テイルズ オブ フェータリアン ー希望を紡ぎ出すRPGー (逢月)
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登場人物紹介


途中に挿入してある立ち絵は通常立ち絵を大和クロト様に、武器装備立ち絵を長次郎様に描いていただいたきました。

また、どこに挿入すれば皆様に見て頂けるか悩んでいた世界地図もここに貼らせていただきます。(作:平泉様)

ラドクリフ王国領:
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フェルリオ帝国領:
【挿絵表示】



 

エリック=アベル=ラドクリフ

 

「……分かってるよ。そんなに甘くないって、言いたいんだろ?」

 

通常

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武器装備

【挿絵表示】

 

 

年  齢:18歳

身  長:178cm

体  重:72kg

武  器:両刃剣

固有武器:短剣

 

※本作の主人公1。この物語は基本的には彼に沿った形で進みます。

 

 龍王の国と呼ばれるラドクリフ王国の第二王子。何故か第一王子にはない王位継承権を彼が持ち、国民にも次期国王として知られている。

 原因は不明だが、訓練で程よく鍛えられた外見に反して病弱体質であり、呼吸器系の持病もある。

 しかし自身の体質を顧みず、毎日のように許嫁のマルーシャと城を脱走するために使用人達を酷く困らせている。

少々卑屈で考え込みやすいところがあるものの、現状脱走癖以外の問題は起こしていない生真面目な性格。

 

 

 

 

アルディス=クロード

 

「もう、二度と……会いたく、なかったのに……」

 

通常

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武器装備

【挿絵表示】

 

 

年  齢:18歳

身  長:168cm

体  重:54kg

武  器:薙刀

固有武器:拳銃+投げナイフ

 

※本作の主人公2。稀に視点が彼寄りに移ります。

 

 エリックとマルーシャの二人とは幼馴染の関係に当たる隻眼の少年。

 やや人間不信気味であり、人混みを好まないことからヘリオスの森の奥地でひっそりと暮らしている。

 普段はギルドの傭兵として生計を立てており、小柄な外見に反して戦闘能力は高い。戦闘に関する考え方は誰よりもシビア。

 一切笑わないために無愛想な印象を与えるが、実際はただ笑わないだけで感情表現そのものは非常に豊かである。

 

 

 

 

マルーシャ=イリス=ウィルナビス

 

「良かった。大丈夫、みたい、だね……?」

 

通常

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武器装備

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年  齢:17歳

身  長:164cm

体  重:51kg

武  器:長杖

固有武器:短剣

 

 エリックの許嫁であり、王家の遠縁に当たるウィルナビス男爵家の令嬢。

 よく言えば明朗、悪く言えば無鉄砲な性格であり、エリックとアルディスをかなり振り回しがちだが、どこまでも優しく純粋で、多くの人を惹きつける魅力がある。

 しかし、王位継承者の許嫁という彼女の身分ではありえない異例の立場であるために上流貴族達の間では嘲笑の対象であり、孤立している。

 ある事件をきっかけに幼い頃に希少な天恵治癒(エルフリーデ・イヴ)の力に目覚めるも、その力はかなり未熟である。

 

 

 

 

ディアナ=リヴァース

 

「……違う。あなた達は、悪くない……」

 

通常

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武器装備

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年  齢:16歳

身  長:157cm

体  重:45kg

武  器:片刃剣

固有武器:タロットカード

 

 純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)の聖職者。自分の女性的な外見と声に頭を抱えており、度々「オレは男だ」と主張している。

 聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)という珍しい能力を持ち、透き通るような美しいソプラノの歌声を媒体とした『聖歌(イグナティア)』という術の使い手。

 十六歳とは思えない口調と皮肉な物言いが目立つが、感情表現は比較的素直で良くも悪くも年相応。

 基本的には常に空を飛んでおり、それ以外は『チャッピー』という謎の鳥の上に乗っている。

 

 

 

 

ポプリ=ノアハーツ

 

「ねえ……お願い。逃げないで……お願いよ」

 

通常

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武器装備

【挿絵表示】

 

 

年  齢:20歳

身  長:172cm

体  重:63kg

武  器:短杖

固有武器:リボン

 

 薬剤師の娘。身体的に何かしらの問題を抱えているようで左足を常に引きずっており、それを含め何かと危ういところがある。

 本来魔術を苦手とする龍王族(ヴィーゲニア)であるにも関わらず、扱いが難しい妨害系魔術などを平然と使いこなす。若干戦闘狂。

 感情が高ぶると暴走してしまう傾向があるのだが、基本的には穏やかで面倒見の良い性格。

 過去に「銀髪の少年」と何かがあったらしく、この件絡みになると情緒不安定になってしまう。また、条件に一致するアルディスとはどこかぎこちない関係にある。

 

 

 

 

ジャンク=エルヴァータ

 

「……言ったろ? また、巡り会うって」

 

通常

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武器装備

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年  齢:23歳

身  長:181cm

体  重:66kg

武  器:トンファー

固有武器:レガース+医療器具

 

 ラドクリフ王国内を徘徊する医者。知識量の多さと優れた透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力者であることから腕はかなりの物。

 あまり戦いは好まないようだが、足技を主体とした格闘技を得意とする。また精霊と心を通わせる能力を持ち、精霊の力を借りた術や水属性魔術も使いこなす。

 生まれながらの魔術の天才と呼ばれるヴァイスハイトであり、左右の目の色が違う。それを隠すためにアルディスの前以外では常に目を閉じている。

 能天気そうな見た目に反して精神的にかなり脆いところがあり、酷い脅迫観念に囚われてしまうこともあるようだ。



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第1部
Tune.0 ある青年と少女の話 -Prologue-


 

――この世界、アレストアラントはかつて、二人の英雄によって未曾有の災厄から守られたそうだ。

 

 その二人の英雄というのが、龍王の子と呼ばれ、青く輝く光の翼を持つ女騎士ルネリアルと、鳳凰の子と呼ばれ、赤く神々しい実体ある翼を持つ大賢者スウェーラル。

 彼らは世界を危機から救った後、世界を半分ずつ統治したという……君はこれを、たかが伝説だと思いますか?

 

 ふふ、これに関しては学者達の間でも意見が分かれているんだ。というのも、ルネリアルやスウェーラルと同じ翼を持つ人々が、この世界には大勢存在するんですよ。

 彼女ら亡き現在では、ルネリアルが治めていた世界の右半分、ラドクリフ王国では彼女と同じ光の翼を持つ“龍王族(ヴィーゲニア)”が、スウェーラルが治めていた世界の左半分、フェルリオ帝国では彼と同じ実体ある翼を持つ“鳳凰族(キルヒェニア)”がそれぞれ玉座に付いているよ……ところがまあ、これ数百年前にかなりややこしいことになったんだよな。今では、だいぶ落ち着きましたが……。

 

 ちなみに、翼を持つのは“純血の”龍王族(ヴィーゲニア)鳳凰族(キルヒェニア)だけだ。少しでも龍なり鳳凰なりの血が混じっている混血の人間には翼はありません。

 今となっては混血の人間の方が多いから、翼を持つ人間は随分と限られている。血統を大切にする王族が大半なのではないでしょうか……あと、純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)には牙が、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)には尖った耳があるんだ。

 混血でもどちら寄りかによって見た目もかなり違うんだが、それぞれ体質も違ったり……おっと、そういうのは、これからの君の人生の中で知っていって貰おうか。

 

 

――話を終え、フードを目深に被った“青年”は手にしていた分厚い本を閉じた。

 

「やめないでよー! もう少しお話してよー!」

 

「はは、悪いな」

 

 青年が羽織ったローブを引っ張り、続きを話して欲しいと訴えるのは顔に大きな絆創膏を貼った小さな少女だ。

 フードの隙間から、青年の長い空色の髪がさらりと流れ落ちる。青年はそれをフードの中に戻しながら困ったように笑い、本を少女に返して頭を撫でた。

 

 

「だって……賢者さま、本に書いて無いお話もしてくれたから……」

 

「そうですね。せっかくだから、君が知っていて損の無い話もしておこうと思って」

 

「だから、もっとお話、聞きたいなって……」

 

 

 賢者、と呼ばれた青年は少女の訴えにゆっくりと首を横に振った。

 

「人生というのは、儚く短いものだ……その人生の中で、何が得られるか。それは、君の行動次第。だから、何かを欲しいと願うなら、目先のもの以外にも手を伸ばしてみなさい。その方がきっと、得られるものは多い」

 

 そうやって多くのことを学びながら、逞しく成長していった友人がいるんだ――そう言って青年は再び少女の頭を撫でる。

 

「そうですね、君なら……多くの人と触れ合ってみると良いでしょう。百聞は一見に如かず、だ。僕が言いかけた種族の違いというのも、実際に見ることでよく分かるでしょうから」

 

 分かった、と少女は軽く青年に頭を下げてから走り去っていく。残された青年は「元気だなー」と苦笑しつつ、彼女が見えなくなるのを眺めていた。

 

 

「……精一杯、今を生きなさい。決して、後悔の無いように」

 

 

 ぽつり、そんな言葉を残し――青年は消え去った。

 まるで、最初から“そこにいなかった”かのように……。

 

 

 

 Tales of Fatalien

   ー希望を紡ぎ出すRPGー

 

 

ーーこれは、絶望の中に見出した光を信じ続けた、少年達の悲しくも暖かな“絆”の物語。



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Tune.1 いつもの朝

 

「今日も……よく晴れてるな」

 

 ベッドに寝転び、開かれた窓から外を見上げる少年がぼんやりと呟いた。一番長い部分は胸上まで届きそうな、彼の癖のある淡い金の髪が、首元の上質な紺のスカーフが、風で流れる。

 ガーネットのような深い赤色をした切れ長の瞳を細め、少年――エリックは小さく息をついた。

 

 

 ここは龍王の国と呼ばれるラドクリフ王国。

 その本土、スケルツォ大陸の南に位置する王都、ルネリアルの高台に作られた城の自室でくつろいでいる少年エリックこと、エリック=アベル=ラドクリフは、この国の王子だ。

 彼の暮らす地、ルネリアルは別名『風の王都』と呼ばれる場所。常に爽やかな風が吹いているという不思議な気候が特徴的な地である。

 風によって街のいたるところに植えられた大きな木々が揺れ、人工的な川は涼しげな音を生み出している。本当に自然が豊かな街だ。自室の窓からは、遠くの海や森の様子を見ることも出来た。

 

 

 そんな王都ルネリアルは、ラドクリフ王国の中でも比較的都会の部類に位置している。

王都だけあって国中の進んだ技術がこの地に集まり、集大成として街を進化させているためだ。

 ラドクリフ城と貴族街、それからその周辺城下街によってルネリアルは構成されている。城や貴族街は美しく磨き上げられた白い石造りの建物の並ぶ、統一された雰囲気が特徴的であり、城下町の方は塗り壁の家や、レンガ造りの家、木製の家――立ち並ぶ家々は多種多様で個性的だ。

 

 

 自然と発展的文化が共存するこの街だが、その空気は本当に良く清んでいる。自然を大切にしていることも無関係ではないのだろうが、近くに『聖域』と呼ばれる地があることが大きな理由だ。

 聖域がどういったものなのか。それは大多数の人々は知らないし、エリック自身も理解出来ていない。ただ、聖域が周辺地帯を清らかに保ってくれる働きをしてくれるのは確かだった。

 そのため、健康を考えた暮らしを追い求め、好んでこの街に住まう者も少なくはない。行き交う人々が多いのは、ここが王都であるということだけが理由ではないのだ。

 

「ん……」

 

 今、ベッドの上で気持ちよさそうに風に当たっているエリックもその一人である。彼の程良く筋肉の付いた体格や少し日焼けした健康的な肌からは想像し難い話だが、実のところエリックは生まれ持っての病弱体質であり、酷い持病も持っている。

 ベッドからほとんど動くことができなかった昔よりは良くなったとはいえ、薬に頼らざるを得ないのは相変わらずである。当然、城の者達は彼のこの体質を憂いだ。

 この体質を理由に、彼は城からほんの少しだけ離れた位置にある高い塔に作られた自室にこもっていることが多い。高いところの方が空気はより清んでいるために、エリックは幼い頃よりこれを強制されているのだ。

 しかも、病弱体質や持病の原因は不明なのである。「いつ何が起こるか分からない」などと非常に怖いことを言われてしまった経験もある……とはいえ、隔離生活にも近いこの生活に、彼自身はかなり嫌気が差してきている。十八歳という複雑な年齢にもなれば仕方ないのかもしれない。

 

 

 今日は特に、貴族絡みの交流会などは無く、特に部屋を出る理由はなかった。要するに、どうしようもないほどに暇な日であり、時間潰しに困るという典型的な日である。

 エリックは机の上に無造作に置かれた厚手のスケッチブックを見て、ようやくベッドから身体を起こした。

 

「あ……」

 

 風景画は、彼の複数ある趣味のひとつだった。窓から見える海でも描こうかな、と考えていたのだが、どうやら今日“も”無理に暇を潰す必要はなさそうだ。

 いきなり窓の下が騒がしくなったのだ。聴き覚えがあり過ぎる、鈴の転がるような可愛らしい声も聴こえてくる。これは確実だろう。

 

「準備、しとくかな……」

 

 紺色のスカーフを外しながら、エリックはのんびりとクローゼットの前へと移動した。

 

 

 

 

 ラドクリフ王国には二人の王子が存在する。エリックは王子でこそあるが、第一ではなく第二王子。つまり、彼には兄がいる。

 兄の名はゾディート=カイン=ラドクリフ。エリックとの歳の差は十二歳。彼は今年で三十歳になる。

 ゾディートとは全く話が合わないうえ、さらに彼がエリックを酷く避けているせいで兄弟仲は悪く、最近ではろくに言葉を交わすこともなかった。今、彼がどこで何をしているのかさえも、エリックは把握出来ていない。

 

「相変わらず似てないよな……」

 

 兄のことをぼんやりと思い浮かべながら、エリックは鏡の前で困ったように呟いた。

 どういうわけか、ゾディート、エリック兄弟は驚くほどに外見が似ていない。それも、百人に聞けば百人が「似ていない」と即答するだろうと確信できてしまうほどに。

 兄はさらさらとした長い漆黒の髪と、涼しげな銀の瞳を持つ。しかも比較的色白で、中性的な印象を与える容姿の持ち主だ。癖のある金髪に赤い瞳、凛々しく整った顔立ちをしたエリックとは、何もかもが異なっている――あまりにも違う、二人の外見。城内城外関係なく、人々からは『本当に兄弟なのか』と囁かれていることをエリックは知っている。

 

「……」

 

 少し複雑な心境で、エリックは肌触りの良い黒のドレスシャツを脱ぎ捨てる。一応、その場に放置しておけば使用人が片付けてはくれるのだが、申し訳なく思うのか、エリックはそれを畳んでベッドの下に押し込んだ。

 

 

「さて、と」

 

 彼がクローゼットから取り出した服は、どれも安っぽい生地の物であった。黒い立襟のシャツの上に青味の強い灰色の長袖を着て、さらに肩部分が切り抜かれた白藍の上着を羽織る。二重構造になった黒とスチールグレイのズボンも含めて全体的に暗い色合いの服装であるため、エリックの綺麗な金髪がよく映えていた。

 年相応の服装と言えばそうなのだが、つい先程まで高貴な服を身にまとっていたエリックの場合はかなり印象が変わって見えた。

 その後、何故かエリックの方だけにある王位後継者の証、右手の甲に刻まれた王家の紋章を白い手袋で隠し、黒い紐で軽く後ろ髪を縛ると、机の上に置いたスティレット、と呼ばれる形状の短剣を上着の下に隠すように、腹部のベルトに挿した。

 

 

「エリック! 来たよ~!」

 

 

 ちょうど着替えが終わった時、エリックの後方から可愛らしい少女の声がした。振り向くと、太腿まで届く長いブロンドの髪を高い場所で一本に纏めた少女が窓枠に立っている。彼女のたれ目がちで大きな黄緑色の丸い瞳は、楽しげに細められていた。

 

「やっぱり来たか、ちょうど準備終わった所だよ」

 

「うん、来たよ」

 

 まさしく美少女と呼ぶに相応しい彼女は燕尾服によく似た、鳥の翼を思わせる独特の構造をした海色の上着を着ている。胸元の白地に淡い空色のラインが入ったリボンと、リボンと同じ色をしたスカートがよく似合っていた。

 濃紺のニーハイブーツを履いているために足自体の露出は少ないとはいえ、それでも際立つ短いスカート丈や大胆に肩周りを露出したデザインの服を着ている反面、彼女は胸元を見せることを酷く嫌がる。そのためブーツと同じ色のハイネックのインナーで隠してしまっているのだが、鎖骨の中心付近にはエリックの右手にある物と同じ、王家の紋章が刻まれているらしい。

 胸元の紋章は、ラドクリフ王国の王妃である証であるーー未来の国王であり、少女の婚約者であるエリックが「成人までは」と渋っているために、彼女の場合はまだ王妃“予定”ではあるのだが。

 

「……マルーシャ、スパッツ履き忘れてないだろうな?」

 

「兵士の反応的に大丈夫だと思うよ?」

 

 彼女の名はマルーシャ=イリス=ウィルナビス。エリックの一つ下、つまり十七歳という歳の割にはやや幼い行動をするため、危なっかしくて常に目が離せない。エリックは密かに、彼女のお転婆さに頭を悩ませていた。

 

「マルーシャお嬢様! 窓枠に立ってないで降りてきてください!!」

 

「ああ、毎度ながらどうしましょう……」

 

「危険ですよ! お願いですからお帰りください!」

 

 

――その代表が、今この瞬間に起きているこれである。

 

 

 実は彼女、エリックの部屋に来る時は必ずと言っていいほどにこの高い塔をミニスカートで、しかも器用にもヒール付きのブーツを履いて当たり前のように登ってくるのだ。

 兵士やメイドが慌てて彼女を止めに来るのだが、聞く耳を持たない……ちなみにエリックが聞いた話では彼らはマルーシャが脱走すると給料を豪快に減らされるらしい。恐らく、本人はこの事実を知らないのだろう。そう考えると、兵士達が非常に可哀想だ。

 

「行くか?」

 

「行こ行こ!」

 

 窓の下にはもう、兵士達はいない。どうやら諦めて帰ってしまったらしい。また給料減るな、とエリックは苦笑いする。

 それを確認した後、彼は反対側の中庭に繋がる窓からロープを垂らし、二人は塔を降りて行った。要するに、二人仲良く脱走だ。こうなるとエリックも完全に共犯である。

 

 二人とも人間性は良いのだが……大臣や騎士団長など、国の重鎮達を始めとした人々は、ラドクリフの安否を割と本気で気にしている。

 

 

 

 

 城や屋敷周辺を徘徊する使用人達、貴族街に住む貴族達から身を隠しつつ、二人はルネリアルの城下町の外れまで出てきていた。もはや、慣れたものだ。

 

「最近天気良いな。暖かくて過ごしやすい」

 

「えへへ、そうだね。髪がまとまってくれるから助かるよ」

 

 流石に使用人や貴族に発見されると正体に気付かれてしまうのだが、一般人相手なら大した問題はない。こっそりと調達した庶民的な服装のお陰で周りに騒がれることはないのだ。

 きらびやかな服装は城や屋敷の中だけで十分だ。むしろ、あんな格好で外は歩けない。極力、流行などにも乗ってみたりしながら、二人は一般人に混ざっていた。ある意味、変装とも言えるだろう。

 そんな問題児二人が脱走し続け、早くも八年。兵士もメイドも対処が全く追いついていない。エリック達の変装技術は、どんどん上がっていく。多分、もう彼らが使用人達に捕まることは無いだろう……。

 

「はい、付いた。今日も見た感じ静かそうだが……魔物が出たら全力で走り抜けるぞ」

 

「う、うん。出なきゃ良いけど」

 

 そしてこの日も無事、二人は城に連れ戻される事なく、とある場所に辿り着いていた。

 二人の目の前には元気に生い茂る木々の立ち並ぶ森が広がっており、チュンチュンと鳥のさえずりが聴こえて来る。

 

 彼らの脱走の目的の大半は、この森の中心部に住む友人に会いに行くことだった。

 何故か街から少し離れた森、通称“ヘリオスの森”に住んでいる少年、アルディス=クロード。立場上、友好関係の無い二人にとっての唯一の友人である。

 

 しかし、アルディスにとってもそれは同じである。そもそも、彼はかなりの人間不信なのだ。わざわざ街ではなく、魔物が出るような森に住むという生活態度からもそれは明らかだろう。

 そういった事情はある程度分かってはいるものの、魔物と遭遇するかもしれないというリスク、無駄に時間の掛かってしまう目的地までの距離を思うと、エリックは苦笑せざるを得なかった。

 

「いい加減、街に住んでくれれば良いのにな……」

 

「あ、あはは……そうだね……」

 

 言ってみたものの、無理だというのは流石に分かっていた。魔物に警戒しつつ、森の中をしばらく歩いていくと一軒の家が見えてきた。外見は至って普通の古びたログハウスなのだが、森の中に建つ一軒家ということもあって、なかなか絵になる光景だ。

 

「アル、来たぞ。いるか?」

 

 エリックがコンコンとドアを軽く叩くと、数分と待たずにドアが開かれた。

 

「いらっしゃい、今日も暇だったの?」

 

「来ていきなりそれはないよ、アルディス……まあ、暇だったんだけどさ」

 

 

 家の中から現れたのは、独特の雰囲気を持つ色の白い小柄な少年だった。

 彼は幻想的な印象を与える白銀の髪を、側面が少し長くなるように斜めに切りそろえ、それを覆い隠すように赤みの強い濃紫のフードを深く被っている。翡翠の右目は長く伸ばされた前髪と大きな眼帯によって隠されていた。髪の色も目の色も、滅多に見られないと思われる珍しいものだ。

 

 あまりにも目立つ要素が揃ってしまっているためにフードを被っているそうなのだが、彼がそのフードを下ろすことはエリック達の前ですら無かった。

 気にはなったが、何かしらの事情があるのだろうとあまり追求はしていない。

 彼は丈の長い、コートのようにも見える前開きのローブを着ており、そのローブとその下に着ている黒のハイネックのインナーはどちらも袖の無いデザインである。

 ローブは魔術師がよく着ているものであるため、彼は一見すると魔術師のように見えるのだが、左脚だけに着けたレッグカバーの下に投げナイフを隠していたり、右脚には拳銃とそのホルスターを身に付けていたりと、装備だけなら魔術師というよりは戦士である。本人曰く「どちらとも言えない」とのことであったが。

 

 そんなアルディスはエリックと同い年で十八歳……なのだが、彼は歳の割には小柄で童顔であるため、年相応に見られた経験はほとんど無いらしい。少なくとも、エリックと同い年には見えない。

 それどころか、中性的な顔立ち及び華奢な体格、さらには本来は女性名である“アルディス”という名前を災いに、性別すら間違えられることもあるのだ。男らしく、整った顔立ちであるエリックがうらやましいと以前は酷く愚痴をこぼしていた。

 とはいえ、彼は外見のみならず性格もやや中性的で、どこか幼さを感じさせるところがある。年齢や性別を間違えられてしまう件に関しては、彼の自業自得な部分も無いことは無い。

 そんな彼の、年齢の割にはどうにも幼い瞳が不安げに揺らいだ。

 

 

「二人とも、怪我はしてない?」

 

「ん? ああ、大丈夫だよ。心配するな」

 

 エリックの返事を聞き、アルディスは「良かった」と安堵の声を漏らす。

 その声はとても嬉しそうなものだったのだが、彼の翡翠のように美しい緑の左目や口元が“その感情”を示すことは一切ない――彼は今、まるで人形のような無機質な表情をしていた。

 

(こんなとこに住んどきながら、本当に心配性だよな……)

 

 ただ、それでも彼は、自分達の無事を心から喜んでくれているのだろうとエリックとマルーシャは感じていた。それを感じられるからこそ、あえて話題にはしなかった。

 彼と過ごした年月の長さによって、この話題がアルディスを傷付けるものであることにも、二人は薄々勘付いていたから。

 

――エリックにマルーシャ、そしてアルディス。

 

 彼らは八年前、エリック達が初めて脱走をした日に偶然出会い、それ以降、共に多くの時間を過ごしてきた。

 本当に何があったのか、昔は今よりもさらに酷い人間不信だったアルディスと打ち解けるまでに色々あったりもした。しかし、それはそれで良い思い出だとエリックは思っている。

 

 

「とりあえず入りなよ。今日も美味しそうにできたから」

 

 今となっては、アルディスはエリック達が来ると思われる時間帯に合わせてお菓子を作り始めるほどに、自分たちを受け入れてくれるようになっていた。それは今日この日も例外ではなく、家の中からはふんわりとした甘い匂いが漂ってくる。

 今日は一体、何を作ってくれたのだろう? そんな期待から、エリックは一瞬だけマルーシャと顔を見合わせ、アルディスの家へと足を踏み入れた。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.2 日常の崩壊

 

「とりあえずいつもの奴、持っていくね」

 

 コーヒーが二杯に紅茶が一杯。トレイの上に並んだそれらの飲み物が全て一緒でないのは、単純に好みの問題だ。中身は今しがた入れられたばかりで、白い湯気を上げている。

 アルディスはトレイを落とさないように気を付けつつ、エリックとマルーシャが待つテーブルへと運んだ。そこには、既に用意されていたらしい砂糖やミルクが置かれている。

 

「相変わらず手際良いよね……」

 

「そりゃどうも。先に飲んでて。ケーキ、切り分けてくるからさ」

 

「じゃあ、遠慮なく」

 

 

 エリックはアルディスに出された暖かな紅茶を啜りつつ、ちらりと手前の席に座ったマルーシャを見た。

 彼女はコーヒーにミルクを混ぜているところで、長い睫毛が黄緑の瞳を覆っている。

 

「ん? どうしたのエリック?」

 

「いやいや。はい、角砂糖」

 

 見ていたのに気付かれてしまった。エリックは角砂糖の入った小瓶をマルーシャに手渡し、慌ててマルーシャから目を反らす。一方のマルーシャは、少しの間だけ小首を傾げていたが、すぐに自分の作業に戻った。

 

「……ッ」

 

 どうやら見とれていたらしい。何となくきまりが悪くなり、エリックはおもむろに紅茶へと視線を落とした。鮮やかな赤茶色の半透明な液体がカップの中で静かに揺れる。

 

 

「ん?」

 

 そうしているうちに、違和感に気付いた。エリックはカップを持ち上げ、側面の模様をまじまじと眺めた――パステルカラーの、植物をモチーフにした模様だった。

 

 

「なあ、アル。またカップ変わったよな?」

 

 気のせいでなければ、この模様は今まで無かったはずだ。いや、間違いなく無かった。毎日のように来ているのだから、そうだと確信できる。

 エリックがキッチンで作業をしているアルディスに問いかければ、彼はビクリと肩を震わせた。

 

「ま、街で可愛いの見つけてさ……可愛くない? それ?」

 

「お前は喫茶店でも開く気か? どれだけカップ増やせば気が済むんだ」

 

 棚を見ると、可愛らしいカップの数々が几帳面に並べられている。アルディスには街へ行くたびに何かしらカップを買ってくるという収集癖があるのだ……と、エリックは思っている。

 

「ふふ、まあ良いんじゃないかな? この葉っぱ柄、可愛いし?」

 

「だ、だろ? マルーシャなら分かってくれるって思ってたよ!」

 

「おいおい……」

 

 しかし、その真相は実はアルディスがとんでもない頻度でカップを落として割っているのをエリックたちに悟られないために、数を増やすためにあえて買ってきているというもの。

 それを密かに知っているらしいマルーシャは、クスクスと笑いながら再びカップに口を付けた。

 

 

「カップのことはほっといて。とりあえずケーキ切り分けたから食べてみて? 結構自信作だよ」

 

 アルディスは翡翠の瞳を泳がせながら、切り目の入ったホールケーキをテーブルの上に置いた。

 それは、スポンジを彩るかのようにデコレーションされた真っ白なクリームに、真っ赤な苺を乗せたオーソドックスなケーキだった――その発言からも分かるように、彼のお手製である。

 

「久々にこのタイプ見たな。原点復帰ってか?」

 

「そういうこと。飾り気が無いのもたまには良いでしょ?」

 

「いや、十分飾られてると思う……アルディスってさ……ホント、女の子だったら良かったのにね……」

 

「……マルーシャ、ケーキ没収するよ?」

 

 ごめんなさいごめんなさい! とマルーシャがアルディスに縋り付いている。アルディスの『生まれてくる性別を間違えた感』はエリックも散々感じては来たが、下手なことを言うと何も作ってくれなくなるので黙っていた。一応、本人は気にしているのだ。

 

(とは言っても、これって気にしてる奴がやることじゃないだろ……)

 

 一人暮らし歴の長いアルディスは家事全般が得意である。特に、料理に関しては飛び抜けたスキルを持ち、中でも洋菓子類が得意だった。

 エリックとマルーシャもそうなのだが、彼自身がかなりの甘党である為だろう。

 最初は彼の大好物であるアップルパイ(彼の好物は林檎である)から始まり、現在ではまるで芸術作品かと思うような芸当まで身につけてしまったのだから大したものである。

 そして、必然的にその恩恵を独占して受けてきたのが、エリックとマルーシャだった。

 

「はは、マルーシャ残念だったな」

 

「ひどい! エリックだっておんなじこと絶対思ってるくせに!!」

 

「なっ!?」

 

 

――図星だった。

 

 

「……。もう良いよ、食べなよ。性別間違えた感は自分で認めてるし」

 

 明らかに拗ねている様子である。コーヒーを啜り、アルディスはため息を付いた。

 気にはしているものの、一度付いてしまった習慣は無くならないということだろう。第一、困った事に数ヶ月に一回のペースでこのようなやり取りは起こっている。

 それだけ彼がある種、容赦ないということである――どこぞのお転婆嬢にも見習って欲しいものだ。むしろ性別を間違えた感はこちらにもあるのではないだろうか?

 

「ごめんなさいってば! でも、貰えるものは貰うね。いただきます!」

 

「遠慮無いな……まあ、そういう僕も遠慮なく……」

 

「はいはい、どーぞ」

 

 何だかんだ言いつつ、怒っては居ないようだ。本人も慣れっこなのだろう。呆れ返った様子ではあったものの、アルディスはケーキを皿に取り分けてくれた。

 

 

 

 

「ん……?」

 

「どうしたの?」

 

「い、いや。声が、聞こえた気がしたんだ」

 

 話をしながら、紅茶のおかわりを飲んでいたエリックが突然立ち上がった。食べ終わった皿を片付けながら、アルディスは首を傾げる。

 

「気のせいじゃなさそうだな。ちょっと、見てくる」

 

 ドアの向こうから、謎の声が聞こえる。この辺りに、自分達以外の人がやってくるなどという珍しいことが起きているのだろうか?

 片付けをするアルディスを気遣い、エリックはドアのそばへと向かう――しかし、それよりも先に何かを感じ取ったのだろう。アルディスの手から皿が落ちた。

 

「! エリック、ドアに近付くな!」

 

 ガシャン、と床に落ちた皿が割れ、破片が飛び散る。その音を合図にするかのように、鍵が掛かっていた筈のドアが蹴破られた。

 

「!?」

 

「ほう……なかなか警戒心が強いんだな」

 

 現れたのは、二対の漆黒の影。驚き、怯んだエリックの前に何かが飛び出す。

 

「ッ! ぐ……っ」

 

(……え?)

 

 飛び出した何かが崩れ落ち、膝を付いた――それが、アルディスであったということに気付いたのは、エリック自身も驚くほどに遅かった。理解が、追いついていない。

 膝を付いたまま、アルディスは微かに光っている左手を真横に伸ばす。瞬間、その光が強くなる。輝きが収まっていくのにつれて、その手に薙刀が握られていることがエリックにも分かった。

 

「不意討ち、ですか……!」

 

 ギリ、とアルディスは奥歯を噛み締めた。どういうわけか、息が荒い。エリックは膝を付いた彼の姿をまじまじと見つめ、息を飲んだ。

 

「アル!」

 

 脇腹を押さえる右手の間から、どくどくと赤い血が流れている。こういったことにはほぼ素人のエリックでも分かる。急所ではない。だが、血の量からかなりの深さだろう。

 

「くっ、くそ……!」

 

「動かないで!」

 

 立ち上がろうとするアルディスの傍に、マルーシャが座り込んだ。大量の血を間近で見たためか、彼女は泣き出しそうに目を細める。怖いのかもしれない。それでも、彼女はキッと眉を上げ、傷のすぐ傍まで右手を持っていった。

 

「どこまでやれるか、分かんないけど……」

 

 マルーシャはそう言って、意識を集中し始めた。右手を中心に生み出される淡い光が、傷を癒していく――彼女の生まれ持つ力、“天恵治癒(エルフリーデ・イヴ)”だ。

 しかしながら、どうやらあまり効果がないらしい。アルディスは依然として痛みに目を細めている。

 

 

(そうだ……誰だよ、こんなことした奴は!)

 

 思わず、注意が痛みに苦しむ友人へといってしまっていた。彼に傷を負わせた相手は、そもそも自分を狙っていた可能性の高い相手は、まだ目の前に居る。意を決したようにエリックは顔を上げ、ドアの方を見た。

 

「え……?」

 

 顔を上げた先にいたのは、長い漆黒の癖のない髪に、剣の刀身を思わせる銀の瞳を持つ色白の男。彼も王子なのだが、エリックが先ほどまで着ていたような高価な衣服を身にまとっているわけではない。彼が身にまとうのは、暗い色を基調とした軍服だった。

 

「な……っ、あなた、は……」

 

 エリックの声が震える。それに対し、どこか中性的な容姿を持つ男はそんなエリックの存在など気にもならない様子だった。

 彼は騎士団“黒衣の龍”の団長であることを示す黒いマントを翻し、長剣を手に押し入るように部屋に入ってきた。銀の瞳は、真っ直ぐにアルディスの姿を捉えている。

 

「しかし、驚きだな……本当にお前は“あれ”によく似ている」

 

 目の前で立ち尽くすエリックのことなど、明らかに眼中にない様子である。だが、それでもエリックはそのまま彼を放置しておくことはできなかった。

 

「あ……兄、上……何故、ですか……?」

 

 そこに立っていたのは、ゾディート=カイン=ラドクリフ――エリックの、兄であったから。

 

「おや、アベル王子とイリスお嬢様ではありませんか」

 

 ゾディートの後ろから覗き込むように、短い空色の髪をした長身の青年が顔を出した。

 エリックとゾディート兄弟も比較的長身の部類に入るのだが、彼はさらに背が高い。どうしても、見下ろされているような気分になる。顔を隠すように布を巻いているため、その表情は読めないのだが。

 

「この辺りに純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)がいる、という噂を聞きましてね……?」

 

 そう言って青年、通称『ダークネス』は口元を綻ばせる。ゾディートに目で合図され、彼も部屋に入ってきた。

 彼は黒衣の龍の副団長でもあり、ゾディートに信頼を寄せられているがゆえに彼の専属執事も兼任している。

 ただ、その服装はきっちりとした物ではあったが、執事というよりは戦場で動くことを前提とした軽装の軍服であった。

 

「ダークネスまで……!」

 

 マルーシャが声を震わせるのを見て、ダークネスはぐるりと軽く首を回した。ダークネス、という通称は仕事名義である。たまにゾディートや彼の部下に当たる者達は彼を本名で呼んでいるのだが、一体、何という名前だったろうか――否、今はそのようなことを考えている場合ではない。

 ダークネスは口元を綻ばせたまま、アルディスに言葉を投げかけた。

 

「さて、そこのフードのお前……お前以外に、考えられないとは思わないか?」

 

「……」

 

 口調が違う。相手が貴族ではない為だろうか。アルディスは顔色こそ悪くなっていたが、臆することなく立ち上がり、目の前の長身の男を真っ直ぐに見据えて口を開いた。

 

「確かに俺は鳳凰族(キルヒェニア)ですが、龍の血の混じった混血です。純血ではありません……お知り合いとは関係ないと思いますよ?」

 

 鳳凰族(キルヒェニア)、というのはアレストアラントに広く知れ渡っているおとぎ話『神歌伝説』の主人公のひとり、大賢者スウェーラルの血を引いていると伝えられる人々のことを指す。

 アルディスのような細身の体格に色白で、全体的に冷たい印象を与える容姿は鳳凰族(キルヒェニア)特有のものであり、もうひとりの主人公、女騎士ルネリアルの血を引いていると言われている龍王族(ヴィーゲニア)が国民の多数を占めているこの国では珍しいものであった。

 とはいえ、目の前にいるダークネスも鳳凰族(キルヒェニア)である。だが、彼の場合は混血であるがゆえに若干ではあるが龍王族(ヴィーゲニア)の特徴も出ているのだ。

 

 それに対し、アルディスは見事なほどに鳳凰族(キルヒェニア)の特徴ばかりが表に出ているため、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)だと言われても違和感のない容姿ではある。

 エリックとマルーシャは純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)であり、特にその特徴が顕著に現れているエリックがアルディスと並んでみると、その容姿の違いは明らかである。

 彼に、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)の証である長い耳があれば完璧だろう。アルディスはそこまで言い切れてしまう特徴的な容姿の持ち主だ。ゾディートもダークネスも、疑いを捨てて等いなかった。

 

「その印象的な外見でそう言うのか……?」

 

 ゾディートの言葉に、アルディスは不快感を剥き出しにして奥歯を噛み締める。

 

「何が言いたいのです!?」

 

「そ、そうですよ……兄上、少し、落ち着かれては……」

 

 埒があかない。そう考えたエリックはアルディスとゾディートの間に割って入った。親友の出血量も放置はできない状態になってきている。早く、まともな治療をするべきだ。

 

「兄に、楯突くか」

 

「……ッ、無礼なことであることは、私も分かっております。しかし、それとこれとは話が別です!」

 

 身長は然程変わらないし、兄はあまり体格に恵まれなかったために、エリックの方がそれ自体は良い。もしかすると、力だけならエリックの方が強いかもしれない。だが、それでも「勝てない」と思わざるを得なかった。

 

「……ほう?」

 

 兄が放つのは、身体が震えそうになるほどに、息が苦しくなるほどに、圧倒的な威圧感だった。これが、潜ってきた戦場の差だと言うのだろうか。訓練はしていても、実戦経験の無いエリックには分からない感覚だ。

 そんな感情を見抜いていたのだろう。ゾディートはつまらないものを見るかのようにエリックを一瞥し、手にしたままだった長剣の柄を軽く握り直した。

 

 

「せっかくだ。こいつと一緒に……お前も殺してやる」

 

 

「え……?」

 

 そして耳にしたのは、信じられない――言ってしまえば信じたくない、そんな言葉であった。

 

「エリック!」

 

 後ろに居たアルディスに手を引かれ、エリックは軽く後ろに下がらされていた。根本的に力の弱いアルディスではこれが限界だ。それでも、たった一歩の差に命を救われた。

 

「……ッ!?」

 

 先程まで、自分がいた場所には、床を抉るように長剣が深々と刺さっている。

 兄は、本気だというのか……エリックは思わず、目を細めて奥歯を噛み締めた。

 

「動くな!」

 

 二人が向き合っている隙を付き、アルディスが左足に隠し持っていた二本の投げナイフを放つ。短い距離から放たれた、鈍い銀の輝きを放つナイフはゾディートとダークネスをそれぞれ狙っていた。

 それは、簡単に避けられてしまっていたが、アルディスは襲撃者達がナイフを避けるそのわずかな間にエリックとマルーシャの腕を掴み、自宅から飛び出していた。

 

「ッ、アル!?」

 

「ごめん……勝てない。逃げるよ」

 

 頭の中の処理が、全く追いついていなかった。それはエリックだけではなく、マルーシャもであった。

 何も、考えられない。それでも、今立ち止まることが何を意味するかだけは、分かっていた。

 彼らは、前を走るアルディスに置いていかれないようにと、ただ無心で足を動かし続けた。

 

 

 

 

 アルディスの家を飛び出してから、二、三十分は走り続けただろう。

 

「は……っ、はぁ……っ」

 

 流石に、アルディスの息の荒さが酷く気になってきた。しかも彼は、エリックを庇って傷を負っているのだ。

 あまりにも心配になり、エリックはマルーシャと一瞬だけ顔を見合わせた、アルディスに声を掛けた。

 

「……アル」

 

 長い前髪とフードに隠され、顔そのものは見えない。だが、白い顔を伝っていく酷い量の冷や汗と、真っ青になった顔は確認出来る。しかも、こちらの声が届いていないらしい――これ以上は、とエリックはアルディスの肩を掴み、叫んだ。

 

「アル! ここまで来たらもう良いだろ!? 一度、止まらないか!?」

 

 そこまでして、ようやくアルディスはエリックに声を掛けられていることに気付いたようだ。足を動かし、前を向いたまま彼は返事を返した。

 

「大丈夫だよ……これくらい。俺は、傭兵だよ……」

 

「馬鹿なことを言うんじゃない! 良いから、ちょっと座れ!」

 

 無理矢理にでも止めなければ、このまま走り続ける気だ。エリックはせめて立ち止まるようにと、アルディスの腕を後ろに力強く引いた。その衝撃で、アルディスの重心が振れた。

 

「っ!」

 

 他所から力を加えられたため、力が抜けてしまったのだろう。アルディスはそのまま、へたりと地面に座り込んでしまった。

 

「だから言ったんだ……」

 

 先程、アルディス本人が言ったように、彼の職業は傭兵である。怪我をすることも、怪我をしたまま走り続けることも、日常的な事なのだろう。

 とはいえ、いくら傭兵という職業の件があるにしても、アルディス自体は本当に華奢な体格の持ち主である。とてもではないが、今の彼に無理をさせる気にはなれなかった。

 

 

「マルーシャ、頼む」

 

「うん」

 

 マルーシャが傍に寄り、再び天恵治癒の能力を発動させる。しかし、傷はどうしても塞がりきらない。力の強さと傷の深さが釣り合わないのだ。

 

「しばらく、休まないか?」

 

「……いや、もうしばらく進まないと危険だよ」

 

 エリックに身体を預け、ぐったりとしたままアルディスが口を開く。そんな彼の姿に、マルーシャは金色の睫毛を震わせた。

 

「ごめん、わたしにもうちょっと力があれば……」

 

 マルーシャの天恵治癒(エルフリーデ・イヴ)を始め、この世界の人間は何らかの特殊能力を持つ。大体の人間、およそ七割の人々が透視干渉(クラレンス・ラティマー)という能力に目覚めるのだが、稀にマルーシャのように違う力に目覚める者も居る。中でも、彼女の天恵治癒(エルフリーデ・イヴ)はかなりの希少種だ。

 しかし、特殊能力というものは力の向上にかなりの努力を要する為、使いこなせない者も多い。それはマルーシャも例外ではなく、決して自身の能力を極めているわけではなかった。

 

「これで、僕も天恵治癒(エルフリーデ・イヴ)能力者だったりしたら、協力してやれるんだが……」

 

「う、うーん……未来の君に期待してる。何だろうね? エリックの能力」

 

 特殊能力――人々がそれを得るのは“覚醒”という段階を終えてから。それがどんな力であったとしても、通常、人は十歳前後の年齢で覚醒する。

 聞いたことが無いためにアルディスの覚醒がいつなのかは知らないが、マルーシャは七歳と早めの覚醒をしている。

 だが、それにも関わらずエリックは十八歳にもなって、いまだにそれらしい現象が起きていないのだ。

 最悪、天恵治癒(エルフリーデ・イヴ)でなくても良い。何かしらの能力に目覚めたい、と思わずにはいられなかった。

 

(早いとこ、覚醒してくれないと困るんだが……)

 

 この国、ラドクリフ王国は現在、女王によって納められている。国王が十年前の戦で戦死した関係で、代理としてその妃が勤めているのだ。

 

「……」

 

 この国の民はほぼ、その息子であるエリックの早期交代を望んでいる。それでも彼が王位を継がないのは、未覚醒な上に純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)が持つ、美しい光の翼を出すことさえもできない自分を気にしているため――手袋の上から右手の甲をさすり、エリックは二人に気付かれぬようにため息を吐いた。

 

 

 

 

「こんなこと、聞きたくないけど……これから、どうするの……?」

 

 更に三十分程歩き続けた辺りで、マルーシャは躊躇いがちに口を開いた。

 ヘリオスの森も、王都ルネリアルも既に見えない。それなりに、遠くまで来たらしい。マルーシャの言葉に、アルディスは脇腹を押さえたまま目を伏せた。

 

「……ごめん、俺のせいだ」

 

 それは違う、とマルーシャは首を横に振るう。仮にあの二人がアルディスを追ってきたのだとしても、彼本人に非があるわけではない、と。

 

「違うよっ、そんなこと、ないよ……!」

 

「そうだ。アルは悪くない。むしろ、謝るのはこっちだ……」

 

 状況が状況である。仕方がないとはいえ、エリックまで落ち込んでしまっている。自分が話題を降ったとはいえ、こんな空気になることを望んだわけではない。

 責任を感じたマルーシャは、何も言えずに辺りを見渡し……ある一点を見て、己の目を疑った。

 

「え?」

 

 

――鳥だ。アルディスの隣に、鳥が居た。

 

 

「な……? え……?」

 

 それも、エリックを一回り大きくしたくらいの、額に青紫の石が付いた、巨大なオレンジ色の鳥。

 マルーシャはゴシゴシと目を擦り、再び鳥を見た。大きな青紫の瞳と目が合う。

 

「きゅ」

 

「あ、鳴いた……」

 

 随分と間の抜けた、何だか愛嬌のある声である。流石に落ち込んでいたエリックもアルディスも、その異様な存在に気が付いた。

 相手は可愛らしい外見に似合わず、獰猛な魔物かもしれない。油断させておいて襲って来る可能性もある。絶句している場合ではないと、アルディスは薙刀を構えた。

 

「二人とも下がって!! ……って、あれ?」

 

……遅かったようだ。アルディスは新たな異変に気付いた。

 

「え? 俺、飛んでる? 浮いてる?」

 

「アル……」

 

 決して飛んでいるわけではない。浮いているのは、鳥がアルディスのローブを咥えているためだ。

 そしてアルディス本人は笑いを誘っているわけでは全くなく、本気で馬鹿なことを言っている。キョトンとした表情の親友を見て、エリックは呆れ返った様子でため息を吐いた。

 

「……は?」

 

「じゃなくて! 馬鹿! 抵抗しろよ!!」

 

「はっ!?」

 

 冷静に物事を判断したエリックの指摘でアルディスは我に返ったが、これまたもう遅い。

何を思ったか、鳥はアルディスを咥えたまま踵を返して疾走していった。

 

「……」

 

 微かに砂埃が舞う。完全に置き去りにされてしまった。唯一の頼みの綱であるアルディスが居なくなったのだ。

 

「……嘘だろ?」

 

「嘘だと、思いたいよ、ね……」

 

 こうなることなど、いったい誰が想像出来たか。対処方法なんてあるはずがなかった――あまりにも予想外なことになってしまったせいで、大混乱に陥ってしまったのだろう。

 

 その場に取り残された二人が「アルディスと鳥を追いかけよう」という結論に至るまでには、かなり無駄な時間が費やされてしまった……。

 

 

 

―――― To be continued.

 




 
いきなり乱入してきた二人組。
ゾディート

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ダークネス

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(絵:長次郎様)


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Tune.3 可愛い聖職者

 

 

「ちょ、ちょっと! いきなりなんだよ! 止まれ! 止ーまーれ!!」

 

 エリックとマルーシャを置き去りにしたまま、アルディスは結局、種類も何も分からない謎の鳥に得体の知れない場所へと連行されていた。

 職業柄アルディスには土地勘があり、この辺りがローティア平原と呼ばれる大草原であることは知っている……のだが、それとこれとは話が別だ。流石に鳥の行き先までは分からないからだ。

 何より、この広い草原には他に誰の姿も見付けられない。誰かに助けてもらえる可能性は少ないだろう。このまま変な場所に連れて行かれてしまうと非常に困ったことになる。

 

「ッ、くそ……っ」

 

 いつまでもくわえられたままというのも辛い。身体が大きく揺れるせいで、できたばかりの傷にも響く。アルディスは身体を大きく動かし、勢いを付けてから身体を捻って鳥の首にしがみついた。

 

「きゅっ!?」

 

 驚いて鳥がクチバシを開いた隙に、さっとふかふかしたオレンジ色の羽毛に覆われた背に乗り移る。少しは、体勢が安定した。だが、それでも鳥が止まる気配はない。たくましい焦げ茶色の足は、高速で動き続けている。

 いくらなんでも、この速度で走っている鳥の上から飛び降りるのは無茶な話だ。どうにしかして、この鳥を止めるしかない!

 

「ああもう! 止まってよ!!」

 

「きゅー!!」

 

 どうやら誰かに飼われているらしく、鳥には口輪と、そこから繋がる手綱が付いていた。なかなか丈夫な革紐である。アルディスはそれを両手で掴み、落ちないように上手くバランスを取りながら後ろに引いた……が、

 

「きゅーっ!!」

 

「あ、ごめん……」

 

 痛がっているようだが、よほど走りたいのか鳥は止まらない。構造を考えれば、手綱を強く引きすぎると痛がるのも分かる。流石に可哀想だ。

 それでもこのまま暴走させ続けるわけにもいかず、頭に深く被ったフードを押さえながら、アルディスは手綱を掴み続ける。どうしたものかとため息を吐きかけた――その時だった!

 

 

「チャッピー!」

 

 

「!?」

 

 困り果てていたアルディスの耳に、落ち着いた雰囲気を漂わせながらも、少女らしい可愛らしさが感じられる声が入ってきた。

 その声はどういうわけか、頭上から聴こえてきた。聞き間違いではなさそうだ。空を見上げると、逆光でよく見えないが翼を広げた小柄な者がそこに居た。声から判断するに、恐らくは自分よりいくつか年下の少女だろう。

 

「なっ、何で人を拐って来てるんだ!?」

 

「きゅ!」

 

 チャッピー、と鳥の名を呼んだのだ。彼女が飼い主と考えて間違いない。

 そうして、鳥の飼い主と思われる少女は逆光に容姿判別を邪魔されない程度の高さまで降りてきた。

 

「チャッピー! 言うことをききなさい!!」

 

 夜空のような深い藍色の短い髪に、大きなサファイアブルーの瞳をした聖職者だった。見た目からして、歳は恐らく十五歳前後である。

 黒を基調とした布地に黄色のラインが入った、ケープが一体化したような構造の上着に、丈が長くワンピースのように見える茶系統配色のインナーと誰がどう見ても微妙にサイズのあっていない大きめの神衣が何だか可愛らしく思えた。額に巻かれているのは、リボンのようにも見えるヘアバンド。これも彼女にはとてもよく似合っている。

 

「と、止まれ! 止まりなさいっ!!」

 

 彼女は爆走チャッピーの前に飛び出し、両手を前に出してその進行を阻もうとしていた。何の躊躇いもなく行われた行為だった。だが、チャッピーは止まる気配を一切見せない!

 

「!? あ、危ないっ!! 良いから、止まれ!!!」

 

 これは流石に「鳥が可哀想」等と言っている場合ではなかった。アルディスも全力で手綱を引く。それでも、チャッピーは止まらない!

 

 

「きゅーっ!!!!」

 

「わあああぁっ!?」

 

「!?」

 

 

――そのまま、少女は鳥に撥ねられた。

 

 

「……え?」

 

「……」

 

 遥か前方まで吹き飛ばされた上に気絶しているのか、少女は微動だにしない。ここまで暴走して、ようやく止まった鳥から飛び降り、アルディスは走った。

 

「ちょ、ちょっと君!? 大丈夫!?」

 

「……」

 

 ぐったりと手足を投げ出した小さな身体を抱き起こしてみる。随分と軽い。彼女の雪のように真っ白な特徴的な肌は、藍色の髪と黒の神官服によってかなり強調されていた。

 しかしどちらかと言うと、少女の特徴は短い髪から覗く尖った長い耳と、やや小さめの橙色の翼の方だろう。

 紛れもなく、少女はこの国の『鳳凰狩り』という、生死を問わず捕まえたものに多額の報奨金が払われる制度の対象。捕獲隊が血眼になって探し回っている希少な存在――純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)だった。

 

「うわ……」

 

……とは言っても、アルディス的にその辺は全力でどうでも良い。

 少女に目立った外傷が無いことを確認してから、彼は盛大に目を逸らして呟いた。

 

「か、可愛い……」

 

 思わず漏れた本音。彼の視線の先には、堂々と座り込んでいるチャッピーの姿。アルディスとチャッピー。出会ったばかりの両者の目線が、しばしの間交わり続ける。

 

「きゅ?」

 

「……。こっち見るな」

 

 相手が鳥とはいえ、これはいくらなんでも恥ずかしかったのだろう。アルディスは頬を誰が見ても分かるほどに赤くしつつ、再び少女へと視線を移した。

 

「ん……」

 

 そのまましばらく覗き込んでいると、少女の身体がピクリと動いた。気がついたのか、ゆっくりと目を開けた彼女と目が合う。

 

「大丈夫?」

 

 少女はしばらく放心していたが、やがて、意識がはっきりしてきたのだろう。

 

「!? ひああっ!?」

 

 細い腕で目の前のアルディスの胸を突き飛ばすように押し、そのままゴロゴロと地面を転がっていった。どうやら、驚いてしまったようだ。

 とはいっても、助けて貰った相手に対してなかなかに失礼な行為である。それを理解したのか、少女は明らかにオロオロと狼狽え、挙動不審になっていた。

 

「はぁ……駄目だ、これは……うん……」

 

 だが、少女とは全く別の意味で、アルディスも挙動不審に陥っていた。

 

「可愛い……」

 

 ろくにこちらの姿も見ずに困惑する少女の手前、アルディスは再び顔を赤くして目をそらす。怒鳴りつけられるよりは少女も気は楽だろう――これはこれで、どうかと思うのだが。

 

「え、えと……」

 

 意味が分からないと首を傾げる少女を前に我に返ったのかアルディスは軽く咳払いしつつ、未だに狼狽える少女へと視線を戻した。

 

「大丈夫そうだね」

 

「あ、そうだ……! ご、ごごご、ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」

 

「良いよ、気にしないで。怪我してない?」

 

 どうやら旅の途中らしく、彼女が持っていた鞄はかなりの大きさだった。それを拾い上げ、アルディスは少女の元へと近付いて行く。

 

「きゅ」

 

「コイツの飼い主? 純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)ちゃん?」

 

「!」

 

 “純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)ちゃん”というアルディスの言葉に、少女の顔が恐怖に凍り付いた。その身体は、微かに震えている。彼女も、懸賞金を目当てにした人々に追い回され、命を脅かされる者だったということだ。

 これこそがこの国における純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)の宿命とも言える。しかも、少女の藍色の髪は純血に限らず、鳳凰族(キルヒェニア)の中でも希少な物だ。

 間違っても彼女は、真昼間に堂々とその辺を徘徊出来るような容姿の持ち主ではない。それだけに少女が身を一切隠さず草原を飛び回っていたことが、アルディスには不思議に思えた。

 何か、事情があるのだろうか――アルディスはあえて何も聞かず、少女の頭に手を乗せる。

 

「怯えなくて良いよ。俺、君達を追い回すような悪趣味ないから」

 

「え……?」

 

 アルディスの表情は相変わらず一切の変化を見せなかったが、その声は優しく穏やかなもので。安心したのか、ようやく顔を上げた少女はアルディスの姿を見て何かに気付いたらしい。

 

 

 一瞬、目を丸くした後――彼女は、かなり意味深な笑みを浮かべてみせた。

 

 

「……だろうな」

 

「!?」

 

 突然、様子が一変した少女の反応に、今度はアルディスが顔色を変える。それに対し、少女は少し辺りを見渡して何も問題がない事を確認した後、話を続けた。

 

「あなたはむしろ、オレ達と同じ“追われる側”だからな……」

 

「! ……君は、一体……」

 

 “オレ”という一人称が少し気になったが、今はそれどころではない。あどけない印象を与えるサファイアブルーの大きな瞳に、彼女の言葉に、一寸の迷いも感じられなかった。

 

 

「あなたを探していました。“アルディス”さん」

 

「な……っ!?」

 

 まだ、彼女に名前を名乗った覚えはない。本名どころか、『アル』という愛称すらも告げていない。嬉しそうな少女に見えないように、アルディスは右足のホルスターに手を伸ばした。

 

「やっと会えた……」

 

 恐らく、先程一瞬見せた笑みはこの意味を持っていたのだろう。この少女は、自分を探すために旅をしていたのだ。それも、かなり長い間。

 

(俺は……こんな子にまで手を下さなきゃならないのか……?)

 

 アルディスは“こういった行為”そのものに慣れていないわけではない。むしろ、手馴れている方だろう。しかし、元々非道な性格というわけでもないのだ。相手が幼い少女である以上、どうしても、罪悪感めいたものが出てきてしまう。

 

「……動くな」

 

「!」

 

 

――それでも、罪悪感だけで危険人物を逃がしてしまうほど、アルディスは甘くない。

 

 

 彼はホルスターから拳銃を取り出し、銃口を少女の額に突き付けた。どうやら完全に油断しきっていたらしい少女は、アルディスの行動に目を丸くする。

 

「君が……お前が知っていることを……その目的を、全て話してもらおうか」

 

「……。言われなくとも、いずれは話しますよ。ご安心ください」

 

 驚きはしたようだが、特に怯えるような素振りを少女が見せることはなかった。これは本当に引き金を引かなければいけないパターンかと、アルディスの身体が強ばる。

 

「敬語、か。俺が知られて困ることは確実に知っていると、そう判断して良いみたいだね」

 

「そこまで警戒しなくても……まあ、警戒するに越したことはないですが」

 

 余程、撃たれないことに自信があるのか、そこまでは良く分からない。少女は頭を押さえ、そして、口を開く。勘弁してくれ、とでも言いたげである。

 

「冷静に考えて下さい。オレは純血です。どう考えても、あなたの味方でしょう……?」

 

「――ッ!」

 

 彼女はしっかりとアルディスの目を見て、言葉を紡ぐ。嘘では、なさそうだ。

 それ以前に、彼女の発言は明らかに正論だった。そう思うと、一気に罪悪感が押し寄せてくる。きまりが悪そうにアルディスは拳銃をホルスターに戻し、少女の頭を撫でながら目を伏せた。

 

「……ごめん」

 

「お気になさらず。あなたの行動の理由は、想像に容易いですから」

 

 罪悪感こそあったものの、実際の所、アルディスは内心ではかなり安堵していた。目の前の少女の命を奪わずに済んだこと。これだけで、かなり救われたように思える。

 だが、そのような安堵の感情と共に抱いた思いは、決して平穏なものではない。

 

(俺は……一体、いつまで怯えながら過ごせば良いんだよ……)

 

 冷静に、なれなかった――それはどれだけ、惨めな事か。

 少女から顔を背け、アルディスは奥歯を強く噛み締める。それに気付き、少女は軽くアルディスのローブを引っ張ってみせた。

 

「気にしないで下さい。仕方ないですよ」

 

「ありがと……でも、ごめん、敬語やめて。俺に敬語は使わないで」

 

 自分に敬語を使いたくなる気持ちも、分からなくも無いのだが。とにかく、少女は確かに「いずれは話す」と言った。今は、彼女を信用しても良いだろう。

 軽くひと呼吸してから、アルディスは腰を落とし、少女に視線を合わせた。

 

「ねえ、名前を聞いても良いかな?」

 

「!」

 

 突然、少女の肩がびくりと跳ねた。一体どうしたのかと、アルディスは首を傾げる。

 ただ、名前を聞いただけだというのに。アルディスの問いに対し、彼女は酷く戸惑ってしまっていた。

 

「どうしたの?」

 

「その……ファミリーネームは“リヴァース”だと思う。名前は、適当に呼んで欲しい」

 

 ハッキリ言って、訳が分からない。

 だが、少女が浮かべた笑みは事実を追求することを許してはくれなかった。

 それは、本当に悲しげなものであったから。無理に浮かべていることが良く分かる、痛々しい作り笑顔であったから。

 

(え……っ!?)

 

 その表情が、何故か知り合いの顔と重なって見える。

 否、よく考えてみれば――少女はあまりにも、“彼女”に似過ぎていた。

 

「ダ、イアナ……?」

 

 無意識的に、アルディスの口からある少女の名が零れ落ちた。その名を聞いた少女は、怪訝そうに軽く首を傾げる。

 

「ダイアナ?」

 

「! あ、その……ごめん。君ね、俺の知り合いに似てて、さ……」

 

 一度意識してしまえば、動揺を誘うのは簡単なことである。いくらなんでも似過ぎている。記憶の中の少女はもっと幼く、長い髪の持ち主であったが。

 これは初対面でいきなり好感を抱いてしまったのも、当然のことなのかもしれない。

 

「……。ダイアナって、名乗ろうか?」

 

 少女はしばらく悩んだ末に、おずおずとこのようなことを申し出てきた。だが、それは良くないだろうとアルディスは首を横に振るう。

 

「いや、“ディアナ”にしとこう。読み方変えただけだけど……あんまり、良くないからね」

 

 何故ならそれは、『死者』と同じ名前だから――生きているはずのない少女に心の中で謝りながら、アルディスは再びディアナの頭を撫でた。

 

「……。分かった」

 

(あ……ディアナって女性名なんだけど……この子、女の子だよね……?)

 

 

――今更ながら、この子は本当に“少女”なのだろうか?

 

 

 口調のせいで分からなくなってきた。もはや今更過ぎる。聞ける筈がない。

 そんなアルディスの悩みには気付かないほどにディアナは何かを考え込んでいたが、目の前のアルディスの存在を思い出したのだろう。話を変えようと、彼女は重い口を開いた。

 

「……で、あなた、連れはいるのか?」

 

「それなんだけど、純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)が二人いるよ。着いてくるつもりなら、大丈夫かい?」

 

 純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)。その言葉に、ディアナは恐怖に怯え、顔を引きつらせる。

 恐らく彼女にとって、龍王族(ヴィーゲニア)は彼女自身の命を脅かす存在でしかないのだろう。しかし、それでも彼女は意志を曲げなかった。

 

「嫌でも行く必要がある。オレの使命だからな」

 

「……そっか」

 

 

 ディアナの言い回しが、気になる。彼女から話を聞こうとしたが、それは阻まれてしまった。遠くでエリックが、アルディスの名を呼んでいる声が聞こえてきたからだ。

 どうやら、マルーシャも一緒にいるらしい。名を呼ぶ声は、二人分重なって聴こえてくる。

 

「あれか?」

 

「うん、あれ」

 

 声はエリックのものであったが、先にやって来たのはマルーシャだった。脱走癖が重症な彼女の方が運動神経に恵まれているということだ。エリックも遅いわけではないのだが、勝てないのも無理はない。マルーシャが、あまりにも早すぎるのだから。

 アルディスの無事を確認するなり、マルーシャは軽く頬を膨らませてみせた。

 

「もー! ビックリしたじゃない!」

 

「ごめんごめん」

 

「すまない……こいつが拐ってきた、みたいで」

 

 チャッピーの頭を撫でつつ、ディアナがマルーシャに頭を下げる。少し怯えているようにも見えるが、それは気のせいではないだろう。

 彼女が怯えていることに気付いたらしいマルーシャは穏やかな笑みを浮かべ、ディアナに視線を合わせてみせた。

 

「大丈夫だよ。えと……あなたは?」

 

「オレは……ディアナ。ディアナ=リヴァースだ」

 

「そっか、ええと、わたし、マルーシャ。よろしくね、ディアナ?」

 

 この場面でディアナが純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)であることに、マルーシャが気付かないはずがない。それにも関わらず、彼女はいつも通りのままだった。

 その反応に、ディアナは口に出すことはなかったものの、明らかに驚いていた。

 

(……。流石、マルーシャ)

 

 揉めた際には割って入ろうとは思っていたが、その心配はなかったようだ。安心したらしいディアナが微笑むのを見て、アルディスは若干遅れて到着した親友へと視線を移す。

 

 

「はー、早い早い……」

 

「お疲れ様、ごめんね……エリック」

 

「お前が無事ならそれで良いよ……」

 

 微かに息を切らしたエリックは、マルーシャ同様にアルディスの無事を確認する。

 現れた彼の、汗で貼り付いた金色の髪を、切れ長の赤い瞳を、半開きになった口から覗く長い牙。それらを見て、ディアナは顔面を蒼白にして声を震わせた。

 

「ま、まさか、この男……!!」

 

「!?」

 

 まさか、外見的特徴だけでエリックの正体に気付いたとでもいうのだろうか。

 そういえば、ディアナの予想出来る目的の中身からして『ラドクリフの王位継承者、エリック=アベル=ラドクリフの容姿』くらい知っていてもおかしくは無い。

 アルディスの嫌な予想は当たっていたようで、ディアナは先程から信じられないものを見るような目でこちらをじっと見つめている。

 

「な……なんだよ、いきなり……」

 

「……」

 

 自分を見て明らかに態度を変えたディアナのことが気になるのだろう。しかも、彼女は王子を見て驚いた、というよりは宿敵を見た、とでも言いたげな反応をしていた。

 エリックは「僕がどうかしたか?」と、警戒させないようにディアナにゆっくりと近付いていく。それに気付いたディアナは、翼を動かして少しだけ高いところへと飛び上がった。

 

「オレの勘違いで、無いのなら……ッ」

 

 そう言ってディアナが首元に付いた十字架のブローチ、その中心にある赤い宝石に触れるのを見たアルディスは慌てて声を張り上げた。

 

「待て! ディアナ!! エリックは敵じゃない! いきなり襲おうとするな!!」

 

 あまりにも不穏なアルディスの叫び。これにはエリックも流石に眉をひそめ、「どういうことだよ」と不機嫌そうに声を震わせる。

 かなり珍しい状況だが、よく考えてみれば彼はほんの一時間前に実の兄に殺されそうになったばかりなのだ。再び命を、それもどこの誰かも分からない得体の知れない人間に狙われたとなれば、そのあまりの理不尽さに苛立ってしまうのは当然のことだろう。

 

 

「ッ、俺の言い方が悪かったな……とにかくディアナは降りてきて! 大体、お前みたいな女の子が、そんな物騒な……ッ」

 

「……は?」

 

 とにかくディアナをなだめなければと焦り始めていたアルディスだったが、罵声が飛んでくることも覚悟していた相手から返ってきたのは、あまりにも間の抜けた声だった――そんな声が返ってきてしまった理由は、彼女が顔を真っ赤にして叫んだ言葉によって即座に判明することとなる。

 

 

「~~っ! あ、あなた、オレの性別を間違えたな!? オレは! 男だから!!」

 

 

 嘘だろ、とアルディスは盛大にディアナから目を反らした。

 不幸中の幸いだったのは、この壮絶なまでに間抜けなやりとりによって、急降下していたエリックの機嫌がある程度まともな状態にまで戻ったことだろうか……。

 

「ほら、オレ……自分のこと“オレ”って言ってるだろ? 一人称からして男だろ?」

 

「き、気にはなったけど……そういう子かなって……」

 

「目を合わせて喋ってくれないか!?」

 

 ディアナは――“彼”は、色々と文句を言いたそうだ。ただ、今一番彼が文句を言いたいであろうことは言われなくとも分かる。

 

(ディアナって、明らかに女性名、なんだよなぁ……)

 

 どうして名付けたその瞬間に指摘してくれなかったのだろう。名付け親である自分の名前も女性名だからだろうか?

 仮にそうだとしたら、変な遠慮は欲しくなかった。そういう大切なことはちゃんと言って欲しかった。

 しかもアルディスを上回る勢いで、ディアナは見た目が女性的である。むしろ、誰がどう見てもボーイッシュな女の子にしか見えないだろう。

 

(この子、マルーシャに名前、名乗っちゃったしなぁ……今になって変えるなんて言えないよね、完全に失敗した……)

 

 間違っても、名前と容姿が一致しない訳ではない。不釣合いな名前という訳でもない。小動物のような愛らしさをした彼に似合う、可愛らしい名前だろうと自分でも思う……が、そういう問題ではない。むしろ、だからこそ付けてはいけない名前だった。

 

 

――そして何より、アルディスは自分自身がとんでもない問題に直面したことに気付いてしまっていた。

 

 

(だ、駄目だ、怒ってても可愛いとか思った時点で……この感情、否定出来そうもない。こ、困ったな……)

 

 一度『可愛い』と思ってしまったせいか、どうにもその感情が抜けきらなくて困る――つまり、そういうことだ。しかも相手が男だと分かったにも関わらずこれだ!

 

 一触即発の事態は免れたにしろ、どうにも険悪なムードが漂ってしまうエリックとディアナの間を取り持つことも忘れ、アルディスは無言で空を仰いだ。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.4 手加減

 

「……で、ディアナとか言ってたな。お前、アルを拐った目的は?」

 

「拐いたくて拐ったわけじゃない。そういうあなたは、何故アルディスと一緒に?」

 

「ちょ、ちょっと……二人とも……」

 

「落ち着いて、ね? ちゃんと話し合おうよ……!」

 

 エリックとディアナ。二人の間でいきなり殴り合いの大喧嘩が始まるようなことは無かったものの、あまりにも不穏な状態が続いている。

 彼らの身長差はかなりのものだったが、ディアナが常に空を飛んでいるために彼らの視線はぴったりと交わっていた。二人は真っ直ぐに目を合わしたまま、逸らそうともしない。睨み合いに近い状態だ。

 何とかしなければ、しかし良い案が浮かばないとアルディスとマルーシャはおろおろと狼狽えていた。

 

「きゅー……」

 

 アルディスを拐った、という意味においては十分当事者であるチャッピーはそんな四人を見て何か言いたげに力なく鳴いた。人間で言えば、溜め息を吐いているようにも見えた。

 

 

「僕がアルと一緒にいようが、お前には関係ないだろう? むしろ、お前みたいな突然現れた素性は不明、名前以外何もかも不明な妙な奴が一緒にいる方が、状況としてはおかしいんじゃないか?」

 

「――ッ!!」

 

 言い方は冷たいが、一般的に考えればエリックの言い分は的確なものだった。だが、ディアナにとっては全く別問題、というより彼は、その言葉をエリックが考えていたこととは違う意味で受け取ったのだろう。

 彼は今にも泣き出しそうに大きな青い瞳を潤ませ、それを隠すように俯いてしまった。

 

 

「どいつも、こいつも……そんなに、オレが嫌なのか……? オレが、何をしたって言うんだよ……ッ」

 

 

「え……?」

 

 これには彼を敵視していたエリックのみならず、その場にいた全員が狼狽えてしまった。マルーシャはディアナの顔を覗き込もうとしたが、ぷいとそらされてしまった。

 

「ディアナ? どうしたの……?」

 

「あ……いや、別に……何でも、ない……ッ」

 

 ディアナは俯いたまま首を力なく横に振るい、両手を強く握りしめていた。その様子は明らかに強がりだと感じ取れ、酷く弱々しい。

 しかし、心配してくれるマルーシャに何も話さないのは失礼だと感じたのかもしれない。ディアナは自身の顔をパンパンと軽く叩き、顔を上げてマルーシャに話し掛けた。

 

 

「……。あなたは……オレが、不快ではないのか?」

 

 そう問いかけるディアナの青い瞳は、不安げに揺れていた。

 

「え……」

 

 答えを聞きたそうにしているが、どこか、怯えているようにも見える。そんなディアナの姿に、マルーシャはハッとして彼の翼に目を向けた。

 

(そ、そうか……この子、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)だから……)

 

 あまりにもあっさりと姿を晒しているため、逆に分かりにくい。だが、ディアナも種族を理由に酷い目にあってきた人間なのだろうと、マルーシャは瞬時に察した。

 

「全然? でも、不思議。すごく、堂々としてるよね? ……何か、理由あるの?」

 

「……」

 

 無言であったが、それは肯定といっても良い行為。訳があると考えて良いだろう。

 しかも今現在、他人に怯え、不必要に関わりを持つことを拒むアルディスが何も言わない、それどころか比較的ディアナを受け入れてしまっているという得体のしれない現象が同時に起きているのだ。マルーシャは二人の関連性を疑わずには居られなかった。

 

 アルディスが他人を平気になったとは到底思えない。ならば、理由は多く考えても二つ。

一つは、初対面を装っているアルディスとディアナが、本当は関係者であること。もう一つは、ディアナが、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)という種族であること。

 

(混血、とは聞いてるけど……実際はそれ、ちょっと怪しいもんね……)

 

 エリックと言葉を交わしているアルディスの姿をちらりと見て、マルーシャはすぐに目をそらした。

 混血を自称しているとはいえ、アルディスはあまりにも奇抜な容姿の持ち主。少なくとも、鳳凰の血より龍の血が濃ければ、この国に多い龍王族(ヴィーゲニア)であれば、まずありえない容姿だった。

 

 マルーシャは密かに、このような思いを巡らせることがある。しかし、それをエリックに告げたことは一度も無かった。少し、厄介なことになるような気がするからだ。

 

(今回も、黙っとくべきだよね……)

 

 エリック――ラドクリフ次期国王である、彼の立場を考えるのならば。そもそも、マルーシャの考えが合っているという証拠は一つも無い。考え過ぎだろうと自分に言い聞かせ、マルーシャは困ったように笑った。

 

「大丈夫だよ。少なくとも、わたしは何もしないよ?」

 

「……!」

 

「ほんとほんと。わたし、嘘下手だから。信じて良いよ?」

 

 一瞬、ディアナが本当に嬉しそうな顔をしたのを、マルーシャは見逃さなかった。そして、そんなディアナの表情の変化をエリックも目撃していたらしい。赤い瞳を細め、エリックはおもむろに口を開いた。

 

 

「お前、そういう顔も出来るのか」

 

「はぁ!?」

 

 どういう顔だよ、とディアナは自身の顔をぺちぺちと叩く。ディアナから少しだけ視線をそらし、エリックは、どこかきまりが悪そうに話を続けた。

 

「……。純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)だか何だか知らないが、その辺に関して言えば、僕は別に何とも思わない。ただ、お前がろくに話をしないから、つい警戒していただけだ……とはいえ、悪かった。いくらなんでも、言い方が悪かったよな」

 

「え……?」

 

「僕も色々あったからな。急に目の前に現れた奴に対しては、あまり良い思い出が無いんだよ」

 

 どこか高飛車な、上から目線の言い回しではあるが、それは遠回しに彼も「大丈夫」だと言ったようなもの。ディアナは青い瞳を細め、クスクスと笑ってみせる。

 

「なるほど、食事に毒を盛られた経験でもあるのか。そうだな、あなたの立場を考えれば、オレみたいな急に現れた人間に対しての警戒は大切だ。オレも変に考えすぎてしまったようだ」

 

「んな!? いきなり何を言い出すんだお前は!! 大体僕はまだ何も……っ」

 

「信じてもらえないかもしれないが、毒を盛るつもりはない。そんな境遇なら毒に慣らされていそうだし、オレならそんな面倒なことせずにさっさと首を落とす」

 

「頼むから笑えないことを言うな!」

 

 二人は再び、よく分からない言い争いを始める。だが、二人の表情は先ほどとは異なり、どこか柔らかなものとなっていた。

 これなら、もう大丈夫だろう――アルディスとマルーシャは、ほっと胸を撫で下ろしていた。

 

 

 

 

「何か、妙だな……」

 

 エリックとディアナの謎の争いもひと段落したところで、アルディスが立ち止まった。

 

「どうした?」

 

「おかしいんだ。この辺りは魔物が多い……筈なんだけど……」

 

 そういえば、とエリックは思った。以前、アルディスが話していたが、ヘリオスの森は比較的魔物が出難い地帯らしい。

 つまり、あの場所から離れたこの地は、間違いなく例外なのだ。普通に、魔物が出る“はず”の地帯なのだ。

 それにも関わらず、ここまで進んできて一体の魔物にも遭遇しないとはどういうことだろうか。

 

 絶対におかしいと呟き、アルディスは腰に巻いた飾りの先で揺れる、淡い黄色の宝石に触れる。すると、彼の左手にいつもの薙刀が出現した。

 

「ああ、その薙刀ってそういう仕組みだったわけか」

 

「わたしも初めて見た……そっか、普段は宝石になってるんだ」

 

 王族であるエリックやマルーシャからしてみれば、見慣れないものである。彼らにとって、武器など必要ではない。むしろ、余計なものだ。

 ただ、出難いとはいえ魔物が出る森に住んでいる上に、傭兵を職業とするアルディスにとっては違う。

 

「武器は普段から持ち歩く人は持ち歩くが……大抵の奴はこうしているな」

 

 ディアナもそうだったらしく、服のブローチに付いた宝石に触れ、十字架を思わせる形状をした、細身の片刃剣を取り出した。そしてすぐに、それを宝石へと戻す。

 宝石はアルディスのものは淡い黄色だったが、こちらは深い赤色である。どうやら、使う者によって色は異なっているらしい。

 

「そうだね……邪魔にならないし、俺の薙刀みたいに、大型の武器ならこの方が素早く出せるから」

 

「それ、マルーシャはともかく……僕でもできるのか?」

 

「“レーツェル”にか? 出来ない人間を、見たことがないが……」

 

「悪かったな、僕は未覚醒だ」

 

 自虐的に呟くエリックに、流石のディアナも失言だったと口をつぐむ。そこで、フォローのために口を開いたのはアルディスだった。

 

「両目、見えてるでしょ? だったら大丈夫。微弱な魔力さえあったら、出来るよ」

 

 アルディスの話によると、魔力は人々が生まれながらにして持ち、種族によって差はあれど、体内に流れる魔力の大半は目に宿るのだという。

 

「宝石……というか、これ。レーツェルっていうんだけど。これはね、物に軽く魔力を注ぎ込んで形を変化させてるだけなんだ。ちなみに、色は天性属性……生まれ持った属性に対応した色になるよ。注ぎ込んだ魔力の色が出るから」

 

「アルは光属性だから黄色か……じゃあ、ディアナは火属性なの? わたしだったら、緑なのかな?」

 

「正解だ。マルーシャは風属性か? ちなみにエリックは……多分、透明になるかと」

 

 自信が無さそうに呟くディアナの言葉を、アルディスが肯定する。

 

「そうだね。エリックは透明になるはず。まあ、まずはレーツェル化してない奴が必要だけど。今度、何か買っとくと良いよ」

 

 要するに、市販の武器を買うか何かして手に入れる必要があるのだ。一度レーツェル化された武器は破棄されない限り、元の所持者以外には使えないのである。

 

 

「しかし……こうして話してる間にも、襲いかかってきそうだが……」

 

 妙だ、と感じたのはアルディスだけではないようだ。ディアナもきょろきょろと辺りを見渡しつつ、首を傾げている。彼の少し癖のある、藍色の髪がさらさらと揺れた瞬間――アルディスが叫んだ!

 

 

「みんな、上だ! 避けろ!!」

 

 

 突如として上空から降りてきた黒い影。それを薙刀の柄で受け止め、アルディスは後ろに飛躍した。強い衝撃を受けたためだろう。塞がりきっていない横腹の傷が開き、青々と生い茂る草に赤い血が飛び散る。苦痛に顔を歪め、アルディスは襲撃者の姿を確認した。

 

「ッ! あなた、は……!」

 

 目元を黒い布で覆い隠した襲撃者は、口元に弧を描いてみせる。いつの間にか、周囲を漂っていた下位精霊達は彼――ダークネスの傍に集まっていた。

 

「一発で気絶させてやろうと思ったのに、しぶといな」

 

「なるほど……あなたの気配があったから、魔物が一切出てこなかったのですね。あなたの独特の気は恐らく、この辺の弱い魔物には毒にしかならないから……!」

 

 独特の気、とアルディスは言ったが、エリックにそれは感じられなかった。それは恐らくアルディスと、様子を見る限りディアナにしか感じられない“何か”なのだろう。

 

 

「あなたの、主人はどちらへ?」

 

「ん? ああ、殿下か? ――じゃあ質問だ。俺がそれを、お前に答えるメリットはあるか?」

 

 強がってはいるが、アルディスの傷は深い。相当な痛みがあるのだろう、彼は顔を真っ青にし、息を切らしてダークネスを見据えていた。

 ダークネスは目の前に集まってきた下位精霊達を軽く手で払いのけ、アルディスとの距離を詰めるために地を蹴って駆け出した。それを見たアルディスは薙刀ごと身体を捻り、空を斬る。

 

風神衝(ふうじんしょう)!」

 

「ちっ!」

 

 空振りしたと思われた一閃。しかし、そこには見えない風の刃があった。刃は飛び込んできたダークネスの身体を裂くが、それでもダークネスの動きは止まらない!

 

「甘い! ――舞槍脚(ぶそうきゃく)!」

 

 ダークネスは軽い身のこなしで一気にアルディスの懐に入り込み、姿勢を低くして地面に手を付いた。次の瞬間、彼は右足でアルディスの腹を抉るように蹴りつけ、勢いをそのままに回した左足でアルディスを遠くに飛ばした。

 

「ぐっ!? ごほっ、がは……っ!!」

 

「アルディス!」

 

 数メートル先まで飛ばされ、地面を転がったアルディスはごほごほと血を吐き出し、痛みに悶えている。ここまでの間、様子を見ていることだけしか出来なかったマルーシャが思わずアルディスの方へと駆け出していった。

 

「ま、マルーシャ……! 駄目だ、逃げろ!」

 

「馬鹿言わないでよ! でも、偉そうに出てきたけど、わたし……!」

 

 しかし、元々アルディスが負った怪我ひとつ満足に治せなかった彼女に、この場で出来ることはなかったと言えよう。慌てて天恵治癒(エルフリーデ・イヴ)の能力を発動させるマルーシャだが、アルディスの顔色は悪いままで、ダークネスに蹴られたせいで傷が広がってしまったのか、出血が止まる気配もない。その様子を見ていたエリックは、奥歯を割れそうなほどに強く噛み締めた。

 

(なんだよ、これ……僕は、何をやって……!?)

 

 無駄だと分かっていようと、マルーシャは必死に力を使い続ける。どんなに血を流そうとも、アルディスは戦おうと前を見据え続けている。そしてディアナはいつの間にか片刃剣を構え、飛び出すタイミングを伺っていた――そんな中、エリックは何も出来ず、その場に立ち尽くしているだけであった。

 

 

「協力、してくれるか……そうか、助かる」

 

 ダークネスの周りにいた下位精霊達が一斉にまたたく。それに気付いたアルディスは慌てて自身の傷口にかざされたマルーシャの手を払いのけ、ふらりと立ち上がった。

 

「あの人、精霊術師(フェアトラーカー)だったのか!? マルーシャ! 下がれ!!」

 

「えっ!?」

 

「良いから早く!!」

 

 邪魔にしかならないと考えたのだろう。マルーシャは渋々といった様子でアルディスから距離を置く――その判断を、彼女はすぐに後悔することとなった。

 

「壮麗たる激流よ、刃となりて我が僕となれ!」

 

「……ッ!?」

 

 下位精霊達が、再びまたたく。ダークネスの詠唱に合わせ、大きな魔方陣がダークネスとアルディス、二人の真下に浮かび上がる。その魔法陣の色を見て、アルディスは目を見開き、大きく肩を震わせた。

 

「!? み、水属性……!? アルディス、逃げて!!」

 

 マルーシャが「逃げて」と必死に声を上げる。だが、アルディスはその場に足を縫い付けられたかのように動かない。魔法陣から視線を動かすことが出来ず、ただ震えている。

 それを見たディアナはアルディスの真正面に飛び出し両手を組むと、即座に詠唱を開始した。

 

「刹那の時、絶対なる護りを! ――トランジェントバリアー!」

 

「――ブラウ・シュピース!」

 

 魔法陣から出現したのは、透き通るように美しくも禍々しい激しさを持った水の刃。それはアルディスと、近くにいたディアナに向かって襲いかかった。

 しかし、辛うじてディアナの方が術の完成が早かった。発動した透明な防御壁が、アルディスに襲い掛かる水の刃を相殺する。

 

「……さて、どんなものかな」

 

 しかし、この術は一人にしか発動しないらしく、ディアナ自身にはその効果は無い。そして彼は軽く防御体制を取っただけの状態で、激流をその小さな身体に受けた。

 

「!? ディアナ!!」

 

 そのことに気付いたアルディスは、慌てて目の前の少年の名を叫んだ。だが――彼は明らかな余裕を見せていた。濡れた髪をかきあげ、アルディスに笑いかける。

 

「アル、大丈夫だ。オレに、魔術の類は効かん。今回のこれも例外ではないようだ」

 

「え……?」

 

 まるで、急な通り雨に身体を濡らされたかのような、そんな様子だった。痩せ我慢をしているような様子は一切ない。これにはアルディスも目を丸くしていた。どうやら、ディアナは魔術に対して圧倒的な耐久力を持っているようだった。

 

 

「まれにそんな体質の人間がいるとは聞いていたが、お前がそれか……面白い。しかも、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)じゃないか。連れて帰れば、殿下はお喜びになるだろうか?」

 

「はっ、馬鹿なことを。生憎オレには、あなたの手土産になる気は無いのでな!」

 

 流石にダークネスも驚いた様子であったが、彼はすぐに平常心を取り戻す。へぇ、と感心したように呟き、彼はディアナの元へと駆けた。

 逃げることなく翼を動かし、ディアナも真っ直ぐにダークネスの元へと突っ込んでいく。彼は両手で握られた剣を振り上げ、勢いよく振り下ろした。

 

虎牙破斬(こがはざん)!」

 

 振り下ろした一閃は避けられてしまったが、そこで終わりではない。ディアナは再び剣を振り上げ、若干逃げ遅れたダークネスの服を裂いた。そして、間髪入れずに左手を柄から離すと同時に剣を持つ右腕を後ろに引き、勢いよく前に突き出す!

 

散沙雨(ちりさざめ)!」

 

 それは、複数回に渡る連続突き。避けられなかった切っ先がダークネスの身を貫き、鮮血が周囲を舞った。

 

 

「ッ! こ、の……!」

 

「――ノクターナルライトッ!!」

 

 反撃しようとしたらしいダークネスが何らかの動きをしたその時。アルディスの声と共に三本の投げナイフがダークネスに降りかかった。

 

「アル!」

 

「さっきはごめんね。今の俺じゃ、迷惑かけると思うけど……一緒に戦わせて欲しい」

 

 薙刀を両手で握り締め、アルディスはディアナの方を向くことなく言葉を紡ぐ。悔しかったのだろう、その声は、微かに震えていた。

 

「……無理は、しないでくださいよ」

 

「それはこっちの台詞だ。さあ、来るよ!」

 

 特に何かの打ち合わせをしたわけではない。だが、元々波長が合うのだろう。アルディスとディアナは同時に左右に分かれ、襲いかかってきたダークネスの攻撃を避けると同時に彼を挟み込むような状態でそれぞれの武器を構えた。

 

「――蒼破刃(そうはじん)!」

 

「――魔神剣(まじんけん)!」

 

 鈍い輝きを放つ刃から放たれた青と赤の衝撃波が一直線に地面を抉り、そのままダークネスに襲い掛かる!

 

「くそっ、鬱陶しいな!! まとめて失せろ! ――爆楼波(ばくろうは)ッ!」

 

 しかし、ダークネスは特に狼狽えることなく地面を力強く蹴り付け、周囲に円形の衝撃波を放ち、大きく飛躍してみせた。円形の衝撃波はアルディスとディアナが放った衝撃波を相殺するどころか完全に打ち消し、二人の元へ向かっていく。

 ディアナは空を飛んでいるためにそもそも当たらないだろうが、アルディスは別だ。ダークネスは衝撃波を避けるために飛び上がったアルディスに狙いを絞り、その身に闘気をまとって勢いよく舞い降りた!

 

飛天翔駆(ひてんしょうく)!」

 

 その姿は、鳥が小さな獲物を狙って急降下していくようなもので。空中にいた、一瞬の隙を付かれたアルディスは薙刀を構え直すことも叶わず、再びダークネスの蹴りを真正面から受けてしまった。

 

「ごほっ! く……ッ、くそ……!」

 

「アル!!」

 

 叫び、ディアナが吐血するアルディスの元へと全速力で飛んでいく。ダークネスはディアナがそうすることを分かっていたと言わんばかりに踵を返し、右足を大きく振り上げてディアナの胴体を捉えた。

 

三散華(さざんか)! ――輪舞旋風(ろんどせんぷう)ッ!!」

 

 ディアナは、ダークネスの動きを全く追えていなかった。時間にすれば、それはほんの一瞬のことだったのかもしれない。だが、ダークネスはその一瞬さえ見逃してはくれなかったのだ。

 元々空中にいたディアナの小さな身体はダークネスの三連続の蹴りによってさらに上へと飛ばされ、すぐさま飛躍したダークネスの回し蹴りを受けることとなった。地面に転がり、全身に走る激痛にディアナは小さくうめき声を上げる。

 

「っ、う……ぁ……」

 

 だが、まだ意識はある。それは近くに横たわっていたアルディスも同様で、二人は僅かな気力に頼り、戦い続けるために自身の獲物を手に取った。その様子を見たダークネスは、やれやれと肩を竦めてみせる。

 

「はー……せっかくこっちが手加減して、楽に終わらせてやろうとしてるってのに……アレやるしか、ねぇみたいだな」

 

「え……」

 

 手加減。その言葉に、アルディスとディアナの表情に絶望の色が浮かぶ。だが、ダークネスはもう、手加減などしてはくれない様子であった。

 

「俺は殿下の右腕、黒衣の龍副団長ダークネスだ。副団長って肩書きはダテじゃない。この俺に、ここまでさせたんだ……後でどうなっても、知らないからな!?」

 

 そう言って、ダークネスが駆け出す。彼からは、今までとは比にならない、比べ物にならないほどの殺意が感じられた。

 

「あ、アル……! ディアナ!!」

 

 見ているだけしか出来なかったエリックが思わず声を荒げる。だが、もう遅い!

 

 

「誘うは永劫の絶望。嘆きの記憶を胸に、いざ参らん! ――幻影、翔龍破(げんえい、しょうりゅうは)! ……憂刻(ゆうこく)!!」

 

 

 黒紫色の闘気をまとい、ダークネスはアルディスとディアナに襲い掛かった。それは、目で追うことさえ許されないような速度で繰り出される連撃。先ほどまでの戦いで出していた技とは、明らかにレベルが違う物。

 ダークネスは今まで手加減をしていたと言う。彼がそうしていた理由は分からないが、それでもアルディスとディアナが二人束になっても勝てなかった相手。彼が手加減をしようがしまいが圧倒的な、越えられないような実力の差があったということだ。

 

 

「っ、かはっ……!」

 

「ぐぅ……っ、ああぁあっ!!」

 

 エリックの目の前で、アルディスとディアナはたったの一撃すら避けられず、その華奢な身体に鋭い蹴りを受け続けている。

 そして、二人は最後の一撃を喰らって宙を舞い――そのまま、勢いよく地面に叩きつけられた。

 

 

「……ッ!」

 

――ダークネスはゾディートが率いる騎士団、黒衣の龍で“唯一”とされる鳳凰族(キルヒェニア)の青年である。

 

 この国において、鳳凰族(キルヒェニア)という種族は「敵国フェルリオのスパイだ」などと言い掛かりを付けられ、何かと悪い待遇をされてしまいがちな種族である。事実、王国騎士団には現在、鳳凰族(キルヒェニア)はいない。

 過去には鳳凰族(キルヒェニア)の騎士も少人数ではあるものの存在したらしいのだが、差別を受けながらも出世を重ねていた一人の鳳凰族(キルヒェニア)はが行方不明になった事件をきっかけに、鳳凰族(キルヒェニア)は一人残らず辞めていってしまったのだという。同じような事件に巻き込まれるのを、恐れたのだろう。

 

 ただ、黒衣の龍は国の正規の騎士団ではないし、大多数が富裕層の子弟で構成されている王国騎士団とは異なり、身元がはっきりしていない者も多い。

 それでも、見たところまだ二十代であろう年若い青年が、騎士団長に次ぐ副団長という立場に上り詰めるのには間違いなく理由がある。

 それを冷静に判断出来るだけの余裕がエリック達にあれば、彼に応戦しようなどという馬鹿げたことはしなかったことだろう。

 地面に転がり、全く動かないアルディスとディアナの姿を見ながら、エリックは奥歯を割るほど強く噛み締めた。

 

「アルディス! ディアナ!!」

 

 マルーシャの、ほとんど悲鳴と言っても良いような叫びが草原にこだまする。どちらのものか分からない返り血を拭いながら、ダークネスは意識の無いアルディスへと近付いていく。

 

「正直疲れるので、ここまでするつもりは無かったのですが。少々厄介な相手だと判断致しましたので、本気を出させて頂きました。さて……」

 

 このままではアルディスが、恐らくディアナも連れて行かれてしまう! それに気付いたエリックが、慌てて二人の元へ駆け寄ろうとしたその瞬間。チャッピーが物凄い勢いでエリックの横を飛び出していった。

 

「きゅーっ!!」

 

「!?」

 

 鳴き声と共に、チャッピーは勢いを付けてダークネスに突っ込んでいった。主人とアルディスを守るための、捨て身の体当たりだった。

 流石にこれには不意を付かれたのだろう、元々細身のダークネスは勢いよく飛ばされ、地面を転がった。だが、気絶させるようなものではなかったらしい。

 苛立ちを隠せない様子で、ふらりとダークネスが立ち上がる。しかし、彼は気付いていなかった。否、エリックも直前まで気付かなかった――マルーシャが、魔術の詠唱をしていたことに。

 

「こ、この鳥……!!」

 

「っ、お願い! ――ピコハン!」

 

「!?」

 

 ピコンッ、という場に合わない間抜けな音と共に、可愛らしい小さなハンマーがダークネスの頭に落ちる。「良かった、できた」とマルーシャが安堵の言葉を呟いていた。初めて魔術を使ったのだろう。

 彼女の咄嗟の判断力と行動力、そして何より、それを実現させてしまう実力があったことに、エリックは心にドシンと重たいものが被さったような、そんな重苦しい気分になってしまった。

 

「きゅ、きゅー! きゅー!!」

 

 術の効果で彼が怯んだ隙に、チャッピーは意識の無い二人を背に乗せて逃げ出そうとしていた。彼がすぐに駆け出さなかったのは、エリック達の方を向いて、必死に鳴き声を上げていたからだ。

 

「つ、着いて来いって、言ってるのか?」

 

「きゅー! きゅー!!」

 

 何かを訴えたいようだが、十中八九エリックの想像通りのことだろう。どちらにせよ、今は彼に従う以外の方法が思い浮かばない。エリックとマルーシャは顔を見合わせ、チャッピーの元へと駆ける。その様子を見たチャッピーは額の青い宝石を光らせた後、遠くに見える森の方向へと踵を返して走り出した。

 

(身体が、軽くなった……? チャッピーの魔術、なのか?)

 

 どうやら、チャッピーは支援系の魔術が使えるらしい。不思議な鳥だ。一体、何という種類なのだろう――だが、それを詳しく考えている余裕は、今のエリックには無かった。

 アルディスとディアナのことが気になるし、何より彼は、自分が何も出来なかったことがどうしても頭から離れないほどに……悔しかった。

 

 

 

 

「……ッ」

 

 全身が、酷く痛む――うっすらと目を開き、ディアナは深く息を吐いた。

 ダークネスの攻撃を受けた直後の記憶が一切無い。そのまま意識を失ってしまったことに気付いたディアナは、自分の不甲斐なさを力無く嘲笑った。

 

「はは……そうか、オ、レは、負け、た……か……」

 

「ディアナ!!」

 

「エリック、か……?」

 

 声がかすれる。赤い瞳で、心配そうにこちらを見ているエリックに「大丈夫だ」と言いたかったが、どうにも無理そうだった。あの後はどうやら、洞窟かどこかに逃げ込んだらしい。ひんやりとした石の感触が、背中から伝わって来る。首だけ動かして横を見ると、自分より重傷で意識は無いものの、しっかりと規則正しい呼吸を繰り返すアルディスの姿があった。

 全員、命までは取られなかったらしい。エリックとマルーシャに至っては無傷だ。良かった、とディアナは素直にそう思った。

 

「無理しないで! まだ、寝てて良いから……!」

 

「……」

 

 心配して顔を覗き込んでくるマルーシャの顔色が、若干悪い。何事だとディアナは一瞬考えたが、その理由はすぐに分かった。

 

「……。無理をしな、い方が良いのは、あなたの、方だ……そ、のまま、続けていては、命に、関わ……る。加減が、できないうちは……無茶を、しない方が……良い。力を使うのは、もう、止めておけ……」

 

 アルディスの傷は酷いものの、微妙に塞がりかけている傷も多い。恐らく、マルーシャはほとんど効果が無いことを知りながらも、必死に天恵治癒を使い続けていたのだ。

 

「でも……」

 

「もう少し、休ませてくれ……天恵治癒(エルフリーデ・イヴ)の使い手、ではない……が、オレも、あなたと同じ、救済系能力者だ……だから少し、は、手伝え、る……」

 

 一言一言を懸命に吐き出すように、ディアナは言葉を紡いだ。どう見ても、アルディスの状態が悪い。すぐにでも自分の能力を発動させたいとディアナは思った。それでも彼は、今は自分だけで精一杯だった。

 

「悪い……お前まで、僕の事情に巻き込んだ……」

 

「ごめんね……ディアナは、全然関係なかったのに……」

 

 赤い目を細め、エリックは悔しそうに声を震わせる。マルーシャも、悲しげに黄緑色の瞳を潤ませていた。

 確かにこの一連の流れは全て、ラドクリフ王家絡みのものであった。目を付けられていたアルディスはともかく、ディアナは本当に無関係だったのだ。マルーシャがディアナの手を握り締める。お互いの、あまりにも低い体温が感じ取れた。

 

「……違う。あなた達は、悪くない……」

 

 薄れ始めた意識の中で、ディアナははっきりと言葉を紡ぐ。これだけは、これだけは言っておかなければと、彼は二人の方へと視線を移した。

 

「オレが……弱すぎた、だけ……だから……」

 

 何とか二人を安心させようと、ディアナは目を細め、笑ってみせた。

 

「……ッ」

 

 エリックとマルーシャは、もう、何も言わなかった……言えなかった。ああ、これではダメだ、まだ何か、何か言わなければ。この二人を、安心させてやらなければ――。

 だが、そんな彼の想いが叶うことはなかった。二人を想うディアナの意識は、無情にも再び、闇へと引きずり戻されていった。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.5 特殊能力

 

「……ッ」

 

 誰かの、声がする。否、歌声と言った方が正しいだろうか。

 暖かな何かに包まれているような心地良さを感じ、アルディスは徐々に意識を取り戻していった。

 

「黎明の時が 訪れし大地に 芽吹く命の 儚い息吹よ――……」

 

 透き通ったソプラノの、聴く者を魅了する美しい歌声だった。だが、上手いだけではない。その歌は明らかに、普通の歌とは違っていた。

 それは多くの魔力が込められた、どちらかというと魔術の詠唱に近い歌声。祈るように紡がれる旋律には、天恵治癒(エルフリーデ・イヴ)に次ぐ癒しの力がある。

 

 この歌は、この聖なる旋律は、神に愛されたと比喩される“あの”能力者達だけが歌うことができるもの。彼らにしか、扱えぬ特殊なもの。

 もう二度と、聴くことは叶わないと思っていたのに――嗚呼、自分は夢でも見ているのだろうか?

 

 

「……ッ、この、歌、は……まさか、“聖歌(イグナティア)”なの、か……?」

 

「! アル!!」

 

 重いまぶたを開き、アルディスは数回瞬きを繰り返す。そんな彼の視界が捉えたのは、心配そうに顔を覗き込んでくるディアナの姿と、洞窟内の殺風景な風景だった。

 

「夢、じゃ、なかった……? い、今の……今の、歌声、は……痛っ!」

 

「まだ動くな! 傷が開いてしまう……もうしばらく、安静にしていろ!」

 

 慌てて身体を起こし、痛みに呻いたアルディスの傷だらけの身体を支えたのは、彼同様に傷だらけになり、身体の至るところに包帯を巻いたディアナだった。

 

 彼の傍で丸くなってすやすやと小さな寝息を立てて眠っているチャッピーの姿はあったものの、エリックとマルーシャの姿は無い。どこに行ってしまったのだろうと、アルディスは首を傾げる。

 

「ごめん……ここ、は……エリックとマルーシャは……?」

 

「洞窟だ。エリック達が言うには、オレ達を背に乗せたチャッピーの後を追っているうちに、ここまでたどり着いたそうだ……二人は今、暖を取るための薪を拾いに行ってくれている」

 

「そう、だったんだ……」

 

 ディアナの言い回しから、アルディスは自分のみならずディアナも気を失ってしまっていたということを理解した。

 それと同時に、彼はダークネスとの戦いに敗れたという屈辱を思い出したのだろう。アルディスはディアナから目をそらし、両手の拳を強く握り締めた。

 

 

「アル……?」

 

「ごめんな。結局、俺は……ディアナ、お前の、足手まといにしか、ならなかった……」

 

 悔しそうに声を震わせ、アルディスは翡翠色の左目を細める。「そんなことはない」と言いかけたディアナの言葉を遮り、アルディスはおもむろに首を横に振ってみせた。

 

「最後まで助けられっぱなしだったし……何より、流石に気付いたろ? というより、気付いて庇ってくれたんだろ?」

 

「……。水、か」

 

 ディアナの言葉にアルディスは「正解」と弱々しく返し、目の前の藍色の髪へと震える左手の指を伸ばした。

 

 あの時。青い、水属性の魔法陣を見て、アルディスは恐怖のあまり硬直してしまった。それに気付いたディアナが助けに入らなければ、間違いなくあの術はアルディスに直撃していたことだろう。

 しかし、いくらディアナに魔術への強い耐性があるとはいえ、結果的に彼を盾にしてしまったという事実は変わらない。それが、アルディスの心を酷く抉っていた。

 

「昔、さ……嵐の日に、海に落ちたんだ。しかも、怪我してたせいで満足に泳げなくてさ……自分でも、情けないとは思ってる。でも、どうしても水を見ると、あの日の記憶が脳裏を駆け巡って……気が、狂いそうになるんだ……」

 

「……」

 

 アルディスの表情は変わらない。相変わらず、彼は無表情のままだ。

 だが、ディアナには今の彼が、情けない、くだらないと自分自身を嘲笑っているように思えた――それは、あまりにも痛々しいものであるように、感じられた。

 余程追い込まれているのか、アルディスの無表情の『嘲笑』が消えることは無い。彼は溜め息を吐き、ディアナの頭を撫でた。

 

「俺は色んな訓練受けてきたし……泳げないわけじゃ、無かった。だからなのかもしれないけれど……あの時、俺はひとりじゃ無かった。味方の兵士が、大勢いたんだ。なのに、助けてもらえなかった……」

 

「……ッ」

 

「甘ったれてるんだろうけど、その時、思ったんだ。俺なんか、死んだって良いんだろうなって。やっぱり、俺は“使い捨ての道具”に過ぎないんだろうなって……」

 

「あ、アルディス!?」

 

 『嘲笑』と共に紡がれたのは、アルディス自身の存在意義を否定する言葉。傷付いた少年の言葉に同調してしまったのか、ディアナは自分の身が裂かれるような精神的苦痛を感じた。

 苦痛に耐え切れず、咄嗟にディアナは自分の頭を撫でてくるアルディスの左手を掴むと、異様に冷たいそれを両手で覆うように握り締め、叫んだ。

 

「そんなことありません! “アルディス様”! あなたは、立派なお方です!」

 

「ディ、アナ……」

 

「ですから……! お願いですから! そんな、悲しいことを言わないでください!」

 

 アルディスは、思わず奥歯をきつく噛み締めた――必死さの伺えるディアナの大きな青い瞳に映る、自分自身の姿があまりにも酷く、無様であるように思えたのだ。

 

「ありがとう……ごめん、ディアナ……」

 

 それでも、これ以上ディアナを心配させてはならないと思ったのだろう。やはりアルディスの『嘲笑』が消えることは無かったが、彼は静かに頭を振るい、小首を傾げてみせた。

 

「ただ、ね。その呼び名は駄目だよ。敬語も、やめて欲しい」

 

「あ……わ、悪い……」

 

「俺はアルディス=クロード。ただの、傭兵だよ」

 

 軽く息を吐き出し、アルディスは視線を上に向け、ディアナから顔をそらす。自分が傭兵だと言い切った瞬間の彼の顔を、どうしても見たくなかったのだ。

 視界に映るのは、薄汚れた灰色の、感情の無い冷たい岩ばかり。きっと今の自分は、ディアナにはこの岩のように見えているのだろうと思い、アルディスは再び自分自身を『嘲笑』した。

 

 

 

 

「! アル! 目が覚めたのか!?」

 

 エリックとマルーシャが薪を拾い終えて洞窟に戻ってくると、そこには身体を起こし、適当な岩にもたれかかっている親友の姿があった。

 顔色は真っ青で、呼吸も荒い。身動きが取れない状況のようだが、それでも意識を取り戻してくれたのだ。エリックの隣で、マルーシャは「良かった」と声を震わせていた。

 

「魔物が住み着いている形跡もないし、ここで休んでいこう。しかも、たった今雨が降り出した。雨宿りも兼ねて、今は休んでくれ……頼むから」

 

 しかし、アルディスのことだ。自分の身体のことを気にせず、エリック達のために動こうとしかねない。そう思ったエリックはアルディスが妙なことを言い出す前に休憩を促したのだ。

 

「……気、遣わせちゃったかな。ごめんね」

 

 そして、エリックの考えはどうやら当たっていたようだ。明らかに落ち込んだ様子のアルディスに対し、マルーシャは薪を置きながら首を横に振るう。

 

「気にしないでよ。助けてもらったのは、こっちの方だもん……大体、アルディスの傷を治してくれたのはディアナだし。わたしじゃ、力不足だった」

 

「とはいえ、深い傷までは治せなかったんだが……ああ、そうだ。アル、さっきはオレの歌がどうとか言っていたな?」

 

 能力の話題が出たことで、ディアナは曖昧にしてしまっていたアルディスの疑問を思い出した。落ち込んでいるアルディスの意識を別の方向へと向ける目的も兼ねて、彼はアルディスに問いかける。だが、それに対して先に反応を見せたのはマルーシャとエリックだった。

 

「アルディスは聴いた? ディアナ、すごく歌が上手いの。しかも、歌に癒しの力があるんだ! すごいよね?」

 

「そういえば、救済系能力だとは聞いていたが、具体的な能力は聞いていなかったな。アルは見当が付いているのか?」

 

「ん? ああ、ちょっと待ってね……」

 

 ディアナにマルーシャ、そしてエリックの問いに応えるべく、アルディスは思いを巡らせる。そして彼は、答えを導き出した。

 

 

「俺の、知識と記憶に間違いがないのなら……ディアナが歌う歌は、紛れもなく聖歌(イグナティア)だ。これをちゃんと発動出来る能力は、“聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)”だけ……そうだね、俺の能力を除けば、この能力だけだ」

 

聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)!?」

 

 エリックは思わず、マルーシャの方を見た。マルーシャも頭を緩く振るい、突然のことに驚いている様子だった。

 未覚醒であるがゆえに特殊能力関連の話に疎いエリックも、聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)の能力は耳にしたことがある。言い伝えだとか、伝説だとか、おとぎ話だとか。その辺のことに強い興味を示すマルーシャに散々聞かされていたのだ。そんな彼女も、どうやら実際に聖歌(イグナティア)を聴くのは初めてだったようだが。

 

「滅多にいないからね、聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)って。俺だって子どもの頃に聴いて以来だから」

 

「しかも確か……聖歌(イグナティア)をちゃんと聖歌(イグナティア)として発動出来る人間はさらに限られていて、それこそ百年だか千年だかに一人とか言われる確率……なんだったか? 合ってるか?」

 

 マルーシャに聞かされた内容を思い出しながら、エリックは情報をくれたマルーシャとさらなる情報をくれそうなアルディスの両方に確認する。二人は「間違ってないよ」とエリックの言葉を肯定してみせる。

 

「だから、まさかね、聖歌(イグナティア)を聴けるなんて思ってなかった……なんだか、感動しちゃった。すぐにはそうだって分からなかったけど、嬉しい……」

 

「俺だって、夢だと思ったし……」

 

 聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)は、その名の通り『聖なる歌を歌う』能力。神に祈るように旋律を刻むことで一種の魔術を発動するといったものだ。しかしエリックの言うように、この力をあるべき正しい形で使える人間は本当に少ない。

 それどころか、今まで聖歌(イグナティア)を耳にしたことが無かったエリックやマルーシャは、聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)能力者自体がおとぎ話の中にしかいないとさえ思い込んでいた。聴いたことがあったというアルディスですら、いまだに信じられないといった様子だった――それだけ、ディアナの能力は希少なものなのだ。

 

「……ただ、その。オレは……思い浮かぶままに、歌っているだけ、なんだが……歌詞なんて、本当に適当で……」

 

 存在をやけに持ち上げられてしまったせいで、怖気付いてしまっただろうか。ディアナは右手を胸に軽く当て、どこか不安そうに目を伏せた。

 そんなディアナに対し、アルディスは彼が名前を名乗らなかった時同様の違和感を覚えた。だからこそ、アルディスはあえてそこには触れず、聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)の能力の話をすることだけに留めることにした。

 

「……。それで良いんだよ、お前が思い浮かんだっていう旋律が大事なんだ……聖者一族の儀式をするわけじゃないんだ。旋律さえあっていれば、問題ないんだよ」

 

「そう、なのか?」

 

「うん。大体ディアナが紡いだ歌詞は、多分……いや、これは流石に自信ないや。忘れて?」

 

 そう言って話を反らした後、アルディスは聖者一族について語り始めた。

 

 聖者一族はこの世界に存在する精霊達、特に精霊王オリジンを神と敬い、年に一度各地の聖域に赴き、歌を用いた儀式を行うことでその恩恵を授かり続けているとされている純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)の一族である。

 だが、今となっては「一族が代々やってきたから」という形ばかりの儀式を行っているのが現状であるし、彼らの大半は十年前、ラドクリフ王国とフェルリオ帝国の間で起こった未曾有の戦争“シックザール大戦”が発生した際に、儀式のためにラドクリフ王国に訪れていた。鳳凰狩りが発令されたのも、その時期のことだった――つまり、この地にやってきた聖者一族の人々が生き残っていることは、到底考えられない状況なのである。むしろ、全滅してしまったと考える方が妥当かも知れない。

 そもそも、聖者一族の信仰心が薄れてきてしまった段階で、精霊を敬うという一族は滅びてしまったと言っても差し支えないだろう。

 

 ただ、ディアナの能力、聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)は聖者一族の者に受け継がれている特有の能力である。

 隣国フェルリオ帝国では、聖者一族の儀式が政治などのあらゆる分野に影響しているという。そのため、正しく力を使えるかどうか、信仰心の有無はさておき、一族に代々伝わっている歌詞を紡ぎ、儀式を行うのが彼らの生き様であり、大切な仕事なのだ。

 

 

 そのようなことをアルディスが語り終えた後、ディアナが驚きを隠せないといった様子で声を漏らした。

 

「それにしても、詳しいな……」

 

 聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)能力者であるディアナは、間違いなくどこかの一族の血を引いている。しかも彼は名乗りに不自然さこそあったものの、聖者一族の名門リヴァースを名乗っており、年齢的にも先の大戦での生き残りであることも考えられる。

 だが、特に彼は何も語ることなく、アルディスの知識量に感動している様子だった。

 もしかすると、彼は自分の能力に対する知識がほとんど無かったのかもしれない。勿体無いな、と思いつつ、アルディスは口を開いた。

 

「俺の能力が能力だからね。他の能力の知識は嫌でも入ってくるんだ」

 

 アルディスは、自身の能力を一切使わない。まさかエリック同様に覚醒していないということはないだろうし、日常では全く使えない能力というわけでも無さそうだ。

 ここまでくると、話を聞いてみたい。マルーシャはおずおずと、上目遣いでアルディスを見上げた。

 

「え、えーと……聞かない方が良いかなって思ってたんだけど……聞いても良い? その……アルディスの、能力」

 

 エリックとマルーシャがアルディスの能力を知らなかった理由。

 それはアルディスが能力を使わないことも理由の一つだが、一番は彼の隠された右目を気遣ってのことであった。

 

「聞かれないなって思ってたら……気、遣ってくれてたんだね。でもね、使えなくなったわけじゃないんだ。使わないだけ」

 

「そう、なんだ……良かった……」

 

「確かに、出来なくなったことも多いけどね……この目のこと、気を遣ってくれてたのは、申し訳なくも思うけれど、嬉しい。ありがとう……」

 

 アルディスは本来ならば体術よりも圧倒的に魔術に特化している鳳凰族(キルヒェニア)であるにも関わらず、アルディスは一切魔術を使わない。何かしらの理由があると考えるのが妥当だろう。

 そして立場上、王国騎士団との接点も多いエリックとマルーシャは、目を負傷した兵士が魔術を一切使えなくなったという話を聞いたことがあった。それを知っていたからこそ、二人はアルディスもそうなのではないかと心配していたのだ――彼の右目が、光を失っていることも知っていたから。

 

「俺の能力は“意志支配(アーノルド・カミーユ)”。相手の脳神経辺りに作用して発動する、精神系能力だよ」

 

意志支配(アーノルド・カミーユ)……? それ、実際には何が出来るんだ……?」

 

「例えば、念を送ったりとか出来るね。喋らずに、自分の考えを相手に伝えるって奴。あとは、誰かの能力を一時的に借りることが出来る。勿論、力は劣化するし、反動もあるけどね」

 

 別に使う機会が無かったから使わなかったんだ、とアルディスは肩を竦める。ただ、それならばマルーシャかディアナの能力を借りて、自力で傷を治すことは出来ないのだろうかとエリックは思った。口に出さなかったのは、アルディスが無理をしてでも能力を発動させそうだと思ったからだ。

 だが、彼はエリックが考えていることを察したのか、自分からマルーシャやディアナから救済系能力を借りる話をし始めた。

 

「怪我した時、マルーシャから能力借りるのも考えたんだけどね。でも、それをやれる体力が無かった……救済系能力ってただでさえ負担が大きいのに、今の俺が使ったりしたら多分、発動もできずにひっくり返る。だから、諦めたんだ」

 

 何の問題も無く、自力で治癒系の術を発動できれば早いのにね、とアルディスは軽く首を傾げてみせる。

 

「これね、便利だけど欠点も多いんだ。能力借りるにしても近くに能力者がいなきゃ駄目だし、俺が借りる能力について詳しくないと暴走させてしまうし」

 

「うーん、色んな特殊能力に詳しくなるの、当然ってことだったんだね……最初は便利そうだなって思ったけど、かえって不便な気もしてきたよ」

 

「そういうこと。だから、俺は使うにしても念送りくらいしか使ってない。意志支配(アーノルド・カミーユ)は軽く人を操ったりもできるけど、俺自身がこれ苦手だし……うん、根本的に使う機会が無いかな」

 

 能力者は、決して万能ではない。この世界では、最終的には全ての人間か何らかの能力に目覚めるのだが、聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)に限らず、その力をあるべき形で使用できる人間の方が少ない。

 そのため、生まれてから一度も自分の能力を使用できず、亡くなっていく者も存在するのだ。

 

 

「ちなみにダークネスは“透視干渉(クラレンス・ラティマー)”の使い手だったね。調整難しいから、使いこなせる人少ない割に能力者が多い奴……多分、手加減して使ってこなかったんだろうけど、使われてたら傷一つ付けられなかっただろうな……」

 

透視干渉(クラレンス・ラティマー)、か……」

 

 透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力についてはエリックも知っていた。何しろ、この能力は全人類の七割が該当すると言われているような有名な能力だ。マルーシャの父、クレールも透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力者らしい――が、アルディスが言うように、この能力は調整が非常に難しいことで知られている。

 全人類の七割が持つ能力であるにも関わらず、その過半数以上が一度も能力を発動することさえできないという。マルーシャの父も、例にもれずその過半数以上の中の一人だった。

 透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力者が出来ることは『あらゆるものの隠された構造を視ることができ、生体であれば思考も覗ける』こと、ただそれだけだ。

 

 しかし、透視干渉(クラレンス・ラティマー)はシンプルだからこそ特化しやすい、強力な能力だともいえる。

 仮にダークネスがこの能力を使いこなしていたとすれば、非常に厄介なことが起こってしまう。彼に限らず、敵として立ちはだかってきた相手がこの能力者であれば、誰もが間違いなく頭を抱えてしまうことだろう。

 それを理解したエリックは、ダークネスが透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力者の過半数以上の中の一人であることを祈らずにはいられなかった。

 

「思考を読まれるわけだから……あらゆる攻撃が、見切られるってわけだな」

 

「そういうこと。まあ、戦闘中ずっと能力発動させっぱなしにできる人なんて、それこそごく少数なんだけど……多分、あの人ならできるんじゃないかと思うんだ。鳳凰族(キルヒェニア)な上にどう見たって若いのに、副団長だなんて……精霊術師(フェアトラーカー)っていうのだけが、理由じゃないと思うんだ。相当有能なんだと思う……」

 

 余程ダークネスの存在を驚異に感じたのか、アルディスはそう言ってから、頭痛に耐えるように自身の額に左手を当てた。

 

「聞かれそうだから話すね。精霊術師(フェアトラーカー)っていうのは、精霊達と心を通わせ、彼らを使役する能力を持った術者のことだよ。聖者一族と似たようなところがあるけど、聖者一族は『一族の繁栄を神たる精霊に約束してもらう』、精霊術師(フェアトラーカー)は『その場で実践的な力を得る』みたいな違いがあると思っといて」

 

 精霊は人に懐きにくいし、精霊術師(フェアトラーカー)になるためには素質の問題もあるし、当然ながらそんなに使える人はいないよ、とアルディスは頭を振るい、額に左手を当てたまま、深く溜め息を吐いた。

 

 

「……アル?」

 

「ごめん……もしかしたら、ね……ダークネスは、俺のことを知ってるかも、しれないんだ。わざわざ水属性の術使ってきたし、俺も、精霊術師(フェアトラーカー)でちょうどあの人くらいの年齢の人に……知ってる奴が、いるんだ」

 

「え……?」

 

 アルディスの口から紡がれたのは、予想外の話であった。一連の事件は、元々彼が純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)の疑惑をかけられたことがきっかけではあったが、それはあくまで種族の話であり、逆を言えば純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)であれば別に彼でなくとも構わなかったに違いない。

 しかし、そうではないかもしれないとアルディスは言うのだ。そもそも、ダークネスとは最初から接点があったかもしれない、と。

 

「ただ、ね……ディアナも感じたんじゃないかと思うんだけど、あの人の気配……魔力の質はすごく独特だった。魔物の気配に、よく似ていたんだ……俺が知ってる精霊術師(フェアトラーカー)は、ちゃんと人の気配をしていたから……正直、判断に悩むんだ」

 

「確かに、魔物のような禍々しさがあった……しかし、アルディス。魔力の質が後天的に変わるなんて、“あなたのような状況”にでもならない限り、普通はありえないのではないか……?」

 

 二人の話は気になったが、今はそれを追求すべきではないだろうとエリックは思った。傷が痛むということもあるだろうが、アルディスの顔色があまりにも悪かったからだ。

 アルディスは言うのを躊躇っているのか、視線をきょろきょろと泳がせている。そして彼はゾディートに斬られ、今は包帯が巻かれた自身の腹部へと手を伸ばし、再び溜め息を吐いた。

 

「第一、仮に知り合いだったとしたら、俺は間違いなく、殺されていた……あれだけの実力差があったなら、俺を殺すことなんて、他愛の無いことだったはずだよ」

 

「! あ、アル……!」

 

 ダークネスと知り合い、というのは決して良い意味ではなかったらしい。あまりにも物騒なアルディスの発言に、エリックは思わず大きな声を出してしまった。エリックの声が、洞窟内で反響する。

 良くないことをしてしまった、と彼は思った――そして、彼は気付いた。どうして、ダークネスは自分達を追ってこなかったのだろう、と。

 

(見失った? いや……でも、ここはそんなに離れていない。見つかったとしても、おかしくはない……運が良かっただけ、なのか?)

 

 そんな疑問を抱いだのは、エリックだけでは無かったようだ。マルーシャも、不安げに眉尻を下げている。

 

「考えてみたら、おかしいよ。どうしてかな……どうして、ダークネスは手加減なんかしたんだろう? どうして、お義兄様は、一緒に追ってこなかったんだろうね……?」

 

「……言われて、みれば……ッ、う……」

 

「あ、アルディス!?」

 

 何故だろう、どうしてだろう――そんなエリック達の疑問は、目の前で腹部を強く押さえ込んだアルディスの姿によって解決されることなく投げ出されてしまった。

 

 

「……ごめんね、傷が、開いたみたい、で……」

 

「お、起き上がって話したりするから……! 悪い、僕が質問攻めにしてしまったばかりに……!」

 

「大丈夫。大丈夫、だよ……」

 

 アルディスの「大丈夫」は大体当てにならない。今回もその展開だろうなと、エリックはマルーシャと顔を見合わせる。

 

「ディアナも……お前だって、怪我してるんだ。まだ、寝ていた方が……」

 

 無理をしているのではないか、とエリックが問えば、ディアナは「問題ない」と軽く笑ってみせた。だが、彼もかなりの重傷を負っているであろうことは確かなのだ。

 二人が心配だった。できることなら、二人を今すぐにでも医者に見せたい。それなのに今この現状では、それは叶わない。

 エリックが狼狽えてしまったせいか、アルディスは血の滲む包帯を隠すように腹部に左手を当てたまま、どこか苦しげに言葉を紡いだ。

 

「お願い、強がらせてよ……エリックといいマルーシャといい、俺がいなければ、こうはならなかったんだ。本来なら、俺がもっとしっかりすべきだったのに……」

 

 確かに、エリック達が追われるきっかけを作ったのはアルディスだった。

 しかし、それでも親友がここまで苦しんでいるのにも関わらず、何の手助けもしてやれていないのは、一体誰だろうか――エリックは奥歯を噛み締め、声を震わせた。

 

「アル、ディアナ……辛いだろ? なのに、何もしてやれなくて……できなくて……本当に、ごめんな……」

 

 そんなエリックの言葉に真っ先に反応を見せたのは、アルディスでもディアナでもなく、マルーシャだった。

 

「エリック……わたしだってそれは同じだよ。わたしだって……」

 

 マルーシャの発言は、半分はエリックを気遣ってのことだろうが、半分は本心から出ているものだ。彼女も、自分が役に立っているとは考えられずにいる。

 

「……そんなわけ、ないだろ?」

 

「え、エリック……?」

 

 しかしながら、マルーシャは何一つとして行動が出来ていないわけではない。エリックとは、根本的に違うのだ――結局、彼女の言葉は、エリックの感情を逆撫でするようなものにしかならなかった。

 

「僕は、役立つ能力を持つわけでも、アルやディアナのように戦えるわけでもない……! 何もできない、自分が悔しい……こんな感情、初めてだ!」

 

 彼は衝動のままに右手で横にあった岩を殴り付け、正面にいたマルーシャに背を向けるように立ち上がった。

 

「エリック!」

 

「ッ、駄目だ、君に当たってしまいそうだ……外に、出てくる。一人させてくれ……」

 

 雨が降っていようがいまいが、今の彼にとっては関係無い。そのまま洞窟に残って、無様な姿を晒すくらいならば、びしょ濡れになろうが風邪を引こうが、一人になりたかった。

 悔しさのあまり奥歯を噛み締めたまま、エリックは振り返ることなく洞窟の外へ出て行ってしまった。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.6 龍の王子

 

 すっかりと日の沈んだ雨の日の森は、どこまで行っても闇でしかなかった。

 これといった目的も無く歩きながら、エリックは深くため息を吐いた。濡れた身体が寒さに凍え、ぶるりと震える。

 

「……」

 

 どうにも気持ちが高ぶってしまっているから、しばらくは帰れそうもない。しかし、寒い。これでは本当に風邪を引きかねない、だからといって、ここで風邪を引けば間違いなく皆に迷惑をかけてしまう。

 

 エリックがどうすることもできない葛藤と戦っていた、そんな時。突然喉がひゅう、と鳴るのを感じた。

 

「――ッ! ごほっ! げほっげほ……っ!」

 

 雨に濡れたせいだろうか、それとも、普段と比較すると明らかに多かった運動量のせいだろうか。そんなことをぼんやり考えながら、エリックはその場に片膝を付いた。

 下は水溜りだったのだろう。不快なほどに、ズボンに水が染み込んでくる。だが、そんなことに構っていられる状況ではなかった。

 

「ごふっ、ごほ……っ、げほっ、かは……っ!」

 

 上手く呼吸ができない。苦しい。それ以上に、あまりにも無様な自分の姿に吐き気すら感じる。

 濡れたせいで肌に貼り付いたズボンのポケットの中に右手を差し込みながら、エリックは自分を嘲笑った。

 

(本当に、無様だな……ッ、不幸中の幸いなのは、この姿をアイツらに見られなかったことか……!)

 

 十八年も付き合ってきたのだ。自分の身体のことは、誰よりも分かっているつもりだ。そうでなければ、こんな突然の発作に冷静に対応出来るはずがない。ポケットの中から常備薬を取り出しながら、エリックはぼんやりとそう考える。

 友人の家で、数時間過ごす。それが、今日のエリックの予定だった――たった、数時間。ただそれだけの、ほんの些細な外出予定。

 それでもエリックは、薬を忘れずに所持していた。かなり良くなってきたとはいえ、自分の身体は薬を持たずに出歩けるものでは無いということを、彼は悲しいほどに理解していたから。

 

「ッ!」

 

 雨で濡れていたせいで、滑ってしまったのだろう。薬はエリックの指をするりと抜け、少し離れた場所へと転がっていってしまった。舌打ちしたくなるのを抑え、エリックは地面に転がり、泥で汚れた薬へと手を伸ばす。

 

「っ、げほ、ごふ……――ッ、うっ、ぐ……ごほっごほっ!」

 

 激しい発作の苦しさによってバランスを崩し、エリックはべしゃりと地面に崩れ落ちた。

 落とした薬を拾うという些細な動作ですら。それだけの簡単なことですら、今の自分には上手くできない。意識が飛びそうなほどの苦しさと、あまりの情けなさに、薬へと伸ばされた右手の指先が震える。

 

 

「お、おい! 大丈夫か!?」

 

 

 そんな彼の耳に入ってきたのは、雨の中でも聴こえる微かな羽音と、まだ聞きなれないソプラノの美しい声。その声の主はエリックが取ることの出来なかった薬を簡単に拾い上げ、震えるエリックの右手にそれを握らせてくれた。

 

「ほら……これだろ? 少し落ち着いたら、あっちの木の下に移動しよう。肩、貸すから……」

 

(……ディアナ)

 

 上手く、言葉を発することができない。何で出てきたんだと文句を言いたい気持ちもあった。だが、それ以上に、助けてくれたことに礼を言いたかった。それなのに、口を開けばぜいぜいと酷い呼吸音が出るだけで。

 エリックの気持ちを察したのか、ディアナはただ「無理をするな」とだけ言い、エリックの腕を自分の肩へと回した。

 まだまだ幼いためだろうか。ディアナは見た目以上に華奢で、男らしいしっかりとした硬さというよりは、柔らかいしなやかさを感じられる身体付きをしていた。

 そんな彼の肩を借りて歩くのは、今のエリックには耐え難いものであったようだ。

 

「……ッ」

 

「? エリック……?」

 

 幸い、ディアナは強くエリックの腕を掴んでいたわけではなかった。エリックはあっさりとディアナの腕を振りほどき、驚いた様子の彼に精一杯の作り笑顔で笑いかけた。

 

「もう……大、丈夫だ。助……かった、よ」

 

「エリック……」

 

 

――嗚呼、自分は今、上手く笑えているだろうか。

 

 

 薬のおかげで、息苦しさは治まった。しかし、酷い自己嫌悪に襲われているエリックの心は、どうにも安らぐことはなかった……。

 

 

 

 

「……。改めて言わせてもらう。助かった、ありがとう」

 

 木の下に移動し、完全に呼吸が落ち着いたエリックは、心配そうに顔をちらちらと顔色を伺ってくるディアナと目を合わせることなく、どこか沈んだトーンで礼を言った。

 

「本当に、落ち着いた様子ではあるが……無理は、するなよ」

 

「はは、残念ながら僕の場合は無理をしても無理をしなくても発作が起きる。生まれつきの持病なんだ。薬さえ飲めばすぐに治まるものだから、あまり気にするな」

 

 そう言って強がってみせるエリックを見たディアナは小さく唸り、頭痛に耐えるように額を押さえて頭を振るう。何か悩んでいるのだろうか。一体どうしたのだろうとエリックが声をかけようとすると、彼はおもむろに顔を上げ、エリックと目を合わせてきた。

 

 

「その発作……原因不明、なんだろう? あなたの発作を治すために、王国中の名医が足掻いたが、発作を抑える薬ができただけで、他には何もできなかったと聞いている……」

 

 彼の言葉は、完全にエリックが何者であるかを確信した上でのものだった。そしてエリック自身も正体に気付かれていることを薄々察していたからか、冷静にディアナと向き合うことができていた。

 

「そう、だな……それで、合ってる。かなりの人数の医者に会った。沢山の治療を受けた……それでも、医学の力には限界があった。結局この発作の原因は、分からなかった」

 

 ここでディアナの言葉を否定し、強引に正体を隠すのは得策ではない。そう考えたエリックはどこか悲しげに目を細め、ディアナに微笑みかける。

 

「昔は、ベッドから起き上がることさえ満足にできなかった。少しでも動けば、呼吸困難になって大騒ぎになっていた……ひょっとしたら、十歳にも満たないうちに死ぬんじゃないかって、そう思っていた。そういう意味じゃ、薬ができただけで僕にとっては随分ありがたいことだし、それ以上にマルーシャの能力には本当に救われた。ある程度、普通の生活が送れるようになったわけだしな。何より、ちゃんと生きれている」

 

「……!」

 

 嘘は、言っていない。今の不自由な身体に満足しているわけではないが、それでも昔に比べれば良いと、エリックは本気でそう思っている。対するディアナは何故か今にも泣き出しそうに瞳を潤ませ、それを隠すために慌てて俯いてみせた。

 

「ディアナ?」

 

「生きているだけで……満足、か。身体のどこかしらが不自由でも、それで良いと……あなたは、強いんだな。オレとは、全然違う……」

 

 神衣の裾をギュッと握り締め、ディアナが呟いたのはあまりにも弱々しい言葉だった。どういうことだと追求しようかとも思ったが、エリックはあえてそこには触れず、ディアナの藍色の髪へと右手を伸ばした。

 

 

「平気だと思えるのは、僕がひとりじゃ無いから……だと思う。昔はそうでもなかったんだが、今は、ひとりじゃないって、そう思える。マルーシャやアルがいてくれる、から……だから、この日常を壊したくない、死にたくないって、そう思うんだ」

 

 ディアナが、静かに顔を上げた。エリックは彼の頭の上に置いていた右手を自身の首筋に回し、困ったように笑ってみせる。

 

「僕は、強くない……皆に頼りっぱなしで、ひとりじゃ生きていけない。そのくせプライドだけは変に高い、弱々しい王子だ」

 

「……」

 

「ああ、そうだ。ちゃんと名乗ってなかったな……僕は戦に生きる龍王の血族、ラドクリフ王家に連なる者。聖名(ひじりな)をアベル、真名(まな)をエリックという……全部繋げてエリック=アベル=ラドクリフ、だな」

 

「アベル、王子……やはり、か……」

 

 ディアナはまたしても何かしら考え込んでしまっているようだ。ただ、彼の顔から憂いの色は消えていた。それで良い、とエリックは思った。

 

「何か思うところがあったか? とりあえず『アベル』って呼ぶのはやめてくれないか? 自分の聖名(ひじりな)、好きじゃないんだ」

 

 エリックの『アベル』やマルーシャの『イリス』という名は王家に連なる人間など、本当にごく僅かな者だけに与えられるものである。

 これらを総称して『聖名(ひじりな)』といい、その人物を表す『真名(まな)』とは違うものだ。どちらかというと、これは称号や肩書きに近い物でもある。要するに聖名(ひじりな)はそれ自体がとても名誉なものなのだが、エリックはこの名で呼ばれることが苦手だった。その理由など知るはずのないディアナは、不思議そうにエリックの顔を覗き込んでくる。

 

「父上は、僕のことを真名(まな)で読んでくれたことは無かったんだ……で、聖名(ひじりな)で呼びながら、『戦えぬ龍に存在価値など無い』を連呼。もう十年も前の話だが、聖名(ひじりな)で呼ばれる度に父上の姿が過る。要するに、これに良い思い出が無いんだ」

 

 

 先代王であり、エリックの父であった男の名はヴィンセント=サミエル=ラドクリフ。

 王となる以前の彼は騎士であった。そして、その当時ラドクリフ王国内では政治に不満を持つ人々による内乱が多発していた。

 ヴィンセントは戦場に立てば何かに取り憑かれたかのように豪快に刃を振るい、その都度大きな成果を残し続けていた。戦が好きだったのだろう。そんな彼の、好戦的な姿は当時のラドクリフ王家では高く評価された。

 内戦が収まり、代わりに隣国フェルリオとの関係が悪化してきた頃。元々王家の血を引く由緒正しき公爵家の生まれだったヴィンセントに王女ゼノビアと婚姻関係を結ばせ、次期国王とすることを反対する者はいなかった。

 それだけ、当時のラドクリフ王国の人々は戦場で生き、戦場で散るということを誇りに思っていた――ただ、それはあくまでもラドクリフ王国の政治を動かしていた者たちの間の話に過ぎない。

 ディアナは真剣な面持ちでエリックの目をまじまじと眺め、おもむろに首を横に振る。

 

 

「まあ、ラドクリフ王国は軍事国家だと聞いているからな……フェルリオも似たようなところがあるし、国のお偉いさんが言いたいことも分かる。だがその辺を含め、率直に言わせてもらう。オレは『戦えぬ龍に存在価値はない』などとは思わない、と」

 

「ディ、アナ……?」

 

 こいつはいきなり何を言い出したんだ、とエリックは目を丸くする。それでも、ディアナは話をやめようとはしなかった。

 

「龍の血を一滴も引いていないせいかもしれないが、別にオレは今のままのあなたで良いと思うのでな……いや、むしろ。この国の民は、あなたのような人を待っていたのではないか?」

 

 どこか強気な笑みを浮かべ、ディアナは「考えてみろ」とエリックの目を見据えたまま自身の胸元に手を当てる。

 

「戦の目的はまあ、様々だ。領土の奪い合いだったり、政治的な問題だったり……だが、そこにどんな理由があろうと、国民はただ巻き込まれるだけだ。当事者同士が殴り合えば良いのに、国単位である以上そうはいかない。それが戦だ……国民からしてみれば、無いに越したことはない。なのに、好戦的な王が上にいたんじゃ、戦が頻発してさぞかし大変だったことだろう」

 

 オレはそんな王、絶対に嫌だ――どこまでも包み隠さない、直接的な言い回しでディアナはエリックに語りかける。先代王やエリックの立場を考えるなら、ここまではっきりと物事を言うのは普通抵抗があるものだ。

 だが、今のエリックにとってはディアナの態度はとてもありがたいものであった。別にエリックは、ディアナに敬意を払われることを望んでなどいないのだから、当然である。

 

「確かに僕は、戦を望んじゃいない。戦に出られる身体だったら、考え方は違っていたのかもしれないが」

 

「じゃあ……その身体のせいで、辛い思いをしてきたからこそなんだろうな。あなたに、弱者を思いやる優しい心があるのは」

 

「……」

 

「だからこそ、安心した。あなたは、民を守るためならともかく、利益のために戦を望む王にはならないだろうと……オレは、そう考えた」

 

 エリックは元々、必要以上に悲観的な考え方をしがちであるが、彼のこの特徴が顕著に出るのは自分自身の話題になった時だ。特に、体質の話は一種の地雷とも言える。

 当の本人も自覚していることではあるが、この話題になってしまうと自分自身ではどうにも出来ないほどに落ち込み、後ろ向きな発言を繰り返してしまうことも少なくない。

 

 

「……。はは、格好悪いな。慰めてくれて、ありがとな」

 

 飾らないディアナの言葉や立ち振る舞いが、エリックを精神的にも落ち着かせてくれる要因となったらしい。漸くいつもの自分が戻ってきた、とエリックは溜め息混じりに笑みを浮かべてみせる。

 

「い、いや……オレは、思ったことを言っただけだ」

 

「それで良い。それが、良いんだよ……ところで、格好悪いついでに頼みたいことがあるんだが、良いか?」

 

 突然感謝されて驚いたのか、ディアナはどこか挙動不審な様子である。そんな彼の青い大きな瞳を覗き込むエリックの表情は、先ほどまでとは打って変わった、真剣なものであった。そして、彼の言葉が紡がれる。

 

 

「ディアナ。僕に剣術を教えて欲しい……実戦というものを、教えて欲しいんだ」

 

「――ッ!?」

 

 簡潔に要件だけを告げ、口を閉ざしたエリックと、驚き、黙り込んでしまったディアナ。双方が何も言わなくなったがゆえに刹那の時、雨音以外の物音が全て消え去っていた。

 

 

「随分と、簡単に言ってくれるな……オレは、好き好んで戦っている訳ではないのだが?」

 

 その静寂を破り、先に話を切り出したのはディアナの方だった。彼は困惑した様子のまま、それでいてどこか苛立ちが混じったような、そんな声音でエリックの出方を伺っている。「ごめん」とエリックは短く謝罪の言葉を投げかけ、間を開けることなく話し始めた。

 

「分かってる。だからこそ、お前に頼んだんだよ。僕はただ、大切な人を守りたいだけだ。誰にも、傷付いて欲しくない……お前の言葉を借りるなら、僕は利益のために戦を望んでいるわけじゃない。だから、戦いを好まないお前から戦う術を教わりたいと思ったんだ」

 

「……なるほど、な」

 

 ダークネスとの戦いの最中、何も出来なかったことが本当に悔しかった。そんなエリックの心境を理解したのだろう。ディアナの顔から苛立ちの色は消え、その代わりに彼はどこか不安げな眼差しをエリックに向けてきた。

 

「念のため聞くが、あなた……動き回って大丈夫なのか? その、発作は……」

 

「起こさない保証はないが、それはいつものことだ。剣術の訓練をやってるが、特に問題は起きていない。実戦経験は全く無いが、一応、激しい動きが出来ないわけではないよ」

 

 発作を起こしているところを見られてしまったのだ。まず身体について聞かれるだろうとは思っていた。こればかりは、仕方のないことだろうと諦めていた。

 

 とはいえ、エリックは病弱体質ではあるが、男らしいしっかりとした身体付きをしている。それは王国騎士団の者達が行うような過酷なものではないとはいえ、それでも毎日ほぼ休むことなく行っている訓練や体力作りのための運動によってもたらされたものだ。

 ディアナは値踏みするようにエリックの全身をまじまじと見つめた後、胸元の十字架へと手を伸ばした。

 

「あなたは純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)だ。訓練がどんなものかは知らんが、根本的に戦い向きの身体……最初こそ戸惑うだろうが、実戦ができないわけではないだろう」

 

「!」

 

「だが、忘れるな。生き物は……人間は、意外と脆い。驚くほどにあっさりと、殺せてしまうんだ」

 

 赤のレーツェルを片刃剣へと変化させ、ディアナはその切っ先をおもむろにエリックの顔面に向けた。刺されることは無いだろうとは思っていたが、それでも鈍い銀の輝きを持つ切っ先を見て息を呑まずにはいられなかった。

 

「既にオレは、多くの人々の命を奪ってきた。相手がオレのような奴でも人は死ぬ。あなたならきっと、オレ以上に簡単に命を奪える……実戦とは、そういうことだ」

 

「……」

 

 ラドクリフとフェルリオ。双国の戦争は終わったが、今でもこの世界は、あまりにも治安が悪い。そのため、人を殺して罪に問われるということはないが、罪に問われるか問われないかの問題ではない。ここで問題となるのは、それとはまた別の問題だ。

 

「言っておくが、殺めずに戦う、というのは無理があるぞ……こればかりは、本当に無理だからな」

 

「……分かってるよ。そんなに甘くないって、言いたいんだろ?」

 

 恐らくディアナは、何とか命を殺めずに戦い続けようとしていたのだろう。しかし、それは叶わなかった。そんな甘えたことは、できなかったのだ――怖い、とエリックは思ってしまった。それでも、彼の覚悟は揺らがなかった。

 

「確かに、怖くないと言えば嘘になるよ。だが、それ以上に僕は守られる側ではいたくない。力になりたい、そう願うんだ」

 

「……。本当にあなたは、優しい人だ。だからこそ、罪の意識に押し潰されないか心配になる……が、何を言っても気は変わらないのだろう?」

 

 くすり、とディアナは笑い、手にしていた剣をエリックに渡した。それが何を意図する行動かを問う前に、彼はその辺に落ちていた長い枝を拾い、背中の翼を大きく動かしてエリックが首を動かさなければ見えないような位置まで飛び上がった。

 

 

「あなたの実力を、見定めさせてくれ。今から特攻を仕掛けるから、どうにかしてみろ」

 

「えっ!?」

 

 そんな無茶苦茶な、とエリックが言うのも聞き入れず、ディアナはくるりと空中で一回転し、枝を両手に構えて急降下してきた。

 唐突だったこともあって、彼の攻撃をかわせるとは思えない。ならば、受け止めるしかないだろう。エリックは受け取った剣をぐるりと裏返し、頭上に降りてきたディアナの枝をそのまま受け止め、弾いた。

 身体も軽く、非力なディアナはそれだけで怯んでしまった。その隙にエリックは左手を腰のホルダーへと伸ばして短剣を抜き、逆手に構える。

 

「おっ、と……ん? 二刀流、か。意外だな、あなたは大剣を振り回すような戦い方をするものだとばかり」

 

「僕の体質のせいだよ。あまり重い剣を使っては危ないと細身の物ばかり渡されるんだが、それだと片手が手持ち無沙汰になるから色々考えた結果二刀流になった。一応これも由緒正しきラドクリフの剣術だ……女剣士用の、だが」

 

「そ、それはどうなんだ、それは……まあ、良い。その辺も踏まえて、実践を通してあなたに合う戦い方を考えていこうか」

 

 苦笑するディアナが放り投げた木の枝が水溜りの中に落ち、飛沫を散らす。彼によるエリックの『見定め』は終了したらしい。それを感じ取ったエリックは短剣を腰のホルダーへと戻した。

 いつの間にか、雨は止んでいた。雨雲もある程度流れていったようで、向かい合う二人の姿を月明かりが照らしている。

 

 

「剣を持った経験はあるが、実戦経験は無いと聞いたから、咄嗟の判断力が見たかったんだ。悪かったな、突然襲ったりして」

 

「ああ、なるほどな。全く、驚いたじゃないか……ほら、剣。返すよ」

 

 はい、とエリックが剣をディアナに手渡そうとしたその瞬間。ディアナの長い耳がぴくりと動き、彼は剣を受け取ることなく辺りを見回しながら叫んだ。

 

「! 待て!」

 

 直後、遠くの茂みがガサガサと音を立てた。純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)特有の優れた聴覚によって、ディアナはいち早く異変に気付くことが出来たのだろう。音は次第に、こちらへと近付いてくる。

 返しかけた剣を構え直し、エリックは今にも飛び出してきそうな『それ』へと意識を向けたが、ディアナはエリックの顔を横目で見て首を横に振るってみせる。

 

「ディアナ?」

 

「息切れが聴こえるんだ……複数の魔物に追われているようだが、こちらに向かってきているのは人だ。魔物に襲われて逃げ回っているのかもしれない」

 

「なっ!?」

 

 エリックにはガサガサという木の枝や葉を乱雑に掻き分ける音しか聴こえないのだが、こればかりは種族の差である。仕方のないことだろう。

 その音は、どんどんこちらへと向かってきている。こちらのコンディションを考えるならば、逃げるという選択肢が最も利口なものだろう。だが、エリックもディアナもそのような気には到底なれなかった。

 

 

「ディアナ。人助けついでに、魔物と一戦してみても良いか?」

 

「良いんじゃないか? なら、あなたには少々使いにくいかもしれないが、その剣を使ってくれ。オレは援護に回らせてもらう」

 

 ひらり、と空中に飛び上がり、ディアナはエリックの少し後ろへと回った。彼はすぐに詠唱を開始できるように意識を高め始めている。魔術を使うつもりなのだろう。

 茂みの向こうから、息を切らした苦しげな声が聴こえてきた。声の高さからして、女性のものだと判断して良いだろう。漸くその声を聴き取ったエリックは、剣を手にしたまま茂みへと走る。そして木々の間から微かに見えた腕を左手で掴み、迷うことなく自分の方へ引き寄せた。

 

「! きゃ……っ」

 

 バランスを崩し、女性はエリックの方へと大きくよろけてしまった。それを避けることなく受け止め、転ばないようにと上手く支えてやる。女性はエリックより少し年上に見えたが、丸っこい橙色の瞳が可愛らしい娘だった。

 そんな容姿とは対照的に、彼女はスラリと高い身長と豊満な体型の持ち主であった。大きく開いた胸元とパフスリーブが特徴的な淡い緑を基調としたレオタード型の魔導服を着ているが、恥ずかしいのか胸元の露出部分は濃い藍色のスカーフでその大半が隠されている。そこだけを見ると育ちの良さそうな印象を与えるだけに、かなり深いスリットの入ったロングスカートから覗く、左足の露出範囲が異常に広いのが気になった。ふとももに付けた銀色の輪から伸びる半透明の黒い布が彼女の足を包んではいるが、この場合包めば良いという問題では無い。

 見たところ、逃げる際にスカートが破れたというわけではないようだ。つまり、最初からこのようなデザインだったということだ――何となく気まずくなってしまい、エリックは思わず娘の肩を軽く掴んで自分の身体から引き離した。

 

「……。手荒な真似して、悪い。大丈夫か?」

 

「ッ、あ、なた……は?」

 

 垂れ目がちな瞳が、困惑気味のエリックを真っ直ぐに見つめてくる。その瞳は傷の痛みのせいか、酷く潤んでいた。

 桜色のゆるやかなウェーブを描く肩のラインで切り揃えられた髪は、雨のせいで彼女の頬や首筋にぺったりと貼り付いている。髪の右側には、解けかけで不格好な状態の黒いリボンが結ばれていた。

 

 何はともあれ、早く手当てをしてやらなければならないだろう。だが、迫り来る魔物たちは、今すぐエリック達にそれをする余裕を与えてはくれないようだ。

 

「話は後だ。先にあれを片付ける!」

 

 娘を後ろに下がらせ、エリックはその場で剣を振るって刃に付いた雨雫を払う。雫が前方へと弧を描いて飛び――それを合図にするかのように、茂みから大きな獣とその子どもが数匹飛び出した!

 

 

「ディアナ、あれは……?」

 

「ボア、という獣型の魔物だな。繁殖力が強いから、あちらこちらに出没する……ほらみろ、子連れだ。子どもの方は通称ボアチャイルド、だな」

 

「子連れ……」

 

「ええい! 魔物相手に躊躇うな! 可哀想に思う気持ちも分かるが、躊躇えばこっちが殺されるぞ!!」

 

 焦げ茶色の体毛を雨で濡らしながらもこちらに殺意を向けてくるボア達。戦うのを躊躇うエリックに一喝し、ディアナは両手を胸の前で組んだ。彼の真下には、白い輝きを放つ魔法陣が浮かび上がっている。

 

「鋭鋒を携えよ! ――シャープネス!」

 

 魔法陣がより一層強い輝きを放ち、いくつもの光がエリックの元へと飛んでくる。光は刃に、そしてエリック自身と同化して消えた。残ったのは、これまでに経験したことのない、力がどんどん湧き上がってくるような高揚感だった。

 剣の柄を右手で強く握り、腰のホルダーに戻していた短剣を取り出して左手に持つ。明らかに緊張した様子のエリックを見かねたのか、再びディアナが叫んだ。

 

「ちゃんと言わないとあなたは逆のことをしそうだから、言うぞ! ボアチャイルドから狙え! ボアは後回しだ!」

 

 子どもから狙え、というのも随分と残酷な話である。とはいえ、魔物に囲まれてしまったり後ろの娘が襲われてしまったりする確率を減らすためにも、まずは早く数を減らさなければいけないことはエリックにも理解できた。

 

「分かった、助かる!」

 

 覚悟を決め、エリックは一番自分に近い場所にいたボアチャイルドへと狙いを定めて駆け出した。訓練で繰り返し行った動作を頭で思い浮かべ、体ごと剣の切っ先を低く落としてチャイルドボアの腹の下へと滑り込ませる。ぐっと右腕と両足に力を込め、剣を振り上げながらエリックは重力に逆らい大きく飛躍した。

 

「――絶翔斬(ぜっしょうざん)ッ!」

 

 腹の下から斬り上げられたボアチャイルドは鮮血を撒き散らし、親のボアが鳴き声を上げる。深々と身を斬りつけられたボアチャイルドは小さな光の粉となり、空気中へと消え去った。

 

「! 消えた……!?」

 

「オレもよく分からないんだが、大抵の魔物は何らかの形で汚染され、神力を失った下位精霊の成れの果てだという。生きているうちは他の生物と代わりないが、命を終えれば魔力として空に還るんだ……不思議だよな」

 

 魔物の亡骸が残らなかったことに驚くエリックに簡潔な説明をし、ディアナは右足に付けていたケースから三枚の細長いカードを取り出した。美しい絵の描かれたそれらは、通常ならば占いに使われるタロットカードだった。それをディアナは、何のためらいもなく宙に放り投げる。

 

「――集いて爆ぜよ、紅蓮の連弾!」

 

 投げられたカードは地に落ちることなく、ディアナの周りをくるくると回っている。そして、彼の詠唱に合わせて一つ一つが炎を纏っていった。

 

「ファイアボール!」

 

 詠唱を完成させ、ディアナが叫んだ瞬間。三枚のカードが強い光を放ち、炎を纏ったまま一匹のボアチャイルドへと襲いかかった!

 体毛と肉の焼けたことによる焦げ臭さが辺りを漂う。ボアチャイルドは小さく呻くような鳴き声を上げ、魔力の塊となって拡散した。不幸中の幸い、ボアチャイルドは大した耐久力を持っていないらしい。ディアナが魔術発動の隙で怯んでいるうちにエリックはボアの突進を避けつつ、最後のボアチャイルドの元へと駆けた。シャープネスの効果は、まだ続いている。躊躇うことなく、彼は腰を落としてボアチャイルドの小さな身体を剣で薙いだ。

 

「終わりだ! ――真空破斬(しんくうはざん)ッ!」

 

 剣の軌跡が風の刃を生み出し、それがボアチャイルドの身体をズタズタに切り裂いていく。元々剣による傷を負っていた上に、シャープネスで強化されたエリックの攻撃だ。耐えられるはずもない。

 ボアチャイルドが、空に散る。しかし、まだ終わりではない。エリックは最後に残された親のボアを探すために辺りを見回した――その時!

 

 

「エリック!」

 

 ディアナの声が響く。彼はそこまで言わなかったが、大体想像が付く。エリックは慌てて剣を横に構えて後ろを振り返り、勢いを付けて迫り来るボアへと防御姿勢を取った。

 

「ッ、ぐあっ!」

 

 しかし、ボアの攻撃力は想像以上のものであった。ボアの攻撃を受け止めきれなかったエリックは後ろに大きく飛ばされ、地面を転がった。打ち付けた背中と、剣を持っていた両腕がじんじんと痛む。

 

「くそっ! 負けてたまるか!」

 

「……。根性は認める。さて」

 

 すぐに立ち上がってみせたエリックを見て、ディアナは微かに笑みを浮かべて再び両手を組んだ。

 

「守護の大翼! ――バリアー!」

 

 術の完成と共に現れたのは、エリックには無い光の翼。それは一瞬だけ彼の背から伸びて全身を包み込み、シャープネスの時同様に彼の身体に同化された。今度も身体能力向上系だろうが、術がもたらす効果は違うようだ。

 ディアナの支援に感謝しつつ、エリックはボアに向かって駆け出した。子どもを殺されたボアは怒り狂っており、完全に敵と判断しているらしいエリック目掛けて逃げることなく突っ込んできた!

 

「く……っ!」

 

 突っ込んできたボアの重い一撃を何とか耐えたエリックは一歩前に踏み込んで剣を斜めに薙ぎ、左手を勢いよく振り下ろして短剣をボアに突き立て――ようとした。

 

「え……?」

 

 剣も、短剣も。ボアに傷一つ与えていない。そのことにエリックが気付いた時には、ボアは既に反撃体勢に入っていた。刹那、鈍い音と共に腹部に吐き気を催すほどの衝撃が走った。

 

「がっ!? ……ごほっごほっ!」

 

「え、エリック!!」

 

 今度は、ただ地面を転がるだけでは済まなかった。雨でぬかるんだ土を背で抉りながら、エリックは飛ばされていく。泥水が跳ねる中、喉の奥から込み上げてくるものを抑えきれずに彼は嘔吐いた。胃液をぶちまけたかと思ったが、それだけではない。それどころか、吐き出したものの大半は血であった。

 

 

「は……っ、はぁ……っ、ぐ、うっ!!」

 

 起き上がろうと身体を起こすと、腹部に激痛が走った。これは当たり所が悪かったかもしれないと、エリックは奥歯を噛み締める。それでも自分は横たわっている場合では無いと、飛ばされる途中で落としてしまった剣を拾い上げ、再び構えを取る。

 

「おい、無理をするな! その剣をオレに……!」

 

「大丈夫だよ、これくらい……どうってことない!」

 

 口の中いっぱいに広がる鉄の味を感じながら、我ながら大した強がりだとエリックは自分自身を嘲笑う。必要以上に強がってしまうアルディスの気持ちが、何となく分かったような気がした。

 

「そんなはずあるか! 良いから代われ!」

 

 

 エリックのことを気遣っているのだろう。そう叫んでディアナはエリックの元へと飛んでいこうとする彼の腕を掴んで行く手を阻んだのは、先ほど助けた桃色髪の娘だった。

 

「ごめんね。失礼なこと言うけど……絶対に無理よ、君じゃ」

 

「な……っ!?」

 

 いつの間にディアナの背後に回ったのだろうか。確かに彼女はエリックとディアナに庇われるような場所にいたが、ここまで接近された覚えはないとディアナは頭を振るう。

 だが、彼女が太ももの銀の輪――その中心で控えめに輝く紫のレーツェルに手を伸ばすのを見た二人は、ここでようやく彼女が「ただ守られているだけの存在」では無さそうだということに気が付いた。

 

「見たところ、“先生”と同じ精霊術師(フェアトラーカー)ってわけじゃ無さそうだし。戦いなれてはいるみたいだけど、あそこの彼……エリック君、だったかしら? あの子の腕っ節には叶わないわ。あの子で入らないのなら、君じゃ無理よ。あと、あの速さじゃ魔術詠唱やってる余裕もあまり無いだろうしね」

 

 それこそ、前衛の彼に頼らなきゃどうしようもないわ、と娘は橙色の瞳を細める。彼女の視線の先には、何とかボアからの攻撃を受け流し続けているエリックの姿があった。あれでは、いずれ身体が持たなくなってしまうだろうと。娘の言うことが正論だと判断したディアナは悔しそうに奥歯を噛み締めていた。

 

「――ッ、悔しいが、間違いなくそうだろうな。だが……」

 

 娘のレーツェルが、銀色のワンドへと変化する。その先端部分には、桃色の長いリボンが繋がっていた。右手でワンドの柄を握り締め、左手でリボンを掴んだ娘は、ディアナに話しかけながら魔力を高め始める。

 

「君は……ディアナ君、で良いのかしら? ディアナ君は彼に、もう一度シャープネスを掛けてあげて。ずっと見てたから言うんだけど、あたしと君達二人の力が合わされば、何とかなるわ」

 

「し、しかし、一旦エリックの傷を癒した方が……」

 

「無理よ。それをしている間に、今度はバリアーの効果が切れる。そうしたら彼は恐らく、次のボアの攻撃に耐えられないと思う……エリック君が可哀想だけど、ちょっと我慢してもらって次の一撃に賭けてもらった方が懸命よ。あの子、間合いに入っていくの上手みたいだから、一撃だけなら確実にボアの反撃受けずに決められるわ」

 

 無条件で相手を安心させてくれるような、優しげな微笑み。そんな微笑みを戸惑うディアナに向けながら、娘は自身の真下に紫の魔法陣を展開させた。

 

 

「任せて。攻撃魔術使うだけの体力は無いけれど、専門の“これ”なら出せるから」

 

 

 名前も知らない娘の言葉。ただ、戦いなれているのだと考えられる彼女の言葉は強い説得力があった。ディアナは一度だけこちらを振り返ったエリックと視線を合わせた後、両手を胸の前で力強く組んでみせた。

 

「――鋭鋒を携えよ!」

 

「――崩壊を唄いし、黒蝶の舞踊」

 

 エリックとディアナが出した結論、それは娘の言うことを信じ、次の一撃に賭けるというものだった。ディアナの詠唱に続く形で、娘が詠唱を紡いでいく。二人が詠唱を唱えている間に、エリックはボアの攻撃を受け流しながら、次の一手を出すタイミングを見計らっていた。

 

「シャープネス!」

 

「スケアべイン!」

 

 ディアナとポプリの詠唱が完成する。先ほど同様にシャープネスはエリックの力を上昇させ、一方ポプリの術は魔法陣から飛び出した黒い光が複数の漆黒の蝶と化してボアの身体に貼り付き、そのまま同化していった。一体何の術だとエリックが娘に問いかけようとしたその瞬間、ボアが前足のバランスを崩して軽くよろめいた。

 

(今だ!)

 

 術の効果を聞いている場合ではない。エリックは一気にボアとの間合いを詰め、剣を大きく横に薙いだ。先ほどチャイルドボアに放ったものと同じ『真空破斬』だ。剣の一閃と、風の刃。両方に身体を裂かれ、今度こそボアは血飛沫を上げる。次の一撃で、とは言っていたが、一撃だけ放てという意味では無いだろうと思ったのだ。どうせなら、確実に仕留めておきたかったのだ。

 

 ずうん、と巨大なボアの身体が地面に倒れ込む音がする。刹那、その大きな身体は子ども達がそうであったように、小さな光の粒となって空気中に拡散していった。

 

 

「か、勝った、の、か……?」

 

 気が抜け、エリックはその場に両膝を付いた。呆然とする彼の目の前に、不安げな表情をしたディアナが飛んでくる。

 

「大丈夫か!? い、今、治すから……!」

 

「無理はするなよ。お前、ついさっきまでアルの治療してくれてたんだから……ところで、さっきのあの女の人……」

 

 ディアナに傷を治してもらいながら、エリックは辺りをきょろきょろと見回し――驚愕した。彼は目の前のディアナを下がらせ、娘の元へと走る。

 

「ッ!」

 

「エリックどうした!? ……って、こっちの方が大丈夫じゃなかったのか!?」

 

 ぐったりと、地面にうつ伏せになった状態で荒い呼吸を繰り返す桃色髪の娘。エリックは慌ててその身体を起こし、娘の顔色を窺った。

 

「うふふ、情けないなぁ……さっきのアレで、あたし、限界だったみたい……」

 

「だ、大丈夫なのか……!?」

 

「心配しないで、大丈夫よ。ただ……少し、眠い、かな……」

 

 娘の橙色の瞳が、瞼に覆われていく。彼女はここに来るまでの間に魔術を多く使っていたようであるから、魔力切れによる疲労感が原因である可能性が高い。

 否、それだけではない。傷口から雑菌が入ったか魔物の毒攻撃を受けていたかしていたのだろう。先ほどは気が付かなかったのだが、彼女は高い熱を出していた。

 

「え、ええと……」

 

「……そう、だ。名前……名前、名乗ってなかった、な……」

 

 朧げな意識の中、娘は言葉を紡ぐ。エリックは娘をそっと抱え上げ、ディアナが前を飛ぶ形で洞窟へと歩き始めた。二人の間に言葉は無かったが、考えたことは全く同じだったようだ。

 

「あたし……ポプリっていうの。エリック君、ディアナ君……巻き込んじゃって、ごめん。助けてくれて、本当に、ありがと……」

 

「……。僕の方こそ、礼を言わせてくれ。こちらこそ助かった。ありがとう……ポプリ」

 

 

 娘――ポプリの身体が震えている。雨に濡れた上、熱による寒気が酷いのだろう。呼吸もかなり荒い。さらには、意識を保っていられないほどに衰弱してきている。

 これは一刻も早く安全な場所での手当をしなければならない、と考えたエリックの歩く速度は自然と早くなっていった。

 

 

 

―――― To be continued.

 

 



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Tune.7 治癒の力

 

 

「アル! マルーシャ!!」

 

 エリック自身は全く把握していなかったのだが、洞窟を出た後、ふらふらと歩いているうちにかなり遠くまで行っていたらしい。小走りで洞窟に戻ったものの、辿り着く頃にはすっかり夜が更けていた。

 もう寝ているかもしれないと思いつつ、腕の中で震えるポプリのことを優先したエリックは洞窟の入口付近で迷うことなく見知った二人の名を呼んでいた。

 

「エリック、かな……?」

 

 すると、すぐに奥からひょっこりとマルーシャが出てきた。もしかすると、心配して起きて待っていてくれたのかもしれない。仮にそうなら、申し訳ないことをしてしまったとエリックは奥歯を噛み締める。

 

「良かった、帰ってきたんだね! 一体どうし……って、大変!」

 

 案の定、マルーシャはエリックのことを心配していたらしい。だが、彼女は何よりも先に、その心配していた人物の腕に抱かれていたポプリの姿を見て焦りと驚きで目を見開くこととなった。

 彼女が何かを言うよりも先に、エリックとディアナが事情を説明し始める。

 

「行った先で出会ったんだ。今の僕らに余裕が無いのは分かっているんだが、意識が無い上に高熱を出している……放っておけなかったんだ」

 

「だからといって、相談もせずに勝手に連れ帰ってきてしまったことは謝る」

 

 突然の襲撃に、戦闘に慣れているアルディスとディアナの負傷。このような状態でまた新たに怪我人を増やす余裕など、あるはずがない。そんなことは分かっていた。しかし、それでもエリックもディアナもこうせずにはいられなかったのだ。

 そんな二人の心境を察したのだろう。マルーシャはゆるゆると頭を振るい、困ったように笑ってみせる。どうしてそんなことを気にするの、と言いたげな様子だ。

 

「ううん、謝る必要なんてないよ。エリックとディアナがその人を放って帰ってきてたら、わたし、二人のこと軽蔑してたと思うな」

 

「……。ありがとう。ただ、もしかしたらマルーシャ、君に負担を強いるかもしれない……」

 

「そんなの気にしないで! わたしが倒れない範囲で、にはなっちゃうと思うけど、精一杯頑張るから!」

 

 そう言って、マルーシャは小首を傾げて花が咲くような満面の笑みを浮かべてみせた。その笑みに釣られ、エリックとディアナも思わず微笑んでしまう。

 マルーシャは「とにかく治療しないと」と言ってエリックの元に駆け寄ると同時、彼の姿を見て叫んだ。

 

「エリックどうしたの!? エリックも怪我してるよ!!」

 

「ん? ああ、僕は大したことないよ」

 

「嘘ばっかり! 大したことある顔してるもん!!」

 

 雨でぬかるんだ地面に倒れ、転がり、血まで吐いた。傷自体は多少ディアナが治してくれたものの、完治はしていない。ついでに腹部には未だに酷い痛みが残っている。鏡で見たわけではないが、酷い有様になっているだろうことはエリック自身も理解していた。だが、どうやら思っていた以上に酷いことになっているらしい。

 見知った人物、それも全く想定外だったエリックの負傷という突然の事態に恐怖してしまったのだろう。マルーシャは少し涙目になってしまっていた。そんな彼女にエリックが申し訳なさを感じていると、それ以上に申し訳なさそうな顔をしたディアナが静かに口を開いた。

 

「それなんだが……マルーシャ、疲れているところ申し訳ないが、協力してくれないか? この娘……ポプリ、というそうなんだが。その、ポプリかエリックか、どちらかを重点的に治療してやって欲しいんだ。すまない、オレが傍にいながら、エリックに怪我をさせてしまった……」

 

 ディアナの言葉に対し、「それはお前のせいじゃないだろ」とエリックは言いかけた。言えなかったのは、すぐさまマルーシャが真剣な眼差しをディアナに向けていたからだ。

 

「当然だよ! 協力するなって言われてもするよ! あと、ディアナは悪くないよ!」

 

「マルーシャ……ありがとう……」

 

 どういたしまして、と八重歯を見せながらマルーシャは笑う。そして彼女はエリックが抱えているポプリと、エリックを交互に見て眉尻を下げつつ首を傾げた。

 

「……どうしよう、わたし、両方は無理だと思うの。どっちを、癒したら良いのかな……?」

 

 マルーシャの問いに、ディアナは小さく唸り「それなんだよ」と言って首を傾げた。

 

「オレとマルーシャの能力は両方救済系だが、少なからず違いがあるからな。適材適所ってものがある……そして、あなたの言うようにどちらも使える力は残り少ない。だったら、より効果のある方に付くのが正解なんだろうが……」

 

「よく分かんない、よね。その女の人の高熱の原因が分かったら早いんだけど……」

 

 

 どうしよう、とマルーシャとディアナは顔を見合わせる。そんな時、洞窟の奥からアルディスが出てきた。

 顔色は悪く、かなり辛そうではあるが歩けている。ひそかにエリックはそのことを安堵していた。

 

「……ごめん、マルーシャに甘えて出遅れた。何か、問題が起きてるみたいだね」

 

「アル、無理させて悪い……ちょっと、怪我人がいて、な……」

 

「怪我人?」

 

 連れてきたのか、とアルディスはどこか怪訝そうな表情を浮かべる。マルーシャの時とは対照的に、アルディスにはあまり良い印象を与えなかったようだが、彼の警戒心の強さを思えば当然の反応だろう。しかし、それでも彼は迷わずエリックの傍に寄っていき、ポプリの姿を確認する。

 

 

――そして彼はポプリに対し、“明らかに”異様な反応を見せた。

 

 

「アル?」

 

「な、な……なん、で……?」

 

「アル、しっかりしろ! どうしたんだ!?」

 

 吐き気をこらえるかのように、アルディスは自身の口元を覆っていた。ただでさえ悪かった顔色は蒼白になり、その身体はカタカタと微かに震えている。

 一体何が、とエリックは女性を抱えたままアルディスの顔を覗き込んだ。

 

「もう、二度と……会いたく、なかったのに……」

 

「ア、アル……」

 

 アルディスの翡翠の碧眼は、涙で酷く潤んでいた。今にも泣き出してしまいそうな、不安定な姿だった。

 彼は元々人間不信ではあるが、これはそういう問題ではない。例外的な反応だろうとエリックは察した。そして、自らの軽率な行動を本気で後悔した。

 

「アル……悪い。その……」

 

「……」

 

 だからといって、今更どうしたら良いのか。酷く悩み始めたエリックであったが、それは杞憂に終わった。

 アルディスは自身の顔をパンパンと強く叩き、力なく垂らされたポプリの右手首にそっと触れる。

 

「明らかに熱いし、脈が早い……熱があるのは間違いないとして、でも見た感じ身体の傷は発熱を伴うほどじゃないし、風邪を引いている様子でもないから毒だろうね。それも、放っておけば命に関わるくらいの猛毒……ディアナ、お前になら何とかできると思うんだけど」

 

「えっと……?」

 

 先ほどまでとは打って変わった、冷静な様子だった。しかも、どうやら話し声がしっかり聴こえていたらしい。

 彼はポプリの置かれている状況を判断するとともに、いまいち理由を理解できていないらしいディアナの方に向き直った。

 

聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)は純粋な治癒力では天恵治癒(エルフリーデ・イヴ)に劣るけど、浄化や支援といった方向に特化した能力なんだ……でも、その様子だとお前は力の使い方を知らないみたいだね」

 

「う……」

 

 困ったなあ、とアルディスは肩を竦める。それでも彼はしばし悩んだ後、「ちゃんと説明すれば分かるかな」とディアナの胸の十字架を指差し、再び口を開いた。

 

聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)能力者特有の魔術、神託術(オプファリス)は分かるかい? これが分かってるなら、下級神託術の『リカバー』が使えるかなって思うんだけど」

 

「その、そうかどうか自信がないんだが……それらしい奴で、シャープネスと、バリアーなら、使える……」

 

「え、えぇ?」

 

 何だその反応は、とアルディスは思わず間抜けな声を出してしまった。対するディアナは、しゅんとうなだれてしまっている。

 これは今に始まったことではないのだが、今回もディアナの反応が妙である。全ての質問に同じ反応をするわけではないが、彼の“それ”は少々目立ちすぎた。それも、勘の良い者ならばそこにある共通点、及び隠された事実にうっかり気付いてしまいそうなほどに――しかし、それでもアルディスはこれまで同様に“それ”に気付かない振りをして、ディアナの頭をポンポンと撫でた。

 

「うん、まあ……うん。そう、それだよ。それが、神託術(オプファリス)。シャープネスもバリアーも、両手を組んで詠唱するだろ? 同じように両手を組んで、彼女の毒を消し去ることを願ってみな。上手く行けば、すぐに言うべき言葉が分かるから」

 

「わ、分かった……」

 

「中に運んでおいた。ディアナ、頼む」

 

 どこか不安げな様子で、ディアナはエリックが洞窟の奥に寝かせてくれたポプリの傍へと飛んでいく。

 そして彼は言われた通りに両手を組み、静かに念じ始めた。刹那、集中するために目を閉ざしていた彼の肩がぴくりと動いた。

 

「よし、分かったみたいだね? じゃあ、そのまま今浮かんだ言葉を唱えてみて」

 

 エリックとマルーシャにはよく分からなかったが、アルディスが的確な指示を出していたらしいことは確かだ。両手を組んだままのディアナと、ポプリの真下に白く輝く魔法陣が出現していた。

 

「――浄化の、奇跡よ……リカバー!」

 

 魔法陣から浮かび上がった天使の輪を思わせる淡い白の光輪が意識のないポプリを包み、そのまま彼女の身体に同化する。

 すると彼女は意識こそ戻らなかったものの、悪かった顔色は次第に良くなっていき、乱れていた呼吸もすぐに正常なものへと変わっていった。解毒に、成功したようだ。

 

「やった、できた……!」

 

「嬉しそうだね……でも、悪いけどもう少しだけ頑張って。傷、治してあげないと雑菌が入ってまた熱を出す、なんてことになりそうだから……ああでも、これなら聖歌(イグナティア)を歌うほどじゃないかな、下級治癒術で十分だと思う」

 

 喜ぶディアナに対するアルディスの言葉は言い回しこそ厳しいが、どこか優しさの含まれたものだった。

 それを感じ取ったらしいディアナは不貞腐れることなく、こくりと頷いて今度はタロットカードを一枚だけ残して宙に放り投げ、残した一枚を額に当てて両目を閉ざした。彼とポプリの足元には、淡い水色の魔法陣が浮かび上がっている。

 

「安らぎの羽音、響け――ピクシーサークル!」

 

 宙に放り投げられたタロットカードが、魔法陣と同じ色の光を放つ小さな妖精のような姿になり、ディアナとポプリを囲むように円を描く。妖精の羽から散った鱗粉は軌跡となり、ポプリとディアナ双方の傷を癒した。

 役目を終えたタロットカードが勝手にケースの中に戻っていくのを見て、マルーシャは感嘆の声を上げた。

 

「綺麗……! 手品みたい、格好良い!」

 

「そう、か……? 何か、気がついたら、使えていたんだが……」

 

「……うん?」

 

 無意識にやってしまうのだろうが、ディアナの悪い癖が出た。またか、とアルディスはこめかみを抑える。どう考えてもその癖が出てしまう理由には触れて欲しくないのだろうに、これでは質問されるのは時間の問題だろう。

 そうなる前にと、アルディスは話題を変えるべく口を開く。

 

「確かに変わった詠唱媒介だなぁ……でもマルーシャの反応を見る限り、俺の傷は全部聖歌(イグナティア)で治してくれたのかな。ごめん、必要以上に疲れたろ?」

 

「い、いや、別に……」

 

 アルディスがディアナに話しかけたせいか、マルーシャはエリックに声を掛けていた。彼女の意識が別の方向へ向いたのを確認し、ディアナはほっと胸を撫で下ろしていた――その様子を見て、アルディスは「これくらいしか考えられない」とひとつの仮説を立てていた。

 

(ディアナ……)

 

 ごめん、と彼は心の中で静かに呟いた。口に出さなかったのは、ディアナの心境と自分自身の立場を考えてのことだ。

 今この状況で軽率な行動は取れない。言うにしても二人きりになった時にするべき話だろうし、そもそもディアナはこの話をするのを嫌がる可能性が高い。だが、ディアナの安全を考えれば、いち早く確認しておきたい事項ではある。

 

 

「――ディス、アルディス!」

 

「!?」

 

 どちらを優先すべきかと、アルディスが一人思い悩んでいた時。マルーシャがポンポンと彼の肩を叩いてきた。どうやら、彼女に名前を呼ばれていたことに気付いていなかったらしい。

 驚き、びくりと肩を震わせたアルディスに対し、マルーシャは「驚かせてごめんなさい」と申し訳なさそうに眉尻を下げた。

 しかし、悪いのはこちらの方だ。「ごめん、どうしたの?」とアルディスは軽く首を傾げてマルーシャの方へと向き直った。

 

「あ、あのね……わたしにも、何か治癒術教えて欲しいなって……」

 

「え……」

 

「だめ?」

 

 マルーシャは、詠唱を用いるような正式な術を使うことが出来ない。それは彼女の周りに救済系能力者がいなかった上、唯一治癒術の使い方を教えられるアルディスもあえてマルーシャにそれを教えず、詠唱をせずに発動できる微弱な力の使い方しか教えてこなかった。それは彼が、マルーシャに治癒術を使わせるのは危険だと考えていたからだ。

 

「君に術なんか教えたら、乱用しそうで怖いんだよ……マルーシャは優しいから、自分の限界を超えた魔術の使い方しそうで」

 

 マルーシャは、本当に心優しい少女だ。地方貴族ウィルナビス男爵家の娘でありながら、エリック――王位継承権を持つ王子の許嫁となったことで他の貴族達から村八分のような扱いをされているにも関わらず。彼女はひねくれることなく育ってきた。だからこそ、不安なのだとアルディスは目を細める。

 そんなアルディスの心境を知ってか知らずか。マルーシャはえっへんと腰に手を当て、にんまりと笑ってみせた。

 

「大丈夫だよ! そんな無理しないよ! アルディスが死にかけでもしたら分かんないけど!!」

 

「笑えない冗談はよせ!!」

 

 こっちの気も知らないで、とフードの下の白銀の髪をガシガシと掻きながら、アルディスは大きく溜め息を吐く。そして長い長い溜め息が終わった後、アルディスはマルーシャの黄緑色の目を真っ直ぐに見つめて口を開いた。

 

「分かった、教えてあげる。どうせ言ったってきかないでしょ? その代わり」

 

「その代わり?」

 

「絶対に自分の限界を超えて魔術を使わないこと。仮に」

 

 この先の言葉を言うべきか言わざるべきか。悩んだアルディスは翡翠色の右目を閉ざすことで、マルーシャから目を反らした。

 そして彼は、左手を自身の胸元にそえ、一番近くにいる彼女以外は聞き取れないほどの小さな声で、言葉の続きを紡ぐ。

 

 

「俺が死にそうになっていたとしても、そんなことはしないと約束して。万が一、俺がそんな状況に陥ったとしたら、それはきっと、俺の“ワガママ”が招いた結果だから……」

 

「ッ!?」

 

 マルーシャは黄緑色の瞳をこぼれ落ちそうなほど大きくし、奥歯を噛み締めて震えていた。アルディスの発言は、それだけ強烈な衝撃を与えるものであった。

 

「な、何で……!? 何で、そんなこと……」

 

 今にも泣き出しそうにマルーシャは声を震わせる。アルディスは軽く首を横に振った後、腰のレーツェルから薙刀を取り出した。

 

「ごめん……ごめんね。ただの冗談返し、だから。気にしないで。さあ、術を教えるから。これでも握ってて」

 

 絶対に冗談などではなかった。本気だった――それを感じ取っていたマルーシャは明らかに納得のいっていない様子であったが、アルディスは問答無用といった様子で彼女に薙刀を押し付けていた。

 薙刀は戦闘用の道具である。刃を交えた経験など無いのだから当然ではあるが、マルーシャはしっかりとアルディスの薙刀を見たことが無かった。アルディスの不穏な発言に戸惑いを隠せなかった彼女ではあるが、見慣れぬ物を渡された好奇心は抑えきれるような簡単なものではない。

 鈍い銀色の光を放つ薙刀の刀身と、そこから繋がる暗い紅色の柄。全長は二メートル近いだろう。刀身と柄の接続部からは、純白のリボン状の布が数本垂れていた。特徴と言える特徴はその布程度に見えるが、よく見ると柄に華美な装飾が施されており、控えめな美しさを持つ薙刀だとマルーシャは思った。

 

「例外もあるとはいえ、普通は術を使う時には媒介がいるんだ。杖だったり、剣だったり、色々あるんだけど……まあ、今回は俺の薙刀を媒介にして魔術を発動させてみて欲しい。君の背中に引っ付いてる短剣でも良かったんだけど、多分君は長さのある媒介の方が使いやすいだろうから」

 

 薙刀は思っていた以上に軽く、細いマルーシャの腕でも問題なく持つことができていた。マルーシャは薙刀を持ったまま、くるりとエリックの方へと向き直った。

 

「エリック。わたし、頑張るから、ね?」

 

「……助かる、よ」

 

 マルーシャの言葉に、いつの間にか壁際に移動していたエリックはぐったりと岩にもたれかかったまま、真っ青な顔をして控えめに笑ってみせる。

 強がってはいたが、彼も辛かったのだろう。先程から何も言葉を発さなかったのはこのせいか、とアルディスは今日何度目かも分からなくなってきた溜め息を吐く。

 

「なるほど、だからマルーシャが慌てて術の使い方聞いてきたんだ……分かった。じゃあマルーシャ、薙刀を君が持ちやすいように構え直して。それで戦うわけじゃないから、戦うことを前提にした構えじゃなくて良いよ」

 

「う、うん……!」

 

 アルディスの指示に従い、マルーシャは両手で薙刀の柄を持ち、地面に対し平行になるように構えた。それを見届け、アルディスはマルーシャの横に屈み込む。

 

「よし。じゃあ、いつも君が力を使う時みたいにエリックに、それから薙刀自体に意識を集中してみて」

 

 こくり、と頷き、マルーシャは両目を閉ざす。その刹那、マルーシャの周りで見えない魔力の流れが生じたのをアルディスは感じ取った。来たかな、と彼は右手に付けた金色のバングルに触れ、口を開く。

 

「そのまま。集中しといて……で、難しいだろうけど集中したまま俺の話聞いてて。君が覚醒した時に、きっと頭の中に自分じゃない誰かの“声”が聴こえてきたと思うんだ。それと同じ声が、聴こえると思う……それは、君の能力や体質に合った術の詠唱。その声が聴こえたら、それをそのまま口に出して」

 

 覚醒時に頭の中に聴こえてくる、謎の声。それは、人それぞれ異なる。男性の声であったり、女性の声であったり、様々だ。

 だからこそ、ここで「どのような声」というのをはっきりと教えられないのがとても歯がゆいなとアルディスは感じていた。

 ディアナに対しては彼自身の発言に不思議な点はあれど、他の術を使えているらしいことから説明を省いたのだが、マルーシャの場合は違う。ピコハンは使えたという話だったが、あれはあまりにも簡単過ぎて、もはや魔術のうちに入らない。要するに、今まで全くといって良いほど魔術を使ってこなかった彼女は、完全なる初心者なのだ。

 この説明で分かるだろうか、とアルディスはマルーシャの横顔を心配そうに眺める。しかも、マルーシャは魔術を苦手とする純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)だ。声が聴こえたとしても、詠唱が紡げたとしても、上手く術を発動出来ない可能性もある。

 

「――旋風、其は女神の息吹……慈愛の力、ここに来たれ」

 

「え……?」

 

 しかし、マルーシャは驚くほどにあっさりと、自身の力を使いこなしてみせたのだ――淡い水色の大きな魔法陣が、マルーシャとエリックの真下に浮かび上がっている。

 おかしい、とアルディスは首を横に振るう。これは中級治癒魔術の魔法陣だ。これを、今のマルーシャが使うのはいくらなんでも危険すぎる!

 

「マルーシャ、待て!」

 

「えっ!?」

 

 突然声を荒らげたアルディスに驚き、マルーシャは集中を切らしてしまった。魔法陣は砕けるように消え去り、術が発動されることはなかった。「間に合って良かった」とアルディスは胸を撫でおろす。

 

「今のは多分、『ヒールウインド』の詠唱だよね? 聴こえてきたのは、本当にそれだったのかい?」

 

「う、うん……術の名前も、それであってるよ……?」」

 

 やっぱりおかしい、とアルディスは怪訝な表情を浮かべ、首を横に振るう。

 

「ヒールウインドは中級魔術。今の君がそんな強い術を使うのはあまりにも危険だ……なのに、どうして……第一、純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)の君が、当たり前のように魔法陣を展開させるなんて。しかも、詠唱も妙に早い……」

 

 彼はマルーシャから目をそらし、どういうことだと考え込んでしまった。その姿を見て、当然ながらマルーシャは不安げに瞳を潤ませている。

 

「……。アル、悩む気持ちは、分かるん、だが……」

 

 見かねたエリックがアルディスに声を掛けると、アルディスはハッとした様子で目の前のマルーシャの顔を見て、すぐに「ごめん」と謝った。自分がマルーシャを怯えさせてしまったことに気がついたのだ。

 

「考えたって仕方ない。君の場合ならディアナと同じ教え方でもいけるってことは分かったから、別の方法で教える。今君に使って欲しいのは下級治癒魔術の『ファーストエイド』。これを使って、エリックの身体を癒すんだって頭の中で考えてみて」

 

 分かった、と笑うマルーシャの声音は、ほんの少しだけ暗い。エリックとアルディス、そしてこちらに飛んできていたディアナを含めた三人は、すぐに集中し始めたマルーシャを心配そうに眺めていた。

 

「――癒しの波動よ……ファーストエイド!」

 

 明らかに自分の力に見合っていない中級治癒魔術を発動しようとしていたのだから当然かもしれないが、マルーシャは何の問題もなくファーストエイドを発動してみせた。魔法陣から出た光の粒子がエリックの身体を包み、癒していく。その様子を見て、アルディスはマルーシャの頭をぽんぽんと軽く叩いた。

 

「成功、だね。君には魔術の素質があるみたい……正直びっくりしたよ、魔術を使いこなすのは、純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)には難しいことだから。うん、誇って良いよ」

 

「そう、なの……?」

 

「ああ、紛れもなく成功だな。身体、本当に楽になった……ありがとう、マルーシャ」

 

「! 良かった!」

 

 アルディスとエリックの言葉を聞き、マルーシャはまだ少々不安げな様子ではあったが、それでも彼女は嬉しそうに笑ってみせた。ディアナも安心したのか、マルーシャの視界の隅でうんうんと頷いている。

 

「さっきの術も、あなたの力が強くなれば問題なく使えるようになるんじゃないか?」

 

「そうなるの、かな……? 楽しみだな、頑張らなきゃ」

 

「うん、無理はしないでよ……さて、と……悪いんだけど」

 

 再びマルーシャの頭を軽く叩き、アルディスはゆっくりと立ち上がった。彼はまだ意識を取り戻していないポプリの姿を目に焼き付けるかのように眺めた後、彼女に背を向けるように洞窟の外へと歩き出した。

 

「アルディス!?」

 

「ごめん……俺さ、どうしてもその人と、顔を合わせたくないんだ。大丈夫、そんなに遠くにはいかないから。だから……」

 

 お願いだから止めないで、と言って一瞬だけ振り返ったアルディスの横顔は、陶器製の人形のように無機質で、あまりにも変化が無い。ただ、同じように何の変化もないと思われた彼の翡翠色の右目は、涙に潤んでいて。

 止められるわけがないじゃないか、とエリックは肩をすくめ、困ったような微笑を浮かべてみせる。

 

「分かった。何かあったら、僕が声を掛けに行く。それで良いか?」

 

「ごめん……ありがとう」

 

 アルディスは無機質な表情のまま礼を言い、そのまま一人闇に溶け込んでいった――誰も、その悲しげな背を追うことはできなかった。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.8 鳳凰の皇子

 

「……アルの奴、どうしたんだろうな」

 

 眠り続けるポプリを横目で見つつ、エリックは小声でそう呟いた。

 それは特に誰かに当てた質問では無かったが、マルーシャもディアナも考えることは一緒だったのだろう。彼女らはエリック同様にポプリを見た後、それぞれが思うことを話し始めた。

 

「まあ、初対面の相手に怯えてる……ってことは無いよね。どう考えたって、面識はあるよね」

 

「それは間違いないだろうな。ただ、オレは正直アルのことを知らなさすぎて判断が難しいんだが……何か、思い当たることはあるのか?」

 

「あ、ああ……そっか……ディアナって、アルディスに会ってまだ数時間しか経ってないんだよね……」

 

 あのアルディスと普通に会話が出来ているため、何だか変に勘違いしてしまう。マルーシャから見ると、ディアナとアルディスの関係性はとにかく不思議なものであった。

 とはいえ最初こそ疑ってしまったものの、彼の言い回しやこれまでの会話からして元々彼らに面識があるとは思えない。恐らくこれは、アルディス側の問題なのだろう。

 アルディスとディアナは、結局のところ初対面に等しい関係。本人も分かっているようだが、今回の件においてディアナの意見はあまり当てにならない。マルーシャとエリックで話し合うしかなさそうだ。

 

 

「攻撃的になる、というよりは怯えてたのが引っかかるんだよな……となると、何かされたのかって考えるのが普通だけどな」

 

「うん、アルディスの場合は逆に何かしちゃった可能性もあるから、ちょっと分かんないんだよね……」

 

 しかし、考えている内容が全く一緒だったようだ。これは駄目だ、意見なんて出るはずが無い、と二人は苦笑してディアナを見る。

 

「ああ、事情は知らんが、話し合いで結論を出そうなんて馬鹿げたことをするのはもう止めるべきだろう。それだけは理解できた」

 

「とりあえず……ポプリの前でアルの話題を出すことは極力避けようか。名前呼ぶにしても愛称で呼ぶことにしよう。特にマルーシャ、君はこれ気を付けろよ」

 

 エリックがわざわざマルーシャを名指しで注意したのには理由がある。彼女は絶対にアルディスを『アル』という愛称で呼ぼうとしないからだ。

 彼女自身も自覚があったのか、すぐに「うん、分かった」というはっきりとした言葉が返ってきた。

 

「アル……アル……慣れないや。えへへ、心配だから極力話さないようにしとくね」

 

「分かった、僕も極力話題を降らないようにする」

 

「……」

 

 このやり取りを聞いたディアナはしばしの間考え込み、そして口を開いた。

 

「エリックは彼を……アルを『アルディス』とは呼ばないんだな」

 

「!」

 

 マルーシャとは逆で、エリックはアルディスを必ず愛称の『アル』と呼んでいる。

 単純に仲が良いからという理由なのかもしれないが、何となく違う理由があるのではないかとディアナは思ったのだ。

 

 

「……。質問を質問で返そうか。お前は、隣国の……“フェルリオの英知”と呼ばれたフェルリオ帝国第一皇子の真名(まな)を、知っているか?」

 

 そして案の定、そこに込められた理由はそんな可愛らしいものではなかったようだ。

 

「! え、エリック……! 駄目だよ、落ち着いて……!」

 

「大丈夫だよ、君が思ってるよりは落ち着いてる……多分、な」

 

 エリックは必死に誤魔化そうとしたようだが、全く隠しきれていない。それどころか、慌ててマルーシャが声を掛けてしまうほどに剥き出しの状態だった。

 

「なんとなく、そうじゃないかとは……思っていたよ」

 

 悲しみの中に混じる、憎みや怒り、妬み……エリックの顔に現れたのは、否定のしようがない負の感情。それはディアナには到底、見逃せないものであった。

 

 フェルリオ帝国第一皇子。彼の正式名称は――アルディス=ノア=フェルリオ。

 

 天才的な魔術の能力を持つがゆえに皇子でありながら、しかも八才という若さで戦場に立ち、ラドクリフ王国騎士団の半数を壊滅状態に追い込んだ少年。

 生きていれば、エリックと同じ十八歳である。しかし彼は、大戦後に行方不明となっている。遺体は見つかっておらず、彼の生死は未だに分かっていない。

 だが、そんな行方のしれない皇子の存在が。エリックの心に深い闇を残していることは確実だった。

 

「顔を見たことも無いし、同い年で、魔術が得意だったってことしか知らない……ただ、さ。戦場に立つどころか普通に生活することすら怪しかった僕とは全然違うなって、感じてた。実際、父上は何かと僕とノア皇子と比較した……」

 

 エリックは必死だった。叫びたいほどの感情が、彼の中で渦巻いていること誰の目からも明らかだった。

 あまりにも痛々しい彼の姿を目の当たりにしたディアナは静かに首を横に振るい、「もう良い、悪かった」と言って視線を下に落とす。

 それに対し、エリックは咄嗟に取り繕ったような、歪な笑みを浮かべてみせた。

 

「悪い……この話題だけは極力、僕に降らないでくれ」

 

「……ああ」

 

 こんな状態だ。敵国の皇子と同じ名前を持つ親友を、そのままの名前で呼べるはずが無い。

 むしろ、まだ『クロード』と姓で呼んでいないだけ良いのかもしれないとディアナは思った。

 

 ただ、ディアナとしてはこの状況に嫌悪感に近い何かを感じざるを得なかった。この感情をどう隠そうかと、再び考え込むディアナの青い瞳をマルーシャが覗き込む。

 

「ね、ねえ、ディアナ……」

 

 何かを言いたそうである。ひょっとしてこちらもノア皇子の話が駄目なのだろうかとディアナは眉をひそめつつも、なるべく辛くあたってしまわないように注意しながら口を開いた。

 

「マルーシャも、済まなかったな。不快な思いをさせてしまったか?」

 

「いや、そうじゃなくって……何となく、そうじゃないかなって、思ってたけど……ディアナ、エリックのこと、知って……」

 

「ん? あ、ああ……その件か。必然的にあなたのことも大体察しがついているよ。ただ、今は話さない方が良いかもしれない」

 

「え……?」

 

 ちょいちょい、とディアナは指でポプリの方を見るように促した。一見、何の代わりもないように見える。だが、変化はすぐに訪れた。

 

 

「……っ、うぅ……」

 

 小さくうめき声を上げ、ポプリが橙色の瞳を開いたのだ。確かに、今はあの話の続きをしないほうが良いだろう。

 ディアナは純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)だ。優れた聴覚で呼吸の変化か何かを感じ取ったに違いないとマルーシャは考えた。

 

「目が覚めたか?」

 

 翼を動かし、宙に浮かび上がったディアナはそのままポプリの横へと飛んでいく。その後を、エリックとマルーシャも追った。

 

「あ、あたし……ええと、ここ、は……」

 

「ゆっくりで良いよ。まずは落ち着いて、ね?」

 

 身体を起こし、混乱して辺りを見回すポプリに優しく話しかけ、マルーシャは黄緑色の瞳を細めて微笑んでみせた。

 

「あなたは……知らない子、ね。でも、エリック君とディアナ君がいるってことは、二人のお友達かしら? ありがとう、また助けられちゃったわね」

 

「助けられたのは僕の方でもあるけどな。身体はもう大丈夫か?」

 

「ええ、ありがとう。もう大丈夫よ」

 

 そう言って微笑むポプリの顔色はかなり良くなっていた。これなら心配ないだろうと安堵するエリックの方に身体ごと向き直り、ポプリはマルーシャに視線を向けて口を開いた。

 

「改めて挨拶するわね、あたしはポプリ。ポプリ=ノアハーツよ。魔物に追いかけられてたところを、エリック君とディアナ君に助けてもらったの」

 

「うーん、危なかったんだね……あ、わたしはマルーシャっていいます。よろしくね、ポプリ」

 

 よろしくね、と軽く小首を傾げた彼女の癖のある桜色の髪が流れた。見たところ、人畜無害そうで優しげな娘である。

 どうしてもアルディスが彼女に怯えた理由が気になってしまうが、こればかりはアルディス本人に聞かなければ分からないことだろう――本人が、話してくれるかどうかは分からないが。

 

「あ、そうそう……ディアナ“君”で良いの? 喋り方で判断したんだけど……」

 

「そうだ、それで良い。喋り方だけで判断してくれ。他は見るな。声の高さとか顔とか体格とか見るな」

 

「ぷっ、うふふ……」

 

「おい!」

 

 ディアナと会話するポプリは心から楽そうに笑っている。やはり、ごく普通の娘にしか見えない。マルーシャはエリックと顔を見合わせ、首を傾げる。

 そんな二人の様子を、二人の心境など知らないポプリは微笑ましそうに眺めていた。

 

「仲良し? 若いって良いわね」

 

「えっ!? い、いや、そ、その……っ」

 

「あっ、お、幼馴染、だよ! ていうかポプリ、絶対わたし達とそんなに歳変わらないじゃん!」

 

 うふふ、とポプリが笑う。一体どのような関係だと思われたのだろうかとエリックとマルーシャは双方同時に顔を赤らめ、狼狽えた。

 

「エリック君に、マルーシャちゃん、か……やっぱりラドクリフでも付けちゃうのね、王族関係者のお名前。未来の国王様と王妃様と同じ名前の子が仲良さそうにしてるとこ見るの、なんだか面白いわね」

 

「あ、あー……ああ……?」

 

「そ、そそ、そう、だね……?」

 

 本人です――とは、流石に言えない。ただでさえ狼狽えていたエリックとマルーシャは何とも言えない奇妙な返事を返してしまった。

 だが、だからといって怪しまれるような返事をしてしまっては意味がないだろう。ポプリがきょとんとした顔で二人を見ている。

 

「? うーん、どうしたのかしら? でも、エリックって格好良いお名前よね。意味は『永劫の精鋭』だったかしら。マルーシャはラドクリフ王国の国花『マーシェルリリー』が由来のお名前だったかな。ラドクリフ王家らしくて、綺麗なお名前だなって思うの」

 

「つまりこの国、精鋭と国花が大勢いるんだな」

 

 そうね、とポプリがディアナの言葉をはっきり肯定するのを聞き、エリックとマルーシャは思わず視線を泳がせた。

 確かに脱走した際に同名の人物に遭遇したことはあったが、まさかそんなことになっているとは。外に出て偽名を使わずに済むという意味においては便利だと考えられるが、何とも言えない心境になってしまった。

 

「あら……今気付いたけど、ディアナ君は純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)なのね。じゃあフェルリオの出身かしら? あちらは、アルディスがいっぱいいるって聞いたことがあるのだけれど、本当なの?」

 

「……。さらっと種族の件を流してくれてありがとう、寝込み襲ったりしないと信じて良いのかな? まあ、そうだな……あっちはノア殿下と同じ名前の者が男女問わずあちらこちらに」

 

「信じて? ……うん、それにしても。男女問わずって面白いわね。元々お花の名前だものね、女性名だもの、ね……」

 

 アルディス、はフェルリオの国花『アルジオラス』を由来とする名前であり、月明かりを思わせる美しい白金や白銀色の花を付けることから、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)の女性に好まれていた名前である。つまり、ラドクリフでいうマルーシャと同じ次元の名前なのだーーそんな名前だというのに、フェルリオ皇帝家は一体何を思ってノア皇子をアルディスと名付けたのだろうか。

 

(王族と同じ名前、か……アルディスって付けられた男が苦労するのは理解しているが、僕と同じ名前を付けられた奴ら……何か、思うことがあったりするんだろうな)

 

 アベル王子と、ノア皇子。名前の意味も、シックザール大戦における活躍も、あまりにも対照的な二人。

 せめて、自分と同じ永劫の精鋭(エリック)と名付けられた者達が惨めな思いをしていなければ良い。エリックは、そう願わずにはいられなかった。

 

 

 

 

――その頃。

 

「まだ……っ、終わらないのか……!?」

 

 薙刀を握り締め、アルディスは酷い腹部の痛みに奥歯を噛み締めた。洞窟から離れた彼の周りには、夜行性の血に飢えた魔物、ウルフが複数寄って来ている。

 ウルフはボアよりも小柄で耐久力は無いが、凶暴的で俊敏、さらには群れを作って標的に襲い掛かるという知恵を持つ危険な種である。アルディスの傭兵としての仕事のうち、約半数を占めるのがこのウルフ討伐であった。

 だからこそ、アルディスはウルフの弱点も、自分がどう立ち回ればさっさと片付けられるかもよく理解していた。理解していたのだが、今の彼の身体はそう簡単に動いてはくれなかった。

 

(一体、どれだけ湧いてくるんだ……!)

 

 ウルフは鼻が良い。アルディスが流す血の臭いを嗅ぎ分けてここまでやってきたのだろう。

 アルディスは既に何頭ものウルフを倒しているというのに、茂みから次々と新たなウルフが飛び出してくる。

 辛うじてウルフに深手を負わされることはなかったが、腹部の血は止まらない。視界はかすみ、呼吸はどんどん荒くなっていく。

 

「アサルトバレット!」

 

 なるべく距離を縮められる前に終わらせるために、アルディスは銃撃をメインにウルフ達を片付けていた。距離を縮められれば、どこから飛び掛ってくるか分からない。それは厄介だった。

 しかし、ウルフの数が減らない以上、それだけでは戦っていられないのが現状で。一頭のウルフを消滅させると同時、アルディスは薙刀を手に踵を返して駆け出した。

 

孤月閃(こげつせん)! ――飛燕連斬(ひえんれんざん)ッ!」

 

 薙刀を斜めに振り上げ、目の前にいた複数のウルフ達を斬り上げ、そのまま地を蹴って彼らの自由が効かない空中での連続斬りへと繋げていく。ウルフ達は断末魔のような鳴き声を上げ、次々と魔力の粒となって空気中に散っていった。

 近くにいたウルフ達を全て消し去り、アルディスはそのまま地面に着地する――その瞬間、ガクンと力が抜け、大きくバランスを崩した彼はその場に膝を付いてしまった。

 

「っ!?」

 

 力が入らない。立ち上がれない! いくら何でも無理をして動き過ぎた、血を流し過ぎたのだと彼が理解するよりも先に、一頭のウルフが身動きの取れないアルディスに向かって飛びかかってきた!

 

「くっ、くそ……っ!! ッ、あぁああぁ!!!」

 

 避けようとしたが、上手く動けない。左足を軸に立ち上がろうとしてふらついたアルディスの左腕に激痛が走る。見ると、先程のウルフがそこに深々と牙を突き立てていた。ゴリゴリと、骨が削れる嫌な音がする。意識が飛びそうなほどの痛みに耐え、アルディスはそのウルフの脳天にナイフを勢いよく突き立てた。

 

「ぐ、あ……っ、う……ッ、痛……うぅ……」

 

 ウルフは消えたが、負った傷は当然ながら残っている。傷口からは血が吹き出し、アルディスの意識をより一層不明瞭なものへと変えていく――しかも、左腕はもう、まともに使えそうもない。ウルフは、まだ残っている。

 このあまりにも絶望的な状況の中、アルディスは右手で握り締めた薙刀を杖代わりにしてふらりと立ち上がり、薙刀の切っ先を地面に突き刺して奥歯を強く噛み締めた。

 

「魔物なんかに負けてたまるか……っ、せめて、せめて……っ! お前らだけは、まとめて消してやるッ!! 威風堂々、不滅の闘魂! ――ファランクス!」

 

 一瞬だけ浮かび上がった黄金の魔法陣。それはアルディスの周囲に複数の光の輪を生み出し、彼の身体に溶け込む形で消えた。

 アルディスは防御壁を生み出したわけではない。襲い掛かるウルフ達に対して彼は完全に無防備な状態と化していた。

 彼の足を、腹を、ウルフ達の鋭い牙が襲う。それは、これまでとは比にならないほどの激痛であったが、アルディスは倒れることなくそこに立ち続けた。

 

「ッ! ――天光、其は不浄の闇を祓いし破邪の調べ。断罪者たる神の声に応え、彼の者達に咎の烙印を刻め! 爆ぜよ!」

 

 地面に突き立てた薙刀を中心にアルディスの足元に浮かび上がるのは、黄色の魔法陣。複雑な紋様を描くそれは、紛れもなく上級魔術の陣であった。冷や汗を流し、身体のいたるところから血を流したまま、アルディスはその術の名を叫んだ!

 

「レトリビューション!」

 

 刹那、地面に巨大な魔法陣が展開され、ウルフ達を照らすように天から強い光が降り注ぎ――地響きがするほどの大きな爆音を立てて、魔法陣が爆ぜた。

 

 

「ぐうっ、あ……っが……ッ、ごほっごほっ、かは……っ」

 

 ウルフ達は皆、消え去った。アルディスはその場にうつ伏せに倒れ、右の二の腕を押さえて身体を酷く震わせていた。咳き込んだその口からは、唾液の混じった粘り気のある血が流れていく。

 

「はっ、はぁ……っ、うぅ……っ、ごほっ、ごほごほ……っ!」

 

 もはやどこが痛むのかが分からないほどの激痛と、血が喉の奥から込み上げてくる苦しさのせいで、冷や汗が止まらない。しかし、こんなところで寝ていては、間違いなく次の魔物が現れるだろう。

 動かなければ、とアルディスは身体を起こそうとするが、今度こそ彼の身体は限界を迎えていたようだ。もう、どこもろくに動かせない。意識を保っているだけで、精一杯だった。

 

 痛い、苦しい――ギリギリと、アルディスは奥歯を噛み締める。

 

「ぐ、う……ッ、つ、う……」

 

 生理的な涙で、視界が滲む。右の二の腕を押さえたまま、アルディスは何とかしてこの状況を乗り越えなければと考える。だが、何も浮かばない。

 異変に気付いたエリック達が探しに来てくれるかもしれないが、それはそれで良くないことになりそうだ。むしろ、最悪の事態さえ想定される。焦りを見せるアルディスの耳に、透き通った鈴の音が入ってきた。

 

 

(え……?)

 

 りん、りん、ちりん、という聴き覚えの無い音。集中して聞き耳を立てていると、その鈴の音はこちらに近付いて来ていることが分かる。

 逃げなければ、と考えるが身体が動かない。そうしている間に、ガサガサと茂みを掻き分け、鈴の音の持ち主がアルディスの目の前に現れた。

 

 

「爆発音がしたから、来てみれば……これは、酷いな……」

 

「……っ!?」

 

 少し高めの、それでいて大人びた色気のある声と共に現れたのは、清潔感のある短めの空色の髪に、若干ではあるが装飾の施された改造白衣を身に纏った眼鏡の青年だった。

 鈴は、白衣に付けられた小さな十字のブローチから伸びる、細い鎖の先で静かに揺れている。

 身長はエリックよりも高いがかなり細身で、あまり戦いに向いていなさそうな青年である。その落ち着いた雰囲気からして歳は、ポプリよりも少し上くらいだろうか。

 シンプルな眼鏡の下の両目は閉ざされているが、彼は真っ直ぐにこちらに向かって歩いてくる。

 恐らくはダークネスと同じ透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力者であり、その能力を使っているのだろう。その段階で魔力は少なからずある。目を閉ざしているからといって、失明しているわけでは無いのだろう。

 緑色のシャツの上にくるように腰に巻かれた黒い布には青い刺繍が入っている――それはどこか、黒衣の龍の軍服を思わせる色合いをしていた。

 

「爆発を起こしたのはお前か? 酷い怪我をしているな、魔物に襲われたのですね」

 

「ッ、来るな、近寄るな……!」

 

 どう考えても、怪しすぎる。しかもこの男、下位精霊を周囲に従えている――間違いなく、精霊術師(フェアトラーカー)だ。

 空色の短い髪に、細身の長身。さらには精霊術師(フェアトラーカー)。声は異なっているが、あらゆる要素がダークネスに酷似している。警戒するなと言う方が無理のある話だろう。

 アルディスは逃げることが叶わないのなら、と拳銃を握り締める。そんな彼を一切恐れることなく、青年は呑気に歩み寄ってきた。

 

「意識はあるが身体が動かない、といったところか。ただ、どうして魔力欠乏を起こしているのか理解できませんね……傷口からして、襲ってきたのはウルフだろ? ウルフ種に魔力を奪う力を持った奴なんていましたっけ……?」

 

 敬語を使うのか使わないのかが全くはっきりしない変な喋り方をする青年だった。彼はアルディスの真横でしゃがみ込み、何かに悩んでいるかのように口元に手を当てている。

 

「まあ、応急処置程度の気休めですが、無いよりは良いでしょう。あまり、見せない方が良いような気はするのですが……今回は仕方ないよな」

 

 本当に悩んでいたようだが、結論を出したらしい。青年は困ったように笑い、鈴を媒介にして自身の真下に白い魔法陣を展開させた。彼の動きに合わせ、鈴が清らかな音色を奏でている。

 

「紡ぎしは泡沫の祈り。癒しの光、此処に来たれ――ファーストエイド」

 

「……え?」

 

 発動したのは、先ほどマルーシャが発動したものと同じ、ファーストエイド。詠唱は圧倒的にマルーシャのものの方が短いが、それでも完全な治癒術であった――通常は救済系能力者にしか使えないはずの、治癒術。

 

「あ、あなたは……透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力者、なのでは……?」

 

「ええ、透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力者だよ。ですが、僕の場合は例外というか……まあ、気にしないでください。では……精霊よ、彼の者に穢れなき光の力を――メルジーネ・シュトラール」

 

 青年はアルディスの問いを雑にはぐらかし、今度は精霊術を発動させた。魔法陣の色からして光属性なのは間違いない。

 青年の詠唱に合わせて彼の傍に寄ってきていた光属性の下位精霊達はアルディスの傍へと移動し、金色の輝きを持つ光の粉を振り撒いた。

 

「! これは……」

 

「光属性の魔力を補給させて頂きました。どうしてそんなに一気に魔力をすり減らしていたのかは知らないが……」

 

 驚くアルディスに青年は「少しは楽になったか?」と微笑み掛けてみせる。

 少々浮世離れしたかのような妙な雰囲気をまとってはいるものの、裏があるようには思えない。とはいえ、不必要に関わるのは避けたいなとアルディスが考えていた、そんな時であった。

 

「うーん……気になるな、ちょっとお前の身体を調べても良いですか?」

 

「はあっ!?」

 

「というより、僕の能力では傷を治すのにも限界があるしな……そうだ、手術した方が早い。よし、着いてこい」

 

 

――大変だ、逃げないと。

 

 

 先ほどとは違う意味合いで、アルディスは冷や汗が止まらなくなってしまった。少し身体が楽になったのを良いことに、彼は咄嗟に青年から距離を置いて地を蹴った。

 

「! こら、無理をするんじゃない! 傷や魔力欠乏が治ったところで、お前の身体にはろくに血が流れ……ほら、言わんこっちゃない」

 

 やれやれ、と青年が笑う。彼の目の前で、アルディスは口元を押さえてその場に蹲っていた。貧血による立ちくらみだ。

 満足に動くことが出来ず、文字通り顔面を蒼白にしたアルディスの頭のフードに手を掛け、青年は静かに溜め息を吐いた。

 

「分かりました、調べるのはやめる。だから、怪我だけは治させろ。どうせお前は一般の病院にはいけないでしょう?」

 

「だからと言って……ッ! 何故、あなたに見て頂かなければばらないのですか!?」

 

 フードを外そうとする青年の手に対抗し、アルディスは右手で必死にフードの裾を掴んで叫ぶ。幸いにも、青年はそこまで強くフードを引っ張っていたわけではなかったため、簡単に彼の動作を防ぐことが出来た。

 

「ふむ……典型的な容姿をしているから、まあ恐らくそうだろうなとは思ったが、やっぱりか……って、えっ!?」

 

「え……?」

 

 ぽふぽふとアルディスの頭を撫でていた青年の手が止まる。その指が震えているのが、布越しに感じ取れた。どうかしたのかとアルディスが問うよりも先に、青年は口を開いて震える声を紡いでいた。

 

「お、前……は、“同族”なの、か……!?」

 

「ど、同族って……あなた、どう見たって混血の鳳凰族(キルヒェニア)……俺とは違」

 

「ここで話すのはちょっと問題がありますね。移動するか」

 

「!? さ、させませんよ!!」

 

 明らかに青年は動転していた。アルディスの話を聞く気など無くなっていた。

 動けないアルディスを抱き抱えようとしてきた青年の腕を必死に振り払い、アルディスは連れて行かれてたまるかと動けないなりに懸命に暴れ始めた。

 

 

 

 

「きゅーっ! きゅー!!」

 

「痛ッ! 痛いって、やめろ!! おいディアナ! やめさせろ!!」

 

「言うこと聞かないんだ、許せ!!」

 

 アルディスが暴れている頃。エリックはひたすらチャッピーにくちばしで突かれながら走っていた。

 彼を追ってディアナが翼を動かして滑空し、その少し後をマルーシャ、ポプリが着いてくる。

 ただ、この状況になって気付いたことなのだが、ポプリはどうやら普通に走ることが出来ないらしい。

 痛々しく左足を引きずるポプリに合わせる、マルーシャがかなり減速して走っている。それをありがたいと思いつつ、エリックはある茂みの前で立ち止まった。

 

 聞きなれた声がする。その声の持ち主は、何者かと話している様子であった――さらに言うと、かなり異様な状態になっているようであった。

 

「えっ!? どうしたの?」

 

「……」

 

「エリック……?」

 

 エリックのみならず、ディアナもチャッピーも茂みの先を見て固まってしまっている。一体何が起きたのかとマルーシャはエリックの横から顔を出した。

 

 

「落ち着けよ。ただ場所を移動するだけですから」

 

「絶対に嫌だっ! 離してください……っ!!」

 

「暴れるんじゃない、大人しくしろって」

 

「離せ! 離せよっ!! 嫌です……嫌だっ!!」

 

 

 茂みの向こう側で繰り広げられていたのは、大怪我をしたアルディスが謎の青年と攻防戦を繰り広げているというあまりにも奇妙な光景だった。

 元々エリック達は、謎の爆発音に驚いて洞窟から飛び出してきたに過ぎない。

 周辺の焼け焦げた木々や不自然に抉れた地面を見る限り、爆心地自体はここで間違いなかったようであるが、まさかこんなことになっているとは思わなかった。

 

 

「エルヴァータ医師……?」

 

 思わず黙り込んでしまったエリックの傍で、ディアナが小さな声で自信なさげに呟く。呟かれたのは、恐らく青年の名前だろう。

 

「ディアナ、あいつと知り合いなのか?」

 

「ああ、以前、助けられたことがあったんだ……その男は、ジャンク=エルヴァータと名乗っていた」

 

「はあ……じゃあ、今目の前でアル襲ってる男はジャンクっていうのか。いやでも、絶対本名じゃないだろそれ……ん? ポプリ、どうした?」

 

 どうしたものか、と肩を竦めるエリックの耳に、ポプリが何かを呟く声が入ってきた。見ると、彼女は橙色の目を見開いて微かに身体を震わせている。しかし、彼女はエリックの問い掛けに対し、静かに首を横に振ってみせた。

 

「な、なんでもない、わ……で、合ってるわ。それが彼の……あのお医者様のお名前なの……と、ところで、エリック君……」

 

「なんだ?」

 

「あ、あの子の……って、あれ!?」

 

 十中八九、ポプリはアルディスのことを聞きたかったのだろう。事実、彼女はアルディスとジャンクが先ほどまでいた場所を指差してエリックに語りかけてきたのだから――だがしかし、そこには誰もいなかった。

 

 

「えっ!? う、嘘だろ!? 見失った!?」

 

「はっや!! どこ行っちゃったの!? また拐われちゃったじゃん!!」

 

「え、ええい! そんなに離れてないはずだ!! エルヴァータ医師が変な気を起こすとは思えないが、色々怖いから迅速に探すぞ!!」

 

 エリック、マルーシャ、ディアナは大慌てで周囲を捜索し始めた――後には、完全に出遅れてしまったポプリだけが残される。

 

 彼女はどういうわけか橙色の瞳を潤ませ、今にも泣き出しそうな表情で前を見据えていた。ぐっと、胸元のスカーフを握り締め、ポプリは声を震わせる。

 

 

「やっと、見つけたわ……“ノア”……ッ!」

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.9 ヴァイスハイト

 

「う……ッ」

 

 ぼんやりとした意識の中、アルディスはうっすらと重い瞼を開けた。家とは違う、テント特有の薄い天井が視界に入ってきた。

 意識は段々とはっきりしてきたが、身体が随分と重い。あれだけ血を流したのだから当然か、などと思いつつ、アルディスはゆっくりと身体を起こした。

 

(……。手当て、されてる……)

 

 患部がどうなっているのかは確認できないが、それでも消毒され、止血されているのは確かだろう。身体のいたるところに巻かれた白い包帯からは、ほのかに薬品の臭いがした。

 視界の片隅に、着ていたローブと左の手袋とアームカバーが丁寧に畳まれているのが見える。そしてその横に座り込み、目を閉じたまま本を読んでいた青年の存在にアルディスは気付いた。

 

「!?」

 

「お、良かった。目が覚めたのですね」

 

 もう朝ですよ、と青年は軽く首を傾げて微笑んでみせた後、すぐに視線を本に戻した。一体何の本を読んでいるのかは知らないが、かなり失礼な態度である。しかも青年は両目を閉ざしたままだ。意味が分からない。

 

(ッ! そ、そうだ……! 俺は……!!)

 

 そしてアルディスはここでようやく、自分に何が起こったのかを思い出した――青年に注射器で正体不明の薬を打たれ、無理矢理眠らされたのだということを!

 

「あ、あなた……! 俺に何をしたのですか!?」

 

「即効性の睡眠薬を打たせていただきました」

 

「そうじゃない! そうじゃなくてですね……っ!!」

 

 アルディスは拒絶の意思を示していた。むしろ、拒絶の意思しか示していなかった。それにも関わらず、青年は強硬手段に出たのだ。誘拐だ、と言われても否定はできないだろう。

 第一、アルディスには彼自身の意思とは無関係に連行されるだけの理由がある。左手を背に回しながら、アルディスは未だ本に目線を落としたままの青年を睨みつけた。

 それに対し、青年は口元に手を当てて「うーん」と唸っていた。何を言うべきか、悩んでいるらしい。しかし、その悩みはすぐに解決したようだ。

 青年は読んでいた本を閉じ、アルディスの方へと顔を向けておもむろに口を開いた。

 

「心配するな。お前が純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)だろうが……隣国の皇子様だろうが、僕にはあまり関係ない。むしろ、親近感を感じたくらいです」

 

「く……っ」

 

 フードに隠されていない、アルディスの耳――純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)特有の長い尖り耳が、ピクリと揺れる。

 もう隠しても無駄なことだと判断したアルディスは深い溜め息を吐き、隠していた左手を前に出すと、それを自身の足の上にだらりと力なく垂らした。その左手の甲には、フェルリオ帝国の紋章が刻まれていた。

 

「ノア皇子……フルネームはアルディス=ノア=フェルリオ、だったか? こちら側に来ている、という話は聞いていたが、本当だったとはな。しかも、生きているとは……ああ、すみません。敬語で喋るべき、ですよね?」

 

「いえ、あまり、お気になさらず……礼儀を気にされるのならば、せめて名乗って頂けませんか?」

 

 俺も必要以上にはかしこまらないようにしますから、とアルディスは一応青年を気遣って話した。しかし、またしても少しだけ悩んでから口を開いた青年の返答はアルディスが全く予想していなかったものであった。

 

「ここは、とりあえず……ジャンク、と名乗っておきます」

 

「!」

 

 名乗られたのは、明らかな偽名。僅かながらに残っていた皇子としての自尊心を傷付けられ、アルディスは舌打ちし、眉を吊り上げて叫んだ。

 

「ッ、この場面で偽名ですか! 俺を馬鹿にしないでください!」

 

 叫んだ際に身体が動いてしまったのか、傷がじくじくと痛む。その痛みに顔を歪ませるアルディスに対し、青年――ジャンクは困ったように笑ってみせた。

 

「悪い、“今は”こちらの方が良いと判断した。どちらにせよ……今の僕にとっては“ジャンク”も大切な名前なんだ。許してくれ」

 

 そう言って、ジャンクはカップに黒い液体を注いだ。その独特の煎った豆の香りからして、液体の正体はコーヒーだろう。

 

「とりあえず……落ち着いてくれ。飲むか?」

 

「……」

 

 閉ざされたままの、ジャンクの目を覆う長い睫毛が微かに揺れる。明らかに胡散臭い存在なのだが、その表情にはどこか憂いの色があるように感じられた。

 アルディスはコーヒーを受け取りつつ、先ほどは――そう表すには不釣合いなほど、随分と時間が経過してしまったようだが――あまりよくは見えなかった青年の姿をまじまじと見つめた。

 目を閉じていることもあるのだろうが、長い睫毛が特徴的な青年だった。仕草も含めてどこか中性的な印象を与えてくる上、若干幼さを感じる顔立ちをしている。独特の浮世離れした雰囲気は明るい場所でも健在であった。

 見栄えを気にする方なのか、少しだけ改造された洒落っ気のある白衣と緑色のシャツの襟の間から覗く白い首には長い紅色のループタイが巻かれている。種族柄色白なアルディスやディアナよりは褐色であるが、それでも世間一般的な人間と比べると随分と白い。混血といえども、かなり鳳凰の血が濃いのだろう。

 じっとこちらを見たまま何も喋らず、受け取ったコーヒーに口を付けることもないアルディスの姿を見て思うことがあったのだろう。ジャンクは軽く小首を傾げ、困ったように笑ってみせた。

 

「気持ちは分からなくもないが、そう警戒しないでください。初めて、同族に出会えたんだ……正直、嬉しくてたまらないんだ」

 

「え……?」

 

 いきなり同族、嬉しい、と言われても何が何だか分からない。アルディスが眉をひそめると、ジャンクはアルディスの眼帯で覆われた右目を指差し、口を開く。

 

「僕は“ヴァイスハイト”なんです……お前は隻眼のようだが、それでも……同族なのは、変わらないだろう?」

 

「!?」

 

 ヴァイスハイト――突然変異の金色の右目と全七属性の素養を持つ、生まれながらの魔術の天才。

 天文学的な確率で誕生する彼らは恵まれた存在だといえばそうなのだが、実際はそうではない部分が大きい。彼らはその桁違いの能力からラドクリフ王国では純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)同様に命を狙われることが多く、能力を潰す手段として目を抉られることもあるためだ。流石にフェルリオ帝国ではそこまでのことにはならないが、それでもあまり良い顔はされない異端の存在である。

 アルディスは眼帯の上から右目を押さえ、ジャンクから目をそらすことなく口を開いた。

 

「確かに俺は、ヴァイスハイトです。片目を失った今では、闇属性の素養を始め多くの力が消し飛びましたがね」

 

「……そう、ですか。まあ、僕も色々あった関係で微妙なところがあるのですが」

 

「でも、その様子だと両目揃いですよね? あなたがヴァイスハイトである、という話が嘘でないのなら」

 

 ジャンクは同族に会えて嬉しい、と言っていた。恐らく彼は、ヴァイスハイトであるがゆえにろくな経験をしてこなかったのだろう。それならば、同じ存在に出会えて喜ぶのも理解できる。

 しかし、嘘偽りを述べてアルディスを油断させようとしている可能性も十分にあるのだ。素性を知られていることもあり、アルディスはジャンクを警戒せずにはいられない。

 

「信じて、くれないのか?」

 

「……。純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)は、人間の魔力の質を感じ取ることができるのですが、俺にはあなたがヴァイスハイトであるということが分からない……何故ですか?」

 

「そりゃ、さくさく見抜かれたんじゃ危ないだろ? だから“あるお方”に術式で誤魔化して頂いたのです」

 

「……ッ」

 

「あー……、信用できない、か……そうだ、こうすれば話は早いよな」

 

 アルディスが奥歯を噛み締めたまま黙り込んでいると、ジャンクはおもむろに、閉ざしていた目を開く――長い睫毛の下から現れたのは、銀色の左目と金色の右目だった。

 

「!」

 

「ほら、嘘ではなかったでしょう? うーん、裸眼で人を見るのはいつ以来だろう……」

 

 金と銀のアシンメトリーの瞳を細め、ジャンクはくすくすと笑った。間違いなく、彼はヴァイスハイトだ。しかも、何でもないように「裸眼で人を見るのはいつ以来だろう」などと口にしているが、とんでもない話である。目を閉じたままで生活をするなど、常人の成せる技ではない。

 

「ふ、普段は、透視干渉(クラレンス・ラティマー)で生活を……?」

 

「はい。幸いにも魔力は豊富ですので、ずっと頼りきっています。色までは見えなかったり、ぼやけたりと地味に厄介なことも多いんだが、日常生活は何とか送れているから問題ない」

 

「そんな面倒な真似をされなくとも、右目だけ隠せば良いのでは……?」

 

「ふふ、色々ありましてね。左目がほとんど見えないのです。弱視、とでも言えば良いのか? この左目は、ほんの微かな光を捉えることが辛うじてできるくらいの、そんな微々たる視力しかありません。だから結局、力を使うことになる……それならいっそ、両方隠してしまった方が良いだろ?」

 

 驚きのあまり思わず質問を投げかけてしまったが、ジャンクは特に困る様子もなくそれに答えてくれている。よほど、同族と話せることが嬉しいのだろう。

 敵意は感じられないが、弱みの一つや二つは握っていた方が良いに違いない。どうにかして彼の素性を探って先手を打たなければ、などと物騒なことを考えていたアルディスの顔をじっと眺めながら、ジャンクはふと、思い出したかのように口を開いた。

 

 

「……そうだ、夜空のような藍色の髪をした純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)には会いましたか? 小柄で、大きな目をした子です」

 

「! ディ、ディアナのことですか……!?」

 

「藍色の髪は珍しいですし、まあ、間違いないだろうな……ディアナ、と付けてもらったのか。名無しは卒業できたんだな、良かった……少々、面白いことになってはいるようですが」

 

 ディアナに会ったか否か。それだけを確認すると、ジャンクはアルディスから目を逸らし、「本当に面白いなぁ」と言って再びくすくすと笑い出した。

 変な話の切り方をされてしまったせいで、アルディス的には非常に気になる状況である。

 アルディスが不機嫌そうな顔をしていたのに気づいたのだろう。ジャンクは再びアルディスに向き直り、口を開いた。

 

「ああ、悪いな。アイツ――ディアナは、ずっとお前を探していたらしい。だから、会うことができて、本当に良かったと思う。だが多分、何を犠牲にしてでもお前を守ろうとするだろう……そういうことは、させないでやって欲しい」

 

「え……?」

 

「言い方は悪いが、ものすごく“哀れな子”なんです。お前に何かがあれば、必要以上に傷付くだろう。だが、アイツはそれを防ぐために自分から傷付きに行くだろう……かといって、お前に出会うことができなければ。それはそれで、恐らくアイツは壊れていただろう」

 

「……」

 

 アルディスは黙って、ジャンクの話を聞いていた。何か言おうかとも思ったが、あまりにも真剣にこちらを見据えているジャンクの姿に、何も言えなくなってしまったのだ――だが、

 

「どうやら『性別気にしなくて良いか』と思うくらいにはディアナに惚れ込んでいるようなので、言わせて頂きました……好きな子くらい守ってやれ、男だろ」

 

「!?」

 

 

 この瞬間、何も言わなかったことを、アルディスは本気で後悔していた。

 

 

「あ、あ、あ、あなた……!! 何を……!! というか、俺の心を……!!」

 

「許せ、読む気は無かったんだ。ですが、そこまで熱烈な感情浮かべていれば、もう勝手に視えてしまいますって……ああでも、お前の心配のうちの一つは杞憂だ。良かったですね」

 

「ふざけないでください!! 何も良くないです!!」

 

「――ッ!?」

 

 怒りを露わにするアルディスに対し、ジャンクは何故か酷く目を泳がせ、顔色を悪くして胸を押さえてしまった。呼吸も、若干乱れている。別に、アルディスに怯えたわけではないだろう。

 

「え……?」

 

「い、今のは……ッ、僕が、悪かったです……謝ります。すみません……」

 

「あ、あの……」

 

 様子がおかしい。一体どうしたのかと、怒りを忘れてアルディスはジャンクに話しかける。ジャンクは静かに頭を振るい、取り繕ったような笑みを浮かべてみせた。

 

「……今、お前の感情が高ぶったことが原因でしょう。共解現象(レゾナンストローク)が暴走した……気を付けた方が良い。僕に、必要以上に心を視られたくないなら、な……だが、今のは本当に僕が悪い。自業自得、ですね……」

 

 全てではないにしろ、アルディスの“何か”を見てしまったらしい。見られたことに関する抵抗感はあったが、それよりもジャンクの異変が気がかりだった。

 

「れ、共解現象(レゾナンストローク)って、あれ……ですよね。同系統能力者同士が近くにいると、お互いの能力を、高め合うっていう……ああ、能力を高め過ぎたのですね」

 

「だな……僕も、気を付けます。これは、逆も発生しかねない……」

 

 余程、嫌なものでも見たのだろう。ジャンクはアルディスから完全に目を逸らすと、奥歯を噛み締めて左手で額を押さえた。彼はそのまま両目を閉ざし、呼吸を落ち着かせるためか何度も深呼吸を繰り返している。その様子を、アルディスは黙って眺めていた。

 

(一体この人、何を視たんだろう……)

 

 本来、共解現象(レゾナンストローク)とは対象者に有益な効果をもたらすものだ。例えば、救済系能力者同士のマルーシャとディアナであれば、互いの治癒術の効果を向上させることができるだろうし、彼女らほど分かりやすい形では現れないだろうが、共に精神系能力に分類される意志支配(アーノルド・カミーユ)透視干渉(クラレンス・ラティマー)の能力を持つアルディスとジャンクの場合もそれは当てはまる。

 しかし、アルディスとジャンクの場合は例外もあるらしい。恐らく、双方の持つ力が強すぎるためだろう。視えなくて良いものが、視えてしまったようだ。

 

 

「なるほど、ポプリとも会ったのですね。上手く、僕が動くよ。顔を合わせなくて、すむように」

 

「……」

 

「逃げ回っている理由までは視えていません。安心しろ……とりあえず、今、お前が名乗ってる名前を聞いて良いか?」

 

 そのうち、問題の人間がここに来るだろうから、とジャンクは持っていた本を床に置き、静かに立ち上がった。

 事実、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)であるアルディスの耳には、聞き慣れたエリックとマルーシャにディアナ、そしてポプリの声が届いていた。

 

「クロード姓を、名乗っています。アルディス=クロード」

 

「……。ポプリの姓と同じなのは、ただの偶然ではないよな」

 

 あまり触れて欲しくはない話題だった。アルディスが黙り込んでいると、ジャンクはアルディスの頭をぽんぽんと撫で、アルディスの目の前に何かを差し出してきた。

 

「分かったよ、聞きません……では、僕は何も知らないフリをして、ポプリ達が来るのを外で待ちます。中を覗かれる可能性が無いわけじゃないから、今のうちに色々と隠しておきなさい」

 

 差し出されたのは、アルディスがいつも身に付けているフード付きのローブ、それから左のアームカバーと手袋だった。破れていた箇所は、簡易的ではあったが繕われている。ジャンクが直してくれたのだろう。それらをアルディスが受け取るのを見届けた後、彼は踵を返し、口を開いた。

 

 

「……大丈夫ですよ、アル。お前は、ちゃんと愛されてるよ。お前は、もう見捨てられたりしない」

 

「!」

 

 その言葉に、アルディスはジャンクが“何を”見たのかを察した。それと共に、行き場の無い苛立ちが込み上げてくるのを感じた。ギリ、と奥歯を噛み締め、彼はジャンクを睨み付ける。

 

 

「あなたに、“偽物”でしかない俺の何が分かるって言うんだ……! 本当に、本当の意味で、”精霊に愛された”、あなたなんかに……ッ!」

 

「……」

 

 こんなの、ただの失礼極まりない八つ当たりじゃないか、とアルディスは思った。ジャンクを怒らせてしまったかもしれない。

 しかし、振り返ったジャンクの表情からはそのような感情は感じられず――むしろ、深い悲しみが感じ取れた。

 

「そうですね……きっと、僕には分からない。偉そうなことを言ってしまったな、すみません」

 

 振り返った彼は、今にも泣き出してしまいそうで。それでも彼は、それを必死に押さえ込んで笑っていた。

 

 何かを言わなければ、とアルディスは口を動かすが、上手く言葉にできない。そうこうしているうちに、ジャンクは腰を落としテントの簡易な扉に手を掛けていた。

 

「行ってきます」

 

 

ーー最低、だ。

 

 

 理由はよく分からないが、酷く傷付けてしまった。怪しいと言えども相手は、ジャンクは、命の恩人だというのに……。

 

 その場にただひとり残されたアルディスの心には、己の発言に対する後悔しか残らなかった。

 

 

―――― To be continued.



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Tune.10 謎の医者

 

「ど、どこに行ったんだ……アイツは大丈夫なんだろうか……」

 

「……。未成年相手に変なことはしないと思うんだ」

 

「そうね、しかも男の子なら大丈夫だと思うわ……うん……」

 

「それって成人女性だと危ないってこと!? 何それ、中途半端に信頼がない辺り、すっごく怖いんだけど……」

 

 ガサガサと草木をかき分け、溜め息混じりにエリック達は謎の青年ジャンクとアルディスを捜していた。気が付けばすっかり日は昇り、鳥達が高らかにさえずりを響かせている。

 結果として夜通し歩き回ることとなってしまい、城暮らし屋敷暮らしでそんなことに慣れているはずもないエリックとマルーシャには、かなりの負担がかかっていることだろう。

 

「エリック、マルーシャ、ポプリ。休憩も兼ねて、ここで待っていてくれないか? あとはオレとチャッピーに任せてくれ」

 

「きゅうぅ!」

 

 そのことに気付いたディアナは、チャッピーと共に二人を探しに行くと言い始めた。彼はエリックとマルーシャのみならず、ずっと足を引きずり続けているポプリのことも気にしているようである。彼の言葉に対し、すぐさま「とんでもない」という返事が返される。

 

「あたしは大丈夫よ。確かに見た目は心配されるような状態だけれど、夜通し歩き回るのは結構慣れっこなの」

 

「僕は大して疲れてない。まだ大丈夫だ。むしろ、お前を休憩させたいくらいだ」

 

「だが……」

 

「! ね、ねえ、あれ!」

 

 そんなこと言わずに休め、とでも言いたげなディアナの言葉を遮り、叫んだのはマルーシャだった。彼女が指差す先に、木々の間から覗く大きめのテントが見える。

 

「先生のテントだわ!」

 

 叫び、駆け出したのはポプリだった。詳しい話は聞いていないが、テントだけを見て持ち主を判断できる程度には親しい間柄なのだろうとエリックは判断し、その後を追う。

 

 問題の人物はテントの前に転がった丸太の上に座り、ぼんやりと空を見上げていた。しかし、こちらに気付いたのだろう。彼は特に驚いた様子も見せずにゆっくりと首を動かし、軽く小首を傾げて微笑んでみせた。

 

 

「お、来たか」

 

「……」

 

 目を閉ざしたまま、彼は「遅いですよ」とさも当たり前のようにエリック達に話しかけてくる。

 逃げたのはお前じゃないか、そもそもそんなことを言われる意味が分からない、と様々な感情が入り混じったエリックの口から漏れたのは「ははは」という乾いた笑い声であった。もう、何を言っていいのやら。

 

「ポプリに……ええと、ディアナ、だったか? あとの“一人”は……」

 

 目を閉じているがゆえに不都合が生じているのか、何故か一人だけカウントされていない。

 ポプリとディアナの名前が出ている時点でエリックかマルーシャのどちらかであることは間違いないが、一体どういうことなのだろうか。

 それをエリックが問おうとしたのを遮り、わなわなと震えていたポプリが叫んだ。

 

「もうっ! 先生が崖から落っこちた時は本当に心配したんだから! なのに、あたしが目を離した隙に誘拐なんて物騒なこと……!!」

 

「うーん、すみません。僕は大丈夫だよ。で、誘拐してきた奴は酷い怪我をしていたのですが、手当をしようにも暴れるからとりあえず睡眠薬打って連れてきた。相変わらず、ポプリの作る薬はよく効きますね」

 

「あたしの作った薬を犯罪行為に使うのはやめてちょうだい!」

 

 エリック達のことなどそっちのけで、ポプリはジャンクに対して怒りを露わにしている。

 事情はよく分からないが、ジャンクがかなり厄介な性格をしているということだけは理解できた。

 

 

「そ、それは置いといて……お前が誘拐してきた奴はどこだ? 何もしてないよな?」

 

 このまま二人のやり取りを放置することも考えたが、話が全く進まずに終わる予感しかしなかった。エリックはひとまず、今一番確認しておきたい事項をジャンクに問い掛ける。

 だが、返ってきたのは予想外の反応だった。青年は「え?」とどこか不安げな声を上げ、辺りを見回し始めたのである。

 

「ポプリとディアナの他に髪の長い少女がいるのは、分かるのですが、ええと……ああ、分かった、“その辺り”か。ですが……」

 

「ああ、分かった。無かったことにされたのは僕の方か」

 

 どうやらジャンクには、エリックの姿が見えていなかったようだ――そもそも、彼が目を閉ざした状態で他の三人の存在を把握できる方が妙なことなのだが。

 

「声質的に若い男、だよな? 拒絶系能力……それも、ポプリの秩序封印(ヴァルデマール・フレイヤ)よりも強い能力者なのか? ここまで見えないのは初めてのことで、その……」

 

「……」

 

 明らかに困惑している。怯えられているのだと考えても良いだろう。これは下手に話し掛けない方が良いかもしれない、とエリックは瞬時に察した。しかし、エリックは未覚醒である。自分自身の能力も何も分からないし、拒絶系能力なのかと問われても意味が分からない。ジャンク自身の反応のこともあり、何も言えなくなってしまった。

 

 

「……。すみません、失礼しました。アルでしたら、テントの中だ。ただ、あれはしばらく安静にさせた方が良い……それと、立ち話もアレだ。丸太しかないが、適当に座ってください」

 

 そんなエリックの心境を察してか否か。ジャンクは最初にエリックが問い掛けた話を持ち出してきた。

 アル、と名を読んだということは、二人は少なくとも名乗る程度の会話はしているらしい。つまり、アルディスは生きているし、会話はできる状態だということだ。エリックはジャンクと向かい合う位置に転がった丸太に座りながら、彼の話に耳を傾けた。

 

「傷自体もなかなか酷かったが、そっちは何とかなったよ。どちらかというと問題なのは出血量だな。酷い貧血を起こしている。投薬で対処しますが、しばらくは満足に歩けないと思います」

 

「そう、か……」

 

「現状、命に関わるほどではない。ただ、これ以上の無理をさせることは、医者として止めさせて頂きます……あいつの身体にあったのは、魔物に襲われてできた傷だけではなかった。無理に無理を重ねた結果がこれなんだ、分かってくれ」

 

 敬語なのか敬語でないのか分からない独特の口調でジャンクはそう言い切り、エリックの動きを待った。互いに様子を探り合うような状態となってしまっている。どうしたものかとエリックが頭を悩ませていると、隣に座ったマルーシャが若干声を震わせて言葉を紡いだ。

 

「わたしの力じゃ、やっぱり駄目だったんだね……」

 

 アルディスに無理をさせることとなった発端は、ゾディートに負わされた傷にある。それをろくに治すことができないままアルディスを戦わせていたことが問題だったのだ。

 落ち込むマルーシャを見て、ジャンクは「天恵治癒(エルフリーデ・イヴ)か」と興味深そうに呟く。何故それに気付いたかは置いておいて、天恵治癒(エルフリーデ・イヴ)能力の希少性を考えれば当然の反応だろう。閉ざされた瞳を覆う睫毛が微かに揺れた。

 

「まあ、否定は出来ないですね」

 

「……」

 

「だが、出血が致死量に至らなかったのは身近に治癒術を使える者がいたからだ。応急処置ができているかどうかは大事なことなんです。君が傍にいなければ、アルはもっと深刻な事態になっていただろうな……ディアナ、君もだ。よく頑張りましたね」

 

 それは、決して嘘ではない。厳しいことだけを告げることなく、しっかりとマルーシャをフォローしてみせたジャンクの言葉にマルーシャと、彼女同様にアルディスの治療に関わっていたディアナは少しだけ嬉しそうにしていた。

 

 何故ディアナが関わったことを知っているのだろうとエリックは少々不気味に感じたものの、ジャンクは透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力者なのだろうという結論にいたることで考えを落ち着かせることができた。彼は恐らく、特殊能力を使うことで、目を閉じたまま様々なことを知ることができるのだろう……何故、彼がそのような面倒なことをしているのかは引っかかったが。

 

 

「ねえ、先生」

 

 そんなことをエリックが考え込んでいると、少しだけ落ち着いた様子のポプリがジャンクの傍に移動し、おずおずと話しかけている姿が視界に入った。

 

「中にいる子に、会わせて欲しいの」

 

「!」

 

 アルディスと、ポプリを会わせてはならない――それは、エリック達が口裏を合わせていたこと。しかし、そのようなことをジャンクが知るはずがない。

 何とかして止めなければ、とエリックが動こうとしたその時。ジャンクはゆるゆると首を横に振るい、真っ直ぐにポプリを見据えて口を開いた。

 

「駄目です」

 

「え……」

 

「今は、下手に刺激を与えてはならない状況だと判断しています……分かりますね、君が彼にとって、何らかの刺激を与えてしまう存在だということは」

 

 ジャンクは、一体どこまでアルディスのことを知っているのだろうか。それとも、ポプリのことを詳しく理解しているのか。それを今のエリックが知る術はなかったが、彼の発言に感謝したいと思ったのはエリックだけではなかっただろう。

 ポプリは食い下がろうと琥珀色の瞳をジャンクに向けていたが、彼の意見が変わることは無いと判断したのだろう。彼女は静かに目を伏せ「分かったわ」と弱々しく呟いた。

 

 

「ええと……そうだ。今更ですし、聞いている可能性もありますけれど、一応名乗っておくよ。僕はジャンク。ジャンク=エルヴァータという。よろしく頼む」

 

 何となく気不味い空気が漂ってしまったのを気にしたのか、ジャンクはエリックとマルーシャがいる方を見て名を名乗った。

 

「わたし、マルーシャ。見えてないみたいだけど、わたしの横にいるのはエリックだよ」

 

「存在自体は把握しておいてもらえると助かる」

 

「はは……分かりました。まあ、近くに来ていただけると、そこに『いる』ことくらいは分かるようだ。急に背後に現れたりはしないでくれるとありがたいな」

 

「……善処する」

 

 どうして自分だけそんなことを言われなくてはならないのか、と言いたくはなったが、今はそういうことを言うべき場面ではないだろうとエリックは言葉を飲み込んだ。

 ジャンクはマルーシャと、座り込んだチャッピーに腰掛けているディアナを交互に見ながら、何かを考え込むように口元に手を当てている。そのことに、ディアナが気付いた。

 

「エルヴァータ医師?」

 

「そうですね、二人とも処置しておきましょうか……救済系能力者は魔力欠乏を起こしやすいんだ。視力をやられる可能性もある。気をつけた方が良い」

 

 ちりん、とジャンクの服から垂れ下がる紐の先端で鈴が鳴った。刹那、彼の真下に赤い魔法陣が浮かび上がる。彼の周囲に、赤色の光を放つ下位精霊が集まってきていた。

 

「精霊よ、彼の者に輝かしき火の力を――メルジーネ・プラッツェン」

 

 魔法陣から浮かび上がた赤い光が、次々とディアナの身体に入っていく。エリックやマルーシャは初めてそれを見たのだが、効果を知っているらしいディアナとポプリがそれに驚くことはない。

 

「助かる」

 

「いえいえ。お礼を言うなら精霊達に……で、そのままマルーシャの方もいきます」

 

「え?」

 

 続いて浮かび上がったのは、緑色の魔法陣。先ほどと同じように下位精霊が周りに集まってきている。今度は、緑色の光を放つ下位精霊ばかりであったが。

 

「精霊よ、彼の者に悠々たる風の力を――メルジーネ・ヴィント」

 

 今度はマルーシャの身体に、緑色の光が溶け込んでいく。マルーシャは何が起こるか分からない恐怖心から若干顔をこわばらせていたが、すぐに異常をもたらすものではないことを理解したらしい。彼女は「わあ」と小さく感嘆の声を上げていた。

 

「すごい、身体が楽になったよ……ありがとう! でも、何なの? これ……」

 

「簡単に言うと、魔力の補充だ。当然だが、魔術を使えば使うほどに魔力は減る。魔力が減れば、身体に影響が出る……少し、顔色が悪かったからな。あまり無理をしない方が良いですよ」

 

 そう言って笑うジャンクの頭飾りについた青いレーツェルが軽く揺れる。そんな時、ふと、アルディスの言葉を思い出したエリックはあることを探る目的でジャンクに問い掛けた。

 

「ジャンク、お前は水属性……だよな?」

 

 確か、レーツェルは持ち主の属性の色に染まる筈。しかし、先ほどの術は水属性ではなく、火属性と風属性であった。もしかすると、他の属性の素養があるのかもしれないとエリックは考えたのだ。

 脳裏をよぎるのは、ジャンクと同じ精霊術師(フェアトラーカー)で、空色の髪を持つ長身の男ダークネス。同一人物である可能性を捨ててはならないだろう。

 

「天性は水ですが、僕は精霊術師(フェアトラーカー)。精霊の力を借りれば、他属性の力も使えます……が、それとは別で複合属性です。鳳凰の血の方が濃いせいか、何種類か出てきたみたいだ」

 

「そうなのか……ついでに、馬鹿みたいな質問をさせてもらう。レーツェルの色が、天性属性以外の色になることはあるのか?」

 

 ダークネスは左襟にブローチに加工されたレーツェルを付けているのだがその色は青は青でも、透き通った淡い色――つまり、彼は氷属性だ。

 二人と顔を合わせているディアナが何も言わないこともあり、ジャンクはたまたまダークネスと同じ髪色で、同じ力を持っているだけなのだろう。だが念には念を入れてエリックはジャンクに問い掛けた。

 

「そうですね、僕が知る限りはありませんよ。ディアナには思い当たることがありますか?」

 

「いや、無いな。レーツェルの色は天性属性一択だ」

 

「そうか……ありがとう。あまり、属性だとかそういうのに馴染みがなくてな」

 

 がしがしと頭を掻きつつ、エリックは再び乾いた笑い声を上げる。いらない心配をしていたらしい。それでも、エリックが属性にあまり馴染みがないのは事実である。ここは良い勉強になったと考えるべき場面だろう。

 エリックの「馴染みがない」という言葉を聞いたためだろう。ジャンクは口元に握り締めた手を当てて少し考えた後、語り始めた。

 

「特殊能力と一緒で、属性も基本的には遺伝なんです。親族の属性によっては天性属性以外の属性を扱う力を持つこともあります。そういうのを総称して複合属性っていうんだ。まあ、大体は魔力の扱いに長けた鳳凰族(キルヒェニア)に出るんだが。ほら、ディアナが良い例だ」

 

「そう、なのか?」

 

「ああ。オレは一応、光属性も使える。まあ、やはり火属性魔術の方が調子良く使えるがな。訓練を重ねれば、複合属性の魔術を発動することもできるらしい……オレにはまだ無理だ」

 

 複合属性の魔術。聞いただけで取得が難しい術だと理解できるそれはどのようなものなのだろうか。何とか使えるようになりたい、訓練しないといけないな、と苦笑しながらチャッピーの頭を撫でるディアナをエリックが眺めていると、ふいにジャンクの「ところで」という声が耳に入ってきた。

 

 

「皆、気付いていますか? 何か、近付いてきている。魔物でしょうか?」

 

「えっ!?」

 

 しれっとジャンクはそう言い、おもむろに立ち上がった。ポプリも、それに続いて立ち上がる。

 

「音も無いし、気付かなかったわ……先生の感覚、凄いわね。あと先生、折角だから強化掛けてくれない? さっさと終わらせちゃいましょ?」

 

「相変わらず好戦的だな……」

 

「! 来るぞ!」

 

 ディアナは胸元の十字架からレーツェルから剣を取り出し、それを構える。それと同時と言ったところだろうか、茂みから十体近い数の巨大な蜂が次々と現れた。

 

「か、数が多いわ……!」

 

「キラービーですね。成程、この辺に巣があったのでしょう。僕は彼らの縄張りにテントを立ててしまったようだ」

 

「テントは周囲をちゃんと調べてから立ててっていつも言ってるじゃない!」

 

 魔物に対してほぼ無知であるエリックとマルーシャ的にはありがたいことなのだが、状況的には全くありがたくない。ジャンクの推測通りらしく、蜂は茂みから次々と出てくる。そんな状況下ではあったが、いつの間にかエリック達を庇うように前に出た三人はどこか落ち着いた様子であった。

 

「ディアナ、少しの間だけで良い。耐えれるか?」

 

「これくらい問題ない」

 

「分かりました、では頼みます!」

 

 ディアナと簡易的なやり取りをし終えると、ジャンクは鈴を鳴らし、意識を高め始めた。足元には、紫色の魔法陣が浮かんでいる。どうやら闇属性の術らしい。ポプリも顔の前に長いリボンのついた短い杖を構え、集中していた。

 耐えれるか、というのはディアナ一人で蜂の大群を抑えこめるかということだったのだろう。ディアナはジャンクとポプリの前に飛び出すと低空飛行で蜂達を交わし、群れの後ろを取った。そして一気に上昇し、剣を構え直す。

 

「――翔連華(しょうれんか)ッ!」

 

 上から押さえ込むように、ディアナは刃を振るう。赤い炎を纏った幾多の斬撃が蜂達の身体を刻み、羽根を切られたものは地に落ちた。

 

「――精霊よ、彼の者に聡明たる闇の力を」

 

 ジャンクとポプリが意識を高め始めたのはほぼ同時だったのだが、ジャンクの方が早い。展開している魔法陣の大きさからして、ポプリの方はかなり強力な術なのだろう。

 

「メルジーネ・トイフェル!」

 

 ジャンクが発動させたのは、先程ディアナとマルーシャに使った術と同系統のものであった。淡く光る紫の光が、魔法陣から浮き出て空を舞う。

 

「――朽ちたる刃は飢餓の証。汝の血にて満たさせよ」

 

 その光を受け取りながら、ポプリの詠唱も始まった。ひらひらとスカートの裾がなびく。ジャンクは頭のレーツェルに触れ、二本のトンファーを取り出した。

 

「ディアナ、手伝います」

 

「分かった。折角だから、ポプリに一掃してもらうか」

 

 何しろ数が多い。キラービーは猛毒を持つ魔物であるし、地道に一体ずつ倒していくのは危険だろう。ディアナはジャンクと入れ替わるようにひらりと後ろに下がり、上空で手を組んだ。

 

「汝が慧眼を開け! ――アスティオン!」

 

 純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)であるためなのか、二人に比べて明らかに詠唱完了までが早い。眩い光が、ポプリに吸収されていく。蜂達は、詠唱を妨害しようと一斉にポプリに迫る。

 

「!」

 

「気にせず続けろ!」

 

 響いたのは、ジャンクの声だった。アルディスほどではないが、彼もかなり素早い。ある程度まで蜂達と距離を縮めた後、彼は強く地を蹴り、大きく飛躍した。

 

飛燕連脚(ひえんれんきゃく)ッ!」

 

 身体を捻るように大きく足を回して周囲にいたキラービー達を捉え、地面に叩きつける。だが、それでは終わらない。二回、三回と、彼の回し蹴りは続いていく。上半身に迫る蜂は、トンファーが叩き落とす。蜂達の毒素を含んだ体液が周囲に散った。

 

「集いて爆ぜよ! 紅蓮の連弾! ――ファイアボール!」

 

 さらに上空からディアナが複数の火炎弾を放ち、追撃する。数体は消えたものの、蜂の数はなかなか減らない。

 

「行くわよ……これで決めるわ!」

 

 詠唱を終えたポプリがワンドを掲げたのは、そんな時だった。

 

「グリーディサイズ!」

 

 ごう、と風が吹き抜ける。それが、ポプリの術によって具現化された巨大な鎌が薙いだがゆえに起こされたものだと理解するのは、そう難しいことではなかった。

 死神の持つ大鎌を思わせるそれは、辺りにいた蜂達を捉え、切り裂いていった。その威力は、いずれの蜂達も一撃で魔力に分解されているという事実だけで、十分に証明出来るだろう。蜂達の体液を被りながらも、ポプリは楽しげにクスクスと笑っていたーーそれを見たマルーシャは、カタカタと小さく身体を震わせながら口を開く。

 

「ねえ、エリック……やだ、怖い……」

 

「言うな……言うんじゃない……僕だってあれは怖い……!」

 

 ポプリは他の属性と比べると少々おぞましさが際立っていることで有名な、闇属性の魔術師である。

 それは分かっていたのだが、あの可愛らしい可憐な笑みからは微塵も想像出来ないような魔術の発動だ。いくらなんでも衝撃が大きすぎる。

 

「ありがと、二人共。お蔭で調子良く使えたわ」

 

 もはや恐怖しか感じられなかった大鎌が消え、ポプリはふんわりとした髪を風に流し、微笑んだ。何故だろう、もう、それすら怖い。

 そう思ったのはエリック達だけではなかったようで、お礼を言われているディアナは顔面蒼白になった上、少し涙目になってこちらを見ていた。

 彼も、戦闘慣れしている彼ですら、アレは怖かったのだ。

 

「しかし、派手に汚れましたね。温泉でも入りますか?」

 

 しかし慣れているのか、ジャンクはその辺はお構いなしに体液を浴びた身体の方を気にしている。

 確かに、戦闘をしていた三人の身体は酷いことになっていた。数が多かっただけに、当然の結果だ。加えて、エリックとマルーシャも全く汚れていないわけではない。

 

「あら、良いの? お願いしちゃおうかしら」

 

「構わんさ、流石にこれは気持ち悪い。ちょっと準備してきますね」

 

 温泉を準備するなどという意味不明なやり取りを交わし、ジャンクはひらひらと手を振って森の中に入っていく。エリックはある推測にいたり、ポプリに話しかけた。

 

「ポプリ、温泉は……人工的に作るものだったか?」

 

 そうでなければ、さっきの会話はないだろう。そんなエリックの問いに、ポプリはにこりと笑ってみせた。

 

「ああ、先生って水に関係することは結構万能にこなせるのよ? 凄いわよね。そうだ、折角だからエリック君達も汗、流すと良いわ」

 

 石鹸とかタオルは貸してあげるから、とポプリはスカートのスリットの間から色々と取り出している――あの中身は、一体どうなっているんだ?

 

(もう良い、もう、何も考えたくない……)

 

 考えることに疲れたエリックは、隣で狼狽えているマルーシャを無視して空を仰いだ。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.11 見せたくないもの

 

 どうやったのかは知らないが、本当に温泉を沸かしてみせたジャンクからほのかに薬草の香りのする緑色の湯が入った桶を受け取り、エリックはアルディスがいるというテントの中を覗き込んだ。

 

「アル、生きてるか?」

 

 決して元気そうだとは言い難い状態ではあったものの、テントの中でぐったりと横になっていた親友の姿を見たエリックはほっと息を吐いた。ジャンクを疑っていたわけではないのだが、これで万が一アルディスがいなければどうしようかと不安に思っていたのだ。

 エリックの言葉に、アルディスはゆっくりと身体を起こし、こちらに真っ青になってしまった顔を向けてくれた。

 

「心配しないで、俺は大丈――」

 

「大丈夫じゃないってのは分かってるから、とりあえず、これ」

 

 いつものことながら、アルディスは「大丈夫」と言おうとしてみせる。そうなるだろうと思っていたエリックは即座にその言葉を遮り、桶とタオルをテントの中に置いた。

 

「それ、何……?」

 

「いや、僕も驚いたんだが……」

 

 ジャンクが温泉を沸かしたと言えば、アルディスは「なるほどね」と言って桶の中を覗き込んだ。特に驚く様子は見られないが、もしかすると精霊術師(フェアトラーカー)特有の能力か何かなのだろうか? 仮にそうならば、アルディスが驚かないのも納得できる。

 そんなことを密かに考えつつ、エリックはジャンクに「伝えて欲しい」と言われた言葉を口に出した。

 

「で、アイツからの伝言。『水がたまった場所が怖いようですね。恐らく、温泉のような場所には入れないのでしょう? だが、身体くらいは拭いておけ。薬湯だから、傷にも良い』……だそうだ」

 

「……」

 

 エリックの言葉を聞くなり、アルディスは盛大にため息を付き、顔を伏せてしまった。

 

「ああもう……共解現象(レゾナンストローク)の暴走が原因なんだろうけど、一方的に人のこと知るのやめてくれないかな……」

 

「れ、共解現象……? 暴走……?」

 

「簡単に言うと、特殊能力同士の相性が良いと互いの能力を高め合うことがあるんだ……けど、俺とあの人の場合は、素の能力高過ぎて実際に能力を使う場面で悪影響が発生することがあるみたい。俺たちの場合は、突然『視る気もないようなものが視えてしまう』感じかな。まあ、知ってるだろうけど俺は能力使わないから、そうなるのはあの人だけなんだけど」

 

 アルディス曰く、ジャンクはエリックが想像していた通り透視干渉(クラレンス・ラティマー)の使い手であった。そしてこの透視干渉はアルディスの意志支配(アーノルド・カミーユ)とかなり相性が良いらしく――結果として現時点でどこまで理解しているかは分からないが、アルディスの事情がジャンクに筒抜けになってしまっているようなのだ。

 

「それ……お前的にはどうなんだよ……」

 

「非常によろしく無いよ……でも、目を閉じたままのあの人に『能力使わないでください』っていうのは無茶だろうし、第一、頻繁に俺のこと、特に過去なんて見てたら、あの人発狂するんじゃないかって心配なんだけど……」

 

 少なくとも、ジャンクの行動からして「アルディスが嵐の海で溺死しかけた」という過去の話は把握されているわけで。眼帯の上から右目を押さえ、アルディスは深く溜め息を吐いた。

 

「……右目」

 

「ああ、多分、これは知らないんじゃないかな……時間の問題だろうなって、思うけど」

 

 そう言って、アルディスは眼帯を外してみせる。顕になったのは、閉ざされた右目を封じるかのように存在する十字の傷跡――浅いが、右頬の少し上を走る右上がりの大きなものと、その上を走る、範囲は狭いが深く、彼が失明する原因となったもの。

 

「……」

 

 エリックはアルディスが傷を負うこととなった理由は知らないものの、彼がヴァイスハイトであるということ、だからこそ、何かと右目を狙われた過去があるということは知っていた……最終的に、アルディスは右目を失ったということも。

 

「申し訳ないけれど、この件を知った彼がどうなろうと、俺にはどうすることもできない。多分、驚くとか、その程度じゃ済まないだろうと思うけど……俺には、それを未然に防ぐことも、できないから」

 

「だが、仮にそうなったとしてもお前は悪くないと思うぞ……」

 

 本人にその自覚があるのかどうかは分からないが、アルディスは他者を寄せ付けない空気をまとっている割に、少々過度な勢いで他者の心配をする傾向がある。今回もそのパターンで、若干皮肉混じりではあるものの、自分の過去を見たジャンクのことをかなり心配しているらしい。

 

(そういう風に思ってる自覚はないんだろうけどな)

 

 良くも悪くもお人好し、という言葉が合うだろうか。元々、そのような性分なのだろう。エリックもかつて、そんなアルディスに助けられた経験がある。

 ただ、悲劇的な過去のせいか歪んでしまった彼の場合は、人を寄せ付けないためにわざと傲慢に振舞ってみたり、攻撃的になってみたりといった行為が目立ってしまう。間違いなく、ジャンク対してもこの態度が先行したことだろう――本人がいない場合は、この通りなのだが。

 

「何というか……今のお前を喋らせるのには、抵抗がある。下手に動かすなって問題の医者にも言われたしな。とりあえず、話はこれくらいにしておいて、僕は僕であいつと話してみるよ」

 

 アルディスの場合は自分という話し相手がいることによって、尚更考え込んでしまうこともあるだろう。彼の心を落ち着かせるためにも、ひとりにしてやった方が良い。そう考えたエリックは話をここで終わらせることにした。

 そんなエリックの思いを汲み取ったのか、アルディスは一瞬目を泳がせた後、ためらいがちに口を開いた。

 

「あのさ……ポプリさんもだけど、あの人も多分、戦闘馴れしてるから。ルネリアルまで送ってもらえないか、交渉してみると良いよ。申し訳ないけれどこんな状態の俺じゃ、君たちの安全を保証できない……」

 

 この期に及んで、自分自身よりもエリックとマルーシャの心配をしてきた。どうしようもないお人好しだなぁとエリックは頭痛に耐えるかのように額を押さえた。

 

「あのな、僕らを守ろうとしてくれた結果がそれなんだ。頼むから、気にするな……ただ、いい加減帰らないと問題が起こりかねない。悪いが、その案で行かせてもらう」

 

「……うん」

 

「本当に、気にするんじゃない。今は、身体を治すことに集中してくれ……じゃあ、僕はこれで、失礼するよ」

 

 そう言ってエリックがテントから出る瞬間にアルディスが「ごめん」と言うのが聴こえたが、これに返事をすればまた話が続きかねない。

 少々の罪悪感を覚えつつ、エリックはあえてアルディスの言葉を聴かなかった振りをしてテントを出た。

 

 

 

 

「少し、話し込んでいたようですね。アルの様子はどうでしたか?」

 

「ん? ああ、良くは……ない、だろうな。ところで……」

 

 アルディスの容態について話すついでに彼の提案に乗り、エリックは自分達の身分やこうなった経緯などは伏せた状態で「ルネリアルまで護衛して欲しい」という話をポプリとジャンクに持ち掛けた。だが、身分も経緯も話さない、となると怪しげな話と化してしまうことは避けられない。ただでさえエリックのことを恐れていたジャンクは口元に左手を当て、考え込んでしまった。

 

「そ、その……! あんまり事情話せなくて、ごめん……でも、わたしたち……」

 

 このままでは良くない、と考えたマルーシャがエリックの後を継ぐ形で口を開く。だが、信用して欲しくてもこれ以上は何も言えない。二人の事情を知るディアナも、当然ながら何も口出しできずにいた。彼が護衛として同行できるのが一番良いのだろうが、種族柄それは難しいだろう。エリックやマルーシャ、ポプリやジャンクのように、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)へ理解を示す存在が全てではないのだ。彼の同行は、あまりにも危険すぎる。

 そんな中、ポプリは悩むエリック達の顔を見回した後、ジャンクの方へと向き直って口を開いた。

 

「先生……あたし、ね。エリック君と、ディアナ君に、助けられたの。だから、恩返しって意味合いも兼ねて、このお願いに答えたい」

 

「! ポプリ……」

 

 正気か、とでも言いたげな表情でジャンクはポプリを見ている。彼の中では拒否しようという意志が大きかったのだろう。普通に考えれば、明らかに怪しい話を回避しようとするジャンクの判断が正しい。しかし、ポプリは「大丈夫だから」と言って引き下がらなかった。

 

「先生がどうしても嫌なら、あたし一人で行くわ」

 

「そ、そういうわけには……!」

 

「じゃあ、一緒に来てくれるの?」

 

 かなり強い押しだった。ジャンクは「う……」と小さく声を漏らした後、溜め息を吐いて「分かりましたよ」と肩を竦めてみせた。

 

「ただし、アルとディアナを一旦ここに置いて行くぞ。どちらも色んな意味で危険すぎる。これに関しては、言うことを聞いてもらう」

 

「強引に決めさせたみたいな形になって、悪いな……条件の方も、問題ないよ。ディアナ、アルを頼むな」

 

「……任せろ。気をつけて帰れよ」

 

「よし、そうと決まれば……計画だけはしておこうか。僕にはよく分かりませんが、ただならぬ事情があるようですし、ね」

 

 計画はしっかりと立てておくべきだ、というジャンクの主張によって、エリック達は「出発はいつにするか」、「ルートはどうするか、速度重視か安全重視か」、「ルネリアルのどの辺りまで護衛しようか」などということを念入りに話し合った。

 出発は明日の早朝、この時間帯なら魔物はそう出てこない。速度重視のルートで行こう、ルネリアルの中心商店街までの護衛を行う……など、全てがしっかりまとまる頃にはすっかり日が落ちてしまっていた。

 

 

 この話し合いを優先したせいで五人全員温泉に入り損ねたのだが、これは大した問題ではない。夜空を見上げながら温まるのも悪くないだろうと、適当に順番を決めて入浴することとなった――のだが。

 

「ディアナが帰ってこないな……」

 

「ですね、もう二時間くらい経つな」

 

 温泉には女性陣から一人ずつ順番に入っていき、エリック、ディアナと順番を回していったのだが、ディアナが何故か戻ってこない。結果、ジャンクがいつまでも温泉に入れずにいる。

 湯冷めしないように焚き火を前に温まるエリックの正面に座ったジャンクは「待つから構わない」と苦笑しながら言うものの、ここまで長いとのぼせて倒れてしまっているのではないか、道中で事件に巻き込まれたのではないか、などと不安要素が出てくる。いつまでも汗の流せないジャンクも不憫だ。そう思い、エリックは立ち上がった。

 

「ちょっと見てくる」

 

「え、あ……や、やめた方が……」

 

「いやいや、そういうわけにもいかないだろ? 何か事件かも知れない。見てくるから、待っててくれ」

 

「駄目です、待ってくださ――」

 

 待ってください、と言いかけたジャンクは途中で言葉を切ってしまった。エリックの気配が無くなったことに気付いたのだ。彼は「ははは」と乾いた笑い声を上げ、額を押さえた。

 

「困ったな……僕まで行くわけにはいかないし……仕方ない、成り行きに任せますか……」

 

 

 

 

「ディアナ……?」

 

 温泉は、茂みをしばらく抜けた先にあった。無造作に転がされた岩の中心から、湯気が立ち上っている。その岩の一つに、湯に浸かったまま俯せにもたれ掛かっているディアナの姿があった。

 

「!? ……って、なんだ、寝てるだけか……」

 

 一瞬、何事かと思ったのだが、どうやら眠っているだけらしい。単純に疲れているだけかと安堵しつつ、エリックはディアナの頭に手を伸ばした。

 

「おい、起きろ。風邪引くぞ」

 

「ん……」

 

 湯に色が付いていることと、ディアナの姿勢の関係で顔と背中の上辺りしか見えないのだが、月明かりに照らされた白い肌はほんのりと赤く染まっていた。

 どのような構造になっているのかは知らないが、いつも彼の背にある翼はどこにもない。だからこそ、細い華奢な身体には小さな傷がいくつも刻まれていることがよく分かった。どれも完治して薄くなってはいたが、それでも彼の小柄な体格故にやけに際立って感じられる――否、それ以上に目立つものが、彼の首筋に残されていた。

 

(え……?)

 

 そこにあったのは、直径一センチ弱ほどの、円状の火傷痕。それらは何十個と、何十回と、ディアナの白く細い首筋に“押されていた”。

 

「……」

 

「……? な……に……?」

 

 思わず言葉を失い、そのあまりにも痛々しい痕を見つめていたエリックと、そんなエリックを寝ぼけ眼で見上げたディアナの目が合う。そのまま、数秒程度ではあったものの、時が流れた。

 

「!?」

 

「ディアナ?」

 

 完全に目が覚めたのだろう。ディアナは顔を真っ赤にしてバシャン、と勢いよく湯に首から下を沈めた。そんな彼の行動を不審に思い、エリックはディアナへと手を伸ばす――その時だった!

 

「やっ、やあぁあああぁあっ! 近寄らないで! 来ないで!!」

 

「ぶっ!?」

 

 突然ディアナが甲高い悲鳴を上げたかと思うと、エリックに向かってバッシャバッシャと大量のお湯をかけたのだ。予想外の出来事に動転したエリックはバランスを崩し、後ろ向きに派手に転んでしまった。

 

「な、何だよ! お前は女子か!!」

 

「!? あ、あ、え、えと、その! す、すまない! 寝ていたのも、湯をかけたのも謝る!!」

 

「ああ、うん……まあ、僕も、驚かせて悪かったよ……」

 

 謝るとともにエリックは身体を起こしてディアナを見る。ディアナは、目から下を湯に沈めてしまっていた。それでも、彼が顔を真っ赤にしているのがよく分かった。

 ジャンクが渋ったのはそういうことだったのかと、全身ずぶ濡れになってしまったエリックは、申し訳ないことをしてしまったなと目を泳がせる。

 

(どれだけ嫌なんだよ……でも叫ぶなよ、ちょっと傷付いたじゃないか……)

 

 パシャリ、と音がした。見ると、ディアナが先ほどと同じように、岩にもたれ掛かってエリックを見上げている。

 

「エリック……悪いんだけど……帰ってくれ。すぐ、出るから……」

 

「え……」

 

 自信無さ気な、弱々しい声が響く。いつもとはあまりにも違う、その態度にエリックは思わず狼狽えてしまった。そのエリックの反応を、ディアナがどう取ったのかは分からない。しかし、あまり良くない方向に捉えたらしいことは確かだった。

 

「あ、の……そ、その……き、傷が……」

 

「傷?」

 

「胸に、酷い傷があって。誰にも、見られたく、ないんだ……だ、だから……」

 

 傷を見られたくない。その気持ちは、エリックにも理解できた。エリックは苦笑し、ディアナの濡れた髪を軽くポンポンと叩いた。

 

「分かった。戻るから、早く帰ってこいよ」

 

 服の裾を絞りながら、エリックは踵を返す。ちゃぽん、と湯が跳ねる音と共に「ごめんなさい」と弱々しく謝るディアナの声がした。その声はやけに重く、暗い物。その声に驚いたエリックが振り返ると、彼は再び湯に沈んでしまっていた。

 

 

 

 

 戻って来たエリックの気配を察知したのか、ジャンクは小さく「帰ってきましたね……」と呟いた。何とも言えない、複雑そうな表情をしている。

 彼はしばらく悩んで必死に言葉を選んだ後、おずおずと口を開いた。

 

「お前……その、見たか……?」

 

「傷がある、という話は聞いたが、見てない……知ってたなら、頼むから、ちゃんと止めてくれよ……可哀想だろ……」

 

「傷? ま、まあ、見てないということは分かったが……僕は止めたじゃないですか……タオルどうぞ」

 

 反応を見る限り、ジャンクはやはり知っていたのだろう。追求したくはなったが、ディアナの立場としては、あまり公にはして欲しくない話題の筈だ。ここは自分が引き下がるべきだろうとエリックは特に何も言わず、丸太に座って差し出れたタオルで湯の滴る髪を吹いた。そんな時、ガサガサと背後で茂みの揺れる音がした。

 

「……ごめんなさい」

 

 振り返るまでもなく、ディアナだった。彼の背中の翼が風を起こしているらしく、微かに炎を揺らしている。

 

「いや、良いって良いって。じゃあジャンク、行ってこいよ」

 

「そうですね、では」

 

 適当に荷物を持って、ジャンクは温泉へと向かっていく。その途中で彼はディアナに何かを耳打ちしたようだが、エリックには何も聞こえなかった。

 

 

 

 

(寒……っ!!)

 

 そして数分後。完全に湯冷めしてしまった上にずっと濡れた服を着ていた、エリックの身体は酷く冷え切っていた。ぶるりと身体を震わせ、彼は薪を焚き火の中に放り投げる。

 同じように湯冷めされると困るので、ディアナにはテントに戻るように言っておいた。彼は今頃、マルーシャやポプリと話でもしている頃だろう。

 

(何というか、それでも違和感ないから怖いよな、アイツ)

 

 テントはポプリが持っていたものとジャンクが持っていたものの二つがあり、当然ながら男性陣と女性陣が別れて使うことになった。しかし、男女比率に偏りがある上に四人でテントを使うのは厳しい為、男性四人の中で一番無害そうだからという理由でディアナが女性陣側のテントで寝ることとなったのだ。これを主張したのはジャンクだったのだが、アルディスのことを知っているからこその判断なのだろうということは深く考えずとも理解できた。

 現状、一番無害なのはむしろ、ろくに身動きが取れないアルディスだ。ただ、彼には女性陣側に行けない理由がある。それを、ジャンクは知っていたに違いない。

 ジャンクはどこまで事情を知っているのだろう。ポプリ対策として話を合わせるためにも、情報共有も必要だ。今風呂に行けば確実に二人きりで話すことができるし、ついでに温泉に入りなおすこともできるだろう。丁度いいとエリックは立ち上がり、温泉へと向かった。

 

――その結果、まさかまた湯を被ることになるとは、彼思わなかったことだろう……。

 

「……」

 

「え、えーと……」

 

 しとしとと髪から湯を滴らせるエリックが見つめる先には、何故か頭から肩までを隠すようにタオルを垂らしたジャンクの姿。シスターが被るベールを思わせるそれが気になりはしたが、エリックはあえてそこには触れず叫んだ。

 

「お前もかよ! 揃いも揃って女子か!!」

 

「悪かった! つい、反射的に……」

 

 そう言って謝るジャンクは眼鏡が無いと、随分と印象が変わる容姿の持ち主だった。幼さと中性的な雰囲気が強調されている。エリックやアルディスと同い年だ、と言っても疑われないかもしれない。そんな容姿のせいか、何となく弱いものいじめをしている気分になってしまったエリックは溜め息混じりに口を開いた。

 

「まあ、良いけどな。その、一緒に入って良いか? 冷えたんだ……寒い……」

 

「そうでしょうね。構いませんよ……ただ、僕より先に出てくれ」

 

 ぱしゃん、と湯を跳ねさせ、ジャンクは困ったように口元に左手を当てた。その手首に、何かで強く締め付けられたような、そんな痕が見える。何をどうすればそのような痕が残るというのか。明らかに異様な痕を見てしまったエリックは、思わず眉をひそめてしまった。

 

(あー……こいつも傷跡持ちか。見られたくないって奴だろうな……何だ、“全員”似た者同士ってことか)

 

 そこそこ温泉は広いというのに、男女共に一人ずつの入浴という話になったことに対し、誰も異議を唱えなかった。それは、エリックやマルーシャも同じだった――皆、人には見せられない“何か”があると言うことなのだろう。マルーシャは知らないが、少なくともエリックにはあった。

 

 人の事情に口を出さないほうが良いと判断したエリックは痕には特に何も言わず、チョーカーに手を掛けた。

 

「別に良いさ、それくらい。僕も、身体温めるだけだし……あ、その前に」

 

 チョーカーを外す前にエリックはジャンクに話し掛けた。これだけはもう一度確認しておかなければ、とエリックは思った。

 

「お前は透視干渉能力者で、だからこそ目を閉じたまま生活できてるって言うのは聞いたんだが……それでも、僕のことは全く、視えないんだよ、な?」

 

 エリックは王子である事を伏せているうえに、彼にも“見られたくないもの”がある。

 ジャンクの返答によっては、対応を変える必要があると考えたのだ。

その問いに、ジャンクは「僕も聞きたかったんです」と返してきた。

 

「はい。不思議で仕方がありません。お前は一体、何の能力者なんだ……?」

 

「その……それなんだが、僕は未覚醒なんだ。医者としてのお前に問いたいんだが、十八で未覚醒ってどうなんだ?」

 

 エリックの言葉に、ジャンクは驚いたのか「え?」と小さく声を漏らした。その時点で「十八で未覚醒は異常なことだ」と言っているようなものである。エリックはズキン、と胸が痛んだような気がした。

 そんなエリックの心境を察したのだろう。ジャンクは再び少し考え込み、言葉を選んでから口を開く。

 

「ただ、拒絶系だとは思います。それも、未覚醒段階でここまでの効力を有するのなら、間違いなくポプリより強いものだ。だからこそ、覚醒が遅いのかもしれないな」

 

「……」

 

「見ての通り、僕は裸眼では生活していません。もう十年以上続けているから慣れたもんだが……これができるくらいには、僕は高度な能力者であると自負しています。今まで、拒絶系能力者の姿が視えなかったことはありません」

 

 エリックはチョーカーを外し、服を脱いでから温泉に浸かった。先ほど入ってからかなり時間が経過しているが、湯が冷める気配は無い。エリックが湯に入ったことに気付いたのだろう。ジャンクはスペースを確保するために少し下がって後ろの岩に背をぴったりと付けた。

 

「あのさ、裸眼で生活しようとは思わないのか? 一応は、見えるんだろ?」

 

 そう問うと、ジャンクは無言で首を横に振った。聞かないで欲しい、ということなのだろう。エリック自身、答えてもらえるとは思っていなかったが、その後に続いた沈黙が少し、気まずく感じられた。

 

 

「すみません。その、覚醒云々で思ったことなんだが、お前……あの娘、マルーシャだったか? とは長い付き合いなのか?」

 

「え? 十年の付き合い……に、なるのか。どうした?」

 

 会話が途切れたタイミングを狙って、話題を出してきたのは意外にもジャンクであった。しかも、この場で出てくるとは思えない人物の話題である。一体何が目的なのだろうかと思いつつ、エリックは質問に答えた。

 

「なら、彼女の覚醒年齢は分かりますか?」

 

「……七歳、だが。どうした?」

 

「やっぱりか……早すぎる」

 

「! な、何だよ! 普通より早いのは知っていたが、そんな深刻そうな……っ」

 

 話題となっている人間が人間であるだけに、ジャンクが言葉に詰まっている様子にしびれを切らしたエリックが叫ぶ。その声を聞いたジャンクはびくりと肩を揺らした後、おもむろに頭を振ってから口を開いた。

 

 

「……。マルーシャにあまり能力を使わせるな。死んでしまいますよ」

 

 

――それはあまりにも、あっさりと言い放たれた。

 

 

「え……!?」

 

「彼女は……そうだな、機械でいう“制御装置”と言えば分かりやすいか? とにかく、そんな働きをする能力が無いのですよ。普通は、命に関わる量の魔力を使おうとすると、身体が拒絶反応を起こす。というか使えないんだ、普通はな……だが、彼女は違う」

 

 混乱するエリックに対し、ジャンクは冷静に言葉を紡いでいく。彼の説明はエリックに分かりやすいようにざっくりとしたものであったが、それでも事の深刻さは嫌というほど伝わってきた。震えそうになる声を何とか押さえ込み、エリックは口を開く。

 

「……やろうと思えば、自分が死ぬまで誰かを癒すことができるの、か」

 

「はい……彼女はいざというときは無理をしてでも能力を使いそうだ、と判断したので忠告させていただきました。彼女の無理は、はっきり言わせてもらうと危険過ぎる」

 

 要するに、マルーシャは自らを脅かす可能性を秘めた、そのような能力に目覚めてしまったということだ。黙り込んでしまったエリックに「早期覚醒でなければ、こうはならなかったのですが」とジャンクは話し、再び頭を振るう。

 

「……」

 

 エリックの姿は視えていないという話ではあったが、何となく雰囲気で察しているのだろう。ジャンクは、躊躇いがちに口を開いた。

 

「七歳の時に、何かしらあったんだろ。そうじゃなきゃ、覚醒したりしません」

 

「!?」

 

 戸惑うエリックに「事情は聞かないし、絶対に視ないよ」とジャンクは目を伏せる。そうでなくとも彼は薄々、勘付いているらしい。それを悟ったエリックはぐっと歯を噛み締めた。

 

「だからエリック。マルーシャが能力を使い過ぎないように、気をつけろ」

 

「……分かった」

 

 わざと大きな水音を立て、エリックは立ち上がった。水滴が水面に落ち、いくつもの波紋を描く。

 

「じゃあ、テントで待ってるよ」

 

 ジャンクの反応を待たずにチョーカーを身に付け、衣服を纏う。その様子を見られているのには気付いていたが、注意して観察してみると顔の向きが微妙に合っていない。物音を追っているだけなのだろう。

 

(僕が視えないってのは、本当らしいな)

 

 それを幸いに思いつつ、エリックは茂みへ向かって歩いた。すぐに、テントに戻る気は無い。今は、一人になりたいと思った。

 

「……」

 

 湯上りの身体が外気にさらされ、一気に熱が奪われる。わざわざ二度も温泉に入ったのに、意味が無いなとエリックは自嘲的に笑った。

 半乾きの髪は夜風に流されることなく肌に貼り付き、残った雫が流れていく。伝う雫を微かに震える指で拭い取り、エリックは自身の左首筋に指を這わした。

 

「ごめん、マルーシャ……」

 

 

―――― To be continued.



