出せるのは2年後辺りだろうか。

基本的な政務にしか取り組まない義弘は忠棟や歳久みたいな正確な数値を叩き出せないけど。

それでも確信を持って歳久に問いかけた。

 

「源太のお陰で財政状況は飛躍的に良くなったんでしょ?」

「ええ。南海航路の重要港である坊津の拡張と入港税の減少から、去年よりも倍以上の船が往来するようになりましたから」

「砂糖の製造も順調だもんね!」

「鉄砲も沢山買えたわね〜」

 

昨年、忠棟は忠良と貴久に献策した。

それは薩摩南西部に位置する『坊津』と内城の周囲に広がる城下町と隣接し始めた『鹿児島港』の拡張及び入港税の安価である。

元々、坊津は明国や琉球、東南アジア諸国との玄関口であった。日本の南西端に位置しており、どんなに悪天候でも船が繋留できる港は貴重だったからだ。それは黒潮の流れと天然の良港から成せる自然の恵みであった。

坊津が交易地として古代から栄えたのも必然と言えよう。

現にこの時代も、最大の貿易相手である明の寧波を出立した船は坊津か博多を経由して堺に向かっていた。逆もまた然りである。

忠棟は其処に価値を見出した。

入港税を安くしたのは船の往来を激しくするため。港を拡張させたのも多数の船を一度に繋留させるためだ。つまるところ、現代の言葉に直すのなら『ハブ港化』させてしまおうということである。

そして薩摩で製造した砂糖を売りつつ、南蛮商人から鉄砲や火薬を買い付け、気を良くした南蛮人を上手く転がして貿易拡大を狙う。忠棟の中では、堺などに赴く船も一度薩摩で荷下ろしをして廻船貿易という形を取らせるようにする構想があるが、それには堺の自治権を任されている36人の会合衆と舌戦しなければならず、未だ空想の域を脱していなかった。

鹿児島港の場合は、水軍の発足と共に兵站輸送能力を上昇させる為である。今後は陸だけでなく海の輸送にも取り組まなければならないから。腹が減っては戦はできぬ、だ。

結果、紆余曲折を経たものの、無事に忠棟の策は実行に移され、二つの港は今日も活気と熱気に包まれて発展し続けている。

そしてその発展具合を確かめる為に、貴久は川上久朗を護衛に付けて、忠棟を坊津へ派遣していた。

 

「祁答院良重と蒲生範清も服従したし、良いことばかりじゃない。お父さんの不満なんてちっちゃなものでしょ」

「そうなんだけどさぁー」

「私の率直な意見を申しますに父上は当主だから仕方ないかと。大隈も平定したら更に忙しくなるでしょうし、今の内に慣れておくのが得策と思います」

 

砂糖で得られた莫大な金銭。

それを背景に揃えた練度の高い鉄砲隊。

軍馬は奥州から買い付けた。

平定の準備は着々と進んでいる。

しかし十日前のことだ。

義久と貴久は伊集院家の三世代から共同でとある問題点を指摘された。それは誰も気付かなかった致命的な問題点であった。

義久はふと思い出す。

 

「あら?」

「どうしたの、義ねぇ」

「源太くんが言ってたんだけど、今のまま三州を平定したら行政を司る人の数が足らなくなるらしいのよ。だからね〜、二年ほど間を置いて、外城に置く者たちの育成を急いだ方が良いって言ってたわ〜」

「そう。俺もそれに賛成!」

「なるほど。領土を拡大しても治める人材が不足しているのですね。それは盲点でした」

 

戦国時代では珍しい島津家独特の外城制度。

それは京周辺の大名が『寄親、寄騎』制度を導入し、城の周辺に家臣を住まわせる城郭化を進める中、島津家は城の周囲を『麓』という集落で囲うといった珍しい軍事行政を取っていた。

つまり領有地拡大を図り、近接地域を平定していく過程で、各地の地頭を服従させていったが、服従させるにあたり、地頭たちの本城や砦を残しておき、要所に腹心の部下や有力な家臣を配置することによって領有地の維持に成功していった。

これは忠良よりも前に実行されていた制度であり、貴久の代になってようやく確立した物でもあった。

ただ余りにも急に領土拡大していけば配置する家臣の数が足らなくなる。そうなれば忠誠心の低い地頭に任せてしまうことになり、いつ反乱を起こされるかわからない不安な日々を過ごしてしまう。

そういう背景もあって、伊集院家の三世代は大隈平定を成し遂げる前に優秀な家臣を増やしておこうと進言したのである。

それは無事に受け入れられた。

薩摩国で反乱や一揆が起こらなければ、次に島津勢が動き出すのは最低でも2年後ということになるだろう。

今はまさしく富国強兵の時だった。

ただ休日に飢えている貴久の本意を知った義弘は、実の父親に対して人差し指を向けた。

 

「お父さんは働きたくないからでしょ!」

「働きたくないわけじゃないの!」

「じゃあ、なんなの?」

「休みが欲しいの!」

 

切実な訴えだった。

だからこそ義久は気付いた。

約一年前から疑問視していた答えに辿り着いた。

 

「もしかしてお父さん、源太くんを無理矢理にでも休ませる時があるけど……」

「あ、自分がゆっくりしたいだけなんじゃ」

 

ビクッ!

後を継いだ家久の言葉に、貴久の肩が跳ね上がる。声に出さずとも一目瞭然だった。

白けた視線を向けられ自然と頭が垂れる当主に、義弘はトドメを刺すようにぶっきらぼうに口にした。

 

「あーあ。お父さんのこと見直してたんだけどなぁ。源太の体調を心配してくれてるんだって」

 

源太、というのは複数ある忠棟の通称だ。

家臣に向ける親しみとは違う。

同世代だから感じる友情とも違う。

父親だからこそ感知した。

義弘の声に親愛の情が含まれていると。

 

「……ねぇ。さっきから気になってたんだけどさ」

 

貴久は娘の成長が恐ろしくありながらも、尋ねずにはいられなかった。場合によったら乱心せざるを得ないからだ。

 

「あら〜、どうしたの?」

「なにが気になるの?」

「どうしました?」

「なになに?」

 

嗚呼、愛すべき娘たち。

幾つになっても可愛らしい姿である。

戦国乱世。婚姻による他家との強い結びつきが叫ばれているが、貴久にしてみれば言語道断であった。

世継ぎは必要だ。

それでも、大事な我が子を何処の馬の骨ともしれない下賤な男に譲る気など毛頭ない。

だから。

お願いだから。

首を横に振ってちょうだいお願いします!

 

「……あいつと恋仲になりたい、なんてこと考えてる子はいない、よね?」

 

 

夜、貴久は人知れず泣き喚いた

問いの結果は知る人ぞ知る。

御家騒動にまで発展しそうな乱心に及ばなかったのは、誰にでもわかるような明確な反応を見せたのが一人だけだったからだ。

それでも、少しだけ忠棟に対して風当たりが強くなったのは娘を盗られた父親の嫉妬であるのは明白だった。

 

 



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六章 肝付兼続への情報

 

島津貴久が娘の成長に咽び泣いている頃。

薩摩の隣国——『大隈』の大部分を支配下に治める『肝付兼続』は自室に篭り、一人で頭を悩ませていた。

史実に於いても肝付家の最大判図を創り上げた知勇兼備の将として、家臣たちからの信頼も厚い『大隈の雄』である。

日向南部にも手を伸ばしつつある現状、兼続が危惧するのは薩摩にて飛躍する島津家の存在だった。まさに目の上のたんこぶだ。

反島津連合とも呼べる蒲生氏と祁答院氏を岩剣城の合戦にて下し、その残党勢力も五月の遠征にて見事叩き潰してみせた。

これによって薩摩国では島津貴久に従わない勢力も消えたことにより、奴らの今後の目的は大隈、もしくは日向の平定だと容易に予想できる。

加えて掻き集めた情報によれば鹿児島港と坊津の拡張に勤しんでいるらしい。大量の船が集まり、さながら貿易の中継地として進化しつつある隣国の港を家臣たちが羨ましげに見つめていた時は柄にもなく吼えてしまった。

 

「しかし、な」

 

兼続は手にした扇子を開いては閉じる。

突如として行われた発展。

前々から準備していたのだと思う。

それでも卓越した智慧者の存在なければ、準備期間に蓄えた材料を効果的に扱うことは出来ないだろう。

つまりは、背後に策士がいるということだ。

そうなると一体誰が裏で献策しているのか。

島津四姉妹の誰かか。

いや、彼女たちは長女の義久ですら16歳の小娘である。四女の家久など11歳の子供。如何に有能であろうとも限度がある。あり得ない。

考えられるのは伊集院忠朗か。

先代の島津忠良から仕え、薩摩平定に貢献した智慧者。武を誇るよりも策を巡らす智謀の士だと聞き及んでいる。十分にあり得る。

だが此度の発展は唐突であった。

その全てが伊集院忠朗一人の発想だとでもいうのか。

兼続は悪い夢と一笑する。まるで妄想だ。

現実的な答えとしては数人の者たちが偶然にも有効な献策を行い、それが偶然にも合致した結果、この飛躍に繋がったのだろう。

島津にとっては祝着の極み。

肝付にとっては悪夢の到来。

どちらにせよ、と頭を振る兼続。

 

「このままでは拙い、か」

 

現在、島津家と肝付家は友好的だ。

島津家は薩摩の安定を図る為に東の脅威を無くそうとして、肝付家は大隈全土に影響力を及ぼす為に西からの侵攻を無くそうとした。

その結果として両家は同盟を結ぶ。

忠良の娘が兼続に嫁ぎ、兼続の妹は忠将の嫁となった。いわゆる『婚姻同盟』である。

婚姻による同盟は戦国時代の常であり、姫武者でなければ御家の為に政略結婚に使われるのが女性の避けられぬ定めでもあった。

こうして両家は手を取り合い、早くも8年の月日が流れ、同盟の狙い通りにそれぞれ薩摩と大隈の平定に成功。

ならば次の目的を見出さなければならない。

島津家は三州平定の悲願の為に。

肝付家は南九州による覇権の為に。

どちらも互いの領土を狙い始めている。

同盟相手だろうが関係ない。

世は戦国。

弱肉強食、権謀術数、勇往邁進。

様々な四字熟語で表現できる時代だ。

そして口にするのは皆同じ。

勝てば官軍。御家の為に裏切りも働く。

だから肝付兼続は唇を噛むのだ。

これ以上、島津家に力を蓄えさせたら肝付家は抵抗できずに飲まれてしまう。

 

「それはならぬ」

 

一刀の下に不穏な未来を両断する兼続。

肝付家と島津家の国力に大きな差はない。

まだ、という仮定が付くが。

それでも今は互角に戦えるだろう。

むしろ工作、謀略、調略を駆使すれば互角以上に争えるかもしれない。何しろ、こちらには日向の大部分に勢力を待つ伊東氏が付いている。場合によっては相良氏も巻き込める。

であるならば——。

兵数、地理、外交の3つ。

いずれをもってしても肝付家に敗北は有り得ない。家臣の質も劣っていない自信がある。

間違い無くここで動くのが得策である。

家臣の一部も即時開戦を催促してくる始末。

それでも兼続には漠然とした不安があった。

 

「この心の臓に刺さった棘は馬鹿にできぬ」

 

様々な死地を乗り切った兼続は、心に突き刺さる説明不要な棘の有用性を理解している。

理由のわからない漠然とした不安。

それは一考する価値がある第六感だ。

こういう時に判断を誤ってしまえば戦国乱世の波に飲まれてしまう。

本能的にわかる。

だからこそ兼続は肝付家の最大判図を築くことができた。

時に巧遅を選ぶのも正解なのだ。

今回はどちらか。

巧遅拙速。どちらを選ぶべきか。

高山城に座しているだけでは判断できない。

情報不足。この一言に尽きた。

故に待った。先日雇った新たな人間を。

但し、忍の技を持つ下賤な輩である。

彼らは武士階級でもなければ、足軽以下の扱いを受けて当然な汚れた存在と言えよう。

兼続とて完全に信用している訳ではない。

だがその技術は確かだった。

伊賀に於いても数少ない上忍として君臨していたらしい。有能な忍だから雇い、一ヶ月ほど薩摩国内部に潜伏させておいた。

そして今日戻ってくる約束。

何を聞き、何を見て、どんな情報を得たか。

それらを統合して判断しよう。

瞑目したまま思考を纏め上げた兼続は満足気に頷いて、忍の帰還を待つ為に一度厠へ行こうかと立ち上がった。

瞬間——。

それを見計らったのか、音も無く現れた凄腕の忍が軽い口調で帰還の意を伝えた。

 

 

「旦那ー。無事に帰ってきたよー」

 

 

忍装束に身を包んだ軽薄そうな青年。

長い人生を歩んだ翁を彷彿させる白髪を乱雑に切り揃えている。見るからに怪しく、また武芸を嗜んだ者ならわかる凄腕特有の隙の無さを両立させる不思議な男であった。

彼の名前は『百地三太夫』。

わざわざ肝付兼続に自薦し、そして自らを薦めるに余りある忍の技を披露した結果、こうして金で雇われて仕事をこなしたのだった。

 

「百地、何度口にすればわかるのだ。貴様はこの肝付兼続に雇われた身であるぞ。それ相応の態度があろうに」

 

無礼にも程があると兼続は叫ぶ。

如何に金の関係であろうとも最低限の礼儀は必要だ。まさに常識。正論であった。

だが三太夫は顔を顰めて頭を掻く。

 

「えー。オレ、そういうの苦手なんだよね」

「苦手であろうとも身分の違いだ。温厚な某だからこそ許されているだけぞ。今後は気を付けよ。よいな?」

「了解っス。以後気をつけまっス」

 

兼続のこめかみに青筋が浮かぶ。

この礼儀知らずな若者に、無礼を働けばどうなるか身を持って思い知らせてやろうか。

どす黒い雰囲気を醸し出すも、この忍の無礼千万は今に始まった事ではないと沈思する。

40歳目前の兼続は大きく深呼吸して怒りを鎮めた。

 

「——まぁ良い。それで?」

 

見事なまでに大人の対応だった。

どうやら三太夫に届いていなかったけど。

厠へ赴くのは後からでいいと判断して再び腰掛ける兼続を尻目に、帰還したばかりの忍は襖の柱に体重を預けて立ったまま小首を傾げた。

 

「ん?」

「報告を聞こうか。薩摩はどうであった?」

「そうっスねぇ。何から話したものやら。色々あったからなぁ」

「では、某の問いに答えよ」

「いいっスね。それで行きましょうか」

 

やっと話が進められると胸を撫で下ろす。

ホッと一安心すると共に疲れが押し寄せた。

既に精神的な疲労を感じた兼続だったが、薩摩の内情を知るためだと三太夫へめげずに問いかける。

 

「坊津は如何だ?」

「日に日に活気付いてるよ。堺を見たことあるオレだからあんまり驚かないけど、このまま行けば博多に並ぶ巨大な港町になると思うっス。船の数だけならもう博多並みかなぁ。元々天然の良港だからね」

「左様か。鹿児島港は?」

「坊津より活気は低い。町人の熱気もそこまでかな。どうやら国人衆と一悶着あったみたい。水軍の発足も無期限で先延ばしになるらしいっスよ」

「国人衆と?」

「まぁ、噂だけど。税の増減に関することみたいっスねぇ。どうやら島津家が横暴なやり口で迫ったらしくて。これを調べるのは中々に恐ろしかったっスよ」

「であるか。結構なことよ」

 

坊津の発展は食い止められないか。

恐らく島津忠良の手腕によるものだ。

その手違いに狂いが生じるとは思えない。

それでも——。

鹿児島港で起きている島津家と国人衆の争いは肝付家にとって朗報だ。水軍の発足も先延ばしになるのは諸手を挙げて喜べる知らせ。事実、兼続は扇子で膝を叩き、屈託の無い笑みを浮かべた。

島津家の勃興を阻害できるのなら、今すぐにでも彼らに反発している国人衆に接触を図るべきか。いや、もし発覚してしまったら相手に大隈平定の大義名分を与えることになる。むしろ割に合わないか。

そんな物思いに沈む兼続を現実に呼び戻すように三太夫は悲痛な面持ちで報告を続けた。

 

「砂糖に関してはお手上げっスね。奴らも最重要視してるのか、どこで製造しているかも掴めなかったんだよな。完全な極秘事項でさー。オレも参ったよ」

「致し方無し。我らの忍も砂糖については何の情報も得られずじまいよ」

 

肝付家も砂糖製造に参加したい。

その為には製造方法を知る必要がある。

数多の忍を用いて情報を集めようとしても、砂糖に関してだけは一欠片の情報も漏れることはなかった。

砂糖が切り札になると確信しているようだ。

島津家の家中でも完全な製造方法を知る者は少ないと聞いた。大した徹底ぶりである。

 

「後は何だっけ?」

「千歯扱きとやらについては如何した?」

「それについては問題なく。採寸まで図ってきたから複製も難なく可能だと思うよ。アレを発明した人は天才だね、うん」

「敵を褒めてどうする。恥を知れ」

「オレ、旦那に雇われてるだけなんだけど」

 

思わず罵倒してしまった。

三太夫の反論を無視しながら兼続は思った。

手際の良さは認めざるを得ないなと。

坊津の実情と鹿児島港の情報。

それに加えて復元可能な千歯扱きの採寸。

これらを一月で調べ上げたのだ。

やはり百地三太夫は優秀な忍である。

こうなっては致し方ない。

今後は島津家に刃を向けるのだ。

優秀な人材は幾ら居ても足りない事はない。

例え野盗崩れな忍であろうとも、大いなる慈悲の心で許してやるべきであろう。

 

「ふん。光栄に思え」

「?」

 

脈絡の無い展開に目を見開く三太夫に対し、大隈を代表する大名の兼続は尊大な態度のまま続けた。

 

「貴様を本格的に登用してやろうと言っているのだ。貴様の齎した情報は、我らの用いる忍全員が掴んできた総量よりも多い。出で立ちはともかく、稀に見る有能な忍よ」

 

忍が大名家に仕える。

それは彼らにとって青天の霹靂だ。

足軽以下の存在が人に認められたことと同義なのだから、思わぬ救いの手に滂沱の涙を流し、永遠の忠誠を誓うべき申し出であろう。

 

「あー、そいつは有難いんだけどね」

 

にも関わらず、だ。

三太夫は困ったように頬を掻いた。

喜色を孕んだ表情すら浮かべていない。

 

「なんだ?」

「オレ、誰かに登用されるとかはちょっと」

「ほう。貴様はただ雇われるだけで満足と申すか。この肝付兼続の登用を足蹴りにするとは、たかだか忍の分際で無礼であるぞ!」

 

ここまで激昂したのは久しぶりだった。

憤怒に駆られて立ち上がる。腰に差してある刀を抜き放ち、切っ先を三太夫に向けた。

若干の衰えを感じ始めたと言え、兼続は知勇兼備な将として名を馳せた武将である。凄腕とは言えど若い忍を一刀両断することぐらい文字通り朝飯前だった。

 

「いやいや、怒らす気とかないって。旦那ってば落ち着いて。もう一つ、旦那の為になる情報を持ってきたんだからさ!」

 

明確な殺気と達人の抜刀に命の危険を感じたのか、三太夫は顔の前で両手を振り、懸命に兼続の怒りを鎮めようと口を動かした。

 

「それは……?」

「旦那さ、言ってたじゃん。砂糖の製造や千歯扱きの発明、港の拡張とかを誰が思い付いたんだろうって」

「確かに申したな。もしや判明したのか?」

「うん。どうもね、全部14歳の子供らしいよ」

「あ?」

 

凄い声が出た、と兼続本人ですら思った。

信じがたい情報の開示に、思わず三太夫に詰め寄る。殺気と刀の切っ先を向けたままだ。

当然の如く後ずさる三太夫。

彼は両手を天井に向けたまま再度言った。

 

「だから14歳の子供。餓鬼。小僧だって」

「ば、莫迦を申すでない!」

「ホントホント。オレも驚いたけどね」

「では何か。島津家の飛躍はその小僧によるものだとでも言うのか!」

「うん」

 

僅か数刻前にあり得ないと断じたばかりだ。

妄想だと嘲笑い、悪夢だと切り捨てた答えを軽く凌駕する現実に、兼続ですら数瞬だけ思考が麻痺してしまった。

伊集院忠朗ならまだわかる。

もしくは彼の息子である忠倉や島津四姉妹の献策によるものなら、兼続は大いにその才能を警戒していたことだろう。

だが、正解は14歳の小僧だった。

兼続からしてみたら笑うしかなかった。

 

「島津貴久め、耄碌したな!」

 

罵倒する。

 

「実績も何も無い小僧の献策を受け入れるなど。それも14歳とは馬鹿馬鹿しい。薩摩の平定を成し遂げた際に脳味噌をどこかへ捨ててきてしまったか!」

 

兼続は貴久を好敵手として認めていた。

何しろ長年に渡って繰り広げられた島津宗家と分家の争いに終止符を打ち、薩摩の争乱を納め、遂には反島津の北薩地域を鎧袖一触したのだ。その才能を高く評価していた。

だが現実は残酷だった。

薩摩平定で英気を失ってしまったか。

それとも最初から飾り物の当主だったか。

どちらにしても兼続の認めた好敵手はいなくなったも同然だ。笑ってしまったのはごく自然なことだったのかもしれない。

更に三太夫は確信的な情報を口にした。

 

「坊津についてだけど、国人衆の一揆がありそうだよ。砂糖も質が悪くて評判悪いしね」

「……なんだと?」

「後、島津義久についてだけどね。必ずしも優秀じゃないみたい。島津貴久は溺愛してるみたいだけど、島津家家中だと次女を次期当主に押そうとしてるらしくて——」

「血で血を洗う家督争いに発展するか」

 

島津義久と島津義弘の家督争い。

もしも家中を二つに分けた御家騒動に発展すれば、成る程、隣国の大名として兼続にはその争いに介入する権利が生まれる。

薩摩を平定する大義名分を得ることになる。

誰もが納得する大義の下で動けば、名分の存在しない侵攻よりも戦後統治は簡単に済む筈だ。そうなると他家の小言も無視できるだろう。

加えて島津貴久の愚鈍化。

兼続は声に出して一つ一つ確認していく。

 

「忠良殿も体調を崩し気味だと聞く。貴久は耄碌したと考えて間違いない。ならば拙速に走るのは愚策か。ここは島津家に動揺が走るまで我らも富国強兵に勤しむべきだな」

「うん。オレもそう思うよ」

「意外なところから崩れたな、島津貴久よ。ふん、早速評定をせねばなるまい!」

 

小姓に対して「早急に家臣たちを集めよ、評定ぞ」と命令した兼続は己が未来を想像する。

 

「待っておれよ。お主が整理した薩摩を喰らい、某は九州全土に覇を唱えてやるぞ!」

 

声高に宣言する肝付兼続。

しかしこの時——。

様々な情報を齎した百地三太夫。

彼の口角は不自然に釣りあがっていた。

 

 

 

 

 

 

報酬を受け取った百地三太夫はまた走る。

彼は兼続から新たな密命を受けた。

薩摩内部を出鱈目な流言飛語で満たせ。

今度は長期の任務。最低二年に及ぶだろう。

恩賞は莫大だ。数年間は遊んで暮らせる。

勿論、成功したらの話だが。

大隈から薩摩へ向けて駆けていく。

自慢の健脚なら1日2日で辿り着く距離だ。風景の移ろいを尻目に今後の予定を立てる。

 

(取り敢えず、第一の目的は果たしたよな)

 

難しい任務だった、と嘆息した直後、あの人の期待には答えられた筈だと自画自賛する。

最初はどうしようかと思い悩んだものだが、終わってしまえば笑い話に出来る。

人間とは簡単な生き物だと再認識した。

 

(これで肝付家の動きを封じた)

 

最後に流した適当な嘘。

その虚偽は肝付家を縛る鎖となった。

これにより、島津家は時間を稼ぐことに成功した。金銭を蓄え、軍備を整え、武将を揃えて、まさしく好きな時に動き出すことが出来る。

 

(兼続の旦那より多く報酬を貰わないとな)

 

加世田城にて坊津の視察を行う若き天才。

島津忠良曰く『今士元』。もしくは『戦国の鳳雛』。

そしてとある理由により伊賀の里を追われ、約9ヶ月前に薩摩へ流れ着いた百地三太夫を保護してくれた恩人の中の恩人。

齢14と思えない達者な口を持つ生意気な小僧の顔を思い出しながら、三太夫は任務完了と口内で高らかに報告した。

 

(大旦那、オレはアンタが一番恐ろしいよ)

 

大旦那。つまりは伊集院掃部助忠棟。

それが、百地三太夫の本当の雇い主だった。



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七章 島津歳久への報告

 

 

「坊津の視察、ご苦労様でした」

 

歳久様から労いの言葉を直接頂く。

一ヶ月に及ぶ坊津の視察を終え、久朗と共に鹿児島へ帰還した俺に待ち受けていたのは休暇ではなく、むしろ休む暇すら貰えずに内城にて政務を行う歳久様への視察報告だった。

 

「もったいなきお言葉」

 

対面する歳久様に二重の意味を込めて頭を下げた。

 

「伏してお礼申し上げまする」

 

今回の坊津視察は俺の嘆願によるものだ。

貴久様と忠良様からお墨付きは頂いていたんだが、俺の献策によって何がどういう風に変わってしまったのか知りたかった。

砂糖の件にしろ、千歯扱きの件にしろ、様々な人たちの素直な反応を見聞きして今後の糧にしたかったんだ。

故に希望した坊津の視察。

久し振りに忠良様のご尊顔も拝謁したかった。

だが——。

貴久様は多忙を極め、自然な帰結として、次期島津家当主である義久様に政務の約半分が割り振られるようになった。

そして俺は義久様の筆頭家老である。

当然ながら降ってくる大量の仕事。

無理なく対処できる数だ。

しかし長期間、放置しておけば大問題となる量でもあり、この政務を誰かに放り投げるなど未だ若輩者の俺に許されるはずもない。

そもそも任せられる相手も限られている。

一先ず仕事を片付けよう。今は我慢だ。

そう納得させて日々仕事を処理していく俺。

そんな中、仕事内容的に接する機会の多くなった歳久様に異変を見抜かれ、素直に事情を口にした。隠し立てする必要もないと思ったからだ。

加えてもう一つ。

仕事に集中しなさいと冷徹な双眸を携えたお小言を貰いたかったからという理由も忘れてはならない。

想定外だったのは歳久様が協力してくれたことである。

視察の有効性を貴久様に説くだけでなく、俺の分の仕事まで負担して頂いた。

大学生の時、歴史マニアと一緒になって、島津四兄弟で最も地味な男は島津歳久だと語った当時の俺を殺してやりたい。

目の前にいるのは紛れもない恩人だぞ、と。

しかもツンデレだ。美少女だ。島津歳久だ。

なんだ、ただの女神様か。結婚したい。

 

「様子の程は?」

 

そういう理由もあって感謝の意を込めて頭を下げたのだが、歳久様は特に反応せず淡々と話を進めていく。

四姉妹の中でも特に涼しげな印象を相手に与える美貌も無表情のままである。

先月の問答など無かったような振る舞い。

嗚呼、こういうお方であったな。

瞬間的に冷却される俺。

自分自身に落ち着けと言い聞かせた。

お礼は申し上げた。

相手は詳しく追及してこない。

ならこの話に続きは不要だろう。

黙って借りを返そう。それが男気だ。

心の内で頷き、言葉を紡いだ。

 

「想像以上に発展しておりまする。この分だと来年にも予定の数に達する見込みかと。商人の逞しさは我々の予想を遥かに上回っておりますな」

「結構」

「堺を拠点とする商人とも話した所、鹿児島港にも船を寄せたいと仰せでした。坊津と同様に発展する港があると告げたら、彼ら興奮で顔を真っ赤にしておりましたよ」

「ますます結構。視察は成功でしたね」

 

視察自体は無事に終わった。

非常に有意義な一ヶ月だったと思う。

朝から晩まで響き渡る金槌の音色。

拡大した港に次々と繋留していく商船。

下りてきた船員たちは活気と熱気に包まれた港町に驚愕する。堺や博多を連想させる人の多さと発展具合に目を見開いていた。

入港税の低さ。

悪天候でも繋留できる天然の良港さ。

この二つに加えて、明や琉球から海を越えて薩摩の地にもたらされた珍妙な品々が市を埋め尽くしてしまいそうな光景に出くわしてしまえば仕方のないことだと思う。

絶句した後、彼らは口々に絶賛していった。

まさに狙い通り。計画通りだ。

人の口に戸は立てられない。

坊津の噂は広まっていくに違いない。

後はまさにドミノ倒し。

税を安くすれば人が集う。

人が集まれば自然と金が回る。

金が巡れば勝手に税収も増えていく。

それに、である。

来年は今以上の船が来訪することとなる。

堺と明を結ぶ貿易船。

良質な鉄砲や火薬を携えた南蛮船。

もしかしたら。あり得る可能性として。

荒れ果てた京から逃げ出した公家の方々を乗せた船舶も噂を聞きつけてやって来るかもしれない。京文化の伝来だ。歓迎すべきだ。

民草の娯楽が増えるのなら、それはまさしく恩恵であるからだ。

 

「ただし……」

 

問題点は多々存在する。

完璧に物事が進行する事は有り得ない。

まるで帳尻を合わせるように、頭を悩ませる問題が生まれてしまう。

世界はそういう風に出来ている。

これは初陣から得た教訓でもあった。

言葉を濁らせる俺に対し、歳久様は首を傾げた。

 

「どうしました?」

「端的に口にした廻船貿易に関しては商人たちも顔を顰めておりました。堺の会合衆を認めさせるには、今以上に島津家の『背景』を巨大にする必要があると愚考する次第」

「それは私たちにとって今更でしょう。彼らとて税を納める代わりに幕府から堺の自治権を認められた存在です。簡単に他者へ屈服するはずもありません」

「気長に交渉していくしかないですな」

 

そもそも堺とは何か。

応仁の乱で焼かれた兵庫に代わり、日明貿易の拠点となった場所であり、海外貿易の富が生んだ自治都市を『堺』という。

堺の町は豪商の中から選ばれた『会合衆』による合議制で運営される。海と環濠に囲まれた町は出入り口に木戸が設けられ、浪人を傭兵として雇い、自衛すら行われていた。

史実に於いても16世紀半ばに堺を訪れた外国人宣教師は、イタリアのベニスのように執政官による自治が行われていると評し、堺は『東洋のベニス』と言われるほどである。

しかし幾内に進出した織田信長は堺に対して矢銭の支払いを要求。会合衆は一度拒否したものの、今井宗久や津田宗及など講和派の動きで屈服してしまう。

そして得た金銭を用いて、織田信長は天下人となる一歩手前まで躍進できた。

この世界で桶狭間の戦いは行われていない。

つまりだ。

織田よりも先に堺へ触手を伸ばす事が可能。

その利益は十分にある。

しかし九州でも最南端に位置する薩摩の大名は相手にされない。対等な舌戦を行うには相応の国力が必要となる。軍事力が要となる。

歳久様もご理解なされているのか、仕方ありませんと頭を振った。

 

「……十分に利益は出ているのです。あなたが気に病む必要はありません」

「承知致しました」

 

坊津と鹿児島港の拡張事業は、本来なら十年を目処に考えられた政であった。

にも関わらず——。

1年と半年で往来する船は二倍に増加。金銭の貯蓄量は3倍に膨れ上がった。軍備の増強に割り当てたとしても、減るどころかむしろ増えていく始末。まさに嬉しい悲鳴だった。

想定の二倍近い速度で事業は進んでいく。

これ以上の焦りは禁物だ。

今は巧遅に徹するべし。

勝って兜の緒を締めよとも言う。

慢心せず、油断せず、思考を止めない。

堺対策の案件も考えているが、今はとにかく回転し始めた島津家の産業を支えるのが肝要だろうしな。

ローマは1日にして成らずである。

 

「……」

 

口を半開きにする歳久様。

この方のこんな顔は初めて見たかもしれねぇな。

そもそも何でこんなに驚いたんだろう?

 

「如何なされた、歳久様」

「いえ、何も。ご祖父様は坊津について何か仰られていましたか?」

「商人や国人衆との交渉は任せろ、と」

「元々ご祖父様には伝手がありますから。本人が仰られるように坊津に関しては任せることにしましょう」

「はっ」

 

忠良様は昔から貿易に着目していた御仁だ。

史実でも同様だったと記録されている。

貴久様に家督を譲ってから国人衆とも度々会っていたらしい。坊津にも詳しい。故に此度の拡張事業を任せるに相応しく、これ以上ない人選だったと自画自賛する俺。

そんな忠良様が任せろと胸を叩いたのだ。

これ以上、俺が関与するのは逆効果だろう。

砂糖と千歯扱きの件然り。

こういうのに適している人間が最善策を選んでくれる。何時になっても本物の天才はいるもんだ。く、悔しくなんかないやい!

 

「私たちは水軍発足に集中します」

 

歳久様は静かに宣言する。

鹿児島港を本拠地とした水軍の発足。

そして俺の提唱した後方支援部隊の設立。

最も賛同の意を示してくれたのは何を隠そう歳久様だった。

誰よりも積極的で、精力的に動いていた。

 

「鹿児島港の拡張は済みましたか?」

「ええ。船に関しても手配済みです」

 

抜け目ない歳久様のことだ。

水軍の船。本拠地の利便性。率いる人材の確保。全ての準備を完了させて、残すは貴久様の許可を貰うだけに決まっている。

そんな歳久様の苦労と歓喜を無にするようで心苦しいが、貴久様に献策した俺が言わずに誰が言うというのか。

俺には義務があるんだ。

ふぅと一息。

意を決して口にする。

 

「お言葉ながら歳久様、俺に一つ考えがあります」

「言いなさい」

「はっ。既に殿から了承を得ております。端的に申すのであれば水軍発足は約2年後。それまでは準備だけに留めることと相成りました」

「2年後?」

「然り」

「何故ですか。練度を高める為にも早々に発足させるべきです。でなければ2年後の大隅平定の際に活用できないでしょう」

「心得ております」

「であるならば——」

「歳久様のご懸念はごもっとも」

 

無礼ながら歳久様の台詞を遮った。

仰っていることは明確で正解である。

水軍の練度は一朝一夕に高まることはない。出来る限り時間を掛けて、確実性をもって運用するに限る。何しろ九州統一に於いては兵站の輸送を担うのだから。

だが、今後二年間は雌伏の時である。

もしも水軍を発足させたら暴発を生む。

故に時間を稼がなければならない。

その為にも水軍は2年後まで日陰に隠すことにした。

 

「なれどこれも大隅平定に用いる策の一つで御座りまする」

「策?」

「如何にも。無事に北薩の反島津を一掃したと言えど、我々は肥後に相良氏、日向に伊東氏といった敵に囲まれておりまする。大隅を平定する際、必ずやこの両家も介入してくるでしょう」

「肝付家に味方する、と?」

 

俺は自信をもって首肯した。

史実でそうなっているからという理由だけでなく、此処に至るまでの歴史を調べ、その上で確実に島津家へ牙を向けると読み切った。

肝付氏討伐の障害は相良氏と伊東氏だ。

この両家による侵攻を食い止めねば本末転倒となりかねない。だからこそ島津家には雌伏の時が必要だった。

 

「……合戦が長引けば介入の手段を増やすことになります。故に2年の時間を費やして万全の準備を整え、一気呵成に速攻で大隅を平定します。水軍発足を遅らせるのもその為だとお考え下さりませ」

 

そこまで言い切った俺は、難しい表情を浮かべる歳久様の赦しを請うように平伏したのだった。

 

 

 

 

 

 

夜の帳が日ノ本全土を覆い尽くした戌の刻。

伊集院家の屋敷には俺と数人の家人しかいない。祖父は内城にて政務を続け、父上は忠将様の下で働いている。

人の言葉は聞こえない。

音源は蟋蟀の鳴き声だけだ。

夜空には満月が煌々と輝いている。

光源は襖から突き刺す月明かりと蝋燭の灯りという乏しい光。そんな部屋の中で、俺と百地三太夫は額を合わせるような格好で言葉を交わす。

 

「首尾は如何に」

「大旦那の狙い通りさ」

「結構」

 

淡々と終えた任務完了の報告。

三太夫が失敗する可能性は低かったが、それでも僅かに不安があった。もっとも杞憂に過ぎなかったわけだ。俺は安堵から破顔した。

 

「肝付殿は騙されたか。無理もない。忍特有の話術で自尊心を擽られればな。俺とて、平静を保ったまま正しい判断を下せるかわからぬ」

「でも良かったのかねぇ?」

「ん?」

「千歯扱きの採寸は本物だったよ」

「虚偽を口にする時は多少の真実を混ぜておくことが重要だ。千歯扱きはいずれ全国に普及する。出し惜しみをしても利益は少なかろうて」

 

貴久様からも許可を頂いた。

大隅に千歯扱きが普及する事と2年間の猶予を天秤に掛けた時、どちらを選ぶのかは自明の理である。

加えて、大隅を平定すれば問題ない。

むしろ先に千歯扱きを各農村に配備してくれる事に感謝したい。平定した後に雑務処理が一つ減ったことになる。

 

「それで得た2年間で大旦那は何をする気なんだ?」

「知れたことよ」

「あらら。悪い顔してるよ、大旦那」

「失礼だな、三太夫」

 

2年間のタイムスケジュールを組んでいただけじゃないか。意外と濃密なんだぞ。

人材確保、鉄砲買い占め、軍馬の調教、港の整備、発言権の上昇、雑兵に負けぬ肉体強化など諸々に及ぶ。仕事は積載しているのだ。

ひょっとしたら終わらないかもしれない。

それでも2年間が限度だ。

これ以上伸ばせば九州統一に支障を来す。

そして天下統一も不可能な物となる。

 

「そんで。オレは次に何をすればいいの?」

 

三太夫は首の骨を鳴らして訊いた。

やる気無さげに見えるけど、実は仕事に熱心な男である。

史実だと伊賀の国で織田信雄と一戦やらかす筈なんだが、どうして俺なんかと専門的な雇用関係になってるんだか。

ともかく肝付兼続の次の手を知りたいな。

俺は顎に手を当てながら問い返す。

 

「肝付殿からは何と?」

「流言飛語で満たせってさ」

「義久様の無能さと義弘様の有能さか?」

「うん。御家騒動を大きくするつもりなんじゃないの?」

「十中八九そうであろう。俺とてその策を選ぶ。御家騒動が激化する分、肝付家にとってしてみれば介入する大義名分が大きくなるのだからな」

「そうだね。で、どうする?」

 

肝付家の評定にて、彼らは薩摩で騒乱が起きない限り動かないと決めたらしい。

だが義久様と義弘様の確執は嘘である。

つまり御家騒動など起きる筈もない。

流言飛語で満たさなくとも、島津家が2年間の猶予を得たのは確実だ。

どうするか。

三太夫を手元に戻すのも有りだ。

次は伊東氏に工作を仕掛けるのも考えたが。

——いや。

ここは敢えて肝付兼続に乗せられるのも妙手か。

伊東氏に対しては、様々な選択肢を考慮しても簡単な流言飛語だけで勝利できると踏んでいる。

相良氏に関しても同様だ。

 

「……ふむ、肝付殿の思惑通りにせよ」

「え?」

 

思わず目を見開いた三太夫。

普段は絶対にしない確認を行う。

 

「いいの?」

「構わぬ」

 

断言。

 

「肝付殿には最後の最後まで油断しておいて貰おう。しかし三太夫。流言飛語は穏やかな物に変えてくれ」

「了解」

「後は大隅内部で肝付殿の噂を少し、な」

「あー、そういうことか」

「理解したか?」

「もちろん。じゃあ、オレそろそろ行くよ」

 

三太夫はおもむろに立ち上がった。

気負った様子はない。

顔の強張りも皆無である。

逢瀬の時間は僅かに10分前後。

それでもお互いに寂しい感情は抱かない。

半年間で結んだ友情は、雇用関係によって強固に連結されている。裏切りはないだろう。

俺も腰を上げて笑顔で見送った。

 

「うむ。報告は満月の夜、戌の刻であることは変わらんぞ」

「わかってるって」

 

背中を向けた三太夫は片手を挙げる。

 

「じゃ。サクッと終わらせてくるよ。今後ともご贔屓に!」

「褒美はたんと用意する。励んでくれ。あと三太夫、これは前祝いの報酬金だ。受け取ってくれ」

 

大量の銭を包んだ袋を投げて寄越すと、三太夫は家宝でも抱きかかえるように大事に受け取った。

中身を確認することはなかったが、両目に涙を浮かべた。

そこまで感動するのか。

案外簡単じゃないか、三太夫の調略って。

 

「え、マジで。助かるー!」

「また財布でも落としたのか?」

「もう二回目なんだよ……」

「相変わらず呪われておるな、お前」

 

生来からの不幸体質らしい。

だから伊賀の国を追われ、命からがら薩摩へ向かう商船に忍び込み、そして鹿児島港にて腹を空かして行き倒れている所を発見した。

それ以来の付き合いだ。

百地三太夫だって知ったときは腰を抜かしたが、それでもこうして交流を保っているんだから人の縁とはわからないものである。

 

「へへっ。でもこれで生きていけるってもんよ。じゃな、大旦那!」

「ああ」

 

ただ次に会うときは訊いてみようと思う。

何で俺が大旦那なんだよ?

お前の方が歳上じゃないか、と。



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八章 伊集院忠朗の隠居





 

島津家が沈黙を保つこと2年。

南九州では大きな軍事衝突も起きず、薩摩と大隅の民草は束の間の平和を享受していた。

畑を耕す。村人と話す。不安を抱かず眠る。

平凡で在り来たりな1日の流れ。

しかし、それが幸せな人々もいる。

父祖の代から受け継がれてきた田圃を持つ農村の長男は、特にこの平和を満喫していた。

だが、次男や三男は違う。

彼らには合戦に参加して活躍しなければならない理由があった。

薩摩は桜島によって火山灰が降り積もる。

所謂シラス台地だ。

水捌けの良い大地では取れる作物に限りがある。土地そのものが農作物を育てることに対して適していなかった。

それでも農民は畑を耕さなければならない。

長男は田圃を受け継ぎ、嫁を貰うことができる。しかし、農家の二男三男四男に産まれた場合、嫁は貰えず、死ぬまで長男を助けて田畑を耕すしかない。

そんな惨めな待遇から抜け出すには合戦に参加した上で活躍する以外に道などなかった。

大将首でも取ろうものなら、金銀又は恩賞に有りつける。活躍次第では侍大将の人が下人として雇ってくれるかもしれない。

死んだような生活から抜け出せるかもしれない。故に合戦は、栄達を求める農家の次男三男にとって無くてはならない物でもあった。

にも関わらず——。

2年に及ぶ間、合戦は起きなかった。

平和を望む長男は明日も今日みたいな良き日が続けとお天道様に祈る。

合戦を望む次男三男は下克上を果たす己の未来に酔いしれながら争乱を待ち続けていた。

正しいのは果たしてどちらか。

その疑問に意味などないとわかってる。

有史以来、理性は平和を、本能は合戦を渇望してきた。

平和があるから戦争が起きる。

戦争があるから平和を求める。

永遠に続く平和など有り得ず、その逆もまた然り。

まさしく表裏一体。

切り離すことはできない。

人類誕生から何も変化することなく続けられてきた世の決まり。人間の遺伝子に刻み込まれた掟だと考えてもいいかもしれない。

だから、まぁ、何が言いたいかというと。

雌伏の時は終わった。

これからは飛翔の時である。

 

 

 

 

 

 

時は戦国時代。

応仁の乱を切っ掛けにして各国の国人や守護が台頭もしくは独立、勝手気儘に至る所で干戈を交える末世に突入していった。

戦場に広がる阿鼻叫喚の図。

死者を冒涜する戦場跡を荒らす者たち。

食料のない村の端に痩せ細った躯が平然と横たわっている光景は、まさにこの世の地獄と呼んでも過言ではない 。

そんな日ノ本の何処ででも見られる醜悪な景色とは裏腹に、九州南部の薩摩では一定以上の平穏が確立されていた。

鹿児島港と桜島を一望できる内城の一間にて壮年の男性と豊かな白い髭を生やした翁が向かい合う。前者は上座に腰掛け、後者は臣下の如く平伏していた。

 

「忠朗、誠に隠居するのか?」

「殿、最早この老骨に功を立てることは出来ませぬ。先の一件で身に染みました」

「謙遜は止さぬか」

「もったいなきお言葉。しかしながら私の仕出かした事。責任は取らねばなりますまい」

「それよ。先の一件はお主の責任ではあるまい。黙認した俺も同罪だ。全ては策によるもの。お主だけに泥を被せてしまうのは心苦しいのだ」

 

故に思い直せ、と島津貴久は筆頭家老を諌める。

島津家15代当主にして、争乱の直中に遭った薩摩を平定した英君から惜しまれる光栄に預かりながらも、伊集院忠朗の決意は断固として変わらなかった。

 

「お言葉ながら、宴会の席にて私の口にした失言が決定打になったことは不変の事実。仕える御家を危機に晒した不名誉は、殿の評価を下げてしまいまする」

 

大隅国にて多大な影響力を持つ肝付家。

彼らを招いた宴会の席に於いて、筆頭家老は『不注意』にも肝付家の神経を逆撫でる発言を口にしてしまう。

肝付兼続の名代として来訪した薬丸兼将に対して、宴の羹は鶴であるかと、肝付氏の家紋である鶴の吸い物を勧めてしまったのだ。

まさに『迂闊』であった。

だが薬丸兼将も負けじと、次の宴会では狐の羹を出して貰おうかと返したことで口論に発展。

狐は島津家の守護神である。

此方が最初に挑発したとはいえ、黙って聞いていられる侮辱を超えていた。

特に酒の席だったことが『不幸』である。

お互いに酔っていた為に両家とも口汚く罵り合い、折角開いた宴は喧嘩別れの形で終わってしまうことと相成った。

薬丸兼将は国許へ帰り、主君の肝付兼続に子細を説明。肝付兼続は激怒し、評定の際には刀を振り回して暴れたと噂になっている。

長らく安定を保っていた薩摩と島津家に戦乱の種を蒔いてしまった責任は取らなければならないと考えた忠朗は隠居を決意。後事を子供と孫に託すことにした。

 

「これから大隅を平定するのだ。そんな中、長年島津家を引っ張ってきたお主が身を引くとなると相当な痛手となるな」

 

言外に肝付家との抗争はどうするんだと告げる島津貴久。疲れたように目元を揉みほぐす仕草は最近の多忙さを如実に表していた。

四年間にも及ぶ坊津と鹿児島港の拡張整備事業も終了の目処が立った。

余った予算を使用して建設する職人都市の概略を決めなくてはならない。

砂糖生産と売れ行き増加による人手不足。

加えて2年前から行っている外城に派遣する人材の確保と育成。鉄砲と火薬の購入。南蛮商人との交渉。対肝付氏に対する策の研鑽。

そして肝付家との同盟が破棄された今、即時開戦を求める家臣たち。

合戦に必要な兵糧の計算。

発足する水軍の試運転に掛かる金銭の把握。

実際、誰しも目が回るような忙しさだった。

当主である貴久は特に多忙を極めた。

愛する四人の娘と関わらない日々。

日が重なるに連れて、貴久の心は荒んでいった。

それでも忠朗は微笑みながら首を横に振る。

 

「ご心配召されることはありませぬ」

「何故言い切れる?」

「忠倉、そして忠棟もおりまする」

 

伊集院忠朗の子、伊集院忠倉は貴久の家臣として敏腕を振るっている。

小さい頃から叩き込まれた政務処理に関しては既に父である忠朗を超えていた。

しかし軍略に於いては忠朗の才を受け継がなかったのか、本人も認めるほど至極基本的な部分しか修めていない。

そして——。

 

「忠棟、か」

 

貴久は齢16の少年を脳裏に浮かべた。

伊集院掃部助忠棟。

幼い頃は伊集院家の麒麟児と讃えられ、元服した10歳という若さで次期島津家当主である島津義久の筆頭家老を拝命。政務処理能力に限らず軍略にも秀で、島津家飛躍の大本にもなった若き天才の名前であった。

 

「これからの戦にて我が孫をお使い下さい。必ずや大きな功名を得てみせるでしょうぞ」

「忠朗、お主は今後の戦を義久に任せろと申すのか?」

 

眉間に皺を寄せる貴久。

英傑の放つ重圧に身を竦めながらも、忠朗は平伏したまま口を開いた。

 

「私の最後の進言で御座りまする。いずれは義久様が殿の跡をお継ぎになるでしょう。島津家の内乱に終止符を打ち、薩摩を平定した殿の後継ぎとなれば相応の武功話が必要となりましょうぞ」

「岩剣城の合戦だけで足りぬか」

「如何にも。足りませぬ」

「三州平定という大功を義久に持たせよ。お主はそう言いたい訳だな」

「然り。その通りで御座りまする」

 

頭を下げる忠朗。

それを上座から睨み付ける貴久。

如何に島津四姉妹の長女が元服を済ませ、岩剣城の合戦にて初陣を終わらせていようとも可愛い娘であることに変わりない。

好き好んで戦に放り込みたい父が果たしてこの世にいるだろうか。

——否。断じて否!

しかしながら跡継ぎである事実は不変。いつの日か家督を継いだ義久が乱世の荒波に率先して飛び込んでいくこととなる。

結局は遅いか早いかの些細な違いだけだ。

幸いにも義久には才能がある。幼い頃から大器の片鱗を覗かせていたが、成長した今、貴久すら上回る総大将の大器を開花させた。

残り三人の妹たちも同じである。

見事に傑出した才能を確立していた。

真に子の将来を想うのであれば、忠朗の進言通りに涙を飲んで今後の戦を一任するべきだろうか。

実際、貴久も隠居を考えてよい歳である。

二十代半ばと称される見た目から想像できないが、彼とて既に40半ば過ぎなのだから。

しかし——。

貴久は心の内で首を横に振った。

まだ動ける。まだ当主としてやっていける。

愛する娘たちの為にも出来る所まで突き進むのみ。結果として、この身が粉になってしまっても悔いなど有ろうはずないのだから。

 

「俺の心は変わらぬ」

「殿……」

「だが隠居するお主の進言、しかと聞き届けた」

「はっ。感謝の極みにござりまする」

「願わくば、大隅平定まで島津家を支えてくれると有難いのだがな」

「もったいなきお言葉。しかしながら忠倉に家督を譲ったこの身。後の事は息子に託しております」

「忠朗の申す事よ。変わらぬか」

 

貴久は諦観の声音で呟く。

忠朗は平伏したまま動かなかった。

この日を以て、忠良と貴久の二代に渡り島津家を支えた忠臣、伊集院忠朗は一線を退く事となる。

この翁の隠居が肝付家だけでなく様々な勢力の動向を決定付けるとは、この時はまだ忠棟しか知らなかった。

 

 

 

 

 

 

貴久に隠居を宣言してから二刻が過ぎた。

現在午の刻、午後2時過ぎである。

晴れ渡る晴天。雲一つない。

柔らかい陽射しが薩摩を照らす。

自他共に認める島津家の柱石だった功は大きく、家臣団の中で最も広大な伊集院家の屋敷の庭に佇む忠朗の頬を六月の風が優しく撫でた。

 

「ご祖父様、突然呼び出して如何致しましたか?」

 

そんな翁の耳に慣れ親しんだ若い声が届く。

視線を向けると其処には颯爽と馬上から降りる孫の姿があった。

自慢の孫、伊集院忠棟である。

早いもので昨年16歳となった。

痩身ながら張り出した広い額に鋭い眼が、如何にも知恵者と言わんばかりの面容を誇っている。切り揃えられた黒髪。顔付きは少年から青年へ移り変わる途中である。

変声期を迎えた重低音な声音は年々深みを増していた。若い頃の忠朗に瓜二つだった。

 

「忠棟か。其方もこれへ参らぬか」

「何を暢気な。それよりも急に呼び出した理由を教えて下さりませ。後一刻もせぬ内に評定が始まってしまいまする故」

 

肝付兼続が遂に兵を挙げたと報告があった。

その事に関する評定が開かれるのだろう。

忠棟は陪臣の身でありながらも評定に参加する権利を持つ。若輩者故に発言権は低いままだが、時折見せる鋭い舌鋒は新納忠元や鎌田政年らを唸らせることもままあった。

そんな孫の姿は忠朗にとって自慢だった。

隠居した身、今後見る機会は無い。

それだけが心残りか。

数巡瞼を閉じてから、ゆっくりと答える。

 

「心配はいらぬ。さほど時間は取らぬ故な」

「ならば宜しいのですが……」

 

言葉を切り、忠棟は周囲を見渡した。

 

「如何した?」

「ご祖父様、父上がおりませぬぞ?」

「忠倉には既に伝えてあるのだ」

「何を、で御座りまするか?」

 

隠居を決めた2日前の夜、誰よりも先に嫡男忠倉へ打ち明けた。

息子も相当驚いたようだ。

冷静沈着な男が慌てふためく姿は思わず笑ってしまうほど滑稽で、そして息子だからこそ湧き出す愛嬌に溢れていた。

基本的な部分は貴久へ伝えた通りである。

宴の席による失態。

齢60手前という年齢による衰え。

息子や孫の成長から退く事を決意したと。

だが、誰にも口外していない最後の理由が存在した。

 

「今朝限りで私は筆頭家老の職を解いた。隠居しようと思うておる」

 

刹那、静寂に包まれる屋敷の庭。

遠く離れた市の喧騒も耳に入らない。

そんな重苦しい空気の中、忠棟は一拍間を置いてから問い掛けた。

 

「——ご祖父様。それは、先日の宴の責任を問われたからでしょうか」

「否。問われた訳ではないぞ」

「ならば何故で御座りまするか!」

 

声を荒げる忠棟。

忠朗は迫真の演技だと思った。

身内だからこそ気付く息遣いの無駄な荒さと声の大きさ。その二つから察するに、言動と裏腹に忠棟は唐突な忠朗の隠居を全く驚いていない。

冷静な忠朗は淡々と理由を口にした。

 

「如何にわざと泥を被ったと言えど、同盟関係にあった肝付家との宴を壊してしまったのだ。誰かが責任を負わねばなるまい」

「……」

「忠棟よ、私はお主の考え出した策を知っておる。如何にしても肝付家との合戦に勝利するかまで見通したお主ならば、此処で私が隠居するのもわかっておったのだろう?」

「……可能性の一つとして考慮しておりました」

「身内に対して嘘が下手よな、お主」

 

呆れたように苦笑する忠朗。

忠棟は誤魔化すように後ろ髪を掻いた。

昔からそうだった。

伊集院家の麒麟児と持て囃され、幼子と思えぬほど論理的な問答を行う孫だったが、身内に吐く嘘が下手という弱点も存在していた。

耳朶を触る。目が泳ぐ。肩を揉む。

様々な動作から嘘か真か見極めるのは至極容易だった。祖父や父の目は誤魔化せぬということである。

 

「ご祖父様には敵いませぬ」

「お主にだけは言われとうないわ」

 

負けを認めたのか、忠棟は肩を竦める。

だが、敵わないと初めて思ったのはおそらく忠朗が先だろう。

忠棟が元服するまでは祖父として、又は人生の先輩として導いて行こうと考えていた。

幾ら麒麟児と言えど限界はある。

人の子ならば経験不足はどうしようもない。

だが——。

瞬く間に思い付いた斬新な政策。

発生する問題点を消していく順応性。

どちらも忠朗の才を凌駕していた。

その時、彼は素直に敗北を認めたのだった。

 

「島津家は四年前よりも強力となっておる。お主のお陰よ。肝付殿もこの国力を前にすれば敗北せざるを得まい」

「ええ。その為の2年でしたから」

「油断するでない、忠棟。殿は義久様とお主を大隅平定に従軍させぬつもりよ。私とお主がおらず、忠倉には唯一軍略の才がない。万が一にも御家が負けてしまうこともあり得るのだ」

「心配無用です、ご祖父様」

「何故そう言い切れる?」

 

近い内に忠朗は加世田城へ赴く。

隠居すると先代の当主に報告する為である。

だからこそ、今この場に忠棟を呼んだ。

蓄えておいた情報を元に辿り着いた、危険度の高い未来予想図を一つでも多く孫に預けておき、最悪な選択を取らないように少しでも知恵を授けようと考えた。

しかし、忠棟は一歩先を行く。

忠朗の想像した未来を一刀両断。驚くほど明確に有り得ないと断言してみせた。

根拠を尋ねる忠朗。

忠棟は一呼吸挟んでから答えた。

 

「正直に明かします。確かに俺はご祖父様が隠居なさることも、この事を機に肝付家が兵を挙げることも読んでいました。故に、肝付家と合戦を行う際、殿が義久様と俺を薩摩に残すことも当然ながらわかっておりました」

「何」

「そして敵は肝付家だけに非ず。肥後の相良氏に加え、日向の伊東氏もおりまする。それら全てを戦場の枠に当てはめれば、見えてくる未来は一つしかありますまい」

 

この時、伊集院忠朗は本当の意味で初めて伊集院忠棟の恐ろしさを思い知ったと後日日記に書き記した。

忠棟が元服してから6年の月日が経つ。

その間に行われた政策を一通り振り返った。

5年前に砂糖製造を実演。

4年前に千歯扱きの発明。

同年、岩剣城の合戦で評定に参加。

更に同年、坊津と鹿児島港の事業を献策。

そして一気呵成に速攻で南九州の覇権を握る策を2年前から軌道に乗せ始めた。

少なくとも島津貴久を始めとして、島津四姉妹、伊集院忠倉、そして伊集院忠朗もこのような認識を抱いていた。有用だと認めた。

だが——。

もしかしたら違うのではないか。

何故、金銭の確保を急いだのか。

何故、水軍の発足を目指したのか。

何故、2年という月日を稼いだのか。

2年前からではなく、6年前から今回の事態を予知していたとしたら。

敵は肝付氏だけでなく、相良氏と伊東氏も含まれるとわかっていたとしたら。

建前上、この2年間動かなかった理由は外城に配置する人材の確保と育成の為である。

しかし、忠棟だけは違う風景を見ていたのではないか。大隅だけでなく、日向や肥後すらも併吞する為に策を練ってきたとしたら、最早この翁に口を挟む事など出来るはずもなかったのだ。

 

「お主はどこまで先を読んでおるのだ……」

 

畏怖の念と共に零れ落ちた呟き。

薬師の用意した薬湯は冷めきっていた。

 

「——殿も父上も肝付家に負けませぬ。何故ならば、私と義久様で伊東氏と相良氏の連合軍を見事退却せしめるからでございます」

 

そして忠棟は涼しげな顔で、当然のように言い切ったのだった。

 



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九章 鎌田政年への詰問

 

肝付兼続挙兵の報せから3日。

連日に及ぶ評定の結果は以下の通り。

岩剣城の城主であらせられる島津忠将様が1000の軍勢を率いて廻城へ進軍。

廻城の城主である『廻久元』は島津方に帰順しているが、目が不自由な為に家中が混乱して弱体化していた。

故に忠将様が援軍として派遣され、貴久様を総大将とした島津勢5000の本隊到着まで守護することになった。

肝付兼続は廻城を取り囲むだろう。

籠城する兵と本隊で挟み撃ちにできるが、背後は肝付家の治める土地だ。島津の大軍を動かすことは中々に難しいと思う。

肝付勢の挟撃が無理となれば、必勝を期す為に地の利を得た陣を敷かなくてはならない。

つまりは拙速こそ此度の合戦に於ける勝利の鍵。故に、内城は慌ただしく戦支度に追われていた。

——だが。

そんな喧騒とした内城も俄かに静まり返ってしまう。

理由は多々ある。

そもそも子の刻、午前零時だから。

明朝の出陣の為に英気を養っているから。

しかし、貴久様の部屋に静寂が舞い降りた理由は全て俺の献策によるものだった。

島津家家中で最も影響力を持つ九名の前で披露された策は、あまりに予想外過ぎる内容だったからなのか、既に一分近く絶句したままの状態である。

いや、ちょっと待って。

誰か反応してくれないと先に進まないです。

そんな俺の祈りが通じたのか、一足先に我に返った貴久様が咳払いしつつ口火を切った。

 

「何故、これを評定の際に申さなかった」

「はっ。この策は秘匿こそ勝利条件。敵を騙すにはまず味方から。功名に焦る方々の暴走を食い止める為にも内々で進めるべきと判断致しました」

 

廻城の援軍に向かった忠将様。

加世田城にて坊津の政務に取り掛かる忠良様のお二方を除いて、島津貴久様を筆頭にした島津四姉妹と父上である伊集院忠倉、そして新納忠元殿、鎌田政年殿、肝付兼盛殿が集まった部屋は5月の深夜と思えないほど熱気に溢れていた。

彼らを見渡しながら答える。

評定で献策しても構わなかったが、どこに忍の耳があるかわからない。

特に、伊東家へ知られてしまえば策の根底が崩れてしまうことになる。

部屋の真ん中に置いた地図を中心にして円状に取り囲んだ九人は、皆一様に顎に手を当てて物思いに耽ってしまう。

『策』を評価するには2つの項目がある。

実現性、有効性だ。

6年前の島津家なら実現は不可能だった。

しかし、今なら答えは違うものになる。

確保した金銭、兵糧、鉄砲。

発足させたばかりの水軍。

事前に行った様々な工作の成果。

これらを組み合わせれば実現は十分に可能である。そして有効性は限りなく高い。現状で最も島津家の利益となる結果を残すことになるだろう。

だが、貴久様は首を横に振った。

 

「であるか。忠元、この策をどう見る?」

 

意見を求められた忠元殿は即座に答える。

 

「一言で申し上げれば、絵空事だと思われまする」

「理由は?」

「相良と伊東の両家が連合を組み、手薄となった薩摩に攻勢を掛けるとは到底考えられませぬ。もし連合を組んだとしても、肝付家の援軍に訪れるのではないでしょうか」

 

我が意得たりとばかりに貴久様は賛同した。

手にした扇子で飫肥城を指し示しながら口にする。

 

「俺もそう思う。忠棟よ、お主も言っておったではないか。伊東が援軍に駆け付けた場合は忠親に裏を掻いてもらうとな」

「お言葉ながら当時と情勢が違いまする」

 

三太夫の齎した情報によれば、肝付兼続は伊東義祐へ使者を送り付け、無事に援助を確約したようだ。そして伊東家は友好関係にある相良家へ決起の書状を送ったとのこと。

まさに史実通りである。

宴会の席で起こった喧嘩は、四つの大名家を含んだ南九州全土に及ぶ戦乱へ発展していくことになった。

相対する陣営の数は一目瞭然。

島津家が孤立無援の中、他の三家は協力関係にある。大隅、日向、肥後といった三国に囲まれてしまった島津家の危機に思うかもしれない。

でも。だけど。

島津の天下取りの為には伊東家と相良家の参加が絶対に必要だった。

虎穴に入らずんば虎児を得ず。

敵対する大名家が増えれば増えるほど平定可能な領土の拡大に繋がる。その為の2年であり、島津家の国力と島津四姉妹の才気、そして俺の研鑽した策を用いれば十分に可能だと判断した。

故に此処は押し通すのみだ。

 

「伊東氏は豊後を本国とする大友家とも懇意にしております。そして、肥後の相良氏も決起に賛同するとなれば、日向に残る敵対勢力は島津忠親殿だけに限られまする」

 

忠親殿は豊州島津家の5代当主である。

日向南部の飫肥城を領している。

当然、日向全土を支配下に治めたい伊東家が見逃すはずもなく、飫肥城は長い間伊東家の侵攻に晒されてきた。

忠親殿も戦上手な方で、増大する圧力の中でも伊東家の攻勢を凌いでいたが、最近では防衛も限界に近く、動員できる兵士も1500足らずとなっていた。

当然、留守時を狙った遠征も不可能。

こうなると話は簡単だ。

伊東義祐は必要最小限の兵を国許に残し、大軍で遠征が可能となる。

その標的は言わずもがな。

薩摩、そして島津家であることは明白だ。

 

「つまり、忠棟はこう言いたいのですね。伊東義祐は相良家と合流し、大軍を率いて薩摩本国に攻め寄せることが可能であると」

「如何にも。肝付兼続としても島津家の背後を脅かせる為、伊東義祐の進軍を止めることはないでしょう。その程度にも由りますが」

 

歳久様の言葉に説明を付け加え、貴久様へ視線を移す。

6年間の遣り取りで史実以上の英君だと感服させられた。機を見失わぬ戦運び、有効だと思えば若造の献策すら受け入れる度量は『英傑』という単語すら霞ませる大器である。

そんな貴久様が間違った判断を下すはずない。

俺の確信を見透かすように、貴久様は扇子を開閉させる作業をしつつも首を縦に振った。

 

「……確かに。あり得るかもしれぬな」

「殿!」

 

立ち上がりかける忠元殿を、貴久様は手だけで制する。中腰の姿勢で留まる親指武蔵を一瞥した後、今度は腕を組んだまま訊ねた。

 

「忠元、大声出さずともわかっておる。もしも伊東と相良が侵攻を行うとして、総勢は幾らで何処を通ると読んでおるのだ?」

「はっ。恐らくは総勢6000。三之山から加久藤城を通り、後顧の憂いを無くしてから薩摩へ雪崩れ込むであろうと思われまする」

 

伊東義祐率いるは4000。

相良家は2000が妥当であろう。

合わせると約6000の連合軍が出来上がってしまうことになる。

 

「6000かぁ。大軍だね!」

「でも、源太の策だと1000で加久藤城を守護することになってるよ」

「あらあら。六倍だと籠城は厳しいわね〜」

「ご心配には及びませぬ。伊東相良の連合軍を撃退せしめる策は既にありまする。その一端を担うのが、この別働隊で御座ります」

「別働隊には1500か。忠棟、これでかの国を席巻するのは可能だと思えぬぞ。如何に義弘様と言えどもお一人では無茶である!」

 

現状、島津家の総動員数は9000人だ。

2日間に及ぶ昼間の評定で決まったのは、忠将様を援軍として本隊より先に廻城へ派遣すること。

貴久様率いる6000で肝付兼続と対峙すること。

国許に3000の兵士を残すこと。

たった三つだけである。

勿論、戦評定は有利な位置に陣を敷いてからでも遅くない。内城にて全てを決してから軍を動かさずとも問題はなかった。

どちらにしろ、この数も半ば予想通りだ。

3000もの兵士がいれば問題なく策を実行できる。

例え——。

島津義弘様を筆頭とした別働隊に3000から1500の兵士を割いたとしても、だ。

 

「大丈夫だって。私なら行けるよ」

「ふむ」

「忠元殿、その為に忠親殿がおられまする」

「ちょっとー。源太まで無視しないでよ」

「無論、義弘様の才覚を重んじたからこそ別働隊の大将に選ばさせてもらった所存です」

「そ、そう?」

「はい」

 

顔を赤くして頬を掻く義弘様。

俺と同い年だから今年で17歳を迎える。

岩剣城の合戦時は容姿端麗な男と見受けられそうな髪型と振る舞いだったが、年齢を重ねるに連れて女性らしい柔らかさも身に付き初めていた。

島津家のお姫様とて年頃である。

誰ぞに恋でもしているんだろうな。

家臣に褒められただけで照れてしまう辺り、どうも進展が見込めなさそうな初心な感じだけどさ。

もしも相談されたら快く聞いてあげよう。

久朗が相手だったら奴をぶん殴りに行くかもしれないけども。

 

「彼らとて国許に残すのはごく僅か。その間隙を衝いて、日向南部を攻め落とすと見るが如何か?」

「推察の通りで御座りまする、兼盛殿」

 

肝付兼演の息子である兼盛殿。

史実でも島津忠良の四天王として名を馳せている。未だ30歳手前と年若く、けれど父親譲りの才覚は島津家家中でも高く評価されている。

実際、兼盛殿の推察は的を得ていた。

だが、一つ誤解している。

俺の目指す完勝は日向南部だけではない。

一気呵成に日向全土を平らげる所にある。

伊東義祐率いる本隊を壊滅させ、伊東家の居城である佐土原城へ押し迫れば、日向の有力勢力は我先にと島津家に靡くだろう。

2年間で蓄えた兵糧は一万の大軍を優に5ヶ月間動かせる。それだけの時間があれば、求心力の衰えた伊東家を踏み潰すことなど容易だ。

無論、窮鼠猫を噛むと言う諺通り、油断しては大敗を喫しかねない。

だからこそ軍備の拡張も急いだ。

鉄砲千梃を始めとした予定の数に到達した。

この時代に於いて鉄砲を千梃も保持している大名家は島津だけだろう。

その優位性は筆舌にし難いものがある。

島津家の躍進を支えてくれるに違いない。

 

「儂は絶対に認めんぞ!」

 

様々な要因を説明し終えると、献策した当初と部屋の雰囲気は打って変わった。

容認してしまいそうな流れから此処で一気に勝負を決めようとした瞬間、沈黙を保っていた鎌田政年殿が大声を挙げて立ち上がった。

刀すら振り回しそうな怒気を発している。

僅かに気押されながらも静かに問いかけた。

 

「何故で御座りまするか、政年殿」

「説明せねばわからぬのか、愚か者!」

「落ち着け、政年」

「これが落ち着いておられましょうか。皆々様も小僧の戯けた策に乗せられてはなりませぬぞ。この策は無謀で御座る。肝付家すら倒しておらず、大隅の平定に全力を向けなければならない今、日向へ侵攻しようなど笑止千万。性急に過ぎまする!」

「性急に過ぎるのは同意するが、無謀ではあるまい。攻撃は最大の防御なり。忠親殿をお救いする意味として、飫肥城へ別働隊を派遣することは間違っておらぬ。日向へ侵攻することによって伊東家を退却せしめることも可能であろうぞ」

「忠元までこの若造に毒されおって。そもそも軍勢を分けることは愚策よ。伊東義祐が侵攻してくるのであれば、3000の兵で食い止めれば良い話。わざわざ信用のおけぬ水軍を用いて逆侵攻するなど戦の道理を知らぬ愚か者の企てた下策でしかないわ!」

 

貴久様と忠元殿の発言も何のその。

頭に血が昇った政年殿は身振り手振りを重ね合わせて反論していく。

正直な話、政年殿の言い分もわかる。

例え、伊東義祐が相良家と連合軍を作り、薩摩へ侵攻してこようとも先ずは大隅平定を最優先するべきだという論調は当然のものだ。

むしろ俺の策が博打すぎる。

但しそれは準備をしていなければ、だ、

様々な準備を終わらせてきた。

6年前から策を練り上げてきたんだ。

大隅日向の同時平定の為にである。

故に政年殿の言い分を受け入れる訳にいかなかった。

政年殿の言葉に理があろうと、此処で折れる訳にいかないんだよ。

 

「ならば政年殿にお尋ね申す。敵の数は凡そ6000に及びましょう。半数で如何にして守護なさるおつもりか」

「徹底した籠城戦しかあるまい」

「仮定の話をするのであれば、もし敵が加久藤城を3000で囲み、残り3000で薩摩を荒らしてはどうなさるお考えか」

「所詮は同数。島津兵に掛かれば必勝よ。3000を蹴散らし、背後から残り3000を撃滅すれば大勝である」

 

いや、それはどうだろう。

大勝と大敗を間違えてないか。

政年殿ってこんな猪武者だっただろうか。

合戦が絡んでいないときは挨拶も交わす良好な関係だったんだけどな。

 

「それこそ笑止千万!」

「儂を愚弄するつもりか!」

「策もなく野戦に持ち込めば勝利した所でお味方の被害甚大に御座る。疲労も溜まりますれば、再度同じ数の敵軍と相対しては敗北必定でありましょう」

「やらずして結果は見えん!」

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。古今東西、そのような戦運びで勝利を得た軍はおりませぬ」

「……っ!」

 

遠回しに政年殿を愚者と罵った。

16歳と44歳。一回り以上も違う人生の大先輩に対して使ってもいい台詞じゃないが、先に愚か者と侮辱してきたのは政年殿である。

そうだ。俺は間違っていないぞ。

政年殿を見上げる俺。

見下ろす視線と交錯した。

眼は口程に物事を語るという。

反省も後悔もしていない事に気付いたのか、政年殿は刻々と顔を赤らめていき、そして爆発した。

 

「金勘定しか頭にない餓鬼は黙っておれ!!」

 

刹那、部屋は文字通り硬直した。

誰もが言葉を発しない。身動ぎすらしない。

そんな中、俺は誰よりも冷静だった。

金勘定しか取り柄が無いと揶揄された事は一度や二度じゃない。最早慣れ親しんだ悪口であった。悲しい事だけど。

妬む声、蔑む声、恨む声。

その他諸々の悪感情を振り切って、俺は今回の策を成功させる事に邁進してきた。

全ては野望の為に。

義久様を天下人にする為に。

そして伊集院忠棟の名を後世に残す為に。

だから落ち着いていられた。

挑発に動じるなど軍師にあらず。

如何なる時も冷静に対処しなくてはな。

 

「あらあら〜」

 

こうなれば無礼講だ。

少なくとも貴久様に策を認めてもらう為、踏み台になってもらおうと口を開こうとした瞬間、義久様が『笑顔』のままで部屋の沈黙を切り捨てた。

何故か寒気がする。

義久様を見ていると、勝手に手足が震え出した。頭を床に擦り付けて平伏してしまいそうになる。こんなこと初めてだ。

ふと、額を触る。

冷や汗でびっしょりに濡れていた。

 

「ねぇ政年、此処は誰かの悪口を言うところなのかしら?」

「よ、義久様……?」

「お金を稼ぐって大事よ〜。政年の大好きな馬だって買えるわ。兵糧も火薬も、鉄砲だってたくさん買えたじゃない。これって源太くんが献策してくれたおかげよね〜?」

「し、しかし義久様。我らは武将。合戦で見事働いてこそ武門の誉れとなりまする。幾ら奇抜な策で金を稼ごうとも、それが軍略に直結するとは限りませぬ」

「そうかしら。岩剣城の合戦でも源太くんは見事な策を考えついたわよ〜」

「まぐれに御座います。加え、この小僧を除いた我々武将が奮戦したからこその大勝でしょうとも」

 

義久様と政年殿による応酬が続く。

残り八人は俺も含めて蚊帳の外。

底冷えしてしまう声を発する義久様は憤怒しておられるように見える。初めて見た。普段から温厚な姫君として名高い義久様が怒り狂っている姿など想像できるはずもない。

しかし——。

俺に対する憤りから感覚が麻痺している政年殿は、詭弁又は屁理屈を用いて義久様の追及を躱している。

これ以上は家中の結束が崩れてしまう。

どうしようかと迷う俺を嘲笑うように、義久様は一気に決着を付けようとしていた。

 

「うふふ、そうよね〜。政年ならそう答えるってわかってたわ〜。智よりも武を重んじる貴方ならそう答えるわよね」

「?」

 

独特な言い回しに首を傾げた政年殿。

既に部屋の主導権を握っているのは義久様。

特徴的な着物の中から取り出したのは一通の書状である。厳重な封を解き、全員に見えるように地図の上に書状をゆっくりと置いた。

直後、俺を含めた全員が目を疑った。

 

「ねぇ、政年。これは何かしら?」

 

其処には、政年殿を筆頭にした複数の家臣の名前が書かれている。

見た感じだと筆跡は全員一致していた。

つまりこれは本人が自ら筆記した連判状だ。

その中身はまさに御家騒動の見本ともなる内容が書き記されていた。

 

「武を重んじる政年だもの。次の当主を私みたいな『愚か者』じゃなくて、弘ちゃんにしたくなるのもわかる気がするわ〜」

 

背筋を震わせる冷徹な声。

三州一の美貌は能面の如く。

差し出された物品は地獄行きの切符だった。

そして——。

俺は唐突すぎる展開に漸く頭が追い付いた。

瞬間的にこの書状の出処を理解した。

心の中で罵倒する。

 

 

あんの、不幸野郎!

平然と義久様に鞍替えしやがったな!

 

 

 

 

 



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十章 百地三太夫の心情





 

 

俺には一つの趣味がある。

唐突な話だが勘弁願いたい。

先駆者の祖父から勧められ、凄腕の父上に手解きを受け、奨励した忠良様から絶賛されたほどの腕前を持つ。

唯一誇れる趣味でもあった。

隠し事する物でもないので簡単に明かす。

『薩摩琵琶』と呼ばれる物だ。

史実と同じく、薩摩の盲僧として知られる淵脇了公が忠良様に召されると、一つの命を受けた。武士の士気向上の為、新たに教育的な歌詞の琵琶歌を作曲し、楽器を改良しろと。

結果、これまでの盲僧琵琶を改造して、武士の倫理や戦記、合戦物を歌い上げる勇猛豪壮な演奏に向いた構造へ変化した。

具体的に記すと面倒なので閑話休題とする。

ともかく——。

伊集院家の屋敷。

その一角に俺の部屋はある。

そして大事な琵琶が飾られている。

 

「話が違うぞ、三太夫」

 

勢い余って叩き壊してしまおうかな、と思わず琵琶の飾られている方向へ手が伸びてしまうほど、俺は三太夫に対して頭に来ていた。

話は3時間前に遡る。

義久様の差し出した連判状から、鎌田政年殿以下十名は地下牢へ連行。

大した抵抗もせず、恨み言一つ言わない様は寧ろ間違っているのは俺たちなんじゃないかと思わせるに足る潔さでもあった。

思わぬ混乱から中断されていた深夜の軍議も無事に終わり、俺の提示した三州統一の策は貴久様の鶴の一声によって可決された。

貴久様を総大将とする5000の本隊は明朝に出立する予定である。

これは変わらない。

忠将様の率いる1000の軍勢と合流。6000の兵を以て肝付兼続を破り、勢いのまま大隅を平定するところは不変なのだ。

問題は本国に残る3000の使い道だ。

一時間弱の話し合いで決まり、最終的に策通りの配分となった。

つまり——。

伊東相良連合軍を食い止めるのは、義久様と俺、東郷重位、肝付兼盛殿を含めた島津勢1000人。

別働隊として飫肥城へ赴くのは、義弘様を大将として久朗など五人の武将を付けた1500の兵士たち。

最後に、万が一の為に置いておく500。本来なら隠居したばかりの祖父に留守居を任せようと考えていたんだが、鎌田政年殿たちの監視及び薩摩全体に睨みを効かせる為、急遽ながら歳久様が本国に残ることになった。

策の実行に必要な条件は全てクリア。

本当なら屋敷に戻り、達成感に満ち溢れながら久しぶりの睡眠を味わえるはずである。

だが、それは露と消えた。

理由は一つ。

俺の目の前で、反省もなく、頭を掻きながら苦笑いする不幸忍者の鞍替えに心底怒っているからだ!

 

「何が?」

「惚けるでない。連判状の件だ」

 

そもそもな話。

義久様を糾弾し、義弘様を担ぎ上げる存在が現れたこと自体は驚愕に値する物じゃない。

十二分に予想できたことだ。

初陣で武将の首級を挙げ、その後の二回に及ぶ合戦でも縦横無尽の活躍を見せた義弘様を武神として崇める者たちが少なからずいる。

『鬼島津』の名も広まり始める頃だろう。

政務に関しても人並みにこなし、家臣たちを差別せずに接して、明るく武勇に長けているとなれば、義弘様を次期当主にという声が何時か出始めると考えるのは妥当であった。

義久様と義弘様。

二つの色分けを鮮明に浮き彫りとする為、俺はわざと肝付兼続の策に踊らされるように薩摩で流言を飛ばした。

結果、見事に引っかかった。

その証拠を義久様に渡されてしまったけど。

 

「成る程ね。いきなり呼び出されたから何か遭ったと思ったけど。遂に出しちったかぁ」

 

あらら、と肩を竦める三太夫。

俺は畳をトントンと叩きながら尋ねた。

 

「……何故、義久様に渡した?」

「渡したら拙かったの?」

「余計な問答となる。わざわざ答えてやらねばわからぬお主でもあるまいて」

 

問い掛けではなく、断言する。

三太夫は見かけによらず切れ者だ。

職業柄、俺よりも様々な情報を見聞きしているからこそ、導き出す答えはいずれも正解を引き当てる。

忍の枠を超えた、俺の腹心。

それが三太夫に対する評価だった。

にも関わらず鞍替えしやがってこん畜生。

 

「もしも、さ。オレが大旦那に連判状を渡してたらどうしてたわけ?」

「知れたことよ。三州統一後、新たな策の一つとするつもりだったのだ。誰が企てていたとしても、島津家の為に有効活用させて貰うつもりであった」

「だよね。大旦那ならそうすると思ったよ」

 

吐息一つ。

静かに続けた。

 

「だから……渡さなかったんだ」

「戯けたことを申すでない」

「だってさ。その新しい策って、連判状を使った策って、大旦那が危険な目に遭うんじゃないの?」

「何」

「例えばだけど、連判状の載っている家臣の所に乗り込むとか」

 

確かに考えた事はある。

乗り込むというよりも乗っ取る方だが。

幾ら義弘様を当主として相応しく思う者たちでも、貴久様から鑑みれば大事な家臣であることに変わりない。

島津家の行く末を純粋に苦慮した末の決断であるなら、俺としても直接赴いて説得するのはやぶさかじゃなかったりする。

だが、大友家や肝付家に唆された愚か者すらも許すのは気が引けた。わざわざ見抜く時間もない。

故に、違う策を練り上げていたんだがな。

そんな内心を表に出すことなく答える。

 

「俺とて人間。死することに恐怖はある」

「それでも島津家の為ならやれるでしょ?」

 

鋭い切り返しだ。

俺は一拍の間を置いてから口を開く。

 

「……否定はせぬ」

「後一つ、理由があってね」

「申せ」

「大旦那を、君側の奸として排除するって書かれてたんだ」

 

ほう、と呟く。

 

「であるか。だが致し方無し。彼ら武断派からしてみれば、俺の存在を疎ましく思うのも道理よ。何しろ金勘定しかできぬ餓鬼なのだからな」

 

だとすれば、義久様を武力排除するつもりはなかったのか。

いや、当然だな。

島津四姉妹の誰かを傷物にしたら、貴久様が烈火の如く怒り狂うことは明白。むしろ、其方の方が御家騒動に発展しそうで恐ろしい。

あくまでも標的は伊集院忠棟だったんだ。

君側の奸として取り除き、然るのちに政治力を用いて義久様から義弘様へ次期当主の冠を移す。狙い目としてはこの辺りだろうな。

だが、これは鎌田政年殿だからこそ出来る方法だと思う。他の家臣ならどうなるかわからない。やはりもう少し色分けに時間を裂ければ良かったんだが、後悔しても後の祭りだ。

 

「大旦那は割り切れるだろうけど、彼女はそうじゃなかったみたいなんだよ」

「彼女?」

「義女将さんのことさ」

 

三太夫特有の人物名称。

今回ばかりは嫌な予感しかない。

それでも耳にしたからには訊くのが筋だ。

 

「一応訊いてやろう。義女将さんとは誰だ」

「あれ、わかんないの?」

「わからぬ」

「義久様のことさ」

「お主な……自殺願望でもあるのか?」

「無いって!」

「いや、お主の不幸属性とその発言、殿に聞かれる可能性は五割以上でもおかしくないのだぞ。故に自殺願望でもあるのかと推察した次第なのだが」

「なんか釈然とする呼び名がこれしかなかったんだよ」

「だからと言って——。ちなみに他の方々は何と申しておるのだ?」

「弘女将さん、歳女将さん、家女将さん、かな」

 

駄目だコイツ、早くなんとかしないと。

割と本気で貴久様に殺される。

むしろ殺された方が良いんじゃないか。

一瞬だけ浮かび上がった疑問も、答えを用意するよりも早く気泡のように弾けて消えた。

三太夫らしい呼び名。

何だかんだで任務を遂行する有能な部下。

そして腐れ縁の如き友人を亡くすのも惜しく感じる故に、主君相手でも庇ってしまうだろうなぁと嫌な未来を想像して頭を抑える。

不幸属性は伝染しないと信じたい今日この頃であった。

 

「頭が痛い……!」

「大旦那は頭使い過ぎだって」

 

誰のせいだと思ってんだ!

島津の姫君たちに対する訳のわからん人物名称に加え、今後の予定を打ち壊した勝手な判断。反省の色が見えない飄々とした態度。

それらを打ち消しそうな、本気で心配している三太夫の表情が脳裏にちらつく。

全く——。

怒ればいいのか、許せばいいのか。

こんなこと考えるだけでも頭痛に苛まれる。

取り敢えず真面目な返答をすることにした。

 

「俺に武の才はない。なら頭を使うしかなかろう」

「少しは休めば?」

「これから忙しくなるのだ」

 

三州統一に向けた策の実行。

二ヶ国増えることによる問題点への対処。

その後に待ち受ける大友家との決戦。

戸次道雪の参陣を防ぐための外交攻勢など。

課題は山積。

休む暇などない。

二年も休止していたんだ。

ここからは九州統一まで駆け足である。

 

「そっか。じゃあ、オレはこの辺で——」

 

気を利かしたのか。

それとも居心地が悪くなったのか。

どちらにしても逃してなるものか馬鹿者。

立ち上がりかける三太夫の肩を掴み、俺は引き攣りそうな笑みを浮かべつつ押し留めた。

 

「逃すと思うか?」

「ですよねー」

 

三太夫は手を挙げて降参のポーズ。

早すぎる諦めに、俺は人知れず嘆息した。

この不幸忍者を相手にするのは心底疲れる。

ただ連判状を渡さなかった理由は、俺の事を考慮した結果だとわかった。

要らぬお節介と跳ね除けるのは人非人だ。

心配した気持ちは有難く受け取ることにしよう。

それでも——。

どうしても訊きたいことがあった。

 

「俺に連判状を渡さなかった理由はわかったが、どうして義久様に渡してしまったのだ」

「オレだと判断できなかったからね」

「だとしてもだ。義久様に要らぬご負担をお掛けしてしまった。これから六倍の軍勢を相手に指揮するというのに」

「え、逆じゃないか?」

「あ?」

 

思わぬ問いに凄い声が出た。

まるで喧嘩を売る野蛮人みたいだ。

笑顔を取り繕う間もなく、屋敷は沈黙する。

数瞬後、三太夫は思い出したように一歩後ずさった。

 

「……顔怖いよ、大旦那」

「失敬な。いつも通りだろ」

「眉間の皺が取れなくなるよ」

 

気にしてることを言うな。

歳の割りに多く刻まれた皺を伸ばす。

余計に老けて見られそうだ。

溜息をこぼし、ぶっきらぼうに言う。

 

「いいから話を戻さぬか」

「だから——。義女将さんの方が大旦那を気遣ってるんだってば。だって、そうだろ。大旦那はこれから六倍の敵を殲滅して、尚且つ別働隊の取るべき策なんかも考えるわけだし」

「それが家臣たる者の責務よ」

「度が過ぎてるんだって。いつか破裂しちゃうさ。だから、家督相続の件に関しては義女将さん自身で解決しようって考えたんだろ」

「……」

 

思わぬ事実に言葉を失う。

俺は義久様の今後を憂いていた。

次期当主という立場は重圧になってないか。

三人の姉妹と仲良くされているのか。

義弘様に要らぬ劣等感を抱いていないか。

無事に島津家の家督を継げるのか。

様々な心配事から東奔西走したのだが、逆に義久様から気を遣われてしまうとは筆頭家老としてあるまじき失態である。

二年前の歳久様に加え、義久様にまで大きな借りを作ってしまったようだ。

利息も付けば膨大なモノとなる。

いつ返せる日が来るのやら。

そんな俺の憂鬱と裏腹に、三太夫は悪戯小僧のような口調で楽しそうに白状した。

 

「まぁ、オレが連判状持ったまま彷徨いてた時に見つかっちまったのが原因なんだけど」

「やはり殺すか。其処を動くでないぞ」

「御免なさい、もうしません」

「はぁ」

 

勝手に漏れる溜め息。

今後に控える合戦を鑑みれば、一つでも多くの幸運を残しておかなければならないのに。

幾ら万全な策を用意したところで、多少の運は必要不可欠。雨が降りそうなら尚更だ。

史実の桶狭間の戦いだって、運良く雨が降ったから今川本陣の奇襲に成功したんだしな。

けど、運だけで必勝できるなら苦労しない。

信長は豪運だった、色々と。

将来はそんな奴を出し抜くんだ。

俺は俺なりに準備と策略に精を尽くそう。

だから——。

幾ら溜息をこぼしても問題ない、はずだ。

 

「もう良い。大友家に対する策は一つ潰れたが、此処で膿を取り出せたのは僥倖と捉えよう。後で義久様に感謝の意を伝えねばなるまい」

「あ、じゃあオレは——」

「お主に対しては功を以て不問とする」

「うげ。今回の報酬金は無しかー」

 

淡々と放たれた台詞に、三太夫は肩を落とした。

金を愛するが故に財布を落とす。

仲間を助けたいが故に仲間から捨てられた。

不幸だと一蹴すればそれまでだ。

生来からの特徴なのだから諦めろと、無慈悲な現実を突き付けるのも個人の自由だと思う。

但し、俺からしてみれば馬鹿馬鹿しい話だ。

三太夫にしても、伊賀の忍にしても。

どちらも報われることはないんだから。

 

「報酬金は渡そう。何しろお主の働きが勝敗を左右するのでな」

「有難いけど、何すればいいわけ?」

「伊東軍内部に潜入してまいれ」

「——了解。何となく大旦那の意図がわかっちった」

 

全てを説明せずとも理解する。

まさに一を聞いて十を知る。

伊東と相良の軍勢に対して何をすればいいのか一瞬で把握する能力は、諜報活動が主な忍と思えなく、それでも三太夫らしいとも言えた。

 

「詳しくは他の忍に伝えさせる。よいな?」

「朝飯前だっての。今後ともご贔屓に!」

「ああ。さっさと行け」

「わかってるって」

 

雀の鳴き声。

鶏が朝を告げる。

水平線から微かに顔を見せた太陽は鹿児島の地を照らし始めた。

俺の部屋も例外じゃない。

襖越しに伝わる陽光に目を細めながら、三太夫は立ち上がった。気負う様子も、俺に叱られた不満も見せず、単純に新たな任務へ駆けようとする姿を見て、咄嗟に名前を呼んでしまった。

 

「三太夫」

「ん?」

 

振り返る不幸忍者。

俺は頬を掻きながら明後日の方向を向く。

義久様だけでなく、三太夫も俺の身を案じてくれた事実は変わらない。

礼の一つでも述べないと男として名が廃る。

 

「一応、礼を述べておこう。感謝する」

「気にしない気にしない」

「……そうか。なら俺から一言だけ」

「何?」

 

憮然とした表情で、俺は宣言した。

 

「次、勝手なことしたら脳天吹っ飛ばすぞ」

「怖っ、大旦那ってば怖っ!」

 

 

 

 

 

 

貴久様と家久様は無事に出陣を終えた。

父上と忠元殿も同じく出立。

5000の兵士が隊列を整えて大通りを行進していく様は、島津勢の練度の高さを象徴した光景でもあった。

本来なら忙しいのは此処まで。

留守居を任された義久様たちは島津勢の勝利を信じ、彼らの帰還を一日千秋の思いで待ち侘びるだけだった。

だが、その未来も俺の策で崩れ果てた。

次は水軍の準備に追われる。

二年間で用意した15隻の船。

これを用いて、初めて策の成功は成る。

今回、本国に残ることとなった歳久様が先頭に立って、別働隊の選抜と準備に奔走してくれたお陰で予定よりも一日早く闇夜に紛れて出航させることが可能となった。

時刻は戌の刻。午後八時過ぎ。

何故か、である。

伊集院家の門を川上久朗が叩いた。

久朗は別働隊を率いる武将の一人だ。

何しろ水軍の副将。

策の成否を握る人間の一人とも言えよう。

出航は四時間後である。

さっさと戻れ、馬鹿。

罵詈雑言を浴びせて追い返そうとしたが、久朗は慣れた様子で聞き流し、次の瞬間には至極真面目な顔で相談したいことがあると口にした。

コイツのこういう顔は昔から苦手だ。

仕方なく屋敷の中に通し、部屋へあげた。

久朗も勝手知ったる人の家。

許しもなく畳の上に腰掛けやがった。

 

「して、相談事とは?」

 

前置きもなく尋ねる。

久朗とて人一倍責任感を持つ武将だ。

出陣前の相談事。

並々ならぬ内容なんだろう。

そんな真面目な会話の前に、小粋な冗句をわざわざ飛ばす必要性も見出せなかった。

 

だが——。

そんな俺の想いを——。

久朗の奴は粉々に打ち砕きやがった——。

 

「最近、衆道に嵌った。お主もどうだ?」

 

……。

 

 

「……はい?」

 

 

 

 

 

 



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十一章 伊集院忠棟の葛藤

 

 

「ねぇ、源太?」

 

二時間前のことは記憶にない。

無いものは無い。見事に掻き消してやったさ。

親友だと思ってた奴が衆道に嵌るなんて。なんというカミングアウト。冗談も程々にしてくれと顔を引き攣らせたが、確かに戦国時代は衆道が極々普通な時代だったと記録にあるぐらいだからな。

それはもう色々とお盛んだったんでしょうよ。

俺の尊敬する武田信玄も家臣と組んず解れつの仲だったらしい。嫌な事実だ。頼むからそんな記録抹消しとけよ。主に俺の精神衛生の為に。

いや、いやいやいや。

今は武田信玄とかどうでもいいだろ。

島津家が天下を狙うにしても、俺の計画だと直接的に相対することは無いだろうからな。家康をぶっ潰してから史実通り病死でもしといてくれ。

 

「源太ってば」

 

とにかく俺の話に戻そう。

初体験が男の親友とか笑えねぇ。

どんな悪夢だ。狙っても無理な展開だぞ、これ。

久朗は良い奴だ。知勇兼備に勇往邁進、そして島津家に忠誠を誓う武将。見事に三拍子揃ってる。

なのにホモ。色々とかっ飛ばしすぎだろ馬鹿か。

ん?

いや、この場合はバイになるのかな?

ーーって違う違う!

アイツと今後どう付き合うかを検討しないと!

対応は三つある。一つずつ挙げていこう。

一つ、久朗をゴキブリの如く扱うか。

これは出来る限りしたくない。例え衆道に嵌った裏切り者だとしても、俺にとってみたら数少ない親友なんだ。有能な武将でもある。

今後、島津家が飛躍していくのに必要な人材の一人で、尚且つ貴久様からも次代の島津家を支えてくれと一緒に頼まれた間柄。俺たちの仲にヒビでも入ってしまったら義久様もどう思うか。きっと悲しむ。それは避けたい。

鎌田殿の件でも迷惑掛けたし、これ以上将来の負債を積むのは良くないだろう。

でも一応、対応策の一つとして考えておくことにする。

 

「意識はあると思うんだけどなぁ」

 

一つ、俺も衆道を嗜むようにするか。

アホか。却下だ。俺はノンケだ。女好きだ!

誰が好き好んで男を抱きたいと思うか。

この時代だと俺の方が異常なのはわかってる。

それでも五百年以上未来の価値観を持ち合わせてる俺からしてみたら、衆道なんてものは、天地がひっくり返ってもしたくないランキングぶっちぎりの一位なんだぞ。

いや、ホント、マジで勘弁してください。

衆道以外なら何でもしますから。

という事でこれは論外。

 

「こ、こうなったら強制的に行くしかないよね」

 

一つ、今まで通り付き合っていくか。

正直な話、これが一番まともな対応だ。

誰も悲しまずに済むだろう。

偽物だとしても平和が続くなら万々歳である。

長く続く平穏だと思えないが、一先ず俺のお尻は傷付かずに済む。島津家も内紛を起こさない。例え起きたとしても俺の方が異常者だから勝ち目なんて無いけど。やる瀬ない世の中だ。

なんにしてもだ。

これ以上の対応はない。これで行くしかない。

大事なのは常と変わらぬ心構え。衆道に嵌った男を相手にした事はないが、それでも軍師として鍛え上げてきた平常心に期待するしかないな。

よし、答えは出た!

久朗と次に会うのは早くても二ヶ月後か。

それまでに心の準備を整えよう。

恋する乙女みたいだがご勘弁願おう。

実際問題、俺もこれで一杯一杯なのだ。

ショックは大きい。正直泣きたい。

なんだかもう泣かずにいられない辛さである。

 

「この好機を逃す手はーー」

「何で衆道なんかに嵌ってんだ久朗ィいい!」

「うわぁっ!」

 

起き上がりながら世の不条理を叫ぶ。

血涙すら流しているかもしれない俺の放った怨讐を極限にまで凝縮させた声は、見慣れた薩摩琵琶がある十畳一間の部屋に反響して木霊した。

のだがーーどうして義弘様がいるのだろう?

何やら仰天した表情を浮かべて、腰を抜かしたようにお尻を畳に打ち付け、バランスを取るべく両手で身体を支えようとする様子は、俺が小首を傾げるのに足り得る要素を満たしていると言えた。

 

「何故、義弘様が俺の部屋に?」

「も、もう!」

 

一瞬惚けた顔をした義弘様は直ぐに姿勢を正す。

如何に凄腕の武将であろうと、男の前で脚を開くというはしたない格好を瞬時に正す辺りは名家のお嬢様としてしっかりと躾されている証拠だ。

ただ頬を膨らませるのはどうなんですかね?

怖くない上に可愛らしいが、お嬢様とは思えない表情である。

 

「急に叫んで驚かせないでよ」

「申し訳ありませぬ」

「まぁ、良いけど。でもどうして叫んだの?」

「それは……」

 

数瞬悩み、首を横に振る。

 

「義弘様にお聞かせするような事ではございませぬ。御身のお耳を汚してしまいかねます故。それより義弘様、出立は如何なされたのですか。まさか日にちをずらした訳ではーー」

「私がそんなことするわけないでしょー。まだ出立まで一刻あるもの。久朗に準備は任せたから大丈夫だよ」

「久朗……」

 

出立まで残り一刻。

つまり久朗が自室を訪れてから一刻しか経過していない計算となる。

この時間で何が起こったのか。

それは忘却の彼方に送った筈だ。

しかし、義弘様から聞かされた衆道の闇に堕ちてしまった親友の名前のせいで、否が応でも消したはずの記憶が走馬灯のように蘇ってしまった。

 

「あ、あの野郎……っ!」

「私も驚いちゃった。まさか源太と久朗が、ね」

「いや、ちょ、はぁ!?」

 

待て待て待て!

