埋まらない帳簿を開く (ほりごたつ)
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埋まらない帳簿を開く

――カラカラカラ カタン。

 車体を支える台を下ろし、動きの悪い駆動部分を逆に回す。

 ゆっくりと、ゆっくりと回しながら外れてしまったチェーンを元に戻していく。

 少し緩いように見られる噛み合わせの部分に、一コマずつ噛ませていき、全てを戻し終えた頃には僕の両手は臭い油に塗れてしまった。

 

「なんだって外れやすいんだろうな」

 

 持ち帰る途中で外れる事3回、そのうちの二度は後輪に絡んでしまって、うまく回らなくなった為、その度に足止めを食わされ歯痒さを味あわされていた。そんな思いを込めて直したばかりの物に文句を言ってみるが返事はない。これは今し方無縁塚から拾ってきたばかりの物だ、付喪神化するほど時を過ごしている気もしないし、当然だな。

 話さない相手に話しかけるなど滑稽だと、思い直してボロを手に取った。

 

「調子に乗って乗ろうなんて思うんじゃなかったよ」

 

 河童の作る機械臭い両手を拭い、直したばかりの物を押して壁沿いに立てかけると、すっかりとかじかんでしまった手をストーブにかざした。

 白い息を吐き手を伸ばすと、しゅんしゅんと音を立て、暖かな焔が温めてくれる。

 

「燃料が心許ないかな、また油揚げで‥‥いや」

 

 ふと目に入ったストーブの燃料ゲージ、揺れ動く赤い矢印は残りが1/3位だと示している。

 この燃料が切れれば僕の店は今よりも寒くなるだろう。

 唯でさえ幽霊が来てしまって寒くなったりする事もあるのだ、今よりも冷え込むような事があったら商品が傷んでしまいそうで困ってしまう。

 パキンと、偶に鳴るストーブを見つめ、今後の憂いに気を回す。

 そうしていると、いつもの様に店の扉が煩くなってしまった。

 

――ドンバンドン

 

 小さな拳で叩かれて、楽器のように音を鳴らす扉。

 鍵はかかっていないのだから、どうせ入るなら静かに、そう思えるがそれを伝えたとしても無駄で、同時に扉を開いて帰れと言っても無駄なので、相手にせず暖を取った。

 

「なによ、開けてくれてもいいじゃない!」

 

 雑に扉が開けられると、大きな声で喚く小さな女の子が無理やり視界に入ってくる、降り始めた雪から守るように、両手で大事そうに本を抱えた少女が頭を振って雫を飛ばしてくれた。

 

「商品が濡れるからやめてくれないか」

「売れたところなんて見た事ないし、ちょっとくらい大丈夫でしょ」

「売れてないからここにあるんだ、これから売れる商品を汚さないでくれ」

 

 少し話すと僕の真横で膝を曲げた女の子、青い前髪も他に見られる銀の髪も濡れ、着込んでいる服の黒い部分も紫色の部分もワントーン濃い色合いだ。朱鷺色の羽からも雫を垂らし始めて、このままでは本格的に商品が濡れてしまうだろう、致し方ない‥‥

 小刻みに震える『お客様』を置いて一度奥に戻り、数枚のタオルを取り出す。そのままそれを後ろ頭の上で揺れる小さな羽にかぶせた。

 

「ありがと!」

「君にじゃないよ、商品になるはずの本に対してさ。濡れてしまう前に拭いてくれないと、買い取りはなしだ」

「酷い言い草‥‥ま、いっか」

 

 隣に座ったまま濡れそぼった髪や、羽を拭き始めてしまい、時たま僕の方に雫が飛んでくる。商品を濡らされるよりは幾分マシだが、それでも屋内で濡らされてしまうなどつまらない冗談にもならない。再度の諦めを覚えながら、立てかけた拾い物『自転車』の側へと歩み、直した部分以外の点検をし始めた。

 全体的に黒一色、駆動部分のカバーや後輪の上にある荷台などは、錆びているが銀色に輝いている部分も見えて、これはきっと高級品だったのだなと、僕の鑑定眼には映った。

 三角形の車体から伸びるサドルという座面も、ところどころ破れているが厚くやわらかな素材が使われているし、車体の前後に付けえられている赤い透明な部品も、豪華さを表しているように思えた。

 

「それ、なに?」

 

 雑に拭った濡れ髪を垂らし、首にはタオルを掛けたやつが聞いてきた。

 

「これは自転車さ、外の世界の乗り物で、こう跨ってここを漕ぐと進むんだ」

 

 言いながら跨って見せる、変速機の付いた部分を跨ぎ、片足をペダルという足掛けに乗せ反時計に回して見せた。チャリチャリと軽快な音がして、直した鎖が問題なく回る。

 そうしていると、赤い目に好機を浮かべて近寄ってきた。

 興味を持ってしまったらしい、失敗したとも思うが、仕入れてきたばかりの商品を気に入ってもらえるのは古道具屋としては好ましい、これも売り出す気はないが、買い取る予定の本が乾くまでの時間稼ぎも兼ねて、少し自慢をしておこう。

 

「前の、その赤いところを見ててくれるかい?」

「ここ? おぉ! 光った!」

 

 手元のスイッチを操作し、赤い部分を発光させてみると、薄ぼんやりとした明かりが内から外へと流れていく。その動きに合わせて同じような色合いの瞳を流していく少女、気に入ったのか、正面に回ってまで見つめている。

 それなら次は‥‥

 

「キャ! いきなり何するのよ! 眩しいじゃない!」

「君は灯りが好きなのかと思ってね」

 

 先ほどとは別のスイッチを操作して、閉じていた発光部分を立ち上げる、少し動きが悪くて左右で開く幅が違うが、それでも道を照らすという役割は保てているだろう。前輪を少し浮かして回してみると、照らし出す光度が少し上がったように思えた。

 そうして後部の赤い発光部分や、車体の中央にある動きの悪い変速機も操作して見せると、段々と飽きはじめたのがわかる顔になっていく。僅かに乾いた髪先を指でかき上げる女の子。

 少し濡れていた本の表紙もそろそろ乾いただろうし、もう十分か。

 

「どうだい? 結構な代物だろう?」

「光って面白いけど、私にはいらないわね」

「いらないと言い切る理由は知りたいね」

「移動なんて飛べばいいのよ」

 

 至って当たり前の理由でいらないと話す少女。服や髪と同じく、濡れている羽を開いて数回羽ばたかせてからそう言い切ってくれた。確かに、移動するだけならそれでいいと思えるけれど、こういった乗り物に乗って移動するというのもロマンがあっていいと思える。

 そういったロマンチシズムは女性にはわからないのだろうか。

 

「それにさ、霖之助さんが持ってても意味がないと思うわ」

「どうせ売れない、なんて言ったら怒るよ」

「どうせ外に出ないじゃない、出かけないんじゃ意味がないわ」

「それは‥‥そうだね、ご尤もだ」

 

 この幻想郷で僕が行くような場所は少ない。

 年間の殆どをこの店で過ごしていると自分でも言えるくらいに、僕は出かけたりしない。

 仮に出かけてもこの変速機が5に入る事はないだろう。

 そこから鑑みればこの子の言う事は尤もで、言い返せるような言葉がなくなってしまった。僕が押し黙ると代わりに笑う女の子、怡楽が香る表情と声で笑われてしまい、静かな店内がその声とストーブの音で満たされてしまった。

 それが何故かいたたまれず、無意識の内にペダルを回していた。

 カラカラと回ってからすぐ、ガチャンと音がする。

 これで4回目か。

 全く、調子も鎖も外されてふんだり蹴ったりな気分だ。




盆で帰省し昔の写真をふと見たら、懐かしいものが写っていたので。


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ワタシの独白

 何かの軋む音と揺らめく川面だけがある景色。

 

 そこで鳴るのはキィキィとした静かな音だけ。

 

 私はこれが好きだ。

 

 何から音がしているのかって?

