ラブライブ! ―目覚める魂― (ボドボド)
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プロローグ 西木野総合病院にて

初めましてボドボドです。今までは読み専でしたが、とうとう二次創作を書いてみました。


推定年齢二十歳の青年は西木野病院の芝生の上で大の字になって空を仰いでいた。

その日は雲一つない空で、十月初旬の柔らかい日差しが降り注いでいた。吹く風は木々の木の葉を揺らして、金木犀の甘い香りを運んで青年の鼻をくすぐった。

青年は甘い味がするのではないだろうかと期待して風を舐めてみた。しかし味はしなかった。

 

 

それでも記憶を失くした青年としては、目で見たモノ、耳で聞いたモノ、何もかもが初めて経験したことのように新鮮だった。こんな新鮮な経験や刺激を得られるなら毎日記憶喪失になってもいいと思う。いいや、むしろそうなりたい。どうしたら毎日記憶喪失になれるのだろうか。そんなことを頭の中で考えていると自分の名前を呼ぶ声がした。

 

 

上半身を起こして後ろを振り向くと紫色の服の上から白衣を纏った女性がパンプスのヒールをコツコツとならしながら歩いてくる。青年は笑顔で挨拶した。

 

 

 

「おはようございます、西木野先生」

 

 

「おはよう。聞いたわよ、随分元気になったそうじゃない」

 

 

 

言いながら西木野女医は優しい眼差しを青年に向けた。

 

 

 

「はい、おかげさまで」

 

 

 

青年が今いるのは病院の中庭だった。昨日は屋上で洗濯物の白いシーツが乾くのをベンチに座って一日中眺めていたし、一昨日は待合室で知らないお爺さんとずっと話し込んでいた。明日は病室の窓外に広がるトマト畑に行ってみようと思っている。

 

 

 

「驚くべき立ち直りの早さね。普通記憶をなくした人間はもっと思い悩むものなのよ。空っぽな自分自身をどう扱っていいのかわからずにね」

 

 

 

青年はおもむろに空を見上げた。

 

 

 

「あんまりにも天気が良かったから……朝目が覚めたら空が凄く綺麗で、何だか嬉しくなっちゃって」

 

 

 

西木野女医もつられて空を見上げた。澄み切った秋の空が美しい。

青年の言葉は他の人間が聞けば理解しにくいと感じるだろうが、西木野女医はそうは思わなかった。むしろ空の美しさを味方にできる青年の感性を頼もしく思った。

 

 

 

「ところで」

 

 

 

青年の隣に腰を下ろして西木野女医が訊ねる。

 

 

 

「前に話した件なんだけど、気持ちは固まった?」

 

 

「先生の家で暮らす、って話しですよね?」

 

 

 

私の家で居候しないかと、青年は西木野女医から提案されていたのだ。病院の外で生活することで何か思い出すことがあるかもしれないからと。

西木野女医は強要せずに穏やかな口調で告げる。

 

 

 

「我が家に来ない? 娘が一人いるけど何も遠慮することはないわ。夫も賛成しているし。それに前まで家にいた家政婦さんが辞めてしまってね、貴方が家のことをやってくれると私としても助かるの」

 

 

 

青年は西木野女医に温かいものを感じていた。きっとこの人が住んでいる家も同じくらい温かいのだろう。この前病室のベッドでそんなことを考えていたら看護婦から、何かいいことでもあったんですか? と聞かれたのを思い出す。

とても幸せそうな顔をしていたらしい。だから返事は決まっていた。

 

 

 

「お世話になります」

 

 

 

言って頭を下げた。

西木野女医は嬉しそうに頷いて青年の手を取り握手を交わした。

 

 

 

「それでね、君の名前なんだけど……」

 

 

「俺の名前……賀上昇一、ですか?」

 

 

 

賀上昇一。

ある日青年は西木野女医にそう名付けられた。病院内で便宜的に使うということだった。

西木野女医は、病院を出てもその名前を使い続けるかどうか訊ねてくる。

 

 

 

「俺、もう『昇一』って呼ばれるのに慣れちゃいました」

 

 

 

便宜的にとは言え名前を貰ったとき、青年はさっそく自分のマグカップに『賀上昇一』とマジックで書いてじっくりと眺めてみた。満更でもないと思った。とくに『昇』の字はどこまでも高いところへ行ける気がしていい感じがした。青年から今の名前を気に入っていることを聞かされて西木野女医は安堵した。

 

 

 

「そう、なら少し早いけど退院祝いよ。何でも好きな物を奢ってあげる。お寿司? 焼肉?言ってみて」

 

 

「う~~~~ん……」

 

 

 

暫く考えてから青年ははにかんで答えた。

 

 

 

「すいません、俺、好物も忘れちゃったみたいなんで、全部いただきます」

 




いかがだったでしょうか。





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第1話 謎の戦士

連続投稿です。


「はぁ……どうしろって言うのよ……」

 

 

 

西木野真姫は悩んでいた。それと言うのもつい先日入学したばかりの高校、国立音ノ木坂学院の理事長から来年度の入学志望者数が定員を下回った場合、三年後に廃校になることを全校集会で告げられたのだ。

つまり下手をすれば今の一年生は後輩がいない高校生活を送ることになる。

しかし人との関わりを自分から避けている真姫にとって下級生の有無はあまり気にした問題ではなかった。

むしろ一番頭を抱えているのは……。

 

 

 

「真姫ちゃん、ご飯できたよー」

 

 

 

そこまで考えていると不意に部屋の外から声が掛かった。

自分が悩んでいることなどいざ知らず。能天気なくらいに明るい声が聞こえてきた。

声を掛けてきたのは、半年前からこの家に居候している賀上昇一だった。

 

 

 

「早く降りてきなよ。今日の夕飯けっこう自信あるんだよね~」

 

 

 

真姫は椅子から立ち上がってだるそうな顔を出して元気のない声を返した。

 

 

 

「昇一……今日は食欲がないの。悪いけど私の分は片づけておいて。明日の朝食べるから」

 

 

「あっ、もしかして風邪ひいた? まさか五月病とか? 春は体調を崩しやすいって聞くし」

 

 

「そんなんじゃないわよ……心配しなくていいから」

 

 

「俺、後でお粥作って持ってくるからさ、少し待ってて」

 

 

 

足早に階段を下りていく音が聞こえた。余計な心配をさせてしまっただろうか。そう思いながら机の上に置いてあるノートパソコンに向かい合う。マウスを操作してフォルダを開きパソコンに取り込んだクラシックやジャズの曲をランダムで再生する。こうやって音楽を聴いていたり、ピアノを演奏していると心が落ち着くのだ。聴くのも演奏するのもクラシックやジャズであれば何でも良い。真姫にとって音楽とは精神安定剤みたいなものでもあるのだ。ただ、今日みたいな憂鬱な日に聴くのはリラクゼーション音楽だと決めている。

 

 

そのまま音楽を聴き続けること十数分。

 

 

 

「真姫ちゃん、お粥できたよ~」

 

 

 

するとまた昇一が部屋の外から呼び掛けてきた。どうやらお粥を持ってきてくれたらしい。

 

 

 

「ちょっと待って。……入って良いわよ」

 

 

 

音楽を一時停止させノートパソコンをスリープ状態にしてから入るように言った。

 

 

 

「おかゆどーさま」

 

 

 

入ってきたかと思うと開口一番に微妙なダジャレを言い放つ昇一。『お粥』と『おまちどおさま』を掛けたのだろうが、面白くない。本人としては面白いことを言った自信があるのだろうか。満面の笑みで真姫を見ている。だからと言って甘やかす真姫ではない。

 

 

 

「なにそれ、意味わかんない」

 

 

「え~、わかんないかなぁ。お粥とおまちどおさまを掛けてみたんだけど」

 

 

「そんなこと言わなくても誰でもわかるわよ」

 

 

 

昇一のダジャレにダメ出しをしながらお粥が乗ったお盆を受け取り椅子に座る。

一人分の土鍋からは出来立ての湯気が上がっており、真ん中に盛り付けられた白ごま、細ネギ、生姜、梅干しが食欲をそそる。

 

 

土鍋からレンゲでお粥を掬い息で熱を冷まして口へ運ぶ。

ふとベッドに腰を下ろしている昇一を見ると相変わらずふやけた笑顔でこっちを見ている。だが昇一の笑顔を見ていると何となく全て許せる気になる。このまま見続けているとつられてこっちの顔までふやけそうになってしまうと感じた真姫は、素早く顔を横に逸らしてお粥を食べ進めた。

 

 

 

「どう、お粥の味?」

 

 

「……美味しいわよ」

 

 

「よかった。俺の真心が詰まってるからね」

 

 

 

この居候、料理はプロ並みな上に、まめで気が利く。微妙なダジャレが玉に瑕だが客観的に見ればイケてる男の部類に入るだろう。料理以外の家事もよくやってくれている。

そんなこともあって以前はどこかの料理人、もしくは介護関係の職業に就いていたのではないかというのが西木野一家の推測だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

正直なところ真姫は両親から居候が来ると聞かされたときは絶対に無理だと最後まで反対し続けた。見ず知らずの人間と一つ屋根の下で暮らすことなど出来ない、と。

しかもわりと年の近い男性で、おまけに記憶喪失だと聞かされたときは衝撃的すぎて声も出なかった。それではまるで下手な少女漫画やドラマのような設定ではないか、意味がわからない。そんな風に思い、悩んで、悩んで、悩みまくった。それでも今更悩んだところで両親の決定が覆るはずもなく、諦めてどうやって接しようか考えた。が、余計に無理な気がして更に悩んだ。

 

 

そして居候当日。蓋を開けてみれば真姫の予想に反してなんとかなった。

家にやってきた当初から昇一は今みたいな感じで優しかったのだ。その日は、生憎両親が不在で二人きりのときだった。何を話せば良いかわからずにドギマギしている真姫に冷蔵庫の残り物で昼食を作ってくれた。今までに食べたことがないようなチャーハンと中華スープだった。

 

 

 

「美味しい」

 

 

 

それが真姫が昇一に言った最初の言葉だったことを覚えている。そこから十日もかからず日を重ねるうちに話しやすくなっていき、今では料理の作り方を聞いたりするようになった。加えて今まで一人で居ることがせいか物寂しさを感じていた心も落ち着いて、昇一といると安心するようにもなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ごちそうさま」

 

 

食欲がないと言っていた真姫も一人分で作られたお粥を完食すると昇一は嫌な顔一つせずに鍋を片づけにいく。すると、何故かタオルと風呂桶を持って戻ってきた。

 

 

「昇一、何よそれ」

 

 

「汗かいてるだろ? 体を拭いてあげようと思ってさ」

 

 

「うぇええ!?」

 

 

 

さらっといきなりとんでもないことを言い出した。

 

 

 

「ほら、ちゃちゃっと脱いで」

 

 

「ど、どうしてそうなるのよ! 熱が出てるわけじゃないんだから!」

 

 

 

そのとおり。真姫は別に熱が出ているわけでも、病気に罹っているわけでもなく、ただ悩み事があって食欲がなかっただけなのだ。断じて病人ではない。

おまけに真姫は年頃の女子高生なのだ、例え信頼している人間であっても相手が男性であれば自身の身を晒すことなど到底考えられないのは当然だ。

 

 

 

「どうしたの? 早く脱ぎなよ」

 

 

 

しかしそのことを知ってか知らずか、はたまた天然か。昇一はパジャマを脱ぐように促してくる。相変わらず笑顔で言ってくるあたり後者だろう。ここまでくると何を言っても無駄だという結論に達すると真姫は観念したかのように返事をする。

 

 

 

「わかったわよ。……脱ぐから向こう向いてて。良いって言うまで絶対にこっち見ないでよ」

 

 

 

昇一は真姫の注意にうん、と頷くと体ごと部屋の扉ほうに向く。

真姫はパジャマのボタンを一つずつ外していく。

 

(……そんなに見たいなら、見せてやろうじゃない!)

 

内心はもはやヤケクソだった。

 

 

 

「良いわよ……こっち向いて」

 

 

 

昇一が真姫に向き直る。

真姫は腕で胸を隠し、パジャマの上着を肩に掛けて背を向けている。

 

 

 

「パジャマ取って」

 

 

「……はい」

 

 

 

昇一は真姫の背中を滑らせて上着を下ろす。上着を綺麗に畳んで脇に置き、持っていたタオルを三つ折りして背中に押し当てた。お湯で絞って為に温かい熱が伝わってくる。昇一は何も言わず、強くもなく、弱くもない、絶妙な力加減で背中を拭いていく。

 

(……気持ち良い)

 

こういうあたり本当に介護施設で働いていた職員だったのではないだろうかと思う。

しかし、よくよく考えてみれば母親以外の人に背中を拭いてもらうのは初めてだった。父親にも拭いて貰ったことはない。昇一は何を考えているのだろう。いやらしい妄想でもしているのだろうか?

そんなことを考えていると昇一が話しかけてきた。

 

 

 

「真姫ちゃん」

 

 

「何よ」

 

 

「真姫ちゃんの背中って、結構固いよね」

 

 

「それ、女性に言うことなの? ……背中が固いのは肉付きが悪いからよ。運動も苦手だし」

 

 

「もっと食べて運動もしなきゃ」

 

 

「言われなくても分かってるわよ」

 

 

 

背中を拭き終えると医者みたいに静かに寝るように告げてから、昇一は部屋から出ていった。

もはや何をする気にもなれず、再びパソコンに向かい合いスリープ状態を解除する。ネットに繋いでヤホーのニューストピックスをぼんやりと眺める。

 

トピックスの一覧には、

 

・女性を絞殺した男性 警察署へ自首。

 

という見出しが最新のニュースとして一番上にのっていた。そのまま一覧を眺めているとある記事に目が留まる。

 

・縄文時代の地層から男性の遺体。

 

世間を騒がせている例の事件かもしれない。そう思ってクリックして全文を読んでみる。

 

都内の大学の発掘調査団が遺跡の発掘中に掘り起こされた形跡のない縄文時代の地層から、死後数日しか経っていない男性の遺体が発見されたらしい。男性が身に着けていたスーツからは免許証が発見されたため、土の中で生き続けていた縄文人が最近になって死んだわけではなかった。

 

 

では、タイムパラドックスでも起きたのだろうか?

いいや、時間を逆行することなどありえない。仮に出来たとしたら、それこそアインシュタインが腰を抜かして驚くだろう。

とにもかくにもあり得ないことには違いない。やはり例の『不可能犯罪』だろう。

そこまで考えるとまた憂鬱な気分になってきた真姫は一時停止していたリラクゼーション音楽を再生し始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『不可能犯罪』

 

全国の学校で入学式が行われてから間もない頃だった。

文京区の大場中学校の校庭で事件は起きた。第一発見者はこの中学に通う二年生の男子生徒だった。休み時間中にクラスメイトとボール遊びをしていた彼は取り損ねたボールを追いかける為に校庭の草むらに紛れたボールを手にしたとき、視線を感じた。後ろを振り返ると桜の樹が彼を見つめていた。

 

 

小さな洞の中にカッと見開かれた目があり、樹の根元には流行りの黒縁メガネが落ちていた。彼にはそのメガネに見覚えがあった。囲碁部に所属する同じクラスの男子生徒がいつも身に着けているメガネと一緒だったからだ。男子生徒は桜の洞の中で死んでいた。更にこの二日後、今度は男子生徒の両親も同じ手段によって殺害された

 

 

この事件において物理学の専門家は、桜の中の死体。小さな穴から死体を押し込むのは不可能であり、異次元からでも送り込まれない限りこんな状態はあり得ないと結論付けた。こんな嘘のような事件が今年に入ってから都内のあちらこちらで数十件発生しているのだ。年が明けてからの不可能犯罪の報告例をいくつかあげると、人体の自然発火による焼死、壁の中の死体、食後の飢餓など、聞けば耳を疑うようなものばかりだ。

 

 

極めつけは犯人に結び付く手掛かりがないことだった。これまでに起きた不可能犯罪の現場近くには複数の監視カメラがあるにも関わらず、犯人らしき姿が一切見当たらなかったのだ。通常であれば監視カメラには被害者の姿だけでなく不審者の姿も映っていることも多いが、頻発している不可能犯罪においてはいずれも例外なくその痕跡はなかった。このことが警察や一般市民の不安を一層募らせる原因になっていた。

 

 

アンノウンによる犯行だと認定された最初の不可能犯罪は昨年の十月のことだった。

その日は都内にある二十階建てのオフィスビルの屋上から女性が一階の床へ転落したのだ。屋上から身を投げたわけではなかった。その女性社員は各階の天井や床をすり抜けて一気にロビーの床まで落下した。各階で働いていた会社員たちが天井から降ってきて床に消えていった女性社員の姿を目撃していた。

 

 

恐怖の表情はなかった、という目撃証言が複数ある。花の蕾のようにスカートを脚に絡ませて落下する彼女は自分の身に何が起こっているのか理解できずに、不思議そうな顔をしていた、という。この物理的にはあり得ない転落死事件を皮切りに不可能犯罪が頻発し始めたのだ。

 

 

犯人不明、殺害方法不明、殺害動機不明。いつしか一連の事件を不安視する市民は猟奇的殺人事件の犯人に対して『アンノウン』と囁くようになり、ついにはマスコミや警察も『アンノウン』の名称を使い始め、巷やネットで一気に広がるようになっていった。

 

 

 

 

 

 

「はぁ……すっかり遅くなっちゃった。早く帰らなきゃ」

 

 

 

南ことりは都会の暗い夜道を一人で歩いていた。アルバイトの帰り道だった。

同級生で幼馴染みの高坂穂乃果、園田海未の三人でスクールアイドルを結成した当日、自分達のステージ衣装のデザインの参考になるファッションが秋葉原にあるのではないかと思って秋葉原一帯を練り歩いていた際に、客引きをしていたメイド喫茶の女性店長からうちで働かないかとスカウトされ、働き始めたのが三日前。

まだ働き始めて間もないが、ことりはこの三日間で驚くべき成績を残していた。それと言うのも彼女の接客スキルが他のメイドよりも抜群に高く、瞬く間にリピーターを獲得しメイド喫茶の一番人気になったのだ。今日は、人気のあまり時間が掛かってでも接客して貰いたい客が続出し、閉店するまで働き詰めの状態だった。

