幻想の果てに (らすこーす)
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序章

 ――どうして、こうなってしまったのだろう。

 

 覚悟していたこととはいえ、女はそう思わずにはいられなかった。心に絶望と後悔が渦を巻く。

 

 上を見上げる様にして倒れている彼女はどうにかして起き上がろうとするが、体は予想以上に重く、まるで全身が地面に縫い付けられているようだった。指先は常に焼かれているような感覚がし、すぐにでも引き千切りたい衝動に駆られる。わずかに首を動かし己の手を見てみると、赤黒く彩られていた。血だ。生の証。生きとし生けるものならばどれにも備わっている命そのものだ。しかし、今の彼女には死の象徴としか感じられなかった。

 

 傷は深い。夥しい量の血が地面に広がっていく中、女は自分の体から命が零れ落ちていくのを感じていた。助かる見込みはもう無い。残された時間は極僅かだ。このままじっと死を待つことこそが唯一の道なのか。しかしこのまま朽ちていくのは、天が許しても己自身が許せない。犬死のような真似だけは決して許容できるものでは、ない。

 

 か細い唸り声を上げながら、満身創痍の体を無理矢理奮い立たせる。全身に走る鋭い痛みに悶えながら、女はゆっくりと起き上がった。

 目に映る光景は、まさに惨烈の一言に尽きた。戦場のあちこちから炎が上がっており、多くの敵味方がその中で血みどろの戦いを繰り広げている。それは戦場全体を猛火が包んでいるようで、まるで生き地獄だった。一人、また一人と命が消えていき、亡骸だけが後に残る。最初は生者しかいなかったこの場も、今や死者の数が遥かに上回っている。それを示す様に女の周りには屍の山が連なっていた。その中には知った顔も見受けられ、彼女は意識して見ないようにした。

 

 地表の様子とは正反対である空では、綺麗な星々が煌めいている。青い星が見下ろす先で、女は力を振り絞り、立つ。その結果ボタボタと血が零れるが今更気にしてもどうしようもない。自分にはやるべきことがあるのだ。

 

「う……ぐぅ……」

 

 全く情けない姿だ、と女は思った。この戦争で味方を率いる立場である自分が、まさかこんな無様な醜態をさらすとは。加えて多くの仲間が死ぬ羽目になった。この戦いはこちらの圧倒的な力量差による敗北だ。全てはあの男の力量を見誤ったせいだろう。鬼神の如き強さには、己一人ではとてもではないが太刀打ちできない。こちらの精鋭が束になってもその勝利は危ういものだろう。

 

 その時、ここから決して遠くない所で激しい火柱が立った。ふらつく頭を押さえながら、目を凝らす。そこには二つの人影が見えた。どちらも見知った顔で、片方は女性、もう片方は刀を構えた男性だった。女性は自身と同じく満身創痍で額からの流血が酷く目立つ。対して男の方は一見して傷一つ無いようだった。全身真っ白な服装に赤い血が目立ち、所々破れてはいるが何故かその下の素肌には何の傷も無かった。それもそうだろう。あの男の能力を考えれば当然の帰結である。

 

 二人は互いに向き合うようにして立っていた。女性が今にも噛み殺しそうな視線を向けているのに対し、男は平然とした表情でそれを受け止めている。

 どちらも動かぬ状況を動かしたのは女性の方だった。血に染まった緑髪を振り乱しながら拳を握りしめ、女性は駆ける。その雄叫びは、何物をも恐怖させる雄々しさと強者としてのプライドが込められていた。けれども、その動きにいつもの精彩さは無く、ひどく弱弱しく映った。女は彼女の未来を想像し、涙した。

 

 女性の拳が男に届くことは無かった。彼女の死力を尽くした攻撃を男はいなし、彼女の胸に刀を突き刺した。無慈悲な一撃は彼女の命を摘み取る。大量の血反吐を吐き、男を恨めしそうに睨みながら、女性は倒れた。

 殺し合いは男の勝利に終わった。男は刃に滴る血を払い、敗者の頭部を踏み潰す。詰るように、しつこく、何度も、何度も。

 男は終始無感動な顔だった。その視線は、次なる獲物を探している。

 こうなっては一刻の猶予も無い。あの男に見つかる前に成し遂げなければ。

 

 女は全身に走る痛みに耐えながら、息を整える。焦ってはいけない。慣れ親しんだ力とはいえ、焦ってしまえばどんな事態が起こるか分からない。落ち着け、落ち着け。奴はまだこちらに気付いてはいない。深呼吸、深呼吸。

 

「――ふぅー」

 

 女は何度も息を吐く。最初は乱れがちだったそれも、徐々に穏やかに、緩やかに、一定になっていった。そうして極限状態での集中が高まっていく。

 

 すると女の周囲が、彼女を包み込むかのように歪み始めた。そうして現れたのは、ひたすらに真っ暗な空間だった。どの角度から明かりを照らしてもその先を窺い知ることはできない。遠くから見れば、視界に映る風景の一部分にまるで隙間が空いたようだった。

 一体その中に何があるのか。どこに繋がっているのか。それは彼女しか知らない。唯一つだけ分かるのは、その暗闇から夥しい数の不気味な目がこちらを覗いていることだけだった。

 

 女は痛む足を奮い立たせ、隙間の中へと進んだ。僅かな距離がもどかしい。しかし不運にも、その場に向かって駆ける影があった。

 

「うがっ」

 

 突然女の視界が回った。次いで全身に軽くない衝撃が走り痛みに悶える。目を開くと視界には地面が映っていた。どうやら倒れたらしい。腕に力を込め、ぷるぷると震えながら起き上がろうとすると、目の前に気配を感じると同時に頭部に新たな衝撃が来た。

 

「無様な姿だな、八雲紫。あれだけ息巻いていた貴様だったが、どうやら私を殺すには程遠かったらしい」

 

 気配の正体はあの男だった。男は女――八雲紫の頭部を足でぐりぐりと踏みにじりながらそう言った。

 

「つ、く……よ……み……」

 

 月夜見と呼ばれた男は、まるで道端の虫けらを見るかのような目で紫を見つめている。

 

「……あの男に絆された奴はなぜこうもあきらめが悪いのか。全く以て解せん」

 

 そう言って月夜見は刀を抜き、紫の首筋に刃を当てた。剣先は今にも彼女の命を刈り取らんと光っている。

 

去ね()

 

 鮮血が迸る。

 




閲覧ありがとうございます。変に気負わずのんびりやって行こうと思います。
とりあえず処女作の扱いをどうすればいいのか目下検討中。


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1 日常の崩壊

ちょっと書き直してみました。
そして本日21時に改訂版第二話を投稿致します。


 

 人類が二十一世紀を迎えてからもうじき二十年の月日が経とうとしていた。人々は相も変わらずどこかで生まれ、何かで争い、誰かと恋をし、そして死んでいった。何千年と続く人の営みは未だ終わりを見せない。

 

 そんなある冬の夜。日本列島のとある山中を一台の車が走っていた。道と言っても舗装されたものではなくほとんど獣道と言ってもおかしくはないそこは、車で通るにはかなり慎重性を強いられる。運転手はさぞかし生きた心地がしないだろう。既に真夜中を過ぎた夜更けの中を黙々と走るそれは、ある場所を目指していた。

 数十分後に車は停止し、中から四人の男女が現れた。ちょうど男女二人ずつのバランスのとれた一行は、目の前に存在する建物を見つめていた。とうの昔に朽ちたホテル跡は、まるで全てを闇に呑みこんでしまいそうな不気味な雰囲気を醸し出していた。夜空に浮かぶ満月に照らされている様もそれを助長している。

 

「うわぁ~……、想像以上に雰囲気あるねえ」

 

 廃墟を見るなりそう呟いたのは、薄い金髪が目立つ女だった。見るからにギャルの風貌をしている。

 

「めちゃくちゃ怖いんだけど……。明美はよく平気にしてられるな……」

 

 彼女の言葉にそう続いたのは、運転手を務めた相川直樹だった。茶髪のパーマという髪型の彼は、慣れない山道運転に全神経を集中したせいか、どこか疲れているように見える。

 

「なぁに? めちゃくちゃ疲れてんじゃーん。直樹大丈夫?」

「大丈夫大丈夫。大丈夫だからちょっと放っておいてくれ……」

 

 後藤明美と呼ばれたギャル子はしんどそうにしている直樹を見て吹き出した。直樹は面倒くさそうに振る舞いながらも明美に心配されたことがどこか満更でもないようだ。

 そんな二人に車内から声がかかった。

 

「ちょっと二人とも、はしゃぎ過ぎじゃない? 頭に響くから少し静かにしてよ……」

「ごめんごめん。夏菜大丈夫? 完全に車酔いだよねそれ」

 

 下回りが土埃で汚れた軽自動車の後部座席から、セミロングの茶髪の女性がよたよたと降りてきた。いかにも今時の女子大生といった風貌だ。久保夏菜は酔いで顔を青白くしながらもなんとか堪えている様子だ。

 

「なんとかね……、う」

「ちょっと大丈夫? ほらー、直樹の運転がヘタクソだからー」

「ご、ごめんな、植木」

「巧もなんか言ってやんな……って、あれ? 巧は?」

 

 明美が仲間の一人の不在に気付く。そして直樹と夏菜がキョロキョロと辺りを探す。すると巧と呼ばれた最後の一人は、既に車を降り廃墟の入口に立っていた。何をすることもなく、ただ立ち尽くしている。

 

「巧? そんな所で何やってんのよ」

 

 三人は慌てて追いかけるように彼の元へ向かった。

 

「いや、なんか気になって」

 

 灰色のコートを着た黒髪短髪の青年はそう答えた。

 

「巧君て心霊スポットとか好きなタイプだっけ?」

 

 巧に近寄った夏菜がそう尋ねる。その距離は必要以上に近く感じた。あまり女性慣れしていない身としては、少しドキッとする距離感だ。

 少し離れた所で直樹が面白くなさそうな顔をしているのが見えたが、巧はそれを無視する。

 

「別にそんなんじゃない。でもなんか、胸騒ぎがすんだよ」

「何それ。超能力者みたい」

「厨二じゃん」

 

 夏菜と直樹はそう言って笑った。

 しかし事実、巧は何か胸のうちがざわざわと騒ぐのを感じていた。それもこの山に入った時からだ。緊張感が廃墟に近づくにつれて肥大化していく。何かが起ころうとしている。けれどそれが何か分からない。

 無残に朽ちた扉の前に四人は立った。懐中電灯で奥を照らすも、闇が深すぎてあまり状況が分からない。「分からない」のは人間の根源的恐怖である。四人はごくっと唾を飲み込んだ。ちなみに懐中電灯は人数分用意されている。

 

「と、とにかく行ってみようぜ。せっかくここまで肝試しで来たんだし」

 

 ここでじっとしていたら何の為にここまで時間と金をかけて来たのか分からない。そして暗闇と緊張の中、あわよくば女の子と組んず解れつイチャイチャしたい。そんな下心を隠し、直樹が黙ったままの三人に呼びかけた。

 

 そんなことを知ってか知らずか、夏菜と明美は先導する直樹に着いていく。巧も三人に続こうと歩き出し、入り口を潜った時だった。

 

『……貴方を、待っていました……』

 

 耳元でか細い囁きが聞こえた。女の声だった。

 

「!?」

 

 全身を緊張が一気に走った。反射的に振り返るが、周りには誰もいない。ボロボロのエントランスを見回しても友人以外の気配は無かった。巧は額の冷や汗を拭いながら息を落ち着かせる。気のせいだ。少しビビッているから幻聴が聞こえただけだ。そう己に言い聞かせるようにして。

 

「巧! 何やってんだ遅いぞ!」

 

 直樹が向こうで叫んでいる。誰もいないとはいえ大声を出した彼に驚いたのか、女性陣は直樹を(たしな)めていた。

 

 気づけば三人ともエントランスを抜け別の部屋に入ろうとしていた。彼の後に夏菜と明美も巧を呼んでいる。巧は慌てて彼らを追いかけた。

 そして四人が肝試しを続ける背中を、何処かの隙間から見つめる者がいた。弱弱しく、しかし熱い視線であった。

 

 何も気づかずに四人は不気味な廃墟の奥へと進んでいく。それが運命の分岐点となることも知らずに。

 

 

 

 このホテル跡は数十年前に建てられたもので、山の麓にある当時過疎化していた町をどうにか活性化する為の策の一つだった。何せ豊かな自然環境だけが取り柄の町だったので、レジャー観光を主とした地域政策によって建造された施設であった。

 しかし予算をはたいて豪華な仕上がりにしたのは良いものの、ホテルに費用をかけすぎて周囲の環境をきちんと整備出来なかったという本末転倒の事態に陥り、客足が遠のいたのである。

 そしてオープンから五年も経たないうちに閉業。解体費用もかかり、土地を買いたがる物好きもいないまま放置され今に至る。その後様々な噂話が広がり、今では地元で有名な心霊スポットとして人々に認知されている。

 余談ではあるが、ここを目的に微々たるものであるが町の訪問者数は増加しつつあるのはなんとも皮肉と言えよう。

 

 巧達四人は全員が都市圏の同じ大学に在籍している。それぞれが知り合った経緯は別だが、最近では不思議とこのメンバーで過ごすことが多くなってきていた。そんな中、突然直樹が三人にこのホテル跡の話を持ちかけた。夏でもないのに肝試しかよ、と巧は乗り気ではなかったが、予想外に女性陣が乗ってしまい、否応なしに連れてこられた次第である。

 

「やばいなあここ。めちゃくちゃ荒らされてんじゃん。うわ、見ろよこれ。人形がぐちゃぐちゃだよ」

「ちょっとっ。そんなこと実況しないでよっ。いちいち喋らないと気が済まないのかアンタはッ」

「別にいいじゃん。な、明美?」

「近づくな!」

 

 直樹と明美の二人が騒ぐ後ろを夏菜と巧がついて行く。夏菜は二人のやり取りよりも隣にいる想い人の方に気が向いていた。彼のそこはかとなく緊張感を帯びた横顔を見ると、全身が痺れた様に震えるのを感じた。

 

 夏菜が巧と初めて出会った場所は、彼女のバイト先であった。当時コンビニ店員を務めていた彼女は、同じ職場に同年代の友人達がいた。彼彼女らはバイトが終わった後など暇な時間を見つければコンビニによくたむろして話し込んでいた。

 夏菜もその一味に加わっていたある日の夜、話は小学校の思い出話へと移っていた。その中で一人の男が話の中で登場した友人を呼びだしたのである。彼の呼び出しに応じた友人はバイクに乗って彼らのもとに現れた。その友人こそが巧だったのだ。

 

 好きになった理由はと尋ねられれば、一目惚れだったと断言できる。細身に見えて割と筋肉質な体も、決してイケメンでは無いが整っている顔立ちも、いざという時の決断力も、全てが夏菜の心を鷲掴みにした。後に同じ大学だと知った時の喜びようは長年の付き合いの友人からも引かれるほどだった。

 その後どうにかして大学でもコンタクトを取り、今の形に至ると言うわけである。

 

 直樹がお化け屋敷の様に暗闇に乗じて明美や夏菜と触れ合いたいと考えているように、夏菜も巧と接したいと考えていた。ここで彼女が男を手玉に取る経験豊富な女ならば、か弱い女性を演じることも出来たのだろうが、彼女にはまだそこに至るには羞恥心があった。

 

 しかし今の巧には夏菜の燻る想いを受ける余裕は無かった。

 彼は今、時折耳に響く声の在処を探っていた。廃墟の中で聞こえる囁きは、エントランスで聞いた声と同じだった。何故かその謎の声は巧にしか聞こえていない。声が聞こえ始めた頃に、他の三人に確認を取ったが全員が口を揃えて、そんなものは聞こえない、と言った。このことは彼らの恐怖心を悪戯に煽るだけであった。

 

「ねえねえ、もうそろそろ帰ろうって。もうマジで怖いんだけど」

 

 明美が根を上げ始めた。

 

「そ、そうだな。ささ、さすがの俺も限界かもしれん。ここで退き返すか……」

 

 直樹もギブアップ寸前らしい。今の震え具合を見るに、先程までの高テンションは空元気だったようだ。巧はそれを見て苦笑する。

 その瞬間だった。

 

『ねえ……、こっちよ……』

 

 驚き声がした方を向く(声は毎回突然且つ耳元で聞こえるのでどうしても驚かざるを得ない)。同時に懐中電灯の光がその先を照らした。

 

 その瞬間、巧はハッと息を飲んだ。闇の中から浮き出す様に一人の人間が立っていたからである。長い髪からして恐らく女だろう。長い通路の先という距離の関係から全体的なシルエットしか分からないが、その視線は確かに巧を射抜いていた。

 恐怖で足が地面に縫い付けられたようだった。心臓がばくばくと激しく震えているのがよく分かる。何か言おうにも奇妙な女の存在に全神経が向いているせいか、喉が機能しなかった。

 

 女の影は、時間にして数秒もすると奥へと向かうように消えた。その方向は四人が戻ろうとしているルートからは完全に外れている。

 

「巧君? 早く戻ろうよ」

 

 動かない巧を心配してか、夏菜がそう言った。

 わずかの逡巡の後、巧は口を開いた。

 

「悪い。ちょっと気になることがあるから先に戻っててくれ」

 

 巧はそう言い捨て通路の奥へ向かい出した。彼の姿がみるみる暗闇の中へと消えていく。

 

「え? え? ちょっとどこ行くの!?」

 

 夏菜の悲鳴にも近い叫びに釣られる様に、明美と直樹も驚きの表情を浮かべ動転した。

 身勝手に行動する巧に直樹は苛立ちを我慢できなかった。

 

「おい巧! マジで戻って来いって!」

 

 しかし何の反応も返ってこない。

 

「ちょっと追いかけてくるから待ってて!」

 

 二人をさらに驚かせたのは、夏菜がそう言って巧の後を追ったことであった。二人が反応しきる前に彼女の姿も通路の先に消え、後には明美と直樹だけが残された。

 

「……」

「……どうする?」

「どうするって……、待つしかないじゃん」

「だよねー……」

 

 立ったままなのもなんなので、二人は傍にあった比較的損傷の少ないソファに腰かけた。

 暗闇への恐怖からか、いつもは活発な明美が妙に大人しい。これは直樹と二人きりということからも起因しているのだろうか。彼女は不安を紛らわす様に直樹に寄り添う。

 恐怖と不安に苛まれながらも隣の温もりを感じ、直樹はこんな状況も悪くないと思い始めていた。

 

 

 廃墟の中を巧は走る、走る、走る。

 

 倒れた家具を飛び越え、角を曲がり、寂びた階段を上り、巧は女の影を追った。

 

(追いついたと思ったらいちいち消えやがって、鬼ごっこのつもりかよ)

 

 それでも見失ったと思えば、影は姿を一瞬現したり声を掛けてきたりとどう考えても誘っているとしか思えない行動をとっていた。

 

 後ろから夏菜が追いかけてきているのは分かっていた。何度もこちらを制止する言葉を投げかけてきてはいるが、それに従うつもりは一切無い。初めは短かった二人の距離も、男女の体力の差かどんどん離れていく。彼女の声が遠ざかるにつれて、今の自分を縛るものは薄れていっていると巧は感じた。

 

 何故こんなにもあの得体の知れない存在に執着しているのか、それは自分でもよく分からないままであった。強いて言うならば、あの声に何か奇妙なものを覚えたからだろう。何処かで耳にしたことのある様なその声が、彼を突き動かした。

 

 一般的に、こんないかにもな廃墟で奇妙な女などといういかにもなものを見れば、それは幽霊や悪霊という自分に危害を及ぼす又は及ぼしかねない存在だと認識するだろう。元来人間は自分が理解できないものに対しては排他的だ。それは固定観念というものも相まってほぼ絶対的なものとしてある。

 しかし巧にはそんな思考は微塵たりとも無かった。あの声の持ち主がそういう存在だとは思えなかったからだ。根拠はと聞かれても本能的に感じたものなので、本人にも説明はできないが。

 

 そういえば、と巧は思う。

 

(あの声を聞くと、昔を思い出す)

 

 巧の運命が一変した、あの事件を。

 

 辿り着いたのは、荒れ果てた礼拝堂だった。このホテルはキリスト教の繋がりを持っていたのだろうか。床には朽ちた木材が散らばっており、元はきれいに並べられていたのであろうベンチタイプの椅子は見るも無残な姿だった。部屋の天井はガラス張りになっているが、大部分が割れておりその破片が部屋のオブジェの一つとなっていた。年月とともに成長した木々に覆われている空からは、奥にある祭壇付近にしか満月の光が届いていない。光に照らされるように彼女はいた。

 

「……」

 

 女は祭壇にもたれ掛かるように倒れており、巧を見つめている。どこか覇気の無いその瞳には敵意や恐れなど無く、あるのはまるで最愛の恋人を見るかのような慈愛に満ちたものだった。

 

 しばしの静寂を破ったのは巧だった。彼は一歩一歩確実に女に近づいていく。そうすることで徐々に彼女の姿が鮮明になっていった。

 まるで御伽噺の中から出てきたような美しい女だ。彼女は腰まで伸びた美しい金髪をしており、瞳の色も同様である。身に纏う服は見慣れた所謂現代ものでは無く、異国の民族衣装のようである。服越しでありながら、その体つきは非常に豊満で実に女らしい。少なくとも、巧の好みのど真ん中をいくスタイルだ。

 

 そんな絶世の美女と言ってもまだ足りないような彼女の今の姿は、思わず目を背けたくなるような惨事だった。

 白と紫で彩られていた服装はあちこちが裂かれ、(おびただ)しいほどの血が溢れている。箇所によっては骨まで見えた。加えて両足と左腕を欠損しており、致命傷なのは火を見るより明らかだ。美しい金髪も多量の血で赤黒く染まり、毛先からポタポタと血の(しずく)が垂れている。彼女の周り一面が血の海だった。

 

 巧は静かに女の側に寄り、膝をつく。それを受けてか、女はボロボロの右腕を動かし、巧の頬を撫でた。不思議なことに避ける気は起きなかった。敵意を感じなかったからである。

 触れられた感触には確かな生を感じる。少なくとも、彼女は幽霊などではないようだ。

 

「ふふ……」

 

 女は満足げだ。彼の頬を何度もさすっている。赤い血が流れる。

 

「あんた、一体何なんだ?」

 

 巧はそう問い掛ける。しかし女はにこやかな表情のまま何も答えない。

 巧が疑問を感じると同時に、女は彼を自身の胸にぐいと引き寄せた。抵抗する間も気も無く、巧の体はすっと収まる。女はそのまま腕を巧の首に回し、ちょうど二人が抱きしめあう形になる。

 女は巧の耳元で愛を紡ぐように囁いた。

 

「巧、貴方には……これから、とても辛いことがたくさん待ってる……。けれど忘れないで。貴方を愛する者達を。そして、信じなさい。貴方自身の力、を……」

 

 息も絶え絶えでか弱い声で女は呟いた。

 

「何だ? 何の話だ? おい!」

 

 彼女が何を伝えたいのかはよく分からない。けれど自分の身を案じてくれているのは伝わった。

 そして金髪の女は困惑している巧に構わず、その唇を重ねた。

 

「!?」

「ん……」

 

 女との口付けは、血の味がした。冷たい唇を介して伝わるのは、どくどくと零れていく彼女の命だった。血生臭い味と心地良い粘膜の感触に呆けてしまう。一瞬だったのか数分だったのか、気づけばそれはもう巧から離れていた。つい名残惜しさを感じてしまう。眼前にはどこか照れたような顔があった。

 もう巧には彼女が危険な存在だとは露にも思っていなかった。しかし一体何がしたいのか、一連の行動の理由も全てが闇の中だ。

 

「さあ、門出よ」

 

 女はそう呟いた。

 

 すると二人の周囲を突如として何かが囲った。それは一体どう形容したらいいのか。物理的な感触も無く、かと言って二人の人物がそれを認識していることから巧の妄想というわけでもない。

 

 『暗闇』

 

 それ以外に適当な言葉が見つからなかった。唯一説明しきれるところがあるとすれば、闇の奥にある無数の目だ。その全てが二人を、いや、巧を凝視している。全く以て気味が悪い。

 

「な、なんだこれ……」

 

 女は怯える巧の胸を軽く押した。しかし死に掛けの女にしてはやけに力があった。

 巧はそのまま後ろから倒れ、暗闇の中に入った。または呑み込まれたと言うべきか。途端に闇の空間が全身を覆い尽くしていく。

 

「お、おい! 何なんだよこれ!」

 

 慌てる巧が女に目をやると、彼女は笑顔で泣いていた。両の目から大粒の涙を零し、血の滴が頬を流れ伝う。悲しみはあった。しかしそれ以上に希望に満ちている表情だ。

 その神秘さはまるで絵画の中の女神を見ているように思え、巧は目が離せなかった。

 徐々に黒く染まっていく意識の中で、巧は必死に手を伸ばす。そこで彼は完璧に闇に包まれた。

 

「――貴方の旅路に、光あれ」

 

 

 

「巧君?」

 

 夏菜は息を上げながら荒れた礼拝堂にやって来た。崩壊した部屋には誰もおらず、祭壇が月の光に照らされて儚く輝いている。

 

 夏菜は祭壇の近くに一瞬煌めいた何かを見つけた。それは革製の長財布だった。彼女はこれに見覚えがあった。その持ち主は今彼女が必死に探し求めている男のものだ。

 

「巧君? いるの? ねえ、巧君!」

 

 辺りを探すも巧の存在は影も形も無い。その場に残っているのは、月が照らす静寂だけだった。

 そしてこれ以来、夏菜が巧の姿を見ることは無かった。

 