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Tune.12 また会おう

 

 朝――寝起きが良いエリックはもそもそとテントの中から顔を出し、真っ先に外に出ていたらしいポプリとジャンクのふたりと顔を合わせた。

 

「おはよう。早いな、二人とも」

 

「エリック君こそ……おはよう、良い朝ね。この空模様なら天気が崩れることもないだろうし、問題なくルネリアルまで行けそうだわ」

 

「……。問題なく?」

 

 ポプリの言い方が、妙に引っかかる。思わず即座に言葉を反復して問い掛けたエリックに対し、彼女は少し困ったように笑みを浮かべてみせた。

 

「ああ……先生、雨が大嫌いなんですって。雨の日は、絶対にテントから出てこないの。濡れたくないんですって」

 

「へ、へえ……でもジャ……お、お前、風呂には入るんだよな? しかも割と長湯するし」

 

 絶対にテントから出てこない、と言うくらいだ。本当に嫌なのだろう。

 しかし、昨日の温泉には普通に入っていたことから、水が溜まった場所を苦手とするアルディスとは状況が違うような気がする。そう感じたエリックが今度はジャンクを見ながら問いかけると、彼は「ははは」と適当に笑い、女性陣の眠るテントへと歩いて行った。

 

「ディアナ、マルーシャ。そろそろ起きなさい。朝食はできたぞ」

 

 彼はテントの出入り口の前に座り込み、中に向かって声をかける。エリックは「はぐらかされたな」と感じつつ、中からの反応を待っている彼に声をかけた。

 

「おい、ジャ……いや、その……そういう起こし方はやめろ。マルーシャを起こすな」

 

「え?」

 

「マルーシャは寝起きが悪いんだ。自然に起きるのを待った方が――」

 

「エリックひっどい!!」

 

 エリックの言葉を遮り、テントの中から飛び出してきたのは問題の人物ことマルーシャだった。どうやら、起きていたらしい。

 動きを読んでいたのか、横に飛んで間一髪マルーシャとの正面衝突を避けたジャンクに感動していたエリックの前に、マルーシャはずかずかと歩み寄ってきた。

 

「ひどいよ! 人を問題児みたいに……!」

 

「わ、悪い! 本当、悪かったよ、ごめんな?」

 

「エリックのばか」

 

「悪かったって……!」

 

 羞恥心からか顔を真っ赤にしているうえに、半泣きである。これは流石に悪いことをしたなとエリックはマルーシャに平謝りし、話題を変えるためにジャンクの方へと視線を移す。

 

「いやー、ジャ……い、医者! 今の動き凄いな!」

 

「!?」

 

「ぶっ!」

 

 そこで発されたエリックの言葉を聞いたマルーシャは盛大に吹き出し、腹を抱えて震えだした。エリック本人には間違いなくそんな気は無かっただろうが、結果としてマルーシャの機嫌急降下は静止してくれたようである。

 

「ッ、ちょっとエリック……っ! 抵抗するなら、もうちょっと頑張ろうよ……っ!」

 

「ふふふ、エリック君ったら……」

 

「~~ッ、う、うるさいぞ……!」

 

 今度は、エリックが『顔を真っ赤にする』番だった。そして、何故彼が変な発言をしてしまったかは誰が聞いても分かる。

 彼が恥をかく原因でもあるジャンクは「あー」と決まりが悪そうに声を漏らし、ぽりぽりと頬を掻きながら口を開いた。

 

「触れずにいようと思っていたのに……いくらなんでも、今のはちょっと酷いぞ。そんなに僕の名前は呼びにくいですかね?」

 

「はは……ま、まあ……」

 

「マルーシャも、だったりしますか?」

 

「うん……でも、それ多分本名じゃないでしょ!? なんで“ジャンク”なんて名乗っちゃうかな!」

 

 ジャンクという言葉は、不良品やゴミ、必要とされない物……など決して良い意味を持たないもので、間違っても人の名前にはされない言葉である。それを、ジャンクはわざわざ名乗ってみせたのだ。ここまで来ると、ファミリーネームの『エルヴァータ』の方も大概に怪しくなってくる。

 仮にこれが本名であればとんでもないことであるが、流石にそれは無かったようだ。ジャンクは「そうですね」と笑ってみせる。

 

「確かに本名では無いですよ。ただ今となっては、この名も大切なんですよ。ちゃんと、“僕”という固有の存在を認め、示してくれている名だから」

 

「えっ? そ、それって……」

 

「気にしないでください」

 

 紡がれたのは、かなり不穏な雰囲気を持つ言葉。目を丸くしたマルーシャにやんわりと笑いかけ、ジャンクは左手を口元に持っていった。

 

「その、悪い」

 

「いやいやいや! わ、わたしが変な話題降っちゃったから……」

 

 何となく、空気が重くなる。すっかり目が覚めたらしいマルーシャは頭を振るい、ジャンクを真っ直ぐに見据える。

 左手を口に持っていく、何かに悩んでいるようなポーズは彼の癖らしかったが、今回は本当に悩んでしまっているらしい。この状況を何とかすべく、マルーシャも少しだけ悩み――そして、結論を出した。

 

 

「そうだ! “ジャン”って呼んでも良い?」

 

 

 その結論とは、ジャンクを愛称呼びするというもの。このような意見が出るとは思っていなかったのか、ジャンクは返事をする代わりに「え?」と間抜けな声を出していた。

 

「要するに、『ちゃんと自身を示す名前』なら良いんだよね? 綴りとかは変わっちゃうけど、その辺りは気にせずに、ね?」

 

「そうだな、ジャンだったらかなり呼びやすい。折角だから、僕も便乗させてもらいたいんだが……構わないか?」

 

 困惑し、何も言えなくなってしまったジャンクに、ポプリも声をかける。テントの中から、ディアナも顔を出した。

 

「意味は『恩寵の天雫』だったかしら。あなたが嫌いな雨って意味になっちゃうけど……綺麗だし、良いんじゃないかしら?」

 

「何の会議かと思えば、オレも正直気になってた話題じゃないか。うん、エルヴァータ医師って毎回呼ぶのも、正直億劫でな。オレも良いか?」

 

 あくまでも“ジャンク”とは呼びたくない。ポプリとディアナに至っては、許可を取るまでもなく名前以外の言葉で彼を呼んでいた。この展開にジャンクはかなり戸惑っていたのだが、落ち着いたのだろう。彼は静かに口元に当てていた左手を下ろし、重い口を開いた。

 

「綺麗だからこそ、僕には勿体無いような気がし気がしますが……君達がそれで良いのなら、構いませんよ。ただ、追求はしないんだな……この名を名乗る、理由を」

 

 そんな彼に、エリックは見えていないと分かっていながらも口元を綻ばせてみせた。

 

「誰にだって、触れて欲しくないことくらいある。誤って触れてしまうことはあるかもしれないが、その話題に踏み込むほど、僕は腐ってはいないつもりだ」

 

 どちらかというと、名前の理由よりも頑なに目を閉ざしている訳を知りたいとエリックは思った。彼が目を開けていれば、もう少し感情が読み取りやすかったのに、と。マルーシャやディアナのような露骨な分かりやすさを望むわけではないが、対応に困るのは事実だった。

 

「……」

 

 ジャンクは静かに、眼鏡のブリッジを押し上げる。しかし、別に眼鏡が下がっていたわけではなかったため、完全に無意味な行為である。こほん、と咳払いした後、彼は本当に小さな声で呟いた。

 

「何と言えば良いのか……その、ありがとう」

 

 対応に困る、と考えはしたが、ジャンクはうっかり口を滑らせることも多いし、表情というよりは仕草に感情が現れやすいようだ。眼鏡のブリッジを上げたのは照れ隠しだったのだと気付くのは、そう難しいことでは無かった。

 

(……なんだ、案外大丈夫かもな)

 

 ジャンクの分かりやすさが巧妙に仕組まれた演技では無いことを祈りつつ、エリックは彼が腰に巻いた黒い、黒衣の龍を思わせる刺繍入りの布を見つめていた。

 

 

 

 

 支度をして、アルディスとディアナに別れを告げて野営場所を発ってから、十時間は経過しただろう。途中、異常繁殖した魔物の群れや魔物に寄って荒らされ、通れなくなった道のせいでかなりの遠回りを強いられることにはなったが、それでも距離がそこまで離れていない事が幸いしたらしい。何とか日が落ちるまでに、エリック達はルネリアルの街に足を踏み入れることができていた。

 

 

「おい、顔色悪いぞ。大丈夫か、ポプリ?」

 

「心配はいらないわ。ちょっと魔力切れ起こしてるのよ、魔術師ってそういうものよ」

 

「ジャンは貧血? 大丈夫……?」

 

「はは……生憎、僕はそこまで頑丈にできてないんだ。肉弾戦ができるのは、全て精霊達のおかげだよ」

 

 気がかりなのは、ここまでの道のりで遭遇した魔物との戦闘を全てポプリとジャンクに押し付けてしまったことだ。二人だけで自分達を守りながらの戦闘はかなり厳しいものがあったらしく、そこら辺の木の棒を投げ付けようかと思ったほどに危うい場面も多々あった。

 魔力切れを起こしかけているポプリと、負った傷のせいで少しふらついているジャンクを気遣い、エリックとマルーシャは見慣れた街並みを歩きながら声を掛ける。

 

「……お前、細いしな」

 

「エリックと比べないでください……お前が寝てる間に裸眼で姿を見たが、純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)だったんだな。しかも、あれだ。女には一生困らなさそうな風貌ですね」

 

「!? お、お前! マルーシャがいるのに何て話を……!」

 

 顔を真っ赤にするエリックに対し、ジャンクは「ははは」と笑って誤魔化してみせる。事実、王子であることもあってエリックに言い寄ってくる女性の数は凄まじいものだ。

 

「むう……エリックはそんなことしないもん。ジャンとは違うもん、多分」

 

「いや、そこは信じてくれよ、マルーシャ……」

 

「僕をケダモノみたいに言うのもやめてくれませんかね?」

 

 マルーシャは頬を膨らましてジャンクの横へと歩み寄っていく。殴るか蹴るかするんじゃないかと不安になったが、彼女は治癒術を発動させただけであった。何だかんだ言いつつ、ふらふらしている彼が心配だったのだろう。

 昨夜、彼から話を聞いていたエリックからしてみれば、マルーシャの治癒術使用は不安要素でしかなかったのだが、ジャンクは何も言わない。使い過ぎにだけ注意していれば良い、ということなのだろう。

 その様子を見ていたポプリは「嫌な会話ねぇ」と苦笑して前方に見えてきたラドクリフ城を見上げ、口を開いた。

 

「正直、あたしは先生を前衛に出すの、ちょっと抵抗あるわ。体質が違うにしたって、実際はあたしの方が頑丈だもの」

 

「僕が前に出たいだけなんだ、その辺は気にしないで下さい。君は後ろにいてくれ」

 

「先生は過保護なのよ……まあ、あたしに前衛は無理なんだけどね?」

 

 種族的にはポプリが龍王族(ヴィーゲニア)で、ジャンクが鳳凰族(キルヒェニア)である。二人とも容姿に特徴が顕著に現れているが、能力自体もそれは同じだったらしい。体質から考えれば本来、ポプリは前衛向きで、ジャンクは後衛向きなのだ。

 ただ、どちらも万能にこなすジャンクに対し、ポプリはどう考えても後衛の立ち位置にしかいられないのだろう――走ることのできない、まともに動かせないらしい彼女の左足をチラリと見て、エリックは目を細める。そんなエリックの視線に気付いたのだろう。ポプリはクスクスと笑って口を開いた。

 

「昔ね、事故があって。左足、上手く動かせなくなっちゃったの」

 

「!? 悪い……」

 

「あたしが勝手に話してるの。謝らなくて良いわ……それにね」

 

 何かを言いかけたようだが、言うべきではないと判断したのだろう。ポプリはゆるゆると首を横に振るい、「何でもない」と微笑んでみせた。誤魔化し行為だ。何かを隠しているのは、明白だった。

 

「そんなことより、そろそろ目的地ね。ルネリアルの中心商店街……エリック君達はこの辺りに住んでいるの?」

 

「……」

 

 ポプリは右の人差し指を前に突き出し、エリックの視線を商店街に向けようとする。商店街を指定したのだ。彼女は、恐らくジャンクもエリック達が商人の子どもか何かだと思っていることだろう――それが、無性に申し訳なく、感じられた。このまま、分かれてしまうのは嫌だと思った。

 

「エリック君?」

 

「そのことなんだが……ポプリ、ジャン。ちょっと、こっちに来てくれ。マルーシャも」

 

 

 エリックは存在を把握していた狭く薄暗い路地裏へと二人を引き込み、少しだけ悩みつつも右手の白手袋に手を掛けた。

 

「どうしたの? こんな場所で……」

 

「その……黙って、いたんだが。この際だから、教えておこうと思って」

 

 手袋を外し、手の甲をポプリとジャンクに向ける。そこに刻まれた紋章を見て、ポプリは目を大きく見開いた。

 

「え、エリック!」

 

「!? 嘘っ! 確かに、同じ名前だとは思ってたけど……で、でもまさか……!」

 

「ポプリ……?」

 

 声を裏返らせるポプリの様子を不審に思ったジャンクが、どこか怪訝そうに呟く。そう言えば、とエリックは思った。今の彼には、自分の姿が見えていないのだと。つまり、紋章も見えないのだ。

 

「ああ、ジャンにはこれだけじゃ分からないんだっけ……」

 

「そういうことだ、悪い」

 

 突然の身分暴露に驚いているマルーシャの頭をぽんと叩くと、エリックは自身の胸に手を当て、躊躇うことなくその場に跪いてみせた。

 

「――改めまして。私はエリック=アベル=ラドクリフと申します。あなた方には最初の名のみしか告げませんでしたが……これでも、ラドクリフ第二十八代目国王となる予定の者です」

 

「ッ!?」

 

「アベル、という名の方は聞いたことがあるかと……その、憶測、ですが」

 

 当然知っている! とポプリとジャンクは声を揃えて叫ぶ。ポプリは、完全に引きつった顔でマルーシャを見た。

 

「ということは、マルーシャちゃん……ま、まさか……」

 

「えへへ、黙っててごめんなさい? イリスって名乗ったら分かり易いかなって思うけどわたしはマルーシャ=イリス=ウィルナビス。えっと、アベル殿下の許嫁です」

 

 ポプリもジャンクも空いた口が塞がらない、といった様子である。エリックは立ち上がると、そんな二人を見て軽く咳払いした。

 

「その……確実にそうなると思ったから、名乗らなかったんだよ……」

 

「口調の変化が激しすぎるわ……」

 

「そりゃ、最低限の礼儀だ。普段はこんなだが“アベル王子”の時はちゃんとしてるよ……」

 

「言っとくけど、わたしだって! わたしだってやろうと思えばできるんだからね!!」

 

 エリックもマルーシャも何とか場をなだめようとするが、それでも二人の動転は収まらない。聞いているのかどうかも怪しかった。

 

「わわ、あたし、イリスお嬢様と同じテントで寝てたのね……」

 

「僕なんて、アベル王子と混浴ですよ。上流階級の人間ってもんじゃない相手だぞ……」

 

 そもそもまともな敬語使ってない、とポプリとジャンクは頭を抱える。冷静に考えれば、特にエリックへの対応は本当に失礼極まりない行為であったと。しかも、これが前国王を相手にしてやった行為であれば間違いなく断首物だ。

 

「無理を言うなって言われかねないが……頼むから、そういうのやめてくれ」

 

「うん、今まで通りで良いよ? 気にしなくていいから!」

 

 とは言っても、エリックとマルーシャが王子とその許嫁であると知って豹変しなかったのはアルディスとディアナくらいだろう。

 ただ、アルディスには事情があったし、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)であるディアナは本来ラドクリフ王国の人間でない可能性――ラドクリフ王国を恨んでいるであろう、フェルリオ帝国出身である可能性が高い。彼らはあくまでも例外だ。

 それに対し、ポプリとジャンクは恐らくラドクリフ王国民だ。彼女らの反応はある意味、当然のものなのだ。エリックは軽くため息を付いてから、赤い瞳を細めて口を開く。

 

「王子とはいえ、僕は普通の人間だ。少なくとも今は、僕の身体に流れる血も、僕自身の立場も、関係ないと思いたい……気にして、欲しくはないんだ」

 

 それは紛れもなく本心である。ポプリとジャンクには、態度を変えて欲しくはない。しかし、どういう訳だろう。その言葉を聞いて、ポプリが涙ぐんでしまった。

 

「ポプリ?」

 

 微妙ではあるが、身長はエリックの方が高い。少しだけ屈んでポプリと視線を合わせれば、彼女はぷいと目を逸らし、ボロボロと大粒の涙を流し始めた。

 

「ごめんなさい……ッ」

 

 突然泣き出してしまったポプリに、誰しもが目を丸くする。違うの、とポプリは首を横に振るった。

 

「思い、出しちゃって……“彼”と、同じこと言うから……」

 

「彼……?」

 

「ずっと……ずっとね、探してるの。あたしが、あたしが傷付けたから……」

 

 ポプリが傷付けてしまったという“彼”。それは考えるまでもなく、恐らくはアルディスのことだろう――結局知ることは叶わなかったのだが、一体彼女らの間に何があったというのか。

 思わず考え込んでしまったエリックの前で、ポプリは止まることなく流れる涙を拭おうと、かなり乱暴に目を擦っている。それに気付き、エリックは考えるのをやめてポプリに手を伸ばした。

 

「やめとけ、赤くなるぞ」

 

 ポプリの手を掴み、エリックは持っていたハンカチを半ば強引に彼女に握らせた。驚いたのか、ポプリは涙を流しながらも琥珀色の瞳を丸くしてエリックを見ている。

 とりあえず落ち着こうと考えたんだろう。彼女は軽く深呼吸し、渡されたハンカチで目元を拭いた。

 

「……ありがと、随分と紳士的ね。許嫁ちゃんが妬いちゃうわよ?」

 

「!?」

 

 そう言ってポプリが笑えば、マルーシャは顔を真っ赤にして目を逸らしてしまった。エリックも少しだけ狼狽えてしまったのか、軽く顔を叩いている。しっかりしろ、と。

 

「大丈夫か?」

 

「……うん」

 

 態度を変えて欲しくない、と言ったということは、ポプリの言う“彼”は貴族出身の者だったのだろうか。そうなるとアルディスと結び付けるのは難しくなってくるが、可能性が全くない訳ではない。

 現在、庶民的な生活を送っているとはいえ、アルディスが元々は貴族出身であるという可能性も残っているのだから。

 

(それでなくともアイツ、ノア王子と同じ名前だしな……帰ったら兄上の残した資料に目、通してみるか……)

 

 戦争で没落した貴族、特にフェルリオの貴族であれば、当時父の補佐をしていた兄ゾディートとその執事であるダークネスが敵国の資料として残している可能性が高い。アルディスの特徴的な容姿を思えば、ある程度特定することもできるだろう。

 ただ、罪の意識を感じてしまうのも事実だった。勝手に、友人のことを調べるのは如何なものかと。

 

 

「この話はおしまい。じゃあ、家まで送っていくわ……ええと、お城?」

 

「いや、ここまでで良いよ。面倒なことになっちゃうよ?」

 

 何しろ、今回は脱走してからそれなりに日が開いているのだ。たまたま見つからなかったが、流石にもう捜索隊が出回っている頃であろう。正直、今後は再び脱走出来るかどうかも怪しい。

 

「誘拐犯だとか思われるのも嫌ですしね。甘えようか、ポプリ」

 

「お前がそれを言うのか……」

 

 治療のためだったとはいえども、彼がアルディスを非常に斬新なやり取りを交わしながら誘拐していったあの衝撃を、エリックは忘れてはいなかった。

 

「冗談ですよ、本当に大丈夫か?」

 

「うん、良く脱走してるから、道とか知ってるもん」

 

「それ、すっごく有名よ?」

 

 本当に? とエリックとマルーシャが問えば、ポプリとジャンクはクスクスと笑いながら肯定した――ちょっと、やり過ぎたかもしれない。無理だろうとは思いつつ、今後は控えようとエリックとマルーシャは胸に誓った。

 

 

「と、とりあえず……本当に、感謝してる。ありがとう」

 

「一時は、本当にどうなるかと思ってたから……」

 

 唯一の頼みの綱であったアルディスが動けなくなってしまっただけに、二人の存在は本当に心強いものであった。新しく出来た、年上の友人二人を前に、エリックとマルーシャはお礼の言葉とともに微笑んだ。

 そんな二人の姿を前にジャンクは左手を口元に持っていき、口を開く。

 

「何故だか分かりませんが、お前らとは再び巡り会うような、そんな気がするんだ……さよならではなく、『また会おう』と言っておこうか」

 

「それは無いわよ……と、言いたいところだけど、先生の勘って結構当たるのよね」

 

「はは、そうなったら嬉しいけど……それは驚きだな」

 

 何しろ、住む世界が違い過ぎる。旅をしている二人と、さらにはディアナと再開することはもう二度と無いだろう。そうは思っていたのだが、不思議と別れを悲しくは思わなかった。今日の朝、ディアナとあっさり別れることができたのは、そういう理由もあったのだろう。

 本当に不思議な感覚だった――その感覚を胸に、エリックとマルーシャは二人に背を向ける。

 

 

「じゃあ、さよなら……本当にありがとう!」

 

「エリック君、マルーシャちゃん。元気でね」

 

「ジャンの言葉を信じようか……さよなら、『また会おう』!」

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.13 白き疫病神の涙 ー前編ー

 

「はあ……」

 

 ごろり、と自室のベッドで横になり、エリックは天井を仰いだ。

 

(……疲れた)

 

 城の前まで行くと、やつれ切った使用人達が出迎えてくれた。怒涛の事情聴取をされながらエリック達が王の間へ行くと、そこにいたゼノビア女王――エリックの母は、あろうことか使用人達やマルーシャ達の前で泣きじゃくってしまったのである。

 それだけ、突然失踪した息子が心配だったのだろうが、あそこまで泣かれてしまうとエリックも気が気ではなかった。

 そのような状況と化していたこともあり、マルーシャは早々に隣のウィルナビス本家に戻っていったが、エリックはなかなか泣きじゃくる母から解放されなかった。

 

(まあ、いきなり息子が消えたら驚くよ、な……)

 

 遊びたい盛りな十八歳の少年とはいえ、エリックは王子である。エリックが失踪した際にゼノビアは、母として息子を心配するとともに、最悪のケースを想定してこの国の未来について考える必要もあったことだろう――エリックは、世間一般的な少年とは状況があまりにも違うのだ。

 

 エリック達の脱走に備え、警備はより厳しくなることは間違いない。今まで脱走ができていたのは使用人達の給料を引くと脅すほど脱走を良く思っていなかった大臣達に対し、心配性ではあるが理解力はあるゼノビアから実は見逃されていたということが大きかった。しかし、先程の母の様子を見る限り、これからはそうもいかなくなってくるだろう。

 少し憂鬱な気持ちになりながら、エリックは身体を起こす。彼は部屋の隅に置かれたグランドピアノの椅子に腰掛けると、譜面台に適当な楽譜を置き、鍵盤の上に指を置いた。

 

「……」

 

 奏でられるのは、落ち着いた雰囲気の中に静かな激しさを秘めた、独特の美しい旋律――ただ気分が落ち着かないから趣味のピアノに手を伸ばしただけであって、選曲に理由は無かった。しかしエリックは今の自分の心境を弾いているような気分になっていた。

 言い付けを守り、外の世界のことなどほとんど知らないまま王となり、国を導いていく……果たして、そんなことは本当に可能なのだろうか?

 

――自分はこのままで、それで、良いのだろうか?

 

 エリックの頭の中を、もやもやとした何とも言えない感情が埋め尽くしていく。そんな時、突然耳障りな不協和音が部屋の中に響いた。鍵盤を押し間違えたのだ。

 

「……ッ」

 

「うわっ、めずらしいね! エリックが間違えた!」

 

 全く関係ないことを考えながら弾いたりするからだ、とエリックは少々落ち込みつつ……今、この場で聴こえてはいけない“声”が聴こえたような気がしたためにゆっくりと窓へと視線を動かした。

 視線が合うと同時、声の主ことマルーシャは「来ちゃった?」と首をかしげて愛らしく笑った。そのまま、何の違和感も無さそうな様子で部屋の中に入ってくる。エリックは思わず、盛大に溜め息を吐いていた。

 

「君は何やってるんだ……」

 

「脱走?」

 

「おい……」

 

 近付いてきた彼女の頭をわしゃわしゃと撫で、エリックは再び溜め息を吐く。君はまだやるのかと。やるにしても早すぎるだろうと。使用人達は一体何をしているのかと。

 

 

「エリック」

 

「ん?」

 

「その、ね……何か、あっという間に物事進み過ぎて、不安なの」

 

 呆れ返っているエリックの心情を知ってなのかどうなのか、マルーシャはそう言って笑った。ひとりでは不安で不安で、仕方がなかったのだという。だからと言って逃げてくるなよと言いたくはなったが、その『不安』という点においてはエリックも全く同じ心境であった。

 

「……まあ、な」

 

 エリックはベッドに腰掛けつつ、マルーシャを手招きする。やって来た彼女は、何の躊躇いも無しにエリックの隣にちょこんと座った。

 

「正直、僕も思うよ。兄上の件、完全に納得されたわけだし……あんな話、普通信じるか?」

 

 エリックが言いたいのは、『兄に追われ、逃げざるを得なかった』というこうなった経緯の話である。いくらなんでも信じてはもらえないだろうと、二人は最後まで理由を話すことを拒んだ。適当にはぐらかしておこう、と決めておいたのだ。

 しかし、詳細を話すことを拒み続けているとまたしても女王が泣いたので、エリックが折れて話してしまったのだ。エリックは母の涙に弱いのだ。

 

「どちらにしたって、何か兄上信頼されてないみたいでさ。ちょっと、複雑だった」

 

 信じてはもらえないだろうと、嘘を言うなと泣かれる可能性もあるだろうなと、エリックは諦め半分で事情を話した。だが、待っていたのは予想外の事態だった。

 ゼノビア女王を始め、大半の使用人や大臣も、彼の話をあっさり信じたのである。要するに、ゾディートへの信頼はそれだけ無いということをエリックは感じてしまったのだ。

 

「違うよ。エリックが信頼されてるってことだよ、きっと」

 

「そうなら、良いけどな……」

 

「エリックはお兄様大好きだもんね」

 

 そう言って、どこか悲しげにマルーシャは笑う。それに対し、エリックは心底複雑そうな表情で「大好き、か」と呟き、自嘲的な笑みを浮かべてみせた。

 

「好きかどうかと問われればよく分からないが……まあ、尊敬はしてる。今回の件で嫌われてるんだっていうのは、痛いほど分かったけど……それに僕は、“あの事件”の犯人が兄上だとは、今でも信じてない」

 

「……」

 

「あ、ああ、気にするな。分かってたよ、あれだけ避けられれば、そりゃ……」

 

 物心付いた頃から、エリックはゾディートから避けられていたように感じていた。

 何故かは分からないが、城の中ですれ違っても、同室でしばらく過ごしていたとしても、声を掛けてもらえることはほとんど無かった。微笑み掛けてくれたことすらない。

 エリックが知る限り兄は、決して笑わない人間ではないというのに――とはいえ、“あの事件”以降、兄は本当に笑わなくなってしまったのだが――。

 

 どちらにせよ、ゾディートがエリックに対して厳しい態度を取っているのは疑いようのない事実である。

 挙げ句の果てには殺されかけたのだ。前々からエリックは『自分は兄に嫌われているんだろう』と感じていたが、実際にこのような目に合えば、分かっていようが分かっていまいが少なからず傷付くものだ。

 それが、表情に出ていたのだろう。マルーシャが「ごめんなさい」と微かに声を震わせて謝ってきた

 

 

「まあ、アルの時みたいにさ、ちょっと違う意味合いの避け方であって欲しいなと思いはしたかな。でも、僕が兄上に嫌われる理由はたくさんあるんだ。仕方ないんだよ」

 

「アルディスは……ね。確かに、アルディスの避け方はちょっと、普通じゃなかった。良い意味で、違ってたよね……お兄様も、似たような理由なら、良いのにな」

 

 ゾディートがエリックを“嫌う”理由が、アルディスと同じようなものならば良いのに――アルディスと出会い、過ごした日々を思いながら、エリックは天井を見上げる。

 

「……。あの時、他に掛けてやれる言葉は無かったのかって、今でも思うんだ」

 

「エリック……?」

 

 アルディスは過去に酷く傷付き、心を閉ざした少年だった。そんな彼と仲良くはなれたが、根本的な部分は何も改善されていないような気がしてならない。様子を見る限り、本来は人懐っこく、優しく穏やかな性格だっただろう彼は今でも、心を閉ざしたままだ。

 

「もっと、上手く言えてたら、良い言葉を選べていたならば、もうちょっと良くなってたんじゃないかって思うんだよ……」

 

 そう言って、エリックはマルーシャに笑いかける。その表情は、どこか切なげだった。マルーシャはエリックの笑みを見て一瞬言葉を失う。それでも彼女は頭を振るい、エリックの赤い瞳を真っ直ぐに見据えて口を開いた。

 

「そんなこと、分かんないよ。エリックが言った言葉が一番良かったのかもしれないし、違ったのかもしれない。それは、アルディスにしか……ううん、きっとアルディスにも分からないことだと思う。でも、でもね、少なからずアルディスは救われたんだって、わたしは信じてるよ」

 

 少し、間を開ける。それから、マルーシャは話を続けた。

 

「それに……“こっち側”も救われたんだって、ね……」

 

「え?」

 

「ううん、何でもない。何でもないよ」

 

 えへへ、とマルーシャは笑いながら窓の傍に行き、空を見上げる。その姿を眺めながら、そういえばとエリックは思った。

 

(あの日も、こんなきれいな青空だったよな……)

 

 それはもう、八年も昔の出来事だというのに、あまりにも繊細な思い出として残っていた。今でも、細部まで思い出すことができる。あの日、あの時の出来事。風景、そして想い――エリックは無意識のうちに、それらを思い返していた。

 

 

―――――――――――

 

―――――――

 

―――

 

 

 それは八年前。エリックが十歳だった時の話である。

 

 エリックはいつものように、塔の最上階にある自室で過ごしていた。これは八年後も対して変わらないのだが、当時の彼はこの様な生活に今以上に嫌気が指してしまっていた。仕方がないのだと諦めることができていなかったのだ。

 窓の外を見れば、城下町で同い年くらいの子どもたちが走り回っている様子が見える。できることならば自分も外に出て、彼らのように走り回って遊びたい……。

 王子とはいえ、十歳の子どもに過ぎない彼ならば持っていても仕方のない感情だろう。

 どうしようもない感情を持て余し、エリックは溜め息を吐く。窓の外を見ながら、今日は良い天気だな、とのんびりと考えていた。

 

 

「エリック!」

 

「……?」

 

 よく見知った少女の声が聞こえたのは、そんな時であった。

 

「マルー、シャ……?」

 

 おもむろに、エリックは正面のドアへと視線を動かしたが、そこには少女――マルーシャどころか、誰の姿もない。人がいる気配もない。

 

「エリック~、ここだよぉ!」

 

 クスクス、という笑い声が聞こえた方をエリックは見た。そして、驚愕した。

 

「!? ま、ま、マルーシャ!?」

 

 エリックの目に映ったのは、ドレスの裾をなびかせ、窓枠に立ってクスクスと笑う金髪の美少女……こと、許嫁のマルーシャである。

 普通にドアから入ってきて、窓枠まで行ったわけではない。それに気付かないほど、エリックは鈍くない。どう考えても、城壁を登ってここまでやって来たのだ。

 淡い空色をしたドレスの、上品なレースのあしらわれた裾が風でひらひらと揺れている。

 下から中を覗いてみたいとは、断じて考えていない。

 

「ドアから入って来いよ……危ないじゃないか……」

 

「エリック、また身体おかしくしてるでしょ? 会っちゃ駄目だって言われたの。普通に会えないんだもん。“きょーこーとっぱ”ってやつだよ!」

 

 その言葉に、エリックは何も言えなくなってしまった。今日は本当に、いつも以上に体調が悪かったのだ。面会拒否までされていることは、知らなかったのだが……。

 

「いつもと変わらないさ……ただ、早朝に発作起こしただけで……」

 

「ほらー! また何か無茶したの!?」

 

「べ、別に……」

 

 どういう訳か、一つ歳下の彼女は、本当に自分の事を心配してくれている。許嫁だからなのかもしれないが、そうだとしても、それは素直に嬉しかった。

 

「ところで、身体は?」

 

「これくらい、大したことない。平気だよ。どうした?」

 

 見栄を張りはしたが、全部が全部嘘というわけではない。事実、エリックは悲しくも発作には慣れていた。加えて、彼の持病は数年前まではろくに外も出歩けないほどの重いものだったのだ。その頃を思えば、今の症状は軽いと言い切っても良いほどである。

 そんなエリックの言葉を聞いて、マルーシャはキラキラと目を輝かせた。

 

「じゃあ、お出かけしよ? ね?」

 

 どこからともなく、長いロープを取り出して彼女は笑う。そのロープの意味、そして、マルーシャの発言の意味は、すぐに分かった――これから一緒に脱走しよう、そう言っているのだ。

 

「えええええぇぇ!?」

 

「そんな驚かなくても良いでしょ!?」

 

 エリックは叫んだ。しかし、マルーシャは本気だった。

 

「い、いや……その……」

 

 当時の彼は知らなかっただろうが、マルーシャはともかくエリックは城に使える者達の間で“模範生”等と揶揄される程に真面目な存在であった……というのも、次期国王としては絶望的なほどに不安の種である病弱体質なのはさておき、幼くして国を想い、何かを学ぼうとする彼の姿や、「使用人を使用しない」などと上手いことを言われるほど人を気遣うエリックには、とにかく期待と好感が積み重なっていた。

 前国王が暴君で有名だったラドクリフ王国にとって、その真逆を行く性格の持ち主であったエリック王子は『希望』だった。だからこそエリックは、それに答えようとしていたのだ。

 

「良いでしょ? ね?」

 

 そんな模範生が、脱走なんてすればどうなるやら……しかし、じっとこちらを見つめてくるマルーシャの期待のまなざしが、辛い。

 

「う……だ、だから……」

 

「だめ……?」

 

「……す、少しだけ、だからな……」

 

――それは、模範生エリック王子が敗北した瞬間であった。

 

 敗因は、外の世界への好奇心と……後は、言うまでもない。色んな罪悪感を抱きながら、エリックはマルーシャの持つ縄を手に取った。

 

 そしてその後、ラドクリフ城とウィルナビス家に使える者たちは『減給』という名の悲劇に抗うため、どういうわけか突然“グレた”模範生王子とどうしようもないお転婆嬢の両名を、血相を変えて追い回すこととなるのは言うまでもないだろう……。

 

 

 

 

「ちょっと! あの二人ってまさか……」

 

「ええ、あの男の子の右手。間違いないわよ、きっと……」

 

 初めての脱走から、数十分後。何も考えず、コソコソと街まで出てきたは良いのだが、エリックもマルーシャも人々の反応に驚かされることとなった。

 城や屋敷に居た時と同じ服装をした二人は、当然ながら街では浮いてしまう――加えて、エリックの右手の甲には次期国王の証である紋章が刻まれている。目立つどころの騒ぎではなかったのだ。

 

「うっかりしてた。これはちょっと良くないかな……マルーシャ、走れる?」

 

「う、うん……」

 

 人が少しずつ集まってくる中、マルーシャはこくりと頷いた。それを見て、エリックは彼女の手を強く掴み、走り出す。街を行き交う人々にぶつかってしまうことも多々あったが、気にしている余裕はない。

 

(この紋章……! 隠しとけば良かった……っ)

 

(スカート長すぎだよぅ……うう……っ)

 

 二人の正体に気付いている者、気付いていない者。様々なパターンがあったが、とりあえず、この場を離れるべきであろう。二人は自身の服装を本気で反省しながら、人気の無い場所へと走って行った。

 

 

「マルーシャ……大丈夫か……?」

 

「え、エリックこそ……! 身体悪いのに、ごめんなさいぃ……!」

 

 しばらく走り続け、二人は青々とした木々が茂る森へと訪れていた。迷い込んだわけではなく、森なら大丈夫だろうとこの地を目指したのである。

 日頃、高い塔の部屋から街やその周りの光景を見下ろしていただけに、ここに森があるということをエリックは知っていたのだ。

 “ヘリオスの森”と言うらしいここは、森と言う割には明るい。立ち並ぶ木々の間から、美しい木漏れ日が差し込んでいることが理由であろう。

 

「暖かいね~」

 

「うん……」

 

 何よりも、空気が物凄く綺麗で澄んでいる。生まれ持った持病のこともあり、エリックはそれを敏感に感じ取ることができた。冷たい空気と草木の良い香りが、疲れた身体を安らげてくれる。

 

 だが、それだけではなかった。清々しい風に乗って、微かに笛の音が聞こえてくるのだ。

 

「ねえ、笛かな……音がしない?」

 

 美しい高音が、狂いのないメロディラインを紡ぎ出す。エリックもマルーシャも立場上交響楽団が奏でる演奏を聴くことが多く、様々な楽器とその楽器が持つ音色を知っていた。しかしこの笛の音は、未だかつて聴いたことが無いものであった。

 

「何だろ、この笛」

 

「さあ……? ねえ、行ってみようよ!」

 

「そうだね」

 

 はしゃぐマルーシャの頭を軽く撫で、エリックはもう一度耳をすませた。大体の方向は、分かった。その方向は間違っていないらしく、歩けば歩くほど、音は鮮明になっていく。それに導かれるようにしばらく歩き続け、少し開けた広場のような場所を木々の隙間から確認することが出来た。どうやら、笛の音の主はここに居るらしい。

 

「わぁ……綺麗な場所だね……!」

 

 小さなその空間だけは、他の場所よりも若干明るいような気がする。それでも、日差しは決して強すぎることなく、そこに降り注いでいる。

 

「あ、マルーシャ。ほら……」

 

 エリックがある一点を指差した。その時、再び穏やかな風が吹く――彼らの目の前で、幼い子供が纏っていたローブが静かに揺れた。

 

「……」

 

 身長はエリックと変わらないくらいか、少し高いくらいだろう。金の刺繍が入った純白のローブに身を包む子どもの左横顔が見える。中性的な外見だが、身長から判断するに恐らくは少年だ。

 

「何か、きれいな人だね……」

 

「歳は同じくらい、かな。あの楽器、なんだろう……それに、あの子の容姿自体も……」

 

 “彼”は幻想的な、雰囲気を漂わせていた。少年は少し苔の生えた木に寄り掛かり、繊細な装飾が施された黒塗りの横笛を吹いている。横笛はピッコロとフルートの中間くらいの大きさをしていたが、そのどちらでもない独特の音色が特徴的であった。

 そして楽器よりも特徴的だったのは、その演奏者である少年の容姿であった。深く被ったフードの間から覗く髪の色は、雪を思わせる白銀色。このような人間が存在するのかと問いたくなるような、不思議な髪色だった。

 

「……」

 

 繊細な音色に釣られたのか、小鳥達が彼の傍にやってきた。それに気付き、うっすらと開かれた瞳は翡翠のように深い緑色をしている。これはこれで、またしても見慣れない色である。彼が幻想的な雰囲気を纏っているのはその希少な容姿故かもしれない。

 鳥と戯れつつ、少年はエリックたちが隠れている方向へと視線を向けた。その手には、いつの間にか取り出したらしい拳銃が握られている。

 

「誰? さっさと居なくならないと……撃つよ?」

 

「!?」

 

 気付かれてしまった。しかも、少年からはただならぬ殺気を感じられる上、顔の右半分を覆い隠す大きな眼帯が何とも言えない存在感を発しており、幼い少年少女には恐怖しか与えなかった。怯え、「どうしよう」とマルーシャはエリックへと視線を移した……だが。

 

「ッ! ごほ……っ」

 

「エリック!」

 

 今、声を出せば完全に気付かれてしまう。しかしながら、そんなことを考えていられる状況ではない。

 

「ゴホ……ッ、ゲホゲホッ、――ッ!」

 

 タイミング悪く、発作が起きてしまったらしい。エリックは口元を押さえながら、反対の手でマルーシャの頭を撫でる。大丈夫だと言いたいのだろうが、彼の顔は酷く青ざめていた。頭を撫でてくれる手も、ガタガタと震えていた。

 

(ど、どうしよう……! わたし、わたしが連れだしたからだ……!!)

 

 面会を断られるほどに、エリックの体調が優れないということは知っていたのに。どうして良いか分からず、マルーシャは半泣きで天恵治癒(エルフリーデ・イヴ)を発動させた。

 

「……」

 

「! あ……っ、う……っ」

 

 そんな時、仮面を貼り付けたかのように無表情な銀髪の少年が二人の前に現れた。恐怖のあまり、マルーシャはビクリと肩を大きく震わせる。

 

「!? 何かの発作!? 大丈夫!?」

 

 しかし、少年が二人に見せた反応は予想外のものであった。

 

「とにかく、ちゃんと呼吸するように意識して。痰詰まってるなら出して」

 

 真っ白なローブが汚れるのも気にせず、少年はその場に座り込んでエリックの肩を叩く。少なくとも、彼は本心からエリックを心配しているということが分かる。その様子を見て、マルーシャはついにボロボロと涙を溢し始めた。

 

「……ッ、エリックは身体が弱いの! なのに、わたしが連れだしちゃったからぁ……ッ!」

 

 泣きじゃくるマルーシャをまじまじと見つめ、少年は無表情のまま口を開いた。

 

「それ、体力持つならそのまま続けて」

 

「え……?」

 

天恵治癒(エルフリーデ・イヴ)は普通の魔術と違う。だから、そんなに力まないの。ほら、力抜いて。上手くできないなら深呼吸して」

 

「う、うん……!」

 

 少年の細かい指示を聞きながらマルーシャは力を加減していく。このような体質だ。エリックは今までにも、彼女の能力にお世話になっていた。だが、今回はこれまでに受けたものよりも効果が遥かに高いことが分かる。

 

(何で、こんな詳しいんだろ……外の人間はそういうもの、なのか?)

 

 呼吸が楽になるのを感じながら、エリックはその様子を不思議そうに眺めていた。

 マルーシャは七歳で覚醒したのはいいが、彼女と同じ能力の使い手は全く見つからなかった上に、貴族である彼女の場合はどうしても能力を使う機会も限られてくる。それゆえマルーシャは天恵治癒(エルフリーデ・イヴ)の能力を全くと言って良いほどに使いこなせずにいた。

 それにも関わらず、自分達と大して変わらないような歳の少年が希少な能力である天恵治癒(エルフリーデ・イヴ)について詳しく知っていたのだ。エリックが不思議に思うのも無理はない。

 

「……あ、ありがとう、もう大丈夫……」

 

「うん、もう大丈夫そうだね……じゃ?」

 

 エリックの様子を見て少年はため息混じりに立ち上がり、踵を返す。そのまま立ち去ろうとする彼のローブの裾を、マルーシャが咄嗟に掴んだ。

 

「ま、待って! あの、本当にありがとう! ねえ、名前……名前、何ていうの?」

 

 お友達になってよ、と笑うマルーシャを見下ろす少年の瞳は、酷く冷たかった。

 

「俺の名前なんて……聞いたって、どうせ必要ないでしょ。少なくとも、君達には」

 

 そんな彼の瞳は、エリックの右手に刻まれた紋章へと向けられていた。要は、エリックが王子で、マルーシャはその関係者だと分かっていながらの対応である。王家に喧嘩を売っているとしか思えない行為だ。

 

「あ! いや……えっと……」

 

「アベル王子と、多分、君はその許嫁のイリスお嬢様でしょ? 日が落ちる前に、帰りなよ」

 

 別にエリックもマルーシャもそれを咎めるつもりはなかったが、彼の態度は明らかに平民から貴族へ向けられたものではなかった。独特の容姿からして、彼は間違っても龍王族(ヴィーゲニア)ではない。それが関係しているのだろうかとは思ったが、素直に帰る気は無かった。そんなエリックとマルーシャの態度に、少年は溜め息を吐いた。

 

「言っとくけど、ここ、魔物出るから。それも、結構素早い狼型の」

 

「ま、魔物……っ!?」

 

「だから、早く帰れ。そんな護身用の短剣じゃ、色々無理がある」

 

 二人が持っていたのは、簡易な装飾の施された短剣のみ。これだけで戦えと言うのは少し無理があるし、そもそも魔物など見た事がない。おろおろと動揺する二人を見て、アルディスは再び溜め息を吐き、エリック達から目を逸らして腰を低く落とした。

 

「! ほーら、騒いでるからだ。言わんこっちゃない……」

 

「え……?」

 

 少年の手には、いつの間にか薙刀が握られている。茂みが揺れ、立ち上がれば自分達よりも大きいであろう狼型の魔物が一体姿を現した。

 

「分かったらさっさと帰れ」

 

「で、でも……」

 

「良いから!」

 

 少年がくるりと一回転させた薙刀の切っ先は電流で微かに光っていた。飛び掛ってくる魔物に物怖じすることなく、彼は地を蹴って軽やかに飛び上がった。

 

雷神槍(らいじんそう)! ……幻影刃(げんえいじん)ッ!」

 

 切っ先から落ちた雷が魔物の身体を貫き、その隙に少年自身は目にも止まらぬ速さで魔物の横を駆け抜け、すれ違いざまに斬り付けていた。魔物は空気中に分散する――後々エリックは知ることになるのだが、魔物というのは死亡とともに魔力の粒子として空気中に分散するものなのだ。当時の彼は、そんなことを知るはずも無く、技の効果だろうとしか思っていなかったのだが。

 

「わ、すごい!」

 

「! マルーシャ!!」

 

「え!?」

 

 最初に出てきたのが一体だけだったために、油断してしまった。マルーシャの背後から魔物が顔を覗かせている。一番弱そうな彼女に狙いを定めたらしい。

 

「くそ……っ!」

 

 エリックは咄嗟に短剣を抜いたが、魔物の牙を見て微かに肩を震わせた。魔物は地を蹴り、勢いをつけて茂みから飛び出す。顕になった全貌は、先ほどの魔物よりも大きかった。

 

「――ッ!」

 

 思わず、怯んでしまった。それ幸いと魔物は大きく口を開け、飛び掛ってくる。どうしようも無いと目を固く閉ざした瞬間、エリックは少年に突き飛ばされていた。

 

「うあぁッ!!」

 

「!?」

 

 少年の悲鳴が上がる。見れば、彼の右足に魔物が噛み付いていた――庇われたのだ。それをエリックが理解するのは、決して難しいことではない。

 

「ッ!」

 

 ギリギリと歯を食いしばり、少年は右足に固定されたホルダーに手を伸ばし、先ほど手にしていた拳銃を掴んだ。彼はその拳銃で魔物の頭をガツンと殴り、魔物が口を離すのを見計らって引き金を引いた。

 

「ギャインッ!!」

 

 致命傷にはならなかったようだが、前足を打ち抜かれた魔物は悲鳴を上げ、一目散に茂みの中に逃げていった。その様子を見届けた後、少年は小さな呻き声を上げてその場に崩れ落ちてしまった。

 

「大丈夫か!? おい!!」

 

 エリックとマルーシャは倒れた少年の足を見て、思わず身体を震わせた。彼の足には、赤黒い血に塗れ、折れた魔物の牙だけが残されていた。それは、少年が履いていた革製のブーツさえも軽々と貫いている。

 

「……ッ」

 

 少年は手身近にあった植物の蔦を足に巻き付け、一息に牙を抜いた。蔦を巻いて出血を抑えようとしたのだろうが、それはあまりにも無意味だった。

 

「俺も、馬鹿だな。本当に……ッ」

 

 薙刀を杖代わりに、少年はゆっくりと立ち上がった。傷口から、赤い血が流れ落ちる。辺りには、あっという間に血の臭いが広がっていった。

 

「そ、それ、すぐに……治すから……!」

 

 涙目で駆け寄ってきたマルーシャの頭に手を乗せ、彼はバツが悪そうに視線を逸らした。

 

「やめなよ。未熟な君が、むやみに能力を使わない方が良い。良いから、さっさと帰れ……ッ!」

 

 少年の額から、冷や汗が玉となって流れる。唇は、微かに震えていた。ただでさえ白い肌は、どんどん真っ青になっていく。ガクン、と少年の膝が砕けた。

 

「! おい!」

 

 茂みに埋もれかけていた彼を支える様に、エリックは手を伸ばした。腕力には自信がなかったのだが、少年は片手だけで支えられるほどに軽い。ローブに覆われていたせいでよく分からなかっただけらしい。彼は酷く、華奢な体格だった。

 

「っ、痛……」

 

 生理的な涙が浮かんだ、少年の左目は固く閉ざされている。本当に辛いのだろう。その身体は、微かに震えていた。

 

「大人しくしてろ! このまま僕が家まで、連れて行く!」

 

「! だ、大丈夫だ……下ろせ、病弱野郎……!」

 

 やはり、いざ抱え上げてみると少年は随分と軽かった。体重だけならマルーシャと殆ど変わらないかもしれない。

 

「わたし、これ持ってくね!」

 

 後ろでマルーシャが彼の薙刀や拳銃を回収しながら叫ぶ。それを横目で確認し、エリックはそのまま森の奥へと進んでいった。

 

 

 

 

 抵抗しつつも聞けば律儀に道を答えてくれるという、見事に言動が一致しない少年を何とか彼の家らしき古びたログハウスまで運び終え、エリックは彼をベッドの上に下ろした。少し待っていたが、誰かが出てくる気配は無かった。

 

「一人暮らしなのか? えっと……」

 

 少年が名乗ってくれないために、何と呼べば良いのかが全く分からない。そんなエリックを見て、少年は諦めたように口を開いた。

 

「アルディ……じゃなくて、アル。俺はアルだよ……これで良い……?」

 

「アル! アルっていうんだ!!」

 

 マルーシャは嬉しそうに笑みを浮かべるが、エリックは聞き逃さなかった。少年が“アル”と名乗る前に、何かを言いかけていたことを。

 

「おい、偽名だろそれ。というより……愛称?」

 

「!?」

 

「そういえば“アルディ”って途中まで言ってたね……あ!」

 

「ちょ、ちょっと!」

 

 ひょい、とマルーシャはベッド脇のチェストの上にあった赤いハードカバーの本を手に取った。どうやら、日記帳らしい。

 

「あー、うん。名前の刺繍入ってる。プレゼントなの? えっと、“アルディス”」

 

「~~ッ!」

 

 マルーシャの言葉に少年――アルディスは盛大に目を泳がせる。それを見て、エリックはクスクスと笑った。

 

「名前隠す方が悪いんだろ? 中身、読んでも良いか?」

 

「駄目!」

 

「じゃあ、フルネームで名乗ってもらおうかな。僕らだけ名前知られてるのも嫌じゃないか」

 

「そっちは有名人じゃないか! ああもう、分かったよ……っ! 俺は……アルディス。アルディス=クロードだ!」

 

 アルディスが漸くまともに名乗ったのを満足しつつ、エリックは彼に日記帳を返した。盛大に舌打ちされたが、この際もう気にしないことにする。

 

「……もう、良いだろ。帰れ」

 

「えー」

 

 日記帳を毛布の中に隠し、アルディスはぷいと目線をそらして吐き捨てるように言った。拗ねるマルーシャの頭を軽く撫で、エリックはベッドに座ったアルディスと視線を合わせた。

 

「分かった、帰るよ。その代わり、明日も来て良いか?」

 

「えっ!?」

 

 エリックの言葉に、アルディスは明らかに動揺する。

 

「え、エリック……」

 

「駄目、か?」

 

 動揺しているのは、実のところマルーシャも同じだった。エリックの身体のことや、アルディスの冷たすぎる対応を気にしているのかもしれない。それでも、エリックは意思を変えることなくアルディスの顔色を窺い続けた。

 

「な……何で……」

 

「お前に興味があるから。これじゃ、駄目か?」

 

「……ッ」

 

 何故かは分からないが、アルディスの翡翠の瞳が酷く不安気に揺らぐ。その変化を、エリックもマルーシャも決して見逃さなかった。幼いながら社交の場に出ることもある二人は、人の顔色の変化には敏感なのである。

 

「……」

 

 アルディスはしばらく黙っていたが、やがて、決まりが悪そうに毛布に潜りこんでしまった。

 

「ちょっ!」

 

「勝手に、すれば?」

 

 それは、まともに聞き取ることすら苦労するほどの小さな声。アルディスが被った毛布をはぎ取ろうとしたエリックの手が止まる。

 

「分かった。じゃあ、また明日も来るな?」

 

「……」

 

「えへへ、ありがと。またね!」

 

 アルディスから返事が返ってくることも、毛布から顔を出して見送ってくれることも無かったが、それでも良かった。

 彼の家を出て、しばらく進んでから不意に振り返る。微かにカーテンを開け、家の住人がこちらを見ていることにエリックは気が付いた。

 

 

「……。なあ、マルーシャ」

 

「ん? 何?」

 

 何故かは分からない。ただ、アルディスを見て何かを感じた。そうマルーシャに言えば、彼女は一瞬だけ目を丸くし、やんわりと笑う。

 

「わたしも、そう思ったよ」

 

「やっぱり?」

 

「うん。とりあえず、絶対に明日も、ここに来ようね?」

 

 何とか抜け出せれば良いなとエリックは苦笑する。正直、騒ぎを起こしただけにかなり難易度が跳ね上がっていそうだ。とりあえず、最低でもこの服装で抜け出すのは論外だということは分かる。

 

「まあ、まずは無事に城に帰らなきゃならない訳で」

 

「ろ、路地裏でも通ったら良いのかなぁ」

 

 

 そして帰り道。結局二人は壮絶な勢いで騒ぎを起こした。

 

 

 

―――― To be continued.

 




 
いきなり泣きじゃくったゼノビア陛下(エリック母)

【挿絵表示】

(絵:長次郎様)


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Tune.14 白き疫病神の涙 ー後編ー

 

「エリック。準備できた?」

 

「できたよ。それと、これ……」

 

 右手の紋章を手袋で隠し、エリックはテーブルの上に置いてあった小袋を持ち上げた。振動を与えたことにより、袋の中の物がチャリンと音を立てる。聞き覚えのある音ではあるが、エリックにもマルーシャにもあまり馴染みのないものだ。それでも、中身に察しが付いたのだろう。マルーシャは驚き、目を丸くする。

 

「え? それ、ひょっとしてガルド? どこで手に入れたの?」

 

 そのままの服装ではあまりにも目立ちすぎる。城下町の中央商店街で服を買おうという話になったのだが、服を買うにはガルドが必要となる。しかし二人ともそのような物は持っていないし、立場上、誰かから貰うということ自体難しい……どうしたら良いのだろうと昨日話していたばかりなのだ。どうして、とマルーシャは首を傾げる。

 

「それが……何故か、この袋が服のポケットの中に入ってて。どうしようかと思ったんだけど、とりあえず、借りとこうかなって」

 

「メイドが洗濯する時にうっかりしてたのかなぁ……不思議だね」

 

「良いのかな、とは思うけどさ」

 

 背に腹は代えられないだろ? とエリックが悪戯めいた笑みを浮かべれば、マルーシャはクスクスと笑ってみせた。

 

「でも、なるべくお金掛からないようにしとこっか。やっぱり悪いもん」

 

 

 そうしてエリックとマルーシャの二人は謎の脱走スキルを高めていき、使用人たちをかわし、城下町を平然と歩き回るようになり――現状にいたるわけだ。

 

 この時のガルドの持ち主は、今もなお分かっていない。本当にメイドのうっかりミスだったとすれば、後悔どころの騒ぎではないだろう。何しろ二人の脱走癖が悪化する原因となってしまったのだから。

 

 はた迷惑な遊びを覚えてしまった二人ではあったが、城を抜け出して行く先は結局今も昔もアルディスの家一択であった。途中に寄り道を挟むことはあれども、最終的な目的地は結局親友の家なのである。

 

 今でこそアルディスは二人を受け入れてしまっているが、当初は「迷惑だ」と溜め息しか吐いていなかった――そんな彼がエリックとマルーシャを受け入れるきっかけとなった事件は、二人が初めて脱走してからちょうど二週間目に起こった。

 

 

 

 

「何というか、ここまで来るのにも慣れたよな?」

 

「慣れなくて良いのに……」

 

「あまり怒られなくなったしね」

 

「怒られれば良いのに……」

 

――曇りない青空が広がる、よく晴れた昼間。開かれた窓から入ってくる風が、心地よい。

 

 アルディスの家に置いてある、温かみのある木製の椅子に座り、当たり前のようにくつろいでいるエリックとマルーシャを見て、家主は盛大にため息を付いた。

 

「知ってる? 今日で二週間目だよ? 君たちの実家の人たち何してんの? 馬鹿なの?」

 

 悪態をつきながら、アルディスはベッドに腰掛けて分厚い本を読んでいる。小説ではなく、どうやら学術書のようだ。題名を見る限り、恐らく魔術関連の内容である。

 

「そんなの読んでないで、一緒に何かしようよ!」

 

「嫌だ」

 

「ねーねーっ」

 

「いーやーだ」

 

 つまんない、とマルーシャが頬を膨らませる。そんなことはお構いなしに、アルディスはごろりとベッドに寝転んだ。

 

「何度も言ってるだろ、俺に構うなって。つまらないなら、他のとこ行け他のとこ」

 

「二週間経ったんだぞ。もう少しは慣れてくれたって良いじゃないか」

 

「二週間経ったんだ。君たちこそ諦めれば良い」

 

 最初から分かっていたことだが、アルディスは何をしてもクスリとさえ笑ってくれない。彼は、常に無表情だった。その上、彼はほとんど自分のことを話さない。何とか名前は聞き出せたものの、それっきりである。誕生日すら教えてくれない始末だ。

 本人も分かりきっているのだろうが、どんなに空気が悪くなろうとも、アルディスは態度を変えなかった。冷ややかな翡翠の瞳が、こちらを見つめてくる――それでも。

 

「だったら、本格的に拒絶すれば良いじゃないか」

 

「アルディス、本当は嫌じゃないんでしょ? 分かってるもん」

 

「……!」

 

 恐らくアルディスは、本心から自分たちを拒絶しているわけではないーー。

 

 この二週間、何も考えていなかったわけではない。エリックとマルーシャは、アルディスの態度を見て、そのように感じていた。

 何より、今こうしてアルディスの家に二人揃って上がり込んでいられることがその証明となるだろう。アルディスの実力ならば、片足を負傷していようとも二人を追い出すことくらい簡単なはずだ。

 

「だってさ、いつも鍵とか開けっ放しだもんね。気付いてるよ」

 

「言葉で追い払おうとするだけだもんな。お前」

 

 本当に拒絶したいのならば、鍵をかけるなり攻撃するなりすれば良いのに。アルディスは何故か、それだけはしなかった。しかし、確信を付いたかのように思えた二人の言葉を聞き、アルディスは舌打ちするとともにベッドから立ち上がる。近くに立てかけていた簡易的な杖を取り、彼は蔑むようにエリックとマルーシャを見た。

 

「……。それが?」

 

「え……」

 

「鍵をかけないのは、純粋にこの家にはそんなもの存在しないから。そう言うなら、足が治ったら南京錠でも何でも買いに行くよ」

 

 マルーシャは外へと繋がるドアを見て言葉を失う。古い家ゆえなのか、確かにそこに鍵は付いていなかった。

 

「……ッ」

 

「何度も言うけど、ここは王族が来るような場所じゃない。魔物が出るってのも、分かってるだろ」

 

 二週間前、アルディスは魔物からエリックを庇い、足に大怪我を負った。その時の傷は、今も癒えていない。後遺症が残ることはないだろうが、確実に傷跡は残るだろう。

 

「足……まだ、駄目そうか?」

 

「これが大丈夫そうに見える?」

 

「……ごめん」

 

 別に良いよ、とは言うものの、アルディスは不愉快極まりないといった様子だった。それが、何を意味しているのかは分からない。ただ、良い意味でないことは確かだろう。アルディスに冷ややかな目で睨まれながらも、エリックは必死に笑みを浮かべてみせた。

 

 

「なあ、アル。何か……買い物でも、行ってこよう、か?」

 

「え……」

 

「いや、だってそれじゃ買い物とか行けてないだろ?」

 

 上手く話題を振れた、とエリックは内心笑みを浮かべた。断りたいのだろうが、実際に困っているのだろう。アルディスは目を伏せ、少しの間だけ考え込んでいた。

 

「……君に買い物とか、出来るわけ?」

 

「大丈夫だよそれくらい。任せろ」

 

「あ、わたしも行くよ!」

 

 はいはい! とマルーシャが手を振ってアピールする。それを見て、アルディスは渋々メモ帳を手に取った。

 

「変なものとか、妙に高いもの買ってこないでよ……」

 

「大丈夫だよ。わたし、王族だからって金銭感覚そこまで狂ってないし」

 

「……僕が見張っとくから安心しろ。ていうか、中心商店街とかその辺行けば良いんだろ?」

 

「中心商店街の商品って若干高いんだけど……やっぱ頼むのやめようかな……」

 

 ぶつぶつ呟きながらも、結局二人に頼ることにしたらしいアルディスはメモ帳を一枚破ると、鞄の中から取り出した財布と一緒にしてエリックに手渡した。

 

「へえ……食料品ばっかりだね。アルディス、お料理作れるの?」

 

「不安だから必要最低限のものしか書いてない。あと俺の場合、料理出来なきゃ困るだろ」

 

「確かに、お前一人暮らしだもんな……なぁ、今度何か食わせてくれよ」

 

「はぁ!?」

 

 何の躊躇いもなしにそう言ったエリックに、アルディスは盛大に声を裏返らせる。

 

「君、本当にお気楽だよね。俺が毒盛らないって保証は無いと思うよ」

 

「おいおい……これでも、信用してるつもりなんだけど」

 

 エリックの言葉に、アルディスは目を丸くする。何を言おうか、悩んでいる様子であった。

 そして彼は悩み抜いた末に溜め息を吐き、エリックにこれまで以上に冷たい視線を向けて口を開いた。

 

「はっ……君は良いよね、何の苦労もしてなさそうで。“俺なんかと違って”由緒正しき血を引いた、完璧で皆に愛される王子様だもんね……?」

 

「ッ!」

 

 それは、明らかにエリックに対する悪意しか込められていない言葉であった。アルディスの表情は変わらなかったが、彼の表情が変化していたとしたら歪んだ笑みを浮かべていたことだろう――“嘲笑”という名の、エリックを見下す笑みを。

 

 

「そんなことないもん!!」

 

 そんなアルディスに向かって異を唱えたのは、エリックではなくマルーシャだった。彼女が勢いよく立ち上がったことによって座っていた椅子は後ろに倒れ、耳障りな大きな音を立てる。

 

「そんなこと……ないもん! エリックは、ずっと大変な思いしてきたんだよ!?」

 

「マルーシャ、別に良い。気にしてない」

 

「だって!」

 

 微かに身体を震わせるマルーシャの瞳には涙が浮かんでいた。そんな彼女の頭を撫でるエリックの表情は酷く、硬くなっていた――アルディスを庇いはしたが、傷付かなかったわけではないのだ。それに気付いたマルーシャは涙の浮かぶ瞳でアルディスを睨みつけている。やってしまった、とエリックは思った。

 とりあえず二人を離した方が良いだろう。そう判断したエリックは「あはは」と乾いた笑い声を上げ、マルーシャの肩をポンポンと叩いた。

 

「気にすんなよ、アル。とりあえず……買ってくるから」

 

「……」

 

「行こう、マルーシャ」

 

 未だに怒っているマルーシャに笑いかけ、エリックはアルディスの傍から離れてドアノブに手を掛ける。その時、後ろでガタンと大きな音がした。

 

「痛っ!? ぐ……っ!」

 

 前髪と眼帯の上から右目を押さえ、アルディスが蹲っている。音は、彼が床に崩れ落ちた音だったらしい。杖は、彼の横に無造作に転がされていた。

 

「!? アル! どうした!?」

 

「ッ、気にするな! 行くなら、さっさと行ってこい」

 

「い、いや、なんか、追加で買ってきた方が……」

 

「……。だったら、これ……っ、分かるなら、買ってきて……」

 

 余程辛いのだろう。エリックの申し出にアルディスはあっさりと折れ、メモ帳に何かを書きなぐってエリックに渡してきた。書かれていたのは包帯とガーゼ、それから――かなり強い効果を持つ、痛み止めの名称。

 病弱なエリックだからこそ分かったのだが、これは副作用も強い。この痛み止めでなければいけないのだとすれば、今、彼は相当な激痛に耐えているということになる。

 浅い呼吸を繰り返し、アルディスは這いずるようにベッドに戻る。吹き出した冷や汗がシーツに落ち、小さな染みを作った。押さえられた右目がどうなっているのかは、よく分からない。

 

「ま、待ってろ! 行こう、マルーシャ!」

 

 様子からして、少なくとも足の痛みよりも酷いことは確かだ。流石に長話をしている場合ではないと判断したエリックはマルーシャの手を引き、家を飛び出していった。

 

 

 

 

「ねぇ、エリック……わたし、アルディスの家に戻っても良いかな?」

 

「え?」

 

 少しだけ進んでから、マルーシャは立ち止まってエリックを見た。随分と気持ちが落ち着いたようだ。彼女は既に、冷静さを取り戻していた。

 

「わたし、怒っちゃってたから頭回らなかったんだけどね……先にアルディスの傷に治癒術掛けといた方が、良いかなって。わたしは残っといた方が、良いかなって」

 

「あ、あー……そういえば……」

 

「だってさ、エリックあんなこと言ってたけど……店の場所、知らないでしょ」

 

 痛い所を付かれ、エリックは乾いた笑い声を上げる。図星だったのだ。

 

「完全に治せるわけじゃないだろうけどさ。それでも、時間稼ぎにはなるかなって」

 

 買い出しにどれだけ時間が掛かるか分からない。この場合、あの状態のアルディスを一人にしておくのはどうかと思う、というマルーシャの意見が正論だろう。第一、ここで二人揃って買い出しに行くメリットはそこまでないのだ。

 

「一度帰ろうか。大丈夫か? マルーシャ」

 

「わたしは平気。任せて?」

 

 幸い、そこまで進んではいない。魔物に遭遇する可能性も考え、エリックもマルーシャと共に一旦アルディスの家に戻ることにした。少し急ぎ足で、来た道を逆走する。家の前まで戻るのには十分と掛からなかった。

 

 

「……ッ、う……っ」

 

 ドア越しに、アルディスの小さな呻き声が聴こえる。押し殺してはいたが、苦しんでいることは明らかだった。少し離れている間に痛みが収まっていれば、と思っていたのだが、そのような生易しいものではなかったらしい。

 

「アル!?」

 

「!?」

 

 エリックが急いで家に駆け込むと同時、バシャンと何かが床に溢れた。

 

「ッ、くそ……っ」

 

「あ……」

 

 流れてきたのは、洗面器に入っていたらしいぬるま湯だった。結構な量だったのか、それはその場に立ち尽くすエリックとマルーシャの靴に染み込んでいった。

 震えるアルディスの手には、大量の血が染み込み、元の色が分からなくなってしまった濡れタオル。恐らく、先程のぬるま湯と合わせて使っていたのだ。

 だが、そんなことはどうでも良い。マルーシャは恐怖のあまり声を震わせながら口を開いた。

 

「あ、アルディス……その……」

 

「……」

 

「その目……一体、何が……」

 

 今、アルディスは眼帯をしていなかった。大きな眼帯をしているなとは思っていたが、その下の状況はもとより、眼帯をする理由さえもエリック達は知らなかった。

 だからこそ、今、目の前の光景が信じられなかった――アルディスの顔には、古い刀傷と共に、目も当てられないほどに深く切り裂かれた傷が存在していた。

 傷を見られたくなかったのだろう。アルディスは悲しげに左目を泳がせ、溜め息混じりに口を開く。

 

「斬り付けられたんだ。結果的には抉られたようなもんだね」

 

「抉ら、れた……って、そん、な……ッ」

 

「割と最近の話。治りきってないもんだから、よくこうなる」

 

 傷口から鮮血が伝い落ち、アルディスの白い肌を、ローブを汚していく。それを止めるために絞った濡れタオルで患部を押さえ、アルディスはどこか悲しげに、言葉を紡いだ。

 

「傷口なんて見たくないから、あまり見てないけど相当深いんじゃないかな? 一回目は、辛うじて失明せずに済んだんだけど、今回は流石に駄目だった」

 

 一回目、というのは古い刀傷の方を指しているのだろう。こちらも十分痛々しいが、今、血を流している傷に比べれば随分と浅い。だが、彼は二度も右目を切り付けられたということになる。

 

「な、なんで……」

 

 力無く首を振り、エリックは酷く震えるアルディスに手を伸ばす。しかし、その手は、あっさりと叩き落されてしまった。触れて欲しくない、近寄るな、とでも言いたげな視線が、エリックに突き刺さる。

 エリックが何も言えずにいると、アルディスは濡れタオルを下ろし、傷口から血を流しながら口を開いた。

 

「……。ヴァイスハイトって、知ってる? 俺、右目は金色だったんだ」

 

 ヴァイスハイト。見たことは無いものの、その存在は一通り学び、理解していた。彼らの存在を恐れるものが、もしくは彼らの力を欲するものが、ヴァイスハイトの右目を抉る行為についても知識はある。それでも、仮にヴァイスハイトであったとしても、アルディスはまだまだ幼い。幼い子どもさえも標的になるという事実が、エリックには受け入れられなかった。

 

「だ、だからって、子ども相手にそんな……!」

 

 ありえない、異常だ、とエリックは頭を振るう。彼は気付かなかっただろうが――否、間違いなくそのような意図で発した言葉では無かったのだろうが――エリックの言葉は、目の前の少年の存在を否定するような意味にも捉えられた。

 

「……そうだよ、俺は……普通じゃない……、存在しちゃいけない“異常なモノ”だ……」

 

 アルディスは声を震わせ、濡れタオルを強く握りしめて俯いてしまった。彼が言葉の意味を曲解したことに気付いたエリックは再び彼に向かって手を伸ばす。しかしその手は、先程よりも強く、痛みを感じるほどの勢いで叩き落とされた。

 

 

「“普通に愛される”君には……ッ、君には絶対に俺の気持ちなんて分からないよ! 君は、俺なんかとは絶対に違う! 俺は……ッ、どんなに頑張っても君のような存在にはなれないというのに……ッ!!」

 

 

 顔を上げ、叫んだアルディスの左目からボロボロと涙がこぼれ落ちた。

 

「裕福に城で、戦争の恐怖も、追い回される惨めさも存在を否定される悲しみも知らず暮らせる君に、俺の何が分かる!? 俺のことなんか何も知らないくせに、分かったような口を聞かないでよ……!!」

 

「……ッ」

 

 彼は、一体どのような人生を送ってきたというのだろうか――背に貼り付いたマルーシャが酷く震えている。震えているのは、エリックも同じだった。

 

「あ、アル……」

 

「もう懲りただろう!? 分かったら二度と、俺に干渉しないで……俺はもう、誰のことも信じたくない……もう誰とも関わりたくない……ッ!!」

 

 嗚咽混じりに叫び、アルディスはエリックとマルーシャを突き飛ばすように家を出ていってしまった。

 

「え、エリック……」

 

 どうしよう、と声を震わせるマルーシャの頭に手を置き、エリックは奥歯を強く噛み締める。

 

「とにかく、探そう」

 

「……うん」

 

 戦闘能力がある訳では無い。下手に離れて探すより、二人まとまって走り回った方が良いだろう。地面には点々と血の跡が残っている。相当な出血量だった。急がなければ、と二人はアルディスの家を飛び出し、足を早める。そんな時だった。

 

 

「うわあああぁッ!!」

 

「!」

 

 森の中に、アルディスの悲鳴が響き渡った――場所は、かなり近い。

 

「アルディス!」

 

 服が汚れるのも気にせず、マルーシャが茂みの中を駆け抜けていく。エリックもその後を追った。目当ての人物は、すぐに見つかった。

 

 

「……ッ」

 

 茂みの先で、アルディスは右目を抑えて座り込んでいた。薙刀を手にしていたが、立ち上がることができないらしい。無理をして走ってしまったのが裏目に出ているのだろう。彼の周りには、数匹の魔物の姿。血の匂いで寄って来てしまったようだ。

 

「アル!」

 

 エリックはわざと茂みを大きく揺らし、魔物たちの注意を引くように飛び出した。その姿を見て、アルディスはどこか辛そうに声を震わせた。

 

「!? 何、で……っ!」

 

「た、助けに来たに決まってるじゃない! 当たり前でしょ!!」

 

 強気な口調に反し、若干怯えているらしいマルーシャの言葉に、エリックが頷く。二人の姿を見た魔物たちは、獲物を取るなと言わんばかりに低い唸り声を上げた。

 

「ば、馬鹿! 俺なんかほっといて、さっさと逃げろ!!」

 

 強引に立ち上がりながら、アルディスは頭を振った。

 

「そんなこと、できるかよ!!」

 

「死ぬのは俺一人で十分だ!」

 

 薙刀を振ろうとするが、片足を負傷したアルディスは満足に動くことができなかった。バランスを崩し、その場に倒れ込んでしまった彼に、魔物たちは容赦なく襲いかかろうとする。迷うことなくアルディスと魔物との間に飛び出し、エリックは短剣を構えた。

 

「そんな……っ、無茶だ! 良いから逃げろよ! お願いだから、逃げてよっ!!」

 

 後ろでアルディスが涙声で叫んでいる。再び泣き出してしまったのか、段々と嗚咽も聞こえてきた。

 

「どう足掻いたって、俺は“疫病神”でしかない……! 俺の傍に居れば、皆不幸になる……俺は死ぬべきなんだよ! 君たちは関係ないんだ、だから……っ!」

 

「うるさい! アルディスは黙ってて!!」

 

 泣きじゃくるアルディスを見ているうちにもらい泣きしてしまったのか、ポロポロと涙を流しながらマルーシャはその辺に落ちていた石を投げていた。エリックも魔物を追い払おうと短剣を振り回すが、それに魔物が恐れることはなかった。魔物たちは、決して逃げようとはしなかった。

 

「うわっ!」

 

 魔物の爪が、エリックの腕を切り裂く。深くはなかったが、切り裂かれた服の間からは複数の赤い線が覗いていた。

 

「ッ! 逃げてよ……エリック、マルーシャ……お願いだから、俺を助けようなんて、馬鹿な考えは捨ててよ……お願いだから……っ」

 

 それを見たアルディスの声は、どんどん小さくなっていく。それは、強気な彼らしからぬ、あまりにも弱々しい声だった。

 

「だから逃げないって言ってるでしょ!? アルディスの馬鹿ぁ!」

 

「嫌なんだ……っ! もう嫌なんだよ! 俺のせいで誰かが傷付くのは、もう見たくない……!!」

 

 決して逃げようとしない二人に対し、アルディスは震えの止まらない自分の身体を抱き抱えるようにして泣き叫んでいる。

 

――彼は決して、冷たい人間では無かった。むしろ、不必要なほどに、不器用なまでに、心優しい少年だったのかもしれない。

 

 ただ、誰かを傷付けまいとして自分自身が傷付き、苦しんでいただけだったのだ。エリックとマルーシャにきつく当たっていたのも恐らくは、“疫病神”である自分から遠ざけようという彼の優しさだったのだろう……しかし、そこに彼自身への優しさはどこにもない。

 

「アルディスの傍にいたら不幸になるなんて、誰が決めたの!? わたしは……わたしたちは! そんな風には絶対に思わない!!」

 

 怒りと悲しみが入り混じり、訳が分からなくなりながらも涙声で叫ぶマルーシャの言葉に頷き、エリックも声を張り上げた。

 

「マルーシャの言う通りだ! そう思っているから、僕らはお前をほっとけないんだよ! だからこそ助けたいって、そう思ったんだよ!!」

 

 だからと言って、今この場を切り抜ける術など無い。それでも、エリックたちは絶望などしていなかった。諦めなかった――その思いが、通じたのかもしれない。

 

 

『うん、分かった。その子を、助けてくれるって言うのなら……ボクは、キミを助けるよ』

 

 

 突如、頭に響いた幼い声。声を聴き取るとともに、エリックの周囲をふわり、ふわりと、橙色の光が周囲を舞った。

 

「! な、なんだ……!?」

 

 声の主が分からない上、どうして突然謎の光が寄ってきたのかは分からないが、何故か悪い気はしない。光に驚き、魔物たちはほんの少しだけ退いた。

 その姿はどこか、応援してくれているようにも思えた。数多の輝きを少しだけ眺めた後、エリックは思い出したように短剣を構え直した。

 

(今なら、きっとやれる!)

 

 赤い瞳を閉じ、意識を高めていく。彼の足元には、橙色の魔法陣が浮かび上がっていた。

 

「――具現せよ、地龍の宴……誘いの舞を、今ここに!」

 

 目を開いて見てみれば、橙色の光達はエリックの周りに集まっている。それらに軽く微笑んだ後、エリックは短剣をくるりと回した。

 

「――グラビティ!」

 

 断末魔の鳴き声を上げると共に、魔物たちがミシミシと嫌な音を立てて押しつぶされていく。重力の中でもがきながら、魔物たちの身体は空気中へと分散していった。

 

 

「良かった。これで、大丈夫だろ……」

 

 はあ、とエリックは大きく息を付き、一気に強ばった身体の力を抜いてその場に座り込んだ。自信など無かった。発動できなければどうしようかと、そう思っていたのだ。

 

「待っててね、少ししか良くならないとは思うけど、傷、治すから」

 

 橙色の光達は、いつの間にか居なくなっていた。代わりに、マルーシャの手から放たれる淡い癒しの光が辺りを微かに照らしている。

 

「大丈夫か? 傷、どっちも悪化させただろ……ごめんな」

 

「少しは良くなった? 大丈夫?」

 

「どうして……」

 

 心配そうに声を掛けてくるエリックとマルーシャの顔を見つめながら、アルディスは酷く声を震わせ、ボロボロと涙をこぼしながらも懸命に言葉を紡いだ。

 

「どうして、どうして……逃げなかったんだよ……っ、あそこで、下位精霊が助けてくれなかったら、どうなったと、思って……っ」

 

「へぇ、あれが下位精霊……初めて見た」

 

 兄上が地属性の術使ってて良かった、とエリックは苦笑いする。要は見よう見まねだったのだ。本当に偶然に近い産物だったのだ。

 

「僕とマルーシャだけじゃない。アイツらも、お前を助けようとしてくれたんだろ」

 

「……ッ」

 

 アルディスの右目の傷は元々治りかけだったこともあり、マルーシャの弱い力でも十分に塞がった。ただ、最後にはやはり、見る者全ての同情を引きそうな痛々しい傷跡が残る。

 

 

「ねえ、アルディス。わたしたちは、大丈夫だから」

 

「……」

 

「不幸になったりなんて、しないよ。大丈夫!」

 

「君たちは、俺のこと何も知らないじゃないか!」

 

 教えてくれないんだから知ってるわけないだろう、とエリックは立ち上がり、アルディスに近付いて彼の頭をそっと撫でた。

 

「不幸になったって良いよ。それでも、僕は君から離れないから」

 

「ーーッ!」

 

 その言葉に、アルディスは嗚咽を堪えるように両手で口元を覆って肩を震わせる。こうして見ると、本当に華奢だなとエリックは苦笑いした。

 

「あれだな、結構泣き虫だよな。ついでに結構臆病だよな。頭撫でられるの、実は好きだよな?」

 

「う、うるさい……っ」

 

「無理して強くなろうとしてたの、分かっちゃったよ……」

 

 必死に隠していた素が出てきてしまった、ということなのだろうか。本来はかなり年相応な性格だったということなのかもしれない。

 

「……とりあえず、帰ろうか? 頼まれたもの、まだ買ってきてないし」

 

「あ、わたし、お留守番してるね? 何か、一人にしたら可哀想だし」

 

「馬鹿にしてるの!? ふ、ふざけないでよ……っ!!」

 

 目に涙を浮かべ、アルディスはエリックとマルーシャを強く睨みつける。睨まれるのは慣れていた。だがそれは少しだけ、今までとは違っていた。

 

「おい、それ……もはや全然怖くないぞ……」

 

「むしろ、ちょっと可愛いなって、思っちゃった……」

 

「ふざけるな! 馬鹿にするのも大概にしろ! お前らのことなんて大ッ嫌いだ!!」

 

 どれだけ睨まれようとも、怒鳴られようとも。恐怖は一切感じなかった――そこに、今までのような冷たさはもう、存在しなかったから。

 

 

―――――――――――

 

―――――――

 

―――

 

 

「……まあ、剣術稽古真面目にやろうって思ったきっかけだったな」

 

「え、エリック……」

 

「はは……あと、あの時だけだったな。自分が未覚醒で良かったって、思えたのは。僕はヴァイスハイトとかじゃないし、属性決まってたら好き勝手に地属性魔術なんて使えなかっただろうから……」

 

 あの時、やって来たのが地の下位精霊で本当に良かったと今でも思う。そうでなければ、兄の真似をしてグラビティの詠唱をすることなど、出来なかっただろうから。

 後々アルディスに教えてもらったのだが、ヘリオスの森には地属性の上位精霊『ノーム』の神殿があるのだという。どこにあるのかまでは聞いていないが、エリックが聴いた声は恐らくノームの物――あれは本当に、『奇跡』としか言い様がない出来事だったのだ。

 それだけではない。アルディスとの出会いは、彼がほんの少しだけ自分たちに気を許してくれるようになったのはまさに、いくつもの奇跡が重なったからだ。

 

「脱走してきたわたしに感謝してね?」

 

「おいおい……」

 

 えへへ、と笑顔を浮かべるマルーシャ。可愛いが、そういう問題ではない。

 

「それとこれとは話が違うだろ……ただ、さ」

 

「え?」

 

 エリックは少しだけ悩み、それから強い意志が感じられる瞳でマルーシャを見据えた。

 

 

「今から、もう一度僕と一緒に脱走してくれないか?」

 

 

「えぇえええっ!!??」

 

 脱走しよう、とエリックから言い出したのは初めてのことだった。今までのパターンといえば、マルーシャが塔を登って来て一緒に脱走するか、エリック単独で脱走するかのどちらかでしかなかった。しかも、後者はマルーシャが長期不在の時くらいで、本当にごく稀なパターンである。

 

「どうしたの優等生王子!? 城が爆発するんじゃないかって思ったよ!?」

 

「それ、自分は不真面目ですって言ってるようなもんだぞ」

 

「認めてるから良いもん」

 

「そんなこと、頼むから認めるな!」

 

 ガシガシと頭を掻き、エリックは苦笑いした。マルーシャのこういう所は、昔から一切変わらない。失礼だが、身体だけ大きくなったと言っても過言ではないだろう。

 

「その、昔のこと、思い出してるうちに思ったんだよ……やっぱり、アル放置は気になる。ほっとけない。過保護なのかもしれないけどさ……」

 

「気持ちは分からなくもないから、大丈夫。うん……ポプリとの件も気になるしね。ディアナはともかく、ジャンのことも何だかんだ言っても苦手だろうし……」

 

 冷静に考えると、今のアルディスは何故か恐怖の対象であるポプリが近くににいる上に、ジャンクからはことごとく思考を視られるというある意味耐え難い状況下に置かれている。ディアナという存在があるとはいえ、昔のアルディスを知るエリックとマルーシャからしてみれば心配要素しかないのだ。

 

「だろ……? だから、とりあえずもう一度合流しときたいなって。送ってきてくれたポプリとジャンには、かなり悪いけどさ」

 

 エリックがそう言えば、マルーシャはこくりと深く頷いた。しかも、マルーシャが脱走してきたということは、今はあまり警備が強化されていない可能性が高い。行くなら今しかないと言ったエリックの意見に同意し、マルーシャはすっと立ち上がった。

 

「行こ、エリック!」

 

「……」

 

「エリック……?」

 

 何故か、エリックが窓辺を見てぽかんと口を開けている。マルーシャも慌てて窓辺へと視線を移した。

 

 

「二人とも、良い度胸ですね~。エリック、マルーシャ?」

 

 

 窓枠に座ってニコニコと笑っているのは、ゆるやかな癖のある長い金髪に、ガーネットのような美しい赤い瞳が特徴的な中年の女性。ふんわりとした印象を与える、今もなお美しさが感じられる顔立ちはともかく、髪質と瞳の色はエリックと全く同じである。

 

「母上!?」

 

「お義母様!?」

 

 

 金髪赤目の中年女性――ラドクリフ女王ゼノビアは軽く首を傾げて微笑んでみせた。

 

 

「それにしても。マルーシャはいつもこのような場所を登っているのですね。なかなか、面白かったです。今度から、私もこうやってエリックに会いに来ましょうかね~」

 

「やめてください!!」

 

 言うまでもなく、ゼノビアはこの塔を登ってきたのだ。一体何を考えているのだろう。下の方で、兵士やメイドが叫んでいる。否、もはや泣き叫んでいると言っても良いくらいだ……可哀想に。

 

「危ないです! は、早くこちらへ!!」

 

「あらあら~。気にしなくても良いのですよ、どうぞ、脱走を企てなさい」

 

「う……っ」

 

 エリックに手を引かれながらも、彼女は笑顔を崩すことなく触れて欲しくない場所に触れてきた。これには、エリックもマルーシャも顔を引きつらせることしか出来なかった――どこからなのかは知らないが、見事に会話を聞かれてしまっている!

 

「お、お義母様……」

 

「マルーシャには倉庫に眠っていた綺麗な杖をあげましょう。治癒術は無理だけれど、普通の魔術なら風属性の兵士が何人かいましたね……後で招集しますね?」

 

「え……?」

 

 だが、ゼノビアが語りだしたのは想定外の話。エリックもマルーシャも怒られるか泣かれるかすることを覚悟していただけに、彼女の話には衝撃しか受けなかった。

 

「エリック。あなたには宝剣を託します。今のあなたなら、大丈夫。きっとすぐに使いこなせるようになりますよ」

 

「母上、一体……何の、話ですか……?」

 

 綺麗な杖に、宝剣。話が飛躍しすぎて、何が何だか分からない。躊躇いがちに口を開いたエリックに、ゼノビアは少しだけ悲しげに口を開いた。

 

「もう少し、もう少しだけエリック、あなたをここに置いておきたかったのですが……もはや、そういうわけにもいかなくなっています。残酷な話ですね。だから明後日、ここを出なさい。エリック、マルーシャ」

 

「母上……?」

 

 事態は深刻なのですよ、とゼノビアは緩やかに頭を振り、そして凛とした眼差しをエリックとマルーシャに向ける。

 

 

「――あなたたちには、フェルリオ帝国に渡って頂きます」

 

 

「!?」

 

 下準備をするから二晩だけ待っていなさいと言われ、エリックとマルーシャは不安げに顔を見合わせる。それを見て、ゼノビアは大丈夫だと赤い瞳を細めた。

 

「あなたたちには、精霊が付いています。出会うべき者たちとも、既に邂逅しています。ただ、その分だけ事態は、非常に深刻さを増しています……もう、時間がないのだと、告げられました」

 

 一体何の話だと問い掛けたかったのだが、真剣な眼差しで見つめられて聞くことを躊躇ってしまった。ゼノビアは、本気だった。

 

「詳しいことは明後日、謁見の間で話します。それまでは、大人しく城に居て下さい」

 

「母上……」

 

「お願いです。私は、本当は送り出したくなどないのですから……特にエリック。あなたは、王子であると共に私の可愛い息子なのです。ずっと、傍に置いておきたいのです……」

 

 あまりにも必死な母の言葉に、エリックもマルーシャも脱走への意欲を削がれてしまった。どちらにしても、自分達は明後日、ここを発つのだ。今は、彼女に従っても良いだろう。

 

「分かりました。私はイリスと共に、母上の指示を待ちます」

 

 エリックは母の目の前で跪き、静かに頷いてみせた。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.15 癒えない傷

 

 八年前のあの日――全てが、火の海と化した。

 

 犠牲になったのは、俺にとなっては第二の故郷とも言える、そんな街だった。この街で平凡に生きていた住民達は皆、火に飲まれて死んでいった。

 

 生き残った人々も、誰しもが大切な人を失い、絶望の中で嘆き続けていた――大切な“姉さん”も、それは同じだった。

 彼女は、両親を失ってしまった。俺にとっても、彼女の両親は親のような存在で。酷く悲しい感情に満たされた。

 それだけじゃない。俺は彼女に、一生残る、酷い傷を付けてしまった……。

 

 

――そうして彼女は、両親を失った悲しみと、あまりにも惨たらしい傷を見て、錯乱した。

 

『この疫病神! アンタなんかが居たから……アンタさえ、居なければぁああっ!!』

 

 彼女が、テーブルの上にあった果物ナイフを振り上げ、それが俺に向かって振り下ろされる。吹き出た血が、ぐちゃぐちゃになった部屋中に飛び散った。

 

 

―――――――――――

 

―――――――

 

―――

 

 

「――……ッ!!」

 

 声にならない悲鳴を上げ、アルディスはガバリと上体を起こした。目の前に広がるのは、薄い布で構成された真っ暗な狭い空間――夢を、見ていたのだ。

 

「……っ、……くそ……っ!」

 

 見た夢のせいなのか、少し頭痛がする。自分以外がいないテントの外で、虫の鳴き声が響いている。酷く魘されていたらしく、着ていた服は寝汗でべっとりと貼り付いていた。

 アルディスは白銀の髪を震える手でぐしゃりと掴み、そのまま頭を抱えた。酷く乱れた呼吸を落ち着かせようと、何度も深呼吸を繰り返した。

 

 数時間前、エリック達を送り届けたポプリとジャンクが帰ってきた。次はアルディスとディアナをヘリオスの森まで送り届ける、という話になったのだが、二人が帰ってきた頃にはもうすっかり日が落ちていたこと、まだアルディスが本調子ではなかったことから数日ここで野宿をして、落ち着いてから出発しようという予定が立てられた。

 だが、その予定決めはあくまでもアルディスを除いた三人で行われたもの。アルディスの意思はそこにはない――ジャンクが、アルディスとポプリが顔を合わせないようにと動いたためだ。

 

「ポプリ……“姉、さん”……ッ」

 

 声を震わせ、アルディスは眼帯の上から右目を押さえる。アルディスが再び深呼吸をした、そんな時。布擦れの音と共に月明かりがテントの中に差し込んできた。

 

「……。アル」

 

「!」

 

「ココア入れました。飲むか?」

 

 慌てて光が差し込んできた方向を見ると、テントに付いていた扉替わりの布を少し捲り上げつつ、外で見張りをしていたらしいジャンクがこちらを覗き込んでいた。

 

「どうせ、すぐには寝れないだろう? 出てこいよ」

 

 故意的に見たのかはさておき、間違いなく夢の内容を透視されている。マグカップを手にしたジャンクの手が、少し震えていたのだ――彼からしてみれば、恐怖でしかない夢だったことだろう。しかも、夢に登場した人物は――。

 

「あなたこそ……大丈夫ですか?」

 

「ふふ、僕はまだ……大丈夫です。今は、お前を心配しているんだ。少し、気分転換した方が良い。頻繁にアレを見るなら、問題ですよ」

 

 ジャンクは首を横に振るった後、やんわりと微笑んでみせる。少々言動に難有りな部分があることは確かだが、それでも彼は、本心から純粋にアルディスを気遣っていた。

 流石のアルディスも、それは痛いほどに分かっている。悪意が無いことも分かっているのだが、どうしても彼の行動一つ一つに警戒してしまうのはアルディスの性だ。

 

 

「……」

 

 ローブを着込み、テントから顔を出してみればどこからか転がしてきたらしい数個の大きな丸太が焚き火を囲んでいる。その丸太の一つに、ジャンクは腰掛けていた。

 

「ほら、受け取れ……大丈夫だ、変なものは入れていませんよ」

 

「そ、そんなこと聞いてません……!」

 

「こうとでも言った方が、お前は安心するんじゃないかって思ってな」

 

 渡されたカップに入った濃い茶色の液体が湯気と共にゆらりと波打つ。恐る恐るそれを飲むと、ほんのりとした優しい甘みが口の中に広がった。

 

「睡眠薬でも混ぜてやろうか?」

 

「いえ、大丈夫、です……」

 

 最初から混ぜて渡すことも考えたんだけどな、とジャンクは笑う。そうしなかったのは、微かな味の変化でアルディスに警戒されるのを防ぐためだろう。

 流石に申し訳ないな、とカップに落としていた顔を上げたアルディスの視界に、明らかに調子の悪そうなジャンクの姿が入り込んだ。ここからルネリアルまで往復したこともあるのだろうが、酷く疲れた様子の彼の顔色はあまりにも悪い。

 

「あなた、寝ないのですか? 代わりますよ……?」

 

「いえ、平気です。というより、今のお前には任せないさ」

 

 平気だ、と言ってジャンクは笑う。しかし、彼がここ数日ろくに寝ていないことにアルディスは気付いていた。そろそろ、辛くなってきているはずなのだ。

 

「ヴァイスハイトとはいえ、過度の睡眠不足は危険です」

 

「ふふ、同族だと誤魔化す必要がなくて楽ですね。心配していただけるのは嬉しいが、僕はまだ大丈夫だ。二週間くらいなら、何とか」

 

「二週間!? あなた、馬鹿ですか!?」

 

 桁外れの魔力を保有するヴァイスハイトには一般の人々と異なる点もある。今のジャンクのように不眠状態に耐性を持つのも、そのうちの一つだ。

 ただ、これは単純に睡眠によって得られる疲労回復などの効果を魔力で補っているだけに過ぎず、過度の不眠状態は決して良い状態とは言えない。彼らは少しだけ、普通の人より長く起きていられるというだけの話なのだ。

 それを知っているからこそのアルディスの発言に、ジャンクは左手を口元に当てた状態で困ったように笑ってみせる。重力に従って少し下に落ちた袖口から、痛々しい痣が微かに覗いていた。

 

 

「そうですね……僕ばかり、お前のことを知っているのは不公平だよな。だから言いますが、情けないことに僕は狭い場所と暗い場所が苦手なんです。恐怖症、と言っても良い。片方だけならまだ良いんだが、両方が揃ってしまうとな……何が言いたいかというと、僕はテントの中で眠ることができないんだ」

 

 語られたのは、旅をする上ではあまりにも厳しい、彼自身が抱える問題。思わず息を呑んだアルディスの顔を真っ直ぐに見据え、ジャンクは話を続けた。

 

「テントは狭い上、夜になればランプを灯さなければ真っ暗だ。そしてなにより眠っている間に、意識がない間に。そんな、どうしようもない時に襲われるんじゃないかっていう恐怖に囚われてしまう。だから、眠れない……僕の場合は少々過剰ですが、後者の方はお前にも少なからず心当たりはあるでしょう?」

 

「! と、とは言っても……あなた、一体いつ眠って……」

 

「流石に、宿屋に泊まった時なんかは寝ていますよ。しようと思えば明るくできますし、鍵もかかりますし……まあ、恐怖症の件を明かしていないせいで、ポプリと同室になると結局ろくに眠れないんだけどな。電気消されるのが嫌だ、なんて口が裂けても言えません……」

 

 つまり、宿屋に泊まることが出来ない限り、彼は眠ろうとはしないということである。それがどれほど身体に負担をかけるかアルディスは知っていた――傭兵業を行う際には、彼も全く同じようなことを、してしまうから。

 しかし、仕事時のアルディスと現在のジャンクでは状況が全く違うのだ。聞いて答えてもらえるだろうかと思いつつ、アルディスはずっと気になっていた事柄を問い掛けた。

 

「あなた、ポプリ姉さんとは親しい仲なのですよ、ね? なら、彼女に代わってもらえば良いのでは……」

 

「何か誤解してそうだから補足するぞ。ポプリは強いて言えば同行者。利害が一致するので、時々一緒に行動しているだけです……あくまでもそれだけの関係なので、親密な仲かと言われるとちょっと違うんだ」

 

「あ、ああ……なんだ……彼氏彼女の関係なのかと……」

 

「ふふ、違いますよ。安心してください……お前は優しいな。何だかんだ言って、ポプリが気になるんだな」

 

 つい安心して胸を撫で下ろすアルディスを見つめ、ジャンクは「不思議な話をしてやるよ」とどこか悲しげな笑みを浮かべてみせた。

 

 

「ポプリとは数回、会って別れてを繰り返している。その辺考えると、割と長い付き合いだ。だが、何故かポプリに弱みを……恐怖症の件もそうですが、何よりこの瞳を見せるのが、どうしようもなく怖いと感じたんです」

 

「え……」

 

「ポプリは、龍王族(ヴィーゲニア)とは思えない実力の魔術師だ。恐らく、攻撃魔術に関して言えば僕以上の力を持つでしょうね……だからこそ、でしょう。彼女は、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)かヴァイスハイトの力を奪った存在であると、薄々感じていたんです」

 

「……ッ」

 

 ジャンクは全てを言わなかったが、悪夢の内容を透視してしまった以上、もう彼は理解している。何故、アルディスが右目を失ったのか。何故――ポプリを避けているのか。

 アルディスの手が震える。カップを持つ手に右目を押さえていた手を添えてみたのだが、震えは止まらなかった。中に入った、冷めかけのココアがゆらゆらと波を立てた。

 

「最初にポプリを避けている、という件については知れましたし、ポプリがお前のところに行こうとするのは徹底的に止めています。だが、これももう時間の問題だろう……ディアナも動いてくれていますが、どこまでやれるか、正直分からないぞ」

 

「……はい、分かっています」

 

「とはいえ……まあ、怖いですよね。だから上手いこと、ポプリを撒いてお前らを帰そうかと思っているんだ。寝れないなら、会議しないか?」

 

 一応その辺も考えていたのですよ、と言ってジャンクは笑ってみせる。

 彼曰く、「数日ここで野宿」という曖昧な計画にしたのはアルディスの容態を見て動きたいという理由もあるらしいのだが、その裏に「ポプリに知られないように解散日時を一日早め、アルディスとディアナのみで帰路に着かせる」という作戦があってのことだったのだという。

 

 

「ポプリが可哀想、ではあるんだがな。お前に、ずっと会いたがっていたわけだし」

 

「……」

 

「お前に危害を加えるつもりはないようです。だからこそ、お前さえ良ければポプリと会ってやって欲しい、という気持ちも僕の中にはある。ポプリを騙すのは、最終手段だと考えている……やっぱり駄目、ですか?」

 

 

 分かっている、そんなことは分かっているんだとアルディスはゆるゆると頭を振るう。そんなアルディスの姿を、ジャンクはどこか悲しげに見つめていた。

 

「あの人は、本当に優しい人です……それは、分かっています……ですが……」

 

「……」

 

「それでも……」

 

 アルディスはそれ以降、何も言えなくなってしまった。ジャンクも、何も言わない。深く息を吐き、アルディスは冷めたココアを一気に口に流し込み、カップをジャンクに返そうとした……その時。

 

 

「ノア……」

 

「――ッ!?」

 

 カシャン、と手から滑ったカップが地に落ちた。視界には入っていないが、その声の主が誰であるかは明らかだった。「すみません、迂闊でした」と小さく声を震わせて謝るジャンクの両目は固く閉ざされていて。アルディスは咄嗟に立ち上がり、この場から離れようと声に背を向けた。

 

「ねえ……お願い。逃げないで……お願いよ」

 

 どこか悲壮感漂う声が後ろから聞こえてくる。一体、いつから話を聞かれていたのかは分からないが――ポプリが目を覚まし、近付いて来ているのだ。

 震えているのは手だけではないということに気が付く頃には、アルディスは地を蹴って駆け出していた。

 

「! ノアッ!!」

 

 幸いにも、傷が再び開く気配はない。ジャンクの治療が有効だったのだろう。ジャンクは何も言わない。傷はもう大丈夫だと思っているのか、アルディスの心境を察してあえて何も言わずにいてくれているのか。それを幸いにと、アルディスは振り返ることなくこの場から離れようと足を動かす。

 

「お願い……っ、お願いだから! もう何もしない! あんなこと、絶対にしない……だから、せめて話を聞いて!!」

 

「!?」

 

 その刹那――足の動きが、完全に封じられてしまった。

 

秩序封印(ヴァルデマール・フレイヤ)か……!)

 

 ポプリの能力は、対象に何らかの悪影響を与えることに特化した能力である秩序封印(ヴァルデマール・フレイヤ)。それは一応、アルディスもよく知っていた。能力を使ってできる行為も、熟知していた。

 だが、龍王族(ヴィーゲニア)である彼女にここまで高度な真似ができたなんて、とアルディスは奥歯を噛み締める。甘く見過ぎていたのかもしれない。

 

「く……っ」

 

 ポプリがこちらに駆けてくるのが分かる。随分と速度は遅いものの、ここまで辿り着かれるのも時間の問題だろう。

 

「ポプリ、待て」

 

「お願い! 止めないで! やっと、やっと会えたんだから……!!」

 

 やめてやれよとジャンクがポプリを制止したようだが、彼女の意志は硬いらしい。後ろを振り返ると、ジャンクはポプリの右上を掴んでいて、それを振りほどこうとポプリが懸命に身体を動かしていた。

 しかし、ポプリの“今現在の”身体はそのような動きに耐えられる状況ではない。バランスを崩してしまったのだろう、彼女は突然、大きく前にぐらついた。

 

「きゃっ!」

 

「ぽ、ポプリ姉さんッ!」

 

「!?」

 

 叫んでしまってから、アルディスは本気でそれを後悔した。出てしまった言葉は、もう取り消せない。

 

「や、やっぱり……やっぱり、あなた、なのね……」

 

 足の拘束が解かれた。だが、アルディスはもう逃げようとはしなかった。ゆっくりと振り返れば、ジャンクに身体を支えられたポプリの姿が、遠くに見える。

 

「ずっと、ずっと探してたの。あたし、ずっと、あなたを探していたのよ……!」

 

 ポプリの琥珀色の瞳から、涙が零れ落ちる。少しずつ、少しずつ距離が縮められていった。それを見つめながら、アルディスは深く被ったフードに手を掛け、それを首の後ろに落とした。髪は夜風に流れ、その下にあったアルディスの耳を月明かりの下に晒す。

 

「もう、私は逃げません……逃げません、から。転ばないように、お願いしますよ」

 

「の、ノア……?」

 

「……」

 

 一切の感情が消えた冷ややかな翡翠の瞳に見つめられ、ポプリは何かに絶望したかのような、そんな表情を浮かべてみせた。

 

「どうして……ねえ、あなた、そんな顔……しなかった、のに……」

 

「……」

 

「もっと、喜怒哀楽が激しくて……いつも、笑ってた、わよね……」

 

「かつては、そうでしたね。私自身も、そう記憶しております」

 

 遠くに、どうしたものかと硬直しているジャンクの姿が見える。この突然の出来事をどう鎮めるべきかと考えているのだろう。

 それでも、彼が結論を出すよりもポプリが行動を起こす方が早かった。

 

「あ、あたしの……あたしの、せいなの……?」

 

「……」

 

「ねえ、ねえってば……ノア!!」

 

 叫び、ポプリは目の前のアルディスに向けて右手を伸ばす。その指先は、酷く震えていて。ここでどうするのが一番良いのか、ジャンク同様にアルディスも頭を悩ませ始めた。

 ポプリの手を掴んで彼女の言葉に応えるのも、手を叩き落として彼女を拒絶するのも違うような気がする。アルディスの翡翠の左目は、迫ってくるポプリの手をぼんやりとどこか現実味の無い様子で捉えていた。

 

 

「――動くな」

 

 悩んでいたアルディスを現実に引き戻したのは、高いとはいえ、いつもよりかなりトーンの落とされた声。彼の持つ磨き上げられた刃が、月明かりを反射して鈍く光っている。赤い羽根が、地に生い茂る草の上に落ちた。

 

「ディ、アナ……君……?」

 

 現れたのは、アルディス以上に感情のない瞳をしたディアナであった。彼はアルディスとポプリの間に剣を突きつけ、驚いたポプリが尻餅を付いたのを良いことに切っ先を彼女の眼前へと向けた。

 

「ッ!」

 

「おい、ディアナ!」

 

 目の前に剣先を突き付けられ、ポプリは動揺を顕にする。流石に止めなければと考えたのか、遅れてやってきたジャンクがディアナに声をかけるも、彼は体勢を変えることなく、空中に留まっている。やがて、彼は静かに口を開いた。

 

「これが、オレの使命なんだ……アルディスを傷付ける人間は、許さない」

 

 その言葉に、辺りはしんと静まり返る。沈黙を破ったのは、この事実をある程度悟っていたらしいアルディスだった。

 

「薄々そうじゃないかな、とは思ってたけど……フェルリオ帝国第一皇子を見付け出し、守ることが使命ってこと……かな?」

 

「ああ。状況が状況だっただけに、面と向かって名指しで確認は出来なかったんだが……間違い、ないよな?」

 

 これで間違っていては大惨事だと、ディアナはそのままの体勢でアルディスに問いかけた。

 

「うん、合ってるよ。俺の……いや、私の本当の名はアルディス=ノア=フェルリオ」

 

 左の手袋を外せば、手の甲に入れられたフェルリオの紋章が顕になる。それを顔の横に掲げてみせるアルディスの表情はどこか、悲しげだった。その姿を見て、重大なことを思い出したポプリは、ディアナに剣を突きつけられながらも叫ぶ。

 

「そ、そうだわ! あ、あなた……エリック……アベル王子と、一緒にいたわよね?」

 

「ええ、成り行きで。もう、八年になります」

 

「八年も!?」

 

 一体どうして、と前に飛び出しかけたポプリを阻んだのはやはりディアナだった。ディアナはポプリにそうさせまいと、剣を下ろさなかったのだ。

 

「危険な行為だっていうのは分かっていますよ。正体がバレた場合は……まあ、良くて即死刑、悪くて拷問の末に死刑でしょうね。片目とはいえヴァイスハイトで純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)ですし、実験施設送りかもしれませんが」

 

「……ッ、随分と、簡単に言うじゃない……!」

 

「それだけのことを、やっていますからね」

 

 この場に、エリックとマルーシャがいたならば。彼らは一体、どのような反応を見せたのだろう――少なくとも、親友アルディスが敵国の皇子であるという事実を知って平常心を保てるほどに、彼らは強くない。

 そんなことは分かっている、と言わんばかりにアルディスは眼帯に手を掛け、躊躇うことなくそれを外してみせた。

 

「それにしても、ディアナ……よく、俺のことだって分かったよね」

 

 アルディスが星空を仰げば、重力に従って前髪が横に流れた。露出した傷痕を見て、彼の目の前に居たディアナとポプリは息を呑む。彼の眼帯の下がこうなっていたことを知っていたらしいジャンクも大きな反応こそ見せなかったものの、微かに表情を険しくしていた。

 

「これじゃ、体内魔力の特徴なんかも帝都に残ってた資料とは全然違うと思う。容姿の特徴って言っても多分、今は銀髪だったってことくらいしか一致してないんじゃないか?」

 

「そうだな。それでも、恐らく隻眼になってしまっているとは聞いていた……というより、あなたに巡り会えたのはチャッピーやジャンのおかげでもあるかと」

 

「え……?」

 

 騒ぎで目を覚ましたのだろう。いつの間にかここにやってきていたチャッピーの背を撫でながら、ジャンクは微かに口元を綻ばせた。

 

「元々、彼は僕がポプリと行動を共にする前から連れていた相棒です。色々あって、ポプリとチャッピーの間には面識は無かったのですがね。一年と、少し前になるかな。ふと思うことがあってディアナに託したんだ」

 

「一年以上!? じゃ、じゃあその間、お前は……」

 

「まあ……結構、難航した。幸い、ポプリより先に会うことは叶ったわけだが」

 

 その言葉に、ディアナに向けられた冷たい眼差しに、ポプリはビクリと肩を震わせた。

 

「ディアナ君……」

 

「あなたは龍王族(ヴィーゲニア)の癖に、異様に魔術の才がある……だから、おかしいとは思っていたんだ。だが、先程のあなたが発した『もう何もしない』という発言に加え、アルディスが逃げている上に彼が自分の素性を明かして顔色を変えなかった辺りでもう理由は察した。面倒見の良い、優しい女だと……そう思っていたのに」

 

「……ッ」

 

 一瞬にして、空気が凍りつく。ディアナに睨まれ、ポプリは震える自身を抱きしめるように両腕を回した。

 

 

「彼を探していたのはオレだけじゃない。あなたもだった! 一体、何が望みだ!? その答えによっては、オレは今この場であなたの首を斬る!!」

 

 

 ディアナの目は、その言葉は――本気だった。

 

 

「あたしは、ただ、彼に会いたかっただけよ……ッ」

 

「それが、許されるとでも思っているのかッ!?」

 

 そう叫ぶと同時、ディアナは右足に付けていたカードケースから数枚のタロットカードを取り出す。空気に触れた瞬間、それらは一斉に炎を纏った。

 

「!? い、いや……っ」

 

「怖いの、か? なら……ちょうど良かった」

 

 ポプリはそれを見るなり、酷く身体を震わせ、座り込んだまま後ろに下がろうとする。そんな彼女に向かってディアナはカードを投げ付けようとした。

 

「いやああぁっ!!」

 

 ディアナの目には、恐ろしいほどに感情という物がこもっていない。彼はただ、使命を遂行しようと、たったそれだけのことを考えているようだった。

 

 

「やめろディアナ!!」

 

 

――そんな彼の瞳に感情を取り戻させたのは、アルディスの叫びだった。

 

 

「あ、アル……!?」

 

「もうやめてくれ! 彼女は……彼女は何も悪くない!!」

 

 一体何を言っているんだ、とディアナは頭を振るう。その間に酷く震えながら泣きじゃくるポプリの前にしゃがみ込んで手を差し伸べるジャンクの様子を横目で見つつ、アルディスは奥歯を噛み締め、自身の震えを何とか押さえ込んでから口を開いた。

 

「ディアナ、先に言っておく。二度目はないと思え……いくらお前でも、許さないから」

 

 ポプリを傷付けることは許さない。そう言ってアルディスはディアナを睨みつける。その目付きにディアナは一瞬怯えの表情を見せたものの、彼は再び頭を振るい、声を荒らげた。

 

「ッ! 何故ですか!? あなたの右目を奪ったのは彼女なのだろう!?」

 

 それは、彼の推測によって導き出された仮説。だが、それを否定するものは誰もいなかった。当事者である、アルディスとポプリでさえも――つまりは、そういうことなのだ。それが、事実なのだ。

 

 彼の言葉に、ポプリは何も言うことができず、静かに俯いてしまった。そんな彼女を見て、ディアナは苛立ちを隠せない様子で叫んだ。

 

「今、彼女が残った左目を抉らないという保証はどこにもない! 危険因子は断ち切るべきではないのか!?」

 

「ち……違う! あたしは、そんなこと、望んでない!! 望んでないわ!!」

 

「ふざけるな……ッ! 龍王族(ヴィーゲニア)であるあなたがそこまでの魔術技術を得た理由、それは彼から力を奪い取った結果だろう!?」

 

「それは結果でしかない! 本当に……本当に違うのよ!!」

 

 ディアナとポプリの叫び声が、夜の草原に響く。またしても共解現象(レゾナンストローク)の暴走による被害にあっているらしいジャンクはチャッピーの背に震える左手を置いたまま、何も言えなくなってしまっている。このどうしようもない状況を眺めながら、アルディスは右目を押さえ、静かに口を開いた。

 

 

「……それでも良い。俺は、それだけの罪を犯した。そう思ってるよ」

 

 

 紡がれた言葉にディアナは大きく目を見開き、ポプリから目をそらしてアルディスと向き合う体勢で叫ぶ。

 

「どうしてそのようなことが言えるのですか!? あなたは、オレ達にとっては命と同じくらいに大切な目を抉られたのですよ!?」

 

「分かってる。分かってるよ……」

 

 

 アルディスが右目を失った原因。それは八年前のある事件の直後、我を失ったポプリが振り下ろした果物ナイフによる傷が原因だった。

 

 元々、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)やヴァイスハイトの目を傷付ける行為自体は、決して珍しいことではない。それは彼らの能力を封じ込める手段の一つとして極めて有効な方法であるし、何より、運が良ければ能力を奪い取ることが可能だからだ。

 そしてアルディスの場合もそれは例外ではない。結果的に右目を失ったことで闇属性の素質を完全に失い、魔術師としての能力自体も酷く劣化していた――そして、それらは全てポプリが得ることとなったらしい。

 

「ノア……」

 

「左右両方の目を抉れば、ポプリ姉さん……いえ、“ポプリさん”は純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)と同等の能力を得られる可能性がある。魔術師であるあなたには、良い話だと思う」

 

「ッ!?」

 

「ええ……あなたがそれを望むなら、俺は喜んでこの目を差し出しますよ」

 

 ポプリに片目を抉られたという事実。その結果、本当に苦しんだという事実。

 そのことを、アルディスは一瞬たりとも忘れてなどいなかったし、それはポプリも同じだった。

 

 

「な、何故ですか!? オレには一つも理解できませんッ!!」

 

 ただ、これは当事者だけでなく、持っているのは情報だけに過ぎないディアナからしてみれば、ポプリの一方的な暴行にしか受け取れないのだろう。

 

「オレには、何も……何も分かりません……!!」

 

 同種族だけあって、アルディスの言動がディアナには理解出来ない様であった。そしてそれは、その当事者であったポプリさえも理解不能であるらしい。

 

「の、ノア……怒って、ない、の……?」

 

「怒る理由なんて、俺にはありませんよ。そもそも、俺が怒るのは理に適っていません」

 

 おずおずとポプリが尋ねれば、アルディスは当然だと言わんばかりに、表情を変えることなく答えた。

 

「あなたは先程、ディアナの炎を恐れていましたね? 火が、怖いのでしょう……? そして、そうなった理由は、結局の所は俺が原因でしょう? そうでなくとも、美しいペルストラの街は……俺が、焼き払ってしまったようなものですから……」

 

「! それは違うわ! ペルストラの街がああなったのは、あなたのせいじゃない!」

 

 ペルストラは、ラドクリフ王国の最南にかつて存在していた、海が美しい街だった。水の都、と言ってしまっても過言ではないだろう。だが、その街は今となってはただの焼け野原に等しい状態だった。

 

「いいえ……あなたの故郷であり、将来はあなたが統治していただろう街に悲劇を呼んだのは……間違いなく、俺のせいです……」

 

 ペルストラが荒廃することとなった理由は八年前、突如として現れた非正規のラドクリフ王国騎士団『黒衣の龍』によって何らかの目的を持って住民達もろとも焼き払われてしまったから、と民衆には伝わっている。

 カイン王子――元々“ある疑惑”を理由に非難されていたゾディートではあったが、彼への支持が完全に無くなったのは、この事件がきっかけであるとも言われていた。

 

「違う……違うわよ……それはあなたの、せいなんかじゃ……」

 

「ですが理由もなく、黒衣の龍が自国の街を襲撃なんてするわけないでしょう……?」

 

「それは、そうだけれど……」

 

 アルディスの声が震える。ポプリは俯いてしまった彼に手を差し伸べようとしたが、それはディアナによって叩き落されてしまった。

 

「あなたはちゃんと分かっているくせに。全ては、あの街に“疫病神”なんかがいたからだって……ッ」

 

「!? ノア、それは……!!」

 

「俺があの街にいたから悪いのでしょうッ!? 俺が……俺があなた方に災厄をもたらしたんです!!」

 

 

『この疫病神! アンタなんかが居たから……アンタさえ、いなければぁああっ!!』

 

 

 アルディスの脳裏で、あの日、ポプリに言われた言葉が反響する。彼の左目から、涙がこぼれ落ちた――そう、右目を失ってしまったことなんて、アルディスにとってはどうでも良いことだったのだ。

 彼を結果として最も酷く傷付けたのは、本当に心から信じていた者に浴びせられた“疫病神”という言葉。ただ、それだけだったのだ……。

 

 

「の、ノア……あ、あたし、ね……本気で、あんなこと、思った、わけ……じゃ……」

 

 ポプリは、泣き出してしまったアルディスに手を伸ばす。しかし、その手がアルディスの元に届くことは無かった。

 

「ポプリ、駄目だ。離れなさい」

 

 涙は止まることなく流れ、その場に崩れ落ちてしまったアルディスと、彼に近付こうとするポプリの間に入ったのは、今まで黙って成り行きを見守っていたジャンクだった。

 彼はポプリの手を掴み、首を横に振るう。先程は暴れたポプリであったが、今度は大人しくジャンクの指示に従っていた。彼女はもう、抵抗の意志を見せない。流石の彼女も、これにはショックを受けたのだろう。

 アルディスはおもむろにフードを掴むと、顔を隠すように深くそれを被った。まだ涙が止まらないのだろう。彼は酷く、肩を震わせていた。

 

「アル、大丈夫ですか……?」

 

「……すみません。あなたに、精神的に負担をかけてしまいましたね……」

 

「僕のことは気にしなくていい……」

 

「一応、事情……話しておきます、ね。ディアナも、いますから」

 

 決して顔を上げることは無かったが、事情を話さないわけにはいかないと考えたのだろう。アルディスはポツリポツリと、自身のことを語り始めた。

 

「俺は以前、ペルストラで暮らしていたことがあるんです。十年前、戦争中に俺は嵐の日の海に落ちましてね。何の巡り合わせなのか、ペルストラに流れ着いたんですよ……そんな俺を拾ってくださったのが、ペルストラ領主クロード家の方々でした」

 

「そこで、ポプリと会ったのですね……」

 

 ペルストラ領主、バロック=クロード。ポプリは、その領主バロックの一人娘であった。そのことを知っていたらしいジャンクは、アルディスの偽名を聞いた時「ポプリの姓と同じ」だと言った。つまり、ポプリの現在の姓である『ノアハーツ』が本当の姓でないということも、知っていたのだろう。

 ノアハーツ姓しか知らないディアナは何か言いたそうにしていたが、この状況である。何も言うことなく、アルディスの反応を待っていた。

 

「はい。それで、俺はとてもじゃないですが母国に帰れる状況じゃなかったので、名目上クロード家に養子として引き取られ、ポプリさんの義弟として育てられました」

 

 敵国の領地内だと分かった瞬間、即断頭台送りだと思ったのですがね、とアルディスは自虐的に呟いた。確かに、敵国の皇子が流れ着いてきたというのに、それも戦時中だというのに上に引き渡さなかったというのはかなり、奇妙な話だ。

 

「こうなった事情はよく分かりません。ですが、どうすることもできない俺は素直にクロード家の皆さんに甘え、それから二年間お世話になっていたの、ですが……」

 

 段々とアルディスの声は涙混じりになっていき、語尾も小さくなっていく。これ以上話すのが辛いのだということは、誰の目にも明らかだった。

 

「もう良い、アル。ディアナには、僕が分かる範囲で説明する……だから、もう話すな」

 

「……すみません」

 

 ジャンクの言葉を聞き、アルディスはごしごしと乱暴に目を擦り、漸く顔を上げて立ち上がった。それにより、「それで良いですよね?」というジャンクの問いにディアナが頷いている様子がアルディスの視界に入る。そしてその傍らには、草の上に座り込んで涙を流し続けるポプリの姿もあった。

 

 

「ノア……あなたは、悪くないの。貴方こそ、あの事件の被害者なんだから……それなのに、ごめんなさい……っ」

 

 アルディスを見上げ、どこか朧げな様子でポプリは言葉を紡いでいく。

 八年間、離れ離れになっていた“弟”は、当時の面影を一切なくしてしまっていた。彼女は嗚咽を抑えるために口元を押さえていたが、それは完全に無駄な行為となっている。

 

「……」

 

 思わず、アルディスは彼女に手を差し伸べようとするが、その手は酷く震えている――やはり、怖いのだ。

 その様子を見つめ、ポプリは子供のように頭を振り乱し、泣き叫んだ。

 

「ノア、お願い! あたしのことは、許せなくて良いわ。一生、このままだって良い! だから、お願いよ……あの頃みたいに、無邪気に、笑って……笑ってよ……ッ!」

 

 アルディスの手がぴたりと止まる。一瞬、彼は驚いて目を丸くしていたが、すぐに正気に戻ったらしい。アルディスは自身の胸元に軽く手を当てると、深呼吸してから口を開いた。

 

 

「……ごめんなさい。それは、できないんです」

 

「え……?」

 

「俺……もう、笑えないみたいなんですよ。どんなに楽しくても、嬉しくても……全然、表情が変わらなくって。無表情のまま、動かなくて」

 

 今だって、笑ってるつもりなんですよ? と悲しげに首を傾げてみせるアルディスの表情は普段と何ら変わりがない――それはまるで、人形のようだった。これには、ポプリだけではなく、ディアナやジャンクも酷く驚いていた。

 

「右目の傷は塞がりましたが、これだけは、もう……駄目、みたいなんです」

 

「嘘……っ、嘘よ……! そんなの嘘! あなたが、笑えない、なんて……」

 

 ディアナやジャンクからしてみれば、アルディスが“笑う”という現象自体が信じられなかった。つまりはそれだけ、今の彼はポプリからしてみれば異常なのだ。

 

「凄く、綺麗な笑顔……だったの、に……ッ」

 

 恐らく、ポプリは心のどこかで感動の再会を夢見ていたに違いない。それなのに、彼女を待っていたのは“絶望”だった――。

 

 ボロボロと涙を流し続けるポプリに、伸ばすことの叶わない左手。その左手を力なく見つめるアルディスの頬を、涙が伝っていった。

 

 

「ごめんなさい……天真爛漫なノアは、もういないんですよ……」

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.16 託されたもの

 

「マルーシャ。そっちはどうだ?」

 

「ああもう! ドレス動きにくい!!」

 

「ははは……」

 

 パラパラと書類の束を捲りながら、エリックは山のような書類の向こう側にいるマルーシャに声を掛けた。

 二人がいるのは、書物庫とはいえ城の中。当然ながらエリックもマルーシャもそれなりの衣服を身に纏っている。どちらも、埃臭い書物庫には似合わない服装をしていた。

 

「えっと、ちょっと待ってね。この書類が……って、裾が引っかかる!!」

 

「や、破らないでくれよ……?」

 

 エリックが羽織っているのは、金装飾の美しい濃紺のジャケット。それに黒のぴったりとしたズボンと純白シルクのスカーフを合わせ、髪は後ろで一つに結っていた。あくまでも脱走時が特例なだけで、基本的にはこれが普段着のようなものである。エリックとしてはこのような服装の方が落ち着くのだが、マルーシャの方は違うらしい。

 

「これやだ邪魔ー!」

 

「我慢しろって、多分もう少しでいつもの奴に着替えられるって」

 

 ポニーテールの印象の強い長い金髪は、今日は耳から上が綺麗に編み込まれ、残りはそのまま下に垂らされている。要するに、ハーフアップだ。長い髪の全てがまとまっているわけではないために、ドレスよりもむしろあの髪がどこかに絡まらないかが気になって仕方がない。

 ひたすらマルーシャの動きを制限する、青のスパンコールがあしらわれた煌びやかなロングドレスの裾を、マルーシャはただただ邪魔だと繰り返す。

 

(まあ、確かに……マルーシャにアレは拷問かも、な)

 

 きっと、使用人達のささやかな復讐だろう。わざとロングドレスを選んだに違いない。エリックは密かに、マルーシャに見られないように笑みを浮かべる。そんなエリックの元に、ドレスへの不満を爆発させたマルーシャが大きなファイルを手にやってきた。

 

「もう! 何笑ってるの!?」

 

「ははっ、笑ってないよ」

 

「笑ってるじゃない! もう良いや……あったよ、資料!」

 

 

 二日前のポプリの言葉。あれは恐らくアルディスのことを指しているのだろうが、それは彼が「貴族である」と言っているようなもの――つまりアルディスは元々、貴族の人間だったのだろうか?

 アルディスには悪いとは思ったのだが、結局あまりにも気になったものだから、城に残っている資料の範囲でと調べることにしたのである。何しろ彼はかなり特殊な経歴の持ち主だ。本人が何も言わないだけに、気になることは多々あったのだ。

 罪悪感と好奇心が入り交じった複雑な心境になりながらも、エリックとマルーシャは資料に目を通していく。マルーシャが見つけた資料は、鳳凰狩りによって殺された純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)の名前や容姿などについて簡潔にまとめられたものらしい。

 

「なるほど……つまり、銀髪って聖者一族由来の髪色なんだな。そりゃ珍しいわけだよ……」

 

「えーと、聖者一族って精霊の神殿巡りの関係でラドクリフとフェルリオ行ったり来たりしてて……で、開戦の時はちょうどこっちにいて……」

 

「すかさずセーニョ港閉鎖した上で、まとめて討伐対象にした……か」

 

 聖者一族は、戦時中にこちらにやって来ていた――それは彼らが元々持っていた知識に加え、数日前にアルディスが話してくれた内容と一致する内容であった。

 そしてどうやら、その聖者一族達の中でも特に位の高い者達は銀髪、それもアルディスのような白銀の髪を持っていた者が大半だったらしい。ただ、故郷に戻ることができなかった彼らの大半は鳳凰狩りの被害に合い、死亡したと考えられる。

 とはいえ、エリックもマルーシャもこの類の知識には詳しくなく、それ以上のことはあまり知らないのだが。嫌悪感を剥き出しにされる可能性が極めて高いが、アルディスやディアナに聞けば、何か分かるかもしれない。

 

「でも、ディアナは聖者一族の血統なんだと思ってたよ。銀髪じゃないけど……」

 

聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)は聖者一族由来の能力だってアル、言ってたしな。ディアナ、見るからに聖職者って服装だったし」

 

 聖者一族の血統及び姓の一覧を見ると、確かに“クロード”と“リヴァース”の姓はあった。しかも、リヴァース姓はかなり上の位に位置している。しかし残っている資料を見る限りでは皆、銀髪だったようなのだ。ディアナは、夜空のような藍色の髪の持ち主。どういうことだろう、とマルーシャは首を傾げている。

 

「もしかしたら正当な血族じゃなくてどっかとの混血なんじゃないか? ……あ」

 

「エリック?」

 

 エリックは話を途中で切り、ガシガシと頭を掻いた。その様子を見て、マルーシャはファイルから目を逸らして彼の手中にある薄い別のファイルを覗き込む。

 

「……嫌なもの見つけた」

 

 どうしてこれが全く関係ないファイルに挟まっていたんだ。理解ができない、とエリックは肩を竦める。そんな彼が手にしていたのは、フェルリオ皇帝家の詳細が書かれた資料だった。

 

「あー……」

 

 思い出したように、マルーシャは苦笑する。そんな彼女には見向きもせず、エリックはパラパラとページを捲っていた。

 

「へぇ、フェルリオ皇帝家も聖者の血統なんだな」

 

「聖者一族の中の最上級ってことかな? だったら、聖者一族って皆、王家の……」

 

「血縁なんだろうな……はは、父上が討伐指令出すはずだよ」

 

 勉強不足にもほどがあったな、とエリックは目を細める。武術や学問関係、ラドクリフ王国内に関係したことならともかく、隣国であるフェルリオについては無知だという自覚はエリックにもあった。

 しかし、敵国であり、今となっては事実上の敗戦国であるフェルリオ帝国について学ぶ必要は無いと大臣達に言われていたこと、何より彼自身がフェルリオ帝国、特にノア皇子の話を避けてきたために知識を得る機会をことごとく逃してきたのである。

 その結果、今現在のエリックが知っているのは、今は亡き皇帝と、現在行方不明の皇子の名前およびその妹の皇女の名前、そして、ほんの少しの噂話だけであった。これでは駄目なんだろうなと思いつつ、エリックは複雑な表情を浮かべたまま、さらにページを捲る。

 

「あ、この辺が皇帝と皇子の欄か……?」

 

「!? え、エリック!」

 

「ん? ……って、おい!?」

 

 呼び掛けに答えて文字を追うのをやめたエリックの手から資料を奪い、マルーシャはそれを部屋の隅へと放り投げた。直後、バサリ、と何とも言えない音が響く。唖然としているエリックの前で、彼女は必死に引きつった笑みを浮かべていた。

 

「あー、あはは……ほら。そろそろ行こうよ? もう、時間だもん」

 

「な、投げなくたって良いだろ……まあ、そうだな。行くか」

 

「えっと、わたし一応あれ、元のとこ戻しとく。だから、先行っといて?」

 

 じゃあ投げるなよな、とエリックは苦笑いしている。それに合わせて微笑んでから、マルーシャは投げた資料を回収しに向かった。

 

「……」

 

 拾い上げた資料を軽く見て、マルーシャは奥歯を噛み締める。嗚呼、エリックよりも先に見つけて良かった、と。

 

(嫌なの。ノア皇子、銀髪のヴァイスハイトだったんだ。こんなの見たら、エリックどう思うか……)

 

 フェルリオ皇帝家が聖者一族と血縁関係があるという時点で、嫌な予感はしていた。まさか、彼がヴァイスハイトだったとまでは思わなかったが。

 

(アルディス……)

 

 もしかしたら、とマルーシャの脳裏をある可能性が過る。元々、友人のアルディスはそれを否定する方が難しい存在である。そんなことは分かっている、それでも今は考えたくない、と首を横に振るい、マルーシャはエリックの元へと駆けた。

 

 

 

 

「二人とも、こちらへ」

 

 謁見の間には、女王ゼノビアただ一人が佇んでいた。呼び掛けに答え、エリックとマルーシャは彼女が座る玉座へと繋がる階段の前で跪く。腰を上げなさいとは言われたものの、二人ともそれには答えなかった。

 

「仕方ありませんね……まずは、約束の物を渡します」

 

 ゼノビアは困ったような笑みを浮かべ、玉座の横に立てかけてあった剣と杖、それから小さな袋を手に階段を下り始めた。慌てて彼女を手伝おうとしたエリックとマルーシャを静止し、ゼノビアは再び跪いた二人の前へやって来た。

 

「エリック、受け取りなさい」

 

「ッ、これは……!」

 

 彼女から受け取った剣を見て、エリックは息を呑む。それは普段、今エリック達がいる謁見の間、玉座の後ろの壁に厳重に祀られている宝剣であったためだ。

 宝剣はかなり長めの両刃剣で、中心部分は濃紺に染まっている。流石に手に持てない状態ではないが、本当に戦いに使えるのか不安になるほどの装飾も施されていた。宝剣、というだけのことはある。

 

「それは代々、ラドクリフ王家に伝わる宝剣。名を“ヴィーゲンリート”といいます。心配せずとも、それは特殊な作りですから傷一つ付きません」

 

 ヴィーゲンリート――剣の名前と、この剣にまつわる話を過去にエリックは聞かされていた。

 

(別名、右翼ノ剣……だったかな。フェルリオ皇帝家の持つ左翼ノ剣“キルヒェンリート”と対になる剣……)

 

 この剣は元々、二本で一つという扱いの剣だったらしい。かつて、ラドクリフ王国とフェルリオ帝国という国ができた頃、双国それぞれの繁栄を願って剣を二つに分ち、ラドクリフ王国では歴代の王位継承者がヴィーゲンリートを握ることとなる。

 ただし例外も多くあり、エリックの父ヴィンセントはこの剣を手にしていない。だからこそ、蒼の宝剣は失われることなくエリックの手に渡ったのだが。

 それに対し、キルヒェンリートの行方は分からなくなってしまっている。戦時中、父は「左翼ノ剣を奪い取る」と言っていたのだが結局それは叶わず、フェルリオ皇帝家自体が崩壊してしまったためだ。

 

 これらの話は数年前、エリックが何となくヴィーゲンリートを見上げていた時に突然真横にやってきたゾディートから聞かされたものである――そして、兄はこう言った。

 

 

『キルヒェンリートを探し出せ。誰かが所持しているのならば、奪わなくとも良い……ただ、それが“卑しき男”の手に渡ることだけは全力で防げ。いずれお前が受け継ぐだろうヴィーゲンリートに関しても、それは同じだ……必ず、守り抜け』

 

 

「……」

 

 未だに、兄の言葉の真意が分からない。父の意志を次いで「奪い取れ」と言うのではなく、ただ“卑しき男”の手には渡らせるなと彼は言った。その言葉の真意を聞くことは叶わぬまま、ヴィーゲンリートは今、エリックの物となった。複雑な心境のまま、エリックは宝剣の刃を左手で撫でた。

 そんなエリックの左手に右手を重ね、ゼノビアはエリックの顔を見上げるようにして微笑んだ。

 

「重いでしょう? 今から、レーツェル、という宝石を作る方法を教えますね」

 

「い、いえ……」

 

「エリック?」

 

 武器をレーツェルにする方法は、前にアルディスとディアナに聞いている。実際にその現場を見たことがないのだが、試してみたかったのだ。

 エリックはむき出しの宝剣に手を添え、意識を集中させた。すると宝剣は一瞬の内に細やかな魔力の粒になったかと思うと、すぐに小さな宝石へと姿を変えた。それは、傷のない水晶を思わせる程に美しく、透き通っている――これが、レーツェルだ。

 

「あら、詳しいのですね……」

 

「留守にしている間に、出会った者に教わったのです」

 

「うふふ、器用ですね。それとも、その者の教え方が上手だったのでしょうか? では、マルーシャにもやってもらいましょうか……マルーシャ」

 

「はい」

 

 ゼノビアは微笑みを浮かべ、隣のマルーシャに長いスタッフ状の、艶やかな銀色の柄と青緑色の大きな石が美しい杖を差し出す。それを受け取ったマルーシャは、エリックと同じようにそれをレーツェルへと変えてみせた。

 

(未覚醒なら透明になるっていうの、本当だったんだな……)

 

 彼女の手のひらのそれは、深い緑色をしていた。自分の手の中の透明なレーツェルとマルーシャのレーツェルを見比べ、エリックはどこか悲しげに目を細めた。息子の表情の変化に気づいてか否か、ゼノビアはすぐさま次の話を始める。

 

「マルーシャはブローチに加工して、エリックはチョーカーの飾りにすると良いでしょう。一応、専用の金具も用意しておきました。これにレーツェルを収めなさい」

 

 渡されたのは、金色の金具だった。武器化しやすいようにと開発された物らしく、収めたレーツェルと完全に同化する作りになっているらしい。エリックとマルーシャが金具にレーツェルを収める姿を見て、ゼノビアはニコニコと微笑みを浮かべていた。

 

「……」

 

 楽しそうな母を邪魔してしまうのではないかとは思ったのだが、エリック達がここに呼ばれた根本的な理由は宝剣と杖を受け取るためでも、ましてやレーツェル化の練習でもない。早く本題に移ってもらえないかとエリックは母に話しかけた。

 

「その……母上、私達に話すことがある、とおっしゃっていましたよね?」

 

「話すこと……ああ、いけない! そうですね、本題に移ります。これは大切な話です。この話は、あなた達が“信ずるもの以外には”話してはなりませんよ」

 

 他言してはいけない、ではなく「信ずるもの以外には」という言い回しが少し気になった。だが、今はその理由を訪ねている場合ではないだろう。二人が黙っていると、ゼノビアはどこか重々しく、少し言いづらそうに口を開いた。

 

「先程、ラドクリフ王国内にてゾディート=カイン=ラドクリフ、及び黒衣の龍所属兵全員を指名手配致しました」

 

「!」

 

 静かに告げられたのは、予想もできなかった事実だった。

 

「わ、わたし達のせいですか……!?」

 

 震える声で紡がれたマルーシャの問いに、ゼノビアは静かに首を横に振るう。

 

「いえ。あまりにも彼らの行為が過激過ぎるので、活動を制限する意味を含めています。それに、もうこの指示の届かない場所に彼らがいる、と考えた方が良いでしょう」

 

「それって……!」

 

 ゾディート達は、既にラドクリフ王国にはいない。彼らは恐らく、こうしている間にもフェルリオ帝国に渡っている。

 

「最近、ゾディートは純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)の男性、それも比較的若年層の者を探す事に執着していました。要はノア皇子を探しているのだと、私はそう考えています」

 

「!」

 

 思い当たる節は、大いにあった。あれは、たまたまエリックとマルーシャがあの場に居ただけだ――ゾディートの狙いは、明らかにエリックではなくアルディスだった。あれは珍しい容姿を持つ彼を、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)だと仮定した上での行為だったのだ。

 あの調子で、今頃怪しい人物を襲撃して回っているのだろうか。どうして、とエリックは怪訝そうな表情を浮かべて口を開く。

 

「今さら、ノア皇子を探しまわっているということですか……?」

 

 ノア皇子の姿が最後に確認されたのは、八年前の話である。探すにしても間がありすぎるのでは、とエリックは女王に問う。

 

「私にも理由は分かりません。ただ、彼をおびき寄せようと思うなら……私なら再建中の帝都、スウェーラルを狙います。それも、分かりやすい形で」

 

「分かりやすい形、ですか……?」

 

「例えば、突然黒衣の龍全員を引き連れて、王都を離れる……といったものです」

 

「あ……」

 

 黒衣の龍所属兵全員を指名手配したと、ゼノビアは言っていた。つまりは、そういうことなのだ。彼らは既に、王都にはいないのだ。恐らく、ゼノビアの予想は的中している。だがエリックはおもむろに首を横に振るい、彼女の言葉を否定した。

 

「ですが、ノア皇子は幼い頃から聡明で、一人でラドクリフの兵団をいくつも壊滅させた有能な戦士だと聞いています。そんな手段に、あの彼が簡単に引っかかるものでしょうか……兄上が、そんなことも分からないとは、私には、到底思えません……」

 

「エリック」

 

 マルーシャに名を呼ばれ、エリックはハッとして彼女の方を向く。見ると、マルーシャは眉を八の字に下げ、悲しげな表情を浮かべてエリックを見ていた。

 

「あれは、あくまでも噂だよ……ノア皇子、エリックと同い年だよ……?」

 

「そうかも、な。だがマルーシャ……僕だって、それくらいの力を持ってなきゃいけないって、ことだよ……情けないな」

 

「そんなことない、そんなこと……!」

 

 声を荒らげそうになったマルーシャの頭を軽く撫で、ゼノビアは懐から彼女は一通の白い封筒を取り出した。紙は、見るからに上質な物であった。

 そして彼女は、決まりが悪そうに俯いたままのエリックの顔を覗き込むようにして、その封筒をエリックに差し出した。

 

「あなたには、酷なことかもしれません。それでも、これを託したいのです」

 

「これは?」

 

「ラドクリフ、フェルリオ間での和平交渉について、その旨が書かれている親書です。ノア皇子に、あなたの手からこれを渡してきて欲しいのです」

 

「ッ!?」

 

 どうして、という言葉が危うく出かかった。母の決断を苦痛に感じたのだ。平和のために和平交渉を行うことも、その交渉相手にノア皇子を選ぶのも、当然の話である。しかしエリックの心を支配したのは、平和が大切だと考えているにも関わらず、どういうわけか負の感情ばかりであったーーそれでも、現女王の、母の頼みを拒むほど、エリックも馬鹿ではない。

 

「……。はい、承知しました」

 

 ほんの少しの間だけ躊躇った後、エリックはそれを素直に受け取った。

 

「エリック」

 

「どうされましたか?」

 

 顔を上げた先にあった母の顔は、どこか悲しげだった。

 

「この先、本当に辛い目に遭うかもしれません……気を、強く持ちなさい」

 

 伸ばされたゼノビアの細い指先が、エリックのスカーフに覆われた首へと伸びる。

 

「……ッ」

 

「それでも。あなたならきっと大丈夫、ですから。それと、マルーシャ」

 

「は、はい!」

 

 名を呼ばれ、マルーシャはぴんと背筋を張った。

 

「どのような事実が明らかになったとしても、決して、逃げてはいけませんよ」

 

「え?」

 

「は、母上。それは一体、どのような意味ですか?」

 

 エリックもマルーシャもゼノビアの言葉の意味を問うが、彼女は何も答えない。ただ、心配そうに二人を見つめているだけだ。

 

「そろそろ、頃合ですね。もう行きなさい」

 

 旅の準備は既にメイドにさせていますから、とゼノビアは踵を返す。これには、エリックもマルーシャも思わず立ち上がっていた。いくらなんでも、唐突すぎるのではないか、と。しかし、振り返ったゼノビアに悲しげな眼差しで見つめられた二人は、何も言えずに押し黙ってしまう。

 

「早く、行きなさい……間に合わなくなってしまいます……」

 

 そんな二人に向かって掛けられた声は、微かに震えていた――彼女が“頃合”だと言った意味を聞く気にさえ、なれなかった。

 

「……エリック、行こう?」

 

 先に動いたのはマルーシャだった。彼女の呼び掛けに答え、エリックは「失礼します」という言葉だけを残し、マルーシャと共に謁見の間を後にした。

 

 

 

 

「……」

 

 本当に唐突すぎる、とエリックは託された親書を見てため息を吐いた。服は、動きやすいようにと脱走時に身に付けている物をメイドから託された。服と一緒に渡されたのは地図と、最低限のガルドの入った鞄のみ。

 エリックは歩きなれた街並みを、明らかにいつもと違う、複雑な心境で眺めている。そんな彼の前に飛び出し、マルーシャはエリックの顔を覗き込んだ。

 

「エリック……」

 

「はは、本気で僕ら二人だけで普通に旅して来いって放り出されたな……甘えてるわけじゃないけど、正直、護衛が何人かは付くと思ってたんだ」

 

「違う、そうじゃなくって」

 

「……」

 

 マルーシャの黄緑色の瞳が、心配そうにこちらを見つめてくる。エリックはもう一度ため息を吐いてから、渡された鞄の中に親書をしまいこんだ。

 

「……。ごめん。もう、大丈夫だから」

 

「エリックは、エリックだよ。わたし、ちゃんと知ってるから」

 

 そう言ってマルーシャは困ったように笑い、首を傾げてみせる。膝に届きそうなほどに長いポニーテールが、風に流れて静かに揺れた。

 

「ありがとな。そう言ってくれると、正直助かる……ん?」

 

 ふいに前を見た際、視界に妙な人物が映った。エリックの声に反応してマルーシャも前を見る。その青年――ジャンクは、道具屋の前に“いた”。

 

 

「そうですね。じゃあ、アップルグミ三個と、オレンジグミを十五個頂けますか?」

 

「毎度ありぃ!」

 

 ガルドとグミの入った紙袋を交換し、ジャンクはその場を立ち去ろうとする。だが、どうやらこちらに気付いたらしい。彼は微かに長い睫毛を震わせ、笑みを浮かべてみせた。

 

 

「……言ったろ? また、巡り会うって」

 

 

(え……)

 

 そう言えば、とエリックは思う。確かに、彼はそのようなことを言っていたなと。

 

「予言者かよ……ていうか、絶対グミの比率おかしい」

 

「オレンジグミはポプリがパクパク食べるので。さて、僕はこれからアルの家まで行くんだが……着いてきますか?」

 

 比率がおかしい理由を完全にポプリのせいにしつつ、ジャンクは紙袋を手にクスクスと笑った。

 どうにもこうにも、彼はエリック達との再会に驚く気配が全くない。本当に「分かっていた」と言わんばかりに。

 

(母上の言ってた“頃合”って、まさか……)

 

 そんなことがあってたまるか、とエリックは首を横に振るう。ただの、偶然に違いない。困惑するエリックの隣で、マルーシャは本当に嬉しそうに、心から笑っていた。

 

「うん! アルディス、帰ってきてたんだね~」

 

「ポプリとディアナも一緒にいるぞ。僕は買い出しに来ただけなので」

 

「!!??」

 

 さらりとジャンクは言ってみせたが、それはエリックとマルーシャにとっては違和感のある発言だった。

 

「アルとポプリが一緒にいるのか!?」

 

「ええ」

 

「何があったの!?」

 

「まあ、色々と」

 

 それよりもディアナが怖い、怖すぎるんだとジャンクはただでさえ購入数の少ないアップルグミをつまみ食いしながら苦笑している――自分達がいない間に、一体何があったのだろうか。

 

「……とにかく、行くか」

 

「う、うん……」

 

 どちらにせよアルディスの様子を見てから旅立ちたかったため、丁度良い。エリックとマルーシャはお互いの顔を見合わせ、ジャンクの後を追って歩き出した。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.17 疑惑

 

 

「……まさか、女王陛下公認で君達が城を出てくるとはね」

 

「僕も正直混乱してる……まあ、でもさ。とりあえず、お前が無事だったから安心した」

 

「うん、そうだね……そのー、色々とよく分かんないことになってるみたいだけど……怖いから聞かないでおくね?」

 

「そ、そうして……?」

 

 数日来なかっただけだというのに、何故だかここに来るのは久々であるかのように感じる。アルディスの家独特の落ち着いた暖かな雰囲気は、人が多いためかいつも以上に暖かみを帯びて感じられた。

 出迎えてくれたアルディスに「外出許可が出た」という話をすれば、彼は何とも言えない複雑な表情を浮かべていた。だが、彼が複雑な表情を浮かべている理由は、何もこれだけでは無いだろう。

 

 

「あ、“アル君”……コーヒー、入ったわよ」

 

「! は、はい! ありがとうございます……“ポプリさん”」

 

 ジャンクから微妙に話を聞いていたとはいえ、やはり衝撃的だった――マルーシャの言う“よく分かんないこと”というのは今、エリック達の目の前で繰り広げられているやり取りのことである。様子を見る限り、アルディスとポプリはどこかぎこちないとはいえ、普通に会話ができているのである。

 

「えっと、ディアナ君。コーヒー飲む?」

 

「……」

 

 しかし、そのアルディスの後ろで椅子に腰掛けているディアナが、ポプリの行動ひとつひとつを無言で、殺気に近い感情の込められた瞳で追っているのである――少なくとも、エリック達と別れるまでの二人は親しげに会話をする仲だったというのに。一体、何があったのだろうか。

 彼らの事情を知っていると思われるジャンクは体調が悪いのか、テーブルに肘を付いてぼんやりとしていた。目を閉じているせいで、寝ているように見えなくもない。その様子からして話しかけにくいのもあるが、どちらにせよ、彼は聞いてもはぐらかしてきそうだ。無駄だろうとエリックは考える。

 

(気には、なるんだが……な)

 

 この状況であれこれ追求しても仕方が無いだろう。エリックはひとまず自分達の話をしようと、皆の意識をこちらに集中させることにした。

 

「とりあえず……さ。聞いて欲しい話がある」

 

 

 

 

「!? 女王様も、思い切ったことをしたわね……!」

 

 エリックとマルーシャが語ったのは、黒衣の龍全所属兵指名手配の話。それを聞いて、真っ先に反応したのはポプリだった。紅茶の入ったカップを手に、彼女は目を丸くしている。

 

「……」

 

 ただ、他の三人も反応がないわけではない。アルディスやディアナ、ジャンクはその話を聞いて、ただ黙っていた。

 

「母上が兄上の活動をよく思っていなかったのは事実だし、黒衣の龍も……言ってみれば、色々と怪しげな奴らが多くて」

 

「ここだけの話。黒衣の龍は訳あって正規の騎士団に入れなかった兵士とか、投獄されてた人間だとか、そんな感じの人の集まりなんだよね。実力主義、みたいな」

 

「一般兵だけならともかく、確か副団長のダークネスも牢屋出身だったよな……それだけで充分、黒衣の龍の異様さは分かるよな?」

 

 それは、一般人である者が本来知るはずもない、国家機密に等しい事実である。だが彼ら全員が指名手配された以上、これが公になるのは時間の問題だろう。ゾディートや黒衣の龍の存在を良く思っていなかったのは、ゼノビアだけではない。

 

(八年前のペルストラ事件……この件だけ考えても、相当な問題だからな……)

 

 エリックもマルーシャも黒衣の龍について詳しくはないのだが、流石にペルストラでの一件については知っていた。とにかく目的のためなら手段は問わない、そんな騎士団であることは理解している。しかし彼らの実力は確かであり、まともにやりあえば正規騎士団の方が負けてしまうのは目に見えている。

 前王ヴィンセントが生きていれば話は違ったのかもしれないが、これまで黒衣の龍が起こす行動は目を瞑られてきたところがある。つまり、今回の指名手配の件は本当に異常事態なのだと言えるだろう。

 

「でも黒衣の龍って、前王の時代は無かったわよね……?」

 

「いや、それに近い物はあった。まあ……奴隷軍みたいな、そんな感じだったんだけどさ」

 

「黒衣の龍って形になったのは、お義兄様が主導権を握ってからなんだよね」

 

「……そういえば前王の死について、少々謎めいた噂もあるよな」

 

 黒衣の龍の誕生には前王の死が大きく関係している。それも、彼の死には不可解な出来事があったのだ――この話を知っていたらしいジャンクの発言に対し、エリックは少しだけ顔色を曇らせる。彼は赤い瞳を細め、重い口を開いた。

 

「母上達や国民は半信半疑なところがあるが……僕は信じていない。兄上は確かに厳しい人だ……けれど、平然と家族を殺せるような……それも、兄上を可愛がっていた父上を手にかけられるような、そんな人じゃない……」

 

 

――前王ヴィンセント=サミエル=ラドクリフ。彼は十年前のシックザール大戦中に剣で胸を貫かれ、殺害されていた。ラドクリフ王国領であるセーニョ港。そこに到着する直前の話。そこは自国領に当たる海域であった。

 

 

「確かに、僕はあれだったけどさ……僕はともかく、父上を殺す理由なんて、兄上には無かったはずなんだ……」

 

 遺体の第一発見者がゾディートであったことが、全ての始まりだった。彼はヴィンセントにもゼノビアにも似ていない異様な容姿の持ち主であり、王位継承権も認められていない。加えて剣の達人として知られていた――当然の様に彼は、ゼノビアを含む多くの人々に疑われることとなった。

 ゾディート本人でさえすぐに何も言わなくなってしまったため、未だに「違う」と言い続けているのは弟であるエリックくらいなのだ。ただ彼は数日前、その兄に剣を向けられている。しかし、そのことを知っているのはマルーシャとアルディスのみである。

 

「そう、か……王族であるあなた達がローティア平原にいたのは、カイン王子が……」

 

「……」

 

「す、すまない……その……」

 

 自身の発言が失言であったことに気付き、ディアナは酷く狼狽える。そんな彼を気遣うように、アルディスは「そういえば」と口を挟んだ。

 

「ふと、思い出したんだ。カイン殿下って、どう見てもエリックの兄って感じじゃないよね? あの人はあの人ですごく綺麗だけど……エリックとは系統が違う。全然似てないなって、思う」

 

「よく言われるよ……顔もそうだが、そもそも兄上は黒髪に銀色の目だからな」

 

「ちょっと待て。黒髪なのか? それだと、純血かどうかって所から怪しいですよ、エリック……しかも黒髪って……」

 

 通常、純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)は金髪や茶髪といった暖かな髪色を持つと言われる。事実、エリックやマルーシャは金髪であるし、混血とはいえ龍王族(ヴィーゲニア)であるポプリも桜色の髪の持ち主だ。ジャンクの問いに、エリックはどうしたものかと苦笑いしつつ、口を開いた。

 

「あ、あはは……それが、そのー。よく、分かってないんだ……」

 

「え……?」

 

「多分、あまり公にしてはいけないような話が関わるんだ。推測、だが」

 

 弟であるエリックにさえも事実が告げられていない辺り、大方そのような事情だろう。

そうだね、とマルーシャが若干言い辛そうに口を開く。

 

「一番有力な説はお義父様と、お義母様以外の女の人との間に生まれたんじゃないかって説。その人が黒髪なら話は通るでしょ? 嫌な話だけどね……」

 

「! す、すみません……他言は、しない」

 

「そうしてくれ、頼むよ」

 

 要は、腹違いの兄弟だという事だ。残念ながら、突然変異などの極めて稀な可能性を考えるよりは、現実的な説である。しかも、ゾディートには王位継承権が無いのだ。

 

純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)みたいに分かりやすいところに特徴出ないからな。仮に混血だったとしても、なかなか判別出来ないんだ」

 

 純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)は揃って牙を持つのだが、それは彼らが大きく口を開けなければ分からないものだ。確かに軽く見ただけでは分からなかったな、と今まで黙っていたアルディスが口を開く。

 

 

「個人的には、黒衣の龍指名手配の理由の方が気になるかな……」

 

「本題はそれだ。厳密には理由なんてない」

 

「……どういうこと?」

 

「母上曰く、黒衣の龍全体の行動が妙だからってのが理由らしい。行動制限を狙ってるみたいだ。実際に今、黒衣の龍所属兵全員が王都を離れている、とかいう話だ」

 

 エリックの話を聞いたアルディスは一瞬だけ目を見開いた後、ポプリから受け取ったコーヒーカップに口を付けた。

 

「……目的は、不明なのかい?」

 

「ああ。ただ、推測だけど兄上はノア皇子を探し回ってるらしいんだ」

 

「……」

 

 コトン、とテーブルの上にコーヒーカップと両手を置き、アルディスは机に手を付いた体勢のまま俯き、考え込んでしまった。軽く伏せた瞳を覆う睫毛が、微かに震えている。

 

「アル?」

 

「! あ、ごめん……ねえ、エリック。カイン殿下なら、セーニョ港の閉鎖状態も関係なしだよね?」

 

 現在、この国唯一の港であるセーニョ港は十年に渡る閉鎖状態にある。その目的は、ラドクリフ王国内の純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)を逃がさないこと。また、前王の時代は軍事資金として巻き上げられた高い税率と、国内整備不良による悪い治安状態が続いていたこともあり、フェルリオ帝国への移住を望む者が多かったためだ。

 現在では流石に税率は下げられたとはいえ、国内の混乱は収まることを知らず、下手に港の閉鎖を解くことは国民の国外流出に繋がりかねない。それでなくとも、両国間の関係はお世辞にも良いとは言えないのだ。仕方がないとはいえ、女王ゼノビアの代となった現在でも港は閉ざされたままであった。

 

「そうだな……兄上なら、問題なくセーニョ港を突破できると思う」

 

「……」

 

「ねえ、アルディス」

 

 俯いたままではあったが、明らかにアルディスの表情が曇ったのを、マルーシャは見逃さなかった。

 

「ん……?」

 

「何か、良くないこと考えたでしょ。例えば、黒衣の龍が……フェルリオを襲うんじゃないか、とか」

 

(マルーシャ!?)

 

 彼女の発言は、明らかにアルディスを試すものである。一体何を考えているのかと問い詰めたくはなったが、エリック自身もアルディスの返答が気になったために何も言わず様子を伺うことにした。アルディスは驚きを隠せない顔をしていたが、それでも落ち着いた様子でマルーシャの黄緑色の瞳を真っ直ぐに見据えていた。

 

「……どうしたの? ゼノビア陛下の入れ知恵?」

 

「まあ、そうといえばそうだけど……うん。隠してもアレだから言うね? そうなるんじゃないかって、お義母様は言ってるの」

 

 どうしてだと思う? とマルーシャがアルディスに問えば、アルディスはそこで漸く顔を上げた。

 

「えっと……今度こそ、フェルリオを滅ぼすため、なんじゃないかな?」

 

「お義母様含め、わたし達はそうじゃないって思ってる。ノア皇子への、罠なんじゃないかって」

 

「!?」

 

 エリックもそうだが、マルーシャは目の前のアルディスの正体を知らない。だが、アルディス本人を含む他の四人は違う。

 

「おい! それは一体どういうことだ!?」

 

 椅子に座ったまま、ディアナが声を荒げる。それに対し、マルーシャは静かに首を横に振った。

 

「分かんないよ。本当にそうかどうかも怪しいし……」

 

「ただ、母上はあまり憶測で話をしない。僕らは詳しい話を聞いてはいないけれど、兄上達が隣国に渡るっていうのは確実なんじゃないかと思ってる……」

 

 マルーシャとエリックの返事は煮え切らない、曖昧なもの。しかし、アルディスはそれでも事の深刻さを重く考えていたようだ。彼は眉間に軽くシワを寄せたまま、腕を組んだ。

 

「もしかして、君達が城を出てきたのは、カイン殿下を追いかけてフェルリオに行くため? まさか、この状況で『遊びにきた』は無いでしょ?」

 

 アルディスの指摘は最もだった。確かに、ここまでの話の流れで『遊びにきた』という理由はないだろう。エリックは余計なことを言ってしまわないようにと少し頭を整理してから、口を開く。

 

「……。そう、だな……セーニョ港から、フェルリオ帝国領の港、ヴィーデへ。そして、帝都スウェーラルへ……それが、僕達の目的だ」

 

「あなた達、フェルリオに渡るように命じられたのか!?」

 

 この話の流れである。ディアナはエリックとマルーシャのフェルリオ行きを良くない意味合いで捉えたのだろう。だが、それは違うとエリックは口を開いた。

 

「僕らは兄上に力を添えに行くわけじゃない。むしろ、僕は兄上の行動を止めたいと思っている。恐らく、母上はそれを望んで僕らを城から出したんだ……母上は言っていたが、本当に兄上達がフェルリオを襲うなら、再建中の帝都スウェーラルを狙うと。だから僕は、スウェーラルを目指す」

 

「……」

 

「そうだよ……わたしもエリックも、もう戦争なんて嫌だもん」

 

 しばらくの間、ディアナはエリックとマルーシャの顔を交互に見ていた。ラドクリフ王家である二人の言葉を、すぐには信用出来なかったのだろう。

 

「……分かった。オレはあなた達を信用する。特にエリック、オレはあなたの話を聞いているからな」

 

 だが、彼の顔はすぐに穏やかな物へと変わった。それを横目で見つつ、ポプリは自身の胸に手を当てて口を開く。

 

「あたし、二人の力になるわ。あたしも一緒にフェルリオ帝国に連れてって。ううん……それは建前ね。正直ね、あたし、フェルリオ帝国が気になるの」

 

「ッ!? ほ、本当か! ポプリ!」

 

 何しろ、二人だけで外に放り出されて困っていたのだ。ポプリの申し出に、エリックは思わずテーブルに手を置いて叫んでいた。そんな二人の様子を見ていたジャンクは額に手を当て、溜め息を吐いている。それはエリックが、というよりはポプリの発言に対してだろう。

 

「ポプリ……まあ良いか、フェルリオ帝国が気になる気持ちは分かる。というわけで、僕も同行希望だ。支援くらいはできるんじゃないかと思う……構わない、か?」

 

「当然だよ! わたし達、着いてきてってお願いしたいくらいだったんだよ? まあ、今のジャン、顔色真っ青だから、ちょっと心配なんだけどね……」

 

「ふふ、大丈夫ですよ……多分」

 

「本当かな……」

 

 若干の不安要素こそあるものの、本当にありがたいとエリックとマルーシャは揃って笑みを浮かべる。ポプリもジャンクも一般人ではあるが、王子であるエリックの権力があれば、二人を国外へと連れ出すことも容易いだろう。

 

 

「……俺も行く」

 

 エリックとマルーシャが喜び、それをポプリとジャンクが微笑ましげに見ている中、アルディスが小さな――それでもハッキリとした声で、言葉を紡いだ。

 

「えっ!? アル君!?」

 

 罠である可能性が高いと知っていながら、アルディスは「行く」と言ったのだ。ポプリを含め、彼の素性を知る三人は驚きを隠せなかった。

 

「アルも来てくれるのか!?」

 

「ああ、うん。フェルリオ気になるし。状況が状況だから、もう行くんだよね? ちょっと待ってね。準備するから」

 

 ベッドの下から大きめの鞄を引っ張り出し、アルディスは旅に必要な物をそれに詰めていく。傭兵業をしているだけあって、旅慣れしているのだろう。その動作に無駄はない。

 

「その、ちゃんと聞いたことは無かったけどさ……やっぱり、アルはフェルリオ出身なのか?」

 

「……。まあ、セーニョ港閉鎖されちゃったからずっと帰ってないけどね。俺の場合、ラドクリフで暮らしてる期間の方が長いよ」

 

 ノア皇子のファーストネームと同じ“アルディス”という名前と、あまりにも特徴的な容姿。これでアルディスがラドクリフ王国出身だと言い張るには少々無理がある。今更隠すつもりもなかったようで、アルディスはエリックの問いを素直に肯定した。

 

(アルディス……)

 

「……」

 

 準備を進めるアルディスの姿を、マルーシャがじっと見つめている。それに気付き、ディアナは咄嗟に手を挙げた。

 

「じゃあ、オレも同行させてもらう。オレは純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)だが、ここに来た時と同じように、船に乗らずとも飛べば何とかなる」

 

「おー、助かるよ……って、お前、不法入国だったのかよ」

 

「オレが律儀に船に乗ってラドクリフに来れるわけないだろ。上陸と同時に捕獲されるのがオチだ」

 

「ま……まあ、今度はそうしなくて良いように何か考えような?」

 

 そこまでして、彼はどうしてこの国にやって来たのだろうか。気にはなったがそこまでさせてしまった申し訳なさの方が勝ち、エリックはそれ以上何も言えなかった。

 

 

「お待たせ。準備できたよ」

 

「おー、流石。じゃあ、もう出発するか?」

 

「それが良いと思う。ここからセーニョ港って結構距離あるし……うん、どの道通っても野営挟まなきゃ駄目だな……」

 

 どうやらアルディスの中にはいくつかのルート案があるらしい。傭兵業を八年間やってきただけのことはあるようだ。

 

「とにかく、行きながら詳しいことを話そうと思う。それで良い?」

 

「おう。助かるよ……じゃあ、行こうか?」

 

 どちらにせよ、行くなら早い方が良い。エリックの言葉を合図に、次々と家を出て行く。そしてエリックが家を出た後には、最後に戸締りを確認しているアルディスと、何故か家から出ていこうとしないマルーシャがその場に残った。

 

 

「アルディス、ちょっと良い?」

 

「ん? どうしたの?」

 

 カーテンを閉め終えたアルディスを手招きし、マルーシャはどこか、怯えるような表情で、彼の顔を真っ直ぐに見つめている。

 

「その……アルディス」

 

「うん?」

 

 膝上丈のスカートの裾をギュッと掴み、マルーシャは意を決したように口を開いた。

 

「アルディス! 右の手袋、ちょっと外してみせて!」

 

「えっ!?」

 

 これには、流石のアルディスも動揺を隠しきれていなかった。

 

「……。ちょっと待ってね……」

 

 間違いない。マルーシャは自分を疑っている。気付かれぬように奥歯を噛み締め、アルディスは右の手袋を外した――ただ、右手には何もない。見られて困るのは、左だ。

 

「これで、良いのかい……?」

 

「! あ、えっと、うん! ありがとっ! ちょっと、その、どんな手してるのか、気になっちゃって?」

 

「……」

 

 気まずそうに「あはは」と笑うマルーシャに対し、アルディスは密かに、どうしようもない罪悪感を覚えていた。

 マルーシャは幼馴染みであると同時、妹のような存在だ。本当なら、嘘など吐きたくはないというのに……。

 

「……とにかく、行こっか?」

 

「うん、ごめんね?」

 

 彼女は日頃、エリックと共にいることが多いために勘違いしたのだろう。紋章は“利き手”に掘られるため、必ずしも右手にあるわけではないという事実を。

 

(謝るのは、こっちの方だよ……)

 

 アルディスは手袋をどこかぎこちない動作で付け直し、マルーシャと共に家を後にした。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.18 鮮血と刃

 

「今、俺達がいるヘリオスの森がここ。セーニョ港はここね……見てもらったら分かると思うけど、結構遠いんだよね」

 

 ディアナとジャンクに先導してもらう形で、アルディスは歩きながら地図を指差す。それはエリック達に見やすいような形で、かつ最小限の幅で広げられていた。

 

「僕らが数日彷徨ったローティア平原を越えていくことになるんだな」

 

「そうだね。ただ、はっきり言ってローティア平原は大した問題じゃない。問題はフォゼット大森林の方なんだ」

 

 

 ラドクリフ王国の東南に位置する王都ルネリアルは、周囲をローティア平原という広大な草原に囲まれているのだが、この草原をさらに囲うように存在するのが、フォゼット大森林という広大な森林地帯だ。フォゼット大森林はアルディスの住まうヘリオスの森など比べ物にならない規模の、危険な場所である。

 しかし第一の目的地であるセーニョ港はスケルツォ大陸の西側に位置している。つまり、エリック達はスケルツォ大陸を東から西へと横断しなければならず、いかなる経路を通ったとしても、どうしても森を越える必要が生じるのだという。

 

「フォゼット大森林は多くの草木が生息している。魔物も出てくるけど、野盗の巣窟にもなっているんだ……俺が仕事貰ってるギルドの掲示板。そこにたまーに張り出されてるんだよ。行方不明になった商人の捜索依頼が……そういう人は大体、フォゼット大森林で遺体となって発見されるんだ。商人は、野盗の主な獲物だから」

 

「……ッ」

 

「分かった? つまり、そういうこと。だから、本当に注意して行かないといけない場所なんだ。魔物も、ローティア平原に生息している奴よりずっと強いしね」

 

 アルディスは軽く息を吐き、地図を折りたたみ直す。表面に書かれていたのは、『アドゥシール』と『トゥリモラ』という地名だった。どちらもスケルツォ大陸の東寄りに位置する街で、セーニョ港との距離が近い。違いを上げるなら、どちらかというとアドゥシールはやや北寄りで近くに鉱山や湿原があるということ、トゥリモラはアドゥシールの南にあり、若干アドゥシールよりセーニョ港までの距離が近いことだろう。

 

「いきなり直通するのは厳しいと思うし、アドゥシールかトゥリモラ、どちらかを経由して行くべきだ……で、俺個人としてはトゥリモラ経由を推奨するよ。アドゥシールは周りに鉱山やら湿原やらがあるせいで、途中がちょっと危ないし。野盗出やすいのはアドゥシール側だし……って」

 

 話を途中で切り、アルディスは地図を鞄の中にしまった。一体どうしたのかとエリックが問いかける前に、彼は前方に、具体的にはジャンクの元へと駆けていった。

 

「ジャンさん!」

 

「きゅー!」

 

 しかし、アルディスよりも早く飛び出していった存在があった――チャッピーだ。

 彼はアルディスを追い抜くと、ジャンクが着ている白衣の襟元を加えて膝を折り、その場に座り込んだ。その動きに合わせて、ジャンクも地面に座り込む。

 

「……イチ……ハ、兄さ……ッ」

 

「きゅっ! きゅー、きゅー!!」

 

(え……?)

 

 チャッピーの行為にジャンクが全く抵抗しなかったのは、彼の体調が原因であった。そもそもアルディスが駆け出したのは、ジャンクが酷くふらついたことに気付いたからである。結果としては同じようにジャンクの体調不良に気付いたらしいチャッピーに先を越されたわけなのだが、アルディスはそれよりも気になる言葉を耳にすることとなった。

 

(チャッピーじゃなくて、“イチハ兄さん”……? 意識混濁か? それにイチハって、名前の響きからして、恐らく……)

 

「きゅーっ!!」

 

「!」

 

 チャッピーの一際大きな鳴き声で、アルディスはハッとしてジャンクの元へと駆けた。座り込んだ青年はチャッピーの大きな身体に背を預ける体勢で、荒い呼吸を繰り返していた。

 

「ジャンさん!」

 

 アルディスが肩を叩けばジャンクはおもむろに顔を上げ、作り笑いを浮かべてみせる。その間に、皆が周囲に駆け寄ってきていた。

 

「……。すみません、流石に、無理をしすぎました……」

 

 顔面蒼白で、冷や汗を流しながらジャンクは笑う。そうなった理由を察したアルディスは奥歯を噛み締め、こちらを見てくるチャッピーと視線を合わせた。

 

「チャッピー、ジャンさんを背に乗せて運んでもらえるかな? そしてジャンさん、トゥリモラ着いたら起こしますから、今すぐに寝てください!!」

 

「え……」

 

「良いから! 黙って! 寝てください!!」

 

 声を荒げるアルディスを横目でちらりと眺めた後、ポプリは「そういうことね……」とこめかみを押さえて溜め息を吐く。彼女もまた、ジャンクが倒れた理由を察したのだ。

 

「また寝てなかったのね、先生……あたしの薬草採集に付き合ってくれたのはありがたいけど……無理はしないで欲しかったかなぁ……」

 

「ね、寝てない……? ジャン、徹夜なの?」

 

「ええ。あたしもあそこまで酷いのは初めて見たから……二週間は寝てないわね、彼」

 

「二週間!?」

 

 二週間に及ぶ徹夜――それは、常人ならありえない期間である。驚いて声を震わせるマルーシャと、言葉すら出てこなかったエリックとディアナの反応は何も間違っていない。

 チャッピーは任せろと言わんばかりに「きゅ」と小さく鳴き声を上げ、ジャンクを自身の背に乗せた。

 

「あ、あの……」

 

「何ですか寝てください」

 

「ね、寝ますから……! その前に、そ、その……情けない話を、させてくれ。要は、ワガママ、なんだが……すみません。トゥリモラには、行かないで欲しい。アドゥシール経由で、行っていただけないでしょうか……?」

 

「え……」

 

「無理なら無理で、構わないよ……」

 

「……」

 

 一体、どうしたというのだろうか。確かにトゥリモラは観光地でも何でもなく、むしろ鼠色の建物ばかりが立ち並ぶ殺風景な街である。街の地下には罪人を閉じ込めるため地下牢があるという噂もあり、そこは客人どころか、どういうわけか下位精霊すら寄り付かない場所だ。アルディス自身も、あまりトゥリモラという街を好ましくは思っていない。

 下位精霊が寄り付かない理由はよく分からないが、ジャンクは精霊を従える力を持った精霊術士(フェアトラーカー)である。精霊達が嫌がる場所は、彼にとっても苦痛な場所となるのかもしれない。

 

 

「……。そうですね、ポプリさんは一応控えていて下さい。魔物は賢いですし、チャッピーは戦いを好まないようですから。そこを襲撃されると厄介です」

 

「アル君?」

 

 ぐったりとしたジャンクを見つめたまま、アルディスはレーツェルに手をかざした。眩い光とともに、小さな宝石は薙刀へと変わる。

 

「エリック、マルーシャ。君達が人間と戦うのは正直、まだ早いと思ってる。それでも、魔物戦だけは協力して欲しい……今回ばかりは、俺とディアナだけってのは厳しい」

 

「言われずとも、僕はそのつもりだ。だから、あまり気にかけるな」

 

「わたしも大丈夫。これでも風属性の魔術、ちょっとは覚えてきたんだよ?」

 

 任せてと笑うエリックとマルーシャの姿を見てから、アルディスはディアナへと視線を移した。ディアナは眉を潜め、軽く首を傾げてアルディスの翡翠の瞳を見据えた。

 

「危険だと、分かっているのだろう? それでも、アドゥシール経由で行くつもりか。あまり感心する選択肢では無いと思うのだが」

 

 アルディスが突然皆に指示を出し始めたのは、アドゥシール経由でセーニョ港を目指すための準備だった。それを見抜いたらしいディアナは否定的な言葉を投げかけ、アルディスの様子を伺っている。対するアルディスはゆるゆると首を横に振った後、軽く俯いて口を開いた。

 

「君達には悪いと思ってるよ……間違いなく、負担は増えると思うから。だけど……俺は、ジャンさんに命を救われている。借りがあるんだ」

 

 そう言い切り、アルディスは再び顔を上げてディアナを見る。そんな彼の顔を見て、ディアナは少しだけ顔を綻ばせて笑ってみせた。

 

「まあ、分かっていたよ。あなたは優しい人だから。それに、オレでも同じ選択をしたと思う。オレも彼には借りがある」

 

 あのような状況だったにも関わらず、ジャンクはトゥリモラ行きを拒んだ。それだけ、トゥリモラという街に対して何らかの事情があるらしい。当の本人は既に意識を飛ばしてしまっているようで、その事情は聞けずじまいなのだが。

 ディアナはエリックとマルーシャの方へと顔を向け、「良いか?」と問いかける。否の意見が返ってくることは、ない。

 

「オレの見解だが、エリックはそれなりに戦えるようだし、マルーシャもまあ大丈夫だろう。だから、先を急ごう。借りを返さねば……さっさとこの馬鹿男を宿屋に放り込むぞ」

 

「若干目的変わってるけど同意。借り返さなきゃだし、一気に突っ切る」

 

 繰り返し「借りを返す」と言いながら先頭へと飛び出していく二人の表情からは、かなりの焦りが伺える。素直じゃないなぁ、とエリックとマルーシャは顔を見合わせて笑った。

 

 

 

 

 ヘリオスの森を出発し、日も傾き始めた頃。エリック達はローティア平原を越え、現在はフォゼット大森林を越える為に戦いを繰り広げていた。道中で魔物とはそれなりに遭遇していたものの、比較的順調に進めていると言っても過言ではないだろう。

 

「また来るぞ! あれは、鳥系の魔物……イーグルか!」

 

 木々の隙間を抜け、イーグルが次々と姿を現した。ディアナの声を合図に、マルーシャは意識を高めていく。

 

「えっと……エリック、行くよ!」

 

 細やかな、緑の光が構えた杖の辺りを舞う。前方に居たエリックの名を呼んだ後、マルーシャはそれを高く掲げた。

 

「雷の戯れ! ――ライトニング!」

 

 小さな雷が、上空を飛ぶイーグルの翼を焼く。だが、これだけでは仕留められないということはここまでの戦いで彼女も分かっていた。だからこそ、エリックの名を呼んだのだ。

 

「よし、任せろ!」

 

 バランスを崩して降下してきたイーグルの真下に入り込み、エリックは勢いよく飛び上がった。

 

絶翔斬(ぜっしょうざん)! ――爆砕陣(ばくさいじん)!」

 

 右手に握り締めた剣を振り上げ、イーグルの腹部を切り裂く。返り血が飛び散るよりも前に、エリックはそのまま重力に任せ、イーグルを叩きつけるように剣を振り下ろし、衝撃波を起こした。

 

「続けて仕留める!」

 

 たった今標的となったイーグルは空に還ったが、何しろ相手は大群で押し寄せて来たのだ。イーグルはまだ周囲に残っている。地面に着地した後、エリックはその場で剣を大きく薙いだ。

 

「――真空破斬(しんくうれっぱ)!」

 

 生み出された風の刃が前方のイーグルを深々と切り裂く。事切れたイーグルは魔力に分散され、そのまま空中へと消えた。その様子を、先程目を覚ましたジャンクが興味深そうに眺めている。

 

 

「ちょっと、先生? 起きてないで、寝ててちょうだい。どのみち、後でアル君にお説教される覚悟はしておくことね」

 

「きゅー!!」

 

「はは……すみません」

 

 多分、一番先生を心配してたのはアル君よ、と言って笑うポプリの前を、たった今話題になっていたアルディスが颯爽と駆けていく。

 

「鋭鋒を携えよ! ――シャープネス!」

 

 空中に居るディアナの声と共に、アルディスの周りに赤い光が出現した。光は薙刀の切っ先に吸収され、刃を赤く光らせる。

 

「――大地に眠りし熱きもの。我が声に応え、目覚めよ!」

 

 ディアナが続けて詠唱を開始する。真下に現れた赤い魔法陣の真上で薙刀の柄を握り直し、アルディスは大きく身体を翻した。

 

「――飛燕連斬(ひえんれんざん)!」

 

 背丈と然程変わらない長さの薙刀を豪快に振り回し、周囲のイーグル達を薙ぎ払う。その時、アルディスの下にあった魔法陣の光がより一層強くなった。

 

「イラプション!」

 

 陣を中心に、地面が赤く染まる。そこから吹き出した溶岩流が、イーグル達の翼を焦がした。それらをかわすように、高く飛び上がったアルディスは空中で薙刀を短く持ち直す。

 

「――爪竜連牙斬(そうりゅうれんがざん)ッ!!」

 

 流れるような軌道を描く薙刀の切っ先が、地に落ちていくイーグル達を次々に斬り付けていく。その身を裂かれ、羽根と鮮血を散らしてイーグル達は空気中に分解されていった。

 

 全ての鳥を倒したことを確認した後、アルディスとディアナはそれぞれの武器をレーツェルに変化させる。その様子を見て、マルーシャは軽く息を吐いた。

 

「何というか、やっぱり凄いね、アルディス」

 

「どうも。でも俺はエリック見て落ち込んでるんだけど。力、強いなって」

 

「僕はお前みたいに軽やかに技決めたいよ……」

 

 純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)ではどうしても体質の差が出てしまう。単純な力勝負では、戦い慣れていないはずのエリックの方が強い。

 実際、マルーシャのサポートがあったとはいえ自力で戦闘を行っていたエリックに対し、アルディスは補助魔術であるシャープネスの恩恵を受けた上で技を使っているのだ。

 

「ふふ、何だかんだ言って四人とも頼もしいわね。もうすぐ日が沈むけれど……先に進むかどうかは、あなた達の判断次第ね」

 

「そうですね……野営のことを考えるなら、森の中より外の方が良いとは思うのですが……」

 

 ポプリとアルディスが地図を見ながら話している。あの様子だと、アルディスは普段の仕事でこの道を通る際は森を抜ける選択肢の方を取っているのだろう。要は、エリックとマルーシャを気遣って判断に迷っているのだ。

 

「じゃあ、もう少し進まないか? 僕はまだ行け……ゴホッ」

 

 それならば、とエリックは口を挟んだのだが、それが災いする結果となった。風邪とは明らかに違う、独特の咳が辺りに響く。

 

「エリック、治すからじっとしてて!」

 

「うわ、そうだった。戦闘中に出なくて良かったね……」

 

「ゲホゲホッゴホッ、ゲホッゴホッ……わ、悪、い……ゴホッゴホッ!」

 

 

ーー発作そのものは酷くなる前にマルーシャが止めてくれたのが、逆に気遣わせるような結果となってしまった。

 

 

「えーと、その……説得力無い状態だが、僕は大丈夫だ」

 

「うん、そうだね……」

 

 若干ではあるが、アルディスに呆れられてしまっているのが分かる。とはいえ、ここまでキッパリと言い切られてしまうのも悲しい話だ。

 

「そう言えばそうだったわね。第二王子は身体が弱いって話、聞いたことあるわ。大丈夫なの?」

 

「ああもう……嫌な情報ばっかり流れてるな……大丈夫と言えば、大丈夫だ」

 

 どうやら、自分の病弱体質は庶民階級にまで有名な話らしい。盛大にため息を付きつつ、エリックは頭を掻いた。

 

「だから、先に進もう。どこから何が出てくるやら分からないような場所で野宿なんて嫌だ」

 

「危険なのは確かだけど……じゃあその言葉を信じて、もう少しだけ進もうか」

 

 そう言って、アルディスは再び薙刀を取り出す――その時だった。

 

 

「うわぁっ!?」

 

「! ディアナ!?」

 

 ディアナの、短い悲鳴が響いた。慌てて振り返って見てみると、彼の背中の翼が無残に切り落とされ、周囲に羽が舞っている。

 

「う……っ」

 

「へへっ、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)じゃねぇか……しかも両目揃ってやがる」

 

 ガサガサと辺り一面に生い茂った長い草を掻き分けながら、数十人の男達が姿を現した。そのうち、先頭に居た男の手に、巨大なブーメランが戻ってくる。

 

「野盗か!? エリック、マルーシャ! 下がれ!!」

 

 アルディスは拳銃を取り出し、威嚇射撃を行う。盗賊達が怯んだ隙に、彼は地面に踞るディアナの元へと駆けた。

 そんな彼の姿を見たジャンクは慌ててチャッピーから飛び降り、覚束無い足取りでトンファーを構える。

 

「先生! 駄目、危険だわ!!」

 

「いえ……ポプリ、僕達も加勢するぞ。“アル一人で”あの人数は無謀過ぎます!!」

 

「え……?」

 

 それはどういうことなの、とポプリが言いかけたその時。盗賊達の悲鳴が上がった。アルディスがディアナと盗賊達の間に入り込み、そのまま数人を斬ったのだ。

 

「ディアナ! 今のうちだ! 後ろに下がれ!!」

 

「……ッ」

 

 

――しかし、ディアナは動かない。

 

 

「どうし……!?」

 

 声を荒らげ続けるアルディスの目に映ったのは、酷く震える両手を支えに身体を起こしたディアナの、今にも泣き出してしまいそうな、そんな表情だった――こんな状況にも関わらず、微動だにしないディアナの下半身。それを見たアルディスの頭に、ある疑惑が浮んだ。

 

「ディアナ!? お前、まさか……!?」

 

「アルディス!!」

 

 ディアナが、弱々しく声を震わせて叫ぶ。酷く困惑するアルディスの頭上目掛けて、棍棒が振り下ろされようとしていたのだ。すぐに反応することができなかったアルディスを庇うために、トンファーを盾にするような体勢でジャンクが間に滑り込んだ。

 

「! じゃ、ジャンさん……ッ」

 

「アル、話は後です! 今は、この状況を突破するぞ!!」

 

 トンファーで棍棒を受け止めるジャンクの顔色は、薄暗い中でも良く分かるほどに、真っ青だった。ただでさえ体調を崩していた彼が慌てて飛び出してきたのだ。アルディスの頭に浮かんだ疑惑は恐らく、間違いでは……ない。

 

(ディアナ……ッ)

 

 アルディスはゆるゆると首を横に振るい、奥歯を噛み締める。そしてディアナに近寄る野盗に向かって再び威嚇射撃を行った。

 

 

「何だァお前ら! 邪魔をするな!!」

 

「不協の幹線、徒党を組みて和を乱す! ――イービルノイズ!」

 

「ぎゃっ!!」

 

 悪しき音の波が、戦場を駆け巡る。そこに野盗達の注意が向いた隙に、アルディスはディアナを抱きかかえる――その際、アルディスはディアナの身体に違和感を覚えた。

 

(!? ……いや、今はそれどころじゃない!!)

 

 考え込んでしまいそうになったが、そうすべき時では無いことは分かっている。彼は一旦思考回路をリセットし、ディアナを抱えたまま野盗達から距離を置こうと立ち上がった。

 

 

「がっ!」

 

「ジャンさん!?」

 

 しかしそう上手く、事は進まなかった。ジャンクの呻き声に驚いたアルディスが振り返ると目の前には棍棒を振り上げる野盗の姿があった。視界の端に、頭から血を流して倒れているジャンクの姿が映る。

 

 

「良いじゃんかよぉ、片目えぐるだけで勘弁してやんよぉ……っ」

 

「ッ、くそ……っ」

 

 ディアナを抱えているせいで、アルディスの両手は塞がっている。ジャンクは動けない。ポプリの詠唱も、間に合いそうにない!

 

(駄目だ……!!)

 

 咄嗟にアルディスはディアナを抱え込み、その場にしゃがみこんだ。後ろで、野盗が棍棒を振り上げているのが分かる。アルディスは来るであろう衝撃に備え、目を固く閉ざした。

 

 

「ぎゃああああああぁああっ!!!!」

 

 

(え……)

 

――何かが、おかしい。

 

「ネガティブゲイト!」

 

 ポプリの魔術発動が悲鳴の理由ではない。その証拠に、遅れて聴こえてきた術名と野盗達の悲鳴。そして、“誰か”に謝るポプリの声が、辺りに響いた。嫌な予感が、する。

 

(まさか、まさかまさかまさか……っ)

 

 その予感の正体を、このおかしな状況が起こった原因を確かめるべく、アルディスはそのままの体勢で後ろを振り返る。

 

 そして、彼は絶句した――草の上に転がる棍棒。辺り一面に飛び散った、おびただしい量の鮮血。

 その鮮血の持ち主である男は、マルーシャが手にした短剣で胸を貫かれ、首から大量に血を吹き出して事切れていた。

 

 

「……大丈夫か? 二人とも……」

 

 話しかけてきたのは、エリックだった。右手に握られた宝剣には、今しがた付いたばかりであろう血が、べったりと付着していた。

 

「エ、リック……」

 

 

――声が、震える。

 

 

「……」

 

 短剣で男を刺したらしいマルーシャは、酷く手を震わせ、その瞳を涙で濡らし……それでも、無理矢理に笑顔を作ってこちらを見ていた。

 

「良かった。大丈夫、みたい、だね……?」

 

「ッ! マルーシャ……!!」

 

 

――取り返しの、付かないことをしてしまった。

 

 

「二人とも、ごめん……、ごめん……っ!!」

 

 涙混じりになった、アルディスの悲痛な叫びが森の中で響く。覚悟をしていたかどうか。そんなことはどうでも良い。本当なら、こんなことをさせたくなかった。

 それは、甘い考えなのかもしれない。どちらにせよ、この二人にはまだ早かっただろう。二人は城や屋敷の中で暮らし、外の世界も満足に知らなかったのだから。

 

「大丈夫だって。泣くなよ……」

 

「うん、平気だよ! 二人が無事で、本当に良かった」

 

 決して浴びたくなどなかったであろう返り血を浴びた友人達は、それでも自分を心配させないように、必死に笑みを浮かべ続けてくれていた。

 しかしその優しさは、今のアルディスにとってはあまりにも残酷なものであった……。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.19 虚像の友情

 

「……」

 

 エリックは剣に付いた血を払い、それをレーツェルへと変えた。その横で、マルーシャも短剣をしまう。そんな二人の様子を、アルディスは未だ涙の残る目で見つめていた。

 

「おいアル。いつまでそんな顔してるんだ……それより、ディアナ離してやれ。苦しそうだぞ」

 

「! あ……」

 

 エリックに指摘され、アルディスは漸くディアナを抱え込んだままになっていたことに気が付いた。状況的に力んでしまうのは仕方がなかったとはいえ、ディアナにはかなりの力が加わっていたはずだ。小さな彼の身体に何かしら負担をかけていないか気にしつつ、アルディスは力を緩めつつディアナの顔を覗き込んだ。

 

「ご、ごめん。大丈夫かい?」

 

「謝るのはオレの方だ。すまない、皆……」

 

 ゆっくりと地面に下ろされたディアナはその場に座り込んだまま、俯きがちに声を震わせる。何とも言えない、重々しくも気まずい空気が六人の間で漂っていた。

 

「ね、ねえ! みんな、とりあえず先に進もうよ!」

 

「マルーシャ……?」

 

 この空気を壊そうと思ったらしいマルーシャは、パンパンと両手を叩いて笑ってみせた。

 

「だって、ここにいつまでもいるのも嫌でしょ?」

 

 そうだなとエリックがそれに同意し、皆が先頭を歩くマルーシャを追って動き出す。それでも、ディアナは決して立ち上がろうとはしない。結局立ち上がることなく、彼は今にも泣き出しそうな表情で、声を震わせて叫んだ。

 

 

「ま、待ってっ!!」

 

「!」

 

「待って……お願い……っ」

 

 置いて行かないで、とプライドも何もかも捨てて、ディアナが訴えてくる。捨てたくて捨てたわけではない、彼の場合は、捨てざるを得なかったのだ。

 両腕を使い、ディアナは必死に前へ進もうとする。時々「助けて」と言わんばかりに右腕をエリック達の方へと伸ばす。だが彼がそのような動きを繰り返すのに対し、両足は全く動いていない。それらはずるずると、重りのように引きずられているだけだ――これが何を意味するのか、分からぬ者はいなかっただろう。

 

「……大丈夫。置いてったりしないよ」

 

 それでも、アルディスは特に表情を変えることなく、再びディアナを抱き上げる。しかしアルディスの顔を見上げたディアナはびくりと肩を震わせ、目をそらすようにアルディスの胸に顔を押し付けてしまった。

 

「ッ……ごめん、なさい……」

 

(笑ってるつもり、なんだけど、な……)

 

 どうやら怯えさせてしまったようだ。この反応を見る限り、自分は相変わらず笑えていないらしい。八年間、ずっとこれだ。大概に慣れたが、このような場面で笑えないのは流石に辛い。

 

「ごめんなさい……ッ」

 

「……」

 

 繰り返し謝ってくるディアナの声を聞いていると、胸が張り裂けそうになる。間違いなく、普段の強気な姿は彼の虚勢だ。本来、ディアナは臆病な子なのだろう。アルディスに責められることが怖いというのもあるだろうが、何より自分が迷惑をかけ続けているこの状況が耐えられないのだ――捨てられる、とでも考えてしまったのかもしれない。

 

「もう、謝るな。大丈夫だから」

 

 言葉だけでは、伝わらない物がある。よりにもよって笑えなくなってしまってから、アルディスはそれに気付いてしまった。

 

 できることならば、かつてエリックやマルーシャが自分に対してそうしてくれたように、ディアナに笑いかけ、彼を安心させたいというのに……。

 

 

 

 

 その後は、幸いにも魔物とも野盗とも遭遇することなく森を抜けることができた。テントを張り、野営の準備を終えた後は皆、適当に個人で過ごしていた。

 

「……」

 

 エリックは一人、テントからも、仲間達からも離れた場所にいた。時刻は既に深夜を回っていたものの、何となくテントで眠る気になれなかったのだ。転がっていた岩の上に座り、彼はぼんやりと星空を眺めていた。

 

 

「エリック君……やっぱり、眠れそうにない?」

 

 放心していると、後ろからポプリの声がした。

 

「……ポプリ」

 

「あたしも、そうだったわ。多分、皆そうなの。生きるためとはいえ……辛いわよね」

 

 それでも、直接人を殺める感触を味あわずに済む魔術師は、まだマシなのかもしれない。そう言って、ポプリは琥珀色の目を細め、どこか悲しげに笑った。

 

「はは、覚悟はしてたつもりだったんだ。だから、咄嗟に動けたんだと思う。だけど……実際にやってみると、やっぱり違うんだよな」

 

「……」

 

「情けないな。あの感覚はもう、忘れられそうにない……」

 

 人を斬る何とも言えない感触と、大量に被った生暖かい返り血。汚れた服も、身体も綺麗に洗い流しはしたがまだ、どこかに何か残っているような感覚に陥る。

 エリックの言葉を静かに聞き終えた後、ポプリはおもむろに首を横に振った。

 

「忘れちゃ、駄目なんだと思うわ……あたしだって、できることなら忘れたい。けれど傷付けられた方は、それを望まないはずだから」

 

「……命を奪う、責任か」

 

「さっきのは正当防衛って言ってしまえば、それまでだけどね。そう考えてみれば、ディアナ君はずっと戦ってきたのよね……」

 

 純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)が、このラドクリフの地で受ける扱い。知識として知ってはいたものの、それを目の当たりにしたのは当然ながら初めてのことだった。

 

「目、抉らせろって……片目だけで良いから、とか……」

 

「まあ、実際は片目だけじゃ済まされないのよね。能力が欲しいなら、なおさら」

 

 普通、あのような者に襲われた純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)は両目を抉られた上、懸賞金目当てで城に突き出されるという。元々かなり美味しすぎる話だ。さらに目の有無は懸賞金の額に関係ないのだから、誰もが両目とも抉ることを選ぶだろう。

 第一、仮に片目だけで済んだとしても、魔術を使うことに特化した純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)の場合は片目を抉られただけでも体内の魔力が暴走し、ショック死してしまうこともある。必ずそうだというわけではないものの、彼らにとっては本当に死活問題なのだ。

 

「でもさ、あれって……運が良ければって、奴だろ?」

 

「……。純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)とか、ヴァイスハイトの目を抉るとね、そこに含まれていた魔力が空気中に飛散するの。魔物倒した時みたいにね……それを、上手く身体の中に取り込めれば、能力を奪い取れる。多分、これが正解だと思うわ」

 

「!?」

 

 多分と言いつつ、まるでその光景を見たかのような物言い――エリックが密かに立てていたある仮説が、確信へと変わる。意を決して、エリックは真実を確かめるべく口を開いた。

 

「ポプリ。僕の予想が正しければ……」

 

「アル君の右目を抉ったのはあたしよ。そして、彼の能力を奪い取った……だから、龍の血が濃いあたしでも、あれだけの魔術を使いこなせるの」

 

「なっ!?」

 

「ふふ、軽蔑したって良いわ。それだけのこと、やっちゃったんだもの」

 

 想像はしていた。だが、先に言われてしまうとは思わなかった。悪人じみた様子で、どこか自虐的にクスクスと笑うポプリの姿を見たエリックは、思わず眉をひそめた。

 

「だからね、ディアナ君があたしを見て警戒するのも当然のことなの……ごめんなさい、驚かせちゃったでしょう?」

 

「……」

 

「エリック君?」

 

 だが、彼女は別にアルディスの能力を奪い取る目的で右目を抉ったわけではないのだろう。それは、アルディスのポプリに対する態度や、今この話をしているポプリの姿を見れば明らかだった。彼女は明らかに、自らの行為を蔑んでいる。後悔しているのだから。

 

「ねえ……何か、言ってよ……」

 

 恐らく、ポプリは責めて欲しいのだろう。アルディスがあの調子だ、彼に悪気はないだろうが、拒絶されないことで罪の意識に苛まれてしまっているのかもしれない。

 

「ポプリ」

 

「……」

 

 右目に傷を負ったばかりの彼がどれほど追い詰められていたか、エリックはよく知っているつもりだった。だからこそ、分かることがある。

 

「アイツは昔、『自分と一緒にいたら皆不幸になる』とか言ってたんだ。気になってたことがやっと分かったよ。僕の推測だが、先に傷付けてきたのは、アルの方なんだろ?」

 

「!?」

 

「でも……多分それ、事故だろ。何か事故があって、その結果ポプリが傷付けられた。で、何があったか知らないが、ポプリがアルの右目を斬り付けてしまった……とか。少なくとも、先にポプリがアルに襲いかかったわけじゃないだろうと、僕は考えている」

 

 

『嫌なんだよ……っ! もう嫌なんだよ! 俺のせいで誰かが傷付くのは、もう見たくない……!!』

 

 

 八年前、魔物に襲われながらも自分達を逃がそうと、アルディスが泣きながら叫んだ言葉。それ以前に彼は、自分達に嫌われるため、懸命に“嫌な奴”を演じていた。

 

「……凄いの、ね。でも……彼は、何も悪くない。あたしが、勝手に……あたしが勝手にやっただけなのよ……」

 

「ポプリ……」

 

「彼は悪くないのよ……っ! あたしが全部悪いの。それなのに、あの子……あの子は……っ」

 

「……」

 

 

――皮肉な話だ。両者が、共に互いのことを許し、自分自身のことを許さなかったのだ。

 

 

「悪かった。嫌なこと、話させたな……」

 

「……ごめんね、あたしがエリック君を慰めに来たのに」

 

 これじゃどっちが慰められているやら、と自嘲的に笑うポプリの頬を涙が伝う。彼女は本当に、この話題になると涙脆くなってしまうようだった。

 

「まだ謝ることがある。僕は、マルーシャと一緒にアルの素性を探ろうとしたんだ。お前の話聞いて、どうしても……気になって。本当に申し訳ない」

 

「!」

 

「とりあえず、“クロード”が聖者一族由来の名字だってのは分かったんだ。ルネリアルでのお前の反応だとアルが貴族だって、言ってるようなものだったから」

 

「……」

 

 それは、『普通に扱ってくれ』と頼んだエリックの言葉にかつてのアルディスの姿を重ね、ポプリが涙した出来事を指していた。

 不幸中の幸い、エリックは重大な事実に気付いていないようであったが、自分の行為でアルディスの首を絞めてしまったということだ――ポプリは、賭けに出ることにした。

 

 

「……。エリック君、“ペルストラ=クロード”って知ってる?」

 

「え? えーと、初代ペルストラ領主だよな……」

 

「そうよ。あたしのお爺ちゃんの名前」

 

「!?」

 

 この話をすると、案の定エリックは目を丸くしてみせた。その反応も当然のことだろう。彼らには、違う姓を名乗っているのだから。

 

「ごめんね。“ノアハーツ”って偽名なのよ。あたし、ノアハーツ孤児院ってとこにいたから、そこから名前貰ってきたの。本当の姓を名乗っちゃうと何かと不都合あったから……あたしの本名はポプリ=クロード。エリック君を信じて、話すわ」

 

「え……お前もクロード姓!? いや、待ってくれ。アルとの、関係は……まさか……」

 

「そう、姉弟なの。異母姉弟だから、血は半分しか繋がってないけど」

 

 エリックの反応を見る限り、かなり驚いてはいるが信じてくれそうだ――ポプリはアルディスを義弟ではなく、自分と半分とはいえ血の繋がりがある弟だと主張して誤魔化しきろうと考えたのだ。

 

 

「あたしのお爺ちゃんは正真正銘の聖者一族だったの。クロード姓はそこから引き継がれて来たのよ。そして、彼は純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)の女……要するに、あたしのお婆ちゃんね。その人と恋に落ちて、駆け落ちしたのよ。そして荒廃しきった村に逃げ込んで、匿ってもらうお礼にって持ってた財産使って村を立て直したそうよ……それが、今で言うペルストラ」

 

「す、すごい話だな……」

 

「……」

 

 ここまでは実話だ。実際にポプリは聖者一族の血は引いているし、ペルストラの話も事実だ。嘘は付いていない。

 しかしアルディスとの関係を誤魔化すのなら、ここから虚像を交えていく必要が出てくる。

 

「調べたんだったら、聖者一族は白銀の髪を持つって知ってるわね? あたしの二人目のお母さんは聖者一族の血を引いてるのに銀髪じゃなかったんだけど、アル君は隔世遺伝で銀髪になったの……それにしたって全然似てないのは、あたし達両方母親似だからだと思うわ。あたしはもう、最初のお母さんの顔なんて思い出せないけど……」

 

「お前も大変だったんだな……」

 

 エリックは、完全に話を信じ込んでいるらしい。罪悪感を覚えながらも、ポプリはなるべく表情を変えぬように気をつけつつ、話を続けた。

 

 

「一族はね、ヴァイスハイトとして生まれたアル君を欲したの。ちょうど、一族の証の白銀の髪だったしね……最終的にアル君だけが、聖者一族としての地位を得ちゃったのよ」

 

「……なるほど」

 

「だから、あの子は貴族と言えば貴族よ。男の子だから、ほっといても次期領主ではあったんだけど、それ以上の立場になっちゃった。どう接したら良いのか気にしてたあたしに、あの子は気にするなって言ってくれたの……」

 

 プライドの高い聖者一族が純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)以外の者を受け入れるとは思えない。だが、アルディスは幸いにもヴァイスハイトだ。元々、普通の存在ではない。何とか信憑性のある話にはできただろうと信じたい。

 だが、ここでエリックを騙しきれても、マルーシャに見抜かれる可能性はある。どのみち、アルディスと話を合わせておく必要性はありそうだ。

 

(あの子に余計な嘘、吐かせたくなかったのにな……)

 

 今の段階で、アルディスはいっぱいいっぱいだろうに。そう考えると、徐々に目頭が熱くなってくるのを感じた。

 

「……ちょっと待ってね。また泣きそう」

 

「あ、ああ」

 

 泣きそうなのは、本当だ。だが、ここで逃げ出すわけにはいかない。

 

(あたしのせいでこじれたんだもの。上手く……上手く、誤魔化さなきゃ)

 

 嘘を誤魔化すには、その上からもう一度嘘を塗り固めるしかない――今一度、これからエリックに告げる真実と嘘を交えた昔話の流れを頭の中で整理しつつ、ポプリは星空を仰いだ。

 

 

 

 

「ジャン、大丈夫?」

 

「ええ……しっかし、ろくでもない所ばかり見せるな、僕は」

 

 目の前で心配そうに首を傾げるマルーシャに対し、頭に包帯を巻いた姿のジャンクはそう言って深くため息を吐いた。

 

「仕方ないよ……だって、無理させてたのは、わたし達だもん」

 

「だからと言って、僕は君達にあんなこと……させたくなかったんですよ……」

 

「……良いの。覚悟は、してたから」

 

 マルーシャの黄緑色の瞳が微かに揺らぐ。彼女の傍らにはあの時、男の胸を貫いた短剣が置いてあった。

 

「魔術で、とも思ったんだ。でも、それで間に合わなかったら絶対に後悔するでしょ? そう思ったら、すぐに身体が動いてた」

 

「普通、硬直するものだと思うが」

 

「えへへ、わたしも不思議だなって思ってる……でもね、正直に言うと、やっぱり怖かった。夢に、出てきそうだなって……」

 

 場違いにも、マルーシャはどこか楽しげにクスクスと笑っている。しかし、彼女の浮かべる笑顔は、明らかに無理をしていると分かるような、そのようなものであった。

 

「マルーシャ……すまん。僕が、アドゥシール経由を希望したばかりに……」

 

 その姿を透視干渉(クラレンス・ラティマー)の能力越しに見つつ、ジャンクは微かに睫毛を震わせる。

 

「……」

 

「トゥリモラ経由なら、もっと楽に進めていた筈です。それなのに、本当に申し訳ないことを……」

 

 アルディスも言っていた話だが、アドゥシール付近はその地理的条件故、魔物が多い。そして、魔物が多い状況を隠れ蓑にしている野盗達による被害も多い、危険な場所だ。アドゥシールに行くならともかく、セーニョに行くことが目的ならば、普通はこのルートを選ばないという。

 それを分かっていながら、どうしても嫌だと危険な道を選ばせてしまった上に、ジャンク自身は戦える状態ではなかった――当然ながら、彼も自らの浅はかな行為に責任を感じていたし、責められることも覚悟していた。マルーシャの反応を待ちつつ、ジャンクは強く拳を握り締める。

 

 

「何でそんなこと言うかなー」

 

 だが、マルーシャはその話を聞いて、ただきょとんとした表情を浮かべて首を傾げていた。

 

「ジャン、どうしてもトゥリモラって町に行きたくなかったんでしょ?」

 

「え、ええ……」

 

「だったら良いんじゃないの? 行かずに済んだんだもん。良かったって思おうよ!」

 

 そう言って、マルーシャは花が咲くように眩しい笑顔を浮かべてみせた。透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力者だからこそ分かるのが、その笑顔には一点の曇りも無かったということだろう。罪悪感が増してしまったのか、ジャンクは左手で頭を押さえつつ、大きくため息を吐いた。

 

「君は、冗談抜きで良い子なんだな……」

 

「え? ありがと?」

 

 どうしてそんなことを言われたのかが分からない、と言わんばかりにマルーシャはまたしても不思議そうな表情を浮かべている。

 彼女の歳で何の計算もなしに、純粋な思いで人を思える人間が他にいただろうか。うっかり開眼しそうになりかけながらも、ジャンクは軽く咳払いをした。

 

 

「そういえば。ジャン、わたしの姿は見えるんだっけ。エリックだけ見えないってこと?」

 

 ジャンクが開眼しかけたのに気付いて、抱いていた疑問を思い出したのだろう。マルーシャは本当に唐突に、このような話題を振ってきた。

 

「ですね。彼に関しては気配しか分かりません。あとは声だけで判断することになるからな。結構不便だ」

 

「想像は付くかな~。エリックって結構淡々と喋るからね」

 

「……!?」

 

 洞察力が優れているのだろう。マルーシャは時々、核心を突きすぎたような発言をする。今回もまさにそれだ。

 まさかエリックにべったりと引っ付いているマルーシャにこんなことを言われるとは思わず、どのような言葉を返せば良いか分からなくなってしまった。

 だが、マルーシャはジャンクが無言になってしまうことを予想していたらしい。彼女は「気にしなくて良いよ」と笑った後、突然真面目な表情に変わった。

 

「ジャン、正直エリック苦手でしょ?」

 

「え!? いや……」

 

「苦手っていうよりは、“何も分からないから怖い”っていうのが強いんじゃないかな。だって、気付いてないでしょ……ジャン、エリックの前じゃあんまり表情変えないもん」

 

 ちなみにエリックも多分気付いてるよ、とマルーシャが苦笑するのを見て、ジャンクは決まりが悪そうに、再びため息を吐いた。

 

「その……分かりにくいのも無理はないんだ。エリックはね、なるべく感情を表に出さないように、殺すようにってお義父様に育てられてきたから。だから、今でもその名残みたいなのが残っちゃってて」

 

「それで、感情自体が乏しくなってしまった、と」

 

「うん。エリック、今でも極端に表情変えることってほとんどないんだ。自制しちゃうんだと思うの」

 

 小さい時はもっと表情豊かだったのになぁ、とマルーシャは目を伏せてしまった。どうやら、成長するに従ってエリックはどんどん感情そのものが薄れてきてしまったということらしい。

 

「わたしね、エリックが両手叩いて笑ったりする所も、思いっきり泣いてる所も、もうずっと見てないんだ……何とか、したいのに。してあげたいのに」

 

 マルーシャの表情が、微かに歪む。泣き出してしまうのでは、とジャンクは一瞬たじろいだが、彼女はただ、困ったように笑ってこう言った。

 

「わたし、ずっと一緒にいるんだけどね。それでも、何もできないの」

 

「……」

 

 その言葉には、どこか「ごめんなさい」といったニュアンスすら含まれているようで。エリックを思いやる彼女だからこそ発せられた、あまりにも悲しいメッセージにも感じられた。

 

「マルーシャ……」

 

「えへへ、ごめんね? 忘れてくれる?」

 

「……ッ」

 

 ジャンクは、そんな彼女に何の言葉も掛けてやれなかった。

 

 

 

 

「……。じゃあ、話すわ。本題それてたからちょっと方向戻すけど……あたし達、ペルストラの出身なの。今の話の流れからして分かったとは、思うけど……」

 

 再開された、ポプリの口から紡がれる昔話。エリックの表情が、一気に険しくなる。様子を見る限り、彼はペルストラで起きた事件に関して一定の知識を持っているらしい。

 しかし、それならば詳細を聞かれてしまっては後々困る。そこに論点を持っていかせないためには、どうするべきか。ポプリの中には、ちゃんとその方法も用意してあった。

 

「これ、見せた方が早いわね……苦手だったら、ごめんなさい」

 

 ポプリはロングスカートの裾を掴み、躊躇うことなく左足を隠すそれを上にたくし上げ始めた。

 

「!? ちょ、おまっ! ばっ!?」

 

「エリック君……外見大人っぽいのに、案外純情なのね……」

 

 見るからに顔を真っ赤に染め上げた上、明らかに挙動不信になったエリックに対し、ポプリは「こっちは真面目に話してるのに」とスカートの裾を持ったまま苦笑する。馬鹿にされたと思ったのか、エリックは少しだけムッとしてポプリの方を向き直った。

 

「い、いや! 当たり前の反応だろ……って、え……!?」

 

 だが、太もも辺りまで晒されたポプリの左足を見て、エリックは言葉を失ってしまった。顕になったのは――酷く焼け爛れ、赤黒く変色してしまった痛々しい火傷の痕。

 

「二人とも、あたしの動きが遅いの気にしてたでしょ? これが原因なの。こんな感じで、左足全体と、あと背中の方にも広がってて……左足は特に酷くてね。ちゃんと、動かないの」

 

「……ッ、それ、アルと何か関わりがあるってことだよな……?」

 

「自分を美化したいわけじゃないけど、あたし、彼を庇ったのよ……木製の、火の付いた壁が……倒れてきたの」

 

 アルディスを庇った結果、ポプリはそれの下敷きとなってしまったのだ。それならば、これだけ広範囲の火傷となってしまう理由も理解出来る。

 ペルストラ事件は八年前。つまり現在二十歳だというポプリは当時、十二歳の少女だ。幼い少女に残った火傷の痕は、絶望を与えるほど、惨たらしいもの以外の何ものでもなかっただろう。

 

「ポプリ……」

 

「ふふ、ここまでは、あたしが被害者みたいでしょ? でもね、実際は違うわ。この痕を見た時……あたし、錯乱しちゃって。後は……分かるわよ、ね……?」

 

 実際のペルストラでの事件にはポプリにもう少しだけ同情の余地を与えられるような、そのような残酷なものも含まれている。しかし、それを今、エリックに話すわけにはいかないのだ。

 

「……」

 

 今度こそ軽蔑されるに違いないと覚悟を決めるポプリに対し、エリックは微かに眉を寄せた後、おもむろに首を横に振ってみせた。

 

 

「話してくれて、ありがとな。最初にアルがお前から逃げようとした理由も、その割に今、アイツがお前に普通に“笑顔を見せている”理由も、お蔭で理解できたよ」

 

「え……?」

 

 アルディスが、自分に笑顔を見せている――ポプリからしてみれば、エリックの発言の意味は理解しがたいものであった。そんな彼女の反応を察していたらしいエリックはどこか悲しげに目を細め、微笑した。

 

「アルの表情はな、声の調子とか、アイツがまとってる雰囲気とか。そっちを見て判断してやって欲しい。それなら、ちゃんと分かってやれるから」

 

「……」

 

「長い間一緒に居るけど、アイツは確かに、一度も笑ってない。それでも……“嬉しい”だとか“楽しい”だとか、そういう感情の揺れ動きはあるんだ。多分、アイツの場合は何か事情があって、顔に出せなくなってるだけなんだよ」

 

 

――どうして。

 

 

「……ッ」

 

 ポプリの頬を、止めどなく大粒の涙が伝っていく。それを止める術も知らぬまま、彼女は口を押さえ、目を固く閉ざした。

 

 恐らくエリックはアルディスが笑えないという事実、そして笑えなくなった理由にも勘付いているに違いない。

 それでも、彼は何も聞いてこなかった。彼はただ、数日前のようにハンカチを差し出しながら、優しげな笑みを浮かべていた。

 

「その分、異様に涙脆く育ったみたいだけどな。泣き虫ってレベルじゃないぞ、あれは。そうだ。アルって泣き方でも喜怒哀楽分かって面白いから、今度観察してみろよ」

 

(本当に残酷だわ。どうして、どうして……こんな……ッ)

 

 昔は当たり前のように笑えていたせいかもしれない。アルディスは、自分が無愛想であることを酷く気にしていた。

 しかし、エリックはその辺りのしがらみを全て凌駕し、彼の感情を察する良き理解者だったのだ――ただ、彼はラドクリフの王子だった。

 

(これだけ、あの子のことを分かってくれる彼が……今一番、あの子が共存してはいけない存在だなんて……)

 

 アルディスが危険を承知の上でエリックとマルーシャから離れない理由。その理由を、ポプリは身を持って感じ取ってしまった。確かにこれは、離れたくなくなるのも無理はないだろう、と。

 だが本来であれば、彼らは、エリックとアルディスは戦場で刃を交えていてもおかしくない立場の人間だ。それが、普通なのだ。ただ、ここまで来る途中で歯車が大幅に狂い、今のような状況が生み出されてしまったのである。

 

 そしてそれはいつ、“本来あるべき形”と化しても、おかしくはない。狂った歯車は、いつまでも狂ったままには、できないのだ。

 

 

『アルの表情はな、声の調子とか、アイツが纏ってる雰囲気とか。そっちを見て判断してやって欲しい。それなら、ちゃんと分かってやれるから』

 

 

――“虚像の友情”には、いつの日か、終焉が訪れるだろう。

 

 

 それを、アルディスはちゃんと理解していた。理解してしまっていたのだ。だからこそ、彼は……。

 

(どうして……ッ、どうして、よぉ……!)

 

 嗚呼、本当にアルディスが自分の弟であったならば、彼は宿命の歯車に苦められずに済んだのだろうか――。

 

 エリックから差し出されるハンカチに触れることさえもできず、ポプリはただ、その場に泣き崩れることしかできなかった。

 

 

 

 

「……」

 

 アルディスはディアナを抱えたまま、ぼんやりと星空を仰いでいた。晒された彼の白銀の髪はフードに遮られることなく、夜風に流されて揺れている。

 

 

 人を始めて殺めたのだ。エリックとマルーシャを一人にしない方が良いだろうと、密かにポプリやジャンクと簡単に話し合い、結論として彼らには、自分以外の二人が付くことになった。

 とは言っても、彼らのあの行為には自分の失態が大きく関係していた。だからこそ二人まとめて自分が何とかすべきだろうとは思っていた。

 だが、情けないことに彼らの顔を見て泣かない自信が無かったのだ。慰められては何の意味もないため、最終的にアルディスはこうしてディアナと共に過ごしていた。一人にしない方が良さそうなのは、ディアナも同じだと判断されたことも理由でもある。

 

 

「すまない。その……えっと……重いよな……?」

 

 抱きかかえられた格好のまま、ディアナは消え入りそうな声でそう問いかけてきた。先ほどから彼は顔こそ上げないものの、この状況を拒もうとはしない。本当に、余裕がないらしい。自覚しているのかどうかは分からないが、彼の手はアルディスのローブを握り締めたまま、決して離そうとはしなかった。

 

「軽いって。お前、ちゃんと食べてる?」

 

「な……っ」

 

 それでも何となく気まずくなったのか、変な話題を降ってきたディアナの頭に手を乗せ、アルディスは軽く息を付いた。

 

「そんなことより。無理するな」

 

 ぽふぽふと軽く叩いてから、そのままディアナの頭を撫でる。それに合わせるように、彼は微かに肩を震わせた。

 

「む、無理なんか……」

 

「ごめん。俺のせいで、本当に辛い目にあってきたと思う。強くあろうと、必死に頑張ってるのも分かる……だけどさ」

 

 ここまで追い詰められても、ディアナは弱音を吐こうとはしない。それを悲しく思いつつも、アルディスはディアナの額に左手を当てた。

 

「感情を思うがままに表現できることって、きっと幸せなことなんだよ。いつもやれとは言わない。だけど……できる時には、ちゃんとやって欲しい」

 

「アル……?」

 

「できなくなってからじゃ、遅いんだよ」

 

 額に手を当てられたことに、アルディスの話に驚いたらしいディアナが漸く顔を上げる。それを待っていたかのように、アルディスは左手に意識を集中させた。

 

 

「だから、今だけは……“無理をするな”」

 

 

――ディアナの額に当てた左手が、微かに光った。

 

 

「え? あ……あれ? え……?」

 

 それにディアナが困惑するのも束の間、彼の瞳からボロボロと涙が零れ落ちていく。

 

「強制的に泣かせてごめん。俺はあまり得意じゃないけど……意志支配(アーノルド・カミーユ)の能力の一つだよ」

 

「……っ、な、なんで……」

 

「今は誰も見てない。泣ける時に泣いとけってこと。俺も、見なかったことにするか――ゲホゲホッ!」

 

「アル!?」

 

 突然口を押さえつつも咳き込んだアルディスに、ディアナは驚愕の声を上げた。アルディスの身体が大きくふらつく。それでも彼は、何とか踏みとどまった。

 

「お、おい……!」

 

「風邪引いたかなー? 大丈夫大丈夫」

 

 そのままの体勢で、アルディスは大丈夫と繰り返す。それを聞いて安心したのか、そもそももう限界だったのかは分からない。ディアナはアルディスから視線をそらし、完全に顔が死角になるような体勢を取った。

 

「……。怖かった……」

 

「……」

 

「さっきだけじゃない……本当は、ずっと怖くて……ッ! いつ、誰が襲って来るか、分からなくて……ッ!」

 

 怖い、怖いとディアナの本心からの叫びが夜の草原に響く。小さな頭を撫でてやりたいなと思いつつも、アルディスはそれができないことを酷く悔やんだ。

 すすり泣くディアナを落とさないようにバランスを取りつつ、アルディスは口を覆っていた左手を取る――唾液の混じった血が、左手と口の間で糸を引いた。

 

「……ごめんね? 服から血の臭いするよね?」

 

 ほのかに香ってしまったであろう血の臭いを誤魔化すために、場違いであることは分かっていながらもアルディスはそう呟く。ディアナは、ただただ首を横に振るうだけだった。

 

「大丈夫。泣き止むまで、責任とってこのまま此処に居るからさ」

 

 平然を装いながら、アルディスは大量の血で汚れた手袋の甲で口元を乱暴に拭う。泣きじゃくるディアナに何かしら言葉をかけてやりたかったのだが、上手く頭が回らない。

 

(もう時間が無いって、ことかな……)

 

 そう実感せざるを得ない状況だな、とディアナに気付かれないようにため息を吐く。今のディアナには、余計な心配をかけたくは無かった。彼を追い詰めた原因は、自分にもあるのだから。

 

 

「大丈夫、大丈夫だから……」

 

 この状況下で暗示をかけるかのように「大丈夫」と繰り返すアルディスの言葉は、もはや誰に向けられているのかも分からぬ譫言のようなものであった……。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.20 空白

 

「ふぁ……流石に、眠いな……」

 

「そうだね……わたしも眠いや……」

 

 昨夜の状況が状況だ。全員ろくに寝ていなかったが、のんびりしてはいられない。

 早くアドゥシールに向かおうということで、エリック達はまだ陽が昇りきっていない時間帯から動き始めていた。

 

「この時間帯なら、魔物もあまり出ない。運が良ければ戦闘はほぼ回避できると思うよ」

 

「アルは元気だな……」

 

「まあ、慣れてるからね?」

 

 地図をしまいながら、アルディスは念のためと拳銃を手に取る。彼曰く、急な襲撃には一番対応しやすい武器であるらしい。

 毎度毎度思うが、彼はやたらと守備範囲が広い。魔術を使った場面は一度も見ていないが、種族のことを考えればそれなりに使いこなせるのではないかとエリックは思う。そんなことを考えていると、躊躇いがちにアルディスが口を開いた。

 

「念のため聞くけどさ。エリック、マルーシャ……戦えるかい?」

 

「昨日のことまだ気にしてるのか? 僕ならもう大丈夫だ」

 

「わたしも平気。昨日、ジャンに治癒術教わったし、もっと役に立てると思うよ」

 

 マルーシャの練習台になっていたのか、ジャンクの顔色はある程度回復していた。野盗に殴られたせいで出血の止まらなかった頭部の傷も、今ではすっかり塞がっているらしい。「もう大丈夫だ」と言ってジャンクも笑みを浮かべる。

 

「マルーシャのおかげで見ての通り、僕も復活だ。出ようと思えば出られるぞ」

 

「先生はまだダーメ。あたしが出るわ……あたし後衛だし、エリック君とアル君に負担かかりそうだけど」

 

 エリック達の話を、チャッピーの上に座ったディアナが暗い表情を浮かべて聞いている――今の彼は、戦いたくても戦うことができない状態だった。

 

「……すまない」

 

「お前もかよ。大丈夫だって……それより、翼は大丈夫なのか?」

 

「ああ、あれは魔力の塊みたいな物だからな。何度でも元に戻せはするよ、一応は」

 

 話によると翼は魔力だけで形成されているらしく、体内の魔力が尽きない限りは無限に再生することができるのだという。しかし、元々体内に保有する魔力が決して多くはないディアナが翼を再生するのには、まだ少し時間が掛かるらしい。

 

「……。その、皆。行きながらで良いから、オレの話を聞いてもらえないだろうか……」

 

「僕は構わないが、どうした?」

 

「皆、気付いたとは思うし……これはもう、言わざるを得ないというか」

 

 仕方ないだろ、とディアナは頭をガシガシと掻き、困ったように笑ってみせた。

 

 

「オレは、歩くことができないんだ……」

 

「……やっぱりか」

 

 エリックが重々しく呟いた言葉に、ディアナはおもむろに頷いた。

 

「ごめん、俺……あの瞬間まで、全然気付いてやれなかった……」

 

「隠していたのだから当然だろう? むしろ、隠さない方が良かった、よな……すまなかった」

 

 皆、薄々分かってはいたし、反応を見る限りではジャンクは知っていたらしい。それでも実際に本人の口から聞いてみると、それなりにショッキングな話だった。

 

「わたしじゃ、治せないの……?」

 

「別に、足が悪いだとか、脳に障害があるとか。そういう理由ではないみたいなんだ」

 

 ディアナの喋り方には、明らかに違和感がある。まるで誰かに聞いた言葉をそのまま繰り返しているような、そのような様子だった。

 

「えっと、じゃあ原因不明ってこと……?」

 

「歩く、走る以外のことはある程度できるよ。翼がある状態ならバランス取って何とか直立できるし、空中で軽く動かす程度なら、何とか」

 

「そんな! それじゃ、ほとんど何もできないのと一緒じゃない……!」

 

「……。ああ。残念ながらそういうことだ。翼が無ければ、オレはろくに行動できないよ」

 

 色々と諦めてしまっているのか、ディアナはそう言って自嘲的に笑った。

 

「で、でも……そうなったのって、何か理由があるんだよね? 良かったら、何があったのか教えて……?」

 

 何とか力になりたい。そんな思いから、マルーシャは突破口を探ろうとディアナに問いかける。しかし、ディアナはただ、首を横に振ってこう答えただけだった。

 

「それは……オレが、知りたい」

 

「え……」

 

 まさか、とジャンクを除く四人は息を呑み、場の空気が凍りつく。仮にそうならば、あまりにも残酷な話ではないかと。空気の変化を感じ取ったのか、ディアナは軽く首を傾げ、やんわりと笑みを浮かべてみせた。

 

 

「それだけじゃない。オレは自分が生まれた故郷も、家族の顔も、自分の本当の名前さえも知らない……ここ一年半くらいの記憶しか、ないんだ」

 

 

――事態は、予想を遥かに上回る勢いで、残酷だった。

 

 

 呆然とするマルーシャの横を通り、アルディスはディアナを見上げて躊躇いがちに口を開いた。

 

「ずっと引っかかってはいたんだ……でも、やっと分かったよ。俺に『名前は適当に呼んで下さい』って言った理由は、これだったんだね」

 

「……悪い」

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

 

 この話題になると、当然ながらエリック辺りの者は疑問を抱く。ディアナは今更隠すことでも無いだろうと、ため息混じりに話し始めた。

 

「ディアナってのは、出会った時にアルに頼んで付けてもらった名前なんだ。リヴァースは……その、あれだ。な、何となく、そう名乗ってる……」

 

「何となくって……あー、だから髪の色違ったんだな……」

 

 聖者一族であるリヴァース姓を名乗っておきながら、髪の色が白銀ではない理由。微妙にしっくりこないが、謎は解けたとエリックはアルディスを見る。

 アルディスは少しだけ考え込んでいたようだったが、エリックの視線に気付くなり、彼は「ごめんごめん」と肩を竦めた。

 

「いやー、君達に話して良いのか分からなかったし、話すタイミング分からなかったし」

 

「おいおい……」

 

 この状況下、アルディスは恐ろしいほどに適当なことを言ってきた。もしかすると、記憶喪失の方は薄々勘付いていたのかもしれない。アルディスとディアナを交互に見た後、ジャンクは少し躊躇いがちに口を開いた。

 

「えっと、そうですね。僕は一応両方とも知っていたよ。言わなかっただけで」

 

「ちょっと先生! そういうことはちゃんと……!」

 

「オレが口止めしていたんだ! だから……だから、ジャンを責めたりしないでくれ」

 

 責められかけたジャンクを庇うように、ディアナは力無く首を横に振った。精一杯強がっていたようだがそろそろ、限界のようだった。

 

 

「騙すような形になったことは謝るし、間違いなく、迷惑を掛けるとは思う……」

 

 彼の言葉は、語尾に行くにつれて少しずつ小さくなっていった。本人に自覚があるのかは分からないが、服の裾をギュッと強く握り締めている。その手は、酷く震えていた。

 

「それでも、その……皆の旅に、同行しても良いだろうか……」

 

 言い終わるなり、「返事を聞くのが怖い」と言わんばかりにディアナは両目を固く閉ざした。どういうわけか、彼はこの旅から離脱させられることを恐れているらしい。エリックは慎重に言葉を選び、口を開いた。

 

「お前は頼りになると思っているし、僕個人としてはいてくれた方が助かるな……ただ、その身体じゃ何かと危ないんじゃないか、とは言わせてくれ」

 

「分かってる……だが、オレは……オレには……これしかないんだ……」

 

 ディアナは心の強い人間だと、エリックは思っていた。どう考えても自分よりも幼い彼の戦いへの覚悟や考え方は本当に立派なものであり、尊敬する面も多々あったからだ。

 しかし――実際は違うのではないかと、本来の彼は今見せている姿昨日今日で疑惑を抱くこととなった。

 

「使命を果たすことが、それだけが、オレの唯一の存在意義なんだよ……」

 

「ディアナ……」

 

 何があったのかは分からないし、それは本人さえも知らない。それゆえ、彼は酷く不安定な存在であると、ここに来てエリックは思い知らされた。

 記憶喪失であり、歩行能力を失ったディアナにとって、その使命というものは“果たさなければならないこと”というよりは“自分の存在を見失わないため”に必要なものなのだろう――逆を言えば、その使命が無くなってしまった時、彼は完全に“己”という物を失ってしまう可能性もあるのだが。

 

「……。存在意義を示す。それが難しいことだっていうのは俺もよく分かっているつもりだ。だから、俺はディアナの同行にはおおむね賛成だよ。理由は聞かないけどね。どちらにしても、ラドクリフにディアナを置いておくわけにはいかないと思うから」

 

「あたしもそれは賛成。とにかく今は先に進んで、同行だとか離脱だとか。そういうのは、向こうに言ってから決めましょ……ね?」

 

 アルディスとポプリの主張は最もである。実際、ディアナが野盗に襲われたのは昨晩の話。あまりにも説得力のある主張だった。

 それに、アルディスの言う“存在意義を示す”ということも含め、ここでむやみやたらに彼を離脱させるのはかえって危険だろう。

 

「ディアナに限った話じゃないだろうけどさ……良いか? そういう大事なことは、今後はすぐに話すこと。無理しないこと。守れないならフェルリオ着くなり、すぐにお前を離脱させる。分かったか?」

 

 この二つがディアナに限った話ではない、というのも困った話なのだが。

 エリックはこめかみを押さえつつ、チャッピーの上に座っているディアナを見上げた。それに対し、ディアナは一瞬だけ驚いて目を見開いたが、やがて「ありがとう」と呟き、はにかむように笑ってみせた。

 

 

「え、ええと……大事な話、終わったかな? じゃあ、今度はわたし。ディアナ、ちょっとこっち来て?」

 

 話の区切りが付くのを待っていたらしい。マルーシャは少し離れた位置まで走り、そこからちょいちょいとディアナを手招きした。

 

「あ、エリックとアルディスは来ないでよ!」

 

「……」

 

 

――何故だ。

 

 

 まだ動いてもいないのに、一方的に来ないでとバッサリ切られたエリックとアルディスは、不満だと言わんばかりに顔を見合わせている。それを横目で見ながら、ディアナはチャッピーに乗ったままマルーシャのところに移動した。

 

「どうした……?」

 

「ディアナの気持ち、ちょっとだけ分かるかな。わたしも、七歳より前のことは覚えてないから」

 

「え……?」

 

 皆には秘密だよ、とマルーシャは「しーっ」と人差し指を立てる。かなりの事情にも関わらず、どうやらアルディスはおろかエリックすら知らない話らしい。

 

「元々、ウィルナビスのお屋敷ってルネリアルじゃなくてシャーベルグにあったんだけど、そこで事故があってね。わたし、それに巻き込まれちゃったんだって」

 

「覚醒前の話、か……ついでに、エリックの許嫁になる前、か?」

 

 ディアナがそう問えば、マルーシャはそれに頷いてから話を続けた。

 

「ついでに、写真とかそういうのも無くなっちゃったみたい。だからね、何も分からないんだよね……で、ポヤポヤしてる間にルネリアルにお屋敷移動で、何でかなって思ってたら、わたしがエリックの許嫁に決まったからって」

 

「うわ、えらく唐突に物事が進んだんだな」

 

 そうなんだよね、とマルーシャはぺろりと舌を出す。元々、許嫁というのは親に勝手に将来の旦那を決められるというものだ。本人にとっては唐突なのが普通だとはいえ、彼女の受け入れ方もなかなか素晴らしい物がある。

 

「今じゃそんなこと思ってないけど……わたしもね、エリックのお嫁さんになることが自分の存在意義だって思ってた時期あったから。だから、気持ちが分かるって、そう言ったの」

 

「……!」

 

 無邪気な彼女が、このような闇を抱えているとは思わなかった。それでも、今でも記憶に『空白』を抱えているというのに、彼女は本当に明るく振舞っている――それだけ、マルーシャという少女が強いということだ。

 

「それに……ね、エリックって小さい頃から……」

 

「え? え? 何だ何だ?」

 

 暗い話はおしまいだと言わんばかりに、マルーシャは何やら面白そうな話題を出してきた。ディアナも身体を前のめりにして興味を示している……だが、

 

 

「マルーシャ! 再々僕の名前が聞こえてきて、何かもう気になりすぎるからやめてくれ! せめて僕のいない所で話せ!!」

 

 

 珍しく顔を微かに赤く染め、目を泳がせて狼狽えるエリックの声が響いた。

 

「うわ! エリック地獄耳!」

 

「自分の名前って何となく聞き取れるもんだろ!? 良いから今はやめろ!!」

 

 叫ぶだけ叫ぶと、エリックは口元を押さえて足早に歩き始めてしまった。怒っているわけではない、というのは彼の表情を見れば明らかだろう。

 

「なーに、エリックったら。何かやだなー」

 

 若干ふてくされたマルーシャだが、先に行ってしまったエリックに追いつこうと走っていく姿が何とも面白い。ディアナは……否、残された全員が呆然とその様子を見ていた。

 

「何となく、そうじゃないかなって思ってたけど……多分そうよ、ね」

 

「……。僕は何も言わないぞ」

 

「あんなのを八年間、傍でやられてる俺の気持ちを誰か分かってください……」

 

「あ、あぁ……」

 

 

――とりあえず、魔物が出るまでは放置で良いか。

 

 

 何とも言えない気分になってしまった四人だが、今は放心している場合ではない。空気が無駄に重苦しくならなかっただけ良かったと強引に納得し、彼らはアドゥシールへと急ぐことにした……。

 

 

 

 

「ここがアドゥシールか……随分と活気のある町なんだな」

 

 初めて見るルネリアル以外の町並みに、エリックは思わず驚きの声を漏らした。

 

「アドゥシールはスカーラ鉱山の最寄りの町だし、セーニョ港からも近いからね。鉱石の加工業だとか、アクセサリーとかの販売も盛んなんだ。あまり多くはないけど、セーニョ港から流れてくるフェルリオの輸入品なんかも、ここで売られてる」

 

「へぇ……」

 

 アドゥシールは通称『交易の砦』とも呼ばれ、規模はそれほど大きくは無いものの、多くの人々で賑わう楽しげな町だった。

 几帳面に高さの揃えられた木々が並ぶ、数色のレンガが敷き詰められた街路や小さいがどことなく洒落た雰囲気を醸し出す商店。このような光景を見ていると、町の周辺が危険だという事実さえも忘れてしまいそうだ。

 

「さてと……宿屋に着いたわ。先生、あたし達は買い出しに行ってくるから、ちゃんと寝ててちょうだいね」

 

「はいはい。ディアナ、行くか」

 

「ああ……しかし、これが宿屋か。泊まる日が来るとは思わなかった」

 

 純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)であることがバレないよう、ディアナは町に入る前に全身をすっぽりと覆う漆黒のフード付きローブをまとっていた。普通ならこれで何とか突破できるのだろうが、歩くことのできないディアナの場合は一つの問題が生じる。町の中で翼は出せない、ということだ。

 

「いくらなんでも、チャッピーに乗ったまま入れてくれる宿屋なんて無いからな」

 

「それもそうだよね……まあ、あれだ。おいで、部屋まで運ぶから」

 

「!?」

 

 チャッピーの横で、アルディスが両手を広げている。それを見たディアナは色々と思い出してしまったのか、一瞬のうちに顔を真っ赤に染め上げてしまった。

 

「そう言えばディアナ君、昨晩はずっとアル君に抱っこされてたものね」

 

「い、言うな!! そういうこと言うな馬鹿!! ~~ッ、ええい! 頼むから迅速に運んでくれお願いします!」

 

 顔を両手で覆い隠し、ディアナはアルディスに身体を任せた――が、もはや羞恥心で死にそうな域だ。

 

「弄ろうと思ったんだけどな……可哀想だから、迅速に運ぼう。ジャンさん、後はお任せしますね」

 

「ええ、こちらこそ、よろしく頼む」

 

 

 

 

「……さてと。一通りいる物は買ったし、早く宿屋に戻りましょう?」

 

「ポプリどうした? 何か顔が怖いぞ」

 

「きゅー?」

 

「別に。美男美女連れ歩くと惨めになるってことを学んだだけよ……」

 

 道中でエリックが見知らぬ女性に貢がれたり、マルーシャが見知らぬ男性に貢がれたり、アルディスが男女問わずに口説かれた末、若い青年相手に殺傷事件を起こしかけたりとあまりにも謎過ぎるハプニングは多数あったが、何とか買い出しは終わった。

 ディアナから借りてきたチャッピーの背に食材などの傷みやすい物を乗せ、残りの物はポプリの腰布の中にしまい込む。構造は結局よく分からないままだが、便利だなとは思う。そんな布の中に荷物をしまい終えると同時、一気に疲労感が爆発したらしいポプリは頭を押さえてため息を吐いた。だが、そうは言っても仕方のないことである。

 

「あ、そうだわ。セーニョって結構空気汚れてるし、エリック君にちょっと強めの薬、出しとこうかしら。ちょっと、そこの薬屋さんに寄るわね?」

 

 ポプリが指差したのは、どうやらよく通っているらしい薬屋。チャッピーを適当な塀に繋いでから彼女に続いて店内に入ると、何とも言えない独特の香りが鼻についた。

 

「薬屋……? でも、アップルグミとか買ったよな?」

 

「ここで専門にしてるのはそういうのじゃないの。ほら、こんな感じ?」

 

 籠の中に入っていた草の束を取り出し、ポプリはニコリと笑った。恐らく薬草なのだろうが、見ている側からしてみればただの草にしか見えない。

 

「えっと……今回は行き帰り分用意しとこうかしら。これと……あれと、それ。それから……そうね。あの棚の上の奴と、そこの小瓶に入った木の実を下さい」

 

「はい、どうぞ。いつも悪いわね、ポプリちゃん」

 

「こちらこそ、いつもお世話になってます。あ、これガルドです」

 

 慣れた様子で得体の知れない草やら木の実やらを買い、本格的に顔見知りらしい店主と簡単な会話を交わす。どうやらここは薬そのものではなく、薬の材料の専門店らしかった。

 

「ということは、ポプリさん自ら調合するんですか、これ……」

 

「そういえばジャンがポプリの作る薬品がどうこう言ってたっけ……ポプリ、薬剤師なの?」

 

「うふふ、正解。さあ……エリック君に苦い薬飲ませるわよー」

 

「!? お……お手柔らかに頼む」

 

 四人揃って店を出て、今度こそ宿屋に帰ろうと歩みを進める。今後のこともそれなりに話し合っておく必要もある上に、ディアナやジャンクをあまり長時間待たせるのも考えものだ。

 

「一応、エリック君は先生の診察受けといてね? 変なアレルギー反応起こされたらたまらないもの……」

 

「お、おう。分かった……ただアイツ、確か僕の姿はほとんど見えな――」

 

 

「きゃあああぁあああっ!!」

 

 

「!?」

 

 それは、マルーシャの悲鳴だった――話し込んでいたために、気付くのが遅れてしまったのだ。

 

「! アルもいない!!」

 

「本当だわ……!」

 

 二人はどこに行ってしまったというのだろうか。ざわざわと辺りが騒がしくなる中、エリックとポプリは悲鳴に集まってきた人ごみをかき分けて広い場所に出ようとする。

 

「駄目! 全然わからないわ……」

 

「完全に見失ったか……!」

 

「マルーシャちゃん! アル君!!」

 

 一体誰が、何の為に二人を。

 エリックは奥歯を噛み締め、無駄だと分かっていながらも周囲を見回した。ポプリも、声を張り上げて二人の名を呼ぶ。

 

 

『二人とも聞こえるか!?』

 

 

――そんな時、エリックとポプリの頭に“直接”アルディスの声が響いた。

 

 

「アル!? お前、どこに居るんだよ!」

 

『落ち着いて聞いてくれ! 俺は無事だ! けれど、マルーシャが得体の知れない三人に捕まってる!』

 

「え……!?」

 

 要は、アルディスはその得体の知れない三人を追っている最中なのだろう。何とか会話ができることを幸いに思いつつ、エリックはポプリの方を見た。

 

「大丈夫、あたしにも聴こえてるわ……これはアル君の能力、意志支配(アーノルド・カミーユ)の“念送り”よ」

 

『そういうこと。今、俺は彼らを追いながら二人に念を送ってる。町の中じゃ戦えないし、ある程度町から離れた時点で俺は奇襲をかけるつもりだ。今から二人には、場所のイメージを送る。だから、なるべく早く合流して欲しい!』

 

「分かったわ! 気を付けてね……アル君」

 

 ぶつり、とアルディスとの会話が切れたのを感じる。同時に頭に流れ込んできたのは、湿原地帯らしき光景だった。

 

「これは……ラファリナ湿原ね。うん、大丈夫。行き方も分かるわ」

 

「助かる。行くぞ、ポプリ!」

 

「ええ!」

 

 相手は三人だけだが、ほぼ完璧にマルーシャを拐った集団である。その実力は高いと考えて良いだろう。

 

「きゅ! きゅー!!」

 

「あらら、ごめんなさい、チャッピー。一緒に行きま……きゃあっ!?」

 

 ポプリがチャッピーを自由にしてやると、彼はさっとポプリをくわえて自らの背に乗せた。

 

「チャッピー、僕もお願い出来るか?」

 

「きゅーっ!」

 

 何しろ、エリックは決して足の速い方ではない。仕方なく頼んでみたのだが、チャッピーはただ鳴いただけだった。

 

「……って、僕は嫌なのか」

 

「きゅ」

 

 それでも、以前掛けてもらった足の早くなる魔術らしきものは掛けてくれたらしい。足が軽くなったのが分かる。

 

「まあ良い! 今度こそ行くぞ!」

 

 エリックはチャッピーに乗ったポプリと共に路地裏へと入り込み、そこから一目散にラファリナ湿原へと駆けていった。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.21 虚無の呪縛

 

「ふむ……最近は見ていなかったんだが、問題は無さそうだな」

 

「アタシにはよく分からないけどさぁ、随分と上手く化けるものだねぇ……」

 

「“ゴミ”にしかならなかった純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)共やダリウスとは違うからな。コレは唯一成功した試作品だ。そう簡単に崩れてもらっては困る」

 

「だ、ダリを悪く言わないで、くださ……ッ!」

 

 

――傍で、誰かが話している。成人男女に、幼い少女の声だ。

 

 

(ここ、どこ……? 何だか、蒸し暑い……蒸し暑いってことは……湿原? ラファリナ湿原かな……?)

 

 アドゥシールで買い物をしている途中、突然目の前を覆われ、拘束されたところまでは覚えている。だが、どうやら連れ去られている最中に意識を失ったらしい。そして今、自分はどうやら、どこかに寝かされているようだ。

 特に拘束もされておらず、起き上がろうと思えば起き上がれそうだが、今は様子を伺うべきだろう。目を閉じたまま、マルーシャは聞き耳を立て続ける。状況の深刻さは理解しているつもりだが、意外にも冷静でいられた。

 

 

「ん? お前も試されたいのか?」

 

「ひ……っ!? ご、ごめんなさ……ッ」

 

「待ちなよ! ベリアルに意地悪してどうするんだい!?」

 

(ベリアル……!? ということは、一緒にいるのはヴァルガと……女の人ってことは、フェレニー!?)

 

 今、名を呼ばれた人物ベリアルは黒衣の龍に属する幹部級の女性であり、研究員のヴァルガの話で度々出てくる人物の名である。それがまさか、幼い少女だったとは思わなかった。

 そして残りの二人――フェレニーはともかく、研究員でありながら有能な騎士としても知られているヴァルガに関して言えば、初対面ではない。

 だが、状況が状況であったこと、そして普段ほとんど接点がないためにすぐに気付くことができなかったのだ。事態は、マルーシャが思っている以上に深刻であった。

 どうすれば良いのかと、マルーシャはそのままの体勢で思考を働かせる。だが、そんな些細な変化を見逃すほど“彼”は甘く無かったようだ。

 

 

「おや? 起きたようだな。目覚めの気分はどうだ? “試作品”よ?」

 

 

「!?」

 

 そして投げかけられたのは、先ほどから聞こえていた「試作品」という言葉――マルーシャは驚き、思わず目を見開いてしまった。

 視界に飛び込んできたくすんだ灰色の景色と、天井から吊り下げられた壊れた実験器具の数々を見る限り、ここは既に放棄された研究施設らしい。そしてマルーシャの想像通り、ここにいたのは黒衣の龍の紋章を身に付けた三人組であった。

 

 最初に視界に入ってきたのは三十代前半くらいの眼鏡の男、ヴァルガだった。彼は少し癖のある短い茶色の髪に紺色の瞳をしており、黒のロングコートの下に白衣を来ているのが特徴的であった。背はすらりと高く、引き締まった体格をしている。

 

「……」

 

 だが、何よりも特徴的なのは服装でも体格でもなく、彼の容姿であろう。ヴァルガは前王ヴィンセントの側近であったにも関わらず、彼の容姿は当時から一切変わっていないのだ。彼が側近を勤めていた頃を知る者にとっては、気味の悪さしか感じさせない存在なのである。

 

 後の二人には見覚えがない。見覚えはないのだが、噂として耳にはしていた。顎の辺りで切り揃えられた赤色の短い髪と茶色の瞳を持つ二十代後半くらいの女が“大罪人”として知られているフェレニーだろう。

 彼女は女性の割にかなりの長身であり、スタイルが良い。体型だけならポプリに良く似ている。黒を基調とした彼女の服装は身体のラインを強調するようなデザインだった。

 マルーシャは彼女が犯した罪の内容までは知らないのだが、騎士団黒衣の龍の兵士として生きていくことを条件に釈放された死刑囚であるということだけは知っている。ヴァルガとは違った意味で、距離を置きたくなる存在だ。

 

 そして、マルーシャ自身名前以外のことを知らなかった存在。淡い紫の腰に届きそうなほどに伸ばされた長髪に菫色の瞳を持つ少女がベリアルだろう。

 こちらも黒を基調とした服装であったが、フェレニーとは対照的にリボンやフリル装飾が可愛らしい衣服を身に纏っている。

 

 ヴァルガはコートの襟に、フェレニーは首元に、ベリアルは右手の袖のような飾りに、黒衣の龍の紋章が刻まれている。

 黒衣の龍幹部級三名に対し、こちらは完全に一人だ。

 

 

「……。試作品? わたしは人間だよ!? 一体なんなの!?」

 

 身体が恐怖で震えるのを必死に押さえ、マルーシャは目の前のヴァルガに掴みかかった。ヴァルガは特に抵抗も見せず、ニタリと笑みを浮かべている。

 

「ああ、すみません。貴様は事実を知らないのか。心配せずとも、私が父だとか、そのような薄気味悪い事実はない」

 

「ッ! とにかく、わたしは皆のところに帰るんだから……きゃあっ!!」

 

 異様な空気だった。この場から逃げ出そうとするマルーシャを、後ろに回っていたフェレニーがうつ伏せになるように押さえ付ける。マルーシャは重力と力任せの行為によって顎を強打してしまった。ぶつけた顎がヒリヒリと痛む。生理的な涙が浮かんだ。

 

「痛……ッ」

 

「悪いね、お嬢様。ヴァルガが、どうしても会いたい奴がいるって言うから……でも、見た感じいなかったよな、そいつ」

 

「まあ、アレは無理でも、残りの奴らだけでも面白い。私にとってはこの娘も充分に好奇心を煽られる対象だ」

 

 押さえ付けられたマルーシャの顔を、ヴァルガが楽しそうに覗き込んでくる。その後ろで、ベリアルは微かに震えながらこちらを見ていた。

 

「じゃあ、わたしは餌……? まさか、皆をここに誘き寄せる罠として連れてきたってこと!?」

 

 試作品だか何だか知らないが、その辺のことはこの際どうでも良い。本当に罠だとすれば、エリック達が危ない。

 マルーシャの叫びに驚いたのか、ベリアルはビクリと肩を震わせ、瞳に涙を浮かべた。

 

「あ、あうう……そ、その、ごめんなさ……っ、ごめんなさい……!」

 

 カタカタと小刻みに震えながら、ベリアルは必死に言葉を紡ぐ。そんな彼女の方を見て、ヴァルガはおもむろに口を開いた。

 

「ベリアル」

 

「!? ご、ごめんなさいごめんなさいっ!!」

 

(なに……これ……)

 

 名前を、呼ばれただけだろうに。ベリアルという少女は、明らかにヴァルガに怯えていた。容姿から考えるに、親子という訳ではないだろう。それどころか、よく見てみれば彼女の耳は鋭く尖っていたのだ。

 

(ベリアルは純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)なの……!? 黒衣の龍に、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)!?)

 

 泣きながら謝るベリアルの姿を、一体どうなっているのかとマルーシャはじっと見つめていた。

 

 

「――破魔の刻印よ、闇に隠れし邪を暴け!」

 

 

 その時。聞き覚えのある声が、研究所の外から聴こえてきた。声と共に現れた魔法陣が部屋の中を照らし、マルーシャはすぐさま考えることをやめた。

 

「!? これは……!!」

 

 黒衣の龍の三人は魔法陣の存在に気付き、魔術が発動するであろう範囲から逃れようとする。だが、先手を打ったのは術師の方だった。

 

「フラッシュティア!」

 

 術名が叫ばれると同時に魔法陣が十字の印へと姿を変え、眩い光が放出される。じゅっと、何かが焼ける音がした。

 

「ぐぅッ!?」

 

「ああっ!!」

 

「やああッ!?」

 

 光に身を焼かれ、三人が悲鳴を上げた。マルーシャもその印の中にいたのだが、どうやら術の対象から外されているらしい。その隙にと彼女は寝かされていた診察台から飛び下り、声が聞こえた方向へと駆けた。

 

 

「アルディス!!」

 

 術師が、声の主が味方――アルディスであるということに、マルーシャは気付いていた。壊れかけの扉を蹴破り、アルディスは若干ふらつきながら部屋の中に入ってくる。

 

「……ッ、無事、かい? マルーシャ……ゲホッ、ゴホッ!!」

 

「!?」

 

 酷く咽せる彼の口元には、それを押さえている手には、ベッタリと赤い血が付着している。顔色も酷く青ざめ、額には冷や汗が玉となって浮かんでいた。

 

「ど……どうしたの!? 大丈夫!?」

 

「大丈夫、軽く腹を魔物にやられただけだから。エリック達もすぐに来る……早く帰ろう、と言いたい所なんだけど」

 

 多分、それは許してくれませんよね、とアルディスは口元の血を拭いながら言い捨てた。言うまでもなく、彼の言葉はヴァルガ達の方へと向けられたものだ。

 

「そうだな、ここで潰しておくに越したことはない。それに貴様は、とても良い研究材料になってくれそうだ」

 

「死んでもごめんですよ。マルーシャ、援護頼む」

 

「う、うん!」

 

 エリック達が到着するまで、何とか時間を稼ぐつもりなのだろう。マルーシャの返事を聞き、アルディスは薙刀を手に前へと飛び出していった。

 

「無謀だわ」

 

 フェレニーの指先が、禍々しい色をした霧に覆われていく。一体何が起きるのかとアルディスはその場で身構えた。

 

「遅い!」

 

「ッ!?」

 

 咄嗟に後ろに飛んだが、避けるのが少し遅かったらしい。毛先がはらりと宙を舞っている。フェレニーの両手には、霧のようなものがまとわりついている。

 

(魔力で見えない刃を作り出したのか……!)

 

 身軽な相手からの、執拗な連続攻撃が続く。アルディスは足の速さに自信を持ってはいたが、薙刀というものは間合いに入られてしまうと少々辛いものがある。

 

「烈風! 汝が軌跡をここに刻め! ――エアスラスト!!」

 

「きゃ……!?」

 

 すかさず、マルーシャの援護が入った。アルディスは即座に距離を取り、ホルスターへと手を伸ばした……だが、

 

「うあっ!!」

 

 トス、という軽い音と共に、アルディスの背に矢が突き刺さった。

 

(……弓使い、か……ッ!)

 

 一息に矢を引き抜き、それを無造作に投げ捨てる。傷口と投げ捨てられて床に転がった矢の間で、点を描くように鮮血が飛び散った。

 

「私達を忘れられては困るな」

 

 振り返ってみてみれば、弓を構えたヴァルガの姿がそこにあった。しかし、にらみ合っている余裕などはない。フェレニーの猛襲はまだまだ終わっていないのだ。

 

「――ファーストエイド!」

 

 マルーシャの声と共に、痛みが和らいでいく。アルディスは薙刀を構え直し、その切っ先に僅かに魔力を込めた。

 

「――襲爪雷斬(しゅうそうらいざん)!」

 

「くぅっ!」

 

 斬撃と共に落ちるは雷。身を斬り裂かれ、雷に焼かれ、フェレニーは短く悲鳴を上げる。

 

「……!」

 

「――ウインドカッター!」

 

「がっ!?」

 

 再びアルディスの背を狙おうとしたヴァルガを、マルーシャが召喚した風の刃が切り裂いた。落としかけた弓を持ち直し、ヴァルガは奥歯を鳴らす。

 

「何をしている、ベリアル!」

 

「は、はいぃ!!」

 

 びくり、と肩を震わせ、ベリアルは固く目を閉ざした。

 

「……! 何で……?」

 

 

――間違いない、無理矢理言うことを聞かされている。

 

 

 マルーシャも異変に気付いたアルディスも、ベリアルの辛そうな返事に密かに胸を痛めた。彼女は純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)だ。「言うことを聞かなければ目を抉る」、「実験施設に送ってやる」など、幼い少女にかける脅しの言葉は、いくらでも存在することだろう。

 

「う……う……、ごめんな、さい……」

 

 ベリアルがどのようにして脅されているのかは分からない。彼女は震える手で首元の橙色のレーツェルに触れ、巨大なハンマーを取り出した。それを強く握り締め、ベリアルはマルーシャの元へと駆けて――否、飛んできた。

 

「あ……」

 

 まさか、空を飛んでくるとは思わなかった。だが冷静に考えれば、彼女はディアナ同様に空を飛べるのである。通常、純血種族は翼を持つのだから。

 

「ッ!」

 

 ハンマーに全体重を掛け、一気に振い落す。ただでさえ巨大なハンマーだ。重力の力を借り、それは物凄い速度でマルーシャに襲いかかった!

 

「きゃあぁっ!!」

 

 ハンマーが叩き付けられた衝撃で地面が抉れ、砂埃が舞う。

 

「マルーシャ!」

 

「おっと、よそ見をしている場合か?」

 

 アルディスの背に、再びヴァルガの矢が迫る。ヴァルガだけではない、フェレニーも刃の矛先を彼へと向けていた。

 

 

「アル、しゃがめ! ――飛龍爪(ひりゅうそう)ッ!」

 

 

「!」

 

 聴こえてきた声に応え、その場にしゃがんだアルディスの頭上を剣が舞った。アルディスに迫っていたヴァルガとフェレニーはやむを得ず距離を置く。

 

「へぇ、大切な宝剣を投げるのか……エリックは」

 

 剣は空中で綺麗に円を描き、持ち主――エリックの元へと戻っていく。戻って来た剣を落とすことなく掴み、彼は困ったように笑っていた。

 

「おい、助けてやったんだから素直にお礼言えよ」

 

「冗談だよ。ありがと、思ってたより早かったね」

 

 何しろ、本当に危なかった。エリック達が早く駆けつけてくれたのは、何故か対象の移動速度を速める特殊能力『瞬光疾風(カールヒェン・ヨシュカ)』を持つチャッピーが力を借してくれたためなのだろう。役目を終えた彼の姿は見えないが、恐らく施設の外で待機しているのだろう。賢い鳥で助かった、とアルディスはこの場にはいない鳥に対し、心の中でお礼を言った。

 

 

「――鋭利なる黒曜の刃。彼の者を貫きなさい!」

 

「! だめ……っ」

 

 エリックは敵の視線を引き付ける囮役を買って出たのだろう。彼の後ろで、ポプリが紫の魔法陣の上に立ち詠唱している。それに気付いたベリアルがこちらに飛んでくるが、エリックの影に隠れて詠唱していたポプリの術が完成する方が、圧倒的に早かった。

 

「シャドウエッジ!」

 

「ッ、いやああぁっ!?」

 

 地面から突き出した、氷柱のように鋭い闇の刃がベリアルの細い身体を貫く。甲高い悲鳴が、部屋の中に響いた。

 

 

「アル君、マルーシャちゃん……!」

 

「俺は大丈夫です! それより、マルーシャが!」

 

「平気!」

 

 ガラリ、と瓦礫を動かし、その下からマルーシャが姿を現す。平気とは言っているものの、自慢の金髪はボサボサになり、ひらひらとした服は所々血に染まっていた。

 

「……アルディス、ちょっとこっちに来て?」

 

「分かった」

 

「行かせないよ!」

 

 そう言うなり、マルーシャは杖を手に意識を高め始める。彼女の元へと走るアルディスへの追撃は、エリックが阻んだ。

 

「させるか! 牙龍衝破(がりゅうしょうは)!」

 

「くあぁっ!」

 

 身体全体を使うように剣を縦に振り下ろし、そのまま横に薙ぐ。肉を斬る感触に奥歯を噛み締めながら、エリックはそのままヴァルガの元へと駆けた。

 

「照らし出せ、生命の灯火! ――ハートレスサークル!」

 

 その間に、マルーシャの治癒術が発動した。淡い青緑色の光は渦を巻くように周囲に展開し、その中にいたマルーシャとアルディスの裂けた皮膚を塞いでいった。

 

「ほう……」

 

「――汝の全ての可能性、この暗雲が包み隠す」

 

 迫り来るエリックからも、ポプリが生み出した紫の魔法陣からも逃げようとせず、ヴァルガは弓を構えたままその場に立ち尽くしている。

 

「カースクラウド」

 

 暗雲に包み込まれ、視界もままならない状態のヴァルガとの間合いを縮めたエリックは剣の柄を短く持ち、高く飛び上がった。ヴァルガは弓使いだ。要は、弓を引かせる暇を与えなければ良い。確実に仕留めるためにアルディスもその場で銃を手に、床を強く蹴った。

 

「――飛天翔駆(ひてんしょうく)!」

 

「――アサルト・レイ!」

 

 銃口から放たれたのは、光の光線。一気に急降下するエリックと彼を追うように空気を切る光線を見て、ヴァルガはニタリと笑ってみせた。

 

「……甘い!」

 

「がっ!?」

 

 一瞬のことで、何が何だか分からなかった。腹部を深々と斬られ、エリックはヴァルガに一撃を決めることなく後ろに吹き飛んでいた。

 

 

「エリック君!」

 

「あらあら、お嬢ちゃん。他所見してる暇はないんじゃないのかい?」

 

「!?」

 

 ポプリの背後に立っていたのは、先程エリックによって深手を負わされた筈のフェレニー。彼女が指先に纏っていた闇の爪は一本に纏まり、鋭く長い一本の棘のような姿と化していた。

 

「血の宴、見せてあげるよ! スナイプロア!」

 

「っ、あ……!」

 

 フェレニーは棘を前に突き出すようにポプリに突進し、そのままポプリを巻き込むように切り裂きながら上に飛んだ。あまりの素早さに、ポプリの反応が全く追いついていない!

 

「ブラッディローズ!!」

 

「きゃあああぁああっ!!」

 

 スナイプロアの衝撃で空中に飛ばされたポプリに追い討ちをかけるように、目にも止まらぬ動きで乱れ突きを繰り出す。身体を突かれ、ポプリの血は薔薇の花びらを描くかのように勢い良く辺りに飛び散った。

 

「うぅ……く……っ、あ……」

 

 倒れたポプリの身体から、おびただしい量の血が流れていく。そんな彼女に向かって、無情にもヴァルガの矢が放たれた。

 

疾風(はやて)

 

「いやあぁっ!!」

 

 襲いかかったのは、複数の矢。身体を貫かれ、ポプリは悲痛な叫びを上げた。

 

「ポプリさん! ……っ、くそっ!!」

 

 アルディスの呼び掛けに、ポプリは一切反応しない。気を失っているらしい。流石幹部級、と言ったところだろうか。それなりの深手を負わせたつもりだというのに、彼らは一向に倒れない――それどころか、傷一つ負っていないようにも見えた。

 

 

「ふふ、助かったよ、ベリアル」

 

「……」

 

 その理由は倒れたと見せかけ、隠れて治癒術を発動させていたベリアルにあった。

 

「あの子……! まだ、倒れてなかったの……?」

 

「し、しまった!」

 

 とにかく小さな声で詠唱していたのか、そもそも無詠唱なのかは分からない。ポプリのシャドウエッジで仕留めたと思っていたのが間違いだった。幼い彼女の容姿に、四人は完全に油断してしまっていたのかもしれない。

 

「ごめん、全然気付かなかった……! あの子は、マルーシャと同じ天恵治癒(エルフリーデ・イヴ)の使い手だ!」

 

「!?」

 

 アルディスが遅れを取ってしまった。何かしら妨害されていたのか、それだけ彼に余裕が無かったのかは分からない。彼を完全に欺いていたベリアルはマルーシャと同じ、天恵治癒(エルフリーデ・イヴ)の使い手だった。

 それは、味方であればあんなにも頼りになる能力だというのに、敵であることを考えれば最悪だとしか思えなかった――こちらは、こんなにもボロボロになっているというのに、相手はほぼ無傷。絶望的なまでに、不利な状況だった。

 

 

「ベリアル、とどめを」

 

「……はい」

 

 ヴァルガの命令に応えたベリアルの真下に、橙色の魔法陣が浮かび上がる。

 

「させるか! ――セヴァードフェイト!」

 

 それを見たアルディスは長めのナイフを手に取り、勢いよく地面を蹴って飛び上がるとともにそれをベリアルに向かって投げ付けた。光を纏ったナイフが、ベリアルに向かって一直線に飛んでいく。

 

「この程度ですか?」

 

「!」

 

 しかし、そのナイフはベリアルの元に届く前に、ヴァルガが手にしていた剣によって叩き落とされていた。

 

「! アイツ……剣まで隠し持っていたのか……!?」

 

 マルーシャに傷を癒されながら、エリックは目を丸くしている。自分が斬られたのは、あれがあったからこそなのかと。

 

 

「――安息の時を刻みし大地よ。汝の眠りを妨げることを許したまえ……」

 

「こうなったら直接突っ込むまでだ!!」

 

 ベリアルが放とうとしているのは、間違いなく上級魔術だ。詠唱完了までには時間が掛かる。ナイフでは駄目だと考えたアルディスは再び薙刀を構え、ベリアルへ強襲を仕掛けた。

 

「――アクアエッジ」

 

「!? ……ッ!」

 

 そんな時、ヴァルガが放ったのは場違いにも水属性の初級術だった。迫り来る水の刃を前に、アルディスの足が止まった。

 

「ッ! くっ、くそ……」

 

 ディアナほどではないが、アルディスには強い魔術耐性があった。それゆえ、初級術であるアクアエッジではそこまで大きなダメージは受けない。しかしながら、アルディスの身体は酷く、震えていた。

 

「あらまぁ、可愛らしい……アンタ、水が怖いんだねぇ?」

 

「!」

 

 怯んでいたアルディスの前に、フェレニーが迫る。

 

「間に合え! ――飛龍爪(ひりゅうそう)!!」

 

 慌ててエリックは再び剣を投げ、フェレニーとアルディスとの間を開かせた。その隙に、エリックは二人の元へと走る。今滑り込めば、何とかアルディスを庇えるだろうと思ったのだ。

 

 

――その時、酷い息苦しさを感じた。

 

 

「!? ゲホ……ッ、がはっ、ゲホゲホッ! く……っ、ゴホッ、ゲホッゲホ……ッ」

 

 発作だ。よりにもよって、こんな時に……戻って来た剣を掴む事も出来ぬまま、エリックはその場に崩れ落ちた。

 

「エリック! 待ってて! ーーファーストエイド!」

 

 それに気付き、マルーシャがファーストエイドを発動する。エリックは呼吸が楽になるのを感じながら、おもむろに顔を上げた。詠唱直後のマルーシャに向けて、ヴァルガの矢が放たれようとしているのが、視界に入った。

 

「!? マルーシャ!」

 

紅蓮(ぐれん)

 

「きゃあぁっ!」

 

 遅かった。炎を纏った矢は勢い良くマルーシャの元へと飛んでいき、彼女の細い身体を貫いていた。

 

「う……っ」

 

 ただでさえ、戦闘に慣れていないというのに。彼女は散々、幹部達の攻撃を受けたのだ。マルーシャの身体は既に、限界だった。

 

「ごめん、なさい……ッ」

 

 顔を苦痛に歪ませ、マルーシャは謝罪の言葉を口にする。それに誰かが答えるのも待たず、彼女はその場に崩れ落ちた。

 

「マルーシャ!」

 

「……行きます」

 

 その時、ベリアルの真下にあった橙色の魔法陣が一気に煌きを増した。

 

「――グランドダッシャー!」

 

 地面から、耳を塞ぎたくなるほどの爆音が轟き始める。ビキビキ、とコンクリート貼りの床が大きく割れ始めた。

 

 

「エリック!」

 

「な……っ!?」

 

 

――割れた地面から巨大な岩が突き出す直前、エリックはアルディスによって突き飛ばされた。

 

 

「がはっ、ああぁあっ!!」

 

「アル!」

 

 逃げ遅れ、岩に貫かれたアルディスの悲鳴が響き渡った。ヴァルガが不敵な笑みを浮かべ、最後に残ったエリックを見つめている。

 

 

「勝負あったな」

 

「お前ら……ッ、よくも……」

 

 ぐったりと横たわった仲間達の姿を見て、エリックは奥歯を強く噛み締める。転がっていた剣を拾い上げ、その柄をぐっと握り締めた。その様子を見ても、ヴァルガの顔からは笑みが消えない。否、それは先ほどよりもエリックを見下す笑みと化していた。

 

「威勢が良いのは結構だが、貴様一人で、私達に敵うとでも思うか? 戦闘中に発作を起こすような、情けない“王子様”が」

 

「! 何が、言いたい……っ」

 

 戦闘中に発作を起こす。以前、それに近いことがあったがゆえ、エリックは発作が起こることを恐れていた。そして今回、恐れていたことが起きてしまった。

 しかも今回の場合、発作さえ起きなければマルーシャが倒れることは無かったかもしれない。それどころか、ポプリが本来の買い物とは無関係に薬草を買いに行ったのは、マルーシャが薬屋の前で拐われるような事態になったのは、自分の体質が原因だった……エリックは血が出そうなほどに拳を強く握り締め、ヴァルガを睨みつける。本当に馬鹿にされているらしい。彼らは一切、エリックに攻撃してこようとはしなかった。

 

「ずっと前から分かっていたことだろう? 貴様が、無力で惨めな存在であることくらい。隣国の若き天才、ノア皇子はさぞかし貴様を蔑んだことだろうな……」

 

「――ッ!!」

 

 ノア皇子。当時、病で床に伏せていた自分と同い年でありながら、戦場の最前線にて果敢に戦い、隊をいくつも壊滅状態に追い込んだ――鳳凰を継ぐ者。

 

(僕を……アイツと比べないでくれ……ッ、頼むから……ッ)

 

 それはエリックが、最も振られたくない話だった。それを分かっていながらこの話を降ったのだろう。ヴァルガは楽しそうに、心の底から嫌味な笑みを浮かべていた。

 

「しかし、ノア皇子は現在行方不明。この状況は、あなたにとって幸いだな……彼が『死んでいれば良いのに』と、そう思っていることだろう? アベル王子」

 

「! そんなこと、思うわけ……ッ!」

 

 

――本当二、思ッテイナイノカ?

 

 

「……」

 

「どうした? アベル王子」

 

 

――ノア皇子ガ、イナクナレバ。キット、楽ニナレルノニ?

 

 

 エリックの心を、吐き気を催すほどにどす黒い、嫌な感情が支配しようとしていた。

 

(僕は……)

 

 

『エリック……気付いてないフリしろよ。俺、怪しいとはいえ、今、一応意識あるから……』

 

 

「!?」

 

 このあまりにも絶望的な状況の中、親友アルディスの声が頭に響いたのはそんな時だった。

 

『俺が、次の一撃で決める。詠唱時間を、稼いでくれ……』

 

(アル……)

 

 自力では目の前の男達を倒せない。自分は、瀕死の親友に頼るしかないというのか。嘲笑をヴァルガに向けられ、プライドをズタズタに傷付けられながらも、エリックは軽く頷いた後、剣を手にアルディスの前へと飛び出した。

 

 

「黙れ! 僕は……僕は、お前らに屈したりしない! ふざけるのも大概にしろ!!」

 

「――万物を照らす、穢れなき光の化身よ……」

 

 横たわったまま詠唱しているらしいアルディスの声が、微かに聴こえてくる。どういうわけか、彼の真下に魔法陣らしきものは浮かび上がっていない。その声が純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)であるベリアルには聴こえてしまうのではと不安に思いはしたが、彼女は特に反応を見せなかった。

 

「ほう、面白いことを言う……」

 

「……ッ」

 

 嘲笑に負けるな、屈するな。エリックは自分自身に、懸命にそう訴え続ける。身体は無事でも、精神が、磨り減っていくのが分かる。

 

絶風刃(ぜっぷうじん)ッ!!」

 

 それでも今は、今の自分には、アルディスのために時間を稼ぐことしかできない。エリックは瓦礫目掛けて衝撃波を飛ばし、砂埃を上げた。

 

「勝てないからといって、小賢しいことをするねぇ……!」

 

「……。いや、待て! ベリアル、さっさとこの砂埃を吹き飛ばせ!!」

 

 気付かれてしまったか、とエリックは歯ぎしりした。ベリアルが背中の翼を羽ばたかせたことによって、彼らの周りで舞っていた砂埃が吹き飛ばされる。

 

「やはりか……! 貴様、まだ……!」

 

 忌々しそうに吐き捨てたヴァルガの言葉に反応し、エリックはその場で振り返った。

 

「! アル!?」

 

「は……はぁ……っ、はー……っ」

 

 まさか、あの規模の魔術を受けて立ち上がるなどと、誰が思ったことか。荒い呼吸を繰り返しながらも、薙刀を杖代わりに立っているアルディスの姿が、そこにはあった。

 

 

「――契約者の、名において命じる……」

 

 アルディスの詠唱に反応し、彼の左手で控えめに存在を主張していたバングルが輝く。詠唱中に魔法陣が出なかったのは、これが理由なのかもしれない。

 

「まずい! 聞いたことのない詠唱だが、あれは、恐らく……!」

 

 慌てて詠唱を邪魔しようとヴァルガ達が動くが、アルディスの詠唱の方が早い。ここに来て漸く、アルディスを中心に巨大な魔法陣が展開された。

 

 

「――汝、その大いなる力を持って、我が呼び掛けに応えよッ!! ……レム!!」

 

 

 詠唱が完了すると同時、魔法陣とバングルが光り輝いた。あまりの眩しさに目を開けていることすら困難な状況だったが、アルディスの目の前に人影らしきものが浮かんでいるのは分かる。

 

(あれ、は……)

 

 少しずつ、その姿がハッキリと見え始めた。そこにいたのは、艶やかな金色の、長い髪の男だった。背には大きな翼が生えている。尖耳だが、純血鳳凰(クラル・キルフェニア)では無さそうだ。纏っている純白の衣服は見慣れぬ形状をしていた。本で読んだことがあるのだが、あれは確か“着流し”という種類の衣服だ。

 

『あ、主……』

 

「……」

 

 

 そして、その異様な姿の男は“レム”と呼ばれていた――それは、光属性を司る精霊の名だった。

 

 

「背に腹は代えられない、それだけだ。後のことは考えてないよ。とにかく……頼んだ」

 

 それだけをレムに告げ、アルディスはその場に膝を付き、前のめりに倒れてしまった。流石の彼も、もう限界なのだろう。むしろ、よくやってくれたと思う。

 

『……』

 

 驚き、唖然として立ち竦んでいるヴァルガ達に向けて、レムは右手を突き出した。背の翼は一切動いていなかったが、それでも、不思議と彼は空中にその身を留めている。

 レムがゆっくりと瞬きをした直後、禍々しいほどの魔力を感じさせる巨大な光の柱が、天から降り注いだ。

 

「ッ!」

 

 悲鳴さえも、上がらなかった。柱はヴァルガ達を巻き込み、輝き続ける。その後には、何も残らなかった。

 

 

「やった……のか……?」

 

『否、違うだろうな……あやつら、途中でどこかに転移したようだ……』

 

 思わずエリックが口に出した言葉に、レムは悔しそうにそう返してきた。絶対的有利な状況下を覆すような存在、精霊が現れたのだ。逃げ出したくなる気持ちは分かる。

 

「でも、助かった……えっと、レム……?」

 

『そのようなことはどうでも良い。お主の仲間に、鮮やかな青い髪の男がいるであろう? そやつなら応急処置ができると思うのだ……早く、そいつの所に主を連れて行ってくれ』

 

 困ったように笑った後、レムは軽く翼を羽ばたかせ、辺りに光の粉を飛ばした。粉はエリック達の身体を包み込み、それぞれの身体に取り込まれるように消えていく。

 

「え……?」

 

 光の粉には、治癒の力が宿っていたらしい。身体の痛みが引いていく。意識を失っていたマルーシャが、ゆっくりと身体を起こした。

 

「大丈夫だった……? エリック……」

 

「マルーシャ……」

 

 とは言っても、彼女の負った傷は完全には癒えて居なかった。その痛々しい姿に、エリックは思わず目を細める。

 

『ふむ……主の許可無しに力を使うことは、本来は褒められたことではないのだが。しかし、こうでもしなければ、主が死にかねなん。マクスウェルも、今回ばかりは許してくれるだろう……』

 

 要件はそれだけだと言わんばかりに、レムの姿はかき消え、見えなくなっていく。

 

「おい! どういう――」

 

 

「アル君!? どうしたの……!? ねえ、しっかりして!!」

 

 

 エリックの言葉は、ポプリの叫びによってかき消された。

 

「どうしたポプリ!?」

 

「アル君が……ッ」

 

 酷く声を震わせるポプリは床の上に座り込んだまま、アルディスの上半身だけを抱き上げるようにして抱えている。

 

「ぐ……っ、う……っ、うぅ……っ」

 

「ーーッ!?」

 

 ポプリの声など、届いていない様子だった。アルディスは顔面を蒼白にし、右の二の腕を押さえて小さく呻き声を上げていた。血を吐いたのか、その口からは大量の赤が流れている。固く閉ざされた目を覆う白銀の睫毛は、小刻みに震えていた――否、彼自身の身体も酷く震えていた。

 彼もある程度、傷は癒えているはずだというのに。一体どうしたというのだろうか。

 

「アルディス……しっかりしてよ、お願い……」

 

 マルーシャも必死に治癒術を掛けているが、効いている様子は微塵も無い。アルディスの様子は、依然として変わらない。

 

(まさか……)

 

 エリックの、脳裏にある仮説が浮かぶ。ひとつだけ、思い当たる節があった。

 魔術を得意とする鳳凰族(キルヒェニア)でありながら、アルディスは決して魔術を使おうとはしない。使えなくなったわけではない、と彼は言っていた。ならば、一体何故なのかと不思議に思っていたのだ。

 だが、仮にエリックの脳裏に浮かんだ仮説が事実ならば、それも納得がいく。

 

 

「……ポプリ、ちょっと、アルをこっちに」

 

「え、ええ」

 

 震える手で、エリックは苦しむアルディスの左手を避けさせ、右の二の腕を覆うアームカバーを下ろした。

 

「きゃ……っ!?」

 

 傍にいたポプリが、小さく悲鳴を上げる。

 顕になったのは、己の存在を強く主張する赤黒く光る印らしき物だった。

 必要以上に白いアルディスの腕によく映えるそれは、刻印から植物の根のように痣が伸び、まるで生きているかのように蠢いていた。

 痣に侵されたその様子は“グロテスク”だと言い表すのが、一番分かり易いかもしれない……。

 

 

「やっぱり、か……」

 

「ねえ、エリック。これって……」

 

「……」

 

「え、エリック君、マルーシャちゃん……? これ、一体何なの……? ねえ……」

 

 そのままの体勢を保ったまま、エリックもマルーシャも揃って、しばらく動けずにいた。二人とも、この印が何であるのかを知っていた。だからこそ、信じたく無かったのだ。

 

「……ッ、痛、ぁ……はぁ……、ぐっ……」

 

 アルディスの左目から、生理的に浮かんだのであろう涙がこぼれ落ちる。エリックは思わず、目を背けたくなるような衝動に駆られた。親友のこのような姿を、見たくは無かった――それも、その原因は……。

 

 

「“虚無の呪縛|(ヴォイドスペル)”……」

 

「ヴォ、虚無の(ヴォイド)……呪縛(スペル)……?」

 

 震える声で、エリックが呟く。何のことだか分からないと、ポプリは機械的にその言葉を繰り返した。

 

「……。ジャンの所に行こう」

 

 鮮やかな青い髪の男――ジャンクなら応急処置ができる、とレムは言っていた。エリックはアルディスになるべく衝撃を与えないように立ち上がりながら、口を開く。混乱しているポプリに、説明する義務があると思ったからだ。

 

「これはラドクリフの人工魔術なんだ……印が刻まれた者の魔力を全て吸い尽くすまで消えない……呪い、なんだ……」

 

 

――虚無の呪縛(ヴォイドスペル)

 

 

「……僕も、詳しくは知らない。ただ、どうしようもなく残酷な術だってのは、分かる」

 

 それは純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)が強力な魔術を発動することを防ぐために、ラドクリフ王国が生み出した人工魔術だった。しかし、あまりの残虐さゆえに、今現在この術は二度と使われることが無いようにと禁呪とされている。

 

 この印を刻みつけられた者は、魔力を用いたあらゆる行動が制限されてしまう。

 できなくなるというわけではないのだが、行動に伴い、体内の魔力を痣に一気に吸い上げられるのだ。それには、耐え難い激痛が伴う。術の規模によっては、現在のアルディスのように意識さえ保っていられなくなるのだ。

 

 

「何で、こんな物がアルに……」

 

 それだけでも充分惨たらしいものだが、この術の恐ろしさはそんなものではない。被術者は何もせずとも広がっていく痣に少しずつ魔力を吸い取られていくのだ。それも、生きていくために必要な魔力さえも例外なく奪い取られてしまう。

 

――そして最後には、命さえも、奪われてしまう。

 

 アルディスはエリックやマルーシャが思っていたよりもずっと、深刻な物と戦っていたということだ。

 

「とにかく……急いで帰ろう。外で、チャッピーも待ってる……」

 

「うん……」

 

 だが、今は嘆き悲しんでいる場合ではない。こうしていても、状況は変わらないのだから。エリックは意識を失った親友を抱え、マルーシャ達と共に宿屋へと急いだ。

 

 

 

―――― To be continued.