落ち着け、伊集院忠棟。

義弘様は島津四姉妹の次女だぞ。

俺如きが舐めた態度を取っていい相手じゃない。

早鐘を打つ心臓を正常に戻す。ため息を一つ。常日頃から心掛ける冷静さを思い出しながら平謝りする。

 

「先の言葉、面目次第も御座いませぬ。平にご容赦を。伏して謝罪申し上げまする故」

「そ、そんなに謝らなくてもいいって。義ねぇも言ってたけど、源太って私たちに不必要に恭しくしすぎだってば。もっと気楽に接してくれてもいいんだよ?」

「勿体なきお言葉。しかし我が身は島津家の家臣なれば、義弘様に無礼働くものなら切腹もやむなし」

「だから堅いって……。まぁいいや。源太のことだから簡単に変わる筈ないもんねぇ」

「何やら不名誉な感じが致しまするがーー」

 

いや、ここは引くべきか。

下手に突っ込むと藪蛇となりそうだ。

やれやれと肩を竦める義弘様に言葉を紡ぐ。

 

「話を戻しまするが、俺は衆道に興味など毛頭ござらぬ」

「私が駆け付けた時は組んず解れつだったよ?」

「あれは久朗が勝手に覆い被さってきただけに御座る。俺は離れろと叫んでおり申した。義弘様も聞いておりましたでしょうに」

「ほら、万が一ってこともあるから」

「有り得ませぬ!」

 

力強く言い切る。

言葉の節々に宿る怒りは久朗に向けてのもの。

思い出してみればあの野郎、静止する俺の言葉も聞かずに覆い被さってきやがったのだ。

只でさえ俺は貧弱で、奴は強靭な身体である。

押し退けることも叶わず、泣き喚いて誰か味方がやって来るのを待つしかなかった。

しかし、だ。家人は親友と衆道に励んでいるなと勘違いしたらしく、余計な人払いを行う始末。

最早ここまでかと絶望した直後に義弘様が参上。久朗をいとも容易く払い除けてくれたのだ。

まさに九死に一生。義弘様は命の恩人である。

 

「そっか」

「はい」

 

そんな奥底の感謝も伝わったのか、義弘様は嬉しそうにはにかんだ。

義久様とも歳久様とも違う可愛さに俺の怒りも急速に萎んでいく。昔と比べて可憐になったなぁと感慨深くなる。少し前まで男の子みたいだったのになぁ。時が経つのは本当に早い。俺も十七歳になったしな。

 

「なら、さ」

「どうかなされましたか?」

「源太は男の人と、その……変なことはしないんだよね?」

「無論。他人が行うのは止めませぬが、俺個人としては行いませぬな。何があろうとも絶対に」

「それは、どうして?」

「義弘様?」

「どうして男の人と変なことしないの?」

 

どうして、と問われると反応に困るな。

男同士で仲睦まじく寝るなんてホモじゃん。

なんて言えたら楽なんだけど。

確かカトリックも同性愛を禁じてるし、何より非生産的だし、そもそも女性と寝る方が精神的な充足感も大きいし、というか絶対条件として男と寝るなんて気持ち悪くて無理です勘弁して下さい。

かと言って二十一世紀の価値観を持ち出すのも気が引ける。

だが、戦国時代は衆道が普通だ。価値観の相違と片付けるのは簡単だけど、義弘様を始めとしたこの時代の人間に通じる訳がない。

場に相応しい答えが思い付かず部屋は沈黙に包まれた。脳をフル回転させて何か口にしようとした矢先のこと、意外にも義弘様が口火を切った。

 

「好きな人がいるから、とか?」

 

頬を染めて、上目遣い。

齢十七に相応しい女らしさだった。

 

「好きな人とは、意中の相手ということでしょうか?」

「うん」

「意中の相手となると考えた事もありませぬな。今はお家の為、義久様の為にお時間を使いたく思うております故」

 

好きな女性、か。

そういえば考えたこともなかった。

十歳までは伊集院家の麒麟児と呼ばれるに相応しい行動と実績を積む必要があった。義久様の筆頭家老となってからは、三洲平定に必要な六年計画を遂行する為に東奔西走していたからな。

そもそもな話、俺と婚約する女性はお祖父様かお父様がお決めになるだろう。政略結婚と呼ばれる奴だ。二十一世紀の日本ではないのだから、恋愛結婚など夢のまた夢。考えるだけ無駄。誰かに想いを寄せるだけ時間と労力の無駄と言える。

なんか枯れてるなぁ。自覚はあるさ。

でも仕方ない。これが現実だ。既に諦めている。

 

「はぁ」

 

にも拘らず、義弘様は大きく嘆息した。

 

「源太だからそうだよねぇ」

「何やら馬鹿にされた気が致しますが……」

「参ったなぁ。義ねぇの想像通りだよ」

「義久様が何か?」

「ううん、何でもない!」

「何でもなくはないでしょうに。義久様は我が主君であられまする。あの方の身に何かありましたか?」

「これを本気で言ってるんだから凄いよね。でも仕方ないか。私の選んだ事、お父さんにはもう言ってあるしね」

「?」

 

突発性な難聴を発病した訳ではないが、義弘様の言葉がよく分からない。

何やら一人で納得しているみたいだからな。

義久様に大事なければそれで良しとするか、うん。

触らぬ神に祟りなし。

女性の独り言は無視するが吉。

前世の祖父がくれた言葉である。先達は良い言葉を残してくれた。世の真理を突いてる気がする。

 

「所で、義弘様」

「なに?」

「今の内にこれをお渡ししておきまする」

 

懐から書状を一通取り出す。

厳重に封を施してある。

俺が自ら書き記した書状だ。

 

「これは?」

「俺が予想した今後の情勢と伊東家の動き、そして日向を併呑する為に必要な策が全て記載してありまする。戦上手な義弘様に余計な気遣いかと愚考しましたが、備えあれば憂いなしという言葉を思い出しました故、もし万が一己が行動に不安がありましたらお開きくださりませ」

 

義弘様は日向へ出陣なさる。

単身ではなく、1500の兵士と共に。だが、其処に俺は含まれていない。久朗を始めとした武将を率いて、殆ど孤立無援の敵地に赴こうとしている。このぐらいの保険は掛けておくべきだろう。

戦場では何が起こるかわからない。

六年を費やした計画も絵空事に終わる可能性だって無きにしも非ず。負けたら死ぬ。だから出来る限りの準備はこなさなければならない。

それが軍師として、家臣としての務めだ。

勿論、こんな所で『猛将』島津義弘を失うわけにいかないという打算的な理由もあるけども、許してくれるとありがたい限りだ。

義弘様は書状を受け取ると、何故か何度も裏表を確認してからおもむろに口を開いた。

 

「源太、これって何時書いたの?」

「今日のお昼に書き記しました」

「今後の情勢を?」

「無論。ここまで事態が発展すれば今後の情勢など容易く読めまする。伊東家が取りそうな行動と付随して、それらに必要な策も全て記載しております」

「そ、そう……。ありがとう、源太」

「勿体なきお言葉。久朗からお救いして頂いたことも含め、重ねて感謝申し上げまする」

「いいって。源太は大袈裟よ」

 

親友の魔の手から助けてもらったんだ。土下座程度で感謝の念は尽きない。いずれちゃんとした贈り物を渡さなければ俺の気が収まらなかったりする。

 

「そろそろ港に向かうね。久朗も待ってるだろうから」

 

ふと、苦笑しながら義弘様は立ち上がった。俺も倣う。静かな通路を渡り歩きながら淡々と言葉を交わす。

 

「ご武運を。次に会う時は三洲を平定した頃かと。義弘様の武名が日ノ本全土に響き渡っている事でしょうな」

「私としては源太と義ねぇが一番大変だと思うけど。6000の敵をどうやって相手取るか、私には想像もできないもの」

「では、どう防いだか、楽しみにしておいてくだされ」

「うん、楽しみにしてる」

 

玄関を経て屋敷の前へ。

新月特有の闇夜が広がっている。一寸先も見えない暗さに眼を細める。闇に眼を慣らすと、義弘様が笑って書状をヒラヒラさせているのが見えた。

 

「じゃあ行ってくるね。これ、ありがとう」

「いえ。吉報をお待ちしておりまする」

 

港へ駆けていく義弘様の後ろ姿。

一人に思えるが、彼女は島津四姉妹の次女。次期当主の妹。間違いなく闇に紛れるようにして忍が護衛している筈だ。三太夫はこういう所でも役に立つ。島津の忍が飛躍的に増大したのも奴のお陰なんだから。

 

「色々あったが、ようやくだな」

 

下準備は終わらせた。

貴久様は肝付家を叩く為に大隅へ。

義弘様は飫肥城へ遠征。日向を征伐する。

そして、義久様と俺は薩摩へ攻め込もうとする愚か者を迎撃。完膚無きまでに殲滅する。

軍備は十二分。兵糧は十分。兵士の士気も高い。

 

「それにしても……」

 

人知れず頭を掻く。

 

 

「久朗と言い、義弘様と言い、思春期なのか?」

 

 

 

 

 



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十二章 肝付兼盛への期待

 

 

 

加久藤城は堅城である。

比高五十三メートルほどの独立した丘陵上に建築され、城の周囲が断崖となっているまさに教科書通り要害の城だ。加えて北側の鑰掛口は『鑰掛うど』と呼ばれる絶壁で、如何なる者の侵入も阻むであろう事が容易に想像できる。

北原氏が真幸院小田村の山に『久藤城』として築き徳満城の支城としたのが前身だが、史実だと永禄五年(1562年)に北原氏が滅ぶと島津家の所有となり、島津義弘により中城と新城を加えられ、それらを縄張りに加えて『加久藤城』と名を改められた。

つまり、今はまだ久藤城と呼称する方が正しかったりするのだが、此処を伊東相良連合軍を食い止める拠点とする為に急ピッチで増築している故に最終的な呼び名は史実と同じく加久藤城になるだろう。同城は現在の宮崎県えびの市加久藤にある平山城、伊東氏の史料には『覚頭城』と当て字されていたりもするお城である。

伊東氏の治める勢力圏と最前線に位置する城の一角、見晴らしの良い室内。初の籠城戦だ。虎の子と言っても過言ではないほど頼りにしている肝付兼盛殿と打ち合わせを行っていた。

 

「兼盛殿、どうやら伊東義祐は三ツ山城へ入城を果たしたようですぞ。数は約4000。伊東義祐を総大将に、伊東祐信、伊東又次郎、伊東祐青などなど。総勢十六名ほど名のある武将が参陣なさっているようですな」

 

三ツ山城とは、史実では永禄九年(1566年)に伊東義祐が、薩摩の島津氏への抑えの城とする為に、またその島津の飯野城攻撃の前線基地として、須木城主である『米良重方』に命じて作らせた城である。西方、北方、東方を石氷川が囲むように流れている。それは天然の堀となり、南方はシラス土壌による断崖絶壁で容易に登れないという、天然の要害を利用した難攻不落の城としても有名だ。

本来なら三ツ山城が完成する前に島津家と伊東家で合戦が生じる。しかし、この世界では島津家の主だった武将が討ち取られる戦は発生せず、三ツ山城は大した妨害もなく既に完成しているのだ。

だからこそ敵方の動きは読みやすい。

最前線拠点に相応しい城があるなら其処に陣を敷くのは当然と言えよう。読み通り奴らは三ツ山城に入城した。昨日未明の話である。

 

「ふむ。現時点では予定通りといったところか」

 

兼盛殿は大仰に頷いた。

大軍が迫っている危機感を感じさせない態度。未だ三十代だが歴戦の勇士を彷彿させる仕草に、俺も緊張することなく事前の準備を進めることができる。

 

「相良氏も人吉城を発ったという噂。三ツ山城へ着くのは四日後といったところでしょうか」

「彼らが此処を素通りする可能性は?」

「有り得ませぬな。伊東義祐は背後の憂いを無くすために加久藤城を無視すること適わず、相良氏は伊東義祐から救援を求められた立場。勝手な行動は取れぬでしょう」

 

建前は両者とも肝付家の救援である。

特に相良氏は伊東義祐から密書によって頼まれた間柄。つまり第三者。勝手に薩摩国へ攻め入っては伊東家の面目を潰してしまいかねない。

加え本国に義弘様もいると流言を飛ばしている。

まかり間違って攻め入っても、それはそれで用意している策を披露するだけだ。

俺からしてみればどちらでも構わない。

 

「成る程。言い得て至極よ」

 

納得がいったように頷く兼盛殿。

俺は小姓の用意した湯飲みに手をつけ、喉を潤してから頼み込むように告げた。

 

「なれば兼盛殿は今暫く手槍を扱いておいて下され。奴らは必ず加久藤城を攻めまする。数は6000以上。確実に激しい戦いになるでしょうからな」

 

加久藤城の守衛は500人弱だ。

総勢6000を超える大軍を前にしたら、如何に堅固な籠城を敷こうとも押し潰されるのは目に見えている。

大海に揺らめく木の葉に近いだろうな。

だからこそ此度の籠城戦で俺は裏方に徹する。

指揮は兼盛殿に任せ、大局的な視点による策の成就に邁進する予定なのだ。

所謂、適材適所という奴である。

勘違いして欲しくないが、俺とて好き好んで裏方に回る訳ではない。俺には籠城戦の経験が無いのだ。攻め手としてはあったものの、それも前線で指揮したとは程遠く、そもそも戦場自体が久し振りだったりする。

真田昌幸みたく籠城の達人ではないんだ。500にも及ぶ将兵を無闇に死なすなど言語道断。此処は兼盛殿にお任せするのが最善手と言えよう。

 

「無論のこと。しかし忠棟殿はひどく落ち着いておられるな。お主にとっては初の籠城戦、緊張はないのか?」

「兼盛殿のお陰でありまする」

「私の?」

「兼盛殿が落ち着いておられますからな。俺のような若輩者でも心中穏やかでいられるのですよ」

 

これから大戦が始まる前と思えぬ長閑さ。

まったりとした空気に緩みそうになる四肢。

喉を伝うお茶の美味しいこと。幸せだなぁ。

 

「お役に立てたのなら恐悦至極。お主の身に何かあっては義久様に申し訳立たぬ。せめて私の目が届く範囲では死にめさるでないぞ」

「肝に命じまする」

 

俺とてこんな所で死にたくないからな。

二年間鍛錬した槍捌きは予想以上に伸びず、もしも武将と相対すれば数合で決着が付きそうな貧弱っぷりだ。自他共に武芸の才能は底辺だと認めるしかない出来だった。

お祖父様にも愛想尽かされた気がする。

しかしだ。ポジティブに考えてみると、この二年で武芸に見切りを付けれて良かったと言えよう。

蛮勇を働かして犬死にしては元も子もないからなぁ。

 

「うむ。良い目をしておる」

「勿体なきお言葉」

「そういえば忠棟殿、飯野城に義久様を置いて良かったのだろうか?」

 

飯野城は現在の宮崎県えびの市飯野にある山城である。別名を亀城、あるいは鶴亀城とも呼ぶ。

比高五十メートルの河岸段丘上にあり、城の南方は川内川に面し、また東方と西方もその支流が流れている。故にいずれも険崖になっており、北方は押建山が壁の役割を果たす要害の城と言える。

本丸・二の丸・三の丸に加え、見張り台・桝形・弓場と呼ばれる郭が存在。此処に我が主君たる島津義久様と300の兵士を布陣させ、後詰めの役割として機能させる手筈だ。

 

「確かに伊東義祐が飯野城を攻め込む可能性は無きにしも非ず。とは言え、そうなれば当初の策を逆転させるだけに御座りまする」

「いや、そういうことではなくな」

「?」

 

ひらひらと手を振る兼盛殿。

武将として相応しい精悍な顔付きに苦笑を貼り付ける。

 

「純粋に義久様と忠棟殿が離れて良かったのかと聞いておるつもりだったのだ。お主は義久様の傍で策の成就に邁進すると思っておったのだがな」

 

どんだけ過保護に見られてるんだよ俺は。

その自覚は多分にしてあったけどさ。

少しだけ気恥ずかしくなり、俺は兼盛殿に倣うように苦笑いしつつ答えた。

 

「そういうことでしたか。これは兼盛殿に一本取られましたな」

「して、その心は?」

「失礼ながら、義久様は義弘様と比べて武勇に劣っておりまする。家臣の中には鎌田殿のように義弘様を次期当主と考える者もおられることでしょう」

 

鎌田政年を始めとした十名は牢獄に入れた。

だが、表面上は義久様を次期当主として見ている家臣の中にも少なくない疑念は有るだろう。

もしかしたら義弘様が相応しいのではないかと。

今払拭しなければ、その胸の痼りはいずれ御家騒動となって島津家に不幸をもたらすに違いない。

 

「であろうな。想像に難くない」

 

兼盛殿は鷹揚に頷く。

 

「ですが、義久様が次期当主にならなければ島津家の発展はありません。無論、義弘様が当主となられても島津家は飛躍するでしょうが、義久様と比べれば一段劣ったものとなりましょうな」

「何故、そこまで言い切れる?」

 

何故かって?

そんなこと簡単だろ。

あの方は『島津義久』だ。

史実でも島津義弘を筆頭に有能な家臣を纏め上げて、大友家と龍造寺家を破り、九州全土をほぼ掌握した稀代の英傑。

最強の引きこもりだ。

しかし誰にでも出来ることではない。

少なくとも九州で島津義久を超える総大将の器を持つ武将はいないだろう。歴史知識ではなく、実際に六年間相対した伊集院忠棟は確信している。

 

「義久様の強みは武勇でも知略でも謀略でもございませぬ。あの方は座しているだけで家を纏め上げる事のできる、まさに総大将たる器を生まれながらにして持っておりまする。義弘様、歳久様、家久様の突出した才能に嫉妬することなく、家中の動乱や他家の調略も抑え込むことのできる義久様こそ次期当主に相応しいと確信しております」

 

力強く断言する。

そもそもどうしてこんな話になったのか。

伊東義祐が三ツ山城に入ったと間諜から報告を受けたので、籠城の指揮を執る手筈の兼盛殿にお伝えしようと思っただけなんだがな。

いや、待てよ。

もしかしてーー誘導されていたのかッ?

俺がどちら側の人間なのかを見極めていた?

義弘様と義久様。

家臣たちによる後継の擁立争いが始まっていたとしたら、兼盛殿が実は義弘様を次期当主として考えていたら、俺は敵の懐でノコノコと首を差し出すような真似をしていたことになる。

何たる愚かさ。

何たる未熟さ。

せめて勘違いであってくれ。

 

「……」

「……」

 

そんな俺の懇願を嘲笑う不自然な静寂。

そよ風に揺らされる草葉の音が、鋭利な鎌を持った死神の足音にも聞こえてきた。

どっちだ?

兼盛殿はどっちなんだ?

ええい、くそっ!

俺としたことがドジ踏んだ。鎌田殿の一件で跡継ぎ争いの芽は摘んだと勘違いしていた。いつ何時でも御家騒動の種は蒔かれているというのに。

これは紛れもなく俺の失態である。

下手したら義久様にまで及ぶかもしれない。

そうなれば死んでも死にきれんぞ。

ゴクリ、と喉が鳴った。

直後ーー兼盛殿は膝を勢いよく叩いた。

これまでか!

 

 

「我が意得たり。よくぞ言った、忠棟殿!」

 

 

…………は?

 

「私はお主の事を少しばかり甘く見ていたようですな。主君に掲げる無垢の忠誠、その一端を垣間見せてもらいました。胸が熱くなりましたぞ!」

 

兼盛殿の一点攻勢。

機嫌良く、憑き物が落ちたように心からの笑みを浮かべる先達の表情に、俺は困惑を隠し切れずにいた。多少言い淀みながら言の葉を紡いでいく。

 

「か、兼盛殿。俺のような若輩者にそのような言葉遣いはお止し下され。身が小そうなりまする」

「若輩者など自身を過小に評価するのは止しなされ。この肝付兼盛、忠棟殿の打ち立てた策を拝聴した時は身が震えましたぞ。まさに神算鬼謀の策略であると」

「か、過大評価に御座る。神算鬼謀など、あの程度は此度の情勢を踏まえれば容易く読み取れること必定。俺以外にも考え付いた者はいるでしょうに」

 

肝付氏と伊東氏。伊東氏と相良氏。

二つの関係性と彼らの視点から薩摩をどう攻めるかを鑑みれば、このような情勢になることは一目瞭然である。そして島津家の取るべき選択も自ずと見えてくる。神算鬼謀など過大評価に過ぎる。

勿論、俺は歴史知識のお陰で六年前から事態を推測できた。だが、所詮はその程度だ。

黒田官兵衛、竹中半兵衛のような歴史に名を残す軍師になる為には、まだまだ経験と年季が足りていないのは自明の理である。

自惚れは慢心に繋がる。

慢心は死に直結する。

つまり簡単に表現するとこうなる。

慢心、ダメ絶対!

 

「いやいや。少なくとも私は考え付きませんでしたぞ。主君と同じく変な所で自信が無いのは似た者同士ですな。こうなれば籠城の指揮は忠棟殿に取って貰うとしましょうか」

 

にも拘らず、兼盛殿は予想外の発言をした。

してくれやがった。

義久様と似た者同士とは嬉しい限り。問題は其処でなく、何故俺がやった事もない籠城戦の指揮を執らねばならないのか!

全滅もあり得んだぞ、おいコラッ!

 

「えっ?」

「うむうむ。それが宜しい」

 

あぁん!?

話聞けよ話を。

何も宜しくねぇよ!

 

「兼盛殿が適任です!」

「大局を知る者が敏腕を振るった方が策も成功させやすいでしょう。ご安心召されよ。私もお手伝い致す所存。なんなら今からでも城の見取り図を持ってきましょう」

 

めっちゃ良い笑顔。

何これ。もしかして兼盛殿、寝返ったとか?

初心者に指揮取らせて落城させようとしてる?

有り得ない。有り得ないが予想外の展開だ。

うわっ、頭がクラクラしてきた。

 

「え、あ、うーーっ」

 

言語を司る部分も正常に働かない。

音の羅列は意味を成さず、赤ん坊のように呻くばかりだ。恥ずかしい限りだがテンパってます。

唐突に両肩にのしかかった500名の未来。

どうする?

どうすればいい?

断るか。断ってしまえ。

俺には無理ですと。

戦に不測の事態は付き物だ。

初陣でも油断したところを矢で射られた。計算外の出来事だった。なら今回もそうなる。この一戦は島津家の興廃に繋がる。俺なんかで大丈夫なのか。大丈夫な訳がない。兼盛殿に託した方が間違いない。適任者に任せれば大丈夫だ。

なのに。

なのに!

なのに!!

 

 

「いかが、致す?」

 

 

試すような兼盛殿の視線。

元々、俺は負けず嫌いなんだ。

軍師としてあるために悔しさも殺していただけ。

だからなのか。

俺は兼盛殿の催促に『頷いて』しまった。

 

 

「……わかりました」

 

 

取り消すなら今のうちだ。

訂正するなら早い方が良い。

だがーー。

早鐘を打つ心臓も、急速に回転し始める脳も、最早俺の指揮権を離れて埒外な行動を取る。勝手に己自身に対する最後通告を口にした。

 

「承知しました!」

 

たった500人の命を背負うだけでこの有様。

策を練ることは出来ても、裏方に徹することは出来ても、将兵の命を直接背負うのはここまで勇気がいることなのだと初めて知った。

もう後戻りは出来ない。

兼盛殿に補佐を頼むとしても、直接的に指揮を執るのは俺だ。顔が青ざめているとわかる。声が震えているのがわかる。

でも、いずれ越えるべき壁なら今、登ってやる。

俺は伊集院忠棟。

伊集院家の麒麟児なんだからな。

伊東家、相良家、なんぼのもんじゃい!

鎧袖一触にしてくれようぞ!

 

「ほう。これはこれは」

 

こうなったら最善の準備だ。

油断しない。手加減しない。容赦しない。

戦争の基本を思い出す。

歴史知識を引っ張り出す。

覚悟を決めた俺の口は勝手に言葉を発した。

 

「城の見取り図をお頼み申す。改築している部分も含めて。また、現地に詳しく、裏切らないと思われる農民も数人連れて来てください。金子は弾むと伝えれば大丈夫でしょうな。それから鉄砲隊の隊長もお呼びください。虎の子の鉄砲隊を何処に置くか、彼とも入念に打ち合わせせねばなりますまい。此方の兵士は500弱。持ち堪える日にちは最低十日。兵糧は問題無し。水も十二分に蓄えてある。武器弾薬も持てるだけ持ってきた。問題なのは流す飛語か。如何に奴らを釘付けできるかに限る。ふざけた文も届けるとするか。具体的には昌幸が秀忠にしたみたいにしてーー」

 

そして兼盛殿に矢継ぎ早に指示を出していく。

 

「成る程、な」

「兼盛殿、お早く!」

 

驚いた様子で動こうとしない兼盛殿を急かすと、何やらほくそ笑んで退室した。小姓を使うにしろ何にしろ、早めに動いてくれれば何も言うことはない。

思考に埋没する俺は、部屋の外で呟く兼盛殿の独り言を聞くことは終ぞ無かった。

 

 

「これが父上の仰っておられた島津の今士元か。打てる手は全て打つ。千の備えを用意する。誰でも出来ることではない。見えてきたな、三洲平定」

 

 

 



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十三章 島津義久への連絡

 

 

島津義久率いる300の兵士が飯野城に布陣してから早くも一週間が経つ。

眼下に収まるは日向国真幸院(現えびの市加久藤カルデラ盆地)は七百五十町、およそ一万石をも越える穀倉地帯である。そして交通の要所としても知られる重要地点。真幸院を完全に島津家の物に出来れば後々の合戦も有利に運ぶ事が可能だ。

だからこそ、長年様々な勢力がこの地を巡って相争ってきた。今回もその一端に過ぎない。

三洲一の美女と誉れ高い島津義久は、城の中でも見晴らしの良い一角に佇んでいた。

遠目に映る加久藤城を見つめて物思いに耽る。

考えることは合戦のこと。

何処に伊東家と相良家の間諜が紛れ込んでいるかわからない。軍議を開くにしても、加久藤城にて戦端が開かれてからでも遅くないだろう。

第一段階が終われば後は怒涛の勢い。

忠棟から教わらずとも理解できる。

だが、先ずは加久藤城が持ち堪えなければーー。

三洲平定は絵に描いた餅となってしまう。

時間にして酉の刻(午後6時)。

島津家次期当主は、赤銅色に燃える夕焼けに照らされながら口を開いた。

 

「あらあら〜、貴方は確か源太くんの忍さんじゃなかったかしら?」

「こいつはどうもー。大旦那の主君に覚えていてもらえて光栄っス。百地三太夫っス。これからもお見知りおき宜しく頼みまっス」

 

音もなく現れる銀髪の青年。

闇に紛れて生きることを主とする忍は、武士と異なる軽装を好むと聞く。表情に貼り付けた軽薄そうな笑みは心情を悟られないようにするためか。

名家の姫に対する口調としては最低の部類だと言えよう。

だが、義久は青年を咎めたりしなかった。

合戦間際の緊張感すら容易く押し沈めてみせた義久は、心優しい姫のまま合点がいったように微笑んだ。

 

「そうそう。三太夫くんだったわね。書状の件は助かったわ〜」

 

一ヶ月前の話に遡る。

御家騒動に発展しそうな書状を手に入れた三太夫だったが、その内容からしてみても忠棟に渡すかどうか数分間逡巡してしまい、怪しすぎる忍の行動に偶然通りかかった義久が問い質した結果、過日の一件に繋がってしまった。

主君に手間を取らせてしまった忠棟からしてみれば痛恨の一打。

家臣に余計な心配事をさせたくない義久からしてみれば会心の一手。

互いを思いやる主従の、だからこそ見事なまでの擦れ違いであった。

 

「あはははー、どういたしましてー。いやぁ和むねぇ、義女将さんは。大旦那が忠誠を誓うのもわかる気がするよー」

「そうかしら?」

「そうっスよ。殺伐とした伊東軍に潜入しているオレからしてみたら、まるで裸で森林浴しているみたいだね。ホント癒されるわー」

 

現在、三太夫は多数の忍を率いて敵軍の一兵卒として潜伏している。

任務内容は以下の通り。

忠棟の指示した噂を連合軍内部で広める。加久藤城と飯野城を繋ぐ連絡役。最新の情報を掻き集めて報告する。いずれも大役だ。直接的な戦闘に参加せずとも、正確無比な情報を入手するだけで合戦に勝てるのだと、情報を制す者が戦を制すのだと三太夫と忠棟は知っているからだ。

 

「人生に潤いは大事よ〜」

「それには同意かなーって、いけねいけねぇ。大旦那からの知らせが有ったんだった。人払いは出来てますよね?」

 

三太夫は床下、天井、柱、隙間に視線を遣る。

気配は感じられない。義久に話し掛ける前に潜んでいる輩がいないか調べたりもした。だが、万が一の可能性が存在するなら用心しなくてはならない。

床に耳あり障子に目あり。

もしも敵方の間諜に聞かれたら策はご破算なのだから。

 

「ええ、勿論よ」

「そりゃ重畳。準備が早いっスね」

「そろそろ来るかな〜って思ってたから。源太くんの事だから事前準備は事欠かないだろうし。いつも情報が大事って言ってたし。うふふ、予想が外れなくて良かったわ〜」

「おお、麗しき主従愛かな!」

「主従愛、とは少し違うかしらね〜」

「いきなり惚気られても困るっスよ。って、義女将さんと話すと毎回こうだ。本題に入ってもいい感じっスか?」

 

瞬間、百地三太夫の眼が本気に変わる。

先程までのふざけた様子は垣間見れず、激変した雰囲気は室内の空気まで張り詰めた物へ変えてしまった。

義久も一度目を閉じた。

公私の分別。切り替えなど出来て当然。

一秒も経たずに開目した義久は静かに首肯した。

 

「どうぞ。動きが有ったのかしら?」

「つい先刻、伊東相良連合軍が三ツ山城を出陣したっス。数は目測で6000弱。行き先は加久藤城。大旦那の予想通りでしたね。まぁ飯野城が標的にならないように動いてたんですけど」

「わたしが加久藤城に布陣している。そんな流言飛語のお陰なのかしら?」

 

前以て、多数の間諜によって島津義久は加久藤城に布陣していると噂を流しておいた。

地理的にしても、兵士の数にしても、信憑性のある噂な為に伊東義祐は疑念の余地を挟むことなく信じたらしい。加久藤城へ出陣している点から鑑みても、彼らの第一目標から飯野城が除外されたことは事情を知らぬ童からしてもわかることだ。

飯野城に兵を向けられても対処の仕様はある。

だが、飯野城は加久藤城と比べると低位段丘は標高が低い。防備には不利。伊東相良連合軍が一気に飯野城を攻めれば、城外で策の成功に邁進している家臣たちに動揺が走ってしまう。

故に、最善は加久藤城に敵の目を釘付けにすることだった。

 

「加えてもう一つ。大旦那は伊東義祐に手紙を出したんスよ。時間を稼ぐためにもね。オレの部下が直接渡したんだけど肝が冷えたって震えてましたよ」

「どんな手紙?」

「えーっと」

 

三太夫は四日前の事を反芻した。

加久藤城に陣取る伊集院忠棟は、時間を先延ばしにする為に三ツ山城に布陣する伊東義祐に対して降伏と寝返りを伺わせる使者を送った。

伊東義祐が了承すると、忠棟は城を開け渡す準備をしているので二日間の猶予がほしいと返答。

一兵も欠けずに薩摩国へ攻め入る事が出来ると、伊東義祐と相良義陽は大層機嫌が良かった。

しかし、二日経っても城の明け渡しが行なわれない為、義祐が再度使者を送ろうとした矢先、忠棟から手紙が届く。そこには、二日間の猶予をもらったおかげで戦の準備が万全に整った。いつでも攻めてこられるがいいと掌を返す内容が書き記されていた。

当然ながら義祐は大激怒。手に持っていた扇子を叩き割るだけに飽き足らず、怒りに任せて太刀を抜き、目の前に控えていた旗本の旗指物の竿を斬った。そればかりか、怒りを鎮めようと諫止する伊東祐青に対して、黙れと声を荒げて足蹴りにしたのである。

義祐の荒れ狂う感情は二刻続いたと言う。

 

「まぁ。忍さん、大丈夫だったのかしら?」

 

当時の様子を聞き、口元に手を当てる義久。

語り終えた三太夫は肩を竦めて答えた。

 

「無事に五体満足っス。でも危ない橋を渡ったお陰もあって、伊東義祐は怒髪天を突く勢いで加久藤城に軍勢を向けてます。飯食う時間もありゃしない。腹が減っては戦は出来ぬっていうのに」

「お疲れ様。金子を弾ませるから頑張って〜」

「やったー、助かるーッ。義女将さんの言葉だけで救われますよ!」

 

何しろ三太夫はタダ働きに等しい。

鎌田政年の一件で忠棟の導火線に火を付けてしまったらしく、この合戦で幾ら働こうとも報酬金はない。一週間前に新たな財布を落とした彼からしてみれば義久の言葉は救いの神に等しいものだった。

 

「でも変ね〜。源太くんの策に手紙の事なんて無かったのに。突然どうしたのかしら〜?」

 

義久は予想外な計略に小首を傾げる。

最初の策に流言飛語は含まれていたが、手紙の件はなかった。加久藤城の指揮は肝付兼盛に一任している為、未だ発言力の低い忠棟の献策が軍議を通ると思えない。

答えを求めている質問ではなかったが、様々な情報を一手に集められる三太夫は至極当然のように返答した。

 

「大旦那が籠城戦の指揮を直接執る事になったからっスよ」

「え……。源太くんが?」

「はい」

「でも、源太くんは兼盛に任せるって言ってたわよ。籠城戦を経験したことのない自分には荷が重いから兼盛に采配を持たせて、裏方に徹するつもりだって」

 

籠城戦は最も難しいとされる合戦だ。

城を政治的・軍事的に孤立させられる上に、城内と外部の支援勢力との連絡を絶たれてしまう。籠城する側は、城の周辺の土地から兵糧など必要な物資を城に取り込み長期戦に備えるとともに、攻め方にそれらの物資を利用されることを防がなければならない。また周辺の住民らも攻め方に徴用されることを防ぐために城に入らせたり、そうでない場合は城外に残った住民が攻め方に協力しないように人質を取る場合もある。

これらを踏まえ、更に兵糧攻めや水攻め、敵の調略や昼夜惜しまぬ力攻めに耐え忍ばなければならないのだから。

経験無き忠棟に采配を持たせて無事に済むのだろうか。

 

「義女将さん、大旦那っスよ?」

 

心配事が顔に出ていたのか、三太夫は苦笑した。

 

「?」

「土壇場で自分の策を変えるなんて、そんなの義女将さんの事を考えたからに決まってるじゃないっスか」

「わたしの、為?」

「初めてだからって尻込みしてたら何も始まらない。経験してこそ得るものはある。敬愛する主君の為にも、大旦那は少しでも多くの事柄を吸収しようと必死なんだと思いますね、オレは」

 

夕陽が沈もうとしている。

加久藤城に焚かれた炎が煌々と薄暗い夜の帳を照らし始めた。

伊集院忠棟は恐らく今も走り回っているだろう。

出来うる限りの準備を施して、可能な限りの不具合を消して、万全の体制で大軍を迎え撃つ為に。初の籠城戦で采配を振るう。その緊張は忠棟の心身を極限まで蝕むに違いないというのに。

義久は悔しそうに奥歯を噛み締めた。

 

「でもね、三太夫くん。わたしは、源太くんに無理して欲しくないの。有能なのはわかっていても一人で出来ることは多くないから」

 

もっと頼ってほしいのだ。

島津義弘のような武勇が無いことも、島津歳久のような知略が無いことも、島津家久のような判断力が無いことも全て承知していながら、島津義久は忠棟にもっと頼られたかった。

彼の両肩にのしかかる重みを少しでも軽くしてあげたかった。

 

「オレの考えとしちゃ、義女将さんは大旦那を労ったりするだけで良いんじゃないかなー。それだけであの人は大分元気になると思うし」

「そうかしら?」

「きっとそうっスよ。男なんて単純っス。義女将さんみたいな美人に頭撫で撫でされたら、大旦那なんて顔真っ赤にすること請け負いですよ」

「あらあら〜。それは見てみたいわね〜」

「その時は是非オレも呼んでください。大旦那があたふたしてる所なんて滅多に見れないっスからね」

 

確かに、と義久も内心頷いた。

忠棟が狼狽した様子は一度しか見ていない。

そう、あれは、義久と忠棟が初めて会った日の事だった。

 

「そうね〜。……ねぇ、三太夫くん。喫緊の報告はそれだけなのかしら?」

「うわぁっ。完全に忘れてた。危ねぇ、大旦那から滅茶苦茶怒られるところだった。大目玉間違いなしだったよ、ふぅ」

「あらあら、大変ねぇ」

 

そうなんです。大変なんです。

疲れたようにため息を溢す三太夫だが、元は伊賀の誇る上忍。三日三晩寝なくても欠伸一つしない身体と精神を兼ね備える凄腕の忍である。

記憶力も抜群だからこそ涼しい顔で口にする。

 

「大旦那から連絡っス。一言一句違わず報告するぜー」

「拝聴させてもらうわ〜」

「義久様に置かれましては、加久藤城の籠城戦に対して飯野城を慌ただしくさせて下され。伊東義祐には加久藤城に義久様がおると誤認させております故。それ以降は事前に話した策に変化ありませぬ。但し、近日中にお渡しする物が出来る所存です。物の取り扱いについては義久様に一任致しまする」

「委細、承ったわ」

 

忠棟からの連絡。

それは紛れもなく義久の名声を高める為のもの。

加久藤城の守備は建前上は義久が行う事で上手くいけば戦上手の名声を得る。そして、飯野城を牽制する為に妙見原に布陣した一軍と相対して経験を積むのも島津義久本人のものとなる。

加えて策による武名も得られれば、義久が次期当主になるのを不満に思う輩は殆どいなくなるだろう。

近日中にお渡しする物は何かわからないが、取り扱いについて一任するという事は、それも来たるべき軍議にて義久が献策することで武勲を立てる事に繋がる訳だ。

島津義久と同じ結論に達したらしく、三太夫も遣る瀬無さそうに後ろ髪を掻いた。呆れ顔である。

 

「全く。大旦那には参りますよね」

「そうね〜。こうやって一方的に気遣われるのは心苦しい限りだわ。わたし、そんなに頼りなく見えるのかしら〜?」

「逆っスよ、逆」

「どういうこと〜?」

「頼りにしてるから色々と頼むんスよ。今回の策だって重要なのは義女将さんですからね。多分、義女将さんのことを一番信じているのは大旦那だとオレは思います」

「そうだと、嬉しいわね」

「あくまでもオレの見解っスけどね」

 

じゃあ、オレはそろそろ戻りますわ。

伊東相良連合軍が出陣した事。肝付兼盛に代わって伊集院忠棟が加久藤城の采配を執る事。策に少しばかり変更が生じた事。

伝えるべき三つの事柄を口にした三太夫は足早に立ち去ろうとする。事実、時間が勿体無いのだろう。彼にはまだまだ仕事が残っているのだから。

それでも義久には三太夫に頼まなければならないことがあった。

 

「三太夫くん、どっちに戻るのかしら?」

「伊東軍の方っスよ。大旦那からもわざわざ戻ってこなくても良い、早めに伊東軍へ戻って任務をこなせって厳命されてますから」

「主君筋の命令でも、源太くんの元にいけないのかしら?」

「義女将さんの命なら仕方ないっスけど……」

「あら、良かった。源太くんに伝えて欲しいの。頑張れって。怪我しないでねって。どうかお願いできる?」

 

最初は命令だと威圧的にしておきながら、最終的にお願いだと下手に来た。こういう所は似たり寄ったりだと内心首を横に振りつつ、三太夫は満面の笑みを携えたまま義久の懇願を受け入れた。

 

「そういう事なら委細承知。軽〜く加久藤城に侵入してきますよ。ではでは義女将さん。好機を逃したらダメっすからね?」

「これでも弘ちゃんのお姉さんよ〜」

「そりゃ確かに。余計な心配でしたね」

「三太夫くんも頑張って。死なないでね」

「勿体ないお言葉。大旦那曰く、オレは煮ても焼いても死ななそうなんで大丈夫っスよ。では!」

 

音もなく退室する三太夫。

まさに一陣の風の如く、まるで幻影だったような早業に義久は軽く目を見開き、そして何かを思い出したように敷いている布団に身を投げ出した。

年頃のお姫様が行うに相応しくない格好、即ち着物を着たまま仰向けに横たわる義久は枕に顔を埋める。

思い出すのは三太夫の言葉。

客観的な視点による、忠棟から義久への感情と評価。それは甘い蜜となって三洲一の美女を蕩けさせる。

敬愛する主君。

信じている。

頼りにされている。

 

「うぅぅううう!」

 

紅潮した頬を隠す為に強く枕に顔を押し付ける。

爆発した歓喜の感情を持て余して、両足をバタバタさせてしまう。

そこに居るのは島津家の次期当主でも、将来九州全土を支配下に治める総大将でもなく、たった一人の男を憂い想う年頃の女性だった。

 



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十四章 伊集院忠棟の籠城

 

七月十日、明朝。

加久藤城一帯は騒然となった。

6000という大軍で包囲を固める伊東相良連合軍と相対すること早くも六日。俺からしてみたら順調に推移している戦局である。

だが、どうやら敵方は焦りを感じ始めたらしい。

相良勢2000の兵士が鯨波の声を上げて大手門に攻め寄せて来た。まさしく我攻め。多少の犠牲も厭わず、数に任せて踏み潰そうという算段であろう。

 

「忠棟殿の申された通り、どうやら相良勢が痺れを切らしたようでありますな」

 

俺は物見櫓から敵の動きを観察していた。

背後から話し掛けてきた肝付兼盛殿は甲冑に身を包んだ姿だ。

元々の精悍な顔付きも重なって格好いいの一言。

こういう渋い中年男性って憧れるよな。

じゃなくてーー。

歴戦の武士らしく、この状況でも顔色一つ変えていないのは流石である、うん。

大気すら震わす鯨波の声を受け止めている。

相変わらず心臓に毛でも生えてそうな人だな。

 

「この六日間は今日の為に有ったような物ですから。相良勢には是非とも奮戦してもらわねばなりますまい」

 

籠城戦を開始してから六日が経過した。

史実の上田合戦にて、真田昌幸が徳川秀忠に行った対処を模倣した策は上手くいき、伊東義祐の眼を加久藤城に釘付けにさせることに成功する。

加え、怒り心頭の伊東義祐は加久藤城が寡兵だと侮り、何も策を講じることなく我攻めを選んだ。

初日は籠城戦に慣れる為にも、兼盛殿に助けてもらいながらひたすら防衛に徹した。

効果的な銃撃を行うタイミング。

疲弊した兵士を休ませる時間と場所。

押して引いて敵方の流れを狂わす手法など。

経験しなければ身に付かない様々な事柄を学んだ俺は、三日目に今後の事も鑑みて反撃を行った。

元々こうなる事を兼盛殿と予見していた為、有川貞実に100の兵士を与えて、城外に潜ませていたのである。

その有川隊が伊東勢に襲い掛かったのは、朝靄の立ち込める早朝だった。

わざと大きな鯨波の声を上げたと同時に鉄砲を撃ちかける。と言っても、これは攻撃ではない。あくまでも伊東勢の注意を集め、城に引き付けるのが目的だったからだ。

その証拠に、伊東勢が反撃に転じようとすると、すぐさま加久藤城に向かって後進を開始した。見事なまでの逃げ足であった。よく釣られてくれたと今でも不思議に思う。

ともかく、これに対して伊東勢は有川隊が囮であると知らずに追撃に移った。岩剣城で俺が狙ったような『付け込み』と呼ばれる戦法を狙ったんだろう。

だが、甘いな。

その辺は知識だけでなく、既に経験済みである。

当時も物見櫓から戦況を眺めていた俺は狼煙を上げさせるように下知し、有川隊が大手門に繋がる唯一の道から散開したのを確かめ、そして大きく采配を振るった。

有川隊の代わりに現れたのは岩石。身の丈を悠に超そうかという巨石が十数個。驚いた伊東勢を躱す暇も与えずに勢いよく吹き飛ばし、次々と礫死させた巨石は彼らの隊伍すら大きく乱した。

それを見逃す俺ではない。

出撃と号令一下、大手門を解放。

散り散りとなる伊東勢に対し、200の兵を投入する。有川隊と合流して、合計300の島津兵が逆落としに襲撃したのである。

瞬く間に100余の伊東兵が討たれた。

此方の死者は数名足らず。

一度の戦果としては充分過ぎる程だった。

更に俺と兼盛殿が狙ったのは二つ。

罠を警戒して敵方の攻勢が弛む事。そして、伊東勢だけを攻撃することで相良勢と疑心暗鬼に陥らせる事。たった二つ。だが、効率的に勝つためなら、完全勝利を目指すならこれが最上だからな。

結果として上手くいった。

思わぬ反撃を食らった連合軍は体制を立て直す為か、二日間も遠巻きに加久藤城を包囲するだけに終わった挙句、忍を使った相良氏寝返りの噂も効果を発揮しているようで足並みも崩れつつある。

だが、勝って兜の緒を締めよ、だ。

本番はこれから。

相良勢だけが攻め寄せてくる様を改めて眺める。心の内でほくそ笑む。

そうだ、攻め込んでこい。

俺には古今東西、その殆どの戦争知識がある。

如何様にも料理してやる。

そんな俺の内心を読み取ったのか、兼盛殿は肩を竦めながら苦笑いした。

 

「これはこれは。忠棟殿も成長なされましたな」

「兼盛殿のお陰かと」

「何のこれしき。島津家の次代を担う麒麟児を育てる為なら。義久様もお喜びになるでしょうな」

「兼盛殿の申される事よ」

 

此度の籠城戦の指揮は義久様が執っている、とは対外的な話だ。しかし、実際に加久藤城で共に戦う武将たちは俺が全体指揮を行っていると知っている。

だからなのか。

ーー最近、軍議でも献策しやすい。マジ助かる。

特に三日目の武功が効いているようで、今回の作戦も手直しを二度行うだけで全員の了承を得られた程だ。一目置かれている兼盛殿の賛同もあるからだろうけど、一週間前と比べてみたらまさに雲泥の差である。

俺の事を毛嫌いしていた有川殿も、昨日は酒を勧めてきたぐらいだ。伊集院家の麒麟児殿は逞しくなられたなぁと肩を抱いてきた時は、親友のトラウマからか背筋に冷や汗が流れたけども。

何にしろ有り難い事ですよ、本当に。

 

「冗談はこのぐらいにして。如何なさるおつもりですかな、忠棟殿。大手門を開け、相良勢を二の丸まで誘き寄せる手筈ですが」

「無論、相良勢と伊東勢を疑心暗鬼に陥らせる。その策略に変わりありませぬ。しかし、ここまで上手く事が運ぶのは些か不自然。好事魔多しとも言いますからな」

 

相良勢の士気の高さも不可解だ。

仲間内で疑心暗鬼に陥れば、例え同士討ちが始まらずとも士気は低下する。

如何に武将が声を張り上げて叱咤しても、戦友たちの口にする噂話は脳裏にこびり付いて離れないだろうからな。

一度疑ってしまえば簡単には払拭できない。

にも拘らず、鯨波の声を上げる相良勢は血気盛んだ。まるで奮戦すれば疑いは晴れるかのようで。

 

「敵も策を用意してきたとお考えで?」

「伊東義祐も莫迦ではありますまい。この六日間で頭も冷えた事でしょう。何か策を用意してくると考えるが必然。俺の考えでは、おそらくーー」

 

あり得なくは無い。

伊東義祐の考えた策が成功すれば、寡兵な加久藤城は瞬く間に陥落する。

勿論、その事に関して事前に対処しておいた。

だが、もしも敵方の覚悟が予想よりも強ければ。

このままだと奴らの侵入を許す事になる。

むざむざ負け戦にしてしまうなど冗談ではない。

 

「おそらく?」

「兼盛殿。貴殿は、城の裏手にて待機していただきたい」

「城の裏手、で御座りまするか?」

「如何にも。旗指物を隠し、物音一つ立てぬように待機されたし。了承して頂けるだろうか?」

 

一点を見つめたまま言い放つ俺に対し、兼盛殿は小首を傾げた。

無理もない。

加久藤城に通じる道は、大手門に通じるそれを除けば全て俺が塞いでしまっている。つまり城の裏手には急峻な崖があるだけ。およそ敵の軍勢が押し寄せてくるとは考えられないからだ。

だが、俺は下知を改める事はない。

兼盛殿に150の兵を預ける。

つまり大手門に割ける兵力を減らしたという事。

常識的に考えれば先ず承諾されないだろう。

しかし、俺の自信に満ち溢れた表情から勝機を見出したのか、肝付兼盛殿は手槍を扱きながら鷹揚に頷いてみせた。

 

「ふむ。忠棟殿に策ありと見た。なれば城の裏手に回る事にしましょう。大手門の方は誰が?」

「無論、俺が任されましょう」

 

即答する。

大手門は基本的に防衛だ。

少しばかり策を用いるつもりだが、兼盛殿に比べれば簡単な仕事である。

有川殿もおられる事だしな。

 

「良い顔付きですぞ。では、また後ほど」

「ご武運を」

 

手兵を従えて城の裏手に回る兼盛殿。

俺も気合を入れ直して戦局を注視するのだった。

 

 

 

◼︎

 

 

 

加久藤城の裏手から押し寄せた伊東勢の数は1000。これを指揮するのは伊東祐青であった。

今頃は相良勢が大手門に殺到している事だろう。

つまり城兵の注意は大手門付近に集中しているという事だ。妄りに物音を立てては気取られる。

だが城の裏手は断崖絶壁。草摺が擦れあって無用な音が発生する危険性が高い。故に、伊東祐青隊は重厚な甲冑も着けず、胴丸に鉢巻を着けただけの軽装となり、木々に括った縄を伝って登った。

急峻な斜面に加え、鬱蒼と生い茂る木々に邪魔されて思うように進めずとも、半刻で城壁が視界に飛び込む位置にまで進出したのである。

 

「よし。城兵の注意は見事に大手門へ集中しておるようだ。一兵の気配も感じられぬ。一気に突破してくれようぞ」

 

伊東祐青は隊伍を整えた。

勝ちを確信した伊東祐青は、この策を思い付いた伊東義祐を流石だと内心で褒め称える。戦も知らぬ若輩者に思わぬ辛酸を舐めさせられてしまったが、島津義久の籠城戦もこれでお終いであろう。

 

「かかれ」

 

伊東祐青の下知に呼応し、1000の兵は一斉に鉤の付いた縄を城壁に向かって投じた。そして、それを伝って一気に城壁を乗り越えたのである。

しかしーー。

彼らを待っていたのは剣山のように備え付けられていた無数の竹槍だった。

城壁の先にそのような罠があると知りようがない兵は次々と壁を飛び越え、その度に命を散らしていった。数十名の死体が重なったところで、ようやく伊東祐青は剣山の罠があると気づいた。

だが、悲劇は始まったばかり。

まだ序の口である。

慌てて戻ろうとする伊東兵に対し、それまで息を殺していた肝付兼盛率いる鉄砲隊が突如として出現。一切の容赦なく射撃を加えてきたのである。

数にして20程度だが、甲冑を着ていない丸裸同然の伊東兵にしてみれば、その銃撃は数百にも感じられただろう。

無論、伊東兵も棒立ちしていた訳ではない。

縄を伝って斜面を引き返そうとする者。木立の影に身を潜める者。銃撃音に反応して腰を低くする者。それぞれの仕方で銃弾を喰らわないようにするが、そんな彼らに対しても肝付兼盛は容赦しなかった。

火矢が放たれたのである。

此方も手配りの良いことに、多くの木々に油が塗り込められていた。つまり、油に引火した火は瞬く間に燃え広がるということだ。

大火に伊東祐青隊を呑み込まれ、全滅に近い損害を受けたことは言うまでもあるまい。

 

「おのれぇ、島津義久めがぁ!」

 

命からがら逃げ延びた伊東祐青の歯軋りが一帯に響き渡る。だが、彼の憤怒は収まらなかった。

大手門を攻めていた相良勢がほうほうの態で引き揚げてきたのだ。見るからに負け戦。自らの不甲斐なさと相良勢の使えなさに怒号を発し、伊東祐青は主君の元へ再突撃の許可を求めに走るのだった。

 

 

◼︎

 

 

軍議の間は凍り付いている。

三日前の惨敗が尾を引きずっていた。

既に全体の死傷者は1000人を超えた。死者は300人程だが、重傷者が数多く、このまま薩摩討伐へ連れて行けるような状態では無かった。

何故こうなった。

軍議に参加する者は首を垂らす。

初日はまだ良かった。島津義久、未だ家督も継いでいないお姫様が奮戦してるなと高笑いしていたものだ。

二日目も同じ。少し焦りを覚えたぐらいか。

だが三日目は違う。伏兵による襲撃、付け込みを予測していたような巨石の反撃、そして間髪入れずに逆落としによる追撃。手慣れた戦運びだ。

四日目、五日目は軍議に時間を費やした。

そして六日目の惨敗。裏手から城内へ忍び込もうとした伊東祐青隊はほぼ全滅。そして、大手門に攻め寄せた相良勢は策に嵌められて大敗した。

それから何度か我攻めを行うが、統一の取れた城兵による籠城は堅固である。闇雲に被害を増やすだけで事態は一向に好転しなかった。

さりとて、わかった事もある。

島津義久は自ら攻め込んでこない。

やはり本国から援軍が来るのを待っているのだろう。その判断は正しい。伊東義祐とてそうする。

だからーー。

 

「黙っていても始まらんな。誰ぞ、加久藤城を落とす策を思い付いた者はおらぬのか?」

 

これ以上は時間の無駄だと伊東義祐は口火を切った。同時に献策したい者が現れるのを待つが、誰も策を披露しようとしない有様。溜息が溢れた。

 

「この三日目で何も思い付かなかったのか、お主らは!」

 

怒りに任せて吼える。

策を披露しない事に怒ったのではなく、誰も彼もが知らぬ振りを決め込む事に腹が立った。

そんな主君の心情を知ってか知らずか、家臣の一人が口を開いた。

 

「殿、我攻めを行えば無闇に被害を増やすだけに御座りまする。ここは兵糧攻めに切り替え、城兵を飢えさせればよろしいかと愚考致しまする」

「ならぬ。奴らは500の寡兵ぞ。6000の軍勢をもってして兵糧攻めとは。末代までの恥晒しじゃ!」

 

孫氏の兵法にもこうある。

『十なれば即ちこれを囲み、五なれば即ちこれを攻め、倍なれば即ちこれを分かち、敵すれば即ちよく闘い、少なければ即ちこれを逃れ、しかざれば即ちこれを避く。故に、小敵の堅は大敵の檎なり』と。

兵力は十倍以上。加久藤城は包囲した。

後は四方八方から攻めるだけで陥落する筈だ。

しかし、島津義久が施した事前の準備と巧みな采配のせいで上手く事が運ばない。

それでも兵糧攻めに移行すれば戦下手の侮蔑を免れないだろう。日向の国人衆も離れていく危険性がある。此処は是が非でも短期で落とさなければならない。

 

「しかしーー」

 

食い下がる家臣に、伊東義祐は畳み掛ける。

 

「それに、よ。近くの農民に聞いた所、島津義久は籠城が始まる前に大量の米を運び込んだらしいからのう。兵糧攻めは時間が掛かる。下手すれば島津貴久の本隊が救援に駆け付けるやもしれぬ」

 

此処で伊東祐青が口上を述べた。

 

「ここは我攻め一択でありましょう。殿が仰られたように加久藤城は寡兵でありまする。6000の兵が集中的に攻めれば一昼夜で攻め落とすことができましょうぞ!」

「待たれよ。それでは余りにも被害が大きくなり過ぎるではないか」

「では、相良殿。貴殿は兵糧攻めに賛成だと?」

「兵糧攻めは消極策。なれど策もなしに我攻めを行えば此方の被害甚大。薩摩を攻める兵すら失いかねん」

「お言葉ながら相良殿。三日目の戦闘でも相良勢の死傷者は少なかったでありませぬか。我々の半数以下とか。にも拘らず、ここまで消極的とは、もしや噂の通りに島津と内通しておられるのですか?」

 

連合軍全体に広がる『とある噂』。

それは相良義陽が島津と手を組んでいるというものだ。最初は根も葉もない噂だと笑って断じられていたが、狙ったかのように死傷者の少ない様を見せ付けられれば信憑性は格段に増してくる。

その噂を払拭する為に相良義陽は被害を無視して大手門に攻め込んだが、簡略化された空城計に引っかかってしまい、それでも予想より少ない死傷者数で済んでしまったのがまさに致命的だった。

それでも名誉を汚された事に変わりない。

相良義陽は立ち上がり怒鳴った。

 

「無礼であるぞ、伊東祐青!」

「火のない所に煙は立ちますまい。冤罪だと仰られるのなら、再び相良勢は大手門に殺到するがよろしかろう。無論、某もお供致しまするぞ?」

「くっ」

 

裏切ってなどいない。

島津家と手を組んでなどいない。

だがそれを証明する手立てがない。

歯痒い気持ちから顔を顰める相良義陽に、成り行きを見守っていた伊東義祐が助け舟を出した。

 

「祐青の言葉、無礼なれど尤もである。相良殿、ここは在らぬ噂を払拭するが賢明かと思うが」

「義祐殿まで……」

「さぁ、返答や如何に?」

 

返答を求める伊東祐青。

決断を迫られた相良義陽はーー。

 

「儂は……」

 

結局、返事を告げる事は出来なかった。

何故か。それは想像よりも早く判明した。

 

「敵襲っ!」

 

悲鳴にも似た声が物見櫓から轟いた。

数秒遅れて断末魔の悲鳴が闇夜に響き渡る。

何事かと軍議に参加していた面々は散らばって目を凝らす。確かに敵襲だった。総数はわからないものの、騎馬隊を中心にして遮二無二に連合軍本陣へ斬り込んでくる。

闇に紛れて押し寄せてくる一団の正体を知るには些かの時間を要し、彼らの目に飛び込んで来た旗指物の模様は見覚えがある物だった。

 

「あれはーーッ!」

 

それには『相良氏』の家紋が染め抜かれていた。

 

 

◼︎

 

 

「流石は義久様。完璧です」

 

物見櫓から敵本陣を眺めていた俺は、抜群のタイミングで敵襲を仕掛けた義久様に喝采を送った。

三日前の戦闘で手に入れた相良氏の旗指物も微かに見える。これで彼らの分裂は決定的だ。暗がりの中でも出来る限り伊東兵に被害を与えようとする事も、それに追い打ちを掛けてくれるに違いあるまい。

 

「策は成りましたな。では我々も大手門から討って出ましょうぞ」

 

物見櫓を降り、大手門へ急ぐ俺に兼盛殿と有川殿が駆け寄ってきた。

甲冑を着ている所にも戦慣れしている部分が垣間見えるな。

軍議で事前に打ち合わせしたが、それでも一声掛けてくださったのは、軍配を持つ俺の面目を気にしたからだろうな。有り難い事である。

だが無用だ。

此処からは時間の勝負となる。

俺も早々に移動しなければならない。

 

「ええ。兼盛殿と有川殿は300の兵を率いて義久様と合流。そのまま第二段階へ移行。この暗闇です。同士討ちに気をつけなされ」

「委細承知!」

「行くぞ、兼盛殿!」

 

足早に走り去る二人の姿を尻目に、俺も50の手兵を率いて出陣した。

敵襲に参加する事なく、統率の取れていない本陣の横を掠めて通り過ぎる。

義久様なら必ず伊東勢と相良勢を分断させてくれると信じ、そして疑心暗鬼に陥った彼らが退却する時に軍勢を二つに分けると確信し、俺は次なる策を成功させる為の準備に追われるのだった。

 

 



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十五章 東郷重位への教授

 

 

 

一夜明けた七月十四日、午後。

島津兵の夜襲から命からがら逃げ果せた相良義陽は手兵を従えて休息を取っていた。

帰巣本能からか、無意識の内に人吉城方面へ馬足を向けていたらしい。伊東義祐と咄嗟に行った軍議にて、伊東勢と相良勢はそれぞれ別々に分かれて退却したからというのも理由の一つに挙げられるだろう。

兎にも角にも一命を得た。

しかし油断は出来なかった。

事実、少しの物音にも過敏に反応してしまう。

朝日が顔を出しても人心地付けない相良義陽だったが、時間が経過するに連れて事態は好転していった。

一人、また一人と旗本が馳せ参じたのである。

乾いた喉を潤す為に水を呷る。本陣周辺を1000に近い兵士で固めた。そして、漸く相良義陽は落ち着いて昨夜の事を振り返れるようになった。

余りにも、的確な隙を突いた夜襲だった。

あの時、島津兵から攻められる事はないと高をくくっていた。絶対的優位にあるのは我らだと、戦局を変えられるのは我らだという油断に付け込まれたと言っても過言ではない。

故に本陣まで斬り込まれた挙句、寡兵の敵に退却せざるを得ない甚大な被害を負ってしまった。弁解の余地などない。島津義久が一枚上手だったと認めよう。

ーーいや、待て。

相良義陽は矛盾点を見つけた。

まさか、と頭を振る。

我々は最初から誑かされていたのだろうか。

 

「殿、どうなされましたか?」

 

家臣の一人、赤池長任が心配そうに尋ねる。

大事ないと手を振って答える。

だが、生まれてしまった疑惑は急速に拡大していった。埒が開かない。正誤を判断する為にも、相良義陽は先ず情報を整理することから始めた。

 

「赤池、加久藤城に布陣していたのは誰じゃ?」

「突然何を仰られまするか、殿」

 

言外に気が触れたかと絶望する赤池長任。

人間五十年の戦国時代。三十後半なら確かに年寄りとして分類されるのかもしれないが、それでも家臣から気が触れたと勘違いされるのは嬉しくない事であった。

相良義陽は扇子で赤池長任の頭を叩く。

 

「いいから答えよ」

「島津家の次期当主である島津義久で御座りまする。我らとて何度も煮え湯を飲まされたではありませぬか」

「であるか。島津義久は女子であったな?」

「ええ。島津四姉妹の長女であらせられますからな。三洲一の美女という噂ですぞ」

「それはどうでも良い。赤池、お主は加久藤城にて女子を見たか?」

 

島津義久は籠城が始まる前に、大量の兵糧と近隣の住民を加久藤城へ避難させたと言う。

人質として扱われるのを防ぐ為。利敵行為をさせない為。様々な理由はあれど少なくない女子が加久藤城には存在していただろう。実際に見た。

だが、問題はそこではない。

 

「え?」

 

小首を傾げた赤池長任に向かって吐き捨てた。

 

「軍配を振るう女子を見たかと聞いておる。儂は見とらんぞ。空城計に気付かず、二の丸にまで攻め込んだ時も軍配を持っていたのは十七そこらの若造じゃったな」

 

敵ながら見事な指揮だった。

幾多にも乱立している馬立に、的確に狙ってくる練度の高い鉄砲隊。此方の浮き足立つ瞬間を決して見逃さずに采配を執る若い武将、そして彼の巧みな指揮に応えようとする精強な島津兵。数では圧倒しているのに押し切られてしまった苦い思い出である。

しかし、だからこそおかしいのだ。

相良勢は誰一人として島津義久と思しき武将を見ていない。

にも拘らず、島津義久が加久藤城を守護していると信じ込まされた。

 

「い、いや、しかしーー」

「なれば問う。飯野城に布陣した武将の名は?」

「確か、伊集院忠棟という若い男だと。加久藤城の危機にも動こうとしない愚鈍な男だと聞き及んでおりまする。有能な噂も全く聞かれず……」

「……若い男のう。しかも愚鈍と来たか。おかしいと思わんか、赤池。仮に島津義久が加久藤城に布陣していたとしてじゃ。儂らを散々に負かした島津義久が、生命線とも呼べる飯野城に無能を置くと思うか?」

 

前提条件が覆り、絶句してしまう赤池長任。

情報を整理し終えた相良義陽は確信に至った。

やはり、加久藤城に居たのは島津義久ではない。

相良義陽の考えが正しければ、加久藤城にて軍配を振るっていたのは伊集院忠棟であろう。そして島津義久は飯野城に隠れていた。間諜や忍を使う事で、わざと在らぬ噂を流したのだろう。

つまり、だ。

だいぶ早い段階から、島津家は伊東家と相良家が加久藤城を通って薩摩に攻め入ると分かっていたということになる。

 

「まさか。殿は加久藤城にいたのが伊集院忠棟だと仰られたいのですか?」

「昨夜の奇襲じゃ。落ち着いて考えてみれば不可解な事だらけよ。島津兵の士気、同士討ちになりやすい闇夜でも隊列を崩さぬ統率力。どちらも異様な高さであった。加えて儂は見たぞ。相良家の旗指物を持った一団、その先頭を突き進む女子をな」

 

今思えば、である。

簡易な空城計にて、物の見事に相良勢が二の丸へ誘き寄せられた策すらも昨夜の奇襲に備えての事だったのではなかろうか。

敵方に気付かれず旗指物を奪うために。

そして手に入れた旗指物を掲げ、夜間であることも利用しつつ直前まで敵だと悟られず、気付かれたとしても一気に本陣へ斬り込むために。

よく練られた策だ。

悔しさよりも素直に賞賛する想いが勝った。

 

「……私とて道理はわかりまする。殿のお言葉通りなれば島津義久は飯野城におり、加久藤城を守護していたのは伊集院忠棟となりますな」

「やられたわい。完膚なきまでのう」

「ここまで読んだ島津義久。末恐ろしいですな」

「島津義久と断定するのは早かろう」

「どうしてで御座りまするか?」

「儂の勘じゃよ。後は昔聞いた風の噂でな、伊集院家に麒麟児が生まれたそうな。僅か十歳で島津貴久から才能を認められた若人がいるとな」

 

只の噂だと侮っていた。

肝付家との騒動から此処に至るまでの展開を俯瞰できた逸材だとすると、相良義陽は想像したくない未来に冷や汗を掻いてしまう。

英君の呼び声高い島津貴久。彼を支える島津四姉妹に優秀な家臣団。そして屈強な島津兵たち。これだけでも敵に回したくないというのに、大局を見据えた戦運びを行える智慧者まで現れたとなっては九州全土を島津家が席巻するのも時間の問題である。

赤池長任は顔を顰めた。

まるで認めたくないと言わんばかりだ。

 

「それが伊集院忠棟だと仰るのですか。此度の戦絵図を描いてみせたのもあの若造であると?」

「わからぬ。しかし警戒して損はないわ。少なくとも伊集院忠棟は有能な武将よ。嫌な予感がするのでな。城に戻り次第、すぐに情報を集めなくてはならぬ」

「しかし、我々は伊東殿と共に薩摩へーー」

 

言葉は途切れた。

時間にして酉の刻。

夕焼けに染まる紅い空。

そして、木々の隙間から見える数百以上に及ぶ島津の家紋が染め抜かれた旗指物。幾度も見てきた『丸に十の字』の紋様は一心不乱に此方へ迫ってきている。

 

「て、敵襲!」

 

簡易な櫓から轟く悲鳴。

 

「気づくのが遅いわ。戯け!」

 

一喝してから相良義陽は下唇を噛み締めた。

あの旗指物の数からして2000の島津兵といったところか。動きから見て取れるとしたら彼らはさほど疲弊していないという事である。

つまり、援軍の可能性が非常に高い。

島津義弘か。それとも島津貴久の本隊か。

いずれにしても相良勢は1000弱しかおらず、昨夜の襲撃と心休まぬ半日のせいで心身ともに疲れ切っている。

干戈を交えれば敗北必至。

此度の戦、得る物は何も無かった。

大事な命を無為に散らせてしまった。

だが、時として退却を選ぶのも必要である。

 

「ど、どうなさりますか?」

「落ち着け、莫迦者。赤池、お主はすぐに手兵を纏めよ。退却じゃ。人吉城に退く。ここで意地を張ってもどうしようもないからのう」

「伊東殿に報告なさいますか?」

「無用じゃ。その時間すら惜しいのでな」

 

相良義陽は仏頂面で吐き捨てる。

建前として時間に追われたからという理由を使ったが、本音は散々に相良勢を疑った伊東義祐に愛想を尽かしたからであった。

例え島津の援軍が来たから人吉城に退くと使者を送ったとしても、ほぼ間違いなく伊東義祐は嘘だと断じるであろう。

なら使者を遣わした所で無意味だ。

一兵でも多く人吉城に帰還させるのなら伊東勢は見捨てるに限る。

 

「早う行け、赤池!」

 

家臣を動かし、自らも馬上の人となる。

迫る『丸に十の字』の旗を一瞥し、相良義陽は一言呟いた。

 

 

「見事なり、伊集院忠棟」

 

 

 

◼︎

 

 

 

迅速な対応で退却を始める相良勢。

その光景を高台から俯瞰していた俺は安堵から溜め息を溢す。緊張が解けた瞬間、昨夜は一睡もしていないからか、ふと欠伸が漏れてしまった。

第一段階に続いて第二段階も成功。

相良勢は人吉城へ戻る。後は伊東勢だけだ。

 

「兄上、首尾よく行きましたな」

 

農民を引き連れ、人懐っこい笑みを浮かべた東郷重位が肩を叩いた。ゴツゴツとした掌は重位が武勇に優れた『女』であることを指し示している。

東郷重位は、史実だと戦国時代から江戸時代前期にかけての武将であり剣豪だ。島津氏の家臣で示現流剣術の流祖としても後世に名を馳せている。

 

ーー示現流とはアレだ。キィエーイさんだよ。

『一の太刀を疑わず』または『二の太刀要らず』と云われ、髪の毛一本でも早く打ち下ろせと教えられる脳筋剣術である。身も蓋もない話だが。

初太刀から勝負の全てを掛けて斬りつける『先手必勝』の鋭い斬撃が最大の特徴。勿論、初太刀からの連続技も伝えられており、初太刀を外された場合に対応する技法も伝授されるらしい。

掛け声は『エイ』なんだが、余りにも激しいからか『キィエーイ』という叫び声にも聞こえてしまう。この猿叫は意味を知らぬ者に否定的に見られることもあり、史実では幕末期の薩摩藩主『島津斉彬』が薬丸自顕流の稽古を見た際に「まるで気が狂った輩の剣術だ」と侮ったと云われているぐらいだ。

まぁ、まだこの世界だと生まれる筈もない剣術だったんだがなぁ。

 

「相良殿が優れた武将だからこそ取れた策よ」

「誠に残念ですぞ。敵方の武将と殺り合ってみたかったのですが。兄上から教わった必殺剣術『示現流』の名を日ノ本全土に轟かせてやりたかったです!」

「あ、ああ、うん。ソウダネー」

 

東郷重位なのに十五歳の女の子。

だからなのか、酷く油断してしまった。

ついつい示現流の本質と鍛錬方法を口にすると、何が気に入ったのか詳しく話せと四六時中付き纏われてしまい、挙げ句の果てには何故か『兄上』と呼ばれ親しまれるようになってしまう始末。

どうしてこうなった?

重位曰く、示現流の開祖は俺になっているらしいです。冗談じゃありません、勘弁してください。

あんな基地外剣術の開祖だなんて。

史実みたいにお前でいいじゃんかよ!

確かに俺が教えたようなもんだけどさぁ!

 

「しかし、これで相良勢は退却させましたね」

「うむ。後は伊東義祐だけよ」

「えへへ〜。今度こそ示現流でぶった切る〜」

 

こんな恐ろしい娘だったっけ?

鼻歌を歌いながら歩く重位に恐怖を覚えつつ、俺は背後で島津家の旗指物を持つ農民たちに向かって口を開いた。

 

「皆も助かった。誓詞の通り、金子は弾むから安心してくれ」

 

嬉しそうに笑う農民の方々。

今回の策は誰でも思い付く簡単なものだ。

先ずは相良氏と伊東氏を仲違いにまで追い込む。

そして、各個撃破されるかもしれないという恐怖心に付け込む。夜が近付く夕暮れに、農民を用いた虚旗で援軍が来たと思い込ませれば、余程錯乱していない限り敵方を退却させることが可能だ。

この為に義弘様が薩摩にいるという虚報を流した訳だしな。貴久様の英傑ぶりも影響しているだろう。俺だって援軍に駆け付けた島津兵と一戦交えるなど拒否する。誰だってそうする。

 

「どうなされました、兄上?」

「大事ない。重位こそ身体はどうだ?」

「問題ありませぬ。早く伊東兵を真っ二つにしたくてたまりませんッ!」

「……そこまでは誰も聞いておらぬ」

 

何はともあれ。

残りは第三段階を完了させるだけ。

伊東義祐を始めとした名のある武将を数多く討ち取れば、日向の各支城を攻めている義弘様への手助けとなる。

予定だと、俺と兼盛殿は日向まで追撃を仕掛けるつもりでいる。一兵でも多く義弘様に預け、大友家が介入する前に最低でも佐土原城を落とさないといけないからな。

いやいや、日向に関しては義弘様に一任してあるんだ。俺の仕事は伊東勢を駆逐することだろ。

頭を切り替えろ、忠棟。

取り敢えず農民の方々を送り届けるのに十名ほど割いてから、残り90名と共に俺と重位は義久様と合流しないといけないな。

で、その重位は何してるんだ?

 

「あれれ〜?」

「如何致した、重位」

「三太夫が慌ててこっちに来てますよ、兄上」

「なに?」

 

重位の言葉通り、数秒もしない内に三太夫が息を荒げて現れた。

常に飄々とした態度を崩さない上忍、それが百地三太夫である。雇い主にも慇懃な態度を取る三太夫とは思えぬ姿に、俺は嫌な予感を覚えて慌てて駆け寄った。

 

「三太夫、何があった!」

「お、大旦那か。ヤベェ事が起きちまったよ」

「だから何があったのだッ。まさか義久様の身に何か起きたのか!?」

「ーー違う。違うぜ、大旦那」

「勿体振るな、早う申せ!」

「弘女将さんが」

「義弘様が?」

 

三太夫は俺の肩を掴み、こう言った。

 

 

「弘女将さんが、佐土原城を落としたんだよ」

 

 

…………はい?

 

 

「佐土原城を?」

「うん」

「義弘様が?」

「そう」

「伊東氏の本城だぞ?」

「鎧袖一触だったってさ」

 

 

うっそー。

3000の兵士で佐土原城を落とすの?

何それ、期待はしてたけど鬼島津の名は伊達じゃないってことなの?

 

 

そんなの有りなんですかぁあ!?

 






本日の要点。

1、相良義陽が人吉城へ退却。

2、義弘が鬼島津になりました。


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十六章 伊東義祐への褒美

 

 

七月十五日、午の刻。

陽が昇り始めて三刻経った。

飯野城の南に位置する池島川の畔り。重傷者を含めた伊東義祐率いる3000の兵士が布陣。同じ轍を踏むまいと奇襲を警戒しつつ、加久藤城から退却する時に別れた相良勢の合流を待っていた。

伊東義祐は本陣にて瞑目しながら思案に暮れる。

島津義久の巧みな夜襲から二日が経過した。

疑心暗鬼と焦燥感から瓦解寸前だった軍勢の綻びも直し終え、直ぐにでも加久藤城か飯野城を攻略したい伊東義祐だったが、相手は伊東相良連合軍を手玉に取った島津義久である。

加久藤城の戦いの如く、再び翻弄されては元も子もない。此処は相良勢の合流を待ち、一兵でも多く城攻めに回すのが肝要であろうと判断した。

だが、不安と疑念は残る。

夜襲時、島津隊は相良の旗指物を持っていた。

恐らく六日目の戦闘で手に入れた物だろうが、疑って見ればわざと加久藤城に置いてきたとも考えられるのではないか。

 

「誰かあるか?」

「はっ。此処におりまする」

 

答えたのは柚木崎正家であった。

『日州一の槍突き』と謳われ、二日前に起きた夜襲の際も槍の名手として殿を務めた上に、傷一つ負うことなく無事に本陣へ生還した強者である。

真っ先に逃げた伊東祐青と違い、伊東義祐に忠義を尽くした柚木崎正家。主君がどちらを重用するか考えるまでもなかった。

 

「正家か。お主はどう考える」

「相良殿の事でありまするか?」

 

何を、と尋ねない聡明さ。

伊東義祐は満足気に頷いた。

顎髭を擦りながら正家に己が考えを伝える。

 

「如何にも。既に二日経っておる。義陽殿から音沙汰が無いのは、噂通り我々を謀っておったからだと思うのだがな」

 

相良義陽が島津家と手を組んでいる。

それは島津義久が意図的に流した噂でなく、事実では無いだろうか。

無論、明確な証拠はない。

しかしだ。

現に相良義陽は合流しない。音沙汰すらない。

にも拘らず、柚木崎正家は即答で反論した。

 

「某の考えを申しますと、全ては島津義久の謀略でしょうな」

「ほう。してその心は?」

「一つに相良殿の動きで御座りまする。もし相良殿が始めから島津と手を組んでいたとなれば、加久藤城の合戦に持ち込む必要がありませぬ。加えると、二日前の夜襲時、島津隊は相良殿の旗指物を持っておりました。相良勢がこの時に呼応して我々を攻めなかったのも、島津義久の仕組んだ謀略である理由として挙げられまするな」

 

成る程、と納得した。

確かに正家の言う通りだ。

相良義陽は2000の兵士を従えていた。

例え、島津義久率いる島津隊が1000人の寡兵だったとしてもだ。合わされば3000になる。

これなら野戦でも充分に伊東義祐と張り合えただろう。

なのにしなかった。籠城を選んだ。

つまり、島津義久と相良義陽は敵同士だった。

 

「ならば、よ。何故義陽殿から音沙汰がない?」

「それはわかりませぬ。挙げられる理由としては薩摩に留まっている島津義弘の援軍に睨まれているか、それとも島津義久と一戦交えて敗れてしまったか。そのどちらかでしょうな。無論、何か別の理由も考えられまするが……」

「いずれにしろ義陽殿と合流するのは時間が掛かりそうだ。此処に布陣していても埒が開かぬ。兵糧も尽きかねん。正家、お主ならどう動く?」

 

数瞬の間が空いてから正家は淀みなく答えた。

 

「某なら、相良殿と合流できずに士気も低下した現状だと薩摩へ攻め入るのは諦めますな」

「ーーであるか」

「ただ何も奪えずに佐土原城へ戻るのは国人衆の反発を生むでしょう。故にがら空き同然の飯野城を奪い、後々の足掛かりにすればよろしいかと」

「それしかない、か」

 

現実を見た策である。

伊東義祐も幾度の合戦を経て傷付いた兵を見て、薩摩へ攻め入る程の士気は無いと気付いていた。

だが何の戦果も得ずに佐土原城へ引き返すのは武将としての恥である。

肝付家の救援にかこつけて意気揚々と4000の兵を連れ、相良勢も巻き込み、それでいて姫武将に負けて逃げ帰るなど末代までの恥となろう。

だが、此処までくれば致し方無し。

飯野城を奪い、これ以上傷を増やす前に佐土原城へ帰還する。考えるまでもなく最善手だ。

佐土原へ帰ろうと決意した伊東義祐は立ち上がろうとして、そして本陣に慌てて入ってきた兵士を眺めて嫌な予感を覚えた。

 

「殿、一大事に御座りまする!」

「何があった?」

「島津義弘率いる3000の兵が佐土原城を囲んでおります。支城も五つほど陥落しましたッ!」

「なんだとッ。義陽殿は如何に!?」

「殿、相良勢が人吉城に退却したと斥候から!」

「な、にーー」

 

耳を疑う急報だった。

島津義弘が佐土原城を包囲している。相良義陽が撤退した。

夢であったなら覚めてくれと思った程だ。

島津義弘は薩摩にいるのでは無いのか。どうやって3000もの兵士を集めた。そもそもどのような絡繰りを用いれば誰にも気付かれずに日向国へ赴けるというのか。何故相良義陽は撤退したのだ。

答えは出ない。

混乱した頭では疑問点しか浮び上がらない。

それでも必要なのは迅速な決断である。

飯野城を奪うことしか出来ない疲弊した軍勢。相良勢はいない。そして本城が3000の島津兵で包囲されている。

此処は悩むまでもない場面だ。

伊東義祐は小姓に家臣共を集めよと下知。数分足らずの内に集結した武将たちに現状を告げると同時に、一目散に佐土原城へ戻れと命令した。

殆どの武将は首肯したが、伊東祐青と柚木崎正家は声を大にして反論した。

伊東祐青曰く、佐土原城は堅城である。容易く落ちぬ為、今は飯野城と加久藤城を攻めることに先決すべきだと。

柚木崎正家曰く、罠の可能性が高い。虚報を用いて我々を退却させ、島津隊は後方から奇襲を仕掛けるつもりだと。

思わぬ諫言に伊東義祐は目を見開くも即座に一蹴した。

 

「戯け。敵は島津四姉妹で最も有能だと噂される島津義弘ぞ。万が一の可能性もある。正家にしても不思議なことを申すな。罠だとしても奴らは1000にも満たない寡兵よ。奇襲されようと容易く食い破れるに決まっておろうが」

 

早口で言い切る。

佐土原城を囲んでいるのは島津義弘。武に優れた姫武将だと聞く。

島津義久よりも恐ろしい存在だ。

時間が勝負であると言外に伝えると、正家も了承しているのか簡潔に口にした。

 

「ならば。某が殿を務めまする!」

「……よかろう。大いに励め」

「ははぁ!」

 

柚木崎正家は槍の名手だ。

殿としての働きに期待できる。

だが、伊東祐青は納得いかないのか伊東義祐に詰め寄った。

 

「殿!」

「祐青も納得せよ。島津義弘と合戦を行う際はお主に先鋒を命ずる故」

「ーーうっ。……ならば、仕方ありませぬな」

 

先陣を切れば一番槍の可能性も高まる。

大きな武功を求める伊東祐青は、表面上は不満そうにしながらも内心だとほくそ笑んでいた。柚木崎正家を出し抜ける好機だと考えたからである。

そんな内情を察しつつも、伊東義祐は全軍に通達した。

 

「よし。正家を殿として退却せよ。佐土原城を包囲している島津義弘を討ち取れ。さすれば褒美は思いのままぞ!」

 

 

 

◼︎

 

 

 

「大旦那、伊東勢が甲地点を通過したよ」

「承知した。重位に気づいた様子はあるか?」

 

伊東義祐が虚報を聞いて本城へ戻っている。

本来なら事実だった佐土原包囲も、義弘様の活躍によって既に佐土原陥落となってしまった。まさに鬼島津の如く。疾風迅雷とはこの事だろうな。

虚報を告げたのは三太夫だ。

流石の演技力で伊東義祐を騙してみせた。

現に奴らは佐土原城に帰還するつもりである。殿に柚木崎正家を命じたと聞いた時は少し焦ったものの、先頭を突き進むのが伊東祐青だと知って安堵した。

俺は飯野城と佐土原城を繋ぐ街道沿いに布陣している。数にして400。半分以上が鉄砲隊。堅固な陣を敷いており、闇雲に突破すれば敵方の被害甚大となるのは間違いなかった。

 

「ない。大旦那の指示に従って気配も殺してるからね。此処に到達するまで四半刻って所かなぁ」

「計算通りか。三太夫は義久様の元へ走れ。何があろうとも守り抜くのだ。出来るなら義久様に武将を一人討ち取らせよ」

 

四半刻。つまり三十分か。

伊東勢の騎馬隊は少ないからな。

一刻も掛からなくて良かったと一安心した。

だが、現状はあまり宜しくない。

戦運びの話ではなく、今後についての話である。

三太夫も察しているのか苦笑いを浮かべた。

 

「弘女将さんが張り切り過ぎたからね〜」

「佐土原城を落とすとはな。島津家全体から鑑みれば目出度い話なのだが、義久様を当主とする為にはちと頭が痛くなってしまうぞ」

 

此度の合戦で得た義久様が得た武功。

それを霞ませてしまった義弘様の佐土原城陥落。

このままだと当初の目論見が擦れてしまう。

どうにかしなければなるまい。

最善策としては次の合戦で武功を立てる事か。

その為にもーー。

というか、そもそもな話なんだがな。

義久様と義弘様、お二人の関与していない次期当主争いなど片腹痛い。馬鹿なんじゃないかな。

家臣達の身勝手な行いが、島津家の今後を危ぶむ事に繋がるのだとわからないんだろうか。

 

「あはは〜。あんまり無茶しないでよ、大旦那」

「わかっておる。死ぬつもりなど毛頭ない。それよりも、三太夫。手元におる忍に伝えて欲しい事がある」

「なに?」

 

三太夫の耳元で呟く。

 

「うむ。実はなーーーー」

 

聞き終えた三太夫は頭を掻いた。

納得出来ないといった表情で尋ねる。

 

「……いいの?」

「致し方あるまい。苦肉の策だが、義久様が次期当主となられる為に奴はまだ必要となる。本来なら容赦なく殺すつもりだったんだがな」

「成る程ね。大旦那の言う通りにするよ」

「頼んだぞ。では、行け!」

 

音もなく消えた三太夫。

あいつの脚力なら問題なく義久の元へ辿り着く。

問題は俺と兼盛殿だ。

此処で3000の兵士を食い止めねば全てが水の泡となる。加治木城から新たに運んだ鉄砲200丁と狭い街道、そして堅固な陣を駆使すれば四半刻持たせる事など造作もないとわかっているんだがな。

って。馬鹿か、俺は。

此処まで来たら後はやるだけだろ。

不安を表に出せば全体の士気に繋がる。

武将たる者、常に堂々と構えておくべし。

ご祖父様の言葉を反芻した俺は馬上から兵士達を鼓舞し、四半刻を待った。兼盛殿はひたすらに前を見据えていて、俺が憶測で三十分数えた頃、前方から砂埃が見え始めた。

一気に緊張感が高まる。手汗が滲み出た。

だけど、籠城戦を経験する前より格段に落ち着いていられた。

やはりアレは良い経験だったようだな。

 

「忠棟殿、伊東勢が来ましたな」

「ええ。兼盛殿、鉄砲隊の指揮は任せましたぞ」

「任されよ。まさに飛んで火に入る夏の虫。薩摩を攻めようとしたツケ、ここで払って貰うとしようではありませぬか!」

 

兼盛殿は意気揚々と鉄砲隊の横に躍り出た。

良く通る声で下知を下す。

 

「鉄砲隊、構え」

 

鉄砲衆が膝立ちとなり、一列に並んだ。

手慣れた様子で種子島を構え、息を殺す。

 

「妄りに撃つことは許さぬ。ぎりぎりまで引き付けよ」

 

向ける銃口の先に有るのは驚愕する伊東祐青の顔だった。寡兵なのに正面から待ち構えていると思わなかったのだろう。

その油断が命取りだと知れ。

兼盛殿が手を掲げた。

伊東祐青は更に馬の速度を上げた。

三間、二間半、二間、一間半、一間と迫り来る伊東勢の兵たちの面容がはっきりと捉えられた瞬間だった。

 

 

「撃て!」

 

 

号令一下、耳を劈くような轟音が鉄砲隊から響き渡る。

刹那、伊東兵がもんどりうつようにして倒れた。

続けて弓隊が前進。鉄砲隊が弾を詰め替えるまでの間、矢の雨を降らせる。

鉄砲と弓の間断なく行われる攻撃に伊東兵の足色も鈍りを見せた。

だが、これで終わりではない。俺の遣わした伝令兵によって、街道沿いの木々に紛れ込ませたうつ伏せの鉄砲衆50名が起き上がり、伊東兵の横腹を突くように銃撃を加えていく。

俗に『十字砲火』と呼ばれる奴だ。

走り続けて体力を消耗していた伊東兵を薙ぎ払う銃弾と弓矢だったが、そもそもの数が違った。

少しずつだが堅固な野戦陣を突破される。

三重に設けた木の柵を押し倒し、銃弾を受けた同胞を見捨ててでも次なる柵に群がる伊東兵。その突破力は、如何な島津兵を以ってしても抑えきれるものではない。七倍近い敵を野戦で正面から食い止めるなど所詮は無理な話である。

轟音、喊声、嘶き、悲鳴。

様々な音や声が街道一帯に轟く。

兼盛殿も槍を振るって獅子奮迅の活躍を見せるものの、徐々に押し込まれている。伊東祐青が前線で手槍と共に指揮しているからだろうな。

四半刻経っていないが仕方ない。

十分に役割は全うした。

そう判断した俺は小姓に下知する。

 

「退き鐘を鳴らせ!」

 

直後、街道に響く『退き鐘』の音。

島津兵はまるで待ち侘びていたかのように、我先にと佐土原方面へ向かって街道をひた走る。

俺と兼盛殿も、背後から迫り来る伊東兵を確認しながら目的の場所まで駆けた。

見事な退却だった。

練度の高い島津兵だからこそだ。

策が成就した事を確信しながら狭い街道を抜けて広い道へと躍り出た瞬間ーー。

 

「撃て!」

 

左の有川殿と右の義久様が同時に鉄砲衆へ号令。

左右から放たれた銃撃は伊東兵たちを薙ぎ払う。

思わぬ反撃に脚が止まった伊東勢たちを嘲笑うかのように、最初からこの場で待機していた義久様が日頃と真逆の凜とした声で下知した。

 

「かかれ!」

 

長槍を持った島津兵が我先にと躍り出る。

何が起きているかもわからぬ不安から動きを止める伊東兵たち。何も出来ずに島津兵に命を奪われていく様は俺の高揚感を掻きたてた。

だが、何もこれで終わりではないんだぞ。

 

「反転しろ!」

 

釣り野伏せは、野戦において全軍を三隊に分け、そのうち二隊をあらかじめ左右に伏せておいて、機を見て敵を三方から囲んで包囲殲滅する戦法である。

先ずは中央の部隊のみが敵に正面から当たり、敗走を装いながら後退する。これが所謂『釣り』であり、敵が追撃するために前進すると左右両側から伏兵に襲わせる。これが『野伏せ』と呼ばれるものであり、このとき敗走を装っていた中央の部隊が反転し逆襲に転じることで三面包囲が完成する。

俺の下知に応えて反転した島津兵は、同胞に負けじと正面から突撃していった。伊東祐青が大声を張り上げて兵たちに指揮するも、大混乱する伊東兵たちはなす術なく討ち取られていく。

ーーって。あ!

 

「伊東祐青、討ち取ったり!」

 

兼盛殿が高々と叫んだ。

事実、伊東祐青は馬上から落ちてしまい、島津兵の下敷きとなっている。

指揮する武将もいなくなった伊東勢の先陣は瞬く間に瓦解し、他の武将たちも軒並み首だけの姿と成り果てたのだった。

 

 

 

◼︎

 

 

 

結果として島津軍は大勝した。

伊東祐青を始めとする名のある武将を15名討ち取り、伊東軍の死傷者は半分以上にも及んだのだから如何に『釣り野伏せ』が有効な戦法だったのか述べるまでもないだろう。

義久様も伊東又次郎を討ち取った。

100人率いた東郷重位は伊東軍が瓦解した後に後方から突撃し、混乱に乗じて柚木崎正家を一撃で討ったのだから驚きである。示現流最高とかほざいていやがったので一発頭を叩いてやった。

そしてーー。

 

 

「大旦那の頼み通り、伊東義祐は逃したよ」

「そうか」

「豊後に逃げ込んだってさ」

「であろうな」

「大友家に大義名分を与えるんじゃないの?」

「故に逃したのよ。次なる標的は大友宗麟なのだからな」

 

 

俺は、次なる戦に備えて策を練るのだった。

 

 

 






本日の要点。

1、釣り野伏せって最強説。

2、忠棟、今後の作戦を大きく変更。主に鬼島津のせいで。

3、伊東義祐、豊後へ走る。


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十七章 戸次道雪から注視

 

 

 

後に『真幸院の戦い』と呼ばれる合戦から早くも三か月が経過した。

一連の流れを簡単に纏めてみよう。

先ずは伊東相良連合軍を加久藤城にて足止め。油断した所を見逃さずに夜襲を仕掛ける。連合軍が二手に別れた隙に相良勢を虚旗を用いた策で人吉城に退却させ、伊東義祐に虚報を流して佐土原城へ戻る時に釣り野伏せを仕掛けて各個撃破した。

合戦自体は練っていた作戦通りの展開だったんだけども、一つだけ予想外な事が起きてしまった。

島津義弘様の佐土原城攻略である。

まさかあれほど短期間で攻め落とすとは。

実質的な時間は三日と掛かっていなかった。

『鬼島津』にしても無茶苦茶過ぎませんかねぇ。

真幸院の戦いに勝利した後、有川殿と肝付兼盛殿に負傷者を含めた500の兵を国許に返すよう頼み、俺と義久様は残り500の島津兵を率いて日向へ侵攻。無事に義弘様と合流を果たした。

直ぐに佐土原城の事を聞いてみたところ、義弘様は快活に笑いながら俺の肩を元気よく叩いた。

 

「あぁ、アレね。源太のお陰だってば」

「え?」

「この書状、忘れちゃったの?」

「忘れておりませぬ。日向に向かう前に俺が渡した書状なのですからな。……あ。義弘様、まさかとは思われますが『しかみ戦術』を用いたのですか?」

「うん。助かったよ、源太。アレのお陰で佐土原城に篭っていた伊東勢を誘い出せたんだから。お父さんにも源太の手柄でもあるって伝えといたから安心して」

「あ、はい。勿体なきお言葉に御座りまする」

 

ああ、成る程ね。

だから短期間で攻略できたのか。

納得は出来たが、少しだけ後悔してしまう。

義弘様の仰った『しかみ戦術』とは三方ヶ原の戦いで武田信玄が用いた戦術に対して名付けた物である。

勿論だけども俺が名前を付けた。

反省はしている、後悔もしている。

そもそも義弘様が佐土原城に苦戦し過ぎた時の保険として提案した戦術だったんだよ。例え使用したとしても一回目から使いこなすなんて想像していなかったよ。鬼島津に進化したら俺だってどうしようもねぇんだよ!

ちなみに、しかみとは三方ヶ原の敗戦後、徳川家康が戒めの為に描かせた肖像画の名前に因んでいたりする。俺にしかわからない名前の由来であった。

ーー何はともあれ。

合流した後、義久様を総大将とした4000の島津兵は日向全土を席巻。瞬く間に没落した伊東家に見切りを付けた国人衆も島津家に靡く。6000にまで膨れ上がった島津義久隊は、一ヶ月も掛からずに大した障害もなく日向を平定し終えた。

大友家の侵攻を警戒して、猛将として知られる新納忠元殿を高城に置いてから薩摩本国へ帰還すると、久し振りに父上と会うなり頭を撫でられた。

 

「忠棟、真幸院の戦いに加え、日向平定に関してもよう働いた。お主の才を甘く見ていたようだ」

「有難きお言葉。父上も肝付兼続との合戦で活躍したと聞き及んでおります」

「肝付勢を追撃しただけよ。お主と比べたら些細な武功よな」

「いえ、決してそのような事は……」

「無用な謙遜は止せ。某は喜んでおるのだ。殿も仰っておられたぞ。忠棟の才に上限なし、とな」

「お言葉ながら俺とて人の子。武勇の欠片もありませぬ。あまり誇張な評価はよろしくないかと愚考致しまする」

「なにを申すか。お主の智謀は今や九州、いや日ノ本全土にまで轟いておるのだぞ。『島津の今士元』と呼ばれておるのだから胸を張らぬか!」

「何なのですか、その某半兵衛的な異名は……」

 

貴久様率いる島津本隊6000は、肝付兼続を総大将とする7000と一ヶ月間睨み合った。

動いた方が負けてしまう。そんな互角の対陣を続けていく内に、相良義陽と伊東義祐が合戦に敗れたという急報が届いたらしい。

島津に援軍が来ると恐れた肝付兼続は即時に撤退を開始。当然ながら貴久様は追撃するも、重臣を数人犠牲にした退却戦の末に肝付城へ帰還を果たす。ところが情勢を鑑みた大隅の国人衆は島津家に乗り換え、急速に衰退した肝付兼続は半月後に肝付城で切腹した。

こうして無事に六年間思い描いた、史実よりも十年以上早い三洲平定を成し遂げた訳なんだけど。

何やら俺に異名が出来たらしい。

島津の今士元とか、戦国の鳳雛とか。

やめて、本当にやめて!