 

 

 

「あれ? 人が誰もいない……」

 

 

 

交差点に差し掛かり信号待ちをしているとあることに気が付いた。何となくふと、周りを見渡すとことり以外の人間が誰一人として見当たらない。人間だけでなく自動車やバイクさえ走っていない。まるで世界にことりだけが取り残されたように。

 

 

 

「誰か! ……誰か居ませんか!」

 

 

 

急激に言い表しようのない不安がことりを襲う。自分以外の人間が突如いなくなったという事態に、ことりは思わず声をあげて他の人間に呼びかける。微かな可能性を信じて。しかし彼女の声は誰にも届くことはなく虚しく消えていった。

その時だった。視界の端に何か赤いものが目に入った。視線を移すと街路樹の陰で一メートル以上はある赤いスカーフが靡いている。

次の瞬間、スカーフに続いて肉食獣を思わせる黄緑色の眼光が闇に光り、豹と人間を融合させたような異形の生物、ジャガーロード=パンテラス・ルテウスが姿を現す。このルテウスこそが、文京区の大場中学に通う男子生徒とその両親を殺害した犯人なのだ。

 

 

 

「ひっ!」

 

 

 

ことりとルテウスの距離はおよそ十メートル。にも関わらず重く生暖かい息づかいが伝わってくる。同時にあり得ないものが存在するという存在感に空気が震えている。

 

 

 

(は、早く逃げないと……)

 

 

 

自分の生物としての本能が必死に逃げろと叫んでいる。しかし尻餅をついて倒れた体は本能に反して動いてくれなかった。

獲物を追い詰めるかのようにゆっくりと歩を進めるルテウスは、意味不明な仕草をした。左手で右手の甲に五芒星を潰したような模様を描く。これはアンノウンが人間を殺すときに必ず切る、闇を象徴する殺しのサインだった。

 

 

ついに一メートルの距離まで迫って来た瞬間、ルテウスは歩みを止めて後ろを振り返った。

するとルテウスが呻くような低い声で呟いた。

 

 

 

「AGITΩォ」

 

 

 

アギト―――。

ことりには確かにそう聞こえた。

ことりはルテウスが言葉を発したことに驚いたが、更に驚くべきものを目の当たりにした。

闇の中から金色の生命体が現れ、ルテウスと向かい合った。昆虫を連想させるような真っ赤な複眼に、頭には金色の二本の角を持ち、腰のベルトのバックルが繰り返し眩い光を放っている。

 

 

ルテウスに比べるとアギトと呼ばれた金色の生命体は限りなく人間に近い姿をしていた。ルテウスは咆哮をあげ、猛烈な速さでアギトに襲いかかった。

ことりはその光景に目を見開いていた。何よりもアギトの戦いぶりが信じられない。

アギトはルテウスの拳や蹴りを最小の動きで躱し、あるときは素手で受け止め、的確にカウンターを当てていく。一方的に攻撃を仕掛けているのはルテウスなのに、一方的に攻撃を当てているのはアギトという構図だった。

 

やがて戦いにも終わりが見えてきた。アギトはルテウスの突進を両腕で受け止めるとそのまま投げ飛ばし、投げ飛ばされたルテウスは受け身も取れずに背中から落下する。同時にアギトの額にある秘石・マスターズオーヴが光り、二本の角が六本に展開する。

アギトの足元には龍の顔を模したような紋章が浮かび、大地のエネルギーが両足に集束する。アギトはそのまま空高くへと跳び上がり、ルテウスに光のような跳び蹴りを放つ。蹴りをくらったルテウスは胸に凄まじい衝撃を受けて後方へ吹き飛ばされる。必殺の一撃を受けてもなんとか立ち上がろうとするが、胸を掻き毟るように数秒もがき苦しんだあと轟音と共に爆発してルテウスは跡形もなく消滅した。

 

 

その様子を見ていたアギトは何事もなかったかのように平然と踵を返し歩き始めた。

 

 

 

「ま……待って下さい……」

 

 

 

近くの電柱を支えにしてようやく立ち上がることに成功したことりは、歩き去っていくアギトを引き留めようと手を伸ばした。アギトは一度だけことりに振り向いて無事を確認すると、歩いて静かにその場を去って行った。

 




というわけで、最初にアンノウンに襲われたのはことりでした。

ついでに。真姫ちゃんファンの方、申しありません。真姫ちゃんがキャラ崩壊を起こしてしまいました。真姫ちゃんはこんな娘じゃない!と思われるでしょうが、本当にごめんなさい。


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第2話 昇一の一日

一週間ぶりの投稿になりましたが、最新話です。

この前ネットで注文した真骨彫のアギトが届きました。
クウガと一緒に飾って置いていますが感無量です。


「う~~~ん。今日も良い天気だなぁ」

 

 

洗濯機から洗濯物を取り出し二階のバルコニーにでた昇一は大きく伸びをしながら太陽の光を浴びていた。太陽の陽を浴びると体の中の細胞や血液が元気になって自分に一日分の活力を与えてくれる。昇一はその感覚が好きだった。

 

昇一は洗濯籠の中から洗濯物を掴み、慣れた手つきで素早く物干し竿に吊るしていく。タオル、ハンカチ、靴下はそのまま物干し竿へ、カッターシャツ、セーター、ブラウス、カーディガン、トレーナー、フリース、ジャージ、カーゴパンツはハンガーにかけて吊るしていく。

 

が、次の物を干そうとして掴むと致命的なミスを犯していたことに気が付いた。

 

真姫から自分の下着は自分でやるから洗わなくて良い、と言われていたことを思い出した。以前にも同じミスを繰り返していて今回で二回目だ。もちろん初犯は土下座して謝った。真姫はこれでもかと言う程に怒りで顔を真っ赤にして俯き、怒りの声をあげながら昇一の左頬に思い切りビンタをかましたのだ。今回も同じ展開になるかもしれない、と想像すると左頬を擦った。

 

洗濯物を干した後は家の掃除に取り掛かる。掃除機をかける前にはたきで埃を落とす。天井、照明器具、壁、カーテンレール、テレビの画面、テレビ台、小物、タンスの上、革張りのソファー……。

 

これらすべての埃を落としてから掃除機をかける。絨毯、フローリング、階段、家具同士に隙間があれば掃除機の先端部分を取り換える。

 

掃除機をかけ終わったら今度はトイレの掃除だ。

 

手拭を薄めた中性洗剤に浸して固く絞り、便器の裏に布を回して便器の形に添わせながらキュッキュッと音がするまで上から下に向かって磨く。便器の外周をくまなく拭き、便器の付け根部分も、布の端を差し込みながら隙間を拭く。厚みを調整しながら布を、便座設置部分の付け根部分に差し込んで布の端を持って左右に動かしていく。便器の蓋の付け根部分も便座の設置部分と同じように行っていく。

 

水タンク脇のパイプや露出した配管部分は、軽く濡らした布にクレンザーをつけて拭き、乾拭きをしていく。配管部分にあるしつこい錆は錆落としクリームを使って対処する。これで便器周りは終了。

 

ざっと便器内を掃除したら今度はサンドペーパーを便器の縁に当て、小さく円を描くように意識しながら一周擦りあげる。一周したらメラミンスポンジに水を含ませて磨いた面を拭きとるように拭い、便器の縁の上、便座の裏など、周囲を石鹸液と手拭いで拭き上げて仕上げていく。

 

最後は換気扇を取り外し、換気扇のカバーも石鹸液に浸した手拭いで念入りに拭いていく。トイレの窓と窓周りも石鹸液で拭いていく。壁部分は消毒用アルコールを少量吹きかけながら壁部分を上から下に向かって拭いていく。床も壁と同様に奥から手前に向かって拭いていく。もちろん普段から手が届きにくい四隅に取り組むことも忘れない。

 

ここまでの掃除を昇一は毎日欠かさず行っている。ともすればやりすぎ、大掃除かとも見てとれるだろう。しかし言われたからやっているわけではなかった。昇一に言わせれば家は人間と同じで綺麗になれば気持ち良いし、喜んでくれる。そんな思いで彼は毎日念入りに掃除しているのだ。

 

掃除が終わると買い物籠を持って買い出しに出掛ける。行先は既に顔馴染みになった商店街の魚屋だった。

 

 

「よう! 昇一!」

 

「どうも、親父さん」

 

 

昇一が魚屋に着くやいなや店主の大将が目ざとく声を掛けて来る。

 

 

「今日も良いのが入ったからよ! 当ててみな」

 

 

大将はこの半年で昇一の目利きぶりに感心し、いつものようにどれが今日一番のお勧めなのか問題を出してくる。今だからこそ親しげに会話しているが、実は当初、大将は昇一に対抗心を持っていたのだ。対抗心を持っていたと言っても、大将が一方的に意識していただけなのだが……。

 

昇一が魚屋に通うようになってからというもの、彼はいつもその日一番の魚を買って行く。最初の頃はどうせ偶然だろう、と高を括っていた大将だったが、次第に対抗心を燃やすようになり少し意地悪をしたことがあった。普段は仕入れない魚を複数店の陳列台に置いてハズレを買わせてみようと何度も試しみたのだ。もちろん目が行くようにお勧めの魚の近くに。普段はあまり見かけない魚を見て目を輝かせていた昇一の様子をしめしめと見ていた大将だったが、結局、彼が毎回買って行ったのはアタリの魚だった。ここまでやられてしまっては諦める他はなかった。

 

昇一は今も陳列台の魚を、顔を綻ばせながら吟味している。彼は自分を呼んでいる魚の声を探す時間が好きだった。鰹と目が合い、鰹が笑った……ような気がした。これだ、と思い鰹の口に小指を突っ込んだ。間違いない、小指を通して鰹が昇一に訴えている。俺を食べてみな、と。

 

 

「親父さん、この鰹二匹ください!」

 

「流石に目利きだな昇一。今日は鰹がアタリなんだよ」

 

 

大将はいつも昇一の目利きぶりに感心し、いつもと同じ質問をする。

 

 

「にしても、魚の口に指を突っ込んで何かわかるのか?」

 

 

それに対して昇一の返事もいつもと同じだった。

 

 

「はい、魚が俺の中で泳ぎたがっているんです」

 

 

夕飯の買い出しから戻って来た昇一は、園芸用のエプロンと軍手、長靴を履いて庭にでる。車五台程が止められる広さの庭は、昇一が腐葉土を敷き詰めた家庭菜園だった。丹精を込めて育てられたネギ、キャベツ、トマト、ホウレン草などが活き活きと実っている。大きく育ったホウレン草を園芸用のハサミで一株ずつ切り取り、ざるへ載せていく。

 

おひたし、胡麻和え、バターソテー、ナムル、ポタージュ……新作のレシピを試してみるのもありだな、とホウレン草を収穫しながら頭の中でいかに美味しく料理するか考えていた。

 

 

「ただいま」

 

 

門扉が開くと同時に若い女性の声が響く。肩まである特徴的な赤い巻髪を揺らしながらこの家の一人娘、真姫が庭の方へ歩いてくる。

 

 

「あっ、お帰りー」

 

 

紺のブレザー、青いリボン、青いチェック柄のスカート、黒のソックス。

真姫には制服姿がよく似合っている。

 

 

「手伝ってあげても良いわよ」

 

「ありがとう、でも大丈夫。もうすぐ終わるからさ」

 

「……そう。なら良いわ」

 

 

上から目線の申し出ではあったが、残念そうに呟きながらも昇一の横にしゃがんで収穫したばかりのホウレン草を眺めた。

 

 

「この前植えたばかりなのに、昇一が世話すると野菜の成長が早いんじゃない?」

 

「そりゃあ、愛だよ、愛」

 

 

ざるに乗せたホウレン草を赤ん坊のように抱いて昇一は言った。

 

 

「もしかして農家の生まれなんじゃないの?」

 

「それは……ノーかな。ハッハッハ」

 

「はいはい」

 

 

真姫は下手なことを言うんじゃなかった、と後悔しながらも慣れた様子でつまらないダジャレを受け流した。

 

 

 

 

 

夕飯時。二階の自室で宿題をしていた真姫は昇一のご飯だよ、という声を聞き、ダイニングに座った。テーブルの上には嗜好を凝らした手作りの料理が準備されていた。ホウレン草と鶏むね肉の和え物、ホウレン草のお浸し、キャベツの塩ダレ蒸し、合わせみそを使った浅蜊の味噌汁、白飯。

 

 

「実はもう一品あるんだよね」

 

 

勿体つけて出したのは大皿に盛られた鰹のタタキだった。程よく炙られた皮の下で鰹の身が光沢を放っている。

 

 

「昇一が作ったの?」

 

「うん、鰹を捌くところからね。下ろした鰹の身を冷蔵庫で冷やしてさ、串を刺して焼く前に皮目だけに塩を振りかけて直火で焼いたんだよね。やってみたら意外と簡単に出来るんだよ」

 

「でも串で直火焼きにするのは初心者だと難しいんじゃないの?」

 

「大丈夫。その場合はフライパンで焼くっていう手もあるし」

 

 

それなら私にもできるかも、と内心思いつつ料理を食べ進める真姫と昇一。これがこの二人の何気ない日常だった。

 

 

夕飯後。

真姫は思い付いたように昇一に聞いてみた。

 

 

「昇一が家に来て半年が経つけど、何か思い出したことないの?」

 

「う~~~ん、ない……かな」

 

「そう。……でも不安じゃないの? 自分の記憶がないなんて」

 

「不安とかはしてないかな。記憶がなくなったといっても今のところ不自由してないし」

 

 

真姫に聞かれてそういえば戻ってきた記憶は何もないなと思う。住んでいた住所、本名、家族や友人。思い出したことは何一つとしてない。むしろ自分自身が記憶喪失であることさえ忘れてしまっている。現在が充実している昇一にとって過去はどうでも良いことだった。記憶が戻っても戻らなくてもどっちでも良い。そんな風に考えていた。

 

 

「それよりさ、真姫ちゃんはどうなのよ。最近溜め息ばかりついてるけど、学校で何かあったの?」

 

「うぇええ? な、何よ急に」

 

「だって真姫ちゃん、何か相談したいような雰囲気を醸し出してたからさ」

 

 

唐突に話題を変えてくる昇一。実はここ最近、真姫が何かに悩んでいることを彼は薄々気が付いていた。半年間一つ屋根の下で一緒に生活していれば手に取るようにわかる。それでも今まで黙っていたのは、無闇に首を突っ込んではいけないと思っていたからだが、思わず心配になって聞いてみた。

 

 

「別に何もないわよ。変な事言わないで」

 

「本当に? ……あっ、もしかして遠慮してるとか。大丈夫。俺、一応は真姫ちゃんより年上だしさ。上手くアドバイスはできないと思うけど話しを聴くことは出来るからさ」

 

 

何もないと言っているのにも関わらず、相変わらずふやけた笑顔で話しかけてくる昇一。

 

 

「はぁ……もう良いわ。話してあげるわよ。実は―――」

 

上から目線だが昇一の笑顔に負けて口を開く真姫。何だかんだいいつつも昇一にことの顛末と抱えている悩みを打ち明ける。

 

話しを纏めていくと―――

 

・音ノ木坂が数年後に廃校になるかもしれないことが告げられる

・廃校を阻止しようとするべくスクールアイドルを発足させた先輩がいる

・しかし、人気を獲得する為にはオリジナル曲を歌う必要がある

・立ち上げた先輩が音楽室で語り弾きしていた曲を耳にして真姫を発見

・再三に亘り真姫に作曲を依頼して彼女が思い悩む

 

ということらしい。なんとも示し合わせたような展開だが、起きてしまったことはしかたがない。ここまでの話しを聴いた昇一は―――。

 

 

「えっ!? 音ノ木坂なくなっちゃうの? 勿体ないなぁ。俺、あの学校好きだったのになぁ」

 

 

何故昇一が音乃木坂を好きかと言えば、彼が校舎に足を踏み入れた事があるからだった。真姫の入学式の日、仕事の都合で出席できなくなった西木野夫妻に代わって父兄として式に出席したのが昇一だった。式が終わってそのまま帰ることはなくパンフレットを頼りに学校の施設をくまなく探索したことがあった。

広い校庭や、講堂、プール、噴水、弓道場、剣道場、購買部、長い歴史を感じさせる趣のある校舎。おまけにアルパカを飼っていたのを覚えている。こうした学校なら生徒も伸び伸びとした学園生活を送れそうだと感じ取り、昇一は一気に音乃木坂を好きになった。この学園に通える真姫ちゃんが羨ましい、と。

 

 

「それで真姫ちゃんはどうしたいの?」

 

「どう、って……別にしても良いけど、私の音楽はもう終わってるし……やらなきゃいけないことがあるっていうか……でも今更作曲するのもあれだし……」

 

 

思った以上に歯切れが悪い真姫。こういう姿を可愛いと思える昇一だが、同時にツンデレが発動して素直になれないんだなという感じだ。

 

 

「良いんじゃない。作曲に協力しても」

 

「えっ?」

 

「だってそこまで悩むってことは、並々ならぬ関心を持ってるってことじゃない」

 

「それは…そうだけど…」

 

「俺、思うんだ。人生って好きなことをやったもの勝ちなんじゃないかって」

 

「どういうこと?」

 

 

昇一の呟いたことに意図がわからず聞き返す真姫。

 

 

「何て言うのかな……俺が毎日、掃除するのも、料理するのも、野菜の世話をするのも、全部楽しいし嬉しいと思えるからなんだよね。掃除すれば家が喜んでくれるし、料理をすればみんな美味しいって言ってくれるし、野菜を育てれば美味しい料理が作れるだろ?」

 

「なにそれ意味わかんない」

 

「わかんないかなぁ。つまりさ、自分のやりたいことをやればいいんじゃないってこと。真姫ちゃんだってよく語り弾きしてるだろ? それって誰に言われたからでもなく自分がやりたいからやってるってことじゃない。それに高校生活って人生の中で一度しか送れないんだから、今のうちにやりたいことをやっておかないと後悔するかもしれないし」

 

「そうね……そうかもしれないわ」

 

 

昇一の言葉を黙って聴いていた真姫がおもむろに呟いた。

 

