ファイアーエムブレムIF 運命の姫君  (ティツァーノ)
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無章
絶望の未来(前編)


 運命を変えたい。

 少女がその誓いを胸に抱いてから、十数年にも渡る時が経とうとしていた。

「もうそんなに経っていたのですね」

 これまでのことを思い返すと、自嘲とも苦笑ともつかぬ笑みが零れる。時間の流れとは長いようで、かくも短いものだ。

 少女の青春とは戦いであった。他の生き方を、世界が許してはくれなかった。

 戦い、というのは邪竜ギムレーによる侵攻のことだ。

 かの邪竜は、世界滅亡を目論んでいた。『屍兵』と呼ばれる異形の化物を大陸各地へと送り込み、生きとし生ける者を片っ端から根絶やしにしているのだという。

 当然、その矛先は少女の住まうイーリス聖王国にも向けられた。

 望むと望まざるにも拘わらず、少女は戦いを余儀なくされた。自国の民を守るため、剣を手に取った。幼くして、苛酷な戦場に身を投じることになった。

 自分の境遇に不満はなかった。

 それが、王族として果たさなければならない務めだと思ったからだ。

 誰かがやらなければならない。

 その役目がたまたま自分に回ってきたというだけのこと。

 ならば、

 

 ――私に出来うる限りのことをするまでです。

 

 少女は戦いを、ごく自然なものとして受け入れた。

 少女の家系は、英雄王マルスの末裔であり、初代聖王の子孫でもあった。

 聖王とは、かつてナーガと共にギムレーを封印したと言われており、マルスに比肩するとも劣らない偉業を成し遂げた人物である。初代聖王はギムレーを封じた後、イーリス聖王国を建国しており、代々の王は「聖王」と呼ばれ、イーリス聖王国の王座に就いている。

 そして、聖王の血を受け継ぐ者たちには不思議な特徴があった。「聖痕」と呼ばれる、痣のようなものが身体のどこかに浮かび上がるのだ。

 当然、少女の身体にも聖痕が刻まれている。少女の場合は、左目だった。それが少女を王族たらしめる何よりの証だった。

 いわゆる、一国の姫君だ。

 世が世ならば、絶世の美女としてもてはやされていたであろう。少女はそれ程の美貌の持ち主であった。

 両親の顔はあまり覚えていない。物心がつくようになった頃、王城に飾られた両親の肖像画を見て、それが自分の生みの親だということを少女は初めて知ったのだ。

 当時、まだ産まれて間もなかった少女は、イーリス聖王国の王城にて乳母の手で育てられていた。その頃、イーリス聖王国はヴァルム帝国からの侵攻を受けていたのだ。両親はその対応に追われ、王城へ帰ってくることはなかった。それ故、少女が両親と接する機会はほとんどなかったのだ。

 ヴァルム帝国との決着がついて間もなく、父は戦場で命を落とした。母は父の死後、行方知れずとなっており生死も定かではない。

 少女の父は、仲間の手で殺されたのだという。それも父が最も信頼していた仲間に、である。父に仕えていた部下から、そう伝え聞かされた。

 親の死に目に立ち会えなかったのは幸運なのか、はたまた不幸なことなのか。少女自身には判別がついていない。仲間の中には、目の前で親を殺され、それが原因で心に深い傷を負ってしまった者もいる。少女にはその者が、どちらの側に立っているのか分からない。少なくとも、幸せに見えないことは確かだった。

 

 ――もっと私に力があれば。

 

 自分の力が及ばないことを、少女はひたすら悔やんだ。少なくとも、当時の自分に戦えるだけの力があれば、誰かを悲しませることはなかった。復讐に人生を費やす者を、一人でも多く救えたはずだ。

 

 ――お父様もお母様も、死なずにすんだ。

 

 そう考えれば考えるほど、己の無力を呪わずにいられた日はない。

 少女の手元に残されたのは、母のペンダントと、父の形見であるファルシオンのみ。ファルシオンとは、神竜ナーガの牙によって造られたという、決して刃こぼれを起こすことのない伝説の神剣である。

 かつて古の英雄王マルスによって戦争に終止符を打ち、初代イーリス聖王によって邪竜ギムレーを封印したのだという。由緒正しき神剣である。

 少女には、そのありがたい肩書きがときおり重く感じるときがある。

 

 ――私に、ファルシオンを扱えるのだろうか。

 

 聖王の血を引いているとはいえ、到底自分に使いこなせる気がしなかった。自分が聖王の娘であることに、耐えられなくなっていた。

 

 ――よりによって何故、自分の代に。

 

 思わずそう零しそうになった。口にこそ出さないが、聖王という肩書きを恨めしく思ったこともある。

 何故、自分なのか。

 どうしてこんな辛い目に合わないといけないのか。そんな愚痴を零すことさえ、少女には許されなかった。もしそんなことが兵士の耳に入ろうものなら、自軍の士気にかかわる。仮にも人の上に立つ身の上。弱音を吐くのは示しがつかない。

 苦しいのは皆、同じなのだ。

 だが、少女の努力とは裏腹に、屍兵による被害は増していった。

 幾つもの町や村が焼かれ、無抵抗の住人たちが虐殺された。それを目撃する度に、少女は己の無力さを痛感しない日はない。

 どれだけ奴らを斬り伏せても、どこからともなく無尽蔵に湧いてくる。

 状況は好転するどころか、日に日に悪化していくばかりである。

 

 ――私に、もっと力があれば。

 

 心が悲鳴を上げていた。身も心も、少女は追い詰められていた。

 そんなときだった。「炎の台座」の伝承を耳にしたのは。

 それは神剣ファルシオンと同様に、イーリス聖王国の至宝とされている。台座と呼ばれる通り、五つの窪みがあり、そこに神竜ナーガの力を宿す宝玉をはめ込むことで、その力が覚醒するのだという。

 英雄王マルスや、初代聖王がギムレーが封じるときも、炎の台座の力がそこにあったとか。

 炎の台座は、代々のイーリス聖王が所持していたというが……残念ながら少女の元に、炎の台座は残されていない。炎の台座は、父の死とともに失われてしまった。聞くところによると、ギムレー教なる怪しげな宗教組織によって奪われてしまったのだという。事実、彼らは炎の台座を用いて、この世界に邪竜を復活させてしまった。

 

 ――あくまで噂の範疇ですが……ギムレーの復活の儀はペレジアで行われたと聞いています。その辺りを探せば何か見つかるかもしれません。

 

 だが、こんな状況下で国外を渡り歩くのは自殺行為と言えた。屍兵が我が物顔で各地を闊歩し、街道は死体の山で溢れかえっている。常に命の危険がつきまとう険しい旅路となるのは誰の目にも明白であった。あるかどうかも分からぬモノのために、命を賭けるのはいささか代償が大きすぎやしないだろうか。

 だが、それでも誰かが行かなければならない。

 遅かれ早かれ、この状況が続けばそう遠くない内にイーリスは滅ぶ。いや、それどころか世界が滅亡しかねない。それほどまでに世界情勢は逼迫したものだった。ギムレーを封印しない限り、この世界に真の安息は訪れやしないだろう。

 そんなとき、仲間の一人が、

 

「もし正体を隠す必要があるときは、これを使え」

 

 少女にある物を渡した。手渡されたのは、蝶の形を模した、漆黒の仮面だった。

 

「ジェローム……これは?」

 

「仮面は便利だ。多くを語りたくないとき、仮面の奥に本音を押し込むことが出来る。そうすることで私も楽になれた」

 

 少女の不安を見透かしたかのような一言に、どきっとなった。

 群れることを極端に嫌う彼にしては、他人を気遣うなど珍しいことだった。仲間たちからも一歩身を引いているからこそ、見えるものがあったのかもしれない。

 

「ありがとうございます」

 

 少女はジェロームの気遣いに感謝した。

 そして少女は決意する。

 

 ――運命を変えてみせます。

 

 全ては、父の愛した聖王国イーリスと、その民を守るため。

 その思いを支えに、少女は世界各地を仲間と共に渡り歩いた。

 少女は旅の中で身分を隠し、自らをマルスと名乗った。イーリス聖王国の姫君としてではなく、古の英雄王の仮面をかぶることで。

 誰かを騙す目的でそう名乗ったわけではない。自軍の士気を上げるためであり、滅びゆく世界を救うための願いでもあった。事実、そうすることで、少女は古の英雄王から力を借りられる気がした。

 それから仲間達の活躍によって、炎の台座と宝玉を取り戻すことに成功。順風満帆に思われた少女たちの旅路だが、ここで大きな問題に見舞われることとなる。

 

「結局、最後のひとつは所在が分からずじまいですか」

 

 炎の台座に収まる宝玉は全部で五つ。だが、手元にあるのは四つだけだった。

 最後の一個が、どこを探しても見当らなかった。ひとつでも宝玉が足りなければ、覚醒の儀は失敗に終わる可能性が高い。

 あまり時間をかけ過ぎると、自分たちの動きを邪竜ギムレーに勘付かれる可能性がある。そうなったとき、奴は真っ先に、炎の台座を奪いにかかるだろう。

 それに、イーリスを離れてから時間が経ち過ぎた。あの国に残してきた部隊だけでは、屍兵を相手取るのもそろそろ限界だろう。

 いちかばちか、運を天に任せてみるほかなかった。

 

 ――やるしかない。

 

 少女は、儀式の言葉を口にした。

 

「神竜ナーガよ。我、資格を示す者」

 

 朗々と響き渡る少女の声。

 

「その火に焼かれ、汝の子となるを望む者なり。我が声に耳を傾け、我が祈りに応えたまえ……!」

 

 だが、そんな彼らの願いも虚しく、

 覚醒の儀は不完全なまま終わりを告げた。

 やはり宝玉が足りなかったのが原因だった。

 

「自分たちのしたことは無駄だったのか……」

 

 誰が呟いたのかは分からない。もしかしたらそれは自分だったのかもしれない。

 だけど、誰も叱責の声を上げる者はいなかった。みな、同じ思いだったのだろう。命の危険と常に隣り合わせになりながら、ここまでやってきた。それもひとえに世界を救うという目標があったからこそである。だが、少女とその仲間の旅路は、何の成果も得られることなく、徒労に終わったのだ。

 少女たちの旅は失敗に終わった。

 誰ひとりとして、顔を上げることが出来なかった。

 失意に沈む仲間たちの前で、突然光が弾けた。

 目を焼くようななまばゆい光に、顔を覆った。

 

(諦めてはなりません)

 

 心を撫でつけられるような声がした。

 光の中から、燦然と輝くものが現れた。

 あまりのことに、誰もが息を呑んだ。

 光り輝く人間――いや、女性の形をした宝石。そうとしか形容しようのない代物が、そこにいた。

 それは、見るも神々しい存在だった。

 母性の象徴とでもいうような、慈愛に満ちた微笑を浮かべている。それを見ているだけで、全てを包み込まれるような優しさに溢れていた。

 

「ナ、ナーガ様……!」

 

 そのとき、仲間の一人――ンンが驚愕の面持ちでそう叫んだ。

 

「何だって!?」

 

 皆が呆気に取られたような表情で、ンンとナーガを交互に見つめ返している。

 彼女はマムクートの血を引いており、その特性でときおり神竜ナーガの声を聞くことがあるのだという。その彼女が、目の前に現れた女性をナーガと、はっきりそう呼んだのだ。

 神竜ナーガとは、邪竜ギムレーと対を成す存在である。

 伝承によれば人の姿を借りて現れるらしく、文献によっては男性の姿だったり女性の姿だったりと定まらない。もっとも、人前で姿を現すことは滅多になく、その存在さえ疑問視する声が上がっている。だが、こうして人前に姿を現したということは、よっぽどの事情があるのだろう。

 ナーガは言った。

 

(世界を救う手立てはまだ残されています)

 

「それは……一体?」

 

 思わず少女は声を上げていた。藁にもすがるような思いだった。覚醒の儀が失敗した今、他にどのような手段があるというのか。

 皆が見守る前で、ナーガは口を開いた。

 

(過去に戻り、未来を変えるのです)

 

 ナーガの宣告に、どよめきが起こった。

 

「未来を……変える?」

 

「可能なのか……そんなことが?」

 

 普通ならば、こんな与太話を信じるわけがない。

 けれども、それを提案してきたのはナーガである。神の竜と呼ばれた彼女がそう言うならば、それも可能なのだろう。そう思わされるだけの神威がそこにはあった。

 

「ねえ……今ものすごいこと気づいちゃったんだけどさ」

 

 仲間の一人――天馬騎士のシンシアがおずおずと手を挙げる。

 

「それって、あたしたちの両親と、もう一度会えるってことじゃない?」

 

 しん、と場が静まり返った。

「あれ、あたし何かおかしなこと言っちゃったかな?」

 

 戸惑うシンシアを、仲間たちが拍手喝采で迎えた。

 

「そうか、その手がありましたか。実に興味深いです」

「すごい、すごいよシンシア。それが本当ならすごいことだよ。僕達の両親にこれからの出来事を教えれば、みんなの命を救うことが出来るかもしれない。それどころか、世界を変える事だって出来るんだ!」

「それって俺たちが生き残れるってことだよな? 俺たち、本当に絶滅しなくて済むのか!」

「さしずめ俺たちの肩書きは未来を予見する者……といったところか。悪くない響きだな。血が騒ぐぜ」

「ふん、シンシアにしては珍しく良いこと言うじゃない」

 

 たがいに好き勝手なことを言いながらも、みなの瞳には、はちきれんばかりの希望が宿っていた。

 ここに集う者たちは皆、両親がいない。戦場で勇敢に戦い、命を落としていったのだ。

 両親とはもう二度と会えないと思っていた。言葉を交わすことさえ諦めていた。死んでしまったのだから、それは当然だった。

 だが、過去に戻れたなら――

 世界が混沌に包まれる前に、自分たちが世界を正しい方向へと導く。

 もしかしたら自分たちの両親を死の淵から救い出せるかもしれない。この悲劇を無かったことに出来るかもしれない。過去を変えることで、あの温もりを取り戻すことが出来るかもしれない。

 ああ、それはなんと素晴らしいことなのだろう。誰もがそう思った。

 そんな優しい世界に、思いを馳せずにはいれない。夢を抱かずにはいられない。

 だが、少女が次に発した言葉で、和やみかけた空気が霧散した。

 

「私たちが過去へ飛んだとき、イーリスは……この世界はどうなってしまうのでしょうか?」

 

 皆が凍りついた。ひとときの夢が覚め、現実に引き戻されたかのように。あるいは誰もがその可能性に気づいていて、あえて目を背けていたのかもしれない。

 重苦しい沈黙が立ち込めるなか、ナーガは言った。

 

(私にも未来を予測する力はありません。ですが、あなたたちを失うことで、この世界は更なる危機に見舞われるでしょう)

 

 過去改変。たしかにそれは希望に満ち溢れた選択肢だ。だが、それはこの世界を――自分たちの生まれ育った故郷を見捨てろ。そう言われたのに等しい。

 ナーガは断定こそしなかったが、自分たちがいなくなった後で、この世界のイーリス聖王国が持つという保障はない。間違いなく、滅びを迎えるであろう。

 

(答えは今すぐでなくとも構いません。しばし、考えるだけの時間を与えましょう。今一度、じっくり考えて答えを出しなさい)

 

 それだけを言うと、ナーガの姿は煙のように消えた。まるでそこにいたのが嘘だったかのように、影も形もなくなっていた。

 取り残された面々に、重たい沈黙が横たわる。

 誰も口を開こうとしなかった。

 皆、何を話せばいいのか、まったく見当がつかないでいる。ナーガの言う猶予が、どのくらいなのかは分からない。あまり思い悩んでもいられないのはたしかなことだった。こちらの葛藤や悩みなど構いなしに、期限だけは確実に迫っている。

 行き先の見えない不安が、一同を支配していた。

 

 ――絶望の未来か、希望の未来か。

 

 なんとも残酷な選択肢だった。傲慢にも、自分たちはその二つを天秤に架けようとしている。どちらも同じくらい正しくて、どちらも同じくらい間違っている。

 そして、どちらも人の命がかかっている。

 それだけは確かなことだった。



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絶望の未来(中編)

 翌日。一行はなんともいえぬ沈鬱な面持ちで、イーリス聖王国への帰路についていた。

 城ではみなが帰りを待ちわびていることだろう。少女とその仲間たちが、良い報告を持ち帰ってくることをさぞかし期待しているに違いない。

 そんな希望に満ちた彼らの表情を思い浮かべるだけで、胸が押しつぶされそうになる。

 

 彼らに何と報告すればいいのか、まったく見当がつかないでいる。

 まさか世界を救うために犠牲となってください、だなんて口が裂けても言える訳がなかった。

 

 覚醒の儀は失敗した。宝玉の数が足りず、不完全のまま儀式は終わりを告げたのだ。

 しかし、それでも収穫はあった。神竜ナーガが少女たちの前に姿を現したのだ。

 

(諦めてはなりません。世界を救う手立てはまだ残されています)

 

 そしてナーガは、こう言った。

 

(過去に戻って、未来を変えなさい)

 

 悲嘆に暮れる少女たちに、救いの手を差し伸べたのだ。

 だが、それには代償があった。

 過去に戻るということは、この世界から離れる必要がある。つまり、この世界の人たちを見捨てなければならない。

 

 もちろんルキナたちが過去に飛んだ後も、こちらの世界では、当然のように時間は流れている。川が上流から下流に向かって流れ落ちていくように。その流れを変えてやることは出来ても、それを()き止めることは誰にだって出来やしないのだ。

 きっとあの神竜ナーガの力をもってしても。

 

 そんなときだった。

 

「……私は行きます」

 

 少女のその一言が、重苦しい沈黙をうち破った。

 

「ルキナ……」

 

 息を呑む声。

 皆の視線が、少女――ルキナへと否応なしに集中する。

 

「一応、君の考えを聞かせてくれないか?」

 

 ルキナは、皆の視線に物怖じすることなく、堂々と頷いてみせた。

 

「かつて、邪竜ギムレーは初代聖王によって封じ込められたといいます。しかし、それは裏を返せばギムレーを滅ぼすことは叶わず、その存在を封印するだけで精一杯だったということでしょう。私たちの戦っている相手は、それだけ強大な存在だということです」

 

 ですが――とルキナは間を置いた。ここからが本題であると強調するように。

 

「諦めるなと、ナーガ様はそうおっしゃいました。それは私も同じ気持ちです。覚醒の儀が失敗に終わった今、少しでも希望のある方に、私はこの剣を賭けたい」

 

 そう言って、ファルシオンを掲げた。唯一無二の神剣。世界にふたつとない伝説の至宝を。自分の決意が強固なものであることを証明してみせるかのように。

 

「世界を正しい場所へ導くこと……それが私の務めですから」

 

 覚醒の儀が失敗に終わった今、ここに留まり続けても打開策はない。

 ならば、残された道はひとつしかない。

 過去に介入し、絶望の未来を無かったことにする。

 文字通り、運命を変える。

 現状、それしか世界を救う手立てはない。

 それが最善の道だと、ルキナはそう信じた。

 

 だが、たとえ過去に戻ったとしても、思い通りに物事が運ぶ保障はなかった。

 過去の世界にも当然のように屍兵はいる。現在よりもその数は遥かに少ないとはいえ、奴らに襲われて命を落とす危険はつきものだ。

 それに、両親を見つけて本当のことを話したと仮定しよう。

 