 




 
敵陣営の皆様
ヴァルガ

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フェレニー

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ベリアル

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精霊レム

【挿絵表示】

(絵:長次郎様)


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Tune.22 精霊の使徒

 

「何があったのかは明日にでもまとめて聞きます。とりあえず集中を妨げられると困るから、エリックはディアナを連れていってくれ……で、ポプリは今のうちにエリックの採血を頼む。触診だの問診だのは明日やるとして、血液検査だけは今日中にやる」

 

「分かったわ。終わったらすぐに持っていくわね」

 

「はい、それでお願いします。エリック、大丈夫か?」

 

「! あ、ああ、分かった……お前、凄いな……」

 

 エリックはジャンクの、普段のぼんやりとした様子とのギャップに驚かされていた。

 部屋から全員を出しながらもどさくさに紛れてエリックにディアナを押し付けつつ、同時にポプリに指示を出す手際の良さには感心する以外の何も無いだろう。

 

「分かったわ。一応、アレルギーテストとかもやっておくわね」

 

「そうだな……念には念を、ということですね。ええと、それから一応、マルーシャも採血しときましょうか。見た感じ健康そのものとはいえ、何かあった時に対処しやすいのでカルテ作っておきます。マルーシャ、構わないか?」

 

 ジャンクの言葉に、不自然な部分は無かった。しかし、マルーシャはぴくりと肩を震わせ、困ったように笑ってみせる。

 

「うん……えと、何か変なことあったら教えてくれる?」

 

「え……?」

 

 何か持病でもあるのですか、と問いかけたジャンクに対し、マルーシャは慌てて首を横に振った――彼女の投げ掛けられた、“試作品”という言葉はそう簡単には消えてくれなかったのだ。

 

「分かった。何か異常があれば教える……とにかく、今晩は部屋に戻って全員ゆっくり休め。助けに行けなくて、悪かった」

 

「ううん、気にしないで。お休みなさい」

 

 不自然さは感じられたが、誰もマルーシャの発言を追求する気にはなれなかった。申し訳なさそうに微笑した後、ジャンクは静かに部屋の扉を閉めた。

 

 

 

 

「メルジーネ・シュトラールだけでは追いつきません、ね……それにしても……」

 

 ベッドの上でぐったりとしているアルディスを見ながら、ジャンクは色々と考え込んでいた。ジャンクが得意とする補助系精霊術『メルジーネ・シュトラール』を数回使って様子を見たようだが、アルディスは相変わらず辛そうだ。未だ意識のない彼の周囲には、先ほどジャンクが呼び寄せた下位精霊が飛び交っている。

 

「……。完成して、しまったのですね……」

 

 痛々しい痕を残す左手首を摩り、ジャンクは両目を細めた。彼の服の裾から覗く右手首にも、全く同じような痕がある。

 隠すとかえって目立つと考えた彼は、あえてこれを隠さないようにしていたが――ジャンク自身、この痕にはあまり良い思い出が無い。

 

「……」

 

 首を横に振るい、ジャンクは机の上へと目を移す。そこには、エリックとマルーシャの血液が入ったケースと、アレルギーテストの結果が書かれたメモが無造作に置かれている。つまり、ポプリが来ることはもう無いと考えて良いだろう。

 

「……誰か、そこ開けると思うか?」

 

 閉じられたドアに向かって、ジャンクはそう語りかけた。返事は当然ながら無かったのが、彼はそれで良かったらしい。おもむろにドアに鍵を掛けた後、彼は鈴の音を響かせた。

 

「今なら、誰も見ていません……ならば、許されますよね。あなた方の力を、私にお借しください!」

 

 一体誰に話しかけているのかと、この状況を見ている者がいたならば彼に問いかけていただろう。部屋には、眠っているアルディスとジャンク本人の姿しかないのだから。だが、その答えはすぐに結果として表れた。

 

「地水火風を司りし、永久を生きる化身達よ。契約の元、汝らに命ずる。我が身を依り代とし、その力、今ここに具現せよ! ――シュテルネン・リヒト!」

 

 部屋一面に広がる、四色に輝く巨大な魔法陣。その魔法陣の中心でジャンクが突き出した左手の前には、透き通った結晶が形成されていた。

 それは切り出されたばかりの不格好な水晶のようにも見えたが、そんな形状を気にさせないほどの美しい煌きを放っている。

 触れずとも宙に浮かび続ける不思議な結晶を前に、ジャンクは鈴を左手で握り締め、そのままそれを額に当てて両目を閉ざした。

 

「お力を貸して頂き、感謝します……ありがとうございました。属性は違いますが、これで、何とかなると思います……」

 

「……。あの、ジャンさん」

 

「レム様の力をお借りできるのが一番良かったのでしょうが、あのお方は既に誰かと契約されているようでしたので……って」

 

 

――気付かなかったと正直に言えば、間抜け過ぎると言われてしまいそうだ。

 

 

 顔色は真っ青だが、上半身だけ身体を起こしたアルディスが、かなり怪訝そうな表情を浮かべてこちらを見ていた。驚き、ジャンクは両の目を開いた。

 

「……」

 

「あの、黙らないでくださいよ……」

 

「えっと、その……見ました?」

 

「綺麗な結晶があるのと、あなたが鈴を通して“何か”と会話しているような姿は見ました……それとは別に、“ありえないもの”の気配を感じましたがね」

 

 アルディスは首を傾げ、完全に固まってしまったジャンクを見つめている。ジャンクは目を泳がせ、アルディスから目をそらす。明らかに居心地の悪そうなジャンクの周りを、下位精霊達が楽しげに飛び回っている。

 

「ああ、そういうことか……補助術と、下位精霊の力だけで、大丈夫だったんですね……まあ、その……精霊達。悪いがもう少し、アルに魔力を分けてやってくれ」

 

「わ、こっち来た……羨ましいですね、精霊術士(フェアトラーカー)の力って」

 

「……そうですね。愛らしいな、とは思っているよ」

 

 ジャンクの言葉に応え、下位精霊は揃ってアルディスの周りに移動した。それらは色とりどりの光の粒子をアルディスに振り掛け、弱った彼の身体を癒していた。

 

「ありがと、助かった。もう大丈夫だから、無理しなくて良いよ」

 

 下位精霊は保有する魔力が少なく、あまり力を使うことはできない。しかも衝撃を与えれば、すぐに死んでしまう儚い存在だ。それでも、このように人を助けようと傍に寄ってくることがある――八年前、エリックが魔術を発動させる手伝いをした、あの地属性の下位精霊達のように。とはいえ彼らの場合は、恐らく地の大精霊ノームの影響もあったのだろうが。

 

「せっかく作ったので、僕からもこれを。アル、手を出せ」

 

「え……あ、はい……」

 

 虚無の呪縛(ヴォイドスペル)の影響で衰弱していたアルディスに魔力を分け終えた精霊達は、またしてもジャンクの周りに集まっていった。

 その代わりに傍に寄ってきたジャンクの左手の上で、先程作り出された結晶が浮かんでいる。それは成人男性の手のひら以上の大きさをしたもので、あまりの大きさに驚きながらもアルディスはおずおずと左手を伸ばした。

 

「! これは……!?」

 

 すると結晶は砕け、大量の魔力の粒子となってアルディスの身体に吸い込まれていった。すっと、全身に感じていた酷い苦痛が和らいでいくのをアルディスは感じた。

 

「助けてくださってありがとうございます……でも、ジャンさん。あなたが結晶生成の際に使役したのは下位精霊ではなく、上位精霊ですよね? 契約者でもないのに上位精霊を従えるなんて……あなた、ただの精霊術士(フェアトラーカー)ではないですよね?」

 

 絶対におかしい。そう思い、アルディスはジャンクに問いかけたのだが、彼は何も答えず、下位精霊達と戯れている。しびれを切らしたように、アルディスは少しだけ声を張り上げた。

 

「申し訳ありませんが以前、少しだけあなたについて視させて頂きました。ですが、何も分からなかったです。俺の力よりも遥かに強い、不思議な力に妨害されました……それこそ、人外としか思えない力でしたね」

 

「!?」

 

 これには流石に反応せざるを得なかったようだ。ジャンクは目を丸くしてアルディスを見た。それを待っていたかのように、アルディスは彼を見据えて口を開く。

 

 

「俺の憶測ですが、あなたは人間ではなく……精霊なのではありませんか?」

 

 

「え……」

 

 ジャンクの反応が鈍った。いきなり突拍子も無いことを言われたために、驚いてしまったのだろう。アルディスは彼の尻尾を掴むべく、さらに話を続けた。

 

「先ほど、あなたが使役したのはノーム、ウンディーネ、イフリート、シルフ……通称『四大精霊』ですよね? ですが、レムの名を言っていた辺り、あなたは四大のみならず全ての精霊『七大精霊』を統べることができるのだと思っています――俺が知る限り、それを可能とするのは『神格精霊』のマクスウェルだけです。なので俺は、それがあなたの正体なのではないかと思っています」

 

 

――アレストアラントには、七体の上位精霊が存在している。

 

 

 地の精霊ノーム、水の精霊ウンディーネ、火の精霊イフリート、風の精霊シルフ、氷の精霊セルシウス、闇の精霊シャドウ、そして光の精霊レム。

 そして、この七体の上位精霊、通称『七大精霊』を統治するのが神格精霊と呼ばれる存在、マクスウェルだ。

 伝説によると、マクスウェルは自身が従える七大精霊達には及ばぬとはいえ、全属性を使いこなし、膨大な魔力を保有する偉大なる存在だ。

 

「……。違い、ます……」

 

「それならば、答えてください。少なからずあなたは、普通の精霊術士(フェアトラーカー)ではないのでしょう?」

 

「ッ、言えません……!」

 

 首を横に振るい、ジャンクはアルディスから目をそらしてしまった。

 

「ただ、僕をあのお方と……マクスウェル様と、同等にしないでください。本当に恐れ多い話です、気分が、悪くなるほどに……」

 

 嘘を付いているような雰囲気ではない。だが、今の彼の様子はあまりにも妙である。アルディスはジャンクの挙動不審な姿に、違和感を見出していた。

 

「ジャンさ……」

 

 

『主、落ち着いてくだされ。確かにその者は我らを使役する力を持つ上、マクスウェルとも近い立場の者……しかし、その者はれっきとした人間である。あまり、いじめてやるものではありませぬ』

 

 

「!?」

 

 突然聞こえてきた声に、アルディスもジャンクも咄嗟にその声が聞こえた方向を見る。そこには、半透明ではあったがアルディスと契約を結ぶ存在、レムの姿があった。

 

『ふむ、ウンディーネの話を聞いて以降、気になっていたのだが……彼女の話通り、そなたの気は清らかな水のごとく澄んでおる。名に恥じぬ力の持ち主であるな』

 

「ま……まさか……!? あなたが、レム様……?」

 

 ジャンクは眼鏡の下の目を見開いて、レムを見上げている。それを見たレムは、勘弁してくれと言わんばかりに額を押さえた。

 

『そのように畏まらずとも良い……我とそなたの立場はほぼ同等だ。友のように接してくれて良いのだぞ』

 

「い、いや、その……あの、ですね……?」

 

『そなた……大きな形に反し、さては酷く気が弱いな。我が主を見習え、主はそなた以上に女子のような形をしておるが、心は立派な男児であるぞ』

 

「~ッ! レム!!」

 

 異様に精霊を敬うジャンクに、得体の知れないことを言い出した上に、どさくさに紛れてかなり失礼なことを発したレム。思わず叫んでしまったものの、全く理解が追いつかないアルディスは唖然とした様子で彼らの様子を見つめていた。

 

『もう一度言う。我らの立場は対等だ。畏まるでない、友のように接するのが無理だというのなら、せめて畏まるのはやめること……それから随分と怯えているようだが、問題ない。仮契約とはいえ、我が主アルディス=ノア=フェルリオは我の契約者である。守秘義務に関しては、主には無効であるぞ……ただ、少々警戒を怠ったようだな。以後は気をつけるように』

 

「はい、ありがとうございます……そ、そして、アル!?」

 

「目立つんで黙ってたんですよ……で、お願いですから。お願いですから、俺にもちゃんと説明して下さい……」

 

 お願いですから置いていかないでください、とアルディスは頭を項垂れる。読みを外したことに傷付いたのか、単純に話に置いていかれるのが嫌なのかは分からないが、本当に辛そうだった。ジャンクはその様子を見て、軽く息を吐いて口を開いた。

 

「お前は同族であるとともに、守秘義務を守らなくて良い相手だったんだな……そうですね、ちゃんと話します……まず、僕は精霊術士(フェアトラーカー)ですらないです。ただ、生まれつき精霊達に異様に懐かれる体質だっただけです」

 

「!?」

 

「多分素質はあるのでしょうが、僕にとって下位精霊は友のような存在。使役失敗によって死なせてしまうのが怖くて、精霊術士(フェアトラーカー)になりたいとは思わなかったんだ」

 

 驚くアルディスに笑いかけ、ジャンクは鈴を胸の前で握りしめて話を続けた。

 

「そんなことを言っていたら、マクスウェル様がある契約を結んでくださいまして。マクスウェル様の加護の下で精霊使役ができるようになりました。さらに下位精霊だけでなく、上位精霊の皆様をある程度使役できるように……僕の力のカラクリについては、こんなところですね」

 

「……す、すみません。人間じゃない、みたいなこと言って……」

 

「まあ、普通じゃないのは理解しているさ。それに、精霊達と共に戦えるってのはそんなに悪いことじゃないしな……ただ上位精霊の皆様は僕の親代わりでもありますし、あまり使役したいとは思わないな」

 

 自分の周りに寄ってくる下位精霊達と再び戯れながら、ジャンクは笑う。彼は本当に精霊達が好きなのだということを実感しつつも、アルディスはレムへと視線を向けた。

 

「レムも……ええと、ウンディーネもなのか? とにかく、ジャンさんがいると居心地が良いとか、なんとか」

 

 先程、レムがこんなことを話していたなとアルディスが問いかける。レムも思い出したようにパンと手を叩き、分かりやすいようにと言葉を選びながら語り始めた。

 

『我らのような存在ですら、その男の力はありがたいものと感じる。力の弱い下位精霊にとっては、砂漠の中の泉に近い存在であろうな』

 

「へぇ……」

 

『主、“瘴気”の存在は分かるだろうか? 空気中に存在する、目に見えぬ汚染物質のような物だ……簡単に言ってしまえば、アベル王子のような身体の弱い人間や、老人子供のようなか弱い者が病を発症する原因であるな。とはいえ、一番影響を受けるのは我ら精霊であるが』

 

 レムが語る瘴気というものは、アルディスにとってはあまり聞き覚えのない単語だった。医者であるジャンクも知識として持っているレベルらしい。何しろ、よほどのことがない限りは人間には大した影響を及ぼさない物質だというのだから知識がないのも当然だろう。二人の何とも言えない反応を見て、レムは話を続ける。

 

『双国の戦……一番酷かったのが十年前のシックザール大戦であったか? その時に世界そのものが少々狂ってしまったようでな。どこからともなく、瘴気が出てくるようになったようだ。主達には分からぬだろうが、どんどん密度が高くなっているのだ……我らにとっては、暮らしにくい世界になってしまった』

 

「そうなんですか……ですが、それと僕の関係は……」

 

『自覚が無かったようであるな……そなたには、その場にいるだけで瘴気を浄化する力があるのだ。我らとしては、いっそ世界を浄化して回って欲しいと感じているぞ』

 

「!?」

 

 砂漠の中の泉、というレムの表現がここで繋がった。そんな体質の持ち主ならば、普段から精霊を寄せ集めてしまうのは当然の結果であろう。

 シックザール大戦以来、瘴気が空気中に拡散してしまったというアレストアラントに生息する精霊達からしてみれば、ジャンクの存在ほどありがたいものはないはずだ。

 

「確かに、やたら寄ってくるようになったのは戦後の話です。しかし、僕にそんな能力があるとは……」

 

「ええと……話が盛大に逸れてきてるんで戻しても良いですか? あの、限りなく精霊に近い存在で、マクスウェルと近い立場の存在ってのは……」

 

『ああ、その話……そなた偽名を使っているようだが、本当の名は“クリフォード=ジェラルディーン”で間違いないだろうか?』

 

 そう言ってレムはジャンクと視線を合わせる。ジャンクは明らかに戸惑っていたが、アルディスの顔色を伺ってから小さく頷いた。

 

「……。ええ、間違いありません。ですが、呼ぶにしてもクリフォードまでにしてください。自分のフルネームは、姓は……あまり、聞きたくないのです」

 

「……!」

 

 クリフォード=ジェラルディーンと呼ばれたことに対しては、ジャンクは何の否定もしなかった。つまり、これが彼の本当の名だということだ。

 

「クリフォード……それが、あなたの本当の名前なのですね。どうして、偽名を……」

 

「ポプリに求められて咄嗟に名乗ったのが始まりです。エルヴァータは友人の姓だよ」

 

 これ以上は詳細を聞いて欲しくないと言わんばかりに、ジャンクはいつもそうしているように瞳を閉じてしまった。

 咄嗟に友人の姓だというエルヴァータを名乗るのはともかく、やはり“ジャンク”と名乗った件については引っかかるものがある。それでも、恐らくそこに関連するのは彼の抱える闇だ。こればかりは、流石のアルディスも追求する気にはなれなかった。

 

 

『それならば、やはりそなたが“精霊の使徒(エレミヤ)”であったか……』

 

「うわ、また聞き慣れない言葉出てきた……」

 

「アル……」

 

 

――先程からとんでもない話ばかりが飛び出すせいか、ついにアルディスが弱音を吐いてしまった。

 

 精霊の使徒(エレミヤ)って何だよ、と言わんばかりに彼は両手で顔を覆っている。そろそろ頭がパンクしそうになっているのだろう。そんな主人を不憫に感じたのか、レムは苦笑しながらも口を開いた。

 

『主、落ち着くのだ……精霊の使徒(エレミヤ)、というのは自身の聖域から動くことのできぬマクスウェルの代行者として何かしらの任務を託されてる人間のことだ。その時に力も与えられると言えば、その男が力を持っているのも納得できるであろう?』

 

「はあ……」

 

「そういうことです。アル、何か……すみません」

 

「いえ……驚きすぎて頭が着いていかないだけです。ちょっと、まとめさせてください……ジャンさんもといクリフォードさんは精霊の使徒(エレミヤ)という存在で、だから色々と不思議な力を持っていて、それでなくとも精霊に懐かれる瘴気浄化体質の持ち主で、精霊から見れば上位精霊と同等の立場で、恐らくマクスウェルの直属配下……ってことですか?」

 

 アルディスからしてみれば、ただでさえジャンクの本名が判明するという事態に加え、彼の謎能力の正体やら、精霊達の諸事情といった重大情報を一気に頭に叩き込まされたようなものなのだ。それも、彼はつい先程目を覚ましたばかりだというのに。

 それでも、何とか大混乱に陥ることだけは防げたらしいアルディスは、盛大にため息を吐いて目尻を押さえた。

 

『しかしだ。今回の使徒は元々マクスウェルが実の息子のように可愛がっていた子どもだと聞いている。それにも関わらずそなたが使徒となった。つまり他の使徒適正者を探し出し、命じる余裕がなかったのだろうな……そなた、齢二十を少し過ぎた程度であろう? 使徒になったのはいつだ?』

 

「はい、再来月で二十三歳になります。使徒になったのは、十五歳の時でした」

 

『八年前、か……我と主が契約を結んだ頃の話であるな。なるほど、それでマクスウェルはそなたを使徒に選んだということか……』

 

 そう言って、レムとジャンクはアルディスを見た。アルディスもアルディスで、何となく理由を悟ってしまったようだ。

 

(ペルストラ、事件……)

 

『我は八年前、死にかけていた主の目の前にマクスウェルによって強制召喚されたのだ。その時点であやつが焦っていたのは悟っていたのだが……使徒契約まで焦って行ったと聞いた時は、正直驚いたぞ。マクスウェルから、そなたは使徒としては最高の体質を持っているが、精神面で多くの不安要素を抱えていると聞いていたのでな……』

 

「……」

 

 状況から考えて、ジャンクがマクスウェルに託されたのは恐らく、ペルストラ事件のような惨劇の事前防止だろう。仮にそうなら、彼は本当にとんでもないことを託されているのだ。

 

『ああ、すまぬ。あまり触れて欲しくはなかったようだな……』

 

「……いえ」

 

 薄々分かってはいたがジャンクもジャンクでかなり後ろ暗い物を抱えている様子であった。突けばあっさり分かりそうな気もするが、とてもではないがそのようなことをする気にはなれない。話の流れを変えようと、アルディスはレムの顔を見上げて口を開いた。

 

 

「レムがいきなり目の前に現れた時は本当に驚いたよ。あれって、マクスウェル関係してたんだ」

 

『当時の主は眼の片方を無くし、虚無の呪縛(ヴォイドスペル)を受け路頭に迷った十歳の幼子だ。加えて主は立場が立場である……我も、主が相手だというのなら契約に異議は無かった。それゆえ、素直にマクスウェルの指示に従ったのである』

 

「……やっぱり、虚無の呪縛(ヴォイドスペル)はその時に付けられたものだったんだな」

 

 アルディスの右腕を見つつ、ジャンクは「申し訳ない」と目を細めている。結局、彼は虚無の呪縛(ヴォイドスペル)に対してあまり知識を持っていなかったのだ。つまり、現状では先程のような応急処置しかできないのである。

 

「マクスウェル様なら、何か知っていらっしゃるでしょうか……?」

 

「あ、いやいや……気にしないで下さい。それより、聞きたいことがありまして……あなたと二人になったら、聞こうと思っていたのです」

 

「……?」

 

 

 この流れで思い切り場違いかもしれませんが、とアルディスは少し視線を泳がせた。

 

 

「ディアナの、ことなんですけど……」

 

「……はい」

 

「な、なんなんですか!? その元気の無い返事は!?」

 

 今しか聞く時ないんですから仕方ないじゃないですか、とアルディスは顔を真っ赤にして叫んだ。いくらなんでも、この扱いは恥ずかしかったらしい。

 

「つまり、ディアナにいてもらうのは困ると?」

 

「はい」

 

「……分かりました、分かりましたから。本題に入ってください。大体察しは付くが」

 

 恐らくは記憶喪失もしくは原因不明の歩行障害の件についての話だろう。ジャンクはそう考え、頭の中で説明内容を整理しながら肩を竦める。

 

 

「ディアナは……“彼女”は、一体何者なんですか?」

 

「!?」

 

 

――だが、アルディスの持ち出してきた話は、ジャンクの予想とは異なる内容だった。

 

 

「え、えっと……アルディス。あの子は……」

 

「ええ。つい最近まで、俺も完全に騙されていました」

 

「……」

 

 あの外見と声が変に作用して逆に騙された、とアルディスは額を押さえた。性格はかなり男らしいが、ディアナの容姿と声は明らかに女性の物。完璧な“男装”でなかったことが、むしろ逆に説得力を増していたのだ。

 

「ディアナは少年ではなく、少女ですよね? 医者であり、透視干渉(クラレンス・ラティマー)の使い手であるあなたが、この事実に気付いていないとは言わせません」

 

 この件について、アルディスはどう考えても絶対の自信を持っている。これはもう、隠せないだろう。

 

「……。気付いたって、アイツには絶対に言うな。話はここだけに留めてください」

 

 心の中でディアナに謝りながら、ジャンクは事実上の肯定とも言える言葉を呟いた。

 

「やっぱり……ですが、どうして……」

 

「お前を守ること、それだけがアイツの存在意義になっているんだ。だから、できる限りそれに見合う姿になろうと足掻いて……そんなディアナが出した結論が、男装だったんです」

 

「……」

 

「ディアナは何故か動かない足を引きずって、自分が誰なのかも分からないまま、自分の命を狙う者達ばかりが存在するこの国を必死に彷徨ったんだ。分かりますか? 彼女はもう、限界なんだ。彼女の傷を抉る可能性のある行為は、極力控えて欲しいのです」

 

 自らを男と偽り、必死に強がって、任務という存在意義を掲げて生きることで、ディアナは漸く自己を確立している。ただでさえ、抱えているものが大きいというのに。

 

 

――守るべき存在に偽りを見抜かれたと知った時、彼女は正気を保つことができるだろうか。

 

 

「お前があんな状態で戻ってきて。一番落ち込んだのは誰だと思いますか? 明日、ちゃんと何かしら話しかけてやってください。本当に、泣きだしそうなほどに、落ち込んでいましたから」

 

「……はい」

 

 ディアナの使命、唯一の存在意義は、ノア皇子ことアルディスの守護。それなのに、アルディスは自分のいない場所で酷く衰弱し、そして帰ってきたのだ。その姿を見た瞬間、彼女が発狂しなかったのが奇跡かもしれないとジャンクは語る。

 今回の一件で、ディアナに余計な責任を感じさせてしまったかもしれない。アルディスは目を細め、震える両手で布団を強く握り締めた。

 

 

「一応、説明しておこうか。ディアナの足が動かないのは……記憶が消し飛んでしまっているのは、恐らく防衛機制という心の働きが関係しています」

 

「防衛、機制……?」

 

「そうですね、誤解を恐れずにものすごく簡単に言ってしまえば、精神崩壊の恐れがある経験から、本能的に逃れようと働きのことです」

 

 防衛機制――その者にとって、耐え難い何かと直面してしまった際、様々な方法で自分自身の心を守ろうとする精神的なメカニズムのこと。

 ディアナの場合は、このメカニズムが必要以上に過度な働きをしてしまい、結果として生活に影響が出るレベルにまで到達してしまったのではないかというのがジャンクの推測だった。

 

「確か、一年半くらいしか記憶がないって……ディアナって何歳なんでしょう……」

 

「あと少しで十六歳になるようです……逆算すると、十四歳の時に何かが起きたんだろうな。例えば、例えばですが……足を切断されそうになっただとか、そういった経験でもしているのかもしれません」

 

「――ッ」

 

 実際のディアナに、何が起きたのかは分からない。とにかく、彼女は足に関する何らかのトラウマを抱え、それが麻痺に近い症状として表面化されてしまった可能性が高い。さらに、まだ心を守るには対価が足りないと言わんばかりに記憶まで無くなってしまったのだ……微かな記憶を留めて置くことさえできなかった。それだけ、辛い経験をしたのだろう。

 

「拒絶系の術を受けた痕跡もありますが、根本にはディアナ自身の働きかけがありました。術による記憶喪失ではなく、恐らく術者は、決して彼女が記憶を取り戻すことがないように、さらに上から術を掛けたんだ。それだけ……ディアナは……」

 

「ディアナ……」

 

 ごめんな、とアルディスは弱々しく声を震わせた。彼の頭の中で様々な思考が混ざり、滅茶苦茶になっていく。

 

『主は悪くないと思うがな……主にも、ディアナという小娘のようになっていた可能性が十分にある……クリフォード、そなたもだ。そなたらはもう少し、自分自身を気遣うべきだ』

 

 ディアナの話になってからは黙っていたレムが、ここで口を開いた。いつの間にか、下位精霊達は姿をくらましていた――彼が、どこかに連れて行ったのかもしれない。

 

『我が見ても、あの小娘は気丈だ。しかし、クリフォードの見解通り、とんでもなく不安定で、弱い存在でもある……守りたいと思うのなら、好いているのなら、気を付けるべきであろう』

 

「当たり前だ。俺だって男だよ」

 

「アル、ディアナが女で、良かったな……」

 

「ええ。まあ……その、あなたはご存知でしょうが……俺は一時期、本気で頭抱えましたよ……」

 

 男装少女で良かったと思ってます、とアルディスは布団に顔を埋めてため息を付く。これには、ジャンクもレムも苦笑いせざるをえなかった。

 

『主、愛は一言では言い表せないような、数多の形があるのだぞ』

 

「ディアナなら、別に男でも良かったよ。そういう意味で覚悟も決めてたし」

 

「お前、潔いにも程があるぞ……」

 

 一途なのか、ただの馬鹿なのか。ある意味ディアナが男だったら面白かったのにと、ジャンクは瞳を細めてクスクスと笑う。

 

 

「……。最初は、彼女が知人に似ていたから。それで、気になるのかなとも思ったのですが」

 

 流石に居心地が悪くなってきたのか、軽く咳払いしてからアルディスは話の方向を変えてきた。

 

「知人?」

 

「リヴァース家の女の子ですね。名前はダイアナ。彼女に似ていたから、あの子はディアナって名前になったんです」

 

 我ながらなかなか酷い由来でしょう? とアルディスは軽く首を傾げてみせる。

 

「え? 普通、正当な聖者一族は銀髪になるのでは……?」

 

「ダイアナの髪は突然変異です。聖者一族の間では、夜空のような深い藍色の娘が生まれるのは、世界に異変が起きる前兆とされています」

 

 そして、世界には実際に大きな異変が起きてしまった――本当に、皮肉な話だ。ダイアナは生まれた瞬間から、こうなることを予期していたということだ。

 実際にそれはありえないとはいえ、実際に言い伝えとして残ってしまっている以上、彼女の聖者一族内での立場はかなり危うかった可能性がある。

 

「リヴァースも、例に漏れず大戦の際にラドクリフにいたんですよ。だから、彼女が生きている希望は、ほとんど無いんです。そう思って、いました」

 

『ここに来て、二人が同一人物だという可能性が出てきたわけであるな』

 

 レムの言葉に、アルディスは静かに頷いた。確かにディアナの能力を考えば、全くもってありえない仮説ではないだろう。

 

「あくまでも俺の仮説に過ぎないし、願望に過ぎない。期待はしてないし……事実がどうであれ、ディアナはディアナだ」

 

「そう思ってやってくれると、ディアナも救われると思う。とにかく、アルは早く寝てください。明日は、ここを出ますよ」

 

 衰弱から回復したばかりではありますが、とジャンクは肩を竦めた。あまり時間を浪費する訳にはいかない状況なのだから、こればかりは仕方がないのだ。

 

「分かりました、今日は色々聞けて良かったです……最後に、“クリフォードさん”」

 

「は、はい……?」

 

 突然本名で呼ばれ、ジャンクはどこか煮え切らない返事を返した。それに対し、アルディスは躊躇いがちに口を開く。

 

 

「あなたこそ、変なことに存在意義を見出さないで下さいよ」

 

「……!」

 

 アルディスが、ジャンクと誰を対比しているのか。それは、これまでの話の流れを考えれば明らかだったし、ジャンク本人も理解できていた。

 不安げに顔を覗き込んでくるアルディスの頭を軽く撫で、ジャンクはアシンメトリーの目を細めて笑ってみせた。

 

「変なこと心配してんじゃない……良いから、早く寝ろ。僕は、これでも結構楽しくやってますよ」

 

「……それなら、良いんです。おやすみなさい……電気、消さなくて良いですから、あなたもちゃんと寝てくださいね」

 

「ふふ、ありがとうございます。おやすみなさい」

 

 

――嫌な勘が働くんだな、とジャンクは密かに奥歯を噛み締めていた。

 

 

(使命こそが、自らの存在意義。ディアナの気持ちは、良く分かるんです)

 

 アルディスが眠ってから、小一時間が経過した。それに合わせて、レムもいつの間にかどこかに行ってしまった。彼が本来いるべき場所、光の神殿へ帰ったのかもしれない。

 再び静かになった部屋の中で黙々と作業をしながら、ジャンク――クリフォードは今にも泣き出してしまいそうな笑みを浮かべた。

 

「……」

 

 ペンを置き、左手で白衣の上から黒い布と細いベルトが巻かれた右の二の腕を押さえる。手が酷く震えているのは、気のせいだと信じたかった……このような姿は、誰にも見せられない。

 

 

「はは……実際は僕も、彼女と同じようなものなんですよ……」

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.23 幻想の泉

 

「あら、霧が出てきたわね……」

 

 遥か前方ではあるが、セーニョ港が見え始めた頃。目的地はもうすぐだというのに、突然の濃霧に視界を奪われてしまった。

 

「そうですね、これは酷い……」

 

「これではどこから何が飛び出してくるか。困ったな」

 

「きゅー」

 

 アルディスとディアナ、チャッピーの声が、どこかからか聞こえてくる。この二人と、それからチャッピーは間違いなく同じ場所にいる――というのも、案の定ディアナがアルディスから離れなかったのだ――だろうが、仲間の居場所さえも分からないのは厄介だ。

 

「きゃあっ!」

 

「マルーシャちゃん!? ごめんね、大丈夫!?」

 

 そうこうしている間に、どうやらマルーシャとポプリが衝突したらしい。

 

「おい……どうするんだ。これは駄目だろ……」

 

「僕は問題ないのですが、皆は大問題だよな」

 

 透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力者のジャンク以外、ろくに動けない状況である。エリックはその場で立ち止まったまま、仲間達の大体の居所を把握しようと耳をすませていた。

 

 

「……ん? 水の音がしたか?」

 

 そんな時、ポチャン、と何かが水に落ちるような音がした。

 

「そうだわ! この近くって、あの泉があったはず……先生、先に行って水音立ててきてくれる?」

 

「そうですね。皆……頑張って来てくれ」

 

「!? ま、まさか、おい……!」

 

 

――音だけを頼りに、僕ら全員その泉まで行けと!?

 

 

 

 

「ファーストエイド! えっと……皆、大丈夫?」

 

 苦笑いしながら、マルーシャはひたすら仲間達の傷を癒していく――エリックの嫌な予感が、当たってしまった。

 

 ここまで来る途中、仲間同士で衝突したり、盛大に地面にダイビングしたりとなかなか悲惨な惨劇が繰り広げられたのだ。

 結果、ほぼ全員が何らかの怪我をした。果てしなく、くだらない理由の怪我である……。

 

「ディアナ、翼治ってて良かったね。君は飛べるもんね……ちょっと高い場所飛べば、人には当たらないもんね……」

 

「ははは……」

 

 ドロドロに汚れてしまった服を見ながら、アルディスはため息を吐く。ディアナは泉の水で濡らしたタオルを手に、乾いた笑い声を上げていた。

 

 

「しっかし、不思議な場所だな。ここだけは霧が出てない」

 

 エリックは辺りを見回し、見慣れない不思議な風景に驚きの声を漏らした。小さな泉の周りには背の低い草が生い茂っており、少し離れた場所に高い木々が立ち並んでいる。そこから先の風景は、霧によって閉ざされていた。

 

「そうなのよ。ここは霧もかからないし、魔物も来ないの。折角だし、霧が晴れるまではここで休んでいきましょう?」

 

「うん、疲れちゃったしちょうど良かったね。これ、飲んでも平気かな?」

 

「綺麗だから大丈夫だけど、生水だからあまり飲んじゃ駄目よ」

 

 ポプリの話によると、アドゥシールとセーニョの間ではよく霧が出るのだという。そして、霧が出る度にこの場所に来て、休むようにしているとのことだった。

 

「まあ、霧が出てなくても良く来るんだけどね?」

 

「そうなの?」

 

 マルーシャの問いに、ポプリは軽くニコリと微笑んでから、口を開いた。

 

 

「六年くらい前かな。あたし、ここで不思議な生物に会ったことがあるのよ……また会えないかなって、そう思って。時々来てるのよね」

 

 へぇ、とマルーシャは目を輝かせる。彼女はこの手の、神秘的な話が大好きなのだ。その反応を見たポプリは、どこか懐かしそうに、そして楽しげに、その生物について語り始めた。

 

 

「淡い青色の、大きな生物だったわ。大きさ的に、最初は馬かなって思ったの。でも、蹄とかなかったし、その代わりにあちこちにヒレが生えてて、長い尻尾の先は尾ヒレになってたわ。海色のたてがみから出る長い角と、長いヒレみたいな耳が凄く綺麗だった」

 

 話を聞いていたらしいジャンクは、小さく溜め息を吐いて肩を竦めてみせる。

 

「またその話か……ポプリ、作り話はやめな。マルーシャを騙さないでください」

 

「だから! 何で先生そんなこと言うのよ! 本当なんだってば!」

 

 確かに、ポプリの話はとんでもなく突拍子も無いおとぎ話のようなものだった。この話を何度も否定しているらしいジャンクの言葉に、彼女は不貞腐れたように眉を潜める。

 

「“ユニセロス”ですか? ポプリさん」

 

「んー、違うのよ。でも、ユニセロスによく似た生物ではあるのよね……」

 

 淡い青色をした馬のような姿に、角があるといった特徴はユニセロスと一致する。だが、似てはいるが違うとの話だった。ここで、軽く唸りながら考え込んでいたマルーシャが手を上げた。

 

「分かった! それ“ケルピウス”だよ! わたし、神話で見たことあるよ!」

 

「神話!? あ……あー! 俺も思い出しました、聖獣ケルピウスに纏わる神話です。しかも、ケルピウスはちゃんと実在してるって話ですよ。多分ポプリさんが正解です」

 

 ケルピウスの話題でやや興奮気味になったマルーシャとアルディスの話に、ポプリは「ほら見なさい」とジャンクに向かって不敵な笑みを浮かべてみせる。これには気まずくなったのか、ジャンクはぷいと顔を逸らしてしまった。

 

「太古より、ケルピウスは清らかな癒しの力を持つと伝えられています。だから、ケルピウスの血は良薬になるとされていて……その結果として乱獲が起きたそうです。もう絶滅してしまったと思っていました。よく会えましたね、ポプリさん」

 

「そんなに、珍しいの……だから、あんなに傷だらけだったのね……」

 

 六年前、たまたまこの泉を訪れたポプリは泉の傍でぐったりと倒れている瀕死のケルピウスに会ったのだという。その身体はよく見ると古傷だらけだったらしく、恐らくそのケルピウスはアルディスの言う『乱獲』の被害に何度もあっていたのだろう。

 

「新しくできた、背中の大きな傷で苦しんでたみたいで。あたし、とりあえず持ってたグミあげたりライフボトルかけたりしたの……今思えば、よく聖獣に人間用の薬使おうと思ったなぁとか思うけれど、ちゃんと元気になってくれたのよね」

 

「助けてあげたの? じゃあ、恩返ししてくれるよきっと!」

 

 若干斜め上の話をし始めたポプリだが、マルーシャは変わらず目を輝かせ続けていた。

 

「ケルピウスは、決して受けた恩を忘れないって、神話の一節があるの。人に助けられたケルピウスが、その人のために命懸けで恩を返そうとするの。最後にそのケルピウス死んじゃうから、凄く切ない話でもあるんだけど……素敵な話でしょ?」

 

「そうね。うふふ、期待して待ってても良いかしら?」

 

 死なれるのは嫌だけれど、とポプリは笑う。そんなポプリを横目で見ながら、ジャンクが今度は盛大にため息を吐いて口を開いた。

 

 

「……ポプリがケルピウスに与えた優しさ。僕にも、少しは分けてくれれば良かったんですけどね」

 

「!?」

 

 ジャンクがこう言った瞬間、ポプリの顔がカーッと真っ赤になる。その姿を見て、ジャンクはクスクス笑いだした――間違いない、確信犯だ。

 

「お、オレには全く話の流れが分からん。ジャン? ポプリと何があったんだ?」

 

「先生! あたし、それに関してはずっと謝ってるじゃない! ひっどい!!」

 

「くく……っ、ふふふ……っ」

 

「だから、何があったんだ!」

 

 叫ぶポプリと、愉快そうに笑い始めるジャンク。なかなか面白い光景だが、何が何だかさっぱり分からない。訳が分からないとディアナは顔を微かに歪ませている。さらにはエリック達による好奇心全開の視線に晒されたポプリは「もう話すしかない」と嫌そうに口を開いた。

 

 

「その、あたしと先生もね、ここで出会ったのよ……あたしが変な集団に追い回されてたとこ、助けて貰ったの。ケルピウスに会った後の話よ」

 

 そこまで話して、ポプリは真っ赤に染まった顔をタオルに埋める。余程の事情が絡むらしい。流石に可哀想に思ったのか、先程まで笑っていたジャンクのフォローが入った。

 

「たまたま通りかかったので、とりあえず水で流しておいたんです。勢い良く流れたな」

 

 ここまでだと、単純にポプリがジャンクに助けられたという話である。「これのどこがおかしな話なんだ?」と聞いている四人は一斉に疑問を感じていた。

 

「……。そこまでは、良かったの」

 

「え……?」

 

 だが、残念ながらこれで終わりではなかったらしい。軽く震えていたポプリは鼻から下をタオルで隠した格好で、消え入りそうな声で語り始めた。

 

「えっと、個人的な話なんだけど、あたし、先生に良く似た外見の人に因縁あってね。先生の姿見た瞬間、出せる限りの総力で魔術発動させちゃって。それ、先生に直撃しちゃって……」

 

「え……」

 

 

――そういうことか。

 

 

 何とも言えない話を聞き、エリック達は一斉にジャンクの顔色を伺った。

 

「あれは凄かった……結果として三週間くらい、寝込みましたね」

 

「だ・か・ら!! 悪かったって言ってるじゃない!!」

 

「いえいえ、感謝してますよ? その三週間、きっちり看病してもらったしな? ……ぶっ、くくく……っ」

 

「何で笑うのよぉ!! 感謝の心なんて一切感じない! 全然感じない!! 馬鹿ぁ!!」

 

 

 まさかとは思うが、ジャンクのケルピウス全否定はこの一件が理由なのではないだろうか……。

 それにしても、いくらジャンクが打たれ弱いからといって、当時十四歳くらいの少女が十七歳くらいの少年を三週間寝込ませた威力の魔術とはいかほどのものなのだろう。

 

(せっかく助けてやったのに、人違いで重傷負わされるとか……)

 

「あははははははっ、本当に面白いな君は……! はははははっ!」

 

「笑わないでよバカ――っ!」

 

 幸いにも怒ってはいないらしく、爆笑するジャンクと顔を真っ赤にして半泣きで叫ぶポプリを横目で見つつ、エリックは思わず苦笑した。

 

 

「……。もう良い。ちょっとほっとこう」

 

「付き合ってはいないって聞いたんだけど……なんだろうね、不思議な関係だよね。ポプリさんとジャンさん」

 

「そ、そうなのか!? なおさら不思議だな……ははは……」

 

 

 

 

 ポプリとジャンクの謎の話が終わり、霧が晴れるまでと各々は好き勝手に時間を潰していた。辺りの様子を見る限り、ここを発てるようになるまでにはもう少し、時間が掛かりそうである。

 

「それにしてもこの泉。随分と深いよな」

 

「聖獣が来るだけあって綺麗な水だよね……うん、綺麗な、水……」

 

 落ちてしまわないように気を付けつつも、エリックが身体を乗り出して泉を覗き込んでいる。その隣に並び、マルーシャは水面に映る自分の顔を眺めた。

 

(試作品……)

 

 

――ヴァルガから言われた言葉が、気になる。

 

 

 何となく不安になって、自分の顔を見てみたくなった。だが、それでも水面に映るのは少しだけ泥に汚れた、いつも通りの自分の姿だった。

 

「どうした? マルーシャ?」

 

「! ううん、なんでもないの!」

 

 後ろからエリックに話しかけられ、マルーシャはハッとして首を横に振るう。今は、余計なことを考えている場合ではない。頭を切り替える時だろう。

 マルーシャは水に手を付け、そのひんやりとした温度を楽しんだ。

 

「ほら、エリック。冷たくて気持ち良いよ?」

 

「お、おい! 散らすな!!」

 

「えへへ、濡れちゃえ!」

 

 最初は軽く散らして遊んでいただけだったが、徐々にマルーシャの水掛けは勢いを増していく。

 濡らされてはたまらない、と慌ててその付近にいたアルディスとジャンクが逃亡した。

 

「どうせ、わたし達二人とも泥だらけなんだもん。良いでしょ?」

 

「良くない!」

 

 そんな二人の様子を、少し離れた場所にいたディアナが眺めていた。

 

「なあ、マルーシャは空を飛べるんじゃないか? 空飛んでここまでくれば良かっただろうに」

 

 それは、冷静に考えてみれば当たり前とも言えること。マルーシャは覚醒済みの純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)だ。純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)という種族を隠しているアルディスや、純血龍王|(クラル・ヴィーゲニア)だが未覚醒のエリックはともかく、マルーシャは本来であればディアナ同様に空を飛び回っていてもおかしくない。

 

 

「あ、あのね……? わたし、翼出せないの」

 

 だが、その問いに対するマルーシャの返答は思いもよらないものであった。

 

「え……!?」

 

 変だよね、とマルーシャはどこか自虐的に笑う。戸惑うディアナをフォローするように、アルディスが口を開いた。

 

「マルーシャは多分、失翼症なんだよ。特に魔術が上手な子に多い症状でね、体内の魔力が多すぎるせいか、上手く調整できなくて翼を出すのに支障が出るんだ。ほら、純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)なのにマルーシャって魔術能力高いでしょ?」

 

「そんなのあるんだ……自分のことなのに、知らなかった」

 

 唖然とするマルーシャの横に、汚れたタオルを持ったポプリが座り込む。

 

「マルーシャちゃんの詠唱、すごく早いもの。あたしは遅くて当然なんだけれど、先生より早いんじゃないかなって思うわ」

 

 アルディスの能力を奪ったとはいえ、ポプリは根本的に龍の血が濃い。元々、彼女の体質では魔術を使うどころか、魔力をコントロールすることすら難しいはずなのだ。もちろん、それは純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)であるマルーシャにも言える話である。

 

「それどころか、オレやアルより早いんじゃないか? 正直羨ましいし、助かるな」

 

「そ、そうなのかな? えへへ……」

 

 翼を出せないのは悲しいが、それで仲間の役に立てるのなら良いかもしれない。ディアナの言葉に、マルーシャはやんわりと笑ってみせた。

 

 

「……」

 

 そんな彼女の様子を、カルテを手にしたジャンクが眺めている。先ほどの大爆笑とはうって変わって、人形のように無表情だった。

 

(なんだ……?)

 

 ジャンクはつい先日倒れている。また体調が悪いのを隠しているではないかと、エリックは彼の肩を軽く叩いてみた。

 

「ジャン?」

 

「――ッ!?」

 

 特に、変わったことをしたつもりはない。だがジャンクは肩をビクリと跳ねさせた上、余計な力が入ってしまったのか持っていたカルテに軽くシワを刻んでしまっていた。

 シワの入ったカルテを懐に隠しつつ、ジャンクはおもむろにエリックの方を振り返る。

 

「! ッ!? あっ……え、エリック……?」

 

「あ、あのなぁ……あからさまに驚くのはやめてくれよ……ああ、でも、そういえば後ろから話しかけないでくれって言ってたなお前……悪い……」

 

 すぐに隠してしまったので内容までは分からなかったのだが、彼が手にしていたのはマルーシャのカルテと、それからほぼ白紙に近いエリックのカルテだった。

 アドゥシールを発つ際、彼が触診や問診といった行動をする様子は見られなかった。

 不思議に思い、エリックは先程マルーシャから聞いたのだが、彼女の分に関しては、出かける前に軽く透視をしただけで終わったらしい。

 マルーシャにはそれが通用するのだ。だが、エリックが相手になると話は別になる――結局の所、エリックの物だけ未完成なのだ。

 

「今さらだが、触診と問診するんじゃなかったか……?」

 

「そ……それなんですが……その、うっかり、していまして……」

 

 どこか言いづらそうに、気まずそうにジャンクはエリックから顔を背ける。この反応を見て、色んな意味で素人のエリックも大体の理由は察してしまった。

 

「僕に関しては、普通にやるしかないんだろ……透視能力を触診と問診の代わりに使えないから」

 

「……」

 

 ジャンクの透視能力は、エリックに対してはほとんど効果が無い。ゆえに、彼が目を閉じた状態ではエリックの容態はおろか、姿さえも見えない。つまり、彼がエリックを相手にする際にはいつもなら閉じている目を開いた状態で、直接エリック本人と対面して通常の診察を行わなければならないのだ。

 だがそれは恐らく、ジャンクが最も拒むこと。彼は目を開くということを酷く嫌がる。恐れている、と言っても過言ではないかもしれない。何しろ、長年の付き合いがあるポプリさえも、彼の素顔を知らないのだから。

 

「ただでさえ、僕は無免許医なんだ。ですからエリック、お前は町医者に診て貰った方が……」

 

「!? ま、まあ、その……それは知らなかったが、僕はお前の能力を買ってるつもりだよ」

 

 余程エリックを診察するのが嫌なのか、ジャンクはとんでもない話題を出してきた。通報されれば捕まるぞ、とエリックは肩を竦める。意地でもこの状況から逃げる気らしい。

 それでも、エリックは彼をそのまま逃がす気は無かった。何故だか、妥協したく無かったのだ。

 

「あれだけの傷負ってたアルが、完全に治ってるんだ。感謝してるし、評価してるつもりだよ」

 

「……」

 

 第一、彼が無免許医であるという事実も、驚きはしたが理由は察しがつく。目を閉じたままで試験を受けることなど、許されるとは思えないからだ。

 しかし、透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力者の中でも高度な技術を使いこなす者は医療等の分野で試験を受ける際、いくらか優遇される制度が存在している。医療関係の知識も技術も申し分ない上に、能力も完全に使いこなせるジャンクなら確実に合格出来るだろうにとエリックは思う。思いはするが、現実は難しい。頑なに彼が開眼することを拒んでいる以上、それを実現するのはまず不可能だ。

 

「だから、できれば僕はお前に診て貰いたい。一番、身近にいる医者なわけだしな。勿論、僕もそれなりに協力はする……マルーシャ、ちょっと」

 

 そう言って、エリックは少し離れた場所に居たマルーシャを手招きした。エリック自身も、ジャンクと共に皆から離れた場所へと移動する。

 

「どうしたの?」

 

「髪に付けてるバンダナ、ちょっと貸してくれないか?」

 

「え……? あ、分かった! わたし、やってあげるからちょっとじっとしててね?」

 

 マルーシャはポニーテールのアクセントに使用していたバンダナを外し、それでエリックの目を覆った。要するに目隠しとして利用したのだ。行動の意味を理解したらしいジャンクが、地面に生えた草を揺らした。

 

 

「エリック……」

 

「どうだ? これなら大丈夫だろ? このバンダナ、結構生地厚いから見えないし」

 

「えと、わたし、あっち行っとくね?」

 

 ただ「目を閉じておくから」と言うだけではジャンクが信用しない可能性がある。そう、エリックは考えていた。だからこその行動だった。

 

「……バカバカしいとは、思わないのか? 僕が、目を開ければ良いだけの話ですよ」

 

「正直に言わせてもらえば……全く思わないって言うのは、嘘になるかな。それでも、お前が理由もなくその状態を貫いているとも、僕は思ってない」

 

「……」

 

「ジャン?」

 

 目の前は一切見えない。エリックの視界は、完全に闇に閉ざされている。だから、今現在のジャンクの表情も、全く分からなかった。

 

 

「ッ、すみません……ちょっと、驚いてしまって」

 

「そんな驚くようなことか?」

 

「……悪いな。受け入れられるのには、どうにも慣れていないんです」

 

「え……」

 

 今、ジャンクが目を開けているのか閉じているのか。それすらもエリックには分からない。それでも、彼の言葉に秘められた真意には気付いてしまった。

 

「とにかく、今から診察しておきますね……何か、あれば言ってくれ」

 

 

――彼には恐らく、人から酷く拒絶された経験がある。

 

 

 受け入れて貰えないこと、それがどれだけ辛く悲しいことか、エリックは知っていた。

 

「なあ、ジャン」

 

「はい?」

 

「僕は、お前を拒んだりしないから」

 

 今は、それしか言えなかった。ぴたりと動かなくなったジャンクが、息を呑んだのが分かる。

 

「……ありがとう、ございます」

 

 帰ってきたのは、どこか空虚な響きを持った、機械的な雰囲気を醸し出す言葉。それでも、微かに喜びに近い思いを感じ取れた。それは、気のせいではないと信じたい。

 

「まあ、良い。診察、頼むな……」

 

 どう接してやれば良いのだろう、とエリックは考える。このような相手と下手な接し方をしてはいけないというのは、十八年間の人生の中で十分に学んできたつもりだ。

 

(信じてもらえるまで……心を開いてもらえるまで、待つしかないってことだよな)

 

 エリックの脳裏に、幼き日のアルディスの姿が浮かぶ。結構待っているつもりなのだが、彼も完全に心を開いてくれたとは言い難い。あの頃の彼に比べればまともに会話が出来るだけマシだが、ジャンクもなかなかの頑固者だ。

 

「……」

 

 姿が見えなくとも分かるほど、本当に慣れた手つきでジャンクは診察を進めていく。彼が無免許医であることを勿体無いと思いながら、エリックは黙って診察を受けていた。

 

 

 

―――― To be continued.



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Tune.24 不協和音

 

 霧が晴れたのは、あれから数時間後のことであった。霧さえ無くなれば問題ない、とすぐに泉を発ったエリック達は、まだ日が明るいうちに最初の目的地であるセーニョ港にたどり着くことができていた。

 

 セーニョはアドゥシールのような美しさはないが、丁寧な職人技が発揮された石貼りの街路の先には広大に広がる海と、そこに浮かぶ巨大な船が数隻存在している。

 この港では数十年前、要するに今は亡きヴィンセント前王がラドクリフ王位を継承するまでは、盛んにフェルリオとの交易が行われていたらしい。

 しかしながら、今となってはこの港の船が一般市民を乗せることはない。現在では、本当にか細い貿易があるかないか程度だ。

 

 今回、船に乗ってフェルリオ帝国に渡るにあたり、利用するのは王子であるエリック自身の権力である。ゼノビア女王直筆の許可証は持参しているが、王子である彼ならば普通に通過できることだろう。

 しかし、次期国王とその許嫁が安物の服をまとった状態で正体を明かすのは王家の品格を守るという意味合いであまり褒められたものではない。そのため、エリックもマルーシャも「乗船手続きをする時だけはちゃんとした服装」で、とゼノビア女王及び国務に携わる大臣達に言いつけられていた。

 そのことを仲間達に話し、路地裏で着替えてきたエリックとマルーシャであったが……。

 

 

「待たせたな。それじゃ、行こうか」

 

「えへへ、短い丈の奴で良かった。動きやすいもん」

 

「!?」

 

 

 戻ってきた二人の姿を、仲間達は唖然とした表情で見つめている――エリックは髪をひとまとめにして、藍色の上質な上着を羽織って首に黒いスカーフを巻き、シミもシワも無い純白のズボンを身にまとっている。マルーシャにいたっては髪を下ろし、流石にロング丈ではなかったものの、ひらひらとしたレースの装飾が可愛らしいミニドレスを着こなしていた――恐ろしいことに、どちらも全く違和感が無いのである。

 

「い、いやー……その、ね? 二人とも、何というか……」

 

「そうですね。僕らが物凄いのと旅しているということを再確認せざるを得ないというか」

 

「ああ。正直おどろいた……やっぱり、二人とも王族なんだな……」

 

 ポプリ、ジャンク、ディアナは重要なところをぼやかしながら二人から目をそらす。「どういうことだ」と問い詰めようとしたエリックの肩をアルディスがポンポンと叩いた。

 

「化けるってことだよ。俺は八年振りに二人の正装見たけど、当時より色々増してるよね」

 

「え……」

 

「似合ってるけど、うん。そういうこと。二人とも、元気だからなー」

 

 四人を代表しましたと言わんばかりに、アルディスは無表情のままで語る。エリックもマルーシャも、ショックのあまり口を魚のようにパクパクさせていた。

 

 

「……。アル、今から何に乗るか、理解してんだろうな?」

 

「え?」

 

 エリックは悪戯めいた笑みを浮かべ、アルディスの頭を軽く叩いた。

 

「ディアナは色々と隠しとけよ、いくら僕でも庇いきれないからな。じゃあ、行くぞ」

 

「あ、ああ……って、そうか。水恐怖症のアルに、船は辛いよな……」

 

「!?」

 

 頭の端に追いやっていたのか、あえて考えないようにしていたのかは分からない。分からないが、アルディスは今になって顔面を蒼白にした。

 

「アル君、大丈夫よ。船の端っこいかなきゃ……海は見えないから……ね?」

 

「は、は、は……はい……っ」

 

 問題は乗り降りよね、海が荒れてなきゃ良いわね、とポプリは一向に直りそうにない水恐怖症の義弟に笑いかける。

 かなり可哀想だが、船に乗らない訳にはいかないのだ。だが、流石にこれは悪いと思ったのか先を進んでいたエリックが一旦帰ってきた。

 

「大丈夫だよ。船沈むなんてないだろうし、仮にお前が海に落ちるようなことあったら、ちゃんと助けてやるから。僕が泳ぐの得意なの、知ってるだろ?」

 

「それとこれとは話が違う!」

 

 脅すだけ脅しといてそれは無いだろうとアルディスはエリックを睨みつける。睨みつけてはいるものの、見事なまでに涙目だった。迫力の「は」の字も無い表情だった。

 

「アルディス、諦めて行こうね? ほらエリック、船の人がこっち見てるよ。ほらアルディス、頑張れー?」

 

 出航の時間もあるし早く行かないと、とマルーシャが手を振っている――エリックもそうだが、彼女もアルディスの“化ける”発言に逆襲を仕掛けてきている!

 

 普段は微塵も感じさせないのだが、彼女らにも王族としてのプライドはあったということなのだろう。「普段は王族らしいオーラが全くない」と言われたに等しい彼らは少なからず、アルディスに意地悪をしたい気分になってしまったようだ。

 

 

「はぁ……」

 

「ここから見た感じ、通り道はどうも板乗せてるだけみたいね……」

 

 近付くにつれて、明らかになる船の姿。巨大で豪勢な作りの船だが、港と船を繋ぐのはただの板だった。せめて橋だったら良かったのにねとポプリはアルディスを見た。

 

「もう嫌だ……」

 

 完全に鬱状態だ。幸いにも海は穏やかだったのだが、これで大荒れにでもなっていたらこの男、泣いたかもしれない。相当である。

 

「大丈夫よ、ね? ほら、一緒にいてあげるから」

 

 そんなアルディスの手を握り、ポプリが宥めるように笑いかけた。こうして見ると、本当に姉弟なんだなとエリックは思う。思うと同時、羨ましくなった。

 

(アルは……片目斬られたとはいえ、本当に良いお姉さん持ったよな)

 

 アルディスはポプリに片目を抉られたという過去を持つ。当然ながら、彼は再会してすぐの段階ではポプリに怯えていたし、逃げ回ってもいた。

 しかし実際の所、彼らは仲が良かった。少なくとも姉弟同士で殺し合うような関係ではなかったのだ。そんな彼らの様子を見て、エリックは密かに眉を潜める。

 

(こんなこと、思っても仕方ないんだろうけど)

 

 

――羨ましい、と思ってしまった。

 

 

 年上の兄弟を持つのはエリックも同じである。だが、自分と兄は――エリックとゾディートは、間違っても良好な関係とは言い難い。

 そもそも、最初にルネリアルを離れることになった理由は彼に襲われたからだ。アルディスの“ついで”に、殺されそうになったからだ。

 

「――ッ」

 

 醜い感情だ、とエリックは己を叱咤した。軽く顔を叩き、なるべく二人の姿を見ないようにして船の前に立つ大柄な男の前へと駆けていく。恐らく、彼が船長だ。

 

「……? 見ない顔だな。やけに身形が良い様だが、船に乗せる訳には……」

 

 怪訝そうな顔で、船長はエリックを見下ろしている。目の前に居る少年が、母国の王子であると分かっていないのだ。

 

「そう、でしょうね。無理もありません」

 

 エリックも、この反応を悟っていた――分からない方が、普通なのだ。事実、“アベル王子”の姿を見たことがある者は少ない。脱走癖があるとはいえ、脱走時は完全に一般人に化けた状態の姿である。すれ違う者達も、まさかその少年が王子であるとは思っていない筈だ。

 しかも病弱体質であるエリックは、これまでルネリアルを遠く離れたことも、演説を行なった経験も無い。簡単な政策などは行って来たものの、民衆に姿を見せたことはほとんど無かったのである。

 

「改めまして、私はエリック=アベル=ラドクリフと申します。ゼノビア陛下から、お話は伺っているかと思うのですが……」

 

「!? た、大変申し訳ないことを……! 本当に失礼致しました!」

 

 手のひらを返したように、船長が対応を変えてきた。複雑な心境を隠すように、エリックは己の顔に笑みを貼り付けてみせた。

 

「構いませんよ。一応、許可証を持参しております。私を含め、同行六人……と、鳥一羽、ですね。搭乗許可を頂けますか?」

 

「はい、勿論です! お連れ様もどうぞこちらへ、客室は二人部屋を三部屋しか用意出来なかったのですが……」

 

「……え?」

 

 二人部屋を三部屋。つまり、最初から六人組だと分かっていた計算になる――エリックもマルーシャも、ゼノビアにそのような話をした覚えはない。

 

「!? や、やはり問題が……!」

 

「い、いや、違う! そうではないのです。ただ、少し、引っかかることがありまして……問題はありません。それでは、通らせて頂きますね……皆、行きましょう」

 

 だが、それを船長に話したところでどうにもならないだろう。エリックは船長に軽く微笑んでから、後ろで待っていた仲間達を手招きして船に乗り込んでいった。

 

 

 

 

「……ほ、本当に沈まないんだろうな」

 

 船が港を出てから、それなりの時間が経過した。しかし、アルディスはまだ海上という状況に慣れないらしい。

 変わらず顔面蒼白のアルディスは恨めしそうにエリックを睨みつけている。その様子を見て、ジャンクはクスリと笑った。

 

「本当に駄目なんですね。そういえば、嵐の日に海に落ちたって言ってたよな。あー、だから海はなおさら駄目なんですね」

 

 アルディスがどうして水を怖がるのか、という話は厳密には誰も聞いたことはない。ただ、間違いなく理由は『嵐の日に海に落ちて死にかけたから』だろう。

 この話であればエリックとマルーシャ、ポプリは幼い頃に、他の二人は割と最近耳にしており、一応全員が知っている事実である。

 

「まあ、あたし達も一緒にいてあげるから……ね?」

 

「……」

 

 くじ引きの結果、部屋割りはエリックとアルディス、ディアナとマルーシャとチャッピー、ジャンクとポプリといった感じになったのだが、別に離れる必要はないだろう――というよりはアルディスが哀れすぎて――と今は全員エリックとアルディスの部屋に集合していた。

 エリックとマルーシャは既にいつも通りの服装に着替えている。やはり物理的な意味でも、汚すのを躊躇うという精神的な意味でも、正装というものは動きにくいのだ。

 

 

 ふいに、マルーシャは自分を抱きしめるようにしてぶるりと震えた。

 

「うう……っ、急に寒くなってきたような気がする……!」

 

 確かに、突然一気に外の温度が下がったのを感じる。マルーシャは仲間内でも特に薄着だからこそ、その変化を感じ取ったのだろう。

 この部屋には窓が無いため、外の風景は見えない。気候が変わったということは、今はフェルリオの領海に入ったのだろうか?

 

「マルーシャ、何か着た方が良いんじゃないかい?」

 

「そういうアルこそ……それ、寒くないか?」

 

 マルーシャほどでもないが、アルディスの服装も似たようなものである。だが、アルディスは寒さに関しては変わった様子を見せなかった。

 

「俺は平気。それより、多分外出たら驚くんじゃないかな?」

 

「え?」

 

 確かになぁ、とディアナはうんうんと頷いている。

 

「何なら、外に出てみる? ていうか、俺もちょっと外見たいから着いてきてよ」

 

 久しぶりにこっちに帰ってきたから、風景を見てみたいんだ。

 そう言って、アルディスは自分一人で行くのは嫌だと言わんばかりに誰かが手を上げるのを待っていた。

 

「うーん、何だかそこまで言われると、わたし、気になるな」

 

「オレも久々に見ようかな……せっかくだ。皆で甲板辺りまで行ってみないか?」

 

 ディアナはチャッピーに跨り、翼を消してフードを深く被る。不便そうではあるが、これはラドクリフ王国から出港した船だ。外は、ラドクリフの人間ばかりなのである。こうせざるを得ないのだ。

 

「僕は賛成。ポプリとジャンは?」

 

「ええ、勿論行くわ」

 

「そうですね、僕も行こう」

 

 皆が同意し、アルディスは少しだけ嬉しそうにドアノブに手を掛けた。

 

「……。まあ、すぐに、引っ込むけどね、俺は……」

 

「アルディス……」

 

 

 

 

「え……」

 

 長い連絡通路を通り、鉄製のドアを開き、辿り着いた甲板。見慣れぬ風景に、エリックは思わず息を呑んだ。

 

「下位精霊が飛び回ってる……? しかも、こ、これ……この白いの、雪……か……?」

 

 薄暗い空を飛び回るのは、色鮮やかな光を放つ下位精霊達。そして、純白の粉雪。

 

「正解。フェルリオ帝国……セレナード大陸側は寒いから、珍しくは無いんだよ。下位精霊大繁殖の理由は詳しく知らないんだけど……綺麗だよね」

 

 隣に立っていたアルディスが、どこか懐かしそうに呟いた。マルーシャとポプリ、ジャンクは好奇心を抑えきれないと言わんばかりに船の甲板を歩き回っている。これは少なくともラドクリフ王国内では見られない風景であるがゆえに、無理もないだろう。

 

「そう、なのか……」

 

 マルーシャ達も同様だが、エリックは雪というものを見たことが無かった。暖かなラドクリフ王国で雪が降れば、まず天変地異として騒がれているだろう。それだけ、ラドクリフ王国側のスケルツォ大陸は温暖な気候が特徴なのだ。

 

「不思議だよな。海上のある地点を超えた瞬間、一気に気候が変わるんだ。まるで、海の真ん中に見えない壁があって、何かを遮られているようだ」

 

「確かに」

 

 エリックからしてみれば、突然異世界に来たかのような気分で。それゆえに見えない壁、というディアナの表現がしっくり来てしまう程の変化だった。

 

「基本的にこんな天気だから、フェルリオは昼間でも薄暗い。けれど、こうして下位精霊が照らしてくれる。ありがたい話だ」

 

「ああ。それにしても、こんなに沢山……僕は下位精霊、地属性の奴を一度だけ見たきりなんだよな。後はジャンが手懐けてる下位精霊くらいか……」

 

 

 ディアナと話している途中、黄の光を放つ下位精霊が徐々にアルディスに寄ってきていることにエリックは気付いた。

 

「……ありがとう、助かるよ」

 

「アル?」

 

 エリックに名を呼ばれ、アルディスは困ったように小首を傾げてみせる。

 

「……。俺、呪いで体内魔力、減ってきてるから……助けに、来てくれたみたいで……」

 

「ッ!」

 

 優しいよね、と呟くアルディスの横顔から、エリックは思わず目をそらしてしまった。

 

「気にしなくて良いよ。これに関しては、君は何も関係ないじゃないか」

 

「アル……」

 

 そんなアルディスの身体が虚無の呪縛(ヴォイドスペル)に蝕まれていると知ったのは、昨日の話だった。それでも彼は「君は何も関係ない」の一点張りで詳しく話そうとはしなかったのだ。

 それはディアナに対しても同様らしく、心配してあれこれ追求する彼女に対してもアルディスはひたすら首を横に振り続けた。

 

 

「俺、先に戻るね。皆はもう少しここにいると良いよ」

 

「あ、オレも……」

 

 下位精霊に別れを告げたアルディスとチャッピーの上のディアナは踵を返して連絡通路を戻っていく。親友のどこか寂しげな姿を放ってはおけないと、エリックも慌てて踵を返して走り出した。

 

「! い、いや、僕も戻……うわっ!?」

 

 その途中、エリックはフラフラと歩いていた大柄な男と衝突してしまった。

 

「あぶねえな!」

 

「あ……わ、悪い……」

 

 衝撃で座り込んだエリックを罵倒する男の息は、酒臭い。まだ昼間だというのに、どうやら宴会の最中らしい。男が扉を開けた部屋からは、下品な笑い声が漏れていた。

 

 

「エリック大丈夫!? もう……! わたし、文句言ってくる」

 

「や、やめとけってマルーシャ。僕は平気だ」

 

 マルーシャ、ポプリ、ジャンクも騒ぎを聞きつけて走り寄ってきた。少し先を進んでいたアルディスとディアナもこちらに戻ってくる。

 

「ディアナ、というかチャッピーに当たらなくて良かったな。落ちて耳が見えたら大変だ」

 

「そ、それもそうだが……」

 

 

『おい! 今の、アベル王子だったらどうするんだよ! ちらっと見えたけど、金髪に赤い目だったぞ!?』

 

 かなり酔っているのだろう。部屋の中から、大きな声が漏れて聴こえて来る。

 

『はぁ!? そんな訳ねーだろ! どう見たってありゃ庶民だっての!』

 

 エリックと衝突した男の笑い声が響く。本当に化けるんだなぁ、とエリックはため息を吐いた――その時だった。

 

 

『第一、あんな病弱でどうしようもない王子サマが、海風に当たって平然としてるわけねーって!』

 

「え……?」

 

 

――今、あの男は、何と言った?

 

 

『ははっ、それもそうだな!』

 

 部屋の外に声が漏れ、盗み聴きされているとも知らずに部屋の中の男達は楽しげにゲラゲラと笑っている。

 

『ていうか、この船乗ってるっていうアベル王子。本物かぁ? 本物がヴィーデ港まで行けるとは思えねーんだけど』

 

『しかもフェルリオ行きの船だしなー……あーあ。生き恥晒すようなもんだってのに。ホント勘弁して欲しいよな』

 

「! エリック、行こう……?」

 

 本物がヴィーデ港に行けるはずがない。生き恥。

 その場に立ち尽くしていたエリックの手を、不愉快だと言わんばかりに顔をしかめたアルディスが引いた。

 

「は、離してよ! ポプ――」

 

「ダメよ、マルーシャちゃん……行きましょう、アル君」

 

 騒ぎ散らしながら部屋に飛び込んで行きそうなマルーシャの口を身体ごと抱え込むような姿勢で押さえ、ポプリはアルディスに先に進むように促す。

 

「早く行こう、エリック。気にしない方が良いよ……」

 

 

『あっちには優秀なノア皇子がいたってのにな。ノア皇子生きてたら、アベル王子なんてとっくの昔に殺されてんだろうな! 本当に頼りない次期国王様だぜ……逆だったら良かったのにな!』

 

 

「!?」

 

 この言葉には、流石にその場に居た全員が息を呑み、引き寄せられるようにエリックを見た。場違いな笑い声が、響く。

 

「は……っははは、あははは……っ! 頼りない、か……本当に、そうだよな……」

 

 ラドクリフ王国内の大半の国民は、エリックを支持している。ただ、あくまでも“大半”だ。全員ではない。

 当然ながら、エリックを拒む国民だっているのだ――特に、先のシックザール大戦を経験し、アベル王子とノア皇子の能力の差を目の当たりにした前線の兵士達は、エリックを非難しているという話だった。

 エリック自身も、その話を知ってはいたし、自分でもそう思ってはいたが……正直、いざ耳にしてみると、耐え難いものであった。

 アルディスは立ち止まってしまいそうなエリックを何とか部屋に押し込み、他の仲間達が流れ込むように部屋に入ってきたのを確認した後にドアを閉めた。

 

 

 

 

 

「お、驚いたな……いやー、本当に世の中には色んな考え方の人間がいるのですね……面白いなぁ、人間っていうのは……」

 

「そうね……そ、そうだわ。ご飯にしましょ? ほらエリック君。泉にいた時に、アル君がお弁当作ってくれたのよ?」

 

 

 あまりにも、空気が悪い。ジャンクが半ば強引に話題を変えようと戯けてみせ、続けてポプリも上手く場を宥めようとしているが、全くもって効果が無い。マルーシャは本気で怒っているし、エリックに至っては完全に無言だった。

 

「あまり気にするんじゃない、エリック……マルーシャも、落ち着け」

 

 チャッピーから降りたディアナは動揺のあまり、微かに声を震わせながらも言葉を紡ぐ。それに対し、エリックは困ったように笑い、漸く口を開いた。

 

「やっぱり、さ……ノア皇子って凄いよな。敵国の人間ですら、ああ言うんだから……本当に、生きてたらって思うと……」

 

「……」

 

 エリックは知らない。目の前の親友が、その“ノア皇子”であるという事実を。

 

 

「ねえ……エリック……」

 

「どうした?」

 

 アルディスは微かに俯いた状態で動悸をこらえるように軽く胸元を押さえている。翡翠の瞳を伏せたまま、彼は躊躇いつつもエリックに問いかけた。

 

 

「ノア皇子は、今も生きていると、そう思うか……?」

 

 

「アル君……!?」

 

 明らかに、今のこの状況でそれは失言だった。彼の正体を知る者達は、背筋が凍るような感覚を覚える。

 エリックはアルディスの問いに驚いて目を丸くしていたが、やがてアルディスから目を反らした後、どこか苦しそうに吐き捨てた。

 

「はは、確かに、まだ……“生きてそう”だよな」

 

 まるで、それを拒んでいるかのような言い回し。覚悟はしていたのだろう。アルディスは先ほどよりも深く俯いていた――だが、エリックの心の闇は、彼の想像を上回るほどに、深いものであった。

 

 

「だから正直……“死んでいれば良いのに”って、そう願わずにはいられないよ……」

 

「ーーッ!」

 

 紡がれた言葉は、それは、何かに隠されることすらなかったノア皇子への負の感情。それを聞き、顔を上げたアルディスの表情は今にも泣き出してしまいそうなほどに歪んでいて。

 

「ふ……ふざけるな!」

 

 悲しげなアルディスの姿を見たディアナは、爪が手袋を突き破りそうなほど左手を固く握り締め、翼を大きく動かした。

 

「! ディアナ、やめろ!」

 

 それに気付き、咄嗟に叫んだアルディスの静止の声は、ディアナには届かなかった。

 

「ッ!?」

 

 鈍い音と共に、エリックが盛大に床に転がる。打ち付けた背と、右頬がヒリヒリと痛む。一瞬何がなんだか分からなかったが、痛みでやっと理解した――ディアナに、殴られたのだ。口内を切ったらしく、口の端から赤い血が垂れてきていた。

 

「痛……っ!」

 

「仮にもあなたは王子だろう!? そのような発言、許されると思っているのか!?」

 

 殴られた右頬を押さえるエリックを、ディアナの酷く潤んだ瞳が見下ろしている。二人の間に入り、マルーシャは右手を大きく振り上げた。

 

「なんてことするの!」

 

 皮膚と皮膚がぶつかる、乾いた音が響く。平手打ちだ。仲間に手を上げるなど、普段のマルーシャなら考えられない行動である。しかし、今は違う。垂れ目がちな瞳からボロボロと涙をこぼしながら、マルーシャは叫んだ。

 

「ふざけないで!! エリックが今まで、どんな気持ちでいたか――」

 

「ッ、それなら、あなたはノア殿下がこれまでどんな気持ちでいたのか、それを全て分かっているというのか!? 浅はかな気持ちで、好き勝手なことを言うな!!」

 

 左頬を赤くしたディアナは声を震わせ、マルーシャに掴みかかった。こらえきれなかったらしく、彼女の青い瞳からも、ついに涙がこぼれ落ちる。

 

「二人とも落ち着きなさい! 言い争ったって仕方がないでしょう!?」

 

 殴り合いの喧嘩にまで発展してしまいそうな二人を何とか宥めようと、ポプリが声を荒げる。しかし、二人のにらみ合いは収まりそうにない。

 

「それとこれとは、全然話が違うじゃない!!」

 

「違わないから言っているのだろう!? あなた方は、また双国大戦を引き起こしたいのか!?」

 

 マルーシャとディアナは、互いに一歩も譲ることなく泣き叫んでいる。その様子を、エリックはただただ、呆然と眺めていた。

 

「ち……っ」

 

 それを腹立たしく感じたのか、ディアナはマルーシャを完全に無視する形で、エリックに溢れ出る怒りを言葉に乗せた罵声を浴びせ始めた。

 

 

「エリック! あなたは先代王とは違うと思っていた……けれど、それはオレの思い過ごしだった! あなたも、結局は自国のことしか考えていないのだろう!?」

 

「……」

 

「結局……ッ、あなた方はフェルリオ帝国のことも、ノア殿下のことも……オレ達、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)のことも、どうでも良いのだろう!? 自国さえ良ければ、何だって良いんだろう!?」

 

 ディアナの言葉は、その全てがエリックの胸に刺さり――そして酷く、抉っていった。どうでも良いなどとは、思っていない。そう言い返したかった。けれど、できなかった。

 

 

――言い返せるようなことを、自分は何一つとして、してこなかったから。

 

 

「だから何でそんなこと言うの!? ディアナ!」

 

 マルーシャは、ただひたすらに自分を庇おうとしてくれている。だが、彼女だってきっと分かっている筈なのだ。ディアナの言葉が、決して間違ってなどいないということを。

 

「仕方、ないですね……あまり、こういった物は良くないのですが」

 

 どうしようもないと判断したのか、ジャンクは二本の注射器を手にしていた。その小さな注射器の中身は恐らく、精神安定剤の部類である。

 

「ポプリ、マルーシャの方を頼みます」

 

 ジャンクはそのうちの一本をポプリに投げ、力づくでディアナを押さえ込みにかかった。

 

「! これ……結構強い奴じゃない……!」

 

「背に腹は代えられない!」

 

 注射器の中身を確認したポプリは驚愕を顔に浮かべる。しかし、どうしようもないと思ったのは彼女も同じらしく、すぐにマルーシャを押さえ込もうと動いた。

 

 

「! ふ、二人とも、やめて下さい……! 俺が悪いんです! 俺が……俺が全部悪いんです!!」

 

 そんな二人を、暴れていたマルーシャとディアナを静止したのは、アルディスのあまりにも弱々しい叫びだった。

 

 

「アル……ディス……何で、泣いて……?」

 

 我に返ったマルーシャの指摘通り、アルディスの翡翠の瞳からは、涙がとめどなく流れている。

 

「ごめん……俺が、あんなこと、聞いたから……っ、ごめん……エリック、マルーシャ……ディアナ……ごめん……っ!」

 

 虚ろな瞳をしたアルディスはうわ言のように「ごめん」と繰り返す。その頬を伝う涙には、気にも留めていない様子だった。

 

「辛かったよね、エリック。ごめんね……ごめん、なさい……」

 

「アル……僕は……」

 

 明らかに様子がおかしい。エリック、と名前こそ呼んでいるが、その瞳からは感情が感じられない。焦点が、定まっていない。

 

「……ッ」

 

「アル!」

 

 異変に気付いたエリックは立ち上がったのを見て、アルディスは無言で部屋を飛び出していってしまった。

 

「アルディス!」

 

 その後を追おうとしたディアナの腕を、ポプリが掴む。

 

「先生」

 

「……分かりました。ここは、任せる」

 

 ジャンクはポプリと軽く目を合わせた後、アルディスを追って部屋を飛び出していった。閉じられることなく、開いたままのドアがギィ、と無機質な音を立てる。

 

 

「マルーシャちゃん、アル君と部屋、代わってあげて? ディアナ君はあたしと一緒の部屋。良いわね?」

 

 ディアナの腕を掴んだまま、ポプリは部屋の外を軽く確認した後に部屋を出て行く。チャッピーもその後を追い、その場にはエリックとマルーシャのみが残された。

 

 

 

 

「……ポプリ」

 

「うふふ、もっと抵抗されるかと思っちゃった。ありがとう、ディアナ君」

 

 簡易ベッドに腰掛け、声を震わせるディアナと、そんな彼女に優しく微笑みかけるポプリ。今では、ディアナもすっかり落ち着いていた。

 

「それから……ありがと、君がエリック君殴ってなかったら多分……あたしが、彼を殴り飛ばしてたかも」

 

「え……?」

 

「でも、そんなことしたらあたしの弟の“アルディス=クロード”とノア皇子の関係を悟られかねないわ。まあ、アル君の……ノアの、あの質問自体がかなり駄目だったんだけどね?」

 

 エリックの発言に腹を立てたのは、ディアナだけでは無かったということだ。その言葉に、ディアナは俯き、肩を震わせる。

 

「オレは……ッ、アルディスを……殿下を、逆に傷付けてしまうようなこと……!」

 

「……。そうね。それは、否定出来ないかもしれない」

 

 ディアナの横に腰掛け、ポプリはぽんと藍色の髪を撫でた。

 

 

「あたしね、エリック君の気持ちも分からなくはないのよ。ノアは、本当によくできた子だった……あの時はああ言ったけれど、実際はあたし、ノアの能力を潰したいって、奪い取ってしまいたいって、そう思っていたのかもしれないわ……」

 

 アルディスが、ポプリと顔を合わせた時。そこに居合わせたディアナは、ポプリに刃を向けて叫んでいた――あなたは、残された左目さえも奪う気なのか、と。

 

「軽蔑した?」

 

「いや……ポプリ、その……すまなかった……」

 

 え? とポプリが首を傾げる。ディアナは未だ涙の残る瞳で、彼女の顔を見上げていた。

 

「あなたは、本当にアルディスのことを思っている……それを理解していながら、オレは……」

 

「君は悪くないわ。それが普通よ……あたしに普通に接してくれるノアが、ちょっと変わってるの」

 

 結局、あの後もポプリに反発し続けたディアナに対し、当のアルディスは今となってはポプリを受け入れている。それがおかしいのだと、ポプリは困ったように笑う。

 

「あの子は……不必要に、優しいから。さっきの見ても、分かったでしょう?」

 

 死んでいて欲しい、と言われたのに。自分がノア皇子であることを伏せていたとはいえ、あの場で逆上することなく、彼は耐えていた。耐え続けていたのだ。

 

「ああ……多分、彼の『ごめんなさい』の意味は……」

 

 

――生きていて、ごめんなさい。

 

 

 考えれば考えるほどに、胸が苦しくなるのをディアナは感じた。それは同じらしく、ポプリもスカートを強く握り締めている。

 

「大丈夫よ。きっと、先生がちゃんと連れ戻してくれるわ」

 

 ディアナにそう言い聞かせるポプリの顔にはもう、笑みは無かった。

 

 

 

 

「アル」

 

 やっと見つけた、とジャンクは切れた息を落ち着かせながら呟いた。その視線の先には、非常階段の下で小さく蹲っているアルディスの姿。

 

「馬鹿な質問したって、自分でも思ってます」

 

「……」

 

「ですが、どうしても……っ、どうしても気になってしまって……!」

 

 顔を上げることなく、アルディスは嗚咽混じりの声を響かせた。ずっと泣いていたのか、その声は微かに掠れている。

 

「あの答えが返ってくることも、どこかでちゃんと分かっていたんです……っ」

 

「……アルディス」

 

「俺は……アイツらに、エリックとマルーシャに、甘え過ぎてた……一緒になんて、いちゃいけなかったんです……っ!!」

 

 ジャンクは泣きじゃくるアルディスの前にしゃがみ込み、その顔を上げさせた。涙が止まらないアルディスの目は、軽く充血して赤くなっていた。

 

 

「本当に……死んでいれば、良かったのですがね……」

 

「!」

 

「十年前のシックザール大戦。あの時点で……あの時点で俺は、死んでいるべきだったんです!!」

 

 叫び、アルディスは再び俯いてしまった。押さえきれない嗚咽が、非常階段の下で響く。ジャンクは軽く辺りを見回した後、ぽんぽんとフードの取れた白銀の髪を優しく叩いた。

 

 

「ごめんな、きっと本来ならば……こういう時は怒鳴り上げて喝を入れてやれば良いのですよね? ですが……僕には、それができなくて」

 

「え……?」

 

 思わず顔を上げたアルディスの目の前には、悲しげにこちらを見つめてくるアシンメトリーの瞳があった。

 

「笑うことができなくなってしまったお前の気持ち。僕も、多少は理解しているつもりなんです……僕も正直、表情を変化させるのには自信が無くて。特に怒り方に関しては、全く、分からなくて……」

 

「ッ!?」

 

 ごめんな、と力なく謝った後、ジャンクは再びアルディスの頭をぽんぽんと叩く。

 

「ただ、これだけ。僕にとって、同じヴァイスハイトとして生を受けたお前の……ノア皇子の存在は希望だった。もしかしたら、“僕のような思いをする”同族が、減るかもしれない……と」

 

「ジャン、さん……?」

 

「……。だから僕は、お前にとって絶対の味方であり続ける。自分のためと言えばそれまでかもしれませんが……だから……」

 

 そんな寂しいことを、辛いことを言わないで欲しい。

 アルディスに質問をさせる猶予すら与えず、ジャンクはそこまで語り切った。

 

「俺、は……」

 

 だが、今のアルディスにジャンクの切実な思いに応える自信など無かった。そのようなものは、とうの昔に消え失せてしまっていた。

 ジャンクも、それはちゃんと分かっていたらしい。彼は金と銀の瞳を細め、控えめな笑みを浮かべてみせた。

 

「まあ、今のは僕の独り言だと思って聞き流してくれれば良い。とにかく、今は思う存分泣いておきなさい。別にからかったりしないから。そういうのは、ちゃんと発散しといた方が良い」

 

 絶対の味方であり続ける、と言い切ったジャンクはその場で立ち上がると、アルディスの前に立つ形で背を向けた。恐らく、人が来ないように注意してくれているのだろう。

 

 

(どうして……)

 

 自分は、散々あなたを拒絶してしまったというのに――アルディスはその決して逞しいとは言い難い背を見つめ、再び涙を零した。

 

 

 

 

「アルの奴、何で泣いてたんだろ……」

 

 エリックの中で、それだけがずっと引っかかっていた。ディアナはともかく、アルディスが泣く理由はあまり思い当たる節がないのだ。

 

「フェルリオ出身だから、ノア皇子に期待してたんじゃないかな? でも……」

 

 いくら涙腺の緩いアルディスと言えども、それだけで泣くことは無いよね、とマルーシャは首を傾げる。

 

「……あまり、考えたくないんだが」

 

 そう言って、エリックは自身の右手を掲げてみせた。

 

「アイツの名前は“アルディス”だからな……まさかって、可能性はある」

 

「それはないよ! わたし、アルディスの手の甲、見たけど無かったよ、アレ……」

 

 そんなマルーシャの言葉に、エリックは良かったと胸をなで下ろす。アレ、というのはフェルリオ帝国の紋章のことだ。

 

「はは……仮にそうなら、もう耐えられなかった気がする」

 

「だよ、ね……」

 

 もし、アルディスがフェルリオの皇子ノアであったなら。そう考えるだけで、エリックは怖くて仕方がなかった。

 

「駄目だ。どうも、僕はどこかでノア皇子に怯えているらしい」

 

「だ、大丈夫だよ! 今のエリックなら、ノア皇子に負けたりしないって!」

 

「マルーシャ……」

 

 確かに、かつての自分と比べれば随分身体も強くなったし、戦闘能力だって低くはない筈だ。それでも、ノア皇子と比べれば……まだまだだ。

 

 直に、フェルリオ帝国側の港町、ヴィーデに辿り着くだろう。そして、帝都であるスウェーラルへ自分達は向かうことになる。

 しかし――そこで自分は、一体何ができるのだろうか?

 

 

「あまり期待しないでくれ。僕は、それほど強くはないし、優れてない……」

 

「! エリック……」

 

 マルーシャは悲しげに声を震わせる。だが、今のエリックにはそれを慰めるだけの気力も無くて。

 

「……」

 

 ただただ、無言で虚空を見つめ続けることしか、出来なかった――。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.25 荒廃の帝都

 

 元々、アイツらと俺が、共にいること自体が間違っていたんだ。

 そんなこと、分かっていた。ちゃんと、分かっていた……のに。

 

 本当に俺が、フェルリオの皇子じゃなかったら良かったのにな。

 わざわざ街から離れた森の中に住む、風変わりな一般人だったら……なんて、こんなこと、考えてちゃ駄目だよね。馬鹿、みたいだ……。

 

 いい加減、ちゃんとしなくちゃ駄目だよな。俺はフェルリオの皇子だ。本来なら、何もかもが許されない。

 だからこそ俺は、帝都の無事を確認次第、全てに決着を付けようと思う。

 

 大丈夫。今度こそ、ちゃんと全部、終わらせるからーー己の行為に、犯した罪に、けじめを。

 

 

―――――――――――

 

―――――――

 

―――

 

 

「ここが、フェルリオ帝国……」

 

 あの出来事から、三日。ようやく、船がフェルリオ側の港、ヴィーデに着いた。

 

 通称“さえずりの港”と呼ばれるこの港は、その名の通り普段は鳥達のさえずりの響く、和やかな地だという。

 しかし今は、鳥の声が、聞こえない。かき消されていると言っても良いだろう。

 

 港で動き回っている人々の様子がおかしい。船の甲板から様子を見ていたエリックと彼の隣で同じ方向を見ているマルーシャは何事だろうと目を凝らす。

 慌ただしく走り回る者、何かを告げられてその場に崩れ落ち、泣き喚く者。人々の様子は、様々だった。

 

 

「お、おい、アル! ディアナ!!」

 

 ジャンクの声に、エリックもマルーシャもそれが聴こえた方向へと視線を動かした。アルディスとディアナが、船を降りる人々を押しのける勢いで地に降りていく。遠くからその表情を見ただけで、彼らの慌てぶりはよく理解できた。

 

「ゆっくりなんてしていられません! そんな暇は無いんです!!」

 

「既に襲撃を受けているらしい……一刻も早く、帝都に向かわなければ!!」

 

「何だって!?」

 

「オレ達は先に行く! 後から来てくれ!!」

 

 アルディスとディアナは、酷く焦っていた。冷静さは失われている。それを見たジャンクは首を横に振るい、奥歯を噛み締める。

 

「二人だけで行かせる訳にはいきません! ちょっと待ってろ!! ……と、思いましたが待っているのも面倒です! これくらいの距離なら……っ!」

 

 結論が出たらしい。ジャンクは眼鏡を一旦鞄にしまい、助走を付けて船から飛び降りた。十数メートルもの高さからの飛び降り。無謀な行為であるように思えたが、風の下位精霊に力を借りながら綺麗に受身を取ったために完全に無傷だ――が、いくらなんでも目立ち過ぎた。

 

 

「えぇぇえええ!? 先生何やってるのよ!!」

 

 眼鏡をかけ直すジャンクを見た人々が騒ぐ。ちゃんと人の流れに乗って降りようとしていたポプリの叫びがその中から響いた。

 

「急いだ方が良いと思っているのは、この二人だけではありません。三人とも急ぎな、事態は深刻だ。だから、頼みますよ……チャッピー」

 

「きゅ!」

 

 ジャンクがチャッピーの背をぽんぽんと撫でるのを見た後、アルディスは船を一度だけ軽く振り返り、駆け出した。ディアナとジャンクもそれに続く。

 

 

「!? お、おい!」

 

 これには、未だ船から降りられずにいたエリックが叫んだ。いくらなんでも、置いていくことはないだろうと。

 困惑するエリックの横で、マルーシャは複雑そうな表情を浮かべて口を開いた。

 

「……あ、エリック。チャッピー残ってるよ」

 

 マルーシャが指差す方向を見ると、確かに港の人ごみの中でも映える、オレンジ色の姿が確認できる。

 純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)が討伐される危険性の無いフェルリオ帝国内なら、ディアナも彼の世話にならずに移動できるのだ。

 小さくなっていく三人の背中を眺めていたエリックだが、マルーシャの言葉でようやく彼らの行動を理解した。

 

「なるほど。チャッピーの力借りて、後から追いついてこいってことか」

 

 これまでにも何度か世話になった、チャッピーの能力、瞬光疾風(カールヒェン・ヨシュカ)

 これは、あまり素早く動けないエリック、そして彼の大きな背は動きに制限のあるポプリにとってはかなりありがたいものだった。

 

 

「とにかく、早く降りましょう。チャッピーがいれば、すぐに追いつけるしね」

 

 あの後、アルディスとディアナとは言葉を一切交わしていない――心なしか、以前にも増してジャンクまでもが自分を避けている気がする。

 

(アイツら……状況が状況だとはいえ、これは無いだろ……)

 

 彼らに置き去りにされたのは自分とマルーシャだけならまだしも、ポプリもだ。それなのに、ポプリには彼らを腹立たしく思っている素振りは一切ない。置いていかれることに慣れているのか、こうなるのが分かっていたのか。それは分からないが、彼女の余裕すら今のエリックにはあまり好ましいものではなかった。

 

「エリック君?」

 

「! あ、ああ……行こう」

 

 不思議そうに微笑みかけてくるポプリに対し、エリックは煮え切らない言葉を返す。その心境は、どうにもすっきりしないものであった……。

 

 

 

 

「あれが……帝都……」

 

 先を走っていたアルディス達に追い付いたエリックの目に映ったのは、かつては賑わっていたであろう、廃れ切った街並み。

 想像していたものとは明らかに異なる、その光景にエリックは思わず眉をひそめた。

 

「……」

 

(え……)

 

 何故か、アルディスがこちらを見ている。声を掛けるべきかどうかで悩んだが、彼はすぐに視線を帝都へと戻した。一体、何だというのだろうか。

 

 

「! これ……悲鳴、か?」

 

 アルディスの行為について思いを巡らせる暇は無いようだ。純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)特有の優れた聴力を持つディアナが、帝都の異変に気付いたらしい。

 エリックにはまだ悲鳴が聞こえないものの、炎上する街の様子はハッキリと見えてきた。聴力では彼女らに叶わないが、視力では純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)の方が上だ。

 

「チャッピー! もう少し全員の速度上げられないか!?」

 

「きゅ……きゅー!」

 

 足が、さらに軽くなる。ディアナの頼みを受け入れたチャッピーが能力の効果をさらに高めたらしい。それは、元々走るのが早いアルディスやマルーシャ、空中のディアナにも影響を出していた。

 

「きゅ、きゅー……っ」

 

「すまない、辛いのか……スウェーラルに着いたら、物陰に隠れていろ」

 

「きゅ……」

 

 鳥であるチャッピーを見ても、顔色等は分からない。しかし、細められた青紫の瞳を見れば、彼が辛いのは明らかである。

 

「特殊能力の乱用、と言っても過言じゃないもの……ごめんね……」

 

 チャッピーの背に乗ったポプリは、そう言って目を伏せた。一番彼に負担を強いているのは、誰がどう考えてもポプリなのだ。彼女自身もそれを分かっており、責任を感じているのだろう。

 

「もう少しです、もう少しだ……チャッピー!」

 

 ジャンクは頭のレーツェルに触れ、トンファーを取り出した。エリック達もそれに続く。スウェーラルは、もう目の前だった。いつ、何が起こるか分からない。

 地を強く蹴り、僅かに雪の積もった粗末な道を駆ける。チャッピーの能力の効果なのか、息を切らすことも、速度が落ちることもない――ただ、その分だけチャッピーの体力が削れていく。

 

 

(従順、だよな……鳥には、何の関係もないのに)

 

 それだけディアナを好いているのだろうかと、エリックはこの場に合わないことを考え始めた。

 少なくともチャッピーは、エリックが知る鳥の中では最高の知能を持つ。未だに種類は分からないし、同じ種類の鳥を見たこともない。本当に不思議な鳥だった。

 

 

「きゅ……きゅ――ッ!!」

 

 チャッピーが鳴いた。直後、エリックの足がもつれ、バランス感覚が消滅する。急に、瞬光疾風(カールヒェン・ヨシュカ)の効果が切れたのだ。チャッピーの体力が尽きたのだろう。

 

「う、うわっ!?」

 

 地面が近付く。咄嗟の判断でエリックは剣をレーツェルに戻し、左肩を下にして横向きに受身を取った。服が汚れはしたが、怪我はない。

 

「いたた……」

 

 どうやら転んでしまったのは自分だけでは無いらしく、上手く受身を取れなかったらしいマルーシャは汚れてしまった服を叩いている。

 

「エリック、器用だね」

 

「まぁ、前衛やってたらこれくらいは」

 

 えへへ、と笑ってこちらを見るマルーシャの顔は軽く擦り切れていた。

 痕が残らないか気にはなったものの、天恵治癒(エルフリーデ・イヴ)能力を持つ彼女ならあれくらいの傷は簡単に治せるだろう。そう思い、エリックは仲間達を見回した。

 

「チャッピー……」

 

 急停止したチャッピーに投げ出され、ポプリは全身傷だらけだった。マルーシャより酷い状態かもしれない。それでも、彼女は自分には気にもとめず、地面にぐったりと横たわるチャッピーの背に手を伸ばしていた。

 

「きゅ……、きゅー……っ、きゅー……」

 

 遠くから軽く見ただけだが、これはもう限界だなとエリックは悟った。閉ざされた瞳と荒い呼吸を見る限り、しばらくは彼に頼れないだろう。

 そんなチャッピーの傍に、エリック同様に上手く受身を取ったらしいアルディスが歩み寄っていく。彼はチャッピーの前で跪き、そっと手を差し伸べた。

 

「チャッピー、少し動けるか? あっちに路地裏があるから、休んでると良いよ。ほら、俺が支えていくから」

 

 アルディスの言葉で、エリックはようやく気付いた――もはや廃墟を思わせる勢いで廃れてはいたが、ここは街の中であった。疑う必要もない。ここが、帝都スウェーラルだ。

 

「何とか、街まで能力持たせてくれたのか」

 

「そうみたいね」

 

 ポプリとエリックの視線の先で、チャッピーはアルディスに支えられて路地裏へと移動していく。ここを発つまで、彼は休ませておこうという暗黙の了解が皆の間で交わされた。

 

「……って、うわ、ポプリ。それ大丈夫!?」

 

「うふふ、ちょっと盛大に転んじゃったから。平気よ」

 

「ダメだよ! ちゃんと治さなきゃ!!」

 

 相変わらず本人は一切気にしていない様子であったが、ポプリの傷はかなり痛々しいものであった。顔や腕、右足の皮膚が裂け、赤い血が滲んでいる。

 マルーシャは慌ててポプリの元に駆け寄り、彼女の傷を癒すべく意識を高めた。

 

 

――だが、

 

 

「……あれ?」

 

 様子がおかしい。今では簡単な治癒術であれば瞬時に発動出来るはずのマルーシャが、上手くいかないと首を傾げている。

 それを見たポプリは「まさか」と呟いて杖を握り締め、意識を高め始めた。

 

「だ、駄目! どうして……っ、魔術が、使えない!」

 

「!?」

 

 ポプリはふるふると頭を振るい、杖を握り締めたまま両目を固く閉ざしてしまった。マルーシャもそうだが、彼女の戦闘は完全に魔術頼りのものである。魔術が使えない状況下では、彼女は身を守る術を失ったと言っても過言ではない。

 一体何が、と声を上げかけたエリックの耳に、微かに震えたジャンクの声が入った。

 

「チャッピーが急に瞬光疾風(カールヒェン・ヨシュカ)を解除したのは、彼自身の限界だけが原因ではなかったようです……僕も、完全にやられました……」

 

 聞こえてきた声の方を向くと、受身すら取れなかったらしく、傷を負った上に起き上がることもできないジャンクの姿がそこにあった。

 

「! そうか、お前……」

 

「……」

 

 ジャンクも、視覚面に関しては透視干渉(クラレンス・ラティマー)に頼りきっている。今の彼は暗闇に放り出され、完全に視覚を封じられたような状態なのだ。

 横向きに地面に倒れた身体を起こし、その場に座り込んだ彼は誰からも顔を背けるように俯いてしまった。

 

「オレも駄目だ。翼が出せない……」

 

 被害は、さらに連鎖した。ジャンクの横には、翼を失って地面に転がっているディアナがいた。チャッピーが再起不能である以上、今の彼の場合はもう本当に絶望的な状況だ。

 どうしたものか、とエリックはため息を吐きたくなったのを懸命にこらえた。困っているのは自分だけではない、彼らの方なのだから。

 

 しばしの間悩んでいると、どうやら先に結論を出したらしいポプリがエリックの前に移動してきた。

 

「エリック君、マルーシャちゃん。君達は、動けるわよね?」

 

「あ、あぁ……」

 

「大丈夫、わたしもポプリと同じで、満足に戦えないけど」

 

 一応は肯定の言葉を返したエリックとマルーシャに微笑みかけた後、ポプリはチャッピーを運び終わったアルディスに手を振った。

 

 

「アル君……二人を、任せて良いかしら? あたし達で、先に進むわ」

 

 この状況では、これが最も妥当な選択だろう。アルディスは分かっていたと言わんばかりに頷き、空を仰いだ。彼の動作でエリックは異変に気付いた――街に入ってからというもの、今まで雪と共に飛び回っていた下位精霊達の姿が無いのだ。

 

「これ……恐らく、恐らくですが、拒絶系能力による結界が貼られているのだと思います。術者さえ、見つけて叩ければ……そうですね、俺達も、できる範囲で探します」

 

「分かったわ、あたし達も探してみる。行きましょう、エリック君、マルーシャちゃん」

 

 下位精霊が居ないのも、結界による効果なのかもしれない。アルディスの言葉に頷き、ポプリは強く打ち付けたらしい左肩を押さえながら立ち上がった。

 

 

「一応、聞かせてくれ……ジャン」

 

 後々のことを考え、エリックは躊躇いがちに口を開いた。エリックの声に、俯いていたジャンクが顔を上げる。その瞳は、相変わらず閉ざされたままだ。

 

「目、開けてくれって言っても、無理だよな……?」

 

 アルディス、ディアナがいないこと自体、エリックとしてはかなり辛い状況である。それに加えてマルーシャとポプリはほぼ戦力外状態だ。せめて、ジャンクが着いてきてくれれば、と思わずにはいられなかったのだ。

 魔術は使えない状態とはいえ、彼は前衛としても戦える。目さえ、目さえ開けてくれれば、彼の場合は何も問題がないのだ。

 そんなことはエリックだけではなく、皆、ジャンク本人も理解していた。だからこそ、彼は酷く悩んでいた。右の二の腕を押さえるその身体は、微かに震えていた――しかし、

 

「……。すみ、ません……」

 

 俯きながら、絞り出すように彼はエリックの問いに答えた。目を開けるのは不可能だという、否の答えを。

 

 

「分かった。無理言って、悪かった」

 

 そう言われるだろうと、返されるだろうと、分かっていた。それでもエリックの中には嫌悪感に近い、醜い感情が残ってしまった。どうしようもないと、分かっているはずなのに。

 

「行こう。マルーシャ、ポプリ」

 

 こうなってしまった以上、まともな戦闘が出来るのはエリックだけである。余計な考えを振り払うようにエリックは軽く自分の頬を叩き、再びレーツェルを剣に変えた。

 

 

「……」

 

 エリック、マルーシャ、ポプリが先へと進み、後に残された者達の間に沈黙が漂う。

 

「すみません、本当に……無理な物は、無理なんだ」

 

「仕方ないですって。俺達は俺達で動きましょう」

 

 ディアナを抱き上げ、アルディスはそのまま座り込んだジャンクの前へと移動した。事情を知るだけに、アルディスの行動はスムーズだった。彼は片手でディアナを抱え直すとジャンクの左手を掴み、首を軽く傾げてみせる。

 

「俺が手を引きます。ですから……」

 

「いえ、これ以上迷惑はかけられない……アル、この場に残っているのはお前とディアナだけか?」

 

「? え、ええ……」

 

 アルディスに抱えられたディアナが「ジャン?」と不思議そうに声を上げる。ジャンクの言葉の真意は、すぐに分かった。

 

 

「……。ディアナには、近いうちに明かしても良いかな、とは思っていたんだ」

 

「!?」

 

 立ち上がったジャンクの金と銀の瞳が、ディアナの驚愕の表情を映している。大きな瞳を丸くするディアナに、ジャンクは困ったように笑いかけた。

 

「良かったのですか……?」

 

「ええ。ディアナなら、僕がずっと目を閉じていた理由も分かってくれるでしょうし」

 

 アルディスの問いに、ジャンクはトンファーを手に頷いた。アルディスはディアナを抱えているため、彼が前衛に立つつもりなのだろう。

 

「ヴァイスハイト、だったのか。オレは……純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)は魔力の流れが分かるってのに、全然、分からなかった……」

 

「そうなんだよね、俺も見抜けなかった。しかも片目無いとはいえ、同種だってのに」

 

「理由は言えないが、諸事情で僕にその類の力は効かない……ディアナ、黙っていてすみませんでした」

 

 諸事情、というのは彼が精霊の使徒(エレミヤ)であることが関係しているのだろう。本当に申し訳なさそうに目を細めるジャンクに、ディアナは特に咎めることなく笑いかけた。

 

「いや、むしろオレに教えてくれて嬉しかった……ありがとう」

 

「……こちらこそ」

 

 

 照れくさそうにジャンクは眼鏡のブリッジに触れていたが、照れている場合では無さそうだ。彼は瞬きをした後、おもむろに顔を上げた。

 

「これは……」

 

「……ええ」

 

 アルディスやディアナは勿論、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)では無いジャンクにも、流石に現地に来れば聞こえたくもない音が耳に入ってきていた。

 スウェーラルに着いたばかりの頃は少し収まっていたのだが、再び、爆発音や悲鳴が響き始めたのだ。襲撃が始まったのだろう。

 

「狙ったかのような襲撃……オレも、戦えれば……」

 

 これは、本格的に“罠”かもしれない。それなのに何も出来ないとディアナは奥歯を噛み締める。

 

「気にしなくて良いよ。とにかく、行きましょう」

 

「はい。この状況下でも、あの方の力が僕を助けてくれているようです。これなら、戦える……僕は大丈夫です。任せてください」

 

 そんなディアナの頭を軽く撫で、アルディスはジャンクと顔を見合わせ、共に走り出した。

 

 

 

 

 やはり、スウェーラルの街の中には黒衣の龍所属兵達の姿があった。上手く戦闘を避けながら、エリック達は見慣れぬ街を歩き回る。

 

「! う……っ」

 

「マルーシャ!?」

 

 突然のことだった。しばらく進んだ所で、マルーシャが突然蹲ったのだ。

 

「え、エリック……ポプリ……何か、おかしいの……」

 

「どうしたの!?」

 

 顔色は青くは無いが、少々息が荒い。熱がある、というわけでもなさそうだ。一体どうしたのかと、エリックとポプリはマルーシャの顔を覗き込む。自分自身を抱きしめるように腕を回し、マルーシャは身体を震わせて固く目を閉ざしていた。

 

「大丈夫か? 一体、何が……」

 

 躊躇いがちに、エリックはマルーシャへと手を伸ばす。その瞬間、マルーシャはビクリと身体を震わせ、叫んだ。

 

「!? あ……いや……っ、やぁあああああぁっ!!」

 

 

――異変、などという言葉で表せるような状況ではなかった。

 

 

 叫ぶと同時、マルーシャの身体は眩い光に包まれ、輝き始めたのである。

 

「お、おい……マルーシャ!?」

 

「一体どうしちゃったの!? これは……」

 

 光が収束していく。マルーシャは荒い呼吸を抑えるように胸を押さえていた――その姿を見て、エリックもポプリも絶句してしまった。

 

 

「はぁ……っ、はぁ……っ、な、何……? 何が、起きた、の……?」

 

 高級な銀糸や、雪を思わせる白銀の髪。髪留めのゴムが切れたらしく、飾りのバンダナだけではポニーテールの形状が保てなくなったそれは、重力に従って地面まで流れていた。

 その髪は、ふんわりとウェーブしている。そして、彼女は元々純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)の割には色白であったが、今では鳳凰族(キルヒェニア)のように肌が色白くなっている。むしろ、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)並みの色の白さである。

 

「……」

 

 今のマルーシャの容姿は、どこか中性的な容姿をした“あの少年”を思い出させた。仮に彼が――彼が本当に少女だったなら、今の彼女のような容姿だっただろう。

 

「ア、ル……?」

 

「え……?」

 

 エリックの言葉に、マルーシャは不思議そうに顔を上げた。さらりと髪が流れ、“青の瞳”と“尖った耳”が空気中に晒される。

 

「マルーシャ……君は、一体……」

 

 ポプリは相変わらず言葉を失っていた。エリックの頬を、冷や汗が伝っていく。そんな彼らの反応にマルーシャはようやく自らの異変に気付き、声を震わせた。

 

「うそ……なんで……? なん、で……?」

 

 

『おや? 起きたようだな。目覚めの気分はどうだ? “試作品”よ?』

 

 

 マルーシャの脳裏を、どこか現実味を帯びたヴァルガの言葉が過ぎっていった。

 

 

 

―――― To be continued.



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Tune.26 希望が崩れ去る時

 

 本当はずっと前から「おかしい」って、気付いていたんだと思う。

 それでも僕が何も言わなかったのは、考えないようにしていたのは、単なる甘えだ。

 

 

――初めて、だったから。

 

 

 僕を“ラドクリフの王子”という色眼鏡で見ない、同年代の友達っていうのは。

 それだけで、とんでもない変わり者なんだろうけどな。アイツの場合は仕方ないか。

 ヴァイスハイトだからこそ受けてきた迫害。今まで、本当に傷付いてきたんだと思う……けれど、それにしたって色々と隠しすぎだよなって、思う。

 

 今思えば、アイツが絶対に外さないフード。あれだって、異様だったのに。

 フードの下がどうなっているのか。八年も一緒にいたくせに、僕は一度も聞かなかった。

 

 本当はずっと前から「おかしい」って、気付いていたんだと思う。

 それでも僕が何も言わなかったのは、考えないようにしていたのは……真実を知るのが、怖かったからだ。

 

 

―――――――――――

 

―――――――

 

―――

 

 

「マルーシャ……君は、一体……」

 

「うそ……なんで……? なん、で……?」

 

 自らの髪を、耳を触り、マルーシャは声を震わせる。エリックもポプリも、呆然と彼女の姿を見ていた。

 先に進まなければならないというのに、足が動かない。何が起こったか分からないのは、マルーシャだけではないのだ。

 

「……。そういえば、マルーシャちゃんはアル君と身長も体格も対して変わらないものね」

 

 ようやく、ポプリが重く閉ざされた口を開いた。彼女の手がゆっくりと、マルーシャの白銀の髪へと伸ばされていく。

 彼女が何を思い、そう言ったのか、そのような行動を取ったかは分からない。エリックもマルーシャも、彼女の行動を咎めることはなかった。

 

「完全に色素が抜けているわね。一体、どうしてかしら……」

 

「結界の影響か? それにしたって……」

 

 ポプリの手のひらの上で、癖のある白銀の髪がさらりと流れていく。エリックも一緒になってマルーシャの髪を眺めていたが、どうやら悠長なことをしているわけにもいかなくなってきたようだ。

 

 

「! 誰か来た」

 

 ジャリジャリと、誰かが瓦礫だらけの地面の上を歩いているらしい。間違いなく、近付いてきている。

 

「駄目だ、完全に気付かれてる。マルーシャ、ポプリ、こんな状態で悪いが……」

 

 

「戦わせるつもりか? この状況で……お前も、厳しい人間になったということか」

 

 

――後ろから、聞き覚えのある男性の声がした。

 

 

「え……」

 

 そうだ。この地には、黒衣の龍がやって来ているのだ。どう考えても、一緒に“彼”がいるのが普通だろう。そもそも、自分達は彼を止めるために、この地にやってきたのだから。それが、母ゼノビアから“託された願い”なのだから。

 おもむろに、エリックは後ろを振り返る。震えそうになる声を何とか押さえ込みながら言葉を紡いだ。

 

 

「兄、上……」

 

 そこに立っていたのは、漆黒の長い髪とマントを風になびかせる兄、ゾディートだった。彼の後ろには、いつも通り自らの顔を布で覆い隠したダークネスの姿もある。

 

「王子は王子でも、まさかあなたに会うとは思いませんでした……まあ、途中までは一緒だったのでしょうが」

 

「!?」

 

 唯一露出した口元を緩め、ダークネスはクスクスと笑った。そんな彼の、ダークネスの姿を見て、ポプリは酷く動揺している。

 

「あなた……あなた、まさか!?」

 

「……」

 

 ダークネスは軽くポプリを一瞥し、その口元に浮かんでいた笑みを消す。だが、それは一瞬のことであった。彼は再び笑みを浮かべ、静かに口を開く。

 

「……。姿が見えませんが、森に住んでいた銀髪の男はどうしたのです?」

 

「え……?」

 

 どこに消えた、とゾディートはダークネスの言葉を繰り返す。彼らは、未だにアルディスを追っているらしい。

 

「逃げたか? “月神の銀狼”と呼ばれた、あの男が逃げ出すとはな……弱くなったものだ」

 

「月神の、銀狼……?」

 

 一体どういう意味なのかと、マルーシャは小さな声で怪訝そうに呟く。

 それを聞いたダークネスは軽く肩を竦めた後、淡々と語り始めた。

 

「私は戦場に出てはいませんでしたが、ノア皇子はヴァイスハイトだったんだとか。それも狼のように姿を変えることのできる、獣化型ヴァイスハイトだったそうです」

 

「!?」

 

 獣化型ヴァイスハイト――それはヴァイスハイトの中でも、ほんのひと握りの者だけが得る、“獣化”という能力を持つ者を指す。獣化自体はあまり詳しく解明されていない能力だが、まさかそれをノア皇子が持っていたとは。

 否、それ以前にエリックには、どうにも引っかかる点があった。

 

(聖者一族……白銀の髪に、ヴァイスハイト……“アルディス”って名前……)

 

 どうしても、アルディスの姿が脳裏を過ぎっていく。あまりにも、共通点が多過ぎるのだ。それでも否定したかった。信じたくなかった。逃げ道を、探したくなった。

 

 

「もう気付いているのだろう? アベル、あの男こそ……」

 

「待ってください! 彼は違います……彼の手に、フェルリオの紋章はありませんでした!」

 

 ゾディートが告げかけた言葉を遮り、マルーシャが白銀の髪を揺らして叫ぶ。

 今更だが、ゾディートもダークネスも、彼女の姿に驚く気配は無い。まるで、知っていたとでも言うように。向こうは、この現象の理由も知っているのだろう。

 

「……。マルーシャ」

 

「エリック、わたし見たよ……違うって、それで安心できたの!」

 

 マルーシャも不安になっているのだろう。現状、アルディスがノア皇子と別人であるという証明が出来るのは、紋章の有無だけなのだから。

 エリックは左手で印の刻まれた右手の甲を撫でる――そして、ハッとした。安心するのは、まだ早いのではないかと。むしろ、嫌な予感しかしなかった。

 

「マルーシャ、ちょっと待て……君は、アルの両方の手を見たのか?」

 

「いや、片方だけだよ? えっと、右手……」

 

 やっぱりそうか、とエリックは奥歯を砕けそうなほど強く、噛み締めた。

 

「マルーシャ……アルは左利きだ。仮に、紋章があるなら……」

 

「!?」

 

 エリックの指摘に、マルーシャのサファイアのような青い瞳が揺らいだ。彼女も漸く、自らの失態に気がついたのだ。眉を下げ、マルーシャはゆるゆると頭を振るう。

 

「……」

 

「やだ……そんなの、信じたくないよ……」

 

 すがるような思いで、二人は彼の姉を名乗るポプリへと視線を向けた。頼むから否定して欲しい、それは違うと言って欲しい――。

 しかし、ポプリはその視線を受けることを恐れていたかのように、琥珀色の瞳を逸らしてしまった。

 

「……ッ」

 

「ポプ、リ……」

 

 これ以上、嘘を貫くことは不可能だと判断したのだろう。

 眉間にしわを寄せ、両目を固く閉ざした彼女が噛み締めた唇は、血の気がなくなって酷く震えていた。これはもう、肯定としか言い様が無い。

 

 

――あまりにも突然に、勝手にパズルのピースが埋まって行くかのような思いだった。

 

 

 アルディスとノア皇子を結び付けること。それは、エリックの中ではいつの間にか、最大のタブーと化していた。

 今思えば、この両者を結び付けて考えた方が納得できる話は多々存在する。それは、王都を離れてから、尚更増加していった。

 

 王都に暮らそうとせず、森の中で隠れ住んでいたこと。

 最初は自分達を酷く拒絶し、名前を偽ろうとしたこと。

 決してフードと手袋を外さなかったこと。

 ヴァイスハイトとはいえ二度に渡って斬りつけられ、右の瞳は光を失っていたこと。

 禁呪とされた筈の虚無の呪縛(ヴォイドスペル)にその身を蝕まれていたこと――。

 

 これで、彼がただの純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)であれば、どれほど良いだろうか。だが、エリックもマルーシャもディアナを拒絶しなかった。ただ純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)であるだけならば、その時点で彼は自らの種族を明かしていたに違いない。迫害されない以上、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)であることを隠す理由は、無いのだから。

 

 それでも彼が自身の種族を明かさなかったのは、知られると困る事実が一緒に存在しているからだ。

 

 それはもう、彼が、アルディスがノア皇子と同一人物であるという事実以外、考えられなかった。

 

 

「違って、欲しかった……」

 

「エリック……」

 

 分かっていながらも無理矢理おかしな場所にはめ込んだパズルのピースは、とうとう限界を訴えるように、勢い良く弾け飛んでしまったのだ。

 

「違っていて欲しかったよ……! 今だって信じたくない! 信じたくないんだ!!」

 

 声が、酷く震える。胸が苦しい。

 今まで逃げ続けてきた真実を突きつけられ、エリックは今にも泣き出しそうなほどに追い詰められていた。

 

 完成したパズルは、絶望の真実を描いた一枚の絵としてエリックの前に現れた――それはもう崩すことも、その絵を見なかったことにすることさえも、できない。

 

 

「どうした? アベル」

 

「……本人捕まえて問い詰める。話は、それからだ」

 

 それでも尚、エリックは真実から目を背けようとしていた。

 ただ、今は普通に会話をしているとはいえ、兄達は簡単に先へは進ませてくれそうにない。わざわざ話し合いをするためだけに、彼らがここに来たとは思えなかった。

 俯きがちだった顔を上げ、エリックは目の前に立ちはだかるゾディートとダークネスに視線を移した。彼らとの戦いになることは、覚悟の上だった。

 

「ですから、そこを通していただきます」

 

 首のチョーカーに付いた透明のレーツェルに触れ、それを紺色の刃を持つ長剣へと変化させる。エリックは微かに震える右手でその柄を掴み、強く握り締めた。

 

「それは、宝剣ヴィーゲンリート……そうか、ついにお前の手に渡ったのか……」

 

 それを見て、ゾディートはどこか、忌々しそうに言葉を紡ぐ。自分がこの剣を手にしたという事実が気に入らないのだろうと、エリックはぐっと剣の柄を握りしめた。

 

(兄上……)

 

「取り上げますか?」

 

「いや、良い。それより、結界を解くぞ……あれでは、話にならんからな」

 

 ダークネスの問いに軽く答えた後、ゾディートは袖の下に仕込んでいたらしいレーツェルを細身の鞘に入った長剣へと変化させた。

 鞘から抜かれ、徐々に姿を表す銀色に鈍く光る刃が、エリックの躊躇いと動揺の隠せない顔を映している。

 

「良いのですか?」

 

「奴はこちらの戦意が分からぬほど馬鹿では無かったようだが、身の程を知らん……言い訳できぬように、全力で戦えるようにしてやるだけだ」

 

 ゾディートは長剣を地面に突き立て、魔力を流し込むように意識を集中させた。刹那、突き立てられた剣を中心に巨大な魔法陣が展開される。

 

「きゃ……っ」

 

 魔法陣は、スウェーラルの街全体を照らし出すかのように広がっていく。その光を受けたマルーシャは、またしてもその身を輝かせ始めた。

 

「!? マルーシャ!」

 

 今度は、彼女が叫び出すようなことは無かった。それでも不安になったエリックは、再び座り込んでしまったマルーシャへと視線を移す。これはまさに、敵から目を背けるような行為だ。

 だが、幸いにもゾディートもダークネスも、隙をついて襲い掛かってくるようなことは無かった。

 

「え……エリック……」

 

「マルーシャ……?」

 

 光が収束し、マルーシャの姿が顕になる。どういうわけか、彼女は元通りの艶やかなブロンドの髪と、黄緑色の瞳の少女の姿に戻っていた。

 

「一体、どういう……」

 

「二人とも話は後よ! あたしも魔術使えそう……どうやら、結界が解けたみたいね」

 

 つまりマルーシャの姿が変わったのは、ほぼ確実に結界の影響だということだ。しかし、あれこれと考えている余裕はなさそうだ。

 ポプリは軽くリボンを回し、戦闘態勢を整えていた。アルディスの件を誤魔化そうとしているのかと思ったが、それだけではないらしい。

 

「彼ら、逃がしてくれるつもり無いみたいだし……それにあたし、あの空色の髪した長身の男! あの男に、どうしても一撃与えたいの……!」

 

「……」

 

 空色の髪――つまり、ダークネスのことだ。先程、ポプリがダークネスを見て妙な反応をしたのは、過去にダークネスに良く似た容姿を持つジャンクを攻撃してしまったのは、彼女とダークネスとの間に何らかの因果関係があるからなのだろう。

 それでもダークネスは何も言わず、何の反応も見せず、ゾディートの出方を伺っている。まるで、ポプリのことなど眼中に無いと言わんばかりに。興味が無いと言わんばかりに。

 

「マルーシャ、今ならポプリの傷、治せるか?」

 

「うん! 任せて!」

 

 予備として持っていたらしいヘアゴムで髪を束ね、マルーシャはすぐに治癒術の詠唱に入った。詠唱中の彼女の前に立ち、エリックは背中に固定した鞘から短剣を引き抜く。

 

「兄上」

 

 本当は、戦いたくはない。そのような思いを込めてエリックは呟いたが、無駄だった。ゾディートは地面に突き刺さっていた長剣を引き抜き、鞘だけをレーツェルに戻して短剣を構えた。

 その構えは、エリックと全く同じもの。体付きの細いゾディートは、エリックと同じ流派の剣術を取得していたのだ。

 

「……」

 

 沈黙の中、一際強い風が吹く。ゾディートの漆黒の髪が乱れ、彼の銀の瞳が一瞬だけ隠れた。

 

「思い知るが良い。お前が、いかに無力であるかを」

 

「私は、もうあなたから逃げません! 覚悟してください、兄上!」

 

 エリックとゾディートは同時に地を蹴り、瓦礫だらけの道を踏みしめ、駆ける。ぶつかり合った長剣が響かせた金属音を合図に、マルーシャやポプリ、ダークネスも動き出した。

 

 

 

 

「! 結界が消えた……!?」

 

 異変に気付き、アルディスは路地裏から見えている狭い空を仰いだ。

 

「そのようだな。翼も……よし、出せた」

 

 アルディスの腕から離れ、ディアナは出したばかりの翼を動かして宙に浮かぶ。前線で黒衣の龍所属兵との戦闘を終えたばかりのジャンクもそのことに気付いたらしく、二人の元へと帰ってきた。

 

「助かった。これでようやく魔術全般が使えます」

 

「俺達は実質兵との戦いのみでしたし、エリック達が上手くやってくれたというこ……ッ!?」

 

 未だどこかで乱闘が起こっているらしく、爆発音や悲鳴が絶えない。それはスウェーラルに来てから散々聞かされてきたものだ。慣れて、しまうほどに。

 だが、今回は違う。聞こえてきた悲鳴に、声に聞き覚えがあったのだ。悲鳴に反応し、ディアナとアルディスの表情が一気に強ばる。

 

「今の、マルーシャの声じゃなかったか!?」

 

「俺にも聴こえました! くそっ、アイツら、幹部級と遭遇でもしたんじゃないか!?」

 

 この場に幹部級が来ていても、何らおかしくはない。既に黒衣の龍幹部級と呼ばれる四人、ダークネス、ヴァルガ、フェレニー、ベリアルと刃を交えているアルディスの顔には、特に焦りの色が見えていた。

 

「あんなのとやりあって、勝てるわけがない! さっさと加勢しないと!!」

 

「待ちなさい、アル!」

 

 走り出しそうになったアルディスの肩を、ジャンクが掴む。彼は同様にディアナの翼も掴んでいた。

 

「な、何をしているのですか!? 悠長なことを言っていられる相手ではありません!」

 

「だからこそ落ち着け……嫌な予感がする。少なくともお前は、行かない方が良い!」

 

「どういうことですか!?」

 

 ジャンクの手を振り払い、アルディスは問い詰めるようにジャンクに掴みかかる。それを、ディアナは意外にも冷静に見つめていた。

 

「言われてみれば……オレも、同意見だ。確かに、嫌な予感がするんだ……ただでさえ、このスウェーラル襲撃自体が、罠だと考えられるだけに」

 

「ディアナ?」

 

「だから、あなたは行かないで下さい。行くなら、オレとジャンで……」

 

 

「――行かせないよ」

 

 

 ディアナの声を遮るように、上空から落ち着いた女性の声が聴こえた。

 

「今の声は!?」

 

「!? 危ない!!」

 

 アルディスがその名を口に出す前に、ディアナが脅威に気付く。紫の魔法陣が、三人の下に浮かんでいた。気付くのが、遅すぎた。

 

「――エクステッドナイトメア」

 

 発動したのは、闇属性の魔術。深い紫の霧が、魔法陣から立ち上る。

 

「くそ……っ」

 

「!?」

 

 このままでは全滅してしまう! 咄嗟にアルディスは隣にいたジャンクに全力でぶつかり、陣の外へと突き飛ばした。

 

「な……っ!? アル! ディアナ!」

 

「一番陣の端にいた、あなたに、賭けました……」

 

「すまない。これは……耐えられそうもない……」

 

 アルディスもディアナも地面に手を付いてしまっていた。完全に意識を飛ばしてしまうのも、時間はの問題だろう――エクステッドナイトメアは、複数の者を眠りへと誘う魔術だ。

 

「無茶なことを……!」

 

 何とか術の影響を受けずに済んだジャンクは、二人を抱えようと手を伸ばす。だが、その手はアルディスによって弱々しく叩き落された。

 

「……。先に、行って、下さい……! このままじゃ、エリック達が、危ない……!」

 

「――ッ!」

 

「オレ達は大丈夫、だ……術者はどこかに、行ったようだし、な……」

 

 それだけを言って、アルディスとディアナはその場に崩れ落ちてしまった。基本的に魔術耐性の強い二人だが、勝つことができなかったらしい。エクステッドナイトメアの催眠効果が二人に魔術耐性を遥かに上回っていたということだ。

 

「確かに……もう、この付近には何の気配も感じません。路地裏だから、余程のことが無い限り襲撃もないだろう……そうですね、僕は先に行きましょう」

 

 ジャンクは自分の腰に巻いていた黒い布を解き、それを眠り込んでしまった二人を覆い隠すように掛けた。

 

「それは後で、返してください」

 

 ただ、ジャンクはアルディスとディアナのように聴力が優れているわけではなく、透視干渉(クラレンス・ラティマー)の能力にも限界がある。そのため、エリック達が今、何処にいるのかは分からない。彼らの危機的状況を分かっていながら、がむしゃらに探し回るしか無いのだ。

 

「頼むから、無事でいてください……!」

 

 間に合うかどうかは、ほとんど運任せである。一刻の猶予もないとジャンクは振り返ることなく、トンファーを手に全力で駆け出した。

 

 

 

 

「はぁ……っ、はぁ……っ」

 

 視界が霞んできた。全身が酷く痛む。指先の感覚も、もう無いに等しい。

 

(負ける……わけ、には……っ)

 

 カラン、と剣の転がる乾いた音がした。落としてしまったらしい。それを拾おうと、エリックは膝を曲げ、手を伸ばした――だが、

 

(あ……っ)

 

 その瞬間、一気に身体の力が抜けてしまった。地面が近付く。それに抗おうとする力はもう無く、頬を強く打ち付けてしまった。拾おうとした長剣は、エリック自身の顔の真横にあった。

 

(駄目、だ……立たな、いと……)

 

 倒れている場合ではない。剣を掴み、それを支えにして起き上がろうと、エリックは腕に力を入れた。あらゆる筋肉が悲鳴を上げているのが分かる。もう立てない、と身体が警鐘を鳴らしているのが分かる。

 

「ッ、ぐ……っ、ゴホッ」

 

 喉の奥から、何かが逆流してくる。それに耐えられず、エリックはゴホゴホと咽せ始め、再び地面に倒れ込んでしまった。口からは、真っ赤な血が流れ出てきた。

 

 

「どうした? もう終わりか?」

 

 荒い呼吸を繰り返すエリックの姿を、少し離れた位置からゾディートが見ている。ダークネスも同様だ。二人とも多少のダメージは受けていたものの、平然とその場に両足を付いて立っている。それに対し、こちらは……。

 

(どうして……ッ)

 

 マルーシャもポプリも、既に意識を無くして倒れてしまっていた――あっという間のことだった。自分達は、ゾディートとダークネスの猛襲にほんの数分耐えられたかどうかのレベルだった。それだけの力の差が、自分達とゾディート達の間にあったということだ。

 

「……」

 

 

――悔しかった。

 

 偉そうなことを言っておきながら、何も出来なかった。本当に、自分は無力だった――。

 

 

「どうします? 殿下」

 

「……私が始末する。お前には、兵士達の収集を任せる」

 

「承知しました」

 

 身動きの取れないエリックに背を向け、ダークネスはどこかへと走り去っていった。後には、ゾディートとエリック達だけが残される。ゾディートが手にする長剣が、鈍く銀の光を放つ。

 

「さて……どうしてやろうか」

 

 殺される、とエリックは思った。死にたくは無い。だが、逃げるだけの気力も、マルーシャとポプリを逃がすだけの気力も、無い。

 

「お願い……しま、す……マルーシャと、ポプリは……後ろの二人、には……」

 

「……」

 

 掠れ切った声を搾り出し、エリックは懸命に「自分だけを殺せ」とゾディートへと訴える――プライドも何もかも、ズタズタにされたような思いだった。自分が情けなくて、あまりにも惨めで、何より、辛くて、悲しくて、涙が出そうになる。

 

「……そうか」

 

 目の前にやってきたゾディートが、長剣を振り上げた。自分の願いを合意してくれていれば良い。殺されるのは自分だけで十分だ。そう願いながら、エリックは全てを諦めて静かに瞳を閉ざした。

 

 

「!? な……ッ!!」

 

 

――その時、異変が起きた。

 

 

(え……?)

 

 ゾディートが手にする剣の矛先が、どこか別の場所へと向いたらしい。薄れゆく意識の中、エリックは何とか右目を開き、起こった異変を目の当たりにした。

 

「お前……! お前は、まさか……!?」

 

 エリックから離れ、ゾディートは剣を構え直して驚愕の声を上げている。彼の前にいたのは、異様な雰囲気を醸し出した巨大な生物であった。

 

「クーッ!」

 

 馬ほどの大きさの身体は淡い青の毛に覆われ、海色の柔らかそうなたてがみは長い角の生えた頭から、尾ヒレの付いた長い尾の先端まで続いている。

 馬で言う耳の位置から尾の付け根部分まで伸びた長いヒレは、その生物の動きに合わせて大きく揺れていた。

 

(何なんだ……こいつ……)

 

「クォン……クーッ!」

 

 長いヒレと長い尾を揺らし、謎の生物は懸命にゾディートを威嚇している。一体何をしているのだろうか、そもそもあの生物は何なのかと、エリックは記憶を辿り始めた。あのような生物と遭遇したことは、これまでに一度もなかったはずだ。

 

 

『淡い青色の、大きな生物だったわ。大きさ的に、最初は馬かなって思ったの。でも、蹄とかなかったし、その代わりにあちこちにヒレが生えてて、長い尻尾の先は尾ヒレになってたわ。海色のたてがみから出る長い角と、長いヒレみたいな耳が凄く綺麗だった』

 

 

 ふいに、あの不思議な泉でポプリが語ってくれた話が、蘇ってきた。

 

(あ……っ!)

 

 自分の目の前にいる生物はまさに、彼女が出会ったという生物の特徴そのもの――つまり、あれは聖獣ケルピウスだ!

 

(一体、どうしてケルピウスがここに!?)

 

 あの時、マルーシャとアルディスはケルピウスに纏わる伝説の話もしていた。あの伝説の通り、ポプリに恩を返すためにケルピウスがやって来たということなのだろうか。

 

「クォン!!」

 

(!?)

 

 再び、ケルピウスの鳴き声が響く。見るとケルピウスはその背を深く切り裂かれ、そこから赤い血をボタボタと垂れ流していた。斬られてしまったのだろう。

 

「クーッ、クー……ッ」

 

(や、やめろ……やめてくれ……)

 

 苦しげなケルピウスの声に、エリックは耳を塞ぎたいという衝動に狩られた。それでも尚、動かない身体が腹立たしい。

 

「お前、何故そこまで? 私は“視ていた”。だからこそ、お前がそうするとは思わなかった……どういう、つもりだ?」

 

「クー……」

 

「まあ、良い。その状態では、話などできぬだろうからな……分かった。この場は立ち去ってやろう。だがあまり、無理をするな……自分を粗末にするんじゃない。辛いだろうが、生き延びろ」

 

(え……?)

 

 何が起きたのか分からなかった。ただ、分かったのはどういうわけかゾディートが剣を収めて立ち去ってしまったことだけだ。何故なのだろうか。

 第一、兄が言っている言葉自体かなり考えさせられるものだ。詳細を知りたい、一体何の話をしているのかと問いたい。

 

 

「クォン……」

 

 相変わらず、ケルピウスは辛そうだった。斬られた背が痛むらしい。その傷がどれほどの深さであるか確認しようとエリックは首を起こそうとしたが、駄目だった。意識が、これまでとは比べ物にならないほど、一気に薄れてくる。

 

(駄目だ……こんな、所で……ッ)

 

 自分もそうだが、マルーシャとポプリも放置する訳にはいかないほどに傷付いている。それは、目の前のケルピウスも同じだった。

 

(起きないと……ッ、早く……早く……ッ)

 

 視界が閉ざされてしまった。もう、何も見えない。意識が、闇へと引きずり込まれていく。

 このままでは皆どうなってしまうのか分からないというのに。どうして、この身体は動いてくれないのだろうか。

 

 嗚呼――自分にもっと、もっと力があったならば。

 自分自身への憎悪の思いが、エリックを支配する。

 

 

(何で、僕はこんなに……無力、なんだよ……)

 

 

 残酷なまでの敗北感を感じながら、エリックは完全に意識を手放した。

 フェルリオの帝都も、民も、大切な仲間さえも、救えぬまま――。

 

 

 

―――― To be continued.





ケルピウス

【挿絵表示】

(自作絵)


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Tune.26.5

 

「……ッ」

 

 身体が、重い。目を開けると、黒い布が身体の上に被せられていることが分かった。

 

(一体、何が……)

 

 慌てて、身体を起こす。覚醒しきっていない意識でも、これが異常事態であることくらいは、理解できていた。

 隣でディアナが眠っていることにも気付いたが、それに大した反応ができなかったのはここがスウェーラルであることと、“何が起こったのか”を同時に思い出したからだろう。

 

 

「ッ、い、急がないと……」

 

 ディアナをそのまま置き去りにしていくことには抵抗があったが、そんなことを言っているではない。

 俺は端に青い刺繍が入った黒い布――ジャンさんが腰に巻いていたものだ――をディアナに掛け直し、術のせいか覚束無い足に鞭を打って走り出した。

 

 周囲にはエリック達の姿どころか、ジャンさんの姿も見えない。

 あれから俺がどれほどの時間眠っていたのかは分からないが、太陽の位置からしてそこまで長い時間は経過していないだろう。だから、すぐに見つかる。そう思っていた。

 

 

――ツンとした、血の臭いを感じた。

 

 

(え……)

 

 明らかに、尋常でない血の量だった。臭いが、濃すぎる。これは一人ふたりが流した物ではない。そんな、生易しいものではない。

 その臭いのする場所へと足を進める俺の中で、第六感が「行くな」と警鐘を鳴らしていた。けれど、俺の足は止まらない。まるで操り人形のように、その場所へと向かっていた。

 

 もしかすると、そこにエリック達がいるかもしれない。そんな思いがあったのも確かだ。

 けれど、それ以上に俺は、“ある光景”が広がっていないことを確かめにその場所に向かっていたのだろう――現実は、非情だったけれど。

 

 

「――!」

 

 たどり着いたのは、広場のような開けた場所。

 ここは十年前、豪華な装飾が施された噴水を中心に構える、美しい庭園だった。しかし今はただの廃墟でしかない。

 そんな廃墟に漂うのは、気分が悪くなるほどの血の臭い。そして転がる――数多の、亡骸。

 

 廃墟と化したスウェーラルから離れずにいてくれたのだろう“彼ら”の大半は、もはや人とは言えぬ姿となって、辺りに“散らばっていた”。

 

「ッ……」

 

 地獄というものが存在するのならば、きっとこのようなものなのだろう。いや、きっと地獄の方が、ずっとずっと、マシだ……。

 

「あ、ぁ……」

 

 思わず、ゆるゆると頭を振っていた。しかし、目の前の光景は、充満する血の臭いは、何も変わらない。消えてくれない。涙が頬を伝っていく。身体の震えが、止まらない。

 

「……っ、あ……ッ、あぁ……ああぁ……」

 

 彼らは俺にとって大切な、国民達だった。俺が、守らなければならない存在だった。

 

 俺は国民を守るために、そのため“だけ”に、生まれてきたのに――それなのに、俺はまた、何もできなかった。

 

 

「うああぁあああああああぁぁ――……ッ!!」

 

 

 もう、嫌だ。

 どんなにもがいたって、俺は空回りしかできないんだ。

 やっぱり俺は、アイツとは違うんだ。アイツとは、何もかもが、違いすぎる……。

 

 何も、できないのに。俺は一体、何のために、この世に生まれてきたのだろう。

 こんな俺に、“存在価値”なんて、あるのだろうか――いや、むしろ俺は。

 

 

……この世に、いない方が良いのではないだろうか?

 

 

 

―――― To be continued.

 



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【コラム】第一部まとめ

 
 第一部のまとめ……という名の、第一部ネタバレありキャラ紹介+用語解説となります。
 かなりざっくりですが、まとめてみました。興味のある方は読んでいって頂ければなと思います。

 ただし、第一部で判明した情報のみを出している都合上、キャラによってかなり文章量に偏りがあります。あらかじめご了承ください。
 


 

◯エリック

本名:エリック=アベル=ラドクリフ

年齢:18歳

誕生日:5/19

種族:純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)

特殊能力:不明(拒絶系能力)

天性属性:不明

国籍:ラドクリフ王国

 

 本作主人公。片割れの方が目立つ気はしますが、一応正規主人公はこちらになります。呼吸器系の持病あり。

 ラドクリフ王国の第二王子であり、右手に王家の紋章が刻まれています。

 温厚で大人しく、人がして欲しいと思っていることを読み取り、可能な限り実践できるタイプですが、とにかく卑屈な面が大きく、嫌だと思うと顔に出るタイプです。少々思い込みが激しい傾向もあります。

 敵国皇子のノアが嫌で嫌で仕方ない上、追い詰めるとポロッと暴言を吐いてしまうくらいには病んでいるようです。そんなこともあって、彼が第一部の最後辺りでうっかりやらかしたものだから、パーティが真っ二つに割れてしまいました。こんな中、第一部の最後に親友アルディスが今まで散々恨み続けたノア皇子であると確信してしまいました。

 兄、ゾディートのことを尊敬しており、命を狙われたことに対しては酷くショックを受けています。

 

【本編開始時点での関係図】

アルディス:幼馴染、親友、宿敵

マルーシャ:許嫁、想い人、幼馴染

ディアナ:初対面

ポプリ:初対面

ジャンク:初対面

 

【用語解説】

 

*種族

 この世界には筋力の強さと視覚の鋭さを持つ『龍王族(ヴィーゲニア)』と鋭い聴覚と豊富な魔力を持つ『鳳凰族(キルヒェニア)』という種族が存在します。

 それぞれのルーツとなった国の気候が原因か、龍王族(ヴィーゲニア)は褐色の肌に暖色の髪と目、鳳凰族(キルヒェニア)は色白の肌に寒色の髪と目を持つことが多いようです。

 両種族間で子孫を残すこともでき、現時点では混血種が世界の人口比率の大多数を占めています。混血種の場合は血が濃い方の種を名乗ります。綺麗なハーフだった場合も外見はどちらかに偏るので、それに合わせて種族を名乗ります。

 純血種はさらに種族を分けて考えられ、それぞれ『純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)』、『純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)』と呼ばれています。

 純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)は個体差がありますが長い牙を、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)は長い耳(エルフ耳)を持ちます。「覚醒」という現象が起きた後であれば、それぞれ青白く輝く光の翼と実体のある、鳥のような朱い翼を出現させることができるようになります。

 また、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)は人の体内魔力を探知する能力を持ちます。(簡単に言えば、相手の種族を見破る、人間を判別するなどのことができます)

 さらに彼らの目を抉ることによって、力を奪い取れる可能性があるなど、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)はよく分からない体質をしているようです。

 

*覚醒

 人々が大体十歳くらいの時期に迎える、身体の変化のことです。ネタバレしてしまうので詳しくは言えませんが、簡単に言うと、覚醒すると「魔力を使った行為ができる」ようになります。翼を出すのも、後述の特殊能力も魔力絡みの行為になります。

 

(補足)どういうわけか、エリックは覚醒をしていません。本人もこのことは酷く気にしています。

 

*特殊能力

 この世界の人々(時々魔物も該当します)が持つ変わった能力のことです。

 特殊能力は大きく分けて四種類あり、他者の精神など、見えない部分に働きかける『精神系能力』、傷を癒す、病を治すなど身体に働きかける『救済系能力』、相手の動きを封じる、状態異常を付与するといった『拒絶系能力』、移動速度を速める、場所を移動するなどの『補助系能力』が存在します。

 

(補足)特殊能力は通常、覚醒後に判明するものですが、エリックの場合は力が漏れているようです。

 

*天性属性

 地、水、火、風、氷、光、闇の七属性の中で、人が生まれながらに持つ属性のことです。ある程度遺伝による規則性があるようです。

 仮に他の属性の素養を持っていたとしても天性属性は最も扱いやすい能力として定着します。また、天性属性以外の素養ある属性は『複合属性』と言います。

 天性属性は覚醒時に判明するため、エリックは自分の天性属性を知らない状態です。そのため、彼のレーツェルは無色です。

 

*レーツェル

 武器などの無機物に魔力を注ぎ込むことで形状を変え、持ち歩きやすくした手のひら大の石のことです。美しい楕円形の宝石を思わせる見た目をしており、色は天性属性に対応して変わります。

 一度レーツェル化された物は作り主が破棄するか、物自体が破壊されない限りは常に石の形状をとります。

 

*ラドクリフ王国

 世界(アレストアラント)の右側に位置する国です。現在はエリックの母であるゼノビア=エヴィータ=ラドクリフによって統治されています。

 領土は本土のスケルツォ大陸と、一応領土になってはいるのですが、不思議な現象ばかりが起こるのでほぼ未開の地と化しているオブリガート大陸で形成されています。

 暖かい気候が特徴的で、分かりやすく言うなら「夏が長くて冬がない」土地です。何故かあまり表には出ていませんが、科学技術に長けています。

 十年前に起きたシックザール大戦に事実上勝利しており、国自体はかなり発展しているのですがかなり治安が悪く、殺人や人身売買がまかり通っているところがあります。また、鳳凰狩りという風習が残っています。

 

 現時点で登場している地名は、

・風の王都 ルネリアル(エリック、マルーシャが住む街)

・ヘリオスの森(ルネリアル近くのアルディスが住む森)

・ローティア平原(エリック達がしばらく彷徨った長い草の生い茂る平原)

・フォゼット大森林(野盗の巣窟となっていた手入れの施されていない森)

・交易の砦 アドゥシール(エリック達が一泊した、ルネリアル以外で最初に訪れた街)

・ラファリナ湿原(マルーシャが攫われ、連れて行かれた場所)

・ケルピウスの泉(霧がかかった時に寄り道した綺麗な泉)

・閉ざされし港 セーニョ(ラドクリフから出る時に訪れた場所)

 

 また、名前のみ登場しているのが、

・科学の拠点 トゥリモラ(ジャンクが物凄く嫌がった場所)

・嘆きの海辺街 ペルストラ(ポプリの出身地)

・魅惑の大都市 シャーベルグ(マルーシャの生まれ故郷)

……と、なっております。

 

*シックザール大戦

 十年前にラドクリフ王国とフェルリオ帝国間で起きた大戦です。

 この大戦以前から両国の関係は悪く、多くの事件が起きていました。ですがシックザール大戦による被害はそのいずれの事件とも比較できないほどに大きく、別の物として考えられています。

 ラドクリフ王国前国王、ヴィンセント=サミエル=ラドクリフの戦死によって戦は一時休戦となり、フェルリオ帝国側に後継者が誕生しなかったこともあって、そのまま十年もの年月が経ってしまいました。

 

*王家の紋章

 王位継承者が利き手の甲刻まれる刺青のことです。その許嫁は鎖骨の中心に彫られます。ただし特に魔力を秘めているというわけもなく、普通の刺青です。

 

(補足)エリックは右手の甲、アルディスは左手の甲に刺青を持ちます。マルーシャは鎖骨の中心にある、と自称しています。

 

*エリックの持病

 原因不明の呼吸器系の持病です。この持病のため、エリックは不定期に激しい咳による呼吸困難に陥ります。

 さらに因果関係は不明ですが、エリックはかなり風邪などに掛かりやすい傾向があります。どうやら免疫力が弱いようです。

 普段は薬で発作の発生を抑えており、それとは別に即効性の薬を所持しています。発作に関しては救済系能力者の治癒術も効果があるようです。

 

(補足)実はエリックは旅に出てからは発作が軽減されています。しかし、ある一定条件下で発作の発生率が急上昇しています。

 

*鳳凰狩り

 前王ヴィンセントが生み出した法であり、風習です。内容はラドクリフ国内にいる純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)を捕獲し、城に連れてくれば生死は問わず多額の報奨金を与える……というもの。

 悪しき法ではありますが、国内の混乱を抑えるために今もなお残り続けています。特にディアナはこの風習に酷く苦しめられていたようです。

 

(おまけ)

*主人公?

 本作はW主人公Wヒロイン制で進行しています。時々視点がエリックからアルディスに移るのはそのためです。

 一応エリック&マルーシャがメインではありますが、ちょいちょいアルディス&ディアナに持っていかれますし、第二部後半に関しては完全にメインが逆転します。結果的には半々くらいに見せ場ができれば、と思っています。

 

*主人公としてのエリックとアルディス

 エリックは仲間との交流を深めつつ成長していき、アルディスは隠された世界の謎を解き明かす……といった動き方が目立っていきます。つまり第二部はやたらエリックが仲間を男女問わず攻略しています。

 ちなみに「エリックが仲間攻略に失敗すると、その仲間が死ぬ」という謎設定も存在しています。(要は好感度分岐)失敗ルートも番外小説化する予定なので、興味のある方は覗いてみてください。

 

 

◯アルディス

本名:アルディス=ノア=フェルリオ

偽名:アルディス=クロード

年齢:18歳

誕生日:11/19

種族:純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)

特殊能力:意思支配(アーノルド・カミーユ)(精神系能力)

天性属性:光(素質は闇を除く全属性)

国籍:フェルリオ帝国

 

 もう一人の主人公。正規主人公より目立つ気がしますが気のせいです。

 フェルリオの皇子であり、偽名は一時期暮らしていた家の名字を借りたもの。実年齢より若干幼く見えます。

 自分を蔑ろにしがちですが、素直で優しい性格。ヴァイスハイトとして生を受けるも、八年前のペルストラ事件の際にポプリに右目を斬られて多くの力を失ったようです。加えて虚無の呪縛(ヴォイドスペル)を受けているため、魔術は基本的に使えない状態と化しています。

 戦時中に嵐の海に落ち、溺死しかけたトラウマから水恐怖症(水の溜まった場所全般と水属性の攻撃術)です。その後、ペルストラに流れ着いて助けられるのですが、二年後に前述のペルストラ事件に巻き込まれてしまいます。

 その時に受けた精神的なショックが原因で、笑うことができなくなってしまいました。このことは本人も酷く気にしているようです。

 ラドクリフ城に残された資料によると、どうやら一つ下の妹がいるようです。

 

【本編開始時点での関係図】

エリック:幼馴染、親友、宿敵

マルーシャ:幼馴染、親友

ディアナ:実は面識あるかもしれない

ポプリ:義姉

ジャンク:初対面

 

【用語解説】

 

*特殊能力『意志支配(アーノルド・カミーユ)

 精神系能力の一種。非常に制限が多く、弱点も多い代わりにかなり強い特殊能力です。主な能力は「特定の相手にテレパシーを送る」、「近くにいる他の能力者の力をコピーし、代わりに発動する(その能力に詳しい知識を持つ必要がある)」、「他者を操る」ことです。

 いずれも術者への反動が大きく、さらに常に術者自身が他の能力と干渉し過ぎる状況に置かれるため、良い影響も悪い影響も受けやすい傾向があります。

 

(補足)アルディスは後述の呪いの影響もあり、作中ではあまり能力を使用しません。ただし元々「他者を操る」能力に関してはかなり苦手としており、使い物にならないようです。

 

*フェルリオ帝国

 世界の左側に位置する国です。現在は統治者不在のまま、民衆による一時的な政治が行われているようです。

 領土は本土のセレナード大陸に加え、コラール大陸、パルティータ大陸、カプリス大陸といくつかの大陸に分かれて構成されています。

 かつては様々な民族による小国が形成されていたようですが、今では銀髪に青い瞳を持つ聖者一族による政治が行われていた……ようでした。(現時点不明確情報)

 寒い気候が特徴的で、分かりやすく言うなら「冬が長くて夏がない」土地です。

 十年前に起きたシックザール大戦に事実上敗北しており、今もなお帝都は悲惨な状態となっています。

 

 現時点で登場している地名は、

・さえずりの港 ヴィーデ(一瞬だけ描写された、フェルリオ最初の街)

・崩壊の帝都 スウェーラル(もはや瓦礫)

……です。

 

*ヴァイスハイト

 右目に金色の瞳と、全属性の素質を持つ、生まれながらにして魔術能力の高い天才であるとして知られています。

 パーティ内ではアルディスとジャンクが該当します。それぞれ攻撃能力、補助能力に特化しています。

 元々保有する魔力がとても多い上に自力で魔力を生み出すことができる(通常は食べ物などから摂取する必要があるのですが、ヴァイスハイトは体内で魔力を生み出せる)ため、実質無限に魔力を生み出すことができます。

 さらに保有する魔力を睡眠による疲労回復の代わりにする、食事の代わりにするといった、通常ならありえないことを可能とする、その力の強さから疎まれることが多い悲しき存在です。

 純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)同様に目を抉れば能力を奪い取れる存在(ヴァイスハイトの場合は右目限定)であるとして、そういった目的で命を狙われることも多々あります。

 また、獣の姿に身体を変化させる能力『獣化』という力を得ているヴァイスハイトも存在します。

 

(補足)アルディスはポプリに右目を斬られ、彼女に闇属性の素質をはじめ、能力の大半を奪われる形となっています……が、素の能力があまりにも高かったため、現在でも彼の魔術能力は高い水準にあります。そんな彼ですが、何故か自分を「偽物」と表現しています。

 

*ペルストラ事件

 八年前、黒衣の龍が自国の街であるはずのペルストラを襲い、街を壊滅させた事件です。実際のところ目的は不明ですが、アルディス及びペルストラの住民達はフェルリオ皇子アルディスという存在がいたからこそ、ペルストラが襲われたに違いないと考えています。

 

(補足)この事件の直後、アルディスはポプリに目を抉られています。彼の中では目の件よりも、その時に言われた『疫病神』という言葉が酷いトラウマになっているようです。

 

*黒衣の龍

 ゾディートが率いる騎士団ですが、国からしてみれば忌まわしき存在ということもあり、公式で認められているわけではありません。

 元奴隷であったり、牢につながれていた人物を組み入れている軍であること、ペルストラ事件の際に暴れ回ったのがこの黒衣の龍であったことから国民からの評判も悪いのですが、正規の王国騎士団が太刀打ちできないほどの強さを持つために放置されてきました。

 しかし、第一部終盤で突如指名手配扱いとなり……?

 

虚無の刻印(ヴォイドスペル)

 ラドクリフ王国が対純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)用に生み出した人工魔術です。

 対象に印を刻み、その印に対象の体内魔力を吸わせ、そのまま惨殺するといったもの。また、対象が魔力を用いた何らかの行動を行うとそれに反応して一気に魔力を吸い上げて激痛を与える、内臓器官などを負傷させる(結果吐血する)といった効果も持ちます。

 確かに効果的ではありますが、あまりにも非人道的であることから、ラドクリフ王国ではこれを禁呪としていました。

 

(補足)禁呪とされていたはずが、何故かアルディスはこれをペルストラ事件時に受けていました。この術により、アルディスは魔術を好き勝手に使えない状態となっています。

 

*体内魔力

 体内にある魔力。この世界の人々は血液と一緒に魔力を体内で循環させています。そのため、別名『血中魔力』とも呼ばれています。

 

 

◯マルーシャ

本名:マルーシャ=イリス=ウィルナビス

年齢:17歳

誕生日:7/5

種族:純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)……?

特殊能力:天恵治癒(エルフリーデ・イヴ)(救済系能力)

天性属性:風

国籍:ラドクリフ王国

 

 本作のヒロイン。エリックとペア扱いになる正規ヒロインです。

 七歳より前の記憶が無い(そのため本人は覚えていませんが、生まれ故郷はルネリアルではなくシャーベルグ)、異常に高い魔力の素質、自身の命を削っての治療法を可能とする危険な力……に加え、何故かヴァルガに「試作品」と言われ、挙句スウェーラルでは一時的に純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)化、それもどことなくアルディスに似た姿に……と、今までの生活からの変化の振り幅が誰よりも大きかったようです。

 自分自身のことは抑え込んでしまうため、不穏な状態ではあります。

 ただし他者、特にエリックを想うと感情を爆発させやすい傾向があるため、第一部の終盤では結果的にパーティ分裂を加速させることとなりました。

 

【本編開始時点での関係図】

エリック:許嫁、想い人、幼馴染

アルディス:幼馴染、親友

ディアナ:初対面

ポプリ:初対面

ジャンク:初対面

 

【用語解説】

 

*特殊能力『天恵治癒(エルフリーデ・イヴ)

 救済系能力の一種。主に外傷治癒に特化した力を持ち、単純に傷を癒すことだけを考えれば救済系能力の頂点に立つ強い力だと考えられます。

 ただし力が強いだけに術者への影響が強く、力の使い過ぎは危険です。

 また、擦り傷を治す程度の簡易な治癒術であれば、詠唱することなく発動することができます。

 

(補足)マルーシャは早期覚醒が原因で命を削っての治癒術発動(TPではなくHP削って治癒術が可能)が可能です。あまりにも危険だと、ジャンクはエリックに警告しましたがその原因は……?

 

 

◯ディアナ

本名:不明

偽名:ディアナ=リヴァース

年齢:15歳(現時点)

誕生日:12/22

種族:純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)

特殊能力:聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)(救済系能力)

天性属性:火(光属性の素質もあり)

国籍:フェルリオ帝国?

 

 もう一人のヒロイン。こちらはアルディスとペアになっています。不誠実な語り手技法でひたすら引っ掻き回しましたが、性別は女性。男装少女です。首の後ろに小さな火傷痕が大量に存在します。

 記憶喪失であり、一番新しい記憶は十四歳から始まっているようです。それに加えて両足が動かないという謎の症状を抱えています。原因は記憶が無いために不明。どちらも精神的要因だろうとジャンクは考えています。

 基本的に飛んでいるのは足が動かないため。翼を出せない時や、休みたい時などはチャッピーの背に乗っている。

 三重苦を抱えていることもあり、恐らく精神的にはかなり弱い方です。普段は虚勢を張っています。

 こんな状況にも関わらず、何故かアルディスの護衛役としてフェルリオからやってきたようです。

 記憶喪失に関しては本人が忘れている上からさらに思い出さないように術が掛けられているようです。

 

【本編開始時点での関係図】

エリック:初対面

アルディス:実は面識あるかもしれない

マルーシャ:初対面

ポプリ:初対面

ジャンク:過去に助けられた

 

【用語解説】

 

*特殊能力『聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)

救済系能力の一種。純粋な治癒力はそこまでありませんが、毒や麻痺といった、外傷治癒では治しきれない不調を癒す力に特化しています。また、祈ることによって対象の身体能力向上などの効果をもたらす『神託術(オプファリス)』や歌声に魔力を込めて発動させる『聖歌(イグナティア)』といった風変わりな術を使用することができます。

 

(補足)ディアナは記憶喪失ですが、身体が覚えていたようで能力自体は普通に発動させます……が、その能力がどのようなものかは理解できていないようです。

 

*年齢?

 第一話はアルディスの誕生日の一週間後、という果てしなくどうでも良い設定+時間が経たなさすぎる物語進行のせいで、ディアナとジャンクが第一部時点で歳をとりませんでした……。

 キャラ紹介は「物語の過半数を過ごす年齢」を記載しましたので、変な矛盾が生じておりますがご了承ください……。

 

(補足)ディアナの年齢及び誕生日はジャンクの透視によって判明しているものです。本人も知っていますが、あまり実感が持てないようです。

 

*チャッピー

 ディアナが連れている雄の鳥です。かなり大きく、パーティで最も背の高いジャンクを楽々背に乗せられる程度の大きさです。(縦二メートル、横一メートル半くらい)

 元々はジャンクが連れていた鳥ですが、何故かディアナの手に渡ったようです。

 非常に賢く、ディアナの指示にはよく従います。

 魔力を扱うこともできるようで、特殊能力『瞬光疾風(カールヒェン・ヨシュカ)』を持ちます。マスコット兼乗り物。

 

*特殊能力『瞬光疾風(カールヒェン・ヨシュカ)

 補助系能力の一種。脚力を高め、自分を含む対象の移動速度を上げます。かなりシンプルな能力ですが、その分とても扱いやすく、術者への負担が少なくて済むのが特徴です。

 

 

◯ポプリ

本名:ポプリ=クロード

偽名:ポプリ=ノアハーツ

年齢:20歳

誕生日:4/20

種族:龍王族(ヴィーゲニア)

特殊能力:秩序封印(ヴァルデマール・フレイヤ)(拒絶系能力)

天性属性:闇

国籍:ラドクリフ王国

 

 アルディスの事実上の義姉であり、八年前の事件の際にアルディスの右目を斬りつけた張本人です。皮肉にもその際に彼の力を奪い取る形となり、優れた魔術師として戦うことができるようになりました。

 事件の際に左足に酷い火傷を負い、歩行困難となってしまったのですが、彼女自身はそんなことよりもアルディスを気に掛けているようです。

 ジャンクとは過去に彼をダークネスと間違え、魔術をぶつけて以来時々行動を共にしているようです。何故かケルピウス絡みの話題になると対立します。

 実はペルストラ領主の娘。勿論後継候補なのですが、彼女自身はペルストラの現状を知らない状態です。

 本当の姓を名乗ると何らかの不利益があるようで、かつていたという孤児院の名前から取って「ノアハーツ」姓を名乗っています。ただし別に「クロード」姓が嫌いなわけでは無さそうです。

 

【本編開始時点での関係図】

エリック:初対面

アルディス:義弟

マルーシャ:初対面

ディアナ:初対面

ジャンク:付き合ってはない

 

【用語解説】

 

*特殊能力『秩序封印(ヴァルデマール・フレイヤ)

 拒絶系能力の一種。能力としては対象の動きを封じる、毒や麻痺といった状態異常を付与するなどのシンプルなものが代表的ですが、ある程度強い能力者になると遠く離れた対象に何らかの影響を与え続けることができる、物体の形状を簡易的に変化させることができる……といった物騒なことができるようになります。

 ただし強い力の場合は失敗すれば全て自分に跳ね返ってくるなど、大きなデメリットも存在します。

 また、拒絶系能力者全てに当てはまる話ですが、他の能力者との相性があまり良くないために、治癒術や支援術が若干効きにくい傾向があります。(精神系能力者は逆)

 

*ケルピウス

 ポプリが幼い頃に見たという、強い癒しの力を持つ聖獣です。神話によると恩返しをする習性があるそうな。

 ヒレがあちこちに生えている(耳は大きなヒレのような形状、手足に小さなヒレ、魚のような尾ビレ)という話から、恐らく水属性の聖獣だと考えられます。

 ジャンクが「いるはずがない」と言い続けてポプリを怒らせていましたが、存在しているとアルディスに言われてしまいました。そして第一部の最後で本当にいたことが判明しました。

 

 

◯ジャンク

本名:クリフォード=ジェラルディーン

偽名:ジャンク=エルヴァータ

年齢:22歳(現時点)

誕生日:1/8

種族:鳳凰族(キルヒェニア)

特殊能力:透視干渉(クラレンス・ラティマー)(精神系能力)

天性属性:水(素質は全属性)

国籍:ラドクリフ王国

 

 まさかの無免許医で、ダークネスによく似た容姿を持つ怪しい人です。精霊術を扱いますが、精霊術師(フェアトラーカー)ではなく神格精霊マクスウェルの配下『精霊の使徒(エレミヤ)』という存在でした。マクスウェルの指示を受け、ラドクリフ王国を徘徊していたようです。

 常に目を閉じているのはヴァイスハイトであるためで、何故か名字呼びを嫌がる、閉所・暗所恐怖症を持つなど色々抱え込んでいます。さらに何故か両手首に拘束痕のような物を持ち、左目はほとんど見えていないようです。

 常に能力を発動させているために同系統能力者のアルディスとの間で再々共解現象(レゾナンストローク)を暴走させています。その都度彼は精神的なダメージを受けているようです。

 ヴァイスハイトですが、混血であるためか性格のせいか、あまり攻撃魔術は得意としていません。その代わり、何故か治癒術が使える上に瘴気を浄化できる謎体質の持ち主であるようです。

 

【本編開始時点での関係図】

エリック:初対面

アルディス:初対面

マルーシャ:初対面

ディアナ:過去に助けたことがある

ポプリ:付き合ってはない

 

【用語解説】

 

*特殊能力『透視干渉(クラレンス・ラティマー)

 精神系能力の一種。対象の本質を視る……というとてもシンプルな能力です。大きく分けて生体透視(生き物を透視する。感情や体内の状態を視る、など)と物質透視(生き物以外の物を透視する。本を開けずに中を読んだり、機械の扱い方を読んだりする、など)に分けられます。この世界の七割がこの能力に目覚めますが、残念ながら扱いが非常に難しいため、その半数は発動することさえできないそうです。

 

(補足)ヴァイスハイトであることも理由ではありますが、つまりジャンクは例外中の例外です。

 

精霊術師(フェアトラーカー)

 精霊と心を通わせ、彼らの力を借りて魔術を発動させる者の総称ですが、基本的には、下位精霊を従えている人々のことを指します。

 全ての人間がなれるわけではなく、精霊達、特に下位精霊が使っている精霊言語を聴き取り、理解できること(そもそも普通の人には聴こえないモスキート音のようなものである上に、理解するには特殊な絶対音感もしくは音を即座に判別するための膨大な知識が必須となる)が条件となるためにかなり珍しい存在です。

 

(補足)ジャンクは素質はしっかりあるのですが、実際に訓練して精霊術師(フェアトラーカー)になったわけではなく、マクスウェルに精霊を従える力を借りているだけのようです。

 

*下位精霊

 詳細は不明ですが、意思を持った魔力の小さな塊であると考えられています。見た目は直径十センチから十五センチほどの小さな光の球体に見えます。

 実は喋るのですが、精霊術師(フェアトラーカー)の素質を持つ人々にしかその声(音)は聴こえません。そのため、素質を持つ人間を見つけると珍しがって傍に寄りたがる習性があります。

 下位精霊は音を好むため、精霊術師(フェアトラーカー)は何らかの音を媒介に彼らを使役します。

 

*神格精霊マクスウェル

 七大精霊ノーム、ウンディーネ、イフリート、シルフ、セルシウス、レム、シャドウを従える精霊のことです。この世界のどこかにいるようですが、現時点では所在は不明です。

 七大精霊のうち、レムはアルディスと契約を結んでいます。

 

(補足)ジャンクの「あるお方」、「あのお方」は十中八九マクスウェルのことを指しています。どうやらジャンクはマクスウェルに可愛がられていたようです。

 

精霊の使徒(エレミヤ)

 神殿から動くことのできないマクスウェルの配下として動く人間のこと。彼らはマクスウェルの力の一部を貸りて何らかの使命を果たすために世界を巡ります。守秘義務が存在する辺り、どうやら規定が厳しいようです。

 現時点ではジャンクが精霊の使徒(エレミヤ)であること以上の情報はあまり出ていません。

 

共解現象(レゾナンストローク)

 精神系能力者同士、救済系能力者同士など、同系統能力者が傍にいると発生する現象です。

 簡単に言うと、視えにくいものが視えやすくなる、治癒術の効果を上げるなど、互いの能力を高め合うのです……が、ヴァイスハイト同士でもあるアルディスとジャンクの場合は能力を高め過ぎてしまい、視るつもりが無かったものまで視えてしまうといった『暴走』現象が時々発生しているようです。

 

*瘴気

 シックザール大戦以降、どこからか流れ込んでくるようになった汚染物質(のようなもの)を指す言葉です。ジャンクは無意識のうちにこれを浄化していたようです。

 小さな子どもや老人、そしてエリックのように身体の弱い人間に悪影響をもたらすものでもありますが、最も影響を受けるのは精霊達なのだとか。

 

 

 

▼敵陣営▼

 

 

◯ゾディート

本名:ゾディート=カイン=ラドクリフ

年齢:30歳

身長:179cm

体重:65kg

種族:不明

特殊能力:不明

天性属性:不明

国籍:ラドクリフ王国

 

 騎士団『黒衣の龍』の騎士団長であるエリックの兄。さらさらとした長い黒髪に銀色の瞳をした、中性的な容姿の持ち主です。

 エリックとはあまりにも似ていない上に容姿が容姿なので、恐らくエリックとは異母兄弟で彼自身は混血種であると考えられます。外見はやたら若々しく、二十代前半から二十代半ば程度に見えます。

 前王ヴィンセントを殺した疑いを掛けられているのですが、真相は闇の中です。

 

 

◯ダークネス

本名:不明

年齢:不明

身長:183cm

体重:70kg

種族:鳳凰族(キルヒェニア)

特殊能力:透視干渉(クラレンス・ラティマー)(精神系能力)

天性属性:氷

国籍:不明

 

 騎士団『黒衣の龍』の副団長。空色の短い髪と、目隠しをするように顔の大半を覆う黒い布が特徴的な男性で、外見年齢は二十代前半です。

 ゾディートの執事で、彼の指示に対してはかなり忠実に従います。敬語が使えないわけではないのですが、非常に口が悪いため、基本的には乱雑な口調で喋っています。元々は牢につながれていたようですが、詳細は不明です。

 エリック達の前には足技を駆使した格闘技と精霊術師(フェアトラーカー)特有の精霊術を使用して立ちはだかりました。

 ポプリとは何らかの因果関係があるようです。

 

 

◯ヴァルガ

本名:不明

年齢:不明

身長:187cm

体重:84kg

種族:純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)

特殊能力:不明

天性属性:不明

国籍:不明

 

 黒衣の龍に所属する兵士。少し癖のある短い茶色の髪に紺色の瞳をした、見た目三十代前半くらいの男性……なのですが、彼は前王ヴィンセントの側近という経歴を持ち、その頃から一切変わらない彼の見た目を気味悪がる人々は大勢います。

 本業は研究職のようですが、何故か剣と弓を手に戦場に出ていくこともあるようです。シックザール大戦にも参戦しています。

 

 

◯フェレニー

本名:不明

年齢:不明

身長:174cm

体重:62kg

種族:純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)

特殊能力:不明

天性属性:闇

国籍:不明

 

 黒衣の龍に所属する娘。外見年齢は二十代後半くらいです。さらさらとした短い赤毛と、猫のような茶色の瞳が特徴的です。

 魔術はあまり得意では無いようで、魔力を指先に集めて爪を作る、ナイフを作るといった風変わりな戦い方をします。また、魔術が得意では回ないことから純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)であることが想定されます。

 かつては死刑囚であったようなのですが、ゾディートによって牢から出されました。囚人生活が長かったようで、そのためか口調はかなり乱雑。

 しかし、彼女がどのような罪を犯したかは誰も知りません。

 

 

◯ベリアル

本名:不明

年齢:不明

身長:112cm

体重:21kg

種族:純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)

特殊能力:天恵治癒(エルフリーデ・イヴ)

天性属性:地

国籍:不明

 

 黒衣の龍に何故か身を置いている純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)の少女です。腰に付く程度の長さに伸ばされた薄紫色の癖のない髪と、丸い濃紫の瞳を持ち、見た目は六、七歳程度に見えますが、彼女の場合は発育不足の可能性が考えられます。

 純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)らしく、魔術を用いた戦いを得意とするようです。ただし前衛ができないわけでは無いようで、ディアナのように空を飛びながら巨大なハンマーを振り回して戦うこともできるようです。

 常にびくびくしており、特にヴァルガに対しては酷く怯える傾向があります。



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第2部
Tune.27 鳳凰の後継者


 

――身体が、重い。痛みはほとんど無かったが、関節のいたる所が軋む。

 

(僕……は……)

 

 まだぼんやりとした意識の中、エリックはゆっくりと身体を起こした。

 荒廃しきったスウェーラルの街並み。風に乗り、微かに漂ってくる鉄の臭い。そして、酷く傷んだ自らの服を見て、エリックは紅い瞳を細め、右手を握り締める。

 

(ッ……本当に、僕は生かされた、のか……)

 

 あれだけの圧倒的な差を見せ付けられてから、自分達は負けた。

 殺されていたとしても、おかしくはなかった――つまり今、こうして意識を保っていられるのは、もはや疑いようもなく兄達の情けがあったからこその話。

 

「! そうだ! マルーシャ! ポプリ!!」

 

 だが今は、「悔しい」と嘆いている場合ではない。戦いを共にし、自分と同じように兄達に傷を負わされたマルーシャとポプリは今も、目覚めることなく地面に転がっていた。

 エリックは慌てて彼女らの元へと駆け寄り、呼吸をしているかどうか、脈はちゃんとあるかを確認する。どちらも、正常だった。

 

(……良かった。大丈夫そうだ……)

 

 最悪の事態は回避できたと、エリックは胸を撫で下ろす。しかし、彼自身もそうではあったが、マルーシャにもポプリにも目立った外傷は見られなかった。

 マルーシャが先に目覚めて傷を癒してくれたのかもしれないが、それは少し不自然だ。ゾディートもダークネスも救済系能力者では無いし、そもそも彼らが傷を治して去っていくとは思えない。ディアナが傷だけ治して立ち去ったとも考えられない。それならば、第三者がここに来て、傷だけを治して去っていったということになる。

 一体誰が助けてくれたのだろうとエリックは思考を巡らせ――そして、すぐにある結論へと行き着いた。

 

「ケルピウス……」

 

 

『太古より、ケルピウスは清らかな癒しの力を持つと伝えられています。だから、ケルピウスの血は良薬になるとされていて……』

 

 

「……ッ」

 

 博学な親友の言葉が、脳裏を過ぎっていく。その親友の顔を、声を思い出し、エリックは固く目を閉ざした。

 

「エ、リッ、ク……?」

 

 下からマルーシャの声がした。閉ざしていた目を開くと、決して良いとは言えない顔色をしたマルーシャが、自分の顔を覗き込んでいた。

 

「……。大丈夫、か?」

 

「うん……」

 

「エリック君、マルーシャちゃん……」

 

 身体を起こしたマルーシャと、彼女の前に座り込むエリックの姿を、今にも泣き出しそうな表情をしたポプリが見つめてくる。彼女も、目を覚ましたらしい。

 

「お前にも、色々聞きたいとは思っている」

 

「!」

 

 自分でも驚く程に、感情のこもっていない冷たい声であった。マルーシャの黄緑色の瞳が、不安げに揺らぐ。

 本当はここで、ポプリを問いただしたい気分であった。しかし彼女が息を飲み、肩を震わせたとマルーシャの表情を見て、エリックは静かに頭を振るい、軽く深呼吸してから口を開いた。

 

「だけど、話は後だ。とにかく……皆と合流しよう」

 

「そう、だね……」

 

「……分かったわ」

 

 エリックの選択は、間違ってなどいないだろう。それでも、心のどこかで二人は――特にポプリは、このまま彼らが、アルディスがこの地を去ってくれることを願わずにはいられなかった……。

 

 

 

 

 

 

「! ジャン……」

 

 しばらく街を歩いていると、大きく開けた、広場のような場所で白衣の裾を靡かせているジャンクの姿を見つけた。

 彼がいつも腰に身に着けている黒い布が無くなっていることと、かなり顔色が悪いことを除けば目立った問題はなさそうである。

 ジャンクはエリック達の存在に気付くと、ゆっくりと首をこちらに向けて無理矢理貼り付けたような、歪な笑みを浮かべてみせた。

 

「無事でしたか、皆……いや、無事とも言えなさそう、だな」

 

 どうして彼が、そのような笑みを浮かべたのか。その理由は、彼に近付いていくうちに分かった。ジャンクの周りに、血で汚れたガーゼや包帯、刃こぼれして駄目になったメスが大量に転がっている。

 

「ここの住民を、助けていたのね」

 

「……」

 

 ポプリの言うように、彼は怪我をした住民の治療を行っていたのだろう。だが、肝心の患者の姿はどこにもない。血や土で汚れ、擦り切れた手を握り締め、ジャンクはゆるゆると首を振って俯いてしまった。

 

「……ほとんど、助けられなかった。僕がここに来た時には、大半が手遅れでした……」

 

 ジャンクの弱々しい声を耳にすると同時、エリックは広場の至る所の土が不自然に盛り上がっていることに気付いた。それが墓であることと察した途端、胸に暗く、重々しい感情が込み上げてくる。

 あまりにも膨大な数。申し訳程度に立てられた細い木の板。そこに直接刻まれた名前――信じたくは無かった。だがそれらは全て、黒衣の龍が、自国の兵士達によって残虐にも殺された人々の、あまりにも簡易で、粗末過ぎる墓。

 

「……報われませんよね、こんなのじゃ」

 

 その見栄えを気にしているのだろう。ジャンクは悲しみを隠しきれない笑みを浮かべてみせた。

 

「この状況では、これが精一杯だった……だから、せめて名前だけでも、とは思った。幸いにも、僕は透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力者でしたし……名前を透視くらいのことなら、と」

 

「先生……」

 

 ジャンクが目の当たりにした光景を想像したらしく、ポプリは絞り出すようにして出した声を震わせる。それに対し、ジャンクは眼鏡のフレームを軽く抑えた後、曇ったフェルリオの空を仰いだ。

 

「勝手に、こういったことをするのはどうかと思っている。だが僕は、彼らを……そのままの姿で、野晒しには、できなかった……」

 

 ガラクタのような墓標に名前こそ刻んではいるが、それだけだ。恐らく、その下の亡骸は棺に収められることなく、そのまま埋められているに違いない。

 アルディスやディアナの姿はここには無い。途中ではぐれてしまったのかもしれない。つまりジャンクは、たった一人で数多の亡骸を形だけとはいえ埋葬したということになる。

 廃墟のような今のスウェーラルの状態を考えても、亡骸全てを綺麗に埋葬することは不可能だ。これが、限界だったのだ。

 しかし、そんなことをするくらいならば、直接埋めるくらいならば、何もしない方が良かったかもしれない。そう言ってジャンクは俯き、酷く汚れ、傷ついた手のひらを強く、握り締めた。

 

「見て見ぬふりだなんて、そんなこと、僕にはとても、できなかったんです……」

 

 無免許医といえども、ジャンクは医者だ。やはり一人でも多くの生命を救いたいという思いが、彼にはあったのだろう。救えなかった生命を前にした彼は、酷く傷付いていた。

 

「ジャン……」

 

 そんな彼に「早く先に行こう」などと言える者は、先を急ぎたいエリックを含めて誰一人としていなかった。

 だが、能力柄何か感じ取ることがあったのだろう。ジャンクは踵を返し、数多の墓に背を向けた。

 

 

「……行きましょう」

 

「え……」

 

「急ぐのだろう? 僕としては……エリック、お前をアルディスに会わせたくは無いのですがね」

 

「――ッ!」

 

 透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力者であり、アルディスを気にかけていたジャンクのことだ。彼もポプリ同様、自分達が知らずにいた事実を知っていたのだろう。

 ハッキリと「アルディスに会わせたくない」と言い切ったジャンクに対し、エリックは割れてしまいそうなほどに奥歯を強く噛み締めた。

 

「それでも、お前が彼に会おうと思うのならば……もう、僕は止めない。ただし僕も、自分が考えるように動きたいと思います。良いですね?」

 

「……」

 

 その言葉が意味することが何なのか。具体的には分からないが、大体の察しは付いた。だからこそ、何も言えなくなってしまった。彼の思いを拒否する権利はエリックには無い。警告してくれただけ、良いと思うべきだろう。

 気分が悪くなるような思いを胸に、エリックは前を見据える。視界に入ってきたのは、見覚えのある藍色の髪をした少女であった。

 

 

「アルディス――ッ!! アル――ッ!!」

 

 

 少女は――ディアナは、必死にアルディスの名を叫んでいる。

 

「え……? アイツ、アルとはぐれたのか?」

 

 名を呼ぶということは、恐らくそういうことだろう。声の主の元へと駆けるジャンクの後を、エリック達も追う。

 

「ディアナ!」

 

「ジャン! その……アルディスを見なかったか? 目が覚めたら、どこにも居なくて……!」

 

 手に持っていた黒い布をジャンクに返しながら、ディアナは酷く狼狽えた様子で辺りを見回している。

 

「僕は見ていませんね……」

 

「そうか……」

 

 残念そうに眉尻を下げるディアナの目が、その場に立ち尽くしているエリックとマルーシャを捉える。だが、彼はぷいと二人から目を逸らし、どこかへ飛び立とうと翼を動かした。

 

「こらこら待て待て……もう、単独行動はしない方が良いと思いますよ」

 

「だが……!」

 

「ディアナ君……その、気付いちゃったのよ……彼ら……」

 

 ポプリの言葉に、ディアナは青い瞳を大きく見開き、エリックとマルーシャの姿をもう一度見た。

 

「……ッ」

 

 ディアナは、何も言わなかった。ただ、彼女は下がっていた眉尻を上げ、忌々しそうにエリックとマルーシャを睨み付けた。まるで、「もうあなた達は敵だ」と訴えるかのように。

 

 アルディスがノアだと知ってしまった時、エリックはディアナが必死に遂行しようとしていた使命が何なのかも同時に悟っていた。

 彼女の使命、それは恐らくフェルリオ皇子であるノアの護衛――つまり主人であるアルディスの行動によっては、彼女も無条件で敵となる。

 

(どうして、こんなことになったんだよ……)

 

 今思えば、自分もマルーシャもとんでもない者達と行動を共にしていたということだ。不安そうに自分を見上げてくるマルーシャと顔を見合わせ、エリックはおもむろに頷いた。

 

「……」

 

 

――会話が、言葉が、何も浮かばない。

 

 

 それは何もエリックに限らない話らしく、マルーシャもディアナも、ポプリとジャンクですら無言だった。ただ、皆揃いも揃って黙り続けているわけにもいかないだろう。

 

(僕が、ノア皇子と同じ立場なら……どこに、行くだろうか……)

 

 この状況だ。逃げ出した、と言われても納得できなくは無い。だが、自分もノア皇子もそこまで無責任では無いと思う。

 

「……。スウェーラルも、やっぱり城、になるのか……?」

 

「え……?」

 

「僕なら、街全体を見渡せる場所に行く……そこが城なら、尚更だ」

 

 エリックの言葉に、ディアナは一瞬だけ目を丸くして視線を泳がせた。先程までの彼女は随分と狼狽えていたし、そのような発想には至らなかったのだろう。

 

「城は……フェルリオ城は、ここから少し離れた、崖の近くにある……」

 

 そう言って、ディアナはある一点を指差した。その指が示す先には、確かに大きな建物があった。それは、かつては城であったと分からない程に崩れてしまっていた。

 

「……とにかく、あの場所に行こう。話は、それからだ」

 

 もう、現実から逃げ出すつもりは無い。エリックは迷わず、フェルリオ城に行くことを選んだ。そこにノア皇子が居ようが居まいが、とにかくフェルリオの城は見ておこうと思ったのだ。

 

「あ、待って。エリック」

 

 歩き出したエリックの後をマルーシャが、他の仲間達が追う。

 当然のことではあるが、彼らの表情はいずれも重く、本当に暗い物であった……。

 

 

 

 

「ここが、フェルリオ城……」

 

 エリック達の前に現れたのは、朽ち果てた城の壁。辺りには無造作に草が伸び、廃墟としか言えない空間がそこには広がっていた。フェルリオ城跡、という言葉の方が合うような気すらしてくる。

 

 十年前のシックザール大戦で崩されたまま、誰にも手を付けられずに時だけが経過してきたのだろう。先の戦争でここに住まう筈の皇帝家が堕ち、フェルリオという国自体も大きな被害を受けたのだから、再建されていないという事実にも納得はできる。

 それでも、国のシンボルとも言える城の惨状を目の当たりにしたエリックは、違う国の王族であるとはいえ喪失感によく似た複雑な思いを抱かずにはいられなかった。

 

「え、えっと……変わった場所にあるんだね。フェルリオ城って」

 

 何とも言えない空気の中、マルーシャは何とか話題を作ろうと口を開く。彼女が言うように、フェルリオ城は城に居ながら街を見渡せるような、高い地に作られている。

 そのような所は、ラドクリフと同じだった。ただ、ここの城は丘というよりは崖の上にあったのだ。城の後ろには、濁りのない藍色が美しい大海原が広がっている。

 

「確かに……これじゃ、攻め込まれても逃げられないじゃないか。危険だろうに……」

 

 ここで、しっかりとその存在を訴えていた頃のフェルリオ城の姿をエリックは知らない。それはあくまでも想像上の話だ。だが崩れずに残った壁を見れば、城が崖先ギリギリの場所に建てられていたことは明らかである。逃げるための裏道も、この城には存在しなかったことだろう。

 

 

「――民を守るべき皇帝家に、逃げ道など必要ない。当たり前でしょう?」

 

 

 そんなエリック達の耳に、“本当に”聞き慣れた声が届いた。

 

「ア、ル……?」

 

 聞き間違える筈が無かった。それは、エリックがこの街の中を歩き回り、探していたアルディス張本人の声だったからだ。

 だが、比較的高めの印象を与える彼の声はどこかいつもより低く、こちらを威嚇してくるかのような、軽蔑しているかのような鋭い印象を受けた。

 

「下賎なラドクリフ王家に、私達の信念は伝わらないということでしょうか?」

 

「なっ!?」

 

 崩れ落ちた城の中にいたらしいアルディスは、冷たくそう言い放ち、姿を表す。彼は、何も変わらなかった――首に赤い宝石の付いたネックレスを下げていたことと、今まで決して取らなかった、フードを被っていなかったことを除けば。

 前髪の両サイドだけ伸ばされてはいるものの、短い白銀の髪では隠せない長い耳。否、そもそも今となってはその耳を隠す気などないのだろう。

 

「アルディス!!」

 

 エリック達の姿を一度も振り返ることなく、ディアナは翼を大きく動かして彼の元へと飛び出していった。その表情には、確かな焦りの色が見える。

 

「どうして……どうしてですか!? 何故、自ら正体を明かすようなことを!?」

 

「……」

 

 ディアナの主張は最もである。事実、彼の行動はエリック達も驚かされた。彼はまだ、エリックとマルーシャが正体に気付いたということを知らない筈なのだから。要するに彼は、最初からここで正体を明かすつもりだったのかもしれない。

 

「大体、勝手にオレを置いて城に来るなんて! そんなの、自殺行為です!」

 

「ディアナ……」

 

「オレもジャンも、危険だと申し上げた筈です!! なのに、どうして……!!」

 

「……。ごめん」

 

 アルディスの顔も見ず、一方的に叫び続けたディアナは“それ”に気付くことができなかった。結果、完全に反応が遅れてしまった。

 

 

「か、は……っ!?」

 

 ディアナの腹に、鈍い痛みが走る。一体何が起きたのかと思考を巡らせる彼女を襲うのは、強い嘔吐感と、それ以上に辛い圧迫感。アルディスに殴られたのだと気付くと同時、彼女の意識は薄れていった。

 

「……」

 

 何も言えずに意識を失った彼女の身体を支えながら、アルディスはディアナの両翼を掴む。その手には、薙刀が握られていた。何をする気なのか察したエリックは、声が震えそうになるのも気にせず声を張り上げる。

 

「アル!」

 

 その呼びかけに彼は、答えない。アルディスはディアナの翼を掴んだまま、迷うことなくそれを根元から斬り落としてしまった。

 

「――ッ!」

 

 切れた羽根は彼らの周りで力なく地面に落ちていき、魔力の粒子となって消えていく。チャッピーがいない今、それはディアナの移動手段を断つ行為に他ならない。信じられない、行為だった。

 

「アルディス……何でそんなことするの……!?」

 

「そうよ! 彼は……っ」

 

 マルーシャとポプリに、仲間達に困惑の表情を向けられようと、アルディスの表情は動かず、変わらない。まるで、人形のように。

 

「……目的を達するためなら、私はどこまでも非道になれる。それだけです」

 

「アル……ッ」

 

 優しいアルディスの、親友の姿はそこには無い――ここまで来て、エリックは未だに自分が彼とノア皇子を結び付けたくない、判明した事実を認めたく無いのだと思っていることに気付いてしまった。一体いつまで逃げ続けるやら、と自嘲的な笑みさえ、浮かべてしまいそうになる。

 

(どうして……)

 

 上手く、言葉が出ない。事実を確認するために、真実を知るためにここまで来た筈なのに、身体が動かない。

 

 

「――天光、来れ」

 

 そんなエリックの様子には目もくれず、アルディスは薙刀を手に詠唱を開始する。彼の真下に浮かんだ魔法陣が、首に下げられたネックレスの赤い宝石が、まばゆい光を放った。

 

「!? みんな、逃げて!!」

 

「レイ!!」

 

 エリック達の真下にも、光の魔法陣が浮かんでいた。やはり、正真正銘の純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)だけあってアルディスの詠唱速度は早い。マルーシャの叫びと、術の発動。それは、ほぼ同時に起きたことだった。

 

「くっ!?」

 

 頭上から、無数の光線が豪雨の如く降り注ぐ。エリックは咄嗟に身体をひねり、何とか直撃だけは免れる事が出来た。しかし、それでも光線のうちの何本かは身体をかすめていったらしく、皮膚や髪、衣服の焦げた臭いが鼻に付いた。

 

「皆……! 無事、か……!?」

 

 身体を起こし、エリックは同じように魔法陣の中にいた仲間達に目を向ける。全員、上手く光線をかわすことができただろうか、と。

 

「わたしは平気……」

 

「あたしも、なんとか」

 

 元々、命中率の低い術であったことが幸いした。若干服や肌を焦がしてはいるが、マルーシャもポプリも動きに支障は無さそうだ。

 

「……ッ、う……っ」

 

「!? ジャン!!」

 

 

――だが、それでも全員が無事に避け切れたとは言えなかったようだ。

 

 

 焼け焦げた白衣の背に血を滲ませ、奥歯を噛み締めて倒れているジャンクの姿が、先程まで魔法陣が浮かび上がっていた場所にあった。

 

「酷い出血だよ……! ジャン、しっかりして……っ!」

 

 地面に生えた草を握り締め、ジャンクは微かに身体を痙攣させている。出血が多いのだろう。だが、あの術でこのようなことになるとは思えなかった。

 第一、確かに直撃を受けたようではあったが、出血場所と光線に焦がされた場所が一致していない。この場合、むしろ術を受ける以前に負っていた傷が、衝撃で開いてしまったと考える方が自然だろう。

 そもそもジャンクは、どういうわけか魔術に対する抗体が恐ろしい程に無い。直撃を受けた上に、この傷だ。彼が意識を失うのも、時間の問題だろう。

 

「な……んで、だよ……どうして……!」

 

「……」

 

 エリックは思わず、アルディスを睨み付けていた。今は完全に、彼が憎いと思ってしまっていた。それに応えるかのように左手に付けた手袋を投げ捨て、アルディスはゆっくりと、こちらに近付いてくる。

 

 

「……名乗るのを、忘れていましたね」

 

 しきりに「どうして」と繰り返す、かつての仲間達の呼びかけには答えない。素手で握られた薙刀の切っ先は、鈍い輝きを放つ銀の刀身が、エリック達の複雑な表情を映している。

 彼の白い左手の甲に刻まれた濃紺の印は紛れもなく、フェルリオ帝国の紋章で。月を象ったそれはエリックに、彼が今まで散々逃げ続けていた現実を突きつけてきた。

 

 

「改めまして――私はフェルリオ帝国第三十九代皇帝候補、アルディス=ノア=フェルリオと申します」

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.28 厳酷なる決戦

 

「改めまして――私はフェルリオ帝国第三十九代皇帝候補、アルディス=ノア=フェルリオと申します」

 

 

 親友に告げられた真実が、困憊したエリックの心に重く伸し掛ってくる。親友の瞳には、一抹の迷いも無い――それが、無性に悲しく、辛かった。

 恐怖とも絶望とも取れる震えが、エリックを襲う。一気に闇の中に引きずり込まれたかのような、そんな心境だった。目の前が、真っ暗になる。

 

「エリック君!」

 

 ポプリの声と共に、エリックは勢いよく突き飛ばされたことで身体が宙に浮くのを感じた。そして漸く、目の前のアルディスが魔術を唱えていたことに、自分を助けるために身を投げ出したらしいポプリが、煌めきを増す魔法陣の中心で起き上がることができないまま蹲っていることに気が付いた。

 

「――ホーリーランス!!」

 

「きゃあぁっ!」

 

 魔法陣の中心に向かい、光の槍が降り注ぐ。それらは全て、そこにいたポプリの身体を貫き、焼いていった。

 アルディスの力の一部を得たためか、彼女の魔術に対する耐性はかなりのものだ。それでも、アルディスの術の威力は、それを明らかに凌駕していた。

 

 術によって生み出された矢が消えた後、ポプリに残されたのは真っ赤に焼かれ、かなりの激痛を彼女に与えているに違いない痛々しい火傷の傷だった。

 

「ポプリ!」

 

 慌てて、マルーシャが治癒術の詠唱を開始する。心配させまいと思ったのか、ポプリは無理矢理口角を上げ、エリックとマルーシャに笑い掛けてみせた。

 

「ッ……あたしでも流石に、直撃は辛いわね……」

 

 だが、そんな彼女の強がりも長くは続かなかった。上がっていた口角はすぐに下がり、それを隠すように、ポプリは咄嗟に下を向いた。

 

「アル君……ノア! どうして……どうしてよぉ……っ!!」

 

「アルディス……」

 

 ポプリは、泣いていた。治癒術を発動させたマルーシャも、今にも泣きそうだった。ショックを受けているのは、自分だけではないということだ。エリックは頬を叩き、二人の前に飛び出した。

 

「おい……! ふざけるのも大概にしろよ!!」

 

 久しぶりに、大声を上げた気がする。それを浴びせた相手が親友であることが、今は本当に悲しかった。それでも、アルディスは驚いた様子もなく、不思議そうに首を傾げてみせる。

 

「ふざける? 馬鹿なことを。これが、本来あるべき形でしょう?」

 

「ノア……」

 

 彼は、さも当然だろうと主張するように言い切ってみせた。本来あるべき形。確かにそうなのだろう。だが、それが辛いのだとポプリは声を震わせる。

 

「……」

 

 その声を聞いたアルディスはため息をつき、ポプリを、自らの義理の姉を睨みつけた。

 

 

「今までは、我慢してきましたが……命の恩人であるあなたでも、私の邪魔をするのなら容赦はしません。右目を失った痛み、あなたへの恨み……私は、片時も忘れたことはありませんから」

 

 

「――ッ!」

 

 聴く者が皆、耳を疑うような言葉だった。そしてそれは恐らく、ポプリがアルディスの口から最も、聞きたくなかった言葉――。

 

 冷たいアルディスの言葉が、心身共に傷付いたポプリを容赦なく襲う。俯いたポプリの琥珀色の瞳からぼろぼろと涙が落ち、地面に染み込んでいった。

 

「お前……ッ、自分が何を言ったか、分かっているのか!?」

 

 これには、流石のエリックも本気で怒りを覚えた。しかし、それでもポプリは首を横に振るい、アルディスを、義理の弟を、庇おうとしていた。

 

「良いのよ、エリック君……あたし、ワガママね。こうやって、攻撃されることだって、覚悟、してた癖に……っ」

 

 そう言って、ポプリは肩を震わせる。ホーリーランスによって負った傷は、痕を残すこともなく、綺麗に完治していた。だが、彼女が義弟の攻撃によって心に負った傷は、決して癒えない。

 

「ねえ……ノア、あたしは……あたしのことは、それで良いの。それが……普通、だもの」

 

 それでも、いつまでも泣いていてはいけないと、座り込んでいては駄目だと自分に言い聞かせ、ポプリは立ち上がると同時にアルディスを見据えた。

 

「あなたは優しい子だもの! こんなこと、本心からできるわけないわ!! そうよ……あたしはともかく……エリック君と、マルーシャちゃんに攻撃する理由なんて無いじゃない!! 彼らはあなたが……ノアが、本当に大切に思っていた二人じゃない!!」

 

 ほとんど泣きじゃくりながら、ポプリは一切表情の変わらないアルディスに叫び、訴える。豹変した義弟を前に、ポプリはまだ、これは彼の本心ではないと信じていた。

 

「……ッ」

 

 アルディスは一瞬だけ目を丸くして、視線を泳がせた。明らかに、彼は動揺していた。

 

「ノア!」

 

 気持ちが伝わったのかもしれない。そう思い、ポプリはアルディスに歩み寄ろうと足を踏み出す――だが、

 

 

「とんだ、戯言ですね」

 

 

 放たれたのは、これまでになく冷たい一言。向けられたのは、冷たい鉄で作られた銃口。

 

「ぁ……」

 

 ポプリの瞳から、再び涙が溢れる。彼女を狙って放たれた銃弾を、エリックは咄嗟に剣で防いだ。

 

「ありますよ。これは私が私である以上、避けては通れぬ道。それが、多少遅くなっただけです。あなたには、そんなことも分からないのですか? 本当に、愚かな人だ……」

 

 そう言ってアルディスは拳銃をしまい、再び薙刀を構えた。エリックは自分の後ろで、ポプリが泣き崩れたのを感じ取った。

 

「アル……ッ!」

 

 ポプリの嗚咽が、風の音さえも聴こえない静寂に響く。そのあまりの悲しさと哀れさに、エリックの中で何かが切れた。

 

 

「……もう良い。お前の言い分は分かった」

 

「エリック!?」

 

 驚き、声を上げたマルーシャの方は一切見ずに、エリックは短剣を取り出しながらアルディスを一瞥する。

 

「やっと、その気になりましたか……私は、あなた方のお国が大好きな奇襲というものは嫌いでして。正々堂々、正面から戦いたいと思っていまして、ね」

 

「お前……っ!」

 

 それは、わざとエリックを怒らせるような言い回しだった。アルディスが、どのような思いでそれを言ったのかは分からない。彼は特に多くを語らぬまま、自身の周りに半透明の丸い壁のような物を展開した。

 

 

「フェルリオの英知としての私の誇りと、存在意義に懸けて――参ります」

 

 

 その壁は、魔術の類では無さそうだ。特殊な道具を隠し持っていたのだろう。丸い壁ごと微かに宙に浮かび上がったアルディスは、困惑するエリックに構わず、詠唱を開始する。

 

「織り成すは煉獄の演舞。慈悲なき紅蓮の砲弾よ、全てを焼き払え! ――フィアフルフレア!」

 

「!?」

 

 光属性の術では、ない。

 上空から放たれたのは、ディアナが使うファイアボールとは明らかに規模の違う火炎弾。

 

「皆、避けろ!」

 

 火炎弾の矛先は、決してエリックにのみ向けられていたわけでは無かった。ショックのあまり動けなくなっていたマルーシャとポプリを、火炎弾が襲う――避けられそうもない!

 エリックは剣を顔の前に突き出し、向かい来る火炎弾を受け止めてみせた。剣から伝わる熱に焦がされたのか、手に痛みが走る。剣も手袋も、大した壁にはなってくれなかった。

 

(……っ、こんなの、何発も受けてられないぞ……!)

 

 アルディスの放つ魔術は、一撃一撃が本当に重い。しかも、天性属性で無い術ですらこの威力だ。右目を失ったことで弱体化した状態がこれというのだから、当時の彼の実力を思うと吐き気すらしてくる。

 

「ごめんね、今、治すから……!」

 

 マルーシャが治癒術をかけてくれたことで、痛みは徐々に引いていった。だが、こちらが何もしなければ次の術が来る。彼に、反撃をしなければ。それでも直に攻撃をするのはやはり、躊躇いがあった。

 

「――絶風刃(ぜっぷうじん)!」

 

「ッ! ……甘い、ですね」

 

 焦げた手袋を投げ捨て、エリックはアルディスに向けて衝撃波を放つ。それにより、詠唱を、邪魔することはできた。しかし、あくまでもそれだけだった。衝撃波は壁に遮られ、アルディス自身には一切ダメージを与えていないのだ。

 

「くそ……っ」

 

「どうするの!? これじゃ、こっちの攻撃なんて届かない……!」

 

 マルーシャは震える手で口元を覆い、ゆっくりと首を横に振るった。あの薄い壁は、アルディスを守る防御壁だったということだ。あれが彼を覆っている以上、こちらの攻撃は一切通用しない。

 

「……」

 

 動転するエリック達の姿を見下すように眺めた後、アルディスは再び術の詠唱を開始した。

 

(大体、アイツは虚無の呪縛(ヴォイドスペル)の影響でろくに魔術なんて使えない筈なのに……ッ!)

 

 我ながら、酷いことを考えるものだとエリックは思った。最初にアルディスがレイを使った時点で、彼はある程度ダメージを受けた筈だとエリックは考えていたのだ。だが、実際はこの通りだ。第一、レイを発動した時も彼は呪いによって苦しめられてはいなかった。平然としていたのだ。

 以前、精霊レムを召喚した際のアルディスは本気で衰弱していたし、そもそも呪いが効いていない等という理由では無いだろう。この場合、何らかの理由で彼が呪いの影響を受けていないのだと考える方が良いだろう。

 

 

「――デモンズランス!」

 

「うぁっ!」

 

 

 その時、響き渡ったポプリの声に答えるかのように、アルディスを漆黒の槍が襲った。やはり、その槍はアルディス本人には届いていなかったが、何らかの形で衝撃を与えることには成功したらしい。アルディスは短く悲鳴を上げ、防御壁の中でバランスを崩していた。

 

「ポプリ、お前……」

 

「良いの。泣いてる場合じゃないもの……それより、見て」

 

 悲しげに笑いつつも、ポプリが指差したのはアルディスが身に着けている赤い宝石の埋め込まれたペンダント。よく見ると、宝石からは時々瞬くように光が放たれていた。

 

「光ってる、な……いつもは、普通だったような……」

 

「多分、あの宝石よ。あれが、防御壁を生み出しているんだと思う」

 

 恐らく、ポプリの推測が正解だ。だが、こうしている間にもデモンズランスの衝撃で怯んでいたアルディスが体勢を立て直し、再び詠唱を開始しようとしている。

 

「でも、どうしたら良いのかしら……どっちにしたって、壁があるんじゃ……」

 

「きっと、大丈夫。行けると思うよ、乱暴な手だけど」

 

「え……?」

 

 自信に溢れた、それでいてどこか悲しそうな表情のマルーシャはそう言って意識を高め始めた。既に、アルディスは詠唱を開始している。

 

「――氷結に抱かれ、永久に眠れ! 彼の者に来れ、終焉の時よ!」

 

 アルディスの詠唱の長さからして、次に来るのは間違いなく上級術だ。まともに受ければ、ひとたまりもないだろう。それでも、マルーシャは逃げ出さなかった。

 

「嘆きの時は一瞬。天まで昇り、地に伏せよ! ――リバースツイスター!!」

 

「っ、く……っ!」

 

 術の発動は、マルーシャの方が早かった。魔法陣から吹き上がった風の刃が、アルディスを守る防御壁を切り刻み、上空へと追い詰めていく。

 

「……やっぱり。攻撃受けてる時は特に、あの宝石強く光るんだ」

 

 その様子を、マルーシャはあくまでも冷静に観察していた。エリック達も、マルーシャの指摘に応え、ネックレスの宝石へと視線を移す。

 

「わたし、攻撃魔術はそんなに得意じゃないけど……それにしたって多分、風じゃあまり効いてないね。ポプリの術を受けた時の方が、あの宝石よく光ってた」

 

 上空へ追い詰められたアルディスを、真上から突風が襲う。しかし、そのまま地面に叩き付けられようとも、彼を守る防御壁にはヒビ一つ入らなかった。

 

「……。壁の中にあっても、宝石は傷付いていくのね。だったら、全力で攻撃し続ければ、いつかは……」

 

「壁を作ってる宝石を壊せる。とにかく、あれを壊すのが先決ってことだな」

 

 あくまでも、今のアルディス本人には衝撃程度の小さなダメージしか与えられない。それでは、彼を止める策にはならないだろう。どのような手段を取るにせよ、まずはあの壁の中から彼を引きずり出すしかない。

 

「わたしも、足止め程度なら協力できるから。詠唱の速さなら、自信あるしね」

 

「助かるよ……マルーシャ、僕らは生身のアルに攻撃するんじゃない、そう考えよう。それなら……少しは、気分的に楽だ」

 

 皮肉にも、エリック達を妨害する壁が彼らの、精神面での救いとなっていた。直接、アルディスを傷付けるわけではない――ただ、それだけの救いではあったが。

 

「僕は直接あの壁を叩く! 極力アルに魔術を発動させないようにする……二人は、行けると思ったら魔術で壁の破壊を試みて欲しい!」

 

「分かったわ!」

 

 宝剣の柄をしっかりと握り締め、エリックは地を蹴った。向かうは、再び詠唱を開始していたアルディスの傍。もう、遠く離れた場所から、逃げるような形で彼に攻撃するのは嫌だった。

 

「ラドクリフは、下賎な国なんかじゃない……僕が、それを証明してやるよ!」

 

「……」

 

 アルディスは、何も答えなかった。その瞳からは、何の感情も読み取れない。

 

(分かってると思っていたのに! こいつのことなら、表情が変わらなくても、雰囲気で分かるって……!)

 

 エリックやマルーシャは、ハッキリと事実を知っているわけではなかった。それでもアルディスが笑えないのだということには、気付いていた。ただ、表情が変化しないだけで、“嬉しい”や“楽しい”といった感情はちゃんと存在しているということも。

 それもあって、エリックはアルディスのことはある程度理解できていると思っていた。確かに彼は語らないことの方が多かったし、それに苛立ったことも、何度もあった。それでも、信じられていると思っていたし……自分も彼を、信じていた。

 

断空剣(だんくうけん)! ……ッ、烈砕衝破(れっさいしょうは)!」

 

 刃を振るいながら、エリックは奥歯を噛み締める。分かっていた筈の親友の思いは、今の彼には全く理解できなかった……。

 

 

 

 

 戦闘が始まってから、数十分は経過しただろうか。散々受けてきた高威力な魔術のせいで、若干足元が覚束なくなってきた。マルーシャの治癒術にも限度というものがある。彼女自身、既に辛そうだった。幸いだったのは、アルディスが魔術以外の攻撃は一切してこなかったということか。

 エリックは汗と血で顔に貼り付いた髪を乱暴に払い、振り返ることなく後ろのマルーシャとポプリに声を掛ける。

 

「マルーシャ、ポプリ。大丈夫か?」

 

 援護すると言いながらもアルディスの詠唱は本当に早い上に、ファランクスという特殊な術の影響でこちらの妨害が効果をなさないことも多かった。そのため、上手く発動を止められなかった術も多く、後衛の二人もかなりのダメージを受けていた。

 

「何とか、平気」

 

「大丈夫よ。エリック君こそ……」

 

「僕は問題ない……あまり、無理はしないでくれよ」

 

 エリックの脳裏を過ぎっていったのは、“本来あるべき形”というアルディスの言葉――そう、本来であれば、自分達は既に戦火の中で刃を交えている筈の存在だった。しかしそれは、あくまでも自分達の話。マルーシャとポプリは、その前提があったとしても無関係なのだ。

 

 

「――無垢なる風神の戯れ。あどけなき理不尽、汝の命運を定めたり!」

 

「――血塗られし堕天の十字架よ。我の敵を討ち、滅ぼせ……!」

 

 

 それでも、彼女らは立ち上がり続けてくれた。彼女らにとって大切な存在であったであろうアルディスとの戦いから、逃げずにいてくれたのだ。それはエリックからしてみれば、本当にありがたい話であったし、申し訳ない話でもあった。二人を巻き込んでしまったのは、他でもなく、自分自身だ。

 

「……ッ」

 

 終わらせなければ、とエリックは思った。既に皆、満身創痍だった。だが、それは決してこちらだけの話ではない。アルディスが身に着けていた赤い宝石の光は、明らかに弱まってきていた。

 

「ランページスパイラル!」

 

 マルーシャの術が、発動する。生み出されたのは、横長の渦。それはアルディスを吹き飛ばしつつも、彼を守る防御壁を切り刻んでいった。吹き飛ばされたアルディスを追うように、エリックも両足に力を込めて駆け出す。これ以上、彼に反撃を許すわけにはいかなかった。

 

「く……っ、ファランクス!」

 

「ブラッディクロス!」

 

 体勢を立て直そうとしていたアルディスを襲ったのは、特にダメージが多く、彼への攻撃として効果的だったポプリの術。

 

「お願い……っ、これで、決まって!」

 

「ッ!?」

 

 禍々しいオーラを放つ漆黒の十字架が、アルディスの周りの半透明の壁を貫く。かろうじてそれは彼本人にも赤い宝石にも当たらなかったが、もう、壁は無傷ではなくなっていた。大きな穴があき、ヒビの入った防御壁は修復されることもなく、そこにあった。

 

「虚空をも照らす閃光よ、汝、この穢れた大地に降り注ぎ、裁きの刃となれ! ――ジャッジメント!!」

 

 ダメージこそ受けたようだったが、先にファランクスを使われてしまったためにアルディスの詠唱そのものは完了してしまった。天から、無数の光の束が落ちてくる。光の束は決して特定の誰かを狙っているわけではなく、とにかくランダムに地上に落ちてきているらしい。要するに、立ち止まっていれば、当たる可能性は低くなる。

 それでも、せっかくの転機を逃すわけにはいかない。直撃も覚悟の上で、エリックはアルディスとの距離を縮めていく。術発動直後の隙を狙い、一気に叩き込むしかないのだ。

 走りながらエリックは精神を集中し、剣先に気を込めていく。この一撃で決まらなければ、こちらももう限界だ。

 

「終わりだ! ――龍爪(りゅうそう)旋空破(せんくうは)!!」

 

 幸いにも、光の束がエリックに命中することは無かった。刀身が一瞬だけ瞬く。瞬きと同時に放たれたのは、無数の真空波。真空波は防御壁の穴を広げて行き、壁に護られていたアルディスの身にも届き始めていた。

 

「……っ!」

 

 エリックの目の前で、アルディスの胸元で輝いていた赤い宝石に深いヒビが刻まれていく。それらはもはや、宝石がその形を保っていることさえも不可能な程に侵食していき、そして、宝石は防御壁と共に、エリックとアルディスの周囲に砕け散った。

 

「――ッ、う、くぅ……っ!」

 

 真空波が、直接アルディスの身を切り裂く。肉を深々と切り裂かれ、鮮血が舞う。アルディスの顔が、苦痛に歪む。

 

 

(アル……)

 

 これで終わってくれ、そう思った――だが、アルディスの意思は折れなかった。

 

「まさか、壁を壊すとは……少々、油断しすぎましたね」

 

 流れる血を拭い、アルディスは大きく後ろに跳ぶ。エリックから距離を置くためだ。彼が着地するのと同時に、薙刀が突然眩い光を放ち始める。

 

「!?」

 

 最初は、薙刀をレーツェルに戻すのだろうと思った。しかし、冷静に考えればそれはおかしい。事実、その答えは違った。

 薙刀が、明らかにその形状を変えていく。レーツェル化させた武器は、多少であれば再武器化に融通が効くということは知っていた。しかし、アルディスのそれは、明らかに違う。

 長かった柄は元の半分以下となり、代わりに長い細身の、微かに弧を描く刀身が姿を現す。柄の端に付いた、数本のシンプルな飾り紐は、風に靡いてひらひらと揺れていた。

 

「片刃、剣……? まさかフェルリオの宝剣“キルヒェンリート”か!?」

 

「ご存知でしたか。今までは何も言いませんでしたが……あなたのそれは恐らく、この宝剣と対になる物、ですよね」

 

 アルディスは今しがた姿を変えた剣を右手に持ち替え、その姿を確認する。対になる存在と言いつつも、剣の形状はエリックの持つそれと明らかに異なっていた。否、そもそも、あれは今まで剣どころか薙刀の形状を取っていたのだから、本来宝剣というものは自由自在に形を変えられる物なのかもしれない。

 

「……」

 

 沈黙はしばしの間続いた。マルーシャとポプリの無事を確認したかったが、今のアルディスから目を離してはいけない……そんな気がした。

 

「ッ!?」

 

 

――異変が起きたのは、突然のことであった。

 

 

 突如、アルディスと精霊レムとの契約の証であった左のバングルが、粉々に砕け散った。彼が持っていた宝剣が、草の上に転がる。彼自身も膝を降り、地面に手を付いてしまった。

 

「ぐ……がは……っ!」

 

「え……?」

 

 一体何があったのかと、エリックは目を丸くする。防御壁と、それを生成していた宝石にならともかく、彼自身には大したダメージを負わせたつもりではなかった。

 少し距離がある状態でも分かる程に、アルディスは酷く身体を震わせている。その理由は、すぐに分かった。

 

「ごふ……っ、ごほっごほっ! ッ、ぁ……っ!」

 

 咄嗟に口元を抑えたアルディスの左手の指の間から、血が流れ落ちた。手の甲に刻まれていたフェルリオの紋章は、完全にその姿を隠してしまった。

 

「アル!?」

 

 彼がこのように血を吐く様子には、見覚えがある。草の上に広がっていく赤を見て、エリックは思わずアルディスの傍に駆け寄った。

 

「がふっ、ごほっ! げほっ、がはっ、は……っ、ぐ、う……がっ、あぁああ!!」

 

 アルディスの右の二の腕が、アームカバーの下からでも分かる程に光を発している。これは間違いなく、虚無の呪縛の影響だった。

 右の二の腕を押さえ、アルディスは草の上にぐったりと倒れ込んでしまった。しかし、彼が魔術を発動させたのはエリック達が宝石を破壊する前。それにも関わらず、このように突然彼が苦しみ始める理由が分からない。

 

「アル! おい、大丈夫か!?」

 

 一度宝剣をレーツェルに戻し、荒い呼吸を繰り返すアルディスへと手を伸ばす。アルディスの口から溢れる血が、吐き気を催しそうな程に強く、鉄の臭いを発していた。

 

(どう考えても呪いの影響、だよな……? だが、どうしてそれが今……)

 

 そうしながらも、エリックはわけが分からないと目を細める。

 

 

「エリック!」

 

 

 マルーシャに名を呼ばれたのは、そんな時だった。

 アルディスの鋭い翡翠の目と、一瞬目が合う。先程まで右の二の腕を押さえていた彼の左手には、宝剣が握られていた。刃はエリックの首を切り落とすべく、上から斜めに振り下ろされた。

 

「ッ!」

 

 慌ててエリックはアルディスから距離を置く。しかし、少々それは遅かった。かろうじて肉を斬られることは無かったようだが、髪の先端と首のチョーカーが宙を舞い、地面に落ちた。

 

(まずい……!)

 

 エリックは微かに顔を歪め、首の左側面を押さえた。そんなエリックを、覚束無い足取りで立ち上がったアルディスが睨みつける。

 

「敵に……情けを、かけるな……! それは、自分の命を投げ出しているような行為にすぎない……!」

 

 一度あえて武器を落とすことで、こちらの隙を付こうとしたのかどうかまでは分からない。ただ、彼が今も呪いに苦しんでいるのは間違いなかった。首を押さえたまま、エリックは肩で息をしているような状態の親友を見つめる。

 

「まさか、まだ戦う気……なの、か……」

 

「……。当然、です……!」

 

 そう言って、アルディスは再び片刃の宝剣の柄を震える手で握り直した。口元には、上手く拭えなかったらしい血がべったりと付着している。

 

「ノア……! もう無理よ!! あなた、一体何を考えているの!?」

 

「そうだよ!! 自分の命を投げ出してるのはアルディスの方だよ!! もう、やめてよ……お願いだから……っ!!」

 

 無事だったらしいポプリとマルーシャの酷く震えた悲痛な声が耳に入る。だが、彼女らの訴えは届かない。アルディスの決意は、決して揺らがない。

 

 

「マルーシャ、ポプリ。もう良い。そこで、見ていてくれ……」

 

 このような状態になっても、アルディスは戦意を喪失しなかった。アルディスはまだ、戦う気なのだ。誰かが彼の相手をしなければ、こちらが一方的にやられてしまう――それならば、彼と戦うのは自分の役目だろう。

 

「後は……僕が、けじめを付けるから……」

 

「エリック!!」

 

 このままでは戦えないと、エリックは首を押さえていた手を下ろした。癖のある金の髪が、風に流れる。エリックはしばしの間、目を伏せていたが、すぐに視線をアルディスに戻した。

 

 

――彼の首には、金色の髪だけでは隠せない、大きな傷が残されていた。

 

 

「……っ」

 

 鋭利な刃物によって付けられたであろうそれは、エリックの首の半分近くを這うように存在していた。とっくの昔に完治しているらしいことが窺えるものの、かなり深い傷だったのだろう。皮膚の色が違う。傷の部分だけが、他の部分と比べ僅かに下がっていることも窺えるーー首であることを考えても間違いなく、命に関わった傷だ。

 

 王子であるエリックには、あまりにも不釣り合いな傷。これには流石にアルディスもほんの僅かに顔を引きつらせていた。後ろのポプリも、似たような反応をしているに違いない。

 

「マルーシャしか、知らない傷だ……正直、見せるつもりも無かったんだけどな」

 

 エリックは自嘲的に笑い、再び宝剣と短剣を構え直した。隠されなくなった傷は、異常なまでの存在感を放ちながらそこにあった。

 

「ッ、あなたに傷があるかどうかなど、私には関係のないことです!」

 

 アルディスは頭を振り、宝剣を構えて駆け出す。彼は宝剣を逆手に持ち、身体を捻りながら突進してきた。

 

天桜舞(てんおうぶ)! ――葬連華斬(そうれんかざん)ッ!!」

 

 最初の攻撃で一気にこちらの懐まで間合いを縮めてきたアルディスはその場で腰を低く落とし、下から連続で斬撃を放ってきた。

 

「う、ぐ……っ!」

 

 エリックは短剣を顔の前に突き出し、振り下ろされた刃を受け止める。ビリビリと、左腕に振動が走る。先程まで血を吐いていたとは思えない、重い一撃だった。

 

(いや、それ以前にコイツ……こんなに、力あったか……?)

 

 一般的に鳳凰族(キルヒェニア)は力が弱い。ディアナが良い例だが、アルディスも彼と大差無いのではないだろうかとエリックは考えていた。

 実際に彼と刃を交えて手合わせをした経験はないが、魔物を相手にしている様子を見た感じでは、アルディスに自分やジャンク程の腕力は無いことは明らかだった。

 

「この……っ! 獅子戦吼(ししせんこう)!」

 

 短剣を引き、エリックは右肩を突き出す形でアルディスに突進する。青い獅子の形の闘気がアルディスを襲い、遠くに吹き飛ばした。

 だが、それだけだった。アルディスは一切怯むことなく、それどころか空中で体勢を立て直してみせる。まるで、こちらの攻撃など、ほとんど効いていないかのように。

 

綜雨衝(そううしょう)!」

 

「がっ! ぐあぁっ!」

 

 再び一気に間合いを詰めてきたアルディスは目にも止まらぬ速さの連続突きを放ってきた。最初こそ短剣で防ぐことができたが、途中からはそれも不可能だった。身体を貫かれ、最後の強力な一撃で後ろに吹き飛ばされる。

 

「エリック君!」

 

「は……っ、だ、大丈夫だ……く……っ」

 

「ファーストエイド! ごめんね、ごめん……エリック……」

 

 何だかんだで、こっちも疲弊してきているのだ。少しでも攻撃を受けてしまうと辛いものがある。マルーシャの治癒術で少し楽にはなったが、呼吸も苦しくなり始めていた。

 

(強い……侮っていたわけではないが、想像以上だ……)

 

 いつも以上に早い隙のない動きや、明らかに前衛として特化した能力。見せつけられた力に、エリックは呼吸を落ち着かせながらアルディスを見据えた。

 

(……。体質自体が、変化してるのか?)

 

 にわかに信じがたい話だが、もはやこれくらいしか考えられない。宝剣、キルヒェンリートの能力なのだろうか――否、もしかすると自分が知らないだけで、自分が手にしているヴィーゲンリートも同じ力を宿しているのかもしれない。自分は、アルディスのように上手く宝剣を使いこなせていないだけなのかもしれない。

 そう考えると、本当に“ノア皇子”の存在が恐怖に感じられる。自分があまりにも無力で、未熟なのだという現実に直面した。

 そんな彼を、今まで親友だと思い、八年間を過ごしてきた。今更ながら、自分は『騙されていた』のだと、嫌でも思い知らされた。

 

「これでも、な……本気でお前のこと、僕は信じていたんだ……」

 

「……」

 

 口から溢れたのは、戦いが始まってからは必死に押さえ込んでいた想い。本気で信じていた親友を、傷付けたくはない。この思いは今の今まで決して変わらなかった。それでも、これ以上手加減をしていては本当に負けてしまう。エリックは奥歯を噛み締め、震えそうになる足を一喝して駆け出した。

 

 

凱哮走破(がいこうそうは)!!」

 

 アルディスの技を完全に見切ったわけではないが、剣を手にした彼が得意とするのは恐らく、間合いをかなり縮めた上で放たれる鋭い斬撃。それならば、とエリックは地面に剣を深く突き刺し、そのまま大地を盛り上げながらアルディスの前へと迫った。盛り上がっていく土が、エリックとアルディスの間に壁を作る。悲鳴も何も聞こえなかったために壁に潰されることなく避けられた可能性が高いが、それも考えのうちだった。

 

「全力で行かせてもらう……覚悟しろ!!」

 

 地面から剣を抜き、エリックはその場で大きく跳躍した。

 

「――ッ、龍虎(りゅうこ)滅牙斬(めつがざん)!!」

 

 奥歯を噛み締め、重力に任せてそのまま地面に向かって剣を振り下ろす。直後、地面に魔法陣が展開された。陣から上がる龍の闘気が、アルディスを襲う!

 

「がっ! ッ、う……っ、くぅ……あぁあっ!!」

 

 流石にこれで効いていない、などということはなかったらしい。そもそも、先程の攻撃も決して意味のないものではなかったのだろう。陣が消えると同時、再びアルディスが地面に膝を付いた。

 

「は……っ、はぁ……っ、はぁ……っ、ごほっ! げほごほっ!!」

 

 口から大量の血を吐き出しながら、それでも、アルディスはエリックに鋭い眼差しを向け続ける。血を吐いたのは呪いの影響なのか、それさえも分からない。ただ、言えるのは――……。

 

 

「負け、られない……っ! 俺は……っ、私は、まだ……!!」

 

 

……本当に、今の彼の姿は、見るに堪えないものだった。

 

 

「アル……もうやめてくれ……頼む、頼むから……」

 

 本当にやめてくれ、とエリックは頭を振るう。このまま続けていては、間違いなくアルディスの身体が持たない。それでも素直に、彼に負けるわけにはいかないのだ。殺されてしまうかも、しれないのだから。手加減をしたくてもできない。負けられない。どうしようもない葛藤が、エリックを追い詰める。

 

「負けるわけには……っ、いかないのです……!!」

 

 全身の至る所から血を流しながら、アルディスはふらりと立ち上がった。片刃の宝剣が、徐々に赤く輝きを放ち始める。それに応えるかのように、彼の背から、ずっと隠されていた深い赤の翼が――厳密に言うと“左翼”が、その姿を現した。

 

(右翼が無い……!?)

 

 以前、アルディスは純血種族にもかかわらず翼を上手く出せないという“失翼症”の話をしていた。もしかすると、それは彼本人にも当てはまる話だったのかもしれない。驚くエリックの前で、宝剣の輝きは徐々に強さを増していく。間違いなく、次に来るのはかなりの大技だ。

 

「儚き生命が奏でる賛美歌。我らは、悠久の平和を願う……」

 

 アルディスの声に応えるかのように、彼が手にする宝剣の刃が赤く瞬く。彼はその場で刃を振るい、こちらに向かって駆けてきた。

 

「……ッ」

 

 防ぎきれるだろうか、とエリックは目を細める。下手にアルディスの攻撃を避けて、後ろのマルーシャとポプリに重傷を負わせるのは避けたい。この戦いは、自分が終わらせると決めたのだ。これ以上、悲劇を連鎖させるわけにはいかなかった。何としても受けきると、エリックは奥歯を噛み締める――その時突然、ヴィーゲンリートが青く、瞬いた。

 

(え……?)

 

 何が起きたのか、エリックにはよく分からなかった。ただ、ほんの刹那の間だけ、時が止まったかのように思えた。

 今、自分はどう動くべきか、どのように力を込めれば良いのか。そういったことが、一気に脳裏を駆け抜けていく。エリックは宝剣を構え直し、衝撃に耐えるべく力強く大地を踏みしめた。宝剣の刃がこれまで以上に強く、青い輝きを放つ。それに驚いている暇はない。アルディスはもう、目の前に迫っていた。

 

「フェルリオの地に、この地に生まれし民に、光あらんことを! ――凰華(おうか)浄天翼(じょうてんよく)ッ!!」

 

 赤い光が、弾けた。それらは光線となり、エリックを左右から挟み込むように襲いかかる。まるで、鳳凰が大翼を広げたかのような、壮麗な光景だった。

 光線が降り注ぐと同時、アルディスは全力でキルヒェンリートを振り下ろした。咄嗟にヴィーゲンリートでそれを受け止めたエリックの腕に、強い衝撃が走る。

 

「……ッ」

 

 あまりの衝撃と全身に走る激痛に、エリックは奥歯を噛み締める。崩れ落ちそうになる身体に鞭を打ち、今一度宝剣の柄を握り直す。

 

「過ぎ去りし時が奏でる揺籃歌。せめて、安らかに眠れ……」

 

 頭の中に浮かんできた言葉。それを紡ぎながら、エリックは右手を引いた。宝剣の力もあるのかもしれないが、あれだけの攻撃を受け止めてみせた。それだけで、もうアルディスに勝てるという自信がエリックにはあった。

 

(アル……許して、くれ……)

 

 だが、これはそういう問題ではない。震えそうになる身体を戒め、エリックは奥歯を噛み締めて技の名を叫んだ

 

「――瞬刄(しゅんじん)滅龍牙(めつりゅうが)ッ!!」

 

「ッ!? ぐ、ぁ……っ!」

 

 アルディスの剣を押し返し、エリックはアルディスを巻き込む形で草原を駆け抜けた。青い光が、どちらの物かも分からない鮮血の赤が、残像となって後に残る。結局彼は、最後の一閃まで抵抗することもできず、その身にエリックの刃を受け続けた。

 

「……。所詮、私、は……」

 

 最後の最後に、アルディスのか細い声が耳に響いた。しかし、それだけだった。

 悲鳴すら、彼は上げなかった。彼の身体はもう、とっくに限界を迎えていたということなのだろう。執念だけで、彼は立ち上がり続けたのだろう。

 

「……」

 

 全身傷だらけで、虫のような、消え入りそうな呼吸を繰り返す親友を見下ろし、エリックは両手の力を抜く。草の上に、宝剣と短剣が滑り落ちる。響いたのは、あまりにも呆気ない、乾いた音。そしてエリックは自分の、べったりと赤黒いものの染み付いた両手を、己の姿を見た。

 感じるのは、生ぬるい血の感触。身体が、震える。エリックは奥歯を噛み締め、その場に膝を付いた。

 

「ッ、く……くそ……くそぉおっ!!」

 

 

――人にも動物にも、生命に重さなど存在しないことは分かっているつもりだった。

 

 

 だが、それでも、今の自分を包み込むこの感触は、今までに感じたどの感触よりも気味が悪く、自分自身をどこまでも追い詰めるような、そのような物で。

 

「……」

 

 目頭が熱くなる。それでも、どういうわけか不思議と涙は出なかった。親友をこんな姿にしておきながら、非情なものだなと笑みさえ溢れそうになる。

 

 

「エリック……、アルディス……っ!」

 

 マルーシャと、それからポプリが後ろにやってきた。結局、一騎打ちが始まってから一度も彼女らの姿を確認できてはいないが、その重い足取りからして、二人共それなりの傷を負っていることは明らかだろう。

 

 だが、エリックはどうしても、顔を上げる気にも、二人に声をかける気にもなれなかった――……。

 

 

―――― To be continued.

 




 
宝剣装備アルディス

【挿絵表示】

(イラスト:長次郎様)


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Tune.29 「さよなら」

 

 

「エリック君……」

 

 血塗れの親友を前に項垂れるエリックの肩を軽く叩き、ポプリはその横に並ぶように腰を下ろした。マルーシャも、それに続く。

 

「悪い、こんなことになって……」

 

 今となっては聞くまでもない。血の繋がりが無かろうと、ポプリは本気でアルディスのことを思っていた。そしてそれは、自分同様にアルディスを本気で信じていたと思われるマルーシャにも当てはまる話だろう。それを考えると、どうしようもなく今の状況から逃げ出したくなってしまった。

 

 エリックがそれ以上言葉を紡げずにいると、また新たに、背後から誰かがやって来た。足音は二つ。そのうちの一つはフラフラと覚束無い足取りで、もう一つは、人間のものではなかった。振り返ったポプリは、その足音の持ち主達を見て、弱々しく言葉を紡ぐ。

 

「先生、ディアナ君。それに、チャッピー……」

 

「……」

 

 その声には答えず、新たにエリックの傍にしゃがみこんだのはジャンクだった。意識こそ戻ったようだが、傷が痛むらしい。今の彼は、呼吸さえも苦しげだった。

 

「ジャン、背中……大丈夫? 今、治すから……」

 

「僕は大丈夫だ。多少は自力で何とかしたし、ディアナも手伝ってくれたからな……それより、お前らの傷を治した方が良い。酷いですよ、その状態は」

 

「……」

 

 ジャンクの言う通り、アルディスとの戦闘で負った傷はかなりのものだった。今は皆、痩せ我慢をしているような状況だ。早く、どこか休める場所を確保すべきだとは思う。しかし、こうなった原因でもあるアルディスの問題を放置するわけにはいかないだろう。

 

「アルディス……どうして……」

 

 唯一、ディアナだけは無傷だったのだが、彼女は翼を失っている。ろくに身動きが取れない彼女は今、チャッピーの背に乗っているらしかった。

 

「ッ、これは酷いな……」

 

 ジャンクはアルディスの容態を確認し、微かに語尾を震わせた。よく見ると、彼の手には砕けたアルディスのペンダントが握られている。

 

「それ……」

 

「気になるなら、これはお前が持っておけ。それから……」

 

 ペンダントをエリックに手渡し、ジャンクは少しの間黙り込んでしまった。だが、この状況で黙り込んでいても仕方がない。そう思ったのだろう。彼は、どこか言い辛そうに、躊躇いがちに言葉を紡ぎ始めた。

 

「エリック……僕は先程まで完全に意識を手放していました。それにも関わらず、このようなことは言いたくない。いや……根本的にこんなことは、言いたくないんだが」

 

 聞き取るのに苦労するような声量で、彼にしては珍しい、かなり遠まわしな話し方。その声が醸し出す嫌な雰囲気に、エリックは漸く顔を上げ、ジャンクの姿を視界に捉えた。

 

 

「お前は、アルディスを……ノア皇子を、どうするつもりだ?」

 

 

「……!」

 

 傷のせいなのか、自身の発言のせいなのか。ジャンクの顔色はあまりにも悪い。そんな彼の顔を見て、その言葉を聞いて、エリックは言葉を失った。

 

「ジャン! 何言ってるの……!? 何で、そんなこと、エリックに聞くの……!?」

 

 今にも泣き出してしまいそうな声で、マルーシャは弱々しく叫ぶ。ジャンクは一瞬だけ彼女の姿を横目で見た後、エリックへと視線を戻した。

 

「あなただって、本当は分かっているんだろう?」

 

 そして結局、マルーシャの問いに答えたのはジャンクではなく、ディアナだった。

 

「……」

 

 ディアナを背に乗せたまま、チャッピーは静かに成り行きを見守っている。嫌な沈黙が続く。ディアナはため息を付き、青い瞳を伏せつつ話し出した。

 

「あなたの性格なら、この状況で真っ先にアルの傷を癒しているに違いない。それなのに、それをしないのは。彼が再び刃を向けてくることを、恐れているからだろう?」

 

「!? それは……ッ」

 

 ディアナの指摘は、最もだった。早く、傷を治さなければ手遅れになるかもしれない。それは、分かっていた――だが、どうしても親友であった筈の少年が豹変した姿が、脳裏を過ぎる。

 何の言葉も返せずに俯いたマルーシャはスカートの裾を掴み、両手をガタガタと震わせた。

 

「エリック、あなたもだ……あなたの立場を考えれば、彼を今どうするべきか、分かっているだろう?」

 

「――ッ!?」

 

 ディアナから目をそらしたエリックの瞳に、アルディスの首が映る。白銀の髪の間から覗くそれは、アルディスの呼吸に合わせて今も微かに動いており、簡単に斬り落とせそうな程に、細かった。

 

 つまりは、そういうことだ――本気で“それ”をやれというのかと顔を上げたエリックの目の前で、ディアナは悔しそうに顔を歪め、身体を震わせていた。

 

「オレは、それを命懸けで止めなければならない。それなのに、このザマだ……」

 

「あ……」

 

 彼女の背に、翼があったならば。戦いが始まる時点で、彼女が意識を保っていたならば。先程の戦いでの敵は、間違いなくアルディスだけでは済まなかっただろう。主人を護らない従者がいる筈がない。ディアナは、全力で自分達に斬りかかってきたに違いない。

 

「……僕も、ディアナと似たような状況ですよ」

 

 下がり気味になっていた眼鏡のブリッジに触れ、ジャンクはポツリとそう呟いた。痛々しい程に赤く染まった白衣の下は、一体どうなっているのだろうか。想像も付かない。

 

「ジャン……」

 

 そんな彼の姿を見て、そういえば、とエリックは思う。戦いの前に意識を失ったのは、ディアナだけではない。仮にあの時点で彼が意識を失わなかったとしたら、彼は自分の味方になってくれていただろうかと。

 

 

『それでも、アルに会おうと思うのならば……もう、僕は止めない。ただし僕も、自分が考えるように動きたいと思います。良いですね?』

 

 

――恐らく、それは無かっただろうとエリックは考える。

 

 

 彼は、端から自分とアルディスが戦うことを見越していて、それでいて忠告してくれたのだ。アルディスに会い、そのまま戦いになった場合でも、僕はお前の味方にはなりませんよ、と。

 しかし、アルディスが最初に二人を気絶させたことによって、そのような最悪の事態にならずに済んだのだ。

 

(待て! アルはわざわざ、自分の味方を減らす行動起こしたってことか……!?)

 

 ここでエリックは、ある矛盾点に気が付いた――勝利に固着する人間が、自分に貢献してくれたであろう者を拒むような、そのような行為をするだろうか、と。

 

 アルディスの場合、少なくともディアナは確実に味方だと分かっていただろう。それなのに、そのディアナにまで彼は手を下した。これは、明らかにおかしな行為だ。

 

(アル一人の力で、僕に勝ちたかっただけなのか……それとも……ッ!?)

 

 結論を出せずに考え込むエリックの首に、ひやりと冷たい物が当たる。それが何なのかと思考を巡らせるよりも先に、右手首を強引に捻られた。

 

 

「全員動くな! ……動けば、この男の首を、短剣が貫く……!」

 

 

 エリックが手首の痛みを感じるのと同時に響いたのは、酷く息を切らしたアルディスの声。彼の突然の行動とその光景に、仲間達は皆驚き、音にならない声を上げる。

 

(な……っ!?)

 

 エリックは自分に突き付けられた物の正体を知るべく、おもむろに目線を下げた。血に汚れたアルディスの左腕が握りしめていたのは、エリック自身が愛用する短剣。

 アルディスが倒れた後、精神的なショックから地面に投げ捨てたままになっていたそれは今、自分の首を貫かんとばかりに切っ先を皮膚に食い込ませていた。

 

「あ、アル……ッ!」

 

 完全に後ろを取られてしまった。いつの間にか両手は後ろで上手く押さえ込まれ、自由が効かない。それ以前に少しでも暴れれば、本当に首に短剣が刺さってしまいそうだった。

 

「こちらへ……来てください」

 

「ッ……!」

 

 荒い呼吸を繰り返すアルディスの表情さえも確認できないまま、立ち上がることを強制される。どうにかして逃げ出そうとも考えたのだが、体格の差があるにも関わらず、アルディスは一瞬の隙も見せなかった。

 

「アル……! お前……っ」

 

「……。無駄な、抵抗は止めた方が良いかと……まだ、私にはここにいる全員を巻き込み、大爆発を起こすくらい、の……力は、残っています、から……」

 

「――ッ!?」

 

 そんな言葉を掛けられ、抵抗しようというエリックの意欲は完全に削ぎ落とされてしまった。虚勢だろうと思いたかったが、彼の実力を考えれば真実である可能性が高い。肉体的にも精神的にも自由を奪われたまま、エリックは少しずつ、城の方へと誘導されていく。

 

「アルディス、何する気!? エリックを離して!!」

 

 マルーシャが声を震わせて叫ぶが、彼女はその場から一歩も動けなかった。彼女に限らず、他の仲間達もそれは同様で。

 誰もが、この状況を打開しようと思考を巡らせているのは確かだ。しかし、確実に失敗のない方法など、簡単には見つからない。

 失敗すれば、エリックの命は確実に無い。仲間の命がかかってくる以上、慎重になってしまうのが当然の心理だろう。

 

「皆さん、利口ですね……っ、私も、目的を成し遂げやすくて、助かります」

 

 本来なら、もはや動くことさえも辛いのだろう。アルディスの呼吸は、どんどん荒くなっていく。それでも彼が切っ先を動かすことはなく、腕を拘束する力を緩めることも無かった。

 

 

(くそ……っ!)

 

 気がつけば、城の傍にある崖先まで誘導されていた。一旦崖から落ち、そのまま飛んで逃げるつもりなのだろうか、とも考えたが恐らく違う。彼は失翼症だ。そう演じていたなどという器用な芸を見せてくれたのならば話は別だが、流石にそれはないだろう――となると、残された目的は限られてくる。

 

「……ッ」

 

 エリックは横目で崖下を確認した。岸壁から所々飛び出した鋭い岩と、そこに勢いよく打ち付ける荒波。落ちる場所によっては、即死は免れないだろう。本当に、どうしてこんな場所に城を建てたのかとフェルリオ皇帝家に問いたくなる。

 

(……いや、多分、そういう目的で……かつての皇帝は、ここに城を建てたんだ)

 

 

――恐らく、フェルリオ皇帝家は万が一に備え、『自ら命を投げ出すのために』この地に城を建てた。

 

 

 狂っている、と思った。

 

 そして自分は今、そんな狂った事情に巻き込まれようとしている。

 

「アルディス! あなたは一体何を考えているんだ!? 馬鹿なことはよせ!!」

 

「……」

 

 必死に叫ぶディアナの呼びかけに、アルディスは、何も答えない。呼吸こそ荒いが、そこに強い意志が秘められているのは分かる。

 崖に近くなるにつれて、アルディスの身体が微かに震えていることにエリックは気付いていた。水に強い恐怖心を持つ彼が、このような場所で平然としていられる筈がないのだ。それでも逃げ出そうとしないのは、彼の揺るぎない決意の表れに他ならない。

 

「ッ!?」

 

 そんなことを考えていたエリックの目の前で、今まで冷静さを保っていたジャンクが取り乱した。

 

「アルディス! やめなさい! 早まるんじゃない!!」

 

 彼の『早まるな』という言葉に、皆一斉に息を呑む。ジャンクの能力を考えれば、当然のことだ。

 

「え……っ!? ま、まさか……っ! ノア、待って!! お願い!!」

 

 その場から動くこともできず、地面に座り込んだままポプリは叫んだ。エリックがアルディスに拘束されていなければ、アルディスの立っている場所が崖先でなければ。自由の効かない状況に、彼女らは全員、どうしようもない程の無力感を感じていた。

 

 

「……」

 

 そしてエリック自身も、この状況を打破するのに仲間に助けを求める気は無かった。

 それが仲間達を追い詰める行為だということが分からぬ程に、馬鹿ではないつもりだったからだ。

 

「なあ、アル……とりあえず、話だけでも聞いてくれよ」

 

 だからこそ、自分が賭けに出るしかない。自分が何とかするしかない。

 腕を拘束されたまま、スティレットを突き付けられたまま、エリックは静かに言葉を紡ぎ始める。不思議と、恐怖は無かった。

 

 

「何というか、根本的に僕は愚かなんだろうな、と思うんだ……」

 

 アルディスは何も答えない。それでも良かった。そうなるだろうと、予想していた。

 

「僕自身の……ラドクリフ王子、アベルとしての立場を考えれば、お前を、討たなきゃいけない。それは、ちゃんと分かっているさ……だけど、さ」

 

 スティレットの切っ先が首をかすめ、ぷつりと表面の薄皮を割いた。脅しなのか、単純に余計な力が入ってしまっただけなのか、それは分からない。丁寧にしっかりと磨き上げられた短剣の刃なら、それくらいは容易だということだ。

 風に傷口が晒され、ピリピリとした微かな痛みは走る。その痛みに、エリックは僅かに眉を動かした。

 

「……無理、だった。殺せなかった……そこまでお前をズタズタにしといて、言える話じゃないとは思うけどな」

 

 切っ先が、少しずつ首に食い込んでくる。言い終わると同時に、喉を貫かれるかもしれない。その可能性は決して否定できない。それでも、エリックには伝えたい思いがあった。すれ違ったままどちらかが死ぬなどという結末を、迎えたくはなかった。

 

「それでも僕は、お前のことを親友だって思ってた。いや、過去形じゃない。今でも親友だと思っている。例え一方的な感情だったとしても、ずっと騙されていたんだとしても……今まで、本当に、楽しかったんだ」

 

「……っ」

 

 これは、最後まで変わることのなかった、この状況下でも、決して変わらなかった本心だった。後ろで、アルディスが息を呑んだのが感じ取れる。思いは、届いただろうか。

 

(少しでも、伝わっていれば……本望なんだけどな)

 

 これから紡ぐのは、半分が賭けで半分が本心な言葉。どうなるかは正直分からない。エリックは軽く息を付くと同時に両目を閉ざし、おもむろに口を開いた。

 

 

「……。やるならやれ。お前には……その権利がある」

 

 

「ッ!?」

 

 それはアルディスだけにしか聴こえないような、小さな声で紡がれた言葉。本当に首を貫かれると困るが、それも仕方のないことだろうとエリックは思っていた。

 仮に、ここが戦場だったとすれば。敵に情けをかけ、背を向けた自分に責任がある。相手に殺されたとしても、文句は言えない。それが戦場のルールだ。

 それに加えて、帝都のこの状況は完全にラドクリフ王国側の失態である。これは、戦争とは全く無関係な侵略行為に他ならない。失態には、責任が生じる。

 

「わ、私……は……」

 

 アルディスが動揺したのは、その姿を見ずとも分かる。エリックは何も言わず、目を閉ざしたまま彼の反応を待った。

 

「私は……っ!!」

 

 アルディスの声は、今までの威厳など一切感じさせない程に酷く、震えていた。スティレットの切っ先が、完全に宙を切り、大きく揺らぐ。

 

「君は、馬鹿だ……ッ、どうして、そこまで、俺、を……ッ」

 

 その声はあまりにも小さく、弱々しいものだった。間違いなく、遠く離れたマルーシャ達の耳には届いていないだろう。純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)であるディアナですら、聴こえているかどうか怪しい程の声量だった。

 

「愚かなのは、俺の方だ……! 帝国のことを考えるのならば、君を殺さなければならなかったのに……っ! 八年間も、ずっとずっと、先延ばしにすることしかできなかった……」

 

 嗚咽混じりに紡がれる言葉を、エリックは何の抵抗もせずに聞き続けていた。相変わらずスティレットの切っ先はエリックの首に向けられていたが、両手の拘束は、もはや殆ど意味のないものに変わり果てていた。

 

「無理だ……できる、わけが、ない……! それでも、フェルリオの民を思えば、やらなくちゃ、いけなかった……俺には、もうそれしかなかったのに……!」

 

「……。アル……」

 

「俺はただ、この国を、守りたかった……なのに、俺には何もできな、かった……ッ、俺は一体、何のために、生まれてきたんだろう、ね……?」

 

 アルディスが泣き出したこと。それには皆、気付いたらしかった。しかし、短剣がエリックに向けられている以上、誰も下手に動けずにいる。

 

「もう、嫌だ……」

 

 フェルリオ皇子、ノアとしての苦しみが、悲しみが言葉となって、エリックに重くのしかかってくる。それは全て、天才と呼ばれた少年の悲痛な叫びだった。

 

(期待された分、ちゃんと答えなきゃいけなかった……そういう、ことだったんだろうな)

 

 ノア皇子も、人の子だった。そんな当たり前のことでさえ、エリックは完全に見失っていた。彼には、ちゃんと心があったのだ。そんなことさえ、エリックは分かっていなかったのだ。

 

 あまりにも悲しい、言葉が発せられると同時、エリックの腕の拘束は完全に解かれ、首に向けられていた短剣も漸く下ろされた。

 

 

「生まれ、た時……から、俺は“失敗作”だって、皆、分かってたのに……ッ、それでも、成長を期待して貰え、たのに……皇位継承を、認めて、もらえたのに……」

 

「え……?」

 

「結局俺には、存在意義なんて無いんだよ……ッ!!」

 

「ッ!?」

 

 

――失敗作。

 

 

 その言葉の意味を聞く前に、エリックはアルディスに蹴り飛ばされ、地面にうつぶせに倒れた。背に鈍い痛みを感じ、顔をしかめる。

 

「や、やだ……っ! やめて!! アルディス――ッ!!」

 

「!?」

 

 マルーシャの悲鳴が響く。彼女だけではない、他の仲間達も、何らかの声は発していた。だがその声は――アルディスの姿を確認したエリックの耳には、届かなかった。

 

 

「やっぱり、俺は“いらなかった”……分かってた。だから、もっと早く……いや……」

 

「……、あ……」

 

 アルディスの口から、唾液が混ざった粘り気のある血が流れ落ちる。彼は大粒の涙を溢しながら、震える声でそう吐き捨てた。

 

「最初から、こうすべき……だった、んだ……」

 

 

――先程まで、自分の首に突き付けられていた短剣は、アルディスの腹を、深々と貫いていた。

 

「ッ、く……っ」

 

 潤んだ翡翠の瞳が、乾いた唇を震わせるエリックの姿を捉える。アルディスは自分の腹に突き刺さった短剣を引き抜き、そのまま後ろに、大きく足を踏み出した。踏み出した先に、地面は無かった。

 

「……。さよなら」

 

 重力に逆らうことなく、アルディスは背から崖下へと落ちていく。あの辺りは確か、鋭く尖った岩が海の底から突き出していた筈。

 

 

「アルッ!」

 

 咄嗟に、身体が動いていた。

 静止の声は、エリックの耳には届かなかった。

 

(これで終わりだなんて……認めて、たまるかよ!!)

 

 起き上がり、駆け出したエリックの腕が、宙に身を投げ出したアルディスへと伸ばされる。その身体を掴むと同時、エリックはアルディスと共に、崖下へと落ちていった。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.30 果たせない約束

 

 

「嘘、でしょ……!?」

 

 エリックとアルディスの姿は、一瞬のうちに見えなくなってしまった。信じられない、とマルーシャはおもむろに頭を振るう。

 

「まさか、二人とも落ちるなんて……!」

 

 青の瞳を丸くし、ディアナは声を震わせる。二人が崖先に居た時点で、その可能性があることは分かっていた。だが、アルディスが己の腹を貫き、エリックは自ら崖から飛び降りるなどと、誰が思ったことか。

 

「エリック……ッ! アルディス!!」

 

 二人とも、海水に浸かって良いような状況ではなかった。チャッピーの手綱を引き、ディアナは慌てて崖先へと向かう。

 

 

――水面が、突き出した岩の一箇所が、明らかに赤く染まっていた。

 

 

「え……」

 

 最悪の事態を想像し、ディアナは手綱を強く握り締める。

 そんな彼女らの傍に、マルーシャとジャンク、ポプリも集まってきた。軽く深呼吸してから、ジャンクは静かに口を開いた。

 

「マルーシャ、エリックは泳げるんですよね?」

 

「う、うん……エリック、泳ぎは得意、だよ」

 

「なら……とりあえず溺死の可能性はない、か……」

 

 それは、生存を願う問い掛け。しかし彼は決して「大丈夫だ」と言い切ることは無かった。というのも、エリックが元々負っていた傷の酷さと、所々突き出した岩の鋭さを考えてのことだろう。もし、その岩が身体を深く引き裂いていたとすれば、生存は絶望的だと言っても過言ではない。

 

「! あ……!」

 

 しかし、最悪の事態はまぬがれたらしかった。ボコボコと水面に泡が浮かび、はじけていく。

 その直後、完全に意識を失ったアルディスを抱えたエリックが、水面から顔を出したのだ。

 

「エリック君……! 良かった、大丈夫だったみたいね……ッ」

 

 半泣きで叫ぶポプリに、エリックは器用に立ち泳ぎを続けながら目を伏せてしまった。

 

 

「……何とか、なったらしい。僕は、な」

 

「え……?」

 

「アルの出血量が、異常なんだ。分かるんだ、もう、コイツはそんなに長く持ちそうもない……」

 

 それなのに、とエリックは顔を上げ、辺りを見回す。

 この一帯は高い崖ばかりで、上陸できそうな陸地がなかったのだ。

 

「ッ、そういえば、短剣を引き抜いていましたからね。刺さったままになっていれば、まだ救いはあったというのに……!」

 

「そんなっ!? ジャン、何とかならないのか!?」

 

 今にも泣き出してしまいそうなディアナから目を背け、ジャンクは何かを考え始めてしまった。この状況を打破するにはどうすべきか、考えているのだろう。

 上陸出来る場所を探す猶予は無い。そもそも、そうなるとアルディスどころかエリックの体力が持つかどうかも怪しくなってくる。

 

「そうだわ! ロープを垂らして、二人を引き上げれば……っ!」

 

「……恐らく、無理でしょう」

 

 ポプリの案を、ジャンクは即座に却下してみせた。どうして、と琥珀色の目を潤ませるポプリには目もくれず、ジャンクは再び崖下へと顔を向けた。

 

「あの血は、アルの物だけではありません。恐らく、落下の際にエリックは避けきれなかった岩で身体を切り裂いている……推測できる出血量からして、今のエリックにこの崖を登りきるだけの力は無いと思うんだ」

 

 エリックの姿が見えずとも、流れた血の量だけは感じ取れたのだろう。赤く染まった水面は、徐々にその範囲を広げていく。ジャンクの言葉を否定することもできず、エリックは俯いてしまった。どうやら、本当に身を傷付けてしまっていたらしい。

 

「岸壁を蹴って、落ちる方向を微妙に変えるだけで精一杯だったんだ。申し訳ない……」

 

「……落下位置から考えるに、お前の判断がなければアルは今頃、串刺しになって即死だっただろう。少なくとも、間違った行動ではなかった筈ですよ、エリック」

 

 ただ、ポジティブに考えていられるのも時間の問題だろう。ロープで崖をよじ登るのは不可能だ。なら、他の案を考えなければ。

 しかし、そう上手くはいかないのが現実で。誰かがロープで下まで降りて二人を引き上げるという意見も出たが、マルーシャやポプリの力でそれをするのは不可能に等しい。ジャンクに至っては重傷だ。

 そもそも、仮にジャンクが無傷だったとしても、小柄なアルディスはともかくジャンク以上に体格の良いエリックを引き上げるのは困難だろう。だからといって悠長に片方ずつ助けていては、もう片方が手遅れになってしまう可能性がある。

 

「くそ……っ、どうすれば……!」

 

 奥歯を噛み締め、ディアナは目を細める。翼を失っている以上、彼女は完全に戦力外だ。どうすることも出来ないと、ディアナは服の裾を握り締め、固く目を閉ざしてしまった。

 

 その時、水面がバシャンと大きな音を立てた。音に反応してディアナが下を見ると、今にも沈んでしまいそうなエリックの姿が、そこにあった。

 

「! エリック!!」

 

「ッ、かはっ、く……っ、くそ……っ!!」

 

 何とか体勢を立て直そうと必死にはなっているが、一度崩れた体勢はなかなか元には戻らない。考え込んでいるうちに、エリックの体力が限界を迎えてしまったのだ。

 

「ど、どうしよう……っ、やっぱり、わたしも飛び込んで……っ」

 

「駄目よ! そんなことしたら、結局……っ」

 

「じゃあどうするの!? ねぇ……っ、どうすれば良いの!?」

 

 とうとう泣き出してしまったマルーシャの身体を押さえ込むポプリも、必死にこぼれそうになる涙をこらえているような状況で。ディアナも絶望のあまり、何の言葉も発することなく激しく波打つ水面を眺めている。

 

 

――誰も、何もできないというのか。

 

 

 海に沈もうとしているエリックとアルディスの姿を、“三人”はどうすることもできずに見つめていた。

 

 

「……そう、ですよね。もう、他に手段は……無いんだ」

 

「え……?」

 

「背に腹は代えられません……どうか、僕に力をお貸し下さい!」

 

 その空気を打ち破ったのは、今まで黙り込んでいたジャンクだった。

 彼の叫びと共に、数多の下位精霊達がこの場に集い始める。何もなかった大地に、青と緑、巨大な二色の魔法陣が展開された。

 

「せん、せい……?」

 

 輝きを放つ魔法陣の上で、ポプリは不思議そうに良く見知った青年の横顔を眺める。否、よく考えてみれば、自分は彼のことを何も知らなかったではないか。

 この明らかに異様な彼の姿は、今まで一度も見たことの無かった物。それどころか、彼の家族構成や故郷、本当の名前さえもポプリは知らずにいた。

 

「あなた方を……私のような者が使役すること、どうかお許し下さい」

 

 ジャンクが腰に巻き付けていた黒い布が、白衣の裾が、地面から巻き起こる突風になびく。りん、りんと涼しげな鈴の音が荒地に響いた。

 

 

「――精霊の使徒(エレミヤ)、クリフォード=ジェラルディーンの名において汝らに命ずる! 我が呼び掛けに応え、ここに出てよ! ……ウンディーネ、シルフ!!」

 

 

(クリフォード……)

 

 嗚呼、それが彼の本当の名前だったのか――今まで、ずっと隠されてきた名は、これまで彼が名乗ってきたそれとは全くの別物で。

 だが、そんなことよりも彼の告げた“精霊の使徒(エレミヤ)”という単語、そして彼の目の前に現れた二人の人物の姿にポプリは衝撃を受けていた。

 

『おいおい、マジかよ……お前、自分が何をしたか分かっているんだろうな……?』

 

 最初に話し出したのは、深緑の短い髪をした藍色の瞳の青年。民族調なデザインの独特な衣服を纏い、虫のような半透明の羽を持つ彼はジャンクと同じくらい、もしくは少し上くらいの年齢に見えた。

 

「……いかなる処罰も覚悟の上です」

 

『クリフォードちゃん……』

 

 そしてジャンクの本当の名を悲しげに呟いたのは、深い、青の髪をした琥珀色の瞳を持つ美しい女性。もみあげだけを伸ばしたような髪型をした彼女の衣服の一部は、何故か宙に浮いた状態で存在していた。

 どちらの人物も、耳の形状が異様だった。青年は白い羽のような形状、女性は、青いヒレのような形状。それは明らかに、人のものではなかった。あのような耳を持つ種族の存在など、聞いたことがない。

 

(な、何なの……?)

 

 ウンディーネ、シルフ、とジャンクは彼女らのことを呼んでいた。ウンディーネもシルフも、アレストアラントに伝わる七大精霊の名である。愛称だと考えることもできたが、彼女らの風貌からしてそれはないだろう。もはやポプリには、現れた二人が本物の精霊であるとしか思えなくなっていた。

 

 

「ウンディーネ、あなたはエリックとアルディスを海から引き上げて下さい。シルフは、それを手伝って頂きたいのですが……それと恐らくはもう一つ、あなたには別のお願いをすることになるかと思われます」

 

 ウンディーネ達の様子を見る限り明らかだったが、彼女らはどうやらジャンクと面識があったらしい。そのせいなのか、ジャンクは精霊を前にどこまでも冷静だった。

 

『分かったわ。だけど……』

 

『ウンディーネ。話は後だ。どのみち……もう、どうにもならない話だろ』

 

『そう……よね』

 

 おもむろに、ウンディーネが長い袖に隠された手を前に突き出した。シルフも、それに続く。

 刹那、海が割れ、そこから救い出されたエリックとアルディスがゆっくりと陸地に下ろされた。

 

「ッ!? エリック、アルディス……!!」

 

「ふ、二人共、無事か!?」

 

 この異様な光景に絶句してしまっていたのは、ポプリだけではない。マルーシャもディアナも、エリックとアルディスの姿を見て少しの間、何の反応もできなかったくらいには状況を飲み込めずにいた。

 

 

「げほっ、ごほっごほっ!!」

 

 慌てて空気を吸い込んだためか、エリックは酷く咳き込んでいる。それでも、海に沈みながらも異変には気付いていたのだろう。顔面を蒼白にしたまま、エリックはジャンクの姿を見付めていた。

 

「は……っ、はぁっ、はぁ……」

 

「……。ディアナ。僕らは、エリックの傷を癒します。マルーシャ……アルを、頼む」

 

 荒い呼吸を繰り返すエリックの左足は、ジャンクの推測通り広範囲に渡って深い裂傷を刻んでいた。少しの間だったとはいえ、これで立ち泳ぎを続けるのは苦痛の伴うものであったことだろう。

 

「アルディス……」

 

 それでも、より深刻な状況なのは、明らかにアルディスの方だった。血の気の引いた、真っ青な顔から生気は一切感じられない。彼が自ら貫いた腹からは未だに血が流れ続けている。何より呼吸はほぼ、止まりかけていた。

 

「今、治すからね!」

 

 治癒術の詠唱に入ったマルーシャの目に、もはや迷いは無かった。

 再び刃を向けられるかもしれない、傷付けられるかもしれないなどという恐怖は、彼女の中からすっかり抜け落ちてしまったらしい。

 

「――癒しの波動、彼の者を救え! ……ヒール!」

 

 淡い光が、アルディスを包み込む。すっと、彼の負った傷が塞がり、消えていく。しかし、どうしても塞がりきらない傷が、中にはあった。

 

「だ、駄目なの!? じゃあ、もう一度……!」

 

 再び、マルーシャがヒールを唱える。それでも、まだ駄目だった。

 諦めずに唱え続けた何度目かのヒールで、漸く腹の傷も塞がった。だが……。

 

「どうして……!? 顔色が、戻らない……呼吸も、止まりかけのままだわ……ッ」

 

 アルディスの呼吸や脈の状態を調べていたポプリが、思わずと行った様子で叫ぶ。その言葉に、マルーシャは再び詠唱を始めた。

 

「癒しの波動、彼の……っ!?」

 

「マルーシャちゃん!?」

 

「ううっ、……っ、ぁ……ッ」

 

 マルーシャに異変が起きたのは、そんな時だった。突然、胸を押さえた彼女の呼吸が、一気に荒くなったのだ。

 

「マルーシャちゃん! もう、力を使っちゃ駄目! 死んでしまうわ!!」

 

 マルーシャは、自分の命が燃え尽きるまで能力を使い続けることのできる、特異体質。これ以上無理をさせれば、今度は彼女の命が脅かされてしまう。

 

「後は、先生とディアナ君に任せましょう? 大丈夫……大丈夫、だから!!」

 

「いやっ!! いやだ!!」

 

 自分をアルディスから引き離そうとしたポプリを振り払い、マルーシャは再び治癒術の詠唱を始める。しかし、その表情は明らかに苦しげで。

 

「ッ、ヒール……!!」

 

 次第に、マルーシャの顔色まで悪くなっていく。ほんのりと赤みがかっていた健康的な肌は、今では土色と言っても過言ではない程にくすんでいた。

 

「やめなさい! マルーシャちゃん、もう駄目!!」

 

「いやだ! アルディスが死ぬなんて、そんなこと……考えたくもないよ!!」

 

「あたしだって、ノアの命を諦めたくない! それでも、このままじゃあなたが……ッ!!」

 

 このままマルーシャが治癒術を使い続ければ、いずれはアルディスを助けられるかもしれない。だが、それと引き換えにマルーシャは間違いなく命を落とすだろう。

 

 それ以前に、仮にマルーシャがそこまで力を使い続けたとして、この状態のアルディスが助かるとは到底思えない。

 ポプリは泣きながらアルディスの腕を取り、どんどん弱くなっていく脈を感じながら、肩を震わせた。

 

 

「――精霊よ、彼の者に悠々たる風の力を……メルジーネ・ヴィント」

 

 

 そんな時、聞こえてきたのはジャンクの声。酷く息を切らしていたマルーシャに、人為的に魔力が分け与えられる。

 それとは別に、風属性の下位精霊達もマルーシャを助けるべく傍に寄って来ていた。マルーシャを襲っていた苦痛が、一気に無くなり、身体が楽になっていく。

 

「! ジャン……!」

 

「エリックの方は、ディアナだけで何とかなりそうだったので僕はこちらに来させてもらった」

 

 ソプラノの美しい歌声が、風に乗ってマルーシャ達の耳にも届く。胸の前で手を組み、必死に旋律を口ずさむディアナの姿を横目で確認し、ジャンクは未だ危険な状態のアルディスに視線を落とした。

 

「先生、あたし……何か、できないかしら……?」

 

「何もできない、だろうな。君だけじゃない、それは僕にも当てはまる話です」

 

 ジャンクはアルディスの容態を確認し、静かに首を横に振った。

 

「マルーシャ、力を使うのをやめなさい。これ以上は、無駄にしかならない」

 

「どうして!?」

 

「今の君ではアルは救えない、ということです」

 

 いつものように目を閉ざしたまま、ジャンクは静かにそう告げた。耳を疑うようなその言葉に、マルーシャは大きな目に涙を浮かべて叫んだ。

 

「そんなの、まだ分かんないじゃない! わたし、諦めないから!! 絶対に、諦めないから!!」

 

「……無理です。このままでは君が、死んでしまう」

 

「ッ!」

 

 

『君に術なんか教えたら、乱用しそうで怖いんだよ……マルーシャは優しいから、自分の限界を超えた魔術の使い方しそうで』

 

『大丈夫だよ! そんな無理しないよ! アルディスが死にかけでもしたら分かんないけど!!』

 

『笑えない冗談はよせ!!』

 

 

ーーマルーシャの脳裏を、洞窟でアルディスと交わした会話が過っていく。

 

 

『分かった、教えてあげる。どうせ言ったってきかないでしょ? その代わり』

 

『その代わり?』

 

『絶対に自分の限界を超えて魔術を使わないこと。仮に』

 

 

 あの日、マルーシャは「エリックを助けたい」一心で、アルディスに治癒術を教えてもらった。

 彼は複雑そうな顔をしていたが、きっと彼は……あの時点で、“今日”という日が訪れることを覚悟していたのだろう。

 

 

『俺が死にそうになっていたとしても、そんなことはしないと約束して。万が一、俺がそんな状況に陥ったとしたら、それはきっと、俺の“ワガママ”が招いた結果だから……』

 

 

ーーマルーシャの脳裏を過っていくのは、あの日、彼が結ぼうとした約束。

 

 

「嫌なの! アルディスが死んじゃうなんて、そんなの、絶対に嫌だよ!!」

 

 

 そんな約束。果たせないーー!

 

 

 幼子が駄々をこねるように叫び、マルーシャは再びアルディスに手をかざした。

 どうしようもないと判断したジャンクはその手を掴み、あくまでも冷静さを保ったままシルフへと視線を移す。

 

 

「離して! やだっ! やだぁ!!」

 

「落ち着きなさい、マルーシャ。僕だって、アルの命を諦めるつもりはない。だから、シルフを召喚したんです……君が、アルを救うことを望むなら」

 

 暴れるマルーシャをなだめ、ジャンクはそのまま彼女の真横へと移動した。

 

 

「マルーシャ。今、この場で風の精霊シルフと、契約を結んで下さい」

 

「え……?」

 

 

 驚いて黄緑色の瞳を丸くするマルーシャとジャンクの後ろに、シルフが移動してくる。

 呆れたような様子でジャンクを見下ろす彼の表情は、どこか辛そうにも見えた。

 

『……。そうじゃないかって思った。海に沈みかけた人間二人救助するだけなら、ウンディーネだけで十分だしな……ただ、クリフ』

 

「もう、僕のことは気にしないで下さい……良いんです、本当に」

 

 シルフの言葉を遮り、ジャンクはマルーシャを立ち上がらせる。そんな二人の様子を、傍にいたポプリは呆然と眺めていた。

 

「仮契約ですから、今は口約束だけで大丈夫だ。僕が今から言う言葉を、復唱して下さい」

 

「う、うん……分かった」

 

 契約の言葉、ということだろう。ジャンクから言うべき言葉を教えてもらったマルーシャは目を閉じ、間違いのないようにそれを一度だけ頭の中で復唱する。

 

 

「よし……っ!」

 

 そして、すぐに彼女は澄んだ黄緑色の瞳を目の前のシルフへと向け、口を開いた。

 

「――太古より続きし、精霊と人の見えざる絆。今、その境界に踏み入ることを許したまえ。我が名はマルーシャ=イリス=ウィルナビス。悠々と世界を巡る風を司りし、汝との契約を望む者」

 

 ゆっくりと、それでいて堂々と言葉を紡ぐマルーシャの姿を、シルフは無言で見つめている。

 マルーシャは軽くアルディスの姿を見た後、深呼吸してから再び契約の言葉を紡ぎ始めた。

 

「我、いかなる時も汝ら精霊の存在を踏みにじらぬことを誓う! 汝らの意思を尊重し、共に在ることを望む! 精霊シルフ、汝、我が意に応え、我に大いなる力を授けたまえ!」

 

 全てを言い終わった後、マルーシャは胸のリボンを震える手で握り締めた。

 アルディスを救うため、シルフと契約をすることに異議は無かった。しかし、怖かったのだ。何しろ、相手は七大精霊の一人なのだから。

 

「……ッ」

 

『おー……、契約の言葉って難しいし、一度しか聞いてないのに、一言も間違わなかったじゃん? キミ、可愛い顔してやるねぇ……』

 

「へっ!?」

 

 だが、マルーシャの不安は杞憂であったようだ。シルフは「良くやるな」とへらへら笑みを浮かべている。間違えずに言い切ったらしいことには安堵したが、全くもって想定外の反応が返ってきてしまった。

 困惑するマルーシャの頭に手を置き、シルフは藍色の瞳を細めて笑いかけてみせる。

 

『我、汝を主と認め、盟約の元、汝の力となることを誓おう……よろしくな、マルーシャちゃん』

 

 シルフが話し終わると同時にマルーシャの左手首が一瞬だけ輝き、繊細な装飾の施されたバングルがそこに現れた。少し色が違うが、それはアルディスが身に付けていたものと全く同じデザインだった。

 

「……よろしくね、シルフ」

 

 何にせよ、契約に成功したらしい。身体に暖かなものが流れ込んでくるのを感じ、マルーシャはそっと瞳を閉じた。良く分からないが、力が込み上げてくるのが分かる。シルフは彼女の頭を軽く撫でた後、契約の様子を見守っていたポプリ達を見回した。

 

『……ってな訳で、残りの四人。ちょっとこの子に魔力提供したってくれ。この状態で上級術なんか唱えさせたんじゃ、この子の身体、間違いなく持たねーわ』

 

 その話に、皆が一斉に頷く。否の意見は、無かった。

 嬉しそうに歯を見せて笑うシルフの姿は徐々に掻き消えていき、いつの間にか姿を消していたウンディーネ同様、見えなくなった。

 

 

「じゃあ、皆……行くよ」

 

 マルーシャの頭の中に、直接シルフが語りかけてくる。

 今、どんな術を発動させれば良いのか、その術はどのように発動するのか。全く知らない術だったが、彼の助言のお陰で何とかなりそうだ。

 

「再誕の……奇跡を、宿したまえ……」

 

 地面に展開されていく複雑な魔法陣の上で、マルーシャは意識を高めていく。彼女の元には仲間達から譲り受けた魔力が集い、まだ見ぬ術の完成を助けていた。

 

(アルディス、お願い……っ! 死なないで!!)

 

 アルディスの呼吸は、既に止まってしまっていた。それでも、今のマルーシャには彼を救えるという強い自信があった。

 魔法陣が白く煌く。目も開けていられないような輝きの中、マルーシャは奇跡と呼ぶに相応しい、神聖なる術の名を叫んだ。

 

 

「――レイズデッド!」

 

 

 魔法陣の中心に、純白の翼を生やした天使が舞い降りる。その顔は、彼女を取り囲む輝きが強過ぎて、良く分からなかった。

 天使の手が、アルディスの身体に触れ、暖かな光を放つ。白い羽根が、辺りに飛び散った。

 

(すごい……)

 

 精霊シルフや、仲間の力を借りて成し遂げた上級術。少しずつ、少しずつではあったが、アルディスの顔に生気が戻っていく。これでもう、彼は大丈夫だろう。安堵のあまり、マルーシャの目から涙が零れ落ちた。

 

(……良かっ、た……わたし、ちゃんと、できた……んだ……)

 

 だが、術の全てを見届けるだけの体力は残されていなかったらしい。身体の重心が不安定になり、マルーシャは横向きに地面に倒れ込んでしまった。

 トサリ、トサリと仲間達が次々、その場に倒れていくのが分かる。それだけ、負担の大きな術だったということだ。誰も、意識を保ってなどいられなかった。

 

「ッ、う……」

 

 しかし、全員が倒れるわけにはいかないだろう。何とか身体を起こそうと、閉じようとしている重い瞼を開こうとマルーシャはもがいた――そんな時だった。

 

 

『お疲れ様。大丈夫だから、今は寝てな。後は……俺が何とかするから。まあ、流石に男女混合六人組っていうのは無茶振り過ぎる気もするけどな……』

 

 

(え……?)

 

 聴こえてきたのは、穏やかな低音の、落ち着いた声。若い男性の物だろう。

 一度も聴いたことのない声だったが、その声は優しく、何故か、彼を信頼して良いような気がした。

 

(誰、なの……? あなたは、一体……?)

 

 実は、彼は顔見知りなのではないかと思える程の安心感だった。姿を見たかったが、瞼が開かない。それが誰なのかを確認するよりも先に、マルーシャの意識は闇に引きずり込まれていった。

 

 

 

―――― To be continued.

 




 
精霊ウンディーネ

【挿絵表示】

精霊シルフ

【挿絵表示】


(絵:長次郎様)


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Tune.31 答え

 

――自分の、価値なんて。

 

 

「痛……っ!!」

 

「こんなこともできないというのか! 我が息子ながら、情けない……!! お前がこんなことで、ラドクリフの未来はどうなるというのだ!?」

 

 

――そんなもの、無いと思っていた、生きていても、何も楽しくなかった。

 

 

「さあ、稽古の続きだ。早く剣を取れ! アベル!!」

 

「……はい」

 

「ノア皇子はお前の半年後に生まれて、あの実力だというのに……」

 

 真名(まな)ですら、ちゃんと呼んでもらえなくて。何かと敵国の王子と比較されて。本当に僕なんて、必要ないんじゃないか、そう思ってしまって。

 

「! な……っ」

 

 

――だったら、望み通りに死んでしまおう。そう思った。

 

 

「!? やだぁ!! エリック! 死なないで!!」

 

 それなのに。よく分からないうちに決まっていた許嫁の少女は、僕の死を酷く嫌がった。

 こんな僕の許嫁になるなんて、絶対に嫌だろうなって思ったのに。王子の許嫁だから、必死によく振舞っているんだろうって思っていたのに。

 

「お願い……っ! お願いだからぁ……っ」

 

 彼女の態度からは、そんなのは微塵も感じられなくて。それが、本当に嬉しくて。

 悪いようにしか見てなかったせいか、鬱陶しいとすら思っていた少女だった。だけど、それが彼女の良さなんだって、やっと気付けた。

 

 

――こんな子が傍にいてくれるなら、生きているのも悪くないなって、そう……思えた。

 

 

――――――――――

 

――――――

 

―――

 

 

 

「――ッ!!」

 

 ハッとして目を開くと、視界に淡い黄色の天井が映った。寝汗でベッタリと張り付いた髪と服が、気持ち悪い。

 

 

(夢、か……)

 

 随分と懐かしい夢を見たな、とエリックは深く息を吐いた。ベッドの上に寝かされた身体を起こすと、そこは知らない宿屋の一室だった。

 誰かが着替えさせてくれたのか、エリックは真新しい寝巻きを身に着けていた。宿に付属しているものなのか別に用意された物なのかどうなのかは分からないが、黒く染められたそれは、上質な綿を使用した肌触りの良い素材で作られている。

 

(ここは、一体……)

 

 窓の外には、まだ見慣れぬ下位精霊と雪の飛び交う幻想的な風景が広がっている。

 整備された木材とレンガ造りの温かみのある街並みからしてスウェーラルではなさそうだが、スケルツォ大陸とは明らかに違う独特の環境からして、フェルリオ帝国内であることは間違いなさそうだ。

 

「……」

 

 覚醒しきっていない意識の中、ぼんやりと外を眺めているとベッドの横の扉がゆっくりと開かれた。

 

 

「! エリック君……! 目が、覚めたのね!?」

 

「……ポプリ?」

 

 入ってきたのは、タオルと氷水入りの洗面器を持ったポプリだった。そっと、彼女の手の平が額に伸ばされた。ひんやりとした感触に、何となく心が安らぐのを感じる。

 

「そうね……まだ、微熱はあるかしら。エリック君、元々身体弱いのに無理させちゃったから……ここに来て、一気に症状が出ちゃったのね。大丈夫?」

 

「あ、あぁ……なあ、ポプリ。ここは……? それから……」

 

「落ち着いて。ちゃんと、一から全部、話すから」

 

 ポプリはベッド傍のチェストに洗面器を置き、作り笑いを浮かべてみせる。あまり、良い話題ではないのだろう。それも、無理はなかった。

 

(……そうだ。あの後、僕らは……)

 

 あれから、どれほど時間が経ったのだろうか――そんなことを考え、エリックは思い出したようにポプリを見た。

 

「み、皆は……!? アルは……ッ」

 

「落ち着いて、皆、大丈夫よ……ノアも、一命は取り留めたから」

 

「そ、そうか……」

 

 話を聞いて、エリックは安堵のため息を吐いた。状況が状況だっただけに、一番心配だったのはやはりアルディスのことだった。

 

「……。怖かった、わよね。海の中で、ノアをずっと抱えてくれてたの、エリック君だったもの……」

 

 まさに、その通りだった。的を射過ぎた言葉を掛けられ、何とも言えない心境になったエリックは思わず、ポプリの姿を映していた赤い瞳を伏せてしまった。

 

「情けないが、そういうことだ……少しずつ体温が下がっていくのも、どんどん心臓の鼓動が弱まっていくのを……感じ取ってた。まあ、それだけじゃ、無いけどな……」

 

 右手に残る、思い出したくもない感触に身体が震える。

 あの時は仕方がなかったのだと言い訳を重ねたが、無理だった。親友の身体を斬り付けた。その生々しい感触が手から消えてくれないのだ。そんなエリックの様子を、ポプリは琥珀色の目を細めて、悲しげに見つめていた。

 

「ここは、帝都スウェーラルから一番近い街。ディミヌエンドっていうらしいの。魔術や精霊の研究をしている都市だそうよ。事実上フェルリオでは一番の発展都市……になるらしいわ」

 

「え……誰が、ここまで……?」

 

「チャッピーよ。彼が何往復もして、あたし達をこの街に運んでくれたって。この宿の従業員さんが教えてくれたの。凄い話よね……」

 

 話題を変えようと、ポプリが語りだしたのは衝撃的な話。その話を聞いて、エリックは一瞬呼吸が止まったかのような錯覚に陥った。

 本当に、あの鳥は賢過ぎる。帝都からこの街への距離がどれ程のものかはまだ分からないが、一羽で六人を運びきったというチャッピーの行動は賞賛に値するだろう。

 驚くエリックに対し、あくまでも冷静さを保ったポプリは「落ち着い聞いてね」と前置きをした上で、再び話し出した。

 

「……それで、ね。ディアナ君とあたしは、結構早く目が覚めたの。それでも、二日経ってたらしいけどね? それから少し後に先生とチャッピーが意識を取り戻して……マルーシャちゃんが目を覚ましたのは三日前の話」

 

「……」

 

「結局、君が目覚めたのは……今日は、あれから一週間後。本当に、心配したんだから……」

 

 一週間。それ程の時間、自分は意識を失っていたというのか。

 ポプリの話によると、怪我による出血と精神疲労のせいか、エリックの身体は酷い衰弱状態に陥っていたのだという。

 ポプリとディアナ、ジャンクが目覚めた頃は高熱といつもの発作に苦しんでいたという話だったが、全くもって記憶にない。

 

「……悪かった」

 

 それだけに何だか申し訳なくなり、エリックはすぐに軽く頭を下げていた。

 

「ううん、仕方ないわよ。あたし達ですら、すぐに意識回復には繋がらなかったのよ? シルフの話だと、魔力を抜かれるっていうのは結構肉体的に反動がくるらしいから、当然の結果らしいんだけど……」

 

 マルーシャが精霊シルフと契約し、上級治癒術レイズデッドを発動させた。

 エリックは既に意識が朦朧としていた為に話をよく理解していなかったのだが、実はその際にシルフの力でマルーシャとアルディスを除く全員が魔力を抜かれ、マルーシャの術発動を手助けしていたのだという。その結果が、最短でも二日の昏睡状態だ。

 

「ディアナ君は完全に塞ぎ込んじゃってるし、先生は医者のプライドだのなんだの言って動き回ってるけどまだフラフラだし、マルーシャちゃんはろくにベッドから起き上がれない状態だし……正直ね、あたしもちょっと動転してる。君が起きてくれて、本当に良かったわ……」

 

 無理に笑顔を作るポプリは、今にも泣き出してしまいそうで。ここまで一切情報のないアルディスのことが気にはなったが、エリックは言い出せずにいた。

 だが、そんなことはポプリも分かっていたのだろう。ひと呼吸おいてから、彼女は氷水に浸したタオルを絞りながら口を開いた。

 

「あと、ノアのことなんだけど……先生の話だと、命に別状はないらしいの。実際、かなり不安定な状態ではあるけれど、顔色も随分良くなったし、呼吸も正常になったわ。ただ……」

 

「まだ……一度も目を覚まして、ないんだな」

 

「……」

 

 想像はしていた。本当に、文字通り生死の境目を彷徨った彼がそう簡単に目覚めるとは思えなかった。むしろ、命に別状はないという事実を喜ぶべきだろう。

 

「で、でもね……君が目を覚ましたんだもの。きっと……きっと、大丈夫よ」

 

「……」

 

「大丈夫、大丈夫だから……」

 

 それはまるで、ポプリ自身が自己暗示を掛けているかのようで。彼女に横になるように促され、素直にそれに従ったエリックの額に濡れタオルが置かれる。

 

「冷たい? 大丈夫?」

 

「ああ。というより……悪い」

 

「良いのよ。それと……まだ、早朝なの。もう一眠りした方が良いわ。動けそうなら、後で皆の部屋回れば良いから」

 

 ポプリによると、今回も二人部屋を三部屋借りているパターンらしい。

 比較的動ける者が、動けない者と同室になるようにと調整しているそうで、この部屋はエリックとポプリ、隣がマルーシャとディアナとチャッピー、さらにその隣が、アルディスとジャンクという組み合わせになっているそうだ。

 

「エリック君の服、破れたり切れたりしてたとこは縫っといたから。テーブルの上に置いてるから、外に出るときは着替えて、ね?」

 

「な、何から何まで申し訳ない……なぁ、ポプリ」

 

 テーブルの上に置かれた服の上には、アルディスに切られたチョーカーが乗っていた。今はレーツェルの付いたそれは、どこが切れたのか分からない程綺麗に繕われている。

 

「ん……?」

 

「その、聞かないのか……?」

 

 おもむろに、エリックは右手を自分の首へと伸ばす。何となく違和感は感じていたのだが、そこには包帯が巻かれていた。

 

「……首の、傷のこと?」

 

 躊躇しつつポプリが呟いた言葉に、エリックは微かに首を縦に振った。

 

「ノアが、目覚めた時で良いわ。いえ……なんなら、あたしには話さなくても良い。それでもあの子には……ノアには、話してあげて」

 

「……」

 

「エリック君も、気付いたでしょう? あの子、あんな場面でもその傷跡見て、驚いてたじゃない……」

 

 

『ッ、あなたに傷があるかどうかなど、私には関係のないことです!』

 

 

 額の濡れタオルを押さえつつ、エリックは再び身体を起こした。何となく、ポプリとちゃんと向き合って話したかったのだ。

 その意図を分かってくれたのか、ポプリはその場にしゃがみ込み、ベッドに座るエリックと顔の高さを合わせた。

 

 

「今になって冷静に考えてみれば、色々と、おかしかったんだよな……」

 

 手に乗せた濡れタオルへと視線を移し、エリックは軽く息を付いた――アルディスの行動は、明らかに異様だった。

 味方になってくれたであろうディアナとジャンクを真っ先に気絶させてしまったことも、何度も隙を見せた自分を、ことごとく見逃してきたことも。

 

 

『敵に……情けを、かけるな……! それは、自分の命を投げ出しているような行為にすぎない……!』

 

 

「アイツ、さ。戦闘中に助言までしてきたよな」

 

「……そうね」

 

「もしかすると、虚無の呪縛(ヴォイドスペル)の発作も意図的に起こしたんじゃないかって……今じゃ、そう思うんだ……」

 

 これに関しては、本人に聞かなければ分からないだろう。そう思っていた。

 だが、ポプリは事実を知っていたらしい。エリックの話を聞いた彼女は困ったように眉尻を下げ、明らかにエリックから目をそらしていた。

 

「ポプリ?」

 

「……」

 

 知っていることを話して良いものなのか、悩んでいる様子である。それでも、意を決した様子でポプリは軽く息を吐き、エリックの瞳を真っ直ぐに見据えてきた。

 

「先生が教えてくれたんだけど、呪いの発作が遅れて出たのは、ノアが左手に着けてたバングルが理由だそうよ。あれ、精霊の力が込められているそうね。つまり、すごい力を持っていた……そんなバングルの力を解放して、意図的に呪いの発作を遅らせていたらしいの」

 

「! だが、あのバングル……途中で……」

 

「壊れたわね。あれ以上は抑えられなかった、そういうことだったのよ。きっと……」

 

 バングルが壊れてしまったのは、魔術を使いすぎたのが原因かもしれない。

 しかしながら、アルディスはこれまで一切魔術を使用しなかったわけではない。その時に彼がバングルの力を解放することはなかった。発作が出ることを考えれば、その都度バングルの力を解放させた方が良いと考えるのが普通だろう。

 つまり今回は例外だったのだ。バングルが限界になる前にエリック達を殺せると思ったのかもしれないが――それはないだろうと、エリックは考える。

 

「バングル……意図的に、壊した可能性が高いよ、な」

 

「少なくとも……あたしは、そう考えてるわ……」

 

「……」

 

 エリックには、その可能性しか考えられなかった。ポプリも、同様の意見を持っていたようである。

 発作を起こしたアルディスの吐血量。それはそのまま死んでしまうのではないかと考えてしまう程に、酷い量だった。

 

 

『君は、馬鹿だ……ッ、どうして、そこまで、俺、を……ッ』

 

 

『愚かなのは、俺の方だ……! 帝国のことを考えるのならば、君を殺さなければならなかったのに……っ! 八年間も、ずっとずっと、先延ばしにすることしかできなかった……』

 

 

『無理だ……できる、わけが、ない……! それでも、フェルリオの民を思えば、やらなくちゃ、いけなかった……俺には、もうそれしかなかったのに……!』

 

 

『俺はただ、この国を、守りたかった……なのに、俺には何もできな、かった……ッ、俺は一体、何のために、生まれてきたんだろう、ね……?』

 

 

 崖先で泣きじゃくったアルディスの声が、耳の奥でこだまする。それは絶望と嘆きに満ちあふれた、悲痛な叫びだった。あれが演技であるなどとは、到底思えなかった。

 

 敵国の王子を、殺さなければならない。しかし、そんなことはしたくない――結局のところ、互いにあの場で考えたことは同じだったのだ。

 

(……まさか、アイツ)

 

 嫌な仮説が、脳裏を過ぎった。そんなことがあってたまるかと、エリックは首を横に振るう。

 しかし、ここまで来るとこの説が最も説得力のある説となってしまう。だが、それを信じたくなかった。それはあまりにも……悲しすぎた。

 

 

『やっぱり、俺は“いらなかった”……分かってた。だから、もっと早く……いや……』

 

『最初から、こうすべき……だった、んだ……』

 

『……。さよなら』

 

 

(くそ……っ)

 

 嫌だ。嫌だ。考えたくなどない。

 この説が本当であると思うくらいならば、多少無理にでもアルディスは本気で自分を殺しにかかってきたのだと、そう思った方がいくらかマシだ――!