それ竹中半兵衛のパクリだから。

でも、多分だけどさ、この世界だと俺の方が先だと思う。

俺が尊敬する軍師の一人、竹中半兵衛が後世でパクリ野郎みたいに呼ばれるなんて滅茶苦茶嫌なんですけど。

父上に物申しても意味はなく、そもそも俺の預かり知らぬところで広まっているらしく、少なくとも島津家家臣たちは三洲平定の戦絵図を描いたのが伊集院忠棟だと知っているとのことだ。

評定でも献策し易くなるから良いんだけどさ。

どうせなら義久様の武功話が広がればいいのに。

ーーはてさて。

その義久様はというと、伊東相良連合軍を殲滅する大役を成し遂げたからなのか、薩摩本国へ帰還する間も終始機嫌が良かった。

 

「源太くん、怪我は無かった?」

「ええ。俺は軍配を持っていただけで刀を振るうことはありませんでしたから。義久様も大きな怪我がなく安心しました」

「源太くんが策を用意してくれたお陰よ〜」

「武将も討ち取りました故、これで義久様を軽んじる者も少なくなるでしょうな。一安心ですぞ」

「弘ちゃんの方が凄いわよ〜。わたしもお姉ちゃんとして誇らしいわ。鬼島津なんて呼ばれちゃってるもの」

「……義久様」

「そんな顔しないの。源太くんも喜んで、ね?」

「無論、喜んでおりますとも」

「なら良かった。安心したわ〜」

 

心の底から笑う義久様を見て、俺はこのお方こそ島津家の次期当主に相応しいと改めて思った。

如何に実の妹だとしても、義弘様のような武勇に突出した才能に嫉妬しないだけで器量の大きさがわかるというものだ。

特に御家騒動が当たり前な戦国時代。

義久様こそ最も総大将の才を持っているんだがなぁ。何とかして実績と共に島津家全体に知らしめる事は出来ないんだろうか。

大友家に対する謀略と新たに行いたい内政を一通り纏めつつ、馬上で揺られる俺こと伊集院忠棟。

薩摩本国への帰還途中も悩みが尽きることは無い上に、とある不幸忍者が更なる火種を投下してくれやがりました。

 

「大旦那、報告があるんだけど」

「面倒事を増やすでないぞ」

「いやー、そうしたいのは山々なんだけどね。何と貴旦那からだよ。大旦那の耳に入れとけって」

「聞きとうない……」

「大旦那の嫁取り話だってば」

 

薩摩へ入った頃に三太夫が耳打ちしてきた。

遂に嫁取り話が来たかという覚悟。

だけどなんで貴久様直々なんだよという疑問。

主君筋から世話されることもあるらしいが、普通はご祖父様か父上が持ってくる話だろ。俺って直臣じゃないし、貴久様から見たら陪臣だしさ。

まさかとは思うが弟であらせられる島津忠将様の息女じゃなかろうな。

確か俺と同い年だった筈である。

貴久様は俺を過大に評価していると聞くから実際に有り得そうなんだけども。

一門衆になるんだっけか、この場合だと。

 

「…………」

「…………」

 

義久様と義弘様がチラチラと俺を見る。

特に三太夫から嫁取り話を吹っかけられた頃からだ。腐っても軍師。気づかない訳ないんだがな。

ただ此方から話を振るのも気が引ける。

そのまま微妙な空気で内城へ帰城するのだった。

 

 

 

◼︎

 

 

 

九州北部に位置する豊後国。

九州探題の官職を持つ大友宗麟は北九州の殆どを勢力下に治め、押しも押されぬ大大名として四方に多大な影響力を持っていた。

しかし全ては上手く行かない物である。

急速に台頭してきた毛利家は旧大内家の権利と北九州の諸勢力の支援を大義名分とし、九州と中国地方の間の 『関門海峡』に出っ張るように存在していた最前線の城 『門司城』を大軍を持って攻撃して占領してしまう。

毛利家との対話を続け、北九州に攻めてこないという約束を取り付けていたと思っていた大友宗麟は見事に虚を突かれる格好となった。

これに怒った大友宗麟もすかさず軍勢を集め、数万の大軍で自ら門司城奪還に向かう。しかしながら毛利家の勇将 『乃美宗勝』や『小早川隆景』に加え、水際での戦いに長けた『村上水軍』の攻勢により大友軍は敗退。

ーーするかと思われたが。

戸次道雪と高橋紹運の巧みな指揮と策略によって不利な戦況を跳ね返し、門司城を奪還。更に退却中小早川隆景に追撃を仕掛けることに成功した事で毛利家は大損害を被ってしまった。

『門司合戦』と呼ばれる毛利と大友の戦は、史実とかけ離れた大友軍大勝利に終わったのである。

 

「…………」

 

史実を無視して大友家を勝利に導いた武将は、臼杵城下に構えた屋敷の縁側にて秋の陽射しを浴びていた。

毛利勢を駆逐した猛将と思えぬ柔げな美貌に漆の如く麗らかな黒髪。そして女性であることを醸し出す色彩豊かな着物。一目見ただけで育ちの良い姫武将だと把握できるが、一点だけ他の武将と明らかに違うところが存在する。

彼女は歩く事が出来ない。

幼い頃の話である。故郷の藤北で炎天下の日、大木の下で昼寝をしていた。が、およそ急な夕立に見舞われた挙句に雷が落ちてしまう。枕元に立てかけておいた『千鳥』と呼ばれる太刀を抜き、雷を斬って飛び退くも、彼女の左足は不具となってしまったのだ。

にも拘らず、武将としての統率力だけでなく、武勇にも目覚ましい物がある。

彼女を支える脚、その名も『黒戸次』。

簡単に説明するのなら車輪の付いた椅子だろうか。

戦場に出るには頼りなく思われてきたが、彼女はまるでそれを手足の様に扱って毛利勢を退却せしめた実績を持つ。

異名は雷神の化身、又は鬼道雪。

彼女こそ大友家随一の弓取り、戸次道雪である。

 

「暖かく平和ですね。そう思いませんか、紹運」

 

そんな名将の乗る黒戸次を押すのは紅い髪が特徴的な姫武将、高橋紹運だった。

戸次道雪に負けず劣らず有能な武将として名高い高橋紹運は、尊敬する義姉の言葉にしっかりとした声音で返答した。

 

「はい。もう秋の中頃ですから」

「今年も無事に豊作だったとか。門司合戦から大きな戦も無く、民に負担を強いることも無く、誠に良い一年でしたね」

「気が早いですよ、義姉上。今年もまだ二ヶ月あるのですから。どうやら日向から火種が舞い込んで来たらしいですよ」

 

日向からの火種。

とある男は一部の武将からそう揶揄されていた。

その者は、6000の大軍を率いて薩摩へ侵攻しようとするも、真幸院の戦いにて島津義久に完敗し、命からがら豊後へ逃げ果せた日向伊東氏十一代当主の事である。

 

「存じ上げていますよ、紹運。伊東義祐殿の事でしょう?」

 

戸次道雪は朗らかに答えた。

 

「義姉上はどう思われますか、義祐殿の事」

「ふふ、不思議な問いですね。紹運、聞きたい事は素直に口に出しなさい。私と貴女の仲ではありませんか」

 

探るような物言いに、道雪は思わず苦笑いした。

戸次道雪と高橋紹運。

彼女たちはお互いに大友家へ忠を尽くす武将としても、そして義姉妹としても固い絆で結ばれている。意見が異なったところで今更解けてしまう緩い結び目ではないのだ。

紹運は目を伏せながら口を開く。

 

「申し訳ありません。その、宗麟様が義祐殿を大義名分に掲げて日向へ侵攻しようとしている事についてなのです」

「紹運は賛成ですか?」

「失礼ながら私は反対です。肥前では反乱の兆しがあると聞く上、島津と交戦している中、毛利家が再び豊前に攻めてくる可能性も高いですから」

 

いや、違う。

道雪は内心で紹運の言葉を否定した。

毛利家は確実に豊前へ攻めてくる。

大友家に僅かな綻びが見え始めたらその隙を逃さないだろう。間隙を縫うように侵攻してくる筈。

只の国人だった毛利家を僅かな期間で大大名に押し上げた謀将『毛利元就』が、主力軍を日向に向けるという最大の好機を見逃す訳がないのだ。

昨年末起きた門司合戦の二の舞となろう。

盗られたとして再び奪還できるのか。

奪還しろと命令されれば応えるのが武将である。最善は尽くすが毛利家も簡単な相手ではない。この間のような奇襲は通用しないと思って行動しなければ。

ーーいずれにしても。

大友宗麟に日向侵攻を諦めて貰うのが最善手だ。

しかし、そうは問屋が卸さない事情があった。

 

「私も同意見ですよ、紹運。ただ貴女もわかっているでしょう。宗麟様は最近南蛮の教えに傾倒しています。それも日向侵攻に関係しているのでしょうね。噂によると、神の国を創りたい、とか」

「義姉上が諌めても聞く耳を持ちませんか?」

「何度かお叱りしたのですが、どうにも。残念ですが紹運。例え私たちが日向侵攻に断固反対したとしても宗麟様は心変わりしないでしょうね」

「義姉上でもお聞きになりませんか。なら、日向侵攻はいつ頃だとお考えで?」

 

戸次道雪は幾度となく宗麟を叱ってきた。

南蛮の教えに傾倒して神社仏閣を蔑ろにしそうな兆候があればこれを戒める。無駄な浪費を行えば理をもって諌める。敵の罠に飛び込みそうになった時も、命懸けの諫言を用いて主君の至らぬところを庇った実績があるものの、此度に関しては宗教的な問題に首まで浸かっている為、さしもの道雪でも宗麟の考えを改めることは不可能だった。

 

「宗麟様は直ぐに日向へ侵攻すると仰られてましたが、角隅殿のお陰で日にちは大分先に延びましたよ。早くても来年の夏頃でしょうか」

 

角隅石宗。

大友家の軍師であり、戸次道雪の師匠でもある。

彼は大友家中において絶大な影響力を持ち、正論を根気よく説かれ続ければ、流石の大友宗麟も首を縦に振らざるを得なかった。

無論、日向侵攻は諦めず、日にちが延びただけである。それでも道雪と紹運からしたら大変有り難い事だった。

 

「なるほど。流石は角隅殿です」

「問題は島津の強さですね」

「真幸院の戦い。詳細を聞けば聞くほど細部まで読み切った島津軍は敬意に値します。薩摩一国から三ヶ月も経たぬ内に三洲平定を成し遂げた事も尋常ではありませんね」

「ええ。恐ろしいものです。特に、島津の今士元と名声が轟く伊集院忠棟。彼の智謀は決して甘く見てはなりませんよ」

 

島津家による電光石火の三洲平定。

それは九州の諸大名だけでなく、日ノ本全土の大名から国人衆にまで広く知れ渡った。何しろ合戦の開始から三ヶ月掛けずに日向と大隅を平定したのだ。尋常な速さではない。まさに神速である。

島津義久、島津義弘、島津貴久。

三つに分けた隊の総大将として活躍した三人は勿論だが、島津家の軍師である『伊集院忠棟』の名も全国に轟いた。

彼は真幸院の戦いで六倍の敵を駆逐しただけに留まらず、日向平定に尽力した。これだけでも若くして打ち立てた武功として華々しいが、そもそも今回の電光石火による三洲平定を描いてみせたのが伊集院忠棟なのだ。

島津の今士元、戦国の鳳雛。

そのような異名も付けられたらしい。

実績から鑑みれば至極当然な帰結だろう。

 

「義姉上は信じているのですか。三洲平定の戦絵図を描いたのが十七そこらの伊集院忠棟だと」

 

伊東義祐、相良義陽、肝付兼続。

三人の戦国大名を手玉に取った話は俄かには信じ難いだろうが、戸次道雪はそれが真実であると断言できる理由があった。

 

「あら、紹運には言ってませんでしたか?」

「何をですか、義姉上」

「私は伊集院忠棟と会った事があるのですよ」

「え、何時ですか?」

 

驚く紹運に、道雪は顎に人差し指を当てながら答えた。

 

「二年前だったかしら。宗麟様に頼まれ、坊津へ秘密裏に視察に行ったのです。其処で利発そうな少年と出会いまして、少しだけお話をしましたよ。まさしく聡明な方でした」

「それが、伊集院忠棟だと?」

「ええ。商人たちからも親しげに名前で呼ばれてましたからね。私は名乗らずに立ち去りましたけど」

 

あくまで秘密裏な視察だった。

当時は他国に知れ渡る程の武功を挙げていなかった上に、車椅子に乗った女性がまさか大友家の間者だとわかるはずがないからこそ、戸次道雪は苦もなく伊集院忠棟と会話することに成功した。

当時のことは鮮明に思い出せる。

何故なら、門司合戦にて活躍出来たのも、黒戸次の改良点を見つけてくれた彼のお陰なのだから。

 

「聞いておりませぬ、そのような話」

「まぁ、よろしいではありませんか。兎も角、真幸院の戦いから察するに、伊東義祐殿をわざと豊後へ逃がしたのは伊集院忠棟でしょう。つまり、彼の謀略は始まっているも同じです。決して油断しないように。わかりましたね、紹運」

「はい」

 

気を引き締めなければならない。

北は毛利、南は島津。

挟まれてしまった大友家。この窮地を脱する為にも戸次道雪は一つだけ心に決めている事がある。

それはーー。

 

 

「……日向侵攻の際は、私も出向くしかありませんね」

 

 

伊集院忠棟の飛躍を此処で止めることであった。

 

 







本日の要点。

1、策の通りに三洲平定成る。

2、忠棟に嫁取り話が。

3、戸次道雪、日向の合戦に参戦決定。


この作品では最後まで戸次道雪、大友宗麟という名前です。
歴史好きな方には混乱させてしまうかもしれませんが、何卒ご了承下さい。


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十八話 龍造寺隆信の決断

 

 

十月十日、未の刻。

薩摩本国へ帰還してから一週間が経過した。

晩夏の厳しかった薩摩も涼しさがようやく感じられるようになり、昨年と同じく豊作だった故に色濃く実った稲穂を刈り取る民が毎日忙しなく働いていた。

三洲平定を成し遂げた島津家の多忙さも尋常ではない。

薩摩国の内政は順調なんだが、肝付兼続と伊東義祐の治めていた大隅国と日向国の地盤は固いと言えず、国人衆が団結して反乱を起こせば面倒な事になるのは必至である。

その為にも、先の論功行賞があったんだけどな。

俺たちが薩摩へ戻るまでに、歳久様や他の重臣たちと綿密に話し合ったんだろう。少しばかり驚く内容だったが、改めて考えてみると理に適った物だからだ。

肝付城城主に弟君の島津忠将様が。

佐土原城城主にご息女の島津義弘様が。

このお二方に大隅と日向の内政を仕切らせ、尚且つ国人衆に睨みを効かせる役目を与えたのだ。

特にーー義弘様に佐土原城を任せたのは、伊東義祐の援助という大義名分から何時南下してもおかしくない大友家に対する備えでもあった。

 

「先ずは一言申すか。忠棟よ、大義であったな」

 

論功行賞も無事に終わった。

正中から太陽が傾き始めた午後二時、俺は貴久様から唐突に登城を命じられる。

嫁取り話かと憂鬱になりながら内城へ参上。七年前、義久様と貴久様に拝謁した一室にて再び頭を下げることとなった。

上座におられる島津貴久様の横で、島津義久様がまさに蕩けそうな微笑みを浮かべている。

なにこの圧迫面接。

今回はご祖父様がいないんですけど。

七年前より信頼されるようになったという事か。

でも油断ならない。

俺は伊集院忠棟。

島津から『逆臣』と罵られた男なんだから。

閑話休題。

貴久様の言葉に恭しく答える。

 

「はっ。有難き幸せに御座りまする」

「まさか真に三洲平定を成し遂げれるとは」

「殿が肝付兼続の本隊を押し留め、義弘様が三日で佐土原城を陥落させ、義久様が総大将として日向平定に尽力したからでありましょう」

 

俺は義久様の武功を立てる事を忘れない。

その意図に気付いたのか、貴久様は二度ほど頷いてから口を開いた。精悍な顔付きをしてるから凄く様になっているんだよなぁ。

 

「その戦絵図を描いたのは他ならぬお主よ。忠倉も申しておったぞ。お主は謙遜が過ぎるとな」

「そうよ〜。源太くんのお陰なんだから」

「なんと勿体なきお言葉」

「しかし、よ。恩賞が金子だけで真に良かったのか?」

 

貴久様が間髪入れずに尋ねた。

前々から疑問に思っていた事なのだろう。

不義を追及するような圧迫感など微塵もなく、ただ純粋に何故と思っている様だった。

隣で義久様も小首を傾げている。うん、可愛い。

 

「無論です。私は義久様の一家臣であります故に領地など無用かと。他人に誇れる武勇もありませんので名刀を戴いた所で宝の持ち腐れとなりましょう。なれば金子だけで充分であると判断致しました」

 

未だ貴久様の陪臣である身。

恥ずかしながら武勇など誇れる欠片もねぇ。

なら自由に扱える金子だけでいい。

腹心と呼んでも過言じゃない百地三太夫。新たに雇った忍衆。何故か護衛だと言い張る東郷重位。大友家との決戦など、大量に使う予定があるからな。

貴久様はやれやれと肩を竦める。

 

「まったく。欲のない男よな」

「欲に駆られて自分を見失う愚を避けたまでで御座りまする」

「ーーまぁ、良い。本題に移ろうぞ」

「本題、でありますか?」

「源太くんの嫁取り話の事かしら?」

 

折角濁そうとしたのにさ。

どうして義久様は興味津々なんですかねぇ

俺の嫁取り話なんて聞いてもしょうがないだろ。

むしろ今年で十九歳となった義久様が危機感を覚えた方が良いでしょうに。姫武将なら婚約しても家督を継いだままでいられるんだから。

 

「当然それもある。だが、先ずはお主の存念を聞こう」

「存念と申されますと?」

 

嫁取りに賛成か反対かの話か。

なら反対である。

女性に対して興味ないんだよ。

島津家が天下を取れるように、一軍師として東奔西走しているだけで充足感が得られるのだ。主君の命令なら嫁取りも受け入れるしかないけど。

いや、だからと言って男が好きなわけないぞ。

そこは勘違いしないようにして貰いたい。

特に川上久朗。

お前に襲われそうになった事は忘れていないんだぞ、この野郎が。

 

「肝付城に忠将を置いたことはどう思うか」

 

予想に反して、至極真面目な問いだった。

にしてもわざわざ聞くことかな。

歳久様たちと話し合って決めたんでしょ。

俺も同じような献策をしただろう。

故に当たり障りの無い言葉で賛同する事にした。

 

「真に素晴らしいかと。未だ肝付家の残党が蠢く土地なれど、忠将様であるなら見事治められるでしょう。一つ献策させて貰えるならば志布志湾の港を拡大すれば宜しいかと愚考する次第」

「ふむ、堺から坊津へ到る海路の途中に拠点を設けるのだな?」

「御意。加えて、大友家と雌雄を決する際に水軍を用いることも容易くなります故。鹿児島港から赴くよりも時間を掛けずに済むでしょうな」

「あいわかった。忠将にも伝えておこう」

「忝う御座りまする」

 

志布志湾は大隅国東岸に面した円弧状の湾だ。

有明湾と呼ばれることもある。

既に港は幾つかあるものの、南海航路を通る船の数からしてみると小さ過ぎた。志布志港を拡張すれば、大隅国も薩摩国に負けず劣らず発展するに違いない。その余地は十二分に存在する。

更に志布志港から水軍を出航させる事が出来るようになれば、大友家との合戦時に大層役立つからな。どうにかして間に合わせて貰いたい限りだ。

 

「では次よ。佐土原城に義弘を置いたのはどう考える」

「英断かと。此度の合戦で最も武功を挙げたお方である義弘様なら、日向の国人衆に睨みを効かせることも、大友家の備えとしても適任であらせられましょうな」

 

佐土原城を落としたのも義弘様だしね。

その類い稀な武勇から正式に『鬼島津』と呼ばれるようになったらしい。御本人はあまり嬉しそうではなかったが。鬼と呼ばれるのが嫌なんだそうだ。

何はともあれーー。

例え意図しないタイミングで大友宗麟が南下したとしても、義弘様なら島津本隊が到着するまで持ち堪えるだろうからな、うん。

 

「そうか。歳久もそう申しておったぞ」

「お父さん。涙を飲んで弘ちゃんを送り出した甲斐があったわねぇ」

「……その事は言うでない、義久」

「あらあら〜。ごめんなさいね」

 

一瞬だけ貴久様が親の顔となった。

仲の良い親子だと常々思っていたが、どうやら義弘様を内城から離すことに苦心したようだ。

今生の別れでもあるまいに。

それに義弘様以外の三人は内城に残る。

もしかしてーー。

義久様が誰とも婚約していないのは、親馬鹿な貴久様のせいだったりするのか?

いやいや、そんな馬鹿な。

御家断絶の可能性が高まるだけなのに、なぁ。

俺の考えすぎだ。

きっと今後の事を鑑みて、義久様の婚約を渋っているだけに過ぎない。果たして誰が良いのだろうか。家臣が島津の婿養子になる手段もあるけど。

 

「まったく」

 

ごほん、と咳払い。

貴久様は緩んだ雰囲気を元に戻すように言った。

 

「これが最後よ。義久を次期当主にすると改めて宣言したのは聞いておろう。今後、鎌田政年のような輩は減ると思うか?」

「減りますでしょうな。義弘様に及ばずとも、義久様とて大きな武功を挙げました上、改めて次期当主であると殿が宣言なされた事で表立った義弘様擁立は無くなると思って良いかと。しかしながら油断は禁物。いずれ家臣の間で派閥ができてしまう可能性は高い事も否定できますまい」

「では如何する?」

「誓詞血判をもって義久様の当主就任を誓わせます。その上で、大友家との決戦で得た武功を携えて当主となられれば大事なく家臣団を統括できると思いまする」

「大友家との決戦、と申したか」

 

如何にも、と答える。

 

「どういうこと〜?」

「はっ。伊東義祐が豊後へ落ち延びた事はお二方もお聞きしておられる事でしょう。大友宗麟は伊東義祐を大義名分として必ずや日向へ南侵してきます。毛利家は尼子家と鍔迫り合いしており、大友家は総力を挙げて攻め降りてくると考えて間違いありますまい。即ち、決戦。この合戦で勝利致しますれば九州平定も見えてきましょうぞ」

 

門司合戦で何故か大友家が勝ってしまった。

戸次道雪と高橋紹運が大活躍したと聞くが、果たしてそれだけで吉川広家と小早川隆景、毛利元就の軍勢を一気に押し返せるのだろうか。

化け物じゃねぇか、戸次道雪。

例に倣って女らしいけど、きっと某女性レスラーみたいな身体つきなんだろうな。

絶対に会いたくない。

滅茶苦茶怖いに決まってる。

雷神の化身、鬼道雪。

どうにかしてこの化け物を北九州に貼り付けときたいんだが、毛利家は尼子家に掛かりっきりだから役立つかわからない。

もしも高橋紹運と戸次道雪が南下してきたら本当にヤバい。下手したら一蹴される可能性だってあるんだ。むしろ五割以上ある。

そのぐらい史実的に見ても凄い武将である。

 

「であるか。現在どのような策を立てておる?」

 

大友家との決戦。

貴久様は顔色一つ変えずに口を開いた。

察していたに違いない。

伊東義祐の豊後逃亡、大友宗麟の南蛮狂い。

この二つから大友家の日向侵攻は容易に推察できるからな。

 

「詳しくは未だ。軍備を再編成し、国力を強化していく他には外交関係なら少しばかり。毛利家と龍造寺家に手を回す必要が御座いましょうな」

 

有馬家と大友家に挟まれている龍造寺家。

島津家から手を差し伸べれば同盟を組めるかもしれない。同盟にならずとも一時的な協力関係は築けるだろう。

しかし、急がねば大友家に飲み込まれる。

貴久様にそう告げようとした矢先の事だった。

機先を制すように貴久様は身を乗り出し、目を輝かせながら尋ねた。

 

「龍造寺、と申したか?」

「はっ。龍造寺が如何致しましたか?」

「お父さん?」

 

あ、嫌な予感が……。

 

 

「これは祝着の極み。忠棟よ、お主の嫁取り話なのだが、実はーーーー」

 

 

 

◼︎

 

 

西肥前に佇む佐賀城。

龍造寺隆信は腕を組み、思案の海に潜っていた。

恰幅の良い体格と身体から発せられる覇気はまさしく戦国大名に相応しい物なのだが、現状、龍造寺隆信は追い詰められている。

彼の歩みは波乱万丈だ。

六年前、大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反により死去してしまう。後ろ盾を失った龍造寺隆信は、龍造寺鑑兼を龍造寺家当主に擁立しようと謀った家臣の土橋栄益らによって肥前を追われた。

筑後に逃れて一命を得るも、再び柳川城主の蒲池鑑盛の下に身を寄せることになった。

それから二年後の事である。

蒲池氏の援助の下に挙兵して勝利。肥前の奪還を果たす。龍造寺鑑兼は隆信妻室の兄なので佐嘉に帰らせて所領を与えた。

その後は勢力拡大に奔走。その過程でかつての主家であった少弐氏を攻め、勢福寺城で少弐冬尚を自害に追い込み、大名としての少弐氏を完全に滅ぼした。

また江上氏や神代氏などの肥前の諸豪族を次々と降す。順調に東肥前にまで手を伸ばそうとした矢先の事、大友家と毛利家による門司合戦が勃発した。

この隙を突いて領土を得ようとしたが、門司合戦に大勝した大友家から思わぬ反撃を食らった上、南肥前を治める有馬家の侵攻を許してしまった。

結果として。

大友家の侵攻は阻止したものの、有馬家に東肥前を占領されてしまった。つまり大友家と有馬家に挟まれた龍造寺隆信は西肥前でひたすらに爪を研ぐことしか出来ずにいたのである。

大友家に臣従するしかないか。

家臣からも飛び出る言葉に苛立ちを覚えつつ、そうする他に道が無いと考え始めた頃、島津貴久が電光石火の三洲平定を成し遂げたと耳に入った。

更に伊東義祐が豊後へ逃れ、大友宗麟が日向へ侵攻しようとする噂も。まさに千載一遇の好機であろう。

龍造寺隆信は島津家へ使者を送った。

その内容は『同盟を結ぼう』という物である。

対大友家の同盟だ。

二つの家は目的が合致している。

しかしーー。

同盟とはただの口約束では意味が無い。

歴とした証拠が必要となる。

島津家は三ヶ国を有する大名家。それに引き換え龍造寺家は西肥前だけに留まっている。

島津四姉妹の誰かを龍造寺隆信に嫁がせるのは難しいだろう。親馬鹿な貴久が認める筈もない。

交渉を続けていけば可能性も高まるだろうが、いつ大友家が西肥前に攻めてきてもおかしくない現状だと、島津家と同盟を結ぶことに時間を費やしたくなかった。

かと言って島津貴久に男児はいない。

ならば、と龍造寺隆信は思いがけぬ提案をした。

島津家も大層驚いただろうが、直ぐに了承の使者が来た。どうやら彼らも龍造寺家と同盟を結ぼうと考えていたようだ。

そこまで現状を振り返ったその時ーー。

自室の外から人の気配がした。

 

「誰ぞ」

「殿、鍋島直茂です」

「うむ。入れ」

「はっ。失礼致します」

 

自室に入ってきた凛とした姫武将。

今年十八歳となった義妹、鍋島直茂である。

武勇に優れ、理知に富み、様々な技能に才を見せて驚かせる龍造寺隆信の懐刀。そして三洲一の美女と名高い島津義久に負けて劣らぬ美貌の持ち主だった。

 

「島津家から了承の返事が来たぞ」

「やはり。彼らも大友家の強大さをわかっているという事でしょう」

 

涼しい顔で答える鍋島直茂。

この程度、読み切って当然だと言わんばかり。

それが頼もしくもあり、そして恐ろしくもある龍造寺隆信は鼻を鳴らしてから答えた。

 

「なれど島津家には大友宗麟を破ってもらわねばなるまい。我々はその隙に肥前一国を平定するのだからな」

 

そして、その先はーー。

己が九州に覇を唱える姿を夢想する。

大友家でも、島津家でもなく。

この龍造寺隆信が九州を制圧するのだと息巻く主君を尻目に、鍋島直茂は姿勢正しく頭を下げる。

 

「心得ております。私の成す役目も共に」

「その意気や良し。後悔せぬな?」

「無論。私とて姫武将。殿の義妹です。いつでも覚悟は出来ておりましたから」

 

姫武将だからこそ政略結婚に使われる。

その急流が自らの元にやって来ただけだと答える鍋島直茂は、感情を殺したような表情であった。

 

「よくぞ申した。島津家との繋がり、お前に任せたぞ」

「御意。……ふふ」

「如何した?」

「いえ、申し訳ありません。ただ……」

 

突然笑った義妹に、龍造寺隆信が訊く。

直ぐに平静な顔へ戻した鍋島直茂は、鈴の音如く涼しげな声に若干ながら嬉しさを携えて続きを口にした。

 

 

 

「私の夫となる伊集院忠棟殿が、果たして噂通りの人物なのか気になってしまったのです」

 

 

 

 






本日の要点。

1、忠棟、大量の金子を確保。

2、龍造寺隆信、現状に八方塞がり。

3、鍋島直茂、伊集院忠棟に嫁ぐ。




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十九話 島津貴久への懇願

 

十月十一日、亥の刻。

論功行賞が終わってから早くも二日。

島津家の有する領土は薩摩一国から三ヶ国へ増大した。合戦で武功を挙げた者たちは主君である島津貴久から直々に新たな領土を与えられた。

彼らは地盤を固める為に一日でも早く内城から発つことに。朝から続々と大隅、もしくは日向に馬足を向けて出立していく。

佐土原城の城主を拝命した島津義弘は手勢を纏める必要がある。故に出立は明後日となった。

島津義久としては助かったの一言。

家族の内だけで話を済ませる為にも、武勇に優れた義弘は無くてはならないものだったからだ。

島津家の本城として栄える内城の一室。

家臣は勿論、女中すら立ち入る事を禁じた。

時間が時間である故、完全に寝静まっている。

そんな中、島津四姉妹は誰一人欠ける事なく部屋に集まった。

呼びかけ人が島津義久だった事に加え、義弘と歳久、そして家久までもどうして集められたのか理解しているからでもある。

蝋燭の火が燃える音だけが響く。

姉妹を集めた義久が口火を切った。

 

「みんな、ごめんね。こんな時間に呼び出して」

 

第一声の謝罪が響く。

私的であり秘密裏に全員を招集した事を恥じている様子だった。次期島津家当主だと誓詞血判をもって確約された長女が頭を下げる。

妹たちは全員が口を揃えて擁護した。

 

「大丈夫だよ、義ねぇ」

「はい。きっとこうなってしまうと予想していましたから。責めることなどしませんよ」

「多分、源ちゃんはわからないだろうけどね」

 

家久の辛辣な言葉に、義久は少しだけ笑った。

 

「そうねぇ。源太くんは気づかないものね〜」

「私の好意もわかってないみたいだしね。衆道に興味があるかと思ったら違ったもん。女の子そのものに興味がないのかな?」

「うーん、どうだろうね」

「忠棟はよくわかりませんから。此度の恩賞でも金子だけで納得するとかあり得ません。普通なら陪臣だとしても、どこか城を貰ってもおかしくないのに」

 

四姉妹それぞれが毒を吐く。

言葉通りの人物なら確かにおかしい。

纏めると、女性に対して全く興味を示さず、しかし衆道も嗜もうとせず、三大名の動きを全て看破してみせた神算鬼謀の報酬に対して『金子だけでいい』と答える無欲ぶり。

常人なら気味が悪いと答えるだろう。

何を楽しみに生きているのか。

それを他者が見て取れない人物は、古今東西通して気味悪がられる立場にある。

 

「そうなると、わたしも弘ちゃんみたいに内城から離れちゃうわね〜」

 

義久がわざと明るく言った。

部屋の空気を変える為に歳久も便乗する。

 

「お父さんに隠居する気が無いのなら別に構わないかと。大友家との決戦に勝利し、九州を平定するならいずれ島津の本城も変えなくてはなりませんから」

「えー。よしねぇまでいなくなるなんて嫌だよ!」

「なーに家ちゃん。別に私はいなくなってもいいの?」

「うっ。そ、そんなこと言ってないよー」

「あはは、ごめんごめん」

 

意地悪な物言いを謝る義弘。

よしよし、と頭を撫でながら思う。

佐土原城へ行けば姉妹と会う機会も少なくなる。こうして話し合うことも簡単に出来なくなるのだと。

四姉妹で仲良く笑い合う日常が崩れ去った。

これも戦国乱世の定め。

領土を拡大していけば必ず通る道だ。

わかっていても、寂しい事に変わりなかった。

 

「弘ちゃんは佐土原城だものね〜」

「うん、城主になっちゃった。でも驚いたわよ、まさかお父さんが日向へ行くのを認めるなんて」

「私が無理矢理認めさせました。弘ねぇが佐土原で日向全土に睨みを効かせる。それが大友家の南下を防ぐ一手として最も効率的でしたから」

 

歳久が貴久を庇うように言う。

確かに、鬼島津と他国を震撼させた義弘が日向入りすれば大友家は警戒するだろう。大友家による日向侵攻の足を少しでも止めておくことができるかもしれない。

だが、そうだと理解していながら貴久は娘と離れることを良しとしなかった。

最後の最後まで反論し続けて駄々をこね、一日掛けた歳久の無限正論に屈服し、遂には涙を飲んで義弘の佐土原城主を認めたのだ。

歳久もやり過ぎたと自覚していた。

だから貴久を庇う形となったのだが、義弘は慌てて手を横に振った。

 

「別に歳ちゃんを責めてないってば。私も城主を体験してみたかったからね。義ねぇより先に経験するのは申し訳ないけど、さ」

「後で身になる体験談を聞かせてねぇ」

「それは私も知りたいです」

「わたしもー!」

「えぇ、みんなもかぁ」

 

義久が気にしてなくて良かった、と胸を撫で下ろしたのも束の間、三人から城主の心得を掴んでこいよと宣告されてしまった義弘は自信なく俯く。

それでも、城主を任されたからには全力を尽くすのが義弘の性根であった。

覚悟したからには元気よく頷いてみせる。

 

「……うん、わかった。頑張ってくるね!」

「あらあら、無理して身体を壊しちゃ駄目よ?」

「身体だけは丈夫だからね、私。それよりーー」

 

言いづらくて言葉を切る義弘。

だが、歳久は淡々とその台詞を引き継いだ。

 

「私が見る限りだと、私たちの中で一番身体を壊しそうなのは義ねぇです。眼の下に隈がありますよ」

「ーーうん、今にも倒れそう……」

「あら〜、そんなこと無いわよ〜」

 

家久は心配そうな表情を浮かべた。

蝋燭の火でもわかる隈の濃さ。

三洲一の美貌と呼ぶに相応しい容姿にも陰りが見える。

ここ二日間まともに寝ていない証拠であろう。

にも拘らず、義久は微笑んで否定した。

それが何だか腹立たしくて、義弘は吠える。

 

「明らかに無理してるってば!」

「……じゃあ、弘ちゃんはいいの?」

 

その返答は、義久が口にしたと思えないほど平坦な声音による疑問だった。

まるで感情を亡くしてしまったかのようで、言い知れぬ恐怖から残りの三人は一様に身体を震わせた。

 

「源太の、こと?」

「お父さんが勝手に決めちゃって、源太くんも特に迷わずに頷いて、わたしたちには一言も相談しないで、それで源太くんにお嫁さんが来ても弘ちゃんは大丈夫なのッ?」

 

恐る恐る尋ね返すと、義久は目を見開いて叫ぶ。

こんな長女の姿は見たことがない。

三人の妹が見てきた義久の人物像は、何時だって冷静で、他人に怒鳴りつけた事がない優しい姫君で、誰からも好かれるような心優しい女性であった。

そんな女性が顔を手で覆い隠して何かを必死に堪えている。

島津家次期当主としてでもなく、島津四姉妹の長女としてでもなく、一人の男性を想い憂う義久の言動に当てられたのか、義弘の口は勝手に動いていた。

 

「変な感想だけどね。私は悔しい、かな。こんな時代だから政略結婚なのも仕方ないけどさ。それでも、私を差し置いて、あいつの事を何も知らない女が源太のお嫁さんになるのは悔しいよ。でも、でもね……お父さんが決めたんだから仕方ないじゃない」

 

島津家の当主は島津貴久である。

如何に島津四姉妹だとしても、当主である貴久の言葉には逆らえない。特に今回は島津家の今後を左右する重大な事柄である。

一個人の都合で変えていいものではなかった。

それが御家を危機に晒すなら尚更だ。

その事を最も理解している歳久が意を決したように告げる。

 

「私が、お父さんに献策しました」

 

義久がおもむろに顔を上げた。

 

「歳ちゃん?」

「龍造寺家と同盟を結ぶ為にです」

「どうして、源太くんを選んだの?」

「それが一番良かったからです。大友家が何時攻めてくるかわからない現状、島津家にしてもすぐに同盟相手が必要でした」

 

淡々と質問に答える歳久。

義久と家久は尚も追及を続ける。

 

「それはわかるわ」

「でも、何で源ちゃんになったの?」

「龍造寺隆信には息子が一人しかいません。強い結び付きの婚姻同盟とするには、私たち四姉妹の誰かが龍造寺隆信の息子に嫁ぐのが一番良いでしょう。しかし、お父さんは決して認めませんでした。龍造寺家もそれをわかっていたと思います。彼らは隆信の義妹である鍋島直茂を島津の重臣に嫁がせると言いました」

「だから、どうして源太にーー」

「お父さんの重臣たちはいずれも正室を持っています。加え、数年後には義ねぇが島津家の当主となるのです。未だに正室も持っていない忠棟に目が行くのは当然でしょう。幸いな事に彼は義ねぇの筆頭家老ですから、向こうもそれで良いと首を縦に振りましたよ」

 

貴久の重臣が鍋島直茂を娶っても良かった。

しかし、数年後には義久が家督を継ぐ上に、次期当主の筆頭家老は誰とも婚約していない。ならば伊集院忠棟を選ぶのが必然である。

現に龍造寺隆信も二つ返事で了承した。

歳久以外の三人もわかっている。

だが、納得できるかと問われれば首を横に振るだろう。

 

「源ちゃんはこれでいいのかな?」

「気にしてないんじゃない。源太ってば変わった様子なんて見せないもん。今日だって部屋に行ったらひたすら紙に何か書いてたしさ」

「何かの策でしょうか?」

「さぁ、どうだろ。でもわかるのは、源太が私たちの事を女として見てない事かな。悔しいのか怒りたいのか、自分でも変な感じ」

 

恋愛感情を抱かれていない。

そもそも島津の姫君としか見られていない。

義久に対しては違う感情があるかもしれないが。

現時点だと、少なくとも島津義弘は恋愛対象の適応外なのだとわかる。本人も認めるほどだ。

だけどーー。

 

「そんなこと、関係ない」

 

忠棟の唯一の恋愛対象かもしれない島津義久が、三人の誰に告げるわけでもなく掠れるような声で呟いた。

 

「へ?」

「義ねぇ?」

「関係ない、とは?」

 

家久が小首を傾げた。

義弘は思わず名前を呼んだ。

歳久は冷静に台詞の意図を尋ねた。

三者三様の反応も無視して、義久は心の内に留めておいた『本音』を口にする。島津家次期当主が口にしてはいけない我が儘を吐き出した。

 

「源太くんがわたしたちの事を女性として見てない事も、この同盟が島津家に必要な事も、今更取り返しが付かないこともわかってるわ。それでも嫌なの。そんなの全部関係ないって、源太くんを誰にも渡したくないって、そう考えてしまうのよ」

 

シンと静まり返る室内。

数秒間、誰も反応しようとしなかった。

誰に合わせるでもなく義弘たちは顔を見合わせてから、まさに驚いたと言わんばかりに感慨深く言った。

 

「本当に、義ねぇ?」

「私も義ねぇじゃないと思いました」

「……うん。初めてよしねぇの我が儘を聞いた気がするよ」

 

そう、これは義久の我が儘だ。

姉妹に対して溢した事のない純粋な欲の塊。

得するのは義久本人だけである。

島津家に仕える家臣たちが困るだけ。

そんな我が儘を、初めて義久は口にしたのだ。

驚き慌てる三人に対して、長女は自ら覆い隠していた殻を破ったかのように快活な笑みを浮かべてみせた。

 

「我が儘……。そうよね、これは我が儘よね。ふふふ、本当に駄目ねぇ。わたしは島津家の当主になるのに。でもね、どうしても源太くんへの想いは捨てられないの」

「私も本当は嫌だから。どうにか出来ないかなってこの二日間ずっと考えてたから義ねぇだけじゃないって」

「義ねぇも弘ねぇもわかっているのですか。これは島津家の将来に影響する同盟です。如何にお父さんの忠棟への私怨が混じっていようとも、内容自体は文句の付けようがありません。それを恋心で壊すなど言語道断。忠棟も喜びませんよ。あの者もわかっているからこそ、何も言わずに了承したのでしょう」

 

早口で捲したてる歳久。

ぐうの音も出ない正論の数々に、義久と義弘は意気消沈してしまう。そこまで言わなくてもいいのに、と長女と次女は同じ事を思った。

 

「う、うん」

「歳ちゃん、厳しいわ〜」

「厳しくありません。正論です。大友家と明日にでも決戦するかもしれない状況で、私心から御家を危険に曝すなど次期当主として紛れもなく失格です!」

「…………はい」

「…………はい」

 

歳久の言葉に頷くしかない。

彼女は何も間違っていないから。

正しい事だけ口にしているのだから。

しかしーー。

家久が何となく口にした一言が、今後の島津家の行く末を、未来を大きく変えた。

 

「だったらさ、よしねぇの我が儘を聞いた上で龍造寺家との同盟が壊れないようにすれば良いんじゃないかなー」

 

義久、義弘、歳久の三人が絶句した。

確かにその通りだからだ。

義久の我が儘を受け入れて、龍造寺家との同盟を断るか。

義久と義弘の想いを切り捨て、龍造寺家と同盟を締結するか。

いつの間にか、この二択に答えを絞っていた。

家久が提示したように『三つ目』の選択肢があったと言うのに。

だが、と歳久は瞬時に悟った。

 

「家久、それは……」

「できるの、歳ちゃん」

 

期待を込めた義久の双眼。

家族に嘘を吐きたくない歳久はゆっくりと首肯した。

 

「恐らくですが、出来るでしょう」

「あら、本当〜?」

「糠喜びさせたくありませんからハッキリ言います。難しいですよ、義ねぇ」

「大丈夫よ。ねぇ、弘ちゃん」

「うん、頑張るから」

「わたしも手伝うね!」

 

どうやら四面楚歌に陥ってしまったらしい。

損な役回りとなってしまったと内心で嘆く歳久は思わずため息を溢してしまった。

 

「はぁ、仕方ありません。一言で説明するとしたら、忠棟が義ねぇか弘ねぇと婚約。その上で島津家に婿養子として迎え入れます。鍋島直茂は側室として、龍造寺家との同盟を締結。義ねぇの我が儘を考慮するなら、これしか方法は無いでしょう」

「え、簡単じゃない?」

「うん。すごく簡単そうー」

「弘ねぇに家久まで……。はぁ、義ねぇならわかりますよね?」

「ええ、わかるわ〜。源太くんを島津家に婿養子として迎え入れるにはお父さんの許可が絶対に必要よ。それに、龍造寺家が鍋島直茂を側室とするのに承諾するかどうかわからないもの」

「付け加えるなら、義ねぇか弘ねぇのどちらかしか結婚できません。今の所、という冠詞が付きますけど」

「鍋島直茂を大事にしている、と少しでも龍造寺家に示す為かしら?」

「はい。それに厳しいでしょうが、義ねぇの気持ちを鑑みるなら、忠棟の気持ちも酌まないといけないと思います。以上、この四つの条件を満たせるかどうかに掛かっています」

 

一つ、貴久に忠棟の婿養子入りを認めて貰う事。

一つ、義久と義弘のどちらかが忠棟の正室を諦める事。

一つ、龍造寺家との同盟締結に罅を入れない事。

一つ、忠棟が義久か義弘のどちらかに好意を抱く事。

余りにも障害があり過ぎる。

先ず貴久を説得する時点で難易度が高く、島津四姉妹を女性として見ていない忠棟を惚れされる事で難易度は更に跳ね上がり、龍造寺家との同盟に罅を入れずに早期締結しなければならない為にほぼ不可能な地点まで急上昇する有様だ。

歳久ならば間違いなく諦める。

それでも、義久と義弘は立ち上がった。

晴れやかな笑顔を浮かべ、どちらからともなくお礼を口にした。

 

「ーー歳ちゃん、有り難う」

「うん。歳ちゃんのお陰で決心付いたしね」

「よしねぇたち、どこに行くの?」

「まさか、お父さんの所へ行くつもりですか」

「先ずはお父さんから許可を貰わないとね〜」

「改めて考えると無理そうだよね。お父さん、私事だと源太のこと嫌いっぽいし」

「あらあら。それは弘ちゃんが源太くんの事を好きって言っちゃったからよ〜」

「そうだけど。少し早まったかなぁ」

 

戸に手を掛けた瞬間、歳久は三人を部屋から出さないように立ち塞がった。

言って聞かないなら身体を張る行為だ。

普通なら絶対にしないだろうが、御家騒動に繋がる行為なら別である。身命を賭してでも此処を通すわけにはいかなかった。

歳久には島津家を守る義務がある。

次期当主である義久を諌める義務があるのだ。

 

「どうしても、行くんですか?」

「えぇ」

「だから退いて、歳ちゃん」

「大友家を倒してから、龍造寺家との同盟を破棄することも考えられます。その際に忠棟と鍋島直茂の婚約を破棄することも可能です。その時には恐らく義ねぇが当主なのですから」

「わかってるわ〜。でも、もう決めたから」

「忠棟が苦心して潰したばかりの御家騒動の芽を咲かせるつもりですか。あれ程までに義ねぇに尽くした忠棟の働きを台無しにするつもりですか!」

「それを言われると困っちゃうけど、でもきっと大丈夫よ歳ちゃん。お父さんならわかってくれるから」

 

義久は自信満々に言い切った。

いつもの優しい声音で諭すものではない。

島津貴久も家臣に対して行う、絶対的な己の自信を持って相手を納得させる物だ。

武家の当主らしい覇気に満ちた表情。

此処に来てまた成長したというのか、この姉は。

思わず、真に不本意だが、歳久は一歩後ろに下がってしまった。気圧されたと言ってもいい。

 

「何の根拠があってーー」

「だって、わたしがお願いするんだもの」

「私もお願いに行くよ」

「なら、わたしもお願いする!」

 

やはり三人は敵に回った。

それでも歳久は退く事を良しとしない。

彼女にも誇りがある。

義久のような大気が無くとも、義弘のような武勇が無くとも、島津家の内政を任されているという誇りがあった。

 

「…………行かせません」

「歳ちゃん、どうして?」

「少なくとも、私は理によって納得させられるまで手伝いませんから。私は義ねぇの妹ですし、いずれ主君となる義ねぇの行動を諌める義務がありますから」

「そう。なら改めて考えてみて、歳ちゃん」

「何をですか?」

「論功行賞の結果と龍造寺隆信の事を」

「え?」

「源太くんは金子だけを恩賞として受け取ったわよね。これをおかしいと思う家臣がいるのも事実なの。兼盛とか、有川とか。自分たちが今後同等の働きをしても、もしかしたらアレだけしか貰えないんじゃないかなってね」

「確かに、少しだけ耳にしました。しかしアレは忠棟が申し出たこと。お父さんと私は忠棟の意向に則した恩賞を与えたまでです」

「そうね〜。でも、それを事実として鵜呑みにする家臣が少なからずいるのよ。源太くんも悪いけどね〜。働いた武功に匹敵する恩賞を受け取るのも家臣に必要な能力なんだから」

「まぁ、三洲平定で最も活躍した源太の恩賞が金子だけっていうのは少ないよね」

「そう考えると、確かにそうかも!」

「義ねぇは、三洲平定の恩賞として、忠棟を私たち四姉妹の誰かと婚約させることで島津家に婿養子として迎い入れようと?」

「筋は通るわよね〜」

「それは、あまりに稚拙です」

「どうして〜?」

「私たちの誰かを忠棟に嫁がせるならまだしも、島津家に婿養子として迎い入れるのは容認できません。家中から反発を生むでしょう」

「でも、お父さんに男児が生まれていない現状だと誰かを婿養子させるしかないと思うわ〜。それに、源太くんなら大友家との戦で活躍してくれるから大丈夫よ〜」

 

確かに筋は通っている。

家臣の一部、特に加久藤城の合戦に参加した者たちから忠棟の恩賞が少なすぎると不満が出ているのは紛れもない事実だ。

島津貴久は男児に恵まれていない。故にいずれは世継ぎを産むために、誰かが義久と婚約して婿養子に入る事すら何年も前から決まっている事項の一つである。

それが今で、婿養子に入る男児が忠棟であるだけの事。そして伊集院忠棟なら、家中の反発すら無くしてしまいそうな武功を挙げると何故か確信してしまいそうになる。

 

「源太くんが島津家に婿養子として入っても、きっと龍造寺家と同盟を結べるわ〜。例え側室だとしても、対外的にはお父さんの養子になった源太くんの方が家中に対して強い影響力を持てると思うもの」

 

反論出来なくなった歳久は、最後に憂いを無くすために問い掛けた。

 

「家督は、どうするのですか?」

「安心して。島津家の家督はわたしが継ぐ。源太くんに仕えるのも楽しそうだけど、でもわたしと源太くんには夢があるから」

 

夢と口にして、義久は酷く違和感を覚えた。

 

「夢?」

「義ねぇの夢、初めて聞くかも」

「うん。すごく気になる」

「初めて会ったその日にね、源太くんと約束したの。わたしが天下人になるって、源太くんがならせてくれるって。二人で誓い合ったのよ」

 

七年前のあの日。

忠棟と会話した午後、その日の内に意気投合した二人は若さ故の衝動的な誓いを口にした。

島津義久は天下人になると。

伊集院忠棟は主君を天下人にさせると。

京から離れた九州の最南端、薩摩すら完全に平定していなかった島津家の姫君を、伊集院家の麒麟児は天下人にしてみせると豪語した。

あぁ、そうかと義久は違和感の意味を理解した。

忠棟は本気で誓いを果たそうとして、義久は所詮夢なのだと割り切っていたのだ。

ならば、と。

今こそ義久は心の内で考えを改めた。

本気で天下人を目指してみよう。

忠棟と共に、武家の棟梁を目指す。

彼女に必要なのは覚悟と決意だった。

大器はあった。その片鱗も見せていた。

だが、必ずや天下人になるという貪欲さが無かった。島津の為に、自分の為に、家臣たちに指示を下す我が儘が足りていなかった。

それを破ろうと思った。

忠棟の横で共に進む為にも、義久は成長しなくてはならないのだから。

 

「義ねぇ、改めて聞きます。いいんですね?」

「先ずはお父さんを説得だものねぇ」

「そして、龍造寺家と速攻で婚姻同盟の細部を調整しなければなりません。無論、その前に忠棟から気持ちを聞き出さなければなりませんが」

「源太くんに告白するのが一番緊張するわ〜」

「あはは、其処はお父さんを説得するところじゃないの?」

「義ねぇ、一つだけ約束してください」

「うん、なに?」

「絶対にお父さんに対して隠居させたり、暗殺したりしないで下さい。この婚姻同盟は私が主導したもの。私を責めてください」

 

隠居はさせない。

暗殺などとんでもない。

当主として尊敬している上に、肉親としても大好きな父親である。

それに貴久から学ばなければならない事がまだまだ沢山あるのだ。

心配そうな歳久の頭を撫でながら首を縦に振った。

 

「えぇ、勿論。これはわたしの我が儘だもの。御家騒動になんてさせないわ〜。お父さんには言葉だけで説得するつもりよ。例え、簡単に了承してくれなくてもね〜」

「なら、私もお父さんの元へ行きましょう。義ねぇたちだけで、お父さんを説得できるとは思えませんから」

「歳ちゃん、いいの〜?」

「仕方ありません。義ねぇが初めて口にした我が儘ですし、忠棟を島津家に縛り付ける為にも婿養子の件は有効ですし、あの焦った龍造寺家なら側室だとしても了承しそうですし」

「何だかんだで理由付けてるけど、歳ちゃんも源太のこと好きだったりして」

「私は策略家として尊敬しているだけです!」

「ムキになるところが怪しいよねー」

「……家久?」

「ごめんなさい」

 

鋭い眼光に瞬殺される四女。

本気で怖かった、と後に家久は語る。

まるで変な空気を換気するように、義弘は元気よく部屋の戸を開けた。夜間だからか涼しい風が四人を包み込んだ。

 

「取り敢えず行こうよ、お父さんの部屋に」

「そうね〜。今日は眠れないかもね〜」

「まぁ、何とかなるでしょう」

「うんうん。お父様ならわかってくれるよ」

 

 

島津四姉妹は貴久の部屋へ赴いた。

愛娘の突然の来訪に喜ぶ貴久だったが、彼女たちの提案を聞いて、取り敢えず何も考えずに叫んだのだった。

 

 

 

「そんなの嫌だァあああああああああっ!!」

 

 

 






本日の要点。

1、忠棟、鍋島直茂との婚約に意欲的……?

2、島津四姉妹で貴久を説得することに。

3、貴久は断固拒否する模様。


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二十話 島津義弘から贈呈

 

十月十四日、未の刻。

俺は早朝から夕方まで机に向かっていた。

無論、ずっと正座だ。慣れてきた自分が怖い。

三日ほど前から書き殴った紙は十数枚に及ぶ。

これら全ては対大友家に必要な物。九州北部にて鎮座する大大名家を相手取るんだからなぁ。

我ながら無茶というか、鬼道雪が怖いというか。

だが、事態は少しばかり好転している。

龍造寺家と同盟を締結するからだ。

俺こと伊集院忠棟と鍋島直茂の婚約による強い結びつき。それを背景にして推し進める。

貴久様曰く、鍋島直茂はとてつもなく美人だとのこと。我が娘には負けるがな、と平然と付け加える辺り、やはり貴久様は親バカなのだと確信してしまった。

そもそもの話、相手は鍋島直茂だ。

美人だろうが醜女だろうが気にしない。

問題なのは相手が面従腹背の輩だという事。

史実だと、1584年に肥前国にて勃発した『沖田畷の戦い』で龍造寺隆信が島津家久に敗死すると、鍋島直茂は命からがら肥前へ逃げ帰ることに成功。龍造寺政家を輔弼して、勢力挽回に務めようとする。

だが、島津家は龍造寺家の居城である『村中城』を囲んだ。その際に龍造寺隆信の首の返還を申し出されたが受け取りを断固拒否。島津家へ強烈な敵対を示した。

このデモンストレーションの後に島津家に恭順を示したため、龍造寺家はより良い地位を島津家中で得ることができた。

ここまでは別に問題ない。

敵方に降伏するにしても、その後の為に敵方の家中でより高い地位を望むのは至極当然である。

ところがだ。

鍋島直茂は豊臣秀吉に早くから誼を通じていた。島津氏に恭順しつつも、裏では莫大な国力を持つ豊臣秀吉に九州征伐を促した。

この一連の動きを豊臣秀吉は高く評価する。龍造寺氏とは別に所領を安堵し、政家に代わって国政を担うよう命じた程だ。

これこそ面従腹背。

史実から鑑みれば島津家に仇なす人物と言える。

勿論、この世界は色々と異なっている訳だが。

有名武将の殆どが女性へ性転換しているだけに留まらず、姫武将が平然と家督を継ぐ。

最も違うのは武将の生年月日と歴史だろうか。

もうグチャグチャである。見る影もないな。

こう考えると、鍋島直茂に対する警戒心も意味がなくなってしまうかもしれないが、用心しておいて損は無いだろう。

信長の野望でも万能超人だったしな。

下手しなくても、能力は俺より上だろう。

知らず知らずの内に手綱を握られてしまえば、俺が意図せずに島津家へ弓引いてることもあり得る訳で。

うわー。ギスギスした夫婦になりそう……。

龍造寺家と同盟を結べるのは万々歳だけど、これだから婚約は嫌なんだ。

義久様を天下人にするだけでも手一杯だと言うのに。嫁さんと御家存亡を賭けた駆け引きすら行わないといけなくなる。

気の休まる場所を探さなければ。

胃潰瘍にならなければ良いけども、俺。

 

「もういいや」

 

鍋島直茂に対する謀略も考え終えた。

なら後は計画通りに。

それでも無理なら出たとこ勝負で。

猫でも投げれば追い払えるだろう、きっと。

何はともあれーー。

龍造寺家に関してはこの程度で構わない。

残りの外交は毛利家を中心に動く。

俺としては先の戦で種を植え付けた御家に働き掛けに行きたいが、それよりも早く実行へ移さないといけない事があった。

常々行おうと考えていた『金山開発』だ。

この時代、金山銀山の保有は戦国大名の生命線と呼んでも過言ではない程、重要視されている事柄である。

武田信玄は甲斐国で金山開発を熱心に行い、毛利家と尼子家による争いの殆どが石見銀山に関連しているのは有名な話だろう。

豊臣秀吉も全国の金山銀山を直轄地にしていた。

自国から金を生み出す。

それは紛れもなく大きな力となる。

島津家も既に金山を持っているものの、それらの鉱山は歴史に名を残すほど大きな代物ではなかった。つまりは金銀の産出量が少ないのだ。

しかしーー。

俺は知っている。

今はまだ見つかっていないだけで、薩摩国には大量の金が眠っている事を。

菱刈金山は量が量なので除外。

適度な物としては串木野金山だろうな。

史実だと1600年代に見つかった金山で、産出した金の量は国内第四位の56トンにも及ぶ。

狭義には西山坑と芹ヶ野坑を指すが、広義としては芹ヶ野金山、荒川鉱山、羽島鉱山、芹場鉱山などの鉱山群を含めて扱う。

これらの鉱脈群は東西12キロ、南北4キロの範囲に分布。その規模と産出量から鑑みても日本有数の金鉱脈であることは間違いない。

これを開発すれば島津家の経済力は飛躍的に高まる。堺も一目置くだろう。更に貿易船が増えれば言うことなしだ。

今までは家中で俺の発言力もほぼ無く、ここら辺に金山があると思いますと寝言ほざいても、全員から冷笑を食らってお終いだったに違いない。

だが、ようやく発言力が高まった。

恩賞で得た金子を使って調べに行かせた。

歳久様を巻き込めば順調に開発を進められる。

島津四姉妹の内、あの方は最も賢いからな。

まさに一を聞いて十を知る天才。

内政問題を丸投げしても独りで最適解に導いてくれる。

なんにせよ。

冬場も開発すれば来年の夏頃には収支を計算できるかもしれない為、一日でも早く見つけてくれる事を祈るばかりである。

 

「にゃあ」

 

そんな時、俺の膝上に猫が乗った。

可愛らしい鳴き声と雪のように真っ白な毛。

長い尻尾はくねくねと左右に動く。

つぶらな瞳はキラキラと輝いていた。

うん、かーわーいーい。

猫は癒しだ。

アニマルセラピーだ。

平成の日本でも猫を飼ってました。

 

「どうした、ミケ」

「にゃあ」

 

ゴロゴロと喉を鳴らす白猫のミケ。

全身を優しく撫でてやると、殊更嬉しそうに頭を摺り寄せてくる。

なんだこいつ、可愛すぎだろ。流石は猫様だ。

どうして唐突に猫を飼い始めたかというと、実は義弘様が関連していたりする。

昨日、義弘様は佐土原城へ出立した。

見送りに赴いた俺に対し、義弘様はミケを差し出す。突然な猫登場に驚く俺を尻目に、鬼島津様は預かっておいてと口にした。

何故に俺?

尋ねると猫好きでしょ、と返答された。

いや、好きだけどもさ。

だからと言って、義弘様の飼われていた猫を預かるのは気が引ける。しかも一番可愛がっておられた白猫のミケなんですよ。

もしも死なせてしまったら切腹物である。

日向へ連れて行けばいいだろうに。

史実だったら、時間を計る為だとして朝鮮に七匹の猫を持って行ったじゃないか。

そう告げると、義弘様は泣きそうな顔で言った。

 

「私みたいにミケを可愛がってね」

 

よくわからん一言である。

二重の意味が含まれていそう。

だがまぁ、相手は島津義弘様だ。

可愛らしい白猫に心奪われた俺は、特に躊躇せず受け取った。撫でるとにゃあにゃあ鳴いてくれるし文句などある筈も無かった。

すると義弘様は嬉しそうに微笑んだ。

最後にミケを一通り撫でた義弘様はすぐに馬上の人となり、家臣たちを率いて佐土原城へ向かう後ろ姿は後光が差し込むほど晴れ晴れとしていた。

 

「義弘様はどうしてお前を俺に預けたんだろうなぁ。わかるか、ミケ」

「にゃあ」

 

むしろわからんのか、このボケぇ。

そんな返事だったのか、右手で軽く猫パンチ。

欠片も痛くなかった。

可愛くて悶絶しそうになったが。

夕餉を取るまでミケと遊んでいようかなと邪念に蝕まれそうな俺を現実に引き戻すかのように、外から義久様の声が聞こえた。

 

「源太くん、いる〜?」

「はい、おりますよ」

 

答えた直後、戸を開けた義久様が俺の部屋に入ってきた。相変わらずお美しい方である。

二日前に存在した目の隈も無いことから悩み事は解決したらしい。良かったと一安心する。

ただ気になる事が一つだけ。

生き生きとしていらっしゃるのは何故か。

義久様は良くも悪くも冷静で穏やかでマイペースな方だと認識していたんだが、俺の勘違いだったんだろうか。

 

「そう、良かったわ〜。少し相談したい事があるんだけど大丈夫かしら〜?」

「今日の仕事は午前中に終わらせております。故に問題ありませぬ。何かお困りな事でも?」

「いいえ。それはもう解決したの」

「ほうーー。なれば宜しいのですが」

「大変だったわよ〜。凄く頑固だったから」

 

頑固だったからって……。

掃除でもしていらしたのか?

いやいや、島津のお姫様が掃除なんてするかよ。

誰かを説得でもしていたのだろうか。

次期当主から頑固だと評価される相手って一体誰なんだ。思い当たるのは貴久様だけなんだが。

一応、カマかけてみるか。

 

「相手は殿ですかな?」

「あらあら〜。そうよね、源太くんなら気付くわよねぇ」

「やはり殿ですか。既に解決しておられるなら無用な言葉かもしれませぬが、そういう時は俺をご利用下さりませ。舌鋒は得意で御座りますれば」

「ありがとう。でもね、今回ばかりは源太くんに手伝ってもらえない理由があったのよ〜。家族に必要な話だったから」

 

島津四姉妹と貴久様の会話。

何やら聞いてみたい気もするが、如何に義久様の筆頭家老だとしても主君の家族間に割り込むのは気が引ける。

特に貴久様が許してくれると思わない。

早とちりしてしまった俺は義久様に謝罪した。

 

「確かに、家族間の話に割って入ることはできませぬな。生意気な諫言でした。平にご容赦を」

「ううん。源太くんの言葉は尤もだもの。諫言なんかじゃないわ〜。ところで、源太くんは『あの誓い』を覚えてるかしら?」

 

え、何でそれ聞くの?

不思議に思いつつも即答する。

 

「無論、覚えておりますとも」

 

……若気の至りである。

一生消えぬ黒歴史である。

しかし、忘れたくても忘却できない記憶だ。

何しろ俺の生き様を決めた誓いだったんだから

 

「ーー俺は義久様を天下人とします」

「ーーわたしは天下人となる」

「6年掛けて、少しだけ近付きましたな」

「それは、わたしが本気にしてなかったからよ」

 

自虐した俺を庇うように義久様は言葉を紡ぐ。

 

「わたしは天下人になるわ。古き世を終わらせてみせると、島津義久の名に於いて約束します」

「え、ちょ、な……」

 

義久様が突然なんか宣言したぞ。

しかも何処ぞの大うつけみたいな事まで言った。

信長降臨ですか、全くわかりません。

いずれにしてもーー。

俺は反応できなかった。

頭が混乱してしまうと口も上手く回らない。

その隙を突くように、義久様は間髪入れずに畳み掛けてきた。

 

「だから源太くん、お願いがあるの」

 

あ、何か嫌な予感がする。

具体的に表すなら、鍋島直茂に関して考え抜いた謀略が全て台無しになってしまいそうな、そんな感じの嫌な予感が……!

 

 

「わたしは貴方の事が好きよ。愛してるの。だから婚約してほしいわ。わたしを、源太くんの正室にして下さい」

 

 

そう言って、義久様は頭を下げた。

 

 

 

◾️

 

 

 

その頃、豊後国の臼杵城。

対島津家の戦略を練る戸次道雪がいた。

大友宗麟の考えは変わらない。

伊集院忠棟を叩き潰す決意も不変である。

ならば、来年の夏頃に起きるだろう島津家との決戦に必ず勝たなければ。時間を掛ければ掛けるほど島津家の国力は増大するからだ。

国力は此方が上。戦場は日向となろう。

大友家としては外交を用いて毛利家に背後を突かれぬようにし、全戦力を南下させて速攻で勝負を決する必要があった。

基本戦略は出来ている。

後は肉付けを行うだけなのだがーー。

 

「問題は、忠棟が何をするか」

 

あの者は三洲平定を成し遂げた。

三大名と争うことになった島津家。誰もが南九州に根を張る名家の滅亡を予想した。だが、その下馬評は大きく崩れてしまうことになる。

全ては伊集院忠棟の手によって。

大胆な戦略と基本を押さえた戦術。

二つを噛み合わせて三大名を屠ってみせた。

島津の今士元。

侮る事はできない。

だから、戸次道雪は仮想の忠棟を用意した。

 

「貴方はどう動くのですか……」

 

むしろ自分ならどう立ち回るか。

来る日に向けて国力増大。大友家の背後を脅かす為に毛利家へ外交を仕掛ける。出来る限りの全戦力を日向へ投入。それでも足りない兵数の差は策と指揮によって補うだろう。

その策に関しては凡その見当が付く。

 

「釣り野伏は間違いなく仕掛けてくるでしょう」

 

高い練度を誇る島津兵だから可能な戦法。

だが、有効的な戦術ほど弱点も数多く存在する。

そこを突けば他愛なく破れる。

戸次道雪にとって釣り野伏は脅威にならない。

それよりも伊集院忠棟を確実に『捕らえる策』を立てるべきだろう。

本陣強襲が効果的だが、ただそれだけなら包囲殲滅されるだけ。島津勢を油断させる策を講じてからの方が成功率も高まるかもしれない。

 

「逆に釣り野伏を仕掛けるのも有り、か」

 

戸次道雪の部隊なら練度も充分。

統率力なら鬼島津にも負けていない。

更に、釣り野伏なら忠棟の身柄も狙い易かろう。

 

「角隅殿にも相談するべきですね」

 

思案の海から浮上する戸次道雪。

手慣れた動作で黒戸次ごと移動する。

向かう先は角隅石宗の部屋だったが、その道中にて高橋紹運が慌てた様子で道雪に話かけてきた。

 

「義姉上、ここに居られましたか」

「慌てるなんて貴女らしくないですよ、紹運。常に冷静さを保つように教えたでしょうに」

「申し訳ありません。しかし、一刻も早く義姉上にお伝えしなければならないことができまして」

「何がありましたか?」

 

二、三度深呼吸した高橋紹運。

それだけで心拍数を正常に戻した彼女は、意を決するように告げた。

 

「龍造寺家と島津家が同盟を結ぶようです」

 

なんだ、その事か。

 

「予想の範囲内です。追い詰められている龍造寺と、少しでも劣勢を跳ね除けようとする島津家なら手を結ぶのは必然。特段驚くような事でも無いと思いますが」

「流石は義姉上。他の重臣は驚愕していましたのに」

「合戦に勝つには敵の思考を読むことが肝要。私が忠棟の立場でも同じ事をしたでしょうね」

 

龍造寺家に筑前を攻めさせるつもりか。

そして、少しでも大友家の戦力を分散させるつもりだろう。見え透いた外交政策だが、有効な事に変わりない。

戸次道雪でも同じ手を打った。

だが、次の言葉は彼女の思考を超えていた。

 

「なら、龍造寺隆信の義妹である鍋島直茂が、伊集院忠棟に嫁ぐのも予想していたのですね」

 

なんだ、それは。

 

「お、お待ちを。忠棟が鍋島直茂と婚約?」

「ええ。島津と龍造寺に放っている者たちからの報告だとそうなります」

「そんな、なんていうこと……」

 

慄き震える戸次道雪。

黒戸次を掴む手に力が篭り、頑丈に出来ている筈の車椅子が耐えきれないとばかりに大きな悲鳴をあげた。

 

「あ、義姉上?」

 

高橋紹運は恐る恐る名前を呼んだ。

しかし、戸次道雪は聞こえていないとばかりに俯いた。そのまま十数秒が経過してから唐突に上げた顔は能面のように冷めきっていた。

 

 

「……成る程。これは是が非でも忠棟を捕らえる必要が出来ましたね」

 

 

 

 






本日の要点。

1、忠棟、金山開発に着手する予定。

2、島津義久、古き世を終わらせると宣言。

3、戸次道雪、忠棟を捕らえると息巻く。


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二十一話 島津歳久から激励

 

 

島津歳久は知識人である。

幼い頃から貪欲に様々な知識を吸収してきた。

必要な物と不必要な物。それらを多少なりとも取捨選択したものの、家中でも胸を張って意見を口に出来るほどの自負を持てるようになった。

それでも限界を知っている。

才能という高い壁がある事を知っている。

机を挟んで仕事を行う男に、一度と言わず何度も何度も誇りと自信を砕かれた。

名を伊集院総部助忠棟。

麒麟児と呼ばれた二つ歳上の男は、今日も歳久に溜め息を吐かせた。

それは、忠棟の発する何回目か解らない無茶な提案故の物だった。

 

「金山開発の全権を私に?」

 

薩摩国で新たに発見された串木野金山。

真幸院の戦いによる恩賞で得た金子を用いて、忠棟自身が厳正に選抜したという金山衆によれば、大規模な鉱山である事は間違いないらしい。

ちなみに、金山衆とは戦国時代から江戸時代の初めにかけて,それぞれの掘り場を持ちながら採金業をしていた山師の集団であり,在地武士団でもあった。

 

「歳久様が了承なさってくださるのなら」

 

いずれにしても。

夕暮れに照らされる内城の屋敷。島津貴久の三女に与えられた部屋にて向かい合う男女の姿は相対的であった。

島津歳久は予想だにしない提案に眉を潜めたにも拘わらず、伊集院忠棟は涼しげな表情を保ったまま答えた。

疲れた様子は伺えない。

歳久よりも仕事が多く割り振られている筈だ。

ーー否。現在の所、忠棟は島津家の中で最も仕事をこなしているだろう。砂糖製造、港湾整備、商人接待、軍団編成、遠行外交、その他諸々。それに金山の探索、開発も主導していたのだ。

例え1日に課せられる仕事の量が限られていたとしても、その全てを片付けるには歳久だとしても寝る寸前まで机と向き合う事になるに違いない。

だが、忠棟は夕方となる前には終わらせている。

一度だけ尋ねたことがあった。

どのようにして仕事を進めているのか、と。

すると、忠棟は至極当然のように答えた。

問題点は最初から目星が付いていました、と。

絶句したことを覚えている。

馬鹿げた話だ。参考になど出来るはずもない。

そんな事が可能なのはあなただけだ、と島津歳久は柄にもなく大笑いした。

 

「あなたが発見した金山でしょう?」

「如何にも。しかし、某が愚考いたしますに、此度の案件を完遂なされるとしたら歳久様を於いて他におりますまい」

 

尊敬している者に褒められることは甘美である。

一瞬だけ頬を赤く染めた島津歳久だったが、それを気取られないように、敢えて冷たい声音で返した。

 

「不可解な事を申すのですね。忠棟が主導しなくてどうするのですか。初期の金子もあなたが出したのですから」

「無論、其処は承知致しております」

「ならば何故?」

「万が一、の為で御座りまする」

 

忠棟は伏したまま淡々と答えていた。

それでも最後に言葉を詰まらせてしまう。

原因は何か。考えてみれば簡単な事である。

島津歳久は直ぐに理解した。

そして、少しだけ胸が痛んだ。

 

「なるほど。義ねぇの件ですか」

「やはり、歳久様はご存知でしたか」

 

困ったように苦笑いする忠棟。

その顔をよくよく見てみれば、心身の消耗が僅かながら浮かんでいた。隈も見受けられる。

疲れた様子が伺えないなど嘘八百であった。

人間を観察するのは得意だと自負していたが、まだまだだと自戒を施した歳久は、忠棟と改めて向き直る。

 

「当たり前でしょう。義ねぇと共にお父様へ献策したのは私なのですから。しかし、その様子だと義ねぇへの返事はまだのようですね」

「然り。何分唐突なこと故」

 

外堀を埋めるとか、間接的に事を進めるとか。

どうやら覚醒した様子の長女、島津義久は考え付かなかったようである。

肝付兼盛から『千の準備を施す者』だと称された伊集院忠棟をして、唐突な事だったと言わしめた姉の行動力に思わず気圧されてしまった。

 

「主君から想いを伝えられたのです。何を迷うことがあるのですか?」

「某は義久様に忠義を尽くしております。故に恋仲になろうなど不忠の極み。加え、龍造寺家との同盟に影響を及ぼす事を考慮した次第でありまする」

「それでも、断ることはしなかった」

「矛盾している事は、重々承知致しております」

 

忠棟は眉を潜め、双眸を畳に下ろした。

真に忠誠だけを誓った相手なら、龍造寺家との同盟を最優先としたのなら、何も考えずに島津義久の告白を断るのが筋であろう。

だが、断りもせず、了承もせず、結果を先延ばしとした忠棟は何かを圧し殺すように吐き捨てた。

迷っているのか。

それとも答えは出ているのか。

どちらにしても後一押しが肝要となろう。

歳久は数瞬瞑目した後、ゆっくりと口を開いた。

 

「忠棟の気掛かりは理解できます。だからこそ私から申し上げるのならば、それらは余計な考えであるという事です」

 

忠棟が顔を上げた。

目と目が合う。

交錯した視線が逸れることはない。

 

「何故、と問うても構わぬでしょうか?」

「義ねぇはあなたの忠義を知っています。あなたの性格を知っています。故にあなたが苦悩する事もわかっていました。それでも恋仲に、正室となる事を望んだのです。その想いは、あなたが義ねぇに抱く忠義と何ら遜色ありません」

「…………」

「龍造寺家に関しても気になさらずともよろしいかと。先方も鍋島直茂を側室とすることで既に合意済み。大友家の脅威に晒されているのは龍造寺家とて同じこと。同盟は成ります」

「分かって、おりまする」

 

先の一件から五日。

今朝方、百地三太夫が薩摩へ帰還した。

龍造寺隆信が認めた書状には、島津家の要求を呑む事と出来る限り早急に同盟を成したい事が書かれていた。

残りは忠棟の存念次第。

最初からここが最大の難関だと予測していたからこそ、歳久は島津貴久を説得できた日に龍造寺家へ百地三太夫を派遣したのである。

 

「それでも葛藤しますか?」

 

質問、そして一拍。

忠棟は言葉を選ぶようにして発言した。

 

「容易に折り合いがつきませぬ故。それに、義久様が家督を継ぐとしても、某が島津家当主であらせられる方を娶るのは家中から反発を生みましょうぞ」

「その対策は昨日お伝えしましたが」

「御意。策の有用性も現実性も理に適っていると惚れ惚れ致しました。先の一件、加えてその功績をもって家中の反発を抑えようとするのも実に見事かと」

 

何だろう、この男は。

気落ちしているからか。

人生を左右する悩み事のせいか。

嘘偽りない賞賛の言葉が歳久の胸を貫く。

だらしなく緩みそうになる表情をきつく引き締めた。

何を隠そう、忠棟の褒め称えた策を考えたのは島津歳久だからだ。三洲平定時の戦いぶり、大友宗麟の悪い噂、肥後の情勢などを鑑みた結果、高い確率で成功するのでないかと思い至り、細かく練り上げてから献策したのである。

それは見事、伊集院忠棟の琴線に触れたらしい。

だからこそ次のような台詞を口にしたのだろうから。

 

「歳久様、教えて下さりませ。某は、実利だけを考慮した上で義久様を正室に迎えてもよろしいのでしょうか」

 

忠棟は額を畳に打ち付けた。

成る程、あと少しか。

攻勢を掛けるとしたら此処だろう。

歳久は居住まいを正すと同時に、忠棟へ一歩近づいた。

 

「私なら首を縦に振りましょう。しかし、忠棟。あなたに愛を告げたのは他ならぬ島津義久です。その事を鑑みれば、敢えて聞かずとも答えはわかるでしょう?」

「……御意」

 

苦しそうに紡ぎだす忠棟。

彼の主君、島津義久は心優しい女性である。

領国の発展を願い、家臣を想い、民を慈しむ。

そして先日の一件により、心に一匹の鬼を飼い始めた。天下を手にするべく修羅を得たのだ。

日の本を統べる事の出来る大器の持ち主となった義久だが、二十年来培われた根幹は不変である。

彼女は変わらず愛を求めている。

一匹の鬼を心に置いた女性は、皮肉にも時同じくして手を取り合ってくれる男性を求めた。

ーー本当に、面倒な主従だ。

島津歳久は心の内で苦笑しつつ、おもむろに嘆息した。

 

「はぁ。助言を致しても構いませんか?」

「是非に。是非に頼みまする」

「どのように大切な相手だとしても、傷付ける時はいつか来ます。その事を恐れて二の足を踏んでしまえば、相手をより強く、自分自身すらも傷付けてしまうでしょう」

「心に、深く刻み付けておきます」

「そうしなさい。私のようになりたくなければ」

「歳久様?」

 

最後は小声で付け加える。

忠棟に聞かれぬように。

誰にも己の心を知られぬように。

未だ十五の娘なれど、歳久は先の言葉が真実だと確信している。何故ならば、彼女自身が直に体験した上で得た教訓だからだ。

 

「なんでもありません。義ねぇの件、遅くとも数日以内に決断なさい。さすれば金山開発の件、私が責任を持って完遂させますから」

 

我が事ながら甘いと断じる。

実際、島津の今士元は子供のように表情を明るくさせながら三度頭を下げた。

 

「かたじけのう御座りまする。歳久様に足を向けて眠れませぬ」

「その気持ちだけで充分。早う詳細な情報を」

「はっ。只今お持ちします故、暫し猶予を」

 

慌ただしく部屋を離れる忠棟。

その後ろ姿を眺めた後、歳久は目尻を伝う涙を拭き取り、新たな書状を用意した。

送り先は龍造寺隆信。内容は同盟の件だ。

あの様子なら結果は自ずと見えてくる。

最初からわかっていた。

島津四姉妹の中で、伊集院忠棟が唯一女性として眺めていた者が誰なのかぐらいは。

だがーー。

無意味と知りながら、もしもの未来を考える。そして自己嫌悪に包まれる。

きっと、これから先、何回も何回も同じ事を考えては後悔してしまう事だろう。

それも良い。所詮は裏方にて励むのだから、未練を引き摺りながら歩む人生も一興である。

だから、だから耐えられる。

 

「……義ねぇ。私は、これだけで充分ですから」

 

どうかお幸せになりますように。

 

 

 

 

▪️

 

 

 

 

十月十九日、亥の刻。

二刻も前に夜の帳が降りた秋月の照らす深夜。

俺は内城の一角に建てられた伊集院家の屋敷、その縁側にて一人で酒を嗜んでいた。

小姓もおらねば家人もいない。誰に憚ることなく酒を注いでは飲み干し、酒を注いでは飲み干す事を繰り返す。久し振りに酔いたい気分だった。

どうしてこうなったのだろう。

五日前、義久様から告白されてしまった。

愛していると囁かれた上、正室にしてくれと懇願されてしまった。

無論、好意の片鱗は勘付いていた。それでも何かの間違いだと己に言い聞かせた。主君と恋仲に陥るなど不忠の極み。有り得ない。許される筈もない。家臣団の反感を招くこと必定である。龍造寺家との同盟すら破棄となってしまう可能性だってあった。

聡明な義久様がわかっていないはずない。

つまり、それらの事が現実となったとしても、俺と婚姻を結ぶ事を優先したことになる。

まるで悪夢、質の悪い冗談だ。

一日目は仕事に逃げた。

二日目は猫と戯れた。

三日目は恨み節の貴久様と酒を嗜んだ。

四日目は家久様から励まされた。

そして今日、五日目は歳久様から叱責を戴いた。

 

「そりゃあ、好きだよ……」

 

主君として、女性として。

誰よりも好ましく思っている。

そんなもん当たり前じゃないか。

三洲一の美女と誉れ高く、艶と張りを兼ね備えた見事な双丘。身分に関係なく接する心優しさを持ち、自然と男を立てられる甲斐性すら兼ね備えた奇跡のような女性だぞ。

少なくとも生前の俺なら二つ返事で了承した。唐突に降って湧いた幸運に酔い痴れ、盲目となってしまったかのように義久様だけを見つめ続ける事だろうよ。

だが、今は違う。

身分もあれば、世間の目もある。

好きという二文字を言葉にするだけでも、数多の高すぎる壁を乗り越えなくてはならなくなってしまったんだ。

本来なら断るべきである。

この告白は内々の事として秘密にする。そして俺は鍋島直茂を正室に迎え、義久様は別の男と婚姻を結ぶ。それが正解だ。島津家の発展と天下取りを考えるなら最善手と言えるだろう。

でも、心の片隅でその選択は間違っていると叫ぶ声も聞こえる。

 

「でも、それだけじゃどうしようもないだろ」

 

昼間、歳久様からも言われた。

そろそろ決断しなければならない。

対大友家を見越した龍造寺家との同盟締結に支障が出てしまえば、来年の夏頃を見越した決戦の戦運びが狂ってしまうことに。

此度の決戦だけは何としても勝たなくては。

その為にも主君と家臣の境界を変えず、家臣団と不協和音を生じさせないように努めなくては。

 

だから、俺はーー。

 

「覚悟、決めるしかねぇよな」

 

改めて注いだ酒を一気に嚥下した。

主君である島津義久が望むのは伊集院忠棟との婚約である。例えーー道が細く険しくとも、主君の願いであるなら家臣は応えなくてはならない。

昼間、歳久様から叱責されて気付いた。

大切な人でも傷付けてしまう。

むしろ大切だからこそ傷付けてしまうと。

俺が覚悟から逃げれば義久様は泣くだろう。俺が覚悟を決めたとしても、義久様は苦難の道から泣いてしまうかもしれない。

どちらにしても傷付けてしまうなら、武士らしく前のめりで行こう。

武術はからっきしでも武人としての意地があるからな。

つーかだなぁ。

そもそもな話、俺以外の男があの胸を揉みしだくなど断じて許せん!

 

「あ……。雪さんはどう思うんだろう」

 

ふと、二年前に出会った女性を思い出した。

漆を塗ったような艶のある黒髪に、戦場を知らない白魚のような指は柔らかく、義久様に匹敵する美貌を携えた女性は『雪』と名乗った。

商人の娘として発展著しい坊津へ視察に来たと口にした彼女は、生まれつき下半身不随で車椅子で移動していた。

どういう訳か気に入られて、二日目には遂に酒を注ぎ合い、身を寄り合わせてから互いの悩みなどを語り明かした。

その時、雪さんから言われた。

 

「貴方はこのままだと潰れてしまいます。誰かに肩の荷を譲りなさい」

 

義久様を天下人にすると誓ったのは俺個人の意志である。誰かに譲ってしまうなど言語道断だと首を横に振ると、雪さんは困ったように笑いながら俺の頭を撫でた。

 

「困ったお人ですね。なら私が貴方を認めましょう。だから駆け抜けなさい、納得の行くまで」

 

金勘定しか出来ない餓鬼だと、義久様を惑わす君側の奸だと、島津家を誤った方向に導く莫迦だと特に蔑まれていた時期だったからか、雪さんの激励は今も深く俺の心を勇気付けてくれている。

此処まで直向きに走ってこれたのは、雪さんのお陰でもある訳だ。

堺を拠点としている商人の娘ならいつか会えるだろうか。その時、義久様と婚約できた事の報告と二年前のお礼を述べたい物だ。

 

 

「あはは、意外と近い内に会えたりしてなぁ」

 

 

なんて事を口にしながら、俺は最後のお酒を呷ったのだった。






本日の要点。

1、島津歳久の激励で忠棟の覚悟固まる。

2、忠棟、雪と名乗る女性と接触済み。

3、ただいま!


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二十二話 島津義久との一時

 

 

十一月三日、申の刻。

覚悟を決めれば光陰矢の如し。

九州の最南端に位置する薩摩国でも晩秋に差し掛かり、肌寒い季節となった今日この頃、俺は変わらずに日夜政務に追われていた。

金山開発を歳久様に擦りつけたと言えど、仕事は全く少なくならない。むしろ段々と増えている気がする。

砂糖製造に関しては相変わらず。堺と博多は言うに及ばず、他の主要な貿易港とも直接取引を行い始めてから更に儲ける事となった。

港湾整備は年々落ち着いてきた。坊津と鹿児島の港は、最初の計画通りに区画整理を行ったお陰で片田舎だと蔑まれていた薩摩と思えない程、活気だけでなく整然とした街並みへ成熟した。

商人の接待は順調の一言。

軍団編成は筆舌にし難い。日向方面の軍団は佐土原城の城主であらせられる島津義弘様に一任されているから無視するとして、問題は肥後方面に向ける軍団の編成である。

今後の事を鑑みれば、とにかく俺を認めてくれている武将で固めるべきかもしれないが、そうなると家中の不協和音を増長させてしまう。家を二つに割った内乱が起きる可能性も小さくない。

そうなると、此処は一つ、実績作りと家中統一を同時に行ってしまうのが上策かもしれんなぁ。

遠行外交に関しては一定の成果を得た。二日後に鍋島直茂が薩摩国へ到着する予定だ。これで無事に龍造寺家との同盟は締結される。毛利家にも順次手を伸ばしており、綺麗な献金を行っている事から朝廷や幕府からの島津家の印象は殊更良くなっていたりする。

改めて現在の状況を整理してみると、喫緊の問題は軍団編成のみか。

無論、砂糖製造を増やす為に人手を補充しないといけない上、側室となる鍋島直茂に対する策も考え直さなければならず、一月後に予定している戦の準備も進めていかなくてはならん。

うん、こりゃ仕事も増えるわ。

貴久様が働かなくなったせいでもあるから、半分は俺の責任だけど。

こうなったら歳久様に砂糖製造の件も丸投げしようかな。九州を統一したら様々な事業と改革をするつもりだし、今の内から歳久様の政務能力に頼るのも間違いじゃないんだ!

というかーー。

そろそろ突っ込まなくちゃなぁ。

 

「仕事に戻りませぬか、義久様」

 

机に向かって正座している俺。

その太股に頭を置いている島津義久様。

所謂、膝枕の状態である。

男の膝枕など何が楽しいのか皆目見当も付かないけれど、義久様が穏やかな表情を浮かべているだけで俺の疑問など瑣末ごとに過ぎない。

但し問題点を一つ挙げるなら、義久様の分まで俺が仕事をしていると言う事だろうか。

 

「もう少しだけ、このままで」

 

義久様は縋るように俺の足に手を置く。

主君の余りに可愛らしい仕草に、義久様の絹のような美しく繊細な髪に手を這わせてしまう。

瞑目する三洲一の美女。気持ち良さそうに吐息を漏らす様は昨夜の情景を思い起こさせるに充分な色香を放っており、思わず生唾を飲み込んでしまった。

いやいやーー。

ここで許してしまえば三十分前と同じだ。

心を鬼にして退いてもらうように進言せねば。

 

「四半刻前にも同じ内容をお聞きしましたぞ」

「源太くんが嫌ならしょうがないわね〜」

「嫌という訳ではござらぬ。しかし既に二刻もこの状態であります故、そろそろ足の痺れが限界に達しておる状態で」

 

義久様に退いてもらいたい本当で、最大の理由。

それは尿意が限界なんだよ。

物の見事に膀胱が破裂しそう。

厠で小便を放出しないと病気になってしまいそうな気がする、マジで。

 

「あらあら〜。私と一緒ね〜」

 

にも拘らず、義久様は嬉しそうに微笑んだ。

 

「義久様の場合は足腰でありましょう」

「あらあら〜。昨夜、狼さんに襲われちゃったからよ〜。何回も制止したのに言う事聞かない子だったわ」

「……」

「それで、狼さん。何か弁明はあるかしら〜?」

 

俺と義久様は結ばれている。

十月十九日に覚悟を決めた俺は、善は急げと翌日に義久様へ己の心境を語った。昔から好いていた事、立場と身分から一度は断ろうと思った事、歳久様のお陰で目が醒めた事、これから一生貴女を護る事など。今思い返せば黒歴史の数々である。

だが、義久様は泣いて喜んでくださった。

その後は挨拶回りに明け暮れ、貴久様のご機嫌を取ることに終始し、最終的に祝言の用意は歳久様たちが取り纏めてくれた。

そして昨日、二日掛かりの祝言を終え、待ちに待った初夜を迎えた。前世で初体験は済ませていたものの、絶対に有り得ないと断じていた女性と身体を重ねられると想像しただけで猛り、義久様の制止を振り切って何回もハッスルしてしまった。

その結果がコレである。

朝になっても義久様は足腰に力が入らず、処女を失った際の痛みから政務に支障を来した為、比較的元気な俺が肩代わりしているという事だ。

つまりコレも俺の自業自得だったりする。

 

「……弁明の次第もありませぬ」

「あらあら。そう落ち込まないで、源太くん。怒っているわけじゃないのよ〜。昨夜の事は私も嬉しかったから」

 

あんなに求めてくれて、と続けた義久様の顔は真っ赤に熟した林檎のようだった。

うん、可愛い。歳上に思えない可憐さだ。

時折見せてくれる唯の島津義久としての顔が愛おしくてたまらない。今回の我が儘も、二日後に薩摩へ到着する鍋島直茂に対しての物だろうな。

義久様本人から平等に愛してあげてねと忠告された手前、誠心誠意努力するつもりだが、面従腹背の鍋島直茂相手に無垢な愛情を向ける事ができるかどうか自信などまったくないのだが。

一週間前に、本当にそれで宜しいのですか、と尋ねてみた結果、義久様は静かに微笑むだけで明確に答えてくれなかった。

ーーと。

義久様の真意を図ろうと見つめ続けた所為か、小首を傾げた主君は悪戯でも思い付いたように囁いた。

 

「あらあら。そんなに見つめられると恥ずかしいわ〜。まだお昼だけど、口付けでも、する?」

 

魅力的な誘惑は空気を弛緩させた。

朝から始めた政務は終わりを見せている。

色香に惑わされたからか、尿意も引っ込んだ。

加えて、そんな目尻を下げた蠱惑的な表情を見せられれば我慢など出来るはずも無く、俺は花を摘み取るような感覚で義久様の頬に手を伸ばした。

 

「義久様がよろしければ何時でも」

「もう。駄目よ〜。こういう時は呼び方が違うでしょ?」

「あっ……。すまない、義久」

「はい」

 

よく出来ました、と首肯する義久様。

言葉では義久と呼び捨てに出来るものの、心の中では敬称を辞められずにいる。

きっと、心の底から島津義久の事を己が主君であると認めてしまっているからだろうな。

良い事なのか悪い事なのか。

真剣に思慮すべき事柄であろうとも、眼前に迫る義久様の瑞々しい唇に意識が吸い込まれていく。

駄目だなあ。

意志をしっかり持たないといかんのに。

だけど今は、とにかく義久様との接吻を楽しもうと顔を下げた瞬間の事だった。

 

「にゃあ」

 

可愛らしい鳴き声。

机の上から発した小気味良い音。

顔面にへばりつく白い体毛を持つ動物。

つまるところ『猫』である。

結果として義久様の魅了が解け、瞬時に意識を覚醒させた俺は白猫のミケを顔から引き剥がした。

 

「にゃあ」

 

肉球の付いた手をクイクイと動かしながら得意気に鳴くミケ。

してやったり、と言わんばかりだ。

前々から悪戯好きな面を見せる白猫だったが、最近は俺と義久様の逢瀬を邪魔したりしてくる。

絶妙な感覚で、まるで普段から監視しているように。

そんな姿も可愛いから良いけどさ。

小さな鼻をツンツンと突いても、身動ぎするだけで引っ掻いてこないしな。

嫉妬か、嫉妬なのか。

あははは、可愛いなぁこやつめ。

 

「…………」

 

白猫と戯れることで気付かなかった。

ミケと仲睦まじく遊ぶ俺を、義久様が嬉しそうでいて、それでも困ったように微笑んでいる事に。

 

 

 

 

◾︎

 

 

 

 

 

同じ頃、豊後国の臼杵城。

戸次道雪は不安げな面持ちで空を見つめていた。

昨夜から広がる雨雲は今にも決壊し、秋雨を齎しそうである。それだけなら許容範囲内だ。

しかし、雷鳴でも轟いてしまえばーー。

そんな想像だけでも身体が震えてしまう。

幼少期の精神的外傷は『雷神』と恐れられる戸次道雪すらも無力化する程に残忍で強力であった。

 

「嫌な天気ですね」

「襖を閉めないのですか、義姉上」

 

傍らに立つのは高橋紹運。

普段の凜とした姿は鳴りを潜め、心配そうに義理の姉を見つめる姫武将に対し、戸次道雪は微笑みを返した。

 

「例え一時だけ目を逸らした所で雷が鳴ってしまえば同じ事ですよ、紹運」

「義姉上の仰る事はご尤も。されど心の平穏は得られましょう。無理に雷鳴と向き合う必要はないかと」

「心配には及びません。最近は少しだけ慣れてきたのです」

「…………」

「そのような顔はお止しなさい。紹運、貴女も理解できるでしょう。島津家と干戈を交える日、雷が鳴り響いていたから敗れました、では笑い話にもならない事を」

 

大友家の予定通りに事が進むなら、来年の8月頃に島津家と決戦に及ぶ手筈となっている。

既に梅雨は明けているだろう。

だが、決戦日に雷雨とならない保証など皆無だ。

ならば少しでも雷鳴に慣れておく必要がある。雷に震えて指揮が取れず、大友軍を敗北に導いてしまえば悔やんでも悔やみきれない。

伊集院忠棟の妄執を祓えなければ、死んでも死にきれない。

 

「その時は角隅殿にお任せすればーー」

「島津軍の戦略を練るのは伊集院忠棟です。一瞬の油断もなりません。宗麟様か私、もしくは紹運が全軍の指揮を取らねば大友軍は敗北します」

 

戸次道雪の予測だと、大友宗麟は総大将として軍に参列するも指揮を執ることは無い。現在の様に戦時でも南蛮の宗教にお祈りを捧げるだろう。

そして高橋紹運は筑前か豊前へ派遣される。龍造寺家と毛利家を牽制する為に。角隅石宗も合意済みである。

つまり、日向にて指揮を執る事が可能なのは戸次道雪一人。天候が優れなかった場合、大友軍は島津軍になす術なく蹂躙されてしまう。

 

「義姉上は伊集院忠棟を恐れすぎです!」

 

気弱過ぎる戸次道雪の発言に、高橋紹運は声を荒げた。

大友家は北九州に覇を唱える大大名。短期間で躍進を続ける島津家は脅威かもしれないが、それでも長年北九州に君臨し続けた大友家との国力の差は如何ともし難い物がある。

それは歴とした事実だ。

戸次道雪とて否定するつもりなどない。

 

「ただ恐れている訳ではありませんよ、紹運」

 

黒戸次を強く握り締める。

伊集院忠棟と出逢った事を思い出す。

二年前、晩夏でも特に暑い日であった。

午の刻から強い雨が滴り落ち、雷が荒ぶり、戸次道雪は坊津の片隅で寒さと恐怖から打ち震えていた。其処に現れたのは三人の南蛮人。いやらしい笑みを浮かべ、異なる言語で話かけてきた男たちから逃げるように、戸次道雪は震える手で車椅子を動かした。

しかし、ぬかるんだ道は移動しづらい。

追い付いた南蛮人に腕を掴まれ、引っ張られそうになった時、颯爽と現れたのは利発そうな少年であった。

異国の言語を扱う彼は舌打ちした後、懐から金子を取り出した。南蛮人に投げて寄越した後、速やかに車椅子を押してその場から離れたのである。

その後、彼の知的な発言に興味を惹かれ、黒戸次を改良してもらった。意気投合した末、二日目には戸次道雪からお酒を勧め、結果として伊集院忠棟の苦悩と弱点を知った。

 

「義姉上は門司合戦で大友家を勝利に導いた武将です。九州、いや西国でも義姉上より合戦に秀でた武将はおりません!」

「ふふ、それは過大な評価ですよ」

「ーー決してそのような事は」

「ありがとう、紹運」

 

高橋紹運の言葉を遮るように礼を述べた。

確かに終始毛利軍の有利に進んでいた合戦をひっくり返す事に成功した。大友家だけでなく、まさに『九州一の弓取り』だと称される声も少なくなかった。

それでも西国一は有り得ない。

何故ならーー。

門司合戦で相対した彼女たちは凄まじかった。

国人衆から成り上がった『謀神』毛利元就。

大軍を手足のように動かす『智将』小早川隆景。

高橋紹運と互角に結び合う『猛将』吉川元春。

正直、門司合戦で勝敗をひっくり返せたのは運が良かったから。二者択一で正解を引き当てる事が出来たからだ。

そんな戸次道雪の内情を察したのか、高橋紹運はこれ以上言葉を荒立てようとせずに静かに問い掛けた。

 

「……義姉上は、どうして伊集院忠棟を危険視するのですか」

「彼と二年前に出会っている事は話しましたね」

「はい。言葉を交わした事もあると」

「常人と異なる発想、的確な判断能力、処理能力の速さ、そしてーー目的を達成する為なら己すら殺しかねない危うさ。大真面目に天下を語った時の双眸から、この子は私たちと違う視点に立っているのだと気付きました」

「義姉上は伊集院忠棟に勝ちたいのですか?」

「いいえ。それは違いますよ、紹運」

「ならば何を……」

 

今ならわかる。

あの時、戸次道雪の腕を掴んだのは奴隷商人だ。

雷雨が去ったのは一刻も後のこと。もしも伊集院忠棟が助けてくれなかったら、今頃は遠い異国の地で想像もつかない事を強要されていただろう。

彼は命の恩人である。

道雪が自ら酌をした初めての男性でもある。

そんな彼は、主君を天下人にする為に命を燃やすつもりでいる。幼い頃の約束を果たす為に、全てを引き受けて潰れようとしている。

だからーー。

だから、道雪はーー。

 

「私は、あの者を止めてあげたいのです」

 

否、止めなくてはならない。

そして、最後に交わした約束を果たしに行く。

 

 

「彼を、救ってあげたいのです」

 

 





本日の要点。

1、島津義久と婚約。

2、ラブラブな模様。

3、道雪、弱点を克服中。


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二十三話 相良義陽への砲撃

 

 

十二月一日、肥後国南部。

木枯らしの吹き荒ぶ初冬の夕暮れ時。

俺こと島津忠棟率いる6000の大軍が、相良義陽の居城である『人吉城』を一重二重に取り囲んでいた。

支城である原城に本陣を構えた俺は、各武将に対して、遠巻きに包囲するだけで無理な強攻は絶対にするなと下知した。

人吉城は北側の球磨川、西側の胸川の清流を天然の堀とした上に、東側と南側は丘陵の断崖に堀を巡らせた要害堅固な城である。

丘陵の山頂部に本丸。その西北に二の丸を置き、三の丸と総曲輪も配している。知識としては理解していても、改めて直視する事で、人吉城が丘陵の上に築かれた石垣造りの守り易く攻め難い城であると再認識できた。

人吉城の守兵は約2000。主だった武将は深水長智を筆頭に、上村頼興、赤池長任、丸目長恵等が確認されている。

いずれも相良義陽を支える有能な武将だ。

3倍の兵力を誇ろうとも無理な強攻を行えば手痛い損失を喰らいかねん。

大友家との決戦を考慮すれば、島津兵を無闇に失うわけにいかないからな。一兵でも多く帰還させることが肝要である。

だが、下手に時間を掛けるのも下策。

阿蘇家を始めとした肥後の有力武家に介入されてしまう危険性が高まるからだ。

特に大友家は拙い。ここで日向に南進されては島津家にとって限りなく面倒なことになる。

故に島津軍を三つに分けた上で、対応策を講じる暇も与えない程の速度で進軍させたのだ。

つまり、俺が取るべき上策は一つだけと言えた。

 

「申し上げます!」

 

早速行動に移そうとした途端のこと。

本陣に駆け込むは一人の島津兵。

佐敷城、もしくは鍋城で何かあったのか?