 それは私の手元にある物からさね。

 キィキィ鳴るのは年季の入った櫂と、同じくらいに使い込まれた相棒『タイタニック号』がこすれ合う音。

 

 私はこの音が好きだ。

 静かな景色に軋む音だけ、それだけが響くこの眺めが好きだ。

 昔から連れ添った相棒と、こいつの舵取りに使っている二つが、いつからか鳴り合うようになってた、なってくれたって言ってもいいかね、そう言ってもいいくらい同じ時間働いてくれている相棒なんだしね。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 それでだ、お客さん、私はここが好きなのさ。唐突になんだって?

 そんなつれない事を言いなさんなって、帰る事ない死出の旅路、そこに向かう少し前にちょっとだけ無駄話に付き合ってくれてもバチは当たったりしないって。当たるのは棒だけで、それも私だけだからお前さんは気にせず付き合ってくれればいいよ。

 それに話くらいしないとここは静かすぎてね、お前さんも景色に飽いちまうだろう?

 ここは流れる音すらしない静かな川だ、私くらい慣れりゃあ静かで寝るにゃいいところってな感じなんだが、一回限りしか渡らないお前さんには退屈なだけだろう?

 

 寝たら起きないって、失礼な事を言うねぇ、お前さん。

 私だって寝っぱなしってわけじゃあないし、今だってキチンとお仕事してるじゃないか。出会いから失礼な事を言うと突き落としちまうよ?

 って冗談だよ、冗談。そんな事したら上司から檄が飛んできちまう、おっかないお人なんだよ。

 おぉ、知ってるってか。うん?

 私が叱られてるところを何度か見てるって?

 そいつはまずいところを見られたもんだ。けど、ま、いいさね、お前さんに見られる事はもうないだろうし、あの世へのみやげ話にでもしてくれていいよ。話したところでまたかって言われるだけだろうがね。

 

 ん、あぁここはまだあの世じゃないさ、ここはあの世の一丁目にも入ってない、まだ三途の中程だ。三途を渡り彼岸へ上ってからが漸くあの世、死後の世界ってところなのさ。

 結構進んだがまだ中程なのかって?

 そうさね、中程ってのは語弊があったか、暇な渡河ももう直さ、あんたの向こう岸は随分と近いからね、最近の人間にしては近くて大助かりだ。これは誇ってもいい事だよ、近頃の人間は徳を積むどころか欲をかいてばっかりだ、生前のお前さんみたいに謙虚さを知ってるやつってのは少なくなってきてるからね。

 

 それでも向こう側が見えないってか。それは仕方ないさ、渡る途中で色々と考えてもらうのがこの川なんだ、多少徳高いからってあんまり近くしちまったら意味がなくなっちまうからね。

 それにだ、ここで疑うなんて不徳な思いは持つべきじゃあないよ、私が言うんだから間違いないはずだし、あんたは疑わなければならない生き方をしちゃあいないだろう?

 私が視る限りだが、お前さんは真っ当な生き方をして真っ当に死んだ人間だ。

 生まれ、働き、子を成して、平々凡々と生きて死んだって感じだろう。

 それなら変な勘ぐりなんてしないで、生前通りに真っ当に座ったまま、真っ当に私に送られるだけでいいのさ。まぁ、もうちょっと長生きできれば孫でも見られたかもしれんが、そこは少しばかり惜しかったがね。

 

 なんだい?

 それが分かってるならもう少し待っとくれってかい?

 そいつは出来ない相談さね、人には決まった寿命ってもんがあるんだ。まぁなんだ、運がなかったとでも思って諦めとくれよ。仮に待ったとしても今更生き返る体もないし、もし生き返って人間じゃなくなっちまっても、あんたは退治されるだろうしね。

 それにさ、あんた達人間に限らず何事にも寿命ってのがあるもんだ、あんたらが使う物だって使っていればその内に壊れてさ、買い換えるなり修繕するなりするだろう?

 物ならそれで使い続ける事も出来るかもしれんがね、あんた達の場合にはそうさな、病気に罹れば治したり健康に気を使って多少伸ばしたりも出来るが、それよりも持って生まれた運やら天賦ってものやらが絡んでくるもんなんだ。そうやって色々絡んで決まるのがあんたら人間の寿命で人生ってやつさね。

 

 あぁ、そうさ、お前さんみたいに気がつかない奴らが大半だがね。終わりは既に決まってるが、その終わり自体は暮らしぶりや生き方で伸ばすも縮ませるも出来るもんなんだよ。お前さんも気が付かなかったからって悪い事なんてないよ、それで普通なんだ、気にしなさんな。

 それでもそうだね、お前さんには当たり前過ぎて気が付かなかったのかもしれないが、今迄十分に幸せだったろう?

 中には志半ばで死んでいく連中もいるし、晴らせないモノを腹に収めたまま、恨み辛みをふくんだまんま私に送られる奴ってのもいるんだよ?

 そいつらに比べりゃお前さんは幸せってもんさね。畳の上で家族に看取られて死ねたんだ、それだけでも幸せな事だと思わないとこの後のお裁きでお叱りがあるかもしれないよ?

 

 あぁこの後かい?

 なに、あんたの場合は閻魔様に裁かれて然るべき場所に逝くだけだろうよ。何処に行くのってか、それは私からは言えないねぇ、いやさ、知らないんだから教えられないって事だよ。私の目にあんたらの寿命は映るが寿命を終えた先ってのは視えないし、視えても教えるわけにゃいかないしねぇ。

 ん、職業柄ってやつさ。私は上司に裁かれるべき魂を運ぶのがお仕事でね、それ以上でも以下でもないのさ‥‥気にならないのかって?

 そりゃあ気にならない事もないさ、例えばそうさな、最近はとんとなくなったんだがちょっと前は子供が私の船に乗ることが多かったんだよ、あの子らの逝く先がどっちになるのか、少し気にしてた頃ってのもあったね。

 

 お前さんも聞いてるだろう?

 ありゃ、聞いてないってか。

 なんだい、里の寺子屋じゃあそういう授業はしないのか。なんの話って当然幻想郷のお話さ、ちょっと前、私らからすりゃあちょっと前だが、お前さんからしたら生まれるよりも前の結構昔ってくらいになるのかね。

 その頃はスペルカードルールなんてのがなくてさ、妖怪が妖怪として人を襲って、人間は人間として食われるってのがまかり通ってたんだ、そうさね、そういう時代が幻想郷にもあったんだよ。

 あの頃は今よりも子供の霊が多くてね。お前さんくらいの、年寄りでも若者でもない世代の人間ってのはあまり死ななかったのさ、なんでって、よく考えれば分かるだろう?