「私はあなたの娘です。あなたはこれから死ぬ運命にあります。そんなあなたの命を救うべく、未来からやってきました」

 

 いきなりこんなことを言われて、誰が信じるというのか。自分だったら信じない。というか、信じるわけがない。

 頭のおかしいやつと思われて一蹴されるのが目に見えている。

 ならば、両親と接触するのは可能な限り避けた方がいい。余計なことを話して混乱させる必要はない。それに、必要以上に接触し過ぎると、良くない影響を与える可能性だってある。もし、やむにやまない事情で接触することになったとしても、名前や素性を明かさない方が望ましいだろう。

 

 これからの旅は、不確定要素に満ち溢れた、険しい旅路となる。

 それでも、ルキナは行くと決めた。

 その結果が、この世界を見捨てることになろうとも。

 どんな手を使ってでも世界に平穏を取り戻す。何としてでも。

 それがせめてもの報いになると信じて。

 ルキナは皆の顔を見回しながら、言った。

 

「今述べたことは、あくまでも私個人の考えです。もちろん、私の考えをみなさんに強制させるつもりはありません。ですから、よく考えて答えを出してください」

 

 この世界に留まる者がいても咎めるつもりは毛頭ない。仲間が自分で考えて選び取った道だ。それに文句を挟む資格などあるわけがない。本音を言えば少しばかり寂しい気持ちはあるが、自分はただ、仲間の意思を尊重するだけだ。

 たとえ過去に戻るのが自分一人だとしても、自分の決意は変わらない。

 ルキナはそう思った。

 

 

 そうしている内に、イーリスが見えてきた。

 故郷はもう目と鼻の先に迫りつつある――そのときだった。

 

「おい、見ろよ。あれ」

 

 仲間の一人が顔をしかめながら、イーリスを指差した。

 つられて、そちらを見やる。

 よくよく目を凝らしてみれば、城下町から煙のようなものが、空に向かって立ち昇っているように見えた。

 

「大変。火事でもあったのかな?」

 

 ここからでは、何が起こっているのかはっきりと視認できない。

 

「……果たして、そんな生易しいものだろうか」

 

 だが、イーリスに近づくにつれて一同の不安は的中することとなる。

 風が、死を運んできたのだ。

 それは、肉の焼けるような臭いと、血なまぐさい臭い。いつ嗅いでも慣れることはなかった。吐き気を催すようなひどい臭い。

 まぎれもなく、イーリスの方角からだった。

 

 ――敵襲。

 

 その二文字が、ルキナの頭をよぎったときには、すでに駆け出していた。

 

 

 ◆     ◆     ◆

 

 

 イーリスに辿り着いたとき、そこには悪夢のような光景が繰り広げられていた。

 逃げ惑う人々。

 女、子供。

 その後を追いかける屍兵ども。

 民家からは火の手が上がり、隣の建物へと乗り移っている。

 すっかり変わり果てた城下町を目の当たりにして、ルキナは声もなく立ち尽くしていた。城下町だけではない。城が燃えていた。天にも届かんばかりの巨大な火柱が、ごうごうと燃え盛っている。

 屍兵による襲撃は日常茶飯事だった。それ自体は特段、驚くべきことではない。

 だが、その規模が今までと比較にならなかった。

 いったい、襲撃を受けてからどのくらいの時間が経ったのか。

 このぶんだと王城に踏み込まれていてもおかしくはない。

 敵は、こちらの退路を完全に絶とうとしている。いや、退路どころかこちらを本気で潰しにかかっている。この図ったようなタイミングといい、

 

 ――ギムレーめ、こちらに勘付いたか。

 

 そうとしか思えなかった。

 おそらく覚醒の儀を行ったせいで、ルキナたちの動きを察知されたのだろう。

 ファルシオンを握る手に力がこもる。一人でも多く、民の命を救わなければ。

 

「ルキナ! 民間人の避難は俺達に任せろ。お前は王城へ急げ!」

 

 仲間の叱咤の声が、それを押し留めた。

 

「し、しかし……」

 

「何を迷うことがある。お前はこの国の聖王だろう!」

 

 はっと我に返った。

 たしかに民の命は守らなければならない。

 しかし、あの城の中に兵士たちがいる。ルキナたちの帰りを待つ、かけがえのない臣下たちが。

 そんな彼らも守られなければならない、命であることには変わりない。

 

「すみません。みなさん、どうかご無事で!」

 

 振り返ることなく、突っ走った。

 襲いくる屍兵をすれ違い様に斬り伏せながら、王城へと急いだ。

 城門をくぐり、城の内部へと入り込んだ。

 王城に踏み込んだルキナを出迎えたのは、耳を貫くような金切り声だった。それが人間の断末魔であると理解するのに、数瞬の時を要した。

 阿鼻叫喚の渦。激しい剣戟の嵐。

 そこにいるのは数え切れないほどの屍兵と、それを守るイーリスの兵隊たち。思わず目を覆いたくなるような悲劇が、住み慣れた場所で繰り広げられている。

 硬直するルキナの前で、兵士たちが、一人、また一人と、骸を晒していく。

 男の腹部には、深々と刃が突き刺さっていた。背中から刃物で貫かれ、絶命に至ったのだろう。そこから鮮血が噴き上げている。ピンク色の臓器がてらてらと光っている。

 唸り声を上げ、屍兵どもがルキナに殺到する。新たな獲物を見つけ、歓喜に身をうち震わせているのだろう。野獣のような雄叫びを上げながら、こちらめがけて刃を振り下してくる。

 

 その音で、はっと我に変えるルキナ。

 

 ぎりぎりのところでそれをかわし、相手の腹部へファルシオンを突き込んだ。屍兵が苦悶の声を上げた。それに構わず肺腑を抉りこむ。根元まで深々と刺し貫く。

 

「お前たちの……好きにはさせない」

 

 屍兵の身体を蹴って、力づくで刃を引き抜いた。

 無我夢中だった。

 もはや、かつてのイーリスの栄光は見る影もない。

 邪悪な尖兵によって、その全てが蹂躙されようとしていた。

 しかし、立ち止まってはいられない。まだここには戦っている人間がいる。生き残っている人間がいる。自分だけが立ち止まってはいられない。

 

「人間は、まだ負けていない!」

 

 裂帛の声を上げながら、屍兵の大群に飛びかかろうとした、

 その刹那――

 天を割るような轟音が鳴り響いた。

 大砲を打ち込まれたような凄まじい一撃に、ルキナが悲鳴を上げた。

 ルキナが顔をあげたときには、天井がごっそりと抉り取られていた。

 いや、天井なんて規模じゃない。王城がまるごと吹き飛んだのだ。屍兵や兵士もろとも。あと一歩でも前に踏み出していたら自分も巻き添えになっていたことだろう。

 

 ――敵の新兵器、でしょうか?

 

 しかし、こんな馬鹿げたことをやってのける兵器など聞いたことはない。もしくは、何か巨大なモノが王城を攻撃したのだろう。

 ルキナはすぐに立ち上がり、体勢を立て直す。

 粉塵がもやのように吹き荒れており、視界が悪い。

 敵の姿はどこにも見えなかった。

 だが、油断は出来ない。敵はどこかに隠れてこちらの隙を窺っているはずだ。

 ファルシオンを構え、周囲を見回しながら、次の攻撃に備えた。姿無き敵を警戒した。

 半壊した天井から、外の様子が一望できる。

 空は見たこともないような、どす黒い色で塗り固められていた。日の光は暗雲によって遮られ、不気味なまでの闇に覆われている。

 

 ――いや、おかしい。まだ夜じゃない。

 

 それなのにこの暗さはいったい、どうしたことか。

 ようやく思考がそこに追いついた、そのときだった。

 

「人ハ、負けタ」

 

 どこかから声のようなものが聞こえる。人とも魔物とも取れぬような声。

 次いで、吹き荒れる粉塵の中から、ぬっと大きな影が姿を現した。

 

「過去ハ、覆ラなイ」

 

 はっと息を呑むルキナの前で、それが現れた。

 粉塵の向こうに、赤い光点が浮かび上がった。

 この世のモノとは思えない、鬼火めいた輝き。

 それがこちらに向かって近づいてくる。

 

「人ニ、未来ハ無イ」

 

 違う。

 あれは断じて兵器ではない。

 兵器なんてちゃちなもんじゃない。

 あれは、目だ。

 生き物の目だ。

 ルキナ一人分もあろうかという眼球。

  巨大な赤い目が、興味深そうにこちらを覗き込んでいた。

 悲鳴が漏れそうになる。すんでのところでそれを堪える。

 絶望。

 そう呼んでも差し支えの無い存在が、そこに立ちはだかっていた。

 空が暗くなっていたのも、こいつのせいだ。

 この馬鹿でかい図体の生き物が、城をすっぽりと覆い隠していたからだ。

 それこそ人間なんてちっぽけに思えるくらいの、そんなすさまじい巨躯の持ち主だった。

 漆黒に輝く鱗。鋭い牙。悪魔のような四対の翼。

 間違いない。こいつこそが、邪竜ギムレーだ。

 ルキナはやっとのことでそう理解した。

 

「オマエノ父モ母モ、死んダ」

 

 ルキナは必死に剣先を向けた。それが精一杯の抵抗だった。

 実際、生きる希望を失いかねないほどの恐怖だった。

 

 ――死にたくない。

 

 全身が震え上がった。

 世界を救う?

 実に馬鹿げている。

 こんな相手とどうやって戦えばいい。

 そもそもこいつは、ヒトの手で倒せるものなのか?

 今すぐにでもここから逃げ出したい。

 世界を救う使命を捨て、聖王という立場も忘れ、何もかもかなぐり捨ててここから逃げ出したい。

 死ぬよりマシだ。そう思った。

 

 だが、ルキナはそうしなかった。すがりつくようにファルシオンの柄を握りしめた。ルキナの中で、かろうじて生きている理性が、彼女をその場に踏みとどまらせたのだ。

 

 ギムレーの目が大きく歪んだ。笑っているのだと遅れて気づいた。

 ルキナの必死な様子を嘲笑っていた。

 こんな巨大な相手の前では、自分は虫けらも同然だった。

 そのとき、化物の大口があんぐりと開かれた。

 降りかかる竜の息。吐き気を催す醜悪な臭い。

 ルキナは、ギムレーの意図を瞬時に察した。

 やつめ。私を喰らう気か。

 そう悟ったとき、化物が迫った。

 

「お前モ、死ネぇぇぇっ!」

 

 ルキナは絶叫した。

 

 ――お父様っ、お母様っ! 私に力を!

 

 奈落の落とし穴がルキナを飲み込まんと近づいてくる。

 運命尽きたかと思われたそのとき。

 

 何かがギムレーの頭にぶつかった。

 あれは矢だ。

 しかし、ギムレーに傷を負わせることなく、堅い鱗によって弾かれてしまった。

 何事か、とでも言いたげにギムレーの視線がそれた。

 その一瞬の猶予がルキナの命運を左右した。

 

「飛べ、ルキナ!」

 

 仲間の声。

 ルキナは何の迷いもなく、崩れ落ちた城壁から飛び降りた。

 耳元で風が吹き荒れる。恐怖は無かった。聞き間違えがなければあれはジェロームの声だ。そう思ったときには漆黒の翼がルキナを空中で受け止めた。

 ジェロームの操る飛竜、ミネルバだ。

 

「無事か!?」

「ジェローム!」

 

 仲間の声にたまらない安堵が訪れる。

 

「間に合ってよかったよ~」 

「ちゃんと守れたわ」

 

 新たな声に振り返る。隣にはシンシアの操るペガサスナイトが続いていた。その後ろにはノワールが乗っている。

 

「シンシア、ノワールも……ありがとうございます。あなた達が来てくれなかったら、私はさっきの攻撃で……」

 

 さっきの矢はおそらくノワールの放ったものであろう。あの矢がルキナの命を救った。もし矢が外れたり、一瞬でも遅れていようものなら……想像するだに恐ろしいことになっていただろう。

 

「……どうして急にギムレーが?」

「おそらく私がナーガ様に接触したせいではないでしょうか」

 

 ノワールの疑問にルキナが答えた。これまでやつが直接出向いてくることはなかった。全てを屍兵に任せて、高みの見物を決めていたようなやつだ。にも関わらず、こうして姿を現したということは、こちらの意図に気づいたということだろう。

 

「過去に逃げられる前に潰しておこうというわけか。皮肉なものだ。まさか私たちの行動が裏目に出るとはな」

 

 吐き捨てるように、ジェロームが言った。

 

「まずいよ。次が来る!」

 

 シンシアの声ではっと我に変える。

 そうだ。まだ完全に危機を脱したわけではない。

 脅威は目の前に迫っているのだ。

 ギムレーがうなり声を上げながら、鋭い爪を繰り出してくる。

 かろうじてかわしたものの、そこへ尾が鞭のようにしなり、ルキナたちに襲いかかる。

 ぎりぎりでかわす。

 あの図体から繰り出される攻撃だ。一発でも直撃しようものなら死は免れない。

 

「ま、町が!」

 

 ノワールが叫んだ。それはほとんど悲鳴と変わりなかった。

 眼下を見やると、そこは悪夢のような光景があった。

 やつの尻尾による一撃で、町のほとんどが半壊していた。

 避けてばかりでは被害が拡大するだけだった。

 奴を早くどうにしなければ、地上にいる仲間たちも巻き添えをくらう。

 だが、あんな巨大な相手にどうすればいいのだろう。ノワールが立て続けに放つ矢も、全然効いている様子がない。

 

「弓も全然だめ。まるで大きな壁に撃ってるみたい」

「こんな相手とどうやって戦えば……」

 

 ノワールとシンシアの悲嘆に暮れた声。

 屍兵なんかとは断然、図体もスケールも比べ物にならない。

 今、自分たちが相手取っているのは世界を滅ぼそうとする元凶なのだ。

 万策尽きたかと思われたそのとき、

 

「ジェローム。ギムレーの頭に近づいてください」

 

 ルキナが言った。

 

「何?」

 

 怪訝そうに振り返るジェロームに、はっきりとルキナは応えた。

 

「試してみたいことがあるんです」

 

 たしかに奴は強い。これまで戦ってきたどんな相手よりも。どんな武器も傷をつけることすら敵わない。

 しかし、自分の手元には父の形見であるファルシオンがある。マルスや初代聖王と共に、戦場を駆け抜けたという伝説の剣が。

 

「……分かった」

 

 深くは追求してこなかった。

 確信を込めたルキナの表情から何か感じるものがあったのだろう。

 ジェロームは真っ向から邪竜を見据えた。

 

「しっかり捕まっていろ!」

 

 風を切る音と共に、飛竜(ミネルバ)が加速した。

 ぐん、とこれまでとは比べ物にならない浮遊感がのしかかってくる。

 鞭のようにしなる尾をかいくぐり、ミネルバはギムレーの頭へと向かっていく。

 

 ――今だ!

 

 すれ違いざまに、ルキナはファルシオンをすかさず振り下ろした。

 手応えがあった。邪竜の堅い表皮を突き破り、真っ黒な霧が噴き出した。おそらく奴の体液であろう。

 ギムレーの動きが鈍った。目に見えて苦しんでいる。効いているようだ。

 

「やったのか?」

 

 ジェロームが振り返る。

 

「ソの剣……ファルシオンか。忌々シイ。虫けらノ分際デ、我に傷ヲ負わせるナド……許サヌ、許サヌぞ!」

 

 鋭い眼光がルキナたちを貫いた。強い憎悪が込められた眼差しだった。

 わけもなく全身が震え上がった。

 

「聖王ノ娘よ。覚えテおクがイイ。お前ニハ、死よりモ深イ苦シみヲ味わわせてやる!」

 

 そう言い残すと邪竜は飛び去った。黒い翼をはためかせ、その巨体は遠方の彼方へと消えた。

 脅威は去った。自分たちは助かったのだ。その事実に、一行は安堵の溜息をついた。

 あんな相手と戦っていまだに命を繋いでいられるのが不思議でならなかった。

 

 ――ファルシオンによる攻撃は奴にとって脅威です。ある程度の深手は負わせたはず。

 

 こうしてギムレーを追い返すことはできる。

 だが、倒すには至らない。

 力を封じられたファルシオンではこの程度が限度なのだ。

 今の自分たちでは、奴を倒すことが出来ない。

 更なる絶望のどん底へと突き落とされたような気分だった。

 

「下へ戻りましょう。みんなの安否が気になります」

 

 地上に残った仲間たちとはすぐに合流出来た。

 無事に再会出来た喜びを分かち合えるような雰囲気ではなかった。みな、一様に暗い表情をしていた。

 それを物語るように、目の前では、イーリスが火の海に包まれていた。

 ギムレーとの戦いで被害は拡大。生存者は絶望的だった。

 みな、自分たちの身を守るのに手一杯だったのだという。

 

 ――何も守れなかった。

 

 静寂だけが立ち込める。人々の骸も、かつての活気に溢れた家々も、何の痕跡も残らなかった。人間の住む場所があったこと事態が夢であったかのような有様だ。ただ、そこには焼け跡だけが残された。

 

 ――もっと力があれば。

 

 そんな思いが虚しくこだましていた。



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絶望の未来(後編)

 イーリスが崩壊してから間もなく、ナーガから宣託が下った。

 

(次に月が欠ける日の早朝。”虹の降る山”にある神殿にて、竜の門が開かれます)

 

 竜の門とは、こことは異なる世界――異世界へと通じる扉だという。世界と世界を繋ぐ門だ。

 そして次に月が欠ける日とは、明日の早朝。つまり、それまでに”虹の降る山”にたどり着かなければならない。

 ルキナたちの足取りは自然とそちらへ向いていた。今更、全員に意思を確かめるまでもない。

 

 ――未来を変えるために、過去へ飛ぶ。

 

 故郷を捨てることへの未練はなかった。帰る場所はとうに(つい)えた。故郷は跡形もなく、焼け焦げてしまった。何もかも消えて無くなってしまったのだ。

 屍兵たちによって全てを踏み潰され、数千年にも及ぶ歴史にイーリス聖王国は終止符を打つことになった。邪竜ギムレーが率いる心無き怪物たちの手で、聖王による統治は終わりを告げた。

 よりにもよって自分の代で。

 だからこその時間遡行だった。自分たちの失点を取り戻し、過ちをなかったことにする。普通ならこんなこと出来やしない。やり直せるだけ、自分たちはまだまだ運がいい。そう思った。

 やり直すのだ。全てを。自分たちの両親を取り戻すのだ。

 滅んでしまったイーリスを救う。それが皆の変わらざる意思だった。

 翌日の早朝。ルキナたちが虹の降る山にたどり着いた。ここは神竜ナーガの力が満ちた山。歴代の聖王が覚醒の儀を行ったとされる聖なる地である、はずなのだが、

 

「屍兵!? まさかやつらが、ここまで蔓延っていたなんて……」

 

 腐臭。鼻がひん曲がるような臭い。

 驚愕の面持ちで、ルキナが目を見張った。

 見間違いだろうか。ナーガのありがたい加護に満ち溢れているにも関わらず、神殿の周囲にはそれは見たことないほどの屍兵の大群がいた。ネズミ一匹たりとも通りかかろうものなら、飛びかからんばかりの殺気を漲らせている。幸い、まだこちらに気づいてはいないようだが。