 

「そうだよ。真姫ちゃんは俺より若いんだしさ、何でも出来るよ。挑むことを恐れないでやってみようよ。何かあったら俺も手伝うし」

 

「わかったわ。……作曲やってみようと思うの。後悔したくないから」

 

 

どうやら心が決まったようだ。昇一がしたことはただ真姫の背中を押したことだったが、真姫が決断に踏み切れなかったのは誰かに背中を押してほしかったのかもしれない。

真姫はリビングのソファーから立ち上がり地下室に向かう。もちろん作曲に取り掛かる為だ。その背中を昇一は満足げな笑顔で見守っていた。

 




掃除のくだりでまさかの1000文字越え。
それにしてもあっさりし過ぎましたかね?特に最後の方で。

それともう少しストーリーが進んだら主人公の簡単な設定を、活動報告に掲載する予定です。


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第3話 人の居場所

お待たせしました、二週間ぶりの更新になります。

え?誰も待ってないって?そうですか……。

それと今更ですが、非ログインユーザーからでも感想を受け付ける設定に変更しました。


夕方。

森林公園にある噴水の近くで一人の若い男性がキックボードを巧みに操りながら技の練習を行っていた。彼は都内の私立大学に通う二年生。当初はキックボードよりもスケートボードに興味を持っていたが、去年から密かに流行り始めたキックボードに魅了されてやり始めたのが切掛けだった。海外では既に何度か大会が開かれており高度な技術を身に着けた者たちが鎬を削りあっている。大会の様子を記録した映像を某動画サイトで視聴した時は、圧巻の一言に尽きた。競技の見た目はBWXやスケートボードに通じるものがあったが、それらとは違う魅力が彼をキックボードの虜にした。有力な情報に依れば近々日本でも大会が開かれる予定で全国各地にいるボーダーが大会に向けて己の技を研磨しているらしい。

 

――俺はその大会に出場して優勝する

 

それが彼の夢であり目標だった。

 

しかし、若者の志は間もなく潰えることになる。

 

アンノウンの手によって――。

 

落ち葉が積もった地面の土の中から上半身を出し射抜くような鋭い視線で彼を見詰める存在が一つ。息を潜めながら獲物とする存在を見定めていた。練習に没頭している彼は自分の命を狙う存在に全く気付いていない。

 

「ハァァァ」

 

呻き声をあげると土の中から完全に身を出し殺しのサインを切って襲い掛かる。

 

「今日も頑張ったねー。夕飯は何が食べたい?」

 

「え~~っとね、カレーが食べたいの!」

 

すぐ傍を幼稚園のお迎え帰りの母娘が通り掛かると男性の悲鳴が聞こえてきた。

 

「うわああああああああああああああああああああっ!!」

 

母親は何事かと思い前方を見ると大学生ぐらいの男性が、銀色の亀のような化物――トータスロード=テストゥード・オケアヌス――に襲われているのを目撃した。

瞬間。母親は悲鳴をあげると同時に幼い娘を咄嗟に抱きかかえて逃げ出した。

 

オケアヌスに襲われている大学生の彼も何とか隙をついて全速力で逃げ出した。

 

――逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ!!!

 

必死だった。頭が、体が。逃げろという本能的な命令で埋め尽くされながら力の限り逃げ回る。もしも大地を蹴る脚のスピードを、ほんの少しでも緩めてしまったら追いつかれるかもしれないという恐怖、得体のしれない存在に襲われた恐怖、本能的な、生理的な恐怖、明確な殺意を持って襲われたという恐怖、そして死に対する恐怖。これらの恐怖を一度に身に浴びた彼に与えられた選択肢はただ一つ。

 

 

逃げ回ってどれだけの時間が経っただろうか。数十秒、数十分、あるいは数時間。闇雲にこの広い森林公園を逃げ回り続けた結果、一度も足を運んだことがない場所に辿り着いた。ここまで来れば大丈夫だろう。逃げろという本能的な命令に支配されていた頭と体は僅かな落ち着きを取り戻していた。

 

それほど太くない木を盾にするような形で周りを見渡し冷静さを取り戻した頭で自分が襲われた理由を考える。

 

――助けてくれ!! 誰か助けてくれ!! あれは何だ!! あれは一体何なんだ!! どうして俺が!? どうして俺が襲われるんだ!! 俺は何もしていない!! 俺は一度だって何も悪いことはしていないのに!! ……おかしい。誰も居ない……?

 

少し冷静さを取り戻したといっても大半の思考は未だに恐怖と混乱に陥っている状況だったが一つの異変に気が付いた。自分以外の人間が一人も居ない。公園という人が多く集まるはずの場所に人影が見当たらない。今は夕方だが、それほど遅い時間というわけでもなかった。

 

しかし、今はそんなことはどうでもよかった。重要なのは、あの化物から逃げ切れたかどうかだけ。化物の姿は見当たらない。

 

――よかった、助かった……

 

と安堵しようとした瞬間。背後からオケアヌスが再び地中から現れ襲いかかってきた。

 

「うわああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!」

 

突如現れたオケアヌスに気付くのが遅れ、振り返ったときには顔面を殴り飛ばされていた。当たり所が悪かったのだろうか、殴り飛ばされた彼は脳を激しく揺さぶられたことによって脳震盪を起こしそのまま気を失った。

 

ここから先に彼の身に起こったことは想像するに難くない。

 

最初に襲われた現場と最後に襲われた現場には、彼が愛用していたキックボードと土に汚れた帽子が落ちていただけだった。

 

 

 

ΩΩΩΩΩ

 

同時刻

 

今日も今日とて西木野家に居候する青年、賀上昇一は菜園で野菜を収穫しながら料理を考えていた。

――金平……サラダ……マリネ……和え物……ガレットにしてみるのもありだな……。

 

頭の中では人参を使った料理を考えつつ上機嫌に鼻歌を吹いている。

 

 

「♪~♬~♫~」

 

「なに鼻歌吹いてるのよ。嬉しいことでもあったの?」

 

「真姫ちゃん」

 

 

黒とピンクのジャージ、紫の短パン、カラフルなハイソックス。

真姫はカラフルな私服もよく似合っている。彼女は依頼されていた作曲を僅か二日で完成させて音を書き込んだCDを依頼主の郵便受けに投函してきたそうだ。

 

 

「何か嬉しいことでもあったの?」

 

「そう? 別に普通だけど」

 

「だったらどうして毎日ご機嫌なわけ?」

 

 

普段昇一と生活している上で真姫は疑問を抱いていた。毎日の生活を送る中でいつも笑顔を絶やさずにいられる人間は多くない。いるとすれば余程の天然か相当な幸せを感じている人だろう。だからと言って何一つストレスの溜まらない人間などいない。しかし昇一に限って言えばストレスを感じさせる素振りすらみたことがないと真姫は思う。

 

 

「ご機嫌って言われてもなぁ。俺だって落ち込むときぐらいあるよ」

 

「そうなの? ちょっと意外かも。昇一が落ち込むことってあるんだ」

 

「そりゃあ落ち込むよ。俺だって人間なんだから」

 

「それもそうね。でも毎日元気っぽいじゃない」

 

 

正直に言えば真姫にとって昇一の言葉は意外だった。彼女が昇一に対して抱くイメージは、いつも笑顔で家事をそつなくこなす主夫であり、天然ボケで悩みを抱えることがないお調子者だとばかり考えていたが、誤った認識だと気付く。なんせ彼は記憶喪失なのだ。いくら天然ボケであろうとお調子者であろうと悩むときはある。自分の過去がわかないなら尚更に。だったらどうして笑顔でいられるのだろう、と顔に出ていたのか昇一が間をおいて話す。

 

 

「なんていうかさ、最近思うんだよね。自分の居るべき場所があるっていいなぁって」

 

「自分の居るべき場所?」

 

「うん。俺だけじゃなくて、先生にも、院長にも、真姫ちゃんにもあるだろ? 自分の居場所がさ」

 

「……」

 

「そういうのって誰にでもあるんだよ、きっと。みんな自分の居場所に居るときが一番幸せなんだと思う。だから…」

 

自分の居場所は誰にでもある――。

こんな事を言えるのは昇一だからこそだろう。記憶をなくして本来の居場所がわからい彼の言葉には重みがあった。

 

「だから、何?」

 

「そういうみんなの居場所を、俺が守れたらいいなぁって」

 

「なにそれ意味わかんない」

 

真姫は何故か急に不機嫌になり家の中へ戻って行った。

昇一の言いたいことはわかるが、真姫にとっては納得できないものがあった。彼女の居場所はもちろん自分の家庭であることに間違いはない。だが、家庭以外に居場所はなかった。総合病院の一人娘として生まれた時から一般家庭よりも恵まれた生活を送ってきたが、周囲の反応は年を重ねる程に冷やかになっていった。容姿端麗、頭脳明晰、果ては総合病院の跡継ぎとしての彼女に対して周りの人間は嫉妬し疎み離れていった。

 

仲が良かった人間もいるには居たが、結局は自分から離れていき気が付けば自分から人との関わりを避けるようになり、ついには一人ぼっちになってしまった。

 

――本当は人と関わりたいのに。放課後は友達の家で遊んだり、部活動に参加したり、友達と話題になっていることについて盛り上がってみたかった。そんな当たり前のことがしたかった。

 

昇一の言葉に対する真姫の最後の言葉は、今までの境遇によるものからだったのだ。

 

 

真姫が家の中に戻り、昇一が収穫を再開しようとしたときだった。

突如静寂に包まれ周囲の物音が一切聞こえなくなり激しい耳鳴りと頭痛が昇一を襲う。

 

「うっ! ぐぅぅううっ!」

 

咄嗟に頭を押さえるが痛みは暫く引くことはなかった。だが昇一は知っている。この痛みの意味を。またやつらが現れたのだと。昇一は身に着けていたエプロンを脱ぎ捨て家を飛び出すと駐輪場に置いてあったマットガンパウダーメタリックのバイク・ホンダVTR1000Fに跨って急発進する。

 

「昇一!」

 

その様子を自分の部屋の窓から見ていた真姫も慌てて二階から下りて家を飛び出し、登校するときに使う自転車に跨って昇一の後を追う。

真姫には気になっていたことがもう一つある。昇一が度々険しい顔をして家を飛び出していく理由に。ここ暫く昇一が突然家を飛び出していく様子を何度も目にしてきた。いつも決まって険しい表情――言うなれば戦う覚悟を決めた戦士のような顔つきを。こうなると例え好きな家事をしていても、野菜の世話をしていても、真姫と話しているときも。必ず昇一がとる行動は決まっていた。

 

昇一の後を追っていると自分以外の人間が一人もいないことに気が付くが、今はそれどころではなかった。あっという間に彼のバイクに引き離されてしまったが、昇一が辿った道のりが光の帯のように浮かび上がっているのを認識する。今までにこんな経験をしたことはない。果たしてこの光の帯は何なのだろう。導かれるように進むと森林公園に辿り着く。この森林公園は真姫の家から一キロ程離れた場所にあり、昇一のバイクも公園の中ほどに停めてあった。

 

――うおおおおおおおおおおおおおおおおっ!

 

バイクの横に自転車を停めて降りると林の傾斜の下から昇一の叫び声が聞こえてきた。急いで声がした方へ向かうと信じられない光景を目の当たりにする。太い木の後ろへ隠れるようにして様子を伺うと、昇一が生身で銀色の亀のような化物と対峙している。

 

「! 何なのよあれ…」

 

昇一は地面に落ちていた折れた木を手にして勢いよく横に振るうが、オケアヌスの硬い体に当たると同時に大して強度のない木は粉々に砕けてしまう。武器になるようなものを失ってしまった昇一は、オケアヌスの攻撃をくらい地面に仰向けに倒され足で踏みつけられる。オケアヌスは片腕で昇一の首を持ち上げ木に叩き付けたまま首を締め上げ殺そうとする。

 

苦悶の表情を浮かべながらも昇一は両腕を左腰の部分でクロスさせると、腰にベルト型の身体器官―オルタリング―が出現しオケアヌスを蹴り飛ばす。

態勢を立て直すと右腕を前へ伸ばし、伸ばした右腕を引き寄せる。再びゆっくり右腕を伸ばし―

 

「変身!」

 

と叫びベルトの両側に付いているスイッチを叩く。するとベルトの中心部に埋め込まれている賢者の石が発光し、眩光が昇一を包み込む。次の瞬間光が治まったかと思うとそこに昇一の姿はない。いるのは虫を連想させるような真っ赤な複眼と二本の金色の角をもった戦士、アギトが立っていた。

 

「AGITΩ」

 

アギトを認識したオケアヌスは呻き声をあげて襲いかかり

 

「! 昇一!」

 

真姫は目の前で起こったことが信じられないような表情で顔を強張らせる。

 

そこからは一方的な展開だった。アギトはオケアヌスの攻撃を全て最小の動きだけで捌きカウンターを当てていく。突進してきたオケアヌスを受け止めて投げ飛ばし、起き上がろうとしたところを拳で殴り飛ばす。

 

優位に思えた状況だったが、背後から思わぬ邪魔が入りアギトを羽交い絞めにする。新たに現れたのは金色の体色をした同種族のトータスロード=テストゥード・テレストリス。背後から拘束したまま鋭い爪でアギトの胸部―ゴールドチェスト―を掻き毟るように傷を負わせていく。殴り飛ばされていたオケアヌスはショルダータックルを二度かまし、三度目をかまそうとするが、アギトは力を振り絞って拘束から脱出し空中へ一回転してタックルを躱す。

 

タックルを躱されたことでオケアヌスとテレストリスはぶつかり合って転倒。後ろを振り返ったアギトは態勢を立て直した二体のトータスロードと睨み合い、最大限の力を解放するべくマスターズオーヴが煌めきクロスホーンを展開する。睨み合いに痺れを切らしたテレストリスが突撃するが、アギトは動じることなく右手を硬く握り締め顔の後ろまで引き、右足も後ろへ引き踵を浮かす。そこからタイミングを合わせて右足を左回りに回転させ、回転の威力を腰へ、更に足から腰へと伝わった回転の威力を右腕に伝えて腕を思い切り振りぬく。

 

「ハアッ!」

 

掛け声と共に振り抜いた拳は突撃してきたテレストリスの顔面を的確に捉え、樹とともに倒れていった。倒れたテレストリスは立ち上がろうとするが頭上に光の輪が出現し爆散した。数的に不利になったオケアヌスはアギトに背を向けて走り出し地中に潜って姿を消した。アギトは追いかけようとするが地中に潜り込まれては追跡のしようがなかった。

 

一連の出来事を木の陰から見ていた真姫は状況が呑み込めずに終始混乱したままだった。何が何だかさっぱりわからない。自分は夢を見ていたのではないかと思う。そう思いたかった。次の光景を目撃するまでは―。

 

追跡を諦めたアギトは立ち去ろうとして後ろを振り向くと再び眩光に包まれ変身を解き、元の姿が露わになる。立っていたのは昇一だった。彼はバイクを停めた場所に戻ろうと歩き出したが足を停めた。木の陰でこちらを見ていた真姫と目が合ったからだ。彼女は昇一と目が合った瞬間にその場から走って自転車に跨り来た道を急いで戻って行った。昇一は真姫を追うこともせずに複雑な面持ちで立ち尽くしているだけだった。

 

 

 

 

 

ΩΩΩΩΩ

 

森林公園から急いで帰って来た真姫は、電気も付けずに部屋のベッドで蹲っていた。

 

――私が見たものは何だったの? あの亀みたいな化物とか…未確認生命体? それともUMA? いいえ、あんなのがいるなんてあり得ないわよ! それに昇一が変身したあの姿はなんなの? 人間の姿があんな風に変わるなんてあり得ない! でも昇一は確かに変わっていたし…。もしかして昇一が私達を騙していた? でも、昇一を居候させたのはママ

のはず…。あぁもう! どうして私が昇一のことで悩まなくちゃいけないのよ! 