俺は片膝を付いたその者に対し大仰に頷いた。

 

「苦しゅうない。申せ」

「はっ。山田有信殿より報せあり。先日、遂に佐敷城を陥落せしめた由に御座りまする」

 

瞬間、近習たちが喜びの声を挙げた。

流石は山田有信殿である。

包囲して僅か三日で佐敷城を落とすとは。

史実だと、四万の大友軍に包囲された高城を島津家久と共に少ない守兵で護りきった武将として有名だ。しかし、史実よりも十年以上早い三洲平定を成し遂げた為、山田有信ではなく新納忠元が高城の城主となっていた。

大口城から挙兵したのは一週間前。佐敷城を取り囲んだのは四日前。そして落城させたのは昨日。想定より幾らか早い支城陥落の報は、此方の落城を相当楽にさせる事だろうよ。

 

「うむ。味方の被害を知らせよ」

「死傷者の数は100程度に御座りますれば、いつ何時でも1000の手勢を率いて人吉城に進軍可能との仰せです」

「その必要無し。此方もそろそろ終いよ。負傷者の労いを最優先させるようにと山田殿にお伝えあるべし」

「承知仕りました!」

 

負傷者の数は100程度か。

有信殿が率いたのは2000だとすれば、被害の程度としては許容範囲内である。流石に300を超すような死傷者を出してしまうようであれば割りに合わないけども。

客観的な判断として人吉城も陥落間近だ。

有信殿には先に大口城へ帰還してもらおう。

歳久様曰く、論功行賞にて佐敷城一帯を与えるつもりらしいからなぁ。その準備も必要だろうさ。

肥後中部を支配する阿蘇家。その中で最も有能な武将、甲斐宗運に対する抑えの役目を期待しているに違いない。

正直な話、俺も甲斐宗運は怖いです。

 

「さて、残るは人吉城と鍋城か」

 

何にせよ、残る支城は鍋城一つ。

既に人吉城は丸裸も同然と言えよう。

降伏の使者は遣わせてあるが、深水長智の入れ知恵のせいか交渉は遅々として進まない。

此方が譲歩すれば今すぐにでも降伏するだろう。

だが、それは出来ない理由があった。

此度の出兵は俺の実績作りも兼ねている。

相良義陽相手に大幅な譲歩をしたとなれば、家中から舐められること必至。史実よりも譲歩したら俺の負けだと判定して構わない程である。

 

「恐るべき速さと正確さ。これが島津の戦なのですね。この鍋島直茂、感服致しました」

 

傍らに立つ特徴的な緑色の髪を持つ姫武将。

名を鍋島直茂。龍造寺隆信の義妹だ。

そして何の因果なのか俺の側室であったりする。

十一月二十日に祝言を挙げた。

つまるところ初夜は済ませてある。

というか陣中の夜伽は直茂としか出来ないしな。

にも拘らず、俺と鍋島直茂は未だに他人行儀な会話しか行っていなかった。

 

「感服するほどの事でもあるまいて。真幸院の戦いで敗北し、求心力を失った相良家は内乱一歩手前の状態であった。我らはその間隙を突いただけよ」

「その隙を見逃さず、三方から進軍せしめた島津の先見性と柔軟性。加え、他家に介入されぬように情報網を遮断した上、それでもなお速さに固執する様は、相良義陽殿にしてみれば挽回の可能性すら断ち切る所業でありましょう」

 

何故、鍋島直茂が本陣にいるのか。

理由は簡単。彼女たっての願いで相良家攻めに参加させることになってしまったのだ。

人吉盆地の入り口で赤池長任と一戦交えた際も、人吉城の周囲に築かれた支城攻めの時も、俺がどうするか尋ねた直後に最善手を答えてみせた。

これだけでも、史実通り相当な戦略家である事がわかった故に俺の疑惑は大きなっていった。

史実と同じく面従腹背の輩か、と。

有能であれば有能な分、慇懃な態度を取られれば取られる分、俺の疑念が膨らんでしまう事ぐらい察知してそうなものだがな、こいつなら。

歴史知識に振り回されていると理解している。

それでも、こればかりはどうしようもなかった。

だって鍋島直茂怖ぇもん!

俺いらないんじゃねと何度思わされた事か!

万能超人とはよく言った物だ。言い得て妙すぎるだろ!

 

「直茂ならば如何とする?」

「この状況を作られた時点で敗北必然。私なら一戦交えた後に降伏します」

「島津家に己を高く売る為か?」

「御意」

「そもそもな話、お主ならこの状況となる前に手を打っておるだろうに。無用な仮定の話であったな」

「無論、私なら内乱の起きる芽も摘めましょう」

 

謙遜しているのか。

それとも素直なのか。

はたまた何か画策しているのか。

二週間足らずの問答では腹の内など読めん。

身体は交わっても、心は遠く離れている状態だからなぁ。何というか頭が痛くなる。

義久様の言いつけ通り仲良くしたいんだが。

 

「吉報に御座りまするぞ!」

 

やれやれ、と肩を竦めた直後。

人吉城の包囲をしていた肝付兼盛殿が足早に本陣へ参られた。流れるように平伏する。まるで主君へ報告するような動作であった。

兼盛殿とは共に加久藤城を守った間柄である。

義久様を娶り、島津の名を戴いたとしても、俺は変わらずに島津家へ忠誠を誓っている。

つまりは兼盛殿と同じ立場だ。

出来ることなら同等に言葉を交わしたいが、見た目によらず頑固者として知られる肝付兼盛殿は聞く耳持たないだろう。

 

「兼盛殿か。どうか楽にして下され」

 

悠然と胡座でも掻いて下さい、お願いします。

言外に込めた悲痛な願いも、頑固一徹な兼盛殿は首を横に振ることで声もなく却下した。

 

「家久様からの報せによりますれば、鍋城を落とした由に御座ります。現在、2000の島津兵と共に此方へ向かってきているとのこと」

「重畳至極。忠堯殿も無事であらせられるか?」

「付け込みにより一番槍を挙げたと。戦功華々しいと家久様も褒めておりましたな」

「益々結構」

 

新納忠元殿のご子息である新納忠堯殿。

経験を積んでいくほど父親譲りの統率と武勇を誇るようになった島津家でも有数の猛将である。

六年前に起こった岩剣城の戦いで、個人的に蟠りのあった忠堯殿が一番槍となり、華々しい戦功を得たのは有難いことだ。

 

「何はともあれ。これで人吉城と相良義陽殿の命運は切れました。援軍の来ない籠城戦は城兵の士気を際限なく落としていくでしょう」

 

冷静に敵方を分析する直茂。

対照的に兼盛殿は顔を赤くして詰め寄ってきた。

 

「忠棟殿、遂に総攻撃を仕掛けまするか?」

 

相変わらずの目力である。覇気すら感じる。

俺を押し倒そうとした川上久朗の目を思い出して背筋が震えた。

許したけど会いたくねぇ。

義弘様に迷惑かけてないだろうな、アイツ。

 

「否。兼盛殿、それは浅慮という物です」

 

兼盛殿の進言を直茂が否定した。

 

「ならば直茂殿は如何なさるおつもりで?」

「彼らは降伏勧告に応じています。未だ人吉城が落ちないのは交渉が難儀しているだけ。即ち此処で力攻めに移行するのは愚策に等しいでしょう」

「それは我々が譲歩せよと仰せか」

「私ならば譲歩します。その後、時間を掛けて相良家の力を削いでいくでしょう。しかし、旦那様は別の策がお有りの様子。其方をお伺いするべきかと思います」

 

声を荒げる兼盛殿に対し、鍋島直茂は飄々とした態度を崩さぬまま横目で俺を流し見る。

倣うように兼盛殿も視線を此方に移した。

唐突な振りである。勘弁してくれ。

俺の代わりに答えたなら最後まで言い切れよ。

そんな文句を吐きたいが、相良家攻めの最終局面である。無用な問答は時間の無駄だ。相良義陽に考える時間を与えずに、速攻で人吉城を落とすのが上策であろう。

 

「忠棟殿、如何なさるご所存か」

「力攻めは下策。譲歩するのもまた下策なり。時間を掛けず、我々の示す条件で降伏させるのが上策でありましょうな」

「して、その方法は?」

 

先ずは忍衆を用いた情報の浸透だ。

佐敷城と鍋城が陥落した事を人吉城の将兵に遍く知らしめる。士気はがた落ち、内通者も多く現れることだろうよ。

支城を全て落とされ、確実に援軍が来ないと理解すれば相良義陽と深水長智も態度を軟化させるに違いあるまい。

だとしても、大友家の脅威が差し迫っている中、島津家とて長い期間の出兵は嫌がるとわかっている彼らは条件を突き付けてくるのは明白である。

だからこそーー。

取れる選択肢は残り一つだ。

 

「アレを使いまする。本丸に叩き込めば、相良義陽とて降伏に応じましょう」

 

指差す先にあるのは南蛮商人から購入した一品。

日本には存在しない筈の大型火器である。

正式名称は『フランキ砲』。

史実だと、1576年にキリシタン大名の大友宗麟が布教に来たポルトガル宣教師から輸入したとされている。

日本で最初の大砲と言われる代物だ。

輸入された2門のフランキ砲はその大きな威力から『国崩し』と名づけられた。これは敵の国をも崩すという意味であったものの、家中の者はこれが自国を崩すという意味にも繋がるとして忌み嫌ったとも言われる。その後、大友家は島津家に蹂躙されることになったんだから皮肉な話だ。

しかし、大友宗麟の臼杵城篭城の際は、その巨大な砲弾と威力で島津軍を驚かせた挙句、見事退却させたのだから有効な武器であることは否定できまい。

 

「国崩しをお使いになると?」

 

すみません、命名したの俺です。

大友宗麟の代わりに輸入したのも俺です。

この時代だと火縄銃ですら日ノ本全土に浸透していないのだ。大砲の威力と轟音は日本人からしてみたら全く未知数と言える。

九州統一の為に有効活用させてもらうつもりだ。

その手始めに人吉城を攻略してみせようじゃないか。

 

「無論。鑑賞の為に引っ張ってきたつもりは毛頭ござらぬ。兵器は使ってこそ意味を成します故」

「成る程、相分かった。ならば私は人吉城の包囲に戻りましょう。忠棟殿、くれぐれもお味方にお当てならぬように」

「兼盛殿の申すことよ」

 

国崩しの弾は火縄銃と同じ鉛玉。

射程は300から400メートルにも及ぶ。

人吉城から原城まで約300メートルだ。

つまり本陣から斉射しても届く計算となる。

勿論、万全を期して相良兵の弓矢の届かない所からぶちかますつもりだけども。

兼盛殿が本陣から下がるのに合わせて、股肱の忠臣である三太夫を呼んだ。

 

「策の通りに進んでるっぽいね、大旦那」

「当初の手筈より二日早いがな。山田殿と家久様のお陰よ」

「大旦那の場合、時間だけ当てにならないねぇ」

「その事は申すな。俺の力不足に他ならぬ。まさに反省すべき点よ。だが策に変わりなし。俺の頼み事はわかるな?」

「勿論。もう数人の忍を放ってるって」

「相変わらず手回しの良い事だ」

「人使いの荒い大旦那のせいなんだよなぁ」

「金子は充分に払っておろうが」

「休みが欲しいかなぁって」

「阿呆。大友家との決戦が終わるまで無しだ」

「鬼か!?」

「ならばお前は金棒であろうな」

「ーー成る程、それはそれで悪くないかも」

「であろう?」

 

三太夫と小気味良い会話を楽しんでいると、傍らに立つ鍋島直茂から訝しげな視線が飛んできた。

軽薄な不幸忍者から視線を移すと、直茂は気まずそうに咳払いした。

 

「どうした、直茂」

「なんでもありません」

「無用な虚言はいらぬぞ。早う申せ」

「なんでも御座いません」

「うぅむ。お主も強情な奴よな」

「然り。私は可愛げのない女で御座います」

 

少し機嫌を悪くした直茂は押し黙った。

こうなると暖簾に腕押し。

自他共に認める女心に疎い島津忠棟では、女性の機嫌を一朝一夕に回復させる事は出来ない。となれば、取り敢えず鍋島直茂は放っておこう。

今は人吉城を陥落せしめる事が重要だ。

戌の刻に国崩しを喰らわせば降伏しよう。

 

「大旦那」

 

今後の予定を脳内で組み立てる中、三太夫が耳打ちしてきた。

 

「何だ?」

「義女将さんに直女将さんの事、相談したら?」

「義久様に側室のことで相談なんかできるか!」

「変なところで臆病者だなぁ。律儀というか何というか。義女将さんなら笑って流しそうだけど」

「五月蝿い。お主はお主の仕事をせんか」

「はいはい。オレの出番かなぁ、こうなると」

 

音もなく姿を消した三太夫。

なにやら変な事を口走っていた。

頼むから、余計なお節介を企んでくれるなよ。

あの不幸忍者は前科持ちだ。

喉元過ぎれば熱さ忘れるとよく言う。

義久様に無用な事を吹き込まぬように監視しとかなくては。

ーーあれ?

ーー何かこれって。

浮気現場を目撃された旦那みたいじゃねぇか、俺。

 

 

 

 

 

▪️

 

 

 

 

 

十二月一日、戌の刻。

島津忠棟の下知によって発射された国崩し。

それらは人吉城の石垣を越えて、本丸と二の丸を襲撃。屋敷の柱を吹き飛ばす威力、火縄銃を凌駕する轟音から数多の守兵は腰を抜かす。

十門の国崩しは断続的に火を噴いた。

四半刻が経過した頃、遂に相良義陽のすぐ傍らに着弾。直接当たらなくとも、国崩しの衝撃から怪我を負った相良義陽は降伏を決意する。

翌日未明、相良義陽は剃髪した姿で島津軍の本陣に来訪。人吉城を明け渡す代わりに城兵の命を嘆願した。

島津忠棟は相良義陽の願いを快諾。

此処に相良家と島津家の合戦は終わりを迎えた。

島津家は薩摩、大隈、日向に加えて、肥後南部も勢力下に収める。相良義陽は島津家の家臣に組み込まれ、鍋城一帯を与えられることになった。

 

 

 

「隆信様、島津家は貴方様の想像以上にお強い」

 

薩摩へ帰還する最中だった。

宿泊する寺の一室には、今夜の伽を終えた一組の男女が同じ布団で横になっていた。

穏やかな寝顔を浮かべる島津忠棟の頬を撫でながら、相変わらず無表情のままで鍋島直茂は独白する。

 

「果たして、私の策通りに事が運ぶのか」

 

細い指は忠棟の顎を伝い、唇を押した。

 

「お手並み拝見としましょうか、旦那様」

 






本日の要点。

1、伊集院忠棟→島津忠棟。

2、相良義陽に勝利。肥後南部を攻略。

3、鍋島直茂、何かを画策中。


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二十四話 鍋島直茂への提案

 

 

一月三日、未の刻。

人吉城攻略から一月が経過。

無事に新年を迎えられた為、主立った諸将が内城へ集結した。日向国や大隈国からもだ。

島津家当主たる貴久様に新年のご挨拶を申し上げた俺は、その足で弟君であらせられる島津忠将様の下に赴き、志布志港の発展度合いを拝聴した。

未だに肝付家の残党が蠢く大隈国。

その本城、肝付城の城主が忠将様である。

如何に優秀な忠将様と言えど苦労なさっているらしく、様々な助言を求められた為、俺の知り得る限りの対応策を進言させてもらった。

昔から忠将様には助けられているからな。

こういう所で恩返しせねば後に差し支える。

忠将様曰く、今年の6月までに志布志港を島津水軍の拠点となり得る規模にまで発展させてみせるとの事。

頼もしい限りである。

これで兵站の確保と兵士の移動が容易くなる。

大友家との合戦も優位に進める事が出来る筈だ。

それはさて置きーー。

忠将様にまで義久様との関係を弄られるとは。

私は前々からこうなると予知しておったぞ、と高笑いされた時は島津の血って濃いんだなと呆れてしまった。

某の婿入りに反対しないのですかと尋ねると、お主は狐だからなと訳のわからない答えで誤魔化された部分など島津忠良様に瓜二つだった。

俺ってば狐みたいだと思われてんのか?

だとすると徳川家康に勝てっこねぇぞ、俺。

全国各地にある狐と狸の勝負は、その殆どが狸の勝利で終わっている。

狐と狸では格が違うのかもしれんな。

どちらにしろ、徳川家康と相争う前に天下を統一する計画だけども。徳川家は有能な家臣が多過ぎる。酒井忠次とか本多忠勝とか井伊直政とか榊原康政とか!

正面からぶつかり合いたくないです!

 

「お久しゅう御座りまする、義弘様」

 

手炙り火鉢を挟んで対峙するは島津義弘様。

三洲平定の際、最も武功を挙げた島津の切り札。

九州のみに非ず、日ノ本全土でも『鬼島津』と呼ばれて恐れられている姫武将である。

外見だけなら見目麗しい姫君なんだがなぁ。

短く切り揃えられた黒髪は風に靡くだけで甘い香りを散らし、琥珀の双眸は凛々しくも優しげな色を発している。

城主を経験したからだろうか。

身に纏う覇気は自然と頭を垂れさせる力強さだ。

義久様や歳久様、家久様だけでなく、義弘様も日向国で益々ご成長なされているようで、俺としても嬉しい限りである。

 

「もう。源太ってば何も変わってない。義ねぇのお婿さんになったのに相変わらず堅苦しいって」

「何を申されますか。義久様を娶ろうとも某は島津家の一家臣に御座りまする。それよりも日向国の生活は如何に?」

「順調だよ」

 

一家臣云々は無視されたらしい。

いつもの事だから気にしてないけども。

 

「ほう」

「国人衆が大人しくしてる間に色々と進めておかないと。千歯扱きの普及、港の拡張なんかは薩摩にいた頃と変わらないからね」

 

大友家に敗れない限り、国人衆は反発しないな。

佐土原城には義弘様が君臨している上に、高城には新納忠元殿がおられる。

他にも有能な武将を各支城に配置しているんだ。

反発したくても不可能と言えよう。

問題があるとすれば大友家の南進時である。

奴らは機に聡いからな。

一体幾つの国人衆が裏切るのか。

今の内、冷静に見極めておかないといかん。

 

「重畳至極なり。軍備の方はどうなされておりまするか?」

「特に問題ないかな。源太に進言された通り、高城を大増築させてるけど」

「大友家の南下進路を想定すれば、高城は目の上のたん瘤に等しく。必ずや通らねばならない場所にありまする故、前以て堅牢な城に作り変えておく事が決戦の行方を左右すると愚考する次第」

 

近い将来に起こる大友家の南下。

その際、戸次道雪、もしくは高橋紹運が参加してなければ高城の大増築も取り越し苦労で終わる。

だが、念には念を入れておく。

史実と異なり、門司合戦で毛利家に大勝利を収めた大友家と二十年早い肥後南部の平定を終えた島津家による高城の戦いは、史実通りに行かない可能性など九割を軽く越している。

今の内に国崩しを二十門ぐらい配備しておく事も考慮すべきだろうな。

 

「その高城なんだけど、家ちゃんを派遣する事って出来るかな?」

 

南蛮商人から鉄砲と国崩しを買い占めなくては。

様々な事に使っても有り余る金銭の使い道を模索していると、義弘様が火鉢の前で手を擦り合わせながら口を開いた。

 

「家久様を?」

「うん。忠元を信用してない訳じゃないけど、家ちゃんが守将として高城入りした方が良いと思うの」

 

ふむ、成る程な。

心優しい義弘様らしい考えだ。

瞬時に義弘様の思惑を看破した俺は苦笑した。

 

「島津家は絶対に救援に来る、と高城の兵士に知らしめる為ならば効果的でありましょうな」

「えへへ、でしょ。それにお父さんと話し合ったりしたんだけど、家ちゃんもご祖父様の言葉通りに成長してるらしくて。きっと活躍すると思うんだ」

 

島津忠良様のお言葉か。

義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て他に傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり。

まさに慧眼の至りと言えよう。

義久様は総大将として天下を狙える器を持つ。

義弘様は鬼神と崇め奉られる程の武勇を持つ。

歳久様は一を聞いて十を知る知略を磨き上げた。

家久様は俺の想像を超える戦術家となった。

未だ成長途中でありながら、島津四姉妹は期待以上の成果を挙げている。

少しでも俺がその手助けをできていれば幸いである。

 

「相良家との戦でも武功を挙げてましたからな」

 

うんうん、と頷く。

鍋城陥落は非常に助かった。

後に相良殿も、支城を全て落とされたと知った瞬間が最も絶望したと仰っておられたぐらいだ。

ーーと。

相良家という単語を聞いた義弘様は目を細めた。

先程の嬉しそうな笑顔は何処へやら。

能面の如く冷たい表情のまま俺に詰問を始めた。

 

「ーーそういえば聞いたよ。源太ってば、相良家との戦で鍋島直茂を連れて行ったんでしょ?」

「その情報、何処からお耳に入れたのですか!」

「お父さんから」

「…………」

 

あの野郎……ッ。

親バカな姿を見せられても、城下町で酔っ払って潰れている所を介抱してやっても、悪意全開で俺に仕事を多く割り振ってる事を知っても、常に尊敬の念を送り続けた俺を裏切りやがったなッ!?

 

「それだけじゃなくて、事ある毎に直茂の献策を認めたりした事も聞いちゃった」

「そ、それも貴久様からお聞きに?」

「これは別口。誰かは言わないけどね」

 

答えを聞かずとも確信できる。

義弘様に囁いた輩は不幸忍者だ。

東郷重位に密告する理由はない。兼盛殿や有川殿にしても同じ事。小姓や近習は問題外である。

つまり、百地三太夫しか有り得ない訳だ。

人吉城に国崩しを叩き込む直前、何やら不吉な事も呟いていたしな。

見事に状況証拠は出揃ってるぞ。

あの野郎、今度は義久様から義弘様に鞍替えか!

 

「迂闊だよ、源太」

 

平坦な声で咎める義弘様。

普段なら謝罪する場面だが、どうしてなのか俺は言い訳を始めてしまった。

 

「其方ならば如何する、と尋ねたまでに御座りまする」

「相手は龍造寺隆信の義妹。今は同盟を結んだ相手でも此方の手を知らしめるのは危険だって。一流の軍略家らしいじゃない、直茂って」

「ご安心くだされ。偶然にも、直茂の提案した策と某の考えておった策が全て一致していただけに御座りまする。お気に召す必要はないかと」

 

俺と献策が同じなら大した事はない。

いざとなれば対処可能だということだ。

一流の軍略家だと聞いた時は焦ったけどな。

無理して慌てる必要はない。

鍋島直茂の思惑を看破するのは、大友家との決戦に勝利した後でも遅くないだろう。龍造寺隆信とて島津家が大友家に敗れることを良しとしていないのは明白なんだから。

 

「源太の策と、一致してた?」

「御意」

「す、全て?」

「如何にも」

 

にも拘わらずーー。

義弘様は愕然とした面持ちで尋ねてきた。

何をそんなに驚いているのか。

俺は小首を傾げながら即答で返答した。

すると義弘様は顎に手を置いて瞑目した後、唐突に話題を切り替えた。

 

「……そう。仲良くできてるの?」

「政略結婚であります故、心を通わせる事は些か難しく。されど軍略に関する話をすれば盛り上がる時もありまして」

 

隠すように早口となる俺。

だが、ブスッという音が部屋に木霊した。

火鉢に溜まった灰に突き刺さる火箸。それを力強く握る義弘様は、物凄く良い笑顔で問うた。

 

「つまり?」

「……上手くいっておりません」

「義ねぇは何て言ってるの?」

「直茂とも仲良くしてね、としかお聞きしておりませぬ」

「そうなんだ」

 

ため息一つ。

 

「源太ってさ、普段は臆病者だよね」

「武士たる者、常在戦場の心持ちで日々を過ごしておりまれば、臆病風に吹かれた事など一度も御座いませぬ」

「わたしに嘘吐くの?」

「……義久様に相談するのは勘弁してくだされ」

 

男の意地が掛かってる。

主君である義久様を娶った僅か二週間後に側室を戴くとは。加えて、陣中の夜伽も含めれば、交わった回数も同じぐらいという有様である。

こんな状況で義久様に相談なんて出来ようか。

 

「義ねぇは正室でしょ。側室の事を相談しにくいのはわかるけど、相談されない方が相手を傷付けるって」

「面目次第も御座いませぬ」

「まぁ、源太なら仕方ないのかなぁ」

「義弘様の中で、某の人物像が如何なる形となっているか垣間見えた気が致しまするぞ」

「戦場だと頼りになるんだけどね」

「平時では役立たずだと仰せか」

「むしろ女性関係だと役立たずだと思うよ」

「おぉう」

 

辛辣だが的確な一言に反論できず。

俺は火鉢の中の炭をひたすら弄る作業を続けた。

普通の女性が相手なら強気に出れるんだ。

だけどさ。

正室は島津義久様で、側室は鍋島直茂なんだぞ。

尻窄まりするのも致し方ないと思うんですよ。

特に側室の方が問題だ。

真面目なのか、気を許していないのか。

笑ってくれないし、不必要な会話は避けるしな。

 

「ま、現状は理解したから。源太も頑張ってね」

「義弘様なら如何致しまするか?」

「さぁ?」

「そんな殺生な」

「こういうのって自分で考えないと駄目だよ。大丈夫だって。真っ直ぐ向き合っていれば、源太なら直茂の心を掴めるから」

 

力強い一言だった。

何故か罪悪感を覚えてしまう。

実感の込もった台詞のように感じ取れた。

だからなのか、反論も賛成も出来ずに項垂れた。

 

「それならば、宜しいのですが」

 

うん、と義弘様は頷いた。

 

「頑張れ。……ところでさ、ミケはどこ?」

「この時間ならば散歩していると思われます。義弘様がお呼びになれば直ぐに現れるかと」

「了解。じゃあね、源太。佐土原城に戻る前にまたお話でもしよ」

「至極恐悦に御座りまする」

 

立ち上がった義弘様に平伏する。

日向国の現状を知る事ができた上に、少なからず直茂の事で相談もできた。

まさに有意義な午後だった。

最後まで忠臣の姿勢を貫く俺に、義弘様は悲しくも可笑しそうに頬を緩めたのだった。

 

「最後まで堅苦しいんだから、もう」

 

 

 

 

 

▪️

 

 

 

 

 

同日、酉の刻。

夕餉を終えた鍋島直茂は縁側に佇んでいた。

雲一つない清涼な夜空。

内城を燦々と照らす満月。

新春の挨拶宜しく冷たい風が頬を撫でた。

これこそ花鳥風月。自然の美しさに心躍る。

肥前にいた頃は心休まる日などなかった。

有馬家と大友家の脅威から、如何にして主家を守れば良いのか。どのような策を用いて現状を打破すべきなのか。

自然を愛でる暇もなく、恋をする暇もなかった。

生まれてきて初めてであった。

このように心穏やかなまま夜を迎えるのは。

 

「……」

 

薩摩国は安定している。

大隈の肝付家、日向の伊東家、肥後南部の相良家を征伐した今日、島津家の本国たる薩摩を直接的に脅かす存在は一つしかいない。

押しも押されもせぬ大大名、豊後の大友家だ。

だが、直茂の予想からして、彼らの動き出す時期は早くとも今年の夏頃。故に半年間は戦のない平和な一時を過ごせるということになる。

冬は火鉢の側で身体を寄せ合い、春は桜並木の下で愛を紡ぎ、夏は心落ち着く潮騒を聞くことが出来よう。

其処に本当の恋心は存在しない。

鍋島直茂と島津忠棟は仮面を被ったまま。

互いが互いを信用せず、腹を割って話そうともせず、ただ無為に時を過ごすだけなら、心を通わせる事など先ず不可能である。

仕方がないと割り切ることも可能だ。

二人は軍師。そういう生き方しか知らない生き物なのだから。

 

「身体の相性は良さそうですが……。あれは?」

 

ここ一ヶ月の伽を反芻する直茂。

その視界に白い体毛を持つ動物が映った。

長い尻尾をユラユラと揺らして、三角形に似た二つの耳は忙しなく左右に動き、円らな瞳は純真無垢な心を表し、穢れを知らない白い毛は全身を覆っていた。

皆まで言わずともわかる。

可愛すぎる白猫が縁側の脇で毛繕いしていた。

 

「……か、かわいい」

 

直茂は一瞬で心奪われた。

肥前にいた頃から猫は大好きだった。

にゃあ、と鳴いた事は数知れず。その度に無視されること三割。差し出した手を引っ掻かれること七割。まさしく全戦全敗であった。

薩摩国ではお猫様がいても無視しよう。

そんな決心を抱いていたのにも拘わらず、直茂の手は無意識の内に白猫へと伸びていた。

どうせ引っ掻かれる。

もしくは飛び退いて威嚇される。

過去の経験から予知できる結果であるものの、一筋の希望を胸に伸ばした手の平はーー。

 

「え……?」

 

ーー空中を掠めるに終わった。

引っ掻かれたのならわかる。飛び退かれたのなら理解できる。しかし、瞬きを終えるよりも短い間隔の合間に白猫の姿は消えてしまった。

一体なにが起きたのか。

数瞬呆然とした鍋島直茂を、まるで嘲笑うような猫の鳴き声と女性の声が縁側に響いた。

 

「にゃあ」

「ミケったら大人しくて。久し振りに会えて嬉しいのはわかるけど。毛並みも良いし、健康そうだし、ちゃんと源太に可愛がって貰えた?」

「にゃあ」

「そう。良かったね、ミケ」

「にゃあ!」

 

隣に黒髪の女性が立っていた。

白猫を抱き上げたまま、慈愛の笑みを浮かべてその全身を撫で回している。

白猫ーーミケは気持ち良さそうに喉を鳴らした。

呆気に取られた直茂は直ぐに顔を引き締め、手を戻して姿勢を正した。黒髪の女性が何者なのか気付いたからだ。

 

「ご機嫌麗しく、義弘様」

 

佐土原城城主、島津義弘。

島津貴久の次女であり、龍造寺家内部でも第一級の要注意人物として警戒されていた。

鬼島津という異名は伊達ではない。

新年の挨拶時、遠目からでも視認しておいた。

島津義弘の存在も直茂の進退を決定付ける要因なのだから。

 

「こうやって話すのは初めてだね、鍋島直茂殿」

 

義弘はミケを抱えたまま答える。

その目に敵意はなく、悪意の欠片もない。

この出会いは偶然の産物だと発しているようだ。

ーー否。

軍師ならば必然を考慮すべき。

何故わざわざ義弘が直茂の下に参じたのか。

少なすぎる情報の中で理由を見つけようとする鍋島直茂は平伏に近い格好で返答した。

 

「次期当主の妹君と話すなど恐れ多い事です」

「そういう堅い所は源太そっくりなんだ。やり辛いなぁ」

「して、如何ようなご用件でしょうか」

「そうだね。話したい事は山程あるし、誰が聞いてるかわからない場所で話すような事でもないから、ちょっと源太の言葉を借りてみるとーー」

 

一拍。二拍。三拍。

長すぎる沈黙に耐え切れなくなった。

顔を上げた直茂の目に映ったのは、邪気の無い笑顔を貼り付けた義弘が右手の親指で部屋を指している姿だった。

 

「少しの間、顔貸してくれないかな、直茂殿」

「…………今から、でしょうか?」

「あらぁ。何か用事でもあったかしら〜?」

 

背後から訪れる聞き慣れた声。

振り返った直茂の肩に手を置いた島津義久は心優しい笑顔のまま近くの部屋を指差した。

 

 

 

 

「少し、女の子だけでお話しましょう?」

 

 

 





本日の要点。

1、忠棟ヘタレ疑惑。

2、直茂、薩摩国の平穏に心打たれる。

3、義久と義弘から女子会への参加をお願いされる。


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二十五話 島津忠棟への危機

 

 

囲碁を知っているだろうか。

2人で行うボードゲームの一種。

白黒で分けられた二種類の碁石を、碁盤と呼ばれる板へ交互に配置する。盤上に置かれた石は、相手の石に全周を取り囲まれない限りは取り除いたり移動すること能わず。知略が物を言う遊びの一つである。

ゲームの目的は単純明快だ。

自らの石によって盤面のより広い領域を確保することにある。

その発祥は古代中国と考えられている。

2000年以上前から東アジアを中心に親しまれてきた文化と歴史を持つ。

それは日ノ本に於いても同じこと。

平安時代から広く嗜まれ、枕草子や源氏物語といった古典作品にも数多く登場する。戦国期には武将のたしなみの一つでもあり、庶民にも広く普及した。

薩摩琵琶は趣味の一つと言える。

だが、囲碁に関しては徹底的に教え込まれた。

そこに楽しさなどなく、嬉しさなど皆無だった。

だとしてもーー。

幼い頃から心身に深く刻み付けられた理由は、祖父が戦略の重要性を誰よりも理解しているからであった。

 

「……うーん」

 

碁盤を挟んで可愛らしく唸るのは島津家久様。

初めてお会いしてから八年が経過した。

今年で14歳を迎える家久様は島津四姉妹の中でお一人だけ別腹の子なれど、家中を笑顔にさせる天真爛漫な性格で皆から可愛がられている。

僅か13歳にして相良征伐の別働隊を取り仕切った能力は筆舌に及ばず。昼夜問わず学問と武芸に心を砕き、片時も無為に過ごさずにいた結果、義弘様や歳久様に匹敵しそうな文武を、小柄で華奢なその身に宿したのである。

さて、囲碁に集中しよう。

盤面を睨んで唸る戦国最強の釣り師。

既に戦局も終盤だ。

黒と白の碁石が盤上を鮮やかに彩っている。

有利なのは俺。不利なのは家久様。

だが、家久様にとって逆転の目はまだある。

わざとその目を残しておいた。

気付けるかどうかが勝負の分かれ目だ。

これは俺なりの激励であり、試験なんだからな。

 

「…………」

 

家久様は盤面を指差しながら目を数える。

俺は戦術家らしい家久様の姿に苦笑しながら、わざと焦らせるように碁石を複数持ってじゃらじゃらと鳴らした。

申し訳無さそうに肩を落とす家久様だったが、何かを決心したように黒の碁石を一つ掴み、盤上に置いた。

 

「これしか無い、かな」

 

そうか。

やはり其処に置くか。

家久様とてまだまだお甘い。

 

「家久様なら其処へ置くとわかっておりました」

 

瞬間、予め決めていた目に碁石を置いた。

 

「あっーー」

 

囲碁は将棋みたく王手など無い。

相手が降参しなければ対局は続く。

しかし、お互いに囲碁の本質を理解していれば話は別だ。多少なりとも戦局を把握できる者ならば勝敗など容易く判別可能である。

つまりはーーこれでまさしく詰み。

家久様にとっての逆転の目は消失した。

 

「家久様は細かい目に拘り過ぎですぞ」

「だって……」

「盤上の隅を奪えたとしても、敵方に中央を盗られてしまえば呆気なく敗北致します。此度の対局通り。まさしく木を見て森を見ずですな」

「うぅぅ。将棋なら源ちゃんと互角なのに」

「囲碁は戦略、将棋は戦術と申しますからな」

 

当代一の戦術家である島津家久。

必ずしも将棋の力量と直結する訳ではないが、確かに家久様は囲碁よりも将棋の方が向いていると思われる。

初手から始まる予想外の連続。中盤にてようやく定石を展開。そのまま終盤に差し掛かった時の読み合いは13歳の限界値を超えている気がするんだが。

このまま成長なさればどうなるのか。

この世界だと島津家は龍造寺家と同盟を結んでいる為、沖田畷の合戦が勃発する可能性は低いものの、家久様ならば大友宗麟や高橋紹運とかを釣ってくれそうで頼もしい限りだ。

 

「囲碁は戦略なの?」

「御意。ご祖父様のお言葉を拝借するならば、碁盤全体を地図に見立てると一層ご理解しやすいとの事」

「将棋は?」

「将棋盤は戦場と心得なされ。最前列に歩兵が並び、一段後ろに飛車角が睨みを利かし、その背後には外側から香車、桂馬、銀、金と置かれ、中央に玉のある様は、まさに合戦の陣構えそのものでありましょう」

「あ、本当だー!」

 

なんたることかな。

気付いてなかったのかよ。

 

「でもでも。源ちゃんの言いたい事がわからないよ?」

 

家久様は盤上を見下ろしながら小首を傾げた。

生粋の戦術家である家久様だが、これからは戦略も学ばなければならない。三洲に加えて肥後南部すら平定した島津家の武将だからこそ、九州全土や日ノ本全土に展開する戦運びまで考慮した上で戦術を用いる必要性が出てきたのである。

大は小を兼ねる。

用意周到な戦略を戦術で覆すことは不可能だ。

要するにーー。

対戸次道雪の為に、家久様の戦略面を出来る限り磨いておくという訳だったりする。

貴久様が了承した事で、家久様の高城派遣は決定済み。

最初に大友の軍勢と干戈を交えるんだから、その場の戦術に固執して無理して欲しくないしなぁ。

 

「小難しい話となりましょうが、どうか眠らずにお聞き下さいますようお願い申し上げておきまする」

 

囲碁や将棋を差した後、家久様はお昼寝する習性を持つからな。誰が身体を揺さぶっても最低一刻は眠りっぱなしとなる。

故に前以て先手を打っておく。

だが、家久様は憤慨したように頬を膨らました。

 

「源ちゃんってば馬鹿にしすぎ!」

「五日前も某の話を聞かなかったのは誰でしたかな?」

「……ごめんなさい」

「素直なのは大変素晴らしい事に御座りまする」

 

鎧袖一触である。

家久様が静かになった所で説明を始めよう。

戦略には七つの階層が存在する。

一番上から、世界観、政策、大戦略、軍事戦略、作戦、戦術、技術。二十一世紀の日本で書かれた書物だから多少の齟齬が出てしまうものの、人類不変の真理に当てはめれば戦国時代にも適用する事ができる。

世界観とは人生観、歴史観、地理感覚の事。

政策とは生き方、政治方針、意思の事。

大戦略とは人間関係、兵站や資源配分の事。

軍事戦略とは戦争の勝ち方の事。

作戦とは会戦の勝ち方の事。

戦術とはツールの使い方、戦闘の勝ち方の事。

技術とはツールの獲得、敵兵の殺し方の事。

この七つの項目を定めておくことが肝要である。

島津家中で当て嵌めてみると分かりやすいかもしれん。

貴久様と義久様が世界観と政策を決定し、俺と歳久様が大戦略と軍事戦略を模索して、義弘様が作戦を編み出し、家久様が戦術を練る事で外敵を討伐せしめるだろう。

無論、俺が政策に口を出す事もあれば、義弘様が大戦略や軍事戦略に異議を申し立てる事も出てくる。その際は充分に献策を吟味して、お互いに高め合っていければ尚良しである。

 

「だから?」

 

遠回しに説明し過ぎたか。

目を点にする家久様に、俺は苦笑いを浮かべる。

ーー戦略の七階層。

教育の行き届いた現代日本でも、一般人には然程浸透していない戦略概念だからなぁ。

戦国時代だと織田信長が卓越した戦略家だった。

たった一人で自らの取るべき世界観から軍事戦略まで掌握した能力は、戦国時代を終わらせる覇者として君臨するに相応しい物と言える。

個人的な意見を述べるなら、織田信長の恐ろしさは未来を見通したとしか思えない数々の戦略を生み出した点にあると思う。

長篠の戦いによる勝因も三段撃ちとかじゃないしな。決戦の場に武田勝頼を誘き出した計略にあるんだよ。

 

「今すぐに軍事戦略や大戦略を視野に入れろとは申しませぬ。家久様の持ち味は卓越した戦術面にあります故に、それを殺すような真似はお控えあるべし」

「でもでも、戦術だけだと戦略に敵わないって」

「まさしく真理。しかしながら、人には得意不得意が御座りまする。五年、十年掛けて戦略面を学んでいくことこそ肝要。家久様に於かれましては此度の話をお忘れなく、胸に留めておくだけで充分かと」

 

それまでの間、俺か歳久様が手助けすればいい。

義弘様も戦術面にばかり偏っていたが、日向国の情勢などを考慮しなければならない佐土原城の城主を経験したお陰か戦略面にも精通し始めた。

島津家は磐石な物になりつつある。

俺はその手助けをしている事が嬉しくて、誇らしくて、少しだけ悲しかった。

 

「源ちゃんが言いたいのは、その場の勝敗だけに執着しないで、広い視野をもって行動しろって事だよね?」

「如何にも」

「うん。わかった!」

 

家久様が元気よく返事する。

高城へ旅立つのは一週間後か。

今日は永禄三年の三月六日である。

大友家との決戦まで残り半年を切った。

これから忙しくなるだろう。

正念場だ。踏ん張らなくてはな。

 

「じゃあね、源ちゃん!」

「金平糖を食べ過ぎませぬように」

「あ、あんまり食べてないってば!」

 

慌てるように部屋から出て行く家久様。

あの様子だと図星だったな。

甘いからなのか相変わらず大人気である。

金平糖とは表面に凹凸状の突起をもつ小球形のお菓子だ。語源はポルトガル語のコンフェイトらしい。カステラや有平糖などとともに南蛮菓子としてポルトガルから西日本へ伝えられたとされており、初めて日本に金平糖が伝わった時期は1546年だと言われている。

ーーあくまでも史実ではな。

この世界だと俺が作りました。

ただの砂糖よりも売れるから驚いたけど、初めて黒砂糖を作るよりも簡単だったぞ。

義久様から太ったかもしれないという相談事を受ける程度には、島津家の中でも広く流通していると思ってくれて構わない。

 

「鍋島直茂にございます」

 

ーーと。

特徴的な冷涼な声音が襖の外から響いた。

直茂が申の刻に俺の部屋を訪ねてくるなんて珍しいな。

太陽が顔を覗かせる内は、義久様を考慮して部屋に近付かないと口にしていたが、喫緊の用事でも出来たんだろうか。

 

「苦しゅうない。入れ」

「はい。失礼いたします」

 

流麗な動きで入室する直茂。

去年から少し出で立ちが変わっている。

俺好みに変貌しつつあるのは偶然だろうか。

それとも誰かの入れ知恵か。

だとしても誰から聞いたのか見当もつかない。

竜造寺隆信、はたまた鍋島直茂による計略を警戒している俺は個人的な情報を漏らした事など一度もないからなぁ。

ともあれ挨拶から入るとするか。

 

「髪、伸びたな」

「気分を一新させるためです」

「着物の色は青系統に変えたのか」

「侍女に勧められまして。似合いませんか?」

「いや、似合うておる。長い髪も美しい限りよ」

「有難うございます。旦那様から戴くお褒めの言葉は、いつも直茂の胸を穏やかな物としてくれます」

 

無表情で淡々と返されてもな。

新春の頃より雰囲気は柔らかくなっているが、さりとて決定的にお互いの心に踏み込めたわけでもなく、俺と直茂の仲は相も変わらず微妙なものとなっている。

義久様だと髪を褒めれば喜んでくれるのに。

直茂の場合は何だろう。

そこまで考えて、ふと気付いた。

直茂の事、殆ど何も知らねぇんだな、俺は。

 

「して、何用だ」

 

話を戻すとしよう。

所詮は政略結婚の相手だ。

不必要に関係を拗らせなければ構わんだろう。

 

「これは失礼致しました」

「構わぬ。早う申せ」

「旦那様、お時間の程を二刻ほど戴きたいのですが宜しいでしょうか?」

 

政務は朝の内に済ませてある。

家久様と約束していた囲碁の対局も終わった。

酉の刻まで暇なのは確かだ。しかし直茂から誘われるなど驚天動地の事態である為、二つ返事で了承などできなかった。

取り敢えず理由を聞かなくてはな。

 

「理由を述べよ」

「はっ。奥方様がお待ちです」

「なんと。義久様が?」

「はい。今後の事について大事な話があるとか」

「委細承知した。案内せい、直茂」

「かしこまりました」

 

この時、俺は気付くべきだった。

何故、小姓ではなく直茂が呼びに来たのか。

何故、前もって二刻と時間を告げたのか。

何故、義久様の事をわざわざ奥方様と呼称したのか。

幾らでも気付ける点は有ったのに!

 

「義久様、島津忠棟に御座りまする」

「どうぞ〜。入ってちょうだい」

「御意。畏れながら失礼致しまする」

 

初めて義久様と顔を合わせた広間。

上座に腰掛ける義久様以外に誰もいない。

物凄く嫌な予感がする。

首筋にチリチリとした痛みが走った。

ヤバい、これは確定的にヤバい事態になる。

そういえばーー。

鍋島直茂と結婚しろと島津貴久様から宣言されたのも、確かこの部屋だった気がするんですけど!

 

「ん?」

 

全身に絶え間なく走る悪寒。

義久様の手前だ。既に取れる選択肢は一つ。

表情だけは落ち着き払いつつ、俺は下座に移動した。

ーーのだが。

何で直茂が義久様の隣に座ってるんですかねぇ!?

 

「さて、やっと始められるわね〜」

「な、何をで御座りまするか?」

 

嬉しそうに口火を切った義久様。

駄目だ。これ本当に駄目な奴だよ。

出来ることなら今すぐ退室したい限りなんだが。

さりとてそんな願望が叶うはずもなく。

義久様の消えた笑みと共に俺の望みも消失した。

 

「勿論ーー」

 

一拍。

 

 

「夫婦会議よ」

 

 

 

 

 

▪️

 

 

 

 

 

同刻、臼杵城下。

肌を突き刺す冷気が陽気に変わる季節。

戸次道雪に与えられた屋敷の一角で、高橋紹運はひたすらに迷っていた。

義姉上を止めるべきか。

それとも望み通り行かせるべきか。

島津家との決戦は八月頃を予定しているが、不測の事態によって明日にでも陣触れとなる可能性だって少なくない。むしろ大いに有り得るのだ。

 

「諦めなさい、紹運」

「どうかお考えを改めてください、義姉上」

「二ヶ月前から準備してきましたから。今更考えを改めるつもりはありませんよ」

 

角隅石宗は反対した。

安易な行動お控えあるべしと。

戸次道雪は日向南侵時の副将に任ぜられている。

ぐうの音も出ない正論だと言える。

だが、主君たる大友宗麟は賛成した。

むしろ推奨したぐらいである。

表向きは島津家の実情を調べてこいと勇ましく口にしていたが、裏向きでは口煩い道雪がいなくなって清々するといった所だろうか。

 

「もしも明日、日向国に攻めるとなったらどうするつもりですか!」

「その時は諦めて帰ってきますよ。安心なさい、紹運。宗麟様とて日向南侵の重要性はご理解しています。島津家との決戦に敗北すれば、その先に待つのは大友家の衰退、あるいは滅亡であることぐらいは」

「私たちと同じ危機感を抱いてると思いません」

「慧眼ですね。私も同じ意見です。だからこそ私が実情を調べてきたら、宗麟様とて考えを改めると思いませんか?」

 

此方も正論ではある。

だが、紹運が察するに本当の理由は違う。

戸次道雪は島津忠棟に執着している。

才能を畏れると共に、その人柄に惹かれている。

三年前に二人に何があったのか。

紹運は詳しく知らない。知ろうとしなかった。

戸次道雪が此処まで島津忠棟を想っていると気付けなかったから。

此処まで本気なのだとわからなかったから。

 

「留守を頼みましたよ、紹運」

「義姉上、どうかお考え直しの程を」

「無事に戻って参ります。ですから、ね?」

「……もう、義姉上の好きになさりませ」

 

可愛らしく微笑む戸次道雪。

紹運はやれやれと肩を竦めた。

そのまま説得を諦めて、黒戸次を押す役割に。

 

「お気をつけて」

「わかっておりますよ」

 

港へ移動する中、紹運は義姉の安全を祈願する。

だが、その張本人は久し振りに会える想い人の事で頭が一杯なのか、ひたすらに南へ視線を向けていた。

 

 

 

「薩摩はもう、暑いのでしょうか」

 





本日の要点。

1、島津家久に戦略を教授。

2、女子会を経た夫婦会議が開かれる。

3、戸次道雪が薩摩へ来襲。


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二十六話 島津義久との会議

 

 

 

屏風絵は美術品であり、城を飾る装飾品である。

その価値は大内義隆が狩野元信に宛てた発注書から垣間見える。

一双分代、三十五貫文。一貫文はおよそ二石、一石は人が一年間に消費する米の量だ。つまり七十人分の一年間に当たる金額が狩野元信に支払われたことになる。

そしてーー。

戦国時代を代表する絵師集団は狩野派である。

その絵画は、戦国時代以降の大名や武将たちの生活風景になくてはならない存在であった。

九州の南端に位置する薩摩国。そこを支配する島津家の城とて例外ではなく、いつ見ても広間の側面に描かれた質実剛健な障壁画の数々に圧倒されてしまう。

これを描いた狩野松栄は天才だと思う。

史実でも狩野元信や狩野永徳の陰に隠れてしまっているが、この世界だと彼の人柄は温和で善良な人物だった。

史実の様に長生きする事を願っている。

だから、俺が長生きする事も願ってほしいです。

正室と側室から無言で見下ろされている現状、無事に朝日を拝める気がしない。いつまでも黙っている訳にもいかず、意を決して口火を切ることにした。

 

「夫婦会議、で御座りまするか?」

「そうよ〜。最近、源太くんの行動が目に余るもの。直茂も同意してくれたから思わず開いちゃったわ〜」

 

目に余る、とな?

 

「お言葉ながら義久様に異を唱えまする。某の行動が目に余るとは心外の至り。この島津忠棟、島津家発展の為に日夜粉骨砕身努力して政務に励んでおりまするぞ」

 

むしろ最近は忙しいぐらいだ。

政務に関しては滞りなく済ませているけど。

南蛮人から買った鉄砲の数は万を超えた。

三洲平定時に使った兵糧も改めて溜め直した。

触手を伸ばしておいた毛利家から色よい返事も来た。龍造寺家も決戦の時まで無事に持ち堪えられるだろう。

相良征伐の功績で俺の婿養子入りも承認済み。

新納親子とも仲直りした。他の武断派とも気負いなく言葉を交わせる程度には仲を深めたぐらいである。

これに加えて、一月前から工業都市の建設も始めた。

いつまでも馬鹿の一つ覚えみたいに南蛮商人から鉄砲を買う訳にいかない理由がある。

大友家との決戦に勝利した後、肥後すらも平定した暁には溜め込んでいた政策を打ち出していくつもりだ。

その政策には莫大な金銭が必要となる。

正直、今からでも薩摩街道の大々的な整備を行いたい訳なんだが、甲斐宗運が肥後北部から南下したきたら不味いしなぁ。

ーー閑話休題。

義久様は笑顔で手のひらをヒラヒラとさせる。

 

「政務に関しては文句なんてないわよ〜。その時はお父さんと一緒に登城を命ずるわ。夫婦会議だと最初に言ったでしょう?」

「確かに申しておりましたが……」

「旦那様、奥方様は夜の事について申し上げたき議があるとの事。私とて、一月前から幾度ご注進なさろうかと考えておりました」

 

直茂の言葉で理解した。

夫婦会議とはよく言った物だ。

だけど、疑念が一つ膨れ上がった。

何故夜のことを一々話し合うんだろうか?

 

「成る程。伽の事、で御座いますかな?」

「正解。でも、源太くんってば、どうして呼び出されたか見当もつかないって顔してるわね〜」

「ご明察かと、奥方様」

「ご理解致しかねまする」

 

本当にわからない。

あり得る話をすれば、俺が超絶下手なのか。

いやーまさかねぇ。

義久様は別として、直茂は良く気絶するぐらい感じてる。その度に起こしてるけどさ。

もしかして演技だったりするのか?

だとしたら何処まで万能超人なんだ、この女。

 

「そうーー。私、残念だわ〜」

「奥方様、お気を沈めになりませんよう」

「ありがとう、直茂」

「なんと勿体なきお言葉」

 

いつの間にか仲良くなってる。

良いことなんだろうけど、義久様と直茂が結託したら絶対に勝てない気がするのは俺だけか。

 

「伽の最中に失態を犯したならば平伏して陳謝する所存なれど、その詳細を知らない事には話になりますまい」

 

だから早く話して下さい。

言外に叫ぶ俺を眺めながら、義久様は頬に手を当てた。

 

「尤もな意見ねぇ」

「して、某の失態とは如何に」

「二つあるわぁ。一つは仕方ない事だけど」

「ええ。それは生まれつきの物でありますから」

「一体何の話を……」

 

生まれつきって何?

つーか、一つじゃないのかよ。

これも伽に関する事だった場合、俺は直茂の事を見つめ直さないといけない。勿論良い意味で。

意外と人間らしいところがあるじゃないかと。

尤も、ハニートラップの可能性が増えた為に、今まで通り最大限の警戒を行っていくつもりだけどさ。

 

「単刀直入に尋ねるわよ、源太くん」

「御意」

 

真剣味溢れる義久様の声。

反射的に頭を下げる俺こと島津忠棟。

判決を待つ罪人のような心持ちで過ぎる一秒。

あまりに遅すぎる時の流れに苛立ちが募る中、義久様は透き通る声で尋ねた。

 

 

「どうして最近、私と一緒に床に入らないの?」

 

 

撤退しなければならぬ!

少なくとも義久様から直茂に視線を移さねばならぬ!

 

「……直茂、お主が喋ったのか?」

「先程申した通り、初めは旦那様に直接進言しようかと思っていたのですが、先に奥方様からご相談を賜りまして」

「もう半月も源太くんと寝ていないわ〜」

 

いやいやいや!

そんなこと広間で話す事かよ。

誰かに聞かれたら物笑いの種となる。

貴久様のお耳に入ったら殺されてしまうぞ、俺。

 

「こ、声を控えてくださりませ」

「大丈夫よ〜。三太夫くんが忍衆と一緒に部屋の周囲を警戒してるから〜。聞かれる危険性はないわねぇ」

「だからと言って、大声で話す事でもありますまい」

「私に飽きてしまったのかしら〜」

「あぁ、もう!」

 

人の話聞けよ。

頼むから聞いてくれよ。

そして三太夫、お前は何をしてんだ。

豊後国で寺社勢力の内情を調べてこいって言ったばかりだろうが。大友宗麟の南蛮狂いを最大限に活用しないと早期決着は見込めねぇんだぞ!

俺の家臣じゃなくて義久様の家臣になっちまったのか、お前!

 

「旦那様、正直に話すしかないかと愚考します」

「元はと言えばお主の……。いや、義久様に説明しなかった某の失態か」

 

直茂に当たるのはあまりに身勝手。

元はと言えば俺が蒔いてしまった種である。

己で刈り取るのが道理というものであろうな。

説明しなくても義久様ならご理解なさっていると思っていたんだが、もしも不安にさせてしまったなら反省すべきだと思う。

 

「端的にお答えするならば、大友家との戦を鑑みた故に御座りまする。今身籠れば、総大将たる義久様の御出馬が危ぶまれると考えた次第」

「私が総大将?」

「無論。大友家との決戦時、島津軍を率いる総大将は島津家次期当主であらせられる義久様を於いて他になく。義弘様は別動隊の大将となりましょうな」

「島津家の当主はお父さんよ?」

「殿にあらせられましては内城にて北方を睨むご予定に御座りまする」

 

事前に上へ話は通してある。

義久様の総大将就任を最後まで渋っていた貴久様だったが、最後は歳久様の可愛らしいお願い攻撃で呆気なく陥落した。

正論で土台を作り、後は感情に訴える。

交渉の基本とでも言うべきか。

それでも、チョロいなと思ったのは秘密である。

何にせよーー。

義久様が総大将として大友家を撃退しつつ、貴久様が予備戦力を保持したまま薩摩国に残るのは、今後の情勢を鑑みても必要不可欠な配置なのだ。

此処で一気に決めなくては戦後の取り分が少なくなる上に、九州統一とて二年遅くなる計算だからなぁ。

 

「私に武功を挙げさせるって聞いたけど、まさか全軍の総大将だなんて驚いたわ〜」

「ご理解なされたのなら重畳至極」

 

だと思った俺が馬鹿でした。

次は直茂が爆弾を投下してきやがった。

 

「旦那様にお尋ねします。毎夜の如く私の床に参られるのは何故でありましょうか?」

「そうねぇ。私より直茂の方が良いの?」

「確かに私と旦那様の相性は非常に良いものと思われます。だからこそ、毎夜私の床に渡ってくるのでしょう」

「あらぁ、直茂ってば知らないのかしら。源太くんってば胸の大きい女性が好みなのよ〜。初めて会った時もチラチラって見てきたんだからぁ」

「なんと。旦那様は嘘吐きだったのですね」

「嘘吐きって?」

「私の胸をお美しいと褒めてくださいました。大きすぎるのも考えものだと。直茂ぐらいがちょうど良い大きさだと何度も仰って下さいました」

「大は小を兼ねるって言葉、知ってるかしら」

「垂れてしまう物に嫉妬など致しません」

「あらあらぁ。源太くんに聞くのが一番ね〜」

「同意致します。して旦那様、私と奥方様のどちらに夜伽の軍配が上がりましょうか?」

 

勘弁してくれ。

修羅場は御免被る。

さっきまで二人とも仲良かったのに。

義久様は笑顔のままで、直茂は涼しげな表情で睨み合う様は筆舌にし難い物があった。

そもそも直茂から好意を向けられた事なんて一度もないんだが、どうして義久様に対してだけこんなにも敵意を剥き出しにしてるんだか。

離間の計だとしても浅はか過ぎる。

他に何か計略を張り巡らしているとしたら、直茂はなにを狙っているんだろうか。

何はともあれ、一先ず答えを出すしかあるまい。

 

「……義久様、かな」

 

抱いた後の充足感が果てしない。

俺って幸せ者だなと心の底から思える。

だから義久様を選んだ。

当の本人は嬉しそうに何度も頷く。

 

「うんうん」

「……奥方様に勝てずとも致し方無し。されど床に渡る回数は私の方が上ですよ、奥方様」

「そうねぇ。ーー源太くん、主君の命令よ。七日に四日は私と寝る事。いいわよね〜?」

「成りませぬ。もしもお子が出来たら如何致すご所存か!」

「一緒に寝るだけよ〜」

「夜伽はなさらぬと申される訳ですな?」

「えぇ、源太くんが我慢できたらだけどね〜」

「大抵の場合、義久様から押し倒してくるではありませぬか……」

 

意外や意外、義久様は積極的な女性だ。

日頃のマイペースな行動を裏切るように、床の間だと俺は常に主導権を握られっぱなしである。

二つ歳上だから。生涯の主君だから。

様々な理由は考えられるけども、俺個人の意見を述べるとしたら義久様はガチの肉食系女子だと思います。それでいて、お淑やかな部分も持ち合わせているんだから反則的な女性と言えよう。

昼は淑女の如く清楚で、夜は娼婦の如く淫らで。

古今東西、男性が求める妻の在り方を体現したのが島津義久という女性だった。

 

「だって源太くんが可愛いんだもの」

「某とて武士の一人なれば可愛いという表現は屈辱の極みなり」

「ミケと日向ぼっこしてる時とか」

「何故それを知ってーーっ!」

「猫が好きだものねぇ、源太くん」

「好きで御座るが、いつも日向ぼっこしている訳ではなく……」

「ミケにニャーニャー言ってたらしいわねぇ」

「うわぁああああ」

 

誰に見られたんだ。

誰に聞かれたんだよ。

ミケと遊ぶ時は周囲を警戒していたのに。

誰も居ないことを確認してから戯れていたのに。

下手人は誰だ。まさか三太夫なのか。

もしもそうだった場合、減給で済まされねぇぞ。

ーーそれから。

義久様に弄られること四半刻が過ぎた。

羞恥心から顔を真っ赤にして俯く俺と何故か充実感を漂わす義久様の両名を顔色を窺いつつ、今まで口数の少なかった直茂が口を開いた。

 

「奥方様、そろそろもう一つの内容に移っても構わぬでしょうか」

「あらぁ。忘れる所だったわね〜」

「なんとっ。まだあると申されますか」

 

俺の心は既に崩壊寸前だ。

むしろ最早弄る所など無いだろうに。

ご容赦下さいと言わんばかりに平伏する俺。

だが、義久様は相変わらず真意の読めない笑みを浮かべるだけだった。

 

「ふふふ、さっきのは私からの不満だもの」

 

つまり次は直茂の不満か。

 

「旦那様にご意見なさるなど無礼千万だと知りながら、一つ物申したい議が御座います。宜しいでしょうか」

「毒を食らわば皿まで。忌憚なく申してみよ」

 

覚悟は決めた。

義久様の御前である。

直茂とて分別の付いた不満を漏らすに違い無い。

そう思っていた時期が俺にもありましたね、ええ。

 

 

「旦那様は子種がないのですか?」

 

 

なん、だと……?

 

「は?」

「あらまぁ」

「旦那様と身体を重ねること早五ヶ月。未だに懐妊の症状が現れず、もしや旦那様には子種が無いのではと不審に思い、このような場を設けさせてもらった次第です」

「それは困るわぁ。跡取りは必要だもの」

「御意。旦那様に子種が無いのなら由々しき事態です」

「ま、待て。子種がおらぬと決め付けるには時期尚早ではないか。お子が授かるかどうかは運にもよる」

 

慌てて二人の間に割り込む俺。

種無しで有名な豊臣秀吉でもあるまいに。

伽を始めてから僅か五ヶ月だ。

現代だと十年間授からない夫婦もいる。

平均でも子作りを開始して一年ほど掛かるのが妊娠だと聞いた。五ヶ月で子種が無いと決め付けるのは早計の至りだ。

無論、此処は戦国時代。

ヨーロッパの王侯貴族と違い、養子に家督を継がせても構わぬ仕組みと言えども、跡継ぎを産めない女性に向けられる視線は当然の如く冷ややかである。

だから焦っているのか。

俺個人の意見を申すなら、義久様には九州を統一するまで妊娠して欲しくないんだけどな。

 

「旦那様、敵を知り己を知れば百戦危うからずと言うではありませんか。子種がいるかどうか早急に確かめなければなりますまい」

「あらぁ。確かめることができるの、直茂」

「大陸の書物に書かれておりました。一度の伽で八回ほど果てることが出来る男は確実に種を持っていると」

「何ていう書物だ、それは!」

 

聞いたことねぇぞ、そんな検査法!

 

「八回は多いわね〜」

「然り。ですが旦那様には頑張ってもらわねばなりますまい。お子が出来ないとなれば島津家の存続にすら関わりましょう」

「最悪、跡継ぎ問題に発展してしまうもの」

「内乱の原因となりますからね。加えて、頼朝公の頃から続く名家として名高い島津家の血を絶やすのは言語道断です」

 

張り上げた抗議の声すらなんのその。

義久様と直茂の間で話は完結してしまった。

確かに子種がいないのならば由々しき事態だ。義久様に子供が出来なければ跡継ぎの問題も再浮上する。結果として島津家の血を絶やすことになれば、俺こと島津忠棟は史実以上の逆臣と成り果ててしまう。

解決方法は一つだけ。

俺にも子種があると証明する他あるまい。

直茂の申す通りに八回果てればいいんだろ。

 

「ーー頑張らせていただきまする」

「うふふ、なら今日から頑張ってもらおうかしらね〜。今夜は譲ってくれるわよね、直茂」

「奥方様の願いならば。私は明日にでも」

「……二日連続は勘弁してくだされ」

 

俺は肩を落とした。

腹上死しても知らんぞ。

いや、男として幸せな死に方かもしれないが。

さりとて俺は薩摩の武士だ。

伊集院忠倉を父に持つ島津家の武将である。

死ぬとするなら戦場か、主君を天下人へ押し上げた後か。そのどちらかだと決めている。

 

「夫婦会議とやらは、これで終わりですかな?」

 

ともあれ無事に乗り切った。

小姓に頼んで精力の付く食材を手に入れよう。

今日と明日が俺の天王山と言える。

平均で四回。なのに、その二倍である八回。

意識をしっかり保たなければ黒歴史確定事案だ。

何とか回避しなければと既に今夜と明日の夜に想いを馳せる俺だったが、それを嗜めるように義久様は唇を尖らしたのだった。

 

「何を言ってるのかしら〜、源太くんてば」

 

俺の嫌な予感探知機は第六感と呼べる所まで洗練済み。

戦場に於いても役に立つだろう。

実際、赤池長任と干戈を交えた時も働いた代物である。

ある意味レーダー染みた物が最大級の警報を発した。

 

「はい?」

「これは第一回夫婦会議よぉ」

「私と奥方様、それに義弘様、歳久様、家久様と話し合った結果、七日に一度は夫婦会議を開くことに決定致しました。旦那様に関しましては拒否権が無いとのことです」

 

鍋島直茂と島津四姉妹による話し合いって何?

大友家でも軽く潰してしまいそうな面子だけど、その矛先が俺だけに向けられるって何なんだよ一体!

 

 

「弘ちゃんにも幸せになって欲しいものね〜」

 

 

何かを小声で呟かれた義久様。

その隣で何故か顔を伏せる直茂。

絶賛大混乱中の俺は何一つ気付かずにいた。

その事を近い将来、後悔してしまう事となる。

 

 

「婿養子って立場弱いなぁ」

 

 

心の底から溜め息が漏れた。





本日の要点。

1、忠棟に子種なし説浮上。


2、第一回夫婦会議終了(終わるとは言ってない)。




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二十七話 東郷重位との逃避

 

 

 

 

三月十四日、午の刻。

薩摩国の本城として名高い内城に着目する。

隣接する鹿児島港の発展に負けず劣らず拡張していく城下町。砂糖の売り上げと南海航路の中継貿易による莫大な資金を用いて、京の甘美な街並みを知る義久様の知識を組み合わせた結果、南の都とも呼び声高い街が出来上がった。

今日も今日とて騒がしく賑やかである。

坊津と鹿児島に続々と運ばれる明や南蛮からの物品が、大通りを貫くようにして開催される市を大いに盛り上げていた。

だが、時は戦国時代だ。

更に九州の最南端という立地が拍車をかける。

畿内と比べれば国力の源と言える民草は少ない。

加えて、保守的な政策故に今日の発展が限界であろうな。

やはり織田信長を真似るしかないか。

多少なりとも家臣団の反発もあるに違いない。

しかしーー。

大友家の決戦に勝利した武功を盾にして押し切るだけだ。島津家の天下統一に必要不可欠な政策を邪魔するならば俺の敵である。

 

「兄上、怖い顔をなさって如何致しましたか?」

 

隣から掛けられた声で現実に戻った。

驟雨に襲われた俺と東郷重位は雨宿り中だ。

唐突な土砂降りに慌てふためく重位の手を引っ張り、気前の良い坊さんのお陰で近くにあった寺の一室を一時的に借りている最中だった。

二頭の馬は裏手の厩舎に繋いである。

 

「何でもない。気にするな」

 

適当に返答しながら濡れた服を乾かす。

この大事な時期に風邪でも引いたら拙いからな。

もし万が一風邪を拗らせてしまったら物笑いの種になる。

故に綺麗な黒髪を持つ重位にも徹底させて、雷雨が止むまで此処に滞在すると告げてから早くも一刻が経過したが、未だに雨雲は内城の城下町を睨み続けていた。

 

「止みませぬな、雨」

「心配いらん。長くは続くまい」

「川内川の氾濫も気にせずに済みますな」

 

何故か嬉しそうに笑う重位。

川内川とは九州山地の白髪岳南麓を発する一級河川の事である。太古から肥後国を経由して薩摩国を潤す巨大な河川だったが、大雨が降ると度々小規模な氾濫を起こす厄介な面も存在した。

また、加久藤盆地や菱刈平野などで栽培される稲の灌漑の為に多くの用水路が必要となった事が起因して、二年程前から大規模な治水工事が始まったのだ。

これらに必要な金銭等は島津家が工面した。

まさしく現代で呼ばれるところの公共事業だ。

現在でも景気を回復する起爆剤として提案される物である。失業者に仕事を与え、かつインフラ整備によって生産物の向上や流通の促進を図る事ができる。

千歯扱きによる未亡人の失業者は砂糖製造に割り当てた。しかし、農民の次男や三男は、田畑を継いだ長男の手伝いをするだけだ。

島津家飛躍に必要な雌伏の二年間。名誉と金銭を得る為に戦を望む彼らの余りある労働力、それを無駄にするのは酷く惜しいと考え、どうせなら生産力も増やしてしまおうという結論に至った訳である。

川の大きさすら変えた治水工事も昨年度末に無事終了。川内平野にも田畑が広がり、元から穀倉地帯だった加久藤盆地も安定して収穫出来るようになったと聞く。

 

「やけに喜ぶではないか、重位」

「無論、兄上の功績ですから」

「某は提案したまで。最後まで陣頭指揮を執ったのは我が父よ。此度の治水工事の功績は我が父、忠倉にあるのは明白であろうな」

「そういうものなのですか?」

 

重位が小首を傾げる。

どうも俺の事を過大評価しているみたいだ。

俺を示現流の開祖だと宣伝する時点で兆しはありました。三洲平定の策を成し遂げた時から、何か神様でも崇めるような視線を向けてくることもある程だ。

進化するにしても早すぎませんかね。

当然ながら幾度となく否定した。

だが、重位の中で定着した人物像は頑固だった。

最終的に諦めた俺だけど、事あることに訂正していくお陰で最近は神聖視されることも少なくなったと思う。

俺ってば超頑張った!

 

「うむ。父上の功績を横取りするなど笑止千万である。重位も重々理解しておくようにな」

 

釘を指すと重位はコクリと頷いた。

 

「承知仕りました」

「良い返事ぞ。して、乾いたか?」

 

俺の服はそろそろ乾きそう。

重位に視線を遣ると、示現流馬鹿は首を横に振った。髪先から水滴が落ちていない為、どうも服の方に時間が掛かっているようだ。

しょうがないと思う。

俺に降り掛かる雨を庇ったからな、こいつは。

島津忠棟の専属護衛役とはよくぞ申したものである。

 

「ーー申し訳ありませぬ。髪は乾きましたが、服の方は以前濡れたままに御座ります」

「致し方あるまい。火鉢の前に置いておけばいずれ自然に乾くというもの。斯様に気にするな」

 

今日の目的は午前中に達したからな。

午後からは特に政務など無かった筈だ。

ーーいや、待てよ。

なにも無かったよな?

義久様たちから呼び出された記憶も特に無いから大丈夫だ。何か有ったとしても事前に城下町へ行くと伝えてあるから迎えを寄越すだろうしな。

 

「感謝の極み。まったく兄上はお優しいですな」

「この程度で優しいなど決め付けるでない。お主とて知っておる筈よ。今現在、某の行っていることなどはな」

「三太夫から少しだけ。さりとて、この東郷重位は小難しい事などわかりませぬ。私は兄上を信じて、眼前に迫る敵を示現流で叩き切るだけに御座ります!」

 

島津忠棟の興した示現流か。

現在、島津家の中で流行しているらしい。

門下生だけで数百人に達すると聞く。

専門の道場に一度だけ足を運んだ事があった。

そこで見た光景は忘れられない。

全員が一斉に金切り声を挙げて、裂帛の勢いで刀を大上段から振り下ろす姿は何処ぞの新興宗教かと思うほど異様な雰囲気に包まれていた。

そそくさと帰ったのは言うまでもあるまい。

俺は示現流の開祖だ。嘘偽りなく不本意だけど。

何にせよーー。

キリスト教徒からしてみたらイエス・キリストみたいな物である、多分だが。

どうなるかなど火を見るよりも明らかだ。

そして、事態は深刻になっていく。

示現流の門下生を中心とする最強部隊を作ってくださいとか寝言をほざきやがった。部隊の甲冑を赤色で揃えたら士気も上がるとか何とか。

それって武田や徳川の『赤備え』じゃねぇか。

赤備えとは戦国時代の軍団編成の一種だ。

全ての武具を朱塗りにした部隊編成の事である。

戦国時代で赤色は高級品である辰砂で出されており、戦場でも特に目立つ為、特に武勇に秀でた武将が率いた精鋭部隊である事が多い。

率いた武将は飯富虎昌や井伊直政、真田信繁など後世に語り継がれる名将ばかりだ。

当然ながら丁重に断った。

重位の武勇は認めるも統率力に欠ける。

『島津の赤備え』を作るのなら新納忠元殿こそ相応しいと忌憚なく言い放った。

最初こそ世の終わりみたく項垂れた重位だったもの、直ぐに復活した挙句、歳久様や直茂等に師事して日夜部隊運用の勉強をしているんだから困った物である。

努力する人間を悪し様に扱うなど無能の極み。

歳久様のお許しが出るか、大友家との合戦で功を立てれば、貴久様か義久様に進言してやらねばなるまいて。

 

「示現流ばかり磨き上げても合戦で使えねば無意味ぞ」

 

念の為に注意しておいた。

後十年も経てば鉄砲の必要性は飛躍的に上昇するだろうが、今の段階に於ける合戦の主役は弓矢と長槍である。

正直、刀を抜いて鍔迫り合うのは非現実的と言えた。要するに示現流にて敵兵を殺すのは殆ど不可能なんだよな。

東郷重位程の武勇の持ち主なら話は別だろうけども。

 

「弓矢と長槍の鍛錬も並行して行っておりまする」

「ならば良し。念のために鉄砲も鍛錬しておけ」

「はっ。鉄砲と言えば兄上、此度の視察で気になった事がありましてーー」

「止せ、重位。何処に誰の耳があるかわからぬ」

 

今朝行った工業都市の視察。

造船所、刀鍛冶、鉄砲生産拠点など。

島津家は様々な工業を一つに纏めた街の開発を行っている。一月前から進めた事業だが、事前準備の周到さから予定よりも数ヶ月ほど早く規定の水準を満たしたと連絡があった。

そこで急遽、俺の視察が決まったのだ。

内城の城下町に隣接する場所である為、護衛役は東郷重位一人で充分だと判断した。なにしろ武勇だけなら義弘様にすら匹敵するかもしれない猛者だからである。

 

「寺ですぞ?」

「寺だからであろうに」

「え?」

 

俺の即答に対して重位は目を見開いた。

薩摩に根を張るお寺でも警戒するなんてと言いたげだ。

転生した俺は宗教の有り難みがわからない。

だが此処は中世。平穏から遠く離れた戦国時代。

生きるのに疲れ果てた一般庶民が行き着く先は宗教である。人間の持つ信仰心に根差した恐怖を煽ることができる宗教という存在に逃げ込むしかなかった。

それは朝廷や幕府の重鎮も例外ではない。

むしろ彼らの方が一般庶民より信心深かった。

故に朝廷や武家でさえ、宗教の権威による神罰を盾にした示威行動に屈したのである。

延暦寺や日吉大社が金融業で大儲けできたのも、人間心理の奥深くにある信仰心を上手く突いて恐怖で縛ったからと言える。自ら金を返すか、または別の物で代替することを容易く成功させてきたからなのだ。

結果として寺社勢力は中世日本で絶大な勢力を持つに至った。この流れは年表や武将の年齢が異なるこの時代でも同じことだ。

史実だと、織田信長が当時の日本を牛耳っていたとも言える寺社勢力から財や特権を剥奪し、これを貴族や家臣に再分配させた事で、武家の圧倒的な地位が実質的に保障され、宗教勢力は相対的に影を潜めるほかなくなったのである。

もしも信長がいなければ政教分離に至らず、現代日本でも寺社勢力の影響力はそれなりに保たれていたに違いない。

織田信長、最大の偉業と呼んでも過言ではないだろう。

だがーー今の島津家はその偉業を踏襲できない。

大友宗麟の南蛮狂いに対抗する為、島津家は寺社の保護を掲げている。こうする事で豊後へ攻め込む時に協力してもらえるからだ。

だから我慢しなければならなかった。

寺社勢力とて島津家の敵だと口にせず、それらしい答えを重位に言って聞かせる。

 

「大友家の放った忍が潜んでいる可能性とて少なくない。ゆめゆめ忘れるな、重位。相良征伐を経て南九州の覇権を得たと言えども、北九州に最大の壁がある事を。大友家は油断して勝てる家ではなかぞ」

「御意。浅はかでした」

「気に病むな。視察の話は屋敷に戻ってからにせよ」

「承知致しました」

 

堅苦しく平伏する重位。

この時、少しだけ義弘様の気持ちがわかった。

仲良くしたい相手に仰々しい態度を取られると悲しくなるな。かと言って、島津家に婿入りした俺が誰にでも下手に出ると侮れてしまうこと必定である。

三太夫は親友だから構わん。

重位は妹のように感じる。もしくは子犬か。

なら直茂に対する評価は如何ほどの物だろうか。

夫婦会議を行ってから少しだけ笑ってくれるようになった。

月見酒に付き合うこと二回。夜伽の後に語り合うこと二回。遅すぎる歩みと言えど、身体と違う目に見えぬ部分が着実に接近していると思う。

 

ーーって、しまったぁあ!

 

「い、如何なさいましたか、兄上」

 

突然頭を抱える俺こと島津忠棟。

その背中に抱きつき、不安げに目を揺らす重位。

最悪の失敗に気付いてしまった。

口から漏れた言葉は死人に近い暗鬱さを纏っていた。

 

「ーー終わりぞ、重位」

「そんな、兄上……。ま、まさか病ですか!?」

「病ならば遥かに良かった。昨日は夫婦会議の日であった」

「三太夫曰く、兄上虐めの暗黒会議をすっぽかしたのですか!?」

 

すっぽかしたとは無礼だぞ。

そもそも暗黒会議ってなんだよ。

いや、俺の体感的にも合ってるけどさ。

 

「此度の視察は島津家の今後を左右するやもしれぬ物だったのだ。突然な政務から夫婦会議を忘却しておった」

「如何なさるおつもりで?」

「雨が止み次第、内城に馳せ参じる他あるまい」

「謝り倒すのですね!」

「うむ。帰り道に何か買っていかねばな」

「物で釣るのですね。大事だと思います!」

 

俺と考えている事は同じなのに純粋な目が痛すぎる。

恐らく東郷重位のこういう綺麗な部分が、示現流の流行に一役買っているのだろう。

真幸院の戦いでも島津兵を優しく勇ましく鼓舞したらしい。将としての器は確かに有るだろう。敵に策を講じられた場合、対処できなさそうな所に目を瞑ればの話だけど。

なんにせよ此処は一時撤退である。

降り注ぐ雨粒でも数えながら義久様と直茂の機嫌を回復する手段を考えることにしよう。

乾いたばかりの服に袖を通した俺は立ち上がる。

ついて行けない重位はキョトンとした表情を浮かべた。

 

「雨は止んでおりませぬぞ、兄上」

「帰るとは申しておらぬ。雨でも眺めるだけぞ」

「この重位もお伴致しまする!」

「お主は服を乾かせ。年頃の娘が裸同然の姿で無闇に出歩くなど言語道断よ」

「うぅぅ。護衛はいらぬと申されますか?」

「遠くには出歩かんから安心せい。少しの間、一人になりたいだけだ。四半刻もせぬ内に戻る」

 

何か言いたげな重位を放って、俺は割り当てられた部屋から出た。

瞬間、雨粒の音が耳を劈く。

雨特有の匂いを胸一杯に吸い込む。

単純この上ないが少しだけ落ち着いてきた。

取り敢えず平伏して謝れば許してくれるだろうと楽観的な思考に苛まれた直後、俺は寺の入り口で右往左往している黒髪の女性を見つけた。

遠目からでも見覚えのある女性だとわかった。

雨を弾いて輝く濡羽烏の髪と玲瓏たる白い美貌もさることながら、決定的な部分で気付いたのは俺も弄った事がある車椅子によるものだった。

 

「雪さん!」

 

俺は無意識の内に走り出していた。

適当に草履を履くだけに飽き足らず、飛び跳ねる泥で高価な服を汚すことになろうとも関係ないと言わんばかりに。

不安げな相貌で雨空を見上げる彼女に駆け寄りたかった。

三年前の出会い。

それを再現するような邂逅に心が躍っていた。

雨粒による消音効果すら跳ね除けた呼び掛けは、どうやら無事に彼女の耳へ届いたらしい。三年前と変わらぬ憂いを帯びた双眸が光を取り戻したように見えた。

 

「貴方は……」

「忠棟です。覚えていらっしゃいますか?」

 

乾いたばかりの服を雪さんの頭上に掲げた。

只でさえびしょ濡れだ。これ以上は身体に障る。

万歳するような格好の俺を、雪さんは呆然と見上げる。

まさか忘れてしまったのだろうか。

不安に揺れた俺は早口で説明する事にした。

 

「三年前、坊津でお会いました。お酒も飲み交わしたのですが、雪さんは覚えておりませんか?」

 

いいえ、いいえと雪さんは頭を振る。

 

「覚えていますよ、忠棟殿」

「あぁ、それは良かった。お久し振りです、雪さん」

「本当に、久し振りです……」

 

目尻から頬を伝って落ちる物は何だろう。

雨粒の名残か、それとも再会の涙だろうか。

わからない。それでも潤いを帯びた竜胆色の瞳に吸い込まれてしまった。

 

 

「雪はーー。雪は、貴方にお会いしたかった」

 

 

俺の腰に優しく抱き付く雪さん。

驚きのあまり思わず硬直してしまう俺。

だが思考は生きている。

三年前も雷雨が苦手だと言っていた。

例え雷鳴が轟かずとも、現代のゲリラ豪雨を彷彿させる驟雨で酷く心細かったに違いない。

だから俺は、雪さんの不安が落ち着くまで好きにさせようと思った。

 

「大丈夫です。俺がいます」

「はい、はいっ。此処に貴方がいます」

 

貴方がいます、と上の空で再度呟く雪さん。

 

雨はまだ止みそうになかった。







本日の要点。

1、川内川「や、夜戦ができないぃぃ!」

2、東郷重位「赤備えさせろ!」

3、雪「これは運命……?」


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二十八話 戸次道雪との邂逅

 

 

 

雪さんは下半身不随である。

どうやら生まれ付きらしい。雪さん曰く、堺に居を構える商人の娘だからこそ高級な車椅子を買ってもらえたとのこと。それだけでも幸運だと笑っていた。

平坦で尚且つ整備された街道やしっかりと区画整理された町なら一人で移動する事も容易い。しかしぬかるんだ大地には弱く、今回も寺の前で身動きが取れなくなった故に雨空の下で立ち往生していたようだ。

ともあれ本格的に雷が降らず良かった。

三年前は涙すら流しそうなほど怖がっていたからなぁ。

 

「落ち着きましたか、雪さん」

 

座布団の上に腰掛ける雪さん。

寺の前で佇んでいた時と服装が違っている。

雨粒を含んで重くなった艶やかな上質の着物はしっかりと脱がせた。あのままの状態だと確実に風邪を引いてしまうと判断したからだ。

代わりに、殆ど乾いていた東郷重位の服を一時的に着用させたところまでは良かった。だが、示現流馬鹿と正反対の豊かな双丘が、今にも溢れ出しそうなのは目の毒である。

雪さんと1メートルほど離れて対峙する俺は、顔を赤くしないように細心の注意を払いながら口火を切った。

 

「みっともない姿を見せてしまいました」

 

雪さんは申し訳無さそうに顔を伏せる。

再会してから既に四半刻過ぎた。

どうやら身体の震えは治まったようである。

ホッと一安心。俺の行く末を見守ると宣言してくれた大恩人たる雪さんに、もしもの事が有ったら後悔してもしきれない。

 

「とんでもない。大事に至らず良かったと安堵しています。雪さんは俺にとって凄く大事な人ですからね」

 

臆面もなく言える。

俺にとって雪さんは大事な人だと。

恋愛感情と呼ぶには少しだけ違うだろう。

ただ怖くなるほどに波長が合うのだ。

義久様とは違う意味で、俺の未来を決定付けた方だからなぁ。三年前に経験した三日間は、例え忘れたくても忘れられない出来事だった。

 

「お上手な人。ーー三年前と変わりませんね」

 

雪さんは楽しそうに且つ嬉しそうに微笑んだ。

ふと昔の記憶が脳裏を過ぎった。

先程まで気付かなかったが三年も時が経てば当たり前か。

 

「雪さんの方こそお変わりなく。髪、伸びましたか?」

「目敏い所も相変わらず。似合っていますか?」

「勿論。思わず見惚れてしまいましたよ。俺ってば単純なことに髪の長い女性が好みですからね」

 

短い髪が似合う女性は確かにいる。

それでも俺は長髪に惹かれてしまう。

大した理由などなく、単純に好みだからだ。

そういえばーー。

直茂はどうやって俺の好みを知ったんだろう。

義久様に教えたことはあるものの、恥ずかしいから誰にも教えないで欲しいと口止めしている筈なんだがな。

 

「知っていますよ」

「あれ、話したことありましたか?」

「三年前、お酒の席で一度だけ。貴方は酷く酔っていらしたから。覚えていないのかもしれませんね」

 

口元に笑みが浮かぶ。

三年前、俺と雪さんは海に出掛けた。

無礼な南蛮商人との諍いを仲介して、坊津の現状を事細かく話し、帰り際に車椅子を改良したお陰なのか、二日目には雪さんをお姫様抱っこさせてもらった。

歩けない雪さんを抱き上げて波打ち際で遊んだ。俺は久し振りに童心へ帰った。雪さんも楽しそうに笑っていた。

二人ではしゃぐこと二刻、疲れた様子の雪さんを考慮して帰ることになった。帰路の途中も何気ない話題に花を咲かせた結果、そのまま雪さんの泊まる宿にて酒を飲み交わす事に。

そこで吐き出したのだ。

様々な想いを。駆け抜けねばならぬ辛さを。

すると雪さんは俺の頭を撫でた。

大丈夫だと、貴方なら走り続ける事ができると。

倒れそうになっていた背中を押してもらえた俺は安心したのか飲みまくった。当然の帰結として激しく酔った。あの頃は色々な意味で馬鹿だったと思う。

 

「成る程」

 

十五歳であの量はキツかった。

一言一句覚えていなくても無理はない。

 

「お酒を酌み交わせないのが残念です」

「三日後なら何とか都合が付けれますよ?」

「有り難いお誘いですが、私は明後日にでも堺に戻らねばなりません。鹿児島港に視察へ来たのも五日前でしたから、これ以上日延べしてしまえば父に迷惑をかけてしまいます」

「なんと。折角、雪さんと再会できましたのに」

 

午前中に書類を片付け、夜は視察の報告書を纏める。

それでも明日は義久様たちに謝ることで時間が取られ、明後日は歳久様と串木野金山について話し合う予定がある。

三日後は特に用事などない筈だ。

良かったらお酒を酌み交わそうと考えたが時既に遅し。

雪さんの都合が悪いというなら致し方あるまい。

残念だけど諦める他ないな。

 

「私は噂で貴方を知れますからね。島津家に躍進を齎した戦国の鳳雛だったかしら。堺でも大層評判になっていましたよ」

 

聞き捨てならない台詞である。

九州内部だけならまだ我慢できた。

にも拘らず、畿内でも渾名は轟いてるのかよ。

島津の今士元。もしくは戦国の鳳雛。

黒歴史だ。竹中半兵衛に申し訳が立たない。

将来的には歴史に名を残す軍師に成りたいと思っている。島津義久を天下人に押し上げた立役者として名を刻めたら最高だ。

故に三洲平定を成し遂げた程度で騒がれても困るんだよ。せめて九州統一を果たしてからだろうにさ。

南九州の覇権を握った段階で、他家に俺の存在を警戒される不利を鑑みれば納得の行く話ではなかった。

 

「お止めください。俺には過ぎた異名ですよ」

 

三洲平定は成すべくして成ったと言える。

六年も事前準備に費やした上に、敵の動きなども歴史知識から容易く読み取れたんだ。

必勝の条件を満たしている。

勝てない道理など一つもなかった。

だから何度でも言おう。

俺に『今士元』という異名は不適切であると。

 

「謙遜は止しなさい。三年前、今にも崩れそうだった心身を奮い立たせて、仕えるお家を発展させたのです。見合う自信を持たねばなりませんよ」

 

これは謙遜なんだろうか。

三年前は確かに自身を奮い立たせた。

島津家を躍進するためにただ走り続けた。

だが、それは家臣として当然のことである。

何も特別な事などしていない。

自信に繋がることなど何もない。

貴久様も常々言っておられたではないか。

俺は島津四姉妹に勝てないと。

俺がいなくても島津家は発展したのだと。

 

「ーー自信、ですか……」

 

瞬間、雪さんは困ったように微笑んだ。

 

「全くもうーー。忠棟殿、何か悩みがお有りのご様子」

「悩みですか?」

「御自覚しておられないとは言わせませんよ?」

 

有無を言わせない言葉。

島津四姉妹や親しい友人すら気付いていない筈。

初めてお会いした時もそうだった。

酒の力も多分に含まれていたとしても、雪さんは難なく俺に悩みがある事を勘付いた実績がある。

 

「……雪さんに隠し事はできませんね」

「当たり前です。貴方はわかりやすいですから」

「誰かにも言われたなぁ、それ」

 

誰だったかな。

すっかり忘れてしまった。

寝る前に苛まれる幻想のせいだろうか。

記憶にも異常をきたしているようだ。

いやーー。

頭を振って無駄な考えを消した。

今はただ誰にも言えなかった悩みを打ち明けるだけだ。

 

「俺は、人々が思っているほど凄くありません」

 

そうだ、凄くなんてない。

島津の今士元なんて何処にもいない。

実態は空虚だ。噂が一人歩きしているだけ。

 

「武術の才は欠片もありません。戦術と戦略に自信はありましたが、最近は色んな方々に追い抜かれていて。女性の扱い方も下手くそだと言われます。献策した事についても咄嗟に思い付いただけです。俺がいなくても島津家はいつか三洲平定を成し遂げたでしょう」

 

口は止まらない。

言葉は勝手に溢れ出てくる。

 

「なら、俺は島津家の為に何が出来るのか。行いたい事は多様にあります。しかし、それが結果として島津家に繁栄を齎すかどうかわかりません」

 

武術も知能も特筆すべきものでなくなったら。

革新的な政策で島津家を危うくしてしまったら。

唯一誇れる武器の歴史知識さえ変わってしまったら。

俺に一体何が残るのか。

俺の周りに何人残ってくれるのか。

九州平定の直前まで成し遂げた島津義久と、龍造寺隆信を五州二島の太守にまで押し上げた鍋島直茂は失望しないだろうか。

 

「だから、表面上は媚びへつらってしまう。強気になってしまう。そして一人になったら自己嫌悪する。最近はその繰り返しです」

 

只でさえ俺は島津家に婿入りした。

正室に義久様を戴き、側室に直茂を貰った。

島津家に繁栄を齎す者という評価故に許された婚姻だ。

なら逆に考えよう。

島津忠棟が島津家にとって無価値な存在へ成り下がってしまえば、大事な人達は離れていくのではないか。

二人は遠くへ行ってしまうのではないか。

大切だからこそ手許に置きたくなる。

嫌われたくないから反論できなくなる。

でもそんなこと口にする訳にいかなかった。

あまりにも女々しく、尚且つ浅ましいからだ。

 

「誰に負い目があるのですか?」

 

商人の観察眼だろうか。

的確に致命傷を貫いてくる。

俺は瞳を伏せて首を横に振った。

 

「ーー言えません。口にしたら事実となる。俺の未熟を他人のせいにしたくない」

 

浮かんだ顔は二つだ。

誰かなど考えずともわかる。

だが口に出すなど言語道断であろう。

 

「なら、私の伝えるべき言葉は一つですね」

 

雪さんが姿勢を正した。

倣うように俺も背筋を伸ばす。

全身全霊で雪さんの言葉を頂戴する。

 

「拝聴します」

 

一拍。

 

 

「人を弄べば徳を失い、物を弄べば志を失う」

 

 

成る程。

 

「書経に記された言葉ですね」

 

史実で立花道雪が大友宗麟を諌めた時の言葉だ。

人を侮って弄べば自分の徳を失うことになり、物を弄び執着しすぎると大切な志まで見失ってしまうことになる。

俺へ真っ直ぐな視線を向ける雪さん。

厳しさと優しさの溶け込んだ双眸を細めて、まるで心に染み入るような柔和な笑顔を浮かべた。

 

「深く心に尋ねなさい。問い掛けなさい。貴方は迷っておられるだけです。私が認めた男の子なら逃げずに立ち向かいなさい」

 

他人に答えを求めるなど甘えだと。

己の導き出した答えで突き進めと。

三年前に叱咤された時と同じである。

伊集院忠棟に可能で、島津忠棟に不可能など認めない。

考えろ。武働きできないなら頭で働くしかないんだから。

 

「…………」

 

俺は誰を侮ったのか。何に執着したのか。

一体何の徳を失ったのか。どんな志を失ってしまったのか。

直ぐに答えは出てこなかった。

なら雪さんを放っておく事になるものの、一人で静かに問いの海に沈むべきだろうか。

 

「少し一人で考えます」

「そうすると良いでしょう。待っていますよ」

「はい。では、失礼します」

 

立ち上がり、雪さんに一礼する。

襖を開けて外に出た。

人払いの為に置いていた重位の横を通り過ぎる。

隅々まで磨かれた廊下を黙々と歩きながら、俺はひたすらに答えの在り処を探していた。

 

 

 

 

 

▪️

 

 

 

 

 

三年振りに再会した忠棟は精悍な顔付きになっていた。

幾分か身長も伸び、変声期を迎えた当初の頃より低い声音が男らしさを強め、戸次道雪の胸の内に宿る炎を滾らせてくれた。

彼に抱き付いたのは一生の不覚だ。

けれど憎からず想っている男性に窮地を助けてもらい、あまつさえ優しく声を掛けられたら、如何に雷神の異名を持つ戸次道雪と言えども感極まってしまう。

思い出すだけで赤面物である。

匂いを嗅ぐだけで幸福感に包まれた。

言葉を交わすだけで独占欲が湧いてくる。

嗚呼、これが恋なのですねと道雪は確信した。

 

「よろしいか」

 

戸次道雪一人となった十帖の部屋。

足を踏み入れたのは東郷重位と名乗った女性。

薄手の着物に身を包み、鍛えられた四肢に活力を漲らせ、片手に太刀を握り締める姿は忠実なる猛犬を彷彿させた。

 

「重位殿でしたね。車椅子の件、感謝します」

「兄上の命でした故。雪殿、単刀直入に申し上げる。貴殿は一体何者なるや?」

 

直後、場が凍った。

頭上から見下ろす重位の視線は酷く冷たい。

嘘は許さないといった大瀑布のような威圧感を向けてくる。

 

「しがない商人の娘です」

 

それでもーー。

戸次道雪は顔色一つ変えずに言い切った。

 

「戯けたことを申すな。下半身が動かずとも隙の見せぬ姿勢、鬼島津に匹敵する覇気、洗っても取れぬ濃い血の匂い。貴殿は名の知れた武将のはずよ」

 

一目で看破されるとは驚いた。

先ず車椅子に乗っている時点で武将と認識される事なく、常人には認知できない覇気で一般庶民に成りすます。戦場にてこびり付いた血の匂いなど意識の外だった。

島津忠棟は良い家臣をお持ちだ。

戸次道雪は素直に重位の洞察力を褒め称えた。

 

「私が武将ならば如何しますか」

「斬る」

「賢い事です。忠棟殿の薫陶ですか?」

「然り。兄上の提唱した示現流の教えぞ」

 

愛刀の『雷切』は置いてきた。

脚である黒戸次も部屋の外にある。

武勇だけなら己に匹敵する重位相手だ。

この状態で勝ち目など無いと悟った戸次道雪は、慌てる事なく身動ぎ一つせずに威風堂々とした姿で座ったままその時を待った。

だがーー。

幾ら待っても断頭の太刀は振り下ろされない。

重位を見上げると、彼女は太刀を畳に置いて頭を下げた。

 

「雪殿、無礼をお赦しくだされ」

「試されていたようですね、私は」

 

殺意は本物だった。

敵意は欠片もなかった。

だから戸次道雪は試されていると認識した。

 

「兄上の護衛役を任された身なれば致し方なく。いや、今は良いか。雪殿、兄上の助けになってくれたこと心より感謝の意を申し上げなん!」

 

勢いよく平伏する重位。

道雪は顔をお上げになってくださいと言った。

彼女は主君を護ろうとしただけである。

むしろ賞賛されて然るべき行いだ。謝る必要などない。

 

「ーー重位殿、忠棟殿は日頃どうなさっておられるのですか?」

「兄上と親密な雪殿だからこそお伝え申し上げまする。兄上は島津家の方々に、特に奥方様に大変ご遠慮なさっております」

 

やはり島津義久と鍋島直茂に。

詳しい事情は聞き出せなかった。

だが、戸次道雪は少なからず理解した。

頼朝公以来の名家として知られる島津家に婿入りする。家臣団から浴びせられる非難の嵐。そして同時に側室を設けてしまったが故に、正室に対する負い目で誰にも相談できずにいたのだろう。

 

「加え、殿から罵倒されること数ヶ月。奥方様と交流も取らず、献策することも減り、何かに怯えるように日々を過ごしておりました」

 

そうやって自信を失っていったのか。

速攻の三洲平定を成し遂げただけでも充分に偉業である。北九州の大大名たる大友家と決戦できる程、島津家の国力を押し上げたのも俄かに信じがたい智謀であろうに。

何故誰も讃えなかったのか。

否、その事実を忘れてしまう程に罵倒されたか。

十五歳の頃から真面目に天下を取ると嘯いた忠棟の事だ。三洲平定すら通過点の一つだと思ってるに違いない。

高峰を仰ぎ続けたせいで、足場を脆くしてしまうとは。

 

「なんとも忠棟殿らしいですね」

「雪殿?」

「いえ、なんでもありませんよ。ーーおや?」

 

部屋の外から響く廊下を走る音。

ドタドタと騒がしくも勢いに満ちている。

誰かなど考える必要などない。

島津忠棟が良くも悪くも答えを出したのだ。

 

「雪さん!」

 

襖を開けた途端、道雪に頭を下げる忠棟。

 

「答えは出ましたか?」

「はい。ありがとうございます!」

 

顔を上げた忠棟の顔は晴れやかだった。

こんな短期間で自信を回復したと思えない。

ならばーー。

彼は目的を見つけたのだろう。

そして、一番大事な存在を思い出した。

 