 邪まな存在である彼らは、聖地に足を踏み入れることはない。この地に満ちる聖々を極端に嫌っているのだ。そのはずだったのに。これはどういうことだろう。やつらは何食わぬ顔で、聖地を土足で踏み荒らしているではないか。

 これは明らかな異常事態。どう見ても偶然そこに通りかかったという訳でもなさそうだ。

 これは罠だ。奴らは明らかにルキナたちがここにやって来ることを知っていた。

 

「ギムレーの力はここまで強くなっていたのか……」

 

 それともギムレーの力が、ナーガの力を上回りはじめているのか。もしくは神竜ナーガの加護が弱まっているのか。

 真相は分からない。

 とにかくこれは由々しき事態だった。一刻も早く過去に戻らなければ。ナーガの力が弱まりつつある今、この機を逃せば次の機会は無いだろう。

 だが、逆に考えてみればこれは好機だ。

 ギムレーにとって、ルキナたちに過去に行かれてしまうのは非常に都合が悪いのだ。過去に戻ったものをどうにかするだけの力を、やつは持ち得ていない。だからこそ大げさともいえる警備網をここに敷いたのだ。それが答えだ。

 

「しかし、あの包囲網をどうやって抜ける?」

「全部やっつけちゃう?」

 

 武器を構えて、意気込む仲間たち。

 

「いえ、全部を無理に相手取る必要はありません」

 

 首を振るルキナ。

 

「全員で強行突破をしかけましょう」

 

 こちらの数は十ニ。

 向こうの数は千かそれ以上に及ぶだろう。

 それだけの大軍を相手に強行突破をしかけるのは、いささか分の悪い賭けだと言えた。

 だが、策を弄するだけの余裕は残されていない。長引けば長引くほどこちらが不利に陥る。

 迷っている時間はない。たとえそれがどんなに愚かなことであっても、手段を選んでいるだけの時間は残されていない。

 竜の門をくぐりさえすれば、こっちのものだ。

 

「私がしんがりを務めます。みんなは先に行ってください」

 

 皆、頷いた。ルキナの決定に躊躇いはなかった。

 彼女には生まれつき指導者としてのカリスマ性が備わっていた。それはこの十ニ人の仲間たちの間でも例外ではない。

 もちろん王族の血を引いているということも関係してはいる。けれど、それは決して聖王という肩書きだけのものではない。十ニ人の中でも突出した剣の才能があったからこそだ。彼女は王族としての立場に甘んじることはなく、ひたすら剣の腕を磨いていたのだ。それはイーリス聖王国の剣士で、彼女の右に出るものはいないと称えられるほど。

 だからこそ、安心して背中を任せられるのだ。

 

「宝玉と炎の台座を取り戻し、エメリナさんの暗殺を止めることで運命は変わるはずです。私たちの手で未来を変えて見せましょう!」

 

 それが号令の合図となり、十ニ人が一斉に駆け出した。

 屍兵たちが足音に気づき、振り返る。即座に、獣のような咆哮が上がった。

 鼓膜が破れるような亡者どもの合唱で、空気が震動する。大地が怒りの唸り声を上げているようだった。まるでこの世界を見捨てて逃げ出そうとしている自分たちへの怒り。

 だが、そんなもの畏るるに足らない。ギムレーに比べればまだまだ可愛げがある。その数が多いことを除けば。

 四方八方から襲いくる屍兵どもを、ルキナは斬り伏せた。

 仲間たちから注意を逸らすため、出来るだけやつらの目に留まるよう派手に暴れまわった。敵は一番後方に位置する自分に狙いを定めている。一番手の届きやすい少女へと。良い傾向だった。これは自分が囮として機能しているということに他ならない。この調子ならば上手くいきそうだ。

 

「十分、引き付けられましたね」

 

 横目で、みなが神殿の中に入ったのを見届けた。もう十分に役目を果たした。とうに竜の門を潜り抜けたことだろう。あとは自分が門へ飛び込むだけだ。

 自分も神殿の入口へ向かおうと、身を翻したそのとき、

 

「ルキナ」

 

 ふいに声をかけられた。

 昔懐かしき声。つい振り返ってしまう。

 そこには見知った姿が――見たくもなかった姿がいた。

 

 

「ルフレ……お母様……?」

 

 信じがたい姿を前にして、わけもなく声が震える。

 ああ、なんということだろう。

 そこにいたのはずっと前、行方不明になったはずの母親(・・)だった。

 

 

「はい、そうですよ」

 

 (ルフレ)はにっこりと微笑んだ。

 どうして振り返ってしまったんだろう。どうしてその声を聞いてしまったんだろう。

 見ずに済めばよかった。心からそう思った。何もかも見なかったことにして走り去ってしまえばよかった。そう出来ればどんなに良かったことか。

 

「見ない間に、随分と大きくなりましたね」

 

 優しい声で語りかけてくる。

 そういう母の姿は十代の少女のように若々しかった。何かの比喩でもなく、十年前から外見が何一つ変わっていない気がする。幼い頃のルキナの記憶からそのまま抜け出してきたかのように、その姿は変わりない。

 性質の悪い夢でも見ている気分だ。

 

「会いたかったですよ。ルキナ」

「ええ、私もお母様と、ずっとお会いしたいと思っていました」

 

 そうして、ルキナは最愛の母の喉元に、ファルシオンの切っ先を向けた。

 

「ルキナ……どうしたのですか。もしかして、怒っているのですか?」

 

 困惑しきった母の表情に、心がちくりと痛む。

 剣を握る腕がわずかに震える。すぐに押し殺す。

 どうしてそんなに悲しそうな顔をする。十何年も娘を放っておいたくせに。今さら母親づらをするだなんて。おかしいじゃないか。否定したいのに。そう思えば思うほど深い泥沼にはまっていく。それは紛れもなく母親の声で、母親の表情で。

 母は静かにため息をつくと、伏し目がちに言った。

 

「無理もありませんね。私はあなたの元からずっと離れていました。あなたが一人で王国を支え続けていたというのに、私は何ひとつ手伝うことが出来ませんでした。……こんな私は、母親失格ですね」

「……うるさい、黙れっ!」

 

 反抗期の娘を見やるような目に、ひどくいらいらする。いつまでこんな茶番劇を演じているつもりなのか。

 たまらず、私は叫んだ。

 

「私は騙されないぞ、ギムレー!」

 

 あのときのことを、今でもはっきりと思い出せる。

 ルキナの父――前聖王クロムは、仲間の手で殺されたのだという。それも父が最も信頼していた仲間に、である。父に仕えていた忠臣からそう伝え聞かされた。

 父を殺したその裏切り者の名は、母親(ルフレ)。またの名を邪竜ギムレー。

 目の前にいるこいつが、父を殺した張本人だ。

 

「何だ、つまらないですね。少しは遊べるかと思いましたが、全て筒抜けだったとは」

 

 憎たらしいことに、ギムレーは私の母親の姿でそう言った。

 なんという悪趣味。いや、違う。母の身体が奴の本体なのだ。

 数千年前、初代聖王によって封印された際、やつは肉体を失った。魂だけの存在となった奴は復活の機会を虎視眈々と窺っており、自分の魂と適合する存在を探し求めていた。だが、ギムレーの力を宿せるだけの力を持った器は現れず、大抵はその強大な力に耐え切れることなく、肉体が腐り落ちていった。

 母にはその才能があった。ギムレーの器となっても存在を保てるほどの、特殊な資質の持ち主だった。要するに、適合者だったのだ。

 そしてギムレーは母の肉体を依り代として選んだ。母の肉体がギムレーの容れ物となって、邪竜をこの世に繋ぎとめていた。

 

 

「で、どうするんですか。私を殺しますか? 別にそれでもいいですけど、あなたに私を殺せるんですか?」

 

 動揺を隠し切れず、腕が震える。それを押し殺すため、歯を食いしばりながらファルシオンを握りしめる。

 

「まあ、あなたにそんなこと出来るわけないですよねぇ。血を分けた肉親を殺せるほど、あなたは非情になれませんものねぇ!」

 

 あははははっ、と(ギムレー)は愉快そうに笑った。崩れゆくイーリスの王城でそうして見せたように。私の姿を嘲笑っていた。

 今の所有者はギムレーだが、あれはあくまでも母の身体だ。元々、母だったモノがあの中にいる。つまりギムレーを殺すことは、自分の母親を殺すことになる。優しかった母が死ぬ。

 世界を救うということは、親を殺さなければならない。

 

「父を殺した張本人が目の前にいるのに手を出さないだなんて、これほど傑作なものはありませんよねぇ!」

 

 こいつを殺したところで父は生き返らない。

 分かっている。

 分かっているけれど、こいつのせいでイーリスが滅んだ。父が愛した国が滅んだ。そう思うと、胸の奥からとめどなく怒りが溢れた。たとえ親殺しの咎を背負うことになろうとも、やらなければならない。

 ルキナは柄を握りしめた。この距離なら三秒とかからない内に相手の首をはねることが出来る。やるなら今だ。やつが油断している今が絶好の好機だ。

 大地を踏みしめ、飛び掛らんとしたそのとき、

 

「ル、ルキナっ……やめてください!」

 

 身体の動きがとまった。心臓をわしづかみにされたような息苦しさがきた。

 母の怯える顔に、身動きが取れなくなった。

 それは紛れもなく母の声で、それは紛れもなく母の表情で――

 全身から力が抜けていく。立つことさえままならずその場にへたりこんでしまう。愚かにもファルシオンを取り落としてしまった。

 ああ、私はどこまで間抜けなんだろう。あいつは世界を破滅に追いやった元凶だ。倒さなければならない敵だ。

 けれど、私に肉親を殺せるわけがない。優しかった母の温もりを忘れることが出来ない。母の身体で、あんな顔をされたらどうしようもないじゃないか。

 

「本当に、あなたは甘ちゃんですね」

「くっ……!」 

 

 ギムレーの声で、闇の触手が私の身体にまとわりついていたことに気づく。これでは身動きが取れない。もっとも、動けるだけの力なんて残されていなかったが。

 

「責任感の強いあなたのことですから、仲間を逃がすために囮になることは予測の範囲内でした。邪魔者さえ入らなければ、あなた一人どうにでもなりますからね」

 

 その言葉で、全てが罠だったことを確信する。敵の狙いは仲間たちではなく、最初から私だった。だから仲間たちをあえて見逃したのだ。私はそれに自分からはまってしまった。

 

「さて、このままあなたを殺すのは簡単です。でも簡単に殺してもつまらないですし。屍兵どものオモチャにしてもいいですけどぉ、それだとなんか物足りないなぁ」

 

 うーん、どうしましょうか、とギムレーは顎に手を当てて首をひねっている。

 

「あ、いいこと思いついちゃいました」

 

 ぽん、と拍手を打った。

 

「たしかあなた、過去へ飛ぶためにここへやって来たんですよね。それならお望みどおり、過去へ飛ばして差し上げましょう」

 

「……何だと?」

 

 どういう意味だ。そう聞き返そうとしたとき、私の身体を暗黒の渦が覆い始める。これはギムレーが創り出した竜の門だろう。

 どうにも嫌な予感がする。やつの言葉を額面どおりに受け取れるほど私は楽観していない。それはやつ自身が一番危惧していたことではないか。

 

(聖王ノ娘よ。覚えテおクがイイ。お前ニハ、死よりモ深イ苦シみヲ味わわせてやる!)

 

 ふいに、脳裏に声が蘇った。数日前、崩壊するイーリスでギムレーが放った呪いの言葉。死よりも深い苦しみ。

 やつはファルシオンで斬りつけられたことを未だに根に持っている。

 まさか……その可能性に思い至ったとき、母が屈託のない顔で微笑んだ。

 

「運命を変えたかったんでしょう? よかったですね。夢が叶って」

 

 その声で確信に変わった。何も時空を越えた先が、イーリスだとは限らない。それとは全く無縁の時代に飛ばされる可能性だってある。そして、やつはそれを実行するつもりだ。

 だが、すでに流れに抗えない。闇に飲み込まれて行く。

 

「ああ、安心してください。過去に逃げたあなたの仲間たちは、私がこの手で直々にトドメを刺してあげますから」

 

「やめろぉぉぉぉっ――!!」

 

 喉の奥から絶叫がほとばしる。

 おかしくて堪らない、というふうにギムレーは膝を叩いて笑っている。それもそのはず、奴は最大の復讐を私に果たしたのだから。

 

「神話の世界でせいぜいもがき苦しむがいい!」

 

 その言葉を最後に、ルキナの意識は闇の底へと消えていった。




ようやくここまで書けた……長かった。というか予定よりも長くなりすぎた。当初の予定だと、6000文字くらいでルキナには過去へ行ってもらう予定だったんですが、まさか10000字を越えるとは思いもよりませんでした。

長かった序章は終わり、次からは本編。あの世界です。


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第一章 神話の世界
見知らぬ地


 闇の底にルキナはいた。あたりには誰もいなかった。ルキナは身を起こしてその場から歩き出した。

 どこもかしこも死の静寂が満ちていた。一寸の光とて見通せぬ闇。生き物の気配がまるで感じられないのである。嫌な場所だと思った。さっきから妙な寒気がする。早くここから抜け出さなければ、その暗がりの中に自分も沈み込んでいくような気がした。

 しかし、どこへ行けばいいのだろう。分からない。とにかく今すぐここから離れなければ。ここにいる限り、自分はどこにもたどり着けない気がする。

 終わりの見えない闇に怯えながらしばらく歩いていると、ふいに目の前を何かが横切った。お父様だった。

 

「お父様!」

 

 たまらずその背に呼びかけていた。お父様はこちらを振り返り、後ずさった。

 

「待って下さい、お父様!」

 

 その手を掴むと、お父様は露骨に嫌そうな顔をして、ルキナの手を振り払った。お前にその資格はないと言わんばかりに。ルキナは胸がつまった。俺を父と呼ぶな、そう言われたような気がして。

 

「もしかして……怒っているのですか」

 

 悲しさのあまりルキナはうつむいた。父の怒りが手に取るように分かった。私はイーリスを守れなかった。守るべき民を死なせてしまった。これまで父が血の滲むような思いで積み上げてきたモノを壊してしまった。それも自分なんかが王になったせいで。私は聖王失格だ。いや、それどころかお父様の娘を名乗る資格すらない。

 

「ごめんなさいお父様。ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい」

 

 涙がぼろぼろと溢れ出るのを感じた。顔を上げられなかった。自分のみっともない姿をお父様に見せてはいけないと思った。ルキナはこれまで誰にも涙を見せることはなかった。それは信頼出来る仲間たちの前であってもそうだった。上に立つ者が泣いていると知られれば、余計な不安を抱かせることとなる。隊の士気を乱す引き金となる。弱さとは罪だ。上に立つ者が弱っている姿を見せてはいけない。

 大勢に囲まれていながらルキナは独りだった。心を開くことの出来る仲間がいないという意味では、ルキナはいつだって孤独だったのだ。

 

「ねえ、お父様。聞いて下さい」

 

 そっと涙をぬぐいながら、言った。

 

「私、過去に戻るんです。仲間達と一緒に、絶望の未来を変えるために」

 

 ぐすっと洟をすする音。それに負けないように続けた。

 

「それが世界を救う唯一つの方法だとナーガ様が私におっしゃったんです。それならばお父様を助けられるかもしれません。勿論、お父様だけではなく、お父様の仲間たちの命を救う事だって出来るはずです。だから、どうか――」

 

 許しを請うような響きだった。それはこの世界を見捨てて逃げてしまうことへの後ろめたさがあったのかもしれない。

 ルキナはそっと背筋を伸ばし、父の顔を真正面から見つめようと、顔を上げたそのとき、

 そこで、ようやく異変に気づいた。

 

「お母様……っ!」

 

 今までお父様だと思っていたそれは――お母様だった。

 お母様の手に握りしめられた凶器。赤く塗りたくられたその輝きに、心が不意にざわついた。

 そして、本物のお父様は、血まみれの姿で足元に横たわっていた。

 

「そんな……お母様。なぜ、なぜ……」

 

 こんな、とり返しのつかないことをしてしまったのですか。あなたは優しかったはずなのに。何故お父様を殺したのですか。

 あなたは、お父様を愛していたのではなかったのですか?

 絞り出したような悲鳴が、嗚咽となって漏れでていく。

 気づけば、お父様の近くには大量の死体が幾つも積み重なっていた。おそらくお父様とその仲間たちだろう。無残にうち捨てられた死体たちから呻き声のようなモノが聞こえてくる。

 

”全部……お前のせいだ”

 

 仲間たちの声が聞こえたその途端、ルキナは逃げ出した。

 背中を見せてみっともない悲鳴を上げながら、闇の中を逃げ回った。

 亡霊たちの怨嗟の声が、ルキナを責め立てる。

 聞きたくなくて耳を塞いだ。だけど、それでも完全に声を遮断することは出来ず、彼らの声が刃となってルキナの胸を容赦なく抉りこんだ。

 息が詰まるような苦しみに、ルキナはその場にくずおれた。

 私に力が足りないせいで彼らは死んだ。死なせてしまったのだ。彼らだけではない。お父様も死んでしまった。

 全部、私のせいだ。

 耳を塞いではいけない。心を閉ざしてはいけない。これは私が自分で招いた結果なのだから。どんなに辛くても、彼らの言葉を全て聞き届けなければならない。それが聖王の血を継いだ者としての務めだ。王として立ち向かわなければならない試練なのだ。

 そう思った。

 いや、そう思おうとした。

 だけど、心はそれを拒んでいた。聖王として強く在ろうとする自分を拒んでいた。

 それどころか、これまで心の奥底に封印していたモノが――禁断の問いが、首をもたげようとしていた。

 

「なぜ……なぜ私なのですか?」

 

 どうして自分ばかり辛い目に合わなければいけないのか。

 そんな思いが湧いた。

 聖王の娘としてではなく、ただの村娘として生まれていたら、こんな苦しい思いをしなくて済んだのだろうか。

 家族とテーブルを囲んで温かい食事を食べたり、他愛のないお喋りをしたり。

 やがて素敵な男性と出会って、素敵な恋をして……。

 そんな幸福な人生を歩めていただろうか。

 そう思わないでいられた日はない。

 そんな夢を抱かずにいられた日はない。

 もう戦いたくない。

 それが本当なのだ。

 それが偽らざる自分の思いなのだ。

 

「ああ、なんて私は弱いんだろう」

 

 そんなことを考えてしまう自分が情けなくて、恥ずかしさのあまり、このまま消えてしまいたくなる。

 いっそのこと、このまま消えて無くなってしまおうか。

 そんな思いが、自然と湧きあがった。

 このまま闇に全てを委ねて、身も心も静寂の一部となってしまおう。

 

「助けて、ください……」

 

 闇の中に、絶叫が響き渡った。

 

「……おとうさまっ!」

 

 そして、ルキナは覚醒した。

 

「夢、ですか……」

 

 がばっと身を起こした。

 全身にぐっしょりと汗をかいていた。汗が服に張りついて気持ち悪い。きっと今しがた見た、奇妙な夢のせいだろう。思い出すだけでも胸糞が悪くなってくる。

 不快感を振り払うように、額の汗を拭った。

 そうだ、私は過去の世界に戻ったんだ。ナーガ様の宣告どおり、仲間たちと虹のふる山へ向かい、待ち構えていた屍兵の包囲網を突破するために、私が囮を買って出たのだ。そこからの記憶がどうにも曖昧でよく思い出せないのですが……。