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第一章 月の都編
2 満月の夜


 

 ――突然ですが、私蒼威巧はただいま絶賛逃走中でございます。

 

 そう一人胸の中で呟きながら、巧はひたすらに走っていた。それこそ命を掛ける勢いで。いや、実際に命が掛っているのだが。

 

 一体どれだけの時間と距離を走ったのだろうか。道は人が通れるようにと整備はされているが、砂利道なおかげであちこちにある石ころ(絶妙なうっとおしさ加減の大きさ)が邪魔になってしょうがない。左右を見渡せば道を挟み込むように見上げるほどの木々が長い長い隊列を組んでいる。

 

 前方には同じように駆けている集団がいた。成人男性が四名、成人女性が二名と幼い少女が二人の計八名の集団だ。少女二人を除いた六人は全員武装しており、傷だらけで年季のはいった鎧を纏い、剣や弓などの武器を所持している。しかし今はそれらの出番は無く、それぞれの持ち主の元で静かに沈黙していた。

 

 大人達は皆必死の形相で走っていた。少女達は先頭を走る屈強な男二人に抱えられながら固く目を瞑って縮こまっている。まあ、無理もない。なにせ巧を含めた九人の後方には、人を遥かに超える巨体を持った醜悪な怪物がいるのだから。怪物は獲物である巧らを追いかけている最中にも関わらず、その先の未来を想像してか見るに堪えないほどの醜い緩み顔を晒している。

 彼ら全員そんな怪物に追い回されている最中であり、巧はいつの間にか見知らぬ集団と共に命懸けの鬼ごっこに興じていたのだった。

 彼は前を走る数名がぎょっとするのも構わずに叫ぶ。

 

「どうしてこうなった!?」

 

 

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 目覚めたのは鬱蒼とした森の中だった。

 

「ぁ……」

 

 微睡みの中、巧はゆっくりと目を開ける。背中に当たる感触は硬く、目線の先にある空は快晴のはずだが、四方八方に伸び重なっている木々の葉に隠れ辺りは薄暗い。しかし不思議と彼の頭上だけには透き通るような青い空が見えた。太陽が彼だけを照らす。

 木立の隙間から吹き入る涼しげで心地良い風が彼の覚醒を促した。それは自然と周囲の状況の把握に繋がった。

 

「……朝?」

 

 見知らぬ場所にて目覚めた巧はただただ混乱の極みにあった。しばらくの間呆然としていたが、過ぎゆく時間が彼の記憶を呼び起こしていく。

 

「訳の分からん女に会って……そっから何があったんだ……」

 

 直前までの記憶を思い返せば、それはそれは恐ろしく奇妙な体験だったように思う。あの血塗れの美女も一体誰だったのだろうか。血の付いた指先は無意識に唇に触れていた。巧は自身が闇に呑まれる前に感じた女の熱を何故か思い出していた。そして意識が途切れる前に見た彼女の涙も、頭から離れなかった。

 

 頭の片隅では実はあの夜の出来事は全て夢だったのではないかとも思ったりもしたが、自身の血塗れの服装を見ればそんな考えは吹き飛んだ。

 

 巧が次にしたことは夏菜ら一行に連絡を取ることだった。お互いの安否を確認して助けに来てもらいたかったからだ。しかしスマートフォンは通信制限でもないのに全くネットに繋がらない。巧は苛立ちよりも焦りを感じ始めていた。

 

 結局のところ、巧はだるい体を起こし、歩き出した。

 草を掻き分け、高低差のある地面を乗り越えながら約二時間ほど歩いただろうか。一先ず森を抜けることに成功し、そして目の前には明らかに人の手が加わった道が姿を現した。どこまで続いているのか分からないが、右を向いても左を向いても建築物は無く道の先は果てしないようだ。横幅はそこそこに広く、例えるならば二車線道路ほどである。

 さて、ここでまた一つ問題が発生した。

 

「どっちに行けばいいのか」

 

 右か左か、進むべき指針が無い以上非常に迷う二択問題だ。残念ながら手持ちのスマートフォンは全く役に立たない。一瞬迷った結果、巧は自身が右利きという理由で右方向へ足を進めた。なんとまあ軽い理由だがうだうだと悩むよりはいいだろう。そして非常事態はしばらく後に発生した。

 

 どれくらい時間が経っただろうか。

 とぼとぼと歩いていると、森の中から何者かの叫び声が聞こえてきたのだ。何だ何だと声がした方へ目を凝らすと、突然何人もの集団が勢い良く暗い森から飛び出してきた。そして彼らは棒立ちになっている巧を見つけると、何かを叫びながら彼の方へ走り出した。

 うわっ、と巧は驚いたものの人と出会えたことは彼にとって喜ばしいことである。ここはどこだ、どっちへ行けば麓の町へ辿り着けるのか。そうした疑問を解消しようと彼らに近づくが、森の中から新たに姿を見せたものが。

 

 それは約四メートルはある巨体の怪物だった。全身が赤黒く、体型は人間と似通ったものがあるが目が三つあるなどの特徴がある。怪物は集団を視界に入れ、そして巧に気付く。巧は一瞬奴と目が合った気がした。小集団は必死の形相で巧の隣を風の様に駆け抜けていく。怪物はまるで獲物を見つけたかのように嬉しそうに血だらけの口元を歪めた。時が止まった気がした。

 

 次の瞬間、巧は何も言わず爆発的なスタートダッシュを決めた。何が起こっているのか分からないが、何が起ころうとしているのかは分かった。

 

「おいおいおいおいおい!!!!」

 

 何だってんだよ! 巧はそう叫びながら走った。誰に言いたいのかは彼自身にもよく分からない。それは事情を知っているだろう前方の集団かもしれないし、後方から追って来る化物にかもしれない。はたまた自分をこんな状況に追いやった原因であるあの女にかもしれない。とにかく彼はこの理解不能な状況に翻弄されていた。

 そして冒頭に続く。

 

 逃走劇は未だ終わりを見せなかった。

 決して短くない時間を全力で走り続けていた九人だったが、さすがにスタミナが落ちていきその速度は徐々に遅くなっていく。対して怪物は足の速さ自体は決して速くはないが、体力は十二分にあるようで速度の衰えを全く見せない。このままでは追い付かれるのは時間の問題であった。追いつかれた先の未来を想像してか、巧は表情を強張らせた。

 

「おい! おい! 聞こえねえのか!?」

 

 巧は前を走る武装した男達に向かって声を掛ける。しかし彼らは何故か困惑した表情で巧を見た。それはまるで異国語を知らない外国人のようであった。

 

「あんたらその武器であいつをなんとかしてくれよ!」

「%~|¥&%$$#””+&*!?」

「ああ!? 何言ってんのか分かんねえよ! 武器だよ武器! そこにあんだろ!」

 

 ほぼ逆ギレに近い形で怒鳴りながら巧は男達の背負う剣や弓を指差した。それを見て察したのか彼らは思いっきり首を横に振った。どうも戦っても無駄なようだ。

 

(死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬううううううう)

 

 森の中へ逃げ込むことも考えたが、地形も全く把握していないので入れば迷うことは確実だ。加えて怪物が森から出てきたことを考えると逆に悪手だろう。残る手はこのまま逃げ切るか、奴を倒すかのどっちかだ。しかし現状ではそのどちらの成功も絶望的だった。

 

 その時、怪物は唸るような声を上げ始めた。同時にバキボキと悪い予感しかしない音が背後で鳴る。

 一体何だと振り返れば、無理矢理引きちぎられたドでかい樹木をこちらに構えた怪物が目に映った。巧が事態を理解したと同時に怪物は内蔵に響くような咆吼を上げ、投げた。高速で飛ぶ"槍"は放物線を描きながら巧の頭上を通過していった。

 

「避けろ!!」

 

 しかし巧の叫び虚しく、"槍"は先頭の男を押し潰した。今の今まで生きていた人間があっさりと物言わぬ肉塊に変化する様を見て、彼はまるで胃をねじ切られるかのような気分を味わった。

 

 男だったものから少し離れた所には少女が放り出されていた。肩ほどまで伸びた金髪は泥に汚れている。実は男は絶命する寸前に腕の中の彼女を一瞬で放り投げていたのである。そのおかげで少女は彼と同じ運命を共にすることは無かった。

 少女は地面に激突した痛みに悶えておりなんとか起き上がろうとはするものの、小さな体には過剰なダメージだったようでその動作は遅い。そうこうしている間にも怪物はどんどん距離を詰めてきている。数名の大人達が少しでも足止めしようと怪物へ攻撃を仕掛けだした。どうやら彼らにとってこの二人の少女は重要な存在らしい。しかし彼らの攻撃は露ほどにも効かず、胴体を踏み潰され新たに二人が逝った。

 

 理由は分からないがどうも奴の獲物は少女たちのようだ。怪物は真っ直ぐ少女へと向かう。

 幼い少女は迫りくる脅威に顔面蒼白になり身動きが取れないでいた。特大の恐怖と焦りが彼女をパニック状態へと追いやっていたのだ。

 

「&%’+#!!」

「$%%#=!!」

 

 彼女へと向けられた声があった。しかし次の瞬間にはその声が聞けることはもう二度と無くなってしまった。

 少女の心は目の前の蹂躙によりもう限界だった。一人、また一人と仲間を無残に殺され、自分は恐怖にすくんで動けない。もう駄目だ、お終いだ。諦めが彼女を包む中、彼女の体が突然地面から離れた。

 

「がああああ!」

 

 男の叫びが耳元で聞こえた。聞き覚えの無い声だが、少女には何故かとても頼もしく感じられた。

 少女を持ち上げたのは巧だった。彼は重い腕に鞭打ち彼女を自らの右肩に抱えた。少女の顔が彼の背中にくるように、言わば「く」の字の形だ。額からは汗が吹き出ており、疲れからぜえぜえと息を切らしている。それでも歯を食いしばり走り出した。

 

 当たり前ではあるが巧の速度はかなり落ちた。幼いとはいえ十歳ほどの子供でも数十キログラムの体重はある。それを片手で抱えているのだ。しかも少女が自分の反対側に目をやると、もう一人抱えられている者が見えた。紫がかった髪を持つもう一人の少女だった。彼女は荷物の様に脇に抱えられており、ぐずぐずと泣いていた。妹の生存に酷くほっとした少女だったが、同時に妹を守っていた男の存在を思い、涙した。危機はまだ去っていない。

 

 二人の幼い子供を抱えながら走る巧。彼は思う。何故こんなリスキーな真似をしているんだろうか。ただでさえ体力が落ちていると言うのに、人を二人も抱えれば言外に怪物に喰われたいと言っているようなものだ。そいつらを助ける義理がどこにある? 落としてしまえ、放ってしまえ。そうしたらお前は助かるかもしれないぞ。心の中でもう一人の自分がそう囁く。それは非常に魅力的な言葉だった。しかし巧は言い返す。

 

「後味の悪いのは大っ嫌いなんでね!」

 

 気付いた時には既に誰よりも先を走っていた。後ろで起こっている惨劇から少しでも逃れようと。大人達は既に事切れ、皆喰われている最中であった。怪物が餌に気を取られている間に巧は全力で走る。疲れなど知ったことか。こんなところで死んでたまるかよ!

 

 少しして再び怪物が追いかけてきたようだ。金髪の少女が喚きながら巧の裾を引っ張る。それを受けて軽く後ろを見れば、怪物は怒りを露わにしながら追いかけてきていた。

 

「くっそおおおおお!!!」

 

 守らなければならない存在は時に想像以上の力を与えてくれる。

 両腕のか弱い温もりを強く抱き、雄叫びを上げながら、巧はさらに加速していった。

 

 

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 結論から言って、韋駄天の如く駆け抜けた巧の底力により怪物からの逃走は見事成功を収めた。

 

 道はどこまでも一本に続いており、かと言って土地勘の無い森の中へ逃げるわけにもいかず、どうしたもんかと頭を悩ませていた巧。そこで彼に声を掛けたのは傍らにいる金髪の少女だった。彼女はここからの道筋を丁寧に説明してくれたが、言語の異なる巧に伝わるはずも無かった。

 

「ごめんな。お前達の言葉、分かんないんだよ」

 

 その言葉に困惑しながらも幼い少女はほどなくして自分達の問題に気付く。彼女は幼いながらも聡明であるようだ。

 考え抜いたあげく少女は巧を手招き、自ら案内人を買ったのであった。巧は未だ気絶している彼女の妹を抱えながら、後を追った。

 

 それからしばらく歩き続ける中、夜も更けたので三人は足を止めざるを得なかった。冷え込む空気に震える姉妹。巧は大学時の経験で得た技術を活かし、何度か失敗するがきりもみ式と呼ばれる発火法で火を起こした。

 きりもみ式発火法は単純に言ってしまえば、木の板の上に同じく木の棒を垂直に立て、下に押し付ける様に棒を回転させ摩擦力で火を起こす方法である。それにより点いた小さな火種を草で繋ぎ、盛大に燃やした。焚火のようなものだ。

 三人はそれを囲みながら暖を取り、道中拾った木の実を食べ食欲と水分を少しでも満たそうとした。

 巧はあれからも何度か話しかけるが、彼女らの言葉が日本語になることは一度として無かった。

 

「なんか、おかしなところに来ちゃったみたいだな、俺」

「……?」

 

 巧の独り言に首を傾げる姉。妹はその横でうつらうつらと舟を漕いでいる。

 それもそうだ。巧の知る世界では絶対に実在しないような怪物の登場。時代錯誤な武装集団。目の前の少女達の着物。伝わらない日本語。

 ここはもしかしたら自分の住む世界とは違うのだろうか。そんなおかしな想像をしてしまうのも致し方なかった。

 

「そうだなあ。名前でも教えるか」

 

 そうと決めた巧は体を二人に向ける。そして人差し指を自分に向けながら口を開いた。

 

「いいか。俺は、た・く・み、だ」

「?」

「名前だよ名前。た・く・み」

「た……?」

 

 巧は名前の部分の時に己に指差しをすることでどうにかこれが自分を表しているんだと伝えようとした。

 

「た・く・み」

「た……く」

「た・く・み」

「た……く……み……?」

「おー、言えたじゃん」

 

 ぎこちないながらも巧の名を呼んだ金髪の姉の頭を巧は撫でまわす。その横で紫髪の妹も「た、く、みゃ!」と続けた。

 

「お前起きてたんかい」

 

 姉妹合わせてわしゃわしゃと撫でられ、二人は顔を見合わせぷっと笑った。それからしばらく森の中で巧の名が何度も響いた。二人の様子を見て味を占めた巧はそれから名が呼ばれるごとに少女達の髪をくしゃくしゃにした。幼い姉妹はそのたびにきゃっきゃっと笑った。

 ほどなくしてはしゃぎ疲れた姉妹は眠りに落ちる。それに続く様に、巧も疲れ切った体を休めるため、泥のように眠った。

 

 

 

 三人は夜明けと共に出発した。辺りはしんと静まり返っており、草木を掻き分け進む音しか聞こえない。巧はまるで世界に自分達しかいなくなってしまったかのように感じた。

 

 日が目を出したとはいえ、その恩恵はまだ十分に地上には振り注いではいなかった。巧は体に撫でるようなひんやりとした風を受けぷるぷると震えている。これは冬の朝に近い感覚だった。巧はともかく、少女達にとってお世辞にも厚いとは言えない着物では耐えられるものではない。二人は昨晩から彼のコートとセーターでどうにか寒さを紛らわしていた。姉妹にとってそれは見慣れないものだったのだろう。最初に着るときは巧が着せてあげた。その分巧が寒かったが、男は耐えるものだ。

 

 姉の案内に従い、瑞々しい緑の中を進むことおよそ半日が経った。水と飢えは集めた木の実でなんとか凌ぎ、黙々と歩き続けるとどこか既視感のある道へと出た。昨日見た道とは違い、少なくない人々が往来している。

 彼らの多くが向かう先は、要塞の様に立ちはだかる堅牢な門だ。ちょっとしたマンションほどはあるその門の左右からは敷地内を囲むように壁が建てられている。そこから放たれるオーラは、何者からも守るというまるで守護神のようなものを感じた。

 

(あー。これはもう間違いない。間違いないぞお。夢だ、夢だと言ってくれえ……)

 

 どうやらここは自分が知っている世界ではないらしい。

 しかし現実は覆らない。

 

 何はともあれ、今はこの幼い二人を親元に帰すのが目的である。巧が彼女らを気に掛けるのは単純に放っておけないと言う彼の性分もあるが、もう一つ狙いがあった。というのも、少女達と最初に出会った時、二人は護衛を付けていた。つまり、それだけの守るべき価値がある人物であることを意味している。ただの遊びの付き添いがあそこまで堅い装備を整えることは無いだろう。となると、彼女らの両親はそこそこの権力者ではないか、という推測が出来た。巧には少女らを無事に送り返すことで、恩人としてその一家の保護もしくは援助を受けれたらという打算的な思惑があった。成功するかどうかは、蓋を開けてみなければ分からないが。

 

 少女達は故郷へ無事帰ってきたことに安堵し、巧は不透明なこれからを考え途方もない不安を感じながら、三人は門へ向けて歩き出した、そんな彼らを沈みかけの夕日がじっと見守っている。世界は間もなく、暗闇が支配する時間へと移ろうとしていた。

 

 時間帯のせいか、人もまばらな街道を歩く少女二人の表情は喜色に溢れている。それほど家に帰れることが嬉しいのだろう。ぺちゃくちゃと話したり。二人して時折巧の袖を引っ張るなどして、早く早くと急かしたり。その活発さは幼い故なのか、とても疲労や空腹で疲れているようには見えなかった。

 

 気が抜けていたことは事実だった。何せ出会えば死は確実である怪物から命からがら逃げだし、疲労困憊だったその逃避行も終わりがすぐそこだったのだから。

 だから後ろから迫る存在に気付くのが遅れた。

 

「うぎゃあああ!!」

 

 心を引き裂くような絶叫が辺りを走った。

 悲鳴に驚いた周囲の人々が一斉に振り返ると、林の中から肉塊と化した男性を咥えた怪物がゆっくりと現れた。鋭い双眸が巧を捕えた。

 

「まじかよ!」

 

 巧が妹を抱き上げ姉と同時に走り出したのと、怪物が歓喜のような雄叫びを上げたのは同時だった。

 

「走れ!」

 

 言葉は通じなくとも、そこに込められた感情は共有できる。三人はひたすらに走った。

 背後では突然の出来事に混乱し対処できなかった者達が、まるで暴走列車に轢かれていくように次々と挽肉にされていった。

 懸命に逃げるも、疲労している彼らは呆気なく追い付かれる。そして怪物はその鋭利な爪を鋭く光らせ、獲物を切り裂かんとした。

 

「きゃっ!」

 

 しかし巧が攻撃の寸前に妹を姉もろとも突き飛ばしたことで、三人は爪の餌食になることを回避した。命は助かったが、巧と姉妹は間に怪物を挟むような形で分断されてしまった。

 目の前には怪物の巨体が。死は目前であった。

 

 凶悪な悪魔は恐怖で足がすくんでいる姉妹には目もくれず、巧へと迫った。もはやこれまでか、と諦めかけたその時、怪物の足が止まる。

 見ればその腕には数本の矢が刺さっていた。矢の飛んで来た方に目をやると、遠くない位置にある人里から大勢の人が出てくるのが見えた。彼らは誰もが剣や槍で武装しており、その中には弓を持つ者もいた。

 しかし矢は堅牢な皮膚の鎧に阻まれ浅く刺さっており、大したダメージにはなっていない。加えて武装集団がここに来るまでにはまだ時間がかかる。彼らが巧を助けるためには、圧倒的に時間と距離が足らな過ぎた。それを理解しているのか怪物は気にすることなく巧へと足を進めた。その巨体の向こうには、抱き合い恐怖に身を包まれながらもこちらを案ずる少女の瞳が覗けた。

 

(……お前達も、ここで死ぬには、まだ早いよな)

 

 何故か奴の狙いは自分だ。ならば自分がここを離れれば、怪物も追ってここを離れるのではないか。

 そう考えてしまったのが、運の尽きだった。

 

「とにかく生きろよ!」

 

 巧は吐き捨てる様に叫び、駆け出した。それは果たして少女らに向けた言葉か、それとも自分自身に向けたものか。当の本人ですら分からなかった。

 疲労で鈍い体など知ったことか。俺は生きるんだ。アドレナリンが全身に滾り、限界を超えた力が彼の体を動かした。

 

 巧は夕闇に沈もうとしている森の中に入る。それは孤立無援の逃走劇という無茶で無謀な茨名の道に進むことに他ならない。巧が通り過ぎるたびに木々が嫌にざわつく。彼にはそれが、お前は逃げられないという冷やかしのように思えた。

 

 残された少女達は全身の力が抜けたかのように座り込み、巧が走り去った方角を呆然と見ていた。ほどなくして大勢の大人達が二人のもとに駆け付けた。彼らは少女達を心配する声を上げながら、周りの警戒を始めた。

 金髪の姉は小さく呟く。

 

「た、くみ……」

 

 男の影は、もう見えない。

 

 

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 もうどれだけ走ったかも分からない。時間の感覚はとうに消え、あれからどれだけ経ったのかなど全くの不明だ。数時間かもしれないし、数日、もしかしたらたったの数分かもしれない。体の感覚はもはや消え失せ、巧はただ走るだけのマシーンと化し闇雲に森の中を突き進んでいた。

 生きる為、背後の敵意から逃げ続けた。

 

 そうしていつしか森を抜け、巧は一面に広がる(すすき)畑に出た。頭上には大きな満月が浮かんでおり、辺りをはっきりと照らしている。それと合わせて弱い夜風に煽られ揺らめく薄畑の光景は、興奮していた彼の心を落ち着かせる力があった。

 とうに振り切っていたのか、背後から怪物の足音は一切しない。周囲に気をやっても何かの気配はせず、辺りは静寂を保っている。

 

「っ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」

 

 絶対死ぬと思っていた。けれどもどうにか再び生き残った。押し寄せる疲れと安堵に押し潰されるように巧はその場に倒れた。全身の筋肉が強張ってズキズキと痛むし、喉はカラカラだ。とてつもなくコンディションは悪く、嫌になる。けれども今はその感覚が何故か心地良かった。

 

(マラソンとか、走り終わった後って、なんかこんな感じだよなー……)

 

 優しい風が巧を撫でる。彼はただ、生きていることが嬉しかった。

 

(見たか、逃げ切ってやったぞこの野郎)

 

 満月を見ながら思う。少女達は無事に家に帰れただろうか。あれだけの人数が町から出てたんだ、大丈夫だろう。残念ながら彼女らの家に恩を売ることはできなかったが、下手に庇って死ぬより断然マシだ。

 今宵の満月はどうも張り切っているようで、瞼の向こうからでも光を感じることが出来る。薄に抱かれながら巧は静かに目を閉じた。少し冷たい風が気持ち良い。

 そうして眠りにつこうとした時だった。瞼の奥で感じていた光が突如として消えた。反射的に目を開けると、そこには醜悪な顔の‘奴’がいた。どこか嬉しそうに見えた。

 

「っっっ!?」

 

 一瞬で全身に恐怖が走った。

 

「うぐっ」

 

 怪物はその剛腕で巧の頭を掴み、そのまま宙へ持ち上げた。頭を握り潰されそうな感覚にもはや力も声も出ず、巧は口を半開きにしたままぷるぷると震えるしかなかった。

 それが面白いのか、怪物は愉快そうに目を歪に歪め、笑う。そしてもう片方の腕を動かした。次の瞬間、巧の両足はその機能を失った。同時に頭部の圧力が消え、巧は地面に落ちる。意識はもはや半分飛んでいたが本能で危機からの逃走を図る。しかし体は思うように動かなかった。

 

「あ……あ……」

 

 激流の様に流れる痛みの中彼が見たのは、自身の足の付け根から出る夥しいほどの血と、怪物に食われている己の足だった。

 

「あああああああ!!!」

 

 心の折れる音が聞こえた。

 

 怪物は巧の両足を腹に収めると、地面を揺るがすような歓喜の咆哮を上げた。怪物にとってこれ以上に無いほどの甘美な味だったようで、骨の欠片すら残っていない。もっとこれを味わいたい。もっと、もっと! 溢れ出る食欲が奴を突き動かす。怪物はすぐさま巧に跳びかかり、その腕に喰らいついた。

 

 全身をマグマのような熱が駆け巡る。感覚が死んでいっているのか、痛みは次第に感じなくなっていた。代わりに体が無くなっていく喪失感が胸を満たす。虚ろな目から涙が止まらない。

 そして血濡れの牙が彼の胴体にかかろうとした時だった。

 

 光が走った。

 

 とても美しい銀の光だった。決して豪華ではなく、落ち着いた雰囲気の神秘的な光だった。

 銀の閃光は怪物を吹っ飛ばし、消えた。地面に盛大に叩きつけられた怪物は苦悶の表情を浮かべ、空気を震わすほどの憤怒の絶叫が辺りに響いた。

 

 怪物は起き上がろうとするが、上手くいかない。当然だ。既に下半身は失われているのだから。しかし、それでもと無理矢理這うようにして巧の方へと動く。そうまでして喰らいたいのだろうか。だが新たに飛んで来た光がその願いを撃ち砕いた。

 光は怪物の頭部を貫いた。怪物は急に力が抜けた様に呆気なく倒れ、煙のように消滅した。後には何も残らなかった。

 

 既に意識が朦朧としていた巧には一連の出来事は認識できなかった。彼が最後に感じることができたのは、闇夜に輝く光と、近づいてくる何者かの足音だった。

 満月が二人を照らす。

 