「俺は今から城に戻ります」

「兄上、雨が降っておりますぞ?」

「百も承知よ。今すぐやらねばならぬ事ができたのだ」

「護衛はーー」

「重位は雪殿の事を任せた。某の大事な人ぞ、丁重に扱え」

「……承知。道中お気をつけあそばしますよう」

「それでは御免。雪さん、いずれまたお会いしましょう。その時は今日のお礼をさせて下さい」

「ふふ。お待ちしていますよ、忠棟殿」

 

一連の流れを経て走り出す島津家の軍師。

忠棟は驟雨の中に傘も持たず突っ込んで、裏手にある厩舎に繋いでいた愛馬に跨がり、濡れる事も一切厭わずに内城へ駆けていった。

その後ろ姿を眺めて、戸次道雪も覚悟を決めた。

 

「忠棟殿は大丈夫そうですね」

「兄上らしい奇抜な策が今から楽しみです」

「どうか忠棟殿を支えてあげてください、重位殿」

「雪殿は戻られるのですかな?」

「父が待っていますから」

 

迷いも憂いも無くした全力の島津忠棟。

そんな彼の率いる精強な島津軍と及ぶ決戦。

戸次道雪の身体に流れる戦国武将の血が騒いだ。

必ず勝ってみせる。

忠棟を捕らえてみせる。

初心に戻ったのは道雪も一緒だった。

 

「それは残念の極み。次会うのは戦場ですな」

「……舌戦の場を戦場と呼ぶなら」

「その時は兄上に任せましょう。私は莫迦故」

 

沸々と血が滾る。

分別を弁えた武将ほど怖い者はない。

 

「いえ、重位殿の事は気をつけておきましょう」

「私も雪殿に関して注意しておきまする」

「それはーー手強い相手となるでしょうね」

「此方の台詞です」

 

雨は上がった。

霞んでいた視界も晴れた。

黒戸次を操る手は震えていなかった。

 

 

 

 

 

▪️

 

 

 

 

 

それから五ヶ月後。

永禄三年八月十日、午前。

大友宗麟を総大将とした35000の大軍が日向へ南侵する。船の上で祈りを捧げる宗麟に代わって、副将の戸次道雪と軍師の角隅石宗が全軍の指揮を執ることになった。

対するは島津。

六月に島津家の当主となった島津義久。

それと時を同じくして、僅か十八歳にして島津家宰相の座についた島津忠棟が島津家全軍の采配を振るう。

ーー。

各勢力が固唾を呑んで見守る中、九州の覇権を賭けた一大決戦が幕を開けることになった。

 

 

 






本日の要点。

1、忠棟と道雪の迷い晴れる。

2、義久、島津家当主に着任。

3、次回から合戦模様。


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二十九話 島津義久への羞恥

 

 

八月十八日、酉の刻。

島津家久は眼下に広がる大友軍を睥睨する。

同月十三日に高城周辺に布陣。その翌日から開始された大友勢35000による城攻めは、当初の予想に反して穏やかな包囲戦となった。

ほぼ一年掛けて大増築した高城を見て、無理矢理な力攻めは下策と判断したと見るべきだが、大友軍を実質的に率いているのは名将として名高い戸次道雪である。

雷神の異名すら持つ姫武将だ。

此処で気を抜くのは自殺行為と考えるべきであろう。

 

「戸次道雪、どう動いてきますかな?」

 

背後に佇む新納忠元が静かに問い掛ける。

島津家中でも五指に入る猛将。加えて文化や伝統を愛でる知識人としての側面も持つ。親指武蔵とも呼ばれる歴戦の武将である。

五ヶ月間、島津家久と共に豊後を睨み続けた。

今では背中を預けても構わない程信頼している。

 

「このまま持久戦に持ち込むんじゃないかなぁ」

「儂も同じ結論に至りました。蟻一匹通さぬ包囲網から察すれば持久戦一択でしょうな。されど相手は鬼道雪。何か策を練っているに違いませぬ。解せぬ事も一つ御座りまする故」

「うん、あたしもそう思う。水が断たれたらしいけど後十日は持つよね?」

「無理をすれば二十日は持ちましょうな。兵糧は数ヶ月ほど蓄えてあります故、その点は心配いらぬかと」

 

高城に篭る守兵は2500だ。

持ち運んだ鉄砲300丁。国崩し2門である。

十倍以上の大友軍に囲まれていても、島津兵の士気が下がらないのは豊富な兵糧と武器弾薬のお陰でもあった。

必ずしも常備していた訳ではない。

十日前の事だ。

島津忠棟から海路を利用して兵糧と鉄砲が順次運び込まれた。使者の持っていた手紙には、そろそろ大友家の日向南侵が始まるから準備しておくようにとも記載されていた。

 

「不思議だなぁ」

 

物見櫓にて家久は小首を傾げる。

 

「如何致しましたか?」

「源ちゃんの事だよ。大友軍がいつ動くのか、どうやってわかったんだろうね?」

「あの者は独自の情報網を九州全土に敷いております。百地三太夫とかいう忍衆の筆頭から情報を得たのでしょうな」

「三ちゃんなら納得かも!」

 

島津家お抱えの忍衆。

その棟梁を勤めるのが百地三太夫だ。

軽薄そうな顔付きに飄々とした態度から家臣の中で忌み嫌う者も多いが、島津家宰相の腹心である為に明言する者は殆どいなかった。

忠元は何度か忠棟に諫言しているらしいけども。

島津忠棟が齢十八にして島津家宰相という地位に成り上がってからというもの、何故か二人は以前よりも友好的になっていた。

 

「何か儂の顔に付いておられますかな?」

「ううん。何でもないから気にしないで、忠元」

「御意。ならば気にせずにおりましょう」

 

しかし、と忠元は続ける。

 

「あの者が築城にも精通しておられたとは」

 

高城は日向国内に三つ存在する。

新納院高城、三俣院高城、穆佐院高城。

この三つを総称して『日向三高城』と呼ばれた。

家久と忠元が籠城する新納院高城は、北にある谷瀬戸川と南にある高城川に挟まれた岩戸原の標高六十メートルほどの台地の縁辺に築城された。

つまり北側、東側、南側は断崖絶壁。

唯一平地に繋がっている西側には空掘を設けてある。

今回の大増築によって変わった点は三つ。

空堀を五つから九つに増やした点、三の丸を増築した点、更に西の丸を造ることで攻城に耐え易くした点である。

 

「そうなの?」

「大体の図面は忠棟殿が引いたと聞きましたぞ」

「へぇ。流石だね、源ちゃんは!」

「三洲平定直後でした故、何事も自分一人でやらねば気が済まなかったのだと推察致しまする」

 

忠元は髭を擦りながら口を尖らした。

やれやれと首を振りつつ、大友軍に視線を戻す。

 

「あの者の話は止めましょう。いずれ義久様と共に援軍に駆け付けるのは必定。その時まで高城を死守するのが儂らの役目ですからな」

 

大友軍が日向に侵攻して早くも八日経過した。

僅か二日足らず松尾城と懸城を陥落させた戸次道雪。最小限の被害で二つの城を攻め落とした鬼道雪だったが、総大将たる大友宗麟は懸城に残るという暴挙に出た。

角隅石宗と数刻に渡って諫言したが聞き入れて貰えず、仕方なく総大将不在のままで大友軍を南下する事に。

さりとて雷神の率いる大友勢は35000。

その巨大過ぎる戦力に恐れをなした日向北部の国人衆は続々と大友家へ寝返った。

門川城、日知屋城、塩見城、山陰城、田代城。

道中の城を悉く寝返らせて、大した障害もなく進軍し続けた大友軍は三日目で高城を包囲した。

余りに早過ぎる行軍速度だ。

元々考えられていた戦略は、佐土原城の城主である島津義弘率いる3000の軍勢と連携。行軍中の大友軍を闇夜に紛れて奇襲し、籠城する前に小さくとも一勝を得るという代物だった。

それは戸次道雪の英断によって崩れてしまった。

 

「忠元が戸次道雪ならどうするの?」

「そうですなぁ。大友軍とて、いずれは島津家本隊が後詰に来る事を把握しておるかと。ならば時間を掛けずに力攻めする他ありますまい」

 

新納忠元の言葉を反芻する島津家久。

現状、大友軍が行っているのは包囲戦である。

速攻で高城の水を断ったと言えども、今では遠くから散発的に弓矢を射掛ける程度の優しい物だ。これでは高城を落とすのに二十日も掛かってしまう。

十日も経たずに島津義久の本隊は到着する。

佐土原城から島津義弘の軍勢も出陣すれば、如何に35000の大軍を誇ろうとも不利な状況に早変わりとなろう。

 

「あ、そっか……」

 

だからーー。

大友軍の行動は解せないのか。

 

「忠元の解せないことって、これ?」

 

先程の台詞はつい流してしまったけど。

新納忠元の意図は読み取れた。島津家久の戦略面を成長させる為に敢えて最初から言及しなかったのだろう。

得意な戦術だけでなく、戦略の方も意識しているつもりだった。しかし新納忠元と比べるとまだまだということか。

可愛らしく唸る家久。

忠元は成長を喜ぶように鷹揚に頷いた。

 

「如何にも。神速とも呼べる行軍を続けた大友軍が今更巧遅に徹するのは不可解極まりない。現状だと戸次道雪の取れる選択肢は力攻め以外にありますまい」

「でも道雪は包囲に徹しているよね。あたし達の中に内通者でも作ろうとしてるのかな?」

「一理ありますな。しかし、時間が足りぬでしょう」

「なら、何を狙ってるのかなぁ」

 

其処を読み切らなければならない。

戸次道雪と角隅石宗が何を狙っているのか。

高城陥落の策ならまだしも、合戦全体の成り行きに影響する物なら厄介だ。家久が高城を守り切ったとしても、島津義久率いる本隊が敗れてしまえば全て無意味になってしまうのだから。

 

「源ちゃんならわかるのかも……」

 

戦国の鳳雛として名を馳せる軍師。

島津忠棟なら戸次道雪の思惑も読める筈だ。

島津家宰相に対する信頼から漏れ出た台詞に反応したのは新納忠元ではなく、誰よりも情報を得やすい立場にある不幸忍者だった。

 

「その通りっスよ、家女将さん」

 

掴み所のない声音に思わず振り返る。

短い白髪に琥珀の双眸。背中にある忍刀と布地の薄い黒装束が特徴的な伊賀の元上忍だ。

現在は島津忠棟の股肱の臣として、忍衆の棟梁という大役を担いながら九州全土を走り回っている忙しい男である。

相変わらず敬意の欠片も無い呼び方だが、既に島津家では周知の事実である為、忠元とて無駄な叱責を行わずに淡々と話を進めていった。

 

「どういう意味だ、百地三太夫」

「大旦那は戸次道雪の動きを読んだって言いたいんスよ、新納の旦那。だから、わざわざオレが此処に派遣されたわけだしねぇ」

 

大友軍の包囲を潜り抜けるのに苦労したよーと苦笑した三太夫だが、疲れなど無いかのように腕組みしたまま仁王立ちしている。

 

「ほう。して、義久様と忠棟殿はどこに居る?」

「高原城スよ。三日後に着陣すると思うね」

「時間を掛け過ぎではないか?」

「その理由も今から話しますって。ただ前提として一つ、最初の内に家女将さんと新納の旦那に言っときますよ」

 

一拍。

 

「一度、敗けて下さい」

 

「え?」

「なんだと?」

 

家久と忠元の驚愕な表情が全てを物語っていた。

 

 

 

 

 

▪️

 

 

 

 

同日、戌の刻。

大隈国と日向国の国境線にある高原城。

一刻でも早く高城の救援に駆け付けねばならない中、島津義久率いる20000の軍勢は二日間も高原城に滞在している。

無論、俺の献策による物だ。

一年掛けて大増築した高城は簡単に落ちない。

尚且つ戸次道雪の思惑が俺の読み通りなら包囲戦だろうからな。危惧すべきは水だけだが、前以て城内に井戸を掘らせておいたから二十日は持つ計算である。

故に緩慢な行軍でも問題無し。

俺は今の内に各地の武将に書状を送らないと。

南九州全土を断続的に襲う八月特有の熱帯夜に辟易としつつも、俺は山田有信殿に渡す書状に文字を連ねる作業に没頭していた。

明日の早朝から行軍再開だ。

無理しない内に休まないといけないがーー。

 

「源太くんってば、聞いてる?」

 

隣で小首を傾げる我らが総大将。

島津家当主の疑問点を晴らしておく必要がある。

今回の戦運びは内城を出立する前に一通り説明したが、既に角隅石宗と戸次道雪の働きで変化しつつあった。

山田殿に送る書状を急ぎ記しているのも、腹心である三太夫を家久様の元に派遣したこともそれが原因と言える。

 

「聞いてるって。三太夫に頼んだ件だろ」

「ええ。どうして敗けろって指示したの〜?」

「総大将不在の軍勢は意思の統率に欠けるからなぁ。いくら戸次道雪でも大友宗麟の穴埋めは難儀するって判断からだよ」

 

僅か二日で懸城と松尾城を攻略した大友軍。

史実よりも一ヶ月近く早い落城は流石に予想外だった。

副将として戸次道雪が参陣しているからなのか。それとも他に別の理由があるのか。いずれにしても『雷神』恐るべしだ。

総大将に大友宗麟、副将に戸次道雪という磐石な大友軍と争って勝つには、島津家は肉を切らせて骨を断つ戦法を取るしかないと考えていた。

だがーー事態は好転する。

宗麟は懸城に篭って祈りを捧げているらしい。道雪の諫言も意に介さず、総大将という大役すら平然と投げ捨てた。全くもって愚かな事だ。

高城を包囲する大友軍35000の軍配は、門司合戦に於いて毛利勢を破った鬼道雪が握り締めている。

確かに脅威だと認めよう。

しかし瓦解させることは容易い。

何故なら道雪は彼らの主君ではないんだから。

 

「どういうこと〜?」

「わざと敗ける事で好戦派の武将を焚きつけるんだよ。島津兵弱卒なりって具合にな。後は俺たちから挑発すれば、道雪の意に反して突っ込んでくる」

 

史実でも田北鎮周の暴発故に大友家は敗れた。

総大将の不在は全軍の士気を下げるだけに飽きたらず、武将同士の意思疎通にすら悪影響を及ぼしてしまうほど重要な事柄である。

 

「成る程。でも、家ちゃん大丈夫かしら〜」

「大量の鉄砲を運んだから問題ない。それに家久様は戦術家として天才だ。被害を最小限に抑えた上で敗けてくれるって。忠元殿もあられるしな」

「え、と。最終的には、好戦派の武将さんを餌にして釣り野伏を仕掛けるのよね〜?」

「勿論、それだけで勝てると思ってないけど」

 

道雪さえいなければ釣り野伏一択だった。

序盤は田北鎮周に先陣を切ってもらい、縦に伸びた戦線を確認してから撤退。追撃を仕掛けようとする大友軍を、前以て伏せておいた複数の部隊で包囲殲滅。家久様も高城から打って出ることで決定的となって、大友軍は史実のように敗走していくだろうに。

今回は戸次道雪が参加している。

ある程度、武将たちも纏まっているだろう。

釣り野伏だけで勝利を得られると思ってないさ。

だからこそ山田殿にも働いて貰おうと考えていたんだけどなぁ。

 

「阿蘇家を南下させるとは驚いたな」

「佐敷城の有信を動かせなくなったわね〜」

 

肥後北部に鎮座する阿蘇家の南下。

先ず間違いなく戸次道雪の企みだろう。

山田有信を肥後南部に貼り付けておく為だ。

本格的に干戈を交えることは無い。

だが、万が一という言葉もある。

もしも衝突してしまった時に備えて、山田殿の行って欲しい動きを急いで書状に記した訳だ。

 

「心配ないって。必ず勝つ」

 

不安げな表情の義久に笑いかけた。

準備は万端。策の用意は十全と言える。

10000の兵力差など容易く覆してみせよう。

その為に、俺は島津家宰相の地位に就いた。

貴久様を隠居させて、義久を当主に就かせた。

 

「源太くん、疲れてない?」

 

筆を置いた俺の手を掴む義久。

慰撫するように柔らかな両手で包み込んだ。

 

「色んな場所の指示を一人でやってるから」

「大雑把な戦略指示だけだってば。後は家久様や山田殿に任せてある。俺に掛かる負担なんて少ない方だよ」

「昨日だって寝たのは子の刻だったわ〜」

「三太夫と一緒に策の手直しを行ってたからな」

「でもーー」

 

四月ぐらいから義久は過保護になった。

理由は知っている。直接謝られたからだ。

俺は嘆息しながら片方の手で義久の額を突いた。

 

「まだ、あの事を気にしてるのか?」

「ごめんなさい……」

「謝らなくていいから。直茂を牽制する為に動いてたんだろ、義久は。なら島津家の裏で起きてる事なんて気付ける筈ないって」

 

三月、俺は雪さんと再会した。

あの人のお陰で見事に立ち直れた。

精力的に動き出せば何事も上手く行った。

だが、義久にしてみれば不可解極まりない事だったに違いない。お抱えの忍衆に頼ることなく俺の周囲を地道に調べ上げた。

そして四月二日。

義久は涙ながらに平伏した。

譫言の様に謝罪を繰り返した。

ごめんなさい、ごめんなさいと。

泣き疲れて眠るまで顔を上げなかった。

 

「島津家でも権力闘争が起きるなんて……」

「大きくなった家なら必ず起こるさ。前々から兆しはあったんだ。俺の婿入りで爆発してしまったんだろうな」

 

俺の島津家婿入りが決まった時から勃発した。

島津忠棟の擁護派と糾弾派に分かれた醜い争い。

最終的な決着は擁護派の勝利だった。

事態に気付いた義久が擁護派に味方したからだ。

別段、権力闘争は珍しくない。

天下を取った徳川家でも起きた事。

文官派たる本多正信と正純が、武功派の大久保忠隣を失脚させた。譜代の重臣同士が権力を握る為に闇夜に紛れて闘争を行ったのである。

いずれ島津家でも勃発したに違いないんだ。

今回程度の規模で済んだと思えば儲け物だろう。

 

「だから気にするな、義久」

 

震える妻の身体を抱き寄せる。

灼熱の夜だとしても義久の身体は心地よい。

最初は微かに身じろぎしていたものの、優しく頭を撫でるとまるで借りてきた猫のように大人しくなった。

以前の肉食系は何処に消えたのだろうか。

今では俺を抱くのにも了承を求める有様だ。

 

「むしろ悪かったよ。直茂の相手を任せてしまって」

「それも私の勘違いだったから。だから私、源太くんの為になる事なんて何もしてないわ……」

 

勘違いという訳ではない。

今でも直茂は何か企んでいる。

でも、ここ数ヶ月でわかった事があった。

鍋島直茂は良くも悪くも損得を重視する武将だ。

このまま行けば問題ない。

直茂とて俺の妻だ。手離す気など欠片もなかった。

 

「そっか」

「……うん」

「なら、お仕置きだな」

「え、ちょっと、源太くんんん!?」

 

背中を擽ると、義久は腕の中で身悶えた。

思わず抗議の声を挙げようとする妻の口を接吻で塞ぎながら、柔らかな身体を何処かしら触り続けること四半刻、義久は我慢できないといった風に眼を潤わせた。

 

「源太くんの意地悪……」

「なら、どうやったら義久の気が晴れる?」

「……虐めてちょうだい。泣いても、やめないで」

 

嗚呼、俺は果報者だ。

 

「承知致しました、義久様」

 

クスッと笑う義久。

俺の首に手を回して、互いの額を合わせる。

そして艶やかな声音でこう言った。

 

「ーーもう。源太くんなんて、嫌いだわ……」

 

でも、と続ける。

 

「貴方を、愛してるーー」






本日の要点。

1、高城包囲される。

2、権力闘争に打ち勝つ。

3、義久とやっと『夫婦』になる。


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三十話 百地三太夫との暗躍

 

 

 

八月二十日、子の刻。

財部城に布陣する島津義弘の軍勢。

大友軍の日向侵攻に際し、義弘は待ってましたと言わんばかりに佐土原城から3000の手勢を率いて出陣する。

戸次道雪の強行軍によって当初の目論見通りに行かなくなってしまったが、実の妹である島津家久が高城に立て篭っているのだ。

少しでも大友軍を牽制する為に、少しでも高城の包囲を緩める為に、義弘は財部城から睨みを効かせていた。

それでも僅か3000の兵士。

雷神率いる大軍と比べれば見劣りするも必定。

結局、島津義久の本隊が到着するまで歯痒く過ごすのか。

手槍を扱くだけの五日間。

焦燥感に身を焦がす日々だった。

それも軽薄な忍者によって終わりを告げた。

 

「源太ってば偶に無茶なこと言うよね」

 

財部城の至る所に明かりが灯されている。

静かに準備を続ける出陣予定の島津兵たち。

島津義弘は周囲の状況に頷きながら愛馬の首を撫でた。

 

「大旦那だから仕方ないさ。しかも同士討ちになりそうな夜中に殺れっていう指令だからねぇ」

 

背後に佇む不幸忍者が至極同意とばかりに鷹揚に頷いた。

その表情から若干の疲れが垣間見える。

真幸院の戦いでも四方八方で大活躍だった百地三太夫は、今回の合戦に於いても島津忠棟によって酷使されているようであった。

それでも崩れない信頼関係は素直に羨ましいと思った。

 

「私を信頼してくれてるって思うことにするよ」

「大旦那が言ってましたよ。こんな事を頼めるのは島津義弘様だけだって。一歩間違えれば全滅しちまうからね」

 

騎馬武者を中心とした最精鋭部隊を結成。

数にして僅か1000の島津兵を用いて、闇夜に紛れる為に丑の刻にて大友軍の側面を突くように急襲せよ。

昨夜、百地三太夫から手渡された書状に書いてあった内容である。島津家宰相の名前が記されていた事から、島津家当主である島津義久も了承済みの作戦だと言えた。

直ぐに開いた軍議で諸将に伝える。

反対意見も有ったが、其処は無理に押し切った。

三太夫から直接聞いた戦略を鑑みれば、何処に大友軍の忍がいるかわからない場所で策の一部でも開示するのは危険な賭けである。

賛成する武将が多かったから問題なかったが。

むしろ逆だった。

是が非でも奇襲に参加したい、と手を挙げる武将が多くて選抜に困ったぐらいであった。

 

「本当だよ。相手は鬼道雪だっていうのに」

「ま、その為にオレがいるんすけどね」

「お互い大変だね、三太」

「全くッスよ。はぁ、休みが欲しいぜー」

 

そういえば、と義弘は目を細めた。

百地三太夫が休んでいる場面など見た事がない。

佐土原城にて内政も執り仕切っている義弘は、忠棟の遣いとして三太夫と幾度となく対面する事があった。

頻度としては一月に五回程度。

ーーつまりだ。

六日に一度は薩摩と日向を往復している事に。

加えて、忍衆の棟梁として後輩の育成に励みつつ全く別の仕事もこなす。今回は大友軍の陣中を引っ掻き回す役目があるらしい。

何だか本気で三太夫に同情した島津義弘だった。

 

「今回の戦が終わったら休暇でも取ればいいんじゃない。私から源太に言っといてあげるからさ」

「え、ホントに!?」

 

双眸を煌めかせる不幸忍者。

勢いに負けてしまい何度も頷く鬼島津。

すると三太夫は心底嬉しそうに両手を挙げた。

 

「やったー、助かるっ。弘女将さんマジ天使!」

 

天使ってなんだろうか。

南蛮の宗教で聞いた覚えがあるけど。

それよりも三太夫の喜び様に頬が引き攣った。

 

「げ、源太が休暇をくれるのかどうかわからないけどね?」

「大丈夫だって。流石の大旦那でも休暇くれないような鬼畜じゃないから。うん、きっと、多分」

「あらら。休暇貰えなかったら佐土原城に来るといいよ。少しの間だけど忠棟の目から匿ってあげるからさ」

 

おお、と感動する三太夫。

島津義弘は忠棟の人使いの荒さに愕然とする。

そんな異常な空間に足を踏み入れたのは新納忠堯だった。

 

「義弘様、準備が整いまして御座りまする」

 

瞬間、空気が変わった。

穏やかな雰囲気は凍てついた物へ変貌した。

百地三太夫は真顔で軽やかに忍刀を抜き放つ。

島津義弘は愛馬に跨がり、手槍を片手に持った。

今から行うのは闇夜に隠れた奇襲である。

普段なら士気を上げる為に鼓舞するのだが、無闇に騒いでしまって大友軍に何かあると警戒されてしまう可能性もある為、今回は静かに槍を掲げるだけに終わった。

溜め続けた戦意の発露から士気は十二分に高い。周囲を見渡す義弘。すると今回の奇襲部隊に選ばれた島津兵は皆が皆、己のやるべき行為と危険を把握してある様に力強く頷いた。

大丈夫だと一安心する。

これなら途中で隊列など崩れずに済むだろう。

 

「じゃあね。三太も無茶しないこと」

「弘女将さんこそ。本命は家女将さんの突入だからね。それにオレたちは、必ず敗けないといけないって事も忘れないでよ」

「その辺りの匙加減を考えろって訳でしょ。大丈夫だよ。戦術勝利に拘る気なんてないから。家宰殿の定めた戦略に従うって」

 

本当は難しい。

戸次道雪に悟られないようにわざと敗北する。

奇襲を仕掛けた上で敗けたように退却するのだ。

伏兵戦術も用いずに、ただ戦略的勝利の為だけに。

鬼島津と恐れられる武将としては苦虫を噛み潰したい限りだが、忠棟に信頼されているのだと考えれば嬉しさから頬が緩んだ。

家久の本陣突入と撤退を援護する。

その事に徹すれば万事上手くいくだろう。

だから義弘は手槍を天高々と掲げ、愛馬の腹を蹴った。

黒毛を靡かせた愛馬が颯爽と駆け出す。

倣うように騎馬部隊が財部城から出陣した。

遅れれば末代のまでの恥だと歩兵たちも続く。

 

「義弘様」

「なに、忠堯?」

 

大友軍は35000を四つの陣に分けている。

高城を囲んでいるのは野久尾陣と本陣の二つだ。

そして、財部城を牽制するように敷かれた川原の陣と松原の陣がある。

目指すは本陣と川原の陣の間だ。

谷瀬戸川と高城川の川幅狭く、流れは穏やか。

音を立てずに進軍するのに最も適している故に。

更に野久尾陣の兵士たちを多少なりとも動揺させる為に。

退却に至るまでの道程を反芻する島津義弘。

そんな主君に声を掛けた新納忠堯が馬を並走させた。

 

「この様な時に如何と思いましたがーー」

「気にしないで。悩みは取り除いとくべきだよ」

「御意。有難きお言葉。ならば一つ疑念に思った事がありまする。五日ほど前から川上殿がおられぬようですが、何処に赴かれました次第で?」

「ああ、久朗の事か。別の件でいないよ」

「別の件……。それも家宰殿の策略ですかな?」

「そうだね。源太曰く、久朗は切り札らしいよ」

「…………」

「忠堯に落ち度があるわけじゃない。今回は久朗が適任だっただけ。落ち込む必要なんてないからね」

「ーーはっ。次こそ某が家宰殿の切り札を務めさせてもらいまするぞ」

「その意気だよ。だから、討死は許さないから」

「無論。父上の如き武将になるまで死ぬ訳に参りませぬからな。それでは御免」

 

時間にして一刻が経過。

奇襲部隊は丑の刻に谷瀬戸川を渡った。

ここから先は15000の敵に突撃するだけだ。

 

「さて、やりますか」

 

気合は十分だ。

士気は高揚している。

敗北の決まった前哨戦と行こう。

 

「皆、私に遅れるな!」

 

一喝。そして手槍を振り下ろした。

 

「突っ込めぇ!」

 

 

 

 

 

▪️

 

 

 

 

同日、丑の刻。

高城北東に敷かれた本陣。

10000の大友兵が周囲を固めている。

しかし、戸次道雪は油断せず軍配を握り締めた。

煌々と焚かれた明かりに眼を細める。

島津兵が何を狙っているのか、確かめなくてはならない。

 

「申し上げます!」

 

伝令兵が本陣に駆け込んだ。

慌てているが汚れた形跡などない。

奇襲の危険度は高くないと見るべきか。

冷静に情報を集める戸次道雪は先を促した。

 

「どうぞ」

「本陣に奇襲した部隊を指揮するは島津義弘。現在、臼杵殿が応戦中。被害少なく、されど援軍を出して欲しいとの仰せです!」

「わかりました。島津勢の数は?」

「はっ。闇夜に紛れて定かならず。奇襲の規模から察するに1000程度の兵力かと存じまする」

 

部隊の指揮者は島津義弘。

闇夜に隠れて本陣に奇襲を仕掛けるか。

だが、1000という数に違和感を覚えた。

財部城に布陣する島津兵は3000だった筈だ。

残りの兵士は伏兵にしているのか。

本隊が到着する前に小さな勝利を得るつもりか。

いや、今ここで決め付けるのは早計である。

疑心暗鬼に陥る様では敵の思う壺であろうに。

なにはともあれーー。

鬼島津が暴れているなら倍以上の兵力が必要だ。

 

「田原紹忍殿に2000の兵を与えます。直ぐに臼杵殿の援護に駆けつけなさいと伝令をお願いします」

「御意!」

 

走り去る伝令兵。

一拍間を置いて、道雪は新たに下知を告げた。

 

「鉄砲隊と長槍隊は密集形を取るのです。そして島津兵を一歩たりとも本陣の中に入れてはなりません。島津勢の攻撃を完全に封じ込める事が、敵の戦意を喪失させる事に繋がりますから」

 

十数名の伝令兵が一斉に各所へ散る。

川原の陣にいる佐伯宗天にも同様の伝令を遣わした道雪は、一先ずこれで様子を見るべきだと腰を落ち着かせた。

黒戸次に深く座り込み、傍らに立つ男に尋ねる。

 

「角隅殿、島津義弘の奇襲をどう見ますか?」

 

齢50を超える禿頭の武将。

大友家の軍師として名を馳せる角隅石宗。

若い頃の戸次道雪も彼に軍略を学んだ程だ。

共に主君たる大友宗麟の蛮行を戒める仲でもあった。

 

「さて、情報が不足しておりますからな。確実だと断言できませぬが、一つ可能性として挙げられるとしたら伏兵戦術を用いた勝利でしょうか」

「1000という数ですからね。伏兵を用意している可能性は高いでしょう。但し、私は違うと思います」

「ほう。して、その心は?」

 

島津得意の釣り野伏は警戒して然るべき。

だがーー。

戸次道雪は首を振ってから夜空を見上げた。

今日は満月である。

されど全天を覆う濃い雲によって周囲は暗闇だ。

 

「この闇夜です。伏兵に適しているかもしれませんがその実、同士討ちの危険が高まるだけ。鬼島津と呼ばれる島津義弘が理解していない筈ありませんよ」

「さりとて儂らは島津の伏兵を気にしなければならず、撤退する敵に追撃も仕掛けれず。島津義弘も上手く考えましたな」

 

果たしてそうかな。

角隅石宗の言う事も理解できる。

島津義弘率いる奇襲部隊が陽動を担い、撤退する方向に伏兵を潜ませている状態で追撃を仕掛けたら必勝に近い釣り野伏の完成だ。

その可能性が僅かでもあるなら追撃などご法度である。

しかし道雪は確信を持って言える。

伏兵はいない。島津義弘の部隊は陽動ではない。

派手な威力偵察か。

もしくは別の狙いがあるのだと見る。

 

「いえ、ここは追撃を仕掛けるべきでしょう」

 

どちらにしても取るべき選択肢は一つ。

島津義弘を討ち取る絶好の機会だ。

ここで敵に情けを掛けるなど言語道断と言える。

 

「なんと。道雪殿、お気は確かかな?」

 

角隅石宗が目を見開いた。

師の驚いた姿に対し、道雪は力強く首肯する。

 

「無論です。島津家随一の弓取りとして知られる島津義弘を討ち取れば、今回の戦、勝利がほぼ確定しますよ」

「伏兵はいないと断言なさるのですな?」

「ええ。余りにも陽動が派手過ぎますから。恐らく島津忠棟の策でしょうが、私を甘く見過ぎたようですね」

「道雪殿が仰るなら是非もなく。ならば直ぐにでも追撃の伝令を遣わせる事に致しましょうぞ」

 

善は急げと言わんばかりに伝令を呼ぶ角隅石宗。

だが、それを遮るようにして、新たな伝令兵が本陣に駆け込み膝をついた。

 

「敵が高城から討って出てきたとのこと!」

 

瞬間、やられたと道雪は奥歯を噛み締めた。

 

「詳細を述べなさい」

「はっ。つい先程、高城の大手門が開き、島津家久に率いられた1500の島津兵が討って出ました。現在、田北殿と交戦中でありまする!」

「1500か。ならば問題なさそうではあるが」

 

角隅石宗が眉を潜める。

確かに表面上は問題ない。

田北鎮周に割り当てられた兵の数は5000。

如何に精強な島津兵だとしても突破するのは不可能だ。

だからこそ突撃の裏を読まなければならない。

島津忠棟が考えた策を看破しなければならない。

戸次道雪は直ぐに気付いた。

故に軋むぐらい奥歯を噛んだのだ。

 

「田北殿に退けと伝令。無闇に応戦してはならないと厳命を。高城に追撃するのもなりませんと伝えなさい」

「ぎ、御意!」

 

駆け出す伝令兵。

不自然な指令なのは道雪とてわかっている。

しかし此処で無闇に勝ちを拾うのは拙いのだ。

島津義弘を討ち取るという莫大な戦果があれば話は別なのだが、この状況になってしまえば如何にして田北鎮周を暴走させないかに掛かっていた。

 

「道雪殿、今の指示に如何ほどの理由が?」

「宗麟様の不在を狙われたようです。小さな勝ちを拾ってしまえば収拾のつかない事になってしまいますよ」

「ーー成る程。儂らに罅を入れるつもりか、島津家は。ならば道雪殿、付け込みを狙ってしまうのも一つの手かと」

「なりません。その場合、島津家久は西の丸をわざと焼いて撤退を完了させるでしょう。高城も落とせずに無駄な被害が増えるだけですよ」

 

例え西の丸が焼失したとしても高城は健在。

本丸と二の丸に加え、三の丸まで存在している。

九つの空堀と合わされば、西の丸が無くなったところで防衛力に不備など無かった。

此処まで読んだ上で、過剰過ぎる西の丸建設に踏み切ったと言う可能性とて無きにしも非ずだ。

 

「申し上げます。田原紹忍殿が島津義弘に手傷を負わせたとのこと。追撃を仕掛けるべきか判断を仰いでおりまする!」

「島津義弘隊、撤退を開始しました!」

 

伝令兵と物見櫓から報告を受ける。

先程まで決めた通りに追撃するべきだろうが。

此処で本陣の数を少なくしてしまえば、万が一という可能性も十分に有り得た。

そしてーー。

島津家は挟み撃ちにしようという作戦に移行できる。その上で退却時に伏兵を用意しているという場合も考えられた。

島津義弘が手傷を負ったという報告もある。

やはり陽動か。

いや、いずれにしてもーー。

これ以上の勝利を得れば後に引けなくなると判断した戸次道雪は、伝令兵に対して追撃を仕掛けるなと下知したのだった。

 

 

 

 

 

▪️

 

 

 

 

 

初戦は大友軍の勝利に終わった。

城から討って出た家久隊は田北鎮周率いる5000の大友兵に足止めされた結果、新納忠元が負傷した事で高城へ撤退した。

本陣を奇襲した義弘隊も臼杵鎮続と田原紹忍によって被害を負い、尚且つ島津義弘が手傷を負った為に財部城へ逃げ帰ることに。

島津軍の死傷者は200名に及んだ。

だが、これで仕込みは充分だと百地三太夫は笑った。

 

「全軍の目が家女将さんと弘女将さんに釘付けになったから、その隙に大友軍の忍とかも駆逐できたしなぁ」

 

その手に持つ忍刀は血塗られている。

顔に張り付いた笑顔は赤く凄惨だった。

 

 

「勝ったよ、これで」

 

 

クスクスと笑う。

 

 

「本当の鬼札は、無事に切られたんだから」

 







本日の要点。

1、川上久朗不在。

2、島津家無事に初戦敗北。

3、百地三太夫、暗躍する。


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三十一話 織田信長への答案

 

 

八月二十一日、申の刻。

真夏故に天高々と昇る灼熱の太陽。

戸次道雪は黒戸次に腰掛けながら静かに嘆息した。

簡易的な机に置かれた絵地図を眺める。

大友勢の真正面に布陣する黒く塗られた複数の凸は、島津義久と島津忠棟が率いてきた島津本隊を示していた。

三刻前に到着した後、直ぐに根白坂付近に着陣。

18000という兵力もさる事ながら、決戦に向けて用意したと思われる武器の数と質は尋常ではなかった。

間者による報告は以下の通り。

鉄砲2000丁。どれ程の金銭を用いて買ったのか。

国崩し10門前後。どんな巨城を落とすつもりなのやら。

軍馬など数えるのも馬鹿馬鹿しくなった程だ。

島津家は今回の合戦に御家存亡を賭けているのだと否が応でも理解した。そして、この決戦に勝利すれば九州平定すら夢幻の話ではないのだと信じていることも把握した。

嗚呼、と羨ましく感じるのは筋違いだろうか。

島津勢は現当主である島津義久自ら前線に出ている。その反面、大友軍の陣に宗麟の姿はなく、本来副将である筈の戸次道雪が臨時で全体の采配を振るっていた。

そして、敵軍の動きに頭を悩ませていた。

 

「忠棟、貴方は何を考えているのですか……」

 

根白坂に陣を構える島津軍は典型的な魚鱗の陣。

中心が前方に張り出して両翼が後退した陣形である。三角形の形を思い浮かべるとわかりやすいかもしれない。底辺の中心に大将を配置。そちらを後ろ側として敵に相対するのが通例と言えよう。

戦端が狭く、遊軍が多くなり、また後方からの奇襲を想定していない為に駆動の多い大陸平野の会戦には適さないという弱点を有する。

しかしーー。

山岳や森林、河川などの地形要素に囚われることなく陣構えを構築できる。更に全兵力を完全に一枚の密集陣に編集するのではなく、数百人単位の横隊を単位として編集する事で、個別の駆動性を維持したまま全体としての堅牢性を確保できる強みがあった。

連続的なぶつかり合いによる消耗戦には強いものの、両側面や後方から攻撃を受けると混乱が生じやすい。

つまり敵軍に包囲されやすい陣形を選んだのだ。

 

「完成された鶴翼に魚鱗で挑むなんて」

 

対する大友軍は、谷瀬戸川と高城川の間にある平野にて鶴翼の陣を敷いた。

両翼を前方に張り出しており、Vの形を取る基本的な陣形である。中心に大将を配置。敵軍が両翼の間に入ってくると同時に翼を閉じる事で、そのまま包囲して殲滅するのが目的だ。

無論、有効性と反比例した危険性も兼ね備えている。

敵軍にとってしてみれば中央を守護する兵士が少なく大将を攻めやすい。その為、両翼の部隊が包囲するまで持ち堪えなくてはならない。

故に中央部を厚くする必要があった。

今回の場合だと、初戦に勝ったが為に厚くせざるを得なくなった。

 

「田北殿を焚きつけて、釣り野伏でしょうか」

 

初戦にて島津家久の軍勢を一蹴した田北鎮周。

親指武蔵と恐れられていた新納忠元を負傷させて武功を挙げた田北鎮周は、島津兵など弱卒なりと陣中で鼻息を荒げた上に、此度の決戦に際する一番槍を他の誰にも譲らなかった。

高城への付け込みを禁ずるという命令にも大層不服だったようで、軍議の最中であるにも拘らず、諸将の前で喧嘩でも売っているかのように小馬鹿にしてきたぐらいである。

望み通り先陣を切らせる事にした。

鶴翼の前面にある突進した白い凸は田北鎮周の部隊だ。数にして4000。高城川を挟み、島津勢と真正面から睨み合う場所に布陣中である。

彼の気勢を考慮すれば戦の趨勢は自ずと見える。

我先にと島津軍に突っ込み、わざと退却する島津軍にホイホイと誘われて無策な追撃。そして釣り野伏による反撃を食らって壊滅と言った具合か。

 

「なら、私はその裏をかくだけです」

 

田北隊の後方に控えるは6000の戸次道雪隊。

右翼を任されているのは4000の田原紹忍隊。

左翼に置かれているのは4000の佐伯惟教隊。

戸次道雪は絵地図に手を置く。

意気込む田北鎮周に悪いが、島津勢の囮になってもらうつもりだ。釣り野伏を食らった田北隊が壊滅しそうな時に、満を持して開いてある鶴翼を大きく閉じる。要は釣り野伏返しである。

当然、簡単には行かないだろう。

しかし素早く包囲殲滅するには最適手だ。

 

「けど、相手は島津の今士元。これだけで勝てるなど有り得ない。何か切り札を隠している筈ですがーー」

 

変わらず財部城に陣を構える島津義弘。

3000の兵を率いる鬼島津への抑えとして、松原の陣には臼杵鎮続を大将とした6000の兵を置いてある。

そして高城に篭ったままの島津家久。新納忠元と共に約2000の兵力を温存している侮れない敵だった。

彼らに対抗する為に野久尾陣には志賀親度率いる5000の兵を、高城北東に敷いた本陣には軍師たる角隅石宗と6000の兵を残している。

数に物を言わして形成した盤石たる布陣。

戸次道雪本来の統率と武勇を発揮すれば必ず勝てる戦だ。

それでも違和感が付き纏う。

今士元の策略に嵌まっているような気がする。

見落とした部分は無いか。

島津勢にとって逆転の手は無いのか。

考えろ。考える事を止めると敗北に繋がる。

相手は戦国の鳳雛。

油断など髪の毛一本許されないなど自明の理だ。

それから絵地図を眺めること一刻、遂に敗北の一手を見つけ出した戸次道雪は嬉しそうに微笑んだ後、悲しそうに少しだけ眦を下げた。

 

「……見つけましたよ、忠棟」

 

貴方が必勝だと確信した策略を。

もしもこのまま決戦に及んだら大友軍は敗北必至だった。後詰として置いた本陣を抜かれ、後方から怒涛の如く攻め込まれたら流石の戸次道雪でも戦場を支配する事など不可能となろう。

無論、道雪の考え過ぎという線も残っている。

さりとて昨今の状況を鑑みれば充分に有り得る話だ。

 

「だから貴方は初戦に敗北したのですね」

 

先日未明に勃発した初戦。

島津軍は敗北して、大友軍は勝利した。

最初は田北鎮周を暴走させる事が目的だと推測した戸次道雪だったが、今ここに至って漸く真の目的を理解した。

つまり、島津忠棟が狙っているのはーー。

 

「此処、ですか」

 

戸次道雪が右手に持つ軍配で指し示すのは、5000の兵士で高城を包囲する志賀親度率いる『野久尾陣』だった。

 

 

 

 

 

▪️

 

 

 

 

 

同日、未の刻。

味方の布陣が完了してから一刻ほど経過した。

根白坂全体に配備された島津兵は15000だ。

周囲は伏兵を用意するのに必要な木々で覆われている。釣り野伏を仕掛けるに充分すぎるお膳立てが整ってあった。

俺は床几に腰掛けながら絵地図を注視する。

 

「大友軍は鶴翼の陣、か」

「でも、大旦那の目論見通りになってるねぇ」

「無論よな。その為に義弘様たちに苦汁を飲ませたのだ。手筈通りに事が運ばぬようでは叱責だけで済むと思えぬ」

 

傍らに控えるは股肱の臣たる三太夫。

対する俺は腕組みしながら快活に笑った。

昨日未明に行われた寡兵での奇襲作戦。

義弘様と家久様、忠元殿にわざと敗けろと指示した結果、お三方は俺の想像以上に巧く敗北して下さってくれた。

そして、見事に最善の状況を作り出した。

 

「田北鎮周め。見事に釣られおったぞ」

「島津兵弱卒なりって陣中で叫んでるらしいよ。今度は島津本隊も鎧袖一触にしてくれようぞとかなんとか」

「ふむ。忠元殿に手傷を負わせた事で際限なく増長してくれたようだな。これなら釣り野伏も容易く完遂できるであろうがーー」

 

脳裏を過るのは大友軍の副将。

史実だと常勝不敗を体現した名将たる戸次道雪。

総大将である筈の大友宗麟が懸城で祈りを捧げている今、雷神が軍配を握っていることは確定事項である。

故に釣り野伏は読まれていると考えるべきだ。

陣中の諸将を完全に統制できない不利。初戦に勝利したからこそ浮かれてしまう脳筋武将。戸次道雪なら、この二つを見事逆手に取ることも視野に入れないと敗北必定だろうな。

 

「オレも田北鎮周隊は囮にするね」

「であるか。釣り野伏で壊滅寸前の田北隊を見棄て、両翼を閉じることで大規模な釣り野伏返しを行うとみて間違いなかろうて」

「弘女将さんも6000の兵力で睨まれてる。家女将さんも高城に篭ったままだから、このままだと敗けちゃうかな」

「白々しい物言いよな、三太夫」

 

敗北など認めない。

決戦に向けて策を練り続けた。

大友家に対して調略を仕掛け続けた。

俺が掴むのは勝利の二文字だけである。

 

「野久尾陣を率いるは誰ぞ?」

「志賀親度だね。兵力は約5000かな」

「調略の程は如何だ?」

「もう一ヶ月も前に完遂してる。内応は確約済みだよ。戦端が開かれた瞬間に寝返ってくれるって書状にも書いてあったでしょ?」

「お主が戯けた事を申すからよ。家久様と志賀親度で本陣を抜いて、6000に増やした義弘様の部隊で松原の陣を壊滅させれば、此方の大勝利は疑うべくもない」

 

四方八方に散らせた十数人の忍衆。

その報告を元に書き込んだ詳細な布陣状況にほくそ笑む。

本陣には角隅石宗率いる8000が布陣中。

戸次道雪隊の背後を守護する形となっている。

色々な意味で非常に邪魔だ。

同じく松原の陣も目の上のたんこぶである。

義弘様のいる財部城を抑えている上に、戸次道雪隊の背後から奇襲したとしても即応できる形を取っていた。

義弘様が壊滅に追い込んでくれれば大助かりなんだが、確実性のない希望を当てにして策略を組むなんて論外と言えよう。

家久様と義弘様は足止めだけで構わない。

何れにしてもーー。

志賀親度の内応が確かなら一安心だった。

 

「でもよ大旦那。志賀親度の裏切りに気付かれてたらどうすんのさ?」

 

小首を傾げる不幸忍者。

確かに敵は戸次道雪である。

此方の調略に気付いてる可能性は高い。

だがーー。

慌てることはない。

大友宗麟の不在は大き過ぎた。

 

「確信は無いが疑っているやもしれんな。だとしても証拠が無ければ追及もできぬ。忘れてしもうたのか、三太夫。戸次道雪はあくまでも副将ぞ」

 

むしろ裏切りに警戒したからこそ、わざと野久尾陣に志賀親度を置いたとも考えられる。

例え本当に島津家に内応したとしても、角隅石宗が指揮する本陣で食い止められるからだ。両翼、もしくは松原の陣に配備して裏切られたら目も当てられない。大友軍など容易く崩壊するだろう。

まぁ、なんにせよーー。

俺の狙う『本命』は別にある。

 

「首尾は如何に?」

 

小さな声音で問い掛ける。

三太夫は直ぐに俺の意図を察したようだ。

わざとらしく肩を竦めてから小声で返答した。

 

「上々。作戦通りだって」

「重畳至極なり」

「大旦那は何で川上の旦那を選んだわけ?」

 

嫌ってなかったか、と付け加える三太夫。

人柄としてなら嫌悪感などない。

俺の貞操を奪おうとする久朗の趣味嗜好に、只ならぬ恐怖心があるだけだ。アイツだけだぞ、俺を押し倒してでも犯そうとしやがったのは。

だとしても久朗は優秀な武将だ。

知勇兼備の将として史実でも名を残している。

今回の決戦で勝利を決定付ける『鬼札』に選んだのも、川上久朗の適性から判断したわけだしな。

 

「嫌いとは誇張表現よ」

 

友人としては好きだ。

同性愛云々に関しては無理だ。

久朗に限らず、男と寝るなんて不埒ですから。

 

「ふーん、じゃあ好きなんだ?」

 

ほーう。

喧嘩売ってるのかな、この軽薄忍。

 

「……お主、どうも休みはいらぬようだな?」

「あっーー。ごめんなさいごめんなさい!」

「まぁよい。だが、失言の分は取り返して貰うぞ」

 

途端、三太夫は顔を顰める。

端正な顔立ちに拘らず口を尖らした。

 

「うげっ」

「兼盛殿に2000の兵を与える。そのまま根白坂の左側に待機するように伝えてくれ。所謂、遊撃隊と言ったところか」

「2000か。大盤振る舞いだねぇ」

「仕方あるまい。予備の策を絶えず用意しておく事こそ勝利の近道である故な」

 

了解、と軽い返事と共に姿を消した三太夫。

これで事前にやるべき事は終了した。

兵站の確保、調略の完遂、布陣の徹底。

必勝の策略通り、無事に事は進んでいる。

俺は床几から立ち上がった。

高城川の向こうに広がる大友軍の兵士たち。

奴らを薙ぎ払い、九州統一の足掛かりとする。

そして目指すは天下統一だ。

義久様と夢見た未来、直茂と約束した将来。

そしてーー。

雪さんに対する恩返しとして天下静謐を達成しよう。

 

「戸次道雪、遂に黒星が付くぞ」

 

明日、始まるであろう決戦に想いを馳せた。

 

 

 

 

 

▪️

 

 

 

 

 

同刻、尾張国清洲城。

二ヶ月前に今川義元を破った織田信長。

桶狭間の戦いと呼ばれる奇跡の大逆転勝利から、戦国の世を終わらせようとする彼女の時代は幕を開けた。

今川義元を屠った後、一月足らずで尾張全土を掌握。三河にて独立を果たした徳川家康と同盟を組んで東からの脅威を取り除いた。

織田信長の狙いは尾張北方に広がる美濃である。

美濃は東海道と中仙道が通るだけでなく、北国街道を押さえられる位置にあった。更に尾張と美濃に、北近江と越前の一部を押さえると日ノ本を完全に分断する事が出来る。

そして肥沃な濃尾平野が広がっている。

この為、史実だと斎藤道三が美濃を制する者は天下を制すると嘯いたのだ。実際、織田信長の躍進は美濃を平定してから始まったとも言えよう。

だが、織田信長は美濃国を攻めあぐねていた。

斎藤義龍に姫武将としての才覚は無いとしても、美濃三人衆という優秀な家臣団が活躍するお陰で遅々として美濃攻略が進まずにいたのだ。

このままでは拙いなと焦燥感を覚えた信長だったが、つい先日見つけたばかりの面白いサルが美濃国からとんでもない者を連れてきた。

 

「サル、下がれ」

 

百姓から出世した木下秀吉。

織田信長からしたらサル同然の女。

威圧的に告げると、木下秀吉はそそくさと走り去った。

天真爛漫な明るさと小生意気な立ち回り。柔軟な発想と確実な実行。日ノ本でも珍しい部類で有能さを発揮する部下だが、未だ経験不足は否めなかった。

ーーまぁ、サルなどどうでもよい。

織田信長は眼前にて座り込む姫武将を眺めた。

今にも逝ってしまいそうな儚げな雰囲気を纏う一方で、世の無常を知るからこそ全てを看破する眼力も備えている。

成る程、これが『今孔明』か。

織田信長は気楽な口調で話しかけた。

 

「お前、私の元で働きたいようだな?」

「ええ。秀吉さんの紹介ですが、半兵衛さんも信長様の天下取りをお手伝いしたいと思って馳せ参じました」

「成る程。だがな、半兵衛。今孔明と呼ばれるお前だが、その知略を裏打ちする物がなければ家臣として召抱える事はできんぞ」

「道理ですねぇ。半兵衛さんとしては直ぐにでも美濃攻略に掛かった方が良いと思いますけど」

 

日向ぼっこにも感じられる暢気な声。

だが、竹中半兵衛には何故かしら焦りがある。

 

「ほう。何故だ?」

「南から恐ろしい者が来るからですよ」

「南から、か。それは島津家の事だな?」

「おぉ。流石は信長様ですねぇ。半兵衛さんも同じ意見ですよ。あの家は必ず九州を統一して上洛しようとするでしょう」

 

今孔明は絶対の自信をもって断言した。

発展著しい島津家。

今現在、日向にて大友家と決戦に及んでいる。

情報を重んじる織田信長は、九州の覇権を賭けた争いにも当然の如く着目していた。だからこそ島津家は危険だと認識できた。

だが、竹中半兵衛は何を判断して危険だと思ったのか。

ーーいや。

恐ろしい者とは誰の事を指しているのか。

 

「半兵衛よ、恐ろしい者とは誰を指す?」

 

気になって問いかける。

織田信長も僅かだが気になっている男がいた。

もしも同一の人物を口にしたのなら、竹中半兵衛の知略を認めてやろうとさえ思った。

 

 

「島津忠棟。島津の今士元。半兵衛さんと対極にある存在な気がして、だからこそ恐ろしく感じてしまいますねぇ」

 

 

この問答から織田家の躍進が始まった。

竹中半兵衛重治は織田信長の家臣となる。

直ぐに美濃攻略に取り掛かった今孔明の才覚によって、僅か一年程度で美濃国を平定することになった。

 







本日の要点。

1、大友軍は鶴翼の陣。

2、島津軍は魚鱗の陣。

3、竹中半兵衛、織田信長の直参となる。


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三十二話 戸次道雪への宣告

 

 

 

八月二十二日、卯の刻。

朝靄立ち込める早朝の高城川。

静寂を破るように陣太鼓の音が木霊した。

大友軍の先鋒、田北鎮周隊が発したものである。

 

「島津兵など臆するものぞ。全軍突っ込め!」

 

先陣の兵は田北鎮周に命じられるまま、何の躊躇もなく高城川に駆け込んだ。

この川を越えなければ島津軍には辿り着けない。

多少の犠牲を覚悟して突っ込ませるしかなかった。

刹那、無数の水飛沫が上がる。

 

「押し出せ!」

 

田北鎮周自身も愛馬で駆ける。

自ら前線に進み、手兵を叱咤激励する。

そうする内に手兵の一部が高城川を渡河。

島津軍の先陣に立つ有川勢1500が用意した柵を視界に納めたのは、それから程なくのことであった。

だが、その瞬間ーー。

それまで沈黙を続けていた有川勢から、耳を劈くような爆音が轟いた。大量に持ってきた鉄砲による一斉射撃だ。

 

「散れ!」

 

田北鎮周とてこの程度は折込済みである。

冷静に指示を下す。

水飛沫を上げながら仰向けに倒れる兵が幾らかいたが、直ぐに手兵を散開させた。更に頭を低くして進ませる。これで被害は大きく減るだろう。

同時に田北隊の鉄砲隊を前進。援護射撃させた。

轟音。喊声。悲鳴。

様々な音や声が高城川一帯に轟く。

当然ながら被害は田北鎮周隊が大きい。

それでも突っ込む命知らずな猛者たちが柵に取り付き、銘々が柵を押し倒し始めた。

轟音の間を縫うようにして木が軋んでいく。

 

「押し倒せ!」

 

田北鎮周は声を張り上げた。

この柵を越えてしまえば白兵戦に持ち込める。

そうなれば弱卒な島津兵の事。

苦もなく前線を押し崩す事ができる筈だ。

そもそもーー。

鉄砲を大量に運用している時点で弱兵だと宣伝しているような物だ。白兵戦に自信が無いから鉄砲だけで勝負を決めようとする。

無様な奴らだと島津軍を嘲笑した田北鎮周は、一気に押し倒してしまえと言わんばかりに多数の手兵たちを柵に取り付かせた。

銃弾を間断なく撃ち続ける有川勢。

一人、また一人と大友兵が動かなくなる。

こうした応酬が四半刻ほど続いた頃だった。

 

「それ!」

 

鎮周の号令が掛かった。

手兵たちが力を合わせて一斉に押す。

結果、遂に柵の一角が無残にも薙ぎ倒された。

田北鎮周はしめたとほくそ笑んだ。

これでようやく白兵戦に移行できる。

 

「続け!」

 

勢い良く有川勢に襲い掛かる。

待ち望んだ白兵戦だ。

大友兵全員が狂乱したように押し進む。

有川勢は後退しながら田北隊の猛攻を防いだ。

左右に展開させた鉄砲隊からの援護射撃も加わって、一瞬だけ田北隊の侵攻が止まったものの、数に物を言わせて遮二無二突っ込ませる。

ある時は味方を楯にし、またある時は己すら犠牲にすることで、混沌とした乱戦に持ち込ませていこうとする。

田北鎮周の狙いは一つ。

一気呵成に有川勢を押し退けること。

そして狙うは総大将たる島津義久の首級だった。

 

「押し返せ、押し返せ!」

 

有川貞実と思しき武将が島津兵を鼓舞している。

愛馬に跨りながら血塗れの手槍を振り回し、襲い掛かる大友兵を一蹴する様子は、島津軍を嘗めている田北鎮周から見ても素直に誉め称えるものだった。

 

「田北隊は4000。味方は15000。敗れることはない。直ぐに救援も来る。各自持ち場を離れずに戦うのだ!」

 

魚鱗の陣だと部隊間の情報伝達が早い。

その特性を活かして、救援を待っているのか。

ーーそうはさせん。

如何に弱卒な島津兵だとしても数の暴力には敵わない。いずれ押し返される。だから一目散に本陣へ駆けなければならなかった。

ここは無理してでも突破あるのみ。

瞬間的に判断した田北鎮周は槍を掲げて叫ぶ。

 

「皆の者、突っ込め!」

 

長槍隊による槍衾を破壊する。

弓隊による矢の雨は無視した。

既に死者は三百を超えているだろう。

だが、島津義久の首級を取れば殆ど勝ちだ。

その上で鶴翼を閉じれば、島津軍など包囲殲滅。

つまりーー。

全体的な被害を少なくしたいなら、田北鎮周が頑張らなくてはならない。島津家久と親指武蔵を見事退けた軍略の才で大友家を飛躍させてみせる。

想いは力に変わった。

そして手兵に伝播した。

大友兵は四方で暴れ回る。

有川勢は四半刻耐えたものの限界が訪れた。

 

「逃げるな、逃げるな!」

 

有川貞実が叫ぶ。

それでも島津兵は背中を見せて逃げ出した。

教科書に載せたい程の潰走だった。

指揮官たる有川貞実の叫び声など聞かず、全員が我先にと本陣のある方向へ走っていく。無様だ。

ともあれーー。

こうなれば収拾など付かない。有川勢は全滅である。

実際、有川貞実も馬首を反転させた。

前言撤回しよう。兵が兵なら武将も武将だ。

此処を抜かれれば主君の命が危ないというのに。

全く躊躇せずに逃げ出すなど言語道断であろうが。

苛立たしい気持ちを抑えながら田北鎮周は手兵に追撃を命じる。一兵でも多く討ち取り、そして勢いと士気を保持したまま本陣に雪崩れ込む算段だった。

 

「追え、追え!」

 

走る。疾る。奔る。

島津兵の背中を追い掛けていく。

直ぐに島津家の家紋が描かれた旗指物が見えた。

丸に十文字。頼朝公から続く名家の証。

開戦から半刻が経過している。

朝靄の晴れた今、その旗指物は島津義久の居場所を明確に示す。天は我に味方していた。このまま突き進めば島津義久の首級をこの手に納めることが出来る。

だからーー。

だから、某はーー。

その時、複数の銃声が鳴り響いた。

 

「撃て!」

 

男の声が聞こえる。

かかれ、と叫ぶ有川貞実の咆哮も耳朶を揺らす。

先ほどまで潰走していた有川勢は反転した。

左右に生い茂っていた木々の隙間から伏兵らしき者たちが一斉に現れて、有川勢と協力しながら浮き足立つ大友兵を作業のように駆逐していく。

ーー拙い、釣り野伏か。

覚束無い頭でも理解した。

だから全体に指示を出そうとしたが、何故か声が出ない。何度試しても喉を震わせずに、そして馬上にてグラリと身体が揺れた。

勢い良く地面に叩き付けられる。

この時、田北鎮周はようやく気付いた。

最初の一斉射撃で喉元を撃ち抜かれていたのだと。

ーー嗚呼、情けない……。

日ノ本全土に田北鎮周の武勇が轟くことを夢想しながら目を閉じる。その身体に群がる島津兵。見るも無惨な喉元を更に搔っ切られる。

田北鎮周。壮絶な最期であった。

 

 

 

 

 

▪️

 

 

 

 

開戦から一刻が経過した。

戦場全域から悲鳴と喊声が聞こえてくる。

島津義弘隊は高城川を渡河して松原の陣に突撃。

島津家久隊は島津家に内応した野久尾陣の志賀親度隊2000を吸収した結果、二倍に膨れ上がった4000の兵力で田原親貫隊4000に強襲している最中だ。

戸次道雪の読み通り、志賀親度は裏切った。

前以て志賀親度隊の数を減らした上で、本陣を二つに分けた。田原親貫隊が持ち堪える間に角隅石宗隊が後詰をする予定である。

これで完全に背後の憂いは絶った。

戸次道雪隊が後方を突かれることはなくなった。

既に田北鎮周隊は島津軍の釣り野伏に遭い、このまま一刻でも放置すれば成す術もなく壊滅するだろう。

つまりーー。

此処が勝負所である。

 

「狼煙を上げなさい。鶴翼を閉じます!」

 

道雪の指示によって狼煙が上げられる。

今こそ温存しておいた両翼を閉じる時だ。

島津兵は田北隊を蹂躙する事で油断している。

戦とは水が流れる如きもの。

勝機を見逃さない将兵が勝つのだ。

此処で両翼を閉じねば先陣を失った鶴翼の陣は崩れる。

刹那の内に判断した戸次道雪は、右翼の田原紹忍隊4000と左翼の佐伯惟教隊4000を一斉に前線へ投入させた。

田北隊に群がる為に戦線の伸びた島津軍。

包囲殲滅されやすい魚鱗の陣という事も相重なって、このまま行けば島津勢の敗北は確定的なのだが、それでも戸次道雪は黒戸次を動かしながら油断なく戦場を見渡した。

 

「志賀親度の対応は万全ですが、釣り野伏返しは見抜いている筈。忠棟ならば予備の策も必ず用意しているでしょうね」

 

道雪の狙い通り、両翼が閉じた。

潰乱した田北隊を追いかける島津勢を左右から挟撃する大友勢。加えて、田北隊の後方から戸次道雪隊が後詰に向かっている。

戦況は逆転した。島津勢が浮き足立つ。

しかしーー。

田北鎮周隊ほどの潰乱に陥らなかったのは、最初から釣り野伏返しに遭うのだと予期していたからに違いない。

その証拠が二つあった。

一つは陣形にある。魚鱗の陣から、大将を中心として円を描くように囲む陣形である方円に移行していたのだ。

移動には適しておらず迎え撃つ形となるが、全方位からの敵の奇襲に対処できる防御的な陣形である。半円だけに展開している為、人数も充分に足りているようだ。釣り野伏に遭いながらも抵抗が中々に激しい。

そしてもう一つは島津忠棟隊にあった。

即座に前線へ移動。そして長槍隊に密集形を取らせ、穂先を揃えることで頑強な槍衾を形成。隙間から唸る鉄砲の轟音は大友勢の進軍速度を遅らせた。

田北隊に攻撃を仕掛けない奇妙な部隊があると間者から報告を受けていたが、まさか島津忠棟の部隊だと思いもしなかった。

あの者は武功を挙げる為に参陣していると考えていたからだ。

戦略目的の為に己の栄達を殺すか。

戸次道雪の想い人はいつも楽しませてくれる。

 

「ですが、圧倒的不利なことに変わりなく」

 

戸次道雪隊が島津軍に突入する。

両翼と真正面から圧力を受ける島津勢は、驚く程の頑固な抵抗を続けるも時間が経つにつれて抑え切れずに後進していく。

仕方がない。釣り野伏とは本来必勝戦術だ。

完成させるのは酷く困難な戦術だが、一度嵌ってしまえば抜け出せる物ではない。全滅するか、敗走するか。勝利に導くのは有り得ないのだ。

勝利を確信した大友勢は津波の如く、怒涛の突撃を敢行している。意気揚々と島津勢に攻撃を繰り返す。

大友軍の圧倒的に有利な展開となった。

だが戸次道雪の眼は島津忠棟隊から離れない。

島津の今士元がこの程度で終わるはずがないからだ。

まだ何かを隠している。

釣り野伏を仕掛ける事も察した。

志賀親度の内応も読んでみせた。

他に何がある。

この状況から事態を挽回できるとすればーー。

 

「右翼に伝令!」

 

瞬間、道雪の脳内に稲妻が走った。

 

「背後からの敵に備えろと伝令を。根白坂を迂回して別働隊が突撃してくると田原紹忍殿に伝えなさい!」

 

雷神の下知に伝令兵が馬を走らせる。

戦場を俯瞰しつつ、戸次道雪は吐息を漏らした。

この状況で戦局を最も簡単にひっくり返すには、正面の戸次道雪隊を叩き潰すか、両翼のどちらかを潰すしかない。

方円を敷いた時点で内側からの反撃はない。

ならば考えられるとしたら外側からの奇襲だけである。

小半刻後ーー。

道雪から見て右側の平野に突如砂埃が舞った。

騎馬武者を中心とした島津軍の部隊が、右翼を担当している田原紹忍隊に後方から襲い掛かったのだ。

だが、田原紹忍隊は落ち着いて対処する。

鉄砲を横一列に並べて一斉射撃。弓を番えて半月状に弦を絞った。長槍隊は乱れずに馬の突進を待ち構える。

余りに早過ぎる田原隊の動きに、奇襲部隊の速度は弱まった。それでも精強な島津兵は銃弾と矢による損害を無視して、右翼を崩すべく田原隊に襲い掛からんとする。

戸次道雪は背筋を凍らせた。

背後から別働隊が奇襲を仕掛けるとわかっていた筈なのに、島津兵の有り得ない突破力によって田原隊は混戦に陥ってしまった。

もしも気付いていなかったらーー。

右翼は完全に壊滅されて、返す刀で左翼と正面の大友兵が白兵戦に持ち込まれて、後は消耗戦に移行していただろう。

 

「なるほど。これが、釣り野伏すら完遂する島津兵の強さですか」

 

田原紹忍隊の包囲は弱くなった。

さりとて釣り野伏返しは完遂している。

方円の一角を崩すことが出来れば後は御察し。

円の中に雪崩込むようにして突入し、島津勢を駆逐するだけである。

嗚呼、と戸次道雪は嘆息する。

島津忠棟の策は全て読み切った。

ここまで苦戦するとは正直思わなかった。

それでも勝ちは勝ちだ。

後は如何にして島津忠棟を捕らえるかだがーー。

 

「佐伯鎮続殿から伝令。方円の一角を崩した。道雪殿の隊が前線で猛威を振るえばお味方の大勝利疑うべくもなしとのこと!」

「田原紹忍殿から伝令。奇襲部隊を指揮するは肝付兼盛。兵力は2000。今の所、順調に押し返しつつありとのこと!」

「吉弘鎮信殿から伝令。前線の島津勢は軒並み潰走。後詰にて決着をつけなんとのこと!」

 

両翼、そして前線にて指揮する吉弘鎮信から齎された伝令兵は、いずれも大友勢の優勢を声高に叫んでいた。

後は戸次道雪の部隊が島津軍を飲み込むだけだ。

勝負は決まった。島津勢に勝ち目など無い。

この合戦、大友軍の勝利である。

だがーー。

 

「嘗めるなよ」

 

想い人の声が聞こえた。

此処は絶叫渦巻く戦場なのだ。

一笑に伏しても構わない幻聴に決まっている。

なのにーー。

戸次道雪は嫌な予感を覚えた。

そしてその予感は得てして当たるものである。

 

 

「後方より敵襲!」

 

 

物見櫓の兵士が悲鳴交じりに絶叫した。

それを裏打ちするように、騒ぎ声にも似た喊声が上がる。

思わず振り返る道雪。

その視界に飛び込んできたのは旗指物だった。

数にして3000程度か。

目を凝らした道雪は愕然とする。

謎の一団が翻している旗指物の文様は、丸に十文字だったからだ。島津家の家紋が描かれた旗指物は恐るべき速さで戸次道雪隊に近づいてくる。

ーー何故、どうして……。

道雪の明晰な頭脳をもってしても疑問が湧いた。

島津義弘隊は臼杵鎮続隊が抑え込み、島津家久隊は田原鎮貫隊と角隅石宗隊が迎え打った。肝付兼盛の別働隊も迎撃したばかり。これ以上、他の部隊を移動させれば流石に気が付くはずだ。

わからない。

何処から3000の兵士を生み出したのか。

戸次道雪の理解を超えていた。

それでも一つだけ把握した事がある。

島津忠棟の張り巡らした策略が道雪を上回ったということだ。

 

 

 

 

 

▪️

 

 

 

 

会心の釣り野伏は返された。

志賀親度の裏切りも対応された。

兼盛殿の奇襲すらも読まれていた。

それでも、戸次道雪、お前の負けだ。

 

「久朗を知らなかったのが運の尽きだ」

 

動揺が大友軍全体に伝播した。

愛馬に跨って戦況を把握しつつ、俺は軍配を振るう。

方円から再び魚鱗の陣に変える。

我慢の時は終わりだ。

さぁ、反撃の時である。

 

 

 

「本当の切り札は、最後の最後まで取っておくものだ」

 

 

 

決着を付けよう、鬼道雪。

 






本日の要点。

1、道雪、ピンチ。

2、忠棟「イオナは嫁。タカオは愛人」


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三十三話 島津忠棟への悪戯

 

 

 

 

 

大友軍と干戈を交える十日前。

俺は川上久朗に一枚の書状を送った。

久朗は佐土原城にて義弘様の補佐を任ぜられていた為、実際にアイツの元に届いたのは恐らく七日前ぐらいだろう。

内容は以下の通り。

水軍を用いて志布志港から耳川付近の港へと進軍。

二十日未明の騒ぎに乗じて上陸した後、そのまま二日掛けて二十数キロを踏破。派遣してある百地三太夫の指示に従い、開戦するまで付近の森や山に隠れておくこと。

この作戦は言うまでもなく隠密性が鍵である。

大友家の忍を予め排除する必要があった。

薩摩で鍛え上げた数多の忍を周囲に放ち、久朗の連れてきた兵士には私語することを禁じた。馬には枚を噛ませ、鎧の草摺りにも注意を払わせておいた。

 

「久朗は巧くやったか。なら、決め所だな」

 

それでもーー。

土地の者による情報網には太刀打ちできない。

そもそも戦国時代に於いては農民が耕している田畑の支配者が誰であるかは極めて曖昧だった。故に様々な武士が税を取り立てにくる場合も少なくなかった。

そこで農民側も自衛策を取り始める。

収穫量を誤魔化す、田畑の存在を隠す。

誰の領土か曖昧な場合には、最も強そうな領主に税を納めるといったことも平然と行っていたのである。

つまり、だ。

農民は強い領主に治められていたいという事。

安心して作物を育てることができる上、略奪や侵略の危険に怯えずに済むといった安心感も得られるのだから当然と言える。

今回の場合、大友家と島津家を天秤に掛けたのだろう。国力は依然として大友家が上だ。領国の数も負けている。

もしも万が一、大友宗麟が日向に神の国を作ると大々的に宣伝しなければ。懸領内の神社仏閣を尽く焼き払わなければ。土地の者たちは天秤の結果から大友家に味方していたかもしれなかった。

それを覆したのは大友宗麟の隠しきれない蛮行の数々と、半年間で民衆の心を掴んだ義弘様の善政による物だったに違いない。

二つの事柄が重なって、土地の者は島津家に味方した。

結果、戸次道雪隊の背後を突く事ができた。

 

「伝令兵!」

 

この一手で形勢は決まった。

3000の兵士が後方から襲い掛かったのだ。

戸次道雪ですら不可能と断じたに違いない後方からの奇襲は、戦域全体に漂っていた大友軍有利の空気を払拭した。

見事に釣り野伏返しを行った大友軍。

此処まで全軍を統括してきた戸次道雪に危機が及んでいると理解すれば、それは焦燥と不安を呼び起こして、いずれは指揮系統の崩壊に繋がるだろう。

総大将の危機は武将を焦らせる。

武将の焦燥は兵士の不安に変換される。

さすれば大友軍の士気とて低下するだろう。

実際、島津勢に対する圧力は急激に減少した。

大友家の武将は浮き足立っている。

情けない顔で戸次道雪隊に視線を向けた。

現場指揮官から指示を得られない大友軍の兵士たちは、正面の敵を攻撃すればいいのか、それとも戸次道雪隊を救援に行くのかわからずに戸惑っていた。

勿論、全軍の攻撃が緩んだ訳ではない。

一時的に島津勢の前線を崩した吉弘鎮信隊などは今こそ総大将の首を取ると言わんばかりに激烈な進軍を強行した。

それでも両翼の進行は目に見えて遅くなった。

この隙を見逃してはならない。

即座に方円の陣を解いた。魚鱗の陣に移行する。

一刻も早く他の部隊と合流して、大友軍の中核を担う戸次道雪隊を壊走させる、もしくは潰乱に追い込まなくてはならん。

吉弘鎮信隊が予想以上に働いているせいだ。

前線が完全に崩壊したら、久朗の頑張りが水泡に帰してしまう。此処までやっても勝利条件が整わないなんて理不尽極まりないぞ、戸次道雪めが!

 

「策成れり。前線を押し返す。方円から魚鱗に移行して反撃を開始せよ、と全軍に通達しろ。義久様には後詰を出すように伝えるのだ!」

 

数多くの伝令兵を走らせる。

元々各個撃破されないように密集していたのだ。

直ぐに各部隊へ俺の指示が伝わった。

方円の陣から組織的な魚鱗の陣に展開。

主に梅北国兼殿、有川貞実殿、村田越前殿、本多親治殿、種子島時尭殿たちが手柄と勝利を掴むべく諸手を挙げて反撃に移った。

俺は島津家の宰相である。

無闇に前線へ飛び出れば軍配を振れなくなる。

義久様のいる本陣に何か起きた場合、直ぐにでも駆け付けられるよう戦場の中心に陣取らねばならなかった。

だからこそ傍らの東郷重位に下知を飛ばす。

 

「重位、お主に1000の手勢を預ける。久朗の援護に回れ。戸次道雪は出来る限り生け捕りにせよ。よいな?」

「承知致しました。兄上、この重位が示現流の名前を日ノ本全土に轟かせてみせまするぞ!」

「あー、そういうのはいいからーー」

「御免!」

 

人の話は最後まで聞け。

戦場だからそれが普通かもしれないけど。

手槍を片手に、満面の笑みを浮かべて駆け出す妹分。

示現流を極めた武勇は言うに及ばず、統率力とて並の武将よりも成長した重位なら手勢を預けても安心して任せられる。

ただ示現流を広めるとかいいから。

そもそもお前が開祖でいいんだからね?

 

「押せ、押せ!」

 

自ら先頭に立った重位が大友兵を圧倒しながら叫んだ。

会心の手応えだった釣り野伏から一転して、大友軍から辛酸を舐め続けさせられた島津兵たちは鯨波の声を上げる。

 

「進め!」

 

積み重なった屍を乗り越える。

散発的な銃弾に臆することなく突進した。

死も恐れず長槍を振るう島津兵の勢いに飲まれたのか。

それとも勝利を掴みかけながら寸での所で掌中から逃がしてしまった衝撃からか。

はたまた兼盛殿率いる別働隊に恐れを抱いたからか。

いずれにしてもーー。

反撃を開始して四半刻が過ぎた頃だった。

右翼に展開していた田原紹忍隊が敗走を始めた。

我先にと北へ走り出す大友兵。

獰猛な犬に変貌した島津兵に背中を見せれば、瞬く間に蹂躙されてしまう事など火を見るよりも明らか。

田原紹忍の下知すら無視して、兵士たちは逃げ出した。

 

「今が好機ぞ。かかれ!」

 

勿論、有川殿と梅北殿が見逃すなど有り得なかった。

壊走する田原紹忍隊に手兵を向ける。別働隊の兼盛殿と合流して一気に飲み干し、そのまま左側から戸次道雪隊に猛攻を仕掛ける。

 

「これで、鶴翼の陣は無価値となった」

 

片翼を失った鶴翼の陣など欠陥品以外の何物でもない。

田北隊と田原隊を亡くした今、戸次道雪隊は丸裸も同然。だが、三方向から挟撃されていても尚崩れない統率力は鬼道雪の面目躍如と言ったところか。

こうなると左翼の佐伯惟教が邪魔である。

四半刻経過した今も頑固に抵抗されていた。

村田殿とて決して遅れは取っていない。

但し、史実でも有能だったと称される佐伯惟教を相手にすれば決定打に欠けてしまうのだろう。

それでも誰かに後詰を任せれば問題なく落とせると判断した俺は、近くに布陣している筈の本多殿に伝令兵を送ろうとした直前、佐伯隊の後方から襲い掛かる一団を視界に捉えた。

目を凝らさずとも理解できた。

松原の陣を陥落させた島津義弘様の部隊だと。

 

「忠棟様、義弘様から伝令。松原の陣を陥落せしめた。このまま佐伯隊に突撃、これを蹴散らすとのことです!」

 

駆け寄ってきた伝令兵。

承知した、と俺は鷹揚に頷いた。

なんと頼もしいお言葉であろうか。

僅か二刻で臼杵鎮続率いる6000の兵士を蹴散らした鬼島津に任せれば、小半刻すら掛けずに左翼も食い破ってくれるに違いないと確信する。

実際、臼杵鎮続を一騎打ちにて討ち取った義弘様の気迫に圧され、左翼を任されていた4000の部隊は完全に崩壊した。

これで両翼を引きちぎった。

左右前後から戸次道雪隊に島津勢が殺到する。

史実と同じく下半身不随らしい道雪に、四方から襲い掛かる島津軍15000の目を盗んで逃げ切ることは不可能である。

輿など使っていたら目立つからな。

とにもかくにもーー。

後は角隅石宗と田原親貫の部隊だけ。

合計で約8000の兵力だと報告を受けた。

その半分である4000しか兵がおらず、また裏切ったばかりの志賀親度を含める為、流石の家久様と忠元殿でも苦戦必至だと心配していた時が俺にもありました。

 

「家久様より伝令。8000の敵兵を尽く討ち取ったり。角隅石宗、田原親貫の両名を捕縛したとのこと。現在、豊後へ敗走する大友兵を追撃しております!」

 

一体どうやって討ち取ったのか。

敵将を二人も生け捕りにした手腕は何なのか。

色々な疑念が湧いたものの、取り敢えず俺は重畳至極と答えた。一種の思考放棄である。情けないとか言うな。

島津家最強の戦術家は格が違った。

ともあれ角隅石宗の率いていた本陣は壊滅。

義弘様の突撃で隊列を崩した佐伯隊も敗走。

此処に至って漸く島津家の勝利条件は整った。

 

「鬼道雪、恐ろしい相手だったな」

 

北九州に鎮座する大大名、大友家。

九州探題に任ぜられた大名家に於ける二枚看板の一人であり、雷神とも称される名将を相手にしているんだ。完全な包囲網を築き上げてからでないと勝利宣言も行えない。

有川殿と兼盛殿は左から。義弘様と村田殿は右から。久朗と長寿院は後方から。本多殿と重位は前方から。

過剰な戦力かもしれない。だが、犠牲を少なくして勝利するには弱みなど見せず一気に圧し潰す事こそ肝要だ。

戦力の逐次投入は下策である。

 

「東郷殿より伝令。大友勢壊滅。全軍が北へ逃走中です。戸次道雪は捕らえたとのことですが、如何致しましょうか?」

 

ーーと。

過剰戦力を投入したのは正解だったらしい。

不測な事態は何も起こらなかったようである。

にしても重位、お前が雷神を捕らえたってのか。

うむ、どうしようか。

お前に赤備えを任せてもいい気がしてきたぞ。

 

「全軍に追撃は耳川付近までと厳命しろ。下手に追い過ぎれば思わぬ反撃を受けかねん故な。重位には戸次道雪を連れて本陣に戻れと伝えよ」

 

複数の騎馬武者たちに伝令役を申し付けた。

騎馬武者たちは御意と首を縦に振って、数刻足らずで地獄絵図と化してしまった高城川一帯を駆け抜けていった。

俺は油断せずに戦場を見渡す。

両軍の屍が散乱している。

鮮血の臭いも蔓延している。

生きている存在は俺を取り囲む1000の兵士だけ。

それでも岩剣城の戦いで得た教訓を思い出した。

勝って兜の緒を締めよ。

ここで怪我でも負ってしまえば物笑いの種になってしまおう。義久から本気で心配されて、直茂からは呆れられる未来が見える。

ーーそうだ。

内城にいる歳久様と直茂に戦勝報告しないとな。

 

「三太夫」

「大旦那、呼んだ?」

 

何処からともなく現れる不幸忍者。

開戦前から大友軍の間者を殺し回っていたにも拘らず、百地三太夫は顔面の半分ぐらいを鮮血で塗らしながら、無邪気な笑顔を貼り付けたまま小首を傾げた。

うん、普通に怖いぞ。

せめて笑うなよ。夢に出てくるだろうが!

 

「内城に駆けよ。歳久様と直茂に戦勝の報告をするのだ。後は事前に話した計画通りこのまま肥後へ侵攻する故、準備を整えておくようにともな」

 

了解と軽く頷いた三太夫。

 

「豊後はどうすんの?」

 

大友家の本拠地たる豊後国。

日向から攻め込むことは可能だ。

決戦に勝利した余勢で征伐に赴くのも一理ある。

だが、大友家の実力は決して侮れない。

今侵攻するのは性急に過ぎると思うわけだ。

 

「懸城は奪う。だが、豊後まで攻めるのは早計の至りよ。大友家には高橋紹運がおる。万全の準備を施さねば返り討ちにあおうて」

 

何しろ高橋紹運がいる。

史実だと岩屋城の戦いが有名だ。

九州統一を間近に控えた島津軍は大友家を滅ぼす為に九州を北征する。その際、高橋紹運が篭る岩屋城にて足止めを食らった。

高橋紹運は防御の薄い岩屋城にて763名と共に籠城。島津軍の降伏勧告を拒絶して徹底抗戦したのだ。

約二週間に及ぶ戦いの結末は悲惨だった。

高橋紹運以下全員が玉砕することになった。

しかし、島津軍にも戦死傷者3000人とも言われる甚大な被害を与え、島津軍は軍備立て直しのため時間が掛かってしまった。

結果として豊臣軍の九州上陸を許してしまう。

高橋紹運らの命を賭した徹底抗戦は、結果的に島津軍の九州制覇を打ち砕くことになったのだ。

正直な話、こんな所で余計な被害は食らいたくないんだよ。そもそも負けてしまいかねない。立花宗茂の実父だしなぁ。

 

「へぇ。一応、内城の後は豊後の方に潜入しとこっか?」

 

それも良いが、俺を約束を守る男だ。

ちゃんと部下を休ませるのも必要だろう。

 

「いや、お主には休暇を与えよう」

「うぇ!?」

「ほう。いらぬか?」

「いやいや、いるいるいるいる!!」

 

三太夫が首をブンブンと横に振る。

必死過ぎる姿に少しだけ笑ってしまった。

 

「金子も与えよう。充分に休養を取るといい。だが、全て放り投げて休むのは肥後北部に忍衆を放ってからぞ」

「なーる。城はどうすんの?」

「隈本城を増築すればよい。その周辺は徹底的にな」

「承知したよ。じゃあ、オレは行くからね」

 

片手を挙げてから姿を消した忍衆の棟梁。

その後ろ姿を眺めながら、俺は内心で三太夫に謝った。今度からは出来る限り短い間隔で長期休暇を与えよう。

扱い易いという理由で酷使してたな。

人権がない時代だからこそ反省せねばなるまい。

腕を組んで唸っていた俺。

そこに伝令兵が近付いてきて口にした

 

「忠棟様、義久様が本陣にてお待ちです」

「承知した。直ぐに向かうと伝えていてくれ」

「はっ」

 

やれやれ。

戦後処理が面倒だ。

政務だけなら得意なんだが、敵将の説得とか無理です。

出来れば戸次道雪を島津家に迎い入れたいんだけど、二君に仕える気など毛頭ないって拒否られるだろうしなぁ。

処刑するなんて勿体無い。

だが、仕える気など無い人間を養うのも無理な話で。

はてさて、どうしたものかな。

この時はまだ軽い気持ちだった。

戸次道雪が島津家に忠誠を誓わずとも、島津四姉妹の能力を鑑みれば大きな問題にならないと。少なくとも大友家に帰還させないのであれば、死なせたとしても構わないと考えていた。

此処は戦国時代である。

非情に徹しなければ勝ち進めないのだ。

そう思って、俺は本陣へと馬首を向けた。

 

 

 

 

 

▪️

 

 

 

 

 

嗚呼、と笑うしかなかった。

どうしてなんだ、と頭を抱えてしまった。

もしも神様とやらがいるんだったら出てこい。

思いっきり地の果てまでぶん殴ってやるからさ。

 

「貴女はーー」

 

長く美しい濡羽烏の髪には土砂が付着している。

玲瓏たる白い美貌には紅い鮮血が浸透している。

下半身不随にも拘らず無理矢理茣蓙に座らされていた。

それでも、敗軍の将でありながらも紫紺の双眸に覇気を纏わせ、今なお戦意を保ち続ける姿は『傑物』という言葉を連想させる。

いや、そんな事はどうでも良かった。

鬼道雪が傑物であることなど知っている。

只、信じたくない事実だけを突きつけられた

 

 

「雪、さん……?」

 

 

俺の声は震えていただろう。

情けない表情だったんだろう。

だからなのか。

戸次道雪はーー。

雪さんは、苦笑いを浮かべた。

 

 

「強くなりましたね、忠棟殿」

 

 

まるで、出来の悪い弟の成長を喜ぶように。

 

 

「だから笑いなさい。貴方はこの鬼道雪に勝ったのですから」

 

 






本日の要点。

1、今士元が鬼道雪に勝利する。

2、忠棟が雪さんの正体を知る。


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三十四話 戸次道雪との妥協

 

 

八月二十五日、申の刻。

史実で言う『耳川の戦い』に似ている『高城川の戦い』と呼称されるようになった此度の合戦は島津家の大勝利に終わった。

大友勢は死者7000余、負傷者8200余。

島津勢は死者1500余、負傷者4500余。

両軍の主力同士が互いに『釣り野伏』と『釣り野伏返し』を行って、松原の陣と本陣以外を包囲殲滅する合戦だったからな。

加えて、倍以上の軍勢を駆逐してもなお余裕を残していた家久様と忠元殿の部隊が、豊後方面へと逃げ行く大友兵を適度に追撃した事も要因の一つとなっている。

うん、島津四姉妹の高能力を改めて思い知った。

義久様は全軍を纏め上げて、義弘様と家久様は僅かな時間で敵陣を陥落させて、歳久様は25000の兵士たちに必要な兵糧などを抜かりなく手配してみせたんだ。

流石は例の一族だと噂されるだけある。

軍配を握る俺からしたら頼もしい限りです。

 

「…………」

 

今回の勝利で島津家は南九州の覇権を握った。

大友家の発展と維持に貢献してきた多くの重臣や有力武将を討ち取り、ならびに数多くの兵力すら刈り取ったのだ。

大友家の衰退は決定事項である。

日向へ南侵する余力など残ってないだろう。

決戦に敗北して僅か三日しか経っていないのにも拘らず、筑後や筑前の国人衆は大友家から離反しようか迷っていると聞く。

当然ながら下手人は俺です。

間者と忍を用いて噂を流している。

隣の国人衆が他勢力に靡いているようだとかそんな感じで。すると、機に聡い国人衆は御家の存続を図るために焦り出すのだ。

特に肥後北部には大量の忍を放っている。

人数が多い分、様々な噂が飛び交っていることは想像に難くない。今頃はてんやわんやの騒ぎだろうな。

だが、龍造寺家も頑張っている。

高橋紹運に妨害されて筑前は奪えなかったが、秋月氏を寝返りさせる事に成功。磐石な体制を築いてから筑後方面へ侵攻を開始したらしい。

正直な話、これは予想外だった。

将来的な事を鑑みれば、龍造寺隆信に筑後を奪われてしまうのは痛手である。肥後と接している上に北征の邪魔だ。

それでも利点はある。

龍造寺隆信の魂胆が垣間見えたからだ。

何か画策しているようだな、肥前の熊は。

直茂とももう一度ちゃんと話し合わないと。

まぁ、それは肥後北部を併合してからで構わないか。

 

「ふふ。ようやく来ましたか」

 

義弘様は佐土原城に帰還。

家久様は5000の軍勢を纏めている最中だ。

そして俺こと島津忠棟は、高城にて今回の戦後処理と肥後北部に攻め込む為の様々な準備に追われていた。

予想よりも多かった島津勢の被害。

短期決戦のお蔭で兵糧に関しては余裕がある。10000の大軍を二ヶ月間養えるだけの米はあるんだが、そもそも傷付いた兵士を戦場に送り込むのは無理があるからな。

事前に建てていた計画よりも少ない兵力で進軍するつもりだ。九月中旬までに肥後北部を平定するつもりだから忙しい事など自明の理である。

さりとてーー。

俺には優先してやらねばならない事があった。

陰鬱な空気が支配する座敷牢。

俺は敗軍の将である戸次道雪と向き合った。

鬼道雪の異名を持つ名将は流石に肝が据わっているというか、まるで動じることなく穏和な微笑みを浮かべている。

 

「遅くなりました、道雪殿」

 

堺に居を構える商人の娘、雪。

坊津と鹿児島に視察へ赴いた際、二度も悩みを解決してくれた。雪さんがいなかったら、俺はこの場に存在していないに違いない。

恐ろしくなる程、心の波長が合う女性だった。

そんな女性が敵将として座敷牢に囚われている

戸次道雪という本来の正体で目の前にいる。

再会した嬉しさと虚偽を知った悲しさ。

二つの相反した感情が螺旋状に絡み合いながら混ざり合っていた。

 

「雪とは、呼んでくれないのですね?」

 

悲しそうに目を伏せる道雪殿。

黒戸次を握る手に力を込めていた。

悔しいのか、それとも怒っているのか。

頑丈な格子を挟んで対峙する俺には判別できなかった。

 

「呼べませんよ。貴女は、戸次道雪ですから」

「成る程、確かに忠棟殿の言う通りです」

 

道雪殿は可笑しそうに口許を緩める。

何もかもを諦めているような表情だった。

それが酷く気に入らなかった。

俺は苛立ちを押さえ込んでから口を開いた。

只でさえ時間が無いんだ。

単刀直入に行かないと、俺の心も耐えられない。

 

「貴女は島津家に仕える気がありますか?」

「結論を急ぐのですね、忠棟殿」

「余計な問答は不要だと心得ていますから」

「不要と言い切るのは性急でしょう」

「それはーー」

「いえ、私は島津義久殿に仕えるつもりなど毛頭ありません。これでも大友家の武将。二君に仕えるなど武士としてあるまじき行いですから」

「道雪殿ならそう仰るとわかっていましたよ」

 

三年前、坊津で耳にした言葉を思い出す。

主家が隆盛しているときは忠勤に励んで功名を競う者は多くいる。しかし主家が衰えたときに一命を掛けて尽くそうとする者は稀である。武家に生まれた者として恩と仁義を忘れるものは鳥獣以下だと口にした道雪殿だからこそ、勧誘に対する答えなどわかりきっていた。

それでも座敷牢を訪れたのは諦められないから。

日ノ本に於いて五指に入る名将である戸次道雪を家臣に出来たら、島津家の天下統一に弾みが付くという打算的な理由もあるけれど、命の恩人である彼女を何もせず見殺しにすることなんて出来なかった。

結果、道雪殿は勧誘を拒否した。

なら、俺の取れる行動なんて一つだけだろ。

 

「一つ、お聞きしてもよろしいですか?」

「何なりと。答えられる範囲なら答えますよ」

「どのようにすれば、道雪殿は島津家に仕えてくれますか?」

 

恥も外聞も投げ捨てた説得だ。

島津家宰相が敵将に泣いて縋り付くなんて。

例え雷神たる戸次道雪を島津家に仕えさせる為と言えども、このような失態を家中の諸将が知れば反発必至だろう。

名家たる島津家を愚弄するつもりなのかと。

島津忠棟を支持している方々も反旗を翻すかもしれない。権力闘争、もしく御家騒動の危険性を孕んでいる行為だった。

だとしても見殺しにできないんだから仕方ない。

バレなきゃいいんだよ、こんなもんは。

 

「そうですねぇ」

 

頬に手を当てる道雪殿。

俺は格子を掴みながら早口で言う。

 

「道雪殿のお蔭で、俺は島津家の宰相となりました。ある程度の融通を効かす事ができます。義久に頼んで道雪殿を城主に任命することも可能ですよ」

「私情を挟むのですか?」

「道雪殿を島津家中に迎い入れる事ができるのなら、家宰として失格という評価すら甘んじて受け入れましょう。評価など幾らでも取り戻しますから問題ありません」

「義久殿がお許しになるのですか?」

「既に許可は貰っています。俺に一任すると」

 

義久とは話を付けてある。

三日前に本陣で俺の狼狽えぶりを懸念した義久から聞いてきたんだ。戸次道雪と何か昔ながらの因縁でもあるのかと。

正直に全てを話した。

坊津で出会い、酒を酌み交わして、背中を押してくれて、鹿児島で再会した時は権力闘争で疲れ切っていた俺を励ましてくれたことなどを。

頭を下げて頼んだ。

どうか戸次道雪を殺さないでくれと。

義久は苦笑しながら今回の一件を任せてくれた。

 

「良い信頼関係ですね」

 

権力闘争を乗り越えた。

主君と家臣の垣根も超えたんだ。

今では二人三脚で目標に向かっている。

だけどそれは、戸次道雪のお蔭でもある。

 

「ええ。貴女が背中を押してくれたからですよ」

 

俺は強く頷いた。

道雪殿は相好を崩した。

 

「あらあら」

「条件を申し出てください、道雪殿」

 

どちらが敗軍の将なのか。

苦笑しながらも俺は頭を下げた。

 

「その前に、三つほど尋ねさせてもらいます」

 

条件の前に尋ねたい事って。

いや、話に乗って来ただけで儲け物だ。

後は俺の返答次第なのだから気張らないと!

 

「はい」

「もしも先の決戦で忠棟殿が敗れたとして、今の私と同じ境遇になった時、貴方は主君の恩義を忘れて大友家に仕えますか?」

 

答えなど決まっている。

 

「仕えます」

 

俺は即座に首を縦に振った。

道雪殿は意外そうな表情を浮かべた。

 

「ほう?」

「俺が狗になる事で、主君の命を救えるのなら」

「敵にでも尻尾を振ると?」

 

番犬のように鳴いても構わない。

島津家の存続と義久の命を救えるなら。

俺の誇りなど投げ捨てても問題無いんだよ。

その場を切り抜ければ何でも出来るんだからな。

 

「まぁ、御家騒動を起こすつもりですが……」

「正直ですね。私も貴方ならそうすると思いましたよ。それでも貴方に大友家へ仕えるように色々と施していたでしょうが」

 

一瞬、背筋が凍った。

 

「色々……?」

「ええ。今となっては無用な想像でしたね」

「ひどく気になるんですが」

「お気になさらず。さて、二つ目の問いです。何故、貴方はそれほどまでして私を島津家にお仕えさせたいのですか?」

 

答えなんて決まっている。

九九の計算よりも簡単である。

俺だって戸次道雪が雪さんと全く無関係な人物だったら、島津家宰相の地位と反比例するようなほど下手に出ていない。

もっと威圧的に交渉していた。

高圧的に軍門に下れと催促していたと思う。

恥ずかしがる必要なんてないんだ。

鹿児島で再会した時に正面から告げているんだからな。

 

「道雪殿が大事な人だからに決まっています」

「は、はぁ。……はい?」

 

目を白黒させる道雪殿。

鬼道雪の貫禄は何処へやらだ。

 

「信じていませんね?」

「い、いえ、そのようなことはーー」

「道雪殿は俺にとって大事な人なんです。坊津では背中を押してくれました。鹿児島では見失っていたモノを取り戻させてくれました。命の恩人と呼んでも過言じゃないんです」

「え、あ、うぅ……」

「出生を偽られても、敵将だったとしても、そんなことは笑い飛ばしてしまえそうな程、俺は貴女を大事に想っているんです!」

 

力強く宣言する。

全くもって格子が邪魔だ。

見張りの兵士がいるから壊せないけど。

格子なんて無かったら座敷牢に足を踏み入れてるだろうな。目の前で頭を下げたり、場合によったらお酒だって酌み交わしても構わない。

道雪殿は賢い方である。

此処で俺に危害を加えても何一つ利にならないとわかっている筈だ。だというのに、本当に邪魔なんですけどこの無駄に頑丈な格子は!

 

「わかりました。わかりましたからっ!」

「ご理解頂けましたか!?」

「え、えぇ。ーー全く、もう。熱いですね」

 

頬を紅潮させる道雪殿。

パタパタと手で仰ぐ様は可愛らしい限り。

耳から首筋まで真っ赤にさせる辺り初心そうである。

 

「夏ですから」

「そういう意味ではありません!」

 

瞬間、吠えられた。

はぁはぁと呼吸を荒げている。

あれ、もしかして選択を間違えてしまったか。

直茂からの助言通りにしたつもりだったんだが。

まさか騙されたのかと首を傾げる俺。

道雪殿は呼吸を整えてから冷静に言葉を紡いだ。

 

「では、最後の問いです」

「はい。噓偽りなくお答えします」

 

一拍。

 

「三年前の約束、覚えていますか?」

「坊津の時に交わした約束の事なら。将来、無事に再会できた時はお互いの目標を手助けしようという約束でしたよね?」

「……貴方は朴念仁かと思っていました」

 

目を見開く道雪殿。

まさに心外の至りだ。

約束を忘れるなんてことする筈がない。

特に女性と交わした約束事なら尚更である。

つーか、朴念仁って何だよ。

これでも異性からの好意に敏感ですよ、俺は。

 

「それはつまり約束を忘れているだろうと?」

「覚えているのなら問題ありませんよ」

「罵倒された気がします」

「褒めたんです。さて、質問は終わりです」

 

何処に褒めた要素があったんだ?