 

 

「ねえ……エリック君」

 

「――ッ!」

 

 今の自分は、本当に情けない顔をしているのだろう。ポプリの手が、エリックの頬へと伸ばされた。

 驚き、顔を上げたエリックの目の前で、ポプリは微かに瞳を潤ませていた。

 

「今は、本当に辛い時かもしれない。現実から目を背けたくなる時かもしれない」

 

「……」

 

 ポプリは懸命に、何かを伝えようと言葉を紡いでいる。自分を勇気付けようと、必死になってくれている。

 

「けどね、君は賢いもの……分かるでしょう? 厳しいことを言ってしまうけれど、今の状況は君が過去に選んで来た道の、延長線だってこと……」

 

 エリックとマルーシャがアルディスと出会ったのは、八年前のこと。つまり、あの時点で彼との交流を絶っていれば、間違いなく今の状況とは違った未来が待っていた。

 そうすれば敵国の、ラドクリフ王国内では最重要クラスの指名手配者となっていたアルディスとの歪な友情を築くことも――あんな悲しい戦いをすることも、無かったのに。

 

「なら、どうすれば、良かったんだろうか……僕は……」

 

 交流を絶てなかったのは、彼が心身共に酷く傷付いた少年であったことを、見抜いてしまったから。彼の姿を見て、実の父親に罵られ、生きることさえ諦めかけていた幼い頃の自分の姿を投影していたのかもしれない。

 だが、あんな状態のアルディスを、放っておくのが正解だったというのだろうか。あのまま死んでしまったかもしれない十歳の少年を、見捨てるべきだったというのだろうか。

 

「今更、何を言ったってどうにもならないわ。ただ、あたしは……君の選択を責める気は無い。そんな権利、あたしなんかには無いし、むしろ今まで、ずっとノアにとって絶対の味方でいてくれたことを感謝したいくらい……あたしにはそれが、できなかったから」

 

「ポプリ……」

 

「あたしがしたことが許されることだなんて思ってないけれど、それでも、ただただ悔やみ続けるだけっていうのは、嫌なの……だからあたしは、自分ができる最善の行動をしようって、そう思っているわ」

 

 ポプリの言葉を聞き、エリックは尚更思い悩み、再びうつむいてしまった。ポプリは、そんなエリックの右手を握り締める。

 落ち着いたトーンで名を呼ばれ、顔を上げたエリックの視界に映ったのは、悲しげで泣きそうな、それでいて強い意志が込められた橙色の瞳だった。

 

 

「選んだ道が正しいかどうか考えるんじゃなくって、どうすれば前に、ゴールに駒を進められるかを考えるべきよ」

 

 

――立ち止まっていては、何もできないから。

 

 

「だって……過去の選択は、変えられないもの」

 

 

――今見るべきなのは、変えられない過去ではなく、これから紡ぎ出す未来。

 

 それは、ごくごく普通の、当たり前のことでありながら、今現在エリックが見失いかけていたこと。ハッとして目を見開いたエリックに微笑みかけ、ポプリは「大丈夫」と囁き、さらに言葉を続けた。

 

「君は、取り返しの付かないことをしてしまったわけじゃないもの。まだ、間に合うわ。ノアは、ちゃんと生きているもの……」

 

 目の前で、ポプリは必死に涙をこらえていた。彼女も何か、思うところがあったのかもしれない。そんなポプリの姿を見ているうちに、エリックの中で「皆に会いたい」という思いが膨れ上がっていった。

 

「早朝って、言ったよな……? 皆、まだ寝てるか……?」

 

 寝ろとは言われたが、とてもそんな気にはなれなかった。床に両足を付け、ベッドから立ち上がってみる。ずっと寝ていたせいか、不思議な感覚だ。若干フラつく上に、左足は酷く痛むが、それでも何とか動けそうだ。

 

「さっき会ったから、先生とディアナ君は間違いなく起きてるわ。マルーシャちゃんはちょっと分からないけど、起きてるかもね。あの子もあまり、寝付けないみたいだから……」

 

「……そうか」

 

 こんな状況だ。悠長に寝ていられる精神状態ではなくなってしまっているのだろう。

 そして恐らく、一週間の昏睡状態から回復した自分も、その後を追う形になる。

 

「あたし、ディアナ君連れて買い出しに行ってくるわ。エリック君はシャワーでも浴びて、着替えて皆の部屋を回ったら良いと思う。そのままだと、寝汗で気持ち悪いでしょう?」

 

「そう、だな……ありがとう」

 

 ディアナからしてみれば、自分は主人を殺めかけた憎い存在だろう。ポプリの気遣いはありがたいものであったが、それと同時に悲しくなってしまった。

 

「じゃあ……また、後で」

 

「ええ……」

 

 タオルを手渡され、部屋に付いていた小さなシャワールームへと足を運ぶ。ポプリが部屋を出ていくのを感じながら、エリックは蛇口を捻った。

 

 

 

 

「……寝てる、か?」

 

 マルーシャの部屋の前まで来て、エリックは部屋の扉をノックするかどうかを悩み始めた。仮に寝ているとすれば、あまり物音を立てるべきではないだろう。

 先にジャンクの所へ顔を出すべきだろうかと悩んでいると、壁をすり抜ける形でまだ見慣れぬ半透明の青年が現れた。

 

『いや、マルーシャちゃんもう起きてるぜ?』

 

「!? 心臓に悪いだろ……!?」

 

『ん? こういうの苦手なタチか? へへっ、おもしれー』

 

 紺色の瞳を細め、青年――シルフは楽しげにケラケラと笑っている。それに若干腹を立てたエリックは、彼を完全に無視する形で部屋に入った。

 

 

「マルーシャ」

 

「え、エリック!」

 

 ベッドから上半身を起こした状態で、マルーシャが出迎えてくれた。結われていない金色の細い髪は、さらりとシーツの上に流れている。

 

「大丈夫か? その、あまり動けないって聞いたんだが……」

 

「えと……術の反動なのかな? 珍しく、体調崩しちゃった」

 

 あはは、と笑うマルーシャの目の下にはくっきりと隈が浮かんでしまっている。体調が優れない上に、ろくに眠っていないのだろう。

 

 

「きゅぅ……」

 

「あ、チャッピー起きた? おはよ、チャッピー」

 

「あれ? ディアナと一緒に行ったんじゃなかったのか?」

 

 チェストの裏から、チャッピーがひょっこりと顔を出した。少し、鳴き声に元気がない。マルーシャとエリックをしばらく眺めた後、彼はカーペットの敷かれた床にぐったりと頭を寝かせた。

 

「聞いた? わたし達全員を、チャッピーが運んでくれたって話」

 

「あ、あぁ……そうか。それで疲れ切ってるのか」

 

「そうみたい。ここに来てから、ずっと元気がないみたいなの」

 

 ただでさえ、チャッピーにはヴィーデ港から帝都への移動の際、かなり無理をさせてしまったのだ。その時の疲れも加わって、身体が辛いのだろう。

 

「悪かったな……ありがとう、チャッピー」

 

 エリックはチャッピーの前に膝を付き、魔法石の埋め込まれた額を撫でてやった。しかし閉じられた青紫色の瞳は、一切開く気配がない。

 

「……」

 

 それどころか、完全に無視である。「ああそうですか」とエリックは苦笑し、再びマルーシャへと視線を移した。いつの間にか、彼女の隣でシルフが羽根を靡かせている。

 

 

『おいおい、オレのことは放置なの? ひっでーなぁ王子様』

 

「敬意その他を一切感じられないから王子って呼ぶな。そういえばシルフ……お前、マルーシャに召喚されてるのか?」

 

 半透明な状態とはいえ、シルフは平然と部屋の中を動き回っていた。何だか妙な光景である。そんなエリックの問いに、シルフは少し考えてから口を開いた。

 

『仮契約精霊の場合、バングル――契約の腕輪の持ち主の傍になら勝手に出て来れるんだ。ただまぁ、その時に使う魔力は完全にオレら側の負担だから辛いんだよ。しかも力は使えねーし? 大体、主人となら常に意思疎通出来るし、わざわざ出てくる必要はないってワケ』

 

 それでも彼が姿を現すのは、あまりにも体調の優れないマルーシャを思ってのことらしい。

 ふと、エリックの脳裏に、着流しを身に纏う白い男の姿が過ぎっていった。

 

「……それは、レムに関しても同様なのか?」

 

 主人であるマルーシャを心配してシルフが顔を出しているというのなら。アルディスと契約を結ぶレムが姿を見せないのは少々不自然な気がしたのだ。彼も、主人を思う気持ちならシルフに負けていないだろうに。

 エリックの問いが何を意味するものなのか理解できたのだろう。レムは「あー……」と気の抜けた声を出し、少し悩んだ末に問いに答えてくれた。

 

『レムとアルディス皇子間で交わされた契約は、もう無効だ。バングルが、壊れちまったからな……バングルって便利だけどよ、結構脆いんだぜ。アルディス皇子も無茶なことするぜ……』

 

「!」

 

 ショックを受けるエリックから目線をそらし、シルフは更に言葉を続けた。

 

『絶対、気にしてるとは思うけどな。話を聞く感じじゃ、どう考えたってアルディス皇子の独断暴走だったっぽいし? ……止めたかったろうな、レムは』

 

 アルディスとレムの関係性についてはよく分からない部分が多いものの、仲が悪かったということは間違いなくないだろう。彼らは恐らく、良好な関係を築いていたに違いない。

 特にレムはアルディスのことをとても大切に思っているらしいことが窺えた。バングルが壊れたことでレムが死ぬことは無いそうだが、仮にそうだとしても辛かっただろうなとエリックは考える。

 

『お前が悩んだって、仕方ねぇだろうよ……ウジウジすんな』

 

 考え込んでしまったエリックの顔を覗き込み、シルフは肩を竦めて部屋のドアを指差した。

 

『とりあえず、お前もう隣行けよ。何だかんだでアルディス王子のこと、気になるだろ?』

 

「え……」

 

『マルーシャちゃんはもう大丈夫だ。クリフもお前のこと、気にしてたし……顔、見せてやってくれよな』

 

 アルディスが気になるのは事実だが、マルーシャを放置して良いものかは少々考えものだった。困惑するエリックに、マルーシャがやんわりと笑いかける。

 

「行ってあげて? わたし、まだ動けないからアルディスの顔、見てないんだ。後で、様子教えてよ」

 

「……分かった」

 

 後でまた顔を出すと言い残し、エリックは部屋を後にする。

 部屋にはマルーシャとシルフ、そしてチャッピーが残された。

 エリックの前では元気そうに振舞っていたものの、やはり辛かったのだろう。マルーシャが軽く息を吐き、再び横になろうとする――そんな時、彼女の頭の中に声が響いた。

 

 

『一時はあれだけオロオロしてたくせに……君、冷静だったね。俺のこと、彼に言わなくて良かったのかい?』

 

 

 それは、一週間前も耳にした、穏やかな青年の声。彼はマルーシャの返事を待っているらしい。マルーシャはベッドに横になり、困ったような笑みを浮かべてみせた。

 

「うん。今のエリックに余計な心配、させたくなかったし……何より、エリックにはどうやったって聴こえないんでしょ?」

 

『ふふ、そうだね。君の頭がおかしくなったと思われかねないからね』

 

「ちょ、ちょっと!!」

 

 青年の声は、エリックには聴こえない――冗談を交え、クスクスと笑いながら話す青年の姿は、どこにも見えない。

 精霊であるためか、同じように声が聴こえているというシルフは何も言わなかったが、それはあまりにも不気味な状態であった。数日前までは、マルーシャもこの現象に怯えていたくらいだ。だが、青年も異常だということは分かっているらしく、突然彼は笑うのを止めてしまった。

 

 

『薄々、勘付いてるかもしれないけど……それでもいつか、ちゃんと話すから』

 

 その『いつか』がいつなのか。それは、今は聞かない方が良いだろう。

 

『今は、俺の一方的な話に付き合ってくれ。クリフ以外に会話相手ができるなんて、思ってもみなかったから……すごく、嬉しいんだ』

 

 青年が紡ぐの言葉はどこか悲しげで、本当に切なくて。マルーシャは黄緑色の瞳を細めながら、無言でこくりと頷いてみせた。

 

 

 

 

「ジャン……入るぞ」

 

 部屋の扉をノックし、中に入る。驚いた様子のジャンクと、ベッドに横たわったアルディス、部屋の中を飛び交う下位精霊達の姿が、視界に入った。

 

「エリック! お前……」

 

「心配かけたな。僕は、もう大丈夫そうだ」

 

 やけに顔色の悪いジャンクの左手には注射器が握られており、右手でアルディスの左腕を掴んでいた。栄養剤か何かを打つのだろう。

 

「見ての、通りだが……目覚める気配が無いんだ」

 

「……」

 

 アルディスの左手の甲には、やはりフェルリオ帝国の紋章が刻まれていた。それは、月と十字架をモチーフにしたシンプルな紋章。エリックは、微かに顔を引きつらせる。

 

「アルが意識を取り戻さないのは、虚無の呪縛(ヴォイドスペル)の影響だ。一気に魔力が抜けた上に、酷い発作が出てしまったせいで、意識障害を始めとした悪影響が出ているようです」

 

「そう、なのか……」

 

「そもそも、とんでもない出血量でしたからね。普通の人間に比べ、ヴァイスハイトは頑丈なのが幸いしたな……だが、流石にあれは、本当に危なかった。生きているのが奇跡と言っても良いくらいです」

 

 アルディスの周りには、光の下位精霊が力を分け与えるべく集まっている。それでなくとも多くの下位精霊がこの部屋に集結している状況だ。

 そして、その原因がジャンクであることに気付くのは、精霊に関する知識の疎いエリックでも簡単なことである。

 

 だが、それ以上にエリックには気になることがあった。「嫌な気持ちにさせたら悪い」と前置きした上で、エリックはジャンクに問いかけた。

 

 

「本名は……クリフォード=ジェラルディーンって言ってたな。偽名、使ってたのは没落貴族出身だから……なのか?」

 

「ッ!」

 

「一応知識だけは持っていたから……気になったんだ。ジェラルディーンは、ラドクリフ王家と近い血縁関係にあったから」

 

「ぼ、僕、は……ッ」

 

 海で溺れていたエリックにも、精霊を召喚するジャンクの声は届いていた。それゆえに、彼の本当の名がクリフォード=ジェラルディーンだということを知ってしまったのだ。

 確認してみたのだが、顔を強ばらせ、声を震わせるジャンクの反応を見る限り、間違いは無さそうである。しかし、あまり良い表情をしていない。これ以上探りをいれるのは良くないだろうとエリックは判断した。

 

「……。悪い、あまり聞かれたくない話だったろうし、ラドクリフ王家の人間からこの話振られるのは嫌だったろ……ただ、ジャンの本名を知ったとき、お前が今まで僕に何も言わなかったのに驚いたから、確認したかっただけなんだ……本当に悪かった」

 

 ジェラルディーン家は、エリックの祖父に当たる王の弟と、混血の女性との間に生まれた当主による、ほんの僅かな間だけ上流階級に存在していた一家である。

 当主――ディヴィッド=ジェラルディーンは混血であったことからラドクリフ王家との血縁関係は公にはされていなかったものの、それでも当主の国への貢献や騎士としての強さが賞賛され、『侯爵』の爵位を与えられていた。

 しかし、当主ディヴィッドがある時を境に酒に溺れるようになってしまい、結果としてジェラルディーン家の爵位は剥奪されることとなってしまった。もう、二十年近く前の話だ。

 一体、何がきっかけでそうなってしまったのかは分からないが、立場上エリックはジャンクに恨まれてしまっても仕方がないと思っていたのだ。

 

「……」

 

 エリックの気持ちを理解してくれたのか、ジャンクは静かに首を横に振るう。まだ少しだけ表情はこわばっていたものの、安心はしてくれたらしい。

 

「大丈夫、ですよ。僕には、お前にどうこうしようという意思はありません」

 

「そうか……ありがとう。他にも気になることはあるが……こんな状況だ。今は、何も聞かないよ。それより僕とアルを助けてくれたこと、感謝してる」

 

「え……?」

 

 気が抜けたような声を出したジャンクに、エリックは自分の姿は彼に見えていないと知っていながら笑いかけた。

 

「僕が得た情報が、お前にとっては知られたくなかった秘密だったってことくらい、分かってるさ。お前がウンディーネとシルフを呼ばなければ、こうはならなかったろ? もしかしたら、華奢なアルだけならウンディーネ抜きで助けられた可能性があったかもしれないのに……だ」

 

「……」

 

「それでも、僕ら両方を救う道を選んでくれたのはお前自身だ。だから、感謝してるんだ。本当にありがとう」

 

 体力が尽き、海に沈み始めた段階でエリックは死を覚悟していた。普通に考えれば、自分を引き上げる手段が無い以上、仕方のないことだと思っていた――それだけに、今こうしてジャンクと話していること自体、奇跡に等しいのだ。

 

 

「……僕は今、自分の選択が過ちでなかった事を実感しましたよ」

 

 エリックの言葉を聞き、ジャンクは嬉しそうではあったが、それでもどこか悲しげに笑ってみせた。彼は少しだけ悩んだ後、自分の周りに集まる下位精霊と戯れながら語り始めた。

 

「十五歳になったばかり……くらいでしたね。僕は神格精霊のマクスウェル様に多くの力を与えられた上で、マクスウェル様の目であり、意思そのものとして世界を巡るようになりました。それが、精霊の使徒(エレミヤ)としての、僕の役目だった」

 

「……!」

 

 語られたのは、とてもではないが信じがたい事実。鵜呑みにしてしまって良いのかどうかと悩む程の、そんな突拍子も無い話だった。

 しかしながら決して嘘など吐いていなさそうなジャンクの様子や、彼が持っていた不思議な力を目の当たりにしているからこそ、彼の言葉は信憑性を持ってエリックに届いた。

 

「それが、精霊の使徒(エレミヤ)……ウンディーネやシルフの召喚も、その力があったからこそ、だったのか」

 

「はい。ですが、今となっては過去形です。今の僕は、ただの人間に過ぎないよ。アルに、魔力を分け与えてやれずにいるのは、そのせいです」

 

「え……?」

 

 言われてみれば、とエリックは思う。特定の属性の魔力を第三者に分け与えるという特殊な術の使い手であるジャンクが、その力を必要としているであろうアルディスを前に術を使わずにいるのだ。一体どういうことかとエリックが問うよりも先に、ジャンクは相変わらず下位精霊と戯れながら口を開いた。

 

精霊の使徒(エレミヤ)が、精霊契約者を除く一般人の前で力を解放するのは御法度だ。しかも、僕の場合は同時に、勝手に精霊契約の媒介人となるという最大の禁忌まで侵したからな。案の定……僕が目覚めた時には既に、精霊の使徒(エレミヤ)としての力を失っていました」

 

「!? だが、それは僕とアルを助けるためであって……!」

 

「それでも、契約違反は契約違反です。いちいち例外を認めていたんじゃ、元々弱い立場にある精霊達の立場が危うくなってしまう……そもそも、こうして一般人に精霊の使徒の立場を話すのも十分違反行為だからな」

 

 もう今更何をしたって一緒だ、とジャンクは笑ってみせる。それを見て、エリックは胸を締め付けられたような気分になった。

 マルーシャが精霊と契約する際にシルフが渋った理由が、今なら分かる。自分達を助けるためにジャンクが差し出した代償の大きさ。それがどれ程のものかは分からないが、彼にとって大切なものであったことは間違いないだろうから。

 

 

「僕のことは良い。それより、お前は自分の気持ちの整理でもしておきなさい」

 

 話を変えたかったのか、ジャンクは不意にそんな話題を振ってきた。だが、エリックからしてみればもう少し彼の話を聞いていたいという思いがあって。

 そんな中途半端な心境でいると、ジャンクは下位精霊と戯れるのをやめてエリックに向き直った。

 

「アルが目を覚ました時、また戦いにでもなったらどうするんだ。今度は、僕もどこまで助けに入れるか分かりませんよ?」

 

「――ッ!?」

 

「あの時は、互いに気が立っていたんだろう……せめて、お前だけでも平常心を保っていなければ、再戦もありえない話ではないと思いますがね」

 

 ジャンクの指摘は、ごもっともだった。そういう意味では、アルディスより先に目を覚ましたのは幸いだったと考えるべきなのだろう。

 

「……」

 

 目を泳がせたエリックの視界に再び入ったのは、アルディスの左手だった。純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)特有の白い肌に、紋章の墨は良く映えて見える。エリックが何も言えずにいると、ジャンクは軽くため息を吐き、おもむろに頭を横に振った。

 

「……。流石に、視えなくともこれは分かりますね。まだ、認めたくないんだろ? アルディスと、ノア皇子が同一人物だってことを」

 

「なっ!?」

 

「ラドクリフ王子としての立場もありますし、当たり前だとは思います。これまでお前が、どれだけノア皇子の存在に精神を苦しめられてきたか……それは付き合いの短い僕ですら、何となくとはいえ分かったことだからな」

 

 だから仕方のないことだと思いますよ、とジャンクは軽く首を傾げてみせた。責められると思っていたエリックからしてみれば、拍子抜けしてしまうような反応だった。

 指摘されてみると、改めて分かる。「事実を認めたくない」と自分自身の中で延々と繰り広げられている、強い葛藤の存在に。

 

「親友のアルディスは、ノア皇子と同一人物であること……きっと、心のどこかでは気付いていたと思います。ですが、お前は無意識のうちに、それを考えないようにしていたのでしょう。真実を知ることで自分が傷付くのを恐れ、このような発想自体、できなくなっていたのでしょうね」

 

「……」

 

「八年も一緒にいて、一度も怪しいと思わなかったとは言わせません。恐らく、それはマルーシャに関しても当てはまる話。アルディスを、敵だと認識したくないという一心で、お前達は真実から目を背けたんだ」

 

 本当に、自分の姿や心が視えていないのかと聞きたくなる程に、ジャンクの話はエリックの核心に触れたものだった。エリックは上着の裾を掴み、アルディスからも、ジャンクからも目を背けた。

 

「さっさと気持ちを整理しろ、と第三者の僕が言うのも理不尽な話ではあるよな。僕は、お前達とアルが過ごしてきた日々を知らないから、こんなことを言えるんだ」

 

「ジャン……」

 

「そう簡単に、決着の付けられる話じゃないことは分かっています……それも、恐らくは一番、ノア皇子の存在に苦しめられてきたエリック、お前にそれを強いているんだからな」

 

 ジャンクの話を聞きながら、エリックは思わず、チョーカーで隠された首筋の傷に触れていた。布の上からでも分かる、歪な皮膚の感触に指先が震える。

 

「それを理不尽な話だということを分かっていながら、僕はあえて、お前にこう言います」

 

 震えるエリックの指先に、そっとジャンクの手が添えられた。それに驚き、顔を上げたエリックの目の前でジャンクは穏やかな笑みを浮かべてみせる。

 

「理不尽だと、叫ぶことは簡単だ。だが、叫ぶだけで全てが変わるとは、僕には思えませんね……行動に移さぬ者に、不満を言う資格は無い……そうは思いませんか?」

 

 ゆっくりと、それでいて諭すような調子でジャンクは言葉を紡いでみせた。この状況下でも自分を一切責めない、そんな彼の態度には本当に救われた。

 

「行動に移す。それが、最も難しいことなのは理解しています。それでも僕は、お前がこんな所で挫けてしまう人間だとは思っていない。嫌だ嫌だと、叫び続けるような弱者ではないと、信じています」

 

「……」

 

「特殊能力で視えないからこそ、僕はお前の色んな面を見てきました。だからこそ、自信を持って言える。お前ならきっと、本当の意味でアルと親友になれるさ」

 

 自分は今まで、彼に試されていたのかもしれない。今のジャンクの表情は本当に柔らかで。最初の頃に感じられた距離感はほとんど、無くなっているかのように思えた。

 

「ありがとう……その期待に、応えたいとは思う」

 

 そう返すと、ジャンクは左手を口元に当て、しばらく考え込んでしまった。何かを言いたいようだが、言って良いのか悩んでいる、もしくは言葉を選んでいるのだろう。

 

 エリックが静かにその様子を眺めていると、ジャンクは重い口をゆっくりと開いた。

 

「……。エリック、僕と部屋を変わってみませんか? 何だかんだで、アルと同室でまともに過ごしたこと、なかったろ?」

 

 彼曰く、エリックとアルディス、双方の容態がある程度安定したため、部屋を移動しても大丈夫だろうという判断の上らしい。

 

「そういえば……」

 

 言われてみれば、とエリックは思う。そもそも旅に出てから日が浅いこともあって、確かにエリックはアルディスと同室で過ごすという経験が無かった。

 野営時のテントは例外として、城以外の場所で寝泊りするのはアドュシールが初めての経験だった。しかし、あの時はアルディスが虚無の呪縛(ヴォイドスペル)の発作で酷く苦しんでいたことを理由に、必然的に応急処置のできるジャンクが彼と同じ部屋に泊まったのだ。

 当初の予定通りなら、船室でアルディスと同室になる予定だった。だが、あの一件で部屋割りが変わり、結果的にあの日以降はマルーシャと同室で過ごしていた。アルディスとは、あれ以来疎遠になっていた。何となく、彼に距離を置かれるようになっていた。

 

「あ……」

 

 

――そしてエリックは、ここに来て漸く、自らの失態に気が付いた。

 

 

『だから正直……“死んでいれば良いのに”って、そう願わずにはいられないよ……』

 

 

 そうだ。あの時、ディアナが自分に手を上げたのは、ポプリとジャンクが明らかに顔色を変えたのは……アルディスが涙を流した理由は。

 

 

「そ、そうだな。ちょっと、荷物持ってくる……」

 

「……分かりました。じゃあ僕は、マルーシャの様子を見に行ってから、そのまま今お前がポプリと泊まっている部屋に移ります」

 

 ジャンクは恐らく、自分が何を思い出したのか気付いたのだろう。否、彼はエリックがあのことを思い出すように、あえてこのような思考回路に至るように促したに違いない。彼がたったこれだけのことをすぐに発せずに悩んでいたのは、きっとそのためだ。

 

 荷物をまとめ始めたジャンクに背を向け、慌てて自室に戻る。ポプリが帰宅した気配はまだ無かった。それを幸いに思いつつ、エリックは後ろ手に部屋の鍵を閉め、その場に崩れ落ちた。

 

 

「……ッ」

 

 身体が、震える。

 

 事実を知らなかったにしろ、とんでもないことを言ってしまった。

 あれは、あの時の自分の言葉は。「知らなかった」で済まされる発言ではない――!

 

「僕は最低だ……、どうして……どうして、あの時、僕は……」

 

 荷物をまとめることも忘れ、エリックはしばらく、そのまま床に座り込んでいた。

 

 

 

 

「アル……」

 

 エリックがアルディスと同室になってから、既に六晩が経過していた。辺りは闇に包まれ、部屋の中には月明かりが差し込んできていた――今日で、七日目の夜となる。

 

 二週間もの間、一度も目を覚まさなかったアルディスの周りには相変わらず下位精霊達が飛び交っていた。

 

「……」

 

 決して良いとは言えない顔色をしたアルディスが眠るベッドの傍に椅子を移動させ、エリックは目の前のシーツを強く掴んだ。

 

「ごめん……」

 

 このまま一生、アルディスは目を覚まさないのではないか、と嫌な予感が脳裏を過ぎる。その予感を半ば強引にもみ消し、エリックは親友の顔へと手を伸ばした。

 

「ごめんな……」

 

 

――確かにあの時、自分はノア皇子の死を強く望んでしまった。それは、事実だ。

 

 

 だが、それはこういう意味ではなかった……結局はそれも言い訳なのだ。アルディスと、ノア皇子が同一人物だった以上、自分は親友に向かって直接「死ね」と言ってしまったも同然なのだから。それも、明らかな恨みの感情を込めて。

 

「ごめん……ごめん、アル……ッ」

 

 せめて、ちゃんと謝りたかった。それなのに、アルディスの閉ざされた左目は一向に開く気配を見せない。

 少しずつ温もりを取り戻しつつある肌に触れた指が、微かに震える。エリックは赤い瞳を細め、伸ばした手を引っ込めた。

 

 

「なあ、アル……お前、多分……死のうと、したんだよな……?」

 

 情けない程に、声が震える。違っていて欲しいと願った仮定は、もはやエリックの中では否定の出来ない事実へと変わりつつあった。

 

「それも……わざわざ、僕にとどめを刺させようと……そういう、目的で……あんな行動、起こしたんだよな……?」

 

 ただ、命を投げ出すだけならば。あんな面倒なことをせずとも手段はいくらでもあった筈だ。それなのに、アルディスはあえて戦うことを選んだ。

 わざとエリックを怒らせ、マルーシャとポプリを傷付け、自分自身が本気を出すことでエリック達にも本気を出させ……その上で、絶対に自分が負けるように立ち回った。エリックに、とどめをささせるために。

 

 

――きっと、これが答えだ。

 

 

「……」

 

 結局の所、真意は分からぬままだった。だが、最後の最後に彼が見せた涙は『本物』だったと信じたかった。

 しかし、もしあの涙が、彼が最後に叫んだ言葉が本物だったのだとすれば、あの選択は悲痛な思いを押さえ込んだ上でなされた物だったに違いない。

 

(互いの立場を、思えば……か)

 

 ラドクリフ王国を背負う立場に生まれたエリックと、それに対してフェルリオ帝国を背負う立場に生まれたアルディス。

 相反する立場に置かれた自分達は本来、共に在ることさえ許されない存在だった――否、本当にそうだっただろうか?

 

(あ……)

 

 ふと、エリックは大切なことを思い出した。そもそも、自分とマルーシャは何故、この国に送り込まれたのかと。

 

 それは、兄率いる黒衣の龍のスウェーラル襲撃を止めることであったか?

 

 それは、襲撃からスウェーラルの住民を守ることであったか?

 

(違う……)

 

 これらの事柄も、きっと完全には間違っていないのだろう。だが、肝心な部分はそこではない!

 

「く……ッ、くそ……っ!」

 

 やっと、思い出した。

 自分が何故、フェルリオ帝国にやってきたのか。本来成すべき目的は、何であったのかを。

 

 慌てて立ち上がったために椅子が床に転がり、エリック自身も盛大に転倒しかけることとなった。だが、そんなことは今のエリックにとってはどうでも良いことであった。

 

 旅立つ際に持たされた鞄を探り、中身が乱れるのも気にせずに頭に浮かんだものを引っ張り出す。

 それは上質な紙で作られた、旅に出てから一度も鞄から顔を出さなかった、真っ白な封筒だった。

 

 

『ラドクリフ、フェルリオ間での和平交渉について、その旨が書かれている親書です。ノア皇子に、あなたの手からこれを渡してきて欲しいのです』

 

 

――母はただ、これだけのことしか言っていなかった。それなのに。

 

 

「は……はは……、ははははは……」

 

 乾いた笑い声が、静かな部屋の中でこだまする。

 封筒を持ったまま、エリックは再びアルディスの傍へと移動した。

 

「最初に、アルの家で、これを出していれば……違った結末に、なっていただろうに……」

 

 エリックはやっと、これまで誰も気付くことの無かった最大の過ちに気が付いた。

 母であるゼノビアが、本当は何を望み、自分をフェルリオへ送ったのかを漸く、思い出したのだ。

 

 母はノア皇子が帝都スウェーラルでエリック達と顔を合わすことを見越した上で、エリック達に対しフェルリオ行きを命じたのだろう。

 エリック達が出向くことで、和平条約をの話し合いをあえてフェルリオ帝国で行うようにという考えがあったのかもしれない。出会えなかった時のことを話さなかった辺り、彼女は二人が出会うことを確信していたのだろう。

 その根拠は一体、どこにあるのか。それは分からない。ただ、一つだけ明らかなことがある。

 

「ノア皇子を……お前を、憎むあまりに……最初の目的さえ、僕は見失っていた……ッ! 託された物の存在さえ、忘れて……母上の願いを、歪曲した形で捉えてしまっていたんだ……ッ!!」

 

 少なくとも、彼女は次期後継者達の戦いを望んでなどいなかった。これだけは、疑いようのない事実だ。

 間違っても、フェルリオ皇子アルディスを、瀕死に追い込むような事態を望んだ訳では無かった――のに。

 

「ッ、本当に、僕は……っ! 僕は……ッ」

 

 目頭が、熱くなるのを感じる。大切な親書は、エリック自身の手で握り潰されてしまっていた。ぽたり、ぽたりと紙に涙が染み込んでいく。

 

 

「――最低の、馬鹿野郎だ……ッ!!」

 

 

 シーツを掴み、肩を震わせるエリックの脳裏を駆け抜けるのは、もしかしたら防げたかもしれない悲劇の光景。

 多くの死者を出した、黒衣の龍の帝都襲撃。結果として生み出された、数多の粗末な墓。そして――。

 

 

『結局俺には、存在意義なんて無いんだよ……ッ!!』

 

 

 己の存在意義さえ見失ったアルディスは、自ら命を絶とうとした。

 

 耐え難い絶望に、彼は折れてしまったのだろう。

 全てを投げ出してしまおう。そう考えてしまったのだろうーーその結果、彼は二週間も眠り続けているのだ。

 

「ッ、く……っ、……ぅ……っ!」

 

 視界が、霞んでいく。泣いたのは、何年振りだろうか。

 こらえきれない嗚咽を漏らしながら、エリックはシーツと親書を握り締めたまま肩を震わせる。今、許されるのならば、この場で泣き叫んでしまいたかった。

 

 

「エ、リック……?」

 

 

 涙に濡れたエリックの頬に何かが触れたのは。

 今、一番聴きたかった声が、耳に届いたのは、そんな時だった。

 

「ッ、アル……!?」

 

 伸ばされたのは、アルディスの左手。驚き、顔を上げてみると、うっすらと翡翠の瞳を開き、こちらを見ている少年の姿があった。

 

「……。夢、じゃない……?」

 

 しかし、この状況でアルディスの表情はどんどん、泣き出す寸前のそれへと変わっていった。

 

「アル……?」

 

「全部、終わったと……そう、思ったのに……これで、終わりだって……ッ」

 

 アルディスの弱々しい声が、酷く震えた声が、部屋の中に響く。

 涙に濡れたエリックの瞳が捉えたのは、同じように涙に濡れた親友の、悲しみに満ちた瞳だった。

 

 

「どうして……俺はまだ、生きてるの……?」

 

「――ッ!?」

 

 翡翠の瞳から、涙が伝い落ちる。先程とは違う意味で、エリックは肩を震わせた。

 

(……とにかくジャンを呼ぼう。目覚めたって、ちゃんと、伝えないと……)

 

 乱暴に自分の顔に残った涙を拭い、エリックは部屋を飛び出した。今は、余計なことを考えている場合ではない。アルディスの容態が急変する可能性だってあるのだ。

 

 

「ジャン、ポプリ! 起きてるか!?」

 

 時間帯は既に深夜だったが、それに構っていられるだけの余裕は無かった。ジャンクとポプリが泊まっている部屋の扉を叩き、エリックは中に居るであろう人物達の名を呼んだ。

 

「どうしたエリック!?」

 

 案の定、といった所だろうか。すぐに飛び出してきたジャンクとポプリを前に、エリックは簡単に要件を告げた。

 

「アルが、意識を取り戻したんだ……!」

 

 だから早く様子を見てやって欲しい、などという言葉は必要なかった。騒ぎに気付いたのか、隣の部屋から出てきたマルーシャとディアナと共に、エリック達は部屋へと戻る――だが。

 

「え……?」

 

 その部屋は既に、無人となっていて。大きく開かれた窓から入ってくる風が、白いレースのカーテンを靡かせていた。

 

「あ、あいつは馬鹿ですか……!? さてはここから飛び降りたな……!?」

 

 ここは三階だ。隻翼とはいえ翼を持つアルディスが落ちて死ぬことはないだろうが、それなりの高さがあるというのに。

 窓から身体を乗り出すようにしてジャンクは地面を見つめている。薄暗いためによく見えなかったが、恐らく彼の推測が正解だろう。

 

「どちらにせよ、今のアルがそう遠くまで行けるとは思えません。急いで、彼を探しましょう……皆、直ちに着替えて来てください」

 

「き、着替えてどうするの!? その間に、アルディス遠くまで行っちゃうかも……」

 

「寝巻き姿で外をうろつけば確実に目立ってしまいます! それで隠れられたんじゃ意味がない! だから、全員急いで着替えるんだ!!」

 

 早く見つけ出さないと、大変な事になるかもしれない。だが、急ぎすぎるのも良くないとジャンクは部屋を飛び出した。とにかく、外に逃げたアルディスを追わなければ。

 

(あんな悲劇、繰り返させてたまるかよ……!)

 

 即座に着替えを済ませたエリック達はアルディスを探すべく、深夜のディミヌエンドの街へと駆け出していった。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.32 フェルリオの英知

 

「くそ……っ」

 

 まさか、逃げ出すとは思わなかった。

 そもそも目を離したのが間違いであったのだろうが、あの状況である。アルディスが意識を取り戻したという吉報を仲間達にいち早く報告せずにはいられなかったのだ。

 

(アイツは一体、どこに行ったんだ!?)

 

 手分けして探そうと決めたは良いが、エリックは目を覚ましてからの一週間の間、ろくに外に出ていなかったことを本気で後悔していた。このディミヌエンドの街の構造がさっぱり分からないのだ。

 ポプリ曰く、ここはラドクリフ最大の都市であるシャーベルグよりはシンプルな作りらしいが、それでも充分複雑なようにエリックには思えた。

 木とレンガの茶色を基調とした、物静かな見た目に完全に騙されていた。街自体はかなり広く、もしかするとアドゥシールどころかルネリアルに匹敵するくらいの設備はあるかもしれない。こんな状況でなければ、見学して回りたいものである。

 

(事実上の敗戦国とはいえ、もう十年経つんだもんな……)

 

 十年もあれば、色々変わってくるものだ。第一、スウェーラルの被害が極端に大きかっただけで、この街はさほど戦争の影響を受けなかった可能性もある。

 

 すれ違うのは、魔導服を身に付けた人々ばかりだった。この国は魔術に携わる人間が多いのだろう。

 そんな人々と衝突しないように気をつけながら、エリックは夜の街を駆けた。フェルリオ帝国内でも銀髪は少ないのか、人違いで他人に話し掛けるようなことが無かったのは幸いだった。それどころかむしろ、フェルリオ帝国内ではエリックの容姿の方が目立つと言っても過言ではない。

 

(名前叫んだりしたら逆に逃げるよな? 第一、ここじゃ多分“アルディス”って名前の人間多いだろうし……)

 

 以前、ポプリが自分の名前を聞いて「どちらの国もやることは一緒だ」と言っていたのを思い出す。彼女の話が本当なら、アルディスと同名の人間がこの街には溢れかえっている可能性がある。

 

 

「エリック!」

 

 どうしたものかと考えを巡らせるエリックの耳に、聞き慣れた――いつものような元気は無かったが――声が届いた。

 

「……マルーシャ」

 

 小一時間は走り回ったことに加え、病み上がりであることもあってエリックは切れた息を抑えながらマルーシャの名を呼ぶ。アルディスを見付けたかどうかを聞こうとしたが、彼女の今にも泣き出してしまいそうな不安げな表情がその答えを物語っていた。

 

「大通りも、路地裏も、色んなとこ、見たのに……」

 

 どうしよう、とマルーシャは自分の膝に手を当てて切れた息を整えようと深呼吸を繰り返す。

 

「正直、もう嫌な予感しかしないんだ」

 

「え……っ!?」

 

 外にはいないのなら、どこか室内に入っているのだろうと信じたかったが、想定されるアルディスの心境からして、恐らくそれは違う。

 だとすれば一刻も早くアルディスを見付けなければならない。それなのに、“該当する”場所が全く思い浮かばない――!

 

「いっそ、その辺歩いてる奴を捕まえて……!」

 

 エリックがそんなことを考え始めた時、上空からふわりと赤い羽根が落ちてきた。

 

 

(ディアナ……)

 

 エリックが上を見上げると、辺りをキョロキョロと見回しながら、必死に飛び回っているらしいディアナの姿がそこにはあった。彼女の瞳は、下から軽く見ただけで分かる程に涙で潤んでいる。

 ずっと避けられ続けていたこともあって、何だか彼女の顔を見るのも久々であるように思えた。気まずいのか、マルーシャが少し狼狽えたのが視界の隅に映る。

 

 

「待ってくれ、ディアナ!」

 

「ッ!?」

 

 しかし、このような状態が続くのは決して良いとは言えない。そのまま遠くへ行ってしまいそうなディアナを呼び止めようと、エリックは声を張り上げた。

 

「え、エリック……」

 

 マルーシャが、不安そうにエリックを見つめる。彼女に向かって困ったような笑みを浮かべた後、エリックは止まってくれたディアナを見上げ、言葉を紡いだ。

 

「船での一件、本当に申し訳ないことをした……お前にも、不快な思いをさせたよな。これでも僕は、このままで良いなんて、思っていないんだ。ちゃんとアイツに、アルに……面と向かって謝りたい……だから、協力、してくれないか?」

 

「……」

 

「僕らよりは、お前の方がこの街に詳しいと思っているんだ。だから頼む! 僕に力を貸してくれ……何となく、何となく、だが……大体、アイツの行き先に察しが付くんだ」

 

 それは決して、口からでまかせの嘘ではない。先程の、目を覚ましたばかりのアルディスが流した涙に、これまでに彼が発した言葉。それが、発想の根拠だった。

 

「それは、本当か?」

 

「ああ。正直、外れてくれた方が良いんだが……ほぼ、確実だと思う」

 

 ディアナが、エリックの目線の高さまで降りてくる。大きな青い瞳が、エリックの姿を捉えていた。そんな彼女を真っ直ぐに見つめ、マルーシャも口を開いた。

 

「ごめん、ごめんね……ディアナ。わたし、何にも知らなかったにしても、本当に、ひどいことをしたし、言っちゃったよね……? でもね、アルディスを助けたいっていう思いに嘘は無いの。だから、今だけで良い! わたし達に、力を貸して……!」

 

 エリックとマルーシャの、真剣な眼差し。それを見たディアナは落ち着き無く視線を泳がせた後、少し目を伏せて静かに喋り始めた。

 

「謝るのは、こちらの方だ。オレは立場上、アルの話を色々聞かされていたし、オレ自身も思う所があった……とは言っても、言い過ぎた。やり過ぎたと、思っている……」

 

 黒い神衣を震える手で握り締め、ディアナはおもむろに顔を上げる。

 

「エリック、マルーシャ……すまなかった。それから、ありがとう……あんなことがあったというのに、アルを生かしてくれたこと……助けてくれたこと、感謝している」

 

 状況が状況だからか、そう言ってディアナが浮かべた笑みは、ほんの少しだけ歪なものであった。しかし、『アルディスを生かした、助けた』ことに関してお礼を言われるのはおかしいとエリックは首を横に振るった。

 

「僕は、当然のことをしたまでだ……そもそも、僕があんなことを言わなければ、ああはならなかったと思う……だからこそ、次の惨劇は未然に防ぎたい。手遅れになる前に」

 

 あくまでも真剣な様子で紡がれるエリックの言葉に、ディアナは不思議そうに首を傾げている。マルーシャも同様であった。

 彼女らは、アルディスのあの言葉を知らない。事態を、そこまで重く捉えていない可能性がある。

 

 

「ディアナ。この近くに、『誰にも見つからずに死ねるような場所』はあるか?」

 

「え!?」

 

「十年前から、変わらずに存在している場所なら、尚更良い……恐らく、アルはそこだ」

 

 誰にも見つからずに死ねるような場所。

 エリックの口から飛び出したのは、そこでアルディスが何をするのかを安易に想像できるようなもの。

 この言葉に対し、マルーシャは明らかに狼狽えていたし、ディアナも驚きを隠せない様子であった。それでもディアナは、少し悩んだ後にエリックの質問に答えてくれた。

 

「今から何十年も前に枯れた、地下水脈がこの近くにある。そこに、凶暴化した魔物が生息しているという話も聞いている……だが……」

 

「他に思い当たる場所がないなら、街の捜索はポプリ達に任せよう。急いで、そこに向かうべきだと思う」

 

 焦りが態度に出始めているらしく、若干早口気味になりながら、エリックは彼女に訴えかける。ただ、あまりにも突拍子もない話に、ディアナはやや混乱気味だった。

 

「そんな、何故……!」

 

「今度は確実に手遅れになる! そんな結末、僕は認めたくないんだ!!」

 

 困惑するディアナに対し、突然、エリックが声を荒らげた。それに驚いたらしい彼女は目を丸くして口篭ってしまう。これでは駄目だと、マルーシャが動いた。

 

「ちょっと、エリック……落ち着いて」

 

「! そ、そうだよな……悪い」

 

 マルーシャに肩を叩かれ、エリックは胸元に手を当て、深く息を吐き出す。さほど多くはないが、行き交う人々の視線が痛い。ディアナはエリックの顔をまじまじと見た後、翼を軽く羽ばたかせた。

 

「……分かった。とにかく、案内する。ここで立ち止まってるわけにも、いかないからな」

 

 納得してくれたのか、彼女はエリック達が着いてくるのを見つつ、二人を置いていかない程度の速さで飛び始めた。

 

「あなたが先程言った条件に当てはまるのは、恐らくあの場所だけだ。確かに、可能性は無くもないからな……それと」

 

 少し息を吐いてから、ディアナは言葉を続けた。

 

「『そんな結末』を認めたくないのは、オレだって同じだ」

 

「ディアナ……」

 

 少し足を早め、エリックは前を飛んでいたディアナの横に並ぶ。軽く横を向けば、真っ直ぐに前を見据えている彼女の顔が見える。

 

「何だかんだ言っても、アルとの付き合いはあなた方の方が、圧倒的に長いんだ。悔しい話だが、オレががむしゃらに飛び回るより、エリックの勘に頼った方が良い」

 

「……わたし達、本当に、アルディスのことを理解できてたわけじゃないんだよ?」

 

 ディアナを挟むように、エリックとは反対側に並んだマルーシャは、泣いてしまいそうなのを隠すような、無理矢理作ったような笑みを浮かべている。それを見たディアナは同じように、笑みを作って口を開いた。

 

「そうかもしれない……けれどアルディスにとって、あなた達が大切な存在だったことは、きっと変えようのない真実だと、オレは思っているよ」

 

「!」

 

 例え、八年に渡って真実を伏せられ続けていたとしても――ディアナの言葉に、エリックは内心、救われるような気持ちだった。だからこそ、彼女の思いに答えることができればと思う。

 

(頼むから、無事でいてくれよ、アル……!)

 

 近いとは言えども中心街からは離れるため、走れば走る程に人の気配は薄れていく。そんな事は気にも留めず、三人は枯れた地下水脈へと向かっていった。

 

 

 

 

「ここだ。ここを下っていけば、地下水脈に辿り着く」

 

 ディアナに案内されたそこは、本当にディミヌエンド中心街の近くにあった。この分だと、中心街の真下にも水脈が伸びているかもしれない。

 目の前に現れたのは、人工的に作られた洞窟。草木に覆われた大地がぽっかりと口を開け、簡易的な階段が下への道を作っている。しかしその先は漆黒の闇に包まれているため、ここからでは確認不可能であった。

 

「明かりはオレが魔術で何とかするとして、戦闘はあなた方にある程度任せて良いか? 実は、全く関係のない魔術を発動させながら戦った経験がないんだ」

 

「分かった。ただ、今回は戦うのは程々にして逃走メインで行った方が良いだろうな」

 

「そうだね……わたし達全員、まだまだ本調子じゃないもんね」

 

 そう言いつつもマルーシャがレーツェルを杖へと変えるのを見て、エリックも首のレーツェルを宝剣へと変化させる。ディアナもそれに続き、右足のカードケースから適当に三枚のタロットカードを引き抜いた。空気に触れると同時、それらは炎を纏い、ディアナの周りに浮かび上がる。

 

「それで良い。とにかく、中を探索しよう……あまり、無理はしないようにな」

 

 ディアナが先に進み、三枚のカードが闇を照らす。迷うことなく、エリックとマルーシャはその後を追った。ディアナがかなり速度を落として飛んでくれていたために、追いつくのは容易なことだった。

 

 

 確かに水が流れている気配はなかったが、じめじめとした不快な湿気を感じられた。

崩れ落ちるのを防ぐためなのか、ところどころに木製の柱が立っている。

 

「なあ、ディアナ」

 

「ん?」

 

「こんな時に何だが、聞きたいことがある。歩きながらで良い。話せることなら、話して欲しい」

 

 何だ? と飛びながらもこちらに視線を移してくれたディアナが首を傾げる。彼女からは目を反らさず、エリックはそのままマルーシャに声を掛けた。

 

「僕ひとりで抱えとくのは、正直辛い内容なんだ……マルーシャ、悪いが一緒に聞いて、一緒に考えてくれると、助かる」

 

「……うん、分かったよ」

 

 突然の話にマルーシャは少し動揺しているようだが、仕方の無いことだろう。エリックは辺りを見回しつつ、口を開いた。

 

 

「アル、さ。自分のこと、“失敗作”だって言っててさ。お前、理由知ってるか?」

 

「え……」

 

 

『生まれ、た時……から、俺は“失敗作”だって、皆、分かってたのに……ッ、それでも、成長を期待して貰え、たのに……皇位継承を、認めて、もらえたのに……』

 

 

――失敗作。

 

 

『結局俺には、存在意義なんて無いんだよ……ッ!!』

 

 

 あの日、アルディスが泣きながら紡いだ言葉。

 

 

『やっぱり、俺は“いらなかった”……分かってた。だから、もっと早く……いや……』

 

 

 そして彼は自らの腹を貫き、海に身を投げた。

 

 

『最初から、こうすべき……だった、んだ……』

 

 

「……」

 

 思い出したくもない出来事だ。それでも、あの言葉の意味が、どうしても気になっていた。

 エリックの問いに、ディアナは目を伏せつつ奥歯を噛み締めていた。この様子だと、理由を知っているらしい。すぐに答えようとしないのは、それなりの事情あってのことだろう。

 

「言いにくいなら、構わないが……」

 

「いや……どうせこの国の人間なら皆知っている話だ。ここでオレが言わずとも、いずれはあなた方の耳に入るに違いない。それでも本人には、オレから聞いたとは言わないでくれ」

 

「……うん、分かった。約束、するね……」

 

 意外にも、それはこの国では有名な話らしかった。エリックとマルーシャがおもむろに頷くと、ディアナは一瞬だけ視線をこちらに戻し、軽く翼を上下に動かした。

 

「アルの母親であるセレネ女帝は、若い頃から本当に優れた魔術師だったそうだ。彼女の子は、戦で活躍できる、素晴らしい力を持った魔術師になるだろうと期待されていたんだ」

 

「……ん? 何だか、優れた王になる事より優れた戦力になることを期待された……と、取れるんだが」

 

「ああ。その解釈で間違っていない……何というか、当時はそれが全てだったのだろう。戦争とまでは言い難いが、武器を用いた争いが頻発するだとか、双国の関係悪化はその頃からだという話だからな」

 

 

 ディアナの話は『誰かに聞いた』と言わんばかりの語り口調だったが、彼女は記憶喪失だ。自分自身のことだけではなく、歴史的事実についても記憶が怪しくなってしまっているのだろう。ただ、だからこそ彼女は客観的に真実を述べることができていた。

 

 シックザール大戦は一年間、という説が通説なのだが、中にはそれ以前から何年にも渡って大戦が続いていたと主張する人間も存在する。それも一理あるのだが、ディアナの言う通り規模が全く違うのだ。

 エリックは現場を見たことがないためにシックザール大戦の悲惨さは書物を用いた形での把握しかしていないのだが、推定犠牲者の数や使用された武器の数からしてそれは明らかである――それでも、武器を用いた争いが大戦前から行われていたことは事実だ。

 

 技術発展という意味ではラドクリフに大きく遅れを取っていたフェルリオでは、生身の人間の戦力が大きな要となっていたのだろう。それは本当に、悲しい話だった。

 

「じゃあ、アルディスは期待通り、素晴らしい才能を持った魔術師として生まれたってことだよね?」

 

「正解と言えば正解だが、実際は少し違う」

 

 ここで、再びディアナは黙り込んでしまった。そういえば、とエリックは思う。ここまで話を聞いていて、一度も彼が失敗作だと己を蔑む理由が登場していないということを。

 エリック達の少し前を飛んでいたディアナは軽く頭を振るい、その場でぴたりと止まってしまった。

 

「ディアナ……?」

 

 小走りで真横に並んだエリックとマルーシャの顔を真っ直ぐに見据える彼女の青い瞳は、どこか辛そうに細められていた。そして彼女は、おもむろに口を開いた。

 

「アルディス=ノア=フェルリオ。彼は別名、“フェルリオの英知”とも呼ばれている……この言葉自体は、あなた方も、知っているだろう?」

 

「あ、ああ……けれど、別に悪い意味じゃ無いだろう? それ」

 

「やはり、勘違いしていたようだな……前にあなたの口から“フェルリオの英知”という単語を聞いた時、そうではないかと思ったよ」

 

「!?」

 

 

『……。質問を質問で返そうか。お前は、隣国の……“フェルリオの英知”と呼ばれたフェルリオ帝国第一皇子の真名を、知っているか?』

 

 

 エリックを、ずっと苦しめ続けた存在。それが、噂でしか知らないノア皇子であった。

 同い年の、当時八歳の幼子にも関わらず、戦場で功績を残した自分とは全く逆の存在――ただ、それだけでエリックにとっては酷く重荷に感じられたのだ。

 だからこそ、エリックは“フェルリオの英知”という言葉に対し、あまり良い感情を抱いていなかった。意味はよく知らなかったが、どうせ彼の功績を称える言葉なのだろうと。

 

「じゃ、じゃあ……どういう意味、なの……?」

 

 そしてそれは、マルーシャも同じであるらしかった。ディアナは力なく首を横に振るい、エリックとマルーシャを真っ直ぐに見据えて口を開いた。

 

 

「フェルリオの英知――この言葉の持つ本当の意味は、『フェルリオが持てる全ての知識を結集して造り出した殺戮兵器』だ」

 

 

「――ッ!?」

 

「アルディスは、聖者一族ではないリッカ出身の暗舞(ピオナージ)……『忍者』とも呼ばれる特殊な鳳凰族(キルヒェニア)を父に持つんだ。うちでは、ありえない話だよ……フェルリオの貴族は、血統に酷くこだわるから。さらに、彼がまだ胎児であった頃、母体に人為的に大量の下位精霊を流し込む手術が行われている。こんな経緯を得て、彼は生まれたそうだ……」

 

 紡がれたのは、あまりにも衝撃的な事実。声にならない声を漏らし、マルーシャは黄緑色の目を大きく見開いている。信じられない、とでも言いたげであった。

 人為的に、多くの下位精霊を母体に流し込む。それがどのようなことなのかはエリックには分からなかったが、とんでもない話であることだけは理解できた。困惑するエリックの隣で胸を押さえ、ディアナは話を続ける。幸いにも、辺りに魔物の気配は無かった。

 

「下位精霊云々の詳しいことは、オレにも分からない。ただ、ヴァイスハイトの誕生には精霊が関わるという話だからな。恐らく、多くの下位精霊を母体に流し込むという行為は、人工的に赤子をヴァイスハイトにする方法だったんだろう」

 

 

 フェルリオの英知、という言葉が持つ真の意味――アルディスは、殺戮兵器となるべくこの世に生を受けたという事実。

 

「……」

 

……アルディスは、人間だ。

 

 綺麗なものを見て感動したり、美味しいものを美味しいと言ったりできる人間だ。

 傷付けば痛みに悶え、苦しい時には呻き声を上げる、ごく普通の人間なのだ……それなのに。

 

 奥歯を噛み締め、震えるエリックを、ディアナはどこか悲しげな瞳で見つめている。恐らくは彼女も、同様の思いを抱いているのだろう。

 

「リッカの暗舞(ピオナージ)は、前衛を苦手とする鳳凰族(キルヒェニア)でありながら、武器の扱いや体術に秀でている。特殊な環境で育った彼らは、根本的にオレ達とは違うんだ。暗舞(ピオナージ)が要人警護に付くことも多かったらしいからな。そんな彼らのような力を持った者が、高い魔術能力を持っていれば……そう、当時の大臣達は考えたらしい」

 

 ディアナの話によると、歴代のフェルリオ皇帝達は皆、聖者一族同士の間に生まれた男児なのだという。セレネ女帝のように例外的に女帝が誕生した例もあるが、それはあくまでも一時的な物だ。

 しかし十八年前、この国は強い子を誕生させるためだけにその流れを捻じ曲げ、他の一族の者を王家に引き入れた。それだけ緊迫した状況だったのだろうが、エリックはかなり複雑な思いを抱かされた。

 

「勿論、純粋な聖者一族でない者が皇帝家として認められるはずは無かったし、加えて彼は、この国では差別の対象でもある失翼症として生を受けてしまった。だから、アルの存在はもみ消される筈だった……セレネ女帝が、死去するまでは」

 

「え……」

 

「ただでさえ、ヴァイスハイトの出産は母体に壮絶な負荷が掛かるという。そのうえ、彼女は下位精霊を流し込まれるという得体の知れない実験を、アルディスが生まれる前を含め何度も受けているんだ。むしろ、一年後に皇女、アルカ姫を出産され、それから四年は生きていられたことの方が奇跡だろう」

 

 

 アルディス――ノア皇子に妹がいることは、一応エリックも把握していた。

 その姫の名は、シンシア=アルカ=フェルリオ。

 流石に彼女まで戦に引っ張り出されることはなかったらしく、詳しい記録は残されていない。そのため、エリックもその存在と名前以外は何も知らなかった。

 

「セレネ女帝は両親を早くに亡くされ、兄弟も居なかったんだ。しかも、皇位を継げるような親族は周りにいなかったから、もしアルカ姫が聖者一族との間に生まれた子であれば恐らく彼女が、もしくは後に彼女の旦那となる男性が継承権を得ていたことだろう」

 

 それは大体想像が付いた。現在のラドクリフ王国同様に女性が皇位を継いでいる時点で

大方そんな事情だろうし、第一子であるアルディスの存在を抜きにするなら、アルカ姫に継承権がどうこうの話が行くのも理解できる。ただ、ディアナの話からして、どうやら彼女も訳ありだったようだ。

 

「しかし、彼女とアルの父は同一人物だった。これまた純粋な聖者一族の血統じゃなかったわけだ。というわけで、アルカ姫も同様に存在をもみ消されかけていたんだ」

 

「ッ、本当に徹底されてるんだな……」

 

「ひどいよ、そんなの……ッ、なんで、そんなこと、できるの……!?」

 

「……それが、この国なんだよ」

 

 フェルリオ帝国由来の信教的なものなのだろうが、異常である。どうして彼らがそこまで拒まれなくてはならないのかと、エリックは眉を潜めた。マルーシャは肩を震わせ、こらえきれなかった涙を零していた。

 

「だが、彼女の存在もろとも、アルの存在が何故か国民に漏れたんだ。彼の出生に纏わる、重大な秘密を含めて」

 

 多分、城内部の人間が密告したんだろうなとディアナは目を伏せる。悲しい兄妹の存在を、世間に知って欲しかったのだろう。

 そして、セレネ女帝の死の理由は間違いなく大臣達の実験によるものだった。当然ながら、大臣達は国民から酷く非難されたという。

 

「結果として、この計画の発端となった大臣達は全員処刑された。そして……タイミングが悪いことに、ここでこれまでとは比にならない争い、シックザール大戦が勃発してしまったらしいんだ」

 

「――!」

 

「だが、敵国に皇帝がいないと悟られる訳にはいかなかった。それで、アルと姫の父である漣イツキが皇帝の座に付くという異例の対応となった。ちなみに、アルが次期皇帝の継承権を得たのは、彼のシックザール大戦中を含む戦場での凄まじい功績が、何とかお偉い貴族達に評価されたから、らしいぞ」

 

 それは本当に、皮肉な話だった。大臣達が非人道的な行いをすることで生まれた子どもは、彼らが望むような力を持って生を受けた。そして、その力があったからこそ彼は次期皇帝として認められたのだ――本来であれば、存在さえも認められぬ立場にあったにも関わらず。

 

 

「ッ、何だよ、その話……! 何で、そんな……ッ、そんな奴に、僕は、あんな言葉を……」

 

 声が震える。声だけでなく、身体も震えていた――あまりにも残酷な、話だった。

 

 ショックのあまり、酷く狼狽えてしまったエリックの顔を覗き込むように前に立ち、ディアナは緩やかに首を横に振った。その表情は、やはり悲しげだった。

 

「結果としてあなたも、異端である彼の存在に苦しめられた。それも、事実だ」

 

 あの時、ディアナがエリックに手を上げたのは彼女が、この話を知っていたからに他ならない。

 それを今更知ったエリックは、爪で手袋を裂きそうな程強く、両手を握り締めた。

 

 

「アイツはきっと、全部知ってたんだろうな……まだ、十歳にも満たない子どものうちから、自分が歪んだ存在だって知ってて……だから、あんな……」

 

 あの時の、彼の“失敗作”という言葉は、自分は戦争のために、“兵器”になるために生まれてきたと知っていたからこそ出てきた言葉。

 それでも彼は、アルディスは、生きた生身の人間だというのに――!

 

 

「エリック、あなたは彼から何か聞いていたのか? 先程から、何か悟ったような様子だが」

 

 様々な感情で頭の中をかき乱されていたエリックを呼び戻したのは、心配そうに顔を覗き込むディアナの声だった。彼女の問いに、エリックは声が震えそうになるのをこらえながら答えた。

 

「ああ。アイツに拘束された時にな……アル、自分に存在意義はないだとか言ってたんだ。お前の話聞いて、全部繋がった……嫌な、方向にだけどな」

 

「そんな……!」

 

 彼は何も悪くないのに、とディアナは頭を振るう。それに関しては、エリックも全く同意見だった。

 兵器として生きることを強制された少年は、絶望のどん底に叩き落とされている。誰かが手を差し伸べてやらなければ、数多の意味で手遅れとなってしまうだろう。

 

 

「僕がこの地に来たのは、シックザール大戦のような誤ちを繰り返さないためだ。そのためにも、アルの……ノア皇子の死は、絶対に防がなければならない」

 

「……」

 

「ディアナ?」

 

 ぴくり、とディアナの耳が動いた。何かを聴き取ろうと、集中しているらしい。

 その場に浮遊したまま前に進まなくなってしまったディアナの様子を、エリックは無言で眺めていた。マルーシャも、涙を拭ってディアナを見つめている。聴覚、要するに音に関する情報の入手は彼女に頼った方が確実だ。今、彼女を邪魔してはならない。

 

 

「……あなたの判断に、従って良かった」

 

「! 何か、聴こえたんだな?」

 

「ああ……遠くで大型の魔物が暴れまわっているのだろう。誰かが縄張りに侵入しただとか、そういった理由で、だろうな」

 

 ディアナ曰く、ディミヌエンドの住民がこの場所に好き好んでやってくるとは到底思えないとのこと。

 そして魔物は縄張り意識が強い上に弱肉強食の世界を生きている存在だ。うっかり強い魔物の縄張りに入り込むような、馬鹿な魔物がいるとは考え難い。

 

「ッ、急ぐぞ、エリック、マルーシャ!」

 

「当たり前だ!」

 

「うん!」

 

 この先にアルディスがいるという可能性。それはかなり、有力になってきた。三人は途中の魔物を上手くかわしながら、全力で薄暗い空間を駆けた。

 

 

 

 

 駆け抜けた先にあった、微かに光が差し込む開けた空間。

 そこで待っていたのは、熊のようなズッシリとした身体に鋭い爪を持つ、巨大な魔物だった。

 

「な、何……あれ……」

 

 黒い毛に覆われた顔から覗く眼光は鋭く、思わず身震いしたくなる程の殺気を放っている。

 

「あれは、グレムリーベアか!? 無理だ……ハッキリ言って、今のオレ達が勝てる相手じゃない! エリック、マルーシャ! 気をつけろ!!」

 

 本当に、とんでもない魔物と出くわしてしまったらしい。ディアナの言葉に、エリックは奥歯を噛み締めた。

 だが、グレムリーベアがこちらに襲いかかってくる気配はない。ベアはエリック達の姿を一瞥したかと思うと、すぐに別の方向を向いてしまった。

 それは何故なのか、ベアは一体何を見ているのか――黒い毛の間から、微かに見えた白銀の髪と白い肌が、その答えを教えてくれた。

 

「ッ!」

 

 剣の柄を握り直し、エリックは危険を承知で走り出す。それを見たマルーシャとディアナは、すぐに魔術の詠唱を開始した。

 

「彼の者を見えざる檻にて封じ込めん! 風よ! ――バニッシュゲイン!」

 

「集いて爆ぜよ、紅蓮の砲弾! ――ファイアボール!!」

 

 マルーシャの術によって、グレムリーベアの動きが止まる。その直後、複数の火炎弾が、ベアの背に命中した。毛の焼ける嫌な臭いが、辺りに広がる。振り返ったベアの赤い目が、ディアナの姿を移す。

 

「あなたの相手は、オレだ……さあ、来い!!」

 

 グレムリーベアの咆哮が、空間に響き渡る。口から唾液を撒き散らし、ベアはディアナに襲いかかった。圧倒的な巨体を前に、ディアナは微かに身体を震わせる。それでも、逃げるわけにはいかないと胸元のレーツェルに触れ、一気に天井付近まで飛び上がった。

 

魔神剣(まじんけん)! ――空破(くうは)豪翔乱(ごうしょうらん)ッ!!」

 

 衝撃波を放つと同時、一気に急降下してグレムリーベアを斬りつける。しかし、刃がベアの硬い皮を切り裂くことはなく、数本の毛を宙に散らしただけだった。

 

 

「ディアナ! 無理はするなよ!」

 

「分かっている!」

 

 ほとんど身体を滑り込ませる形で、エリックはグレムリーベアの傍をくぐり抜けた。幸いにも、ベアには気付かれていないらしい。ディアナが上手く囮になってくれていた。

 

「見間違いじゃ、なかったみたいだな……」

 

 ベアの相手はディアナに託し、エリックはぐったりと壁に寄りかかっている白銀の髪の少年へと手を伸ばした。

 意識を手放しているらしい彼の顔色は決して良くはない。壁に叩き付けられたらしく、寝巻きから覗く肌には内出血の形跡も見られる。そんな彼の肩を掴み、エリックは祈るような思いで声を荒らげた。

 

「アル! おい……しっかりしろ!」

 

 呼び掛けに反応したのか、閉ざされた右目を覆う睫毛が微かに動いた。

 

「ッ、う……」

 

「アル!」

 

 不幸中の幸い、グレムリーベアから致命傷になるような攻撃はまだ受けていなかったらしい。だが、武器も持たず、寝巻き姿でこんな所までやってきた彼の身体は傷だらけだった。

 裸足でここまでやって来たせいなのか、途中の魔物にやられたのかは分からないが、彼の両足はいくつもの深い裂傷を刻んでおり、流れた血が赤黒くこびり付いていた。間に泥の入り込んだ爪は、全てではないにしろ数枚割れてしまっている。

 

「え……」

 

「良かった。何とか、間に合ったらしいな……」

 

 荒い呼吸と、冷えきって震えの止まらない身体。あまりにも痛々しい状態ではあったものの、命に別状は無さそうだとエリックは安堵する。

 

「君は……君達は、どうして、こんな……ところまで……っ!」

 

「……」

 

 消え入りそうな、弱々しいアルディスの声。体力的にも精神的にも限界らしく、彼がエリックの腕から逃れようとする様子はない。

 

「話は後だ! ディアナ、マルーシャ!」

 

 とにかく、目の前の巨大な魔物とまともにやり合うだけの戦力がこちらにない以上、のんびりしている余裕はない。喜んでいる場合ではないのだ。

 エリックは目の前のアルディスを抱き抱えると同時に顔を上げ、天井付近を飛び回るディアナとマルーシャに声を掛けた。

 

 

「オレは平気だが、やはり勝てる相手ではない……引き返すぞ! あなた方が先に進んでくれ!」

 

 グレムリーベアの相手をしながら、明かり代わりに魔術を使っているせいだろう。ディアナの消耗が速い。最初に話を聞いていただけに、エリックはそれに気付くことができた。

 しかし、アルディスを抱えたまま戦闘などできる筈もないし、マルーシャは根本的に戦闘向きではない。エリックはせめて足手纏いにならぬようにと、ディアナの指示通りにエリックは来た道を逆走し始めた。マルーシャがそれに続き、その少し後ろに、ベアを錯乱しつつも自分達を追うディアナの気配を感じる。

 

「無理を承知で言うが、なるべく急いでくれ! この魔物、かなり移動速度が速いんだ!」

 

「分かった!」

 

 そう言われてみると、確かに地響きが起こる感覚が狭い。時折聴こえてくる咆哮も、かなり近くから聴こえてくる。振り返ってその様子を確認する暇は、とてもではないが無さそうだ。

 

 

「うぁっ!!」

 

 

 そんな時、不意にディアナの悲鳴が聴こえた。彼女はエリック達を飛び越える形で吹き飛ばされ、そのまま地面に叩きつけられるように転がった。

 

「ディアナ!」

 

 マルーシャの悲鳴に近い声が響く。その声に応えるように、ディアナは身体を起こした。上手く受身を取れたらしく、ディアナ自身が深刻な傷を負うようなことはなかったようだ。

 

「まずい、やられた……!」

 

 しかし、彼女の使うレイピアが無残にも二つに折れ、傍に転がっている。剣がレーツェルに戻る気配は無い。完全に駄目になってしまったらしい。

 

「僕がアレを引き付ける! マルーシャ、ディアナ! アル連れて逃げられるか!?」

 

「む……無理だ! 第一、あなたを置いて逃げるわけには……っ」

 

 迫り来るグレムリーベアの姿に、エリック達は成す術が無くなってしまった。それこそ、誰かが犠牲になるしか方法が無いように思える――その時。

 

 

「……ッ、収束せよ、瞬きの光! ――フォトン!」

 

 

 アルディスの声と共に、グレムリーベアの真上で光が爆発した。頭を焦がされた痛みにベアがもがき、再び咆哮する。

 

「アル!!」

 

 エリックの腕の中で酷く咳き込みながら、アルディスは小刻みに身体を震わせている。呪いの影響を受けるのは下級術でも同じらしく、彼は右の二の腕を押さえていた。

 

「かは……っ、ぐ……っ」

 

「あなた、何を考えているのですか!? 自分の身体のことを、分かっていながら……っ!」

 

「分かっているからこその行動だよ!」

 

 ディアナの叫びに、アルディスは荒い呼吸の中で声量を上げた。激痛のせいか否か、炎に照らされた翡翠の瞳は、僅かだが涙に濡れている。

 

「皆、俺を置いて逃げろ……っ! 第一、最初から、そのつもりだったんだ……!」

 

「――ッ!」

 

 分かってはいた、言葉だった。だが、悲惨な彼の過去を知ってしまった今、彼の言葉はより悲しく、重々しくエリックの耳に届いた――ディアナのファイアボール同様に下級術にも関わらず、グレムリーベアにかなりのダメージを与えたフォトンの威力が、あの話は“真実”なのだと切実に物語っていたから。

 

「ふざけるな! ここでそれをするくらいなら、僕はこの場でお前と心中してやる……お前はいい加減、僕らの気持ちを察したらどうだ!?」

 

 込み上げてくるのは、未だに簡単に自分の命を投げ捨てようとするアルディスへの、ここまで彼を狂わせてしまった人々への、自分自身への、行き場の無い怒り。

 

「ッ、なん、で……っ」

 

「エリック! 来るぞ、下がれ!!」

 

 フリッカーの衝撃から立ち直ったグレムリーベアが起き上がり、四人の元に向かってくる。それに気付いたディアナは刃の折れたレイピアを手に、ベアの前に飛び出した。

 

「ディアナ! 無茶だよ!」

 

「死ぬ気はないから安心しろ! あなた達は先に行ってくれ!!」

 

 そんなことできるか、とエリックは頭を振るう。マルーシャも同じ反応をしていたし、アルディスに至っては満足に動かない身体でディアナの手を掴もうと手を伸ばしていた。

 

(ディアナ……!)

 

 彼女を、信じて逃げるしかないのか。

 

 しかしこれでディアナに何かあれば、自分は一生この選択を後悔し続けるだろう。だからといってここに留まれば、恐らくアルディスとマルーシャをも巻き込むことになる。一体、どうすればいいのか。

 

 

『君、空っぽ』

 

 

『何で? 何で?』

 

 

『不思議。変なの』

 

 

――謎の声が聴こえたのは、そんな時だった。

 

 

「え、エリック、下位精霊が……」

 

「! こいつら……何で、急に……」

 

 マルーシャの言葉に、エリックは自身の周りに色鮮やかな下位精霊達が寄って来ていることに気付いた。近くにジャンクがいるのかとも思ったが、そんなことは無さそうだ。

 一体どうして、と考えるよりも先、エリックはアルディスを地面に下ろし、右の手のひらをグレムリーベアへと向けていた。

 

「!?」

 

「なっ!? エリック、何をしている!?」

 

 振り返り、叫んだディアナの問いに対し、「それはこっちが聞きたい!」と叫びたかった。

 しかし、エリックの身体はまるで糸で操られるマリオネット人形にでもなったかのように言うことを聞かなかった。

 

 そうこうしている間にも、ベアは迫ってくる。皆が焦り始めた、その刹那。

 

 ベアの巨大な身体が、後方に大きく飛んだ。

 

 

「エ、リック……?」

 

「……」

 

 何が起こったのか、理解できなかった。

 ただ理解できたのは、突如現れた薄青の魔法陣が、ベアに向かって光線を放ったということ。

 

 

――そして、その魔法陣を、『エリックが出現させたらしいこと』だけであった。

 

 

「ッ、え……? な、な、何、が……僕は、一体……」

 

「エリック……今、一瞬だけ、あなたの右目……」

 

 身体の自由が戻り、酷く狼狽えるエリックの目の前で、ディアナは驚きを隠せない様子で声を震わせている。

 しかし、彼女は言葉の続きを発することなく、静かに首を横に振った。

 

 

「……行こう。いつ、ベアが復活するか分からないから」

 

 そう言ってエリック達の前へと移動したディアナの提案は間違っていない。エリックは奥歯を噛み締めつつもアルディスを抱え、重い足取りでマルーシャと共にディアナの後を追い始めた。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.33 平和のための犠牲

 

「おい! 誰かこっちに向かってくるぞ!!」

 

 地下水脈の入口付近に、大勢の人集りができている。グレムリーベアが暴れたことに、その異変に、地上にいた人々が気付いてしまったのだろう。

 逆光で顔は見えないが、誰かがこちらを指差して叫んでいる。そんなことは気にせず、エリック達は地下水脈の闇から飛び出した。

 

「は……っ、はぁっ、はぁ……っ」

 

 息が切れる。本気で走っていたわけではないが、人間一人抱えて走るのは病み上がりには少々堪えた。頬を流れる汗を乱暴に拭い、エリックは辺りを見回す。

 眩しい。完全に、夜は明けていた。結果として突然光を取り込むこととなったエリックの瞳は、眩しさの余りしばらくその働きを放棄することとなった。

 

「あらあら、揃いも揃って珍しい容姿ね……この街じゃ、皆浮いてしまいそう」

 

「藍色の髪の子と金髪の子達は、服装的にディミヌエンドの住民じゃなさそうだね。金髪の子は、もしかしてラドクリフ出身かな?」

 

「銀髪ってのも、今じゃそこまで見なくなったしなぁ……お前ら、迷い込んだのか? どこからきたんだ?」

 

 好奇と警戒の入り交じった視線が、三人に向けられる。どうやら、本格的にここの地下水脈は放置されているらしい。この場所に入ること自体、彼らには理解できない行動なのだろう。

 

「え、えっと……」

 

 ここで漸く、目が明るさに慣れてきた。数回瞬きを繰り返した後、エリックは再び辺りを見回す。とりあえず、自分達がとんでもない人数をこの場所に集めてしまったことだけは把握できた。

 

(うわぁ……)

 

 これはどう切り抜けようか。ここで何の事情も話さずに通過していくような神経をエリックは持ち合わせていなかったし、それ以前に、これは物理的に不可能そうである。助言を求める意味で隣のマルーシャに視線を投げかけてみたが、彼女も困ったように首を横に振るうだけだった。

 とはいえ、ここで事情を全て説明しているだけの余裕は無いだろう。エリックの腕の中で、アルディスがカタカタと小さく身体を震わせている。精神的な理由か肉体的な理由かはさておき、彼が負っている傷は決して軽いものばかりではない。

 

「マルーシャ。今、治癒術使えるだけの余裕、あるか?」

 

 ひとまずアルディスの傷を癒しておいた方が良いだろうと判断したエリックの問いかけに対してマルーシャは静かに頷き、アルディスに手を伸ばして意識を高め始めた。

 

「――ファーストエイド」

 

「……」

 

 彼女が術名を唱えると同時、アルディスが負った傷が少しずつ癒え始める。しかし、それによって全ての傷が塞がることは無かった。

 

「ごめんね。今はこれが限界なの。深い傷は、治せそうにないや……」

 

 

「ううん、むしろその方が良いわ」

 

 まだ痛いよね、と眉尻を下げるマルーシャに声を掛けたのは、たった今、この場所にやって来たらしいポプリだった。

 

「ポプリ!」

 

「急に騒がしくなったから、来たの。思い当たることなんて、ひとつしかなかったもの」

 

 そうして正解だったみたいね、とマルーシャに微笑みかけた後、ポプリは笑みを消してアルディスへと視線を移した。

 

「その……あえて、キツいこと言うわ。今は、この子の傷を全部治さない方が良いと思うの。完治させたら、また逃げちゃいそうだから」

 

「……ッ」

 

 その言葉の内容とは対照的に、ポプリの表情は今にも泣きそうな程に歪んでいて。彼女は近付いて来るなりその場に座り込み、アルディスの手のひらへと手を伸ばして涙をこらえながら笑ってみせた。

 

「でも、良かった……無事だったのね……」

 

 触れた手のひらの温度を感じ取り、ポプリはしきりに「良かった」と繰り返す。死んでしまうかもしれない、と思ったのはエリックだけでは無かったということだろう。事実、あと少し駆け付けるのが遅ければ、それは現実となった可能性もあった。

 

 

「おわッ!? 珍しいな、ブリランテから出てきたのか?」

 

「ほ、本当ね……私、“愛し子”は始めて見たわ……」

 

「今日はそういう日なのか? 悪いことが起きなきゃ良いけどよ……」

 

 

(……ん?)

 

 突如、静かになりかけていた人々、特に純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)達が再びざわめき始めたのに気付き、エリックは顔を上げる。その視線の先には、人々に避けられるように道を開けられるジャンクの姿があった。

 

「正直今は、いつも以上に人混みが嫌だったのですがね……」

 

「ジャン……?」

 

「まあ……攻撃されないだけ、まだマシだと考えます。そんなことよりアルだ。全く、命に別状は無かったとはいえ、とても外には出られないような状態だったというのに……」

 

 珍しく顔を微かに引きつらせたジャンクは、そう言ってエリックの前に座り込んだ。そして彼はアルディスがエリックの体を利用して隠していた左腕を掴み、それを人々に見えるように掲げてみせた。

 

「ッ!?」

 

 慌ててアルディスが腕を引っ込めようとしたが、もう遅い。その左手の甲に刻まれていたフェルリオの紋章を見て、人々は一斉にざわつき始めた。

 

「! う、嘘だろ!? あれは……!!」

 

「紋章があるんだもの、間違いないよ! ノア皇子だよ! 生きていらしたんだ!!」

 

 ノア皇子、という言葉にアルディスはより一層身体を酷く震わせる。言うまでもなく、ジャンクの目的は民衆に事実を知らせ、騒がせるためだ。だが、わざわざそうする理由が分からないとディアナはジャンクの隣に座り込む。

 

「ジャン……」

 

「アルにとって、これがいかに辛いことか……同じ精神系能力者として、僕にも分かっているさ。実際、さっきからアルの心が僕の方に流れてきて、正直、辛いんです」

 

 その言葉は嘘ではないようで、そのままアルディスの脈を測っているジャンクの手は傍から見て分かる程に震えていた。

 

「それでも、街の住民達から話を聞いて、心を視て、分かったことがあるんだ。だからこそ、アルは……ノア皇子は、人々から目を背けてはならないんです」

 

「え……?」

 

「ディアナ。君がラドクリフに送り込まれた目的。それは、ノア皇子の“暗殺”だったか? 違いますよね? ……ほら、それが答えだよ」

 

 ジャンクに諭され、ディアナはハッとして目を丸くする。かなり遠回しな言い方ではあったが、彼女は何かに気が付いたようだ。

 

 

「……」

 

 その様子を、そして騒ぐ人々の姿を見て、ポプリはぐっと両手を握り締める。

 

「皆、ここはあたしに任せて。先に宿に戻っててちょうだい」

 

「ポプリ!?」

 

「あたし、ノアから話聞いただけだったから、勘違いしてたの。要するにそれは、ノアも同じ……勘違いは、正さなきゃいけないわ」

 

 立ち上がり、ポプリは皆に背を向けて人々と向かい合う。ディミヌエンドの住民達は先程よりもエリック達に近付いていたが、何故か一定の距離を保ったままこちらの様子を伺っていた。

 そんな彼らの様子を見てからポプリはアルディスの姿を真正面に捉え、静かに口を開いた。

 

「真実を歪めてとらえてしまうだけの、勘違いをしてしまうだけの悲しみがあったことは確かだと思う。それでもね、全てから目を背けてはいけないわ。それは新たな悲しみを、嘆きを生むことに繋がってしまうから」

 

 切なく紡がれるポプリの言葉は、アルディスに向けられた物――しかしそれは、エリックにも強い意味を持って届いていた。

 

「だからそこに、どんな恐怖が生じるとしても、人は時として真実と向き合わなければならないの! 勘違いしたまま、終わらせてしまってはいけないの!」

 

 叫び、ポプリは再びディミヌエンドの住民達へと視線を移した。その表情は、未だかつて見た事がない程に凛とした、力強さを感じられる物だった。

 

「皆さん! あたしの話を聞いて……ノア皇子を救うために、力を貸して!! 皆さんが、皆さんの存在こそが! 最後の切り札なの!! 色々と気になることはあると思う。けれど今は、今だけは! あたしの話を聞いて!!」

 

 声を震わせ、ポプリは声を張り上げる。彼女の必死さに何か感じるものがあったのか、ディミヌエンドの住民達は不思議と、彼らにとっては見知らぬ娘でしかないポプリの言葉に耳を傾けていた。

 

(ポプリ……)

 

「皆、行きましょう。今は、彼女の行動の意味を問いただすべき場面じゃない」

 

 その様子を眺めていたエリックの肩を叩き、ジャンクは人ごみの中に消える。こんな状況である。彼の言葉は、正論だった。

 

「そうだよな! よし、帰るぞ。マルーシャ、ディアナ!」

 

 彼を追うという結論がエリックの中でなされるのは、必然的な物であった。エリック達はポプリに全てを託し、宿へと戻っていった。

 

 

 

 

 宿に着くまで、アルディスは一度もエリックの腕から逃れようとはしなかった。しかし、それと同時に彼は何の言葉も発さなかった。

 

「……」

 

 自室に戻り、ベッドに下ろされても相変わらず彼は一言も喋らない。ただ、憎しみや怒りといった感情に支配されて黙り込んでいるというよりは、困惑して何を言っていいやら分からない、という様子である。

 

「まあ、無理もないでしょうね」

 

 そんな彼の様子を見て、ジャンクはやれやれと肩をすくめてみせた。

 

「崖から飛び降り、死んだつもりだった。更に言えば、恐らくあの地下水脈でアルは死ぬつもりだったんでしょう? それなのに、二度も見事に助けられてるんだ。もはやどうこう言える状況ではない筈だ」

 

「……ッ」

 

 ジャンクの言葉に、アルディスはぐっとシーツを掴んだ。奥歯を噛み締め、必死にエリック達から目を背けようとするその姿は、痛ましい以外の何でもない。

 

「あ、アル……」

 

「ディアナ」

 

 何か言おうと、前に出てきたディアナを静止し、エリックはゆるゆると頭を振った。

 

「とりあえず、僕から話させてくれないか? で、また僕が妙なこと言っていたら、お前の判断基準で僕が許せないと思ったなら、その時は容赦なく、もう一度僕を殴り飛ばせ」

 

「え……っ」

 

「お前らに何されたって、もはや文句は言えないさ……自分でも、自分に対して腸が煮えくり返るような思いなんだ」

 

 そう言って、エリックはベッドの傍に落ちていた親書を手に取り、それをベッド脇のチェストの上で丁寧に伸ばした。それでも、付いてしまったしわは、完全には取れない。

 

「! エリック、それ……!」

 

 久しぶりに見た、純白の封筒。その存在を思い出したらしいマルーシャは目を見開き、両手で口を覆った。そんな彼女に、エリックは自嘲的に笑いかける。

 

「情けないだろ? 完全に、忘れていたんだ」

 

 できる限りしわを伸ばし、エリックはそれをアルディスの前に差し出した。

 

「これ、は……?」

 

 震える声でつぶやき、アルディスは封筒へと手を伸ばす。よく見ると、その指先すらも微かに震えていた。

 

「今更言った所で遅い。それは分かっている……唯一の救いは、お前が今生きていることだな」

 

「エリック?」

 

「あー……そうだ。お前、皇子だしな。僕も一応、自分の立場をわきまえて話そうか。まさか、お前に対してこれをやる日が来るとは思わなかったよ」

 

 自分の顔を不思議そうに覗き込む彼はやはり、あまりにも見慣れた姿をしていて。一般人だろうと皇子だろうとアルディスはアルディスだと、ちゃんと理解していても何だか変な感情になってしまう。

 しかし、これではいけないだろうと咳払いし、エリックはその場で片膝を付いた。

 

「ラドクリフ王国を代表し、フェルリオ帝国の皇子たる貴殿に親書をお持ち致しました。大変恐縮ではありますが、この場でお目を通して頂ければと思います」

 

 アルディスの左目が、大きく見開かれる。彼は突然かしこまったエリックから目をそらし、その場で親書の封を切った。

 彼が親書に目を通す間、しばしの沈黙が、部屋の中に訪れる。

 

 

「なんで……」

 

「……」

 

「何故……ですか。私どもは、フェルリオは……事実上の、敗戦国です。我が国はもはや、このような扱いを受けるべき立場では、ない筈、です……」

 

 沈黙を破ったのはやはり、当事者であるアルディスだった。エリックは親書の内容を知らなかったのだが、酷く声を震わせ、困惑した様子の彼を見る限り、その言葉を聞く限りでは悪い内容では無かったらしい。

 ただ、彼本人はもはや『親書』とは言えないような、そんな内容の文面であることを想定していたようであったが。

 

 

「貴殿が……う、うーん……」

 

「……。アベル殿下?」

 

「だ、駄目だ! 調子が狂う! 色々指摘したいことあるのに言いにくいから普段通りで行くぞ! ……お前も、自分の立場忘れろとまでは言わないから今まで通りに喋ってくれ」

 

「は、はあ……」

 

 親書は真面目に渡したのだから良いだろうと、エリックは言葉遣いを崩した。何しろこの八年間、アルディスに対して堅苦しい言葉を使ったことは一度もないのだ。違和感しかない上に、今更遅いような気しかしない。そして何より、他人行儀な喋り方でアルディスに何かを訴えたとしても、それが彼に届くとは到底思えなかった。

 困惑するアルディスを前に、エリックはガシガシと頭を掻き、少し頭の中で言葉を整理してから口を開いた。

 

「確かに、皇帝家が壊滅的な被害を受けたのは分かる。遺体が見つからないってことは、アルカ姫もどこかで生きている気もするが……生存確定なのは、結局のところお前だけだからな。だが、お前が生きている以上、皇帝家はまだ無事じゃないか」

 

「君は知らないだろうけどさ。俺みたいなのが生きていた所で、どうしようもないんだよ……」

 

 

 前向きなエリックの発言に対し、アルディスが発したのは彼自身をどこまでも蔑む言葉。彼の翡翠の瞳は悲しげに細められ、涙に潤んでいた。そんな彼の姿を見て、マルーシャは肩を震わせる。

 

「『俺みたいなの』って……そんな……ッ、そんな言い方……!」

 

「マルーシャ、落ち着け。まあ、ラドクリフ出身の僕らには訳の分からない話だよ。だけど、お前達にとってそれは重大な話なんだろ? 確かにお前、右翼……無かったしな」

 

「ッ!?」

 

 右翼が無かった、というエリックの指摘を聞いたアルディスの瞳が、悲しげに揺らぐ。そして、そのまま彼はエリックから目を背け、俯いてしまった。

 

「なんだ、知ってたのか……じゃあ、分かるだろ? 俺は、普通じゃない。普通じゃない上に、とんでもない失敗作にすぎない」

 

 やはり、アルディスは自らの異常性を知っていた。だからこそ彼は、ここまで歪んでしまったのだろう。自分は人間ではない、とでも言いたげな彼の姿に、感情を高ぶらせていたマルーシャでさえ言葉を失ってしまった。

 

「俺は結局、戦争の道具でしかない……まあ、道具としての役割さえ、俺は果たせなかったけれど」

 

「アル……!」

 

「どうせ俺は、欠陥品だ……失敗作でしか、ない……ッ」

 

 ぽろぽろと、アルディスの目から涙がこぼれ落ちた。自分が発した言葉によって、更に追い込まれてしまったのだろう。

 

「……、……っ」

 

 エリックの視界の片隅に、ジャンクが壁に手を付いて呼吸を整えている姿が映った。誰が見ても分かるほどに、尋常ではないほどに辛そうな様子である。

 恐らく、共解現象(レゾナンストローク)が暴走して彼の頭の中にアルディスの感情が流れ込んでしまったのだろうが、それだけ、アルディスの精神状態が不安定になってしまっているのだ。

 このままでは駄目だと何かを発そうとしたエリックの前に、今まで黙っていたディアナが飛び出した。

 

 

「違う! あなたは……ッ、あなたは、道具なんかじゃない! あなたは、この国を敗戦という名の屈辱から、人々を間一髪護りきったと聞いている! ラドクリフ軍が、ヴィーデ港と帝都以外の街を破壊するのを防いだのは……ッ! 他でもないあなたと、あなたが率いていた帝国騎士団の人々なのだろう!?」

 

 ベッド横のチェストを叩き、ディアナは声を震わせて叫ぶ。しかし、アルディスはゆるゆると力なく首を横に振るうだけだった。

 

「それでも俺は、ヴィーデ港とスウェーラルに壊滅的な被害を負わせてしまった。スウェーラルに至っては、十年そこらでは修復できない程の深刻な被害を負った……シンシアは、未だに行方不明だしね……この事実は、決して変わらない」

 

「そ、それは……!」

 

「お前も見ただろう!? あのスウェーラルの有様を……あれが、俺の生に対する答えなんだよ!!」

 

 二週間前、スウェーラルの廃墟のような有様を見て、アルディスは冷静さを保ってこそいたもののあれは彼にとって、発狂したい程に残酷な光景だったに違いない――否、だからこそ、彼はフェルリオ城でエリック達を待つという選択肢を選んだのだろう。

 

 彼は、あの残酷な光景を見て、耐えられなくなってしまったのだ……。

 

「俺が次期皇子として認めてもらえたのは、国を守る力があったから……けれどそんなの、まやかしでしかなかった! 俺は、何一つとしてろくに守れやしなかった……そんな俺に、皇族たる資格なんて無いんだよ!!」

 

 叫び、アルディスは親書をエリックに叩きつけるように投げ返した。親書は床に落ち、カサリと無機質な音を立てる。

 思わず、誰もが黙り込んでしまった。その後は、完全に泣きだしてしまったアルディスの、抑えきれない嗚咽だけが微かに聴こえるだけであった。

 

 自分自身の存在意義を完全に見失い、かといって死んでこの場から消え去ることも許されなかった。それが今現在、アルディスが置かれている状況である。

 もしかすると、自分は彼にかなり残酷なことをしてしまったのかもしれない、とエリックは思う。それでも、死を願う程の苦しみの先にあるのが『絶望』であるとは限らないことを、エリックは知っていた。

 

 

「……アル。そういえば、お前に話してなかったことがある」

 

 エリックは自分の首の後ろに手を回し、チョーカーを外した。隠れていた酷い傷痕が晒され、まだそれを見慣れぬ皆が息を呑んだのが分かる。

 

「これ、自分で見るのも嫌なんだ……だから、いつも何かで隠してるんだが、それにしたって、お前には教えておくべきだったな」

 

 八年も一緒にいたのにな、とエリックは自嘲的な笑みを浮かべてみせる。その表情を、傷痕を見たアルディスは、どこか悲しげに目を細めた。

 

「お前の目に、アベル王子としての僕がどう写っていたのかは知らない。もしかすると、僕がノア皇子に対して抱いていた感情とほぼ一緒なのかもしれない。けどな、どのみち僕はそれ程優れた人間なんかじゃない。王位継承権を得たのだって、成り行きだ」

 

 たまたまラドクリフ王家に生まれ、身体的な問題こそあれども他に問題は無かった。

 兄に継承権がない以上、自分の他には王位を告げるような人間がいなかった。

 これらの条件のうち、どれか一つでも欠けていれば、自分の右手に紋章が刻まれるようなことは無かっただろうと、エリックは右手を握り締めて言葉を紡いだ。

 

「だからこそ、僕は思うように動かないこの身体が憎かった。マルーシャのおかげでかなりマシにはなったが、この思いは変わらない。何より、戦時中に国民の期待を散々裏切ってしまった自分のことが、今だって許せない……」

 

 船で、『アベル王子とノア皇子が逆に生まれていたら良かったのに』と言っていた男達の姿が、声が、脳裏に焼き付いたまま消えてくれない。

 恐らく、彼らのような者達はエリックが生きている限り、考えを改めてはくれないのだろう。

 

「……」

 

 エリックは少しの間だけ黙り込んでしまった。この話の続きをするのをためらっているのだろう。だが彼はおもむろに首を横に振るい話を続けた。

 

「この傷は十年前。戦場から一時帰還してきた父上との訓練の最中に付いた物だ……真剣を用いた、訓練だった。ちゃんと避けなければ死ぬと分かっていながら、僕は父上が振り下ろした剣をこの身に受けた」

 

「! ま、まさか……」

 

「死んでも良いって、あの時は本気で思っていたよ……“ラドクリフ王子”の地位は、“アベル”という名は、あの頃の僕には、あまりにも苦痛すぎたんだ」

 

 あまりにも重々しい空気が、皆の間を流れていく。エリックは赤い瞳を伏せ、忌々しい傷痕を右手の指でなぞった。

 

「父上の剣術はかなりの物だったからな。首が飛ばずに済んだのは、父上が直前で矛先を逸らしてくれたからだ。ただ、それでも、僕は致命傷を負うことになったよ。つまり本来なら、この傷が原因で死んでいた筈だった」

 

 何しろ、辺り一面が赤く染まる程の、とんでもない出血量だった。父はそんな自分を、本当に汚い物でも見るように見下ろし、去っていった。そういえば、心配すらしてくれなかったな、とエリックは彼の姿を思い返す。

 彼はそのまま、エリックに別れを告げる事なくフェルリオへと戻っていった――そして、結果としてこれが、エリックが最後に見た父の姿となった。

 

「ただ、たまたまそこに兄上と……マルーシャが、いたんだ。マルーシャは、ほんの数日前に僕の許嫁になることが決まって、シャーベルグからやってきた。僕との接点が殆ど無いどころか、一方的に僕が冷たくあしらっていた……本人を目の前に言いたくなかったが、当時の僕にとって、明るい彼女の姿はあまりにも眩し過ぎた。苦痛でしかなかった。自分自身が、より一層醜く思えるから」

 

 マルーシャはエリックの発言を訂正しようと、何か言おうとしていたが、それが言葉として紡がれることはなかった。

 事実、今も昔もエリックは決して明朗な少年ではない。それどころか、世間一般的な同年代の少年達と比べるとかなり大人しい方だろう。こればかりは否定の仕様がない。それを、エリックはよく理解していた。

 それでも、少しは改善していれば良いなと思いつつ、エリックは軽く息を吐いてから口を開いた。

 

「あの時、マルーシャはいきなりその場で覚醒してみせたんだ……七歳だから、かなり早めの覚醒ってことだ。それに伴って、爆発的な治癒力が開放されたんだろうな。傷こそ残ったけれど、僕はこの通り生きている。しかもあの一件以来の僕は余程のことが無い限り、寝たきり状態になる程に体調を崩すことはなくなった」

 

 体質のことが何よりもコンプレックスだったエリックにとって、それは本当に有り難いことであった。

 しかしながら、その十年後にエリックはマルーシャに関する恐ろしい話を耳にすることとなる。マルーシャの能力は、時として彼女自身の命を脅かすようなものと化してしまったという話を。

 

「マルーシャの早期覚醒。その原因を作ってしまったのは僕だ。結果として僕は、自分の生を引き換えに、彼女を危険な状態に追い込んでしまった」

 

 恐らく、マルーシャの早期覚醒は『エリックを救いたい』という彼女の優しさが引き起こしたもの。 責任を感じて悲しげに笑うエリックの腕を、マルーシャは咄嗟に軽く引っ張った。

 

「で、でも! あれは、わたしが勝手にやったことだよ!? エリックは何も悪くないもん!」

 

「とは言っても、事実は変わらないさ。僕があんな行動を起こさなければ、君はあるべき形で覚醒出来ていたんだろうしな……ただ、あの一件があったからこそ、分かったこともある」

 

 何とかエリックをフォローしようと狼狽えるマルーシャの頭をぽんぽんと軽く叩き、エリックはアルディスへと視線を移した。

 

「例えどんなに身体のことで非難されようとも、僕は死にたくない。王族である以上、普通に生きることは叶わない。それでも僕は、精一杯生きていたいと願うんだ」

 

「……」

 

「きっと幼い日の僕も、心のどこかでは生を望んでいた。ただ、現実と理想の差に打ちのめされていただけだったんだと思う。実際、あの後の僕は割とあっさり立ち直ってたしな」

 

 チョーカーを付け直しながら、エリックは少し困ったように笑ってみせた。我ながら単純だと思うし、まだこの傷を晒して生きる程の度胸はないけれど、と。

 

「なあ、アル。ちょっと考えてみて欲しい。お前の人生……色々、悲しいことが連鎖してしまったのは分かってる。それでもさ、投げ出すのはまだ、早いんじゃないか?」

 

 エリックの問いに、アルディスは微かに身体を震わせた。怯えるようにこちらを見つめてくる翡翠の瞳が、彼の迷いを明白に表していた――エリックは見抜いていた。アルディスの本心を。

 

 

「……たい、よ……」

 

 シーツを握り締めた彼の左手が、酷く震えている。力を込められ、一層シーツのシワが深くなるのと同時、彼は声を荒らげた。

 

「許されるのなら、生きていたいよ! 俺だって……ッ、俺だって本当は死にたくなんかない!! それも“兵器”としてなんかじゃなく、一人の“人間”として……ッ、この世界を生きたいって、そう思ってるよ……ッ!!」

 

 涙ながらに語られた、アルディスの「生きたい」、「人間でありたい」という本音。

 

「ッ、だったら……!」

 

「それでも結局の所、俺は兵器として生み出された紛い物だよ! 平和な世界に、兵器なんてものはいらないだろう!?」

 

「お前! まだそんなことを……!」

 

 しかし、悲しくもアルディスの考え方は、あまりにも歪んでしまっていた。とはいえ、そうなってしまうだけの理由はエリックにも理解できる。幼少期の経験は、後の人格形成に大きく影響を及ぼすものだ。どうしても卑屈な考えが先行するエリックの性格も、幼少期の経験がもたらしたものに他ならない。

 

 エリックの言葉が拍車をかけてしまったのか、更に気が立ってしまったらしいアルディスは軽く歯軋りした後、髪を振り乱して叫んだ。

 

 

「どちらにしても、世界の頂点に立つのは一人だけで十分だ! そんな存在が二人もいるから、戦争なんかになるんだよ! 俺達のどちらかを間引くなら……“いらない方”は、誰がどう考えたって、俺の方に決まってるだろう……ッ!?」

 

 

「な……ッ!?」

 

 

――今、彼は何と言った……?

 

 

 激情するあまり、口を滑らせてしまったらしい。慌ててアルディスは口を閉ざしたが、出てしまった言葉は、もう戻らない。

 

「それ、どういう、意味だよ……!?」

 

「……」

 

「アル!!」

 

 聞かずとも大体、彼の言葉の意味は察することができた。しかし、それでもあえてエリックは、彼の口から答えを聞こうとした。

 エリックに掴みかかられ、アルディスはほんの少しの間目をそらし、一言も喋らずにいた。だが、それも時間の問題だと思ったのだろう。彼はエリックから目をそらしたまま、小さな声で呟いた。

 

「俺の例で分かるように、戦の功績っていうのはかなり高く評価される。仮に病弱体質だったとしても、最後の皇族を討ち取ったとすれば、君は全ての国民から、相当な信頼を得ることができる筈だ。それに……君とゼノビア陛下なら、フェルリオを悪いようにはしないだろうしね」

 

「やっぱりお前……そのためだけに、僕に殺されようとしていたのか……?」

 

「……きっと、その方が人々のためになるから」

 

 天才と呼ばれたアルディスの首を国に持ち帰れば、国民のエリックに対する見方は大きく変わることだろう。

 そのまま、一気に国をひとつにまとめることも可能かも知れない。しかしそれは、当然のことながらアルディスの死を代償になされることだ。

 

 そこまで、彼に考えがあったとは思わなかった。衝撃のあまり、エリックは目の前が真っ暗になるのを感じる。するりと、手からアルディスの服が滑り落ちた。

 

 

「アルディスの馬鹿! わからず屋ぁ!!」

 

 そんな時、エリックの耳に届いたのは、マルーシャの悲痛な叫び。呆然と立ち尽くしていたエリックを押しのけ、彼女は大きく右手を振り上げた。

 

「あ……っ!」

 

 気付いたエリックが慌てて止めに入ろうとしたが、もう遅い。直後、平手打ち独特の乾いた音が、沈黙に包まれていた部屋の中に響いた。

 

 

「ッ……」

 

「痛い? 痛いよね? 生きてるんだもん。当然だよ……! わたしだって今、色んなとこが痛いよ!!」

 

 あの高さから手を振り下ろせば、アルディスは当然のことながらマルーシャ側にもかなりの痛みを与えたことだろう。それでも、彼女は止まらなかった。

 

「今まで、黙って聞いてたけど……何なの? わかんない……全然、わかんないよぉ!」

 

 微かに赤くなった右手をアルディスの乱れた服へと伸ばし、縋るように掴みかかる。両膝を床に付いた彼女は左頬を赤くしたアルディスの顔を見上げるような体勢で、決して目をそらすことなく叫び続けた。

 

「アルディスはアルディスじゃない! フェルリオの皇子様だって、どんな生まれ方してたって、そんなの、関係ないじゃない!」

 

 嗚咽を上げ、頭を振り、混乱して上手くまとまらない言葉を必死につなぎ合わせていく。

 

「今となっては、甘えなのかもしれない! だけど、わたしは……っ、わたしは、エリックとアルディスと一緒に過ごす、のんびりとした時間が大好きだった! 大好きだったのに……!! どうして、どっちかが死ななきゃいけないの!? 犠牲にならなきゃいけないの!? わたし、そんなのやだよ!!」

 

 マルーシャは垂れ目がちな黄緑色の瞳からぼろぼろと涙を流し、絶対に逃がさないと言わんばかりに両手でアルディスの服を掴んだ。

 

「平和のために誰かが犠牲にならなきゃいけないなんて、そんなのおかしいよ! 間違ってる! わたしはそんなの、絶対に許さないんだからぁ……ッ!!」

 

 マルーシャ自身、もう限界だったのだろう。あまりにも、色々なことが起こり過ぎた。自分の意見を主張し終えるなり、彼女はその場に座り込み、大声で泣き出してしまった。

 

「マルー、シャ……」

 

 これには流石に心動かされるものがあったのか、アルディスは酷く肩を震わせて泣きじゃくるマルーシャに手を伸ばそうとして――それを、引っ込めてしまった。

 

「だけど、俺は……」

 

 

「『俺は』……何? 変なとこ頑固なのは、本当に変わらないわね」

 

 

「!?」

 

 ドアの向こうから聞こえてきたのは、今となっては聞きなれた、優しくもはっきりとした力強い声。エリック達が振り返ると、そこにはポプリの姿があった。

 

「ポプリ!」

 

「お待たせ。やっぱり、色々と難航してるみたいね……大体、分かってたけれど」

 

 軽く首を傾げ、ポプリは困ったように笑ってみせる。結局、アルディスと彼女の関係は厳密には分からないままになってしまっていたが、完全な赤の他人というわけではないことは確かだ。だからこそ、彼女はあのような行動に出たのだろう。

 

「ノア、歩けるかしら? ちょっと、この宿のバルコニーに出て欲しいの。いえ、出なきゃ駄目。最悪、引きずってでも連れて行くわ」

 

 ポプリに、一体何の考えがあるのかは分からない。彼女に限って見当違いな行動を起こしたとは考え難いが、全くもって想像が付かない。

 

「とは言っても、足の傷が酷いからな。最悪、僕が抱えて連れて行くが……」

 

「……。良いよ、自力で歩くから」

 

 アルディスは軽く息を吐き出し、フラリと立ち上がった。それでもやはり傷が痛むらしく、少し顔を引きつらせている。

 素直に立ち上がったことを意外に思ったのか、ポプリはしばしの間目を丸くしていた。だが、やがてその表情は真剣なものへと変わる。

 

「ほら、こっちよ。あたしにもたれかかってくれて良いから、転ばないように……ね」

 

 彼女らに着いて行って良いものなのか、それは分からない。だが、後を追おうとするディアナとジャンクをポプリは咎めなかった。要はどちらでも良いということなのだろう。

 

 

「僕は着いて行こうと思う。君はどうする?」

 

「わたしも……わたしも、行く……置いて、いかないで……」

 

「そうか」

 

 ポプリは一体、何の行動を起こしたのか。

 その答えを知るべく、エリックはマルーシャと共に彼女らの後を追っていった。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.34 涙と共に

 

「うん、ここで良いわね……さあ、ノア」

 

 エリック達がいた部屋から、バルコニーはそう離れてはいなかった。色とりどりのステンドグラスが美しい扉を引き、ポプリはアルディスに外に出るようにと促す。

 

「ッ、分かってます……」

 

 アルディスは未だ、困惑した様子であった。それでも、ここまで来て逃げ出そうなどという考えは無かったのだろう。彼は意を決し、バルコニーへと足を踏み出した。

 

 

――その先にあった光景を見て、アルディスは目を見開いた。

 

 

「え……?」

 

 宿の周辺、バルコニーから見える場所。そこには、街中の人々をかき集めたのではと考えてしまう程の、大勢の人々が集っていた。

 

「その、状況が全く読めないのですが……これは、一体……!?」

 

 アルディスの問いに、ポプリは廊下側に留まったまま口を開く。

 

「うん。ここまで凄いことになるとは思わなかったわ。あたしはただ、君を認めてくれる人を集めたというか……集まってくれるように呼びかけた“だけ”だったんだもの」

 

「!? どういう、ことですか……!?」

 

 ポプリの言葉に、アルディスは動揺を顕にした。信じられない、とでも言いたげに彼は小さく頭を振り、再び住民達へと視線を移す。

 

「ノア皇子、おかえりなさい!」

 

 その時、誰かがアルディスに向かってそう叫んだ。それに続くように、どんどん声は連鎖していく。彼を非難する声は、一切聞こえてこなかった。

 

「ッ、皆様はこんな私を皇子だと……皇帝の座に相応しい者だと、そう思って、おられるのですか……?」

 

 震える声で、アルディスは人々に問いかける。それはかなり小さな声であったが、住民の半数は彼と同じ、尖った耳を持っていた――彼らは聴力の優れた、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)だ。だからこそ、そのような小さな声であってもしっかり聴きとることができたのだろう。

 

「当然ではありませんか! あなた様は、我々の誇りです!」

 

「それ以外考えられないでしょう!? 何故、殿下はそのようなことをおっしゃるのですか!?」

 

 返って来る言葉は、今のアルディスには、とてもではないが信じられない言葉ばかりで。バルコニーの柵を力強く掴み、アルディスは真下に集まった大勢の人々を見下ろした。

 

「ですが……! 現在の私は、少なくともかつてのような力は持っておりません! 私は片目を失い、多くの魔力を喪失しました。今となっては、大した戦力にはなれないのです!」

 

 長く伸ばされた前髪を横に流せば、消えることのない傷痕が露出される。その痛々しい傷痕を見て、人々はザワザワと落ち着きを失って騒ぎ始めた。

 

「ですから、再び双国の間で戦が起きたとしても、私は……ッ!」

 

 

「殿下! そのようなことはもう、誰も望んではいませんよ!」

 

 

 役に立てないと、そうハッキリ主張しようとしたアルディスの言葉を遮ったのは、やはり民衆の中の一人であった。

 

「我々が求めるのは永久の平和であって、戦での勝利ではありません! 戦なんて、もう二度と起きて欲しくはないのです! 第一、あなた様は兵器などではありません!!」

 

「そうですよ! 皇子はもう、戦場に立たなくて良いのです! 皇子が戦場に立たなくて良い、いえ……決して、誰も戦場に立つ必要の無い、そんな世界を私達は望んでいます!」

 

 人々の言葉には、嘘も迷いも無かった。だからこそ、アルディスは酷く戸惑っていた。

 

「ご存知だとは思われますが、私は混血です! それに私は、恥晒しの片翼ですよ!?」

 

「それでも、殿下は皇帝族の血を引いているじゃないですか! 大体血筋も翼の有無も、殿下の場合は関係ない! 国のために命を賭けた、優しき人物を皇帝にと願う私達の意志……これが間違いだと、殿下はおっしゃるのですか!?」

 

 

 廊下でアルディスと民衆のやり取りを聞きながら、エリックは拳を握り締めた。

 

「アル……」

 

 彼らの話は、完全に並行してしまっている。ここまで来ると、アルディスの主張が被害妄想のようにも聞こえるだろう。だが、それも彼の育ったとんでもない生活環境を思えば、ああなってしまうのも無理もない。少なくとも、国の上層部にいた人々の思考は、アルディスが今現在考えていることを具現化したような物だっただろうから。

 

(捉え方が、ここまで違うなんて。彼らは、アルの存在を揉み消そうとした大臣達とは全然違う……)

 

 彼をここまで、精神的に追い詰める要因となった者達は、大臣達は、既にこの世にいない。上流階級の人々はどうだか分からないが、ディミヌエンドの住民達は彼らとは全く異なる思考の持ち主だったことは間違いない。

 一部の話とはいえ、国のほんの一握りの存在でしかない人々と、国民との意見が違えるという現実を目の当たりにしたエリックは無意識のうちに首の傷をなぞっていた。

 

「あの子は、本当に頑張ってきたんだもの……だから、当然と言えば当然よね」

 

 そんなエリックの耳に入ってきたのは、この状況を生み出したポプリの声だった。

 

「てっきり、ね。あたしはこの国の人々の大多数はノアを気味悪がってるんだと、そう思ってたの。ノア自身も、完全にそうだって思ってたみたいだし」

 

 横目でアルディスの様子を確認しながら、ポプリはそう言って悲しげに笑ってみせる。

 

「でもね。ノアが皇子だって気付いたここの人達を、その表情を見て、それは違うって分かったから……だからあたしね、ちょっと賭けてみたの」

 

「それが、先程のあなたの行動か。なるほど、凄まじい結果じゃないか」

 

 ポプリが訴えた、正さなければならない勘違いとはこのことだったのだ。

 そして、最初は混乱して取り乱してはいたものの、ようやくアルディス本人もそれを理解し始めたらしい。人々の話を聞けば聞く程に、彼は落ち着きを取り戻し始めていた。

 

 

「本当に、有り難い話です……私のような者には、恐れ多い話ですね……ですが……」

 

 だが、アルディスの問題はまだ残されていた。彼は躊躇いつつも右袖を捲り上げ、白い腕に浮かび上がった赤黒い痣を民衆に晒した。

 

「……どちらにせよ、私は恐らく、近いうちにこの命を終えるでしょう。元々短命だろうとは思っていましたが、そんなものではありません。私はもう……本当に、長くはないのです」

 

「――ッ!?」

 

 あの痣が何であるのかを理解できる者が、果たして何人いたのだろうか。それでも、彼の余命宣告にも等しい発言は衝撃的だったことだろう。

 再び、人々が騒ぎ始める。驚きのあまり、その場で泣き出し、崩れ落ちてしまった者も中にはいた。

 

「ノア皇子……そんな……っ」

 

「……」

 

 結果としてこれまで、ことごとくアルディスの発言を論破してきた人々が、誰一人として何も言い返せなくなってしまっていた。

 

(あの馬鹿……何だかんだ言って、気にしてたんじゃないか……ッ!)

 

 アルディス本人はまるで気にしていないかのような振る舞いをしていたものの、虚無の呪縛(ヴォイドスペル)は彼の身体のみならず、精神までも蝕んでいたという事だ。

 生きることを望んだとしても、生きることを許されたとしても、自分はもう助からない。犠牲がどうこうの前に、元々彼は生きることを完全に諦めてしまっていたのだろう。

 

「困ったな。大体の人々が、あの痣の意味を察したようです……透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力者であれば、容易いことでしょうし……」

 

 今まで黙って民衆の意識を透視していたらしいジャンクが、嫌な情報を告げた。ポプリも、どうしようもないと目を細め、奥歯を噛み締める。

 

「上手くいくかなって思ったのに……皇子としての自信だけ取り戻させたって、死を目の前に、無駄に絶望させてしまうだけじゃない……」

 

 実際、ポプリの作戦は虚無の呪縛(ヴォイドスペル)さえなければ上手くいっていた可能性が高い。

 確かに、この方法でアルディスが抱いていた勘違い“だけ”は、正すことができただろう。ただ、彼女が言うようにこれでは、尚更死の恐怖が増してしまっただけである。

 

(ここでラドクリフ側の問題が出てくるとは思わなかった……! くそっ、せめて僕が虚無の呪縛(ヴォイドスペル)関連の知識を持っていれば!!)

 

 エリックは、自らの無知を酷く恨んだ。頼みの綱であったポプリとジャンクが黙り込んでしまった以上、どうすれば良いかと彼らに問う訳にはいかない。マルーシャとディアナも同様だ。

 こうしている間にも、ただでさえ疲弊したアルディスの精神状態が限界を訴えているというのに――そんな時、エリックはかなり根本的な疑問の存在に気が付いた。

 

 

(……ちょっと待て。僕は一体、『何』に悩んでいるんだ?)

 

 

 悩んでいるのは、自信も何もかも失って絶望しきってしまった今のアルディスを救う手段であって、自分の無知がどうこうという話ではなかった筈。虚無の呪縛(ヴォイドスペル)に関しても、今ここで討論を繰り広げるべき問題ではない筈だ。

 

「はぁ……勝手に頭の中でグダグダ悩んで、結局最終的には動かないって所。どう考えたって直した方が良いよな」

 

 ガシガシと頭を掻き、エリックはため息を吐く。どうして自分は、先程のポプリのように、試しに行動してみるという思考回路に至らないのかと。

 

「ん……あのバルコニーの作りなら、上だけ着替えてしまえばそれっぽく見えるよな?」

 

「エリック……?」

 

 突然妙なことを呟き始めたエリックを心配して、マルーシャが顔を覗き込んできた。だが、そんなことは気にせずにエリックは踵を返して軽く廊下を走り始めた。

 

「すぐ戻る」

 

 軽く結い上げた髪を解いて上着を脱ぎ、エリックは先程まで自分達がいた部屋へと向かう。マルーシャがその様子を怪訝そうに見守る中、エリックは自身が口にした「すぐ戻る」という言葉通り、元々着ていた上着の代わりにラドクリフの紋章が刻まれた藍色の上着と、スカーフを手にして帰ってきた。

 

「どうしたの……?」

 

「見てられない。ちょっと顔出してくる」

 

「え、えぇ!?」

 

 上着を羽織り、スカーフを巻き、髪を一つに結い直す。手櫛で軽くまとめただけだが、この場合は仕方ない。ここに来てようやくエリックの「それっぽく見える」の意味を理解し、マルーシャはパクパクと口を動かしている。そんな彼女を放置したまま、エリックは迷う事なく扉を開き、アルディスの隣へと移動した。

 

 アルディスは身体を震わせてこそいたが、涙を流すことなく民衆の前に立っていた。流石に、この状況で泣くのはプライドが許さないということか。

 

「泣いてるかと思った」

 

「え、エリック!?」

 

 エリックの存在に気付いたアルディスはビクリと肩を揺らし、いつもと微妙に違う彼の姿をまじまじと見つめる。

 

「その格好は、一体……?」

 

「一応、僕はラドクリフの代表で来てるからな。いつもの服装じゃ、ちょっと」

 

 とは言っても、見えない部分はそのままなんだけどな、とエリックは苦笑する。二人のやり取りも多少は聞こえているだろうが、民衆からしてみればエリックは突然現れた珍しい容姿の少年だ。最悪の話を皇子の口から聞き、それに続く形のエリックの登場に、民衆は更なる混乱を見せていた。

 

「そうだ、こっち放置したら駄目だよな……って、うわ! お前……この人数前によく平然と喋れたな……!」

 

 自分に向けられる視線は、先程の地下水脈から出たばかりの自分達に向けられたものの比では無かった。極度の緊張で、体中から変な汗が吹き出すのを感じる。ただ、これで馬鹿にされたのでは意味がない。

 

(ああもう! こうなったら自棄だ!!)

 

 エリックはその場で深く頭を下げ、民衆に聴こえるように声を張り上げた。

 

「少しだけ、私にお時間を頂ければと思います! 私はラドクリフ王国第二王子、エリック=アベル=ラドクリフです! この度、和平の使者としてフェルリオに参りました!」

 

 身体が震える。人々の声が頭に入ってこない。敬語がちゃんと使えているかどうかすら自信がない。それどころか、アルディスを心配して来たというのに、逆に彼に心配されているーー!

 いくらなんでも、これは無謀過ぎたかもしれない。アルディスの視線まで感じながら、エリックは拳を握り締めた。

 演説くらいやっておけば良かった、とエリックは自分の王子としての日頃の態度を今更悔やむ。それでも、今更逃げるように廊下側に引っ込んでいくわけにはいかないだろう。

 

「ノア殿下の右腕の件……驚かれたかと思います。私も、実際に目にしたのはつい最近の話です。本当に驚きました。しかし、残念ながら現在の私は、あの忌々しい痣を殿下のお身体から取り除く手段を、一切存じ上げておりません!」

 

「! ちょっと、エリック……! いきなり何言ってるの!?」

 

「これが真実だ! 第一、この状況で大嘘つける程に僕は器用じゃない……!」

 

 今『虚無の呪縛(ヴォイドスペル)は我が国で作り上げた物。私なら、彼を救うことができます』と言ってのけるのは簡単なことだ。しかし、エリックは分かっていながらそれをしなかった。当然ながら、民衆からはエリックに対する非難の言葉が飛んでくる。

 

「そもそも十年前! 我が国は貴国に対し膨大な損害を与えました! 今更、和平がどうこう言ったところで信用することができないのは分かります! だからこそ、私はあえて皆様の前に顔を出しました!」

 

 声が震えそうになるのを必死に押さえ込みながら、エリックは顔を下ろすことなく話を続けていく。

 

「和平の証として、まず私はノア殿下のお命を救うために全力を尽くします! 双国の平和のために、私は命を賭ける覚悟です!」

 

 エリックの言葉に、嘘はない――しかし、ただこれだけのことで信頼を得られる程、フェルリオ帝国とラドクリフ王国の間にできてしまった溝は、浅くはなかった。

 

「口だけならいくらでも言えるだろう!? そうやってお前の父親はフェルリオを侵略したんじゃないか!! 第一、お前は戦にも顔を出さなかったくせに! 偉そうなことを言うんじゃない!!」

 

「そうよ! 命を賭けるというのなら、証拠を見せてみなさいよ!!」

 

「そこまで言うのなら、証拠を見せてみなさい!!」

 

 人々の間から、エリックに対して「証拠を見せろ」という訴えが飛び交う。冷静に考えて見れば、それは当然の主張であった。

 

「しょ、証拠……」

 

 しかしながら、その場の勢い任せに飛び出してきたエリックがそのようなものを所持している筈がない。戸惑うエリックを前に、国民達の非難の声はますます大きさを増していく。

 

「ふざけないで! 私達を舐めているの!?」

 

「出て行け! この国から出て行け!!」

 

「出てってよ!!」

 

 ひゅん、と風を切る音が聴こえてきた。その音が何なのかは、足元に転がった石が教えてくれた。

 

「皆さん落ち着いてください! 私は……!!」

 

「うるさい! ラドクリフ王家の人間の声なんか聴きたくない!!」

 

 一人が石を投げたことで、怒りに身を任せた人々の勢いはどんどん増していった。一人、また一人とエリックに向かって石を投げてくる。方向が狂い、宿のステンドグラスにヒビを入れてしまう石もあった。

 

(ラドクリフ王家ってだけで……随分な嫌われ様だな……!)

 

 このままではアルディスに石が当たりかねない。これ以上彼に傷を負わせるわけにはいかないだろう。どうにか人々の怒りを沈めなければとエリックは必死に考えを巡らせる。だが、良い案が浮かばない。せめてアルディスに石が直撃することだけは防ごうと、エリックは一歩前に足を踏み出した。

 

「痛ッ!」

 

 しかし、その行動が間違いだったのだろう。前に出たその瞬間、尖った石がエリックの額に直撃した。皮膚が裂け、患部から血が流れていく。ズキズキとした痛みに、エリックは思わず目を細めた。

 

(あーあ……)

 

 上着を汚さないためにとスカーフを外して患部に当てたのだが、頭部にできた傷だ。それくらいでは出血を押さえきれないらしい。スカーフはどんどん血を吸って赤く染まっていく。まさか頭部に直撃してしまうとは思わなかったのか、先程とは違う意味で人々から落ち着きが失われていった。

 

「え、エリック……! そ、その……っ」

 

「おい、こら。アル」

 

 そしてそれはアルディスも同じだったらしく、彼は顔を真っ青にして狼狽え始めてしまった。せめて彼には冷静でいて欲しかったなと、エリックはスカーフで額を押さえたままため息を吐く。

 

「命に関わるような傷じゃないんだ、これくらいどうってことないだろう? それともアル、お前は僕がこれくらいで戦争起こすような大馬鹿野郎だと思ってるのか?」

 

「違う! そういうわけじゃ……っ」

 

「だったら良いだろ。第一、民衆を怒らせるようなことしたのは、僕の方だ」

 

 アルディスが『大馬鹿野郎』を即答で否定してくれたのは唯一の救いだった。彼にまで変な反応をされれば、本気で自信を無くしてしまう。

 

「さて、と」

 

 エリックは軽く深呼吸した後、再び人々の方へと向き直った。血に濡れたスカーフを手から離し、頭部から血を流しながらエリックは微笑んでみせる。

 

「別に私は、こんなかすり傷程度で戦争を起こすような真似はしません。仕方ありません。証拠が無いのですから……ですが、おかげで良い案が浮かびました」

 

 いくらなんでも、もうエリックに石を投げてくるような者はいないらしい。困惑して落ち着きを失っている人々を前に、エリックはレーツェルを宝剣へと変え――それを、自らの首に押し当て口を開いた。

 

 

「彼が命を落とした時……その時は私も、この場で自ら首を切り落としましょう」

 

 

「――ッ!?」

 

 アルディスがまるで、恐ろしいものを見るような目でこちらを見ている。エリックはその姿を横目で確認した後、エリックはそのままの姿勢で話を続けた。

 

「これを証拠、と言い切るにはかなり弱いものだとは思います……ですが、お願いします。どうか……どうか私に、お時間を頂けないでしょうか?」

 

 それは、あくまでも口約束。当然ながら、エリックが責任を一切取らずに逃げ出すという可能性は大いにある。しかし、それでも。彼の目には一切の迷いも、偽りも感じられなかった。

 

「ッ、君は馬鹿か!? 方法も分からない解呪に、俺を生かすことに命をかけるなんて!!」

 

 そんなエリックの態度に最も困惑していたのが、隣にいたアルディスだった。彼はエリックの腕を掴み、発言を撤回するようにと訴えかける。

 自国の民の前であるにも関わらず、アルディスはその行動を全く躊躇わなかった。それだけ、自分は彼に慕われているのだろう――その思いを、絶対に忘れてはならないとエリックは誓った。絶対に、彼を生かさなければ、と。

 

「お前、生きたいんだろ? お前が生きるのを邪魔するような人は、ここにはいなかったじゃないか」

 

「仮にそうだとしても、君にそれは関係ない……!」

 

 アルディスはこの場でハッキリと「生きたい」と言った訳ではないが、これは肯定したと取って良いだろう。しかし、相変わらず彼は自分の生に対して後ろ向きであった。エリックは再びスカーフを額の傷に当て、悲しげに目を細めた。

 

「こんな状況だ。もう、変な意地張らなくたって良いだろ。少しくらい、僕に甘えてこい。頼むから、勝手に自己完結して死のうとするんじゃない……本当に、頼むから……」

 

「……ッ!」

 

 アルディスの目に、じわりと涙が浮かぶ。直後、彼はエリックの腕から手を離し、そのまま逃げるようにバルコニーを後にしてしまった。

 

「あ! お、おい! アル!!」

 

 まさか、何も言わずに民衆の前からいなくなるとは。不幸中の幸いだったのは、彼の態度が分かりやすかったために、その行動が人々に変な印象を与えなかったことだろうか。ついでに、自分達が赤の他人では無いということも伝わったらしい。

 だからこそ、フェルリオの国民達は今、エリックに対して不信感は抱きつつも明確な敵意を向けることはやめてくれたのだろう。それを幸いに感じつつ、エリックは深々と頭を下げ、「失礼します」と叫んでからアルディスの後を追って廊下へと戻った。大体想像はついたが、彼は廊下の端で、微かに肩を震わせながら座り込んでいた。

 

「泣いて、良い……?」

 

「うん……まあ、それは泣きながら言う言葉じゃないな」

 

 まあ、よく廊下に戻るまで我慢したよなとエリックは苦笑する。自他共に認める『泣き虫』が民衆を前に泣き出さなかったのは相当な努力の賜物だろう、と。

 

「は、はは……あはは……」

 

 嗚咽を必死に押さえ込むようにして泣くアルディスの頭をポンポンと軽く叩き、エリックはふらりと壁にもたれ掛かった。一番エリックの近くにいたディアナが、即座に反応して目の前に座り込む。心配したのだろう。

 

「エリック!?」

 

「その、あれだ。問題ない……ただ、緊張し過ぎて、倒れるかと思った……はははは……」

 

 エリックは壁にもたれたまま力を抜き、崩れ落ちるようにその場に腰を下ろした。精神を宥めたいのか、彼は両目を軽く閉じ、ひたすら深呼吸を繰り返している。

 

「駄目。無理。演説とか絶対無理。もう二度とやりたくない……」

 

「いや、あなた……後々、王位を継ぐのだろう? だったら演説とか普通にするだろう? それで大丈夫なのか?」

 

「代役立てようと思う」

 

「問題発言にも程があるだろう!?」

 

 引っ込んですぐに泣き出したアルディスも問題だが、これはこれで大問題である。ディアナは苦笑しつつ、直接傷に触れないように気を付けながらエリックの前髪を掻き分けた。

 

「傷、出血の割に深くは無さそうだな。これくらいなら、歌わなくても治せそうだ」

 

 そう言って、ディアナは胸の前で両手を組む。白い魔法陣が、彼女の真下に浮かんだ。

 

「――慈悲たる女神の、恵みの抱擁よ……クララフィケーション」

 

 それは、ディアナがよく歌っている聖歌と似たような効果を発動した。半透明の光の輪がエリックの額の傷を塞ぎ、そのまま消えていく。普段の聖歌との違いは、術の効果がエリックのみにしか発揮されなかったことだろう。

 

「よし、治ったな。しかし……これでも感心していたのだが。あの場で、アルのために命を懸けると言った頭の回転の速さには」

 

 よく思いついたよなぁ、と呟きつつ、ディアナはエリックの前髪から手を離す。そんな彼女の態度に、エリックは少し不服そうに目を細めた。

 

「お前、ハッタリだったとでも思ってるのか? 言っておくが、あれは本気だ。アルの解呪に失敗したら、本当に僕はここで首を跳ねるから」

 

「なっ!?」

 

 何の躊躇いも無しに発せられた、エリックの言葉。「ありえない」と首を横に降るディアナの額を指で弾き、エリックは不敵な笑みを浮かべてみせる。

 

「解呪に成功すれば良いだけの話だろ? アルは死なせないし、僕も死なない」

 

 エリックはどこまでも自信満々な様子で、とんでもないことを口走った。当然ながら彼は、何をどうすれば虚無の呪縛(ヴォイドスペル)を解呪できるのか知らないどころか、虚無の呪縛の原理さえも知らない。要するに何の知識も無いのだ――それにも関わらず、その自信はどこからやって来るのやら。

 

「なあ、マルーシャ……この人、こんな感じだったか?」

 

 少なくとも、自分の中の『エリック像』はこうではなかったと、ディアナはマルーシャに問いかける。しかし、それはどうやらマルーシャも同じだったらしい。

 

「うん……違うと思う。ちょっと、わたしも驚いてる。めちゃくちゃなこと言い出したから怒ろうと思ったのに……もう、どうでも良くなっちゃった」

 

「だよ、な?」

 

「お、お前らなぁ……!」

 

 狼狽えるディアナとマルーシャを前に、エリックは思わず目を泳がせた。いくらなんでも先を考えてなさ過ぎたが故に流石に呆れられてしまったのだろうかと。しかし、そんなエリックの思いとは正反対に、ディアナはクスクスと笑ってみせた。

 

「しかし、だ。オレは少々無茶なことを言うあなたの方が、好感を持てるぞ。何だか危なっかしいが、それでも、悲観的になられるよりずっと良い」

 

 ディアナは自分の胸に手を当て、大きな青い瞳を真っ直ぐにエリックの顔へと向ける。その表情は先程とは違う、どこまでも真剣なものであった。

 

「見届けさせてもらっても良いだろうか? あなたが叫んだ、ある意味命懸けの宣言が果たされる時を、その決意が歪みない物であったと、証明される瞬間を」

 

「ディアナ……」

 

「何の根拠もないが、あなたならできる気がする。というより、できてもらわなければ困る。絶対にやれ」

 

 困ったように笑うディアナの額を、エリックは「当然じゃないか」と再び指で弾いた。

 

「まあ……とは言っても、あれだ。あんな偉そうなこと言っておきながら、自分ひとりでできるとは思ってないんだ。本来なら、これを先に言うべきだったとは思う。だが……その、良かったら……僕に、協力してもらえないだろうか?」

 

 ここまで来る間、何度仲間達に助けられたことか。それを分かっておきながら、自分ひとりで虚無の呪縛(ヴォイドスペル)をどうにかすると言える程エリックも無責任ではない。申し訳なさそうに笑うエリックの言葉に、マルーシャ達はおもむろに頷いてみせた。

 

「当たり前でしょ!? わたし、できることなら何でも協力するよ!」

 

「見届ける、とオレは言った。つまりは、そういうことだ」

 

「エリック君はもう、大切な仲間よ。それに、本当の事情は後で説明するとして……ノアはあたしの弟だもの。そういう意味でも、あたし自身の贖罪って意味でも、あたしは全力で君をサポートするわ」

 

 ジャンクは頷くだけで何も言わなかったが、それでも、否とは言わない。誰も、エリックの頼みを断らなかったということだ。

 

「助かる。それで、これからのことなんだが……」

 

 

「訳が分かりません……! 俺は、皆さんに本当に申し訳ないことをしてしまったというのに……! どうして……どうして……ッ」

 

 

 そんな時、唯一異議を唱えてきたのはアルディスだった。

 

「本当に申し訳ないこと、か……僕の方も、結果としてお前を二週間昏睡状態に追いやったんだし、お前がそう言うなら僕だってなかなか酷いことをしているわけだが?」

 

「違う! それは……っ」

 

「僕はあれを正当防衛として認めるつもりはない。まあでも、そこまで言うんだったら、“おあいこ”ってことにしてくれたら僕としてはありがたいかな」

 

「エリック!」

 

 立ち上がりつつ、エリックの上着に掴みかかり、アルディスは頭を振るう。この調子では再び「今すぐ先程の発言を撤回しろ」と無茶苦茶な事を言い出しそうだ。とりあえず落ち着かせておこうとエリックは目の前の白銀の髪を撫で、控えめに笑ってみせる。

 

「お前、やっぱり強いな。本気出されたら、叶わなかったと思う。剣も使えるみたいだし、ディアナと一緒に剣術指南してくれると助かるな」

 

「――ッ」

 

 それは、あくまでも本心だった。アルディスの強さは、出生の異様さだけで説明可能な物ではないだろう。あれは彼の努力と、悲しい話だが実戦経験の多さゆえに成せる物だ。しかし、今それを言うのかとアルディスは目を丸くする。

 

「君って奴は……本当に馬鹿だな……」

 

 気が抜けてしまったのか、アルディスはその場にぺたんと座り込んでしまった。

 

「お前、さっきから人のことを馬鹿馬鹿言い過ぎだと思うぞ。流石に失礼じゃないか?」

 

 落ち着きを取り戻したかと思えば、この「馬鹿」発言である。元々アルディスはよくこの言葉を口走るのだが、いくらなんでも今日は、それも自分に対して言いすぎだろうとエリックは苦笑いした。

 

「……俺も、君みたいな馬鹿になれるかな」

 

 しかし、今回の「馬鹿」は少し意味が違ったようだ。アルディスは軽くため息を吐き、首を傾げてみせる。久々に、彼の穏やかな表情を見たような気がした。

 

「アル……?」

 

「強さは、力だけじゃない。必死に身体を鍛えたって、戦術を学んだって、それだけじゃ、何も救えないんだね……情けないな。そんな簡単なことさえ、忘れてたよ」

 

 アルディスは頬に残った涙を乱暴に手のひらで拭い取り、真っ直ぐにエリックの、そして仲間達の顔を見た。

 

「俺さ……誰かを傷付けてしまうのが、怖かったんだと思う。だから、さっさと嫌われて、遠ざけてしまおうって思ってた。でも、それじゃ駄目だよね。嫌われるような行動を起こしてる時点で、俺は相手を傷付けてる。それじゃ、意味がないのに」

 

 十八年という年月の中、アルディスの目の前では数多の人々が命を落とし、傷付いてきた。そんな人々を見る度に、アルディスもまた、酷く傷付いてきたのだ。

 いつの日か、彼は自らを“疫病神”と称するようになり、極力人に冷たく当たるようになっていった。笑うことも、無くなってしまった。本来は、常に誰かと共に在りたいと願うような、明るい少年だったというのに――。

 

「俺は皆を、散々傷付けてしまったのに。それでも俺から離れずにいてくれたこと、今だって、俺にかけられた呪いをどうにかしようと動こうとしてくれてること。心から、感謝してる。こんな曖昧な言葉じゃ、上手く言い表せないくらいにね……ッ」

 

 せっかく拭ったというのに、またしてもアルディスの頬を涙が伝っていく。アルディスは一瞬だけ皆から目をそらし、それをゴシゴシと拭い取った。

 泣いているせいで微かに震えてしまってははいるものの、アルディスが紡ぐ言葉は、いつも通りの彼が放つ独特の雰囲気を持っていた。その雰囲気を感じ取り、エリックは旅立つ前の、マルーシャが好きだと言っていた、三人でのんびりと過ごしていた時間のことを、八年間の日々を、思い出す。

 

「……」

 

 

――何も知らなかったあの頃には、もう戻れない。

 

 

 しかし、それは決して不幸なだけの話ではない。そうだと、信じたかった。少なくとも、アルディスが命を落とすという最悪のシナリオだけは、回避できたのだから。

 

「皆はどうか知らないが……僕は、お前が無事だったことだけで、十分だよ」

 

 そう言って微笑むエリックに釣られるように、マルーシャとポプリも口を開いた。

 

「わたしもだよ! お願いだから、二度とあんなこと、しないで……!」

 

「そうね……正直あたし、あの時ばかりはもう駄目かと思ったもの……」

 

 あのままアルディスが永遠に目覚めなければ、冷たい海の中で命を落としていれば――考えただけで恐ろしくなるような可能性が、有り得た結末が、いくつも存在していた。

 アルディス自身は恐らく、未だに理解できていないことの方が多いだろう。しかしながら、ほとんど眠ることができない二週間を過ごしたエリック達にとって、彼が今こうして自分達の前に座り込んでいるという状況は奇跡以外の何物でもないのだ。

 

「医者とはいえ、僕も万能ではないので。あまり、無茶はしないでもらえると助かるな」

 

「よく言うよ。あなたがいなければ今頃、この国全域で葬式だ。どちらにしても、あのような血の気が引くような思いは、今後一切勘弁して欲しいものだがな」

 

 皆の言葉に、アルディスは軽く顔を伏せて静かに耳を傾けている。一通り話を聞いた後、彼はもう一度涙を乱暴に拭い、そして、おもむろに顔を上げた。

 

「皆、ごめんなさい……もう二度と、あんな気を起こさないって、約束する」

 

 フードに隠されていない白銀の髪が、彼の動きに合わせてさらりと流れる。

 

「それから……本当に、ありがとう……ッ」

 

「……!?」

 

 

――その言葉を紡いだアルディスの顔は。その表情は。

 

 

「の、ノア……ッ、ノアぁ……!」

 

 頭を振るい、ポプリがその場に泣き崩れた。ひっくひっくと嗚咽を上げる彼女の声が、廊下にこだまする。

 

「え……?」

 

「はは、分かってないんですね。ということは、無意識にやったのか……まあ、できなくなっていたのも無意識下のことでしょうしね」

 

 突然の出来事に唖然とするアルディスの頭を、ジャンクはぽんぽんと軽く叩いた。

 

「あの、一体、何が……」

 

「今、お前……ちゃんと、笑えてたんだ。笑顔って、良い物だな」

 

「!?」

 

 ジャンクの言葉に、アルディスは大きく目を見開く。彼は両手でぺたぺたと顔を触りながら、音にならない声を上げていた。

 

「アルディス本人が驚いてどうするの……でも、良かったね。アルディス感情豊かだもん。嬉しいとか楽しいって思ってるのに、表情が変わらないって……悲しすぎるもん」

 

 最初は感情が欠けちゃってるのかと思ったりもしたんだけどね、とマルーシャは困ったように笑う。マルーシャの言葉にアルディスは少し驚きを隠せなかったようだが、それも無理はない話だ。

 アルディスと交流の少ない相手ならば、確実に彼を無愛想な人間だと思い込んでしまう。彼自身はそれを分かった上で、マルーシャにもそう思われていると考えていたのだろう。

 

「その……何で笑えなくなったのかは、自分でもよく分かってなかったんだ。だから、どうしたら良いのか、さっぱり分からなくて……相談するようなことじゃ、ないしね」

 

「確かに、一度も相談されたこと無かったな」

 

 アルディスは未だに自身の変化に困惑していた。エリックもマルーシャも勘付いてはいたが、それだけ、彼は笑えないということを気にしていたのだろう。

 彼が笑顔を失う元凶となってしまったポプリは相変わらず泣きじゃくっている。彼女のことを気にしているのか、アルディスはチラチラと様子を伺っていた。

 

「とりあえず、あれだ。細かいことは考えないことにしとけ。気になるなら、ポプリが落ち着いてからにしろ」

 

「……うん」

 

 ポプリにはジャンクとディアナが付いている。もしかすると、気を使ってくれているのかもしれない。この状況をありがたいと思いつつ、エリックはマルーシャと顔を見合わせた後、アルディスに笑いかける。

 

「良かったな、笑えるようになって」

 

「これからは、普通にその顔、見られるんだよね?」

 

「……」

 

 アルディスは俯き、泣きすぎて僅かに赤く腫れてしまった目元を再びゴシゴシと拭い、おもむろに顔を上げた。

 

「笑うよ。どんなに辛くたって、悲しくたって……もう、逃げ出さないよ。だって、生きてて良かったって、生きたいって、改めて、そう思えたから……」

 

 顔を上げたアルディスの表情はもう、無愛想なものでも悲しげなものでもなかった。

 

「ありがとう……」

 

 涙を流しながらも、彼は穏やかな笑顔を浮かべ、もう一度「ありがとう」と言葉を紡いでみせた――涙と共に笑う彼の顔にはもう、嘆きの色は無かった。

 

 

 

―――― To be continued.



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Tune.34.5

 

『どうせ俺は、欠陥品だ……失敗作でしか、ない……ッ』

 

 

ーーアルの言葉が、頭から離れない。

 

 そんな状態で睡眠を取ったのが悪かったのだろう。酷い、悪夢を見た。

 あまりの気持ち悪さに飛び起きた僕は、両目を閉ざしたまま頭をゆるゆると振った。

 

 

『また失敗か。駄目ですね……全く成果が出ませんよ』

 

 

 やめて、ください。

 

 

『可哀想に。どんどん死んでいく。根本的にお前が合っていないんだろうな』

 

 

 嫌だ。

 

 

『この欠陥品(ジャンク)が』

 

 

 嫌だ、嫌だーー!

 

 

 

「……ッ、く……っ、……ッ」

 

 息ができない。苦しい。頭の中を、ドロドロとした思いが埋め尽くしていく。

 喉を押さえ、何とか呼吸を正常にしようともがく僕の目の前に右手を差し伸べつつ、左手で背をぽんぽんと叩いてくれる存在がいた。

 

「先生」

 

 ポプリだ。

 

 それを理解すると共に、僕は差し出された手に指を伸ばす。その指先は、情けない程に酷く、震えていた。

 

 

「最近はちょっと落ち着いてきてたけれど……なかなか治らないわね。無理しちゃ、駄目よ……」

 

 彼女は、僕のこの“発作”についてよく知っていた。恐らく勉強してくれたのだろう。彼女は何かと呼吸困難に陥る僕を、いつも助けてくれていた。

 

「悪い夢でも見た? 何か悩んでるの?」

 

 ポプリはこの発作が精神的なものであることも知っていた。彼女が得意とする薬の類で治せる物ではないだけに、苛立たせてしまうこともあるに違いない。

 それでも彼女は、僕を見捨てずにいてくれていた。

 

 

「ポプリ……」

 

 呼吸が落ち着いてきた。息苦しさも、かなり治まってきた。今日はもう眠れないだろうが、十分だ。悪夢を見るくらいならばもう、睡眠なんて取りたくなかった。

 

「話しては……くれないの、ね」

 

「……」

 

「やっぱりあたしじゃ、力にはなれないのかしら……?」

 

 違う、と言いたかった。しかし、否定などできるはずが無かった。

 

 自分の弱さを曝け出すのが、怖い。その恐怖に、僕は勝てない。その結果僕は、彼女に何も話せないのだ。それが、もう何年も続いている。

 

「ッ、すみ、ません……」

 

「……」

 

 ポプリは、僕の同族(アルディス)の右目を奪った人間だった。それを僕は、きっと本能的に感じ取っていた。

 しかし、恐らくはそれだけではないのだろう。むしろ問題は、僕自身にある。そんなことは、とっくの昔に分かっていた。

 

 

「……。さっき、市場で美味しそうな林檎を見つけたの。これ、ノアのところに持って行ってくるわね」

 

 僕が何も答えないことを察したポプリは、テーブルの上に置いてあった紙袋から赤い林檎を取り出して微笑んでみせた。

 

「そういえばさっき、マルーシャちゃんが買い物に行くって言ってたわ。先生、気分転換に一緒に外に出てみたら?」

 

 その上で彼女は、僕がひとりで思い悩まないようにと新たな選択肢を与えてくれた。僕が黙って頷くと、ポプリは再び笑みを浮かべ、部屋を出て行った。

 

 後には、僕ひとりだけが残される。さあ、早くマルーシャのところに行こう。ここを動かなければ、またポプリに心配されてしまう。

 

「……」

 

 それなのに。込み上げてくるのはやはり、醜いドロドロとした感情だった。

 

 もう嫌だ。どうして。どうして。

 

 

「母さん」

 

 ぽつり、と呟く。その声は随分と擦れ、僕以外誰も聴き取れないようなものだった。

 

「どうして……」

 

 

ーー僕なんかを、産んだのですか?

 

 

「……」

 

 自分が世界に必要とされていることくらい、分かっている。

 

 だから僕は、死を選ぶことは許されない。これは異端に生まれたからこそ課された、僕の“宿命”なんだと思う。

 

 僕は、この世に生まれた以上、生きていなければならない存在だ。

 

 そんなことは分かっている。けれど、こんな思いをするくらいならば。

 こんな苦しみを味わい続けるくらいならば、もう、いっそ……。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.35 月のピアス

 

――許されなくって、良かったの。

 

 いっそ恨んでくれたって良かったの……むしろ、そうあって欲しかった。

 

 綺麗事を言うつもりは無いわ。やってしまったことは、変わらないもの……けれど。

 結果的に、あたしを憎むことによって、あの子が死ぬことなく生きていけるなら。

 あの子が“真実”を知らずに、生きていけるならば。

 それで良いと、思っていたの。

 

 けれど、あたしが思っていた以上にあの子の闇は深くて。

 あの子は、あたしのことを恨んでないどころか、自分自身を全否定するようになってしまっていた――笑うことさえ、できなくなってしまっていた。

 

 ごめんなさい。あなたを、守ってあげられなくって。

 最後の最後で、あなたの手を振り払うような真似をして……こんな弱い姉で、ごめんなさい。

 

 

――許されなくって、良かったの。

 

 

 けれど、あなたはあたしを許してくれたから。

 だからあたしは、今度こそあなたの“姉”で在り続けてみせるわ……絶対に。

 

 

――――――――――

 

――――――

 

―――

 

 

「エリック、おはよ。昨日……夜中、吐いてたみたいだけど大丈夫?」

 

「うっ!?」

 

 翌朝。いつもより少しだけ遅めに目を覚ましたエリックとアルディスは自室でのんびりとくつろいでいた。

 急いで行動に移すべきアルディスの呪いの件は気になるが、不必要な焦りは危険を伴う。

 ノア皇子ことアルディスとも和解し、親書も渡した。本来ならもうこの地に残る理由は無いのだが、全員体調が万全でないということを配慮し、ここであと数泊だけしようという話になったのだ――なお、エリックが吐いたのは体調不良でも何でもなく、単純に緊張しすぎたことが要因である。

 エリックの決まりの悪そうな反応を見て、理由を察してしまったのだろう。アルディスはおろおろと視線を泳がせた。

 

「あ、あー……そういうこと? ご……ごめん……っ」

 

「いや、別に、お前悪くないって……」

 

 アルディスの言葉に、エリックはどうしたものかと頭を掻く。エリック自身、あの行動に後悔はしていなかったが、それとこれとは話が別である。

 とりあえず話をそらそうと、エリックは先程から気になっていた“あること”を口に出すことにした。

 

「そんなことより、アル……フードはもう、被らないのか?」

 

 エリックの問いに対し、アルディスはそういえば、と自身の長い耳に触れた。寝巻き姿であるとはいえ、彼は今、いつものフード付き魔導服を羽織っていない。当然ながら、フードを被っていないに耳は完全に露出されているのだ。

 アルディスの耳は、ディアナの物と比べると若干垂れているような印象を与える。左耳には、海のように青い宝石と月の飾りが揺れるピアスが付いていた。それは密かに所持していたものなのか、昨日までは無かった物だ。

 

「これ?」

 

 エリックが何を言いたいのか察したらしいアルディスは、まだ見慣れぬ長い耳を指差しながら、控えめな笑みを浮かべてみせた。

 

「もうね、君達の前でこれを隠す必要はないかなって思ったんだ」

 

 バレてしまったから仕方なく、という様子ではない。一切の敵意の感じられない、穏やかな彼の姿を見ればそれは明らかだった。

 

「見慣れないだろうから、しばらくは反応に困るだろうけど……よろしくね」

 

「……ああ」

 

 見慣れないのは彼が浮かべる笑みも同様なのだが、どちらも良い変化なのだから悪い気はしない。これから慣れていけば良いのだと、そうエリックが思ったその時――コンコン、と廊下側からドアがノックされた。

 

「エリック君、ノ……じゃなくって、アル君。起きてる?」

 

 聴こえてきた声と、その口調からして外にいるのは間違いなくポプリだろう。

 

「二人共起きてるよ。どうした?」

 

 エリックがそう返すと、ポプリは問いかけに答える前にドアを開け、中に入ってきた。

 

「市場に美味しそうな林檎、売ってたから」

 

「林檎? へぇ……綺麗な色だな」

 

「あ……」

 

 紙袋に入った数個の林檎と、果物ナイフ。それらを黙々と袋から取り出していたポプリだが、その途中で何かに気づいたらしい。彼女は動きを止め、視線を泳がせた。

 

「ポプリさん?」

 

「え、えっと……その、林檎、剥いてあげようと思ったんだけど……」

 

(もしかして……)

 

 アルディスは林檎が好きだ。それを知っていれば、市場で美味しそうな林檎を見つけたから食べさせてあげたいという彼女の発想は決しておかしなことではないし、悪意から来るものでもない。彼女の、アルディスを思う純粋な優しさ故の発想だ。ただ、問題は林檎ではない。果物ナイフの方だ。

 エリックはそこまで詳しく知っているわけではないが、アルディスを失明させたのはポプリだという話は聞いている。そして様子を見る限り、その時使われた刃物は恐らく、果物ナイフだったのだ。

 

 客観的な立場からそう予想してみせたエリックの推測は間違っていない。ポプリは震える手で林檎と果物ナイフを掴み、慌てて部屋を出ようとした。

 

「ッ、これ、部屋で剥いてくるわ! 部屋、汚しちゃうかもしれな――」

 

「待ってください」

 

 そんな彼女を呼び止めたのは、エリックではなくアルディスだった。

 

「せっかくなので、ここで剥いていってくださいよ」

 

「え?」

 

「……別に、俺は気にしませんから。あと、“ノア”で良いですよ。今でも不釣り合いだとは思っていますが、俺は、この聖名(ひじりな)を気に入っていますし、それにあなたにはノアと呼ばれる方がしっくり来ますから」

 

 そういえば、とエリックは思った。アルディスを呼ぶ際、ポプリは彼の真名(まな)であるアルディスやそこから派生する愛称ではなく、ミドルネームのノアと呼ぶことがある。

 個人的に自分の聖名(ひじりな)に良い思い出のないエリックからしてみれば理解できない状況なのだが、アルディスは出生事情が異質過ぎる。

 彼が得た聖名は努力の賜物だと言ってしまってもあながち間違いではない。そのため、彼は聖名で呼ばれることに抵抗がないのだろう。エリックとは、状況が違うのだから。

 

「……それに、姉が弟を呼び捨てするのは、別に変なことでは無いでしょう?」

 

 アルディスは少し俯きがちになった後、声量を一気に落としてボソボソと何かを言い始めた。

 

「え……?」

 

 それは、ポプリにとっては衝撃的な発言だった。聞き間違えたかと、ポプリは声をしっかり聞き取れるようにとアルディスに近づいていく。

 

「その、色々ありましたし、先日は盛大に嘘を付いて、あなたを泣かせてしまいましたけれど……俺は、今でもあなたのことを、姉だと思っています。血の繋がりはほぼ皆無ですし、実際は義姉弟とはいえ……それでも、この思いは変わりません」

 

 アルディスの声が小さくなったのは、改まってこのようなことを、それも本人を目の前に口にするのが恥ずかしかったからだ。彼は言葉を選びながら、ゆっくりと言葉を紡いでいく。

 

 結局、エリック自身は完全にタイミングを逃して聞けずじまいになっていたのだが、彼らは血の繋がりはなくとも互いを姉弟だと認め合っている。そのような関係だったのだろう。

 

「あなたが、俺をどう思ってくださっているのか。それは厳密には分かりませんが……今までのあなたの態度を見る限り……自惚れても、良いですよね?」

 

 そう言ってクスクスと控えめに笑うアルディスのことを、ポプリは瞬きさえもできずに見つめている。泣き出すのではないかとエリックは思ったのだが、今はそれよりも、驚きの方が優っているのだろう。

 

「ノ、ノア……あたしのこと、恨まない、の……?」

 

 やっとのことで、ポプリが絞り出したその声は酷く震えて、裏返ってしまっていた。

 

「恐怖が全くないかと言えば嘘になります。けれど、恨みはしません。それにあなたは……いえ、今は何も言わないことにします」

 

 言葉を紡ぎながら、彼女を横目でチラリと見た後、アルディスは明らかに挙動不審な様子で、顔を真っ赤に染めて口を開いた。

 

 

「だから、その……これからも、よろしくお願いしますね……“ポプリ、姉さん”……」

 

「――ッ!?」

 

 ポプリ姉さん。恐らく、昔のアルディスはポプリのことをそう呼んでいたのだろう。ちりん、と月のピアスを揺らし、アルディスは軽く首を傾げてみせる。

 

「……」

 

 エリックの立っている位置からでは、ポプリの表情は良く分からない。

 ただ、肩を震わせ、その場に座り込んだ彼女を、そしてアルディスを今はそっとしておくべきだろうと思った。

 

 

「さて、と……僕は外に出てくる、買う物もあるしな」

 

 一応これは嘘ではなく、買い物に行っておきたいという願望はあった。丁度良かったと考えるべきだろう。

 エリックは脱衣所で服を着替えて簡易的な支度を終えると、二人を残してそのまま部屋を出て行った。

 

 

 

 

『おお! 丁度良いところに!!』

 

 廊下に出て、少しだけ歩いて先に進んだ所。しばらくの間姿を見なかった、半透明で空中に浮かぶ青年とバッタリ出会った。

 

「ん……? シルフ? どうした?」

 

『いや、アル皇子と会話でもしようと思ってたんだが、ちょっと取り込み中っぽかったろ? ……じゃなくて。本題は別にある』

 

「まあ、僕もそれで出てきたわけだから気持ちは分かるよ。本題は?」

 

 あまり良くない報告のようで、シルフは落ち着きのない様子で辺りをキョロキョロと見回している。そして、周囲に誰もいないことを確認した後、エリックの傍に寄った。

 

『ディアナ、だったか? あっちであの子、なーんか嫌な感じの女共に絡まれてんの。オレが助けてやりたかったんだが……オレ、基本的に実体ないから。助けようがないんだよな』

 

「!?」

 

 ちょいちょい、とシルフが指を指している先。あの辺りはリネン室や物置部屋だったろうか。この宿の中でも、従業員を除けばあまり人の立ち入らない場所である。従業員ですら、ほぼ立ち入らないだろう。

 

『オレの主とかクリフとか、いっそのこと鳥にでも救出頼もうかとも思ったんだけどよ、皆一緒に物資の買い足しに出かけちゃってるんだわ……だったらお前しかいないって思って。呼びに行こうとしたところに本人が出てきてくれたんだ。ナイスタイミングだ』

 

 口調こそ砕けているが、シルフは本気でディアナのことを心配しているらしかった。

 

『揃いも揃って銀髪だったから多分、聖者一族の女共な。アル皇子はくっそ短気な上に立場的に不安要素多いし、ポプリって女の身体じゃ取っ組み合いにでもなったら一方的に殴られそうだからな。お前しか頼めそうもない。まあ……なるべく穏便に済ませろよ、お前だって立場ってもんがあるんだからな』

 

「ああ、分かってる」

 

 簡単にそう返しつつ、エリックは歩く速度を速めた。

 ディアナは歩行能力と記憶を失っていながら、アルディスを守るという重大任務を任されたという謎の経緯を持つ少女である。

 その件とは全くもって無関係であるエリックからしてみれば、どうしてわざわざ、そのような身体の彼女を選んだのか意味が分からないところがあったのだ。

 

「アルの護衛の件。何でアイツが……って思ってた。多分、今僕が思ってることが正解なんだろうな」

 

『……』

 

「ふざけるんじゃない……ッ」

 

 苛立ち、奥歯を噛み締めるエリックの言葉を聞いた後、シルフは微かに息を呑んだ後、申し訳ないと目を細める。

 

『悪い、見届けたかったんだが……オレ、結構消耗してきたらしい。精霊はあまり、外界に長居できないんだ……申し訳ないが、後は任せた』

 

「分かった」

 

 悔しげに、苦しげに掻き消えたシルフに例を言い、エリックは静かに頭を振るう。

 深呼吸をし、「冷静であれ」と自分に言い聞かせた後、エリックは教えられた方向に向かって駆け出した。

 

 

 

 

 リネン室のすぐ傍。宿屋の中でも、特に人が来ない場所。ディアナはそんな場所に突然引きずり込まれ、できれば会いたくもなかった三人組に囲まれていた。

 

「な……何の、御用……です、か……?」

 

「何の御用、ですって? そんなの決まってるじゃない!」

 

 一人で動き回っていた結果がこれである。せめてチャッピーを連れておくべきだったかとディアナは本気で後悔していた。

 

「わたくし、言いましたわよね……? あなたは、ノア皇子を守るため“だけ”の存在だと」

 

「それなのにどうしてあの方はあのような酷いお姿に? あなたは一体、何をしていたの?」

 

 聖者一族由来の柔らかな白銀の髪に、澄んだサファイア色の青い瞳。背はスラリと高く、三人とも揃いも揃って息を呑むほどに綺麗な女性である。少々目つきは鋭いが、世間一般の男性が見れば間違いなく“目の保養”と称するようなタイプだ。

 

「ッ、申し訳、ありません……」

 

 ただ、彼女らはディアナにとっては恐怖の対象でしかなくて。身体もろとも声を震わせている今の彼女に、いつもの強気な面影はなかった。

 

「申し訳ありません、で許されることではなくってよ!」

 

「ひ……っ!」

 

 少し声を荒げれば、ディアナは過剰なほどにびくりと肩を大きく震わせる。そんな様子の彼女を見下ろし、女達はクスクスと笑みを浮かべた。

 

「本当、あなたを見ていると腹が立つわ」

 

 三人の中の一人が、手にしていたポーチからタバコを取り出す。おもむろに火を点け、吸った煙を目の前のディアナに吹きかける――それだけで彼女は今にも泣き出しそうな顔をするのだからたまらないと三人は目を合わせ、口元に弧を描いた。

 

「姉様ったら、ダメですわ。気を付けないと……ここ、禁煙ですわ」

 

「大変! 早く火を消さなくては!」

 

 それは、いかにもといったわざとらしいやり取りであった。嫌味な笑みを浮かべた女達がディアナを見れば、それだけでディアナはガタガタと身体を酷く震わせる。

 

「や……っ、いや……」

 

「うふふ、大丈夫よ。今日は、“やめてあげるわ”……こんなところじゃ、みっともないもの」

 

 姉様と呼ばれた娘はポーチから携帯灰皿を取り出してタバコをその中に入れた後、彼女はポーチから新たに別のものを取り出した。

 

「そうそう。これのことだけれど」

 

 彼女が取り出したのは、青い宝石と月の飾りが付いたピアス。それを見て、ディアナは大きな瞳を丸くする。

 

「! そ、それは……っ」

 

 思わず、といった様子だった。ディアナはそのピアスへと懸命に手を伸ばした。しかし、その手はピアスにかすめることすらできず、宙を彷徨う。

 

「あらあら、下品ねぇ」

 

「自分の行為が醜いとは思わないの?」

 

 蔑んだ目で見下ろされ、わざとらしい程に嘲笑され、それでもディアナは懸命に女達に訴えかけた。

 

「か、返して……! 返してください! ノア皇子を連れ帰ってくれば……それを私に返して下さると、あなた方は、確かにあの時……ッ」

 

 様々な感情が入り混じり、声が震える。ディアナの反応が分かっていたのか、女達はどこまでも余裕な様子を見せる。しかし、次第に苛立ちが募ってきたのだろう。

 

 

「やかましい!」

 

「ッ!?」

 

 姉様と呼ばれた娘が、小柄なディアナの頬を容赦なく張り飛ばした。バランスを崩し、床に倒れたディアナの髪を、彼女の頬を張り飛ばした女が乱暴に掴む。

 

「痛い……ッ、痛いです! お願いします、やめてください!!」

 

「アンタみたいな薄汚い小娘に、こんな物が似合う筈もないでしょう? 大体、髪だってただでさえ不気味な色なのに、不揃いでみっともない……! でも、流石に一年も経てば髪も伸びるようね」

 

 その女が何を言いたいかを理解したのだろう。傍にいた別の女が、持っていたカバンの中からハサミを取り出した。

 

「!? ひ……っ」

 

 頬を張り飛ばされ、髪を掴まれる苦痛に顔を歪ませていたディアナの瞳が、恐怖と絶望に揺らぐ。

 

「また、わたくしが……あなたにぴったりの髪型にしてあげますわ」

 

 ハサミを手にした女の口元が、歪な弧を描く。ディアナはすぐに逃げ出そうとしたが、無駄だった。小柄な身体は、壁に押さえつけられるような形で拘束されていた。

 

「! い、嫌です……! お願いします、やめてください!!」

 

「ノア皇子を見つけてくれてた事、わたくし達はちゃんと感謝していますの……ですから、これがあなたへの謝礼ですわ」

 

「そんなのいりません! だから……だからお願いっ!! やめて……っ! やめてぇ!!」

 

 バタバタと暴れ、頭を振るいながら「やめて」と繰り返すディアナの瞳から、とうとう涙がこぼれ落ちた。

 

「うるさいわね! 暴れないでよ!!」

 

「やめて! 嫌っ! いやぁあっ!!」

 

 暴れても、必死に懇願しても、どうにもならない。もう、受け入れるしかないのか――異変が起きたのは、ディアナが絶望の淵に立たされていた、まさにその時だった。

 

 

「……おい」

 

 聞こえてきたのは、今となっては聞きなれた心地よい低音の声。ただ、ディアナの視界は涙のせいで霞んでおり、“彼”の姿を見ることは叶わなかった。

 

「何よ!? アンタ誰よ!?」

 

「この国なら、僕の容姿を見れば大体想像が付くと思っていたが……まあ良い、僕はエリック=アベル=ラドクリフ。これで満足か?」

 

 声の主――エリックの名前を聞いて、ようやくディアナは身体から力が抜けるのを感じる。ディアナ自身、声の主がエリックであることにはほぼ確信を持っていたが、今の彼の纏う雰囲気は、いつもの彼の物とは大きくかけ離れているような気がしたのだ。

 

「ッ、エリック……?」

 

「もう大丈夫だからな。とりあえず、こっちに来い」

 

 エリックに手を引かれ、ディアナはそのまま彼の傍へと引き寄せられていく。その際、女達が何の妨害もしてこなかったのは、隣国の王子の突然の出現に驚いてそれどころではなかったからだろう。

 結果的にディアナはエリックに抱き寄せられるような形になったが、それでも、それを拒むような余裕は今のディアナには無かった。

 

「悪い……個人的に気になっていたことを奴らがベラベラ喋っていたものだから、助けに入るのが遅れた。後で、埋め合わせするから……」

 

 一体いつから、エリックは話を聞いていたのだろうか。そう思ったディアナがエリックを見上げると、彼は本当に申し訳なさそうな、悔やんでいるような表情を浮かべていた。

 

「ちょっと、こいつらと話したいことがある。悪いが、宿屋の外で待っていてくれるか? どのみち、お前に道案内を任せたかったんだ。この際、ちょうど良かったと考える」

 

 何を話すつもりなのか、何故自分を追い出すのか。ディアナはエリックの行動の真意を探りたくて仕方がなかったが、今、それをすれば涙が止まらなくなってしまいそうだった。

 

「……分かった」

 

 服の袖で涙を拭い、ディアナはこの場を飛び去ることを選んだ。女達が何やら叫んでいるが、追いかけてくる気配は無い。恐らく、エリックが止めてくれているのだろう。

 

 それをありがたいと思うと同時、ディアナは何故か、エリックを憎いと感じてしまっている自分の存在に気がついた。

 

(何で……)

 

 どうして、助けてくれた少年のことを憎いと感じたのか。ディアナはその疑問の答えに、すぐに気が付いてしまった。

 

 

(そっ、か……これで、私の任務……存在理由、無くなっちゃったんだよ、ね……)

 

 

 ノア皇子を見つけ出し、フェルリオに連れ帰ること。ノア皇子を守ること。それが、それだけが、ディアナの存在意義だった。

 少なくともディアナ自身はそうだと思っていたし、先程の女達も同じように思っていたのだろう――否、元々それすら無いと考えていた可能性の方が高い。彼女らは、自分のことを間違いなく『使い捨ての駒』だと考えていたのだから――。

 

「……ッ」

 

 考えれば考える程、気分が重くなってくる。辛くなってくる。悲しくなってくる。ディアナは急いで宿屋から飛び出し、近くの路地裏へと身を隠した。

 

 

「本当に……私は醜い……醜い、よ……ッ」

 

 エリックに助けてもらいながら、彼を憎んでしまった理由。それは、エリックがあの現場を見ることで、女達が『使い捨ての駒』として再び自分を使ってくれるチャンスをもみ消してしまったこと。

 我ながら馬鹿らしい、とディアナは思った。どうして、そんな馬鹿げたことを望んでしまっているのかと。

 

「……っ、ひっくっ、ふっ、ぇ……うっ、うぅ……」

 

 

――その答えも、ディアナはちゃんと自分の中で導きだせていた。

 

 

「私は……何で、生きてるの……ッ、何で、生まれてきたの……!?」

 

 何故か動かない足。それが何故なのかすら、ディアナには分からない。それどころか、自分が誰なのか、それすらも分からない。

 

 それなのに、ただ髪の色が気持ち悪いというだけで、フェルリオでは酷い扱いを受けた。ラドクリフでは、命さえも脅かされた。

 

「私は……どこで、生きていけって言うの……?」

 

 少女にはもう、どこにも居場所なんて無かった。それでも、彼女は生に固着した。その理由も、記憶を失ってしまった彼女には、到底理解できなかった。

 だから、ディアナは例え自分が『使い捨ての駒』のような存在でも良かったのだ。駒として動いている間は、誰かに必要とされる。そこに、生きる意味を見いだせるから。

 

――彼女は、決して多くのことを望んではいなかった。それなのに世界は、あまりにも彼女に冷た過ぎたのだ……。

 

「死ねって言うなら、殺してよ! 何で、私を生かしたまま、このまま放置するの!? ねえ……誰か、答えてよぉ……ッ!」

 

 ディアナはもうどこにもやり場のない、どこまでも深い悲しみを弱々しく叫んだ。その叫びには、誰も答えてくれなかった。

 

「何で……っ、何でよぉ……っ! うっ、うう……っ、うああぁあああぁ……っ!」

 

 自分ひとりしかこの場にいないのだから、それが当たり前だという考えられる程、今のディアナは平常心を保てていない。

 普段の彼女が必死にこらえている涙は、もはや、止まるということを知らなかった――。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.36 リヴァースの忌み子

 

 ディアナが逃げたのを確認した後、エリックは女達の方へと向き直った。

 

(なるほど、な……)

 

 白銀のサラサラとした長い髪に、サファイア色の青い瞳。身なりの良さから考えるに、彼女らは皆、貴族の娘だと考えて良さそうだ。

 聖者一族の人間ならばこのような容姿になるという話だったが、もしかすると、この国では聖者一族=貴族という方式が成り立つのかもしれない。

 アルディスと彼の父である前皇帝は例外だが、基本的には純粋な聖者一族の血を引く人間が皇帝となるという国柄だ。ありえない話ではないだろう。

 

「……」

 

「アベル王子?」

 

 今のところ、ディアナがどのようにして彼女らの元にやって来たのかは分からないが、間違いなく彼女らはディアナに対して惨たらしい態度を取り続けていた。それも、恐らくはディアナの髪の色“だけ”を理由に。藍色の髪の、何が悪いというのか。

 

「ディアナから、何か取り上げてるんだろう? 返してやってくれないか?」

 

 気を抜けば、胸の内から溢れ出してくる怒りに飲まれてしまいそうになる。その怒りに身を任せて、暴れてしまいそうになる。我ながら珍しいな、とは思った。

 

「え?」

 

「……頼む」

 

 本当は彼女らに掴みかかり、思い切り怒鳴ってやりたいところだった。しかし、ここで感情をあらわにするわけにはいかない。我慢すべきところだ。エリックの脳裏を、ディアナの恐怖と悲しみに満ちた表情が過ぎっていく。あんな顔をさせるくらいなら、もっと早く乱入してやるべきだったとエリックは後悔していた。

 その罪滅ぼしも兼ねて、話を聞いたからには彼女が取り上げられた“何か”を取り返してやりたかった。

 

「いきなり何ですか、アベル王子? わたくし達が何をしたと?」

 

「あの子、今はディアナ、と呼ばれているのですか。うふふ、知りませんでしたわ」

 

 そんなエリックの心境など知らず、今頃になって女達はラドクリフ王子である彼の前で優美な笑みを顔に貼り付け、お淑やかに取り繕ってみせる。それは、エリックにとっては吐き気がする程に見慣れた、醜い女の姿。

 

「……ッ」

 

 駄目だ駄目だと、エリックは必死に自分自身を宥める。だが、それは無理な試みだった。先程のディアナの表情が、涙が、頭から離れてくれない。その原因を作り出した彼女達が――どうしてもエリックには、許せなかったのだ。

 

「それにしても、この国は随分と陰湿な事をやるんだな? 馬鹿馬鹿しい。貴族のお前達がそうなら、この国全体が陰湿なのだと思えて仕方がないんだが?」

 

 エリックの口から溢れたのは、包み隠すことが出来なかった憎悪が込められた言葉。女達は、顔に貼り付けていた優美な笑みを微かに歪めてみせる。

 

「ふふ、殿下は面白いことをおっしゃいますのね。隣国の代表でありながら、我が国を蔑むおつもりで?」

 

「やはり、貴殿も前王の血を引いているということでしょうか? 少々、気性が荒くてよ? それとも、ラドクリフ国民自体がそうなのですか?」

 

 確かに、今のエリックの発言は明らかに言い過ぎだ。それはエリックも分かっている。完全にフェルリオ国民を敵に回すような言い回しだった……それでも。

 

「国民の気性云々の話は知らないが、残念ながら褒められたもので無いのは確かだ。あながち間違ってもいないだろう。これに関しては認めざるを得ないな。それに……ああ、そうだな。フェルリオを蔑んだと言われても仕方ないだろうな!」

 

 そろそろ止めておけ、とエリックの中で何かが警鐘を鳴らしている。

 今までのエリックならば、その警鐘が聞こえてくる前に自分の感情を制御できた。制御できていたのだ。それなのに、どうも今日はそういうわけにはいかないらしい。エリックは目の前の忌々しい女達を睨みつけ、口を開いた。

 

「だがな……たった今、この国の品格を盛大に叩き落としたのはどこのどいつか、それをちゃんと理解できているのか? 僕はお前らの姿を見て、フェルリオ貴族の品位を本気で疑った! ラドクリフがどうこう言う前に、お前ら自身の『在り方』から考え直したらどうだ!?」

 

 もし、ディアナが気に入らないならば。堂々と人前で貶せばいいし、対等な立場で言い合いでもすれば良い。だが、先程の彼女らはそうではなかった。

 陰でディアナを徹底的に貶して心を傷付けるだけでなく、暴力を振るい、彼女から大切な物を奪い取り、それを理由にディアナを支配する。『醜い』という言葉で済まされるようなものではない。

 

「! あなたねぇ……! それでも王子なの!? “リヴァースの忌み子もどき”と誇り高き聖者一族、どちらが大切かも判断できないの!?」

 

「王子以前に、ディアナは僕にとって大切な仲間だ! 仲間が酷い目にあって怒らない筈がない! 第一お前らは、たったひとりの人間すら救えないような者が王に相応しいと思うのか!? 自分の目的、利益の為に他を犠牲にするような王が欲しいのか!?」

 

 間違ったことを言ったつもりはない。事実、この国の皇子であるアルディスは、一人でも多くの民を救おうと戦ったがゆえに、その地位を得た人間だ。

 自分自身を戦争の道具にすぎないと思い込んでいたとはいえ、戦時中の彼は間違いなく自分の目的や利益のためではなく、国民のために動いていた。

 つまり、今のエリックの言葉を否定するということは、それと同時にこの国の皇子たるアルディスを否定するのと同じことなのだ。

 エリックの発言に、女達は戸惑い、口をつぐむ。悔しさを隠しきれてはいなかったが、後先考えずに言い返す程に彼女らも馬鹿ではないらしい。

 

「もう良い、分かったわ……分かったわよ。仕方ないわね……はい、これでしょう?」

 

 結局、女達は言い返してこなかった。ためらいながらも、そのうちの一人がエリックに微かに光る、小さな物を投げ渡す。

 それは、青い宝石と月の飾りの付いた――アルディスが左耳に付けていた物と同じ、月のピアスだった。

 

(これは……)

 

 アルディスは片耳しかピアスを付けていなかったが、これが片割れだということなのだろうか。それとも、何かの偶然なのだろうか。彼女らに聞いたとしても、流石にそこまでは知らないだろう。

 

 

 その時。ピアスを手に考え込むエリックの手を、女の一人が両手で包み込んできた。

 

「ねぇ、アベル王子。あんな気味の悪い子より、わたくし達を連れていきませんか? この通り、足も動きますし……それに、わたくし達の方が美しいでしょう?」

 

 結局はここでも、自分は『王子』という肩書きを持つがゆえに、女達に気持ちの悪い視線を向けられるというのか――エリックは女の手を払い、そのまま背を向けて歩き出した。

 

「ちょ、ちょっと待ってくださいまし!!」

 

「……。ハッキリ言わないと分からないみたいだな」

 

 苛立ちが限界に達し、頭痛がする。シルフに「やりすぎるな」と忠告されたことを今更思い出したが、これだけは言ってやらなければ気がすまなかった。

 

 

「僕はお前達のような、平気で他人を蹴落としておきながら自分をよく見せようとするような、そんな女が大嫌いなんだ!」

 

 

――ラドクリフもフェルリオも、変わらない。

 

 

 人懐っこい性格だというのに、いつまで経っても自分とアルディス以外には同年代の友人が作れなかったマルーシャの姿を思い出す。

 王家の血を引いているとはいえ、どうしてそんなに大きくも無かったウィルナビス家の娘が自分の許嫁となったのか。それはエリック自身も、未だに知らない謎である。

 エリックですらそう思う状況を、他の者が同じように考えない筈が無かった。結果として、マルーシャと同年代の少女達は、マルーシャの事を妬み、嫌い、彼女達の親族も少女達と同様の、酷い時にはそれ以上の反応を見せた。

 エリックかアルディスが傍にいなければ、マルーシャはいつも一人だった。

 

「!? 何よ……何なのよ!!」

 

 あんな状況でよく純粋な子に育ったものだとは思う。しかしながら、彼女がそのような状況下に置かれる原因を作ったのは自分であり、そして自分に媚を売ろうとする娘達だった。

 それゆえにエリックは、自分に媚を売ってくる気味の悪い女達のことが、そして自分自身のことが、大嫌いだった。

 

「話はこれで終わりだ……目障りだ! とっとと失せろ!!」

 

「――ッ!!」

 

 

 エリックの言葉に身体を震わせ、瞳を潤ませた後、女達は喚き散らしながら走り去っていった。

 

(あー……、絶対言い過ぎた。後で面倒なことにならなければ良いが……)

 

 今更すぎる不安だった。シルフに気を付けろと言われたというのに。

 とはいっても、彼女らは確かにこの国の貴族といえば貴族なのだろうが、誰一人として自分の家のことを語らなかった。本当に実力を持った貴族の娘ならば、あのような状況になれば恐らく全力で自分の家のことを主張してきただろう――自分はフェルリオでも名高い名家の出身なのだから、態度には気をつけろ、と。

 純粋に自分の家の名前をむやみやたらに出さない主義なのかもしれないが、あの様子ではそれも無いだろう。多分、今回の一件は大した大事にはならないに違いないと、エリックは心の中で大きくなりつつあった不安を少々強引に揉み消した。

 

「とにかく……今は、ディアナのところに行ってやらなきゃな」

 

 

 

 

「あれ……? ディアナ?」

 

 宿屋の外で待っていろ、と曖昧な指示を出したせいだろうか。エリックが慌てて宿屋の外まで出てきたのは良いが、ディアナの姿がどこにも見えない。

 

 最近気付いたことなのだが、この国ではエリックやマルーシャ、ポプリの髪色は勿論のこと、ディアナのような深い藍色の髪の人間もいないのだ。つまり、彼女の容姿は非常によく目立つ。それなのに、いくら辺りを見回しても、どこにいても目立つ筈のディアナの姿が無いのだ。

 

(そうだ、アイツ泣いてたっけ……泣き顔晒して立ってられるような奴じゃないよな)

 

 ディアナの性格的な根拠もあるが、さらに言えばあの容姿で泣きながら宿屋の前に立っていれば、それはもう目立つなどというレベルの話ではないだろう。

 上空にいる可能性も考えたが、それならエリックが出てくれば降りてくる筈。生真面目な性格の彼女が、「案内して欲しい」と言ってきたエリックを放ったらかして遠くへ行くこともないだろう。ならば、必然的に居場所は限られてくる。

 エリックはもう一度辺りを見回し、近くに人が入っていけそうな路地裏が無いかどうかを探した。それは、すぐに見つかった。

 

「……ここ、か?」

 

 見つけたばかりの、薄暗い路地裏にためらいなく入っていく。純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)は耳が良いのだから、いるとすればそれなりに奥地に違いない。アルディスが逃走した時とは異なり、今回はかなり自信があった。

 

 

「ひ……っ、うっ、ぐす……っ」

 

 案の定、ある程度進んだ時点でディアナがすすり泣く声が聞こえてきた。エリックや女達と別れてから、ここでずっと泣いていたのだろうか。その声は酷く弱々しく、今にも壊れてしまいそうな程に痛々しいものだった。

 狭い路地裏に隠れるように、足を抱え込むようにして肩を震わせているディアナは、近付いてきたエリックの存在に気付いていないらしかった。傍にやって来た人間に気付ない程、彼女は精神的に追い込まれているということか。

 

「……。ディアナ」

 

 エリックはポケットからハンカチを取り出し、彼女の傍に座り込んだ。

 

「!?」

 

 驚いて顔を上げたディアナの目は、泣き過ぎたせいで赤く腫れている。彼女の手にハンカチを握らせ、エリックは藍色の髪をそっと撫でて口元を緩めた。

 

「大丈夫か? 部屋、戻って休んどくか?」

 

「……オレはもう大丈夫だ。悪かった、少し、取り乱した」

 

 返ってきた言葉は、良くも悪くも『ディアナ』だった。少女のような外見でありながら、武士のような振る舞いをするいつものディアナだった。

 

「どこかに行くのだろう? 心配せずとも、オレはこの街のことはある程度熟知しているし、質素な見た目の割にこの街はかなり充実している。目的は、果たせると思うぞ」

 

 彼女がそう在ることを望むのならば、そう在らせてやるべきなのだろうかとエリックは考える。かなり思うところはあったが、今は下手にディアナを刺激したくはなかった。

 

「お前以外に適役はいないと思ってるよ。だから、少し休んだら一緒に来てくれるか? ただ、正直僕も何だか疲れた。ここで良いから、休んでおきたいんだ」

 

「……」

 

 返事は無かったが、否の返事でないことは確かだろう。

 ディアナは顔を上げたまま、ぼんやりと目の前の壁を眺めている。渡したハンカチは使われることなく、そのまま彼女の手に握り締められていた。それでは渡した意味が無いだろうと、エリックは苦笑する。

 

(コイツが自分から「行く」って言い出すか、目の腫れが引いた辺りで声掛けようか)

 

 別に急ぐ用事でもない。エリックは特に何かを言い出すこともなく、ただ呆然と前を見ているディアナの横顔をちらりと見た後、頭上に広がる狭い空を仰いだ。

 

 

 

 

「……」

 

 予想はしていたが、出発の理由となったのはディアナの「まだ行かないのか?」の一言だった。

 目の腫れは引いたが、明らかに無理をしている。その証拠に、先程からディアナが喋らない。しかもエリックに行き先すら聞いてこない。これではただ、街をうろついているだけだ。仕方ないな、とエリックは静かに口を開いた。

 

「……あのさ、ちょっと大きめのペンダントトップが売っているような場所、知ってるか?」

 

「! そうだな、オレも聞くのを忘れていた……ん? マルーシャにでも渡すのか?」

 

 ディアナの茶化すような発言に、エリックは若干顔を赤くして咳払いをした。どうして、ここでマルーシャの名前が出てくるのかが分からない!

 

「違う違う! これ、直すのは無理でも、代用品くらいは用意してやりたくてな」

 

 首を横に振った後、エリックはポケットに手を差し込み、壊さないように厳重な注意を払いながら中に入れていたものを取り出した。

 

「あ……」

 

 それは、戦いの中で砕けたアルディスのペンダントだった。ペンダントの正体は防御壁を発動させる特殊な道具だったのだが、あの時の彼がこれを身に付けていた理由は恐らく、自己防衛のためだけではない。

 ペンダントトップの、砕けた金具の下。そこにあったのは、色あせて傷んだ写真だった。写っているのは、右目を失う前のアルディスと髪を後ろに結った細身の男性。そして、赤子を抱いた美しい女性――フェルリオ皇帝家の、集合写真。

 

「色々あったからな。失くしててもおかしくはなかったんだが、奇跡的に残ってくれてた。ただ、な……こんな写真が入ってるのを見たら、何だかそのまま渡す気にはなれなくて」

 

「そう、だよな……アルにとっては、大切な家族写真、だもんな……」

 

 このペンダントが壊れる根本的な理由を作ったのは、間違いなくアルディスである。しかしながら、エリックにとってもそれは他人事ではなかった。理由はどうであれ、ペンダントを壊したのはエリック達なのだから。

 

「ええと、こういうペンダントって何ていうんだっけ?」

 

「ロケットペンダント、だろ? 取り扱ってるかどうかは少し自信が無いが、大きめの装飾品店がこの先にある。着いてこい」

 

「お、おい、ディアナ……!」

 

 別に急かすつもりは無かったのだが、ディアナはいきなり移動速度を速めてしまった。翼を大きく動かし、ディアナはどんどん先へと行ってしまう。完全に置いていかれてしまった。

 

「あー……」

 

 エリックはもう一つ、同じポケットに物を入れていた。それを、今ここでディアナに渡そうと思っていたのに。

 

(今のディアナに、装飾品店って酷な気がしてならないんだが……)

 

 慌ただしく動いて、嫌なことを忘れようとでも思ったのだろうか。

 精神的に辛い状況だろうに、彼女から「のんびりしよう」という意思が全く感じられない。別に急ぐ用事ではないというのは、先程休憩を挟んだことからも分かるだろうに。

 

「エリック?」

 

 考え込んでいる間、ディアナを完全に放置してしまっていた。先に行き過ぎたことに気付いて戻ってきた彼女は、呆然と立ち止まっていたエリックの顔を覗き込み、首を傾げている。

 

「あ! その、悪い、ちょっと考え事が……」

 

「……そうか」

 

 特に問題は無いのだと、予定が変わった訳では無いのだと分かったディアナは、またしても先を急ごうとする。だが、今度はエリックも彼女を逃がさなかった。

 

「ロケットペンダント買ったら、一旦喫茶店にでも寄ろうか。お前とは、ちょっと落ち着いた環境で話をしたかったんだ。良いだろ?」

 

 距離が開く前にとエリックが伸ばした手は、ディアナの腕をしっかりと掴んでいた。突然のエリックの行為に、彼が発した思いもよらぬ言葉に驚いていたディアナだが、特に不審に思うことは無かったのだろう。彼女はおもむろに、コクリと頷いてみせた。

 

 

 

 

 幸いにも壊れたペンダントの代わりは簡単に見つかり、それを購入した後、エリックとディアナは近くの喫茶店に入っていた。

 

「……」

 

 ディアナの気晴らしになればと連れてきた喫茶店であったが、どうもディアナ本人の表情が冴えない。向き合って座ったために、それは良く分かった。

 

 先程運ばれてきたチーズケーキとカフェモカにも、ディアナはろくに手を付けていない。手元のシフォンケーキをフォークの先で突きながらも、エリックはどうしたものかと考える。沈黙がしばし続いた後、エリックは忘れていたことを思い出した。

 

 

「そうだ、ディアナ」

 

「何だ?」

 

「ちょっと手、出してくれるか?」

 

 首を傾げつつ、素直にディアナは手を出してきた。その上に、女達に渡されたピアスを乗せてやる。

 エリックは現物を見ていなかったため、間違った物を渡されてはいないか不安だったのだが、ディアナの反応を見る限り正解だったらしい。

 

「え……? えっと……こ、これ……」

 

「取り返してきた。話聞いてたんだ、これくらいするさ」

 

 しばしの間、ディアナは自らの手のひらに乗ったピアスを眺めていた。反対の手で転がしてみたり、つついてみたりもしている。突然のことで、手元に戻ってきたという実感がわかないのかもしれない。ミルクティーを口に含みながら、エリックはそんな彼女の様子をぼんやりと眺める。

 

「……ッ」

 

「ディアナ……?」

 

「え……エリック……」

 

 そのうち、ディアナがエリックの視線に気付いたようだ。ディアナはおもむろに顔を上げると、エリックの顔を見るなりポロポロと涙を溢し始めた。

 

「え!? うわっ!? どうした!?」

 

「う……、ふぇ……っ」

 

 これには、流石のエリックも驚いた。結果としてエリックが泣かせたようなものだけあって、周囲の人々の視線がかなり痛い。

 だが、今はそんなことを言っている場合ではない。先程は全く使われなかったハンカチを、もう一度ディアナに手渡す。

 

「す、すまない、ありがとう……」

 

「良いって、気にするな」

 

 今回は場所が場所だからか、ディアナは受け取ったハンカチをちゃんと顔に持っていく。それを見届けた後、エリックは再びミルクティーを口に含んだ。

 

 

「……。オレは記憶もないし、これが何なのかはよく分からない。ただ、これを持っていると、すごく……落ち着くんだ。その理由も、分からないけれど……」

 

「そうか……良かったな、戻ってきて」

 

 どうやら、まだ涙は止まらないらしい。若干嗚咽混じりになりながらも、ディアナは言葉を紡いでいく。

 

「オレ、きっと……こうなる前だって、ろくな人生じゃなかったと思うんだ……っ、多分、フェルリオの出身なんだとは思うけれど、この髪の色は、ここじゃ受け入れてなんてもらえないから……!」

 

「……」

 

「ラドクリフにもフェルリオにも、オレの居場所なんてない。だから……」

 

 それは、あまりにも悲しい言葉。ディアナがそれを言い終わる前に、エリックは手を伸ばしてディアナの頬に触れていた。

 

「それ以上、言うな」

 

「エリック……」

 

 続きを言わせてやっても良かったのかもしれないし、言い切った方が彼女は楽になれたかもしれない。しかし、ディアナがそれを言い切ってしまった途端、そのまま実行に移してしまうのではないかと思えてならなかったのだ。

 

 

「僕には、訳が分からない。夜の空みたいで、綺麗な色だと思うけどな……その髪」

 

「そう言って貰えるのは嬉しいけれど……オレの髪は、リヴァースの忌み子……不幸を告げる娘、ダイアナと同じ色なんだそうだ。容姿も、よく似ているって。それで、オレは“リヴァースの忌み子もどき”って、呼ばれてた」

 

「忌み、子……」

 

 決して、汚い色ではないというのに。ただ、藍色の髪を持って生まれてきただけだというのに、ディアナは“忌み子”と呼ばれた。

 否、元を辿ればダイアナという娘が、そう呼ばれていたのだ。不幸を告げる娘、忌み子。ディアナにもダイアナにも、何の罪も無いというのに。

 

「だから、オレは性を聞かれた時、咄嗟にリヴァースを名乗った。アルが、オレを『ディアナ』と名付けたのは、ダイアナと見間違える程に似ていたからだ……若干の嫌悪感はあったが、それでも良かった。記憶が無いということに、気付かれたくなかったから……ッ」

 

 記憶を失っているということは、ディアナにとってはコンプレックスに近い物となっているのだろう。

 そして、確かに『ダイアナ』と『ディアナ』は同じ綴りで違う読み方をする名前。ディアナは、そのダイアナと本当によく似ているのだろう。

 

「この際、何ならダイアナのままでも良かった……けれどアルは、それは良くないって、オレをダイアナと呼ぶことを拒んだんだ……ッ! その時、よっぽどこの国ではダイアナが不吉の象徴だったんだなって……」

 

「ちょっと待て」

 

「え……?」

 

 アルディスが彼女をディアナと呼んだ理由。ダイアナと、呼ばなかった理由。ディアナは「ダイアナは不吉の象徴」だからだと思っているようだが、恐らくそれは違う。

 

「アイツも言い方考えろよな……まあ、何も知らなかっただろうから仕方ないだろうが。多分な、それ違うぞ。いや、これに関しては自信持って違うと言える」

 

「何故、そう思うんだ……?」

 

 自分に関してはネガティブにしか考えられなくなっているディアナには、アルディスの言葉はマイナスのイメージを伴って伝わってしまった。しかし、あのアルディスに限ってそれはないと考えられる。

 

「アルは基本的に他人をすぐには信用しない。それなのに、お前のことだけは最初から受け入れている感じだった。要するに……アルは、お前はその髪の色を見て何とも思わなかったってことだ」

 

「……」

 

「まあ、異端扱いされてたのはアイツも同じだったわけだし、そのダイアナっていう子に親近感抱いてたんじゃないかな。少なくとも、アルはダイアナのことが嫌いではなかった筈。仮にダイアナのことを嫌だと思っていたなら、お前に似たような名前、付けないだろうから」

 

 アルディスは信用していない相手や、嫌いな相手に対しては徹底的に冷たくあたる。その分、一度受け入れた相手に対しては彼自身の身を削る勢いで甘いのだが。

 アルディスのそういった一面を知っているエリックからしてみれば、ディアナの話には大きな矛盾が生じているように思えてならなかった。それをディアナに説明すると、彼女は再び大きな青い瞳に涙を浮かべてみせる。

 

「はぁ……よっぽど気にしてたんだな。大丈夫だ、違うと思う。それと、良くないって言ったのは『死人と同じ名前』って意味じゃないか? リヴァース家は、戦時中ちょうどラドクリフに聖地巡礼に来ていたって話だしな」

 

「死人……」

 

「ダイアナは恐らく、鳳凰狩りで命を落としている。長い間ラドクリフで暮らしていたアルからしてみれば、生存の可能性がいかに低いか……分かってるだろうからな」

 

 自分で言っておきながら、エリックは胸が苦しくなるような、そんな感覚に陥った。他人事のように話してはいるが、それは自国の、エリック自身がこれから導いていく事になるであろう、ラドクリフ王国の話なのだから。

 

「くそ……っ、本当に僕は無知だな。自分の国の話だっていうのに、お前達がどんな環境に置かれているかなんて、ろくに考えもしなかった……」

 

「あなたが気にすることでは無いと思うが……それでも、確かに、辛かった、かな……あなた達に会う前は、向こうでオレに優しく接してくれたのは、ジャンだけだったから」

 

 まだ涙の残る瞳で、ディアナは少し無理矢理に笑ってみせた。エリックに余計な心配をかけまいと、そう思っているのかもしれない。

 

「ラドクリフに行ってすぐ……鳳凰狩りにあって、重傷を負って倒れていたオレを、助けてくれたのが彼だった。彼は、オレに何の危害も加えず……この服と、チャッピーを渡して、去っていったんだ」

 

「ふ、服?」

 

「元々はボロ切れのような、粗末な服を着ていたんだ。忌み子の話をまともに知らない一般市民ならともかく、聖者一族の人間が、忌み子もどきに服なんてくれないさ」

 

 酷すぎる、と思わずにはいられなかった。これではもはや、嫌がらせを通り越して虐待だ。

 アルディスもそうだったが、ジャンクが倒れた際、ディアナが危険を承知でアドゥシール経由の道順を拒まなかった理由が今ならはっきりと分かる。ディアナにとって、ジャンクは紛れもなく命の恩人なのだから。

 

(アイツ……一体どういう基準で人を判断してるんだ……僕に対してはあんなに距離置いてるってのに……)

 

 本人は何ともないように振舞ってはいるものの、ジャンクは明らかにエリックのことを恐れているし、エリック自身もそれに気付いていた。

 だから、下手に刺激しないようにと、少しでも早く慣れて欲しいと思ったエリックは極力彼とは距離を置くようにしていた――それゆえに、よく分からないのだ。

 ああ見えてアルディス以上に警戒心の強い彼が、どうしてディアナに対してここまで尽くしているのかと。恋愛感情を抱いている可能性はないとは思うが、透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力者の彼のことだ。ディアナに対し、何らかの親近感を抱いたという可能性もある。

 皆の様子からして大体分かってはいるが、どちらにせよ、ジャンクは悪い人間ではない。事実、こうしてディアナは確かに救われているのだから。少々思慮深いだけなのだ。

 

「彼がいなければ、チャッピーが傍に居てくれなければ。多分、オレはどこかで壊れていたと思う……」

 

 ここまでの間、ディアナは必死に笑みを浮かべ続けていたが、限界を迎えてしまったらしい。その笑みが、不意に崩れてしまった。

 

「寂しいんだ。ひとりは、嫌なんだ……」

 

「ッ、ディアナ……」

 

「この容姿ではきっと、友人はいなかっただろうが……オレに、家族はいたのだろうか?」

 

 ボロボロと涙を溢しながら、ディアナはエリックに問う。それは答えに困る、残酷な問い。今の彼女に、簡単に「いるに決まってる」などという言葉はかけられなかった。

 

「どんな家庭でも良い……ただ、優しい両親がいてくれれば、それで良いんだ……」

 

 ディアナが望むのは、自らを受け入れてくれる存在。ただ、無条件に愛情を与えてくれる家族。そこに、裕福な暮らしを求めてはいなかった。

 

「このご時世だから、もう亡くなっているかもしれない。それでも、優しい両親が『いた』という記憶が欲しい……オレが失った記憶の中に、そういう人達は、いるのだろうか……?」

 

 ディアナの、本当に小さな小さな貧相な願い。せめて、それだけでも叶ってくれれば。彼女に、暖かな家族が存在していれば。

 

「……」

 

 聖職者である彼女とは異なり、エリックは神を信じている訳ではない。しかし、今だけはその、いるかも分からない神に、祈らずにはいられなかった――。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.37 望まぬ邂逅

 

「ディアナ? ピアスは付けないのか?」

 

 喫茶店を出て、少しだけ元気を取り戻したディアナに話しかける。エリックが渡したピアスは、ディアナの耳にはない。

 

「あ、その……無くすと、困るから……」

 

 ディアナが言いたいことはよく理解できる。何しろ、取られていたものがやっと返ってきたのだから。今は厳重に、どこかにしまっているのだろう。

 

 

「それは良いとして、あのピアス。今、アルが左耳に付けてる奴と全く同じなんだ」

 

「え!?」

 

「アイツ、右耳にはピアスを付けてない。だから案外それ、昔アルに貰った物だったりして……とか、ちょっと考えた」

 

 アルディスとディアナの年齢を考えれば元々知り合いだったということも、可能性は低いがありえない話では無いだろう。その話を聞いて、ディアナはいつの間やら取り出したピアスを手に、酷く困惑している。

 

「何なら、アルにそれとなく聞いてやろうか? ピアスの片方はどうしたのかって」

 

「だっ、駄目!」

 

「……え?」

 

 真相を知るには、本人に聞くのが一番手っ取り早いだろうに。ディアナは、その手段を取ることを拒んでしまった。

 

「嫌だ……怖い……」

 

 身体を両手で抱くようにして、ディアナは両目を固く閉ざす。暖かな家族の記憶が欲しいと言っておきながら、過去の記憶を取り戻すのは、過去に干渉するのは怖いということなのだろう。辛すぎるジレンマだった。

 

「分かったよ、今は聞かない。知りたくなったら、遠慮なく言ってくれ」

 

「……ごめん」

 

 ディアナは浅い呼吸を繰り返し、必死に落ち着こうとしているらしい。そんな彼女の頭を軽く叩き、エリックは前方へと目線を動かした。

 

 

「……って、ん? ディアナ、ほら。噂をすれば……」

 

 宿屋の中でじっとしているのが嫌だったのだろう。少し前方に、また何か料理でもする気なのか八百屋で野菜を物色しているアルディスと、彼を気遣うように立っているポプリの姿が見える。向こうはまだこちらに気付いていないようであったが、何も逃げる必要はないだろう。

 

「せっかくだ。合流するか?」

 

「そうだな」

 

 念の為ディアナに確認はしたが、彼女にも合流を拒むような意思は無かった。二人は、未だに自分達の存在に気付かないアルディスとポプリの元へと歩み寄っていく。

 

「アル、ポプリ」

 

 呼びかけると、アルディスは持っていたキャベツを置いてこちらを向いてくれた。

 

「! エリックにディアナじゃないか! まさか、宿屋の外で会うなんてね」

 

「お前こそ……何で出てきてんだよ。身体は大丈夫なのか?」

 

「うふふ……ノア、じっとしてるの嫌だって言うから、散歩しに出てきたの」

 

 エリックと合流したばかりの二人が会話している間、ディアナの視線はアルディスの左耳で揺れるピアスへと向けられていた。真相を聞きたくはないが、気にはなるということか。

 

 

「先生とマルーシャちゃんはまだ買い物中かしら? 荷物持ちのチャッピーが一緒とはいえ、二人に任せっきりなのもどうかと思うし、できれば先生達とも合流したいわね……ディアナ君?」

 

「!」

 

 まさか話を振られるとは思わなかったのだろう。ポプリの言葉にディアナはびくりと肩を揺らし、「そうだな」と軽い返事を返した。

 

「旅に必要な物を揃えるなら、ここから少し離れた場所にある商店街の方だろうか? あちらなら武器屋もある……オレは正直、そこに寄りたい」

 

「あー……お前、地下水脈でレイピア折ってたしな……って、アル! そんな顔するな!」

 

「だっ、大丈夫だ! オレは気にしていないから!!」

 

 ディアナはつい先日、今まで使っていた武器を壊してしまっていた。そして、その原因となったアルディスは今、何とも言えない表情を浮かべてしまっている。エリックとディアナの言葉に、彼は深くため息を吐いて口を開く。

 

「じゃあ……謝る代わりに言う。エリックも武器屋で商品、見ておいた方が良いんじゃないかな?」

 

 むやみやたらに謝るのは、逆にエリックに気を遣わせると思ったのだろう。アルディスはそう言って、「どう思う?」と首を傾げてみせた。

 

「え?」

 

「俺の戦い方。見てたなら分かったと思うけど……俺達の持つ、あの宝剣は形状を自在に操れるんだよ。君の流派じゃ、初期形態のあの半端な長さと厚さだと扱いにくいだろうなって」

 

 それは戦闘に慣れた、アルディスだからこそ言える助言だった。エリックはそのようなことを一切考えていなかったのだが、アルディスの言い分は正しい。

 確かに、いくら自分がラドクリフ王家の人間であり、宝剣を託されたからといって、自分自身の体型を無視してあのままの剣で戦う必要はないだろう。

 

「今まで、ずっと俺が扱う宝剣が薙刀の形状を取っていたのは、『無限の軌跡(フリュードキャリバー)』っていう力によるものなんだ。君が望むなら、これについても指導する。コツさえ掴めれば簡単だし。宝剣の力を引き出せた君なら、この力も使いこなせる筈だから」

 

 アルディスはそう言って腰のレーツェルに触れ、剣を取り出してみせた。それは彼の手の中で輝き始め、エリック達の目の前で薙刀へと形状を変化させる。

 魔術の一種だと思っていたのだが、アルディスは苦しみ出すことなく平然としていた。

 

「呪いの効果が出てないってことは、魔術とは違うんだよな……? つまり、僕もお前と同じように、武器の形状を好きなように変えられるってことなのか?」

 

 エリックの問いに、アルディスはコクリと頷いてみせた。彼が手にしていた薙刀は、再び剣へと形状を変えてレーツェルへと戻る。

 

「そういうこと。だからこそ、君が今までとは違う戦闘スタイルを見つけていくことに意味があるんだ。武器屋で剣の形状をどうするか考えるついでに、他の武器も手に取ってみると良いと思う。参考無しに考えろって言っても、困るでしょ?」

 

 恐らく、アルディスも様々な武器を手に考え、薙刀を使うようになったのだろう。それが、彼が剣術以外で選んだ戦闘スタイルだったのだ。そしてエリックも、さらなる強さを得るために彼同様未知の可能性を探していくこととなる。

 

「そうだな……ディアナ、案内頼めるか?」

 

「問題ない。任せろ」

 

 アルディスの話が終わり、ディアナはエリックの申し出に答えて少しだけ前を飛び始めた。もう、先々進んでいこうという意思はないらしい。その姿を見て、エリックは微かに口角を上げる。

 

(良かった。落ち着いたみたいだな)

 

 ディアナに関する問題は全く解決していないが、今は保留にしておいても大丈夫そうだ。これなら今のうちに、何か彼女にしてやれることは無いか考えることができる。

 アルディスとポプリの二人も、今ではフェルリオ城での戦い以前の仲に戻っている様子だった。否、もしかするとそれ以上かもしれない。彼らは本来、仲の良い義姉弟だったのだから。やはりエリックはそれを羨ましいと思いはしたが、もう過ちを繰り返すことはないだろう。

 

 

「な……っ、なんだ!?」

 

「商店街の方が騒がしい……一体、これは……!?」

 

 

――しかし、エリックが予想すらしていなかった所で、事件は起ころうとしていた。

 

 

「どうした!? ディアナ、アル!」

 

「商店街で、何者かが魔術を発動させたようだ。規模からして下級術だったようだが、それでも危険すぎる!」

 

 聴覚に優れた純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)のディアナとアルディスが、近くにいた純血鳳凰の住民達が異変に気付く。ざわめきと混乱の中で、エリックはどうしようもない不安に駆られていた。

 

(まさかここも、スウェーラルの二の舞になるんじゃ……!?)

 

 エリックの脳裏をよぎるのは、帝都スウェーラルの無残にも崩れた街並みと、広場に立ち並ぶ無数の粗末な墓。そう思ったのは、エリックだけではなかった。

 住民達の安否は勿論気になるが、マルーシャとジャンク、それからチャッピーも恐らくそこにいるのだから。

 

 暗黙の了解で、商店街へと向かう速度が早くなる。もう、ゆっくりしてはいられなかった。

 

 

 

 

――そして、その頃……。

 

 

「ッ、マルーシャ……大丈夫ですか?」

 

「うん、わたしは平気。チャッピーも大丈夫そう、だね」

 

 買ったばかりの品物が、簡易的に整備された地面の上を転がる。突然魔術による襲撃を受けたジャンクとマルーシャは、砂埃が舞う中で互いの無事を確認した。

 

 この騒ぎで、商店街にいた人々は逃げ出したらしい。巻き込まれた住民がいないことから考えるに、魔術の使用者は最初からマルーシャ達を狙っていたのだ。

 

「きゅ……きゅー!!」

 

「チャッピー!? どうしたの!?」

 

「きゅー!」

 

 砂埃で視界が遮られてしまっている状況で、チャッピーが騒ぎ始めた。怯えて混乱してしまったのかと、マルーシャは必死にチャッピーの背を撫でて宥めようとする。しかし、そうじゃないとでも言いたげにチャッピーは頭を振るった。

 

 

『マルーシャちゃん、クリフを連れて逃げてくれ! 今のクリフを、奴と会わせる訳にはいかない……頼む!』

 

「!?」

 

 そんな時、聴こえてきたのは姿無き青年の声。その悲痛な声に含まれていたのは、焦りと、ほんの少しの恐怖。まさか、このタイミングで青年に話し掛けられるとは思わなかったマルーシャは、困惑して逆に動きを止めてしまった。

 

『事情も話さずいきなり悪いけど、頼む、急いでくれ!』

 

「あ……ッ、わ、分かった! ジャン、行くよ!!」

 

 青年の必死な声を聴いて、マルーシャはハッと我に返った。その思いに答えるためにも、ジャンクの手を引いて走り出そうとする。

 

「ジャン! ほら、急いで!!」

 

「……」

 

 それなのに、何故かジャンクが動かない。

 先程のマルーシャのように、驚いて動けなくなるのとは違う。彼は金縛りにあったかのように“動けなく”なってしまっていた。唯一の動作と言えば、その身体を酷く震わせていることくらいだろう。

 

「どうしたの!? ねぇ……ねぇ! ジャン!!」

 

 ジャンクが何かに、冷静さを欠く程に酷く怯えている。マルーシャは、何としてでも彼を動かそうとジャンクの正面へと移動する。そして彼の顔を見上げたマルーシャは、ある事実に気付き、目を丸くした。

 

「え……?」

 

 マルーシャの視界に入ったのは、金と銀の、アシンメトリーの瞳。

 

「ヴァイス……ハイ、ト……?」

 

 あまりの恐怖に、思わず目を開いてしまったのだろう。初めて見たジャンクの、金と銀の両目を見て、マルーシャは軽く深呼吸した後に胸のレーツェルに触れた。

 

「ジャン、大丈夫だから。落ち着いて……とにかく、逃げようよ。わたし、何が来てもジャンの代わりに戦うよ? だから……ね?」

 

 ジャンクは本気で、目を開くのを嫌がっていた。それなのに、今は目を閉じておくという簡単な動作すらできない程に追い込まれている。つまり、それだけ余裕が無くなってしまっているのだ。彼は今、戦えない。

 それならばとマルーシャはすぐに魔術が発動できるようにと意識を高めつつ、ジャンクの身体を押して少しずつ後ろに下がるように誘導する。

 ただ、それではあまりにも遅すぎる。そうしている間にも、カツン、カツンと、靴の音を鳴らして何かが近付いて来ていることが確認できる程に、相手との距離が縮まっていた。

 

「ごめん、チャッピー……わたしとジャン乗せて、走ってくれる? どうにも、ジャンが上手く動いてくれないや」

 

 マルーシャは覚悟こそ決めていたが、戦うことよりも逃げることを優先すべきなのは分かっていた。マルーシャは、単独での戦いには向いていない。

 いつの間にか、自分達を庇うかのように前に立ってくれていたチャッピーに、瞬光疾風(カールヒェン・ヨシュカ)の能力で逃げるのを手伝ってくれないかと問いかけてみる。

 

 

『そうだね、それが一番だと思う……分かった、乗って!』

 

「……え?」

 

 マルーシャの問いかけに対し、返ってきたのは鳴き声ではなく、謎の青年の声。

 それだけではない。今の彼の言葉は、その返事の仕方は、明らかに――。

 

『!? 避けろ!!』

 

 刹那、自分達を背に乗せようと屈んでいたチャッピーがマルーシャとジャンクを突き飛ばし、彼女らの目の前で、無数の風の刃にその身を切り裂かれた。

 

「ちゃ、チャッピー……っ!? きゃあぁあっ!!」

 

「ッ、ぐ……っ!」

 

 風の刃はチャッピーの身体のみならず、地面や近くの家の壁までも切り裂き、更なる瓦礫と砂埃を飛ばす。

 飛んできた瓦礫は、マルーシャとジャンクの身体を押しつぶすかの勢いで襲いかかり、二人の身体を酷く痛め付けた。

 

 

『う……ッ、二人とも大丈夫か!? 逃げられそうなら、逃げてくれ! 頼む、早く!!』

 

 青年の苦しげな声が響く。しかし、マルーシャの身体は飛んできた瓦礫に潰されており、ろくに身動きが取れそうもない。

 

「駄目! 瓦礫が、動かせない! 杖も、遠くに飛んでっちゃった……っ! そうだ、ジャン! ジャンは動けるよね? わたしを置いて逃げて!」

 

 不幸中の幸い、ジャンクは怪我を負うことこそ避けられなかったが、それでも瓦礫に押しつぶされて身動きが取れなくなるという最悪の状況に陥るのは避けられたらしい。

 

「ま、マルーシャ……僕は……」

 

「わたしは良いの! お願い、今は自分を大事にして……逃げて、ジャン!」

 

 傷を負ったことにより、漸く正気に戻ったのだろう。自分を気にかけるジャンクに対し、マルーシャは必死に声を張り上げる――だが、もう遅かった。

 

 

「どういう事情なのか、急に探知が可能になってな。試しに来てみたのだが……やはり、そうか……」

 

 聞き覚えのある声と共に、砂埃の中から一人の男が現れた。

 

「やっと見つけた……見つけたぞ! ふふ、さぁ……戻って来い、クリフォード!」

 

「――ッ!?」

 

 その男の顔を見て、マルーシャの中では『かなり嫌な思い出』として位置付けられていた出来事が、つい先程起こったことのように頭の中で再生される。

 

「嘘……何で? 何で、こんなとこまで来たの!? どうして、こんなことするの!?」

 

 ラファリナ湿原に連れて行かれたマルーシャを見て、その男はどこか嬉しそうに言っていた――「我が試作品」と。

 砂埃の中から現れたのは、科学者でもあり、弓と剣を自在に扱う屈強な兵士でもある黒衣の龍幹部、ヴァルガだった。

 重い瓦礫に押しつぶされながらも、必死に叫んでみせたマルーシャを馬鹿にするように、ヴァルガは余裕のある笑みを浮かべてみせる。

 

「何で、どうして、と言われてもな。今から十年前、戦時中のどさくさに紛れて逃げ出してしまった……私の大切な大切な“実験体”を回収しにきただけだ」

 

「……え?」

 

 ヴァルガははっきりと、“実験体”と言っていた。そして今、この状態からしてそれが誰のことを指しているかは明らかである。思わず、マルーシャはその対象であろうジャンクの方へと視線を動かしていた。

 

 

「ヴァ……ヴァロン、様……ッ」

 

 マルーシャの視線に気付いているのかいないのか。酷く震えた声でジャンクが口にしたのは、“ヴァロン”という名。その名を聞いたヴァルガは剣を抜き、その切っ先をジャンクへと向けた。

 

「おお、よく私の名を覚えていたな。私を忘れているなどという馬鹿げたことになるのではないかと、内心とてもとても心配していたのだ」

 

 ヴァルガはあくまでも仕事名。この男の真の名前は、ヴァロンだった。ジャンクはその名を知っていたし、何よりその名の持ち主のことを、誰よりも恐れていた。

 

「それならば。この剣の痛みも……覚えているな?」

 

 “ヴァロン”は、恐怖のあまり再び硬直してしまったジャンクの目の前に瞬間移動し、持っていた剣を勢いよく振り下ろす。彼の動きは、文字通り『瞬間移動』だった。彼の、特殊能力なのかもしれない。

 

「ッ!」

 

 しかし、振り下ろされた刃はジャンクには当たらなかった。逃げる間も与えられず、ただただ怯えていた彼の身体を突き飛ばしたのは、風の刃に切り裂かれ、既に重傷を負っていたチャッピーだった。

 

「きゅー!!」

 

 剣に身を斬られたチャッピーの痛々しい鳴き声と共に、突き飛ばされて地面に転がっていたジャンクの身体に血が飛び散った。

 

「ッ、な、何故、ですか……っ!?」

 

『良いか、クリフ……ここで今、君が逃げるのは決して、俺達を見捨てたということにはならない!だから、今すぐ逃げろ! 俺達は、君がここで奴に捕まることの方が辛いんだよ……!』

 

 覚束無い足取りで、チャッピーは崩れかけた身体を起こす。その様子を見て、ヴァロンは不気味な笑みを浮かべつつ剣の柄を強く握り締めた。

 またしても、彼はチャッピーを容赦なく斬り付けるつもりなのか。致命傷こそないが、既に、チャッピーはあんなにも多くの血を流しているというのに。

 

「やめて! チャッピーが死んじゃう!!」

 

 マルーシャは、チャッピーの身体に新たに刻まれた傷へと目を向ける。それは風の刃が付けた傷とは比べ物にならない程に、深く痛々しい傷だった。それでも、チャッピーは負けじとヴァロンに対峙し続ける。

 

『ヴァロン=ノースブルック……! クリフは、貴様のことを忘れたくても忘れられないんだ……! あの子が、今までどれ程貴様の残像に苦しめられたか……ッ!!』

 

 先程よりもずっと、苦しげな青年の声。明らかな憎悪の込められたその声は、ヴァロンには一切届いていなかった。

 ただ、声は聴こえずともヴァロンはチャッピーが何を訴えてきているのかが理解できているようだった――刹那、彼はチャッピーに容赦なく剣を振り下ろした。

 

「ッ!!」

 

「しかしまあ、まさかお前まで一緒にいたとはな……そのような浅ましい姿で、よくもまあ生きていられたものだ。私なら、自害を選ぶがな」

 

 声にならない鳴き声を上げ、とうとうチャッピーは地面に崩れ落ちた。

 それでも一度だけ頭を上げ、彼はヴァロンに対抗しようと身体を起こそうとするが、彼の身体はもう限界だった。チャッピーは再び地面に倒れ、大きな青紫の瞳を閉ざしてしまった。

 

「いや……っ! チャッピー!!」

 

「ふははは! 笑わせますね……もう虫の息ではないか!」

 

 チャッピーの姿を見下ろし、ヴァロンは本気で彼を嘲笑った。

 

 

「どうだ? 失敗作として生き恥を晒し続けるより、いっそ、そのまま死んでしまった方が、人間としての誇りをしっかり保てるのではないか? ――“霧生イチハ”よ」

 

 

(え……?)

 

 チャッピーは時として、ただの鳥とは思えないような、あまりにも賢い行動を起こすことが多々あった。それを不思議に思う時もあったが、マルーシャも他の仲間達も、それを深く追求しようという気にはならなかった。だが、今この瞬間。ヴァロンの言葉によってその理由が判明してしまったのだ。

 

「霧生……イチ、ハ……? まさか、チャッピーは……本当は……本当の、姿は……」

 

「そう、こいつは本来人間。リッカの忍……まあ、今となってはこの通りだ」

 

 恐らく、イチハもジャンク同様にヴァロンに囚われた実験体としての過去を持つ人間。その過程で彼は何らかの実験に使われ――人としての姿を失ってしまったのだ。

 

(ひどい……! そんなの、酷すぎるよ……っ!!)

 

 それは、想像を絶する程に残酷な真実。宿屋で交わした会話が、どこか悲しそうな青年の声が、マルーシャの脳裏を過ぎっていく。

 

 

『薄々、勘付いてるかもしれないけど……それでもいつか、ちゃんと話すから』

 

『今は、俺の一方的な話に付き合ってくれ。クリフ以外に会話相手が出来るなんて、思ってもみなかったから……すごく、嬉しいんだ』

 

 

 精霊シルフと契約を結んだ後、突然マルーシャに語りかけてくるようになった、姿の見えない青年――否、姿が『見えない』とマルーシャが勝手に思い込んでいた青年の正体は恐らく、鳥へと姿を変えられてしまった霧生イチハの思念体。

 マルーシャが精霊と契約を結んだ際、同時に何らかの力を得ることに成功し、孤独を嘆く彼の思念体と会話出来るようになったのだろう。

 それが、どれほどイチハにとっては嬉しいことだったか。その悲惨さは、マルーシャには到底想像できないものだった。

 

「ふん……最初からお前は自分自身が犠牲になるのも覚悟の上で、クリフォードを逃がそうと思ったようだな。その度胸だけは、認めてやる」

 

 気を失ってしまったチャッピーから視線をそらし、ヴァロンは辺りを見回し始める。いつの間にか、彼が捕えるつもりでいた青年は既にこの場から消えていた。

 マルーシャとイチハの懇願が届いたのか、ジャンクは今度こそ隙を見て逃げ出してくれたらしい。良かった、とマルーシャは微かに微笑む。しかしながら、それでもヴァロンが焦る様子を見せないことが気がかりだった。

 

「そう遠くへは行っていないらしい。馬鹿な奴め……今の私は、奴の存在を探知することが出来るというのに。焼け石に水だ」

 

「!」

 

 そういえば、とマルーシャはヴァロンと遭遇した直後のことを思い出す。最初に彼は、突然ジャンクの存在を探知できるようになったと言っていたではないかと。

 つまりそれは、彼はいつでもジャンクのいる場所が分かるということだ。これではどんなに逃げようと、いつかジャンクは捕まってしまう。今、ここでヴァロンを行かせてはならないと、マルーシャは奥歯を噛み締めた。

 

「ふざけないで! 人を何だと思ってるの!? ……許さないッ!!」

 

 魔術発動の媒体となる杖が手元を離れてしまったため、今のマルーシャは魔術を使えない。それでも、マルーシャは諦めなかった。彼女にはまだ、抵抗の手段が残されていた。

 

「新たなる流れをもたらす、悠々たる風の化身よ! 契約者の名において命じる!」

 

 マルーシャはバングルに魔力を込め、頭に浮かんできた言葉を迷うことなく叫ぶ。身動きすら満足に取れない状況下、現状を打破するにはこれしか無いと思ったのだ。

 

「おや」

 

 精霊召喚の詠唱に気付き、ヴァロンは一瞬だけ驚いた表情を浮かべる。

 

「貴様もその力を得ていたのか。兄妹”揃って精霊契約者とは。いや、今の貴様は、あの男の妹とは呼べんがな……」

 

「……え?」

 

 

――ヴァロンは今、何と言った?

 

 

 自分を除いた精霊契約者は、マルーシャが知る限りただ一人。親友のアルディスのみだ。それでなくとも、精霊契約が誰にでもできる物だとは思えないのに。

 

(わたしだって、ジャンの力がなきゃ契約なんてできなかった……ジャンは、他にも誰かを手助けしていたの? いや、違う。そうじゃない! わたしには、お兄ちゃんなんていないんだよ……!?)

 

 マルーシャには兄はいない。それどころか姉も弟も、妹さえもいない。マルーシャはたったひとりの、ウィルナビスの血を引く子どもなのだから。

 つまりマルーシャがエリックに嫁げば、必然的に一族の名は途絶える。それでも構わないと、父も母も言っていた。それはむしろ、光栄なことなのだと。

 もしかするとマルーシャ本人は知らないだけで、彼女には兄が存在しているのかもしれない。事実、マルーシャは七歳より前の記憶がないのだから、兄の存在を知らなかったというのも、全くありえない話ではない――だが、それは少々無理のある納得の仕方ではないか?

 

(精霊契約に成功するような、凄い兄の存在……それを、お父様もお母様も、わたしに教えないだなんて……絶対、おかしいよ……ね……?)

 

 マルーシャは得体の知れない闇に包まれたかのような感覚に陥っていた。自分の知らないところで、一体何が起こっているのかと。

 

「……」

 

『お……おい! マルーシャちゃん! 落ち着け! オレを呼ぶんじゃなかったのか!?』

 

 一瞬にして大混乱に陥ったマルーシャは、集中を途絶えさせてしまった。頭の中に響く、シルフの呼びかけにも彼女は答えない。

 

「おかしい話だな……? 貴様は今まで、自分自身の出生を疑ったことは無かったのか?」

 

「わたし、の……出生……?」

 

『マルーシャちゃん! コイツの言うことに耳を傾けるな! オレの契約者は、マルーシャ=イリス=ウィルナビス! 普通の……そう、普通の女の子だ!!』

 

 いつの間にか、ヴァロンはマルーシャのすぐ傍に移動していた。しかし、マルーシャはヴァロンの存在に気付くどころか、姿を現してまで必死に呼び掛けるシルフにも気付いていない。

 

「ふっ、容易いものだな」

 

 ヴァロンは未だマルーシャを見下ろしながら、剣を自身の顔の前に掲げて嘲笑った。

 

 

「妖の宴に惑え――ナイトメア」

 

「!」

 

 下級魔術故に詠唱が早く、反応が遅れてしまった。黒の魔法陣から出現した霧がマルーシャを包み――全ての気力を奪う程の、睡魔が襲う。

 

(そ、そん……な……!)

 

 視界が徐々に、閉ざされていく。

 それでも、マルーシャはこの場から立ち去ろうとするヴァロンの足を掴もうと懸命に手を伸ばした。行かせるわけには、いかないのだ。

 

(お願い、届い、て……!)

 

 しかし非情にも、その願いが叶うことはなかった。睡魔に打ち勝つことができず、マルーシャの手からどんどん力が抜けていく。最終的に彼女の手は何かを掴むことさえできず、パタリと地に堕ちてしまった……。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.38 生命

 

「くそっ! 一体何が……!!」

 

 モヤモヤとした意識の中、マルーシャの耳に聞き慣れた声が届いた。それに安心して目を開くと、懸命に自身の体を潰す瓦礫を退かそうとしてくれているエリックと、周囲を警戒しているアルディス達の姿が確認できた。

 

「……ッ、みんな……」

 

「マルーシャ! 良かった……ディアナ、今歌えるか?」

 

「ああ、任せろ!」

 

 マルーシャもいくつか傷を負ってはいたが、そこまで重傷と言える傷はない。むしろ問題なのは、無数の深い傷を負って倒れているチャッピーの方だろう。

 

「清らかなる水の 恩恵を受け 育まれし万物は 艶やかに舞う――……」

 

 その場で両手を組んだディアナの口から、美しい旋律が紡がれる。エリックに瓦礫を避けてもらい、マルーシャは若干顔を歪ませながらも身体を起こした。

 

「チャッピー……」

 

「大丈夫、傷は酷いけどまだ間に合うよ。それよりマルーシャ、何があったの?」

 

 未だ目を閉ざしたチャッピーの頭を撫でながら、アルディスはマルーシャへと視線を向ける。聖歌を紡ぎ終えたディアナは、レーツェルの無い胸元を軽く押さえていた。

 

「主犯はともかく、何があったのかは大体想像が付くがな。オレ達が本調子では無いのを良いことに、突然襲撃をしかけたのだろうか……再襲撃に備えて、いつもとは少し違う奴を歌っておいたぞ」

 

 ディアナの言う通り、全員程度の差はあれども、スウェーラルでの一件で崩した体調が戻りきっていない。つい最近まで意識不明になっていたアルディスに至っては、まだ戦闘ができるかどうかという所から怪しい状態である。

 それでも、ディアナが歌った『ホーリーソング』の効果で皆、身体が少し軽くなったように感じていた。どうやら先程の旋律は傷の回復だけではなく、身体強化の力も持っているらしい。

 

「! そうだ……っ、大事なこと、言わなきゃいけなかったのに……!」

 

 身体の痛みに耐えながらもマルーシャは慌てて立ち上がり、辺りを見回す。今にも、どこかに駆け出して行きそうな勢いだった。

 

「マルーシャちゃん、どうしたの!?」

 

「ジャンが危ないの! ヴァルガがジャンを狙って襲って来て……それで……ッ」

 

「なんですって!?」

 

 マルーシャの言葉に驚いたポプリの声が響く。確かに、ジャンクの姿はどこにも見えない。

 

「と、とにかく手分けして……」

 

「待ってください! 今、俺達がバラバラになるのは危険です!!」

 

「だけど……!」

 

 動転したポプリの腕を掴み、アルディスは首を横に振るう。彼はあくまでも冷静にあろうと深呼吸を繰り返した後、マルーシャの横に浮遊するシルフへと向き直った。

 

 

「シルフ。下位精霊と会話することは可能かい? 精霊術師(フェアトラーカー)なんてあっちこっちにいるわけじゃないし、下位精霊でも方向くらいなら分かったりするんじゃないかな」

 

『そうか! よし、任せてくれ』

 

 それは、魔力を探知する能力に秀でた純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)であり、ジャンクの力を知るアルディスだからこそ出せた意見。シルフは周囲の下位精霊を集め、ジャンクの行方を訪ねていた。

 

「どう?」

 

『大丈夫だ、ちゃんと分かったぞ。どうやら、カルチェ山脈に向かったらしい……うーん、よりによって……』

 

 カルチェ山脈はディミヌエンドから東北の方角に位置する険しい場所。その先の村やゼラニウム草原に用がある場合を除けば、わざわざ、好き好んで行くような者はまずいない。ろくな準備もせずにカルチェ山脈を越えることは、まず不可能だ。

 

「そうだね……でも、俺は行くよ。相手がヴァルガである以上、迷ってる暇なんてない……さっさと見つけてさっさと帰ってくれば大丈夫だよ、きっと」

 

『そう簡単な話じゃないとはいえ、背に腹は代えられねぇしな……他の奴らはどうすんだ? アルディス皇子に任せて待機しとくか?』

 

 シルフの言葉に、「まさか」と否定の声が上がる。危険が生じようとどうだろうと、仲間の危機を見て見ぬフリはできないということだ。

 

「そんなこと、できないよ! わたしも行く!!」

 

「そうだな。ただ、確かに気持ちは分かるが……マルーシャ、一回落ち着け」

 

 今にも駆け出して行きそうなマルーシャの肩を叩き、エリックはおもむろにチャッピーを指差す。意識こそ戻ったようだが、チャッピーの傷はほとんど塞がっていなかった。

 

「僕らはもう仕方ない。だが、チャッピーだけでも、万全な状態に近付けよう。この状況は、どう考えてもアイツの能力に頼るべき場面だ」

 

 良いよな、とエリックは念のためアルディスに意見を求める。アルディスは若干驚いた様子ではあったが、彼はすぐに首を縦に降ってみせた。同じくエリックの意見に賛成したマルーシャはチャッピーの元へと走り、治癒術の詠唱を始める。

 

 

「そうか……確かに今は、瞬光疾風(カールヒェン・ヨシュカ)の力に頼るべきだよね。全然頭が回らなかったよ」

 

「だろ? ところでアル、これを聞いて意見を変えるつもりはないが一応、聞かせてくれ。カルチェ山脈はどんな場所なんだ?」

 

 アルディスの隣に並び、エリックは少しでも情報を得ようと彼に基本的な質問を投げかけた。チャッピーの傷が治るまでの間、黙って立っている気は無かった。

 

 

「俺は小さい頃に何度か行ったことがあるんだけど……カルチェ山脈は過酷な環境下でも適応できるような魔物ばかりが生息する、本当に危険な場所だよ。悪いんだけれど、エリックは俺と一緒に前に出て欲しい。俺達が何とか前線で戦わないと……」

 

「その辺りは問題ない、任せろ。だが、お前こそ絶対に無理はするなよ」

 

「分かってる。ありがとう」

 

 アルディスが言うように、現状、前に出て戦うことができるのはエリックとアルディスしかいない。前衛後衛をバランス良くこなせるディアナは武器を失い、ジャンクに至っては不在だ。彼らのサポートは期待できない。いつもとは状況が異なる以上、事前に話し合っておくのは大切なことだ。

 

 

「……ッ」

 

 チャッピーの治療を終え、マルーシャはエリックとアルディス――否、アルディスの姿を見て、不安げに胸を抑える。だが、今はこんなことをしている場合ではないと彼女は頭を振り、口を開いた。

 

「もう、大丈夫だと思う……行こう、みんな」

 

 

 

 

「ッ、結構道が険しくなってきたね……そろそろ、能力の節約した方が良いかも。散々無理させただけに、イチハさん自体本調子じゃなさそうだし」

 

『ははっ、俺様格好付かないなぁ……こんな時にさ。悪いね……』

 

「お気になさらず。その、それより……何で、マルーシャには話しかけときながら、俺には話しかけなかったのですか……?」

 

 シルフと下位精霊達に道案内を頼みながら、エリック達はもはや道とは言い難いような、岩だらけの急な坂道を駆けていく。その最中に、彼らはマルーシャから事の一部始終を聞いていた。

 

 その際に判明したのは、チャッピー――イチハの声は、アルディスにも届くという事実だった。

 

『まさか、聞こえるなんて思ってなかったんだ……一方通行の会話って、結構辛いんだよ。第一、下位精霊が少ないあっちじゃ理性を保つだけでも難しいんだ。精神乗っ取られて、気が付けば全然知らない場所にいたことも多かったしね……一回、これのせいでクリフを見殺しにしかけたこともある……』

 

 イチハ曰く、自分の声はジャンクを除いた誰にも届かないのだから、労力を使って話しかけるだけ無駄だと考えていたらしい。マルーシャに話しかけたのも、上位術の発動をやり遂げ、疲れ果てた彼女を見て思わず声をかけてしまっただけに過ぎないのだと。

 彼は、少し話をしただけで分かる程に精神を疲弊させてしまっている。それを感じ取ったアルディスは静かに奥歯を噛み締めていた。

 

「イチハと会話ができるのは精霊の使徒(エレミヤ)である先生と、精霊契約者のノアとマルーシャちゃん……要するに、精霊に関わる存在ならイチハの声も届くってわけね。当然、あたしやエリック君、ディアナ君とは会話できないわけだけど……」

 

 イチハの声こそ聴こえないが、ポプリは何とか状況を理解しようとこんがらがった頭の中を整理している。今まで鳥だと思っていた相手が実は人間だったのだ。現実問題、冷静に物事を考える方が難しいだけに、彼女もなかなか苦戦している様子である。

 

『今まで、黙ってたことは謝る。でもね、今は俺なんかほっといてクリフのことを考えてやって欲しい。相手がヴァロンである以上、俺は少々無理しようが能力をこのまま発動させる……せっかく、あそこまで立ち直ったんだ。何が何でも、クリフを助けてやって欲しい……頼むよ』

 

 自分のことはどうでも良いと言わんばかりに、イチハは瞬光疾風の能力を弱めることなく発動させ続けている。彼の力を感じながら、アルディスは頭を振るう。

 

「申し出はありがたいのですが……いえ、そうですね。あなたの限界を超えない程度で甘えさせて頂きます。そうでもしなければ、確かに色んな意味合いで間に合わない気がしますから」

 

 イチハの話に耳を傾けつつ、アルディスはシルフと目を合わせた。彼は特に何も言わなかったが、表情を見る限り着実に、ジャンク達との距離が近付いているらしい。

 

 

地点遷翔(ヴァーチェル・ハロ)の能力者であり、有能な戦士で研究者でもあったヴァロン=ノースブルックの話は俺も知ってるんだ。だからこそ、少しでも早く追いつかないと絶対にまずい……間違いなく、彼はもう、ジャンさんに追い付いているだろうから」

 

 地点遷翔(ヴァーチェル・ハロ)は、一度でも行った事のある場所に瞬間移動することのできる能力。それ程珍しい能力ではないが、透視干渉(クラレンス・ラティマー)以上に使用者が限られる扱いが難しい能力だ。

 アルディス曰く、シックザール大戦にも参戦していたというヴァロンは彼が直接対峙した相手ではないものの、その能力ゆえにフェルリオ側に大きな損害をもたらすきっかけとなった人物の一人なのだという。

 まだまだ知らない部分も多いが、あまりにも特殊なジャンクの能力、及び想定される彼の過去を考えれば、絶対に会わせてはならなかったのにとアルディスは両手の拳に力を込めた。

 

『正直、俺だってできることなら会いたくなかった。惨たらしく殺してやりたい程に憎いのもあるけど、何よりやっぱり怖くてね……魔法石を額に埋め込まれた時、あまりの激痛に俺は死んだなって思った。まあ、死ぬことはなくて、気が付けばこんな姿になってた訳だけれど』

 

「……ッ」

 

 一体、イチハはどのような姿をした男だったのだろうか。ちゃんと人としての心をもっているというのに、誰がどう見ても鳥でしかないその姿が、実験の残酷さを物語っている。

 思わず黙り込んでしまったアルディスをチラリと横目で見て、ディアナは翼を大きく動かした。

 

「オレには、あなたが何を伝えたいのかは分からない。それでも、これだけは言わせて欲しい」

 

 チャッピーと共に過ごした時間が多いだけに、彼女にも思うところがあったのだろう。ディアナは悲しげに目を細め、奥歯を強く噛み締めた。

 

「あなたにも……ジャンにも、オレは本当に救われた。恩を仇で返すような真似はしたくない……何が何でも、彼を助け出したいと思っている」

 

 その言葉を聞き、“イチハ”は大きな青紫の瞳を細めてみせる。

 

『……ありがとう、ディアナ』

 

 消え入りそうな、どこか儚い雰囲気を纏ったイチハの声。その声は決して、ディアナ本人には届かなかった。

 

 

 

 

「……やっと、追い付けたみたいだね……!」

 

 かなりの時間を掛け、辿り着いたのはカルチェ山脈の頂上付近。ここまで来る間、チャッピーの能力を借りた状態だろうとお構いなしに襲ってくる魔物も多かったため、必然的に戦闘が発生してしまった。

 アルディスの言うように、平地に住む魔物とここに住む魔物とでは身体能力そのものに大きな差があるようだ。

 

「ッ、くそ……っ、遅れてすまない……ジャン、大丈夫か!?」

 

 魔物達の妨害により、エリック達は大幅に時間を取られることとなった。思うように、ここまで来ることができなかったのだ。

 

「ふむ……追って来られるくらいの、それなりの力は持っていたということか。どうやら、私は少々貴様らを甘く見ていたらしい」

 

 駆けつけたエリック達の視界に映ったのは、特に顔色を変えることなくこちらを見ているヴァロンと、酷く傷付けられ、地面にうつ伏せに転がっているジャンクの姿。

 彼の着ていた服は至る所が裂け、剣によるものであろう真新しい無数の斬り傷と、元々あったらしい痛々しい背中の古傷が露出している。いつも身に付けていた眼鏡は、どうやらどこかで落としてしまったようだ。

 自身の足元に転がる彼の存在を気にすることなく、ヴァロンは相変わらず笑みを浮かべたままこちらを見ている。何とかして彼をジャンクから引き離さなければ、とアルディスはレーツェルを宝剣に変化させ、ヴァロンを一瞥する。

 

「……ッ」

 

 ヴァロンは何も言わなかったが、人の気配を感じ取ったのだろう。何とか意識は保っていたらしいジャンクは震える両手で身体を起こし、エリック達の方を向いた。

 彼が反応を示すまでには、若干の時間差が生じた。恐らく、視界がはっきりしていなかったのだろう。だが、彼はエリック達の存在に気付くと同時、目を見開き声を震わせて叫んだ。

 

「ど、どうして……っ、駄目です。逃げて、ください……!」

 

「え!? 先生、何を言って……」

 

「逃げて、ください……お願いです。後生ですから……!」

 

 明らかに、彼は取り乱していた。開かれた金と銀の瞳が、悲しげに揺らぐ。彼の瞳を始めて見たエリックとポプリが何の反応を示せずにいたのは、彼の様子があまりにもおかしかったからだ。

 

「この人には、勝てません……勝とうなんて、思わないでください……! だから、今すぐに逃げてください……!!」

 

 彼が言うように、エリック達もヴァロンの強さはよく分かっているつもりだった。だが、それとこれとは話が違うとアルディスは宝剣を構えたまま声を荒げる。

 

「ふざけないでください! 散々俺を助けてくれたあなたを見捨てるだなんて……そんな馬鹿げたことがありますか!!」

 

 アルディスだけでは無かった。皆、戦おうという意志を抱き、それぞれがヴァロンの動きに備えて武器を構えている。最初からこれくらいの覚悟はしていたのだから、当然といえば当然なのだが。しかし、ジャンクは力なく首を横に振るう。彼は今にも泣き出してしまいそうなのをこらえるように、両目を強く閉ざした。

 

「所詮、僕は人ではありません……そんなこと、気にしないでください。こうなって、当然の化物なのですから……だから……」

 

「ほう……?」

 

 今まで、何の動きも見せなかったヴァロンが、ここでついに動いた。手にしていた剣をレーツェルに戻し、彼は不気味な笑みを浮かべてみせる。

 

「人ではない、か……よく分かっているではないか。ただ、貴様は奴らを騙しに騙してきたのだろう? 自分は人だ、と」

 

 ジャンクが怯えきった目でヴァロンを見上げると同時、『メイルシュトローム』と術の名前が呟かれた。詠唱破棄による魔術発動だと気付くのには、そう時間はかからなかった。

 しかしながら、傷だらけの彼の身体では、真下に現れた魔法陣を中心に発生する竜巻状の水流から逃れることは、決して叶わない。

 

「ジャン!!」

 

 それはあまりにも突然で、エリック達は助けに入ることも、危険を伝えることさえできなかった。結果、ジャンクは渦に飲み込まれる形で空に飛ばされ、そのまま勢いよく地面に叩きつけられてしまった。

 

「がは……っ、ぐっ、う……」

 

「!?」

 

 痛みに顔を歪ませつつも、無理矢理身体を起こしたジャンクの髪から水滴が落ちた。それだけではない。その髪の間から、エリック達にとっては予想もできなかった物が顕になっている。誰もが、ヴァロンがいるにも関わらず、ジャンクの姿を凝視してしまっていた。

 

「ッ!? ひ……っ!」

 

 エリック達の視線に気付いたのか、彼は慌てて両手でそれを隠すように押さえ込む。一体何に怯えているのか、その手は酷く震えていた。

 

 

――まさしく、その姿は異形だった。

 

 

 彼の耳は、短い空色の髪で隠しきれない程に長い、魚のヒレのような物へと変わっている。淡い青紫色のグラデーションが特徴的なそれは、ウンディーネの耳と非常によく似ていた。

 

「……ッ、だ、騙す気は無かったんです……! 本当に、そんな、つもりは……っ、僕、は……!」

 

 怯えている。それも、尋常ではない程に。

 

「ジャン、落ち着け。とりあえず、僕の話を……」

 

「すみ、ません……許して、ください……ッ、ごめん、なさい……」

 

 恐怖のあまり、こちらの話を全く聞いていない。

 これまでにも、あの耳のせいで酷い目にあってきたのだろう――エリック達も危害を加えてくるのだと、そう思い込んでしまっている。

 

(なるほど、な……)

 

 あの耳は身体が濡れると出現してしまう類のものだ。それなら一緒に温泉に入った際、彼が頭にタオルを被っていた理由にも納得がいく。マルーシャやディアナどころか、アルディスやポプリも驚いているようであったが、不思議とエリックは、すぐに平常心を取り戻すことができた。

 あのヒレの色には、見覚えがあった。恐らく同一の存在だろう。どうりでアルディスと対峙した際、いつの間にやら背中に酷い傷を負っていた筈だと溜息さえ出そうになる。これで、ジャンクの行動の謎にも大体の答えが出せた。

 

「ジャン!!」

 

 威圧感を出すために少し声を低くし、エリックは声を張り上げた。尚更怯えさせてしまうだろうが、今はそれで良い。それでも意識をこちらに向けてもらわなければ何も話せないと判断したのだ。

 

「――ッ!!」

 

「大丈夫だ。僕ら相手にまで怯えるんじゃない……何もしない。怖がらなくていい」

 

「……ぁ、……」

 

 エリックの声に反応こそしたが、相変わらずジャンクは怯え切った様子で耳を抑えて震えていた。加えて彼は何かを言おうとしていたが、今となっては内容には察しが付く。エリックの脳裏を、泉で彼と交わした会話が過ぎっていった。

 

 

『……バカバカしいとは、思わないのか? 僕が、目を開ければ良いだけの話ですよ』

 

 

『正直に言わせてもらえば……全く思わないっていうのは、嘘になるかな。それでも、お前が理由もなくその状態を貫いているとも、僕は思っていない』

 

 

 あの時もそうだったが、彼が頑なに目を開けなかった理由はヴァイスハイト特有の右目を隠すためだったのだろう。

 加えて、あの体質である。これこそが今まで、彼が『人に受け入れてもらえなかった』理由なのだろう。

 

 

『……悪いな。受け入れられるのには、どうにも慣れていないんです』

 

 

――あの時、彼が発した言葉の意味が、漸く理解できた。

 

 

「前に言わなかったか? 僕は、お前を拒んだりしないと」

 

 エリックの口から、もう一度紡がれた言葉。それは簡単なもので、短い言葉。ジャンクは怯えながらも、ゆっくりと顔を上げ、エリック達の姿を見据えた。

 

「ごめんなさいね、先生。そのヒレ、懐かしい感じがして驚いちゃったの。でも、心配しないで……あたしも、エリック君と同じ意見よ」

 

 真っ先に口を開いたのは、ジャンクと最も付き合いの長いポプリだった。彼女はどこか儚げな笑みを浮かべ、話を続ける。

 

「確かにそれ、変わってるとは思うわ。普通じゃないかもしれない。けれど、先生は先生よ……あたしは、仮に先生が化け物だったとしても付いて行くわ。いいえ、そもそもあたしは、あなたを化け物だなんて思わないから」

 

 ポプリの言葉に賛同し、そうだよ、とマルーシャが叫んだ。

 

「ジャンは化け物なんかじゃない! わたし達は、ちゃんと分かってるんだから!!」

 

「……」

 

 

――皆、嘘など付いていないというのに。

 

 

 それなのに、ジャンクはただただ震えるだけだった。素直に「ありがとう」と言うことができなかった。それどころか、彼は何の言葉も発せていなかった――それが意味することは、誰の目にも明らかだった。

 ディアナは、ちらりとジャンクの方を振り返り、やんわりと笑ってみせる。

 

「今のあなたは、オレ達がいくら『大丈夫』だと言ったところで信じてくれはしないのだろう……それでも構わないさ。ただ、オレ達はオレ達が思うように動く。その邪魔はさせないからな?」

 

 皆がジャンクに語りかける中、アルディスだけはヴァロンから目を離さず、彼を咎めるような、鋭い視線を投げ続けている。こちらの状況が少し落ち着いたと判断したのだろう。アルディスは静かに、口を開いた。

 

「彼には申し訳ないとは思う。だが、ここに来るまでの間、俺達はマルーシャからあれこれ聞いてきた。あなたの行動、発した言葉、そして、ここに来て見た光景……未だに意味が分からない」

 

 かなり気が立っているらしい。年上に対しては基本的に敬語を徹底している上に、比較的幼い喋り方が特徴的なアルディスらしからぬ、随分と威圧的な荒い口調。

 

「あなたの目的はあくまで、『逃げ出した実験体を回収』することだと聞いている。だから正直、俺はここまで彼が痛め付けられているとは思わなかったんだ……一体何故、彼をここまで虐げる必要があった!?」

 

 本当に実験体を回収するという目的のためだけに彼が来たというのなら、ジャンクが捕まってしまった瞬間ラドクリフに戻られていてもおかしくはなかった。この得体の知れない矛盾点に関してはエリックも、他の者達も不思議に思っている点だった。

 そんなアルディスの問い掛けに対し、ヴァロンは「面白い」と言って笑ってみせる。

 

「クリフォードのその姿を見せれば、貴様らは散ると思ったが。仲間意識という物か? 私にはよく分からん話だ……強き者が弱き者を使役する。そのような関係を保つ方が、余程楽だろうに。そういう意味では、拷問とはとても便利な物だ」

 

 わざわざジャンクに水属性の術をぶつけたのは、彼の異様な姿を晒すため。拒絶される恐怖に怯え、震えていたジャンクの姿が脳裏を過ぎる。

 

「ふふ、父親から酷い虐待を受け続けていたこいつの場合は特に有効だったよ。最初こそ嫌がって喚いていたが、しばらく痛め付ければ、すぐに従順になった……とは言っても、困ったことに十年も間ができてしまったからな。逃げ出した罰くらいは与えなければならないだろう?」

 

「ッ! あなた、最低よ……!」

 

 ヴァロンの口から語られた言葉を聞き、ポプリは目に涙を溜めて彼を睨み付ける。言いたいことは沢山あるというのに、上手く言葉が出てこなかった。

 

 確かに、ジャンクは――クリフォードは、普通ではない子どもだったのかもしれない。それでも、実の親に虐待され、痛め付けられ、挙げ句の果てには研究の道具にまでされる必要性は、彼が犠牲になる理由は、どこにもないというのに。怒りに震えるポプリを見据え、ヴァロンは再び口を開いた。

 

「いかなる世界でも、発展に犠牲は付き物。倫理に反すると非難されたこともあるが、何だかんだ言って私の研究は認められてきた。ラドクリフ前王は特に、私を評価していたな」

 

 かつて、ラドクリフでは彼や、彼と同じ研究者達の存在によって多くの人々が苦しめられ、多くの命が消されてきた。それは、疑いようのない真実。そしてヴァロンは、自分は何も悪くないだろうと言わんばかりに肩を竦めて笑ってみせた。

 

 

「他人に認められたい、というのは全ての人間に共通する欲求だと思うが?」

 

 

――確かに、承認欲求というものは誰しもが持っていることだろう。

 

 子どもだろうが大人だろうが、それは変わらない。しかし、だからといって彼の行いが、犠牲を無視してまで評価されようという思想が、正当化されて良い筈がない――!

 

「ふざ、けるな……!」

 

 アルディスは声を震わせ、右手の宝剣を握り締める。奥歯を割れそうな程に強く噛み締めているせいで歪んだ彼の口元を、涙が伝っていった。

 

「ヴァロン、あなたのような存在が……弱者を食い物にして生きているような汚い奴が、そんな最低の行為が……許されて、たまるものかああぁぁッ!!」

 

 咆哮し、アルディスは一気にヴァロンとの距離を縮め、斬りかかる。冷静さを欠いた行動ではあったが、その気持ちは分からなくもない。額を押さえてため息を吐き、エリックは前を見据えて口を開いた。

 

「皆はここで援護を頼む。上手いことジャンを庇うような立ち回りができたら良いんだが」

 

「エリック君!?」

 

 ただ、あくまでもエリックの方が冷静だったというだけだ。彼自身、黙ってアルディスとヴァロンに一騎打ちをさせておくつもりなど全くない。エリックは高ぶりそうな気持ちを抑えるために深く息を吐き出し、宝剣と短剣の柄を深く握り直した。

 

「あれが許されてはいけないと思うのは、断ち切るべき間違った思想だと感じるのは、僕だって同じだ!」

 

 叫び、エリックはアルディスを追う形で走り出した。途中、力強く地を蹴り、彼は大きく跳躍する。

 

「――爆砕陣(ばくさいじん)!」

 

 空中で身を翻し、重力に任せる形で剣を振り下ろす。エリックの存在に気が付いたアルディスは、それに巻き込まれないようにと軽く後ろに飛んで距離を取った。その手には、拳銃が握られている。

 

「――ヴァリアブルトリガー!」

 

 銃声と共に放たれた弾は、ヴァロンの頭部を狙って真っ直ぐに飛んでいく。しかし弾が、長剣の刃がヴァロンの身を傷付けることはなかった。

 

「!」

 

「前よりはマシになったとはいえ、考え無しの特攻はいかがなものかと思うぞ」

 

 ヴァロンの姿はエリック達が狙ったその場所には既になく、彼はアルディスの真後ろへと迫っていた。移動されてしまったのだ。アルディスは慌てて振り返り、距離を取ろうとしたがもう遅い。ヴァロンは長剣を手にした腕を後ろに引き、そのまま一気に剣を突き出した。

 

「――空破衝(くうはしょう)!」

 

「ッ、がはっ!」

 

 刃に腹を貫かれ、発生した突風に流される形でアルディスはエリックの傍に吹き飛ばされ、地面を転がった。

 

「アル!」

 

 エリックはアルディスの傍に駆け寄り、地面に剣を突き立てて魔法陣を発生させる。『守護方陣(しゅごほうじん)』と呼ばれる、治癒と攻撃の両方を兼ね備えた技だ。

 

地点遷翔(ヴァーチェル・ハロ)はかなり魔力消費が激しい能力だというのに……! 彼は、それ程までにあの力を使いこなしているというのか!?」

 

 傷を治してもらったアルディスだが、それに気付かない程に困惑しているらしい。彼は目を細め、どうしたものかと頭を振るう。

 

「仮にそうだというなら、俺達の攻撃は一切当たらない可能性がある……」

 

「!? 前は普通に通用していたのに……! いや、あの時は手加減して能力を使わなかったのか!」

 

 ヴァロンが地点遷翔(ヴァーチェル・ハロ)の能力を使ったのはたった一回。それも、戦闘中ではなくレムの攻撃から逃げ出すのが目的。そのため、エリック達には彼らが誰の力であの場から逃走したのかが分からなかった。彼は能力を使わなくとも圧倒的な強さを持っていた。エリック達もこれまで何もして来なかったわけではないが、元々の差が大き過ぎる。普通に戦って勝てる筈が無いと確信せざるを得なかった。

 

「アル! 何とかならないのか!? 地点遷翔(ヴァーチェル・ハロ)に弱点は無いのか!?」

 

「あるにはある。だけど……」

 

 薄々、無駄だということは理解できていた。それでも、ジャンク達の元へと向かうヴァロンをそのまま放置するわけにはいかないと、エリックとアルディスは再び走り出す。

 

地点遷翔(ヴァーチェル・ハロ)は、その軌道や能力者の思考を読み取ることのできる『透視干渉(クラレンス・ラティマー)』の能力くらいでしか対応出来ない……」

 

「それじゃ……」

 

 透視干渉(クラレンス・ラティマー)。天才的にその力を使いこなす人物のことを、エリック達はよく知っていた。しかしながら、その人物は――ジャンクは、彼に太刀打ちできる状態では無い。

 

「事実上、アイツにはジャンさんか、意志支配(アーノルド・カミーユ)の力でジャンさんの能力を借りた俺の攻撃くらいしか当たらないってこと。分かってるとは思うけど……今の俺は、何度もそんなことできる身体じゃない……」

 

 アルディスは悔しさに顔を歪め、微かに涙の残る瞳を細めた。仮にジャンクが万全な状態であったとしても、追い詰められた彼はヴァロンと満足に戦えない。代わりに呪いに身を蝕まれているアルディスがその力を使えば、命に関わる。それゆえ、何の対策もなくがむしゃらに攻撃を繰り出すしか、エリック達には術がなかった。

 

 マルーシャ達も後ろからエリックとアルディスを援護する形で攻撃術を発動させ続けてくれたが、やはりヴァロンには当たらない。

 それどころか、術の詠唱すら阻まれてしまう。通常の攻撃術では駄目だと考えたマルーシャが何度か精霊召喚の詠唱を試みたが、それはことごとくヴァロンによって阻まれてしまった。ポプリは彼の能力そのものを封じようとしていたが、当然ながらそちらも叶うことなく途中で妨害されてしまう。

 普通の攻撃は当たらない。ヴァロンの攻撃そのものを封じようにも止められてしまう。一瞬でも隙を見せれば、今度はヴァロンからの強烈な攻撃が襲いかかる。ただでさえ疲労していたエリック達は一方的に痛めつけられ、徐々に戦意を削がれていく。

 

 

「まだ、諦めないようだな。分かるだろう? 今の貴様らでは、私一人にすら勝てぬということを」

 

 能力を使い続けている筈のヴァロンには、一切疲労した様子が見られない。せめて彼から特殊能力を発動させる気力を奪えればとエリックは考えるのだが、その前にこちらが全滅してしまうのは目に見えていた。

 

(どうすれば……! 一体、どうすれば良い……!?)

 

 ヴァロンの目的はあくまでもジャンクのみ。自分達との乱闘は暇つぶしのようなものなのだろう。ことごとく致命傷を与えてこない彼の態度からして、それは恐らく間違いない。

 ここで諦めて降伏すれば、もしかすると助けてくれるかもしれない。だが、その代わりジャンクはまず助からない。エリックはそのような選択肢のことは最初から考えてはいなかったし、アルディス達もそれは同様だ――それなのに、今の自分達はヴァロンにたった一撃を当てることさえ、叶わない。

 

「やかましい! オレ達にとってこれは、勝てる勝てないの問題ではない!」

 

 ヴァロンの挑発に反抗するように叫び、ディアナは空中にタロットカードをばら蒔く。あのカードを媒体に、強力な術を発動させる気なのだろう。

 

「――邪を終焉へと誘え! 炎神の眷属よ、その力、今こそ解き放たん!!」

 

 いつも以上に複雑な魔法陣がディアナの真下に浮かび上がる。流石にこれは厄介だと思ったのか、ヴァロンはディアナの背後に瞬間移動した。

 

「……切り裂きなさい」

 

「!?」

 

 エリックも薄々、ヴァロンの行動を読んでいた。それゆえ、彼に悟られぬようにディアナの傍に駆け寄ろうとしていた。

 

「――アクアエッジ!」

 

「くっ!」

 

 だがそれよりも早く、水の刃が転移したばかりのヴァロンを襲ったのだ。ダメージこそ少ないが、それは間違いなくヴァロンの身を傷付けていた。

 

「先生……!」

 

 術を発動させた彼は、しっかりとヴァロンを見据えていた。しかし突き出した左手は、酷く震え、恐怖のせいか傷のせいか呼吸も荒い。こんな状態の彼が術を外すことが無かったのは、唯一ヴァロンに対抗出来る能力の所有者ゆえだろう。

 

「クリフォード、貴様……!」

 

「頼む、当たってくれ! ――バーンストライク!」

 

 間違っても自分には攻撃してこないと思い込んでいたジャンクの、突然の攻撃に怯んだヴァロンの身に巨大な炎の弾が襲いかかる。

 

「!? この……っ」

 

 彼は当然の様に地点遷翔の能力で炎の弾をかわそうと試みる。しかし、流石の彼でも完全にそれらをかわすことはできなかったらしい。彼の上着は焼け焦げ、原型を留めてはいなかった。炭と化したそれらを投げ捨て、ヴァロンは舌打ちする。

 

「しまった、当て損ねたか……! ッ、まずい! ジャン!!」

 

 ヴァロンに攻撃を当ててしまったことにより、苛立たせてしまったのだろう。身動きの取れないジャンクの目の前に、ヴァロンが迫る。その手には、剣がしっかりと握られていた。

 その姿を見たジャンクは恐怖のあまり両目を閉ざして硬直してしまっているし、仮に恐怖に打ち勝てたとしてもあの傷では動けないだろう。チャッピーやアルディスが慌てて彼の元へ向かっているが、間に合いそうもない!

 

(駄目だ、遠すぎる……っ!)

 

 

――嗚呼、今ここで、鳥のように空を翔け、彼の傍に行くことができたならば。

 

 

 そんな幻想を抱いたエリックの視界が、急に歪んだ。立ちくらみかと思ったが、違う。

 

 世界が、止まっていた。

 

 

「な……っ!?」

 

 驚くエリックの頭に、懐かしい声が響いた。

 

 

『良かったぁ、あの時、キミとの繋がりを作っておいて』

 

 聴いたのは、たった一度だけ、八年前の、あの一瞬。けれど、エリックははっきりと、その声を覚えていた。

 

「ノーム……?」

 

 ふっと、目の前に短い橙色の髪と緑の瞳を持つ、月桂樹の冠を頭に乗せた幼い少年が現れた。彼は複雑な模様が描かれた、だぼだぼの大きな服をまとっている。袖が長すぎて手が出ていないし、そもそも袖が長い作りのようだ。地面に擦ってしまいそうだったが、彼は宙に浮いている。服は、地に付いていない。

 

『せいかーい! ボク、ノーム。キミが番人さんの家に入り浸っててくれて助かったよ。だから今、こうして話ができるんだ……ああ、ちょっとの間だけだけど、時間止めてるから安心してね。ボク、すごいでしょ?』

 

 ノーム、と名乗った少年は緑の瞳を細め、クスクスと笑う。ノームは驚くエリックの胸を指差し、笑みを浮かべたまま首を傾げてみせた。

 

『本当はこのまま、キミと契約するのも良いんだけどねぇ。というか、相性が良さそうだからボクはずっとキミに目を付けてたんだけど……今のままのキミと契約したら、きっとボクは、キミを壊してしまうから』

 

「どういう、ことだ……?」

 

 ノームと契約をすると、エリックが壊れてしまう。それは一体どういうことなのかとエリックが問えば、ノームは笑みを消し、しばし悩んだあと……首を横に振った。

 

『上手く説明できそうにないや。クリフなら、大丈夫かな……後でクリフに聞いて。その代わり、手を貸すから』

 

 ノームが、こちらに近付いて来る。不思議と、恐怖も嫌悪感もない。されるがままにしようという意志が、エリックにはあった。

 

『前々から思ってたけど……番人さんはこの才能ポンコツなのに、君にはあるんだよねぇ……いっそ番人さんにあってくれたら良かったのになぁ。そしたら、ボクも寂しくないのに』

 

 困ったように笑いながら、ノームは浮遊してエリックの右目付近に触れた。

 

 

『――飛べないならば、飛ばせば良いんだよ』

 

 

「ッ!?」

 

 刹那、右目に熱が灯る。驚き、身体を硬直させたエリックの右手に握られていた宝剣が、強く瞬いた。

 

『構え方は身体が、力は、キミの身体の中に入り込んでる子達が教えてくれる。だから、大丈夫……あとは、任せるよ。今、ボクにできるのは、ここまでだから』

 

 ノームの身体が、掻き消える。そして、ノームとは別の“声”が、脳裏に響いた。

 

『君は、私達の“弟”を助けてくれたから』

 

『“生まれてこれなかった”僕らの代わりに、助けてくれたから』

 

『今度は、僕らがあなた達を助けます!』

 

 聞こえてきたのは、ディミヌエンドの地下で聴いたあの声。しかし、あの時とは違い、その声はずっと分かりやすく、ハッキリとした口調でエリックの耳に届いていた。

 

「……」

 

 光り輝く宝剣“だったもの”を左手に持ち替え、エリックは真っ直ぐに前を見据える。指先に暖かな感触を感じながら、右腕を後ろに引いた。

 

 

(……飛べないなら、飛ばせば良い)

 

 風が、強く吹いた。

 時間が、動き始めた。

 

 エリックは軽く息を吐き、力を込めていた右の指を、開放した。その刹那、彼の右目が金色に瞬いた。

 

「――蒼燕(そうえん)!!」

 

 放たれたのは、蒼き光の矢。その矢は美しい直線を描き、油断しきっていたヴァロンの右肩を貫いた。

 

「ぐあ……ッ!?」

 

 驚いたヴァロンが、右肩を抑えながらエリックを振り返る。ヴァロンだけではない。皆が、エリックの姿を見て驚いていた。

 

「これは……間違いなく別のも混ざってるよなぁ……でも、無限の軌跡(フリュードキャリバー)。取得できたみたいだ」

 

 エリックは静かに左手を下ろし、再び息を吐く。

 今、彼が手にしていたのは、剣ではなく――大きな青い鳥が翼を広げたような姿をした、息を呑むほどに美しい弓だった。

 

「なるほど、宝剣の力か……やはり、素晴らしい……」

 

 ヴァロンは忌々しそうに、それ以上にどこかうっとりとした様子で、エリックの持つ弓を眺めている。その隙に、チャッピーがジャンクを回収し、その前にアルディスが陣取った。

 

「今だ! 連撃する!」

 

 やはり、攻撃がまともに当たらなければ決定打にはならない。エリックの攻撃で怯んだ今がチャンスとアルディスは宝剣の形状を薙刀へと変化させ、その切っ先を地に突いた。瞬間、アルディスの背に赤い左翼が出現する。

 

「――煌きの十字、彼の者に贖罪の時を与えんことを!」

 

 彼の足元に展開されるのは、白い輝きを放つ魔法陣。同じ物が、ヴァロンの真下の地面にも浮かび上がっている。ここまでは、マルーシャ達にもできたことだ。

 

「駄目、それじゃ逃げられちゃうよ!」

 

 しかし、問題はその後。術の発動直前に、ヴァロンはその効果が及ばない場所に転移してしまうのだ。これで、マルーシャ達は何度も術をかわされ、反撃を受けてきた。やはりと言ったところだろうか。ヴァロンは術の届かない場所へと移動する。だが、この点においてはアルディスの方が上手だった。

 

「大丈夫、逃がさないよ……絶対に!」

 

「!」

 

 ヴァロンが飛んだ場所。真下には、白の魔法陣。そしてアルディスは、その口元に微かに笑みを浮かべた。

 

「――グランドクロス!!」

 

 魔法陣の光に拘束され、身動きの取れなくなったヴァロンに十字の刃が襲い掛かる。転移は、させなかった。

 

 技の発動を見届け、アルディスは地面に膝を付く。ヴァロンの絶叫を耳にしつつ、彼は苦痛に目を細めた。ごほごほと咽せ、喀血が、ポタポタと地面に落ちて染みを作った。

 光属性高位魔術グランドクロスの発動に加え、外さなかったということは意志支配を用いて、ジャンクの能力を使ったのだろう。その負担は、大きい。

 

「馬鹿野郎! おい、大丈夫か!?」

 

 弓を手にしたまま、エリックはアルディスの傍に駆け寄る。アルディスはエリックを心配させまいと顔を上げ、脂汗の浮いた青白い顔で微笑んでみせた。

 

「う……ごめん、思ってたより、反動が……!? え? こ、これ、は……!? うっ、く……っ、ああああぁッ!!!」

 

「アル!?」

 

 しかし、彼は突然叫びながら頭を押さえ、その場に崩れるように蹲ってしまった。一体、どうしてしまったというのだろうか。

 恐らく呪いとは全く無関係に肩を震わせ、涙を流すアルディスが気になったが、仕留めきれなかったらしいヴァロンが動き出したことでエリックは考えることをやめざるを得なくなってしまった。ただ、ヴァロンはアルディスとジャンクの姿を交互に見た後、蔑むように笑みを浮かべただけ。舐められているのだろう。襲ってくる気配は無かった。

 

「なるほど、そういえばノア皇子は意志支配(アーノルド・カミーユ)の使い手……クリフォードの力を借りたは良いが、共解現象(レゾナンストローク)の暴走が発生したということか……」

 

 ヴァロンが突然話しだした、共解現象(レゾナンストローク)の暴走の話。この話に、エリックは聞き覚えがあった。

 

(そういえば、ジャンが良く起こすんだっけ。アルの心が、記憶が、勝手に視えてしまうって……今回は逆、か……)

 

 共解現象(レゾナンストローク)は本来、能力者同士が互いを助け合う現象。しかし、共にヴァイスハイトであるアルディスとジャンクの間では悪影響を及ぼすことがある。

 同じ精神系能力者であることを考えれば、今回はアルディスがジャンクの記憶を視てしまったのだろう。余程酷いものを見たのか、地面に膝を付き、頭を押さえたままアルディスは身体を震わせ、涙を流し続けている。そんなアルディスを見て、ジャンクは今にも泣き出してしまいそうな笑みを浮かべた。

 

「……。何なんでしょうね、僕は。助けようとしてくれた人ばかり、犠牲にしてしまう……本当に、何なんでしょうね……」

 

「ジャン……大丈夫だ、お前のせいじゃない」

 

 エリックは慰めの言葉をかけたが、無駄だった。ジャンクは、涙だけは流すまいと両目を閉ざし、そのまま俯いてしまった。

 

 

「僕なんて、最初から生まれてこなければ良かったのに……」

 

 

 彼が酷く声を震わせ、とうとう漏らしてしまった――あまりにも、悲しすぎる言葉。今すぐこの場で命を絶ってしまいそうな程、どうしようもない絶望感さえも感じられる。

 

「じゃ、ジャン……」

 

 何か言ってやらなければ、とエリックは思った。しかし、何も言えなかった。名前を呼ぶことしかできなかった。何も、思い浮かばなかった。

 

「ふふ……」

 

 エリック同様、皆、何も言えなくなってしまった。そんな中、ヴァロンは場違いな明るい笑みをこぼした。

 

「だから、私の元に戻って来いと言っているのだ。私なら貴様を存分に、有意義に扱ってやれる」

 

「……」

 

 有意義に扱ってやれる。それは勿論、『実験体』としての話。

 

「ッ! 黙れ!!」

 

 あまりにも酷い彼の発言に、今まで泣いていたアルディスが顔を上げ、立ち上がった。

 

「戦争中もそうだと聞いたが……ノア皇子は随分と諦めが悪いのだな。まだ立ち上がるか」

 

「負けて、たまるか……これくらい、これくらいのことッ!! 俺は負けない、絶対に、最後まで諦めない……ッ!!」

 

 ヴァロンに蔑まれながらも、アルディスは槍を構える。しかし、呪いに加えて共解現象(レゾナンストローク)が暴走した影響で、その足元は覚束無い。

 

「ジャンさん! あなたもあなただ!! 俺を馬鹿にするのもいい加減にしてください!! 俺が、フェルリオの皇子たるこの私が!! この程度のことで屈すると思っているのですか!?」

 

「……ッ」

 

「俺は、あなたを助けたくてここまで来たんだ! それで痛い目に合ったって構わない! それ以上に俺が恐れるのは……大切な人や、大切なものを守れず、目の前で失ってしまう……そんな、惨たらしい結末だけだ……ッ」

 

 薙刀を掴む手はガタガタと震え、翡翠の瞳からは相変わらず涙が流れ続けている。強引に虚勢を張っているのは、誰がどう見ても明らかだった。アルディスは頭を振り、頬を流れる涙と、口元の血を乱暴に拭う。しかし、それはすぐに無駄な行為となってしまった。新たな涙が、また頬を伝った。

 

「今まで、俺は何も守れなかった! それは、事実だ……それでも」

 

 ほとんど泣きじゃくりながら、アルディスは背後にいるであろうジャンクに、そして目の前に立っているヴァロンに向かって訴え続ける。

 

「それでも俺は、諦めない!! 守りたいものが、目の前にある限り、俺は……俺はッ! 何度だって立ち上がってやるッ!!」

 

「! アル!!」

 

 頭に血が上ってしまっているらしいアルディスは、自分の身体のこともお構いなしにヴァロンに向かって突撃していこうとする。エリックは慌てて弓を構え直し、矢を放とうとした――その時!

 

 

「――氷結の調べ、我が仇なす者を白き闇へと誘わん!」

 

 

 突如、上空から聞こえてきた男の声。その声と共に、ヴァロンの真下に淡い蒼の魔法陣が浮かび上がる。彼が地点遷翔(ヴァーチェル・ハロ)の能力を用い、魔法陣から逃げようとも無駄だった。

 つまり、術者はヴァロンの能力が通用しない相手。アルディスのような例外を考えないとすれば、間違いなく透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力者である。

 

(この、声は……!)

 

 エリック達には、その声に聞き覚えがあった。ただ、その声の主は、その人物は少なくとも――“こちら側”の人間では無かった筈。

 

「空虚なる楽園を謳え! ――ブリザード!!」

 

 術名が叫ばれると同時、ヴァロンが立っていた場所を中心に氷の塊が弾けた。刹那、猛吹雪が吹き荒れ、エリック達の視界は一時的に遮断される。

 

 

「ッ! 一体、何のつもりだ……! 弟の仇討ちのつもりか! “ダリウス”!!」

 

 猛吹雪の中、地面に降り立った男は無言でヴァロンを見据え、身に纏う黒衣と空色の短い髪を揺らしていた。彼の周りには、色取り取りの下位精霊達が飛び回っている。

 

「精霊達が騒いでいるから、一体何事かと思ってきてみれば……『何のつもりだ』はこちらの台詞だ。勝手な暴走は謹んでもらおうか!」

 

 ダリウス、と呼ばれた青年はヴァロンを一瞥した後、槍を支えに立っているアルディスの顔を真っ直ぐに見つめてきた。

 

「何度でも立ち上がってやる、か……それがお前なりの決意ということか。肝心の行動の方は少々無謀過ぎるが、悪くない。気に入ったぞ」

 

「やっぱり、あなたは……! どうして……!?」

 

 高圧的な言い回しが目立つが、口元を緩めた表情や発する言葉からは敵意は一切感じられない。それどころか、彼の行動は明らかにエリック達を助けるようなもの。その理由は、全く分からなかった。

 

「どういうことですか!? ダークネス!」

 

 アルディスの問いには答えず、突然現れた青年――ダークネスは、ヴァロンに対して警戒した様子を見せ続けている。彼らは、味方同士では無かったというのだろうか。

 

「……」

 

 そして、ダークネスの出現に最も驚きを見せていたのは他でもない、ジャンクだった。彼は金と銀のアシンメトリーの瞳を丸くし、微かに震える唇を小さく動かした。

 

「……兄、さん?」

 

 ジャンクの、様々な感情の入り交じった弱々しい呟き。その声は誰の耳にも届かず、吹き荒れる風の中に消えていった。

 

 

 

―――― To be continued.




精霊ノーム

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弓装備エリック

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(イラスト:長次郎様)


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Tune.39 疑惑の青年

 

「……」

 

 ダークネスは何も言わず、目の前のヴァロンに対し威圧的な姿勢を取り続けている。無言の圧力をかけている、と言えるような状況だった。

 対するヴァロンも「そこをどけ」と言いたげな様子だったのだが、諦めたのだろう。彼はため息を吐き、「やれやれ」と口を開いた。

 

「権力には抗わない方が賢明だ。上司が『邪魔な欠陥品(ジャンク)』だと考えると虫唾が走るが……仕方あるまい、ここは退いてやろう」

 

 邪魔な欠陥品。エリック達には言葉の真意こそ分からないが、その言葉がわざわざ目の前のダークネスを侮辱するような言葉であることは分かる。クスクスと目の前の青年を嘲笑しつつ、ヴァロンは剣をレーツェルへと戻した。

 

「ッ! 俺のことは、何とでも言えば良い!! ただ、殿下の意向に背くことは許さん!!」

 

(兄上の意向?)

 

 ダークネスの言う『殿下』は、エリックのことではない。エリックの兄であるゾディートを指す言葉だ。だが、それではヴァロンが自分達を、ジャンクを襲撃することがゾディートの意向に背く行為であるということになる。

 その真意は分からないが、ただ一つだけ確信できることがあった――それは、少なくとも兄とジャンクは何かしら関係があるということだ。そうでなければ見ず知らずの男を、それも憎んでいると思われる弟の仲間を守るようなことはしないだろう。

 

 エリックが悩んでいる間に、いつの間にかヴァロンの姿は消えていた。地点遷翔(ヴァーチェル・ハロ)の能力で移動したのだろうが、本当に厄介な能力だと感じずにはいられない。ダークネスはしばらく警戒して辺りを見回した後、エリック達の方に向き直った。

 

「はぁ……やっと帰ったか……まあ、抵抗されなかっただけ良いと思うか……」

 

 彼は決して、そのまま立ち去ろうとしなかった。帰ろうという意志もなさそうだ。とてもではないが彼と乱闘できる程の体力も気力も今のエリック達にはない。この状況だ。ダークネスもヴァロンと共に帰ってくれればと思わずにはいられなかった。

 

「……」

 

 何を考えているのか、ダークネスはまじまじとエリック達の姿を見回した後、口元に軽く握り締めた手を当てた。悩んでいるように見えなくもないポーズだ。

 

(一体、何が来る……!?)

 

 エリックが剣を握る手に力がこもる。ダークネスが口を開いたのは、そんな時だった。

 

 

「しかしお前ら、盛大に痛め付けられたな。あの馬鹿、ちょっとは手加減しろっての……で、ここ山頂だぞ。大丈夫か?」

 

 

(……は?)