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3 薬師永琳【前編】

≪お知らせ≫数日前に『3 薬師永琳』を投稿したのですが、内容の変更に伴い一旦削除し、新たに第三話を投稿いたしました。


 

 長い間、暗く深い場所に沈んでいたような気がした。

 何も見えない、何も聞こえない、何も動かない。そんな所だ。指先を動かす力さえも今は無い。

 

 「空虚」

 

 例えるならばその言葉が良く合っているように巧は思う。

 そんな冷たい海の底のような場所に漂っていたのだが、いつしか僅かにだが全身に活力というものが湧き上がってくる感覚があった。体が熱い。けれども不快などではなく逆に安心するような熱だ。それと共に、暗黒だった世界に一筋の光が射した。

 巧はそれに導かれるかのように、光に手を伸ばした。

 

 瞼に振り注ぐ陽光に誘われ、巧は目を覚ました。

 窓の向こうから射し込む温もりに安心感を覚えぼんやりとしていたが、直前の記憶を思いだしはっと勢いよく起き上がる。寝ていたようだ。

 寝起きのせいかしばらく頭の中が不鮮明な状態が続いたが、時間が経つほどに靄が消し去られていく。記憶の奔流が脳を駆け巡り、鮮明になっていく。

 

「俺……生きてる?」

 

 てっきり自分は死んだものと思っていた。

 巧はポツリと呟き、視線を下に向ければ、あの晩、巧を襲った怪物に切り裂かれたはずの片腕があった。掌を握ったり広げたりを何度も繰り返すが、痛み等の異常はない。掛けられていた毛布を取ってみれば、やはり両足も健在だった。とすると、あれは夢か何かだったのだろうか。

 

 しかしそんな想像とは裏腹に服装も変わっていた。見慣れた私服ではなく、上は白のロングTシャツ、下は灰色のズボンというどれも無地で簡素な作りのもので、全く見覚えの無い服だ。元々着ていた物はどこにも見当たらない。

 巧は次に今いる場所を見渡してみた。

 

「ここは……」

 

 どこかの部屋のようだ。五畳ほどの広さで、壁沿いに置かれたベッドに巧は寝ていた。家具らしい家具は他に木造の小さなオケージョナルテーブルと壁に立てかけられている大きな鏡しかない。寂しい部屋だった。ベッドの真横の壁には窓があり、その向こう側には心が洗われるような快晴が広がっている。

 両開き式の窓を開いてみた。耳には空を飛びまわる小鳥の囀りが聞こえ、どこからか何やら美味しそうな匂いが漂ってきている。とても食指を動かされる匂いだ。

 どれも夢では感じられない、まぎれもない現実であった。

 

「……夢じゃなかった」

 

 巧は眼前に広がる景色を見てそう呟いた。

 

 窓の向こうには建物が数多くあり、ここがどこかの町であることが分かる。しかしその中に巧の見慣れたビルやマンションといったコンクリート製のものはどこにも見当たらなかった。

 見たところどの家もレンガで造られている。所々木造建築の建物が見受けられるものの、この町ではレンガ造りが主力のようだ。彼のいる建物は他のものと比べるとより高く、恐らく三階建てでここが最上階に当たるのだろう。眼下の道には大人から子供まで何人もの人が行き交っており、誰もが自分と似た系統の服を着ている。目の前の光景からは現代の匂いが一切しなかった。

 

 ベッドから降りた巧は、自身の体に何も異常が無いことに驚いた。もはやどこがどう食われていたかなど覚えていないし思い出したくもないが、それでも五体満足では済まない状態だったはずだ。しかし壁に立てかけられた鏡を見ると、それに映る姿には傷らしい傷は一つも無かった。

 オケージョナルテーブルの上には小さな荷袋が置かれており、中を見ると巧のスマートフォンと赤黒く汚れた革財布が入っていた。スマホの電源をつけてみると辛うじて充電は残っていた。しかし未だ圏外のままである。

 

 巧は増々混乱した。一体自分に何が起こっているのか。傷が無いということはあの出来事は夢だったのだろうか。なら何故記憶にない場所にいるのか。諸々の不安を抱え、巧は部屋の扉を開けた。

 その先は左右に伸びる一本の廊下に繋がっており、他にも部屋が幾つかあった。狭い廊下の先には下へと続く階段がある。恐る恐る降りてみれば、下の階は広々としたリビングで構成されていた。部屋の真ん中には大きめのセンターテーブルが置かれており、それを挟み込むように荷台の二人掛けソファが鎮座している。しかしそこには誰もいない。巧はさらに下へと降りた。

 一階はどこかの部屋で窓を開けているのか、風通しが良かった。それに乗って鼻を擽るのは何故か薬品の匂いだった。

 

(ここは病院か何かか?)

 

 三階よりは広くなった廊下を進み、手当たり次第に部屋を覗いていく。ある部屋には一帯を埋めんばかりの本が、またある部屋には数多くの怪しげな器具が巧を出迎えた。しかしどの部屋にもやはり人の気配はない。しかし家に生活の跡はある。一体家主はどこに行ってしまったのか。巧は適当にサイズのあった靴を履き、玄関を出た。

 

 外へ出た巧に眩しいほどの太陽光が降り注ぐ。その暖かい光に、彼はまるで数十年ぶりに再会した友人のような安心感を感じた。

 

「さてと、ここからどうしようか」

 

 この家の人間が帰ってくるまでこの辺りを散策しようと巧は考えた。自分が頼れるとするならば、助けてくれたと思われるここの住人だけだ。ならばあの家でじっとしておけばいい話なのだが、いつ帰って来るか分からないことに加えてすることもないので暇なのと、単純に好奇心からだった。

 

 家に面している街道は疎らであるが人の行き交いがある。どちらに向かえばいいかなど見当もつかないが、行き先は気まぐれに任せることにした。幸いにして巧は地図の把握等は得意な部類なので通った道は大体覚えている男である。結果として真横に伸びる道を左に向かって進むことにしたのであった。

 そして巧がその家を離れてから時間にして数分後、入れ替わるようにそこを訪れる一つの人影があったことに、彼は気づかなかった。

 

 

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 暑い日差しが降り注ぐ中、巧は市場のような場所にやって来ていた。彼が歩いているところは大通りとも言うべき道で、現在は多くの店を周っている人々で大混雑している。少し背伸びして先を見てみれば、道全体が人の頭で埋まっている状態だ。そんな彼らを見守るように、様々な店が肩を組むように敷き詰められている。街の活気は見た目通りの賑わいで、ここに辿り着いた当初は何かの祭りでも行われているのかと思ったほどだった。

 その光景は巧にとっては、とても時代遅れに思えた。

 

 呼び込みをする料理店や隣を歩く老夫婦の会話など四方八方から人の声が耳に入って来るが、何を言っているのか全く理解できない。いつか行動を共にした少女達と同様に言語は違うようだった。

 

「これどっから出たらいいんだよ……」

 

 少しの散策を終えた後、目覚めた住居に引き返そうとした帰り際に寄った通りだったが、どうやら失敗だったようだ。こうも人がごった返していると進むも引き返すも困難で、巧はほとんど立往生を強いられていた。

 

 そして困ったことに尿意を催してきてしまったのが運の尽き。しばらく我慢はしてきたが、最後の砦は今にも決壊を迎えようとしている。トイレの場所など知らないし、店に入って借りようにも言葉が分からない。

 最終的に巧が考え付いたのは口がきけないという設定であった。最初は不振がられたもののジェスチャーでなんとか意思疎通に成功した巧は、穏やかな気持ちで用を足すのであった。

 

「ふぅ、何とか助かった」

 

 案内してくれた店員に感謝の意を示し、店先に出る。

 その時、目の前を行き交う群衆の中を一人の女が通り過ぎた。女はすぐに巧の視界から消えた。しかし一瞬のことであったが巧は彼女に強い印象を受けた。彼女からは他とは違う何かを感じさせる気配があり、それは例えるならば、枯れ果てた大地に一輪だけ咲く花のような。上手くは言えないが、彼女だけが何か違って見えたのだ。

 

 すげえ美人だったな――巧はそう思った。僅かな時間であったが彼女が目も覚めるような美女であることは一目瞭然であった。特に目を引いたのは、漆のように真っ黒な長髪だった。

 そうやって気を抜いていた時だった。

 

「うっ」

 

 突然感じた衝撃に後退りする。小柄な影が逃げ去るように人混みの中へ消えていくのが見えた。なんなんだと思っていると、ポケットにあった感触が無いことに気付く。入れていたはずのスマホが無い。盗みだ。

 

「あいつっ」

 

 明らかに先ほどの者の仕業だった。今のところ一切役に立っていないスマホだがあれは自分の持ち物である。使い物にならなくても私物を盗まれたことに非常に苛立った巧は犯人を追いかけることにした。

 

 周りの迷惑そうな視線を無視して逃げた方向に人混みを無理矢理掻き分けていくと、やはり体格が小さくてもこの混雑では思うように動けないのか、犯人らしき人物を発見することに成功した。

 好機だと巧が強引に近づいていくと、背後の僅かな騒ぎに気付いたのか人影は振り返った。まだ幼い子供だった。見るからに貧しそうな格好をしている。彼は己に迫る巧を見ると慌てた様子で逃げた。巧はそれを必死で追いかける。

 考えていることは一緒だったようで、二人とも近くにあった通りから外れた通路へと出た。

 

「待てよ!」

 

 路地裏を逃げる少年。しかし奥の角を曲がった際に人とぶつかり尻餅をついてしまう。彼が視線を上に向けるとそこにいたのは全身を筋肉の鎧で纏ったような男がいた。男は少年をゴミを見るかのような目で見ている。二者はまるで蛇と蛙のようだった。背後には仲間らしき存在が複数確認できる。

 

 巧が追い付くと前方から少年が吹っ飛んできた。反射的に受け止めると、顔面には見るも痛々しいほどの痣が出来ていた。少年は苦しそうな呻き声を上げている。

 

 前からは男達が何かを言いながら近づいてきていた。相変わらず巧には何を言っているのか分からなかったが、明らかにこちらを挑発しているような仕草を見るに、彼らは巧を少年の関係者か何かだと思っているようだ。察するに、敵を討ちたいならかかってこいなどと言っているのだろう。

 

 すると突然背後から悲鳴が聞こえた。振り向くと小さな少女が顔面蒼白でこちらに駆け寄ってきている。彼女は巧の腕の中にいる少年に向かって必死に話しかけ出した。可愛らしい少女だが、格好は少年と同等の雰囲気だ。知り合いか妹かはたまた恋人か、なんにせよこちらが少年の真の身内だろう。

 

 まだ幼いとしても女を見つけたからなのか、男達の目が卑しく輝いた。一人の軽薄そうな男が彼女の前に立ち何かを誘うような仕草をするが、少女は非常に怖がっており少年を強く抱きしめるようにして後ろに下がった。それは明確な拒絶であった。

 

 あからさまに気分を害した風の男は強引に少女を連れ去ろうと、彼女の頭を掴む。髪を強く引っ張られる苦痛に顔を歪める少女、しかし決して少年を離そうとはしなかった。

 痛みに耐え歯を食いしばっていた少女はそこで男の手から解放されることとなる。倒れた彼女が前を見ると、自身を引きずっていた男が苦悶の表情を浮かべ地面に屈している。その両手は何故か股間に当てられていた。

 

 そして彼女を庇うように立つ、蒼威巧の姿がそこにあった。

 巧は少女が強引に引きずられるのを見ると、男の金的に重い蹴りを喰らわせたのだった。その渾身の一撃は、男を屈服させるのには有効な手段だった。

 仲間をやられた男達の強烈な敵意が巧に振り注いでいる。戦闘は避けられないだろう。そんな義理は無いのに何故己が二人を助けるような真似をしたのか、正直な所彼自身も明確な理由があったわけではなかった。

 少年は巧に周りと比べてボロボロの格好と盗みを働いたことからそうまでしないと生活できないような環境にいるのだろう。それは少女も同様だと思われる。客観的に見れば、巧は盗人を助けるような真似はしなくていいし、男達が彼らをどうしようと関係ない。盗まれたものが返って来るならそれでいいのだ。

 

 しかし、しかしだ。男に引きずられる少女が彼に向けた、救いを求める眼差しを無視することはできなかった。

 結局は単純な話だった。巧は笑いながら子供をいたぶる男達が、単純に許せなかったのだ。

 

「せいっ」

 

 巧の右足の蹴りが先の男の顔面に入った。男は鼻血を噴きだしながら後ろに倒れる。それを見たリーダー格の男が雄叫びと共に駆け出した。

 まるで大木のような巨体が勢いよく突進してくる。その速さは見た目とは裏腹に素早く、巧はそれを受け止める様に対処するしかなかった。男の突撃は巧と接触してもなお止まることは無く、そのまま押し出す様に突き進む。そして二度目のタックルで巧は大通りにまで吹っ飛ばされた。

 

「うぐっ」

 

 突き飛ばされた巧の体は大勢の群衆の中に落ち、何人もの人が巻き添えを喰らい倒れた。

 リーダーの男は路地裏から姿を見せた。二人の男の姿を見た周囲はこれから起こることを察知し、素早く退散しようとしている。

 

 彼の戦い方に小細工など必要ない。必要なのは鍛え上げた己の体のみ。唯ひたすらに殴り、蹴り、殴り、蹴り、殴る。それは誰が相手だろうが変わらない。男はそれで今まで何人もの人間を襲い、奪ってきたのだ。今のタックルで動けないほどのダメージを受けただろう。彼の経験がそう告げていた。

 しかし巧は軽やかな動きで立ち上がった。不思議と痛みは少なく、余裕で耐えられるレベルだった。

 

「その筋肉、綿か何かでできてんのかい?」

 

 聞いたことの無い言葉であったが、その口調は明らかに馬鹿にしたものだった。怒り狂った男が砲弾のような一撃と共に突撃する。常人が喰らえば命をも砕くその拳を、巧は正面から受け止めた。衝撃に押され後退するも、掴んだ腕は離さない。

 

「!?」

「おおお!」

 

 左腕で男の腕を押さえながら、巧は大きく踏み出し、固く握りしめた拳を相手の腹にぶち込んだ。肉が潰れる感触がした。

 

「あっ……がっ」

 

 激しい痛みに悶えながらも、男は力任せに巧の頭部を掴んだ。もがく巧だが、鍛え上げられた握力はそれに逆らう。両者とも互いの痛みに気を取られ、僅かな拮抗状態が生まれた。

 

「やあああ!!」

「!?」

 

 そこで先の少女が男に攻撃を仕掛けてきた。どこで手にしたのか、その手にはナイフが握られている。刃がリーダーの男の脇腹に突き刺さった。

 

「うらぁ!」

 

 痛みに苦しみながらも、男は少女を振り切るように蹴飛ばした。彼女は血を吐きながら地面に転がっていく。そして動かなくなった。

 

「お前……!」

 

 煮え返る様な怒りとはこういうものだったか。

 巧は刺さったままのナイフを掴み、思いっきり手前に引いた。肉を、繊維を切り裂く感触が気持ち悪い。血飛沫が飛び散る。脇腹を切り裂かれる痛みに耐えきれず、男は巧の頭から手を離す。すかさず男の足を蹴り払い、仰向きに倒れたところに乗り、固く握った拳を力の限り相手の顔面に叩きつけた。

 

 何度か抵抗しようと攻撃を加えた男だったが、強烈な衝撃を目に何度も受け頭が真っ白になる感覚を味わっていた。そして遂には意識を失うまでになり、沈黙した。

 

「はあ……はあ……」

 

 周囲が騒然と見守る中、血塗れの顔面に押し付けた拳を離し、巧は男の上から退いた。そのまま路地裏に目をやると、荒くれ者の取り巻きは激しく動揺した様子だった。無理も無い話かもしれない。負けるはずの無い仲間が無様にやられたのだ。巧が睨みつけているのを感じると、彼らは怯えた様に奥の暗がりへと逃げ去った。

 

 一先ずの危機を避けた巧はすぐさま倒れ伏す少女に駆け寄った。生きてはいるが、浅い呼吸を繰り返している。幼い体に丸太でぶん殴るような攻撃を受けたのだ、このままではもしかすると死んでしまうかもしれない。それはどうやら向こうで他の人に介抱されている少年の方も同じようだった。

 

「誰か……っ!」

 

 助けてくれ――と叫ぼうとしたが、ここが言葉の通じない所であることを思い出してしまう。どうしようかと周囲をきょろきょろと見回す巧の前に一人の影が現れた。

 

「&hs&#$%¥?」

 

 言葉は分からない。けれどその口調はこちらを案じているもののように感じた。

 巧はその人物に目をやった。

 

「あんたは――」

 

 現れたのは、少し前に見かけた、黒髪の女だった。

 




ここまで会話らしい会話が無いとは一体どういうことなのか。


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4 薬師永琳【後編】

 

 蒼威巧は手持無沙汰であった。単純に言うと、やることがない。

 

 現在彼は元いた病院めいた住居に戻っており、二階のリビングにて暇を持て余していた。ふかふかのソファが心地よい。

 

 あの街中での乱闘騒ぎの後、巧の前に現れたのは腰まで伸ばした黒髪が目を引く女だった。彼女は何かを言っているようだったが、如何せん、巧がそれを理解することはできない。しかし彼女の様子を見るに、どうも手助けを申し出ているようだった。

 

 女は言葉が通じないと分かると、ジェスチャーで傷ついた少女を連れて後についてくるように命じた。少年の方は他の有志が同様に運んだ。

 巧は少女を抱え、女に追随した。そして驚いたことにその行き先は自分が目覚めた建物だったのである。思わず女の方を見ると、彼女は少しだけだが笑っていた。

 

 その後は全て女の指示に従った。どうも彼女はこの家の住人らしく、家に入るや否や慣れたように、一階にあるベッドが数台並べられている部屋に少年少女を寝かせると、何やら瓶やその他の用具を用意しだした。治療の準備なのだろう。それをただ見ていた巧は、邪魔だったのか、二階へと追いやられてしまったわけなのだ。ちなみに少年を運んでいた有志の青年はとっくに帰っている。

 

 ガチャリ、とドアが開く音がした。黒髪の女だ。どうやら諸々の治療は無事終了したらしい。

 彼女は手に二人分の茶を入れたコップを乗せた盆を携えており、それを巧の前のテーブルに置くと、自身は彼と対面するようにソファに腰を下ろした。

 

「%%(#&」

 

 着席早々に女は言葉を発するが、残念ながら巧がそれを理解することはできない。どう反応したらいいのか悩む彼に、少しの間をおいて女は再度同じ言葉を告げる。それが更に数度続いた。

 

 状況は膠着状態と言えるだろう。これを突破するためには、こちらも何かアクションを起こす必要があった。分からない、理解できないからと思考停止していては何も進まない。巧は考える。彼女から告げられている言葉はたった一言だ。そのたった一言を何度も繰り返している。それだけで意味が完結している言葉と考えられる。更に二人は初対面で、ここに来るまでに幾つかのやり取りがあったとはいえ、それはどれもジェスチャーが主だった。まともに話すのはこれが最初となる。

 ――と、なると……。

 

「こ、こんにちは」

 

 挨拶。これ以外に無いだろう。まあ、彼女がそんなことなんて気にしない人ならば話は違ってくるが。

 

 ここで巧は気づくのだが、要するに言葉が分からないという状況は、外国語が分からないと考えたらいいのだ。自分はロシアやドイツのような言語を知らない国に旅行に来たのだと考えれば、少しは気分が楽になった。

 

 巧の遅い返事を聞いた女は生真面目な顔を崩さずにいる。そしてそこから彼女は様々なジェスチャーを駆使しながら話し出した。その内容は、性別の違いや体の各部名称、物の名前などの子供でも知っている一般常識から、この町の作りや制度などの高度な話にまで広がった。時には物を持って、時には絵を描いて。と言っても、お互いがお互いの言葉を分からない中での会話だ。行き違いがほとんどの内容になることは当然であった。

 

 解せなかったのは、現地の言葉を少しでも覚えようと、女が言った意味を想像しながら復唱すると、何故か彼女が不機嫌になるのである。一体どういうことなのか。その真相を女は言っているのだが、さっぱりわからない。そこで思わず日本語で文句を言うと、女はそれだと言いたげに指を指してきたのだ。要するに、巧には日本語で話してほしいらしい。彼にはその意図が全く分からなかった。

 

 そんなやり取りがなんと数時間続いた。既に外の景色は夕焼けに染まっている。

 巧にとってはほぼ無用な会話が続き、昼からの騒ぎもあって精神的に疲れていた。中学校から数えて五年以上も勉強している英語ですらまともに話せないのに、初めて聞いた言葉をその日で理解しようとするのが土台無理な話だったのだ。

 

 女は今ここにはいない。少し前に部屋を出ている。行き先は分からないが、恐らく自室だろうか。

 巧は何をすることも無くソファに寝転んでいた。テーブルには飲みかけのお茶が入ったコップがある。飲み物は自由に使っても良いようだった。

 

 しばらくぼーっとしていると、部屋の扉が開き、女が入ってきた。「どもー」と巧が迎い入れ返事をする中、彼女は昼と同じ位置に座った。

 また同じことをするのかと巧が考えながらお茶を飲み干すと、女が口を開いた。

 

「お茶は口に合うかしら?」

 

 沈黙。

 

「え?」

「お茶の味はどうかと聞いているんだけど、伝わらなかったかしら」

 

 巧は何が起こっているのか理解できなかった。というよりも、理解はできていたがそれが信じられなかったのである。緊張か興奮か、両足が震えているのを感じる。

 

「お、俺の言ってること、分かる?」

「ええ。ちゃんと分かるわ」

「おお!」

 

 まさに僥倖に巡り逢ったとはこのことだった。まさか、まさかこちらの言葉を解することができようなどとは思いもしていなかった。巧は嬉しさに胸を熱くする。しかしそこで考えるのが、何故そんなことができたのか、という誰もが辿り着く疑問だった。巧がそれを女に尋ねると、彼女はなんてことのない風に言った。

 

「貴方の言葉と私の言葉、照らし合わせてみただけよ」

 

 確かに彼女はそう言った。つまりだ。女は巧との数時間のやり取りで日本語を自国語に翻訳し、実践レベルにまで理解したと言うことに他ならない。人間業ではなかった。

 

「歩く翻訳機かよ」

「そんなに驚かなくてもいいじゃない。貴方にとってはとても喜ばしいことのはずよ」

「そりゃそうだけど」

 

 本当に会話が成立している。巧はいつになく感動していた。

 

「では改めまして自己紹介といきましょうか」

「そうだな。俺は蒼威巧、よろしく」

「蒼威さんね。私は八意永琳よ、よろしく」

 

 差し伸べられた手を握る。

 細く、雪のように白い手だと巧は思った。

 

「とりあえず、なんだけれど」

「何だ?」

「お茶、美味しかったかしら?」

 

 永琳は笑ってそう聞いた。

 

 

 

「何はともあれ、体に不調が無いようで安心したわ。貴方、ここで目を覚ます前のこと、覚えてる?」

 

 永琳と名乗った女は最初にそう訪ねた。

 

「はっきりと覚えてる」

 

 巧はそう答えた。

 忘れたくとも忘れられないだろう。一連の出来事は記憶に深く刻まれている。

 

「で、何で俺はここにいるんだ? てっきり死んだと思ってたんだけど」

「まあ、あの状態ならそうなるわよね」

 

 永琳はお茶を一口飲んで喉を潤すと、巧をしっかりと見つめた。

 

「少し長くなるけど、いいわよね?」

「もちろん」

 

 そうして彼女の語りが始まった。

 

「簡単に説明すると、私が貴方を助けたの。つまり死にかけの貴方を治療したのは私。こう見えても結構評判の薬師なのよ? ……薬屋? 確かに薬も売ってるけどそれだけじゃないわ。そうそう、貴方の言う『医者』がとても近いわね。

 話を戻すわね。私はあの晩、ちょっとした事情で蒼威さんのいた山に入っていたんだけど、そこで倒れていた貴方を見つけたのよ。あの時の状態は酷いの一言に尽きたわね。四肢は喰いちぎられ胴体は腰の辺りで真っ二つだった。恐らくに穢者(あいじゃ)襲われたと思ったわ。もう死んでる? 普通はそうなんだけど、蒼威さんは相当しぶといみたいで微かに息はあったのよ。嘘じゃないわよ。そうじゃなかったらそもそも貴方はここにいないわよ」

 

 そこで慌てた様に巧は無理矢理話の腰を折った。

 

「ちょ、ちょっと待った。あいじゃ、って何?」

「貴方穢者を知らないの?」

「知らねえよ。それは俺を襲った怪物のことでいいんだな?」

「そう、貴方が実際に見た通りよ。あの化物達が『穢者』。人を喰らい、その負の力を糧として活動する最悪の敵よ」

 

 そう重々しく語る彼女からは、あれが本当に実在している存在なのだということが感じ取れた。それに実際にこの目で見たものをわざわざ否定する気も無かった。

 

「そうか……。そう言えば、八意さんが来たときにはもうそいつはいなかったんだよな? 何で俺を最後まで喰わなかったんだろうな」

 

 巧はそれが心底不思議で仕方無かった。永琳の言う通り、あの穢者は彼の両手足を千切って喰っていた。それは穢者が巧のことを食料として認識していたことに他ならない。なのに何故、頭や胴体を食べずに消えたのだろうか。あまりこういうことを考えたくはないのだが、手足より心臓や頭の方が味というか、貴重度は高いと思うのだが。

 

「さてね。何か非常事態でも起こったのでしょう」

 

 永琳はそう答えた。巧としても、何が起こったかなど分かり様が無いので、それで納得するしかなかった。

 