 いったい、私はどのくらい眠っていたのでしょう。

 

「それにしても……ここはどこでしょうか?」

 

 見慣れぬ風景。周囲には色鮮やかな木々が生い茂っていた。

 枝には桜色の花が咲き乱れていた。そよ風がいたわるようにそっと花を撫でつけた。すると、それがまるで粉雪のように宙を舞い、ルキナの頭上から降り注いでいる。

 思わず息を呑んだ。ルキナの見たこともなかった世界がそこにはあった。

 あれはなんという名前の植物でしょうか。

 

「まるで……おとぎの国にいるみたいです」

 

 父の仲間――サイリ殿やロンクーさんから聞いたことがある。彼らの故郷ソンシンでは、私たちの身の回りではお目にかかれないような植物が咲き乱れているのだという。

 もしかしてこれがそうだろうか、という純粋な好奇心が湧いた。

 もっともルキナたちの世界では、植物自体が珍しい存在だった。屍兵との戦乱のあおりを受けて、大地は荒れ果て、植物はほとんど死滅していた。目につくのは枯れ木ばかり。こうして自然を間近で見れること自体、ルキナには初めてのことだった。

 少なくとも、こんな場所はイーリス周辺には存在しなかったことは確かだ。下手をすればここが別の大陸だということもある。もしそうであれば早急にイーリスの場所を突き止め、渡航手段を考える必要がある。

「そういえば他のみんなは、どうしているのでしょうか」

 周囲に人の気配は感じられなかった。どうやら仲間たちとははぐれてしまったらしい。

 そもそも時間転移自体がどういう原理で行われているか未知数。もしかしたら各々が別の場所へと飛んでしまった可能性がある。

 何もかもが分からない事だらけだった。

 ここで考え続けても仕様がない。ここがどこかを確かめるためにも情報を集めなければ。

 

「ですが、その前に……」

 

 びっしょりと湿った服を見やる。ちょっと臭いが気になる。

 まずは汗ばんだ身体を洗い流したい。欲を言うなら浴場があればいいのだが、こんな山中にそんな都合のいいものを望めるべくもない。どこかに水浴びでも出来る場所があればいいのだが。そんなことを思いながら道なき道を歩いていたときだった。

 どこかから水の音が聞こえてくる。

 

「川……でしょうか」

 

 意図せずして声が弾んだ。

 それもかなり近い。

 うきうきとした歩調で、ルキナは音のする方角へと歩いていった。

 

 

  ◆   ◆   ◆

 

 

「ああ……生き返ります」

 

 すっかり油断しきった声が漏れた。

 ルキナの真っ白な裸体が、水面にくっきりと浮かび上がる。

 まるで白雪のようだった。

 玉のような肌には傷ひとつなく、その髪は絹のように透き通った輝きを放っていた。

 王族が素肌を晒している。

 それはすなわち、国宝級の値打ちに匹敵するようなそれが、大自然の下に晒されているということ。彼女の世話係たちや乳母がこの光景を目にしようものなら、口から泡をふいて卒倒しかねない事態である。もし偶然通りかかった従者や民間人がそれを目にしようものなら、国を挙げての一大事と発展することは間違いないだろう。下手すればその者が処刑されかねない。王族の――ましてや姫君ともなればその扱いは慎重にしかるべきことであった。

 だが、今はそれを咎める声もない。そういったしがらみとは一切無縁でいられた。とはいえ、ルキナは花も恥らう乙女である。他人に裸を見られれば恥ずかしいと思うだけの感性はそなえている。

 念のため、川の周囲を歩き回って人の有無を確認したが、誰かが近くにいるということはなかった。

 人目がないと分かるや、すかさず衣服を脱ぎ捨て、川に飛び込んでいた。

 風呂は命の洗濯だという。

 風呂というには湯加減も足りないし、薬草の香りもしない。ただの川なのだからそれも当然である。

 しかし、それを差し置いても汚れのまとわりついた身体を洗い流すのは、実に快適だった。

 野外ということもあるだろう、心まで開放的な気分にさせてくれる。

 周りの目を気にしないでいられるというのは最高に気持ちがいい。

 心の底からそう思った。

 

 と――そのときだった。

 

 ふと、耳をよぎるものがあったのだ。

 最初は覗きを警戒した。反射的に両手で胸を覆い隠していた。

 だが、そうでないとすぐに悟る。

 

(ユラリ ユルレリ)

 

 魂を撫でつけるような、ひどく透明な声。

 あれは、歌だ。

 近くに誰かいるのだろうか。

 身を乗り出して、声のする方角へと近づいてみる。

 岩陰の向こうに人影が見える。

 息を殺しながら、そっと覗き見た。

 そこには少女がいた。どこか神秘的な雰囲気をまとった少女だ。

 湖上の歌姫――

 そう呼んでも決して誇張のない存在が――まるで何かの童話にでも出てきそうな光景を、ルキナは目の当たりにしていたのだ。

 自分が裸であることも忘れ、未だに夢の中をさまよっているような気分にさせられながら、ルキナは無言で立ち尽くしていた。

 向こうはこちらに気づいていない。歌を謳うことに夢中で、それどころではないのだろう。

 なんとなく声をかけづらかったのもある。しかし、それ以上に少女の歌を邪魔してはいけない気がしたのだ。

 その神聖な行為を邪魔するというのはとても罰当たりなことだ。

 そう思わされた。

 そんなことよりも、今はただ、少女の歌を聞いていたかった。

 目を閉じて、ルキナは少女の歌声に耳を澄ましていた。

 歌の意味は分からない。彼女が歌にどんな思いを込めているのかも分からない。

 ただ、聞き入っていた。

 己の使命を忘れ、自分が何者であったかさえも忘れ――ただただ唄の虜になっていた。

 それほど不思議な魅力に溢れていたのだ。

 声も出ないとはこういう状態を指し示すのであろう。そう思った。

 その声をもっと自分に聞かせて欲しい。

 かと思うと、いきなり歌が止んだ。

 どうして途中で止めたのか。

 出来ることなら、いつまでもそれを自分に聞かせて欲しかった。

 そんな不満を抱きながら、ルキナが目を開けてみると、

 少女が驚愕の面持ちで、固まっている。

 見てはいけなかったものを見てしまったと言わんばかりに、こちらを指差している。

 彼女の指差す先へ、ついっと視線を動かしてみる。

 ルキナは自分の身体を見下ろすような体勢になって、はっとなった。

 自分が一矢纏わぬ姿だということを、今さらのように思い出したのだ。

 つまり、裸だった。

 それは自分のあられもない姿を、相手に見られているわけであって。

 向こうからすれば、たとえ同性といえども、全裸の不審者がいつの間にか覗き見しているわけであって。

 見られた――

 ようやくルキナの思考がそこに行き着いたとき、ぼっと顔が火を噴いた。

  

「「へ、変態ッ――!!」」

 

 まるで示し合わせていたかのように、二人は絶妙なタイミングで声を放っていた。




ラッキースケベなんて硬派なFEらしからぬ展開と思われた人もいるかもしれない。
その方にはごめんなさい。

だが、後悔はしていない(キリッ

ここまで長々と語っておいてなんですが、今作のIFには温泉という施設があるので一応、原作を踏襲していることになります。

そして、今までがちょい暗めだったんでちょっと明るくしました。これからシリアスを交えつつ、徐々に明るくなる予定です。


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湖上の歌姫

 気まずい、その一言に尽きた。とにかく第一印象が最悪だった。

 なんともいかんしがたい沈黙が、二人の間に張り詰めている。

 いや、今はそんなことよりもこの微妙な空気を何とかするのが先決だ。異性に裸を見られなかっただけましであろう。強いてルキナはそう考え直す。

 だが、なかなか良い案が思い浮かばない。それは向こうも同じようだった。湖の少女は、すっかり困惑しきった表情で目を泳がせている。お互い、何と切り出せばいいのかまるで分からないでいる。

 

(何が変態、か)

 

 ルキナはさきほど自分が放った第一声を恥じた。彼女は偶然ここに通りかかっただけであろう。何の罪はない。野外で裸をさらけ出している自分の方がそうではないか。むしろこんな貧相な身体を見せてしまった彼女に申し訳ない。謝るべきは自分のほうだ。そう思った。

 とはいえ世間一般の観点からいえば、とある部分を除けば、ルキナは同性も羨むような素晴らしいスタイルの持ち主である。もっとも、当の本人は己の価値に無頓着であるため、ついつい自分を卑下してしまいがちなのだが。

 そんなことはさておいて。

 

(そういえば彼女は、いつからそこにいたのでしょう?)

 

 一応、周囲の身回りは済ませた。ルキナとしては細心の注意を払ったつもりだった。そのはずなのに。少女はそこにいた。まるで何もない場所からいきなりぽっと現れたかのように。

 もしかして妖精か水魔の類なのだろうか。それならば気配を感じなかったとしても不思議な話ではない。仮に目の前の少女がそういう存在だったとしても驚きには値しない。そう説明されてもすんなりと信じ込んでしまうだろう。

 湖の少女は、どこか非人間的な、謎めいた雰囲気を放っていた。

 

(いやいや、何を考えているんだ私は)

 

 首を振った。単純に自分が見落としていただけという可能性も否定出来ない。というか、普通に考えればそっちの方が可能性としては高い。

 唯一、腑に落ちないものがあるとすれば、()()()()()()()()()をするだなんて、彼女は一体何を考えているのだろう。服がびしょびしょに濡れてしまっても平気なのだろうか。

 

(本当に、変わった人ですね)

 

 ルキナがそう思ったとき、

 

「あの……あなた、ここで何をしていたの?」

 

 おずおずと湖の少女が言った。はっとルキナの硬直が解けた。思索の海に沈んでいた意識が引き戻されていく。

 

「え、えっと……身体を洗い流したくて、水浴びをしていました」

「水浴び?」

 

 意味を掴みかねたように、小首を傾げていた湖の少女だったが、

 

「そう」

 

 ああ、だから裸なのね。と、納得がいったように、しきりに頷いていた。

 それ以外に、川の中に裸で浸かっている理由なんて他に見当らない気がするのだが――そんなことをちらりと考えたが、口には出さないでおく。

 

「いつからそこにいたの?」

 

「ついさっきです。私が水浴びをしていたら、歌声が聞こえてきたもので、それに誘われてみたら、あなたがここにいたんです」

 

「……盗み聞きはよくないわね。いるなら声をかけてちょうだい」

 

 湖の少女の、探りを入れてくるような目つきに、どきっとなる。

 初対面の人間を警戒するのは当たり前のことだ。それ自体は何ら不自然なことではない。だが、ここまで強い警戒心を露わにするのは何故だろう。大げさを通り越して、異常だといえた。

 何か見られたらまずいことをしていたのだろうか。そんな疑問が湧いたが、これも口には出さないでおく。

 そんなことを言おうものなら、話が余計にこじれるだけだ。そんな展開はこちらとしても望むところではない。

 

「あなたの歌声に夢中になるあまり、つい声をかけるのを忘れてしまって……今まで聴いたこともないくらい、それはとても素敵な歌声でした」

 

 まず正直な気持ちを告げた。

 

「ですが、どんな理由があっても、じっと見つめるような真似をされたら不快に思うのも無理はありません。私があなたの立場だったら、同じ思いを抱いていたでしょう。ましてや初対面であれば尚更。本意でなかったとはいえ、覗き見をしてしまい、申し訳ありませんでした」

 

 あなたを害するつもりはないんですよ、というふうな口調で言った。

 それから反省の意を込め、深く頭を下げた。それは王族を裸で謝らせているという、ある種ものすごい光景だった。ルキナを知る関係者が見れば、目を剥いて失神しかねない状況である。

 だが、湖の少女はそんなやんごとなき事情に気づくわけもなく、すっかり毒気を抜かれた顔で、ため息をついた。

 

「頭を上げて。謝るのは私の方だわ。初対面のあなたを警戒するあまり、随分と失礼なことを言ってしまった。こちらこそ、あなたの水浴びを邪魔してしまってご免なさい」

 

 自分の想像を遥かに超えた、馬鹿丁寧な謝り方をされて、むしろ自分のほうが申し訳なくなってきたというふうに。

 それから、再び沈黙が張り詰めた。

 ……気まずい。

 何を話せばいいのかまったく分からない。話題が見つからない。話すだけ話したら、逆に話せばいいのか分からなくなってしまったのだ。

 

「……邪魔したわね。私はすぐに出て行くから。あなたはそのままゆっくりしててちょうだい」

 

 身を翻して立ち去ろうとする湖の少女に、慌ててルキナが言った。

 

「そんな、邪魔だなんてとんでもありません。出て行かなければならないのは私の方です」

「その必要はないわ。出て行くのは私で十分よ」

「そんなことはありません。私が出て行きます」

「どうして? 非があるのは私の方よ。あなたが出て行く意味が、まるで分からないわ」

「そのようなことはありません。元はといえば、今回の件は私の不注意が招いたことです。だから私の責任です」

 

 なんだかむっとなった。妙なところで頑固な相手だ。お互いに譲り合ってばかりでなかなか話がまとまらない。それどころか一旦は収まりかけた空気が、妙な方向へと転がりつつある。

 

「いいえ。私の方よ」

「いえ。私の方です」

 

 ルキナは半ばムキになりながら、岩の上に折り畳んだ服を取ろうとした、そのとき、

 

「アクア様っ、御無事ですか!」

 

 頭上から声が降ってきた。かと思うと、緑色の装束をまとったそれが、どこからともなく現れた。文字通り、本当に何も無い空間から突如現れたのである。

「……っ!」

 

 護衛がいたのか。

 おそらく先程の叫びを聞きつけたのだろう。

 だが、そんなことよりも飛び込んできた相手は男。つまり、異性だということ。その事実はルキナから声を失わせるには十分であった。

 

「アクア様の水浴びを覗き見るとは、不届きな輩もいた者ですね。それ相応の罰を受けてもらいま――っ!?」

 

 そこまで言いかけてから緑の護衛は凍りついた。

 

「なっ!? こ、これは一体?」

 

 相手の方もようやくルキナに気づいた。覗きだと思っていた相手こそ、一矢纏わぬ少女だということに。主君の一大事に、勇んで馳せ参じたつもりが、一転して覗き魔になっていたというとんでもない逆転現象が起こっていた。

 混乱した表情で緑の護衛は立ち尽くしている。

 ルキナは悲鳴をあげながら、川の中に飛び込んだ。

 その後ろでは、湖の少女がわなわなと肩を震わせている。

 

「罰を受けるのはあなたの方よ、スズカゼ!」

 

 ばちこーん、と小気味のいい音が鳴り響いた。

 

  

  ◆    ◆    ◆

 

 

「……何か言うことは?」

 

 湖の少女が眉間をひくつかせながら腕を組んでいる。その横では着替え終わったルキナが、顔を赤らめながら膝をもじもじさせている。

 彼女たちの正面では、スズカゼがなんとも決まり悪そうな表情で正座をしている。彼の頬にくっきりと浮かぶ真っ赤な手形が見ていて痛々しい。

 

「……先程は失礼しました。アクア様の叫び声が聞こえてきたものですから、無我夢中で周りを確かめる暇もなく……まさかそのような事情があったとは知らず、本当に申し訳ありません」

 

「い、いえ。気になさらないで下さい。大事な人の身が危うければ誰だってそうなります。私もスズカゼさんの立場なら、我が身を省みることなく飛び込んでいたでしょう」

 

 言いながらも、ルキナの声は若干――というか、ものすごく引きつっていた。思い出すだけでも恥ずかしさのあまり身体が熱くなってくる。

 実際、あれは不可抗力だ。彼は忠臣として当然の役目を果たした。それ故、起こった悲劇である。彼ひとりが責め立てられるのは筋違いというものだろう。

 頭ではそうだと分かっていても、許すことは出来なかった。

 お父様を除けば、異性相手に一度も裸を見られたことはないというのに。しかも外で。思い出すだけでも耳まで真っ赤になる。ああ、なんて私は破廉恥なんでしょう。

 キッと覗き魔を見つめる。

 それにしても、どうして相手の接近に気づけなかったのか。たとえ自分が湖の少女とのやり取りに夢中になっていたとはいえ、殺気を感じ取って備えることは出来たはずだ。

 にも関わらず、この自分が全く気配を感じ取れなかったなんて。その事実はルキナのプライドを大いに傷つけた。

 覗き魔――いや、スズカゼさんは相当の使い手だ。それだけは疑いようのない事実。そして、ルキナですら知り得ていない、湖の少女の名前をスズカゼは知っていた。

 アクア様と、たしかにそう呼んでいた。

 そこから察するに、湖の少女――アクアとは、おそらく主従の関係にある。もしかしたらアクアはやんごときなき立場の存在なのかもしれない。こんな腕っぷしの護衛をつけていることからもそうだろう。それに、アクアの喋り方や立ち振る舞いの随所から、そこはかとない気品めいたものを感じる。そう思った。

 そんなルキナの想像は遠からずとも的中していたのだが、それはまた別の話。

 

「そうだ、こうしている場合ではありません」

 

 がばっと顔を上げながらスズカゼは言った。

 

「お伝えしなければならないことがあります。お二人とも、今すぐここから避難してください」

 

 避難。スズカゼの口からいきなり飛んできた物騒な響きに、ルキナは顔をしかめた。

 

「いったい、それはどういうことですか?」

「近隣の村がノスフェラトゥの襲撃を受けております。ここもいつ戦場となるか分かりません。巻き込まれる前に離れてください」

 

 ノスフェラトゥ?

 初めて聞く名前だった。ルキナの世界では、近隣の村を襲うのはもっぱら屍兵だった。それ以外の存在は聞いたことも見たこともない。もしかしてここら一帯に生息する、野生動物か何かの類だろうか?