 隙を見せれば襲われるような時世だったんだ、好奇心ばっかり旺盛でちょっと誘われればホイホイ着いていっちまうのが子供だろ、そして知恵はあるが体力は衰え、いざって時に逃げきれないのがお前さんよりも上の世代だ、そいつらが人喰い連中と出逢えばどうなるかって事さ。

 場合によっちゃあ捨てられたり、間引かれたりって話もあったらしいが、その話はもっと古い頃のお話さ、まだ幻想郷って呼ばれる前の話だから、私から言う事でもなかろうよ。

 

 危なかったんだって人事だねぇ、まぁ、他人事だからそれで当然なんだがね。

 それでだ、そんな時代もあったけどそれはそのうちに終わってね、そうそうあの真っ赤なお屋敷さ、あそこの吸血鬼がスペルカードルールに乗っかったのが流行り始めた発端さ。へぇ、そういうのは授業としてやるのかい‥‥ん、いやいや、なんでもないよ。ただちょっとね、知らなくてもよくなった事は教える必要もなくなったのかなって思っただけさ。

 これも悪いなんて思っちゃいないよ、知らなくたっていい事なんて世の中星の数だろう、私から見りゃあこれもそんなお星様の一つってだけさね。短い人生なんだ、知らなくてもいい事を知ろうとして無駄にする時間を増やすなんてしなくともいいのさ。

 

 おいおい、無駄話に付き合わせるのはどうなんだ、なんて言わないどくれよ。

 私はお喋りが好きなんだ、それも乗せる相手の話を聞きながら私も話すってな今みたいなお喋りが大好きなんだよ。なんでって、そりゃあ静かな空気が苦手ってのもあるにはあるが、送る客に最後に笑ってもらいたいからかね。これから先は長い長いお話とお裁きが待ってるんだ、どうあがいたってそれからは逃げられんからさ、辟易する前くらい楽しく過ごしてもらいたいって私からの粋な計らいさね。

 おっと、自分で言うなとか思っても言うんじゃないよ、そんな事を言う奴は閻魔様がなさる前に私がその舌引っこ抜いちまうかもしれないからね。その方が早く終わりそうだって、そんな事するわきゃあないだろ、私は私の仕事しかしないよ、お前さんに見られるくらいに私はサボり好きな船頭さんなんだからさ。

 

 さて、あっちを見てみなよ。

 ダラダラ話し込んでる間に対岸が見えてきたよ、そうそう、あれが彼岸さね。綺麗なところだろう、私も好きなところなんだ、ちょっと木陰で横になるだけで快適な眠りが約束されてるからね。

 なんだい、そのソレばっかりってな目は。そうさ、本当ならソレばっかりして過ごしていたいところなんだがねぇ、生憎お前さん達が生まれては死んでを繰り返してくれるからそうも出来ずにいるのさ。

 

 お、やっと笑ったね。

 笑うと綺麗な笑窪が可愛いじゃないか。

 髭面よりもそっちを見せてた方が女にモテたんじゃないかい?

 そんな歳じゃないって何言ってるのさ、私からすれば大概の人間はひよっこさね。

 

 

 さぁて到着だよお客さん、足元に注意して降りとくれ。

 あぁもう生えてなかったね、こいつは失礼。

 お、お客さん一回笑い始めたらウルサイねぇ、笑い上戸だったのかい?

 ほら、いいから、笑ってないで先に進みなって。

 ありがとうなんていいんだよ、私は仕事をこなしたまでだ。

 楽しかったのならそれはお前さんが勝手に楽しんだだけさね。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 送り届けて帰り道。

 

 一人になった私の耳に響くのは一定のリズム。

 

 右、左、キィキィと鳴る音だけ。

 

 ワタシ一人しかいない川で聞くコレを、私は好いている。



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微睡む朝、訪れる目覚め

 ふと目を覚ます。

 まだ暗い。

 けれど少しだけ明るさが広がり始めた朝、早い朝。

 

 瞑っていた瞳を開く。

 見えるのは見慣れた木目と淡い桜色。

 何故か前髪を掻き上げたくなった、視界の端で桜色が揺れ、消えた。

 

 静かな部屋、私しかいない自室。

 生命などない場所にある住まいの奥まった部屋なのだから静かで必然とも思える。

 それに、私に賑やかさを届けてくれるあの子は、まだ目覚めてはいないはず。

 だというのに何故か騒がしく感じる。目覚めの朝日も浴びていないのに私の胸の内が少し騒いでいるようだ。寝起きから少しだけ高鳴るものが胸中にある。こう感じるのは久方ぶりでちょっとだけ慣れない、鼓動を打つものなどとうの昔になくなっているのだから。

 

 寝ていた布団から半身だけ起こす。

 変に目覚めてしまって頭は起きているけれど、縦にした身体は未だ眠りの中にいるような、曖昧な、温い浅瀬で微睡むような感覚を覚えた。

 それでも一箇所、確かな感覚を得ている場所もあるみたい。

 

 頬。

 ツゥ、と。

 静かで動きのない部屋の中、唯一動いたものが伝う。

 

 何故私は泣いていたのか。寝起きの頭ではわからない。

 伝う涙を軽く拭う。

 そうして何故と、私に問いかけるが、私は答えてくれなかった。 

 

 考えていてもわからない、それなら考えない。

 そんな風に、考えを入れ替えるように立ち上がった。

 締め切られた障子を開き、外を眺む。

 やはり早い時間だった、陽の光は未だ遠く低く、顕界の空を白めるだけに留まっているようだ。それでも、後半刻もすれば日が差し始めてくれて、私の庭や、それを眺める私の顔も照らし出してくれるだろう。その頃にはきっとあの子も起き出して、朝餉の準備を始めてくれるはず。

 

 そうなるまで私は暇。

 というよりも今のような状態になってからは、ほとんどの時間が暇という予定に埋められている。こうやってなんともない事を考える事すらもしない、しようとはせずに、ただぼんやりと過ごし、偶に訪れてくれる友人と語らうだけ、それが今の私。

 

 霊魂の管理をしなさい。

 閻魔様からはそんなお仕事を頂いてはいるのだけれど、過ごしている霊達は皆裁判待ちの者達で手がかるような者達などはいない。それに今の私に出来るのは上手に霊魂を管理する事ではなく、上手に霊を作る事だ。

 

 いつか。

 いつ頃だったのか覚えていないけれど、以前は操れるだけだった気がする。だのにいつからか(いざな)えるようになり、誘う事が苦ではなくなり、さも当たり前になり……他人様の吐息を止める方が私には得意になっていた、そう願った事も、欲した事もないというのに。

 

 

 気が付くと口元に手があった。

 まるで自分の吐息を止めるように、私の口を塞ぐ右手。

 その手にポトリ、雫が落ちる。

 また私は泣いていたみたい。

 右手の甲に落ちた雫二つを左手の指先で救い上げる。

 そうしてまた考える。

 何故私は泣いているのか。

 自身の涙で輝く指を見つめ、あの子に呼ばれるまでは考えてみる事にした。

 

 最初に思いついたのは泣きたかったから、という事。

 けれどこの考えの答えはすぐに出た、泣きたくて泣いたのならこうやって考える事などないと、キラリ光る人差し指が教えてくれた。

 

 次いで思いついたのは人恋しいという事。

 もうすぐ日が昇ればあの子が来てくれる。先代と共にいつからか一緒に暮らし始め、いつの間にかいなくなってしまった先代に代わり、私の側にいてくれて当たり前となってくれたあの子。

 もうすぐに元気な声で、おはようございますと笑顔で起こしに来てくれる子がいる‥‥でも、あの子は家族で、私に心から仕えてくれている子だ。あの子の祖父からそう仕込まれて、仕込まれた通りに可愛い従者としていつも一緒にいてくれる。

 

 嬉しく思う、同時に少しだけ寂しくも思う。

 だってそうでしょう、友人は様なんて言ってはこない。でも、ソレが恨めしいとは感じない。

 だってそうでしょう?