 

幾ら考えても結論は纏まらなかった。それどころか昇一が金色の生命体へ姿を変える光景が瞼に焼き付いたままだった。いつも笑顔で家事をこなす昇一と、変身して化物と戦う昇一。果たしてどちらが本当の昇一なのか。真姫は激しいギャップに頭を悩まされていた。

 

 

「真姫! 大変よ!」

 

翌朝。目を覚まし音乃木坂の制服へと着替えリビングに向かおうとした真姫は母親の慌てた声を聞き部屋を出る。

 

「ママ、どうしたの?」

 

「昇一君が居なくなったの!」

 

「え……?」

 

真姫の母親によれば起きてリビングに降りたときから昇一の姿はなかったらしい。キッチン、リビング、書斎、トイレ、菜園、駐輪場、昇一の部屋。どこを探しても見つからなかった。昇一の部屋に置いてあった荷物が全てなくなっていた。ただ一つだけ見つかったのは、昇一の部屋の机にメモが残してあったこと。メモには短い文章でこう書かれていた。

 

 

 

 

今までお世話になりました

               昇一

 

 

「昇一君、もしかして過去の事を思い出したのかしら? まさかそれで……」

 

真姫の母はもしや昇一が何か過去の事を思い出して家を飛び出したのではないかと考えているようだが、真姫は、それは違うと考えていた。

昇一が出ていってしまったのは、きっと私のせいだ。私があんな態度をとってしまったから居辛くなって家を出ていったに違いない。

しかし、ここで真姫を非難することはできない。何故ならそれが普通の反応だから。誰でも親しい人間が人間離れした姿に変身して見たこともない獰猛な化物と戦っている場面に出くわしたとしたら、真姫のような態度をとってしまうのが当たり前ではないだろうか。故に彼女を責めることはできず、人間離れした姿をした場面を目撃されて居辛くなってしまった昇一が姿を消したのは当然のことだと言える。

 

昨晩は布団に蹲っている途中で眠ってしまったが、真姫には思うことがあった。私は昇一のことを何も知らない、と。彼がどういう経緯で居候することになったのかは一通り聴いているし家での生活や彼の性格も知っているが、自分の知らないことがあるのではないかと思いつき改めて母に聞いてみた。

 

「ねぇ、ママ。聞かせてほしいことがあるんだけど」

 

「え?」

 

「記憶喪失の昇一が発見されたときのこと」

 

「それは前にも話したでしょ?」

 

「お願い。何でも良いから、もっと詳しく聞かせて」

 

どんなに小さいことでも良い。何か昇一のことを知る手掛かりのようなものが欲しかった。母親は若干困惑したが、家族以外の人間と関わりを持とうとしなくなって以来、久しぶりに見るような娘の姿を眺め静かに語り始める。

 

 

「山の道路で倒れている昇一君を、通り掛かったトラックの運転手が発見したの。服装からみて登山客とは考えられず、外傷がなかったことから誰かに襲われたわけでもなかったそうなの」

 

「身元がわかるような物は何も持ってなかったの?」

 

「えぇ。何も持っていなかったの」

 

 

やはり昇一の手掛かりになりそうな情報は何もなかったと思われたが、母は新しい情報を話し出す。

 

 

「そういえば、一つ面白いことを思い出したわ」

 

「なに?」

 

「運転手が昇一君を助け起こしたんだけどね、そのときに昇一君が意識を取り戻してこう言ったそうよ。…服が汚れちゃいますよ、って」

 

「……」

 

「昇一君らしいじゃない。自分のことよりも相手の服の事を心配するなんて。やっぱり昇一君は昇一君なのよ」

 

 

自分よりも相手の服を心配する――。

確かに昇一らしい。らしい、と言うよりも昇一そのものだ。その事をきいて心のどこかで安心している私がいると自覚する真姫。すると真姫の母がこんなことを訊ねてくる。

 

「もしかして昇一君と何かあったの?」

 

「何も……ないけど」

 

 

言葉に間があったのは、あのことを言おうかどうか逡巡したから。

 

 

「…そう。ならいいの」

 

「どうしてそんなこと聞くのよ」

 

「どうして、って。もしかしたら昇一君に思うところがあるんじゃないかって思っただけよ」

 

「ないと言えば嘘になるけど。ママはないの? 思うところ」

 

「私にだってあるわよ。二つほどね」

 

 

母の言葉は真姫にとって意外だった。普段は医者という仕事柄家を空けることが多いが、自分達の為に家事を毎日こなす昇一に物凄く感謝しているのを真姫は知っている。極端な話、昇一が大好きなのだ。『昇キチ』と言ってもいいかもしれない。具体的な例を一つ挙げると昼の弁当の中身を毎日楽しみにしていたりする。昇一は毎朝家族全員分の弁当を作ってくれるのだが、一番ウキウキしているのは母だったりする。プロ並みに美味しく且つ見栄えが良い弁当を食べているときが激務をこなす中で最も至福な時間だと言っていた。

そんな母が昇一に対して思うところがあると言ったのだ。

 

 

「それってどういうところ?」

 

「一つ目がダジャレね。昇一君の作ってくれる料理は凄く美味しいのに、ダジャレは物凄く薄味じゃない」

 

 

どうやら昇一のダジャレを面白くないと感じていたのは真姫だけではなかったようだ。母も同じことを感じていたらしい。

 

 

「二つ目は?」

 

「二つ目は…記憶を取り戻すことにもう少し前向きになってほしいことね。別に昇一君が嫌いになったとか、出て行って欲しいって訳じゃないのよ? ほら、昇一君が家に来てから半年以上経つじゃない。いつまでもこの家に居てほしいって思うけど、これ以上時間が過ぎたら彼の家族も心配していると思うの。だからこそ昇一君の帰りを待っている人がいるかもしれないって自覚をもう少し持って欲しいかな。…この話はまた追々するけどね」

 

 

気が抜けた解答から一変して今度は母親らしいことを語ってくれた。今だからこそ昇一と暮らしているのが当たり前になっているが、彼は元々居候なのだ。当然、彼自身の家族もどこかに居るはずだ。しかし、記憶が戻らない以上彼の居場所は西木野家以外のどこにもない。ならばどこへ行ったのか。行く場所がないなら早く帰って来てほしい。

 

 

「ねぇ、昇一は帰って来ると思う?」

 

「必ず帰って来るわ。…そうね、今日の夕方くらいに」

 

「どうして断言できるのよ」

 

「簡単よ。昇一君が菜園を放ったらかしにしたままにするはずがないじゃない」

 

 

実を言うと今日に限って昇一は菜園の手入れをしないまま家出してしまっているのだ。それに気付いた真姫の母は彼が戻って来ると判断した。昇一という男はマメで気が利く人間だ。家事や炊事にも本人の性格が表れている。普段から丹精込めて育てている野菜をわざわざ枯らすようなことはしないのではないか。これが真姫の母の根拠だった。昇一のことに関して二人で真面目な話しをするのは最近では久しぶりだった。せっかくここまで会話したのだから最後に一つだけ聞いておかなければならないことがある。

 

「最後に一つだけ聞いても良い?」

 

「何かしら?」

 

「もしも昇一が…、誰にも言えないような秘密を持っていたらどうする?」

 

本当は昨日のことを伝えたかったが、やめた。昇一が金色の生命体に変身して化物と戦っていると非現実的なことを言っても流石に信じないだろう。

 

「そうねぇ…秘密の内容にもよるけど、私だったら話してくれるまで信じて待つわ」

 

「信じて、待つ?」

 

「えぇ、人間なら誰にだって秘密にしたいことがあったって当然じゃない。だからと言って追究する必要はないのよ。相手の秘密を知りたいなら、相手が話してくれるまで信じて待つの。この半年間、昇一君と生活してきてどうだった? 彼が真姫や私達夫婦に対して取ってきた態度や言動は信じるに値しないものだったかしら?」

 

「そんなこと…ないけど」

 

今までのことを振り返ってみる。確かに最初はドギマギしてうまく接することができなかったが、気が付けば自然に接している。きっかけは昇一が作ってくれた料理だったが、それだけではない。料理に限らず家事に洗濯。そして人柄。これらのものを直で見てきたからこそ普通に接してくることができたのだ。

 

「そうでしょ。だから信じて待ちなさい。秘密にしていることを話してくれたならあとは受け入れるだけよ」

 

「簡単に言わないで。受け入れることのほうがよっぽど難しいじゃない」

 

「確かにそうね。けど考え方を変えるだけで、受け入れることはできるのよ。…それはね、自分にとって信じられることも信じられないことも、まずはそのままありのままを受け入れてみるの。そうすることで人や出来事の本当の姿を理解できるようになっていくの。家族でも、友達でも、恋人でもそう。一方が相手を理解しようとしていても、もう一方が理解しようとしなければ人間関係を築くことなんて出来ないでしょ。つまりお互いを理解し合うってことは、人間関係を築いていく為の基本であって、人間関係を深めていく為に必要不可欠な要素なの」

 

「…」

 

「私が今の真姫にアドバイスできるのはここまでよ。あとは自分で殻を破っていかないとね。…あら大変、もう出発しないと遅れちゃうわ」

 

キリが良いところで会話を打ち切った真姫の母。気付かない間にかなりの時間が過ぎていたらしい。

最初から最後まで大人と子供の器の違いを教えられたような気がする。言い換えればそれだけの人生を歩んできた貫禄を示してくれたと言っても過言ではないだろうし、考えさせられるものがあったのも確かだ。父も母も昇一を信じている。なら私も自分が知っている昇一を信じてみよう。そう決めて真姫はいつものように自転車を漕いで登校して行った。

 

 

 

ΩΩΩΩΩ

 

その日の夕方。

 

真姫が帰宅し駐輪場に自転車を置きにいくと見慣れたバイクがあった。母の言葉通り昇一が帰って来たのだ。もしかしたら菜園にいるかもしれないと判断し、急いで彼の姿を探す。

 

「! 昇一!」

 

真姫の呼びかけに反応して昇一は振り向いた。

 

「真姫ちゃん…」

 

「随分早かったじゃない。格好良く家出したんじゃなかったの?」

 

「こいつらの面倒頼むの忘れてたから」

 

「面倒なんか見ないわよ。昇一が作ったんだから自分で責任持ちなさいよ」

 

 

内心は昇一が帰って来たことに安心していた真姫だったが、どうしても思っていたことが出てしまう。本当はこんなことを言いたいのでない。伝えるべきことが他にある。

 

 

「…ごめんなさい。昨日は驚いて逃げ出したりして」

 

「当然だよね…」

 

変身した姿を目撃されていたことはやはり昇一にとっても相当なショックだったらしく、言葉に覇気がないのが伺える。

 

「でも…何だったの、あれ」

 

真姫の母は秘密を追究する必要はないと助言してくれた。だが昇一が変身して謎の化物と戦っているのを知っているのは真姫だけだ。しかし、あの場面を目撃してしまった以上、無関係ではいられないだろう。だから今は自分にとって気になる部分だけでも知っておきたかった。

 

「わからない」

 

「じゃあ昇一が変身したあの姿は何だったの?」

 

「アギト」

 

「アギト?」

 

「うん。今まで戦ってきたあいつらは、俺のことをアギトって呼んでた。だからアギトで間違いないと思う」

 

昇一が変身した金色の生命体は、アギトと言うらしい。変身した姿の名前がわかっただけでも真姫にとっては収穫があったと言える。

 

「ならあの化物の目的ってなんなの?」

 

例え化物であったとしても生きて行動している以上は生物だと判断でき、アギトと戦っていたということを含めて考えれば両者は敵対しており、化物側に何かしらの目的があってそれをアギトが阻止しようとしていたとも考えられる。

 

 

 

 

「目的はわからない。わかってるのはあいつらがアンノウンだってことと、戦わなくちゃいけないってこと」

 

アンノウンと聞いて思いつくのは『不可能犯罪』という世間を騒がせている不穏なキーワード。昇一の言っていることが本当だとすれば、彼はアンノウンによる不可能犯罪を阻止する為に戦っているということになり、昇一が度々家を飛び出していく理由にも検討がつく。

 

「…みんなの居場所を守るために?」

 

昇一は無言で頷いた。

 

「だったら自分の居場所もきちんと守りなさいよ。ここが昇一の居場所なんでしょ。昨日そう言ってたじゃない」

 

「じゃあ…ここに居て良いの?」

 

「良いに決まってるでしょ」

 

「俺のこと、怖くないの?」

 

拒絶されると思っていたのだろうか。怯えたように恐る恐る聞いてくる。無理もない。自分とは異なる物、自分に理解できないといったものを人間は拒絶しようとする。だから受け入れられるはずがないと。

 

「怖くないわよ。だって昇一は昇一でしょ」

 

「うん…でも本当に怖くない? 無理してない?」

 

「もう良いからいつもの昇一に戻りなさいよ」

 

「いつもの、俺…?」

 

この家に居ても良い、昇一を受け入れる。――

 

真姫はそう言ってくれたのだ。だからこそ彼女から出てきた言葉は昇一にとって思いも依らないものだった。もしかしたら無理をして言っているんじゃないかと勘ぐって聞き返すが、本当に無理をしていない様子だ。しかもあろうことかいつもの昇一に戻れとさえ言われてしまった。

 

――いつもの俺って何だろう?

 

考え込んでいる昇一の横顔を見て真姫は満足そうだった。

 

「!」

 

「昇一?」

 

そんな真姫の表情をよそに突然昇一が勢いよく顔を上げたかと思えば次の瞬間に家を飛び出していく。真姫はこの時点でアンノウンが現れたのだと直感する。

 

「昇一!」

 

昇一は心の底から沸き上がってくる不思議な衝動に突き動かされて行動していた。衝動は昇一の本能を超えて彼を支配し、膨大な活力を与えた。家を飛び出した昇一は三ヶ月前に免許を取り、真姫の母親に買ってもらったバイクに乗ってスロットルを開けた。

 

「変身!」

 

バイクに跨ったまま昇一はアギトへと変身すると同時に、オルタリングから発生するオルタフォースに包まれてバイクも姿を変える。龍を思わせるようなフロントカウルを持ち、輝く金色と鮮烈な赤で彩られたアギト専用のバイク・マシントルネイダー。アギトに変身した昇一は更に速度を上げて現場へと向かう。

 

アンノウンが現れたのは昨日の森林公園。そこでは幼稚園の年長くらいの女の子が滑り台の階段を上っていた。

その様子を樹の陰から睨み付けているのは、昨日のアギトと戦って逃げ出したトータスロード=テストゥード・オケアヌス。殺しのサインを切り女の子の背後からゆっくりと近づこうとしているのを、公園を自転車で巡回パトロールしていた警察官が目撃する。

 

未知なる生物に遭遇したことで一瞬はパニックになりそうになるが、本能的に叫びだしそうになるのを押し殺し全速力で女の子とオケアヌスの間に飛び込み、間一髪のところで女の子を抱きかかえて逃げ出した。

 

散々逃げ回って森林公園の奥まで来たとき警官は後ろを振り返ってみた。背後から追ってくる気配はない。あの得体の知れない生物を上手く撒くことができたのだろうか。

 

――これでようやく応援を呼ぶことができる。あとは女の子から出来る限り話を聴く必要があるな

 

と思ったのも束の間。待ち伏せをしていたのだろう。樹の上からオケアヌスが飛び降りて進路を塞ぐ。暫く睨み合いながら並走する形になるが、女の子を抱きかかえている以上、警官が不利になるのは明らかだった。

 

やがて警官は大木まで追い込まれ女の子もろともやられそうになるが、こちらに向かってくる音を耳にする。甲高い音を響かせてやってきたのはアギトだった。アギトは今まさに手を掛けようとしているオケアヌスに向かってバイクごと突っ込む。最高速でバイクの突撃を受けたオケアヌスは空中に弧を描きながら背中から落下する。助けた警官を一瞥すると弾かれたようにその場を離れていった。

 

バイクに跨ったままのアギトを引きずり降ろそうとオケアヌスが襲う。しかし力を振り絞り左の肘で腹部に一撃を入れ、後頭部をめがけて振るわれた右腕を頭を下げて回避し、続けて腹部を狙ってきた右腕を掴み、オケアヌスの頭部をガソリンタンク部分に叩き付けたまま再びスロットルを全開にして走り出す。

 

森林公園を離れアギトが向かった先は廃工場だった。着いた途端にオケアヌスを放り投げ必殺の一撃を放つ準備を整える。

 

マスターズオーヴが煌めきクロスホーンが六本に展開。左足を前に出し、右の掌を上へ、左の掌を下に向けて腕をゆっくり横に開く。同時に足元に龍の顔を模った紋章が現れる。前に出した左足を後ろに引き、左手を腰に、右手を左手と同じ位置に持ってきて腰を落とし居合抜きのような構えを取る。大地のエネルギーは両足に集束する。

アギトは上空へ跳び上がり、最高到達点から跳び蹴りを放つ。

 

「ハァアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」

 

必殺の一撃をオケアヌスは自慢の甲羅で防ぎ、蹴り飛ばされるような形になりアギトの方へ振り返って歩みを進めようとするが、頭上に光の輪が出現し爆散した。アギトは何事もなかったかのようにマシントルネイダーへ歩み寄り廃工場を後にした。

 




まさかの12000文字越え。その割には大した内容じゃなくて申し訳ないです。

今回は色々と要素を詰め込んだ回になりました。

・昇一初変身
・さり気なく真姫が超能力を発現
・真姫ママ再登場
・初マシントルネイダー

大変でした。


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第4話 動き出す予感

読者の皆様一ヶ月近く随分お待たせしました。

相も変わらずの内容でありますが、是非最後まで読んで頂けると幸いです。


ある日の夜。

真姫の母は旧友である人物に電話を掛けていた。数回のコール音がしてから相手が電話に出る。

 

『はい、南です』

 

相手はμ’sのメンバーである南ことりの母親であり音ノ木坂学院の理事長だった。

 

『もしもし、久しぶり。元気にしてるかしら?』

 

『あら久しぶり。一体どうしたの?』

 

『ちょっとね。あなたの事が気になったから電話をしたのよ』

 

『私のことが?』

 

『そうよ。あなたが問題を抱え込み過ぎていないか心配になったの』

 

音乃木坂学院が廃校になるかもしれないという懸念が明るみに出てからそれほど日は経っていないが、学院では廃校とは別の問題が発生していたのだ。

 

『音ノ木坂で家庭科教師の松本先生が家庭の都合で休職したって患者さんから聞いたのよ。それでもしかしたら相当ストレスを溜め込んでいるんじゃないかと思って電話したの』

 

『…そうだったの』

 

真姫の母親が何故内部事情を知っているのかと言えば、音ノ木坂学院に勤める患者から話しを聴いたからだった。

廃校問題は別にしても元はと言えば音ノ木坂学院は由緒ある女子高である為、一般の公立校や私立校に比べて家庭科に重点を置いているのだが、件の松本先生が家庭の都合で休職してしまったのだ。しかもタイミングが最悪だった。これが仮に新年度が始まる前であればまだ対処は簡単だった。この場合、学院側としては代わりの教師を探せばまだ間に合ったかもしれないが新年度が始まってから探そうとしても今からでは間に合わない。

 

 

『心配してくれてありがとう。…色々と手は尽くしているんだけど、なかなか後任の先生が見つからないのが現状ね』

 

『確かに代わりの人を探すのも大変よね。ただ必要な免許を持っていれば良いってわけでもないんでしょう?』

 

『えぇ…。松本先生は音ノ木坂で三十年以上勤めて下さった功労者だし、他の人なら誰でも良いというわけにはいかないの。やっぱり一定の基準は求めたいわね』

 

『あなたが考えている一定の基準ってどこまでのことかしら?』

 

『そうね…最低でも料理の腕が立つ人が理想かしら。調理実習で生徒の見本になってもらう為には、料理をそつなく熟せる程の腕前が必要なの』

 

 

職業の違いこそはあれ組織の長として抱える悩みは共感できるものだった。教員免許と医師免許。難易度に差はあっても国家資格に変わりはないが、両方とも年々志望者が減少傾向にあり若手の人材の確保が急務となっている。この状況が長引けば職場の世代交代が出来ず、今回の音ノ木坂のように不測の事態に対処するのが難しくなってしまう。更に家庭科教師に限って言えば他の科目の教員に比べると採用枠が少ない為、相対的に人材が少ないのだ。

 