 

「そう……またやつらが攻め込んできたの。懲りないわね、向こうも」

 

 アクアだけが意味を呑み込んだように、深々とため息をついた。それから何かを決めたように、

 

「スズカゼ。その村に私を案内してちょうだい」

 

 言った。それは単なる思いつきなどではなく、強い意思の宿った眼差しであった。

 

「それは出来ません。いくらなんでも危険すぎます」

「こうしている間に多くの命が奪われているのよ。戦える者が行かないで、どうするというの」

「その点はご心配ありません。タクミ様の率いる部隊がもうじき到着します。それまでは、私が村人を逃がすための時間稼ぎとなります」

「……それなら尚更、あなた一人に任せられないわ」

「ノスフェラトゥごとき、私一人でもどうにかなります。ですから、アクア様は王都にお戻りになってください。近くに護衛を待たせております。道中の安全は彼らが保障してくれるでしょう」

 

 ルキナにはどこの王都かは皆目見当がつかない。ところどころ話の内容は掴めない。が、アクアはやはり相当の地位にあるらしい。スズカゼ以外にも、他に護衛がいるという発言からもそれが窺えた。

 けれどスズカゼの説得も虚しく、アクアは首を縦に振ろうとはしなかった。

 

「いいえ。それは出来ないわ。聞いてしまった以上、この国の一員として、私も何かしたいの」

 

 この国の一員、という言葉にルキナはひどく疑問を抱いた。一見する限り、何らおかしいところはない。その言葉はとても愛国心に溢れている。

 だが、何故だろう。理由は分からないが、アクアの放った言葉には必死な何かが見え隠れしているように思えた。まるで自分ひとりが仲間外れであるかのような、そんな思いをルキナは抱かされた。

 そんなアクアの訴えも虚しく、スズカゼは頑として折れたりはしなかった。

 

「だからこそです。あなたの身に何かあったら、皆様が悲しみます」

「でも……」

 

 アクアはなおも言い募ろうとする。

 このままでは埒が明かない。ルキナはいてもたってもいられなくなり、

 

「あの、その件なら私にお任せください」

 

 咄嗟にそう放っていた。

 二人が驚いたように振り返った。予想外の人物からの申し出に、不意を突かれたような顔をしている。

 

「しかし、部外者を巻き込むわけには……」

 

 躊躇するスズカゼに、ルキナは言った。

 

「スズカゼさんのお話から大体の事情は呑み込めました。知ってしまった以上、私はもう部外者などではありません」

「これから向かう先は戦場ですよ。命の保障は出来かねます。それでもあなたは行きますか?」

「問題ありません。剣の腕には自信があります。お役に立てるかと」

 

 本音を言えば、あんまり寄り道をしている時間も暇も残されていない。一刻も早くお父様を見つけて使命を果たしたいという気持ちもある。

 だがそれ以上に、困っている人間を見捨てておくのは決して許されざる行いだと思った。たとえそれがイーリス以外の人間であったとしても関係ない。いわば、王族として果たさなければならない務め。ここで彼らを見捨てるのは代々の聖王たちの顔に泥を塗る行為だ。

 ルキナは腰のファルシオンへと手を伸ばした。人々のためにこそ、この剣は振るわれなければならない。今がそのときだ。心の底からそう思った。

 

(お父様もそれくらいの寄り道なら許してくれるでしょう)

 

 ルキナの短い言葉から何かを感じ取ったのだろう。

 

「……承知いたしました」

 

 スズカゼは頷いた。



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悲劇にさす光明

 モズメが襲われたのは、裏山から山菜を採取したその帰り道だった。

 裏山に通い始めてから数十年。うんと小さかった頃から、モズメは近所の裏山へとよく遊びに行ったものだ。まだ父が生きていたころ、大きな手に支えられながら、一緒に山菜をとったり弓矢の扱いを教えてもらったりした。手にたくさん血豆をつくって弓矢の練習に励み、鹿を狩れるほどまで上達することが出来た。村の皆が総出でモズメの成果を祝ってくれたときは、嬉しさの余り何度も何度も飛び上がってしまったものだ。

 そして数十年経った今でも、その習慣は続いている。

 いつものように裏山へと出かけ、家族のために食料を探しに行く。今日は活きの良い獲物こそ見つからなかったが、美味しそうなツクシをたくさん見つけることが出来た。成果としてはそれなりだろう。今夜の晩御飯はツクシ鍋だ。

 意気揚々とした面持ちで鼻歌を歌いながら、山を下っているときだった。

 何の前触れもなく、ソレはやってきた。

 モズメの暮らす村が襲われていたのだ。

 

「村が……!」

 

 火の手の上がる村に、なかば半狂乱になりながら駆けつけてみれば、それはもうひどい有り様だった。住み慣れた民家はことごとく半壊しており、汗水流して育ててきた畑は無残にも踏み荒らされている。家畜の骸がそこら中に横たわっている。お腹にばっくりと空いた空洞。何か巨大なモノに腸を貪り食われた痕跡だとモズメは考えた。

 野生の熊か、猪の仕業だろうか。

 いや、そんな生易しいものではないだろう。これはそんなものよりも獰猛で、もっと恐ろしいモノの仕業だ。

 

 そういえば、とある噂話を耳にしたことがあった。

 白夜王国の村という村が、今、人ならざる者たちによって襲撃を受けることがあるのだという。やつらに目をつけられた村は全てを根こそぎ奪い尽くされるらしい。人間も家畜も農作物も何もかも。そして後に残されるのは、徹底した破壊の痕跡だけ。

 たしかそんな話を、旅の商人が教え聞かせてくれた。

 聞いた当初は、恐ろしい話だとつくづく思った。

 その一方で、まさか自分たちの村に限ってそんなことになるわけがないと思っていた。そもそもこんな片田舎にある村を襲って、奴らに何のメリットがあるというのだろう。盗られて困るような物は何一つとして存在しない。

 それに、白夜王国には結界が張られている。それはミコト皇女のありがたい霊力によって編み出された秘奥。敵意を持った人間が足を踏み入れた途端、たちまち戦意が霧散してしまうのだという。戦わずして相手を無力化するという、慈愛に溢れた白夜皇女らしい技である。その効果範囲内にいる限り、自分たちは安心して暮らせる。谷を一つ越えた先にある西の隣国――暗夜王国の襲撃に怯えて暮らす必要もない……はずだったのに。

 いったい、これはどういうことだろう。

 

 火の海に包まれる藁の家。血を流して倒れる村の皆。

 有り得ないと思っていた状況が、まさに現実のものとして起こっている。

 そういえば――旅の商人の話にはまだまだ続きがあった。

 ミコトの結界により、戦争状態にあった白夜と暗夜は十数年もの間、恒久的な平和を保っていた。だが、狡猾な暗夜王国はそれで侵略の夢を諦めることはなかった。むしろ対抗心を燃やし、結界の影響を受けない戦士を造り出すことに成功。人の心を持たない者たちを白夜の領土へと送り込んでいるのだという。

 それが人ならざる者たちの正体だという話だった。

 どうやら白夜と暗夜の戦争が、自分たちの村にまで及んだらしい。ついに自分たちの番が来たのだ。そう悟ったとき、モズメはたまらず駆け出していた。自分の家へと。母の安否を確認しなければ。

 半壊した自分の家を見つけると、即座に駆け込んだ。母の姿はすぐに見つかった。入口で気を失って倒れていた。

 

「おっ母!」

 

 必死に母の身体を揺さぶった。苦しそうな呻き声を上げながら、母の瞼がゆっくり開かれる。よかった、まだ意識があるようだ。ほっと安堵の息をつく。

 

「その声は、モズメ……かい?」

 

 ひどく掠れた、弱々しい声だった。

 

「喋っちゃ駄目や。お母!」

 

 母は怪我をしているようだった。頭から血を流している姿が痛々しい。出血がひどいが、幸い傷自体は浅い。白夜の王都で、ちゃんとした治療を受ければ回復するだろう。今すぐ母を連れてここから避難しなければ。

 

「モズメ、逃げ……あんただけだけでも早う!」

「いやや……お母も一緒に!」 

 

 母の身体を担ごうとした、そのときだった。

 背後から、怪物じみた嬌声が迫った。

 咄嗟に振り返ってしまった。

 そこには緑色の体表をした、筋骨隆々の大男がいた。

 頭部をすっぽりと覆い隠す怪物じみたマスク。拘束具でしめつけられた全身には、得体の知れない金属片がぼこぼこと埋め込まれている。

 これが暗夜で生み出されたという化物だろうか。たしかに、どう控えめに見てもそうとしか形容の出来ない、気味の悪い出で立ちをしている。

 呆然と立ち尽くすモズメたちの前で、化物の無骨な手がぬっと伸びた。かと思うと、母の身体を鷲掴みにした。あっという声を上げる暇もなく、信じられない膂力でもってモズメから母を引き剥がされた。一瞬の出来事に呆ける彼女の前で、母の身体は闇の彼方へと引き摺られていく。ばきばきと何かが砕け、飛び散る音。間断なく続く母の絶叫。ここからでは何が行われているかは見えない。

 だが、それがモズメにより一層恐ろしい想像を掻き立てさせた。

 

「おっかあぁぁぁぁぁ――――っ!」

 

 その瞬間、モズメの身体の硬直が解けた。

 脇目を振り返ることなく、半狂乱になりながら村の中を駆けた。

 甲高い叫び声を上げながら、一目散に逃げた。

 逃げなければ。

 あんな怪物相手に、自分では到底太刀打ち出来るはずもない。

 だが、どこに逃げればいいのか。

 分からない。とにかく、あの化物たちに捕まらないような場所ならどこだっていい。

 モズメは無我夢中で、森の中を走り回った。

 

 

 ◆   ◆   ◆

 

 

 アクアは自分ひとりが仲間外れにされることを快く思ってはいなかった様子だったが、不承不承といった体でそれを受け入れた。途中で待たせていた護衛の兵士たちにアクアの身柄を預けると、ルキナとスズカゼは襲撃を受けたという近隣の村へと急いだ。

 だが、すでに時は遅く。二人が村にたどり着いたときには、惨憺たる光景だけがあった。

 鼻をつんざくような腐臭が村を覆い尽くしている。

 蹂躙の後。

 化物の姿はどこにも見えない。新たな獲物を求めてどこかに移動したのだろうか。けれども、油断は出来ない。まだこの周囲にいる可能性は極めて高いのだから。

 そんなことを考えていると、スズカゼがおもむろに言った。

 

「あまり動揺しておられないのですね」

「これと同じような光景を嫌というほど目にしてきましたから……」

 

 自分たちがいた世界では、嫌というほど目にする光景だった。焼け崩れた村を横切るたびに、ルキナは胸を痛めていた。何度目にしても慣れることはなかった。

 

「こんな時になんですが、あなたのお名前をお伺いしてもよろしいですか?」

「そうですね……私は”マルス”と言います」

 

 あえて本名は伏せた。それは過去に行くと決めたときから、そう名乗るつもりでいた。いにしえの英雄王の名を口にすれば誰もが首を傾げる。だが、スズカゼは特に驚きを見せることはなかった。ルキナの名前よりも、別のことが気になって仕方ないようだった。

 

「では、マルスさん。お聞きしたいのですが、あなたは西の方の出身ですか?」

「いえ、違います。私の出身地はイーリスです」

 

 正直、西だとか言われてもぴんとこなかった。そもそもここがどこかも分からないのだから当然だ。だが、ぴんとこなかったのはルキナだけではなかったようだ。

 

「イーリス……聞いたこともない名前ですね」

 

 スズカゼの言葉に耳を疑った。

 イーリスを知らないだって?

 そんな馬鹿げた話があるのだろうか。いや、イーリスよりも離れた場所にある大陸ならそれも有り得ない話ではないだろう。それならマルスという名前を名乗ってもたいした反応が得られなかったことにも納得が行く。そもそもいにしえの英雄王など、彼らは知るわけがないのだから反応のしようがないのだ。

 これはあまり考えたくない可能性ではあったが、どうやら自分はものすごく遠い場所に来てしまったらしい。時間遡行にリスクは付き物だとはいえ、いくらなんでもあんまりだとルキナは思った。

 とはいえ、これは私が自分で選んだ道。リスクがあることなど初めから想定していたではないか。

 とりあえずスズカゼの疑問に答えなければ。黙ったままだと不審に思われてしまう。

 

「知らなくても無理はありません。イーリスはここから遥かに離れた大陸にありますからね」 

 

 その場しのぎの案だったが、スズカゼはルキナの返答に疑問を抱いた様子はなかった。

「成る程。たしかにあなたは、この国では見慣れない服装と、独特の雰囲気をお持ちでしたからね。それが別の大陸のものだと言われれば、まさにその通りですね」

「ええ、ここに来てからというものの驚かされてばかりいます。見たこともない植物と、緑に満ち溢れた風景……思わず我を忘れて魅入ってしまった程です。どれもイーリスには見られない素晴らしいものですね」

「それはそうでしょう。この豊かな大地はこの国特有のものですからね。それ故に、隣国からは狙われ続けておりますが」

 

 それもそうだろうとルキナは思った。

 いつの世も権力者というものは野心に燃えている。邪竜ギムレーが世界滅亡に熱を注いでいたように。

 こんな緑豊かな地を目にすれば、誰もが心奪われてしまうことだろう。

 

「ところで、ずっと気になっていたのですが、この国の方たちはスズカゼさんのような格好をしていられるのですか?」

「ああ、私の服装ですか」

 

 スズカゼは苦笑した。

 

「これは王家に仕える”忍”のみが身につける物です。普通の方たちはこんな服装をしていませんよ」

「……シノビ?」

「忍というのは、影の任務に携わる者たちのことを指します。表舞台に現れず、裏から王国を支える役目を負っています。ようするに、気配を消して相手に気づかれないように背後へと近づき、奇襲を仕掛けるのが私たち忍の戦い方です」

「へぇ……」

 

 暗殺者みたいなものだろうか。

 言われてみれば、スズカゼの服装は違和感を抱かせることなく、周囲の風景に溶け込めそうだとルキナは思った。気配を殺すことに長けた戦闘集団。それならば、ルキナがさきほどスズカゼに遅れを取ったのも合点が行くというものだ。

 

「ですが、そんな重要なことを、赤の他人である私に教えてしまってもよろしいのですか?」

 

 ルキナの頭の中をある想像がよぎる。事が終わった後、機密を知った者として王都に拉致監禁されるかもしれない。下手したら口封じとして殺される可能性もある。

 そんなルキナの物騒な想像を知ってか、スズカゼは肩をすくめながら言った。

 

「これから共闘する仲間に、手の内を明かせなければ、マルスさんも安心して背中を任せられないでしょう?」

「成る程、一理あります。しかし、出会ったばかりの相手をこうも信頼出来るとは、にわかには信じがたいですが――」

「先程、マルスさんが、自分はもう部外者ではないとおっしゃいましたよね。その言葉を、私は信じたいと思っております。……それがあなたを信頼する理由では駄目でしょうか?」

「スズカゼさん……」

「それと先程の覗きの件……心から申し訳ないと思っています。覗き魔の汚名を晴らすためならば私は何だって致しましょう」

「やめてください、思い出させないで下さい!」

 

 ルキナはがっくりと肩を落とした。

 どうやらスズカゼにとってはどうしても払拭したい過去であるらしいが……それならばわざわざ話を掘り返すこともないだろう。せっかく忘れかけていたのに。

 

「しかし、シノビというのは、なんだか格好いいですね」

 

 仲間たちと合流したら、是非ともシノビの文化を伝え聞かせたいと思った。土産話には丁度いい話題であろう。

 そんな浮ついたルキナの考えは、スズカゼが放った言葉で綺麗さっぱり霧散してしまう。

 

「いいえ、そんなことはありません。そのような誉れは私たちから最も遠い言葉です。私たちの得意とする隠密……それは無防備な相手の背後から忍び寄って、喉を掻き切る卑怯者の技です」

 

 ですが――と、スズカゼはたっぷりと間を置いてから、

 

「私のような者には相応しい生き様です」

 

 痛みを堪えるような顔でそう言った。

 

「……さて。無駄話はこのくらいにしておいて、この辺りを捜索するとしましょう。どこかに生存者がいるかもしれません」

「スズカゼさん……?」

 

 いったいどうしたというのだろう。何か気分を害するようなことを私は言ってしまったのだろうか。シノビの話をしてからというものの、彼の様子がおかしくなってきたように思える。

 

 ――卑怯者。

 

 スズカゼは自らをそう評した。そこから察するに、やはり国のためにやりたくもないような汚れ仕事をたくさん請け負ってきたのだろう。ならば、思い出したくないような過去の一つや二つくらいあって当然だ。誰にも言えない秘密を抱え込んでいる。それ故に、この男は苦しんでいるのだろう。なんとなくそう思った。誰にだって知られたくない過去のひとつやふたつくらいある。それを聞くのは野暮なことだ。

 ルキナはこの話題を打ち切って、村の捜索を再開することにした。

 しかし、どこを探しても生き物の息づかいは感じられなかった。

 崩壊した家々。死体の山にたかる銀バエの群れ。

 生々しい蹂躙の跡ばかりが目についた。

 気が滅入るようなモノばかりが散乱している。生存者は絶望的だった。

 

(またか)

 

 ふいに、火柱に包まれる王城が頭の中をかけめぐった。

 逃げ回る人々の悲鳴。崩壊するイーリス。まさかそれと同じような光景をここでも目にするだなんて。

 ぎゅっと唇を噛みしめた。血が滲んでもお構いなしだった。

 

(それを阻止するための時間遡行だった。なのに……)

 

 自分の無力さを突きつけられているようで、胸が軋みを上げた。

 

(私は、誰も救えないのか)

 

 そう思ったとき、耳をつんざくような悲鳴が聞こえた。聞き間違えでなければ、あれは女の子の声。

 

「今の声――聞きましたか、マルスさん」

「はい!」

 

 声が聞こえた方角は、村はずれの森の中。切羽詰った叫び声から、生存者がのっぴきならない状況であることは疑いようもない。

 ルキナとスズカゼは走り出した。




投稿遅れてごめんなさい。熱がなかなか引かず、風邪で寝込んでおりました。

次回以降から、登場人物がぐんっと増えます。
暗夜スキーな人はもう少しお待ちを。

そういやIFのコミカライズが出るのだとか。なんでも暗夜と白夜にも属さない小国にスポットを当てた話だそうです。
もしかしたらそのコミカライズ限定の登場人物たちが、IFの今後のDLCに出るのかな、だなんて予想してみたり。


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魔王と風雲児

「なんでなん……?」

 

 モズメの口から声にもならない、ほとんど掠れきった嗚咽(おえつ)が漏れ出た。

 気づけば、子供の頃から慣れ親しんだ裏山にいた。今、モズメは窪みに身を横たえていた。自分ひとりがすっぽりと覆い隠れるような窪みだ。運悪く、猪や熊と遭遇してしまったときも、こうしてじっと息を殺しながら、脅威が過ぎ去るのをひたすら待ち続けたものだ。

 念には念をいれて、自分の身体に土をまぶせることで体臭を消してはいる。野生動物の嗅覚ならある程度は誤魔化せるだろう。しかし、モズメを追いかけてくる奴らに、野生動物と同じ手段が通じるとは到底思えなかった。なんせその相手は、暗夜王国で作り出されたという化物なのだから。

 

「なんでこんなことになったん?」

 

 考えれば考えるほど嫌な気分になってくる。自分たちは、何かとりかえしのつかないようなことをしでかしてしまったのだろうか。自分たちは何にも悪いことをしていない。それなのに何故こんな目に遭っているのか。

 贅沢な暮らしや、豪華絢爛(ごうかけんらん)な日々を送りたかったわけではない。もちろん王都に住むものたちに憧れを抱かなかったといえば嘘になる。

 だけど、モズメが本当に望んだのはそんなものではなかった。

 村の皆がそこにいて、家では家族が笑いかけてくれていて、あとは温かい食事さえ囲めればいい。ただ、ゆっくりと毎日を生きていたかった。そんな当たり前の幸せがそこにあれば十分だったのに。

 それなのに、こうして白夜と暗夜の戦争に巻き込まれてしまった。

 どうしてこんなひどい目にあっているのだろうか。

 

「みんな……みんな死んでしもた……」

 

 止まらない嗚咽。否応なしに悲しみが胸を突き上げてくる。

 

「うぅっ……うぅっ……あたい、どうしたらええん?」

 

 そのときだった。化物たちの唸り声が聞こえてきた。村を襲ったやつらがすぐそばに迫っている。

 はっと口を押さえつけた。泣いてばかりでは駄目だ。泣いても何一つ状況は改善しない。泣いてばかりではやつらに自分の居場所をみすみす教えてしまうことになる。それだけはどうしても避けなければならない。

 頭ではそう分かっていても、しゃくりが止まらない。涙と鼻水がぐしゃぐしゃに混ざり合ってすごく気持ち悪かった。

 そんな自分がますます惨めに思えてきて、涙が滝のように溢れていった。

 これでは隠れていてる意味がない。見つかるのも時間の問題だろう。

 早くここから逃げなくては。

 だけど、身体に力が入らない。腰を抜かしてしまって上手く立ち上がれない。

 がさがさと草を踏み分ける音が耳を打った。かなり近い。

 

(何かが来る!)