 

 彼が発したのは、あまりにも予想外な言葉。その言葉にわざとらしさは感じられない。変に衝撃を受けてしまったのは、エリックだけではなかった。皆、唖然としている。

 それでも衝撃を受けている場合ではないと気付いたらしいディアナは軽く自分の顔を叩き、タロットカードを手に声を張り上げた。

 

「一体何が目的だ!! オレは騙されないからな!!」

 

 そんなディアナに、ダークネスは肩を竦めてみせる。

 

「目的も何も……ここ、山頂だ。ディミヌエンドに行くにしろブリランテに行くにしろ、その身体で突破できるのかって話だ」

 

「い、いや! そうじゃなくて!」

 

 相手の言い分も最もだったが、そうじゃないとディアナは更に動揺を顕にする。その様子に、ダークネスもようやく彼女の主張を理解したらしい。

 

「んあ? ああ、そういうことか。心配するな。俺は別に、ヴァロンの手伝いをしにきたわけじゃない……こいつらがやけに騒ぐから、案内頼んで来てみたんだ」

 

 こいつら、というのは彼の周りを飛び回っている下位精霊達のこと。武器を構えるエリック達の目の前で、彼は精霊達と戯れている。

 かなり盛大に馬鹿にされているのかもしれないが、どちらにせよ彼からは戦意といったものが一切感じられなかった。

 

 

「まあ、この有様じゃこいつらが騒ぎたくなる気持ちは理解できたが……って、おい! クリフォード!!」

 

「えっ!?」

 

 話を途中でやめ、ダークネスは一変して酷く慌てた様子で走り出した。彼が向かう先にいたのは、完全に意識を失ってしまっているらしいジャンクだった。

 ヴァロンから庇うためにエリック達が彼に背を向けていたのに対し、ダークネスだけは彼と向かい合う立ち位置にいたためにいち早く異変に気付くことができたのだろう。エリック達がダークネスを止める間もなく、彼はジャンクの傍に駆け寄っていた。

 

 

「先生!」

 

 ポプリが近くに寄ろうとするのを制止し、ダークネスはぐったりと目を閉ざして動かないジャンクの呼吸と脈を確認する。

 

「傷のせいで少々危ない状態ではあるが……まあ、こいつの体質なら問題ないだろう。単純に気を失ってるだけだ。あの馬鹿がいなくなって気が抜けたんだろ」

 

 そう言ってダークネスは若干強ばっていた表情筋を微かに緩めた。とはいえ、相変わらず彼は目元を布で隠しているために、その表情の変化は非常に分かりにくいのだが。

 ジャンクの身体を抱えた状態で、ごそごそと服の間から何かを取り出そうとしているダークネスに、ディアナは躊躇いがちに話しかけた。

 

「ダークネス……敵意が無い、というのは何となく分かるんだが。ああ、そうだ。それより今、あなたは彼をクリフォードと、本名で呼んだよな? 何より先程、あの男は……ヴァロンは、あなたに対し『弟の仇討ち』と……」

 

「……ごめんな」

 

 ダークネスは、ディアナの話を一切聞いていない。それだけではなかった。彼は自身のスリット状に開いたローブの間からナイフを取り出し――ジャンクの腕を、服の上から豪快に切り裂いた。

 

「じゃ、ジャン!?」

 

「……」

 

 ジャンクは気絶している為に悲鳴をあげたり、腕を切り裂かれた痛みにもがき苦しんだりすることはなかった。だが、その場所からは大量の血が流れている。

 

「先生に何するのよ! ――切り裂け、漆黒の刃! アーチシェイド!!」

 

 今まで敵意を見せてこなかったとはいえ、流石にこれを見て黙っていることはできなかったポプリは即座に詠唱し、ダークネスの傍に弧を描く闇を発生させた。

 

「ぐあっ!?」

 

 闇はダークネスの左顔面を切り裂き、空気中に消える。血と共に彼の顔を覆っていた黒い布が宙を舞い、地面に落ちた。

 

「~~ッ! いってぇな! いきなり何しやがる!! 両目見えなくなったらどうしてくれんだ、このピンク頭!!」

 

 ただ、それは当然ながら致命傷には至らなかった。ダークネスはジャンクを地面に下ろし、出血の止まらない左のこめかみを片手で押さえてポプリを睨み付ける。

 

「え……?」

 

 いきなり攻撃を仕掛けたのは良いが、あまりにも予想外の光景を見ることとなってしまったポプリはリボンを握りしめて目を丸くしていた。その反応を見たダークネスは深いため息を吐き、どこか自嘲的に目を細めた。

 

「何だ? やるだけやって怯んだか? まあ良いさ……大体、反応も想像していた」

 

 布が落ち、顕になった長い睫毛の下から現れたつり目がちな瞳の色は、左が黒、右が金。つまり彼は、アルディスやジャンクと同じヴァイスハイトだったのだ。

 しかし、彼は明らかに通常のヴァイスハイトとは異なっていた。金色の右目はやや濁っており、目の周りは赤黒く変色している。ケロイドのようにも見えるそれは火傷の痕のようにも思えたが、恐らく全く違う何かなのだろう。

 

 

「左目に当たらなかったから、まあ……許してやる。それより、お前ら誰か包帯持ってないか? こいつの右腕、止血してやらないと」

 

「それなら最初から切らなきゃ良いじゃない! それに、今更善人ぶったって無駄よ!! あたしはあなたがやったことを、絶対に忘れたりしないんだから!!」

 

 今回、エリック達は特に襲ってくる気配のないダークネスの様子を単純に伺っているだけだったのだが、ポプリだけは違う。彼女は、最初から明らかな殺意をダークネスへと向けていた。

 

(ポプリ……)

 

 そういえば、とエリックは思う。彼女は、スウェーラルでダークネスと遭遇した際も、何故か怒りを顕にしていたな、と。

 ポプリがこの状態では、ダークネスから情報を聞き出すに聞き出せない。加えて、下手に刺激させてこれ以上ジャンクに危害を加えられるわけにはいかない。何とか落ち着かせようと、アルディスはどこか覚束無い足取りでポプリの傍へと歩み寄っていく。

 

「ポプリ姉さん、気持ちは分かりますが……今は、感情的になる場面では……」

 

 だが、ポプリは義弟の言葉を一切聞き入れなかった。

 

 

「ノアだって覚えてるでしょ!? アイツはあたしのお母さんを殺した男じゃない!!」

 

 

 目に涙を浮かべたポプリの口から語られたのは、誰も予想していなかった事実だった。

 だが、アルディスだけは違った。彼は、この事実を何となく予想していたのだろう――何故か彼は、確信を持てずにいたようだが。

 

 

『ごめん……もしかしたら、ね……ダークネスは、俺のことを知ってるかも、しれないんだ。わざわざ水属性の術使ってきたし、俺も、精霊術師(フェアトラーカー)でちょうどあの人くらいの年齢の人に……知ってる奴が、いるんだ』

 

『ただ、ね……ディアナも感じたんじゃないかと思うんだけど、あの人の気配……魔力の質はすごく独特だった。魔物の気配に、よく似ていたんだ……俺が知ってる精霊術師(フェアトラーカー)は、ちゃんと人の気配をしていたから……正直、判断に悩むんだ』

 

 

 ダークネスに襲われ、傷を負ったアルディスの言葉が脳裏を過る。そういえば彼は、外見的特徴や能力だけを見れば『昔会ったことのある人物』だと判断できていたが、魔力の質という純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)だからこそ感じ取れる異変によって自分の判断を揺らがせていた。

 しかし、実母を殺されたというポプリの言い分が間違っているとは思えなかったエリックは躊躇いがちにダークネスに視線を投げかけた。

 

「否定はしません。事情はどうあれ、それが真実ですから」

 

「……」

 

 エリックの無言の問いに気付いたのだろう。酷く淡々としたダークネスの言葉が返ってきた。彼はまるで「何とも思っていない」とでも言いたげな様子でエリックから目をそらし、今度はアルディスの方を見て口を開く。

 

「フェルリオ皇子の疑問に答えてやるよ。俺はあの事件の後、後天的にヴァイスハイト化……いや、魔物化とでも言おうか? つまりはそんな状況に陥ったわけだ。当然ながら、体内魔力の質は大きく変化している。人の体内魔力を感じ取れる純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)のお前なら、混乱して当然なんだよな」

 

「! 一体、何が……」

 

「……。お前、妙に俺に対してたどたどしくなったな。何かあったか? ……まあ良い。とりあえず、包帯をくれないか?」

 

 意外にもダークネスはエリック達の質問に素直に答えてくれた。普通に会話をするという、彼を警戒し続けているポプリには申し訳ないことになってしまっているが、あまりにも彼に対する謎が多すぎる状態だ。少しでも情報を得ておきたかったのだ。

 

「包帯、渡しとく。投げるからちゃんと受け取れよ」

 

「……ありがとう、ございます」

 

 エリックはダークネスに包帯を投げてから、彼の反応を伺い始めた。今は下手に質問をするより、相手の行動を待った方が良いだろうと判断したのである。

 包帯を受け取ったダークネスは軽く頭を下げた後、渡された包帯でジャンクの右腕の傷を止血し、彼を抱えたままゆっくりとこちらに向かって歩いて来た。

 

 

「――我願うは救済、汝らの歌声。傷付きし者に、活力与えよ」

 

 その状態のまま、ダークネスは謎の詠唱を口ずさむ。今にも彼に殴りかかっていきそうなポプリを除くと誰も何の抵抗も示さなかったのは、彼が口ずさんでいる詠唱の言葉が明らかに治癒術のものだったからだ。

 

「……」

 

「えっ!? ちょ……っ」

 

 術の発動に邪魔だったのか、ダークネスはジャンクをエリックに押し付けてきた。自由になった左手を開き、そこに右手の拳を打ち付けた瞬間、真下に魔法陣が浮かび上がる。空色に輝く魔法陣の光に引き寄せられるかのように、下位精霊達が集まり始めた。

 

「――クライスガイスト」

 

 魔法陣の輝きが一層強くなるのと共に聴こえてきたのは、小さな鈴のような高い音色。それは美しい和音を生み、魔法陣の光が弾けた後に消え去った。

 

「傷が、癒えたわ……」

 

「大した効果はないけどな。無茶させたら下位精霊が死ぬ。この程度で我慢してくれ」

 

 詠唱の言葉からして明らかだったが、やはり、クライスガイストは治癒術だった。それもマルーシャやディアナが扱うものとは異なり、精霊の力を借りることで発動する精霊術である。

 

「何で……何でよ……あなたは、黒衣の龍の幹部であって……あたし達の敵じゃない……!」

 

 これには、流石のポプリも『ただ単純に敵と認識して良い存在ではない』と思ったらしい。混乱して酷く声を震わせるポプリの頭の上に、ダークネスの右手がぽんと乗せられた。

 

「とりあえず、お前ら全員ブリランテまで送らせろ。残念だが拒否権はない。放置すれば、勝手に変な所で野垂れ死にそうだからな。それは困るんだ」

 

「何を言い出すかと思えば……ッ! 調子に乗らないで! そう言っておきながら、寝込みを襲ってあたし達全員殺す気なんでしょう!?」

 

 頭の上の右手を叩き落として睨みつけてくるポプリに対し、ダークネスは「やれやれ」と言わんばかりにため息を吐く。彼はしばらく悩んだ後、左襟に付けられた薄い水色のレーツェルに触れた。

 

 

「仕方ないな。だったらこれ、お前が持ってろよ」

 

 取り出され、ポプリに押し付けるように渡されたのは、控えめな装飾が美しい細身の長剣。レーツェル化していた物にも関わらず、それは鞘に入ったままの状態だった。

 

「あら、これ……ラドクリフの紋章が入ってるわね」

 

「殿下から頂いた大切な物だ。その……俺はお前らに対して何の危害も加えないから、だから、頼むから、それに変なことするんじゃないぞ……」

 

 本当に大切な物なのだろう。できれば返して欲しいとでも言いたげな、あからさまに困った様子のダークネスの姿に嘘偽りは感じられない。どちらにせよ、その剣は『家宝』として祀られていても良い程に上質な物であることは確かだ。

 

「ポプリ。一応言っておくがそれは僕の目から見ても高価な剣だ……それから、残念だが僕らだけで山を降りるのはまず無理だ」

 

 自分達だけでの山降りは不可能――ジャンクを押し付けられたことで、エリックはそれを痛感していた。先程まで意識を保ち続けていたのは、本当に気が張り詰めていたことだけが要因だったのだろう。ジャンクは既に、かなり衰弱した状態であった。どうりで腕を切り裂かれても目を覚まさない筈だとエリックはため息を吐く。

 身長の割にはやたらと軽いジャンクの身体を落とさないように抱え直し、エリックはアルディスへと視線を動かす。あちらも何とか意識を保って立ってはいるのだが、元々の体調不良と呪いの反動に加えて共解現象(レゾナンストローク)の暴走のせいで精神的なダメージまで負っており、とてもではないが戦えそうもない。

 

 

「それは分かってるわ。だけど、この男は……」

 

「心配なのは僕も同じだ。ただ恐らく、ダークネスはジャンの兄だ。それだけで、今回は信用して良いんじゃないかって、そう思うんだ」

 

 先程、ヴァロンはダークネスに対し『弟の仇討ちをしに来たのか』と言っていた。ここで言う“弟”が誰なのか。それは、種族や容姿を見る限り疑いようがない。

 

「恐らく、というかその通りなわけだが……まあ、あれだな。弟を助けてもらった恩返しだとでも思えば良い。実際、あながち間違ってない」

 

 そしてそれは、ダークネス自身によって肯定された。確かに、ダークネスはジャンクの右腕を斬り裂いたことを除けば、エリック達に対して何の危害も加えていない。ポプリが突然攻撃した時も、彼は反撃してこなかった。何より、この状況ではどうあがいても彼に頼るしかない。ポプリは悔しそうに両目を固く閉ざし、渡された剣を強く握り締めた。

 

 

「分かったわ……分かったわよ! だけどね、あたしはあなたのこと信じないから! だから、ブリランテに着くまではこの剣、絶対に返さない!!」

 

「……」

 

「それでもね、約束は守るから。あなたがあたし達に何の危害も加えてこなければ、この剣には傷一つ付けない……ただ、ひとつだけ条件を付けさせて?」

 

 ポプリはダークネスを、自分の母を殺した男の顔を下から覗き込み、怪訝そうな表情をしたまま口を開いた。

 

「ダークネス、じゃなくって。あなたの本当の名前、ちゃんと教えて。もう、大体想像は付くけれど、それでも、あなたの口から聞かせて欲しいの」

 

 本当の名前を教えて欲しい。それは、ダークネスにとってはあまりにも予想外過ぎる問いだったらしい。彼は一瞬目を丸くしたかと思うと、こらえきれないと言わんばかりに笑い出してしまった。

 

「お前、へんな奴だな……! 一体、何を言い出すかと思えば。俺はてっきり一発殴らせろだとか蹴らせろだとか言われるんだと思ったんだが……ふふふっ」

 

「わ、笑わないでよ!」

 

「悪い悪い。分かったよ、黙っててもどうせクリフォードにバラされるのがオチだからな」

 

 顔を真っ赤にして怒るポプリの頭を軽く叩いた後、ダークネスは笑うのをやめて彼女の琥珀色の瞳を真っ直ぐに見つめた。

 

「ダリウスだ。ダリウス=ジェラルディーン」

 

「ダリウス……」

 

「まあ、ダリウスでもダリでも、お前らの好きに呼べば良いさ。好きにしろ」

 

 やはり、ダークネス――ダリウスの姓もジェラルディーンだった。彼が嘘を付いていない限り、これでジャンクとの血縁関係が証明されたも同然である。

 

「とにかく、だ。お前ら歩けるか? ある程度進んで、後は野宿だ。散々無茶させたらしいそこの鳥の力に頼るのもどうかと思うしな」

 

 ダリウスの言い分も最もだったが、負傷者の多さを考えるとチャッピー頼りの時間短縮には無理があるのは明らかだ。チャッピーは一度にせいぜい二人しか運べないため、残りの人間は自分の足で走らなければならない。今の状況では、それすら厳しい状態なのだ。

 

(かといって、最低一泊分こいつと一緒ってのもきついよなぁ……)

 

 背に腹は代えられない。彼に頼らなければ、間違いなく無事に山を降りることは叶わないだろう。それでも、今まで敵と認識していた相手との行動を強いられるというのは何とも言えない心境だった。

 

 

「……。お悩みのところ申し訳ないのですが、もう先に進んでも良いですか? それから、事後報告になりますが、余った分の包帯は頂きますね」

 

 ジャンクの止血に使わなかった分の包帯を顔の右上部分を覆うように巻きながら、ダリウスはエリック達を見回すようにして語りかける。包帯は切られた布の代用品なのだろうが、今度は目を完全に隠す気はないらしい。元々、あれは顔の右上部分を隠す為に巻いていた物なのだろう。早く進もうと言わんばかりに、ダリウスはエリックの顔色を伺ってくる。何故自分に聞くのか気になりはしたが、そんな細かいことを聞いている場合ではないだろう。

 

「……分かった。良いよな、皆?」

 

 エリックの問い掛けに、反論する者はいなかった。ポプリもその顔に笑みこそ無かったが、長剣を握り締めて頷いてみせる。

 

「……」

 

 ダリウスは全員の反応を確認した後、エリック達の少し前を歩き始めた。

 

 

 

―――― To be continued.

 




 
ダークネスこと、ダリウスの素顔

【挿絵表示】


(絵:長次郎様)


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Tune.40 追憶

 

 ダリウスを加えた状態での山降りは何事もなく、順調に続いていた。ただ、やはり不意打ちの心配があるためにしばらくは緊張状態が続いていたのだが、ダリウスがエリック達に危害を加えてくるようなことは、ここまでのところ一度も無い。そうしているうちに夜になり、野宿の準備をし、今はもう、真夜中である。

 

 エリック達をテントの中に追いやった後、ダリウスは焚き火の傍で寝ずの番をしていた。彼は謎の大きな白い鳩のような鳥を背もたれにして座り、ひたすら書類らしき物に目を通している。油断しきっているようにしか見えないその様子からは、何かをしでかすとは到底思えない。とはいえ、彼に全てを任せて素直に「おやすみなさい」と言って眠れないのが現実である。

 

 

「おい、お前ら……二人して寝れないのか?」

 

 それに気付いていたダリウスは一旦書類から目を離し、テントに向かって呼び掛けた。

 

「起きてるなら、素直に出てこいよ。こっそり覗いてんじゃねーよ」

 

 呼び掛けに対し、最初に顔を出したのはアルディスだった。彼に続く形で、隣のテントからポプリも顔を出す。

 

「あら、気付いてたの」

 

 その手には、昼間にダリウスから渡された細身の剣が握られていた。

 

「馬鹿なこと言わないで、あなたの傍で眠れるわけないじゃない」

 

「今更どうこう言う気はないが、明日に響いても知らねーぞ。特にピンク頭、お前は俺達とは体質が違うんだからな」

 

 苛立っている様子のポプリを見たダリウスはため息を吐き、二つのカップにお湯を注ぐ。それをそのまま、テントから出てきたアルディスとポプリに差し出した。

 

「ほらよ、これでも飲んでろ」

 

「これ何? 毒でも飲ませる気?」

 

「アホ。ただのココアだよ」

 

 カップの中で、茶色の液体が湯気を上げながら揺らめいている。漂ってくる独特のカカオ豆の甘い香りは、紛れもなくココアの物だった。

 

「……」

 

 それでも警戒してココアに口を付ける気配がないポプリを見て、ダリウスは頭の痛みを耐えるかのようにこめかみを抑える。

 

「分かった。なら、毒味してやるよ」

 

 彼はポプリが手にしていたカップを取り上げ、目の前で一口だけココアを飲んでみせた。その後の彼の様子には、何の異変も感じられない。

 

「ほら見てみろ。毒なんて入れてないから……ん、返す」

 

「あたしに飲みかけを飲ませる気?」

 

「お前が全力で疑ってくるからだろ!? わざわざ毒見してやったんだろうが!」

 

「ちょ、ちょっと……二人共……」

 

 ここまで来ると、ポプリが一方的に敵意を剥き出しにしているような状態ではあるが、今回は事情が事情である。ポプリとダリウスの間に走った亀裂は深い。しかし、だからと言ってこの場で不必要な言い争いをするのも考えものだろう。

 

「……」

 

 実はアルディスもポプリ同様にココアへの対応に悩んではいたのだが、覚悟を決めたらしい。おもむろに、彼は渡されたカップに口を付けた。

 

「ノア!?」

 

「……美味しい。大丈夫そうですよ」

 

「フェルリオ皇子の方が理解力あるな。助かる」

 

「なんですって!? ……いえ、もう良いわ……いただきます」

 

 口に広がるのは、ほんのりとした優しい甘さ。ダリウスに反抗するのを諦めたポプリは、ココアを味わいながら軽く息を吐いた。本当に、毒は入っていないようだった。

 ポプリとアルディスがちびちびとココアを飲み進めている間に、ダリウスは黙々と書類に目を通していく。彼の後ろの鳥は、こくりこくりと頭を揺らしていた。眠っているのだろう。書類に目を通しながら、所々でメモ用紙とペンを手に取る。手馴れた様子でこなされていく作業を、ポプリとアルディスは呆然と眺めていた。

 

 

「……何見てんだ」

 

「い、いや……あなたの後ろの鳥もかなり気になるのですが……それ以上に、その……少しは、休まれたらどうです? 出先で書類って……」

 

 この状況である。下手に地雷は踏めないと考え、緊張しているらしいアルディスはとにかく言葉を選びながらダリウスの様子を伺っている。もはや気を使いすぎて不自然な状態になってしまっていたのだが、その点においては、ダリウスの方は然程気にしていない様子であった。

 

「黒衣の龍の人間は強烈に識字率が低い上に、大半は学が足りてない。こんな書類、任せられないんだ。かといって殿下に全てやって頂くわけにはいかないし、あのゲス眼鏡は何やらかすか分からん。だから、基本的に俺に回るようにしているんだ」

 

「え……」

 

 黒衣の龍は騎士団としては小規模だが、一人でどうにかできるような規模では無いだろう。仮に重要書類だけにしろ、それを全て一人で処理しているのだとすれば色々と気になる事も出てくる。

 

「それ……あなた、ちゃんと睡眠取ってるの?」

 

 思わず、ポプリはダリウスの体調を気にかけてしまっていた。彼と似たようなことをやってしまう人間が身近にいるだけに、妙な不安を感じてしまったのだ。

 ダリウスはポプリに心配された事に若干驚いた後、自身の記憶を辿り始めた。

 

「あー……ああ、大丈夫だ、確か三日前に一度寝たと思う。多分」

 

「そ、それは大丈夫とは言いません!」

 

「ああもう……弟が弟なら、兄も兄ね……」

 

 最後に取った睡眠すら曖昧なんて、とアルディスは叫ぶ。ポプリに至っては呆れ返ってしまっているかのような、そんな様子であった。

 しかし、ダリウスは「仕方ないじゃないか」と呟きながらも書類の枚数を数え、まさにこれこそが『日常』だと言わんばかりの態度を示してみせる。

 

「何とでも言え。名目上とはいえ、俺は殿下の執事。これくらい当然のことだ」

 

「だからといって、それとこれとは……あ」

 

 アルディスが話を途中でやめた理由は、ダリウスが背もたれにしていた鳥が目を覚まし、こちらをじっと見ていたためだ。

 素体が暗舞であるためか、走ることに特化したチャッピーとは違い、こちらは立派な翼を持っている。ダリウスが上空から姿を現す理由がこの鳥の存在なのだろう。

 赤く丸い大きな目は、見る者にどこか幼い印象を与える。だが、注目すべき点は鳥の額に埋め込まれている、瞳と同じ色の大きな魔法石の方だろう。

 

「……その子も、元は人間だったんですね」

 

 チャッピーことイチハの事情を知っている以上、皮肉にもアルディスが白い鳥の正体を悟るのは簡単なことであった。ダリウスは左手を伸ばし、鳥の頭を撫でながら静かに口を開く。

 

「だな。どうやら生まれて間もない頃に、魔法石埋め込みの実験を受けたらしい……あのオレンジの鳥と同じ結果になったみたいだがな」

 

「……ッ」

 

「俺が研究施設から引き取られた時、隣の檻に入れられていたから一緒に連れてきたんだ。一応男で、俺は“マッセル”と呼んでいる。いつまでも、俺の移動手段にしとくのは良くないとは思うんだが、家族の所在どころか本名すら分からないんだ」

 

 頭を撫でられ、マッセルは気持ちよさそうに目を細めている。生まれて間もない頃に、ということは人間年齢でいうと大体十歳くらいだろうか。

 イチハはそれなりの年齢であると考えられるのに対し、あまりにも幼い彼の場合は人間として生きたという記憶はないに等しいだろう。

 

「あの……答えたくなければ、無視してくださって、構わないのですが……」

 

 ただ、それ以上に気になることができてしまった。ヴァロンの発言や、先程のダリウスの言葉を聞く限り、ほぼ間違いない。確信を得ようと、アルディスは躊躇いがちに口を開いた。

 

「ダリウスさん、あなたもヴァロンの実験体だったのですか……?」

 

 話すまでもなく、明らかに『実験体』の話がトラウマ化しているジャンクの例があるため、これは聞いて良い話なのかどうか悩んだのだ。

 失言ではないかと目を泳がせるアルディスの問いに対し、ダリウスはどこか自嘲的な笑みを浮かべてみせる。

 

「……厳密には、“ヴァロンの”では無いがな」

 

「え?」

 

「あ、いや……そうだな、実験を受けたのは一度きりだが、俺は元々そういう立場だった。ヴァイスハイト化したのは、実験の後遺症とでも言うべきだろうか。実験体だったのは十六の話なんだが……何故か、後になってこうなったんだ。ちょうど……ペルストラ事件の、直後のことだったよ」

 

 包帯で覆われた右目を抑え、ダリウスは言葉を選びながらも当時を思い返すように語り始めた。

 

「フェルリオ皇子がヴァイスハイトを“先天的に”生み出そうという実験の末に生まれた存在だというのは、ラドクリフ側にも情報として入っていたらしい。だから、ラドクリフでは“後天的に”ヴァイスハイトを生み出す実験が行われたんだ」

 

 戦時中、ラドクリフ王国側はフェルリオの兵士が扱う魔術攻撃に苦しめられたという。一般的に龍王族(ヴィーゲニア)は魔術に弱いため、当然の結果だ。

 そんなラドクリフが求めたのは魔術に対抗できる即戦力、すなわちヴァイスハイトだったのだ。しかし、アルディスのようにヴァイスハイトを胎児から育てる時間的余裕はなく、かといって、そもそも天文学的な数値で生まれてくる天然のヴァイスハイトを探すなど不可能に等しい。

 結果、前ラドクリフ国王であるヴィンセントが行わせたのが後天的にヴァイスハイトを生み出す実験だったのだ。この実験は国の重役しか知らない、つまり水面下で行われた計画であった。それゆえに知らなかったのだろう。アルディスもポプリも、酷く顔をこわばらせていた。

 

「後天的にヴァイスハイトを……!? そんなの無理に決まってる、危険過ぎる!!」

 

「そうだな。研究施設では魔物化して暴走するような大量の“欠陥品(ジャンク)”が生まれた。俺は一見、実験体としては成功したように見えるかもしれんが、結局はいつ魔物化するか分からん欠陥品に過ぎん」

 

「……それで、あなたは右目の付近が変色しているの?」

 

 淡々と語ってみせるダリウスに対し、ポプリは酷く震える手を誤魔化すようにカップを握る手に力を込めた。カップの中の液体は、小刻みに揺れている。

 

「今でこそ右目付近だけだが、多分そのうち全身こうなると思うぞ。俺はあくまで、魔物化が遅れているだけで……」

 

「え……」

 

「後天的にヴァイスハイトを作り出すために、ラドクリフは理論上可能だとよく分からん機材を大量導入して、何かしらの手段を用いて実験体に魔力を移植した。結果、大多数の実験体が魔力移植に拒絶反応を起こしておかしくなったんだよ……具体的に言うと、体内魔力が汚染されて、人ではない“何か”になってしまったんだ」

 

 ヴァイスハイトは自身の身体の中で魔力を生成することができるという特殊な力を持つ。しかし、普通の人間にそれはできない。通常、魔力が尽きた場合は食物などから摂取するしかないため、一度に使える魔力は有限となる。保有できる魔力の量などの個体差はあるが、ここは龍王族(ヴィーゲニア)鳳凰族(キルヒェニア)も同様だ。

 精霊から魔力を分けてもらう、もしくは精霊を介して魔力を無害化してもらうという特殊な事項も存在するとはいえ、これはあまり現実的な話ではない。精霊の使徒(エレミヤ)としてマクスウェルの力の一部を使いこなしていたジャンクのメルジーネ系列の術はまさに精霊由来の物であったため、例外とされる手段の一つだ。

 もし、ヴァイスハイトでない人々が外部から直接魔力を取り込むようなことをすれば、身体的にも精神的にも強い悪影響を及ぼす程の拒絶反応が起こってしまう。

 話を続けながらも、右目を抑えるダリウスの手に微かに力がこもった。

 

「拒絶反応は体質によって程度が大きく異なるんだ。例えば、魔法石の埋め込み実験に使われたのは、主にフェルリオから拉致してきた純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)だったらしい」

 

「!」

 

 それは、フェルリオ帝国の地理的条件ゆえに起こった悲劇だった。フェルリオは四つの大陸によって構成される国であるが、権力や軍備は帝都のあるセレナード大陸及び聖地と呼ばれているコラール大陸に集中していたのだ。

 その為、他の大陸――パルティータ大陸とカプリス大陸に住む国民が、大陸に乗り込んできたラドクリフ軍に拉致されるという事件が立て続けに起こってしまった。

 フェルリオ軍はこの事件の解決に動いたが、ラドクリフ軍を追い返すこと以上の大きな成果は出せず、最終的には儀式の為にカプリス大陸に行っていたアルカ姫までもが犠牲になってしまったのだ。

 

「奴らは魔力の影響を受けやすくて、額に魔法石を埋め込まれると身体そのものが変形して例外なく鳥のような姿と化してしまったらしい。言うまでもないが、その末路がマッセル達だ」

 

 ダリウスの話を聞いたアルディスは悔しげに目を細め、強くカップを握り締めた。

 

「……やっぱり、あの事件の被害者達は犠牲になったのですね……」

 

「全員が全員かと聞かれると分からないが、無駄に希望を持たせるようなことは言いたくないな。純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)達には、額以外に魔法石を埋め込む実験も行われていたようだが……そちらの結果は俺もよく分からない」

 

「……」

 

 行方不明になってしまった国民に加え、実の妹の安否を心配し続けているであろうアルディスには、これはあまりにも残酷な話だった。思わず俯いてしまったアルディスの頭を軽く撫で、ポプリはダリウスへと視線を戻す。

 

「その実験は、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)じゃなきゃ駄目だったの?」

 

「魔法石には魔力を膨張させる力があるらしい。だが、加減が効かないようなんだ。体質的な問題で、少しでも龍の血が入っている人間の場合は魔法石を埋め込まれた瞬間身体が膨大な魔力に耐え切れず、人としての形状が保てずに死亡しまったらしい。だから、俺達にはこういった実験は行われなかった……が、こういう話が残ってるくらいだ。俺の前には散々死者が出たんだろうな。エグいことしやがるな、とは思うよ」

 

 わざわざ敵国の国民を連れ去ってまで行われた実験。その理由は、ラドクリフの国民はまず実験に耐えられないから、というものだった。

 そして、当時のラドクリフで行われたもうひとつの実験について、ダリウスは少しだけ顔を強ばらせた後、しばしの間悩んだ末に語り始めた。

 

「俺みたいな龍混じりの実験体には“とあるヴァイスハイト”から抜き出してきた魔力を右目に流し込むという実験が行われたんだ。まあ、こっちはろくな成功例が無かったようだが」

 

「とある、ヴァイスハイト……? まさか……っ」

 

 ポプリ達を気遣ったのかどうかまでは分からないが、ダリウスは個人名を伏せて話していた。しかし、それはもはや、何の意味を持たない行為。

 

「……」

 

 ダリウスは、ちらりとジャンクが中で眠っているテントの方へと視線を移す。そして、ポプリ達とは目を合わせないまま、彼は深く息を吐いた。

 

「伏せるまでもなかったようだな……そうだ。そのヴァイスハイトが、クリフォードだったんだ」

 

 身体から魔力を抜き出されるということ。それが何程身体に負担をかけるか、ポプリは身を持って知っていた。マルーシャの術の完成を助ける為に魔力を抜かれてから、既に十日以上が経過している。それでも尚、ポプリは身体の不調を感じていた。それだけの反動を受けてしまうのだ。

 十年前、実験体であった頃のジャンクは“アレ”を頻繁に、強制的にさせられていたというのか――それもヴァロンによる壮絶な虐待を受けながら、恐らくは並行して別の実験も受けながら。 事の壮絶さに、ポプリは吐き気をこらえるように片手で口元を覆う。

 ひと段落ついたのかダリウスは持っていた資料をまとめ、ファイルにしまった。そして、そらしていた視線をポプリ達の方へと戻す。

 

「一応言っておくが、実験内容はクリフォード本人には言うな。多分、アイツが今、『自分のせいで兄以外の実験体が処分された』だなんて知ったら、発狂するからな……」

 

「!」

 

 告げられたのは、実験体達のあまりにも悲惨な最期だった。

 しかしこの一件において、ジャンクは何も悪くない。彼が責任を感じる必要は無いはずだ。それでも、だからと言って自分は事件とは無関係だと主張できる程にジャンクは楽観的な性格では無いということを、ポプリはよく知っていた。

 

「あなたが生きているのが、唯一の救いよね……先生、目が覚めたら喜ぶんじゃないかしら? まあ、あなた達の仲が良かったならの話だけれど」

 

「いえ……ある点においては、ダリウスさんの存在は救いどころか、むしろ決定打になる気もしますね……」

 

「の、ノア?」

 

 突然顔を上げ、ポプリの発言を訂正してきたアルディスの左目は涙で潤んでいる。フェルリオ国民の安否を気にしての涙にも思えたが、この場合は恐らく違うだろう。

 

「そもそもあなたが実験体になったのはクリフォードさんと血縁関係にあったから……たったそれだけのことが、理由ですよね?」

 

「え……いや、どうしてそう思ったんだ? それ以前にお前は俺に対して少々冷静過ぎるとは思っていたが……まさか、クリフォードが何か言っていたのか?」

 

 少し驚いた様子のダリウスの問いに対し、アルディスは静かに首を横に降った。そして彼が紡いだ言葉は、その声は、微かに震えていた。

 

「先程起こした共解現象(レゾナンストローク)の暴走によって……俺は視てしまったんです。あなたがどれだけクリフォードさんを助けてきたのか、それにどれだけ彼が救われたのか、あなたが、本来は国を変えたいと願う程の正義感に満ちあふれた青年だったということも」

 

 アルディスはカップを地面に置き、涙をこらえるようにぐっと服を掴む。

 

「手遅れです……クリフォードさんは真実を知っています。だから、彼はあそこまで“壊れた”んです」

 

「……!」

 

「その件含め、あなたがどんな人間なのか知ってしまった俺にはもう、ペルストラでの一件もむしろ、本当は何か理由があったのではないかと……ポプリ姉さんにもメリッサさんにも申し訳ない話ですが、そういう風にしか、思えなくて……っ!!」

 

 ポプリの母でありアルディスの義母でもあった、メリッサ=クロード。

 

 彼女は八年前のあの日、ダリウスによって無残に殴り殺された。

 それはポプリにとっても、彼女を第二の母と慕っていたアルディスにとっても、トラウマに近い記憶となっていた。

 しかしながら、アルディスはダリウスの正体が『あの日の青年』だったと気付いてなお、ダリウスに襲いかかろうとはしなかった。それは全て、共解現象の暴走が理由であった。

 

「クリフォードさんが売り飛ばされる直前まで彼を守り、彼の希望で有り続けたあなたが……今この瞬間だって、彼を思いやれるだけの優しさを持つあなたが、家庭が崩壊する辛さを知っている筈のあなたが……! あのようなことを、意味もなくできるなんて……俺には、到底思えないんです……ッ!!」

 

 あの時、たった一瞬のことだったとはいえ、アルディスは完全にジャンクの過去と同調してしまっていた。

 その状態で視た彼の過去はまるで、自分自身の過去のように感じられたのだという。結果、今のアルディスにとってもダリウスは救いのような存在と錯覚し始めていた。それゆえに彼は、ポプリのようにダリウスを拒むことができなかったのだ。

 

「……ッ、う……っ」

 

 共解現象(クラル・キルヒェニア)の暴走によって視てしまった、自身の記憶と矛盾するような光景。それは、アルディスを混乱させるだけの十分な効果があった。どうして良いか分からないと言わんばかりに、アルディスは再び俯き、涙をこぼし始めた。

 

「ノア……」

 

 これだけの話を聞かされても、ポプリは特に怒り狂うこともなく、冷静さを保っている。

 本当は彼女も、どこかで『何かがおかしい』と感じ始めていたのかもしれない。アルディスの背を撫でながら、ポプリはダリウスの様子を伺っていた。

 

「立場が違えば、見方は変わる。それは当然の話。俺にとってのメリッサ=クロードと、お前らにとっての奴の見方は大きく異なっていた。クリフォード視点の俺と、お前らにとっての俺が違うのと同じ話だろ」

 

「……」

 

「だが、アルディス。お前は弟とは違う。こんな所で、弟の記憶に惑わされて自分の道を踏み外すんじゃない……とにかく、だ。その状況で俺の話聞いてたら落ち着かないだろ。ちょっと、その辺散歩して頭冷やしてこいよ」

 

 事件の真相を語る気なのだろうか。ダリウスはアルディスに席を外すように促す。一方のアルディスも素直に立ち上がり、そのままどこかに行ってしまった。

 ポプリは彼の後を追うか否かで悩んでいたが、彼ならば大丈夫だろうとその場に留った。

 何より、本来は敵である筈のダリウスから話を聞ける機会は貴重である。聞けるだけ聞いておこうと、そういう思考に至ったのだ。

 

「良かったのか? 追わなくても」

 

「ええ」

 

 だから、話の続きを聞かせなさいと言わんばかりにポプリはダリウスの顔を見つめる。

 彼女としてはやはり、アルディスが混乱に陥った原因でもある事件の真相を聞きたかった。

 

 

「その、正直言って……アルディスの話には、驚いた。俺も少し、頭抱えたい状況だよ」

 

 しかし、彼が語りだしたのは明らかに違う話。話の矛先を変えようかとポプリは思ったが、それは彼の悲しげな笑みによって阻まれてしまった。

 

 

「……恨まれてると、思ってた」

 

「え……」

 

「守ってやれなかった。助けて、やれなかった……それなのに、クリフォードは俺のことを、恨まなかったんだな……」

 

 ダリウスらしからぬ、どこか弱々しい声だった。それに対し、ポプリは「似ている」と直感的に思っていた。

 

(状況は全然違うけれど、あたし……あたし、もノアに……ずっと恨まれてると、恨まれてて欲しいって、思ってた……それなのに、ノアは……)

 

 まさか親の仇に対してこのような感情を抱くとはポプリも思わなかっただろう。今この瞬間、ポプリはダリウスに対し、妙な親近感を感じていた。

 だが、そんなことは口が裂けてもダリウス本人には言えなかった。言いたくなかったのだ。

 

「……」

 

 どうしようもない心境により、完全に沈黙してしまったポプリを見て、ダリウスは決まりが悪そうにガシガシと自分の頭を掻いた。

 

「それは置いとく。どうせ興味無いだろ?」

 

「あ……えっと……」

 

 若干しどろもどろになったポプリの態度をどう受け取ったのか、ダリウスは軽くため息を吐いてから再び話し始めた。ただ恐らく、こればかりは良いように受け取っていないだろう。

 

「最初に話を戻すが……俺は多分、血の繋がりがあったから拒絶反応が弱く、魔物化が遅れている上に一応ヴァイスハイトにはなれたんだろうな。実際、今となっては完全に別物になってしまったが、血の繋がり云々含めて俺達の魔力の質は見分けが付かない程によく似ていたらしい。クリフォードがまだ母親の腹にいた頃、母親がよく言っていたよ」

 

「え……先生が生まれる前の、話なの? まさか……」

 

 ダリウスはまだ胎児だった頃のジャンクと比較され、そのようなことを言われていたのだという。しかし、わざわざ生まれる前の胎児と比較する意味が分からない

 

 

――否、その理由となる事実はひとつだけだ。

 

 

「……察したみたいだが、死んだんだよ。二十三年前に。ヴァイスハイトであるクリフォードの出産に、身体が耐えられなかったんだ」

 

「――ッ!!」

 

 やっぱり、とポプリは声にならない声をあげた。

 ヴァイスハイトの出産が、母体にどれ程の悪影響をもたらすか。人工的に生み出された存在とはいえ、義弟のアルディスもヴァイスハイトである。そのため、彼女はこの悲しすぎる現実を知っていたのだ。

 

 ヴァイスハイトが生まれながらにして膨大な魔力を保有するのは、胎児は母体から栄養分のみならず大量の魔力を吸収してしまうからだ。つまり、ヴァイスハイトを妊娠しているだけで母体への負担は相当なもの。出産の瞬間まで、母体もしくは胎児が生きられるかどうかさえも綱渡り状態なのだ。

 このような理由から、透視干渉(クラレンス・ラティマー)の能力などによって自分の子どもがヴァイスハイトだと分かった時点で、大体の妊婦は出産を諦めてしまう。ラドクリフ王国では、この傾向が顕著に現れていた。

 

「『私は最後までこの子の傍にいてあげられないから、あなたが守ってあげて』とかよく言われてたんだ。母親は透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力者だったからな。間違いなく自分が死ぬって分かってて、それでも命懸けでクリフォードを出産する道を選んだんだ。まあ、その結果がこれだ……誰も、特に母親の死を引き換えに生まれて来てしまったクリフォードは……幸せになんか、なれなかった」

 

「……」

 

 精神的に追い込まれ過ぎた結果、ジャンクは『生まれてこなければ良かった』と口走っていた。つまりは、そういうことだったのだ。母親の思いとは裏腹に、彼は己の生を恨んでしまったのだ。結局、二人に待っていたのは、どちらも望まなかったであろう残酷すぎる結果だった。

 それは、どんなに悲しいことだろうとポプリは嗚咽をこらえるように両手で口を覆う。

 今にも泣き出してしまいそうなポプリに軽く笑いかけ、ダリウスは話を続ける。

 

「もしかすると、ちゃんとした医者に視てもらって、ちゃんとした治療を受けていれば、母親は助かったのかもしれない。だが、俺達の母親は純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)だったから、そんなことは叶わなかった」

 

純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)……? 鳳凰狩りの被害には、遭わなかったの?」

 

「当然、遭わなかった訳じゃない。そもそも、母親が父親の元にやってきたのは『貢物』として利用されただけの話。母親は銀髪碧眼ではなかったが、貢物扱いされたということはかなりの能力者だったんだろう。聖者一族に負けず劣らずのな」

 

 鳳凰狩りによる懸賞金で、一人あたりに膨大な価値が付与されてしまった純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)。そのため、一部の純血鳳凰は貢物として貴族社会を流通することになったのだという。

 

「確か、ジェラルディーンって侯爵家だったのよね。そりゃ、貢物も来るわよね……でも、不思議ね。あなた達が生まれてきたってことは、貢物として送られてきたあなた達のお母さんは、殺されずに済んだってことでしょう?」

 

「そういうことだ。普通、貢物の純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)は両目抉られた上にラドクリフ城送りになるもんだが……うちはちょっと事情が違った。どうも父親が、母親に一目惚れしたらしいんだ」

 

「一目惚れ!?」

 

「俺が恥ずかしくなるから過剰な反応するな!」

 

 こんなところで恋愛事情が絡んでくるとは、だれが思ったことか。思わずポプリは声を荒らげ、ダリウスは若干顔を赤くして咳払いした。

 

「だから、母親を殺すことも傷つけることもできなかったんだろうな。父親は母親を軟禁したは良いが、結局最後には逃がそうとしたらしい……だが、その頃には母親の方も父親に惚れ込んでいて、屋敷に留まる道を選んだんだと」

 

 当然ながら、ダリウスの生まれる前の話である。しかし、やたら詳しく状況を話せている辺り、彼は母親か父親のどちらかから散々この話を聞かされていたのだろう。夫婦の仲が良い、本当に円満で素敵な家庭だったんだろうなとポプリは内心羨ましさすら感じていた。

 

「二人の両想いが発覚して、その数年後に俺が生まれたらしい。まあ、当然ながら俺の種族は混血とはいえかなりの鳳凰寄りだから、父親は俺のために新たな剣術を生み出してくれたりもした。うちは本来大剣と盾を持つ流派だからな。俺のような鳳凰族(キルヒェニア)にも扱えるようにと作られたそれは、俺の体格でも存分に扱えるものだった」

 

「良い、お父さんだったのね……あたし、あんまり良い印象なかったんだけれど……」

 

 ヴァロンは、ジャンクのことを『父親から酷い虐待を受けていた子』だと言っていた。

 あの言葉だけで、ポプリの中ではジャンクはとんでもない家庭に生まれ育ったのだというイメージが付いてしまっていたし、間違いなくエリック達も同じように感じ取ったことだろう。

 しかし、ダリウスの話を聞く限り、彼らの父親がそのようなことをするとは到底思えなかった。ポプリはおもむろに、地面に寝かせてあるダリウスの細身の剣へと視線を移す。そんな彼女を見つめながら、ダリウスは深く息を吐き出してから、重い口を開いた。

 

「一応言っておくが、父親はクリフォードの誕生を心から楽しみにしていた。それにも関わらず、クリフォードが虐待された理由は、アイツが母親の死因になってしまったこと……種族を越えて愛を選ぶような人だ。きっと、虐待の理由はそれだけだったんだと思う。母親さえ生きていれば、息子が異端児でもあの人には関係なかったはずだ……」

 

「ーーッ!」

 

「一応、父親も父親で最初は弟を愛そうと努力していた。だが……成長するにつれて、クリフォードはどんどん母親の面影を強く映すようになっていった……そこからの父親の転落っぷりは凄まじかったな。父親の堕落を理由にジェラルディーン家が爵位を剥奪されたのはこの頃だ」

 

 そう語ったダリウスの顔には、微かに影が差していた。

 彼の話から察するに、彼らの母親はジャンクの出産で自分が死ぬとは夫には伝えていなかったのだろう。ただ、仮にそれを伝えていたとすれば、間違いなくジャンクは父親に生まれて来ることを望まれなかった。

 

(確かに、そんな状況で生きるのは……辛すぎるわ……だけど……)

 

 仮に、自分が同じ立場ならどうしただろうとポプリは奥歯を噛み締める。

 自分が死んだ後、我が子が虐待されると分かっていたなら出産を拒むかも知れない。しかし、それは蓋を開けるまでは分からない話なのだ。

 彼らの母親も、まさか我が子が虐待されるとは思わなかったのかもしれない。だが、愛する妻を失った夫の耐え難い悲しみは、我が子への想いを凌駕してしまう結果となってしまったのだ。

 

「最終的に、度重なる虐待の末にクリフォードは施設に売られた。父親曰く『息子が社会の役に立てるようにしてくれる施設』だったそうだが、ちょっと調べれば分かる程に、その施設の実態は悲惨なもんだった。俺は、この件をきっかけに家出して王国騎士団に入ったから、その後のことはよく分からん……と、言いたいとこだが俺が家を飛び出してすぐ、父親は自害したそうだ」

 

「え……」

 

 今にして思えば、お人好しな父親は施設の人間に騙されたんだろうとダリウスは言った。

 酒に溺れ、騎士としての勤めも果たせず、爵位を剥奪されて没落してしまったがゆえに収入が無く、困窮していたジェラルディーン家。そんな一家に飛び込んできた大金が絡む話。

 次男を売ることが条件だったが、我が子が社会の役に立てるならと、自分がこれ以上我が子を虐待せずに済むのならと、落ちぶれた男はあっさりとその契約を了承してしまったのだ。

 だが、その結果は最後に残った長男にさえ見放され、本当に全てを失ってしまう未来。絶望しきった男は自らの腹を切り裂き、自らの血に塗れ独り寂しく死んでいった。

 

「……母親を殺したのは、クリフォードかもしれない。だけどな、もう俺だってアイツを責められない……父親を殺したのは、その原因となってしまったのは、間違いなく俺だ……」

 

「ち、違うわ……っ、あなただって、何もしてないじゃない……!!」

 

「違わないさ。俺さえ残ってれば、違う結末になっていたかもしれない。そう思うと、正直今でも辛い。因果応報とはよく言ったものだが、まさにそんな人生だったしな」

 

 ダリウスはポプリから視線をそらすように横を向き、黒の瞳を伏せて口元に歪な笑みを浮かべてみせた。

 

 

「騎士団に入った俺は、十六で中尉になったんだが……それが、周囲の他の騎士には気に食わなかったらしい。鳳凰族(キルヒェニア)で、没落貴族だったからな」

 

「でも……あなたにはそれだけの実力があったんでしょう……?」

 

「対人関係ってのは難しいからな。ま、確かに当時は結構悩んだよ。騎士団の中で生きていく以上、やっぱり居場所が欲しかったんだ」

 

 純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)程ではないにしろ、ラドクリフ王国では鳳凰族(キルヒェニア)も肩身が狭い思いをしがちだ。

 それはダリウスも例外ではなかったし、むしろ彼の場合はそれが顕著に表れたことだろう。ラドクリフ王国騎士団は、今も昔も変わらず、その圧倒的大多数が純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)、それも貴族出身の人間によって構成される。その真逆を行くような境遇の持ち主であった上に若くして出世を重ねたダリウスが嫌われるのは、悲しい話だが本当に無理もない話なのだ。

 

「何故か殿下は俺を気にかけてくださっていたが……結局、騎士団に俺の居場所なんて作れなかった。最後は隙を付かれてボコボコにされて、気が付けば研究施設の檻の中だったな」

 

「そんな……」

 

「後から知ったが、俺を捕まえてくれれば報酬を渡す、という駆け引きがあったらしいんだ。多分、理由は俺がクリフォードの兄だから……それで、かなりの大人数が動いたんだと」

 

 駆け引きに乗ったのは、基本的にダリウスよりも階級が下の人間ばかりだった。揃いも揃って彼を妬み、彼を排除したかったのだということは簡単に想像できてしまう。

 

「これでも、俺は人一倍『努力』ってものをしてきたつもりだったんだがな。努力は人を裏切らない、なんて綺麗事だって思った。情けないが、しばらくは荒れたな」

 

 彼が昇進を重ねていったのは、運や才能だけが理由では無かった。そこには、種族や地位といったハンデに打ち勝つ程の、血の滲むような努力があったに違いないというのに――。

 

「……」

 

 ポプリはすっかり冷めてしまったココアの入ったカップを再び強く握り締める。目を開き、横目でこちらを見ていたダリウスと目が合った。

 

「あっ、そ、その……悪い。いらんこと喋ってたな。お前の顔見てたら、何故か昔のことを話したくなったんだ……」

 

 ダリウスの悲惨な過去。それが真実か否かを問おうという気は、もうポプリには無かった。彼が語った過去が、嘘だとは到底思えなかった。ただ、唯一気になるのは、彼のジャンクに対する態度そのものだろう。

 

「ねえ、どうして? どうして、あなたこそ先生を恨まずにいられるの……? あなたから全てを奪ったのは、彼だと言っても過言じゃないのに……」

 

 ジェラルディーン家長男として、約束された未来があった筈のダリウス。そんな彼が地に堕ちた最大の原因は、紛れもなく弟、クリフォードの存在にある。

 それは誰が考えても明らかで、普通に考えればダリウスは弟を恨んでいてもおかしくない。しかし、彼の行動はその逆の路線を辿っている。慈愛に満ちていると言っても過言ではない。

 

「そう、だな……」

 

 ポプリの問い掛けに応えるように、ダリウスは再びポプリの方に向き直った。

 

「確かに全く恨んでない、といえば嘘になる。それでも……クリフォードは、何もしてない。アイツ自身が望んでこんなことになったわけじゃないんだ」

 

「ッ、そんなの、綺麗事じゃない……!」

 

「なら、お前はアルディスを今でも恨んでいるのか?」

 

「!? そ、それは……」

 

 感情的になってしまっているポプリに対し、ダリウスはどこまでも冷静だった。そしてダリウスから返ってきた言葉は、ポプリの核心を付くようなものであった。

 

「……」

 

 この場面で、嫌でも思い出してしまうのはアルディスの右目を奪ってしまったあの瞬間のこと。もしかすると、自分は僅かではあるが境遇が似ているダリウスの汚点を探し出すことで“仲間作り”がしたかったのかもしれない。

 だが、ダリウスには汚点など存在しないように思えた。結果的に自分の醜さが明るみに出たようで、ポプリは奥歯を噛み締め、肩を震わせる。

 

「おい、勘違いするなよ。俺は聖人君子じゃねーぞ」

 

「どういう、ことよ……?」

 

 そんなポプリの思いを感じ取ったのだろう。ダリウスは不快だと言わんばかりに眉を潜め、軽く首を傾げてみせた。

 

「そりゃ、俺だって最初はおかしくなってたさ。弟どころかこの世の全てを恨んだ。でも、殿下が俺を助けてくださったんだ。お蔭でちょっと落ち着いた。それだけだよ」

 

「……」

 

「彼が、もう実験体として死ぬしかなかった俺を救い出して下さった。自棄になっていた俺に『己の闇に打ち勝て』と言って道を正して下さった……それだけでも、本当に申し訳ない話なんだがな」

 

 ポプリからしてみれば、ダリウスがゾディートに忠誠を誓うのは当然であるように思えた。自分が彼の立場だったなら、間違いなくそうしていただろう。しかし、ゾディートの非道な行いを思えば、褒められたことでは無いことは確かだ。

 

「己の闇に打ち勝て……だから、あなたは『ダークネス』なのかしら。最初、その名前を聞いた時は、言っちゃ悪いけど何かと思ったのよね……」

 

「はは、実を言うと俺も、最初は正直何かと思った。でも、意味のある名前なんだよ……あの人、仕事名与えた割に俺のこと本名で呼ぶけどな」

 

「それじゃ意味ないじゃない……」

 

「多分、俺が“ダリウス”って名前を好いているのを察してるんだろ。俺だけだからな、仕事名あるのに大体本名で呼ばれるの」

 

 話だけを聞いていると、彼らが敵であることを忘れてしまいそうになる。ゾディートが大罪者であることさえ、記憶から抹消されてしまいそうだ。

 もしかすると、ダリウス以外の構成員、ヴァロンやフェレニー、ベリアル達も似たような経緯を得て、黒衣の龍の一員になったのかもしれない。

 ポプリにとっては敵でしか無い筈の者達ではあるのだが、彼らの事情など一切知らずに戦っていたのだと思い知らされた。ダリウスはポプリの横に寝かされた宝剣を指差し、どこか悲しげに笑っててみせる。

 

「殿下には、何度もご迷惑をお掛けした。その剣もそうだ、せっかく殿下のご好意で授かった大切な物だというのに……今の俺には、鞘から刃を引き抜くことすら叶わない……」

 

(……え?)

 

 本当に、本当に微かな変化ではあったが、ダリウスの声が震えたように聞こえた。

 

「俺の流派は当然ながら変わっていたし、俺には精霊術士(フェアトラーカー)の才能があったから。騎士団にいた時から、殿下は俺に興味を持ってくださっていた……傍で剣を振るっていて欲しい、と言われたんだ。それなのに、俺は……」

 

「……」

 

「情けないが、怖いんだ。父親に剣術を習って、褒められた記憶。殿下に初めて、声をかけて頂いた記憶……そんな記憶を、狂った父親、俺を売った兵士達、そしてヴァロンのような研究者達が塗り替えてしまった。今となっては、鞘を抜くだけでそんな記憶がフラッシュバックして、狂いそうになるんだよ……」

 

 

――何故かは、分からなかった。

 

 

「……って、おい!? 何でお前まで泣く!? 何で……ッ!!」

 

 慌てた様子のダリウスの言葉を聞き、ポプリは自身の頬へと手を伸ばす。生暖かい雫が指に触れた。いつの間にか、泣いてしまっていたのだ。

 

「……何故、かしらね。何だか、凄く辛くなったの……ええ、そうよね。お母さんを殺したあなたのこと、ずっと憎いと思ってたのに。どうして……」

 

 意味が分からない、とポプリは俯き、おもむろに首を横に振る。拭っても拭っても涙は零れ、しまいには嗚咽をこらえられない程に、涙が止まらなくなってしまっていた。意味が、分からなかった。

 

「本当に変な奴だな、お前……」

 

「……」

 

「とにかく、落ち着いたら今度こそ寝ろよな。疲れてるんだろ。親殺しの俺を信用できないのは分かる。それでも、俺は本当に何もしないから」

 

 月明かりと焚き火に照らされるダリウスの表情はどこか悲しげで。

 ポプリは何かを言おうと口を開いたのだが、漏れたのは堪えきれない嗚咽のみ。それはハッキリとした“声”にはならず、夜の虚空へと消えていった。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.41 清浄の碧き村

「なるほど、無免許医で妙な口調のジャンク=エルヴァータ、ね。ジャンク、は自虐だろうな」

 

「何というか、正直呼びにくいものだから、オレ達はジャンって呼んでいる」

 

「そりゃ呼びにくいわな。医者ってのも若干引っかかるが……まあ良いか」

 

 ブリランテに向かう途中、突然ダリウスに現在のジャンクの状況について尋ねられた。

 兄として弟の状況が気になるのは理解できるが、ダリウスはゾディート側にいる人間である。警戒なくあれこれ話していいものかどうか悩みはしたものの、そもそもジャンクはエリック達に対し、ろくに自分のことを語っていないのだ。

 か必然的にエリック達がダリウスに語ることができるのは、ジャンクが表面的に見せていた、当たり障りの無い話題だけでしかなかった。

 それでも良いと思ったのか否か。ダリウスは少し悩んだ後、質問を投げかけてきた。

 

「変な口調っていうのは?」

 

「それを聞くってことは、あなたと別れてからなのね。あの口調になったの……敬語六割、タメ口四割みたいな感じの変に混ざったような喋り方よ。癖だって言ってたわ」

 

 気になって聞いたことでもあるのか、ポプリはそう言って首を傾げてみせる。

 

「でも、追い込まれると敬語が多くなっちゃうのよね。酷い時には敬語しか喋らなくなっちゃうし」

 

「それなら、むしろ敬語が癖なんだろうな。実は、俺はまともにアイツと会話したことがないんだ。悲鳴なら何度か聞いたことがあるが、最終的には一言も発さなくなっていた」

 

「……」

 

「まあ、ちゃんと喋るって聞いて安心した。話せるのは、これくらいか?」

 

 ダリウスが弟のことを大切に思っているのは、よく分かった。その感情に嘘は無いと信じたいし、昨夜ダリウスと色々話していたというポプリの様子を見る限り、これに関しては信じて良いだろう。

 

「だな。悪い、これ以上は何も浮かばないんだ」

 

 それだけに、エリックは不安だった。大切な弟が、ろくに信じることのできない人間達と一緒にいるということを、ダリウスはどう感じているのだろうかと。

 

 ダリウスはしばらく、何か考え込んでいる様子だった。だが彼は静かに頭を振ると、今までの話題とは全く異なることを話しだした。

 

 

「エルヴァータ姓を名乗っているということは、弟には戦舞(バーサーカー)の知人がいるのでしょう。もしかして、弟は足技を主体とした格闘技に二刀流を合わせたような、独特の戦い方をしていますか?」

 

「え……? あ、いや……足技主体の格闘技は確かに使うんだが、二刀流じゃないな。ジャンはトンファー使ってる。トンファーで殴るというよりは盾にするような、そんな戦い方が主流だな」

 

「ああ……種族的にも、もしかしたら精神的な意味でも、弟に二刀流は無理な気がしますからそういった戦い方になったのでしょう。精霊に力を借りた状態なら、細身の体格でも肉弾戦は可能ですから」

 

 戦舞(バーサーカー)、という聞き慣れない単語の登場に困惑するエリックを放置し、ダリウスは自分の傍に寄ってきた下位精霊に微笑みかける。

 

 

「なるほど……この辺りは、精霊にとって住みやすい環境らしい。やたら元気が良い」

 

「ぜ、全然分かんないよ……」

 

 精霊術師(フェアトラーカー)は、下位精霊と会話ができるらしい。次々と寄ってくる下位精霊は皆、ダリウスに“何か”を訴えかけている――そして、エリックは気付いた。

 

「え……な、何か、喋ってる……のか?」

 

 下位精霊が何かを言っている。そのことに今までは全く気付くことなく過ごしてきた。下位精霊が言語を発すること自体、エリックは知らずにいたのだ。

 ダリウスは黒の左目を見開き、信じられないものを見るかのようにエリックをまじまじと眺めた。

 

「……アベル王子、もしかして、あなた……」

 

「もしかしなくても、あれって『精霊術師(フェアトラーカー)の才能がある』ってことだよな……ああ、うん。集中すれば、コイツらが何言ってるか分かる……」

 

 精霊達の発する言葉に注意を向ければ、大体彼らが言いたいことを理解できてしまった――彼らは「君は誰」だの「どこから来たの」だのとエリックに質問ばかりを投げかけていた――エリックは、嘘だろうと顔を引きつらせる。そんなエリックの顔を覗き込み「どういうこと?」とマルーシャは声を震わせた。

 

「大丈夫なの? 何か、おかしなことに……」

 

「た、多分大丈夫だ……気にはなるから、ジャンが目覚めたら色々聞こうと思う」

 

 ほぼ確実に、ノームか地下水脈で会った下位精霊の仕業なのだろうが、詳細はよく分からないままだ。心配そうに眉尻を下げるマルーシャの頭をポンポンと叩き、エリックは彼女を安心させるためにやんわりと微笑んでみせた。

 

 

 

 

 それから小一時間程歩き続けたエリック達の前に、人が住んでいそうな小さな集落が現れた。

 

「あれが、ブリランテ……か?」

 

 眼前に広がるのは、質素だが、優しい温かみのある風景。漸く辿り着いたその場所は、アルディス曰く『清浄の碧き村』と呼ばれている集落だという。

 小さな木造の家々と、ほとんど壊されることなく残っている自然。ブリランテの地は、ラドクリフ王国の王都であるルネリアルは勿論、これまで訪れてきたアドゥシールやディミヌエンドのような街や港町セーニョやヴィーデとは全く違う雰囲気を醸し出していた。

 

 村の周りには塀や柵の代わりに大きな青々とした木々が立ち並んでおり、発展や自衛よりも自然との共存を選んだことが見て取れる。

 人口はさほど多くないようだが、その村人を遠くから見る限り明らかにジャンクやダリウスと同じ澄んだ空色の髪の人間がやたら目立つ――否、むしろここには空色の髪の人間しかいないのではないだろうか?

 

 

「ははっ、なるほど」

 

 不思議そうに村人達の様子を見ていたエリック達の傍で、ダリウスは呆れたような、それでもどこか嬉しそうにクスクスと笑った。

 

「ガキの頃は、父親の綺麗な金髪に憧れていたんだがな。そりゃ俺にもクリフォードにも、金髪が遺伝するわけないわな」

 

「つまり、あなた達のような空色髪の遺伝子は強烈に強いということね」

 

 確か金髪はかなり遺伝しやすい筈なのに、とポプリも苦笑する。そうしているうちに、村の入口に立つエリック達の存在に村人達が気付いたようだ。

 家の中にいた住民含め、来客の姿を確認しようと人々が入口の見える位置に集まり始めた。皆、独特の文様が入ったカラフルな衣服を纏っている。形状はワンピースに近いだろうか。ブリランテの民族衣装とでも言えそうなそれは、シルフが身に着けていた物によく似ていた。

 

「そうだな、見事に同じ色の髪した人間しかいないぞ。あぁ、ラドクリフだろうがフェルリオだろうが、空色の髪が対して珍しくないのは強すぎる遺伝子のせいだったのか……」

 

 人が増えども増えども、とにかく空色の髪をした人間しか見当たらない。これはすごいな、と自身の髪色に酷いコンプレックスを持つディアナは渇いた笑い声をあげ始めた。いっそ自分も空色髪になれば良かったのに、等と考えてしまっているのかもしれない。

 とはいえ、ここで働きすぎる遺伝子に驚いていては何も始まらない。村人に安心してもらうために何か言わなければとエリックが頭を悩ませ始めた時のことだった。

 

 

「! しぇ、シェリル!?」

 

 別にエリック達の誰かがこちらに来るようにと促したわけではない。それにも関わらず、一人の純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)の中年男性が聞き覚えのない女性の名を叫び、自発的にこちらに駆け寄ってきた。

 

「……ッ」

 

 しかし、その男性はチャッピーの背に乗せられたジャンクを見るなり静かに頭を振るい、その顔に咄嗟に取り繕ったような笑みを浮かべてみせる。

 

「す、すいません……人違い、でして……」

 

 どこか悲しそうに「ブリランテにようこそ」と微笑む男性の顔をまじまじと眺めたダリウスは少し考えた後、チャッピーからジャンクを下ろして抱え、そのまま男性に弟の顔が見えやすい位置へと移動した。

 

「いや、完全な人違いというわけでもないと思うぞ」

 

「え……?」

 

「念の為、確認する。その女の姓はローエンフェルドじゃないか?」

 

 ローエンフェルド。その姓を聞いた途端に男性は目を丸くし、ジャンクの顔を覗き込んだ。そして、酷く震えた声で「まさか」と呟く。

 

「そのまさか、だな。この男の母親の名はシェリル=ローエンフェルド……アンタは何となくシェリルの面影があるなと思ったんだが、もしかしてシェリルの兄さんか?」

 

 本当にその通りだったのか、絶句して肩を震わせている男性を見たエリック達も聞いてないと言わんばかりにダリウスを見つめている。

 その視線に気付き、ダリウスは「余計なことは言うなよ」と小声で言った後、完全に狼狽えてしまっている男性へと視線を移した。

 

「突然押しかけてきておきながら悪いんだが……見ての通り、アンタの“甥っ子”は道中で負った傷のせいで弱っていてな。体質が少々特殊だから死にはしないだろうが、やはり早いとこ安静にしてやりたいんだ。宿があるなら、そこに案内してもらえないか?」

 

「は、はい! こちらです、他の皆さんも、どうぞご一緒に!」

 

 若干強引な気もした上にダリウスは透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力者である。まさかシェリルのフルネームを透視することで男性を騙したのではないかと、エリック達(特にポプリは)は怪訝そうな顔をしてダリウスに説明を求める。しかし、彼はそれに答えようとしない。

 

「ほら、待たせるのも良くないだろう? とっとと行くぞ!」

 

 そして返ってきたのは、一応は理にかなっている意見。何を思ったのか男性がかなり急ぎ足になっているだけに、雑談をしている場合ではなさそうなことは確かだ。

 納得が行かない状況ではあったが、ここはダリウスに従うのが最も的確な判断だろう。エリック達は顔を一度だけ見合わせた後、ダリウスと共に男性の後を追って駆け出した。

 

 

 

 

 宿屋に着き、チャッピーを木に繋ぎ――真実を知ってしまった以上かなり躊躇われたが、宿屋の大きさから考えてどうしようもなかったのだ――エリック達は中へと入っていった。

 用意して貰ったベッドにジャンクを寝かせた後、近くに男性がいないのを見計らってマルーシャはダリウスに質問を投げかけた。

 

「何てことを疑ってんだ! そんな残酷な嘘、命令されても吐きたくねぇよ!!」

 

 その結果、ダリウスの苛立ちの隠せない罵声が部屋の中に響いた。人が来そうな程の声量であったが、幸いにも誰も来なかった。

 

「え、えと……ご、ごめんなさい……わたし……」

 

 問題の質問というのが『男性を騙していないか?』というものだったのだが、よく考えてみれば彼は家族絡みで壮絶な体験をした青年である。いくらなんでも、流石に失礼な疑い方をしてしまったかもしれない。

 

「……。もう良いですよ。疑われる要素は、確かに多いですからね」

 

 マルーシャが質問したからか、本当に良いと思っているのか。ダリウスは深くため息を吐いた後、黒い瞳を伏せて話し始めた。

 

「上手いこと話が進んだもんだから俺も驚いてんだが、嘘じゃない。シェリルは俺とクリフォードの母親の名だ。んで、どうやらここの出身だったらしいな」

 

「あなたも、それは知らなかったのですね……まあ、シェリルさんもわざわざ異国のことを話したりはしませんか。あなたも幼子でしたしね」

 

「そういうことだ。俺はただ、殿下に言われたんだ。せっかくフェルリオで単独行動をするならブリランテに行けと。寄れそうなら寄ってこいってな……あの人、これ知ってたんだな……」

 

 知っているのなら先に言って欲しかった、それなら無駄に驚かずに済んだのに(エリック達には全くそのようには見えなかったが)とダリウスはため息を吐いた。

 

「ところでダリウス。要はさっきの人……ロジャーズ、だったか? あの人はお前の叔父にもなるんじゃないのか? 何で名乗らなかったんだよ」

 

 先程の男性はロジャーズ=ローエンフェルドと名乗っていた。つまり、ダリウスの母親シェリルである以上は彼の甥っ子はジャンクだけではない。甥っ子の存在に良い意味で驚きを隠せていなかったロジャーズの反応を見る限り、ダリウスが血縁者として名乗り出ても同じ反応を見せただろうにとエリックは思ったのだ。

 しかし、ダリウスは一瞬悲しげに目を伏せた後、これまで見たこともないような、それでいて自嘲的な笑みを浮かべてみせた。

 

 

「私のようなものが、犯罪者でしかないようなこの私が……急に『あなたの親族です』と名乗り出たとします……あなたは、それをどう感じられますか?」

 

 

「!?」

 

 その問いに、エリックはすぐに言葉を返すことができなかった。ダリウスが笑ったのも理由の一つだが、まさかこのようなことを口走るとは思わなかったのだ。

 

「それが、答えですよ。クリフォードと、私は違う……少なくともクリフォードは、自衛のためならともかく、“私欲”のために殺人をした経験はないでしょうから」

 

 彼の言葉が意味するのは、彼が過去に私欲のために誰かを殺めた経験があるということ。その相手は恐らく、ほぼ間違いなくポプリの母親のことだ。

 

「……」

 

 そうだということを察し、困惑してしまったらしいポプリは一人、部屋を出て行こうとする。その腕を、ダリウスが掴んだ。

 

「なっ、何よ……?」

 

「ちょっと疲れてるみたいだ……席を外す。お前はここにいろ。心配すんな、勝手に帰ったりはしねぇよ」

 

 眉をひそめるポプリの頭を軽く叩き、ダリウスは有無を言わせず部屋を出て行った。相変わらず強引だなという印象はあったが、ポプリに気を遣っているのかもしれない。

 

 

「失言だったと感じたのかもしれませんね。確かに、俺ならまだしも、ポプリ姉さんを前に言う言葉じゃなかったとは思います」

 

「もう、何が何だか分からないわ……そういえばあたし、結局あの男からお母さんのこと聞き出せてないのよ。全く……本当に調子が狂うわ……」

 

 そう言って、ポプリはベッドに寝かされていたジャンクの傍へ椅子を持って移動した。いつの間にか耳のヒレは消え、少し顔色も良くなってはいるものの、まだ目覚める気配はない。

 

「先生……起きないわね」

 

「大丈夫、傷の具合からして、明後日には目覚めると思いますよ。これ、基準が俺なので彼ならもう少し早いかもしれませんが……明日って可能性もあります」

 

 どういう意味? と首を傾げたポプリに軽く微笑んだ後、アルディスは眼帯の上から自身の左目を抑えた。

 

「俺、なかなか死なないでしょう? その理由、なんですけど……ヴァイスハイトは基本的に、首を落とされるか両目抉られるか心臓を止められるかしない限りは大体何とかなってしまうんです。昏睡状態にはなりますし、個体差はありますが」

 

「……」

 

「せっかくですし、俺達の体質についてでも話します。後々の対処にも繋がるだろうから……この人に、ヴァイスハイト関連の話は、あまり振るべきじゃない。俺が、答えられる範囲で全て答えます」

 

 そう言ってアルディスは悲しげな笑みを浮かべ、一息吐いてから再び口を開いた。

 

「説明するよ。まずね、ジャンさんが俺基準より回復早そうってのは、体質自体が俺に比べてかなり精霊寄りの体質っぽいから。そういうヴァイスハイトは回復早いんだ。言い方悪いけど、水に濡れただけでああなるんだ。それは間違いないと思う」

 

「ああ、耳が完全にヒレになってたな……そのときは全く気にしてなかったんだが、一緒に温泉に入った時もアイツ、頭にタオル乗せて左右に垂らしてたから、ヒレ出てたんだろうな」

 

「そうだろうね。温泉なら当然身体が濡れてただろうし、彼も焦っただろうなぁ」

 

 盛大に湯をかけられたと正直に言ってしまいたかったが、その直前に妙な事件があっただけに、余計なことは言わない方が良いだろう……少なくとも、今は。

 エリックは喉まで出かかった言葉を飲み込み、アルディスの話の続きを待った。

 

「能力の高いヴァイスハイトには“獣化”っていう、自分の身体をより魔力を扱いやすいように変化させる力があるんだ。ジャンさんのあの姿は半獣化の状態だね。本当なら、人というより魔物、文字通り獣のような姿になるのが獣化能力なんだけど」

 

「獣化はお前も使えるんだよな?」

 

 エリックがそう尋ねると、アルディスは決まりが悪そうに視線を泳がせる。

 

「え、えーと……その、俺のはもはや、獣化とは言えないよ……ただの“弱体化”だ……」

 

「は!?」

 

 予想外の言葉に、エリックは間抜けな声を上げてしまった。そのせいか、アルディスの方はますます決まりが悪そうだ。

 

「君も聞いたことあったんだね……別名“月神の銀狼”だったかな? 泣きたい……」

 

「……」

 

「周りが騒ぎ立てて、何か勝手に変な二つ名まで付けてくれたけどさぁ……違うんだよ、本当にあれは違うんだよ……まあ、とりあえず俺よりジャンさんの方が能力の高いヴァイスハイトだってことは理解してもらえたかな……」

 

 そう言って、アルディスは「恥ずかしい」、「これ以上聞かないで」と両手で顔を覆う。事情はよく分からないが、可哀想なことをしてしまったのかもしれない。エリックはディアナとポプリを交互に見たが、彼女らも何も分からないと首を横に振る。

 

「あ、アル……」

 

「……。大丈夫、気にしないで。説明に戻るよ、聞かれそうなこと、先に答えとく」

 

 かなりのコンプレックスだと思われる部分を刺激してしまったようだが、エリック達が何を求めているのかを理解していたアルディスはすぐに顔を上げてくれた。

 

「そもそもね、ヴァイスハイト自体が『精霊に近い人間』みたいなものなんだ。実は俺も詳しいことは知らないんだけど……何か、体内に全属性の精霊を宿していると身体が精霊向きの身体に作り替えられて、ヴァイスハイトっていう一種の別種族みたいな存在になるらしいんだ」

 

 話が難しすぎるせいか、マルーシャが少し眉をひそめ、小さく唸った。

 

「うーん、目の色が変わるのはそれが原因ってことかなぁ……? ジャンなら分かったりするかな、精霊に詳しそうだしね」

 

「確かに、ジャンさんなら分かるかもね……マルーシャが言ってるように、ヴァイスハイトの右目が金色になるのはこういう事情らしいよ。でも、うん……やっぱりこの辺は俺に聞かないで、ごめん、全然理解できてないから……」

 

 アルディスは博学、特に魔術関連の話にはかなり通じているために、この手の話で戸惑ってしまうことにはかなり意外な印象を受けた。体内の精霊などという少々おぞましさを感じられるような分野の話だ。表に出回っている情報量が少ないのかもしれない。

 

「ちょっとダリウスさんの話にも出てたから補足しとくと、その体内精霊が影響してるのが、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)でいう暗舞(ピオナージ)純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)でいう戦舞(バーサーカー)。どちらも体内精霊にほぼ影響されない体質だから、魔術能力はさほど高くない。でも体内精霊に頼らない分、腕力だとか脚力だとかが強い。体質上、魔力にあまり頼れないのを補う進化の仕方をしたって言ったら、分かる?」

 

 アルディス曰く、ヴァイスハイトがなかなか死なないのは、失ったものを豊富な魔力で補おうとする働きが強いからなのだという。

 腕が一本無くなろうが、少々深い傷を負おうが、昏睡状態にはなってしまうが、最低限の治療さえしておけば目覚めた頃には命に別状がない状態になっているのだとか。

 それに対し、暗舞(ピオナージ)戦舞(バーサーカー)の場合は肉体そのものの強さで立ち続けるような力が強いのだという。僅かな魔力に働きかけ、若干であれば一時的に能力を向上させることができる者もいるそうだ。

 

 この話を聞いて、ディアナはかなり困惑したような顔をしてアルディスを見た。

 

「あなたにこんなことを言うのは失礼かもしれないが……暗舞(ピオナージ)と聖者一族の混血に加え、ヴァイスハイトとして生み出してみようという意見が出てしまうのも……」

 

「無理は無かったろうね。ただ、俺の場合は暗舞(ピオナージ)と混血にするか“精霊の民”と混血にするか、で結構意見が割れてたらしいけど。ジャンさんやダリウスさんみたいな力が使えるのも良いよねってことで」

 

 兵器として生み出された過去を持つアルディスだが、例の騒動で過去を吹っ切ることができたのだろう。

 少し前に自棄を起こして暴走した彼の姿を知っているだけに、エリックは密かに心配になっていたのだが、今のアルディスはかなり客観的に自分を語ることができていた。

 

 

「ここ、ブリランテの住民は精霊と心を通わせて、彼らの力を借りて術式を展開する精霊術の使い手ばかりだから、「精霊の民」とも呼ばれるんだ。ジャンさんが妙に精霊に懐かれたるのは、精霊の民の血を半分引いてるせいだと思う。まあ、精霊術に関してはどうもマクスウェルに助けてもらえないと使えないみたいだけど」

 

「そういえば、ジャンは精霊の使徒(エレミヤ)の契約が切れた途端に能力無くしてたな」

 

「だね。しかも多分、精霊の使徒だった間は、ヴァロンから身を隠す術も与えられてたんじゃないかな……」

 

 精霊の使徒(エレミヤ)としての契約が切れてしまったことにより、ジャンクはヴァロンに見つかってしまったのだろうとアルディスは目を細める。ヴァロンが「急に探知ができるようになった」と言っていた以上、この推測は誤りではないのだろう。

 そこまで言い切った後、アルディスは両手を強く握り締め、微かに目を伏せてしまった。

 

「今にして思うと、彼にとって、精霊の使徒(エレミヤ)であることは命綱みたいなものだったんだと思う……本当に、申し訳ないことをしてしまったなって……」

 

 恐らくジャンク本人や、彼が呼び出したウンディーネとシルフは、こうなることを分かっていた。分かっていながら、自分自身に危険が及ぶと分かっていながら、精霊の使徒としての禁忌を犯したのだ。

 

「悔やんだって仕方ないことだって分かってるさ……だけど、俺は……っ」

 

「……」

 

 自身の出生のことは吹っ切れていても、やはりアルディスはエリック達との一戦及びその後の騒動について酷く気にしていた。しかも今回のジャンクの件と例の騒動はかなり密接に関わっている以上、当然彼にとっては精神的に非常に辛い状況だろう。

 

 誰も、アルディスを責めてはいない。

 だが、彼自身が自分を許せないという感情は、彼自身が乗り越えない限りはどうにもできない。

 

「お前がそう思うなら、ジャンが目覚めてからちゃんと謝れば良いさ。明日明後日には目覚めるんだろ? 永遠の別れってわけじゃない。大丈夫だ」

 

 どこか弱々しく、震えた声でアルディスは「そうだね」と言って微笑み、静かに俯いてしまった。また泣き出してしまうのではないかと思ったが、彼は涙が出そうになるのを必死に耐えているようだ。こういう時は、下手に話しかけない方が良いだろう。一応、彼にもプライドというものがある。

 

「……」

 

 アルディスから目を逸らし、窓の外を見据えるエリックの右手が無意識に首へと伸びる。その様子を、マルーシャがどこか不安げな面持ちで静かに眺めていた。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.42 決意と離別

 

 アルディスが落ち着いてきた頃、気分転換も兼ねて少しブリランテの村を出歩いてみようという話になった。

 何気なく進んだ先にあった、中途半端に整備された広場。その脇に、数人の村民達と言葉を交わすダリウスの姿があった。

 

「ダリウス……」

 

「ん? なんだ、揃って出てきたのか」

 

「ええ。せっかくだから、お店があるなら買い出しとかも済ませちゃおうと思ったのよ」

 

 ディミヌエンドで買い出しを全て終わらせる筈が、ヴァロンの襲撃があったために買い出しはほぼ無意味なものとなってしまっていた。それを察したらしいダリウスは、北の方角を指差してそちらに行くようにと促す。

 

「あっちに、店がいくつか並んでいたな。当然ディミヌエンドとは店の数も品目も劣っているだろうが、今、お前らが必要なものは全部揃うだろう。特徴的で面白いものも多かったから、見る価値は十分にあると思うぞ」

 

「あ、あなたねぇ……!」

 

 ディミヌエンドには劣る等という、村民の前でかなり失礼な発言であるようにも感じられたが、村民達も痛い程それを理解しているのだろう。特に何とも思っていない、それどころかエリック達の方を見て、心から歓迎していると言わんばかりの笑みを浮かべてみせた。

 

「小さな村ではありますが、ゆっくりしていってくださいね……久しぶりの客人、それも両国の後継者様の姿が見られるなど、この村始まって以来のことです」

 

「えっ!?」

 

「金髪が珍しいだの、ノア皇子によく似た人がいるだの色々聞かれたので話しました」

 

「お前なぁ……」

 

 勝手に話すなよと言いたいところではあったが、相手に敵意が無いなら問題ないだろうと考えを改め、エリックは軽く頭を下げる。

 

「どうやら既にご存知のようですが、私はエリック=アベル=ラドクリフと申します。訳があったとはいえ突然押しかけてしまい、申し訳ありませんでした」

 

「そんなことはありません……! 我々の方こそ皆さんに対し、感謝の言葉を送りたい程で! ですのでどうか、シェリルの子が元気になった際には、どうか会わせて頂きたいのです」

 

 ジャンクとダリウスの母親である、シェリル=ローエンフェルド。彼女がどのような人物であったかはエリックには全く分からない話だが、この村にとって、とても大切にされていた存在であったことは間違いなさそうだ。

 

 シェリル本人が既に故人ということ、その死因がジャンクの誕生によるものだということは、先程ポプリから聞いていた。聞いていただけに、村民達がそれを知っているのかどうかが気になった。それを知れば、手のひらを返してしまう可能性もあるからだ。

 

「エリック」

 

 心配事の内容を察したらしいアルディスはエリックの肩を叩くと、軽く村人に背を向けるように促してから小さな声で話しだした。

 

「少なくともこの村なら、大丈夫だと思う。この村じゃヴァイスハイトって割と出やすいから当然母親の死亡率のことも理解してるだろうし。何より、この村でジャンさんみたいな高能力のヴァイスハイトは“愛し子”って呼ばれてて完全に崇拝対象だから、逆に歓迎される可能性が高いよ」

 

「そ、そうなのか……ヴァイスハイトが出やすいとか、そういう村があるなんて……」

 

「俺もあまり詳しくは知らないけれど、精霊と常に接している精霊術師(フェアトラーカー)達の村だから、精霊から身体的な影響を受けやすいらしいんだ」

 

 ヴァイスハイトが、通常は天文学的な確率でしか生まれない存在であることはエリックも知っていた。それはそもそも、人と精霊とが本来ほとんど接点を持たないことが理由なのかもしれない。

 そういえば、アルディスは母体に直接下位精霊を流し込むという方法で生まれた、言ってしまえば人工のヴァイスハイトである。このような方法が生み出されるのだ。精霊が人体にもたらす影響というのは、かなり大きなものなのかも知れない。

 

「まあ、影響受けてるだけだから、大半は右目の色が違うだけで大した力を持っていなかったり、獣化まではできなかったり、逆に獣化した姿しか保てなかったりするような人が多いって聞くけどね。出産時に母体が耐えられないくらいに高い能力を持ったヴァイスハイトは、この村でもまれだよ」

 

「へ、へえ……」

 

 精霊とほぼ接する機会もなく生きてきたエリックからしてみれば、この村に来てからはひたすら知らないことばかり聞かされ続け、文字通り目が回りそうな状態である。そんなエリックの心境を理解しているのだろう。代わりにアルディスが住民達と話し始めた。

 

「失礼致しました。問題の人物がやや対人恐怖症気味なので、少しアベル王子と話し合っておりました。大丈夫、だと思います。我々にできる範囲でなら、彼を説得することも可能ですから」

 

「対人恐怖症気味、ですか……」

 

「彼は生まれてから今までに、色々とあったようなので。皆さんとお会いすれば、きっと驚かれると思います」

 

 今は深いことを語るべきではないと判断したのだろう。それだけを言った後、アルディスは微笑み、軽く頭を下げた。

 話しているうちに少し人が集まり始めた。その中の数人が目を見開き、アルディスの顔を眺めている。昨日、彼は幼い頃にここに何度か来たことがあると言っていた。知り合いだったのかもしれない。

 

 

「ノア皇子!」

 

「!? ブ、ブルーナーさん……! お久しぶりです!」

 

 そんな中、集まり始めた人々の中からひょっこりと顔を覗かせたのは、老齢の小柄な女性。彼女の瞳は、左が茶色で右が金色。つまり、ヴァイスハイトである。

 

「彼女は、ブルーナー=ヘルバルト。俺のヴァイスハイトとしての能力を最大限引き出すために協力してくださった方……要は、師匠なんだ」

 

「お、おう……本当に、ここではヴァイスハイトが平然と暮らしているのか……」

 

 思わず口から溢れ出た言葉が聞こえていたのか、ブルーナーと呼ばれた老婆はエリックの近くに歩み寄ってきた。

 

「貴殿が噂のアベル殿下ですね。ふふ、随分と大きいのに、優しそうな目をしていらっしゃる……殿下、ヴァイスハイトは珍しいですか?」

 

「!? あ、はい……ええと、その……不快に思われるかもしれませんが、私の国において、ヴァイスハイトは……」

 

 ラドクリフ王国でのヴァイスハイトは、迫害され、命を脅かされる存在。だから、本当に最近まで両目の揃ったヴァイスハイトを見たことが無かったーーそれを言ってしまって良いのか悩み、エリックは口をつぐむ。

 

「ふふ……分かっておりますよ、本当に、お優しいのですね」

 

「え……」

 

 失礼ながら、あなたを試させて頂きました。そう言って、ブルーナーは笑う。

 

「ただでさえ我々ヴァイスハイトは、フェルリオ帝国内でもあまり良い顔はされません。未知の存在として、恐れられるのです」

 

「同じ、魔術師だというのに……?」

 

「ええ。ですから、人種による格差が大きなラドクリフ王国では、もっと悲惨な現場が見られるのではないかと思ったのです。失礼だと分かっていながら聞き耳を立ててしまったのですが、皆様方が連れてきてくださったシェリルの息子は、人を怖れるのだと。それは、育った環境がゆえなのでしょう?」

 

「……ッ」

 

 上手く、言葉が出てこない。ブルーナーは差別や偏見に対し、どこか諦めの境地にあるのだということを感じ取り、エリックはおもむろに首を横に振った。

 正直、ショックだったのだ――そんなエリックの肩を叩き、アルディスはどこか悲しげな笑みを浮かべてみせる。

 

「エリック。もしかして、フェルリオは皆平等な美しい国だとでも思ってた?」

 

「いや……そりゃ、少しは酷い話も聞いている……だけど」

 

 まさか、ここまでとは思ってなかった。そう言ってみせたエリックの前で、アルディスはブルーナーと一度だけ顔を見合わせ、口を開いた。

 

「フェルリオ帝国ではね、銀髪碧眼の人間、つまり聖者と呼ばれる人々が最も地位が高いんだ。それ以外の人々は、基本的に見下され、差別される」

 

「それでも我々はまだ、良い方です。リッカの暗舞(ピオナージ)達や、サートルカータに追いやられた、反逆者の末裔の方々……忌み嫌われるあの方々の、あまりにも酷い扱いに比べたら」

 

 アルディスはともかく、結局は国民という立場に過ぎないブルーナーがこのようなことを次期皇帝を前にして言うのは御法度だろう。しかしその差別の運命下に置かれているのは、かつてのアルディスも同様なのだ。

 

「ひ、ひどいよ……そんなの、ひどすぎる……!」

 

 エリックとアルディスの二人が話しかけられているのだからと今まで黙っていたマルーシャだが、流石にこれには口を出さずにはいられなかったらしい。ポプリとダリウスも、少し顔色が変わっているのが分かる。

 

「アルが暗舞(ピオナージ)との混血になったのは、暗舞特有の黒髪はなかなか遺伝しないからだ。ヴァイスハイトだと左目の色も若干の変異を起こすから碧眼にはならないわけだが、せめて髪色だけは引き継がせようという意図があったんだそうだ」

 

 ディアナは不愉快だとと言わんばかりの、吐き捨てるような調子で口を挟んできた。それに対し、アルディスは「そうだね」と言って苦笑する。

 

「俺は失翼症だったし、流石に黒髪まで遺伝しちゃってたら生かされもしなかったかもね……」

 

 空色の髪の遺伝子は、確実に子どもに遺伝するのではないかと思う程に強い。そのことを考えれば、アルディスが精霊術師との混血にならなかった理由もすぐに理解せざるを得なかった。

 アルディスの出生の話は何度聞いても、彼本人は気にしていなくても。エリック達からしてみればあまり気分の良い話であることに変わりはない。ブルーナーは困惑するエリック達を見て「あらあら」と穏やかな笑みを浮かべてみせた。

 

「あなた様がおっしゃる通り、我々精霊術師(フェアトラーカー)の間ではお力を借りる精霊様の影響を受け、ヴァイスハイトがよく生まれます。時々、不思議な形をした子も生まれますから。見た目を気にされる、お偉い様方には嫌われてしまうのですよ。確かに、聖者一族の容姿は美しいとは思いますがね」

 

 ですが、とブルーナーはおもむろに首を横に振る。その表情は、とても柔らかなものだった。

 

「私はノア王子の傷一つない翡翠のような瞳や、ダイアナ様の夜空のような深い藍色の髪の方が美しいと思うのですが……あら、そこのお嬢さんもダイアナ様のような髪色をしていらっしゃるのですね」

 

「……!」

 

 彼女の言葉に、ディアナが大きな青い瞳を見開いて喜びを顕にした。彼女は酷い差別を受けている側の人間だ。もはやなりふり構っていられない程に嬉しかったのだろう。

 

「い、いや! オレは“お嬢さん”じゃない!! オレは男だ!! ……綺麗と言われるのは、嬉しいのだがな……」

 

 だが、言うべき言葉を言うのが遅すぎる。ただでさえ、ディアナは少女にしか見えない容姿の持ち主。まさか男とは思わなかったらしく、ブルーナーも驚きを隠せない様子で「あらあら、ごめんなさいね」と苦笑していた――否、彼女はディアナに『合わせて』いた。

 

(ん……?)

 

 ブルーナーの反応に違和感を覚えると同時、エリックの脳裏を、あの時の忌々しい女達の言葉が過ぎっていった。

 

『アンタみたいな薄汚い小娘に、こんな物が似合う筈もないでしょう?』

 

 

――薄汚い“小娘”。

 

 状況から判断するに、恐らくラドクリフに来る前はもっと長かっただろうディアナの藍色の髪を掴み、女は確かにそう言っていた。

 

「あっ!?」

 

 嗚呼、自分は馬鹿じゃないのか。どうして、あの時、あの瞬間にコレに気付かなかったのか……。

 エリックは悲しくも自覚できてしまう程に間抜けな声を上げ、頭をガシガシと掻いた。

 

「どうした? エリック?」

 

 どこか不安げな表情で、ディアナがエリックを振り返る。唐突に変な反応を見せたために、しかも話題が話題であるために、性別がバレてしまったのではないかと不安になったのだろう。いや、実際、本当にそうなのだが……。

 

(こ、これは……流石にこの場で追求したら駄目だよな……)

 

 エリックは頭を振り、咄嗟に口角を上げて微笑してみせた。

 

「悪い悪い! ちょっと別のことを考えていたんだ! 全く関係のない話だ、気にしなくて良い」

 

「そ、そうか……な、なら良いのだが……」

 

 我ながら『ディアナの男装並みに』下手くそな嘘だ。ディアナもどこか不安そうな様子は変わらない。

 どうしたものかと頭を悩ませるエリックの横目が、アルディスが「良かった」と言わんばかりに胸をなで下ろしている姿を捉えた。

 

(こ……っ、こいつ! 僕より先に気付いてたんだな……っ!!)

 

 ディアナ云々の前に、アルディスと能力から考えてどう考えても気付いているだろうジャンクと口裏を合わせた方が良さそうだ。だが今はまず、話を変えてやった方が良いだろう。

 

 

「そういえば、ノア皇子やディアナの容姿を見てもディミヌエンドやヴィーデ港の人々は特に顔色を変えませんでしたね……」

 

 不自然な話題では無いと思う。実際、エリック自身もこのことは気になっていた。そしてブルーナーも特に妙な反応をすることなく、くすくすと笑って話し出してくれた。

 

「私に限らず、聖者一族ではない民間人はむしろ、銀髪碧眼を嫌っている可能性だってありますよ。私も……正直、あまり良い印象はありません。ノア殿下を前に言う話では無いとは思いますが」

 

 気になさらないで下さい、と笑うアルディスをちらりと見た後、今まで黙っていたダリウスが口を開いた。

 

「シックザール大戦後、フェルリオ帝国内では大規模な聖者一族排除運動もあったらしい。現場を見たわけでは無いが……想像はできるわな。散々聖者一族以外の人々を差別してぞんざいに扱った挙句、暗舞(ピオナージ)の血を引くノア皇子とアルカ姫の両名を『無かった』ことにしようとした一族だ。大戦で聖者一族の勢力が落ちたところを狙って、反乱が起きたんだろ」

 

 言われてみれば、フェルリオ帝国最大の都市だというディミヌエンドで見た聖者一族――銀髪碧眼の人間は、ディアナを虐めていたあの三人組くらいだ。

 どうやら排除運動のことは本来当事者である筈のアルディスも知らなかったらしく、目を丸くしたりため息を吐いたりと落ち着きの無い反応をしている。

 彼は母国フェルリオに帰る事が出来ず、ずっと隠れるようにラドクリフ王国内で生活していたのだ。母国のことを知る機会はほぼ皆無だったのだろう。

 

「ええ。そこの彼が言うように、聖者一族の大多数……つまり上流中流の貴族達は儀式のためにラドクリフに行って帰って来なくなりましたし、現在この地に残っている者は儀式に参加する事を許されなかった下流貴族と、辛うじて帰還出来たひと握りの者達のみ。今はコラール大陸に『レイバース』という新たな街を作り、そこに引きこもっていますよ」

 

 アルディスのためにも詳しい話をしようと考えたのだろう。かなり大雑把だったダリウスの話をブルーナーが補足する。

 彼女が言うには、未だにディミヌエンドにいるのは聖者一族の中でも魔術の才に恵まれなかったり、戦時中に好ましくない行動を取ったりしたなどの理由で同族内でも疎まれているような下流貴族の者で、要はレイバースに住むことを許されなかった人々なのだそうだ。あの女達は下流階級だろうという、エリックの予想は間違っていなかったということである。

 

「栄華は続かない、いずれ廃れゆくもの……聖者一族の全盛期だった頃しか存じ上げない私ですが、何というか嬉しいような悲しいような、すごく、複雑な気持ちです……」

 

 消え入りそうな声で呟き、どこか悲しげに笑ったアルディスの左手を、ブルーナーはそっと深いシワの刻まれた両手で包み込んだ。

 

「それでも……今更ですが、ノア皇子。本当に、あなた様が無事で良かった。成長なさったあなた様のお姿を見られるとは、夢にも思いませんでしたよ」

 

 自身の境遇故、聖者一族の衰退をどのように受け止めて良いかが分からなかったアルディス。その心境を察知したのか否か。柔らかで、嘘偽りのない笑みを浮かべるブルーナーに釣られ、彼も自然と笑みを浮かべる。

 

「ありがとうございます。私も、まさか生き延びて再びフェルリオの地を踏めるとは思いませんでした……」

 

 

 長い間、フェルリオ帝国を離れていたアルディスだが、幸か不幸かその間に彼の母国は彼にとって暮らしやすい環境と化していた。

 一部の人々が狂ったように権力を振りかざし、他を追い詰めるような状況はやはり良くないということを、改めて感じさせられる。

 

 

「ラドクリフの強者絶対主義に、フェルリオの血統絶対主義……か。そういう意味じゃ、エリック君もノアも今までの王家の真逆を行く、異質の後継者よね」

 

 重くなり始めていた話の流れを変えようと思ったのだろう。唐突に話を切り出したポプリは、エリックとアルディスを見据え、軽く首を傾げて笑った。

 

「あたしはね、二人が異質だからこそ、今までの流れを変えられる存在になれるって、期待してるのよ?」

 

 純粋な、彼女の真っ直ぐな想いに応えられるだろうかとエリックは奥歯を噛み締める。それでも「自分には無理だ」と即答してしまう、かつてのエリックはそこにはいなかった。

 

 

「変に期待するのはやめろよな……でも、努力はする。最初から諦めるんじゃ、何も変わらないからな。それに、ここに来て痛感したことだってある。その事実から、自分が成すべき事から、僕は目を背けたくない」

 

 彼が口にしたのは、謙虚ではあるが、前向きな答え。その答えを聞いたアルディスは自身の左手の甲をさすり、軽く息を吐いてから口を開く。

 

「色々ありましたけれど、俺はやっぱり、人々に期待された分は応えられる自分で在りたいですね。人々が平和を願うのであれば、俺は全力でそこに向かって突き進むまでです」

 

 エリックに釣られるようにアルディスが口にした答えはやはり前向きで、力強い意志を感じるもの。

 圧倒的に『自信』というものが足りていなかった二人ではあったが、この短期間で少しずつ、少しずつではあるものの、成長の兆しを見せていた。

 

 そんな二人の姿を見て、ポプリは本当に嬉しそうに、それでいて感極まって泣き出しそうになるのをこらえるように琥珀色の瞳を細めた。彼女だけではない、マルーシャとディアナも同じような反応だ。

 

「何だか、二人が遠い存在に感じるよ。わたし、ずっと近くにいたのになぁ」

 

「ふふ、そうだな……少なくとも、以前までの二人には無い前向きさだ。見習いたいものだ」

 

 微笑ましげに、見守るように穏やかな笑み浮かべているブルーナーを横目で見た後、ダリウスは深く息を吐きだし、自身の胸に手を当てる。

 

「もう、心配なさそうだな……これで、クリフォードをお前らに託して帰る決心が付いた。ただ、最後に顔くらい見ていくかな……」

 

「えっ!? どうしたのよ突然!!」

 

「いや……お前らには悪いが、少し心配だったんだ。俺が連れ帰るわけにはいかないし、どこかに預けるか……みたいなことを考えていてな。だが、その必要は無いと判断した」

 

 もう少ししたら、俺はこの村を発つよ――そう言って笑う彼の顔には、どこか憂いの影が差していた。

 

 

 

 

「ダリウス!」

 

 月明かりに照らされる、荒野。

 いつの間にやら宿屋から姿を消した彼を見つけ、駆けつけたエリック達の前方で、ダリウスは空から舞い降りてきたばかりのマッセルの大きな白い翼を撫でていた。

 以前、アルディスとディアナの二人と戦った時もであったが彼は今回、上空から飛び降りてきた。

 あれはチャッピーとは異なり、空を飛べる翼を持ったマッセルを連れているからこそできたことだったのだろう。

 

 少し肌寒い風が、ダリウスの衣服をなびかせる。どうにも寂しそうに見える彼のもとに、ポプリがゆっくりと歩み寄り始めた。

 

「なんだよ、見送りか? あ……ほら、危害は加えなかったろ? だから……」

 

「分かってるわ。ちょっと、そこで待ってて」

 

 ポプリの手には、ダリウスに渡された長い細身の剣。剣を持ったまま、彼女は自身の桜色の髪に結んでいた黒いリボンへと手を伸ばす。

 

「はい。約束通り剣は返すわ。それから……これも持って行って」

 

 しゅるり、と微かな音を立て、リボンが解ける。リボンを剣の上に乗せ、ポプリはそれをそのままダリウスへと差し出した。

 

「ん? リボン……?」

 

「あたしは秩序封印(ヴァルデマール・フレイヤ)能力者で、特に物体の動きを封じる能力に長けているの。そのリボンは、あたしが十年近く身に着けている物よ。だから、あたしならそれを媒介に、離れていても能力を発動させ続けることができる。それができるように、さっきリボンに術式を刻んでおいたの」

 

 魔術師が長年身に着けていたものには、持ち主の影響を受けて若干ながら力が宿る。そのリボンなら間違いないだろうと言いながら、ポプリは軽く背伸びをしてダリウスの包帯で隠された右目に触れた。

 

「要は、あなたの身体に悪影響を与えている魔力を制御すれば良いのよね」

 

 ふふん、とポプリが不敵な笑みを浮かべる。刹那、バチリと紫の光が空気中に散った。

 

「ッ、く……っ!」

 

「右の視力に影響出るでしょうけど、どうせほとんど見えてないんでしょう? 知ったこっちゃないわ」

 

「お……お前……! 今度は何を企んで……ッ!!」

 

 ポプリから距離を取り、右目を押さえるダリウスの息が若干上がっている。彼は悲鳴こそ上げなかったが、かなりの痛みが生じるものだったのだろう。

 

「大丈夫、あなたが死ぬようなことはやってないわ。大切なお兄さんを変な死なせ方させたら、先生が悲しむもの。意地でも、あなたを魔物なんかにはさせないわ」

 

 ポプリの突然の行動に動揺を隠せないのはダリウスだけではない。エリック達も同じだ。

 一応ざっくりと話は聞いているため、ダリウスの右目付近が変色している理由、いずれ彼が魔物化する可能性については知っている。知っている……のだが、まさかポプリが勝手に動くとは思わなかったのだ。これはもう、成り行きに任せるしかなさそうだ。

 

「ッ、ピンク頭……! お前まさか、俺の右目に制御陣を刻んだのか!? 今の短期間でこんなことできるような能力者、馬鹿学者達がほっとかねぇぞ! フェリ……いや、俺達みたいになりたくなきゃ、さっさと術を解け!!」

 

 ダリウスが口走った『フェリ』という人物は恐らく、秩序封印(ヴァルデマール・フレイヤ)能力者だ。その後に続けて彼は『俺達』と言っていた。つまり、高度な力を持つ秩序封印能力者は実験体にされかねない、ということなのだろう。

 

「ああ、そういうこと。ペルストラの一件以降はよく、変な奴らに追い回されるのよ、あたし。それでノアハーツ孤児院も追い出されるし、何でかなって思ってたの。能力のせいだったのね」

 

「ちっ、既に目ぇ付けられてんのかよ……」

 

「その度にあたし、あなたの弟に助けられてたのよ。感謝してるわ」

 

 だから、あなたにその術をかけたの、とポプリは笑う。もう痛みが引いてきたのか、ダリウスは右目から手を離し、どこか自嘲的に吐き捨てた。

 

「はは……そもそも俺じゃ無理だとは思ってたが、勝てそうもねぇな」

 

「ん? 何よ、あたし。勝負なんてした覚えないわよ」

 

「良いんだよ。ほっとけ」

 

 決まりが悪そうに頭をガシガシと掻いた後、ダリウスは剣をレーツェルに戻し、リボンを右の手首に巻き付ける。ポプリを説得するのは諦めたようだ。

 

「ピンク頭、これで良いんだろ?」

 

「ええ、なるべく外さないでね。制御陣の効果が薄れちゃう……それからねぇ、あなた、出会ってから馬鹿の一つ覚えみたいにあたしのこと『ピンク頭』って呼ぶのやめてくれない!?」

 

「どっからどう見たってピンク頭だろ」

 

「そうじゃないわよ! あたしにはねぇ、ポプリ=クロードっていう親から貰った大切な名前があるの! 馬鹿にしないで!!」

 

 怒りを顕にするポプリの言い分を「はいはい」と聞き流し、ダリウスは彼女の頭をぽんぽんと叩きながら口を開いた。

 

「くく……っ、本当弄りやすい奴。しかし親から貰った名前……ねぇ。せっかくだ、教えてやれる機会があったら教えてやってくれよ」

 

「え? 何よ、話をそらさないでよ……!」

 

「クリフォードは母親シェリルの名前の頭文字を取った、『清く導く者』という意味の込められた名前だ。嫌な思い出も多いだろうが、それでも両親の愛情が込められた名前だからな。知らないままなのは、可哀想な気もするんだ」

 

 母親の名前の頭文字を取るくらいだ。恐らく、名付け親は父親の方だろう。納得がいかないと反論しかけたポプリではあったが、話題がジャンクのことであるためか、口を閉ざしてしまった。

 

「『清く導く』って意味においては、お前らの傍にいれば安心できる気がした。せめて、な……両親が願ったような形で、あいつにはこれからの人生を歩んで貰いたいと思っている」

 

 それでエリック達に弟を任せる気になったんだと、ダリウスはエリック達を見据える。恐らく、彼はそのままここを立ち去るつもりだったのだろう。だが、エリックは彼の言葉の奇妙な点を見逃さなかった。

 

 

「ダリウス。失礼を承知で言わせてもらうが、お前こそ、その名前の意味は『正義を貫く者』だろ? その辺どうなんだよ」

 

 実を言うと、ダリウスという名は歴代ラドクリフ王家にも存在したものだ。だからこそ、エリックはこの名前の意味を知っていた。

 

 黒衣の龍としてのダリウス――ダークネスの姿は、到底『正義』とは思えない。要するにダリウスは、弟には親が残した名前の通りに人生を歩んで貰いたいと願っておきながら自分自身は棚に上げてしまっているような、そんな生き方をしているのではないかとエリックには感じられたのだ。

 

「……。あなたは……私が、私達が、『悪』だと。そうおっしゃりたいのですね」

 

 ダリウスはエリックの発言に対する不快感を一切隠せない表情のまま、溜め息を吐くと同時に肩を竦めてみせる。

 

「! い、いや……そんな、ハッキリとは……」

 

「良いですよ、別に。少なくとも、私に関しては何とでも言って下さって結構です……ああ、結構だ。だがな、これだけは言わせてもらう」

 

 敬語が崩れてしまった。本来は決して綺麗な言葉遣いとは言えない彼だからこそ違和感は無いが、それがエリック相手となると話は別である。かなり、気が立っているのだろう。

 

 

「お前らが何を言おうが、俺は殿下に従い続ける。正しいかどうかなど、もはや関係ない」

 

 

 返されたのは、どこか冷たささえ感じられる言葉。そこには、少しの時間を共にして感じた、彼の不器用な優しさは一切ない。

 結局はゾディートの意志が全てであって、彼自身の思いはどこにも存在しないのだろう。それはあまりにも情けないことなのではないかと、マルーシャが反論する。

 

「それが、ダリウス自身の意に反することだったとしても!? 何もお義兄様を裏切れなんて言ってない! お義兄様を正そうっていう考えは、ダリウスには無いの!?」

 

「……」

 

 まくし立てるように叫ばれ、ダリウスは奥歯を噛み締めて黙り込んだ。そんな彼の態度を見て腹が立ったのか、飛びかかりそうな勢いのマルーシャを宥め、代わりにエリックが口を開く。

 

「マルーシャの言う通りだ、お前は兄上が全て正しいとでも思っているのか? なあ、ダリウ――」

 

 エリックの言葉を遮り、ダリウスは声を荒らげた。

 

「ッ、それならお前らは、ゾディート殿下の全てを知っているというのか!? 彼が……ッ、これまで蔑まされ続けた彼が、どのような思いで、今まで、お前らを……ッ!!」

 

「!?」

 

 酷く震え、声量があったにも関わらず泣いているのではないかと錯覚しそうな程、弱々しい声。

 エリックとマルーシャに敬語を使うどころか、冷静さを保つ余裕さえ無いダリウスの姿が、そこにはあった。

 

「だ、ダリウス……」

 

「くそ……っ、駄目だ。俺は、こんなことを言いに来たんじゃない……!」

 

 弟であるジャンクと比べて随分と落ち着いているから、どうしても忘れかけてしまう。彼も過去に壮絶な経験をして、心に深い傷を負った人間なのだということを。ここに来て、そんなダリウスの弱さを垣間見たような気がした。

 

「……ッ」

 

 ダリウスは長い前髪をくしゃりと掴み、奥歯を噛み締めた後おもむろに首を横に振る。それは彼自身が抱えている闇を、必死に振り払おうしているようにも見えた。

 

「帰る。俺はもう、ここには必要ないだろう?」

 

「えっ、ま、待って! ねえ……」

 

 踵を返し、歩き出したダリウスの背をポプリが追う。その気配を感じながらも、ダリウスはポプリに背を向けたまま叫んだ。

 

 

「殿下がお前達を殺すことを望まれるのなら、俺はそれに従う! 今回はあくまで、お前達を生かすようにと命じられたからここまで着いてきたんだ……それを、忘れるな!」

 

 

 まるで――彼が、彼自身に言い聞かせているかのような、言葉だった。

 

 

「ダリウス……どうして……」

 

「……クリフォードのこと、よろしく頼む」

 

 悲しげなポプリの声に一瞬だけ振り返ったかと思うと、ダリウスは即座にマッセルに飛び乗り、夜闇の中へと消えていった。一枚の白い羽根がマッセルの翼から抜け落ち、ひらりと宙を舞う。

 

(兄上の指示に従うのは……本心じゃ、ないのか……? いや、でも……)

 

 最後に見たダリウスの、どうしようもない葛藤と戦っているかのような、複雑な表情が忘れられない。彼は、彼らは、一体何を考えているというのか。

 

(一体、何だって言うんだよ……!)

 

 頭の中がごちゃごちゃして、もう訳が分からなかった。エリックは砂の付着した羽根を手に取ると、奥歯を噛み締めて空を仰いだ。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.43 紙一重の賭け

 

 僕の中に存在している一番古い記憶は、実の父親に「人殺し」と罵られ、殴り飛ばされた記憶……だろうか。こんなこと、一度や二度じゃなかった。だから、分からない。

 

 物心付く前から、父は僕に暴力を振るっていた。母親は最初からいなかった――僕が、殺してしまったから。

 ある程度、成長した頃に。父が本当は暴力なんて振るいたくないということ、それでも手を上げてしまう葛藤に苦しんでいるということに、気付いてしまった。

 

 僕は、僕が殺してしまった母親に、とてもよく似ていたらしい。だから苦しいのだと、だから虐待をやめられないのだと……朧げな意識の中、僕が見た父の姿。大量の酒を飲みながら泣いていたその姿は、あまりにも寂しいものだった。

 

 全て、僕のせいだ。

 僕が生まれてきた事自体が、間違いだったんだ……。

 

 僕の中で込み上げるように浮かんでくるこの嫌な考えは、いつまで経っても色あせず、ドロドロと溢れ続け、とどまることを知らなかった。

 

 これは精霊の使徒(エレミヤ)としての役目を果たす上では邪魔にしかならない。そうだと分かっているから、忘れようと、考えないようにしようとしている。けれど、ふとしたことをきっかけに、どうしても考え込んでしまう。

 しかも眠れば必ずと言っていい程に悪夢を見るから、できることならば眠りたくなかった。

 

 実家でのことだけではなく、施設に売られた後のことを思い出すこともある。

 暴力に、実験、そして、僕のせいで死んでいった大勢の人達――本当に、発狂しそうになる……もう十年以上昔の話だというのに、未だに、考えるだけで震えが止まらない。本当に僕なんて、生まれてこなければ良かったのに……。

 

 

「ッ、は……っ、ッ……」

 

 気が付けば僕は上半身を起こし、柔らかな毛布を握り締めていて。指先から感じる感触から、ここがどこかのベッドの上だということを理解した。

 

 どうやら、先程まで眠っていたらしい。要するに魘されていたのだ。一体どれだけ眠っていたのか、そもそもどうしてこんな場所にいるのか。それを考えることができる余裕は、今の僕には無かった。

 

「……、う――。……ッ、く……っ」

 

 息が苦しい。ちゃんと呼吸をしている筈なのに、身体が不調を訴え、ぴりぴりと痺れてくる。目を覚ましたのは、この苦しさ故らしい。恐怖からなのか、息ができないせいなのかは分からないが、身体が酷く震える。

 

「おい! 大丈夫か!?」

 

 喉を抑え、何とか呼吸を整えようともがいていた僕の肩を正面から誰かが叩いた。ぼやけた視界ではそれが誰なのか判別できない。ただ、その人物が父と同じ金髪をしているという事だけは理解できた。

 

「ひ……っ!? あ……ッ、ああぁあっ!!」

 

 父はもういない。暴力を振るわれることはない。そしてここは研究所でもない。きっと危害を加えてくる人物は誰もいない。ちゃんと分かっているのに……駄目だ。何もかもが酷く、恐ろしく感じる――!

 

「ッ!?」

 

 近くにいた金髪の人物を片手で突き飛ばし、ここから逃げ出そうと寝かされていたベッドから降りる。しかし、身体に力が入らない。右腕に至っては感覚すらない。

 上手くバランスが取れず、身を投げるように勢いよく床に転がり落ちてしまった。そのせいで、身体の至る所から鈍い痛みを感じる。

 

「い、嫌だ……ッ、たす、け……っ、――ッ、う……っ」

 

 ずりずりと、身体を引きずって部屋の隅へと移動する。そこでやっと気が付いたが、この部屋には複数の人間がいたらしい。

 ただでさえ呼吸が乱れている状態で叫んでしまったものだから、状況はさらに悪化した。息ができない苦しさと、どうしようもない恐怖のせいで頭が上手く働かない。

 

 

「――先生!」

 

 

 冷や汗の止まらない、震える身体を強く抱きしめられたのは、そんな時だった。

 

「もう大丈夫! 大丈夫だから……ッ! あたし達は敵じゃない……怖がらなくて良いの。だから……ッ!!」

 

 震えているのは、僕だけではなかった。突然僕を抱きしめてきた人物はひっくひっくと嗚咽を上げながら肩を震わせている。顔は見えなかったが、頬をかすめる桜色のゆるやかなウェーブを描く髪と、そこから漂うほのかな香りには覚えがあった。

 

(懐、かしいな……)

 

 そういえば、これで二回目になる。どうやら、またしても僕は“彼女”に救われたらしい。

 

「……ッ、――ポ、プ……リ?」

 

 相変わらず息は苦しいが、少し意識がはっきりしてきた。頭に浮かんできた、彼女の名を呼ぶ。嗚咽を上げ続ける彼女の後頭部を軽く撫でながら、僕は静かに前を見た。

 

 少しぼやけた僕の視界に入ってきたのは、心配そうに僕を見つめてくる仲間達の姿だった。

 

 

―――――――――――

 

―――――――

 

―――

 

 

「……すみません。情けないところを、見せてしまいましたね。エリック、どうやら突き飛ばしてしまったみたいですが……怪我は、ありませんか?」

 

 漸く呼吸が落ち着いてきたらしく、やや荒い呼吸を繰り返しながらジャンクは少し引きつった笑みを浮かべてみせる。

 一時はどうなることかと思ったが幸いにもポプリが処置の仕方を知っていた。

 エリック自身も発作を起こして呼吸困難に陥ることはあるが、ジャンクのそれはエリックとは異なるタイプのものだった。本人曰く、完全にストレス性のものなのだという。

 

 ベッドに腰掛け、身体をエリック達がいる方に向けた彼の身体は、じっくりと見なければ分からない程度ではあったが、微かに震えていた。

 

「いや……大丈夫だ。僕の方こそ、何も考えずに近づいたりして悪かった……」

 

 あんなことがあったばかりなのだから症状が出るのも無理はないのだろうが、ジャンクに虐待を繰り返していたという父親の髪色を考えれば、同じ金髪の男性という特徴を持つエリックが近付くのは良くなかったのだろう。悪気があったわけではないが、結果的にジャンクを余計に怯えさせてしまったことを、エリックは後悔していた。

 

「え……ええと……」

 

「ダリウス=ジェラルディーン……あなたのお兄さんから、色々と話は聞いているわ。あたししかまともに聞いてない話もあるけど、多分、大体先生の事情は理解してる。だから、無理に説明しようとかそういう事考えなくて良いわ」

 

 落ち着いてきてはいるが、彼に過去のことを語らせるのはあまりに酷だ。何かを語ろうとしていたジャンクに気を遣い、ポプリはまだ涙の残る瞳を細めて微笑んでみせた。

 

「兄、さん……」

 

「そういえば、ジャンは“ダークネス”としてのダリウスのことを知らないんだよな。大丈夫、元気にやってるよ。アイツも色々あったみたいだが、心配しなくて良い」

 

 お前が目覚めるまで残っててくれれば良かったのになぁ、と笑うエリックに対し、ジャンクはおもむろに首を横に振ってみせる。

 

「良いんです。僕は、大丈夫です」

 

 明らかに大丈夫じゃないぞ、と言いたくなったのはエリックだけではないだろう。事実、彼は先程からダリウスに斬られた右の二の腕を抑えて震えている。もしかすると、痛むのかもしれない。

 もう見られてしまったからと諦めたのか、それともまた閉じている余裕すらなくなっているのか。彼は開いたままの両目を伏せ、長い睫毛を震わせた。

 

「困りましたね……どうも、本調子にならないのです。申し訳ない……」

 

「気にしないでってば。ねえ、ジャン……その右腕、動く? 大丈夫?」

 

 ジャンクの右腕は力なくだらりと垂れ下がっている。見るからに様子がおかしいため、治癒術を掛けようと思ったらしいマルーシャが手を伸ばし――途中で引っ込めてしまった。ジャンクがマルーシャにすら怯え、身体を強ばらせていたのだ。

 

「……ッ」

 

「す、すみません……」

 

 流石にここまで拒絶されると彼女も傷付いてしまったのか、涙をこらえるように下唇を噛み締めていた。だが、本当に無意識にやってしまったらしいジャンクの方も罪悪感からかなり堪えている。それに気付き、マルーシャは「大丈夫」と笑みを浮かべた。

 

「その……駄目ですね。全く動きません。多分、切れたらいけない神経か何かが切れてますね。魔力不足なのか、能力が発動できないからどこがどうなっているのかさっぱりですが……」

 

 傷口は痛むがそこから下の感覚がない、とジャンクは右腕を押さえる左腕に力を込める。その言葉に、ポプリが血相を変えた。

 

「なっ!? あの馬鹿! なんてことしてくれてんのよ……ッ!!」

 

「大丈夫ですよ。大したことじゃない」

 

「大丈夫なわけないじゃない! 片腕動かなくなったって、一大事じゃない!! やっぱりダリウス一発殴っときゃ良かった……!!」

 

 怒りのあまり、ぎりぎりと奥歯を鳴らすポプリの姿を見たジャンクは軽く首を傾げて笑ってみせた。

 

「本当に、大丈夫です。腕自体が繋がってさえいれば、治ります。僕なら恐らく、二週間もすれば元通り動くようになりますよ。まあ、流石にこれだけ深いと傷跡は残るでしょうが……」

 

「え……」

 

「そんな反応しないでください……あの時、僕は言ったはずです」

 

 強がっているのか、先程からやたらとジャンクが笑っている。だが、そろそろ虚勢を張るのも限界が近いらしく、動く左手の爪で自らの太ももを服の上から抉って何かに耐えている様子だった。

 

「僕は、普通ではない……異常な存在です。人ではない、と……」

 

 

『所詮、僕は人ではありません……そんなこと、気にしないでください。こうなって、当然の化物なのですから……だから……』

 

 

 そういえば、ジャンクは確かにそんなことを言っていたなとエリックは思った。恐らく、エリック達からの言葉を聞きたくないのだろう。ジャンクは先程まで口数が減っていたのが嘘のように、突然せきを切ったように喋りだした。

 

「兄さんが、僕の腕を斬った理由はここに押された焼印のせいでしょう……焼印は僕に、永続的に魔力を放出させ続けるための術式でもあります。今までは、マクスウェル様のおかげで逃げ続けていられたのです……」

 

 声が、酷く震えている。もう喋るのも辛いだろうに。まだ何かを喋ろうと必死に考えているのが分かる。こちらの反応を一切待たず、それどころか目を閉ざしていることから、表情を見る気さえないようだ。

 

「だから、精霊の使徒(エレミヤ)として活動している間は、見つからずにいられたのです……ですから、その……」

 

「ジャンさん」

 

「そうですね……僕は、マクスウェル様に甘えすぎていたんでしょう……だから……」

 

「――クリフォードさん!!」

 

 喋り続けるジャンクにしびれを切らしたらしいアルディスが、ついに声を荒らげた。その声に驚いたのか、ここで漸くジャンクは一度口を閉ざした後、目を開いてアルディスの顔を真っ直ぐに見据えた。

 

「あ、アル……」

 

「クリフォード、さん……ッ、ごめん、なさい……っ! 俺のせい、で……ごめんなさい……っ」

 

 声を震わせ、アルディスはぼろぼろと涙を溢し始めた。

 

「あなたは出会った時から、最初からずっと、俺の味方でいてくれた……それに、俺がどれだけ救われたか! なのにっ、なのに俺は……!」

 

 拭っても拭っても、キリがない程に涙が流れる。時々奥歯を噛み締め、皮膚に爪を立て、何とか泣くのをやめようと必死にはなっているが、全く効果がない。

 元々アルディスは今回のジャンクの件に対してかなり責任を感じていた。そんな状態の彼が見たのが、今までほぼ平常心を保ち続けていたジャンクが錯乱した姿。いくらなんでも、ショックが大き過ぎたのだろう。

 

「あなたの苦しみに、俺は気付けなかった。ただ、甘えるばかりだった……ッ!」

 

 アルディスはジャンクと同じヴァイスハイトで、異端として扱われる辛さを、悲しみを知っていた。だからこそ、気付きたかった。気付かなくてはいけなかった。少なくとも、より彼を追い込むような行動はしたくなかった――のに。

 

 

 今更後悔しても遅い。何を言っても言い訳にしかならない。

 そう言ってアルディスは固く目を閉ざす。まだ何かを言いたげだが、泣き過ぎが原因でもう上手く言葉にならないらしい。その様子を見ていたディアナが、ぎゅっと胸元で腕を組んだ。

 

「アルだけじゃない……散々助けられておきながら、何もできなかったのは……アルだけじゃ、ない……」

 

 ディアナもまた、ジャンクに助けられた者の一人だ。今にして思うと、ジャンクが彼女の世話を焼いていたのは恐らく、ディアナの境遇が自分のそれと被っていると感じたからなのだろう。様々な事実を知った今なら、そういうことだったのだと判断できた。

 

「お願いだ、ジャン……オレ達相手に、怯えないで欲しい……悲しいよ……」

 

 ぽつりと、寂しそうにディアナがそう呟いた。

 

「とはいえ、あなたの気持ちはよく分かる。怖いよな、下手に相手を信用して……それで、信じた頃に手のひらを返されるのは。本当に、怖いよな……」

 

 両腕で自分を抱え込むようにしながら、ディアナは弱々しい声で、それでいて訴えかけるように喋り続ける。

 

「きっと……あなたは透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力者だから。人一倍、人の汚さや醜さを知っている。その汚さや醜さの矛先が、あなた自身に向いた経験もオレなんかよりずっと多いんだろう。いっそ、誰も信じない方が良いと、そう思ってしまうくらいには……」

 

 ジャンクは両目を閉ざして生活しているため、ほぼ常に透視干渉(クラレンス・ラティマー)の能力を発動させている。あの状態ならば当然、うっかり誰かの心を視てしまうこともあっただろう。その時見てしまった心が酷く穢れていたとすれば。当然彼は、尚更人間に対して心を閉ざすに違いない。

 きっと、その状態は辛いだろうに。だからといって能力を使えない状態では目を開けなければいけなくなる上、危険を事前に避けることができなくなってしまう。今、ジャンクが怯えているのは能力が使えない状態だということもあるのだろう。

 

「……」

 

 アルディスはどうしようもない程に泣いてしまっているし、ディアナは今にも泣き出しそうだ。他の面々も、難しい顔をして黙り込んでしまっている。

 

「違う……違うん、です……その、僕は君達のことを汚いだとか、そういう風に思ったことは、一度もない……気にかけたのは、助けたのは、本当に僕の自己満足です……だから二人は、気にしなくて、良いんです……」

 

 流石に申し訳なく思ったのか、ジャンクは「アルディスとディアナは悪くない」と繰り返す。そして彼は、深呼吸してから話し出した。

 

「……僕はどうも、人との間に壁を作ってしまうらしい。そんなつもりは無いんだ。けれど実際、考えてみると僕はほとんど自分のことを話していなかったり……本音を、言わなかったり。これを繰り返したせいで、酷く傷付けてしまった人がいるんです」

 

 ジャンクはにへら、と笑みを浮かべてみせた。相変わらず取り繕ったような、見かけだけで中身のない、悲しい笑みだった。

 

「彼は非力な僕に戦う術を教えてくれて、彼の方が年下にも関わらず、ずっと気にかけていてくれていた。だが、僕あまりにも壁を作り過ぎたせいで、旅立つ前に言われてしまったんです……『お前に信じて欲しいのに。お前に信じてもらおうと、どれだけ頑張ったって、お前には届かないんだな』と……」

 

 これでも、反省したつもりだったんです。もう繰り返したりしないと、もう、こんなことで誰も悲しませたくないと――そう言った彼の、ハリボテのような笑みが崩れた。

 

「それなのに、僕はまた繰り返してしまったんですね……君達を、信じてないわけじゃなかった……なのに、やっぱり壁を作って、傷付けてしまった……」

 

 ジャンクは今にも、泣き出しそうな顔をしていた。彼の、この顔を見るのはこれで二度目だ。無理に笑おうとするのも、あの時と同じだった。そんな無茶なことをせず、いっそおもいきり泣いてしまった方が、ずっと楽だろうに。それでも堪えようとする彼の態度に、エリックは目を細め、溜め息を吐いた。

 

 

「今、こんなこと言うのもアレだが……ちょっと厳しいこと、言っても良いか?」

 

 無意味な問いだ。嫌だと言われても言うつもりだった。エリックはその場にしゃがみ込み、ジャンクと視線を合わせる。

 

「結局……お前は、僕らのことが、信じられなかったんだよ」

 

「!? ち、ちが……」

 

「……違わないよ」

 

 反論しようとしたジャンクの言葉を、エリックは首を横に振って否定した。

 彼は確信していた。何故、ジャンクの知人が傷付いたのかを。その理由を、彼は身をもって感じていた。

 

「僕らに弱みを見せた時、頼ってしまった時……それが原因で、態度を変えられてしまうんじゃないかと、最悪ディアナの言うように手のひらを返されてしまうんじゃないかと。多分、本当に無意識なんだろうが、お前はそういう風に考えるんだろうな」

 

「……」

 

「どうしてハッキリ『怖い』と言わない? 僕らに『助けて』と頼ってこない? 最初はお前のプライドがそうさせているんだと思った。けれど、お前の場合は違うだろ……怖かったんだろ、僕達のことが。僕達の前で、全てを曝け出すことが」

 

 ジャンクが錯乱した時。エリックはそのあまりの豹変に驚かされた。少々精神的に退行していたのもあるだろうが、抑えていたものを爆発させるにも程がある。何故、彼が感情を押さえ込んでしまうのか。その理由にも、エリックには心当たりがあった。

 

「人に頼れないっていうの。お前の場合は仕方ないとも思うよ。お前を助けてくれてたっていうダリウスは実験体にされるし、詳しいことは知らないが、チャッピー……いや、イチハの時も多分、似たようなことがあったんだろうし。要は今まで、お前が縋った奴全員、お前に危害を加えてくる存在になるか、お前の存在をきっかけにして何かしらの事件に巻き込まれるかしかして来なかったんだろ」

 

 これは完全に推測に過ぎなかったのだが、ジャンクの反応を見る限りは当たりだと考えて良さそうだ。ただ、それは同時にラドクリフ王国の問題を突きつけられているようなもので。この推測が当たっているとなると、エリックの立場としてはかなり辛かった。

 

「……ごめんな。自国の問題にも関わらず、僕は何も気付かなかった。あまりにも、僕は無知過ぎた……」

 

 ジャンク自身もそうだが、ダリウスもイチハも、ラドクリフ王国で秘密裏に行われていた人体実験の被害者だ。そんな大きな問題に、エリックは本当に、つい最近まで気付かず過ごしていた。恐らくこの旅がなければ、一生気付くことはなかっただろう。

 

「……エリックは、何もしてません。悪くない……」

 

「お前だって悪くないだろ……厳しいことを言いはしたが、僕はお前を責めるつもりは微塵も無い。僕が責められる側に回るならともかく、だ……」

 

 ジャンクが人を頼ってこない理由。それは、アルディスの“疫病神”の話に近いものがある。

 

 彼は、自分が原因で誰かを傷付くのを恐れ、同時に自分自身が誰かによって傷付けられるのを恐れている。

 これらを同時に防ぐには、人と距離を置くのが一番だ。実際、ジャンクはその手段を取っている。だが、それを繰り返していれば当然、正しい距離感というものが分からなくなってしまうだろう。

 

「そりゃ、な……できれば、お前の口からもっと色々なことを聞かせてくれると嬉しいよ。昔話をするのは苦しいだろうから、せめて辛いなら『辛い』って、言ってくれよ。少しくらい、僕らに頼って欲しい。甘えたって良い相手なんだって、信じて欲しい。でもな、それがすぐにはできないって、分かってる……分かってるから……」

 

 誰かを信じることと、誰かに裏切られることは紙一重だ。信じた相手が裏切るか裏切らないかはもはや、一種の賭けのような物だ。

 そして、その紙一重の賭けに乗れる程、今のジャンクは強くない。

 彼はきっと、もう二度とこの裏切られるかどうかの賭けに負けられない。これ以上の“負け”は、耐えられないと理解しているから。自分が壊れてしまうと、分かっているから。

 そして、こればかりはエリック達がどうにかできる問題ではない。どうしようもない話なのだ。

 あまりにも高く、分厚く築かれた壁を乗り越えるのは当の本人にしかできないことなのだから……。

 

 

「なあ、ジャン……とりあえず、今はこれだけ言わせてくれ」

 

 過去に囚われたまま、怯え続ける彼の力になりたいとエリックは思っていた。この思いは、決して自分だけのものではない。エリックはそうだと確信していたが、ジャンク本人に届くことはないだろう。「信じてくれ」といったところで無駄だ――だから、

 

「すぐに信じろと言うつもりはない。そんな無理矢理に得た信頼に、価値なんて無いから」

 

 命令して、無理矢理に得た信頼。

 そもそも、それは信頼と呼べるかさえ怪しいだろう。それこそ、虚像にしか過ぎない。

 そんな物は、誰も求めていない。無意味だ。彼が自分達のことを心から信じてくれた、その瞬間にこそ意味があるのだ。

 しかし、負った傷がすぐには癒えないように、その瞬間が訪れるまでには、きっと時間がかかる。それどころか、もしかすると待ったことが無駄になる可能性さえある。それでも、構わなかった。

 

「……ただ、僕が一方的にお前を信じる。それは、許して欲しい」

 

 

――エリックは、信じていた。

 

 

 いつか、ジャンクが自ら、自分のことを話してくれると。弱みも本心も全てをさらけ出して、彼自身が作った壁を乗り越えてくれると。きっと、その時が来ると。

 

 これを今この場で彼に言ってしまうことは、ただの重荷にしかならないかもしれない。そうだとしても、言わずにはいられなかった。だからエリックは言ったのだ。“許して欲しい”と。

 

「少なくとも僕は……いや、僕らはお前のことを信じている。だから、こっちは好き勝手にお前のことを信頼して、頼らせてもらうぞ。お前が嫌になるくらい、僕らは弱みを見せるかもしれない」

 

 実際、博学なジャンクの知識や彼の持つ様々な能力はかなり頼りになるものだ。恐らくこれから先は、彼の知識や能力に頼る場面が増えてくることだろう。

 

「悪いが、その時は助けてくれ」

 

 エリックは微かに震えるジャンクの顔を真っ直ぐに見据え、赤い瞳を細めて笑ってみせた。

 

「そしていつか、今度はお前が僕らを信じて、頼ってきてくれ」

 

「――ッ!」

 

「その時は必ず、僕らが力になってみせるから」

 

 きっとジャンク自身は人を、自分の傍にいてくれる人を、心から信じたいと願っている。

 それなのに、“彼自身”がそれをさせない。信じたいのに、信じられない。

 どうしようもないジレンマに支配されているうちに、彼は人を傷付けてしまった。それが、その事実が、さらに彼を追い込んで行ったのだろう。

 

 エリックの言葉に、ジャンクは視線を泳がせる。固く目を閉ざし、奥歯を噛み締め、膝に爪を立てる――しかし、もうそれは無意味なものであった。

 

「ッ、……な、何故、ですか……っ、何故、こんな僕を……こんな……っ」

 

 酷く震えた、か細い声。その声を出すと共に開かれた彼の両目から、涙が溢れた。嗚咽だけは漏らすまいと思っているのか、彼は左手で自身の口を塞ぎ、肩を震わせている。

 

「とりあえず……さ。このハンカチを取るところから、僕にハンカチを借りるところから、始めてみようか」

 

 エリックは上着のポケットからハンカチを取り出し、微笑んでみせる。

 

「やっぱりお前は感情を持った人間だよ。だから、自分を化け物だなんて、二度と言うな。考えるな」

 

 ジャンクは両の目を見開き、エリック達を見据える。誰も、目をそらしはしなかった。

 だが彼には、ただそれだけのことが救いだった。それだけで、本当に嬉しかったのだろう。

 

「……約束は、できません。僕は、自分が人間であるとは、どうしても思えないのです……生まれてきて良かった存在だとは、思えないのです……」

 

 ジャンクが紡ぐ言葉は、落ち着いた調子ではあったものの、その内容は決して良いものではない。

 何か言い返さなければと、エリックは思考を巡らせる。だが、その必要は無かった。

 

「それでも皆の傍にいれば、この考えを変えられるかもしれない……そう、思うことができました」

 

「! ジャン……」

 

「だから、どうかお願いです……一緒に、いさせてください。今の僕では、きっと足を引っ張ってしまいますが、どうか……」

 

「え……っ、お、お前なぁ……」

 

 進歩したのか、していないのか。それが駄目なんだろうと言ってやりたくなったが、今はとりあえず、こうしてやろう。

 

「ぶっ!」

 

 ジャンクの顔面にハンカチを投げ付け、エリックはため息を吐く。

 

「良いに決まってるだろ……逆に、着いて行きたくないと思った時は言ってくれ。それを言うまでは、むしろ引きずってでも連れて行くからな」

 

 しまった、ハンカチを本人に取らせてない。そうは思ったが、もう手遅れだ。

 ジャンクはエリックの言葉を聞きながらも、ぶつけられたハンカチを握り締めている。その体勢のまま、彼は暫しの間、何かを考えていた。

 

「……分かりました、では、こう言うべきでしょうか」

 

 結局使われなかったハンカチをエリックに差し出しながら、ジャンクはおもむろに口を開く。

 

「これからも、よろしくお願いします」

 

 色々と何かがおかしい気はしたが、彼の場合はこれで良いのだろうとエリックは考える。人との距離感や接し方をあまり理解できていないのだから、こればかりは仕方がない。

 

「ああ。こちらこそ、よろしく頼むよ」

 

 それでもこれからは、少しは彼が自分達に頼ってきてくれることを願いながら、エリックは差し出されたハンカチを手に取った。

 

 

 

―――― To be continued.

 

 

 



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Tune.44 違えぬ想い

 

「ん……」

 

 微かな物音を聞き取り、ポプリはゆっくりと目を開いた。

 時刻は深夜。当然ながら彼女はベッドの中にいたのだが、ちょうど眠りが浅くなっていたのだろう。目を覚ましてしまったのだ。

 

「……先生?」

 

 物音を立てるとすれば、普通に考えるのなら同室のジャンクしかいない。返事の有無は気にせず、ポプリは何度も口にした呼称と共に身体を起こした。

 

「ッ、うわっ!?」

 

「!?」

 

 やはり物音の主はジャンクだったようだ。驚かせてしまったらしく、彼は返事をするよりも先にバランスを崩し、派手に転んでしまっていた。

 

「嘘ッ、大丈夫!? ごめんなさい!!」

 

「も、申し訳ありません……」

 

「ううん。良いの、気にしないで……どうしたの?」

 

 何だかんだ言って一番信頼されているのはポプリだろうから今日はポプリと同室にして休ませるべきだ、ということで決まった部屋割ではあったが、結局ジャンクの過剰な怯え癖は収まりきっていないらしい。

 本当に自分が同室で良かったのだろうか、とポプリは少し落ち込んでしまった。付き合いが最も長いにも関わらずこれだ。信頼されているとは、到底思えなかった。

 落ち込んだのを気付かせないように、なるべくいつもと同じ声のトーンで、ジャンクに話しかける。今は、彼が能力を使えないことが幸いだった。

 

「その……今なら、この時間帯なら、誰かと鉢合わせてしまうこともないでしょうから。裸眼で歩き回れるなと、そう思ったんです」

 

 要するに、彼は真夜中に外に出ようとしたのだ。それも、一人で。精神的にも肉体的にも、不十分な状態で――ポプリは溜め息を吐き、苦笑してみせる。

 

「一緒に行っちゃ、駄目かしら? 嫌なら、嫌って言って?」

 

「え……?」

 

 ポプリの言葉に、ジャンクは不思議そうに瞬きを繰り返す。嫌がっているわけではなさそうだが、ポプリの発言の意味を理解していない様子だった。

 

「ここなら、あなたに危害を加える対象はいないと思う……それでもね、先生が本調子じゃないだけに、心配なの。過保護になってるのは、分かってるつもりよ」

 

 鍵のかかった部屋のドアがコンコンとノックされたのは、そんな時のことであった。

 

「心配してるのは、オレ達も同じだ。頼むから、夜中に転ぶんじゃない……」

 

 声の主は、ディアナだった。しかしジャンクが鍵を開け、ドアを開いてみるとそこには彼女のみならず、エリックとアルディス、それからマルーシャの姿があった。

 

「すまん、起こしたか」

 

「悪いと思ってるなら、僕らも同行させろ。どうしても一人が良い、それかポプリとデートしたいって言うなら邪魔しないけどな」

 

「エリック君!!」

 

 突然のエリックの茶化しに、ポプリは顔を真っ赤にして叫ぶ。一方のジャンクは「申し訳ない」と呟いた後、目を細めて笑ってみせた。

 

「それなら……皆、お願いします。少し、僕の散歩に付き合ってくれ」

 

 

 

 

「あら……」

 

 困ったわね、とポプリが苦笑する。宿屋の外は、ぱらぱらと微かに雨が降っていた。

 開かれたジャンクの、眼鏡のレンズにも遮られていない両目が、振り続ける雨粒を捉えた。

 雨が降り出したために宿主が気を遣ってくれたのか、チャッピーはどこか別の場所へと移されたようである。

 

「先生、雨は嫌いでしょう? どうする?」

 

「あー……」

 

「それなら、明日の夜中に出直すか? どうせあと一泊はするだろうし、別に構わないと思うが」

 

 前に一度、話を聞いただけであまり深く話を聞いたことは無かったのだが、ジャンクは雨が嫌いらしい。振り続ける雨を見つめながら、ジャンクは静かに口を開いた。

 

「そうですね……嘘を吐いていた、と白状しましょうか」

 

「えっ!?」

 

 そして彼が紡いだ言葉は、誰もが予想していなかったものであった。驚くポプリに対し、困ったように、それでいてどこか楽しそうにジャンクが笑う。

 

「水に濡れると、色々と都合が悪かったので……他のものはある程度防げても、雨は本当に厄介だった。嘘を吐くしか、なかったのです」

 

「そ、そういえば水辺には絶対に近付かなかったものね……『濡れるのは嫌だ』だとか、言って……」

 

「ふふ、すみません」

 

 ふと、彼がセーニョ港に向かう途中に寄った泉でマルーシャが水を散らして遊んでいた際、アルディスと一緒になって逃げていたことをエリックは思い出す。

 ジャンクはポプリと共にいた時間がそれなりに長かったようであるし、水から逃げる場面が多かったのだろう。それで彼女に対し「濡れるのが嫌だ」という嘘を吐く必要が出来てしまったに違いない。

 

「僕は、水が好きですよ。雨は特に好きです。多くの生命を癒してくれるものであるし、僕自身も体質柄、雨にはよく救われているから。雨の日は身体がとても楽なんです……しばらく雨に当たっていたら、魔力の回復が早まるかな、と。そういう意図もあって、外に出たかったのです」

 

「そうだったの……ならどうして、嘘なんか……」

 

 ポプリの問いに答えるか否か、少し悩んでいるようだ。彼は動かないために布で釣られた右の二の腕に、そっと左手を這わして深呼吸をした。

 

「あの日……五年前に、なるのかな。君が土砂降りの雨の中、濡れても良いから早く町に行こうと、そう言ったから……」

 

 意を決するように、ジャンクは宿屋の外に足を踏み出した。雨粒が天を仰いだ彼の身体に当たり、服を、髪や肌を、濡らしていく。

 

 

「本当は、ただ単純に怖かっただけなんです。君に、この姿を見られたくなかった……」

 

 

 振り返ると共に、どこか悲しげに細められる、金と銀のアシンメトリーの瞳。ジャンクの髪の間からは、異形と言い表す他ないヒレ状の耳が覗いていた。

 

「先生……」

 

 彼の身体が特殊なものであるという事実を知ってしまったのは、不可抗力だった。ヴァロンの行動がもたらしたものであり、ジャンク本人は決して望んでいないことだった。

 あんな事件がなければ、彼はポプリや自分達に嘘を吐き続けたことだろう。それだけ彼は、拒絶されることを恐れていた。

 

「ポプリだけじゃない。この姿を見て、僕の異常さを知っても、離れずに居てくれた皆には本当に感謝しています……」

 

 ありがとう、とジャンクは今にも泣き出しそうな笑みを浮かべてみせる。そんな彼の傍へ、エリックはゆっくりと歩み寄った。

 

「いや、礼を言うのは僕の方なんじゃないかって思ってるよ。僕の予想が、当たっているのなら、僕らは……僕は、スウェーラルの地でお前に“二度も”命を救われたことになるからな」

 

「!」

 

「あ、悪い! 言わない方が良かったか?」

 

 ジャンクは驚いて目を丸くしていたが、エリックの反応を見てすぐに首を横に振ってみせる。それはエリックを気遣ったというわけでは無さそうで、彼はいつものようにクスクスと笑ってみせた。

 

「流石に気付かれてしまったようですね。お前は勘が良いですね。未だに気付く気配のないポプリとは大違いです」

 

「ちょ、ちょっと! 何!?」

 

 そう言ってポプリを見据える彼のヒレ状の耳は、空から降り注ぐ雨粒によって微かに動いている。

 

「やはり怖いので、気付かれたくありませんでした……それでも、全く疑われないのは少し寂しかった、かな。何だろうな、この板挟み的な感情は……不思議ですね、本当に」

 

「ああ、まあ確かにポプリは気付いてて良かったんじゃないか……?」

 

「え、エリック君まで……一体何の話よ……」

 

 今まで気付かなかったのはともかく、現在のジャンクの姿を見ても勘付かない辺り、本当に彼女は鈍いのだろう。これにはエリックも笑ってしまった。

 

「さて、と」

 

 分からない、もう少し詳しく話してよ、というポプリの言葉には答えず、ジャンクは踵を返して宿屋から離れるように歩き出した。慌てて、五人は彼の後を追う。

 

「おい! あなたはまだ、あまり動き回らない方が……!」

 

「そうだよ! 無理しないで!!」

 

 ディアナとマルーシャが、戻るようにと促す。しかし、ジャンクの方は一切足を止める気配は無かった。

 

「すみません。念には念を入れたかったので……そうだ、君達に力を分けましょう。救済系能力者なら、僕よりずっとこの力を上手に使えそうだから」

 

「だから! 曖昧過ぎて意味が分からないわ!!」

 

 雨に濡れると回復が早まるとはいえ、風邪ひいちゃったらどうするの、とポプリは少々腹を立てた様子で声を荒げる。それでもジャンクは歩き続け、村の外の雑木林の中まで来てやっとエリック達の方へと向き直った。

 

 

「や、やっと止まったわね……」

 

「ジャンさん……あなたって人は……」

 

 ここまで来ると、全員ずぶ濡れだった。本当に誰かしらが風邪を引いてしまうかもしれない。そう思ったのか、ジャンクは「すみません」と軽く頭を下げた。

 

「もうエリックは勘付いているようですが、他の皆にもいい加減説明しておきたかったのですよ」

 

「つまり……村人に見られたり聞かれたりしたくない話題だから、とにかく人が来そうにない場所ということで、雑木林の中なんですね?」

 

「正直、命を脅かすどころじゃない話なので。許してください」

 

 物騒すぎる。ジャンクは思わず絶句してしまったポプリの目を真っ直ぐに見据え、そっと自身の胸元に手を当てた。

 

「ポプリ、嘘ばかりついて、すみません……それから、ありがとう。あの日のことを、ずっと覚えていてくれて。僕のことを、ずっと心配していてくれて……本当に嬉しかった……」

 

「先、生……?」

 

「受けた恩を忘れない。命を賭けてでも、恩を返そうとしてしまう――それが“僕ら”の性質です。そして僕もそれは例外ではありません……し、ただそれだけでは無いと思っています。生まれ持った性質の問題では無いと、思っています。僕はこの感情を、そんなもので済ませたくない」

 

 ジャンクの真下に、見たことのない蒼の魔法陣が浮かび、強い輝きを放った。辺りが薄暗いこともあって、尚更眩しく感じられた輝きに目を細めるポプリ達を見て、ジャンクは力を抜くようにふっと笑ってみせた。

 

 

「この感情が何なのかは正直よく、分からないのですが……ただ、君に恩を感じている“だけ”ではないようなのです。だから――この想いは、何があっても違えません」

 

 

 全員の視界が真っ白になった、その瞬間。ぱしゃり、と水の跳ねる音がした。誰かが水溜りに足を踏み入れたとか、そういうものではない。そもそもこの水は傷を癒し清めることのできる、清らかな力を秘めた聖水だった。

 

「あ……」

 

 いつの間にか、雨は止んでいた。通り雨だったのだろう。雨雲と木々の間から覗いた月の光が照らす海色のたてがみを見たポプリは、両手で口元を覆い、声を震わせた。

 

「やっぱり……そうだったんだな。助かりはしたが、あんな怪我放置するのはやめろよな……本当に無理ばっかりするな、お前は……」

 

 つい愚痴を溢しながらも、その幻想的な姿を美しいとエリックは思った。

 淡い青の毛並みに、紫のグラデーションが特徴的なヒレ状の大きな耳。銀色に輝く、長い角と両の瞳――犬と馬を足して二で割ったような姿をしたその生物は、動かない右前足を庇うようにその場に伏せていた。ゆらゆらと、耳と同じ色をした尾ビレを揺らしている。しかしその美しい身体には、よく見るといくつもの傷痕が残されていた。

 

「実在するかしないか以前の問題だったのですね……ふふ、良かったですね。あなたが正しかったってことですよ、ポプリ姉さん」

 

 驚きはしたが、何故か同時に心が清められるような感覚がした。この生物は清らかな癒しの力を持つという話だ。その場の空気を浄化するような力を持っていたとしても、何ら不思議ではない。アルディスは翡翠色の目を細め、少しだけ悲しそうに微笑んだ。

 

「そうですね。あなたの判断は正しい。その姿は、簡単に見せてはいけないものだ」

 

 ヴァイスハイトであるジャンクが、自身の力を開放し、獣化した姿。それこそが、幼い日にポプリが出会ったという伝説の聖獣――ケルピウス、だったのだ。

 

 

「……何よ」

 

 ポプリが力なく首を横に振り、声を震わせる。琥珀色の瞳からは、ポロポロと涙が溢れていた。

 

「ケルピウスは存在しないって、ありえないって……ずっと、ずっと言ってた癖に……」

 

「クォン……」

 

 どこか不安そうに、ケルピウスが鳴き声を上げた。どうやら、人語を話すことはできないらしい。

 そんなケルピウスの首に両手を回し、淡い蒼の毛に顔を埋めてポプリは地面に両膝を付いた。

 ぱしゃり、と地面に溜まっていた聖水が跳ねる。不思議と、その水が濁ることは無かった。

 

「……あたしが、どれだけあなたに会いたかったか……無事でいて欲しいと、願ったか……あたしだって、あの時、あなたに救われたのよ……? 後ろ指を指されて生きてきたあたしでも、傷付けることしかできなかった、こんなあたしでも、助けられる存在がいたんだって、やっと、そう思えたの……!」

 

「クー……」

 

「あたしからも、ありがとう……先生だって、怖かったはずなのに……いつも、危ない時は助けてくれて、時々傍にいてくれたこと……本当に感謝、してるんだからぁ……ッ」

 

 ポプリも間違いなく悲惨な人生を送ってきた筈の人間なのだが、彼女はあまり、過去のことを感じさせない。

 流石にアルディスの件だけは例外であったが、それ以外のことは気付かせなかった。それだけの強さが、彼女にはあった――しかし、その強さは彼女一人で出せるものでは無かったのだろう。

 彼女が折れそうになるその瞬間に居合わせ続け、本人に自覚は無かったにしろ彼女を支えていた存在がいた。だからこそ、実現できた。そんな不安定な強さだったのだ。

 それがケルピウスであり、ジャンクだった。そして、彼もまたポプリに支えられていたということなのだろう。距離感や壁こそあれど、それもまた事実だ。二人はあまりにも不安定な、双依存的な関係だったのだ。

 

「……。ポプリ」

 

 再び世界が瞬き、聞き慣れた穏やかな声がした。ジャンクが人型に戻ったようだ。この状況で会話ができないのは不便だと感じたのだろう。

 

「ッ、先生……」

 

「申し訳、ありません……」

 

 獣から人間に形態が変わったものの、ポプリはお構いなしにジャンクに抱き付いたまま、肩を震わせている。恐らく、それを気にしていられる精神状態ではないのだ。そんなポプリの頭を、少しためらいつつもジャンクは撫でてみせた。

 

 

――だがこいつら、絶対に自分達以外の人間がここにいることを忘れている!!

 

 

「え、えーと……これ、オレ達ここにいて良いのか……?」」

 

「うん……そのぉ……」

 

「そ、そうだ……帰ら、ないか……?」

 

「帰ろう? もう放置して帰ろう?」

 

 これはあまり、部外者が見て良いものではないだろう。というのは建前で、正直なところただ単純にこの場に居づらかった。どちらにせよ今は、二人きりにした方が良いに違いないとエリック達はこっそりと宿屋に戻ろうとした――その時だった。

 

 

「その耳……君はまさか、聖獣ケルピウスなのか……!?」

 

 

 誰もいないと思っていた。誰も、来ないと思っていた。

 

「!? ッ!!」

 

 生い茂る木々の間から現れた武装した青年の目は、真っ直ぐにジャンクを捉えていて。それに気付いたジャンクの身体が、恐怖に震え始めた。

 

「ま、待て! そんなに、怯えないでくれ……大丈夫だから、何もしないよ……」

 

 青年は慌てて腰に下げていたサーベルを地面に放り投げ、両手を顔の横に上げた。本当に敵意は無いらしい。この村の人間がジャンクを襲う可能性は無いとアルディスは言っていたが、恐らく彼もそのタイプだ。

 

「……先生、大丈夫よ。この村の人達なら、きっと大丈夫」

 

 泣いている場合では無いと判断したのだろう。ポプリはジャンクを見上げ、まだ涙の残る琥珀色の瞳を細めて笑ってみせる。彼女が怯えるジャンクを宥める為に抱きつく腕の力を強めたのを見た青年は暗闇でも分かる程に顔を赤らめ、咳払いした。

 

「う、うーん……様子を見る限り、君が噂の精霊巫女の息子だと判断して良さそうだね。その、俺はこの村の警備兵なんだ。異変に気付いて来てみたら……良い雰囲気だったっぽくて……邪魔して、ごめん……俺、あっち行くから、続けて良いよ……」

 

「!?」

 

 青年の気まずい辛いとでも言いたそうな雰囲気に加え、エリック達も盛大に溜め息を吐いている。

 それを見たことによってポプリとジャンクは漸く、自分達が何となく他者が見てはいけない、いてはいけない気持ちにさせてしまう状況を生み出していた事に気付いたようだ。

 

「い、いきなり離れるけど別にあなたを拒絶してるとかそういうのじゃ無いから……!」

 

「わっ、分かってます……! 大丈夫です、そんなことを気にするんじゃない!!」

 

 大慌てで離れ、かなり微妙な距離を取った二人を見て、エリック達は思わず頭痛に耐えるようにこめかみを抑えて天を仰いだ。

 

(……何だ、あれ……)

 

 

 今この瞬間、そう思ったのは間違いなくエリックだけではないだろう。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.45 母の願い

 

「! 目が覚めたんだね!?」

 

 エリック達が村に戻ると、シェリルの兄だというロジャーズがこちらに駆け寄ってきた。どうやら彼は商人であるらしく、店の開店準備をしていたところだったようだ。

 今は深夜というよりは早朝という言葉が合いそうな時間帯ではあるが、準備が早いのは間違いない。周囲の状況を見る限り、この村の朝は早いのだろう。

 

「身体はもう大丈夫……ではなさそうだね。顔色もあまり良くないし、腕の傷が酷いのかな……でも、良かった……」

 

「……?」

 

 突然駆け寄られ、能力が使えない状況にも関わらず目を閉ざしていたジャンクは全く状況が飲み込めていないようである。そんな彼にロジャーズは優しく微笑みかけ、口を開いた。

 

「私はロジャーズ=ローエンフェルドっていうんだ。君の母、シェリルの兄だよ」

 

「ッ!?」

 

「ど、どうしたんだ!?」

 

「いえ、大丈夫です……大丈夫、ですので……」

 

 ロジャーズの言葉を聞いた瞬間、ジャンクは顔面を蒼白にし、込み上げる嘔吐感を堪える様に左手で口元を覆って目の前の男から顔を逸らす。

 開眼しているが、これは信頼した云々ではなく余裕が無くなったが故のものだろう。第一、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)が多いこの村ではあまり意味の無い行為であるとも言える。

 

「……ッ、す、すみません……」

 

 震えている。雨粒に濡れて寒いだとか、そういう類ではない震えだ。

 

「ジャンさん、ここの人達はあなたを咎めたりしない……ちゃんと、理解して下さる筈ですから……」

 

 ジャンクのフォローはアルディス達に任せ、エリックは突然甥に怯えられて困惑するロジャーズの前に移動する。エリックは、赤い瞳を伏せて奥歯を噛み締めていた。

 

(こいつの過去を考えれば……母親の親族に会うのは間違いなく怖い、よな……)

 

 深く考えなくとも分かる。これはロジャーズに悪気があるか無いかの問題ではない。だが、それをはっきりと理解していないロジャーズには分からない話である。

 

「ええと、アベル殿下。どうしてこうなったのかが、分からないのですが……」

 

「申し訳ありませんが、彼は恐らく『シェリル=ローエンフェルドの親族』というだけで無条件に怯えてしまう筈です……どうか、お怒りにならないで下さい……」

 

 エリックは小声で、それもかなり詳細を伏せながら事情を語ったのだが、それでもはロジャーズは察してしまったらしい。

 

「妹は、もう……この世にはいないのですね」

 

 彼はエリックにしか聴こえない程の声量でそう呟いた後、おもむろに頭を振るい……そして、再び笑みを浮かべてみせた。

 

「それでも、私は甥っ子達に逢えただけで十分です。妹の生きた証が、ちゃんと残っているということなのでしょう? それを、下の甥っ子君に伝えることはできないのでしょうか。上の甥っ子君よりは、まだ会話が出来そうな気がするのですが」

 

「え……」

 

 上の甥っ子君、とは間違いなくダリウスのことだ。彼は気付かれないように振る舞おうとしていたようだが、無意味だったようだ。

 

「はは……甥っ子が二人とも何かしら拗らせているらしいことは把握しました。それでもせめて、下の甥っ子君に祖母に会って欲しいと頼んでも良いですか? 私の母も、孫が来たという話は聞いているので。会いたいと、言っているのです」

 

「そうですね、言い方は悪いですが、揃って盛大に色々と拗らせておりますが、だからといってそのお話を断る理由にはなりませんよ……ジャン!」

 

 これで無理だと撤退したのでは、流石にロジャーズと彼の母に申し訳無さ過ぎる。上の甥っ子君ことダリウスが何も言わずに帰っているだけに、尚更だ。

 

「え、エリック……?」

 

「今はまだ信じられないだろうが、本当に大丈夫だから。この村は、ヴァイスハイトに対する理解がある。少なくとも、お前の父親みたいなことにはならない……だから……」

 

「……」

 

 ジャンクはまだ、怯えている様子ではあった。しかし、いつまでもこの状態ではいけないと考えたのだろう。彼はロジャーズの方へ向き直り、深く息を吐いた後で口を開いた。

 

「ジャン……いえ、違いますね。僕は、クリフォードと申します。どうか無礼を、お許しください……」

 

 偽名を名乗りかけたものの、最終的に彼が名乗ったのは本名の方だった。今はこちらが適切だと、そう考えたのだろう。実際、彼の偽名はあまり人に良い印象を与えないものだ。

 

「無礼だなんてとんでもない! うん、君は少し見ただけで分かるくらいに、力の強いヴァイスハイトのようだね。細かいことは気にしないで欲しい。思うことはあるだろうけど、君さえ良かったら私の母に会って貰えないかな?」

 

「そ、その……僕は……」

 

 ロジャーズの申し出に、ジャンクは酷くたじろいだ。ゆるゆると首を横に振るい、後ろに一歩足を踏み出す。

 

「駄目、です……ぼ、僕は、僕の存在は、あなたの母親を……酷く、傷付けてしまうと思います。人格が変わってしまう程に、どうやっても塞がらないような深い傷を、与えてしまう……そんなのは、もう、嫌だ。見たく、ない……嫌、だ……!」

 

 敬語でしか喋れなくなっている時点で理解はしていたが、ジャンクはかなり情緒不安定になってしまっているらしい。酷く怯え、真っ青な顔色をした彼は震えながら後ろに足を踏み出し続ける。このままだと、この場から逃げ出してしまうかもしれない。

 

(これは一体どうしたものか……)

 

 ロジャーズは別にジャンクを傷付けようとしているわけではないし、彼の母もそれは同様だろう。しかし、今のジャンクにそんな余裕は無い上に、ここで下手な刺激を与えては取り返しのつかないことになってしまうかもしれない。

 申し訳なさを感じつつ、エリックはロジャーズを止めるために動こうとした――その時だった。

 

 

「あーあ、こんなにびしょ濡れになって……うちにお入り」

 

 

 いつの間にか、老婆がジャンクの後ろに立ち、彼の腕を掴んでいた。何を考えたか、彼女はそのままジャンクの腕を引いてロジャーズの店へと向かおうとする。

 

「えっ!? ちょ、ちょっと待ってくださ……!!」

 

 当然ながら困惑し、相手が老婆であるためか振り払おうにも振り払えないらしいジャンクはそのまま彼女に連れて行かれている。その様子を見たロジャーズは、慌てて声を張り上げた。

 

「か、母さん!」

 

「!?」

 

 そしてジャンクは自分の腕を掴んでいる老婆の正体に、気付いてしまうのであった。

 

「誘拐じゃないよ、ロジャーズ。あたしは可愛い孫を連れてくただの婆だよ」

 

「そうじゃない! そうじゃなくて、ちゃんと本人の意思を……!」

 

「何を言うかね。ずっと見てた。見てたから動いたの。ロジャーズ、お前のやり方じゃ決着が付かん。こういう頑固な子には、これが一番よ」

 

 幸か不幸か、また精神退行を引き起こすのではないかと心配する程にジャンクは怯えており、無抵抗な状態となってしまった。そのために老婆一人の力であっさりと店の中に引き入れられてしまった。その様子を見ていたマルーシャは、目を丸くして固まってしまっている。

 

「お、おばあちゃん強い……」

 

 彼女の言葉に「そうですね」と思わなかった者はきっとこの場には存在しないだろう。ひとまずエリックは、マルーシャ同様に固まってしまっているロジャーズに話しかけることにした。

 

「あの、失礼を承知でお伺いします。私達も同席、させていただいてもよろしいでしょうか?」

 

「はは……そうですね、あれじゃ、不安ですよねぇ……」

 

 部外者は居ない方が良いとは思う。しかしながら、まだ危うい状態のジャンクを、老婆と二人きりにするのは不安でしかなかった。

 エリックの意図を理解してくれたのだろう。ロジャーズは苦笑いしつつも慣れた手つきで店を閉め、店の奥へと案内してくれた。

 

 店はどうやら住居と一体化した形のようで、奥の部屋にはこじんまりとした小さな一室があった。そこに、テーブルを挟んで椅子に座っているジャンクと老婆の姿を見付けた。

 

「着いてきたのかい? それならちょっとこの子を宥めておくれ。固まっちまって、動かないんだよ」

 

「……」

 

 エリック達の姿を確認したジャンクは「助けてください」とでも言いたげな視線を痛い程に送ってくる。声に出さず、さらに逃げ出そうともしないのはある意味救いだった。

 

「お友達には反応するんだねぇ……まあ、ちょっと待ってなさい。お菓子を持ってくるわ。ロジャーズ、お友達の席を用意して!」

 

「は、はあ……」

 

 

 

 

 用意されたのは焼き上がったばかりらしい、焼き菓子の山だった。ロジャーズの話によると、老婆――ミカエラは娘シェリルの息子が村にやって来たという話を聞き、ちょうどエリック達が外に出たくらいの時間帯から延々とお菓子を作り始めていたらしい。

 

 そんな話を聞き、流石にいつまでも黙っているのは申し訳ないと思ったのだろう。ジャンクは忙しなく動き回るミカエラに声をかけた。

 

「あ、あの……どうして……僕は、あなたの娘を……」

 

「……。気付いてるよ、シェリルが死んだことくらい。それでも、あたしは孫をもてなすのをやめる気はないね」

 

「!」

 

 椅子に座ったジャンクの声に反応し、ミカエラは彼の傍へと移動する。そして、微かに震える孫の右頬へと、深いシワの刻まれた指を伸ばした。

 

「あの子に、とてもよく似た顔をした子だ。母親に、似たんだね……あたしはミカエラだ。お前の名前を、聞いても良いかい……?」

 

「く……クリフォード、と申します……」

 

「クリフォード……良い名だね。優しそうな目をしたお前に、ピッタリの名だよ……」

 

 ジャンクの顔を覗き込み、「ヴァイスハイトなんだね」とミカエラは目を細める。その声音からは、ジャンクに対する敵意や嫌悪は全く感じられなかった。

 

「あの娘はヴァイスハイトではなかったけれど、とても強い力を持っていたんだよ」

 

「……」

 

 母親であるシェリルの話をされるのが、辛いのかもしれない。それでもあからさまな反応をするのは良くないと思ったのだろう。ジャンクは一瞬だけ目を泳がせこそしたが、ミカエラから顔を逸らすことはなかった。

 

「うちの家は別に裕福でもなんでもなくってね。シェリルも普通の村娘として、それなりの生涯を終えるだろうなと、そう思っていたんだけれどねぇ……」

 

「……」

 

「あの娘は精霊様との意思疎通が得意だったから、精霊巫女っていう役職に選ばれたんだ。聖者の皆様の聖地巡礼に、精霊様と言葉を交わす為に同行したんだよ……もう三十年近く前の話になるんだけれどね」

 

 シェリルの事を語るミカエラの姿は、寂しげではあったがどこか幸せそうで。だが、その反面ジャンクの顔には明らかな憂愁の影が差している。態度には出さないが、本当に辛そうだ。

 

「あっ、あの……っ!」

 

 見ていられない、とマルーシャはミカエラを止めようと二人の傍に寄ろうとする。それに気付いたロジャーズは、すぐさまマルーシャの手を掴んで静止した。

 

「待ってください。母のことですから、きっと、何か意図がある筈です」

 

「な、なんで……っ」

 

 意味が分からない、とマルーシャは頭を振るう。そうこうしているうちに、ジャンクの虚勢が限界を迎えようとしていた。

 

 

「……自慢の、娘さんだったんですね。娘さんに、帰ってきて、欲しかったですよね……」

 

 どんどん、声が弱々しくなっていく。エリック達が何度も伝えたものの、ジャンクはまだこの村とヴァイスハイトとの繋がりを理解していない――否、村の事情を知っていたとしても彼は、自分が産まれたことで母親シェリルが死んだという事実に苦しんでいただろう。

 こればかりは、彼自身が乗り越えるしかない問題だ。エリック達には、どうすることも出来ない。

 

「そうだね。シェリルが自慢の娘だってのも、帰ってきて欲しかったのも……否定はしないよ」

 

 ミカエラの言葉に、ジャンクは奥歯を噛み締めて俯いてしまった。この言葉が帰ってくるのを、彼は恐れていたのかもしれない。だが、ミカエラは静かに微笑んでいた。

 

「ふふ、意地悪をしてすまなかったね。先に言っておくが、自分が母を死なせたなどと謝るんじゃないよ。クリフォード、お前のせいじゃない……仕方が無かったことなんだよ……」

 

 あまりにも悲しげな顔をしているから、ちょっと意地悪をしたくなったんだ。そう言ってミカエラは顔を伏せたまま目を見開いているジャンクの頭を撫でる。

 

「シェリルは、幸せ者だね。精霊様に、深く深く愛された子を身ごもったんだね。それも、このブリランテに伝わる浄化の力を持った子だなんて……あの子はきっと、嬉しかったろうね……」

 

「……」

 

 ジャンクは、何も言えなくなってしまっていた。それだけ、彼の中ではミカエラの行動が予測不可能なものだったのだろう。傍から様子を見ているエリック達には想像もできない程に、強い衝撃を受けているに違いない。

 

 

「……ちょっと、お隣失礼するわ。あたしにも喋らせてね」

 

 そんな彼の肩に手を置き、ポプリはミカエラと向き合うような体勢をとった。一体何を、とは思ったがポプリのことだ。ミカエラ同様に何か考えがあっての行動だろう。エリック達は、黙って成り行きを見守ることにした。

 

「あたし、ポプリっていいます。クリフォードさんは、旅仲間だとでも言えば良いんでしょうか? 偶然、耳にしたことがあったので、この場を借りてお話させてください」

 

 軽く自己紹介をしてから、ポプリはジャンクの顔を横目で見た。ポプリのことを気にしている様子ではあったが、相変わらず言葉が出ないようだった。

 

「……場違いな気もするのだけれど、言うなら今しかないかなって。そう思ったの」

 

 それをチャンスと見たらしいポプリは、ジャンクの肩に置いている手とは反対側の手を自身の胸元に当て、口を開く。

 

「クリフォード……彼の名前は、母親であるシェリルさんの名前の頭文字を取って名付けられた、『清く導く者』という意味を持つ名前なのだそうです」

 

 

『クリフォードは母親シェリルの名前の頭文字を取った、『清く導く者』という意味の込められた名前だ。嫌な思い出も多いだろうが、それでも両親の愛情が込められた名前だからな。知らないままなのは、可哀想な気もするんだ』

 

 

 彼女が紡ぐのは、ダリウスから託された言葉。ミカエラとロジャーズのみならず、隣で微かに震えているジャンクの心にも届けと、彼女は願った。

 

「シェリルさんへの確かな想いと、息子への願い……その両方が込められた名前。それを愛する旦那から聞いた彼女は、きっと嬉しかっただろうなって、思うんです……」

 

 悲しみに歪み、狂ってしまったシェリルの夫。ダリウスとジャンクの父でもあったその男が、間違いなく、家族全員の幸せを心から願っていたであろう彼が、こんな結末を望んだ筈はない。

 

「うふふ……きっと、お二人や彼の兄の想いが強すぎたんでしょうね。あまりの仲睦まじさに、精霊達が思わず祝福してしまう程に。だから、こんなにも優しい力を持った子どもが生まれたのでしょう」

 

 

『一応言っておくが、父親はクリフォードの誕生を心から楽しみにしていた。それにも関わらず、クリフォードが虐待された理由はアイツが母親の死因になってしまったこと……種族を越えて愛を選ぶような人だ。きっと、虐待の理由はそれだけだったんだと思う。母親さえ生きていれば、息子が異端児でもあの人には関係なかったはずだ……』

 

 

 かつてシャーベルグの地に存在していた上流貴族、ジェラルディーン家。その姿をポプリ自身の目で見たわけではない。だが、彼女は確信していた。

 

 騎士としての威厳を持ちながら、家族を本気で愛する父。

 迫害される境遇にも折れない、真に強い心を持った優しい母。

 『正義』を何よりも重んじ、努力を怠らないしっかり者の兄。

 

 ジャンクがこの三人に囲まれて育つという、道を歩めていたのならば、きっと彼は、己が生まれたことを悔やむことは無かっただろうと――。

 

「……」

 

 悔しい、とポプリは訳も分からずそう思った。一体何処で、彼らの歯車が狂ってしまったんだと彼女は奥歯を噛み締め、必死に涙を堪える。ここで自分が泣いてしまったところで、どうしようもないのだから、と。

 

「確かにシェリルさんは、精霊に愛された子を身ごもった……それだけじゃ、無いんですよ。シェリルさんは……きっと、一人の女としても、最期まで幸せだった……あたしは、そう信じています」

 

 

――シェリルは決して、己の人生を嘆いてなどいなかったに違いない。

 

 

 それがダリウスの話を聞いて出した、ポプリの結論だった。理由を上手く言い表わすことは出来なかったが、それでもミカエラには伝わっていたようだ。ポプリの話を聞いたミカエラは、老いた身体を震わせて「くっくっく」と少しだけ悪戯めいた笑い声を上げた。

 

「なるほど……ね。我が娘ながら、大したものだよ……アンタもなかなか肝の座った娘だけどね。続きはあたしに言わせてもらえるかい? まあ、嫌だと言っても言わせてもらうがね」

 

「え、ええと……は、はい、お願いします……?」

 

「それは良かった。じゃあ早速……クリフォード」

 

 ミカエラに名を呼ばれ、ジャンクは漸く顔を上げた。その顔に、再びミカエラが手を伸ばす。余程娘と彼が似ているからなのか、それが彼女の癖なのか、深い意味などなく、単純に孫の顔に触れたいだけなのかは少々判断に苦しむものではあったが、害を加えるものでないのは確かだ。

 

「あたしもだけど、シェリルは優れた透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力者だったんだ。だからお前を産めば、自分が死ぬことくらい本人も最初から分かっていた筈さ……どうして、シェリルはお前を産むことを諦めなかったと思う?」

 

 ジャンクは母親が透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力者であったということを知らなかったのだろう。彼は「どうして……」と弱々しく声を洩らした後、しばし考えて答えを口に出した。

 

「僕が聖獣ケルピウスの化身であったから、でしょうか……? 透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力者ならば、この事実に胎児の段階で気付いていても……」

 

「いいや、違うね」

 

 娘は宗教的な考え方をしないんだよ、とミカエラは苦笑する。シェリル本人に産む意思が無ければ、自分の身に宿ったのが聖獣だろうが神の遣いだろうがお構いなく自分の生を優先しただろう、と。

 

「ポプリといったか? そこの娘の考え方で間違いなかろう。娘は最期の時まで、幸せだった筈さ……だからこそ、お前を産もうと考えたんだ」

 

 頭が追いついていないジャンクが意味を問うよりも先。ミカエラは彼の頭をぽんぽんと叩き、目を合わせて言い聞かせるように言葉を紡いだ。

 

 

「あの娘はきっと、自分が愛した世界を、お前に生きて欲しかったんだろうよ」

 

 

 告げられたのは、あくまでもミカエラの考えでしかない。しかしながらそれは、驚く程に『真実の事柄』であると感じさせるものであった。

 

「だから、もうシェリルの死に責任を感じるのはお止めなさい。シェリルも、あたし達も、お前にそんなことは望んじゃいないよ。変なこと考えてる暇があったら、幸せにおなり。あわよくばひ孫を見せておくれ」

 

 そう言ってミカエラがポプリを見ると、ポプリは顔を真っ赤にして首を横にぶんぶんと振っている。彼女は自分自身を「優れた透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力者」だと言っていたため、ジャンクとポプリがそのような関係ではないことも分かっているに違いないだろうが――もしや、悪戯か何かだろうか?

 何せ、気の強そうな老婆である。慣れているのか、ロジャーズはただ、困ったように笑うだけであった。

 

「ほらほら、あんた達も。せっかく焼いたんだ。食べていくと良いよ。口に合うと良いがねぇ……どうも良いとこの坊ちゃんか嬢ちゃんばかりのようだから、こればっかりは分かんないねぇ……」

 

 そう言ってミカエラはエリック達にも菓子を勧めてきた。これで食べないのは失礼だろうし、何より焦がしバターの芳醇な香りが食欲をそそる。アルディスに聞くと、これは『フィナンシェ』という卵白をベースにした焼き菓子なのだという。

 

「美味しい。どんな分量で作ったんだろ……聞いたら教えてもらえるかな……」

 

「お前……メニューを増やすなメニューを……でもまあ、確かに美味しいなコレ」

 

「何だか懐かしいなぁ、またお菓子作ってよ、アルディス」

 

「うん、気が向いたらね?」

 

 テーブルを囲んで甘い物を食べるのは、エリック達にとっては少し前の“日常”であった。それを思い出し、エリックは苦笑する。

 ちらりと横目でジャンクを見れば、茶色いチョコレートフィナンシェを恐る恐る口にしようとしていた。能力が使えれば透視していたのだろうが、今はそれができないのだ。いかに彼が自身の能力に頼り続けていたかが、嫌でも理解できてしまった。情緒が不安定なままなのは、能力が使えないということが大きいのかもしれない。

 

「変な物入っちゃいないよ。大丈夫。それにしても、そういうの怖がる癖にわざわざ色の黒い奴選んじゃうなんてねぇ……ひょっとして、チョコレートが好きなのかい?」

 

「え……は、はい……」

 

「うーん、やっぱり親子なのかねぇ。シェリルもこれが大好きでねぇ……ノア皇子にレシピ教えとくから、また作ってもらうと良い」

 

 先程の会話が聞こえていたようで、ミカエラはアルディスの方を見て笑った後、漸くフィナンシェを口にしたジャンクの頭を撫でていた。その表情を見る限り、彼もまたこのチョコレートフィナンシェが気に入ったのだろう。そんな姿を見て、エリックは思わず口元を緩ませる。

 

 ジャンク――クリフォードの負った傷は、あまりにも深い。それでも、彼の目に見える世界は、少なからず変わったことだろう、と……。

 

 

―――

 

―――――――

 

―――――――――――

 

 

 この子は、“普通の子”ではないから。幸せになるのは難しいかもしれない――。

 

 けれど、私はこの子を産みたかった。私の愛した、この世界を生きて欲しいと願ってしまった。人は、それを『愚か』だと言うでしょう。だって私も、自分は『愚か』だと思っているから。

 

 

――時は、二十三年前に遡る。

 

 

「……もうすぐ、お別れね」

 

 涼しい海風が入り込む窓際で娘は黒の瞳を細め、泣き出しそうな笑みを浮かべる。我が子が宿っている大きな腹を撫でながら、彼女は静かに言葉を紡いだ。

 

「今は一緒にいられるけれど、もうすぐ、離れ離れになっちゃうから……」

 

 癖の無い、空色の長い髪がさらさらと風に流れる。娘の顔色は、決して良くは無かった。彼女には死期が迫っていた。しかし娘は、必死にそれを周りに悟らせまいと過ごしていた。

 

「ごめんね、酷いお母さんで……ごめんね……」

 

 それでも一人、“正確には”二人になると、どうしても弱くなってしまう。死ぬことが、怖くないわけではない。生きたいと願ってしまう。それでも彼女は死を選んだ。

 

「これから成長していくあなたの姿どころか、私はきっと、産まれてくるあなたの顔さえも見れない。それだけが、心残り……でもね、私はこの選択を後悔なんてしていないの」

 

 だからあなたも、何も気にしないで育ってね。あなたは、何一つ悪くないんだから。

 そう言って儚く笑う娘の白い頬を、涙が伝う。そんな時、部屋のドアがノックされた。

 

「シェリル、私だ。入っても良いかな?」

 

「はい、どうぞ」

 

 慌てて涙を拭い、笑みを浮かべて返事をするとすぐさま背の高い金髪の男が静かに部屋に入ってきた。胎児の父親であり、娘――シェリルの夫であるディヴィッドだ。

 彼は窓際に座っているシェリルの姿を見るなり、慌てて駆け寄ってきた。

 

「海風に当たるのは止めなさいとあれ程……! 顔色も悪いじゃないか、ほら、早く横になるんだ! ほら!」

 

「あらやだ。ディヴィッドさんったら、本当に心配性なんだから」

 

 そうは言いつつも、シェリルは嫌がるような素振りを見せなかった。むしろ、嬉しそうだった。ベッドに横になった彼女は、脇にあった椅子に腰掛けたディヴィッドのゴツゴツした手に指を絡めて首を傾げてみせる。

 

「それで、どうしたの? ディヴィッドさん?」

 

 恥ずかしかったのだろう。えへへ、と幸せそうに笑う彼女から少し目を背け、ディヴィッドは壊れ物に触るかのようにシェリルの腹部にそっと手を伸ばす。

 

「この子の名前を考えたんだ」

 

 遅くなってすまないね、と言ってディヴィッドは笑う。二人の間には既にダリウスという名の男児がいるのだが、彼の名前はシェリルがディヴィッドの名前の頭文字を取って勝手に名付けたものであった。そんな経緯があったものだから、ディヴィッドは「次男は私が付ける」と言い出し、二人目の子が男児だと判明してから今日までずっと彼は頭を悩ませていたのだった。

 

「待ってたわ。やっと、この子を名前で呼べるのね……」

 

「悪かった。それで……クリフォード、というのはどうかな?」

 

 クリフォードとは、神歌伝説の主人公“ルネリアル”と“スウェーラル”が生きていたとされる古の時代に存在した泉の名が語源であり、その泉の水が清らかに澄みきっていたこと、ルネリアルとスウェーラルが大切にしていた泉であるということから『清く導く者』という意味を持つ。

 今の世には詳しいが、古の時代に関する知識が無いディヴィッドがこの名を考えるまでに、一体どれほどの苦労があったことだろう。シェリルは目頭が熱くなるのを感じた。

 

「良い名前……でもクリフォードが古の時代の言葉だって、知っていたの?」

 

「ダリウスに合わせて付けたくて調べたんだが、文献が間違っていないか不安なんだ」

 

 お世辞にも信仰深いとは言い難いシェリルだが、神話の舞台である古の時代の言葉を好んでいるらしく、彼女が長男ダリウスに付けた名がそれを物語っている。

 長男の名前の意味は『正義を貫く者』。元々は例の泉の側に住んでいたが、神に導かれるようにしてルネリアルとスウェーラルの二人に出会い、共に闘った青年の名だそうだ。

 

「合ってるわ。それに、水を司るこの子にぴったりの名前だと思う……」

 

 ディヴィッドは「良かった」と言って顔を綻ばせた。余程苦労して調べてくれたのだろう。しかも、クリフォードはシェリルと同じ頭文字から始まる名前だ。ディヴィッドは何も言わないが、そういう意味も含めて考えられた名前に違いない。

 

 

「……クリフォード。あなたは、今日からクリフォードよ」

 

 腹を撫で、シェリルは花が咲くように微笑んだ。

 クリフォード――決して会うことの叶わない息子の名を、胸に刻み込もうと何度も紡ぐ。

 

「辛いことも、あるかもしれない。悲しいことも、あると思う……それでもね、あなたにはきっと、素敵な出会いが待っているから。だから、大丈夫よ。クリフォード」

 

 ディヴィッドが「妻は一体何を言い出したんだ」と言わんばかりに首を傾げているが、シェリルは構わずに息子への言葉を紡ぎ続けた――もうすぐ、お別れだと分かっていたから。

 そのことは、ディヴィッドにもダリウスにも告げていない。最低な母親ね、とシェリルは心の中で自分を蔑んだ。それでも、自分の選択を間違いだとは思いたくなかった。

 

 

「ッ、ディヴィッド、さ……」

 

 それは、少なくともディヴィッドにとっては突然のことであった。今まで穏やかに話していた、シェリルが苦しみ始めたのだ。力が抜けてしまったのだろう。彼の手に絡めていた彼女の指が、するりと宙を舞う。

 

「シェリル!?」

 

 夫に名を呼ばれるのを感じながら、シェリルは今この瞬間に産まれてこようとしている胎児に意識を向ける――この子はきっと、私に名を呼ばれる日を待っていてくれたのね、と。

 

「シェリル……っ!!」

 

 

 ディヴィッドさん、ダリウス。何も言わず、愚かに死んでいく私を許して下さい。

 

 クリフォード、ごめんね……私の愛したこの世界で、どうか、幸せになってね……。

 

 

 

――そして“その子”は、母の命を犠牲に生まれてきた。

 

 その子は……“その子が共にあることを望んだ者達”は、今度は、世界のために――。

 

 

 

―――― To be continued.



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Tune.46 人間

 

(どうしたものかなぁ……)

 

 皆がいなくなった後、その部屋の中は何とも言い難い気まずい雰囲気で満たされていた。エリックはこちらに背を向けて反対側のベッドに横になっているジャンクを横目で眺めつつ、苦笑する。今晩は、彼が同室になる部屋割となっていた。

 

(何か、声掛けた方が良いのか?)

 

 部屋割は不可抗力でも何でもない。エリック自身もかなり驚いているのだが、こうなったのは今まで散々自分を避けていたジャンクの希望によるものであった。

 つまり、十中八九彼はエリックに用事があったのだろう。それにも関わらず、彼はこちらに背を向けてしまっている。勇気を出して「同室が良い」と言ったところまでは良かったが、それ以上何もできなくなってしまった、ということだろうか?

 

『困りましたね、何か、声を掛けた方が良いのでは?』

 

『いやいやいや、ここは彼の成長のためにも余計な手を出さずに……!』

 

『だけど、あんまりウジウジしてると彼、また落ち込んじゃうんじゃない?』

 

『そんなこと言っても、ねぇ……困ったわ……』

 

 エリックの“中”で、“彼ら”が騒ぎ始める。ノームによると、彼らはエリックの中に入り込んでいるという話だったが、一体何がどうなっているのだろうと頭を抱えたくなる。

 しかも、ひとり増えていることに気付いた時にはもう、別の奴らが喋り始めていた。

 

『どっちが良いかな、ねえ、黙ってないで何か言ってよ』

 

『喋ったら彼にバレてしまうよ!』

 

『じゃあ七人で多数決しよう!』

 

 

「七人もいるのかよお前ら!?」

 

 

――思わず、叫んでしまった。

 

 

「!? え、エリック!?」

 

「……あ」

 

 驚き、目を見開いたジャンクがこちらを見ている。エリックの中では、七人がけらけらと笑っていた――どうやって誤魔化そう、とエリックが頭を回転させ始めたその瞬間、ジャンクはベッドから立ち上がり、こちらに歩いてきた。

 

「何となく……おかしいとは、思っていたんです。いつからお前は、“下位精霊のシェアハウス”になったんですか?」

 

「わ、分かるの、か……?」

 

 下位精霊のシェアハウス。つまり、今自分の中に入り込んでいるのは全て下位精霊だというのか。目眩を起こしそうになるのをこらえ、エリックはベッドに腰掛ける自分の前にしゃがみこんだジャンクの目を真っ直ぐに見据えた。

 

「僕は一応、精霊に通ずる者、ですから……なるほど、表面によく出てくるのは三体ですね。水、闇、地属性の下位精霊です。この三体は特に力が強いから、他の四体を押さえて表に出てくるのでしょう」

 

「……う、んっ?」

 

「ああ、説明が必要そうですね……下位精霊達の独特の気配からして多分、ディミヌエンドの地下水脈だと思うのですが。エリック、お前はそこで下位精霊に接触されていないか?」

 

 ジャンクの問いに、エリックは地下水脈でのことを思い返す。

 

 

『君、空っぽ』

 

 

『何で? 何で?』

 

 

『不思議。変なの』

 

 

 そうだ、あの場所で自分は謎の存在に話しかけられ、不思議な力を使っていた――エリックが何かを思い出したことに気付いたのだろう。ジャンクはアシンメトリーの瞳を細め、笑ってみせる。

 

「しかも下位精霊と接触した後にノーム様の加護を受けていますね。それによって、身体に入り込んでいる下位精霊との意思疎通ができるようになったのでしょう……ですが、今のお前は自分の身体に住む“住民”を上手く押さえ込むことができないようですね」

 

「あー、だからこんなにうるさいのか……つまり、僕は今、精霊達の家になっている、という解釈で良いのか?」

 

「はい、それで大丈夫です。ただ……その、お前の、身体ですが……」

 

 言いにくいのか、躊躇いがちにジャンクは目を泳がせる。あまり、良い話題では無さそうだ。

 

「僕は、構わない。言ってくれ」

 

 むしろ何も知らない状態の方が怖い。そう言ってやると、ジャンクは視線をエリックに向け直し、口を開いた。

 

「おかしいんです。普通、下位精霊が身体に入り込むなんて、そんなことは起こらないのです。それをすれば、既にいる体内精霊及び彼らが作り出す体内魔力の暴走によって身体が拒絶反応を起こし、変異してしまいます……最悪、死に至る程に」

 

 体内精霊とは、アルディスが上手く説明できなかった存在のことであるが、ジャンクの口振りからして『最初から人間の体内に入り込んでいる精霊』だと考えて良さそうである。しかし、この体内精霊や体内魔力は排他的な性質でも持つのか、後から来たものに対して良くない反応を示すらしい。

 事実、魔鉱石を額に埋め込まれた結果、鳥へと変異したイチハやマッセルのあの状況についてダリウスは『体内魔力の暴走が原因』だと言っていた。ただの魔力ですらここまでの拒絶反応を示すのだ。そこに、意思を持つ精霊が入り込んだとすればどのような反応を示すのか――血の気が引いていくのを、エリックは感じていた。

 そんなエリックの表情の変化を感じ取りながら、ジャンクはおもむろにエリックの右目へと左手を伸ばす。彼の指が、エリックの右目の下をそっとなぞる。その指は、微かに震えていた。

 

 

「僕の持てる知識が導き出した答えは“そもそも最初から、お前の身体には精霊が宿っていなかった”という事象……これなら、未だに覚醒をしていないエリック自身の体質にも、説明がつく……正直、これしか考えられないのです」

 

「ッ!?」

 

 これはこれで、ありえない現象なのだということをエリックが理解するのは、そう難しいことではなかった。

 エリックが体内精霊について詳しくないことに気付いていたのだろう。ジャンクは左手を自身の右目へと伸ばし、静かに息を吐いた。

 

「兄さんもですが、ミカエラさんやロジャースさんは、黒い目をしていましたね。ですが、僕はこの通り、銀と金の目を持ちます。父は、お前と同じ赤い目をしていたんだ……つまり、この銀の目はどちらにも似ていない。そしてアルは暗舞(ピオナージ)の血を引いていますが、恐らく彼も本来ならばディアナのような碧眼になる筈でした」

 

「そうならなかったのは、体内精霊の影響……って話は、聞いた。ここまで、だが」

 

「……。なるほど、では……お前にとっては少し、気味の悪い話をしなければならないのですが……大丈夫、ですか?」

 

 そこまで聞いているのなら、先を聞かなくても良い気がするのですが、とジャンクは首を傾げてみせる。しかしエリックは頭を振るい、彼に話の続きをするようにと促した。するとジャンクはひと呼吸おいた後に、今度は自身の胸元に手を当て、話を再開する。

 

 

「僕らの身体は、いわば“入れ物”なんです」

 

「……え?」

 

「体内に宿った、精霊……下位精霊が少し、強くなったようなものを思い浮かべてください。彼らは脆く、何の盾も無く生きられる程強くはありませんが、能力だけをみれば非常に優れた存在なのです。数々の特殊能力を持ち、魔術を発動できる……そして、肉体を持った“入れ物”を改造することができる。それだけの力を持っています」

 

 ジャンクは自身の胸元を押さえたまま、エリックの顔色を伺いつつ言葉を紡ぎ続ける。

 

「“入れ物”は、大きく分けて二通りあります。一つは、あまり改造を行うのに適さず、能力の発動にも苦労する代わりに頑丈な入れ物。もう一つは、改造を行い易く、能力の発動にも適しているが非常に脆い入れ物……僕らは、それらの入れ物を“龍王族(ヴィーゲニア)”と“鳳凰族(キルヒェニア)”と呼びます。後者の場合、複数の精霊が入り込んでいる場合も多いです」

 

「……っ!?」

 

「例外が全属性の精霊が身体に入り込んだヴァイスハイトですね。僕らは、そもそも最初から入れ物の宿主である体内精霊好みに造られた状態で生まれますから。魔力を宿すという性質上、特に体内精霊の影響を受けやすい場所と言われる目が変異するのは当然のことなのです……僕なんて特にそうだ。きっと、精霊にほとんど持っていかれてしまっているのですよ。彼らにとって、“人間らしさ”なんてものは、邪魔にしかならないから」

 

 つまり人間は入れ物でしかなく、精霊に寄生されることによって、生きている存在なのだ。それも、圧倒的に精霊に優位な関係となっている。ヴァイスハイトに至っては、もしかするとそこに“人間”としての特徴は対して残されていないのかもしれない。明らかにおかしなジャンクの体質を考えれば、恐ろしい程にそれを感じられる。

 龍王族(ヴィーゲニア)鳳凰族(キルヒェニア)の見た目や能力の違いも、恐らく体内精霊の働きによるもの。気味の悪い話、とジャンクは最初に言っていたが、呼吸をするのも忘れていまいそうなおぞましさが感じられる話だった。

 

純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)の目や、ヴァイスハイトの右目を潰すと、能力を得られるという話は聞いたことがあるでしょう? あれは、壊れた“入れ物”から体内精霊が飛び出し、一時的に“入れ物”を壊した側に入り込んだ上で体内精霊同士で話し合い、“入れ物”を共用するようになって漸く、俗に言う『能力を奪い取った』状態が発生します。話し合いが決裂すれば入り込んだ体内精霊は死に、能力は消えてしまいますし、意思を持たない物質、魔力のみの取り込みでは話し合いができませんので通常通り体内魔力の暴走が発生します」

 

「……」

 

「ほら、言ったでしょう? 気味の悪い話だって……僕だって、最初は信じたくなかったんです。何だか『その身体はお前のものなんかじゃない』と言われているような気がして……」

 

 この事実を知った時、ジャンク自身も酷く困惑し、苦しんだということは想像に容易い。

 それでも、今はこの話をしているべきではないと考えたのだろう。何も言えなくなってしまったエリックの前で、彼はゆるゆると頭を振った。

 

「覚醒、とは体内精霊と入れ物である僕らが、完全に一体化することによって起こります。その関係上、ヴァイスハイトは生まれつき覚醒状態ですし、鳳凰族(キルヒェニア)の覚醒は比較的早いです……それでも、前にも言いましたが龍王族(ヴィーゲニア)の覚醒も十歳前後には発生します」

 

「そう、か……元々、僕の身体には体内精霊がいないのだとすれば……」

 

「はい。覚醒が起こる筈がありません……そしてエリック、もうひとつだけ、補足させて頂きたいのですが……」

 

 話が長くなってしまって申し訳ありません、とジャンクは目を細める。「気にするな」とエリックが言えば、彼はまたしても躊躇いがちに話し始めた。

 

 

「その、体内精霊がいない状態で人間という命は誕生しません。そして今では、入れ物だけで普通に生きることができない程、人間と精霊は切り離せない存在と化しています……ですから間違いなく『お前が生まれた後、その身体の中から体内精霊を奪った存在』がいるということになります。恐らくお前が虚弱体質なのも、体内精霊がいないために身体が不安定になっていることが原因だと考えられます」

 

「!? い、一体、僕は……!」

 

 動かない右腕を抑え、ジャンクは困惑するエリックから目を逸らす。その動作によってエリックは悟った――ヴァロンならば、それができてもおかしくはないのだ、と。

 

 このまま放っておけば、彼はヴァロンの研究内容や、その手段について語ってくれるに違いない。しかし、今ここでこれ以上語らせてしまうのはジャンクにとって負担にしかならない上、エリック自身も少々混乱しつつあった。あまりにも、衝撃的なことを聞きすぎてしまった。そして何より、“あること”が気になった。

 

 

「ジャン、お前……一体、どれだけ僕らについて抱え込んでるんだ? 絶対、僕だけじゃないよな? 他の奴らのことも、何かしら勘付いてる……よな?」

 

 エリックだけで、これだけ筋の通った仮説を立てることができているのだ。彼の知識ならば、恐らくエリックだけではない。他の者達についても、何かしら考えがあってもおかしくはない。

 

「……。……ですよ、ね?」

 

「え?」

 

 そんなエリックの問いかけに対し、ジャンクはか細い声を震わせ、そらしていた瞳を再びエリックへと向けた。

 

 

「僕は、エリックを……お前を信じても、良いんですよね?」

 

「!」

 

――何の因果関係かは知らないが、エリックの元に集った仲間達は全員、どこか危うい部分を抱えてしまっている。

 

 それこそ、いつ崩れても、おかしくなってしまっても不思議ではない程の危うさである。

 もし仮にジャンクが、その危うい仲間達について何かしらの仮説を立てていたのだとすれば、何かしらの事実に気付いていたのだとすれば。

 その場合彼は、上手く動かなければ崩壊するかもしれない者達を支える立場に、その者達が崩壊する度に責任を感じるような立場に常に回らざるを得なくなってしまう――その辛さは、計り知れないものがあるだろう。

 

「当たり前だ……できる限り、僕も協力する。お前ひとりで悩んで、考えて動き回ってたのはよく分かった……全部、話してくれ。多分、お前は僕に色々話したかったんだな? だから、僕との同室を希望したんだな?」

 

 図星だったのだろう。ジャンクは両目を見開き、今にも泣き出しそうな、そんな笑みを浮かべてみせる。その話し相手に自分を選んでくれたことは、素直に嬉しいと思えた。

 

「ありがとうございます……その、正直……辛かったんです。怖かったんです、ひとりで、何もかもを握り続けるのが……このままでは、何もかも手遅れになってしまうのではないかと……」

 

「……」

 

「僕は……皆のことは、助けたいんです。僕のように、なって欲しくない……」

 

 事態の深刻さは、嫌という程に理解できた。恐らくジャンクは、とんでもない事実に気付いてしまっている。それも、彼の話しぶりからして一人や二人では無さそうだ。

 

 

「エリック……お前は僕らの中で最も冷静に物事を考えることができる存在だと思っています。自身の感情に囚われすぎず、かといって冷酷ではない……だからこそ、僕が今考えていることを、お前に全て打ち明けたいと思ったのです」

 

 そのまま泣き出すのではないかとも思えた、ジャンクの表情が引き締まった。これは相当な覚悟を持って聞いた方が良さそうだ、とエリックは両の拳を強く握り締める。

 

「とは言っても、エリックと僕だけが情報を握るのはどうかと思います。だからアルと、それから……ポプリにも、一部分だけはそれぞれ聞いて貰いたいと考えています」

 

「アルとポプリには、全部は話さない……それはつまり、このふたりに関係する話もあるってことだな」

 

「二人に関係する話をする時は、本人達はいない方がいいかと考えました」

 

 エリックの問いに、ジャンクは静かに頷いた……かと思えば、彼はいつの間にやらエリックから距離を置いて自分のベッドに戻ってしまった上に、酷く困ったような表情で、慎重に言葉を選びながらこのようなことを言いだしたのである。

 

 

「まあ、僕よりはマシだと思いますが……あの二人はお前程精神的に強くない、と僕は感じていますので。マルーシャとディアナを除外したのは、そういう理由もあります。その、第一、あの二人には、申し訳ないのですが、“客観的に”物事を見る能力は正直言ってほとんど期待できませんし……ほら、二人共感情論でぶつかっていくでしょう? しかもあの二人と比べれば理性的ですが、アルとポプリも大概に酷いですし……あ、いや、感情論が悪いとは言いませんが……そ、そのー……」

 

 

――成程、これは自分が選ばれる筈だとエリックは額を押さえた。

 

 

 これは酷い。あまりにも酷いが、正論過ぎて何も返す気になれなかった。

 感情に身を任せ、叫びまくる四人の姿が脳裏を過ぎっていく。あれを悪いとは言わないが、確かにジャンクの性格を考えれば、非常に話しづらかったことだろう。

 

「あ、その、わ……悪口を、言いたいわけでは……」

 

「大丈夫だ、分かってる、分かってるから……よし、作戦を練ろう。どういう順番でアルとポプリ呼ぶか、どういう順番で追い出すか考えよう。余計なことを考えるのはやめよう」

 

 むしろ自分が例外枠に入れて良かった、そうでなければ彼は結局抱え続けたに違いにない。それでは意味が無くなってしまう。

 強引に話の内容を切り替えつつ、エリックはもうため息すら出ないと苦笑した。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.47 不器用な慕情

「すみません、突然呼んでしまって」

 

「良いのよ、気にしないで。あたしは頼ってもらえた方が、嬉しいもの」

 

 だから何かあればどんどん頼ってね、と先程この部屋に入ってきたポプリは微笑む。それに対し、ジャンクはどこか複雑そうな様子で苦笑してみせた。

 

「うーん……今にして思うと、僕は本当に君に何も話していなかったんだな、と思うんです。申し訳ありません」

 

 

 これまでポプリは「悩んでるなら話して、力になるから、助けるから」と、再々ジャンクに言っていたのだという。それをジャンクは全て「すみません」の一言で誤魔化していたのだという。

 そんなジャンクから、話を聞く機会を得た。それどころか、本人の意思で「話したい」という申し出があった。それをエリックから聞いたポプリは驚いてこそいたが、何の迷いも無くこの部屋にやってきていた。

 

「不思議な人、とは思ってた……けれど、それと同時に絶対に何か酷い物を抱え込んでることも気付いてたから。ヴァイスハイトなのにも薄々気付いてたけど……先生は字の読み書きが苦手でしょう? それだけで、何となく昔何があったのかって、絞られちゃうものよ。しかも先生、多分暗い所と狭い所が苦手よね? 強がってるから黙ってたけど……」

 

「!? えっ、ちょっ……ポプリ……?」

 

「うふふ、意外と見てるのよ、あたし」

 

 図星だったのか、若干顔を赤らめてあたふたするジャンクを横目で見つつ、エリックは「またか」とため息を吐きたくなるのを必死にこらえていた。

 ジャンクの方は間違いなく無自覚だが、どう考えても“両片想い”だと想定される二人と一緒の空間に置かれているこの状況はもはや一種の拷問である。しかしいくつか不穏な話も聞こえてきている。逃げ出すわけにはいかないだろう。

 ポプリの言葉に対して返事をするより先に、ジャンクは動く左腕を覆う袖を噛み、そのまま上にめくり上げた。

 

「……皆、触れないですよね、これに」

 

 彼が見せてきたのは、赤黒い痣の残された左手首。普段は袖の長い白衣で隠れているが、包帯を巻く、手袋を付けるといった隠され方はしていないために不意に見えることがある。だからこそエリックとポプリは、彼が両手首に全く同じ痣を持つことにも気付いていた。

 

「隠すと、ふと見えた時に必要以上に気になるでしょうから。だから、隠さないようにしていたんです。どうせ、普段から僕は長袖ですしね。傷だらけ……ですし」

 

「……」

 

「まあ、想像が付くとは思いますが……これは、拘束痕なんです。ただの枷ではなく、魔力を吸収する枷でした……そしてその技術を応用して作られたのが、虚無の呪縛(ヴォイドスペル)ですね」

 

 まさか、完成品を身に受けた人間と会うとは思いませんでした、とジャンクはどこか悲しげに笑う。

 

「研究施設では何らかの実験を行うなどの理由が無い限りは、常に牢に入れられていました……だから、駄目なんですよ。暗い場所と、狭い場所が。それと、色々あってまともに文字を勉強し始めた時期があまりにも遅かったから。特に文字を書くことには強い苦手意識がありますね」

 

 あまり多くを語らなかったとはいえ、ジャンクがポプリと共にいた期間は決して短いものではない。だからこそ、ポプリは様々なことに気付くことができたのだ。

 それでも、その“気付いてしまったこと”に触れなかったのは、本人の口から真実を聞きたかったのと、ポプリ自身が抱える罪によるものだろう。

 

 

「そんな状態で……よく、あたしと一緒にいようって、あたしを守ろうって、思ってくれた、わよね……だって、先生気付いてるでしょう? 精霊関係の話に、詳しい先生だもの……」

 

 先程、エリックの体質及びこの世界の人々と精霊の関係についてはポプリにも伝えられていた。この件については全員に伝える予定であったが、わざわざ来てもらったのだからとポプリには先に話しておいたのだ。

 その際、ポプリの顔色が悪くなったのは、話の内容が原因ではない。だからこそ、ここでこのような質問が出たのだ。

 

「君の、秩序封印(ヴァルデマール・フレイヤ)の能力は拒絶系能力の中でも強い能力で……戦いの道具としても優れているから、悪い意味で需要の高い能力です。そして、僕達透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力者とは非常に相性が悪い。実際僕は、君の姿や身体から放出される魔力の質を感じ取ることはできても、君の身体の中にいる体内精霊の姿までは確認できていません。“入れ物”が僕の力を弾いてしまう、と言えば分かりますかね?」

 

「……」

 

「多分、体内精霊を視ること“だけ”に、集中して本気を出せば覗けるのでしょうが、それをしようとは思いませんでした。一応、内面まではなるべく視ないのが僕の中でのルールです。ただ……やっぱり、分かりますね。君が、おかしいのは。最初から、気付いていましたよ」

 

 開かれたジャンクの両目が、ぐっと両目を閉ざして震えるポプリの姿を写している。少なくともジャンクは、ポプリの能力は彼女が最初から持っていたものではないことを気付いていたようだし、頻繁に共解現象(レゾナンストローク)を暴走させていたことを考えれば、アルディスと出会ったことによって“奪われた側”のことも認識していたことだろう。

 そしてポプリが問いたいのは、それなのにどうして自分が受け入れられているのか、ということだ。

 

「そうですね。きっと、何の事前情報も無しに僕が君と出会っていれば、僕は君を“敵”と認識していたことでしょう……他にも理由はありますが、間違いなく僕は君を恐れた。君の命を奪っていた可能性もあります」

 

 ですが、とジャンクは首を傾げてみせる。その声の穏やかさに何かを感じ取ったのか、ポプリはおもむろに瞳を開き、目の前の青年が紡ぐ言葉の続きを待った。

 

「六年前のあの日。僕の顔を知っている研究員に、出会ってしまったんです。逃げ切るために獣化したのは良いのですが、上手くいかなかったんですよね。何とか逃げ切ることはできたのですが、人の身に戻れない程の深手を負ってしまって……そんな時に、君がやってきた。今度こそ殺されると、思いました……けれど、君は臆することなく、僕を助けてくれたでしょう?」

 

「……っ」

 

 根本的に自己犠牲の性質を持つのか、ケルピウスは他者を癒すことはできても、自分自身を癒すことはできないのだという。そして傷を負った状態で人の身に戻れば、その傷はそのまま人の身に反映される。獣の身と人の身では、根本的に耐えられる傷に大きな差があるため、あまりにも酷い傷を負ってしまった場合は人型に戻ること自体が不可能となってしまうそうだ。

 

 血が良薬になるというケルピウス。それを知る者がケルピウスを見たならば、問答無用で傷付けにくるだろう。しかも、獲物が身動きの取れない状態だとすれば好都合だ。

 だからこそ六年前、ジャンクは突然現れたポプリに対し酷く怯えると共に、絶望したのだという。どう足掻いても自分は助からないのだと、救われないのだと――だが、悲観的な感情を抱いていた彼に与えられたのは、暖かな優しさだった。

 

「もう、変な先入観は抱かないようにしようと誓いました。君という人間を見て、何かあればその時に考えよう……と。そのためにも、絶対に君を守り抜くと決めたんです。恐らく僕のケルピウスとしての本能による力でしょうが、君の危機は、離れていても感じ取れたんです。だから、何度だって駆け付けることができたんです」

 

「ッ、先生……っ」

 

 ポプリの橙色の瞳が潤む。それを見たジャンクは、くすくすと悪戯めいた笑い声を上げ始めた。

 

 

「まあ、最初の一回はまさかの君にボロボロにされるという結果が待ち受けていましたが?」

 

「~~ッ! い、いつまでもその話引きずらないでよ……っ!!」

 

「……」

 

 

――この辺りでエリックは、「コイツらいい加減にしろよ」と心の中で呟き、考えることをやめた。

 

 

 

 

「気は済んだか馬鹿野郎」

 

「す、すみませんでした……」

 

 しばらく話し続け(もちろんエリック抜きで)、ポプリが部屋から出た後、「あれ別に自分いなくて良かったじゃないか」とエリックはジャンクに対して不満を爆発させた。

 自覚はあったのか、ジャンクは目を泳がせながら顔を引きつらせて謝罪の言葉を口にする。

 

 

「でも、ポプリはお前がヴァイスハイトなの、気付いてたんだな」

 

「ですね。まあ、ポプリはヴァイスハイトの義弟を持つわけですし、気付かれていてもおかしくは無いと思っていたんです……ところでエリック、僕の兄さんはポプリを見て、何か変な反応はしていませんでしたか?」

 

 しかし、どうやら完全に自分の存在が不必要なわけではなかったらしい。自分を見つめるジャンクの眼差しが、真剣なものへと変わった。

 

「……。それは、勿論“悪い意味で”だよな。恋愛感情だとか、そういうものではなく」

 

「はい……って、え? まさか、兄さん……」

 

「あ……」

 

 

 すまん、ダリウス。弟に余計なことをバラしてしまった――今度はエリックが目を泳がせる番だった。しかし、ジャンクはエリックの失言に対し、予想外の反応を見せてきた。

 

「兄さんこそ、ポプリに対して憎悪の感情を抱くと思っていたのですが……まあ、ポプリに罪は無いですから、そこを理解しているのかもしれません」

 

「……どういう、ことだ?」

 

 どうやら、穏やかではない事象が絡んできているらしい。エリックの目を見つめ、ジャンクは躊躇いがちに、口を開いた。

 

 

「ポプリの、母親……メリッサ=クロードは、トゥリモラの研究者でした。僕とはあまり接点がありませんが、彼女はヴァロン様の右腕だったそうです……父に、僕を売るように言った人物、でもありますし……兄さんを……“兄の第二の人生さえも奪い、化物にした”人物でもあるんです……」

 

「ッ!?」

 

 

 ジェラルディーン家当主、ディビッド=ジェラルディーンが自害するきっかけとなってしまったのは、唯一残された長男であるダリウスの家出。

 そのダリウスの家出の原因は、ディビッドが次男クリフォードを実験施設に売り渡したこと。

 そして、その取引を持ちかけたのはポプリの母親、メリッサ=クロードだった。

 

「……それ、ポプリには?」

 

「話して、ません。話せません……っ」

 

 自分の母親が、ジェラルディーン家を完全に崩壊させた。

 そんなことを知れば、ポプリはどのような反応を見せるだろうか。

 

(……ダリウスの目的は、仇討ちだったのか)

 

 ジャンクもだが、ダリウスもポプリを傷付けたくないと考えたのだろう。

 好かれなくても構わない、それどころか恨まれても良い、同情の余地もない悪役で良い。人殺しと、母親の仇だと、罵られても良い――それが、ダリウスの選んだ、答え。

 そしてそれは、ジェラルディーン家の没落を悔み続け、兄を想うジャンクにも当てはまる話。彼にとってもメリッサは憎い存在の筈。それでも彼は、その娘に真実を話さない。

 

「どうする、つもりなんだ?」

 

「伝わらずに済むのなら、それで良いと思っています。僕が、抱え続ければ良いだけの話です」

 

「ッ、お前もお前だ……! ポプリを傷付けないために、自分達が代わりに苦しめば良いって問題じゃないだろう……?」

 

 

――何と、愚かで歪な、悲しい愛情表現だろう。

 

 

 これが、彼らの選択が正しいのかどうかは、もはやエリックには分からない。

 仮に自分が、彼らと同じような状況に陥ったとすれば、どのような選択をしただろう。

 

「ふふ……気にしないでください。確かに、辛くないわけではないのです。どうすれば良いのか、悩んでもいました。だから、お前に打ち明けたのです……そして、話してみて確信しました。やはり、話すべきではないのだと」

 

「……」

 

「何だかよく分からないのですが、僕は、ポプリを守りたいんです。それだけ、なんです」

 

 

 それでもこれは、エリックが口出しして良い問題ではない。彼らの問題でしか、ない。

 

 

(いざという時、動けるように。この件は単なる“情報”として、考えておこう……僕が、迷ってしまわないように)

 

 直に、アルディスがここにやってくる。時間差でポプリとアルディスが順にここに来るように、調整したのだ。

 気持ちを切り替えるべきだ、とエリックは軽く息を吐き、悩みはしたがこの件に関しては「無理だけはするなよ」と軽い忠告をするに留めた。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.48 隠された真実

 

「こんばんは。話、とは何でしょうか……?」

 

 アルディスがやって来たのは、エリックとジャンクが話し終えて数十分後のことだった。彼はどこか不安げにドアを開き、ゆっくりと部屋の中に入ってきた。

 

「お前、何でそんな不安そうに入ってくるんだよ……」

 

「その、ええと、俺、は……」

 

「別にお前を責めるために呼んだわけではありません。ただ、お前が持つ情報と僕の持つ情報を照らし合わせたかったのです……その上で、相談したいことが」

 

 どうにもアルディスはジャンクの件を酷く気にしているらしい。だからこそ、突然呼び出されたことに恐怖を感じてしまったのだろう。そんなアルディスの態度を見て、エリックはふと、ディアナのことを思い出した。

 

「そうだ。僕もお前ら二人とは話しておきたいことがある。ジャンの話が終わったら、僕の話も聞いてくれないか?」

 

 エリック及び当事者であるディアナ以外は気付いていないのだが、アルディスの行為によって傷付いたのはジャンクだけではない。ディアナは、『アルディスを守れなかった』ということを口実に貴族の娘達に虐められていた。

 この出来事によってエリックはディアナの本当の性別に気付いてしまったし、同時にいくつか、確認したいことができていた。ディアナには『聞かないで欲しい』と言われたが、万が一の時に備え、こっそり対策をしておくべきだと考えたのだ。

 

「……うん、あの子のこと、だよね。了解。とりあえず、先にジャンさんの話を聞こうか」

 

 アルディスはエリックが誰の話をしたいのか察したらしい。彼は意外にも冷静に頷くと、ジャンクの方を向いて彼に話をするように促した。

 

「僕からで、良いのですか? では、話させて頂きますが……エリック、アルディス。この件に関しては、お前達二人の正直な意見を聞きたい」

 

 そう言ってジャンクは、彼が普段腰に巻いている布――今は畳んでベッド横の机の上に置いていた――をベッドの上に広げてみせた。

 

「それ、黒衣の龍の衣服の刺繍に良く似てる……よな。広げたってことは、無関係じゃない、よな?」

 

 よく見ると、布の上部が丁寧に繕われている。本来はもっと長かったが、腰に巻きやすいように裁断したのだろうか?

 エリックが問うと、ジャンクは首を横に振るい、エリックに思いもよらぬ質問を投げかけてきた。

 

 

「前王を殺したのはカイン殿下だというのが、通説ですね。ですがお前は、それを信じていない。それは、今も変わりませんか?」

 

「え……?」

 

「アル、お前はこの件をどう思っていますか? 僕はお前にも、全く同じ質問をさせていただきます」

 

 ゾディートが、前王ヴィンセントを殺したという話。その話を信じているかどうかを、ジャンクはエリックとアルディスに聞いてきた。まさか、彼の口からそんな言葉が出てくるなどと、誰が思ったか。エリックが困惑していると、アルディスは躊躇いがちに口を開いた。

 

「カイン殿下は、俺を“手段”として扱うことはあれども、殺すつもりはないようです……きっと、ものすごく優しい方なのでしょう。だから俺は、あまり信じたくないです。カイン殿下の、父親殺しの話を」

 

「しゅ、手段……!?」

 

 驚き、エリックはアルディスとジャンクを交互に見つめた。何も言わない辺り、ジャンクはアルディスと同意見なのだろう。

 

「俺の立場としてはものすごく嫌な話だけどさ、エリックを成長させるためには、俺を動かすのが一番手っ取り早いって考えられたんだと思う。しかも、結果的に俺も前向いて生きていくきっかけになってるし……今となっては全部、彼に仕組まれてて、彼に動かされてた気がしてならないんだ」

 

「……!」

 

 

――きっと、変わらない毎日が壊れるきっかけとなった、あの襲撃が無ければ。

 

 

 エリックとマルーシャは真実から目を背け続けただろうし、アルディスは真実を隠し続け、自分自身が背負うべき責任からも逃げ続けたことだろう。

 そして、スウェーラルの地でエリックとアルディスが刃を交え、互いの立場をかけて戦うきっかけとなったのも他ならぬ兄の言葉にあった。

 偶然だと、思っていた。しかし、あれが偶然などではなく、兄によって起こされた“必然”だったとすれば……?

 

「そ、そんな……まさか……っ」

 

「あの時はとにかく必死で、何も不思議に思わなかった。でもね、今にして思うと……あんなに隙だらけだった俺に致命傷を与えることなく、しかもそのまま逃がすなんておかしすぎる……それにね」

 

 アルディスは自身の後頭部に手を回し、眼帯の結び目を解いた。彼はそのまま、慣れた手付きでそれを外し、軽く首を振るって前髪を横に流す。すると、簡単に彼の右目に残された痛々しい十字傷が露出した。

 

「傷、二つあるだろ? 今まで言わなかったけれど、ひとつは、カイン殿下に付けられたものなんだ。俺はこの傷を負った時、ふらついてそのまま海に落ちたんだ」

 

「……」

 

「その時、俺のすぐ近くに前ラドクリフ国王が迫っていた。俺は完全に魔力も尽きていて、もう普通に戦うしかない状態だった……けど、君も分かるだろ? 俺が魔術無しで純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)の戦士と戦えるわけなんかないんだよ。絶対に、勝てる状態じゃなかったんだ」

 

 何となく、アルディスの言いたいことを察してしまった。しかし、本当にそんなことがあり得るのだろうかとエリックは奥歯を噛み締める。

 仮にそうだとすれば、兄の行為は完全にラドクリフへの反逆行為だ。戦時中だというのに、敵国の皇子をわざと逃がしたというのか。

 

「右目を斬り付け、嵐で荒れた海に落とす……普通なら死ぬよ。だけど、あの人は俺の眼球にはほとんど傷を付けないように、ただ顔に傷だけを残すように斬りつけたんだ……“偶然”で、こんな傷付けられると思う?」

 

 その行為の意味はさておき、アルディスの問いに対しては「無理だ」とエリックは感じていた。しかし、上手く言葉にならなかった。

 

「ヴァイスハイトは、簡単には死なない。力さえ残っていれば、海に落ちたくらいじゃ死なないよ……溺れはしたし、当時の俺は死んだって思ったけどさ。その日は潮の流れがいつもと違ったみたいで、流されていくのも妙に早かったし」

 

「そのまま、お前はペルストラまで流されて行ったんだな……」

 

「俺もね、悔しいから信じたくないよ……そもそも俺は、崖の上で戦うなんて無謀な真似してなかった。なのに、カイン皇子と応戦してるうちに、気がついたら崖の上にいたんだ……もし、これが“ペルストラ行きの潮”が流れている場所に落ちるように、俺が誘導されていたんだとしたら。もうそれは、最初から俺の負けだったってことなんだよ」

 

 流石に俺が力を奪われるところまでは想像してなかったと思うけどね、とアルディスは苦笑しつつ、眼帯を再び身に付けた。

 

「俺の仮説が正しいものとすれば……本当に前ラドクリフ国王をカイン王子が殺したのだとすれば、きっと、もっと巧妙に殺害すると思う。それこそ、自分に疑いが掛からないように、ね……仮に違ったとしても、俺がカイン王子に生かされたのは事実だ。敵国の皇子を生かすような、そんな人が。自分の父親を殺せるとは思えない」

 

 確かにアルディスの話は、彼の仮説は、筋が通ったものであった。それに、とエリックは思う。ゾディートは昔、このようなことを言っていたな、と……。

 

 

『キルヒェンリートを探し出せ。誰かが所持しているのならば、奪わなくとも良い……ただ、それが“卑しき男”の手に渡ることだけは全力で防げ』

 

 

「奪わなくとも良い……ただ、“卑しき男”には渡すな、か……」

 

「エリック?」

 

 不思議そうに自分を見つめるアルディスの瞳を見た後、エリックは彼が身に付けたレーツェルへと視線を移す。兄が探せと言っていたキルヒェンリートは、目の前にある。

 

「……。アル、お前の仮説が正しいなら。兄上は本当に無実なのかもしれない。僕はただ、直感でそうだと思っていたし、今もそう思っているんだが……」

 

 数年前、兄はエリックにフェルリオの宝剣を探せと言ってきた。兄は知っていたはずだ。その剣の行方を。その剣の持ち主を――つまり兄は、最初から自分とアルディスを合わせるつもりだったのではないだろうか?

 

「……」

 

 上手く言葉が続かず、エリックは黙り込んでしまった。一方のアルディスも、これ以上何を言えば良いのか分からなくなっているのだろう。彼も、何も喋らなくなっていた。

 沈黙が続く中、今まで二人の話を静かに聞いていたジャンクが、口を開いた。

 

 

「その通り、です。きっと何者かに、罪を被せられてしまったのでしょう――カイン殿下は、無実です」

 

 

 驚き、目を見開くエリックとアルディスに対し、ジャンクは「これが真実です」と言わんばかりにおもむろに頷いてみせた。彼の目に、迷いはない。

 

「僕らは……僕と兄さんは、時期は違いますが共にカイン殿下に助けられたのです。あの方が……マクスウェル様が、カイン殿下を導いたそうです」

 

「え……」

 

「この布は、カイン殿下に頂いた物なんだそうです。なんでも、カイン殿下が身に付けていた衣服を破り、僕に被せていたんだとか……僕の意識はもう、ほとんど無いに等しかったので、マクスウェル様から聞いただけなのですが」

 

 無理もない話だが、施設から助け出された直後のジャンクは完全に精神が崩壊しており、満足に会話ができるまで回復するのに数年の月日を要したのだという。そのこともあってか、ジャンクは助け出された後はそのままマクスウェルの元へ連れて行かれ、ゾディートではなくマクスウェルの保護下にいたそうだ。

 そういえば、ゾディートはケルピウス状態のジャンクに対して言葉を投げかけていた。それも、彼を心配するような言葉であった。辛いだろうが、生き延びろ、と……今にして思えば、あれは間違いなく、ケルピウスの正体及びジャンクのことを知った上で出た言葉だったのだ。

 

「カイン殿下は、何か目的を持って動いているようなのです。マクスウェル様が加担されるということは、恐らくこの世界に関係する事柄です。ですが、それをたったひとりで、犯してもいない罪を被せられたまま成し遂げるなんてことはきっと、どんな屈強な精神を持った人物であろうと耐えられないことだと思うのです」

 

「! だから、マクスウェルはカイン殿下の無実を、迷わず主張できる人物を生み出した……?」

 

 アルディスの言葉にジャンクは頷き、エリックの方へと視線を向ける。

 

「僕らは、真犯人までは知りません。ですが、マクスウェル様の働きかけによってカイン殿下が無実であるという真実は知っています……ですがきっと、僕らのような“生み出された味方”よりも、エリックのように何の根拠もなく自分を信じてくれる存在。そんな存在が、カイン殿下にとっては何よりも救いだったのではないでしょうか?」

 

 エリックは――自分は、兄に思われていたということだろうか。

 今にして思えばそれは、無理のある主張ではない。確かに兄は、自分を殺そうとしていた。だが、それはあくまでも言葉だけの話であった。

 もし、本当に自分を殺したかったのならば。アルディスの家で皆殺しにするという選択肢も存在していたし、何よりジャンクの介入があったとはいえ、スウェーラルでの戦いで自分にとどめを指すこともできた筈だ。

 

「……なら、どうして」

 

 兄が無実であることは分かった。しかし、エリックはどうしても、ある一点だけ納得がいかないことがあった。彼は目を伏せ、奥歯を噛み締めた後、口を開いた。

 

 

「どうして兄上は、黒衣の龍は、ペルストラを襲った? スウェーラルだってそうだ……それが、兄上の目的だっていうのか……!?」

 

 

――黒衣の龍が、二つの街を壊滅させたこと。これは、揺るがぬ事実だ。

 

 

「アルを動かすことが目的だったとしても、街を壊滅させて、関係の無い住民を犠牲にする……そうしなければならなかった理由は、一体どこにあるんだ? 僕には、どうしてもそれが理解できない……!」

 

 何か、理由があるのかもしれない。エリックはずっと、そう思い続けていたし、そうであって欲しいと願い続けていた。そして、その解を持っていそうな人物が、今、目の前にいる。縋るような思いで、エリックはその人物――ジャンクへと視線を向けた。

 

「そ、それは……」

 

 ジャンクも、エリックに期待されているのに気が付いたらしい。しかし彼は、ゆるゆると力なく首を横に振るうことしかできなかった。

 

「分から、ないのです……僕にも、その理由は……」

 

 本当か? 何か隠していないか? 嘘を吐いているんじゃないか?

 そんな問いが、エリックの脳裏を過ぎっていく。それでも彼は、その問いを口にしなかった――無条件にジャンクを信じると、誓ったから。

 この誓いを破りたくは無かったし、どう見ても今のジャンクの表情は嘘を吐いているようには見えなかった。

 

「ただ、僕もカイン殿下が何の意味もなく、街を壊滅させたとは思っていない。だから、僕もカイン殿下の真意を知りたい……そう、思っています」

 

 分かった、今度はそういうことか――ジャンクがこの話を始めた理由。それを察したエリックはおもむろに頷いてみせた。

 ジャンクはゾディートの無実を知っていた。彼が、マクスウェルが手を貸す程の使命を持っていることも知っていた。しかし彼は、彼が率いる黒衣の龍は二つの街を壊滅させている。その意図は、全くと言っていい程に読めない。そして真意を知らないにも関わらず、エリック達はゾディートを完全に敵と見なしている……この状況を、ジャンクは良く思っていなかったのだろう。何より、共に真実を追求する仲間が欲しかったのだろう。

 

「そうだね。俺も、カイン殿下の真意が知りたいよ……それならどうして、ペルストラとスウェーラルを壊す必要があったのかを。俺が……カイン殿下に報復する必要は、あるのかどうかを」

 

「! アル……!?」

 

 報復。あまりにも物騒な言葉に、エリックは驚き、僅かに声を震わせる。それに対し、アルディスは軽く頭を振るい、口を開いた。

 

「ペルストラも、スウェーラルも、俺にとっては故郷なんだよ。その故郷を、壊された……俺のせいではあるんだろうけれど、だからと言ってそれだけで納得できるほど、俺は大人じゃない」

 

「……っ」

 

 黒衣の龍によって、大切な故郷を破壊された。それは、決して否定のできない事実である。何も言い返すことができず、エリックは口をつぐむ。だが、そんなエリックに対してアルディスは困ったように笑ってみせた。

 

「だけど、俺だって何かがおかしい気はしてる。だから、真実を見極めてから動きたいとは思ってる。思い込みで行動するのは良くないって、痛い程に学んだから」

 

 今はまだ、焦らない。そう口にしたアルディスの表情に、不穏な色はなかった。

 判明した真実によっては、アルディスはゾディートに剣を向けるのだろう。だが、それは今悩んでも仕方のないことなのだ。こればかりは、そうなってしまった時に考えるしかない。

 

 

「この話は、今日のところはここまでにしておこう……それでアル、それからジャン。僕の話をさせてくれ……ディアナのことなんだが」

 

 ディアナ。その名前を聞いたジャンクは「あ、あー……」と非常に煮え切らない声を上げ、エリックから目を逸らし額に手を当ててため息を吐いた。どうやら、内容を察してしまったらしい。

 

「あの馬鹿……今度はエリックですか? 一体何をやらかしたのですか……!?」

 

「……」

 

 

――ディアナの件だけでも、ジャンクは結構抱え込んでいるらしいことが分かった。

 

 

 

 

「俺がいない間にそんなことに……! くそっ!!」

 

 間違いなく気付いているだろうとは思っていたが、エリックの読み通り、アルディスもジャンクもディアナの性別については気付いていた。

 エリックが気付いた経緯を聞かれたため、所々伏せた上で説明したところ、案の定アルディスは怒りに震えていた――シルフの判断は、悲しい程に的確だった。

 

「落ち着け。間違ってもディアナに詳細聞きに突撃するなよ……絶対、思い出して傷付くから」

 

「う……っ」

 

「おかしいとは思ってたんだよな。記憶も無い、足も動かない……そんな奴が、ラドクリフ王国にいる“らしい”フェルリオ皇子の捜索と護衛を押し付けられるなんて。嫌がらせか何かだとしか思えなかった」

 

 エリックの言葉に、アルディスは奥歯を噛み締めて目を泳がせる。何とか怒りを鎮めようと、彼なりに頑張っているのだろう。その間に、エリックはジャンクへと視線を移した。

 

「アルにも言ったんだが、性別に気付いたことは……」

 

「言わないよ。ところでジャン、お前、一年くらい前にディアナに会ってるんだよな? その時アイツ、どんな髪型してた?」

 

「っ!?」

 

「あ……」

 

 ああ、やってしまった……とエリックは思った。一瞬ではあったが、ジャンクが明らかに怯えた目をしたのだ。多分、無意識のうちにエリックは真顔になっていて、そのまま威圧的に質問してしまったのだ。

 しかも彼は狼狽えたまま、何も言えなくなってしまった。つまりそれは、今のエリックに“言えないようなこと”が、質問の答えだということ。

 

 

「……」

 

 思わず、エリックは無言で部屋の隅に移動し――その壁を全力で殴りつけていた。

 

「ッ、エリック!?」

 

 これには流石のアルディスも驚いていたし、それ以上にジャンクがどうしようもない程に狼狽えてしまっていた。

 

「み、ミイラ取りがミイラになってどうするのですか……っ! お、落ち着いてください、エリック、アルディス!!」

 

 腹が立つものは腹が立つのだから仕方がないだろうと言いたかったが、これでは話し合いにならないのも事実だ。

 エリックは深呼吸を繰り返しながら、素直に元の位置へと戻った。

 

 

「い……意外とタチの悪い怒り方をするのですね……」

 

「その、普段はピアノ弾いて発散してるんだが……はは、悪い。ちょっと余裕無かった……」

 

「ピアノはロビーにありましたね。明日ここの宿屋の人にでも借りましょう……それにしても、髪色、ですか」

 

 不幸を呼ぶ娘、ダイアナの話は三人共通で知っているようだった。エリックがディアナから聞いた情報、それからアルディスの持つ情報を共有し、話をまとめていく――途中でまたしてもアルディスが怒りでおかしくなりそうになっていたが、そこは何とか宥めた。

 

「“忌み子もどき”、か……なあアル、ディアナには、聞かないで欲しいって言われたんだが……」

 

「え?」

 

「その、左耳のピアスについて聞きたい」

 

 アルディスの左耳で、月を象ったピアスがちりんと音を立てて揺れる。間違いなく、そのピアスはディアナの持つものと同じ物であった。

 

「フェルリオには、男が女に右耳のピアスを贈る風習があるのか?」

 

 あえて、過去にアルディスがダイアナにピアスを渡したことはあるのか、とは聞かなかった。だが、アルディスは質問の意図を察したのだろう。彼は、酷く悲しげな表情をしていた。

 

「見たんだね。ディアナが、これと同じピアスを持っているのを」

 

「……ああ」

 

「なら……よっぽど、捻れた解釈をしない限りは、確定、だね……」

 

 

――ディアナは、忌み子“もどき”ではなかった。

 

 

「ピアスは、女達に取られていたんだ。取り返して渡したら、アイツ、泣いてたよ……記憶は無いけれど、持っているだけで落ち着くんだって」

 

「……」

 

「ディアナは、確認しないで欲しいって言ってたんだ。お前の持つピアスの片割れが、どこに行ったのかを……怖いって言ってた。多分、自分が“忌み子”だって、気付きたくないんだと思う……」

 

 

――何も、していないのに。ダイアナは、何も悪くないのに。

 

 

「ディアナが、ただひとつだけ欲しがった物、何だと思う? 実在していなくても良い、記憶があるだけで良いって……そう、願った物。何だと、思うか……?」

 

 少しずつ、目の前の景色が歪み始めた。親友の泣き虫がうつってしまったのだろうか?

 だが、それを恥ずかしく思うよりも強い感情が胸の奥から込み上げてくる。何故か悔しくて、憎たらしくてたまらなかった。

 

「暖かな、家族だってさ……それくらい、与えてやって欲しいよな……」

 

「……」

 

「気付いたよ、僕だって。ダイアナには、“それ”さえ無かったことくらい……!!」

 

 

『寂しいんだ。ひとりは、嫌なんだ……』

 

 ディアナのささやかな、たった一つの願い。

 

『この容姿ではきっと、友人はいなかっただろうが……オレに、家族はいたのだろうか?』

 

 大粒の涙を零しながら紡がれた、あまりにも悲しい言葉。

 

『どんな家庭でも良い……ただ、優しい両親が居てくれれば、それで良いんだ……』

 

 

『このご時世だから、もう亡くなっているかもしれない。それでも、優しい両親が『いた』という記憶が欲しい……オレが失った記憶の中に、そういう人達は、いるのだろうか……?』

 

 決して高望みでは無いというのに。

 決して欲張りでは無いというのに。

 それなのに、こんな願いさえも。“神”は受け入れてくれないというのか――。

 

 

「……エリック、アル」

 

 心配そうな、ジャンクの声が耳に入る。潤んだ両目を乱暴に擦り、声の主の顔を見据えた。その声の主も、酷く悲しげな表情をしていた。

 

(ああ、そうか……)

 

 今更ながら、気付いてしまった。彼もまた、暖かな家庭を得られなかった者のひとりであることを。

 だからこそ彼は、ディアナに酷く感情移入してしまったのだろう。どんなに手を伸ばしても、それを得られなかった。その悲しみを、嘆きを、彼は知っていたから。

 

「ディアナは……記憶を、無くしています。厳密には、封じ込めてしまっています。そこを探ろうとしましたが、阻まれてしまいました……何者かが彼女に施した、術式によって」

 

「それは思い出されると不都合なことを隠すため……なのか?」

 

「多分、違うと思います」

 

 躊躇いつつも「そのような理由なら、いっそ殺してしまった方が早いでしょう?」とジャンクはエリックに問いかける。

 

「きっと、ディアナは酷く、辛い目にあった」

 

「……」

 

「死にたい、と、強く思う程に。それを迷わず、実行しようとしてしまう程に」

 

 不快な悪寒を感じる程に、説得力のある言葉だった。奥歯を噛み締めるエリックを見て、ジャンクは迷いつつも、言葉の続きを紡ぐ。

 

「ディアナは、自分自身でその記憶を封じ込めてしまった。そして、恐らくは彼女が苦しむ姿を近くで見ていた者がいたのでしょう……哀れに思ったその者は、ディアナが決して記憶を取り戻すことの無いように、さらにその記憶を封じ込めてしまったのだと思います」

 

 そういえば、とエリックは思う。ディアナは一言も、「失った記憶を取り戻したい」とは言っていない。気にはしているが、そんなことは一切望んでいないのだ。

 

(多分、気付いてるんだろうな……無意識に、思い出してはいけない記憶だって)

 

 思い出せば、自分が自分ではいられなくなってしまう。狂ってしまう――それを、ディアナはどこかで分かっている。そのため、彼女は記憶を取り戻すことに対して消極的になっているのだろう。

 

「悲しみの記憶を、乗り越えるだけの強さを彼女が得るその日まで……その日が来るまでは、今のままでいるべきなのだろうと思っています。ですが、万が一。万が一、彼女が記憶を取り戻した……その時は、僕達は一体、どうすれば良いのでしょうか?」

 

 その答えは恐らく、“ダイアナ”にとっての救いであった、アルディスにある。

 

「……考えて、おきます。いざという時、俺は、どうするべきか」

 

 そのことをしっかり理解しているらしいアルディスの目に、迷いはない。しかし、エリックもジャンクも無関心でいるわけにはいかないだろう。これは彼だけで、抱え切れる問題ではない。

 

「とにかく今は、普通にディアナのことを見守っていよう。変な動きをすれば、それこそアイツを不安にさせかねない」

 

 ゾディートの件もそうだが、これもまた今すぐにどうにかできる問題ではないだろう。今はただ、“その時”が来た時のために、覚悟をしておこう――エリックの言葉に、否は無かった。

 

 

 

 

「……愛、とは強い感情なのですね。アルを見ていると、本当にそう思います」

 

「お、おう……」

 

 アルディスが部屋を出てすぐに、ジャンクがこんなことを口にした。色々と思うところがあり過ぎて、思わずエリックは何とも言えない返事をしてしまっていた。

 

「好いている人間に対しては、他の人間とは違った行動を取ってしまうものなのですか? エリック、お前もそれは同じなのですか?」

 

「……。何が言いたい?」

 

 嫌な、予感がした。

 そういえば、バタバタし過ぎてジャンクにはまだ話せていないことがあったな、とエリックは思う。

 

「これはお前に、話して良いことなのか悩みました……ですが、伝えておかないと取り返しのつかないことになる気がします。だから……」

 

 エリックが、“そのこと”を口にするよりも先、ジャンクは三枚の紙をエリックに差し出した。よく見るとそれは、医療用のカルテだった。

 

「先程も話しましたが、僕は文字の読み書きが苦手です。文法や綴りがおかしいことがよくあります。当然ですが、そのままだと後々困るんですよね」

 

「……」

 

「なので、カルテは基本的にポプリにチェックして貰っているのですが……性別を隠すディアナ含め、お前達のカルテは、チェックをお願いしていません。できないのです……あまりにも、“おかしい者”がいるから」

 

 渡されたカルテは、エリック、アルディス、それからマルーシャのものであった。ジャンクが言うように、カルテには頻繁に文法のおかしい文章や綴りのミスが見られる。これではポプリのチェックが必要となるのも無理はない。

 しかし、エリック達のカルテには、必要な筈のチェックを入れることができなかった。それは一枚、極めておかしなものがあるためだ。チェックをする立場のものが、間違いなくその異変に気付いてしまう程に、異常なものがあるためだ。

 

「……なん、だよ、これ……」

 

 医学に関してはド素人の、エリックでも分かる。明らかに、おかしな数値の者がいた。

 その数値が示すのは――妙に高低差のある身体能力と、体内精霊が活発に動いているのだとしても異常に高い血中魔力、その魔力の質も通常では考えられないような、混沌としたものであるということ。そして何より、この数値は明らかにその者の種族では“ありえない”値であるということ。

 

「体内精霊は、“入れ物”の身体を作り変えることができるんです……ですが、それは純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)に対してはほとんど通用しません。あの、見た目ではほとんど違和感のない容姿。外部から何かしらの働きかけがあるのは間違いないでしょうが、“入れ物”は純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)でしょうね」

 

「……ッ」

 

 そう、見た目はほとんど違和感が無い。確かに、種族を考えれば少々非力であるし、牙は平均と比べるとかなり短い。それにやけに色は白いが――それでも、“彼女”の見た目は完全に純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)だ。今まではそこに、何の疑いも無かった。

 

「アイ、ツは……マルーシャ、は……スウェーラルで一度、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)の姿に、なったんだ……」

 

 声が震える。誤魔化すことができなかった数字の羅列が記された紙は、エリックの手を離れて床に落ちていた。

 

「ゆるいウェーブのかかった白銀の髪に、青い……ディアナのような、青い、瞳だった……色白の肌に、尖った耳……」

 

「……。典型的な聖者一族の容姿ですね」

 

「何となく……何となく、なんだが、アイツ……よく見ると普段からそんな感じだったんだが、容姿が似てしまうと、なおさら……」

 

 そんなつもりは無かった。ただ、仲の良い二人を見て、抱いていた感情だった。双方の持つ感情が明らかに恋愛感情ではなかったために安心して見ていたのだが、彼女らの姿は、親友というよりは、まるで――。

 

 

「マルーシャは……アルの、妹みたいだなって、そう……思ってた……」

 

 

 三枚のカルテを見せられたエリックが、最も目を背けたかった数値。それは、『魔力周波』と呼ばれるものだった。

 魔力周波は厳密には体内精霊が放つ信号のようなものを示す値だが、そこまで詳しく知らない者でも、この値が持つ意味は知っている。

 この値は、その人物を構成する魔力の流れや質、属性などを総合的に統計して出される数値である。そして魔力周波を構成する要素は全て、親から遺伝する。

 つまり、比較対象となる双方に血の繋がりがあれば数値は何かしらの共通点を持ち、自分と近い限りなく近い親族であれば、ほぼ一致したものとなるのだ。遠縁とはいえ、エリックとマルーシャは親戚関係に当たる。つまり、双方の数値には何かしらの共通点があるはず。

 

 

 そう――フェルリオ皇子アルディスとラドクリフ貴族である“はず”のマルーシャの数値がほぼ一致するなどという自体は、通常ならばまずありえないことなのだ。

 

 

「申し訳ありません、ですが、これこそ最もお前に話さなければならない真実だと、僕は考えていました」

 

 床に座り込んでしまったエリックと目を合わせ、ジャンクは散らばったカルテには目も留めずに話し始めた。

 

 

「マルーシャは、マルーシャです。アルカ姫とは、違うのです」

 

 

――意味が、分からなかった。

 

 

「ど、どうい……う……」

 

「僕は、体内精霊が既にいる“入れ物”に別の体内精霊が入ってきた場合、通常は元いる体内精霊が後から来た体内精霊よりも優位に立つと……そう、言いましたね」

 

 これは、ヴァイスハイトや純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)の能力を奪い取った時の話だ。身体の外に放り出された体内精霊はそれだけで弱ってしまうから、咄嗟に入り込んだ別の器の中に既に住んでいた精霊より弱い立場に立つ、と――たしか、そういう話だったと思う。

 

「待ってくれ。その前提だと、さ……元々いた体内精霊よりも、後から入ってきた体内精霊の方が強くて、さらに上手く共存できなかった場合って……まさか……」

 

 現在、エリックの体内には複数の下位精霊が存在しているが、彼らは本来の身体の持ち主であるエリックに遠慮しているのか、意思表示こそするもののエリックに害を加えることはほとんどない。

 しかし、エリックは一度体験している。自分自身の意思ではどうにもならなかった、完全に身体の自由を奪われた状態を。だからこそ、ジャンクの告げる答えにも察しがついていた。

 

 

「その場合は――」

 

 

……その答えが、いかに残酷であるかということにも。

 

 

 

 

「……っ、う……っ」

 

 宿屋から遠く離れた森の中。しゃがみ込み、震える少女の姿がそこにはあった。

 

(嘘……嘘、だ……)

 

 カタカタと震える少女の唇は真っ青だった。白い頬を、冷や汗が流れていく。

 

――盗み聞きなんて、するんじゃなかった。

 

 ある部屋から、ポプリとアルディスが順番に出て行く姿を見た。アルディスに至っては、あまり良い顔色をしていなかった。だから、気になってしまったのだ。

 こっそりと、ドアに耳を当てる。最初の頃は、何を言っているのか分からなかった。しかし、よくよく聞いていると分かる。それは、自分の話である、と。

 

『アイ、ツは……マルーシャ、は……スウェーラルで一度、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)の姿に、なったんだ……』

 

『ゆるいウェーブのかかった白銀の髪に、青い……ディアナのような、青い、瞳だった……色白の肌に、尖った耳……』

 

『……。典型的な聖者一族の容姿ですね』

 

 自分の話を、自分の知らない場所でされるというのはあまり良い気分ではない。帰ろうと思ったが、エリックがジャンクに語っているのは、自分自身も気になっていたスウェーラルでの変化のことだった。もう少し聞いて帰ろう。そう思ったのが、間違いだった。

 

『何となく……何となく、なんだが、アイツ……よく見ると普段からそんな感じだったんだが、容姿が似てしまうと、なおさら……』

 

『マルーシャは……アルの、妹みたいだなって、そう……思ってた……』

 

 

――その時、自分の中で、何かが動いた気がした。

 

 

『僕は、体内精霊が既にいる“入れ物”に別の体内精霊が入ってきた場合、通常は元いる体内精霊が後から来た体内精霊よりも優位に立つと……そう、言いましたね』

 

『待ってくれ。その前提だと、さ……元々いた体内精霊よりも、後から入ってきた体内精霊の方が強くて、さらに上手く共存できなかった場合って……まさか……』

 

 二人の話は、難しくてよく分からなかった。しかし、自分の中で動いた“何か”によって、感覚的に理解できてしまった。

 

 

『その場合は、後から来た体内精霊が全てを奪い取ります。発動する特殊能力の種類も、肉体の制御権も……何から、何まで』

 

 

 その言葉を聞いた途端、マルーシャは音もなく駆け、宿屋の外へと飛び出していた。

 

 嗚呼、嗚呼……気付かなければ、良かったのだろう。だが、もう遅いのだ。“彼女”の存在に、気付いてしまった。眠っていた“彼女”が、目を覚ましてしまった。

 

 

「わ、わ、わた……し……わたし、は……」

 

『かえして』

 

「わたし……ッ!!」

 

『返して、返してよ、ねえ。全部、私のものなの。ねえ……』

 

 頭の中で、響き渡る声。

 今まで、その存在に気付かなかったのはきっと、自分が無知であったから。無知であるが故に、その存在に気付かぬまま、封じ込めていられたのであろう。

 

『あんたが全部取った! 私の人生も、私の家族も……お兄様も!!』

 

 しかし、マルーシャは気付いてしまった。気付いてしまった、知ってしまったものを、知らなかったことにはできない。そして、再び“彼女”を封じ込める術を、マルーシャは知らなかった。

 

 

『返してよ! 私の身体!! 返せ! 私の身体を返せえぇぇ――!!』

 

 

 耳を押さえようとも、止むことなく聞こえ続ける声。

 この身体の、“本当の持ち主”の声。

 

 

「……ねえ、待って……じゃ、じゃあ……わ、たしの……身体、は……?」

 

 気付いていた。しかし、認めたくなかった。

 恐怖のあまり、涙が止まらない。エリックの右手にあるものと同じ紋章が刻まれた胸元を押さえる。その少し下に、人間の肌ではない“硬い物”があった。

 

(違う、違うの……! だって、これは……!!)

 

 十年前の事故。その際に、マルーシャは命を脅かされる程の重症となったそうだ。幸いにも傷は無かったが、そのままでは死んでしまう、と。

 だから、治療のために身体に埋め込んだのだと母からは説明されていた。汚い物ではないし、アクセサリーとしても通用しそうなものであったが、何となくマルーシャはそれを見せるのを拒み、いつも胸元が隠れる服を好んで着ていた。

 

 

――それは、淡い黄緑色の、魔鉱石だった。

 

 

『そんなもの、あるわけないじゃん。あんたはもはや、ただの石なのよ』

 

「ぁ……」

 

 

 これ以上、聞きたくない。

 

 

『イチハだっけ? あの鳥もあんたと一緒。元々はただの石。厳密には、適当に殺した子どもか何かから奪った体内精霊を封じ込めた石ね』

 

「ッ、ぁ……いや……いや……」

 

 

 お願い……もう、何も言わないで……。

 

 

『あんたはもうこの世にいないの。死んでるの。分かった?』

 

 

 お願い、許して……。

 

 

『だからさっさと消えて。何も残さずに消えてよ! 私に身体を返しなさいよ!! ほら! ほら!!』

 

「い……っ、いや……っ、信じたくない……ッ! いやぁあああぁぁッ!!」

 

 

 彼女はもう、何も知らなかった頃には、戻れない。

 少女は絶望の涙を流し、叫ぶ。彼女に手を差し伸べる者は、誰もいなかった……。

 

 

 

―――― To be continued.




 
マルーシャを追い詰めるシンシアさん。
容姿はこんな感じ。完全に闇堕ちマルーシャですね!

【挿絵表示】


(絵:長次郎様)


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Tune.48.5

 

「……」

 

 重い足取りで宿屋まで帰り、ドアノブに手を掛ける。

 

 

ーーあれから、どれくらいの時間が経ったんだろう?

 

 

『ふーん、結構図太いのねぇ……まあ良いわ、これからはいつも“一緒”だものねぇ……?』

 

 アルカ姫こと、シンシアの嘲笑は未だに続いている。

 不幸中の幸いだったのは、彼女の声は自分にしか聴こえないことと、自分の方は口に出さずとも、強く思いさえすればシンシアに言葉が伝わるということだ。

 

(でも、イチハのことを考えたら、アルディスとジャンには……)

 

 シンシアと同じ状態となっているイチハの声は、精霊契約者や精霊の使徒(エレミヤ)には届いていた。

 それを考えると、シンシアが喋るたびに彼らには聞こえてしまうのでは?

 

「……ッ」

 

 ふたりの、反応が怖いーーシンシアは、怯えるわたしに腹が立ったんだと思う。彼女は苛立ちを隠せないようすで、早口でまくし立てた。

 

『大丈夫よ、私、外部から分からないようになっているもの。だからあの医者は私の存在に気付かない。これから先も気付けないと思うわ。その方が、面白いからってヴァロンの奴……悪趣味よねぇ、それさえなければ、お兄様にはさっさと気付いてもらえたのに!』

 

(ジャン、アルディス……)

 

『お兄様は私をいつも守ってくれたのに! なのにお兄様は私を助けてくれない! あんたが邪魔だから!! あんたのせいで、お兄様は私に気付いてくれないの!!』

 

 激情するシンシアの声を聞きながら、マルーシャはドアを開けた。部屋の中には、不思議そうにこちらを見つめるディアナの姿があった。

 

「どうした? マルーシャ。部屋の外でじっとしたりなんかして……それにあなた、今まで一体どこに……?」

 

 嗚呼、良かった。

 泣いたことには、気付かれなかったみたい。目の腫れが引くまで帰らなくて、良かった。

 

「えへへ、ちょっと疲れちゃったのかな? 立ちくらみが……」

 

「なっ!? 笑ってる場合か!? 早く寝ろ!!」

 

 同室になった相手が、ディアナで良かった。

 ディアナなら、きっとシンシアも大丈夫ーーそう思っていた。

 

 

『あんたも腹立つけど、私はそいつも嫌い。私のお兄様に、手を出すなんて……』

 

 

「え……?」

 

 シンシアがディアナに向ける感情は、憎悪。

 

「マルーシャ?」

 

 思わず、声を出してしまったから。ディアナは、私の顔を覗き込んでくる。心の底から私のことを心配してくれている。

 

 

ーーそうだ、皆に心配を掛けるわけにはいかないんだ。

 

 

『ふうん、あんた、私がいても気にしないことにするワケね。本当、図太い女……まあ良いわ、いつまでその痩せ我慢が続くか、見ててあげる』

 

(わたしは皆を心配させたくないの。ただ、それだけで……)

 

『知らないわよ、そんなこと。私は諦めないわ。絶対に、取り返してやるんだから……』

 

 シンシアの言うことは、正しい。わたしが、彼女の身体を奪っている事実は変わらない。返すべきなんだとは思う。けれどそれは、つまり……。

 

 

ーーどうするべきなのか、まるで分からなかった。

 

 

「マルーシャ? おい! マルーシャ!!」

 

 そうしている間にも、ディアナがわたしを心配して声を荒げている。

 

 駄目だ、“わたしらしく”しなきゃ。そうだ、悩んでちゃ駄目なんだ。わたしは、わたしでいなきゃ……。

 

 

「ご、ごめんね? ちょっと考えごとしてたんだぁ……」

 

「なあ、本当に大丈夫なのか?」

 

 大丈夫。わたしが黙っとけば、誰も気付かないんだ。

 皆大変なんだから。自分のことは、自分で解決すべきなんだ。

 

「疲れてるだけ。大丈夫だよ」

 

「それなら、良いんだが……」

 

 大丈夫、大丈夫。

 

 言い聞かせるように、わたしはその言葉を心の中で響かせ続けた。シンシアの嘲笑が、止まらなかった……それでも、

 

 

「だから、エリックには……皆には、言わないでね。大丈夫。明日には、元気になってるから!」

 

 

ーー大丈夫(たすけて)

 



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【コラム】エリックの手記

 
 コラムはコラムですが、エリック視点になった変なコラムです。メンタル未曽有の大事故モードな仲間達について、某所では「カウンセラー」と名高いエリック王子がまとめてみたようです。


 

 深夜――あまりにも衝撃的な話ばかりを聞いてしまい、眠気が来ない。

 

「……」

 

 僕はなるべく音を立てないように気を付けつつベッドから身体を起こし、ベッド横のチェストの上に置かれたランタンに火を灯した。周囲を、暖かな橙が照らしている。

 

 ジャンは多分、寝ていると思う。アイツの近くでもランタンが光っているせいで、よく分からない。さっき知ったんだが、ジャンは暗閉所恐怖症だった。彼の兄の噂を聞いていたから、それとなく質問してみて良かったと思った。ここは消して広くはない室内だし、灯りを消してしまえば真っ暗だ。この条件が揃うと、ジャンは「寝ない」という選択肢を選んでしまうらしい。

 話を聞いて、迷わず僕は言っていた。「ランタン点けて寝ろ」と……。

 

 

「……はあ」

 

 思わず額に手を当て、僕は深くため息を吐き出した――それと同時に、眠れない今こそやるべきことを思いついた。

 

 僕は静かにベッドから降り、鞄を探る。取り出したのは、藍色に金の装飾の入ったノートとペンだ。アルの真似をして日記でも書こうと思って持ってきたんだが、色々ありすぎてすっかり忘れていたんだ。三日坊主どころか、一日も書いていないまっさらなノートだ。

 

 このノートの使用法が、漸く思いついた。僕はベッドに戻り、ノートを開く。そして、その罫線のみが引かれたページに文字を走らせ始めた……とりあえず、アイツらについてまとめておこうかな、と……。

 

 

―――――

 

 

● アル

 

 名乗っていた名前は『アルディス=クロード』だったんだが、本名は『アルディス=ノア=フェルリオ』だった。(僕が勝手に苦手意識を抱いていたノア皇子、だったわけだ)

 余計な先入観が入りすぎていたのは認めるが、僕の中でノア皇子っていうのはもっとこう、嫌味で、人間味のない感じだったんだ。だからこそ、むしろ人間臭いアルと結びつかなかったのかなー、と……まあ、一番の要因は間違いなく僕の現実逃避にあったわけだが。

 自分を棚に上げるつもりはないんだが、僕に負けじとコイツも大概に現実逃避癖があるし、特に切羽詰った時の行動が極端過ぎる傾向があるんだよな。

 思考の極端さは八年前の騒動の時点で、大概に分かってたけれどな。腹刺して崖から飛び降りるわ、二階から飛び降りるわ、何故か街の地下にいるわ、本当どうしようかと思った……。

 ただ、さ……仕方ないんだろうな。コイツが自分のことを大事にできるワケが無かった。何故ならアルは、人工的に作られた存在だったから。

 

 後から分かったことも含めて、まとめてみる。

 ジャンは、僕らが“身体”と思っているものは“精霊の入れ物”って話してた。僕らの中には、精霊(体内精霊)が住み着いているんだって。そしてヴァイスハイトは、最初から入れ物を自分達が暮らしやすいように作成する……つまり、胎児の時点で作り替えが発生していると考えて良いと思う。

 そしてアルはフェルリオがラドクリフに勝つため、母体に下位精霊を流し込むっていうとんでもない手段で生みだされたヴァイスハイトだったんだ。ジャンと比べたら明らかに攻撃術に特化していることを考えたら、もしかしたらそういう下位精霊を選んで流し込んだのかもな。

 これ、本人が知らなければまだ救いがあったんだろうけど。大方、周りにそう言われてそだったんだろう。アルは、自分自身のことを酷く見下していた。そりゃそうだよな、自分は数ある“兵器”の中の一つな上に完全に望まれた姿ではなかった(アルは隻翼だし、血統をとにかく重視するフェルリオでは嫌われる暗舞(ピオナージ)との混血だ)上に、結局大戦じゃ上手く立ち回れなかった。しかもその後アイツに起こることを考えたら……平常心じゃ、いられなくなる……よな。

 僕も僕で、アルの件に関しては本当に反省してる。平常心を保てなかったのは、僕も同じだからな。(ただ、悪いがアルよりはいざって時に冷静だと思っているぞ!)

 間違いなく、僕自身もアルを追い込む要因になっていた。多分、そもそも親しくなってしまった時点で良くないことだった気がしているよ。けれど、親しかったからこそ、色々聞き出すことができたんだとは思っている。

 

 まず、第一にアイツは酷い葛藤と戦っていた。勝手に僕と自分を天秤に掛けて、自分が死ぬべきなんだとかとんでもないことを考えていたくせに、本心では生きることを望んでいた。死ぬべきなのに、生きたい――本当に、凄まじい葛藤だと思う。

 しかも、虚無の呪縛(ヴォイドスペル)によってなおさら「生きたい」って考えられなくなっていたんだと思う。(叶わない、と分かっていることを願うなんて、そんなの悲しすぎるだろう)

 アルができなかったのは、存在証明。アイツは国民に愛されていたし、何より僕らならアイツが必要だと迷わず主張できた。存在証明が可能なだけの材料は揃っていた筈なのに、その材料に気付けない程、アイツは追い込まれていた。生きる価値のない“兵器”だって思っていた。(“人間”だって言いたいけど、言えなかったんだろうな。辛いな)

 抱えているものが、大きすぎたんだろう。だからアイツは、笑えなくなってしまったんだろう……これからも時々、気にかけておこうかな、とは思う。(恐ろしいことがいくつか判明したしな)

 

 

● ジャン

 

 本名は『クリフォード=ジェラルディーン』らしいが、ものすごく名字呼び嫌がるから名字では呼ばないことにする。ただ名前は呼んでも良さそう……というかむしろ錯乱した時なんかは特に名前呼びの方が反応良いようだから、本人の希望聞いて考えようと思う。(ていうか何で“ジャンク”なんて名乗った!?)

 

 名字を知って判明したがジャンと、それから黒衣の龍のダークネスことダリウスは僕の又従兄弟に当たる関係だ。(祖父の代が兄弟な)

 アイツら侯爵家出身だった。母親の遺伝子が強過ぎたのは分かるが、全然ラドクリフ王家の要素(金髪赤目)引いてないから気付かなかった。世間狭いなって思う。

 ただ、ジャンが名字呼び嫌がる理由はジェラルディーン家が“元”侯爵家だってことにある。当主であり、ジャンとダリウスの父であるディヴィッド=ジェラルディーンが何故か突然酒に溺れてそのまま落ちぶれた……っていうのが僕の事前知識。

 そして知ってしまった真実が『愛した妻の死を乗り越えられなかった上、その妻の命と引き換えに生まれた次男を上手く愛せない自分を悔いて酒に溺れた挙句、最終的に自害』とかいう後味の悪すぎるものだった。

 ジャンは自分のせいで家が崩壊したって思ってるから名字で呼ばれるのが嫌なんだろうな。あとコイツ、父親から酷く虐待されていたようで、父親の面影……金髪に赤い目の男性が怖くて仕方がないらしい。(呼吸乱しながら発狂された時は正直凹んだ)

 

 そしてどうも最後まで父親の虐待ってわけじゃなく、途中で研究施設に放り込まれてるんだ。具体的な話は聞いていないし、聞き出す気もないがどうやらそこでヴァロンが酷くジャンを痛め付けたらしい。

 言い方は悪いが、ジャンはヴァロンとの再会以降、明らかに精神的に参ってしまっているし、目覚めるなりいきなり発作みたいなの起こしてたから、よっぽどなんだと思う。(そういや眼鏡どこで落としてきたんだろう?)

 

 アルと似てるんだけど、変なとこ真逆。多分ジャンは『死にたい』ってのが大前提としてあって、その上で『生きなければ』ってなってるから変になってるんだと思う。コイツもう色々背負い込みすぎててどうしようかと思った。そりゃ精神的に脆くもなるよな。

 精神的な要因っていう話だし、発作っぽいの起こした時は僕みたいに薬でどうこうするんじゃなくって、何よりもまず安心させてやる必要があるようだ。(正直ポプリにしかできないような気がするからポプリに全てを任せようと思う。僕じゃ絶対怯えさせて悪化させる)

 

 天然のヴァイスハイトで、間違いなく希少な聖獣ケルピウスへの獣化能力持ちってこともあって、施設から逃げ出した後もろくな目に合わなかったらしい。水に濡れたらヒレが出るし、隠れるだけでも苦労してそうだもんな。

 一旦マクスウェルに匿われちゃいるけど、その時点じゃ精神すり減らしすぎて愛情を感じるとかそれどころじゃ無かったんだろうな。結果的に人と上手く接することができなくなっているってのは分かった。ダリウスもだが、下位精霊とはすごく仲良くしてるのにな……とりあえず、こいつも放置したら怖い奴だ。

 

 

● ポプリ

 

 本名は『ポプリ=クロード』らしい。こいつも偽名かよって言いたくなったが、ポプリの場合は孤児院にいた時期があるし、クロードは“旧姓”っていうのが正しいのかもしれない。(ただ、追い出されたとか言うし、どうもその孤児院時代が闇っぽいなぁ……)

 アルとは義弟の関係で、アルが“ノア皇子”ってのを隠すためにクロード家が引き取って育ててたらしい。まあ、実際にアイツら遠縁とはいえ血縁関係あるっぽいけどな。

 驚くことに被害者の筈のアルが全く気にしていないんだが、アルの右目を斬り付けた張本人でもある。その結果、アルの力がポプリに流れ込んで、ポプリを強化する結果になったみたいだ。この辺は難しいなって思うんだが、また体内精霊関連の話だ。今回の場合、アルの身体から出てきた体内精霊がポプリに吸収されたってことらしい。

 

(正直分かりにくいから、考察)

 どう考えてもアルの体内精霊の方が素の状態なら強いと思うが、体内精霊が何の盾も無しに身体の外に出る=瀕死、みたいな法則が成り立つみたいなんだ。

 これは僕の想像なんだが、多分、体内精霊にとっての僕らの身体が『家』だとすれば、僕らの目は『玄関に繋がるリビング』的なものなんだと思う。そんな場所が破壊された時点で体内精霊的には大打撃だし、苦しい外に放りだされるし……ってことで、近くの別の『家』に避難しようとする、みたいなことなんだと思う。

 この考えで行くと、外に出てきた体内精霊は助けてもらった『家』の家主には遠慮するだろうし、そもそも弱ってるわけだし。通常『後から入ってきた精霊がその身体を乗っ取ることはない』って話はこういうことなんだろうって解釈している。

 

 よくよく考えたら、アルは自分に価値を見出してなかったし、目を取られようが関係なかったのかもしれないな。それ以上に、ポプリを傷付けたことを酷く悔いていたから。女の身体に、大きな火傷痕を残してしまったっていうだけで相当落ち込みそうだし。(大好きな姉だったんだから、なおさらな)

 ただ、ポプリはポプリで恨んでいて欲しかった思いと、許されたい思いの葛藤で苦しんでいるようだし、難しいな。(これに関してはポプリがどんなに苦しもうと、僕がそこに介入するつもりはない。するべきじゃないと、思っている)

 

 どう見てもジャンが好きみたいなんだが、告げる気は無さそうだ。多分、アルの件(アルはジャンと同じヴァイスハイトだ)が引っかかってるんだと思う。しかも、ジャンは恋愛とかそういうのに疎そうだし、何より母親の件でトラウマになっていてもおかしくないから、多分このまま告げずにいるんじゃないかな。(正直もう面倒だからさっさと結婚して幸せになれば良いのにって思う)

 ただ、ちょっとマズイことが分かった。ジャンの家庭――ジェラルディーン家を崩壊させたのは、ポプリの母親らしい。その母親を殺した人物がダリウスだが、どう考えてもダリウスの行為は仇討ちだ。なのに、ポプリにはそれを告げない。

 正直、嫌な予感しかしないし、目を背けてはならないなって、思っている。他の奴ら程の危うさは無いとはいえ、危険なことに変わりはないからな。

 

 

● ディアナ

 

 もう忌み子ダイアナ説が通説化しているな。さっきジャンから聞いたが、本名は『ダイアナ=セラフ=リヴァース』でほぼ間違いないだろう。できれば違っていて欲しいが。

 聖者一族は銀髪碧眼が普通っぽいんだが、たまに突然変異で藍色の髪を持った子が生まれるらしい。そして藍色の髪の子は世界に何らかの異変が起きる時に生まれる――よりによって、それがたまたま両国の関係悪化の時期に被ってしまったせいで愛されずに育ったのが、ダイアナだ。(藍色の髪珍しいなって思ってたら突然変異だった)

 

 男装娘でした。見た目が明らか女の子だから、それが変に作用して騙されたなって。(温泉の件は本当に申し訳なかったと思ってる。そりゃ男に胸見られたくないよなごめん)

 アルはラドクリフで盗賊に襲われた時(あれだけ力強く抱きしめたら男女の違いくらい分かるよな)、ジャンは最初から気付いてたみたいだけど、色々気にして黙ってたみたいだ。

 というより、多分アルもジャンに止められてるな。ディアナを支えてるものを奪うなって。それがアルを守ることなんだからって。

 これ、うっかり僕がアル殺してたら、多分ディアナ死んだんだろうなって(少なくとも心は確実に死んだ)思うと、そういう意味でも本当にアルが生きててくれて良かったなって(二度目の自殺未遂が無いことを祈らずにはいられない。僕も変になりそうだ)

 

 ただ、その『支え』を生み出した奴らはただ単にディアナ虐めたかっただけみたいだっていうのを考えたら本当に腹が立つ。ディアナ、間違いなくアイツらに髪の毛散切りにされてるし。(じゃなきゃハサミであんなに泣き叫ばないだろうし、そもそもジャンに確認してみたらもう否定のしようがない。しかも多分首の後ろのもだろ。本当腹立つな)

 

 結局アイツ、記憶があろうがなかろうが同じような目に合わされてるんだって考えたら正直泣きたくなる。そうじゃなきゃ「優しい家族の記憶が欲しい」なんて願わないだろう。神様を信じないどころか「いるか馬鹿」って言いたくなる勢いだ。ディアナに言ったら怒られるんだろうけど。下手すりゃアルにも怒られるんだろうけど。

 

 そんなダイアナ(ディアナ)を救えるかも知れない存在がアルだ。当時、アルだけがダイアナの味方で、片耳のピアスを送られた記憶はきっとダイアナにとって唯一の救いだったんだから。だからこそディアナは、その記憶すら無いのにピアスを大切にしていたわけで。(そう考えると本当にダイアナ説否定できないし、あの女達は苦しめば良いのにって思う)

 いざ、ディアナの記憶が戻った時。どうするべきか。

 しっかりと、考えておかなければって、思う。

 

 

● マルーシャ

 

 僕はどうしたら良いんだ。

 

 ジャンは最後の最後までこの話を取っておいたから、僕の態度次第では話さなかったんだろうけれど。話してくれて良かった、とは思っている。

 

 マルーシャは、肉体だけみればアルの妹『シンシア=アルカ=フェルリオ』だった。二重だったり、タレ目だったり、色白だったりするから雰囲気似てるなぁって思ってはいたが、まさかこんなこと想像できるはずも無かった。(スウェーラルでマルーシャの姿変わったときは流石に「そっくりだ」って思ったけどな)

 

 何で『マルーシャ』が存在しているかというと、何らかの手段で強い力を持った精霊をシンシアの中に埋め込んで、シンシアの意思を乗っ取っているから……らしい。意思を乗っ取るどころか、身体の大半も持っていく(見た目を変化させる)くらいだから、相当強い精霊なのは確かだ。

 人為的な力が働いているし、恐らく『マルーシャ』の元になった精霊自体も普通じゃないことが考えられる(間違いなくヴァロン関わってるしな)から、アルの力を奪ったポプリみたいに、平和な感じにはならなかったってことだな。

 

 思えば時々、マルーシャが何か考え込んでたような気がする。アイツもアイツで、きっと自分自身の違和感に気付いていたんじゃないだろうか。だからといって、今ここで僕にできることは無いし、この真実は今のマルーシャにはあまりにも重い。

 

――絶対に、気付かせてはいけない。

 

 その前に何か、何かアイツを救う手段を探さなければ。

 

 

―――――

 

 

「……」

 

 考えることが多すぎて、もう何を書いて良いやら分からなくなってきた。特にマルーシャに関しては、頭と心の整理が追いつかない。

 

 一番辛いのは間違いなくマルーシャの筈なのに、僕自身も頭が痛くなってきた。

 

「別に……」

 

 あの愛らしい容姿がマルーシャ自身であろうが、なかろうが。そんなことは、どうでも良かった。

 見た目なんてどうでも良い。マルーシャがマルーシャでいてくれるなら、僕はそれだけで良かった。

 

 

――好きなんだろうな、と、思う。

 

 

 見た目などではなく、彼女の清らかな心が。

 沈んでいた僕を救ってくれたのは、彼女の優しさだったから。

 

 マルーシャを傷付けたくない。泣いて欲しくない。悲しんで欲しくない。笑っていて、欲しい。あまり認めたくはないが、僕はアイツの笑顔が何より大好きなんだと、思う。

 

 第一この件、アルをまた追い詰めるだけの破壊力がある。マルーシャだけじゃない、アルにも大いに関係のある『爆弾』のような事実だ。

 

 不幸中の幸いだったのは、この事実に気付いたのが僕だけでは無かったことだろう。本当にどうしようもない場面になって、この事実が判明するような事態が発生しなかったことだろう。それだけが、救いだった。まだ、考えるだけの猶予がある。

 

「……」

 

 僕はノートを閉じ、深くため息を吐いた。

 

 きっと、きっと何もかもが上手くいく――そう、願うことしか。それだけしか、今の僕にはできなかった。

 



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Tune.49 共に戦う

 

「じゃあ、俺はこれで行かせてもらおうかな……?」

 

 エリックの目の前で、アルディスが薙刀を剣へと変える。その様を、エリックは静かに見つめていた。

 風が吹き、アルディスの白銀の髪が後ろに流される。閉ざされていた彼の左目が、静かに開いた。

 

「いつでも良いよ。かかっておいで、エリック!」

 

 剣を構え、彼は強気な笑みを浮かべた。戦闘に関して言えば、やはりアルディスが誰よりも秀でている。何故なら彼は、戦の秀才フェルリオの第一皇子なのだから。

 思わず、その堂々たる姿に怯みそうになってしまった。エリックは己の頬を軽く叩き、レーツェルを剣に変え、構える。

 

「ああ、よろしく頼む……行くぞ、アル!」

 

 

――きっかけは、エリックがジャンクに対して投げかけた言葉だった。

 

 

「ジャン、精霊の扱い方を教えて欲しいんだが……」

 

 自身の中で、好き勝手に遊び回る下位精霊達。可愛らしいなとは思うのだが、このままでは少々困ってしまう。気が散ってしまうし、何より彼らは、その気になればエリックの身体を乗っ取ることができてしまうのだ。

 エリックは彼らに感謝されているようであるし、悪いことはしないと思うのだがそういう問題ではない。そんなわけで、精霊関連に詳しいジャンクに相談してみたのだ――だが、

 

「その、お前の場合……前例が無いので、ちょっと分かりません……しかも僕は精霊に好かれるだけなので、扱い方なんて知りません……」

 

「……!?」

 

 心底困った様子で、非常に言いづらそうに返された言葉は、どうしようもなく答えとは程遠いものであったのだ。「どうしよう」とでも言いたげなジャンクに返す言葉が見つからず、エリックが頭を悩ませていたそんな時。やってきたのがアルディスだった。

 

「ジャンさんはマクスウェルに力を与えられてただけだから、使役能力は持ってないらしいんだ。絶対才能はあるんだろうけど、そういう訓練はしてないんだって」

 

「……そういうことです」

 

 なるほど、こればかりはどうしようも無いのかもしれないとエリックは苦笑する。しかし、ジャンクはアルディスの登場で思いついたものがあったらしい。彼はおもむろに、エリックの首から下げられたレーツェルを指差した。

 

無限の軌跡(フリュードキャリバー)を、完璧に使いこなせるようになってみてくれませんか?」

 

「え?」

 

「多分、エリックの奴はアルとは少し違うと思うんです。お前達が知って使ってるのかどうかは知りませんが、宝剣は精霊と密接な関係を持つものなんです。だから、あれが使いこなせれば、何かしら対処できるかもしれません」

 

 無限の軌跡(フリュードキャリバー)。そういえばあれ以来、宝剣に触れていなかったなと思いつつエリックは、そのままアルディスへと視線を向ける。

 

「精霊との関係……知ってた? エリック?」

 

「いや、全く……」

 

「うん、俺も教えてもらいたいな。精霊が関係してるなら、俺はこれ以上使いこなせない可能性が高いけれど、君はきっと、さらに力を引き出せると思う」

 

 ジャンクの言う、“精霊との関係”についてはよく分からないが、アルディスは乗り気のようだ。彼が「使いこなせない」というのは恐らく大精霊ノームが言っていた「致命的に才能がない」に近い意味合いだろう。恐らくアルディスは、契約者ではあったものの、本来精霊との相性があまり良くないのだ。

 

「どのみち、アレについては詳しく聞きたかったんだ。よろしく頼む」

 

 

……という流れが、何故か宝剣を用いた実戦訓練になってしまい、今に至る。

 

 

「おい、た、頼むから……無理は、しないでくれよ……!!」

 

 不安げにこちらを見つめるのはディアナだ。フェルリオ城での一件を引きずっているのだろうが、今回はただの訓練である。分かってくれ、と彼女を説得したのはついさっきの話だ――それでも不安で不安で仕方が無かったらしく、彼女はブリランテの村から少し離れた空き地にまでしっかりと着いてきたのだが。

 

「最悪、今回は僕がいます。僕が獣化すれば、何とでもなります」

 

「先生! そういうのは自分の腕治してから言って欲しいんだけど……!」

 

「はは、僕の力の源は“自己犠牲”なんです。昨日も話しましたが、僕自身の傷は自力では治せないのです。ですが、大丈夫ですよ。ちゃんと治りますから」

 

 信用して良いのか悩むジャンクの言葉に、見事に彼に対して過保護になってしまっているポプリは頭を抱えている。だが、どうこう言ったところで彼の反応は変わらないと考えたのだろう。ポプリはディアナを手招きし、小さな声で彼女に問いかけた。

 

 

「ねえ、ディアナ君……マルーシャちゃんは?」

 

 それは、これから刃を交えるエリックとアルディスを思いやってのことなのだろう。ポプリの言葉に、ディアナは大きな青い瞳を微かに細めた。

 

「休ませて欲しいって……その、疲れてるだけだとは思う……だが……」

 

「……。違和感が、あったのね」

 

 ポプリの言葉に、ディアナは静かに頷く。そんな彼女の頭を軽く撫で、ポプリはやんわりと微笑んだ。

 

「あたしは宿屋に戻るわ。ひとりにしといた方が良いとは思うんだけど、近くに一人くらいいた方が良いわ」

 

「そ、それならオレが……!」

 

「あたしが行くわ。救済系能力者はここにいるべきよ。だから、後で色々教えて?」

 

 救済系能力者はここにいるべき。その言葉に、ディアナは頷くことしかできなかった。ポプリは踵を返し、宿屋へと戻っていく。彼女の姿を見たエリックとアルディスは、構えていた剣を下ろし、不思議そうに口を開いた。

 

「マルーシャのこと、か?」

 

「来ないなんて珍しいもんね。大丈夫かな……」

 

 ポプリの気遣いが意味を成していない。そういえば、彼らはマルーシャの幼馴染みなのだ。ディアナが気付ける違和感に、彼らが気付かない筈がないのだ――それでも。

 

「だからポプリが行ったんだ。あなた達は気にせずに訓練してくれ。何かあればポプリが言いに来るだろうし、何よりマルーシャが『自分のせいで訓練ができなかった』などと考えかねん。オレが思うに、彼女はそういうのを誰より気にする人ではないか?」

 

 ディアナは、エリックとアルディスに訓練を行うようにと促した。そうするべきだと、彼女は考えたのだ。

 

「……それもそうだね、マルーシャ、変に気を遣うとこあるから」

 

「僕らの件でも多分気遣ったんだろうなって時が結構あったしな……うーん、たまには、ひとりにしてやった方が良いんだろうなぁ……」

 

 納得はしているようだが、気にはなる、といった様子だろうか。特にエリックは「見に行きたい」という感情が強そうである。しかし、その思いを実現させる気は無かったようだ。

 

「さっさと取得してさっさと帰れば問題ない!」

 

「……簡単に言わないで欲しい」

 

「やってみないと分からないだろ? どっちにしろ、今は僕らがアイツの傍にいかない方がいい気がするんだ」

 

「それに関しては、同感」

 

 じゃあ今度こそやろうか、とアルディスが微笑む。それにエリックが頷いた後、両者ともに力強く地を蹴って駆け出した。

 

 

「エリック! 剣のまま戦うつもりかい? それじゃ意味ないよ!」

 

「そうは言っても……!」

 

 アルディスが一気に間合いを狭めてくる。間合いを狭めた状態での戦闘を得意とするのはエリックも同じだが、彼のそれはエリック以上に狭い。至近距離から攻撃を繰り出すことで、確実に相手に一撃を与えるような戦い方だ。

 近寄られ過ぎてしまえば、反撃の隙も与えられず、一方的に攻撃されてしまう。それは、エリックも何となく理解していた。

 エリックの宝剣が変化した姿は弓だ。変化の仕方はよく分からない上にアルディスの素早さに翻弄され、変化させることに意識が向かない。

 

「……ッ!」

 

 エリックは後ろに飛び、アルディスから距離を取る。この動作を取るのは何度目だろうか。いい加減に仕掛けてみようと思ったのだろう。対するアルディスは両足に力を込め、勢いよく宙に飛び上がった。

 

「――鳳凰天駆(ほうおうてんく)!」

 

 アルディスはその身に赤く燃え上がるような闘気を纏い、こちらに向かって急降下してきた! 今なら、避けることも可能だ。だがエリックはあえてその場に踏みとどまり、剣と短剣を正面に構え、防御体制を取った。

 

「ッ、これくらい……!」

 

 刃そのものはこちらも刃で受けているものの、重力に身を任せ、さらに精霊と関係があるという宝剣の力なのか腕力の増した彼の一撃は、重い。彼が纏う気に触れただけで、ぴりぴりと痺れるような痛みが走る。エリックは奥歯を噛み締めつつ両膝に力を込め、剣を勢いよく縦に凪いだ。

 

「……っ!」

 

 闘気を弾かれ、アルディスが怯む。その隙を見逃すことなくエリックは一度剣を後ろに引き、両手で構えなおすと共に勢いに任せ前に突き出した――その瞬間、エリックの顔から、表情が消えた。

 

蒼咆烈牙(そうほうれつが)

 

「ッ!? ぐ……っ!」

 

 アルディスを貫いたのは剣の切っ先ではなく、青く輝く光の刃。恐ろしい程に静かな声で技の名を口にしたエリックの瞳を見たアルディスの表情は、動揺を隠しきれてなどいなかった。

 

「っ、は……な、何……!?」

 

 思わず、といった様子だった。アルディスはエリックから距離を取り、一旦体制を立て直すつもりのようである。貫かれた場所が痛むようだが、彼は傷を押さえることなくそこに佇んでいる。エリックは、無表情で剣を手に立っていた。

 

 

「瞬きの時を刻みし、恩寵の雫をここに ――リンカーネーション!」

 

 ピリリとした空気が流れる場に、ジャンクの穏やかな声が響く。どこかで、水が跳ねる音がした。その音を聴き、エリックの顔に表情が戻る。

 

「ッ! ……ぼ、僕は……今……!?」

 

「え、まさか君! 今の無意識だったのか!?」

 

 ジャンクの術『リンカーネーション』は複数人に効果をもたらす簡易的な治癒術であったらしい。完全にとは言えないが、アルディスの負った傷が治っている。しかし、正気に戻ったエリックはゆるゆると首を横に振った。

 

「困った、な。こうも乗っ取られるとは、思わなかった……」

 

 怖い、と思った――何とかしてやり返さなければと思った途端に身体を乗っ取られてしまったのだ。エリック自身に危害を加えることはないだろうが、周りに危害を加える可能性は大いにある。エリックは力なく、剣の切っ先を下ろしてしまった。これでは、無限の軌跡(フリュードキャリバー)どころの話ではない。

 

「精霊の防衛本能が過剰に出てしまったようですね……ですがエリック、お前なら大丈夫ですよ」

 

 途方に暮れるエリックの耳に届いたのは、ジャンクの声。彼は軽く首を傾げ、エリックに微笑みかけた。

 

「お前は既に、精霊達と話ができるでしょう? しっかり耳を傾けてみてください」

 

「……分かった」

 

 他の手段は浮かばないし、ここでジャンクのアドバイスを受け入れない理由はない。エリックは頷き、自身の中に宿った精霊達へと意識を向ける。

 

 

『ごめんなさい……ちょっと、出過ぎてしまったようです。僕らは、あなたに恐怖を与えたかったわけでも、ましてやあの子を傷付けたかったわけではないのです。分かってください』

 

『次は、上手くやれるから。なるべく、頑張るから……だから、悪いんだけど、もうちょっと、訓練続けてくれないかな?』

 

 聴こえてきたのは、申し訳なさそうに謝る精霊達の声。彼らも、わざとでは無かったらしい。そしてどうやら、実戦訓練以外に改善策が無さそうだということも理解できた。

 

「練習あるのみってことだな……アル。致命傷は与えないと思うんだが、その……」

 

「分かったよ、俺も危なげなのは避けるように努力する」

 

「助かる。あと、お前も頼むから本気で来い。こっちだけガンガン押すのは、嫌だから」

 

 エリックの出した結論、それは『精霊が出過ぎないように、彼らに感覚を掴ませるためにしばらく実戦訓練を続ける』だった。元々、彼らは地下水脈でふよふよと漂う弱い存在でしかなかったのだ。いきなり戦いの場に放り込まれれば、混乱するのも当たり前なのである。まずは、慣れさせてやらないといけない。

 エリックの事情については、既に全員が理解している。だからこそアルディスは躊躇うことなく、二つ返事で了承してくれたのだ。それをありがたいと感じつつ、エリックは再び剣を構えた。

 

 

 

 

 アルディスはその身に半分流れる暗舞(ピオナージ)の血の影響か、かなり身のこなしが軽やかだ。舞うような、流れるような彼の動きに、エリックは少しずつ付いて行くことができるようになりつつあった。

 

「ふふ、初めてだよ! 訓練がこんなに楽しいと感じるのは!!」

 

 そう言って笑うアルディスの白い頬は切れ、赤い血を流している。それでも彼は、楽しげに笑みを浮かべていた。その瞳は、相変わらず強気だった。

 

「奇遇だな。僕もそう思っているよ」

 

 だが、エリックも負けていない。切れた口から流れる血を拭い、笑い返してみせる彼もアルディス同様に湧き上がるような高揚を感じていた。

 精霊達に乗っ取られ、暴走してしまうことも何度かあった。しかし、もう大丈夫そうだ。エリックの体内に宿った精霊達は、完全にエリックの動きに順応しつつあった。

 

『もう、大丈夫だよ! その剣を媒体に、私達に声をかけて!!』

 

『必要のない時は、あなたに話しかけないようにします。僕らが何も言わなくとも、きっとあなたは理解してくれるから』

 

『だから君は、もう私達のことを気にしなくて良い。その子と共に、戦い抜いて!』

 

 突如、エリックの体内に宿った精霊達。彼らがエリックを選んだのも、エリックが彼らに対し嫌悪感を抱かなかったのも、ちゃんと理由があった。偶然では、なかったのだろう。

 

(何となく、気付いてた……お前達は“フェルリオの英知”になれなかった存在なんだって。それなのに、アルを恨まないって……弟として、愛せるって……素直に凄いと思う)

 

 

――精霊達よ、どうか心配しないで欲しい。

 

 お前達の弟と並んでも恥ずかしくないように、僕は強くなるから。

 無残な実験の果てにあんな気味の悪い場所に棄てられたお前達の代わりに、僕が戦うから。

 もう二度と、戦のために消費される命なんて、生み出さないために――!

 

 

「さて……もう少し、付き合ってもらおうか!」

 

 叫び、エリックは駆ける。その叫びに応えるように、アルディスは強く地を蹴り、空中で身体を捻った。着地点は恐らく、エリックの真後ろ。気付いたエリックは左足に力を込め、勢いよく振り返った。

 

「やるね! ――浄蓮双華(じょうれんそうが)!」

 

 エリックの反応に、アルディスは口元に弧を描く。彼が持つ宝剣の切っ先が赤く瞬き、その刹那、高い場所から振りかぶられる宝剣そのものとは別に衝撃波がエリックに襲い掛かる!

 ただ単に受け止めるだけでは、面白くない。そう思ったエリックは短剣を持つ左手を前に突き出し、一旦右手を後ろに引いた。衝撃波が脇腹を切り裂いた痛みを感じつつ、アルディスの宝剣を短剣で受け止める。交差した刃が、甲高い音を鳴らした。

 

「――剛招来(ごうしょうらい)

 

 気を高め、宝剣そのものに集中する。柄を握り締める右手にぐっと力を込め、エリックはそれを一気に前に突き出した!

 

蒼咆烈牙(そうほうれつが)!」

 

 今度は、正気を失うことは無かった。放たれた光の刃は、アルディスの右足を切り裂き、彼の顔は痛みによって微かに歪められた。とん、と地面に降り立った彼は、そのまま後ろに飛んで距離を取った――かと思いきや、

 

飛燕連斬(ひえんれんざん)!」

 

 足を負傷したとは思えない身のこなしで、彼はエリックに向かって突っ込んできたのだ。刃は、しっかりとエリックの胴を捉え、斬り付けていく。アルディスの連撃は、ここで終わりではない!

 

「――神風閃(じんぷんせん)ッ!!」

 

「ッ、がっ、あ……っ!」

 

 至近距離からの連続斬り。こふ、と口から血が流れるのが分かる。傍に寄られてしまえば、危ないと分かっていたというのに。例え相手が警戒していようと、関係なしに自分の得意とする間合いに入り込んでしまうだけの実力者であるということだ。

 加えて、エリックの反応の良さに文字通り『楽しく』なってしまったのだろう。少しでも手を抜けば、殺されてしまいそうだ。顎を流れる血を拭うエリックの瞳は、爛々と輝いていた――それはお互い様だな、と内心笑みが溢れた。

 

「ははっ! まだまだだ!」

 

 剣も、短剣も。しっかりとエリックの手の内にある。この程度では、落とさない。すぐ傍にいるアルディス目掛け、エリックは身体を捻り、刃を振るった。

 

絶翔斬(ぜっしょうざん)! ――烈砕衝破(れっさいしょうは)ッ!!」

 

「! ぐあっ!!」

 

 飛び上がるとともにアルディスの身を斬りつけ、その勢いのまま彼を地面に叩き付ける。流石に堪えたのか、背を打ち付けた彼は苦痛に顔を歪めていた。それでも、エリックは彼に手を差し伸べない。彼はこの程度では、倒れない!