松本先生は音ノ木坂一筋三十年以上の大ベテランの女性教師だったが、四月に入ってから遠方に暮らす親の容体が急変して介護が必要になり、やむなく家庭の都合という理由で休職することになったのだ。そのため音ノ木坂には後任の家庭科教師がおらず各学年とも家庭科の授業が自習の時間となっている。このまま後任の教師が見つからなければ生徒の内申点に影響を及ぼすことになるが、思うようにいっていないのが現状だった。そもそも松本先生は家庭科の専門家的存在だった。教師としての実力の高さはもちろん料理の腕前はプロに劣らず、栄養学や裁縫についても博識で家庭科を必修とする音ノ木坂では生徒や教師を問わず人気もあった。

 

学院としては何としてでも後任を見つけなければならないが、やはり一定の基準を求めてしまうのは無理もないことなのだ。しかし真姫の母親には心当たりがあった。教員免許は持っていないが、身近に料理の腕が立つ人間がいることに。

 

 

『だったら昇一君なんてどう?』

 

『え? 昇一君ってあなたが半年前から居候させてる記憶喪失の?』

 

『そうよ。彼、料理の腕はプロ並だし、洗濯や裁縫、DIYだって出来るんだから。彼のおかげで楽をさせてもらっちゃってるわ。教員免許はないけどかなり専門的な技術と知識を持ってるから松本先生と遜色ないくらいにやれるんじゃないかしら?』

 

『本当に? でもこの話は今初めてしたのに引き受けてくれるかしら?』

 

『大丈夫よ。昇一君、音ノ木坂が気に入ってるみたいだし』

 

『音ノ木坂を?』

 

『真姫の入学式に昇一君が参加したんだけど、一度行って気に入ったそうよ。だから音ノ木坂で料理を教えるってことになれば喜んで引き受けてくれると思うの』

 

『そう。あなたがそこまで言うなら私の方でも特別講師として迎え入れる準備をしておくわ』

 

 

何やら昇一の知らないところで事態が進行しているが、人選的にはこれ以上ない程だろう。真姫の母親は仕事の立場上、様々な業界の関係者と高級料理店で食事することが多々あるため舌が肥えている。だからこそ提供される料理の良し悪しが一口食べただけで判断できる。そんな彼女が身内であることを差し引いても昇一の料理をプロ並と言うのだから間違いない。あとは彼に今回の話を伝えて如何にその気にさせるかである。

 

 

ΩΩΩΩΩ

 

昇一が家出をして帰って来た翌日。昇一と真姫は、真姫の母親に呼び出されてリビングのテーブルを囲んで椅子に座っていた。

 

「先生、話しって何ですか?」

 

「実は昇一君のこれからに関して提案があるの」

 

「昇一のこれから?」

 

「ほら、昇一君が家に来て半年が経つでしょ? だからそろそろ新しいことを始めても良いと思うの」

 

「新しいこと、ですか?」

 

「えぇ。私なりに色々考えてみたんだけど…。昇一君も何時までも家でブラブラしてても仕方ないと思うの」

 

「家で、ブラブラ…」

 

「誤解しないでね。昇一君は今まで本当によく家のことをやってくれているし感謝もしているわ。でも、それだけじゃつまらないでしょう?」

 

「いえ充分楽しいですけど!」

 

 

昇一が言ったことは偽らざる本音だった。毎日料理を作って食べたときの反応を想像するのが楽しいし、毎日掃除することで家が綺麗になっていくのも楽しいし、菜園の手入れをして野菜を育てることだって楽しいと思える。

 

 

「それでね、昇一君。ここからが本題なんだけど、昇一君さえよければ音ノ木坂で家庭科の教師をやってみない?」

 

「えっ! 俺が、ですか?」

 

「そうよ。実は私、音ノ木坂の理事長と長い付き合いで今でも連絡を取り合ったりしてるんだけど、家庭科の先生が突然休職しちゃってね。後任の教師を探しているそうなの。そこで私が理事長に昇一君のことを話したら是非ともお願いしたいってことになって」

 

「ママ、ちょっと待って。話が急すぎるわよ。第一、ママと理事長が知り合いだったなんて聞いてないし、昇一が教師になったとしても記憶が戻ったときに違う事がしたいって思うかもしれないでしょ? それに昇一は教員免許を持ってないんだから教師なんて出来るわけがないじゃない」

 

「理事長とは確かに長い付き合いだけど、この話は今初めてしたんだから真姫が知らないのも当然よ。昇一君が記憶を取り戻して違うことがしたいと思ったらそれでも良と思う。今までと違う環境の中に身を置くことで少しでも記憶を取り戻すきっかけになれば、今回の件に意義があったということなんだし、昇一君の持っている技術と才能を存分に発揮できるでしょう? 昇一君、貴方はいつまでも狭い世界に埋もれていてはいけない人間よ」

 

「先生…」

 

「ママ…」

 

「昇一君に『昇』の字をあてたのも、どこまでも高い所へ昇っていって欲しい意味合いで付けたんだから」

 

真姫の母親がここまで昇一の面倒をみるのは、彼を預かった者としての責任感からでもあるが、昇一の『家族』として何とかしてあげたいという気持ちの方が強かった。生来、彼女は困っている人がいたら放っておけない優しい性格の持ち主なのだ。だから昇一が記憶喪失だと診断したときは真っ先に家に居候させようと思い付き、夫に直談判して面倒をみようということになった。だから彼の記憶を取り戻す為ならばどんな協力も惜しまないつもりでいる。

最も今では家族として以上の感情を抱いており、例え記憶を取り戻しても取り戻さなくてもずっと家にいて欲しいと思う反面、本来の家族の下へ帰さなければならない思いで板挟みになっているのはまた別の話。

 

 

「もう一つ言うとね、教師をするにしても常勤教師としてじゃなくて、あくまでも家庭科の特別講師として勤務することになるの。だから教員免許がなくても問題ないわ。…それで、どうかしら家庭科教師として働いてみない? もちろん強制じゃないから断っても大丈夫よ」

 

「う~~~~~~~~ん。ちょっと待って下さい」

 

 

昇一は体の前で腕組をし、目を瞑って考える。今のままでも充分すぎる程に毎日が充実しているから何か新しいことをしてみたいと思う欲求はない。しかし特別講師と言っても音ノ木坂で働けることになるのは違いないし、家庭科――家事や洗濯、特に料理には自信がある。きっと自分の好きなことを仕事にすることが出来るのはまたとない機会だろう。もしかしたら授業の中で家庭菜園のことやお手軽に作れる料理を教えることもできるかもしれない。考えただけで意欲が沸々と湧いてくる。

既に答えは決まっていた。

 

 

「先生、俺、やってみます!」

 

「昇一!?」

 

「本当、昇一君?」

 

「はい。俺、音ノ木坂好きだし、みんなに料理とか菜園とか色々教えることができたら良いなぁって」

 

「うふふ。やっぱり昇一君は変わってるわねぇ、本当に」

 

「昇一、本気なの? どうなっても知らないわよ!」

 

「大丈夫だって。それに真姫ちゃんと一緒に通うことだってできるだろ?」

 

「ゔぇええ!? な、何言い出すのよ! 意味わかんない!」

 

「昇一君が決意をしたところで、私、理事長に電話をしてくるから少し待っててね」

 

狼狽している真姫をよそに、真姫の母親は理事長に電話をかけるべく一度自室に向かう。

数分後に戻ってきた彼女はこう切り出した。

 

 

「そうと決まればお買い物に行く必要があるわね」

 

「先生、何か買う物があるんですか? 俺、買って来ますけど」

 

「ふふふ。昇一君が考えてるお買い物じゃなくて、昇一君の為のお買い物よ」

 

 

真姫の母親の意味がわからず思わず真姫と顔を見合わせる。

 

 

「買いに行くのは昇一君のスーツよ。昇一君、スーツ持ってなかったでしょう?」

 

「持ってないですけど…スーツかぁ。調理実習のときとか料理し辛そうだなぁ」

 

「べつに無理してスーツを着用する必要はないのよ。先生の中にはラフな格好をしている人だっているし。ただ初出勤するときは理事長に挨拶するんだからスーツじゃないとね。初対面の第一印象は肝心よ。人は見た目が六割なんだから」

 

 

メラビアンの法則というものがある。これはアメリカの心理学者メラビアンが提唱したもので、人物の第一印象は初めて会った時の三秒~五秒で決まり、その情報のほとんどを視覚情報から得ているという概念である。この概念において、初対面の人物を認識する割合は、見た目、表情、しぐさ、視線等の視覚情報が六割、声質、話す速さ、声の大きさ、口調等の聴覚情報が三割、言葉の意味や話の内容等が一割となっている。

 

少し脱線してしまったが、とにかく第一印象は重要だ。考えてもみてほしい。働く初日からラフな格好で学校にきた男と、スーツをばっちり着込んできた男、果たしてどちらが好印象なのかは考える間でもないだろう。

 

 

「それでどうするのよ、昇一? 行くの、行かないの?」

 

「うん、行こう」

 

「じゃあ出掛ける準備をしないとね」

 

 

それから各々身支度を済ませてから出かけて行った。

 

 

 

 

 

ΩΩΩΩΩ

 

まず最初に一行が向かった場所は、百貨店の紳士服売り場だった。百貨店に出店しているだけあって扱っている商品も巷に溢れるチェーン店の物よりも良質な物を扱っている。

今は真姫の母親が選んだものを鏡の前で袖に通していた。

 

 

「昇一君、これなんてどうかしら?」

 

「う~~~ん。ちょっと違うかなぁ」

 

真姫の母親が横に立ち感想を聞いてくる。昇一が着ているのは紺色でストライプ柄のスーツなのだが、どうにもピンとこない。既にいくつかのスーツを宛がっているが、なかなかこれだと思うものがない。真姫の母親が次の物を渡してくる。

 

「じゃあこれは?」

 

渡されたのはベーシックタイプの黒色のスーツだった。

 

 

「良いじゃないですか! これにします」

 

「よかったわ。じゃあこれにしましょう」

 

 

 

昇一もようやく納得がいったらしく満足気な表情だった。スーツを仕立てるにあたり暫く時間がかかるらしくその間に昼食を済ませることになった。

入っていったのは百貨店のグルメ階にある回らない寿司屋だった。回らない寿司を食べるのは、退院祝いのときに連れて行ってもらったきりだったがその時とは違う店だった。店内にはカウンター席とテーブル席があり、どちらにもカップルや家族連れが座っている。どこに座ろうか考えていると女性店員に声を掛けられ三人は奥側のカウンター席に通された。さて、店内の壁に設置されているお品書きを真姫の母親と昇一は興味津々に見つめてた。二人だけわかってないで私にも教えて欲しいと思っていると、板前がどういう魚なのか教えてくれた。

 

真姫がどれを食べようか真剣に悩んでいると、昇一がネタについて詳しいことを聞きながら板前と会話をし始めた。そんな姿が真姫の目には大人に映った。普段は同い年くらいの感覚で接していたが、実際には年上であること実感させられた。もちろんスーツを見繕っている最中にも同じことを実感させられた。

昇一と真姫の母親は白身⇒光り物⇒赤身⇒貝⇒軍艦の順番に満遍なく注文していた。真姫も見様見真似で注文した。もっともこの順番は寿司を食べるときの原則ではあるが絶対ではない。基本を踏まえつつ、食べたいものをまとめていくのが寿司本来の楽しみ方である。

 

食後だいぶお腹がもたれたが、味は充分満足のいくものだった。お代は真姫の母親がクレジットで払い三人は外に出た。

 

 

「「ご馳走様でした」」

 

 

真姫と昇一は丁寧にお辞儀してお礼を言った。

 

 

「どういたしまして」

 

 

真姫の母親は笑顔で言い、徐にスーツの事を言い出した。

 

 

「そろそろスーツが仕上がってる頃だから一度お店に戻りましょう」

 

「すいません、先生。高いものを買って貰っちゃって」

 

「気にしないで昇一君。私が好きでやってるんだから。昇一君が頑張ってくれるなら安いものよ」

 

「しっかりやりなさいよ、昇一」

 

 

昇一は母娘の励ましを受けてニッコリ笑った。

 

 

「さ、行きましょう」

 

「はい」

 

「そうね」

 

 

三人はお互いに微笑みあいながら再び洋服屋へ向かって行った。スーツを受け取った後、三人は映画館に立ち寄り、上映が終われば食品館で買い物をして一日を過ごしていった。

 




突然ですが、今回からMOCO'sキッチンならぬSYO'sキッチンを初めていきたいとおもいます。



今日、作りたくなる簡単レシピをご紹介!

SYO'sキッチン

「今日は少し太めのパスタを使ってペペロンチーノを作っていきます」

材料は一人前

パスタ 100g

オリーブオイル 大さじ1.5

にんにく 1片分

唐辛子 1つまみ

茹で汁(塩含む) お玉2杯

粗びき黒コショウ 適量

パセリ 適量

「まずニンニクの芽を取って薄くスライスしていきます。唐辛子はスライスタイプなら1摘みで鷹の爪本体なら種を捨てて一本使います」


「じゃあ作っていきます」

「パスタをいつも通りの塩加減で茹で始めて、フライパンにオリーブ油、にんにくを入れ、弱火で火にかけます」

「フライパンを傾けて、端でにんにくを素揚げするようにじっくり風味を出して、ある程度火が通ったら唐辛子を入れます。間違えて焦がさないように火加減に注意して下さい」

「唐辛子が黒くなる前に、茹で汁を投入して中火~強火でグツグツ沸騰させて、フライパンを止めないで上下左右に揺すり回します」

「必要以上に水分を飛ばさないよう火加減に注意して、水気を切ったパスタを投入します。さっとフライパンを振りながら絡めるのがポイントです」

「フライパンを傾けたときにパスタから汁気が落ちるぐらいで火を止めて、お好みで胡椒とパセリをふりかけたら、完成です!!」




挑戦してみたは良いけど全然MOCO'sキッチンらしくなかったですね…。


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第5話 ことほのうみ

読者の皆様大変長らくお待たせしました。一か月振りの更新になります。

それでは、どうぞ!


花村ベーカリー。最近オープンしたクラシックな外観が特徴のイートイン式のパン屋に高坂穂乃果、南ことり、園田海未はいた。今日、学院の講堂で行ったファーストライブの打ち上げをこのお店でやろうと穂乃果が提案したことがきっかけだった。落ち着いた店内の天井には備え付けられたシーリングファンがゆっくり回転しており、夕方時ということもあって学校帰りの学生や主婦達が好みのパンを味わいながら友達との会話に興じていたり、陳列されたトレーのパンを吟味している姿が見受けられる。穂乃果は一番人気のピクルスサンドとオレンジジュース、ことりはパイ生地のコルネとウバの紅茶、海未はあんパンとミルクをそれぞれ購入した。

 

「それでは! 今日のライブを祝して、お疲れさまー!」

 

「お疲れさま。穂乃果ちゃん、海未ちゃん」

 

「お疲れ様です。穂乃果、ことり」

 

お互いに労いの言葉を交わしながら飲み物が入ったグラスを掲げ合いパンに手を付ける。穂乃果が食べているピクルスサンドはパンにマスタードを塗り、ハム、ピクルス、ツナマヨをサンドしたものだった。

 

ことりが食べているコルネはパイ生地の中にカスタードクリームが端から端まで詰まっており、一口食べるとサクサクした食感と口どけの良い濃厚なカスタードの甘味が口の中で広がっていく。また紅茶の中で一番渋みが強いウバを飲むことで濃厚なカスタードの甘味に対応できるようになっている。こうすることで最後まで飽きることなくコルネを食べることができるのだ。

 

海未が食べているあんパンは、ふんわりとしたパンの中に粒あんがたっぷり入っており、パンの中心の窪みには桜の花の塩漬けが飾られている。中身の餡子は甘すぎずしっとりとした舌触りを感じさせる。

 

「いや~。やり切った後のパンは美味い!」

 

「ほんとだよね~」

 

「気を抜いてはいけませんよ、二人とも。私たちはようやくスクールアイドルとしての第一歩を踏み出せたというだけなのですから」

 

「わかってるよー海未ちゃん」

 

「本当にわかっているのでしょうか…?」

 

舌鼓を打っている二人に対して気を抜き過ぎないように注意する海未だったが、穂乃果から返って来た返事は力のないものだった。果たしてこれで良いのだろうかと思ってしまう。

「先が思いやられます」と呟くとことりがフォローを入れてきた。

 

「仕方がないよ、海未ちゃん。初めての事だったんだし気が抜けちゃうのも無理ないよ」

 

「それは…そうですが…」

 

ことりの言うことも一理ある。満を持して臨んだファーストライブだったが、幕が上がってみれば結果は惨敗。実際問題、今日の講堂で行った彼女達のファーストライブには実質的に一年生の小泉花陽と星空凛しか観客がおらず、会場に駆け付けた花陽さえ伽藍洞になっていた講堂を見て困惑していた程だ。穂乃果も舞台から客席を見た瞬間に泣きそうになり唇を震わせていた。寸でのところで花陽が駆け付けてくれなければ人目も憚らずに泣き崩れていただろう。しかし、結成から今日まで自分たちがやってきたことを水の泡にしない為にもライブを続行。

 

ファーストライブを開くことができたのは、偏に(ひとえ)自分達を支えてくれたみんなのおかげだった。率先してμ’sの活動を手伝ってくれたヒデコ、フミコ、ミカ。ヒデコはステージの音響を、フミコとミカは宣伝を。渋々ながらも作曲をしてくれた真姫、行き詰りそうになったときにフォローしてくれた副会長の東條希、少ないながらもライブを観に行きますと言ってくれた人達の言葉。これらの想いにどれだけ支えられ、救われてきたかわかったものではない。だからこそ観客が少なくてもステージで全力を出すことができたし、やってきてよかったと本気で思えることができたのだ。

 

その後、生徒会長の絢瀬絵里からこのままスクールアイドルとして活動を続けていく意味があるのかと問われ、穂乃果が啖呵を切り覚悟と目標を宣言した。必ずこの講堂を満員にしてみせる――と。

 

ここまでの一連の出来事を振り返り、海未は小さく溜め息をつくと諦めたように「仕方がないですね…」とひとりごちた。穂乃果に厳しく接しているように見えてその実、何だかんだ言って甘いのだ。