 

 戦慄が身体を駆け抜けた。全身の毛という毛が震え上がる。

 脳裏には身体をばらばらに引き裂かれた母親の姿が思い浮かんだ。

 

(も、もう駄目や)

 

 目を閉じて、歯を食いしばった――その瞬間。

 

「大丈夫ですか?」

 

 人の声。それも女の声だ。

 その事実は、暗闇の中に光が差したような安心感をモズメにもたらした。

 勇気を振り絞っておそるおそる顔を上げてみると、そこには奇妙な風体をした一組の男女がいた。

 男の方は上半身から下半身に至るまで緑色で身を固めているのだ。服装こそ奇抜だったが、整った顔立ちから、かろうじて白夜の人間であるとわかった。

 女の方はモズメにはよく分からなかった。この白夜王国では見たこともないような出で立ちをしていたからだ。だが、顔立ちから所作のいたるところにまで気品が漂っているのだ。例えるなら白夜に住まう王族のような、選ばれた者たちに特有の優雅さがあった。

 少なくとも自分は今すぐ取って食われるわけではないらしい。

 そう思うとますます身体から力が抜けていった。

 恐怖ではない。正真正銘の安堵からきた脱力感だった。

 

 

  ◆   ◆   ◆

 

 

「あ、あんたたちは……?」

 

 森の中で見つけた少女の有様といったらひどいものだった。とても怖い思いをしたのだろう。つぶらな目には溢れんばかりの涙が溜まっていて、顔中には鼻水と涙がぐちょぐちょに混ざり合っている。しかも全身が泥まみれで、あちらこちらを擦りむいたような痕が、目に痛々しかった。

 本当に無我夢中だったのだろう。命からがらここまで逃げてきたのが窺える。

 スズカゼはともかく。特に自分のほうは見慣れない格好をしているだろう。無用な警戒を抱かせる必要もない。

 

「もう大丈夫です。私たちがあなたを守ります」

 

 少女の恐怖を取り除いてやるように、ルキナは務めて穏やかな声で言った。

 

「あなたのお名前を聞いてもよろしいでしょうか?」

「あ、あたいはモズメや……」

 

 モズメは訛りのある声でそう言った。東の国によく見られる訛り方だった。

 どうやら腰が抜けてしまっているらしい。

 ルキナがそっと手を差し伸べてやると、モズメがはっとしたような顔で握り返してきた。自分がへたり込んでいることをようやく思い出したかのように。ルキナの手をつかんで、やっとのことで立ち上がれるようになると、緊張の糸が切れたように、ほっと息をついた。

 

「モズメさん。他に生き残っている人たちはいますか?」

「お母も、みんな……もうおれへん。あたい一人だけや」

「そうですか……」

 

 歯軋り。やはり手遅れだったか。

 だが、あの村の惨状を見た限り、たとえ一人といえど生きていただけで上出来というものだろう。

 このモズメという少女は運が良かった。当人からすればあんなひどい目に遭っておきながら手放しにそうだと言えないだろうが、あの惨状で生き残れたのは運が良いことだ。

 この手で救わなければいけない命が目の前にある。

 その思いは、ルキナに剣を執らせる十分な動機であった。

 たとえそれがちっぽけなものであったとしても。この私が誰かを守る刃となる。それだけだ。

 

「みなさん。気をつけてください。やつらが来ます」

 

 スズカゼの緊迫に満ちた声が飛んだその瞬間――

 

「グオォォォ――ッ!」

 

 木々の間から、異形が姿を現した。緑色の体表をした大男が現れたのだ。

 

「なっ……!?」

 

 ルキナは驚愕の声を放っていた。

 もちろんその不気味な姿に面食らったのもそうだ。だが、ルキナを驚かせた理由は別にある。

 

(あの化物……まさか屍兵か?)

 

 姿形こそ異なるが、この化物――私たちの世界にいた”屍兵”とよく酷似している。 

 

「”マルス”さん、何をしているのですか!」

 

 スズカゼの声ではっと我に返る。

 緑色の化物が、ルキナめがけて腕を振り下ろしてきた。

 とっさにファルシオンを頭上に構える。

 刃に拳が激突した。

 その反動でルキナの身体がわずかに吹き飛んだ。一メートルほど地面を抉りながら、ようやく止まった。

 

「なんという馬鹿力だ」

 

 ルキナの手の平では、ファルシオンが未だにびりびりと振動している、

 すさまじい破壊力だ。異常なほど盛りあがった上腕部から繰り出される拳の一撃をもらおうものなら、自分の身体などただでは済まされないだろう。やつにとって人体はスポンジのように柔らかい。ひねり潰すことは造作もないのだ。

 しかし、それだけのことだ。あの巨腕にさえ注意すればたいした脅威にはならない。こっちに剣がある分、リーチではルキナが遥かに勝っている。

 

「当たらなければ、どうということはありませんね!」

 

 がら空きとなった胸部めがけ、ルキナは剣をなぎ払った。

 心臓を真一文字に裂かれ、巨体があっけなく崩れ落ちる。

 

「こいつらは一体……?」

 

 ルキナの問いかけに、スズカゼが答えた。

 

「ノスフェラトゥという、暗夜王国で生み出された化物です」

「……あんや?」

 

 目を丸くするルキナに、

 

「マルスさんは、暗夜王国をご存知ないのですか?」

 

 スズカゼは真顔でそう問い返してきた。

 ルキナは一瞬、馬鹿にされているのかと本気で思った。しかし、当のスズカゼは真面目そのものである。ルキナはまじまじとスズカゼの顔を見つめながら言った。

 

「いえ、しかと聞き及んでいます。暗夜というのは神話で語り継がれる王国の名前ですよね?」

 

 いにしえの英雄王マルスが、暗黒竜メディウスを討伐するよりも遥か昔のこと。

 白夜と暗夜。そう呼ばれる王国があったのだという。平和を愛する白夜と、戦によって勢力拡大を目論む暗夜。その両国が互いに争い合っていた時代のことを、神話の世界とそう呼んでいる。

 どんなに世間知らずでもあっても、その伝説を答えられない者はいない。イーリスに住む子供たちでさえ常識として知っている。まだイーリスが平和だった頃、父や母が、寝物語として語り聞かせてくれたのをルキナは覚えている。

 だがルキナのその反応を意外に感じたのは、スズカゼのようだった。

 

「神話? 何を言っておられるのですか」

「……え?」

 

 予想外の言葉に、頭が真っ白になる。

 

「マルスさんのおっしゃる言葉の意味が分かりませんが、白夜と暗夜は存在しております。今でこそ表立ったぶつかり合いはありませんが、それもいつまで持つか定かではありません。現に、こうしてやつらはノスフェラトゥを私たちの国に送り続け、無関係の人間を襲い続けています」

 

 スズカゼの声が遠く感じる。

 あまりにも途方もない話に現実味が湧かなかった。もしかしてまだ本当の自分は眠りに就いていて夢の中をさまよっているのではないだろうか。そう言われた方がまだ現実味がある。

 竜の門をくぐったのは確かだ。この世界に自分がいること何よりの証明だろう。だが、虹のふる山に着いてからというものの、その辺りの記憶がどうも曖昧な気がする。神の竜と呼ばれているナーガが、そんなあからさまなミスを犯すとは思えなかった。

 

(いや、そんなことよりも――私は何か重大なことを見落としてないか?)

 

 思い出せそうにない。でも何かを忘れてしまっていることは分かる。それが分かっているからこそ、余計に気持ちが悪かった。

 

「マルスさん、どうされたのですか?」

「いえ、何でもありません」

 

 偽名で呼ばれることに奇妙なおかしさを感じた。

 マルスの名も知られていないこの世界で、偽名を使うことにどれほどの意味があるのだろう。

 

(白夜と暗夜……こんな遠いところまで私は来てしまったのか)

 

 遠く離れた大陸ならば渡航手段さえ何とかしてしまえばいい話だ。船でも何でも借りてしまえばいい。だが、それはあくまでも物理的な話だ。そもそもこの世界にはイーリスはおろか、いにしえの英雄王さえ誕生していない時代だ。

 子供の頃は本の中の世界のことをよく夢見たものだ。自分がその中の一員として登場人物たちとお喋りをしたり、一緒に冒険をしてみたり……なんとも微笑ましい思い出たち。そんな空想を、幼心に何度思い描いただろうか。

 こうして絵本の中の世界に、まさか自分が旅立つことになるとは思いもよらなかったが。

 あちらこちらからノスフェラトゥの雄叫びが響いてきた。後ろで、モズメが怯えたようにびくりと身を震わせた。

 

「……どうやら囲まれているようですね」

 

 周囲を木に囲まれているため敵の規模の全貌は窺い知ることは出来ない。

 だが、その数は十や二十は優に越えているだろう。

 さしものルキナとスズカゼでさえ、それほどの数に取り囲まれてしまったら苦しいものがある。

 それに、今の二人には守らなければならない相手がいる。敵の一挙一動に目を光らせながら、背後にいる少女へ危害が及ばないよう気を払わなければならない。なかなか厳しい戦いを強いられるだろう。

 それでもやらなければならない。少女を守れなければ、自分たちがここに来た意味がない。

 内心落ち着かないことだらけだが、おちおちそんなことを言っていられなかった。

 不要な雑念は刃を曇らせるだけ。今は生き残ることを優先しなければならない。

 ファルシオンを握る手に力を込めたそのときだった。

 

「ああ、嫌だわ。そこら中から暗夜の臭いがする」

 

 どこからともなく女の声が響いた。

 振り返る。

 

「暗夜の者が視界に入るだけで虫唾が走るわ。ここにいる奴は一匹残らず、最大の苦しみを与えて屠ってやる!」

 

 魔王。そう呼んでも差し支えのない顔立ちをしたモノがいた。槍を手にしたその出で立ちからは殺気が煙のように立ち昇っている。

 ルキナはとっさに身構えた。

 

「き、気をつけてくださいスズカゼさん。新手が現れました。そ、それもかなりの手練のようです」

「マルスさん、心配には及びません。あの方は味方です」

「み、味方? あの方がそうなのですか?」

 

 とても友好的な雰囲気には思えない。そもそもアレは話が通じる相手なのだろうか。

 かと思うと、ルキナの視線に気づいたように、魔王がこちらをギロリと睨みつけてきた。

 あまりの眼光の鋭さに、身体が凍りついた。

 

「暗夜の者……! 倒さなくては!」

 

 女がそう言い放った途端、手にした槍が払われる。すさまじい気迫で、殺気の篭った一撃を振り下ろしてきた。

 

「オボロさん、落ち着いてください。この方は私たちの協力者です」

 

 スズカゼの声で、槍の動きがぴたりと止まった。ルキナの首元に触れるか触れないかの絶妙な位置で。もしスズカゼの声が少しでも遅れていたなら、ルキナの白い喉元を容赦なく抉りこんでいただろう。

 

「協力者……敵じゃなくて?」

 

 オボロ――そう呼ばれた彼女は、ルキナを油断のない目つきで睨みつけている。値踏みするような目つきだった。少しでも怪しい動きをすれば即座に斬り捨てんばかりの形相である。

 

「格好こそ白夜では見慣れないものだけど、暗夜の臭いはしないわね」

 

 そっと槍を降ろした。

 ついでに魔王みたいな表情も成りを潜め――少女のような若々しい顔立ちが現れた。まるで別人のような豹変ぶりにルキナは面食らった。これがこのオボロとかいう女の素の表情らしい。普通にしていれば綺麗な顔立ちなのに、随分と勿体無いことをしている。

  

「おいおい、オボロ。俺を置いて先に突っ走るなよ」

 

 オボロの背後から、青年が息せき切って走りこんできた。どことなく猿を連想させる、野性味あふれた顔立ちをしている。刀を手にしていることから、それ青年の獲物なのだろう。

 そしてオボロの名を知っていることから、この青年は彼女の知り合いであるらしいとルキナは思った。

 青年はルキナたちの姿を認めると、破顔一笑した。

 

「俺はヒナタだ。で、こっちの魔王みたいな顔してるのがオボロってんだ。よろしくな!」

 

 そう名乗った青年――ヒナタは手を差し出してきた。ぽかんとなる。遅れて、ルキナは握手を求められていることに気づく。おずおずと手を差し出して応じると、ヒナタは白い歯を覗かせてにっと笑った。愛嬌のたっぷり滲んだ、人懐っこい笑顔であった。オボロとはまるっきり正反対の行動に、ルキナは戸惑いを覚えた。

 

「あの……あなたは、私を疑わないのですか?」

 

 こっちに来てからというものの、仕方がないこととはいえ、常に疑惑の眼差しがつきまとっていた。しかし、この男からはそれを感じられなかった。そもそもこちらを疑うことさえしてなかったように思える。

 ヒナタは一見して、隙だらけのようだがまったく油断はしていなかった。それどころか全身から抜き身の刃のように研ぎ澄まされた危うさを放っている。もしルキナが不意打ちでファルシオンを振るったとしても、この青年は即座に反応して見せるだろう。そう思わされるほどの鋭さを感じた。

 ヒナタもオボロ同様、かなりの使い手であることは疑いようもない。

 

「おうよ。白夜王国にいる限り、そういう心配は無用だからな」

「え?」

 

 それはどういう意味だろうか。

 だが、ルキナがその疑問を口にするよりも前に、

 

「オボロ、ヒナタ。突っ走りすぎだ」

 

 よく通るような声が、轟いた。

 その瞬間、オボロとヒナタはぴんと背筋を正しながら、声のする方向へと振り返っていた。

 

「タクミ様!」

 

 彼らの背後には、大量の兵士が列を成していた。

 

 

「どうやらタクミ様の部隊が到着したようです」

 

 スズカゼがほっと胸を撫で下ろしながら、言った。

 成る程、彼らが村を助けに派遣された部隊か。

 ルキナもスズカゼの隣で安堵の息をついた。なんとも絶妙なタイミングで助けが来たものだ。ルキナは改めて軍勢を――その正面に立つ若い男に目を見やった。

 あれがタクミだろうか。

 彼は、少年と呼んでも差支えがない、幼い顔立ちをしていた。オボロやヒナタを始めとする大勢の人間を従えていることから、やはり身分の高い人間なのだろう。ルキナやスズカゼには目もくれず、部下たちに指示を飛ばしている。

 彼が率いる部隊の兵士たちは、誰も彼もが見慣れない武器ばかりを手にしている。どれもイーリスではお目にかかったことのない武器ばかりである。

 神話の世界。

 その言葉がいよいよ現実味を増してくるのをルキナは感じた。やはりここはそうなのだ。何らかの事情で、自分は迷い込んでしまったのだ。

 にわかには信じられなかったが、いよいよその事実を認めければならないようだ。

 

「この場を制圧するぞ。これ以上、白夜の地を奴らの好きにさせるな。ノスフェラトゥ共を一匹残らず駆逐するんだ!」

 

 タクミの号令を皮切りに、白夜の軍勢たちは一斉に動き出した。




かなり迷いましたが、今回はキャラの紹介に当てたかったため戦闘シーンはだいぶ削らせてもらいました。
戦闘シーンを期待していた方は申し訳ありません。ゲームのようにスキルなどを駆使した、手に汗握る戦いもいずれ描いていきたいので、もうしばらくお付き合い願います。

それと、活動報告にてアンケートを行っていますので、よろしければご協力下さい。
尚、アンケートの答えは感想欄に書いてしまうと規約違反に当たるそうなので、お手数お掛けしますが、活動報告のコメント欄、もしくはメッセでお送りください。
よろしくお願いします。


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戦いの傷跡

 圧倒的だった。

 タクミ隊の獅子奮迅の戦いぶりの前には、さしものノスフェラトゥ共でさえ手も足も出なかった。彼らが駆けつけた途端、劣勢に傾きつつあった戦場も、あっという間に制圧してしまった。

 

「すごい……」

 

 今が戦の只中であることを忘れ、ルキナは感嘆の息を漏らしていた。最早、自分の出る幕はない。心の底からそう思わされた。

 それ程までに一方的な手際であった。特にオボロとヒナタ。一目見たときから彼らが只者ではないという予感はあったが、二人の戦い間近で目撃してからそれが確信に変わっていくのをルキナは実感していた。実に惚れ惚れとするような手際で、ノスフェラトゥの群を切り崩し、兵士たちに的確な指示を飛ばすことを忘れない。攻守共に隙のない連携をみせ、敵を追い詰めていった。

 

(見事)

 

 これにはルキナも内心舌を巻かずにはいられなかった。やはり自分の目に狂いはなかったようだ。

 かつてイーリスが率いていたクロム自警団も精鋭揃いではあった。兵士の練度もそう大差ないだろう。違いがあるとすれば兵士たちの士気だろう。イーリスでは屍兵に家族を殺されているせいか、自分の身を省みるどころか、命を投げ打つ覚悟で戦う者たちが多かった。

 だがその一方で、ギムレーという巨大な脅威に怯えている者が多かったのも事実だ。尽きぬことなき屍兵の軍勢。終わりの見えない戦い。明日があるかどうかも分からぬ戦いに身を投じていたのだから、それも当然だった。

 ルキナがざっと見渡してみた限り、白夜の兵士達の顔触れは、血色の良い肌と、健康的な顔色をしている者ばかりが目についた。国が豊かな証拠である。イーリスでは三食ありつくことはおろか、まともに寝つけぬことも多かった。その点、白夜とイーリスでは、置かれている状況が根底から違った。唯一、共通しているものがあるとすれば守るべき国があるという点だろう。平穏を守るためならば、誰もが必死になる。

 そして戦いは華々しいことばかりではない。戦が終わった後には、いつも何かしらの傷が残る。今回はあのモズメという村娘がそうだった。家族を目の前で殺され、住む場所さえも奪われた。彼女をどうするか。その事後処理が問題だった。

 木の陰にうずくまるモズメに、スズカゼは気の毒そうな目を向けながら、言った。

 

「モズメさんは近隣の村に受け入れられるでしょう。……受け入れ先があれば、の話ですが」

 

 ノスフェラトゥに襲われて身寄りをなくした者達は、別の村に移り住むことが多いのだという。だが、これには難色を示す者が多い。暗夜の襲撃が日常茶飯事になりつつある今、身寄りのない者たちが白夜には溢れかえっていた。どこの村や集落も難民を受け入れるだけの経済的余裕はなかった。人間一人といえど、食い扶持が増えるのは大きい。男ならまだしも女だというのが問題だった。労働力という点では、女は遥かに劣る。いかにも古臭い思考だが、そんな考えが未だに根付いているのだという。モズメの運命は前途多難もよいところであった。

 しかし当の本人はというと、別の道に光明を見出したようだった。

 

「あたい……お母と村のみんなの仇を討ちたい」

 

 モズメの浮かべた表情に、ルキナはぞっとなった。

 彼女はそれを知っている。親を屍兵に殺され、復讐にとりつかれた者の目。イーリスでは、兵士に志願する者たちの大半は怨恨が理由だった。闘争こそが己の生きがいだと信じ、敵を一人でも多く殲滅することに快楽を覚える、狂戦士たち。モズメの表情は、彼らとまるっきり同じだったのだ。戦争によって人生を狂わされた今、彼女を生かすのもまた戦争しかなかった。

 

「なあ……お願いだから、あたいも連れて行って」

 

 モズメの申し出に、白夜兵たちの目に戸惑いの色が浮かんだ。モズメはただの村人だ。兵士の素養どころか、武器を握ったことすらない。そんな者を一から育て上げるための労力と、それに費やされる時間と費用を鑑みれば、割に合わない。兵士を育てるのも簡単な話ではないのだ。いざ戦場に送り出したところで、すぐおっ死ぬに決まっている。この村娘は足手まといに他ならなかった。

 

「足手まといにならんよう頑張るから。だから、な……お願い」

 

 曖昧な笑みを浮かべてごまかす者もいれば、あからさまに目を合わせないようにしている者もいる。この聞き分けのない哀れな小娘をどう扱えばいいか、みな図りかねていた。

 

(こんなの、見ていられません)

 

 思わず前に出て行こうとするルキナの肩を、スズカゼが押し留めた。

 

「いけません。マルスさん」

「スズカゼさん。離して下さい」

「モズメさんをどうするというのですか?」

「そんなのは……」

 

 言葉に詰まった。モズメをどうするのか、特に考えていなかった。だが、それが何だというのだろう。今の彼女は助けを必要としている。お父様であれば迷うことなく助けていただろう。ならば迷ってなどいられない。助けを必要とする弱者にこそ、救いの手を差し伸べられるべきだ。そうでなければ聖王の名が廃るというものだ。

 スズカゼの手を振り払おうとしたそのとき、

 

「では、マルスさん。お聞きしますが、あなたに何が出来るのですか?」

 

 決まっています。そう答えようとして――はっとなった。

 自分にはもう何も残されてい。今さらのようにその事実に気づかされた。

 聖王。それが何だというのだろう。守るべき国も、民もいない。ここでは聖王という肩書きも紙切れ程度の価値すらない。ここにはいにしえの英雄王もいない。それよりも遥か昔の、白夜と暗夜が睨みあう時代。

 見知らぬ世界で、ひとりぼっちなのだ。

 そんな自分に何が出来るというのだろう?