「それでどうやって貴方を治したかなんだけど、薬を使ったの。どういう薬かと言うと、肉体を再生させる薬。これのおかげで貴方の体は元通りになったわけ。そんなもの有り得ない? そう思うのも無理ないわよね。確かに今までそんな万能薬なんて無かったもの。ならなんでかって、私が作ったからよ。……何か反応してちょうだい。別に冗談なんかじゃないわ。これでも私は薬を専門にしていてね。まあこれはかなり時間がかかったけど。そんなわけで一命を取り留めた貴方を、私が家まで連れて帰ってきたってわけ。

 とにかく、薬のおかげで貴方は助かったわけだけど、どうも再生の負担がとても重かったみたいでなかなか目を覚まさなかったのよ。気づいてる? 実はここに運び込まれてから二ヶ月経ってるのよ? やっぱり気づいてなかったのね。当然か。

 で、注意して欲しいことがあるの。実はこの薬、今まで人に試したことが無かったの。つまり蒼威さんが人として最初の被験者になるわね。もちろん鼠なんかで実験は行ってたわよ。それでなんだけど、小動物実験の中で、薬のもう一つの効能が分かったの。

 簡単に言うと肉体強化。今の貴方の体は恐らく強化されていて、並の人間以上の身体能力を発揮できると思われるわ。鼠がいきなり三十センチメートルぐらい飛び上がった時は本当に驚いたわ。昼間の騒ぎの時に何か感じなかったかしら?」

 

 そういえば、と巧は思う。

 チンピラ達との喧嘩の中、丸太のような男のタックルをまともに受けたがダメージらしいダメージは全く無かった。更には組み付いた時にパンチを打ち込んだが、予想以上に男が苦しんだのを覚えている。巧とチンピラの体格の差を比べれば、普通は起こり得ないことだった。

 

「心当たりはあるようね。気を付けていけないようなことはそれだけ。副作用は今のところ実験段階でも貴方にも出ていないようし、とりあえずは安心していいと思うわ」

 

 永琳はそう締め括ると、飲み干したコップにひんやりと冷えたお茶を注いだ。

 いろいろと言いたいこと、聞きたいことは山のようにあったが、まず言うべきことがあった。

 

「何はともあれ、助けてくれてありがとうございます」

「どういたしまして。薬師として当然のことをしたまでよ」

 

 なんて良い人なのか。まさに女神とはこの人のことを言うんだろう。

 

「それで、次は貴方の事を聞きたいわね。言語も違うし、穢者を知らない人なんて初めてだから驚いたわ。一体どこから来たの?」

 

 永琳は興味ありありな目線を送ってきている。

 しかし経緯の内容が内容なので、どう話せばいいのやらと巧が頭を悩ましていると、腹の虫が盛大に鳴いた。

 予期せぬ出来事に顔が熱くなってくる。前を見れば永琳は少し笑いを堪えているようだ。それを見て余計に恥ずかしさが増してくる。

 

「その前に、お昼にしましょうか」

 

 

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 昼時を過ぎた町は人通りが一気に減る。それは商店街も同様だった。昼間に巧が迷い込んだ場所もそこである。

 その店は通りの一角にひっそりと隠れるように建っていた。店先の看板を見るに食事処のようだ。何気なく歩いているとうっかり見逃してしまうほど存在感が薄い店だが、そんな印象とは正反対に店内は人の活気で溢れていた。

 

「%”(%=‘%#$!!」

 

 外からでも聞こえてくる声は、相変わらず全く意味が分からない。

 昼ご飯を食べようと、永琳に連れられて来た巧は、店内の勢いに圧倒されていた。中は適度に広く、大勢の客が楽しそうに食事をしている。大多数が暑苦しい雰囲気の男達で、昼間だというのに酒を片手に騒いでいた。女性客は見受けられず、いると言えば、店内を忙しなく動いている三名の女性店員だけだった。ふわふわな生地のスカートが慌ただしく揺れ中身が見えたり見えなかったりしている。その光景も男達にとっての酒のつまみとなっているのだろう。

 

 店に入ると、新規の客に気付いた女性店員が声を掛けてくる。内容は「いらっしゃいませ」「何名様ですか?」などのやり取りだろう。永琳は彼女らに何かを告げると、巧について来るように言った。

 

 永琳の入店に気付いたのは当たり前だが店員だけではない。店のあちこちで飲んでいた男達が彼女の存在に気付くと、一斉に声を掛けてきた。その勢いは思わず方向転換したいほどだった。例えるなら、言葉の銃撃とでも言おうか。巧より年下の子供や還暦を過ぎたような爺まで、幅広い年代の男達の少しでも永琳の気を引こうとする下心がありありと見えた。

 

 彼らの反応も当然と言えば当然だった。永琳の美貌は巧ですら気を抜くと見惚れてしまうほどの完成度を誇っている。現代でも数多くの美女と謳われた女性が多くの媒体を通して巧の目に入って来ていたが、彼女らの誰もが叶わないような美しさが永琳にはある。

 永琳は男達のアプローチを適当にいなしながら、店内を進んでいく。巧はそれに遅れまいとついて行くが、男達の妬むような鋭い視線のせいで居心地が悪かった。

 

 二人は奥にある扉を開き、その先にある階段を上る。そして辿り着いた場所は一階の喧騒とは遠く離れた雰囲気の店だった。あそこが大衆食堂ならば、こちらは落ち着いた喫茶店と言ったところか。ここでは一階ではいなかった女性客がちらほら見受けられる。やはり彼女達にはこちらの方が合っているのだろう。しかし、この店に入る為にはあの騒がしい中を通ってこなくてはいけないと考えると、いろいろと不信感しかない。何故この場所に店を開いたのだと店長に小一時間問い質したい、と巧は思った。

 店員に案内され、二人は小さなテーブル席に通された。対面になる様に座る。

 

「ここの店、びっくりしたでしょ?」

「ああ。まさかあんな喧しい店の上にあるなんてな」

「マスターが変わってるのよ。けれど、場所の割には味は美味しいし、値段も安い。隠れた名店てとこね」

「へえ」

「雰囲気も静かだし、照明も少し暗い。ゆっくりしたい時や、真剣な話にはもってこいだとは思わないかしら?」

「来にくいけどな」

 

 確かに、店内は少し薄暗い。特別灯りの数が少ないというわけではなく、数はそこそこにあるのだが単に光を小さくしているだけである。

 小柄なウェイトレスが二人の元へやって来た。テーブルにはメニュー表があったのだが、文字の読めない巧には意味が無く、永琳の勧めたものを頼むことにした。

 注文を確認したウェイトレスがそそくさと去っていく。

 

「それで、今度は貴方の話が聞きたいわ。蒼威巧さん?」

 

 ウェイトレスを見送った後、永琳はどこか楽しげな目を巧に向けた。しかし当の巧は少しばかり考え込んでいるようだった。

 彼がここに来た経緯は、聞けば誰もが非難するような内容だ。そんなことはない、在り得ない、と。しかし実際にそれを経験した彼からするとそれが真実である。ここで嘘をついて適当に答えたとしてもどうせそのうちその尻拭いをしなければならない日が訪れるだろう。大体現状頼れるのは彼女しかいないならば、彼女だけには事情を話しておくべきだろう、と巧は考えた。

 そして今までの出来事を永琳に語った。

 

「なるほどね……。異世界、か」

 

 巧の話を聞いた永琳は神妙な顔もちでいた。

 

「信じられないだろ?」

「信じられないというより、驚いたわ。私、貴方のことは言語の違う何処か遠い土地に住んでいた人かと思っていたもの」

「まあ、そうなるよな」

 

 多くの人が永琳の立場になって考えると、そういう結論に至るだろう。

 

「それで? 貴方はこんな場所に来てしまって、これからどうするつもりなの?」

 

 そう。それが今の彼にとって最重要課題であった。

 

「どうって言われてもなあ……。八意さんは元の世界に帰る方法とか知らない?」

「知ってるわけないでしょ」

「だよなー」

「ここで生きていくというなら、まず衣食住の確保、そのために働いてお金を稼いでいく。これが取るべき道でしょうね」

「だけど俺には言葉が分からない」

「そう。それが問題の一つ。それに貴方は私達とは異なる文化を持っている。それはとても大きい壁。これから先様々な場所で様々な衝撃を受けると思うわ。そう考えると、蒼威さんがこれから一人でなんとかしていくっていうのは、本当に大変な事よ」

「……そうは言ったってなあ」

 

 永琳の言葉を聞き、改めてこれからの道を考え、憂う巧。

 そこで先程とは違うウェイトレスが料理を運んできた。かなりの高身長で、椅子に座った状態からだと彼女の顔を見るのに少し首に労力を掛けなければならなかった。立って並べば、もしかすると巧以上かもしれない。

 

 運ばれてきた料理は、見た通りの肉料理だった。下で見た脂ぎった物と比べると、こちらはとても御洒落に調理されている。注文した物は二人とも同じだった。

 一礼をし去っていくウェイトレスを横目に、二人は料理に手を付け始めた。巧はほかほかに暖められたスープを飲みながら、考える。

 

 現状、彼の立ち位置を正確に把握しているのは目の前にいる薬師だけである。彼女は日本語を超短時間で解するようになった他、巧の話にも興味有り気に聞いてくれている。今の彼には永琳に頼るのが最も理に(かな)ったものだと思われる。しかし初対面の彼女にそこまで我儘を言っていいものか、と巧は葛藤していた。彼女には命を救ってもらったり乱闘騒ぎの際に手助けをしてもらうなど多大な恩がある。しかも今こうして店でご飯も食べさせてもらっているのだ。その上で更に自分の保護を頼もうなどと、図々しいにもほどがあった。

 

 身振り手振りなら簡単な意思疎通は図れるのだ。今の自分に何もできないということは無い。

 そんなことを考えながら食べていると、ずっと黙っていた永琳が口を開いた。

 

「大方、私に頼るかどうかで悩んでいるんでしょう?」

 

 かなりドキッとした。

 

「そ、そんなことないけど」

「そんなことあるでしょう。私は貴方の事情を知っている。貴方は私としかまともに会話が出来ない。そして私は何度か貴方の手助けをしている。私が貴方の立場なら、真っ先に助けを求めているわね」

「じゃあ俺があんたに頼ったらどうするんだ?」

「受け入れましょう」

「えー?」

 

 えらくあっさり言い放った永琳だった。

 

「そんな簡単に決めちゃダメだろ」

「いいのよ。そうねえ、これからしばらくは私の家に住むことにしましょう。衣食住はこちらで保証するわ。どう?」

「優しいんだな、そりゃ大歓迎さ」

「そうでもないわよ。私としては、蒼威さんが遠い国の人だろうが異世界人だろうがどっちでもいいの。私はただ、貴方の持つ私には無い知識と文化に興味があるだけ。それに蒼威さんは再生薬の第一被験者だし、経過が知りたいのもある。どう? これでも優しいって言えるかしら?」

「……どういう魂胆だろうと、何処の馬かも分からない男を預かってくれるって言うんだ。俺からしちゃ十分に優しいさ」

「そう。もちろんタダでなんてそんなおいしい話はないわよ? 貴方には私の仕事を手伝ってもらいます。それでもいいかしら?」

「問題ないね」

「なら決まりね。これからしばらくよろしく、蒼威巧さん」

 

 そう言って永琳は手を差し出す。

 巧はそれにしっかりと応えた。

 

「こちらこそよろしくな、八意永琳さん」

 

 こうして二人の男女が出会った。この出会いが、二人の歩む道にどう影響してくるのだろうか。それはまだ誰にも分からない。

 巧の旅はまだ、始まったばかりである。

 




さあ、ここから長くなっていきますよー。


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5 纏う糸 壱

続けて第六話を投稿日21時に投稿します。


 

 それは星一つ見えない夜のことであった。

 重苦しい闇に抱かれながら死んだように眠る町の中に、息を激しく乱し何かから逃げる様に走る者がいた。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……っ」

 

 どうしてこんな目に遭っているのだろう。

 見かけは十ほどの歳だろうと思われる少年だった。何度も転んだのだろう、身体のあちこちを泥で汚しながら息も絶え絶えになりながら走っている。先日両親に買ってもらったばかりの靴はすでに泥だらけで新品の見る影も無くなっており、普段は子供らしいあどけなさがある顔が今は涙と鼻水がだらだらと流れており、表情は恐怖に彩られている。

 こうなるはずではなかったし、こうなるなんて思いもしなかった。

 

 少年を含め、四人の子供達は近所で評判の悪い集団だった。生まれた頃から交流のあるせいか考えることは似たようで、周りを顧みないことばかりをしてきた。近所の飯屋には無銭飲食で出禁になったし、市場で万引きをするなんて日常茶飯事だった。その度に各々両親に叱られてきたが、彼らが真に反省することは遂に無かった。

 

 切っ掛けは今朝に仲間の一人が郊外の貧民街に入った話をした時だった。

 貧民街はその名の通り、まともに生活できない者達や何かしらの理由で落ちぶれた富裕層の人間が行き着く場所の一つである。埃と蜘蛛の巣だらけの廃屋がそこら中に立ち並んでおり、見るもボロボロな人々が肩を寄せ合うようにしてそこに住んでいる。食べる物と言えば、市場で盗んできた物か、辺りに生えている雑草だった。人々は常に飢えに苦しんでおり、日の光から逃げるように暮らしていた。そこにはまるで世界の終わりを凝縮したかのような光景が日常的である。

 

 彼らの心は荒みきっており、日々誰かの血が流れていた。故に町に住む人々は彼らは危険視しており、貧民街に近づくことは厳禁であった。そんな場所に仲間の少年が入り込んだという。

 

 そこで彼は唯でさえ不気味で危険な貧民街において一際異彩を放つ建物を発見した。貧民街でも誰も寄り付かないような場所にあったそれは、見るだけで心に不安を煽るような造形だった。

 元は寂びれた木造の家だったのだろう。しかし今はその面影も無かった。壁には壊れた屋根が、穴の開いた屋根には削れた柱が不規則に刺さっている。他にも数々の家の破片があらゆる場所に、まるで掻き集めたかのように建物の一部となっている。

 

 そんな不気味な建物を見た仲間の少年は恐ろしくなり逃げ帰ったようだが、後日仲間を連れて再び行こうと提案したのだった。生意気にもこの世で自分達に敵う奴らはいないと思い込んでいた少年たちはその案に乗った。そしてその晩それぞれ密かに自宅を離れた。

 

 月明かりだけが頼りの暗闇の中、運良くも何事も無く礼の廃屋に辿り着いた四人はそこで信じられないものを見た。

 

 ――あれは……っ。あれはダメだ(・・・)!!

 

 太陽の沈んだ暗闇の中で駆け巡る少年を導くのは、生まれ育った町の土地勘と所々に配置された夜用の灯りだった。その灯りの付近には、有志による夜間の警備隊がいることが多い。夜中の犯罪行為(主に貧民街出身による)を取り締まっているのだ。彼らと合流できればこの状況を何とかしてくれるのではないかと少年は考えていた。それが彼の唯一の希望だった。

 

 その時、視線の先に映ったのは灯りの周りにいる三人の男達だった。それに気付いた瞬間、少年はひどく歓喜した。いつもは見るだけで舌打ちするほど嫌っていた存在だが、今はまるで救世主のように思えた。ようやく助かるのだと思った。そして彼が声を上げようとした時、奴は来た。

 

「助け……、うっ」

 

 何かが首に巻きついた感触がした。咄嗟に掴むと指の隙間から白く細い糸が見える。引き千切ろうにも糸は見かけ以上に固く、幼い子供の手ではどうしようもなかった。

 そうこうしている内に首だけではなく胴体や手足にも糸が巻き付いてきてもはや満足に動ける状態ではなく、糸に持ち上げられるようにして宙に浮かんでいる。まるで空中に磔にされているようだった。

 もう駄目だと少年は悟った。絶望の涙が頬を伝う。

 

「たっ、助けっ、助け……!」

 

 それが少年の最期の言葉になった。

 灯りの側にいた警備隊の男達は、突然聞こえた子供の叫びを追って近くの路地に急行した。しかしそこにあったのは、小さな子供用の靴だけだったという。

 

 

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 この町の朝は早い。大体の住民が日の出とともに起床し、行動を始める。現代の若者である蒼威巧もその例に漏れなかった。

 

「……眠い」

 

 全身を中から清めるような清々しい空気を味わいながら、巧は盛大に欠伸をした。元々朝が弱い男なのだ。少しは慣れたとはいえ、そう簡単に治るようなものでもないだろう。

 

 現在彼は八意家の庭先にある花壇に水遣りをしている最中であり、それが与えられた仕事の一つであった。如雨露(じょうろ)片手に水を撒く作業は単調で遣り甲斐など微塵も無いが、眠気覚ましにはほどよい運動なのかもしれない。

 するとそんな巧に声を掛ける人物がいた。

 

「おはよう、今日もいい天気だね」

 

 振り返るとそこには眼鏡を掛けた男性の姿があった。線の薄い印象を受ける。高身長で巧よりも頭一つ分大きい。穏やかな雰囲気を全身から漂わせるこの男の名は、八意輝彦(てるひこ)という。八意永琳の父親だ。彼もまた薬師である。

 

「おはようございます、輝彦さん。今から仕事ですか?」

 

 朝早くにも関わらず、輝彦は既に寝間着から仕事着に着替えていた。その見かけは現代で言う白衣に良く似た服装にそっくりだった。

 

「うん、朝一の往診が入っててね。もう行かなきゃならないんだ」

「朝から大変ですね」

「まあね、しかも後に六件も控えてる。でもそれが仕事なんだ、いちいち文句を言ってられないよ」

 

 真面目だなあ、と巧は思った。一回の往診でどれほどの苦労と時間がかかるかなど全くの素人である巧には分からないが、決して楽なものでは無いだろう(患者にもよると思うが)。

 

 八意診療所は輝彦と永琳、二人の有能な薬師の下で経営されている。店はそれなりに繁盛しており、常連(医療の立場としてはあんまり歓迎できない)もいるほどだ。数年前に訪問診療サービスを開始してから往診の依頼が一定数在り、二人体勢で患者を診ていたのを一人は診療所、一人は往診という形に変えたのだという。

 基本的に永琳が前者、輝彦が後者を担当することが多かった。聞けばその理由は特に無く、いつの間にかそんな感じになっていたという。

 

「朝ご飯は永琳が今作ってるよ。もうすぐ呼びに来ると思うから、それじゃ」

「へーい」

 

 そう言って輝彦は荷物を抱え足早に去って行った。八意家の薬師は多忙なのである。

 

「あの感じじゃ、今日も昼には帰ってこなさそうだな」

「いつものことじゃない」

 

 そう言ってやって来たのはいつもの控えめな色合いのロングシャツとロングスカートにエプロンを着けた八意永琳だった。巧の恩人であり、父を差し置いて八意家の大黒柱となっている有能な薬師だ。見かけは巧と同年代、相変わらずの美貌である。

 ここだけの話、診療所に詰め寄る客層には永琳目当てでやって来る男達が何割かを占めているらしい。一日に何度か求婚をされたりするようで、巧はたまにその愚痴を聞いてあげていたりする。

 

「おはよう永琳さん」

「おはよう、蒼威さん。朝食が出来ているわ。早く食べましょう」

「あいよ」

 

 腰まである美しい黒髪を風に揺らしながら彼女は言う。

 すると廊下の奥からどことなく食指を動かされる良い匂いが漂ってきた。急にお腹が締め付けられるような感触を味わった。胃が食を欲しているのだろう。早く食べなくては。

 

「今朝は思ったより冷えるわね……」

 

 永琳は軽く自分を抱き抱えるようにして体を摩っている。見れば寒さで微妙に震えているのが分かる。彼女の意に反するだろうが、その姿からはなんだか小動物のような可愛らしさを感じた巧だった。普段毅然(きぜん)とした態度の永琳にはあまり見られない姿で、正直萌えた。

 

「父さんと話してたみたいだけど、ちゃんと通じた?」

「なんとかな、最近やっと通じるようになってきたみたいだ」

 

 生活上において必要不可欠であり、巧が最も苦労したのが言語の習得であった。幸いにも彼には永琳という化物染みた通訳者(うっかり本人にそう言ったら大層機嫌が悪くなった。悪かったとは思うが、正直異世界語を数時間でマスターする奴には相応しいと思う)がいるのでなんとかなっているが、いつまでも甘えているわけにもいかない。そこで暇さえあれば異世界語の勉強に勤しんでいる。教師は勿論永琳で、彼女の手が空いていない時は永琳自作の教科書を使っているのだ。そんな生活を二ヶ月ほど。必死に学んだかいもあって、今では拙いながらも異世界語で簡単な交流を取れるレベルにまで成長したのであった。

 

「私としては一週間ぐらいで今ぐらいになると思っていたんだけど」

「あんたと一緒にすんな。中高大で英語を勉強してても全く話せない奴らに謝れ」

「貴方ってたまに分からない例えをするわよね」

 

 そうこう言っている内に巧は靴を履き変え、永琳の後に続く様にして食卓へと向かう。

 

 巧がこの世界に紛れ込んでから既に三ヶ月の月日が流れようとしていた。言葉も分からず、常識も分からずで前途多難な彼であったが、永琳というこれまた奇想天外な女の助けによってなんだかんだで生きてこれていた。そして今ではそんな生活が彼にとって当たり前になりつつあった。

 

 

 

「失踪事件?」

 

 その日の昼時のことであった。いつものように午前の営業を終えた診療所は昼休みとなり、巧と永琳は昼食の準備に移った。

 

 営業中は当然の如く永琳は薬師として訪れた患者達の診察を行っているが、一方の巧はというと諸々の雑用を任されている。と言っても大したことではなく、家の軽い掃除や永琳の手伝いなどでありそこまで苦労するものではなかった。それが彼がこの家でお世話になる為の条件である。

 

「そうなんだよ。最近噂になってるらしいんだ」

 

 永琳お手製のスープを飲みながら輝彦が言った。午前の往診は予想より早く終わったようで、今は診療所に戻っている。

 ちなみに巧と永琳は既に昼食を終えており、椅子に座って各々ゆっくりしている。

 

「物騒な話ね」

「それで、どんな内容なんです?」

 

 永琳が一言呟く側で、巧がそう聞き返した。

 

「往診先の奥さんに聞いたんだけど……」

 

 所々永琳の通訳も加えると、輝彦の話はこうだった。

 最近巷で噂になっている失踪事件。それは町のあちこちで子供が行方不明になるというものだという。失踪する被害者に規則性はほとんどなく、住む場所も交友関係も血筋も性別も一つとして関係がないらしい。唯一共通するのは、失踪した子供達はわかっている範囲で全員十歳だという。

 

 現時点で七件の失踪が確認されており、範囲を郊外にある貧民街も加えると恐らく十人以上の子供が犠牲になっているのでは、ということらしい。なので子供を持つ家庭は大層警戒しているようだ。

 

「昨日の夜もそれらしい事があったらしいんだ。突然悲鳴が聞こえたと思って警備隊がそこへ行ったら、泥だらけの子供の靴だけが落ちていたらしい」

 

 そう締めくくり、輝彦は最後の一口を終えた。

 

「それってやっぱ、穢者(あいじゃ)の仕業なんですかね?」

「可能性は高いよね。こうも痕跡を残さず攫うとなると、人じゃちょっと厳しいかもしれない」

 

 続いて永琳が言う。

 

「集団でならできそうではあるけど」

「それも可能性の一つだね」

「どうにしろ、犯人は分からないってことか……」

「そういうこと」

 

 輝彦の「ご馳走様でした」の一言と共にこの話題は一先ずの終わりを迎えた。永琳と巧は後片付け、輝彦は少しの休憩をとった後活き活きと午後の往診へと向かった。

 一通り片づけた後は取り立ててやることも無く、更に午後の営業開始まではそこそこの時間があった。永琳はソファに座り、淹れ立ての茶を飲みながら分厚い本を読んでいる。中は未だ勉強中の異世界語で埋め尽くされており、内容は一切理解できなかったが何かの研究書のように思えた。巧は彼女の向かいのソファに寝転び、何をすることも無く天井を見つめていた。

 部屋には二人の息と本を捲る音だけがあった。

 

「食べてすぐ寝ると牛になるわよ」

 

 静けさの中、ふと思いついたかのように永琳が言った。

 

「……寝てないぞ」

「じゃあわざわざ部屋から持って来たその枕と毛布は何なのかしら?」

「……寝てないって」

「もう完全に寝落ち寸前じゃない。寝るなら自分の部屋に行きなさいな」

「部屋寒いし、今はここで寝たい気分なんだよ」

 

 ふわふわとした毛布に包まれながらもぞもぞと答える巧だが、その受け答えにどこか覇気が無いように感じられた。

 

「……子供を相手にしてるみたい」

「うるさいな……。ちょっとでいいから寝かせてくれよ。ここに来てから朝早いからしんどいんだ」

「毎日夜遅くまで起きてるからでしょ? 一体何をしているの?」

「勉強だよ勉強。言葉ってのは毎日やらないと覚えられないからな」

「勉強熱心なのは感心するけど、根を詰めすぎると体に毒よ。それに、本相手に四苦八苦するより実際に使った方がよっぽど覚えられると思うんだけど」

「まあ、確かにそうだな」

 

 考えてみると中学・高校・大学と英語を習ってきたが、大学はともかく中・高校なんかは完全にペーパー試験用の英語だったように思える。受験ではあれだけ良い点数を出したのに、いざアメリカ人等と話す機会があると上手く口が回らないことが多々あった。

 

 実際に本の相手ばかりで家に篭りがちな巧は、あまりその成果を実践する機会が無かった。あるといえばお客の相手で、それもお世辞にも多いとは言えない頻度の交流であった。永琳が次に言った言葉も、そういう事情を加味すれば至極当然の話でもあろう。

 

「勉強の成果を試すという意味でも、息抜きという意味でも、ちょっと街に出てみなさいな」

「えー……」

 

 巧はあからさまに嫌そうな表情を永琳に向けた。その裏には不安が見え隠れしている。

 異世界に来て早々妖怪に襲われても生還し、町について早々喧嘩沙汰を起こすような男が一体何を怖がる必要があるのか。度胸が据わっているのかいないのか。相変わらずよく分からない男と思い、永琳はついつい笑ってしまった。

 

「別に上手く喋れないからって死ぬわけじゃないし。というか、こんな所でつまづいてたらこの先生きていけないわよ?」

「それもそうだな……。じゃあ行ってくるか」

「ついでに夕飯の買い物もよろしく頼むわね」

「……それが本命だろ」

 

 巧は面倒くさい注文を付けた彼女を半目で睨むが、涼しげな顔で本を読んでいる。こちらには見向きもしない。これは決定事項なのだろう。そう思って、巧は温かい繭から這い出た。

 



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6 纏う糸 弐

 冬の訪れを感じさせる冷たい風が肌を撫でるように吹いている。風はそのまま体を通り過ぎ、枯葉を噴き上げながら空の彼方へ消えていった。

 巧は木枯らしに耐えながら市場へと歩いていた。少し前に買った灰色のコートと黒のマフラーで寒さをしのぐ。懐には永琳から渡されたお金と購入内容が記載されたメモが入っている。

 巧は反射的にさむっ、と呟いた。防寒具を着てるとはいえ寒いもんは寒い。足早に市場へと向かう。

 

 この町で一番活気がある場所はと聞かれると、誰しもがそこだと答えるだろう。八意家から徒歩三十分ほどの距離にあるそれは、この町の市場である。九割方の店がそこに集結していると言っても過言ではなく、食材や本等の雑貨、武器や服などは全てそこで揃う。勿論、飲食店も数多くある。三ヶ月前に巧が乱闘騒ぎを起こしたのもこの一画であった。

 こう聞けばぜひとも一度は行ってみたくなるような場所であるのだが、巧は市場が苦手であった。

 

(あそこ人がうじゃうじゃいるから嫌なんだよなー)

 

 そうなのである。現代で言うショッピングモールのような立ち位置にある市場に周囲に住む人々が訪れないわけも無く、毎日のように大勢の人が押し寄せている。高い建物から通りを見渡せば見えるのは人、人、人。まるで蟻の軍隊のようである。その中に進んで入りたいと思うのはあまりいないだろう。

 その道中、少しずつ人の往来が増えていく中、閑静な住宅街を抜け出そうとした時にそれは起きた。

 不気味な寒気が巧を襲った。

 

(なんだ、これ?)

