君がいない、どこにもいない (なんじょ)
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君がいない、どこにもいない
主の居ない部屋は、閑散としている。
きちんと並べられた教科書、机の上に転がるシャーペン、読みかけのファッション雑誌、椅子の背やベッドに放り出された服、予定の書き込まれたカレンダー、コルクボードに貼られた何枚かの写真……彼女の痕跡は至るところに残っているのに、彼女だけが居ない。それがひどく不思議で、今を持ってその不在に、現実感が無かった。
「……なんだかなぁ……わかんねーよなぁ……」
扉を開けてしばらく立ちつくした後、順平はしみじみ呟いた。そっと中に入って、見回してみる。
部屋の中に残されているのは彼女の存在を示すものばかりで、死を暗示させるものなど何一つ見あたらないというのに――今日、順平は仲間達と共に、目覚めなくなってしまった彼女を見送ってきた。
「……全部終わって、これからだって時に……何でだよ、ほんとにさ」
呻いて、順平は椅子を引いて腰を下ろした。きしむ背もたれに寄りかかって腕を組み、ため息をつく。
1年に及ぶ、シャドウとの戦い。
突然非日常に放り込まれて、命の危険に晒されて、時に仲間とぶつかり合い、心が砕けるかと思うほど辛い、悲しい出来事に見舞われて。
それら全てがようやく終わりを告げ、ありきたりの、どうって事のない、当たり前の日常を手に入れた。そう、これからは皆で明るく楽しく過ごしていけるのだと――脳天気にそう思っていたのに。
「何であいつが」
この戦いの中で、いつも先頭に立って、誰よりも傷ついて、誰よりも勇敢だった彼女が、どうして突然息を引き取ってしまったのか。
(何であいつが、死ななきゃいけなかったんだ)
こみ上げる怒りと悲しみに拳を握りしめる。アイギスの腕の中で、微笑みながら目を閉じている彼女の姿を思い出すたびに、胸が締め付けられるようだ。
(オレはあいつに、山ほど貸しがあるのに)
自分の未熟さを棚に上げて、八つ当たりばかりしていた。
敵だったチドリに恋をして、みっともないくらい右往左往していたのを、励ましてもらった。
自分が何かしでかしても、彼女はいつでも温かく受け入れてくれた。
その恩に、どれだけ報いる事が出来たのか。いや、何も出来ていない。彼女は自分に大きな、本当に大きなものを与えてくれたのに、何一つ返してやる事が出来なかった――
「くそっ! ふざけんな、あいつこそ、これから十年、二十年、ずっと笑って楽しく生きていくべきだろ!!」
叫び声と共に、拳を叩き付ける。その勢いにがたっと机が揺れ、シャーペンがころころっと転がって下に落ちた。フローリングに当たるかんっ、という乾いた音さえ大きく響いて聞こえる。
「……ちっ」
馬鹿馬鹿しい、こんな風に怒鳴ったところで、もうどうしようもないのに。自分の無力さに言いようのない苛立ちを覚え、順平は舌打ちしながらシャーペンを拾おうと屈んだ。だがふと、引き出しに目を止める。
「ん……何か入ってる?」
今の衝撃で、少し開いた引き出しの中に、何か紙のようなものがいくつか折り重なっていた。その内の一枚に「2009/7 順平」と書いてあるのが見える。
……何だこれ。オレの名前が書いてある。見てもいいのか。いや駄目だろ、勝手に人のもの見ちゃ。でも気になる。
「…………」
しばらく硬直した後、順平はぎゅっと唇を引き締めて、引き出しに手をかけた。
少し、少しだけ、ちらっと見るだけならきっと、あいつも怒らないはずだ。そんな勝手な事を思いながら、椅子を後ろに引いて引き出しを大きく開き――順平は息を飲んだ。
中にあったのは、数え切れないほどの写真。
彼女はいつも小さなデジタルカメラを持ち歩いていて、ことあるごとに写真を撮っては、皆にそれを配っていた。