道雪殿の言葉を反芻する俺だった。

何にせよーー。

三つの質問に答えた。

嘘偽りなく本心から答えたんだ。

これで駄目ならどうしようかなぁ。

最後は泣き落としという手段があるけども。

 

「どう、でしたか?」

「安心しなさい。貴方にお仕えします」

 

刹那、全身の力が抜けた。

余りの安心感故に格子から手を離す。

 

「……良かったぁぁああ」

 

口から漏れ出た感想は歓喜と安堵に包まれていた。

 

「ふふ。島津の今士元たる貴方にそこまで喜ばれると悪い気はしませんね。但し、条件が三つほどありますよ」

 

え?

 

「……条件があるんですか?」

 

そういえば条件が無いとは言ってなかったな。

島津家に仕える条件を告げる前に、俺に対して三つほど尋ねたい事があると口にしただけだった。

完全に忘れてました。

無論、条件を突き付けられるなんて想定の範囲内。

余程の事でない限りは受け入れるつもりである。

 

「駄目ですか?」

「いえ、そんなことは。条件の内容にも依りますが」

 

流石に島津領を全部差し出せとか。

正室である義久と別れろとか。

久朗と寝ろとか言われたら断るしかない。

 

「一つは、大友家の存続です」

 

ほう、一つ目から核心的な部分を突くな。

大友家の忠臣たる戸次道雪なら提示するだろう。

予想していた条件の一つだ。

承知する前に確かめなくてはならない。

真顔に戻った俺は低い声音で問い掛けた。

 

「豊後を見逃せと仰るのですか?」

「そこまでは求めません。貴方が天下を狙っている事は知っていますからね。私が欲しているのは宗麟様の身の安全です」

 

成る程、と理解した。

先ほどの問答に意味はあったんだ。

道雪殿が発した最初の問いに対し、俺こと島津忠棟は義久の命を守れるのなら敵軍に仕えても構わないと答えた。

あの時点で勝負が決していた。

俺から必要な台詞を引き出した段階で、道雪殿からしてみたら後の問答は茶番に過ぎなかったんだろうな。

何せ俺自身が仕える条件を口にしたんだ。

道雪殿に適用させられないとしたら嘘になる。

いやーー。

これが俺たちの落とし所って奴か。

 

「成る程、一本取られましたね」

「それでどうなのですか?」

「承知しました。島津忠棟の名に於いて大友家は滅ぼさないと約束します。いや、誓詞血判をもって誓いましょう」

「誓詞血判など無くとも、私は忠棟殿を信じていますよ」

「道雪殿の信頼を頂けるとは光栄の極みです」

 

当然、島津家が九州を掌握する。

大友家は相良家ほどに没落するだろう。

それでも御家の存続を願うあたり律儀な方だ。

 

「二つ目は、私は島津義久殿には仕えないという事です」

 

まさかの卓袱台返し。

今までの時間は何だったのか。

俺を弄んでいたのかと双眸を鋭くした。

道雪殿は春の芝生のように明るく笑った。

 

「二君に仕えるなど不忠の極み。しかし、約束を守らないのは仁義に悖ります。故に、私は忠棟殿の家臣となりましょう」

 

道雪殿が俺の家臣に?

 

「充分な禄を与えられませんよ?」

 

城主でもなければ、地頭でもないんだ。

与えられる物は無駄に溜まった金子ぐらい。

鬼道雪を家臣とするのに全くもって足りない気がする。

 

「無用です。宗麟様の命を救えて、貴方との約束を守れるなら。本来なら此処で死んでいる身ですからね」

 

なのに道雪殿は朗らかに微笑んだ。

なら、俺も腹を括るしかないだろうが

 

「道雪殿を巧く扱えるように精進します」

「期待していますよ。さて、三つ目ですが……」

 

一拍。

 

「雪、と呼んでください」

 

悲しげな表情は悪戯っ子のように。

憂いを帯びた声音は喜色を孕んでいた。

目を丸くする俺に、道雪殿はクスクスと笑った。

 

「道雪殿?」

「それが、最後の条件です」

 

そうか。

条件なら仕方ないな。

道雪殿を家臣とする為に必要なら。

島津家宰相と大友家の大黒柱。

二人が手を組むには様々な大義名分が必要だ。

当然ながら仲良くする為にも同様で。

俺たちには地位がある。世間体が存在する。

不器用だとしても、一つ一つに意味合いを持たせないといけない。いやはや、全くもって面倒な事だと思うよ。

 

「わかりました、雪さん」

「雪だけで構いませんよ?」

「いや、何かもう、雪さんで定着しましたから」

「まぁ、良いでしょう」

 

俺より二つ歳上だしな。

年長者を敬うのが当然だ。

そんな俺に対する当て付けか、道雪殿は頭を下げた。

 

「これからよろしくお願いしますね、殿」

 

うぉおおお!

背中がゾワッてした!

変な汗も掻いちゃったんだけど!

 

「あ、それは駄目です。殿はやめて下さい!」

 

うん、改めて理解した。

俺は人の上に立つ人間ではないと。

義弘様や雪さんに殿とか呼ばれるだけで罪悪感が溢れ出す。出来るとしても戦場や内政に於いて指示を与えるだけだ。

自信は取り戻したよ。

雪さんに勝って磐石な物にしたさ。

だとしても生来の気質とか関係しているわけで。

その事を充分に把握しているのか、雪さんは苦笑した。

 

「ふふ。冗談ですよ、忠棟殿」

「勘弁してくださいよ、雪さん」

 

手強い家臣に項垂れる俺。

だからなのか、全く気付かなかった。

 

 

 

見張りの兵士がそそくさと何処かへ消えた事を。

 

 

 

 

 





本日の要点。

1、忠棟「道雪殿を説得しなきゃ(使命感)」


2、道雪「雪と呼ばせなきゃ(使命感)」


3、兵士「義久様に報告しなきゃ(使命感)」


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三十五話 島津義久との対談

 

 

 

八月二十五日、戌の刻。

島津家と大友家の対立にて勃発した『高城川の戦い』にて敗れた戸次道雪であったが、主君である大友宗麟の助命を受け入れられた事に加え、坊津にて交わした約束事から島津忠棟の家臣として働くことを快諾した。結果として高城にある部屋を一つ与えられることに。忍衆の監視付きであるものの有り難い限りである。

想い人かつ新たな主君の配慮に感謝しつつ、明後日には肥後北部へ進軍する事も考えて早めに休もうとした戸次道雪を訪ねる人影があった。

恋敵であり、主君の想い人であり、三洲一の美女として名高い島津義久その人。雷神からしてみても予想外な人物の訪問であった。

 

「こんな夜遅くにごめんなさい」

 

開口一番、謝罪を口にする島津義久。

南九州にて覇権を握る島津家の当主と思えない腰の低さに内心驚きつつも、戸次道雪は来訪を予期していたかのような冷静さで対応する。

 

「義久様が謝る必要などありません。本来なら私が出向かなければならないのですから。わざわざお部屋に来てもらうなど汗顔の至りです」

 

如何に大友家の大黒柱だったとしても、島津忠棟から大事な人だと断言されても、今の戸次道雪は只の一陪臣に過ぎない。

それも僅か三日前まで頑なに敵対していた敗軍の将である。島津義久に足を運ばせたと家中に知られれば糾弾されることは間違いなかった。

ご無礼をお許し下さいと頭を下げる道雪だが、義久は気にしていないとばかりに微笑んだ。

 

「そんなこと無いわ〜。昨日の今日だもの」

「お心遣い、痛み入ります」

「ううん。それより時間の方は大丈夫かしら?」

「夜更かしは好みませんが、これでも戦場を渡り歩いた一角の武将と自負しております。一日二日眠らずとも問題ありません」

「源太くんが言うには夜更かしするとお肌が荒れるらしいから。あんまり長居するつもりもないから安心してね〜」

 

聞き慣れぬ情報と名前である。

兎にも角にもいの一番に来訪の理由を尋ねる筈だったが、戸次道雪は浮かんだばかりの純粋な疑問を投げ掛けることにした。

 

「源太、とは?」

「あらあら。雪殿は知らないのねぇ」

「誰かの幼名でしょうか?」

「夫の事よ〜。幼名というよりも通称かしら」

 

義久は嬉しそうに口にする。

彼女の夫とは即ち島津忠棟の事だ。

言外に幼少期から仲良くしているのだと念を押されているようで、少しだけ胸の内に響く騒めきが大きくなってしまった。

しかし、御身は戸次道雪である。

涼しげな表情のまま軽やかに言葉を返した。

 

「忠棟殿の事でしたか。しかし、夜更かしすると肌が荒れるとは事実なのですか。初めて耳にしましたが」

「わからないわ〜。でも、源太くんが自信満々に断言してたから本当だと思うけど。行軍とかしてたらお肌とか気にしていられないけどね」

「確かに。ですが、気を付けることにします」

「それがいいわ〜」

 

あくまでも素面で。

内心では肌荒れを気にする乙女で。

察しているのか、それとも恋敵として見ていないのか。どこか島津忠棟を彷彿させる笑みを浮かべたまま頷く島津義久は、純粋に本心だけを述べているように見えた。

ーー手強いですね。

嬉しさ半分、悔しさ半分。

今年の三月までは恋に浮かれる愚かな女という印象だったが、主従で御家騒動を乗り切った事からどうやら一皮向けたようである。

忠棟を支えてくれる妻になったなら発破を掛けた甲斐もあったというものだ。

 

「話を戻します。義久様は何故私の元に?」

 

何はともあれ。

大事なのは島津家当主の来訪理由。

忠棟に申し付けた条件を反故にされる可能性とてなきにしもあらず。その場合、舌戦を繰り広げることも吝かではなかった。

 

「ちょっとお話がしたいなぁと思って。駄目だったかしら?」

「いえ、私も義久様と言葉を交わしたいと思っていましたから。主に今後の事について、後は忠棟殿の事について」

「奇遇ね。私と同じだわ〜」

「忠棟殿の言葉から察するに、直ぐにでも肥後北部へ侵攻するとの事ですが」

 

座敷牢にて交わした言葉を思い出す。

島津家と大友家。双方の総力を結集させて行われた決戦に打ち勝った島津軍だったが、尚も骨身に鞭打って残された肥後北部を平定するらしい。

大友家の背後から毛利家をちらつかせ、調略を駆使して内部分裂を図り、わざと数的不利な野戦に持ち込んだ真の魂胆は兵糧の無駄遣いを避ける為だったのである。

島津軍の死傷者は6000を超える。彼らを丁重に供養し、また負傷者に対して医療を施す者などを差し引けば肥後北部に侵攻する島津兵は10000と少しといった所だろうか。

 

「家ちゃんと忠元が懸城に、歳ちゃんと有信が御船城に、源太くんと兼盛が高森城に。兵数は詳しく決まってないわねぇ。明日、源太くんが決めるらしいけど」

「三つの部隊で一気に、というわけですね?」

「農繁期を跨ぐのは良くないもの。みんな疲れてると思うけど、此処で肥後北部を占領しておかないと後々に響くって源太くんが言ってたわ〜」

 

農繁期を跨がないとは、つまり九月中旬までに肥後全土を平定するつもりなのか。

戸次道雪は肥後平定に必要な情報を整理した。

懸城に引きこもっていた大友宗麟は既に豊後へ退却したらしい。半数の兵力で角隅石宗の率いていた本陣を壊滅させた島津家久と新納忠元ならばもぬけの殻となった懸城など容易く奪還できる。

高森城は別名『囲城』と呼ばれ、清栄山付近の標高約八町(840メートル)迫地に立地している山城だ。肥後、豊後、日向の国堺を押さえる要衝に位置している重要拠点な為、島津家宰相が直々に攻めるのだろう。此方も特に大きな障害は無いと思う。

問題は御船城である。肥後だけでなく、九州全域に轟く名将『甲斐宗運』が守護する御船城を陥落させる為には、鬼島津の武力と今士元の知略を最大限活用させないと先ず不可能に近い。

当然、忠棟も承知済みだろう。

それでも速攻で阿蘇氏を攻める理由は一つだ。

 

「忠棟殿は龍造寺を警戒しているのでしょうね」

 

龍造寺家と島津家は同盟を結んでいる。

しかし相手は龍造寺隆信。肥前の熊である。

警戒して当たり前、出し抜けるなら裏を掻く。

当然の事ながら龍造寺隆信も同様の考えだろう。

それが戦国時代の常である。

正義は勝者にある。敗者の言い分は誰の耳にも届かない。

 

「実際、筑後に侵攻しているもの」

「肥後は九州のほぼ中心に位置しますから。龍造寺もあわよくば狙っていることでしょう。忠棟殿が焦るのもわかりますよ」

 

非常に口惜しい事ながら、高城川の戦いで名だたる武将と数多くの兵士を亡くした大友家に以前までの力は無くなってしまった。

流石の高橋紹運でも支えきれないだろう。

否が応でも大友家は大大名家の立場から転げ落ちる。

大友家の没落後、九州の覇権を握るのは南九州を支配下に治める島津家か。もしくは躍進著しい龍造寺家のどちらかに限られた。

それ故に、お互いに九州平定に必要な立地を確保しようとする。龍造寺隆信なら筑後を、島津忠棟なら肥後である。

被害が大きくなろうとも此処は拙速を尊ぶべし。

僅かな動きの遅れが全てを台無しにするかもしれないのだから。

 

「雪殿から見て、行けると思うかしら?」

 

微かに思案してから戸次道雪は強く首肯した。

 

「島津兵の精強さ、兵站維持能力、武将の才覚などから判断すれば問題ないかと。全軍の軍配を握るのも忠棟殿ですから。唯一の問題点は九州北部の勢力で連合を組まれた場合ですね」

 

甲斐宗運については一旦思慮の外に置く。

最悪、御船城に甲斐宗運を釘付けにしておくだけで事足りるからだ。

その隙に高森城を抜いた島津忠棟隊が隈本城を陥落させる。阿蘇家を率いる阿蘇惟将は凡将では無いが、決戦を制した島津家の勢いを抑え込める器の持ち主ではない。

それでも道雪の脳裏に一抹の不安が過ぎる。

阿蘇家の支柱たる甲斐宗運は、控えめな評価を下しても大友家の両翼たる高橋紹運や戸次道雪と同等の資質を持つ武将である。

島津歳久と山田有信の部隊が一蹴される事も視野に入れて置くべきか。早速、忠棟に進言するとしよう。

そこまで考えて、道雪は内心苦笑した。

ーーもう、島津家を基準に物事を考えるなんて。

ともかく、甲斐宗運の脅威は視野の外とした際に残る問題点は九州北部にて対島津同盟を結ばれてしまう事だろう。

 

「やっぱり包囲網が敷かれるかしらね〜」

「龍造寺隆信は強かな男です。島津家と同盟を組んでいても、その背後で島津家を貫く槍を扱いている事でしょう」

「龍造寺家が主導だと思う?」

「此度の敗戦で大友家に島津包囲網を主導する余力は無くなりましたから。可能性として挙げるなら龍造寺家だと思いますよ」

 

大友家を巻き込んだ対島津同盟。

両家の足並みが揃うかはまた別として、九州平定の妨げになるのは自明の理と言えよう。

同盟を締結することで国力で勝った上、九州北部に出られぬ様に蓋をしてしまえば島津家の躍進は一旦止まってしまう。

一刻も早く九州全土を平定したいと願う島津忠棟の気持ちを嘲笑うように、軍事行動を取れないまま時間だけが過ぎていってしまうに違いない。

 

「源太くん曰く、包囲網が敷かれる可能性は三割強らしいわ」

「忠棟殿が忍衆を用いて撹乱しているのでしょうね。抜け目ない方です。未来でも見通すように先手を打つ。その才覚、余人の及ぶ域を超えております」

「その彼が甚だ不都合と断言した御仁がいるわ」

「ほう?」

「雪殿は誰だと思う?」

「はてさて」

 

道雪は小首を傾げ、思案に耽る。

桶狭間の戦いを制した織田信長。天下人と称される三好長慶。肥前の熊こと龍造寺隆信。越後の龍と畏れられる上杉謙信。甲斐の虎の異名を持つ武田信玄。道雪の義妹である高橋紹運。そして、関東を勢力下に治める北条氏康などなど。

戸次道雪の脳裏に次々と浮かぶ大名や武将たち。それぞれの特徴を活かした領国経営は警戒して然るべき鮮麗さを誇り、彼らに付き従う武将たちが率いる兵士と相対するとなれば背筋に冷や汗が流れることだろう。

だが、九州に根を張る武将にとって最も恐ろしい御仁とは一人だけだ。

雷神と称えられる戸次道雪であろうと、彼の張り巡らす謀略は恐ろしいの一言に尽きる。

最大限の注意を払っても足元を掬われるかもしれない知略の持ち主。

その名前はーー。

 

「謀神・毛利元就」

 

中国地方に覇を唱える毛利家当主。

僅か一代にして国人から大名に躍進した人物。

有名な『厳島の戦い』にて陶晴賢を破り、急速に弱体化した大内氏の旧領を併合した毛利元就は博多と石見銀山を掌握。一気に押しも押されぬ大大名へと躍り出た。

博多に関しては戸次道雪と高橋紹運で奪い取ったが、それでも油断ならない大名であることに変わりない。

道雪の発した答えに、義久は正解だと頷いた。

 

「ええ。源太くんが勝てるかどうか分からないと声を震わせた御仁。もしも毛利元就殿がこの九州にまた手を伸ばしてきたら厄介なことになるわ」

「忠棟殿なら前以て手を打ちそうですが」

「当然よ。でもその裏を掻かれる可能性も少なからずあるわ〜」

 

確かに、と戸次道雪は同意した。

 

「それが三割強という事ですか」

「実際、毛利家は昨年隆元殿が早逝してしまったわ。東に尼子家という敵を抱えている現状、九州を視野に入れた行動は取れないでしょうけど」

 

毛利家の次期当主と目された長女の死去。

伝え聞くに、心優しく賢い少女だったらしい。

その悲報は毛利家中に激しい動揺を招いた。

当時滅亡寸前まで追い込まれていた尼子家だったが、毛利家を襲った訃報の隙を突いて、再度御家の建て直しを計っている。

慎重居士である毛利元就のこと。長女の早逝から立ち直っているだろうが、未だ家中の動乱冷めやらぬ時期に東西へ手を伸ばすだろうか。

 

「もし元就殿が謀略を仕掛けてきたら如何なさるおつもりなのですか?」

「源太くん曰く、どうにかするらしいわ〜。どうにか出来なくても何とかするって」

 

それは明確な答えではない。

思わず苦笑いを浮かべてしまった。

 

「全く。あの方らしい物言いです」

 

だが、不安を感じない。

島津忠棟ならどうにかするのだろう。

神速で三洲平定を成し遂げ、大友家との決戦に勝利した今士元ならば謀神すら屠ってくれると期待している。

戸次道雪として、雷神として、彼に恋する『雪』として彼の夢を支えてあげたいと思う。終わりの見えない道だが、それでも常人と違う視点を持つ彼なら天下静謐を叶えると確信している。

そんな道雪の心情を知ってか知らずか、島津義久は居住まいを正して、おもむろに口を開いた。

 

「あー、そのね、源太くんの事なんだけどね」

「義久様?」

 

だが、どうにも歯切れが悪い。

どうかしたのかと疑念を覚えた直後ーー。

島津家当主はゆっくりと頭を下げた。

深く深く、誠意を込めるようにゆっくりと。

 

「戸次道雪殿。夫の事を助けてくれてありがとうございました。どうかこれからも夫の事をよろしくお願いします」

 

自らの愛を押し付ける愚か者。

それが戸次道雪による島津義久の評価だった。

僅か半年前は島津忠棟の現状を把握せず、夫婦会議と称する気持ちの押し付けによって艱難辛苦を増長させていた。

あの時は本気で殺意を覚えていた道雪だったが、主君として、また支えるべき夫として、忠棟の事を第一に想う島津義久の在り方を見れば自然と微笑んでしまうのも無理なからぬ事だった。

 

「はい。私の全てを懸けて忠棟殿を支えるつもりです」

 

嗚呼、心が痛い。

座敷牢で理解した筈だ。

義久と忠棟の仲に割り込めないと。

互いを愛し合う男女を引き裂くなど野暮だと。

この恋心は封印しよう。

雪は忠棟の隣に居られるだけで幸せなのだから。

そんな道雪の誓いを引き千切るように、義久は一歩近寄ってから口を開いた。

 

「ありがとう、雪殿。私の思い過ごしかもしれないけど、雪殿って源太くんのことが好きなの?」

 

ーーと、唐突すぎる!

 

「そ、そのような事は決してありません!」

 

咄嗟に否定したが、顔は真っ赤に違いない。

身を焼きそうな恋慕。甘酸っぱい初恋である。

恥ずかしさから大声で否定してしまったが、島津義久は余裕の笑みを崩さない。

強かな部分も成長を遂げていたようだ。

少しだけ苛ついてしまったのは秘密である。

 

「あらあらぁ。顔が赤いわよ?」

「あ、熱いからです」

「まぁ、夏だものね〜」

 

思わず半眼で義久を睨む。

 

「ーー成る程、似た者主従ですか」

「ん?」

「いえ、何でもありません」

 

小首を傾げる義久。

気を取り直したらしく島津家当主は戸次道雪の肩を優しく掴んだ。三洲一の女と名高い美貌を微笑ませ、驚天動地な台詞を口にした。

 

「私のことは気にしないでね。源太くんも雪殿を少なからず想っているみたいだから。もし良かったらあの人の寵愛を受け入れてあげて」

 

道雪の頭上に疑問符が乱立する。

ーー寵愛って、あの寵愛でしょうか?

寵愛とは、特別に大切にして愛すること。

意味は理解している。

しかし意図がわからない。

 

「よ、義久様はよろしいのですか?」

「ええ、勿論よ」

 

一瞬の間も置かず即答された。

道雪の理解を超えていた。

ーー私なら誰にも渡したりしないのに。

だからか、語気を荒げて問いかけてしまった。

 

「何故?」

「だって、源太くんの一番は私だから」

 

 

絶句。

 

 

「それだけは弘ちゃんにも、直茂にも譲る気はないわね〜。勿論、雪殿にも負ける気はないから覚悟してね」

 

生来の器が大きいのか。

それとも島津家の特徴なのか。

判断しにくい島津義久の言葉に、戸次道雪は思考を放棄して頭を下げるのだった。

 

 

 







本日の要点。

1、毛利家始動する。

2、島津義久、忠棟の一番であることを宣言。

3、ただいまでごわす(スライディング土下座)


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三十六話 大友宗麟への提案

 

九月二日、未の刻。

大友宗麟の本城である臼杵城の広間では早朝から評定を開いていた。大友家当主たる大友宗麟が上座に座し、その右脇には側近である吉弘鑑理が侍り、先代以来の重臣たちから年功序列に応じて順に座している。

彼らの顔色は一様に暗かった。

なにせ大友家滅亡の危機だからである。

たった一度の敗戦が齎した被害は悲しくも甚大だった。

 

「既に秋月氏は龍造寺家に寝返り、他の国人衆も同様に離反致した次第。畏れながら申し上げますると、筑後の防衛は諦める他ござりますまい」

 

宿老の一人、吉岡長増が先ずは喫緊の問題である筑後について苦虫を噛み潰したように説いた。

普段なら即座に噛み付く吉弘鑑理すらも暗に肯定を意味する沈黙を保つ。『豊州三老』という大友家中でも特別に権力を持つ二人の意見に、他の重臣たちも消極的ながら賛成の意を表した。

だが、大友宗麟はこめかみに青筋を浮かべる。

 

「そんなことは理解しておる。儂はその打開策を聞いておるのだ。誰ぞおらんのか、龍造寺隆信を追い散らす策を考え付いた者は!」

 

宿老に名を連ねる臼杵鑑速が小さく頭を振った。

 

「殿、我らは北に毛利家、西に龍造寺家、南に島津家という三大名に囲まれておりまする。我らの全力を持って龍造寺家討伐を推し進めることあれば、成る程、筑後だけでなく肥前まで支配下に治める事ができるやもしれませぬ」

「そうじゃ。龍造寺隆信如き若僧など一蹴にしてくれようぞ!」

「しかし!」

 

得意気に賛同する大友宗麟に出鼻を挫くように続ける。

 

「その隙をあの強かな島津家が見過ごすとは到底思えませぬ。日向より即時北進、空き巣となった豊後を切り取るは必定で御座りまする。鬼島津を筆頭とした無類の猛者共が臼杵城を落としましょうな。そうなれば大友家の再興はありえませぬ。故に吉岡殿と吉弘殿は、忸怩たる想いで筑後国奪還を諦めるしかないと殿に進言致した次第でありましょう」

 

宿老たる臼杵鑑速の鋭い口調に、大友宗麟は反論できなかった。何しろ正論である。全盛期の大友家ならいざ知らず、肥前東部と筑後国を喪失した上に筑前国すらも危うい今、龍造寺家と島津家を同時に相手取るなど絶対に不可能であった。

先の決戦に敗れていなければ。

いや、戸次道雪と角隅石宗が健在ならば。

そんな合理的な判断を下してしまいそうになる直前、大友家当主は悲惨な未来を振り払うかのように顔を真っ赤に染めてから大声を張り上げた。

 

「この儂が島津の如き田舎大名に劣っていると申すか!!」

 

府内館の外にまで響き渡りそうな絶叫。

それは九州探題に任ぜられた者の誇りによる物。

大友宗麟は天文二十三年(1554年)八月に肥後守護職に就任した。その三年後には豊前国、筑後国の守護職に就き、最終的には九州五カ国の守護となる。同年には『九州探題』にすら任じられた。九州最大の権勢を誇ったのだ。

肥前西部を治める龍造寺氏、周防から以東を支配する毛利氏、南に発展著しい島津氏がいたが、九州の約七割を支配する最大最強の大大名としてその武名は畿内まで轟いていた。

大友宗麟が領国の版図を拡大して絶対的な権勢を誇ることができたのは、ひとえに人に恵まれたからである。彼の周囲には、ただ優秀なだけでなく信義に篤く、誠実で勇猛な武将が揃っていた。

戸次道雪、臼杵鑑速、高橋紹運だけでなく、他にも田原宗亀、田北紹鉄、田原紹忍、志賀道輝など群を抜く知略と武力に秀れた猛者たちが宗麟を支えたのである。

一方、中国や朝鮮との貿易で巨利を収めている博多の豪商・島井宗室や、祖父の代から石見銀山の開発や中国・朝鮮をはじめ南洋諸国との貿易を行なっている神屋宗湛たちとの交遊も忘れず、宗麟自身も朝鮮や対明貿易で大きな利益をあげた。

更には多種多様な美術品を求めて能や蹴鞠、犬追物や鷹狩りを行い、茶や茶道具を楽しんだ。また豊後一宮・柞原神社を援助し、臨済禅に親しみ、武将であると同時に経済に明るい知識人、文化人でもあった。

 

「儂の家臣ならば両家を同時に相手取るぐらい言わんか!!」

 

しかし、斜陽の影は次第に大きくなる。

そもそもな話、大友宗麟に反感を抱く家臣は多かった。

戦国時代の常ながら、宗麟も順調に家督を継いだ訳ではない。大友家には宗麟と異母兄弟である塩市丸が存在していた故に、どちらを家督とするかで家臣が分裂して抗争を繰り返していた。

決着が着いたのは天文十九年(1550年)、宗麟側の家臣が決起したのだ。結果として実の父である大友義鑑と塩市丸、その母親まで襲われることに。

大友義鑑は重傷を負って二日後に亡くなり、異母と塩市丸はその場で殺害された。これが俗に呼ばれる『二階崩れ』と呼ばれる事件である。

これだけならば良かったと言えよう。

だが、大友宗麟は同じ年に肥後の国人である菊池義武を捕らえ、その妻を側室とした。菊池義武は大友義鑑の弟で菊池家の養子になっていた事から義理の叔母を側室にしたという事であり、当然ながら誰からも非難された。

そして淫蕩無頼な生活は苛烈を極めていく。

ある時は家臣の妻を奪い、娶り、反乱を起こされても尚、今日に至るまで女癖の悪さは終ぞ治らなかった。

 

「宗麟様、落ち着いてくだされ」

「黙れ、長増!」

「いいえ、黙りませぬ。如何に勇猛果敢な我らと言えども、龍造寺家と島津家を同時に相手取るのは不可能で御座りまする!」

「戯け!」

 

路傍の石を眺めるような瞳を浮かべ、大友宗麟は吐き捨てた。

 

「初めから不可能などと決めつけるでないわ!」

「ならば宗麟様、一先ず島津家と和解するというのは如何に御座りましょうか。その間に龍造寺隆信を打ちのめし、万難を排した後に島津家を相手取れば宜しいと思いまするが」

「同じ事よ。此処で島津と和解するなど、儂が奴らよりも劣っていると喧伝するような物。有り得ぬわ。そのような策を口にするなど恥を知れ、長増!」

 

鎌倉の頃より連綿と続く名家であろうとも、九州探題である大友宗麟より優れているなど許されていい道理を遥かに超えている。

島津家から和解を求めるなら話は別だが、まるで攻め込まないで下さいと言わんばかりに頭を下げるなど、宗麟にとって到底許容できるものではなかった。

 

「ならば折衷案と致しましょう。豊後国と日向国との国境を完全に固める他ありますまい。島津家との戦は長期戦に持ち込む事で耐え凌ぎ、高橋紹運殿や臼杵鑑速殿を筑後に派遣。先ずは龍造寺の勢力を弱めるというのは如何で御座りまするか」

 

無理難題を押し付ける主君に萎縮した家臣たちに成り替わり、吉岡長増は実現可能かどうかさて置いて、大友宗麟の意向に従った見事な妥協案を提示してみせた。

大友家当主は眉根を寄せたまま吟味する。

誰も彼もが島津家に恐れ慄いてる事に不満を抱きつつも、多少冷静さを取り戻した大友宗麟はゆっくりと口を開いた。

 

「誰を日向との国境に置く?」

「本来ならば戸次道雪殿に守備して頂きたい所で御座りまするが……」

「亡き者を当てにしても仕方あるまい」

「討死されたという証言はありませぬぞ、殿」

 

臼杵鑑速の言葉に、大友宗麟は嘆息した。

 

「島津に囚われたのであろう。ならば同じ事よ。既に首を刎ねられておるわ。無論、例え無事に帰ってきても敗戦の責任を負わせねばなるまいて」

「しかし、戸次道雪殿は家中一の弓取りで御座りまするぞ」

「莫迦な事を申すな、鑑速。大友家随一の弓取りが敗れることなどあり得まい。もしそうであるなら儂が島津に劣っているという事に他ならぬではないか!」

「仰る通りです。しかしーー」

「くどい!」

 

取り付く島もなく、大友宗麟は口早に言う。

 

「道雪は死んだ。良いな!」

 

御意と頭を下げる家臣一同。

満足気に頷く宗麟に対し、吉弘鑑理が尋ねる。

 

「国境に派遣するは誰に致しましょうか?」

「紹運は筑前から動かせん。ならば鑑速じゃ。此奴なら島津家など一蹴してくれようぞ!」

「某、でありまするか?」

「そうじゃ。田舎武者の一兵たりとも豊後の土を踏ませるでないぞ!」

「御意」

 

思わぬ人事と発言に評定の場が凍り付いた。

戸次道雪は討死した。

高橋紹運は筑前から動かさない。

臼杵鑑速は日向との国境を固める。

ならば誰が筑後を攻めるというのか。

龍造寺隆信率いる10000の兵士を食い破り、尚且つそのまま筑後を奪還した上で、その後も肥前の熊から護り続けられる武将など大友家中で他にいるというのか。

勝てるなら良いのだ。

だが、負ければ御家の取り潰しもあり得る。

大友宗麟に仕える家臣一同が俯いたまま、大友宗麟の発表する人事に耳を傾けようとした直前だった。

 

 

「も、申し上げます!」

 

 

泣き叫ぶような声が鼓膜を揺らした。

宗麟の小姓が評定の間に駆け込む。

息を荒げて、肩で呼吸を繰り返している。

全力で走ったからか。しかし顔面は蒼白だった。

誰もが嫌な予感を覚えた。

評定を遮るなど打ち首にされて当然である。その危険を犯してまで即座に報告しなければならない事案など、大友家の興亡に関与する事柄である事は明白であった。

 

「島津に動きあり!」

「何!?」

 

腰を浮かした宗麟を嘲笑するように報告は続く。

 

「島津家久隊が懸城を落とし、島津忠棟隊が高森城を陥落せしめたとのこと。総勢8000の島津兵が豊後の国境に集結しつつあり!!」

 

誰もが思った。

早い、早すぎると。

決戦を終えてから僅か十日。

如何に勝ち戦と言えど、島津家にも相応の出血を強いた筈である。にも拘らず、島津家の当主たる島津義久は間髪を容れずに8000の軍勢を動かした。

どのような妖術を使えば可能となるのか。

いや、そんな事は問題の埒外である。

いずれにしても精強な島津兵8000が今にも豊後へ攻め入ろうというのだ。直ぐにでも何がしかの対応を取らなければ瞬く間に蹂躙されてしまうだろう。

 

「阿蘇家は何をしておるか!」

「決戦後でも肥後北部を死守すると申しておったであろうに!」

「ーーもしや、寝返りか!」

「阿蘇惟将殿ならいざ知らず、甲斐宗運殿は気骨のある御仁よ。島津家に寝返りなど有り得ぬ。今士元に裏をかかれたと推察するべきよな」

 

他の重臣たちが慌てふためく中、一早く正気を取り戻した臼杵鑑速は冷静に状況を把握していた。

落城したのは懸城と高森城だけである。

阿蘇惟将の居城たる隈本城と甲斐宗運の守護する御船城は陥落していない。

未だに籠城しているのか、それとも島津家の視野に最初から入っていないのか。どちらにせよ島津家の目的は決戦の勝利に勢い付いたまま一気呵成に豊後国内に攻め入ろうというものだ。

確かに脅威である。

だが、自領ならば勝手知ったる地。

疲弊した島津隊を各個撃破するなど造作もない。

不敗を誇った名将と言えど戸次道雪とて間違いを犯す。惨敗してしまうこともあるだろう。だが逆もまた然りである。

今度は臼杵鑑速が島津の今士元に泥を付けてやろうと鼻息を荒くした。

 

 

ーー瞬間だった。

 

 

「何をしておるか、貴様ら!」

 

 

大友宗麟の怒号が飛んだ。

 

 

「紹運を臼杵城に喚び戻せ。豊後に侵攻してくる島津に備えよ。急げ、事は一刻を争うのじゃ!」

「な、何を申されまするか。紹運殿は立花山城にて筑前国を守護しておられるのですぞ。龍造寺家を追い返し、筑前の国人衆に睨みを効かせている紹運殿がいなくなればーー」

「そんな事は百も承知ぞ!」

 

主君の右脇に侍る吉弘鑑理に対し、大友宗麟は唾を吐きかけるように怒鳴り散らした。

 

「立花山城が抜かれれば筑前は失う。が、豊後と比べれば瑣末ごとよ。先ずは島津家の侵攻を食い止めねばならん!」

「それは我らが行いまする!」

「いや、紹運に任せる。島津率いる田舎武者が此処まで血に飢えた獣とは思わなんだ。奴らは犬畜生と変わらん。主人たる儂の力を完膚無きまでに教え込ませなければな!」

 

力強い言葉と裏腹に、宗麟の顔は青白い。

島津の鬼たちに豊後国を蹂躙され、悲壮な死を遂げるかもしれないという最悪の未来を垣間見てしまったからだろうか。

恐怖と焦燥、加えて憤怒が入り混じった声音の必死さに、誰もが反論出来ずにいた。三宿老さえ筑前放棄も致し方無しと考えた直後、今度は戸惑いがちな報告が評定の間に飛び込んできた。

 

「も、申し上げます」

 

先程と異なる小姓が首を垂れながら言った。

 

「毛利家から使者がご到着なされました」

 

予想外の展開である。

臼杵鑑速も目を見開いた。

此処で毛利家とは万事休すか。

豊前国に聳え立つ門司城を足掛かりに北からも攻め込まれたら流石に抑えきれない。三ヶ国にも及ぶ大友領は、三大名によって切り取られてしまうこと必定であった。

だがーー。

そんな予想を打ち消すように、飄々とした声音が大友家臣団の耳を揺さぶった。

 

「お初にお目にかかります」

 

現れたのは禿頭の僧侶であった。

服装から察するに臨済宗の僧であろうか。

毛利家の遣わした外交僧だとすると、臼杵鑑速が思い付く名前など一つしかなかった。

 

「……安国寺、恵瓊」

「名高き臼杵殿に名前を覚えてもらえているなど恐悦至極に存じ奉りまする。さよう、拙僧は安国寺恵瓊と申す者。我が主君から預かったお言葉を大友宗麟殿にお伝えする為に馳せ参じた次第に御座りまする」

 

謀神と畏れられる毛利元就。

滅亡の危機に瀕している大友家に何用か。

 

「毛利元就殿からとな?」

「御意に御座りまする。高城川での敗戦、我が主君も大層憂いておられまする。九州探題であらせられる宗麟殿のお力になりたいと、随分と苦慮しておりました」

「これは異な事を仰る。島津家との決戦に際し、櫛崎城に兵を動かし、我らの行動をとりわけ制限しておった元就殿のお言葉とは思えんな」

「宗麟殿は誤解しておられるようですな。櫛崎城に兵士を集めたのは、伊予国で蠢動しておりました河野家の動きに反応したまで。その証拠に我ら毛利勢は門司城に攻め入っておりませぬ」

「ほう。そのような詭弁が通じると?」

「詭弁かどうかは宗麟殿の受け取り方次第に御座りますれば、誤解を解くのは拙僧の役目にありませぬよ。全ては結果で御座りまするぞ、宗麟殿」

「坊主風情が、儂に説法するか」

「何はともあれ。宗麟殿は島津家の躍動に飲み込まれんとしておられる。我らが主君はその打開策を提示するのみに御座りまする」

「……貴様、この大友宗麟を愚弄するか!」

「さにあらず。愚弄するつもりなど毛頭ござりませぬ。拙僧は心より大友家の繁栄を願うておりまする故に」

 

大友宗麟と安国寺恵瓊の舌戦。

評定の間に流れる剣呑とした空気。

射殺さんとばかりに睨む大友宗麟に対して、安国寺恵瓊は薄ら笑いを浮かべたままである。

一触即発の雰囲気が漂う中、口火を切ったのは大友宗麟だった。

 

「ふん。坊主の説法など聞き流すに限る」

「これは汗顔の至り」

「して、元就殿は何と申されておるか」

 

大友宗麟の内心でどのような葛藤があったのか。

それは終ぞ本人にしか分かり得ぬ事だが、苦渋の決断であることは握り締められた拳から滲み出る血を見れば明らかであった。

当然ながら安国寺恵瓊も気付いていた。

一瞬だけ冷笑を浮かべた後、端的に言い放った。

 

 

「反島津連合の締結」

 

 

空気が、止まった。

 

 

「既に龍造寺隆信殿には話を通しておりまする。宗麟殿が反島津連合に賛同致すならば縁戚となった島津家を敵に回すのも吝かではない、と」

 

 

これは仏の導きか、それとも地獄に通ずる罠か。

さしもの臼杵鑑速とて判断できなかった。

だが、一つだけ理解できる。

大友宗麟がどのような選択をするのか、謀神の異名を持つ毛利元就は読み切っているに違いない。

 

「何を悩まれる、宗麟殿」

「恵瓊、貴様ーー」

「当然、反島津連合に毛利家も含まれまするぞ」

 

それは脅しでしかなかった。

参加しなければ島津家諸共、大友家も潰すと。

選択の余地などなかった。

結局、大友宗麟は首を縦に振った。

その時に安国寺恵瓊の浮かべた嘲笑は、大友家中からしてみれば妖怪の類にしか見えなかった。






本日の要点。

1・道雪死亡(カッコカリ)。

2・暗黒JK初登場。毛利暗躍開始。

3・反島津連合締結間近のお知らせ。


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三十七話 甲斐宗運との面会

 

 

九月十日、卯の刻。

眼下に広がるは黄金色に輝く稲穂の海。

恭しく頭を垂れる様はいつ見ても喜ばしい限り。

暑い夏を乗り越えた稲は刈り取られる日を待ちわびている。さながら無垢な家畜のようだと思う。

九州は今年も豊作だった。喜ばしい事だ。如何に坊津や砂糖、その他様々な改革で莫大な銭を得ていても米俵無くして戦などできない。

他国から買うという手もある。些か値が張るとしても島津家の持つ経済力でどうとでもできるのもまた事実。敵国の軍事行動を制限できるという意味合いもまた強い。

それでも百姓の観点から見れば、自分達で丹精に育て上げた稲穂を刈り取り、幾多にも積み重なった米俵を見ている方が裕福を感じ取れる。暮らしが楽だと思えば一揆など起こさず、島津家への忠誠心も高くなるに違いない。

お互いに利のある関係である。

来年も豊作になりますようにと柄にもなくお天道様に願いながら櫓から降りる。

瞬間、忠犬もとい東郷重位が近寄ってきた。

 

「兄上、部屋に戻りまするか?」

「うむ。重位、城下の様子はどうなっておる?」

「至極平穏に御座ります」

「で、あるか」

 

約二年掛けた浸透作戦は上手くいった。

紛れもなく三太夫率いる忍衆の功績だ。

島津家の領地に於ける税率の安さや労役の少なさに加え、治安の良さといった噂を不自然に感じない程度に長い月日を掛けて少しずつ流した結果であった。

百姓を味方につける事は難しい。

機を見るに聡い彼らは噂話にも敏感だから。

余りにも急速に流言を拡大させれば不信感を抱かれる。故に約三年費やした。どうも予想以上に成功したようだ。

この辺りは戦らしい戦が無かったのも要因の一つと言えよう。多少戸惑いつつも肥後国の百姓は島津軍を受け入れた。

有り難いことだ。

何しろ事態は最悪の方向に動いたからな。

 

「…………」

 

重位を部屋の前に立たせる。

護衛を自称する重位は嬉しそうに頷いた。

自室へ戻った俺は机に地図を広げた。

忍衆に用意させていた肥後と筑後の国境付近を描かせた物だ。細かな部分まで記載してある珠玉の一品。特に今後の事を鑑みれば必要不可欠と断言できる。

 

「肥後は取った。だが--」

 

現在、俺は肥後国北部に位置する隈本城にいる。

高森城が陥落すると、それまで日和見を決めていた肥後国の国人衆は一気に島津家へ靡いた。決戦を終えたばかりの島津家が行った電光石火の肥後国侵攻は、国人衆を震え上がらせたばかりか阿蘇家の重臣すらも寝返らせた。

宇土氏、赤星氏、隈部氏、菊池氏といった有力国人が軒並み降伏。御船城にて頑固に籠城する甲斐宗運の尽力虚しく、隈本城は阿蘇家の内部分裂によって一戦もせずに落城する結果に。

正直、涙が出るほど有り難かった。

九州北部平定の際、隈本城は一大拠点となる。

段取り良く進めば来年にも島津家の本拠にする予定でもある。

家臣団の反発は避けられない。間違いない。

だが、天下を狙おうとすれば薩摩は遠すぎるんだ。

 

「いや、それは時期尚早。今は防衛を考えねばならん」

 

隈本城は平城だ。

有事に於いては防衛力に不安が残る。

膨大な兵糧、武器弾薬の集積場所としてなら活用できるものの、最前線の護りとしては不適用と言わざるを得なかった。

一刻も早く砦を建設する必要がある。

幸い時間は有る筈だ。

決戦の痛手から大友は動けない。

筑後攻略を急いだ龍造寺も南下する余裕はない。

なら残るは毛利か。

しかし尼子家を無視できるのか。

そもそも現状、九州戦線に参加できる国力を有しているのか毛利は。嫡女の死去、尼子家の反攻などを考慮すれば山陰地方の安定に努めるべきだと思う。

毛利元就の思惑が全く読めない。

この島津包囲網が尼子家を討伐するまでの時間を稼ぐ為だけなら怖くないのだ。それなら此方も大友と龍造寺を各個撃破するのみ。万難を排して予定通りだ。

 

「毛利が南下してきたら酷いことになる」

 

勝てない、とは思わない。

例え国力で劣っていようとも将兵の質は上回っている。

義久の下で一致団結している島津。その真逆で相手は烏合の衆だ。呉越同舟、足並み揃わない軍勢は各個撃破の的でもある。

それでも国力は国力だ。

物量に押し切られる可能性は十分に存在しよう。

平野で決戦などしたら島津の出血は無視できない所まで広がってしまう。後の九州平定に甚大な支障が生じる。下手したら国人衆の離反に繋がりかねない。

ならば此処で取れる選択肢は一択だろう。

九州平定は一年遅くなるものの、此処は無理せず包囲網を崩すのが最重要事項であると改めて決心した所で外から重位の声がした。

 

「兄上、道雪殿がお越しになり申した」

「通せ」

「御意」

 

畏まった返事と共に襖が開いた。

現代時刻なら午前八時。残暑の残る朝陽に眩しさと熱気を覚えながら、車椅子を巧みに操る相談役へ声を掛ける。

 

「雪さん、どうした?」

 

雪さんである。

戸次道雪である。

義久も加えた三人で話し合った結果、雪さんは俺の相談役となった。神社仏閣、朝廷、軍事、政治経済などに精通する常勝不敗の軍神を相談役にするなど畏れ多い限りだ。

しかし雪さんたっての希望だった。

受け入れるしかなかった。

断る理由も思いつかなかったからな。

 

「忍の方からご報告がありましたので」

「御船城が落ちたか?」

「ええ、先日未明に。阿蘇惟将殿の助命、また阿蘇家の存続と引き換えに甲斐宗運殿は降伏なされたようです」

 

言葉遣いを改めて欲しいという嘆願から、俺は以前よりも砕いた口調を使っている。尊敬すべき戸次道雪に偉そうな口を利くのも不本意ではあるのだが、評定の場に於いて相談役に気を使うような在り方は辞めた方が良いという至極当然な意見から首を縦に振るしかなかった。

 

「一万石に納得したということだな」

「山田殿の説得、歳久様の誓詞血判をもって納得したとのこと。良かったですね、忠棟殿」

 

ホッと一息吐いた。

 

「重畳至極なり。後顧の憂いは無くなった」

「山田殿は甲斐殿を連れて此方へ向かっているそうです。明日にも到着するとのこと。これで10000の軍勢を肥後北部へ集結できますね」

「どうにか間に合ったか」

 

安堵のため息を溢す。

甲斐宗運が島津家に降伏したという事実だけで敵を足止めさせられる。

今は一分一秒でも時間を稼がないとならん。

肥後の安定無くして勝利無し。

足場固めの為にも甲斐宗運を味方に引き入れられたのは真に不幸中の幸いだった。

雪さんも嬉しそうに破顔したが、次の瞬間には表情を引き締めた。歴戦の猛将が醸し出す空気に当てられる。

 

「大友家の動きは如何でしょう?」

「紹運殿を豊後へ呼び戻した。宗麟殿が大層喚き散らしたようで。日向との国境に配置するかと」

「そう、紹運が。では油断なりませんね」

 

確か、二人は義姉妹とのこと。

史実と掛け離れた関係性に吹き出した俺は悪くないと思う。戸次道雪と高橋紹運が義理の姉妹とか想像出来るはずがない。凶悪すぎる組み合わせである。

 

「義弘様には既に早馬を出している。家久様を例の場所に置く為にも、豊後方面軍は義弘様に一任する事と致した」

「紹運とて無理な戦はしないでしょう。鬼島津と呼ばれる義弘様が居られるなら日向国は問題ないかと。不都合があるとするなら高森城へ攻め寄せる場合です。如何致しますか?」

「然もありなん。義弘様率いる万の軍勢が豊後へ押し寄せるのみ。さすれば紹運殿も兵を退くのでは?」

「宗麟様なら退くでしょうね。しかし、紹運だけならば話は変わります。死中に活を求める癖がありますから。そのまま高森城を攻め落とし、龍造寺と協力して私たちを挟み撃ちにする可能性も低くないでしょう」

 

臼杵城は堅牢な城として有名だ。

義弘様とて頑強に抵抗されたら陥とすのに相当な時間が掛かるだろう。ならば一層、退却して不意を突かれるよりも前進あるのみと奮起し、高橋紹運率いる軍勢が肥後北部へ噛み付いたらどうなるか。

考えたくねー。悲惨な結果にしかならないから。

最悪、肥後国から島津勢力は弾き出される。

逆に囲まれると判断した義弘様も包囲を解いて日向へ撤退するに違いない。

今まで費やした時間、準備、戦勝すら灰燼に帰すだろう。

何という会心の一手。不条理である。

 

「大友の両翼、その一端。巨大な翼は健在か」

 

額に手を当てて嘆く。

 

「万が一に備えて置く必要がありましょう。幸いにも冬になれば雪が降ります。その間に準備を整えておかねば」

 

問題は雪が降る前に攻めてきた場合だ。

重臣の死去、百姓の減少、疲弊したばかりの大友家に肥後国侵攻の国力は残ってないと思うが警戒するに越したことはないと言いたいわけだな。

 

「正念場だな」

「ええ、本当に」

「雪さんが相談役で助かるよ」

「釈迦に説法のようなものでしょうが」

 

何せ今士元様ですもの、と含み笑いする雪さん。

 

「いやいや、軍事に関しては未だ若輩者。これからもご指導ご鞭撻よろしくお願いする、雷神殿」

「これはこれは。口もお上手ですからね、忠棟殿は」

「棘があるなぁ」

「ふふっ。して、毛利家の動きは如何に?」

「未だ動き無し。尼子家への備えを残しておくなら九州に派遣できる兵士は約10000と少しだと思うが。油断はできん」

 

毛利家は中国地方に覇を唱える大大名。

下手すれば20000の軍勢を九州に遣わすかもしれない。それだけの国力は当然ながら持っているんだ。何しろ石見銀山があるからな。

 

「良い心掛けです。来るとすれば小早川隆景と吉川元春でしょうか」

「元就殿自ら参戦なされるかもしれぬ」

 

まさに悪夢だ。

元就殿が参陣すれば、例え呉越同舟だとしても纏まりが生まれてしまいかねない。

毛利一族、五人揃って四天王、大友家の両翼の一端。同時に相手したら苦戦は免れない。大敗北すらあり得る。

 

「元就殿が参戦なされば中国地方が揺れます。未だ隆元殿の死に揺れ動いていますから」

「では、元就殿の御出馬はないと?」

「恐らく。あるとしても来年の夏頃かと」

「いずれにせよ恐ろしい限り。中国地方の不安定化を増長させる必要がある。安芸の一向宗徒を担ぎ上げる必要もありそうだ」

 

安芸国は一向宗徒が多い。

本拠地で一向一揆が起きれば毛利家の屋台骨に関わる。九州戦線に関与する余裕は無くなると思うが果たして上手く行くか。

 

「最も喜ばしいのは毛利家の参戦が無いことでしょうね」

「そう上手く運ばぬのが戦だと教えてくださったのは雪さんだと思うが?」

「そうでしたね。真、人生は儘なりません」

 

儚げに呟く雪さんの瞳は、遠くを見つめていた。

 

 

 

 

▪️

 

 

 

 

 

九月十一日、辰の刻。

隈本城の書院に馳せ参じた甲斐宗運。

約10000の軍勢が犇めき合う城内。悲惨な空気など微塵もない。

大友家との決戦では大勝ち。

北肥後侵攻は接収に近い損害で終わった。

大盤振る舞いされた給金を手に、島津家を讃える声が絶え間なく続いている。気持ちはわかる。

それでも敗軍の将として、甲斐宗運は思わず眉根を寄せた。

勝てない戦ではなかった。

島津勢は疲れていた。大友家とて滅びた訳ではなかった。にも拘らず、大友家を見限った国人衆や島津家に怖れを成した重臣の裏切りによって、戦う前に勝負は決してしまったのだ。

全ては島津家の狙い通り。

せめて宗運自身が隈本城にて軍配を振るえば、兵糧が尽きるまで持ちこたえられたであろうに。口惜しい限り。だが、島津の今士元を甘く見た結果だと認めるしかなかった。

 

「宗運殿、今暫くお待ち下され」

 

小姓に茶を用意させた山田有信は、人懐っこい笑みを浮かべる。敗軍の将である宗運に気さくに話し掛ける様は、互いに尊敬すべき好敵手という間柄だからこその振る舞いだった。

 

「これはこれは。忝のう御座る」

 

眼前に置かれた茶を一口。

喉の渇きを潤し、心を落ち着かせる。

有信は申し訳無さそうに小さく肩を竦めた。

 

「家宰殿はお忙しい身に在らせられる。宗運殿を軽視している訳では御座らん。どうかご寛恕あるべし」

「元より某は敗軍の将。気になさらず結構」

「真、有り難いお言葉なり」

 

満足気に頷く有信。

実際、宗運は気にしていない。

肥後北部の安定に勤めなければならない時期。行わなければならない事は山程ある。家宰であるならば至極当然。実質的に肥後を任された島津忠棟は休む暇もないほど多忙であろう。

 

「さりとて一つご質問これあり」

 

只、暇を持て余す宗運ではない。

島津の今士元と相対する前に、少しでも情報を得る。そうする事により阿蘇家の今後をより良い物にできると信じて。

 

「はて、何で御座ろう?」

「忠棟殿の事に御座る。某の聞く所、未だ齢十九の若人との事。果たして風説に聞く者とはどのような武人であろうか。気になっており申す」

「宗運殿がお聞きになられた風説がどの様なものかはいざ知らず、そうですなぁ、家宰殿を一言で申し上げるならば--」

「金勘定しか出来ぬ賤しい餓鬼であろう」

 

御免、と呟きながら書院に足を踏み入れた若人。

歳は二十歳前後か。如何にも智慧者と思わしき風貌は鋭利な印象を持ち、地味な色合いの平服を纏いて、澱みなく洗練された所作を持って宗運の前に腰掛けた。

そのまま悪戯を思い付いたような視線を有信へ向ける。

 

「違うか、有信殿」

「あいや暫く。某は鎌田殿と違い、銭が好きでありましてなぁ」

「何と。ならば歳久様にご報告せねばなりますまい」

「これはこれは、藪蛇を突いてしまい申した。家宰殿に於かれましてはご機嫌麗しく。何卒、歳久様へのご報告はお控えられますよう、伏してお願い申し上げまする」

「ご安心召されよ。冗談に御座る」

「人が悪う御座りまするぞ、家宰殿」

 

宗運の思惑と違い、二人は仲良く笑い合う。

三洲一と名高い島津の姫を婿に取り、宰相へ登り詰めた若輩者に対する嫉妬の念など山田有信の心身から微塵も感じ取れない。

心底から認めているのか、この若人を。

 

「遅ればせながら、此方に座す御仁が甲斐宗運殿に御座り申す」

「甲斐宗運に御座りまする」

 

一頻り笑い合った後、居住まいを正した有信。

宗運は紹介に応じるように言上した。

言葉少なく端的に終わったが、忠棟は幾許も機嫌を損ねず鷹揚に頷いた。

 

「島津掃部助忠棟で御座る。天下に名高き宗運殿と会えた事、真に恐悦至極なり。今後は手に手を取り、島津家発展の為、切磋琢磨していきとう存ずる」

「勿体無きお言葉なれど、無事約束は果たされましょうや?」

「その点はご心配召されるな。阿蘇惟将殿は一万石で召し抱える所存。既に殿の御許可も得ており申す」

「ならば結構。某、島津家の為、獅子奮迅の働きを致す所存なれば是非とも此処、隈本城に置いて下さりませ」

「ほう」

 

意外な提案だったのか、忠棟は目を見開いた。

面白そうに口角を吊り上げる。驚く素振りを見せつつも不信感は露わにしていない。

有信は眉根を寄せ、お言葉ながらと割り込んだ。

 

「宗運殿は薩摩本国へ赴き、殿の下で辣腕を振るうのが賢明かと言上仕る」

「真にご尤もな仰せなり。なればこそ某は此処で辣腕を振るいとう思いまする」

「宗運殿!」

 

片膝を浮かせた有信を、忠棟は片手で制した。

 

「良い、有信殿」

「……はっ」

 

統率は取れている。

若年の宰相と馬鹿にできない。

此処までの裏打ちされた武功からか、それとも島津義久と島津忠棟に於ける両殿体制となっているのか。

いずれにしても、家臣団を掌握できているなら安心した。猪武者が勝手に阿蘇惟将へ危害を加える心配も限りなく少なくなった。

此方の思惑に気付いているのか、忠棟は身を乗り出すようにして問いかける。

煌々とした双眸は酷く嬉しそうだ。

 

「宗運殿は、肥後北部について詳しいか?」

「如何にも。筑後についても同様に御座りますればご期待に添えると愚考いたしまする」

「益々結構。有信殿、内城へ早馬を。宗運殿は隈本城にて預かる。左様に心得よと」

「--心得申した」

 

さて、と忠棟が膝を叩いた。

 

「宗運殿、某はまだまだ若輩の身。ご指導ご鞭撻の程、どうかよろしくお願い申し上げる」

 

宗運は眼前の男を見て思う。

評価は依然として定まらない。

敗軍の将にも教えを乞う様は島津家の宰相に相応しくない行動だが、己の未熟さを隠そうとしない性根と年長者を敬う心遣いは此方の自尊心を容易く擽った。

 

「どうかお任せあれ」

 

人を乗せるのが上手い方だ、と甲斐宗運はこの日の日記に書き記すのだった。






本日の要点。

1、肥後国、平定。

2、甲斐宗運、ゲットだぜ。

3、人を乗せるのが上手い(意味深)


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三十八話 島津忠棟から書状

 

十二月十日、巳の刻。

南九州に於ける覇者、四カ国を治める島津義久の居城である内城は吹き荒ぶ木枯らしに負けず鎮座している。

連日商人を乗せた船が行き交う鹿児島港。平野部を覆い尽くすほど城下町。島津の今士元が造り上げた大規模な工業場。荒れ果てた京を捨てて来た公家達の齎した京文化。南海貿易の中継地として様々な物品が立ち並ぶ大市。

まさしく南の都と呼んで差し支えない発展度合いである。寒さを吹き飛ばす熱気に包まれた城下町に比例するように、内城にて政務を取り仕切る島津歳久の仕事は増えていく。

早朝から一度も休む事なく指示を出す様は鬼気迫る程。三年前と比べれば文官は着々と増えているものの、島津家の発展速度と比較してみると追いついていないのが悲しくも確かな現状であった。

 

「ふぅ」

 

太陽が中天に差し掛かる直前。

絶え間なく動かしていた筆を置き、肩を解す。

うーんと伸びをすると小気味好く骨が鳴った。

予定通りの進歩状況。

一先ず休憩にしようと立ち上がろうとした瞬間。

 

「どうぞ、歳久様」

 

音もなく現れた女性がお茶を差し出した。

身体に張り付いた黒い忍服は露出が多めで男を惑わす扇情さだが、百地三太夫曰く機能美に溢れた一品とのこと。漆のような黒髪は高い位置で括られている。首に巻かれた真紅の襟巻きは忍として如何な物かと疑問に思うものの、滞りなく他家の情報を持ち帰る辺り問題ないのだろう。

彼女の名前は神部小南。

元は伊賀国のくノ一だった経歴を持つ。

 

「ありがとう--って、いつから其処に?」

 

襖を開ける音はしなかった。

元々部屋の何処かに潜んでいたのだろう。

神出鬼没な三太夫に幾度も驚かされた結果、不意を突いた小南に対して驚嘆せずに、ご丁寧に差し出されたお茶を頂く歳久。嫌な慣れであった。

 

「つい先程。政務の邪魔とならぬように気配を消していました」

「声を掛ければ良かったのに」

「いえ、お美しい横顔を眺められて眼福でした」

 

言葉とは裏腹に無表情である。

畳に腰掛けず、身体を揺らさず、直立不動の姿勢を保ちながら能面のような表情を貼り付けている様は、何処となくからくり人形を彷彿させる。

三太夫といい、藤林といい、小南といい、島津の忍衆を統括する者達は一癖も二癖もある連中ばかりだと、歳久は自らを棚に上げて内心嘆息してしまう。

 

「女好きですね、相変わらず」

 

神部小南は女性である。

膨よかな胸、肉の付いた太腿、括れのある腰囲。

いずれも数多の女性を羨ましいと思わせる身体つきである。

少なくとも島津歳久より胸が大きい。それはそれは大きいのだ。三太夫に紹介される前、胸が小さいくノ一だと説明された。なのに負けた。普通に負けた。歳下に負けているという点も敗北感を増長させた。

だが、彼女は女好きだ。

島津義久に謁見した瞬間、永遠の忠誠を捧げますと平伏。島津義弘の武力と容姿を巴御前の再来だと狂喜乱舞。歳久と家久は生涯護り続けますと手に手を取って宣誓したぐらいである。

しかし、本人は素知らぬ顔で嘯く。

 

「美しい物が好きなのです。輝いていますから」

「金銀も?」

「良いですね、輝いています」

「義ねぇは?」

「あの方の眩しさは天下一でしょう」

「忠棟は?」

「鈍いです、輝いてません、我らと同類です」

 

散々な言い様である。

神戸小南の輝いていないは醜男の証明に他ならない。勿論、それは彼女の主観的な美醜判断であるけれども。

余りな評価だが、歳久も否定はしない。

ただあの男の笑顔は向日葵の如く温かいのだと思わず反論しそうになって、慌てて口を噤んだ。

何を生娘のように。

彼岸花の間違いでしょうに。

此処は同意して然るべきです、はい。

コホンと咳払いした歳久は明後日の方向を見ながら頷いた。

 

「まぁ、顔は確かに平々凡々ですが」

「私個人としては好みに入ります」

「入るんですか……」

 

どっちだよ。

 

「ただ--」

「ただ?」

「棟梁に毒されています。似た雰囲気がします。だから嫌です。我らと同じ日陰者の匂いがします」

「謀略が得意ですからね、あの男は」

 

肥後国北部を殆ど接収に近い形で平定したのは記憶に新しい。交戦したのは高森城だけで、他の城に住む国人衆は大友家から離反し、隈本城も重臣の裏切りによって内側から瓦解した。

当然、主導したのは忠棟である。

何年も前から綿密に計画されていたのだろう。

腹心の百地三太夫に休暇が与えられなかったのも道理だ。肥後国北部を調略だけで切り崩していなければ、島津勢は毛利元就が主導した包囲網によって瓦解していたに違いない。

 

「はてさて。その男の事ですが、小南が内城に来たという事は何かありましたか?」

「いえ。肥後と筑後の国境で龍造寺勢と依然として睨み合ったまま。後詰の部隊は菊池城、前線に築かれた二つの砦に山田有信殿と東郷重位殿がそれぞれ3000の兵士を伴って詰めています」

 

銭に物を言わせた人手と材料で築き上げた二つの砦。薩摩街道に沿うようにして造られた高瀬砦に加え、菊池城を護るようにして建てられた菊鹿砦の二つは対島津包囲網の侵攻を食い止める為に建築された。

不必要な物は省いた結果、僅か一月半で完成。

十日前に龍造寺勢と一戦交えた際も役に立ったと聞いている。

 

「事前に定めた通りですね。龍造寺の動きは?」

「兵数で上回っていても容易に勝てないと理解しているようで。積極的に攻勢に出ようとしておりません。まもなく本格的に冬になります。一度国許へ退かれるでしょう」

 

見るからに寒そうな格好の小南が言うと説得力に欠けるのだが、と胡乱な目付きで睥睨する島津歳久。

 

「大友家も日向との国境に兵を置くばかり。大した動きはありません。高橋紹運は一刻も早い島津討伐を訴えているようです」

「ならどうして?」

 

貴女が来たのか。

訝しむような視線で問い掛けると、小南は此方をと一通の書状を差し出した。差出人は島津忠棟。島津歳久宛になっている。

 

「棟梁曰く毛利元就殿に動きありと」

「ほう。南下ですか?」

「いえ。山陰に登りました。出雲遠征を行うようです。対島津の為に尼子家を滅ぼす気だろうとのこと。毛利の両川も引き連れています」

「山陰は雪で動けない筈では?」

「その油断を突いた形となります。忠棟様が言うには最悪を想定して動くとの事」

 

厄介な事になった、と歳久は肩を竦める。

もしも此度の遠征で尼子家を滅ぼしてしまえば、後顧の憂いなく九州へ牙を向けることが可能となる。

 

「わかりました。私も最悪を想定して動く事とします。急いで軍を編成しなければなりませんね」

「隈本城に拘留してあった角隅石宗を内城へ送るとのこと。殿も扱いについては歳久様に一任すると申しておりました」

「成る程、石宗殿を。説得できたようで安心しました」

「はい。道雪殿に根負けしたようです」

 

歳久は道雪の登用に反対した経歴がある。

彼女の大友家に対する忠義は本物な上に、島津家に対して劇薬な存在になると考えていたからだ。

忠棟の恩人だとしても、島津家に害を成す様なら排除する他ない。結果として想い人に嫌われようとも、憎まれようとも、それが島津歳久に課せられた義務だと思うから。

 

「それはそれは。石宗殿が来られるなら何とかなりそうです。忠棟に感謝の言葉を伝えておいてください」

「承知致しました。ならば、私はこれで」

「次は何処へ?」

「佐土原城に」

「弘ねぇによろしくと」

「御意」

 

淡々と言葉を交わした直後、小南は音もなく消える。まだまだ忍として未熟であると謙遜する彼女だが、歳久からしてみれば充分な技量を持っているとしか思えないのだが。

 

「さて、と」

 

神部小南は去った。

周囲に人の気配無し。

義久ではなく私に書いてくれたと緩みそうになる頬を意志の力で食い止め、忠棟からの書状を読もうとした途端、外から襖が開かれた。

 

「歳ちゃん、いるー?」

「!?」

「あらあら、やっと見つけたわ〜」

「よ、義ねぇですか。どうしました?」

 

咄嗟に書状を隠してしまった。

何故隠してしまったのか理解できないまま。

今更目の前で読み直す訳にもいかず、歳久は何食わぬ顔で義久を部屋に招き入れる。実の姉妹だが主従関係にもある為、上座に義久を座らせ、自身は速やかに下座へ移動した。

 

「わざわざ下座に移ることないのに」

 

上座に腰掛けながらも苦笑する義久。

歳久は姉兼主君に対して頭を下げながら答える。

 

「仮にも主君ですから。義ねぇの我儘は聞きません」

「歳ちゃんが年々厳しくなってるわ」

「義ねぇは既に四つの国を手中に治める大大名なのですから軽率な言動は慎んでください。源太も忠倉も甘やかし過ぎです。私は許しません」

「はーい」

 

無論、義久は日頃から政務を行なっている。

筆頭家老である忠棟不在の中、以前にも増して自発的に島津家発展の為に活動していた。歳上の家臣たちへ矢継ぎ早に指示を下す様は隠居した島津貴久にも負けていないと家中でも評判である。

だが、忠棟不在は心身に悪影響を与えているらしく、時折酷く甘えん坊な姿を見せる事がある。まだ実の家族に対してだけだが、もしも家臣たちの目に触れることあれば威厳を失いかねない。

何とかしないと拙い。

苦労性な歳久は頭を悩ませ、解決策は義久の夫に任せた。お前の妻だろ、早く何とかしてくれ。意訳すればこういう風に書き記した書状を一週間前送ったばかり。

何がしかの対応を考えてくれていると思うが。

はてさて、どうなった事やら。

 

「それで、何故私を探していたのですか?」

「えっとねー、明日行う評定の前に歳ちゃんから色々と話を聞いておきたいと思ったの。ほら、此処三ヶ月ぐらいは歳ちゃんが色々な事を主導してたでしょ?」

「義ねぇも手伝って下さったではありませんか」

「うん。でも、源太くんから直接任されたのは歳ちゃんだから。今年最後の評定だもの、家臣に良いところ見せたいじゃない?」

 

茶目っ気を含ませた物言いに、歳久は頭を振る。

敵わないなと再認識。

人の扱い方が本当に上手だと頼もしさを感じた。

主君としては当然ながら花丸である。

 

「わかりました。では、既存の物から。串木野金山は本格的に稼働を始めました。谷山に造られた金座にて薩州金として鋳造する予定です。詳しくはこれから定めようかと。何しろ掘っても掘っても金が溢れてくるようなので、最初にしっかりと定めておかなければ後々災いになります」

「明銭は使わなくなるの?」

「いえ、税としても禁止する事はありません。質の悪い銅銭だとしても、状態に応じて区分すれば問題ないかと」

「なるほど〜」

 

忠棟曰く、明銭の納税を停止したらデフレが云々と口にしていた。

どうやら大陸を支配する明朝の莫大な力が衰え始めているらしく、このまま進むと明銭の輸入が難しくなる可能性が高い。つまり貨幣が流通しなくなる。結果として貨幣の価値が高騰する。

そんな中、銅銭の納税を停止してしまうと、際限なく価値が高騰し続けてしまう。だからこそ長い年月を掛けて段階的に明銭に頼らない政策を実施しなくてはならないとの事。

今回の薩州金もその第一歩である。

 

「谷山の稼動も問題なく進んでいます。堺や津島から造船に必要な職人を呼び寄せ、領内であちこちに散っていた鉄砲職人、鍛治職人も集めましたから。砂糖製造も順調です」

「もしも間者に入り込まれたら終わりかしら」

「忍衆が絶えず監視していますから問題ないでしょう。それに、砂糖の製造は極秘中の極秘として扱っています。暴露する心配は少ないかと」

「そう。安心したわ〜」

 

手に職の有る人間は高待遇で迎え入れた。

様々な手段を用いて稼いだ銭によって仕事を与え続ければ、連日連夜お祭り騒ぎのように職人たちが動き回る谷山の町。

島津水軍、又は貿易に使用する船の建造。既に畿内、東海、関東にまで伝わった鉄砲の優位性を保つ為に質の高い鉄砲の大量生産を行い、示現流普及に合わせた薩摩由来の名刀として売り出すべく刀鍛冶も毎日休みなく汗水垂らす。

薩州産として日ノ本全土に拡大する砂糖の勢いは滞りを知らず、朝廷への献金は年々増え続け、高城川の戦いを終えた後、朝廷から官位の授与すら持ちかけられた程である。

現在、島津義久には従四位下『左京大夫』を与えられていた。

 

「問題は、源太の提示した改革案でしょうか」

「六角殿が行った楽市楽座だったかしら?」

「はい。商人の往来を妨げてはならない、座の特権をまったく認めない、屋敷地や家屋ごとの諸課税は免除する。座に喧嘩を売るようなものです」

 

独占販売権、非課税権、不入権などの特権を持つ商工業者。それが『座』である。これを廃止するという事は、誰もが自由に商売や事業を行う事が出来る状態にしたいと忠棟は常々口にしていた。

元々、座は悪い物ではない。

明日の世も知れぬ乱世にて、巨大な権力によって不当に値が下げられたり、税を取られる事態に備えるための自衛組織だったのである。

しかし、そうした組織は次第に変質していった。

座によって既得権益を維持する事が最大の目的になり、不当に高値をつけて販売することも多々ある。製造や運送にあたって業務を放り出し、領主に対して要求を呑ませようとする事例も一度や二度ではない。

更に特権を世襲しようとする座まで現れ始め、やりたい放題の様相を呈してきた。本来は民衆を守るための存在であった筈の座が、民衆や領主にとって邪魔な存在に成り果てていったのだ。

 

「でも、行わないといけないのよね」

「これからは経済力が物を言う時代となる。それに商人が多く出入りする町を作れば、兵糧や武器弾薬を調達しやすくなりますから」

 

楽市楽座の利益は此処にある。

賑わう城下から、従来の屋敷地の広さなど土地を基準にしたものではなく、売上に応じて冥加金を徴収してしまえばより島津の懐は温まるようになる。

 

「やれそう?」

「公家の方は献金で手を打てそうです。問題は寺社の方でしょう。只でさえ南蛮貿易の利益を得る為に、寺社の方は常々不平不満を口にしていますから」

「そう。いざという時は、彼らも敵に回す覚悟が必要ということかしら?」

「はい。源太は物怖じせずに、坊主たちはお経を唱えていればいいと吐き捨てましたが。政事に口を挟むなとも」

「--歳ちゃん、明日の評定で楽市楽座を通そうと思うわ。協力してね?」

「簡単に言わないで下さい」

「歳ちゃんならできるでしょう?」

「まぁ、源太からも頼まれていますからね」

「やった」

 

嬉しそうに微笑む主君。

歳久の口からため息が漏れた。

 

「後は関所の廃止に間道整備、本拠地の移動。仕事は山積みです」

「間道を整備したら敵に攻められた時、危なくないかしら?」

「忠棟も理解しています。ただ危険性よりも、商人の往来を多くしたり、大軍を移動させやすくなるなど多種多様な利益が生まれますから。私も賛成しています」

「国人衆の反発は、金で抑え込むのね」

「これを想定して、源太は串木野金山を掘り起こした節すらあります。全くあの男は、道筋だけ付けた後は私に放り投げるだけ。厄介な事この上ないです」

 

でも、と義久が嬉しそうに笑う。

 

「歳ちゃん、楽しそう」

 

思わず頬を触る。

確かに緩んでいた。

弁解のしようなどない。

悪戯っ子のような視線を向ける義久から目を背けて、歳久は不満そうな演技を行い、やれやれと首を横に振った。

 

「疲れるだけです」

「またまた〜」

「義ねぇの夫なのですから、何とかして下さい」

「うーん、今は雪さんに任せてるから」

「はぁ、この夫婦は」

 

此方の思惑など度外視する辺り、似た者夫婦である。

そんな二人だからこそお似合いだと思い、歳久は一線引いたのだ。

 

 

「世話が焼けますね、本当に」





本日の要点。

1、神部小南、見た目は某ソシャゲーの加藤段蔵。

2、冥加金とは売り上げに応じて支払う税金。

3、島津お抱えの忍衆、通称『御庭番』に決定。


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三十九話 百地三太夫の帰還

 

 

十二月二十四日、午の刻。

二日前、俺は約一ヶ月振りに隈本城へ帰還した。

筑後と肥後の国境に張り付いていた龍造寺隆信率いる15000の兵士が、肥後侵攻を諦めて国許へ引き上げたからである。

陣中で年を越すのかという嫌戦気分が一般兵だけでなく武将にまで伝播していた頃だった。どうにかして追い払わないと拙いな、と一戦交える覚悟すらしていた矢先の撤退。正直、助かった。

但し不意を突いた侵攻の可能性も充分に有る。

菊鹿砦と高瀬砦には金で雇っている常備兵をそれぞれ500ずつ配置。菊池城にも夥しい弾薬を運んである。万が一の事態にも対応できる筈だ。

勿論、年越しという神聖な行事の中、他家へ侵攻するという発想は思い浮かばないと思うが、肥前の熊に常識は通用しないという直茂からの忠告に従うことにした。

 

「--寒い」

 

火鉢の前で丸くなる。

炬燵の中に潜り込む猫の気持ちが凄くわかる。

どうにかして再現できない物か。

きっと馬鹿みたいに売れると思う。

特に北陸や東北の大名から注文が殺到するに違いない。伊達、蘆名、最上、南部、安東などなど。恩を売るに持ってこいである。下手したら一戦交えずに島津へ臣従してくれるのではなかろうか。

 

「アホくさいな、うん」

 

寒さから脳まで萎縮してやがる。

そんな事よりも午後の時間をどう使うかだ。

久し振りに暇な時間が持てた。

小姓と将棋するも良し、雪さんと囲碁に興じるも良し、明日の分の政務を早めに終わらせるのも一興である。

実に悩ましい。

一ヶ月も菊池城で三家の動きに気を張り巡らしていた上、薩摩から送られてくる改革案の進歩状況や現在起こっている問題点の改善策などを提示する為に四六時中何か思考していたからこそ、唐突に降って湧いた暇な時間という物に戸惑いを隠せないでいたりする。

こうして振り返ると自業自得である。

島津包囲網さえ発生しなければ。

せめて毛利家の参加だけでも防いでいれば。

もっと気楽な年越しを迎えられたというのに。

 

「で、だ」

 

俺は胡乱な目付きで眼前の男を睨む。

 

「貴様、何をしておる?」

「ほえ?」

「気色悪い声を出すな」

「酷いなぁ、相変わらず」

「呑気に蜜柑など食べおって」

「いいじゃん、仕事の後に食べる蜜柑。最高だよね、大旦那。手炙りのお蔭で外よりも格段に暖かいしさ」

 

俺同様、背中を丸めたまま蜜柑を食べる忍者。

島津お抱えの忍衆。通称『御庭番』の初代棟梁。

元伊賀の上忍であるという異例の肩書きを持つ白髪の男は、火鉢を挟んだ正反対の位置で部屋の主人のように寛いでいる。

その程度で怒るほど短気ではない。

だが、問題は三太夫の食べた量なんだよなぁ。

 

「四つ目だぞ、それ」

「お腹減ってたの。飢えを凌いでいるんだって」

「蜜柑で?」

「うん、蜜柑で」

「財布は?」

「落とした」

「いつ?」

「二十日前」

「今日までの飯は?」

「そりゃあ野山にある山菜でどうにか飢えを凌いでましたけど?」

「……相変わらず不幸体質だな、お主は」

 

思わず憐れみの視線を送る。

最近は他人に伝染しなくなった不幸体質。

財布を落とす、鳥に糞を掛けられる、山から滑り落ちる、犯罪者に間違われる、不審者として斬られそうになる。様々な不運に見舞われることを運命付けられた男は、わかってますよーと口を尖らせた。

 

「財布を複数に分けてみるというのは?」

「やった。全部落としました」

「筋金入りだな……」

 

ドン引きである。

神様から直接賜った呪いなのかもしれない。

割と本気で思った。

いやまぁ、三太夫の不幸は知っていたけれども。

 

「して、仕事の方は?」

 

前振りは此処まで。

書院の外に気配がない事も確認済み。

既に小姓に命じて人払いも済ませてある。

身を乗り出す軍師に対して、忍の棟梁は形容し難い表情を浮かべた。まさか失敗したのかと眉根を寄せると、三太夫は慌てて違う違うと否定した。

 

「そりゃあちゃんとやりましたよ」

 

見くびってもらったら困ると吐き捨てた。

百地三太夫の技量は心配していない。

それでも極稀に阿呆かお前と罵りたくなるような失敗を犯すのだ、コイツは。その後は自ら物事を整理して、紆余曲折を経た挙句、より大きな利益を齎らした上で仕事を達成するという褒めたらいいのか、貶したらいいのか判別が難しい状況で帰還するというのも三太夫らしさだったりする。

 

「尼子義久に伝えたか?」

「当然。大旦那の書状も渡したって」

「返答のほどは?」

「有り難く受け取るってさ。相当拙いよ、山陰の方は。謀神様が年甲斐もなく張り切ってらっしゃる。一年持たずに蹂躙されると思うけどね、オレの見立てだと」

「で、あるか」

 

毛利元就が動き出したのは二週間ほど前。

山陰地方に鎮座する尼子家に対して、遂に全軍を挙げて侵攻を開始した。

大友と龍造寺と云った西側の脅威を排除したからである。下手すれば来年の夏までに尼子家が滅亡するかもしれない、と雪さんは悲痛な面持ちで口にした。

俺も同感である。

謀聖と謳われた曾祖父ならいざ知らず、自他共に認める不幸体質だと噂の尼子義久では到底対抗できそうにない。

故に、俺は物資を送る事にした。

敵の敵は味方。

まさしく遠交近攻。外交戦略の基本骨子だ。

廃棄処分間近な古い鉄砲に質の悪い軍馬。後は行軍に必要不可欠な兵糧などを載せて、日本海側を経由して搬送する予定である。冬の日本海は猛烈に時化るから、どうしても届けるのは春前になってしまう。大丈夫か。大丈夫じゃなさそうだ。

それまで持ち堪えてくれなさそうである、三太夫の口振りだと。

 

「大旦那の梃入れがあったとしても焼け石に水じゃないかな。毛利両川も出張ってるし。正直、尼子家に未来はないなぁ」

「安心せい、尼子に頼みたいのは時間稼ぎ。元就殿の九州参戦を遅参させてくれるだけでまさしく大金星よ」

「だから山中鹿之助にも書状を?」

「最悪の事態に備えた結果だ。尼子家が毛利の侵攻を食い止めれば問題ない。俺も十中八九無理だと思うが」

「だよねー」

「嗚呼、難儀な話よな」

 

二人して溜め息を漏らす。

今回の危機は俺たちの失態だ。

だからこそ打開する為に必死だった。

 

「今の内にクマーを潰すってのは?」

「時間が掛かり過ぎる。元就殿の思う壷だろう」

 

龍造寺と島津を争わせ、疲弊した瞬間を狙う。

典型的な漁夫の利だ。

例え史実と比べれば格段に強化された島津家だとしても、簡単に倒せないと確信できる強さを龍造寺家は持っている。

最初の合戦で龍造寺隆信を筆頭とした四天王も纏めて殺す事ができれば、肥前と筑後の国人衆は一気に島津家へ靡くと思うが、史実通りに上手く行くと限らないのだ。

下手に手を出せば思わぬ藪蛇になりかねない。

火傷や咬み傷だけで済めば御の字だが、最悪の場合に至れば戦線の崩壊に繋がってしまう。後は済し崩し的に斬り込まれて島津家滅亡まで突き進むと考えれば、無闇矢鱈と北上するのも躊躇われる訳だ。

 

「キリシタンも?」

「高橋紹運さえいなければな」

「サクッと殺る?」

「道雪殿曰く、忍に殺されるような鍛え方はしておらぬとの事。無駄骨となりかねん。今は静観あるのみ」

「八方塞がりかー」

「後は、直茂の策次第か」

「上手くいくの?」

 

最後の一房を口に放り込んだ三太夫。

その眼は信用できるのかと言外に訊いていた。

俺は残り一つとなった蜜柑の皮を剥きながら答える。至極平静に、絶対の自信を持って、何食わぬ顔で断言する。

 

「信用できる」

「何で?」

「申すまでもなく奴が鍋島直茂だからよ」

「--ふーん、惚気?」

「違う。戯けたことを申すな」

「はいはい、ご馳走さまでした」

 

裏は取った。

確証も得ている。

何よりも俺自身が納得した。

どうして鍋島直茂が島津忠棟の側室となる事に賛成したのか。長年の疑念は綺麗に微塵も残らないほど氷解した。そういう事かと苦笑しつつ、鍋島直茂の合理性や冷徹さに愕然とした事も記憶に新しかった。

 

「逆転の一手、か」

 

三太夫が火箸を持つ。

火鉢の中で燻る炭をコロコロと動かした。

 

「決まれば九州平定まで一直線だよね」

「既に布石は打ってある。心配無用」

「そっか。オレはオレで少し考えてみるよ」

「頼む」

 

百地三太夫は賢い忍だ。

軽薄そうな面構えに飄々とした態度。

その奥に潜む智謀は余人の追随を許さない。

恐らく悔しいのだと思う。

直茂の提示した逆転の一手。

既に布石は幾度も打たれている。

肥前の熊だからこそ引っ掛かる罠もあるだろう。

これらを理解しているからこそ、三太夫は島津包囲網形成に一役買ったとされる安国寺恵瓊に対して忸怩たる思いを抱いている。

外交僧如きに遅れを取るなんて、と。

 

「三太」

「うん?」

「勝負はここからぞ」

「当然。大旦那に負けられたら困るからね」

 

笑う門には福来る。

故に俺たちは笑った。

この危機的状況を打破する為に。

 

 

 

 

 

▪️

 

 

 

 

 

十二月二十四日、申の刻。

三太夫に新しい仕事を押し付けた後、俺は火鉢の前で考え事に耽っていた。火箸で炭を左右に転がしながら静寂な空間に身を浸す。

薩州金は信玄の真似をすれば問題ない。

南蛮商人に伝えてある馬鈴薯に関しては不明。

今月の評定で決まった楽市楽座の施工。既得権益に貪る寺社仏閣は確実に敵と回る。現時点でこれ以上敵を増やすのは阿呆の所業。本格的な施工は大友家を潰した後になるだろうな。

度量衡の統一は急がないといけない。流通の拡大や薩州金の今後を考慮しても、統一的な枡は必要不可欠である。

街道の整備も春頃から本格的に始まる予定だ。

朝廷と幕府に関しては悩みどころ。朝廷の場合だと官位を得られるのは確かに有り難いけれど、何か有る度に金を融通してくれと頼む公家たちは後を断たない。波風を立てずに済ませるには払い続けるに限る。朝敵は御免だ。それでも正直困っている。金は有限だから。貧乏な朝廷は金を払うだけで満足気だから可愛らしいけど。

室町幕府は問題外。権力はお零れ、権威すら応仁の乱で失墜した。株で言えば最低値を更新中。復活の芽は存在しない。あるのは上洛としての大義名分だけだろうか。

史実の足利義昭は幕府再興を願っていたが、この世界だと果たしてどんなお方なのやら。どちらにせよ織田信長に任せればいいか。投げやりだけど一番無難だと思う。幕府を潰したという悪評すら受け止めてくれれば御の字である。

数え上げれば切りがない問題点に頭を悩ませていると、雪さんと重位の両名から城下町の視察にいこうと誘われた。

外は寒い。雪が降りそうだ。

寒がりな俺は当然の如く辞退しようとした。

だが、雪さんの誇る慈愛の微笑みと重位の犬を彷彿させる落ち込み具合に良心が痛んだ結果、供回りを連れて隈本城を出発したのだった。

 

「あぅぅ〜」

 

そして、現在に至る。

城下町は喧騒に溢れていた。

内城に負けるものの、様々な物品が軒を連ね、商人たちによって売り買いされている様は想像以上である。少なくとも阿蘇家の時は此処まで賑やかな雰囲気はなかった筈だ。

島津家の誇る莫大な金銭を投入したからか、日々拡大の一途を辿る隈本の町。熊本平野と呼ばれる絶好の位置に建てられた平城は、今後の島津家を支える本拠地になる予定だ。東側は阿蘇山の外輪山が連なり、西側は有明海の島原湾に面しているからこそ内城を遙かに凌ぐ城下町になるだろう。

 

「ごめんなさいぃ〜」

 

そんな中、一人の女性が何度も平謝り中だった。

藍色の髪は胸元にて勾玉らしき物で括られ、琥珀色の双眸は優しげな光を宿している。白と桃色を基調とした服は煽情的で、特に胸が拙い。谷間は隠す事なく大胆に、言葉を選ばずに表現するなら乳首だけ隠しているような有様である。

男を誘惑しているのか。

それとも無自覚な露出なのか。

前者なら言動のチグハグさから狂人認定確実。

後者なら生粋の露出狂という点で変人認定確実。

どちらにしても関わったら駄目だと警鐘を鳴らす俺とは裏腹に、重位はどうして平謝りされるのか解らないと様子で慌てふためいていた。

 

「そ、そんなに謝らずとも構わぬ。私とて不注意であった。汚れは洗えば落ちる。其方が気に病む必要など御座らん」

「でも〜」

 

このままだと話が進まないな。

町の者にも多大な迷惑となってしまう。

雪さんの車椅子から一歩離れ、仲裁する事に。

前を見ずに歩いていた重位も悪ければ、道の中央で憚りなく踊っていた彼女も等しく悪い。重位のお召し物に団子の汚れは着いたが、さりとて踊っていた彼女の方も派手に転んで土汚れが悲惨な事になっている。

即ち喧嘩両成敗であると二人とも戒めた。

はい、と項垂れる両名。

やっと場が落ち着いたと判断した俺は、踊り娘に声をかけた。雪さんから只者ではないと言わしめた彼女に興味を持ったからだ。

 

「して、その方は何故踊っておった?」

「國はですね、踊るのが好きなんですぅ〜」

「國とは、その方の名前か?」

「はい〜」

 

珍しい名前である。

はてさて芸名だろうか。

 

「肥後の者か?」

「いえ、出雲から来ましたぁ〜」

「出雲から?」

「白髪の方から九州南部は良いところだよと教えられたので。凄く活気があって驚いちゃって、思わず國は踊ってしまいましたぁ〜」

 

出雲国から来た國という名前の女。

白髪の方とは三太夫だろうか。つい先日、尼子家と接触する為に山陰地方まで走らせたから時間と場所は合致する。

だとしたら、やはり--。

 

「貴殿は出雲阿国殿だろうか?」

「あれぇ〜、國の事、知ってるんですか?」

「噂話だけなれど。そうか、貴殿が出雲阿国殿か」

 

改めて見つめる。

歌舞伎の基礎を築いた出雲の巫女。

その正体は天然の露出狂で、城下町で人が賑わう道の中央だろうとも構わずに舞う踊り狂いだったという事か。

確かに徳川幕府も風俗が乱れると考えるわ。禁止するのも頷ける。その姿で踊ったら最後、周囲の男たちに暗がりへ連れ込まれてしまうだろうな。

 

「……」

 

クイっと裾を引っ張られた。

視線を向けると雪さんが仏頂面を浮かべていた。

手の動きから察するに屈めという事か。

口許に耳を近付けると、雪さんはボソッと口にした。

 

「不埒です」

「え?」

「胸元を見過ぎです。女性は視線に敏感ですから気付かれています。今後は注意なさい。わかりましたね?」

「ーー承知致しました」

 

平淡な声が恐ろしかった。

ともすれば棒読みに近かった。

反論する気を無くす声音に圧倒された俺は、取り敢えず立ち上がり、出雲阿国に対してとある提案を持ちかけた。

決して胸は見ない。

見詰めるのは阿国の双眸だ。

琥珀に彩られた気弱そうな瞳を凝視する。

 

「阿国殿、貴殿さえ宜しければ薩摩国にて踊りを披露しませぬか?」

「えぇ〜、宜しいのですか?」

「勿論で御座る。日向、肥後、大隅、何処で踊ろうとも構わぬ。某が話を付けるとしよう。どうで御座ろう?」

「うぅぅ〜、國は幸せですぅ〜」

 

今にも嬉しくて泣き出しそうな阿国。

一見、島津家に利のある持ち掛けではない。

だが供回りから聞いた話だと、町の人間は一様に彼女の踊りに魅入られていたらしい。遠巻きに観賞しつつも、興味が惹かれずにはいられないと言った様子だったとか。

このまま済し崩し的に島津家で阿国を囲い込んでしまえば、商業的に大成功するかもしれない。俗物的な言い方だと金のなる木である。逃す手は存在しなかった。

三太夫、良くやった。

文化的な向上は島津家発展に必要だからな。

 

「阿国殿」

「はい」

「某も応援致す。頑張って下され」

「はい!」

 

例え露出狂だとしても根は真面目そうな女性だ。

義久たちも悪い様には扱わないだろう。

兵士の士気を上げるのにも役立ちそうだ。

俺の懐から禄を上げてもいいかもしれない。

 

 

 

「師匠、どう致しまするか?」

「今は静観しましょう。殿に伝えるには時期尚早かと」

「兄上は胸の大きい女性が好みなのでしょうか」

「忠棟殿も男です。可能性は高いでしょうね」

「--私は、小さいです」

「重位、頑張りましょうね」

「はい、師匠!」

 

 

 

背後から不穏な空気を感じながら、俺は思わぬ拾い物をしたと満足げに頷くのだった。

 

 





本日の要点。

1、直茂に秘策あり。

2、出雲阿国、露出狂の疑いあり。

3、忠棟、巨乳好きの疑いあり。島津四姉妹と情報共有。


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四十話 龍造寺隆信への密報

 

 

 

永禄四年、一月九日、卯の刻。

正月を迎えた九州は一時の静謐に包まれた。

大隅、日向、肥後と云った各所領から武将たちが薩摩本国へ帰還。現当主である島津義久に新年の挨拶を告げる模様は一週間経っても終わらず、約九日費やして漸く一通り終了する有様であった。

夏から続いた戦続きの日々を労わる為に、義久自ら家臣一人一人と腹を割って対話する事を望んだからだ。功績の大きかった者には薩州金や名刀を直接渡し、これからもお願いするわねと直接頼み込めば涙を流して喜ぶ者まで現れた。

二年続いた飛躍からか、それとも義久の器の大きさに心酔したからか、家中の雰囲気は極めて良好である。

高城川の戦いに於いては大勝、肥後全土を瞬く間に支配下に治めた挙句、朝廷から左京大夫の官位を与えられた義久の存在感はまさに天下に轟く大大名。その確固とした地盤を僅か二年足らずで築き上げたのだ。

一方で三大名による島津包囲網形成という痛恨事も発生した。勝利の余勢を駆って豊後と肥後北部に攻め込み、大友家を滅ぼそうとした島津家の戦意を挫く連合軍の出現であった。

筑後と肥後による一月に及ぶ睨み合い。

毛利家による尼子家征伐など目紛しく情勢が動いた。

それでも家中の高揚が続くのは、島津義久と島津忠棟への信頼からである。若年の当主に加え、婿養子風情の家宰だと馬鹿にする家臣は最早存在しない。

この危機的な状況でも義久と忠棟ならば必ずや打開できると確信するからこそ、島津家の武将は顔色良くして内城へ馳せ参じたのだ。

そんな彼らを仰天させる報告が耳に飛び込んで来たのは、義久によって急遽集められた評定の最中であった。

 

「龍造寺が動いたわ」

 

端的な一言に家臣一同が驚愕した。

島津一門衆に加え、島津貴久の時代から仕えてきた譜代衆、更に甲斐宗運を筆頭とした外様衆も含めれば約20名にも及ぶ武将が隣同士で意見を出し合っている。

そんな中、義久の傍らに佇む島津家宰相である島津忠棟が詳しい情報を提示した。

 

「静かに。情報は一刻前に御庭番衆から届けられ申した。龍造寺隆信率いる20000の軍勢が肥前を南下中。目的は有馬家でありましょう」

 

標的は有馬家か、と呟いた新納忠元。通称、親指武蔵。

高城川の合戦にて多大な戦功を打ち立てた猛将は顎鬚を扱きながら、家宰殿にお尋ねすると重厚な声音を響かせた。

 

「龍造寺殿以外の武将は誰が集っておる?」

「名のある武将は確認されているだけでも成松信勝、百武賢兼、木下昌直、江里口信常、円城寺信胤など。後藤家信、大村純忠、江上家種なども参陣なさっているとの事」

「勇猛果敢な武将だらけ。武者震いするわ」

 

肝付兼盛が勇ましく感嘆した。

何を隠そう、最初に挙げた五人こそ龍造寺四天王と呼ばれる歴戦の武将であった。少弐家と大友家から脱却する道をこじ開けた武は九州全土に広く轟いている。

 

「つまり、龍造寺殿も本気という事よな」

 

種子島時尭が得心の云った様子で頷いた。

肥前北部、筑前西部、筑後を領土とした龍造寺家の動員する兵数は無理すれば約30000を超える事が可能である。その三分の二を肥前南部に陣取る有馬晴信へ差し向けたのだ。

龍造寺隆信自ら動くとは、即ち一切の容赦もなく有馬家を押し潰すと宣言しているに等しかった。

 

「なれど、この時期に出兵とは」

 

鎌田政年の息子、鎌田政広が眉間に皺を寄せる。

龍造寺隆信率いる15000の軍勢が筑後から撤兵したのは僅か二十日しか経過していない。如何に被害が少なくとも、以前から兵糧など調整していなければ到底無理な動員数である。

 

「服従していた有馬殿が意を翻したのだ。解らぬ話でも御座らぬ」

「龍造寺殿の思惑は簡単に読み取れようぞ。包囲網が形成されている内に肥前の全土平定を成し遂げようという腹積もりよ。あわよくば肥後、薩摩にも攻め込んでこようて」

 

忠元と兼盛が口々に言葉を発する。

島津四天王と呼称される二人の覇気に当てられた他の武将は、容易に口を開く事も出来ず、上座にて評定の間を睥睨する義久と忠棟へ視線を向けるのみであった。

現当主の妹である島津義弘は瞑目を解き、両者の間隙を縫うようにして疑問を発する。

 

「島津はどう動くつもりなの、源太」

「既に有馬家から援軍の要請が来ておりまする」

「なら肥前へ派兵するの?」

「致し方ありますまい。肥前南部を奪われれば我ら島津家は窮地に陥りまする。最悪の場合だと今年の秋には豊後、筑後、肥前からの三正面侵攻が実施されましょうな」

 

家臣団の呻き声が至る所から聞こえた。

誰にでも予測可能な未来だからこそ説得力も大きかった。

豊後から大友勢、筑後から毛利勢、肥前から龍造寺勢が一挙に押し寄せれば苦戦するのは必至である。一つでも戦線が瓦解してしまうと、後は済し崩し的に島津家領内は蹂躙されてしまうに違いなかった。

 

「ならば如何とする?」

「忠元殿、そう睨まれるな。某とて島津家宰相の自負が御座る。安心召されよ、既に龍造寺勢を打破する策は考えてあり申す」

「つまり、有馬家に援軍を遣わすと?」

「如何にも。此処で龍造寺勢を打ち破り、包囲網の一角を崩す。さすれば大友、毛利の連携も崩れるは必定で御座ろう」

 

神速と呼ぶべき三洲平定。

雷神と恐れられた戸次道雪に大勝利。

休む暇も与えずに肥後国を平定した島津の誇る稀代の軍略家、今士元の自信に満ちあふれた言葉に評定の間が活気に満ち溢れた。

 

「して、忠棟殿。その策とは如何に?」

 

二年前に起こった島津家の権力闘争。

親忠棟派と反忠棟派に分かれた争いである。

最も早く親忠棟派を宣言したのが肝付兼盛だった。

義久と忠棟からの信頼も篤く、だからこそ高城川の合戦に於いては相手の脇腹を突く遊撃隊も任された程であった。

兼盛は意気軒昂とばかりに問い掛ける。

今回も戦功を挙げる機会だと張り切っているのだと勘付いた忠棟は、評定に参加している全員に目を配りながら言った。

 

「お話したいのは山々なれど、何処に龍造寺隆信の間者や忍が潜んでいるかわからぬ故、此処で妙案を口に披露するのは差し控えとう存ずる」

「お言葉ながら家宰殿!」

「龍造寺家へ寝返った者がいるとでも?」

「有信殿、落ち着いて下され。歳久様も勘違いなされては困りまする。寝返った者がいるとは申しておりませぬ。しかし壁に耳あり、障子に目ありと申すではありませぬか」

 

島津忠棟の涼しげな声色。

成る程、と愁眉が開く島津の武将達。

島津貴久の三女である島津歳久は智謀に長けている姫武将である。また幼い頃から忠棟と知己の間柄だった。故に僅かな違和感から島津家宰相の心境を正確に把握できた。

彼も今回の事態は予想外だったのだ。

確かに有馬家は年末に島津家へ密使を寄越した。

龍造寺隆信の従属から脱すると。今後は島津家にお味方するという有馬晴信の意向を聞いた義久と忠棟は一先ず返事を保留したと聞く。

新年早々、龍造寺勢と戦する理由など無かった。

今は接収したばかりの肥後の安定に努め、谷山にて製造される鉄砲と騎馬軍団を整えて、然るのちに反撃。一気に北伐して九州を平定するという未来図を描き切る必要性があった。

だが、有馬は独断で龍造寺から離反した。

まさに取らぬ狸の皮算用となった訳である。

 

「しからば各々方、有馬家に援軍を遣わす事で宜しいか。もし意見あれば腹蔵なく申せ。此度の合戦は島津家の飛躍を更に決定付ける事になろう故な。遠慮はいりませぬぞ」

 

鋭利な瞳が家臣一人一人を捉える。

予想外の事態にも日常と変わらない微笑みを貫く島津義久の安心感と様々な改革と戦功を打ち立てて来た島津忠棟の信頼感から、一癖も二癖もある家臣団は反論せず一斉に頭を下げた。

 

「…………」

 

そんな中、口角を釣り上げる者が存在した。

思惑通りだと高笑いしたくなるのを必死に堪える四肢は僅かに震えていた。嬉しさか、嘲りか、恨みからか。本人にしかわからない情景を思い浮かべながら男はひたすらに沈黙を保った。

反対意見は無いと判断した義久の宣言によって評定は終了した。

その者も足早に内城から立ち去っていった。

 

「…………」

 

背中に突き刺さる四つの双眸に気づく事もなく。

 

 

 

 

 

◾︎

 

 

 

 

 

 

一月九日、辰の刻。

新年の幕開けに相応しい寒波は、山陰地方の山々を純白に染め上げる。海から流れ込んでくる潮風は冷気に満ち溢れ、街道沿いに築いた本陣の周囲には寒さに耐えようとする毛利家の兵士達が身を屈めていた。

彼らの間を擦り抜けるようにして、毛利元就の三女である小早川隆景は本陣に足を踏み入れた。

今回の遠征で宿敵『尼子家』に引導を渡すと宣言した父親からの招集である。出雲にて何か異常事態でも発生したか、それとも九州か--。

起こり得る事象を羅列し、一つ一つの可能性を吟味して、適切に取捨選択しながら歩いていると、いつの間にか毛利元就の控える陣幕の前に立っていた。

御免、と一言。

陣幕の中に入る。瞬間、胸の奥がざわついた。

理由は明白。床机に腰掛けた齢63の男が瞑目して控えているから。それだけだ。相対しただけで他者を威圧できる覇気を持つ男だからこそ、僅か一代にして毛利家を国人領主から中国地方の覇者に押し上げられた。

我が父ながら恐ろしいと思う。

そして、元就に警戒されている島津忠棟に思わず同情する。油断も隙もない『謀神』が相手では、如何に戦国の鳳雛だとしても勝ち目など微塵もないからだ。

 

「来たか」

「遅かったね、隆景」

 

元就の横に佇むのは、隆景の実姉である。

名は吉川元春。毛利家一の弓取りとも称される戦上手で知られる不敗の名将。武に於いても空前絶後、彼女に一対一で相対できる武将は少なくとも中国地方には存在しないと思える程だ。

 

「申し訳ありません、父上。それに元春姉さまもお許しを。遅れてしまいました」

「構わん」

「隆景は色々と頑張ってるからね。気にしない気にしない。実はあたしもさっき着いたばかりでさー」

「そうなのですね。安堵しました」

「で、あるか」

 

毛利元就は家族に対して言葉が少なくなる。

端的に物を言う。首肯だけで終わらせる会話も日常茶飯事。もしや嫌われているのかと不安に思った日々は数え切れない。元春とも話し合った回数だけでも三桁は超えるだろう。

だが、長女の毛利隆元によって疑念は払拭した。

彼女曰く、父上は気の許す家族相手だからこそ言葉少なくなるのだと。普段から家臣や様々な人間と大量の言葉を交わす多忙な日々なのだ、家族の前だけでも静かな時間を過ごしたいという現れなのだと言っていた。

 

「して、一体何事でしょうか」

「父上があたし達に緊急の使者を遣わすって事はよっぽどだよね」

 

隆景の疑問に、元春が被せた。

娘二人の言葉に対し、元就は腕を組んで答える。

 

「九州だ」

「島津が動きましたか?」

「いや、龍造寺が動いた」

「えぇー、秋の刈り入れ時まで待つって言ってなかったかな。確か恵瓊からそう聞いてたんだけどなぁ、あたしは」

「はい、わたしもです」

「--標的は島津ではない」

 

島津家ではないだと。

包囲網が成されている現在、九州に於いて龍造寺家と関係の悪い大名は表向き存在していない。

にも拘らず軍勢を動かした。

その上、標的が島津家でないとするならば--。

 

「有馬家ですか?」

 

答えを導き出すと、元就は鷹揚に頷いた。

 

「如何にも」

「有馬って肥前西部も龍造寺に追い出された奴でしょ。その後は臣従したって聞いたけど、もしかして龍造寺を裏切ったの?」

「そう考えるのが妥当でしょう。問題は、此度の合戦に島津が関与するかどうかですね」

「関与せざるを得ない」

 

力強く断言した元就は、続けて口にした。

 

「故に、我らは九州へ赴く」

 

突然の宣言に二人は固まった。

数瞬、陣幕に静寂が訪れるのも無理なかった。

此処で九州へ反転すれば、尼子征伐に必要な軍勢を起こした時間、金銭、兵糧、苦労、その他にも貴重な人的資源を無駄にする事と同義だからである。

元春よりも早く正常に復帰した隆景は、ズレた眼鏡を元の位置に戻しながら口早に進言する。

 

「しかしながら父上。此度の遠征では何も成果を得ておりません。又、此処で軍を引いてしまえば尼子家に背後を突かれます!」

「流石に危ないと思うんだけど、あたしも。九州は龍造寺と大友に任せて、今は尼子家の征伐に集中するべきだと思うなぁ」

 

元就は首を振る。

何もわかっていないと。

 

「尼子攻めは中止せぬ」

「なんと」

「なになに、どういうこと?」

「尼子征伐は隆景に任せる。一人、やり遂げろ」

 

現在、毛利勢は約20000である。

元就が言うには10000の兵士を預ける故、父と姉に頼らずに一人で尼子家と相対しろと。山陰地方を攻略せよと言うことだ。

本気なの、と騒ぐ元春を他所に、隆景は冷静な頭脳で瞬く間に試算した。出来る、出来ないの判断などこの際どうでも良かった。

父親に頼まれたならやるだけだからだ。

今は亡き姉と約束した。

毛利家をお願いねと言葉を交わした。

破ってはならない。

最愛の姉の遺言を無下になどできなかった。

 

「わかりました。お任せください」

「隆景、大丈夫なの?」

「元春姉さま、ご安心下さい。わたしは小早川隆景ですよ。父上が念入りに行った調略と10000の軍勢を巧みに操り、見事尼子家を屈服させてみせましょう」

「そっか。なら心配いらないね!」

 

気楽に笑う元春は家中を明るくする。

勇気凛々を体現する姉の為にも奮起しなくては。

一分一秒でも惜しいと判断した隆景は、元就に軍の編成を申し出た。頼んだという返事を聞くや否や陣内から飛び出し、山陰と九州に向かう二部隊に軍勢を分ける作業に没頭し始めた。

 

「隆景、大丈夫かな」

「心配いらぬ。儂の娘だ」

「そうだね。でもさ、父上」

「なんだ?」

「今回、龍造寺が暴走したのって偶然?」

 

陣内に残った元春が淡々と尋ねた。

何か意図があった訳でなく、理由すらなかった。

ただ自然と口に出た疑問は元就の口許を歪ませた。

 

「謀多きは勝ち、謀少なきは負ける。自然の摂理よ」

「つまり?」

 

小首を傾げる元春。

元就は立ち上がり、軍配を握り締めて言った。

 

 

「龍造寺に有馬謀反の情報を流したのは、儂だ」

 

 

 

 

 

◼︎

 

 

 

 

 

 

一月九日、巳の刻。

肥前北部と筑前西部、更に筑後を支配下に置く新進気鋭の大名、龍造寺隆信は何時になく戦意を昂ぶらせていた。

数日前に発覚した有馬家の謀反。

隆信は島津家と同盟を結んでいた頃に有馬家と合戦を二度行い、二度とも勝利した過去を持つ。結果として有馬家は肥前南部へ追いやられ、挙げ句の果てに臣従を申し出た。

従属したのである、この龍造寺隆信に。

だが、島津家が肥後を占領するや否や、南九州の大大名へ速攻で靡いた。最早許して置くわけにいかない。風見鶏には相応の鉄槌を下すのが道理だと息巻いているのだ。

毛利から送られてきた書状、そして島津家によって幽閉されている『鍋島直茂』からの書状をそれぞれ片手に持ちながら、人知れずほくそ笑む肥前の熊は輿に担がれながら行軍していた。

 

「直茂は当然として、藤林にもう一人。裏切り者だらけでないか、島津も。難儀な物よな、乱世とは」

「御意に御座りまするな」

 

傍らで馬を操る武将の名は成松信勝。

四天王の一角であり、隆信の側近でもある。

特に軍師役たる鍋島直茂が不在となってからは軍略の方も手掛けるように。筑後平定と筑前西部奪取は彼の功績と呼んでも過言ではなかった。

 

「島津忠棟とて、御庭番衆や家臣から内通者が現れているとは夢にも思いますまい。今回の遠征で薩摩も占領できるやもしれませぬな」

 

島津の本拠地、薩摩国。

以前なら大した旨味など無い土地だった。

今は違う。宝の山に等しい物になっている。

南海航路に於ける最重要の湊、坊津。内城に作られた公家文化を取り入れた先進的な城下町。鉄砲や船を建造する工業の町、谷山。

更に金山すら掘り起こされていると聞いた。

島津家の国力の源。此処を奪えば九州平定は目の前だ。

 

「うむ。直茂の書状には佐敷城が狙い目と書かれておったわ。事前の軍議通り、先ずは有馬家を完膚無きまで潰すとしよう。島津の援軍も同様じゃな」

「肥後の国人衆にも根回しを行なっておりまする故。大隅、肥後と反乱が起こり、日向には大友家の軍勢が雪崩れ込めば万に一つも敗北は御座りますまいな」

「此処まで上手く行くとはのう。直茂の奴め、流石は我が義妹じゃな!」

 

周囲に存在する兵士を安堵させる為に響き渡るような高笑いする隆信であったが、内心では台詞と真逆の感想を抱いていた。

鍋島直茂は危険である、と。

隆信の義妹にして姫武将でありながら、生意気な事に知恵才覚は誰よりも圧倒的に優っている。慇懃な態度の裏に隠された野心、此方の一挙手一投足を見逃さない鷹のような視線、放っておけばいずれ龍造寺隆信を害する存在となるのは必然だと言えた。

 

「消すしかないのう」

「--申し訳ありませぬ。聞き漏らしました」

「気にせずとも良い。独り言じゃ。さて、賑々しく行軍せよ。儂らは無敵ぞ。有馬、島津など我らで押し潰してくれよう!」

 

全てはこの掌の上だ。

島津、有馬、大友、毛利。

全ての動きを操っているのは自分である。

そう己を高めながら、龍造寺隆信は南下していく。

その先に待つ未来を、まだ誰も知らない。

 

 

 

 

◼︎

 

 

 

 

一月九日、午の刻。

臼杵城は俄かに騒然としていた。

龍造寺隆信から送られてきた使者は、年明けの弛緩した空気を吹き飛ばすに値する言葉を言い放ったのだから。

慌ただしく戰支度を進める高橋紹運。

紅の長髪を後頭部で括り上げ、鎧に身を包んだ。

手に持つ槍は血に飢えているかのよう。腰に刺した刀は鯉口を切られるのをひたすらに待っているようであった。

そんな幻覚すら抱く紹運の闘気が充満していた。

待った。待ち続けた。約四ヶ月も我慢した。

 

「…………」

 

道雪を口汚く詰る宗麟。

雷神が聞いて呆れると何度も耳にした。

姫武将など所詮口だけだと嘲笑われた事もある。

死んだ、死んだ、死んだ、死んだ、死んだ。

戸次道雪は死んだのだという流言飛語など聞くに値しない。

高橋紹運は信じている。

義姉の強さも、運の強さも、誇り高さも。

だからわかっている。

まだ戸次道雪が生きている事も。

未だにその身から誇りが失われていない事も。

 

「待っていてください、義姉上」

 

正直な話をしよう。

紹運はキリシタンの国など微塵も興味がなかった。

 

「私が、義姉上の雪辱を晴らします」

 

道雪の汚名を雪ぐ事。

目指すのはこれ一つだけ。

武功は全て義姉上の帰参に使おう。

そして、また二人で大友家を盛り上げていく。

 

「だから済まないな、今士元」

 

今の内に謝っておこうと思う。

戦場で目にした瞬間、理性よりも本能を優先して八つ裂きにするだろうから。

 

「--貴様を殺し、義姉上を取り戻す」

 

 

 

 

 

◼︎

 

 

 

 

 

 

一時の静謐は胡蝶の夢の如く消え去った。

これから起こるは九州全土を覆い尽くす戦乱だ。

それぞれの思惑を胸に突き進む。

 

かくして--各陣営は一斉に動き出した。

 





本日の要点。

1、忠棟「計画通り」

2、元就「計画通り」

3、隆信「計画通り」

4、紹運「忠棟、殺す」

5、新年明けましておめでとうございます!