 

「お、おい……!!」

 

 思わず、といった様子でディアナが声を掛ける。先程から何度かあった出来事だが、その度にエリックもアルディスも「大丈夫だ」と言い、挙句治癒術の使用を拒んだ。ジャンクも、それに従っている。訓練が終わってから、傷を治せば良いと思ったのだ。今回も同様だったらしく、アルディスは大丈夫だと彼女に向かって左手を振った。

 違ったのはその後だ。彼はローブを脱ぎ捨てた。彼の左手の宝剣が、赤く輝いた。

 

「……」

 

 その輝きは、留まるところを知らなかった。そうしている間に、彼の背には深い朱色の左翼が現れる。彼の左腕が、少しずつその様を変えていく!

 

「な……っ!?」

 

「今の君なら、きっとできるよ。さあ、やってみせてよ!」

 

 血を流しながらも、不敵に笑う彼の左腕に、白く光る美しい紋様が浮かびあがっている。その紋章は彼の顔まで続いており、白い肌と髪に映える翡翠の瞳をより一層際立たせていた。

 異形とも言える姿。しかし、不思議と恐怖は感じなかった。そしてアルディスが言うように、自分にも『できる』と思えた。

 

(……いける)

 

 煩いほどに鳴り響く鼓動。それ以上に、こみ上げてくる熱い思い。エリックは青い輝きを放つ宝剣の刃を撫で、赤い瞳を僅かに伏せる。己の姿が、変化していくのが分かった。

 

 

「うん、流石……悔しいけれど、やっぱり俺とは違うなぁ」

 

 その様子を見たアルディスが、悔しげにため息を吐いた。自身で自身の姿を見ることは叶わないが、とりあえず『できた』ということだけは理解できた。

 

「ここまでできるなら、もう大丈夫なんじゃないですかね、ジャンさん?」

 

 アルディスが戦いを眺めていたジャンクに視線を向ける。ジャンクはエリックの変化に驚いていたようであったが、「そうですね」と呟き、笑ってみせた。

 

「エリック。それができるのならばもう大丈夫ですよ。精霊はお前を“器”と認め、力を貸してくれることでしょう」

 

 左手に握られた弓が、青白い輝きを放っている。勝手に形状が変わっていた。どうやら精霊達の力を借りる場合、自分にはこちらの方が合っているらしい。

 服で隠れてしまっているが、アルディスとは異なり、両腕に紋様が浮かびあがっているらしいことを感じる。それに、何となく安心してしまった。恐らく、剣を使っていたとしても精霊達は自分に応えてくれるだろうと思ったのだ。

 身体が熱い。それなのに、軽い。不思議な感覚だった。困惑するエリックに対し、ジャンクは穏やかな笑みを浮かべて語りかけてくる。

 

 

「エリックの場合は厳密には体内精霊ではないので、擬似的なものですが……これが自身の体内精霊と一体化し、“覚醒”した者が扱える能力のひとつ――『精霊同化(オーバーリミッツ)』です」

 

 

「……ッ!」

 

 覚醒。その言葉を聞き、エリックははっとして自身の背を見る。

 そこには、自分には永遠に手に入らないのではないかと思っていた、青白く輝く光の両翼があった。

 その両翼は、自分の意思で動かすことができた。コツがいるのではないかとは思うが、空を飛び回ることもできそうだ。自身の部屋で、いつも見上げていた遥か遠くにあった青空に、近付くことができそうだ。

 

 やっと、それができるようになったのだ。

 

 

「あ、あー……精霊同化(オーバーリミッツ)は長時間やってしまうと精神汚染されてしまうので、早々に解いてくださいね。アルもですよ、お前もできるなんて知りませんでしたよ……ほら、エリック、お前もだ。覚醒と精霊同化を同時に取得するなんて、どんな影響があるか分かりません。だから、早く」

 

 大丈夫、その翼はもういつでも出せますから。だから、大丈夫ですよ――そう言って笑うジャンクの穏やかな視線が何だか恥ずかしくて、エリックは精霊同化(オーバーリミッツ)を解くと同時に彼から顔を背けた。

 

「お前が覚醒できなかったのは、他者の悪意によるものです。本来お前は、間違いなく精霊に通ずる者だったということなのでしょう……そうでなければ、刺激があったとしてもここまではならなかっただろうし、その宝剣を扱うことさえできなかった筈です。誇りに思ってください、それがお前の才能なんです」

 

 ジャンクが言うには、宝剣ヴィーゲンリートとキルヒェンリートは精霊の力を凝縮して作られた、もはや精霊そのものに近い存在なのだという。そのため、宝剣は使い手に干渉し、手にすればその形状にあった形で使い手の体質が変わるのだそうだ。アルディスが剣を握っている時に力が強くなるのはそのためらしい。その代わり、剣を持っている時の彼は一切魔術が使えなくなるということだったが。

 そんな特殊な力を持つ剣であるが故に、宝剣は使い手を選ぶ。誰もがエリックとアルディスのように、この剣を使いこなせるわけではない。

 

「すごいな、オレにもできたら良いのに……」

 

「いや、ちょっと頑張れば君にもできますよ、ディアナ」

 

「え!?」

 

「むしろ、エリックにできたのが不思議なんです」

 

 自身の身体に宿った体内精霊の力を限界まで引き出し、一時的に体質を変えるという精霊同化(オーバーリミッツ)

 覚醒した者全てが使いこなせる能力というわけではないそうだが、ある程度鍛錬を重ね、努力を重ねさえすれば使えるようになるのだという。しかし、エリックの場合は例外だ。何しろ、力の根源は生まれつき存在する体内精霊ではなく、外から取り込んだ精霊なのだから。

 

無限の軌跡(フリュードキャリバー)が使えるようになれば、精霊達を制御できるようになるだろうと、そう思っていたんです。ですが、まさか精霊達と心を通わせ、覚醒、精霊同化(オーバーリミッツ)までしてくるとは思いませんでした……想像以上の結果です。もう何も、問題ありませんよ」

 

 

――嗚呼、話しかけない、と言ったくせに。

 

 

『僕達は、あなたを信じて、あなたと共に戦います。あなたの、本当の体内精霊が帰ってくるまでは、僕達があなたの体内精霊となり、あなたを守ります』

 

 これが最後ですから、と笑う精霊達。そんな精霊達に、仲間達に応えるために、エリックは震える右手を胸に当て、「ありがとう」と呟いた。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.50 想いの旋律

 

「もおおおぉ!! 何考えてるの二人とも!? ジャンとディアナも見てたならちゃんと止めてよぉ!!」

 

 宿屋の一室で、非常に珍しいことだが怒りのあまりマルーシャが声を荒げている。彼女の怒りの矛先を向けられたジャンクとディアナはもはや平常心を保てていなかった。

 

「止めましたよ! 僕らは、ちゃんと止めました!!」

 

「そ、そうだ!! 止めたぞオレ達!! それでも止まらなかったのはそいつらが馬鹿だからだ!!」

 

 オロオロしつつ、ふたりは近くにいたポプリに視線を向ける。だがポプリは「余裕の無い先生とディアナ君面白い」とでも言いたげにクスクスと笑うだけであった。そこまで問題視していない、というのもあるのだろうが。

 

「……。ごめん、マルーシャ。つ、つい……」

 

「“つい”じゃないの!! そんなにボロボロになって、“つい”とか言わないでよ!!」

 

 必死に治癒術を発動させながら、マルーシャは怒り続ける。大人しく怒られながら彼女の術の恩恵を受けているアルディスは左手にタオルを握り締め、右腕の傷口を押さえていた――困ったように苦笑しているが、傷は笑えない状態である。血が止まらないのだ。

 

「もうエリックは後回しだからね!! 完治しなくても知らないんだから!!」

 

「……っ!?」

 

「いきなり!! ケルピウスが!! ズタボロな二人背負って!! 部屋に転がり込んできた!! わたしの気持ちを!! 考えてよ馬鹿ぁ!!!」

 

 

――つまりは、そういうことである。

 

 

「あ、あと少しで、勝てそうだったんだって……!!」

 

「そういう問題じゃないの!! アルディスもアルディスでもうちょっと手加減してよぉ!! もうエリックは放置したいくらいの大惨事だよ!!」

 

「本気で来る相手に手加減する難しさ知ってる!? 大体今回に関しては俺も負けたくなかったんだ!!」

 

「何でそんな張り合っちゃうのかな!? こんな時に二人して本気で殴り合わないでよ馬鹿ああぁあ!!!」

 

 きっかけは、エリックが『精霊同化(オーバーリミッツ)』を取得したことであった。

 それを見たアルディスは、元々精霊同化を取得していたこともあって全力で戦ってみたいと思ってしまったのだろうし、エリックもエリックで完璧に使いこなせるようになってみたいと思ってしまった上、『本気のアルディスと戦いたい』という仲間からしてみれば凄まじく迷惑な願望をむき出しにしてしまったのだろう。

 

 結果、二人はジャンクとディアナの静止の言葉を無視して本気過ぎてもはや訓練とは言えないような訓練を『お互いが倒れるまで』続けてしまったのであった。

 

「すみません、本当にすみません、マルーシャ……僕が本調子なら、おバカさん二人のために君の手を煩わせることは無かったというのに……!」

 

「オレも謝る! オレの力じゃ、追いつかなくって……!! おバカさん二人のために、本当にすまない……!!」

 

 マルーシャの怒りは、収まることを知らない。定期的に矛先がジャンクとディアナに飛んでくるため、反省の色無しの“おバカさん二人”の代わりに彼らが必死にマルーシャに謝る羽目になっている。

 

「でも、本当に……どうしちゃったのかしらね、この子達……ふふ……」

 

「わ、笑いごとじゃないだろう!? オレ達は割と必死なんだからな、ポプリ……!!」

 

 唯一無関係のポジションをキープしているポプリは、困ったように笑いながらエリックとアルディスを見る。そんな彼女を半泣きで睨むのはディアナだ。

 

「ふふ、お疲れ様」

 

 だが、ポプリは動じなかった。彼女は少しディアナに近づくと、他の者には聞こえないようにと小さな声で喋り始める。

 

「エリック君もノアも、普段、相当押さえ込んでるものがあるのかなって、そう思ったわ。ちょっと発散させてあげないと、またこういうことになりそうだから何とかした方が良いかもしれないわ。でも、マルーシャちゃんがちょっと元気になったから、今回みたいなのも、たまには良いかなって」

 

「い、言いたいことは分かる。だが、マルーシャは元気になりすぎだ……」

 

「君が心配する気持ちが分かるくらい、さっきまで嘘みたいに大人しかったんだけれどね……うーん、大丈夫かしら……二重の意味で……」

 

「ああ……」

 

 大人しいマルーシャは不安になるが、怒り狂うマルーシャはただただ怖い。これはもうしばらく落ち着かないだろうとポプリとディアナは顔を見合わせ、苦笑した。

 

 

 

 

「古いのに傷んではいない、か……手入れがよく行き届いてるんだろうな」

 

 宿屋のロビーにあった古いグランドピアノの鍵盤蓋を開けながら、エリックは軽く鍵盤を押してみる。柔らかな音色は、しっかり調律の行き届いた正確なものであった。

 椅子を引き、腰掛ける。傍にいたディアナが、「忘れてるぞ」と言いながらピアノの屋根を開ける――別に開けなくても音は鳴るから別に良かったのに、とは思ったが、気にしないことにした。

 

「……調律も完璧、か。これなら問題なく弾けそうだ」

 

「絶対音感って奴か?」

 

「違うと思うぞ。城にいた頃は毎日のように弾いていたから、単純に耳が覚えてるんだよ。ピアノ以外だとちょっと自信ないな」

 

 エリックは感情が高ぶった時、ピアノの鍵盤を叩くことで気分を落ち着かせていた。今まではそれで良かったのだが、旅に出てからは当然のことながらピアノに触れる機会が無く、感情を押さえ込む最適な手段を見出せずにいたのだ――その結果が思わず近くの壁を殴る、アルディスと本気で殴り合うといった暴力的な方向に突っ走る始末なのだから、自分にとってピアノがいかに重要な存在かが嫌でも理解できてしまう。

 そして昨日、『エリックはイライラをピアノにぶつける癖がある』というのを知ったジャンクはマルーシャ大暴走が落ち着くと同時に彼は部屋を飛び出し、ピアノ使用の許可を取りに行っていた。

 

(間違いなく、問題視されただろうなぁ……気を使わせて悪かったよ、ジャン……)

 

 思わずこめかみを押さえ、苦笑いするエリックとピアノを交互に見ながら「早く弾いて欲しいんだけどな」と言わんばかりにディアナは首を傾げている。そんな彼女の腕の中には、一冊の本があった。

 

「ん? ああ、そうだ。ちょっとそれ、見せてくれ」

 

 軽く指の運動をした後、エリックはディアナの方へ手を伸ばす。ディアナは頷き、持っていた本をエリックに手渡した。それは厳密には本ではなく、楽譜であった。

 

「あー、うん。長いな。ディアナ、譜めくりはできるか?」

 

「……」

 

「よし、分かった。アル呼んできてくれ」

 

 この古びた楽譜はここブリランテに保管されていたものらしく、ディアナが聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)能力者であることに気付いた住民が「ディアナに渡して欲しい」とポプリに預けた、という話は先程ディアナから聞いた。つまり楽譜は無事にディアナに渡ったということだ。

 だがしかし、ここで予想外な問題が発生した。ディアナは楽譜が全く読めなかったのだ。これは流石にブリランテの住民も気付かなかったことだろう。

 そして狼狽えたディアナが「実はピアノを弾くのが特技」な上にストレス解消に丁度ピアノを弾こうとしていたエリックに助けを求めにやってきて、今に至るのだ。

 

聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)能力者って能力的に楽譜読めるもんだと思ってたんだが……多分、ろくな教育受けてないんだろうな、ディアナ……)

 

 アルディスを呼びに行ったディアナの背を眺めていると、嫌な感情に支配されそうになる。エリックは頭を振るい、視線を手元の楽譜に落とした。

 

「……何だ、これ」

 

 読めない――いや、譜は読めるのだが、言語が。この曲のタイトルが。

 

「んん……? 似てる、けどな。似てるんだが、何だこの字は。読めない」

 

 パラパラと譜を流し読みするが、指示記号はまあ、読める。指示記号まで読めなかったらどうしようと思っていたエリックはひとまず安堵した。理解不能なのはタイトルと、所々に記載されている楽章の名前らしきものだけだ。文字そのものはエリック達が使う言語そっくりなのだが、どう考えても配列がおかしいのだ。フェルリオ帝国の方言か何かだろうか――と悩んでいたエリックのもとに、ディアナがアルディスを連れて戻ってきた。

 

「お待たせ。譜めくりすれば良いの?」

 

「その前に、このタイトルと楽章っぽいの。読めるか?」

 

 別に読めなくても弾けるが、気になる。そう思ったエリックはやって来たばかりのアルディスに楽譜を押し付けた。

 

「ん……? ああ、これフェルリオの旧言語だね。タイトルは『精霊王に捧ぐ鎮魂歌』……って、これ聖歌詩篇集じゃないか!!」

 

「えっ、何だ!? それそんなに凄いものなのか!?」

 

 アルディスが旧言語をあっさり解読したことにも驚いたが、その後の彼の反応にさらに驚かされた。エリックが尋ねると、アルディスは「国宝みたいなものなんだけど」と簡単に答えてくれた。

 

聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)能力者が、聖歌(イグナティア)を発動させるためにはこの譜を頭に入れとかないといけなくてね。能力者達が歌うのは主旋律だけだけど、歌詞だけじゃなくて対旋律とか、曲に込められた意味だとかを全部理解していないと効果が出ないんだ……なのに、何かこの譜、大昔に行方不明になったらしくてね……」

 

「なんでそんなことになってんだよフェルリオ……」

 

「知らない……十中八九聖者一族の人間が恨み買って隠されたんだと思うんだけど……」

 

「うわぁ……」

 

 嫌というほど感じていたが、こんなことを口にすればアルディスの逆鱗に触れてしまいそうだが、フェルリオ帝国民は本当にやることが陰湿過ぎる。馬鹿正直な皇子を筆頭に全員が全員陰湿な人間ではないと信じたいが、何だか人間不信になりそうだ。エリックはゆるゆると力なく首を横に振るい、アルディスの話の続きを待った。

 

「詩篇集は全七楽章で、第二楽章『クララフィケーション』と第五楽章『ホーリーソング』はディアナが歌ってるの聴いたことあるんだけど……うーん」

 

「え? オレ、何か間違ってるのか?」

 

「そうじゃなくて、俺、この楽譜、読めない……」

 

「!?」

 

 ごめん、旧言語しか読めない。そう言ってアルディスはエリックに楽譜を返してきた。

 

「お、おい……お前、横笛吹けるだろ? じゃあ、楽譜……」

 

「その楽譜読めない……多分、それが一般的な“楽譜”なんだとは思うんだけど」

 

「お前の知ってる楽譜ってどんな楽譜だ!?」

 

 アルディスが謎の横笛を演奏できることをエリックは知っていた。だからこそ、アルディスに譜めくりを頼もうと思ったのに。予想外過ぎる彼の言葉に、エリックは狼狽えてしまった。

 

「音が独特だとは思ったが……やっぱりピッコロでもフルートでもなかったんだな」

 

「君の中じゃ横笛ってそういう名前になるんだね。多分、それが普通なんだろうけど」

 

 そう言ってアルディスが懐から取り出したのは、問題の横笛だ。特殊な術が掛かっているというケース(だから戦闘中に壊れないそうだ)に入っていたそれは、やはりエリックの知る横笛ではない。

 

「篠笛」

 

「……知らないな」

 

「だろうね。多分イチハさんと、ひょっとしたらジャンさんが知ってるかもしれないっていう横笛」

 

「あ、あー、そういうことか」

 

 アルディスの説明で理解した。恐らく『篠笛』は暗舞(ピオナージ)の間で受け継がれている楽器なのだ。エリックが知っているはずがない。そしてアルディスが知る楽譜もまた、暗舞の間でしか通用しない楽譜に違いない。

 

「しかし困ったな……誰かいないのか、譜めくりできる奴」

 

 アルディスが無理な時点で、もう自力で何とか譜めくりするしかなさそうだとエリックは諦めてしまった。マルーシャは楽器の演奏できないため、譜が読めるとは思えない。アルディスが何も言わない時点でポプリも無理なのだろう。ジャンクが本調子なら透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力で何とかなっただろうが、今は無理だ。彼の境遇を考えれば、能力無しに譜読みができる可能性は極めて低い。

 

「……」

 

 そんなことをエリックが考えていると、ふと背後に人の気配を感じた。警戒しなかったのは、ほのかに香る匂いに覚えがあったからだ――正直「自分が気持ち悪い」と思ったが、悲しくなるのでこれ以上考えないことにする。

 

「わたし、読めるよ。譜めくりしたら良いの?」

 

 やってきたのは、マルーシャだった。彼女は椅子に腰掛けたエリックの後ろから楽譜を覗き込み、「大丈夫」と笑っている。

 

「え……マルーシャ、楽譜読めたのか?」

 

「うん。楽器は弾かないけど、読めるよ。エリックがピアノ弾くの、ずっと見てたから……その、勉強してたの」

 

「ッ!」

 

 マルーシャの言葉に、顔が熱くなってくるのを感じた。駄目だ、ここで変な反応を見せるのはいくらなんでも格好悪すぎる!

 

「そ、そうか……じゃあ、頼むよ」

 

 少し素っ気なさを感じるような態度でピアノに向き直るエリックを眺めていたアルディスが、盛大にため息を吐いた――色々と、隠しきれていなかったようだ。

 

 

 

 

――第一楽章『ディープ・ブルー』

 

 聖歌詩篇集の最初の楽章は、どこか不気味さを感じる暗い旋律のものであった。演出としての不協和音が頻繁に入ってくる面白い曲である。だがそれ以上に、肝心のディアナがあまり良い反応をしていなかったのが妙にエリックの中で印象に残っていた。彼女の場合、この楽章のタイトルがそうさせている可能性もあるが。

 こんなタイトルが付くくらいなのだから、藍色の髪は有能な聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)能力者の証なのかも知れない。そう考えると皮肉だな、とエリックは軽くため息を吐いた。

 

 

――第二楽章『クララフィケーション』

 

 アルディスは理解していなかったが、やはりディアナが歌っていたのはこの曲で間違いなかったようだ。暗い旋律が印象に残る第一楽章とは異なり、静かだが優しげで、それでいて厳かな印象の旋律である。

 ディアナは第二楽章と第五楽章以外はどれも覚えていないらしく、少し悲しげな表情をしていた。「これから思い出していけば良い」とアルディスが慰めているのを聞きながら、次の楽章へと移……ったのを、若干後悔したくなった。

 

 

――第三楽章『サクリファイス』

 

 高音域でまとまっているが、決して耳障りではなく、驚くほどにとても優しい主旋律だ。そしてピアノは、恐ろしいほどに優美な和音を奏でている。きっとディアナが歌えば、感動的なアリアが聴けることだろう……が、何だこの題名は。何でこんな美しい曲に『生贄(サクリファイス)』なんて題名を付けたんだ。絶対にまともな術じゃないだろうとエリックが思っていると、どうもアルディスがディアナの耳を塞ごうとしたらしい。それを咎めるマルーシャの声を聞きながら、エリックは鍵盤から手を話したくなった。

 

 

――第四楽章『ミティゲイト・レイ』

 

 嫌な予感しかしなかったが一応弾ききった第三楽章。続く第四楽章は第三楽章同様に高音が美しい旋律であった。異なるのは、所々で主旋律が時々低音に移ることだろう。非常に歌いにくそうな曲だな、とエリックが感じていると案の定ディアナが頭を抱えてしまったようだ。もしかすると、彼女は低音域が苦手なのかもしれない。

 

 

――第五楽章『ホーリーソング』

 

 第二楽章同様、やはりディアナが歌う聖歌(イグナティア)の旋律だ。どうして楽章が飛んだのかが気になったが、主旋律以外の音は最低限の和音のみで、穏やかで控えめな印象を与える曲である。静かで厳かな第二楽章と通じるものがあった。第一楽章、第三楽章、第四楽章には感じられなかった「ディアナらしさ」を感じる。ディアナの本質に近い曲だからこそ、第二楽章と第五楽章は記憶を失った彼女の中に残り続けたのだろうか。昔からディアナは、「ディアナ」だったのだろうか。

 後で、ダイアナとディアナは似ているのかをアルディスに聞いてみよう。エリックはそう思いながら、次の楽章に移った。

 

 

――第六楽章『フォークロア・ブリス』

 

 第四楽章で「もしかして」と思ったことが事実だったことに、この楽章に移ってすぐに判明した。ディアナが「無理無理無理無理」と呟き始めたのだ……第六楽章は、低かった。

 主旋律はもちろん低いのだが、ベースとなる和音が最も低い音域から出てこない。もう全体的に音が低い。そのせいか、どっしりとした印象を受ける。ディアナの繊細なソプラノでこれを表現するのは極めて難しいことだろう。

 

 

「……は?」

 

 

 そして、ここでエリックの指が止まってしまった。譜めくりをしてくれていたマルーシャも苦笑いしている。第六楽章に絶望していたディアナも顔を上げ、アルディスは不思議そうに首を傾げていた。

 

「エリック?」

 

「悪い、ちょっとこいつだけは時間をくれ。何だよ、これ……」

 

 第六楽章までは何とか、問題なく弾けた。だが、最後の最後に、とんでもない楽章が待ち構えていた。

 

 

――第七楽章『エヴァンジル・オーブ』

 

 第六楽章まではアルディスが現代語に言い換えて題名を伝えてくれていたのだが、第七楽章だけは上手く言い変えられない、ということで旧言語のまま教わった題名。そんなイレギュラーな楽章は、譜面の方もとんでもなくイレギュラーであった。

 譜面が黒い。音符の羅列だ。連符は曲を盛り上げたいときに有効なものだとは思うが、ここまで並べられると指がおかしくなりそうだ。しかも連符地獄の後に始まる肝心の主旋律という名の歌唱部分は第三楽章以上に高音。超高音域、とでも言えば良いだろうか。ディアナの喉が死にそうである。

 

「ディアナこれ……喉、大丈夫か?」

 

 とりあえずディアナが歌う主旋律だけ軽く弾いてやれば、ディアナは盛大に目を泳がせながら「頑張ります……」と言い出す始末。こんなの、一体誰が歌うんだ。作曲者出てこい。

 

「第七楽章は……聖歌(イグナティア)の中でも難易度の高い奴、でね。俗に言う『秘奥義』に相当する奴なんだよね……当然、効果はすごく高いんだけどね。ある意味、第三楽章のがすごいけど……」

 

「ああ、やっぱりお前、全部の楽章の効果把握してるんだな。なあ、第三楽章って歌ったらどうなるんだ?」

 

「歌唱者が『救いたい』と願った者全てを救う代わりに、歌唱者が“生贄”になるとんでもない旋律だよ」

 

「……。ディアナ、歌うなよ。約束だ。第三楽章は、歌うんじゃない」

 

 やっぱりとんでもない術だった。ディアナの耳を塞ごうとしたアルディスを咎めたマルーシャすら、唖然としている。

 ただし、曲を聴いたからといってすぐに聖歌が歌えるようになるわけではなく、自分の中で曲をしっかりと解釈して、楽譜には書かれていなかった『見えない歌詞』を感じ取らなければいけないらしい。そのためディアナがこの場で唐突に第三楽章を歌い出す……なんてことにはならないそうだ。聖歌(イグナティア)の難しさを感じるとともに、エリックは思わず「ああ良かった」と思ってしまった。

 

 

「とりあえずこれは置いといて……適当に何か弾きたいから、もう散ってくれて構わないよ。マルーシャ、アル。付き合ってくれて助かったよ……ありがとう」

 

 確実に何度も間違えるであろう第七楽章は、完全にひとりの時に弾きたい。今は暗譜している別の曲が弾きたいと考えたエリックは、そう言って三人に笑いかける。だが、三人ともその場を離れることは無かった。

 

「……ん?」

 

 これは次の曲を待ってるんだな、とエリックが感じ取るのはそう難しいことではなかった。赤い瞳を細め、エリックは軽く首を傾げてみせる。

 

「特技と言えば、特技なんだよ。だけど、そう期待されるのは、少し恥ずかしいな」

 

「聖歌詩篇集を初見で弾いておきながら言う台詞じゃないんじゃないかな。良いね、ピアノの音色って。俺、ピアノの演奏をまともに聴くのは十数年ぶりだから、もう少し聴いていたいなって思ったんだ」

 

「……分かった、じゃあ好きにしてくれ」

 

 これは「どっか行け」とはっきり言ったところでどこにも行ってくれないだろう。仕方がないな、とエリックは肩を竦め、再び鍵盤に指を乗せた。

 

 

 

 

 数曲を弾き終え、「これで終わりだ」とエリックが言うとアルディスとディアナはお礼を言うとともにそれぞれ自分の行きたい場所に移動した。どうやらエリックの演奏を聴くのとは別にやりたいことがあったにもかかわらず、後回しにしていたらしい。申し訳なくなるのと同時、どこか誇らしさを感じた。

 一方のエリックは一旦場所を移動した後、こっそりとピアノのもとに戻った――こうでもしないと、皆離れてくれなさそうだなと思ったのだ。

 

 

「第七楽章の練習、するの?」

 

「……マルーシャ」

 

 だが、狙い通りに動いてくれなかった人物もいた。マルーシャだ。

 彼女はエリックがそうするのを分かっていたかのように、ピアノの傍に戻ってきていた。愛らしい笑顔を浮かべ、彼女はエリックがピアノを弾くのを待っている。

 

「君は……まあ、良いか。失敗しても、笑わないでくれよ……」

 

「笑わないよ。大体エリックが失敗するの、何度も見てるし」

 

「う……っ」

 

「だけど、最後はしっかりやり遂げちゃうんだもん。エリックはすごいよ」

 

 それはピアノだけじゃないけどね、とマルーシャはどこか悲しげに笑う。何故、そんな表情をするのか。エリックには分からなかった。

 

「アルディスの件から逃げなかったことも、ジャンとしっかり向き合ったことも、ゾディートお兄様やダリウスの件にしたってそう。すごいなって思う……エリックは強いね。わたし、尊敬してるんだよ?」

 

 マルーシャが、褒めてくれる。普通に考えれば、嬉しいことだというのに。

 

(何だ……? この、感じは……)

 

 

――嫌な胸騒ぎを、感じた。

 

 

「……。マルーシャ、一体どうしたんだ? 君、何か悩んでるのか? 僕が、力になれるなら――」

 

「ううん、大丈夫……ありがとう、大丈夫だから」

 

 きっぱりとそう言われてしまうと、何も言い返せない。ただ単に、自分が不必要に心配している可能性だってある。マルーシャの純粋な、優しげな笑みを見ていると、それ以上なにも言えなくなってしまった。

 

「あ、そうだ! 失敗といえば!」

 

 エリックが悩んでいると、マルーシャは両手を叩き、ニコニコと笑いながら口を開いた。

 

「あの時の曲、エリックが失敗してた奴。リベンジしてよ!」

 

「ッ、あ、あれか……!」

 

 あの時の曲、というのはポプリとジャンクに送ってもらい、城に帰った後に弾いていた曲のことだ。無理だ、とエリックは首を横に振るう。

 

「応えてやりたいけど、あれは暗譜していない。楽譜が無いと、無理だ」

 

「えー……」

 

「そ、そんな顔するなよ……」

 

 心底残念そうな顔だ。だが、無理なものは無理なのだ。あれはまだ練習中の曲で、暗譜した挙句、即興で弾けるレベルには到底到達していない。それにしても、今日のマルーシャは妙に表情豊かである――と、頭を悩ませていたエリックの中で、ひとつの曲が浮かんだ。

 

「じゃあ、あの曲とは違うけど。これで我慢してくれよ」

 

 軽く深呼吸し、エリックはピアノに向き直る。両手の指を鍵盤の上に乗せ、静かに、音を奏で始めた。

 

 

「え……?」

 

 マルーシャが驚き、弱々しい声を出した。エリックは口元に微かな弧を描き、追憶にふけりながら指を動かし続けた。

 

 

―――

 

―――――――

 

―――――――――――

 

 

『エリック、ピアノ弾けるんだ! すごいね!!』

 

 思い返すのは、十年前。マルーシャと出会って間もない頃――いつものように突然押しかけてきた明るすぎる少女に、まだ鬱陶しさを感じていた頃。

 

『……また、来たんだ』

 

『もう! またそうやって!! ねえ、ピアノ、続けてよ! わたし、ここで聴いてるから!!』

 

 その日のマルーシャ登場は丁度エリックがピアノを弾いていた時で、要するにマルーシャによって演奏が妨害されてしまったのだ。

 とはいえ、エリックの態度は訪問者に対する態度ではない。会話のキャッチボールをする気がないどころか、ほんの僅かな苛立ちと、それ以上に無気力感の込められたエリックの言葉。マルーシャは頬を膨らませて近くにあった椅子に腰掛けた。

 

『……エリック?』

 

 マルーシャの期待が、叶えられることは無かった。エリックは特に何も言うことなく、鍵盤蓋を下ろしてしまったのだ。無言の、拒絶であった。

 

『そっか……えへへ』

 

 それなのに。マルーシャは悲しげに笑ってみせる。エリックを責めることは無かった。

 

 

『エリック。いつか……いつか、で良いから。わたし、ね。大好きな曲があるの……その曲、弾いて欲しいな』

 

 

 今にも泣きそうな笑みを浮かべながら、拒絶された悲しみを押し殺しながら、マルーシャは大好きだという曲のタイトルを口にした。その曲は――――。

 

 

―――――――――――

 

―――――――

 

―――

 

 

「なん……で……」

 

 マルーシャの声が、震えている。それもそうだ。エリックは今この瞬間まで、この曲を彼女の前で弾いたことが無かったのだから――我ながら酷い奴だな、とは思う。

 

 マルーシャが過去に、一度だけ教えてくれた『大好きな曲』のタイトル。彼女が覚醒し、エリックの命を救ったのはこれより後の話である。

 

 何かお返しがしたい。そう思ったエリックが思い出したのが、この曲だった。こっそりと楽譜を手に入れ、練習をすると勘付かれる可能性があるので練習はせずに暗譜だけを行い、彼女が家族と出かけるとかでルネリアルを発っている時限定で、密かに鍵盤を叩いた。エリックはもう、何年もそれを続けている。

 

 弾くたびに思うが、この曲はどうにも「マルーシャが好きな曲」という印象が付きにくい曲だった。要は、物静かな曲なのである。この曲を聴いて太陽のように明るい彼女を連想するのは不可能に等しいだろう。十年前のマルーシャの言葉が無ければ、エリックは彼女のためにこの曲を練習しようとは思わなかったはずだ。

 どこか寂しさを感じる、ゆったりとした高音の優しい旋律。その旋律は、美しい幻想的な情景をイメージさせる。きっと、マルーシャはその情景が好きなのだろう。だから、この曲を好んだのだろう。この曲は彼女にとって、特別な曲であるに違いない。後にも先にも、彼女がある特定の曲を「好きだ」と言うことは無かったから、恐らく間違いない筈だ――ただせっかく練習したにも関わらず、エリックがこの曲をマルーシャの前で弾くことは無かった。

 

「その……あれだ、あんな馬鹿みたいな態度取ってただけに、恥ずかしかったんだ。実は十年前から、ずっとこの曲を練習してた……なのに、言い出せなくて」

 

「……」

 

「驚いた、か……?」

 

 楽譜が無くても問題ない。それどころか、喋りながらでも弾ける。それだけエリックは、この曲を頭に叩き込んでいた。指に、覚えさせていた。

 振り返ることなく、エリックはマルーシャに語りかける。背後から、マルーシャの弱々しい、無理矢理引き出したような声が聴こえてくる。

 

「絶対……っ、覚えて、ない……って、そう、思って……ッ」

 

「……」

 

「……な、のに……」

 

 嗚咽混じりの、マルーシャの声。これは「泣くほどのことか?」とエリックは思ったが、きっと十年前のあの日、彼女はエリックが考えている以上に、傷付いたのだろう。傷付けて、しまったのだろう。

 

「……ごめん」

 

 悩むまでもなく、エリックの口から謝罪の言葉が紡がれた。曲は、最後の繰り返し記号を過ぎた。もうすぐ、曲が終わる。そうすれば、後ろを振り返ることができる。

 演奏を中断することも考えたが、これだけ待たせた挙句、泣かせてしまったのだ。彼女が大好きだという曲を、途中で止めてしまいたくはなかった。

 最後の数小節が、妙に長く感じられた。色々考えすぎて、間違えてしまいそうだ。だが、こんなところで間違えるわけにはいかない、と一旦エリックは意識を鍵盤に集中させる。

 

「……」

 

 曲が、終わる。最後の音が儚く響き、聴こえなくなる。

 

 嗚咽を上げながら泣くマルーシャの方を振り返ると、彼女は涙を流しながら、無理矢理笑ってみせた。

 

「あり、がとう……ッ、すごく、良かっ……」

 

「……こちらこそ、ありがとう」

 

 そう言ってハンカチを差し出せば、彼女は「ごめんなさい」と音にならない言葉を発し、その場に座り込んでしまった。ひっくひっくというあまりにも弱々しい泣き声が、ロビーに響く。

 

(マルーシャ……?)

 

 またしても、エリックは思う――そこまで、泣くほどのことか、と?

 感激したのだとしても、過去に傷付けたのだとしても。これはちょっとおかしい気がしてならない。

 

 嫌な予感がする。だが、どうすれば良いのか。

 

 何も言うことができず、エリックは静かに、マルーシャの目の前にかがみ込んだ。するとマルーシャは我慢できないといった様子で、エリックの胸に飛び込んできた。

 

「ひっく、うぅ……ッ、ぐす……」

 

 泣き叫びたいのを、懸命に、必死にこらえているようであった。何かがおかしいとは思った。しかし、エリックは何も言えなかった。

 ボロボロと涙を零しながら、酷く身体を震わせるマルーシャの肩に戸惑いながらも手を回し、エリックは静かに、彼女が泣き止む時を待っていた。待つことしか――できなかった。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.51 前を向いて

 

 コンコン、とドアを軽くノックし、開く。ベッドに腰掛けていたジャンクは、こちらに気付くと穏やかに微笑んでみせた。

 

「ジャン、調子はどうだ?」

 

 ジャンクが目を覚ましてから、三日が経った。

 最初はアルディスの件を気にして早くここを出るべきだと主張していたジャンクであったが、まだ魔力の安定していない彼を逆に心配して留まるように主張したアルディスの意見が勝ったのである。その意見が決して間違っていなかったことは、ジャンクの顔色が証明してくれている。

 

「大丈夫、とだけ言ったら怒るのでしょう?」

 

「当然だ。まあ、僕よりアルが怒るだろうな」

 

 まだ敬語癖が抜けていないが、この件に関しては後々“ある件”と一緒に指摘してみようとエリックは思っている。とりあえず、今は本人の回復が最優先だ。

 ジャンクは左手でだらりと垂れた右腕に触れつつ、エリックの問いに答えてくれた。

 

「……。右腕はしばらく時間がかかるでしょうが、透視干渉(クラレンス・ラティマー)の発動は問題なくできるようになりました。なのでもう、僕は本当に大丈夫ですよ? 後衛としてなら、戦闘にも参加できます」

 

「戦闘参加を前提にするのやめてくれ……」

 

 今までは精霊術で肉体を強化していただけであって、ジャンクは元々、実験の後遺症で素の腕力が極端に弱いのだという。足技を主体とした格闘技を使うのは、そのためだ。

 だから足さえ動けば右腕が使えなくても戦闘にはそこまで支障がない。大丈夫もう行ける――などというとんでもない主張で押し切ろうとしていたことは記憶に新しい。

 

「そもそもジャン、お前の戦闘能力は精霊の使徒(エレミヤ)契約があってこそのものなんだろう? しばらくお前を戦闘メンバーに組み込む気はないよ」

 

「!? え……っ」

 

 第一、ジャンクはあまり戦闘に参加していない。エリック達と旅をし始めてからというものの、何かと訳あって彼は戦闘から外れていることが多かった。そんな事情もあり、尚更この状況の彼を戦闘要員として組み込もうとは到底思えなかったのだ。

 

「別にお前が邪魔とかそういう奴じゃないからな」

 

 念のため前置きをした後、エリックは軽く息を吐いてから話を続ける。

 

「お前が『行かない』って決めない限りは、僕はお前を連れ回す気でいた……だけど、それが正しいことなのか、正直悩んでいるんだ」

 

「……」

 

「ここに残るっていう選択肢もあるんだからな、ジャン」

 

 本当に、この村からジャンクを連れ出して良いのだろうか――それは、この三日間彼の様子を見ていて感じたことであった。

 

 最初こそ他人への恐怖が勝ってしまい、誰かが同伴しなければ外に出なかったジャンクであったが、彼の祖母を始めとする村人達の積極的なアプローチによって、彼は少しずつ村人達と接するようになっていった。間違いなく、良い変化である。だからこそ、彼をここに残していくべきなのではないかと、エリックを含む五人は考えるようになっていったのだ。

 

 それは、最終的にはジャンク本人が決めるべきことではあるが、今のジャンクは何かしら言ってしまえば間違いなくそれに引っ張られてしまうだろうし、言わなくても自分の意思がどうであれ着いてくる可能性が高い。結局彼はこれからどうしたいのか、それを先に聞いておいた方が良いだろうと考えたのだ。

 

「勿論、ジャンが僕らに着いてきてくれると助かるんだ。ただそれ以上に、無理矢理お前を連れ出したくはない」

 

 そう言ってエリックが赤い目を細めて笑えば、ジャンクは困惑を隠せない様子ではあったもの、やんわりと笑い返してくれた。悪い方向に受け取られないかが心配でたまらなかったのだが、この表情を見る限りでは大丈夫そうである。

 

「大丈夫ですよ。エリック達が僕のことを考えてくれていることは分かっていますから。ありがとうございます……ですが少し、考えさせてくれませんか?」

 

 即決で着いていく、と言わないか心配していたのだが、案外ジャンクはちゃんと悩んでいたらしい。「勿論だ」と返すエリックの声は、安堵の色を含んでいた。

 

 

 

 

「マルーシャ、ディアナ」

 

 エリック達がロビーで待っていると、ジャンクはその手に水晶の原石のようなものを持って部屋から出てきた。待っていた五人は彼の登場を待っていたと言わんばかりに視線を向ける。特にエリックは「作りたいものを思い出したので部屋を出て頂けますか?」と何とも言えないことを言われて部屋を追い出されたために、少し不安になっていたのだ。

 だが、心配は杞憂だったようで、ジャンクは先程と変わらない様子でこちらにやって来て、マルーシャとディアナに手にしていた結晶を手渡した。

 

「うわぁ、綺麗な石……」

 

「ジャン、これは?」

 

 それは近くで見ると、水晶というよりはアクアマリンを思わせる水色がかった結晶であった。触れてみるとほのかに暖かい感じがする。それは気持ちの悪い暖かさではなく、マルーシャやディアナの治癒術を受けた時に感じる暖かさによく似ていた。

 

「僕が持つ治癒の力を、凝縮したものです。ほんの一部ではありますが、少しは二人の役に立つのではないかと」

 

「! ちょ、ちょっと! それ、先生に何かしら影響が……!」

 

 そういえば、ジャンクは数日前に「能力を分ける」といったことを言っていた。それを有言実行してきたのだろう。だが、そんなことをして大丈夫なのかとポプリは不安げに声を震わせる。しかし、ジャンクは脳天気にクスクスと笑ってみせた。

 

「出ませんよ、これくらいじゃ。逆を言えば、これくらいではそこまで大きな力にはならないのですが……一番良いのは、獣化した状態で角を折ることだったんですけれど、多分、それをやったら君達は怒るかなー、と」

 

 怒ってくれたら、それはそれで嬉しいんですけどね。と、どこか悲しげに笑うジャンクの言葉にアルディスが「冗談じゃない……!」と声を震わせている。よく分からないが、アルディスの反応を見る限りその行為がもたらす代償は極めて大きなものであることは間違いない。同じヴァイスハイト同士、危険性を理解しているのだろう。

 

「な、なら良いんだが……すまない、助かる」

 

「とりあえず、ジャンの角折っちゃダメなんだろうなってことは理解したよ。ありがとう、ジャン」

 

 ディアナとマルーシャの言葉に反応するかのように、結晶は魔力の塊となり、二人の身体に吸い込まれていった。だが、これは本当に大丈夫なのだろうかと、不安になったエリックはジャンクの顔色をちらりと伺った。するとジャンクは決まりが悪そうに「えーと」と呟き、視線を泳がせる。

 

「あの、本当に大丈夫ですから……血を流す、という手段もあったのですが、それも今回は使いませんでしたし……貧血起こして倒れたら迷惑かかるかな、と思ったので……」

 

「ケルピウスの血は良薬って奴か……いや、それも違うんだったら、お前、どうやって」

 

「精霊もですが、こういうものは『音』と相性が良いんですよ」

 

「こ、答えになってない!」

 

 そうエリックが言うと、ジャンクはエリックから目をそらし、微かに顔を赤くして口元を押さえてしまった。

 

「……。お前はピアノを弾けるようですが、僕は何も弾けませんし、楽器も持ってません。そんな僕が音を、旋律を刻む方法は、ひとつしか無いんです……今回は複雑な旋律を刻む必要があったので、鈴ではどうにもならず……」

 

「え……」

 

 ディアナのこと、尊敬してます――最後にそう言ってジャンクは口を閉ざしてしまった。

 

「へ……っ!?」

 

「あ、あぁ……」

 

 言われてみれば、確かにディアナはすごいと思う。恥ずかしがらず、平然と人前で“それ”をしてしまうのだから。

 別に度胸があるとか、そういうわけではなく、彼女の場合は単純に能力によるものがあるのだろう……が、改めて考えてみると、本当にすごいと思う。

 もし万が一、自分が聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)能力者であったら、と想像するとゾッとする。無理だ、自分にはできない。絶対にやりたくない。

 

「な、なあ……あまり良い褒められ方をしたとは思えないんだが! どういうことだ!?」

 

「……気にするな」

 

 困惑するディアナにこれを言ってしまうと非常に可哀想なことになりそうだ。ここは話をそらした方が良いだろうと考え、エリックは適当な話題を探し始めた。だが、その必要は無さそうだ。

 

 

「クリフォード君、元気そうだね」

 

 宿屋の入口の扉を開き、中に入ってきたのはジャンクの叔父であるロジャーズだった。最初こそ彼に酷く怯えていたジャンクであったが、今では若干の違和感こそあるものの、過剰な反応を見せずに接することができるようになっていた。

 

「準備はできています。もう、行けますよ」

 

「そうか。じゃあ、お願いしても良いかな?」

 

 どうやら何か約束をしていたらしく、ジャンクはそのままロジャーズに着いていこうとした……が、流石に何も言わずに出て行くのはどうかと思ったのだろう。彼は立ち止まり、エリック達を振り返って事情を説明し始めた。

 

 

 ジャンクは約束、と言うよりは切実な相談を受けていたらしい。それも、ロジャーズどころか村人全員から村の存続に関わるような、そんな重大な相談を。

 

「ブリランテの奥地には、精霊の神殿があるそうなのです……どの精霊の神殿であるかは、今は言いません。本人も、言いたくないようなので……話が逸れましたが、どうやらここ数年、そこが瘴気に侵されているそうなのです。その瘴気を浄化しなければ、土地に影響が出てしまう――今、ブリランテはそのような状況に置かれているのだとか」

 

「! そうか、ジャンさんには瘴気浄化の能力があるから……!」

 

「はい。厳密には、ケルピウスという種に瘴気浄化の能力があるそうなのです。浄化の力を発揮する手段は、村の皆さんに教えて頂きました……ので、行ってきます」

 

 その言葉の裏に、「誰も着いて来ないでください」という思いがあることを察するのは、そう難しいことではなかった。だが……

 

 

「ちょ、ちょっと待ってよ!! 何でひとりで行こうとしちゃうのかな!? 来ないで欲しい感そんなに出されると気になっちゃうよ!!」

 

「そうよ! 先生、どうしちゃったの!?」

 

 

――それを全面に出されてしまうと、かえって気になってしまうということを彼は学ぶべきだ!

 

 

「ッ、い、嫌です……!」

 

「何で!?」

 

「言えば絶対に君達は『気になる』って言い出しますから! とにかく、着いて来ないでください!!」

 

 ジャンクの口から出たのは、明らかな拒絶の言葉。しかし、それは逆効果だ。そんなことを言えば、逆に着いて行きたくなるだろう。あまりのジャンクの必死さに、ロジャーズが我慢できずにケラケラと笑い出してしまっている。

 

「……ジャン、お前、墓穴掘りまくってるから……もう無理だ、諦めろ……」

 

「僕はディアナじゃないんですから!! 絶対に無理……あっ」

 

 だが、ジャンクは何かに気付いたらしい。またしてもディアナを困惑させるような言葉を口走った後、彼はディアナを見て「これだ」と呟いた。

 

「そうだ……最初から、得意な子にやってもらえば良いんですよ。幸い僕は、支援系の能力に長けている……い、良いですよね? ロジャーズさん!」

 

 ジャンクが必死だ。怒り狂うマルーシャ並に珍しい彼の様子に、エリックも腹痛を感じる程の愉快さを感じつつあった。

 

「い、良いけど……クリフォード君、母親譲りの上手さなんだから自信持っていいのに……本当に嫌なんだね、鈴使うよりこっちのが効率良いのに……」

 

「それとこれとは話が違うんです……ッ!! あ、エリック! お前は絶対に着いて来ないでくださいね!!」

 

「はあっ!?」

 

 

 

 

 やって来たのは、ブリランテの中心から少し離れた場所。そこは低い雑草くらいしかないため、先がよく見える。開けた荒地、とでも言えばいいだろうか。少し遠くに、朽ちた建物が見えた。

 

「ディアナ、すみません……嫌なんです、本っ当に嫌なんです……!」

 

「ああ、構わないが……そうか、世間一般的に見れば、オレの能力って変なんだな……」

 

「! そうじゃなくて! そうじゃなくて……!!」

 

 その建物の前で、ジャンクとディアナが妙な言い争いをしている――嗚呼、だから話を変えようとしたのに。こっそりと岩陰に隠れ、彼らの様子を眺めるエリックは、盛大にため息を吐いた。

 

「もう良い……じゃあ、始めるか。援護、よろしく頼むぞ」

 

 少し不貞腐れた様子ではあったが、ディアナはジャンクに協力することにしたようだった。能力を解放させるためだろう。ジャンクが半獣化するのを見た後、彼女はすっと軽く息を吸い込み、そして美しいソプラノの旋律を刻み始めた。

 

「――、――――……」

 

 発せられたのは、謎の言葉であった。またフェルリオの旧言語かと思ったが、多分違うだろうとエリックは感じていた。ジャンクに教わったのだろうか。

 もっと近くで、ディアナの歌声を聴いてみたい。そう思い、彼は少しずつ、距離を狭めていく。幸い、仲間達はディアナの歌声に夢中でこちらに気付いていない。

 

「ッ! ……っ」

 

 それが愚かな行為だったことに気付いたのは、数歩足を踏み出した途端、喉が明らかにおかしな音を鳴らした時のことであった。いつもの発作かと思ったが、違う――普段の発作はこんなものではない!

 

「ごほっ、げほげほげほ……ッ!! ッ、ごほっごほ……っ、ひゅ……ぅ……っ」

 

 息ができない。身体が痺れてくる。喉を押さえ、その場に崩れ落ちてしまったエリックの存在に、流石に仲間達が気付いた。

 

「エリック!」

 

 嗚呼、ジャンクが「絶対に着いてくるな」と言ったのはこのせいだったのかと薄れかかった意識の中でエリックは考える。言うまでもなく言葉足らずだったわけだが、あまりにも必死だったジャンクは、そこまで頭が回らなかったのだろう。

 

「ど、どうしよう……っ! あまり効いてない……!!」

 

「あの……ディアナ、申し訳ありません……多分、今の君ならできると思うので……」

 

 マルーシャが涙声になってしまっているが、今のエリックにはそれを宥める手段が無かった。全く酸素を取り込めず、苦しむことしかできないエリックであったが、その状況はディアナの歌声が聴こえてきた瞬間に少しずつ、改善されつつあった。

 

(え……?)

 

 旋律には、聞き覚えがある。これは第五楽章こと、『ホーリーソング』だ。

 だが、それはいつもと違っていた。言語が、聞き取れないのだ。先ほどディアナが歌っていたものとは違い、今度はフェルリオの旧言語である。

 

 呼吸が少しずつ落ち着いてきたエリックは、おもむろに顔を上げ、ディアナの姿を見た。堂々と清らかな歌声を発する彼女の背には、いつもとは違う白く神々しい翼があった。恐らく、あれはディアナが精霊同化(オーバーリミッツ)した姿だ。

 エリックやアルディスの精霊同化が戦闘に特化したものであるとすれば、ディアナの精霊同化は癒しに特化したものなのだろう――美しいな、とエリックは素直にそう思った。

 

「ッ、わ、悪い……来るなって、言ったのは……こういうこと、だったんだな……」

 

「エリック!」

 

 エリックが絞り出すように発した言葉に反応し、マルーシャが悲鳴に近い声を上げる。申し訳ない、と近くにいた彼女の頭を撫で、エリックは苦笑した。

 

「これなら、ディアナ単独でも浄化できそうですね。流石、聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)……もうこのまま任せてしまいましょう。で、エリックは大丈夫ですか?」

 

 怒られるかと思ったが、決してそんなことはなく。困ったように笑うジャンクの視線に、エリックは乾いた笑い声を上げた。

 

「来るなって言われたのに、悪かったよ……良いもの見れたから、後悔はしていない」

 

 開き直ったような態度のエリックが気に入らないのだろう。傍にやって来たのは、誰よりもディアナの姿に見とれていたアルディスだった。

 

「ジャンさんの代わりに、俺が後でエリックをお説教しようかな……でも、あれを“忌み子”なんて言うんだから、同胞のセンスの無さを感じてるよ」

 

「はは……悪かったって……」

 

 軽い調子で返してみたものの、本当にディアナもといダイアナを“忌み子”と称し、蔑む聖者一族に対しては怒りを覚える。力を解放した彼女の翼は、彼女の夜空のような藍色の髪をより一層美しく魅せてくれている。

 しかし、聖者一族からしてみれば、どう足掻いてもあれは穢らわしいものとしてしか受け取れないのだろう。エリック達には、到底理解できない価値観である。

 

 ディアナが歌い終える頃には、辺り一面の空気が確かに浄化されたような感じがした。瘴気は目には見えないが確かに存在しているのだということを、身をもって感じることができた瞬間である。

 

「……」

 

 目を閉じ、ディアナが力を抜く。少しずつ、彼女の翼に色が戻っていく。そのどこか幻想的な姿を、エリック達は静かに眺めていた。

 

 

「……。先生が歌ってるのを聴いてみたかった気もするんだけど、ね」

 

「そう言うと思ったから、嫌だったんです……」

 

「ねえ、今度歌ってみせてよ」

 

「嫌です……!!」

 

 

――を、盛大にぶち壊しにされたのだが、エリックの件を棚上げにして怒っても良いだろうか?

 

 

 

 

「ありがとう! 流石ケルピウス、だね」

 

「作物に影響が出始めていたから、どうしたものかと悩んでいたのよ。助かったわ」

 

「え、ええと……」

 

 村に戻るなり、ジャンクは村人達に感謝の言葉を投げかけられていた……が、今回の件はほとんど彼の出る幕無しだったこともあり、どこか居心地の悪さを感じているようだった。

 

「……その、実際には、僕がやったわけでは」

 

「どちらにせよ、君が受け入れてくれなければ解決しなかったんだ。助かったよ、クリフォード君」

 

 弁解しようとしたジャンクの肩を叩き、ロジャーズは彼に微笑みかけた。それに対し、へらりと困ったように笑うジャンクの顔を見れば、やはりエリック達の中であの疑問が過ぎってしまう。

 

「……」

 

 何せ、ここに来るまでは一度も見たことが無かったのだ。ジャンクのあんな、力の抜けた柔らかな笑みを。今にして思えば、彼は悲しいほどに作り笑いが上手な青年だったのだ。

 

「……エリック君」

 

 そう思ったのは、エリックだけではないようで。この中の誰よりも彼を想っているであろうポプリが、複雑そうな表情をしてこちらを見ている。

 ジャンクが村人達に囲まれている隙に、こっそり村を発ってしまった方が彼のためになるのではないだろうか――そんなことをエリック達が考え始めた、その時だった。

 

 

「そういえば、クリフォード君は彼らに違う名で呼ばれているよね。それは、どうしてなんだ?」

 

 

 エリックが最も気になっていた、彼の名に関する問いがロジャーズの口から発された。

 

「……。僕の本名は、クリフォード=ジェラルディーンです。けれど僕は、この姓にあまり良い思いを抱いていません……そうなると、名前の方も似たようなものです。それでも違う名を名乗ると不便なので、名前に関しては基本的に使うようにしてきました。ポプリよりも前に会った人に関しては、僕を本名で呼びますよ」

 

 それが普通だ。自分の物と思えないかけ離れた名前を使うのは、なかなかに苦労が伴うものだ。後に聞いた話だが、アルディスが完全な偽名を使わなかったのもこのような理由らしい。

 例外的にディアナは“ディアナ”を自分の名だと思ってはいないだろうが、彼女の場合はそもそも本当の名で呼ばれた記憶が無い。だから、不具合が生じていないといっても過言ではないのだろう。

 

「せ、先生……じゃあ、なんで、あたしには……」

 

 ならば、どうしてポプリには変な偽名を使ってきたのか。少なからず傷付いたらしいポプリが、縋るようにジャンクを見つめる。一方のジャンクはポプリの様子にたじろいだ後、ためらいつつも口を開いた。

 

 

「……物理的なショックで記憶が一時的に消し飛んでいたんですよ。ただ、単純に……あの時、すぐに自分の名前が思い出せなかったんです……」

 

「えぇっ!?」

 

 

 ジャンクの偽名には、きっと悲しい理由があるに違いない――誰もが、そう思っていた。なのにまさか、こんな反応に困る答えが返ってくるなどと、誰が想像したか。

 

 

「君のせいですよ……君のせいで、僕はよく分からない偽名を名乗ったんです……!」

 

「あ、あたしのせい……!? あたしのせい、なの……!? あたしのせいだわ……!!」

 

 これはポプリが悪い。何せ、出会ったばかりのジャンクに全力の攻撃術という名の物理的ショックを与えたのは、他でもないポプリだ。

 

「記憶が消し飛んだとはいえ、一部でした。なので、残った部分を咄嗟に繋ぎ合わせた結果が『ジャンク=エルヴァータ』です……“ジャンク”は時々ヴァロン様に呼ばれていた呼び名で、“エルヴァータ”は友人の姓ですね。慣れたら一緒ですから、もう良いんですけれど」

 

 ははは、とジャンクは笑うが、あまり笑える話ではない。ポプリは絶句してしまっているし、それはエリック達も同じだ。どこから訂正してやれば良いのか分からなくなってしまった。

 

「せ、先生……」

 

「気にしないでくださいね。ちょっと意地悪がしたくなっただけです。変な名前だとは思いますが、気にしてないので」

 

 何とか絞り出すようにして言葉を発したポプリに対し、ジャンクは穏やかな笑みを向けてみせる。彼のアシンメトリーな瞳に、恨みや怒りといった感情は一切含まれていなかった。

 

「きっと、“クリフォード”という僕の名を知っていても、君は……君達は、変わらなかったでしょう? ジャンクでもクリフォードでも、君達は『精霊の愛し子』でも『可哀想な子』でもなく、『僕』という人格を見て、接してくれただろうと、そう思っているんです」

 

 ああ、そういうことか、とエリックは思う。何らかの肩書きを前提に見られ、肩書きを元に勝手に『自分』を判断される悲しみを、エリックは知っていた。それに加えてジャンクの場合は、畏敬や恐怖、侮蔑や同情といった何らかの感情越しに接されることが多かったのだろう。『ジャンク』という名は自分の名前に、それどころか自分自身に大した価値を見出していないジャンクだからこそ、成立した名前だったのだ。

 そもそもポプリは、自分達は、彼を蔑む目的で『ジャンク』と呼んだことは、一度も無い。

 ジャンクはしっかりと、それを感じ取っていたのだろう。エリック達に向ける彼の笑みは、どこまでも優しいものであった。

 

 

「呼び方なんて、どうでも良いんです。そこに、僕への想いが感じられるから……だから、これからも。好きに呼んでくださって結構ですよ」

 

 

 これからも、という彼の言葉に。彼が「これからどうしたいのか」という想いが込められていた。

 

「……。良いのか? 絶対お前、辛い目に合うと思うんだが」

 

「はい。全く悩まなかったかと言えば嘘になりますが、決断はこれでも早かったんですよ?」

 

「敬語が取れないのに? 僕らに対して敬語のままなのに?」

 

「あ……そういえば、崩すのを忘れていたよ。まあ、敬語で喋ってしまうのは僕の癖なので、どう足掻いても完全には抜けないが、まあ、今まで通りですね?」

 

 意思は、硬いらしい。やはり癖だったらしい敬語が崩れ、聞きなれたあの変な喋り方に戻る。それができるくらいの、余裕があるのは間違いなさそうだ。

 

 ふいに、「あーあ」と残念そうな声が聴こえてきた。ロジャーズを含む、村人達であった。

 

「残ってくれないかなーとは思ったけど、駄目だったか。まあ、無理強いするつもりはないから、たまに帰っておいでよ。たまに、で良いから」

 

「君がどこに住んでいたのかは知らないけれど、ここは君の故郷同然なんだから。本当に、いつでも帰っておいで」

 

 残念だとは言うが、止める気はないらしい。いつの間にかやってきていたミカエラも、同じような反応を見せている。祖母の目線に合わせ、しゃがみこんだジャンクの頬に、ミカエラは愛おしそうに触れた。

 

「可愛い孫が決めたことだからね。寂しいけれど、仕方ないね」

 

「……ミカエラさん」

 

「“お婆ちゃん”って呼んでくれても良いんだけどねぇ?」

 

「そ……それは、ちょっと……」

 

 困惑するジャンクの両頬をぺちぺちと軽く叩き、ミカエラは笑う。「仕方ないね」と彼女は呟き、エリックを見上げた。

 

「孫を、頼むよ」

 

「……はい」

 

 実兄に続き、祖母にまでジャンクを託されてしまった。きちんとした形で愛されてこなかっただけに本人には届きにくいのだろうが、『家族の愛』というものをジャンクは一心に受けているではないかとエリックは思う。

 

 

「じゃあ、行こうか。本当に良いんだな? ――“クリフォード”」

 

 エリックに名を呼ばれ、空色の髪の青年は少し驚いた様子だった。しかし、彼は一切嫌悪感を見せず、少しだけ泣きだしそうな笑みを浮かべてみせる。

 

「二言はないさ。どこまでも着いて行きますよ……『僕』という存在を受け入れてくれた、お前達に」

 

 

 そうして青年は、母の生まれた村を旅立つ――今まで、飢える程に欲していた愛情を、確かにその身に感じながら。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.51.5

 

『残ってくれないかなーとは思ったけど、駄目だったか。まあ、無理強いするつもりはないから、たまに帰っておいでよ。たまに、で良いから』

 

『君がどこに住んでいたのかは知らないけれど、ここは君の故郷同然なんだから。本当に、いつでも帰っておいで』

 

 

――羨ましい、と思った。

 

 

「……ッ」

 

 駄目だ。このままじゃ、羨みが、妬みに変わってしまいそう。

 こういう時、あたしって本当に醜いなって、そう思うの。

 

 帰らなければ、良いだけの話だから。そう、あたしが“あの場所”に戻らなければ、良いだけの話。

 

 頭を振るい、少し遠くでエリック君と話す彼を見る。澄んだ青空のような、さらさらとした綺麗な髪。

 あれを伸ばさないのは、定期的に短く切ってしまうのは、ただでさえ母親似な上に、その母親が長い髪をしていたから、らしいのだけれど……もしかしたら、この先、伸ばそうと思うことも、あるのかも……なんて。

 

「……」

 

 気が付けば、あたしも自分の髪に手を伸ばしていた。

 

 あたしのうねった桜色の髪と、琥珀色の瞳はお母さん譲りだった。

 顔立ちもお母さんによく似てるって言われてたから、もしかしたら、今のあたしはお母さんそっくりなのかもしれない――それを考えたら、あたしは尚更、あの場所に“帰れない”。

 

 お父さんは、皆に慕われていた。皆に、大切にされていた。けれど、お母さんは、皆に嫌われてた。

 ただ、お父さんがお母さんを愛していたから、だから、あの場所にいられただけ。それだけだった……。

 

 

「ポプリ?」

 

 不思議そうに、彼がこちらを見ている。あたしが何を考えているかなんて、分かってなさそうだった。

 当たり前よね。あたしだってろくに、自分のことをあなたに教えてないんだから。

 

「……クリフォード、さん」

 

 彼の名を呼ぶ。あたしのせいで、名乗ることができなかった、その名前。

 それなのに、何でもないように「どうした?」と返してくれる彼に、あたしはもっと感謝した方が良いのかもしれない。

 

「ちょっと、呼んでみたくなっただけよ」

 

「……。長くないか? 僕の名前は」

 

 意味や、込められた想いを知った上で蔑ろにするのはどうかと思うが……とは言いつつも、素直な感想としてはまず第一にそこに至るらしい。

 そんなよく分からない彼の価値観に、思わず笑ってしまった。

 

「ふふっ、そうね。今までは“先生”って呼んでたから、何だか変な感じね」

 

「先生も先生でちょっと変な話ですよ。僕は医学の知識があるだけだから」

 

「呼び名に困ったんだもの。あたしのせいだけれど」

 

 色々と、彼のことを知ってしまった。だから、彼があたしに少しだけ心を開いてくれていることを、本当に申し訳なく思っている。

 

「はは。何なら……クリフ、でも良いですよ」

 

「……!」

 

 多分、この人は無意識のうちに、今までまともに得られなかった『愛情』をあたしに対して求めているから。

 そんな、純粋過ぎるほどの、幼い子どものような欲求を向けられる対象が、あたしなんかで良いとは到底思えない。

 だから、気が抜けきった緩い笑い方をされると、申し訳ないと思う気持ちが尚更強く込み上げてくる。

 

「……ポプリ?」

 

 流石に反応がおかしいことに気付かれたのか、彼の表情が段々と堅いものに変わっていく。

 あたしはゆるゆると頭を振るい、左右非対称の不思議な瞳と目を合わせた。

 

「何でもないわ。えーと……クリフ?」

 

 この人は、全く愛されてこなかった訳ではない。ただ、今まで与えられてきた愛は、その全てに何かしら違う思念が混じっていたんだと思う。

 

 哀れな彼の境遇に対する同情

 彼の持つ才能への嫉妬

 彼が便利な存在だからこその下心

 そもそも愛とは無関係な嫌悪や憎悪

 

 普通はそれでも大丈夫なんだろうけれど、よりによって彼は、それを察知してしまう能力者だった。だから、これまで植えつけられてきた恐怖心も後押しして、彼は他人に対して心を閉ざした。

 これは悲しいことだと思うし、間違いなく彼は能力の強さに苦しんできたんだろうけれど、あの能力に関しては、正直羨ましくもあるの。

 

 そう……今にして思えば、ああなったって、仕方が無かったのかもしれない。あたしに関しては、だけれど。

 

 だけどせめて。せめてあたしが、異変に気付けていれば。異変に気付けるような能力者であったならば。

 先生のような優れた透視干渉(クラレンス・ラティマー)の能力者であったなら……憎まれるのは、あたしだけで、済んでいたのかな、なんて。

 

 

『やっぱりあの女を招き入れるべきでは無かった! 領主様は、甘かったんだ!』

 

『あの女だけではない! 結局は領主様の決定が我々を不幸にした!!』

 

 忘れられない。

 忘れられる筈がない。

 

『そうだ、お前が償え……全ての罪を被れば良い』

 

『馬鹿な領主と悪女、その娘。ああ、ああ……貴様らが、いたから。いたから、私達は……!』

 

 やめて。お父さんとお母さんを、けなさないで。優しくて強くてかっこいい、あたしの家族を、侮辱しないで。

 

 

『この疫病神! アンタなんかが居たから……アンタさえ、居なければぁああっ!!』

 

 

――もう、戻らなければ良い。それだけよ。

 

 

「ッ、うふふ、呼び慣れていないから、何だか恥ずかしいわね……クリフ」

 

「そうこう言いつつ呼ぶんだな」

 

「良いじゃない。そのうち慣れるわ」

 

 喪失感。嫌悪感――それから、罪悪感。全部全部、慣れたつもりでいた。

 それなのに、こんなふとしたきっかけで胸が痛み出す……あたしも、まだまだね。

 

 素の勘が良いんだか悪いんだか分からない彼は、あたしの様子に少し戸惑っている様子だった。けれど、踏み込まないことにしたみたい。

 

「良いじゃないですかね? 僕も、君にそう呼ばれるのは、嫌じゃない」

 

「……そう? じゃあ、そう呼ぶわね」

 

 踏み込んできて欲しい気もしたけれど、彼にそれを望むのはとっても酷なことだって、知ってしまったから。

 だからせめて、今はあなたの傍にいさせて欲しい。あたしが持っているのは、あなたが求める美しい『愛情』とは違って、酷く淀んだ醜いものだけれど、許して欲しい。

 傍にいると、落ち着くの。ずっととは言わないから、だから、ごめんなさい。

 

 今だけで、良いから……あたしを、許して。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.52 強さの形

 

 ブリランテでしっかりと準備を整え、数日掛けて険しいカルチェ山脈を越えた。その後はディミヌエンドに寄って置き去りになったままだった荷物を回収し、街の人々に回収されそうになっていたアルディスを確保してディミヌエンドを出る――この騒動の際、アルディスってそういえば皇子だったな、と思ったのは秘密だ。

 それも、アルディスは国民に心から愛されている皇子だ。本人も漸く自覚したようだが、彼は本当に国民から大切にされている。ひとまず皇位継承の件は後回しにして来たが、絶対に彼を呪いから救い、この国に返さなければならない。頑張らなければ、とエリックは照れる親友の横顔を見ながら決意した。

 

 

――それにしても、だ。

 

 

 エリック達は今、ラドクリフ行きの船の上にいる。何となく一人で甲板に出て潮風に当たっていたところ、チャッピーがやってきた。周りに人もおらず、ちょうど良いので彼に話しかけようとエリックは自分より大きな鳥を見上げる。

 

「助かった。そして、悪かった」

 

『何がだい?』

 

「フェルリオじゃ、お前に頼りっぱなしだったってことがよく分かったから……」

 

『ああ……』

 

 ブリランテを出てから船に乗るまで、一週間以上掛かるとは思わなかった。

 

 何で帰りはこんなに時間が掛かるのかと驚いたエリック達だが、よくよく考えてみれば、行きはほぼチャッピーに頼りっぱなしだったのだ。それで半分以上移動時間が削れたのだ。必死だったとはいえ、いくらなんでもチャッピーを酷使し過ぎである。

 ノームとの接触が原因なのか、精霊同化(オーバーリミッツ)を得たことが原因なのかはよく分からないが、エリックもチャッピー――イチハの声を聴くことができるようになっていた。だが、まだまともに会話をしたことがなかった。恐らく、イチハがエリックの下にやってきたのはそのせいなのだろう。

 

『しかし、まあ……君が一番重かった。正直置き去りにしたかった。次は置いていって良いかな?』

 

「わ、悪かったな! でも脂肪じゃないぞ、筋肉だ!」

 

『分かってるよ。あーあ、俺様もそれくらい筋肉付けば良かったのになぁ……』

 

 どうやら、からかわれているらしい。何となくそんな気はしていたが、イチハは比較的陽気な性格のようだ。境遇を考えればもう少し陰気な性格になってもおかしくないと思うが、そうならなかったのはただ単に、彼が強いだけなのかもしれない。

 

「筋肉、ないのか?」

 

『アルディス皇子を見てみなよ。あの子、筋肉が無いわけじゃないけれど、結構細身だろう? あれでも、あの子の体質を考えたらほぼ限界まで筋肉付いてるんだからな……でもまあ、もう少し、行けるとは思うけれど』

 

「! そ、そうなのか……」

 

『俺は純粋な暗舞(ピオナージ)だから、あの子よりは筋肉質だけどさ。君に比べたらまだまだだ。そしてこれ以上は筋肉付かないし。だから、あんまりムキムキなの想像しないでくれ。俺様そんな醜いマッチョマンじゃないから』

 

 イチハは穏やかで落ち着いた大人の男、という印象だった……が、時々絶妙に残念な言葉を発するのは何故なのだろうか。「ははは」と笑って流そうとするエリックに若干苛立ったのか、イチハはムッとした様子で再び語りだす。

 

『言っておくけれど、俺様結構な美丈夫だから。身長も君より高いし、何より君より美しいから。俺様の魅力凄いから』

 

「いきなり何を言い出すんだ」

 

 何だこの自信過剰は。どれだけ自分の容姿に自信があるんだコイツは。陰気にならなかったのは自信過剰だからなのだろうか……などということをエリックがぼんやりと考えていると、ふいにイチハに頭をつつかれた。

 

「ッ! な、なんだよ」

 

『じゃなきゃ、クリフあそこまで気に病まなかったと思うんだよ。あの子はまだ、俺様の今の姿に責任感じてるから』

 

「……!」

 

 思わず黙り込んでしまったエリックに対し、イチハは一方的に、静かに自分達のことを語り始めた。

 

 イチハは元々実験体ではなく、幼い頃にフェルリオ帝国のリッカという村から拉致され、ヴァロンの奴隷として飼われていた存在だったらしい。暗舞(ピオナージ)は普通の純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)ほど魔力を豊富に持っておらず、実験体として使うには不十分な存在だった、そんな理由で彼は奴隷に身を落としたそうだ。

 

『実験体の世話、してたんだけどさ。一人、妙に情が湧いちゃったのがいてね。可哀想で、隠れて構ってたら少しだけ懐いてくれて……でもある時、何か“イヤなモノ”でも見せられたんだと思う。その子、駄目になる寸前で。もう見てられなくなって、こっそり逃がそうとして……失敗した。結果が、この姿』

 

 笑えるだろう? とイチハは自嘲的に呟いた。イチハ本人はそこまで気にしていない(ように見せているだけかもしれないが)これは残された方はたまったものではない。なるほど、トラウマになるわけだ、人と距離を置いてしまうわけだ……と、声には出さなかったがエリックは思っていた。

 だが、イチハの方も思うところがあったらしい。彼は再びエリックの頭をつつき、首を傾げてみせる。

 

『だから、君達は自分を大切にしてくれよ。腹立つくらい懐かれてるから、君達が壊れたら、流石にもう駄目だと思う』

 

 その言葉にはどこか「自分はもう良い」というニュアンスが含まれているような気がして。エリックは何も考えず、イチハの左翼部分に軽く肘打ちした。

 

「その言葉、そっくりそのままお前に返す」

 

『ッ、ははっ! 優しいよな、本当に。今回の王子は……君に関しては、まだ許せる気がするよ』

 

「……」

 

 イチハは、ラドクリフ王家が憎いのだろう――不幸中の幸い、その憎しみがエリックに向けられることは無いらしい。クリフォードの一件があったからこその態度なのだろう。あの件が無ければ、恐らくエリックも一族同様に憎悪を向けられていたに違いない。

 その後の言葉を発するのを、イチハは少し躊躇っているようであった。だが、大丈夫だと判断したのだろう。彼はエリックの頭をつつき、話を続けた。

 

『でも、多分ライは君のこと、無理だから。あの子は、性格も格好良い俺様とは違ってお子ちゃまだから……覚悟しといた方が良いんじゃないかな』

 

「ライ?」

 

 聞きなれない名前に反応し、エリックはイチハに説明を求めた。不必要に場が暗くなるのが嫌なのか、単純にそういう性格なのかは知らないが、どうしても入ってきてしまうらしい奇妙な発言は気にしないことにした。

 

『ライオネル=エルヴァータ。戦舞(バーサーカー)の子だよ。俺とクリフの友達というか、弟分で……あれだ、クリフと最後に揉めちゃってるから、色々大変かもしれない』

 

「! 分かった、大体察した……なるほど、エルヴァータ姓はそっからきたんだな」

 

 そういえば、クリフォードは「壁を作ったせいで悲しまれた友人がいる」と言っていた。その友人というのがライオネルなのだろう。

 イチハによると、ライオネル、イチハ、クリフォードの三名はラドクリフ王国の未開の地、オブリガート大陸にあるという『ルーンラシス』という場所で生まれ育ったのだという。ルーンラシスは神格精霊マクスウェルの加護を直接受けている場所であり、ライオネルだけは今もそこに残っているそうだ。

 

『ライには気を付けときな、あの子、間違いなく君より強いし』

 

「ッ、そんなの分かるのかよ」

 

『分かるさ。だって俺様の弟分な上に戦舞(バーサーカー)だし。ああ、戦闘になっても俺様は手伝わないからな。傍観者でいさせてもらうから』

 

「……そうか、助かる」

 

 何故ライオネルだけがルーンラシスに残ったのかは分からないが、エリック達の次の目的地に彼がいることは間違いなさそうだ。

 ライオネル側に加担されても仕方がないと思われたこの場面で、「傍観者でいる」と言ってくれたイチハに感謝しつつ、エリックは深い青色の水面を眺めていた。

 

(マクスウェルが、話の分かる奴だと良いんだけど、なぁ……)

 

 エリック達の次の目的地はルーンラシスだ。クリフォードの話によると、ラドクリフでエリック達が一度立ち寄った泉はなんとオブリガート大陸と繋がっているらしい。つまり、泉経由でルーンラシスに行けるのだそうだ。ただし、それは彼が精霊の使徒(エレミヤ)であった時の話であり、今も通れるのかは微妙だという話だが。

 

 問題はその“精霊の使徒”の件だ。どうにか交渉して能力を再度受け取っておかなければクリフォードの旅は極めて危険なものとなってしまうし、何よりこれは一番本人が気にしていたが、このままでは見事にお荷物状態なのである。この先何が起こるか分からないが、彼を守るのにも限度がある。ある程度は、自衛能力を身につけておいて貰いたかった。

 

「……」

 

 イチハは考え込んでしまったエリックをしばらく眺めていたが、飽きてしまったのだろう。彼はコンコンとエリックの頭をつつき、部屋へと戻っていった。

 

 

 

 

「エリック、風邪引くよ? そろそろ戻った方が良いんじゃないかな?」

 

 再びひとりで潮風に吹かれていたエリックの下に、誰かがやってきた。聴こえてきた声は、アルディスのものであった。彼は海を怖がる。珍しいこともあるものだとエリックはすぐに後ろを向いた。

 

「お前、怖くないのか?」

 

「ん……そうだね、近付くのは、もう大丈夫みたい」

 

 多分浸かるのはまだ無理だけど、とアルディスは困ったように笑う。その言葉は嘘ではなかったようで、彼はエリックの左隣、落下防止の手すりの傍までやってきた。

 ふと、思い立って試しに来た、という感じだった。潮風を浴びながら、彼は被っていたフードを下に落とした。

 

「お、おい!」

 

「大丈夫だよ。俺が“フェルリオの英知”って知ったら、多分みんな引っ込むから」

 

「……お前、それ」

 

「事実だよ。特に力のない民間人なら、尚更。軍人だったとしても複数人まとまってじゃなきゃまず来ない。君のお兄さんくらいじゃないかな? 一騎打ちで勝負仕掛けてきたのは」

 

 アルディスは海をぼんやりと眺めながら、何でもないようにそんなことを言ってみせる。妙に幼いその横顔は、細められた翡翠の瞳は、妙に幼く思えた。

 

「こんな見た目だからね。知らなきゃ当然、舐められるよ。だけど、知ってたらまず普通には襲いかかってこない。君は普通にしてくれるけど、フェルリオの英知ってそんな存在」

 

「……」

 

「クリフさんの言うことが本当なら、あと数年もすれば多分、ますます距離置かれるような状況になるだろうね。まあ、この見た目どうにかなる方が俺は嬉しいから、それはそれで嬉しいんだけど」

 

 彼の見た目が幼いのは、ヴァイスハイトであることが関係しているらしい。ヴァイスハイトは体内魔力の増幅と成長期が直結しているために、普通の人間にとっての成長期がどうしても数年遅れてしまうのだそうだ。アルディスの場合、虚無の呪縛(ヴォイドスペル)の影響も受けてしまっているために尚更成長に遅れが出ているらしい。だが、成長期がもう来ないというわけではないらしく、数年後には年相応の見た目になれるだろう、という話だった。

 もうこれ以上成長しないだろうと諦めていたアルディスにとっては朗報だったようだが、彼の場合、身体が成長することで良くない影響も生じてしまうようだ。

 

「俺には君達がいるから、もう良いんだ。だけど、誰にも受け入れてもらえないのは、拒絶されるのは、結構堪えるよ。俺はクリフさんみたく、表面だけ繕って立ち回るのは無理だから、ああやって森に引きこもることしかできなかった……だからきっと、君達が現れなければ俺は狂っていたんじゃないかって、思う」

 

「アル……」

 

「楽しかったんだよ、本当に。嘘じゃない……憧れていたんだ、友達っていうものに」

 

 そう言って、アルディスはエリックへと視線を移す。少し涙で潤んだ翡翠の瞳は、真っ直ぐにこちらを見ていた。

 

「君にだったら、殺されても良いって思ってたんだよ。そうじゃなきゃ、君達の傍に居続けようなんて、思わなかったと思う。だけど、それ以上に俺は、生きたかった。エリックやマルーシャと過ごしたあの日々を、偽りのまま終わらせたくなかった……本当は、未練しかなかった」

 

 それでもあの行動に移したのは、もう気付かれているだろうと思っていたこと、何よりスウェーラルの惨状を見たことによって平常心を欠いてしまったことが理由なのだという。元々「エリックに殺されても良い」と覚悟を決めていた彼の行動は、ほとんど迷いがなかった。

 

「君が、俺を信じてくれたこと、感謝してるんだよ……だから、海が怖くなくなったんだと思う。俺はもう見捨てられないんだって、知ることができたから」

 

 自惚れかもしれないけどね、とアルディスは笑う。彼が、水に恐怖心を抱いた根本的な原因は、誰も彼を助けなかったことにあったのだろう。母国のために必死に戦ってきたのに、最後の最後に裏切られた、と幼心に感じてしまったのかもしれない。

 

「任せろ。何度溺れても、助けてやる。お前だって僕らのこと何度も助けてくれているし、これからも助けてくれるんだろう?」

 

「当たり前だよ」

 

 また泣くのではないかと心配していたが、今回は踏みとどまったらしい。アルディスの憂いのない力強さを感じられる笑みに、エリックは内心安堵していた――が、

 

 

「お、おい! アイツ、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)じゃねぇか!?」

 

「いつぞやの金髪赤目も一緒かよ!」

 

 

 廊下と甲板を繋ぐ扉が開き、傭兵と思わしき男達が現れ、自分達を凝視していた。エリックは彼らに見覚えがあった。フェルリオ行きの船で、とんでもない爆弾を落としていった男達だ。

 だが、彼らに出会ってしまったことを嘆くよりも、明らかに苛立った下品な舌打ちがアルディスの方から聴こえてきたことを気のせいだと信じたかった。

 

 

「不敬な者共だ。我々を誰と、心得ている?」

 

「!?」

 

 

 何か始まったが、これは止めた方が良いのだろうか。そんなことをエリックが思うよりも早く、男達が喋り出す――嗚呼、分かってはいたが、こいつら馬鹿なんだ。

 

「なんだ? フェルリオの貴族様か?」

 

「俺達はなぁ、貴族の坊ちゃんに脅されるほど、弱くは」

 

 ドスッ、と変な音がした。男達がゆっくりと首を動かすと、それぞれの顔の傍に、ナイフが突き刺さっていた。

 

「口を慎め、無礼者が」

 

「あ、アル……」

 

 船に傷を付けるんじゃない、だとか、何でそんな傲慢なお姫様みたいな喋り方してるんだ、だとか、もはやどこから話を切り出せば良いのやら分からなかったが、とりあえず彼がとても怒っているらしいことはよく分かった。ついでにとても面白いのでまあ良いか、とエリックは思っていた。

 男達は流石にアルディスという少年の異様さに気付いたのか、固まってしまっている。そんな彼らに、アルディスはゴミを見下すような冷めた眼差しをぶつけていた。

 

 

「――無様な奴らよ。貴様らにアベル殿を侮辱する資格など無いわ」

 

「んな……!?」

 

 唐突にアルディスが爆弾を落としてきた。それに、変な反応をしてしまった時点で馬鹿な男達も気付いてしまったようだ――エリックが、“アベル王子”であるということに。

 

「……は?」

 

「貴様らはアベル殿を随分と馬鹿にしておるようだが……貴様らごときに、我と互角に戦うアベル殿が負けるわけが無いわ。身を慎むがいい、愚者共が」

 

 アルディスは男達を見下したまま、左の手袋を取ってみせた。流石に止めるべきかと思ったが、もうどうしようもなく面白かったので放置しておくことにする。

 第一、声にならない悲鳴を上げ、震えながら背を向けて逃げるように去っていった男達からは小物臭しかしなかったので、きっと大丈夫だろう。

 

 

「ね? 普通は怯えて逃げるんだって」

 

「違う、そうじゃない……」

 

「傲慢な皇子ごっこ楽しかったよ」

 

「アレは皇子というか姫だ……だけどまあ、僕も楽しかったし、スカッとした」

 

 アルディス渾身の『傲慢な皇子(姫)ごっこ』が炸裂した男達が戻ってくる気配はない。どうやら本気で怯えてしまったらしい。アルディスではないが、本当に無様な奴らだと思わずにはいられなかった。

 

「でしょ? 俺もあのオッサン達には仕返ししたかったから、本当スカッとした。エリックも次は一緒に傲慢な皇子ごっこしようよ」

 

「嫌だ……」

 

 仕返しの方向性がおかしい。だが、彼が物理的な仕返しをするとあっさり人命が飛んで行きそうなので、これはこれで良かったのかもしれない。自分には絶対にできないだろうな、と思いつつ、エリックは苦笑しながら手すりにもたれかかった。

 

「でも、エリックちょっとは自信付いたんだね。強くなったんだね。正直、安心したよ」

 

「え?」

 

「表情も態度も、前と全然違ったから。これは、本当にいつか俺負けるかもしれないなぁ」

 

 自信が付いた、強くなった、と言われて思い返すのは、フェルリオでの出来事ばかりだった。だが、決定打となったのはやはり、アルディスの一件だろう。

 ノア皇子が人の子であるということを知り、自分と同じ人間である彼と対等な立場になりたいと思えたことが、エリックを強くしたのかもしれない。

 首元のレーツェルに触れ、アルディスを見据える。きっと自分は今、笑っているだろう。

 

「ああ……いつか、勝ってみせるさ。絶対に」

 

「ふふ、負けないよ。生半可な覚悟で来ないでよね」

 

「分かってる」

 

 今のアルディスは親友であると共に、同じ志を持ち、共に戦うライバルだ。フェルリオ云々の前に、エリックはどうしても彼を救いたかった。それは間違いなく、共に旅をする仲間達も同じ意見だ。エリック達がマクスウェルのもとに行こうと決めたのは、彼を救う手段を探すという目的もあってのことだ。

 虚無の呪縛(ヴォイドスペル)についての資料は、恐らくルネリアルには無いだろうとクリフォードは言っていた。あるならばトゥリモラだろうと。それも、表向きには公開されていないような、それこそ研究施設の中にあるに違いない、と。

 それならばいっそ、マクスウェルに聞いてみた方が早い気がするという彼の言葉に、彼の能力の件もあってルーンラシス行きが決定したのだ。一刻も早くルネリアルに行ってゼノビアとアルディスを面会させた方が良いような気もするが、もはや少々の寄り道は今となっては大した問題ではないだろう。

 

「まあ、それは一旦置いといて、だ……セーニョ港に着いたら、真っ直ぐ泉に行ったんで良いんだよな? あの場所なら、途中どっか寄らなくて大丈夫だよな?」

 

「だね。泉が使えなかった場合のことは、その時考えたんで良いと思う」

 

 何はともあれ、船がセーニョ港に着くまではまだ三日ほどかかる。今は焦らず、のんびりと船旅を楽しむべきだろう。そんなことを、エリック達が考えていた時のことだった。

 

 

「――地中に身を潜めし魔獣よ。汝、我が呼び掛けに応え、その姿を現せ!」

 

 

「!?」

 

 突如聴こえてきた、幼い少女の声。少女が紡ぐ詠唱に反応し、甲板に巨大な橙色の魔法陣が浮かび上がる。アルディスが咄嗟に拳銃を取り出したのを見て、エリックも弓を構えた。だが、彼らが対象を見つけ出すよりも、術の完成が早かったらしい。

 

「ライオットホーン!」

 

「ッ! イチかバチかだ!」

 

 複数の巨大な岩が、甲板を突き抜けエリック達に襲い掛かる。エリックは咄嗟に傍にいたアルディスの腕を掴み、背に翼を出現させると共に地面を強く蹴って飛び上がった。

 精霊同化(オーバーリミッツ)を取得したことにより、翼を出せるようになったエリックだが、まだ満足に飛ぶことはできない。せいぜい数十秒、数メーターの高さで滞空していられるだけだ。だが、襲いかかる岩が身に直撃することを防ぐことはできた。剥がれた甲板の破片に多少身を切られてしまったが、これくらいは許容範囲であろう。

 

 

「……避けられる、なんて」

 

 不意打ちが通用しなかったことを残念がるように、術者――ベリアルが、ボロボロになってしまった甲板の上に降り立つ。紫の髪を揺らし、彼女は大きな丸い瞳でこちらを不安げに見つめていた。

 

「やっぱりお前か……いや、お前だけ、なのか?」

 

「……」

 

 ベリアルは、何も言わない。だが、彼女以外の気配は今のところ感じられなかった。また不意打ちが来ると困るが、今は目の前の彼女に集中した方が良いだろう。

 少女は、震えを抑えるように自分の身体を抱き、両目を閉ざした。それは決して怯えているのではなく、覚悟を決めていたのだということは、再び開かれた彼女の菫色の瞳に灯された強さが、教えてくれた。

 少女は首元の橙色のレーツェルに触れ、武器を取り出す。その武器は、以前見た巨大なハンマーではなく、赤黒い不気味な色をした、大鎌であった。

 

 

「――あなた達が、あなた達の持つ剣が、必要なんです! だから、あなた達を倒して、その剣を、奪います……!!」

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.53 紫色の少女

 

「俺達が持っている、剣……? 一体、何の話だ?」

 

 宝剣キルヒェンリートを取り出し、その柄を握り締めながらアルディスはベリアルの言葉を反復する。一体何の話だ、とでも言いたげな様子だが、エリックはひとつ、思い当たる節があった。

 

「もしかして、そういうことだったのか……?」

 

「エリック? ……いや、それどころじゃ無さそうだ!」

 

 叫び、アルディスはベリアルの元へと駆けた。彼は大鎌を振り上げ、飛び上がった彼女の傍まで大きく飛躍すると空中で剣を薙刀へと変化させ、防御の姿勢を取る。

 

牙霊閃華(がりょうせんか)!」

 

 ベリアルの大鎌の刃が、不気味な紫の炎を纏ってアルディスを襲う! 身を焼かれる痛みに耐えながらも、アルディスは身体を捻り、薙刀を振るった。

 

「ッ、蒼破刃(そうはじん)!」

 

「――連撃せよ、夜明けを告げし赤き大翼!」

 

 至近距離から飛んできた青白い衝撃波に、ベリアルが怯む。エリックはすかさず指先へと意識を集中させ、赤い炎を纏った矢を生成する。

 

暁緋鶴(あかつきひづる)!」

 

 指を離れ、放たれたのは赤き五連の矢。それらは真っ直ぐにベリアルへと飛んでいき、その小さな身体を容赦なく焼いていった。

 

「ひっ! きゃああぁ!!」

 

 幼い悲鳴が上がるのを聞きながら、エリックは弓を剣へと変化させる。以前よりも僅かに細身になった宝剣ヴィーゲンリート――フェルリオ横断中に、少しずつ形状を自分に合わせて変えていったものだ――を構え、エリックはアルディスと入れ替わるように前へと飛び出した。地に落ちてきたベリアルの真下に、十字の陣を描く。

 

絶破(ぜっぱ)十字衝(じゅうじしょう)!」

 

 地面から湧き上がるように、冷気を纏った衝撃波がベリアルを襲う。だが、ベリアルは苦痛に顔を歪め、その瞳に涙を浮かべながらも体制を立て直し、そのまま勢いに任せて大鎌を振るった。

 

「――(ごう)煉哭衝(れんごくしょう)!」

 

 刃の切っ先はエリックの足元を抉っていた。それは一見、狙いを外してしまったかのように思えた。だが、抉られた床は、眩い光を放っている。まずい、とエリックは大きく後ろに飛躍した――その時!

 

「ッ!? がっ、ああぁあっ!!」

 

 地面から吹き出した細い、数多の光線が一斉にエリックに襲いかかり、彼の身を貫き、焼いた。焦げ臭さと血の臭いが辺りに広がっていく。衝撃を受け、ふらつく足を叱責し、エリックは再び剣の柄を握り直した。

 

 

「――穢れなき生命の波動よ。傷付きし我が友に、今希望をもたらせ!」

 

「――豪傑の慧眼よ。己が道を往く我らに、終えぬ闘志を宿せ!」

 

「!」

 

 背後から聴こえて来たのは、よく知る少女達の声。エリックは傍にいたアルディスと顔を見合わせた後、再び上空に飛び上がったベリアルの元へと駆けていった。

 

「――キュア!」

 

「――ブレイブコンダクター!」

 

 少女達の声に応え、出現した淡い色の暖かな光がエリックを包み、負ったばかりの傷を塞いでいく。右手に感じるのは、熱さを感じるほどに力強い闘気。同じく気を纏ったアルディスと共に、エリックは高く飛躍した。

 

飛天翔駆(ひてんしょうく)!」

 

鳳凰天駆(ほうおうてんく)!」

 

 身体を捻り、ベリアルよりも高く飛び上がった二人は交差するように少女に向かって急降下する。だが、二人が描く軌道を見切ったのだろう。ベリアルは瞬時に翼を消し、足場の悪い甲板の上に降り立った。

 

「――奏でよ、そして響け! 獰猛たる大地の咆哮! ロックブレイク!」

 

 規模は小さいが、再び岩が甲板の床を突き出し、地に降りた直後のエリック達に向けて襲いかかった! 避けることは叶わず、岩はエリック、アルディスの身を割き、貫いた。

 

「ッ、流石……詠唱が早い。全部止めるのは、厳しいかもね」

 

「ははっ、やっぱり単独でも充分強いな……悪い、マルーシャ、ディアナ。行けそうな時に治癒術頼む」

 

 それでも、これだけで倒れるほど今のエリック達は弱くない。流れる血を拭いつつ、彼らは目の前の幼い少女へと目を向ける。見た目で侮ってはいけない。こちらも本気で行かなければ。

 

「その……あんまり派手にやっちゃうと、船沈んじゃうかも……」

 

「今はポプリとジャンが何とかしてくれてるが、さっさと終わらせないと危険だ!」

 

 忠告し、マルーシャとディアナが詠唱を開始する。ポプリとクリフォードがここに来なかった理由はそれかと、エリックはどうしようも無い程に傷付いた甲板をちらりと見た後、ベリアルに視線を戻した。

 

「……だ、そうなんだが……」

 

「え、ええと……! 関係ない、です! その剣を手に入れるためなら!」

 

「誰に命じられた? 兄上か? ヴァロンか?」

 

「……」

 

 言いたくない、言えない、という様子だった。消していた両翼を出現させ、ベリアルはエリックの元に飛び込んでくる。その手に握られた大鎌は、バチバチと青白い火花を散らしていた。

 

「――狂乱桜(きょうらんざくら)(いかずち)!」

 

 切っ先から放たれる、青の雷撃。それはベリアルが振るう大鎌の軌跡に沿って散り、エリックの周囲でバラバラになって爆ぜた。奥歯を噛み締めて衝撃に耐え、ベリアルの攻撃を受け止める。

 

「――爪竜連牙斬(そうりゅうれんがざん)!」

 

 エリックと向き合っていたベリアルは、横から迫って来ていたアルディスの存在に気付けていなかった。彼女は短く悲鳴を上げ、そのままアルディスの連撃に巻き込まれていく!

 

「……ッ、負け、ない……!」

 

「――光明纏いし、天の御使い。代行者たる我の前に舞い降りよ!」

 

 即座に剣を弓に変化させ、エリックは指先に出現させた眩い光の矢をベリアルではなく、上空へと放った。

 

天来白鴉(てんらいはくあ)!」

 

 刹那の間。その後に降り注いだのは数多の光の矢。それらは逃げ場等ないと告げるかのように甲板を、そしてベリアルの身体を貫いていく。痛みに生理的な涙を浮かべながらも、少女は倒れなかった。

 

「――清き羽衣、傷付きし者を包みて癒せ! ファーストエイド!」

 

 素早い詠唱が、少女の傷を癒していく。だが、彼女にそこまでの余裕が無いということは、使った治癒術が下級のものであったことからして明白だ。ベリアルは上空に飛び上がり、再び詠唱を開始する。それを阻もうと駆け出したエリック、アルディスは、潮の香りや血や埃の臭いと混ざってほのかな花の香りがすることに気が付いた。

 

 

「――凛と咲き乱れし花々よ! 我が想いに応え、艶やかに舞い上がらん!」

 

 マルーシャの詠唱だ。複雑な魔法陣が、甲板に描かれる。そして恐らく、この術はたった今得たものなのだろう。その文言は、初めて聞くものであった。

 

「アリーヴェデルチ!」

 

 海上で舞い上がる、艶やかな花びら。それにより、他の臭いを打ち消すほどの心地よい花の香りが周囲を包み込んだ。一体何の術なのだろうと思ったが、その答えは戦いの中で負った傷が、少しずつ癒されていったことによって判明した――マルーシャの、新たな治癒術だ。

 

「きゃあぁあっ!!」

 

 だが、この術はただ癒すだけでは無かったらしい。エリック達を癒した花びらは、同時にベリアルを切り裂く刃であったのだ。美しい花びらに混じって、ベリアルの血が宙に散る。悲痛な叫び声を上げ、体勢を崩してしまった彼女の元に、レイピアを握り締め、身に炎を纏ったディアナが勢いよく突っ込んでいく!

 

「紅の波動、示すは終焉への軌跡。その身を赤く染め、汝が道を断たん!」

 

 鮮やかなディアナの両翼の色が落ち、白へと変わってく。一見するとそれが分からなかったのは、彼女が纏う炎の赤さゆえだろう。目にも留まらぬ速さでベリアルを斬り付けながらも宙を駆け巡る彼女が描くのは、眩いほどの朱色の輝きを放つ、焔の陣。

 

 その完成と共に、ディアナは陣から距離を取り、レイピアの刃に手を添え、叫んだ。

 

 

「煌めけ! ――焔舞(えんぶ)烈砕煌(れっさいこう)!!」

 

 

 陣が爆ぜ、周囲を焼き尽くさんばかりの熱風が広がる。聖火に身を焼かれ、悲鳴を上げることさえもできず、ベリアルは無抵抗に瓦礫の山と化した甲板に墜落した。

 

「ッ、は……っ、はぁ……」

 

 荒い息遣いは、未だ意識を保ち続けるベリアルと、そして力を出し尽くしたらしいディアナのものであった。ベリアルが起き上がり、まだ戦おうと大鎌を握り締める姿を見て、ディアナは目を丸くしている。己の全力をもってしても幼い彼女を立ち上がらせてしまったことに、少なからずショックを受けているのだろう。しかし、ベリアルはもう戦える状態などではない。エリックは出現させた矢を、静かにベリアルの足元を狙って放った。

 

鴇ノ雅(ときのみやび)

 

 無詠唱で放たれた、橙色の矢。それは床板に突き刺さり、少女の周囲に色鮮やかな美しい花々を芽吹かせた。芽吹いた花の香りは弱ったベリアルの鼻腔を刺激し、少女の瞼を強制的に重くし、閉ざさせる。そして少女は、ふっと身体の力を失くし、花の中に埋もれるようにして意識を失った。

 

 

「良かった、決まった……ギリギリってところか……」

 

 エリックが放つ地属性の矢『鴇ノ雅(ときのみやび)』には殺傷能力が無い。その代わり、対象を強制的に眠りにつかせる効果がある。だがそれは、対象に抗う力がある状態では通用しないのだ。マルーシャの『アリーヴェデルチ』、ディアナの『焔舞烈砕煌(えんぶれっさいこう)』がベリアルの体力を大幅に削っていなければ、強い意思を持っていた彼女には効かなかったに違いない。

 エリックが気を失い、倒れたベリアルを確保し、アルディスが疲れ果てて座り込んだディアナの元へと向かう。マルーシャは、エリックとベリアルの元へと歩いて行った。その足取りがどこか覚束無いものに、エリックは気付いた。

 

「マルーシャ、お疲れ様。僕らは助かったが、君は大丈夫か? 疲れているように見えるんだが……」

 

「ううん、大丈夫だよ」

 

「それにしても、アリーヴェデルチ、だったか? すごい術だったな」

 

 ベリアルを抱きかかえながら、エリックはマルーシャに微笑みかける。マルーシャは気を失い、ぐったりとしたベリアルの顔へと視線を移し、口を開いた。

 

「……。うん、そうだね……わたしも、びっくりしちゃった、かな……」

 

 そう言って、マルーシャは顔を上げて「えへへ」と控えめに笑ってみせる。そんな彼女の小さな笑い声を打ち消すように、アルディスとディアナが叫んだ。

 

 

「ちょっとこれ、何とかしないと本当に船沈むと思うんだけど!!」

 

「すまない、オレのせいだ!! ジャンを呼んできてくれ!! 消火だ!!」

 

 

――船は、あまりにも無残なものと化していた。

 

 

 

 

「ああ、うん……大丈夫よ、これくらい。ただ、セーニョ港からあたし、戦線離脱させてもらうわね……さっきも戦ってなかったのに、ごめんね……」

 

「いいよ、わたし達に任せて! 水の遮断は大事だもん!! ……こっちこそ、ごめんね」

 

「ディアナ、君の火はなかなか手強かったです。良い経験になったんじゃないか? 精霊同化(オーバーリミッツ)に続いて、秘奥義も取得するなんて」

 

「な、何か……行けそうだったから、行ってしまった……こんなところで火の技使ってすまない、船が燃え尽きなくて、良かった……」

 

 船を沈ませないために、戦闘に参加していなかったポプリとクリフォードが船上を駆け回る。いたる所に空いた穴から水が入らないように術式を刻み、所々で燃え盛る炎を強引に水属性魔術で消火し、何とか船を海の上に浮かせ続ける――この二名がいなければ、間違いなく船は沈没していただろう。

 しかもポプリに関しては目覚めたベリアルが暴れないようにと、彼女の行動を制限する魔術まで使っている。どう考えても負担が大きすぎる。セーニョ港まで持てば良いのだが。

 なお、エリックとアルディスは迷うことなく船長に全力で頭を下げに行っていた。両国の代表に頭を下げられる船長は一体どんな気持ちになったのだろうか……。

 

 

 大惨事がひと段落し、六人は再び甲板に集った。甲板は見るも無残な姿と化してはいたものの、辛うじて人が難なく立てる状況は保っている。とりあえずこの船は母に頭を下げてでも買い取ろうと思う――そんなことを考えていたエリックの耳に、少女の悲痛な悲鳴が届いた。

 

「! 今のは!?」

 

「行こう、エリック!」

 

 ベリアルが目覚めたのだろうが、目覚めて早々悲鳴を上げるとは思えない。何かがあったのだろうと考えるべきだ。エリックはアルディスと共に、ベリアルを軟禁していた部屋へと駆け込んだ。

 

 そこで見たのは、アルディスが『傲慢な皇子ごっこ』で脅迫した男二人の姿だった。

 

「へへ、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)は高く売れるからなぁ……おい、そこの鳥! 邪魔だ!!」

 

「ノア皇子は無理でも、こいつらなら大丈夫だろう」

 

「……」

 

 見たくなかった。部屋の隅でチャッピーに縋り付きながら可哀想な程震える幼い少女と、その少女にニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべながら近寄る男達の姿なんて。心の底から見たくなかった。

 ついでにこんな男達に劣等感を刺激されて暴走した約一ヶ月前の自分に対して吐き気しかしない。

 

 エリックは無言で、ベルトに指していた短剣に手を伸ばす。奇遇にもアルディスの手にもナイフが握られている。恐ろしい程の団結力を発揮した彼らは、すっと男達の背後に近寄り、彼らの両手を拘束してその首筋に刃物を突きつけた。

 

 

「そんなに胴体と別れたいようだな。別れ話は済んだか? この下衆が……ッ」

 

「我らに勝てぬからといって、幼い少女に手を出すとはなぁ……無様で間抜けなものよ」

 

 

――嗚呼、やる予定なかったのに。『傲慢な王子ごっこ』。

 

 拘束を緩めてやれば、男達は悲鳴を上げながら抜かしてしまったらしい腰と戦いつつ部屋を飛び出していった。本当に、どうしようもない程に小物臭しかしない。

 エリックは部屋に残されたベリアルへと視線を移す。チャッピーの首に縋り付き、震える彼女の涙腺が――とうとう、決壊した。

 

 

「ふ……っ、ふぇえええぇん!!! もうやだぁあああぁあ!!!」

 

 

「!!??」

 

 菫色の瞳から大粒の涙を流し、ベリアルが泣き叫ぶ。黒衣の龍幹部とはいえ、ベリアルはどう見ても幼い少女。本来ならもう限界を迎えてしまっていてもおかしくはなかった。ギリギリのところで耐えていたものが、理性の壁が、男達の襲撃によって崩壊してしまったのだろう。

 

「あ、ああもう泣くな! 大丈夫だから、な?」

 

「助けて、怖いよぉ……! ダリ、フェリ……うえぇええん、うわぁあああぁん!!!」

 

「そんな泣かれたら俺達誘拐犯みたいじゃないか! 泣かないでよ……!!」

 

 少女の我慢がキャパオーバーしている。どうしたものかと狼狽えるエリックとアルディスの元に、仲間達が次々と駆け付けた。

 

「だ、ダリとフェリって誰かな……」

 

「ひょっとして他の黒衣幹部の愛称か? ダリウスの愛称がダリなら納得できる」

 

「! そうだ、ダリはいないけどダリの弟はいるわ!! 泣いてる子どもは苦手だって、部屋の外で狼狽えちゃってるけど……」

 

「んなもん知るか! クリフォード、来い!!」

 

「は、はい!」

 

 名を呼ばれ、ダリの弟ことクリフォードが開いたままになっていた入口から部屋に入ってくる。本当に泣いている子どもが苦手らしく、目を閉ざしたまま、酷く顔を引きつらせた彼は、恐る恐るといった様子でベリアルへと近付いていった。

 

「ううっ、ひっく……ぐす……うええぇええん……っ!」

 

「……。あの、そ、そのー……」

 

 泣き喚く少女に近付く、オドオドした青年という図もなかなか酷いものであったが、それでも先程の男達よりはマシだ。道を開けてやれば、クリフォードはゆっくりとした動きでベリアルの前へと移動し、これまたゆっくりとした動きで少女の前に屈み込んだ。

 

「……? だ、ダリ……?」

 

「ダリの……ダリウスの、弟、です……」

 

 少女の涙が、ピタリと止まる。ダリ=ダリウスで間違いなかったようで、エリック達はクリフォードに悪いと思いつつ安堵した。ベリアルは涙に濡れた顔を必死に拭い、目の前で盛大に視線を泳がせている青年の顔をまじまじと見つめながら、口を開いた。

 

「本当だ……似てるけど、ダリより、女の子っぽい……?」

 

「初対面の人にそう言うこと言っちゃダメって兄から教わってないですか!?」

 

 泣き止むなり、少女はいきなりクリフォードのコンプレックスを盛大に刺激した。余程ダリウスと仲が良いのだろうが、その弟に対して非常に馴れ馴れしい。

 

「……。僕は、母親似なんですよ。だから、その……」

 

「女の子っぽいの?」

 

「ッ、き、気にしてるんで次からそれ禁止だ……!」

 

 ベリアルが軽く首を傾げ、悪びれる様子もなくクリフォードに言葉の刃を突き立てる。青年は少女の連撃に若干挫けそうになっている。これには耐え切れず、エリック達が吹き出した。

 

「とりあえず、泣き止んでよかった……すまん、クリフォード」

 

「もう良いです……兄は男らしく育ったんだなって思っときます……」

 

「いや、ダリウスも割と中性的だったかな……」

 

「……母の遺伝子強すぎませんかね……」

 

 エリックの言葉にがっくりと肩を落とし、クリフォードは頭痛に耐えるようにこめかみを押さえている。しかし、そのままでは駄目だと思ったのだろう。彼は顔を上げ、両目を開くとベリアルの菫色の大きな瞳を見据えて微笑んだ。

 

「ダリウスの弟、クリフォードと申します。君の名前を、教えて頂けませんか?」

 

 知人に似た容姿と、穏やかな口調に安心したのだろう。少女は少し考え、ゆっくりと口を開く。

 

 

「ベティーナ。ベティーナ=ウィンズロー……名前、“ベリアル”じゃなくて、こっちが良いんです……よね?」

 

 

 菫色の瞳を細め、微笑む彼女はもう、自分達に警戒心を抱いていないようであった。

 

 

 

 

 彼女の立場を考えると大丈夫なのか不安になったが、黒衣の龍幹部の少女、ベティーナは「わたしのことだったら、良いんです」とエリック達に色々なことを話してくれた。

 

 ベティーナは十一年前に実験施設で誕生した、ラドクリフ生まれの少女だった。しかし、そのまま実験体になることはなく、特殊能力が希少な天恵治癒(エルフリーデ・イヴ)であったことを理由にヴァロンに見出され、そのまま彼に仕えているらしい。彼女が言うことを聞くことを条件に、両親はまだ生かされているとのことだ――その時点で脅迫なのではないか、とエリック達は眉をひそめたが、ベティーナは「怖いけど嘘は吐かないから平気です」と微笑んでみせた。

 ダリウスは幼い少女にとって兄のような存在らしい。彼の口から、弟がいるという話を度々聞くので、どんな人か気になっていたとのことだった。だが、それ以上は聞かせてもらえず、ダリウスの次の行動を予測することは不可能だった。

 

「ベティーナ。“フェリ”っていうのは、フェレニーのことかしら」

 

「……何も、言えません」

 

「そう……」

 

 それは“フェリ”という人物についても同様だった。ダークネスを名乗るダリウス、ヴァルガを名乗るヴァロン、そしてベリアルを名乗るベティーナというように仕事名と本名が繋がっている流れを見る限り、恐らくフェレニーのことを指しているであろうことは確かだ。だが、詳細は不明であった。少女は最初に言った通り、やはり自分のこと以外は話す気がないらしい。それはエリックとアルディスの持つ宝剣を狙った理由についても同様で、その件について彼女は何も口にしなかった。

 ポプリには何か思うところがあるようで、彼女は“フェリ”という人物について特に知りたがっている様子だった。それでも、ただ聞くだけだ。レーツェルを取り上げ、更に術が使えないように魔術封じを発動してはいるものの、ベティーナに危害を加えるつもりはない。そんな彼女らの様子を感じ、ベティーナは不思議そうに首を傾げてみせた。

 

「……皆さんは、優しいんですね。拷問とか、しないんですね」

 

 覚悟してたんですよ、とベティーナは笑う。油断させておいて後から……という発想には至らない辺りが、彼女の子どもらしさなのだろうと感じる。勿論、そのつもりはエリック達には無かったが。

 

「あー、そうだな……お前があまりにも無防備で暴れないから、こっちもそういう発想にならなかったんだよな。信じるかどうかは別だが、正直その類のことをする気はないよ」

 

「アベル王子……?」

 

「そうだ。僕らは前にダリウスに助けられてるんだ。だから、その借りを返すって形でどうだ?」

 

 ちらり、とエリックは仲間達へと視線を移す。異議は無いようだ。後々のことを考えれば、甘すぎる判断だろう。だが、ここまで自分達に心を開いてくれている幼い少女を殺す気にはどうしても慣れなかった。

 むしろ、そうするくらいならば黒衣の龍を相手にした交渉材料として、彼女を捕虜として連れていた方が賢いような気がする。捕虜として使えるかどうかは、その時に分かる。どうしようも無ければその時に考えれば良い……と、楽観的なことをエリックが考えていた時のことだった。

 

 

「……ゾディート様が心配するのも、分かる気がする」

 

 

 ぽつり、とベティーナが口にした言葉。その言葉を、エリックは聞き逃さなかった。

 

「どういうことだ?」

 

「あ……」

 

 うっかり、口を滑らしてしまったのだろうか。ベティーナは両手で口を覆い、エリック達から顔を背けてしまった。どうしたものか、とエリック達がベティーナの反応を伺っていると、彼女はおどおどとエリックを見上げ、口を開いた。

 

「助けて頂いたお礼、です……偉そうで、ごめんなさい」

 

 何かを、言うつもりらしい。先に謝ってきた時点で想像はできたが、彼女の口からは少し言いにくい言葉のようだ。

 

「えと……わ、わたし……甘すぎるのは、危ないと思うんです。あと……その、甘いのは、良いことではないと、思うんです。そこを、狙われることだってあるから……誰にも守ってもらえない、そんな立場になってしまうと……本当に、危ないんです、よ……?」

 

 たどたどしい言葉で紡がれたのは、エリック達が持つ『甘え』への忠告。いざとなったら、情け無用で相手を殺せと、そう言いたいのだろう。甘えを見せた相手に、何をされるか分からないから、と。

 確かに、今の彼女の立場を思えばこれは言いにくい発言であったことだろう。しかし話の流れから推測するに、恐らくこれはベティーナの言葉というよりはゾディートの言葉だ。ベティーナは何も言わないが、その可能性も考えた上で動くべきだ。

 

「忠告、ありがとう」

 

「お礼、ですから。今のわたしには、みなさんの甘えが、ありがたいんです」

 

 そう言って、少女は控えめに笑ってみせる。こうして見ると、本当に年相応の幼い子どもだ。栄養失調気味なのか、一般的な十一歳の少女と比べると随分小柄なのが、どうしても気になってしまうが。

 

 彼女は、自分が置かれた境遇を不満に思ってはいないらしい。しかし、それは普通の少女が過ごしているような環境を経験していないからこその感情なのだろう。事実、ヴァロンに対しては酷く怯えているし、無理矢理言うことを聞かされていることは間違いない――では、ゾディートとの関係はどうなのだろうか?

 恐らく悪いものではないが、あまりにも不明確過ぎる。エリックはそこを探りたかったが、少女は口を割らない。

 もし、彼女が言うように拷問を行ったとしても、彼女の意思は硬そうである。「助けて」と泣き喚くことはあれども、死ぬまで口を割らないような気がする。彼女にも、黒衣の龍幹部としてのプライドがあるということなのだろうか。

 

「……」

 

 何かしらの強い信念を持ち、ゾディートに仕えるダリウスの姿が脳裏を過る。もしかすると彼女らも、それは同様なのだろうか。

 ゾディートのためならば己の命を投げ捨てても構わないと、そう思っているのだろうか。それは一体、何故なのだろうか。

 少なくとも、ダリウスやベティーナに世界征服や戦争の発生を望んでいる節は全く見られない。破壊行動の目立つ黒衣の龍に、彼らが所属している理由が分からない。そもそも破壊行動が目的なのだとすれば、クリフォードが言っていた『神格精霊マクスウェルがゾディートに加担している』という事実にも様々な疑問が生じてしまう。

 

 黒衣の龍は、兄は、一体何を目的として動いているのだろうか……?

 

(兄上に、会わないと。会って、話を……)

 

 セーニョ港に着くまでの三日間。エリックは一人、そんなことを考え続けていた。

 

 

 

―――― To be continued.



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Tune.54 黒衣の龍

 

 ベティーナとの戦いから三日。幸いにもこの三日間、海は穏やかさを保っていた。そのため、何とか強引にセーニョ港に辿り着くことができた。

 

「ポプリ、クリフォード。お疲れ様、大丈夫か?」

 

 一時はどうなることかと思ったが、案外何とかなるものだと港で沈みかけた船を見ながらエリックは苦笑した。

 

「僕はまあ、何とか……水は友達みたいなものだからな。それよりポプリが疲れているから、早い所移動しましょう」

 

「……クリフ、素の状態でもそこそこ術使えたのね……てっきり、精霊の使徒(エレミヤ)契約が無いとダメなのかと……」

 

「まあ、僕は元々そういう体質ですし。ただ、攻撃魔術の系統は苦手だから威力は相当下がるし、攻撃以外ならちょっとした応用程度になるけどな」

 

「助かったわ。あなたがいなかったら、流石にもたなかったかも……」

 

 しかし、ポプリの消耗がかなり激しい。消火に加え水流の軽い操作を行っていたクリフォードのサポートこそあれど、船の浸水を防いだ功労者はやはりポプリだ。いくら魔術師といえども、三日間能力を発動させ続けたポプリの体力には凄まじいものがある。セーニョ港に宿泊施設があればここで一泊する選択肢もあったのだが、生憎ここには船乗りが使う簡易的な施設しかない。

 それならば、ルーンラシスに行ける可能性に賭けて、休まず泉に向かってしまおうという話になった。クリフォード曰く、ルーンラシスどころかオブリガート大陸に行けさえすれば、ポプリの消費した魔力はあっさり回復するだろうとのことであった。流石、神格精霊の加護を受けた大陸である。

 

 

「ところで、エリック。ベティーナも連れて行くのか?」

 

「あ、あー……だが、他の選択肢が浮かばないんだよなぁ……」

 

 ベティーナに対する行動制限は継続中だ。彼女は魔術や翼による飛行を封じられた状態で、エリック達に着いてきていた。そんな大人しい様子は、彼女がある程度心を開いてくれたように見える――が、油断するのはまだ早いと警戒心の強いアルディスやディアナに告げられた上になんとベティーナ本人にも「完全に自由にするのはいくらなんでも……」と言われてしまったのだ。正直、自由にする気は全くなかったのだが、周りから見ると本当に自分は甘すぎる人間だと映っているのかもしれないとエリックは内心感じていた。

 

 チャッピーに腰掛けた状態で話し掛けてきたディアナを手招きし、エリックは仲間達、というよりはベティーナから距離を置く。ベティーナは純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)であるために無意味な行動となる可能性もあるが、何もしないよりはマシだという判断だ。

 

「一応、そう判断した理由はある。身柄を拘束してここに置いていくという手段もあるだろうが、ベティーナは黒衣の龍幹部。万が一暴れられてしまえば大惨事になる。あと、絶対ベティーナの思考を視ている筈のクリフォードが何も言わないから、良いんだと判断した」

 

「なるほど……セーニョ港の壊滅は防ぎたいし、ジャンは本当に嫌なことは嫌って言うしな」

 

「トゥリモラの件とかな」

 

 そう言ってエリックは両目を閉ざしたまま歩くクリフォードへと視線を向ける。アルディスやディアナもそうだが、この国は彼らが身を隠さずに生活することのできる国ではないのだ。何とかしたいと強く願うものの、今はどうすることもできないだろう。それは旅が終わってから、王位を継承した後の自分が戦っていくべき事案である。

 

「トゥリモラ、な……オレもよく知らないんだが、一体何があるんだろうな」

 

「……」

 

 クリフォードの過去から推測するに、トゥリモラにあるのは『罪人を閉じ込めるための地下牢』ではなく、『実験施設』だったのだろう。

 彼が強い拒否反応を示したことから、その可能性は極めて高いと思われる。だが、ベティーナに探りを入れてみたが彼女がそれを肯定することはなかった。つまり、確証はまだ得られていない。

 どちらにせよ、トゥリモラに行けば何かしら情報はあるだろうし、フェルリオ帝国から拉致された純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)を救うこともできるかもしれない。そして何より、マルーシャの件を解決するための糸口になるかもしれない――エリックとしては早い段階でトゥリモラに行ってみたいと思うのだが、良い口実が浮かばないのだ。また、相談することも不可能だ。

 

(クリフォードは確定で、マルーシャもほぼ確実にそうだろ? ポプリは母親の件があるし、アルもシンシアの件が……そういう僕も、関係者といえば関係者だしな……)

 

 仲間達は研究者ヴァロンと何かしら嫌な接点がある者が大半であるし、ヴァロンと鉢合わせる可能性がある上、とんでもない資料を発見してしまう可能性もある。焦って行動すれば、大変なことになりそうだ。

 

 

「どうした? エリック」

 

「! いや……」

 

 黙り込んでしまったせいで、ディアナが心配そうにこちらを見ている。誤魔化すつもりでいたが、エリックはふと、あることに気が付いた。

 ディアナは唯一、ヴァロンと接点の無い、この件に関しては“安全”な存在なのではないかと。ディアナなら、大丈夫なのかもしれない、と。

 

「誤魔化そうと思ったが、相談するのも悪くない、か?」

 

「なんだ、珍しいこともあるな。オレが力になれるなら、相談に乗るぞ」

 

 頼られたことが嬉しいのか、ディアナは大きな青い瞳を細め、無邪気な笑みを浮かべてみせる。彼女も不安定なものを抱えているため、明確な理由は話せないが『トゥリモラを調査したいが、自然な口実が浮かばない』と詳細を伏せて相談する分には大丈夫だろう。

 

「とりあえず、落ち着ける場所に着いてからにしよう。少なくとも、近くにベティーナがいる今の状況では話したくない」

 

「分かった。行けるかどうか怪しいが、ルーンラシスに着いたら声を掛けてくれ」

 

 そう言ってディアナはチャッピーと共に、仲間達の元へと戻る。エリックも足早にその後を追った――否、追おうとした。

 

 

「ッ!」

 

「きゅっ」

 

 もふ、とエリックの顔に柔らかいものが当たった。チャッピーの羽毛だ。驚いたらしいチャッピーの小さな鳴き声が、異様に静まったセーニョ港に響く。

 

「……ディアナ?」

 

 ラドクリフの領海に入った後くらいからそうなのだが、イチハの気配が感じられない。フェルリオで「ラドクリフでは精神を乗っ取られていることが多い」と彼が言っていたことをふまえ、今のチャッピーは純粋な鳥に近い状態だと判断して良い。そんなチャッピーを手綱で制御しているのが、乗り手であるディアナだ。つまり、ディアナがチャッピーを急停止させてしまったということになる。まさかエリックが着いてきていることに気付かなかった、などということは無いだろうし、何かあったと考える方が間違いないだろう。

 

「ッ、うぅ……っ!!」

 

「! ディアナ!」

 

 エリックがチャッピーの上に座るディアナを見上げると、彼女は頭を押さえて身体を酷く震わせていた。頭が痛いのだろうか。幸いにも、エリックは彼女がバランスを崩し、ずるりとチャッピーの背から滑り落ちる瞬間を目撃することができた。彼女が地面に落下する前に抱きかかえることに成功したエリックは、腕の中で震える少女の顔を覗き込む。

 

「……っ、ッ、い、いた……い……」

 

「大丈夫か!? マルーシャ、ちょっと来てく――」

 

 苦しむディアナを彼女が着ていたローブで包んでやるようにして抱え、エリックは前方にいるマルーシャに助けを求めようとして……絶句した。

 

 会いたいとは思っていたが、今すぐにではない。

 むしろ、今のこの状況では会いたくない人物が、女の部下と共に目の前にいたのだ。妙に港が静かだったのは、彼らの出現に人々が驚き、怯えてしまったからなのだろう。

 

 

「あ、兄上……それに、フェレニー……!」

 

 

 兄――ゾディートの黒髪が、潮風に靡く。その横に立つフェレニーは、アルディスの後ろにいるベティーナを見て顔を歪めた。

 

「ベティを返して!」

 

 フェレニーが叫び、術式を展開する。標的が誰になるかを察したエリックはその者を庇うために走ろうとしたが、ディアナを抱えたまま動くことはできない。それ以前に、フェレニーはなんと詠唱破棄で術を完成させてしまった。

 

「サイレンス!」

 

 黒い霧が、標的――ポプリの周りに現れる。殺傷性は無い術のようだったが、何かしら悪い影響が出ることは確かだ。アルディスがポプリを救おうと薙刀で霧を払ったが、無駄だった。

 

「すみません……ありがとう、ございました」

 

 そう、呟いたのはベティーナだった。彼女はポプリに封じられていた筈の翼を出現させ、颯爽とフェレニーの元へと戻ってしまった。それと同時にポプリは悔しそうに唇を噛み、地面に片膝を付く。

 

「ッ、ごめんなさい。押され、負けた……!」

 

 闇属性の魔術『サイレンス』は対象の魔術や特殊能力などを封じ込める妨害系の術だ。体力や魔力を奪うようなものではないが、術による戦闘を行うポプリにとっては致命的な術のひとつであろう。

 普段のポプリであればこんな術をあっさり受けてしまうことはなかったのだろうが、現在の彼女は酷く消耗している。術に抗うだけの体力は無かったのだ。

 結果、ベティーナにかけていた行動制限が全て解かれてしまい、彼女は黒衣側に戻ってしまったというわけだ。

 

 これは非常に厄介な状況である。ベティーナを交渉材料としてゾディートとフェレニーを引かせる手段はもう使えない上、ディアナ、ポプリ、クリフォードの三名は戦える状況ではない。戦闘になれば、負けは確定したも同然だ。

 

「くそ……っ」

 

 エリックは奥歯を噛み締め、目の前のゾディート達を見据える。ディアナを抱える両手に力がこもった。兄は、クリフォードへと視線を向けている。

 

「……成長した姿を見るのは初めてだな。兄と大差ないくらいにはなった、か?」

 

「ええ、先日は危うく死にかけましたが……“兄を、送ってくださった”でしょう? 本当に助かりました」

 

 ゾディートへの警戒心の薄いクリフォードを見て、エリックは彼の言ったことが事実であったことを悟る。だが、彼は純粋にゾディートとの再会を喜ぶだけのつもりではないらしい。ヴァロンがやって来た時の状況を知るエリック達には、彼がゾディートに探りを入れるつもりであることが理解できた。

 ダリウスは、“精霊が騒いだから来た”と言っていた。ゾディートに送り込まれたわけではない。これに対して、どう出るか伺うつもりらしい。

 

「許可を、出しただけだ。部下が……ヴァルガが、例のごとく勝手な動きをしていたからな、それはそれで気になっていた」

 

「それでも、感謝しています」

 

「……こちらこそ、申し訳ないことをしたな」

 

「!?」

 

 しかし、まさか謝罪されるとは思わなかったのだろう。クリフォードは驚き、エリックの方を振り返った。透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力者である彼が、この場面で助けを求めてくる――ということは、

 

(兄上の感情が、読めないってことか……?)

 

 加えて、振り返ったことで分かったのだが、クリフォードは開眼していた。驚いて目を開いてしまったのかもしれないが、想定できる可能性はもう一つある。彼にはゾディートの姿が、見えていなかったという可能性だ。

 

(僕と同じ現象が、兄上にも起こっているってことなのか?)

 

 ディアナを抱えたまま、エリックは仲間達の傍へと歩み寄っていく。相変わらず、可哀想な程に震え、痛みに耐えているディアナを途中でアルディスに託し、改めてエリックは兄へと向き直る。

 

「兄、上……」

 

 そういえば、兄の特殊能力をエリックは知らない。それどころか、属性すら分からない。地属性の術が使えるのは知っているが、兄が使用できる属性は恐らく、地属性だけではない。

 兄弟であることを考えれば同じ能力・属性である可能性も高いが、そもそもその“血縁関係”さえも曖昧なのが自分達の関係だ。

 兄を呼ぶ声がどこか弱々しく、震えていたような気がした。そんなつもりは無かったが、兄を思う自分の気持ちがそうさせたのかもしれない。

 冷ややかな銀の瞳に見つめられ、エリックは思わず息を呑んだ。どくん、どくんと心臓が煩く鼓動している。それでも、何が来るか分からないのだからと、彼は震える指先を首元の透明なレーツェルへと伸ばした。

 その様子を眺めていたゾディートは、特に表情を変えることなく、おもむろに口を開く。

 

 

「……心配する必要はない。今のお前達と戦ったところで、何が得られるというのだ」

 

 別に小馬鹿にしているわけではなく、本心から「メリットがない」と思っているからこその発言であった。これに対し、反応を見せたのはアルディスだった。

 

「エリックやクリフさんに対しての発言なら、まだ分かります。俺が、いるというのにそれを言いますか……!」

 

「! お前……今、お前が抱えている“娘”は……!」

 

 ディアナを抱えたまま、アルディスはゾディートに訴えかける。そんな彼に――否、彼の腕に抱かれていたディアナに、漸くゾディートが反応を示した。

 

「まずい、解けかかってる!」

 

 ゾディートの様子を見て、フェレニーも何かに気付いたらしかった。彼女は即座に術式を展開し、そちらに意識を集中し始めた。何のことか分かっていないマルーシャやポプリがフェレニー対策に動こうとしたのを、エリックとクリフォードが静止する。口を開いたのは、アルディスだった。

 

「あなただったのですか!? この子の……ディアナの記憶を、封じ込めたのは!」

 

 ディアナを抱えたまま、アルディスはフェレニーの様子を伺った後、能力柄真相の確認が可能なクリフォードへと視線を移した。クリフォードの反応次第で、対応を考えるつもりなのだろう。

 クリフォードは、何も言わない。つまりは、そういうことなのだろう。フェレニーが、ディアナの悲しみの記憶を封じ込めていたのだ。

 

「な、何故……です、か……」

 

 痛みの酷さ故か、気を失ってしまったディアナを抱きしめる腕に力を込め、アルディスは声を震わせる。

 

「俺の予想は、間違ってない……? あなた達の目的は、一体何なのですか? 何故、俺達を助けるのですか……?」

 

 アルディスの予想。それは、エリック達はゾディートの思うままに動かされているのではないか、というものだ。クリフォードのみならず、ディアナまでも助けていたことが判明してしまったのだから、これはより濃厚な説と化した。

 

――そもそも、黒衣の龍は本当にエリック達の敵なのだろうか?

 

 確かに黒衣の龍はスウェーラルを崩壊させた。だが、それは別にエリック達の妨害がしたかったわけではなく、彼らは彼らで、勝手に行動しただけなのだ。

 加えてこれさえも、ゾディートにとっては『エリック達を成長させるための手段』であった可能性がある。手段は最悪だが、もしそうだとすれば彼はエリック達のためを思って行動しているということになってしまうのだ――仮にアルディスの予想が合っていたとすれば、アルディスの家でエリック達を殺そうとした、あの日の出来事さえも『演技』ということになり、彼らが“敵”であるという前提が完全に覆ってしまう。

 

 

「……」

 

 ゾディートは、何も言わない。ただ、黙ってフェレニーの術の完成を待っている。しかし、フェレニーが術の完成を諦めて首を横に振ったのを見て、彼は閉ざしていた口を開き、語りだした。

 

「……前にも、言ったが」

 

 彼の銀の瞳は、エリックに焦点を当てていた。かと思えば、アルディスへと視線が移る。つまり、エリックとアルディスに向けて話がしたいのだろう。

 

「お前らの持つ、宝剣……それを、絶対に手放すな。うっかり“奴”の手にでも渡れば、どうなるか分からん」

 

 

『キルヒェンリートを探し出せ。誰かが所持しているのならば、奪わなくとも良い……ただ、それが“卑しき男”の手に渡ることだけは全力で防げ』

 

 

 エリックは気付いた。今、兄の口から発された言葉は言い回しこそ違うが、数年前に彼が口にしたものと同じだったということに。

 

「つまり、ベティーナを仕掛けたのは、兄上ではなかったということですね」

 

「……」

 

 しかし兄は、何も答えてはくれない。何も答えぬまま、彼は別の言葉を紡ぐ。

 

「解けかけた術をもう一度かけ直すのは、不可能だったらしい。恐らく、その娘はいずれ記憶を取り戻す。ちゃんと、守ってやれ……私はもうこの件に手出しできそうもない」

 

 ゾディートの表情は変わらない。しかし、彼はどこか、悲しげなようにも思えた。

 

「それから、クリフォード。死ぬなよ、ダリウスが荒れると困るんでな。それと、桜色の髪をした娘宛てにこれを預かってきている。多分、そこのお前のことだろう? 渡しておくから、好きにしろ」

 

 クリフォードに声を掛け、ポプリには手のひらにすっぽり収まってしまう程に小さな紙袋を投げ渡す。もしかすると彼らは、ただベティーナを回収しにきただけなのかもしれない――あまりにも敵意の感じられないゾディートの態度に、声を掛けられた二人は唖然としてしまっている。そしてそれは、エリック達も同じであった。

 ゾディートがそんな態度を取っているせいなのか、横に控えているフェレニーも大人しい。だが、フェレニーは何故かポプリへと視線を送っていた。

 

「……ねえ、あなた」

 

 その視線に、ポプリが気付いた。彼女は少し悩み、考えた末に、口を開く。

 

 

「……。フェリシティ=トルーマンって、知ってるかしら?」

 

「!」

 

 フェリシティ=トルーマン。聞きなれない名前である。しかし、フェレニーにとっては違ったらしい。彼女は鳶色の目を丸くし、唇を震わせた後――ポプリを、強く睨みつけた。

 

「アンタには、分からないだろうね。羨ましいよ……同能力者の癖に」

 

 フェレニーは、ポプリと同じ秩序封印(ヴァルデマール・フレイヤ)能力者である。よくよく考えてみると、この能力は殺傷能力が極めて高く、“その手の分野”では大いに活躍する能力だ。だからこそ、フェレニー――否、フェリシティは、ポプリを恨んだのだろう。

 

「……」

 

 フェリシティの言葉に、ポプリは唇を噛み締め、俯く。それに対し、フェリシティは小さく舌を打ち、踵を返して歩き出した。その後を、ベティーナが追う。ゾディートも、それに続こうとした。

 

「兄上!」

 

 兄の背中に向かって、エリックは思わず声を張り上げる。軽く振り返ってくれた兄に向かって、エリックははっきりと言葉を紡いだ。

 

「僕は、今も兄上を信じていますから」

 

 その言葉が、兄にどのような形で届いたかは分からない。振り返ることなく去っていく兄を、エリック達はただ、静かに見守ることしかできなかった。

 

 

 

 

「わぁ……懐かしいね。いつ来てもここは澄んでるんだね」

 

 泉の水に触れ、マルーシャは気が抜けたような言葉を発する。彼女のことだ。妙に重苦しい空気に耐え切れず、あえてこんなことを口走ったのだろう。それに気付いたエリックはマルーシャの横に移動し、泉の水に触れて「そうだな」と呟いた。

 

「水の聖獣ケルピウスの泉、だもんなぁ……そりゃ、澄んでるよな」

 

「済んでるけど、見た目は普通の泉なんだけどね。ジャン、本当にここからオブリガート大陸に行けるの?」

 

「……多分」

 

「多分かぁ……」

 

 期待の眼差しを一心に受け、視線を泳がせるクリフォードを見て、エリックは苦笑する。さらに言えば、自分達の後ろでディアナを抱えたまま、微妙な距離を取って立っているアルディスのことも気になる。水への恐怖心が多少和らいだとはいえ、泉に落ちたくないのだろう。

 

「とりあえず、試してみます」

 

 そう言って、クリフォードは自身の胸に手を当て、魔力を高め始めた。獣化するのかと思ったが、そこまでは行かなかった。今の彼は、人の姿にヒレが付いた、半獣化の状態である。その姿に反応し、泉が瞬き、水面に魔法陣が浮かび上がった。

 この泉は、クリフォードが人間の姿で近付いても獣の姿で近付いても反応しないようになっているのだろう。エリック達とここに来た時もそうだが、恐らく獣化状態でポプリと共に過ごした時も、泉は何の反応も見せなかったのだろう。泉の変化に驚いているポプリの姿を見れば、それは一目瞭然だ。

 

「良かった。まだ、通れそうですね」

 

 そう言って、クリフォードは泉の上を“歩いた”。まるで凍っているかのように、泉はしんとしている。人が上を歩いたというのに、波紋さえ立たないのだ。

 

「す、すごい! ジャン、水の上を歩けるんだ!」

 

「いや、今なら皆歩けるぞ……なので、皆さんこっちに来てください」

 

「……え?」

 

 クリフォードの言葉を聞き、間抜けな声を上げたのはアルディスだ。水の上を歩け、という彼の言葉が信じられないのだろう。

 

「アル……?」

 

「……」

 

 アルディスは何も言わないが、全身で「無理」と訴えている。彼は首を横に振るい、ディアナを抱えたままその場に座り込んでしまった。

 

「お、おーい」

 

 エリック達が全員泉の上に立っても、アルディスは動かない。どうしたものかとエリックがこめかみを押さえていると、既に泉の上に誘導していたチャッピーがアルディスの方へと歩き出した。

 

『情けないな! クリフを信用しろ! 大丈夫だから、こっちに来なさい!』

 

 否――今はイチハだったらしい。イチハはアルディスの服をくわえ、そのまま泉へと戻ってきた。その刹那、視界が暗転する。

 

 

「な……っ!?」

 

 眼前に広がるのは、深い霧のかかった樹海。セーニョ港の近くにあったものとは若干形状の異なる泉の上に、エリック達は立っていた。マルーシャはふらふらと数歩前に進み、両手で口を覆って声を震わせた。

 

「ここが……オブリガート大陸……?」

 

 なんて幻想的な場所だろう、とマルーシャは目を輝かせる。彼女に続いて泉から離れたエリックは、露で湿った深緑の草を踏みしめ、辺りを見渡した。

 

 樹齢を重ねた大きな木々が生い茂り、差し込む太陽光も随分と少ない薄暗い場所だが、不思議と嫌な感じがしない。澄み渡り、かつどこか厳かな雰囲気の漂う本当に美しい場所だった。ここが精霊の加護を受けた大地だということが、身をもって実感できた。

 

「身体が楽だわ……すごいのね、ここ……」

 

 クリフォードが言っていた通り、ポプリの魔力も少しずつ回復し始めているらしい。しばらくこの大陸にいれば、彼女は元通り魔術を使えるようになるだろう。

 

「うぅ……っ」

 

「ディアナ!?」

 

 そして、アルディスの腕の中で眠っていたディアナも動き出した。彼女は自分が置かれている状況を察し、慌ててアルディスから離れ、飛び上がった。

 

「す、すまない! オレ……!」

 

「気にしなくて良いよ。それより、大丈夫かい?」

 

「ああ……もう、大丈夫だ……ここは……?」

 

 狼狽えるディアナに対し、少し戸惑ったような反応を見せたのはマルーシャとポプリだ。そうだ、とエリックは微かに顔を引きつらせる。ゾディートが、ディアナを指して『娘』と言っていたのだ――事情を知らないマルーシャとポプリからしてみれば、どういうことなのかと非常に気になっていることだろう。

 どうやって誤魔化そう、そもそも誤魔化すべきなのかとエリックが悩んでいた、そんな時。ガサガサと目の前の茂みが揺れ、ファーの付いた上着を羽織った青年が姿を現した。

 

「なんだ……? お前ら、見慣れない顔だな。オレ、マクスウェル様からは何も聞いてないぞ」

 

 少し茶色がかった赤い髪を持つ、眼鏡の青年。眼鏡の下の丸っこい赤紫の瞳は、突然現れたエリック達を見逃すまいと言わんばかりにしっかりと写していた。

 だが、彼は集団の中に見知った顔を見つけ、目を丸くする。そして、叫んだ。

 

 

「……って、クリフ!? クリフだよな!」

 

「はい」

 

「ということはそいつら、お前の連れか……」

 

 ふうん、と見定めるように、青年はエリック達を見る。その輪から離れ、クリフォードは青年の傍に歩み寄っていき――何かを耳打ちした後、そのまま茂みの中へと消えていった。

 

「!? おい、クリフォード!!」

 

 慌てて後を追おうとするエリックの前に、青年が立ちはだかる。胸元で揺れていた青いレーツェルの付いたペンダントに右手で触れ、彼は不敵な笑みを浮かべてみせた。

 

「おっと、通さないぜ。無関係な奴は立ち入り禁止だ」

 

「ッ、さっきの見て分かったろ!? 僕らはクリフォードの知人だ!」

 

「ああ、そうだろうな……とりあえず、お前らがアイツに大事に思われてるってことは伝わったよ。だが、それとこれとは話が別だ!」

 

 青年のレーツェルが武器へと変化する。短めの双剣だ。それを構え、笑みを浮かべる青年の口からは、微かに牙が覗いていた。

 

 

「オレはこの地の番人、ライオネル=エルヴァータだ! お前らをマクスウェル様の元には行かせねぇからな!」

 

 

 

―――― To be continued.

 




 
最後に出てきたライオネル君

【挿絵表示】


(絵:長次郎様)


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Tune.55 神格精霊マクスウェル

 

「オレはこの地の番人、ライオネル=エルヴァータだ! お前らをマクスウェル様の元には行かせねぇからな!」

 

 

 やる気に満ち溢れた青年――ライオネルを見て、「やっぱりお前か」と思ってしまったのは秘密だ。とりあえず、今はそんなことを考えている場合では無さそうなので、エリック達もレーツェルから武器を取り出し、ライオネルの襲撃に備える。

 

「んあ? お前ら来ねぇのか? じゃあ、オレから行かせてもらうぜ!!」

 

 とん、と軽く地を蹴り、ライオネルが大きく飛躍する。妙に滞空時間が長い。その理由は、彼の背にある青の翼で間違いないだろう。

 

「おらぁ! ――爆砕陣(ばくさいじん)ッ!!」

 

 上空で左の剣を消し、右の剣のみに体重を掛け、エリックに向かって振り下ろす。出方を見極めるためにもエリックはそれを避けることなく、真上に剣を水平に構え、防御の姿勢を取った。

 

「ッ、そりゃ番人なら覚醒くらいできてるか……! イチハの忠告は信じた方が良さそうだな!」

 

「イチハ兄も知ってるんだな。へへっ、オレはそこまで弱くねぇよ、安心しな!」

 

 ライオネルはエリックより小柄な青年だったが、戦舞(バーサーカー)故か強い腕力に重力を乗せた彼の一撃は非常に強烈なものだった。エリックは何とか耐えたものの、彼の両足は柔らかな地面に少し埋まってしまっている。水平にした剣を薙ぎ、ライオネルを弾く。彼はひらりと空中で体勢を立て直し、再び双剣を構え直した。

 

 

「助太刀する!」

 

 そう言ってローブを脱ぎ捨て、前に飛び出してきたのはディアナだった。そして彼女の声はしっかりとライオネルに届いていたようだ。

 

「お、良いなそういうの! しかも、お前なら空中戦もできそうだな!!」

 

 ライオネルがディアナに標的を変えた。ディアナもそれに気付き、レイピアを両手で構え直す。ライオネルはディアナに向かって駆け出し、剣を手にしたままその場に両手を付いた。

 

天龍舞(てんりゅうぶ)ッ!」

 

 ライオネルはそのままぐるりと一回転し、謎の行動に驚いたディアナの懐に入り込んだかと思うと彼女のレイピアを蹴り飛ばしてしまった。

 

「あ……ッ」

 

「今だ! オラァ!!」

 

 ライオネルが姿勢を立て直すと共に振り上げた剣の切っ先。それは、攻撃を避けきれなかったディアナの胸元の布地に引っかかり――その布地を、豪快に大きく裂いてしまった。

 

 

「っ! きゃあああぁああ!!!」

 

「うぇ!?」

 

 叫び、胸元の布地を押さえてディアナはその場に座り込んでしまった。ああうん、やっぱり女の子だなあとエリックはこめかみを押さえる。

 

「ああ……ごめん! えーと、そのー……」

 

 ライオネルが狼狽えている。立ち位置から考えて結構しっかり見てしまったのだろう。彼は顔を真っ赤にし、なるべくディアナを見ないようにしながら、口をもごもごさせている。何かを言わなければ、と。

 

「えーと、えーと……そうだ」

 

 焦り、彼は漸く口を開く。

 

 

「着痩せするタイプなんだな……」

 

「そうじゃないだろう!!??」

 

 

 思わず指摘してしまった自分は悪くないと信じたい。

 頭痛に耐えながら、エリックはちらりと仲間達の方を伺う。マルーシャとポプリが固まっているのはまだ良い、当然の反応だ。問題はアルディスだ。お前まで固まるんじゃない、とエリックは上着を脱ぎながら彼の元へと走った。もう、戦闘どころじゃなかった。

 

「アル! 何やってんだお前は……ッ!! 形状的にお前の服よりは僕の服のが良いだろうから、これ持ってさっさと行ってやれ!!」

 

「えっ!? あ……え?」

 

「こういう時に僕らがしてやれることはもう一択しかないだろう……ッ!?」

 

 遠く離れていたというのに、アルディスまで顔を真っ赤にしてディアナから目をそらしている。どうしようもないなとため息を吐きながらも、エリックは自分の上着を彼に渡してその背を力強く押した。とりあえず動いてくれたので後は彼本人に任せるとして――問題はマルーシャとポプリだ。

 

「え、エリック……?」

 

「ああ、その……つまり、そういうことなんだが……僕の口から話さない方が良いと思う。今は、待っていてくれないか?」

 

 こういうことを、自分の口から話すのはどうかと思う。そう、エリックは考えていた。意図を察してくれたらしく、マルーシャとポプリは頷き……エリックと共に、チャッピー(中身は間違いなくイチハだ)に襲われるライオネルへと視線を向けた。

 

 

「きゅううううぅうう!!!」

 

「痛い!! イチハ兄!! 痛いッ!! やめ……っ!!」

 

「きゅーっ!! きゅうううぅうう!!!!」

 

「ぎゃあぁああああぁあぁ!!!!」

 

 

――エリックは、考えることをやめた。

 

 

 

 

 イチハに襲われ、雑巾のようになったライオネルを放置してエリック達は先に進んだ。放置して良いのか悩んだのだが、イチハに「先行っといてよ」と言われたので考えることをやめてしまっていたエリックは先に進むことを選んでしまったのだ。

 

 しばらく進んだ先に見えない障壁のものがあった。通ることはできるようだったので、気にせずに通過すると、開けた居住区のような空間へと辿りついた。

 

(ここが……ルーンラシスか……)

 

 もしかすると、かつて人の住む集落であったのかもしれないそこは、今となっては緑の蔦や苔に覆われた場所であった。しかし、ラドクリフ王国内であるにも関わらず周囲を飛び交っている下位精霊の存在もあってか、廃墟とは思えないほどの幻想的な美しさを保っている。

 ところどころに流れる湧水の音や小鳥のさえずり、穏やかな深緑や花々の香り。それらはエリック達に十分な安らぎを与えてくれていた。

 

 

「……あの」

 

 口を開いたのは、まだ目に涙の残るディアナだった。羽織ったエリックの上着をぎゅっと握り締め、彼女は声を震わせる。

 

「ごめん、なさい……っ、ごめんなさい……!!」

 

 少し落ち着いていたのだが、喋ったことによって再び涙が溢れてしまったのだろう。彼女が嗚咽を漏らしながら紡ぐ言葉に、エリック達は静かに耳を傾けていた。

 

「わ、私なんかが男だって言い張るの、無理があるって分かってたよ……!! 強くならなきゃ、馬鹿にされると……そう、思ってたの……っ、それに、私……こんな、短い髪になっちゃったから……っ、どうせ馬鹿にされるんだったら、男のフリをしようって……ちょっとでも、強くなろうって……っ」

 

 ボロボロと涙を流しながら、ディアナは顔を上げる。本来の彼女は、こんなにも可愛らしい喋り方をするのだなと感じながら、エリックはその小さな頭に手を伸ばそうとした――が、そこには先客がいた。

 

 

「君が頑張っているのは、俺が誰よりもよく分かってる。ずっと、傍にいたんだから。よく頑張ったね」

 

 白い陶器のような肌に、喋り方。アルディスかと思った……が、違う。そもそも声が違う。ハッとして顔を上げたエリックの目に、漆黒の艶やかな髪をした青年が映った。

 

「ッ、だ、だれ……?」

 

「俺は霧生イチハ。今の俺が、君達がチャッピーって呼んでたあの鳥の、本当の姿……どうだ? 結構、良い感じだろう?」

 

 青紫の目を細めて青年は微笑む。低い位置で束ねられた黒髪が風に流れた。その青年の姿に、エリック達は絶句してしまった――こんな人間が、この世に存在するのかと。

 

 ディアナの藍色の髪同様に、彼の黒髪は純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)の特徴である白い肌を際立たせるものであった。だが、彼の場合はそれだけでは終わらない。ぞっとするほどに、恐ろしいほどに、その姿は端正で美しいものであった。ここまで来ると、「美しい」という言葉さえも過小に感じられる。

 

「……ん、何? 見とれちゃってんの? ほら、俺様の話は嘘じゃなかっただろ? 本当に美丈夫だったろ?」

 

「ああ……黙っときゃ良いのにって思うくらいには」

 

 全体的にどことなく中性的な風貌だからこそ、性別の概念を超越した美麗さの持ち主である。何よりも特徴的なのは、中でも惹かれるのは少し垂れ気味の、切れ長なアイオライトの瞳だろう。麗しいその瞳は、高価な宝石を思わせる。微かに前髪の掛かったその瞳は柔和な雰囲気を纏いつつも、どこか妖艶な色っぽさをその奥に潜ませていた。

 

「ははは、さらっと酷いこと言うなぁ」

 

「……ッ、鳥にしとくには勿体無いな、本当に……!」

 

 微笑みを向けられたことにより、隠れていた色気が前に押し出されてきた。年齢も二十代半ばから後半ぐらいだろうし、大人の色気とはこのことだろうかとエリックは息を呑む。エリックだけではない、揃いも揃って、同じ反応をしたことだろう。

 この男を前にしっかり言葉を発することができただけ、エリックはまだ、イチハの美貌に飲まれていない。自分よりも、さらにはクリフォードよりも微かに高い身長で見下ろされても威圧感を感じないのは、彼の性格がもたらす効果だろうか。

 ほどよく筋肉の付いた彼が纏うのは、見たことのない形状をした黒の衣服。否、レムが似たような形状の衣服を来ていただろうか。ただ、右足のレッグカバーはアルディスが身に付けているものと共通している。恐らく、同じ流派なのだ。

 

 

「ああもう、困った子達だなぁ。そろそろ慣れてくれよ、気持ちは分かるけどさ」

 

 イチハがそう言えば、マルーシャがはっとした様子でエリックを見た。

 

「え、エリックも格好良いよ!! 格好良いからね!!」

 

「良い! マルーシャ、それは良い!! 別に張り合うつもりないから!!」

 

「くそ……っ!!」

 

「アル! お前も張り合うんじゃない! せめて今はやめろ!!」

 

 何だこの空気は。揃いも揃っておかしくなっているのか。エリックは縋るような思いで、ポプリへと視線を移す。

 

 

「く、クリフだって……あなたに、負けないくらい……っ」

 

「いくらなんでも美貌お化けと並べるのはやめてやれ!!」

 

 

 美貌お化け。顔といいスタイルといい、欠点が性格以外に見当たらないイチハの容姿を一言で言い表すならば、もうこれしか無いだろう。この場にいないクリフォードが色んな意味で死にたくなりそうな言葉を吐きかけたポプリを静止しつつ、エリックは己の髪をがしがしと掻いた。この状況をもたらしたイチハは、どこか嬉しそうに笑っている。

 

「ほら、ディアナちゃん。君が性別を隠してたことが分かったところで、俺様で全部流れちゃうんだよ。言い方悪いけど、その程度なんだよ、君の隠しごとって」

 

「……」

 

 イチハの発言に落ち込んだのか、ディアナは固まってしまった。そんな彼女の視線と高さを合わせるように、イチハは服が汚れるのも構わずその場に片膝を付く。彼は震えるディアナの頭に手を乗せ、綺麗な笑みを浮かべてみせた。

 

「皆、君の本質を見てた。だから性別なんて、隠しごとなんて、どーでも良かったんだよ」

 

 だからもう泣かないの、というイチハの言葉に、ディアナは怯えながらもエリック達を見回した。誰も、イチハの言葉を否定しなかった。その事実に、ディアナは青い大きな瞳からボロボロと涙を流し始める。

 

「くっそ、イチハさん格好良いな……」

 

 再び悔しげな声を発したのは、アルディスだった。

 

「まあ、つまりそういうこと。お前がいてくれさえすれば、俺はどっちだって良いよ。だから、もう気にしないでよ。何も、変わらないから。だから、俺と一緒にいてよ」

 

 是非ともイチハよりも先にこれを言って欲しかったのだが、もう過ぎた話である。言葉選びでイチハに対抗しようとしているのか、捉えようによってはプロポーズのようにも思える言い回しで、アルディスはディアナに語りかける。

 

「ッ、……うぅ……っ、アル……!」

 

 彼を真っ直ぐに見つめていたディアナが、涙を零しながらアルディスの傍へと寄って行く。それを迷わず抱き寄せるだけの度胸がアルディスにあったのだから、今までの駄目っぷりはギリギリ帳消しになったことだろう。何とか、及第点だ。

 

「……。ディアナちゃん、恥ずかしがり屋の強がりさんだから、後で絶対反動出るだろうな……アルディス皇子が変に落ち込まなきゃ良いけど」

 

 その様子を、イチハが笑いながら眺めている。多分その心配は的中するんだろうな、とエリックは案外策士らしいイチハから目を逸らして苦笑した。

 

 

 

 

 数分後、イチハの予感は見事に的中したが、そんなことはもう良いとエリック達は先へと進み始めた。ここで暮らしていた時期があったのだから当然だが、イチハは主――マクスウェルを知っており、彼の元へとエリック達を案内してくれた。

 

 

「ここから先は足を滑らせないように気をつけな。この辺の苔は、よく滑るから」

 

 奥へ向かうと、石造りの神殿が現れた。他の場所同様に苔や蔦で覆われた上、ここは小動物の巣にまでなってしまっているようであった。しかし、それでも尚残っている神々しさは、神殿に住まう者がマクスウェルだからこそなのだろう。

 

 神殿に、足を踏み入れる。通路に設置されてはいるものの、灯りの点っていなかった松明にはイチハが簡易的な魔術で火を付けてくれた。恐れることなく、先に進んでいく彼の後を、エリック達は何も言わずに着いて行く。

 ぴちゃり、と水が跳ねた。水溜りがあったらしい。よく見ると、通路の側面から水が流れている。湧水は、ここにも流れているということらしい。それでも気持ち悪さを感じないのは、その水が濁ることのない聖水であるからだ。

 

(そういえば、ケルピウスが生み出す水も聖水だったよな……)

 

 そんなことを考えつつも、エリック達は進んでいく。途中で二手に分かれる道があったり、いきなり開けた場所に出てきたかと思えば古びた噴水があったり、中庭のようなものが登場したりと、なかなかに道のりは長い。それでもイチハは迷わない。これは、外部の者を簡単に侵入させないための仕掛けなのだろうとエリックは思った。

 

 そうして進んだ先で、石造りの巨大な扉がエリック達の道を阻んだ。

 経年劣化した扉は苔がまとわりつき、元の色が分からない状態と化していた。それでも、この向こう側にいる存在がいかに偉大なものであるかは、こんな扉越しだというのにはっきりと伝わってくる。

 

「……」

 

 イチハは一歩前に踏み出し、扉に手を這わせて口を開いた。

 

「マクスウェル様、イチハです。ただ今、戻りました……客人と、共に。どうか、ここを開けて頂けないでしょうか」

 

 緊張しているようであったが、怯えてはいないようだ。自信過剰らしい彼らしくない態度だな、とエリックは感じる。

 

「!」

 

 だが、よく考えてみれば、イチハはマクスウェルにとっては部外者である自分達をここに招き入れた存在。罰せられる可能性もある。緊張して当たり前なのだ。

 どうしてそれに早く気付かなかったのかと、エリックは焦りを覚えた。

 

「お、おい、イチハ! お前、大丈夫なのか?」

 

「何がだい?」

 

「その、僕らを、こんなところに連れてきて……お前は、大丈夫なのか?」

 

 ギギギ、と音を立てながら、扉が勝手に開いていく。扉の向こうから、光が漏れてくる。その光に照らされながら、イチハは柔和な笑みを浮かべてみせた。

 

「君達はクリフが選んだ子達だから、きっと大丈夫。それに……」

 

 ふっと息を吐き、イチハは扉の向こうにいた者へと視線を向ける。

 

 

「マクスウェル様は、この程度のことで俺達を罰したりしないよ」

 

 

 微かに、風を感じた。扉の向こうから、誰かがやってくる。今までいた場所が薄暗かったこともあり、扉の向こうが眩しすぎて、よく見えない。

 

『多分、クリフのことを心配してるだろうから、先に言っておこうかな。別に何もしてないよ、本人は、八つ裂きにされるくらいの覚悟でここにきたみたいだったけどね……あ、あの子ひっくり返っちゃったから、家に送っといた。後で会いに行ってあげてよ』

 

 少しずつ、目が慣れ始めた頃に聴こえてきたのは、穏やかな青年の声。その声は脳に、直接語りかけてくるような形でエリック達に届く。だが、不思議と怖くはなかった。相手が悪いものではないと、感じ取れたからかもしれない。

 

「な……っ!?」

 

 だが、エリックはその声の主を見て、強い衝撃を受けることとなる。

 

『この容姿、クリフは怖がるから、あの子の前ではもう少し小さい姿でいるんだけど……あなた達なら、良いかなって。それに、絶対に面白い反応してくれるって思ったから――特にエリック=アベル=ラドクリフ。あなたに関しては』

 

「……」

 

『何のイタズラだか知らないけど、偶然だよ。私とあなたの場合はこうなる可能性が無かったわけじゃないけど、実現するとは思わなかった、驚くよね。精霊の使徒(エレミヤ)達を通して見た時は私も驚いたよ』

 

 癖のある金糸のような髪に、切れ長の瞳。肌は白く、瞳の色は海のような深い青色であったが、イチハとは違う意味で驚かされる風貌の持ち主。それが、今エリックの目の前に立っている存在であった。

 エリックだけではない、イチハ以外の仲間達は、声の主の姿に動揺を隠せない様子であった。ふふ、と“彼”は楽しげに笑った。

 

 

『――私はマクスウェル。待っていたんだよ、あなた達が、来てくれる日を』

 

 

 神格精霊マクスウェル。その容姿は、“彼”の目の前に立つエリックに、酷似していた。

 

 

 

―――― To be continued.




 
APP18のイチハ兄さん

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マクスウェル様

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(絵:長次郎様)


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Tune.56 神格精霊は語る

 

『ふふ、どうかな? 驚いたかな?』

 

「……」

 

『驚きすぎかなぁ……』

 

 ははは、と青い目を細め、マクスウェルが笑う。だが、一方のエリックは恐ろしさを感じずにはいられなかった。偶然、とは言っていたが、どのような意味なのだろうか。

 そんなエリックの思いを感じ取ったのだろう。マクスウェルは特に躊躇うことなく、楽しげに語り始めた。

 

 

『精霊っていうのがどんな存在か、あなた達は知ってるかな?』

 

「い、いや……」

 

『だよね。それはまあ置いといて、何で容姿が似てるのかについて話そうか』

 

 マクスウェルは僅かに地面から浮いた状態で、エリック達が入ってきた扉を出て行く。外に出るつもりなのだろうか。イチハが何の迷いもなく着いていったこともあり、エリック達もその後を追うことにした。そもそも、話がまだ終わっていない。

 

 しばらく進んだ先、中庭のある場所。そこまで進んでから、マクスウェルはピタリと立ち止まり、エリック達を振り返った。

 

 

『あなた達も名前くらいは聞いたこと、あるんじゃないかな――ルネリアル=エルマ=ラドクリフと、スウェーラル=ウェン=フェルリオの物語』

 

「神歌伝説のこと、か?」

 

『そうそう』

 

 女剣士ルネリアルと大賢者スウェーラルの物語。通称、『神歌伝説』。

 伝説が語るのは、アレストアラントの歴史と不思議な力を持つルネリアルとスウェーラルの悲しき物語だ。エリックは、ぼんやりとその内容を頭に描き始める。

 

(確か、こんな内容だっただろうか……)

 

 

――古代アレストアは、二人の者により、統治されていた。

 

 龍の力を秘めし太陽の化身、ルネリアル。その者、気高き騎士なり。

 鳳凰の力を秘めし月の化身、スウェーラル。その者、聡明な賢者なり。

 

 二人の奏でる音は“神歌”と呼ばれ、人々を豊かにする七つの旋律を刻んだ。

 旋律は荒廃した大地に安らぎをもたらし、美しき世界の礎を築き上げた。

 人々は皆、二人を讃えた。そうして二人は、世界の王となった。

 

 ところが、人々は戦乱を起こした。

 友たる者達の地、富を奪い取る戦が始まったのだ。

 美しき世界は、穢れていった。

 

 ルネリアル、スウェーラルはこれを悲しみ、自らの命を引き換えに戦乱を静めた。

 

 神歌は七つに別れ、世界に散った。

 歌の加護が無くなり、幸福な世界は消え去った。

 人々は二人の王に許しを請いたが、王亡き今、美しき世界はもう戻らなかった。

 

 人々は、永久に嘆き続け、永遠の罪を背負い続ける。

 

 嗚呼、願わくはもう一度響かせて欲しい――この世界に、神歌を。

 

 

「わたし達のご先祖様の物語だし、当然知ってるよ。だけど……あまり、幸せな物語じゃないよね」

 

 綴られるのは、二人の王による平和な時代が、人々の貪欲さ故に失われたという嘆きの歴史だ。この元となった文献は、およそ千年前に書かれたものだと言われている。

 所詮おとぎ話に過ぎないと主張する者もいる。しかし、実際にルネリアル、スウェーラルの血を引いていると言われる者達がこの世界に存在している――それが、龍王族(ヴィーゲニア)鳳凰族(キルヒェニア)。今、この世界を生きている人々だ。

 そして由緒正しき血筋を守り続けているのがラドクリフの王族とフェルリオの皇族である。つまりエリックとアルディスは、それぞれルネリアルとスウェーラルの遠い子孫であるとされている。

 

「そ、それがどうしたんだ?」

 

 だが、そんなことは自分の問いとは関係ないだろうとエリックはマクスウェルを急かす。マクスウェルも要件を思い出したのだろう。彼は少し悩んだ後、口を開いた。

 

『うーん、結果的に生まれたのが私だった……というか。ふたりの間に、“神歌”のついでに生まれた、みたいな……』

 

「!?」

 

『あなたの母親はルネリアルそっくりなんだ。で、父親も王族とそこまで血筋が離れていないから、あなたは自分で思っている以上に純粋なルネリアルの子孫なんだよ。そして私は母親似でね……まあ、どちらかというと父親似のあなたに似ているから、母方の遺伝子引っ張ってきて隔世遺伝か何かしたのかもしれないね、私、精霊だけど』

 

 ふふふ、とマクスウェルは楽しげに笑っている。しかし、エリックからしてみれば非常に反応に困る話であった。

 

「つ、つまり、ルネリアルとスウェーラルの子が、マクスウェル……?」

 

『だからそう言ってるじゃないか。まあ、そもそもあの神話ってかなり……まあ良いや。私とあなたは親戚みたいなもの。アルディスとポプリの関係みたいなものだよ』

 

「遠縁って言いたいのね……?」

 

『そうそう。別にエリックの身体から抜けた体内精霊ってわけじゃないよ』

 

 その言葉に、ほっと胸を撫で下ろしたのはエリックだけではないだろう。そんなことがあってはたまらない。どうしたら良いか、分からなくなってしまう。

 

 

『エリック、あなたの身体から抜かれた精霊は別の人の身体の中で元気にしてるよ。ただ、まあ、結果的に押し付けられちゃった側のあの子は相当困ってるみたいだけど……あの様子じゃ、体質にもかなりの影響が出ているみたいだし』

 

「そ、そうなのか……どこに行ったか、教えてくれと言ったら?」

 

 駄目元だった。教えてくれはしないだろうと、分かっていた。

 それでも訪ねてみたエリックに対し、マクスウェルはおもむろに首を横に振るう。

 

『分かってるみたいだけど、駄目だよ。ただ、本来あなたが得る筈だった、特殊能力だけは教えてあげる』

 

 色々と、気になっていることもあるだろうから。

 そう言って、マクスウェルはエリックの赤い瞳を真っ直ぐに見つめ、口を開いた。

 

 

『あなたの能力は、唯我秩序(エーリッヒ・ヴァルデマール)――拒絶系能力、秩序封印(ヴァルデマール・フレイヤ)の突然変異で上位に位置する特殊能力。魔力に関連する全てを弾く力を持っているよ。制御できなければ、治癒能力さえも受け付けない身体になってしまう……そんな能力』

 

「!」

 

「秩序封印の突然変異で、上位能力!? そんなの、純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)のエリック君に、制御できるわけ……」

 

『そう、幼いエリックが制御できるはずがなかったんだ。だからといって精霊抜くのは良くなかったね。人間の身体は精霊いなきゃ成り立たないのに……虚弱体質で済んだのは、運が良かったと思うよ。あなた、多分元が強かったんだね』

 

 語られたのは、エリックの能力と、虚弱体質の真相。それは、クリフォードが言っていた内容とほぼ同義ではあったが、充分驚異的なものだった。

 しかし、エリック以上にポプリの方が大きな衝撃を受けている様子であった。エリックがおもむろにポプリに視線を向けると、彼女は困ったように笑い、首を傾げた。

 

「嫌な気分にさせちゃった?」

 

「い、いや違う……その、聞いて良いか、ずっと悩んでいたんだが……お前、秩序封印(ヴァルデマール・フレイヤ)能力で嫌な目にあったり、とか……」

 

 エリックが躊躇いがちに紡いだ問いを、ポプリは視線を逸らすことによって拒んだ。聞かないで欲しい、ということだろう。だが、何も答えないのは悪いと思ったのか、ポプリは「あの人には申し訳ないんだけど」と前置きしてから話しだす。

 

「あたし、フェリシティ=トルーマンって、フェレニーのこと呼んだでしょう?」

 

「ああ、反応からして、間違いなく本名なんだろうな、とは思った……というより、名前に聞き覚えがあるんだよな。アル、分かるか?」

 

「ある……けど、具体的な内容は忘れた。確か、死刑囚だったはず……ダリウスさん含め、黒衣の龍って本当に訳ありなんだなって、本気でそう思ったよ」

 

 フェリシティ=トルーマン。黒衣の龍幹部、フェレニーの本当の名前。

 何故かポプリは、その名を知っていた。否、知らなかったのはエリックと、それからマルーシャだけだったようだ。アルディスに続き、おずおずと手を挙げたのは、ディアナだった。

 

「フェリシティは確か、シャーベルグの一部を爆破した罪に問われ、死刑宣告された……んだったよ、な? こっちに来る前に、少しは鳳凰狩り対策ができるかと思って、犯罪関連を軽く勉強してきたんだ」

 

 この件に関しては、ディアナも詳しそうだ。落ち着いたせいか、彼女はいつもの堅苦しい喋り方に戻っている。だが、そこは気にしないことにする。彼女がやりたいように、させてやれば良いだろうと。

 エリックの視線を、説明を催促しているのだと受け取ったのだろう。ディアナは記憶の片隅から情報を引っ張り出しながら、エリックに向けて語り始めた。

 

「あの人は純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)だった。つまり、制御できなかったんだろうな。目覚めたばかりの、秩序封印(ヴァルデマール・フレイヤ)の能力を」

 

「そ、それで……爆破……」

 

 故意では無かった。しかし、大きな損害が生まれた。多くの生命が、失われた――だから、フェリシティは死刑囚となってしまったのだという。

 言いたいことは分かる、しかしあまりにも理不尽ではないかとエリックは両の拳を握り締める。そんな彼の肩を叩いたのは、ポプリだった。

 

「特殊能力、秩序封印(ヴァルデマール・フレイヤ)はすごく強力な能力だから。そして、鳳凰狩りを隠れ蓑に、あたし達も狩られる側になった……フェリシティは、その最初の被害者よ」

 

「え……」

 

 秩序封印。確かに、冷静に考えてみればこれは恐ろしい能力だ。身動きを取れないように拘束することも、毒を打ち込んで苦しませることも、能力を封じ込めることも、だってできてしまう。あまり目立たないが、対人相手ならば極めて有用な能力であろう。

 ポプリはどこか悲しげに笑い、空を仰ぎながら話を続ける。

 

「彼女の能力を見て、研究者達は秩序封印(ヴァルデマール・フレイヤ)能力者に目を付けたんだと思う。だけど、国民を普通に捕らえるわけにはいかない。だから、フェリシティみたいに暴走しちゃった子どもは真っ先に被害にあったの……そうね、やっぱり、話しておこうかしら」

 

 橙色の瞳を閉じ、ポプリは深く息を吐いた。そして、エリックを見据えて、笑った。

 

 

「一番の標的は、あたしみたいな孤児。孤児院にも入れず、放浪してる孤児のひとりやふたり、捕まえたってバレないもの。いなくなったって、気付かれないもの……ここまで大きくなるまで、生きていられたのって奇跡だと思ってるわ」

 

「……!」

 

 ポプリはいつ捕まったとしても、おかしくは無かった。しかし、彼女を守る存在がいた。だから、助かった――だが、どうしてもエリックには引っかかるものがあった。

 

(ポプリって、領主の娘なんだよな? なのに、何で誰にも引き取られずに育ったんだ? クロード家は、一体どうなったんだ?)

 

 ちらり、とアルディスを見る。アルディスもアルディスで、何かを言いたそうにしている。恐らく、同じことを考えているのだろう。否、ポプリの故郷、ペルストラで暮らしていた彼はエリック以上に疑問を感じている筈だ。

 

「……」

 

 

 領主の娘が、領民に蔑ろにされたというのか――どう考えても、これはおかしい。おかしいが、これは恐らく、ポプリが最も触れられたくない部分だ。

 

 

「……。ところで、フェリシティの事件って何年前なんだ?」

 

 これは、変に踏み込んでいってしまう前に話を変えた方が良いだろう。そう思い、エリックはディアナに問いかけた。

 

「あ、ああ……事件自体は結構前で、十五年前だって聞いてる。フェリシティは当時十二歳、か。爆破した場所がよりによって、西のチェンバレン領だったものだから子どもだろうが容赦なく……って感じだったかな。せめて東側だったら……」

 

「東側……そういうの、許す人なのかどうかは分からないけれど、愛に生きた人だってことしか今となっては分からないわね……まあ、チェンバレン家よりは、まともだと信じたいけれど……」

 

 シャーベルグはラドクリフで最も大きな都市である。そのため、あの地は二つの領土に分かれて統治されている。西のチェンバレン領と、東のジェラルディーン領だ。ただし、今現在東側に関しては実質チェンバレン家が支配している――その理由に関しては、エリック達も勿論知っているわけだが。

 エリックはルネリアルからろくに出たことがなかったし、マルーシャはシャーベルグの出身だがよく覚えていないとのことなので、あの地に詳しい者は現状いなかった。ただひとつ言えるのは、チェンバレン家はかなり気難しい上に、ラドクリフには珍しい“陰湿な”一族である、ということだ。

 

「……」

 

 チェンバレンの名前が出たことによって、マルーシャが表情を曇らせた。それもそのはずだ、彼女は貴族――特に、男爵家であるウィルナビスよりも上の位、伯爵家であるチェンバレンの者達には、特に目を付けられていた。

 

(ジェラルディーンが、残ってればなぁ……)

 

 ウィルナビス家は東側、ジェラルディーン領の内部に僅かな土地を持っていた。だが、ジェラルディーン家が衰退してからは、その後に入ってきたチェンバレン家に相当な嫌がらせを受けていたのだという話を、母から聞いている。だからこそ、ウィルナビス家は今、ラドクリフ城の傍に屋敷を構えているのだという話も。

 嫌がらせを受けていたという時期は、マルーシャもまだまだ幼かった筈だ。覚えていないに違いない。しかし、結局彼女はエリックの許嫁になったことによって嫌がらせを受ける羽目になっている。

 

「マルーシャ? 大丈夫、か?」

 

 急にマルーシャの顔色が曇ったことに気付いたディアナは、マルーシャの前へと移動し彼女の顔を覗き込む。それに対し、マルーシャはハッとした表情を浮かべた後、引きつったような笑みを浮かべてみせた。

 

「あはは、ごめん……あの家、苦手なの……」

 

「! ……マルーシャに嫌われるなんて、相当だな」

 

 これは根が深い。シャーベルグに行く用事は今のところは無いのだが、用事ができた時は用心した方が良いかもしれない。そう思い、エリックは何となくマクスウェルへと視線を向ける。

 

 先程から会話に入ってこないなと思えば、マクスウェルはイチハと何か話し合っているようであった。彼らはいつの間にか、エリック達から少し離れた場所へと移動している。

 

「マクスウェル? イチハ?」

 

 余程熱心に話し込んでいるのか、二人はエリックが近付いても気付かない。よく見ると、マクスウェルがイチハに責められているようだった。

 

『ごめん、契約を緩くしていたんだよ。違反事項が発生すれば、すぐに解除されるくらいには。それに……あの子は、魔力の影響を人一倍受けてしまう。強すぎる契約は勿論危険だし、契約期間が伸びれば伸びるほどに、あの子は本当に“人では無くなってしまう”。だから……だけどまさか、国境を跨いで追っかけてくるとは、思わなかった。本当に申し訳ないことをしたよ』

 

「あなたが、あんな事態を例外扱いしない筈がないとは思っていました。けれど……どうされるおつもりですか?」

 

『……。悩んでる。素質で行けば、今ならライでも大丈夫だし、適役は……何か盗み聞きしてくれちゃってるエリックなんだけど』

 

「!?」

 

 会話を聞いているのがバレてしまったらしい。びくり、と肩を震わせたエリックを見て、マクスウェルはくすくすと悪戯っ子のように笑ってみせる。

 

精霊の使徒(エレミヤ)契約って、良いものじゃないんだよね。力に溺れて狂ってしまう子もいるし、適応力が無さ過ぎると理性が崩壊しかねない。クリフみたいに適応力があり過ぎる子は、私と同化して、神格の器――自我を持たない本当の操り人形と化してしまう危険性がある。だから、ゆるーく契約を結んで、何かあったらすぐに契約が切れるようにしておいたんだ。そのせいで、あなた達には苦労をかけてしまったみたいだね』

 

「いや、それは良いんだが……その危険性だとか、契約を緩くした理由なんかはクリフォードに話してないだろ?」

 

『話したら多分あの子、喜んで神格の器になると思ったんだ。言っちゃ悪いけど、クリフは死にたがりなとこあるし……何より、何も考えなくて済むようになるって、あの子にとっては凄く魅力的だと思うんだよ。特に、契約当時のあの子には、尚更』

 

「……なるほど、な」

 

 精霊の使徒(エレミヤ)になるためには、マクスウェルに認められる何かを持った人物であり、精霊術師(フェアトラーカー)の才能があることが大前提。後者に関しては、クリフォードほどの適材はなかなか現れないとのことであった。

 

『私は母親のシェリルと面識があったから、最初からジェラルディーン兄弟に目を付けていたんだ。なのに、何か厄介なことになっちゃってね……丁度、ゾディート君が失踪したダリウス君を探していたから、導いて何とか助け出した。けど、クリフを探すのに時間が掛かっちゃって、時間差が開いちゃった。後になったこともあって、私がクリフを引き取った……精霊の使徒(エレミヤ)の適正面を考えたら、ダリウス君のが欲しかったんだけどね』

 

「適正、面……?」

 

『両方共適応力ありすぎるから、どっちも神格の器化の危険性は持ってる。けれど、適正って意味じゃダリウス君が向いていたんだ。あの子の方が、戦闘向きの能力してたし、何より意志が強いから、私の力に飲まれすぎないだろう……って、思ってた。別に、クリフが不満なわけじゃないけれど、心配なんだよね』

 

 自分は母親と面識がある上に、クリフは小さい頃から見てたからなぁ、とマクスウェルは苦笑する。親のような、祖父のような気持ちになってしまっているのだろう、と。

 こんな話をしていると、マルーシャ達も気付いてこちらに寄ってきた。それを見て、マクスウェルはおもむろに首を横に振るう。

 

『多分、あなた達も気にしてるだろうけど……ごめんね、精霊の使徒(エレミヤ)再契約の件は、もうちょっと考えさせて。場合によっては、使徒を替えることも考えてる』

 

「!」

 

 マクスウェルの言葉に、エリック達は絶句してしまった。マルーシャやアルディスは何とか反論しようとしている様子だった。だが彼女らが口を開くよりも先に、マクスウェルが再び語りだした。

 

『あの子……あんなに表情がコロコロ変わるようになったんだね。少しずつ、感情ってものを理解し始めたんだね。あなた達のお蔭かな。そこは、本当に感謝してる』

 

 エリックによく似た顔立ちの男は、エリックとは異なる青い瞳を細めて笑う。

 

『心配しないで。何かしら、考えるから。あの子は、精霊の使徒(エレミヤ)であることを生きる目標にするんじゃなくて、あなた達の旅に着いて行きたいがゆえに精霊の使徒であろうとしてたから……せっかく、前を向いて生きる希望ができたんだ。それを、奪いたくない』

 

「そう、か……分かった」

 

『とりあえず、私の話はおしまい。クリフに会いにいってあげてよ……多分、今頃困ってるから』

 

「!?」

 

 一体、何を困っているというのか。エリック達が困惑していると、横にいたイチハが盛大にため息を吐いた。

 

「ま、また力の無駄遣いを……! クリフ頭固いから苦手なんだよな、ああいうの。ライ連れてって一緒に解読するか……」

 

「は……!?」

 

「ふふ、クリフの家面白いよ。俺様やライの家みたいに殺しに来ないから、大丈夫。案内するから行ってみようか」

 

「ちょっと待って! どういうこと!? それ多分、わたし達が知ってる家じゃない!!」

 

 動揺するマルーシャ達を放置し、イチハは踵を返して出口へと進んでいく。迷子にならないためにもと、一同は慌てて彼の後を追った――「殺しに来る家って何だよ」という共通の疑問を抱えながら。

 

 

 

―――― To be continued.



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Tune.57 ルーンラシスの住民達

 

 途中で地面を這っていたライオネルを回収し、エリック達はイチハの案内に従ってクリフォードの家へと向かう。その際、不憫に思ったらしいマルーシャが治癒術を発動させてライオネルの傷を癒していた。

 ライオネルが「天使かよ……」などと言い出した件に関してはあえてスルーを決め込み、エリックは目の前に現れた直径百メートル弱程の広い泉――と、その中心にあるログハウスへと視線を向けた。

 

「……。どういう構造になってるんだこれは」

 

「クリフがまだ力の制御できてなかった頃に、泉湧かせちゃったんだよね。基本、あの子は家に引きこもりがちだから、上手いこと家の周りが泉に」

 

「よく沈まなかったわね、それ……」

 

「マクスウェル様がいれば大体何とかなるんだよ」

 

 イチハがへらへらと笑うその横顔を、ライオネルが眺めている。酷く痛め付けられたことへの憎悪かと思いきや、彼の眼差しはどこか不安げなものであった。それに気付いたアルディスが、少し躊躇いがちに口を開いた。

 

「ライオネルさん。えーと……イチハさんの、姿の話なんですけれど……」

 

「ん? おお、敬語使われるの初めてだわ。丁寧な奴だなぁ……それはさておき、お前が思ってる通りだ。イチハ兄は、精霊の加護下なら人間の姿を保てるんだ。特にルーンラシスを加護するのは神格精霊であるマクスウェル様だからな、神殿から少々離れてもイチハ兄は人間の姿を保てるんだ」

 

「! え、俺、まだ何も……!!」

 

 他に優先すべき出来事がいくつか発生した上に、大体そういう事情だろうということで流していたイチハの姿。その理由が明らかになったのは良いが、ライオネルが聞いていないことまで話してくれたことにアルディスは驚き、狼狽える。それに対し、ライオネルは牙を見せるように笑ってみせた。

 

透視干渉(クラレンス・ラティマー)。オレもクリフと同じ能力なんだよ。ま、オレはクリフほど有能じゃない上に、物質透視が専門なんだけどな。多分お前、意志支配(アーノルド・カミーユ)能力者だろ?」

 

「ああ、なるほど。はい、意志支配能力者です」

 

「悪いな。普段、対人相手にはあまり使わないんだが、何か共解現象(レゾナンストローク)が起こったから使ってみた。でも、オレ相手でここまで綺麗に共解現象起こせるんだったら、クリフ相手だと暴走しまくって大変だったろ」

 

「あはは……そう、ですね……」

 

 ライオネルは、あまり能力を使いこなせていないのだという。元々、扱いの難しい能力だ。それは無理もない。しかし、マクスウェルの傍で暮らしているためか、能力に対する知識はそれなりにあるらしい。

 いきなり戦闘になってしまった相手ではあるものの、もう襲いかかってくる気配は無いどころか友好的に接してくれる彼に安心しつつ、アルディスは泉へと視線を向ける。

 

 

「……。ところで、これ、どうやってクリフさんのとこまで行けば良いんですか?」

 

 今現在の問題はむしろ、こちらの方だ。水が苦手なアルディスとしては、非常に困った状況である。少しはマシになったとはいえ、完全にトラウマを克服したわけではないのだ。

 

「んあ? オレは飛ぶし、イチハ兄は特殊能力使って水上走行。お前らは飛べば良いじゃん……って、そこのピンクのは純血じゃねぇのか」

 

「あたし髪色以外特徴無いのかしら……まあ良いわ。その、純血組もそんなに飛べないのよ。ディアナ君は大丈夫だけど、ノアとマルーシャちゃんは無理、エリック君も多分……」

 

「この距離じゃ、途中で落ちるな……」

 

 どうやって進めば良いんだろう。頭を悩ませ始めたエリック達を見て、イチハはちらりとライオネルを見る。ライオネルは、あからさまに嫌そうな顔をした。

 

「……やっぱ、それしかねーの? そこのデカイ金髪は重そうだから嫌なんだけど」

 

「ごめん、それしかない。俺様飛べないから手伝えないや。エリックは本当重いし、ディアナちゃん手伝わせるの嫌だし、もう沈めて良いよ。沈めよう?」

 

「ちょっと待て」

 

 何やら嫌な会話が繰り広げられている。思わず口出ししたエリックに対し、ライオネルとイチハは全く迷いのない様子で口を開いた。

 

「お前、自力で頑張って飛べよ。お前はどう見ても一番重いから嫌だ」

 

「練習も大事だよ。さて……ライ、悪いんだけど任せるよ。俺は先に行ってるね」

 

「おう、任せろ!」

 

 とん、と地面を軽く蹴り、イチハはその両足に魔力を込める。そのまま、彼は泉の中心にある家の玄関先まで走っていった。あれをエリック達に使わなかったのは、水面走行がそれなりに技術を要するものだからなのだろう。

 ライオネルはアルディスをひょいと抱え、その背に翼を出現させて家へと向かう。そして帰ってきたかと思うと、今度はポプリを抱えてエリックの方を見た。

 

「……」

 

「分かってる。何とか、やってみる……」

 

 どうやら本当に運んで貰えないらしい。覚悟を決めたエリックは、背に翼を出現させ、地を蹴った。上着はディアナが着ているからもう良い。この際泳いで渡った方が早い気がしてきたが、イチハの言う通り練習も大事だ。そう、ただ真っ直ぐ前に飛べば良いだけだ。頭では分かっているのだ。

 

「ッ! や、やっぱり……無理だ!!」

 

 二十メートルくらいは、進んだだろうか。ふいに翼が消えてしまったらしく――エリックは、勢いよく水の中に沈むこととなった。

 

 

 

 

「ぶ……っ! ふっ、ふふ……く、クリフにタオル借りようか……! ちょっと待ってて、一枚取ってくる」

 

「……。反省も後悔もしていないぞ」

 

「お前ら良い性格してるよ、本当に……!」

 

 数分後。自力で泉を泳ぎ切ったエリックを待っていたのは、ルーンラシスの住民達の労うつもりが一切ない言葉だった。水を滴らせ、寒さに震えるエリックをディアナが炎で温めている。

 

「エリックは泳ぐの、得意なんだな」

 

「僕はただの風邪でもすぐに重症化させるからな。体力付けるためによく泳いでたんだよ。武術の鍛錬は止められることが多かったが、水泳はそんなに神経質な対応されなかったから……まあ、温水プール以外は禁止だったんだが」

 

「ああ……なるほど。それで重いって話になるわけだ……」

 

「そうそう。筋肉は重いからな」

 

 そんな会話をしていると、横から嫌な気配を感じた――ライオネルだ。

 

「何となく、そんな気はしていた。お前……アベル王子か?」

 

 

『でも、多分ライは君のこと、無理だから。あの子は、性格も格好良い俺様とは違ってお子ちゃまだから……覚悟しといた方が良いんじゃないかな』

 

 

 イチハに、警告された言葉を思い出した。

 だが、今更変に隠すのも、誤魔化すのもおかしい。ここは堂々としているべきだろう。エリックはライオネルの赤紫色の目を真っ直ぐに見据え、口を開く。

 

「ご名答だ。僕はエリック=アベル=ラドクリフ……悪い、名乗るのをすっかり忘れていた。騙すつもりは、無かったんだ」

 

「……」

 

 これは、流石にエリックも分かっていた。戦舞(バーサーカー)であれば、仕方のない反応だ。しかし今現在、ラドクリフ王家と戦舞の間に生じた亀裂を理解しているものは、殆ど存在しない。現に、エリック以外の仲間達は事情を察することができていなかった。

 

「……別に、どう思われても構わないさ。それだけのことを、こっちはやっている」

 

 戦舞(バーサーカー)、というのは純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)の中にごく少数存在する種族だ。強靭な力、不屈の精神を持つ、戦闘種族――ゆえに、数十年前まではラドクリフ王家の奴隷や、娯楽のための剣闘士として重宝された存在だった。彼らが今やごく少数しか存在しないのは、過去に乱獲され、数が減ってしまったからである。

 これはあくまでもラドクリフ王家の内々で処理されていたため、一般市民の認知度は低い。だが、ラドクリフ王家が犯した罪の歴史の一つとして、エリックはこれを頭に入れていたのだ。そして今現在も、ラドクリフ王国は恐らく戦舞に対して危害を加えているに違いない。クリフォードやダリウス、イチハの件を考えれば、この可能性は極めて高い。そもそもライオネルの身近な存在は皆、似たような境遇にあるのだ。

 だからこそ、エリックはライオネルに対して下手に出た。それが、ライオネルにとっては予想外なものであったらしい。

 

「アベル王子ってことは……今、十八か。それなのに、そんな察したような、諦めたような態度……無性に腹は立つが、お前が悪くないってのは知ってる。だから、そんなの、やめろ」

 

「僕は、悪くない……と?」

 

「お前がやったわけじゃない。ただ、お前がそれを繰り返さないとは思っていない。そう思えるだけの材料が揃ってない……すぐに、信用できるほど、オレはお前ら一族を良く思ってない。だから、しばらく様子見させろ。あのクリフが懐いたんだ、何かしら持ってんだろうとは思ってるよ」

 

 困ったように首を軽く傾げ、ライオネルは微笑する。信用する気はないが、危害を加える気はない、と言いたいようだ。「ありがとう」とエリックが口にすれば、ライオネルは決まりが悪そうに視線を逸らしてしまう。

 

「えーと……とりあえず、大丈夫、ですかね? 俺も名乗っておきますね。俺は、アルディスといいます。フルネームは、アルディス=ノア=フェルリオ。あと、女性陣はマルーシャとポプリ姉さんとディアナです」

 

「!? 今度はノア皇子!? マクスウェル様から、生きてるって話は聞いてたが……ってことはお前、ヴァイスハイトか。それで妙に見た目幼いんだな……昔のクリフを思い出すわ……」

 

「ああ、クリフさんも見た目幼かったんですね……なら安心した。俺も成長できそうだ」

 

「だな。ヴァイスハイトの成長期は十六、七くらいから始まるらしいから、安心して良いんじゃね? しっかし、オレの周り見た目と実年齢合ってない奴らばっかだなぁ……」

 

 ははは、とライオネルが笑っていると、イチハが帰ってきた。彼は何故か、疲れたような笑みを浮かべている。

 

「だよね。俺様、やっぱりここ出たくらいから見た目の変化無いよね」

 

「……。雰囲気で、歳はそこそこ行ってるのは分かるんだが……見た目だけを見れば、今年で二十八歳とは思えないな。少なからず、身体の成長に遅れが出てるんだと思うぜ」

 

「そっか。まあ、若く見えるのは悪くないんだけど」

 

 エリックにタオルを渡しつつ、イチハはどこか悲しげに笑う。彼はやれやれと肩を竦め、力なく頭を振るう。

 

「体内精霊が異常な状況になれば、見た目に影響が出るのは知ってた。だから、ライに見た目で追い抜かれるのは覚悟してたんだけど……このままじゃ、クリフにさえ抜かれかねないな。ただでさえ、目の色変わっちゃったのに……本当に、これじゃ……」

 

「……。妙に、帰ってくるの遅いと思ったら」

 

 どこか憔悴した様子さえ感じられたイチハであったが、心配そうに顔を覗き込む弟分を見て、正気に返ったのだろう。彼はライオネルの頭をポンポンと叩き、ドアノブに手を掛けた。

 

「さて、俺の話はもう良いよ。クリフ、諦めて不貞寝してるっぽいし、さっさと助けてあげよう?」

 

「不貞寝!?」

 

 一体どんな状況になっているのか。

 イチハのことが気になりはしたものの、話の腰を折ってきた彼の気持ちを考え、エリックはあえてそこを追求することなくタオルで身体を拭いた後、クリフォードの家に入った。

 

 

「……は?」

 

 そこは、木目が美しいログハウスだった。泉の中心に位置するにも関わらず、不思議と床は腐っていない。シンプルな木のテーブルに椅子、藍色のラグマットが引かれた――家の中に蔦が入り込んでいたり、ところどころに苔が生えていたり、何故か家の一角で湧水が湧いていたりと、変に自然と共存しているらしい家だった。

 それ以上に異様だったのは、テーブルのさらに奥にある、巨大な本棚だろう。壁が本棚になっているのかと思えば、どうやら違うらしい。イチハとライオネルは真っ直ぐに本棚へと向かい、本を数冊手に取った。

 

「……。ライ、一番最近のはどんな感じだった?」

 

「古書を真ん中、図録を上、小説を右、学術書を左、魔導書を下に集める奴だった」

 

「よし、まずはそれ試してみようか」

 

 二人は本を抜いてはテーブルに置き、抜いてはテーブルに置き、を繰り返して本棚を空にしていく。何となく、事情を察したらしいマルーシャが、彼らの傍に行き、手伝い始めた。

 

「マルーシャ?」

 

「エリックも手伝って。これ多分、隠し扉だよ!」

 

「はあ!?」

 

 驚き、動揺するエリックを見て、イチハとライオネルが作業の手を止めぬまま口を開く。

 

「マクスウェル様の趣味は、俺達の家に勝手に変な仕掛けを作ること。この家、本当は広いワンルームなんだけど……真ん中に本棚風隠し扉が出現しちゃったものだから、リビングが二部屋に分かれちゃったんだ。それでも、俺達の家みたく突然落とし穴が開くとか槍が降ってくるとか、そんなんは無いから安心だけど」

 

「この隠し扉は本を決まった位置に配置しないと開かないんだ。困ったことにオレらの能力は無効化される。実は反対側からでも操作出来るんだが、パズルとかそういうのが苦手なクリフはまず自力で解けない。だから今回みたく向こう側にアイツが閉じ込められた場合はオレらが来るまで出られないとかいう意味不明なことになる」

 

(何だそれ……)

 

 ここの住民達はこの怪現象に慣れきっているらしく、もはや当たり前のように推理を始めている。イチハとライオネルの家は冗談などではなく本気で殺しにくる家のようであるし、クリフォードのパズル屋敷は可愛らしいものなのだろう。

 

「なにそれ面白いわね……で、家主は不貞寝確定なの?」

 

「返事がないから不貞寝してるとしか思えない。多分、さっさと諦めたんだと思う。まあ、君達も知ってると思うけど、あの子は身体が限界訴えるか倒れるまで寝ないから、寝れる環境にあったらすぐ寝るしね。睡眠取らせる意味じゃ、パズルも良いんだけど」

 

「一回試しに放置してみたこともあるんだが、その睡眠時間込みで出てくるまでに一週間掛かった。どれだけパズル解除に時間掛けたのかは知らないが、オレらが解いた方が絶対に早いのは確かだな」

 

 そうこうしているうちに、本棚の本を抜ききった。後は、この本の山をどう並べるかだ。

 

「さあ、どう並べる? 君達の意見を聞こうじゃないか」

 

「……」

 

 とりあえず、相当な時間が掛かるであろうことを、エリック達は覚悟した。

 

 

 

 

「あはは、なるほどね。こっち側だけで生活できるようにはなってるんだね……」

 

 本棚の向こうは、寝室になっていた。ドアがいくつかあり、そこが浴室や台所などに繋がっているらしいことが伺える。一週間閉じ込められても問題無いわけだとマルーシャは呆れたような笑みを浮かべた。

 参加人数が多かったためか、パズルは一時間足らずで解くことができた。なお、解答は『ジャンルの違う本を交互に並べていく』だった。マクスウェルは相当暇を持て余しているらしい。そして「これはうちの罠配置も変わってるなぁ」とため息を吐くライオネルとイチハは怒っていいと思う――それはさておき。

 

 

「……あ、おはようございます」

 

 人の気配を感じたらしく、目を覚ました家主クリフォードがこちらを見てへらへら笑っている。外傷もなく、元気そうなその姿に安堵したのはエリックだけではないだろう。

 

「ま、マクスウェルからクリフさんがひっくり返ったと聞いたんで、心配したんですよ……?」

 

「はは……情けないが、結構緊張していたんだ。契約違反の代償として殺される覚悟もしていたんです……あとまあ、自覚は無かったんだが睡眠が足りていなかったようで……」

 

「だからと言って、あたし達を置いていくことないじゃない……!」

 

「その、あれだ。八つ裂きになった姿なんて、見せたくなかったんです……とりあえず、大体分かってそうだが、事情を説明しておきましょうか」

 

 話によると、クリフォードはマクスウェルから何のお咎めも無かったことで気が抜け、睡眠不足もたたってその場で気絶。さらにここで目覚めたのは良いが、出られなかったので諦めて寝た……という素晴らしく間抜けなことになっていたらしい。

 もう怒る気にもなれなかったので、エリック側も起きた出来事をまとめて話すことにした。

 

「……ああ、なるほど。なら、幼い頃のエリックはあんな感じなんですね」

 

「多分。目を赤くしたら僕になると思う」

 

 ディアナの件も話したのだが、彼女を気遣ってかクリフォードはそこにはあまり触れず、本棚から一冊の古書を抜き取った。

 

「目が青いのはスウェーラル様の遺伝らしいぞ。だから、マクスウェル様はアルとも親戚関係になるな。容姿がエリック寄りなだけで。そういえば、アルはスウェーラル様に良く似ているから、数年後には本当に瓜二つになるかもしれませんね」

 

 彼は慣れた手つきでぱらぱらと紙を捲り、大きな挿絵の入った一頁を開いた。その頁に描かれていたのは、ルネリアルとスウェーラルの色褪せた肖像画だった。

 すっと本を覗き込んだマルーシャが楽しげに目を輝かせる。その二人が、彼女の見知った人物達とそっくりだったからだろう。

 

「本当だ! ルネリアル、ゼノビアお義母様の若い頃に良く似てる! それに、スウェーラルは大きくなったアルディスだね」

 

「大きくなった俺って表現やめてよマルーシャ……だけど、変だな。俺、髪色以外は完全に父上似なんだけど……」

 

 自身の白銀の髪を掴み、アルディスは小さく唸る。母親似でスウェーラルそっくりならまだ分かるが、父親似でこうなるのが納得できないのだろう。それもそうだ、彼の父親は、聖者一族ではないのだから。

 

「実は、大昔は暗舞(ピオナージ)の一族がフェルリオを統治してた、とか?」

 

「それは無いんじゃないかな……ああでも、そうだな……」

 

 スウェーラルの肖像画をまじまじと見つめ、アルディスは苦笑する。

 

「見た目は少し母上寄りだったシンシアとはちょっと違うから、案外スウェーラルって暗舞(ピオナージ)と関係がある存在だったのかもね」

 

「……シンシア……」

 

「ああ、知ってると思うけど、俺の妹。生きてたら、丁度君と同い年になるんだよ……未練がましいって、笑うかい?」

 

 翡翠の左目を伏せ、アルディスは「ははは」と力無く笑った。その笑顔が、どこか悲しげで、辛そうで。

 

「アルディス……」

 

 何か声を掛けなければと動いたマルーシャだったが、彼女はアルディスの次の一言で停止してしまった。

 

 

「今更だけど、シンシアって――君に、よく似てるんだよね」

 

 

 事情を知らないのだから、仕方がない。しかしそれは、マルーシャにとってはあまりにも残酷な言葉であった。

 ただ、マルーシャが真相を知らないのは不幸中の幸いだったとエリックは感じていた。アルディスに関してもそうだ。本当に、彼女らが真実を知ってしまえば大変なことになるに違いない……いつ、どのようにして真実を知らせば良いのだろう。

 そんなエリックの悩みなど知らず、アルディスは言葉を続ける。

 

「だから俺は八年前、君とエリックを放置できなかったんだと思う……シスコンって言われちゃいそうだけど、今でもシンシアは、俺にとって大切な妹だから」

 

 妹に、シンシアに会いたいのだろう。生きた彼女と、再会したいのだろう。あまりアルディスの身内の話を聞いたことが無かったのだが、少なからず、彼は自分の家族を大切に思っていた筈だから。

 

「……」

 

「マルーシャ?」

 

 悲しげに笑うアルディスに、何の言葉も掛けることができずにマルーシャは震えている。そんな彼女を不思議そうに眺めていたアルディスの肩を、クリフォードが叩いた。

 

「アル、ちょっと良いか?」

 

「クリフさん? えーと……はい、大丈夫です。どうしましたか?」

 

 本を閉じ、クリフォードがアルディスを手招きして部屋の奥へと向かう。恐らく、シンシアの件で探りを入れるつもりなのだろう。彼が、マルーシャとシンシアの関係をアルディスに話すとは思えない。

 

(そういえば、シンシア本人のことは僕もよく知らないんだよな……)

 

 今の言葉を、シンシアが聞いたらどう思うのだろう。きっと、嬉しいに違いない。そんなことを思いながら、エリックはふと、マルーシャへと視線を向け――驚愕した。

 

 

「……そうだ、よね……ごめん、ごめんね……ごめんなさい……ッ」

 

 

 マルーシャが、大きな黄緑色の瞳から涙を流している。エリックの視線に、気付いている様子はない。彼女は譫言のように、“何か”に謝り続けている。

 一体どうしたのだろうか、心配して近付いたエリックの存在に漸く気付いたのだろう。マルーシャはハッとして目を見開き、踵を返して部屋を飛び出した。

 

「おい、マルーシャ!!」

 

 思わず声を荒らげ、エリックはマルーシャの細い腕を掴んだ。だが、それがいけなかったのだろう。

 

 

「離して!!」

 

 

 エリックの手は、明らかな拒絶の意志を持って振り払われた。思わず固まってしまったエリックを見て、マルーシャは新たな涙を流す。

 

「……ぁ……」

 

 ごめんなさい、とマルーシャの口が動いた。今度は、エリックに向けられた言葉だった。

 

 

「……。マルーシャ、だったか? ひとりになりたい気分なんじゃないか? オレ、泉の向こう側まで送ってやろうか?」

 

 流石にこの異常事態に気付いたアルディス達よりも先に言葉を発し、彼らの動きを抑制したのは、意外にもライオネルだった。無言で頷いたマルーシャの手を取り、ライオネルは玄関へと向かう。

 状況からして、仕方ないというのに。マルーシャがライオネルの手を振り払わなかったことに、エリックはどうしようもなく無性に腹が立ってしまった。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ……!」

 

「待たねえよ!」

 

 せめて一声掛けさせて欲しいと、エリックが絞り出した言葉。それに対し、ライオネルは苛立ちを隠せない様子で叫んだ。

 

「……ッ」

 

 これには、エリックのみならず他の仲間達も動けなくなってしまった。しんと静まった場には、マルーシャがすすり泣く声だけが響いている。こんな状況だというのに、エリックはブリランテの宿屋のロビーでの出来事を思い出していた――また、マルーシャを泣かせてしまったのだと、気付いてしまった。

 

「ち……っ、そんな顔、すんなよな……!」

 

 自分は一体、どんな顔をしていたというのだろうか。ライオネルは舌打ちし、苛立った様子のまま、マルーシャをちらりと見てから口を開く。

 

「分かってやれよ……何が何だか知らねぇけど、この子、今はお前と一緒にいたくないんだろうよ……」

 

 そう言い残し、ライオネルはマルーシャを連れて出て行ってしまった。恐らく、ライオネルの言葉に間違いはないのだろう。マルーシャは、一言も彼の言葉を否定しなかったから――。

 

「……」

 

 力が抜けたように、エリックはその場に座り込んでしまった。

 

(……そんなに、僕は頼りない、か?)

 

 マルーシャが、何かに悩んでいる。それは、間違いないというのに。

 なのに彼女は、何も教えてくれない。ただ泣くだけで、救いを求めてはくれないのだ。

 挙句の果てには、手を振り払われてしまった。自分に相談する気はない。そういうことなのだろう。

 

(ごめんな……こんな奴が、許婚で)

 

 自分達は、親に結婚を定められた存在だ。けれど夫婦とは本来、共に助け合う存在なのだと思っている。少なくとも、自分だけが一方的に助けられているこの状況は、決して好ましいものではない――なのに。

 

「困った、な……」

 

 顔を上げることはできなかったが、仲間達が、自分の周囲に集まってきていることは、感じていた。だからこそエリックは、助けを求める意味合いも込めて、こんな言葉を口にした。

 

 

「今のマルーシャに、なんて、声を掛けるべきか……何をしてやれば良いのか……全然、分からないんだ……!」

 

 

 助けてやりたいのに。傍にいてやりたいのに。そんなことさえ、できないというのか。

 仲間達に八つ当たりしなかっただけ、自分も大人になったとは思う。しかし、それだけでは足りないのだ。それだけでは、駄目なのだ。

 

「ただ、笑ってて欲しい……それだけ、なのに……」

 

 マルーシャの笑顔。

 最近、あまり見れなくなってしまったそれが、今はどうしようもなく、恋しかった。

 

 

 

―――― To be continued.

 




 
ルネリアル

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スウェーラル

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(絵:長次郎様)


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Tune.58 急変

 

「今の……俺のせい、だよね」

 

 重々しい空気が流れる中、一番に口を開いたのはアルディスだった。

 彼が落ち込んでいるのは明白だ。しかし、慰めの言葉を誰かが口にするよりも先に、彼は話を続けてみせる。

 

「もっと、マルーシャのこと……気にしとくべきだったな、シルフ、最近姿見せてないし……」

 

「シルフ?」

 

 アルディスの口から、思いがけない者の名前が示された。不思議そうにその名を呟くディアナに、アルディスは困惑を誤魔化すような笑みを浮かべてみせる。

 

「精霊って、契約者側の影響をもろに受けるんだ。シルフって、レムと違ってひょいひょい顔出してくる感じなのに、最近全然姿を見かけていない……多分、マルーシャが心のどこかでシルフのことを拒絶してしまっているんだと思う」

 

 無駄な消耗を防ぐためにも、精霊が姿を現すのは基本的には稀なことだ。それにも関わらず、シルフがエリック達の前に頻繁に姿を現していたのは契約して日が浅かったことと、何よりマルーシャがシルフの出現を受け入れていたことが理由だろうとアルディスは語った。

 

「レムが召喚時以外に姿を現さなかったのは、俺がレムの出現を拒んでいたから……最後の方は、バングル越しの会話すらしてなかった。レムの声すら、俺には届かなくなっていた」

 

「……」

 

 精霊って結構不自由なんだと思うよ、とアルディスは悲しげに首を傾げてみせる。

 

「マルーシャが、俺と似たような感じになってる可能性は、かなり高いと思うんだ……もっと早く、気付いていれば……」

 

「……」

 

 問題はそれだ。一体、何がマルーシャをあそこまで追い詰めているのか――誰も、心当たりがなかった。誰も、何も思いつかなかった。

 

 

「普通、負の感情ってのは表に出てきてくれねぇと分かんねぇよ。しかも、本人が周りに気付かせたくないとか思ってちゃ、周りは何もできねぇもんだと思うぜ」

 

 頭を悩ませるエリック達の元に、ライオネルが戻ってきた。腕を組み、どこか不機嫌そうな様子の彼の視線は、クリフォードへと向いている。

 

「なあ、クリフ……あそこまで感情が動いてたなら、お前、能力発動してなかったとしても何か感じ取れたんじゃねぇの?」

 

 この発言からして、ライオネルも何も理解できていないようだ。泉の向こう側に移動する間、これといって会話はできていないのかもしれない。ライオネルの視線と言葉に、クリフォードはたじろぎ、俯いてしまった。

 

「そ、その……」

 

「どうした? 何だよ」

 

 何かを言いたそうな様子である。はっきり言えと言わんばかりにライオネルがクリフォードに問い詰めようと動いたことに気付き、エリックは彼を静止した。意外にも、彼は素直にエリックに従ってくれた。

 

「……」

 

「言いたくないなら、言わなくて良い……何となく、気付いてるから」

 

 恐らくクリフォードは、マルーシャの思考を読めていなかった。それどころか、ゾディートはともかく、彼はフェリシティやベティーナの思考を覗いた様子すら見せなかった。あの場面で、敵である可能性が高い彼女らの内面を覗き込まない理由はどこにもない――能力の発動には、もう問題は無いと言っていたのに、だ。

 

「いえ……大丈夫、です。話します」

 

 ブリランテでかえって好奇心を刺激するような変な失言をしていたこともあり、エリック達に対しては能力を使わないと決意してくれた可能性も感じていた。しかし、この様子を見るに、それは違ったのだろう。彼は「申し訳ありません」と前置きした後、顔を上げてエリック達を見据え、口を開いた。

 

「……。能力を、潰されたんです……今の僕には、大した透視能力はありません……」

 

 誰に、という言葉は出なかった。下手に彼のトラウマを刺激したくはなかった。言葉を失うエリック達に、クリフォードはどこか不自然に笑ってみせる。

 

「完全に使えなくなったわけではないので、心配しないでくださいね。若干の過ごしにくさはありますが、目を閉じたまま生活すること自体は続けられますし、相手の動きを読んで反応する力は残ってます……あれは、感情というよりは関節や魔力の流れを読むだけのことですし。ですが、人の感情を読んだり、真意を確かめたりなんてことは……不幸中の幸いは、共解現象(レゾナンストローク)を暴走させることは無くなったことでしょうか」

 

 つまり、対人相手の透視に不具合が生じているということだ。ブリランテで住民達とある程度会話できるまでに時間がかかっていたのは、間違いなくこれが原因だ。

 魔力の消耗で能力を発動できなくなっていただけでなく、回復後も完全に元には戻らなかった――それに気付いてしまった時、彼が絶望したであろうことは、想像に容易い。

 

 何故、話してくれなかったのか。相談してくれなかったのか。

 こういったことを彼に言うと、尚更萎縮して何も言わなくなるということはエリック以外の面々も理解していた。しかし、そう思われていることは恐らく本人が気付いていない。

 何か言わなければ、と視線を泳がせるクリフォードを見て、アルディスはギリ、と奥歯を鳴らした後、口を開いた。

 

「ッ、この際だから言っておきます! 先に言わせてもらいますよ!」

 

「……!?」

 

「放っといたら喋りっぱなしになりそうですし!」

 

 驚き、困惑する相手の意思など知らないとでも言いたげな様子だった。クリフォードが言葉を発するよりも早く、アルディスは声を荒げる。

 

 

「あなた、どうせ特殊能力くらいしか取り柄ないと思ってたんでしょう!? さては『能力潰されたの気付かれたら捨てられる』とかくっだらないこと考えてたんでしょう!? 別にあなたに嘘発見器としての役割求めてないんで!! だから、何が何でも、着いてきてもらいますからね!! 正直、今更欠けられたら違和感しかないんですよ!!」

 

「えっ、いや、あの……!」

 

「『しばらく休みたい』とか『一緒にいたくない』とか、そういう理由が無い限り着いてきてもらいますからね!!」

 

 まくし立てるようなアルディスの言葉に「流石にそこまでは考えてない……!」とぼやきつつクリフォードは視線をそらしてしまった。

 恐らく全く考えてなかったわけではないだろうな、とエリックは苦笑し、真横でため息を吐くライオネルへと視線を移す。

 

「お前ら、二十三歳児の扱い上手なくせに何であのお嬢ちゃんの扱い下手なんだよ。絶対二十三歳児のが扱いにくいだろ」

 

「はは……」

 

 一番は、彼の事情を把握できていることが理由――だとは思う。それと、比較的慣れてきたことと、クリフォードから自分達に歩み寄ろうという意志が感じられることだろうか。

 しかし、誰よりも付き合いが長く、確かにクリフォードよりは色々と分かりやすい(と思う)マルーシャに対してはあのザマだ。情けないな、とエリックは奥歯を噛み締める。

 その反応を見て、思うところがあったのだろう。ライオネルは肩を竦め、ひと呼吸おいてから口を開いた。

 

「ま、お嬢ちゃんは落ち着いたら合流するって言ってたから、しばらくほっといてやったら良いんじゃねぇの?」

 

「あ……ああ……」

 

「焦ったってしゃーねぇだろ。ああ、そうだ。さっきは大声出して悪かったな。あんま、落ち込むなよな」

 

「……」

 

 確かに今は深追いせず、そっとしておくべき時だろう。

 エリックは不安を揉み消すように、そう自分に強く言い聞かせつつ、ライオネルに「ありがとう」とだけ返した。

 

 

 

 

「では、よろしくお願いします」

 

 クリフォードの家から離れ、開けた平坦な場所にエリック達は来ていた。マルーシャとディアナ以外の全員が集うその場所で、アルディスが宝剣を構えている。その正面で、リラックスした様子のイチハが胸元の赤いレーツェルに触れた。

 

「ふふ、ずっと鳥やってたから、多分鈍ってるだろうなぁ……でもまあ、俺様は強いから。いつでもどうぞ」

 

 くるり、と装飾の少ないシンプルな片刃剣――暗舞(ピオナージ)が扱う、『刀』という剣の一種なのだそうだ――を回し、イチハはアルディスを挑発してみせる。余裕だ、と言いたげな様子だ。

 

「ッ、行きます!」

 

 少なからず苛立ったらしいアルディスは一気にイチハとの間合いを詰め、懐に入り込んだ――その間、およそ数秒。これは完全には避けられまいと思っていたアルディスだったが、金属同士がぶつかった甲高い音を聴き、奥歯を噛み締める。

 刀で防がれたか、と次の一手を考えていたアルディスの首筋に、冷たい物が触れる。

 

「ッ!?」

 

 刀、どころではなかった。

 冷ややかな青紫の瞳が、アルディスを見下ろしている。

 

「ああ、うん……全然、駄目だね」

 

 首筋に触れていたのは、棒手裏剣の切っ先。アルディスの剣は、イチハが手の平に載せていたクナイで受け流したらしい。いつの間にレーツェルに戻したのか、彼は刀を持ってすらいなかった。

 驚いている場合ではない。慌てて距離を取ったアルディスを見て、イチハはクスクスと優美な笑みを浮かべてみせる。

 

「俺様と同じ流派だってことは分かった。だけど君ね、この流派向いてないよ」

 

 すっと、イチハが前に一歩踏み出す。それに備えたアルディスの動きも速かった――筈、だった。

 

「君、動作が結構派手なんだよね。半分は別族だから、俺達と全く同じようにはできないんだろうけど……噂じゃ、君の方は聖者一族寄りの体質だって聞いてるし」

 

 いつの間にやら、イチハはアルディスの背後を取っていた。発動を気付かせない程の瞬きの間のうちに、特殊能力『瞬光疾風(カールヒェン・ヨシュカ)』を使ったのだろうとアルディスは察した。

 そしてその頃には、アルディスの手から宝剣が弾かれ、少し離れた場所に突き刺さっていた。

 

「……」

 

暗舞(ピオナージ)は、最低限で良いんだ。必要最低限の動きで、致命傷を与える……それだけで、良いんだよ。相手に、それ以上の傷を与える必要はない」

 

 首筋に触れているのは、またしても棒手裏剣だろうか。わざと挑発しているのか、それとも本気で馬鹿にしているのかは分からない。だが、イチハが相当な手馴れであることは確かだ。

 何も言わず、アルディスは自身の左足を覆うレッグカバーに手を伸ばす。

 

「おっと……?」

 

 その動作を見たイチハが、大きく後ろに飛躍した。アルディスが勢いよく振り返り、両手を前に突き出す。

 

「!」

 

 イチハの顔から笑みが消えた。発砲音が響き渡ったその瞬間、再び彼の手に刀が現れる。その刃がガキンッ、と鈍い音を鳴らすと共に、イチハは困ったような笑みを浮かべた。

 

「油断大敵、ですよ」

 

「あーあ、刀は使わないつもりだったのに……反則だろう、それは」

 

「確かに、俺はあなたより強くはない。けれど、手加減されたまま簡単に負けるほど弱くはない!」

 

 投げナイフを出すと見せかけ、拳銃を取り出して発砲するというフェイントを仕掛けたのだ。流石に銃弾をクナイや棒手裏剣で防ぐのは無理がある。刀を出させるためにそうしたのだろうと気付いたイチハは肩を竦め、やれやれと微笑んでみせた。

 

「ふふ、分かったよ。変に翻弄せずに、まともに訓練付き合ってあげる。それで良い?」

 

「! はい!」

 

 

 純粋な暗舞(ピオナージ)であるイチハに、アルディスが戦術指南を頼んだのはつい先程のことだ。エリック達はぼんやりと彼らの様子を眺めつつ、彼らとは関係のないことを話し合っていた。

 

「ねえ、クリフ。このリボン、何か力が湧き上がってくる感じがして、変なんだけど……」

 

 今現在の話題は、ポプリの髪を結う新しいリボンだ。ゾディートに渡された後、ずっとしまわれていたダリウスの預かり物だという小さな袋の中身は、黒いリボンだった。

 ブリランテで渡したポプリのリボンが返ってきたのかと思いきや、『見た目はよく似てるのに明らかに上質なベルベット素材のリボン』とのことだったので別物であることは既に判明している。そしてとりあえず身に付けてみたところ、何かしら効果を持つ物だったらしい。

 先程、ライオネルから貰った眼鏡越しに、クリフォードはポプリのリボンを観察する。結論はすぐに出たらしく、彼はリボンに手を伸ばしつつ、口を開いた。

 

「んー……精霊の力が宿ってますね。悪いものではないと思うぞ。魔術の発動を助ける指輪、『フェアリィリング』……のようなリボン、ですかね。『フェアリィリボン』ってところか」

 

 そうなの、とポプリが安堵した様子を見せる。悪いものではなかったらしい。

 

 だが、エリックとしては何故か隣で必死に笑いをこらえているライオネルが気になって仕方がない!

 

「……なあ」

 

 二人に気付かれないように小声で話しかけると、ライオネルは必死に呼吸を整えながら、腹を押さえつつエリックに言葉を返した。

 

「オレも透視してみたんだ。そしたら……クリフの兄貴がリボンの選択に死ぬ程悩んだ上に、寝る間を惜しみまくって気合で作ったらしいことが分かった……っ」

 

「んな……っ!」

 

 違う色合いのを渡してみたいが、嫌いな色だったら悪いよな。

 装飾華美な奴のが似合いそうだが、地味な奴が好きかもしれないからな。

 そうだ、普通のリボンを返すのは芸がない! 何か仕掛けてみよう!

 

……などということを、あのダリウスが考えていたということか。

 

 口に出したことで尚更おかしくなってしまったのか、ライオネルは両手で顔を覆うようにして必死に笑いをこらえている。エリックもエリックで、ポプリとクリフォードに背を向ける体勢で肩を震わせた。

 これを笑わないのは無理だと思う。悩んだ挙句、黒いリボン(上質)を選んでいたり、ポプリの術を強化する効果を付与していたり……あまりにも、面白すぎる。

 とりあえず本人とその弟には伝えないでおこう、という暗黙の約束がエリックとライオネルの間で結ばれた。流石にダリウスが可哀想だ。

 

 

「た……楽し、そう、だな……?」

 

 すいっと、横からディアナが顔を覗き込んできた。何とも言えない表情を浮かべているのは、エリック、ライオネル両名が必死に笑いをこらえているからだろう。

 

「お、服……大丈夫そうか?」

 

「ああ、問題ない。助かった」

 

 現れた少女に、ライオネルは躊躇いがちに声をかける。ディアナが不在だったのは、裁縫(というよりは細かい作業)が得意だというライオネルに服を直してもらい、それに着替えていたからだ。

 彼女の着替えが遅いという印象は無かったのだが、何故か今回は妙に遅かった。

 そんなことを口には出さずとも感じていたエリックだったが、貸していた上着を返しに来たディアナの姿を見て、訳を察することができた。

 

「その、これ……ありがとう」

 

 今まで色々と頑張っていたのだなと感じ、エリックは思わず苦笑する。ディアナは元々サイズが大きめの神衣を着ていたために、体型を誤魔化さずとも今まで着ていた服を問題なく身に纏えている。

 つまり、ディアナは男装をやめたらしい。今の彼女は、どこからどう見ても少女の姿をしていた。

 

「どういたしまして」

 

「な、何か言いたそうな顔だな……!」

 

 全員に性別がバレてしまった以上、彼女が男装をする意味は無くなった。しかし、だからと言って今までずっと“やってきた”ことを簡単にやめられる訳がない。彼女の場合は外見に少なからず影響するのだから、尚更だ。

 男装をするかしないか――それに悩み、着替えが遅くなってしまったのだろう。そんな彼女に笑いかけ、エリックは口を開く。

 

「経緯はどうあれ、そうやってお前が自然な姿でいられるようになったこと、素直に『良かった』って思ってるよ。やっぱり、気持ちも身体も楽なんじゃないか?」

 

「ッ! う……っ、は、恥ずかしいから、あまり、言うな……! それと、あなた絶対に気付いてたよな? そんなにオレは女っぽいか……?」

 

「アルに怒られそうだが、出会った時から可愛らしい女の子だと思ってたよ……その顔で男装って、思い切ったことしたよな」

 

「うっ、あああぁあ……ッ! 恥ずかしいからやめてくれ! それに、そういうことは――」

 

 マルーシャに言ってやれ、という言葉がディアナの口から発せられることは無かった。状況が状況だ。落ち込んでいたエリックのことを考え、続きを言えなかったのだろう。

 だが、ディアナが言いたかったことを察したエリックは困ったように笑い、ディアナの頭を撫でた。

 彼が発した「ありがとう」という言葉に、ディアナはどこか悲しげに目を細めたかと思うと、頭を振るい、エリックを見上げて口を開いた。

 

「わ……“私”、マルーシャを捜してこようと思うんだ」

 

 口調は変わらないが、一人称が変わった。少し悩みつつも『私』とハッキリ口にしたディアナは真剣な眼差しでエリックを見つめている。

 

「ここはアルが訓練してるだけみたいだし、私なら空からマルーシャの様子を見ていられる。本当にひとりでいたいようだったらそのままでいるし、寂しそうだったら傍にいる……私にはそれくらいしか、できないが……」

 

「いや、十分だよ。助かる……僕が、行けたら良かったんだが……」

 

「……。あまり、気負い過ぎるなよ。そういうのはきっと、彼女も求めていない」

 

 行ってくる、と口にし、ディアナは翼を動かして上空に飛び上がる。その姿が小さくなるのを眺め、エリックは小さくため息を吐いた。

 

(……マルーシャ)

 

 気にしていない、と言えば嘘になる。

 本当は自分が傍にいたい。しかし、そうしたところで何ができるというのか。むしろ、自分では彼女の負担にしかならないのではないか――そんな思いが、ぐるぐると渦巻いている。

 駄目だ、とエリックは軽く自身の頬を叩いた。過剰にネガティブな心境に陥ると、もれなく悪い行動をしてしまう。それを自分で分かっていたからこそ、気持ちを切り替えようとエリックはアルディスとイチハの方へと視線を移した。

 

 少し目を離していた間に、アルディスはかなりイチハの動きを読めるようになっていた。余裕が出てきたのか、彼の得意とする素早い立ち回りが見え始めている。イチハの方も、最初のようにアルディスを舐めたような行動はしていない。むしろ、本気になりつつあるのではないだろうか。

 どちらも当たり前のように真剣を使っているのだが、相手を殺しかねない勢いで刃を振るっている。大丈夫だろうか、とあまり人のことは言えない心配をしていると、ふいに「アル……?」という声が耳に入った。

 

 

「ッ、まずい!」

 

「えっ!? クリフ!?」

 

 その声の主はクリフォードだった。彼はポプリとの会話を中断し、レーツェルに触れてアルディスとイチハの元へとかけていく。間に合わないと踏んだのか、彼は途中で大きく跳躍してアルディスを突き飛ばし、振り下ろされたイチハの刃を右手に構えたトンファーで受け止めた。

 精霊の力を借りていないクリフォードでは、当然振り下ろされた真剣の衝撃に片手で耐え切れる筈がない。イチハもイチハで、普通に受け止めてもらえるだろうと考え、全力で振るっていた刃を途中で止めることなど叶わなかった。

 

「な……っ!?」

 

 地面に転がったクリフォードは、上手く勢いを相殺できなかったために傷を負ってしまっていた。斬れた右肩から血が溢れ、白衣を染める。命に関わるような傷では無さそうなのが、幸いだろうか。しかし、イチハからしてみればたまったものではない。

 

「ばっ、馬鹿野郎! 一体何を考えているんだ!?」

 

 当然ながらイチハはクリフォードを叱る。エリック達も慌てて彼らのもとへと駆けつけた。だが、それでもクリフォードは行動の理由を話そうとはしなかった――否、話す必要が無かった。

 

「アル! 大丈夫ですか!?」

 

 自分のことはどうでも良い、と言わんばかりに、クリフォードはアルディスの元へと向かう。アルディスは突き飛ばされた状態のまま、宝剣も投げ出し地面に倒れていた。彼は左手で右の二の腕を押さえ、身体を震わせている。

 

 その状況に、そしてアームカバーでは隠しきれない程に、顔の近くまで広がってしまった痛々しい痣に、エリックは全てを察した。

 

「ッ、アル!!」

 

 能力を潰されたとはいえ、完全に無くなったわけではなく、元々クリフォードとアルディスの能力は非常に相性が良かった。そのため、彼はいち早くこの緊急事態に気付いたのだろう。止めに入らなければ、イチハに斬られてしまうと分かっていたから、慌てて二人の間に飛び込んだのだろう。彼の行為は、責められるものではない。

 クリフォードがアルディスの身体を起こし、その場に座らせて顔を覗き込んでいる。意識はあるようだが、彼は何も発さない。無言で近くに座り込んだエリックがアルディスの身体を支えるのを手伝うと、クリフォードは顔を歪め、声が震えるのも構わずに口を開いた。

 

「アル、僕が目の前にいるのが分かるか!? 僕の姿が、“見えていますか”……ッ!?」

 

 クリフォードの言葉に、皆が一斉に言葉を失った。

 親友の身体が酷く震えているのを、エリックは感じ取った。

 

「……」

 

 

――ゆるゆると、力無く。アルディスは首を、横に振った。

 

 

「ッ、そんな……」

 

 ポプリがか細い声で呟く。エリックは奥歯を割れそうな程に強く噛み締め、アルディスの身体を抱き上げて立ち上がった。

 

「マクスウェルなら、きっと……何とか、してくれるんじゃないか……?」

 

 どちらにせよ、ここでじっとしている理由はない。そう思い、エリックはクリフォードを見下ろす。彼は驚いたように目を丸くした後、こくりと頷いてみせた。

 

「そうですね、マクスウェル様のところに行こう。応急処置だけでもお願いして、それから、どうするか決めましょう……少なくとも、応急処置で視力はまだ何とかなります。まだ、間に合いますから……!」

 

 抱き上げたアルディスの身体が、妙に軽く感じられる。いつの間にやら痩せていたのだろうが、これも虚無の呪縛(ヴォイドスペル)の影響だろうか。目立たなかっただけで、死の呪いは確かに彼の身体を蝕んでいたということか。

 

「……」

 

 自分まで不安になってはいけない、とエリックは先導してくれているライオネルとイチハの後を追う。

 

「ポプリは、ここで待っていますか?」

 

 背後で、クリフォードの声がした。義弟の容態急変に怯えてしまっているのだろう。彼女がアルディスにしてしまった行為を考えれば、動けなくなってしまうのも頷ける。

 

(ポプリがアルの右目を斬らなければ……)

 

 もっとアルディスは持ちこたえたのではないか――そんな、どうしようもない考えをエリックは首を横に振って強引に揉み消した。今は、こんなことを考えても仕方がない、と。

 

 やがて聞こえてきた、二人分の足音。エリックは振り返ることなく、神殿へと足を急いだ。

 

 

 

―――― To be continued.



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Tune.59 生命の天秤

 

 神殿に駆け込んできたエリック達の存在に気付いたのか、マクスウェルは奥の間ではなく、噴水がある開けた場所まで出てきてくれていた。こうなった経緯は分からずとも、緊急事態が発生したのだと、察してくれたのだろう。

 

『ど、どうしたんだ……そんなに、慌てて……?』

 

 あまりにも唐突過ぎたためか、マクスウェルは青年の姿のまま、エリックの傍にすっと寄ってくる。

 そして、抱えられた少年の姿を見て、事情を理解したのだろう。マクスウェルはアルディスへと微かに震える指先を伸ばす。神格精霊である彼でも、これには少なからず動揺してしまったらしい。

 

『これは、酷い、ね……』

 

 言葉に反応し、アルディスが弱々しく顔を上げてマクスウェルの方を向いた。意識を手放すことはなかったようだが、ギリギリの状態なのは間違いない。

 遮断されてしまった視界に、全く動かない右腕。一向に止まらない酷い震えと、荒い呼吸。徐々に高くなっていく体温――そして恐らく、アルディスは発声ができなくなっている。

 

 先程、彼が着ている黒のハイネックを下に動かしてみたのだが、呪いの痣がアルディスの首を這うようにまとわりついていた。右腕が動かないことも含めて考えれば、これが原因で声が出せないことは安易に想像できる。

 

『クリフが着けられてた枷の完成版、か……』

 

 虚無の呪縛(ヴォイドスペル)の存在に気付いたらしいマクスウェルを見据え、エリックはおもむろに口を開いた。

 

「頼む、マクスウェル……助けてくれ」

 

 そうエリックが言えば、マクスウェルは顔を上げ、どこか辛そうに目を細めてみせる。

 

『私にも限界がある。やれるだけのことは、するけれど……ごめん』

 

「ッ、マクスウェル様でも厳しい、と……?」

 

『クリフ、言っておくけれど、私は万能じゃない。少なくとも解呪に関しては、私の力では厳しいね……』

 

 アルディスに手をかざしたまま、マクスウェルは奥歯を噛み締める。彼は「追いつかないな」と一言呟いた後、エリックの顔へと視線を移した。

 

『しばらくこの子、借りて良い? 奥の間でやれるだけ、やってみるから』

 

「あ、ああ……勿論」

 

 相手は神格精霊だ。信用しても大丈夫だろうと、エリックはマクスウェルにアルディスを託す。そもそも、この状況で悩んでいる余裕は無い。アルディスも特に抵抗することはなかった――否、いつの間にか彼は意識を手放してしまっていた。限界を迎えてしまったのだろう。

 

(アル……)

 

 不安が、顔に出ていたのだろうか。アルディスを抱えたマクスウェルは少し考え込んだ後、口を開いた。

 

『……。一応、解呪の手段が無いわけじゃない。しかも、あなた達なら割とすぐに、解呪できる状況だったりする。ただ……』

 

 解呪が間に合わずに死なせてしまうことはないだろう。

 そう言ってマクスウェルはアルディスを見下ろして口を閉ざす。エリック達が話の続きを待っていると、彼は「全部は言わない」と言って顔を上げた。

 

『あなた達は……特にこの子は、間違いなくその手段を選びたがらないだろうなって』

 

「それは、どういう……」

 

『できることなら、違う方法を捜してあげて欲しいから、言わない。まあ、どうしようもならなくなったら、強行させてもらうけれど』

 

 変なこと言ってごめんね、と困ったように笑い、マクスウェルは奥の間に向かっていった。それを追う気にはなれず、エリックは黙って状況を見守っていた仲間達を振り返った。

 

「今の……どういうことか、分かったか?」

 

 エリックの問いに、ライオネルとイチハが迷いながらも言葉を紡ぐ。

 

「うん……何となく、察した。まあ……“どっちか”、だろうなぁ、とは……」

 

「可能性があるとすれば“あの子の方”だね。嫌な話、あの子は絶対迷わないだろうなぁ……俺達がどう思うかなんて、絶対に考えないよ」

 

 だが彼らもやはり、具体的な話をしようとはしない。余程、良くない手段なのだろう。できることならば選んで欲しくない手段なのだろう。

 マクスウェルが提示した方法を察したのはクリフォードも同様だったようで、彼もやはり浮かない表情をしている。エリックの視線に気付いたのか、彼は目を伏せて話しだした。

 

「恐らくあの子は“鍵の子”だから、大丈夫だとは思うのですが……万が一、そうでなければ、間違いなく……」

 

 聞きなれない単語が出てきたが、それを説明する気はないらしい。ちらりとエリックを見たアシンメトリーな瞳は、隠しきれない戸惑いを写していた。

 

「まさに『生命の天秤』、です……エリック、お前はそういうの。嫌いでしょう?」

 

「生命の、天秤……」

 

「イチハ兄さんの言うように、本人は迷わないでしょうね。恐らくアルを救う条件を満たした時点で、死にたくなるほどの絶望を同時に味わっている筈だから……尚更」

 

 

 アルディスか、他の“誰か”、か。

 

 最悪の場合、エリック達は“どちらか”を選ばなければならない――それが、クリフォードの言う『生命の天秤』。

 

 

「マクスウェル、どうしようもなくなったら、強行するって言ってた、わよね……?」

 

「そりゃそうだろ。アルディスはフェルリオの皇子様だぜ? 死なせて良い理由なんて存在しねぇよ。まあ、それを免罪の理由にして良いとは、オレも思いたくないけどさ……」

 

 フェルリオの皇子であり、現時点で最後の正統な後継者であるアルディスの死は、間違いなく世界に大きな影響を与えるものだ。少なくとも、フェルリオ帝国にとっては致命的な問題となる。それを、忘れてはならない。

 しかしながら、代わりに彼以外を死なせても良いのかと問われれば、それはまた別の問題である。そして、マクスウェルやライオネル達の言い方から推測するに、アルディスの“代わり”となれるのは仲間達の誰かだ。

 

「アルだけは死なない……か」

 

 エリックはチョーカーで覆われた首を指でなぞり、ため息を吐く。あの日、何の考えも無しにディミヌエンドで口走った言葉が、脳裏を過る。

 

 

『彼が命を落とした時……その時は私も、この場で自ら首を切り落としましょう』

 

 

 勿論、場を宥めるためのハッタリではなかった。その思いは、今も変わらない。それだけの覚悟を持ったまま、エリックは今この場にいる。

 だからこそ、どうしようもなく複雑だった。救わなければならない命を救う術が見つかったというのに、その術は決して喜べるものではなかった。何とも言えない思いが込み上げてくる。決してあの時、自分以外の命を賭けたつもりはなかったのに、と。

 

 

「それはきっと、あたしではないのよ、ね」

 

 悩むエリックの耳に、悲しげな呟きが届いた。その声は、酷く震えていた。

 

「あたしが、あの子を助けられるなら。喜んで身を差し出すわ……あたしはあの子がいなければ、死んでいた身だもの。当然よ……」

 

 声の主――ポプリは、橙色の瞳を潤ませながら言葉を紡ぐ。その姿を、エリックは何も言わずに眺めていた。

 

「あの子が怒ろうが悲しもうが、そんなの関係ない。けれど……あの子を救えるのは、きっとあたしなんかじゃない。あたしの、歪な力なんかじゃないわ……」

 

 ぎゅっとスカーフを握り締め、ポプリは頭を振るう。そんな彼女の姿を見て、ふとエリックは先程ポプリが口にしていた話を思い出した。

 

 

秩序封印(ヴァルデマール・フレイヤ)の突然変異で、上位能力!? そんなの、純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)のエリック君に、制御できるわけ……』

 

『特殊能力、秩序封印(ヴァルデマール・フレイヤ)はすごく強力な能力だから。そして、鳳凰狩りを隠れ蓑に、あたし達も狩られる側になった……フェリシティは、その最初の被害者よ』

 

『彼女の能力を見て、研究者達は秩序封印(ヴァルデマール・フレイヤ)能力者に目を付けたんだと思う。だけど、国民を普通に捕らえるわけにはいかない。だから、フェリシティみたいに暴走しちゃった子どもは真っ先に被害にあったの』

 

 ポプリは恐らく、かなり龍の血が濃い龍王族(ヴィーゲニア)だ。しかし、魔術が苦手な種族で秩序封印(ヴァルデマール・フレイヤ)能力者であるにも関わらず、フェリシティのように力を暴走させていない。

 

 それは、彼女がかつてアルディスの右目を斬り付け、力を奪ったことの恩恵であると考えて良いだろう。

 

「……。ノアは、昔から運動神経が良かったの」

 

 エリックの視線に気が付いたのだろう。ポプリは貼り付けたような笑みを浮かべて、涙をこらえながらゆっくりと語り始めた。

 

「多分、暗舞(ピオナージ)の血が入ってるからなんでしょうね。気配に凄く敏感で、ペルストラ周囲の魔物狩りなんかもやってくれたのよ」

 

 それはエリックもよく知っている。魔物や敵意ある存在の接近にいち早く気付き、即座に対応する瞬発的な能力の高さでアルディスの右に出る者はいないだろう。

 昔から、そして今も。アルディスは肉体的な強さでどうしても劣ってしまう部分を、感覚的な部分で補っていた。きっとこの点においては、自分は一生敵わないだろうとエリックは思う。

 

「……すごいよな、アルは」

 

「だって、あの子は戦場を知ってる子だもの……だからこそ、鍛えられた能力なんだと思う。常に命の危険に晒されてきた子だから……そう考えれば考えるほど、おかしいのよ」

 

 再会して、一緒に旅をして。尚更「おかしい」と思ったことがある、とポプリは握り締めたスカーフのシワをより一層深くした。貼り付けたような笑みは、消えてしまった。

 

「そんな子、どう考えたってあたしなんかが傷付けられるわけないのよ……」

 

「……!」

 

 そう言われ、エリックはハッとした。

 アルディスの傷は、明らかに正面から斬り付けられたものだ。しかも、原因となった刃物は剣でも槍でもなく、ただの果物ナイフだという。そして刃物を向けたのは屈強な戦士などではない。大して年の変わらない少女だ――あのアルディスが、それを避けられない筈がない。

 

「あたしが、馬鹿だった……怯えて、傷付いて、あたしから、あの街から“逃げてくれる”って、そう、思ったのに……避けてくれるって、思ってたのに……」

 

 ポプリの頬を、涙が伝った。

 

「後になって、知ったの。龍王族(ヴィーゲニア)秩序封印(ヴァルデマール・フレイヤ)能力者は、自力では能力を制御できずに死んでしまうことが圧倒的に多いんだって。だから、延命目的で純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)を求める人間も多いんだって……特殊能力に詳しいあの子が、それを知らないわけがない。それくらい、あたしのお母さんから聞いてたって、おかしくない……あたし、覚醒直後に身体、少しおかしくしてたしね……あの頃は考えもしなかったけれど、多分、長くは持たなかったんじゃないかな」

 

 アルディスは、あえて避けなかった。それどころか、黒衣の龍の襲撃事件が起こらなかったとしても彼は、いずれポプリに自身の右目を抉らせたのではないだろうか。

 

 異常な出生故に自身の生命を軽視しているアルディスなら、ポプリを生かすために右目を犠牲にすることくらい、安易に予想できる。

 

「あの日、ね……あたし、あの子に『疫病神』って言ったの。だから、尚更避けなかったんだと思う。尚更、「死んだって良い」って、思わせちゃったんだと思う……だから、ナイフも言葉も全部、真面目に受け止めて、心を、閉ざして……ッ」

 

 人を思いやる気持ちを持った、優しい子だって知ってたのに、と泣きじゃくるポプリを見て、この姉にしてあの弟だとエリックは幼き日を思い返していた。

 

『“普通に愛される”君には……ッ、君には絶対に俺の気持ちなんて分からないよ! 君は、俺なんかとは絶対に違う! 俺は……ッ、どんなに頑張っても君のような存在にはなれないというのに……ッ!!』

 

 かつて、アルディスは戦場を生きる存在だった。間違いなく、好き好んでそうなったわけではない。そうでなければ、生きられなかったから……愛されなかったから。

 エリック自身も“普通に愛された”かといえば違うのだが、アルディスはそんなエリックの事情など知らないだろう。エリックも当時アルディスの事情など知らなかったのだから、当然だ。

 

『もう懲りただろう!? 分かったら二度と、俺に干渉しないで……俺はもう、誰のことも信じたくない……もう誰とも関わりたくない……ッ!!』

 

 “誰のことも信じたくない”、“誰とも関わりたくない”――それはかつて、心を閉ざしていたアルディスが、エリックとマルーシャに吐いた言葉。

 

(あ、あれ……?)

 

 ペルストラ事件の際、ポプリに右目を斬り付けられた彼は酷く傷付き、人間不信となったのだろう……と、今までエリックは考えていた。間違いなくポプリもそう考えていたに違いない。しかし、アルディスのポプリへの対応を見ていると、どうにもおかしいのだ。そう仮定するには、何か重大な事実を見落としているような気がする。

 

「……ポプリ」

 

 静かに、まだ何かを隠しているであろう人物の名を呼ぶ。その人物が……ポプリが顔を上げるのを見て、エリックは「悪い」と呟いた。

 

「僕の予想が正しければ、今から僕は、お前に残酷な言葉をかけると思う」

 

「……」

 

 きっと、ポプリは見当違いなことを思い浮かべている。アルディスの件で責められるのだと、そう思っているに違いない。

 一度は踏み込むまいと決めたが、今後のことを考えればやはり聞いておくべきだろう。黙り込んでしまった彼女の琥珀色の目を見据え、エリックは口を開いた。

 

 

「ペルストラのことを、お前はどう考えているんだ?」

 

「ッ!?」

 

 

 生まれ育った街。故郷――ポプリにとって、ペルストラがそれに該当する。

 

 それなのに、何故かポプリはペルストラを気にかけるような言葉を一切口にしなかった。それどころか彼女は、何故か自分自身の過去を語らなかった。

 聞かれていないのだから当然かもしれないが、アルディスに関係する最低限のことしか、彼女は語らなかった。

 強いて言えば自分が領主の娘ということを喋ってくれたことくらいだろうが、その時の彼女はアルディスの素性を誤魔化すための嘘を交えた話をしていたため、どこからどこまでが真実なのかいまいち分からない状態だ。

 

「そ……そんなの、当然、早く、復興したら良いな……って……」

 

「それなら、何故帰らない? 領主の娘なら、率先して動くべきなんじゃないのか?」

 

「……ッ、でも、あたしは……!」

 

「お前の年齢なら、孤児院を出ていても不思議じゃない。『孤児院から出てきて復興を手伝います!』っていう流れにはならないのか?」

 

 我ながら最低だな、とは思う。ちらりと視線を動かせば、クリフォードがこちらを黙って見つめていた。彼も、完全に事情を知っているわけではないのだろう――ポプリはクリフォードに対し「何も話してくれない」に近い言葉を発していたが、それはお互い様だろうと言ってやりたい。

 ライオネルとイチハはともかく、クリフォードが心配そうな様子を見せつつも一切助け舟を出さないのは、恐らくそれが理由だ。成り行きを見守っていれば、多かれ少なかれポプリの事情は見えてくるからだ。だから彼は、何も言わないのだ。

 

「……」

 

 不思議と、エリックの周りにはエリック自身も含め、対人関係がやけに壊滅的な者ばかりが集まっていた。

 

 エリックは王子であるが故に、例外はあれども誰も不必要には寄ってこなくなった。

 マルーシャは王子の許婚として疎まれ、貴族社会の中で蔑まれて生きてきた。

 アルディスはそもそも他者を寄せ付けてこなかったし、事情が事情である。

 ディアナは種族柄、この国ではどうしようもない……向こうの国でも最悪だが。

 クリフォードはライオネルとイチハを含め、基本的に『関係者』止まりだ。

 

 皆、何かしらの理由で対人関係を上手く築けない状態にあった。事情を知ってしまえば、当然そうなるだろうと言いたくなるような状況である。

 

 未だいまいち事情を理解できていないが、ポプリの場合は能力柄そうなってしまったのだろう。だが、やはり妙なのだ。

 辿っていけば、どこからおかしくなっているのかは一目瞭然だ――彼女の故郷、ペルストラには、何かが、ある。

 

 だからこそ、エリックは彼女が抱えているものを探るために先程の質問を投げかけたのだ。何もなければ普通に答えられる、簡単な質問である。そんな質問だからこそ、彼女が答えられなかった時点でペルストラは悲劇の地ではなく、一気に訝しい場所と化す。

 

 エリックの質問に黙り込んでしまったポプリだったが、それではいけないと思ったのだろう。彼女は作り笑いを浮かべ、軽く首を傾げてみせた。

 

「……意地悪ね。あたしがそれ聞かれるの嫌なんだって、分かってて聞いてるんでしょう?」

 

「そりゃ、な」

 

 そうはっきりと肯定してやれば、ポプリの笑みが微かに歪む。泣かせてしまうことを覚悟していたエリックだったが、意外にも彼女はもう、涙を流すことはなかった。

 

「あたしが後悔してるのは、ノアのことだけ。様々な形であの子を傷付けてしまった、そのことだけ……あの街のことは、何とも思ってないわ。どうなったって良い。知らないわよ、あんな街!」

 

 アルディスの件を後悔しているのは、間違いない。しかし、ペルストラがどうなっても良いというのは嘘だろう。明らかに本心とは異なることを口にしている。追い込まれた時の彼女は、致命的に嘘が下手だ。

 

「ポプリ、お前なぁ……」

 

 アルディスの正体のことを問いかけた際に彼女が何も言えず黙り込んでしまったことを、エリックは昨日のことのように覚えている。結果的に良い方向に転んだとはいえ、あの時の凄まじい絶望感は、忘れもしない。

 嘘がバレバレだとまでは言わなかったが、エリックの口振りからそれを察したのだろう。ポプリは奥歯を噛み締め、軽くエリックを睨みつけた。初めて見る、表情だった。

 

 

「……言わないわよ、何も」

 

「もしかして……アルに知られるのが、嫌なのか?」

 

「……」

 

「分かった。もう聞かない……悪かった、許してくれ」

 

 最後の問いは博打だったが、本当に何も言わなくなってしまったために結果は分からずじまいだ。これは怒らせたな、とエリックは今度こそ会話に入ってきてもらうためにクリフォードへと視線を移した。自分よりも彼の方が、ポプリを宥める術を知っているだろうと思ったのだ。

 

「えーと……その、もし良かったら……マルーシャかディアナを探しに行きません、か? 正直辛いし、ついでに痛いんですよね……」

 

「……あ」

 

 ははは、と笑うクリフォードの右肩。右肩付近の、真っ赤に染まった白衣。それを見て、ポプリは琥珀色の瞳を丸くし、何とも間抜けな声を上げた。

 

「ああっ!? ご、ごめんなさい!! そうよね、怪我してたのよね!?」

 

「ふふ、大丈夫ですよ。緊急事態でしたし、この程度の痛みなら全然平気だ……ただ、そろそろ辛くなってくるかなーと……僕の治癒術は僕自身を対象にはできませんし……」

 

「忘れていた僕らも悪かったが、そういうことは早く言ってくれ! 多分両方一緒にいるから、さっさと探しに行くぞ!!」

 

 そしてエリックもエリックですっかり忘れていた。彼が平然としていたせいで、てっきり自分で治療したのかとまで考えてしまっていた。

 マクスウェル達が何も言わなかったこともあって完全に頭から抜け落ちてしまっていた。何故何も言わないのかとイチハとライオネルを見れば、揃って「何か口出せる雰囲気じゃなかった」などと言い出す始末だ。

 

「本当に大丈夫ですよ。スウェーラルで背中ばっさり斬られてもしばらくは動き回っていたでしょう? ライやイチハ兄さん、それからマクスウェル様は、そういう僕の体質を知ってるんだ……つまり、お前達を待ってても良いかな、と」

 

「まあ、持ってあと数十分だったと思うけどな。それ過ぎそうならクリフ担いであの二人探しに行ってた」

 

「……俺がやっといてアレだけど、クリフって痛みに強いから、どこまで辛いかぱっと見じゃ分からないんだよね」

 

「あのなぁ……」

 

 話題を変える、という意味では極めて有効な助け舟だった。しかし、色々と指摘したいことがあり過ぎてため息さえ出ない。

 とりあえずマルーシャとディアナの二人と合流して、それからここに戻ってこよう。そう決心し、エリック達は神殿を後にした。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.60 背中を預けあう存在

 

 不幸中の幸い、マルーシャとディアナはそれほど遠くには行っていなかった。

 神殿から少し離れた、崩れかけた家らしきものの傍。そこで並んで話す二人の姿をすぐに見つけることができた。

 何かしらあったのだということ、そして血で汚れたクリフォードの白衣を見て事情を察したらしいディアナが即座に動けば、マルーシャはエリックの傍に駆け寄った。治療はディアナに任せようと判断したのだろう。

 

「エリック! その……」

 

「もう、大丈夫か?」

 

「ッ……ごめんなさい……」

 

 落ち着いたようだが、表情は未だ暗いままだ。一体どうしたのか気にはなったものの、まだ触れるべきでは無いだろう……少なくとも、自分が触れるわけにはいかない、そう思った。

 

「気にするな、たまにはそういうことだってあるさ」

 

「ありがと、ごめんね……?」

 

「良いよ、本当に大丈夫だって。ただ……こんな時に、悪い。マルーシャ、緊急事態だ」

 

 

 せっかく立ち直ったマルーシャには酷だとは思ったが、アルディスに起きた異常は決して隠せるものではない。今言うべきだと判断し、エリックは事の詳細をマルーシャに語った。同様に、ディアナにもクリフォードが説明してくれているらしい――ただし、双方『生命の天秤』の件については伏せた状態だ。

 

――アルディスの代わりとなれるのは、恐らくマルーシャかディアナのどちらかだ。二人が持つ能力からして、間違いない。

 

 しかし、エリック達はこれを彼女らには告げずにいようという結論に至った。

 現在のマルーシャは精神的に非常に危うい状態であるし、ディアナは元々アルディスのためなら手段を選ばない。こんな状況で告げるべき話ではないと考えたのだ。だが、それでは「アルディスを救う手段が一切無い」と言っているも同然で。

 

「そ、そんな……! あ、アルディス、今どこにいるの!?」

 

「マクスウェルの神殿よ。今、マクスウェルが――」

 

「急いで戻るぞ! 私もマクスウェル本人から話を聞きたい!!」

 

「え、あの、ふたりとも!?」

 

 当然ながら話を聞くなりマルーシャもディアナも、顔面を蒼白にしてマクスウェルの神殿へと向かおうとする。感情のままに動く二人を見かねたのか、ライオネルとイチハが彼女らの肩を叩いた。

 

「ちょっと待て、落ち着いてくれよ。そんな勢いで突入したら、マクスウェル様驚くからな。今、処置中だから。邪魔になるから」

 

「俺様達も君らの気持ちは分かるけどね。でも、さっさと行ったからって何かが変わるわけじゃない。うん、一旦深呼吸しとこうか?」

 

 落ち着いた様子の二人になだめられ、マルーシャはちらりとエリックの顔色を伺ってきた。行ってはいけないのか、と思ったのだろう。

 

「焦るなってだけだよ。そんなに時間は経ってない。本当についさっきのことだから」

 

 確かに弾丸のように突撃されるのは困るが、どうせ彼女らの行き先もエリック達同様にマクスウェルのところだ。慌てず皆で一緒に行こうと持ちかければ、二人ともこくりと頷いてくれた。

 

 

 

 

 マクスウェルの神殿に戻る。今度は噴水の傍ではなく、最奥まで向かうこととなった。静かに蔦に覆われた重い扉を開けば、青々と苔生した広い空間に出た。

 最初に来た時はあまり内部の様子を見ることができなかったのだが、今回は違う。アルディスの姿を確認するためにも、エリックは周囲を見渡した。

 

(神格精霊の……住処、か)

 

 湿気がある。しかし、割れた天井と神殿の中だというのに生い茂っている木々の間から差し込む木漏れ日のせいだろうか。不思議と嫌な感じはしない。所々に花も咲いており、中心には泉まであるのだから、驚きだ。

 

 遥か昔に作られた古の建築物を、年月が変化させたというのだろうか。

 箱庭のような狭い空間ではあるものの、眼前に広がる自然豊かで不思議で、幻想的な光景は見る者の心を和ませる。こんな時でなければ、おもいきり羽を伸ばしてリラックスできそうな空間だった。

 

 探し人は――アルディスは、苔に覆われた岩の台座の上に、寝かされていた。彼の傍に立つマクスウェルは、訪れたエリック達をじっと見ていた。

 拒まれてはいないと判断して近付けば、マクスウェルは晴れやかとは決して言えないような表情で、どこか悲しげな表情で微笑んでみせる。

 

『お帰り。処置は終わったよ』

 

 声と、気配に反応したのだろうか。台座に寝かされたアルディスが薄らと目を開けておもむろに首を動かした。視線の先は、エリックの姿をしっかりと捉えている。

 

「アル、その……視力、は」

 

「……。今は、見えてる」

 

「! 声も、出るのか?」

 

「い……」

 

 ここで「良かったな」と言わなかったことを、エリックは心の底から安堵した。マクスウェルの表情から、何となく嫌な予感がしたのだ。だから、前向きな言葉を吐かなかった……そんな、残酷な判断が正しかったなどとは、思いたくなかった。

 

「アル、もしかして、あなた……っ」

 

 弱々しく、掠れた声。その声は、最後には音にならなかった。

 それが意味することに気付き、ディアナは手袋とアームカバーで隠されず、空気に晒されたアルディスの右手を掴む。その手は、右腕はもう、人の手の色を、していなかった。

 

「……声は、出る時と出ない時がある、かな……目も、そうなんだ。ふいに、何も見えなくなる……ことがあってね……」

 

 会話が辛そうだ、というのは誰の目にも明らかで。何より、ディアナが青い瞳を潤ませてしまっている時点で、右手ももはや色だけの問題ではないのだろう。

 

『視力と声に関しては、そんな感じ。視力は結構安定してるんだけど、喋るのは制限かかるかな。無理させると呼吸困難になりかねないから、あまり無理させないでね』

 

 マクスウェルの話によると、侵食した呪いの痣は、定期的にアルディスの首にダメージを与えているような状態なのだという。

 彼の中にいる体内精霊が何とか呼吸にだけは影響を与えないように抗っているようなのだが、流石に声帯を完全に維持するのは厳しい状態らしい。そのため長い会話は当然のことながら、短い会話でも不意に声が出難くなることがあるそうだ。

 ふっと、アルディスが笑った。「ごめん」と弱々しい謝罪の言葉を呟く。そして彼は一呼吸置いた後、左手で変色した右腕を撫でた。

 

「右腕、ほとんど感覚が無いんだ」

 

「え……」

 

「ああ、でも平気。全く動かないわけじゃないし、右だったのが不幸中の幸いかな……利き腕は左だし、今はまだ、大丈夫」

 

 何が平気なんだと言ってやりたかったが、それを言う前にアルディスは身体を起こし、地面に足を付いた。右腕を庇っているようではあったが、立ち上がるその様子からはそこまでの異変は感じられない。マクスウェルの処置が、効果的なものであったということか。

 

「……君達、多分あまり聞きたくない話題だとは思うんだけど……俺ね、腕、どっちか無くなっても良いように……片腕で活動する訓練ってのも、昔やってたんだ……だから、本当に大丈夫」

 

「あ……ああ、なるほど……」

 

 その理由は非常に嫌なものだったが、アルディスは片腕がこの状態でもそこまで困ることはないらしい。少々反応には困ったが、本人が絶望していないことが何よりの救いだとエリックは思った。アルディスは前向きに呪いと戦う気力が、まだまだ残っているということだ。

 

『……とは言うんだけどね、この子は状況からして唐突に失明したり、唐突に呼吸困難になったり、唐突に体調不良的なものが襲ってきたりすることだってあるんだから、無理させないでね。何かあなた達が置いて行くって決めても勝手に着いて行きそうだから、先に言っとくよ?』

 

「そこは同意、かな。こいつは勝手に着いてくる。間違いない」

 

「うん、着いて行くよ。迷惑だとは思うけど、それでも、置いて行かれるのは、やだよ」

 

 エリックに置いていく気はないことを知ったためか、アルディスは嬉しそうにニコニコ笑っている。つい先程までガタガタ震えていたのが嘘のようだ――否、不安がゼロではないからこそ、着いてきたがっているだけなのかもしれない。

 そう思ったのはエリックだけでは無かったらしく、クリフォードが「一応聞きますが」とアルディスの右腕に視線を落としながら口を開いた。

 

「右腕、その状態でも痛くはないんですね? 実質不便なのは発声だけだな? 他は何もおかしくないんですね? 嘘は吐くなよ、お願いですから」

 

 置いて行く気はないが、アルディスの自覚症状を完全に把握しておきたいのだろう。クリフォードの問いかけに、アルディスはこくりと静かに頷いた。

 

「……信じますよ、何かおかしかったら、言って下さい。ただ、その……」

 

 ちらり、とクリフォードはマクスウェルの顔色を伺った。何かを訴えたいようだが、それを言葉にする勇気が出ないといったところだろうか。ただ、マクスウェルの方は言葉にされずともクリフォードの訴えを察したらしい。

 

『今まで通りにはしないけれど、それでも良い? クリフ』

 

「! は、はい……! ありがとうございます、マクスウェル様」

 

『うん、じゃあ……再契約といこうか。ただし、条件があるよ』

 

 クリフォードは、虚無の呪縛(ヴォイドスペル)に蝕まれているアルディスへの応急処置ができた唯一の存在だった。しかし、それは彼が精霊の使徒(エレミヤ)であった時の話である。今後、処置をするためには、マクスウェルの協力が絶対に必要となるのだ。

 幸い、マクスウェルはクリフォードの訴えを拒まなかった。しかし、これまで同様のものではないらしい。彼は、それは一体何かと首を傾げるクリフォードの後ろに立つ青年――ライオネルに向かって、微笑んだ。

 

 

『ライオネル=エルヴァータ。精霊の使徒(エレミヤ)クリフォード=ジェラルディーンの補佐として同行し、使徒としての能力の一部を引き受けなさい』

 

「!? え……っ!?」

 

 慌てて、クリフォードはライオネルの方へと視線を動かす。ライオネルは、真剣な眼差しをマクスウェルへと向けていた。

 

『ライ、あなたの役割は連絡と監視だ。今までクリフに任せていた二つの役目を、あなたに任せる。良いかな?』

 

「一応聞きますけど、オレ……その状態なら、見えるんっすよね?」

 

『うん。ただ、そういう事情で監視の能力を付けるつもりだから、あなたの場合はあなたの意思関係なく常に視界が私と繋がることになってしまうけれど……ああ、都合が悪い時は私の方から接続を切るから、言ってね……あー、でも、その時はあなたも不便なことになっちゃうけど、それでも良いかなぁ……?』

 

「はは、そんなの、良いっすよ。気にしないで下さい」

 

 ライオネルはマクスウェルの命を、拒まなかった。覚悟していたという可能性も考えられたが、彼がクリフォードに向ける複雑そうな視線を見れば、それは違うのだろう。

 

「……。また、反対する気か? クリフ」

 

 両の拳を強く握り締め、黙り込んでいるクリフォード。そんな彼を見つめるライオネルの表情は、どこか悲しげだった。

 

「確かに、今にして思えばあの時点のオレは――」

 

「ライ」

 

 拒まれる、そう思って言葉を発するライオネルを遮り、振り返りながら静かに彼の名を呼んだクリフォードの声は、力強くはっきりしたものだった。

 

「契約の後、ライの時間を下さい。僕はあまりにも、実戦から離れ過ぎてしまった……だから、手伝って欲しいんだ。ライが一緒に来てくれるとしても、今のままでは僕が足でまといになってしまうから」

 

「! クリフ、お前……!」

 

「これもきっと、起こるべくして起きたこと……だから、あの時僕が言えなかった言葉を、言わせて下さい」

 

 

『彼は非力な僕に戦う術を教えてくれて、彼の方が年下にも関わらず、ずっと気にかけてくれていた。ですが、僕があまりにも壁を作り過ぎたせいで、旅立つ前に言われてしまったんです……『お前に信じて欲しいのに。お前に信じてもらおうと、どれだけ頑張ったって、お前には届かないんだな』と……』

 

 ブリランテでクリフォードが言ったこの言葉。

 

 ここでいう『彼』がライオネルであることは既に分かっていたが、どのような経緯があって彼らが仲違いしてしまったのかは知らないままだった。だが、ライオネルがマクスウェルの言葉に驚かなかったこと、真っ先にクリフォードの様子を伺ったことからして、その真意は一つしかない――マクスウェルによるライオネル同行の令は、今回が初めてではなく、前回の令が下された時、クリフォードがそれを拒んでしまったが故に、二人は仲違いしてしまったのだろう。

 

 ライオネルの赤紫の瞳が、クリフォードを捉えている。発する言葉を考えていたのか、つかの間の沈黙が流れる。やがて、クリフォードは微笑みを浮かべるとともに、口を開いた。

 

「ライ、お前には、互いの背中を預けあえる存在であって欲しいんだ……協力、してくれますか? 僕も、お前を助けられるように努力するから」

 

「……!」

 

 八年前、彼が言えなかった言葉。

 漸くそれを聞くことができたライオネルは、顔をぱっと輝かせた。そんな非常に分かりやすい彼の姿を見て、マルーシャがくすくすと笑い始める。

 

「良かったね、ライ。わたし達、そんな言葉聞いたことないよ」

 

「ちょ……っ!」

 

「おー、それは嬉しいな……ちょっと気にしてたんだぜ? オレなんかよりも、コイツらの方が仲良さげにしてたから」

 

 余計なことを、と言いたげにクリフォードがマルーシャを見れば、彼女はぺろりと舌を出して誤魔化し笑いをしてみせる。だが、彼女が言わなければ他の誰かが言っていただろう。それくらい、ライオネルの反応は分かりやすかったのだ。

 彼がどんなことを積み重ねてきたかは知らないが、それだけの価値はあったのだということ。伝えてやりたいと思うのは、何も彼女だけではあるまい。

 

「クリフ」

 

 恥ずかしそうに視線を逸らすクリフォードの名を呼び、ライオネルは目を細めて笑った。

 

「任せろ。オレ、少しは身体も強くなったんだぜ! 今なら、お前に心配も不安も抱かせねぇよ!」

 

「……とは言っても、話を聞いた感じではお前が一番重症なのはあの時から変わっていない。無理はしないで下さいね。その……頼りには、してますけど」

 

「へへっ、そりゃ事実だけど、大丈夫だよ。大事にされてんだなーって思っとくよ!」

 

 二人の様子を黙って見守っていたマクスウェルは、彼らが無事に『仲直り』ができたようだと安堵し、再び語りかけてきた。

 

『今回は交渉決裂しなかったね、良かった。状況が状況だから、あまりここに長居はしたくないだろうし、クリフとライだけ残ってもらって……あなた達は、外に出ておく? 色々と準備することもあるだろうしね』

 

「あー……そう、だな」

 

 ちらり、とエリックはアルディスの方を見た。彼とは、色々と話し合っておきたいことがある。できれば、なるべく人数が少ない状態で。しかし、あまり表立って彼を誘ってしまうと怪しまれてしまうかもしれない。

 

「エリック、アルディス」

 

 どうしたものか、と考えていたエリックの肩……と、アルディスの肩を、いつの間にか背後にやってきていたらしいイチハが叩いた。

 

「!?」

 

「俺様の家に来てよ。若い男子の恋バナ聞きたいなーって」

 

「はっ!?」

 

 いきなり何を言い出すんだ、と返しかけたエリックに向けて、彼はウインクを飛ばしてくる。こんな気障な行為まで様になるのが、無性に腹が立つ。腹は立つ、が――ここは彼の好意に甘えるとしよう。

 

「……恋バナとやらは知らないが、アルとイチハの恋バナは気になるから行こうかな」

 

「何それ……エリックの恋バナ絶対聞き出すから……」

 

 

 とりあえず便乗してみた結果、女性陣が物凄い目で見ていた気がする。気にしないことにした。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.61 奇跡の子

 

 イチハに案内されるままに、エリックとアルディスは彼の家までやってきた。道中、エリックはアルディスの様子を窺っていたのだが、少々声が小さかったり、時々掠れてしまったりすることはあれども、他に異常は無さそうだった。右腕の件については、後々話を聞こうと思う――それは良いとして、

 

 

「ッ……何なんだ、この家は!?」

 

「だから言ったじゃん、殺しにくる家なんだってば」

 

 エリックが先導して玄関のドアノブに手を賭けた瞬間、竹槍が地面から突き出してきた。それを回避し、家の中に足を踏み入れれば今度は床が抜けた。底は地下水脈が広がっていたので落ちずに何とか踏みとどまり、さらに一歩前に進めば手裏剣やらクナイやらが一斉に飛んできた。それを避ければまた床が抜けた。今度は下で蛇が群れをなしていた。踏みとどまれば、また手裏剣とクナイの雨……本当に、死ぬかと思った。

 

「なあ! これ、二人目以降も適応されるのか!? 僕が先陣切っても意味が無かったりしないか!?」

 

「大丈夫大丈夫、マクスウェル様がもう一回罠設置したらアレだけど、それまではもう出てこないよ」

 

「そうか、それは……良くないぞ! 何でお前ら怒らないんだよ!?」

 

「いやー、楽しそうなお姿を見てると、何だかねぇ……」

 

 とりあえず、意味不明なところから出てこられると困るので家の中をグルグルと周り(これに関してはイチハも手伝ってくれた)、罠を一通り解除したところでエリックはアルディスを呼びつつ周囲を見渡した。

 

 

 先程まで殺意の高いカラクリ屋敷だったこの家はクリフォードの家程ではないものの自然と共存しており、蔦や苔によって所々深緑に彩られ、暗舞の一族に伝わる装飾品らしきものが飾られた不思議な場所だった。中央のテーブルにエリックは腰掛け、アルディスがその前に座る。イチハはそれを見届けたかと思うと、部屋の奥、キッチンの方へと引っ込んでいった。

 

 

「話聞いてる感じ、こっちでの暮らしが長いからか? そこまで変わった家じゃなかったな……罠以外は」

 

「はは、そう、だね……でも、ごめんね。罠解除、任せちゃって……だけど、あれくらいなら、俺も」

 

「どこからか来ると分かってる罠のとこに今のお前を行かせたくない。僕の勝手なエゴだ。気にするな」

 

 多分、アルディスなら今の状態であろうと問題なく罠をあしらえたに違いない。しかし、それでも嫌なものは嫌なのだ。エリックがアルディスに右腕を見せるように求めれば、アルディスは頷き左手や口を使って動かない右手を覆う手袋やアームカバーを卒なく外していく。その姿を、エリックは無言で眺めていた。

 

(片腕で大丈夫なように訓練したっていうのは、本当みたいだな……)

 

 片腕が無くなっても良いように、それでも戦い続けることができるように――兵器として生まれた、アルディスだからこその訓練。

 確かに、あまり聞いていて気分の良い話ではなかった。彼の強さの裏にある事情は、あまりにも悲しい。だが、彼自身がそれを幸いとしている部分もあることも事実だ。

 アルディスは最後にローブを脱ぎ、それを器用にも左手だけで畳みながらエリックに微笑みかけてきた。

 

「これで……良い?」

 

「ッ、アル、お前……! それ、さっき唐突にそうなったわけじゃないよな!?」

 

 改めて真正面から見ると、今のアルディスの身体は惨たらしいと感じる程に、酷く痛々しい状態だった。

 青紫色に変色した肌の上で蠢き、その存在を主張する呪いの印は今や彼の腕全体に広がっており、インナーの下まで侵食している様子だった。既に首周りにまで到達しているのだから、これが全身に広がるまでにはそう時間はかからないだろう。

 

 エリックの問い掛けに、アルディスは困惑を誤魔化すように作り笑いを浮かべる。しかし、「ちゃんと話せ」と視線を逸らさずにアルディスを見続ければ、彼は観念したのか「ごめん」と小さく口にした後、語り始めた。

 

「ディミヌエンドの、地下水脈。あそこで俺、魔術使ったよね? あれの、しばらく後……その辺で、呪いの印が活性化した。だから、自業自得だよ……気にしないで」

 

「……そこに関しては、触れないでおく。だが、言ってくれれば良……いや、そうか……」

 

「あはは……言うタイミング、逃しちゃったんだ。ごめんね」

 

「くそ……色々重なってたんだな……」

 

 アルディスの一件が収束した直後に発生したのが、クリフォードの件だ。アルディスからしてみれば、クリフォードの身に起きた出来事は自分のせいであるとも言える状況で自身の異変のことなど口に出せなかったのだろう。

 しかも、ヴァロンを追い払うために特殊能力『意志支配(アーノルド・カミーユ)』と光属性上位魔術『グランドクロス』を同時に使用している。本人は「問題無い」と言っていたものの、悪化しない筈が無かったのだ。もう少し、彼の様子を顧みるべきであったとエリックは奥歯を噛み締める。そして、あることに気付いた。

 

「ッ、そういえば、マルーシャもあの時……!」

 

 チャッピーの治癒を終え、頭を振るって「もう大丈夫だと思う」とマルーシャは口にした。頭を振るったということは、あの時マルーシャは何か別のことを考えていたのだろう。大方、ヴァロンに何か言われたのだろうと思うが。

 

(……あのこと、マルーシャに吹き込んでなきゃ良いんだが……まだ、早い。マルーシャが、事実を知るには、まだ……)

 

 マルーシャに関する衝撃の事実を聞いてから数日後、エリックはクリフォードから補足情報を告げられていた。

 それは、今のマルーシャを構成しているのは何者か――マルーシャの振る舞いを見る限り、幼い少女だろうが――から抜き取った体内精霊を培養し、強化・改造した人工的な物だと思われる、という内容だった。ヴァロンが普通の体内精霊を入れるとは思えないし、あのアルディスの妹であるシンシアを完全に抑え込むのは並大抵の力では不可能だろう、と。

 

 ただでさえ、残酷な話だというのに。こんな話を聞いたマルーシャの反応が、少しも想像できない――。

 

「今更、なんだけど。あの子、時々変な時無かった……?」

 

 こうなってから、初めて分かる。ずっと一緒にいたからこそ、変化に気付けなかった。

 どこまでも明るい、太陽のような少女。満開の花を思わせる愛らしい彼女の笑顔が、今ではすっかり身を潜めてしまった。

 

「……」

 

 最初にケルピウスの泉に行った時、ディミヌエンドでチャッピーを癒した後、ブリランテでピアノの演奏を聴いた後、海上で、新たな術を披露した後――少なくとも、マルーシャは全くサインを出していなかったわけではなかった。彼女なりに、何かに悩み、傷付き、追い込まれていた。そのことに、エリックは気付いていた。それなのに、何も……。

 

 

「あーあーもう、辛気臭い顔してるねぇ。イケメンと美形が台無しだよ……まあ、俺様には負けるけど?」

 

 

 負の感情が、連鎖する。そんな最悪な状況を断ち切ってくれたのは、まだ見慣れない『美貌お化け』だった。

 

「ありがとう、お前、空気を読んでふざける能力凄いな」

 

「……。あのさ、こういうのを真面目に返すのはやめて欲しいかな……そうだよ空気読んだんだよ。本当に人をよく見ているな、君は……」

 

「はは、でも考え込んでどんどん嫌なこと考えてしまうのは、僕の悪い癖だから。止めてくれて本当に助かった」

 

「そう? じゃあ、どういたしましてって、言っておこうかな」

 

 場が重くなり過ぎないように、わざとふざけて空気を変えてきた美貌お化けことイチハは、エリックとアルディスの前にマグカップを置いた。中には、緑色の半透明な液体が入っている。白い湯気を立てているその液体は控えめながらも優しい香りを発しており、高ぶった気持ちを落ち着かせるアロマのようだとエリックには感じられた。

 

(……飲み物、だよな?)

 

 じっと、見たことのない不思議な液体を眺めていると、イチハがクスクスと笑いながら別に用意したらしい彼用のマグカップに口を付けた。

 

「うん、美味しい……というわけで、毒じゃないよ。煎茶っていう、里では主流のお茶。ライが色々頑張って茶葉作ってくれたんだ。紅茶だのコーヒーだのはうち、置いてないから、ごめんね」

 

「い、いや……出された物疑うつもりは無かったんだが、何となく安心するというか、良い香りだなと……」

 

「そっか、口に合えば良いけど。アルディスはそこまで抵抗無さそうだね? 飲んだことあった?」

 

 視線を前に移せば、何の躊躇いもなく煎茶を飲むアルディスの姿が入ってきた。イチハの問いに頷き、再びマグカップに口を付けるその姿を見る限り、余程煎茶が美味しいか煎茶に懐かしさを感じているのだろう。意を決し、茶を含めば今まで味わったことのない芳醇な香りとほのかな甘味と苦味が口の中に広がった。独特の風味だったが、嫌いではない。ふいに飲みたくなるような、そんな味わいである。

 

「大丈夫そうだね。とりあえず、過去のこと気にしたって仕方ないんだから、マルーシャちゃんが気になるなら今の彼女を見てあげな。「何かおかしい」ってことに気付けただけ、君らは前に進めてるんだから」

 

「……すごい、です。とても、前向きですね」

 

「んー、まあね。鳥人間やっちゃいるけど、一応君らより十歳上のお兄さんだから、色々と吹っ切れてるんだよ。俺様の話で言うなら、鳥人間になったことを悔やむより鳥人間脱却のことを考えた方がいくらか生産的でしょう? そりゃまあ、最初の方は若干落ち込んでたけど、もっと酷い状態なのに前向きなのが近くにいたしね」

 

 だから、前向きにならざるをえなかったんだとイチハは笑う。その言葉に、エリックとアルディスは顔を見合わせ、再びイチハへと視線を戻した。

 

「全く想像できないが、お前が人の身体になってるのと同じような話なんだろ?」

 

「その、大丈夫、なんですか……? ライオネルさん、多分ここから出られない身体なんですよね? 少なくとも、多分、目が……」

 

 

 

『ライ、あなたの役割は連絡と監視だ。今までクリフに任せていた二つの役目を、あなたに任せる。良いかな?』

 

『一応聞きますけど、オレ……その状態なら、見えるんっすよね?』

 

『うん。ただ、そういう事情で監視の能力を付けるつもりだから、あなたの場合はあなたの意思関係なく常に視界が私と繋がることになってしまうけれど……ああ、都合が悪い時は私の方から接続を切るから、言ってね……あー、でも、その時はあなたも不便なことになっちゃうけど、それでも良いかなぁ……?』

 

『はは、そんなの、良いっすよ。気にしないで下さい』

 

 

 先程の、マクスウェルとライオネルの会話。ここから察することができる事実として、「ライオネルは失明しているのではないか」というものが挙げられる。そしてクリフォードもクリフォードで「ライオネルが一番重症」だと言っていたし、イチハの発言からしてもそれは間違いない。エリック達の質問に、イチハはこくりと頷いた。

 

「あの子、ルーンラシス……というか、ここ、オブリガード大陸の外だと完全に視界閉ざされるらしいんだ。それに、全身が痛むとか呼吸ができなくなるみたいな話も聞いたことある。見てる分には元気なんだけど、視力に関してはここにいても眼鏡で矯正しないとどうにもならないみたいだし、多分、俺達が考えてる以上に、あの子は重症」

 

 ライオネルはクリフォードやイチハよりも先にこの大陸に辿り着き、生活をするようになったのだという。そのため、ここで暮らし始める前の彼のことは彼自身の話でしか知らないのだとイチハはどこか切なげな笑みを浮かべた。

 

「俺達と同じで、あの子も実験体だったらしい。それも、体内精霊を抜くだとか違う精霊を体内に宿すだとか、そんな実験を赤ん坊の頃から繰り返された、要は俺なんかよりよっぽど酷いことされてきた子なんだ。言っちゃ悪いけど一回抜き取られただけのエリックですら身体が脆くなってるんだ……繰り返せば、それだけ身体は崩壊していくよ」

 

「ッ、そりゃ、そうだよな……僕が最初な筈がない……」

 

「あ、気付いた? まあ、残酷なこと言うけれど、君の“前”は大勢いた。その一人がライってだけ」

 

 エリックはラドクリフの未来を担う王子。強烈過ぎる特殊能力に命を奪われぬための、延命目的の行為とはいえ、その行為の失敗は決して許されない存在だ。

 そのため、エリックも薄々気付いていた――自分の前に、同じことをされた純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)は、きっと数え切れない程に存在しているだろう、と。成功例が無いのに、自分にその処置をする筈はない、と。

 

「俺と、一緒だね……俺の“前”も、大勢“いた”らしいから……」

 

「……結構、キツいな。知らなきゃいけないことなんだろうけど、さ……」

 

 表情をころころ変える、強気で明朗活発な青年が、本来ならば生きられないような身体の持ち主だった。その事実がエリック達に与えた衝撃は大きい。

 イチハはマグカップに残っていた冷めた煎茶を飲み干し、一息吐いた。

 

「言ってしまえば、ライはマクスウェル様がいなければ生きられない。動くこともままならない。だから、クリフの同行者は俺になった……正確には、マクスウェル様の加護を限界まで与えて、かなりの行動制限を付けた上で同行する予定だったライをクリフが断固拒否したから俺になった。クリフの判断は正しいと思うけど、まあ揉めちゃったんだよね……それが、さっきの二人の会話」

 

「ライオネルさんは、外に……」

 

「出たかったとかじゃなくて、クリフの役に立ちたかったんだと思う。あの子は病的なまでの世話焼きだから。そうじゃなきゃ俺様のためにライ自身がよく知らない茶葉も衣服も作らないと思うし、はっきり言ってライがどれだけ欲しても手に入らないものを持ってるくせに塞ぎ込んでたクリフの世話もしなかったと思うよ。クリフは右目は見えてるし、魔力だって天性のものだし、何より生きにくいとはいえ大陸の外で生きられるから、ライからしてみれば憎らしいと思うこともあったんじゃないかな」

 

 優しい子だよね、と笑うイチハの顔は相変わらず悲しげで。心の底からライオネルのことを心配しているのだということが覗えた。

 

「ライはね、沢山の実験体――戦舞(バーサーカー)達が、せめて幼い子どもだけでも助けようと研究所で暴れて檻やら枷やらを壊して、そんな騒動の中でやっと逃げ出して、生き延びた唯一の子どもなんだって。暴れた大人の戦舞や、逃げ切れずに捕まった子ども達が殺されていくのを見ちゃってるから、生き残った自分は何が何でも生き延びなきゃって、もがいてもがいて、死に物狂いでここに来たんだって……多分、マクスウェル様が気付いて助け出したんだろうけれど、たったひとりの生き残り……君らと同じ、“奇跡の子”なんだ」

 

 エリックやアルディスと同じ、奇跡の子。

 多くの犠牲の上に生まれた、唯一無二の存在。その自覚があるから、ライオネルは明るいのだと。犠牲となった生命の代わりに生き延びようという覚悟を抱いているから、前向きに己の生と向き合っているのだとイチハは語る。

 

「生命は皆平等だけれど、犠牲となった存在がいる。彼らの死を無駄にしたくないから前を向くって。自分が成し遂げるものが、死んでいった人達の生命の意味になるからって、ライが言ってた。その点は俺も同意。だから、君らにも無くなった生命を悔やむんじゃなく、無くなった生命の代わりに精一杯生きて欲しいって、俺は思う……なんて君らは分かってるだろうし、何より気負い過ぎるだろうから、軽く考えてね。前向きに生きるのが大前提だよ。責任感じすぎて後ろ向きになったら意味ないからね」

 

「あ、ああ……ありがとう……」

 

 奇跡の子だからこそ、くよくよして欲しくない。前を向いて、しっかり己の生を受け入れて欲しい、変えられない部分にいつまでも囚われて欲しくない。

 それが、ライオネルのひたむきな姿を見てイチハが得たものなのだという。だから彼は、人として生きることができなくなった自分を嘆いてはいないのだろう。

 

「でも、世話焼きなのは多分あの子が唯一見せる『必要とされたい』っていう闇の部分だから、俺は極力世話されるようにしてた。助かるしね。ただまぁ、世話焼く方向がちょっとズレてる時も結構あったし、過剰過ぎて怖い時が無いわけじゃなかったから、人怖い病のクリフからしてみれば恐怖しかなかったんじゃないかなー……そんなクリフの感性を君らが正してくれたから、あの子達上手く仲直り出来たんだと思う。ありがとう、多分年下な君らの世話も焼きたがるから、適当に世話焼かれといてくれたら嬉しいかな」

 

「……。世話係ができたと思って、ありがたがることにするよ」

 

「エリック、使用人を使用しない王子だから、頑張って世話されてね」

 

「い、いや、まあ、ライオネルの奴もそこまでお世話過激派じゃないだろ!? イチハ達しばらく離れてたっぽいし、今はちょっとは変わってると信じる……アル、お前もちゃんと世話されろよ!」

 

 対イチハレベルなら、許容範囲だろう。だが、いくら対人恐怖症を拗らせているとはいえ、恐怖を抱かせるレベルの世話とは一体どれ程のものなのか……世話を焼かれるのは、少し苦手なのだ。

 

 あの無邪気な笑顔を見せる青年の姿が脳裏を過る。思わず、エリックは引きつったような笑みを浮かべた。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.62 慈愛か、酷薄か

 

「ライオネルが同行するなら、アイツの体調関連も見とくか。アル、お前もな……で、マルーシャは当然だし、ディアナも色々怖いな。クリフォードのこともちょっと気を付けて見とくとして……あー、そうだ。ポプリも……」

 

「ちょっと、待って。エリック、待って。君は何を目指してるの、カウンセラー?」

 

「やめてくれよ、気が付いたら何かこうなってたんだよ……お前ら責任とってたまには僕を敬ってくれ……っていう冗談は良い。ポプリの件だ」

 

 エリックの発言を聞いて「君も世話係か」と笑い出しながらもちゃっかり空気を読んだのか、流れるように家を出ていったイチハはさておき、アルディスとは合わせておくべき話がある。

 ここ、ルーンラシスに来てから妙に不穏な様子だったポプリの情報を共有しておきたい。そんなエリックの思いを感じ取ったのか、アルディスは小さく頷いた後、口を開いた。

 

「ポプリ姉さんが、孤児院入ったっていうのは……知らなかった。てっきり、ペルストラで生活してるもの、だと……ただ、何となく、ペルストラの住民と、不仲だったのは……気付いてた。領主の娘だから、かと思ってたんだけど……」

 

「今にして考えたら、違ったんだろうって?」

 

 そう問えば、アルディスはこくりと頷いた。喋らなくて良い時は喋らない辺り、何も言わないだけで結構な負担となっているのだろう。それならば、と今度はエリックが口を開いた。

 

「……ポプリが多分そうだって言っていたが、お前、その右目わざと斬らせたのか?」

 

 アルディスが目を見開いた。首を縦にも横にも降らない。返答にかなり悩んでいる様子であったが、やがて彼は、小さく縦に頭を動かした。

 

「気付かれてた、か」

 

「……アル、結構残酷なこと、聞いても良いか?」

 

 覚悟は出来ている、と言わんばかりにアルディスは頷いた。とはいえ、恐らく聞かれる内容を理解しているわけでは無いだろう。それを理解した上で、エリックは思い唇を開いた。

 

 

「お前を裏切ったのは、誰だ?」

 

 

 再び、アルディスの目が大きく見開かれる。そして彼は、軽く小首を傾げ、笑みを浮かべてみせた。

 

「その質問、凄く、嫌だな……分かってて、聞いてるんでしょ? エリック、性格悪いよ。今、何考えてるの……?」

 

「お前ら、やっぱり姉弟だなって思ってる」

 

「ああ、ポプリ姉さんにも、酷い質問したんだ。ポプリ姉さんには、なんて?」

 

「ペルストラのことを、どう考えてるのか……って」

 

 正直にそう言えば、アルディスの表情が僅かに歪む。内容に怒りを覚えたのだろう。しかし、彼は小さく息を吐き、自身の感情を押さえ込んでみせた。

 

「悪いとは思ったさ……だけど、ポプリは絶対に何かを言いたくないんだと思う。少なくとも、その『何か』が、僕にバレるのを恐れている……そう、感じた」

 

「ねえ、エ――」

 

 アルディスの声が掠れた。そのことに、今度は苛立ちを抑えきれなかったらしい彼は、ぱくぱくと口を動かした後に奥歯を強く噛み締める。こんな時に、と思っているのだろう。

 

「どう考えても必死に嘘を絞り出した後、それを指摘したら『絶対に言わない』って睨んできた。あの、ポプリがだ……性格悪いこと一つもしてこない、ポプリが、だぞ」

 

「ッ!」

 

「聞きたかったのは、これであってるか? 悪い、無理させすぎたな……続きは、また」

 

 声が出ないのは一時的なものだろうが、これ以上の会話は無理そうだ。エリックは会話を終わらせようとしたのだが、アルディスにその気は無いらしい。彼は懐からメモ帳を取り出し、まっ白な紙の上でサラサラとペンを走らせている。こうなった時のためにと、マクスウェルのところで貰っていたのかもしれない。

 

「……」

 

 書き終えたそれをひっくり返し、エリックに綴られた文字を見せた。かなりの殴り書きだが、元々アルディスは字が比較的綺麗だ。十分に読める状態だった。

 

『俺に色々気付かれたくないんだろうけれど、君にも真相を知って欲しく無いんだと思う。俺の予想が正しければ、あの人は自分が嫌われることに抵抗が無い。それで俺や他の誰かが無事でいられるなら、それで良いって考えてるんだと思う』

 

「えらい自己犠牲的だな……お前の目には、そう映ってるのか?」

 

 頷き、アルディスは再びペンを走らせ始めた。エリックはただ、それを静かに待つ。

 極力首の動きで返答できる質問をとは思っているのだが、内容が複雑なだけになかなか難しいものがある。間違いなくこの状況を歯痒く感じているであろうアルディスを思えば、エリックにも苦しいものがあった。

 

『どうしようもないくらいに優しいんだよ、あの人。ジェラルディーン兄弟がポプリ姉さんに惹かれてるのは、二人にはそういう彼女の内面が丸見えだからだと思う。多分、君達からしてみたら俺の目を奪った悪い奴なんだろうけど、俺達視点だと全然違うんだ』

 

「言われてみれば、それもそう、なのか……? だけど、お前の目を奪ったのは事実だろ? お前がそうしたかったとはいえ、お前がそれに傷付いたのは変わらない。ずっと、不思議だったんだ……何でお前は、ポプリを恨まないんだ?」

 

 そう問えば、アルディスは少し動きを止めた。そしてエリックの方を見て、口を動かした――“ぜったいにいわないで”、と。

 

『恨む理由は本当に無い。だって、ポプリ姉さんがああしてなきゃ、きっと俺は、殺されてたから。だけど、俺を助けるためにポプリ姉さんは自分ひとりを悪者にして、全てを背負った。俺や、あの人達を救うために。まだ、十二歳だったのに。それを俺は、気付いてないフリしてる。彼女の覚悟を、潰してしまうから』

 

 彼が見せてきたメモ帳には、奇妙なことがいくつも書かれていた。

 

 ポプリがアルディスの目を斬っていなければ、結果的にアルディス“が”殺されていたこと。

 アルディスを助けるために、ポプリが悪者となったこと。

 “あの人達”。つまり、ポプリにはアルディス以外に守りたかった存在がいること。

 これらに気付いているのに、アルディスはポプリにこれを言わずにいること。

 

 これらが意味することは、一体なんなのか……?