 

 ぞわりとしたそれは肌を波打つように広がっていく。波紋は頭の先から指先までを確かな感触で全身を伝う。

 近くに何かがいる。巧は本能的にそれを悟った。今までの人生の中で‘人の気配’というものを感じた経験は幾度もあった。後ろから視線を感じるだとか、そういうものだ。それは言ってしまえば『気のせい』であり、気配を感じて実際に人がいるかいないかなどまちまちでとても不確定な現象なのだ。

 

 しかし今回は違う。気のせいなどではない。何かがそこにいるのかがはっきり分かるのだ。巧は少し先にある広場を見た。そこには数人の子供たちが楽しそうに遊んでいる。そんなのどかな光景とは裏腹に、まるでセンサーに引っかかったかのように何の気配をそこから感じていた。

 

(感じたことの無い、気持ち悪い感覚だ。何が起こってる?)

 

 広場は見た通りに子供達の遊び場となっていて、正方形の敷地にはまるで外壁のようにたくさんの樹木がそびえ立っている。それらに見守られる様に彼らはボールを蹴って遊んでいた。その中の少年が「あっ!」と叫んだ。見れば彼が蹴ったボールが明後日の方向へ飛んで行き、ボールはそのまま草むらへと入り込んでしまっていた。少年は友人らに謝りながら、木々が見下ろすその場所へと走った。そしてそこは不運にも、巧の感じる気配の居場所だった。

 

 

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

「あれ、どこいったんだろ?」

 

 ボールを探して草むらへと入ったものの、肝心のそれがなかなか見つからずにいた。

 どうしよう……。あれは友達の物なのに。少年は見つからなかった後のことを考え不安に思いながらも懸命に探した。後方からたびたび来る友人らの催促の声が聞こえるたび焦りが増し、集中力が落ちていく。

 結局、草の隙間も木の根元も地面のありとあらゆる場所を探してもボールは見つからなかった。他人の持ち物を失くしたことで怒られる未来を想像し、少年は涙を零した。

 

「ここに飛んでったはずなのに……、あっ」

 

 ふと見上げたら、高くそびえ立つ木に引っ掛かっているボールを発見した。少年は思わずガッツポーズをとり、早速取ろうと登り始めた。字面に転がっていったはずの物が何故そんなところにあるのか疑問を持たずに。

 その時、少年の足に何かが絡み付いた。

 

「え?」

 

 自身の足に突然訪れた不快感に驚く少年。目線を下にやれば、足首に白い糸が巻き付いているのが見えた。しかも大量の糸が何重にも重なっているのか、太さは小さい子供の腕ほどまであった。かなりの力で引っ張られているようで、足が全く動かない。糸は上へと続いており、その先は木の葉に隠れて見えなかった。

 

 そして糸が引きずり込むように引っ張られ始めた。登っていた木にしがみつくも効果は無く、少年の体は呆気なく宙へ放り出される。逆さになった体が上へと吊り上げられていき、地面に手を伸ばすもその距離は急速に離れていく。

 不安も恐怖も感じる暇は無かった。瞬く間の状況の変化に少年の知覚は追い付けずにいたのだ。

 

「待てこら!」

 

 その瞬間、突然の叫びと共に彼の手を掴んだものがいた。

 

「今助ける!」

 

 駆けつけたのは巧だった。不審な気配を感じた場所にやって来た彼は謎の糸に吊り下げられていた少年を発見し、助けに向かったのである。

 上へ引っ張り上げられる少年を見て、巧はかなりの勢いで飛び上がった。幸運にも少年を腕を掴むが、それでも上にいる何かの力が緩むことは無かった。少年もろとも引き上げられるが、巧はすぐ側の木の幹に両足でしがみついた。歯を食い縛りながら彼を引っ張る巧だが、木がみしみしと音を立てており、根ごと引きずり出されるのは時間の問題であった。

 

 そして遂には新たに出現した糸が巧の左腕を取った。強く巻きつかれ激痛が走るが、巧は耐えた。

 こんな姿も現さない訳の分からない奴なんかにやられてたまるか!

 巧の心中は痛みと怒りに満たされる。

 彼は痛みを訴える腕を無視し、その手で糸を掴んだ。そして無謀にも強引に引き千切ろうとした。

 

「うおおおおお!!」

 

 その瞬間、巧の叫びに共鳴するように淡い光が彼の腕を包んだ。光は巧が力を込めれば込めるほど強くなり、糸を溶かす様に消し去った。

 糸が消えた瞬間、少年を捕えていた物の力も衰えた。巧はしがみついていた幹を蹴り糸に飛び移った。腕に纏う光は先と同様に糸を消し去り、自由を取り戻した二人はそのまま地面へ落下していく。しかしなんとか少年を抱えた巧は彼の下敷きになる形で落ちた。

 

「いっ……たくないな。おい、大丈夫か?」

「……」

 

 少年は巧の上に呆然とした表情で乗っかったままだ。巧はすぐに上を見上げると、一瞬であったが赤い目のようなものが消えるのを捉えた。どうもあれが正体不明の敵らしい。

 巧は黙ったままの少年を連れてその場を離れた。木に覆われた草むらを出たところで巧は少年と向き合う。

 

「怪我はあるか?」

「……」

 

 見たところ外傷は無い。自分で歩いたので意識はあるはずだが、沈黙を貫く彼にどうしたもんかと頭を悩ます。

 

「黙ってちゃ分からんぞ」

「……う」

「う?」

「うわああああああああん!!!」

「!?」

 

 少年は突然泣き出した。あんな目に遭ったのだから無理も無い話ではあるが、如何せん突然すぎた。まさにぎゃん泣きである。

 そして慌てる巧の耳に新たな声が響いた。

 

「あっ! いたよ、あそこだ!」

「ほんとだ、おばちゃん!」

「ミキオオオオオオオオオオ!!!」

「うわっ」

 

 何を思う間も無く巧は突き飛ばされた。派手な尻餅をつき、周りを見渡すと少年と遊んでいた集団と数人の大人がいた。子供達は少年の周りに集まり各々何かを言っている。

 巧を突き飛ばした張本人は泣き叫ぶ少年を抱き締めている。悪い意味で大変ふくよかな体型が特徴的な女だ。その側には精悍な顔つきの逞しい男が立っている。非対称的な二人が一体誰なのかは、見れば大体予想はついた。

 

「えーと、その子の親御さんですか?」

 

 巧がそう聞くと、全員が一斉に彼の方を向いた。タイミングもピッタリな完璧な動作に少しびびった巧であった。

 

「あんた! うちの子に一体何をしたの!?」

「あいつがこれほど泣くなんて初めてだぞ! どういうことだ!?」

 

 少年の両親が口を開いた。中から飛び出てきたのは強烈で猛烈な叫びだった。

 

「いやいや俺は何もしてませんよ!」

「嘘をつけ! お前以外に一体誰がいる!」

「だから俺じゃないんですって! まず話を聞いて下さい!」

 

 必死で否定する巧に少年の父親は獰猛に攻め立てる。

 

「あんなに優しいミキオが、顔を真っ赤にして! 涙ぽろぽろで! 鼻水だらだらなんだぞ! お前が何かしたか以外に考えられん!」

 

 まあ状況的にはそりゃそうか。

 ついそう思ってしまった巧。

 すると相手の増援が現れた。少年と共に遊んでいた集団だった。その中の一人が父親の元へ駆け寄った。

 

「おっちゃん。俺あいつがミキオと一緒に林から出てくるの見たぜ!」

(そこでいらんこと言うんじゃねえよおお!)

「なぁぁぁにぃぃぃ!? じゃあやっぱりお前がミキオを泣かしたんだな!」

「ちょ、ちょ。一旦落ち着きましょう! 冷静に! 冷静に!」

「うるさい! こうなったら警備隊に突き出してやる。誰か呼んできてくれ、ここに誘拐犯がいるってな!」

 

 あまりの責め立てように巧の堪忍袋も膨張し続け今にも張り裂けそうになっていたが、誘拐犯扱いによって爆発した。

 

「誰が誘拐犯だこのくそデブ専が!」

「誰がデブ専だ! (うち)の妻はぽっちゃり系だああああ!!」

 

 巧はちらっと少年の母親に目を移した。

 奥さん、そこは照れる場面じゃないですよ。

 

 

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

「私は夕飯の買い物に行ってきてとは言ったけど、犯罪を犯してきてとは言ってないわよ」

「だから誤解だっての」

 

 物騒な男達に囲まれながら椅子に座る巧に、知り合いとして呼ばれた永琳が呆れた口調でそう言った。

 

 時刻は既に五時を過ぎており、町は鮮やかな夕暮れに染まっている。

 現在巧は町に幾つかある警備隊の待機所にて拘束されていた。それも大変不名誉なことに児童誘拐犯及び連続失踪事件の容疑者としてだ。

 あの騒動の後、苛烈に騒ぐ保護者達によって無理矢理連行された巧は待機所で送り込まれ、今度は屈強な警備隊員と言い争う目になったのだった。巧を事件の犯人だと言う大勢の証言とここで犯人を捕らえれば自分達にかなりの報酬と名誉が与えられると考えた警備隊員は、彼を一方的に犯人だと決めつけた。巧は次第に言い返す気力も無くなり、途中から八意永琳を呼べとの一言しか言わなくなった。全く言質を取れず痺れを切らした警備隊員はしぶしぶ永琳へ連絡を取ったというわけだった。

 

「蒼威さんはほとほと騒ぎが好きなようね」

「別に好き好んでやってるわけじゃねえよ!」

「で、何があったの?」

 

 そこで巧は林での出来事を話した。ただし一部を除いて。

 

「隊員さん、張り切っているところ申し訳ないんだけどこの人は犯人じゃないわ。だから拘束を解いてあげてくれないかしら?」

「しかし八意先生。この男を犯人だとする証言が多くありまして……」

「それがそちらの方たち? 貴方達はどうしてこの人が犯罪者だなんて分かったのかしら?」

「だってそいつは泣いてる(うち)の子の前にいたんだぞ。どう考えても怪しいじゃねえか!」

「そうだそうだ!」

 

 同じく待機所の入り口に詰め寄せていた保護者達は思い思いの言葉を叫んでいた。巧は聞き飽きたのか、面倒くさそうに壁を見ている。

 

「そもそもそいつは身元も分からないような奴なんだろ? 例の事件もそいつの仕業じゃねえのか?」

「なんだと?」

 

 せっかく収まった巧の堪忍袋が再び爆発しそうになる。

 あまりの暴論に永琳が怒りを通り越して呆れていると、巧の元へ駆け寄る者がいた。その者は巧に声を掛けた。

 

「あの、助けてくれてありがとう」

「お前は……」

 

 巧が助けた少年だった。彼は一時話せないほど号泣していたので両親が家に帰していたのだが、今は冷静さを取り戻したようだった。

 突然現れた我が子に両親は慌てふためく。

 

「ミキオ! 何で来たんだ? 危ないから家にいろって言っただろ!」

「だって父ちゃん! この人は何も悪くないんだよ。俺を助けてくれた人なんだよ!」

「ミキオ……」

「父ちゃん達酷すぎるよ! さっきから聞いてれば何でそんな根拠も無いことばっか言うの? 最低だよ!」

「……」

 

 少年の叫びに大人達は黙り込んでいる。彼の叫びが彼らの心に響いたのかどうかは分からないが、ある程度の効果はあったようだ。

 巧が心の中で、いいぞー、もっとガツンといけ! と思っていたのはここだけの話である。

 しばしの沈黙の後、少年の母親が申し訳なさそうに前に出た。

 

「ごめんなさい……、少し頭に血が登っていたみたいです……」

 

 母親は申し訳なさそうに頭を下げた。それに釣られたのか、他の人も同様に謝罪の言葉を述べ始めた。子供の力というものは凄い。改めて思った巧だった。警備隊員を見るとばつの悪そうな顔をしており、少しは罪悪感というものはあったようだ。目先の手柄に釣られたのか、それも無駄に終わったが。

 少年は巧の方へ振り返って言った。

 

「兄ちゃん、もしあいつを捕まえるなら、俺にもなんか手伝えることがあったら言ってくれよな!」

「あ、ああ」

 

 永琳は巧を横目で見た。彼は仕方ないといった表情で肩をすくめた。

 

(全く……)

 

 彼女は全員の耳に通る声で言った。

 

「落ち着いたところで、もう一度事件の概要を聞きましょうか」

 

 

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 夜は更け、時計の針は既に午後八時を少し過ぎたところに位置している。巧と永琳の二人は待機所での集まりから帰宅途中である。その道中、巧が買えなかった夕飯の材料を購入するのも忘れない。

 あれから助けた少年からの熱い証言から巧の容疑は無事に晴れ、改めて事情を警備隊に話したところで解散となったのだった。隊員によるとこれからさらに町の警戒を強め、妖怪退治の専門家を雇う方針で話を進めていくという。

 

「結局あいつはなんだったんだろうな」

 

 巧の呟きに永琳が答える。

 

「十中八九穢者(あいじゃ)ね、しかも、話を聞くに恐らく蜘蛛」

「蜘蛛か。厄介だな」

「……その言い方、まさかとは思うけど、貴方この件どうにかするつもり?」

「まあな」

 

 しれっと答える巧。そんな彼に永琳は何を言っているんだこいつは、とでも言いたげな呆れた表情を見せる。

 

「なんだよ」

「あのね、穢者っていうのはそこらの人間が束になっても敵わない相手なのよ? 有効な手段を持ってない貴方には到底無理な話……」

 

 そこで永琳の話に被せる様に巧は言った。

 

「いや、それがあるみたいなんだよな」

「……どういうこと?」

 

 訝しげな顔の永琳。

 

「待機所じゃ面倒なことになると思って言わなかったんだけど、奴の糸に捕まった時何度もちぎろうとしたけどかなり固くて無理だったんだ。でも突然俺の手を光が包んでさ、それで同じことをしたら簡単にいったんだ。今回はそれで助かったようなもんだ」

「光……、なるほど。蒼威さん、貴方って本当に不思議な人よね」

「は?」

 

 何かがはっきりしたのか、永琳は巧の手を指差しながら言った。

 巧は永琳の指と自身の手を交互に見る。

 

「その穢者の糸を容易く引きちぎった光、恐らく霊力」

「はあ? 霊力?」

「そう。穢者に対して最も有効な力よ。奴らとは対極にある存在。極めれば世界をも掌握できる力……貴方が使ったのはそういうもの。驚いた?」

「驚いたも何も、あんまり現実味が無いというか……」

「そう。詳しい話は後でしてあげるわ。道すがらするような話じゃないし、まずは(うち)に帰って」

「晩飯だな」

 

 永琳は淡い笑みを浮かべ、ずれたマフラーを直した。

 夜の風に耐えながら、二人は歩く。

 その後ろ姿を見つめる視線に気づくことも無く。

 



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7 纏う糸 参

前回まで使っていた「妖怪」という表現を「穢者」という表現に変更しました。詳しくは第四話をご覧下さい。


 

 日もとうに沈んだ夜、夕食を済ませた八意親子と居候は各々(くつろ)ぎの時間を過ごしていた。輝彦は自室へ戻っており、就寝している(ちなみに今は午後九時だ)。この町の人々のほとんどはこの時間帯には皆夢の世界へ旅立っている。それが普通なのだそうだ。

 

 巧も現在自室にいた。備え付けのベットに横になってもう三十分は経っているだろう。何をすることも無く、ただ寝ているだけ。そのぼーっとした様子とは裏腹に頭の中は思考の嵐だった。

 

(一連の失踪事件の犯人てのは、あの妖怪で間違いない。誰をどういう基準で襲っているかは分からないが、俺が助けた子をこのまま放置するってのも考え難い。多分高確率でまた狙ってくるな。けど今は警備隊の人達が二十四時間体制であの子に張り付いてる。そう簡単には奪えない。……あいつらが優秀なら)

 

 巧は一人思案する。

 

(問題は俺達が敵に対して受け身の状態ってことだ。妖怪と遭遇したって言っても、俺とあの子は奴の糸しか見ていない。どんな姿かも、何処をねぐらにしてるかもさっぱり分からん。永琳は蜘蛛って言ってるが、そりゃ話だけ聞いたあいつの推測だ。もしかしたら蜘蛛の糸を操る熊かもしれない。まあ、こんなことうだうだ考えても仕方ないか……)

 

 起き上がり、巧は窓の向こうを見た。昼間は人の活気があった町も、今は闇の中でしんと静まりかえっている。元の世界にいた頃は、夜中でも町中に光が灯っていた。『眠らない街』なんて言葉もあるくらいだ。それぐらい、世界は人に満ちていた。しかしここはどうだ。決して小さくはないこの町だが、光など街灯ぐらいしかなくその数も少ないように思える。灯りのある建物など片手で足りた。この世界は巧にとってやはり異なる場所で、人はまだ夜を支配できていない。

 

「三ヶ月ってのは、案外早いもんだなー。……俺は、これからどうしたらいい?」

 

 巧は夜空に浮かぶ三日月に向かって一人呟いた。しかしそれに答えるものはいない。

 解明すべき謎、解決すべき問題はたくさんある。あの廃墟で出会った金髪の女は何者で、何故巧をこんな目に遭わしたのか。どうやって元の世界に帰れるのか。そして目下の問題としてこの失踪事件だ。加えて、普段の生活のこともある。巧は今八意一家に養われている状態だ。手伝いをしていると言ってもそれは以前の彼等でも滞りなくできていたことで、巧がいなくなることで店の営業が止まるわけでもない。そして異世界語も何か卓越した技術も無い今の彼は、完全なるヒモであった。

 

「あーーー。何で事件のこと考えてたのにこんなことばっか考えてんだーーー」

 

 考えれば考えるほど先の未来が不安になっていく。胸の内をざわざわとした焦燥感が渦巻いていた。どうにかしてこの不安を晴らしたい。けれどもどうすればいいのか分からない。停止した思考は堂々巡りを続け、巧はだんだん死にたくなってきていた。

 

「駄目だ。このままいたらマジでそのうち死にそうで怖い……。風呂でも入ってくるかな」

 

 ベッドを降りた巧はそそくさと自室を出た。永琳の部屋は同階にあり、それを見て巧は霊力について彼女の話を聞くことを思い出した。思い立ったが吉日。狭い廊下を進み巧は彼女の部屋の前に立つ。

 

「永琳さーん? いるかー?」

 

 声を掛け、扉をノックするも反応無し。部屋を後にしているようだ。

 

「……風呂行くか」

 

 自室から着替えを取った巧は一階にある風呂場へと向かった。

 この世界の風呂は、残念ながらガスや電気は無いので人力で湯を沸かしている。人一人分が入れる鉄製の桶に井戸から汲んだ水を入れ、桶の下で薪を燃やし湯を沸かす。言わば人間用の鍋のようなものだ。これは元の世界で言う所謂五右衛門風呂であった。

 

「まさかこんなとこに来て日本文化と出くわすとは思ってなかったよなあ」

 

 人間というのは、世界は違えどやることなすことは似通ってくるものなのだろうか。

 そんなことを考えながら浴室の扉を開けた時だった。

 

「……」

「……」

 

 扉の先には先客がいた。

 両者共に、お互いの瞳にお互いの姿を映している。

 彼女の方から漂ってくるむわっとした湯気から、今の今まで風呂に入っていたことがよく分かる。その証拠に全身から大量の滴が垂れている。まだ全てを拭き取ってはおらず、今はその最中なのだろう、両手にある布は彼女の髪にてその役目を果たしていた。それは同時に彼女が両手を上に上げていることを意味している。

 

 女性らしい丸みを帯びた肩を見れば、それに続いて胸を見てしまうのは男の性である。むっちりと育てられた二つの果実は、彼女が少し動けばまるで突かれたプリンのように柔らかく揺れた。一瞬ではあったが、その揺れ動く様は間違いなく巧の体に電流を走らせた。

 普段は服越しであったが、それでも間違いなく大きいと思っていた彼女の胸。巧の直感はこう言っていた。そしてそれを確信していた。

 

『脱げばもっとすごい』

 

 その直感はこの時を持って大当たりだと判明した。まさに宝くじで一等賞が当たったようなものだ。この価値は、下手をすればそれすらも越える。

 巧の手のひらを使ってもなお零れ落ちそうなほど大きいその熟した果実は、まさに世界の宝だ。尚且つ形は綺麗に整っている。しかも谷間を流れる滴がまた情欲を誘うのだ。まさしく巨乳。いや、そしてその先端は……もはや何も言うまい。

 

(俺が当てた宝くじは金なんかじゃなかった……。おっぱいだったんだ……!)

 

 加えて、非常に肉感的な体型にもかかわらずしっかりとくびれた腰は、世の男を引き寄せる引力を持つ。さらにその下にある女の秘境は、まさにパラダイス。

 

(意外と少ないんだな……)

 

 何がとは言わない。

 股から伸びる足は、見事な脚線美を表していた。太腿は綺麗な曲線を描いており、見ただけで柔らかいのが分かってしまう。美しく長いその足を見て、思わず巧の口から涎が出た。

 

(何なんだこれは……。ここは桃源郷か? 神や……女神がここにおったでえええ! 駄目だっ。落ち着け、俺のマイサン!)