ファーストライブに関する話題は一度棚上げし飲食を再開しようとする。すると穂乃果達が座っている席の傍を通り過ぎながら店の出口に向かう男子学生達の会話が聞こえてきた。

 

「そんなのいるわけないだろー」

 

「本当にいたんだって! 変な化物みたいなやつがさー!」

 

「夢でも見てたんじゃねーの?」

 

「夢じゃねーよ! だから本当だって! 本当に変な化物に殺されそうになったんだって!」

 

「じゃあお前どうして生きてるんだよ」

 

「だ~か~ら~! 金色の生命体が助けてくれたんだって!」

 

「はいはい、嘘乙。自演、自演。寝言は寝て言おうな」

 

詳細な内容はわからなかったが、話しから察するに謎の化物に襲われていたところを金色の生命体に助けられたということらしかった。しかし隣を歩いていた友達は非現実的な作り話としか聴いておらず冷たくあしらっていた。もっとも非現実的な話を聞かされた身としては馬鹿々々しい話としか感じていなかったようだが。気が付けば穂乃果達は視線を学生達に向け、聞き耳を立てていた。視線を戻し、海未が口を開く。

 

「しかし物騒な話ですね。化物だとか殺すだとか。最近は不可能犯罪も頻発していると言うのに」

 

「そうだよねー。ニュースでも専門家の人達が説明できないって言ってるし」

 

「一体どうなっているんでしょうか…」

 

海未や穂乃果が不安がるのも無理はない。なぜならこの間、文京区の大場中学で男子生徒が不可能犯罪の犠牲者になった事件があったのだが、文京区は秋葉原からそれほど離れておらず近い位置にある。これが別の都道府県で起こったことならいざ知らず自分たちが住んでいる都内、それも近い場所で起こったとあっては不安になるのも無理はない。ふと、海未が先程から言葉を発していないことりに視線を向ける。見るとことりは元気なく不安気に俯いて口を閉ざしていた。

 

「ことり、どうかしましたか?」

 

「ことりちゃん、もしかして体調悪いの?」

 

「……」

 

海未と穂乃果が心配そうにことりへ声を掛けるが返事はない。一体どうしてしまったと言うのだろうか? 海未と穂乃果は顔を見合わせる。昔からの幼馴染みである二人だが、こんなことりの様子は初めてだった。暫くしてことりが顔を上げ、口を開いた。

 

「海未ちゃん、穂乃果ちゃん。私、二人に話さなきゃいけないことがあるの」

 

「どうしたのですか、ことり? いつもの貴女らしくありませんよ?」

 

「そうだよ、ことりちゃん。何かあったの? 悩みがあるなら私達が話し聴くよ?」

 

「二人は……、私が何を言っても信じてくれる?」

 

やはり何時ものことりらしくない。普段のことりならここまで落ち込むことはないし、悩みや困ったことがあれば素直に相談してくれる筈だ。だと言うのにここまで言いよどむということは、かなり深刻な話なのだろうか。穂乃果の胸中に嫌な予感が渦巻いている。

 

「もしかしてスクールアイドルを辞めたくなったとか!?」

 

「落ち着いて下さい、穂乃果。ことりはまだ何も言ってませんよ。それにスクールアイドルを辞めるという話であれば、信じてほしいなんて言わないはずです」

 

嫌な予感を抑え込むことができず穂乃果は直感したことを口に出すが、冷静さと客観性を保っている海未に落ち着くように促される。何かと暴走しがちな穂乃果とことりのストッパーとして活躍してきた海未の冷静さは伊達ではない。

 

「それで、ことり。言いたいこととは一体何なのですか? 黙っていてはわかりませんよ」

 

「そうだよ、ことりちゃん」

 

「海未ちゃん、穂乃果ちゃん…。心配させてごめんね。実は私――――変な生物に襲われたの」

 

「「え?」」

 

穂乃果と海未は、ことりの言葉に一瞬困惑し素っ頓狂な声が重なった。無理もない。ことりが何か思い詰めて悩んでいると思ったら予想の斜め上を行く発言だったのだから。しかもさっき店を出て行った男子学生と同じようなことを言ってきた。

 

「変な生物? もしかして宇宙人とか?」

 

「穂乃果、冗談はよしなさい」

 

「え~。だって変な生物って言ったら宇宙人しかいないじゃん」

 

穂乃果にとって変な生物=宇宙人であるらしい。最も海未は何をふざけたことをといったような感じでピシャリと否定した。

 

「ことり、貴女は本当に変な生物に襲われたのですか?」

 

「…うん」

 

「海未ちゃん、ことりちゃんのこと信じてないの?」

 

「そうは言ってません。ただ話を聴いてみないと何も判断できないのは事実です。ことり、襲われたときの状況を詳しく話して貰えますか?」

 

海未は突拍子のない話にも関わらず落ち着いて反応し、穂乃果に至っては既にことりの話を信じているようだが、海未はあくまでも情報を聴いた上で客観的に判断しようと努めことりに詳しい話をするように促す。

 

「襲われたのはμ’sを結成して少し経った頃。その日は、用事があって秋葉原に行ってたら帰りが遅くなって…。夜の帰り道を歩いてたらいきなり周りに人がいなくなったと思ったら豹みたいな生物に襲われそうになったの」

 

「豹みたいな生物?」

 

「それで、その後どうしたのですか? 襲われそうになったということは、助けてくれた人がいるということですよね?」

 

「うん。腰が引けて逃げれそうになかったんだけどあともう少しで、ってところで金色の生命体が助けてくれたの」

 

「ことりちゃん、それって…」

 

「待って下さい、ことり。それだとさっきの男子生徒と同じ話になりませんか?」

 

詳しい話というよりも掻い摘んだ話だったが、ことりの身に起こったことは正しくこの通りだった。ジャガーロード=パンテラス・ルテウスに襲われそうになったところをアギトに助けられた。そして話の内容は先程の男子学生と重なる。ことりは徐に(おもむろ)学校指定の鞄の中を開け、いつも使っているスケッチブックを取り出して二人の前に差し出した。ページを捲ると見開きに描かれていたのは、ことりを襲おうとしたルテウスと助けてくれたアギトの姿だった。

 

「この左のページに描かれてる黄色い豹みたいなのが変な生物?」

 

「うん」

 

「右側に描かれているのが、ことりを助けてくれた金色の生命体ですか?」

 

「うん」

 

「「……」」

 

ことりの証言に言葉を失う穂乃果と海未。決してことりの言葉が信じられない訳ではないが、あまりにも非現実的な話であるため全面的に信じて良いのかどうか判断しかねている。ただ絵に表していることで、言葉で説明されるよりも説得力があるのは確かだし、二人はことりが冗談でも襲われたなどと口にしないことくらい知っている。

 

「……仮にことりの言うことが真実だったとしても、いくつか聴きたいことがあります。ことり、この二体の生命体について何か知っていることはありませんか? 些細なことでも構いません」

 

「そういえば…襲ってきた生物は、金色の生命体のことを『アギト』って呼んでたよ」

 

「アギト、ですか…」

 

どうやら金色の生命体はアギトというらしい。であれば、先程の男子学生の会話に出てきた金色の生命体というのもアギトである可能性が非常に高く、人間を襲ってきた謎の生命体と戦っている以上両者は敵対関係にあるという構図が成り立つわけなのだが、だからと言って簡単にアギトを信じて良いわけではない。アギトと謎の生命体の正体や目的がわかっていないからだ。アギトが人間の味方であるならまだ良いが、もしも味方ではなかった場合、アギトは自分にとっての邪魔者を排除したかっただけなのかもしれないのだ。何れにしても両者の正体や目的が判明しない間は迂闊な判断を避けるべきだろう―――と思ったのも束の間。穂乃果が突然言い出した。

 

「アギトは絶対良い人だよ!」

 

「いきなり何を言うんですか、穂乃果」

 

「だって襲われそうになった人を助けてくれたんだよ? それも二回も。悪い人だったら襲われてる人がいても助けないと思うんだけどなぁ」

 

深く考えて発言したわけではないのだろうが、穂乃果の言うことも一理ある。仮に両者が仲間割れを起こしていたとしても襲われている人間をわざわざ助けたりする必要があるだろうか。そのまま見殺しにすることだって出来たはずだ。

 

「ことりちゃんは、どう思う?」

 

「私も良い人だと思うな」

 

「あなたたち…少しは警戒心を持って下さい。助けてくれたことに感謝はしても信じる、信じないは別の問題です。もしまた同じようなことが起きたとしても今度も助けてくれるとは限らないんですよ?」

 

「でもさー、そんなこと言ってたらキリがないよ? もしかしたら他にも助けられた人だっているかもしれないのに」

 

「確かにそうですが…」

 

「海未ちゃんもアギトを信じようよ。助けてくれた人を疑うのは良くないよ?」

 

「……穂乃果にそこまで言われては仕方がありません。私もことりの話とアギトを信じましょう」

 

海未としてはまだ言いたいこともあったが、結局は全て推測でしかなく話は平行線にしか進まないのは目に見えていたし、穂乃果に言われてことりを助けてくれた恩人のことをあれこれと勘ぐってしまうのは無粋なことでしかない。

 

「ただ…もう一つ聴きたいことがあります。ことり、襲われた後で警察には行きましたか?」

 

「うん、行ったんだけど…」

 

「だけど?」

 

「相手にして貰えなくて」

 

実はアギトに助けられた翌日にことりは近くの警察署へ行き襲われたことを話したのだが、荒唐無稽な話として信じてもらえず相手にされなかった経緯がある。無論、警察が全て悪いというわけでもなく当然の結果といえば当然だった。警察は確実な証拠がなければ動けないし、謎の生物に襲われたと非現実的な話をしても信じてもらえる筈もない。だが、この話にはまだ続きがあった。

 

「でも警察の人が言うには、同じような相談をしにきた人が何人もいるって」

 

「! …ことり、それは本当ですか?」

 

「うん。相談しにきたほぼ全員が、化物に襲われてるところを金色の生命体に助けられたって」

 

「ほらね、ほらね! 海未ちゃん! やっぱりアギトは良い人だったんだよ!」

 

「えぇ、どうやらそのようですね。しかし‘ほぼ’ということは一部の人達は違ったと言うことですか?」

 

どうやらアギトは、ことりを助ける以前にも化物に襲われていた人を助けていたようだ。

穂乃果の言葉でなし崩し的にアギトを信じることにしていた海未だったが、今度こそアギトが善なる存在であると確信する。だが、ことりの話で気になったのは一部の人だけが異なっている点だ。

 

「実は一人だけ‘緑色の生命体’に助けられた人がいたらしいの」

 

「緑色の生命体?」

 

「アギトではない存在ですか?」

 

「襲われた人が言うには、真っ赤な目と短い緑色の角を二本持ってた、って」

 

「その緑色の生命体について他に情報はないのですか?」

 

「うぅん。目撃証言はその一件だけで、他に情報はないみたいなの」

 

「そうですか…なら仕方がありませんね」

 

どうやら謎の生命体と敵対しているのはアギトだけではないらしい。緑色の生命体に関する情報が他にないということは、人の目につかない場所に身を隠しているのだろうか。それとも既に謎の生命体、もしくはアギトに倒されてしまったのだろうか。何れにしろ目撃情報が一件しかなかったとしても謎が深まることに違いなかった。

海未は最後の質問をした。

 

「最後に聴きたいことがあります。ことり、どうしてもっと早く私たちに打ち明けてくれなかったのですか?」

 

「海未ちゃん」

 

「ごめんね。穂乃果ちゃん、海未ちゃん。二人に心配かけたくなくて…。早く打ち明けようって何度も思ったんだけど、ライブに向けて一生懸命練習してる時に打ち明けたらきっと余計な心配させちゃうんじゃないかと思って…だからせめてファーストライブが終わるまでは秘密にしようって決めてたの」

 

重要なことを何故今まで黙っていたのか訊ねる海未の言い分は最も。穂乃果、海未、ことりの三人は幼少の頃からの幼馴染みでいつも一緒だった。どんな時でも迷い、悩んだりしてもお互いに助け合ってきた仲なのだ。なのに、今回の一件においてはすぐに打ち明けてくれなかった。海未からしてみればまるで信頼されていなかったように感じてしまったのだ。

しかし一方でことりの言い分も理解できない訳ではない。

確かに今まではどんなことでも打ち明けることができた。だが今回は今までの悩みとはわけが違う。何せ命の危険に晒されたのだから。物事を冷静に判断しようとする海未のことだから、言えばきっとスクールアイドルの活動を中止しようとしただろう。

もしも活動を開始して間もない時期に打ち明けていたら、出鼻を挫く形となり普段の日常生活に支障をきたすことはおろか、もしかしたら二人まで身の危険に晒してしまうことになってしまうのではないか、そう考えた。

 

「そうだったのですね。申し訳ありません、ことり。追究するような形になってしまって」

 

「うぅん。そんなことないよ。今まで黙ってた私が悪いだけだから。海未ちゃんは何も悪くないよ」

 

「でも良かったぁ。ことりちゃんが打ち明けてくれて」

 

ことりが今まで打ち明けてくれなかったことに理解を示す海未と、打ち明けてくれたことに安堵する穂乃果。重要な秘密や悩みというのは、日が経てば経つほど打ち明ける敷居が高くなり言い出せずに終わってしまうということがよくある。その点で見れば、襲われてから日数が経っている状況でよく言い出せたと評価できるだろう。だが、結局のところこれからスクールアイドルとしてどうやって活動をしていくかという結論には達していない。

 

「でも、これからどうしよう」

 

「ごめんね、穂乃果ちゃん」

 

穂乃果が気にしているのは、今後の活動をどのようにして行っていくかという点だ。本来であるならば当面の間は問題が解決するまで活動を休止すべきなのだろうが、今のµ’sに残された時間的猶予はない。生徒会長に宣言した件だってある。ここで海未が一つの提案を出して来た。

 

「……でしたらこういうのはどうでしょう。µ’sの活動を行いつつ謎の生命体に関する情報を集めるんです」

 

「おおー! 何だか探偵みたい!」

 

「でも、どうやって情報を集めるの?」

 

「手段としてはインターネットや新聞、ニュースを駆使するんです。そうすれば空いている時間を上手く使えるはずです。本来なら警察に動いて貰うのが理想的なのですが……どうしますか?」

 

海未の言うように本来であればこういう事は警察に任せておくのが筋だろう。しかし警察が頼りにならない以上、自分達でなんとかするしかない。そう判断しての提案だった。

 

「私は海未ちゃんに賛成。ことりちゃんは?」

 

「私も賛成」

 

「ならこれで決まりですね」

 

穂乃果とことりも賛成し、一つの結論が出た。得られる情報は多くないだろうが、動き出さなければ何も始まらないし、得られないのもまた事実。こうして三人は謎の生命体に関する情報を集めることになるのだが…。

 

この時はまだ知る由もなかった。この日を境にして自分達が大きな流れの中に巻き込まれていくことを―――

 

謎の生命体に関する話を終えた三人は中断していた飲食を今度こそ再開させた。今までのシリアスな雰囲気が嘘のようになくなり、話題は明るい方向へと進み会話が弾む。すると今度は、穂乃果が話題を切り出した。

 

「来週から来る家庭科の先生ってどんな感じの人なのかな! ことりちゃん、何か知ってる?」

 

「お母さんの話だと、二十歳そこそこの人だって言ってたよ」

 

今朝のHR(ホームルーム)において全クラスに各担任から伝えられたことがある。それは長らく不在だった家庭科教師の後釜が決まったというもので、早速来週から調理実習を行うらしく、担任からプリントが配られたのだ。

生徒には来週から新しい家庭科の先生が来るということのみが伝えられているが、ことりが母親である理事長から聞かされた話だと若い男性らしい。

 

「二十歳そこそこですか…。そう考えると音ノ木坂学院に若手の先生が一人増えるというわけですね」

 

「えぇっと、若手の先生って言ったら……氷川先生、小沢先生、尾室先生、北条先生、だよね」

 

穂乃果が指折りしながら挙げた四人の教師は何れも二十代前半の面子である。一般の公立校や私立校からすれば少ないように思うかもしれないが、全クラス合わせて六組しかない音ノ木坂学院の内情を鑑みればむしろ多い方だろう。

 

「どんな人なんだろう? ことりちゃん、何か知ってる?」

 

「そこまでは知らないけど、優しい人だといいよね」

 

「そうですね」

 

三人はまだ見ぬ教師の姿を想像しながら思いを馳せる。既にアギトである男、賀上昇一とµ’sの邂逅は近い。

 




いかがでしたでしょうか?

今回は昇一が一度も登場しない回となりました。昇一が授業すんじゃないのかよ!と思っていた方はすみません。ですが、穂乃果と海未の登場を待っていた方も少なからずいたのではないでしょうか?ことりに至っては1話以来の再登場となりました。

それでは今回のSYO'sキッチンにいってみましょう!

今日のリクエスト


『昇一さん、こんにちは。
俺は前までアメリカに住んでいて最近日本に帰ってきた一人暮らしの高校生です。アメリカに居た時はパンが主食だったので料理をしたことがほとんどありません。これを機に好物のポテトサラダだけでも作れるようになりたいので、作り方を教えてください。
                                  天城羽鐘』


「へぇ~、帰国子女なんだ。凄いなぁ。じゃあ早速作っていきたいと思います」


材料
じゃがいも
きゅうり
ハム
たまご

調味料

コショウ
マヨネーズ
砂糖

「まずはじゃがいもの皮を剥いて一口大の大きさに揃えて切っていきます。切ったら耐熱皿に入れてレンジで温めていきます。本当だったら切ったじゃがいもを鍋で蒸かすんだけど、羽鐘くんが一人暮らしなのでガス代を節約する意味でも今回は電子レンジを使います」

「温まったらボールに移してマッシャーで潰していきます。マッシャーがなければマグカップを使って潰してください。潰したら塩とコショウを加えて混ぜ合わせていきます」

「じゃがいもを冷ましてる間にゆで卵を作ってハムを一センチの大きさに切っておきます。きゅうりも薄く輪切りにして塩を少々ふり馴染ませておきます。しんなりしてきたら水で軽く濯いで水気を絞りましょう」

「冷めたじゃがいもに殻を剥いて軽く刻んだたまご、ハム、きゅうり、マヨネーズ、砂糖を加えて混ぜたら完成です!」

「もしもポテトサラダが余ったら、パンに挟んでポテサラサンドにしてみると良いかも!」

「羽鐘くん、これでポテトサラダ作れるようになったかな?」





今回のリクエストを送ってきたのは、リベリオンさんが書いている『ラブライブ! A Return Hero A Return Legend』の主人公、天城羽鐘でした。ご存知の方もいるかもしれませんが、この作品も面白いので是非読んでみて下さい。リベリオンさん、ご協力ありがとうございました!同じラブライダーの作者同士、お互いにこれからも頑張りましょう!