 

『少なくとも、俺を死なせたかったわけじゃないのは間違いない。むしろ、俺が死んじゃうとポプリ姉さんもおかしくなるかも。ブリランテで様子が変だったから、見えないところで何か悪化させてるかもしれない』

 

 そもそも、アルディスが人間不信に陥ったきっかけを作ったのはポプリではないのかと、エリックは前提事項を疑い始めた。

 彼が人間不信になったのは、信じていたポプリに目を斬られたからだと、今までずっと、納得がいかない状況ではあったがそう考え続けていたのだ。

 

『だからこそ、言えないんだ。俺が真相を知らずに、笑ってる姿を見てあの人が生きられるなら、俺はそうすることでしか、あの人を守れないから。だから、絶対にポプリ姉さんにはこのこと言わないで。ここだけの秘密にして』

 

 「絶対に言わないで」ということは、エリックを信頼してアルディスはこれを伝えてくれたのだ。

 それだけ自分は彼に信頼されているのだろう。そして、彼自身も未だに苦しんでいるのだろう――ペルストラの、真実に。

 

「分かった。だが、どっちも辛そうなのは分かったから、知らなかったフリはしない。何か、状況を打破する手段を考えたい」

 

「……!」

 

「ポプリが僕にも真相ひた隠しにしたがってる状態だから、どこまでできるか分からないけれどな……協力させて欲しい。ポプリを、助けたいんだろう?」

 

「ッ……、……」

 

 アルディスの瞳から、涙が溢れた。落ちた涙が、白い紙に染みを作っていく。それでも、何が何でも文字を綴るんだと、アルディスは左目を拭いながら必死にペンを走らせた。

 

『確かに俺は、何度も夢で魘される程度には傷付いたよ。素直にポプリ姉さんを恨んだこともあったよ。実は最近まで真相らしきものに気付けなかった。ただ、姉のように慕ったあの人を信じたいって思いだけで、恨みを押し殺してた部分があった。再会して、しばらく一緒に過ごすまで、あの人の辛さに気付けなかった』

 

 泣き声は、でない。それでも、涙は止まらない。それだけポプリのことが気がかりだったのだろう。更には恐らく、今の自分の状態が彼女を追い詰めるのではないかという不安も、彼の中にあったのだろう。自分より、相手を想う――本当に、姉弟だなと思った。

 

 しばらくして、アルディスは涙を拭い、真っ直ぐにエリックを見据えてメモ帳を見せてきた。

 

『ポプリ姉さんの話は、あくまでも俺の仮定。自信がない部分も多いし、ここで俺が君に詳細を語ってしまえば、彼女の決意が無駄になる。だから、今は詳しいことは言いたくない。だけど、そういう視点でポプリ姉さんを見れば、絶対違うものが見えると思う』

 

「……。大好きなんだな、ポプリのこと」

 

 ため息混じりに、エリックは思わずそんな言葉をアルディスに投げかけた。アルディスは顔を真っ赤にし、目を背けてしまったがそれは肯定したも同然である。あまりの分かりやすさにエリックはつい、苦笑してしまった。

 

 ポプリのことは、正直よく分からない。

 ただ、悪いがアルディスに関しては昔の思い出補正でポプリを過度に美化している可能性がある。かつてポプリに命を救われているクリフォードに関してもそうだ。しかし、ダリウスに関しては本当に『ポプリの内面』に惹かれている可能性が高い。

 

(変に、先入観を抱くのは良くないってことは分かった)

 

 先入観の怖さは、アルディスとの一件で痛い程に理解している。だからこそ、自分とは異なった視点を持つアルディスの話を蔑ろにしてはならないのだろう。

 

「とりあえず、皆と合流するか。確か、女子は全員ライオネルの家だったよな? 寄ってから、マクスウェルのところに向かおう」

 

 流石に外で待たせるのは悪い気がする、というライオネルの意見で、今、女性陣は彼の家を借りて休んでいる。恐らくイチハが外で暇を潰している状態だろうし彼に案内を頼めば早いだろう。気を遣わせてしまっているのは確かであるし、さっさと合流した方が良い。イチハが余裕たっぷりなのは、大人の貫禄というものなのだろうか。

 エリックの提案に、アルディスは迷うことなくこくりと頷いた。彼も、もう言いたいことは終わったのだろう。それを確認した上で、エリックはイチハの家を後にした。

 

 

 

 

 イチハと合流し、向かった先はライオネルの家。外観はログハウスで、ここに元々あった建物ではなさそうだった。イチハやクリフォードの家と比較すると建物自体がしっかりしており、どうやら二階建てになっているようである。彼は他の二人と比べると、ここでの生活が長いためだろうか。やたら器用そうな印象であるし、暇を持て余して建築してしまったのかもしれない。

 

「マルーシャ、皆、いるか?」

 

 ドアを開け、中を覗き込む。古い木の香りが鼻腔を仄かに刺激する。センスの良い、藍色に金の刺繍が入ったラグマットが敷かれたその空間に、マルーシャとディアナはいた。

 建物と同じ木で作られたテーブルの上にはクロスがひかれており、アイスボックスクッキーと紅茶の入ったポットが置かれている。そんな可愛らしいことになっているテーブルを挟み、マルーシャとディアナは談笑していた――女子会か。

 

「あ、エリック!」

 

「すごいな、これ……ライオネルが用意してったのか?」

 

「うん。勝手に食べたり飲んだり好きにしろってさ……なんかね、誰かさん家を思い出したよ」

 

 そう言って笑うマルーシャの視線は、アルディスに向けられている。これにはアルディスも苦笑し、口を開いた。ここまでの移動中に喉の調子が少し良くなったのだ。

 

「よく、人来るのかな……?」

 

「ここに、か? あー、でもこのクッキーってあれだよな。アル家の常備お菓子だよな」

 

「うん。見た目も良いし、生地も日持ち、するし」

 

 アイスボックスクッキーは生地を軽く凍らせたものを切って焼いたものだ。凍らせる、という作業を挟むため、冷凍保存による作り置きがしやすいクッキーである。

 急な来客に対応しやすい便利なお菓子なのだそうで、忙しい時のアルディスが出すものが決まってこのクッキーだった。そう考えれば、ライオネルも急な来客に備えてこのクッキーを常備していたのかもしれない。まさかな、とは思うが無いとは言い切れない。

 

 プレーン生地とココア生地のチェック模様が可愛らしいクッキーは小さなかごに入れられて整列していた。マルーシャとディアナが食べたのか、ちょこちょこと列が途切れている。元々どれくらいあったのかは知らないが、列の途切れ方からしてそれなりに減っているようだ。家に入った時にちょうどディアナがクッキーを齧っていたので、なかなか美味しいのだろう。

 

(まあ、僕らが来るのを予期してたわけではないだろうし、本当にここ、よく人来るのかもな。ライオネルの体質を考えたら、外から物資運び込む奴がいないと辛いだろうし……)

 

 会話内容から判断するに、クリフォードとイチハは精霊の使徒(エレミヤ)として旅立ってから一度も戻ってきていないようであった。そう考えてみれば、恐らく他に誰か協力者がいるのだろう。一体誰なのかが気になりはしたが、考えたところで意味が無い。

 

「あれ?」

 

 そこでエリックは、部屋の中にポプリがいないことに気付いた。ここにいるのだろうと思っていたのだが、違ったのだろうか……と考えたところで、上の階に繋がる螺旋階段を見つけた。

 

 勝手に上がって良いものか悩んだが、ここまでオープンにしておいて「上がるな」は無いだろう。階段のところまで行ってもマルーシャ達が何も言わなかったこともあって、エリックはゆっくりと階段を上っていった。

 

 

(……書庫、か?)

 

 ライオネルの家の二階。そこは古い書物が山積みにされた部屋だった。棚が無いわけではないのだが、本が収まりきっていないらしい。乱雑な印象の強い場所である。

 綺麗に整った一階に比べ、妙にカビ臭く薄暗い空間。部屋そのものが汚いのではなく、置かれた本がかなり傷んでしまっているらしい。ここ、ルーンラシスに残っていた本をこの一室に集めたのだろうと推測したところで、エリックは本の山と山の隙間から覗く桜色の頭を見つけた。

 

「ポプリ? 読書中か?」

 

「! あ、ああ……エリック君。ノアやイチハとの話は終わったの?」

 

 手にしていた古い本を閉じ、ポプリは腰掛けていた椅子から立ち上がって微笑む。彼女は本を棚に戻すと、エリックの元へと歩いてきた。

 

「悪い、邪魔したか?」

 

「良いの。汚れてるところばっかりで、あまり読めなかったし……それにね、ここの本って、大体精霊言語……古代語なのよ。エリック君、読めたりする?」

 

 ポプリは積み上げられている本を適当に手に取り、ぱらりとページを捲って比較的綺麗な部分をエリックに見せてきた。確かに、文字はエリック達が用いる公用語によく似てはいるものの、全く違う文法で記されている。フェルリオ旧言語とも違うそれが、古代語と呼ばれるものなのだろう。

 

「いや、全く分からないな……悪い」

 

「ううん、大丈夫よ。ありがとう」

 

 にこり、とポプリは微笑み、一階に降りていった――その隙に、エリックはポプリが本を戻した棚へと向かう。せめて、題名だけでも確認しておきたかった。

 

(……本当、絶望的に嘘が下手だな……)

 

 恐らく、恐らくだが。ポプリは精霊言語もとい古代語が読めるのだろう。何しろクリフォードのカルテを手直しする程度に学はあるのだ。最近は公用語をメインで使うが、かつてカルテには古代語がよく用いられていたことをエリックは知っていた。そしてエリック自身も、全く古代語が読めないわけではない。城にいた頃、暇潰しの一環で軽く勉強したことがあるのだ……あまりの難しさに、全く続かなかったのだが。

 嘘吐きはお互い様だなと苦笑しつつ、エリックは棚にしまわれた本を眺める。

 

(えーと……難しいな……だが、どれを手に取ったかは分かる、か)

 

 本が酷く汚れていることが幸いした。ポプリが読んでいた本には、彼女の指の跡がはっきりと残っている。先程読んでいたのがどの本かまでは分からないが、彼女が触れた本は一目瞭然だった。

 

(『精霊祭祀書』、『ヴァナディースの予言』、『暁の黙示録』……それから、『アウフヘーベン断章』……?)

 

 この四冊には、人が触れた形跡が強く残されている。パラパラと中を確認すると、どれも体内精霊や特殊能力、特に拒絶系能力について書かれていることが分かった。

 キーワードを繋げ、ポプリが自身の体内精霊について調べていたらしいことは分かった……のだが、それが限界である。本が酷く傷んでいたこともあり、詳しいことはよく分からない。もっと読み込みたかったが、あまり長くここに居座ると怪しまれる。

 

 本を戻し、エリックは階段を下っていく。怪しまれていたならば「探検していた」とでも言おう。そう思っていたエリックだったが、その予定は良い意味で覆された。

 

「ライオネル?」

 

「おー、お前もいたのか。そこまで荷物はねぇけどさ、流石に遠出だし、何かは持ってくべきかなーと……悪いけどさ、何持っていけば良いか教えてくれよ」

 

 家主が戻ってきていたのだ。マルーシャ達は、ライオネルの旅立ちの準備を手伝っている最中だった。これなら、しれっとエリックが混ざっても変に思われることは無いだろう。

 

「分かった。まあ、あまり増やすとポプリが大変だから、程々にな」

 

「あたしなら大丈夫よ。この布、どれだけ物しまい込んでも重さ変わらないし。それより足りない方が問題だから、エリック君、お願いね」

 

「助かる……まあ、マクスウェル様がクリフに持たせた魔法道具が女のスカートになってるとは思わなかったけどな……」

 

「……。僕もまさかスカートにされるとは思ってなかったよ」

 

 クリフォードも戻ってきていたようで、彼は鞄に荷物を詰めるライオネルの横を素通りして奥に設置してある棚から何かを取り出した。見ると、それは直径三十センチ程度の大きな水晶玉であった。

 

「忘れられると一番困るから、持ってきましたよ。これをどうにか、持っていかないと」

 

「あ、あー……邪魔だなぁ……」

 

 水晶玉を受け取り、ライオネルはため息を吐きながらもそれを丁寧に布で包み、鞄の中に入れた。その様子を、ディアナは不思議そうに眺めて口を開いた。

 

「な、何だ、それ……?」

 

「これが近くに無いとオレ、死ぬんだわ。マクスウェル様の加護があっても、離れて行動できるのは六時間が限界らしい」

 

「え……?」

 

「そのー、ディアナ。あと皆。一応僕から話しておきます。実は、ですね……」

 

 説明が雑すぎるライオネルを見て、これは駄目だと判断したらしいクリフォードは簡単に事の説明をし始めた。

 

 クリフォード曰く、ライオネルは度重なる実験の副作用によって体内で魔力を操る器官が完全に破壊されてしまっているらしく、そのせいで彼の身体はマクスウェルの加護無しでは失明や全身の激痛、呼吸困難など多くの問題を引き起こしてしまうのだという。そんな彼がある程度普通に生きていけるように作られたのがマクスウェルの魔力を凝縮させた水晶で、水晶を通してマクスウェルはライオネルの体内精霊や魔力を安定させているそうだ。精霊の使徒(エレミヤ)契約によって、少しは融通が効くようにしてもらったとのことだが、それでもやはり、長時間水晶から離れることはできないそうだ。

 

「こんな状況だし、乗り物の操縦とか荷物運びを主に手伝おうかなって。オレ、能力柄操縦とかできると思うんだけど、ラドクリフ王家って専用の船か馬車か持ってないのか?」

 

「……船、な」

 

「……?」

 

 ライオネルの問いに、最近うっかり沈没寸前まで追い込んだ船のことをエリックは思い出した。確かにどうにか買い取るつもりではあったし、専用の船があれば非常に便利だとは思う。しかし、あれは今、どうなっているのだろうか? 沈んでいたらどうしよう。

 

(どうせ次はルネリアルだしな。母上に聞いてみよう……)

 

 クリフォード、ライオネルがいるということは、精霊の使徒(エレミヤ)契約は終わったのだろう。二人に聞いてみれば、問題なく契約は完了したとのことだった。それは良かったのだが、今から出るには少々日が落ち過ぎている。出発は明日の朝になるだろう。

 

「その、出発前にマクスウェル様のところに少し顔を出して行きたいのですが、大丈夫か?」

 

 今回の契約ではライオネル経由でいつでもマクスウェルと話をできるようにしたらしいのだが、やはり出発前に顔を見て話をしておきたい。そんなクリフォードの頼みに、エリックは迷うことなく「分かった」と頷いた。この件に関しては、誰も拒否反応を見せることはなかった。

 

 

 

 

 翌日、日が出てすぐくらいの時間帯。就寝時間は比較的早かったはずだが、ライオネルが若干眠そうにしていた。

 クリフォードが小さな声で謝っていたため、恐らく彼の『手伝い』をしていたのだろう。やはり戦舞(バーサーカー)といえども、ヴァイスハイトとは体質が違うのだ。あまり無理をさせないように、とクリフォードに言っておいた方が良いかもしれない。

 

 

 そんなことを考えているうちに、エリック達はマクスウェルのいる神殿へと辿り着いた。マクスウェルは噴水の広場で一行を待ってくれていた。

 

『ゼノビア女王に会いに行くんだろう? その後に、ちょっとやっといた方が良いことを伝えとく。早いこと動いといた方が良い気がするんだ』

 

 噴水に腰掛けたその姿は、十に満たない程度の幼く愛らしい少年の姿。しかし、彼が放つただならぬ存在感はマクスウェルそのものであった。癖のある金髪を揺らし、マクスウェルはエリック達に微笑みかける。

 

『心配しすぎかもしれないんだけど、一応ね。それに、多分この方法ならイチハを何とかできると思うから。アルディスの件に関しては、あなた達が神殿を巡っている間に何とか調べてみるよ』

 

「な、何の話だ?」

 

『シャドウには話を通してある。最初はあなたが良いと思う』

 

 エリックの問いには直接答えることなく、マクスウェルはポプリへと視線を向けた。

 

 

『――精霊契約を、してきて欲しいんだ』

 

 

「え……」

 

 突然の言葉に、ポプリは小さく声を震わせる。狼狽える彼女をちらりと横目で見て、クリフォードが一歩前に出た。

 

「僕から、では駄目でしょうか? ここからウンディーネの神殿へはかなり距離がありますが、それでも、いきなりポプリに任せるよりは良いのではないでしょうか? 彼女よりは僕の方が、精霊の扱いに長けている筈です」

 

「く、クリフ……」

 

 最近のクリフォードにしては珍しく、堂々とした態度だった。それに対し、マクスウェルは悩み、目を細める。

 

『何か考えがあるみたいだね……分かったよ、元々最初はポプリかクリフって思ってたから、問題ないかな。具体的な場所は知ってる?』

 

「フェルリオ帝国領の、カプリス大陸。これだけしか知りませんが、十分ですよね?」

 

『カプリス大陸は狭いから、大丈夫だと思う。分かった、行っておいで……ただし、ウンディーネの次は、シャドウだよ。分かったね?』

 

「……。はい、ありがとうございます」

 

 カプリス大陸は、フェルリオ帝国の主要都市が揃っているセレナード大陸の左上に位置する大陸である。確かにここからだとかなり距離があるのだが、別に決定を覆すつもりはない。ただ、あのクリフォードが崇拝しているマクスウェルに大して意見したのである。一体、彼はどうしたというのだろうか。

 

 

「なあ……今の、何でああ言ったか、分かるか?」

 

 何となく、エリックはアルディスへと視線を移した。彼ならば何かを察しているかもしれない、そう思ったのだ。その予感は、的中していた。

 

「シャドウは、ちょっとね……クリフォードさんが言い出さなきゃ、俺が言うつもり、だったよ……シャドウの神殿は、オケアノス海底洞窟は……ペルストラの、先にあるから」

 

「! そういう、ことか……!」

 

 ポプリが黙り込んでしまったのは、そのためだったのだ。そしてクリフォードは、ある程度彼女のことを知っていたからこそ、時間を稼ぐために「自分が先に」と言ったのだろう。とはいえ、そこまで大幅な時間稼ぎにはならなかったようだが。

 

(マクスウェル、何か順番を決めているようだった……僕ら全員に、精霊契約をさせるつもりだったりするのか……?)

 

 マクスウェルという存在、ポプリの件、精霊契約の件――色々と気になることは多いが、今はあまり時間がない。もう戻ってこられないわけではないし、移動時間のことを考えればそろそろルーンラシスを出るべきだろう。

 

 

『いってらっしゃい、どうか……気を付けて』

 

 神格精霊に守られし、清浄な空気に包まれた深緑の聖地。

 何となく名残惜しいような気持ちになりながらも、エリック達はマクスウェルに別れを告げ、ルーンラシスを、オブリガード大陸を後にする。

 

 次に目指すのは、風の王都ルネリアル――彼らはまだ、残酷な『宿命』の存在に、気付いていない。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.63 渇欲の赤き瞳

 

「すごいな……本当に、これ、あなたのためだけに作られた塔なんだな……」

 

「きゅー!」

 

 ラドクリフ城からさほど離れていないシンプルな作りの円柱状の塔。その塔はただひとりの王子のために作られた建物であった。地面と塔の最上階――エリックの部屋を結ぶ昇降機に揺られながら、ディアナはポツリと贅沢なこの建築物の感想を述べた。

 

「税金と時間の無駄遣いだとは思ってるよ……」

 

「いや、あなたの身体のことを思えば仕方なかったんじゃないか? 唯一の王位継承者なんだから」

 

「いや、まあ……でもここまで立派なの作らなくても……とは思ってる」

 

「はは……でも、すごいなぁ、昇降機って」

 

 ライオネルは少し元気を無くしていたため、今はアルディスの家で待機している。したがって、ここにいるのは彼らを除いた六名と、現在は完全に鳥と化しているらしいイチハのみだ。エリックとマルーシャ以外は、見慣れない昇降機に興味津々な様子である。中でもディアナは非常に楽しそうだった。

 そうこうしているうちに、目的地に着いた。真っ先に昇降機から降り、ディアナは塔の壁に取り付けられた螺旋階段を見ながら目を輝かせている。エリックの部屋に行くだけで凄まじく体力を消費しそうなそれの存在によって、尚更昇降機の偉大さが強く感じられるのだろう。

 

「うーん、フェルリオを馬鹿にする気はないんだけど……ラドクリフには、シャーベルグっていう機械生産に特化した都市があるの。あそこに行けば、街中でもこういうの、いっぱいあるわよ……まあ、ここまで立派じゃないけれどね」

 

「そ、そうなのか? すごいなぁ……!」

 

 案外こういうものに興味があるのか、ポプリの話を聞いたディアナは嬉しそうに胸の前で両手を合わせた。そんな彼女とは対照的にマルーシャの表情が暗くなる。

 

「うん、チェンバレンブランドの、ハイランク昇降機だよ」

 

「チェンバレン」

 

 チェンバレン。ルーンラシスでマルーシャが珍しく悪い言い回しで表現した、シャーベルグの子爵家。余程彼女は、あの一族が嫌なのだろう。それこそ、話題になることさえ嫌悪するほど……そう思ったディアナの顔から、笑みが消えた。

 

「なるほど、陰湿で有名なチェンバレン産か。全く、こんな良い物作っときながら、陰湿一家か。ふーん、思い上がりも良いところだ。そうだろう、ポプリ?」

 

「そうね、陰湿で有名なチェンバレン家。思い上がりというか、成り上がりね。あの一族って、機械専門の商人兼研究者から貴族に成り上がった一族なの。丁度ダリウスと同い年くらいの三男がいるんだけど……あの三男、今でもふくよか子豚さんなのかしら……出荷は済んだかしら……?」

 

「ふくよか子豚? ダリウスと同い年なのだろう? なら今はただの豚なんじゃないか?」

 

「え!? ご、ごめん……! わたしのせいだよね、ごめん。やめて、二人ともごめん、暴言合戦やめて、ごめんなさい……っ!!」

 

 突然の暴言合戦にマルーシャの表情が変化する。決して笑っているわけではなく、むしろかなり困惑した様子である。それでも、悲しげな表情をしているよりは良いのかもしれない。

 そんな女性陣のやり取りを見ていた男性陣はディアナとポプリの見事な貶しっぷりに若干の恐怖を抱きつつ、心の中で拍手を送りながらエリックの部屋へと視線を移した。

 

「へえ、こんな感じなんだ……」

 

 王子の部屋、ということで興味深そうに中を覗くアルディスとクリフォード、そして暴言合戦を終えたディアナとポプリの姿に、エリックは苦笑しつつ肩を竦めた。

 

「……とまあ、こういう感じなんだが。そんなに変わった部屋では無いと思うぞ……」

 

 

 エリック達が王都ルネリアルに到着したのは、三十分程前の話である。エリックとしては早くゼノビアと話がしたかったのだが、残念ながら彼女は大臣達と会議中だった。

 それを聞いたマルーシャ以外の四人が揃いも揃って「エリックの部屋を見てみたい」と言い出したために、何故か大して広くもない丸い部屋の中に六人が集うこととなった。

 

「白と青の組み合わせ、か……うん、清涼感が漂っている。白いグランドピアノも良いな。部屋の中でも浮いてないし、むしろ一風変わったアクセントになっているな。お、絵があるな……描きかけ、か。これはこれで味が出て……」

 

「ディアナ、いきなりどうしたんだ。お前は何を目指しているんだ。恥ずかしいから僕の部屋を鑑定するんじゃない」

 

「これが、あの有名な侵入用窓……マルーシャ、すごいですね。この壁をよじ登るんですか。結構高さあるじゃないですか……ということは、こっちがあの有名な脱走用窓……」

 

「クリフォード、やめろ。僕の部屋は観光地じゃない。やめろ」

 

 好き勝手にエリックの部屋を楽しむディアナとクリフォードも気になったが、視界の片隅にさらに気になる上に不愉快な動きをする者を見つけてしまった。

 エリックはさりげなく、ベッドの下やら本棚に並べた本の裏、クローゼットの服の下等をこっそり覗き込むアルディスの背後に回り込み、フードにすっぽりと包まれた彼の頭に手刀を落とした。

 

「あだっ!」

 

「次やったらお前の日記音読するからな」

 

「ごめんなさい」

 

 探したくなる気持ちは分かる。だが、嫌なものは嫌だ。不幸中の幸いなのは、マルーシャはこのやり取りを全く見ていなかったことか。彼女はピアノ横の楽譜入れに目を通している最中だった。

 

「……。エリック」

 

「リベンジか? リベンジすれば良いのか?」

 

 楽譜の山を見ているということはフェルリオに渡る前に失敗した、あの曲を弾いて欲しいということだろう。そう思い、エリックは比較的前にあった楽譜を手に取る。それを見て、マルーシャはゆるゆると首を横に振った。

 

「その、そっち……じゃなくって」

 

「ん? ああ、アレか」

 

 マルーシャが求めている曲が分かった。しかし、エリックは少し考えた後、首を横に振るう。

 

「ま、また、今度な。その、皆がいる場所だと……」

 

「恥ずかしい? えへへ……じゃあ、わたしとエリックの秘密の曲、だね」

 

「……ッ!」

 

 マルーシャのために練習した曲を、他の人間に聴かれたくなかった――だが、結果的にこっちの方が何だか恥ずかしい。リクエストに答え、素直に弾いた方が良かったかもしれない。

 

「うん、まあ……そういうこと、になる、のか……」

 

「わたしは別に良いよ。特別扱いしてくれるの、嬉しいもん」

 

「そ、そうか」

 

 エリックは変な羞恥心に負けてしまったことを恥じたが、マルーシャが嬉しそうなのでこれはこれで悪くないと無理矢理納得することにした。

 

「うーん……マルーシャ、譜めくり頼んで良いか? 皆がいるから、嫌なんだが……やらないと、いつまでもできない気がする。第七楽章の練習がしたいんだ」

 

「もちろん!」

 

 せっかく目の前にピアノがあるのに、練習しないのは勿体無い。そう思い、マルーシャに譜めくりを頼めば快く受けてくれた。

 

(暗譜……しようとは思ったんだが……)

 

 マルーシャの手を煩わせないために、暗譜も考えた。しかし、この真っ黒な譜面を暗譜するのはちょっとやそっとの努力では不可能だ。ついでに自力で譜をめくるのはまず無理だ。そんなことをしようものなら盛大に不協和音を奏でることになるだろう。

 

「よ、よし、や――」

 

 やるぞ、と言いかけたその瞬間。コンコンと部屋の扉が叩かれた。返事をすれば、静かに扉を開き、城に仕えるメイドが部屋に入ってきた。

 

「ゼノビア陛下から伝言を預かって参りました。『一時間後、全員揃って謁見の間に来て欲しい』とのことです」

 

「一時間後……はい、分かりました。ありがとうございます」

 

 旅先ではメイドに遭遇することなど無かったものだから、何だか懐かしい気持ちになりつつエリックは軽く結い上げていた髪を解いた。そんな彼の方を、ディアナとポプリ、クリフォードがじっと見つめている。

 

「なんだ?」

 

 何か、気になることがあったらしい。彼女らはエリックが『そのこと』に気付いていないことを察し、メイドへと視線を移した。おずおずと、ポプリが口を開く。

 

「あ、あの……あ、あたし達、も?」

 

「はい、殿下が連れている者全てを、と」

 

「良いの、か……? それ……」

 

「僕達は一国の王と顔を合わせるような身分では無いと思うのですが……」

 

 ディアナは記憶喪失で、自分の素性が全く分かっていない状況、ポプリとクリフォードは貴族の生まれではあるものの、両者共に今や一般市民と大して変わらない身分である。

 そのため、エリックの部屋には入れても、女王であるゼノビアとは会えないと思っていたらしい。揃いも揃って「全員で来い」というゼノビアの指示に驚いている様子だった。

 

「いえいえ、陛下は六人か七人だと仰ってましたから、間違いないかと」

 

「に、人数が把握されている、だと……?」

 

 メイドの言葉にディアナは不信感丸出しな青い瞳をエリックに向けてくる。しかし、これにはエリックも驚いた。六人、だけならまだ分かる。エリックの部屋に行くところを目撃した使用人がゼノビアに話した可能性が高いからだ。だが……

 

(何で、ライオネルの存在を認識しているんだ……?)

 

 足りない一人は、十中八九ライオネルのことを指しているに違いない。それ以外には考えられない。つまりゼノビアは、ライオネルの存在を把握しているということだ――そういえば、以前も似たようなことがあった気がする。

 

 

『そろそろ、頃合ですね。もう行きなさい』

 

『早く、行きなさい……間に合わなくなってしまいます……』

 

 フェルリオ行きを命じられた際、出発を躊躇うエリックに対し、ゼノビアがかけた言葉。この言葉通りに城を発てば、丁度グミを購入しているクリフォードと再会した。

 

『はい、勿論です! お連れ様もどうぞこちらへ、客室は二人部屋を三部屋しかご用意できなかったのですが……』

 

 フェルリオ行きの船に乗る時。何故か、船長はエリックとマルーシャに四人の同行者がいることを把握していた。まず間違いなく、彼はゼノビアから話を聞いて部屋を用意している。つまり、ゼノビアは四人の同行者の存在を把握していたということになる。

 

(な、何故だ……一体、どうして……)

 

「アベル殿下?」

 

 困惑するエリックを心配し、メイドが声をかけてきた。それに「何でもない」と返し、エリックは首を横に振るう。

 

(そうだ、話を聞けば良い。母上に、話を、聞けば……)

 

「ねえ、エリック」

 

「! な、何だ? アル」

 

 今度はアルディスだ。後ろから、彼の声が聞こえた。一体何だろうと振り返れば、その手には少し大きめの鞄が握られていた。それはディミヌエンドを出る際に、彼が市民に渡されたものである。

 

「驚かせてごめん。ちょっと、ここで着替えさせて貰っても良いかな? 俺、一応フェルリオの代表って形で来てるから、この格好で行くのは、ちょっと……」

 

「いや、こっちこそ悪かった……なるほど、それ正装が入ってたのか。僕もさくっと着替えるとして、マルーシャも着替えてくるよな?」

 

「当然! あ、ディアナ、ポプリ、それからジャン! 皆もわたしに着いてきて?」

 

「えっ?」

 

 着替えてから合流ね、とマルーシャはディアナ達を連れて外に出ていく。なるほど、とエリックはマルーシャの機転に感心した。

 

「僕らと一緒に来るのに、そのままってのはあいつらも嫌だろうしな」

 

 女王との面会を想定していなかった三人が正装を持っていないことは明らかだった。彼らも「今のままの服装が好ましくない」ことは気付いているだろうし、後々酷く気にして落ち込むことは目に見えていた。だからこそ、マルーシャは彼らを連れて行ったのだ。

 

「うん、女子が揃って向こう行ったから、待ち時間絶対長くなるね」

 

「はは、仕方ないさ。それよりお前含め、どういうことになるか楽しみだよ。僕らばっかり、ギャップがあるとか言わせないぞ」

 

「いや、どれだけ着飾っても、君には負けると思う。君、見た目と言動の時点で既にギャップ生まれてるのに」

 

 エリックのお忍び服こと、旅先での服装はマルーシャの趣味だ。決して自分の趣味ではない。そのため、エリックの内面とはあまり一致しない格好になってしまっている。エリックがもっと強気で自信に満ち溢れた性格であれば、内面と格好に変なギャップが生まれることはなかったのに。この件については、エリックも少し気にしていた。

 

「……」

 

「ぶっ!?」

 

 アルディスに指摘されずともそんなことは分かっていると言わんばかりに、エリックは上着を脱ぎ、それをアルディスの顔面に思い切り投げつけた。

 

 

 

 

「遅くなってごめん! お待たせ!」

 

「いやいや、大丈夫だ。それ、新しいリボンか?」

 

「あ、うん……」

 

 エリック達が着替えを終え、塔の前で待つこと数十分。コーダ港でも見せてくれた青いショート丈のドレスを身に纏ったマルーシャがエリック達の元へと駆けて来た。あの時と違うのは、ひらひらとした水色の可愛らしいリボンが彼女の髪を彩っていることだろう。よく似合っているな、とエリックは思わず笑みを浮かべる。

 さらに少し待つと、ポプリとクリフォード、それからチャッピーとディアナが揃って現れた。

 

「うーん……ポプリとクリフォードは、そんなに驚く程の変化じゃない、か。別に普段の格好がぶっ飛んでるわけじゃないしな……ポプリの生足はともかく」

 

「ど、どういうことよ……」

 

 そう言って耳元に手を持っていくポプリは淡い赤と黒の清楚なロングワンピースを身にまとい、いつもは垂らされている桜色の髪は高い位置で綺麗にまとめられている。

 だが、ぷいと逸らした彼女の目元が少し赤い。泣いたのだろうか。

 

「僕は落ち着きませんけどね。真っ黒ですし、かっちりしてますし」

 

「まあ、確かに黒いな。でも、お前に関してはダリウスで見慣れてるから、そんなに驚かない」

 

「僕より兄さんのが格好良いと思うのですが……」

 

「……」

 

 境遇を思えば当然なのかもしれないが、突然ブラコンを披露しないで欲しい。眼鏡を外し、黒いタキシード服を身に纏ったクリフォードは、小首を傾げてくすくすと笑っている。何も考えていなさそうだ。

 

 ただ、彼自身は何も言わないが、何やらポプリに服の裾を掴まれている。やはり何かがあったようだ。

 

「エリック」

 

 聞いていいものか、とエリックが悩んでいることに気付いたのだろう。マルーシャが「あのね」とこっそり耳打ちしてくれた。

 

「ポプリってモデルさんみたいにスタイル良いから、メイドさん達が色んな服を着せようと盛り上がっちゃって……でも、ポプリの身体には火傷痕があるでしょ? 無理矢理脱がせたんだと思うけど、心の準備してない状態で火傷痕を見て驚いたメイドさんが思わず悲鳴上げちゃったの……それで、ポプリ……」

 

「……なるほどな」

 

 多分、それを宥めて、何とかここに連れてきたのがクリフォードなのだろう。行為に感謝こそするが、これは自分がどうにかする話ではないため、エリックはチャッピーにしがみついて震えているディアナへと視線を移した。

 

「そしてディアナが標的になったと」

 

「……ッ! なんで……私、こんな、格好……!!」

 

「ああ、うん。驚きすぎて逆に冷静になったよ」

 

 ディアナが身に纏うのは厳かな雰囲気を持つ繊細な装飾の美しい黒のゴシックドレス。純白のフリルやリボンがアクセントになっており、可愛らしさも演出している。

 

「や、やだよ……こんなの……っ!」

 

 ただ、普通のドレスではないのだ。ボディスーツのようにぴったりとしたそれは、身体のラインがはっきりと浮き出るようなデザインになっていた。しかも所々透けるような素材になっており、深いスリットまで入っている。可愛らしさよりは、色気を前面に出したようなデザインだ――ポプリの件といい、少々マルーシャのところのメイドは着せ替えに生命をかけているらしい。屋敷の一人娘が脱走ばかりで全く着せ替え人形になってくれなかった反動だろうか。

 

「アル」

 

「……」

 

「そうだな、正解だ。顔を覆うのは正解だ。絶対お前今、変な顔してるだろうからな」

 

 色気全開なドレスを身に纏う想い人。どうも女性への耐性があまりないらしいアルディスは何も言わずに自身の顔を隠していた。ラドクリフに旅立つアルディスのためにと、ディミヌエンドの市民が用意してくれた黒の軽鎧が不憫になるほどの残念さである。

 話によると、フェルリオでは大賢者スウェーラルが術師でありながら軽鎧を着ていたことにちなんで、戴冠式では軽鎧を身に纏うのだという。

 

「……酷いなぁ、俺を、何だと思ってるんだ」

 

「よし、復活したな? 大丈夫だな? じゃあ行くぞ」

 

「あ、ちょ……っ!」

 

「えっ!? こ、このまま!?」

 

 ポプリは泣き止んでいるので、問題なのは物凄く恥ずかしがっているディアナと、そのディアナにときめき過ぎているアルディスだ。何とも言えない表情をしている二人の意思とは無関係に、エリックは城内の謁見の間へと歩き始めた。

 

「仕方ないだろ、母上を待たせるわけにはいかないんだ……悪い、我慢してくれ」

 

 そう王子に言われてしまえば、従わないわけにはいかないだろう。エリックは五人がしっかり着いてきていることを確認し、久方ぶりのラドクリフ城に足を踏み入れた。

 

 

(まあ、数ヶ月で変わるわけないか……)

 

 絢爛豪華な装飾が眩しい城内。大理石の床は綺麗に磨かれ、エリック達の姿を映していた。エントランスの中央に敷かれた青いマットには王家の紋章が金色の糸で刺繍されている。そのマットの先にある、白い木材で作られた巨大な長い階段。その先が、謁見の間である。濃紺色の扉に閉ざされ、内部は見えない。

 流石に中には連れて行けないと入口前の装飾にチャッピーの手綱を結んでいるディアナが自分達に追い付くのを待ちつつ、エリックはすっかり黙り込んでしまったアルディスの表情を伺った。

 

「……」

 

 エリックやマルーシャからしてみれば見慣れた光景であるが、他の四人はそうではない。特に自国フェルリオの代表としてここに足を踏み入れたアルディスは緊張で微かに顔を引きつらせていた。ディアナにときめいている場合ではないのだ。

 

「アル、大丈夫か?」

 

「その、あはは……えーと……」

 

「深呼吸な。大丈夫だって、親書の内容は知らないが、悪いこと書いて無かったんだろ?」

 

「……。気になることは、あったけどね」

 

 悪いことは、書いていなかった。しかし、気になることはあった。

 今まで、そんな素振りを見せていなかったアルディスが、ここに来て漏らした言葉。

 

「大丈夫。君も、絶対に嫌だろうし……承諾するつもりはない」

 

「ど、どういう……」

 

 君も絶対に嫌。

 それは、どのような意味なのだろうか。

 

 問い詰めたかったが、今は時間がない。とにかく先にゼノビアに会うべきだと判断したエリックは階段を登り、謁見の間へと足を運ぶ。想像通り、ゼノビアは奥に置かれた椅子に腰掛けてエリック達を待っていた。

 

 

「お帰りなさい、エリック」

 

 優しい声が、投げかけられる。心を落ち着かせる、そんな声だ。不安が、一気に拭い去られた――そんな時だった。

 

「ッ、クリフ!」

 

 背後で大きな物音がした直後、ポプリの声が謁見の間に響いた。振り返れば、クリフォードがぐったりと扉を跨いだ辺りで俯せに倒れている。ここに足を踏み入れた途端に意識を失ってしまったらしい。

 

「あらあら大変! 使用人を呼びますわね!」

 

 異変に気付いたゼノビアが手を叩けば、近くにいた使用人が集まってきた。彼らが意識の無いクリフォードを取り囲む様を見たポプリは、迷わずその後を追おうとする。心配なのは分かるが、流石にそれはどうなのかと考えたエリックは彼女の肩を強めに叩いた。

 

「ごめんなさい……でも、クリフと一緒に行かせて。絶対に“おかしい”もの。あたしなんかが役に立つとは思えないけれど、それでも」

 

「分かる、分かるよ。だけどな、お前もここに呼ばれてるんだ。後は、使用人達に任せて、ここに残れ」

 

「……ごめんなさい、嫌な予感がするの」

 

 確かに、先程まで元気だった青年が唐突に倒れたのだ。おかしいと感じるのも無理はない。しかし、何だか母や城の使用人を疑われているような気がして、エリックはポプリに対して確かな不快感を覚えた。いきなり倒れたクリフォードもクリフォードだが、女王に呼ばれたというのにそれを無視するポプリも、かなりの無礼者だろう。

 

「エリック、気にしなくても良いのですよ。お仲間を心配するのは、当然のことでしょう?」

 

「ッ、母上……」

 

 エリックが動揺し、視線をゼノビアへと移した途端、ポプリはクリフォードを追ってこの場を離れてしまった。苛立ちはあったものの、気持ちが全く分からないわけではない。自分も、仮にマルーシャが倒れたとすれば慌てて後を追おうとしたに違いないから。

 

「お顔は拝見できましたし、構いません。大切な方々ですからね、一度確認しておきたかったのです……純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)のお嬢さん、あなたも、同じ理由ですわ。そんな理由で、呼んでしまってごめんなさい」

 

「い、いえ……」

 

 何故、ディアナ、ポプリ、クリフォードを呼んだのか。気になっていた理由は『ただ顔を見たかった』というものだったらしい。エリックにとって、三人は共に旅をした大切な仲間達だ。そのことを母も分かっているのだろう。

 

「ええと、大丈夫ですか? あなたとマルーシャも、先程の彼らを追っても構いませんよ。エリックとノア皇子には、流石に残っていただかなくては困りますが」

 

 気になるのではないかと、ゼノビアはディアナと、そしてマルーシャに語りかける。その言葉に動いたのはマルーシャだった。彼女は「ありがとうございます」という言葉とともに深く一礼し、謁見の間を去った。

 

「……ディアナ?」

 

 ディアナは、この場に留まった。マルーシャまで立ち去ったとなれば、逆に行かなくて良いのか気になってしまったのだ。しかし彼女の場合、本来狩られる立場であることを考慮して行かなかったのかもしれない。

 

「話は通しているから、鳳凰狩りのことは気にしなくても良いんだぞ?」

 

 アルディスもそうだが、ディアナの件についても例外として扱って欲しいと申し出ている。そのため、ディアナは城内で翼を出すことができたのだ。だから、大丈夫なのだと。そんなエリックの話を聞いても、ディアナの意思は変わらなかった。

 

「私は残る。マルーシャが行くなら、私が残っていても問題無いだろう?」

 

「それはそうだが……まあ、残ってくれた方が良いか」

 

 自分の意思で残るというのなら、何も問題あるまい。ディアナとの話を終え、エリックはゼノビアへと視線を移す。彼女は、母は、アルディスをじっと、見つめていた。

 

「母上……?」

 

「ふふ、親書を破り捨てられることも覚悟していたのですが……ちゃんと、来てくださったのですね……」

 

 立ち上がったゼノビアは、ゆっくりとエリック達――否、その場に片膝を付き、胸元に左手を当てた状態のアルディスへと近付いていく。極めて、異様な光景であった。

 

「親書を送って下さった、女王陛下を……無視することなど、私には、できません。ですから、私は、帝国の代表として、ここに参りました」

 

「そう硬くならずとも良いのですよ……面をあげなさい」

 

 アルディスが顔を上げる。さらりと、美しい白銀の髪が流れた。その様子を、ゼノビアはうっとりと眺め、彼女もまた、床に膝をついた。

 

「ああ……やはり、よく似ていますわね……スウェーラル、美しき大賢者に……」

 

「……ッ」

 

 ゼノビアの指が、アルディスの頬を撫でる。じっと耐えて、我慢しているがアルディスがあまりよく思っていないのは明白だ。

 

「は、母上! 落ち着いて下さい!」

 

 これは良くないのではないか。そう思ったエリックはアルディスを立ち上がらせ、母から距離を置かせる。案の定、アルディスの身体は微かに震えていた。

 

「ねえ……、エリック?」

 

 母の――何故、だろうか。妙に“ねっとりと”した声が、耳障りに感じられた。

 

 

「父親が、欲しくはありませんか?」

 

 

――父親。

 

 

「は……?」

 

 父親。つまり、母は再婚を考えているということ。そしてこの状況。誰を相手に考えているかは、明白だった。

 

「ねえ……? 同い年の父親……というのも、面白いのではないでしょうか?」

 

「――ッ!?」

 

 絶句した。

 母は、一体、何を考えているのだ?

 

 混乱する息子のことなど知らないとでも言うのだろうか。ゼノビアは、母は、静かに、口を開いた。

 

「ラドクリフとフェルリオ。双方の和平の証として、私達が婚姻関係を結ぶ……とても分かりやすいと、思いませんか?」

 

「な、何を、言って……」

 

「親書にもそのように書いていたのですよ。ノア皇子がここに来たということは、承諾……してくださるのでしょう?」

 

「……」

 

 アルディスは何も言わない。だが、それでは駄目だと考えたのだろう。彼は胸元に左手を当てたまま、重い口を開いた。

 

「……親書には、双国の休戦についての……文章が、書かれておりました。あなた様が仰るのは、最後に記された、一文のこと、ですよね? 私があなた様と婚姻関係を結べば、多額の寄付金を、我が国に授けて下さる……と」

 

「ええ、その通りです」

 

 アルディスは固く目を閉ざし、再び小さく身体を震わせた。恐怖に打ち勝つためにあがき、さらに勇気を振り絞っている。そんな様子であった。

 

 そしてアルディスは、「お断り致します」とはっきりと口にした。

 

「フェルリオ帝国は、自力で復興活動を行います……そうでなければ、あの国は遅かれ早かれ……駄目になってしまう。寄付金で成り立つような国が、この先、残っていけるとは考えられません」

 

 寄付金はいらない、だから婚姻関係は結ばない。

 その言葉にゼノビアは目を丸くし、ゆらりと首を傾げる。

 

「そもそも、私は最後の、フェルリオ皇帝家の人間です。私の代で、皇帝家を終わりにすることは、できません」

 

「それも、そうですわね……」

 

 分かってくれたか、とエリックは胸を撫で下ろす。

 だが、ゼノビアは再び口を開いたのだった。

 

 

「悲しいです……ああ、スウェーラル……」

 

 

「ッ!!」

 

 ぞわり、と鳥肌が立つのを感じた。

 

「い……いい加減にしろ! アルディスはアルディスだ!! スウェーラルじゃない!!」

 

 流石に黙っていられないと、ディアナが激昂する。当然だ。ゼノビアが求めているのは、アルディスではない。アルディスにある、スウェーラルの面影だ。

 

「あらあら……無礼な子。ご自分の立場が、分かっているのかしら?」

 

「その言葉、そのままあなたに返す! あなたのアルディスへの……ノア皇子に対する行為、発言! それが無礼なものでは無いと言うのか!? しっかりと、自分の頭でよく考えてみろ!!」

 

 叫び、ディアナはアルディスの手を掴んで謁見の間を飛び出していった。あまりの出来事に放心してしまっていたのか、いとも簡単にアルディスは連れ去られていく。残されたのは、エリックただ一人となった。

 

 

「は……母上……」

 

「誰もいなくなってしまいましたね……なら、私はあなたに、大切な話ができますね」

 

 にこり、と優しい微笑みを浮かべるゼノビア。いつもの、見慣れた彼女の姿――先程の出来事は、白昼夢でも見ていたのではないかと、そう思ってしまうほどに『いつもの』母の姿だった。

 

「先程、倒れた殿方……あの殿方は、精霊の使徒(エレミヤ)、でしょう?」

 

「え……」

 

 しかし、その口から発せられた言葉は極めて返答に困るものであった。何も言えず、固まるエリックの頬に触れ、ゼノビアは小首を傾げて笑ってみせる。

 

精霊の使徒(エレミヤ)同士は、近距離での接触が厳禁なのです。神格精霊マクスウェルの力が拒否反応を起こし、使徒の体内魔力を暴走させてしまうから……あの殿方は、純粋すぎる力の持ち主なのでしょう。だから、拒否反応によって意識を失ってしまったのです」

 

「精霊の使徒同士……? 母上、まさか……」

 

「ええ、私も、精霊の使徒なのですよ、エリック」

 

「ッ! そ、そうだったの、ですか……!?」

 

 精霊の使徒(エレミヤ)がクリフォードひとりだという話は聞いていなかったが、まさか身内に精霊の使徒が存在するなんて。だが、そう言われれば母の行動の意味も大体理解できる。

 

 きっと母は、マクスウェルの力で様々なものを透視することができるのだ。だからエリックの仲間達の存在を理解していたし、時期を読んで行動することができた。常に監視されているようであまり気分の良いものではなかったが、この監視そのものがマクスウェルの意思なのかもしれない。

 

「驚きましたか? もっと驚くことを言いましょうか?」

 

「……いや、母上が精霊の使徒(エレミヤ)であったということと、ノア皇子と婚姻の件以上に驚くことは、ないと思います……」

 

「うふふ、そんなことを言わないで、エリック」

 

 まるで悪戯っ子のように、ゼノビアは笑う。決して笑い事ではないのだが、そんなことを口にしたところで何も変わらないだろう。エリックが黙っていると、ゼノビアは鍵束を取り出して首を傾げてみせた。

 

「船を、壊しましたね?」

 

「ッ、う……っ!」

 

 じゃらじゃら、と鍵束を揺らしてゼノビアはエリックの目をじっと見つめてくる。恐らく、鍵束は船長室かどこかの鍵なのだろう。逃げ出したくなったが、そんなことをするわけにはいかない。

 

「申し訳ありません……」

 

 震えそうになる声で、謝罪の言葉を口にする。それを見たゼノビアは、満足そうに微笑んでみせた。

 

「あの船は今、シャーベルグで修理中です。修理が完了次第、そのまま乗っていくと良いのでは? 船があったら便利でしょう?」

 

「えっ!? 良いのですか……!」

 

 船があれば、国家間の移動が楽になる。次の目的地はフェルリオ帝国領のカプリス大陸。アルディスの話によると船が必須の大陸らしく、船を貰えるとなれば大変ありがたいことであった。思わず声を弾ませるエリックの頭を、ゼノビアは少し背伸びをして優しく撫でた。

 

「ええ。元々、国が所有する船ですもの。今はそんなに船の行き来もありませんし、使ってない船も沢山あるのですよ。だから、問題ありません。ただ、酷く壊れてしまっていたようなので船自体はかなり小さくなってしまいましたし、あなた達が使わないなら廃棄ですね」

 

「頂きます」

 

「それで宜しい」

 

 うふふ、と上品に笑ってみせる母からは、先程の異様な様子は一切感じられない。本当に、一体あれは何だったのか――恐怖をも感じさせる、あの狂気の姿は。

 

「……」

 

 冗談であったとは到底思えない。だが、本気であると考えたくはなかった。

 本当に、アルディスとの婚姻は和平の証としか考えていないのだろうか。もしそうならば、スウェーラルへの執着は一体何だというのか。

 

(……考えたく、ない)

 

 狂っていた。確かに、あの瞬間の母は狂っていた。

 

「ここに留まって欲しいのですが……どうせ、すぐに行ってしまうのでしょう? せめて、少し休んでから出発してください。シャーベルグには、話を通しておきますから」

 

 目の前には、自分がよく知る優しい母。その母の顔が、歪むのを見たくはない。逃げているのは分かっている……それでも。

 

 

「はい、ありがとう……ございます」

 

 エリックはこの件を追及する気には、どうしてもなれなかった。

 

 

 

―――― To be continued.

 




正装シリーズ(イラスト:長次郎様)

エリック

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アルディス

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マルーシャ

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ディアナ

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ポプリ

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クリフォード

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Tune.64 王子の権力

 

(まあ、ウィルナビス夫妻としばらく顔合わせてなかったから、丁度良かったといえば丁度良いんだが……)

 

 一体何故、と思いつつも、エリックは城を後にする。早々にゼノビアと別れた彼の行き先はウィルナビス邸だ。理由は全く分からないが、クリフォードが城ではなくウィルナビス邸へと運ばれたらしいのだ。それに続く形で、皆同じ場所に揃っているらしい。

 いくらなんでも部外者であるポプリが「城以外にして欲しい」等とごねたとは思えないし、マルーシャがそのように指示したのかもしれない。その指示の理由は、やはり分からないのだが。

 

 銀装飾の施された門を潜り、風を受けてゆっくりと回る真っ白な風車とカラフルな花々、しっかりと手入れの施された緑の芝生と植木が心落ち着かせてくれる広い庭を歩く。途中の柱にチャッピーと彼を繋ぐ手綱が結ばれていたから、本当に皆ここにいるらしいことが分かった。

 

「いつ来ても、本当にすごい庭だな……」

 

 豪邸と同じくらいの広さはあるだろう立派な庭は当主の趣味なのだとか。ラドクリフの国家、マーシャルリリーに因んだ名前を娘に付ける辺り、本当に花が好きなのだろう。

 

「ああ、アベル殿下! わざわざ来てくださったのですね。ありがとうございます」

 

「! い、いえ……私の連れがご迷惑をお掛けしてしまい、申し訳ありません」

 

 突然エリックの前に現れたのは、小太り気味の中年男性だった。どうやら花壇の手入れ中だったらしく、手が少々土にまみれている。だが、男は決して庭師ではない。彼こそがウィルナビス男爵家当主、クレール=ウィルナビスだ。

 

「こちらこそ、お連れ様に大変な失礼なことを……そのこともあって、こちらにお招きしたのです……が、アベル殿下、いくつかお伺いしたいことがあるのですが……」

 

「なんでしょうか? 私が分かることならば、何なりとお答えしますよ」

 

「ありがとうございます……こんな場所で話すのも変な話ですね。中にお入りください」

 

 エリックを見上げる程に小柄な体格のクレールは、庭造りが趣味なこともあってオーバーオールを身につけている。癖のある金髪に、適度に日焼けした肌。その頬にはそばかすもあり、彼が放つどこか和やかな雰囲気はもはや貴族というよりは牧場主である。

 妻のビアンカは茶髪に赤の瞳であるのに対し、クレールの瞳は黄緑であるため、マルーシャは父親似なのだろうと――つい、最近までは思っていた。

 

(色々知った上で見ると……本当に、髪と目の色だけ、なんだよなぁ……)

 

 白基調のラドクリフ城とは異なり、赤茶色のレンガが暖かな雰囲気を醸し出している屋敷へ誘導されながら、エリックはクレールの姿をまじまじと眺めていた。自身の兄が何一つ両親の特徴を引き継いでいないこともあって気にしていなかったのだが、実際マルーシャはどんな奇跡が起こったのかと言いたくなる程に両親に似ていなかった。

 

 クレールもビアンカも、見る者を和ませる小柄でぽっちゃりとした体格の持ち主であり、双方顔立ちも決して美しく整っているわけではなく、平凡な容姿をしている。

 しかし、随分遅くに授かったらしい彼らの娘、マルーシャは女性としては比較的長身でモデルのような体型であり、しかも極めて綺麗な顔立ちの娘である。本当に、髪と目の色だけなのだ。

 

「……」

 

 今になって思えば、マルーシャは完全にフェルリオ皇帝家の血を引く風貌だった。何だかんだでアルディス本人に渡せぬままになっているロケットペンダントに入っていた家族写真。そこに写っていたセレネ女帝は、マルーシャと非常によく似ていた。

 

(何でこの人達が、マルーシャを育てていたんだろうか……)

 

 他人の子であるということを、知らなかったとは言わせない――複雑な心境のまま、エリックはクレールの後を歩く。そして、ある一室に通された。

 

「え?」

 

 考え込んでいたために気付くのが遅れたのだが、案内された部屋は、ポプリ達のいる場所ではなかった。部屋の片隅に農具が置かれている辺り、恐らくクレールの自室だ。不思議そうに小さく声を漏らすエリックに、クレールは「申し訳ありません」と困ったような笑みを浮かべてみせた。

 

 

「……。単刀直入にお聞きします。あの桜色の髪をした娘は、バロック=クロードの長女、ポプリお嬢様でしょう? そしてこちらは少々自信が無いのですが……空色の髪の男はジェラルディーンの子、ですよね? 恐らく、ジェラルディーンの次男坊かと思われますが」

 

「ッ!? どうして、そのようなことを?」

 

 何故か、ポプリとクリフォードのことを見抜いている。あえて肯定せずにクレールの出方を伺っていると、彼は特に臆することなく、不思議そうに首を傾げて笑ってみせた。

 

「私どもは、元々シャーベルグに住んでいたことをお忘れですか?」

 

「! あ、あー……そうか、そう、だよな……」

 

 これは隠せない。恐らく、クレールは双方と面識があったのだ。クリフォードの方は若干自信無さげな様子なのは、きっと本人を見たことがないためだろう……ということは。

 

「その……黒衣の龍のダークネスの正体は知っていますか?」

 

「ええ。ジェラルディーン家嫡男のダリウス様、でしょう? 私どもと面識がありましたし。こんな小さな頃から知っていたのですよ? すぐに気付きましたとも。まあ、色々あったのだろうな、とは……」

 

「……ですよね」

 

 こんな小さな、という動作からして本当に昔からダリウスと面識があったらしい。クリフォードに関しては、兄の面影を感じて気付いてしまったのだろう。

 クリフォードだけでも伏せようかと思ったが、無理だ。むしろせっかく安定してきた彼の地雷を踏み抜かれるよりは、協力者になってもらった方が良い。

 彼らの素性を隠すことを諦めたエリックは、素直に質問に答えることにした。

 

「桃色髪の方が、ポプリ=クロード……おっしゃる通り、ペルストラ領主クロード家の一人娘だそうです。空色髪の方はダリウスの弟、クリフォード=ジェラルディーンですね……こっちも色々あったみたいなので、あまり刺激しないでやっていただけたら……」

 

「ああ、いやいや! 別にどうこうしようというわけではないのですよ。ただ、クロードもジェラルディーンも、あまり現在の環境が良くないので……気にしていたのです」

 

「現在の環境?」

 

「特にクロード……というより、ペルストラが置かれている環境が良くないですね。このままだと、ジェラルディーン領の二の舞となってしまう。可哀想に、ポプリお嬢様も戻りたくても戻れない状況なのでしょう」

 

 ちらり、とクレールはエリックの顔色を伺った。エリックが事情を知らないことを見抜いたのだろう。彼は人差し指を口元に当てた後、「口外禁止でお願い致します」と呟いた。エリックがそれに頷けば、クレールは静かに、詳細を話し出す。

 

 

「元々、チェンバレン家はジェラルディーン家を敵視しておりまして。ジェラルディーン家は私どももそうですが、シャーベルグ貴族達と仲が良かったのでチェンバレン家からすれば邪魔で邪魔で仕方がなかったのですね。対抗手段として、チェンバレン家は各地の領主と手を結ぼうとしました。そのうちのひとつが、クロード家だったのです。元々クロード家は廃村立て直しによる国への貢献で爵位を得た貴族であってそこまで力が強いわけではなかったので、丸め込んでクロードの領地、すなわちペルストラを得ようとしたようなのです」

 

「そうか、ジェラルディーンは騎士系だから、直にやりあっても勝てない上にあっちの方が爵位は上……せめて領土の広さで上回って威圧しようってことか」

 

「作用でございます。ところが、クロードは早々にチェンバレンの策略に気付いたのでしょう……執拗に迫ってくるチェンバレンに困り果てた若き当主バロック様は、ジェラルディーン家当主ディヴィッド様に助けを求めました。大体二十五年前の話です。その際にクロード夫妻が頻繁にシャーベルグへ来られましたので、ご夫婦の容姿を覚えていたのです。ポプリお嬢様はメリッサ婦人によく似てらっしゃる。お名前のこともあって、そうだろうと確信したのです」

 

 なるほど、とエリックはこめかみを抑えた。要は、クロードはチェンバレンの恨みを買ってしまったのだ。確かに状況を思えば、チェンバレンを抑制できるジェラルディーンを頼りにするのは理に適ったものだ……しかし、

 

「ですがその数年後にジェラルディーン家が崩壊し、さらに八年前の事件でペルストラは壊滅してしまいました。ペルストラに関してはひとまず、表向きは生き残りのポプリお嬢様が成人されるまでの代理という形で住民達が自治を行う形となりました」

 

「ポプリが成人するまで? いや、でも、ポプリは……」

 

 唐突に矛盾点が出てきた。ポプリの話を聞いている限りだと、彼女はペルストラ崩壊からそう日が経っていないうちに孤児院送りにされている。まさか、成人するまで孤児院に預けるというわけではないだろう。そうでなければ彼女が今、定住地もなく旅を続けている筈がない。

 案の定、といったところか。クレールはこくりと頷き、再び語り始めた。

 

「そう、ポプリお嬢様がペルストラにいないことが判明してしまいまして。幸いにもペルストラは辺境の街。崩壊してしまったこと、その時期が戦後間もない頃だったこともあり、対して見向きもされていなかったので、これまでは嘘を貫き通すことができていたようなのです。結果、現在のペルストラは宙に浮いた状態となっております……女王陛下は何か、おっしゃっていませんでしたか?」

 

「い、いえ……」

 

 エリックが首を横に振るえば、クレールは「ここだけの話ですが」と前置きし、ゼノビアが主体となって行っているという会議の内容を教えてくれた。

 

「ペルストラの統治権を、チェンバレンに移すという話が出ております。『ポプリお嬢様は修行の旅に出ているだけ、旅に出ている間は我々に統治を任せて行かれた』と住民は主張しておりますが……果たして、嘘か真なのか……」

 

「……え、そ、それ、は……」

 

「ペルストラには、ポプリお嬢様直筆の手紙があるのだとか。そして実際にポプリお嬢様は旅をされているようですね……ですから、私は真なのだと見ています。しかし、戻るに戻れない状況でしょう。最悪、ポプリお嬢様が戻られた途端、ペルストラとチェンバレン間で紛争が発生しかねません」

 

 なるほど、とエリックは思った。だからポプリはペルストラから離れ、旅を続けているのだろうと――否、本当にそうなのだろうか?

 

(そういう話、なら……普通、孤児院送りになったりするか? 本人が話してくれれば、早いんだが……)

 

 ポプリはきっと、何も語りたがらない。少なくとも、ゼノビアの息子である自分には。

 アルディスが「君にも真相を知って欲しくないんだと思う」と言っていたのは、ペルストラの件に母が関わっていることが理由なのだろう。まさかペルストラを放置しているとは思っていなかったが、結果として新たな火種が出来かけていたとは――相変わらずの、自らの無知をエリックは恥じた。

 

 

「ところで、クレール殿。失礼ながら、お聞きしたいことがあります……あなたが教えてくださったのは、どう考えても内部機密。一体、クレール殿はこれを、どこでお知りになったのでしょうか?」

 

 しかし、いくら無知だとはいえ、エリックが知らない話を妙にクレールは把握している。アルディスに関しては仕事の一環で情報収集を行っていることが多いため、まだ納得できる。だがクレールはあくまでも、言い方は悪いがゼノビアに囲われている弱小貴族の当主にすぎないのだ。このような情報を一体どこで得たというのか。

 そんなエリックの問いに、クレールはマルーシャと同じ黄緑色の瞳をきょろきょろと動かし始めた。

 

「申し訳ありませんが、言えません。私も『何も言わないこと』を条件に、交流を続けて頂いているので……“あの子”はやっと少し、私に懐いてくれたところなのです。内部機密についても、色々と疎い私を守るために教えてくれているのです。ですから……」

 

 言いたくない、言えない。お願いだから、追求しないで欲しい――そんな、悲痛とも取れる思いが、クレールから感じ取れた。

 立場上彼は、エリックには逆らえない。恐怖に近い感情を抱きながらも、エリックの問いに答えることを拒んだのだ。それを理解していながら、追求するような残酷なことはしたくなかった。

 

 

「分かりました。どうかお気になさらないでください……ところで」

 

 せめて、別件で探りをいれさせてもらおう。そう思ったエリックは、少し顔が上気するのを感じながらもやんわりと笑みを浮かべてみせた。

 

「ずっと、共に旅をしていて感じたのですが……イリスお嬢様は本当にお綺麗ですよね。私には勿体無い方です……改めて、思うのです。私が相手で、良いのかと」

 

 それは、クレールが真の意味では最も触れて欲しくないであろう、マルーシャの件だ。

 

「幸いにも、私どもには全く似なかった自慢の娘です。お転婆が過ぎますが、もう少しすれば、きっと落ち着きますので……どうか、そのようなことをおっしゃらないでください」

 

「ああ、いえ! 決して彼女を拒んでいるわけではなく……ただ、本当に美しい方だと、そう思っているので……恥ずかしい話、ふいに見とれてしまうこともあるのです」

 

 このままではマルーシャの美貌を褒め称えるだけのよく分からない会話になってしまう。どこで踏み込むかエリックが悩んでいると、クレールはニコニコと笑いながらこんなことを語り始めた。

 

「実は、マルーシャが生まれてすぐに、私は任務でアドゥシールに長期滞在となりましてね。十年前にシャーベルグで事故があって、ルネリアルに移り住むまでの間は娘の顔を見ていなかったのです……いやぁ、勿体無いことをしてしまったと思っていますよ」

 

「……え」

 

「ああ、ご存知無かったですか? 事故のショックでマルーシャも記憶を失っているようですし、私は正直、違う子と入れ替わってしまったのではないかと思ったのですが……そう聞けば妻に怒られてしまいまして……いやはや、情けない。ははは」

 

 笑い事ではないな、とエリックは顔が引き攣りそうになるのを懸命にこらえた。恐らく、クレールの最初の予想が正解だ。マルーシャは差し替えられたのだ――恐らく、本当の彼らの娘が、事故によって死んだ際に。

 

(ていうか記憶喪失ってどういうことだ……? マルーシャは七歳以前の記憶を持っていないってことか? それ多分、記憶喪失じゃなくて記憶そのものがないんだよな? それ以前の記憶は、マルーシャじゃなくシンシアのものだから……!)

 

 クレールは恐らく、真相を知らない。いくら七年離れていたとはいえ、本当に色々と疎いようだ。主犯もしくはそれに近い立場にあるのは彼の妻、ビアンカの方だろう。

 

「あの、ビアンカ殿の特殊能力って何でしたっけ?」

 

秩序封印(ヴァルデマール・フレイヤ)ですね。そのせいか病弱で病弱で……今も寝込んでおりますし、最近は癇癪を起こすようになってしまって……とてもではありませんが、表には……」

 

「……」

 

 完全に黒だ、とエリックはこめかみを押さえた。しかも、特殊能力が突然変異したり、隔世遺伝であった可能性を考えない限り、マルーシャは彼らの娘であった“マルーシャ”ですらない。元々マルーシャは人工的に生み出された可能性が高かったとはいえ、クレールの知らない場所で、彼の本当の娘は消されている――あまりにも惨たらしい、残酷な話だ。

 真相を探るなら、クレールではなくビアンカの方に聞かなければならないようだ。しかし、これでは会うことは叶わないだろう。変にこの一家と亀裂を作ることも避けたい。

 

「どうされましたか?」

 

「いや、天啓治癒(エルフリーデ・イヴ)は希少な能力でしょう? 旅に出てからイリスお嬢様の才能はどんどん輝きを増しておりますので、ご両親の能力がふと、気になってしまったのです。一体、どんな才能を引き継がれたのだろうと」

 

「とんでもない! 妻はともかく、私は何の効果も出せないというのに……! ですが、お褒めいただけたこと、光栄に存じます。ありがとうございます」

 

 これが演技だとは、到底思えなかった。クレールは何も気付いてないし、何も知らないのだ。

 せめてクレールは永遠に知らぬままでいて欲しい。マルーシャを娘として愛し続けて欲しいと、エリックは柔和な笑みを浮かべて口を開いた。

 

「こちらこそ、本当に助けられております。ありがとうございます……あの、そろそろ……」

 

「あ! そうですね、ご案内します!」

 

 これ以上は、何を聞いても無駄だろう。エリックはクレールに頼み、仲間達の待つ部屋へと案内して貰うことにした。

 

 

 

 

「クリフォードは大丈夫そう、か……? ああ、うん……アル、大丈夫か?」

 

 案内された部屋。そこは客室となっており、淡い紅色の壁紙が暖かな印象を与えてくれる小さめの部屋だった。隅に置かれたベッドの傍に、五人の仲間達が集っていた。ベッドから身体を起こした状態のクリフォードはもう大丈夫そうなのだが、アルディスの顔が真っ青だ――その理由は、言うまでもない。

 

「アル、その……」

 

「知ってたよ、俺。知ってて、行ったんだ……親書には、本当にそういうこと、書いてあったから……君は、悪くない。だから、何も言わないで」

 

 エリックが彼の立場であったなら、どうしただろうか。親書を受け取った時点で、これを耐えきった自信がない。それなのに彼はエリックのことを思い、このことをずっと黙っていてくれたのだ。そう思うと、色々と込み上げてくるものがある。

 

「エリック、俺は大丈夫だから……謝らないで」

 

「……」

 

 アルディスはこんな状況にも関わらず自分を気にかけてくれるようだが、あまりにも申し訳無さ過ぎて、かえって辛い。

 そんなエリックの心境を察したのだろう、アルディスは困ったような笑みを浮かべ、静かに語り始めた。

 

「その、これを言うと、君は嫌な気持ちになるかも、しれないけれど……受け取った時は、俺の境遇を同情して、こんなこと書いてくださったのかなって……そう、思ったんだ。俺は、純粋な聖者一族じゃない、人工的に生み出された存在、だから……君みたいな子を育てる母親、だから。そういう意図だと、思ってた。でも、違ったんだね……」

 

「アル……」

 

 ゼノビアの行為に、傷付いたということなのだろうか。尚更、謝らずにはいられない。そう思ったエリックであったが、アルディスはエリックを静止し、少し悩んだ後に翡翠の瞳を真っ直ぐにこちらに向けてきた。

 

 

「……。父上は……イツキ前皇帝は、自害したんだ」

 

 

 一体、何を。

 そう問いかけるエリックの声は、音にならなかった。代わりに口を開いたのは、意外にもポプリだった。アルディスかディアナに、事情を聞いていたのだろう。

 

「どういうこと? ノア」

 

「どうやら、ゼノビア女王より父上に関しては生け捕りにする指令が、出ていたらしいのです……当時は、ラドクリフに連れ帰り、晒し者にするつもりなのだろうと……そう、思っていました」

 

「そう、よね……普通は、そう思――ッ」

 

 ポプリが何かに気付いたらしく、顔を真っ青にしている。エリックも彼女らが考えていることに追い付くべく、思考を巡らせ始めた。

 

 皇帝、即ち敵将を生け捕りにする等という話は聞いたことがない。

 一体何のつもりで、ゼノビアは皇帝イツキを生け捕りにせよと命じたのか――。

 

 頭を悩ませるエリックの脳裏に、ある会話が浮かんだ。

 

 

『本当だ、ルネリアルはゼノビアお義母様の若い頃に良く似てる! それに、スウェーラルも大きくなったアルディスだね』

 

『大きくなった俺って表現やめてよマルーシャ……だけど、変だな。俺、髪色以外は完全に父上似なんだけど……』

 

 

「あ……」

 

 気付いてしまったことを、思わず後悔してしまった。

 

「い……イツキ皇帝陛下って……アル以上に、スウェーラル似、だったんじゃ……」

 

 どうか否定して欲しい。そんな思いを胸に、エリックはアルディスへと視線を移す。だが、残酷にも彼は、おもむろに首を縦に振った。

 

「どういう遺伝子の悪戯か知らないけど、父上は髪色と目の色が違うだけ。顔立ちや体格は、スウェーラルそのものだった……多分、父上を生け捕りにできなかったから、俺なんだと思うよ」

 

 酷すぎる。アルディスは何ともないように振る舞ってくれているが、一歩間違えば国際問題である――フェルリオ帝国の、足元を見ているとでも言うのだろうか。

 

 否、そもそもきっとゼノビアは『スウェーラルのこと』以外何も考えていないのではないだろうか?

 

 

「と、とにかく、ルネリアルから早く出よう? アルディスも、その、辛いだろうし……」

 

 流石にマルーシャも黙っていられなかったらしく、エリックに出発を促してくる。久しぶりの故郷を楽しむ気分ではなくなってしまったのだろう。それは、エリックも同意見であったが。

 

「そうだな。私も、そうした方が良いと思う。ジャンの件もあるしな」

 

 当然ではあったが、ディアナも出発に同意した。しかし、彼女の場合はひとつ、妙な言葉が引っ付いていた。

 

「ん……? クリフォードの件?」

 

 そうエリックが問えば、「何も疑っていないのか」とでも言いたげな、怪訝そうな眼差しを向けられる。あまり、良い気のしないものであった。

 

「謁見の間に入ってすぐ、ジャンが倒れただろう? あなたの母を疑いたくはないが……」

 

「母上が、何かしたって言いたいのか?」

 

 つい、強気な態度で返してしまった。怖がらせてしまったのか、ディアナが微かに肩を震わせる。言い負かそうと思えば、言い負かすことはできそうだ。しかし、そんなことがしたいわけではない。どう返すべきかと悩むエリックの横から、ポプリとクリフォードが話しかけてきた。

 

「……。まあ、普通はそう考えるわよね。クリフの身体、軽く痙攣起こしてたし」

 

「すみません、エリック……その、謁見の間に入った途端、急に意識が……」

 

 彼女らも、少なからずゼノビアを疑っているらしい――ポプリに関しては、謁見の間でクリフォードが倒れた瞬間から疑い始めたと考えて良いだろう。

 

「い、いや、あれは……」

 

 確かに、状況を思えば疑うのも無理はない。それでもエリックはクリフォードが倒れた理由を知っている。だが、それを口にするのは少々憚られた。

 

「その、突然だが……クリフォード。精霊の使徒(エレミヤ)って、お前以外に誰かいるのか?」

 

 ゼノビアはエリックと二人きりになって初めて、自分が精霊の使徒(エレミヤ)であると告げてきた。つまり彼女が精霊の使徒であるということはあまり公表してはならないものなのだろう。そう思ったエリックは、違う視点からクリフォードに質問を投げかけた。

 

「ああ、いますよ。ただ、それが誰かという話はマクスウェル様に教わったわけではないので、『恐らくあの人だろう』という推測になりますが……その、悪いな。聞かれる前に言いますが、これを喋るわけにはいかないんだ」

 

「! そ、そうか……それだけで十分だ、ありがとう」

 

 精霊の使徒(エレミヤ)は、クリフォードだけではない。ならば、ゼノビアの話に矛盾点が生じることはない。

 

「……」

 

「ポプリ?」

 

 内心胸を撫で下ろすエリックを見つめ、ポプリがどこか不安そうに琥珀色の瞳を細めている。どうしたのかと問えば、ポプリは躊躇いがちに口を開いた。

 

「ひょっとして女王陛下って、クリフが精霊の使徒(エレミヤ)だって見抜いてる?」

 

「え……」

 

精霊の使徒(エレミヤ)だって見抜いたから、理由は分からないけれど、精霊の使徒がいると都合が悪いから。だから、クリフを気絶させたんじゃないの?」

 

 ゼノビアは、拒絶反応によってクリフォードは気絶してしまったのだと言っていた。自分が、精霊の使徒(エレミヤ)であるからそうなったのだと。今のところ、彼女の主張に矛盾は発生していない。それなのに、ポプリは一体何を言っているのだろうか?

 

 

「いくらなんでも、失礼じゃないか?」

 

「ッ!?」

 

 思わず、エリックは凍りつくような冷たい言葉と視線をポプリに投げかけていた。

 ポプリの発言はこの国の女王に対する最悪の発言であるし、それに対し苦言を漏らしたのは王子であるエリックだ。流石にこれにはポプリも怯えてしまったらしい。彼女は小さく「ごめんなさい」と呟き、縮こまってしまった。

 

「ああ、いや……分かれば良い。僕も言いすぎた、気にするな」

 

 場の空気が必要以上に重くなってしまったのを感じ、エリックは凍りついていた顔に笑みを貼り付ける。そんな時、マルーシャが「あっ!」と声を上げて両手を叩いた。

 

 

「出発するのは良いんだけど、大事なこと忘れてた。エリック、次はどこに行くの?」

 

 話題を変えて空気を変えようとしてくれているらしい。しかも、この状況からかけ離れていないちゃんとした話題だ。彼女の機転の良さに感謝しつつ、エリックは苦笑しつつ口を開いた。その手には、大きな鍵が握られている。

 

「僕らが壊した船を回収しに行く。行き先はシャーベルグだ」

 

「あ……」

 

 破壊した船。その存在が頭から抜け落ちていたのだろう。仲間達は何とも言えない表情を浮かべて、エリックの持つ鍵を見つめていた。

 

「別に損害賠償とか、そういう話にはなっていない。修復して使えるようにしてくれてるらしいから、それに乗ってカプリス大陸に行こう」

 

 シャーベルグ、と言えばクリフォードが嫌がるのではないかと不安だったのだが、意外にも彼は何の反応も見せなかった。その代わりに、ディアナとポプリが自身の髪を触りながらぼやいている。

 

「じゃあ、ラファリナ湿原を通っていくわけか。髪がうねる……」

 

「分かる、分かるわ、ディアナ君……」

 

「はは……癖毛って、こういう時に嫌だよな……」

 

「ええ……」

 

 ディアナもポプリも、比較的癖のある髪質をしている。それを言われればエリックも癖毛気味なのだが、やはりそこは男女差なのだろう。相当嫌そうだ……彼女らが嫌がろうとも、その程度の理由なら強行する気なのだが。

 

「僕もお前らと一緒にうねるから我慢しろ。行くぞ」

 

「うぅ……」

 

 行くぞと言えば、ディアナが呻く。呻きながら髪を押さえるその仕草は妙に小動物めいていて、愛らしかった。そんな彼女の姿を見て、マルーシャが吹き出す。

 

「でぃ、ディアナ……! 可愛いなぁ……!」

 

「あ、あなたは良いよな!? そんな、真っ直ぐストレートの綺麗な髪で……! 私なんて、今は分かりにくいと思うが何とも言えない髪質してるんだぞ!?」

 

「いや、俺は癖毛も可愛いと思うけどな……」

 

「あ、アル!? あなた、いきなり何を言い出すんだ!?」

 

 突然漫才のような空気へと変化し、ギスギスした状況になることは幸いにも防ぐことができた。あの、フェルリオ行きの船での大喧嘩はもう懲り懲りだとエリックは安堵する。この調子なら、問題なくシャーベルグに行けるだろうと。

 

 ウィルナビス邸の人々に礼を言い、エリック達はルネリアルを後にする。

 アルディスの家で待機していたライオネルと合流し、彼らが向かう先はラドクリフが誇る大都市、シャーベルグだ。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.65 堕ちた侯爵家と仮初めの王子

 

「ここが……シャーベルグ……」

 

 ローティア平原、ラファリナ湿原を数日掛けて越え、エリック達は大都市シャーベルグへとやって来た。湿原からやってくる魔物対策なのだろう、レンガ造りの高い塀に囲まれたそこは、遠目から見ると巨大な建築物のように見えた。

 

「すごい……! すごい、何もかもが大きいぞ……!」

 

「そうだな。機嫌が治ったみたいで良かったよ」

 

 道中(特にラファリナ湿原で)、あまりの湿気に不機嫌になっていたディアナだったが、初めて踏み入れる大都市に目を輝かせている。そんな彼女の様子を微笑ましく眺めながらも、エリックは都市に近付くにつれて汚れていく空気を敏感に感じとっていた。

 

 

「瘴気がどうこうってわけじゃないよな。妙に呼吸が苦しくなるんだが……?」

 

 シャーベルグはオブリガード大陸と物理的に近い位置にある。しかし、この都市は精霊の加護を受けているとは思えない程に空気が澱んでいる。ノームの神殿とルネリアルのような関係は築けていないらしかった。首筋を抑え、深呼吸するエリックの傍で、クリフォードが小さく唸る。

 

「んー、精霊自体が極端に少ないようですね」

 

「つまり、精霊にとって暮らしにくい都市ってことか?」

 

「そう考えるのが早いな。恐らく、エリックの不調は体内精霊達の拒否反応から来ているのかと。あまり長居するとライの身体に障りそうです」

 

 そう言ってクリフォードはチラリとライオネルの顔色を伺う。つられてエリックもライオネルへと視線を移した。

 心なしか、彼の顔色が悪い。呼吸も少々苦しげだ。エリックの視線に気付いたのか、彼は困ったように笑い、肩を竦めてみせる。

 

「否定したいけど、無理だなこりゃ。マクスウェル様の加護が弱くなってる。ついでにイチハ兄も駄目だ。完全に意識やられてる。もはやただの鳥でしかないぞ」

 

「でしょうね……しかし、シャーベルグはここまで精霊が少ない都市だったか? 十四年間でここまで変わるのでしょうか?」

 

 塀の切れ目、唯一の出入り口である門に繋がるこれまた巨大な橋は、もう目の前だ。

 不思議そうに前方を眺めるクリフォードの表情は落ち着いており、これといって心配すべきものは無いように感じられる。密かにエリックは、彼の精神状態を心配していたのだ。

 

 

『クリフォード、無理なら無理で良いんだぞ。ディアナとポプリはまあ置いといて……お前に関しては、その……』

 

 ここに来るまでの間、エリックはクリフォードに対して「本当に大丈夫なのか」と探りを入れていた。

 シャーベルグはクリフォードの生まれ故郷であり、彼の精神に致命的な傷を残した場所でもある。だからこそ、この地に来ても大丈夫なのかどうかが酷く気になったのだ。

 

『ありがとうございます。でも多分、僕が駄目なのはトゥリモラだけだ。シャーベルグに関しては、本当に何とも思っていないんです……家から、一度も出たことが無かったので。街並みを見るだけで錯乱はしないさ』

 

 しかし、彼はあまりにもこの地で「生きた」という記憶が無かった。だから大丈夫なのだと、彼は笑ってみせた。

 家から出たことが無いのに、街並みだけで恐怖を抱く程に、自分は堕ちてはいない――それは彼がヴァイスハイトであったが故の、虐待されて育ったが故の、皮肉な幸運だった。

 

 

 そのまま、エリック達は街の内部へと足を進めていく。橋を渡り、門を抜けた先にあったのは、ルネリアルやディミヌエンドのような統一性は無いものの、賑やかに立ち並ぶ数々の建築物。古今を問わない多く建築様式が一斉に集ったようなこの空間は非常に面白く、興味をそそられるものであった。

 

 しかし、この地の最大の特徴はそこではなく、街自体が階層に分かれていることだろう。大きく分けて下層・中層・上層と三つの階層に分かれており、縦に伸びたような街並みだ。巨大な塔を思わせるような作りのこの街では、あちこちで昇降機が作動している。

 文明の進歩を感じさせる街並みとは対照的に、自然物はルネリアルと比較すると全くと言って良い程に無く、全体的に無機質で人工的な印象を与える都市であった。不思議な場所であるが、その不思議さと間違いなく存在する利便さゆえに多くの人々が訪れるのも納得できる。

 

「……悪い、エリック。造船場着いたら、オレは抜ける。この状態であちこち移動するのは、流石にきっつい……」

 

「ああ、分かった。何か買ってきて欲しいものがあったら、言ってくれ」

 

 しかし、利便さを追求することによって、人々は精霊達への配慮を忘れてしまったのだろう――精霊達の加護が受けられないせいか、ライオネルは笑ってこそいるが、冷や汗を流しながら胸元を押さえている。イチハは精神汚染が進んでいるようであるし、相当なものなのだろう。

 

「……エリック」

 

 この地が肉体的に辛いと感じるのは彼らだけでは無かったようで、どこか弱々しいアルディスの声が聞こえてきた。

 

「精霊の加護って、大事だね……俺も、造船場着いたら、離れても良い? ごめん……」

 

「いやいや、むしろその方が良い。アルは目立つのも良くないだろうし、お前も何か買うものあったら言ってくれ」

 

 ここに来るまでの戦闘で疲れが出てきたのか、呪いの影響なのかは分からないが、アルディスが少々ふらついている。彼も早いところ休ませた方が良さそうだ。そう言うエリック自身も、決して無理はできそうにない状態であったが。

 

 ひとまず造船場を目指そうと、昇降機には乗らずに下層エリアの奥へと向かう。造船上は住宅街を経由した先にある。進めば進む程に、少しずつ人の姿が増えていく――そして、ある問題に気付いてしまった。

 

 

「すみません、僕も彼らと一緒に退場した方が良さそうですね……」

 

「ははは……何なんだ、これ……」

 

 ひそひそと、こちらを見ながら人々が話をしている。その視線の先は王子であるエリックや容姿の目立つアルディスやディアナではなく、クリフォードだった。彼だけが、妙に悪目立ちしてしまっている。

 彼は別に開眼もしていないし、風貌だけを見ればただ目を閉じているだけの普通の人間だ。彼がヴァイスハイトであるということを、見抜ける人間はまずここにはいないだろう。

 では、何故このようなことになっているのか。エリックは強烈な既視感を覚えながら、頭痛を耐えるように頭を押さえた。

 

「悪いが、それで頼む。生まれ故郷を見て回りたかったかもしれないが、今はちょっとやめた方が良い……そうだよな、マルーシャの父親はお前の容姿でジェラルディーンの次男って見抜いたもんな……」

 

「ああ、あの場所でも見抜かれたんですね……いや、別に街並み見たかったわけではないのですが……もう、本当に……母の遺伝子が怖いんですけど……」

 

 

――母、というよりは大体全部ダリウスのせいだ。

 

 

 ダリウス、もとい黒衣の龍副団長ダークネスは現在指名手配中である。そういう意味で視線を集めてしまうのもあるだろうし、クレールのようにジェラルディーン嫡男時代のダリウスを知る者ならば、クリフォードの容姿を見て色々引っかかるものがあってもおかしくはない。

 優性遺伝らしく、ラドクリフ王国でもそこまで希少ではない空色髪だが、ここシャーベルグでは酷く悪目立ちしてしまうようだ。せめて、クリフォードとダリウスの容姿が似ていなければ良かったのだろうが……。

 

「その、あたしは前科あるからこそ、言うんだけど……似てるのよ、ねぇ。多分、どっちかを見慣れてないと、一緒に見えると思うの……ダリウスは普段目元隠してるし、今のクリフの状態が素顔って思われてるのかも……」

 

「あはは……困ったな。あまり気にしていなかったのですが、僕も容姿を隠して生活した方が良いのかもしれませんね……覆面でも買ってこようか」

 

「覆面は尚更目立つだろやめてくれ……とりあえず造船場に行こうか。ディアナは街が見たいだろうから連れていくとして、アルとクリフォードとライオネルは待機だ。どのみち買い出しはしとくべきだから買い出しだけさっさとしてくる。船ができてなければ時間潰してくる。これで良いな?」

 

 これで変な行動を起こせば、一発で騒ぎになってしまう。それだけは色んな意味で避けたい……エリック達は人々の視線に耐えつつ、そそくさと早歩きで造船場へと向かっていった。

 

 

 

 

 造船場には、エリック達がかつて破壊してしまった船が一回り小さくなってしまった状態で停まっていた。修復まであと何日も掛かると言われてしまったらどうしようかと思っていたのだが、幸いにも半日もすれば動くようになるらしい。

 その間に買い出しを済ませようという話になり、予定通り、エリック、マルーシャ、ディアナ、ポプリの四人で買い出しを行い、残りの三名がここで待機という形になった。

 

 エリック達は造船場を出て、商店街があるという中層エリアへと向かった。近くにあった昇降機に乗り、流れていく風景を楽しむ。造船場を持っていることもあり、この街は海や川に囲まれた作りになっている。賑やかな街並みを眺めるのも悪くないが、陽光に照らされてキラキラと輝く水面もとても美しい。

 

(……あれ?)

 

 綺麗な風景を見てほっと息を吐くエリックであったが、昇降機が中層エリアで止まらなかったことに気付いてしまった。これは風景を眺めている場合ではないと、慌ててポプリに視線を移す。

 

「……。乗る昇降機を間違えたみたいね。これ、多分上層エリア直通の昇降機だわ」

 

 あーあ、とポプリは苦笑して小さくなっていく下層エリアの街並みを眺めた。かなり高いところまで上がってきているらしい。マルーシャも「あはは」と乾いた笑い声を上げている。

 

「ごめんね、わたしが気付けば良かったんだけど……上層エリアから降りるの面倒くさいんだよね。上層エリアって貴族街だからか、そもそも昇降機が少ないから……」

 

「これにそのまま乗って降りられないのか?」

 

「これは昇り専用だから無理かな。昇降機って名前だけどね」

 

 マルーシャの話によると、上層エリアを繋ぐ昇降機は昇るか降りるかのどちらかしか出来ないものばかりなのだという。それはもはや『昇降機』では無いだろうと言いたくなったが、ここで暮らしている貴族達が急な襲撃に合わないように、行き来が面倒臭い作りになっているらしい。

 

「も、勿論チェンバレンってここに住んでるんだよな?」

 

「うん、そうだね……貴族街だし、貴族はみんな上層エリアに住んでるかなぁ……ここは旧ジェラルディーン領だけど、実質チェンバレン領みたいな感じだし……」

 

「……というより、今となっては全域チェンバレン領みたいなものなんだろ? 分かった、あまり目立たないように気を付けながら進もう」

 

 これはさっさと上層エリアを抜けるべきだ。でなければ少なくともディアナ以外の面々にとって面倒なことになりそうだ。ディアナもディアナで面倒なことに巻き込まれない保証は全くない。うっかりチャッピーから転落するようなことがあれば大惨事だ。

 

(ただ、綺麗な場所ではあるんだよなぁ……)

 

 青々と広がる空の真下に広がるのは、下層エリアには全くなかった自然。それらは人工的に植えられた街路樹や花壇、芝生のみではあるものの、それでもあるのと無いのとでは全く雰囲気が違う。立ち並ぶ屋敷はどれも白く輝く石を主体に使っており、どことなくラドクリフ城に近いものを感じられた。案外、立ち並ぶ屋敷は全て国のシンボルとも言える城とデザインを合わせているのかもしれない。

 淡い灰色の敷石が描く道筋から少し逸れた場所には、しっかりと均等に整えられた街路樹の葉と、辺り一面に広がる芝生。一定の法則に従って植えられたカラフルな花々。そして所々に浅い水路が張り巡らされている。水路には一切の濁りが無い、無色透明な水が流れていた。

 

 確かに自然に囲まれた空間ではあるのだが、ここはルーンラシスのようなほっと息を吐けるような場所ではなく、まっさらなキャンバスの上に描かれた、見事な芸術作品を思わせるような場所であった。

 仮に死後の世界、『天界』というものがあるのならこのような場所だろうかと考えていたエリックの目が、ある屋敷を捉えた。

 

「ん……?」

 

 そこは周囲にある建物と比較すると、妙に規模が大きな屋敷だった。しかし手入れが行き届いていないのか白塗りの壁は薄汚れて枯れかけた緑の蔦を纏い、所々にひびが入ってしまっている。屋敷周囲に植えられた木々は好き放題に枝を伸ばしており、花壇には花という存在がない――統制された上層エリアの中で、明らかに異様で、浮いた存在の屋敷だった。

 

「なあ、マルーシャ。ここ、旧ジェラルディーン領って言ったよな?」

 

「うん……ここ、ジェラルディーンのお屋敷だね」

 

「やっぱり、そうか……」

 

 ここは、ジェラルディーン侯爵家の屋敷だった。かつては壮観で美しかっただろう建物が劣化しきった様を眺めていると、何とも言えない思いが込み上げてきた。

 

「……」

 

 おもむろにエリックは屋敷に向かって頭を下げ、踵を返す。過去は、変えられない。変に考え込んでしまう前に、早くこの場を離れようと思ったのだ。

 

 

「おやおや、これはこれは……」

 

「……ッ」

 

 しかし、そういう訳にはいかなかったらしい。目の前に現れた中年男性は、ニタニタと笑いながらマルーシャとポプリを交互に見ている。

 

「揃いも揃って、墓参り、ですか? いやぁ、感心感心」

 

 茶髪に赤い目をした、色黒肌でかなり長身の男性。ちらちらと覗く歯は尖っており、エリックと同じ純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)であることが伺える。男の名を知っているエリックは何か言いたげなマルーシャ達の前に出、口を開いた。

 

「お久しぶりです、チェンバレン卿。まさか、こんなところでお会いするなんて……私も運が良い。お元気でしたか?」

 

 社交辞令とはまさにこのことだ。にこやかに微笑みながら、エリックは男――チェンバレン子爵家当主、ドゥーガル=チェンバレンの元へと歩み寄る。何とか自分にだけ注意を向けさせようと思ったのだが、ドゥーガルはそう甘い男ではなかった。

 

「ええ、お陰様で。ところでアベル殿下、あなたと一緒にいる娘のことなのですが……ああ、ウィルナビスの小娘ではなく、そこの桜色の髪の方です」

 

「ッ!」

 

 本当に、エリック以外はどうでも良いとでも言いたげな口振りだった。ドゥーガルの言葉にマルーシャとポプリが揃って萎縮してしまったのを感じ取り、エリックは笑みを絶やさぬように気を付けつつ、わざとらしく肩を竦めてみせた。

 

「チェンバレン卿……少々、言葉遣いが荒いようですが、何か気に障ることでも?」

 

「いえ、あなた様に対しては全く? ただ、そこの娘……クロードの一人娘に対して、色々と聞きたいことがありまして、ねぇ?」

 

 嫌味な笑みを向けられ、カチンと来たのだろう。ポプリは無表情のまま、静かに口を開いた。

 

「……。何でしょうか?」

 

「返事をした……ということは本当に“ポプリお嬢様”なのですね。いやはや、まさか本当に自身の領土を離れて旅をしてらっしゃるとは、驚きましたよ」

 

「ええ、そうです。今は、アベル殿下と共に旅をしております。それが何か?」

 

 ポプリはあくまでも冷静に、淡々と言葉を返す。ただ、彼女の表情は変わらない。余程ドゥーガルの態度にイライラしているのだろう。無論、その気持ちはただ様子を見ているだけのエリックにも分かるのだが。

 

「いやぁ、特に何も言うことはございません。ただ、あれだけ寂れた故郷を放り出すなんて、私にはとてもとてもできませんなぁと」

 

「ああ……なるほど。まあ、そのように思われても仕方ないでしょうね」

 

「故郷で、復興作業に励もうとは思わなかったのですか?」

 

「ペルストラには、わたくし以外にも大勢の人々がいます……だから、わたくしは社会勉強を優先した。ただ、それだけです。冷たい領主だと思ってくださっても結構です」

 

 まるで人形のように、ポプリの表情が変わらない。苛立ちを隠すために、感情を押し殺しているのかもしれない。いつもとは違う彼女の様子に驚きつつも、エリックは二人の様子を見守り続ける。

 クレールは「チェンバレンがペルストラの統治権を得ようとしている」と言っていた。そして恐らくポプリは、そのことを知っている。だからこそ、相手に自分の感情を読ませないような態度を取っているのだろう。

 わざとポプリを怒らせて情報を引き出そうと考えていたのか、相手の一貫した態度を見たドゥーガルはやれやれと肩を竦めて赤い目を細めてみせた。

 

「まあ、ポプリお嬢様の件は良いでしょう……それにしても、イリスお嬢様はいつ見てもお美しい……お美しいのですが、恐ろしい程にご両親とは違う顔立ちですねぇ……」

 

「……ッ!」

 

 ポプリを問い詰めるのを諦めたのか、ドゥーガルはマルーシャへと視線を移す。完全に“格下”だと考えているのだろう。彼の顔からは、歪な微笑がそげ落ちていた。

 

「アベル殿下も、不思議だと思われないのですか? あまりにも、似ていない娘……奇妙だとは、気味が悪いとは、思われませんか?」

 

「な……っ!」

 

 エリックはドゥーガルと面識が無いわけではなかったし、それなりに会話をしたこともあった。しかし、ここまで突っ込んだことを聞かれるのは初めてだ――酷くチェンバレン家を拒絶していた辺り、マルーシャは彼や彼の家族とよく話しているのだろうが。

 

「そう、ですね……私は特に、気にしてはいませんよ。むしろ、彼女のような聡明で麗しい人物と婚約関係にあることを誇りに思っております」

 

 突然の問いに驚きつつも、エリックは頭を振るい、再び微笑みを浮かべてみせる。両の拳は強く握り締められ、爪が手のひらに食い込んでいた。

 

「ですので……そういうの、やめて頂けませんか? 正直、とても不愉快です」

 

「! え、エリック……!?」

 

 ちゃんと笑えているか、自信が無い。軽く小首を傾げてみせれば、ドゥーガルは一歩後ろに下がってしまった……多分、笑えてないなとエリックは気付いてしまったが、この際どうでも良いことにする。

 信じられないとでも言いたげにマルーシャが顔を見上げてくるので、エリックは黙って彼女の頭を撫でた。これで引き下がってくれれば良い。そう思ってエリックはドゥーガルへと視線を移す。

 

「いや、しかしですね……アベル殿下。イリスお嬢様の容姿は、到底ありえないようなものであって……」

 

 しかし、困ったことに彼には引く気がないらしい。チャッピーの手綱を握り締め、ローブを目深に被ったディアナが震えている。相当怒っているようだが、彼女が口を出せば非常に面倒臭いことになってしまう。それを理解しているのだろう……が、このままだと時間の問題かもしれない。

 

「あのですね、チェンバレン卿……」

 

 ここは強めに出て、さっさと退けてしまった方が良いだろう。そう思ったエリックの視界に白いローブを身に纏う人物が現れた。

 

 

(……?)

 

 エリックと同じくらいの身長であることを考えれば、恐らく男性だろう。

 魔術師のように見えるその男の顔は、ローブと一体化したフードに隠れて全く見えない。少なくとも、ここに住む貴族では無さそうだ。一体どこに隠れていたのか、男はドゥーガルから少し離れた場所で立ち止まり、躊躇うことなく口を開いた。

 

「不毛な話だ。お前がどう思おうが、最終的にウィルナビス嬢が選ばれたという事実には関係ないだろう? 何の問題がある?」

 

 聞き覚えのある落ち着いた声が、静かな空間に響き、ドゥーガルは慌てて背後を振り返る。

 すると男は顔を隠すフードを下ろすと共に、ローブの中に手を入れて隠していた髪を豪快に外に出した。

 

「ッ!?」

 

「……き、貴様……ッ!!」

 

 フードの下から現れたのは、色白の肌を際立たせる漆黒の長い髪。切れ長の銀の瞳で目の前のドゥーガルを蔑むように見た後、男――ゾディートはエリックへと視線を移した。

 

「あ、兄、上……?」

 

「アベル、お前も大変だな。コレ相手に強く出ると、お前の立場だと後々面倒なのだろう?」

 

「え!? ええ、と……ですねぇ……?」

 

 全くもってその通りなのだが、そういう問題ではない……助かりは、したのだが。

 突然の兄の登場に固まってしまったのはエリックだけではない。怒りを隠しきれていなかったディアナとポプリ、そして何も言い返せずにいたマルーシャもぽかんとした表情をしている。

 

「ふん、そうか。貴様も“選ばれなかった側”の人間だからな! どうだ? 弟に王位継承権を奪われた気持ちは? 情けないとは思わんか?」

 

 ゾディートが王位継承権を持たない王子であること、加えて指名手配中の身であるためか、ドゥーガルはかなり強気な態度を見せている。

 だが、彼の問いにはエリックも引っかかるものがあった。「弟には与えられた王位継承権が自分には無いこと」を彼自身は一体どのように考えているのか。今までずっと、気にはなっていたのだが、当事者である以上、聞くことが出来なかったことだ。

 あまり良くない考えであることは分かっているが、ドゥーガルがこれを聞いてくれて良かったと思う。ゾディートの解答次第では、エリック自身の今後の立ち振る舞い方も考えなくてはならない。

 

「……?」

 

 ドゥーガルの問いに激昂するのではないかと思っていたのだが、杞憂だった。ゾディートは何故か拍子抜けしたような表情でドゥーガルを見つめている。そして……。

 

 

「愚問だな……普通、私のような者を選ばないだろう? 当然の結果だ。何とも思わん……まさかお前なら、私を選ぶというのか? それこそ、奇妙で気味が悪く、ありえない決定だろう?」

 

「は? 兄上……?」

 

 

――こんなことを、平然と言い放った。

 

 

「……」

 

 ゾディートは思わず声を出してしまったエリックをそれこそありえないようなものを見るような目で見た後、再びドゥーガルへと視線を戻す。一方のドゥーガルはこんなことを言い返されるとは思っていなかったのだろう。わなわなと悔しそうに震え、奥歯を噛み締めている。

 

「そうか……なるほどな。本当に貴様は、“捨て犬”だったのだな……その恩を忘れ、“飼い主”を噛み殺したというのか……ヒース家の恥さらしめ。前王も貴様を拾ったことを公開しているに違いない!」

 

(な……っ!?)

 

 “捨て犬”、“飼い主”――これらの言葉が、何を示しているのかを察せない程、エリックは愚かではない。

 前王の旧名は、ヴィンセント=ヒースだ。つまり、ゾディートは元々ヒース家の人間だった、ということになる。それどころか、ドゥーガルの言い方からすれば……。

 

「ふふふ、どうだ? 何か言ってみろ」

 

 相手を怒らせ、言質を取る。それがドゥーガルの立ち回り方なのだろう。本当に陰湿で、嫌気がさすやり方だ。だが、その挑発に軽々しく乗る程、ゾディートは短気では無かった。

 

「……だから?」

 

 軽く首を傾げ、腕を組んだ状態でゾディートはドゥーガルに問いかける。怒り狂う気配等、微塵も無い。

 

「何が『だから?』だ。否定も弁解もせんのか?」

 

「否定も弁解も面倒だ。お前ごときに労力を使う必要は無いと判断した……それとも、何か言って欲しかったか?」

 

「ち……っ、時間の無駄だ! 貴様なんぞ、さっさと女王陛下に突き出すべきだったな。衛兵を呼んでやる!!」

 

 一切変わらないゾディートの態度。勝ち目が無いと判断したらしいドゥーガルは、目の前のゾディートを突き飛ばすようにして走り去っていく。衝撃で若干ふらつきこそしたが、その場に踏みとどまったゾディートはやれやれと肩を竦め、ジェラルディーンの屋敷を見上げた。

 

 

「……。アレは本当に衛兵を呼ぶな。このままここにいると捕まる。さっさと移動したいが……」

 

「あ……もしかして、ダリウスも一緒なのですか?」

 

「ああ。私達は本当に“墓参り”をしに来たからな。知っているようだから話すが、当事者が不在というのもなかなかおかしな話だろう? まあ、連れてきたのは、初めてだが……」

 

 意外にも、ゾディートはエリックの問いに素直に答えてくれる。しかも、その表情はどこか柔らかなものだった――ここ数年、見たことのない人間味を帯びた表情だ。

 

 何を思ったか詳細を語ってくれたゾディートの話によると、ジェラルディーン夫妻の墓は屋敷の中央にある中庭に作られているのだという。

 妻のシェリルは純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)ゆえに表に出せない存在であったし、彼女を心から愛していた夫のディヴィッドの墓を離す気にはなれず、夫妻共に屋敷内に墓を作ったそうだ。

 チェンバレン家や他の貴族達に屋敷を取り壊されないようにと、ゾディートは定期的にここにやって来ていたそうだ。要は勝手な行動を起こされないように、圧力を掛けていたのだろう。

 

 どうやら当事者であるダリウスとは別行動を取っているようなのだが、姿が見えない。この様子を見る限り、屋敷から出てこなくなってしまったのだろう。

 

「……まだ、早かっただろうか」

 

 ダリウスの境遇を考えれば無理もないが、屋敷を見つめるゾディートの瞳は、どこか不安げだった。本気で心配しているのだろう。

 

「兄上、少し見ない間に、随分と、その……表情が……」

 

「豊かになった、とでも言いたいのか? 単純にお前と一緒にいなかっただけだろう……豊かになったこと自体を否定はしないが……それより」

 

 屋敷から視線を外し、ゾディートはエリックを見る。その表情から、何やら「呆れられている」らしいことが伺えた。

 

 

「アベル、まさかとは思うが……お前は本気で、私を血の繋がった兄だと思っていたのか?」

 

「うっ、えぇっ!?」

 

 

 投げかけられた質問に動転し、エリックは後ろに控えている仲間達へと視線を移す。困ったことに、彼女らもゾディートと全く同じような表情をしていた。

 

「……いや、その……失礼ながら、どう見ても種族から違うだろう……? 黒髪って、暗舞(ピオナージ)特有のものじゃないか……」

 

「そもそもエリック君の両親って金髪赤目よね? 仮に完全に兄弟だとしたら、一体どこから黒髪銀目の遺伝子を引っ張ってきたのよ……」

 

「流石にわたしも、連れ子さんだろうなぁ……くらいには思ってたんだけど……」

 

 どうやら完全にゾディートを“兄”だと思っていたのはエリックだけだったらしい。疑ったことが一度も無いとは言わないが、ゾディートの容姿は遺伝子の奇跡か何かだろうと、そう思っていたのだ……王子という立場上仕方がないが、色々ありすぎて考えるのが嫌になり、思考停止していたことは確かだが。

 だからといってまさか、面と向かって「兄弟ではない」と言われたに等しい展開になると、誰が予想したか。

 

「その……」

 

 何も言えなくなって、ただ狼狽えるだけになってしまったエリックを見て、ゾディートは額を押さえながら深く、本当に深く、ため息を吐いた。

 

「……。この、たわけ」

 

 たった五文字の、短い言葉。そこに込められた複雑な思いを感じ取ってしまえば、もう何も言えなくなってしまった。どうにか話を変えたいと思っていた、そんな時、屋敷の扉がゆっくりと開いた。

 

 ダリウスだ。彼も薄紫色のローブと黒のロングコートといった具合にゾディート同様普段と全く違う格好をしているが、フードで顔を隠していなかったために、すぐ分かった。

 

「……」

 

(ダリ、ウス……?)

 

 落ち込んでしまっているのか、その表情は酷く陰鬱なものであった。目は虚ろで、何故か額からは血を流している。何かに強く打ち付けたような傷だった。

 

「ダリウス、すまないが恐らく衛兵を呼ばれた。場所を移動するぞ」

 

 ゾディートがダリウスに声を掛ければ、ダリウスは顔を上げて頷き、彼の傍へと駆け寄った。エリック達の存在に気付いた様子ではあったものの、彼は何も言わなかった――否、言える精神状態ではなかったのだろう。

 

「承知しました……お待たせしてしまい、申し訳ありません」

 

「……気にするな。それよりお前、また……」

 

 近くにやって来たダリウスの額を見て、ゾディートは僅かに顔をしかめる。だが、特に多くのことは聞かず、彼は自身の胸元に手を当てて魔力を高め始めた。

 

「小さき者、瞬きの円輪を描かん――ピクシーサークル」

 

 ゾディートが素早く詠唱を終えると共に、淡い緑色の円輪がダリウスを中心に展開され、額の傷を癒す。ゾディートは懐からハンカチを取り出し、彼の頬を伝う血を拭った。

 

「殿下……」

 

「まだ、これくらいなら普通に使えるな……良い実験になった。礼を言おうか」

 

 ダリウスが、一体どんな表情をしていたのか。それは、ゾディートが被せたフードによって遮られ、窺うことは叶わなかった。少なくとも、今のダリウスが本調子では無いことは確かだ。エリック達の前で虚勢を張るだけの気力も無い彼がドゥーガルと対峙していたら、一方的に言い負かされてしまった可能性もある。彼が屋敷からすぐに出てこられない状態になっていたのは、不幸中の幸いだったとも言えるだろう。

 ゾディートは黙ってダリウスの背を押し、先に行くようにと促す。彼が歩き出したのを見て、ゾディートはエリックへと視線を戻した。

 

 

「アベル……これだけは教えておこうか」

 

 風が吹き、ゾディートの黒髪が白いローブの上を流れる。彼は一息吐いた後、どこか憂いを帯びた表情を浮かべ、語り始めた。

 

「私はヒース家の前に捨てられていたところを父に拾われ、養子となった人間。ドゥーガルの言うように、捨て犬と変わらん存在だ……父が王家に入った際、名を変えて共に王家に入り、“公表はしていなかったが実は存在していた”第一王子、という立場になった……だが、当然ながら王族の血は引いていないから継承権は無い。そもそも、奴らは私を監視するために近場に置いておきたかっただけなのだろう」

 

「え……」

 

「無理もない話だが、女王は私を好いていない。当時は私だけ放り出されるかと思ったが、そうはならなかった。というより……いや、これは言わない方が良い、か」

 

 驚くエリック達に向かって、ゾディートはふっと笑みを浮かべてみせる。久々に見る、兄の笑顔だった――しかし、何も嬉しくなかった。その笑顔は決して、明るいものではなかったからだろう。

 

「そこの純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)の娘が言うように、私の髪は暗舞(ピオナージ)特有の黒髪。さらに肌の色を考えればダリウスやクリフォードと同じ、限りなく鳳凰族(キルヒェニア)寄りの体質なのだろう……だが、正直なところ詳しいことは全く分からん。黒髪だから暗舞の子かと思えば、目覚めた能力はそうとは思えない妙な物だった。だから、私は案外まともな生まれ方をしていないのかもしれない。人の子では無い、と言われても驚かない自信がある」

 

 白いローブをまとっているせいなのか、兄は恐ろしい程に、息を呑む程に、美しくも儚い存在であるように感じられた。

 兄の、氷のような銀の眼差しはエリックを真っ直ぐに捉えている。

 

「そんな私を、兄と慕う愚弟よ……忠告しておく。少しは、人を疑え。そうでなければ、心が壊れるぞ」

 

 すっと、背を冷たいもので撫でられるような感覚がした。固まってしまったエリックの横を、ゾディートが通り過ぎて行く。

 

「恐らく、次に会う時は敵同士。その時は、私を殺すつもりで来い」

 

「……あっ、兄上……!」

 

 その横顔が、兄が、何故か今にも消えてしまいそうに感じられ、エリックは思わず手を伸ばした。咄嗟に掴んだのは、兄の手首だった。

 

「ッ!?」

 

 元々、兄は女性と大差無いのではないかと思う程に華奢な体格の持ち主だった。恐らく単純な筋力ではエリックの方が圧倒的に上だろう。

 しかし、たった今掴んだ、普段は衣服に隠れている手首はやけに――それこそ、病的なものを感じる程に、細かった。

 

「……ッ!」

 

「あ……」

 

 驚くエリックの手を振り解き、ゾディートは何も言わずに立ち去っていく。その背を追いかけようとしたが、両足が地面に縫い付けられたかのように、動かない。たらりと、頬を冷や汗が伝っていく。ドクドクと、心臓が煩く脈打っている。

 

「エリック……?」

 

 余程酷い顔をしていたのか、マルーシャが心配そうにエリックの顔を覗き込む。彼女の顔を見て、エリックはハッとして深く息を吐き出した。胸元の服を強く握り、ゆるゆると首を横に振るう。違う、気のせいだと、自分に言い聞かせるように。

 

 

『アベル……これだけは教えておこうか』

 

『そんな私を、兄と慕う愚弟よ……忠告しておく。少しは、人を疑え。そうでなければ、心が壊れるぞ』

 

『恐らく、次に会う時は敵同士。その時は、私を殺すつもりで来い』

 

 

 兄が言い残した言葉。向けてきた表情。白い衣を身に纏う、儚き兄の姿は。

 

(まるで、遺言……みたいじゃないか……)

 

 

――これが『最期』だと、言わんばかりのものであった。

 

 

 

―――― To be continued.

 




 
ゾディート(お忍び服)

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ダリウス(お忍び服)

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(絵:長次郎様)


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Tune.66 航海の先に待つもの

 

 シャーベルグでの買い出しを終え、エリック達は修理された船の中を探索していた――笑えるくらいに、狭い船だった。

 

「……探索、終わったな……」

 

 確かに遠目で見ても船が小さくなったことは分かっていたのだが、修理のために船を取り囲んでいた設備や機材が外され、実際に乗船してみてそんなものではないと初めて分かったのだ。この船は今や、「少し小さくなった」程度の可愛らしい状況ではないのだと。

 

(ここまで酷いとは……本当よく沈まなかったな、これ……!!)

 

 流石のゼノビアも「いくらでも金を使え」とは言えなかったらしい――使われるのは国家予算であるため、それで良かったのだが――少ない予算の中で何とか操行可能な状態に持っていったところ、操舵室やボイラー室といった最低限のものしか存在しないこぢんまりとした船が誕生したそうだ。「客室は二部屋が限界でした」と謝る修理工を宥めるのには本当に苦労した。

 元は貨物船だというのにもはや娯楽用のクルーザーレベルである。イチハを含めて八人で旅をするには丁度良いサイズなのだが、元々の姿を思えば何とも可哀想なことになってしまった。

 

「うん、まあ……あまり大き過ぎても困るし、な……」

 

 狭すぎる船の内部をさっさと探索し終え、エリックは操舵室へと向かった。綺麗に磨かれた重厚な扉を開けば、のんびりと舵輪に手を掛けたライオネルの姿があった。

 

 

「ん? どうした? 操縦ならオレに任せてくれよ、アルディスの傍にいてやらなくて良いのか?」

 

「いや、まあ……そうなんだが……クリフォード着いてるし、別に、僕いなくても良いかなって……」

 

 そう返せば、ライオネルは「それもそうか」と呟き、エリックの方を見て苦笑する。

 

「……嫌な思い出でもあるのか?」

 

「意識の無いアルと一週間向かい合ったことなら」

 

「あ、あー……確かに、それはキツいなぁ……」

 

 

 買い出しから戻ったエリック達を待っていたのは船だけではなかった。船が直ったという報告と共に、アルディスが倒れたという知らせを聞くこととなったのだ。

 幸いにもクリフォードを一緒に残していっていたために大事に至ることは無かったのだが、これは決して良い状況ではない。マクスウェルに命じられたこともあり、一刻も早くウンディーネとの契約を済ませるべきだろうと慌てて出港することとなったのだ。

 

「お前は大丈夫なのか?」

 

「オレか? オレはもう大丈夫だ。操舵室弄ってオレの部屋にさせてもらったし、ここにいる限りは万全体制でいれるから、安心してくれ」

 

「お、おう……」

 

 言われてみれば、この一室はライオネルの私物と思われるものがいくつも転がっており、操舵室兼彼の自室と化している……天井からハンモックがぶら下がっているのには、流石に苦笑してしまったが。

 

「目的地までどれくらいかかるんだ?」

 

「大体五日くらいだと思う。割とかかるな」

 

「そ、そんなに……ヴィーデ港までなら三日だったんだが……」

 

「海流やら海底火山やらの都合だな。ちょっと変なとこにあるから、大きく回り道しねぇと駄目なんだ」

 

 器用にも後ろを向いたまま舵輪を操作しつつ、ライオネルはエリックの顔を真っ直ぐに見つめてくる。そして彼は、眼鏡の下の赤紫色の瞳を細め、ふっと笑った。

 

 

「お前……あれか。不安になると、じっとしとけないタイプだろ」

 

「……。否定はしない」

 

「じゃあ肯定と取るぞ。どうした? 多分、何かあったんだよな? 悪ぃけど、何かあったならルネリアル辺りからまとめて話してくれねぇか? 話し聞くついでにマクスウェル様にご報告をしたいんだ」

 

 マクスウェルとライオネルは視覚と聴覚を共有しているそうなのだが、この場合当然『ライオネルがその場にいない』場合は情報がマクスウェルまで届かない。だから自分がいなかった時の話をして欲しいとライオネルは言い出したのだ。何ならマクスウェルに助言を求めることもできるから、と。

 

「……え、えーと……」

 

 そう言われ、エリックは頭を悩ませ始める。ゾディートの件はともかく、ゼノビアの件をどうしようかと考えたのだ。流石にライオネルもマクスウェルも、精霊の使徒(エレミヤ)が絡んでくる話には口を閉ざしてしまいそうだ。聞いたところで、無駄なのではないかと思うのだ。第一、彼女が精霊の使徒であるならば、報告自体不必要なものだろう。

 

「その……兄上に、『私はお前の兄ではない』って言われたんだ」

 

「は? あの人に? あのお人好しが服着て歩いてるような奴に? あの人が自分の弟本気で悩ませるようなこと言ったのか?」

 

「……。何か、色々気になる単語が出てきたな」

 

――何だ、『お人好しが服着て歩いてるような奴』って。

 

 言いたいことが分かったのか、ライオネルはくすくすと笑いつつ舵輪へと視線を戻した。別にエリックから視線を逸らしたかったわけではなく、近くに大岩が迫っており、大きく舵を切る必要があったためだろう。事実、彼は少し前方を確認した後、すぐにエリックの方へ向き直った。

 

「まあ、少なくとも二人は救命してるし、ディアナとも関係あるような感じだしな、兄上……それよりお前、あの二人とは面識あったんだな」

 

「よく来るんだよ。特にお前の兄貴の方は」

 

「……は?」

 

「詳しいことは口止めされてるから言わねぇぞ」

 

 ライオネルは振り返ることなく舵輪を回す。間違いなく操縦の経験など無いだろうに、安定した手さばきから彼の透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力の高さが伺えた。

 

 それにしても、兄のことだけでもここまで口が固いとなると、ゼノビアのことを聞き出すのはまず絶望的だろう。無理だな、とエリックは首を横に振るい、軽く肩を竦めてみせた。

 

「……それくらい、かな。今はとにかく、アルのことが気になる……アイツは大丈夫でも、他の奴に影響が出るって聞いてるし」

 

「そうだな。アルディスはむしろ、案外とあっさり何とかなるかもしれねぇ。何かのついでに治ったりするかもな。アイツじゃないの方も、あの妙な容姿見た感じ、多分大丈夫だろう……むしろオレは、お前が心配だ」

 

「妙な容姿? ……って、僕か? 何を言ってるんだ。僕は、全然……」

 

 話す必要はない、話す意味が無い。そう判断したエリックに投げかけられたのは、予想外の言葉だった。思わず変な笑みを浮かべてしまったエリックを振り返ったライオネルの表情は、ありえないものを見るかのように、微かに歪んでいた。

 

 

「お前、マクスウェル様と自分の容姿がそっくりなの見て、何も思わなかったのか?」

 

 

「え……?」

 

 マクスウェルと、自分の容姿。

 確かに、自分と彼は、恐ろしい程によく似ていた。ある意味血縁関係だからこうなったと、彼は言っていた。それで、納得したつもりだった。

 しかし、ライオネルはゆるゆると首を横に振るい、憐れむような眼差しをエリックに向けてきた。

 

「……。絶対クリフもイチハ兄も、マクスウェル様ご本人もこんなこと言わないから、オレが代わりに言う。オレは、吐き気がする程に気味が悪かったよ」

 

「そりゃ、ラドクリフの王子が親のような存在に似てたら、気味が悪いだろうさ」

 

「そうじゃねぇよ! そうじゃなくて……ああもう、上手く言えねぇ! とにかく、お前は悪くない。悪くないからこそ……気味が悪いんだ。お前が不憫で、仕方が無い……」

 

「どういうことだ……?」

 

 駄目元でそう問えば、ライオネルは視線を泳がせ、息を呑んだ。喋るべきか否か、悩んでいるのだろう。それは守秘義務故か、それとも、彼の意志によるものか。

 

「もう良い、無理に話さなくても大丈夫だ」

 

「いや、言っとくよ。手遅れにしたくないし、こんなのオレか、ポプリくらいしか言えねぇだろうから……エリック、こんなことを言うオレのことなんか、“嫌ってくれても良い”。だから、反発せずに真面目に聞け」

 

 嫌ってくれても良い。そう言い切ったライオネルの表情は、強気な彼にしては珍しく、どこか寂しげなものであった。

 

 

「……。お前、自分の母親を過信し過ぎるな。少なくとも、“お前が関わっていない”部分では、絶対に信用するな」

 

「ッ!?」

 

 そして紡がれた言葉は、心を読まれているのかと疑う程に、今のエリックに刺さるもの。動揺が隠せない様子を見てか、ライオネルは物悲しささえ感じられた瞳を伏せ、舵輪にもたれ掛かった。

 

「多分、多分、な。悪い奴じゃ無いんだ。少なくとも最初は間違いなく善人だった筈だ。ただただ純粋で、だからこそ、おかしくなっちまったんだろう……この先、お前が同じようにならないか、オレは不安だ。お前の母親……女王陛下は、優しい人、なんだろう?」

 

「……ああ」

 

「お前も優しい奴だよ。母親に似たんだろうな、その性格は。だから、不安なんだ……そういう奴の心が折れてしまった時、一体何が起こるのか……ってね」

 

 安心させようと思ったのか、ライオネルはふふ、と力無く笑ってみせる。きっと、これ以上のことを彼は話そうとしないだろう。だが、少なからずゼノビアと面識がある、もしくはゼノビアについて彼は何か知っているのだろう。

 

(ずっと、ルーンラシスにいるんだもんな。ひょっとしたら、クリフォードより色んなことを知っているのかもしれない)

 

 おかしくなってしまった、というのはあの異様なスウェーラルへの執着心のことだろうか。やはり、報告せずとも彼は、そしてマクスウェルはこの件を知っているに違いない。

 

「……ありがとう、ちゃんと、胸に刻んでおくよ」

 

 彼の忠告は決して、良いものではなかった。しかし真剣な彼の姿を思えば、こう返さずにはいられなかった。微笑み返したエリックを見て、安堵したのだろう。ライオネルは「おう」と短く言葉を発し、ニコリと笑ってみせた。

 

 

 

 

 かつて、一度は沈没しかけた船であったが、そんなことは感じさせない程順調に、船は海上を進んでいった。

 結局アルディスは丸二日間眠ったままであったものの、三日目には元気な姿を見せてくれた。彼の容態以外はこれといった問題も起こらず、むしろ良い休息期間となったように思われる。終始操舵室に篭もりきりのライオネルも、時々同能力者のクリフォードと操縦を変わって休息を挟み、無理のない航海を行うことができた――しかし五日後、緊急事態が発生した。

 

 

「……、う……」

 

 身体が痛む。それは何故かと薄目を開いて理由を察した。固い地面に寝転されていたせいだ。両腕は後ろ手に拘束されているようであったが、何とか身体を起こすことはできた。

 

「目が覚めましたか? エリック……」

 

「ッ、クリフォード!?」

 

 振り返れば、自分と同じように後ろ手に拘束された状態でクリフォードがぐったりと壁に身体をもたれさせている。見たところ外傷は無さそうだが、彼のトラウマを思えばこの状況は最悪だ。だが今のところ、彼は平常心を保てているようであった。

 

「無事です、大丈夫ですよ。僕を含め、全員無傷です……しかし、油断しました。すみません……まさか、こんなことになるなんて……」

 

 あれから、一体どれ程の時間が経過しただろうか――カプリス大陸に上陸しようとした瞬間、エリック達の意識が一斉に遠のいた。原因は、この大陸全域に張り巡らされていた結界だ。ここに住む聖者一族が外から訪れる者を排除するために生み出したものだろうとクリフォードは語る。

 

「二度目ですね。僕が余計なこと言って行き先を変えて、お前達に迷惑を掛けてしまうのは……言い訳をするつもりはありませんが、本当に気が付かなかったんです……申し訳ありません……!」

 

「いやいや、お前は悪くないって……第一、ライオネルが気付かなかった時点でマクスウェルの力も無効なんだろう? 凄まじい結界だな……」

 

 会話をしていたせいだろうか。傍に転がされていた他の者達が目を覚まし、身体を起こし始める。その様子を眺め、クリフォードは微かに顔を歪ませ、奥歯を噛み締めた。

 

「それに関しては同感です……不幸中の幸いは、皆揃って同じ牢に入れられたこと、でしょうか……」

 

 

 エリック達は今現在、カプリス大陸に来ている――しかし、彼らが今現在いるのは恐らく、聖者一族の街『レイバース』の中に位置する地下牢だ。

 

「えぇ……っ!? ろ、牢屋……!? え、ええと……どうしたら……!?」

 

「困ったわね……術が封じられてるわ。これじゃ牢を破壊して逃走ってわけにもいかないわね……」

 

「残念ながら、武器も取り上げられて、いますね……物理的突破も、厳しそうです……」

 

「どうしてポプリとアルは破壊前提で話を進めるんだ!? と、とにかく、どうにかしなければ……! できれば破壊以外で……!!」

 

 牢に放り込まれるという未だかつてない経験をした者、経験があるが故に顔色の悪い者と反応は様々だが、とりあえず物理的に逃走しようとするクロード脳筋義姉弟は止めた方が良いだろう。

 

「と、とりあえず落ち着け! それと、イチハがいない! アイツの見た目鳥だから仕方ないとはいえ……くそ、本当にどうしたら良いんだこれは……!!」

 

 落ち着けと言いつつ、落ち着ける気がしない。何よりこの場にいないイチハと、目は覚ましているのだが一言も発さないライオネルと「大丈夫」とは言うが恐らく大丈夫ではないクリフォードの三名が心配だ。特にイチハは魔物か何かと間違われて殺されかねない!

 

「ッ! 皆、静かに!」

 

 騒いでいると、ディアナが声を張り上げた。一斉に口を閉ざせば、カツンカツンと、前方の階段から人が降りてくる音がした。やたら遠く聞こえる靴音からして、ここはかなり地下深くに作られた牢らしい。

 

 

「目が覚めたか? 不法侵入者共」

 

 やって来たのは、武装した銀髪の男だった。武装こそしているものの、王国騎士団のような重装備ではなく、どちらかと言うと術師を思わせるような格好をしている。恐らく、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)の体質故にそのような服装をしているのだろう。右腕には、広範囲に渡って白い包帯を巻いていた。

 とにかく、ここから出して貰わぬことには話にならない。そう思い、何か言葉を発そうと頭を悩ませる。エリックが考え込んでいるほんの僅かな間に、彼らの前に出ていたクリフォードが静かに口を開いた。

 

「不法侵入、という結果になってしまったのは謝罪致します。ですが、私達はどうしても、この大陸に大事な用があったのです。貴方々の生活に害を及ぼさないことは約束致します。ですから、どうか解放して頂けないでしょうか?」

 

「!? クリフォード!?」

 

 彼はあまりにも正直過ぎる程に、自分達の目的を口にした。彼が見上げる男の怪訝そうなサファイアブルーの瞳が、クリフォードの姿を捉えている。

 

「ヴァイスハイト……それに、その髪色。ブリランテの精霊術師(フェアトラーカー)、か」

 

「はい。出身はブリランテではありませんが、精霊術師の血統です」

 

「ほう……つまり、ウンディーネとの契約が目的か。見たところ水属性のようであるし、ヴァイスハイトである貴様ならば、もしかすると可能かもしれない、と……成程、信用に足る話だな」

 

 驚いたことに、クリフォードは開眼した状態で青年と会話しているらしい。しかし、青年は発する言葉に対し、その表情は目の前のクリフォードを蔑むような、卑下するような、そんな嫌味なものであった。そして彼は、口を開く。

 

 

「――所詮はヒトの形をした紛い物か。バカバカしい。お前如きに、ウンディーネとの契約ができるものか」

 

 

 発せられたのは、目の前のクリフォードを酷く傷付けるような鋭利な言葉。

 

「ッ、あなた……!!」

 

 怒り、飛び出そうとしたアルディスをエリックは咄嗟に止めた。今の彼が飛び出したところで、できることは限られている。そもそも、クリフォードがこの言葉を予測していなかったとは思えない。何か、考えがあってのことなのだろう。

 

「ええ、僕は普通の人とは違う。そもそも、普通のヴァイスハイトとも違いますよ……だから、ウンディーネとの契約も、僕以外には不可能な筈。事実、数百年間ウンディーネの契約者は現れていないでしょう?」

 

「は……? 何だ? お前は自分が聖獣ケルピウスの化身だとでも言うのか?」

 

 相変わらず、蔑むような男の視線。しかし、ここまで来るとクリフォードの狙いが何であったかエリック達にも分かってしまった。彼は男がこの言葉を発するように、上手く誘導していたのだ。

 そして見事、男は『聖獣ケルピウスの化身』と、クリフォードが狙っていた言葉を発した。ふふ、とクリフォードが小さく笑い声を上げる。

 

「そうだと、言ったら?」

 

 軽く小首を傾げて彼がそう言えば、男は奥歯を噛み締め、腰に差していた剣に手を掛けた。鈍い輝きを放つ刃が、その姿を現す。

 

「!? クリフォード!!」

 

 これには思わず、エリックは声を荒らげていた。その声と、大量の血が飛び散るのは、ほぼ同時。遅れて、ポプリの悲鳴が聴こえる。

 

「クリフォードさん!! な……っ!? なんてことを……!!」

 

 激昂するアルディスを、今度は止められない。エリック自身も、いかにしてこの場を突破するか、そのようなことを考えていた――だが、

 

 

「大丈夫ですよ。というより……この人、優しいです。急所を狙いませんでしたし」

 

 穏やかな、クリフォードの声。それを聞いて、皆の動きが止まる。振り返った彼は、額から血を流してはいたものの、平然とした様子で笑ってみせた。

 

「頭切ったら血が沢山出るものですよ。大体……これくらい被って貰わないと、傷は治りませんし……ねえ、傷は、治りましたか?」

 

 再び男を見上げ、クリフォードは小首を傾げて笑ってみせる。その、明らかに異常な様子に、右手に巻いていた包帯の下が普通の素肌をしていることに、男はガタガタと身体を震わせ始める。

 

「聖獣ケルピウスの血は、傷を癒します。この状況ではこれ以上ない、証明でしょう? あんまりやり過ぎると貧血起こして倒れちゃいますから、これくらいで勘弁して頂けますか? 今なら……“何もしません”よ?」

 

「ひ……ッ!? わ、分かった……! 分かった、信じるから……! 出してやるから……!! 俺を、“呪うんじゃない”ぞ……ッ!?」

 

 慌てて鍵を取り出す男の姿を、エリック達は唖然と見つめていた。どうやらクリフォードが「とっておきの交渉術」を使ったらしいことはよく分かったのだが、何だかよく分からない。こればかりは全てが済んでから彼に説明を求めるしかなさそうだ。

 

「後ろにいるのは、僕の仲間達なのですが」

 

「……ッ! ぜ、全員は出さないぞ、それでも良いな!?」

 

 取り出しかけた鍵を握り締め、男は牢の中にいるエリック達を睨み付ける。

 

「金髪と、赤毛の男……それから、桜色の髪の娘、だな。こいつらだけなら、許してやる! お前が何を言おうが、残りのは絶対に駄目だ! 許さないからな!!」

 

 つまり、エリックとライオネル、ポプリの同伴は許可するがアルディス、マルーシャ、ディアナは不可ということだ。この状況である。エリック達が許可されただけでも喜ぶべきだ。怒り狂うのではないかと心配していたが、薄々却下された理由が分かっているらしい。アルディスとディアナは意外にも黙り込んだままであった。ここで自分達が騒いで、クリフォードの交渉を無駄にするべきではないと分かっているのだろう。

 

「ッ、何で……!?」

 

「そ、そうだ! 藍色髪の私やノア皇子が駄目なのは、まだ分かる……! だが、彼女は……!!」

 

 しかし、マルーシャは訳が分からないと声を震わせている。彼女に関しては、無理もないだろう。ディアナも、せめてマルーシャはと男に向かって声を発した。しかし、男は首を横に振るう。

 

「『気持ちが悪い娘』だと、教皇様が仰ったからだ。俺も理由は知らん……だが、忌み子と同じ髪色の貴様と、皇子以上に教皇様はそこの娘を嫌悪していた。だからだ」

 

「え……」

 

「ッ、お前……!」

 

 気持ちが悪い娘――マルーシャの黄緑色の瞳が潤む。エリックは拘束された両の拳を握り締め、男へと向き直る。だが彼女は、「待って」と小さく呟いた。

 

「マルーシャ……?」

 

 振り返ると、彼女はゆるゆると頭を振るい、無理矢理に笑みを作ってみせた。

 

「怒ってくれて、嬉しいよ……でもね、お願い、我慢して。ジャンと一緒に、行ってきて」

 

「ま、マルーシャ……!?」

 

「わたし達、大人しく待ってる。大丈夫だよ」

 

 泣くのを我慢して、必死にマルーシャは笑っている。あまりにも痛々しく、見ているこっちが叫びたくなるような姿だった。そんな彼女を見つめているうちに、錆びた重々しい扉が開いた。

 

「俺からも……お願い。ごめん……俺が、キレそうだから、早く」

 

 怒りに震えながらも、懸命に自分を律している様子のアルディスが、翡翠の瞳をこちらに向けている。ディアナに視線を移すと、彼女も悲痛な面持ちのまま、静かに頷いてみせた。

 

 

「残していくことを承諾する代わりに、こいつらに危害を加えないと約束してくれるか?」

 

 拘束を解かれ、牢の外に出された後、エリックは男に問いかける。返答次第ではこの場で押さえつけてやるつもりであった。だが、男は顔色一つ変えずに言葉を紡ぐ。

 

「お前らの行動次第だ。契約後、真っ直ぐにここに戻ってこい。そうすれば、こいつらを解放してやる」

 

「……その言葉に、偽りはないな?」

 

 契約を完了し、戻ってきたらアルディス達が死んでいた、等ということが起きて欲しく無い。威圧的な目を男に向けているのを覚悟で、エリックは男に再び問う。その問いに、さらにクリフォードが言葉を重ねてきた。

 

 

「彼らは、僕にとって恩人なんです……恩を感じている彼らに何かあれば、僕の命に代えてでも、貴方々を“祟り殺します”――良いですね?」

 

 

「ッ!?」

 

 それは、聞いているだけでゾッとするような、その場の空気さえ冷え切るような発言。男が震えながらも頷いた時点で、これは真実なのだろう。

 

「エリック、大丈夫です。ケルピウスの祟りは本当に“島くらいならあっさり沈めます”から……行きましょう?」

 

「あ、ああ……」

 

 ケルピウスは恐らく、恩を感じた相手に尽くす存在であると共に、恨みを感じた相手を祟る存在なのだ――装備品を返されながら、エリックはしれっと怖いことを強調して口にしたクリフォードに微かな恐怖を感じつつ、彼が味方であることを心の底から安堵していた。

 

 

 

―――― To be continued.



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Tune.67 精霊の宿主

 

「お、おい、そのまま、行くのか? 血、流れっぱなしだぞ……?」

 

「そうするしかないでしょう? ケルピウスは自分の傷は治せませんし。牢の中の女子二人は救済系能力者ですが、貴方が彼女達を外に出してくれないので、治せないんです」

 

「ああぁあ! 分かった分かった! 俺は歌えないが聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)能力者だ!! それくらい治してやるから、とっとと行って帰ってこい!!」

 

「あ、本当ですか? ありがとうございます」

 

 ケルピウスという種を利用した脅しの追加効果だ。不幸中の幸い、聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)能力者であった男が生み出した癒しの円輪『フェアリーサークル』によって傷を回復したエリック達は、男の根回しもあってか難なく――というよりは、追い出されるように――レイバースを後にする。そうして、三十分程歩いていくと件の建造物が見えてきた。

 

(……ああ、うん。間違いなくここだ)

 

 街を出た直後、クリフォードが精神的なスタミナ切れを起こして蹲ってしまったり、一体どこにいたのか突然イチハ(チャッピー)が現れたりと道中で妙なことはあったものの、意外な程あっさりとウンディーネの神殿へと辿り着いた。というより、レイバースと神殿が離れていなさ過ぎたのだ。

 

(神殿の近くって、大丈夫なのか? 街に魔物がやってきたりしないんだろうか……恐らく、結界で何とかしてるんだろうが……)

 

 ヘリオスの森が良い例だが、神殿の周囲には比較的魔物が多く現れやすい。だが、大陸そのものに何かしらの結界が張り巡らされているのか、神殿に辿り着くまでの間、エリック達が魔物と遭遇することは無かった。あっさりと神殿に辿り着いたのはそういった事情もある。しかしながら、流石に神殿内部に何もいないとは思えない。

 

 

「それにしても……神殿って凄いのね。一体いつ作られたのか分からないけれど、明らかに高度な技術が使われている感じがするわ……」

 

 目の前の古めかしい神殿を見上げ、ポプリは大きく息を吐いた。

 

 大きく成長した木々に周囲を囲まれ、苔に覆われた石造りの建造物。使われている石はどこか青い色を帯びていて、よく見ると何か文字が刻まれている。それは当然ながらエリック達が使用する公用語ではなく、古代語だった。どうやら何かの術式らしい。

 

「ポプリ、これ読めるか?」

 

「読めはするんだけど、理解が追いつかないわ……」

 

「古代アレストアの技術は現在より進んでいるからな。理解しようとしない方が良いぞ、特に建築は本当に意味が分からないから。岩が浮くとか、壁が動くとか、普通だから……こんなの、オレも意味分かんねぇよ……」

 

「は、はぁ……」

 

 地表に出ている範囲を見た限り、神殿は少し大きめの小屋程度の広さしか無い。しかしまさか『神殿』と呼ばれる建築物がこの程度ということはないだろう。間違いなく、下へ下へと続いているに違いない。

 

「準備は良いですか? 扉を開きますよ」

 

「ああ。だけどこれ、本当に開くのか?」

 

 扉らしき場所は蔦や太い木の根でびっしりと覆われ、何百年という時をそのままの状態で過ごしてきたらしいことが伺える。エリックの問いに答える代わりに、クリフォードは扉に刻まれた文様の、その中心と思わしき円の陣形に触れる。すると刻まれた文様が青白く光輝き始め、重々しい音を立てながら扉が横に動き始めた。

 

「動いた……!? 精霊の使徒(エレミヤ)の力、か?」

 

「違います。ケルピウスの血に反応したんだ。ウンディーネの神殿は特殊で、ケルピウスか、ウンディーネに認められた者にしか開けられないのです。ちなみに神殿荒らしのつもりでこの扉に触れた人間は、どうにかなって死ぬらしいぞ」

 

「お、おう……」

 

 本当に、とんでもない技術を持って作られた神殿だった。クリフォードは「行けますよ」とエリック達を手招きする。

 正直、色々とおぞましすぎて入りたくない。入りたくないが、入らなければ何も始まらない。

 

(よし……行くぞ)

 

 信じて待ってくれているマルーシャ達のためにも、早く神殿を突破して戻らなければ。エリックは両頬を軽く叩いて気合を入れ、先に入ったクリフォード達の後を追った。

 

 

 

 

 扉を潜った瞬間、視界が白く閉ざされた。目が慣れぬその状態で、ひやりとした空気が頬を撫でる。

 外からは全く分からなかったのだが、神殿内ではいたるところから水が湧き出ており、湿度がかなり高くなっていようだ。しかし、冷気のせいか神殿という特殊な場所であるためかは分からないが、ラファリナ大湿原と違って不快な気分にならない。

 

「! ……こ、こは……」

 

 漸く目が慣れたエリックの視界に飛び込んできたのは、地面から浮かび上がる小さな文字が刻まれた青白い光を微かに放つ数多の水晶が円を描くように、螺旋階段状に上空に登っていく謎めいた光景であった。

 

「……」

 

 何故水晶が浮いているのか、何故水晶が光るのか、そもそも外から見た段階ではこの建物こんなに大きく無かった……等々、この時点で意味不明な状況であり、ライオネルの言う通り『理解しようとしない方が良い』らしいことだけは分かった。

 

 神殿そのものは外観同様に青みがかった岩で作られており、水の波紋を思わせる繊細な装飾が壁一面に施されている。空間は薄暗いものの、光る水晶のお蔭で視界を閉ざされる程ではない。床は所々をほのかに発光する小型の噴水のような、柱のようなもの――天井に向かって噴水のように水が吹き出しているものの、水が一切地面に落ちてこない不思議な“何か”――で彩られている。

 ウンディーネの神殿。ここはシンプルな造りでありがらも古代文明の壮大さを感じさせる、不思議な空間であった。

 

 

『……クリフォードちゃん』

 

 穏やかな、女性の声が響いた。

 辺りを見回していたエリック達が神殿の中心部へと視線を向ける。いつの間にかその場所に移動していたらしいクリフォードと、神殿の主ウンディーネがそこに立っていた。

 

「ウンディーネ。マクスウェル様から、話は聞いていますね?」

 

『ええ、良かったわ。あなたが無事で……本当に』

 

 ウンディーネの姿は、以前目にしたことがある。しかし状況が状況であったため、エリックは彼女の姿をしっかりと見ていたかと言えば微妙なところだ。そのこともあり、エリックは改めて、大精霊ウンディーネの姿をまじまじと見つめた。

 

(こうしてみると、普通の人間とそう変わらない見た目、だけどな……)

 

 外見年齢は二十代半ばから三十代前半くらいで、兄と同じくらいだろうか。肌は青白く、耳がある場所からはヒレが覗いており、宙に浮いているために長い衣服で足が隠れていた。しかしながら、違いはそこだけで見た目はごく普通の、優しげな女性そのものだ。

 もみあげだけを伸ばしたような、不思議な空色の髪を揺らし、彼女は心配そうにクリフォードを見つめている。その姿には、どこか母性が感じられた。

 

『分かっているとは思うけれど……あなたはケルピウスだから、試練は免除。ただ、最上階までは上がってきてね』

 

「はい、問題ありません。むしろ、彼らに『精霊の神殿』というものを知って頂く良い機会です。申し訳ありませんが、待っていて下さい」

 

 ケルピウスだから、試練は免除。それは一体どういう意味なのかと問い掛けたかったが、今はやめておいた方が良いだろう。真面目な話だ、邪魔をするべきではない……と、エリックが口を閉ざした、その直後のことだった。

 

 

『分かりました。気を付けてね、クリフォードちゃ――』

 

「ま、前々から思っていたのですけれど、その“クリフォードちゃん”っていうの、何とかなりませんかね!?」

 

 

 真面目な話ではなくなった。

 

 クリフォードはエリック達に背を向けているが、彼が顔を赤くしているらしいことはよく分かった。それも無理はない。流石に彼の年齢で“ちゃん”付けは恥ずかしいのだろう。

 

『えぇっ!? でも、私からしたらあなたは息子みたいなものだし……』

 

「僕もあなたを母のように思っていますが、息子にいつまでも“ちゃん”付けする母親はいないと思いますよ!?」

 

 そんなクリフォードの発言に、エリックは母、ゼノビアに『エリックちゃん』と呼ばれる自分を想像して――後悔した。これは辛い。

 頼むからやめてやってくれ。思わず感情移入して会話の行く末を見守っていると、意外にもウンディーネは口元に手を当て、くすくすと笑ってみせた。

 

『……。分かったわ、最上階で待ってる。あなたがちゃんとそこまで来たら、呼び名を変えます』

 

「絶対に行きますから。待っていて下さい」

 

 その言葉に頷いてから、ウンディーネはすっと姿を消した。待ってる、ということは最上階まで転移したのだろう。

 クリフォードは無言で終わりの見えない水晶の階段を見上げた後、くるりとエリック達の方を振り返って照れ臭そうに笑ってみせた。

 

「……と、いうわけで。僕の“ちゃん”呼び撤回のために、手を貸して下さい」

 

 それは勿論だ。だが、それより先に優先して欲しいことがある。

 どうやらポプリも同様だったようで、彼女はすっと手を挙げ、切実に訴えた。

 

「お願い、話に着いていけないの。先に色々質問させて……」

 

 彼女の発した言葉に、エリックは「その通り」と口にする代わりに深く頷いた。

 

 

 

 

 ウンディーネを待たせてしまうが、少々の遅刻は許してもらえるだろう……ということでクリフォードにいくつか質問に答えてもらうことにした。感じていた疑問点を一気に吐き出すエリック達に対し、クリフォードは少し困惑した様子を見せる。

 

「話すのは、構わないのですが……あまり、気分の良い話ではないと思います」

 

「また体内精霊とか、そういう話か?」

 

「……はい」

 

 知らない方が良いこともあると、クリフォードは言いたいのだろう。確かに、体内精霊関連の話は気味の悪い話であった。しかし、ここまで踏み込んでおいて引き下がることはもうできなかった。

 それはクリフォードも分かっているのだろう。「大丈夫だから話して欲しい」とエリックとポプリが主張すると、彼はあっさりと引き下がり、近くにあった段差に腰を掛けた。その行為を見て長い話になることを察したエリック達は彼に続く形で近場に腰を下ろす。

 

「人間の体の中には体内精霊が入り込んでいる、と前に説明したよな? 彼らは弱い存在です。だが、まれに……およそ数百年に一度、単独で独立できるような、強い体内精霊を宿した人間が数人単位で生まれることがあるんだ――便宜上、そういった人間を『精霊の宿主』とでも呼ぼうか」

 

「な、何か……強い精霊を体内で培養してるみたいな言い方ね……」

 

「……。その解釈で間違いないよ」

 

 以前、クリフォードから体内精霊の話を聞いた時、『寄生虫』という生き物のことをエリックは思い出した。寄生虫はその名の通り、『宿主』に寄生して生きている存在だ。体内精霊はまるで、人間を『宿主』として生きているようだと――実際その通りなのだが――感じて、気味が悪かったのだ。不幸中の幸いなのは、体内精霊が一部の寄生虫のように宿主を食い破って出てきたりすることは無さそうなことだろうか。

 しかし、クリフォードの口振りからして、恐らく「そうとは言い切れない」のだろう。彼はどこか切ない笑みを浮かべ、ポプリへと視線を移した。

 

「『精霊の宿主』が死亡すると、宿していた体内精霊と全てが混じり合い、俗に言う『大精霊』へと転生します……ただし、普通の死に方では駄目なんだそうだ。どのような経緯を得てそうなるのかは、僕も知らない。マクスウェル様に聞いたけれど、教えて貰えなかった……まあ、自殺では駄目だということは教えて貰えたんですけれど。それで良いなら、僕は、とっくに……」

 

「! まさか、クリフ……!」

 

 ポプリが察した。それはエリックも同様だった。

 クリフォードは軽く首を傾げ、自身の胸元に手を当てる。

 

 

「はい、僕は『ウンディーネの宿主』です。だから多分、長生きはできないんじゃないか? 精霊の容姿は、生前の姿をほぼそのまま写すんだが……多分、ウンディーネが一番歳上だ。その時点で、分かるだろう?」

 

「……!」

 

 一番歳上だというウンディーネの見た目は、まだまだ若い女性だった。そもそもエリックが出会ったノームに至っては十数歳程度の幼子。そんなにも早く、彼らは命を落としたというのか――。

 

「ウンディーネは、大精霊の中で最もと言っても過言ではないくらいに力の強い存在です。なので、生前の段階で肉体はかなり体内精霊によって作り替えられています……見る人間によっては、『ウンディーネの宿主である』と分かるくらいに」

 

「生前のウンディーネの宿主は、ケルピウス……なんだな」

 

 はい、と微笑むクリフォードからは殆ど悲壮感といったものが感じられない。そもそも彼は生に対する執着心があまりにも希薄だ。彼だからこそ、受け入れられた宿命なのかもしれない。これが、もし自分だったならと考えかけて……やめた。考えたくもなかった。

 

「つまり、ウンディーネはケルピウスとして生きる術を知っています。だから、マクスウェル様は彼女を僕の教育係として付けたのです。ケルピウスは彼女が死んで僕が生まれるまでの間、数百程誕生していないからな。ケルピウス伝説だと、“乱獲によって減少した”なんて記述があるんだが、あれが本当ならば、一体いつの話なんでしょうね?」

 

「……何だか、そういう話を聞いていたら、おとぎ話って胡散臭いなぁ、なんて思っちゃうわね……」

 

 そもそも、ケルピウスが複数体同時に存在することはありえるのだろうか? クリフォードの話を聞いていると、そんな疑問が浮かび上がってくる。思わず「おとぎ話は胡散臭い」と口にしたポプリの気持ちがよく分かった。

 そういった話を一切否定することなく、クリフォードはくすくすと笑っている。そんな姿を見て、もう少し詳しい話を聞いてみたくなった……だが、

 

 

「聞きたい話は全部終わったか? 悪いんだが……そろそろ、行かないか?」

 

 ライオネルに静止されてしまった。うっかり忘れていたが、彼には“時間制限”がある。そういえば、船の外に出てどれほどの時間が経過しているのかが分からないのだ――緊急事態が発生することを防ぐためにも、なるべく早く神殿を突破すべきだろう。

 

「そうだな。急ごうか……話は別に、ここじゃなくてもできる」

 

 頷き、エリックは浮遊する水晶の上に足を乗せた。割れる気配はない。見た目通りこれは『階段』であると考えて良さそうだ。

 一応飛行能力を持つこともあり、エリックが率先して数段上がると他の四人も着いてきた。しかし、イチハは階段を登ろうとしない。

 

『俺様、ここまで来てはみたけど……この姿じゃ、足でまといだね。ここで待ってるから、行ってきて。ウンディーネ様が俺に危害を加えることはないだろうし、大丈夫だよ』

 

「イチハ、兄……」

 

 神殿に入れば、人間の姿に戻れる可能性があった。だがそれが叶わなかった以上、彼がエリック達に着いてくるメリットは無いに等しい。

 

「……。そう、か。分かった、なるべく早く戻る」

 

『うん、行ってらっしゃい』

 

 悲しくも、合理的なイチハの意見を否定する者は誰もいなかった。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.68 動き出す宿命の歯車

 

「……また、か」

 

 試練は免除する、とウンディーネは言っていたが、決して何もない訳ではなかった。水晶の階段を登れば、定期的に開けた場所に辿り着く。そういった場所には機械のような形状の魔物――というよりは、神殿の守護者的立ち位置の存在だろうか――が待ち受けていた。そして、それだけではない。

 エリックが一歩前に踏み出すと、ガコンという音と共に水晶が横に移動していく。行き先は、壁に開いた空洞。内部は、ただただやけに広い部屋になっている。

 またか、とは思うが焦ることはない。数回同じようなことがあったのだ。視界の片隅にライオネルとクリフォードが視線を交わす様子が映る。

 

 

「今までの奴と大差無い奴だな。ちょっと形はデカいが、問題ないだろう」

 

「了解しました。任せて下さい!」

 

 水晶が止まるのを待たず、ライオネルが宙を駆けていく。その後をクリフォードが追った。彼らの視線の先にいるのは銀の光沢を放つ、数十メートルをゆうに越すような巨大な機械生物――時々通される部屋に必ず待ち受けている、他のものよりも巨大で強い番人。

 幾千とも言える程のコードに繋がれた腕が、目の前に現れたライオネルに振り下ろされる。彼は手にした双剣をくるりと回し、にやりと笑みを浮かべた。

 

「よし、見えた」

 

 機械生物の鋼の拳が地面を殴り付けるその直前に鈍い金属音が響く。振り下ろされた拳を剣で受け流したのだ。少なからず両腕に衝撃を受けるだろうに、彼がそうしたのには理由がある。ひとつは、彼が『物質透視』を得意とする透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力者であること。そして――。

 

「こいつの弱点属性は『闇』。分かってると思うが、あまり突っ込み過ぎるなよ! 治癒術使えるのお前しかいねぇんだからな!」

 

「大丈夫、倒されはしませんよ」

 

 受け流された腕の上に、トンと軽い音を鳴らしてクリフォードが降り立つ。頭部のレーツェルに触れ、彼はそのまま上へ上へと駆け出した。機械生物は反対の腕を伸ばし、巨大な手が彼の行先を阻む。しかしクリフォードはその指の合間に頭から飛び込み、機械生物の肩部分に両手を付いた。その勢いのまま、両肘を伸ばして大きく飛躍し、身体を捻る。狙うは、巨大な胴体の上に乗った小さなドーム状の頭部。

 急降下する彼を今度こそ捕まえんと伸ばされた機械生物の指をトンファーで受け流し、槍の如き一蹴が鈍い音を響かせた。

 

「――迫撃蹴(はくげきしゅう)!」

 

 ドーム状の頭部は僅かに凹み、機械生物は大きくよろめいた。反動で宙に投げ出されたクリフォードは狙いを外して彷徨う機械生物の手のひらを強く蹴り、再び頭部へ突っ込んでいく!

 

「はあぁッ! 輪舞旋風(ろんどせんぷう)! ――爆牙弾(ばくがだん)ッ!!」

 

 身体を捻り、回転させながら目にも留まらぬ速さで繰り出される複数回の足蹴。重力など感じさせないような身のこなしでクリフォードが宙を舞う中、漸くエリックとポプリが乗った水晶が動きを止めた。

 

「――冥闇、其は閃光をも打ち消す殲滅の調べ……」

 

 水晶から数歩踏み出し、しっかりとした床の上でポプリが詠唱を開始する。複雑な魔法陣が部屋全体に広がっていく。エリックは弓を構え、紫色の光矢を機械生物の頭部へと放った。

 

「追尾せよ。 ――隼皇(じゅんおう)!」

 

 放たれた矢に機械生物が怯んだ隙にクリフォードが地面に降りる。それを確認した後、エリックは弓を剣へ変えて駆け出した。その先にはライオネルの姿があった。

 

「お前らさっさと行き過ぎだろ……!」

 

「こいつデカいし、クリフの練習台に丁度良いんだよ。オレもお前とペア組むよりクリフとやる方が楽だしさぁ……てか、お前は飛べるんだからさっさと来れるだろ」

 

「ポプリ一人残していけるわけないだろ……!?」

 

 この巨大機械生物とは水晶が横移動する度に戦ってきたのだが、その中で生物が物理攻撃のみだけではなく、部屋に到着する前に光線を放ってくることもあると気付いていた。そのため、水晶の動きが止まる前にかなり安定した飛行が可能なライオネルと驚異の跳躍力を持つクリフォードが特攻を仕掛ける戦法を取り始めたのだ――元々相性がかなり良い彼らの特攻が上手く行くのは良いのだが、それを行うタイミングが段々早くなってきているのが唯一の不安要素だ。特にクリフォードは混血種故に跳躍距離が足りずに落下すれば大惨事に成りうる。もう少し大人しくしていて欲しいのだが、どうやら彼らにその気はないらしい。

 

「紡ぐは慟哭の証明! ――アンチテーゼ・レイ!」

 

 そうしている間にポプリの術が完成した。細い黒紫の光線が一斉に地面から突き出し、さらに雨の如く天からも降り注ぎ、機械生物を貫いていく。ひび割れた生物の身体からバリバリという耳障りな音が部屋に響いた。

 しかし、まだ動きは止まらない。闇属性が弱点という話ではあったが、これだけで終わる程、この生物は弱くなさそうだ。

 

(最初のならこれ一発だったんだろうが、段々強くなってるしな……)

 

 この巨大機械生物との戦いがいつまで続くのかは誰にも分からなかった。ライオネルとクリフォードの特攻が早くなっているのもこれが原因だろう。終わりの見えない状況は精神衛生上よろしくないものだ。

 

 エリックがライオネルと話す姿を確認してからクリフォードは後ろに飛び、機械生物から距離を取る。ここまでの戦いで、肉弾戦ではあまり機械生物に大きなダメージを与えられないことは分かっていた。彼の連撃はあくまでも全員が到着するまでの間を確保するための行為であり、治癒術要員であることも加わってエリック、ライオネルの到着後は術での補佐が彼の役割となる。

 そして地面に足が付くと共に、クリフォードは両手を前に突き出すような姿勢を取り、叫んだ。

 

「水の典礼を織り成せ! ――カタラクト!」

 

 刹那、青く輝く円輪が機械生物の上空に浮かび上がり、弾けた。滝の如く、大量の水が降り注ぎ、衝撃で機械生物の動きが微かに鈍った。

 

「行くぞ、エリック!」

 

「ああ!」

 

 不思議と、その水はエリック達を濡らしてはいない。床に出来た水溜まりを踏みつけ、飛沫を撒きながらライオネルは機械生物に飛びかかった!

 

断空(だんくう)ッ! ――飛燕連斬(ひえんれんざん)ッ!!」

 

 身体を捻り、勢いに任せて数回転。飛び上がった状態のまま連続斬りを繰り出す。金属と金属がぶつかり、甲高い音と共に火花が散った。ズボンに水が染み込むのを感じながら、エリックはその場に片膝と剣の切っ先を付け、握り締めた剣に意識を集中させる。

 

「――神羅昇華(しんらしょうか)水烈(すいれつ)!」

 

 辺り一面に散った水が、エリックの声に応え、煌く。

 水は意思を持つかのように浮かび上がり、無数の小さな刃となって機械生物を四方八方より貫いた。そして、水の刃と共に飛び出したエリックはそのまま剣を大きく薙いだ!

 

「――幻魔(げんま)衝裂破(しょうれっぱ)ッ!!」

 

 放たれたのは、巨大な衝撃波。機械生物の身体の上にいたライオネルが飛び上がると同時に衝撃波は生物の胴体に直撃し、大きく後ろに押し飛ばす。

 

「ッ!」

 

 その際に壊れたらしい機械生物の身体の破片が、エリックの右腕を深く斬り裂いた。だが、焦る必要はない。

 

「この真なる祈りに応え、訪れしは刹那の安寧。我が盟友の痛みを消しされ! ――ヒール!」

 

 クリフォードが唱えたのはマルーシャも使用する治癒術『ヒール』。

 彼の治癒術はマルーシャやディアナと比較すると詠唱時間がかかってしまう上にやや回復量が少ないのが難点だが、「必要な時に即座に詠唱を開始する」能力においては彼女らよりも明らかに秀でていた。こればかりは経験の差だろう。

 

「――常闇よりいでし者、其は覚めぬ悪夢への案内者。我阻みし愚者を魅了し、黄泉へと誘え」

 

 ポプリの詠唱が始まった。聞いたことの無い詠唱だが、開始までに時間を取られていたことを考えれば間違いなく大技だ。これで決めようと考えているのだろう。

 

「精霊よ、彼の者に聡明たる闇の力を――メルジーネ・トイフェル!」

 

 クリフォードが補助術を使用する。紫の光がポプリの周りに集い、彼女の中に吸収された。

 

「黒紫色の翼に惑い……堕ちよ」

 

 ふっと、ポプリは笑みを浮かべる。右手を高く上げた彼女の周囲を漆黒の蝶が舞い始めた。桜色のリボンが、風も無いのに揺れた。

 

「――フラッターズ・ディム」

 

 蝶は舞いながら、機械生物のドーム状の頭部の上へと集まり、“何か”を形成していく――そして蝶は禍々しさを放つ剣と化し、機械生物の巨大な身体を豪快に貫いた。

 

 

「……。綺麗なのか怖いのか分からない術だな」

 

 ウンディーネの神殿に入ってから、何故かポプリが怒涛の勢いで強力な術を習得していく。アンチテーゼ・レイもフラッターズ・ディムも、ここに来てから取得した技だ。後者に関しては、恐らく“たった今”思いついて発動させたのだろう。

 

「あら? あたしの術にしては綺麗だと思うわ」

 

「確かに綺麗だったのですが、多分ポプリの表情と態度のせいで恐ろしい感じになったんでしょう……せっかく君に似合う雰囲気の術だったのに」

 

「あら? あたし、剣似合う?」

 

「そっちじゃないですかねー」

 

 クリフォードは苦笑し、肩を竦めてみせる。ポプリはきょとんとした表情で首を傾げている――エリックとライオネルは、そんな二人を放置して歩き出す。ぴくりとも動かなくなった機械生物の背後で、壁と同化していた扉が開いたのだ。

 

「……。あえて初恋拗らせまくった兄貴の方を応援したくなるの、オレだけかな」

 

「ははは……分からなくはないな」

 

 それにしても、ライオネルの適応力は素晴らしいものがあると思う……色々な意味で。

 

 

 

 

 扉を抜け、再び階段を上がっていく。もう随分時間が経ったような気がするが、ライオネルの調子が悪くなることは無かった。彼に対しては、精霊の加護が効いているのかもしれない。それでも油断はできないとエリック達は足を止めることなく進み続ける。

 途中現れる魔物の弱点属性が闇である確率が高いことも幸いで、ポプリの大技が上手く決まれば、そこまで時間をかけずに魔物を退けることができた。

 彼女単独であったならば早々に魔力切れを起こしたかもしれないが、ド派手な攻撃術ばかりを覚えていく彼女とは対照的に補助術を多く覚えていたクリフォードの補佐で心配はいらなかった。

 これまでろくに戦闘に参加していなかった彼だが、エリック達の戦いを見ているうちに色々と取得していたらしい。そして彼ら二人だけでは厳しい前衛での戦いはエリックとライオネルが苦無く行うことができた。

 アルディス、マルーシャ、ディアナの不在は心配要素でしかなかったのだが、上手くバランスの取れたメンバーで神殿攻略に挑むことができたのは不幸中の幸いだったと言えよう。

 

 

「おおー……多分最上階だな。本当、何でもありだなこの空間……」

 

 漸く辿り着いた最上階は、室内だというのに草木が生い茂った場所だった。それだけではなく、一体どこから流れてきているのか小さな滝まである。その滝が生み出す泉の中心で待っていたウンディーネは、エリック達の姿を見てにこりと微笑んだ。

 

『ルネリアルとスウェーラルは、小さな泉がお気に入りだったそうよ……その泉の名前が“ク・ヴェゼーレ”っていうそうなの。現代語に訳せば“クリフォード”になるわね。あなたのお兄さんの名前を考えたら、間違いなくあなたのお名前はこの泉から来ているのでしょうね』

 

 そう言って、ウンディーネはこちらに寄ってきた。彼女の動きに合わせ、クリフォードも前に歩み出る。自身の前で跪いた彼に、ウンディーネはゆっくりと手を伸ばす。

 

『クリフォードちゃん……いえ、クリフォード。お疲れ様でした』

 

「僕だけの力ではありませんよ……それでも僕を、あなたの契約者として、認めて頂けますか?」

 

『……勿論よ』

 

 ウンディーネの細い指がクリフォードの右目の下を撫でる。間違いなくクリフォードを怯えさせる行為である筈だが、彼は特にそのような素振りを見せない。それは両者の間に信頼関係がある証だろう。ウンディーネが再び、優しげな笑みを浮かべる。

 

『――汝、我に何を望む?』

 

 口調が変わったが、表情はそのままだ。

 

「……」

 

 クリフォードは目を伏せ、ほんの刹那の間だけ思考を巡らせる。そして彼は、力強い金と銀の瞳をウンディーネへと戻し、彼女を見上げて口を開いた。

 

「我が名に恥じぬよう、彼らを――盟友達を、大切な者達を“清く導くための力”を。彼らが傷付き、汚されぬための……強き、癒しの力を!」

 

『……!』

 

 クリフォードの言葉に、ウンディーネは青の両目を見開き、言葉を失う。だが、それは僅かな時間であった。彼女はおもむろにクリフォードの左手首に触れ、エリック達の方を見た。

 

『ありがとう』

 

 その言葉の意味を問うよりも先に、彼女の姿は透けていく。代わりに残ったのは、クリフォードの左手で輝く深い紺碧色の宝石と銀の装飾の美しい、指輪と腕輪が繋がったような不思議な形状の装飾品だった。

 

「……バングルじゃ、ないんだな。ちょっと、手首がきつそうだ……」

 

 これは仮契約ではなく、本契約だ。だから装飾品の形状が違うのだろう。それは良いのだが、銀装飾が彼の手首に残された痣をぴったりと覆うような形状であるがゆえに少し思うところがある。

 立ち上がったクリフォードの左手首で輝く装飾品を見て、エリックはポツリと呟く。それを聞き、クリフォードは困ったように笑みを浮かべた。

 

「拘束具と違って軽いし、痛くはないよ。だから、大丈夫だ」

 

「! いや、その……」

 

「ですが、ちょっとした拘束具みたいなものですよ。契約者が馬鹿な行動を起こさないためのね」

 

 左手首を覆う腕輪を右手でそっと撫で、クリフォードは軽く首を傾げてみせる。

 

「仮契約とは違って、本契約は精霊と頻繁に会話できなくなる代わりに彼らの意思が強く表に出てくるんだ。何故かと言うと、契約者は上位精霊と同化したような状態になるからな。ウンディーネが僕の身体を乗っ取ろうと思えばあっさり乗っ取れるんですよ?」

 

「え……そ、それ、大丈夫なのか?」

 

 ちらりと、脳裏にマルーシャの姿が過ぎった。今のクリフォードは、シンシアとマルーシャと同じような関係になっているということなのだろう。どう考えても恐ろしい状況だというのに、彼は口元に手を当ててくすくすと笑ってみせる。

 

「むしろ、そうじゃないと精霊が危ないんだ。この状態で僕が死ねば、ウンディーネも共倒れする……本契約は契約者自身が精霊の神殿の代わりとなるようなものだから。万が一、上位精霊が悪意を持って契約者の身体を奪うようなことをすれば、マクスウェル様が干渉してくれる。だから、安心して良いぞ」

 

 上位精霊は神殿を離れることができない。そのため仮契約の段階では精霊の力を借りる度に彼らを一時召喚する必要があった。だが、本契約の場合は常に精霊は契約者と共に在る。ゆえにその都度精霊を召喚する必要はなくなるが、精霊側には大きなリスクが伴う。だから、本来は『試練』が待ち受けているのだろう。次期ウンディーネのクリフォードであっても、神殿を突破するまで契約を保留にされたのはこれが理由に違いない。

 

「だから、マクスウェルはあたしかクリフだって言ってたの? 神殿代わりになるのって、そんな単純なことじゃないだろうし」

 

「いや、結論から言えば単純だ。年齢で選んでる」

 

「……え?」

 

「肉体が幼いと、上位精霊の意志関係なしに乗っ取りが発生する危険性があるんだ。少なくとも成長期は終わっていないと駄目だ……うーん、色んな事情を考慮してもエリックはセーフか? ディアナと、肉体年齢だけだと最年少のアルは論外だな。確実に乗っ取られる。あとマルーシャもまだ怖いな」

 

 だから「ポプリが行けるなら自分で良いだろう」と彼は口にしたのだろう。肉体年齢はさておき、彼は自分達契約予定者の中では最年長だ。エリックの成長期は恐らく終わったが、妙な覚醒の仕方をしたことや体内精霊不在の件を考えれば最初の契約者に指名されなかったのも理解できる。

 

「え、じゃあ間違いなく無理な奴三人か? だったら鉱山行かねぇとな……まあ、先にポプリの契約だろうが」

 

「鉱山? スカーラ鉱山のこと? 何かあるの?」

 

「ああ。ほら、あの鉱山って――」

 

 アルディス、マルーシャ、ディアナの三人が契約するまでに何年も掛かる、等ということは無かったらしい。しかし、それに対して何か反応することはできなかった。ライオネルの顔から、一気に血の気が引いたのだ。

 

「!? 時間切れか!?」

 

 加護が切れ、調子を崩したのかとエリックは慌ててライオネルの肩を叩く。しかし、彼は首を横に振るい、困惑の色が滲んだ赤紫の瞳をエリックに向けた。

 

「……帰るぞ」

 

「え……?」

 

 調子が悪いわけではないらしい。だが、相変わらず彼の顔色は悪い。一体どうしたのかと聞くよりも先に、ライオネルは泉の傍に浮かび上がった魔法陣へと走り出した。

 

「ライオネル!?」

 

「早く来い!!」

 

 異常事態だということは分かった。そして恐らく、あの魔法陣は神殿の最下層へと繋がっているのだろうということも。けれども、理由は分からぬままだ。説明を求めたいが、叶いそうにない。困惑したままのエリックに、ライオネルは声を掛ける。

 

「エリック、落ち着いて聞けよ。時間が無いんだ」

 

 名指しだった。一度黙り込み、そして、彼は再び口を開く。

 

 

「マクスウェル様からの伝達だ……ルネリアルに、武装した黒衣の龍が攻め込んだらしい」

 

 

「――ッ!?」

 

 ルネリアルが、危ない――。

 

 一体どういうことなのかと、何故そんなことが起こったのかと、ライオネルを問い詰めたい。しかし、そんなことをしている余裕など無いことは明らかだった。今は、余計なことを考えてはいけない!

 

「……」

 

「緊急事態だ。船に全員乗った時点で、マクスウェル様がオレ達をルネリアルの傍まで飛ばして下さるそうだ。レイバースに残っている奴らには、船に乗ってからお前の口で伝えてくれ……多分、取り乱すだろうから」

 

 ポプリもクリフォードも、あまり良い顔はしていない。だが素直にライオネルに従い、魔法陣の上に駆け乗った。彼女らはそこまでルネリアルに思い入れが無いのだろうし、それ以前にこういった場では非常に賢い。取り乱し、立ち止まって騒ぎ出すようなことはなかった。

 そもそも、そうなってしまう可能性が高い人物が、今この場にいなかったからこそライオネルは事情をすぐに話してくれたのだろう――少なくとも、マルーシャがこの場にいた場合、彼は何も言わずに魔法陣まで走ったに違いない。

 

 魔法陣が輝く。気持ちが悪くなる程に、心臓がドクドクと鼓動を刻む。

 胸元の布地を掴み、エリックは奥歯を噛み締めて何とか平常心を保とうと深呼吸した後、おもむろに口を開いた。

 

「分かった。任せてくれ」

 

 ルネリアルは無事だろうか。

 兄は――ゾディートは、一体何を考えているのか。

 

「……ッ」

 

 取り乱すな、取り乱すなとエリックは震える右手に力を込める。何も言わず、優しく肩を叩いてくれる仲間達の存在が、ただただ、ありがたいと思えた。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.69 燃え盛る王都

 

 不幸中の幸い、レイバースを出るのにはそれほど時間をかけずに済んだ。アルディス達も無事に解放され、エリック達は駆け込むように船に乗り込み、ルネリアルへと向かう。

 

 本来であれば一週間程かかってしまう道のりだが、マクスウェルのお蔭で移動は一瞬で完了する。しかしながら、その“一瞬”さえもエリックにとっては気が気でない時間だった。そしてそれはエリックだけの話ではなく、彼の横で顔を真っ青にして震えるマルーシャにも共通することであった。

 

 船に全員が乗った直後、視界が暗転する。刹那、船は見慣れた森の傍へと移動していた。いつもと変わらぬヘリオスの森の木々は風に煽られ、ざわざわと騒がしく揺れている。

 

 

「!? う、そ……」

 

 風上へと視線を動かしたマルーシャが声を震わせた。釣られてエリックも同じ方向を見る。そして、目の当たりにした光景に絶句した――ルネリアルの街が、燃えていた。

 

「わ、私の聞き違いか!? マクスウェルは『武装した黒衣の龍が王都に向かった』と言ったんだよな!?」

 

「間違ってねぇよ……黒衣の龍到着はオレ達より速かったろうが、こんなに被害が拡大するほど、オレ達は出遅れてない……!」

 

 風に乗り、ものが焼ける臭いが漂ってくる。並大抵の火災ではない。ライオネルの言うように自分達は出遅れてしまったのだろうが、ここを守っている王国騎士団は一体何をやっているというのか。

 ギリ、と奥歯を鳴らし、エリックはルネリアルへと駆け出した。そんな彼に、皆が続く。

 

「……ッ! 狙いは貴族街か!?」

 

 見たところ、被害は城をぐるりと囲うように建っている貴族達の住居が特に深刻だった。貴族街の中心にあるというのに、堀に囲まれているせいか城が無事であったのは救いか。しかしながら、被害は貴族街だけではない。火が燃え移ってしまったのか襲撃を受けたのかは分からないが、貴族街に近い中央商店街も真っ赤に染まってしまっている。住宅街も無事とは言い難い。

 

 

「ポプリ、顔真っ青だけど行ける? 大丈夫かい?」

 

 低い、穏やかな声が響く。クリフォードのものではない。ローブを被った青年は軽くかがみ、アイオライト色の瞳をポプリへと向けた。

 

「正直、平気じゃない、けれど……そんなこと言ってる場合じゃないわ……」

 

 燃え上がる街並みを、ポプリは恐怖に怯える橙色の瞳で見上げている。そんな彼女の頭をぽんぽんと軽く叩き、青年――イチハはニコリと笑ってみせた。

 

「俺様はディアナちゃんに着いて動く。この子は俺無しじゃ動けないからね……君と、あとライは街をすぐに出られる位置にいた方が良いと思う。ライに何かあったら、頼むよ」

 

 クリフォードが精霊ウンディーネと契約した直後、イチハは人間の姿を保てるようになった。クリフォードが精霊の力を得たことで、人の身を保てないほどに狂ってしまった魔力を安定させることができるようになったためだ。しかし、彼らがある程度離れてしまうとそれは無効化されてしまう。やはり上位精霊のみの力では厳しいものがあるらしい。

 非常事態とはいえ、ディアナが街中で普通に翼を出すわけにはいかない。彼女の移動にはチャッピーの姿を取ったイチハの全面的な協力が必要となる。そして今回の場合、能力のことを考えれば、イチハが動けることよりもディアナが動ける方がメリットが大きい。

 

「怖いとか言ってる場合じゃないわよ」

 

 こんな状況にも関わらず気を使われていると察したポプリは頭を振るい、「一緒に行く」と主張する。だが、そんな彼女に自分が着ていた白衣を差し出しつつ、クリフォードは首を傾げた。

 

「……。そうですね、ポプリは門の付近に残った方が良い。薬品のストックはあるか?」

 

「あ、あるけれど……」

 

「門の奥から、異様に濃い血の臭いと薬品の臭いが漂っている。怪我人が大量に出ているようです。門を潜ってすぐの広間が簡易的な治療場になっているんだろう」

 

「え……?」

 

「僕は鼻が効くんですよ。ただ、思っていたよりも状況が酷いな。医療関係者は皆無と考えて良さそうだ」

 

 エリック達は門を潜り、広間を目の当たりにする。そこには、痛みに苦しみ、喘ぐ数多の人々が“転がって”いた。焼け残った物であろう、質素な布が地面に敷かれているものの、あまりにも不衛生な状況だ。

 

「それはちょっと弄ってますけれど、白衣さえ着ていれば怪しまれることはないからな。重傷者のために“応急処置”はしていきますが、恐らくまだまだ怪我人が出る。君の知識が役立つ場面だと思います……ライ、ポプリを頼めますか?」

 

「任せろ。オレも多少は医療の知識があるからな……とりあえず、この不衛生な状況から何とかしねぇとな……」

 

 クリフォードの白衣を纏い、ポプリはライオネルと共に人々の集まる場所へと向かっていく。クリフォードはそれを見届け、今度はディアナに話し掛ける。

 

「ディアナ、手綱の予備はありますか?」

 

「ん? ああ、あるぞ」

 

「良かった。悪いが、ちょっと貸して下さ――」

 

 

――刹那、鼓膜を破るかのような、猛烈な爆発音が辺りに響き渡った。

 

 

「!? な、なんだ!?」

 

 衝撃で地面が轟くのを感じながらも、エリックは辺りを見回す。

 

 

「……っ、や……!」

 

 だが、爆心地を見付けるよりも先、マルーシャの悲痛な声に意識が行った。振り返れば、大きな瞳に涙を浮かべ、力無く頭を振るう彼女の姿がそこにあった。

 

「いやぁあああぁっ!!」

 

「ッ! マルーシャ!!」

 

 突然泣き叫び、全速力で駆け出したマルーシャの腕に手を伸ばす。しかし手は空を切り、足の速いマルーシャはあっという間に遠くに行ってしまう。そしてエリックは、彼女が我を失って走り出した理由に気付いてしまった。

 

(い、今の爆発……! ウィルナビス邸だったのか……!!)

 

 両親の暮らす、実家が爆発した――こんな状況で冷静になれる筈がないだろう。彼女の気持ちは分かる。だが、危険だと分かっている貴族街に彼女ひとりで行かせるわけにはいかない。

 

「待て! マルーシャ!!」

 

 エリックは慌ててマルーシャを追うが、先程の振動のせいだろう。非情にもたった今、この状況を読んだかのようなタイミングで崩れ落ちた家がエリックの行く手を阻んだ。

 

 

「……ッ!」

 

「エリック!」

 

 崩れ落ちた家の向こう側から、ディアナの声がする。彼女は俊敏なチャッピーに乗っていた。家が崩れる前に、何とか滑り込んだのだろう。辺りを見回したところ、アルディスも向こう側にいるらしい。

 

「私と、イチハとアルディスでこのままマルーシャを追う! エリックは城に向かえ!」

 

「! だ、だが……」

 

「マルーシャが心配なのは分かっている。だが城とマルーシャの家は近い。すぐに合流すれば良い!」

 

 ディアナの言うことは何ひとつ間違っていない。そもそも道が閉ざされてしまった時点で、エリックにマルーシャを追う手段はない。加えて、閉ざされてしまった道は一直線に城へと行ける道であったから、こうなってしまった以上大きく回り道をして城に向かうしかない。王国騎士団がちゃんと機能していない可能性が高い以上、城の守り手がいないことも考えられる。悩んでいる時間はないのだ。

 

 

「……。分かった、任せるぞ!」

 

「承知した!」

 

 道を阻む瓦礫と化した住居に背を向け、エリックはクリフォードのもとに向かう。彼はディアナから受け取ったチャッピーの手綱を調整していた。

 

「エリック、これ持っててくれ」

 

「!? お、おう……?」

 

 一体何をしているのかを問う前に、彼はそれをエリックに投げ渡してきた。見れば、チャッピーに着ける状態から少し持ち手部分の長さが伸ばされている。

 

「申し訳ありませんが、そこで少し待っていて下さい。あと、今日以降僕はルネリアルでまともに動けなくなるかもしれない。悪いな」

 

「は……?」

 

「俗に言う『秘奥義』って奴です。使いどころに若干困る上に厄介な性質があるので使いたくなかったんだが……お前のためになら、使おうと思えたのです」

 

 へらり、と笑った彼はアシンメトリーの両目を隠すことなく、こちらに向けている。加えて、彼は大勢の人がいるにも関わらず半獣化の姿を晒していた。涼しい風が、困惑するエリックの頬を撫でた。

 

 

「――荘厳なる大地にもたらされしは天の雫。万物を育みし、穢れなき慈愛の御業よ」

 

 

 天に向かって左手を伸ばしたクリフォードの足元に、水など無いはずのその場所に透き通った水が湧き、美しい円形の波紋を描く。青く輝く複雑な魔法陣が、広場全体に展開される。どこからともなく、水の跳ねる音がした。

 

 

「汝、我が真なる祈りに応え、再生の奇跡を降らし給え」

 

 

 水の跳ねる音は、次第に増えていく。それが雨であるとエリックが気付く頃には、決して身を濡らすことはない不思議な光の雨がルネリアルに降り注いでいた。

 

 

「尊き生命の輝きに、汝の恩寵を ――ベネディクションレイン」

 

 

 街は火に包まれ、火の粉が飛び交っている。だが、この空間は涼しい空気に満たされていた。光の雨はじんわりと身体の中に染み込んでくる。エリックは特に傷を負っていなかったために分からなかったのだが、先程まで地面に転がされていた人々が立ち上がり、歓喜の声を上げている。彼らの、血で染まった衣服の下に確かに刻まれていたであろう傷は、跡形もなく消え失せている。クリフォードが降らせたのは、強い癒しの力を持った雨なのだとエリックは察した。

 

 

「……! す、すごいな……って、ケルピウス……!?」

 

 こちらにゆっくりと歩み寄ってくるのは、人型ではなく完全に獣の姿と化したクリフォードだった。その姿を見て、エリックは彼の発言に納得させられた。

 

「クー」

 

 ぱたぱたと尾を降るケルピウスに手綱を着け、エリックはその背を撫でる。

 

「なるほど、さっきの秘奥義を使うと、強制的にケルピウスになるんだな……使ってくれて助かったが、悪いことしたな……」

 

 クリフォードの秘奥義『ベネディクションレイン』は治癒術としては極めて有能だが攻撃性能は皆無な上、強制的に術者を獣化させてしまう性質を持つらしい。治癒の力を解放したことにより、人型を保てなくなるのだろうか。

 いずれにせよ、確かに使いどころに困る(しかもクリフォードの治癒術の傾向を考えれば、恐らく本人には何の恩恵もないと思われる)上に、使う場所によっては後々大変なことになってしまうだろう。遠くで様子を伺っていたポプリとライオネルは唖然としているし、傷の癒えた人々もケルピウス(に化ける青年)の登場に驚愕の表情を隠せていない。

 

「クー、クォン」

 

 だが、張本人は「どうでも良い」と言わんばかりにその場に伏せ、エリックに「早く乗れ」と目で訴える。このまま馬代わりにルネリアルを駆けてくれるようだ。クリフォードは最初からこうするつもりだったのだろう。

 

 

「一応、乗馬経験はあるが、お前は馬じゃないからな……変なことやらかしたら、ごめんな」

 

「クォン」

 

 エリックは犬と馬を足して二で割ったような不思議な生物に跨り、手綱を握る。感覚的にはやはり馬によく似ているが、肌触りの良い毛に覆われているため何となく違和感がある。意外にも安定感があるため、鞍は無いが気をつけていれば振い落されることはないだろう。

 

「クーッ」

 

 パタパタと両耳のヒレを動かし、ケルピウスは地を蹴った。馬に近い姿をしているだけあって、走ることに長けているらしい。元が人とは思えない程に、速い。

 エリックは軽く広間を周り、しばらくやっていなかった乗馬の感覚を取り戻す。手綱を通して指示を出せば、ケルピウスはその通りに走ってくれた。エリックはレーツェルに触れ、剣を具現させた。

 

「よし……行ける。多分無理させるだろうが、頼むぞ、クリフォード!」

 

「クー!」

 

 エリックが左手で手綱を引けばケルピウスは返事代わりに大きな鳴き声を上げ、火の粉の舞うルネリアルの住宅街に向かって力強く駆け出した。

 

 

 

―――― To be continued.

 




(おまけ:ライオネルとイチハの設定)
※画像は長次郎様に頂いたものです。

ライオネル=エルヴァータ

「オレは、オレにできることをするまでだ。できないことを数えてたんじゃ、気が滅入るからな」


【挿絵表示】


年  齢:22歳
身  長:173cm
体  重:76kg
武  器:両刃剣
固有武器:レガース

 ルーンラシスでマクスウェルと共に暮らしていた青年。戦舞(バーサーカー)と呼ばれる、力強い肉体を持った純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)の変異種である。天性属性は水で、魔術は得意ではないものの、覚醒済みのため飛行能力を持つ。
 特殊能力はクリフォードと同じ透視干渉(クラレンス・ラティマー)。ライオネルは物質透視を得意とし、機械操作等に秀でている。本編では船の操縦を担当する。
 かつて悲惨な実験を身に受け続けていた過去を持つ。そのため陽気で明るい性格に反して身体は限界を迎えており、マクスウェルの加護がなければ生きていくことさえ難しい状況にある。
 しかし本人は自分のそんな境遇をかなり前向きに捉え、その前向きさが時に仲間達を勇気付けている。また意外にも勤勉家で、知識量では僅かにクリフォードを上回っている。
 余談だが、イチハのことは『イチハ兄』と呼ぶのに対し、クリフォードのことは『クリフ』と呼び捨てなのは、クリフォードの発育があまりにも悪過ぎて自分が年下であったことにしばらく気が付かなかったためである。





霧生イチハ

「……すごいな。時々、君達が輝いて見えるよ……眩しさを、感じる程に」


【挿絵表示】


年  齢:28歳
身  長:184cm
体  重:68kg
武  器:刀
固有武器:棒手裏剣+クナイ

 ディアナが連れている鳥『チャッピー』の本当の姿。あらゆる面で自信過剰な性格をしている。しかし、実際に極めて美しい容姿をしている上にかなり有能なため、全く憎めない。
 しなやかな身のこなしが特徴的な暗舞(ピオナージ)という純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)の変異種の青年。一定の居住地を持たない戦舞(バーサーカー)とはことなり、暗舞は独自の文化を持つことで知られているのだが、イチハはラドクリフでの暮らしが長かったこともあって中途半端な状態と化している。
 天性属性は火で、魔術の腕はそれなり。ただし魔力異常による後天的な失翼症のため翼を出すことはできない。特殊能力は移動速度を一時的に上昇させる瞬光疾風(カールヒェン・ヨシュカ)
 クリフォードやライオネルと比較すると単純な知識量では劣るが、頭の回転は非常に早い。
 ルーンラシスを出て鳥の姿で過ごしていた期間はほとんど歳を取ることが無かったようで、外見と実年齢に少々ズレが生じている。また、青紫色の瞳をしているが、元は黒い瞳をしていたようだ。


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Tune.70 崩れゆくもの

 

「瓦礫が多いな。飛び越えられそうなら、飛び越えてもらえるか?」

 

 ケルピウスに乗り、エリックはルネリアルの街を駆けた。途中、遭遇する兵に剣を振るい、時には矢を放ち、止まることなく進んでいく。

 兵に対してエリックは刃を向けたが、それは決して執拗なものではなく、気を失わせるのみで相手の命までは恐らく奪っていない。人間相手に戦うのは未だに慣れないが、今はそんな甘えたことを言っている場合ではない。

 

「クー!」

 

 軽く腰を落とし、後ろ足に力を込めてケルピウスは大きく飛躍する。振り落とされないように気を付けつつ、エリックは弓を構えた。

 

「――蒼燕(そうえん)!」

 

 瓦礫の影に隠れていた兵に向かって矢を放つ。ケルピウスによる移動は流石に目立つのか、少しずつ兵の数が増えてきている。

 矢は兵の肩を貫き、そのまま地面に縫い付ける。エリックはそれを見届けた後、即座に弓を剣へと変形させた。

 

「邪魔だ! ――真空破斬(しんくうはざん)ッ!」

 

 剣を横に薙ぎ、迫り来る複数の兵士達を真空波で撒き散らす。エリックにも、ケルピウスにも怪我はない。無事に瓦礫の山を飛び越え、彼らはそのまま先を急いだ。

 

 

 住宅街の立ち並ぶ石造りの坂を駆け上がっていけば、炎の海と化した貴族街が目の前に見えてきた。少しずつ、気温が上がっていくのを感じる。

 一部が崩れ、所々が瓦礫の山と化してしまっているものの、住宅街の被害は比較的少ない。「良かった」とエリックは安堵する。

 

 だが、それも束の間。崩れずに残った住宅の窓やドアから住民がこっそりと顔を覗かせていることに気付いてしまった。逃げ遅れてしまったのかもしれない。しかも、一人や二人では無さそうだ。

 

「……悪い、ちょっと止まってくれ」

 

 手綱を引き、エリックは深く息を吐いてから口を開いた。

 

「ここもいつ火の海になるか分かりません! どうか、速やかに避難を! 恐らく敵の狙いは皆さんではありません! 道中の兵は気絶させてきました! 今ならば安全に門へと向かえる筈です!」

 

 住宅に残る人々に向かって、エリックは声を張り上げる。その声に応え、何人かの人々が家を飛び出していく。恐怖で動けなくなっていたのだろう。

 

 

「アンタはどうするんだい!? その生き物に乗ったまま、どこへ向かうんだい!?」

 

 重そうな荷を背負って出てきた雑貨屋の女店主がエリックに話し掛ける。口振りからして、エリックが『アベル王子』であると気付いていない様子であった。大方、たまたま運悪く街にやってきた旅人か何かだと思われているのだろう。相変わらずだな、と苦笑したくなるのを堪え、エリックは店主に向かって微笑む。

 

「私は貴族街へ向かいます。恐らく、兵の大半は上に集まっているでしょうから」

 

 素直にそういえば、店主は目を丸くして雑貨屋へと走る。帰ってきた彼女は、小さな袋をエリックに差し出してきた。

 

「アンタ自身は危険なことくらい分かってるだろうし、止めないけどさ……せめて、売り物の薬でも持って行っておくれよ。本当はモニカ嬢の薬を渡したかったんだけど、生憎切らしちまってるから」

 

「……よろしいのですか?」

 

「ああ、これくらいは協力させてくれよ」

 

 袋の中身はアップルグミやオレンジグミにパナシーアボトルといった、ごく一般的に売られている薬品だった。店主が渡したがっていた“モニカ嬢の薬”とやらはよく分からないが、事実上単独戦闘中のエリックにとっては大変ありがたい差し入れである。

 

「ありがとうございます、大切に使わせて頂きますね。あなたもどうか、お気を付けて」

 

「こっちこそ。この街のために、ありがとうよ……どこの親切な騎士様か知らないけれど、無茶するんじゃないよ!」

 

「ははは……」

 

 私は騎士ではなく、この国の王子です――そう言いたくてたまらなかったが、それどころではないし、変な混乱を生みたくない。

 

「クゥーン……」

 

「うん、お前今話せなくて良かったよ。本当に」

 

「クーッ!?」

 

 エリックはやや強めに手綱を引き、何か言いたそうにこちらを伺ってくるケルピウスを走らせた。

 

 

 

 

 住宅街を抜け、全く機能していなかった警備用の門を潜る。門を潜れば、これまでいた場所とは明らかに雰囲気の違う、煌びやかな空間が広がっている――筈だった。

 

(中央商店街はたまたま巻き込まれただけだったんだろうな……狙いはやっぱり貴族街だったか)

 

 住宅街との被害の差が大きすぎる。門付近の屋敷は比較的無事だったのだが、先に進めば進む程に被害は拡大していった。富の象徴として建ち並んでいたであろう屋敷の大半は瓦礫の山や炭と化し、無残に崩れ落ちてしまっている。

 

「クォン!」

 

「またか……! やたら数が多いな!!」

 

 現れる兵の数も、その強さもさらに増してくる。だが、簡単にやられるほどエリックは弱くない。何より、特に剣を扱う兵に関してはある程度出方が読めるのだ――何故か大半の相手はエリックと同じ、ラドクリフ王国騎士団に伝わるエルマ流剣術の使い手の者ばかりであったから。

 

「……ッ」

 

 気味の悪さを感じながらも襲いかかる兵を全て斬り伏せ、エリックは頭を振るう。そんな中、彼は砂埃のせいでやや悪い視界の先に不思議な建物を発見した。

 

 それは使われている素材こそ良いものの、貴族街の中では小さな建物であった。屋敷ではなく何かの店のようだが、品の良い外観故に浮いた存在ではない。そのためにエリックは今まで建物の存在に気付かなかったのだろう。

 だが現在、その建物は飛んでくる瓦礫や勢いを増す炎から守られるように、氷に覆われていた。

 

「な、なんだ……これ……」

 

 まるで、巨大な箱のようである。透き通った氷の美しい箱によって、建物は襲撃前と同様であろう姿を保っていた。魔術に通じていないエリックでも分かる。これは、並大抵の技術で成せる代物ではない、と。

 

(こんなの、初めて見た……家主の技、なのか……?)

 

 一体誰がこんなことを、とエリックは店を呆然と眺めていた――その時だった。

 

 

「クーッ!!」

 

「ッ!?」

 

 足元で甲高い悲鳴が上がり、身体がぐらりと大きく揺れる。何とか地面に落下する前に大勢を立て直したエリックはケルピウスから飛び降り、矢を放った。

 

「くそ……っ! 悪い、クリフォード!!」

 

 元凶を生み出した兵は倒した。しかし、エリックの視線の先でケルピウスは苦しげに身体を震わせている。彼は何とか立ち上がろうと、必死にもがいていた。

 

「クゥ……ッ、クォ……ン」

 

 右の後ろ足付近の毛が赤く染まっていく。今にも倒れそうな大きな身体を支え、エリックは右手をケルピウスの右足を貫く矢へと伸ばす。

 

「痛むだろうが、ちょっと我慢してくれ」

 

 矢を掴む右腕に力を込めれば、手のひらに焼けるような痛みが走った。気にせず、奥歯を噛み締めて一息に矢を引き抜く。血まみれになったそれを投げ捨て、右手を見れば手袋が溶けていた。矢に毒が塗られていたのだ。

 

「クー……」

 

「もう良い、もう走らなくて良い……ごめんな……」

 

 毒を受けてまで走ろうとする彼の背を撫で、その場に伏せさせる。周囲に敵兵を含む人間がいないことを確認し、エリックは彼に人の姿に戻るように促した。処置のしやすさを優先しての判断だ。

 

「……ッ、すみません……」

 

「それはこっちの台詞だ……!」

 

 早くも毒が回りつつあるのか、クリフォードは両目を固く閉ざし、ぐったりと身体を震わせている。患部は右の脹脛だ。傷付近の布地が溶けていたため、この上から処置をしても問題ないだろう。

 患部の少し上をハンカチで縛った後、パナシーアボトルの栓を抜き、中の液体を傷口にかける。だが、パナシーアボトルは効果を見せなかった。少しずつ患部が腫れ、青黒い色に変色していく。まだ毒が残っている証拠である。

 

(ッ、もう一本かければ効くか……!? いや、そもそもパナシーアボトルじゃ駄目な可能性も……)

 

 どうしたものかと狼狽えるエリックの頭に、クリフォードの手が乗せられた。

 

「エリック……すみませんが、僕を目立たない場所に運んでもらえませんか……?」

 

「え……」

 

「これでは、役に立てそうもない。僕を置いて行って、下さい」

 

 一体何を言い出すんだと叫びかけたエリックに、クリフォードは力無く、へらりと笑ってみせる。頭の上に乗せられた彼の左手は汗ばみ、酷く震えていた。

 

「ご安心を。僕は、そう簡単には死にませんから」

 

「そういう問題じゃ……!」

 

「毒には……痛みには、慣れてます……だから、平気です」

 

 その言葉にエリックは思わず目を見開き、奥歯を噛み締める。決して強がりなどではなく、彼は本当に「平気」なのだということも、彼を連れて動き回る余裕など無い以上、ここに置いて行くのが最善なのだということも、分かっている。それでも、決断を躊躇ってしまう。

 どちらにせよ、このままここにいるわけにはいかない。エリックはクリフォードを抱え、氷の箱に守られた建物の裏へと移動する。建物と瓦礫で身を隠すことができるし、この建物の傍ならば炎に飲まれることもないだろう。

 

「本当に置いて行って、大丈夫なのか?」

 

 クリフォードはその場にしゃがみこんだまま、未だ悩むエリックの頬を撫でた。

 

「お前が今、成すべきことは何ですか?」

 

「……!」

 

 身体に猛毒が回り、苦しいだろうに。彼は真剣な眼差しをエリックに向けている。

 

「行って下さい」

 

 それだけを口にして、彼は両目も口も閉ざしてしまった。

 エリックが立ち去るまでは一言も発さないという、強い意志が感じられる姿だった。

 

――その意志を、無碍には出来ない。

 

「……すまない」

 

 両拳を強く握り締め、エリックは踵を返して走り出した。

 

 

 

 

 刃を振るい、矢を放ち、エリックは立ち止まることなく走り続ける。本当にたったひとりでの戦いになってしまったが、雑貨屋店主に貰った薬が役に立った。

 

「……」

 

 とはいえ、今口に含んだアップルグミが最後の一つである。嫌いではないが少し薬品臭い、独特な風味を感じながらエリックは息を吐く。目の前には、息絶えた兵の亡骸があった。

 

「金髪の純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)……ってことは貴族か? 黒衣の龍には珍しいな……」

 

 生きた兵士とも当然出くわしたが、彼のような亡骸と遭遇することも増えてきた。黒衣の龍の紋章が刻まれた衣服を纏った金髪の兵士に外傷はほとんどない。ただ唯一、胸元を貫く小さな傷から血を流していた。なるべく苦痛を与えないように、一撃で仕留められたのだろう。

 顔をしかめつつ、エリックは男の亡骸に触れた。脈は無いが、まだ生きているのではないのかと感じるほどに暖かい。近くに、男を殺した者がいるのかもしれない。

 

(アル、か……? いや、でもアルはマルーシャを追ってるからな……じゃあ、誰だ……?)

 

 間違いなく、自分達とは違う者が動いている。目的は分からないが、利害は一致するだろう。その人物と合流できればもっと上手く立ち回れるかもしれない。エリックの足取りが軽くなる。

 

(王国騎士団の人間か? それなら話は早いんだが……)

 

 向かう先は、貴族街の中でも特に地位の高い者達が住まうエリアだ。かなり城に近付いているが、まだ少し距離がある。王国騎士団の宿舎を通り過ぎ、辿り着いたのはシャーベルグの貴族街、上層エリアとよく似たデザインの庭園だ。

 手入れの行き届いた芝やカラフルな花々が美しい場所だったのだが、今や花壇の花々は踏み荒らされ、無残に散ってしまっていた。庭園のシンボルである巨大噴水のオブジェも根元から折れてしまっている。もはやガラクタのような存在と化してしまっていた。

 

「酷い、な……」

 

 城で時々開かれるパーティから抜け出し、マルーシャと共に噴水の縁に腰掛けて時間を潰したことを思い出す。当然母や大臣達にはこっ酷く叱られたのだが、そういう場では決まって良家の女に口説かれるエリックもその女に虐められるマルーシャも、その苦痛よりはまだ叱られる方がマシだと考えていた。結果、パーティ脱走は平時の脱走に次いで常習化していた問題行動である。そういう意味では、ここの庭園はエリックにとって思い出の場所であった。ちくり、と微かに胸が痛むのを感じる。

 

「……」

 

 だが、感傷に浸っている場合ではない。頭を振るい、エリックは壊れた噴水の傍を通り過ぎようとする。人の気配を感じたのは、その時だった。

 

「誰か、いるのか?」

 

 近付くまで、全く気付かなかった。気配を殺すのが得意な人物なのだろう。剣を握り、エリックは死角となっている倒れたオブジェの裏を覗き込んだ。

 

「!?」

 

 汚れた白い衣服。目深に被ったフードの下から、長い黒髪が覗いている。死体かと思ったが、肩が動いているため生きているのだろう。しかしその人物はエリックが近付いても反応を見せない。正面に移動すれば、見慣れた顔を伺うことができた。

 

「兄、上……?」

 

 剣を手にした右手も、何も持たぬ左手もだらりと地面に投げ出されている。襲われれば、ひとたまりもないだろう。そんな状況と化した兄は、倒れたオブジェで身を隠すようにぐったりと座り込んでいた。冷や汗を流し、乱れた荒い呼吸を繰り返している。どこか苦しげな様子だ。銀色の瞳は、長い睫毛で覆い隠されている……眠っているのだろうか?

 

 エリックは一度ゾディートから離れ、周囲の様子を伺う。しかし、人の気配は全く感じられなかった。自分が来るまでの間、兄はひとりでここにいたのだろう。見張りも付けずに、眠りこけるなど兄らしくないとエリックは眉を潜める。

 

(ダリウスは一緒じゃない、のか……?)

 

 ゾディートの傍には大体ダリウスがいる。エリックが城で変わらぬ日々を過ごしていた頃から、それは変わらない。彼らの関係性は、上下関係を超えた唯一無二の相棒同士といった印象だ。特にダリウスは傍目から見てもゾディートに非常に可愛がられていることが伺えたため、幼い頃は少々羨ましく感じられたのをよく覚えている。

 そんな彼らはエリックとマルーシャが出会うより前、十年以上前から一緒にいるものだから、片方を見ると反射的にもう片方を探したくなる。だが、この旅が始まってからは単独で動くダリウスの姿も何度か見ていた。

 

「……」

 

 普段、彼らが何をしているのかは分からない。エリックが「大体一緒にいる」と思っていただけで、実際のところは別行動も多いのかもしれない。目の前で無防備な姿を晒している兄を見つめながら、エリックは奥歯を噛み締める。

 

 

『恐らく、次に会う時は敵同士。その時は、私を殺すつもりで……来い』

 

 

 脳裏を過るのは、シャーベルグでの兄の言葉。

 おもむろに、エリックは剣の切っ先をゾディートへと向けた。一歩、また一歩と、そのまま距離を縮めていく。剣を握り締めた右手が、震えていた。

 今、王都を襲っているのは黒衣の龍である。その黒衣の龍のトップは、兄であるゾディートだ。ここで自分がゾディートを殺せば、状況は大きく変わるだろう――それでも。

 

(……無抵抗の兄上を、殺すなんて)

 

 頭を振るい、剣をレーツェルに戻す。エリックはその場にしゃがみ込み、兄の顔を覗き込んだ。ここまでまじまじとゾディートの顔を見るのは初めてのことだった。

 全く血が繋がっていない兄弟故に当然と言えば当然なのだが、やはりエリックとは全く似ていない。容姿的特徴を考えれば、恐らくジェラルディーン兄弟と同じ混血の鳳凰族(キルヒェニア)なのだろう。暗舞を思わせる艷のある黒髪もそうだが、兄は肌も白い。肌の白さは鳳凰族の特徴である。とはいえ、今の兄は血の気の引いた、病的に真っ青な顔色をしていた。

 

(外傷は無いな。じゃあ、一体何故……)

 

 そんな時、兄の銀色の瞳がゆっくりと開いた。

 

「……何を、している」

 

「!?」

 

 突然話し掛けられ、驚くエリックの前でゾディートはゆっくりと立ち上がった。フードを下ろし、長い黒髪が顕になる。相変わらず顔色は悪いが、別に動けなくなっていたわけではなかったのだろう。

 

「あ、兄上こそ……! 一体、何が目的でこんなことを!?」

 

「……」

 

 エリックの問いに、ゾディートは黙って視線を逸らした。どうやら城を見ているようである。

 

「兄上!」

 

「答える義理は無いな」

 

 冷たい銀の眼差しが、エリックに刺さる。ひやりとした感覚がした――それは精神由来のものでは、なかった。バキバキ、とゾディートの足元が凍っていく。

 

「な……っ!?」

 

「――万物を白く染め上げる、麗しき氷の化身よ……契約者の名において命じる」

 

 突然の出来事に驚くエリックであったが、何より、ゾディートが口ずさむ詠唱には聞き覚えがあった。以前、アルディスが似たような文言を唱えていた記憶がある。

 

 

「汝、その大いなる力を持って、我が呼びかけに応えよ! ――セルシウス!」

 

 

 ゾディートの持つ刃が、彼の腕が氷に包まれる。冷気は庭園全体を包み込み、周囲に巨大な柵を生み出した。エリックを逃がすまいとしているのだろう。一層冷たさの増した兄の瞳に、困惑するエリックの表情が映り込む。

 

「お前の為すべきことは何だ? 悩む暇があるなら剣を取れ!」

 

「兄上……!」

 

 嗚呼、どうしても、自分は兄と戦わなくてはならないのか――行き場の無い悲しみが、胸にこみ上げてくる。エリックは奥歯を噛み締め、首元のレーツェルに触れた。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.71 氷纏いし兄騎士と癒えぬ傷

 

 兄はセルシウスの名を叫んだが、セルシウスの姿は見えない。しかし、彼の氷に覆われた手首にはこれまでには無かったバングルが控えめに存在を主張していた。あれは、アルディスやマルーシャが着けていた物と同じバングルである。石の色を見ても、あれはセルシウスの契約者が身に付ける装飾品であると判断して間違いないだろう。

 

「……」

 

 ゾディートは何も言わず、右手で握っていた剣の柄に左手を這わせた。そのまま柄を握り込めば、固定するかのように氷に包み込まれていく。あれでは、短剣を握ることはできない。彼は、エリックと同じ長剣と短剣を使う戦い方、もしくは左手に鞘を持つ戦い方をしていたというのに。

 

(両手持ちで戦う、のか……? セルシウス契約の影響か?)

 

 構えが違うのならば、スウェーラルでの戦いと同じ戦法――それは必然的にエリックと同様のものだ――で来ることは無いだろう。どちらにせよ、兄に敵意があることは間違いない。思わぬ不意打ちを受けないように、右手と両足に意識を向けたまま、エリックはゾディートの出方を伺う。ゾディートの一層冷たさの増した瞳が、エリックを捉えたかと思えば、彼の姿が消えた。

 

「ッ!」

 

「――ストレッタ!」

 

 次の瞬間、ゾディートの剣はエリックの目の前に迫っていた。エリックは辛うじてそれを短剣で受け流すが、兄はすぐさま踵を返し、低い位置から再び斬りかかってきた!

 

(早い……ッ)

 

 咄嗟に身体を逸らすも、完全には避けきれなかった。服の布地が裂け、抉られた左肩から血が吹き出す。痛みに顔をしかめつつも、エリックは大きく後ろに飛躍した。

 ゾディートの技は魔術に近い感覚もあったものの、基本的にはアルディスやクリフォードが得意とするような体全体を使った素早い連撃だった。このような連撃はエルマ流剣術をはじめとした龍王族(ヴィーゲニア)の戦術ではあまり見られないものだ。だが、恐らく兄は鳳凰族(キルヒェニア)である。元々、このような戦闘スタイルの方が合っていたのかもしれない。

 

「――アナクルーシス!」

 

 エリックの着地点目掛けて、飛んできたのは冷気を纏った衝撃波。それを剣で薙ぎ払い、ゾディートが距離を詰めてくるのを待ち構える。

 

「――獅子戦吼(ししせんこう)!」

 

「――リフレイン!」

 

 放つのは、獅子を模した闘気。それをゾディートは切っ先から生み出した無数の氷の刃で打ち消す――が、威力不足だったのだろう。彼は消しきれなかった闘気を氷に包まれた剣で受け止めた。ずりり、と彼の足元で砂利が音を鳴らす。息を漏らす声が聞こえたため、少なからずダメージを受けたらしいことは分かった。

 

「スウェーラルでお会いした時と比べれば、私も強くなったと思いますよ。あの時のように、何も出来ないまま倒れはしない!」

 

 エリックは強く地を蹴り、大きく飛躍した。手にした刃に纏うは、雷。

 

「――雷牙召令(らいがしょうじん)!」

 

 真下のゾディートに突き立てるように、剣を振り下ろす。大きな動作故、当然ながらゾディートは後ろに飛んでそれをかわした。だが、この技は斬撃が目的ではない!

 

「ッ、ち……っ」

 

 刃が地面と接触したその瞬間。バチリと青い火花が散り、地から眩い雷が上がった。ゾディートの腕を守る氷が激しく砕け散る。飛び散った破片が光を受け、青く瞬いた。怯んだゾディートの懐に入り込み、エリックは剣を前方に突き出す。

 

「――光龍槍(こうりゅうそう)!」

 

 エリックの突き出した剣が魔力を纏い、光の槍と化す。ゾディートは咄嗟に剣の柄でそれを受け止めるが、衝撃で大きく後ろに飛ばされてしまった。しかし、その程度で倒れ、剣を落とすほど彼はひ弱ではない。

 

「ふ……そのようだな」

 

 不敵な笑みを浮かべた彼の周囲で、鮮やかな下位精霊達が舞う。見覚えのある光景に、エリックはハッとした。

 

精霊術師(フェアトラーカー)……ッ!?)

 

 鳳凰族(キルヒェニア)でありながら、騎士として果敢に戦う兄。その力の源は、精霊達にあったのだ。精霊術師(フェアトラーカー)は腕力や持久力、跳躍力を得る等、精霊達の力を借りることによって限度はあれども自身の肉体的限界を超えることを可能とする。驚きはしたが、むしろ彼の持つ力の理由が知れて良かったと思う。精霊達が上空に戻るのと同時に、エリックは彼の元へと駆けた。それを、再び腕を氷に覆われた兄が待ち受ける。

 

「――具現せよ、氷結の牢獄!」

 

 エリックの前方を、否、周囲を氷の柱が取り囲む。一瞬の出来事にエリックは怯んでしまったが、落ち着いて前方の柱を砕きにかかった――だが、

 

「――フィデリオ!」

 

 柱を砕いたのは、エリックではない。ゾディートだった。彼はたった一閃でエリックの周囲を囲む全ての柱を両断したのだ。もちろん、中心にいたエリックも無事ではない。瞬時の判断で身体を捻って致命傷を負うことこそ防いだものの、左腕に深い傷を負ってしまった。

 

「ぐ……っ」

 

 短剣が左腕から滑り落ち、刃を傷口から流れる鮮血が染め上げていく。燃えるような痛みに顔を歪めつつもエリックは右腕に力を込め、握る剣の切っ先を地面に突き立てた。

 

「――神羅昇華(しんらしょうか)氷乱(ひょうらん)!」

 

 地面から飛び出したのは、槍を思わせる鋭さを持った氷の柱。それらは直線上に次々と出現し、ゾディートに襲いかかる!

 

「ッ! ――テトラコード!」

 

 かわしきれないと判断したのだろう。彼は大きく飛躍し、襲いかかる氷の槍を次々と破壊しながら空中を自在に駆ける。翼があるのではないかと思うほどの、軽やかな剣捌きだった。氷の槍を砕きつくし、彼はそのままエリックに斬り掛かる。しかし、先程まではそこにいたはずの弟の姿が無かった。

 

「――飛天翔駆(ひてんしょうく)!」

 

 声が聞こえたのは背後。振り返るも、迫り来るは闘気を纏った弟の姿。瞬きをも許さぬ刹那の瞬間の出来事。受け流す余裕は、無い!

 

「ぐっ!? がは……っ!!」

 

 ゾディートが纏う氷が砕け、鮮血と共に舞い散る。致命的な傷を負わせることは叶わなかったものの、刃はゾディートの右腕を傷付け、脇腹を貫いていた。

 エリックは空中で体制を立て直し、地面に叩きつけられた兄から距離を取る。その背にあった光の翼を消し、べったりと刃にまとわりついた血を払った。

 

「そうか、覚醒、したのか……いや、お前の場合は擬似覚醒か……」

 

 消えた翼を見て、ゾディートは苦痛に顔を歪めながらも呟く。脇腹から血を流しながらも、彼は立ち上がった。まだ戦意を失ったわけではないらしい。

 

「兄上は私の身体のこと……ご存知、だったのですか?」

 

「……」

 

「兄上……!」

 

 エリックの身体には、いるはずの体内精霊がいないということ。それ故に身体が不安定で、病弱な体質と化していること。どうやら兄は、それを知っていたらしい。語ろうとしない兄に向かって声を荒げれば、彼はふっと肩の力を抜き、不敵に微笑んでみせた。

 

 

「知っているに決まっている。お前の身体がそうなった原因は……お前がこれまでに味わってきた苦しみの元凶は全て、この私にあるのだからな!」

 

 

 ドクン、と心臓が一際大きく鼓動したのを、エリックは感じ取った。

 

「え……」

 

 氷に囲まれているが故に、肌寒い風が肌を撫でる。兄の黒髪がさらりと動き、彼の綺麗な顔を隠す。その直後、驚きのあまり固まってしまったエリック相手でも容赦しないと言わんばかりに、兄が駆け出した。

 

「どうした? 先程までの威勢はどこに行った?」

 

 流石に剣を振るわれればそれを受け止めるだけの気力はあった。だが、それ以外頭が働かない。防戦一方になってしまったエリックを煽りながらも、キリがないと判断したゾディートは軽く距離を取り、エリックに向けて切っ先を向けた。

 

「私はお前が得られる筈だった名誉を、幸せを台無しにしたも同然……アベル、私が憎いのではないか? ――リフレイン!」

 

 放たれたのは、無数の氷の刃。それらを薙ぎ払い、エリックはゾディートに向かって叫ぶ。

 

「それが本当だと言うのであれば、その目的は一体何なのですか!?」

 

「……さあな」

 

「兄上……ッ」

 

 肝心な部分は、答えてくれないらしい。ゾディートは脇腹に傷を負っているにも関わらず、変わらず涼しい顔をしていた。

 

 エリックが体内精霊を失った理由はゾディートにある。これが真実だとするならば、その背景には一体何があったのか。

 確かにエリックが味わってきた苦しみは体内精霊の欠落が原因だと言い切っても良い。確かに憎悪を呼び起こす話ではある。だが、だからと言ってここでゾディートに負の感情をぶつける理由にはならないのだ。

 

「……来ないのか? 私が憎いだろう?」

 

「いいえ」

 

 そう言い切ってみせれば、ゾディートは目を丸くして驚いた表情を見せる。しかし、それはほんの僅かな出来事であった。彼は頭を振るい、無表情でエリックを見据えて口を開いた。

 

「何故だ?」

 

「兄上」

 

 何となく、何となくだが。以前、体験した出来事とゾディートの発言が繋がった。その時とは異なり、理由は全く見当も付かないのだが……きっと、そうなのだろう。

 ゾディートの問いには、答えない。答えるつもりもない。エリックは軽く息を吐き、口を開いた。

 

 

「兄上は、私に殺されたいのですか?」

 

――兄の発言が、フェルリオ城でのアルディスの行動と重なって見えたのだ。

 

 

「な……」

 

 フェルリオ城にて、エリックに殺されようと立ち回ったアルディス。世界平和のために、戦争を起こさないために、ひとりの王による政治が行われるべきだ、自分は死ぬべきだと彼は決意し、エリックに刃を向けた。その際に彼は、あえてエリックを怒らせるような行為を繰り返した。そんなアルディスと、今のゾディートが重なって見えたのだ。

 

「違いますか?」

 

 エリックの問いかけに、ゾディートは答えない。剣を下ろすこともない。

 

「もしそうだと思うのなら、私を殺してみるといい。殺せるものならな」

 

「そうですね。あなたは、とても強い。簡単なことではないでしょう……だから、変に手を抜かないで下さいね」

 

 何を言っている、と言わんばかりにゾディートは不敵な微笑を浮かべ、地を蹴って駆け出した。戦いは、まだ続くということだ。彼の戦意は、決して途切れない。

 

(気のせい、だったんだろうか……)

 

 どちらにせよ、ここで彼と戦い続けていてはいつまで経っても先に進めない。どうにかして突破しなければならない。防戦一方では駄目なのだ。

 近付いて来るゾディートの動向を伺いつつ、エリックは腰を低く落とした。ふたりの距離が狭まっていく。ゾディートが間合いに入った、その刹那。エリックは両足をバネのように使って一気に飛び上がった!

 

「――閃空(せんくう)翔烈破(しょうれっぱ)!」

 

 身体ごと回転し、位置を変えていく刃をかわすためにゾディートは後方に飛躍する、否、その目的は攻撃を回避するためではなかった。その勢いのまま、彼はエリック同様に上空へと飛んだ。

 

「――テトラコード!」

 

 竜巻のように刃を振るうエリックの懐に、ゾディートは氷を纏った剣と共に突っ込んできた。当然ながら、エリックの剣はゾディートの肉体を傷付ける。しかしエリックは上空。翼も出しておらず、まともに反撃も防御も出来ない状態だった。ゾディートの剣が、エリックの腹を斬り裂く。吹き出す血には目もくれず、エリックは重力を利用して身体をぐるりと縦に回転させた。

 

「――裂空斬(れっくうざん)!」

 

 回転した先には、ゾディートの姿があった。このまま行けば彼を両断することができるだろうが、当然ながらそんなに簡単にはいかない。ゾディートはエリック同様に重力を利用し、身体を翻す。狙いが外れ、エリックはゾディートからかなり離れた位置に着地した。とはいえ、どちらかといえば距離を取ることが目的であったため、別に構わない。空中戦となると、不意を付かない限りはゾディートに有利に働いてしまうとエリックは察したのだ。上手く、陸上のみで戦うべきだろう。

 

 ぼたり、ぼたりと身体のいたることころから血が流れ落ちる。少々攻撃を受け過ぎたかもしれない。それはエリック、ゾディート両者に共通する話であった。体力的にも、そろそろ厳しいものがある。早く、決着を付けなければ――何かが砕ける音が聴こえたのは、その時だった。

 

(兄上……ッ!?)

 

 砕けたのは、兄の身体と剣を覆う氷だった。庭園を囲む氷の壁にも、少しずつヒビが入り始めている。

 

「ッ、は……っ、く……っ!」

 

 ゾディートの手から、剣が滑り落ちた。そのまま、彼は崩れ落ちるように地面に両膝を着いた。左腕はだらりと地面に触れており、右腕は喉元の布地を強く握りしめている。荒い呼吸を繰り返しながら、彼はそのままうつ伏せに倒れてしまった。

 

「あ、兄上……!」

 

 傷口を押さえるのではなく、喉元を押さえている。つまり、戦いで負った傷以外で彼は苦しんでいる。エリックは思わず駆け寄ろうとして、足を止めた。

 

 

――もし、これが演技であったなら?

 

 

 エリックの脳裏に、そんな考えが浮かぶ。ここで不容易な行動を取るべきではない。アルディスとの戦いで学んだことでもある。敵に情けをかけるな、と。

 

(兄上は……敵、なのか?)

 

 分からない。彼は、何も言ってくれないから。

 遠目に見ても苦しげな様子を見せる兄の姿。その意味も、理由も、エリックには分からない。

 

「……」

 

 剣の柄を、いつでも振るえるように強く握り締める。その上でエリックはゾディートに近付いていった。

 

「ぐ……っ! う、ッ……は、ぁ……」

 

 近付けば近付く程に、苦しげな声が聞こえてくる。黒い髪の間から覗く白い肌には、冷や汗が滲んでいた。白い衣服は、赤く色を変えていく。

 

「兄上……」

 

 残り二メートル程度まで距離を狭めたところで、エリックは剣の切っ先を兄の顔へと向けた。頭を過るのは、兄と戦う直前にも考えたことだ。

 

 自分は今ここで、黒衣の龍団長であるゾディートを殺すべきなのではないか、と……。

 

 ここで見逃して先に進むという選択肢は、後々兄が驚異として立ちはだかる危険性をはらんでいる。エリック自身、何度も彼と戦える程の気力はない。既に限界が近いのだ。見逃した結果、仲間達の誰かが危険な目に合う可能性もある……それは、彼が“敵”であったならの話ではあるが、敵か味方かの判断が出来ない状態である以上、ゾディートという脅威を放置して先に進むわけにはいかないだろう。

 ならば、しばらくは動けなくなるような、そんな傷を負わせれば良い。我ながら残酷な選択だとは思いつつ、エリックはゾディートに歩み寄った――その時だった!

 

「がはっ!?」

 

 鈍い音と共に、鈍器で思いきり殴られたかのような強烈な痛みを腹部に感じた。衝撃でエリックは後ろに吹き飛ばされ、崩れかけていた氷の壁に衝突する。

 砕けたのは、背後の壁か、自身の骨か。喉の奥から、血の混じった胃液が逆流してくる。息が出来ない――そんなエリックの耳に届いたのは、痛々しい咆哮だった。

 

「がっ、あああぁあああッ!!」

 

 生理的な涙で滲んだ視界が捉えたのは、ゾディートの前で横向きに転がったダリウスの姿だった。

 

「ッ、ダリ……ウス……!」

 

 エリックは何とか身体を起こそうとする。それだけで息が止まる程の激痛が走り、意識が飛びそうだった。腹部を見れば、べったりと血が付着している。折れた骨が皮膚を突き破ったのかと背筋が凍りついたが、そうではない。そもそもそれは、自分の血では無かった。それに気付いたエリックは両目を擦り、地面に転がり苦しむダリウスへと視線を向ける。

 

「あッ、ぐぅう……っ、がっ、ぁ……」

 

 彼はいつものように、上空から現れたのだろう。そしてゾディートに刃を振り下ろさんとする自分を見つけ、間に入って自分を蹴り飛ばしたのだとエリックは理解した。だが、問題は自分を蹴り飛ばしたと思われる足だ――彼の左足は数多の木片が突き刺さった上に火傷とこびりついた血で赤黒く染まり、酷く腫れ上がっていた。

 止血のためか彼が普段顔を覆っている布が乱雑に太腿辺りに巻かれていたが、もはや意味を成していない。それ程に酷い有様であった。

 あれだけの威力の蹴りを放つならば、片足を軸足にしなければならない。つまりダリウスは、無事な右足を軸足にし、あの無残な状態と化している左足でエリックを蹴り飛ばしたのだ。そんなことをすれば、結果は見えている。ゾディートへの忠誠心故に成せたのだろうが、並大抵の精神では真似できない行為だ。

 

 飛びそうになる意識を何とか引き止めながら、エリックはゆっくりと立ち上がる。気が狂いそうになる程の激痛こそ健在だが、足や腕は動く。一方的にやられることは無いだろう。

 

「くそ……っ」

 

 エリックが立ち上がるのを見て、ダリウスもゆらりと身体を起こす。一方的にやられてしまっては困るのは、彼も同じだということだ。

 

(何があったんだ、あれは……)

 

 自身を棚に上げて同情してしまいたくなる程に、ダリウスは既に満身創痍だった。

 衣服は滅茶苦茶に破れ、焼け焦げ、彼の上半身を半分ほど晒している。辛うじて『シャーベルグで着ていた衣服と同じ物だ』とは分かるが、酷く損傷してしまっていた。そしてそれは、彼自身も同様であった。

 右足のみで立ち上がりはしたものの、痛みが収まらないのか荒い呼吸を繰り返す彼は背に大火傷を負っており、身体には足同様いたる所に木片が突き刺さっている。爆発か何かに巻き込まれたらしい彼は、自身の左足に視線を向けて舌打ちした。

 

(あれを治さないってことは、精霊術を使う体力も無いってこと、だよな……)

 

 左足の負傷は彼にとって致命的なのではないか、とエリックは思う。ダリウスは格闘技、それも足技をメインとした格闘家だ。彼の場合、両足が使えなければ話にならない。拳を使って戦うにしろ、拳に体重を乗せるにはどう足掻いても両足が必要だ。そんなことは、恐らく本人も分かっているのだろう。何とか左足を動かそうとしているようだが、先程の一撃が仇となったようだ。全く使い物にならないらしい。

 

 自分も大概に厳しい状況ではあるものの、ダリウスに比べればまだ動ける。剣を手にしたまま、エリックはゆっくりとダリウスに歩み寄った。走ることは、出来そうにない。

 

「ッ、く……っ!」

 

 何とかしなければ、と考えたのだろう。彼はズボンのポケットからレーツェルを取り出し、細身の長剣を出現させた。イチハの持つ刀と非常によく似たそれは、カルチェ山脈でポプリに渡していた、あの剣だ。

 

「なっ、お前……!」

 

 ポプリから簡単に話は聞いているが、ダリウスは元々剣士だったそうだ。しかし彼はあることがきっかけで剣が使えなくなり、格闘技を使って戦うようになったらしい。

 

「……ッ」

 

 左手で剣の柄を握り、右手で鞘を握る。両目が固く閉ざされている上、彼の手は酷く震えていた。何故か、剣を抜くことを恐れている。それでも戦わねばならないのだと、自身に言い聞かせているらしい。しかし、鯉口を切る音を聞いた瞬間に彼の様子は一変した。

 

 

「ひ……っ、……ッ!?」

 

 聞こえたのは、ダリウスらしからぬ弱々しい声。それでも何とか剣を抜こうとしていたが、鞘からはばきの部分が出切った瞬間、彼の精神は限界を迎えてしまった。

 

「い、いやだ……ッ、いやだ、やめろ……!!」

 

 彼の手から離れた剣がレーツェルに戻り、地面に落ちてカツンと乾いた音を鳴らした。ダリウスが両膝を付いたのは、その直後だった。

 

「やめろ……いやだ、やめてくれ、もう……許してくれ……!」

 

 傍目から見ても、酷く震えている。明らかに正気ではない。剣を抜いたことにより、過去の出来事がフラッシュバックしたと考えるのが適当な状況だろう。両目を閉ざし、頭を抱える彼の姿からは、普段の勝気な様子は全く伺うことは出来ない。それどころか、ただただ痛々しい姿を晒していた。

 

「……」

 

 思わず、エリックはダリウスから距離を取った。ブリランテで怯え、震えていた彼の弟の姿が脳裏を過ぎったのだ。自分の容姿はきっと、彼の心の傷を刺激してしまう。彼の容姿がクリフォードと似ていることもあって、戦意など抱ける筈も無かった。

 エリックが武器をレーツェルに戻しても、ダリウスは変わらず震え続けている。そこでエリックは気付いた。ダリウスの身体には、おびただしい程の傷跡があるということに。

 

(刃物で傷付けられたもの、だよな……だけど、あれは……)

 

 それらの大半は切り傷であった。傷跡がくっきりと残る程の深さであったことは間違いないのだろうが、命を奪うものとしてはあまりにも浅い――錯乱した彼が口にする懇願の言葉からして恐らく彼には、心に深い傷を残す程の残虐な拷問を受けた経験があるのだ。

 詳細は全く分からないが、拷問の記憶が『剣を抜く』という動作と何かしら関連しているのだろう。そうでなければ、彼があのような姿を晒す筈がない。

 

 どうしたものか、とエリックは考える。敵に情けをかけるなとは言うが、未だ懇願の言葉を呟き続ける今のダリウスにはとてもではないが襲い掛かる気にはなれない。このまま先に行くには、自分自身あまりにも深手を負いすぎた。それでも、ここで立ち止まっていては何も変わらない。

 

「――万物に宿りし精霊よ。汝らが伝承に刻まれし祝福の言ノ葉を今ここに刻め」

 

「!?」

 

 不意に、ゾディートの声が聞こえてきた。聞いたことのない詠唱だが、魔法陣がダリウスの真下に展開されている以上、何らかの支援的効果をもたらす術なのだろう。ゾディートはゆっくりと身体を起こし、ダリウスの頭を撫でた。

 

「――フォークロア・ブリス」

 

 エリックが止める間も無く、詠唱が完成する。魔法陣が弾け、刻まれた紋様が鮮やかな花びらへと姿を変えた。花びらはダリウスの傷に触れ、そこにあった傷ごと消えていく。

 

「ッ、殿、下……?」

 

 急に痛みが引いたことによって、正気を取り戻したらしい。顔を上げたダリウスの後ろで、ドサリとゾディートが崩れ落ちる。

 

「殿下……!!」

 

 今度は完全に意識を手放してしまったらしいゾディートの身体を揺すり、ダリウスが叫ぶ。流石に傷が深すぎたのか、治癒術の効果が薄かったのか。ダリウスの身体には治りきらなかった傷が多く残っていた。足の方も少しはマシになったか酷い有様で、結局戦える状況ではない。ゾディートはあくまでもダリウスを正気に戻すためだけに治癒術を使ったのだろう。その結果、彼の身体は限界を迎えてしまったようだが。

 

「……」

 

 ダリウスは転がったレーツェルを再びポケットに戻し、ゾディートを抱えた後、エリックを一瞥する。エリックに戦意が無いことに気付いたらしい彼は、口の動きだけで何かを訴え、上空から急降下してきたマッセルにそのまま飛び乗ってどこかへ行ってしまった。

 

「ダリウス……兄上……」

 

 シャーベルグでもそうだったが、兄は治癒術を使えるらしい。クリフォードのような例外や精霊術師(フェアトラーカー)の精霊術を除けば、通常治癒術はそれに関連する特殊能力の使い手以外には使用できないものだ。一体何故、兄は治癒術を使えるのだろうか。

 

(……それに、見間違えじゃなければ……)

 

 最後に残したダリウスの言葉は恐らく『すまない、感謝する』だった。情けを掛けたことに対する言葉なのかもしれないが、根本的に敵に送る言葉としてはふさわしくないものである。本当に、彼らの目的が読めない。

 

 

「ッ、ぐ……っ」

 

 脅威が去ったことによって、気が抜けてしまったのだろうか。身体が酷くぐらついた。このままではいけないと何とか足を踏ん張るが、今度は意識が朦朧としてくる。そんな時、ぽたり、ぽたりと何かが頬を濡らした。

 

「あ、め……?」

 

 天から落ちる冷たい雫。それは次第に勢いを増し、エリックの服を濡らしていく。服が濡れたことによる、ほんのかすかな重みが、エリックの膝を折った。もう、限界だった。

 

(ああ、でも……これで、火は消える。火災は、収まる……良かっ、た……)

 

 冷たい地面に崩れ落ちたエリックの瞼が、少しずつ落ちていく。遠ざかっていく意識の中、ディアナの声を聞いた気がした。

 

 

 

―――― To be continued.



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Tune.72 漆黒の翼

 

 沈んでいた意識が、少しずつ上昇していく。瞼を開ければ、見慣れた白い天井が視界に入った。

 

(あれ……ここは……)

 

 そこが、エリックの自室であるということに気付くのはそう難しいことではない。電気が落とされ、暗い室内。寝かされていたベッドからゆっくりと身体を起こすと、「まだ寝ておけ」と声が掛かった。

 

「ディアナ、か……?」

 

「ああ。倒れていたから、驚いた……目覚めてくれて、良かった」

 

 寝ておけとは言われたものの、ディアナ以外の人の気配に気付いたエリックは辺りを見回した。床に敷かれた布団の上で、ポプリとマルーシャがすやすやと眠っている――これは一体、どういう状況なのだろう?

 

「でぃ、ディアナ……?」

 

「ちなみにアルは上だ」

 

「上!?」

 

 上、というと屋根である。アルディスは屋根の上に寝袋を持って上がり、そこで就寝中らしい。雨は上がっているものの、どうしてわざわざそんなことをしているのだろうか。そんなエリックの疑問を察したのか、ディアナは顔を引きつらせながらこう言った。

 

「ほら……ゼノビア陛下が寝ている間に来たら、うん……その……」

 

「みなまで言うな」

 

 凄まじく失礼な話ではあるが、仕方がない。こればかりは仕方がない。自分の母に親友が誘拐される等という緊急事態は全力で回避したいため、むしろ屋根の上に上がってくれてありがたい。

 

「アルのことは、とりあえず置いておくぞ……お互いが持つ情報を整理したいんだ。寝る気がないのなら、少し私と話をしないか?」

 

 頭を抱えるエリックの傍に、ディアナが音もなく静かに飛んできた。その表情からして、恐らくあまり良い話は聞かせてもらえないのだろう。覚悟を決め、エリックは頷いた。

 

「多分、僕の方が話す内容はあっさりしてるかな……クリフォードがいない理由も説明しておいた方が良いだろうから、先に話をさせてくれ」

 

 ライオネルとイチハの姿は見えないが、それ以外のメンバーは揃っている。そのこともあって、エリックは先に自分達側であった出来事についてディアナに説明した。

 

 

「分かった、ジャンのところへは私が後で行ってくる。あなたはもう少し休んだ方が良い」

 

 クリフォードに関しては後でディアナが様子を見に行くことになった。貧血を起こしているのかエリック自身が本調子ではないためだ。その貧血を起こした理由について語れば、ディアナは神妙な面持ちで口を開いた。

 

「その……ダリウスの傷は私達が原因だったりする」

 

「ど、どういうことだ?」

 

「……そうだな。マルーシャが目覚める前に、話しておくべきだろう」

 

 エリック視点では、『ゾディートと一戦を交えた後、重傷を負ったダリウスが乱入してきた』という話になるのだが、ディアナ側では少し事情が異なるらしい。彼女は頭の中で言葉を整理した後、静かに口を開いた。

 

 

「私達がマルーシャに追いついた頃には、マルーシャのご両親はもう……亡くなっていたそうだ」

 

「え……」

 

「マルーシャが燃え盛る屋敷に駆け込み、その後に何故かダリウスが入っていった。私達も突入するつもりだったが、その前に屋敷の入口付近が崩壊してしまってな……」

 

 マルーシャの両親、クレールとビアンカの顔が脳裏を過る。エリック自身はそこまで親密な付き合いは無かったものの、流石に知人の死となると胸が痛む。だが、それ以上に彼らの“娘”であるマルーシャのことが気になった。

 

「それ、マルーシャは……」

 

「知っている……というより、彼女はご両親の亡骸をその目で見ているそうだ。ショックで気を失ったらしい彼女を屋敷から引っ張り出してくれたのがダリウスだな」

 

「……」

 

 ちらりとエリックは眠るマルーシャの姿を見た。彼女は何故か首元に包帯を巻いているが、それだけである。燃え盛る屋敷に飛び込んだとは思えない姿だった。

 

「ダリウスは、ウィルナビス男爵と知り合いだったんだ。アイツも多分、夫妻の無事を確かめたかったんだろうな」

 

「そう、だったのか……マルーシャを助けに入った様子では無かったから、気にはなっていたんだ。そういうことか」

 

 ディアナの話によると、マルーシャを抱えたダリウスは精霊術で壁を壊して強引に屋敷から脱出したのは良いものの、運悪く近くの風車が崩れ、その下敷きになってしまったらしい。

 

「身動きの取れないダリウスの指示で、私はやむを得ずファイアボールで瓦礫を飛ばした。当然彼は火傷を負ったし、それ以前に崩れた風車によって酷い傷を負っていた……なのに、彼はゾディート殿下を助けに行くと言って飛び去ってしまった。いくらなんでも無謀だったし、マルーシャが助かったのはあの人のお蔭だったから、私は彼の後を追ったんだ」

 

「……そう、だったのか」

 

「ダリウスには追い付けなかったんだが、ちょうど倒れたあなたを発見したから、追いかけて良かったとは思っているよ。皆と合流できたしな」

 

 ゾディートが作り出した氷の壁は様々な場所から見えるものだったらしく、ディアナが到着した後、ポプリとライオネル、チャッピーの姿をしたイチハと彼が運ぶマルーシャが壁を目印に庭園までやって来たそうだ。

 ダリウスの事情を知り、エリックは何とも言えない複雑な気持ちになってしまった。そんなエリックを見て、ディアナは躊躇いがちに話を続ける。

 

 

「ところがライオネルが時間切れで発作を起こし、イチハはそのライオネルを船まで運んでいき、イチハと一緒に来るはずだったアルは来ないし、あなたとマルーシャは気絶しているし、ライオネルに担がれて魔術連発させられてたらしいポプリも魔力切れで倒れるし、ついでにあなたと一緒にいるはずのジャンはいない……という、さらなる緊急事態が発生した」

 

「……お、おう」

 

 複雑な気持ちになっている場合ではなかった。後から話だけ聞く分には緊急事態過ぎて逆に面白いのだが、彼女にとってはそれどころでは無かったはずだ。

 つまり集まったのは良いが、ディアナしか動ける人間がいなかったのだ。アルディスとクリフォードにいたっては安否不明である。残されたのが彼女だけという時点で、ここルネリアルでは場を動くことすら困難だっただろう。

 

「そ、それ、どうしたんだ……!?」

 

 しかし今現在、皆はエリックの部屋に集合している。安否不明だったアルディスも屋根上なら無事だったのだろう。どうやってその緊急事態を脱したのかと問えば、ディアナは軽く首を傾げながら、かなり言葉に悩みながら語り始めた。

 

 

「何か……二メートル近くありそうな、マッチョな男達……ライオネルと外見的特徴がよく似ていたから戦舞(バーサーカー)だと思う。同じ顔してたから、双子だろうな……えーと、つまり、戦舞が二人やってきて……」

 

「ん?」

 

「双子の『兄』と呼ばれた方は気を失ったアルを小脇に抱えてた」

 

「えっ」

 

「『兄』って呼ばれてた方はそのまま反対の腕でエリックも抱えてくれて、『弟』って呼ばれてた方がマルーシャとポプリと、それから私を肩車してくれた」

 

「お、おぅ?」

 

「城まで運んでくれたんだが、城内に入れなかったからとりあえずエリックの部屋まで運んでくれた」

 

「ちょっと待て、色々待ってくれ!」

 

 本当に色々待って欲しかった。まだ何か言いたそうなディアナを静止し、エリックはゆっくりと深呼吸する。

 

「ふ、双子の戦舞(バーサーカー)?」

 

「ああ。黒い服を着ていた」

 

「服はどうでも良いな。えーと、そいつらがアルを抱えてやってきた」

 

「兵士相手に無双してたそうなんだが、途中で呪いの影響で動けなくなってしまったそうなんだ。そんな絶体絶命な時に、その、双子が」

 

 謎の双子はアルディスのことも助けてくれたらしかった。しかし、アルディスが彼らに回収されたのはどうやら気を失った後らしく、結局謎の双子を見たのはディアナだけらしい。そして困ったことにディアナもよく分からないまま運ばれているらしかった――そのまま変なところに連れて行かれたら、この娘、一体どうしたのだろうか……。

 

「気になったのは、エリックが王子だと分かっている様子だったことだ」

 

「それは僕も気になった。城に連れて来てくれたんだろう?」

 

「入れなかったけどな。ゼノビア陛下も面会謝絶とのことだった……多分、あなたが行っても駄目だと思う」

 

 どういうことだとエリックが問えば、ディアナは「気を悪くしないでくれ」と前置きした後、口を開く。

 

「これは、双子の戦舞(バーサーカー)が言っていたことだ。だが、城門前にいた兵士の反応からして間違いないと思う……裏切り者がいたんだと。内部に」

 

「え……」

 

「今回のこの騒動。確かに黒衣の龍の人間も混ざっていたそうだが、主体となったのは彼らではなく、黒衣の龍に扮した王国騎士団だったそうだ。事情はよく分からない。主犯と思われる人間は捕まったそうだが、落ち着くまでゼノビア陛下は面会謝絶という形を取るらしい。エリック、それはあなたも例外ではないそうだ……何せ主犯の人間は、陛下の側近だったらしいからな」

 

「……」

 

 語られた真相に、エリックは絶句してしまった。だが、納得は出来る。襲撃に王国騎士団が全く動かなかったこと、明らかに貴族と思わしき人間が黒衣の龍の装束をまとって死んでいたこと、庭園のすぐ傍にあった騎士団の宿舎が無事であったこと――王国騎士団が黒であったとするならば、この辺りの事象に説明が付く。

 

「エリック……」

 

 心配そうに顔を覗き込んでくるディアナの頭を「大丈夫だ」と言って撫でる。だが、今後のことを考えればどうにかこの件に関する情報を収集した方が良いかもしれない。エリックはベッドから降り、寝ているポプリとマルーシャに気をつけながらドアへと向かう。

 

「お、おい!」

 

「その話聞いたら、さっさとクリフォード回収した方が良いかな、と……何が敵になるか、現状さっぱり分からない」

 

「わ、私が行くとさっき……!」

 

「クリフォード運べるのは僕しかいないと思うぞ」

 

 見に行くだけなら出来るだろうが、と笑いかければ、ディアナは奥歯を噛み締めて悔しそうに「う……」と声を漏らした。

 

「私が戦舞(バーサーカー)双子くらいのマッチョだったら……」

 

「そんなお前、僕は見たくないぞ僕……!」

 

 マッチョなディアナって何だ。ホラーか。

 そう言って寄ってきたディアナの額を突けば、彼女は「そういえば」と口を開いた。何かを思い出したらしい。

 

「あの双子、『漆黒の翼』って名乗ってたぞ」

 

「……。これ以上よく分からない情報いらなかったかな……」

 

「あと何かあったんだが……わ、忘れた……」

 

「おい……」

 

 

 

 

 エリックはディアナと共に貴族街の入口へとやってきた。先程軽く彼女に治癒術を掛けてもらったため、身体の方はもう問題ないだろう。

 この辺りは普段ならば街灯で明るく照らされているのだが、その街灯はひとつ残らず折れてしまっていた。そのため、すっかり日の落ちた街は真っ暗で、ディアナが灯してくれたタロットの火だけが頼りだった。

 

「あった、あの家だ……氷は、無くなってるな」

 

 氷の箱に守られていた建物は、昼間と変わらず無事な姿を保ち、明かりが灯されていた。住民も無事だったのだろう。物音を立てないように気を付けつつ、エリックは建物の裏へとまわる。

 

「あれ……?」

 

 しかし、そこにいる筈のクリフォードがいないのだ。あの足でどこかに行けるとは思えず、嫌な予感が脳裏を過ぎったエリックの頬を冷や汗が流れる。

 

「お、おい! 建物間違えたとかじゃないだろうな!?」

 

「いやいやいや、それはない……!」

 

 何しろ、周りが崩れている中で一軒だけ無事な建物である。いくら氷の箱が無くなっていようと、見間違える筈が無い。何かに巻き込まれたのだろうか、まさか拐われてしまったのだろうかと狼狽えるエリック達の後ろで、ガラリと窓が開いた。

 

「!?」

 

「あの……どちら様、でしょうか?」

 

 建物の住民らしき、明るい茶色の髪に赤い瞳をした女性が顔を出している。左側のサイドテールまで続く綺麗な編み込みと、赤紫色の薔薇の髪飾りが上品な雰囲気を醸し出した若い女性だった。エリックは咄嗟に翼を出していたディアナを背に隠し、顔に笑みを貼り付ける。

 

「え、ええと、その、怪しい者では無いんです……! 本当ですよ!!」

 

「うふふ、その発言が怪しすぎるので、聞かなかったことにしますね」

 

「……」

 

 笑われてしまった――。

 

 だが、不幸中の幸い警戒されてはいないらしい。コホンと咳払いし、エリックは改めて口を開く。

 

「突然騒いで申し訳ありません、この辺りで青い髪をした男性をみませんでしたか?」

 

「! ああ、それなら……!」

 

 にこり、と女性は微笑んだと同時に、エリック達の傍にあったドアが開いた。裏口があったらしい。

 

「何だか辛そうだったので、保護しちゃったんです。心配させてしまいましたね、すみません」

 

「いやいやいや……! ありがたいです、ありがとうございます!」

 

 女性は窓から顔を出していたというのに、少し離れた場所にあったドアが開いた。他にも住民がいるのだろうか、とエリックは首を傾げつつ、ディアナに翼をしまわせて彼女を背負った。容姿からして女性は龍王族(ヴィーゲヒア)である。ディアナの種族は隠しておいた方が良い。

 

「え、ええと……お邪魔しま、す……?」

 

 罠ではないことを祈りながら、エリックは裏口から建物の中に入った。以前、アドゥシールの店で嗅いだような薬草の臭いが充満している。どうやらここは薬屋だったらしい……それ以上に、エリックは自身の顔の傍で緑の蔦がうねうねしているのが気になった。

 

「蔦……」

 

「はい、蔦です」

 

 蔦の根元は、女性の後ろ――正確には、女性が腰掛けている木製の車椅子から伸びていた。紫色の上品なワンピースを纏った女性は軽く首を傾げ、困ったように笑ってみせる。

 

「この通り、足が不自由なもので。ちょっと離れた物を動かす時は蔦を動かしてます。見慣れないと、驚いちゃいますよね。すみません」

 

 他の住民ではなく、蔦で裏口のドアを開けたらしい。植物を操る特殊能力者なのか、地属性の魔術の応用なのかは分からないが、とりあえず罠ではなさそうだ。事実、エリック達の探し人は足に白い包帯を巻かれ、額に濡れタオルを乗せられた状態で寝かされていた。

 

「あ、申し遅れましたが、わたしはハルモニカ=ミュリエルロバン。皆にはモニカ、と呼ばれています」

 

「! こちらこそ、夜分に申し訳ありません。僕はエリック、後ろにいるのがディアナです」

 

「いえいえ、お気になさらず。この騒動で、外に出るに出られず……話し相手が欲しかったところなんです。この方はずっとぐったりしてましたし、今は寝てますし」

 

「はは……」

 

 椅子を引かれ、「どうぞ」と言われたので素直に腰掛ければ、今度は紅茶が出てきた。このハルモニカという女性は客人をもてなすのが好きなのかもしれない。なお彼女、この二つの動作はどちらも蔦で行っていた。彼女の場合はやむを得ないとはいえ、本当に便利な蔦である。

 

 

「……」

 

「な、何か?」

 

 ハルモニカはまじまじとエリックの顔を見た後、何故かフライパンを手にして口を開いた。

 

「あの、念の為にお尋ねするのですが、王国騎士団の方、ですか?」

 

「ああ、僕の容姿でそう判断されたのですね……違いますよ。貴族の血を引く者ではありますが」

 

「で、ですよね……! とても穏やかそうな方ですから、きっとそうだとは思ったのですが……!」

 

 身分をはぐらかしつつ、ここで「そうだ」と言ったらフライパンで殴られた奴だな、とエリックは苦笑する。だが、これは情報収集の手間が省けるかも知れない。どうやら王国騎士団を警戒しているらしいハルモニカに、エリックは言葉を選びつつ問い掛ける。

 

「モニカさん、今回の騒動……主に動いていた団体が王国騎士団であることは、ご存知ですか?」

 

「! やっぱり、そうだったのですね」

 

 騒動の原因については知らなかったらしい。しかし怪しんでいた様子ではある。つまり、彼女は何らかの理由で騒動の前から王国騎士団を嫌っているようだ。何故かを問おうとしたが、それよりも早くハルモニカはクリフォードの傍に移動する。そしてエリックの方へ向き直り、彼女はおもむろに口を開いた。

 

「この方には、お兄さんがいませんか?」

 

「え……?」

 

 突然どうしたのかと思いつつ、兄の所在を肯定すると彼女はどこか悲しげに微笑んでみせた。

 

「似ているな、と思ったんです。やっぱり、そうだった……」

 

「……モニカ、さん?」

 

「この方のお兄さんは元々王国騎士団の所属でした。その後色々あったのですが……それが、わたしが王国騎士団を嫌う最大の理由です」

 

 先程までの柔和な雰囲気が消え、キッとした強い眼差しがエリックに向けられる。それだけで、彼女が抱く王国騎士団への憎悪の感情が強烈に伝わってくる。思わずたじろいでしまったエリックに向けて、今まで黙っていたディアナが口を開いた。

 

「ダリウスは部下に当たる複数人に襲われたって言っていた。それで、研究所送りになったって……その部下って、普通に考えたら王国騎士団だから、それだろう」

 

「!? ディアナ、お前その話どこで……!」

 

「カルチェ山脈であの人と野宿したことあったろ? その時、ポプリに話していたのを聞いた」

 

「……聞き耳立てたのか、お前」

 

 そう問えば、ディアナは何も言わずぐっと親指を立てた。自分も彼女には気を付けた方が良いかもしれないと思いつつ、ハルモニカへと視線を移す。彼女はエリックの視線に気付き、薔薇の髪飾りに触れてどこか悲しげに笑った。

 

「あの人は部下複数人相手に負けるほど弱くないですよ。あの人がやられたのは、全部、わたしのせいです」

 

「それは、一体どういう……」

 

「うふふ……お話、しましょうかね。あの人、わたしのことはどうも一言も話さなかったみたいですし。それにしても、ダリウスがポプリって方だけにその話をしたってことは、多分その方のことが好きなんでしょうね。だったら、わたしのことを話した方が格好良くみせられたでしょうに……不器用な人」

 

 様子を見る限り随分親しかったようだが、あの薔薇の髪飾りはダリウスに貰った物なのだろうか。よく見ると髪飾りと、それと同じ物と思われる胸元のリボンについたブローチには何度も修理された形跡が見られた。大切にしているらしいことが伺える。

 

「十二年前、わたしは王国騎士団の男達に捕まりました。ダリウスを誘き寄せ、抵抗させないための餌として」

 

「な……っ!?」

 

「あの人は本当に抵抗しなかった。そのせいで、精霊術師(フェアトラーカー)の力を封じられて……隙を見て逃げ出したわたしが助けを呼んできた頃には、もう手遅れで……後々助かったそうなのですが、会えなくなっちゃいました。詳細は、彼の名誉のために伏せさせてください」

 

 エリックの脳裏を過るのは、剣を抜こうとしてフラッシュバックを起こし、酷く怯えていたダリウスの姿。ハルモニカを助けた結果、彼は酷い目にあった。彼は顔面にも傷痕を残しているが、まさか『会えなくなった』理由は傷痕ではないだろう。ハルモニカは伏せているが、今のエリックなら分かる。どう考えても、その理由は心理的なものだと。

 

「元々、ダリウスは種族故か王国騎士団内でろくな扱いをされていなかったと聞きます……そんな、よく分からない理由で才能を潰す組織なんて、大嫌いです……」

 

 ほんの少しだけ涙で潤んだ瞳を隠すように、ハルモニカは視線をクリフォードへと移し、彼の額のタオルを近くに置いてあった氷水で濡らした。この処置をするということは、彼は発熱しているのだろう。

 

 

「騎士団の悪口を聞いても、あなた方は怒らないのですね」

 

「……まあ、そうですね」

 

「だったら、わたしの知っていること……お話した方が良いですか?」

 

 何故か、自分達はハルモニカにえらく信用されているらしい。こくりと肯けば、彼女はクリフォードの額にタオルを置いてから話し始めた。

 

「今回の騒動は、王国騎士団内部の戦を求める声が大きくなったが故に起こったものだそうです。ゼノビア陛下も、その後継者に当たるアベル殿下も平和主義で、陛下に至ってはノア皇子宛に親書まで用意されていましたから。それが騎士団や、騎士団関係者は気に喰わなかったんでしょう」

 

「戦……!」

 

「戦争は金になるからな。しかもラドクリフ王国は先代王の影響で兵が多い。給料や待遇のことを考えれば、平和なんていらないんだろう」

 

 つまり、最終的な目的としてはゼノビアを狙ったということか――平和が何よりも良いことだと考えるエリックにとっては、あまりにも衝撃的な話であった。

 

「多分、王族の根絶やしが目的だったんでしょうね。聞いたところ、流石に城を落とすことは不可能だったようですが……凄まじい勢いで、上流の貴族が狩られていったそうです。わたしも血筋的には割と王家に近いので危なかったんですが、間一髪救われました」

 

「……」

 

「万が一、アベル殿下がお亡くなりになったら大騒動になるでしょうね……王家の血の濃さを優先するならば、混血の王が誕生することは避けられないとの話です」

 

 つまり、ルネリアルに住む公爵家や伯爵家辺りの貴族達は全滅してしまったということだ。ハルモニカが言っている“王家の血が濃い人間”となると、もうシャーベルグに住む混血の貴族しか残されていない。一体どれほどの人間が犠牲になったのかと、エリックは奥歯を噛み締めて両目を固く閉ざす。

 

 

「……どうして、あなたはそんなに王国騎士団について詳しいんだ?」

 

 黙り込んでしまったエリックの背を撫でながら、ディアナはハルモニカにある意味一番気になっていたことを問いかける。明らかに内部事情に詳しすぎる彼女の情報源は、確かに気になるところだった。まさかエリックが無知なだけではないだろう。

 事実、あまり知られていない情報をハルモニカは掴んでいたらしい。彼女はしばらく悩んだ後、「ふふ」と誤魔化すように笑ってから口を開いた。

 

「こういうことを調べるのが得意な“お友達”に教わった、とだけ言っておきます。彼女達の話をどこまでして良いのか、ちょっと分からないので」

 

 そして彼女は、小さな小瓶をエリックの前に置く。小瓶の中には、複数の錠剤が入っていた。顔を上げたエリックと、ハルモニカの赤い瞳が合う。

 

「ただ、あなた達の手でダリウスの弟さんを助けたいならば、彼女に会えるように手配しておきます」

 

「! 毒が抜けたわけではない、と……!?」

 

「この方の身体に入ったのは科学毒です。痛みを抑え、全身に回るのを遅くする薬は用意できましたが、わたしの力では解毒することは不可能です……トゥリモラで直接、この毒の中和剤を入手する必要があります」

 

 トゥリモラ。クリフォードがかつて本気で行くのを嫌がった、人体実験が行われていた都市。いずれ行きたいとは思っていた地名を聞き、エリックは息を呑む。

 

「行かないと言うのであれば、ダリウスへの恩返しも兼ねてわたしが行きます。ですが……あなたは、たったひとりでも向かわれるのではないですか?」

 

 ハルモニカに微笑みかけられ、エリックは深く頷いた。エリック自身の意志もあったが、きっと仲間達は皆同じ結論を出すだろう。トゥリモラにトラウマを持つ者はどこかで待機してもらえば良い――そんなことを考えていたエリックの前で、ハルモニカは苦笑した。

 

「……でも、ちょっと心配ですね」

 

「え……?」

 

 つい、気の抜けた間抜けな声を出してしまったエリックを見て、ハルモニカは頭痛をこらえるようにこめかみを押さえた。

 

 

「だって、話には聞いていましたけれど、本当に人を疑わないんですもの。もう一度言いますけれど、『あなた』が亡くなるとこの国、大変なことになりますから……気を付けて下さいね」

 

 

「……は?」

 

 ハルモニカは、今、何と言った……?

 

 自分は今、さぞかし間抜けな顔をしているのだろう、とエリックは思う。だが、それ以外の顔を今できる気がしない。

 まともに反応を返せないエリックを見て、ハルモニカは耐え切れないと言わんばかりに口に手を当ててくすくすと笑う。これは間違いなく、エリックという人間をしっかり理解している態度だ。そうでなければ、王子相手にこんな無礼な態度は取れないだろう。

 

「申し訳ありません。わたしは“知人”に、もしあなたが来たら王国騎士団についてお話するよう頼まれていたんです。話の途中で、あなたがアベル王子だと確信したので、王国騎士団の話をしたのですよ」

 

「い、一体何故……」

 

「『あなたは、あなたが思っている以上に重要な存在なのだと自覚して欲しい』と仰ってました。ところで、あの……私の店に来るように、どなたかから伺っていませんか?」

 

 一体誰だ、その知人は。大体そんな話聞いてないぞとエリックが言おうとすると、ふいにディアナが「あっ!」と大声を出した。

 

「ど、どうしたディアナ……」

 

「『漆黒の翼』から『薬屋ミュリエルロバン』に行くように、そこの店主に話を聞くようにエリックに伝えて欲しいと指示されていたのを忘れていた……」

 

「あ、はい。うちですよ、『薬屋ミュリエルロバン』」

 

「ディアナ……っ!」

 

 ディアナが『漆黒の翼』関連で一番話さないといけなかったのは、どう考えてもこの話だろう。たまたま用が合って来たから良かったものの、来なければきっと彼女は忘れ去っていたに違いない。

 ディアナの額を指で弾き、エリックはハルモニカに軽く頭を下げる。

 

「……申し訳ありません、何とも言えないところをお見せしてしまいました……」

 

「いえいえ、楽しかったです」

 

「よ、良かった……! 思い出して良かった……!」

 

「言っておくが手遅れだからな、ディアナ……!」

 

 一体、ハルモニカは誰が用意した語り部なのだろうか。彼女の言う“お友達”や“知人”とは一体誰なのか。それ以上に『漆黒の翼』とは結局何なのだろうか――全力でよく分からない謎を残したまま、エリック達は少しだけハルモニカとの雑談を楽しみ、途中で目を覚ましたクリフォードを連れて帰路についた。

 

 

 

―――― To be continued.

 




ハルモニカ(自作絵)

【挿絵表示】

本編では名前のあるモブなのでここで少し紹介。
ダリウスに好意を持つ女性。現在23歳。つまりクリフォードと同い年。故にブラコンを拗らせたダリウスに妹扱いされてた上に女の勘で失恋を察したちょっと可哀想な子←


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Tune.73 灰色の地へ

 

『治癒術って救済系能力者以外には普通、使えないんだけどなぁ』

 

 場所を移動し、ヘリオスの森のアルディスの家へと一行は訪れていた。いつまでもエリックの部屋にいると厄介なことに巻き込まれかねない、と判断したためである。ここに来る途中でルネリアル前に転送された船にも寄ったが、ライオネルとイチハはすることがあるとその場に留まった。船の移動手段でも考えているのかもしれない。

 

「……」

 

 思わず、エリックがベッドの上で目覚めないマルーシャに目を向けていると、アルディスはメモでテーブルを複数回軽く叩いた。

 

「わ、悪い……」

 

『大丈夫?』

 

「大丈夫だ。話に戻ろうか」

 

 かなり喉の調子が悪いらしく、今日の彼はずっと筆談を続けている。何とか短い返事で済むようにしたいのだが、話の内容からしてそれはなかなか難しいものだった。

 

「精霊術ではなかったし、兄上の目は両方銀色だから、ケルピウスって可能性もないだろうし……そもそも、現ケルピウスはクリフォードな訳だしな」

 

『俺と同能力だとしても、近くにいた君もダリウスも救済系能力者じゃないから能力コピーってのも不可だね』

 

「セルシウス契約の影響なのか……?」

 

『よく分からないけれど、とりあえずゾディート殿下が使った術教えてよ』

 

 椅子に腰掛け、エリックとアルディスはマグカップの中の飲料を飲みつつ、ゾディートの使った治癒術について考察していた。彼に関しては後々のことを考えれば早めに話し合っておきたかったことに加え、マルーシャが目を覚めるのを待つのに丁度良かったのだ。

 

「シャーベルグで使っていたのがピクシーサークル、ルネリアルで使っていたのがフォークロア・ブリスだったな。ピクシーサークルはそこまで負担が無いようだったんだが、フォークロア・ブリスは気絶に追い込まれていた。直前の戦闘のせいかもしれないんだが」

 

「……」

 

「アル?」

 

 アルディスは頭を振るい、目を伏せて何かを考え始めた。一体どうしたのかと問えば、彼は静かに、台所の調理器具を興味深そうに見ているディアナを指差した。

 

「ディアナ……? まさか、聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)……?」

 

 今は治癒術の話をしている。彼女を指差すということは、そういうことなのだろう。エリックの言葉に、アルディスはおもむろに頷く。

 

『どちらも聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)能力者が使う術だよ。しかもフォークロア・ブリスは聖歌詩篇集の第六楽章。使った術だけ見れば、聖歌祈祷能力者だと断定して良い……でも、あの人って黒髪なんだよなぁ』

 

「ん? ああ、黒髪は逆空色髪なんだっけか」

 

聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)能力者なら、銀髪になる筈。目の色はともかく、ここは覆らないと思うんだ』

 

 聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)能力は聖者一族――白銀の髪に青い瞳を持つ一族に通じる能力だ。仮にゾディートが聖者一族の血を引いた聖歌祈祷能力者であるとするならば、黒髪であるが故に違和感が生じる。アルディスを見ても分かるように、黒髪は非常に遺伝しにくい髪色なのだ。

 

(だけど、兄上はこんなことを言っていたっけ……)

 

 

『だが、正直なところ詳しいことは全く分からん。黒髪だから暗舞(ピオナージ)の子かと思えば、目覚めた能力はそうとは思えない妙な物だった。だから、私は案外まともな生まれ方をしていないのかもしれない。人の子では無い、と言われても驚かない自信がある』

 

 

 エリックの脳裏を過るのは、シャーベルグで彼が口にしていた言葉。彼自身も出生に関しては理解していないようで、自身の身体に対してどこか自虐的な感情を抱いているかのように感じられた。それほどまでに、“妙”な能力なのだろう――案外、それだけではないのかもしれないが。

 

 

『ふふ、知っているに決まっている。お前の身体がそうなった原因は……お前がこれまでに味わってきた苦しみの元凶は全て、この私にあるのだからな!』

 

 

(兄上……)

 

 実の兄弟ではなかった上に、兄は大抵城を留守にしていたから、交流も少なかった……とはいえども、あまりにも自分は、兄のことを知らなさすぎる。城で暮らしていた時よりも、旅立ってから得た知識の方が多いというのはどうにも複雑なものであった。

 エリックは頭を振るい、心配そうにこちらを見つめてくるアルディスに笑いかける。「大丈夫だ」と口にすれば、アルディスは納得がいかない様子ではあったものの、そのまま台所へ移動した。台所では、ディアナとクリフォードを交えてポプリの料理教室が始まっていた。

 

(料理……ポプリとアルと、多分ライオネルはできるんだよな? けど、ディアナとクリフォードとイチハはどうなんだ……?)

 

 クリフォードはともかく、ディアナは料理が苦手そうだ。アルディスが台所に向かったのは、彼女が塩と砂糖の区別ができていなかったためである。城暮らしで料理に慣れしていないエリックにもその気持ちはよく分かる。そしてそれは、今もなお眠り続けているマルーシャも同様だ。

 彼女の料理は、それはそれは悲惨な物だ。およそ『料理』とは言えないような謎の物質を生み出すことも多い。それでも、彼女が何かしら生み出す度に何とか食べきろうとしてしまうのは、エリック自身が胸に秘めた彼女への想い故なのだろう。

 

 静かに、エリックはマルーシャの傍へと移動する。早く目覚めて、愛らしい笑顔を振り撒いて欲しいと強く願った。

 エリックは現場を見ていないが、悲惨な状況であったことは間違いない。炎の中で息絶えた両親を目の当たりにしたショックは、到底想像できるものではない。しかもマルーシャは両親、特に父親との関係がとても良好であったと記憶している。心優しい、純粋な少女の心を砕くには十分過ぎる出来事だ。

 

「マルーシャ……」

 

 思わず、エリックは掛布団の上に投げ出されたマルーシャの左手の甲をそっと撫でていた。その時、手首で存在を主張する銀のバングルがきらりと瞬き――粉々に砕けた。

 

「な……ッ!?」

 

 音は意外にも大きく、台所にいた者達の耳にも届いていたらしい。彼らは料理をする手を止め、慌ててベッドの傍に駆け寄ってきた。

 

「急に、シルフのバングルが……!」

 

「装飾具の破損は、契約破棄の証です……マルーシャの身に、何かが……!?」

 

 クリフォードはエリックを退け、マルーシャの脈を測る。様子からして、異常は無いらしい。それならば、一体何故――?

 

「マルーシャ!」

 

 シルフの加護を失い、マルーシャはより一層危ない状況に陥ったかもしれない。そんな嫌な予感がエリックの脳裏を駆ける。冷静さを欠いて声を荒げれば、綺麗な黄緑色の瞳が睫毛の下からゆっくりと現れた。

 

「……あ、れ……わた、し……」

 

「マルーシャ! 良かった、目が覚めたんだな……良かった……!!」

 

 意識がハッキリしていないのか、マルーシャはパチパチとしきりに瞬きを繰り返す。もしかすると、シルフのバングルが壊れたのは彼女を今まで守ってくれていたからなのかもしれない。アルディスが着けていたレムのバングルも、彼を限界まで守っていたが故に壊れたのだ。きっとそうに違いないと安堵するエリックの胸に、マルーシャが飛び込んできた。強く、布地を掴まれている。それを拒むことなく、そっと頭を撫でていると、やがて小さな嗚咽が聞こえてきた。何が起こったのか、思い出したのだろう。やがて、彼女は身体を震わせ、より一層大きな声で泣き叫んだ。

 

「う、ぅう……うあぁああああぁあぁん!!!」

 

 それはあまりにも、悲痛な哀哭だった。両親を一度に失ったマルーシャのこらえようのない滂沱の涙がエリックの胸を打つ。細い少女の身体を優しく抱き、頭を撫でてもそれは止まることを知らない。けれど、それで良いとエリックは思った。彼女は普段から周囲のことを考え、自分のことを後回しにしてしまう。だからせめて、こんな時くらいは思いきり泣いて欲しかった。

 

「マルーシャ……辛かったな、悲しかったよな……」

 

――嗚呼、もっと彼女に寄り添うような、的確な言葉をかけてやりたいのに。

 

 そうは思えど、エリックの口から出るのは当たり障りのない、簡単な言葉ばかりで。エリックは上手く言葉を紡げない歯がゆい気持ちを置き換えるかのように腕に力を込め、震える少女の頭を撫で続けた。

 

 

 

 

「早く毒、抜かないと大変なんでしょう? 早く行こうよ!」

 

 落ち着きをみせたマルーシャに次の行先がトゥリモラで、その目的がクリフォードの解毒であることを告げると、彼女はしきりに「早く行こう」と主張し始めた。とはいえ、先程まで酷く泣きじゃくっていた彼女を思えば、その言葉には皆素直に頷けなかった。

 

「僕はこれくらい平気だ。毒には慣れています。確かに、僕以外が受けていたら急がなければならない状況だっただろうが」

 

 エリック達は勿論、当事者のクリフォードですらマルーシャの精神状態の方を気にしていた。彼も変に我慢してしまう癖があるが、顔色を見る限り本当に問題ないのだろう。ハルモニカの薬が効いているらしい。それならここは甘えて、もう少しのんびりしてから出発しても良いとは思うのだが……。

 

「泣いたらすっきりしたから、平気平気。気にしなくて良いよ」

 

「マルーシャちゃん、クリフもこう言ってるし、ちょっとお茶にしましょうよ……あたし達も少しのんびりしたいの。だから、ね?」

 

「もーっ! 大丈夫だってば! ポプリは心配じゃないの!?」

 

「……。そ、それを言われると……」

 

 あまりにも「もう少しここにいよう」と返されるせいか、マルーシャの声に苛立ちの色が滲み始めた。ポプリはマルーシャからエリックへと視線を移した。「どうする?」と聞きたいのだろうが、口に出さなかったのはマルーシャをこれ以上苛立たせないために違いない。

 

「マルーシャが大丈夫なら、行く……か? だが、その前にマルーシャは首の火傷を完治させた方が良いと思うぞ」

 

 エリック自身、ここは非常に判断に悩む場面だったが、マルーシャもマルーシャで、じっとしていると嫌な記憶が蘇ってきて辛いのかもしれない。それは活発な彼女だからこそ、十分考えられることである。そうだとすれば、彼女の言う通りにしてやるべきなのだろう。そもそも彼女の主張は何も間違ってはいないのだから。

 

「火傷……?」

 

「気付いてなかったのか? 君は首に火傷をしているんだ。処置はしてあるが、痕になったら嫌だろう?」

 

「すまない、ある程度は治したんだが……まだ完治とまではいっていないんだ。内部に到達していた部分は治っていると思うんだが、表面の傷がまだ少し残っている」

 

 エリックの言葉に、マルーシャは包帯の巻かれた首へと指を這わせた。この様子だと、火傷の存在に気付いていなかったのだろう。それほどまでに彼女の精神が追い込まれているのか、単純にディアナの治療で痛みが感じられなかったのかは分からないが、このまま進むのはあまり良くないように思えた。

 

「……え、ええと、大丈夫!」

 

「大丈夫って、あのな……!」

 

「トゥリモラで万が一戦うことになったらって考えたら、今は変に体力消耗したくないよ。だから、良いの。首なら痕になっても大丈夫だから!」

 

「嫌なことを想定しないでくれよ……」

 

 とにかく早く行きたいのだろうか。ニコニコと笑うマルーシャに対し、エリックはもはや諦めるしかないのだろうかとため息を吐いた。そんなエリックの肩を、後ろからクリフォードが叩く。

 

「クリフォード?」

 

「……退いて下さい」

 

 エリックが指示に従えば、彼はマルーシャの前に屈み、包帯の巻かれた細い首にそっと触れる。クリフォードの目的は、彼らの真下に浮かび上がった魔法陣の存在が教えてくれた。

 

「紡ぎしは泡沫の祈り。癒しの光、此処に来たれ――ファーストエイド」

 

 詠唱は長いが、それはマルーシャが使う物と同じ治癒術。魔法陣が弾け、放たれた光はタートルネックと包帯の下の傷へと吸い込まれていく。

 

「あ……ありがと?」

 

「良くないですよ、そういうのは」

 

「はーい……」

 

 マルーシャが包帯を解けば、その下にあった火傷は綺麗に完治していた。「これで何も問題ないよね」とでも言いたげに、彼女はエリックを見上げている。明るく振舞ってはいるが、かなり余裕が無いのかもしれない。今の彼女は、少々周りが見えていない様子だった。

 

「クリフォード、今の……魔力は大丈夫か?」

 

 マルーシャの頭を撫で、エリックは背後を振り返る。先程治癒術を使ったクリフォードの魔力が気がかりだったのだ。

 

「平気だ……と言いたいですが、秘奥義と獣化の影響でちょっと辛いですね。魔術はあまり使えないものだと思ってくれ」

 

「トゥリモラに着く頃には私の魔力が回復していると思うから、ジャンは休んでてくれ。そもそも、治癒術は私とマルーシャの仕事みたいなものだ。問題ない」

 

 マルーシャの首の火傷が完治していなかったのは、彼女以外で治癒術を使うクリフォードとディアナの魔力切れが原因である。相当無理をしていたのか、この両名に関しては一晩経っても魔力が回復しきらなかったのだ。

 

「トゥリモラで何事も起こらなければ良いんだけど、マルーシャちゃんの言うように戦闘になってもおかしくないものね……うーん、せめて薬を補充したかったかな……言っても仕方のないことだけど……」

 

「だよな……こればかりは運任せになるが、とにかく行ってみなければ始まらない。ライオネル達を待たすのも悪いし、船に戻ろうか」

 

 

 

 

「は……?」

 

 ヘリオスの森を出た先にあったのは船――という名の飛行する謎の物体であった。形状は全く変わっていないのだが、船が地面から浮いているのだ。

 

「おお、丁度良かった! 今、改造が終わったとこだ!」

 

「一体何が起こったんだこれは!?」

 

「マクスウェル様は凄ぇんだ!!」

 

「お前ら『マクスウェル様凄い』で不可思議現象の説明片付ける癖あるよな!?」

 

 操舵室の窓から顔を出したライオネルは楽しげに笑いながら何やら説明してくれたが、とりあえず『風の下位精霊を筆頭に精霊達の力をマクスウェル権限で集約させてどうにかこうにかした』ということだけは理解出来た。詳しく全てを知ろうと考えるのは止めた方が良さそうだった。もはや常人が理解出来る範囲を超えてしまっている。

 着陸した船に乗り込めば、ライオネルは再び船を浮かせて様子を窺っている。心配ではあったのだが、この船は人が数人増えたところで何とも無いらしい。

 

「……で、どこに行くんだ? 場所によっては船に待機させてもらうぞ」

 

「トゥリモラだ。お前とイチハは辛いだろう? 船で待機しててくれ」

 

 操舵室まで向かい、目的地を告げればライオネルは苦笑して舵輪へと向き直った。近くにいたイチハも反応としては同様である。実験体であった彼らをトゥリモラへ連れて行くのは、あまりにも酷だ。

 だが、イチハは少し思うところがあったらしい。少し悩んだ後、彼は肩を竦めてエリックに問いかけた。

 

「でもクリフは連れて行くんだね。あの子こそ辛いと思うんだけど」

 

「とは思うんだが、解毒の手段が分からない以上、場合によってはアイツが行かなきゃ行く意味がないからなぁ……解毒が必要なのがクリフォードじゃなければ置いていったよ」

 

「なるほど……ノア皇子とディアナちゃんは? 純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)連れてくのも、俺様は心配だなぁ。特にディアナちゃんは俺様いないと動けないだろ?」

 

「それが行くって言うんだよ、二人とも。アルはトゥリモラの研究資料を見る気満々だし、ディアナも消えた記憶に引っかかるというか、何か気になることがあるらしく。仕方ないからディアナは僕が背負うしアルはポプリに見ててもらう」

 

 ハルモニカが何かしら話は通してくれているそうなのだが、一体どんな形になっているのだろうか。場所が場所である以上、最悪『侵入を妨げるために襲いかかってくる研究員を薙ぎ倒しながら解毒剤を確保しに向かう』なんてことになりかねない。少しは事を進めやすい状況になっていれば幸いなのだが。

 

「ちょっと無茶なんじゃないかな……と言いたいけど、あの二人の境遇を思えば仕方ないか。俺も着いて行けたら良かったんだけど、うっかり正気無くしたら大惨事だから、悪いね」

 

「正気、なぁ……純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)二人の面倒見ながら大変だとは思うが、時々クリフが正気無くさないように見守っといてくれ……」

 

「了解。いっそ、僕ひとりで行けたら楽だったんだがなぁ……」

 

 困ったことに同行者五人には精神的、もしくは種族的な理由で不安要素が存在している。不安要素が少ないのは(過去にここで体内精霊を抜かれた可能性があるとはいえ)エリックと(母親の件で何か起こりかねないとはいえ)ポプリだけである。どうしてこんなことになっているんだとエリックは頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。

 

 

「……ところで、この船早くないか?」

 

「ん? ああ、あと二、三時間もすればトゥリモラだ」

 

「早いな!?」

 

 徒歩で向かうよりも圧倒的に到着が早いのはありがたいが、ディアナの魔力回復が間に合う気がしない。こうなったらやはり、有事の際にはマルーシャに頼るしかなさそうだ。それを少し申し訳なく思いつつ、エリックは窓から流れていく景色を眺めていた。

 

 トゥリモラは旅立った直後のエリック達がもしかしたら立ち寄っていたかもしれない街である。結果的にエリック達が向かったのはアドゥシールであったが、ローティア平原とフォゼット大森林を越えるという道程は同じだ。森を越えた後、北西に向かった先にあるのがアドゥシール、南西に行った先にあるのがトゥリモラだ。

 

 船――飛んでいるので『飛行船』と言い表すべきだろうか――は現在、フォゼット大森林の上を進んでいる。手入れの施されていない木々は鬱陶しいほどに生い茂っているのだが、ここからある程度先にある木々は全て灰色に変色し、葉も落ちた生の感じられない姿と化している。少し知識を得た今ならば、研究所から流れ出た化学薬品のせいで木々や草花が枯れ、大地が死んでしまったのだろうと想像するのは簡単なことであった。

 

 

「ライオネル、あまり近付かなくて良いぞ。ここまでで十分だ」

 

「そうか? でもまあ、もう少し近付ける。あまり気にすんな……で、お前ら降ろしたら空飛んでるか森の中隠れてるかするから、クリフ経由でマクスウェル様に連絡くれ。降ろした場所まで向かう」

 

「ありがたいが……その、まあ良いか……」

 

 ライオネル達がマクスウェルを尊敬しているのか崇拝しているのか便利グッズとして見ているのか分からなくなってきた。しかし、こんなことを口にすれば間違いなく怒られるだろうと思い、エリックは口を閉ざす。

 

 

「じゃあ、頑張れよー!」

 

 無理をして近付かなくても良い、とは言ったのだが、ライオネルは街がしっかりと目視出来る場所に船を降ろしてくれた。六人が灰色の地面に降りれば、船はすぐに上昇し、小さくなっていく。しばしの間、その様子を見守った後、エリック達はトゥリモラへと向かっていった。

 

 これまで訪れた街の大半は街道が石畳で舗装された街であったが、トゥリモラも例に漏れずそのような場所であった。だが、それらの街とは異なり、この地には『とりあえず歩きやすいように舗装した』とでも言いたげな物寂しさが漂っている。建物も奥に研究所らしき巨大な建造物があるだけで、他はコンテナのような四角い箱状のものが建ち並んでいる。『科学の拠点』と称されるこの地はどこまでも灰色で、空気も酷く汚れた人工的な場所であった。

 

「……ッ」

 

「エリック君、大丈夫? 呼吸が……」

 

「平気だと、言いきれたら良いんだが……はは……」

 

 喉が鳴り、一気に息苦しさがこみ上げてくる。だが、そこまで症状は重くない。発作が出る前に薬を服用しておけば、少々無理をしても大丈夫だろう。現時点ではマルーシャ達の治癒術の力を借りる必要性は無さそうだ。

 

「……それにしても、暗い場所だな」

 

『店が無くなってる。商売にならなくて撤退したんだろうな、売り上げ悲惨そうだったし』

 

「うーん、道具屋があれば、と思ったんだが。あの時もアドゥシール行っといて正解だったかもな」

 

 エリックの言葉に、アルディスは苦笑して頷いた。彼が仕事で訪れた時にはあったという武器屋、道具屋といった店はいずれも閉店しており、今は空き店舗のみが残されていた。他にそのような建物はなく、強いて言えば簡易宿泊所があるくらいだ。

 

『商売って難しいね』

 

「何だか切なくなるな」

 

 彼が最後にここに来たのは一年近く前に王都からセーニョ港までの護衛任務を請け負った時なのだそうだ。その時点でかなり閑古鳥が鳴いている状態だったらしく、こうなるのも無理はないと彼は肩を竦める。

 だが、確かにこの街で商売をするのは厳しいものがあるだろう。こうも寂しく、暗い雰囲気の漂う街に用のある人間はなかなかいないだろうし、あっても通過地点として利用されるだけなのだろう。簡易宿泊所が生き残っているのはそれ故だ。

 

(これ以上どうにもならないのか? これは……)

 

 ぼんやりと、今考えてもどうしようもないことを考えつつ、エリック達は研究所へと足を運ぶ。途中で誰かとすれ違うこともなく、更なる寂しさを感じながら進んだ先で、鮮やかな赤髪の女と出会った。

 

 

「お、早いじゃねぇか。入れ違いにならなくて良かったよ」

 

「は……?」

 

 その赤髪の女――黒衣の龍幹部のフェリシティは、エリック達の姿を見て笑みを浮かべてみせる。彼女からは全く敵意を感じられず、それこそ「ようこそ」とでも言いたげな雰囲気すら感じられた。

 

「あ、あの子、アタシの名前出さなかったんだね? まあ、あの子は無関係者だしねぇ……どこまで話して良いやら分からなかったんだね。ホント、可愛い奴だねぇ」

 

 一体何が起こっているのかと問いかけるよりも先に、彼女は腕を組み、勝気な笑みを浮かべて言葉を投げかけてきた。

 

「モニカの頼みだし、しかも、よりによってダリウスの弟がやられたんだろ? アタシの天使が悲しむのは見たくないし、ダリウスが荒れると正直面倒臭い。仕方ないから、アタシが解毒してやるよ。施設の連中に話はしてあるから大丈夫だ。着いて来な!」

 

「は……?」

 

「ほら、来いって! アタシも暇じゃないんだよ! モニカの頼みじゃなかったら絶対請け負ってなかったし、ダリウスの弟じゃなかったらここまでサービスしてないんだよ! 分かったら、早く!!」

 

 意味が分からないが、とりあえずここは素直に着いていった方が良さそうだ――少なくとも、フェリシティが友好的なのはハルモニカとダリウスの弟効果だろうから現状変に疑う要素はないし、最悪の場合でも彼女ひとりだけなら何とかなるだろう……多分。

 

「い、行くぞ……? 行っていい、よな……?」

 

「罠だとしたら露骨すぎるから、多分大丈夫よ……多分……」

 

「おいこら! 早く来いっての!!」

 

 研究所の固く閉ざされたドアを開け、フェリシティが叫んでいる。彼女を普通に信じてしまっていいのかは悩みどころだったが、どちらにせよ研究所には入らなくてはならない。エリック達は困惑を隠せぬまま、彼女の後を追って研究所のドアを潜った。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.74 トゥリモラの研究施設

 

 扉は人の手を借りることなく、自動的に開き、そして閉じた。かなり珍しい設備ではあるが、ここトゥリモラは『科学の拠点』と呼ばれている場所である。このような最新技術を用いた設備は沢山あると考えて良い。

 

「す、すごいな……! なあ、エリック!」

 

「ははは、お前、本当こういうの好きだな」

 

 とはいえ、珍しいものは珍しい。エリックに背負われたディアナは非常に楽しそうだ。大人しくしてくれているが、自力で動ける状態ならばもっとはしゃいでいたことだろう。

 

「何だかよく分からないが、魔力やら精霊やらの生体云々が関わっていないと安心してしまう私がいるんだ。その点、科学技術はとても良い。何か安心できる気がする。あと純粋に見たことの無いものを見るのはとても楽しい」

 

「それ、この世にある大体のもの除外しているし、むしろここって昔はそういうのを取り扱う施設だったんだが……まあ、楽しそうで何よりだよ」

 

 この研究施設そのものは何十年も昔から存在しているのだが、近年改装が入ったのだろうか。古びた外観に反して内部は無機質な鉄製の壁が鈍く光を反射し、埋め込まれた機材のランプがチカチカと点滅していた。機材そのものが動く気配は一切無いため、どこかで何かが動いているのだろう。

 

 フェリシティが話を通してくれているらすき、途中ですれ違う研究員らしき者達はエリック達のことを気にすることなく動き回っている。彼らが手にしているのは薬品であったり、機材であったりと様々だ。しかし、人間や魔物といった生物を運んでいる者はどこにもいなかった。

 

「フェリシティ、単刀直入に聞くが、ここは元々人体実験の施設だったんだよな? 今は、そういうのはしていないのか? ……ていうか、お前ここと関係あるのか?」

 

 フェリシティの後ろを歩きながら、エリックは彼女に問いかける。フェリシティは戦士ではあるものの、研究者ではない筈だ。あまりにも、この施設と彼女の関係が不明瞭過ぎる。とはいえ、素直に答えてもらえるだろうか――。

 

 

「そうだね。今のここは大体普通の研究施設さ。黒衣の龍に所属……してるのは良いんだけど、戦闘能力皆無の頭でっかちだったり、元々実験体だった人間が働いてる。あと下っ端はここで寝泊まりしてるな。管理者は、一応アタシになってる。研究にはそんなに参加してないけどね」

 

「え?」

 

……答えてもらえた。

 

 思わず唖然としてしまったエリックのことには気にも留めず、フェリシティはアレコレと語り始める。

 

「表向き黒衣の龍って名乗っちゃいないし、アタシも普段はそこまで黒衣の龍として活動してないからバレない……というか、ここで作ってるモノって、結構便利で使い勝手の良いモノなワケよ。安く手に入ったら、嬉しくないかい?」

 

「ん? あ……ま、まさか」

 

「近場のアドゥシールとセーニョ、それからシャーベルグなんかはほとんど共犯だよ。まあ、アタシらの正体を知ってるかどうかは別として」

 

「ラドクリフの街ほぼ網羅してるじゃないか……!」

 

 どうりで黒衣の龍の人間がロクに捕獲されていないわけだ。これならば、振る舞いに気を付けていれば余程目立つことをしなければ捕まらないだろう。恐らく、気を付けなければならないのは容姿が目立つゾディートと、彼と一緒に行動することの多いダリウス、それから顔が比較的知られているヴァロンくらいだ。

 

「特にアドゥシールなんかは……あー、これは流石にマズイか。でもまあ、ここは基本的には無害だよ。ヴァロンが何かしてることはあるから、多分それは有害だけどさ」

 

「ヴァロンが何かって……アイツは仲間じゃないのか? お前らの関係性は一体どうなってるんだよ……!」

 

「え? 幹部なら殿下とダリ、状況見つつどっちかに着いていくアタシ、ヴァロンとベティみたいな感じ? 仲間っちゃ仲間みたいなもんなんだろうけど、互いのことにはあまり介入しないよ。少なくともアタシはそうしてる」

 

「そうか、余計分からなくなったんだが……」

 

 お前に守秘義務とかその辺は無いのかと言いたいほどにアレコレ喋ってくれるが、色々と意味が分からない。チラリと視線を後ろに向けると、難しげな顔をしているポプリと目が合った。彼女も何が何だか分からない、とでも言いたげな様子だ。

 

「ゾディート殿下派とヴァロン派と中立派、みたいな感じかしら……? ひょっとして下っ端達も内部で分裂してるの?」

 

「そういうこと。黒衣の龍は内部で二つに分かれててな。ヴァロンに着いていく奴らと、殿下側に着いていく奴らがいる。勢力的には明らかに前者の方が多いかな。後者はアレ、そもそも殿下かダリの人間性に惹かれて着いて行ってるだけだわ。あの二人は何考えてんのか分かんねーし、大体二人で動くから置き去りくらうし……だから実質、黒衣の龍ってヴァロンのもん。前王から引き継いだ、みたいな形になってるから、表向き殿下が率いてるっぽくなってるけどね」

 

「はぁ……っ!?」

 

 ここに来て全く予想していなかったことをフェリシティは口にした。彼女にこちらを欺く意図があるのならば話は変わるが、今の発言はエリック達の中にあった常識を覆すものであった。

 

「!? ……ッ!!」

 

「お、おいアル! 無理に喋ろうとするな!!」

 

 衝撃のあまり、声を発そうとしたのだろう。アルディスは自身の喉を抑え、酷く咳き込んでしまった。その背を摩りながら、ポプリはフェリシティに言葉を投げ掛ける。

 

「黒衣の龍の兵士の大半は、ヴァロンの指示で動いてるってことかしら?」

 

「そんな感じ。第一、気性が荒い馬鹿な奴ら何かは特にそうなんだけど、ダリはともかく殿下の言うこと聞きたがらないしね」

 

「えっ!? そ、そうなの……?」

 

 フェリシティの言い方からして、黒衣の龍には一定数ゾディートには一切従わない層がいると考えて良さそうだ。一体どうしてかと言いたげなポプリの表情を見て、フェリシティは「やれやれ」と肩を竦めてみせる。

 

「アタシはちゃんと殿下の言うこと聞くよ? だけどさぁ、無礼を承知で言うけど殿下はアタシよりよっぽど女っぽい顔してるじゃん。近くで見ると肌も髪もつやつやで綺麗だし、目なんか睫毛バサバサだし。アレ見てると、流石にちょっと悲しくなっちまうよ」

 

「……。あなた、いきなり何を言い出すの……」

 

 本当に、「いきなり何を言い出すの」である――本人がこの場にいたならば口が裂けても言わなかっただろうが、それにしても酷い爆弾発言である。しかし、フェリシティも意味もなくこんなことを言ったわけではなかったようだ。

 

「殿下は頭が滅茶苦茶良いのも、見た目に反してすごく強いのも分かるよ。でも明らかに純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)じゃないし、あまりにも華奢だし、しかも見た目が若いし……それなら外見的にはまだマシなダリが口出した方が言うこと聞くんだよ」

 

「なるほど、な……」

 

 確かに、自分が黒衣の龍所属兵だとすれば、兄やダリウスより貫禄もあってカリスマ性のあるヴァロンに着いて行きたくなるのかも知れない。真っ二つに分かれるということは、恐らく兄とヴァロンは頻繁に意見が違えるのだろう。

 加えて兄はどうやら部下にさえ自分の目的を明確化させていないようである。これで「着いてこい」というのは少々無理があるように思えた。

 

「というわけで、黒衣の龍は実質ヴァロンのもんだな。まあ、そのヴァロンも基本的に何考えてんのか分かんないし、どっかに攻め込めに行く時くらいしか下っ端は連れて行かないんだけど。アタシはベティ連れてかれた時に着いて行くことが多いかなぁ……ほら、あの時もそう。イリス嬢拐った時の。何か戦う流れになったから戦った」

 

「ああ……あの時の。ところで、何というか。結局、あなたも組織の事情よく分かってない……?」

 

「ま、つまりそういうことだな!」

 

「……」

 

 能天気そうに笑うフェリシティの姿を見て、「こいつ何でこの組織に所属してるんだろう」と思った者は間違いなくエリックとポプリだけではない。戦う流れになれば戦う、ということは彼女、ただ単に戦闘が好きなだけで、普段はこれといって何も考えていないのだろうか……?