 あの子は居てくれて当たり前で、それ以上を望むのはきっと贅沢が過ぎる事なのだと、今の私には思えてしまうのだから。

 

 きっと答えは別のモノだ。

 ならば違う相手、だとすればお友達のせい?

 いえ、それも違う‥‥ように思えた。

 来てくれれば楽しい。それも当然なのだけれど、別れの際には私も笑って手を振り、またねと言うのがお決まりになっているから、会えない事が寂しいというわけではなく、会いに来てくれない事が寂しいとも思えずにいた。

 

 それならばなんだろう、感じるこの焦燥感の理由は‥‥

 

 カタリ。

 起こした身体を動かすと、枕元でゆっくり倒れた物があった。

 火の消えた行灯にもたれかかり、斜めになっている背表紙を見て、そういえば寝る間際まで読んでいた事を思い出す。寝付く前の事が脳裏に浮かぶと、スルスル、動き始める思考。

 そうか、新しくこれを読み始めてしまったから、そうして(とこ)についたから、私は泣いてしまったのかもしれない。

 

 そう考えてしまうと無意識に手を伸ばしていた。

 手に取った書物は古い。端は切れ、表紙は掠れて、(へり)は日に焼けてしまっている。我が家にあった蔵書の一つで随分と奥にしまいこんであったもの。着古した浅葱色の着物に包まれて、書架の奥の奥に、まるで隠していたかのように収まっていた本。

 少し前に起こした異変で屋敷が揺れてしまい、並んでいた書架が倒れてしまって、解決に来た少女達が帰ってから、あの子と二人で片付けた物の中に紛れていた物。

 

 懐かしい着物を見つけたと、二人で微笑み思い出話に花咲いたあの時。

 それから羽織りを広げた時に中から転げ落ちてきた物が、この題名のわからない書物。本と言い切るには薄く、どうにか読み取れた部分も物語というよりは日常を、その日あった事を書き認めた日記に近いものに思えた物。

 

 それを読み始めたのが昨晩。

 日記の始まりは誰かの誕生から始まった。

 仕えていたお屋敷に一人娘が生まれた。

 元気に泣いて産声を聞かせてくれた事を喜び、抱かせて貰った時には泣きながら髭を握られたと、そんな事が嬉しそうな字体で書かれていた初日。

 あの堅物が赤子を抱くなど、と、少し可笑しい景色が描かれた日記を、文字に指を添えてゆっくりと読み始めていた。

 

 次に読み取れたのは生誕から少ししてから。

 生まれた子が育ち、自分の足で立ち上がり、歩き出す事が出来るようになった頃合いの一日。綴られていたのは桜舞う庭先で辿々しく走り回り、そんな風にはしゃいでは危ないと手を伸ばした瞬間に転げて、盛大に泣かれてしまったと記されていた。

 よく泣く子供だ。そんな風に、日記を書いたあの者が浮かべていただろう微笑みを私も浮かべ、読んでいた。

 

 それからペラペラと、その子の事ばかりが書いてある日が続き、最後に当たる部分がくる。

 この日はどうにも明るい話題ではないらしく、先に読めていた部分よりも硬い文体と力の込められた筆跡が見られた。

 丁度くっついてしまった部分、端が繋がってしまったのがこの頁で、栞を挟んでおいたのもここ。力強く書かれた『封』という文字が剥がれない事と関係するように思えて、翌日に日が昇ったら剥がせないか試してみようと考えていたのだ、と、挟んだ栞を撫でて思い出せた。

 

 正直に言えば、最初は内容を気にしていなかった。

 あの着物に包まれていたのは何故か、去る時に持ち出さず態々残し、隠したのは何故かと、日記よりも日記の持ち主だった者の事を考えて少しずつ読み解いていたのに、少し読んだ今では中身が気になっている私。

 開き、読む事が出来れば泣いてしまった理由がわかるかもしれない、そう考えついてしまうと、試さずにはいられない。

 

 掠れた表紙を開き、か弱くなってしまった頁を捲る。

 千切れてしまわないように気を使い、桜の花弁が2・3枚押された和紙の栞を外す。

 そうして次の頁に指先添わせ、摘み上げたのだけれど‥‥

 

「あっ」

 

 口をついて出てしまった声。

 少しだけ剥がれた端。このまま上手く剥がせれば、という小さな安堵と、古い紙を擦った事で僅かに裂けた人差し指を見て、勝手に口から漏れ出た驚き。

 私が人であったなら赤い雫が垂れるはずの指先。今では薄っすらとしたモヤのようなモノが漏れるだけの指先をパクリ、食む。

 あの子に見られれば下品だと窘められそう、それでもこの日記に書かれていた女の子ならこうするだろうと思えて、はしたないと理解しつつ、人差し指に軽く吸い付いた。

 

 その姿のまま続ける作業。

 右手は咥えたまま、左手の小指だけを開いたスキマにそっと差す。

 少しずつ、微かに聞こえるペリリという音を耳にしながら、片目を瞑り剥がしていく。本当に私が日記の女の子だったなら後は舌でもチロリと出して、額に汗でも浮かべて剥がすのだろう。

 でも私は私でこの女の子ではない、流石にそこまではしたない、(おさな)すぎる姿を曝け出す事は出来なかった。この女の子のように誰かに見守られていたのなら、そうする事も出来たのかもしれないけれど。

 

 もう少し。あとちょっと。

 閉じた封が開く小さな期待と、開いても何も書かれていないかもしれないという不安。その二つを動かす指に込め、半分くらい剥がれた日記を眺める。日が昇ったのだろう、少しだけ色薄くなったような紙面を何故だろうか、自然と頬を綻ばせて見つめていると、元気な影がそこに映った。

 

「おはようございまぁす! 綺麗に晴れたいい朝で……す、よ?」

「おは‥‥ぁ」

 

 開いていた障子の先、変化のない枯山水を背に、朝日のような声色で言われたご挨拶。

 驚いたりはしなかった、しなかったはず。でも少しだけ、ほんの少しだけ力が篭ってしまったみたい、指を差し込んでいた辺りが破けてしまった。思わず見合う私達。

 

「あ、あの申し訳ありません! もうお目覚めになられて、というか何かをされているなんて……思わなくってですね‥‥」

「いいのよ、破れてもいいかなって思っていた気もするし」

「でも‥‥その……泣きながらそう仰られても」

「えっ?」

 

 言われて触れる頬。

 触れると気がつく、雫ではなく跡になるくらいにポロポロと流れていた涙。

 ポツポツ、手元に落ちて日記に増える染みた跡。悲しくはない、はず。だというのに止まらない、止まってはくれない涙。

 何度か指で拭うと、心配そうに、申し訳無さそうに覗きこんでくる顔。その顔がなんだか可笑しくて、思わず目を細めながら涙してしまった。

 