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第6話 家庭科特別講師、賀上昇一

読者の皆様、新年あけましておめでとうございます!

今年最初の更新になります。本当はなんとか12月中に更新をしたかったのですが、
実生活が忙しく滞ってしまいました。

楽しみにしていた読者の方には申し訳なく思っています。

相変わらず今年も月1更新になるかもしれませんが、今後とも応援よろしくお願いします!

では、どうぞ!

追記:昇一のプロフィールをµ's形式で追加しました。ネタバレ注意!!

賀上昇一(仮)
年齢 20(仮)
誕生日 10月18日(天秤座・仮)
身長 180㎝
好きな食べ物 真心がこもったものなら何でも
嫌いな食べ物 なし
趣味 料理及び料理のスケッチ、家事全般、菜園の手入れ
イメージカラー 金色

本名、年齢、生年月日が不詳な記憶喪失の青年。山の中で倒れていたところを、通り掛かったトラックの運転手に発見されて病院へ運ばれた。半年後、真姫の母親の勧めと理事長からの依頼で一年間限りの家庭科特別講師になった。

呼称一覧 

高坂穂乃果=賀上先生&昇一さん/高坂さん&穂乃果ちゃん
園田海未=賀上先生&昇一さん/園田さん&海未ちゃん
南ことり=賀上先生&昇一さん/南さん&ことりちゃん
西木野真姫=昇一/真姫ちゃん
星空凛=賀上先生&昇一さん/星空さん&凛ちゃん
小泉花陽=賀上先生&昇一さん&???/小泉さん&花陽ちゃん
東條希=賀上先生&昇一君/東條さん&希ちゃん
絢瀬絵里=賀上先生&昇一/絢瀬さん&絵里ちゃん
矢澤にこ=賀上先生&賀上/矢澤さん&にこちゃん

氷川誠司=賀上さん/氷川さん
尾室隆志=賀上さん/尾室さん
小沢真澄=賀上君/小沢さん
北條徹=賀上さん/北條さん
真姫の母親=昇一君/先生
真姫の父親=???/院長
ことりの母親=賀上さん&昇一君/理事長

尚、この一覧は新しいキャラが出るたびに随時更新します


西木野邸の一室で一人の男が、クローゼットから真新しい黒のスーツを取り出して着替えていた。男の名は、賀上昇一。この家の家事全般をこなす主夫であり、今日から国立音ノ木坂学院の家庭科特別講師として勤務することになっている。

白のワイシャツを着ておりオレンジ色のネクタイを巻こうとしていると部屋の外から声を掛けられた。

 

「昇一君、入るわよ」

 

「入るわよ、昇一」

 

「はーい」

 

部屋の中に入って来たのは、真姫の母親と娘の真姫だった。真姫の母親はボディラインを強調する紫のワンピースの上から水色の長袖を着ており、真姫は既に制服に着替えていた。どうやら出勤の準備ができているか見に来たようだ。すると真姫の母親が何かに気付いてストップをかけた。

 

「昇一君、ちょっと待って。ネクタイが少し変になってるわ」

 

「えっ、そうですか?」

 

「貸してみて。結んであげる」

 

よく見てみるとネクタイが上手く結べておらず全体のバランスが取れていなかった。真姫の母親はすかさず昇一の正面に歩み寄ってネクタイの結び目に手をかけて解いていく。傍から見るとその姿はまるで恋人ないし夫婦のように見受けられる。昇一は首を上に向けていて表情はわからないが、真姫の母親は満更でもない様子で笑みを浮かべながら喜々としてネクタイを結んでいく。

 

ただ一人だけ二人の様子を三白眼で睨み付けている者がいた。真姫だ。彼女は先程から二人の行動を黙って見ていたのだが、実に面白くない。母親に対しては密着し過ぎだと思うし、必要以上に世話を焼く必要があるのか疑問だった。真姫の母親は一児の母親とは思えない程の若々しい容姿と、整ったプロポーションを保っており胸も豊かなものを持っている。そんな女性が警戒心ゼロで若い男に近寄るとどうなるか。超至近距離で見つめ合うような形になるのだ。

 

昇一に関しても密着し過ぎだと思うし、断るのが普通だと思う。昇一は普段からラフな服装の上にエプロンを掛けているから分かり辛いが、意外にも背が高いのだ。ネクタイが結び易いように上を向いているようだが、絶対に下を向くなと言いたい。身長差で昇一が下を向いた場合、真姫の母親の胸元が目に付いてしまうからだ。それも至近距離で。

 

何だか心がモヤモヤしてきて無性に腹が立ってくる。二人が醸し出す夫婦然とした雰囲気に当てられたのか、ついにモヤモヤが最高潮まで達した真姫は床をドスドスと踏みつけながら二人に近づいて待ったを掛けた。

 

「ママ、私がやるわ!」

 

「あら? いきなりどうしたの?」

 

「いいから貸して! ほら昇一、上向いて。結べないじゃない」

 

「え? う、うん」

 

突然のことに真姫の母親はきょとんとしていたが、何かを察したように口元に手を当てながら「うふふ♪」と笑い、昇一は困惑しながらも再び上を向いて真姫にネクタイを結んでもらう。

 

「ほら、できたわよ」

 

「えへへ、サンキュー!」

 

「次からは自分でやりなさいよ。…まったくもう」

 

面と向かってお礼を言われ思わず悪態をついてしまうが、顔をトマトのように真っ赤にしているところを見ると満更でもない様子だった。

黒のスーツに袖を通し、左手首に銀の腕時計を付けビジネスバッグを持つ。その姿は正しく新人の社会人そのものだった。

 

「おかしくないですか?」

 

「似合ってるわよ、昇一君。ついに昇一君も社会人になったのね」

 

「う~ん。何か変な感じがします」

 

「着慣れてないだけでしょ。そのうち慣れるわよ」

 

滅多に着たことがないスーツ姿に若干の違和感を覚えているが、母娘の反応は上々だ。必要な荷物や道具を確認して玄関に向かい黒の革靴を履く。

 

「学院に着いたら南ちゃんによろしくね」

 

「はい、わかりました。真姫ちゃん先に行くね」

 

「私のことはいいからさっさと行きなさいよ。遅れるわよ」

 

「じゃあ行ってきます」

 

「「いってらっしゃい」」

 

玄関を出た昇一はビジネスバッグを肩から掛け、銀色のフルフェイスヘルメットを被って愛車に跨りエンジンをかけて発進する。音ノ木坂学院へ行くのは真姫の入学式以来二回目だが道のりは覚えていた。

道中、赤信号での停車中に昇一はふと、今までのことを振り返っていた。西木野夫妻や真姫との出会いから始まり、商店街に店を構える店主や主婦の方々と出会い親しくなった。人と出会えば出会った数だけ世界が広がっていく。それだけで生きていることは素晴らしいことだと思う。今度はどんな出会いがあるのだろう。気持ちを高ぶらせながら昇一はバイクのクラッチを繋ぎアクセルを踏み込んでいく。――音ノ木坂学院までそう遠くはない。

 

昇一を送り出してから十数分後、真姫も登校する準備ができていた。

 

「わかってると思うけど学院で昇一君を呼び捨てにしたらダメよ」

 

「わかってるわよ。子供じゃないんだから」

 

「なら良いの。…気を付けてね」

 

「いってきます」

 

「いってらっしゃい」

 

 

真姫が学院で昇一のことを呼び捨てにしないように念押ししたのは、彼女の癖を意識させる為だった。昇一は真姫よりもいくつか年上だが、彼女はお構いなしに昇一を呼び捨てにしている。確かに昇一の人柄と雰囲気からすれば、真姫が呼び捨てにしてしまう理由もわからなくはない。だがそれが通用するのはプライベートの場合だけだ。学院において先生と生徒の立場になる以上は、上下関係あたりのことを注意しなければならないからだった。

 

(……一人になるのも随分久しぶりね)

 

真姫を見送った後、家の中には真姫の母親一人だけになったことに不思議な雰囲気を感じていた。今日はたまの休みで家に居るが、この半年間で一人になるのは初めてだった。いつもは休みであっても家には常に昇一がいて静かな休みを過ごしているのだが、今日は静かというよりも静寂な空気に包まれており家の中が普段より広く感じられる。それだけに昇一の存在は西木野家にとって縁の下の力持ち的存在なのだと改めて実感する。

 

(昇一君が居ないのは確かに寂しいけど、彼ばかりに依存していたらダメね。彼がいないときくらいやれることはやっておかないと……まずはお部屋でも片付けようかしら)

 

昇一がいないことに一抹の寂しさを感じながらも自分自身を律し、可能な限りやっておこうと決めて部屋を片付ける作業に取り掛かった。

 

 

ΩΩΩΩΩ

 

学院に到着した昇一は、裏手にある職員専用の通用門から駐車場に入っていき駐輪スペースにバイクを停める。ヘルメットを脱いでからバイクを降りた昇一は、そのまま学院の玄関に行き持ってきていたクロッグスニーカーに履き替えて事務所へ向かい窓口の事務員に声を掛ける。

 

「すいません。今日からここで働く賀上ですけど理事長室ってどこですか?」

 

「あぁ! ハイハイ、賀上さんですね。今からご案内しますのでちょっとお待ち下さいね」

 

待つように言われて出てきたのは、白いシャツの上に黒のベストスーツを身に着け黒のタイトスカートを履いた五十代くらいの事務員だった。いかにも典型的な服装をした事務員である。

 

「では今から案内しますね」

 

「お願いします」

 

事務員に案内された理事長室は二階の端にあり木目調の扉の前で立ち止まった。

 

「こちらが理事長室になります。……じゃあ頑張ってね!」

 

「はい、頑張ります!」

 

去り際に笑顔で励ましの言葉を投げ掛けられると昇一もつられて笑顔で返事を返した。いきなり最高責任者と面会するという誰もが緊張するであろう場面において彼は緊張などしていなかった。むしろ早く会ってみたいという気持ちの方が強い。

扉を三回ノックし室内に居る理事長に声を掛けると返事が返ってきた。

 

「失礼します」

 

『どうぞ』

 

扉を開けて中に入ると特徴的な髪形をし、黒のシャツの上から白いスーツを身に纏った女性が椅子に座って待っていた。机の前まで進みすかさず二重丸の笑顔で自己紹介をする。 

 

「初めまして、賀上昇一です」

 

「初めまして、理事長の南です。あなたのことは西木野さんから聴いています。どうぞ腰を掛けて下さい」

 

理事長にソファーに座るように促されて座ると彼女も席を立ちソファーへ腰を下ろした。

 

「まずは依頼を引き受けてくれてありがとうございます。おかげで助かりました」

 

「気にしないでください。俺、料理作るの得意ですから。何でも作れますよ!」

 

「それは頼もしい限りです。では賀上さん、早速あなたの雇用条件について説明します。賀上さんは特別講師という扱いでの契約になります。正規の常勤講師とは契約が異なりますのでその日の授業が全て終わればそのまま帰宅しても構いません。尚、雇用期間は一年間で、基本的には家庭科を担当していただき調理実習、裁縫、栄養学等について授業していただきます。授業の進行は学習指導要綱に沿っていきますが、全てマニュアル通りにしていただく必要はありません。必修事項さえ指導していただければあとはお任せします。賀上さんなりのやり方で生徒と触れ合って下さい。ここまでで何か質問はありますか?」

 

「大丈夫です! 任せて下さい!」

 

「じゃあ今から職員室に案内しますね。……それと一つだけ言い忘れていました。今日は時間割変更が掛かっていて四時間目の一年生の授業が終わったらそのまま五時間目も行ってもらうことになります。よろしいですか?」

 

雇用条件の説明をざっくばらんに受け職員室に向かおうとするも時間割変更があることを告げられた。しかしこれは今まで家庭科の授業が学院全体で遅れているので致し方のないことだった。これからも遅れを取り戻す為の時間割変更が発生するだろう。そうなると当事者が抱える負担は増えることになるのだが、この男だけは違った。

 

「別に大丈夫ですけど。一時間でも、二時間でも」

 

 

ΩΩΩΩΩ

 

理事長に案内されて職員室に辿り着くと扉の前で待つように言われ彼女は先に中へと入って行った。どうやら中の様子を確認してくるようだ。待つこと数十秒。扉が半分ほど開かれ入室を促される。

室内には他の教師陣が全員揃っており入室してきた昇一に視線を注いでいた。思わず萎縮してしまいそうな雰囲気だが昇一は緊張感を微塵も感じさせない笑顔で簡単な自己紹介をする。

 

「初めまして、賀上昇一です。よろしくお願いします!」

 

「先日の職員会議でもお伝えしたように、賀上さんには家庭科を担当して頂きます。慣れないこともあると思うのでみなさんはその都度フォローをお願いします。……賀上さんは空いているデスクを使って下さい。頑張ってね」

 

「はい!」

 

理事長は言うだけ言ってから昇一に笑顔で励ましの言葉を送り職員室を後にした。

昇一の席は校舎側にある右端の机だ。当然机の上には何も置かれていないが、前任者の松本先生が丁寧に使っていたのだろう。他の机に比べて目立った傷もなく凹みもない。恐らく物を大切に扱う人だったのだろうと昇一は予想した。

 

「氷川誠司です。よろしくお願いします、賀上さん」

 

「よろしくお願いします、氷川さん」

 

声を掛けてきたのは左隣に座る二年目の現代文教師、氷川誠司。かつて硬式テニスのインターハイで準優勝したことがありその実績を評価されてテニス部の顧問を務めている。性格は真面目が服を着て歩いていると言われる程に真面目で、この学院に配属されて以来無遅刻無欠勤を続けており毎日誰よりも早く出勤している。

 

「尾室隆志です。よろしくお願いします、賀上さん」

 

「よろしくお願いします、尾室さん」

 

次に声を掛けてきたのは誠司の左に座る三年目の体育教師、尾室隆志。至ってどこにでもいるような存在感から影が薄いと言われており、あらゆることにおいて可もなく不可もなくといった具合で職場では究極の凡人と言われていたりする。

 

「小沢真澄よ。よろしく、賀上君」

 

「よろしくお願いします、小沢さん」

 

最後に声をかけてきたのは隆志の左に座る四年目の物理教師、小沢真澄。教師陣の中で最も自信家且つ勝気な性格で一部の教師を敵に回すことがあるものの、自らが評価した相手に対しては強い信頼を置く。

 

「賀上さんは料理の専門家だと伺いました。普段はどういった料理を作っているんですか?」

 

知らない事を知ろうとする人の性だろうか。誠司が昇一に質問を投げかけた。

 

「何でも作りますよ。和食とか中華とか洋食とかお菓子とか。この前は鰹のタタキを作りました」 

 

「鰹のタタキ、ですか……それは、捌くところからやったんですか?」

 

「そうですけど」

 

「凄い…」

 

昇一はさも当たり前のように答えているが、誠司からすれば魚を捌けるというだけでも驚愕に値することだった。鰹の成魚の大きさは平均的なもので40㎝はある。それを丸ごと捌ける人が実際にどれだけいるだろうか。少なくとも僕には無理だ、と誠司は思う。

すると真澄が会話に加わった。

 

「へぇ。鰹を捌けるなんて凄いじゃない。大したものだわ」

 

「別に大した話じゃないですって。魚を捌くなんて簡単ですよ、あれぐらい」

 

「簡、単…?」

 

「ええ。誰でもできますよ、あれぐらい。猿でもできます」

 

誠司は今の昇一の発言がどうしても解せなかった。なぜなら誠司が捌こうとするといつも失敗するからだった。就職を機に一人暮らしをしたことで人並みの料理は作れるようになったが、いつまで経っても魚を上手く捌くことができないのだ。一人暮らしをしている別の人間に聴いても皆答えは一緒で難しいと口々に答えた。このことから誠司は魚を捌くことは非常に難しいことだと考えている。しかし目の前にいる男は簡単だと言い放ち、あろうことか猿でもできると言い切った。

 

「正直言って今の君の言葉が引っかかっているんですが、僕は猿以下という事ですか?」

 

「そんな無気になることないじゃないですか」

 

「氷川君、落ち着きなさい。誰にだって苦手なものの一つや二つあるものだわ」

 

「そうですよ氷川さん。苦手なものがあったって良いじゃないですか。僕だって捌くのは苦手なんですから」

 

真澄と隆志に諭され落ち着きを取り戻すが、有耶無耶にされたままでは引き下がれない。こうなれば有益な情報でも聞き出すしかないだろう。誠司は毅然とした態度で昇一に質問を投げ掛けた。

 

「賀上さん、そこまで言い切るなら何かコツでもあるんですか?」

 

「コツって言う程の事でもないですけど…氷川さん、魚の鱗を包丁で取り除いてません?」

 

「そうですが何か問題でも?」

 

「ダメだな~。鱗は専用の鱗落としを使うんです。包丁を使ったら切れ味が悪くなります」

 

誠司はハッとした。確かに鱗を落とすときは包丁を使っていたからだ。魚にもよるが鱗というのは思っている以上に硬いものなのだ。無理に落とそうとすれば包丁の切れ味が悪くなってしまうのは必然的なことだった。一生懸命切り進めようとしても結局は力任せになってしまい魚の身が傷ついてしまう。

 

「専用の道具を使うのは分かりました。では、次はどうすれば良いんですか? 包丁が骨に当たってスムーズにいかないんです」

 

「ポイントは骨の構造にあるんです。失敗する人は背ビレとか尾ビレの下にある担鰭骨を知らないまま包丁を入れるから骨に引っ掛かってうまく切り進めることができないんです。綺麗に三枚に下ろすには、ヒレを支える担鰭骨を避けて包丁を入れて、身を剥がすように切り分けるのがコツです。包丁よりもステーキナイフを使う方が便利ですよ」

 

まさに目から鱗だった。魚を捌く上でそんなコツがあるなど思いも依らなかったからだ。気が付けば誠司と隆志はメモを取っており、真澄は体の前で腕を組みながら二人の様子をみていたのだった。

 

 

早いもので時間は過ぎ三時間目が終わり僅かな休憩時間に入った。三時間目が行われていた時間の途中から昇一は授業で作る料理のレシピを調理室の黒板に板書しておいた。作るのは豚汁である。食材と調理器具はすぐに調理に取り掛かれるように予め一式揃えて各台に置いてある。次第に生徒が集まり始めてエプロンと三角巾を身に着け班ごとに分かれて座っていく。

 

真姫と同じ班になったのは小泉花陽と星空凛だった。真姫はいつものクールな態度で椅子に座っており、花陽は引っ込み思案な性格からか遠慮がちな雰囲気を醸し出している。凛は特に何も気にした様子はない。

 

「ねえねえ、かよちんは新しい先生どんな人だと思う?」

 

「え? わ、私は優しい先生が、良いな」

 

「かよちんは昔から優しい先生が好きだったよねー。西木野さんはどんな先生だと思う?」

 

「どうして私に聞くのよ。……どうせ天然ボケな人なんじゃないの?」

 

「? 西木野さんもしかして新しい先生のこと知ってるの?」

 

「知らないわよ」

 

凛の疑問に素っ気なく答えたが、真姫は先生が誰だか知っている。彼女は朝からいつもよりご機嫌斜めだった。原因は今朝の昇一と母親のやり取りにある。あれが彼女の中で未だに尾を引いているのだ。二人がそういう仲でないのは理解している。母親は単純に親切心で身嗜みを整えてあげようとしただけだし、昇一は好意に甘えようとしたに過ぎない。

だがいつも当たり前のように接している男性が別の女性といい感じの雰囲気になっている場面を見せられたら誰だって多少なりとも嫉妬するに決まっているだろう。その女性が母親だったとしても。

 

(あぁ、もう! どうして私がこんなに悩まなくちゃいけないのよ!)