 

(兄上とダリウスが何してるか分からない、ヴァロンも何してるか分からない、か……組織の上が意味不明なら、こうもなるんだろうか……)

 

 何故か色々と話してくれるのはありがたいが、彼女自身がほぼ状況を理解していないせいでエリック達の頭の中は次第に混沌とし始めた。それでも、少しずつ見えてくるものはある。

 

 

「フェリシティ、黒衣の龍による王都襲撃の件は把握してるか?」

 

 王都襲撃の真実については何故か事情に詳しかった一般人、ハルモニカや漆黒の翼が教えてくれた――実際に動いていたのは、黒衣の龍ではなく王国騎士団の者が大半であったと。

 フェリシティは一応“敵側”であると認識している以上、彼女の話を全て信じて良いのかは考えものだ。そのため、彼女がこの質問にどう答えるかで今後の出方を考えようと思ったのだ。

 

「ん、ああ。信じてもらえるかは別として、今回の王都襲撃は黒衣の龍ほとんど関係ないってことは分かってる。アタシ含めほとんどここにいたし。幹部の人間で王都に行ったのは様子を見に行った殿下とダリだけだし。ヴァロンとベティはどっか行ったし」

 

(そ、そんな気はしていたが……やっぱりコイツ、守秘義務とか無いのかな……)

 

 あれこれ考えていたエリックに対し、フェリシティは黒衣の龍がほぼ無関係という件に加え、聞いてもいないことまであっさりと口にした。

 ここで大嘘を吐いてきたらどうしようかと思っていたのだが、杞憂だったようだ。今までのあっけらかんとした態度が演技だとは到底思えなかったのだが、やはりアレは素だったと考えていいだろう。

 

「状況はよく知らないんだけどさ。アンタがここに来てるってことは、少なくとも城や女王陛下は無事だったんだろ?」

 

「あ、ああ……もし、城が落とされていたらって考えると、ゾッとするよ。下手な侵略行為より恐ろしいことになっていたかもしれない……まあ、城は無事だったとはいえ、被害は結構大きかったと思うけどな」

 

 王都襲撃事件による被害者の数は明らかになっていないが、一人や二人の犠牲ではないはずだ。多くの建物が破壊され、修復には時間が掛かるだろう。本来、このような有事の際には王国騎士団が駆り出される。しかし今回は襲撃が王国騎士団によって行われていた以上、彼らの手を借りることはできない。生き残った民衆や、他の街に要請を出して何とかするしかないだろう。

 厳しい状況ではあるが、本当に城が落とされなかったことだけは幸いだった。戦を望む者の手で、平和を願う女王ゼノビアが殺害されるような事態になれば、ルネリアルどころかラドクリフ王国全土が大混乱に陥っていたはずだ。

 

(謁見ができない状態とはいえ、母上一人残して来てしまったからな……)

 

 今回の襲撃が無ければ、エリック達は全く別の場所へ向かっていたに違いない。別に女王に会わなくてはならない用事も無かったため、彼女に会えるまで王都に留まる必要性は無かった。とはいえ、誰が敵かもよく分からない、そんな状況の中に母を置き去りにしてしまったのも事実だ――エリック自身も、彼女目線では“絶対の味方”とは言い切れないため、残ったところで何も出来なかったとは思うが。

 

 気にはなるが、今考えたところで仕方がない。ゆるゆると頭を振るったエリックの視界に、申し訳無さそうに肩を竦めてみせるフェリシティの姿が入った。

 

 

「ところでアンタ、ペルストラ領主の娘らしいじゃないか……悪かったね、前に“羨ましい”なんて言ってさ。アンタも大変だったろ、今まで」

 

 彼女が話しかけている相手はポプリだ。その言葉にも覚えがある。以前、セーニョ港で彼女は『アンタにはアタシの気持ちは分からない、同能力者の癖に羨ましい』とポプリに告げていた。その時の状況から考えれば、今のフェリシティは随分とポプリに対して友好的だ。その理由はポプリの素性を知ったことにあるのだろう。フェリシティに謝られ、ポプリは驚きながらもすぐに首を横に振った。

 

「謝る必要は無いわよ。実際にあたしは捕まったことはないもの。この能力者であることを考えたら、それだけでもかなり運が良いことよ。あの時の言葉も、あなたになら言われて当然だと思っていたから……第一、先に喧嘩売ったのはあたしじゃない」

 

「別に名前聞かれるくらい、どうってことないさ。アタシの容姿はそう目立つものじゃないし、アタシがやらかした時から大分経ってるから気付かれることもないし、仕事の時は『フェレニー』って名乗るから本名で気付かれることもないし……モニカくらいだよ、黒衣の龍関係者以外でアタシの本名知ってる奴」

 

 エリックとディアナの脳裏に、楽しげに笑みを浮かべるハルモニカの姿が過る。そういえば彼女、黒衣の龍関係者なのかと思えば、そうではないらしい。つまり彼女は何故か黒衣の龍と接点を持つ謎の一般人だということだ……尚更意味が分からなくなってしまった。

 

「フェリシティ。あなたはどうして、あんなごく普通の一般人と面識があるんだ?」

 

 たまらず口を開いたのはディアナだ。エリックの頭の横からひょっこりと顔を出し、フェリシティと視線を合わせる。フェリシティは一瞬目を丸くしたが、すぐにニヤリと悪戯めいた笑みを浮かべてみせた。

 

「何年か前の話なんだけど、ちょっと夜遊びし過ぎて面倒な男に追い回されちゃって? 逃げる途中で足を銃で打たれちゃったから、たまたま開いてたドアに飛び込んだらモニカの店で、結果的に匿って貰った感じ? その後も居心地良いから通いまくって入り浸りまくってたら何か仲良くなった。いやー、あの子本当に天使だから。癒されるんだよねぇ」

 

「そ、そうか……」

 

 

――言いたいことが多過ぎて何を言えば良いのか分からない。

 

 聞いておきながら何も返せなかったのが気まずかったのだろう。ディアナはそそくさとエリックの頭で顔を隠す。ついでにエリックやポプリも何も発する気になれなかった。一応良い友人関係が築けているらしいことだけは良かったと思う。

 

 

「えー、何この変な空気。嫌だよアタシ、こういうの」

 

 まだディアナと話したかったのか、フェリシティは歩く速度を落としてエリックの横に並んだ。女性にしては高身長な彼女の視線が丁度ディアナの目の高さと一致する。

 

「顔隠さないでよ。そういえばさっきからずっとおぶられてるけど、やっぱり足は動かないのかい?」

 

「! あなたは、私を知っているのか? 私は、昔から足が動かなかったのか?」

 

 そうディアナが問えば、フェリシティは「しまった」とでも言いたげに顔を微かに歪める。

 

「うん、少なくともアタシがアンタを始めて見た時には、既に動いてなかったよ」

 

「そう、なのか……じゃあ、私は……」

 

 セーニョ港で会った時もそのような素振りを見せていたが、やはりフェリシティは記憶を失う前のディアナを知っているらしい。他にも何か聞きたそうなディアナの額を人差し指で軽く突き、フェリシティは軽く首を傾げて笑ってみせた。

 

「アタシから話降っといて悪いけど、これ以上は聞かない方が良いよ。アンタは『自分を守るために過去を忘れてる』んだからね」

 

「確かに、思い出したいわけではないんだ。だけど……!」

 

「だけど、何かを思い出そうという意思があるから、アンタはここに着いて来たんじゃない? 特に何も無いんだったら、引き返した方が良いと思うんだけど……でも多分、言っても着いてくるんでしょ? 話は通してるから、飛んで良いよ。ヴァロンも今はいないから、大丈夫」

 

 今は純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)の証である翼を出して飛んでも捕獲されることは無いとフェリシティは笑う。ここの管理者だとは言っていたが、その権限はかなり大きなものらしい。

 エリックから離れ、ふわりと宙に浮いたディアナを見て、フェリシティは優しげに目を細めて口を開く。

 

「ただ、機械はアンタの血やら魔力やらに反応することあるから触ったりぶつかったりしないようにね。後ろのノア皇子と顔色の悪いダリウスの弟も気をつけるんだよ。多分ノア皇子は大丈夫だろうけど、後の二人は絶対に下手な行動起こすんじゃないよ」

 

 機械は人間ではないから権限など関係ない、入力されたシステム通りに勝手に動いてしまうのだとフェリシティは肩を竦める。

 特に昔からある古い機械はフェリシティの指示など一切聞かないのだそうだ。廃棄すれば良いのにとは思うが、施設側にも事情があるのだろう。

 ディアナは素直に「分かった」と頷き、アルディスも無言で頷く。そんな中、クリフォードが壁に手を付き、そのままずるずるとその場に座り込んでしまった。

 

「っ……ぅ、く……ッ」

 

「おい、ダリウスの弟! 大丈夫か。顔、本当に真っ青だし、呼吸が……!」

 

 フェリシティの忠告がトラウマを刺激したのだろうか。今までずっと黙り込んではいたが、止まることなくエリック達の後を着いて来ていたクリフォードが動かなくなってしまった。俯き、肩を震わせる彼は苦しげに喉元を押さえている。

 

「クリフ、大丈夫よ。あたし達が一緒だから。何かあっても必ず助けるわ。だから安心して、ゆっくり呼吸してみて……大丈夫、大丈夫よ」

 

 独特の荒い呼吸音が聞こえてくる。ポプリが駆け寄って何とか落ち着かせようとしているが、場所が場所だけに、時間がかかるかも知れない。

 

 

「いや、弟。お前すげー強いわ。お前の兄貴は殿下が一緒でもこの施設入れないから。おかしくなるから。ここまで入ってこれた時点ですげーよ。お前の兄貴は即蹲るから」

 

「そういうこと言うの、やめてやってくれよ……ッ!!」

 

 

 そうじゃない。

 

 優しいのは分かるのだが、守秘義務が無さ過ぎるフェリシティのせいでダリウスが大変可哀想である。しかも弟と片想い相手の前でそんなことを暴露される酷さ。思わずエリックは、この場にいない男のために少し声を荒らげた。

 

「ふふふ、アベル王子」

 

 ディアナはクリフォードの傍まで飛んでいき、アルディスとマルーシャもそれに続く。ブリランテの失敗を繰り返さないためにその場に留まったエリックの傍に、フェリシティが寄ってきた。

 

「ダリウスの弟がメンタルやられてくれたお陰だな……何となく、察したんじゃないか?」

 

「ん?」

 

「気を付けてやってな、“ダイアナ”のこと」

 

 そう言われ、エリックはハッとした。先程フェリシティが「アルディスはともかく、ディアナとクリフォードは気を付けろ」と言った意味に、“ダイアナ”の過去に、勘付いたのだ。

 

「忠告、感謝する……クリフォードの毒が抜けたら、すぐに撤退するよ」

 

「それが良い。変なタイミングでヴァロン帰ってきても困るし、そうしてくれ」

 

 具体的に何があったのか。それをフェリシティは話さなかった。彼女が『事実を知らない』のか、『話せない』のか、『話したくない』のか――どちらにせよ、気を付けるべき案件に変わりはない。

 

「……」

 

 何故かディアナは『思い出さなければならない』と薄々感じ始めているようだが、それはきっと、彼女の心を壊すことに、耐え難い絶望を与えることに繋がってしまう。

 恐らく、かつてディアナの記憶を封じ込めたフェリシティもそれを望んでいないのだろう。そうでなければ、こんな忠告はしてくれなかった筈である。

 

(思い出してはいけない記憶……か……)

 

 エリックは宙を飛び回るディアナの幼い横顔を見つめ、静かに目を細めた。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.75 彼らの目的、彼女の選択

 

「す、すみません……僕のために、君達はここに来ることを決めてくれたというのに……その、フェリシティ様も、申し訳ありません……」

 

 しばらくして、エリック達は呼吸の落ち着いたクリフォードの様子を見つつ再び進み始めた。その間、待っていてくれたフェリシティにクリフォードが頭を下げれば、彼女は驚いて目を丸くし、直後、耐え切れないとでも言いたげに吹き出してしまった。

 

「ちょっ! なんだい、様付って! 殿下の部下だからか? 兄の関係者だからか?」

 

「その辺を踏まえて、その……どう、お呼びすれば良いのかと……」

 

「呼び捨てで良いんだよ、呼び捨てで! むず痒いからやめてくれよ!」

 

 ケラケラと笑いながら、フェリシティはクリフォードの傍へと移動する。目線の高さ自体はクリフォードの方が高いのだが、態度の差故かそれがあまり感じられない。自分より若干背の高い男の背をバシバシ叩きながら、フェリシティは楽しげに笑う。

 

「見た目は結構似てるのに、性格はかなり違うんだなぁ。お前のがちょっと丸いというか、控えめな感じがする。もっと自信持てよ!」

 

「そ、そう言われましても……」

 

 クリフォードが困っている。これは助け舟を出してやるべきだろうかとエリックが悩んでいると、フェリシティは急に「うーん」と小首を傾げてみせた。

 

「古傷抉ったらごめん、アンタはアレだよな。『ゲス眼鏡モード』全開のヴァロンに色々されてたんだよな」

 

 彼女の発言は確かにクリフォードのトラウマを刺激するようなもので、クリフォードは軽く顔を歪めた。しかし、それ以上に気になる単語をフェリシティが発したためか、彼はゆっくりと息を吐き出し、口を開いた。

 

「げ、ゲス眼鏡、モード……?」

 

 錯乱せずに済んだのは、この意味が分からない単語のお陰である。暗に説明を求めているクリフォードに対し、フェリシティは少し悩んでから話し出した。

 

「ただ単純に酷い奴って思えなくなるだろうから、その辺大丈夫か気になるけどさ……ヴァロンって多分、元はアンタらが思ってるような性格じゃないってアタシ達は考えてるんだ。だから、時々は一緒に行動するし、ベティは心配で離れられないって言ってる……殿下は持病持ちっぽくて、昔からヴァロン頼ってるしね」

 

「えっ、持病?」

 

「あ、アンタ、弟の癖に知らなかったのかい……? 多分、胸かどっか悪いよあの人。だから定期的に薬貰ったり治療受けたりしてるね」

 

「そう、なのか……悪い、話をヴァロンに戻してくれ」

 

 持病、それも胸が悪いのかもしれないと言われると、どうしてもルネリアルでの兄の姿が脳裏を過る。だがフェリシティはその辺りの事情に詳しくないようであるし、今は兄よりもヴァロンのことを聞いておくべきだろう。エリックに話の続きをするように促され、フェリシティは困ったような笑みを浮かべて話し始めた。

 

「信じられないかもしれないけど、アイツ、『二重人格』って奴なんだよ。時々、すっごく優しくて穏やかな人格が表に出てくる。まあ、そっちは今にも死にそうなくらい病んでるから『悲しみのパパさんモード』って呼んでるんだけど……どうもこっちが本当の人格っぽいんだよね、ゲス眼鏡モードが後からって考えた方が辻褄合うから」

 

「悲しみのパパさん……って、あの人既婚者なの!? しかも子持ちなの!?」

 

「た、確かに、結婚していてもおかしくは無い年齢の筈ですよ……あの方はずっと見た目が変わらないので、何歳なのかは知らないけどな……き、既婚者か……」

 

「いや、まあ、外見年齢的にも別に不思議じゃないと思うぞ私は……ただ、うん、普段の態度を見ていると、なぁ……嫁と子どもは大丈夫なのか……?」

 

「何でアンタら揃いも揃って『既婚者』の方に引っ張られてるんだい!?」

 

 フェリシティの指摘は最もだが、ポプリ達の反応も分からなくはない。確かに既婚者であり、子どもまでいたという事実はなかなかに衝撃的なものだ。そもそもディアナ、ポプリ、クリフォードの三名は時々着眼点が激しくズレるため、エリックにとっては別に違和感のない状況である。とはいえ、フェリシティからしてみれば衝撃的な反応だったことだろう。肩を竦めつつ、エリックは口を開く。

 

「二重人格、か。えーと、お前が言う『悲しみのパパさんモード』が主人格、『ゲス眼鏡モード』は裏人格的なものだと捉えて良いのか?」

 

「……アンタ、苦労してるんだね」

 

「面白いから良い、気にしてない……」

 

 何故かフェリシティに同情されてしまった。確かに先程の三人の暴走加減は酷かったが。未だに『ヴァロン既婚者』のワードに引っ張られている三人を宥め、エリックはフェリシティに向き直った。

 

「既婚者って言っても、ひとり残されちゃったみたいだから、今はアイツ独り身だよ。妻と娘を失って心が壊れちゃったんじゃないかな。アベル王子の言葉を借りるなら、これが原因で裏人格が誕生したってアタシ達は考えてる。裏人格が残虐な性格してる辺り、アイツ、戦争か何かで家族殺されたんじゃないかな」

 

「あー……なる程。家族が殺された時の恨みや憎しみが凝縮されて出来たから、あんな性格になったんじゃないかってことか」

 

「そういうこと。よっぽど辛かったんだろうね、アイツが起きてる時に主人格はほとんど出てこないんだ。そのせいで年中ほぼ裏人格だから、一緒にいるベティは頻繁に虐められるし、無茶な命令下されるんだよね……離れろっていうのに、離れないんだよあの子」

 

 二重人格であるとはいえ、現状主導権は主人格ではなく裏人格にあるらしい。強い悲しみが良心を凌駕し、温厚な主人格が乗っ取られてしまったと考えるのが妥当だろう。

 エリック達がヴァロンの主人格を知らなかったのは、主人格の時はエリック達の前に姿を現す必要性が無いからだ。クリフォード達を実験していた時もそうなのだろうが、それは残虐な特性を持つ裏人格だからこその行動であって、耐え難い悲しみと戦っている主人格の時は恐らく部屋に引きこもってしまっているのだろう。そうだとすればこれは、黒衣の龍の人間、それもヴァロンの部屋に行くような立場の者でなければ知りえない情報だ。

 

「確かに、ベティーナは常に威圧されていたというか、何というか辛そうな感じがする。だが、主人格とは仲良くできるのか」

 

『俺達の宝剣奪いに来たのも、多分裏人格の命令だよね?』

 

「多分、な。あれもかなり無茶な命令だよな……」

 

 声が出せないために会話には参加していなかったのだが、ここでアルディスがメモ帳を手にエリックの横に並んだ。彼も色々と思うところがあったのだろう。

 

『二重人格の件、信じて良いと俺は思う。多分主人格にとって、ベティーナの存在は救いなんだと思う。それを彼女は理解して、虐められるのも覚悟で一緒にいるのかと。そういう理由なら納得できるし、明らかに守ってくれそうな存在が複数いるのに彼女が逃げ出さない理由の説明にもなる』

 

「……自分が一緒にいないと、主人格が狂うから。だから、離れないってことか」

 

 エリックの問いに、アルディスはコクリと頷いてみせる。確かに純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)であるベティーナが研究者のヴァロンに虐げられながらも傍にいるのは妙であるし、逃げ出さない理由も主人格を守るためだというならば納得出来る。

 エリックとアルディスの会話を聞いて、フェリシティは「その通りだよ」と腕を組んで息を吐いた。

 

「ヴァロンの娘、どうも“オフィーリア”っていうみたい。その子がベティに凄く似てるみたいでさ……主人格の時に『オフィーリア、行かないでくれ』、『俺を一人にしないでくれ』とか言いながらベティ抱きしめてることがあるんだ。寝てる時は結構主人格率高いんだけど、その時はその時で魘されて嫁か娘の名前呼んでるし」

 

「お、おいおい……少し怖いな、その状況……」

 

「まあ、怖いね。それでもベティは逃げたりしないよ。それどころか『オフィーリアはここですよ』、『離れませんから、一緒ですよ』とか言いながらヴァロン宥めたりするの。ベティはヴァロンの裏人格には疎まれてるから虐められるのに、主人格が出てきた時に傍にいてあげたいから、ずっと一緒にいるんだって言うんだよ」

 

「……!」

 

 フェリシティの言う光景を想像し、エリック達は息を呑む。育った環境故なのかもしれないが、彼女の優しさはもはや自己犠牲の域に達している。「生きとし生けるもの全てを愛します」と言わんばかりの、少々宗教的なものを感じられるような行動だ。

 何度酷い目に合おうとも、傷付いたヴァロンの主人格を守る為に自分の意志を変えないたった十一歳の、まだまだ幼い少女。彼女の強さに感動するエリック達を見て、フェリシティは口を開く。

 

「ベティ、天使じゃね?」

 

――お前、『天使』って表現好きだろ。

 

 その言葉を発するかどうか、エリックは少し悩んだ。悩んだが、結局発することなく、こう返す。

 

「あ、ああ。天使だな……」

 

 実際に宗教的なものを感じるため、多分『天使』で良いと思う。恐らくハルモニカの件でも似たようなことがあったのだろう……ここでは聞かないが。

 そんなフェリシティは、思わず苦笑するエリックの横にいたアルディスの顔をまじまじと眺めていた。

 

「さっきから大人しいと思ったら、声が出ないのか。大丈夫か?」

 

 問われ、アルディスはニコリと笑って頷く。事情は説明しないらしい。それを少し不満そうにしつつ、フェリシティが続いて視線を向けたのはマルーシャだ。

 

「それ以上にイリス嬢が喋らないな。アタシの中では、アンタ結構騒がしい部類なんだけど?」

 

「えっ!?」

 

「あ、アンタも声が出ないとかじゃないんだね。体調でも悪いのかい?」

 

 フェリシティの指摘でエリックは漸く、『この施設に来てからマルーシャが一言も喋ってない』ということに気付いた――最悪だな、と思いつつ、エリックはマルーシャの傍へと移動する。

 

「マルーシャ、君……無理、してるんじゃないのか?」

 

「ううん、平気だよ。ただ、ちょっと考え事してただけなの……フェリシティも酷いよ! わたしだって喋らない時だってあるもん!」

 

「……喋らないと死んじゃう系の子かと」

 

「いやいや、確かにマルーシャは黙り込む時は結構黙り込むぞ。ただ、今日のはいつもより酷いけどな……」

 

 フェリシティと自分達が長々と話し込んでいたために、言葉を挟みにくくなっていたのだろうか。今の彼女は精神的にかなり弱っているというのに、ひとり会話から置き去りにしてしまった。申し訳ないことをしてしまったな、とエリックはマルーシャの頭を撫でる。

 

「……。ほったらかして、ごめん。でも何かあるなら言ってくれよ。無理しなくて良いし、周りが大変だからとかそういうことは考えないでくれ。話し相手にくらいは、僕もなれるから。僕以外でも良い。君の話は、皆聞いてくれる筈だから」

 

 マルーシャはあまりにも弱音を吐かない。それがどうにも気掛かりだった。突然のエリックの言葉にマルーシャは瞳を丸くした後、ニコリと微笑んでみせた。

 

「ありがとう、エリック」

 

 お礼は言えども、何かを話す気配はない。考え事というのは、別に相談事ではなかったのだろうか?

 

「……」

 

「おーい、アンタら! 置いてくぞ!」

 

 少し離れた場所で、フェリシティが手を振っている。彼女は複数ある扉の中の一つに手を掛けている。今からあの部屋の中に入るのだろう。ここで目を逸らしては、行き先が分からなくなるところであった。

 

「悪い、今行く!」

 

 エリックはマルーシャと共に皆の元へと駆ける。その足の動きに合わせて、床に貼られた金属が鈍い音を立てた。

 

 

 

 

 フェリシティが扉を開ける。その先は飾り気の無いシンプルな部屋ではあるがかなり広く、いくつか医療用の簡易ベッドが置かれている他、無数の棚に小さな瓶やら束ねられたレポート用紙やらが入っている。混沌としているが手入れは行き届いており、埃一つ無い綺麗な部屋だった。

 医療用ベッドの一つにクリフォードを座らせ、フェリシティは近くにあった机の上から様々な器具を取ってくる。

 

「ここは薬品倉庫兼医務室でね。薬品の他に色んな資料が置いてある。解毒は点滴を使うから時間が掛かる。残りの奴らは適当に数時間、この部屋で時間潰してくれ」

 

「点滴……」

 

「あ、アンタさては注射の類が苦手だな? どうする? 先に気絶させてや――」

 

「結構です! ただ、自分で打たせて下さい! そうすれば大丈夫なので……ッ」

 

 何やら物騒なことを言い出したフェリシティの言葉を遮り、置いてあった医療用ベッドに腰掛けたクリフォードは「黙って点滴をよこせ」と言わんばかりに彼女を見上げている。

 

「その人、他の人に注射されるの苦手なのよ。でも一応お医者様やってるから、大丈夫よ。自分でやれるわ」

 

「そうなのか? じゃあ、器具渡すから自分でやってくれ」

 

 強制的に気絶させられやしないかとヒヤヒヤしたのだが、案外フェリシティは素直だった。道具を一式渡され、クリフォードは慣れた手つきで点滴の準備を開始する。その様子を見て安心したのだろう。フェリシティはやれやれと肩を竦め、苦笑してみせた。

 

「中和剤って奴だな。それで体内に入った毒を無害化してやれば大丈夫だ。ただ患部はしばらく痛むだろうから、モニカに貰った薬は飲み続けてくれよ」

 

「分かりました……皆、すみません。しばらく、待っていて下さい」

 

「分かった。お前は丁度良いから少し寝ておけ」

 

 数時間の間何をしようかと思ったが、置かれている資料を見ても構わないだろうか。一応聞こうかと思ったが、早くも資料が並ぶ棚に手を伸ばしたアルディスを見てもフェリシティは何も言わないため、別に問題は無いのだろう。

 

 

「なあ、フェリシティ」

 

 そんな彼女の姿を見て、エリックは資料を読むことよりも、ここに来てからずっと気になっていたことを彼女に聞くことを優先した。

 

「なんだ?」

 

「お前……色々と僕らに話してくれたが、良かったのか? 守秘義務とか……」

 

 もし、万が一彼女が本来課せられていた守秘義務を破り、自分達に情報を提供してくれたのだとすれば、後々彼女にとって良くないことが起きることは明白である。何らかの目的をもって、彼女が自分の所属する組織を裏切った可能性も考えられるのだ。

 

「え? ないない! ヴァロンはそういうのあまり気にしてないし、殿下なんか『好きにしろ』って感じだし」

 

 しかし、フェリシティは「ありえない」とでも言いたげに笑ってみせ、直後どこか悲しげに口元に弧を描いた。

 

「そもそも、ね。黒衣の龍にいる奴らは『ここにしか』居場所がない奴らばかりだから。ここを裏切ったとしてもどこかに居場所があるわけじゃないから、裏切ったりなんかしない。アタシもそう。親にはさっさと見限られちゃったし、ここでしか生きられないのよ」

 

「あ……」

 

「辛気臭い話して悪いね。アタシも吹っ切れてるし、気にしないでよ? ただね……アンタらに話をした理由。それは無いワケじゃない。聞く気があるなら、話させてよ」

 

 聞く気があるなら、ということは強制する意志は無いらしい。「独り言みたいな感じになるんだけど」と苦笑し、フェリシティは語り始める。

 

「殿下はアタシを牢から出してくれた人だし、ヴァロンはアタシの力が暴走しないように手を貸してくれた……結局のところ、アタシはどっちにも感謝してるの。どっちの力にも、なりたいんだ」

 

「どっちの、力にも……か」

 

「そうそう、状況見つつどっちかに着いていくって言ったのはそういう意味。大変そうな方に着いていくようにしてるよ。でも裏人格ヴァロンの機嫌が悪い時にはそっちに行くかな。ベティが虐められるからね……だから、どっち付かずなんだよ、アタシ」

 

 彼女は生まれつき通常の秩序封印(ヴァルデマール・フレイヤ)能力者よりも能力が高いらしく――それはポプリも同様らしいのだが――自力では能力を制御しきれないらしい。彼女が『死刑囚』のレッテルを貼られ、でずっと牢に入れられていたのは、彼女の力を暴走させないことに加えて軍事的な利用価値を見出されてのことだったらしい。今ではヴァロンに制御陣を背に刻んで貰い、自力で能力を使いこなせているそうだ。

 

「ていうか、本当に何が目的なのか分かんなくってね。どうして良いか分かんないの」

 

 そんな彼女は先程から再々口にしているが、彼女視点だとゾディート、ヴァロン双方の考えが全く読めないことを本当に悩んでいるらしい。打ち明けてもらえないことが悲しいと言わんばかりに、彼女は肩を竦めてみせる。

 

「殿下はひとりで全部抱え込もうとするせいでよく分かんないんだけど、何か『目的』があって行動してるのは確か。しかも、そのために命を投げ出す覚悟もあるみたいに見える……命懸けで成し遂げたい『目的』って何なんだろね。よく分かんないけどそれ、悪いことじゃない気がするんだよ。そうじゃなきゃダリが着いて行かない気がするし」

 

「ダリウスが着いて行かない? いや、アイツ結構兄上を盲信してる気がするんだが……」

 

「いや、ダリって相当賢いよ? 道を踏み外してるわけでもないし、間違いなくアイツだけは黒衣の龍として生きる以外の道がある。それは殿下も言ってたし、きっと本人も分かってる。それでも殿下に仕え続けるのって、殿下のやろうとしてることに賛同してるからなんじゃないかな? 殿下が馬鹿げたことやろうとしてるなら、アイツはそれこそ命懸けで止めるよ。いくら盲信してたって、一緒に馬鹿なことはやらないと思う」

 

「……」

 

 そういうものなのだろうか――ダリウスはゾディートを盲信しているからこそ彼の行動を止めないのではなく、彼と共に、その『目的』を成し遂げるために戦っているというのだろうか。彼らの目的が歪んでいないとは決して言い切れないが、フェリシティは彼らを信じているらしい。

 

「ヴァロンはさっきも言ったけど、本当は良い父親だったんだと思うんだ。アイツを歪ませてしまった原因が何なのかは知らないけど、多分……主人格と裏人格に共通してる目的って『復讐』なんだよね」

 

「復讐、か……家族を奪った相手に対して、だよな?」

 

「うん。家族愛って、アタシはよく分かんないんだけどさ。復讐を誓う程に、アイツは悲しんだし、悔しかったってことなんだよね……裏人格の性格を見たら、『何が何でも復讐を成し遂げるんだ』みたいな意志を感じるしさ」

 

 ヴァロンほどの能力があれば、簡単に復讐など成し遂げてしまいそうな気がする。しかし、その相手は彼でさえも手こずるような、それほどまでに屈強な存在なのだろうか。

 もしかすると、相手は個人ではないのかもしれない。フェリシティが言うように戦争によって妻子を失ったのだとすれば、下手をすれば相手国――ヴァロンの国籍を考えれば、フェルリオ帝国か――を丸ごと恨んでいる可能性もある。確かにそれならば、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)を対象とした人体実験を行ったことや、戦力の増強を目的とした研究をしていたことにも納得が出来る。

 

(国が相手……か、手段を選んでいられないのも、無理はないってことか……?)

 

 ヴァロンは、フェルリオ帝国を葬る気なのだろうか――?

 頭を悩ませるエリックを見て、フェリシティはほんの少しだけ愉快そうに笑ってみせる。

 

「おいおい、黙り込まないでくれよ……って言っても、アンタらもアタシらの目的とか知りたいのか。悪いね、あんまり情報あげられなくて」

 

「い、いや……」

 

「悩んでくれるのはありがたいんだけどね……考える頭が一つでも多い方が良いと思って、アタシはアンタらに情報を渡したんだから。アンタらはこれを外部に流したりしないと思ってね……今更だけど、流さないって約束してくれるよね?」

 

「ああ、当然だ」

 

 フェリシティの問いに、エリックは即座に頷いてみせる。実際エリックは彼女から聞いた情報を流すつもりはなかった。流すとしても、現在のラドクリフ王国は黒衣の龍に構っている余裕は無いだろう。ゼノビア女王にいつ会えるかすら分からない状況なのだから。

 エリックの反応に満足したのだろう。フェリシティは歯を見せて笑ったかと思うと、すぐにその表情を真剣なものに戻した。

 

「……殿下の『目的』とヴァロンの『目的』が対立してるみたいなんだ。だから、アタシは両方に手を貸すことはできない……アタシの暴走止めてくれた時みたいに、殿下とヴァロンが一緒に何かすることも昔はあったんだけどな」

 

 黒衣の龍内部分裂の話はかなり重大な問題となりつつあるらしい。分裂どころか、双方の派閥が敵同士になっているようだ。あまり情報を得ることもできず、どっち付かずな中立の立場にあるフェリシティはそのことを酷く悩んでいるようだった。

 

「アタシ馬鹿だから、分かんないんだよ。どうして良いか分からないんだ。だから、一緒に考えてくれたら正直嬉しい……とか言いつつ、殿下なりヴァロンなりの邪魔をアンタらがするんだったら、アタシはアンタらと戦うんだけどね。戦うの好きだし」

 

「そ、そうか……」

 

 それは少し困る、と言いたかったが彼女も立場というものがある。こればかりは仕方がないと割り切るしかなさそうだ。別に、彼女は仲間になってくれたわけではないのだから。

 

「何したいのかは分からないんだけど、殿下とヴァロンの間にできた亀裂は修復不可能なんだろうなってのは分かる。だから、どっちかに本格的に肩入れしたら、もう片方を裏切る形になる……それでもね、せめて自分が後悔しない方を選びたいんだ。これくらいの自由は、許して欲しいんだよ」

 

 ただ純粋に彼女は、どっち付かずのまま適当にやり過ごすのではなく、彼女が『正しい』と思う方に着いて行きたいのだろう。そのために、自分達を利用したいのだ。

 

「……。分かった。何か情報を掴んだらお前に教える。ちなみに、逆にどっちも馬鹿なことしようとしてた場合は、どうするつもりなんだ?」

 

「ははっ、その時はアンタらと共闘でもしようかねぇ」

 

「そうかよ、じゃあ、もしそうなったら頼むな」

 

 それならこちらも利用してしまえば良い。対極の立場にある者が共通の利益のために手を取り合うことは決して珍しくはないし、彼女の持つ情報はいずれも有益なものであった。あまり考えたくはないが、これが罠だった場合のことは次に彼女に会った時にでも考えれば良いだろう。

 

 

「フェレニー殿」

 

 コンコン、と医務室の扉がノックされる。フェリシティが返事をすれば、研究員らしき男が部屋の中に入ってきた。

 

「申し訳ありません。ヴァロン様より封書が届きました。それと……」

 

「分かった、今行くよ。ちょっと待っててくれ!」

 

 男はフェリシティの言葉を聞き、扉を閉める。外で待機しているらしい。

 フェリシティは申し訳無さそうに笑い、口を開いた。

 

「悪いんだけど、アタシ行くわ。点滴終わったら勝手に帰ってくれ」

 

「お、おう……色々と感謝する。助かったよ」

 

 手を振り、フェリシティは「じゃーな」と笑って走り去っていく。そういえば彼女、「忙しい」と言っていた。何か仕事が溜まっているのかもしれない。申し訳ないことをしてしまったな、とエリックは苦笑する。そして彼女を見送った後、大切なことに気付いた。

 

(いや、待て。僕は道、覚えてないぞ……!)

 

 フェリシティとの会話に夢中になって、ここまでの道のりを覚えるのを怠ってしまった――他の誰かが覚えていれば良いのだが。

 誰か一人くらいは覚えていてくれと願いながら、エリックは各々適当に分かれて時間潰しをしている仲間達のもとへと向かった。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.76 被験体の記憶

 

「えぇと、確か……こっち、だったかなぁ……」

 

 フェリシティによる黒衣の龍内部情報暴露大会の影響は、非常に大きかった――心底不安げに先頭を歩くマルーシャの後を、申し訳なさを感じながらエリック達が続く。

 

「マルーシャ。間違えても怒ったりしないから、安心してくれよ……ごめんな……」

 

 案の定、といったところか。エリック以外の者もフェリシティの話に夢中になり、道順を全く確認していなかったのだ。そもそも困ったことに皆、フェリシティが帰り道も着いてきてくれると怠惰気味な甘い考えを持っていた。

 唯一の希望は「若干覚えている気がするけど自信は全くない」と皆が頭を抱える中で控えめに手を挙げてくれたマルーシャだ。彼女はフェリシティとの会話に一切参加していなかったため、ここまでの道程に意識が向いていたのだろう。

 

「研究員の人達ってすごいわね……あたし、これ迷う自信しかないわ……」

 

「ああ……ウンディーネの神殿の方がいくらかシンプルな作りだったな」

 

「ウンディーネの神殿は分かんないけど、フロアごとに色でも変えてくれたら分かりやすかったのにね……全部灰色だもん……」

 

 改めて研究所内部を歩くと、かなり入り組んだ構造になっていたことが分かる。階段を下り、長い廊下を歩き、階段を下り、渡り廊下を歩いて別の建物に渡り、今度は昇降機を使って下の階へ向かう。

 かなり歩いたのだが風景がろくに変わらないため、同じところをぐるぐる回っているだけのような気がしてくる。しかも会議中なのか研究員が一切おらず、道を聞くことすら叶わない――聞いて答えてくれるかは別問題だが。

 

 

「ま、マルーシャ……これ、どんどん下に降りてません……?」

 

「大丈夫大丈夫。フェリシティは上に上に向かってたから、帰る時は下に下に向かえば良い……はずだよね?」

 

「え、そんな上に行ってました……? 全然集中していなかったので、気付かなかったです……そうですよね、上に向かっていたなら、帰りは下に降りなければ……」

 

「……。ジャン、大丈夫? そわそわしてる」

 

 下へ下へと向かう、という道程が良くなかったらしい。再びクリフォードが情緒不安定になっている。この様子を見る限り、彼がいた場所は施設の地下深くだったのだろう。フェリシティに案内されている最中もそれらしい設備がなかったような気がするため、人体実験に関連する設備は見えにくい場所にまとめられているに違いない。勿論、既に取り壊されている可能性もあるのだが。

 

「放っていかないで下さいね……置いていかれなければ、きっと、大丈夫です……」

 

 呼吸困難にはなっていないが、毒はもう抜けたというのに彼の顔は真っ青だった。直後、完全に沈黙してしまった彼の様子を見て、エリックはふとディアナへと視線を移す。

 

(そういえば、ディアナもさっきから一言も喋ってない……)

 

 彼女も、医務室を出てからしばらくの間は喋っていたのだが。クリフォード同様にこの「ひたすら降りる」という道程が悪かったのだろうか。

 

「ディアナ?」

 

「……」

 

「ディアナ!」

 

 少し声を上げれば、ディアナはびくりと肩を揺らし、こちらを向いた。少し、怯えたような様子であった。

 

「悪い、驚かせたか?」

 

「い、いや……私も考え込んでしまっていた。すまない……」

 

 心配をかけまいと思っているのか、ディアナは貼り付けたような笑みを浮かべて軽く首を傾げてみせる。感情が表に出やすい子で良かった、とエリックは息を吐く。

 

「何か、思い出した……のか?」

 

 エリックがそう問えばディアナの大きな青い瞳が不安げに揺れる。貼り付けていた笑みは、あっさりと剥がれ落ちてしまった。

 

「……思い出してはない。けれど、身体が覚えているのかもしれない……さっきから、身体が震えるんだ」

 

 それが何を意味しているのかは、ディアナ本人も分かっていることだろう。どこか悲しげに微笑み、彼女は肩を竦めてみせる。

 

「まだ分からないけどな。案外、研究者側だったかもしれないし……なんて、あはは……」

 

 ディアナがかつて研究者側にいた可能性。それは全くないとは言い切れないが、どう考えても彼女は研究を“される側”の人間だったと考えられる。

 ここで彼女が何をされていたのか、どんな思いをしてきたのかは分からないが、記憶を失ってしまう程に辛い経験をしていたことは確かだ。

 

(ディアナが過去を思い出してしまう前に、何とかここを出ないと、な……)

 

 明らかに悲惨なものだと分かっているものを、彼女のささやかな願いすら裏切るような、そんな残酷なものを思い出させたくはなかった。とはいえディアナ本人は何らかの理由で記憶を取り戻す必要性を感じているのだろうから、これはエリックの勝手な庇護欲、エゴであるとも言えるわけだが。

 

「とにかく、早いところここを出ないといけないな。用はもう無いんだ、無理にここに留まる必要は無いはずだぞ、ディアナ」

 

「そう、だな……」

 

 やはり記憶の手がかりを捜したいのか、ディアナは煮え切らない言葉を返す。それでも「ここに残るか?」と言う気にはなれなかった。彼女が絶望すると分かっていながら、その背を押そうとはどうしても思えないのだ。

 

 エリックは視線をディアナからマルーシャへと移す。見れば、マルーシャの足が完全に止まってしまっていた。

 

「ご、ごめんなさい……わたし、どこかで道間違えちゃったみたい……」

 

 厳重そうな鍵が複数付いた両開きの大きな扉の前で、マルーシャは皆を振り返って苦笑いしている。道はもう分かれておらず、このまま進むのであれば目の前の大扉を潜ることになる。あまりにも特徴的な扉である。流石のエリック達も、来る時にはこんな扉を通っていないと確信できた。

 

「仕方ないわよ。ごめんね、マルーシャちゃん……って、これ多分鍵掛かってないわよ」

 

「えっ!?」

 

 扉のどこを見て判断したのかは分からないが、どうやら開いているらしい。ポプリが扉に近付き、片方の扉をそっと押せば、何かに阻まれることなく扉は前後に揺れた。確かに鍵は掛かっていないようだ。

 

「すごい! 何で分かったの!?」

 

「その……あたしのお父さん、考古学者でもあったの。この扉はお父さんの本に載ってた古代の扉に、よく似ていたから……何でかしらね、多分古代技術を使ったわけではないと思うんだけど……偶然被ったか、古代技術を参考にしたかってところかしら」

 

 ポプリはお父さんっ子だったのだろうか。エリックはあまり彼女自身のことを聞いていない為、こんな些細な情報さえも珍しく感じられた。

 

(ああ、それで古代語をあっさりと読めるんだな……父親に教わって勉強していたんだろうか)

 

 何故か本人ははぐらかしていたが、恐らく彼女は“常用語と大差ない程度には”古代語を解読出来るのだろう。そうでなければライオネルの家で複数の本を短期間で流し読みしたり、ウンディーネの神殿に掘られた文字に「読めるけど意味が分からない」という感想を抱いたりすることは無いはずだ。

 

(十二歳で死に別れているとはいえ、親が考古学者と研究者だったのか……あまりそういう話をしたことが無かったが、ポプリって実は相当博識なんじゃ……クリフォードも大概に酷かったが、こっちもこっちで凄まじい秘密主義だよなぁ……)

 

 クリフォードはアルディスに対しては少し自分のことを話していたようであるから、ポプリはむしろ彼の上を行っている気がする。義弟であるアルディスですらも、彼女のことを推測で話すことが多い程だ。当然、エリックに対して自分のことを話す筈もなく……アルディスも言っていたが、それは何故なのだろうか?

 

(僕、ひょっとして嫌われてるのか? アイツに嫌われるようなこと、したか……?)

 

 自分のことを話す、という行為はある程度信頼のおける相手にしかできないことだろう。そういう意味では、少なくともエリックはポプリに信頼されていないということになる――否、誰に対しても何も話さないところを見れば、クリフォード同様に彼女には“心の底から”信用している人物がそもそもいないのではないだろうか?

 

(案外、クリフォードと同じパターンなのか? いや、でもポプリは少し違う気がするんだよなぁ……ちょっと棘があるというか……)

 

 他者との間に壁を作ろうとするのは双方に共通するのだが、ポプリは他者を“恐れている”様子はない。さらに言えば他者と“仲良くなりたい”という意思があまり感じられない。ただ単純に性格の差なのかもしれないが、ここがクリフォードとの違いだろうか。

 そもそも、どちらかというとクリフォードよりも自分達を拒絶していた頃のアルディスに近いような気もする。これは同じ事件を経験したがゆえの共通点だろうか。

 

(そういえば、ペルストラ事件の話ってアルからもポプリからも、まともに聞いたことなかったな……これが分かれば、何か繋がるのかもしれないが……)

 

 ポプリとアルディスは仲睦まじい姉弟のように見えて、実のところかなり歪んだ関係であるとも言える。ポプリは最初こそアルディスを過度に気にする様子を見せていたが、アルディスが歩み寄る姿勢を見せ始めた段階でそれは止んでいた。もし、仮にアルディスがポプリを拒絶し続けていたならばば、彼女は一体どう動いていたのだろうか。

 

「……」

 

 あくまでもこれは仮定だが、もしそうなっていればポプリは素直にアルディスから距離を置き、自分達とここまで共に旅をすることも無かったのではないか、と思う――むしろ、実はそれが本意だったのではないか、とも。

 旅の中で、少しずつ、少しずつポプリはアルディスと距離を置くようになっていった。クリフォードとの関係が微妙に変化したことも理由のひとつかもしれないが、それだけではどうにも納得し難い。何かが、引っかかるのだ。

 

 

「エリック!」

 

「ッ!?」

 

 頭を悩ませるエリックの耳に、マルーシャの声が届いた。ハッとして顔を上げれば、少し拗ねたような様子のマルーシャと、そんな彼女を苦笑しながら見つめるポプリの姿が視界に入った。

 

「もう、何ぼーっとしてるの? 早く行こうよ」

 

「行こうって……まさか、そこ入るのか?」

 

「ここね、どうも大掛かりな研究が行われていた部屋みたいなんだ。中に何か資料がありそうって思わない?」

 

「え……いやいやいや、そんな、好奇心で忍び込むような場所じゃ……」

 

 エリックが思考を脱線させている間、何故か大型研究室に入りたがるマルーシャを止め続けていたのはポプリなのだろう。止められ、納得がいかないとマルーシャは自分に話を降ってきたに違いない。

 

「好奇心じゃないよ! ここの地図とかもありそうじゃん!」

 

「い、言われてみれば」

 

「大体、本当に重要な場所ならちゃんと鍵掛けてるでしょ? 大丈夫だよ!」

 

 そう言われてみれば、とエリックは視線を泳がせる。確かに、地図は欲しい。早くこの研究所から脱出するためにも、早々に地図は欲しい。

 

「……。地図だけ、拝借する……か?」

 

「え、エリック君!?」

 

「大丈夫だってば。もう、ポプリってば心配性だなぁ」

 

 ポプリが心配するのも無理はない。クリフォードはもちろん、洞察力の優れた彼女ならばディアナの様子を見て「被験体であった可能性が高い」と気付いていてもおかしくない。そんな二人を研究室に連れ込むことに抵抗があるのだろう。そもそも、研究室そのものを危惧しているに違いない。

 

 

『俺、ディアナとクリフォードさん連れて、ここに残ってようか?』

 

 アルディスも少し思うところがあったのだろう。メモを差し出し、彼は肩を竦めている。行かなければマルーシャは納得しないと判断したのだろう。

 

「あ、ああ……そうだな。まあ、そこは本人達の意思を聞いておきたいところだが」

 

 研究室に入るのと、この場に留まるのでは、どちらが危険性の高い選択だろうか。どちらも現状目に見えた危険は無いため、何とも言い難いというのが現状である。ちらりと少し離れた場所にいたディアナとクリフォードを見れば、二人とも何かを察してくれたのか黙ってこちらにやってきてくれた。

 

「……どうする?」

 

 アルディスのメモを見て、状況を把握したのだろう。先に口を開いたのはクリフォードだった。

 

「僕は……皆が行くところに、着いて行きます。そこが研究室だろうが、檻の中だろうが……」

 

「おい、馬鹿。相当参ってるだろ。無理するな」

 

「ふふ、僕は大丈夫ですよ」

 

「……」

 

 全くもって大丈夫ではなさそうだ。

 しかし、自ら「着いて行く」というのを置いていくのもどうかと思う。それで何かしらの事件に巻き込まれでもすれば最悪だ。

 

「分かった。じゃあ、無理だと分かったら誰かに声掛けろ……ディアナ、お前はどうする?」

 

「私も行く。フェリシティが言うように、機械類に触れないように気を付けていれば大丈夫なんだろう? 探し物は手が多い方が早く見つかるだろうし」

 

 ディアナもディアナで、気丈に笑ってはいるが少し心配である。相変わらず過保護になっているのは分かるのだが、彼女の場合は仕方がないだろう。困ったことに何が記憶のトリガーになるかがさっぱり分からないのだから。

 

『二人が着いて行くって言うなら、俺も同行する。何かあったら、すぐに動くよ。足は問題なく動くし』

 

「何かあったら僕が動くから心配するな。正直僕は、お前にこそじっとしてて欲しいんだぞ」

 

 そう言えば「嫌です」と言わんばかりにアルディスは笑う。しかし笑い声が出ていないのが、どうにも痛々しい。左腕が満足に動かせない状態であるが故、いつも以上にたどたどしい筆跡もそれを助長した。

 

「……」

 

 何か顔に出ていたのだろうか、アルディスの笑みが引っ込む。彼はメモ帳を壁に押し当て、何かを書いてエリックに突き付けてきた。

 

『君は俺達のことに気を配りすぎ、かな。いざって時は、ちゃんと頼ってよ』

 

「な……」

 

 一体何を言っているのか。そう返したかったが、心底不安げに顔を覗き込んでくるアルディスの姿を見れば適当な返事を投げ掛ける気には到底なれなかった。

 

「これは僕の性分だ。気にするな……大丈夫だから、そんな顔するな。ありがとな」

 

「……」

 

 納得いかない様子ではあったが、この話を続けたところで仕方がないと思ったのだろう。アルディスはどこか悲しげに微笑んだ後、心配をかけまいと思ったのか先に研究室へと向かい始めたディアナとクリフォードを追う。彼の発言に引っかかるところはあったが、エリックも黙って彼らの後を追い、研究室へと入った。

 

 

 

 

 研究室は部屋中央にそびえ立つ巨大な機械とその奥のこれまた巨大なモニターが目立つ、薄暗い灰色の空間であった。機械やモニターには電源が入っていないらしく、何の物音も動作もしていなかった。しかし使われてはいるのか、はたまた手入れが行き届いているのか。埃が積もっている様子はない。どこまでも人工的で、少々薄気味悪い印象のある場所だった。

 

 際立って目立つ巨大機械の中心には黒い金属製の輪が数個重なったような物体が取り付けられており、球体の世界地図を思わせる形状をしている。エリックがそれをぼんやりと眺めていると、きょろきょろと視線を動かし、落ち着かない様子のクリフォードが傍にやってきた。

 

 

「何だ? 心細くなったか?」

 

 無言は肯定と捉えて良いだろう。ふと視線をモニターの前へと移すと、女性陣とアルディスはモニター前の台に山積みになった紙束や書物の中から地図を探している。クリフォード本人からすれば必死なのだから面白がってはいけないのだが、地図探しに夢中で誰にも構ってもらえないのが不安の増長に繋がったに違いない。吹き出しそうになるのを懸命に抑え、エリックはクリフォードに視線を移す。

 

「……。別に、笑って下さっても良いんですよ。自分でも無様だとは思っているので」

 

「そんなこと言うなって!」

 

 だが思っていることが筒抜けだったのか、拗ねたような様子で彼はエリックから視線を逸らしてしまった。相当不安なのか、いつも以上に分かりやすい態度である。

 そしてその不安の理由は、エリックと視線を合わせないまま彼が口にした言葉によって判明した。

 

「……これ、円形の中に人を放り込むんです。隙間だらけですけど、魔力で拘束してしまうので入れられた人は中心から動けなくなります。そして研究者の任意のタイミングや、中に入れられた人間が暴れたりすると電撃が流れます……要は、尋問や拷問なんかに使われる機械です」

 

「え……」

 

「電撃は上手く死なないように調整されているので、何発喰らおうが死ねないし、ついでに気絶もさせてくれないんです……すみません、気になっているようなので説明しました。気にしないで下さいね、僕はそんなに長い時間放り込まれたことはないので……」

 

 肝を冷やすようなクリフォードの説明を聞き、エリックはすぐさま地図を探す四人の方を向いた。思った通り、ここは軽率に入ってはいけない場所だったのだと判断したのだ。

 

「そ、その……大丈夫ですよ。流石に自分が放り込まれていた水槽を見ると狂うかもしれませんけど、この程度なら、まだ……」

 

「お前が大丈夫でも僕が嫌なんだよ! くそ……っ」

 

 どうして道を覚えておかなかったんだ、と数時間前の自分を殴りたくなる。錯乱こそしなかったが、この機械はかつて被験者であったクリフォードに見せて良い物では無かった筈だ。

 そもそもこういったものが未だに残っていることが信じられなかった。フェリシティや他の黒衣の龍構成員はこの施設を大切にしているようであったが、エリックにとってここはラドクリフ王国の負の遺産であるとしか思えなかった。

 今後国を背負うものとして目を逸らす訳にはいかないのは分かっている。だが、今はただこの場を離れたい気持ちで一杯だった。そんな時、マルーシャは一枚の紙を手にこちらを振り返った。

 

 

「お待たせ! 地図、あったよ! 隠し扉になってて入口側からじゃ分からなかったけど、ここからならすぐに出られそう……手間取っちゃって、ごめんね!」

 

 気にするなとは言ったが、エリック達は内心苛立っているに違いないとでも思っていたのか、マルーシャは申し訳なさそうに眉尻を下げる。

 

「謝らなくて良い、ありがとな。マルーシャ、出口はどっちだ?」

 

「あっちがそうだよ。でもパッと見だと壁にしか見えないや。すごいね、隠し扉って……ポプリ? 何読んでるの? 帰るよ?」

 

 置かれていたレポートの束に興味を示しているポプリに声を掛けつつ、彼女が指差した先は何の変哲もない鉄製の壁であった。しかし複数回叩くと反応し、壁に擬態した扉が開く仕組みになっているのだという。そのような扉を五回程通れば入口に戻るのだそうだ。入口付近で迷った辺り、マルーシャの道案内はほぼ間違いのないものだったのだろう。

 

(最後の最後で道を間違えたってところだろうな……道を覚えるのは得意だもんな、マルーシャは)

 

 二回目以降の城脱走時、一回目に通った道をしっかり暗記していたマルーシャの得意げな顔が脳裏を過る。幼い頃の記憶を思い出し、荒みかけた思考回路が一気に浄化されたようだ。内心マルーシャに感謝しつつ、エリックは隠し扉へと向かう――その時だった。

 

 

「うわぁっ!」

 

 不意に聞こえてきたのはディアナの叫び声、そして間髪入れずに機械の作動音が響く。慌てて視線を動かすと、エリックの視界は機械から伸びる光る蔦のようなものに拘束され、円形の中へ引きずり込まれようとしているディアナの姿を捉えた。

 

「ッ!? ディアナ!!」

 

 引きずり込まれてしまうと大変なことになる。クリフォードは即座にメスを数本取り出し、光る蔦を狙って投擲した。状況は分からずとも良くないものだと判断したらしいアルディスも蔦に向かって迷わず銃弾を放つ。だが、蔦はびくともしない。

 

「ぐあっ!」

 

「ッ!?」

 

「クリフォード、アル!!」

 

 それどころか、蔦はなんとクリフォードとアルディスが放ったメスと銃弾をそのまま弾き返してきた。流石に予測が出来ずにかわせなかったようで、メスはクリフォードの脇腹と左太腿に突き刺さっていた。機械の向こう側で転がっているアルディスも銃弾を受けてしまったのだろう。

 

「マルーシャ! アルは無事か!?」

 

「い、命は大丈夫! でも、左肩を弾が貫通しちゃったみたい……!」

 

「それなら良かった……だが……」

 

 被弾したクリフォードとアルディスの安否確認をしている間に、ディアナは完全に機械に閉じ込められてしまった。内部では魔力が無効化されるのか、彼女の翼が消えてしまっている。円形の檻の中心で、ディアナは不安げに瞳を潤ませていた。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.77 叫び

 

「多分下手なことしない方が良いわ! 機械の設計図か何か無いか探してみる! ディアナ君、悪いけど少しだけ我慢しててね……!」

 

 機械を止められれば話は早い。地図同様にその手段が見つかることを祈り、ポプリは先程まで手にしていたレポートの束を置き、紙の山を漁り始める。それを見てマルーシャも彼女の後に続いた。

 

 身動きを取ることができず、酷く怯えた様子で、ディアナは彼女らの姿を見つめている。怖すぎて声が出ないのだろう。今にも泣き出してしまいそうな様子だった。そんな彼女を囲む檻が、青白く発光した――その時、中央にいるディアナ目掛けて電撃が放たれた!

 

「うああああぁあああぁっ!!」

 

「!? ディアナ!」

 

 電撃が止み、ディアナはぐったりと宙に浮かんでいる。外傷は無いが、魔術に耐性のある彼女相手でも相当なダメージを与える電撃だ。あれは特殊なものなのだろう。

 問題はディアナが何もしていなかったにも関わらず電撃が流れたことだ。故障しているのかもしれない。これでは対処法を待っている間にディアナが何度も電撃を喰らうことになってしまう。故障している可能性がある以上、『死なない程度の電撃』というクリフォードの説明も怪しいものとなる。これは一刻も早く、ディアナを救出しなければならないだろう。

 

「ぐ……っ、申し訳ないとは思うのですが、ライを呼びます。不幸中の幸い、マクスウェル様に連絡だけならできそうです。ライなら、透視干渉(クラレンス・ラティマー)で機械の操作ができる筈……!」

 

 突き刺さったメスを抜きながら、クリフォードはマクスウェルと連絡を取り始めた。ライオネルも被験者であるために避けたかった選択肢だが、もはや手段を選んでいる場合ではない。

 

 

「アル! 大丈夫か!?」

 

 ひとまずエリックはアルディスと合流し、彼の傷の状況を確かめることにした。クリフォードのことも気になるが、声が出ない状態のアルディスを一人にしておくのは危険だと判断したのである。

 被弾した左肩を庇うようにしながらアルディスは立ち上がっており、右手には剣が握られていた。ディアナを囲む檻本体ならば、と考えているのかもしれない。

 

「待て。行くなら僕も一緒に行く……間違ってもお前ひとりで行くなよ」

 

 臨戦態勢に入ったアルディスに「行くな」という声掛けは無駄である。それならば同時に飛び出せるように、エリックはレーツェルに触れ、剣を構えた。

 

「……。同時に行くか。何かしら跳ね返ってきても分散できるかもしれない」

 

 下手なことをしない方が良い、とポプリには言われたがあまり待っている時間はない。ライオネルを頼るにしても、トゥリモラが精霊と相性の悪い土地であるためか、クリフォードは連絡にかなり手間取っている様子だ。先程の飛び道具は、ディアナにはこれといって影響が無かったように見えた。ならば、大丈夫だろう。

 隣でアルディスが頷いたのを確認し、エリックは床を蹴り、機械に向かって駆け出す。アルディスもそれに続いた。時間差はあれども、二人の身体能力を考えれば最終的には同じくらいのタイミングになる筈だ。

 

「はあぁっ! ――龍虎(りゅうこ)滅牙斬(めつがざん)ッ!!」

 

 飛び上がり、空中で身体を翻して刃を叩き込む。アルディスがエリックの攻撃箇所を狙って連撃を放つ頃には、機械の真下に発生した魔法陣がガリガリと金属を削り、嫌な音を立てていた。

 

(流石に一発じゃ厳しい、か……!?)

 

 金属が、青白く瞬く。その刹那、輪から放たれた円状の光線が、空中にいるエリック達を襲った。

 

「がはっ!」

 

「ッ!」

 

 光線は抵抗のしようがないエリックとアルディスの腹部を抉り、そのまま後方の壁へと叩きつける。肺が潰れるような衝撃に息が止まる。そのまま、受身を取ることも出来ずに二人は鉄製の床に叩きつけられてしまった。

 

「ごほっ、ごふ……っ! ひゅ……っ、ぅ……」

 

 あまりの痛みに、息が出来ない。ルネリアルでダリウスに蹴られた位置と同じ場所に光線が当たってしまったせいか、思っていた以上に損傷が激しいらしい。噎せながらも必死に息を吸おうともがくエリックの傍に、クリフォードが駆け付けた。

 

「この真なる祈りに応え、訪れしは刹那の安寧! 我が盟友の痛みを消しされ! ――ヒール!」

 

 暖かな光に包まれ、痛みが少しずつ消えていく。呼吸も何とか出来るようになった。これで、何とか動けそうだ。

 

「すまない、助か……ッ!?」

 

 礼を言おうと顔を上げたエリックの視界に、血を流して仰向けに倒れているアルディスの姿が入った。既にクリフォードが様子を見ているようだが、彼の意識がないことは明白だ。

 

「アル!」

 

「大丈夫です。打ち所が悪かったようですが、命に問題ありません。アルは元々弱っていましたから、仕方ないかと……」

 

 どうやら頭部を強打してしまったらしい。患部に軽く治癒術を掛け、クリフォードはそのままアルディスを寝かせて顔を上げる。

 

「起こそうと思えば起こせるのですが……その、アルはこのままだと弱っているのもお構いなしに特攻しそうなので、このまま寝かせておこうかと思うのですが……どうしましょうか?」

 

「……そうだな、寝かせておこう。絶対特攻するから……」

 

 仮に目を覚ませば、何度でも果敢に機械へと立ち向かっていきかねない。アルディスを守るためにも、今は寝かせておくべきだろう。

 そしてエリックは、服の上から雑に包帯が巻かれたクリフォードの脇腹と左太腿の傷が気になった。

 

「悪い、マルーシャ! 治癒術を頼む!」

 

 クリフォードは自分の傷は治すことができないため、どうしてもマルーシャかディアナの協力が必要だ。今は、マルーシャにしか頼れない。

 

「……ッ」

 

 しかしマルーシャは、エリックの方を一度見た後、悲しげに目を伏せてしまった。

 

「マルーシャ?」

 

「でき、ないの……」

 

 声が震えている。そういえば、アルディスが被弾した時も彼女は治癒術を発動させることなく設計図を探しにいった。そもそもアルディスの家で彼女が首の傷を治療しなかったのは別に魔力の節約だとか、そういう意図ではなかったのかもしれない。

 マルーシャは胸元のリボンを握り締め、今にも泣き出しそうな表情でエリックに訴えかけた。

 

「できなくなっちゃったの……! 治癒術、使えないの……!!」

 

「……ッ!?」

 

 両親の死が、マルーシャを追い詰めてしまったのだろうか――少女の悲痛な叫びが、胸に刺さる。やはり彼女は、明るく振舞っていた“だけ”に過ぎなかったのだ。

 

 

「マルーシャ、僕は大丈夫ですし、治癒術も僕が使えます! 引き続き機械の設計図を探して下さい! お願いします!」

 

 言葉を無くしてしまったエリックに代わり、クリフォードが叫ぶ。間違いなく治癒術が使えなくなってしまったことで更に心を痛めているであろう少女には、今はこう伝えるしかないだろう。彼女には悪いが、ゆっくりと話を聞いてやれる時間は無いのだから。

 そうしている間にも、再び機械が瞬く。ディアナの目が、恐怖で見開かれた。

 

「ああああああぁあぁっ!!!」

 

「ディアナ!」

 

「うぁ、あ……い、いや……いや、ぁ……」

 

 激痛に叫ぶだけでは、無かった。涙に濡れたディアナの瞳は、朧げな様子で“何か”を見ている。痛ましい声を上げた彼女の唇からは、弱々しい言葉が紡がれていた。

 

「お父、さ、ま……お母、様……いや……いやぁ……!!」

 

「ディアナ!? どうした? ディアナ!!」

 

「いや……いやああぁあああああぁっ!!!」

 

 彼女は、両親を呼んだ。その直後、彼女は今までにない勢いで悲痛に泣き叫んだ。錯乱してしまったのか、今までとは打って変わった様子で暴れ始める。

 

「いやぁあああっ!! 捨てないで! 置いていかないで! やだぁあああぁっ!!!」

 

「ディアナ! 落ち着け! 大丈夫、大丈夫だから、すぐに助けてやるから!!」

 

「お父様ぁ、お母様ぁ……!! 私をひとりにしないで!! ここに置いていかないで!! やぁあああぁあ……ッ!!」

 

 最悪なことに、『中に入った者が暴れると雷撃が放たれる』という仕様についてはそのままだったらしい。泣き叫び、ここにはいない両親に「置いていかないで」と訴え続ける彼女を無情にも雷撃が襲う。

 

「きゃああぁああああっ!!! あ、あ、ぁ……うぅ、ああぁああああっ!!!」

 

 雷撃が当たれば、大人しくなるようなことは無かった。むしろ、悪化していく一方である。アルディスがこれを聞いていなくて、見ていなくて良かったと思うと共に、エリックの中に焦りが募っていく――このままでは、ディアナが壊れてしまう!

 

「捨てないで……ッ! 置いていかないで、お願い。私も連れてって……ッ!! うああぁああああぁっ!!」

 

 

(ディアナ……)

 

 ギリ、と奥歯を噛み締め、エリックはアルディスの傍にいるクリフォードへと視線を移した。本来得意ではない無生物を相手にしているとはいえ、そろそろ何か分かったのではないかと判断したのだ。エリックが求めていることが分かったのだろう。クリフォードはおもむろに頷いてみせる。

 

「やたら耐久性が高いです、物理的な攻撃はろくに入らないと思って下さい……弱点属性は、光と火です」

 

「光と火……!?」

 

「よりによって、といった感じですよね」

 

 術による攻撃でないと駄目だというのはまだ良い。エリックの弓はどちらかというと魔術に近いものであるし、術師ならポプリがいる。しかし光属性はアルディスの、火属性はディアナが得意とする属性だ。彼ら以外に、該当属性の攻撃術を使える者はいない。

 アルディスを起こすという選択肢もあるが、今の彼に魔術を使わせるのは死に直結する行為に等しい。仮に彼に意識があったとすれば、光属性の魔術が効くと分かった途端に自身を顧みず大技を発動させたことだろう。気絶させたままにしておいて本当に良かったとエリックは息を吐いた。

 

「とりあえず、弓でやってみる。光属性なら使えるからな……威力は期待するなってところだが、物理よりはマシなんだろう?」

 

「はい……えーと、アレはエリックの弓にも効果があるんでしょうか……? やるだけやってみますね」

 

 エリックは手にする剣を弓に切り替え、クリフォードは傍で詠唱を開始する。残念ながらそこまで多くの技を取得しているわけではなく、光属性のものも一つしか該当しなかったのだが、やらないよりは良いだろう。

 

「――メルジーネ・シュトラール」

 

 クリフォードの詠唱が完了し、エリックの中に光属性の魔力が流れ込んでくる。それをそのまま打ち出さんとエリックは弓を天井に向けて構え、矢を放った。

 

「――天来白鴉(てんらいはくあ)!!」

 

 対象は動かない機械のみ。本来であれば広範囲に降り注ぐ光の矢を出来る限り狭い範囲に絞り、機械への攻撃に集中する。矢はガリガリと機体を削り、火花を散らしていた。だが、それだけである。

 

「クリフォード、風属性や闇属性は太刀打ち出来ないのか?」

 

「この耐久ですと、相性を無視できる程度には強い威力のものでなければ……ッ!? エリック!」

 

 機体が、瞬く。嫌な予感がし、エリックとクリフォードは慌てて後方に飛ぶ。しかし、大型の弓を構えていたエリックは僅かに動作が遅れていた。エリック目掛けて、僅かに大きさが増した光の矢が降り注ぐ!

 

「ぐあぁあっ!!」

 

 光の矢は青白い雷の衣を纏い、エリックの身体を焼いていった。髪や衣服、肌が焦げる嫌な臭いと痛みに顔をしかめつつ、エリックは機械に向き直る。少なからず効いてはいるようだが、その都度こちらに攻撃が跳ね返ってくると考えて良いだろう。

 

「今、治療します!」

 

「いや、良い!」

 

 身体が痺れる。それでも矢は放てそうだ。エリックは再び矢を構えて叫ぶ。

 

「今はお前しか治癒術を扱える人間がいないんだ……僕はまだ耐えれる。アルがあの状態で、ディアナがどんな状態で解放されるか分からない以上、無駄に魔力を消費して欲しくない。ただでさえ、お前結構辛い状態だろ?」

 

「で、ですが……!」

 

「まあ、死にそうになってたら流石に考えてくれよな!」

 

 ディアナの泣き叫ぶ声も、雷撃が放たれる嫌な音も、未だ消えることはない。いつまで彼女が持ちこたえるか分からないのだ。迷うことなく、エリックは天井目掛けて光の矢を放ち続けた。

 

(ッ! せめて飛んでくる方向が読めればな……!)

 

 跳ね返ってくる矢は避けられる範囲で避けたが、段々と足がもつれ、動くことすらままならなくなってくる。次第に、矢を放つことだけで精一杯になり始めた。

 

「ぐ……っ」

 

 矢を放ち、そのまま冷たい床に俯せで崩れ落ちる。息が切れる。ここで避けなければ一本残らず矢を受ける羽目になるだろう。だが、身体が痺れて身動きがとれないのだ。強気な発言をしておきながら、呆気ないなとエリックは苦笑した。

 

 

――その時、視界に影が差した。頭の前に誰かが立ったのだ。

 

「君は多少身体が変化してるだろうけれど、龍王族(ヴィーゲニア)は本来魔術に弱いのよ……どうしてこんな無茶するの」

 

(え……)

 

 顔を上げれば、眼前にこちらを見下ろしてくるポプリの姿があった。何でもないように、にこりと微笑んでみせる彼女の背目掛けて、光の矢が降り注ぐ!

 

「ぐぅ……っ! 痛、ぁああっ!!」

 

「ポプリ!」

 

 ポタポタと、膝を付いた彼女の背から血が流れる。冷や汗を流しながらも、ポプリは両手で抱きかかえていたレポートの束をエリックに手渡した。

 

「これ、こっそり持ち出しといて。何故か本当に大昔の古代語で書かれてるんだけど、ライ君なら、きっと読めるから。あまり読むべきじゃないだろうけど、ディアナ君を助けるヒントになるかなって」

 

 渡されたのは、何かの研究論文のようなものであった。『本当に大昔の古代語』とポプリが言っていた通り、エリックの知る古代語とは若干文法や綴りが異なっている。だが、それが理解できるのならば、ポプリ自身これをも読めるだろうに。

 

 そういえば、ポプリが自分を庇った際にクリフォードが全く動かなかったのが気になった。もしかすると、彼は“動けなくなっていたのかもしれない”――彼女の行動の意図が分かった、その頃には。エリックの身体はろくに動かせなくなっていた。

 

(ポプリ!? 一体、何を……!?)

 

 必死に視界を動かせば、マルーシャが倒れているのが見える。十中八九、これはポプリの仕業だろう。彼女の能力『秩序封印(ヴァルデマール・フレイヤ)』は対象の自由を奪う術を得意とするのだから。

 困惑するエリックの眼前で、ポプリは静かにディアナを拘束する機械に近付き、上空で泣き喚く少女を見上げる。その表情は、伺えない。

 

「ディアナ君……いえ、“ダイアナちゃん”。確かに、あなたの両親は君を囮にして逃げようとしたのかもしれない。辛かったと思う。けどね、あなたの居場所はちゃんとあるわ」

 

 “ダイアナ”と呼ばれたのが効いたのだろうか。ディアナは涙を流しながらも、ゆっくりとポプリへ視線を向ける。ポプリは軽く首を傾げ、自身の真下に紫色の魔法陣を展開させた。

 

 

「思い出して? 幼かった頃のあなたを助けてくれた、男の子のことを……あなたはもう、ひとりじゃないわ」

 

 

 涙に濡れたディアナの目が見開かれる。少女が誰かの名を小さく口ずさむと同時――魔法陣が弾け、ポプリの身体が、全身の至る部分が、“裂け”た。

 

「きゃああぁあああっ!!」

 

 血を吹き出し、ポプリが地面に転がる。立ち上がる彼女の手足からは、先程の光の矢とは比べ物にならない程の血が滴り落ちた。

 

「はぁ……っ、はぁ……駄目、ね……そう簡単には、いかない、か……」

 

 緑色の衣服は元の色が分からない程に変色しつつある。早く治療を施さなければ、出血多量で死んでしまうだろう。それでもポプリは、目の前で不安げに身体を震わせる少女に向けて優しく声を掛ける。

 

「心配しないで……あなたのことは、必ず助けるわ」

 

 再び魔法陣を展開する。よく見るとそれは、ポプリ自身に向けて効果を発揮するような形で展開されていた。

 エリックの背後で、術式に抗うべくクリフォードが暴れている。それに気付いたのだろう。ポプリは背後を振り返り、どこか悲しげな笑みを浮かべてみせた。

 

「クリフ、大丈夫。理論上は可能よ。ノアはヴァイスハイトだもの。あの時、きっと闇以外の力もあたしは奪い取っているはずよ……少なくとも、あの子が得意としていた光か火のどちらかくらいは」

 

 クリフォードはポプリの成そうとすることを察したらしく、彼女を止めようともがいている。相当危険なことをしようとしているのだろう。エリックも彼に続こうとしたが、何度も光の矢に焼かれた身体では、ポプリの強力な力には到底抗えない。

 そうこうしている間にも、再び魔法陣が弾けた。ポプリの血が周囲に飛び散る。彼女が手にしている杖が、先端のリボンもろとも粉々に砕け散った。

 

(アイツ、一体何をしようとしているんだ……!? 何度も自分に何かしらの魔術を掛けようとして、失敗して……一体、何を……!?)

 

 ふらり、ゆらりとポプリが立ち上がる。皮膚が裂けるのみならず、体内から何かを発しているのか、身に纏う衣服も裂け始めていた。布の間から除く皮膚は、もう真っ赤に染まっていた。それを見て、エリックは勘付いてしまった。

 

(まさか、体内精霊を操作するつもりなのか!?)

 

 ポプリはライオネルの自宅で複数の本を読んでいた。それはいずれも拒絶系能力や体内精霊に基づく物であり、先程ポプリは『理論上は可能』と口にしていた。その『理論』はライオネルの家の本を読んで立てたものだとすれば、辻褄はあう。

 

(僕らの身体は、精霊の入れ物に過ぎない……内部の精霊に異常が起これば、肉体にまで損傷が及ぶ……そういう、ことなのか?)

 

 

「……」

 

 三度目にして、ポプリはそれに成功したらしい。媒体であるリボンが無くなったためだろう。彼女は酷く震え、血が流れ続ける右手を、ディアナに向けて伸ばした。

 

「――暁光と宵闇の化身……決して交わらぬ、相反する者達よ」

 

 巨大な魔法陣が、機械の真下に現れる。闇属性しか使えないポプリの魔法陣だというのに、その魔法陣の色は漆黒だった――そんな色の魔法陣は、存在しない。

 

「汝らを縛る枷を壊し、我が身を依代に具現せん……」

 

 現れたのは、アメジストを思わせるような淡い紫色の、美しい半透明の巨石。その石の内部では、炎がまるで無数の蝶が空中で舞い踊っているような動きを見せていた。

 それに魅入られているのも束の間。炎が石を粉々に砕き、機械に襲い掛かる。砕かれた岩は空気中に浮かび上がり、独特の輝きを放っている。魔法陣の色が、白に変わった。

 

「恒久の軌跡が紡ぎし輝きを今、ここに解き放て!」

 

 ポプリの声に合わせて、赤色に変わった魔法陣が爆ぜる。炎の蝶が機械を焼き、あれだけ硬かった円形の檻を歪ませる。中央のディアナには何の影響も及ぼしていない様子であったが、代わりにポプリの身体が再び裂け、彼女の、肩に触れていた部分の髪が何故か焼け焦げた。

 

「――アンビバレント・エレスチャル!」

 

 空気中を舞う岩が白と黒の光線を放ち、一斉に爆ぜた。歪んでいた檻は無数の爆発に耐え切れずにあっさりと破壊され、母体である操作用の機械ごとただの鉄屑と化した。

 

 拘束から解放され、ディアナはそのまま鉄屑の上に落ちる。ぐったりとしているが、目は開いている。意識はあるようだ。そして、拘束から解放されたのは、エリック達も同様だった。

 

「ッ、ポプリ!」

 

 酷く震えた声で叫び、クリフォードはポプリに駆け寄った。ディアナのことを心配していない訳ではないのだろうが、今はどう見てもポプリの方が重傷である。そういうエリックも、迷わずポプリの方へと足を運んでいた。

 

「な……っ、ポプ、リ……?」

 

 仰向けで床に転がっているポプリは、顔の右半分を真っ赤に染め、両目を閉ざしていた。微かに動いている肩や両腕は酷い火傷で爛れている。肩に触れていた部分の髪は、無残にも焼け焦げてしまっていた。それだけではない。衣服の上からでは分からないが、きっと全身至る所が裂けてしまっているのだろう。

 

 クリフォードが両手で動かないポプリの右手を取る。その瞬間、肉の焦げる嫌な臭いがした。

 

「!? ポプリの身体が相当な熱を持ってるのか!? おい、火傷するぞ!!」

 

「もう、してますよ……僕は、直接触れずには高位治癒術を使えませんから」

 

 息を吐き、魔法陣を展開する。見覚えのある白い魔法陣だった。

 

「夜明けを告げし暁の煌めきよ! 汝、この切なる祈りに応え、闇に堕ちゆく我が友に希望の導を示さん! 天理に背くことを赦したまえ……ッ!! ――レイズデッド!!」

 

 それは以前、マルーシャがアルディスを救った奇跡の術。魔法陣の上に降り立った天使が、ポプリの身体に触れる。火傷を始め、彼女が負った深い傷を癒していく――しかし、全てを治しきるには到底及ばなかった。

 

 

「ッ、う……」

 

「ポプリ!!」

 

 それでも意識は回復したのだろう。ゆっくりとポプリが左目を開く。大量の血に覆われた右目は、開くことは無かった。

 

「……あたし、ちゃんとできた? ダイアナちゃんは無事?」

 

「ッ! 一体何を言い出すんですか……!」

 

 第一声がこれかと言わんばかりにクリフォードが声を荒げる。しかしポプリは穏やかな笑みを浮かべて、握られた右手に微かに力を込めた。

 

「もしノアが意識を保っていたら、きっと死を覚悟で魔術を使っていたと思うの……あたしはその代わりをしただけ。それに、あのままだとエリック君が死んでいたかもしれない。間に合わなくってダイアナちゃんが死んでいたかもしれない……嫌よ、そんなの。誰かのために本気で頑張れる子が、その誰かのために命を落とすなんて」

 

 少しずつ、ポプリの瞳が閉じていく。彼女の右手を握った震える両手に力を込め、クリフォードは口を開く。

 

「それは……ッ! それは君も同じじゃないですか! 体内精霊を押さえ込んで、自分の身体を変化させて……そんなことをして、自分の命が無事だと本当に思っていたのですか!? 君は……ッ、なんで……」

 

 嗚咽が混じり、語尾が消える。拭う余裕も無いのか、クリフォードの頬を涙が伝っていく。ここまで感情的になっている彼を見たのは、初めてかもしれない。

 泣き出してしまったクリフォードを見て、何故かポプリは安心したような微笑みを浮かべる。そして、開いていた左目を完全に閉ざしてしまった。

 

「あたしね、死んでも良いから最期に、誰かを救いたかったのよ……そうすれば、そうすれば、きっと……あたし、は……」

 

 ポプリの声はかすれ、そして消えていく。クリフォードが彼女の名を叫ぶ。彼女の目は、開かない。何の反応も、帰ってこない。

 

(そうすれば……? そうすれば、何だ? ポプリは、一体何を……)

 

 ふと、エリックの脳裏に『ある結論』が浮かんできた。ケルピウスに執着していたことや、アルディスの安否を気にしていたこと、今回命懸けでディアナを救おうとしたことも、そもそも彼女が尽く自分のことには触れたがらなかったのも――きっと、これが答えなのだろう。そう考えると、無性に怒りが込み上げてきた。

 

 

「ふざけるなよ! そんなの、お前の自己満足だろう!? 助けられた方の……残された方の気持ちになってみろよ!! ただただ後味が悪いだけじゃないか!!」

 

 急に怒声を上げたエリックに驚き、クリフォードは肩を震わせる。怯えさせてしまったのも、そもそも怯えさせるであろうことも分かっていたが、それでもエリックは止まらなかった。

 

「お前は他人の評価抜きでは自分を確立出来ないくらい、それくらい自分に価値を見い出せなくなっている……きっとそんな自分に疲れていたんだろう。だからと言って、死を代償に自分を確立しようとするんじゃない! 誰かに自分の存在価値を求めるな!!」

 

 ポプリは他人のために生きることに必死だったのだろう。それこそ、自分がどう思われようが、どんな目に遭おうが、それで誰かが笑っていられるなら良いと思っていたのだ。間違いなく、いつかは限界を迎える生き方だ――事実、既にポプリは限界を迎えていたのだろう。

 エリックの言葉に反応したのか、小さく噎せたポプリの口から血が吐き出される。そして彼女は小さく「無理よ」と口にした。

 

「あたし、故郷から追い出されて……どこに行っても、居場所がなくって……君達と一緒にいても、何だか辛くって……」

 

「ポプリ……」

 

 何となく、彼女のみ浮いているような感じはあった。本人も自覚があったのだろう。それが、どうしようもなく辛かったのだろう。

 今まで黙っていたことだが、エリックに啖呵を切られたことで、死を間近にして漸く本心を吐き出す気になったに違いない。

 

「あたしが我慢すれば、大体何とかなるからそうしてきたの……だけど、ね。我慢するのも、話したいこと話せないのも、もう疲れたの……もう、嫌なのよ……」

 

 意識が朦朧としているのだろう。彼女の言葉は支離滅裂で、いまいち何を訴えたいのか分からない。それでも、これだけは言えるだろう。

 

「少なくとも僕はお前を追い出したりしないし、色々あったからお前に妙なこと言われても受け入れる自信あるけどな。今ので何となく、お前が色んなことを墓まで持っていく気なんだって分かったが、どうせなら全部吐き出してみないか? 心配せずとも、どこかに情報を流したりしないさ。そんな相手もいないしな」

 

「……」

 

 ポプリの、閉ざされた左目から涙が伝い落ちた。

 

「意地張ってた罰、かなぁ。もっと早くにその言葉、聞きたかったかな……」

 

 再びポプリの声がかすれ、消えていく。今度も意識が飛びそうなだけかと思ったが、違う。微かに動いていた肩が、止まっていた。呼吸をしていないのだ。

 クリフォードが叫ぶ。しかし、何の反応も見せない、呼吸を再開する様子も無いポプリを見て、彼は頭を振るった。

 

「い、いやだ……ポプリ、生きて下さい。死なないで……君がいなくなるなんて、いやだ……!」

 

 もう魔力が尽きているのだろう。治癒術は使えない。ただ、泣くことしかできない。そんな様子だった。冷えていくポプリの右手を握り締めたまま、クリフォードは声を震わせる……そんな時だった。

 

(歌……?)

 

 聴こえてきたのは、美しいソプラノの旋律。ディアナの、歌声だった。しかし、その旋律は聞き覚えのないものであった。彼女が、口ずさむものとしては。

 

「! これ……! “サクリファイス”か……!?」

 

 響き渡るのは、透き通るような高音のアリア。歌声の主を見れば、少しだけ上半身を起こした状態でこちらを見ている。その虚ろな眼差しから、正気ではないことが伺える――そうだ、彼女も酷く錯乱した状態だったのだ。

 

「ディアナ! やめろ!!」

 

 サクリファイスは、術者が救いたいと思った者全てを救う代わりに、術者を犠牲とする旋律。これでは結局、ポプリの自己犠牲と何も変わらない。

 

「――、――――……」

 

 エリックの叫びも虚しく、ディアナの歌は終わりを迎える。少女は再び、鉄屑の中に崩れ落ちてしまった。

 

 

 

―――― To be continued.

 



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Tune.78 自己犠牲の代償

 

 あの後、すぐにライオネルが合流してくれたのは不幸中の幸いだった。

 エリック達は意識のないアルディス、ディアナ、ポプリを抱え、大至急アドゥシールへと向かった。トゥリモラにも船内にも、まともな宿泊設備が無いためだ。

 アルディスはアドゥシールについた頃に目を覚ましたものの、あまりにも絶望的な状況を目の当たりにし、無茶な特攻をしてしまったが故に気を失ったことを酷く後悔していた。とはいえ、彼が悪いわけではない。誰も、悪くはないのだ。

 

 何とか息を吹き返したものの、ポプリは今も変わらず意識不明の重体だった。

 彼女に関してはレイズデッドでもサクリファイスでも治しきれなかった程に身体の損傷が激しく、どうやら表面のみならず内臓器官も深刻な状況になっているらしい。もはや、生きているのが奇跡と言える状態なのだそうだ。まだまだ処置が必要である。

 しかし、これ以上治癒術を使えばクリフォードが命を落としてしまうとウンディーネに警告され、やむを得ずポプリに関してはクリフォードが直にメスを入れることになったのだ。

 

「……」

 

 そして今は、手術が終わるのを別室でただただ待ち続けている状態だ。ポプリとクリフォード以外、全員が同室にいるのだが、会話らしい会話は無い。

 生きているのが奇跡と言える状況のポプリ。誰も問うことは出来なかったが、恐らく、彼女の命を繋いだのはディアナのサクリファイスだ。

 

 ベッドに寝かされたディアナは、ポプリ同様に意識を取り戻すことなく震え続けている。魘され、酷く苦しんでいる様子でもあった。これが、自己犠牲の第三楽章『サクリファイス』を歌った者の末路だというのか――少しでも彼女の支えになれば、とディアナの手を握り締めたアルディスの顔も真っ青である。

 

「ごめん、エリック……これじゃ足りないんだと思う。毛布、貰ってきてくれる?」

 

 先程から、彼女の体温が急速に下がっているようなのだ。クリフォードにディアナの容態の変化を伝えに行きたいところだが、ここで慌ててしまえばディアナもポプリも救えない結果になりかねない。エリックは奥歯を噛み締め、頭を振るう。

 

「毛布は貰ってくる……が、手っ取り早く暖めるなら、人肌の方が早い。アル、ディアナの上着脱がせて、お前もローブ脱げ。それで毛布に包まって抱きついとけ」

 

「えっ」

 

「頼むから覚悟を決めてくれ。お前がやらないなら美貌お化けに頼むからな」

 

「や、やります……!」

 

 視界の片隅でイチハが変な顔をしていたが、放置だ。彼らが抱いている感情はさておき、ただでさえ酷く責任を感じて塞ぎ込んでいるアルディスをそのままにしておくわけにはいかなかった。

 

(アルの呪いが少しだけ緩和されていたのも、間違いなくサクリファイスの影響だろうしな……)

 

 唯一の救いは、アルディスの容態に僅かながら改善が見られたことだ。まだ右腕には僅かに痺れるような感覚が残っているようだが、首に巻きついていた呪いの痣が消えていた。

 皮肉なことに「これなら問題なく動ける」とアルディスが手放しで喜べるような状況では決して無かったわけだが。

 むしろ、その代償にディアナが昏睡状態――サクリファイスは『術者が望む者全てを救う術』であるため、ディアナにアルディスを救いたいという意思があったことは確かである――に陥ってしまったこと、さらに言えばポプリが命を賭けて発動したあの術は『アルディスに術を使わせないため』という意図があったことを思えば、今、アルディスが正気を保っているだけ良かったのかもしれない。

 

 とにかく、このままではディアナが凍死してしまう。エリックはアルディスにディアナを任せ、ホテルの従業員に毛布を分けて貰えるよう交渉に走った。

 

 

 

 

「どうだ?」

 

「駄目だね……引っ付いてる俺が、凍傷になるんじゃないかってくらい冷たい……」

 

 毛布を大量に確保し、全てアルディスとディアナに巻きつけてみたが、アルディスは平然としている。それだけディアナの身体が冷え切っているのだろう。これは本当に、早く対処しなければ危険だ。しかしエリック達のみでできることなど、たかが知れている。

 

「ちょっと良いか?」

 

 そんな時、マクスウェルに対処法を探ってもらっていたライオネルがすっと手を挙げた。話を聞け、ということらしい。

 

「恐らく、今のディアナは氷の魔力が大暴走してる状態なんだってさ。セルシウスは契約中だから、クリフに頼んでイフリート呼んでもらって火の魔力を活性化してもらえって言われた」

 

「や、やっぱりクリフォードいないと駄目なのか……で、氷の魔力? こいつの天性属性は火だが……」

 

「その子、他に光と氷の属性を秘めてるんだってさ。珍しいらしいよ、この組み合わせ」

 

 ライオネルの話を聞き、苦しむディアナへと視線を戻す。凍えているのとは別に悪夢に魘されているらしく、ディアナは度々閉ざした瞳から涙を流していた。その姿はあまりにも痛々しく、アルディスの腕に力がこもっているのがよく分かる。

 

「アル、力入り過ぎだって。ディアナが潰れる」

 

「だ、だって、ディアナ、泣いて……」

 

「お前が泣いてどうするんだ!」

 

 置かれた立場と心境を考えれば無理もないが、とうとうアルディスが泣き出してしまった。もう収拾が付かなくなってきたぞ、とエリックまでもが狼狽えそうになっていたその時、壁際にいたマルーシャが急に窓を開いた。

 

「マルーシャ?」

 

「えーと、お客様だよ?」

 

「は……?」

 

 ここはホテルの三階である。そんなところから客が来るはずがないだろう、とマルーシャの言葉を一蹴しようとしたエリックの視線の先にある窓から、突然ひょっこりと女性が顔を覗かせた。

 

『あ、やっぱりここだ。入って良い?』

 

「ええぇ……? ど、どうぞ……?」

 

 煮え切らない返事をすれば、女性はふわりと浮かんで部屋の中に入ってきた。別に翼があるわけではなく、文字通り宙に浮いているのだ。

 花型の大きな髪飾りを着けたセルリアンブルーの長い髪を靡かせ、女性はじっとディアナを見つめている。彼女の身体は透けておらず、完全に実体化している状態だった。

 

『あー……サクリファイス、使っちゃったんだね。まだ、こんなに小さいのに……』

 

「あなたは、今は契約中とお聞きしております。どうして、こんな場所に……」

 

『とりあえず、その邪魔な毛布剥げ。お前はどけ、目障り』

 

「あ、はい……」

 

 何故かアルディスに対する当たりが厳しいが、彼女からはディアナを何とかしようという意思が感じられた。

 適当に宙に浮かんでいた彼女はディアナが寝かされたベッドに腰掛け、苦しむディアナの頬を愛おしそうに撫でている。女性の指は青白い。そして尋常でない美しさを持つ彼女は身に冷気を纏っていた。部屋の温度が下がったのが感じられる。

 

 ここにいる大半の者は、彼女とは初対面であった。しかし、その正体にはもう全員が既に気付いていた。故に、彼女の行動に対して誰も、何も言わなかった。

 女性は憂いを帯びた瞳でディアナを見つめていたが、やがて切れ長の氷のような瞳をエリックへと向ける。一体何を言われるのかと、エリックは思わず背筋を伸ばした。

 

 

『ねえ、弟犬は?』

 

「誰ッ!?」

 

 弟犬――突然の珍発言だった。

 美しい彼女の口から『犬』という言葉が飛び出すことなど、全く想定していなかった。

 

(まあ、確かに最近犬っぽいなぁとは思ってたが……)

 

 しかし、残念すぎることに心当たりが大いにあったエリックは軽く咳払いをし、彼女の問いに答えた。

 

「実は今、もうひとり命が危うい奴がいる。弟犬は医学の知識があるから、そっちに行ってもらっている」

 

『そうか、なら仕方ない。ここは私が少し動こうか……お嬢じゃなくて、兄犬から魔力を貰えば問題ないし』

 

(なあ……セルシウス、一体ジェラルディーン兄弟はお前に何をしたんだ……何の恨みがあるんだよ……!!)

 

 とても聞きたかった。しかし、聞いてはいけない気がしたので触れないことにした。

 

 謎の女性ことセルシウスはディアナの腹部にそっと手を乗せ、深く息を吐いた。ディアナに対して何かしら働きかけてくれているらしい。その力の源は、どうやらダリウスのようなのだが……。

 

「……。兄上と兄犬、元気か?」

 

 それはさておき、セルシウスの現契約者はゾディートだ。彼女がこんなところにいるということは、ゾディートも近くにいるのだろう。世間話のような感じで聞いてみれば、セルシウスは再びディアナに視線を戻しながらも話をしてくれた。

 

『今は元気そうだよ。出歩いても良いですよってお嬢に言われたから、兄犬に任せて私はウロウロしてたんだ。そしたら、何か急に氷の魔力が放出されるから、気になって来ただけ』

 

「兄上達も、アドゥシールに……でも、そのお蔭でセルシウスがここに来てくれたのか」

 

『だね。まあ、この子可哀想だから、弟犬来るまでの間はここにいるよ。私がこの子の中で暴走してる氷の魔力を落ち着かせるから、後で弟犬にババア呼ぶように頼んで』

 

「ババア」

 

 セルシウスはウンディーネより少し年下くらいに見える女性精霊だが、ウンディーネとは随分雰囲気が違うな、とエリックは苦笑する。

 一見すると冷たさを感じる程に整った顔立ちにやや露出の多い衣服、喋り方からは『強気な女性』という印象を受けるのだが、発言が少しずれていて面白い。ゾディートもダリウスも彼女に振り回されていそうだ。

 

 

『……セルシウス』

 

 壁を通り抜けて、ウンディーネがこちら側にやってきた。姿を現しているということはクリフォードが召喚していたのだろうが、セルシウスの気配を感じ取って様子を見に来たのだろう。

 セルシウスはディアナに処置を施しながらも、ウンディーネの存在に気付いて白い歯を見せて微笑んだ。

 

『ウンディーネじゃん……ってことは弟犬、ついに精霊契約やったんだ』

 

『な、何故、犬……』

 

 非常に気になっていたことをウンディーネが聞いてくれた。空気が重々しくなっていたため、彼女らが場を和ませてくれるのならば幸いだ。

 

『兄犬がなぁ、忠犬と見せかけ駄犬だったんだよ。あのくそったれタラシめ……うん、まあ詳しいことは置いといて。兄犬が犬なら弟も犬だろ』

 

『く、くそったれタラシ……?』

 

『そうだ、くそったれタラシだ。あの駄犬酷いんだから。お嬢に軽々しく……っ、ああもう! 思い出したら腹立ってきた!!』

 

 意味が分からない。意味が分からないが、とりあえずダリウスが『お嬢』に対して何かしらやらかしたらしいことは全員しっかりと理解してしまった。

 

 しかし、さっきからずっと思っていたのだが、『お嬢』って誰だ。まさかとは思うが、契約者であるゾディートのことを指しているのでは――と、エリックが思ったところで静かに扉が開いた。

 

 

「こっちは終わりました。ポプリの方は、もう大丈夫です」

 

 疲れきった様子のクリフォードが部屋に入ってきた。ポプリの出血が酷かったのだろう。白衣も衣服も血に塗れ、酷い有様である。

 しかし、申し訳ないが彼の仕事はまだ終わらない。少し躊躇いつつも、エリックはおもむろに口を開いた。

 

「なあ、犬……申し訳ないが、頼みたいことが……」

 

「犬!?」

 

「ッ!? すまん! 間違えた!! クリフォード、こっちもあまり良くない状況で……」

 

「待って下さい! 何でセルシウス様がここに!? そして犬って何なんですか!?」

 

――とりあえず先に、着替えてきて貰ってから現在の状況説明をする方が良さそうだ。

 

 

 

 

「なるほど。ディアナの身体が急速に冷えている。それにセルシウス様が気付き自発的に助けに来て下さったと……ありがとうございます。そして、申し訳ありません! 兄がお嬢様に大変な失礼を……!!」

 

 何だかさらによく分からないことになってしまった。

 恐らくクリフォードも、最後の部分は全く分かっていないのに謝っている。理由も分からず、多分『お嬢様』の特定すら出来てもいないのに土下座している……可哀想に。

 一体何があったのか聞きたいところだが、セルシウスは決して口を割らなかった。アルディスに至っては開口すれば「黙れ」と言われてしまうために声を発することさえ許されなかった。一体どうしてなのだろうか……。

 

 

 土下座状態では何も出来ないため、クリフォードに立つように促し、ディアナの様子を診てもらった。結果はすぐに出た。マクスウェルやセルシウスの判断が正しかったためだ。

 

「これは、イフリート様だけでは難しかったかもしれません。こんなにも早く魔力が安定したのは、セルシウス様のお蔭です……本当に、ありがとうございます」

 

 ディアナの体温低下は収まっている。しかし、彼女の身体は既に凍っているのかと錯覚する程に冷たくなってしまっていた。セルシウス曰く、ディアナでなければとっくに凍死している状態らしい。

 

『そもそもね、サクリファイスが使える適応者である時点で身体は人並み以上に頑丈なのよ。あれは自殺のための歌ではないし、非適応者が歌っても発動しないんだ。発動したってことは適応者確定なんだけど、この子はまだ幼すぎるし、話聞いた感じだと一人はとんでもない状態から蘇生したらしいから、その分負荷が掛かってここまで追い込まれたんだろうね』

 

 セルシウスの話によると、サクリファイスは確かに術者に苦痛を与える術であるが、必ずしも術者の命を奪うような代物ではないそうだ。

 サクリファイスを使用できるのは聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)能力者のうち、光、火、氷の三属性を持つ『適応者』のみだ。適応者は天性属性とは逆の属性の力を解放するために、『対価』としてそれに見合うだけの魔力を失ってしまう。ディアナの場合は火属性の魔力を代償に癒しの力を秘めた氷属性の魔力を活性化させたということになる。大半の治癒術は無属性てわ固定のため、サクリファイスはイレギュラー中のイレギュラーだ。

 

 しかしその特性上、自身の限界以上に魔力を失ってしまった場合には命を落とす可能性も生じるのだ。ポプリを完全に癒せず、アルディスの解呪が出来なかったのは、彼女らはディアナの火の魔力全てを代償にしても救いきれなかった程に重症であったということだ――逆を言えば、ディアナ自身は火の魔力を完全に失っている状態である。

 

 

「これに、書いてあったんだけど……」

 

 セルシウスの補足を聞いて、ライオネルが立ち上がった。彼の手には、ポプリの手術が始まった後に手渡した資料が握られている。トゥリモラの研究施設でポプリが見つけていた資料だ。

 

「聖者一族って本来は光属性を天性属性に持って生まれてくるんだと。複合でも光属性が勝つらしい。天性が光のヴァイスハイトなアルを見たらよく分かるな。でも、数百年に一度レベルの突然変異で、火か氷属性を同時に保有した上でそのどちらかを天性属性に持つ奴が生まれるらしくて。そうなるとちょっと体質が変わるらしい。あと……」

 

「髪色だろ。その三属性持って生まれたら、髪が綺麗な藍色になるんだろ」

 

 ライオネルが頷いた。ディアナが気にしていた、不思議な髪色の謎が解けた瞬間だった。ただの突然変異であって、決して“忌み子”などではない――この言葉を、ディアナに聞かせてやりたかった。

 

「ねえ、クリフ。ディアナちゃん、さっきから魘されてるんだけど……あれは間違いなく魔力の暴走とは関係ないよね? 何とかしてあげられないの?」

 

「それ、なのですが……」

 

 困ったことに、ディアナの問題は魔力の暴走以外にもあったようだ。クリフォードはディアナの頭を撫で、奥歯を噛み締める。

 

「フェリシティがディアナの記憶を封じ込めていた……それは皆、分かっているよな? そんな状態にも関わらず、身体的なショックでディアナは自発的に記憶を取り戻してしまったんです。表面に出てこようとする記憶を、術が押さえ込んでいる……その結果、ディアナは『自身が記憶を手放す程の記憶』に夢の中で苛まれ続けている。術を解かない限りは目覚めることも無いでしょう」

 

「え……っ、そ、それ……どうにか出来ないんですか!?」

 

 セルシウスに禁じられていたにも関わらず、思わずといった様子でアルディスが口を開いた。

 ただ、流石にこれに関してはセルシウスは何も言わなかった。ディアナが現在置かれている状況を思えば、無理もないと判断してくれたのだろう。

 

 記憶を失わなければ、心が壊れてしまう程の経験。今のディアナはその記憶に延々と苛まれ続けている。決して逃げ出せない、絶望的な恐怖に苦しんでいる。救いたいと思うのは、ここにいる全員に共通する思いだろう。

 しかし、クリフォードは無情にも首を横に振るうのだった。

 

「ポプリなら術の解除が可能だろうな。彼女も秩序封印(ヴァルデマール・フレイヤ)能力者ですし、とんでもないことをしてくれたお蔭で身体が魔術特化の体質に変化したようですし……問題は、ポプリが目覚めてすぐに魔術を使える状態ではないことですね」

 

「……ッ!」

 

 現時点では、ディアナを救うことは叶わない。この事実を突き付けられ、エリック達は俯いてしまった。皆が黙り込めば、ディアナが誰の耳にも届かない程に小さな声で助けを求める声が聞こえてくる……それなのに、助けられないのだ。

 

 

「ひとまず、ディアナの魔力を何とかします。イフリートの召喚を行います!」

 

 落胆するエリック達を見つめ、クリフォードはゆるゆると頭を振るう。そして彼は床に赤い魔法陣を展開させた。

 

「イチハ兄さん、ライ、下がっていて下さい。ていうか逃げて下さい。隣の部屋に逃げて下さい。エリックとアルも危なそうなんで逃げておきましょう。特にエリックはイチハ兄さんと一緒にいっそ宿屋から、いえ、アドゥシールから逃げて下さい。ここは僕に任せて、行って下さい!!」

 

 

……え?

 

 

「だ、駄目だ! クリフだけ置いてはいけない!!」

 

「お前も一緒に逃げる手段は!? 何とかならないのかよ!?」

 

「良いんです、どちらにせよ、僕は逃げられないんです……せめて、既に何回か犠牲になっているイチハ兄さんだけでも逃げて下さい! 早く!!」

 

 急に空気がおかしくなってしまった。

 困ったことにルーンラシス三人衆は物凄く必死である。ウンディーネは両手で顔を覆って震えているし、セルシウスに至っては大爆笑していた。何だこの状況――と思っている間にイチハが「すまない!」と言い残して窓から逃亡した。

 

「……え、これ本当に逃げないとまずいのか?」

 

『うーん、エリック王子は確定でやばいと思うから毛布被っといた方が良いと思うよ。くそっ、ここに兄犬がいたら突き出すんだけどなぁ!』

 

 何となく分かってしまったようで、マルーシャが苦笑している。彼女は毛布を一枚確保してからエリックとアルディスの間に座り、全員揃って毛布を被ってから口を開いた。

 

「格好良い男性とか、綺麗な男性がアウトなんだと思うよ……大人びていたらなお良しって感じかなぁ」

 

「……。ああ、美貌お化けは絶対に逃げないと駄目な奴だ、それ……」

 

 過去に何回か犠牲になっている、の件を詳しく聞きたいところだったが、本人は逃走を図ったためそれは叶わない。エリックは頭の上の毛布を握り締め、事の巻末をしっかりと見守ることにした。

 

「イチハ兄さん……もう遠くまで逃げました、よね……? では、行きます!」

 

 魔力を消耗してしまっているためか、準備が整うまでに時間が掛かっていたようだ。しかし、何とか完了したらしい。クリフォードは両手を前に突き出し、複数回深呼吸した後に若干震えた声で叫んだ。

 

精霊の使徒(エレミヤ)、クリフォード=ジェラルディーンの名において汝に命ずる! 我が呼び掛けに応え、ここに出てよ! ――イフリート!!」

 

 ごう、とクリフォードの少し手前で炎が巻き上がる。不思議なことに、その炎は周囲の物を一切燃やすことなく密度を増していく。

 

 

『嫉妬の炎は紫よぉ~ん』

 

 

 部屋に響く、野太く低い声――徐々に沈静化していく炎の渦の中央には、橙色の逞しい身体を持つ男性、イフリートが立っていた。深いスリットの入った紫の炎を纏う不思議な赤いドレスが、彼の筋肉質な身体を際立たせている。

 立派な縦巻きロールが特徴的なロングヘアーをばさりと後ろに流し、イフリートは部屋の中を見回した。

 

「イフリート、お願いが」

 

『あらやだぁ、イチハちゃんいないじゃなーい』

 

「お願」

 

『イチハちゃぁん、どこぉ~!?』

 

 イチハが探されている。その隙にとクリフォードとライオネルがエリック達の背後に回り込んだ。毛布の中の人口密度が異常である。

 

「エリック……」

 

「おっ、おい、やめろ! そんな助けを求めるような声で僕を呼ぶな!!」

 

 勇気を出して呼び出したのに、話を全く聞いてもらえなかったことに落ち込んでいるらしいクリフォードのか細い声がエリックの良心を揺さぶる。ちらりとライオネルを見ると、眼鏡が飛んでいくのではないかという速度で首をぶんぶん横に振っていた。

 

『イフリートさん……落ち着いて下さいな』

 

『イチ……んん? あらぁ、ウンディーネじゃない。元気にしてたぁ?』

 

 このままではイフリートがイチハを探しに外に行ってしまいそうだ。見かねたウンディーネがイフリートに声を掛けてくれた。そして漸くイフリートは複数の精霊が集まっているこの部屋の異常性に気が付く。

 

『ねぇ、何かあったの? 精霊が三人も集まるなんて……』

 

『私はクリフォードと契約していますし、セルシウスはたまたまここに』

 

『そうそう。この子が氷の魔力大放出しててね。それは収まったんだけど……』

 

『あらぁ、可愛い子じゃな~い』

 

 イフリートが漸くディアナのことを気にし始めた。アルディスは胸の前で十字を切った後、毛布を飛び出す。ありがとう、お前の勇気は忘れない――エリック達は彼の無事を祈った。

 

「イフリート様! お願いがあります!!」

 

 もうさっさと要件を言ってしまおうと考えたのだろう。イフリートから一定の距離を保ったまま、アルディスは叫ぶ。イフリートの瞳が輝いた。

 

『あらぁ! スウェーラル様にそっくりねぇ……』

 

「――ッ!?!?」

 

 アルディスの顔色が真っ青になった。誰のせいとは言わないが、『スウェーラルそっくり』がトラウマワードになっているようだ。誰のせいとは言わないが……もはや責任しか感じなかったエリックも毛布から抜け出し、アルディスの横に立った。

 

『やっだぁ、いっけめーん!!』

 

「イフリート、頼む。一回ディアナを見たんだから、こっちを見るな。頼む」

 

「そ、そうです……! 俺達は全力でどうでも良いんですけど、ディアナが危ないんです!!」

 

『えー、そんなぁ……』

 

 そんなぁ、じゃない。頼むから。頼むから!!

 このままじゃディアナが危ないから、今だけでも良いから言うこと聞いて欲しい。

 

「あ、あぁもう……! えーと、シルフは調子悪そうですね……だったら、あの方しかいない! え、えーと、僕は精霊の使徒(エレミヤ)です! どうか、お願いします! ――レム、助けて下さい!!」

 

 埒があかないと思ったのか、毛布から飛び出したクリフォードが完全にやけくそ状態でレムを召喚した。詠唱ももう滅茶苦茶だ。

 しかし魔法陣は問題なく展開され、光を纏う青年が姿を現した。

 

『雑にも程があるが……マクスウェルが大笑いしながら実況していたがゆえ、状況は分かっている。さあ、イフリート、こっちだ』

 

 滅茶苦茶な詠唱だったにも関わらず、天使の如き優しさでレムが召喚に応じてくれたようだ。久しぶりに見た美しい金髪に、透けるような大きな翼は健在で、彼は涼しげな銀の瞳でアルディスを見て微笑み、イフリートの身体を強引にディアナの方へと導いた。

 

「レム……」

 

『久しいな、主。呪いの進行が進んでいるがゆえ、再契約とはいかないが……時が来たら、またよろしく頼むぞ』

 

「……うん、いつか。必ず……その時は、本契約を」

 

『主であろうが、手は抜かぬぞ。心しておくが良い』

 

 アルディスとレムはスウェーラル以来の再会なのだが、意外にも彼らの間で交わされる会話は少ないものであった。

 状況ゆえにこうなった可能性も高いが、そもそも彼らは仲違いして契約切れに至ったわけではない。通じ合う何かがあるのかもしれない……状況ゆえにこうなった可能性も高いが。

 

 イフリートの扱いが上手いのか、レムは的確に彼を導いてみせる。セルシウスやウンディーネも混ざり、四体の精霊達はディアナを取り囲んで話し合いを開始した。

 彼らの顔色を見る限り、どうやら何らかの問題が起こっているらしい。毛布に隠れていたマルーシャとライオネルも姿を現し、精霊達の様子を見守った。

 

 

『結論が出たわね。じゃあ、アンタらちょっと話聞いてくれ』

 

 しばらくして、セルシウスが声を掛けてきた。エリック達が反応するのを見て、召喚直後の暴走を忘れそうになる程に真剣な表情をしたイフリートが口を開く。

 

『魔力が暴走したのと、かなり強い術が掛かってたこと……そして何より、人為的に色々弄り回されてるみたいだから、その影響ね。この子の体内精霊、かなり弱ってるの。一度にまとまった量の魔力注ぎ込んだりしたら、多分壊れちゃうわ』

 

「え……」

 

 困惑するエリックに資料を差し出しつつ、ライオネルは眉尻を下げて目線を逸らした。

 

「ああ、うん。色々されてたのは確か。この資料軽く見た感じ、ディアナはかなり色んな実験をされたらしい」

 

「……そんな、気はしていたが。改めて聞くと、嫌なもんだな……」

 

「そりゃそうだよな……あと、これ返しとくわ。あの子は女の子だし、実験の詳細なんてものを男のオレが読んでしまうと何かしら不都合あるかもしれねぇ……ポプリに任せた方が良いと思う」

 

 渡された分厚い資料。これの中身は、トゥリモラの研究員がディアナに対して行った研究の数々。どれも、非道で残虐なものであったことは想像するに容易い。ギリ、と奥歯を噛み締め、エリックは宙に浮かぶ精霊達を見上げた。

 

『そんな目で見つめないでちょうだいな。助ける方法は勿論あるから、明日にでも早速行ってきて欲しいの。今はとりあえず、限界スレスレのとこまでは注いどくわ。でもこれだけじゃ三日くらいしか持たないし、追加で補充すると耐え切れなくなる危険性があるから、悪いけど急いで欲しいわねぇ』

 

『結論を言うと、火属性の魔鉱石を使いましょうって話になったの。ちょうどここはスカーラ鉱山最寄りの街。鉱山はすぐそこだし、二日もあれば魔鉱石を取って地上に帰って来れると思うわ。あそこは下に潜っていくと魔物の巣だって聞いているから、大変だとは思うけれど……』

 

『しかも、重体患者が二人いるこの状況。流石にクリフォードは宿屋を離れられんだろうし、ライオネルは鉱山内でマクスウェルの加護が切れてしまう危険性から外した方が良いだろう。イチハも、クリフォードが行けない時点で不可能だな』

 

『つまり、未成年三人だけで鉱山行ってこいって話になるんだよね……私達もね、結構な無茶振りしてる自覚はあるんだよ。でも、これしか方法が無いんだよね……』

 

 治癒術に頼らず、二日掛かる鉱山探索を三人だけでこなしてこい、という話だ。なかなかに無茶な話ではある。だが、首を横に振る者はここにはいなかった。

 

「今日中に準備を整えて、明日の朝出発ってところだろうか。良かった、まだ雑貨屋は開いている時間だな」

 

「うん、手分けして色々と買い揃えよう。多分、買う物沢山あるから、さっさと行ったほうが良いね……俺、弾丸欲しいんだけど」

 

「えーと、確か、グミ系もボトル系も全滅してるし、食材も結構悲惨だったかな……これもう、雑貨屋だけじゃ駄目な気がするなぁ……」

 

「オレも買い物だけなら手伝えるから! 荷物運びなら任せてくれ」

 

 特に何の話し合いもしていないが、皆『明日鉱山に行く』ことを前提に動こうとしている。そんな時、クリフォードが床に膝を付いてしまった。

 

「す、すみません……ウンディーネ、レム。それぞれの場所にお戻り頂いても良いでしょうか……イフリート様も、早めにお願いします……そろそろ、僕が持ちません……!」

 

『あらぁ、クリフォードちゃん辛そう。分かったわ、急ぐわね』

 

 無理もない話だが、クリフォードは精霊三体同時召喚・維持出来る体力を有していなかったらしい。ウンディーネは彼の腕輪に飛び込んで彼のサポートに戻り、レムはセルシウスを見て微笑み、何かを言った後に姿を消した。イフリートはディアナに集中している。

 

「エリック達は買い出しに行くんですよね? すみませんが、僕はちょっと休ませて下さい……あと、荷物係のポプリがいませんから、あまり買い過ぎないように気を付けろよ」

 

「おう、休める時に休んでくれ。それと、買い過ぎには気を付ける……そうか、大量に買い込めば良いってわけじゃ無いんだよなぁ」

 

 治癒術使い不在の上、荷物の総量はしっかりと考えなくてはならない。なかなかに難しい状況だが、諦めるという選択肢は無かった。とにかく店が閉まってしまう前に買い物を終えなくては。

 エリック達は現在持っている物を確認し、必要な物をざっくりと紙にまとめて宿屋を出た。

 

 

 

―――― To be continued.





精霊の皆様

精霊セルシウス

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精霊ウンディーネ(折角なので……)

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精霊イフリート

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精霊レム(久々なので……)

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※おまけ※
呼ばれてませんが、描いて頂いた喜びから掲載します。
精霊シルフ

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精霊ノーム

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絵:長次郎様


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Tune.79 嘘偽りで造られた物

「クリフォード、入るぞ」

 

 買い出しから戻ってきた途端、エリックはイチハに「ポプリが寝ている部屋でクリフが待ってる」と伝えられた。彼がエリックひとりを指名してきたということは、何か良からぬことがあったのだろう。

 中にいるクリフォードの返事を聞いた後、エリックは静かに扉を開いた。

 

「すみません、少々厄介なことが判明しまして」

 

「……。その前に、お前泣いたろ? 泣いたよな? というより、また泣きそうだろ? 先にそれに関することから話そうか」

 

「いや……あの……」

 

「そっちから話そうか? どうせ無関係な話ではないんだろ? ……な?」

 

 ベッドに横たわるポプリを前に椅子に腰掛けているクリフォードの目が非常に赤い。目覚めないポプリが心配で泣いてしまっただとか、そういうレベルの話では無さそうだ。

 恥ずかしそうに顔を赤らめて目を逸らすクリフォードの傍に椅子を持って近づけば、彼は服の袖で目元を拭い、ため息を吐いた。

 

「ええと……その、まずはポプリの惨状を見て頂くとして……」

 

 クリフォードに近付けば、当然ポプリの姿も目の当たりとなる――桜色の髪が顎の辺りまで短くなり、毛布から露出している顔の右半分、そして両腕が包帯で覆われた、顔色の悪い娘の姿が。

 

「こ、これ、さ……傷、残りそうか……?」

 

「残るとか、そういう次元の話ではないよ。顔だけでも何とかしたかったのですが、麻痺が残らないようにするだけで精一杯だったんだ……ただ、ついでに火傷痕その他もろもろは何とか出来たので、それでチャラにしてくれないかな、とは……」

 

 顔の右半分を真っ赤に染めていた彼女の姿を思い出し、エリックは息をのむ。クリフォードの言い方からして、ポプリの顔の右半分には目立つ傷跡が残ってしまったのだろう。

 火傷で爛れた皮膚を酷く気にしていた彼女がそれを受け入れられるかどうか、クリフォードの前ではとても言えないが、気になってしまった。

 

「酷い火傷痕があるのは、僕も知っている。それ以外にも、何かあったのか?」

 

「……」

 

「クリフォード?」

 

 クリフォードが言葉に詰まってしまった。恐らく、彼が泣いてしまったのは火傷痕“以外で”ポプリの身体にあったものに関連するのだろう。

 

「まず火傷痕自体が、おかしかったんです……あれは何度も、何度も同じ場所に熱した金属を押し当てて、さらに治療もろくにせずに殴打された結果、生じるような痕です。場所にもよりますが神経の壊死はさほど酷くはないので、大した温度では無いはずです……燃えた木の下敷きになった、というのは一部本当で一部嘘、かと」

 

「は……? じゃ、じゃあ、ポプリが足引きずるのって、倒壊した建物の下敷きになったことだけが原因じゃないってことか? そもそも、そんな痕があるって……」

 

「ッ、……間違いなく、人為的な物でしょうね。首の裏によく分からない焼印もありましたし、それどころか彼女の身体、普段は見えづらい場所ばかりに……、そういう場所を選んだと思しき傷が……刃物で皮膚切りつけて書いたと思しき文字が記されていたんです……っ、『醜い娘』だの『苦しんで死ね』だの『呪われた子』だの……!」

 

 エリックは言葉を失ってしまった。

 ポプリはクリフォード同様に自分自身のことはろくに話さなかった。話せる筈も無かった、そもそも話したく無かったのだろう。

 

 人に知られたくない、口に出したくない、忘れてしまいたい――彼女の過去に一体何があったのかは分からないが、そんな感情を抱いていたであろうことは、想像に容易い。

 

「幸いにも文字は薄かったので、全部、どうにか消しました……消しました、けれど。彼女が負ったであろう心の傷は消えないんですよ……っ、僕は、全然、気付けなかった……っ」

 

 お互い様な部分も大きいが、相手の内面に踏み込んで手を差し伸べられなかった、という意味合いではクリフォードが受けたショックは計り知れないものがあるのだろう。

 声を震わせ、泣き出してしまった彼にハンカチを渡し、エリックは眠るポプリの顔を眺めた。

 

「……。どう考えても、ペルストラでやられてる、よな……ペルストラに帰りたくない、みたいな感じだったし……向こうの住民の態度も話聞く感じ、妙な感じだったし。こいつ多分、帰れる場所がどこにも無かったんだな……」

 

「……ッ」

 

 故郷が崩壊し、孤児院を追い出され、様子を見ている限りではその後も定住出来ると思わしき場所がどこにも存在しない。それがポプリの不安定さの原因だったのだろうか。

 

(クリフォードも宙ぶらりんと見せかけて、コイツはおもいっきり居場所あるもんな……最近様子がおかしかったのは、そのせいか……)

 

 ブリランテにルーンラシス、そしてエリック達の傍と、少なくとも三箇所、クリフォードには居場所がある。それに対し、ポプリにはどこにも居場所が無かった。

 その結果ポプリは共依存的存在であったクリフォードに嫉妬し、さらには耐え切れない程の孤独感を抱いてしまったのだろう――自分は誰にも受け入れてもらえないのだろうという、絶望と共に。

 

「恐らく、ポプリには『ペルストラを守らないといけない』という思いもあるんだと思います。だから自身の経験を話せなかった……そうじゃないかと、特にエリックに話せなかったのはここが大きいのではないかと、僕は思うのです……彼女、自分に関係すること言われた時は妙にエリックに突っかかっていたでしょう……?」

 

「りょ、領主の娘だからってか……!? こんなことされておきながら!?」

 

 ペルストラ住民がポプリにした行為は、領主への謀反であると言えよう。

 国が領有権を与えていた者から強引に、それも残虐な行為の末にその権利を奪い取り、勝手な自治を行っていた地域。それを上に立つ者が知れば、どうするか――結果は、見えている。

 しばし悩んでから、クリフォードは涙を拭い、口を開いた。

 

「多分、君と一緒にいるのは本当に苦痛だったと思いますよ……彼女、ずっと『密告者』でもあったみたいですし……」

 

「密告者!?」

 

 クリフォードのポプリに関する話はまだ続いた。「最初に言いたかった方の話です」と困ったように微笑み、彼はポプリの右腕を手に取る。巻かれている包帯を解けば、赤いガーゼの隙間から痣のような物が見えた。

 

「これは……」

 

 包帯を巻き直しながら、クリフォードは口を開く。

 

「手首の少し上から肘の下辺りに掛けて、小さいですが魔法陣が刻まれていました。これを通じてポプリの居場所、周囲の音……全部筒抜けです。しかも、向こう優位にはなりますが、会話も出来たようですし。今は術を無理矢理使った影響で皮膚ごとバッサリ裂けてしまって、使い物にはなりませんが」

 

「!? つ、つまり、僕らが行く先々が全部誰かに知られていたってことか!?」

 

「そうなりますね。場合によっては、対処を考えるべきかと……ですが……」

 

 先に魔法陣の件を話そうとしていたクリフォードの意図が漸く理解できたエリックはため息を吐き、ゆるゆると首を横に振るう。

 確かにエリックの、王都が襲撃を受けたばかりのラドクリフ王国を思えば、不安要素は徹底的に排除しておくべきだ。彼女の境遇を知る前であれば、判断は変わっていたかもしれない。しかし、今となっては答えはひとつしか導き出せない。

 

「放っておけないよな。こんな状態で」

 

「……」

 

「全部吐き出させて、落ち着かせて。それから本人の意思を聞く……それで良いか? クリフォード」

 

「……はい」

 

 ポプリは、何かと嘘を吐く――それは、アルディスの件で酷く思い知らされたし、エリック自身、気になっていることでもあった。

 しかし、ポプリが吐く嘘の内容は、全くもってポプリ自身の得になっていない。振り返ってみれば、そもそも彼女が自身の保衛目的で嘘を吐くことは無かったのだ。

 むしろ、彼女を貶めるような、彼女自身が危険な立場に追い込まれるようなものばかりだ……それも全て、不安定過ぎる自身の境遇故だったのだろうとエリックは頭を抱える。

 

(自棄になって自己犠牲的になった奴と能力が突き抜けて自己犠牲的な奴の次は、行動がことごとく自己犠牲的な奴、か……本人に自覚があるのか無いのかは分からないが、一番質が悪い……)

 

 必要とされたいから、頼りにされたいから、例え自分自身が危うくなったとしても誰かを助けようとすることをやめない――今回のポプリはそれが行き過ぎて死にかけたわけだが、これに懲りて少しは自分自身のことを顧みてはくれないだろうかとエリックは奥歯を噛み締める。それに対し、クリフォードは何か思うところがあったらしい。

 

「エリックもあまり人のこと言えないと思います。僕らのことを気にしてくれるのはありがたいです。でも少しは、自分のことも大事にして下さいね」

 

 似たようなことをアルディスにも言われたな、とエリックは思い返す。どうしてこんなことを言われるのかは分からないが、能力が突き抜けて自己犠牲的かつ自分をやたら卑下する癖を持つ彼に返す言葉は一つしか思い浮かばなかった。

 

「お前には言われたくないよ……」

 

「善処します」

 

「だから……!」

 

 

――その時、ポプリの指先がピクリと動いた。

 

 

「え……」

 

 睫毛が揺れ、固く閉ざされていた琥珀色の瞳が少しずつ開かれる。意識がはっきりしていないのか、ポプリは何も言わず、瞬きを繰り返した。

 

「ポプリ……ポプリ!」

 

 クリフォードは勢いよく立ち上がり、椅子を転がしながらもポプリの顔を覗き込む。またしても泣きそうな彼の瞳と、ぼんやりとしていたポプリの瞳が交差した。

 

「ク……リフ……?」

 

「良かった……! 大丈夫ですか? い、いや、大丈夫じゃないよな、多分痛いところだらけだろうし、その……っ!」

 

 これはまた、自分を置き去りにして盛り上がるパターンだろうか、とエリックは苦笑する。今回に関しては一旦二人きりにしておこうかと思ったエリックの耳に、信じられない言葉が届いた。

 

 

「……。そんなに喜ばないで。あなたのそんな顔、あたし、見たくないわ」

 

「え……?」

 

「出てって……いやなのよ、あなたと一緒にいたくないの」

 

 紡がれたのは、どうしてそうなったと、問い質したくなるような言葉。

 驚いたエリックがポプリの顔を覗き込めば、彼女は凍てついた瞳でクリフォードを睨むように見つめていた。

 

「……」

 

「ポプリ! お前、いきなり何を言い出すんだ!?」

 

「あたしは正直になろうって決めたの。だから、正直に言うわ……クリフ、あなたの傍にいることが、とにかく苦痛なの。助けてくれたことにはお礼を言っておくけどね、ありがとう」

 

 淡々と、声に感情が入りやすい彼女らしからぬ抑揚の無い声で告げられるのは、明確な拒絶。

 クリフォードは何も言い返せずに固まってしまっている。それも無理はない。

 

「もうほっといて。あたしはひとりで大丈夫。エリック君も、皆連れてさっさとどっかに行ってちょうだい」

 

「……!」

 

 どういうわけか、その拒絶がこちらにまで及んでいる。錯乱しているのか本気なのかはよく分からないが、早急にフォローしないと大変なことになりそうだ。

 

(何がどうなった!? 記憶の混濁でも起こしてるのか!?)

 

 混乱でどうにかなってしまいそうなエリックの肩をクリフォードが叩いた。いつの間にか、隣にやって来ていたらしい。

 

「あれ? お前、どうして……」

 

「立ち直れなくなっていると思ったか? 僕の能力を忘れていませんか? 潰されてはいますけど、魔力ごく僅かで無抵抗なポプリの嘘くらい、簡単に見抜けるさ」

 

 敬語以外の喋り方も出来ているということは、彼自身に余裕が無いわけではない。

 つまり、見栄を張っているわけでもなく、本当に「ポプリが嘘を吐いた」のだろう――口調で心境が読めるのは非常にありがたいな、とエリックは自分でもよく分からない安堵の息を漏らした。対して、余裕が無くなったのはポプリだ。

 

「……! そ、そんな……、なら、どうしてよ……!」

 

「何を見たんですか?」

 

「……」

 

「こら、ポプリ」

 

 形勢逆転だ。ポプリはいつぞやのアルディスを思わせる勢いで決まりが悪そうにしているが、どうやら身体はほとんど動かせないらしい。

 彼女は眉を潜め、クリフォードからもエリックからも自分の顔が見えないよう、反対側を向いてしまった。

 

「……ッ」

 

「お前な……もう諦めろ。ちょっとヒヤヒヤしたじゃないか……」

 

 笑ってしまいそうだが、これでも精一杯抵抗しているようだ。

 

「今のはクリフォードに嫌われようとしてやった感じか? 残念だったな、クリフォードの能力が無かったとしても、無茶苦茶過ぎて誰かは見抜いたと思うぞ」

 

「わ、悪かったわね……!」

 

 顔は依然として反対側を向いたまま、ポプリは声を震わせる。先程のような強気な様子は全く無い。クリフォードが「何を見たか」と聞いている辺り、恐らく研究所で何か妙な物を目にしてしまったのだろう。

 一体何を見たのか。思考を巡らせるエリックの耳に、ぐすぐすと鼻を啜るような音が聞こえてきた。このどうしようもない状況が辛かったのか、ポプリが泣き出してしまったようだ。

 

「でも、あたしがクリフの顔見たくないのは本当よ……というより、あたしの『顔』を見て欲しくない……っ!」

 

「か、顔?」

 

 傷があるのが嫌だ、というわけでは無さそうだ。エリックとクリフォードが揃って黙り込んでいると、彼女はしゃくり上げながらも言葉を続けてくれた。

 

「あたし、そっくりだもん……! クリフの家族を壊した、あたしのお母さんに、よく似てる、から……!! 知らなかったんでしょうけど、全部、お母さんのせい、だったんだもん……それに、お母さんは、ディアナ君とか、他にも、沢山の人に、手を掛けて、いて……クリフ達だけじゃ、なくて……ッ」

 

「あ……」

 

 そういうことか、とエリックは思わず声を漏らした。

 この一件、クリフォードの方は全く問題無いのだが、ポプリからしてみれば耐え難い絶望を味わう事実であることは間違いない。

 元々彼女は母親を好意的に見ていた様子であったし、その母親がよりによって彼女が好いている男性の抱くトラウマの原因を生み出したとなれば、それどころか大勢の死に関与していたとなれば、もうどうして良いか分からなくなってしまうのも無理はない。

 エリック自身も、仮に自分の母親がルネリアル襲撃の原因であり、マルーシャの両親を殺した等いう事実が判明すれば、正気ではいられなくなってしまう自信がある。

 

(ディアナの資料見つける前に、クリフォードかダリウスの研究資料を見つけてたんだろうな……確かに、それは……)

 

 ポプリが泣いている。彼女の「人助けをして死にたい」という主張から起こされたある種の自殺未遂は、これが原因だったのだろう。

 優しい言葉を掛けてやりたいが、簡単な声掛けではとどめをさしかねない。どうすれば良いのか良いか分からなくなっていると、クリフォードはエリックが先程渡したハンカチを広げながら口を開いた。

 

「知ってますよ、僕は。それくらい知ってます。知っていて、君と行動を共にしていたんです。だから、そんなこと言わないで下さい」

 

「なっ、なん――ッ」

 

 ハンカチを広げてどうするのかと思えば、何を考えているのかそれをポプリの顔に被せてしまった。

 よく見ると、クリフォードは冷静とみせかけ、視線が泳ぎまくっている――混乱のしすぎで暴走したらしい。何とも間抜けな暴走である。

 

「クリフォード!?」

 

「あっ、いや、自力で涙拭けないでしょうから、ハンカチ……」

 

「それは分かるが何で広げて被せるんだよ!? ポプリを殺すな!!」

 

 ベッドで横たわっている人の顔に布という非常に縁起の悪い行為(しかもよりによって生死の境を彷徨っていた人間に)をやらかしてしまったようだが、ポプリの方は別に怒り出すわけでもなく、ぐすぐすと鼻を啜りながらも大人しくしてくれている。

 

「……。意味が分からなさ過ぎて、ちょっと冷静になれたわ……」

 

「うん、止めれば良かったな、ごめんな……と、とにかく、大丈夫だから、さ。落ち着いてクリフォードの話をよく聞いてみろ。な?」

 

 重苦しい空気が無くなったので、結果的には良かったのかもしれない。

 しかし絵面的には物凄く残念だなぁと思いつつ、エリックはクリフォードに視線を移す。「もういいから何か話せ」という遠回しな命令だ。

 クリフォードはたどたどしくも、自分の主張を話し始める。

 

「その……えーと、ですね、知っての通り、僕は家族というものに良い思い出がありません。兄さんのことは好いていますけど……それでも血の繋がりがあるだけの他人、と考えています。お互いの考えなんて分かりませんし、現に立場的には対立してるようなものですし……その、顔が似てようが親子だろうが、別枠で考えてるんですよ。僕は」

 

「あたしとお母さんも別枠だって言いたいのは分かるわ……でも、そんなの綺麗事よ。あたしのお母さんがいなければ、あなたとダリウスは実験体にならずに済んだのよ……?」

 

「それも分からないさ。ヴァロン様直々に来ていたかもしれないしな……そもそも僕に関して言えば、多分、実験体にならなければとっくの昔に死んでいたと思うよ……そっちの方が、良かったかもしれないですけれど」

 

「ッ、ちょっと!」

 

 相変わらずの自分軽視な発言にポプリが怒り、顔をこちらに向ける。それによってハンカチが落ち、涙に濡れた彼女の瞳があらわになった。

 落ち着いているように見えて、内心全力で狼狽えているが故の失言だ。これにはいくら落ち込んでいるとはいえ、ポプリも黙っていられなかったのだろう。

 

「ジェラルディーン家が崩壊したのは、少なくとも君のせいじゃない。さっきも言ったように、僕は君を恨んでいないし、やっぱり感謝する気持ちの方が強いんですよ」

 

 クリフォードの言葉の裏にある『崩壊した原因は自分にある』という思い、「死んでいた方が良かった」発言には、彼の中に未だ残り続けている根強い闇を感じる。

 

「クリフ……! だから、それは……!」

 

 エリックもそこに対しては一言言いたい気分になった。しかし今は、ポプリの心の闇を晴らしてやる方を優先すべきだろう。

 

「あー……ついでに言っておくが、ダリウスも間違いなくお前と母親は別枠で考えてるぞ。だから、そこは置いとけ。置いといて、自分のことだけ考えろ」

 

「エリック君……でも……」

 

「くどい。今は自分のことだけ考えるんだ」

 

 くどい、とまで言って漸くポプリは黙り込んだ。包帯とガーゼで覆われた彼女の顔右半分にそっと触れ、クリフォードは困ったように笑った。

 

「これ以上、自分に直接の責任が無いものを背負うのはやめて下さい……見ていて辛いんです。悲しくなるんです。分かって下さい……」

 

「……。あたしは、大丈夫よ。気にしないで……それよりクリフ、泣いたの? どうしたの……?」

 

「気持ちは分からなくもないが、どうしてそこでクリフォードを心配してしまうんだ……」

 

 今まで気付かなかったのだが、ポプリはどうにもこうにも自分に焦点が行かない性分らしい。自分より他者を、という思いは通常優しさからもたらされるものであるが、彼女のそれは全てが『優しさ』からなされているものではない筈だ。

 今回の件で思い知らされたが、彼女は自分自身に価値を見出せていなさ過ぎる。話題にすらならない存在だと認識しているのかもしれない。多少強引にでも押し切らないと、話が全く進まなさそうだ。

 エリックはため息を吐き、息を吸いこむ。そしてクリフォードをちらりと一瞥した後、ポプリを真っ直ぐに見据えて口を開いた。

 

「ああ、号泣だよ。アルかと思うくらい泣いてたよ、僕の前でも泣いていたが、多分ひとりでずっと泣いてたよコイツ。全部お前のせいだからな。お前が生死彷徨った挙句、悲惨な目にあってたらしいことが今更判明したせいだからな。お前が色んなこと墓場まで持って行く気でいたからこうなったんだからな!」

 

「え……」

 

 クリフォードをネタにまくし立てれば、流石のポプリも思うところがあったようだ。これだけでは物足りなかったエリックは、彼女の反応を待つことなく言葉を続ける。

 

「悪いと思うなら全部話せ。お前がスッキリしたら多分コイツも気が抜けたような笑顔になるから……僕も『王子』としての立場は完全に置いてお前の話聞くから。あくまでも『一般人』の立場で返事するから……聞かせて欲しい。お前のこと、ちゃんと」

 

 ここまで言えば十分だろう、というところまで言い切ったつもりだ。あくまでも本心であり、嘘偽りの無い言葉を吐いたつもりだ。

 だから、ポプリからも嘘偽りの無い話を聞きたいと願っていた。

 

「そう、ね。生きていられたら、話したいなって、思ってたことはあるの……本心を出す、とでも言うのかしら。こういうの、初めてだから、上手く話せるか分からない……」

 

「それで良い。そういうものだから、気にするな」

 

「……分かったわ。その……」

 

 ありがとう、と呟き、ポプリは弱々しく微笑んでみせる。その微笑みはどこか不格好で、いつもの笑顔さえも取り繕われたものであったことを痛感させられた。

 人当たりが良いように微笑むことが、癖になっていたのだろう――ポプリの底知れぬ悲しみに気付き、エリックは静かに奥歯を噛み締めた。



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Tune.80 生贄の町

「先に言っておくが、無理に話して傷口を広げるようなことはするなよ」

 

 内に秘めた思いを暴露させる、というのは相手の精神に寄り添う方法としては大変効果的だが、結果的に状態を悪化させる場合もある。

 経緯はどうあれこれをさせた結果、アルディスは泣きじゃくって自棄になってしまったし、クリフォードは多弁に拍車が掛かってしまった。同じことを三度繰り返すのは防ぎたい。

 ましてやポプリは瀕死の重傷患者であり、肉体的苦痛を与えるものではないとはいえ余計な負荷を与えたくなかった。

 エリックの心境を察してか否か、ポプリはくすりと笑い、口元に弧を描いてみせる。短くなってしまった桜色の髪がさらりと流れ、彼女の目元を隠した。

 

「大丈夫。酷い目っていっても、大したことないから」

 

「大したことあるんだよなぁ……」

 

 またか、とエリックは深く溜め息を吐いた――何も彼女に関することだけではない。目元を隠した髪をそっと指で払ってやれば、どこか居心地が悪そうなポプリの橙色の瞳と視線が交差した。

 

「僕は『大丈夫』とか『平気』とか、その辺の言葉は一切信用しないことに決めているんだ。悪気が無いことは分かっているが、どいつもこいつもそれが口癖になっているから」

 

 この癖を持つのはアルディスだけだと思っていた頃が懐かしい。

 もはや誰かがこの類の言葉を発した時には、何かしら異常が発生していることを疑った方が良いのが現状である。

 ライオネルとイチハが比較的はっきり物を言いそうなタイプで良かったとエリックはこめかみを抑えた。

 

「ええと……」

 

 ポプリは何か言い返したそうにしているが、何も思い浮かばないらしい。そのまま沈黙してしまった。

 黙り込まれては困るのだが、彼女自身どう話を切り出せば良いやら悩んでいるのかもしれない。少し待ってみるかと考えたエリックの傍で、クリフォードが動いた。

 

「ポプリ、左腕、触りますよ。痛いと思うが、手の甲にするからな」

 

 どうやら、話が途切れるのを待っていたようだ。クリフォードはポプリの左腕を手に取り、軽く包帯を解いてから血管を探し始める。いつの間にか、彼は点滴の準備を終えていた。

 通常ならば痛みの少ない肘付近の血管を選ぶのだろうが、彼女の左腕は右腕同様全体が包帯で覆われてしまっている。肘付近はガーゼ塗れなのだろう。

 腕が持ち上げられる様子、手の甲に針を入れられる様子をまじまじと見た後、ポプリは安堵の息を漏らした。

 

「指、全部揃ってるのね……ねえ、右も全部揃ってる? そもそも腕ある?」

 

「いきなり怖いこと言うのはやめて下さい……少なくとも四肢は揃ってるよ、安心してくれ」

 

「なあ、そう言うってことはポプリ、両腕の感覚が無いんじゃ……」

 

「うーん……無いわけじゃないけど、無事じゃないことは分かってる。そんな感じ」

 

 持ち上げられた左腕、管が取り付けられた左手の甲。その先端に確かに存在していた五本の指を見つめ、ポプリは瞳を潤ませて微笑む。

 

「二回目は両腕を依代に術式展開したし、三回目で成功したとはいえ結構無茶したから、肩から先が吹っ飛ぶくらいは覚悟してたんだけど……やっぱり、怖かったのね、あたし。今、すごく、安心してるの」

 

「……それが怖くないわけあるか」

 

 これまでの様子で察してはいたが、ポプリは非常に博識だ。もしかすると博識だからこそ、心理的な部分、つまり『理論』で説明出来ない部分に疎いのかもしれない――特に、『我慢していれば丸く収まる』という理由で、自分自身のことには。

 今更、腕を失うかも知れない、さらに言えば死んでしまうかもしれないという恐怖に襲われているのか、ポプリは身体を震わせ、再び涙を流し始めた。

 

「勝手なことをするなと言われるかもしれませんが、あまりにも痛々しかったので右足その他諸々にも手を加えたよ。右足に関しては今までろくに動かしていなかったから少しリハビリが必要だろうが、もう普通に歩けると思います」

 

「! ほん、と……? 嬉しい……勝手なことするな、なんて言わないわ……ただ、その……ごめんなさい」

 

 ポプリは潤んだ瞳で数回瞬きを繰り返した後、困ったように眉尻を下げ、目を伏せてみせる。

 

「……。見ていて良いものでは、なかったでしょう?」

 

「ッ!」

 

 クリフォードの報告が、エリックの脳裏を過る。

 手当されずに放置された火傷、明らかに人為的に付けられた傷、物理的に刻まれた罵詈雑言――ポプリはそれらを、『見ていて良いものではなかった』で片付けようとしている。

 

「そういうところ、ですよ……っ! 君の、そういうところが、見ていて辛いんですよ……どうしてそこで、僕のことを気にしてしまうのですか……!」

 

「……。慣れてるから、かな」

 

 思わず声を荒らげたクリフォードに対し、ポプリは驚く程落ち着いた様子で、しかし酷く悲しげな様子で、言葉を紡ぐ。

 

「何から、なのかは察して欲しいけれど……こんな状態だからこそ、助かったこともあるの……助かったのは良かった。けれど、それはそれで、正直、辛かった」

 

 ほろほろと、橙色の瞳から涙が零れ落ちる。

 

「あたしだって、髪をアップにしてみたり、短いスカートやズボン履いて着飾ってみたり、あとは、恋愛とかも、入るのかな……とにかく、何も気にせず、普通に女の子らしいことをしてみたいなって、思うこともあるの」

 

 あの左足の露出がやたらと多い服装は、彼女が秘めていた思いの反動だったのだろうかとエリックは思う。

 とはいえ、ポプリは女性らしいか否かと問われれば、明らかに女性らしい存在である。一体何を気にしているのかと思えば、どうやらそこにも事情があったらしい。

 

「何より、あたしに関してはそう生きることを“あの人”に望まれたから……“あの人”には、それさえ叶わない、から……」

 

(“あの人”……?)

 

 予期せぬ第三者の登場に、エリックは微かに眉を潜めた。ここで追求するのはあまり良いこととは思えないため推測になってしまうが、ポプリの普段の振る舞いは誰かの影響を受けている可能性が高い。

 

「はぁ……気にしてないように見せてただけって感じ、だな。傷のせいで上手に歩けないって話すのも、僕に火傷痕見せるのも、かなり抵抗があったんじゃないか?」

 

「そうね。出来ることなら、あたし自身も忘れていたいこと、だもの」

 

「だけど、忘れられる筈がないわけだな」

 

 これは、ペルストラ住民がポプリに掛けた、一種の『呪い』だ。

 

 彼女の心身に、常に何かしらの形で見えてしまうような傷を残し、自分達の存在を片時も忘れさせないような、そんな呪い――一体何故、ペルストラ住民達は彼女にそんな傷を付けたのか。

 

「一応言っとくけど、あたしは完全な被害者ってわけじゃないのよ? ノアの目を斬り付けたのは、確かにあたしだし……忘れたいけど、忘れちゃダメだって、分かってるから」

 

 エリックの中でペルストラ住民達に対する不信感が募っていることを察したのか、今更隠せないと判断したのか。ポプリはエリックが一番気になっている事情に触れてきた。

 

「アルの目……斬り付けた事情について、話してくれるのか?」

 

「今となっては、ただの言い訳よ。傷付けるのは心だけにしたかった、なんてね」

 

 自嘲的な笑みを無理矢理に浮かべ、彼女はおもむろに天井を見上げる。

 

「事件の後ね、あたしはノアを、早急にペルストラから引き離したかったの……その方法が、悪すぎたのよ」

 

 事件、というのは黒衣の龍のペルストラ襲撃事件のことで間違いなさそうだ。黒衣の龍が去ってそう時間が経たない、まだ町中が悲しみに満ちている、そんな状況の中でポプリはアルディスの目を斬り付けたのだろう。

 

「出来れば、あたし『だけ』を憎む形にしたかった。ただでさえ、自分自身を出来損ないの兵器だと思い込んで、存在意義を見失ってる子だったんだもの。せめてペルストラの住民達からは『愛されていた』、『必要とされていた』と思って欲しかった……」

 

「! その言い方からして、アルはペルストラ住民から嫌われていた、のか?」

 

「嫌われていた、というか……基本的には、フェルリオと一緒」

 

「……。道具扱い、か……」

 

「そういうこと……ペルストラに、ノアを滞在させるべきじゃなかったの。もっと早く気付けていたら、あたしが透視干渉能力者で、人々の思考を読むことが出来たらって、どうしようも無いことだけど……もう、そんなことばかり考えちゃうの……」

 

 エリックの方を向いたポプリの瞳からボロボロと涙が溢れ、白い枕にシミを作っていく。次第にひっくひっくと、嗚咽が混ざり始めた。話すのをやめさせるべきかと思ったが、彼女はゆるゆると首を横に振ってみせた。

 

「ここまで来たら、逆に全部話しちゃいたい、かな……」

 

「大丈夫か? ……ああ、どうせ大丈夫って答えるか」

 

 大丈夫じゃない、という答えが返ってくることはまず無い。もうこの件に関しては諦めることにしたエリックはポプリの頬を濡らす涙にそっとハンカチを当てた。

 

「あ……まず、ペルストラの地域信仰について話さなきゃいけない、のかな」

 

「そうだな、うん……宗教関係の話が絡む時点で嫌な予感しかしないな……」

 

 聖者一族のせいで、宗教とかその類の話が嫌いになりそうだ――微かに顔を歪めるエリックを見て、ポプリは微かに口元に弧を描く。よく見ると目が笑っていない。作り笑いだ。

 

(嫌な予感的中かよ……)

 

 一体何が飛び出してくるのか。

 ポプリの、闇しか感じられない表情を見てエリックはため息を吐きたくなるのを懸命に耐えた。クリフォードが何か知っていないかと彼に視線を向けると、どうやら何か心当たりがあるらしい。眉間にシワを寄せて何か考え込んでいる。

 

「クリフォード?」

 

「ん? ああ……その、まさかなぁ、とは思うのですが……しゃ、シャドウが……」

 

「シャドウ?」

 

 そういえば、とエリックはペルストラ近くに神殿があるという精霊『シャドウ』のことを思い出した。何だかんだあって六体の大精霊の姿を目の当たりにすることとなったエリックだが、唯一シャドウだけはまだ確認出来ていない。シャドウはどんな精霊なのだろうか。

 

「マクスウェル様曰く、大人しくて幼い少女らしいのですが……外部の影響およびシャドウが精神的にかなり参っているとかで神殿自体が堕ちかけているらしく、神殿の浄化を依頼されたんだ。僕ではなく、イチハ兄さんが、ですけどね」

 

「クリフォードもシャドウに会った事がないだと……しかも、異常事態かよ……」

 

「とてもじゃないですが、外に出られる状況ではないそうなんです。ポプリが最初に指名されていたのはこれが理由らしいんだ。神殿内の中位精霊が堕ち始めたそうで、そろそろシャドウの身が危ない、と」

 

「ああ、そうか。契約すれば大精霊を神殿から出せるもんな……精霊が堕ちるってことは、魔物化か。それも下位じゃなくて中位の精霊が堕ちて魔物に……これは骨が折れそうだ……」

 

 魔物は下位精霊が身を堕とした成れの果てだとディアナが言っていた。無言で頷くクリフォードを見る限り、中位精霊が身を堕としても魔物化するらしい。その魔物は当然ながら、下位精霊が元となった魔物よりも強力なものとなるのだろう。

 

「う……やっぱり邪教よね、あれ……お爺ちゃん間違ってなかったんだわ……」

 

 シャドウの神殿が堕ちそうだという話を聞いて、ポプリは深くため息を吐く。やはりこの件はペルストラにあるという地域信仰絡みの出来事だったようだ。

 

「ポプリのお爺さんってペルストラを立て直した人、だよな?」

 

「そう。あと、ついでに明らかに邪教だからって『贄制度』を止めさせた人、なんだけど……」

 

「に、贄制度……」

 

 贄制度――恐らく比喩でも何でもなく、その通りの意味なのだろう。

 

 エリックとクリフォードは当事者ではない。

 だからこそ『理解出来ないものを教えてもらっている』ような状況で冷静に話を聞くことが出来ていた。しかしポプリは当事者だ。

 淡々と落ち着いた様子で話してくれてはいるものの、彼女の涙は止まることを知らなかった。

 

「ものすごく簡単に言うと、ペルストラには精霊シャドウを『土地神』として崇めて、魔力の高い子どもを選んで、贄として捧げることで自分達の身を守って貰おうっていう信仰があるの」

 

(やっぱり、言葉通りの意味か……!)

 

 なんとなく、状況が見え始めた。ポプリが慌ててアルディスを逃がさなければ、と考えた理由も理解出来た。

 ポプリの祖父は、住民がシャドウの神殿に贄を捧げることを止めさせた。しかしその数十年後にペルストラ事件が発生し、町に重大な被害が出てしまった――町民達が何を考えたか、その場合の“適役”は誰なのかは、もはや聞くまでも無かった。

 

「シャドウのことも気になるし……今後、何かしら役立つ情報になりそうなことは、全部話しておくわね」

 

 エリック達が完全にはペルストラの事情を理解していないことに気付いたポプリは、変わらず淡々と言葉を紡ぎ始めた。

 

「元々ペルストラは鳳凰族(キルヒェニア)の隠れ家みたいな場所だったの。クリフやダリウスレベルの、本当に鳳凰寄りの混血もそうだけど、あの町では純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)ってのも珍しくなくって。外部交流が必要な時は龍王系の人間が前に出ていたし、お爺ちゃんが立て直すまでは表立って存在していた場所じゃないから、多分……一部の人しか、知らないと思う」

 

「あー、だからディアナ見ても普通の反応してたんだな、お前……だが、純血鳳凰ならフェルリオの宗教があるんじゃないのか?」

 

「うふふ、ディアナ君の容姿は珍しいから、少しは驚いたけどね。そのディアナ君が信仰してるのは、家系的に正教派だと思う……ペルストラのは、信仰の解釈を歪めて誕生した過激派宗教ね。精霊を崇めるとこまでは一緒なんだけど、捧げるのは歌に込められた魔力じゃなくて、人命そのもの」

 

 王国から阻害され、時に命までも脅かされた過去を持つペルストラの一部住民は、精霊王オリジンではなく、住民にとって比較的身近な存在となった精霊シャドウを強く崇拝するようになったのだという。

 加えてペルストラに住む者達は皆、フェルリオ帝国からも切り捨てられた、いわば爪弾き者だったそうだ。聖歌祈祷能力者もおらず、誰も聖歌を歌うことが出来ない上、母国に対しあまり良い感情を持っていなかったことは想像に容易い。歌を捧げることが出来ない以上、母国の宗教をそのまま信仰することは出来なかったのだろう。

 

 シャドウ――司る闇属性の術は、禍々しいものが大半だ。歌よりも人命を、という発想に至るのは無理もないのかもしれない。

 

「正教派からしてみれば当然、ペルストラの宗教は邪教になるわ。あまりにも野蛮だってことで、お爺ちゃんは資金の援助をする代わりに贄制度の廃止を求めたの……お爺ちゃんとお婆ちゃん、それからお父さんは結構皆に好かれてたから、贄制度とかそういうのなくっても、表向きは何とかなってたみたい」

 

 ポプリの祖母は純血龍王(クラル・ヴィーゲニア)だった上、比較的社交界と繋がりの強い人物だったそうだ。彼女のアシストで権力を握ることに成功したのが前ペルストラ領主、バロック=クロード――ポプリの父だ。

 彼は騎士として名を馳せることは出来なかったものの、考古学をはじめとする様々な分野で才能を開花させた。そして居場所の無い人々の集落に過ぎなかったペルストラを正式に『町』として国に認めさせ、彼自身も子爵の地位を得たそうだ。

 エリックはバロックと全く面識が無いわけではなく、医学にも通じていた彼の診察を受けたこともある。その為、ポプリの父親がバロックであることは知っていたが、彼が俗に言う『万能人』であったなどとは思ってもいなかった。

 

「……。問題は、お父さんが王国の研究者だったお母さんを連れてきた辺りで起こり始めたわ。今なら、理由がはっきりと分かるけど……お母さんって、純血鳳凰からはかなり恨まれてたの。さらにその流れで、鳳凰系種族の間でもかなり悪評が広がってたみたい……お父さんは、自分がさらに成り上がるために国お抱えの研究者を娶って、王家に媚を売ったんじゃないかって、そんな話が出始めた」

 

「そんな……」

 

 所詮は親の七光りって奴だったのよ、とポプリは悲しげに笑ってみせた。

 

「お父さんは町を復興させたお爺ちゃんの子で、実際に権力もあって、だから、受け入れられてたんだと思う。ただ、それだけで、町の人達から信頼されていたわけではなかった……それでもやっぱり位が高い人だったから、お父さんはそこそこ大事にされてたわ。お母さんと、お母さんそっくりに生まれちゃったあたしは、迫害こそされなかったけど、かなり疎まれてた」

 

「……なあ、妙に親世代の事情に詳しいのが気になるんだが……」

 

 まるで見てきたかのようにポプリは語ってくれるが、半分以上の話は彼女が生まれていない頃の話だ。彼女が追い出されるその日まで居心地の悪さは続いていたのだろうが、本来なら彼女が母親の評判やら父親が媚を売っただとかの話をすることは出来ない筈だ。

 出来るということは、そういうことなのだろう。くすりと微笑む彼女の顔には、僅かな嘆きが滲んでいた。

 

「勿論、吹き込まれて育ったのよ。町の人達に」

 

「ッ、やっぱり、そうか……」

 

「……だから、ノアの気持ちがよく分かるの。兵器だ、失敗作だ、なんて言われて育ったあの子の気持ち」

 

 散々親の悪口を聞かされて、自身も疎まれながら育って、彼女の心が歪まない筈が無かった。エリックの視界の片隅で、クリフォードがポプリの手を握り締めている。

 

「あ、全く話し相手がいなかったわけじゃないのよ? 時々“あの人”が会いに来てくれてたし、ノアが流れ着いてからはノアと一緒にいたから。だから、寂しくなかったのよ」

 

(“あの人”って、誰だ……多分、女性だよな? 名前、言えないのか……?)

 

 またしても“あの人”が話に登場した。間違いなくポプリの人格形成において重要な役割を果たしているらしいその人物は一体誰なのだろうか。聞けば、答えてくれるだろうか。

 気にはなったが、今はポプリが深く考えずに吐き出してくれる情報の方が大事だ。そこには触れず、エリックは再び話に登場したアルディスに焦点を当てることにした。

 

「ラドクリフ王家はあまり良く思われていないのは分かった。だが、フェルリオは大丈夫だったのか? 経緯を知ると、どっちもどっちだと扱われてそうなんだが……よく、アルを拾えたよな」

 

「実を言うとね、ノアが皇子だっていうことは、事件が起こるまではあたしの家族しか知らなかったの。知ってたら多分、町の人達は猛反対してたんじゃないかな……」

 

「ああ……」

 

 つまり町民の同意なしの、領主単独判断での保護であったということだ――アルディスも馬鹿ではないだろうし、身分を隠し、さらには能力も隠した上で町に滞在していたのだろう。特徴的な容姿に関してはただ聖者一族の血を引いているだけだと言い切ることも可能だっただろう。

 彼が「自分が町にいたせいだ」とペルストラ襲撃に対してやけに責任を感じていたのは、結果的に町民を騙す形になってしまったことも理由のひとつかもしれない。

 

「これ……ノアに伝えるかどうか、悩んでるん、だけど……ッ、う……」

 

 ポプリが声を震わせる。ぼろぼろと涙が零れ、奥歯を噛み締めた。

 

「おいおい、どうした。無理するんじゃない」

 

 ゆるゆると頭を振るい、ポプリは嗚咽を漏らす。話す、ということなのだろう。

 

「ペルストラ事件の元は、実験体達の、あたし達一家を狙った復讐だったの。そこにノアを含む純血鳳凰達がいたから、手柄を立てようとした兵士達が暴れて、襲撃が大規模になってしまっただけ……ノアは本当に、たまたま巻き込まれた、だけだったの……ッ」

 

「え……」

 

――フェルリオ皇子、アルディスが流れ着いた場所が、仮にペルストラではなかったなら。

 

 その場合、アルディス本人は『ペルストラ事件は無かった』と考えるだろう。しかし、実際は違ったのだ。仮にアルディスがラドクリフ王国に流れ着いていなかったとしても、ペルストラ事件は避けられない出来事だったのだとポプリは必死に言葉を紡いだ。

 

「……。黒衣の龍の元実験体のメンバーが残した計画書が、実行前に王国騎士団に見つかったそうなの。計画では、あくまでもあたし達一家を暗殺するだけの予定だった……だけど、お父さんもお母さんも国にとって有益な存在。だから、それをされるわけにはいかないし、元々ペルストラはあまり王国の手が入ってない場所だから、王国騎士団は直前で取り押さえれば良いと彼らの後を追った。そこで見たのは、『宝の山』だった……ってところ、かな」

 

「!」

 

 ペルストラには多くの純血鳳凰がいたという事実は、明るみにはなっていない。だからこそ、傍から見れば「王国騎士団が何の罪も無い町を滅ぼした」という出来事になってしまう。

 しかし、国を守るべき立場にある王国騎士団からしてみれば、それでは困るのだ――ならばどうすれば良いのか。つい最近、似たような事件が起こっていた。

 

「それで、町を潰した後、王国騎士団は今回の王都襲撃事件同様に黒衣の龍に全ての罪を擦り付けた、か……」

 

「そういうことになるわね。その辺りはヴァロンの手記を見て知ったことだから、どこまで本当か分からないけれど」

 

 いつの間に目を通したのか、ポプリは研究所でヴァロンの手記を発見し、さらに言えばそれを「重要事項書いてそうだから」という理由でこっそりと手記を持ち出しているらしい。ディアナの研究資料の件といい、なかなか恐ろしいことをしてくれている。

 

 あまりにも気になってしまったために一体どうやって短期間で大量の資料を頭に叩き込んだのかと問えば、『能力の応用で何とでもなる』と返って来た。だからこそ大量の情報を得てしまい、彼女はここまで落ち込む羽目になってしまったわけである。

 

 

「ただ、ペルストラ事件の元となった、あたし達一家への復讐の件に関しては間違ってない。だって、これは町の人が言っていたことだから。それに、その方が辻褄、合うでしょう?」

 

「町の人が、言ってた……って……」

 

「ペルストラの人達にとって『疫病神』って言ったら、ノアじゃなくてあたしのことよ。せめて死んでたら良かったんだろうけど、生き残っちゃったから……なんで死ねなかったんだろうって思った。けれど、その後、ノアを生贄にするって話が出て……ああ、あたしはこのために生き残ったんだなって、そう思ったの」

 

 精神的に負荷が掛かり過ぎているのだろう。ポプリの様子が、少し怪しくなってきた。少し早口で、まくし立てるように喋る彼女の身体が、酷く震え始めた。

 

「生贄になれって言われたら、ノアは間違いなく生贄になってしまうから……じゃあその前に、完全にノアが被害者になる形で、町を出て行かせなきゃって思ったの。そのためにあたしが選んだのが、あたしが一番傷付いた言葉。そして、言葉だけじゃ駄目だって思って、ナイフ持って、ノアに襲い掛かったの。あの子なら、簡単にかわせると思った……間違いだったことに気付いたのは、全てが終わってからだった」

 

 この辺りの話は、間違いなくポプリにとっては最大の闇だ。彼女という人格を歪めた決定打となる部分だ――もう、何と声を掛けるのが正解なのか、分からなかった。

 

「それ……その後、は……ポプリ、お前、が……」

 

「うん、そうね。その後は……仕方がないから、次に保有魔力量が多かったあたしを贄にしようって話になって。でも、あたしがいないとチェンバレン絡みで面倒だからって、一次的権限譲渡の書類だけ書かされて……それで、逃げないように足を潰されて、儀式をするまでの間は、町の人達も暇、だったの、かな……地獄があるなら、こんな感じなのかなって、そんな……感じ、で……」

 

「――ッ!!」

 

 たった十二歳の少女に、畳み掛けるように襲いかかった悲劇。

 きっとそれは、彼女が年の割に博識であったことも原因なのだろう。賢くなければ、彼女は真相にたどり着かなかった。残酷な現実と、向き合わずに済んだ。しかしそれは、決してポプリが悪いわけではない。

 

「足を潰されたけど……それでも、何とか逃げて。孤児院に保護されて……でも、こんな身体だし、能力が能力だから、馴染めなくって……後は、君達が知ってる通りよ」

 

「……ポプリ」

 

 やっとの思いで声を絞り出し名を呼べば、ポプリはどうにか笑みを浮かべてみせる。気にするなと言いたいのだろうが、それは無理な相談だった。

 確かに、結果だけ見れば『ポプリはアルディスの右目を抉った悪人』ということになる。そうなるように、ポプリが動いたのだ――アルディスが傷付くことを、最小限に留めるために。そのために、彼女は自らを『悪人』に堕とした。

 

「この辺の話、ノアに話すかどうか、悩んでるの。だけど、贄の話とか、余計なことは、知らなくて良いと思ってるの……でも、流石にもう、苦しいなぁって……」

 

 ペルストラ事件の真相をアルディスに語れば、確かに彼は救われるだろう。だが、そうなると彼視点でのポプリは「何の関係も無かったアルディスを疫病神呼ばわりした挙句、攻撃した悪人」としてさらに身を堕とすことになる。流石にそれは辛いとポプリは困ったように笑ってみせた。

 

「……どうしたら、良いのかな?」

 

 片っ端から全て話せば良いだろう、という簡単な問題ではない。

 実のところ、アルディスは真相に気付きかけている。少なくとも『ポプリが全て自分で背負う気だ』という部分に関しては理解していると言っても過言ではない。

 しかしながら、事の全てを完全に理解してしまった時、彼が負うであろう精神的負担は計り知れないものがある――どうしたものか、とエリックも頭を悩ませ始めた、その瞬間。勢いよく(鍵を掛けていた筈の)ドアが蹴り破られた。

 

 

「どいつもこいつも……本当、何なんですか!? いい加減にして下さいよぉ!!」

 

 

「あ……」

 

 現れたのは、絶賛大号泣中の件の人物――アルディスであった。

 

 

 

―――― To be continued.



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Tune.81 ゼフィール

※今回、『中性』という非常に人を選ぶ設定が登場しています。



「あー……」

 

 一体どこから聞かれていたのかは分からないのだが、ドアを蹴り破った後はその場に立ち尽くしてアルディスが泣いている――どうしたものか。

 

「こういう時は『お医者様』に任せて下さい……」

 

 どうやらまた泣いていたらしいクリフォードは頬の涙を拭い、鞄から白衣(いつも着ている改造白衣ではなく、ちゃんとしたものだ)と財布を取り出し、アルディスを部屋に押し込んでから宿屋従業員に謝罪に走った。

 

「前々から思っていたが、アイツ、『医者』のフォーム決めてる時は完璧だよな……普段は犬のようだが」

 

「こ、今回のコレはちょっと違うんじゃないかしら……」

 

「医者=金持ちの法則でどうにかしようとしてるだけだしな。とりあえず……アル、こっち来い」

 

 アルディスが蹴り飛ばしたドアを元あった場所へ適当にはめ、エリックはぐずぐず泣いている親友の背を押してポプリの傍に戻る。

 

「ポプリ、姉さん……っ」

 

「あー、うん……ごめんね。ごめん、ノア……」

 

「アル、どの辺から聞いてたんだ?」

 

「……ペルストラの、邪教についての話辺りから」

 

 最初からではなかっただけ良かったが、そこから聞かれてしまっているのであればもう誤魔化しようがない。

 

(まいったな……)

 

 とりあえずエリックはアルディスを椅子に座らせ、ハンカチを押し付けた。

 

 アルディスが泣くのはいつものことだが、流石に今回のコレは相当堪えているようだ。

 この男、泣き喚くのが基本スタイルだというのに、『喚く』の部分が中途半端に終わってしまっている。ショックのあまり、言葉が出ないのだろう。

 

「ノア……泣かないで」

 

 ポプリは軽く息を吐き、手を動かそうとする。しかし、指先が微かに動いただけで、腕を上げることは叶わなかったようだ。

 それが益々、彼女の痛々しさを助長する。ボロボロになってしまった姉を目前にしたアルディスは何も言わず、奥歯を噛み締めて震えている。

 

「無理を承知で言うけれど、あたしが勝手にやったことよ……だから、気にしないで」

 

「……」

 

「あたしが君を傷付けたことは、変わらないのだから」

 

 アルディスを前にすると、ポプリはやはり『姉』の顔をする。先程まであんなに泣いていたのに、無理をして笑みを浮かべようとする。これもまた、全てを知ってしまったアルディスからしてみれば、辛い光景なのだろう。

 嗚咽を噛み砕くように飲み込み、頭を振るい、アルディスはポプリの包帯まみれの手にそっと左手を添え、握り締めた。

 

「予定通り俺が贄になっていれば、なんて言葉は……多分、聞きたくない、よね」

 

 ポプリは無言のまま、おもむろに頷いた。

 それを見て、アルディスは歪で、不格好な笑みを浮かべてみせる。

 

「過ぎたことは、仕方がない。俺は、悪くないんだって……きっと、あなたは、そう言うんだろうな……あなたは、自分自身のことは、ちっとも見てくれないから……っ」

 

 彼の頬を伝い、涙がぼたぼたと床に落ちる。

 

「だから、今は……“守ってくれて、ありがとう”って、言わせて」

 

「……!」

 

 恐らく「勝手なことをするな」だとか、「俺はそんなことを望んでいない」だとか、彼も言いたいことは沢山あったに違いない。しかしその全てを、彼は飲み込んでみせた。

 

 この件についての一切を、追求しない――ポプリをこれ以上傷つけないために、アルディスは全てを『過去』の出来事にすることを選んだのだ。

 

「ノア……ごめんなさい、あたし……」

 

「俺さ、ちょっとは成長したんだよ」

 

 彼は赤くなった目を細め、今度は綺麗に笑ってみせた。

 

「姉さんのお陰でフェルリオに居場所が無いわけじゃないって知ることが出来たし、まだ時間が掛かりそうだけど、戦うこと以外に自分の価値を見い出せそうなんだ。だから例え、ペルストラでの全てが嘘だったとしても、それくらいで立ち止まる俺じゃない……ペルストラはポプリ姉さんと出会えた場所だから、あの町を第二の故郷だと思う俺の気持ちも、変わらない」

 

「……ッ」

 

「何より、俺はポプリ姉さんや、エリック達のことを心から信じているから。それだけで、もう十分なんだ……だから姉さんにとっての俺が、『守る対象』じゃなくて『頼れる存在』でいられたらって……今はそう、願うよ」

 

 アルディスも『弟』という虚勢を張っているようだが、発する言葉の全てが偽りではない。少なくともアルディスは、ポプリが立ち止まってしまった、その時に迷わずその手を引けるだけの余裕は持ち合わせているだろう。

 

 ポプリの、橙色の瞳が歪み、アルディスの手を弱々しく握り返した。

 時間は掛かるだろうが、彼女もいつか、全てを乗り越えてみせるだろう――それならば、今はこの沈んだ空気をどうにかするべきだろうか。

 

「……。泣いてなかったら格好良かったのにな」

 

「~~ッ! うるさいよ!! 意志支配(アーノルド・カミーユ)は! 涙脆いんだよ!!」

 

「知ってるよ、知ってて言った。狙い通りの反応してくれて、ありがとな」

 

 怒るアルディスから目を逸らし、エリックはポプリへと視線を移す。ポプリは涙の残る瞳を丸くしてこちらを見ていたが、やがて、意図を理解してくれたのだろう。

 彼女は照れ臭そうに、それでいてどこか嬉しそうに、まだ幼さの残る可愛らしい顔を綻ばせた。

 

 

 

 

 宿屋の家主に明日ドアを直してチャラにする約束を取り付けてきたクリフォードが帰ってくると同時、「本当は俺いない方が良いんだよね?」と今更空気を読んだアルディスが退場し、部屋の中は再びエリックとポプリ、それからクリフォードの三人だけとなった。

 

(いや……乱入したんだから、最後までいてくれても良かったんだけどな……)

 

 実際のところ、アルディスはペルストラの一件を受け入れるためにひとりになりたかったのだろうが……別に三人にされても、とエリックは苦笑する。

 

「……僕も出ようかな」

 

「えっ」

 

 聞きたいことはあるが別に今でなくとも良いだろうし、ここは自分もさっさと退場してポプリとクリフォードに『良い空気』になってもらおう。

 そう考え、エリックは席を立つ。いい加減、自分を無視して盛り上がるのはやめて頂きたいのだ。

 

 すると、下から「あのねぇ……」とポプリが呆れたような調子で声を掛けてきた。

 

「『あの人』も散々言ってたんだけど、ダメよ、君のその優しさ……何故かあたしが『あの人』に忠告されまくってたんだからね、『あの人』に」

 

「ポプリ、ちょっと誘導が酷過ぎないか?」

 

「君が優しすぎるのがいけないのよ」

 

 あからさま過ぎる勢いで「『あの人』に関する話を聞け」とポプリが言っている。これはエリックから振らなくとも、自分から話してくれそうな様子である。呆れた調子の声音ではあったが、表情を見る限り、何だか楽しそうだ。

 

「お前が言う『あの人』……僕は大体分かっているんだよ。ただ、引っかかるのは性別だ。僕が思い浮かべている人は、男性だからな」

 

 エリックの脳裏を過るのは、美しい黒髪を持つ美丈夫の姿。

 確かに彼は女性と見紛う美しさを持つ、それこそ『美人』と称しても違和感の無いような人物ではあるが、一応は男性の筈だ。

 

「お前の話を聞いている感じだと、どう考えても『あの人』って女性だろ?」

 

 そうポプリに問えば、彼女はクリフォードに視線を移していた。

 

「それはあたしも気になってて……クリフ、あなたは分かるんじゃないかなと思うんだけど……あの人、厳密に言えば、“どっち”なの?」

 

「は?」

 

「んー、僕はまだ確信には至っていないので、あえてこっちの名前を……ポプリ、“ゼフィール様”の話、ですよね?」

 

「ええ」

 

 聞き慣れない名前だが、ポプリとクリフォードの間ではこれで通じたらしい。一体誰のことを指しているのか、と聞く程エリックも馬鹿ではない。

 

「三対七、くらいか? まだ割と女性に近いが、外見は男性に寄ってきてますね……精神がどっちなのかは分からないが、女性寄りだったら、辛いだろうな」

 

「多分、女性だと思うわ……そうじゃなかったら、あたしのこと羨ましがったりしないと思うし」

 

「あー……それもそうですね。となると……うわ……」

 

「待て。頼む、待ってくれ」

 

 会話の内容が凄いことになってきた。

 慌ててエリックは二人を静止し、会話に割り込む。

 

「ゼフィールっていうのは、兄上の本名……いや、元の名前ってことで良いか?」

 

 頷かれてしまうと衝撃の事実も一緒に肯定されてしまうのだが、残念ながら頷かれてしまった。

 エリックの予想は間違っていなかった――ポプリと繋がっていたのは、兄だったのだ。

 

 確かにゾディートは、ラドクリフ王家に入る際に名前を変えたと言っていた。その件に関してはこの際どうでも良い。それ以上に衝撃の事実が一緒に判明してしまっている。

 

 それでも、ポプリが下手によく分からない人間と繋がっているよりは余程良い。それこそ、彼女のクリフォードへの態度からしてありえない話ではあるが、ヴァロン辺りと繋がっているよりはマシである。

 

「ゼフィール=ヒースっていうのが、あの人の元々のお名前で、今も『お忍び』の時に使ってる名前ね。あたしはペルストラにいた頃から面識があってね……最初にお会いしたのは、あたしが五才の時だったかな」

 

「じゅ、十五年前……」

 

「あなたのお父様、前王様と一緒にペルストラの視察に来ていたみたいよ。その後も、時々遊びに来てくれて……知っての通り、あたしは家族とノア以外とはまともに話せるような状態じゃなかったから……お姉ちゃんが出来たみたいで、嬉しかったな。当時はまさか王子様とは思わなかったけど、完全に女の子だったし」

 

――思考が追いつかない。

 

「兄上は……姉上、だったのか?」

 

 絞り出すようにエリックが発した言葉に、クリフォードが答える。

 

「うーん、今となってはどちらとも言えないでしょうね……元々、ゾディート殿下は性別が曖昧だったそうです。最初は女性に寄っていたが、『ある時』を境に男性寄りになって行ったんだろうな」

 

「ええぇ……」

 

「まあ、そりゃそうなりますよね。というわけで、『精霊の加護』というものについて説明しておきましょうか」

 

 ただひたすらに困惑し続けるエリックの前で、クリフォードは自身を半獣化させてみせる。

 

「マクスウェル様が精霊の使徒(エレミヤ)を持つように、上位精霊もひとりの人間に対して先天的な加護を与えることがあります……僕はウンディーネの宿主であると同時に、彼女の加護持ちだ。水を操る力は、彼女の加護を持つからこそ存在するものです」

 

 そうじゃなきゃあっちこっちで温泉沸かせたり出来ません、とクリフォードは笑う。

 

 治癒術を使えることはひた隠しにしていた割に水の操作能力は非常に軽々しく使っていた気がしなくもないが、アレはかなり希少なものだったようだ。こっちも隠すべきだったのではないかと言いたくなったが、とりあえずこの件も保留だ。

 

「加護持ちは非常に強い魔術適性を持ちますが、生まれつき精霊に強く影響されている以上、身体に何かしら影響が現れます……僕の場合は、人型と獣型の境界が非常に曖昧になっていますね。あと、瘴気を勝手に浄化する謎体質です」

 

「あー……そのノリで兄上は性別があやふやになったと」

 

「そういうことだ。あの人は、精霊セルシウスと精霊レムの加護を持っています」

 

「!?」

 

 二重に加護が掛かることがあるのかと聞けば、そんなことは前代未聞だったとクリフォードは答えた。ゾディートはかなりイレギュラーな存在だということだ。

 

「ゾディート殿下に継承権が無い理由……エリック君気にしてたけど、王族の血を引いていない云々の前に、一番はそういうことだと思うわ。しかも、元は女性寄りだったんだから、尚更ね」

 

「……」

 

「話を戻すけれど、あたしは内通者として、エリック君の様子をゼフィール様に流していたの。ほら、行く先々で結構バッタリ会ってたしでしょう? それ、あたしのせいよ……あと、ごめん。最初に出会ったときも、逃げる方向の指示は出されてたの。そっちに行けば、エリック君に会えるって……きっと、君ならあたしを見捨てないからって」

 

 そう言われてみると、確かに色々と納得出来る。だが……

 

「お前、スウェーラルで結構派手にやられてたよな?」

 

「あたしに関しては『すまん、やりすぎた。傷残ってないか?』って後で滅茶苦茶謝られたわ。ちなみに目的は君とノアを拳で語り合わせるためで、さらに言えば、あたしが君側に着いたのはあの人の指示……まあ、指示が無くてもノアはあたしを拒絶してたけどね」

 

「……」

 

 クリフォード曰く、ポプリの腕にあった印は、術者(ゾディート)と被術者(ポプリ)が互いに意思を通じ合わせる効果を持つという話であった……まさか、こんなにカジュアルに連絡を取り合っているとは思わなかったが。

 

「じゃあ、セーニョ港のアレは……?」

 

「ごめんね、茶番って奴よ。ダリウスのリボンは計算外だったけど、後は全部打ち合わせ通りなの」

 

「うん、一応聞いておくか……シャーベルグのは?」

 

「あれは本当にたまたま近くにいたみたい。でも、エリック君が困ってたし、話したいことがあるってことで『今行くから時間稼げ』って指示されたわ」

 

 どうやらポプリはゾディートの指示に合わせて、ある程度振る舞いを誤魔化していたようだ。

 そうなると、もうひとつ気になる部分が出てきた。カルチェ山脈のダリウスとの話だ。あの、激昂した様子のポプリの態度が演技だとすれば、流石に怖い。

 

「まだ聞くぞ。カルチェ山脈の話だ! ダリウスが来るのは知らなかったよな!?」

 

「え、ええ、アレは素よ……ただ、後から『可愛いだろう? ちょっと預けるから面倒見といてくれ』とは言われたけど……」

 

「ああ、良かった……あれは素か……いや、だが、うーん……」

 

 ゾディートのノリが、完全にペットを友人に預ける『それ』である……ダリウスは犬か。

 

「ゼフィール様はともかく、ダリウスはあたしに会いたくなかったみたいで……まともに会ったのはスウェーラルが初めてなの。信じるの難しいだろうけど……ゼフィール様以外の黒衣の龍のメンバーとは、あたし、接点無かったのよ」

 

「ああ……大丈夫だ、信じる。それ以上に気になって仕方が無いんだが……気のせいだったら、自意識過剰だと笑ってくれ」

 

 まず、ダリウスと面識が無かった点に関しては間違いないだろう。ポプリ以前に、ダリウスが絶望的にボロを出しそうだ。同様にフェリシティ、ベティーナも彼女らの反応からして初対面と判断して良いだろう。

 ヴァロンに関しては、むしろポプリが気付いていないだけで向こうは知っていそうな気もする。何しろ彼女の母親とヴァロンに接点があるのだから、知らない方が変だという話だ――というわけで、エリックの関心は全く違う方向に向いた。

 

 

「兄上は……僕のためになる行動しか起こしていない気がするんだが」

 

 ベティーナの回収はともかく、アルディスと仲違いさせないように働き掛けてみたり、シャーベルグでエリックを助けにきたり。助言の数々もそうだ。一体何を考えているのか、よく分からない。

 少し悩んでから、ポプリは「そうね」とエリックの言葉を肯定してみせた。

 

「ゼフィール様……『弟』が出来たのが、本当に嬉しかったのね」

 

「え……」

 

 ポプリは、どこか悲しげに笑う。

 

「疎まれてるって、思ってた? 違うのよ、あの人、君が可愛くて可愛くて、仕方がなくて……でも、あの人の立場じゃ、君に好かれるわけにはいかなかったのよ。だから、『敵』として振舞うしか、なかったの」

 

「好かれるわけには、いかない……?」

 

 実際のところ、自分は可愛がられている――この件については、あながち間違いではないのかもしれないと流石のエリックも感じていた。

 ポプリは息を吐き、軽く目を伏せる。どこまで話すか悩んでいるようだが、彼女は決意を固めたらしい。

 

「……。あの人を助けたい。だから、あたしも覚悟を決めるわ。信じたくなければ、信じなくて良いし、ここであたしを切り捨てても構わない」

 

「!? な、何を言い出すつもりだ!」

 

「君に喧嘩売るつもりなのよ。前にもそれとなく言ったけど……ここから先の話は、『ゼノビア陛下は敵』っていうのを大前提にした話になるもの。この件はゼフィール様からも口止めされてるから、あたしは本気でひとりになる気満々。それでもあの人を助けるんだったら、言わないといけない話なのよ」

 

 誰にも胸の内を明かせない孤独に怯えていたポプリが、自らひとりになる覚悟を固めてしまった。彼女特有の自己犠牲心ゆえの行動なのは間違いないが、話が非常に物騒である。

 

「……お前、前にも母上のこと悪く捉えてたな。ペルストラの一件だけが理由じゃないってことか」

 

 あの時はポプリの言い分を一切聞かずに威圧してしまったが、今は違う。彼女の覚悟を見届けるべき場面だろう。

 ポプリはこくりと頷き、真っ直ぐにエリックの目を見据えて口を開いた。

 

 

「単刀直入に聞くわ。エリック君、『マルーシャちゃんの正体』には気付いてる?」

 

「ッ! その言い方をするってことは……お前も……」

 

「ええ。あの子、明らかに変なのにクリフがカルテ回して来ないから、何かあるなって前々から確信してて……具体的な内容について知ったのは研究所の書類読んでからの話だけど、魔鉱石の中で生き長らえてた『誰か』の体内精霊だってことは、結構前から知ってた」

 

「……カルテ、回しても回さなくてもバレてたんですね……」

 

 アルディスが退室していて良かったと思わざるをえない話である。無論、ポプリも彼がいた場合はこの場で口を開かなかったのだろうが。

 

「だ、だが、なんで今、マルーシャの話を?」

 

「ゼフィール様は、マルーシャちゃんとほとんど同じことになってるから、かな」

 

「!?」

 

 思わず、絶句してしまった――今、ポプリは何と言った?

 

「素体になったゼフィール様は加護持ちだったし、押し込まれた精霊も元の持ち主の身体から引っこ抜かれたばかりで『マルーシャちゃん』みたいに強化を重ねた存在ではなかったから、彼女は身体を乗っ取られることはなかったみたいだけど……そろそろ、限界なのよね。それは、何となくエリック君も気付いてるんじゃないかな」

 

「……」

 

 何も言えなくなってしまったエリックの赤い瞳を、ポプリの、どこまでも真っ直ぐな視線が射抜く。

 

 困惑。

 否定。

 拒絶。

 

 その全てを覚悟した上で、ポプリは言葉を紡ぐ。

 

「ゼフィール様……このままじゃ、あと一年も持たないと思う。それに君も、大きくなって抵抗力も増してきた。もう、精霊を戻しても大丈夫……だから、ゼノビア陛下はあのタイミングで黒衣の龍を指名手配したんだと思う。指名手配されてなくとも、どうにかして処刑の方向に持っていった筈よ……君のお父さんの件とかね」

 

「ポプ、リ……? それは、どういう……」

 

 

 理解が、追いつかない。

 

 

「エリック君、十八年前に君の身体から抜かれた体内精霊は、あの人の中にあるの。強すぎる精霊に君を殺させないように、そして、後に『マルーシャちゃん』を“作る”ための実験として――ゼノビア陛下は、邪魔で仕方がなかった彼女を、贄にしたの」

 

 

 

 

――――To be continued.



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番外 ーIFルートー
Tune.29 ーIFー


 

【 A t t e n t i o n ! 】

 

・まさかの公式If。29話までのネタバレを含みます。

・『Tune.29 「さよなら」』のアルディス死亡ルート分岐版です。

・アルディスの好感度次第でこうなってしまいます。

・途中までは正規ルートと全く同じ展開です。

・言うまでもありませんが、死ネタです。

・濁してますが(恐らく)フェータリアン史上最悪のグロ描写あり。

・全力で誰も救われません。

・鬱。

 

 大丈夫な方は、スクロールをお願いいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「エリック君……」

 

 血塗れの親友を前に項垂れるエリックの肩を軽く叩き、ポプリはその横に並ぶように腰を下ろした。マルーシャも、それに続く。

 

「悪い、こんなことになって……」

 

 今となっては聞くまでもない。血の繋がりが無かろうと、ポプリは本気でアルディスのことを思っていた。そしてそれは、自分同様にアルディスを本気で信じていたと思われるマルーシャにも当てはまる話だろう。それを考えると、どうしようもなく今の状況から逃げ出したくなってしまった。

 

 エリックがそれ以上言葉を紡げずにいると、また新たに、背後から誰かがやって来た。足音は二つ。そのうちの一つはフラフラと覚束無い足取りで、もう一つは、人間のものではなかった。振り返ったポプリは、その足音の持ち主達を見て、弱々しく言葉を紡ぐ。

 

「先生、ディアナ君。それに、チャッピー……」

 

「……」

 

 その声には答えず、新たにエリックの傍にしゃがみこんだのはジャンクだった。意識こそ戻ったようだが、傷が痛むらしい。今の彼は、呼吸さえも苦しげだった。

 

「ジャン、背中……大丈夫? 今、治すから……」

 

「僕は大丈夫だ。多少は自力で何とかしたし、ディアナも手伝ってくれたからな……それより、お前らの傷を治した方が良い。酷いですよ、その状態は」

 

「……」

 

 ジャンクの言う通り、アルディスとの戦闘で負った傷はかなりのものだった。今は皆、痩せ我慢をしているような状況だ。早く、どこか休める場所を確保すべきだとは思う。しかし、こうなった原因でもあるアルディスの問題を放置するわけにはいかないだろう。

 

「アルディス……どうして……」

 

 唯一、ディアナだけは無傷だったのだが、彼女は翼を失っている。ろくに身動きが取れない彼女は今、チャッピーの背に乗っているらしかった。

 

「ッ、これは酷いな……」

 

 ジャンクはアルディスの容態を確認し、微かに語尾を震わせた。よく見ると、彼の手には砕けたアルディスのペンダントが握られている。

 

「それ……」

 

「気になるなら、これはお前が持っておけ。それから……」

 

 ペンダントをエリックに手渡し、ジャンクは少しの間黙り込んでしまった。だが、この状況で黙り込んでいても仕方がない。そう思ったのだろう。彼は、どこか言い辛そうに、躊躇いがちに言葉を紡ぎ始めた。

 

「エリック……僕は先程まで完全に意識を手放していました。それにも関わらず、このようなことは言いたくない。いや……根本的にこんなことは、言いたくないんだが」

 

 聞き取るのに苦労するような声量で、彼にしては珍しい、かなり遠まわしな話し方。その声が醸し出す嫌な雰囲気に、エリックは漸く顔を上げ、ジャンクの姿を視界に捉えた。

 

 

「お前は、アルディスを……ノア皇子を、どうするつもりだ?」

 

 

「……!」

 

 傷のせいなのか、自身の発言のせいなのか。ジャンクの顔色はあまりにも悪い。そんな彼の顔を見て、その言葉を聞いて、エリックは言葉を失った。

 

「ジャン! 何言ってるの……!? 何で、そんなこと、エリックに聞くの……!?」

 

 今にも泣き出してしまいそうな声で、マルーシャは弱々しく叫ぶ。ジャンクは一瞬だけ彼女の姿を横目で見た後、エリックへと視線を戻した。

 

「あなただって、本当は分かっているんだろう?」

 

 そして結局、マルーシャの問いに答えたのはジャンクではなく、ディアナだった。

 

「……」

 

 ディアナを背に乗せたまま、チャッピーは静かに成り行きを見守っている。嫌な沈黙が続く。ディアナはため息を付き、青い瞳を伏せつつ話し出した。

 

「あなたの性格なら、この状況で真っ先にアルの傷を癒しているに違いない。それなのに、それをしないのは。彼が再び刃を向けてくることを、恐れているからだろう?」

 

「!? それは……ッ」

 

 ディアナの指摘は、最もだった。早く、傷を治さなければ手遅れになるかもしれない。それは、分かっていた――だが、どうしても親友であった筈の少年が豹変した姿が、脳裏を過ぎる。

 何の言葉も返せずに俯いたマルーシャはスカートの裾を掴み、両手をガタガタと震わせた。

 

「エリック、あなたもだ……あなたの立場を考えれば、彼を今どうするべきか、分かっているだろう?」

 

「――ッ!?」

 

 ディアナから目をそらしたエリックの瞳に、アルディスの首が映る。白銀の髪の間から覗くそれは、アルディスの呼吸に合わせて今も微かに動いており、簡単に斬り落とせそうな程に、細かった。

 

 つまりは、そういうことだ――本気で“それ”をやれというのかと顔を上げたエリックの目の前で、ディアナは悔しそうに顔を歪め、身体を震わせていた。

 

「オレは、それを命懸けで止めなければならない。それなのに、このザマだ……」

 

「あ……」

 

 彼女の背に、翼があったならば。戦いが始まる時点で、彼女が意識を保っていたならば。先程の戦いでの敵は、間違いなくアルディスだけでは済まなかっただろう。主人を護らない従者がいる筈がない。ディアナは、全力で自分達に斬りかかってきたに違いない。

 

「……僕も、ディアナと似たような状況ですよ」

 

 下がり気味になっていた眼鏡のブリッジに触れ、ジャンクはポツリとそう呟いた。痛々しい程に赤く染まった白衣の下は、一体どうなっているのだろうか。想像も付かない。

 

「ジャン……」

 

 そんな彼の姿を見て、そういえば、とエリックは思う。戦いの前に意識を失ったのは、ディアナだけではない。仮にあの時点で彼が意識を失わなかったとしたら、彼は自分の味方になってくれていただろうかと。

 

 

『それでも、アルに会おうと思うのならば……もう、僕は止めない。ただし僕も、自分が考えるように動きたいと思います。良いですね?』

 

 

――恐らく、それは無かっただろうとエリックは考える。

 

 

 彼は、端から自分とアルディスが戦うことを見越していて、それでいて忠告してくれたのだ。アルディスに会い、そのまま戦いになった場合でも、僕はお前の味方にはなりませんよ、と。

 しかし、アルディスが最初に二人を気絶させたことによって、そのような最悪の事態にならずに済んだのだ。

 

(待て! アルはわざわざ、自分の味方を減らす行動起こしたってことか……!?)

 

 ここでエリックは、ある矛盾点に気が付いた――勝利に固着する人間が、自分に貢献してくれたであろう者を拒むような、そのような行為をするだろうか、と。

 

 アルディスの場合、少なくともディアナは確実に味方だと分かっていただろう。それなのに、そのディアナにまで彼は手を下した。これは、明らかにおかしな行為だ。

 

(アル一人の力で、僕に勝ちたかっただけなのか……それとも……ッ!?)

 

 結論を出せずに考え込むエリックの首に、ひやりと冷たい物が当たる。それが何なのかと思考を巡らせるよりも先に、右手首を強引に捻られた。

 

 

「全員動くな! ……動けば、この男の首を、短剣が貫く……!」

 

 

 エリックが手首の痛みを感じるのと同時に響いたのは、酷く息を切らしたアルディスの声。彼の突然の行動とその光景に、仲間達は皆驚き、音にならない声を上げる。

 

(な……っ!?)

 

 エリックは自分に突き付けられた物の正体を知るべく、おもむろに目線を下げた。血に汚れたアルディスの左腕が握りしめていたのは、エリック自身が愛用する短剣。

 アルディスが倒れた後、精神的なショックから地面に投げ捨てたままになっていたそれは今、自分の首を貫かんとばかりに切っ先を皮膚に食い込ませていた。

 

「あ、アル……ッ!」

 

 完全に後ろを取られてしまった。いつの間にか両手は後ろで上手く押さえ込まれ、自由が効かない。それ以前に少しでも暴れれば、本当に首に短剣が刺さってしまいそうだった。

 

「こちらへ……来てください」

 

「ッ……!」

 

 荒い呼吸を繰り返すアルディスの表情さえも確認できないまま、立ち上がることを強制される。どうにかして逃げ出そうとも考えたのだが、体格の差があるにも関わらず、アルディスは一瞬の隙も見せなかった。

 

「アル……! お前……っ」

 

「……。無駄な、抵抗は止めた方が良いかと……まだ、私にはここにいる全員を巻き込み、大爆発を起こすくらい、の……力は、残っています、から……」

 

「――ッ!?」

 

 そんな言葉を掛けられ、抵抗しようというエリックの意欲は完全に削ぎ落とされてしまった。虚勢だろうと思いたかったが、彼の実力を考えれば真実である可能性が高い。肉体的にも精神的にも自由を奪われたまま、エリックは少しずつ、城の方へと誘導されていく。

 

「アルディス、何する気!? エリックを離して!!」

 

 マルーシャが声を震わせて叫ぶが、彼女はその場から一歩も動けなかった。彼女に限らず、他の仲間達もそれは同様で。

 誰もが、この状況を打開しようと思考を巡らせているのは確かだ。しかし、確実に失敗のない方法など、簡単には見つからない。

 失敗すれば、エリックの命は確実に無い。仲間の命がかかってくる以上、慎重になってしまうのが当然の心理だろう。

 

「皆さん、利口ですね……っ、私も、目的を成し遂げやすくて、助かります」

 

 本来なら、もはや動くことさえも辛いのだろう。アルディスの呼吸は、どんどん荒くなっていく。それでも彼が切っ先を動かすことはなく、腕を拘束する力を緩めることも無かった。

 

 

(くそ……っ!)

 

 気がつけば、城の傍にある崖先まで誘導されていた。一旦崖から落ち、そのまま飛んで逃げるつもりなのだろうか、とも考えたが恐らく違う。彼は失翼症だ。そう演じていたなどという器用な芸を見せてくれたのならば話は別だが、流石にそれはないだろう――となると、残された目的は限られてくる。

 

「……ッ」

 

 エリックは横目で崖下を確認した。岸壁から所々飛び出した鋭い岩と、そこに勢いよく打ち付ける荒波。落ちる場所によっては、即死は免れないだろう。本当に、どうしてこんな場所に城を建てたのかとフェルリオ皇帝家に問いたくなる。

 

(……いや、多分、そういう目的で……かつての皇帝は、ここに城を建てたんだ)

 

 

――恐らく、フェルリオ皇帝家は万が一に備え、『自ら命を投げ出すのために』この地に城を建てた。

 

 

 狂っている、と思った。

 

 そして自分は今、そんな狂った事情に巻き込まれようとしている。

 

「アルディス! あなたは一体何を考えているんだ!? 馬鹿なことはよせ!!」

 

「……」

 

 必死に叫ぶディアナの呼びかけに、アルディスは、何も答えない。呼吸こそ荒いが、そこに強い意志が秘められているのは分かる。

 崖に近くなるにつれて、アルディスの身体が微かに震えていることにエリックは気付いていた。水に強い恐怖心を持つ彼が、このような場所で平然としていられる筈がないのだ。それでも逃げ出そうとしないのは、彼の揺るぎない決意の表れに他ならない。

 

「ッ!?」

 

 そんなことを考えていたエリックの目の前で、今まで冷静さを保っていたジャンクが取り乱した。

 

「アルディス! やめなさい! 早まるんじゃない!!」

 

 彼の『早まるな』という言葉に、皆一斉に息を呑む。ジャンクの能力を考えれば、当然のことだ。

 

「え……っ!? ま、まさか……っ! ノア、待って!! お願い!!」

 

 その場から動くこともできず、地面に座り込んだままポプリは叫んだ。エリックがアルディスに拘束されていなければ、アルディスの立っている場所が崖先でなければ。自由の効かない状況に、彼女らは全員、どうしようもない程の無力感を感じていた。

 

 

「……」

 

 そしてエリック自身も、この状況を打破するのに仲間に助けを求める気は無かった。

 それが仲間達を追い詰める行為だということが分からぬ程に、馬鹿ではないつもりだったからだ。

 

「お前……この状況見て、なんとも思わないのか?」

 

 だからこそ、自分が賭けに出るしかない。自分が何とかするしかない――そう思った。腕を拘束されたまま、短剣を突き付けられたまま、エリックはアルディスを諭すべく、なるべく冷静に言葉を紡ぎ始めた。

 

「……」

 

「皆、お前のことを、心配してるんだよ……仲間だって思って、いたから……」

 

 それは紛れもない事実だろう。何より、エリック自身もそう思っていた。第一、自分はフェルリオ帝国を潰しに来た訳ではない。和平の使者として、この地に来たのだ。

 

「それに……ラドクリフは、変わろうとしている。今と昔では、違うんだ」

 

「ッ! あなたは……だから全て水に流せと、そうおっしゃるのですか!?」

 

「ち、違う!!」

 

 短剣の切っ先が首をかすめ、ぷつりと表面の薄皮を割いた。脅しなのか、単純に余計な力が入ってしまっただけなのか、それは分からない。丁寧にしっかりと磨き上げられた短剣の刃なら、それくらいは容易だということだ。

 風に傷口が晒され、ピリピリとした微かな痛みは走る。その痛みに、エリックは僅かに眉を動かした。

 

「違う、分かってくれ。少なくとも、僕はそういうつもりじゃ……」

 

「……本当に、あなたは甘い人間ですね。だからこそ、ラドクリフの民はあなたを慕うのでしょうが」

 

「え……?」

 

 アルディスを怒らせた時点で、終わったと思った。だが、彼の反応は少し異なっていた。彼の口から紡がれたのは、皮肉混じりの言葉。一体どういう意味かと、エリックは眉をひそめる。

 

「ラドクリフが変わろうとしていること……戦を好むのは、一部の人間だけであること。それは……分かっていますよ、私は、あなたの国に十年もいたのですから……」

 

「……」

 

「あなたが王になれば、きっとあの国は変わるのでしょう……」

 

 腕の拘束が解かれ、首に向けられていた短剣が下ろされる。何とかこちらの思いが通じたのかと、エリックは胸をなでおろした――だが、

 

 

「……。ただ、貴国の禊は済んでいない。これくらいの報いは、受けてもらおうか」

 

 

 アルディスの低い声が、耳元で響く。それと同時、腹部に激痛が走った。

 

「が、は……っ」

 

 おもむろに視線を下に移すと、スティレットの刃が腹から突き出ていた。場所が悪かったのか、一気に意識が朦朧としてくる。

 

「や……っ、いやぁあああああああぁあっ!!!」

 

 マルーシャの悲鳴がこだまする。短剣を引き抜かれたことで、辺りに血が飛び散る。全力で蹴り飛ばされ、崖から少しだけ離れた場所にエリックの身体が転がった。

 

「は……っ、くっ、う……っ」

 

 痛い。苦しい。血が、喉を通って逆流してくる。不快な鉄の味が、口の中に広がっていく。自分の血に塗れた短剣が、顔の真横に投げられた。

 

「エリック! エリック――ッ!!」

 

「……動くな」

 

 慌ててここまで走り寄ろうとしたマルーシャの足元に、投げナイフが突き刺さる。怯んだマルーシャを脅すかのように、アルディスは宝剣を手にエリックの傍まで近寄って来た。

 

 

「……君の首を落として、民に見せたら、喜ばれるんだろうけど、な……」

 

 宝剣の刃が、首筋にあてがわれる。今のエリックは、完全に身動きの取れない状態だ。アルディスがこのまま、バッサリと彼の首を斬り落とすのは赤子の手を捻るより簡単なことだろう。

 

「やめてっ! ノア……お願いっ!! お願いだから……っ」

 

 顔面を蒼白にしたポプリが、涙ながらにアルディスに懇願する。先程より、明らかに悪くなった状況に絶望を隠せない様子で、彼女は髪を振り乱して泣き叫んだ。

 

 

「……もう、どれだけ人を殺したのかすら覚えてない。俺は、そんな奴なのに、な」

 

 しかし、アルディスの様子がおかしい。エリックの返り血を浴びたアルディスは、虚ろな瞳で地面に倒れたエリックの姿を見下ろしている――宝剣を握る左手は、酷く震えていた。

 

「何故か……ここまでやっておいて、本当に、何故だろうね。君の首を落すっていう単純な作業が、俺にはできない……」

 

 宝剣が、再びレーツェルに戻る。エリックから離れつつ、アルディスは右足のホルスターに手を伸ばし、拳銃を取り出した。

 

「――ッ、エリック!」

 

「!? マルーシャちゃん!!」

 

 撃たれても、構わないとでも思ったのだろうか。マルーシャはアルディスが離れた隙に、エリックの元へと駆け出した。

 

「……」

 

 アルディスが、それを咎めることは無かった。ただ、彼はマルーシャとエリックの姿を感情のこもっていない翡翠の瞳で見つめ、涙を零した。

 

「……なんで、俺……泣いてるんだろう……」

 

 彼は、それを指で救い、不思議そうに眺めている。そのまま一歩、また一歩と後ろに下がっていき、気が付けば再び、彼は崖先に立っていた。

 

 エリックの周りに、仲間達が集まっている。スティレットが貫通したのだ。あまりの傷の酷さに、冷静さを欠いている者もいる。その様子を遠目に眺め、アルディスは銃口を己に向けた。

 

「流石、真に王に相応しい存在は違うね。俺なんかとは、全然……」

 

 銃口を咥え、翡翠の瞳を閉ざす。ボロボロと、瞳からは止まることを知らないと言わんばかりに涙が流れていく。

 

「あ……っ!」

 

 それに気付いたディアナは即座にチャッピーに指示を促し、アルディスの元へと急いだ。

 

「アル、やめろ……っ!! やめてくださいっ!!」

 

 何とか静止しようと、ディアナが震える声で叫ぶ。だがバランスを崩したのか、途中で彼女の身体は宙に投げ出され、地面に転がった。

 

「……」

 

 目を閉じているアルディスには、その姿は見えていない。ただ、銃口を咥えたまま、彼は後ろに足を踏み出し――そして、銃声が響き渡った。

 

 

(ア、ル……)

 

 仲間達の叫びが聴こえる。一体、何が起こったというのだろうか――。

 

 エリックは何とか身体を動かそうともがいたが、無駄だった。自由が効かない。為す術もなく、エリックの意識はそこでブツリと途切れた。

 

 

 

 

「ッ、う……」

 

 薄目を開けて、辺りを確認する。視界に入ってきた世界は、先程まで自分がいた場所と同じ、スウェーラルのフェルリオ城跡。

 

 

(何が、あったんだっけ……?)

 

 頭が上手く働かない。とりあえず寝ているわけにもいかないだろうと、エリックは気だるさの残る身体をゆっくりと起こした。

 

「! エリック! 目が覚めたんだね……!?」

 

 傍に駆け寄ってきたマルーシャの声は、何故か枯れてしまっていた。泣き腫らした黄緑色の瞳が、エリックの顔を映す。

 

「良かったぁ……」

 

「マ、ルーシャ……?」

 

 自分の姿を映す彼女の瞳から、ボロボロと涙が零れ落ちた。

 

「エリックにまで……っ、何かあったら、わたし……っ、どうしよう、って……!」

 

 嗚咽を上げ、マルーシャは目覚めたばかりのエリックの前で泣き崩れる。元々、マルーシャは良く泣く方であったが、ここまで酷く泣く彼女を見たのは初めてかもしれない。

 

「あ……」

 

 

――漸く、エリックは『ここで何があったのか』を思い出した。

 

 

 慌てて辺りを見渡したエリックの瞳に、ある光景が映る。

 

「え……?」

 

 座り込み、肩を震わせるディアナの前に横たわっているのは、上半身を隠すようにジャンクの白衣が掛けられた、アルディスの身体。

 

「ごめん……マルーシャ、ちょっと、行ってくる……」

 

 泣きじゃくるマルーシャには悪いが、エリックは即座に立ち上がり、フラフラとそこまで歩いて行った。足が重い。何故かは分からないが、「そこへ行ってはいけない」と第六感が警鐘を鳴らしている。それでも、エリックは足を止めなかった。

 

 

「ひ……っ、ぐすっ、うっ……うう……っ」

 

 近付くと、ディアナが嗚咽を上げて泣いているのが良く分かった。それにも関わらず、アルディスの身体はピクリとも動かない。彼女を気にかけ、可愛がっていた彼が一切の反応を示さないとは、到底思えない状況だというのに。

 

「ディア、ナ……?」

 

「!?」

 

 思わずエリックがディアナの名を呼ぶと、ディアナは大袈裟な程に肩を大きく跳ねさせ、警戒心を剥き出しにエリックを睨み付けてきた。

 

「あなた……ッ!」

 

 余程酷く泣いたのだろう。ディアナの目はマルーシャに負けじと腫れ上がり、赤くなってしまっていた。そんな目で睨みつけられたエリックは、無意識のうちに後ずさりしていた。

 

「あなたの、せいだ……! 全部、あなたが、悪いんだ……ッ!!」

 

 憎しみのこもった、ディアナの瞳。震える両手で体重を支え、動かない足を引きずりながらディアナが近付いて来る。

 

「ディ、アナ……?」

 

「あなたが、あんなことを彼に言ったから……! だから……!!」

 

 意味が分からない、とエリックは首を横に振るう。アルディスの身体は相変わらず、微動だにしない。

 

(いや……動かない、とか……そんな、問題じゃ……ないんじゃ……)

 

 身体が、ぶるりと震えた。足さえ動けば掴み掛って来そうなディアナの横を通り、エリックはアルディスの目の前へと移動した。

 

「……」

 

 胸の鼓動が、一気に早くなる。それでも、エリックは一息に、アルディスの身体を覆う白衣を剥ぎ取った。

 

「――ッ!」

 

 

 顕になったのは――後頭部から大量の血を流し、腹部に大きな穴を開けたアルディスの、海水に濡れた亡骸だった。

 

 

「嘘、だ、ろ……?」

 

 自分の顔から、血の気が引いていくのが分かる。身体が、どうしようもない程に震える。何故だか、目をそらしたくなる程に痛々しい姿と化した親友から、エリックは目をそらせずにいた。

 

「良かった、じゃ、ないか……」

 

 ズルズルと、身体を引きずりながらディアナが近付いて来る。動けずにいたエリックの左足を掴み、彼女は大粒の涙をこぼしながら叫んだ。

 

 

「これが、あなたが望んだ通りの結果だ! あなたが望んだ未来だろう!?」

 

 

『はは、確かに、まだ……生きてそうだよな』

 

 

――そうだ……あの時、自分はアルディスに何と言った?

 

 

「う……、あ、ぁ……」

 

 今更、エリックは過ちに気付いてしまった。取り返しの付かない、ことをしてしまった。

 

「あなたの望みが、現実になったんだ! もっと……もっと、喜べば良いだろう!? 何故、あなたはそんな顔をしている!? どうして……どうして……っ!?」

 

 違う――違うんだと、言いたかった。けれど、今のディアナに何を言っても言い訳にしかならないだろう。固く閉ざされたアルディスの瞳は、もう二度と、開かないのだから――。

 

「っ、く……うっ、あぁ……ぁああっ!!」

 

 ディアナの罵りに、エリックには返す言葉がなかった。何も、言えなかったのだ。そのままエリックが何も答えずにいると、ディアナはなりふり構わず泣き崩れてしまった。

 

「……」

 

 慰めの言葉さえも、今のエリックには浮かばない。そっと、エリックは震える指を、親友の顔へと伸ばした。

 

「……ぁ……」

 

 ひやりとした冷たいものを指先に感じ、視界が霞む。まるで、人形のように固く、冷たくなってしまった肌が、そこにあった。

 

「アル……っ、アル……!」

 

 どんなに名前を呼んだとしても、今の彼は何も答えない。答えて、くれないのだ。

 

 

『だから正直……“死んでいれば良いのに”って、そう願わずにはいられないよ……』

 

 

――確かにあの時、自分はノア皇子の死を強く望んでしまった。それは、事実だ。

 

 

 だが、それはこういう意味ではなかった……結局はそれも言い訳なのだ。親友であるアルディスと、ノア皇子は同一人物だった。つまり自分は、親友に向かって「死ね」と言ってしまったも同然なのだ。

 

 そして、その言葉の通り、親友は……アルディスは――。

 

 

「うああああああぁああぁあぁ――ッ!!!」

 

 

 嗚呼、どうして。どうして。

 

 自分は、こんな結末を、望んだわけでは、なかったのに――……。

 

 

 誰か、夢だと言って欲しい。

 

 これは、悪い夢なんだと……笑いかけて、欲しかった。

 

 

 

Tune.29 ーIFー

  覚めることなき永久の悪夢

 



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Tune.38 ーIFー

【 A t t e n t i o n ! 】

 

・当たり前のように現れる公式If。

38話の分岐ですが、44話までのネタバレを含みます。

・『Tune.38 「生命」』のジャンク死亡ルート分岐版です。

・ジャンクの好感度次第でこうなってしまいます。

・途中までは正規ルートと全く同じ展開です。

・言うまでもありませんが、死ネタです。

・ちょっと恋愛色が強めです。

・やっぱり全力で誰も救われません。

・鬱。

 

 大丈夫な方は、スクロールをお願いいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「くそっ! 一体何が……!!」

 

 モヤモヤとした意識の中、マルーシャの耳に聞き慣れた声が届いた。それに安心して目を開くと、懸命に自身の体を潰す瓦礫を退かそうとしてくれているエリックと、周囲を警戒しているアルディス達の姿が確認できた。

 

「……ッ、みんな……」

 

「マルーシャ! 良かった……ディアナ、今歌えるか?」

 

「ああ、任せろ!」

 

 マルーシャもいくつか傷を負ってはいたが、そこまで重傷と言える傷はない。むしろ問題なのは、無数の深い傷を負って倒れているチャッピーの方だろう。

 

「清らかなる水の 恩恵を受け 育まれし万物は 艶やかに舞う――……」

 

 その場で両手を組んだディアナの口から、美しい旋律が紡がれる。エリックに瓦礫を避けてもらい、マルーシャは若干顔を歪ませながらも身体を起こした。

 

「チャッピー……」

 

「大丈夫、傷は酷いけどまだ間に合うよ。それよりマルーシャ、何があったの?」

 

 未だ目を閉ざしたチャッピーの頭を撫でながら、アルディスはマルーシャへと視線を向ける。聖歌(イグナティア)を紡ぎ終えたディアナは、レーツェルの無い胸元を軽く押さえていた。

 

「主犯はともかく、何があったのかは大体想像が付くがな。オレ達が本調子では無いのを良いことに、突然襲撃をしかけたのだろうか……再襲撃に備えて、いつもとは少し違う奴を歌っておいたぞ」

 

 ディアナの言う通り、全員程度の差はあれども、スウェーラルでの一件で崩した体調が戻りきっていない。つい最近まで意識不明になっていたアルディスに至っては、まだ戦闘ができるかどうかという所から怪しい状態である。

 それでも、ディアナが歌った『ホーリーソング』の効果で皆、身体が少し軽くなったように感じていた。どうやら先程の旋律は傷の回復だけではなく、身体強化の力も持っているらしい。

 

「! そうだ……っ、大事なこと、言わなきゃいけなかったのに……!」

 

 身体の痛みに耐えながらもマルーシャは慌てて立ち上がり、辺りを見回す。今にも、どこかに駆け出して行きそうな勢いだった。

 

「マルーシャちゃん、どうしたの!?」

 

「ジャンが危ないの! ヴァルガがジャンを狙って襲って来て……それで……ッ」

 

「なんですって!?」

 

 マルーシャの言葉に驚いたポプリの声が響く。確かに、ジャンクの姿はどこにも見えない。

 

「と、とにかく手分けして……」

 

「待ってください! 今、俺達がバラバラになるのは危険です!!」

 

「だけど……!」

 

 動転したポプリの腕を掴み、アルディスは首を横に振るう。彼はあくまでも冷静にあろうと深呼吸を繰り返した後、マルーシャの横に浮遊するシルフへと向き直った。

 

 

「シルフ。下位精霊と会話することは可能かい? 精霊術師(フェアトラーカー)なんてあっちこっちにいるわけじゃないし、下位精霊でも方向くらいなら分かったりするんじゃないかな」

 

『そうか! よし、任せてくれ』

 

 それは、魔力を探知する能力に秀でた純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)であり、ジャンクの力を知るアルディスだからこそ出せた意見。シルフは周囲の下位精霊を集め、ジャンクの行方を訪ねていた。

 

「どう?」

 

『大丈夫だ、ちゃんと分かったぞ。どうやら、カルチェ山脈に向かったらしい……うーん、よりによって……』

 

 カルチェ山脈はディミヌエンドから東北の方角に位置する険しい場所。その先の村やゼラニウム草原に用がある場合を除けば、わざわざ、好き好んで行くような者はまずいない。ろくな準備もせずにカルチェ山脈を越えることは、まず不可能だ。

 

「そうだね……でも、俺は行くよ。相手がヴァルガである以上、迷ってる暇なんてない……さっさと見つけてさっさと帰ってくれば大丈夫だよ、きっと」

 

『そう簡単な話じゃないとはいえ、背に腹は代えられねぇしな……他の奴らはどうすんだ? アルディス皇子に任せて待機しとくか?』

 

 シルフの言葉に、「まさか」と否定の声が上がる。危険が生じようとどうだろうと、仲間の危機を見て見ぬフリはできないということだ。

 

「そんなこと、できないよ! わたしも行く!!」

 

「そうだな。ただ、確かに気持ちは分かるが……マルーシャ、一回落ち着け」

 

 今にも駆け出して行きそうなマルーシャの肩を叩き、エリックはおもむろにチャッピーを指差す。意識こそ戻ったようだが、チャッピーの傷はほとんど塞がっていなかった。

 

「僕らはもう仕方ない。だが、チャッピーだけでも、万全な状態に近付けよう。この状況は、どう考えてもアイツの能力に頼るべき場面だ」

 

 良いよな、とエリックは念のためアルディスに意見を求める。アルディスは若干驚いた様子ではあったが、彼はすぐに首を縦に降ってみせた。同じくエリックの意見に賛成したマルーシャはチャッピーの元へと走り、治癒術の詠唱を始める。

 

 

「そうか……確かに今は、瞬光疾風(カールヒェン・ヨシュカ)の力に頼るべきだよね。全然頭が回らなかったよ」

 

「だろ? ところでアル、これを聞いて意見を変えるつもりはないが一応、聞かせてくれ。カルチェ山脈はどんな場所なんだ?」

 

 驚きのあまり瞬きを繰り返すアルディスの隣に並び、エリックは少しでも情報を得ようと彼に基本的な質問を投げかけた。チャッピーの傷が治るまでの間、黙って立っている気は無かった。

 

 

「俺は小さい頃に何度か行ったことがあるんだけど……カルチェ山脈は過酷な環境下でも適応できるような魔物ばかりが生息する、本当に危険な場所だよ。悪いんだけれど、エリックは俺と一緒に前に出て欲しい。俺達が何とか前線で戦わないと……」

 

「その辺りは問題ない、任せろ。だが、お前こそ絶対に無理はするなよ」

 

「分かってる。ありがとう」

 

 アルディスが言うように、現状、前に出て戦うことができるのはエリックとアルディスしかいない。前衛後衛をバランス良くこなせるディアナは武器を失い、ジャンクに至っては不在だ。彼らのサポートは期待できない。いつもとは状況が異なる以上、事前に話し合っておくのは大切なことだ。

 

 

「……ッ」

 

 チャッピーの治療を終え、マルーシャはエリックとアルディス――否、アルディスの姿を見て、不安げに胸を抑える。だが、今はこんなことをしている場合ではないと彼女は頭を振り、口を開いた。

 

「もう、大丈夫だと思う……行こう、みんな」

 

 

 

 

「ッ、結構道が険しくなってきたね……そろそろ、能力の節約した方が良いかも。散々無理させただけに、イチハさん自体本調子じゃなさそうだし」

 

『こんな時に悪いね……申し訳ない』

 

「いや、それより……何で、マルーシャには話しかけときながら、俺には話しかけなかったのですか……?」

 

 シルフと下位精霊達に道案内を頼みながら、エリック達はもはや道とは言い難いような、岩だらけの急な坂道を駆けていく。その最中に、彼らはマルーシャから事の一部始終を聞いていた。

 

 その際に判明したのは、チャッピー――イチハの声は、アルディスにも届くという事実だった。

 

『まさか、聞こえるなんて思ってなかったんだ……一方通行の会話って、結構辛いんだよ。第一、下位精霊のサポートがないラドクリフじゃ理性を保つだけでも難しいんだ。精神乗っ取られて、気が付けば全然知らない場所にいたことも多かったしね……一回、これのせいでクリフを見殺しにしかけたこともある……』

 

 イチハ曰く、自分の声はジャンクを除いた誰にも届かないのだから、労力を使って話しかけるだけ無駄だと考えていたらしい。マルーシャに話しかけたのも、上位術の発動をやり遂げ、疲れ果てた彼女を見て思わず声をかけてしまっただけに過ぎないのだと。

 彼は、少し話をしただけで分かる程に精神を疲弊させてしまっている。それを感じ取ったアルディスは静かに奥歯を噛み締めていた。

 

「イチハと会話が出来るのは精霊の使徒である先生と、精霊契約者のノアとマルーシャちゃん……要するに、精霊に関わる存在ならイチハの声も届くってわけね。当然、あたしやエリック君、ディアナ君とは会話出来ないわけだけど……」

 

 イチハの声こそ聴こえないが、ポプリは何とか状況を理解しようとこんがらがった頭の中を整理している。今まで鳥だと思っていた相手が実は人間だったのだ。現実問題、冷静に物事を考える方が難しいだけに、彼女もなかなか苦戦している様子である。

 

『今まで、黙ってたことは謝る。でもね、今は俺なんかほっといてクリフのことを考えてやって欲しい。相手がヴァロンである以上、俺は少々無理しようが能力をこのまま発動させる……せっかく、あそこまで立ち直ったんだ。何が何でも、クリフを助けてやって欲しい……頼むよ』

 

 自分のことはどうでも良いと言わんばかりに、イチハは瞬光疾風の能力を弱めることなく発動させ続けている。彼の力を感じながら、アルディスは頭を振るう。

 

「申し出はありがたいのですが……いえ、そうですね。あなたの限界を超えない程度で甘えさせて頂きます。そうでもしなければ、確かに色んな意味合いで間に合わない気がしますから」

 

 イチハの話に耳を傾けつつ、アルディスはシルフと目を合わせた。彼は特に何も言わなかったが、表情を見る限り着実に、ジャンク達との距離が近付いているらしい。

 

 

地点遷翔(ヴァーチェル・ハロ)の能力者であり、有能な戦士で研究者でもあったヴァロン=ノースブルックの話は俺も知ってるんだ。だからこそ、少しでも早く追いつかないと絶対にまずい……間違いなく、彼はもう、ジャンさんに追い付いているだろうから」

 

 地点遷翔(ヴァーチェル・ハロ)は、一度でも行った事のある場所に瞬間移動することのできる能力。それ程珍しい能力ではないが、透視干渉以上に使用者が限られる扱いが難しい能力だ。

 アルディス曰く、シックザール大戦にも参戦していたというヴァロンは彼が直接対峙した相手ではないものの、その能力ゆえにフェルリオ側に大きな損害をもたらすきっかけとなった人物の一人なのだという。

 まだまだ知らない部分も多いが、あまりにも特殊なジャンクの能力、及び想定される彼の過去を考えれば、絶対に会わせてはならなかったのにとアルディスは両手の拳に力を込めた。

 

『正直、俺だってできることなら会いたくなかった。惨たらしく殺してやりたい程に憎いのもあるけど、何よりやっぱり怖くてね……魔法石を額に埋め込まれた時、あまりの激痛に俺は死んだなって思った。まあ、死ぬことはなくて、気が付けばこんな姿になってた訳だけれど』

 

「……ッ」

 

 一体、イチハはどのような姿をした男だったのだろうか。ちゃんと人としての心をもっているというのに、誰がどう見ても鳥でしかないその姿が、実験の残酷さを物語っている。

 思わず黙り込んでしまったアルディスをチラリと横目で見て、ディアナは翼を大きく動かした。

 

「オレには、あなたが何を伝えたいのかは分からない。それでも、これだけは言わせて欲しい」

 

 チャッピーと共に過ごした時間が多いだけに、彼女にも思うところがあったのだろう。ディアナは悲しげに目を細め、奥歯を強く噛み締めた。

 

「あなたにも……ジャンにも、オレは本当に救われた。恩を仇で返すような真似はしたくない……何が何でも、彼を助け出したいと思っている」

 

 その言葉を聞き、“イチハ”は大きな青紫の瞳を細めてみせる。

 

『……ありがとう、ディアナ』

 

 消え入りそうな、どこか儚い雰囲気を纏ったイチハの声。その声は決して、ディアナ本人には届かなかった。

 

 

 

 

「……やっと、追い付けたみたいだね……!」

 

 かなりの時間を掛け、辿り着いたのはカルチェ山脈の頂上付近。ここまで来る間、チャッピーの能力を借りた状態だろうとお構いなしに襲ってくる魔物も多かったため、必然的に戦闘が発生してしまった。

 アルディスの言うように、平地に住む魔物とここに住む魔物とでは身体能力そのものに大きな差があるようだ。

 

「ッ、くそ……っ、遅れてすまない……ジャン、大丈夫か!?」

 

 魔物達の妨害により、エリック達は大幅に時間を取られることとなった。思うように、ここまで来ることができなかったのだ。

 

「ふむ……追って来られるくらいの、それなり力は持っていたということか。どうやら、私は少々貴様らを甘く見ていたらしい」

 

 駆けつけたエリック達の視界に映ったのは、特に顔色を変えることなくこちらを見ているヴァロンと、酷く傷付けられ、地面にうつ伏せに転がっているジャンクの姿。

 彼の着ていた服は至る所が裂け、剣によるものであろう真新しい無数の斬り傷と、元々あったらしい痛々しい背中の古傷が露出している。いつも身に付けていた眼鏡は、どうやらどこかで落としてしまったようだ。

 自身の足元に転がる彼の存在を気にすることなく、ヴァロンは相変わらず笑みを浮かべたままこちらを見ている。何とかして彼をジャンクから引き離さなければ、とアルディスはレーツェルを宝剣に変化させ、ヴァロンを一瞥する。

 

「……ッ」

 

 ヴァロンは何も言わなかったが、人の気配を感じ取ったのだろう。何とか意識は保っていたらしいジャンクは震える両手で身体を起こし、エリック達の方を向いた。

 彼が反応を示すまでには、若干の時間差が生じた。恐らく、意識がはっきりしていなかったのだろう。だが、彼はエリック達の存在に気付くと同時、目を見開き声を震わせて叫んだ。

 

「ど、どうして……っ、駄目です。逃げて、ください……!」

 

「え!? 先生、何を言って……」

 

「逃げて、ください……お願いです。後生ですから……!」

 

 明らかに、彼は取り乱していた。開かれた金と銀の瞳が、悲しげに揺らぐ。彼の瞳を始めて見たエリックとポプリが何の反応を示せずにいたのは、彼の様子があまりにもおかしかったからだ。

 

「この人には、勝てません……勝とうなんて、思わないでください……! だから、今すぐに逃げてください……!!」

 

 彼が言うように、エリック達もヴァロンの強さはよく分かっているつもりだった。だが、それとこれとは話が違うとアルディスは左手に宝剣を構えたまま声を荒げる。

 

「ふざけないでください! 散々俺を助けてくれたあなたを見捨てるだなんて……そんな馬鹿げたことがありますか!!」

 

 アルディスだけでは無かった。皆、戦おうという意志を抱き、それぞれがヴァロンの動きに備えて武器を構えている。最初からこれくらいの覚悟はしていたのだから、当然といえば当然なのだが。しかし、ジャンクは力なく首を横に振るう。彼は今にも泣き出してしまいそうなのをこらえるように、両目を強く閉ざした。

 

「所詮、僕は人ではありません……そんなこと、気にしないでください。こうなって、当然の化物なのですから……だから……」

 

「ほう……?」

 

 今まで、何の動きも見せなかったヴァロンが、ここでついに動いた。手にしていた剣をレーツェルに戻し、彼は不気味な笑みを浮かべてみせる。

 

「人ではない、か……よく分かっているではないか。ただ、貴様は奴らを騙しに騙してきたのだろう? 自分は人だ、と」

 

 ジャンクが怯えきった目でヴァロンを見上げると同時、『メイルシュトローム』と術の名前が呟かれた。詠唱破棄による魔術発動だと気付くのには、そう時間はかからなかった。

 しかしながら、傷だらけの彼の身体では、真下に現れた魔法陣を中心に発生する竜巻状の水流から逃れる事は、決して叶わない。

 

「ジャン!!」

 

 それはあまりにも突然で、エリック達は助けに入ることも、危険を伝えることさえできなかった。結果、ジャンクは渦に飲み込まれる形で空に飛ばされ、そのまま勢いよく地面に叩きつけられてしまった。

 

「がは……っ、ぐっ、う……」

 

「!?」

 

 痛みに顔を歪ませるジャンクの髪から、水滴が落ちた。それだけではない。その髪の間から、エリック達にとっては予想もできなかった物が顕になっている。誰もが、ヴァロンが居るにも関わらず、ジャンクの姿を凝視してしまっていた。

 

「ッ!? ひ……っ!」

 

 エリック達の視線に気付いたのか、彼は慌てて両手でそれを隠すように押さえ込む。一体何に怯えているのか、その手は酷く震えていた。

 

 

――まさしく、その姿は異形だった。

 

 

 彼の耳は、短い空色の髪で隠しきれない程に長い魚のヒレのような物へと変わっている。淡い青紫色のグラデーションが特徴的なそれは、ウンディーネの耳と非常によく似ていた。

 

「……ッ、だ、騙す気は無かったんです……! 本当に、そんな、つもりは……っ、僕、は……!」

 

 怯えている。それも、尋常ではない程に。

 

「お、おい……!」

 

「すみ、ません……許して、ください……ッ、ごめん、なさい……」

 

 恐怖のあまり、こちらの話を全く聞いていない。

 余程、あの耳のせいで酷い目にあってきたのだろう――エリック達も危害を加えてくるのだと、そう思い込んでしまっている。

 あの耳は身体が濡れると出現してしまう類のものなのだろうが、自分達の前で彼が身体を濡らしたことはなかった筈だ。

 だからこそ誰も気付かなかったのだろう。マルーシャやディアナどころか、アルディスやポプリも驚いている。当然、エリックもこれには驚いた。

 

「なあ、お前……その姿は、一体……」

 

 困惑を隠せぬまま、エリックはジャンクへ接近する。しかし、エリックが近付けば近付く程に、彼は大げさなほどに身体を震わせ、首を横に振りながら後ろに下がってしまうのだ。

 

「……ジャン」

 

 声無き声が、「ごめんなさい」、「許してください」と謝罪の言葉ばかりを紡ぐ。言葉もそうだが、怯えの色が濃く出ている瞳を見れば、信用されていないのだということが痛い程に伝わってくる。

 そのような姿を見ているうちに、「今まで一緒に過ごしてきた時間は何だったのか」という苛立ちがエリックの頭の中を支配し始めた。

 行き場の無い苛立ちと悲しみ。それを、なるべく感情を抑えながら、エリックはジャンクに訴えかける。

 

「自分が普通じゃないって、そう思ってるなら相談してくれれば良かったのに……こういう事態への対処だって、できていた筈だ」

 

「……」

 

「ジャン?」

 

 あくまでも冷静なつもりだった。冷静に、ジャンクを注意しているつもりだった。もう少し信頼して話をしてくれていれば、少なくともこんな混乱は無かったろうし、ヴァロンを含む黒衣の龍に対し、強く警戒することもできただろう。

 ジャンクはエリックの言葉に目を丸くし、酷く震えた声で何かを紡いだ。しかしそれは、上手く聞き取れない程に弱々しい声だった。

 

 

「あ、あはは……はは、は……」

 

 

 ジャンクは場違いな、乾いた笑い声を上げた。それを見たヴァロンは、どこか楽しそうに口元に弧を描いている。

 

「おい、どうした……!?」

 

「異端に、居場所なんて無い……どこに行ったって、結局は邪魔にしかならないんです……分かってた。分かって、ましたよ……」

 

 エリックは自らの失態に気が付いた。先程のアレは、今のジャンクにかけるべき言葉では無かったのだ。

 恐らく「普通じゃないお前が普通の人間に迷惑をかけるな」という意味に取られてしまったのだろう。ジャンクは今にも泣き出してしまいそうな笑みを浮かべ、自身の胸に手を当てた。

 

「もう、嫌です……辛いんです。だから、もう……良いですよ、ね……」

 

「ジャン!!」

 

 

「――終わらせて、ください」

 

 

 ジャンクが放った激しい光によって、世界が瞬いた。「使えない奴だ」というヴァロンの声が、微かに聞こえた気がした――思わず閉ざしていた瞳を開けば、目の前には異様な光景が広がっていた。

 

 

「な……っ、……じゃ、ジャン……?」

 

 美しい海色のたてがみが、風になびく。長い睫毛に隠されていた瞳が、こちらを悲しげに見つめていた――幻想的な、生物がエリックの目の前に立っていた。

 淡い青の毛並みに紫のグラデーションが特徴的なヒレ状の大きな耳、銀色に輝く、長い角と両の瞳。犬と馬を足して二で割ったような姿。このような生物に、エリックは見覚えがあった。

 

「お前……スウェーラルで……そうか、お前……お前、が……」

 

 ケルピウス、と背後から酷く震えたポプリの声が聞こえた。

 

「先生……だった、の……?」

 

「……」

 

 “ジャンク”は、何も答えない。ただ、静かに頭を振るい、傷だらけの、血で汚れた足で血を強く蹴った。

 

「! エリック!」

 

「――ッ!?」

 

 ジャンクが、エリックに向かって突進してきたのだ。迫る角をかわすために咄嗟に身体を捻ったが、それでも服が僅かに裂けてしまった。あの角は、鋭い槍のようなものなのだと考えた方が良さそうだ。

 

「ジャン! どうして……っ! お願い、やめて!!」

 

「……」

 

 マルーシャの悲痛な叫び声にも、彼は答えない。悲しげな銀の瞳は、今もなおエリックの姿を捉えていた。

 そして彼は傷という傷から血を撒き散らしながら、再びエリックに突進してくる!

 

「くそ……っ! ジャン! 僕らは敵じゃない! 信じてくれ!!」

 

 今度は彼の攻撃を完全にかわすことができた。しかし、あの角が近くを横切るたびに、ひやりとしたものを背に感じる。まともに受けてしまえば、ひとたまりも無いだろうと。

 

 いつの間にか、ヴァロンの姿は無くなっていた。ジャンクが正気を無くしてしまったせいだろうか? 彼が何を考えているのかは分からないままだが、今はそれどころではない。

 とにかく、目の前のジャンクを何とかして止めなければ。エリックは剣を手にしたまま、必死に考え――そして、ある結論を導き出した。

 

(そうだ……“武器”を奪ってしまえば良いんだ。あの角を、折ってしまえば!)

 

 可哀想だとは思った。しかし、ジャンクを傷付けることなく、彼の動きを止めるにはそれしか方法は無いだろう。彼が戦意を失わなかったとしても、角のある無しの差はあまりにも大きい。角を折るだけならば、痛みを感じさせることもほとんど無いだろう。

 

「……ジャン」

 

 彼の標的は今のところエリックのみ。動けずにいる他の仲間達への被害が出る前に、ここで自分がやるしかない!

 

「お前がその気なら、受けて立つ! さあ、来い!」

 

 エリックの言葉に、ジャンクは全速力で彼に向かって駆け出した。タイミングを見て、剣を振り上げて彼の角をかわす。そして彼は勢いのままに、剣を全力で振り下ろした。

 

「エリック! 駄目だ!!」

 

「!?」

 

 アルディスの声が、エリックの耳に届いた。しかし、もう遅かった。

 

「ク……クォ、ン……」

 

 根元から叩き折られた角が、宙を舞う。漸く聞けたジャンクの声は、ガラス細工の飾りがそよ風に揺れて奏でる音のように、か細いものであった。

 

 

 

 

「先生……っ! 先生!!」

 

 ポプリが、泣いている。その姿を、エリックは奥歯を割れそうな程に強く噛み締めながら、眺めていた。

 

 角を折られたジャンクは、そのまま意識を失い、人の姿へと戻った。だが、耳はヒレと化したまま、そしてその身体は何故か羽のように軽く、透き通った状態だった。

 呼吸はあるが、あまりにもか細く弱々しいもので。早く目覚めて欲しいと、ポプリが泣きながら彼の身体を揺らしているのだ。

 そんな彼女の傍らで、マルーシャとディアナは必死に治癒術を唱え続けていた。

 

「駄目……駄目だよ! こんなの、駄目!!」

 

「死ぬな、頼むから……! 死なないでくれ! ジャン!!」

 

 悲しげな声が、荒野に響く。必死な三人の姿を見て、アルディスは首をゆるゆると横に振るいながら、静かに涙を流している。

 

「アル……」

 

「ごめん、エリック。忠告が、遅かった……」

 

 思わずエリックが声をかければ、アルディスは左目を固く閉ざし、肩を震わせる。一体何が言いたいのかと、はっきり言ってくれよという気持ちで、エリックは彼の肩を叩いた。

 アルディスは相変わらず泣いていたが、それでも、話さないわけにはいかないとおもったのだろう。彼は静かに左目を開き、重い口を開いた。

 

 

「獣化したヴァイスハイトは、身体を変形させる過程でどこか一部分に魔力を集中させるんだ……だから、そこが無くなってしまえば身体は致命的な程の魔力欠乏を起こしてしまう。そうなってしまえば、もう……助からないんだ」

 

「!」

 

 その言葉が意味すること。それを、エリックは察してしまった。

 そして、気を失っていたジャンクが目を覚ましたのは、まさにその瞬間であった。

 

 

「ポプ、リ……? 何故、泣いているのです、か……?」

 

 かすれ切ったジャンクの声。その声に問いかけられ、ポプリは彼の右手を両手で握りしめて何かを発そうとした。しかし、とめどなく流れる涙のせいで、それは言葉にならなかった。

 握り締められた、自身の右手。この状態でも、感覚はあるのだろう。透けた右手を眺め、ジャンクは今にも泣き出しそうな笑みを浮かべて口を開いた。

 

「消えて、しまうのですね。死体も、残さず……僕は、最期まで“人”にはなれないのですね」

 

「……!」

 

「ですが……これで、良かったんです。マルーシャ、ディアナ。力を使うのはもうやめなさい。僕はもう、助からないから」

 

 にへら、とジャンクは力なく笑う。マルーシャとディアナの瞳は、信じられないものを見たかのように大きく見開かれていた。

 

「あの状態での獣化は、あまりにも身体の負担が大きすぎる……こうなることは分かっていました……けれど、それだけでは嫌だったんです。だから、エリックに角を折ってもらったのです」

 

「な、何故ですか……!? 何故、そのような……」

 

「……ケルピウスの角には、治癒の力が凝縮されています……マルーシャとディアナに、僕の力を分けてから逝こうと、そう思ったのです……」

 

 笑みを浮かべたまま、ジャンクはそう言ってマルーシャとディアナを見つめる。そして再び、口を開いた。

 

「僕が死んだ後、二人で折れた角に触れてください。そうすれば……僕は、力を残して逝けますから」

 

 表情を見る限り、痛みは無いようだが、酷く弱々しい声でジャンクは言葉を紡ぐ。それを見て、マルーシャとディアナはポロポロと涙を零し始めた。

 

 

「……何故、泣くのですか?」

 

 

 皆が、泣いている。その理由が、彼には分からなかったようだ。

 

「先生……あなたこそ、どうしてあたし達が泣いてる理由が分からないの? どうして……っ、ねえ……っ」

 

 不思議そうに目を細めるジャンクの透き通った手を掴み、震える声で彼に訴えかけ始めたのはポプリだった。

 

「信じて、欲しかった……あたしは、あたし達は……! こんな結末、望んでなかった……っ!! 大好き、だったの……ずっと、一緒にいたかったのに……!!」

 

「え……」

 

 うっかり口を滑らせてしまったのだろう。ポプリは自身の顔をほのかに赤く染めてしまったが、頭を振るい、そのまま言葉の続きを紡ぎ始めた。

 

「あたしの言う『好き』は皆の『好き』とは違うものよ……いつの間にか、ね……そういう風に、想ってたの」

 

「……」

 

「好きな人が、想い人が死にそうなの。泣かないわけが、無いじゃない……っ!」

 

 ジャンクはアシンメトリーの瞳を見開き、信じられないものを見るかのように声にならない声を上げていた。その身体は、カタカタと小さく震えていた。

 

「ぼ……僕、は……」

 

 彼は、ずっと傍にあった“その感情”の正体を知らなかった。そして今、“その感情”を正しく認識することができた。自覚できたのだ。

 

 

 しかし――自覚するには、あまりにも遅すぎたのだ。

 

 

「ッ……き、嫌いです。君の、ことなんて……」

 

「先生……」

 

「――……、ただ……便利だったから。だから、傍に置いていた……それだけです。勘違い、しないで……くだ、さい……ッ」

 

 気が付けば、ジャンクの瞳からは涙が溢れ始めていた。

 泣き出しそうな表情を浮かべることはあれど、彼が泣くことはなかった。それなのに今、彼はこらえきれない嗚咽を交えながら、泣いていた。

 

「勝手に惚れられて、迷惑です……ああ、良かった。僕は、君の鬱陶しい愛から、逃れられるのですね……」

 

 ジャンクの身体は、もう下の地面が完全に透けて見える程に、透けてしまっていた。もうすぐ彼が死んでしまうのだということは、誰が見ても理解できる状況だった。

 ポプリはジャンクの涙混じりの言葉を聴き終えた後、そっと彼を抱き寄せ、懸命に涙をこらえながら笑ってみせた。

 

「先生」

 

 その体勢のまま、呼び慣れた愛称を呼ぶ。彼からの返事は、無い。

 

 

「……ありがとう」

 

 

 小さな声で、それでいて力強い言葉を発し、ポプリは手に力を込める。ただ、彼女が感じられたのは空気のような無抵抗感だった。そこにはもう、何も“なかった”。

 しかし、桜色の髪を撫でられたような気がした。優しい、暖かな手に、撫でられたような気がした――それは、ポプリが必死に耐えていた大粒の涙を流させるには十分すぎる、感覚だった。

 

 

「……」

 

 ポプリが泣き叫ぶ声が、悲しい声が、荒野に響いた。

 エリックはただ、それを呆然と見つめることしかできなかった。

 

 

――嗚呼、時間よ、巻き戻ってくれ。

 

 

『ッ……き、嫌いです。君の、ことなんて……』

 

“きっと僕は、君のことが好きだったのでしょう”

 

 

『――……、ただ……便利だったから。だから、傍に置いていた……それだけです。勘違い、しないで……くだ、さい……ッ』

 

“一緒に過ごせて、本当に楽しかった。かけがえのない、時間だった”

 

 

『勝手に惚れられて、迷惑です……ああ、良かった。僕は、君の鬱陶しい愛から、逃れられるのですね……』

 

“愛してもらえているなんて、思いませんでした。そんな感情を抱いてもらえるなんて、思いませんでした”

 

 

 あんなに下手な嘘があってたまるかとエリックは奥歯を噛み締め、肩を震わせる。

 わざとポプリを傷付け、自分のことを早く忘れさせるための作戦だったのだろうが、大失敗にも程がある。こんな終わり方、ありえないだろうとエリックは静かに目を伏せた。

 

 

『ありがとう……どうか、“僕ではない誰か”と、幸せになってください』

 

 

――それは、あまりにも哀れで嘆かわしい、悲しすぎる最期だった。

 

 

 

Tune.38 ーIFー

  愛を知らない青年の最期

 



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Tune.77 ーIFー

【 A t t e n t i o n ! 】

 

・当たり前のように現れる、久々の公式If。

・『Tune.77 「叫び」』のポプリ死亡ルート分岐版です。

・ポプリの好感度次第でこうなってしまいます。

・9割くらい正規ルートと全く同じ展開です。

・言うまでもありませんが、死ネタです。

・ジャンクIFに続き恋愛色が強めです。

・相変わらず全力で誰も救われません。

・鬱。

 

 大丈夫な方は、スクロールをお願いいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「多分下手なことしない方が良いわ! 機械の設計図か何か無いか探してみる! ディアナ君、悪いけど少しだけ我慢しててね……!」

 

 機械を止められれば話は早い。地図同様にその手段が見つかることを祈り、ポプリは先程まで手にしていたレポートの束を置き、紙の山を漁り始める。それを見てマルーシャも彼女の後に続いた。

 

 身動きを取ることができず、酷く怯えた様子で、ディアナは彼女らの姿を見つめている。怖すぎて声が出ないのだろう。今にも泣き出してしまいそうな様子だった。そんな彼女を囲む檻が、青白く発光した――その時、中央にいるディアナ目掛けて電撃が放たれた!

 

「うああああぁあああぁっ!!」

 

「!? ディアナ!」

 

 電撃が止み、ディアナはぐったりと宙に浮かんでいる。外傷は無いが、魔術に耐性のある彼女相手でも相当なダメージを与える電撃だ。あれは特殊なものなのだろう。

 問題はディアナが何もしていなかったにも関わらず電撃が流れたことだ。故障しているのかもしれない。これでは対処法を待っている間にディアナが何度も電撃を喰らうことになってしまう。故障している可能性がある以上、『死なない程度の電撃』というクリフォードの説明も怪しいものとなる。これは一刻も早く、ディアナを救出しなければならないだろう。

 

「ぐ……っ、申し訳ないとは思うのですが、ライを呼びます。不幸中の幸い、マクスウェル様に連絡だけならできそうです。ライなら、透視干渉(クラレンス・ラティマー)で機械の操作ができる筈……!」

 

 突き刺さったメスを抜きながら、クリフォードはマクスウェルと連絡を取り始めた。ライオネルも被験者であるために避けたかった選択肢だが、もはや手段を選んでいる場合ではない。

 

 

「アル! 大丈夫か!?」

 

 ひとまずエリックはアルディスと合流し、彼の傷の状況を確かめることにした。クリフォードのことも気になるが、声が出ない状態のアルディスを一人にしておくのは危険だと判断したのである。

 被弾した左肩を庇うようにしながらアルディスは立ち上がっており、右手には剣が握られていた。ディアナを囲む檻本体ならば、と考えているのかもしれない。

 

「待て。行くなら僕も一緒に行く……間違ってもお前ひとりで行くなよ」

 

 臨戦態勢に入ったアルディスに「行くな」という声掛けは無駄である。それならば同時に飛び出せるように、エリックはレーツェルに触れ、剣を構えた。

 

「……。同時に行くか。何かしら跳ね返ってきても分散できるかもしれない」

 

 下手なことをしない方が良い、とポプリには言われたがあまり待っている時間はない。ライオネルを頼るにしても、トゥリモラが精霊と相性の悪い土地であるためか、クリフォードは連絡にかなり手間取っている様子だ。先程の飛び道具は、ディアナにはこれといって影響が無かったように見えた。ならば、大丈夫だろう。

 隣でアルディスが頷いたのを確認し、エリックは床を蹴り、機械に向かって駆け出す。アルディスもそれに続いた。時間差はあれども、二人の身体能力を考えれば最終的には同じくらいのタイミングになる筈だ。

 

「はあぁっ! ――龍虎(りゅうこ)、|滅牙斬≪めつがざん≫ッ!!」

 

 飛び上がり、空中で身体を翻して刃を叩き込む。アルディスがエリックの攻撃箇所を狙って連撃を放つ頃には、機械の真下に発生した魔法陣がガリガリと金属を削り、嫌な音を立てていた。

 

(流石に一発じゃ厳しい、か……!?)

 

 金属が、青白く瞬く。その刹那、輪から放たれた円状の光線が、空中にいるエリック達を襲った。

 

「がはっ!」

 

「ッ!」

 

 光線は抵抗のしようがないエリックとアルディスの腹部を抉り、そのまま後方の壁へと叩きつける。肺が潰れるような衝撃に息が止まる。そのまま、受身を取ることも出来ずに二人は鉄製の床に叩きつけられてしまった。

 

「ごほっ、ごふ……っ! ひゅ……っ、ぅ……」

 

 あまりの痛みに、息が出来ない。ルネリアルでダリウスに蹴られた位置と同じ場所に光線が当たってしまったせいか、思っていた以上に損傷が激しいらしい。噎せながらも必死に息を吸おうともがくエリックの傍に、クリフォードが駆け付けた。

 

「この真なる祈りに応え、訪れしは刹那の安寧! 我が盟友の痛みを消しされ! ――ヒール!」

 

 暖かな光に包まれ、痛みが少しずつ消えていく。呼吸も何とか出来るようになった。これで、何とか動けそうだ。

 

「すまない、助か……ッ!?」

 

 礼を言おうと顔を上げたエリックの視界に、血を流して仰向けに倒れているアルディスの姿が入った。既にクリフォードが様子を見ているようだが、彼の意識がないことは明白だ。

 

「アル!」

 

「大丈夫です。打ち所が悪かったようですが、命に問題ありません。アルは元々弱っていましたから、仕方ないかと……」

 

 どうやら頭部を強打してしまったらしい。患部に軽く治癒術を掛け、クリフォードはそのままアルディスを寝かせて顔を上げる。

 

「起こそうと思えば起こせるのですが……その、アルはこのままだと弱っているのもお構いなしに特攻しそうなので、このまま寝かせておこうかと思うのですが……どうしましょうか?」

 

「……そうだな、寝かせておこう。絶対特攻するから……」

 

 仮に目を覚ませば、何度でも果敢に機械へと立ち向かっていきかねない。アルディスを守るためにも、今は寝かせておくべきだろう。

 そしてエリックは、服の上から雑に包帯が巻かれたクリフォードの脇腹と左太腿の傷が気になった。

 

「悪い、マルーシャ! 治癒術を頼む!」

 

 クリフォードは自分の傷は治すことができないため、どうしてもマルーシャかディアナの協力が必要だ。今は、マルーシャにしか頼れない。

 

「……ッ」

 

 しかしマルーシャは、エリックの方を一度見た後、悲しげに目を伏せてしまった。

 

「マルーシャ?」

 

「でき、ないの……」

 

 声が震えている。そういえば、アルディスが被弾した時も彼女は治癒術を発動させることなく設計図を探しにいった。そもそもアルディスの家で彼女が首の傷を治療しなかったのは別に魔力の節約だとか、そういう意図ではなかったのかもしれない。

 マルーシャは胸元のリボンを握り締め、今にも泣き出しそうな表情でエリックに訴えかけた。

 

「できなくなっちゃったの……! 治癒術、使えないの……!!」

 

「……ッ!?」

 

 両親の死が、マルーシャを追い詰めてしまったのだろうか――少女の悲痛な叫びが、胸に刺さる。やはり彼女は、明るく振舞っていた“だけ”に過ぎなかったのだ。

 

 

「マルーシャ、僕は大丈夫ですし、治癒術も僕が使えます! 引き続き機械の設計図を探して下さい! お願いします!」

 

 言葉を無くしてしまったエリックに代わり、クリフォードが叫ぶ。間違いなく治癒術が使えなくなってしまったことで更に心を痛めているであろう少女には、今はこう伝えるしかないだろう。彼女には悪いが、ゆっくりと話を聞いてやれる時間は無いのだから。

 そうしている間にも、再び機械が瞬く。ディアナの目が、恐怖で見開かれた。

 

「ああああああぁあぁっ!!!」

 

「ディアナ!」

 

「うぁ、あ……い、いや……いや、ぁ……」

 

 激痛に叫ぶだけでは、無かった。涙に濡れたディアナの瞳は、朧げな様子で“何か”を見ている。痛ましい声を上げた彼女の唇からは、弱々しい言葉が紡がれていた。

 

「お父、さ、ま……お母、様……いや……いやぁ……!!」

 

「ディアナ!? どうした? ディアナ!!」

 

「いや……いやああぁあああああぁっ!!!」

 

 彼女は、両親を呼んだ。その直後、彼女は今までにない勢いで悲痛に泣き叫んだ。錯乱してしまったのか、今までとは打って変わった様子で暴れ始める。

 

「いやぁあああっ!! 捨てないで! 置いていかないで! やだぁあああぁっ!!!」

 

「ディアナ! 落ち着け! 大丈夫、大丈夫だから、すぐに助けてやるから!!」

 

「お父様ぁ、お母様ぁ……!! 私をひとりにしないで!! ここに置いていかないで!! やぁあああぁあ……ッ!!」

 

 最悪なことに、『中に入った者が暴れると雷撃が放たれる』という仕様についてはそのままだったらしい。泣き叫び、ここにはいない両親に「置いていかないで」と訴え続ける彼女を無情にも雷撃が襲う。

 

「きゃああぁああああっ!!! あ、あ、ぁ……うぅ、ああぁああああっ!!!」

 

 雷撃が当たれば、大人しくなるようなことは無かった。むしろ、悪化していく一方である。アルディスがこれを聞いていなくて、見ていなくて良かったと思うと共に、エリックの中に焦りが募っていく――このままでは、ディアナが壊れてしまう!

 

「捨てないで……ッ! 置いていかないで、お願い。私も連れてって……ッ!! うああぁああああぁっ!!」

 

 

(ディアナ……)

 

 ギリ、と奥歯を噛み締め、エリックはアルディスの傍にいるクリフォードへと視線を移した。本来得意ではない無生物を相手にしているとはいえ、そろそろ何か分かったのではないかと判断したのだ。エリックが求めていることが分かったのだろう。クリフォードはおもむろに頷いてみせる。

 

「やたら耐久性が高いです、物理的な攻撃はろくに入らないと思って下さい……弱点属性は、光と火です」

 

「光と火……!?」

 

「よりによって、といった感じですよね」

 

 術による攻撃でないと駄目だというのはまだ良い。エリックの弓はどちらかというと魔術に近いものであるし、術師ならポプリがいる。しかし光属性はアルディスの、火属性はディアナが得意とする属性だ。彼ら以外に、該当属性の攻撃術を使える者はいない。

 アルディスを起こすという選択肢もあるが、今の彼に魔術を使わせるのは死に直結する行為に等しい。仮に彼に意識があったとすれば、光属性の魔術が効くと分かった途端に自身を顧みず大技を発動させたことだろう。気絶させたままにしておいて本当に良かったとエリックは息を吐いた。

 

「とりあえず、弓でやってみる。光属性なら使えるからな……威力は期待するなってところだが、物理よりはマシなんだろう?」

 

「はい……えーと、アレはエリックの弓にも効果があるんでしょうか……? やるだけやってみますね」

 

 エリックは手にする剣を弓に切り替え、クリフォードは傍で詠唱を開始する。残念ながらそこまで多くの技を取得しているわけではなく、光属性のものも一つしか該当しなかったのだが、やらないよりは良いだろう。

 

「――メルジーネ・シュトラール」

 

 クリフォードの詠唱が完了し、エリックの中に光属性の魔力が流れ込んでくる。それをそのまま打ち出さんとエリックは弓を天井に向けて構え、矢を放った。

 

「――|天来白鴉≪てんらいはくあ≫!!」

 

 対象は動かない機械のみ。本来であれば広範囲に降り注ぐ光の矢を出来る限り狭い範囲に絞り、機械への攻撃に集中する。矢はガリガリと機体を削り、火花を散らしていた。だが、それだけである。

 

「クリフォード、風属性や闇属性は太刀打ち出来ないのか?」

 

「この耐久ですと、相性を無視できる程度には強い威力のものでなければ……ッ!? エリック!」

 

 機体が、瞬く。嫌な予感がし、エリックとクリフォードは慌てて後方に飛ぶ。しかし、大型の弓を構えていたエリックは僅かに動作が遅れていた。エリック目掛けて、僅かに大きさが増した光の矢が降り注ぐ!

 

「ぐあぁあっ!!」

 

 光の矢は青白い雷の衣を纏い、エリックの身体を焼いていった。髪や衣服、肌が焦げる嫌な臭いと痛みに顔をしかめつつ、エリックは機械に向き直る。少なからず効いてはいるようだが、その都度こちらに攻撃が跳ね返ってくると考えて良いだろう。

 

「今、治療します!」

 

「いや、良い!」

 

 身体が痺れる。それでも矢は放てそうだ。エリックは再び矢を構えて叫ぶ。

 

「今はお前しか治癒術を扱える人間がいないんだ……僕はまだ耐えれる。アルがあの状態で、ディアナがどんな状態で解放されるか分からない以上、無駄に魔力を消費して欲しくない。ただでさえ、お前結構辛い状態だろ?」

 

「で、ですが……!」

 

「まあ、死にそうになってたら流石に考えてくれよな!」

 

 ディアナの泣き叫ぶ声も、雷撃が放たれる嫌な音も、未だ消えることはない。いつまで彼女が持ちこたえるか分からないのだ。迷うことなく、エリックは天井目掛けて光の矢を放ち続けた。

 

(ッ! せめて飛んでくる方向が読めればな……!)

 

 跳ね返ってくる矢は避けられる範囲で避けたが、段々と足がもつれ、動くことすらままならなくなってくる。次第に、矢を放つことだけで精一杯になり始めた。

 

「ぐ……っ」

 

 矢を放ち、そのまま冷たい床に俯せで崩れ落ちる。息が切れる。ここで避けなければ一本残らず矢を受ける羽目になるだろう。だが、身体が痺れて身動きがとれないのだ。強気な発言をしておきながら、呆気ないなとエリックは苦笑した。

 

 

――その時、視界に影が差した。頭の前に誰かが立ったのだ。

 

「君は多少身体が変化してるだろうけれど、龍王族(ヴィーゲニア)は本来魔術に弱いのよ……どうしてこんな無茶するの」

 

(え……)

 

 顔を上げれば、眼前にこちらを見下ろしてくるポプリの姿があった。何でもないように、にこりと微笑んでみせる彼女の背目掛けて、光の矢が降り注ぐ!

 

「ぐぅ……っ! 痛、ぁああっ!!」

 

「ポプリ!」

 

 ポタポタと、膝を付いた彼女の背から血が流れる。冷や汗を流しながらも、ポプリは両手で抱きかかえていたレポートの束をエリックに手渡した。

 

「これ、こっそり持ち出しといて。何故か本当に大昔の古代語で書かれてるんだけど、ライ君なら、きっと読めるから。あまり読むべきじゃないだろうけど、ディアナ君を助けるヒントになるかなって」

 

 渡されたのは、何かの研究論文のようなものであった。『本当に大昔の古代語』とポプリが言っていた通り、エリックの知る古代語とは若干文法や綴りが異なっている。だが、それが理解できるのならば、ポプリ自身これをも読めるだろうに。

 

 そういえば、ポプリが自分を庇った際にクリフォードが全く動かなかったのが気になった。もしかすると、彼は“動けなくなっていたのかもしれない”――彼女の行動の意図が分かった、その頃には。エリックの身体はろくに動かせなくなっていた。

 

(ポプリ!? 一体、何を……!?)

 

 必死に視界を動かせば、マルーシャが倒れているのが見える。十中八九、これはポプリの仕業だろう。彼女の能力『秩序封印(ヴァルデマール・フレイヤ)』は対象の自由を奪う術を得意とするのだから。

 困惑するエリックの眼前で、ポプリは静かにディアナを拘束する機械に近付き、上空で泣き喚く少女を見上げる。その表情は、伺えない。

 

「ディアナ君……いえ、“ダイアナちゃん”。確かに、あなたの両親は君を囮にして逃げようとしたのかもしれない。辛かったと思う。けどね、あなたの居場所はちゃんとあるわ」

 

 “ダイアナ”と呼ばれたのが効いたのだろうか。ディアナは涙を流しながらも、ゆっくりとポプリへ視線を向ける。ポプリは軽く首を傾げ、自身の真下に紫色の魔法陣を展開させた。

 

 

「思い出して? 幼かった頃のあなたを助けてくれた、男の子のことを……あなたはもう、ひとりじゃないわ」

 

 

 涙に濡れたディアナの目が見開かれる。少女が誰かの名を小さく口ずさむと同時――魔法陣が弾け、ポプリの身体が、全身の至る部分が、“裂け”た。

 

「きゃああぁあああっ!!」

 

 血を吹き出し、ポプリが地面に転がる。立ち上がる彼女の手足からは、先程の光の矢とは比べ物にならない程の血が滴り落ちた。

 

「はぁ……っ、はぁ……駄目、ね……そう簡単には、いかない、か……」

 

 緑色の衣服は元の色が分からない程に変色しつつある。早く治療を施さなければ、出血多量で死んでしまうだろう。それでもポプリは、目の前で不安げに身体を震わせる少女に向けて優しく声を掛ける。

 

「心配しないで……あなたのことは、必ず助けるわ」

 

 再び魔法陣を展開する。よく見るとそれは、ポプリ自身に向けて効果を発揮するような形で展開されていた。

 エリックの背後で、術式に抗うべくクリフォードが暴れている。それに気付いたのだろう。ポプリは背後を振り返り、どこか悲しげな笑みを浮かべてみせた。

 

「クリフ、大丈夫。理論上は可能よ。ノアはヴァイスハイトだもの。あの時、きっと闇以外の力もあたしは奪い取っているはずよ……少なくとも、あの子が得意としていた光か火のどちらかくらいは」

 

 クリフォードはポプリの成そうとすることを察したらしく、彼女を止めようともがいている。相当危険なことをしようとしているのだろう。エリックも彼に続こうとしたが、何度も光の矢に焼かれた身体では、ポプリの強力な力には到底抗えない。

 そうこうしている間にも、再び魔法陣が弾けた。ポプリの血が周囲に飛び散る。彼女が手にしている杖が、先端のリボンもろとも粉々に砕け散った。

 

(アイツ、一体何をしようとしているんだ……!? 何度も自分に何かしらの魔術を掛けようとして、失敗して……一体、何を……!?)

 

 ふらり、ゆらりとポプリが立ち上がる。皮膚が裂けるのみならず、体内から何かを発しているのか、身に纏う衣服も裂け始めていた。布の間から除く皮膚は、もう真っ赤に染まっていた。それを見て、エリックは勘付いてしまった。

 

(まさか、体内精霊を操作するつもりなのか!?)

 

 ポプリはライオネルの自宅で複数の本を読んでいた。それはいずれも拒絶系能力や体内精霊に基づく物であり、先程ポプリは『理論上は可能』と口にしていた。その『理論』はライオネルの家の本を読んで立てたものだとすれば、辻褄はあう。

 

(僕らの身体は、精霊の入れ物に過ぎない……内部の精霊に異常が起これば、肉体にまで損傷が及ぶ……そういう、ことなのか?)

 

 

「……」

 

 三度目にして、ポプリはそれに成功したらしい。媒体であるリボンが無くなったためだろう。彼女は酷く震え、血が流れ続ける右手を、ディアナに向けて伸ばした。

 

「――暁光と宵闇の化身……決して交わらぬ、相反する者達よ」

 

 巨大な魔法陣が、機械の真下に現れる。闇属性しか使えないポプリの魔法陣だというのに、その魔法陣の色は漆黒だった――そんな色の魔法陣は、存在しない。

 

「汝らを縛る枷を壊し、我が身を依代に具現せん……」

 

 現れたのは、アメジストを思わせるような淡い紫色の、美しい半透明の巨石。その石の内部では、炎がまるで無数の蝶が空中で舞い踊っているような動きを見せていた。

 それに魅入られているのも束の間。炎が石を粉々に砕き、機械に襲い掛かる。砕かれた岩は空気中に浮かび上がり、独特の輝きを放っている。魔法陣の色が、白に変わった。

 

「恒久の軌跡が紡ぎし輝きを今、ここに解き放て!」

 

 ポプリの声に合わせて、赤色に変わった魔法陣が爆ぜる。炎の蝶が機械を焼き、あれだけ硬かった円形の檻を歪ませる。中央のディアナには何の影響も及ぼしていない様子であったが、代わりにポプリの身体が再び裂け、彼女の、肩に触れていた部分の髪が何故か焼け焦げた。

 

「――アンビバレント・エレスチャル!」

 

 空気中を舞う岩が白と黒の光線を放ち、一斉に爆ぜた。歪んでいた檻は無数の爆発に耐え切れずにあっさりと破壊され、母体である操作用の機械ごとただの鉄屑と化した。

 

 拘束から解放され、ディアナはそのまま鉄屑の上に落ちる。ぐったりとしているが、目は開いている。意識はあるようだ。そして、拘束から解放されたのは、エリック達も同様だった。

 

「ッ、ポプリ!」

 

 酷く震えた声で叫び、クリフォードはポプリに駆け寄った。ディアナのことを心配していない訳ではないのだろうが、今はどう見てもポプリの方が重傷である。そういうエリックも、迷わずポプリの方へと足を運んでいた。

 

「な……っ、ポプ、リ……?」

 

 仰向けで床に転がっているポプリは、顔の右半分を真っ赤に染め、両目を閉ざしていた。微かに動いている肩や両腕は酷い火傷で爛れている。肩に触れていた部分の髪は、無残にも焼け焦げてしまっていた。それだけではない。衣服の上からでは分からないが、きっと全身至る所が裂けてしまっているのだろう。

 

 クリフォードが両手で動かないポプリの右手を取る。その瞬間、肉の焦げる嫌な臭いがした。

 

「!? ポプリの身体が相当な熱を持ってるのか!? おい、火傷するぞ!!」

 

「もう、してますよ……僕は、直接触れずには高位治癒術を使えませんから」

 

 息を吐き、魔法陣を展開する。見覚えのある白い魔法陣だった。

 

「夜明けを告げし暁の煌めきよ! 汝、この切なる祈りに応え、闇に堕ちゆく我が友に希望の導を示さん! 天理に背くことを赦したまえ……ッ!! ――レイズデッド!!」

 

 それは以前、マルーシャがアルディスを救った奇跡の術。魔法陣の上に降り立った天使が、ポプリの身体に触れる。火傷を始め、彼女が負った深い傷を癒していく――しかし、全てを治しきるには到底及ばなかった。

 

 

「ッ、う……」

 

「ポプリ!!」

 

 それでも意識は回復したのだろう。ゆっくりとポプリが左目を開く。大量の血に覆われた右目は、開くことは無かった。

 

「……あたし、ちゃんとできた? ダイアナちゃんは無事?」

 

「ッ! 一体何を言い出すんですか……!」

 

 第一声がこれかと言わんばかりにクリフォードが声を荒げる。しかしポプリは穏やかな笑みを浮かべて、握られた右手に微かに力を込めた。

 

「もしノアが意識を保っていたら、きっと死を覚悟で魔術を使っていたと思うの……あたしはその代わりをしただけ。それに、あのままだとエリック君が死んでいたかもしれない。間に合わなくってダイアナちゃんが死んでいたかもしれない……嫌よ、そんなの。誰かのために本気で頑張れる子が、その誰かのために命を落とすなんて」

 

 少しずつ、ポプリの瞳が閉じていく。彼女の右手を握った震える両手に力を込め、クリフォードは口を開く。

 

「それは……ッ! それは君も同じじゃないですか! 体内精霊を押さえ込んで、自分の身体を変化させて……そんなことをして、自分の命が無事だと本当に思っていたのですか!? 君は……ッ、なんで……」

 

 嗚咽が混じり、語尾が消える。拭う余裕も無いのか、クリフォードの頬を涙が伝っていく。ここまで感情的になっている彼を見たのは、初めてかもしれない。

 泣き出してしまったクリフォードを見て、何故かポプリは安心したような微笑みを浮かべる。そして、開いていた左目を完全に閉ざしてしまった。

 

「あたしね、死んでも良いから最期に、誰かを救いたかったのよ……そうすれば、そうすれば、きっと……あたし、は……」

 

 ポプリの声はかすれ、そして消えていく。クリフォードが彼女の名を叫ぶ。彼女の目は、開かない。何の反応も、帰ってこない。しかしまだ死んではいない。エリックはポプリの傷だらけの手を掴み、絞り出すように声を発した。

 

「そこまでしてお前は、何かを得られたのかよ……?」

 

 その言葉に反応したのか、ポプリが微かに指を動かした。落ちかけていた意識を戻すことに成功したのかもしれない。瞳が開かれることはなかったが、彼女はエリックの問いに答えてみせる。

 

「ええ……少なくとも、あたしが生きてきた意味は、証明できたんじゃないかしら」

 

「生きてきた、意味……?」

 

 相変わらず、酷く弱々しい声だった。クリフォードが必死に治癒術をかけ続けているが、全く追いついていない。ディアナを救うために使った術の代償は、本来ポプリが背負い切れないものだったのだ。発動したこと自体が奇跡だったのかもしれない。

 すっと、ポプリの左目の瞼が上がる。しかし彼女の橙色の目はもう、何も映していない。

 

「最期くらいあたしだって、皆みたいに誰かを救いたかったの……」

 

「ッ、お前は今まで、皆の助けになってきただろう!?」

 

「……本当に、そう思う?」

 

 問われ、エリックは迷わずに頷いてみせた。何かを深く考えたわけではないが、ここは頷くべき場面に違いない。そう、思ったのだ。しかし……。

 

「ふふ、優しいのね……でもね、あたし……そんな君のことが、嫌なのよ……」

 

「え……?」

 

「君は、いつだって正しく生きようとしてる。いつだって、皆のために動こうとする……あたしには、そんな君の姿が、眩しすぎるの。誰もが、いかなる時も正しく在ることが出来るって、思わないで……っ」

 

 ポプリの瞳から、ボロボロと涙が溢れる。どういうことだと話を聞こうとすれば、「ちがう、ちがう」と幼子のように繰り返し、彼女は瞳を閉ざしてしまった。

 

「やだな、あたし、醜い、醜い……あぁ、本当に……」

 

 こちらが何を言おうが、もう届かなかった。ポプリの心は完全に、壊れてしまっていた。

 彼女はきっと、八年前のペルストラ事件を今の今までずっと引きずり続けてきたのだ。義弟アルディスを守れなかった、それどころか傷付けてしまった事実に苛まれ続けてきたのだろう。

 

 

 それゆえ彼女は、いざという時に正しい行動が取れない自分自身が大嫌いだった。

 

――恐らく、いっそ『死んでしまいたい』と、思う程に。

 

 

「そんなこと、言わないで下さい!!」

 

 クリフォードが叫ぶ。エリックが下がれば、彼は血塗れのポプリの身体を愛おしそうに抱きしめた。治癒術はもう、使っていなかった。

 

 すっと、ウンディーネが彼の背後に現れた。彼女はエリックを見て眉尻を下げ、無言で首を横に振るう。これ以上の治癒術は、クリフォードの死に直結する。そのため彼女は、クリフォードの力を制御してしまったのだろう。

 それでも動かずにはいられないと思ったらしい彼は、ポプリを腕に抱いたまま声を震わせる。

 

「僕がここにいられるのは、君が、助けてくれたからなんです……っ、君がいなければ、僕こそ死んでいたかもしれない……それなのに、どうして……っ!」

 

 ポプリは何も答えない。両目も閉ざしたままだ。大きく動いていた肩の動きは、次第に小さくなっていく。

 

「嫌です、ポプリ……君がいなくなるなんて、嫌だ……耐えられない……! 死なないで……死なないで下さい……っ」

 

 だらりと、ポプリの両腕が垂れ下がる。かくんと、首が重力に負けて傾いた。意識など、あるはずが無かった。彼女はもう、息をしていなかった。

 

「ポ、プリ……」

 

 皮肉にも、密かに愛していた男の腕の中で彼女は亡くなった。もう何も望むことはないと、そう言わんばかりの最期だった――ふたりで同じ未来を歩もうなどという夢を彼女が抱くことは、決して無かったのだから。

 

「どうして……っ、どうして、ですか……っ! ポプリ、ポプリ……っ」

 

 ポプリの死に直結したあの行動も、彼女が死ぬ間際に発した言葉も。

 それらは全て、彼女自身の命を非常に軽視したものであった。

 彼女は、もう、生きることに希望を見い出すことができなくなくなっていたのだ。

 

「まだ……まだ、確信が得られなかった……だから、言わなかったんです。だけど、こんなことになるなら、伝えておけば、良かった……」

 

 

――ポプリがディアナを助けたのは、単なる口実だ。

 

 彼女の行動の真意は『自分の命を代償に誰かを救うことで、自分の存在異議を見定めたかった』といったところなのだろう。

 きっと、その“誰か”はディアナでなくとも良かったはず――こんな危険な思想を持っていたというのに、彼女は決してそれを表に出さなかった。

 

「ポプリ……」

 

 だからこそ、彼女の叫びを見落としてしまった。この残酷な結末を防ぐことが出来なかったのだ。

 

 髪は焼け焦げ、衣服は血に汚れ、ボロボロになり、全身の至る所が傷だらけ。顔面にまで大きな傷を負ってしまった。決して、美しい死に様とは言えない。

 むしろ、醜態を晒すだけ晒してしまったと感じながら、彼女は命を落としたに違いない。エリックやクリフォードの想いは、彼女には届かなかった。ただ、彼女自身が持っていた『自分は醜い』という絶望感を、助長させてしまっただけだった。

 

 

「僕はずっと……君のことを、愛していたんですよ……」

 

――最愛の男に抱かれていようとも、その娘の顔は、酷く悲しげに歪んでいた。

 

 

 

Tune.77 ―IF―

  その瞳は、絶望のみを映す

 



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