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四十一話 戸次道雪への告白

 

 

一月十三日、酉の刻。

龍造寺隆信挙兵の報せを受けた俺は即座に5000の兵を率いて内城から出立。国人衆の心象に蔓延るであろう反乱の兆しを断とうと考え、十二日の明朝には隈本城に入った。

有川殿に預けていた6000の兵を合わせれば11000の軍勢となる。島津家の動員できる三分の一を集めた隈本城は、新年早々休む暇もない戦支度によって上から下への大騒ぎとなった。

昼は諸将を集めて軍議を開く。筑後に集結しつつある龍造寺勢に対する策を話し合う傍ら、肥後を訪れる商人たちから兵糧を買い占め、夥しい武器弾薬を集め、その幾つかを肥前と日向に分けたりする仕事に追われる目に。

内城には義久と7000の兵を残し、肥前には数の問題から6000の島津兵を援軍として派遣した。有馬家と合流すれば8000に及ぶ。

後は総大将である島津家久様次第。御庭番衆を数多く肥前に放っているから問題ないと思う。残るは大隅の内通者と大友家の動きぐらいだった。

 

「夜分遅くにすまないな」

 

そして、夜。

人知れず雪さんを臥所に呼んだ。

 

「忠棟殿、まさかとは思いますが……」

「安心して欲しい。無理強いしてまで女を抱く気はない。今宵、此処に呼んだのは雪さんに相談事があるからだ」

 

はぁ、と溜め息を吐く雪さん。

 

「どうした?」

「……お気になさらず。して、相談事とは?」

「ああ。高橋紹運の事で聞きたい事がある」

「成る程、紹運がどうかしましたか?」

 

車椅子を巧みに操り、臥所の奥に近付く。

如何に人払いを済ませていても、車椅子越しに話せば会話は筒抜け。他家の間者および忍の耳に入る可能性が高くなるだけである。

 

「それよりも」

 

俺は雪さんの手を取った。

 

「まあ、忠棟殿?」

「其処では寒いだろうに。火鉢の近くで話そうでないか。遠慮せずに此方へ来てくれ」

 

ゆっくりと身体を動かす。緩慢な動きなのも仕方ない。何しろ雪さんは脚が動かないのだから。

優しく手を握るのも手伝う為だ。決して邪な気持ちを抱いた訳ではない。雪さんは俺にとって御仏に近い存在だ。手を出す事すら恐れ多いのだ。

 

「ありがとうございます、忠棟殿」

「礼など無用だ。こんな夜更けに呼んだのは俺だからな。この程度の配慮は当然であろう。寒くなかったか、雪さん」

「いえ。忠棟殿から呼ばれたと聞いて、卑しくも心身を清め、図らずしも身体を温めておきましたから」

 

雪さんを用意してあった火鉢の前に座らせる。脚を痛まないように配慮するのも忘れない。雷神である『鬼道雪』を怒らせる程、俺は怖いもの知らずではないのである。

 

「--」

 

雪さんの場を紛らわせる冗談に絶句した。

何と答えるべきか。そもそも冗談であるのか。

頭上に疑問符を幾つも浮かべた俺が雪さんらしくない冗談の真意を推測していると、微笑みを携えた雷神様が一転して話を戻した。

 

「さて、紹運の事ですね」

「然り。豊後方面を調べさせている小南から先ほど報告があってな。何でも最近、紹運殿と宗麟殿の間に軋轢が生じているらしいのだ」

 

早口で話すと、雪さんは真剣な表情で頷いた。

 

「紹運と宗麟殿が。理由はわかっていますか?」

「どうも臼杵城内に於いては、戸次道雪は死んだのだと吹聴されているようで。紹運殿が何度諌めても宗麟殿は考えを改めず。日に日に両者の仲は険悪になっていたらしい」

「仕方ありません。宗麟殿にとって、私は死んでいた方が色々と都合も良いのでしょう。事実、多くの者に島津兵に囚われてしまう姿を見られていますからね」

 

高城川の合戦。

大友宗麟は敗北した。

弁解の余地など皆無とすら言える大敗北だ。

大友宗麟自ら総大将として日向国へ攻め込んだ挙句、島津勢によって完膚無きまでに打ちのめされる結果に。約7000もの死者を出し、約8000もの負傷者を生んだ。

当然ながら国人衆から反発を食らった。

筑後と筑前西部を龍造寺隆信に奪われた事も痛かった。大打撃では済まない。本来ならお家が傾く被害である。

大友宗麟を罵る者も少なくなかったと聞く。

日頃から寺社仏閣を足蹴にして、キリシタンを優遇する様は家臣団の反発を招いていた。燻っていた不満はいつ爆発しても不思議ではなかったと言えよう。

九州探題に任ぜられた宗麟にとって恥辱の極みだったに違いない。顔を真っ赤にして地団駄を踏むだけに飽き足らず、島津勢を犬畜生と蔑んだ上、島津忠棟はデウス様に弓引く悪魔であるとも叫んだらしかった。

そんな大友宗麟にとって、雪さんは都合が良かったのだ。敗軍の将として島津に囚われている。生きているか死んでいるかも定かならず。故に敗戦の責任を被せてしまえば、大友家の面目が立つと考えたのである。

目論見は上手くいった。

心ある家臣は諌めたものの、家中随一の弓取りとして讃えられていた雪さんを快く思わない者は数多く、戸次道雪死去の噂は風よりも早く九州全土を駆け巡った。敗北の責任も付与された不名誉な噂であった。

 

「ですが、私と紹運は事あるごとに宗麟殿へ諫言していました。今更その程度で軋轢が生じるとは思えません」

「紹運殿はな、俺を殺すと息巻いているようだ」

「なんと」

 

今度は雪さんが絶句した。

ワナワナと唇を震わせ、目を見開く。

 

「真にございますか?」

「小南の報告が事実ならな。何しろ俺は大友家の衰退を決定付けた大罪人。つまり、この島津忠棟を打ち取った者は勲功者となるわけだ」

「その太功を持って、私を大友家に復帰させる」

「紹運殿はそう考えているらしい。そして、宗麟殿と決定的な食い違いが起きた。雪さんならわかるだろう?」

 

雪さんはコクリと首肯した。

 

「宗麟殿は日向にキリシタンの国を作りたいと考えています。しかし、紹運は肥後にて采配を振るう忠棟殿を討ち取りたいと望んでいるのですね」

「以前の大友家ならいざ知らず、落日を迎えようとしている彼らに万の軍勢を二つも用意するのは至難であろう」

「だから家中が割れていると」

「然り。筑後に集中している肥後勢を横から突き崩すか、龍造寺勢と歩調を合わせるように日向へ南侵するか。大友家は揉めに揉めているそうだ」

 

前者は高橋紹運を筆頭とした武断派の者たち。

後者は大友宗麟を旗頭とした文官派の者たち。

上策としては紹運に軍配が上がると思う。掻き集めた10000の軍勢を動員して高森城を一気呵成に落とし、筑後の兵士たちと連携を密にして島津勢を挟撃すれば勝ち戦となるは必定。例え日向から島津兵が北侵しても堅牢な臼杵城を抜かれる前に取って戻り、補給路を遮断してしまえば新納忠元殿も袋の鼠である。

だが、宗麟は豊後への侵入を殊更に嫌っている。

島津兵の侵入罷りならんと泣き叫び、慌てて高橋紹運を豊後に呼び戻したのは島津の笑い草にまでなっていたりする。

 

「忠棟殿は、宗麟殿に肩入れを?」

「既に忍を放ち、噂を流している。日向に大筒を大量に用意したとな。攻城戦の用意は済んであるとも」

 

大筒の威力を目の当たりにしていなくても、攻城戦の用意をしてあると聞けば、宗麟にとって日向へ南侵するしか選択など無いも同然である。

 

「紹運は如何なりましょうか」

「拙かろうな。逆心の兆し有りと煩く囀る声もあるらしい。宗麟殿も本気のようだ」

「--決戦に負けたからでしょうか」

「可能性としては高い。余裕が無いのだろうな」

「そう、ですか……」

 

鬼道雪は瞳を閉じて熟考する。

日向には8000の島津兵が配置してある。率いるのは新納忠元殿。堅固に改築した懸城ならば後詰が来るまで容易に耐え忍べる筈だ。

如何に武勇の誉れ高い高橋紹運と言えども短期の突破は不可能。キリシタンの国を作ると喧伝する大友宗麟が足を引っ張るだろうからな。

その間に九州全土の戦局は一気に動くだろう。

その為に、肥前には島津家久様を遣わしてある。

 

「雪さん、遠慮するな」

「私は既に忠棟殿から禄を食む身です」

「義理の妹、紹運殿が気に掛かるのだろう?」

「そのようなことは……」

 

答え辛そうだ。

当然か、頷ける訳がない。

高橋紹運は俺を殺すと息巻いている。

戸次道雪を薄暗い座敷に幽閉し、剰え島津兵の慰み者として活用しているのだと勘違いしているらしい。神部小南は御見逸れしましたとか皮肉気に報告したが、そのような嘘偽りに踊らされた者に殺されたいと思う程、俺はこの命を捨てていないぞ。

遂に雪さんは顔を伏せた。

義妹への情、現主君への忠節。

まるで板挟み。握り拳は震えていた。

その手を咄嗟に掴んだ俺は、雪さんを安堵させるように口を開いた。

 

「俺はな、紹運殿も島津家で召抱えたいと思っている」

 

雪さんが顔を上げた。

玲瓏たる美貌は健在である。

長く美しい濡羽烏の髪が首元を伝い、胸によって押し上げられた着物に沿う姿は酷く煽情的であった。

思わず見惚れてしまった。

恐れ多くも『可愛い』と思ってしまった。

 

「貴方を殺そうとしている者ですよ?」

「そう、俺を殺そうとしている。嫌っているのも間違いない。だが、島津家を目の敵にしているとは申していない。召し抱えるのに不都合など無いだろう?」

「しかし--」

「雪さん、俺は貴女を悲しませたくない」

 

だから、と続ける。

 

「どうか紹運殿を説得してくれないか」

「私が、紹運を?」

「文を出せばよい。雪さんの筆跡なら紹運殿も気付く筈。俺と雪さんで交わした大友家の処遇について書いても構わない」

 

他家の武将に近付き、書状を渡すなど御庭番衆なら造作なき事。更に戸次道雪直筆の説得なら、高橋紹運も揺れ動くに違いない。

以前ならば大友家への忠節から即座に破棄するだろう寝返りの書状も、此処まで主君との関係が拗れた今なら心に響くのは当然と言えよう。

 

「そんな--。なら、私はどうやって忠棟殿のご恩に報いればいいのですか」

 

雪さんは俺の腕に縋り付く。

悲し気に目を細め、力なく言の葉を紡いだ。

 

「処断されるべき命を救われ、恥ずかしくも大友家の存続を願い、貴方を仇敵と忌み嫌う義妹すら受け入れようとしてくださる。私に返せるご恩を超えています」

「ご恩と言うなら俺は二度も雪さんに救われている。坊津で、鹿児島で。お互い様だ。そう思わないか?」

「なればこそ。紹運を救って頂ける事で忠棟殿に対するご恩が一つ増えます」

「これから返して下されば良い。そもそも重位の師匠となって頂いた事もそうだが、相談役として日々の政務を手伝ってもらっている。感謝してもし足りないのは俺の方だ」

 

紫紺の双眸から目を離さない。

昨年末から暇を見つけては東郷重位に教授する事もさりながら、数少ない禄で様々なことを雪さんに押し付けているのは俺の方である。

坊津、鹿児島にて二度も押し潰されそうな心を救ってもらった。例え命を救おうとも、大友家の存続を義久に願っても、俺を殺そうと意気込む紹運を召抱えようとも、雪さんに対する感謝の念が消える事は有り得ないのだ。

 

「雪さんは、紹運殿が死んでも良いのか?」

「良くありません。しかし、それは紹運が決めた事ですから」

「意地を張らずともいい、雪さん。俺とて何も慈善から進言している訳ではない。紹運殿は戸次道雪に並び称される名将だ。島津家が天下統一するのに必要な武将の一人と言える。打算目的も多分にある」

 

正直な話、高橋紹運以外なら許していない。

この後、毛利家や織田家とも干戈を交えなければならない日が来る。きっと来る。

天下を統一するとは先ず畿内を手中に治める事は勿論、四国、関東、北陸、奥州など悉く平定しなければならない。後世に名を残す優秀な人材が一人でも必要だ。故に宗麟との軋轢という下らない理由で死なせたくなかった。

 

「……申し訳、ありません」

 

どうやら熱意が伝わったらしい。

雪さんはゆっくりと上体を起こした。

そのまま見つめ合うこと数秒、突然瞠目した。

慌てて乱れた服を正した後、赤面した顔を両手で隠しながら頭を横に振るう。普段冷静な雪さんに有るまじき行動に俺は面食らってしまった。

 

「我を忘れたとは言え、御身に縋るとは……。武将として何とあるまじき行い。ましてや女として何と淫らな行いなのでしょう。どうか、どうか勘違いしないでくださいね、忠棟殿」

 

どうか忘れてくださいと頼み込む雪さん。

雷神と讃えられ、鬼道雪と畏怖される武将という頼もしい一面しか知らなかった。雪さんも一人の女性で有るのだと、愚かしくも俺はようやく気付いた。

何を今更と自分でも思う。

坊津で初めてお会いした時は奴隷商人に腕を掴まれ震えていたのに。鹿児島で再会した時は雨に打たれて雷の音に心底怯えていたのに。

いつの間にか、戸次道雪を神格化していたのかもしれない。彼女は気高く、凛々しく、恋という不確かな物を一蹴する女子だと決めつけていたのかもしれない。

恥ずべき勘違いだろう。

戸次道雪も人の子だ。一人の女でもある。

そんな当たり前な事に俺はようやく辿り着いた。

 

「無論分かっている。今回の件、雪さんに淫らな想いが一欠片もない事は、この忠棟が重々承知している。ご安心召されよ。誰にも言い触らしたりしない」

「--ありがとうございます」

「何か不満が?」

「いえ、そのような事はありません」

 

感謝の言葉に色々と棘が含まれていた気がした。

俺の勘違いか。何年も雪さんを神格化した上、その心中を推し計れなかったのだ。

直ぐに理解できるとは思っていない。

ゆっくりと知っていこう、戸次道雪を。

 

「ならば良いのだが」

 

はい、と断言する雪さん。

既に姿勢を正して、覇気すら取り戻している。

何だか狐に化かされた気分だ。

 

「お言葉に甘えて、紹運に文を書く事とします」

「そうか。よろしく頼む」

「しかし一つ問題がございます」

「問題とは?」

「如何に私からの文だと理解しても、紹運からすれば信じる理由がありません。無理矢理私に書かせた書状だと思う可能性とてあります」

「確かに。対島津包囲網の成された今、大友家を存続させる約定は逆に怪しまれるか」

「その通りです」

「ふむ」

 

雪さんに相談役となってもらった見返り。

流石に弱すぎるか。

如何に鬼道雪を家中に招くためとは言えども、宿敵とも呼べる大友家を存続させる危険性を鑑みれば到底信じられる処遇とは言えなかった。

あの時は雪さんを殺したくなくて必死だった。

相談役に収まったのも妙案だと当時は納得したものの、こう考えると限りある悪手の一つだったのかもしれない。

さて、どうするか。

そもそも紹運と宗麟の仲が険悪になっていなければ問題なかった。龍造寺を潰し、毛利を九州から追い払った後、大友を囲んで殲滅。捕えた紹運は雪さんが説得してくれるというのが筋書きだったんだから。

にも拘らず、大友家は島津包囲網に参加。龍造寺家から贈られた側室である鍋島直茂は、表向きではあるけれど幽閉された事になっている。

そうでもしないと家臣団が納得しなかった。只でさえ龍造寺隆信の唐突な裏切りに家中怒り心頭だからである。

如何に島津家宰相である俺の側室だと言っても関係なかった。

ん、側室……。

そうか、側室か!

 

「雪さん、忠棟に策有り」

「策、ですか?」

「然り。雪さんは嫌かもしれんが」

「拝聴します。問題がある時は、その時に」

 

ズイッと身を乗り出す雪さん。

 

「此度の件、不都合なのは大友家の存続という条件を紹運殿に信じさせる事。又、雪さんが島津家に囚われ、陵辱を受けているという偽りを解く事である」

「はい。私が相談役となったのも紹運なら信じぬでしょう。日頃、大友家以外に仕える気はないと口にしていましたから」

「故に俺は考えた。大友家の処遇を殊の外寛大とし、雪さんの身も清らかなままである。その事を紹運殿に知らしめる方法は一つしかあるまいと」

 

瞬間、何かに気づいたらしい。

雪さんは目を見開き、頬を紅潮させた。

 

「--まさか、忠棟殿?」

「そのまさかだ。俺が貴女に一目惚れ。当初は雪さんも断ったが、大友家の存続と引き換えに承諾したという事にすれば良い」

「しかしそれは……」

 

雪さんの耳元で囁く。

 

「貴女は俺の側室となった。文と共に誓詞も見せれば紹運殿も納得行こう。さすれば二つの疑惑も解ける。どうであろう?」

 

何故か雪さんは耳まで真っ赤である。

左手は畳に添えられ、もう片方は胸に押し当てていた。

 

「私が、忠棟殿の側室?」

「雪さんの美貌ならば紹運殿とて嘘偽りだと断言出来ぬ筈よ。そして、側室を陵辱させる阿呆もいまい」

「忠棟殿の、側室……」

「勿論、今だけ。文の中だけだ。実際に雪さんと会って話せば全て解決する。先ずは紹運殿から信頼を勝ち取らねばならないのだからな」

「一晩。一晩だけ、考えさせてください」

「構わないが、そんなに嫌なら違う策でも--」

 

理解しているのかどうか曖昧に頷きながら、俺の助けを借りて車椅子に乗った雪さんは小姓と共に自室へ戻っていった。

人一人居なくなり、臥所は急に寒くなる。

 

「形式なだけでも嫌なのか、俺の側室って」

 

火鉢の炭を火箸で突きながら俺は少し落胆した。

 





本日の要点。


1、忠棟「雪さん可愛い(可愛い)」


2、道雪「殿に何と謝罪すればいいのか(困惑)」


3、小姓「また女を口説いたのか。こいつヤベーわ(確信)」



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四十二話 松永久秀から注釈

 

 

一月十四日、卯の刻。

九州全土を巻き込んだ戦端が開かれている頃、摂津国に鎮座する飯盛山城で暮らす武将たちは至極平穏な日々を過ごしていた。

無事に謹賀新年は済んだ。

三好領内に於いて数年、大規模な戦が無かったからか百姓も喜び、堺から各地に荷物を運ぶ商人たちの雰囲気もすこぶる良かった。

順調な毎日、不自由のない生活。

万人から諸手を挙げて賞賛されそうな内政手腕を発揮する三好家重臣、松永久秀にとっては苦痛としか思えない暇な日々であった。

 

「はぁ……」

 

思わず口から漏れる溜め息。

与えられた書院にて、久秀は虚空を見つめた。

憂いを帯びた表情は誰しも息を呑む美しさ。

少女のようなあどけなさを残す容貌だが、腰まで届く薄紫色の髪は彼女が大人の女性である事を示している。

起伏の乏しい身体は生まれつき。しかし、妖艶な仕草から放たれる色香は魔性とすら言える程であり、現に三好家中の男たちを多く虜にしていた。

そんな松永久秀だが、誰もいない書院で珍しく想い悩んでいた。

その原因は机の上に置かれた紙である。

筆を持ち、何か書こうとしても、手が動かない。

先程から同じ行動を繰り返す辺り、無自覚な動作であるのは明白だった。

 

「今更、激励なんていうのも久秀らしくないわね」

 

送り先は九州南端。

今日書き終わったとしても、着くのは七日後か八日後だろうか。堺から坊津まで船を用いたとしても掛かる時刻は変わらないと思った。

そもそも激励の文を送ったとしても、薩摩国へ書状が着く頃には九州の戦乱は終わっているかもしれない。

三洲平定、高城川の戦い、肥後国の接収。

いずれも尋常ならざる速さで戦果を挙げている。

あの男は速さを追い求める癖がある。堺での邂逅時にも確信していたが、時間という物に酷く囚われている節があった。

今回は足元を掬われないといいけど。

 

「そもそも文を送る必要性があるのかしら」

 

あの男が戦に負けると思えない。そう思う久秀。

彼との文の遣り取りは数十回に及ぶ。

お互いに相手を利用していることは自明の理。

その殆どは堺と坊津に於ける船舶の往来数や海上事故の取り締まりの強化と云った貿易に関する内容である。それらから垣間見える正体不明の知性に圧倒された時も少なくなかった。

文官派かと思えば、ここ数年で話題に事欠かないような類い稀な武勲すら挙げる始末。きっと今回も勝つのだろう。龍造寺家、大友家、毛利家の連携を打ち崩し、多大な犠牲を払いながらも島津家の飛躍を決定付けるのだと思う。

そんな久秀の確信にへばり付く一つの違和感。

彼の躍進が止まる。止められてしまう。

確証などない。理由などない。ただの勘である。

だが、一応だけど、同じ茶の湯を嗜む同志に対して警戒するように促すのも、二つ歳上である久秀の役目だと言い訳する。

 

「何で薩摩みたいな田舎にいるのかしら、理解に苦しむわね」

 

南の都だと云っても、所詮は二番煎じ。

本物の京と比べたら月とスッポンであろう。

勿論、久秀自身は薩摩国に赴いた事などない。内城下も見た事などなかった。つまり只の空想である。

だが、京を治めている三好家重臣の久秀にとって幾ら急速に発展しようとも薩摩国は片田舎でしかなかった。

もしも島津家が九州を平定した時は、あの男に薩摩国を案内させるのも一興だろう。そして無理難題を言付けて困らせるのだ。

彼の歪んだ表情が眼に浮かぶ。

楽しみだ。すごく楽しみである。

 

「久秀、いるか?」

 

そんな久秀の妄想を断ち切る声が聞こえた。

襖の奥からだ。姿形は詳しく見て取れない。

それでも聞き慣れた声音から誰か判断できる。

 

「はい。久秀なら此処にいますよ、長慶様」

 

入るぞ、と一言告げる女当主。

三好家の家長にして天下人と称される名君。

松永久秀の主君であり、また理解者でもあった。

 

「どうかなさいましたか、長慶様」

「いや、少し気にかかる事があったからな。評定の前に相談しようと思ったんだが、どうやら仕事の邪魔をしたようだな」

 

すまない、と頭を下げる。

君主らしくない仕草に久秀は笑いそうになった。

表情筋に力を込めながら、改めて三好家当主を眺める。

深い菫色に彩られた癖の無い長髪は腰で綺麗に調えられており、前髪も目の高さですっぱりと切り揃えられている。琥珀色の双眸には知性を彷彿させる輝きが燦々と点灯し、白を基調とした着物を見事に着こなした姿は清楚の一言であった。

可愛いと綺麗が調和している。

起伏に富んだ身体は久秀と正反対。

其方を詳しく見ないようにしながら長慶へ身体を向けた。

 

「お気遣いは無用ですよ」

「文のようだが、誰に送るんだ?」

「薩摩国へ。いつものように坊津と堺の事で」

 

目敏く尋ねる長慶に、久秀は涼しげに答えた。

薩摩国へ。つまり南九州の名門に送る文である。

だが、長慶は楽しそうに破顔した。

一輪の花が満開になるような笑みだった。

 

「成る程、忠棟に送るのか」

 

島津忠棟。

齢十九歳の島津家宰相。

日ノ本に轟く今士元である。

そして、長慶と久秀に負けなかった男だ。

 

「彼は今頃戦場でしょう。もしくは隈本城か。いずれにせよ受け取るのは島津歳久殿だと思いますよ、長慶様」

 

内城にて政務を司る文官。

忠棟が全幅の信頼を置く内政の鬼。

 

「貴久殿の三女だったか」

「はい。長女は義久殿、次女は義弘殿、四女は家久殿。四姉妹全員が優秀な姫武将なのですから恐ろしい限りです」

「全くだ。だが、彼女たちのお蔭で恩恵も得ている。今井宗久と知己を得られたのは忠棟と討論していたからだろう?」

 

もう三年前になるのか。

島津家の面々が上洛を果たしたのは。

十四代将軍『足利義栄』に拝謁、公家の方々に挨拶。朝廷への献金を欠かさない島津家は帝の覚えも目出度く、勤皇の志であると時の関白から褒められたぐらいである。

今思えば、この上洛は小手調べだったと思う。

本命は来年か再来年であろう。再び上洛する筈。

何はともあれ、その時は何事もなく京を散策してから帰っていった。しかし、島津義久の筆頭家老であった『伊集院忠棟』は京の散策に興味を示さなかったらしい。

熱心に堺を見て回っていた彼は、女郎蜘蛛のような松永久秀に捕まってしまうものの、運良く傍にいた三好長慶に助けられるという珍事件を起こした。

 

「否定しません。その後に交渉を行ったのはこの松永久秀ですけれど」

「勿論だ。久秀のお蔭で堺から様々な物資を得られるようになった。有り難いよ」

「いえ、長慶様がおられるからこそ堺も協力的なのでしょう」

 

莫大な矢銭、兵糧、武器弾薬。

堺から献上される物資は三好家の血肉となった。

万が一の事態に備えて蓄えられたそれらは、飯盛山城だけでなく芥川山城にも置かれており、更に倉庫の床を潰したという程だから量は推して知るべしと云えよう。

 

「忠棟は元気なのか?」

「元気でしょうね。九州全土を巻き込んだ大戦など彼にしか起こせませんから。張り切り過ぎて骨折り損にならなければよいのですが」

 

そもそも骨折り損で済めば良いと思う。

相手は肥前の熊に九州探題。そして謀神である。

一度に相手すれば如何な智慧者でも苦戦は必至。

忠棟が何処まで食らいつけるか、何処で講和に持っていくのか。それによって今後の西国に於ける大名の動き方も変わっていくだろう。

 

「心配いらないさ、何しろ今士元なのだからな」

 

長慶は言い聞かせるように頷く。

彼女は島津忠棟を殊の外好いている。

異性ではなく、弟のように見えるらしい。

実の弟である『十河一存』は忠棟を毛嫌いしているけれども。何でも薄気味悪いとか。目の奥が濁っているとか散々な言い様だった。

 

「長慶様は本気で信じているのですか、忠棟の仰った事を」

「九州平定が目的というやつか?」

「はい。彼の野心を見くびってはいけないと思います。島津水軍、御庭番衆、朝廷への献金。様々な面から見ても島津家が上洛を目論んでいるのは明らかでしょう」

 

確かに三年前、忠棟は言った。

全ては島津家による九州平定の為だと。

次の瞬間、久秀は内心で嘘だと断じ切った。

彼女には判った。

同族だからだろうか。

双眸の奥に潜む絶対的な野心を見て取れた。

 

「だろうな」

「気づいていたのですね」

「勿論。あれ程の才能だ、天下を狙いたくても仕方ないさ。九州を平定して、毛利も破れば、私たち三好家とも一戦を交える事になるかもしれないだろう」

 

だが、と一拍。

 

「私には久秀がいる。一存もいる。頼りになる家臣だらけだ。島津家にも負けないさ、きっとな」

 

根拠のない台詞だと久秀は嘲笑おうとした。

実際、三年前の彼女なら哄笑していたに違いない。

そうだとしても今は、何故か笑う気になれなかったのだ。

 

「島津家に打ち勝ち、忠棟を直参としますか?」

「そうだな。忠棟が三好家に加われば鬼に金棒だろう。東国の諸大名も一気に降伏させられるに違いない」

 

思い描くは数年後の未来。

北上してきた島津家と相対する三好家。

決戦の果てに勝利した三好家は島津忠棟を家臣とする。

彼と轡を並べて戦場を巡る。

嗚呼、確かに鬼に金棒だろうと思った。

 

「勿論、今はまだまだです。九州も平定しておりませんから。毛利家、尼子家といった有力大名も多数いますもの」

「尼子家と言えば、久秀に伝えるべき事があるんだった」

「先程の相談したい事ですか?」

「そうだ。山陰にて動きがあったぞ」

 

山陰地方は今、過熱状態にある。

昨年末から雪の降る中、毛利元就率いる20000の軍勢が出雲国に接近した。凍てつく寒さを振り払う強行軍であった。

しかし、尼子義久の度肝を抜くことに成功。

何度か干戈を交えた後、現在は小康状態に陥ったと聞いている。何か切っ掛けさえあれば再爆発するだろう火薬庫。それが現在の山陰地方だった。

 

「動き?」

「毛利勢が軍を引いた」

「九州戦線に介入しようという狙いですね」

「私も同意見だ。しかし、問題は此処からだ」

 

何となく察しが付いた。

松永久秀は逃げ惑う百姓兵を思い浮かべた。

 

「尼子勢が毛利勢の背後を突いたのですか?」

「流石だな、久秀」

「それで、結果はどうなりました?」

 

答えを促すと、長慶は肩を竦めた。

 

「毛利勢の完勝だ。伏兵を用いて包囲殲滅。尼子義久殿は逃げたらしいが、小早川隆景による付け込みによって月山富田城も落ちたよ」

「小早川に?」

「元就殿は吉川元春を連れて九州へ。山陰地方は小早川隆景に任せるようだ。彼が本格的に動き始めた。その辺りについても今日の評定で話し合いたいんだ」

「了解しました。私も何がしか策を考えておきますね」

「頼むよ」

 

そう告げて、長慶は書院から立ち去った。

一人残った久秀は瞑目して考える。

先ずは九州戦線。

次に中国地方の覇権争い。

そして、久秀が脅威だと確信する尾張のうつけ。

 

「…………」

 

三好家は今後どのように進むべきか。

九十九髪茄子を片手に考え続けるのだった。

 

 

 

 

 

◼︎

 

 

 

 

 

一月十五日、巳の刻。

大友宗麟の居城である臼杵城は冷え込んでいた。

それは季節感から来る文字通りの意味でもあったが、大友家の現状を揶揄した表現でもあった。

国人衆や百姓兵、浪人すら総動員した結果、臼杵城下に集った兵士は僅か9500。二年前なら50000の軍勢を動かせていた大友家である。約五分の一となった国力を改めて目の当たりにして誰も彼もが言葉を失った。

それでも希望は失われていない。

絶望に浸るのは早すぎる。勝負は此処からだ。

昨日までの紹運ならば、各諸将をそう奮起していた。

 

「義姉上……」

 

彼女の手にあるのは一枚の書状。

一見すると差出人は無く、宛名も見当たらない。

今朝起きたら襖の隙間から部屋に差し込まれていた。怪しい文である。本来なら一瞥する価値もないだろうに。

だが、紹運は恐る恐る文を開いた。

戸次道雪を失った悲しみ、大友家の存亡を一身に背負う重責から判断力が鈍っていたのかもしれない。

綴られていた文字の筆跡は、間違いなく義理の姉が書いた物だと証明していた。

内容を詳しく読む前に高橋紹運は泣き崩れた。

生きていた、生きていた、生きていた。

敬愛する姉は今も何処かで生きている。

嬉しかった。涙が溢れた。嗚咽すら漏れた。

道雪の痕跡を感じ取るように書状を強く握る。

義姉の生存を疑っていた訳ではない。しかし毎日毎日、実の主君から道雪は死んだのだと洗脳のように言い聞かされれば、強固な確信も次第に蝕まれていくは必定である。

紹運は何度も何度も良かったと呟いた。

目尻の涙を拭いながら噛み締めるように続きを読んだ。

 

「これが本当の事なら、私は--」

 

文に記されていた道雪の現状は以下の通り。

高城川の戦いで囚われの身となるも、大友家で女狂いだと唾棄される存在の島津忠棟に一目惚れされたらしい。島津家に仕えよという説得など聞き流していたようだが、決戦に敗北した大友家の衰退は最早不可避であり、このまま行けば主君の家は戦国乱世の習いに従って滅びてしまう。島津忠棟の側室となれば大友家に一万石の禄を与えると提案され、戸次道雪は誇りを投げ捨てて島津家に屈服したのだと。

当然ながら気付いていたが、大友宗麟は紹運に逆心の兆しありと疑っているとの事。今、寝返りすれば大友家の禄を三万石に増やしてもいいと云う内容すら島津義久の名で書されていた。

 

「おのれ、島津忠棟……!」

 

仇敵、島津忠棟を許す事はできない。

大友家の衰退を決定付けたのに飽き足らず、戸次道雪の身体を貪る様は、高橋紹運の脳内でまさしく悪鬼羅刹を思い起こさせるのに足る所業であった。

沸々と湧き上がる怒り、憎しみ、殺意。

それらを飲み下し、島津家の提案を吟味する。

宗麟とは意見の食い違いから軋轢が生じている事はれっきとした事実だ。平然と罵倒される事も少なくない。さりとて、主君の行動を戒めるのは戸次道雪と高橋紹運の役目でもあった。今更変えられない。

明日にでも大友勢は臼杵城を出立するだろう。

決めるならば今日だ。

島津家に寝返るか、乾坤一擲の勝負に賭けるか。

 

「紹運様、殿が評定の間にてお呼びです」

 

紹運の中で天秤が傾いた瞬間。

襖の奥から甲高い小姓の声が聞こえた。

男にしては高すぎる。女にして低すぎる。

初めて聞く声音だが、紹運は相分かったと返事。

書状を胸の内にしまい込んだ。

即座に立ち上がり、襖を開ける。

膝を付いて紹運を出迎えた小姓にご苦労と声を掛けてから、見慣れた臼杵城内にある評定の間へ急いだ。

 

 

 

 

 

半刻後、評定の間にて血飛沫が飛んだ。

 

 

 

 

 

◼︎

 

 

 

 

 

 

一月十五日、未の刻。

肥前南部にて、島津家久は夜空を眺めていた。

張り詰めた冷気は遠慮なく肌を突き刺し続ける。

だが戦を間近に控えた今、寒さなど感じなかった。

先日十六歳になったばかりの姫武将。しかし島津軍6000の総大将として、龍造寺隆信との決戦を任された有数の軍略家である。

既に諸々の準備は済ませた。

決戦の地は島原の北方にある沖田畷。数年前から忠棟と共に決めていた場所だ。もしも龍造寺隆信が大軍と共に南下してきた時、寡兵で地の利を活かすには此処しか無いと二人で話し合った。

有馬晴信と島津家久による連合軍は、着陣すると即座に畷を封鎖するように大木戸を築く。森岳城には柵を造って防備を強化。徹底的に守りを固めた。

 

「敵は三万かぁ」

 

島津家久は白い息を吐き出して呟いた。

龍造寺隆信は緩慢な行軍で、有馬晴信を見限った国人衆を取り込みながら南下している。最終的に35000の大軍に膨れ上がるだろうと推測されていた。

それでも島津家の勝ちは揺るがない。

必勝の策は用意され、英気は充分に養われた。

 

「源ちゃんの期待に応えないとね」

 

敬愛する島津家宰相から褒められる為、悲願である九州平定を成し遂げる為、史実でも『戦国一の釣り師』と名高い島津家久は、初の総大将という大任に屈する事なく龍造寺勢35000を迎え撃つ。

 

その瞳は九州の先、京を見据えていた。

 






本日の要点。

1、久秀「そういえば、忠棟は久秀があげた黄素妙論を実施しているのかしら?」

2、紹運「義姉上を犯した忠棟、殺す(確信)」

3、隆信「つ、釣ら……。釣られ、釣られないクマよー!(願望)」



※黄素妙論--性の指南書。久秀の注釈付き。





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四十三話 毛利元就から布告

 

 

 

一月十六日、申の刻。

隈本城は重苦しい雰囲気に包まれている。

特に島津忠棟の仕事場である書院の間は形容し難い空気によって満たされており、島津義弘の厳命から誰も近づくことの出来ない場所となった。

肥後に展開する御庭番衆も『とある失態』から普段よりも気を引き締めて周囲の人払いを行なっている。

夕暮れから紅く染まる室内にいるのは五名だけ。

包帯を巻かれた状態で休眠している高橋紹運の傍らに座す戸次道雪。火鉢の横に腕組みして瞑目したままの島津忠棟、鎧を纏った状態でいる島津義弘、そして豊後から怪我人を運んできた神部小南である。

 

「よくぞ紹運殿を護ってくれた、小南」

 

普段の軽やかな口調は鳴りを潜めている。

島津忠棟の全身から放たれる無形の圧力は刻々と強さを増していた。

肌を刺す圧力から感じ取れるのは計り知れない怒気と殺気、だけではない。言葉にできない憐れみと不甲斐なさも含まれている。

それら全ては忠棟本人に向けられた物だろう。

横目で家宰を視界に納めた後、義弘も便乗した。

 

「本当、お疲れ様」

「勿体無きお言葉。されど紹運様に傷を負わせてしまいました。我が身の非力さを恥じ入るばかりです」

「如何に北原殿たちのご助力があったとしても、臼杵城から脱出し、此処まで無事に紹運殿を運んだのは其方の機転有っての事ぞ。誇れ。大功よ」

「恐悦至極」

 

小南が恭しく頭を下げた。

昨日の出来事。臼杵城にて大友宗麟、乱心。

高橋紹運を殺害しようとしたのは独断だったらしい。軍議を行なっている最中の事、十数人の屈強な武士たちが評定の間に乱入。迷う素振りすら見せずに高橋紹運へと斬りかかった。

不意の事で対応が遅れたと小南は嘆いていた。しかし彼女だけでなく、他の武将も例外なく驚愕していたようだ。

その様子は演技などに見えなかったとの事。

『北原鎮久』やその子供である『種興』らの助けで死地を脱した紹運は、豊後へ派遣されていた神部小南の手を借りて肥後へ落ち延びた。

延々と追撃してくる兵士。落ち武者狩りに勤しむ近隣の百姓。大友家と異なる動きで追い詰めてくる異色の忍たち。諦めの悪い複数の追手を振り払い、隈本城に辿り着いた彼女たちが血塗れでも五体満足だったのは、紛れもなく地理感に優れた小南の大手柄であった。

遠慮、謙遜も過ぎれば嫌味となる。

反省しつつも、己の果たした役割に誇りを持つ。

御庭番衆に説かれた言葉だ。

実質的な御庭番衆の創設者である忠棟からの教示なのだと三太夫から聞いた義弘は、自分が佐土原城にて政務を取り仕切っている間に起こった御家騒動の名残だろうな、と納得したのを鮮明に覚えている。

不必要な遠慮、行き過ぎた謙遜。

忠棟を苦しませ続けた二つの事柄。

大切な部下に教示するのも当然であろう。

 

「まさか、このような事になろうとは」

 

苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる忠棟。

紹運の手を握り続けたまま、道雪が口を開いた。

 

「やはり、例の小姓が毛利家に情報を?」

「であろう。紹運殿に渡った書状の内容から推察致せば答えなど明白。何しろ雪さんは未だ文を送っていない故な」

 

三日前、紹運に命の危機が迫っていると知った忠棟は深夜に臥所へ道雪を呼んだ。寝返りの書状に於ける内容を打ち合わせたと聞く。

島津義弘としては色々と問い質したい状況なのだけど、その際、部屋の外で座視していた小姓が存在したとの事。

会話の内容は三人しか知らない

忠棟と道雪が白ならば、黒は自ずと判明する。

そして更に、毛利家に情報を流したとされる小姓が偶然にも今朝から姿を消している点も鑑みれば答えは一つであった。

 

「道雪の筆跡と瓜二つで、尚且つ次の日に送られた書状でしょ。元就殿は昔から相応の準備をしていたって事になるよね?」

「御意。そもそも奴は八年も前から島津家に仕えており申す。義久様にも確認した次第」

「八年前から毛利家は島津家に間者を送り込んでいたと。流石、謀神ね。御庭番衆も彼については特定できなかったんでしょ?」

 

忠棟の返事に、義弘は頭を振った。

紹運の持っていた書状は、確かに道雪の筆跡と瓜二つだった。本人も驚いたぐらいである。その精度はまさに推して知るべし。

高橋紹運は騙された。

それ程までに精巧な偽の文だった。

一朝一夕の準備で行える離間工作ではない。

 

「恥ずかしながら」

 

小南が、申し訳ありませぬと謝罪する。

 

「宗麟殿に例の情報を流したのも、小南が見たという忍も毛利のモノでありましょう。隆信殿には紹運殿を殺害する利点が、付け加えれば余裕すらありますまい」

「だろうね。でもさ、源太。毛利家にも紹運を殺す利点があるのかな?」

「情報が足りませぬ故、断定した事は口にできかねますな。一つだけ申し上げるなら、毛利家にとって島津包囲網は茶番でしかなかったと云う事で御座りまする」

「その裏で何かを画策していた、と」

「御意」

「見事に踊らされたね」

「返す言葉もありませぬ。不覚でした」

 

そうだ、と義弘は身を引き締める。

毛利家に踊らされていたのは大友家だけに非ず。

不本意ながら島津家も同様だ。

例の小姓は、高城川の戦いにて虜囚とした戸次道雪を見張る兵士であったと聞く。先の戦で武功を挙げた。島津家宰相から信頼を勝ち取り、小姓に指名される。

何を隠そう今士元すら騙されていた。

御庭番衆が掻き集めた情報によれば、御家騒動の下地になりそうな情報を幾度も周囲に流布していたようである。八年間という膨大な年月ながら誰にも不審に思われず、慎重でありながら大胆に島津家の足を引っ張る行いをやり遂げた。

そんな凄腕の間者が、身を隠してでもやり遂げようとした大友宗麟による高橋紹運の殺害とは、果たして毛利家にどのような利益を齎らすというのだろうか。

 

「雪さんには悪いが、大友家は終わりよな」

「家中を二分した御家騒動。血で血を洗う惨劇になりかねない。でも、豊後を切り崩しやすくなったんじゃないかな?」

 

武断派の筆頭だった高橋紹運が、当主の一存で手打ちされかけた。

長年忠勤に励んだ両翼の一角すら弁明すら聞かずに殺そうとする。日向国に侵攻する直前なのも痛かった。豊前や筑前東部の国人衆が少なからず兵を出したのは、戸次道雪に匹敵すると謳われる名将が副将として指揮してくれると聞いたからである。

糾弾、捕縛、無視、逃亡、帰還。

一夜明けて、大友家中は混乱の極みとなった。

当主を糾弾する者、紹運と関係が深いという謂れで捕縛された者、宗麟の命令を無視する者、末端の兵士たちは逃亡し、国許へ帰還する国人衆すら現れるという始末であった。

既に島津へ降伏の打診を申し出る国人衆もいた。

 

「調略の手は打ってありまする」

「抜け目ないなぁ」

「兵の損害なく大友領を奪取する好機に御座りますれば。懸城の新納殿にも大友領内に侵攻せよと早馬を出してありまする」

 

島津兵の損失を考慮すれば、時間を掛ける事も考えられた。理由は簡単である。時間が経過する分だけ大友家の国力は日に日に激減していくのだから。

しかし忠棟は拙速を尊んだ。

山陰地方を攻めていた毛利元就が突如反転したからである。尼子征伐は小早川隆景に任せ、謀神は吉川元春を連れて九州北部に雪崩れ込むつもりなのだと。

豊後にて毛利勢15000が陣を構えてしまえば万事休す。島津の北伐戦略は音を立てて瓦解してしまうに違いない。

だからこそ新納元忠に北侵を命じた。

 

「忠棟殿、大友家は如何なりましょうや?」

「こうなれば致し方無し。宗麟殿には切腹を、いやキリシタンなら自害出来ぬか。ともあれ殺す他あるまい。家督は嫡男に譲らせるとしよう」

「--承知しました」

「義ねぇに訊かなくてもいいの?」

「義久様から此度の全権を譲られております。問題ありますまい。隠居か、死ぬか。元々二つに一つだったのですから」

 

呆気なく大友家当主の死亡が決定した。

事ここに至っては是非も無し。

道雪も目を伏せるだけで反論もなく承認した。

 

「失礼致しまする」

 

刹那、襖の奥から声がした。

二桁に及ぶ御庭番衆が警戒する書院に近づける輩など彼らの棟梁か。もしくは棟梁に匹敵する凄腕の忍のどちらかである。

 

「藤林か?」

「如何にも」

「入れ」

「御意に御座りまする」

 

音もなく入ってきた長身の男。

手足が異様に長く、存在感は希薄だった。

身に纏う忍装束は黒一色で統一されている。

義弘は初めて見る伊賀流の上忍に対して尋ねた。

 

「肥前で何かあったの?」

「はっ。肥前南部、沖田畷にて合戦がありました由に御座りまする」

「して、どうなった?」

「家久様の策により龍造寺勢は壊滅致しました」

 

大勝利に御座りますると付け加える藤林長門守。

抑揚の無い声に戸惑った義弘だが、次の瞬間には喜びを爆発させた。

 

「家ちゃんが勝ったのね!?」

「はっ。龍造寺勢の名だたる武将を尽く討ち取った由に御座りまする。四天王も然り。また情報が錯綜しておりまするが、龍造寺隆信の首もあるとか」

「よし、よし!」

「流石は家久様よ。三倍の敵を屠ったか」

「忠棟殿、もしも隆信殿が討死なされたのなら最大の好機です。肥前と筑後の国人衆も龍造寺家から離反致しましょう。瞬く間に接収できます」

「然り」

 

道雪の進言に首肯した忠棟。

喜ぶのも束の間、佇んだままの藤林へ口早に命令した。

 

「藤林、肥前に取って返せ。家久様に伝えよ。此度の戦勝、真にめでたき事なり。戦勝の勢いそのまま肥前並びに筑前西部を接収するのが肝要と存ずるとな」

「かしこまりました」

「くれぐれも拙速を尊べとも申し伝えよ」

「御意」

 

御免、と一言。

藤林は足早に去る。

残された書院の間は俄かに活気付いた。

否、沖田畷の合戦にて大勝利した報せは瞬く間に隈本城を駆け巡ったようだ。城全体が歓喜の声で包まれる。

義弘と道雪が声に弾みを持たせて今後の展望を話し合う。

 

「これで龍造寺家も終わりかな?」

「当主が討死されたなら是非もありません。国人衆は尽く離反、抑え付けられていた者たちも島津家に靡くでしょう」

「直茂の謀略通りになったね」

「此処まで巧みに隆信殿を操るとは恐れ入りました」

「忠棟の肝煎りだからね。えげつないよ」

「成る程、納得しました」

「うんうん。--で、源太は何してるの?」

 

険しい顔付きで小南に耳打ちする忠棟。

二度ほど頷いた神部小南は失礼致しますと告げ、至る所に包帯を巻いた痛々しい身体のままで立ち去った。

家宰は火鉢の炭を突く。

視線は崩れる炭だけに向けられている。

 

「嫌な予感が致した故」

「予感?」

「違和感と呼んでも構いませぬ。例え直茂の誘導があったにせよ、大友家凶行の翌日に都合良く龍造寺勢が沖田畷にて敗戦致し申した。果たして全て偶然でありましょうや?」

 

九州全土を巻き込んだ大戦。

しかし蓋を開けてみれば拍子抜け。

一戦にて龍造寺家は壊滅、大友家は自滅した。

勿論、島津家も調略を続けていた。

沖田畷にて龍造寺家を待ち構える戦略も、高橋紹運を島津家に寝返らせるのも、武断派と文官派による争いを増長させたのも忠棟の策略だった。

全て目的を達成したと云える。

だが、過程と結果が予想と僅かに異なっている。

 

「……同時期に島津包囲網が瓦解し始めた?」

「如何にも。片方は御家騒動、もう片方は重臣を失う大敗北。一見、島津包囲網は崩れたと判断できましょうな」

「されど、毛利家だけは何も失っていない」

「大友家の御家騒動に毛利家が加わっていたのは事実。なれば龍造寺隆信の動きに関わっていないと云うのは有り得ますまい」

「元就殿は何を狙ってるの?」

「今一つ、今一つ情報があれば……」

 

眉を顰める島津家宰相。

炭を弄る火箸を止めない。

紹運の寝息、道雪の義妹を撫でる音が木霊する。

島津義弘は徐ろに立ち上がった。

元就の動きを見極めるのは忠棟に任せる。適材適所だ。槍働きに全力を尽くすと決めた義弘は今夜にも出陣する為に、各諸将へ陣触れを通達しようとした矢先の事だった。

 

「大旦那、一大事だ!」

 

百地三太夫が転がり込んだ。

息を荒げ、肩を上下する様は忍らしくない。

真冬にも拘らず汗で濡れた服は異常とも言える様だった。

 

「三太、何があった!?」

「大友宗麟が死んだ」

「いつだ!?」

「二刻前。厠で死んでいたらしい。下手人は見つかっていない。臼杵城は大混乱だよ。国人衆も我先に国許へ帰ってる。収拾はつきそうにない」

「そんな……」

 

道雪が絶句している。

義弘も怒涛の展開に息を呑んだ。

隆信が討死したのは家久の大手柄。何も問題などない。翻って大友家はどうだ。高橋紹運は手打ちされかけ、凶行に及んだ大友宗麟は何者かに暗殺された。

二つの大大名が同じ日に死去した。

九州北部は大混乱である。目も当てられない。

 

「待て、そうか。そういう事か!」

 

忠棟が火箸を投げ捨てた。

三太夫の肩を掴み、目を開いたまま訊いた。

 

「毛利元就は何処にいる!?」

「流石、大旦那。元就の旦那は海峡を渡った。門司城を接収したそうだよ。言い分は島津包囲網が崩壊した今、九州北部の混乱を迅速に終結させる為だと」

「速い、速すぎる!」

 

忌々しげに吐き捨てる忠棟。

 

「義弘様、出陣致しましょう。一刻も早く筑後と豊後を平定しなければなりませぬ。毛利家よりも早く」

「わかった!」

 

正直、義弘に全貌は掴めていない。

宗麟の死去。毛利家の九州上陸。矢継ぎ早に耳へ飛び込んでくる情報が多すぎて、脳が処理しきれていなかった。

けれど、島津家宰相は完全に把握している。

なら問題ない。与えられた指示に従うのみだ。

書院の間から走り去る義弘。

その背中を眺めながら島津忠棟は嘆息した。

 

「狙っていたのはこれか、毛利元就」

「一時的な九州北部の空白地帯を作り上げ、三国同盟を大義名分として即座に占領。そのまま国人衆を纏め上げ、増大した兵力を元に島津家を叩き潰すといった所でしょうか」

「俺も同じ考えよ。紹運殿を殺そうとした理由も理解した。龍造寺隆信を死地に追い込む偽の情報を流していたのも。全てはこの為よな」

「家久様に拙速を尊べと告げたのも、この事態を予測して?」

「いや違う。此処まで周到に計画されているとは思いも寄らなかった。俺の失態よ。謀神を甘く見ておった。最大限の注意を払っておったというのに!」

 

忠棟が舌打ちした。

許されるなら壁も殴り付けたかった。

毛利元就を過小評価していた訳ではない。

むしろ三大名の中で最大限の警戒を払っていた。

だが足りなかった。

後世にて『謀神』と称される戦国一の謀略家が一枚上手だった。それだけ。たったそれだけの事である。

だからこそ島津忠棟は、数秒後に冷静さを取り戻した。

己の未熟から起こった事態だ。

ならば成長すればいいだけの話である。

名誉挽回、汚名返上。

謀神よりも高みに登り詰めれば良いだけだ。

 

「雪さん」

「はい」

「貴女は隈本城に残れ。3000の兵を預ける」

「私も共に参ります。元就殿が相手なら--」

「謀神ならまだ策を弄している筈。元就殿が島津家と正面から戦をすると思えぬ。故に雪さんを残す。何かあれば独断で動け。俺が許可する」

 

肥前から家久率いる6000。

日向から新納率いる9000。

肥後から忠棟率いる8000。

合計23000の兵士で九州北部を攻め取る。

想定通りに事が運べば35000以上の大軍勢となるだろう。対する毛利勢は如何ほどか。例え数で勝っていても油断できない。必ず逆転の手を打ってくるから。故に、戸次道雪を残すと決めた。

 

「……忠棟殿」

 

心配そうに見つめる道雪に、忠棟は言い放った。

 

「俺の背中を任せる。良いな?」

「承知、致しました」

 

嬉しそうに、噛み締めるように。

戸次道雪はゆっくりと頭を下げた。

 

 

 

 




本日の要点。

1、隆信「釣られたクマー(死亡)」

2、宗麟「神の下へ(死亡)」

3、元就「計画通り(確信)」

4、忠棟「謀神やべーわ(驚愕)」





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四十四話 鍋島直茂から好愛

 

 

二月十六日、午の刻。

日に日に激しさを増す寒風。

春の兆しすら見えない極寒の最中。

島津家と毛利家の対陣は三日目となる。

床机に腰掛けた俺の傍らに佇む直茂が呟いた。

 

「動きませんね、元就殿は」

「当然よ。この状況なら俺でも動けぬ」

 

龍造寺隆信と大友宗麟が死去してから一ヶ月。

瞬く間に九州北部の勢力図は一変した。

史実再現と呼べる『沖田畷の戦い』により、龍造寺家に従っていた筑後の有力な国人衆は競って島津家に鞍替え。

毛利か島津か。己に選択肢があるのだと勘違いしていた国人領主たちの立て籠もる城を幾つか落とし、目立った損害もなく僅か二十日で全土を平定した。

肥前に於いても同様である。

鬼島津こと島津義弘様に肉薄する武功を挙げた家久様。戦術の鬼才である彼女に恐れをなした国人衆は一斉に恭順を示した。肥前も三週間という短い期間で平定できたのは、間違いなく鍋島家の協力が大きかった。

 

「兵力、陣構えも互角ならば動くに動けまい」

「先に仕掛けた方が不利になりますね」

「さもありなん」

「新納殿の部隊が参陣できなかった弊害ですか」

「大友家の底力よ。新納殿を責める事はできぬ」

 

唯一の問題は豊後の大友家。

大友宗麟の跡を継いだのは僅か二歳である『大友義統』だった。未だ言葉も話せない若すぎる当主を擁立した豊州三老は懸命に戦う。臼杵城を攻め落とされても、府内館を抜かれても、大友家再興を夢見て頑強に抵抗していた。

勿論、何度も降伏の使者を遣わした。義久の名前が書かれた誓詞血判付き。降伏すれば大友家を一万石で存続させるという内容に嘘偽りなどない。

にも拘らず降伏しないのは、大友宗麟の死去には島津家が深く関わっているという根も葉もない噂が流れているからだ。

下手人は判明済み。十中八九、毛利元就である。

確かに大友家の言い分はわかる。

あの状況で大友宗麟が臨終すれば、最も利益を得るのは島津家だからだ。暗殺という卑劣な手段を講じた島津家を許すな、と存亡の瀬戸際で大友家中が纏まったのは皮肉な話だろう。

当然ながら冤罪を押し付けられるなど御免だ。既に御庭番衆の三分の一を動員、九州全体と畿内を抑えている三好家などに、九州探題を殺害したのは毛利家なのだと真実を流布させている。

それでも島津家憎しで固まった大友家は梃子でも降伏に応じず。今は残り一つとなった拠点、杵築城を新納勢9000に包囲されたまま身動きが取れずにいる。

 

「毛利勢は約28000ですか」

「その内8000は秋月種実の百姓兵だ」

「種実殿は昔、元就殿の庇護を受けていたとか」

「うむ。離間工作は上手くいかぬだろうな」

「困りましたね。付け入る隙が見当たりません」

 

島津家が肥前、筑後、豊後南部を制圧する最中。

毛利元就を総大将とする15000の軍勢は門司城を拠点に周囲へ展開、豊前と筑前の殆どを大した苦労もなく速攻で占領した。

その後、筑前国に建つ秋月城を攻めようとした俺こと島津忠棟へ対応する為に、龍造寺家から独立したばかりの秋月家と同盟を締結。太平山の麓に陣を構えた。

総勢28000にて鶴翼の陣を敷いている。

 

「直茂でも不可能か?」

「秋月城を落としていれば話は変わりますが、現時点だと無理でしょう。元就殿自ら采配を振るっているのです。種実殿も大抵の不平不満は我慢すると思いますよ」

「であるか」

 

対して島津勢は久留米城から甘木へと進軍。

肥前を制圧した家久様も参陣なさったお蔭で、筑後の国人衆も含めれば約29000にまで膨れ上がった島津軍は、毛利勢と僅か一里の距離に本陣を設けた。

周囲は平地。利用できる山も特に見当たらない。

兵力は五分五分。千の差など些細な物だ。

陣構えは共に鶴翼。共に武将の質に自信があるからだ。

島津勢の有利な点は一つある。

時間を気にしなくて良いことだ。

新納隊が杵築城を攻め落とし、約9000の軍勢によって側面から毛利勢に強襲させれば勝利は必定。大混乱になる。総大将の首すら穫れるかもしれない。

 

「此処は我慢だな」

「無論、調略の手は止めぬ事です」

「承知しておる。時間を無駄にするものか」

「私も出来る限りの策を講じるとしましょう」

 

淡々と会話を続ける俺と直茂。

人払いは済ませてある。

小姓すら傍に置いていない。

本陣として据えている光明寺の周辺には、島津兵7000が配置されている。寒さを凌ぐように身を寄せ合い、決戦に備えて手槍を扱いていた。

 

「良いのか、直茂」

 

いつになくやる気な鍋島直茂。

三ヶ月以上、地下に幽閉されていたと思えない艶やかさ。誰しも息を呑む美しい顔立ちは一片も損なわれていなかった恐るべき女性である。

龍造寺隆信が討死。かつての主家が零落したからこそ側室に復帰できた。肥前にて、龍造寺家の代わりとして鍋島家が台頭したのは決して偶然ではない。全ては一人の謀略家による策略だった。

 

「話が見えませぬが?」

「嘘吐け。俺とお前の約定についてぞ」

「無事果たされましたが、何か問題でも?」

「確かに無事終わった。隆信は死去、龍造寺家は没落。鍋島家を抑えつけるモノはおらぬ。お前も自由よ」

 

鍋島直茂には野心があった。

否--ある日を境に野心が芽生えたと言い換えるべきか。唐突でなく、偶然でもなく、ある種当たり前な反骨心だった。

龍造寺隆信の視線に不審、不満、不純なモノが入り混じった時。即ち八年前のこと。直茂が十二歳となり、元服した時から二人の不仲は始まっていたのだから。

直茂一人に向く敵意なら我慢できたらしい。けれど、龍造寺隆信が鍋島家そのものを取り潰そうとしていると確信した日から計画は始動していた。

だから俺に嫁いだ。

島津家の力を借りて、龍造寺家を潰す為に。

もしくは島津と龍造寺を共倒れさせ、鍋島家が漁夫の利を得る。そして間隙を縫う形で九州の覇権を握る為に。

相良家討伐の際、従軍を申請したのも島津家の力を計る事が最重要目的だったと直茂は語った。島津家の有する国力、武将の質、練度の高さが想像以上だった故、前者の計画を影ながら推し進めたのだと。

結果、策は成った。

鍋島直茂の謀略は完成を見た。

俺の側室であれば鍋島家は安泰である。だが、例え側室に留まらずとも、島津家が鍋島家を蔑ろにする事は考え難いとわかっているはずだ。

 

「私の代わりに道雪殿を側室に?」

「阿呆」

「はい。直茂は阿呆です。貴方様の口から聞かないと分かりません」

 

手放さないと誓った。

直茂も俺の妻であるのだから。

それでも嫌がる女を抱きたくない。

束縛もしたくなかった。

直茂は万能である。武将として大成している。

側室という場に留まってしまうよりも、主家を失ったばかりの鍋島家を盛り立てる地位にいた方が世の為人の為だと思った。

そんな俺の考えぐらい読み取っているだろうに。

思わず舌打ちした。ぶっきらぼうに吐き捨てる。

 

「女狐め。……わざわざ内城から前線に駆け付ける必要など無かったのだぞ。まして側室に拘る意味もなかろう」

「旦那様を愛しているから。元就殿の策に嵌められた旦那様を心配したからですよ」

「巫山戯るな」

「巫山戯ておりません」

 

横目で睨み付けると、直茂も低い声音で返した。

 

「事実です。私は、旦那様を愛してしまった」

 

ふぅと一息。

 

「私の予定にありませんでした。旦那様を利用する。鍋島家を残す。そして生き残る。この中に島津忠棟を愛する必要などないのに、いつの間にか私は旦那様をいつも目で追っていました。夜伽の最中も、口吸いをする時も、共に食事を取る時もです」

 

突然始まった告白に俺は固まった。

嬉しくないと言えば嘘になる。むしろ嬉しい。

鍋島直茂は美女だ。

胸は小さいものの、丸まった尻は安産型である。

けれども無表情なのだ。

紅潮せず、身じろぎせず、言葉を紡いでいく。

 

「勿論、私は心の底に隠しました。愛という衝動から計画を狂わせない為に。奥方様と楽しく笑うお姿。歳久様と仲睦まじく政務を為さるお姿。東郷殿と共に視察へ赴くお姿。家久殿と将棋を打つお姿。それら全てに狂いそうな嫉妬の念を浮かべながら、私は何食わぬ顔で旦那様と接していました」

 

光明寺の外は雪が降りそうな天気だ。

恐らく日本列島を寒気が覆っているのだろう。

にも拘らず、俺の額から汗が伝った。

背筋が震える。

あれ、もう合戦が始まってしまったのかな?

 

「壊れそうでした。張り裂けそうでした。でも私は計画を優先しました。龍造寺家を排する事を先決としました。そして今、私を阻むモノはありません。我慢する必要など無くなりました。だから奥方様に無理を言って、内城から馳せ参じたのです」

 

俺の肩に手を置く直茂。

冷たい。鎧の上からも伝わる。

冬だからか、それとも俺の感覚がおかしいのか。

 

「そう、か」

 

絞り出すように零す。

直茂は平然とした表情で頷いた。

 

「元就殿に遺恨があるのも真です。私も謀神に踊らされていた一人。このまま手の平で踊り続けるのを許容できるほど、私は大人ではありませんから」

 

やられたらやり返す。

言外に謀神へ宣戦布告した鍋島直茂。

この時だけは謀神に同情した俺であった。

 

 

 

 

 

◼︎

 

 

 

 

 

二月十六日、午の刻。

島津忠棟が不器用な告白を受けている中、毛利と秋月による連合軍の本陣は異様な静けさに包まれていた。

毛利元就は床机に腰掛けたまま瞑目。吉川元春も父親の意向を受けて沈黙を保ったまま。毛利家臣である宍戸隆家、吉見正頼、口羽通良も須らく口を開かず、主君の顔色を横目で伺うのみだった。

秋月城の城主にして筑前南部と豊前南部を所領とした秋月種実は、一刻も早い島津家への攻撃を声高に叫ぶ。

 

「元就殿、何を迷っておられるのか。布陣して早くも七日、太平山に展開してからの元就殿の動きは緩慢そのもの。時間が経つに連れ、島津家は戦力を増強させていきましょうぞ!」

「わかっておる」

「ならば何故に御座るか。成る程、島津包囲網を隠れ蓑として、九州北部を瞬く間に占領するという策には、某も感服致し申した。故に毛利家と同盟を組んでおりまする。しかし、今此処で島津家を打ち破らねば、その鬼謀も全て無駄になってしまいまするぞ!」

 

種実の言う通りだった。

毛利元就は太平山に布陣してから特に目立った動きを見せずにいる。至る所に書状を送り、本国である安芸国から大量の兵糧や武器弾薬を運ばせるだけ。まるで何かを待っているような緩慢とした動きだった。

吉川元春は父親を信じている。

一戦もせずに門司と博多を手中に収めた謀略は思わず背筋を震わせた。そして、島津家との緩衝地帯として秋月種実を利用しているのだと聞かされた時は、実の父親ながら悪辣だなと素直に思ってしまった。

 

「ならば、其方はどうしたい?」

「申すまでもなく決戦に御座る。大友家を攻めている新納忠元が筑前に向かってくる前に、眼前の島津勢を叩き潰すことこそ上策でありましょう」

「手段は?」

「精強な毛利軍と我ら秋月の兵士が間断なく攻めかかれば問題あるまい。島津勢の精強さは知っておるが、奴らは連戦によって疲弊しきっておりまする。国許へ帰りたいと嘆く将兵も多いと思いませぬか?」

 

兵力は互角である。

陣構えも共に鶴翼の陣。

だが、武将の質はどうだろうか。

島津勢には鬼島津の異名を持つ島津義弘を筆頭として、僅か一合戦にて龍造寺家を壊滅させた島津家久、阿蘇家の重臣であった甲斐宗運、高城川の戦いで大友家の戦意を砕いた川上久朗など他国に轟く武士が軒並み揃っている。

そして軍配を振るうのは今士元こと島津忠棟。

毛利勢も負けていない。武将の質なら互角だと思う。元就に関しては他の追随を許さない合戦の経験があるのだ。今士元など恐れるに足らない。

問題は秋月勢だろうか。武功を欲しがっている。

巨大過ぎる同盟者。独立したばかりの小勢力が生き残るには、何としても周囲に侮られない武が必要となる。だから功を求めるのだ。

 

「一理ある」

「ならば、元就殿--!」

「しかし性急に過ぎる。落ち着け、種実殿」

 

立ち上がろうとした種実を、視線だけで制する元就。

 

「儂とて現状を理解しておる。島津の今士元、噂に違わぬ速攻ぶりよな。儂の想定よりも十日早く筑後を平定するとは。何と将来有望な若人じゃ」

「何を呑気な……」

「お主の考えに二つ間違いがある」

「間違い?」

「一つは島津勢の精強さよ。奴らは百姓兵と違うもの。島津家の莫大な金銭によって雇われた者たちも数多くおる。国許へ帰りたいと云う感情も宛にならぬ。奴らは陣中の兵たちに金銭を大盤振る舞いしておるようじゃ。士気は高い」

 

そして、と続ける。

 

「戦とは戦わずして勝つのが最上。儂は門司と博多を手に入れた。お主は龍造寺家から独立した。目的は既に果たされておる」

 

種実は目を見開いた。

 

「もしや一戦も交えず退かれるご所存か!」

「さにあらず。事ここに及べば是非もなし。島津勢と一戦交えねばならぬと理解しておる。心配なさるな。但し、よ。闇雲に突撃し、民百姓を無闇に殺すことは許さぬ」

 

合戦にて決着を付けるのは簡単である。

力関係を遍く世間に知らしめ、敗者を見せしめにできるから。この上なく便利であり、そしてこの上なく下策でもあるのだと吉川元春は父親から教わった。

無闇矢鱈に合戦を行ってはならない。

戦略目的を見極め、退くべき時は躊躇いなく退く。

謀略で済むならそれに越したことなく、一兵も損なわずに勢力を拡大できたら最上であるのだと耳にタコができるほど聞かされていた。

 

「されど時間をかければ島津に有利となりましょう!」

「然り。海から大友家を支援しているが、このままでは遠からず杵築城も落ちよう。親指武蔵なら間違いあるまい。そうなる前に島津勢を甘木から追い出さなくてはならぬ」

「ならば号令を!」

「慌てるな、種実殿。儂の策は始まっておる」

「策、で御座るか?」

「後手に回るつもりは御座らん。此度の遠征、最後まで我ら毛利家が先手を握るつもりよ。島津家を散々に引っ掻き回す所存なれば、種実殿は今暫く辛抱するが肝要で御座ろうな」

「実、で御座りまするな?」

「味方に嘘偽りは申さぬ。安心召されよ」

「ならば御免!」

 

不満げに本陣から立ち去る秋月種実。

騒々しい足音が聞こえなくなるまで我慢した吉川元春は、やれやれと肩を竦める父親に向かって問いかけた。

 

「種実殿に策の内容を伝えなくていいの?」

「必要あるまい」

「寝返らないかな?」

「種実にそのような度胸はない。放っておけ」

 

元就は腕を組み、吐き捨てる。

同盟相手だとしても容赦のない人物評価だった。

 

「辛辣だなぁ。宍戸はどう思う?」

「殿と同じ意見に御座りまする。種実殿は毛利家の庇護無くして生き残れませぬ故、例え不満があろうとも勝手な真似はしないでしょうな」

 

名目上、同盟相手となっている。

だが実質的な国力差から主従関係に近い。

西国の覇者を決める一戦。

それに参加させられる秋月家。

果たして幸福なのか、不幸なのか。

 

「目を向けるべきは島津よ。吉見、首尾は?」

「はっ。御庭番衆が西国全土で不審な動きを見せておりまする。特に畿内では怪しげな動きもあるとか。長宗我部に何度も文を送っているようで」

「対毛利包囲網でも作る気ですかな、島津は」

「口羽殿の仰られる通り、土佐統一間近の長宗我部と三好家を巻き込んだ毛利包囲網が作られるやもしれませんな」

 

宍戸隆家の言葉に、元就が首肯した。

 

「儂の意趣返しか、面白い」

 

哄笑したのも僅か数秒だった。

毛利家が保有する忍衆、世鬼一族。

その棟梁を呼び付けて小声で耳打ちした。

 

「承知致しました」

「励めよ、政親」

「はっ」

「それとな。主の次男坊に伝えよ。八年に及ぶ島津家への潜入、大儀であったとな」

「勿体無き御言葉。しかとお伝え致しまする」

「であるか。ならば疾く行け」

「御意」

 

一陣の風と共に消えた世鬼政親。

毛利家の施した策は既に始まっている。

島津家は果たしてどういう手を打つのか。

今士元と持ち上げられている島津家宰相は太刀打ちできるのか。吉川元春は胸の内に渦巻く高揚した戦意を漏らさないようにしながら来たるべき時を待つことにした。






本日の要点。

1、直茂「好き好き好き好き好き好き(激重)」

2、忠棟「直茂怖い(確信)」

3、元就「今士元、中々やりおる(歓喜)」






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四十五話 秋月種実への誤算

 

 

二月十七日、辰の刻。

昨夜から続く曇天は明け方から凍雨へ変わった。

寒いのは嫌いだ。戦国時代に産まれてから雨も嫌いになった。火縄銃が例外なく使い物にならなくなってしまうからである。

谷山にて造られた最新鋭の鉄砲。即ち『薩摩筒』を濡らさないように全軍へ指示を出す。又、毛利勢が音を搔き消す雨を利用して、突如奇襲してくるかもしれない。各武将に伝令を送った。

筑後川の増大にも気をつけよと下知。もしも川が氾濫でもしてしまえば万事休す。幸いにも大雨に成りそうな気配はないから、要らない心配かもしれないけど一応念の為である。

 

「申し上げます」

 

取次ぎの者が伺候したのは、床机を据えている光明寺にて絶え間なく指示を出し終えた直後の事であった。

 

「鍋島信房殿が目通りを願っておりまする」

「信房殿が?」

「はっ。手勢2000を率いておりますれば、光明寺前にてお待ちになられておりまする。如何なりまするか?」

「何をしておる。すぐに御通しいたせ。無論、鄭重にな」

「御意」

「それとな。直茂も此処へ連れて参れ」

「かしこまりました」

 

取次ぎの者は一礼した後、足早に立ち去る。

幾許もしない内に三十代前半と思しき武将が案内されてきた。目許が直茂に似ている。端正な顔立ちはさぞかし世の女性の瞳を釘付きにする事だろう。

上座に腰掛けている俺に対して、直茂の兄は凛々しい容貌を崩さず、綺麗な姿勢を保ったまま下座にて胡座を掻いた。流れるような動作で頭を下げる。

 

「お初に御目に掛かりまする。直茂が兄、鍋島信房に御座ります。ご尊顔を拝し恐悦至極に存じ上げ奉りまする」

「島津掃部助忠棟に御座る」

「以後、ご昵懇を」

「此方こそ。良くぞ参られたな、信房殿」

 

既に俺の背後には直茂が控えている。

何しろ実の兄妹だ。久し振りの再会である。

積もる話もあるだろうと思ったのだが、お互いに視線を交わすだけで言葉を紡ごうとしない。沈黙が続く。

居たたまれなくなった俺は口火を切った。

 

「して今日は如何なされた、信房殿」

「はっ。甘木への参陣が遅れました事、深くお詫び申し上げまする」

「お気になさるな。鍋島家は肥前にて領地を与えられたばかり。毛利との戦に参陣為さらずとも良いと書状にも記しておいた筈だが?」

「仰ることはご尤もなれど、主家の危機に馳せ参じない家臣はおりますまい。故に遅ればせながら甘木に馳せ参じた次第に御座りまする」

 

鍋島家には肥前にて十万石を与えた。

過大な報酬かもしれないが、竜造寺隆信を沖田畷に誘い出せたのは直茂のお蔭だと云えよう。更に竜造寺家の情報を藤林長門守に逐一教えていたのは鍋島信房であった。

竜造寺隆信討伐に貢献した功績を持って、肥前西部に所領を持たせた。今年一年は領地経営に尽力しても良いと伝えておいたんだけどな。

 

「手勢を2000も率いてか?」

「御意。是非とも島津家の恩顧に報いるべく」

「有難き事よな」

「十万石を受け賜わりし事、槍働きにてご奉公致しまする」

 

現時点で島津家は約二百万石を有している。あくまでも史実で行われた太閤検地で計算した場合だけど。串木野金山などを含めれば二百万石を超しているだろう。

だが、これは目安の一種。

平定したばかりである三つの国は未だ混乱が収まっていない。正確な国力が判明するのは今年末か来年未明と云った所だと推察する。

--何はともあれ。

鍋島信房殿は真剣な面持ちで宣言した。

意気や良し。直茂の兄だからか、才気に満ちた顔だと思った。

 

「信房殿のお覚悟、しかと受け取った。ならばこそ問い申す。島津と毛利の対陣、どのように見受けられる?」

「有り体に申し上げますれば、互角であると愚考致しまする。先に痺れを切らした方が不利となりましょうな」

「某も同じ見解よ。此処は我慢比べ。幸いにして時間は味方である故な」

 

現在、三家に使者を遣わしている。

西から長宗我部、尼子、三好である。

長宗我部元親には二年前から接触していた。物資を提供するのは勿論、昨年度末には一時的だけど島津水軍の一部を貸し与えもした。全ては早期に土佐を統一させ、伊予を治める河野家へ攻め込ませる為だ。

尼子に関しても同じ事。冬の日本海という荒波の中、小早川隆景を足留めさせる為だけに様々な物資を送り続けている。悲しい事実だが、出雲国を失ってしまった尼子義久に挽回の余地はない。それでも尼子家が山陰地方に存在するだけで、小早川隆景という智将を釘付けにできる。

三好家としても毛利家がこれ以上膨張するのを見過ごせない筈だ。既に中国地方に敵はおらず、この上、九州の覇権すらも毛利元就が握れば次に向かう先は畿内しか無い。一気呵成に雪崩れ込まれれば苦戦は必至だろう。

この三家と同盟を締結。然るのち反撃に出る。

これ以外にも様々な策は練ってあるが、毛利元就の出方が定かにならない以上、闇雲に軍勢を割くわけにいかなかった。

 

「卒爾ながら言上仕ります」

 

ふと信房が告げる。

 

「申せ」

「秋月種実殿とは龍造寺家にお仕え致しておりました時、幾度か言葉を交わしたことのあるお方に御座りますれば」

「ほう。人となりを知っておるのだな?」

「御明察。種実殿の気性なれば早晩にでも奇襲を仕掛けてくるは必定。直ぐにお退きになられるでしょうが、お味方の被害を大きくなりますれば全軍の士気にも関わりましょうぞ」

 

毛利家と秋月家の同盟。

その実、国力差から主従に近い関係性だ。

例え島津を撃退せしめたとしても、体良く毛利家に使われれば竜造寺隆信に臣従していた時と何ら変わりない。

鍋島信房曰く、種実が今後侮られないような武功を求めるのは当然の帰結。今夜にでも奇襲を仕掛けてくると予測されるから、事前に伏兵を忍ばせておいて秋月勢に大打撃を与えるべきだと進言した。

成る程、一理ある。

今夜まで雨が降り続ける可能性も高い。

銃が使えない中、我武者羅な奇襲を受ければ少なくない損害を被るかもしれない。神算鬼謀な毛利元就を前に、兵を少しでも損なうのは痛すぎる。

 

「信房殿の慧眼、感服致した。今日の軍議にて取り扱う事と致す。勿論、信房殿も参加なされるが宜しかろう」

「有り難きお言葉」

 

深々と頭を下げる信房殿。

全身から放たれる焦燥に俺は気づいた。

秋月種実と同様、信房殿も焦っているのだろう。

如何に内通していたと云えども、鍋島家が主家である竜造寺家を裏切った事に変わりない。島津譜代の家臣から受けるであろう蔑みの印象を、此度の合戦にて活躍して払拭したいのだ。

ある程度、武功を立てさせるべきか。

幾度か情報のやり取りを行い、俺は信房殿を部屋から下げた。

 

「如何でしたか、私の兄は」

 

今まで一言も口を開かなかった直茂が問うた。

俺は苦笑いを浮かべながら、率直に応える事にする。

 

「お前と似ておるな」

「はて?」

「人を利用して、己の苦境を払おうとする様だ」

「兄の心境を正確に読まれましたね」

「お前と比べれば分かりやすかった故な」

「まだまだですね、兄は」

「お前から見れば殆どの輩がそうであろうよ」

 

久し振りに大笑する。

やはり直茂との会話は面白い。

打てば響くように返事が帰ってくる。

 

「楽しそうだよなぁ、大旦那は」

 

何処からともなく現れた一つの影。

周囲の小姓に気取られず、音もなく跪いた。

 

「三太か。ご苦労であった」

「山陰、畿内、四国、九州を走り回ったからね」

「後で禄を与える。好きな事に使え」

「報酬は上乗せで!」

「仕事の内容によるな」

「了解。じゃあ、報告するよ」

 

一拍。

 

「尼子だけど、そろそろ終わる。三日前に因幡国が毛利に鞍替えした。尻馬にでも乗るつもりなのか備中東部も毛利に降伏。備前では宇喜多家が暴れてる」

「残すは伯耆と美作のみか」

 

出雲、因幡、備前、備中東部を瞬く間に失ってしまうとは。毛利元就を褒めるべきか、小早川隆景の智謀を恐れるべきか。

左右から毛利勢、南から宇喜多勢。

抑えられないだろう。尼子家の命運は尽きたな。

 

「崩れる時は一瞬ですね」

 

直茂が抑揚も付けずに言った。

 

「直女将さんの言う通り。尼子の分裂が予想以上に早い。畿内でも驚く声が多数だ。三好家の反応も毛利脅威論一色。そうなる為に情報を誇張して広めたけど」

「久秀殿なら見破っておろう。さりとて脅威に変わりない。島津の申し出に応えてくれればよいがな」

 

松永久秀。戦国の爆弾魔。

三好長慶と並んで美少女になっていた。

今更指摘は野暮なのだと自らを納得させる。

女郎蜘蛛のような搦め手と視線。出会った時から絶えず送られてくる粘着質な文から、この戦国時代でも信長に謀反を繰り返すんだろうなと妙に予想できた。

 

「長宗我部は土佐を統一したよ」

 

おお。

朗報だ。

四国は幸先が良いな。

 

「早いな。一条兼定はどうした?」

「伊予に逃げた。家臣に追われてね」

「当然、元親殿は兼定をわざと逃したな?」

「だと思うよ。これで伊予国を攻める大義名分が出来たわけだしさ」

 

十四年早い土佐統一を成し遂げた長宗我部元親。

未だ若い当主ながらも史実に於ける『土佐の出来人』である。一条兼定など鎧袖一触であっただろう。

姫武将に幾度も敗れた事から乱心が目立ち、一条本家とも疎遠になり始めたのだから、近い内に土佐を追われる事は明白だった。

 

「長宗我部は順調だとしても、尼子の残党を匿う必要がある。御庭番衆は既に伯耆へ潜入しておろうな?」

「問題ないよ。世鬼一族が嗅ぎ回ってるけど何とかなる」

「頼もしい言葉よ。決して尼子義久殿を死なせるでないぞ。泥を啜りながらでも乱世を生き残らせる必要がある」

 

尼子家再興の為に生き残らせる。

勿論、慈善事業ではない。

今回の一戦だけでは毛利家を崩す事は不可能。改めて再戦する必要がある。その時に尼子の名前は大きな武器に変貌するだろう。

 

「万事御意のままに。それとね、少し気になることがあるんだけど」

「申してみよ」

「土佐と伯耆に送っている船があるでしょ。順調に運送されてるんだよ。順調過ぎて怖いぐらいでさ。気にしすぎだと思うんだけど」

「…………」

 

瞬間、元就殿の不敵な笑みが脳裏を過ぎった。

 

「三太、義久様と雪さんに報せたか?」

「小南が隈本城と内城に走ってると思うけど」

「であるか。三太、お前も南に走れ」

「え?」

「嫌そうな顔をするでない。それより耳を貸せ」

 

側に寄った三太夫に小声で耳打ちした。

考え過ぎかもしれない。

下手すれば全滅の大博打だ。

だが、成功する可能性は充分に存在する。

一刻も早く長宗我部、三好と同盟を結ぶ必要性が出てきた。安国寺恵瓊に邪魔立てされていなければよいが。

 

 

 

 

 

◼︎

 

 

 

 

 

二月十八日、巳の刻。

出雲国を平定した小早川隆景率いる13000の軍勢は猛吹雪に遭い、自然には敵わないと達観して今日から予定していた伯耆攻めを中止した。

因幡にて決起した反尼子勢も足止めを食らっている事だろう。備前を縦横無尽に駆け回る宇喜多勢は日に日に尼子家の占領地域を暴食していく。

 

「既に尼子家は貪られるだけの存在。宇喜多勢に美作を奪われる前に、何としても伯耆を平定しなければ」

 

流石は名門、尼子家。

出雲を失っても頑固に抵抗を続けている。

だが、内側の結束を崩す算段は幾らでもあった。

吹雪が止めば伯耆に攻め込む。

一ヶ月も調略に時間を掛けた。成果は上々だ。

一息にて尼子家を潰してくれると鼻息を粗くする隆景だった。

 

「隆景様」

 

吹き荒れる吹雪を見上げていると、唐突に背後から名前を呼ばれた。

気配は皆無。近付いた音すら絶無。

凄腕の忍だと判断した。

何しろ意図的に声も変えている節も見受けられた。

 

「何奴?」

「世鬼政親に御座りまする」

「わざわざ怪しまれることをしないように」

「これが忍の性でありまする故。平にご容赦を」

「それで、何かありましたか?」

「はっ。昨夜未明、甘木にて小競り合いが発生した模様。島津、毛利共に二百ほどの死傷者を出した由に御座りまする」

 

報告を耳にした隆景は目を閉じた。

毛利元就が着手するであろう策を考える。

今回の小競り合いは、恐らく士気の低下を嫌ったもの。若しくは同盟を結んだばかりの秋月種実が武功を欲しがって突出してしまったのか。

島津兵は精強である。

一筋縄で崩せないと知っている。

だが、毛利元就が軍配を振るっていても尚、毛利勢に二百ほどの損害を与えるとは。島津勢恐るべしと云えた。

 

「状況の変化は?」

「特にありませぬ。島津勢は光明寺にまで退きました。殿も太平山の麓に陣を構えたまま。依然として膠着状態が続くと思われまする」

 

隆景は得心がいったように首を縦に振った。

 

「一戦にて打ち破れませんか。となれば、前々から進めていた策を実行するしかありませんね」

「はっ。その事について、殿から変更が御座りまする」

「変更?」

「御意。九州戦線の勝敗は隆景様の手に委ねられたも同然でありましょう」

 

 

 

 

 

◼︎

 

 

 

 

 

二月十八日、申の刻。

軍議の呼集から一刻が経過した。

毛利と秋月両家の家臣たちは揃って一堂に会したが、秋月種実だけは姿を現さなかった。否、昨夜未明に起きた戦闘で受けた傷が芳しくなく、軍議への臨席を控えざるを得なかったのが正解と云えよう。

元々力関係から、毛利勢の発言力が大きかった。

だが、秋月種実が軍議に参加できない現状、天秤模様は一気に傾く。毛利家が主導権を握るように全軍の方針を固められ、秋月家はそれに従わざるを得なくなった。

 

「秋月家の皆々様、昨夜の強襲で理解致しましたな。島津勢を打ち負かすには一筋縄でいかぬ。鉄砲が使えずとも彼らは精強。弱卒などと夢にも思い為さるな」

 

宍戸隆家の発言に、秋月家臣は力なく項垂れる。

何を隠そう、昨夜未明に行われた島津軍への夜襲は秋月家独断による物。仕掛ける直前になってから毛利家に通達するという有様だった。

理由は三つある。

一つは島津軍との兵力差が3000に増えたから。

一つは雨のお蔭で鉄砲が使い物にならなくなるから。

一つは先日の軍議で毛利元就から小馬鹿にされたから。

逸りに逸って突出してしまう。

夜襲を読んでいた島津の伏兵に逆襲され、秋月種実は腕と脚に負傷。痛みから馬からも転がり落ちてしまい、最早此処までかとなった時、吉川元春の救援によって一命を取り留める事に成功した。