例えばはがくれに初めてラーメンを食べにいった時、タルタロスで目標の階を踏破した時、夏休みにプールへ行った時、夏期講習終了後、修学旅行……とにかく何かイベントごとがあれば、いや無くても、彼女はしょっちゅう写真を撮りまくった。
『こんな風に大勢でわいわいするの初めてだから。思い出を全部撮っておきたいんだ』
彼女はそう言って、照れたり嫌がったりするメンバー達を無理矢理集めて、カメラの中に収めるのを日課にしていた。だから写真が大量にあるのは驚くべき事ではないが――
「これ……オレじゃん」
最初に気づいた「2009/7 順平」の写真を手に取り、目を瞠る。
その写真は、屋久島旅行へ行った時のもののようだった。
あの時も彼女は、カメラが壊れるんじゃなかろうかという勢いで写真を撮っていたが、この写真は水着でビーチに立つ順平しか写っていない。しかも写真の中の彼はカメラを全く意識しておらず……いや、恐らくは気づきもしないほど、遠くから撮られているようだった。
「……」
もしかして、まさかそんな。不意にどきりと心臓が跳ね、順平はごくりと唾を飲みながら、裏返しになっている写真を次々とめくっていった。そしてそれは全て、順平がほとんど一人で写っているものばかりだった。
「2009/5 試験終了後、順平」「2009/6 順平アワー」「2009/7 屋久島、ナンパ順平」「2009/8 順平、夏祭り」……イベントごとは勿論、日常の何でもない日々の中で撮られたとおぼしき写真も全て、順平だけが写っている。そしてその記録は、8月を境にぴたりと止まっていた。
(8月……オレがチドリと知り合った頃……?)
まさか、そんなまさか。机の上に写真を並べながら、顔が熱くなってくるのを感じる。端から滑り落ちそうなほど隙間無く写真を並べて、最後の一枚を手に取った順平は、それを見てさらに目を大きく見開いた。
それは数ヶ月前、学校の屋上で撮ったものだった。
この時は確か彼女に呼び出されて、この1年の事をしみじみと語り合ったはずだ。写真の中で自分と彼女が肩を組んで、楽しげに笑って収まっていた。
だが、その裏に書かれていた言葉は――「2010/1 順平、好きです」
「……そんなの」
声が震える。体が震える。
順平は歯を食いしばり、もう一度写真を表に返した。順平と一緒に写る彼女は笑っている。だが、その裏に隠された気持ちを思って見ると、どこか悲しげな、懸命に笑みを形作っているような、そんな不自然な笑顔にも思えた。
「そんなの、お前、一言も、」
一言も、素振りさえ見せた事、無かったのに。
いや、もしかしたら彼女は示していたのかもしれない。8月になるまで彼女は、順平の写真を、机が埋もれるほど撮っていた。4月に出会ってから4ヶ月、順平に対して気持ちを募らせていたのかも知れない。
だけど自分は気づかなかった。自分の事で手一杯だったから。自分と同じくらいの時期に力を手に入れたのに、さっさと先に行ってしまった彼女に嫉妬して、八つ当たりばかりしていたから。
「……何だよ……何で全然……」
胸が痛い。目が熱い。視界が揺らぐ。ぎり、と写真を握りしめ、順平は呻いた。
悔しい。悲しい。むかつく。黒い枠の中で笑っているあいつの顔を思い出すと、胸がかきむしられるようだ。泣く資格なんてない。あいつの気持ちに気づこうともしなかったオレに、泣く資格なんて。
そう思いながら、順平はこみ上げる涙を抑えきれず、手で目を覆って歯を食いしばった。
もう何も出来ない。彼女に謝る事も、報いる事も、共に生きる事も、何一つ出来ない。それが悔しくて悲しくて、どうしようもなく苦しかった。
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