 そんな私がおかしく見えるのか、心配だと書かれた顔が余計に変な顔になった、ように見えてしまって、我慢出来ず笑い声を漏らしてしまった。

 こうなるとさすがに顔色が変わる、心配よりもからかわれたと、そんな風に考えているだろう顔。年頃の女の子らしい、ちょっとだけ膨れた顔を見せてくれる‥‥けれど、肩に置かれた手は温かくて、それがなんだか優しくて。その手を取り、私の頭に触れさせた。

 後ろから前へ、大人が子供をあやすように、少しだけ促すように動かす。

 一度二度、三度と手を添えて動かし離すと、少しだけ戸惑った動きで、同じように撫で続けてくれた。

 

 甘えたいわけでもなかった、それでもこうしたかった、してほしかった。

 破れ、私の涙で濡れて読むことが出来なくなった日記の頁、ここにはこんな事をしたって書いてあればいいな、そんな風に思えてしまったから。 

 

 子供のようにあやされて、少しだけ恥ずかしくなる。

 ついつい俯いてしまい、日記が視界の中央に収まる。

 けれど前髪が撫でられ、落ちて、それを隠す。

 

 視界で桃色が揺れ、遊ぶ。

 そうなるだけで気にしていた日記は見えなくなり、そうして私はまた笑えた。



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来報の出会いの形

 少し痛む頭を振ると後頭部に何かが刺さり、ズキンと余計に痛みが増した。

 それでも気にせず、振り返りもせずに歩む。

 足に纏わり張り付く葉を払い、少しだけ背中側を気にして歩むと、私を指す視線も同じく動いて、日中に降った霧を吸って僅かに湿る落ち葉が僅かに音を立てた。

 

 今晩のような月が綺麗な夜は嫌いだ。

 万事を凍らせるように澄む月明かりは私の事も冷やしてしまうようで、そんな日は酷く痛むから私は月が嫌いだ。

 こういう日には足元を見ながら歩いて、聞き慣れた葉音で気を紛らわせて過ごすんだけど、今日は生憎の天気だったからその足音も殆ど鳴らなくて、気晴らしも出来なくて。

 本当に今日は厄日だと思えた、よく晴れた日だったらもっとマシだったのに。

 

 カサついて積み重なった竹の葉を踏むと少し沈んで割れて、微塵となって消えていく。

 そんな儚い雰囲気が好きで、私はよく歩いている。でも、今日はそれらは聞けなくて、だからこそついてないなって感じたんだけれど、それは今の気分がそうなだけ。

 

 今のような濡れ模様も別に、嫌いじゃない。

 近くにある何かにしがみつきたいと。

 触れたモノに手を伸ばし、私も一緒にいきたいと。

 足に張り付き絡みついてくる落ち葉達が私にそう言ってくれているような気がして。

 湿る葉も嫌いじゃない。

 

 

 この竹林に居着いて何年経ったかはもう覚えてない。

 一人で出歩いて、気が済んだ頃に立ち止まり、眠くなったら寝る生活ばかりを繰り返していて時の流れなど気にかけなくなっているし、気にする必要も私にはないから。

 でも、そんな日々ばかりが永く続いてたけれど、最近はそうも出来なくて眠れぬ夜は歩みながら夜明けを待つようにもなった。これは永らく変わらなかった生活に出来た少しの変化。

 

 何百年か前は猛る焔のような盛り上がりも多少はあったけど今ではそれもなくなってしまって、平坦な暮らしの中今でもしている事といえば随分前に手に入れた本を読んだりするくらい。

 手に入れた頃はそれなりの装丁だったんだけど、今は端切れが擦れてボロボロになってしまって。それでも読むのに問題はないから今でも時間があれば読み開いている。

 唯一読書だけが実家にいた頃から続く趣味。

 書を開き読み耽っていると他を気にしなくていいから。

 

 張りもなにもない生活をしてると自分でも思う。本当に何もしない日もあるくらいで、目的もなく生き続けるのに飽いてそのまま‥‥なんて日も、たまにはある。

 それでも、私から何かをしようとは思えなくて、無駄に生きる事をやめる事も出来なくて。

 只々日が昇ったのを竹葉の合間から見つめたり、暮れていく夕日の中立ち上る妖怪の山の煙を眺めたり、鬱々とした気分で書に耽ったりする日々。

 

 見慣れた竹と違ってしなりそうもない、ハリのない生活。

 何時からか灯せるようになった焔のように揺蕩って、燻り消えていくだけの普段通りの一日。

 今日も変わらない、変われない毎日が来ると少し前までは考えていた。

 目覚め、徘徊し始めて、今後ろからついきているのを見つけてしまうまでは。

 

「ゆっくり歩こうか?」

 

 歩みを遅めて、振り向きもせず話す。

 背中で聞いていた濡れ葉の音が少しだけ近づいた気がする。

 ちょっとだけ気になって、歩幅を狭め更に速度を落とす。

 すると、数歩後ろに聞こえていた小さな足音が話しかける前よりも近く、手を伸ばせば届いてしまいそうな位置に移動したのがわかった。小走りで追いかけてくるくらいなら『待って』とか『ゆっくりがいい』とか、そんな事を言ってくればそれに合わせて歩いてやるのに、話しかけても返事は返ってこない。

 

 横目に映る足元を見る。

 よくある着回しの着物、大人の着物を仕立て直した子供服が視界の端で裾を揺らしていた。仕立てや生地の様子からこの子は人間の里で暮らしているはずの子供だと思った。この地で人間の子供が生きられる場所なんてそこぐらいで、里に近寄らない私にもそれくらいはわかるけど、わかったところで特にどうしようとは思えずにいた、口では多少言ったけれどね。

 

 

 この子供を最初に見つけたのは昼餉を過ぎた頃。

 太陽が真上に登って真っ直ぐに伸びる竹の影が短くなる時間だったから、きっとお昼くらいだったはず。ぼんやり竹林を歩いていると太めの竹に背を預け(くわ)と掘り起こしたんだろう小さな筍を抱えて蹲っているのを見つけた、見つけてしまったんだ。

 

 放っておいても良かった、実際昼間は放っておいた。

 太い竹を背もたれにして座り込み、遠くを見つめて柔らかく笑っているだけの子供なんて少し不気味に思えてしまって、なんとなく関わるのはやめておこうと思えたからだ。

 それでも後々で気にしてしまった。

 こんな場所で、たった一人でいるのに笑っていたのは何故か、なんて気にしてしまった。だから日が落ちてからもう一度近くを通ってしまったんだ。

 

 近よらなければ良かったと、見なかった事にすれば良かったとも、今更だけど少し思う。

 世捨て人に近い私から見てもどこかおかしな子供。ソレくらいに反応がない子供。

 全くないってわけじゃないか、何か言えば私を見上げ顔を覗き込んでくるし、座っていた時と同じように笑いかけてくるのだから。それでも僅かな後悔が私の中で私を笑っている気がする、誰かと関わってもいい事なんてないと理解しているから、余計に嗤われていると感じてしまう。

 

 見なかった事にすれば、出来ていれば。

 今頃はあの兎詐欺にでも見つかって竹林から追い出されるか、もしくは他の妖怪、狼女か妖精にでも食われるか殺されるかして終わりだったはず。いくら子供だとしてもこの場所について知らないわけはないだろうし、こんな所に一人で踏み入ればそうなるとわかるはず、だからこそ放っておこうと……そう思ったんだけど。