 

 巧は全身から熱が込み上げるのを感じていた。今までにない力だ。今ならばどんな怪物が来ても勝てるような気がする。あくまで気がするだけだが。

 

「蒼威さん」

 

 その瞬間、盛り上がっていた巧の周囲を絶対零度の吹雪が囲んだ。今この場は風呂のすぐ横とあって室内温度は高いはずなのである。けれども巧の体感では極寒の冬空の下にいるようだった。吹雪は室内だけでなく巧の心をも凍てつかせていく。心が、身体が、根を張ったようにそこから動けない。その原因は、目の前でにっこりと笑う永琳であった。

 動かない巧を放ってしっとりと濡れた黒髪を拭き取り、用意していた着替えを着た彼女は、ゆっくりと彼と向き合った。

 

「一応聞くけど、言い残したことはある?」

 

 冷たい言葉が突き刺さる。それはもはや死刑宣告と同義であった。

 巧は何かを悟った風な笑顔を浮かべて言った。

 

「……眼福です」

「消えろ」

 

 その夜、夜更けの八意邸で肝が冷えるような打撃音と、男の悲痛な叫びが響いた。

 輝彦はベットから落ちた。

 

 

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

「それで、霊力のことなんだけど」

「……はい」

 

 時間は少し過ぎて、日付は間もなく変わろうとしているた。部屋中を鉛のように重い空気が漂っており、向かい側からの冷たい重圧に頬を真っ赤に腫らした巧の心はひび割れる寸前であった。それをどうにかひりひりと痛むもみじ型の痣を摩りながらコーヒーを飲むことによって紛らわせている。今はただただ向かいに座るお姉さんの目が怖い。

 

 あの後、永琳の渾身の張り手を喰らった巧は地獄の閻魔もドン引く勢いの土下座ラッシュを発動した。完璧に機嫌を悪くした(当然だが)永琳はひたすら無視に徹していが、巧はめげず彼女の後ろをどこまでも土下座のままで憑いて行くというもはや謝罪を通り越して限りなく嫌がらせに近い暴挙に出た。その様はまるでゴキブリのようであった。あまりのうっとおしさと気持ち悪さにさしもの永琳も根負けし、どうにか許された巧。あくまで形だけだが。

 内心、彼を助けたのは失敗だったかと本気で悩んだ永琳であった。

 

「蒼威さんはそもそも霊力については何か知っているかしら?」

 

 永琳がそう切り出した。

 

「同じ言葉が俺の世界にも在った。どういうものかっていうのはすげえ漠然としてるんだけど、なんて言うのかな、神秘的というか第六感的というかそんな感じ」

「全く参考にならないわね……。いい? まずは簡単に説明していくわよ」

 

 そうして夜中に永琳の長い臨時講義が始まった。

 霊力とは、人が神から受け継いだ力だという。人によってその量・質は千差万別だが、その効力は同じだ。それは穢力(あいりょく)を打ち消すこと。穢力とは、穢者が使うエネルギーで、禍々しい雰囲気が特徴だ。こちらが負だとすると、霊力は正。二つの力は相対する存在で、人が穢者に対抗できる唯一の力だという。難点はこの力に目覚める者が圧倒的に少ないこと。なのでこの世界では霊力を使える人材は誰であろうともてはやされる。その多くが国の軍に入り、対穢者用の知識を学び日々戦っているのだそうだ。

 

「この町は王都から最も遠い古びた町だけど、一応数人の霊力者で構成された警備団があるのよ。まあ、田舎過ぎて仕事をしているところを滅多に見ないけど」

 

 と、彼女は語った。

 

「つまり神様の力が俺にも使えるってことか?」

「そういうことになるわね」

 

 困惑気味の巧は、とりあえずコーヒーを口に含んだ。

 

「実感は無い?」

「無さ過ぎて困ってるところだ。元の世界はそういう摩訶不思議なものとは縁遠い生活をしてたからな。昼間の経験が無かったら胡散臭い宗教の勧誘を受けてるような気分だったと思うぜ。で、どうしたら使えるんだ?」

「残念ながら私は使えないから分からないのよ。ごめんなさいね」

「知らんのかーい! なら、その警備団の連中に聞くしかないな。明日行ってみるわ。情報ありがとさん」

「ちょっと待って」

 

 この夜遅くに小難しい話は眠気に拍車をかけるだけだった。そろそろ寝ようと巧は立ち上がるが、永琳が彼を引き留める。

 

「ん?」

「警備団に聞くのも一つの手だけど、やめた方が良いわ」

「何でだ? もうそれしか使い方を知る方法が無いじゃん」

 

 そう言いながらリビングの扉を開けようと進んだ巧の腕を永琳が掴む。二人の距離がほぼゼロになった。女特有の甘い匂いが巧の鼻腔をくすぐる。彼女の目は本気だ。

 

「よく考えて。さっきも話した通り霊力者は国にとってとても重要な存在よ。ここに新たな人材がいると分かればすぐさま役員が飛んできて貴方を王都に引っ張っていくわ。そして戦うために教育されるの。強制的にね。彼らは世間じゃ聞こえの良い存在だけど、その裏じゃ国の為に戦う奴隷みたいなものよ。それはここの警備団だってそう。彼らは王都で一通りの訓練と教育を受けて派遣されてきた連中よ。下手に国に貴方のことが伝わったら彼らのようになる未来が目に見えるわ。だからやめておきなさい、絶対」

 

 そう()くし立てる永琳に巧は面食らった。彼女がここまで何かを熱心に訴える姿は初めて見たからである。普段の冷静な彼女からは少し想像の付かない様子に、この言葉から無視してはいけない重みを感じ取った。

 強く掴まれた腕を優しく解いていく。そして巧と永琳の手はゆっくりと繋がった。

 

「そうか……。永琳さんがそこまで言うんならやめとく」

「ん。そうして頂戴。ちょっと驚かしてしまったかもしれないけど、ごめんなさい」

 

 いつになくしょんぼりしている永琳に巧は笑ってしまった。

 

「何笑っているのよ」

「いや、なんか最近永琳さんの素が見れるなあと思ってさ。最初は完璧他人て感じだったけど、ちょっとは俺に慣れたか?」

「……うるさいわね。もういいから寝なさいな」

「はいよー」

 

 巧はひらひらと無造作に手を振りながら部屋を出た。次いで階段を上る足音が聞こえ、次第に消えた。

 リビングに残された永琳は僅かな時間立ち尽くし、そのままソファに座り直した。目に映るのは、彼が飲んでいたカップ。

 

「私が、素を見せてる……?」

 

 永琳は己の左手を(さす)った。彼の腕を掴んだ手だ。思えば、自発的に彼に触れたのは最初に出会った時以来かもしれない。

 

(そんなはずはない。だって、だって私の家族は父さんと、お母様だけ……。それ以外の奴なんてみんな敵なんだから……! あいつは違う、違う、違う。どうせ知れば敵になる。だから違う、違う、違う、違う、違う、違う……)

 

 巧の温もりが消えた冷たい部屋で、永琳は一人震えていた。いつまでも温かい手を摩りながら。

 

 

 

 自室に戻った巧はそのままベットへと飛び込むように乗った。寒さから逃れる様にもふもふとした毛布を被り横になる。仰向けに寝た彼の目には、窓から見える月が映った。

 

(永琳さんのあの感じ、ありゃなんかあるな。それもただ事じゃなさそうだ)

 

 巧は先程の永琳の様子に何かを感じ取っていた。それが良いことなのか悪いことなのか。まだ判断はつかないが、彼の勘が後者だと言っている。

 

(国に関係するのか、霊力者に関係するのか、それとも両方か……。考えたって仕方無い。どうにかして本人から聞くしかないな。もしかしたら輝彦さんが何か知ってるかもしれないけど、それは彼女に対して失礼だろう。まあ信頼を得て聞くのがベストだな)

 

 目を瞑っていれば、次第に睡魔が襲ってくる。巧の意識は夢の世界に旅立とうとしていた。

 

(失踪事件だとか俺の霊力だとか、気になることは多いがなんとかしてみせるさ)

 

 巧はそっとカーテンを閉めた。

 




ちょっと文字数が少なかったかな……


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8 纏う糸 終

 寒天の下、巧は独り目を瞑っていた。

 昼間とはいえまだまだ気温は寒い。分厚い生地の灰白色のコートを着た巧は静かに目を閉じている。

 

「…………」

 

 何をしているかと聞かれると、特に何もしていないと言うのが答えになるか。しかし彼はそれを否定するだろう。彼は今、冷たい屋根の上で胡坐をかきながら何をすることも無くじっとしている。一見寝ているようにしか見えないが、その様子とは裏腹に彼の意識はあることに集中している。そのはずなのだが……。巧の顔を見るに、そこからは『集中』という言葉からかけ離れている形相を受けた。

 

「……あぁ! こんなもん無理!」

 

 するとうがーっ、と叫ぶように巧は言った。そしてへこたれるように背中から倒れる。

 

「体を流れる霊力を自覚しろっつったって、分かるわけねーだろ」

 

 むすっとした表情で愚痴る巧。

 そう。彼は先程まで意識を集中し、霊力の流れを掴む訓練をしていたのだ。

 

 穢者と遭遇し、霊力の片鱗を見せたあの日から三日が経っている。巧は永琳から霊力の扱い方について聞き出そうとしたが、霊力使いではない彼女から有益な情報は得られなかった。そこで手を出したのが本だった。

 霊力使いは世界でも少数らしく、しかも自然発生的に生まれるものでもない。この国としては軍事力としてその使い手が増えることは願ってもいないことであった。よって少しでも霊力使いの誕生に貢献しようといろんな手段を講じている。その一つが書物であった。霊力使いになる為の多くの道をその中で記載している。と言っても、実際はほとんどが眉唾物であるが。それを知らない巧は、必死に本を訳し、一つ一つ方法を試しているというわけである。

 

「これだけやってダメってことは、この本はインチキで間違いないな」

 自分のやり方が間違っている可能性は見事にスルーする。手元の本を取り、パラパラと捲る。既に巧は多くの方法を実行しているが、その全てが不発で終わっている。もっと早くこのことに気付くべきであった。

「はぁ……、どうしたもんか」

 

 分厚くも中身の無い本を無造作に置き、巧は深い溜息を吐いた。

 連続失踪事件の黒幕である蜘蛛穢者を見つけ出す手立ても見つからず、自身に芽生えたという霊力という力を自在に操ることも出来ずにいた彼は無意識に焦っていた。自分が何の役にも立たない唯のゴク潰しであることに苛立ちを覚えていたのだ。それをどうにか払拭しようともがいているのだが、どうにも結果は出ない様子。

 と、そんな時だった。

 

「蒼威さん? 昼ご飯よ」

 

 下から声が聞こえた。誰かと思えば永琳だった。玄関先に立つ彼女は巧を呼びに来たようだ。

 

「あ、ああ。今行く!」

 

 それを聞くと彼女はさっさと家の中へ入っていってしまった。巧にはそれがなんだか冷たく感じられた。

 

「……やっぱ怒ってんのかな、あれ」

 

 そう、この男、先日彼女の全裸を目撃するというミラクルを起こしたのだ。報復はその時痛いほど受けたのだが、どうもそれ以来永琳と会うことに引け目を感じる様になっているのだ。つまり端的に言えば気まずいのである。なので、この三日間は永琳の一挙一動に異様に敏感になっている。

 実を言えば、一応和解は成立しているのである。永琳からも「鍵を閉めていなかった私にも要因はある」とのことでもう怒ってなどいないと言われているのだが、どうしても本当は違うのではないかと考えてしまうのだ。

 真実を言えば、永琳は既にこのことを水に流しているのだが、巧は女々しくも引きずっているわけである。仕方が無いと言えば仕方が無いのではあるが。

 

「とりあえず、昼飯っと」

 

 巧はまるで忍者のようにささっと屋根から三階の窓に飛び移り、中へ入っていった。その行動には危なげさなど微塵も無かった。

 

 

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 昼ご飯を片した巧は夕食の買い物を頼まれ、人で賑わう市場にやって来ていた。時刻は午後五時。そろそろ空が夕闇に染まりつつある。この時間帯は主婦が集中する時間だ。巧と同じ理由で出掛けるものがほとんどである。

 

「これで……最後だな」

 

 永琳から手渡されたメモ(異世界語表記。まずは解読からスタートする)に書かれてある食材を全てチェックした巧は、パンパンに膨れた買い物袋を片手に家路につこうとしていた。しかし事はそう上手くは行かない。

 

「あらあ? 貴方って八意先生のとこの子じゃない?」

「本当だわ。ねえねえ、先生は一緒じゃないの?」

 

 人混みの中で声を掛けてきたのは五十代ほどに見えるしがない二人組の主婦だった。彼女らは巧の姿を認めるとそそくさとやって来た。

 

「あ、どうも。輝彦さんは今は診療所ですよ」

「あら本当? 残念ねえ。一目だけでも会いたかったわ」

「そうよねえ。あんなに良い男なんですもの。あんた今度先生も一緒に連れてきなさいよ」

(無茶苦茶言いやがるよこいつら。全く、どの世界もおばさんてのは図々しいもんだな)

 

 二人の言う『先生』とは輝彦のことである。実を言うと彼はその温厚な性格と柔らかい顔立ちで多くの女性の支持を得ていた。それは薬屋に常連客が出来るほどで、輝彦が往診に出かけていると時折「何で先生がいないのよ!」と癇癪を起こす珍客がいたりする。全く以て迷惑極まりない話だ。

 

 その癇癪の行先は大抵雑用の巧に向かうので、今まで何とか取り繕ってきたがそろそろ本気で怒鳴ろうかと考えていたが、永琳曰く「彼女らはこの家にとって金の生る樹なのよ。それが無くなったら困るからやめてちょうだい」らしい。言い得て妙である。

 

「それにしても、永琳先生も何でこんな男を選んだのか知らねえ?」

「ほーんと。喋りも少し拙いし、顔も普通だし、良いとこないじゃない」

 

 言いたい放題とはまさにこのこと。自分の表情が段々と引きつっていくのが分かる。怒りの導火線に火が付き始めた。

 すると新たに野太い声が聞こえてきた。

 

「あー! おめえ永琳先生んとこの男じゃねえか!」

「何でここにいるんだ? 買い物? くっそー主夫気取りかよくそが!」

(またややこしいのが来た……)

 

 巧はげっそりとした顔を隠せなかった。

 彼等もまた主婦たちと同じ穴のムジナである。つまりは永琳の追っかけであった。

 

「おめえな、永琳先生はみんなのものなんだよ。おめえ一人のもんじゃねえからな! そこんとこ分かってんだろーな!?」

「おうおうあんな美人と一つ屋根の下だなんて……。くーっ、嫉妬でわしの髪が禿げそうじゃわい!」

「も、もしかして、もうヤッた? ……何で何も答えねえんだ。ヤッたのか? ヤッたんだなこんちくしょー!!」

 

 一人の青年が何人もの大人達に囲まれ脱出も出来ない。いろいろ好き放題に言われまくりの巧に周囲の通行人も訝しげな視線を送ってきている。そんな状況に対する羞恥と怒りが巧の中でふつふつと煮えたぎっていた。

 

(こいつらあ……、勝手なことばっか言いやがって!)

 

 ぎりぎりと拳を握りしめ、足を一歩重く踏み出す。遂に怒りの爆弾が爆発しようかといったその時、彼の袖を引っ張る手があった。

 巧がその手の持ち主を見るとそれは十歳ほどに見える少年だった。しかも驚いたことに、三日前に助けたミキオと共にいた集団の一人だった。確か名は、ヨシ、だったと記憶している。ヨシは言葉も話せないほど息を荒げて巧の袖を強く握りしめている。これはただごとではない。彼の纏う尋常じゃない雰囲気に巧を囲んでいた大人達もいつの間にか静まり返っている。

 

「お、おい。どうした?」

 

 巧は困惑しながらもヨシに声を掛けた。少年は息を整えながら答えた。

 

「ミキオが……ミキオが……っ、いなくなっちまったんだ!」

「!?」

 

 ヨシは今に泣き出しそうな顔で言った。

 

「何があった?」

「分かんない、分かんないよ! 昨日も一緒に遊んでて、晩御飯になったから解散してそっから寝ようとしたらあいつの母さんが家に来てミキオがいなくなったって……。そっから今までずっとみんなで探してたんだけど見つからなくて、兄ちゃんなら何か知ってるかもって思ったんだけど……」

 

 最後の方になると首は俯き、声も段々覇気を失いか細いものになった。それがヨシの今の心境を端的に表している。

 

「そうか。悪いけど俺も分からない。その話だって今知ったからな」

「そんな……。じゃあもう当てなんかないよ」

 

 しょぼくれるヨシ。その頬には一筋の涙が零れた。それを見た主婦たちが彼を慰めるように頭を撫でる。ミキオが見つからないのは彼の責任などではない。そう伝えるも、仲の良い友人を失いかけている彼は自身の力不足を悔いずにはいられなかった。

 しかしそれを止めるかのように彼の肩に手が置かれた。見上げると巧が真剣な表情でヨシを見ていた。

 

「まだだ。まだ手はあるはずだろ」

「もう無いよ……」

「じゃあ例えばだ、ミキオが行きそうな場所はどうだ? 実際に言っていた所でも行こうとしていた所でもいい。どうだ?」

「そんなの全部周ったよ。でもいなかった」

「じゃあ一つ聞く。三日前の事件を覚えてるよな? 俺があいつを助けたやつだ。確かあいつは犯人探しに乗り気だったはずだ」

「確かにそうだけど」

「それでミキオが調べている場所、もしくは調べようとしていた場所は何か知らないのか?」

「えっと、調べようとしてた場所なら知ってるけど……」

「よし。ならそこに行こうぜ」

「ちょっと待ってよっ。ミキオが言うには町の外にボロボロの空き家があるらしくて、そこが前から何かおかしいって噂を聞いたらしいんだよ。それであいつはそこが犯人の隠れ家じゃねーのかって言ってて……。でも外なんて危ないから子供は行けないし、そもそも行こうとしないよ!」

「なるほどな。でも他に思い当たる場所はあるのか? だったらそこしかないだろ」

「でも誰が行くんだよそんなとこ!」

「俺が行ってやるよ」

「え!?」

 

 その発言にはヨシだけでなく周りの大人達も驚いた表情を浮かべた。何故そこまでするのか。無茶苦茶だっ。とヨシが叫びそうになった時だった。

 

「ちょっと失礼」

 

 彼らに突然割った入った声の持ち主は、武装した長身の男だった。その鍛え上げられた肉体と鋭い眼光からは、彼が幾つもの視線を潜り抜けてきた猛者だと分かる。

 男の視線は真っ直ぐに巧に向かっていた。

 

「青年。少し話を聞かせてもらったが、君はこれから危険な場所に向かうのかね?」

「そ、そうだけど。あなたは?」

 

 男の声には低いながらも確かな重みがあり、周囲全員の耳朶に触れた。

 その声色に幾らか緊張した巧がそう聞き返すと、男は少し咳払いをして言った。

 

「これは失礼。私は旅の者でな、蔵之助という。君は見たところ丸腰だが、何か武器の当てはあるのか?」

「……いや、無いです」

「そうか。ここだけの話なのだが私にはどうも武器収集という悪い癖があってな。いつも旅先で気に入った物があるとついつい買ってしまうのだ。そして今は案の定荷物がかさばってしまって整理で戸惑っている最中なのだ。そこでだ青年よ、よかったら私の武器を一つ貰ってくれないか?」

「え、えええ?」

 

 唐突な提案に巧だけでなく周りの者達も困惑せざるを得なかった。何せ突如現れたかと思えば自身の物を貰ってくれと言う。正直胡散臭さしかない。が、武器をくれるという内容には惹かれざるを得なかった。

 

「それって金とか、何か対価がいるんですか?」

「それはいらない。なんせ言ってしまえば私にとって不要なものを君に押し付けているのだからな。金など要らんよ。タダで貰ってくれていい」

「うーん……」

 

 巧は悩む。

 ミキオの失踪は十中八九穢者絡みだろう。もしヨシの言う場所へ行って穢者と出くわすとなると丸腰では死は免れない。何かしらの武器は必要だ。かといってそんなものは家には無いし、買おうにも値段が高すぎて彼の小遣いではまだまだ足りないし、武器を貸してくれるような友人もいない。この屈強な男はそれを無料でくれるという。願ってもいない話だ。正直是非とも引き受けたい。

 

(けどなー、タダより高いものは無いって言うしなー)

 

 結局悩んだ結果、巧は男の申し出を受けることにした。その旨を告げると彼は嬉しそうな顔をして言った。

 

「おお! そうか。感謝するぞ青年! さて、どれがいい? この中でなら好きな物を持って行け」

 

 そう言って男が背負っていた大きな荷物から取り出されたのは、槍、盾、鎌、そして剣だった。それらは巧の前に横一列に並べられる。巧はじっくり見ようとしゃがんだ。

 普段あまり見慣れないのか物珍しさから少なくない人数が武器の周りに集まってきていた。通り過ぎ去る人々も一度はこちらを窺う。巧の横を陣取ったヨシは「おぉー!」と目をキラキラさせながら見ている。やはりこの年頃の男の子は剣や槍などの武器に憧れるものなのだろう。

 

「これにします」

 

 一通り目を通した後、巧が選んだのは一本の剣だった。

 全体的に白くデザインされた、他の三つとは違い非常にシンプルな物である。柄を握って持ち上げてみたが、重くは無いが軽くも無い確かな重みが手に感じられる。鞘は焦げ茶色をしており、金属製の剣に対して革でできている。刃は七十センチメートルで久しく使われていないらしいが、それを感じさせないかのように夕日に照らされその両刃を輝かせていた。

 

「なるほど、それを選んだか。それは昔私がある剣豪から譲り受けた名刀だ。切れ味と耐久性は保証するぞ」

「そんなの人にあげていいのかよ……」

 

 思わず本音が出た。後ろでヨシが「いーなー! いーなー!」と騒いでる。無視。

 

「構わん。どうせ使わんのだ。ならば使うものに譲った方が良いに決まっている」

「そうですか。じゃ、これありがたく貰います」

「うむ。しっかりと敵を切り刻んで来い」

「物騒なこと言わないでください」

 

 男は気が済んだといわんばかりにさっさと荷物をまとめだした。

 

「いやあ、良い商談だった! また会おうではないか青年。さらばだ!」

 

 そう言って男は豪快に笑いながら早々に立ち去って行った。その去り際の動きはどっしりとした風貌からは想像できないほど早く、効率的であった。彼の後姿(うしろすがた)を見ながら横でヨシがぶんぶんと手を振っている。有象無象の一人がこう呟いた。

 

「なんか、もしかしたらゴミを押し付けられただけかもしれない気がしてきた……」

 

 そういう事言うのヤメロ。

 男は既に群衆の中に消えている。

 最悪な想像をしてしまった巧は独り項垂(うなだ)れてた。しかし無理矢理頭を降り気分を変える。

 これは良い剣。これは良い剣。

 

「そんじゃ教えな。その空き家の場所」

 

 そう言い放つ巧の背後では、沈みゆく太陽の光が輝いている。その真っ赤に燃える光と重なる彼を見ると、少年には何故か頼りがいのあるように思えた。

 ちなみに少年の口は意外と緩かった。

 

 

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 その後反対集団と化した大人達を振り切り、ほどなくして巧はヨシの案内で目的地の近辺へ辿り着いた。件の建物は町外れの田んぼ跡と思われる広々とした土地の真ん中にぽつんと佇むように建っていた。小屋と聞いていた割にはかなり大きく作られている。最低でも元の世界で言うちょっとしたアパートほどはあるだろう。放置されて久しいのか周りは枯れた雑草があちらこちらに茂っている。近くに寄るのも遠慮したいぐらいだ。

 なるほど。話に聞いていた通りのあばら家である。しかし、真の実態はそれを遥かに上回っていた。

 

「あれじゃ見るからに化物小屋だな」

 

 そう呟く巧の視線に映るのは、あちこちをコーティングするように白い糸に巻きつかれている建物の姿であった。その有様はまるで繭のようである。

 異様な光景を前に、二人はごくりと唾を飲み込んだ。

 

「ど、どうすんのさ?」

 

 がたがたと震えながらヨシは尋ねた。

 

「どうするの何も、とりあえず行くしかないだろ」

「何でだよっ。見るからにヤバいじゃんか。もう一旦戻ってさ、自警団の人ら呼んでこようよ」

「ならお前が呼んで来い。俺はここであれを見張っとくから。ついでに八意診療所に行って永琳て人にもこのことを伝えておいてくれ」

「わ、分かった。俺行ってくる!」

「頼むぜ」

 

 そうしてヨシは町へと駆け出して行った。しばらくその後ろ姿を見送り、彼の背が見えなくなったところで残った巧は異様な建物を再度見つめた。

 

「さてと、行ってみますか」

 

 もしここにヨシがいたら顔を真っ赤にして「兄ちゃんは真正の馬鹿か!? 死ぬ気? 死ぬ気なの?」と叫んでいる姿が目に浮かぶ。けれどそれでも巧はその足を小屋へと進めただろう。

 

 上を見上げれば美しい夕焼け雲が空を流れており、思わず目を背けてしまうほどの紅い光が地表を焼いていた。足音は出来るだけ鳴らない様慎重に近づいていく。建物に辿り着くのにあまり時間はかからなかった。

 巨大な繭を前にして今更ながらに足が震えてきたのが分かる。周りを警戒しながら急いで剣を鞘から抜き取る。緊張のせいか、右手にある剣の重みが増しているような気さえした。

 

 入り口は辛うじて人一人分は入れるほどの隙間があった。とはいえ巧の場合しゃがまざるをえなかったが。

 中は想像通りの光景で、糸で埋め尽くす勢いだった。元は幾つもの部屋があったのだろうが、それらを分けていた壁はほとんどが破壊されており、今は大きな空間が広がっているだけだ。所々に子供一人分ほどの小さな繭があり、それは床や壁、屋根と四方八方に見受けられる。その中からは不気味な淡い光がゆっくりと点滅するように光っている。何が入っているかは分からないが、大体の見当がついた巧の気分は最底辺にまで落ち込んだ。

 

 巧は入って来たまま静かに立っていた。否、立つことしかできなかった。

 ミキオを探さなくては、という使命感と、この禍々しい空気に反応している危機感が(せめ)ぎ合っているのだ。巧はこの世界に来る切っ掛けとなったあの夜のことを思い出していた。

 

(あの時もこんな風に変な気配があったよな……。ま、ここまで危ない感じじゃなかったけどぉ!?)