 国ひとつ守ることが出来なかった自分に、モズメを助けられるのだろうか。

 助けられるだけの力もないのに、そんなことをされても迷惑だろう。

 そんなものはただの偽善だ。

 

「心中、お察しいたします」

 

 そういうスズカゼ自身も辛そうな顔をしていた。痛みに耐えるような表情だ。何故、そんな顔をするのか。彼もまた守るべき者を守れなかったことがあったのだろうか。そのときどんな思いを抱いたのだろうか。そう聞いてみたい衝動に駆られた。

 そんなときだった。

 

「いいわよ」

 

 オボロがモズメの前に進み出た。泥だらけのモズメの手の平を優しく包み込んだ。モズメが顔を上げた。

 

「おいおい、そんなに安請け合いしていいのか。オボロ」

 

 頭を掻きながらヒナタは顔をしかめている。そんなヒナタを無視して、オボロは続けた。

 

「私もね、幼い頃、暗夜に両親を殺されたの。だからあなたのやり場のない思いは分かるつもりよ」

 

 はっとモズメは息を呑んだ。

 

「だけど、兵士は生半可な覚悟じゃ勤まらないわ。ここで助かった命をわざわざ不意にすることはないのよ。今日は無事でも、明日には命を落としているかもしれない。……想い人に自分の気持ちを伝えることなく骸を晒すことがあるかもしれないわ」

 

 つい、とオボロの目が逸れた。その視線の先にはたくさんの兵士がいるため、その対象が誰であるかは分からずじまいではあったが。白夜に属する誰かに恋をしているのは明白であった。

 

「兵士になるっていうのはそういうことよ。それでも最前線に立つ覚悟はある?」

 

 自分を拾い上げようとしてくれる相手を、まじまじと見つめ返しながら、モズメは頷いた。存外に力強い頷き方であった。

 

「私のしごきは辛いわよ」

 

 ぱしっとモズメの肩を叩きながら、穏やかな微笑を浮かべた。

 

「その前に、あなたの汚れた服を着替えなくちゃね。私がいくつか持ってるから貸して上げる。きっとあなたに似合うものばかりよ」

「単純にお前が着せたいだけじゃねえのか?」

 

 からからとヒナタが笑うと、オボロがむっとした声で言った。

 

「あー、ヤダヤダ。ヒナタみたいな野蛮な男には洒落っ気が分からないみたいね」

「おいおい、心外だな。俺だってかっこよくなりたいとは思ってるんだぜ。タクミ様みたいに髪型を整えたりしてな」

「無理ね。髪型だけを真似たところでタクミ様に近づけるわけがないじゃない」

「く、くそう。ダメか……」

 

 ヒナタは何だかんだ言いながらも、彼自身、モズメを受け入れることに異論はないようだ。

 

「一件落着、ですね」

 

 あの二人ならばモズメを任せても問題ないだろう。ルキナは安堵した、そんなときだった。こちらをじっと見ている男がいることに気づいた。

 いつから見ていたのだろう。

 それは今まで静観を決め込んでいた男――タクミだった。疑り深い眼差しをルキナに向けながら、臣下達の制止の声を振り切って、ゆっくりとこちらに近づいてきた。オボロとヒナタが怪訝そうな顔で、タクミとルキナを交互に見守っている。

 

「あんた、名を何という?」

「マルス、といいます」

 

 ほとんど無意識にそう答えていた。すでに偽名を名乗る意味などないというのに。変なところで律儀だと自分でも思う。

 

「……嘘だな」

 

 刹那、矢のような殺気が全身を駆け抜けた。

 ファルシオンを構える暇さえなかった。気づいたときには、タクミがルキナに向けて弓矢を向けていた。

 

「「「タクミ様!?」」」

 

 臣下達の驚愕に満ちた声が響き渡った。




第一章終了。これからどんどん捲いて行きます。
本当に書きたいシーンはこの先にあるので。


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幕章 旅の仲間
風纏う神射手


 不意打ちだった。

 ファルシオンを抜く暇すら与えられず、こうして首元に狙いを定められている。その事実に、ルキナの全身が恐怖で粟立った。

 場に緊張が張り詰めている。タクミの臣下たちはみな、凍りついたかのように微動だにしなかった。いつ爆発するかも分からぬこの状況に、誰も声ひとつ発せないでいる。それどころか主君の突飛ともいえる行動に、乱心を疑っている臣下すらいる始末。それほどにタクミのそれは常軌を逸していたのだった。

 ひんやりとした冷気がルキナの身体に吹きつけてくる。凍てつく風に、妙な肌寒さを覚える。

 この風はどこからやって来るのだろう。ふとそんな疑問が湧いた。

 ルキナは注意深く相手の獲物を観察した。弦がほのかに青白い燐光を放っている。タクミの構える弓から、風の唸るような音が聞こえてくる。そしてつがえられた矢を中心に、とんでもない質量をともなった大気が渦を巻いている。あの弓が、どんな威力を秘めているかはいまだ未知数。それ故に脅威といえた。この世で理解出来ないものほど怖いものはない。しかもこの至近距離で撃たれたらまず避けることは不可能。

 何だろう。

 あの弓矢をまとう、不思議な力は何だろう。

 

(普通の弓矢じゃないことは、確かなようです……)

 

 もしかしたらファルシオンと同じ神器だろうか。おそらく風を操る類の。それならばこの凍てつくような冷気を発しているのも頷ける。

 ぶるっとルキナの身体が震えた。

 寒気からきた震えだけではない。純粋な畏れもあった。目の前で対峙する男から放たれる異様なまでの殺気に、呼吸すらままならないほど恐怖していたのだ。

 

(何でしょう……この人を突き動かしているモノは)

 

 ごくりと唾を飲み込んだ。

 たしかに自分は異国の――いや、違う世界を生きる人間だ。警戒の一つや二つもしよう。特に戦時下にあるとなれば、よそ者を歓迎する気になれないのも分かる。アクアやオボロがそうであったように。しかし、あの二人はここまでひどくはなかった。

 なぜなのだろう。

 タクミがここまで他者に敵意を剥きだしにする理由は何なのか。何が彼をここまで駆り立てるのだろうか。ここまでくると、執念めいたものを感じずにはいられない。

 

(はっきりいって、異常です)

 

 とても生きた心地がしなかった。

 ほんの少しでもルキナが動こうものなら、タクミは一寸の躊躇いもなく矢を放つだろう。この男ならやりかねない。そう思わされるだけの凄まじい気迫があった。

 濃縮された殺意が今、塊となってルキナを貫かんとしている、そのとき、

 

「白夜に、暗夜の軍勢が踏み込めない理由を知っているか?」

 

 ようやくタクミが重々しい口を開いた。

 

「いえ。存じません」

 

 ルキナは答えながらも、幼い頃の記憶を必死に巡らせる。絵本の記述によると、暗夜王国は険しい山と谷に囲まれた国だと伝え聞いている。そこから考えられるとすれば、白夜王国に攻め込もうにも、地理的に厳しいという点だろうか。

 だがタクミの口から出た言葉は、ルキナの想像も及ばないものだった。

 

「ミコト皇女――僕たちの母さんが、結界を張っているおかげなんだ」

「……結界?」

「そうさ。母さんの結界は敵の戦意を奪うのさ。この結界のおかげで、奴らは白夜に踏み込みたくても踏み込めないのさ」

 

 これにはルキナも驚愕した。

 普通、結界といえば敵の攻撃を防ぐ用途として使われている。いわば物理的な防衛手段として用いられるのが主流である。勿論、結界にも弱点がある。どれほど堅牢であろうと、壊されればそれまでである。新たに結界を張りなおそうにも一度破られた結界を張りなおすまでには莫大な時間を要する。それまでに術者に危害を加えられようものなら一間の終わりだ。ルキナの認識ではそんなものだった。

 それがまさか侵入者の精神に作用し、戦意そのものを削ぎにかかるとは。

 

(成る程。結界にはそんな使い方もあるんですね)

 

 素直に感心させられた。先程ヒナタが言った「白夜王国にいる限り、その心配は無用」といいう言葉の意味がようやく分かった。

 通常、結界を破壊するためには術者に危害を加えなければならない。だが結界を破壊しようにも足を踏み入れた瞬間、戦意そのものを喪失してしまうのだ。つまり、それが意味するものは術者が結界の中にいる限り、まず結界を破壊することは出来ないということ。

 やたらな物理結界よりも使い勝手がいいうえに、その防衛性能は頭一つ飛び抜けている。しかも無用な血を流すことなく、未然に争いを回避できる。

 もちろん並大抵の者においそれと出来る技ではないだろう。ミコト王女がそれを身に着けるための道程は生半可なものではなかったはずだ。文字通り、血の滲むような努力で習得に至ったのであろう。

 よく考えられたものだ。目から鱗が落ちるとは、まさにこのことだと思わされた。

 タクミが言った。

 

「白夜の守りは万全であると誰もが安堵し、胸を撫で下ろした。これで平和が保たれると。だが、狡猾な暗夜がそれで諦めることはなかった。それどころか母さんの結界の影響を受けない化物どもを産み出したんだ」

「化物?」

「その名はノスフェラトゥという、今しがた僕たちが戦った奴らのことさ」

 

 そんなことも知らないのか、と言わんばかりにタクミは眉をひそめている。

 

「向こうは魔術師たちを数多く抱えているからな。陰険な奴らの手にかかれば、そんなモノを作り出すことも朝飯前なんだろう」

 

 まったく忌々しい話だよ、とタクミは吐き捨てた。

 

「けれど、未だに暗夜の人間が敵意を抱いたまま、足を踏み入れるまでには至っていない。だからあんな出来損ないの兵士どもを、躍起になって送り込んでくるんだ。というか、それがやつらの限界なのさ」

 

 馬鹿にするように、タクミは鼻を鳴らした。

 

「だけど、僕はふと考えた。暗夜は結界の影響を受けない、新たな戦士を作り出したんじゃないかってね」

「……え?」

 

 一瞬、意味を図りかねた。

 かと思うと、タクミは矢を握りしめる腕に、より一層の力を込めた。

 

「随分と珍しい服を着ているんだな。少なくとも、白夜のものでないことは確かだ。僕にはどことなく暗夜っぽく見えるんだが、僕の気のせいだろうか?」

 

 お前が暗夜の手先なんだろ――そう言わんかりの無言の圧力が、ルキナに襲いかからんとしている。

 

「そ、そのようなことは……っ!」

 

 ルキナは戦慄した。目の前の男が殺意を燃え上がらせていく様子に、ただただ圧倒されてばかりいる。そう。自分はこの男に命を握られている。弁解しようにもどうすればいいのやら。この男の機嫌を損ねようものなら、どうなるものか分かったものではない――そのときだった。

 

「やめて! その人は何も悪うない!」

 

 声を張り上げたのはモズメだった。なけなしの勇気を振り絞り、生まれたての小鹿のように、膝を震わせながら、ルキナとタクミの間にかろうじて立っている。

 

「その人が助けてくれなかったら、あたいは殺されてた。その人は……命の恩人なんや!」

「モズメ……といったか」

 

 タクミが言った。ぞっとするほど無感動な目だった。

 

「引っ込んでいろ。僕は今、そこいる奴と話をしているんだ」

 

 徹底した拒絶。身体の芯から凍りつくような、冷え冷えとした声音に、モズメがびくびくと身を縮こまらせた。もう見ていられないほど可哀相な怯えっぷりだった。それでもルキナの前からどこうとはしなかった。

 

「モズメさん。下がっていてください。あなたのお気持ちは嬉しいです。ですが、あなたまで身を危険に晒す必要はないのですよ」

「……嫌や」

 

 ルキナの声にも、モズメは頑として従おうとはしなかった。

 

「あたいはお母を助けられなかった……そのうえ、命の恩人まで死なせてしもうたら、村のみんなに顔向け出来ひん」

「モズメさん……」

 

 そんな、今にも崩れ落ちそうなモズメの身体を支えたのは――スズカゼだった。

 

「タクミ様。モズメさんの言うことは本当だと思います」

「スズカゼ。お前まで何のつもりだ」

「この人は――マルスさんは、自分からモズメさんの村を助ける申し出をしてくれました。口ではなく、行動で示すことで。無関係の人間のために、迷うことなく自らの身を投げ打つなんて真似は生半可な覚悟で出来ることではないでしょう。私だけではなく、アクア様もその瞬間を見届けております」

「アクア姉さんが……?」

 

 タクミが一瞬たじろいだかに見えた。それでも矢を引き絞る腕を緩めようとはしなかった。

 

「さあ、どうだか。そいつは僕たちに近づくための演技をしているのかもしれない。敵意がないふりをして、油断したところを襲い掛かってくる可能性だってある」 

「タクミ様。もうお止め下さい」

 

 さすがに見ていられなくなったのか、固唾を守っていたオボロとヒナタが、タクミの前に立ちはだかった。

 

「ヒナタ、オボロ……お前たちまで」

「たしかに怪しげな服装をしておりますが、彼女から暗夜の臭いはしませんでした。おそらく無関係の人間でしょう」

「なんだか手柄を取られたみたいで悔しいけれど、その二人が駆けつけていなければ、モズメは殺されていたかもしれねぇ。それは疑いようのない事実だからな」

 

 タクミはふぅっと息を吐き出すと、構えていた弓をようやく下ろした。やれやれ、とでも言いたげに。

 

「……疑ってすまなかった、旅の人。いきなり矢を向けた無礼を許して欲しい」

 

 タクミその言葉に、一同は一斉にため息をついた。

 ルキナの身体から力が抜けていく。なんとか危機は脱した。緊張が解け、どっと疲れがおもりのように押し寄せてきた。ノスフェラトゥとの戦闘よりも神経をすり減らした気がする。九死に一生を得た気分だった。

 

「僕のことを憎んでくれても構わない。けれど、王族という立場上、あらゆる可能性を考慮しなければならなかった。上に立つ者として、部下たちを危険から守らなければならなかったからだ」

 

「王族? タクミさん、あなたも王族なのですか?」

「ああ、そうだ」

 

 王族。途端に親近感が湧くのを感じた。こんなところで自分以外の王族と出くわすことになるとは。身分が高いことは予想していたが、まさかタクミが王族だったとは思いもよらなかった。

 ならば、タクミの言葉に嘘偽りはないだろう。国は違えど、王は民を一番に思いやるものなのだ。そう思うと、先程の脅迫まがいの行動にも、腑に落ちるものがあった。

 

「ところで、『も』とはどういう意味なんだ? 聞き捨てならないな」

「言葉通りです。私はイーリスという国で聖王をやっています」

「イーリス……聞いたことがない名前だな」

 

 案の定というべきか、タクミは首をかしげた。

 頭では分かっていてもそんな反応をされると胸が痛んだ。途方もなく遠い場所に来てしまったことを痛感する。この世界で、自分は一人ぼっちなのだと否応なしに思い知らされる。

 

「マルス……といったか。あなたは何の目的があって、白夜にやってきたんだ。観光、という訳でもなさそうだが」

「それが……私にもよく分からないのです」

「分からないだって? 何故だ?」

「気づいたら、この場所にいたのです。どうにも記憶が曖昧でして、目が覚めたら私はこの見知らぬ世界にいた……そうとしか説明できないのです」

「ふぅん」

 

 タクミは武器こそ降ろしてくれたが、警戒までは解いていなかった。値踏みするような目つきで、じろじろとこちらの一挙一動を探っているのが分かる。このタクミという男は、猜疑心の強い性格の持ち主のようだ。

 たしかにタクミが自分のことを疑う気持ちも分かる。素性の掴めない者ほど、信用には値しない。ましてや自分のことさえ曖昧な女など。

 

「それならシラサギ城に来るといい」

「シラサギ城?」

 

 ルキナが目を丸くした。

 

「白夜の王都にある、僕たちの城だよ。そこには莫大な蔵書を集めた資料館もある。あなたの国のことも何かわかるかもしれない。それと、さっきのお詫びも兼ねて、シラサギ城を案内したいが、どうかな?」

 

 しばしルキナは黙考する。たしかに白夜の王都ともなれば、調べ物も捗るだろう。

 自分はこの世界について知らないことが多すぎる。無知といってもよい。

 疑り深いタクミのこと。ルキナを手元に置いて監視する意図も含まれているかもしれない。彼の真意が何であれ、ルキナにとってはありがたい申し出であることには変わりなかった。

 

「タクミさん。あなたのお心遣い、感謝致します」

 

 ですが、とルキナは言葉を切った。

 

「申し訳ありません。故あって先を急ぐ身ゆえ、その申し出はお受け出来ません」

 

 自分の故郷のことを思うと、落ちついてはいられなかった。一刻も早く、イーリスに帰りつく手段を見つけなければ。

 考えるだけでも逸る心を抑えられそうになかった。

 そもそも帰れるという保障すらないのだが。

 

「そうか、残念だ。もし王都に立ち寄る機会があったら、その時は是非ともシラサギ城へ立ち寄ってくれ。歓迎するよ」

「ありがとうございます。それでは、これにて失礼致します」

「待て。一人でこの山道を抜けるつもりか。せめて近くの村まで送ろう」

「いえ、お構いなく」

 