 目が合って、微笑まれてしまって。

 そうなってしまったら何故か放りっぱなしではいられなかった。

 それから声を掛けて、無言のままで後をついてこられて。

 今では竹林の端に向かって先導して歩いている。

 

 人助けだとか、そんなつもりはない。

 助けてやってもそれは今日の今だけの事になってしまい、いつかは忘れさられたり、場合によっては裏切られる事になると私は知っていたから、経験しているから。

 誰かを助けてやろうなんて今の私は考えない、はず。

 今のコレは、そう、いつまでも近くにいられても困るから。

 目障りだから一人でも帰れるような場所までは連れて行ってやるかと思っただけ。

 そう、魔が差しただけ、それだけのはずだ。

 

 目に付く場所にいないでくれ。

 近くで楽しそうに、覚えのある顔で笑わないでくれ。

 そんな風に考えてはいないはず、きっと。

 

「少し休む?」 

 

 考えながら歩いていたら少し離れてしまったみたい。

 無言でついてくるだけの子供を待つついで、何か場を濁すつもりで言ったけどなんでだろう、気にかけるような言い草がもどかしい。気にしていないはずなのに、なんだろうな。

 よくわからない気持ちが我ながら阿呆らしくて耐えられず、軽く頭を掻いた。そんな姿を見てくる相手、私を見上げてついてくる子供の方は聞いているのかいないのか、わからないような笑顔で私と目を合わせるだけ。

 どうでもいいけどさすがに、やりづらいというかバツが悪い。

 

「ほら、鍬、よこして」

 

 空気に負けてついつい手を伸ばしてしまった。

 重さにふらつく子供から奪うように鍬を掴み、軽々肩に乗せて、また先を急ぐ。

 私は何をやっているんだろう、他者と関わりを持てない、持ちたくなくなったのに自分から手助けするなど。追加された後悔がまた私を笑っているような気がしたが、今回はどうにか自分を誤魔化した。

 

 相手が子供だから、大人とは違ってまだ素直なのが相手だから、話しかけて、要らぬおせっかいをしてるんだろう、出来るんだろう。そうやって己を納得させた。

 そうして手にした鍬を握り直し、担いでまた歩む。

 本当に、こうして誰かと歩くなんていつ以来なのか。

 そうだ、この竹林に居着く前、都で暮らしていた頃はこうしていたな。

 

 古い記憶、それは生まれた家での景色。

 宛がわれ着せられただけの、ミエの重たい着物を引きずって、私以外に誰もいない屋敷の中を歩いていた頃。極稀に様子を見に来て下さる父上の後を追いかけて、屋敷の廊下を走っていた頃はこうして後に着いていた気がする。

 思えばあの頃は何も考えてなかったな。

 父上がいらしてくれる事だけを考えて、会えたら笑って、話して、お帰りには縋り付いて。困る事だけをする、我ながら我が儘な娘だったように思える。

 そういえばあの時の父上はどんな顔で私を見ていたんだろう。

 今はもう思い出せない。

 

「ん、何? あぁ、大丈夫。ちょっと前から頭痛が酷くってさ、気になっただけだよ」

 

 考えながら歩く最中、軽く袖を引かれた。

 私の袖を摘む子供の顔は変わらぬ笑顔。けれど、どことなく陰りの伺える笑顔。こんな顔で見られるのは何故か、考える事もなく答えは出た。子供の視線が私の眉間にある、ズキンと痛む中身のせいで表面にまで皺が寄っていたようだ。

 取り敢えず大丈夫と濁して言い返す‥‥が、再度引かれる肘の辺り。

 

「私の事はいいから。慣れてるからさ」

 

 子供が持つには大振りな鍬をトントン、軽く上下。

 誤魔化すように肩を叩く、けれど顔はしかめっ面。そんな表情を取り払いたくて、首も小さく回してみたりしたけど子の顔は晴れない。それもそうか、さながら不調ですって顔にかいてあるんだ、子供だってそれくらい気がつくがはずだ。

 

 鍬を担ぐ右肘に小さな手を添えてまた見上げてくる。

 上目遣いで、私の右手に僅かな重さを増やして、笑い顔で。

 その笑みが何故か見覚えのある顔で、角度で。

 真っ直ぐに見られず、思わず目を逸らす。

 

「……もうすぐ出るよ、ここを出たら一人で帰るんだからね」

 

 袖にかかる重みを感じながら、再度鍬を担ぎ直して、それから鍬の柄を出口に向けた。

 でも、雑に示した出口は見ずに私の顔を伺ってくる。

 きっと心配してくれての様子見なんだろう、見上げてくる目にも優しさというか、よくわからないけど気を使ってくれている雰囲気は宿って見える。けれど、そんな気遣いを受け止めきれなくて、何故か居た堪れない自分がいて、突き放す様な事を言ってしまう。

 子供相手に手も引かず道案内だけをする私、偶々見つけて早くいなくなってくれとしか考えていないはずの私を気にしてくれるんだ、きっといい子だと思う、思える‥‥なのに歩み寄れない、歩み寄りたくない。

 

 この優しさがちょっとだけ怖いとすら思う。

 近寄って、優しさに触れられれば温かいと知っている。

 けれど、今の私にはこの子の手は温かすぎた。

 ここで馴れ合ってもまた置いて逝かれるんだ、一人残されるんだなと。

 そんな風に、火傷する自分の事しか考えられなくて‥‥小さく軽い手に触れられなかった。

 

 強かに腕を引く。

 右袖がやたら重い。

 やたら熱い気もする。

 だというのに暗く冷えていく気持ち。

 まるでこの竹林のように冥々とした気分。

 

 それを晴らすように顔を上げると、いいタイミングで出口の方に揺れる灯りを見つけられた。

 流れ方からこっちに向かって急いでいるような、そんな動きの橙色が少し先で揺れている。

 

「灯り‥‥? あ、誰かが探しに来たのか」

  

 これで楽になるはず。

 見えた灯りの誰かにこの子を預けて、今日のことなんて忘れてしまえばきっと楽になれるはず。

 そう願って、灯りに誘われるようにそちらへ向かうと、無事に誰かと出会う事が出来た。

 

「やっと見つけた!一人で出歩くなとあれほど言っただろう! 無事だったからいいようなものを!」

 

 いたのは一人。

 腰を曲げ肩を上下に揺らす、息遣いの荒い女。

 灯りに照らし出される顔つきには堅苦しそうな雰囲気が見え隠れするけど、それよりも気になるのは頭の上で傾く帽子と長くて綺麗な銀髪の乱れ具合かな。火に透かされる乱れ髪や輝く額からは必死な様子が強く出ていた。

 

 叱る女と目が合ったが私からは何も言わず。

 行灯の方へ子の背を押してやるだけ。

 ついでに荷物も返して、更に背を押してぶっきらぼうに追い立てる。

 すると、数回振り向きながら彼女の元へと駈け出していった。

 幼い背中が落とされた拳骨に少し縮むと、すぐに抱き抱えられ、大きく伸びた。

 

「こんな時間まで戻らないなんて! 本当に心配したんだからな!」

 

 息遣いに同じく語気まで荒い彼女だけれど、表情は柔らかな顔つきで心から安堵しているみたい、きっちり叱ったその後に子供が見せるような笑顔を浮かべた。

 心配する相手も心配される相手も似たような表情で思わず笑ってしまいそうだったけど、痛む頭が邪魔をして声は出なかった。

 そのお陰で私に気が付かれる事もないようで、それが今は都合良いように思えて。

 そのまま消え去るように静かに振り向いた‥‥つもりが呼び止められた。

 