 

 突如感じた気配に反応し、すぐさま巧はその場から飛び移るように離れた。すると次の瞬間にはその場所に巨大な物体が勢いよく落下してきた。目を凝らすとその正体が分かる。巨大な蜘蛛だ。毒々しい黄色の頭胸部から太さが大人一人ほどある歩脚が生えている。もし離れるのがワンテンポ遅かったら今頃はあの巨体の下で肉塊になっていたことだろう。妖しく光る八つの目が巧を捕えた。

 間髪入れずに次の攻撃が来た。

 

「うおっ!?」

 

 長い二本の脚が素早く振り払われるが、とっさに屈んだおかげで難を逃れた。しかし更に槍のように突かれた鋭い爪が巧を襲う。

 

「ぐっ!」

 

 反射的に身を逸らすが避けきれずに脇腹に一撃を貰ってしまった。そのまま押し出される様に吹き飛ばされ、持っていた剣も手を離れ床を滑っていった。

 

「いっ……てぇっ」

 

 じわじわと焼けるように熱い脇腹。巧はあまりの痛みに起き上がれずにいた。それを好機と見た蜘蛛穢者は口から勢いよく糸を吐き出し、巧を宙へ引っ張り上げ壁に張り付けた。

 両手足を壁に引っ付けられたことで巧は身動きが取れない。糸はかなり頑丈で、無理矢理引き千切ろうするものならば逆に手首が切断されかねないほどだ。

 

「くそ! こういう時に出ろよな!」

 

 依然として何も力は感じない。あの体全体から迸るような感覚は幻だったのだろうか。

 完全に無力化したと思ったのか、もがく巧を尻目に、蜘蛛穢者は朽ちた広間の端の方へ足を進め出した。見ればそちらには数人の子供が糸で宙吊り状態となっているのが見える。恐らく行方不明になっている者達だろう。かなり衰弱しているようでぐったりしている。その中にはユキオの姿もあった。

 

「ユキオ!」

 

 必死に呼びかけるが気絶しているのか返事はない。

 蜘蛛穢者は彼らの一人に近づくと、腹からグロテスクな触手を伸ばし始めた。ぷるぷると震える触手はそのまま子供のだらんと開かれた口内へと侵入していく。

 

「やめろ!!」

 

 巧は声を荒らげるが、返ってきたのは子供の悲鳴のようなくぐもり声だった。

 口に入れられた触手はどくんどくんと脈打つように激しく震え、何かを注入している。子供は突然の苦しさと痛みで覚醒し悶えている。小さな手が助けを求めるように伸ばされるが、それを掴む者はいない。

 

「あがッ……ヴォ……」

 

 もはや理性など感じられない声に血の気が引いていく。

 もう用が済んだのか、穢者は触手を引っ込めた。すると子供の腹が急激に膨らみ始める。膨張は止まらず、数十秒で破裂しそうなほどにまでになった。

 

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」

 

 絶望を孕んだ絶叫が建物に響き渡る。そして子供の腹は夥しいほどの血流と共に限界を迎えた。激しい水流のように流れ出る血は、彼自身の生命であった。

 次の瞬間、巧は子供の腹から現れたものを見た。

 それは小さな蜘蛛だった。赤ん坊ほどの大きさの幼体とも呼べるそれは、文字通り腹を喰い破ってきたのだ。蜘蛛穢者が触手を伝って子を産み付け、人を栄養源としたのである。

 

「ぁ……」

 

 人の死を見たのはこれで二度目、らしい。

 というのも、一度目の記憶は何か蓋を被せられたように思い出せないのだ。

 死亡したのは巧の両親だった。まだ働き盛りの二人は巧が十四歳の頃に殺された。犯人は未だ分かってない。事件現場は自宅の玄関で、蒼威家に偶然訪れた近隣の者が開けっ放しのドアを覗いたことで事件が発覚した。当時の現場は人としての尊厳など無いように弄ばれ散った二人の遺体が夥しい血に染まっており、報道では近年稀に見る残酷極まりない怪死事件とされた。真っ赤な夕日が差し込む中、巧は血の海の中で気を失っていたところを保護された。警察は犯人の手掛かりを求めて彼の目覚めを待ったが、結果は「覚えていない」であった。

 目の前で腹がぽっかりと空いた子供を見ると、全身がざわざわと震え出す。光の無い小さな瞳は、最後に何を見たのだろうか。

 

「……」

 

 血の海に沈む小柄な体に何か既視感を感じる。目の奥でチラチラと断片的に映るこの情景は一体何なのだろうか。

 

「……めろ」

 

 蜘蛛穢者は次なる生贄をと脚を空にさ迷わせる。それが時折人影へと変化する。脳が、体が、心がざわつくのが分かる。

 

「やめろ……」

 

 その時老朽化のせいか壁の一部が崩れた。そこから差し込む夕日が穢者にかかり、ぎらついた爪がユキオにかけられた。

 その瞬間、いつかの光景と目の前の出来事が重なった。

 

(そうだ……。親父とおふくろはこいつに殺られたんだ)

 

 巧が帰宅した時には既に手遅れであった。母は刀で拷問とも言えないほどの残虐な方法でゆっくりといたぶられ、父はそんな母を見せつけられながら失った手足をばたつかせていた。刀の男は苛立つように二人を苛烈に攻めた。そして巧の姿に気づくと、彼の顔面は憤怒に染まり、両親は我が子に気付く間もなくあっさりと殺された。こちらに転がってきた父の首が妙に生暖かったのが印象に残っている。

 

 男と視線が交わった。感じるのは異常なまでの怒りと憎しみ。それらに耐えられるほど少年だった巧は強くなかった。彼の記憶はそこで途切れる。最後に感じた温もりを残して。

 

「やめろって言ってんだろ!!!」

 

 全身に湧き出る力が怒号と共に出現した。迸る光の線が穢者の脚を貫き、砕いた。

 蜘蛛穢者は耳障りな悲鳴を上げながら暴れている。生半可な武装では傷一つ付かない体にそれほどに効いたのだろう。巧は邪魔な糸をちぎるように光で焼き、四肢の自由を取り戻した。見れば敵はこちらを恨めしそうに睨んでいる。やる気のようだ。

 

 飛ばされた剣を回収し、しっかりと両手で握る。今度は離しはしない。溢れる力を込めて構えた。光の粒子が刃に纏う。

 

「……昔の八つ当たりかもしんねえけどよ」

 

 目の前の敵が過去の幻影と重なる。

 

「今度こそ潰す!」

 

 何故か負ける気はしなかった。再び視界にあの日の情景が映る。

 自分でも抑えきれない闘争心を剥き出しに、巧は吠えた。

 

 

 

 永琳は走っていた。

 紅い光が背後から急かすように先を照らしてくる。幾つもの角を曲がり人だかりを抜けていく。

 脳内に同居人の男の顔がよぎる。笑っている姿が今は腹ただしくて仕方ない。

 

(全く馬鹿なんだから!)

 

 買い物に出した巧がなかなか戻らず不安になっていた彼女の元ににヨシと名乗る少年が現れたのは少し前のことだった。彼はかなり急いで走ってきたようで、汗だくになりながら息をぜえぜえと吐いていた。

 慌てているせいか要領の得ない彼の言葉をまとめると、巧が無謀にも危険に首どころか全身で浸っているということであった。

 突然の一報に驚いた彼女はヨシの存在など目もくれずに部屋から弓矢を持って診療所を飛び出した。無論、件の廃屋の場所は聞き出した上でだ。その後ろ姿を放置されたヨシと何事かと慌てる輝彦が棒立ちで見送っていた。

 

(あれほど関わるなと言ったのに!)

 

 あの男はいまいち現実を認識していないところがあった。まあ彼は異世界人であるからその世界観で生活しようとするのは理解できる話ではある。しかしだ。今まで穢者はこの世界じゃ最大と言ってもいいほどの危険な存在であると散々口を酸っぱくして言っていたのにこのざまである。彼が霊力に目覚めたという話を聞いた時から嫌な予感はしていたのだが、まさかここまで命知らずな人だとは思っていなかった。そして……。

 

(何が一番腹が立つって、あんな男を私が心配していることよ!)

 

 永琳にとってその事実が一番受け入れられなかった。彼女にとって絶対的な存在は家族だ。父の輝彦と今は亡き母。その二人こそ永琳にとっての幸福であり信仰であり命なのだ。長年保ってきたその領域に土足で入ろうとしているあの男が、いや、土足で入ろうとするのを心のどこかで受け入れようとしている自分が許せなかった。

 

「あれは……」

 

 永琳が廃屋に辿り着いた時には事態は終息を迎えようとしていた。

 禍々しい白糸に覆われていた建物は半壊しており、蜘蛛穢者は既に数本の脚を光に焼かれていた。穢者はもはや立つこともままならないのか苦しそうにもがいている。今まで何人もの子供達を攫い、餌にしてきた恐怖の怪物の今の様は、まるで道端で見かけた死にかけの蟻のように哀れで惨めに思えた。

 

 すると建物の中から飛び出す影が見えた。巧が敵に向かって突っ込んできたのだ。穢者はなんとか迎撃しようと動くが、弱った動きは容易くかわされる。そして向けられた剣先は蜘蛛穢者の頭部に鋭く突き刺さった。

 

「おおおおお!!」

 

 猛々しい咆哮に共鳴するように剣に纏っていた光が爆発するように輝き出した。溢れ出る光の奔流が穢者の全身を飲み込んでいく。それは奴の最後の唸りさえもかき消した。そうして蜘蛛穢者はこの世から姿を消した。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 光が消えていく中、巧は疲れきった様子でその場に膝を付いた。疲労感と倦怠感がひどく重い。まるで全身が鉛になったかのようだ。もはや剣を握る力すら無く、体はゆらりとバランスを崩した。しかし地面にぶつかる寸前、彼を温もりが包んだ。

 

「……?」

 

 何だ? と巧が思うと、それに答えるかのように彼女は言った。

 

「……貴方は本当に馬鹿な人ね」

 

 聞こえてきたのは知った女の声だった。永琳は巧を自身の膝の上に乗せている。所謂膝枕だ。

 

「永琳、か」

 

 巧はそのまま体を彼女に委ねた。

 

「いろいろと悪いね……。ちょっと、身体が、重たいんだ」

「いいのよ。お説教は後でするとして、今はゆっくり眠りなさい」

 

 窘めるような内容とは裏腹に声色は優しく染み込んだ。

 

「……へへ。何だ、怒ってるわけじゃないのか」

「?」

「いや……この前裸見たし、避けられてんのかと」

 

 それを聞いて永琳は呆れたように溜息をついた。それはそれは深い溜息だった。

 

「貴方ね……今言う? それはもういいのよ。どちらかと言うとこんなことになった方が怒られるとは思わないの?」

「それは、まあすまん」

「全く……」

「まあ……結果オーライということで」

 

 言動を見るにこの男はあまり反省していないようだ。そこに少し頬がぴくぴく動くのを覚えるが、薬師という立場上怪我人にこれ以上話させるのはさすがに憚られた。

 

 巧はそのまま意識を失ったようで、少ししてから規則正しい寝息が聞こえてきた。蜘蛛穢者から受けた傷と霊力の急激な発動により体力と気力を大幅に使ったのだろう。

 永琳は周囲の戦闘跡を見た。穢者が消滅してからいい時間が経っているのにも関わらず、ここにはまだ()()()()()()()()()()()。残滓が残るということは、その霊力の火力がよっぽど強かったか、よぼと霊力の質が良いかのどちらかだ。

 

 永琳は自身の膝上で死んだように眠る巧を見る。あれだけの力を解放したのだ。この町の霊力使いが気づかないわけがない。それはつまり.この先彼が目をつけられることを示していた。

 

「どうやら私はとんでもない拾い物をしちゃったのかしらね」

 

 そろそろ自分も明確な決断を迫られる時が来るだろう。その時自分はどのような道を選ぶのだろうか。その時この人はどういう目で自分を見るのだろうか。

 永琳は男の頭に優しく手を置いた。そんな二人の様子を見届けた太陽は東に沈み、間もなく夜が来る。

 物語はゆっくりと動き出す。

 

 




ユキオ「…………え?」


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9 嵐の前の静けさ 

月一投稿が目標です


「寒っ!」

 

 冷たい朝風が町を走り抜けた。巧は染みるような寒さに震えながら早朝の勤めに勤しんでいる。やはりこの季節に朝の掃除は厳しいものがある。後で永琳に一言言っておこう。

 凍えて思うように使えない指を懸命に動かしながら玄関先を箒で掃いていく。それと共に寂しく枯れた葉がふわりと何処かへ去っていった。

 

「寒いし眠いし……ん?」

 

 間抜けな欠伸の最中人の気配を感じた。見れば二つの人影がこちらに向かってきている。よく見ればユキオとその母親だった。

 

「おっす、巧兄ちゃん」

「よお、久しぶりだな。体の具合はどうだ?」

「もう大丈夫さ! 八意先生のおかげだよ!」

 

 そう言うユキオは、少し前の様子とは打って変わって全身からじっとしていられないほどの活気が感じられる。十歳の子供らしさを取り戻しているとも言えばそうだろう。巧はその保護者へと視線を移した。

 

「一週間ぶりですかね。お世話になっております、蒼威さん」

 

 母親は丁寧にお辞儀をした。相変わらずどっしりとした肝っ玉母ちゃんである。

 

「こちらこそ。今日は定期健診ですか?」

「はい。これで良い傾向でしたらこれから健診の頻度を空けていく予定です」

 

 ユキオは一ヶ月前から一週間ごとの定期診査を行っていた。彼の体に異常が無いか、怪我の治りの具合はどうかを調べるのは当然だが、同時に精神状態を診ることもしていた。

 朝早くにも関わらず時間ピッタリにやって来るのは素直に感心する。

 

「そうですか。それは良かったです」

「ええ。……初めて蒼威さんと会った時は、恥ずかしながら怒鳴ってしまって申し訳ないです。改めて、息子を助けていただいたこと感謝しております。ありがとうございました」

「い、いえいえ! どうしたんですかいきなり。あまり気にしないでくださいよ」

「蒼威さんには感謝してもし足りません。本当にありがとうございます」

 

 突然の褒め殺しに何だか照れる巧であった。

 

「あっ、そろそろ時間ですね。どうぞ、永琳さんが待ってますんで」

 

 慌てて巧は親子を診療所へと通した。母親はそれに笑顔で答えた。ユキオは母親に連れられこちらに手を振りながら扉の向こうに消えていく。どうやらいつの間にか懐かれたらしい。

 

 事の顛末を語ろう。

 月日が流れるのは早いもので、既に蜘蛛穢者討伐日から数えて一ヶ月と半月が経っていた。あの戦闘で意識を失った巧は、後に八意家で目を覚ました。聞けばあの後永琳を追ってきたヨシと輝彦と合流し、巧をここまで運んで来たらしい。脇腹の傷やその他の怪我は永琳お手製の回復薬で治療済みである。さすがは永琳先生、薬の効き目は抜群だ。かなり深く裂かれた傷がこの短期間で治ったのだ。元の世界でもここまでの物は無い。

 

 忘れてはいけないのがユキオの安否だ。結論から言うと彼は無事に救出された。(ただ)長時間穢者に拘束されたのもあって体力を消耗しており、捕えられた恐怖等から精神もかなりやられている状態だったが、家族や友人たちの必死のケアで今ではある程度のレベルまで回復している。しかしあの体験は彼にとってトラウマとなったであろうことは想像に難くない。これからの生活も苦労する場面はあるだろうが、あの家族と友達思いの奴らがいれば何とかなるような気もした。

 

 他に捕えられていた少年少女達は既に穢者に子を植え付けられ養分として喰われていた。そうして生まれた幼体達はあの日の戦いで全て切り裂かれたのが幸運だった。もしそれらが町の方へ出ていたらなど考えたくもない。

 

 連続行方不明事件と称されていたこの件は穢者によるものとして処理された。後日談の概要としてはこんなところだろう。まあ、他にも色々とあるのだが。

 一通り掃除を終えた巧は寒さに震える体を抱える様にしてさっさと用具をしまい、家へと戻った。今日も一日、代わり映えのしない平和な生活の始まりだ。

 

 

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

「あ、しくった」

 

 その昼、八意家で思わず目を瞑ってしまいそうな轟音が響いた。

 ちょうど昼食の食器を片づけていた永琳と食後の読書に浸っていた輝彦は慌てて音の出所に駆け付けた。そこは風呂場だった。

 

「ちょっと蒼威さん? 何かとてつもなく嫌な音が聞こえたんだけど」

「巧君大丈夫かい!?」

 

 二人が覗き込むようにして風呂場を見ると、そこには見事に縦に真っ二つとなった五右衛門風呂と半裸の巧がいた。彼の手にはどこから持って来たのか軽サイズのハンマーが握られていた。

 何かを訴えるかのような二人の視線が痛い。

 

「……何やってるのかしら」

「ちょっと待て。まずは話を聞いてくれ」

 

 永琳の呟きに身の危険を感じた巧は震える声を抑えながら言った。

 

「さっき風呂に入ろうとしたらゴキブリがいてさ。潰そうと思ったんだが使えそうなのがこれしか無くて、……ちょっと力入れすぎたみたいで……。ははは……」

 

 一見何も変わっていないように見れるが、訳を説明すればするほどどうも目の前の女性の機嫌が悪くなっていくように感じる。隣にいる輝彦は盛大に溜息をついた。

 

「巧君……。それはないよ……」

 

 こうして八意家の憩いの風呂場はしばらく営業を停止することとなった。ちなみに凶器(?)のハンマーはこの家の立派な工具の一つである。何故それが風呂場付近にあったかは謎であるが……。

 そういうわけで今夜は近場の銭湯に行くことになった八意親子と居候であった。

 

 日は既に落ちており、今頃は誰もが夕食の真っ最中か食べ終わった頃であろう。巧達もその例に漏れず、先程完食したところであった。腹を満たした後は体を清めようというわけである。着替えやタオル等の必需品を持った三人は早々に家を出た。

 

「それにしても銭湯なんて久しぶりだなあ~」

 

 道中、輝彦がどこか楽しそうに呟いた。

 

「そうなんですか?」

「うん。もう何年も行ってないよ。巧君は銭湯は好きかい?」

「そうっすね。元の世界にもありましたから、たまに行ってましたよ。俺はサウナが好きでしたね」

「サウナって何かしら?」

 

 横から永琳が尋ねた。

 

「簡単に言えば蒸し部屋だな。その中はかなり高温で蒸されてて、あっついのなんのって。いろんな人がこの部屋に入っていつまでいられるか我慢大会してるんだよ」

「そう。相当変な人達ね、貴方を含めて」

「……」

 

 何だか心に棘が刺さったような気がした。

 銭湯は歩いて十五分ほどの場所に位置している。入浴料を払った後、三人は男湯と女湯で分かれた。巧達が湯に浸かると、そこへ声を掛ける者がいた。

 

「おっ! そこにいるのは町の救世主じゃねえか! どうだ調子は」

 

 濃い胸毛が目を引く中年男性だった。だるんと膨らんだ腹には夢と脂肪と何かがたっぷり詰まってそうである。

 

「普通っすよ。後救世主は止めてください」

「がはは! そうは言ってもよ、おめえは何人も喰った穢者をぶったおして子供を助けたんだ! これが救世主でなくてなんだって話だろ?」

 

 中年は我がことの様に嬉しそうに笑っている。これに同調するように次々と巧に声を掛けて来る者が続出した。巧は面倒臭そうにしており、それを見た輝彦が苦笑している。

 

 巧はあの事件が幕を下ろした翌日から町中で広く知られる様になってしまった。曰く、強大な力を持つ穢者をたった一人で打ち倒し、囚われていた子供を助けた英雄、なのだそうだ。巧としては大まかな筋道は間違ってはいない分否定しずらいものがある。その話が人から人へと風のように走って行き、今では「救世主」という大層な異名を授かることとなってしまったというわけである。当の本人はそれを聞くと非常にやり辛そうにしているのであるが。

 

 そもそもどこから話が漏れたかというのだが、ユキオの友人であるヨシからであった。彼は(わら)にも縋る思いで行方の知れないユキオの捜索を巧に頼んだわけであるが、その男が見事友人を助け出したことにかなり感激したようで、永琳達から事の詳細は他言無用だと言われていたのにも関わらずあちらこちらで吹聴して周ったのであった。無論、お叱りを受けている。

 

「こんだけ勇敢な男だ! もしかしたら月姫様に見初められるかもしんねえな!」

「んなわけねえっぺ!」

「あの最悪の女王に惚れられたら儂のぽこちんは豆粒みてえになっちまうよ」

「おめえのは元からだろうが!」

 

 周囲の男達は酔っぱらっているのか馬鹿みたいに騒いでいる。増々煩くなっていくので巧は端で湯を堪能した後、さっさと出ることにした。酔っ払いの相手程不毛なものは無い。脱衣所では既に輝彦が着替えに入っていた。

 

 着替え終わった二人は銭湯の入り口で永琳を待った。ここには暖かな湯を十分に満喫した人々でごった返していた。恋人や家族らが片割れを待ちながら話に花を咲かせている。巧達は比較的風通しの良い場所を選び、椅子に腰かけた。

 

「ここの銭湯はどうだった?」

「良い感じでしたよ。あのくそ煩い奴らがいなければもっと良かったんですがね」

「ははは。まあそう言ってやんなよ。彼等だって巧君が穢者を倒してくれたことに感謝してるのさ。今日はちょっと騒がしいけどね」

「まあいいですけど。あ、そうだ。さっきちょろっと聞いたんですけど、『月姫』って何ですか?」

 

 ここの銭湯では入浴済みの者達に牛乳を一杯無料で提供している。おかわりも出来るが二杯目以降は有料というシステムだ。にも関わらず多くの人が二杯、三杯と飲んでいる。それほどまでに湯上りの牛乳というのは格別であった。巧も既に二杯目に突入していた。

 

「え!? 逆に聞きたいんだけど今まで月姫様を知らなかったのかい!?」

 

 輝彦は目を丸くして言った。

 

「あ、はい」

「驚いたよ。月姫様はこの国を治めておられるお方のことだよ」

(日本で言う天皇や総理大臣のことか。そりゃ知らなかったら馬鹿だよな)

「月姫様はその名の通り代々女性が担っているんだ。蓬莱山一族というのは聞いたことがあるかな? あの方達は必ずその血筋の者から選ばれるんだ。というのも、月姫になる条件として世界で一番霊力が強い者がその座に座ることが出来る、というのがある。蓬莱山一族は御先祖がこの世を造った神だと言われていてね、それを証明するかのように一族の人間は皆強力な霊力を備えているんだ。なので必然的に彼らの誰かが月姫になるというわけさ」

 

 つまり実質月姫が世界最強というわけである。

 

「それと蓬莱山一族には面白い共通点があってね。それは一族の誰もが銀髪なんだよ」

「ぎ、銀髪ですか?」

 

 銀髪なんてアニメの中でしか見たことが無く、今一現実味が無かった。

 

「うん。これにははっきりとした理由は分かっていなくてね。一般的な理由としては、創造神が銀髪であった為その特徴が引き継がれているということらしい。本当かどうかは分からないけど」

「そんな偉い人がいたんですね……。知らなかったっす」

「僕はてっきりもう知っているもんだと思っていたよ。常識中の常識だからね」

「精進します」

 

 巧は二杯目の牛乳を飲み干し言った。

 そこへ人の波を割ってこちらに向かってくる人影があった。永琳である。彼女はしっとりと水気を含んだ黒髪を後頭部でまとめており、所謂ポニーテールと呼ばれる髪型にしていた。それがまた抜群に似合っており、湯上り美人とは彼女のような女性を指すのだろう。彼女が歩き去った後には、振り返るようにして永琳を目で追う男達で溢れていた。

 

「何の話をしていたの?」

「まあ常識の話をな」

「そう」

 

 永琳は興味無さそうに答え、巧の隣に腰かけた。巧は彼女より十センチほど背が高いので、どうしても見下ろす形になるのだが、この時巧の目に映ったのは衣服越しでも分かる豊満な胸だった。男なら誰しもが目を引かれる圧倒的な質量に、巧はこの人と一つ屋根の下で暮らしていることに感謝した。

 

 更に運が良いのか悪いのか、着ていた服は少し胸元が緩い仕様で上から見ると深い谷間が覗けた。そこに手を突っ込んだらどうなるのだろうかなどと考えてしまうのは決して罪ではない。加えて風呂上がりの女性特有の良い匂いが巧の鼻を掠めていく。巧は下半身を中心に体が熱く滾っていくのを感じた。

 

(しかもうなじがエロいのなんのって……、たまらんぜ!)