 そう言うと、呆気に取られるタクミたちの前で、ルキナは身を翻した。

 

 

 

 ◆  ◆  ◆

 

 

 

「マルスさん。お待ち下さい」

「スズカゼさん……」

 

 まさか追ってくる者がいるとは思わなかった。

 

「この辺りは、熊や猪が出ます。まれに、”妖狐”が出るという目撃情報もあります」

 

 一人で勝手に出歩くな。わざわざそう言いに来たらしい。なんとお節介なことだ。

 

「あのノスフェラトゥとかいう化物に比べれば、可愛いものでしょう」

「そうだとしても、女性の一人旅は危険です。せめて近くの村までお供いたします」

 

 ため息をついた。これもタクミの差し金だろうか。というよりかはスズカゼの性格に拠るところが大きいだろう。彼は困っている人を見捨てられないお人よしなのだと思った。

 

「スズカゼさん、安心してください。私はあなたのことを覗き魔だとは思ってはいませんよ。だから変な気づかいはしなくてもいいのですよ」

「いえ、決してそういうわけでは……」

 

 自分の失態を蒸し返されて、むず痒そうな表情を浮かべている。そんな困った顔がおかしくてついつい笑ってしまう。

 

「ところで、マルスさんはこれからどこへ行かれるのですか?」

「暗夜王国へ向かおうと思っています」

 

 そう告げた途端、スズカゼの顔が目に見えてこわばった。

 

「……差し支えなければ、理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

「ノスフェラトゥを生み出したのは暗夜なのですよね?」

「はい」

「奴らは私たちの故郷に出てきた化物と同じ雰囲気があるのです」

「雰囲気、ですか」

「はい。それで暗夜に向かえば何かが分かる。そんな気がしたのです」

 

 はっきりとそう告げた。

 ただの気のせいとは思えなかった。あまりにもあの化物は”屍兵”と酷似していた。

 そのノスフェラトゥを産み出した暗夜王国に向かえば何かが分かるかもしれない。

 そう思った。

 そこに根拠だとか、大層な理由があるわけでもない。強いて言うならばルキナの直感がそう告げていた。

 暗夜に何かがある。

 それだけは間違いない。

 

「成る程……よもやマルスさんに、そのような事情があったとは」

「私を止めますか?」

「いえ、今さらそんなことを考えたりしませんよ。どうせ私が何を言っても、あなたは暗夜へ行くことを止めないでしょう。マルスさんからは、そんな強い意志を感じます」

 

 スズカゼが呆れたようにため息をついた。

 

「国境まではお送り致しましょう。私がお供できるのはそこまでです」

「構いません。元より一人で行くつもりでしたから」

「国境を越えるとなると、それなりの準備をしなくてはなりません。差し出がましいようですが、マルスさんの格好は目立ちすぎます。その点も考慮する必要があるでしょう」

「たしかに、その通りですね」

 

 オボロやタクミのこともある。英雄王を模したありがたい装束も、裏目に出てしまっている。勘違いして斬られなかったのがせめてもの幸いであろう。出来ればこれ以上の面倒ごとは避けて通りたい。

 

「幸いなことに、この近くに私の知り合いの住む村があります。少々気難しいところがありますが、彼女に相談すれば必需品を都合してくれるはずです」

「備えあれば憂いなしですね」

 

 ルキナは微笑んだ。

 正直に言うと、スズカゼの同行ほど心強いものはなかった。この世界の地理に疎い自分では、暗夜に辿り着くことすらままならなかったであろう。

 いつの間にか頼もしい旅の仲間を得たものだ。

 

「では、日が暮れる前に出発しましょう」

 

 ルキナは頷くと、スズカゼの知り合いが住むという村へ急いだ。

 

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 

 一方、その頃。

 ルキナとスズカゼの後をつける二人組がいた。

 いつからそこにいたのだろう。男たちは影法師のように、寄り添っていた。特に何をするでもなく、沈黙したまま、ルキナとスズカゼとは一定の距離を保ちながらその背後に寄り添っている。

 一種、異様な光景だった。しかもルキナたちは二人組みに気づいた様子はない。それが事の異常さを際立たせている。

 男たちは、のっぺりとした表情をしていた。ぱっと見ただけでは頭にも残らないような、地味な顔立ちをしている。

 無個性。

 それがこの二人に共通した特徴だった。それこそ周囲の風景と見間違わんばかりに。

 

「あれは白夜の忍か」

 

 感情を徹底して押し殺した声。苛酷な訓練を積んだ賜物である。

 

「もう一人の女は……何者だ?」

「見慣れない格好をしている。おそらくこの地の者ではないだろう」

「暗夜へ向かうと、あの女は確かにそう告げたな。どうする。一旦、コタロウ様に報告するか?」

「いや、それにはまだ早い。我々には情報が少なすぎる。それからでも遅くはないだろう」

 

 もう一人がうなずく。

 

「あい分かった。引き続き、監視を続行する」

「全てはフウマ公国繁栄のために」

 

 その言葉を皮切りに二人組の姿は、忽然と消えた。そこには最初から何もいなかったかのように、変わらない静寂が立ち込めている。



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忍び寄る影

「マルスさん。着きました」

 

 夕陽も沈みかけようという頃、ルキナたちはスズカゼの知り合いが住むという村へとたどり着いた。

 

「スズカゼさん。あれは何ですか?」

 

 ルキナが民家を指差した。屋根には黒光りする石が敷き詰められているのが、とりわけ彼女の目を惹き付けて止まない。

 

「あれは(かわら)というものです。白夜では屋根()きなどに用いられる建材の一つです。もちろん民家だけでなく寺院などにも使われております」

 

 イーリスの住居といえば煉瓦造りが主流だったが、それとはまた違う材質が使われているのだろうか。はしたないとは分かっていてもきょろきょろと見渡してしまうのを止められない。さすが神話の世界というべきか。行く手に広がる何もかもが、ルキナにとっては目新しく映った。

 そんなルキナを、スズカゼが微笑ましいものでも見るような目で見守っている。

 

「炎の部族……ここはそう呼ばれる者たちが住まう村です」

「炎?」

 

 ふいに胸がざわついた。

 どことなく炎の台座を連想させられて、なんだか落ち着かない。

 

「彼らがそう呼ばれるのは、文字通り、炎を操る力を持っているからです」

 

「へぇ、面白そうな方たちですね」

 

 飛躍しかけていた思考を落ち着かせる。何の関連性もないではないか。

 

「実際に会って見ればお分かり頂けるかと思います」

 

 突如、鉄を叩く音が響いた。一心不乱に何かを打ちつけるように、その音が繰り返される。

 ただ聞いているだけなのに、こちらの身体まで揺さぶられるような衝撃がやって来た。鐘の音を間近で聞いたときと同じ感覚である。

 

「あれは何の音ですか?」

「ああ、あれは鉄を叩く音でしょう」

「何か造っているのですか?」

「炉や(jくわ)をはじめとした農具があそこで造られております。それだけではなく、白夜王国の武具のほとんどが、炎の部族の手によるものです。火の力を司る、彼らならではの生活の知恵です」

 

 鍛冶(jかじ)。ようやくルキナにとっても馴染みのある単語が出てきた。熱した金属を金槌で叩いて形を整える。主に鉄を使った製品の鍛造のことを指し示す。鍛冶師なくしては兵隊はおろか、国が成り立たない。炎の部族が白夜を支えていると言ってもほとんど差し支えがなかった。

 もちろんそれは白夜王国だけに限った話ではない。屍兵との相次ぐ戦闘によって武器の消耗が激しかったイーリスでも、鍛冶職人というものは貴重で有り難がられる職業だった。馴染み深いとはいっても、元の世界では戦いが日常茶飯事であったため、武器が造られる製造工程をルキナはお目にかかったことはない。だからこそ、

 

「見学してきてもよろしいでしょうか?」

 

 ルキナは好奇心からそんなことをつい口走っていた。

 しかし、これにはスズカゼも難色を示した。

 

「いけません。彼らの許可なくして工房に立ち入るのは禁じられております。とりわけ武具の製造現場に至っては部族以外の人間が見ることを許されてはいません」

「そうなんですか……」

 

 ちょっと残念だったが、わがままを言ってもしょうがない。部外者にはおいそれと見られたくないような一子相伝の技が使われているのならば、尚更そうだ。一族の秘中の秘を覗き見られたら誰だって良い顔をしないだろう。

 自分にそう言い聞かせて心を切り替える。

 

「おい」

 

 そんなとき、鋭い眼光で睨まれた。

 女が行く手を遮っていた。くっきりと浮かび上がる腹筋が、ただ者でないことを暗に告げている。

 

「あたし達の村に何の用だ」

 

 さながら山猫が唸り声を上げながら威嚇しているようであった。今にも飛び掛らんばかりの危うい雰囲気である。女の手には棒状の物体が握られていた。すり鉢のように細長く、その周囲にはトゲのようなも突起物が生えているのだ。

 

「お久しぶりです。リンカさん」

 

 おもむろにスズカゼが口を開いた。親しい友人に声をかけるような気安さで。

 

「お前……スズカゼか。久しぶりだな。こんなところまで何をしに来た」

 リンカ――そう呼ばれた女は驚きに目を見開いた。

 

「訳あって私達は暗夜に向かっております。この方に数日分の食料と、衣類を分けてもらえませんか?」

「……暗夜に向かうだと?」

 

 あからさまに疑いの目を向けてくる。成る程、たしかに気難しい感じではある。こんな山奥に住んでいる時点でもそうだとルキナは思った。さて、何と説明をしたらいいものか。ここは嘘を言って余計な不信感を抱かせるより、正直に告げるのがいいだろう。

 

「それはですね……」

 

 ルキナが口を開こうとしたそのとき、

 

「いや。いい」

 

 リンカが遮った。

 

「お前、絶対にそこから動くなよ」

「え?」

 

 リンカの全身に殺気がみなぎっていく。

 

「おらぁっ!」

 

 手に握られていた棒が投げられた。ルキナに直撃するかと思われた。だが、ルキナの脳天すれすれのところを通過すると背後の大木に突き刺さった。

 

(……外したのでしょうか?)

 

 かと思うと、信じられないことが起こった。

 そこから炎が燃え広がり、木がたちまち火柱に包まれた。

 そのときだった。

 熱さに耐えかねたのか、木の枝から飛び降りる影が見えた。

 人影だ。

 それも二つ。

 

「尾行に気づかないだなんてあんたらしくないな。スズカゼ」

 

 その言葉でルキナはようやく事態を飲み込んだ。どうやらリンカはそいつらを狙っていたらしい。苦虫を噛み潰したような顔でスズカゼが言った。

 

「どうやら、いつの間にか後をつけられていたようですね」

「御託は後だ。来るぞ!」

 

 人影が、ルキナたちに襲い掛かってきた。

 空中に飛び上がると、頭上から何かを投擲してきた。十字の形をした刃物のようなものである。速い。だが、目で追うことは出来る。ぎりぎりまで引き付けてから叩き落せばいい。

 飛んでくる全てをファルシオンで払い落とそうとして――身の毛が震えた。

 

「避けてください。マルスさん!」

 

 スズカゼの叱咤の声。

 ルキナは咄嗟にその場から飛び退いていた。

 地面に十字の形をした刃が突き刺さった。見慣れぬ武器である。形状が奇妙であることを覗けば、それ自体は何の変哲もない武器に思える。

 そのとき、得体の知れない不気味な光を放ったことにルキナは気づいた。目を凝らしてみれば、刃にぬらぬらとした緑色の液体が塗りつけられているのだった。

 

「それは”手裏剣”と呼ばれる忍の武器です。刃の部分には相手を弱らせる毒が塗られております。死に至るほどの致死性はありませんが、身体から力が抜けていきます。ご注意を」

 

 成る程。悪寒の正体は毒であったか。もしファルシオンで受けきっていたら毒が降りかかっていただろう。致死性がないとはいえ、毒は毒。用心しなければ。

 

「マルスさん。ここは私に任せてお下がりください」

 

 何を思ったのか、スズカゼが前に歩み出た。

 

「スズカゼさん?」

「御心配なく。忍の業は熟知しております。相手が同じ忍である限り、私が遅れを取ることなど有り得ません」

「しかし……」

 

 相手は二人。それもかなりの手練れだ。スズカゼ一人に任せるのは偲びない。前に出て行こうとするルキナだが、すぐに片手で遮られた。リンカだった。

 

「リンカさん……」

「あいつが一人でいいと言ってるんだ。そこで黙って見てろ」

 

 ◆ ◆ ◆

 

 忍たちが、スズカゼに向かって一斉に手裏剣を投げ放つ。

 スズカゼはそれ以上に素早い身のこなしで避けていく。

 瞬くような動きであった。

 忍が苦無(くない)を片手に構えながら飛び掛ってきた。

 スズカゼは背後に飛び退きながら、すかさず手裏剣を放って牽制している。

 もう一人の忍が、その背後に回り込んで小太刀で斬りかかろうとしている。

 

(まずい。挟み撃ちにする気か)

 

 慌ててルキナも助太刀に入ろうとするが、もう遅かった。

 忍がスズカゼの背中を斬りつける――ように思われた。

 しかし、そこには真っ二つに切られた紙切れがあっただけだった。

 

「身代わりだと!? 小癪な!」

 

 咄嗟の出来事に、忍の反応が一瞬遅れた。いつの間にかその背後にスズカゼが現れた。

 忍が狼狽しながら振り返る。

 だが、わずかに遅い。スズカゼはがら空きとなった腹部に膝蹴りを叩き込んだ。ぐぇっと忍が身をよじる。スズカゼはその隙を突いて相手の身体を背負い投げた。忍は受身を取ることすら叶わず、頭から地面に勢いよく叩きつけられる。苦しげな呻き声を漏らしながら、力なく地面に倒れ伏した。

 

「ちっ!」

 

 舌打ち。多勢に無勢。不利を悟り、もう一人の忍が逃げ出した。

 

「待て!」

 

 ルキナはその後を追おうとする。

 

「マルスさん。追わないで下さい」

 

 スズカゼに止められる。

 

「逃げに徹した忍ほど厄介な者はありません。捕らえるのは至難の業でしょう。そんな労力を払うくらいなら、そこの方から話を聞きだす方がよっぽど手間が省けましょう」

 

 スズカゼは横たわる忍へと視線を移した。

 

「さて、見たところあなた方はフウマ公国の忍のようですが、何故このような真似をしたのか、その理由をお聞かせ下さい」

「お前たちに話すことなど何もない」

「忍として秘密を守ろうとするその志は見上げたものだと言わせてもらいましょう。ですが、しらばっくれても無駄ですよ。何の理由もなく、忍が動くはずがありませんからね。今回の一件、誰の指示があってのことですか」

 

 詰問するようなスズカゼの言葉に、

 

「お前……スズカゼといったか。あの五代目サイゾウの弟だな」

 

 忍は全く別のことを言った。かと思えば突然、不敵な笑みを見せた。

 

「何が可笑しいのですか?」

 

 スズカゼは眉間に眉を寄せる。

 

「奴の弟なだけあって腕は立つようだ。だが、安心したよ。その腕では、あの御方には指一本とて触れることすら叶わまい」

「意味不明です。私たちに、分かるようにおっしゃってくれませんか?」

「そうだろう。そうであろう」

 

 可笑しくてたまらないというふうに、くくっと笑った。

 しびれをきらしたリンカが怒鳴り声を上げる。

 

「おい。お前、自分の立場を分かってるのか。ふざけたことばかり言ってると、どうなるか分かってるんだろうな!」

 

 その反応を面白がるように、忍はますます大きな笑い声を上げた。

 

「そうだな……サイゾウの弟に免じて一つだけ教えてやろう。もうすぐ白夜と暗夜の戦争が再び勃発する」

「何?」

「言葉通りの意味だ。どちらかが倒れるまで戦争は終わらないだろう」

「それはどういう意味だ?」

「所詮、俺は下っ端にすぎぬ身の上。詳しくは知らされておらぬ。だが、今は分からずとも、じき分かるときが来る。そう遠くない内に、な」

「お前、さっきから無茶苦茶なこと言ってんじゃねぇ」

 

 リンカが怒りにまかせて忍の胸倉を掴んだそのとき、ぴたりと笑い声が止んだ。ぜんまいが切れた人形のように力なく、ことりと首がもたげた。

 

「な、なんだ。急に黙り込んで気味が悪い奴だな。おい、何とか言ったらどうだ」

 

 忍の身体を揺さぶった。だが、何の反応もない。

 ようやくリンカが異変に気づいた。すでに息をしていなかった。

 

「こ、こいつ死んでる!?」

 

 驚きのあまり忍の身体を取り落としていた。

 

「どうやら舌を噛み切って自害したようですね。機密保持のために自ら命を絶ったのでしょう」

「言いたいことだけ言って勝手に逝くとはな。くそっ、後味が悪いったらありゃしない」

 

 ルキナはただただ呆気に取られていた。

 いまいち状況を飲み込めていない。一人、蚊帳の外にあった。

 本来味方であるはずの人間がこうして襲い掛かってくるだなんて。

 一連の状況に驚かされてばかりでなんと口を挟めばいいのか分からないでいる。

 

(白夜王国も一枚岩じゃないということなんでしょう)

 

 人が集まれば集まるほどそれだけ多くの人間がいる。人の数だけ、いろんな考えや思想がある。そうなれば想定外の事態が起こるのも仕方がないことなのだろう。

(私たちの世界にはギムレーという共通の敵がいました)

 思い返せば、自分たちは昼夜を問わず襲い来る屍兵たちに神経をすり減らしてばかりいた。今日を生き延びても明日には死んでいることも珍しくない。みな生き残ることに必死で、それ以外のことに目を向ける余裕も気力すらなかった。どれだけの財産や地位を築こうとも、そんなものに石ころほどの価値もなかった。全部、死んでしまえば意味がないのだ。同じ人間同士で争うなどもっての他である。

 

(だけど、この世界は違う)

 

 この世界では人と人が争っている。

 それはルキナにとって十分驚くべきことだった。

 自分たちの世界では考えられなかったことが、当たり前のように起こっている。

 もしギムレーがいなかったら、イーリスでも同じようなことが起きていたのだろうか。

 白夜と暗夜のように、国と国に分かれて争っていたのだろうか。

 名誉や地位とやらのために。

 果たしてそれは本当に平和と呼べるものなのだろうか。そんなものにどれほどの価値があるのだろう。そんな未来のために、この身を賭して守る意味があるのだろうか。

 

(いや……私は何を考えているんだ)

 

 首を振る。

 何を疑うことがあるのだろう。

 ギムレーを倒して平和を取り戻す。

 お父様の後を継いで聖王になったときから、そう誓っていたではないか。

 それが自分の生きがいであり、聖王として果たさなければならない役目。それに疑問を持つなどあってはならない。その行為は自分の存在意義を根底から覆すようなものだ。自分はただ、困っている人のために剣を手に取ればいい。弱者のためにこそファルシオンは振るわれなければならない。それこそがお父様の願いなのだから。

 黙り込んでいるルキナから何か感じるものがあったのか、スズカゼが気遣うように言った。

 

「白夜には結界が張られております。何の心配も要りません。ミコト様がいる限り、私たちは安泰です」

 

 その言葉に、ルキナはただ頷いた。



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