「あの! ありがとうございました、貴女が保護してくれたんですね」

「礼はいいよ、別に。それより一人でこんなところに来させないで」

 

 近寄ると感じる何か。

 背に感じられるものから多分真っ当な人間じゃないってわかる。

 けれどそれでも人間を探しに来たやつだ、ただの子供が飛びついく相手。

 そしてその子を優しく抱きかかえる事が出来る女。

 人間と共にいられる女。

 私とは違う、人と共にいられる誰か。 

 

「本当に助かりました。少し目を離した隙に一人でいなくなってしまって。こんな時間まで戻らない事なんて普段はない子なんですが、今日は気が逸っていたようで」

 

 返事をしたら逃げるタイミングを失って、流れで聞いてもいない身の上話が始まってしまった。

 否応無しに黙って聞けば、近々この子に弟分か妹分が生まれるのだと。住まわせてくれている親族の中に身重がいるらしくて、元気な子を産んでもらいたいからってそいつの旦那と一緒に何か精の付く物を探しに出たのだと。その途中、男は射った朱鷺を追いかけて藪に入り、この子はそれを追いかけて別れ、迷子になっていたのだと。彼女が言うにはそういう流れがあってあそこに座り込む事になったんだそうな。

 お手間を取らせて申し訳ないと子供に代わり謝罪してくれる、のはいいんだけど‥‥

 

「あのさ、拘る事でもないんだけど、こういう時って本人から言わせるのが筋じゃないの? 今迄ずっと笑ってるだけだったんだけど」

「それが、この子は以前、妖怪に襲われて‥‥」

「……あぁ‥‥そういう」

「ちょっと、ショックが大きかったみたいで。それからは笑ったまま話す事もなくなってしまい‥‥」

 

 それきりで口を噤む女の顔は苦々しい。

 少し待ってもその先は話されなかったけど、読み切れたからそれ以上は聞かなかった。今もよくありそうな事で過去にもよくあった事。昔、妖怪退治にハマっていた頃はソレが常でこの子の様に残されてしまった者は程度の違いはあるけど皆こうなった、だからそれほど驚くような事でもなかった。

 納得顔で軽く頷く、すると続く女の語り。

 

「筆談は少し教えてあるのですが、どうにも会話は」

「その、なんとなくわかるから、もういいよ。すまない、悪い事言ったわ」

 

「いえ‥‥ともかく助かりました。そうだ、よかったらこのまま一緒に戻りませんか? 家族にも話さなければなりませんし」

「いや、そういうのは、遠慮しとくよ。偶々見かけただけだし、これといって何もしてないからさ」

 

 でも、と続く女の口調に被せてそれじゃあと言い切り、そのまま振り返りもせず歩き始める。

 

 これで漸く静かになった。

 いつもの私の暮らしが帰ってきた。

 そのはずなのになんでだろう、足取りが重い、というか頭が重い。後ろ髪が引かれる事なんてないはずなのに‥‥思わず立ち止まる。トン、と腰に何かが当たった。

 顔だけ返して見てみると私の髪を掴む小さな手。

 

「ちょっと‥‥」

 

 やめてと言い掛けて、言えなくなった。

 私を捕まえる子の顔が今までと違う顔に見えたから。

 何故帰るの?

 一緒に行かないの?

 明るさが灯る笑みにそう言われている気がしてしまって。

 その顔が父上を見ていた私に見えてしまって。

 振り払う事が出来なかった。

 

 目と目が合うと硬くなる握りこぶし。

 髪を引かれ少し痛くて顔を歪めると、髪から袖、袖から腕へ、そうして段々引かれていって。

 手を取られ、私の掌の中で子の指が踊る。

 

「うん、わかったから。いや、ちょっと待ってよ。私は帰るんだって」

 

『ありがとう』そう書かれた手の平に『一緒に帰ろ』も追加される。

 だけどその気はなくて、断ってもなんでとばかり返されて。

 困っていると子を抱く女がまた笑って、こっちも私の手を取ってきた。

 

「え、何?」

「この子もそう言ってますし、行きましょう」

「でも……」

「いいから、行きますよ」

 

 自然に、それでも強引に繋がれた手が引かれ、そのまま歩き出してしまって。

 それからは矢継ぎ早に話されながら、足早に里へと向かって進んでしまって。

 もてなされ感謝され、久し振りに暖かな団欒を感じてしまった。

 囲炉裏を囲んで食事や酒も振る舞われたその時に、いくらなんでも強引過ぎると文句を言ってみたら笑顔でこう返された。

 

『道案内してくれたはずなのに迷っているような顔をしていたから放っておけなかった』

 

 その日会っただけの他人に対してそれは失礼だ。

 更に文句を言ってもみたけど、職業柄仕方ないんだ申し訳ないと苦笑うだけの彼女。

 聞けば里で教鞭を執っているらしく、この子も親代わりの大人も皆教え子なのだと。

 昔から世話焼きで偶に度を越す事もあるなんて家主に言われ、それを聞いた私が久々に頬を緩めると彼女もまた笑った。

 

 穏やかな笑みを浮かべたまま、私のぎこちない笑顔が可笑しいと話し、それを聞いた皆も笑う。これも失礼だと思ったけれど彼女のその笑みがどこか幼くて朗らかで。教師が見せるような顔には見えなくて‥‥今日はもういいやと、私も笑い返した。

 

 にこやかな空気満ちる中、慣れなくなって久しい雰囲気に触れる中。

 頭痛が少しだけマシになったような、気にならなくなったような。

 そんな気がした。



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ごっこ遊び

 頬に触れられた気がした。

 少し冷えた指先で、頬から目元へ、優しく撫でられた気がした。

 一回、二回と、目覚めの催促をするように。

 

 重たい瞼を開くと輝き揺れる金色と、その背後に七色の光が見える。

 その輝きが髪で、七色がなんなのか。

 私が理解した瞬間には私の頬に触れていた手は離れた。

 

「お姉さまが鬼よ、頑張って探してね」

 

 起きたての耳に届いた声はとても小さく、か細いもの。

 言うだけ言ってすぐに離れたのだろう気配も足音もすぐに感じられなくなる。遠のく姿を捕まえようと手を伸ばしてみたけれど、見慣れた揃いのネグリジェはすぐに消え、目の前は見慣れた紅色一色だけになってしまう。

 

 眼前の紅に手を伸ばす。半分押し開けられていた棺の天板に手をかけ半身を起こすと、私の目覚ましは既にどこへと消えた後のようだった。

 

 私を誘った声を探すように起きて、一度羽を伸ばす。

 あの子とは違う白い皮膜を広げると先端が少し熱い。

 痛むほどではなかったが差し込む日に焼かれ僅かに焦げる我が翼。薄い煙を上げた先端に当たっていた光を追うと半分開けられたカーテンと、外されたタッセルが床に転がっていた。

 

「こんなに明るい時間からまた悪戯をして‥‥仕方がないわね」

 