 

もっとも彼女は恋愛経験に乏しく何故ここまで取り乱しているのか自分でも理解できていない様子だが、自分の気持ちに気付くのは時間の問題である。

 

程なくして昇一が準備室から姿を現すと生徒の間で騒めきが起こる。無理もないことだった。一般的に家庭科=女性の先生という先入観が強い中にあって、今黒板の前に立ったのはさほど年が離れていない若い男性だったのだから。昇一は騒めきを余所に簡単な自己紹介をする。

 

「賀上昇一です。みんなよろしくね!」

 

『よろしくお願いします!』

 

「さっそく授業を始めていきます。…今日作るのは豚汁です。事前にみんなにプリントが配られてると思うけど、わかりやすいように黒板にもレシピを書いておいたから安心してね。今日使う豚汁の具材はみんなそれぞれ固さが違うので、すべてがほぼ同じタイミングで火が通るように切る大きさを決めってことを意識してね。特にゴボウは火が通りやすいようにささがきにして、里芋は柔らかくなると形が崩れやすくなるので大きめに切っておいてください」

 

昇一は完全に先生口調だった。各班それぞれ調理に取り掛かる。役割を分担し凛は豚バラ肉を一口サイズの大きさに切り始め、花陽はお米を研ぎ、真姫は里芋をいちょう切りにしていく。

 

「かよちん、大きさってこれくらいで良いかにゃー?」

 

「うん、それぐらいで良いと思う」

 

「あなた達ささがきってできる?」

 

凛と花陽が確認を行っていると真姫が話しかけてきた。どうやらささがきが出来ないようだ。ささがきは簡単なようで難しい。やり方としては手に持ったゴボウを回しながら包丁で削っていくのだが、これの難しい所は大きさを揃える点にある。

 

「無理無理無理。凛にはできないよ」

 

「私もささがきはやったことがなくて……」

 

「どうしよう……」

 

さすがの凛と花陽もささがきはやったことがないらしい。どうしようか悩んでいると凛が昇一を呼ぶ。

 

「賀上先生ー!」

 

「ヴぇええ! ち、ちょっとあなた何して…!」

 

凛がいきなり昇一を呼んだことに対して動揺し、思わず制止しようとするが、各班の進行状況を見回っていた昇一がこちらにやってきた。

 

「どうした? 何かあった?」

 

「賀上先生、ささがきってどうやるんですか?」

 

「ささがきは包丁でやるよりもピーラーでやった方が上手くできるよ」

 

まな板の上に土をこそげ落としたままの状態で置かれていたゴボウに、ピーラーを平行に当てて削っていく。ピーラーを使うことによって包丁よりも素早く且つ厚みが均等になるのだ。

 

「途中までだけど、やり方わかった?」

 

「……ありがとうございます」

 

「ここさえできれば後は簡単だからやってみて」

 

途中まで見本を見せたことで真姫もやり方を覚えたようだが、変に意識していたのか照れ臭くお礼を言う。やはり普段から接しているせいか立場が変わってしまうと違和感があるようだ。しかも台を離れる際、意味ありげにこっちの方を向いた…ような気がしたと真姫は思う。

 

調理は順調に進んでささがきにしたゴボウを水に浸してアクを取る。人参は短冊切りにし、糸こんにゃくは食べやすい長さに切り分ける。

鍋にサラダ油を熱して豚肉を炒め、火が通ってきたところでゴボウ、人参、里芋、糸こんにゃくを加えて炒める。別の鍋で作っておいた鰹節の出汁を加えアクをすくい取り、里芋が軟らかくなるまで煮込む。

竹串を刺して里芋が軟らかくなったのを確認し、最後に赤みそを溶き入れると同時にお米が炊き上がる。あとはこれらを容器に盛り付けて完成となる。

 

「完成だにゃー!」

 

「お疲れ様。凛ちゃん、西木野さん」

 

「あなた達もお疲れ様」

 

全ての班の調理が済んだのは四時間目が間もなく終了する時刻だった。どのクラスよりも一足先にそのまま昼食時間に入る。

 

「豚汁も美味しいけど、かよちんが炊いたお米も美味しいにゃー」

 

「上手にできてるじゃない」

 

「本当ですか!? よ、よかったぁ~」

 

作った豚汁に舌鼓を打ちながらも花陽が炊いたお米を食べる凛と真姫。凛や家族にお米を炊いた事は幾度となくあるが、それ以外の人間にお米を食べてもらったのは何気に初めてだったりする花陽。真姫に美味しくないと言われたらどうしようかと内心でドキドキしていた花陽だったが、真姫に褒めてもらえたことに安堵している。

 

クラス全員が食事を摂り終わったタイミングを見計らって昇一がこの後の事について説明をする。

 

「みんな知ってると思うけど、五時間目は教室で家庭科の授業をします。後片付けをしてこの時間は各自解散にするけど、器具を洗ってる最中に包丁で指とかを切らないように注意してね」

 

真姫が食器を洗い、流れ作業で花陽が食器を拭き、凛はコンロ周りと台を掃除する。すると真姫が手に持っていたスポンジで包丁を洗おうとして誤って右手の人差し指を切ってしまう。傷口からは真っ赤な血が流れている。

 

「痛っ!」

 

「西木野さん、大丈夫? 保健室に行った方がいいんじゃ…」

 

「平気よ。保健室に行くほど大げさな傷じゃないわ、これぐらい簡単に処置できるわよ。悪いんだけどあとをお願いしても良いかしら?」

 

「は、はい」

 

昇一は離れたところにいるため真姫が怪我したことに気付いていない。やむを得ず花陽に片付けを任せて止血を行う。流水で患部を洗い、制服から取り出したポケットティッシュで患部を覆い胸の上で指全体をギュッと握る。医者の卵だけあって処置は的確だった。

五分程してティッシュを取り傷口を確認すると……()()()()()()()()()

 

「……え?」

 

不自然な出来事に思わず戸惑いの声を発してしまう。

 

「西木野さん、どうかしたんですか?」

 

「え? べ、べつに何でもないわ。ただ傷口を確認しただけよ」

 

「そう、ですか…」

 

心配そうに尋ねてきた花陽を誤魔化す為、咄嗟に生徒手帳に手を伸ばし中から常備していた絆創膏を患部に貼りつけるが戸惑いはなくならない。通常、切り傷は程度にもよるが二、三日の時間を要するものなのだ。今までの経験や知識を加味してもたかだか五分で完治するとは到底思えない。ましてや特殊な体質というわけでもない。果たしてこの僅かな時間の間に自分の身に何が起こったのだろうか。いくら考えても結論は出ず思考を放棄して調理室を後にした。

 

 

ΩΩΩΩΩ

 

生徒達と同時に昼食を済ませた昇一は昼放課を使って学院内を探索することにした。真姫の入学式に一度探索しているが、前回行ったことがない場所に行こうと決めていた。いくつかの場所を見て回り最後は屋上に向かう。校舎の最上階へと続く階段を上って屋上のドアを開ける。

 

 

「1・2・3・4・5・6・7・8」

 

屋上に足を踏み入れると青い髪色し、髪が腰にかかる程のロングヘアーをした少女の掛け声と手拍子に合わせてダンスを踊っている少女が二人いた。三人ともブレザーを脱いでおりワイシャツ姿だった。余程集中しているのだろう、三人が昇一の存在に気付いた様子はない。邪魔をしないように扉付近で練習風景を眺めていると一人だけ見覚えのある少女がいた。理事長と同じ髪色と髪形をしている少女だ。一目見て理事長の娘だとわかった。以前に昇一は灰色の少女に出会ったことがある。——ジャガーロード=パンテラス・ルテウスと戦った時だ。

 

助けた少女が無事に元の生活を送れている姿を見て安心していると、あっという間にダンスが終わる。ダンスに魅入られていた昇一が賞賛の拍手を送ると彼女達はようやく観賞していた人間がいたことに気付く。

 

「えっと…」

 

「俺、賀上昇一。新しい家庭科の特別講師だよ。よろしくね!」

 

今日、何度目かになる自己紹介をすると順番に溌剌とした笑顔で自己紹介を返してくれた。

 

「高坂穂乃果です!」

 

「南ことりです!」

 

「園田海未と申します!」

 

この三人こそが音ノ木坂学院に誕生したスクールアイドルµ’sであり、既にアギトである男、賀上昇一との初めての邂逅だった。

 

「私達のダンスどうでした?!」

「凄く良かったよ!」

 

穂乃果が感想を求めてきたので思ったことを素直に述べた。

 

「みんなもしかしてダンス部とか?」

 

「えっとぉ、私達はダンス部じゃなくて…」

 

「私達はµ’sというスクールアイドルなんです」

 

ダンスを踊っているということはダンス部なのだろうと予想していたのだが、どうやら違ったらしい。ことりの言葉を続けるように海未が答えてくれた。

 

「スクールアイドルかぁ。最近はそんなのがあるんだね~」

 

「はい! 音ノ木坂学院を廃校にしない為に結成したんです!」 

 

穂乃果がµ’sを結成した経緯を教えてくれた。進級した当日に理助長から音ノ木坂学院の廃校が発表されたこと、廃校を阻止しようとするべくスクールアイドルを発足させたこと、初めてのライブで失敗したこと、ライブの終了後にスクールアイドルにやりがいを感じて講堂を満員する目標をもったこと。

 

穂乃果の話しを途中まで聴いていて昇一は思い出したことがある。真姫が話してくれたアイドルとは彼女達のことだったのだと。

 

「へぇ~、最近の子は凄いなぁ。頑張って! 応援するよ!」

 

「ありがとうございます!」

 

『キーンコーンカーンコーン』

 

「それじゃあお先に失礼します!」

 

「「失礼します」」

 

丁度のタイミングで予鈴が鳴り穂乃果達三人はブレザーを着て足早に屋上を去って行った。

元気一杯な女の子だったなぁ、と思う。穂乃果の言葉からは彼女がアイドルに掛ける情熱とパワーがひしひし伝わってきて、見ている方まで元気になってくる。

この調子で次も頑張るぞ、と気合を入れ直して昇一も屋上を後にした。

 

 

結論から言えば五時間目の授業も恙なく終了した。内容はお米に関することで、時折、専門用語や地理学的な部分を含んだもののしっかりと付いてきてくれた。真姫は心ここにあらずといった様子だったが、凛は真面目にノートを取り、花陽に至ってはこれでもかというくらい熱心に授業に取り組んでいた。

 

全ての授業が終了したことで、昇一は一度理事長室に呼ばれていた。この日一日の感想を話す為だ。

 

「今日、一日授業をしてみて如何でしたか?」

 

「楽しかったです。みんな真面目に授業を聴いてくれてましたし」

 

「その言葉を聴いて安心しました。初めて授業を行った先生に同じ質問をすると、普通は緊張したと返ってくるものなんですよ。西ちゃんから聴いていた通り、賀上さんは変わった方ですね」

 

「別に普通ですけど。だって、自分がやりたいようにやればいいじゃないですか」

 

「やはり賀上さんを雇って正解でした。西ちゃんが肩入れする理由がわかったような気がします」

 

事前に聴いていた通りの人柄だった。真姫の母親が昇一を紹介したときに彼の人柄について語っていたのだ。曰く、彼は素直で純粋な人だと。記憶を失いながらも元気を取り戻した切っ掛けは、空の綺麗さに感動して嬉しくなったからだと教えてくれた。自然の美しさを味方にできる感性の持ち主などそうはいない。彼にしかない独特な感性に期待を寄せながら昔話に花を咲かせたのだった。

 

 

ΩΩΩΩΩ

 

昇一が学院を後にしたのは日の入りを迎える前だった。時間を忘れて理事長と話し込んだのが原因だ。彼女は真姫の母親との昔話を懐かしむように話してくれた。普段身近にいる人のことを知れたのは意外な新発見だった。

 

このまま家に帰り夕飯の準備をしよう。母娘がお腹を空かせて待っているかもしれない。バイクのスロットルを握る手に力を込めて発進しようとしたときだった。

 

(!)

 

突如、昇一が気配を察知する。間違いない。この気配はアンノウンのものだ。アクセルターンで進路を変えて現場に急行する。

 

「変身!」

 

腹部に出現したオルタリングでアギトに変身すると、バイクもオルタリングから発せられるオルタフォースの余波を受けてマシントルネイダーへと姿を変える。

アンノウンが出現した場所が近付いてくると、今まさに襲われている人の姿が見えた。

 

 

 

襲われていたのは、

 

 

 

屋上で出会った少女達。

 

 

 

高坂穂乃果、園田海未、南ことりの三人だった。

 




いかがでしたでしょうか。久しぶりに一万文字を超えて私自身驚いています。
と言ってもほとんど学院生活の内容が大半でライダー要素が行方不明でした。ですが、こういった内容を書けるのは序盤だけなのでしっかり書いていこうと思います。

では毎回恒例のSHO'sキッチンです。

今回のリクエスト


『昇一さん、初めまして。実は一年前に沖縄から東京に引っ越してきたんですが、
東京に来てから一年間沖縄の料理を食べていません。そこで家でも簡単に作れる
沖縄料理を教えて欲しいです。  ヨウタ』

「沖縄か~。俺、沖縄に行ったことないんだよなぁ。行ってみたいな~。…じゃあ早速作っていきたいと思います」

材料
ゴーヤ
豚肉(薄切り)

木綿豆腐
サラダ油
醤油
みりん

「沖縄料理ってことだったので、今日はゴーヤチャンプルーを作っていきます。ゴーヤは縦半分に切って、スプーンを使い種と綿を綺麗に取り除き、2ミリも厚さに切っていきます」

「切ったゴーヤはボウルに入れて塩と砂糖を加えて10分程置いておきます。砂糖を使うから塩だけのときよりも苦みを取ることができます。10分経ったら水で洗い、キッチンペーパーなどで水気をきります」

「続いて卵を溶いて、豚肉を一口大の大きさに切ります。豆腐は水気を切ったら手で一口大に千切ります」

「フライパンにサラダ油を熱し、溶き卵を流し入れて半熟に炒めて一度取り出します。このままフライパンで豚肉、ゴーヤ、豆腐、卵を戻し、みりんと醤油で味付けしたら…完成です!」


「実は今回、もう一品作ります! 作るのは…唐揚げです!」


材料
鶏もも肉
1.酒
2.おろし玉ねぎ
3.おろしにんにく
4.おろし生姜
5.塩
6.醤油
7.ゴマ油
片栗粉

「まず鶏肉は脂身を取り除いてから一口大に切ってください。脂身を取ることで余分なカロリーを減らすことができます。切り終わったら二重にしたビニール袋に入れておきます」

「1~7の調味料を上から順番に入れてしっかり揉んで1時間ぐらい冷蔵庫で寝かせます」

1時間後

「別のビニール袋に片栗粉を入れ、鶏肉の水分を切りながら加えていきます。ビニールの口を縛ったら袋を振って片栗粉を全体にまぶします」

「170℃の油で揚げて少し色が薄いかなぁ~と思ったところで一度取り出して3分くらい放置します。油の温度を200℃に上げて肉を戻し、綺麗なキツネ色になったら油を切って完成です!」


今回リクエストを送って頂いたのは、ヨータパパさんと、初柴シュリさんでした。
ヨウタは、ヨータパパさんが執筆中の作品、ラブライブ!~ライダーのLIFEμ'sのLIVE~ に登場する主人公です。こちらは一号ライダーが登場しないという斬新な作品となっており、興味を惹かれる方も多いのではないでしょうか。

初柴シュリさんは、仮面ライダーディケイド×インフィニットストラトス~新たな旅路~やハイスクールD×D扉の管理者を執筆されている方になります。どちらの作品もお勧めですよ。

ヨータパパさん、初柴シュリさん、大変遅くなりましたがリクエストありがとうございました。今後ともお付き合いよろしくお願いします。

SYO'sキッチンのリクエストはメッセージからのみ行っておりましたが、感想欄からも受け付けることにしました。皆さま、リクエストをお待ちしています!

尚、リクエストが多かった場合は、先着順とさせていただきますのでご了承下さい。


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