 

「殿、島津勢は甘木に退きましたが」

「構わぬ。奴らも昨夜の奇襲は小競り合いだと認識していよう。警戒を怠らず、常に監視の目を光らせておけばよい」

「御意」

 

吉見正頼が恭しく頭を下げた。

既に秋月家へ意見を聞く事もない。

淡々と軍議が進んでいく。

吉川元春が冷めた表情で床机に腰掛けているのと裏腹に、毛利元就は心の底から嬉しそうに破顔して膝を打った。

 

「島津忠棟は強かよ。奇襲夜襲は通用せぬ。儂の蠢動にも即時対応する様は若人の域を超えておるな。正面からの攻略は下策じゃ。後方を撹乱する他あるまいて」

「では、殿の策を実行に移されるのですな?」

「既に隆景には政親を送ってある。三段構えよ」

「隆景が来るんだったら成功しそうだね」

 

一の矢、二の矢、三の矢。

既に全ての布石は打たれてある。

後は島津家の対応次第だが果たしてどうなる事やら。

 

 

 

「鎌田政広に遣いを出せ。謀反を起こすは今ぞ」

 

 

 

鋭い声音が軍議の間を走り抜けた。








本日の要点。

1、兼定「家臣に追放されたなう」


2、忠棟「謀神様のブレーキぶっ壊れてね?(恐怖)」


3、隆景「輝元が馬鹿だからね仕方ないね(憐れみの視線)」


4、政広「親父の仇だぁぁぁああああ(エコー)」


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四十六話 島津義久から謀叛

 

 

二月二十一日、卯の刻。

朝靄に包まれる光明寺は俄かに騒然となった。

二刻ほどしか寝ていない俺も、報告に来た小南によって叩き起こされた。まさしく文字通りの行動である。怖いもの知らずなのか、三太夫の薫陶によるものなのか。

一度、御庭番衆の意識改革でもしようかな。

藤林ぐらいである。俺に慇懃な態度を取るのは。

寝惚けながら報せを聞き、その緊急性から直ぐに覚醒した。甘木に散る各武将を呼集。早朝だけど軍議を開くこととなった。

一刻もしない内に光明寺に集結した各武将。

名目上ながら総大将は俺こと島津忠棟である為、全員が揃い終わってから軍議の間に入ると、左右に並んだ全員が一斉に平伏した。

正直、好きではない。殿と呼ばれるだけで背筋が震えるのだ。義弘様や家久様以外、全員が歳上である武将から頭を下げられる。嘆息しそうだ。

義久は国許に。俺は家宰として戦場に。

二人で決めたことだけど如何も慣れない。

急いで席に座る。頭を上げるようにと言った。

ぞろぞろと皆が顔を上げる。

此処にいる全員が、俺を家宰として認めている。

だからこそ、邪魔者が全て九州北部に集った好機を見逃さずに奴らは日向の国で決起したのだと予想する。

勿論、毛利家の手引きがあるのも理解していた。

 

「既に皆も知っていような。日向国にて謀反が起きた。下手人は鎌田政広とのこと。他にも喜入季久、奈良原延なども加わっておるらしい。続々と増えような」

 

あくまでも平坦な声で告げる。

思ったよりも動揺は見受けられない。

事前に知らせたからか。

それとも予期していたのか。

どちらにせよ良い傾向だと思った。

此処で無闇に騒ぎ立てれば毛利家の思う壺だ。

 

「軍勢の数は如何に?」

「小南が言うには3000らしいよ、兼盛」

 

兼盛殿が顎鬚を摩りながら口火を切った。

こういう役柄に徹する辺りが非常に信頼できる。

反乱軍など鎧袖一触だと言わんばかりの態度。頼もしい。俺の籠城戦を手伝ってくれた時から変わらない威風堂々とした姿であった。

義弘様の返答に、梅北殿がはてと小首を傾げる。

 

「3000……。那珂群の地頭が動員できる兵力にしては、ちと多くありませぬか?」

「飫肥城主も呼応した。故に3000よ」

「なんと。真に御座りまするか?」

 

東郷重位が身を乗り出す。

雪さんの弟子として日に日に部隊運用が洗練されているらしく、三日前に起きた毛利勢との小競り合いも驚くほど活躍した。

何しろ名将として名高い吉川元春の軍勢と互角に渡り合ったのだ。落馬させた秋月種実は奪還されたものの、右翼が必要最小限の損害で留まったのは明らかに重位の功績であった。

毛利との合戦が一息吐いたら褒美を与えないと。

赤備えか、名刀か、領地か。

政務の才能は欠片も無いからな。

多分、赤備えを所望すると思う今日この頃。

 

「歴とした事実よ。既に飫肥城周辺を占領している」

「まさか、上原尚近殿まで謀反に加担するとは」

「何を驚かれる、有川殿。殿の家督相続に最後まで反対したのは上原殿であった。家宰殿に鬱屈とした想いがあるのも納得が行こうと言うもの」

 

山田有信殿が悪戯っ子めいた笑みを浮かべる。

事あるごとに家宰殿と呼ぶのは有信殿だけ。兼盛殿と並んで名将なのだが、人を揶揄う悪癖が玉に瑕である。雪さんにも何か吹き込みやがってこの野郎。

 

「して、如何なされまするか?」

「源ちゃんだから手は打ってあるんだよね?」

 

兼盛殿と家久様が期待の眼差しを向ける。

当然ながら手は施してある。

だが、今回は義久の管轄だった。

 

「無論。肝付城主である島津忠久殿、そして内城からは殿自ら6000の軍勢を率いて鎮圧に向かっているとの報せ有り」

 

島津忠久殿とは、貴久様の弟であらせられる島津忠将様のご嫡男。史実では島津幸久という名前として記録に残っている御仁である。

昨年元服したばかり。烏帽子親は俺が務めた。

元服したと同時に病床の忠将様から家督を継いだ忠久殿は、肝付城主として日夜政務に励んでいると聞く。

義久と忠久殿、約8000で進軍中であった。

謀叛が起きてから僅か一日で8000の軍勢を動かせる訳がない。なのに進軍している。つまり俺と義久は此度の謀叛を予期していた。

 

「早いな、流石は殿」

「阿呆、忠助。8000もの大軍を準備も無く動かせる訳あるまい。殿と家宰殿は事前に謀叛を予期していたのよ」

 

樺山忠副と樺山忠助。

三つ違いの兄弟である。

冷静な忠副と実直な忠助という組み合わせだ。

兄の忠副は史実だと菱刈合戦にて戦死しているものの、この歴史だと大前提として菱刈合戦が勃発していない為にまだまだ壮健の身であった。

 

「何処まで予期しておられたのですかな、家宰殿」

「そうよなぁ。有信殿はいつも難しい質問をお問い掛けなさる。有り体に申し上げれば、二ヶ月前と一週間前では予期する内容も違って当然だと見るべきよな」

「今だと毛利家が絡んでるって事?」

「然り。御明察に御座りまする、義弘様」

 

彼らの不満が昂ぶっていたのは気づいていた。

若い頃から義久と貴久様の覚え目出度く、武士らしくない振る舞いや逸脱した思考回路を毛嫌いする輩は決して少なくなかった。

その後、幸運なことに義久と夫婦となり、御家騒動を乗り越えて、貴久様から家督を奪った時点で謀叛が起こるのは既定路線だった。

義久を当主に据え、俺は島津家宰相となった。

貴久様の英傑ぶりに惹かれた者、忠良様の時代から島津家に仕えていた者、金勘定しかできない餓鬼が大手を振るう事に耐えられぬ者。

彼らの不満が燻っているのは知っていた。

そして昨年末に行われた評定が決定的である事も。

九州平定を成した後に行われる改革案の数々。楽市楽座、関所の撤廃、街道整備、本拠地移動、領地替えなど。島津仮名目録も作ると公言。

無論、歳久様が理路整然と説明した。断行される事で得られる利益も。だが、俺を君側の奸と蔑む者たちは反発する。そうやって憤怒させる為にわざわざ発表したんだけどな。

 

「小南の報告によれば、飫肥城の蜂起と時を同じくして、渡辺長を総大将とした5000の軍勢が志布志港に上陸。昨日には8000で志布志城を囲んでいる」

 

当初は飫肥城に集結するだろう反乱軍を、国許に残していた義久が一蹴する予定だった。家督相続で出来た膿を自分の手で出し切るのだと譲らなかった。あまり無茶して欲しくないのだが。

いつになく頑固な義久に根負け。

俺と義久、そして歳久様の三人で策を練る。

不満を抱く輩の殆どが集まってから、島津家の天下取りに邪魔な者たちを纏めて排除するつもりだった。他国が動けない初冬から春先に暴発させる形で。

しかし、全て絵に描いた餅となってしまった。

予想以上に早い大友家と龍造寺家の瓦解。毛利家の北九州占領。想定になかった一ヶ月以上に及ぶ出陣期間のせいでもあった。

 

「むざむざ上陸させてしまうなど言語道断。水軍は何をしておるのか!」

「落ち着かれよ、梅北殿。相手は有名な村上水軍なのだ。流石に厳しかろう。それに、よ。尼子と長宗我部に対して物資を送る役割も担っておる」

「御言葉ながら、兼盛殿。敵の上陸を阻止しなくて何の為の水軍であろうか。相手が村上水軍だからというのは何の理由にもならぬわ!」

「はい、二人とも落ち着いて。わかった?」

 

御意と項垂れる梅北殿と兼盛殿。

髪を伸ばした義弘様は気高くも美しい姫武将に育った。加えて、鬼島津と讃えられる軍略家に嗜まれては反論できないだろうな。

 

「でも、源太。国人衆の反発が怖いね」

「問題ありますまい。既に御庭番衆を放っておりまする故」

「ほう。家宰殿は抜かりありませんな」

「有信殿の申されることよ。殿の御威光と忠将様の治世。何よりも毛利勢は僅か5000なれば、これ以上増える宛のない毛利勢に同調する国人衆は現れぬと愚考致しまする」

 

志布志城にも2000の兵士を詰めてある。

義久も戦下手ではない。有能な家臣たちもいる。

それに--。

決起に参加した武将全員が、島津義久に反旗を翻した訳ではない。

既に奴らは気付かない内に内部から崩れている。

そんな保険でも掛けていないと安心できないからな。

 

「但し。時間が経てばどうなるか」

「国人衆に妙な気を起こす輩が出てきましょう」

「信房殿の仰せられる通りよ。毛利家による援護故か、新納殿も杵築城攻めに苦戦しておる。攻め落とすのに一ヶ月は掛かると書状が来た」

「ほう。ならば決戦しかありますまいな!」

 

重位がやる気満々だと言わんばかりに頷いた。

やいのやいのと即時開戦を求める。

お前は会津征伐時の伊達政宗かと突っ込みたい気分だ。部隊の運用は上々でも、決戦の日時を慮る知略に難ありか。

 

「その事も考慮しておる。皆、異議はあるか?」

 

正直な話、真正面からぶつかりたくない。

側面を衝ける新納殿を待ってから合戦に臨みたいのが本音である。相手は毛利元就。此処まで様々な手を打ってきた謀神なのだから。

だが世の中、己の都合が良いように物事は動かない。時には苦しい選択肢を決断しないといけない場面もある。

今回がその時だ。

特に、俺の懸念通りの事が起きれば--。

 

「腹蔵なく述べよ。相手は謀神。皆の知恵が必要だ」

 

その一言で軍議の間が活発化する。

全員、毛利元就の名前に怯んでいない。

毛利家など何するものぞと意気込んでいる。

義弘様や家久様と顔を見合わせて苦笑してしまった。

 

 

 

 

◼︎

 

 

 

 

二月二十二日、酉の刻。

福島川を天然の要害として対陣する両軍。

片方は鎌田政広率いる3000の軍勢に、闇夜に紛れて志布志港に上陸した渡辺長率いる5000を合わせた約8000にも及ぶ連合軍である。

もう片方は、島津義久を総大将とする6000の軍勢。都城にて一夜休息を取った後、志布志城から二里離れた場所に陣を構える。肝付城から出陣した島津忠久は2000の兵を携えて胡摩ヶ崎に着陣した。

 

「数は互角ね」

「はっ」

「源太くんは何か言ってたかしら?」

 

軍議を終えた義久は、本陣に神部小南を呼んだ。

高橋紹運を救い出した時の傷痕が残るものの、既に万全の状態で日々任務をこなしていた。僅か一日と半で甘木から志布志まで駆け抜ける健脚からも見て取れる。

 

「内応者がいるとしても油断なさらぬようにと」

 

謀叛に及んだのは鎌田政広を筆頭に、上原尚近、喜入季久、種子島恵時、奈良原延であった。他にも若過ぎる島津家宰相に嫉妬する者、先代を無理に隠居させた事に対して憤怒した者なども続々と集まっている。

元は島津家の家臣だった。

だが、今は獅子身中の虫だ。

義久にとってしてみれば排除すべき敵と云える。

昨年末に歳久に宛てた書状から、忠棟が頭を下げて『かの者』に協力をお願いしたと知った。即ち内応者である。様々な情報が逐一義久の耳に届けられたからこそ、鎌田政広謀叛から僅か三日で志布志まで到達できた。

 

「心配性ねぇ、源太くんは」

 

一ヶ月以上会っていない旦那を思い浮かべる義久。

心配されていると知り、赤く染まる頬に手を添えて嬉しそうに微笑んだ。

 

「仕方ありませぬ。数にして互角。福島川を渡って志布志城を救うのは、決して簡単ではありますまい」

「忠久くんは初陣だもの。あまり無理させられないわね」

「然り。されど忠久殿の働きこそ肝要。側面を突けば敵の陣構えも崩れましょう。というのは忠棟様のお言葉です」

 

此処で島津義久が敗れれば、九州南部はがら空きとなる。島津の本隊が毛利元就に釘付けとなっている間に本国が蹂躙されるは必至。毛利家の援軍を5000も呼ばれたのは痛かった。

 

「ふふ。分かったわ」

「余裕がありますね、殿」

 

キョトンとする小南。

義久は意味深に笑った。

 

「私だって島津家当主よ。戦の心得もあるわ。島津家の繁栄に水を差す人たちが相手だもの、容赦しなくていいものね」

 

小南はゾクっと背筋を震わした。

 

「では策が?」

「ええ。源太くんほど鮮やかな策じゃないけど」

「私に出来る事があれば、何なりと」

「小南は筑前に戻らなくてもいいの?」

「忠棟様から殿のお側に付けと命がありました」

「あらあら、心強いわ〜。よろしくね、小南」

「勿体無きお言葉」

 

忍に冷や汗を流させる義久の覇気。

裏腹に一転して童女のような微笑みを見せる。

忠誠を誓った相手の凄みに、小南は心から平伏した。

 

「ねぇ、小南。志布志城に潜入できるかしら?」

「容易きこと」

「そう。なら頼みごとがあるのよ」

「はっ。何なりとお申し付け下さりませ」

 

一言、二言。

義久から耳打ちされる。

書状を受け取り、小南は直ぐに出立した。

闇の帳に身を隠し、百地三太夫に教えられた志布志城の抜け穴を潜れば容易に潜入できる。志布志城主に文を渡せば喜ぶだろう。

 

「…………」

 

義久は本陣にて瞑目したまま鎮座する。

実の父親から家督を継ぐ時に聞いた。

当主たる者、心に一匹の鬼を飼わなければならない。例え重臣だとしても厳しく処断しないといけない時もあるのだと。

忠棟には任せられなかった。

彼らを罰するのは当主である自分でなければ。

 

「申し上げます!」

 

夜は深まる。戌の刻になった。

刹那、御庭番衆の者が本陣に駆け込んだ。

片膝を付いて、頭を下げたまま口を開いた。

 

「昨日未明、坊津に毛利勢上陸。大将は小早川隆景。凡そ5000の軍勢、内城に向かいて進軍しつつあり!」

 

ゆっくりと義久は目を開く。

 

「そう。やはり来たのね」

 

呟いた一言は冷笑を含んでいた。

 

 

 

 

◼︎

 

 

 

 

二月二十二、巳の刻。

時間は少し遡る。

志布志にて島津義久が陣を構えた頃、月の無い夜を選んだ上陸作戦を完遂した小早川隆景は、5000の兵を率いて一心不乱に内城へ向かって進軍していた。

殆どの兵士は九州北部にいる。

抵抗も散発的な物しかなかった。

がら空き同然の薩摩国を我が物顔で進む。

足下を疎かにした島津家の狼狽が目に浮かんだ。

 

「父上の読み通りですか」

 

内城にて本国を護っていた島津義久は、大隅国にて暴れている裏切り者を討伐する為に出陣したばかり。

既に志布志にて着陣した頃だろうか。

本国の危機を知り、取って返せば逆に背後を突かれる。どうにもならない現状、義久隊の士気はどん底にまで下がるに違いない。

このまま内城を占拠し、渡辺長と鎌田政広の連合軍が義久勢を破れば、島津家との合戦は大勝利で終わる。

西国の殆どを手中に収めれば天下は目前だ。

毛利元就の年齢、後継ぎである輝元の凡庸さ。この二つの理由から隆景と元春は是が非でも此度の戦に勝たなくてはならなかった。

 

「もうすぐ、もうすぐ……!」

 

焦る気持ちが言葉に現れた。

もうすぐで敬愛する姉の墓前に報告できる。

長女として生を受け、誰よりも優しく毛利家を包み込んでいた毛利隆元。心優しいだけでなく、嫡女として優れた素養すら持ち合わせていた。

内政面に於いては父親である元就にも引けを取らなかった隆元が亡くなった時、誰も彼もが心底から絶望した。毛利元就が最も失意の念を浮かべたのかもしれない。

隆景は見ていられなかった。

元春は悔しさから一層修練に励んだ。

立ち上がった元就の眼には狂気があった。

 

「あと少しです。あと少しで--!」

 

元就は正気に戻る。

元春は泣かずに済む。

輝元は安心して家督を継げる。

隆景は姉の墓前にて手を合わせられる。

 

 

 

「やはり来ましたか」

 

 

 

ふと声が聞こえた。

毛利家の宿願を破壊する声音が響いた。

坊津と内城の間である『谷山』に布陣した軍勢。

その数、約4500。

率いる将は言わずと知れた名将だった。

 

「忠棟殿の背中、護るとしましょうか」

「承知致しました、義姉上」

 

雷神にして鬼、戸次道雪。

大友家の両翼の一端、高橋紹運。

天下に名を轟かせる猛将が、毛利の宿願の前に立ちはだかった。

 

 

 

 






本日の要点。


1、忠棟「謀神怖いけど決戦するか(震え声)」


2、義久「裏切り者に罰を、邪魔者に死を(嘲笑)」


3、道雪「悪ィが、こっから先は一方通行だ。侵入は禁止ってなァ! 大人しく尻尾ォ巻きつつ泣いて、無様にもとの居場所へ引き返しやがれェェェ!!(迫真)」




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四十七話 毛利元就への三矢

 

 

二月二十四日、卯の刻。

甘木一帯に陣太鼓の音が木霊した。

約十日にも及ぶ対陣。合計六万の人数が犇めき合っていたのだ。西国全体を大いに賑わした祭典の終了を知らせる轟音が、朝靄立ち込める中、幾たびも空気を震わせた。

島津軍の先鋒、肝付兼盛隊が上げた物である。

率いる兵は3000。数だけで判断すれば決して大軍と言えないものの、大友や龍造寺との合戦を掻い潜った猛者たちが数多く含まれている。主軸には精強な島津兵も軒を連ね、自他共に認める精鋭部隊であった。

 

「鉄砲隊、前へ」

 

待ち構えるは宍戸隆家勢2500。

大平山の麓に陣取った毛利勢と、甘木一帯に鶴翼の陣を敷いた島津勢の間に川や山と云った天然の要害は存在しない。小石原川は島津勢の背後を流れるのみ、佐田川に関しても甘木東部を奔るだけである。

馬防柵を張り巡らし、内側にて鉄砲隊を構えさせる。200の鉄砲衆が前進。膝立ちとなって息を殺す。

 

「妄りに撃つことは許さぬ」

 

鉄砲は島津家の専売分野では無い。

毛利家も鉄砲の有用性にはいち早く目を付けた。

石見銀山などで得た金銭を活用し、鉄砲の一大生産地である堺から火縄銃や火薬を大量に買い集めた。数にして1000。第二、第三の柵にも同様に鉄砲衆を張り付かせている。

先ずは一斉射撃にて勢いを止めよう。

島津勢の士気を粉砕する事が重要だからだ。

背後には毛利元就の本陣がある。

万が一にも敵の強襲を許せば申し訳が立たない。

 

「なっ……!」

 

直後、宍戸隆家は目を疑う光景に出くわした。

朝靄に隠れていた肝付兼盛勢。

近付くに連れて鮮明に姿を見せる。

濛々と立ち昇る砂塵は見当たらず、鯨波の声は鳴りを潜めていた。静寂を保ったまま宍戸隊に近寄ってくる。

ゆっくりと、確実に。

初めて見る『盾のような物』に身を隠しながら。

 

「あ、あれは--!?」

「落ち着け。隊列を崩すな!」

 

騒ぎ出す兵士を一喝。

周囲を睥睨して、狼狽する兵を落ち着かせる。

初めて見た物に対する畏怖は残っているが、戦う前から潰走してしまうような恐慌状態に陥る事は無さそうだと安堵した。

宍戸は馬上から改めて前方を見る。

竹束を全面に取付けた押車。一言で表すならそれだけだ。二名の島津兵が押している。それが目算して五十個程、平野の只中を突き進んでいた。

島津家が開発したのか。

恐らく鉄砲を防ぐ為の物だろう。

しかし、だ。取り分け分厚くない竹の束で銃弾が止まると思えない。貫通するに決まっている。血迷ったのか、島津忠棟。

 

「伝令兵!」

 

着々と距離は縮まっている。

鉄砲も届く。しかし慎重に慎重を重ねた。

近くにいる伝令兵を捕まえる。何やら島津家が怪しい兵器を繰り出してきたと本陣の毛利元就に伝えたのだ。

承知しましたと走り去る兵士。

やるべき事はやった。宍戸は前方を見据える。

 

「まだだ。まだ引き付けよ」

 

静かな時が流れる。

鉄砲隊は固唾を呑んで下知を待った。

三間、二間、一間半、一間と、竹束を貼り付けた押車の姿形がはっきりと捉えられた瞬間--。

 

「撃て!」

 

号令一下、耳を劈くような轟音が響き渡った。

200の鉄砲が同時に火を噴いたのだ。

さりとて竹束の押車に隠れた島津兵など蜂の巣になると予想した宍戸隆家を嘲笑うかの如く、銃弾は竹束を貫けず、中央に空いてある穴から鉄砲による反撃が飛んできた。

五十の弾丸は鉄砲隊を十数人屠った。

一斉掃射が効かず、思いも寄らない逆撃を食らった宍戸隊は思わず狼狽えてしまう。

その隙を肝付兼盛は見逃さなかった。

押車に隠れていた弓隊が矢の雨を降らせ、間髪入れずに短槍を装備した足軽隊が出現。宍戸隊の鉄砲衆が放つ銃撃などに目もくれず一の柵を押し倒した。

 

「なんと!」

 

押車の数は約五十個。

現れた島津兵は目算ながら400前後。

一つに八人も隠れていたのか。

鉄砲衆と弓隊がそれぞれ一人ずつだとしても、一の柵に取り付いた者は、死をも恐れぬ精強な島津兵300だ。前線は大混乱に陥ってしまった。

最小限の損害のみで第一の柵を突破された。

油断慢心で許される失態を超えていた。

敵の勢いを殺すどころか増長させてしまった罪は重い。だが捨て鉢になるなど言語道断。改めて島津勢を食い止める為、宍戸隆家は死ぬ覚悟を決めて槍を高々と持ち上げた。

 

「慌てるな、敵は寡兵ぞ!」

 

指揮官の獰猛な叫び声に毛利兵も応える。

脚色の鈍っていた手兵たちが、一斉に喊声を上げた。

味方は2500、敵は300。

最初は柵を崩され狼狽したものの、有り余る兵力で押し潰してしまえば一捻りだ。実際、当初の勢いを無くした島津勢は徐々に姿を減らしていく。

多勢に無勢。

少しでも多く柵を押し倒す島津兵だが、それを阻止しようとする宍戸隊によって、最初のような猛勢は時が経つに連れて萎んでいった。

このまま行けば問題ない。

誰もがそう考えた時、肝付兼盛を先頭とした騎馬隊と長槍を持った足軽隊が、靄を掻き消すように宍戸隊へ突撃した。

 

 

 

 

◼︎

 

 

 

 

毛利元就が床机を据える場所からだと前線の様子がわからない。無理もなかった。轟音と共に発せられる硝煙が、元就の視界を閉ざしてしまうのだから。

その為、伝令兵が矢継ぎ早に訪れる。

入れ替わり立ち替わり、戦況を報告していく。

 

「申し上げます。肝付勢の勢い凄まじく、第一の柵は突破されまして御座りまする!」

「第二の柵に取り付いた肝付勢に対し、右備・左備も銃撃を開始。敵勢の足を留めておりまする」

「肝付勢の用いた押車は他に見られませぬ!」

 

堅牢に築き上げた第一の柵。

開戦と同時に破られるとは恐れ入った。

少なくとも第一の柵で肝付勢を撃滅する予定だった。故に信頼している家臣、宍戸隆家を2500の兵士と共に置いたのだから。にも拘らず第一の柵は容易く突破され、今では第二の柵に敵勢が取り付いている。

敵味方の陣構えを記してある地図を眺めた。

元就は腕を組んだまま、傍らの吉見正頼へ問いかける。

 

「竹束で鉄砲が防げると其方なら考えるか?」

「正直に申しますれば考えませぬ。鉄板ならいざ知らず、竹を束ねた程度で防がれるのなら鉄砲は必要ないのではありませぬか?」

「それは浅はかという物よ、正頼」

 

毛利勢が不意を突かれた理由は一つ。

竹を束ねた物で鉄砲が防げると考えなかったからだ。

もし次の合戦で同じ手段を使われたとしても対処法は出来上がっている。鉄砲隊を下げて弓隊を前進させるか、押車に隠れている敵勢に長槍隊を突っ込ませれば良い。簡単な事である。

つまり、島津勢は一発限りの不意打ちを成功させただけだと言える。次は決まらない。但し、その一回を見事に成功させた練度は高く評価すべきだろうと元就は考えた。

 

「鉄砲はこれからの合戦を担う兵器。使い所を間違えねば有用じゃ。島津家はやはり一歩抜きん出ておるか」

「口惜しながらそのようでありますな」

「致し方あるまい。次に活かせば良いだけよ」

「御意」

 

恭しく首肯する正頼。

扇子を開け閉めしながら元就は思考を早める。

想定外の突破力を見せた肝付勢とて、第二の柵を押し倒すよりも早く壊滅に近い損害を出して後退するだろう。

後詰に現れるのは梅北隊か、それとも東郷隊か。

この二部隊を中央に引き摺り込んでから鶴翼を閉じる。軍議にて定めた基本戦略だ。右翼に口羽通良隊4500、左翼に吉川元春隊5000を配置したのもこの為である。

釣り野伏せは警戒しろと厳命している。

無駄な追撃は言語道断だと戒めてあった。

先に動いた島津勢が不利なのも自明の理だ。

それでも元就の胸を騒つかせる何かが存在する。

 

「しかし、流石は殿ですな」

 

開戦してから一刻。

元就の予想通りに肝付勢が後退。

前線で采配を振るっていた肝付兼盛も、右腕を負傷してしまい一戦から退いた。代わりに第二の柵へ押し寄せたのは梅北隊3500だった。

弓矢と銃弾飛び交う間を駆け抜け、第二の柵を突破目前まで追い込むも、島津勢の被害は容赦なく膨れ上がっているとのこと。

伝令兵の報告に気を良くした正頼は鷹揚に頷く。

 

「何がだ?」

「飫肥城での謀叛、隆景様による坊津強襲、そのどちらも島津忠棟を決戦に誘き出す計略だったとお見受け致しまするが」

「ほう。よく気づいたな、正頼。褒めて遣わす」

「勿体無きお言葉」

 

一の矢、鎌田政広の謀叛。

二の矢、渡辺長の志布志港上陸。

三の矢、小早川隆景による薩摩奇襲。

一つでも成功すれば島津家の土台を崩せる策略だったのだが、島津の今士元はそのいずれも全て完璧に対処してみせた。

勿論、毛利元就は予知していた。

戦国の鳳雛ならば対応できるだろうと。

だが島津家の本国が危機的な状況にある事は変わらない。国人衆の反発、軍勢の士気を保つ為にも早期決戦に乗り出すことは必定である。

全ては謀神の予定通りに進んだ。

有利な状況で決戦に持ち込めた。後は勝つだけ。

将棋倒しのように崩れるだろう島津家を吸収すれば、最早西国を支配した事と等しい毛利家に敵など存在しない。

長男である毛利輝元に家督を譲っても、有り余る国力で他家を粉砕できる筈だ。元就も安心して隠居できるというものだ。

 

「念には念を入れておくか」

「殿?」

「第二右備へ伝令。桂元重に1000の手勢を率いて、敵左翼にて猛威を振るう島津義弘隊の側面を突けと申し伝えよ」

 

鬼島津こと島津義弘。

武勇だけならば吉川元春すら凌駕する逸材。

信頼できる武将『口羽通良』を右翼へ配置したのも、一騎当千と云える姫武将を最大限に警戒しているからだ。

速やかに敵左翼を壊滅させる。

元就の強い意向を受けて、伝令兵は走り去った。

 

「殿、右備を抜いてしまわれたら前線が……」

「安心せい、正頼。栗屋元辰に1000の兵を預けて右備の補填に当たらせる。問題なかろう?」

「はっ。万事御意のままに」

 

本陣から1000の手勢を連れて、栗屋元辰が第二右備へ駆けて行く。その後ろ姿を眺めながらも元就は思考を決して止めなかった。

仮にだ。島津義弘隊を潰せたとしよう。

島津勢の鶴翼は崩れる。士気も落ちるだろう。果たして戦国の鳳雛とも呼ばれる男が、包囲殲滅される危険性を考慮していないという予測は流石に甘いと断じざるを得ない。

毛利元就ならば何を狙うかを考えた。

直後--。

世鬼政親の次男坊、世鬼政時が本陣に駆け込む。

 

「申し上げます!」

「どうした?」

「島津家久隊が俄かに動き始めた模様、佐田川を沿うように進軍しており、半刻後には吉川隊の側面を衝く由に御座りまする」

 

口早に発せられた情報に、本陣に居る武将たちが軒並み腰を上げた。

 

「なんと!」

「其は由々しきこと!」

「もし側面を衝かれれば如何な元春様と言えど」

 

正頼の台詞に、本陣の空気が重くなった。

別働隊を率いる武将は島津家久。沖田畷の戦いで竜造寺隆信を筆頭に、竜造寺四天王すら尽く討ち取った戦術の鬼才である。

只でさえ毛利勢の左翼は、敵武将『山田有信』により苦戦していた。島津家久に側面を脅かされてしまえば壊走に至るのも時間の問題だろう。

 

「考える事は同じか。真に楽しませてくれる若人よな」

「殿、如何なされますか?」

「皆、落ち着けい。慌てれば敵の思う壺よ」

 

叫んだ訳ではない。

一喝する必要もなかった。

冷静に紡いだ言葉に威厳を乗せる。

それだけで本陣の喧騒は瞬く間に止んだ。

 

「それで良い」

 

一拍。

 

「ようやった、政時。お主の報告が無ければ我らが左翼は総崩れであったろう」

「勿体無き御言葉」

「酷使するようで悪いが、左翼に取って返せ。元春にこう申し伝えよ。其方は3000の兵を持って佐田川沿いにて島津家久を迎撃せよとな」

「殿、元春様を抜けば左翼が抜かれまするぞ!」

「第二陣左備の福原貞俊隊2500を左翼に移動させよ。鉄砲衆も出来る限り連れてな。山田有信隊を押し返すことに尽力しろと下知せよ」

「承知致しました!」

 

走り去る世鬼政時。

島津家久に対処する為とは言え、唐突な陣構えの変更だった。側に仕える小姓も驚いている。下手すれば左翼が抜かれてしまう危険性も有るというのに。

吉見正頼は目を見開き、元就へと問い掛けた。

 

「元春様に3000の兵を預けたのは何故に御座りましょうや。敵は多く見積もっても1000から1500という報せでしたぞ」

「強いて言えば、嫌な予感よ」

「左翼に多く兵を残すべきだと思いまするが」

 

百も承知だ。

例え島津家久の奇襲を防いだとしても、左翼そのものが抜かれれば本末転倒。吉川元春に下した命令も無駄になってしまうだろう。

だが、敵左翼さえ壊滅すれば戦況は一変する。

実際に刻々と毛利勢の有利に移り変わっていく。

後は島津勢を奥に誘い込み、鶴翼を閉じるのみ。

 

「わかっておる」

「なれば--」

「万難を排して勝つ為よ」

 

手段は全て講じた。

事ここに至れば謀略は通じない。

島津忠棟と毛利元就、どちらの軍略が上なのか。

 

「さて。どう打開する、今士元」

 

 

 

 

◼︎

 

 

 

 

合戦から二刻経過した。

朝靄は曇天へと変わりつつある。

梅北隊の奮戦もあり、第二の柵は突破。

代わりに被害は甚大だった。毛利勢に与えた損害が500程度に対し、島津勢は既に1500を超える大きな被害を受けている。

堅固に造られた陣地に吶喊しているのだ。

仕方のない事である。

元々予想していた範囲の損害。

士気は高い。戦意も鈍っていない。

一気呵成に残る最後の柵を押し潰す為、既に東郷隊4000とか樺山忠副隊3000も前線に投入したばかりであった。

また中央の激戦に隠れるように、両翼でも共に鎬を削っている。互いに己の鶴翼を閉じようと奮戦しているのだ。

 

「…………」

 

島津本陣は静寂に包まれていた。

各戦場から伝わる報告は全て不利を示す物。

頑強に抵抗する中央だけでなく、右翼と左翼すら毛利家の野戦陣に阻まれて突破できない。先に動いた方が負けなのだと理解していても、島津忠棟なら容易く勝利するという島津兵の期待は刻々と萎んでいった。

 

「申し上げます。毛利勢の反抗凄まじく、第三の柵を押し倒すには後詰が必要との事」

「梅北国兼殿、宍戸隊と交戦中に負傷された由。戦線を離脱されまして御座りまする!」

 

時間が経つごとに増していく被害。

--敗色濃厚。

島津勢の誰しもがそう見た。

島津本陣に緊迫した空気が漂う。

しかし、忠棟は下知を飛ばすでもなく、床机に腰掛けたまま瞑目するだけである。言葉を発した事すら、別働隊の島津家久に敵左翼を突けという下知を与えた時だけであった。

 

「忠棟殿、後詰を送らねば敵の柵を突破できませぬぞ。此処は乾坤一擲の勝負に出るべきかと存じまする」

 

たまらず樺山忠助が進言した。

何しろ実兄である樺山忠副が最前線にいるのだ。落ち着ける訳がない。総大将たる忠棟の下知を待たず、今にでも本陣から飛び出し兼ねない勢いだった。

 

「なりません」

「直茂殿には申しておらぬ」

 

忠棟の側に佇む鍋島直茂。

側室の身でありながら鎧を着て、薙刀も手に持っている。姫武将と思えない凛とした戦装束に圧倒されるも、樺山忠助は目を真っ赤に染め上げて吐き捨てた。

 

「お言葉ながら樺山殿。今、後詰を出した所で如何程の効果もありません。無闇に損害を被るだけでしょう」

「やってみなくてはわからぬ!」

「それに堅固な野戦陣を築いた毛利勢に対し、私たちが不利なのは元より承知。第三の柵を押し倒した後、全面攻勢を仕掛けるのが肝要かと」

「直茂殿は我が兄を見殺しにするご所存か!」

「さにあらず、さにあらず」

「忠棟殿、後詰の下知を。某にお任せくださりませ!」

 

懇願するとは、この時の樺山忠助を指すだろう。

片膝を付いて忠棟を下から覗き込む。

それでも、島津家宰相は微動だにしない。

まるで何かを待っているかのようであった。

勿論、樺山忠助が相対しているのは戦国の鳳雛である。無為無策にて決戦に及んだとは思えない。しかし、このまま実の兄を見殺しにするなど実直な彼にとって我慢できない事だった。

 

「耐えよ、忠助殿」

「忠棟殿……?」

「今一度、耐えよ。さすれば勝つ」

 

どういう事だ、と問いかけようとした瞬間。

 

「申し上げます!」

 

息を切らした伝令が本陣に飛び込んできた。

 

「桂元重隊の奇襲を受け、島津義弘隊壊滅。敵右翼、一気呵成に本陣へ雪崩れ込もうとしておりまする!」

 

愕然とする報告だった。

鬼島津こと島津義弘が敗れる。

即ち島津勢の鶴翼が無価値となった。

壊滅とはどの程度の損害か。義弘様はご無事なのか。敵右翼の総数はどのぐらいか。被害が広がる前に退却する方が賢明ではないかという声すら上がる。

そんな中、島津忠棟は床机を蹴り上げた。

 

「落ち着け!」

 

幕から外へ転がる床机。

静謐を保っていた忠棟の一喝。

崩れ掛かった本陣は、一瞬にして元に戻った。

 

「有川殿、忠助殿。お二方はそれぞれ2500の手勢を用いて、敵右翼の侵攻を食い留めよ。鉄砲衆1000も連れて行け」

「承知仕った!」

「……御意に御座りまする」

 

前以て、本陣の左側には馬防柵を張り巡らしてある。1000の鉄砲衆を効率よく扱えれば、敵右翼の勢いも緩ませる事が可能だろうと判断した忠棟は、更に本陣にて出番を待っていた藤林長門守へ尋ねた。

 

「藤林、吉川隊と家久隊が干戈を交えている場所は知っておろうな?」

「御意。部下から報告が来ており申す」

「重畳至極。鍋島隊を先導せよ。三の矢、その成否を其方に任せる」

「はっ。必ずやご期待に沿ってみせまする」

 

力強く言い切った藤林が音もなく消える。

直後--。

島津勢の本陣後方から複数の狼煙が上がった。

 

「さて。意趣返しと行こうか、謀神」

 

 

 

 

◼︎

 

 

 

 

 

俄かに雨が降り出した。

既に合戦の火蓋が切られてから三刻。

甘木一帯に散乱する両軍の死体が2000に差し掛かろうとした直後、毛利元就が床机を蹴り上げて軍配を振るった。

 

「鶴翼を閉じよ。総攻撃じゃ」

 

第三の柵は未だ健在。

東郷隊と鍋島隊の猛攻を耐え忍んでいる。

島津義弘隊は壊滅。敵左翼を抜いた口羽通良隊5000は本陣に斬り込んでいる。複数の狼煙が上がっている事からも先ず間違いない。

島津家久の強襲を防いだとしても、左翼は一進一退の攻防を続けていた。押しては退いて、退いては押してを繰り返す。

山田有信、どうやら噂に違わない知勇兼備な武将のようだ。流石に島津は粒揃い。それでも数の暴力に逆らえないだろう。

 

「正頼、其方に4000の兵を与える故、左翼の後詰を務めよ。島津勢も本陣が奇襲された事に気づいていようて。士気も落ちておる筈。山田隊を一気に踏み潰し、右翼に負けぬよう鶴翼を閉ざすのよ」

「心得ました」

 

吉見正頼も主君と同意見だった。

口羽通良が島津義弘隊を壊滅に追い込み、本陣の強襲に成功した今こそ勝負時だと見ている。二つ返事で下知を受けるや否や、4000の兵を率いて出撃した。

同時に世鬼一族の者が片膝を突いた。

 

「ご報告申し上げます。吉川隊、島津家久隊を尽く殲滅。左翼に合流する由に御座りまする」

「相分かった。左翼に伝えよ。大攻勢を仕掛けるは今ぞと」

「承知致しました」

 

背中を向けた忍に、元就は待てと言った。

 

「其方の名前は?」

「某の名は霧隠鹿衛門に御座りまする」

「初めて聞いた名前じゃな。政親の部下か?」

「然り」

「ふむ、そうか。引き留めて悪かったのう」

「勿体無きお言葉」

 

白髪の忍が本陣から消えた。

何故名前を問うたのか。

元就にもよくわからなかった。

何はともあれ、左翼も無事に閉じそうである。

 

「今士元も此処までか」

 

正頼が轟かせる馬蹄の音に合わせて不敵に呟いた元就は、小姓に用意させた愛馬に跨るや、毛利本陣を前に進めるように下知を飛ばした。

自らは宍戸隊の後詰を務めるとともに、鶴翼を閉じようとする全軍を鼓舞しようと考えたからだ。

 

「いや、待て……」

 

瞬間、元就は気付いた。

磨き上げた智謀か、長年の経験からか。

何かがおかしいのだと馬上にて首を傾げる。

 

「…………」

 

元就が認めた島津の今士元。

戦国の鳳雛と呼ばれる男の戦運びと思えない稚拙さ。新兵器と思わしき押車も大した戦果を挙げられず、島津家久の奇襲も失敗し、本陣側面に強襲を食らった挙句に包囲殲滅されかかっている現状は、まるで戦下手が総大将を勤めた軍勢のようである。

何かがおかしい。

毛利元就の認めた相手はこんなモノではない。

間断なく放った三本の矢を全て対処し、今も毛利家と決戦に及んでいる島津家宰相がこのような稚拙な敗北を容認する筈がないのだ。

何故もっと早くに気付かなかった。

違和感は有った。不自然な棘も感じていた。

 

「--もしや」

 

合戦模様を最初から思い返した元就。

口から洩れた吐息は驚愕の意を含んでいた。

肝付隊が用いた竹束の押車。第一の柵を犠牲少なく突破する為に用意した兵器なのだと考えた。竹束で鉄砲が防げるという驚愕から、それ以上の可能性を無意識に無くしていたのだと気付く。

初めて見る兵器の有用性。

不自然だった島津家久の奇襲。

そして最大限に警戒するが故に、本陣の兵を少なくしてでも壊滅へと追い込んだ島津義弘の部隊。

全ての点が繋がった。

この謀神が、まさか『掌の上』で踊ることになるとは!

 

「もしやっ!」

 

後方を振り返る。聳え立つは大平山。

生い茂る木々は冷たい風によって揺られている。

その時--。

大平山から騒ぎ声にも似た喊声が上がった。

痩せ細った木々の隙間から見えるのは、丸に十字の文様が刻まれた旗指物。島津家の家紋を翻しながら3000の島津兵は恐るべき勢いで山を駆け下りた。

 

「我こそは島津義久が家臣、島津義弘なり。毛利元就殿の御首級、今こそ頂戴仕る!」

 

先頭を突き進む姫武将。

右翼に壊滅させられた筈の島津義弘だった。

罠だったのだ。全て大平山に陣取る為の策だ。

 

「やりおる」

 

散り散りに壊走したと報告を受けた。

しかし元就は追撃を認めなかった。釣り野伏せを警戒したからでもあり、一刻も早く敵の本陣を強襲する為でもあったからだ。

義弘隊は追撃を受けない事を逆手に取り、壊走するように見せかけて大平山の背後に回り込み、本陣の数が少なくなった段階で鯨波の声を上げたのだろう。

馬を巧みに操り、木々を擦り抜けるようにして駆け抜けた島津義弘は、敵軍へ突入した途端に右手に持つ巨大な槍を片手で振り回す。

青く長い髪を靡かせる様は美しくもあり、また恐ろしくもあった。

何しろ本陣の更に後方に配置しておいた『秋月勢8000』中央を瞬く間に食い破った。毛利元就だけに狙いを定めて我武者羅に突き進んでくる。

 

「念には念を入れて、正解であったか」

 

背後からの本陣奇襲。

様々な合戦の勝敗をひっくり返した軍略である。

警戒して当然だ。高城川の戦いでも用いた戦術を使わない保証など無いのだから。

島津義弘は秋月勢を薙ぎ払うものの、二倍の軍勢に足留めされている。駆け下りた勢いは無くなっていないものの、秋月隊を突破するのに半刻は費やす筈。その前に敵本陣を押し潰せば毛利家の勝利である。

そう判断した元就は間違っていない。

故に、左翼から突撃を仕掛ける部隊を見て、唖然とした。

 

「な、に……?」

 

右翼は本陣に攻撃を仕掛けている。

左翼も大攻勢に転じ、前線を押し上げた。

つまり、本陣の周辺は一種の空白地帯となっていた。

間隙を縫うようにして押し寄せる部隊。数にして約3000。騎馬武者を中心に編成された島津兵は、本陣の防備を固めようとした毛利兵を跳ね飛ばしてひたすらに前へ前へと突き進んでくる。

先頭にて獅子奮迅の活躍を見せる姫武将に見覚えがある。島津貴久の末女、島津家久だった。

 

「成る程、先の忍は島津の者か」

 

背後と側面から島津兵が迫る。

事ここに至って挽回の好機は見当たらない。

敵本陣を崩すよりも早く、味方本陣が総崩れになるだろう。元就の命も危ない。幸いにして北側は空いている。岩屋城へ退却できる筈だ。

 

「退却よ、退き鐘を鳴らせ」

 

元就は歯を食いしばりながら、そう下知した。

 







本日の要点。


1、忠棟「やられたらやり返す。倍返しだ!(迫真)」


2、義弘「相変わらず無茶な注文するよね(満更でもない表情)」


3、秋月「勘弁してください、鬼島津さん(震え声)」


4、久秀「島津が毛利を食うのも勘弁してほしいわね。仕方ないから、久秀が一肌脱いであげようかしら(冷笑)」


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四十八話 松永久秀から脅迫

✳︎戦極姫の設定だと毛利輝元は毛利元就の子供という事になっています。
つまり吉川元春と小早川隆景の弟です。紛らわしくて申し訳ありません。





 

 

四月三日、酉の刻。

夜の帳が降りた飯盛山城。

寝静まった城内は静寂に包まれている。

雲一つない夜空には半月が浮かぶ。後一週間もすれば満月だろうか。それでも、人工的な光源を持たない戦国の夜を煌々と目映く照らす。

三好家本城。その離れの茶室に案内された俺こと島津忠棟は、人知れず出口に視線を向けながらもそんな埒もない事を延々と考えていた。

一種の現実逃避だ。認めよう。

理由は簡単。誰しも納得できると思う。

目の前で松永久秀が茶を点てているからだ。

 

「掃部助殿には、御足労おかけいたしまして」

 

久秀が茶碗を差し出した。

恐らく名器なのだろう。触りたくない。

後でどのような難癖を付けられるんだろうか。

 

「かたじけない」

「ささっ、どうぞどうぞ」

 

俺に口を付けるよう促す。

わかってる。だから急かすな。

飲むときは飲む。今は飲みたくないんだよ。

二人きりで話したいことがあると松永久秀から夜分に誘いを受けた。そしてそれに応えたなどと国許にいる義久に知られたくない。只でさえ大事な時期だ。余計な負担は背負わせたくないというのが素直な気持ちだった。

俺は膝に手を置いたまま微動だにしない。

クスッと微笑んだ久秀はおもむろに切り出した。

 

「こんな夜分に掃部助殿をお呼びしたのは他でもないわ。今後の三好家と島津家についてどう考えているのか、腹蔵なく口にしてもらう為よ」

「某の考え」

「そうよ。今後の西国がどうなると思う?」

「はてさて……」

 

俺はわざと久秀から視線を逸らした。

茶室には二人だけしかいない。人払いは済ませてあると久秀は断言した。確かに気配など感じられない。これでも三太夫に鍛えられたからな。ある程度の距離ならば把握できる。

だが--気を緩める事はない。

相手は松永久秀。京の都を支配している三好長慶の腹心だ。往年の権力を失った室町幕府を裏から操る女郎蜘蛛でもある。

下手な事を口にすれば弾劾されかねない。

 

「公方様のお力で此度の講和が成され申した。不平不満を持つ不届き者もおられまい。西国の動乱は無くなると推察致す」

「ふふっ、久秀を甘く見てないかしら?」

「甘く」

「ええ。成る程、確かに何処も表立っては不平不満を漏らしていないわ。島津家も、毛利家も、三好家も。でも掃部助殿、他の勢力からしたら不満だらけだと思わないかしら?」

 

約四十日前、甘木の戦いは終結した。

肉を切らせて骨を断つ。

この一言に尽きる策略だった。九州戦線を早期に終わらせる為、島津家の多大な出血を容認した俺は、毛利元就の率いる軍勢を一日足らずで潰走させた。

毛利勢の本陣が総崩れとなった後、がら空きとなっていた北の方向に馬首を向けた元就殿は、予め岩屋城に先行させていた伊地知重政隊に足留めを食らい、背後から追い付いた家久様の手で討ち取られてしまった。

中国の覇者に押し上げた当主の死去。毛利家は揺れた。恐らく屋台骨が全て同時に崩れるような衝撃だったのだろう。経験したくないな、うん。

不幸中の幸いだったのは吉川元春が生きていた事だと思う。島津勢が勝利の余勢を駆って、秋月家を滅ぼした足で筑前と豊前を平定している間に、無事だった諸将と共に安芸国へ帰還したからこそ毛利家は総崩れにならなかった。

小早川隆景は雪さんによって囚われていた。

当時、元就殿が討死にした事で何の心構えも出来ていないまま家督を継いだ毛利輝元。不出来な弟を支えられたのは吉川元春だけだったのだから。

 

「生憎と見当もつきませぬな」

 

俺は涼しげな表情のままで惚けた。

言質を取られると面倒なことになる。

松永久秀とは女郎蜘蛛みたいな謀臣だ。もしも万が一、島津家に不利となるような台詞を口にしてしまえば一生付き纏われるのは必至である。粘着質な毒婦。それが俺の松永久秀に対する評価だった。

 

「尼子と長宗我部よ、掃部助殿」

「ほう?」

 

初めて気付いたように驚いてみせる。演技だ。

 

「確か昵懇の間柄だったわよね、島津家とは」

「否定はせん。特に我らと尼子の主敵は毛利家だった故。敵の敵は味方で御座りましょう」

「ええ。外交の基本ね、久秀も承知してるわ」

「なら、詰問される筋合いはないものと存ずる」

「毛利家に往年の力はないわ。旧領を回復したい尼子義久、伊予国を欲している長曾我部元親。毛利家領内、もしくは毛利家の同盟者を攻めないと思うかしら?」

 

甘木の戦いで敗れた毛利家は瞬く間に衰退。

毛利元就の調略で寝返った因幡の国人衆は直ぐに尼子家に鞍替えした。手首がねじ切れるような掌返しを行ったのである。尼子義久は不快感を露わにしたらしいが、出雲国を取り戻す千載一遇の好機を見逃す訳にもいかず、彼らの帰参を許し、本国に舞い戻った。

山陽地方では宇喜多勢が躍進。備前にて勢力を伸ばしていた宇喜多直家は、毛利家の混乱を利用して備中すら支配下に納めるに至った。

九州から島津家、山陰から尼子、山陽から宇喜多と云う四面楚歌の状態に見舞われた毛利。東国大名すら毛利家の終焉を幻視した程で、如何な大国も滅びる時は一瞬であると恐れ慄いたとされる。

後は貪られるだけの腐った巨人。

俺は長門と周防だけでも占領すると決めた。本州への足掛かりを得ようとした矢先、三好家と足利将軍家による邪魔が入る。

毛利と停戦、講和しろと云う傍迷惑な言葉だった。

 

「有り得ぬと断言はできませぬ」

「久秀も同じ意見よ」

「しかし、よ。公方様が制止なされれば、尼子と長宗我部も動けますまい。そう、今回の停戦を実現なされた手腕をお持ちの公方様なら容易き事でありましょう」

 

俺は冷笑を浮かべて煽る。

一ヶ月前の意趣返しである。

あの時、島津家には余力があった。

悲願だった九州平定を成し遂げたのだから。

博多も手中にある。莫大な金銭が手元に入る。

底が見え始めた兵糧を買い占め、消費したばかりの火薬や硝石を倉庫が埋まるほど商人から頂いた上、嫌戦気分の漂う百姓兵を国許へと返す代わりに有り余る金銭で新たに兵を雇った。

長門と周防の国人衆に対する調略も順調で、大した軍資金を用いずに一ヶ月程度で占領できる手筈だったのにも拘らず、足利義栄によって絵に描いた餅となった。

当然ながら背後に三好家がいると分かっている。

長慶殿を唆して、十四代将軍すら利用して、今回の講和を主導したのが目の前で笑顔を絶やさない糞女だと断言できる。

久秀としては島津家の膨張を止める為。

将軍としては幕府の権威を知らしめる為。

島津と毛利の争いは良いように使われた訳だ。

現に講和の交渉は畿内で行われた。毛利家から安国寺恵瓊が、島津家からは俺が参加した。

どうやら前以て三好家と毛利家は交渉を終えていたらしく、両家が島津家の拡大を抑える為だけの会議だった事は言うまでもない。

 

「詰まらないことを言わないで頂戴、掃部助殿」

 

久秀が口許を歪める。

真紅の双眸は剣呑な雰囲気を孕んでいる。

唐突に不機嫌となった松永久秀は吐き捨てるように言った。

 

「足利将軍家に力なんてないわ」

「……何を申されるか」

「掃部助殿だってわかってるはずよ、将軍家に大した力が無いことぐらい。朝廷を庇護できず、日ノ本全土に広がった戦乱を正す事もできず、無為無策に時を過ごすだけの存在だわ。不必要とも言えるわね」

 

ボロクソである。

容赦のない評価を下す久秀。

足利義栄を心の底から馬鹿にしている。

松永久秀の心情など前々から察していたけれど、まさか飯盛山城内の茶室で吐露するとは予想外であった。

肯定する訳にはいかない。

久秀の罠という可能性もある。

苦笑いを浮かべた俺は言葉を濁した。

 

「長慶殿は将軍家の忠臣だと耳にしており申す」

「長慶様はね。でも、この久秀は違うわ」

「ほう。ならば何故に御座るか?」

「ふふっ、講和の話かしら」

「然り。何故、足利将軍家の権威を高めるような事をなさったのか。矛盾しておられるように見受けられるが」

 

久秀は童女のように哄笑した。

 

「掃部助殿の言う通りね。素直に認めましょう」

「何がしか理由があったと?」

「ええ。美濃を平定した織田家に、足利義秋様が助けを求めたわ。これだけで掃部助殿なら理解できるでしょう?」

 

流し目を送る女郎蜘蛛。

挑発的な態度も次第と慣れてきた。

三年前の出会いも似たような物だったからな。

 

「近い内に義秋様を擁立した織田勢が京へ攻め込んでこよう。故に公方様の権威を高め、織田勢の上洛を防ぐ御所存か」

「ふふっ、御明察ね。信長殿みたいな田舎者に京を荒らされる訳にはいかないもの。京を支配するのは長慶様でないと」

 

扇子で口元を隠す久秀。

余裕綽々な雰囲気を保っている。

それでも織田信長に対する警戒は隠し切れていない。今はまだ百万石の大名が、いずれ戦国の世を変える風雲児なのだと心の何処かで理解しているからだ。

故に足利義栄様の権威を強めた。十四代将軍は健在だと天下に知らしめた。上洛しようとする織田勢へ味方する国人衆を減らす為に、だ。

 

「織田家と戦になると?」

「久秀の予想なら早くても来年の春かしらね」

「来年の春」

「美濃を安定させるには最低でも一年は掛かるでしょうから。足場を固めた後、織田家は上洛すると久秀は見ているわ」

 

情報を小出しする久秀。

吐息を洩らしながら俺は茶碗に視線を移した。

女郎蜘蛛の思惑は読み取れる。

来年から織田家と争わなければならない。

故に今、西国が荒れると困る訳だ。軍資金を使用するだけならいざ知らず、有限である百姓兵を減らすのは言語道断と云えよう。

来年は来年で西国に構っている暇などない。

久秀は言外に伝えているのだ。

取り敢えず二年間はじっとしていろと。

島津家の力で尼子と長宗我部を我慢させろと。

 

「ふむ」

 

はてさて、どう答えたものやら。

茶碗を持ち上げて、飲む振りをする。

時間を稼ぎながら俺は思考を早めるのだった。

 

 

 

 

◼︎

 

 

 

 

四月三日、戌の刻。

松永久秀は酷く上機嫌だった。

飯盛山城の離れに作らせた茶室にて、稀代の軍略家と呼ばれる島津忠棟と言葉を交わしているからだ。三好家中にも跋扈する有象無象の武将と異なり、島津家宰相に就任してから僅か一年足らずで九州全土を支配下に治めた怪物である。

この密会で三好家の将来が決定する。

格別の緊張感を味わいながら久秀は口にした。

 

「島津家に長門国を与えようと考えているわ」

 

瞬間、空間に亀裂が入った。

茶碗に視線を向けていた忠棟が顔を上げる。

戦国一の切れ者とまで称されるようになった男の切れ長な瞳は、久秀の心臓に早鐘を打たせるほど魅力的な雰囲気を宿していた。

 

「長門を?」

「ええ。毛利輝元殿も了承しているわ」

「了承……」

「勿論、誓詞血判を持って証明してもいいわよ」

 

了承と言ったが、実際は脅迫に近い。

毛利元就の息子と思えない程、毛利輝元は愚劣な青年だった。何か一つ決めるのにも元春と恵瓊に意見を伺う様は凡愚に等しく、武断派な元春と文治派な恵瓊の争いを止められない様は暗愚を体現していた。

確かに吉川元春は名将で、安国寺恵瓊は知恵者である。前者は戦場にて活躍し、後者は外交の場で他家から譲歩を引き出すだろう。

しかし--。

主君が莫迦ならば宝の持ち腐れと言えた。

島津家の脅威論を優しく教授してしまえば、後は輝元の方からどうすればいいのかと尋ねてくる始末。厳し過ぎる姉に辟易し、元就と常々比較する外交僧を疎ましく思っているのだと瞬時に見抜いた久秀は、より甘い言葉を使って、若すぎる当主をドロドロに溶かした。

 

「長門を譲る。故に毛利を許せと?」

「小早川隆景と交換、その方が正確かしら」

「別に構わぬ。誓詞を交わした暁には、小早川殿を即刻解放しよう」

「そう。久秀も嬉しいわ。これで島津と毛利に蟠りは無くなった物ね。つまり西国に動乱は起こらない、そうでしょう?」

 

織田家と全面戦争に至るのは来年と見ている。

故に今年は準備期間だ。

畿内における三好家の足場をより強固とし、織田家に付け入る隙を与えない事こそ肝要であると三好長慶からもお墨付きを得ている。

つまり西国に構っている余裕などないのだ。

これ以上島津家の勢力が拡大せず、適度な国力の毛利家が存続し、尼子や長宗我部、宇喜多と云った中規模の大名家が互いを牽制しつつある状況こそ望ましい。

既に間者を放ち、流言飛語を拡散させている。

尼子は毛利と敵対して、長宗我部家は伊予国を治める河野家を目の敵にして、宇喜多家は播磨や美作を狙う。元々雁字搦めのような状況である事を利用し、三好家が裏から手を回せば収拾のつかない状況へ落とし込めるだろう。

 

「ね、掃部助殿?」

 

そして、島津家に長門を与える。

『与える』という言葉から島津家宰相も察しているに違いない。毛利輝元の主家は誰なのか、もしも毛利領に攻め込んだらどうなるのかすらも。

対外的には此処まで毛利家は譲歩した。島津家に大義名分は無くなった。両家の蟠りも消失したのだと知らしめるだろう。

意訳すれば、島津と毛利が争う理由も無くなったのだから、尼子と長宗我部が暴れようとしたら問答無用で抑えつけろよという事でもある。

三好家の仲裁、幕府の面子。

二つを無下にしてまで島津家が動く利益は少ないと久秀は思う。

 

「しかしながら、久秀殿」

「何でしょう?」

「いつまでも変わらぬ世はありますまい」

 

微笑を浮かべた島津忠棟。

茶の湯を飲み干して、ホッと一息吐く。

 

「その時、島津が果たしてどう動くのか。それを決められるのは只一人。我が主君であらせられる島津義久のみに御座る」

「ふふっ。変わらぬ世、とは?」

「久秀殿の知恵才覚は妙人の及ばぬ所。お察しあれ」

 

不敵な物言いは、久秀の確信を強くさせた。

堺による出会いから三年間、島津忠棟に目を付けていた最大の理由。即ち、島津の今士元と称される男は足利幕府の先を見据えていると本能的に察したからだ。

松永久秀、織田信長と同類。

三好長慶ですら足利幕府を利用するだけに留まっている。他の大名も積極的に室町幕府を滅ぼそうと考えていない。現状の体制が未来永劫続くと盲信している節すらある。

つまり異常なのは島津忠棟、松永久秀、織田信長となる。

久秀が二人に惹かれ、警戒するのも至極当然だった。

 

「良いでしょう」

 

忠棟は織田家が畿内を制すると見ている。

さりとて世の仕組みが変わったら動き出すという事は、将軍が代わるまでは大人しく静観すると公言したも同然だった。

今はこれだけで構わない。

西国に於ける最大勢力と化した島津家が動かないなら、山陰の尼子家、山陽の宇喜多家も勝ち目の薄い博打は打たない筈だ。

当主が阿呆でも、毛利両川の名は健在だから。

必要な交渉は終わった。

西国の動乱は落ち着くだろう。

今回の一件は、実質的に毛利家を影響下に置いた三好家の一人勝ちだ。宇喜多直家には備前備中の支配を認めた。問題は尼子家だが、毛利家との合戦にて数多くの武将を失ってしまった故、ここ数年は軍事的行動などできない。

来年から始まる織田家との戦も随分と楽になるに違いない。

一ヶ月間、昼夜問わず働いた久秀の謀略も実を結んだと云えよう。だから此処からは公人ではなく私人としての用事を済ませようと思った。

 

「世が変わった時、久秀はどうしようかしら」

 

ポツリと呟いた言葉に、忠棟が眉を顰めた。

 

「どうとは?」

「田舎者に迎合するのは久秀らしくないわ」

「久秀殿の才智ならば、何処に仕官しても重用されると推察致す」

 

堂々とした口振りである。

決して嘘は吐いていないだろう。

だが、言の葉に隠れた真意は違った。

獅子身中の虫を家中に入れるつもりはない。九州に流れてくるつもりなら止めろ。何処へなりとも消えてくれというのが本音だと思う。

島津家宰相、戦国の鳳雛、今士元。西国一の弓取りとまで呼ばれ始めた男から、此処まで警戒される己の才覚を喜ばしく感じながら松永久秀は破顔一笑した。

 

「どうして他人行儀なのでしょうか、掃部助殿」

 

一歩、詰める。

 

「堺であんなに情熱的な口吸いを交わした相手なのよ、久秀は」

 

さらにもう一歩、身体を寄せる。

 

「もしも世が変わることあれば、よろしくお願いするわね?」

 

逃げようとした忠棟の手を掴む。

ガシッと。ガッチリと。力強く握り締める。

 

「何を……」

「そうそう。義久様は身籠もられたとか。久秀も文を書くことと致しましょうか。勿論、掃部助殿との出会いも含めて」

「貴様、脅す気か……!」

「さにあらず。脅すなんて暴力的な事、この久秀がする訳ないでしょう。ただ、こう伝えたかっただけよ」

 

艶笑を浮かべながら、耳元に口を寄せて一言。

 

 

 

「久秀は、貴方を逃がさない」

 

 

 

 






本日の要点。

1、家久「大将首だ!! 大将首だろう!? なあ 大将首だろうおまえ!首置いてけ!!なあ!!(ドリフターズ感)」


2、義久「身籠りました(三ヶ月目)」


3、忠棟「幕府と久秀が邪魔すぎる件について」


4、久秀「はじめてのチュウ、君とチュウ(キテレツ感)」



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四十九話 島津義久との会話

 

四月二十九日、未の刻。

隈本城に帰還してから三日経過した。

松永久秀と密談し、安国寺恵瓊と交渉し、三好長慶と会談し、足利義栄に謁見するという七難八苦顔負けの苦行を成し遂げた俺に待っていたのは見上げるほど溜まっている仕事の山だった。

島津家当主である義久は世継ぎを身籠っている。

無理させられない。心身に苦痛を与えるなど言語道断。

故に島津家当主代行も兼ねることになった俺こと島津忠棟は、終わらせても直ぐに追加される仕事を一心不乱に片付けていった。

島津家の領土は十ヶ国だ。

南から薩摩、大隅、日向、肥後、肥前、筑後、筑前、豊後、豊前、そして本州の足掛かりとなるであろう長門。全ての守護に任じられた義久は、民から十州様と呼ばれたりされている。

三年前まで薩摩一国だったとは到底信じられない膨張振り。だからこそ文官が足りず、俺や歳久様に掛かる負担が大きいままな訳だけど。

 

「…………」

 

今思えば、三好家の申し出は有り難かった。

周防まで奪えたら御の字だったがそれはそれ。長門を譲り受けた事で関門海峡は完全に島津の領海となった上、本州へ兵を進めるのも容易いから良しとする。

当時の島津家は問題を抱えていた。急激すぎる領土の拡張により、平定した土地の把握すら十全に成されていなかった事である。何しろ一ヶ月で三国占領し、もう一ヶ月で二国も増やした。石高にすれば百五十万石を三ヶ月足らずで接収したという事。人が足りなくなるのも自明の理。周防、もしくは安芸までが島津家の攻勢限界地点だったのだ。

いや、人が足りないのは今も同じなんだけどね。

 

「どうしたの、源太くん?」

 

何はともあれ--。

島津家宰相専用の書院を埋め尽くした仕事の山を捌き終えた俺は、ふらつく身体に鞭を打って、義久の部屋に転がり込んだ。

突然の訪問である。迷惑だろうが我慢してくれ。

今の俺に必要なのは義久成分なのだから。

顔を見るだけで心が癒されていく。

特に何度も何度も口論を交わした女郎蜘蛛、さながら毒婦、もとい松永久秀に汚された心身が清められていった。

 

「もしかして緊急の用事?」

 

小首を傾げた島津義久。

初めて会った日から十年。

二十二歳の今でも童女のような仕草を見せる。

おっとりした部分は変わっていない。きめ細かそうな麗しい長髪も、爛々と輝く紅い垂れ目も、三洲一と名高い美貌すらも色褪せていない。

そんな当たり前の事が何故か酷く嬉しくて、俺は思わず漏れた笑みを携えながら答えた。

 

「何も無いよ。少し義久の顔が見たくてな」

「あらあら〜、嬉しいわ。此処に座って、ね」

 

義久はトントン、と隣の畳を叩く。

 

「良いのか?」

「勿論。疲れた夫を追い出す妻はいないわ〜」

「ありがとう。お言葉に甘えさせて貰おうかな」

 

勧められるがまま、俺は義久の隣に腰掛けた。

直ぐに女中がお茶を持ってくる。

疲れた身体を癒す義久の匂い。そして臓腑に行き渡るお茶の潤いによって、俺は漸く一息つけた。

 

「御免ね、源太くん。疲れてるでしょう?」

「少しだけだ。義久は気にしなくていい。軌道に乗れば楽になるはずだ。それまでは俺と歳久様が頑張るさ」

 

既に論功行賞は済んでいる。

九州平定に尽力してくれた島津家譜代の家臣は当然ながら、外様ながら武功を挙げた者、また事前に約定を交わしていた者などに新たな領地を与えた。

禄も充分に増やした。それでも有り余っている。

長門も含めれば石高にして約二百七十万石。史実で比較すれば関八州に移された徳川家康よりも大きいのだ。

薩摩、大隅、日向、肥後の四国でも人が足りていると言えなかった。にも関わらず、今では十国も拝領している。人が足りるようになるまで時間が掛かるだろうな。

 

「そう。無理しないでね、源太くん」

「義久の方こそ」

「私は大丈夫よ〜」

「どうだか。内城の時だって何も無いところで躓きそうになってただろ、義久は」

「もう。それは昔の話でしょ〜」

 

義久は頬を膨らませた。

俺の嫁が可愛すぎる件について。

優しくて、世話好きで、何より美人。

料理は死ぬほど不味い。もはや生物兵器。

それでもお釣りが来る。俺の自慢の嫁である。

 

「そういえば、源太くん」

「なに?」

「毛利家は潰さないのかしら?」

 

明日の天気を尋ねるような雰囲気である。

口調も平時と変わらない。内容は過激だけど。

 

「今は潰さない。いや、潰せなくなった」

「幕府の面子かしら?」

「そうだ。長門を譲られて、義久も十国の太守として認められた。毛利家と争う大義名分が無くなった今、幕府の面子を潰してまで攻め込んでも得られるものは少ないからな」

 

事実上、毛利家は三好家の影響下に置かれた。

備前備中の守護に任じられた宇喜多家も親三好勢力の一員と云える。更に河野家すらも毛利を通じて扱うとなれば厄介至極だ。

駄目押しとして未だに三好長慶が存命している現状だと、仮に幕府の意向に逆らって、四家と全面的に争ったとしても容易に決着など付かないと予測できる。

長引く対陣は国力を低下させる。島津家然り、三好家然り。結果として織田家が漁夫の利を得る事は明白だった。

 

「やっぱりそうなのね」

 

義久は残念そうに呟いた。

無論、原因はわかっている。

二ヶ月前、毛利家の九州北部侵攻に呼応した島津義久に対する謀叛者。鎌田政広を筆頭とした奴らは毛利勢の援軍と共に志布志城を囲んだ。

だが、速攻の進軍を持って出鼻をくじいた義久と忠久の軍勢で蹴散らした。種子島恵時、年配の武将を内応者として潜入させていたからこそ可能な鎮圧劇だった。

 

「腐っても将軍、形骸化しても幕府は幕府。それなりに影響力はあるさ。顔に泥を塗って敵対するよりも、今はまだ従っていた方が良い程度には権威も残っている」

 

いずれ潰す。

足利家に戦国の世を正す力は無い。

武家の棟梁として、朝廷の庇護者として不適格。

時代に呑まれた名門は滅びるしかないだろう。最適なのは信長に幕府滅亡の汚名を引き受けてもらう事だが、果たして上手くいくのか。

 

「直茂も同じことを言ってたわ」

「歯痒いかもしれないが、二年は動かないつもりだ。先ずは九州の足場を盤石な物にする。畿内が荒れてから山陽地方を制圧していく予定だ」

「山陰はどうするの?」

「今のままなら尼子家に任せようかなと」

「大丈夫かしら?」

 

心配そうに眉を顰める義久。

俺は肩を竦めてから大丈夫だと頷いた。

尼子家は本拠地である出雲国を取り戻した。更に伯耆、因幡、美作も領有していて、石高としては六十万石程度。毛利家の侵攻にも耐えられるぐらいの国力は有している。

さりとて恐らく数年は軍事的行動を取れない。長年に渡る毛利家との合戦により、領内が著しく疲弊している。崩れた足場を盤石なものにする必要があるだろう。石見国に攻め込んだ所で、また因幡が反旗を翻す可能性とて零では無いのだから。

畿内から帰る最中、美作で尼子義久に挨拶。今後のことを話し合った。二、三年は大人しく内政に励むとのこと。愚鈍には見えなかった。相手が悪かったな。毛利元就の次は小早川隆景。俺でも発狂する。良く耐えたと思う。

山中鹿介は見目麗しい姫武将だった。いずれ我に七難八苦を与え給えと言うのだろうか。絵面的に拙いのではと考えたが、今に始まった事ではないので比較的驚かずに流した。諦めたとか言うな。

 

「山陽から畿内に攻め込むのね?」

「長門を保有したからな。問題ない」

「四国はどうするの」

「長宗我部との交渉次第だ。河野の件で、元親殿とて伊予国に迂闊に手を出せなくなったからな」

 

毛利家の弱体化。三好家の影響力拡大。

これら二つの事象から、河野家は三好家の傘下となった。三好長慶の意思に逆らえない。謂わば属国だ。

伊予国単独ならば元親も張り切って攻め掛かったに違いない。だが、河野家の背後には毛利家と三好家が存在する。長宗我部家の国力だと押し潰されるのがオチだろう。むしろ土佐に侵攻されないように上手く立ち回る必要が出てきた。

元から昵懇の間柄だった島津家に使者を送ってきたのも、畿内で動乱が起きるまで、どうにかして生き残ろうとしているからだ。

 

「つまり、何処も動けないのね」

「奇妙な力関係が生まれたからな。雁字搦めだ」

「私たちが無理に動いたら他家が漁夫の利を得る。そういう事なのね」

「今は領国の発展に励んで、畿内に隙が生まれてから山陽を奪う。それまで調略はやり放題だからな。九州を平定するよりも楽にこなせる筈だ」

 

大義名分が無いのなら作ってしまう。

幸いに毛利家、宇喜多家共に家臣団の結束は充分な物と言えない。特に毛利家は吉川元春と安国寺恵瓊の内部争いが深刻化していると聞く。崩し放題だ。安芸国では一向一揆の気配すら現れ始めているらしい。毛利輝元からしてみればまさしく踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂だよな、こうなると。

何はともあれ--。

最近は戦続きの日々だった。

義久とて気の休まる暇など無かっただろう。

少しだけ戦から離れよう。

戦国武将として領国を富ませるのは立派な職務だからな。

 

「やっぱり長門に城を作るのかしら?」

「当然作る。後は博多にも城を建てる予定だ」

「博多にも」

「あの地域は他家の匂いがあり過ぎるからな。島津の物になったのだと領民にも分からせる必要がある」

 

城造り、町作りは黒田親子を真似する。

史実だと『福岡城』と名付けられる巨城だ。

博多を望む警固村福崎の丘陵地に築く予定だとすると名称は『福崎城』になるのか。いっそのこと地名を改めてもいいかもしれない。

義久が口許に手をやって、クスクスと笑った。

 

「源太くんの事だもの。完成したらそのお城を本拠地にするつもりなんでしょう?」

「ああ。九州と中国地方を見渡せるからな。長門まで手に入れた今、内城はおろか隈本城でも咄嗟の対応に遅れてしまう。義久は反対か?」

「ううん。どんなお城になるのか、楽しみだわ」

 

ねぇ、と微笑みながらお腹を摩る義久。

我が子が産まれるのを待ちわびる母親の姿。

一ヶ月前、義久は謀叛した者を根切りにした。

罵倒を受け入れ、切腹も許さず、寒気すら感じさせる冷徹な表情で斬首した。普段は菩薩の如く柔らかい人柄だが、胸の内に隠した一匹の鬼も見事に飼い慣らしている。

これが君主、これが天下を治める器。

改めて俺には無理な役柄だと確信した。

義久の下で采配を振るう方が性に合っている。

 

「義久は子供を産むまで安静にな」

「源太くんも無茶したら駄目よ」

「さっきも聞いたって。心配しすぎだ、義久は」

「そうかしら〜」

 

頬に手を当てて惚ける義久が可笑しかった。

取り立てて意味のない会話を繰り返す。十年の付き合いだ。義久の好きな話題も把握している。一刻ほど妻と戯れた俺は、お茶を飲み干してから部屋を後にした。

飯盛山城の時と違い、星空は鳴りを潜めている。

曇天だ。月は見えない。薄暗い隈本城内を歩く。

 

「琉球をどうするか、考えておかないとな」

 

織田と三好が争うまでの猶予期間。

有効活用しない手はない。富国強兵の時期だ。

楽市楽座、関所撤廃、目録の制定、枡の統一。内政面に於いてやるべき事など山のようにある。西国が安定している今の内に済ませておくに限る厄介な改革案ばかり。琉球に対する案もその一つであった。

幕府からの許可も既に得ている。

琉球王朝と明の出方次第だな。厄介ごとはなくならない。

それでも九州平定は天下統一への確かな一歩だ。

島津義久を武家の棟梁とする為にも、俺は足早に書院へ戻るのだった。

 

 

 

 

 

◼︎

 

 

 

 

 

五月一日、卯の刻。

岐阜城と改められた旧稲葉山城の一角。今孔明という異名を誇る『竹中半兵衛』に与えられた屋敷内にて、活発そうな少女が茶髪を左右に揺らしながら心底楽しそうに笑った。

 

「半兵衛ちゃん、久し振りだねー!」

「痛い、痛いです官兵衛ちゃん。振り回すのは辞めてください。半兵衛さんはこのまま死んでしまいそうですぅ」

「あわわわわわ。ご、御免ね半兵衛ちゃん!」

 

喜びの余りに親友を振り回した茶髪の少女は、可愛らしい断末魔を呟きながら口から魂のような物を吐く竹中半兵衛に拝み倒した。

何度も御免ねと謝る。

九死に一生を得ましたと項垂れる半兵衛。

茶髪の少女は大袈裟だなぁと改めて破顔した。

 

「二年ぶり、かな?」

「二年と五ヶ月ぶりでしょうか。わざわざ美濃までお越し頂いて、半兵衛さんは凄く嬉しいです」

「半兵衛ちゃんから助けて欲しいって手紙が来たんだから、家族の反対も押し切ってすっ飛んできたよ!」

 

えへん、と胸を張る少女。

背丈は半兵衛と変わりない。

共に十七歳と年齢も同じである。

 

「成る程ー。だからこんなに早く美濃まで。官兵衛ちゃんのご家族には申し訳ないことをしてしまいましたねー」

「大丈夫だって。利高もいるんだから!」

「そういう問題でも無いような気がしますが、官兵衛ちゃんが良いのなら構いません。半兵衛さんとしては、官兵衛ちゃんが来てくださっただけで大助かりですから」

 

儚げな印象を持つ竹中半兵衛が笑顔を浮かべる。

安心感からか、久しぶりに体調も良くなった気がする。

何しろこの一年、織田信長の無茶振りに全て応えたのだ。心身に疲れが溜まるのも至極当然。親友である官兵衛に助けを求めた理由の一つでもあった。

 

「あはは、だと良いんだけど。でもでも、半兵衛ちゃんってまた有名になったよね。親友として鼻が高いよー」

 

織田家の美濃侵攻。

史実よりも七年早い平定は、半兵衛の軍略があったからである。瞬く間に美濃南部を支配下に治めた上、調略をもって美濃北部も占領。尾張と合わせると、織田家は百万石を超える大大名へ成長した。

 

「私よりも有名になった方がおられますよー」

「島津忠棟でしょ。今士元とか呼ばれてる奴。あたしとしても興味あるけど、何だか完璧そうな人間で苦手かなぁ」

「そうなのですか?」

「だってさー。謀神に戦で勝ったんだよ。西国一の弓取りで示現流とかの開祖らしいし、島津家領内が発展したのも今士元の手腕だって聞くもん」

「付け入る隙が見当たりませんねぇ」

「でしょー」

 

親友が後ろ頭で手を組んだ。

 

「謀略、軍略、政略、全てに精通してるとか反則だよ反則。どんな超人だっての。まぁだからこそ倒しがいがあるんだけどさー」

 

九州平定を成し遂げた島津家宰相。

改めて成し遂げた出来事を羅列してみると、確かに官兵衛が嘆くほど厄介な御仁だと半兵衛は思った。統率、武勇、知略、政治。もしも数値化するなら全てが高水準に収まっている事だろう。

 

「正直な話をすると、島津家の前に三好家すらも一筋縄にいかない大大名です。勝てる可能性も低いでしょう。半兵衛さん一人だと手に余ります」

「だからあたしを呼んだんだよね?」

「はい。信長様にも話は通してありますから」

「了解、任せてよ半兵衛ちゃん」

 

ドン、と自らの胸を叩く少女。

力加減を間違ったのか、ゴホゴホと咽せる。

半兵衛はそれを生暖かい視線で見守る事にした。

ドジっ子のような一面もあるが、彼女は今孔明が認めた智慧者である。軍略家としてなら今士元にも劣っていない。

 

「あたし、黒田官兵衛と半兵衛ちゃんがいるなら問題ないって。三好家も島津家も倒して、織田家の天下を作ってやるんだから!」

「おぉー」

「二人合わせて、両兵衛ね!」

「おぉー!」

 

拍手すると、官兵衛は照れるなぁと頬を染めた。

微笑ましい光景に口許を緩ませながら、竹中半兵衛は遥か彼方にいる強敵の姿を思い浮かべた。話をしたこともなく、顔も見たことはない。それでもわかる。わかってしまう。

島津忠棟こそ、我が生涯の好敵手なのだと。

 

「頑張りましょう、官兵衛ちゃん」

「うん。島津忠棟の鼻を明かしてやろう!」

 

二人は意気揚々と誓い合った。

後世にて、織田信長が躍進する原動力になったとも伝えられる二人の軍師、両兵衛の始まりでもあった。

 

 







本日の要点。


1、忠棟「メシマズでも嫁は可愛い(確信)」


2、義久「久秀殿から文が来てたわね、そういえば」


3、官兵衛「今士元って武勇とかも凄いんだろうなぁ」←勘違い。


4、半兵衛「女性の扱いも上手いと聞いていますよー」←勘違い。



❇︎悲報「次の乗船日が差し迫っている模様」




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五十話 島津義久からの主命



❇︎超悲報「明日から船の上という地獄」


 

 

 

五月二十日、辰の刻。

島津家が九州を平定してから二ヶ月経過した。

その間に島津忠棟が畿内で講和交渉に励み、尼子義久や長曾我部元親と会談して、九州に帰ってくるや否や島津義久に謝り倒した出来事が立て続けに起こった。

現在、島津の本拠地は隈本城となっている。

薩摩国では九州全体を把握し難いという点があるから仕方ないのだが、長年島津の本拠地として栄えていた内城を放置する訳にもいかず、また九州南部を見張るという役割も存在する為、島津義久の妹である『島津歳久』が城主として治める事になった。

島津家宰相が絶対の信頼を置く内政官。

文官の足りない島津家に於いて、現状だと誰よりも頼りになる存在。故に寝る間も惜しんで政務を司る様は、小姓から哀れみの視線を向けられるほどである。

そんな彼女に御庭番衆が報告した。

島津忠棟が供回りを連れて薩摩国に入ったと。翌日にも内城へ到着すると。九州南部の視察が目的なのだと。

家臣の手前もある。

翌日、歳久は慇懃な態度で家宰一行を出迎えた。

書院の間に案内して、小姓の差し出したお茶を口に付け、ある程度場が温まった状態になってから口火を切った。

 

「視察に来るなら早目に知らせてください」

 

怒鳴り散らしていない。

それでも冷え切った声は脳髄を震わせる。

島津忠棟は顔を青くして直ぐに頭を下げた。

 

「申し訳ありませぬ」

「貴方は仮にも島津家宰相です。西国一の弓取りと称される武将なのです。下手に動けば、それだけで九州全体が揺れる。しっかり理解しなさい」

 

島津家宰相、島津忠棟。

その名前は日ノ本全土に響き渡った。

曰く、西国一の弓取り。

曰く、戦国の鳳雛にして剛勇鎮西一。

西国大名からは畏怖の視線を向けられ、東国大名からは関心の目で見られる武将。誰もが名前を聞くだけで震え上がる島津家の切り札である。

歳久は思う。

剛勇鎮西一は如何なものだろうかと。誰よりも島津義弘にこそ相応しいだろうに。もしくは島津家久か。忠棟の武力なんて有象無象の武将と変わりない低さなのだ。ともすれば歳久ですら勝てる程である。噂だけが先行して、このような異名を付けられたなら何とも可哀想な話であった。

 

「お言葉ながら--」

「何ですか」

 

ふざけた言い訳なら許さぬ。

言外にそう伝える紫紺の双眸。

忠棟は真っ向から見つめ返してから告げた。

 

「九州を揺らす。それが視察を行う理由の一つで御座りまする」

「揺らす?」

「然り。成る程、九州は平定され申した。国人衆も恭しく従っておりまする。さにありながら心中穏やかならず者も少なからずおりましょう」

 

淡々と発言する忠棟。

歳久は確かにと頷いた。

九州南部ならいざ知らず、九州北部は島津家の領内になって日が浅い。国人衆も大友家、龍造寺家を懐かしむ事とてあろう。今後を不安に思う日もあるに違いない。その弱みを他家に付け込まれてしまう可能性は成る程、低くなかった。

毛利家の弱体化と宇喜多、尼子、長宗我部などの中小大名が乱立し、西国に奇妙な力関係が生じた結果として、恐らく一年から二年の間は至極平穏な日々となる。

その裏で行われる謀略合戦。

敵の先手を挫きたいという狙いなのだ、忠棟は。

 

「貴方が視察に赴くことで、寝返りを予防するつもりですか。無理な弾圧は謀叛を早める、とは源太の言葉だった気がしますが」

「御意。故に某、こういう物を用意しておりまする」

 

小姓に持たせていた一本の鍬。

歳久が何度も見た鍬と形が違う。

何よりも木製ではなく、鉄製である。

 

「それは……」

「某の考えた農具に御座りまする」

 

忠棟曰く、水分の多い粘質土は鍬の刃に多くの土が付着し、普通の鍬では打ち込むのに抵抗が大きくなり非常に疲れてしまう。この問題を解決する為に刃を3本から5本に分け、粘質土と触れる面積を小さくしたとの事。

 

「ほう。使えそうですね」

「無論。既に有用性は実証しておりまする」

 

隈本城周辺で試したのだろう。

自信満々な口調から、より良い結果を得られたに違いない。千歯こきの開発といい、島津家宰相は絡繰を発明させる才能も多分にあるのは間違いなかった。

 

「抜け目ない事で」

「現在、島津家の抱える鉄砲は約二万丁。鉄砲鍛冶の三割を、この農具の作製に回したいと考えている次第。ご了承頂けませぬか?」

「三割も?」

 

確かに鉄製農具だとすれば、製作するのに鍛冶職人の手助けが必要である。腕のない者が作れる技術的限界を超えているからだ。

だが、鉄砲鍛冶を三割も回すとなると--。

一年もしく二年、西国にて合戦は起こらない。そう考えて問題ない。鉄砲の数は現在二万丁。他家を圧倒している。だが万が一の可能性を鑑みれば直ぐに首を縦に触れない。

思い悩む歳久に、忠棟が一歩近付いた。

 

「某の見立てなれば恐らく一年から二年、西国にて戦は起きませぬ。それに、で御座る。今まで無償で与えていた尼子、長曾我部にも鉄砲を売る手筈を整え申した。鉄砲鍛冶の三割を農具作製に回しても問題ありますまい。九州北部にて千歯こきを普及させる必要もあります故」

 

毛利勢を長い時間、山陰地方に留めさせる為。

一刻も早く土佐を統一させ、河野家に圧力をかける為。

様々な思惑があり、尼子と長宗我部に鉄砲を無償提供していた島津家だったが、両家に当面の敵がいなくなった故、これからは惜しみなく売る事になったのだと聞けば、島津歳久とて素直に首を縦に振った。

 

「鉄砲鍛冶の説得は?」

「時堯殿にお願いしておりまする」

「万事抜かりないようであれば構いません」

「はっ」

 

恭しく頭を下げた忠棟。

歳久は意地悪したくなり問い掛けた。

 

「農具を作製して何をする予定ですか?」

「民の心を掴み、国人衆に謀叛を起こさせないようにする為に御座りまする」

「ふふっ。それだけではありませんよね」

 

思わず漏れた笑い声。

歳久に長年仕えている小姓は目を見開いた。

それ程までに島津歳久が笑う事は少ないのだ。

代わりに忠棟は狐につままれたような顔をした。

 

「……流石は。よくお気づきになられましたな」

「何年も貴方と政務を行なっていれば誰でも察せられるでしょう。私を甘く見過ぎです、源太」

「歳久様を甘く見ていたつもりなど毛頭御座りませぬ。平にご容赦を。試したつもりもないと天地神明に誓いまする」

「構いません。して、目的は?」

「耕地を整理する為に御座りまする」

「整理?」

「御意」

 

島津忠棟は逆行者である。

先祖の無念を晴らす為に、戦国時代に於ける様々な問題点や解決策を必要不必要関係なく頭に叩き込んでいた。今も記憶は色褪せていない。秘伝と記した書物に残してあるから忘れても問題ない。

そして--。

数多くある問題点の中に『耕地の歪さ』が存在する。

中世から明治初期まで、日本の田園風景とは現代のような四角に区切られた田圃ではなく、歪な形をした緩やかな棚田のような形であったとされている。そう言った形状の水田は畜力による田起こし、または水田から水を抜く排水路の掘削が困難である為、現代農法の視点から見ると収量を低下させる原因となり、更に耕作する田畑が分散していると云う問題も存在した。

故に歪な耕地を綺麗な形に整え、分散していた耕地を集約する必要性が出てくる。

だが、無理に断行できない事情があった。

中世から複雑怪奇な土地所有権が進んだからだ。戦国時代になると一円支配のお蔭で多くの土地権利が整理されたものの、それでも尚、複雑に絡み合った土地所有権は消えていない。名目上の荘園所有者と、それを管理する国人、国人の支配を追認する大名、実際に耕す農民と云った具合に複雑に権利が絡み合っていた。

加えて、耕地を綺麗に整えて、面積に応じて農民に分配したとしても、用水路からの距離や利便性かつ自分の家や道路からの距離などを考慮すれば常に公平になると限らず、不満を抱く者も少なからず現れてしまう。だからこそ戦国時代に耕地整理を行う場合は国人、農民の不満を抑える為に強権を発揮できる大名の力が必要となる。

 

「今の島津家ならば断行に踏み切った所で問題ありますまい。当然念には念を入れており申す。不満を持つ民に『薩摩鍬』を無償で与える次第」

 

忠棟から耕地整理の必要性を説かれた歳久は、柄にもなく島津家宰相に同情した。

恐らく忠棟は前々から耕地整理を行いたかったのだろう。一朝一夕で考え付く政策ではない。下手すれば島津義久に仕え始めた頃から温めていた改革案の一つだったのかもしれない。

だが、島津家の国力、他家の存在、国人衆の反発など様々な面から断念せざるを得なかった。例え生産量が向上する策であり、島津家の国力増大に繋がる案だとしても諸般の事情を鑑みて已む無くお蔵入りしていたのだろう。

政務を司る様になって、歳久も少しずつ理解できた。

有用である案ほど反発者は多くなる。

既得権益に貪る者、新しい物に反発する者を時に脅し、宥め、説得し、理解させる。

一昼夜で改革が進まない理由でもあった。

 

「そして、貴方が視察に訪れる事で国人衆の不平不満を取り除こうという腹ですか」

「関所の撤廃、街道整地などもあります故。国人衆の説得もさりながら、彼らにも多大な利益があるのだと教える必要もありましょう」

「……承知しました。私個人の考えとしては問題ないでしょう。民の生活が楽になるに越したことはありません」

「御意」

 

つまり、忠棟は九州を一回りする予定なのだ。

帰順した国人衆と触れ合い、各地の港や町などを視察。浮き彫りになった問題点を持ち帰り、直ぐに解決策を提示して周囲からの賛同を得る。

とてつもなく地道な活動だが、島津家宰相が行うとなれば国人衆も無下に出来ず、また家宰殿から期待されているのだと喜ぶだろう。

その分、忠棟の仕事は増える訳だけども。

 

「私からも相談事があります」

 

心中で謝りながら口にする。

 

「何なりと」

「年貢についてです」

「ほう」

「昨年から合戦が続きました。民百姓も酷く疲弊しています。今年の年貢は四公六民とするのが適切ではないかと」

 

昨年までは五公五民だった。

これでも民から非常に喜ばれていた。

十年前まで八公二民だったのだから当然である。

坊津での税収増加、砂糖による莫大な金銭確保なども合わさって、島津貴久の時代から七公三民、六公四民へと税率を段階的に引き下げていった。

そして--。

島津義久が家督を継いだ年に、年貢を五公五民とする御触れを出した。さりとて夏頃から続いた合戦の影響もあり、稲作に必要な男たちも酷く疲弊している。九州北部の民百姓も同様だ。今年、もしくは来年まで四公六民という税率の方が今後の為にもなると歳久は考えた。

 

「はっ。畏まりました」

 

忠棟が万事御意のままにと平伏。

不意を突かれた歳久は苦笑いを浮かべる。

 

「即答ですね。よろしいのですか?」

「いずれは三公七民にする予定であります故。九州北部は他家の臭いがこびり付いており申す。消し去るには島津の財力、恩情をチラつかせていくしかありますまい。幸いにして薩州金も軌道に乗り始めたと聞いておりまする。問題ないかと」

 

一年半前から推し進めていた金山開発。

更に一歩踏み込んだ財政基盤の強化策。

この二つがつい先日、軌道に乗り始めた。

金を一定の大きさと重さを持つ貨幣とする制度を整え、九州を平定したからこそ広く流通させる目処も付いた。

勿論、金貨も工夫している。

これまでの金貨は大きさも重さも疎ら。単に持ち運びのしやすい塊でしかなかった。つまり取引にあたっては、一々天秤を使って重量を量らなければ使用する事が出来なかったのである。

だが--。

一定の大きさと重さにすれば、枚数を数えるだけで取引する事が可能だ。これこそ『薩州金』の革新性であった。忠棟曰く武田信玄を真似ただけと口にしていたが、そんなのは瑣末事であると歳久は思う。

更にこの制度を便利にする為、忠棟は四種類の金貨を生産して通貨制度を統一した。碁石金一個を『一両』、その下に四枚で一両の『一分判』、四枚で一分の『一朱判』、更に四枚で一朱の『糸目判』という制度を確立する。

既に薩摩内では流通している貨幣だ。これからは島津家領内である九州全土に広がっていく事だろう。

 

「わかりました。後は度量衡の統一ですか」

「京枡に統一致しましょう。いずれ畿内を平定した際にも、京枡ならば度量衡を変更させる必要なくなります故。正確な徴税は農民たちからも歓迎されましょうな」

「耕地整理も大きな反発なく行えそうですね」

「安堵しております」

 

口だけでなく、ホッと一息吐く忠棟。

小姓の用意したお茶を飲み干し、安堵からか肩の力を落とす様は以前と何一つ変わらない仕草だった。

十年も見てきた。伊集院から島津へ姓が変わり、独り身だった頃から一転して正室と側室を迎え、金稼ぎしか能のない卑しい餓鬼から誰もが認める島津家随一の弓取りへと周囲の評価が変貌する様を、陰ながら見守り、人知れずひたむきに応援してきた。

そんな彼女は一安心から吐息を洩らす。

如何に西国一の弓取りと称されても、根っこの部分は島津歳久が好きになった『伊集院掃部助忠棟』のままだったのだから。

 

 

 

 

◼︎

 

 

 

 

五月十日、申の刻。

時間は十日ほど遡る。

沈み行く夕陽が隈本城を橙色に染め上げる中、島津義久の部屋には三人の美女が集合していた。十国の太守である島津義久、龍造寺家を密かに壊滅に追い込んだ謀略家である鍋島直茂、そして雷神の武勇を誇る戸次道雪という、いずれも九州平定時に活躍した姫武将たちだった。

小姓も女中もいない部屋で、三人は額を突き合わせる。

所謂、女子会であった。

 

「奥方様、漸く旦那様をお許しになられたのですね。七日間も夜を独占されるのは困ります。私とて一刻も早くお子が欲しいのですから」

「直茂殿、落ち着いて。殿、久秀殿の文には忠棟殿との情事が書かれていたとか?」

「それはもう鮮明に書かれていたわねぇ。まさか三年前の堺の時点で身体を交えていたなんて想像もしてなかったわ」

「忠棟殿にしては手が早いですね」

「事実は異なりますよ、道雪殿。あの甲斐性なしにそのような度胸はありません。一服盛られた後に、気が付けば貞操を奪われていたという事でしょう」

「貞操……。久秀殿が、忠棟殿の初めての相手という事ですか?」

「源太くんは違うと言い張ってるけどねぇ。久秀殿の文を鵜呑みにすればそうなるのかしら。困ったわねぇ、直茂」

「御意。他家の女に貞操を奪われているなど沽券に関わります。故に、次は私がお子を授からねばなりますまい」

「前後が繋がっていませんよ、直茂殿」

「でも、愛してる人から隠し事されていたのよぉ。幾ら私でも、悲しさから源太くんを独占してしまうのは仕方ないと思わないかしら?」

「仕方なくないです、奥方様」

「張り合うのはやめて下さい、お二人共」

 

女三人集まれば姦しい。

至言である。

思わず逃げ出した忠棟は正しかった。

 

「兎に角。源太くんにこれ以上、悪い虫が付くのは阻止しようと思うわ。島津家中を混乱させる一因にもなりかねないもの」

 

松永久秀から送られた爆弾は効果覿面だった。

三年間隠されていた秘密。それとなく尋ねても平然と嘘を吐く忠棟。一週間、義久が夜を独占するという解決案で事なきを得たけれど。

当然、松永久秀の嘘である可能性は高い。さりとて書面に記されていた情事は生々し過ぎた。鬼気迫る内容だった。忠棟の『大きさ』まで正確に書かれていたら信じざるを得ない。

 

「殿には妙案がお有りなのですか?」

「勿論よ、道雪殿」

「やはりアレしかありませんか、奥方様」

「ええ。大友家の残党も島津家に仕官しやすくなるもの。人手不足もある程度は解消される。悪い虫も付かない。一石三鳥ね」

 

島津義久は確信を得たように頷く。

視線の先にいるのは戸次道雪だった。

台詞の内容からすぐに察した彼女は頬を紅潮させた。四ヶ月前、薄暗い臥所にて忠棟に抱き着いた時の温かさを思い出してしまう。耳まで真っ赤に染まった。

 

「道雪殿」

 

義久が一歩進んだ。

 

「源太くんは九州全土の視察に赴くわ。当然、相談役の貴女も連れ立って。知ってるでしょう?」

「え、ええ」

「好機よ、源太くんを堕としなさい。いいわね」

 

迫真の表情に、道雪は思わず首肯した。

その光景を眺めながら、直茂は例の文を後生大事に残しておこうと決める。いざという時に正室を出し抜ける切り札になる。一週間も独占されたのだ。此方は十日間通ってもらおう。それで漸く吊り合いが取れるという物だから。

 

この時はまだ誰も知らない。

直茂の残した久秀からの文が、遠い未来にまで遺されるという事に。

 

 







本日の要点。


1、世間「島津忠棟は剛勇鎮西一」←武力の数値は38程度。


2、久秀「掃部助殿の困った顔が目に浮かぶようだわ(哄笑)」←悪い虫。


3、未来「島津忠棟ってお盛んだったんだなぁ」←アソコの大きさも残った模様。




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