 翼から伸びる煙を払うようふわり、浮かんで、くるりと廻る。

 緩く廻りながら身体を流し、形だけは置いてある鏡の前に降り立つ。

 そのまま寝間着の姿で数秒待つと、いつもはすぐに現れる私の従者が今日は姿を見せない。

 私が目覚めたのに来ないなんて、あの子といいなにかあったのだろうか。

 考えながらストールを一枚羽織り、とりあえず部屋を出た。

 

「あら、もうお目覚めですか?」

 

 歩きながら考えていたら声を掛けられた。

 声に目を向けると廊下の角で佇む従者、両手にはこれから干すのだろう、洗いたての洗濯物。

 

「起こされたのよ、あの子を見なかった?」

「私はお見かけしてませんよ」

 

「ならいい、とりあえず捕まえてくるわ」

「頑張ってください、見つけてもらうまではお着替えもしないと言われてましたし‥‥お揃いになりましたらアフタヌーンティーにしましょう。あ、プリンもすぐに焼き上がるとお伝え下さいね」

 

 あの子が好む赤のストールを差し出しながらそう言い切って、すぐに消えた従者。

 遠くの方で聞こえた足音からすれば私とは逆方向へ向かったようだ。

 

「主に伝言させるなんて‥‥まぁ、いいわ」

 

 きっとグルなんでしょうし。

 私の心を差し向けるように鳴った物音を立てる態とらしいメイドには見もせず、そのまま歩む。

 向かう先はキッチン、あの子はきっとそこにいる。協力者の手を借りて隠れるならきっとあそこだろう、そう確信してキッチンの扉を開けると、開いたドアの裏側に膝と羽をたたんだ誰かを見つけた。

 

「見つけたわ」

 

 屈んで小さくなった背に声をかけそっと手を伸ばすと、預かったストールが肩に触れる前に、サイドテールを揺らしながらイタズラな笑みが立ち上がる。

 

「最初に見つかっちゃったわ、つまんないの」

「さぁ、お終いにしてお茶にしましょう」

 

「まだだよ? 後三人いるもの、頑張ってねお姉さま」

 

 見つけて終わり、後は優雅にお茶の時間。

 そう思っていたけれどなるほど、そういう趣向なのか、二人の言う頑張って(・・・・)はそういう事か。

 

 私が気がつくと楽しげに笑い、愛らしい八重歯を見せる一人目。薄れていくその笑顔に一人だけズルしてダメよと言ってみたがきかず、微笑みを強められ静かに消えていくだけだった。

 後三人、楽しいおしゃべりはまだもう少し先という事ね‥‥

 それなら真剣に探してみる事にしよう。

 一人残されたキッチンで、私は気合を入れた。

 誰も見ていないというのに、何故か大げさに、気合を入れた。 



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それでも

 使い込まれた陶磁器のカップを揃いのソーサーに置くと、彼女は窓辺に目線を送る。

 大きな雲のかかる空を見上げる顔は静かで、ついとカップの縁をなぞる指は靭やかに。

 そうしているだけで周囲は咲き誇る花々の香りに包まれるほどになるが、今日は少しだけ冷たい気配も漂っていた。それは愛する向日葵よりも露に濡れた紫陽花を思わせるほどに、漂っていた。

 

 ふぅ、と、二口目を含み、しばし雲を見つめ、またカップに手を添える。

 それから外の天気と手元を交互に見比べる彼女。

 表情も天気を宿してしまったように少しだけ陰っているようにも思える。

 

 きっと憂いているのだろう。昨日植え付けたばかりで土も柔らかく、その根もいまだ覚束ない幼子が雨に濡れ、凍えてしまうかもしれないことを。

 

「雨除けをしてくればよかったわね」

 

 玄関先へと視線を移して独り言。

 立てかけてある愛用の傘に向かって語り、それでもと、自問自答を続ける。

 

 綺麗にしてもらったからもう大丈夫と、そう言ってくれたから。

 ありがとうと言われてしまったから、あの子が望んだことだから。

 彼女はそれ以上を出来ないままにいた。

 

 それでも、わかってはいるがどうしても考えてしまう。

 庭の端に植えるだけで済ませてしまったけれど、それでもと。

 

 終わりのない問答は彼女の頭に降り注ぎ続けるが、答えは出ない。

 このままでは幼子よりも先に彼女の顔が涙に濡れてしまうと、そう感じさせるほどの悩みだ。

 

「やっぱり少しくらいは……」

 

 コトリ、手にしたカップが空いた頃、ようやく彼女は席を立った。

 だが、決断を下すには遅かったようだ。大きな悩みの後ついに思い立つも、見上げていた空は彼女の表情が感染したように暗くなっていく。

 

 

―ガタン―

 

 

 この家で聞くことのまずない音、焦燥感の宿る音が部屋に響く。

 と、次にはバタン。

 玄関扉からも大きな音が立つ、彼女が飛び出したのだ。

 

「待ってなさいよ……!」

 

 ポツポツ、外に出ると同時に降り出したものは彼女の髪を濡らす。

 しかし今は気にしていられない、自分が濡れることよりもあの子が冷えてしまうことが気になってしまい、それどころではなかった。

 

 ゆっくりと過ごしていた今までが嘘のように。

 これまでの優雅さなぞ最初からなかったように。

 早足に庭へと走っていく、持ち出した傘を差すことも忘れるくらいに、急いであの子の元へと向かう、それだけが彼女の頭にあった。

 

 早く、早く。泥がスカートに跳ねるのも気にせずに彼女は走った。

 庭とは言っても太陽の畑の全てが彼女の庭である。咲き誇る向日葵を眺めながら歩けば数時間は滞在できる広さが今は恨めしい、今日ばかりは自分の足の遅さが恨めしいと、そんなことを考える暇もないままに彼女は走った……強くなる雨も気にせずに。

 

 そうしてたどり着いた庭の端、あの子を植えた辺りに来ると彼女の傘はようやく花開いた。

 雨に凍えるあの子のために、ではなく、今眼の前に広がっている光景をゆっくりと眺める為に。

 

 彼女の眼の前には大きな葉のカーテンが折り重なっていた。

 それは先達の仲間たちの葉、早咲きの向日葵達が力を振り絞って作り出した小さく弱い屋根だが、彼女にはこれ以上ないほど心強いものに見えた。

 

「貴方達、無理をして……」

 

 重なる葉に触れる彼女の指。

 そっと触れるとその葉は先から色を変え、残っていた緑色も黃から茶へ染まる。

 夏の始まりを前にするりするりと変わっていく向日葵の葉、茎。

 花の妖怪に愛された花といえど彼らはただの花だ、無理をすればツケを払わなければならない。

 

「そう……ありがとう」

 

 葉が落ちて、茎が萎びて。

 ぽろぽろと崩れていくそばから地に帰る向日葵に向けて、彼女は満面の笑顔を送る。

 小さな子をよろしくね、とでも言われたのだろう。

 夏にまた会おうねとでも言われたのだろう。

 彼女にだけわかる言葉はきっとそう言っていたはずだ。 

 

「また夏に会いましょう」

 

 瞳の端からは先の雨よりも強く暖かな雫が今にもこぼれ落ちてしまいそう……

 ……だが、それでも。

 彼女は笑って送ることにした。

 

「この子と一緒に歓迎するわ」

 

 最後まで笑顔のままで、散った彼らが消えるまで。

 我慢しきれず、頬を伝うものが幼子の若芽を濡らすようになるまで。

 それでも、向日葵に陰りは似合わないと知っているから、微笑んだままで。



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