 

 すると永琳が何かを察したような目で巧を見た。

 

「……何か変なこと考えてる?」

「気のせいだ」

「……」

 

 即答だった。

 

「さ、皆揃ったしそろそろ帰ろうか」

 

 目を合わそうとしない巧とそれをじと目で睨みつける永琳を余所に、輝彦はそう言って立った。

 二人を見ていると若いなあ、と思う。長いこと娘と暮らしているが、彼女には浮いた話が一つも無かった。永琳の類稀な美貌、知識は数多くの男達を引き寄せる高性能な磁石のようなものだが、当の本人の心に適う者は現れなかったようである。とはいえ父としてはそう簡単にいてもらっては困るが。

 

 輝彦は短くはあるがこの数か月の暮らしで巧のことを密かに気に入っていた。それはもう、娘をやってもいいと考えるほどには。彼はよく一人で勝手に突っ走っていくような無鉄砲さがあるが、それをふまえても好青年だと思う。そんな男と愛する娘が仲良さ気にいる姿を見ると、何だか背中がむず痒くなるのと同時に流行病で亡くなった妻が思い出された。

 

「あれ? 輝彦先生じゃないですか。珍しいですね、銭湯に来るなんて」

 

 突然声を掛けてきたのは輝彦が主治医を務める患者の親戚の男だった。彼とは診察の際に何度か顔を合わす仲であった。

 

太助(たすけ)君じゃないかい。君もここに来ていたんだね」

「そうなんですよ。今日は家族皆で来てるんです。これからご飯でも食べに行こうかなと」

「へえ。楽しんでおいでよ」

「そうだ! 先生も一緒にどうです? 来てくれたら皆喜びますよ!」

 

 太助と呼ばれた青年の突然の申し出に輝彦は戸惑いを隠せなかった。

 

「え、えっと。僕はもう食べた……」

「いいでしょ? 来て下さいよー。実はうちの妹が先生にぞっこんでしてね? あ、あいつのこと知ってますよね? 結構身内ながらかなり可愛いと思うんです。先生が来たら絶対顔真っ赤にしますよ。おお、考えれば考えるほどいい! さあさ行きましょう先生! 僕と共に!」

「ちょ、ちょっと待って……っ。二人共! 後は頼んだよ!」

 

 そう言い残して輝彦は太助に半ば強引に人波の中へと連れ去られていった。優しげな顔つきに反してかなり押しが強い人間のようだ。巧と永琳の二人はあっという間の出来事にぽかんとする他なかった。

 

「何だか、嵐が過ぎ去ったという感じね」

「……同感だ」

 

 兎にも角にも、残された巧と永琳は二人で家路につくこととなった。

 暗い夜道を二人で歩く。銭湯から離れて住宅街の奥へと進むと、いよいよ人通りは無くなる。辺りのほとんどが闇に包まれており、道に等間隔で配置された火種だけが頼り。そんな時間帯に外に出る者の方が稀有であった。

 

「寒いな……」

 

 冬の夜に思わず呟いてしまう。

 いつの間に雪が降ったのか、道は一面薄い白に染まっていた。二人はその上を足跡を残しながら進んだ。

 

「そういやさ、今日月姫って奴の話を聞いたんだけどな」

 

 巧がぽつりとそんなことを言った瞬間、彼の一歩前を歩く永琳は一瞬歩みを止めた。しかし何かを言うことも無くすぐに先へと進みだした。

 

「どうした?」

「何でもないわ。それで、月姫様が一体どうしたの?」

 

 永琳の態度は至って平常である。しかし巧にはその裏に何かあるように思えた。けれどここでそれを無理に聞き出そうとする不躾さは彼には無かった。

 

「えっと、俺今までその人のこと知らなくてさ。この国で一番偉い人なんだってな。だからどんな人なのか聞いてみただけだ」

「そう。聞いたと思うけど、この世で一番霊力が強いお方よ。貴方なんて比べ物にならないほどにね」

「それは聞いた。その人が国を治めてるんだろ? 評判とかどうなの?」

「あんまり、というか、駄目ね。彼女の圧政でいろんな人が苦しんでいるわ。圧政というか、暴政? 彼女は自分の気に入らない物や人間を排除しようとするのよ。どんなに優秀でも彼女にとって害を為す様なら即さようなら」

「でもさ、そんな奴なら皆で辞めさせればいいじゃん」

「蒼威さんの国ならそんなことができたんでしょうけど、ここは違うわ。国の主は蓬莱山一族が努めなければならないっていう決まりがあるから、そうもいかないのよ。無かったとしても、あの女にそんなこと言ったら一体何が起きるか……」

「ふーん。よく知ってるんだな」

 

 少し間が開いた。巧としては何気なく言っただけなので何が彼女の気に触れたのかと冷や汗をかく羽目に。

 

「……よく知っているわ。よく、ね……」

 

 その永琳の言葉には冬の寒さだけではない冷気が確かに漂っていた。

 なんとなくだが、触れてはいけない気がした。巧には今の彼女がまるで今にも崩れそうな脆い何かに見えたのだ。一度(ひとたび)触れてしまえばその壁は流れるように決壊し、隠された彼女が剥き出しになる。そしてその姿は決して温かいものではないだろう。そこまで踏み込む勇気は今の巧には足りなかった。

 

「さ、寒いしさっさと帰りましょ。それと、私の前でならいいけど、月姫様を奴だなんて言ったりしたら駄目よ? それがバレたら不敬罪で死刑だから」

「そういうことは早く言ってくれ……」

 

 そんな彼の心境を察したのかどうか、永琳は努めて明るいように言い放った。その後ろ姿がどこか寂しそうに見えた巧は彼女の横に並んで歩く。

 永琳が何を今思っているかは分からない。けれど彼女の触れてはならないような過去の存在に気づいてしまったからには、気にせずにはいられない。

 

(しかもそれが、好きな女なら、尚更だろ)

 

 自分は他の男たちと比べれば彼女に好かれている方だと思う。同居しているし、仕事も手伝っているし。自惚れだろうか? 自惚れでも構わない。(ただ)思うのは、寒い過去から彼女を守る温もりを。

 巧はそっと手に触れた。一瞬、ぴくりと震えたのが分かったが、それが離れることは無かった。そのまま小さい手のひらを握る。そこから何か心を痺れさせるような温かさが全身を駆け巡った。

 二人は帰り道を歩く。その手は離さないままに。

 

 

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 そこは聖域だった。

 限られた者しか立ち入ることを禁止された、禁断の空間。

 壁や床、柱までもが真っ白に染められたここは、見る者を圧倒する力を持っている。昼間であれば、大きな天窓から日の光が差し込み、神々しさが輝く。今のように夜であれば月の光が差し込み、厳かな神秘さが漂う場所となる。

 ここには今、派手なドレスを身に纏った銀髪の女と、彼女を囲む数人の男がいる。彼女らの空気は、お世辞にも良いとは言えなかった。

 

「……ふ~ん。その男、未だに拒否してるのですね」

「はっ。再三勧告してはいるのですが、興味無いの一点張りで……」

 

 純白の玉座に座した女はあからさまに苛立った様子で言った。極上の美貌を持つと言われる彼女は怒った姿でさえ男を虜にするようで、部下である男達は緊張すると同時に崇拝とも恋情とも言える感情を湧き立たせていた。

 

「でしたら、≪黒犬≫をその町に遣りなさい。方法は彼らに任せます」

 

 その言葉は男達を驚愕させた。

 

「月姫様、お言葉ですが奴らを仕掛けるのはかなり大袈裟かと。下手をすれば町一つを滅ぼしますよ。もしそうなれば今度こそ民達を抑えるのは厳しいものになるかと存じます」

「いいのです。下品で女好きな彼らですが、実力はあります。それよりも私に逆らうような男がいる町なんて消えてしまえばいいのです」

「しかし……」

「……ねえ、(りゅう)? 貴方は長い間私によく仕えてくれていますよね。だったら……()()()()()()?」

 

 まるで恋人に囁くような優しい言葉遣いとは裏腹に、心臓を鷲掴みにするような凄みがあった。この女には逆らってはいけない。隆と呼ばれた男は全身に例えようもない圧迫感を感じ、押しつぶされそうになっていた。

 

「は、はい……」

 

 凍ったように固まりながら頷いた隆を見て、月姫は満足気に笑った。

 

「なんて言ったかしら? その男」

 

 女に見つめられた年若い青年は、彼女に話しかけられたという快感と返答を間違ってはいけないという緊張で全身を強張らせた。

 

「はっ。蒼威巧と名乗っているそうです」

 

 青年は答えた。

 

「蒼威巧……。許せない。たかが平民如きが私に逆らうだなんて……」

 

 その名を聞き、月姫はぶつぶつと呟いた。怨嗟の籠った言葉が部屋中を満たしていく。

 

「私は月姫……。この世の頂点に立つ者……」

 

 女の呪詛が夜に響いた。

 



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10 黒犬 壱

 月一投稿が目標ですが、投稿できるようならそれに拘らず投下していきたいと思います。



 ざく、ざく、と音が鳴る。一面を白く彩った道の上で、一歩を踏み出す度に皮のブーツが確かな足跡を残していく。髪にかかる雪を払いながら巧は歩いていた。

 

「図書館て初めて来たけど、結構ぼろいなあ。地震でも起きたら一発で倒れそうだぞ」

 

 この日、巧は地図を頼りに町にある知識の宝庫、図書館へと足を運んでいた。

 図書館はこじんまりとした見かけと裏腹に中は本で溢れかえっていた。許されたスペースをふんだんに使い並べられた本棚には数えるのも億劫になるほどの数の本が敷き詰められている。棚と棚との間の距離は大人一人が入れば埋まってしまうほどのギリギリの隙間だった。はっきり言って狭い。狭すぎる。そんな空間は二階にも広がっており、唯一心休まるのは入口の読書用の広間だけである。ここだけは相応にスペースが確保されていた。

 

(ふー、今が人の少ない時間帯で良かった。そうじゃなかったらとんでもないことになってたな)

 

 いるのは受付の若い女性と数名のスタッフ、そして僅かな客だけであった。もし人で混んでいたと思うと、暑苦しくて仕方がなかったろう。

 巧は広間に分厚い本を数冊用意し、どこか古びた高級感のある赤い椅子に座った。

 

 彼がこの異世界に飛ばされてからもう数ヶ月が経っていた。けれども未だに元の世界へ戻る算段はついていないし、その手掛かりすら掴めていない状態である。本当ならばすぐにでも探し出すのが当然なのだろうが、如何せん当時の巧はそれどころではなかった。見知らぬ世界での生活の基盤を整えるので精いっぱいだったのだ。

 

 その過程で巧は永琳から様々なことを教わった。主な内容は日常生活に欠かせない言語や一般常識についてだ。しかし人一人が教えることのできるものなど限られており、日々の生活の合間だと尚更である。故に巧は自分自身で知識を吸収していくことを強いられることとなる。

 二日前に「月姫」と呼ばれる者の存在を知った巧は、その吸収の手を政治や歴史の分野に伸ばすことにした。何故最初からそれを知ろうとしなかったかというと、あまりこの領域に興味がなかったというのもあるが、元々すぐにでも元の世界に帰るつもりだったので、余計な事を知る暇があるなら他に優先すべき事があるだろうと考えていたからである。

 手に取った歴史書をまとめると、この国の成り立ちはこうである。

 

 

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 遥か昔、この世界には大地を創り、海を創り、空を創った神が存在した。万物の創造神は身を安らげるためにある星を創った。それが今我々が生きるこの地球である。神は永い間ここで身を休めた。そんなある時、気まぐれで一つの生命を創り出す。外見は自分そっくりに、しかし自分ではないもの。それがこの世で最初に生まれた人間だった。興に乗った神はその他にも様々な生命を生み出した。獣は森に、魚は海へ、鳥は大空へと飛び出した。そして彼らはいつしか心を持つようになり、自分達で考えるようになる。そんな彼らの生を見るのが神にとって唯一の楽しみであった。

 

 中でも自分と似た姿を持つ人間が神は大層お気に入りであった。神は数多く増えた人間の中でも、一番最初に創った者に自身の力を分け与えた。それはつまり、神と同じ力を持つことに他ならない。人類史上最初の個体であるその男は、多くの生物から崇められるようになり、彼らを率いる統率者となった。男は神が最初にこの星に降り立った場所を蓬莱山と名付け、そこを中心に国を創った。国名は【永遠に変わらぬ生命と繁栄を】の意味を込めて、『常世の国』とされた。

 

 人は親たる神を崇拝し、神は子たる人を愛した。そうやって人と神は共に在った。

 しかしある時、人間の中から神の言葉に疑問を持つ者達が現れた。ささいな疑問は不信に変わり、不信は反抗へと姿を変えた。その者達は神に対して、国に対して反乱を起こすも止む無く粛清される。神はその事実に大層嘆き、涙を流して悲しんだ。反乱者が死んだことにではない。彼らの中に芽生えた疑念の存在が恐ろしかったのだ。子に刃向かわれた現実は、神に猜疑心を植え付け、いつしか神は人間達はおろか、全ての我が子に恐怖を覚えてしまった。

 

 神は地上を離れることを決意した。次なる行先は、地球の隣人たる月であった。人々は飛び立とうとする神を必死に止めようとした。ある者は泣きながら、ある者は雄叫びをあげながら、ある者は黙って見つめながら。けれども神は止まらなかった。神は光へと姿を変え、遥か天高く飛び去っていった。

 

 こうして創造神は星を去り、夜空に浮かぶ月からこちらを見ているのだ。

 残された人々は神の血を引く者達を頼りに生きていくことにした。蓬莱山を性とした一族は、世代ごとに一番力の強い者――つまり霊力――を頂点とすることにした。初代の王以降、その座は常に女が担うことになり、いつしか彼女らは創造神への敬意も込めて「月姫」と呼ばれるようになった。

 

 

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

「月、か」

 

 巧は窓から空を見上げた。あの向こうにある星には、本当に神様なんてものがいて、自分達を見ているのだろうか。そんなことを考える。

 巧は本の中にある、ある一文に目を惹かれた。

 

『――月姫は、その美しい銀髪を棚引かせながら――』

(銀髪……)

 

 巧には以前から曖昧な記憶があった。その一つが中学生時代に起こった両親が殺された時の記憶。そしてもう一つがこの世界に飛ばされ、穢者に襲われ死にかけていた時の記憶だ。

 

(前者はこの前の戦いで全てではないにせよ、殆どを思い出すことができた。父さんと母さんを殺したあのクソ野郎は今すぐにでもぶっ殺したいが、それはまず元の世界に戻らなきゃ話にならねえ。引っかかるのは、あの時のことだ)

 

 穢者に八つ裂きにされ、喰われていたところを助けた誰かがいるのは確かだ。永琳が自分を救助した時にはもう誰もいなかったらしいが、誰かがいたのだ。今となっちゃ記憶も不鮮明だが、巧にはどうも女に助けられたような気がしてならないのだ。そして何故かその女の髪が、銀色に輝いていたような気もする。勘違い・気のせいだとしてしまえば簡単だ。しかし黒や茶ならまだしも銀髪など見慣れていない者が、髪が銀だと見間違うものだろうか?

 

 以前聞いた話によると、月姫は創造神の血を引く故、神の銀髪を引き継いでいるらしい。だとすると、もし記憶が正しいなら、あの時巧を助けたのは月姫ではなかったのかという推測がたつ。しかし月姫は国の頂点に在る人間だ。

 

(ま、これはこれで無理があるがな)

 

 けれども巧の中にはもう一つの推測があった。しかしこれが本当なら大変なことになる。巧はある女の姿を思い浮かびながら、考えを仕舞った。

 選び出した本を全て読み終わる頃には、既に夕暮れであった。冬の空はすぐに暗くなる。もたもたしていたら晩御飯に遅れて永琳に小言を貰う羽目になるだろう。こういう時、電話という技術は便利だったよな、と巧はしみじみと思う。

 

「そろそろ帰るか」

 

 巧は本を指定の場所に戻し、建物を出た。そのまま家路につくと、彼の前に三人の人影が立ち塞がった。

 

「蒼威巧。これが最後の通告だ。大人しく我々と共に来い。月姫様もそれを望んでおられる」

 

 内一人がそう告げた。何の感情も籠っていない、まるで機械のような印象を受けた。

 全員が同じ装束を身に纏っている。カラフルな色で染められたコートはお世辞にもセンスが良いとは言えない。これをデザインした者の感性はどうも自分とは合っていないようだ。彼らの表情はよく見えない。というのも、頭巾で顔を隠しているからだ。唯一見えると言えば口元だけ。そこから辛うじて性別の判断がつく。彼らは全員男性だった。

 

「お前らもしつこいな。何回来ようが俺の答えは変わんねえよ」

 

 巧は小さな溜息を付いてそう言った。

 

「ならば実力で物言うしかあるまい」

「はあ? ちょ、ちょっと待てって!」

 

 男達は携えていた武器を構える。剣、槍等の近接戦用武器が巧に向けられた。対して巧は腰にある剣を構える。以前蜘蛛穢者討伐の際に謎の男から譲り受けたあの剣である。

 人と戦うのは初めてではないが、殺し合いは初だ。生死を掛けた重い緊張が心にずっしりとのしかかる。胃が痛い。けれど、ここで死ぬつもりは毛頭無かった。

 

 鋭い眼光が交差する。

 最初に仕掛けたのは巧から見て右側にいる男だった。槍を低く構えながら素早く突っ込んでくる。巧はそれを右手に躱し蹴り飛ばすが、すぐに追撃が来た。真ん中にいた男が飛び上がり、両手に持った剣を振り下ろしてきたのである。

 

 巧はとっさに剣で攻撃を防いだ。しかし男一人分の体重がかかった攻撃を防ぐにはどうしても隙が生まれる。身動きの取れなくなった巧に三人目の男が攻撃を仕掛けた。巧は無理矢理体を捩じらせるが槍のように疲れた剣先は右脇腹に浅くはない傷をつけた。痛みは巧の生存本能に火をつけ、恐怖を怒りに変えた。

 

「こなくそ!」

 

 巧は目の前の男の金的を怒りのままに蹴り上げた。

 

「うぎゃ!」

 

 怯んだ男の腕を切り裂く。肉を切断する感触が妙に気持ち悪かった。永琳に貰ったコートに血が付いたが気にしている暇はない。巧はすぐさま体勢を整え、次に備えた。

 三人目の男が切り返し、次なる一撃を見舞おうとしていた。巧は腕を失ったことで崩れ落ちそうな男を強引に引っ張り、三人目の男の方へ押し出した。

 

「わ、わ、わ」

「っ!? くそ!」

 

 さすがに仲間を斬るつもりはないのか、男は押し出された仲間を避ける。しかしそれが痛恨の隙を生んだ。

 巧は男を盾にしたと同時に大きく踏み込み、右斜めに斬り裂いた。斬撃は男の右手首を断ち、血がぼとぼとと零れ落ちた。巧は続けて男の顔面に力の限り拳を打ち込んだ。男はそのまま後ろに倒れ、動かなくなった。手首を失ったショックと間髪入れずに受けたパンチに気をやったようだ。

 

「うわ!」

 

 次の瞬間、巧は突然の衝撃に吹っ飛ばされた。左肩が焼け付いたように痛い。倒れながら見ると、槍を持った男がこちらに向かって手を伸ばしていた。するとその手が僅かに光り出すのが見えた。

 

「くそ!」

 

 慌ててその場から転がるように離れると、元いた場所が何かの衝撃を受けたかのように抉られていた。

 

「そういや、お前ら霊力使いだったな

 

 槍の男は不気味ににやついている。どうやら霊力を光弾にして発射したらしい。中々厄介な手だ。残念ながら巧にはそんな芸当はまだできない。

 

「でもなあ」

 

 こういうことはできんだよ!

 巧の意識は体の内の流れに集中した。力の流れは体を伝い、剣へと宿る。力のオーラが刃に包んだ。巧は霊力を剣に纏わせ、構えた。元は穢力を払うための霊力だが、こうして纏わせることで物質にも効果があることが今では判明されている。これにより巧の剣は硬度共に切れ味を増している状態だ。

 

「行くぞ!」

 

 巧は男へと飛び出すように駆けた。男は光弾を幾つも撃つが、どれも避けられる。

 

「何故だ!? 何故当たらない!?」

「真っすぐすぎんだよ!」

 

 男の光弾は伸ばした腕に一直線上にしか飛ばない。位置の軸を変えてやれば避けることは簡単だった。

 

「貰ったぞ!」

 

 光弾の射線上に巧が動いた。男はすかさず霊力を打ち込む。弾は完全に巧を捉えており、吸い込まれるように彼へ向かっていく。しかし、弾が巧を打ち抜くことは無かった。

 

「何!?」

 

 巧は霊力でコーティングした剣を盾のように使い、光弾を弾き飛ばしたのだ。

 

「おら!」

 

 急接近した巧は男の両手首を槍ごと切り裂く。男は悲鳴をあげながら倒れた。

 巧はさっさと男達と距離をとる。近くにいてはまた何かされるように思ったからだ。しかし三人にその気配は無い。無力化には成功したようだ。

 

「はあ……はあ……」

 

 全身が、心が静まっていくのが分かる。人を斬るのはこれが初めてだった。正当防衛と言えばそうかもしれないが、彼が確かな敵意を持って戦ったのは否定できない。人を、生の肉を斬る感覚というのはこんなにもぞっとするものなのか。巧はぷるぷると震える手を自覚しながら、怯えに浸った。

 

 戦いの興奮が収まるにつれて、全身に走る痛みがよりはっきりと鮮明になっていく。巧はズキズキと痛む体を抑えながら座り込んでしまう。しかしそれは、まだ勝負のついていない戦いにおいては大きな痛手であった。

 案の定最初に斬られた男がふらふらと立ち上がるのが見えた。その頭上には霊力を収束させて作った巨大な力の塊が浮いていた。

 

「なあ、何でいきなりこうなるんだ? お前ら、前までは話しだけで終わってたじゃねーか」

 

 事実、町の霊力使い達は度々巧のもとを訪れては仲間に引き入れようと交渉してきた。けれど巧みにはその気が一切に無かったので、全て断っていたのである。しかしそれがどうしていきなり命を狙われる羽目になるのか。巧にはその理由が全然分からなかった。

 

「……先日、王都から連絡が来た。この件については全てこちらで預かる、とな」

「それがどうしたってんだ」

 

 王都からということは、それは実質月姫からの命令と同義だ。

 

「月姫様はな、こう言いたいのだ。『お前達では役に立たないから別の者に任せる』とな……。これは死刑宣告だ。あの方にとって命令の一つもこなせない能無しは虫けら同然。有能な者は生かし、無能はすぐにでも切り捨てる。これがあの方の美学なのだ。ならば我々は死を告げられたに等しい。なればこそ、ここでお前を殺し、これを覆さなくてはならぬ」

 

 男は必至の声色で語った。

 

「何だそりゃ……。結局はお前が死にたくないだけの話じゃねえか。何でそのために俺が死ななきゃならんわけ? ふざけんじゃねえっつうの!」

 

 巧は重い体をゆっくりと立たせ、剣をとる。男を睨み付ける双眸には、燃え盛る命の炎が宿っていた。

 

「俺にはまだやらなきゃいけないことがあるんでね。ここで死ぬわけにはいかねえなあ!」

 

 元の世界。(かたき)の男。奇妙な金髪の女。異世界の暮らし。月姫。輝彦。そして、永琳。

 考えれば考えるほど、やらなければいけないことが山積みだ。だからこそ、死ねない。

 覚悟は決めた。

 

「俺は、お前を斬ってでも生きる」

 

 巧は決意と共に剣を男へ向けた。

 

「ふ……。そうでなくてはな」

 

 男は更に霊力を集中させた。凝縮された高威力のエネルギー弾が巧を打ち抜くのを今か今かと待っている。

 

「食らえ!」

 

 男がそう叫んだ時だった。

 溜めに溜め込んだ霊力の塊がその場で弾けた。行き場を失ったエネルギーがあちこちに散らばるように消えていく。巧はその光景を呆然と見続けていた。いや、見続けることしかできなかった。何故ならば、敵の男の首が突然吹っ飛んだからである。

 

 頭部を失った胴体は、夥しいほどの血を噴水のように吹き出しながら崩れ落ちた。頭はころころと転がっている。そこに移る男の表情は、自身が死んだことなど理解していないように思えた。

 

「おいおい困るよこんなとこで死んでもらっちゃ~」

 

 妙に軽快な声だった。まるで何かを楽しんでいるかのように。

 

「あんたが蒼威巧だろ? 勘弁してくれよな~。ここでドンパチやってもらっちゃ俺らの報酬無くなるじゃん」

 

 現れたのは、全身を真っ黒のコートで覆った男だった。髪は茶で、どことなくおちゃらけた雰囲気を持っている。巧と同年代か、少し上に感じる。

 

「だ、誰だ?」

 

 巧がそう尋ねると、男はにっと笑った。

 

「俺達は『黒犬』。蒼威巧、お前を月姫様の命により拘束する」

 

 その一言で男の背後から何人もの黒コート集団が現れ、巧を抑えつけた。怪我など一切考慮しないその乱暴さに巧は怒りを覚える。そうこうしているうちに鎖で手足を縛られてしまう。抵抗する暇などないほど、無駄の無い洗練された行為だった。

 他にも現れた黒コート達は霊力使いの三人(厳密には二人と一つ)に向かい、生きている二人に止めを指していた。

 

「お、お前! 何だよこれは!?」

 

 巧は地に這いつくばりながら叫んだ。『黒犬』と称された集団のリーダーと思しき茶髪の男は、面倒くさそうに答えた。

 

「だーから言ったろ? お前を捕まえるのが命令なんだよ。大人しくしないと、天国に今行くことになるよ?」

 

 男の一瞬の殺気に巧は怯んだ。その様子を見た男は退屈そうに溜息を付いた。

 

「おーい。こいつの住居から交友関係とかいろいろ洗っといて。俺は長旅で疲れたから宿にでも行くわ」

「了解しました」

 

 男は部下にそう伝えた後、すたすたと巧に向かって歩き出した。そして彼の目の前に来ると、思いっきり巧の頭を踏みつけた。

 屈辱の味がした。

 

「ぐっ」

「俺はお前の名前を知ってるけど、お前は俺の名前を知らない。それじゃあ不公平だし、これから王都までしばらく一緒なんだ。特別に教えてやるよ」

 

 男は獣のような獰猛な笑みを浮かべた。

 

「俺は犬斗(けんと)。月姫様直属部隊『黒犬』の(かしら)だ」

 黒コートに刺繍された犬の紋章が夕日に照らされ怪しく光った。

 



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11 黒犬 弐

 窓の外では既に夜の帳が下りていた。

 永琳は冷えた料理の並ぶ食卓に一人じっと座っている。彼女も、父の輝彦もとうに食事を済ませており、後は各々自由な時間を過ごすだけだ。それでも彼女がそこから動かないのは、何かを――誰かを――待っているからに他ならない。冷えかけた食事を見つめるその眼には、どんな感情が渦巻いているのか。

 

(全く、こんな時間まで一体何をしているのかしらあの男は)

 

 いつもならば家にいて話しかけてくる男の姿が今は見えない。彼がこれまでにも家を空けることはあったが、それはどれも仕事や他の用事によってであり、事前に把握していたものだった。しかし今は何の言伝も無く姿を消している。彼の身に何が起こっているのかさっぱりわからない。飲み屋に引っ掛けられているのかもしれないし、何かの騒ぎに巻き込まれているのかもしれない。はたまた、どこかの女にでもホイホイついて行っているかもしれない。

 

「……」

 

 そうだとしたら許せるものではない。帰ってきたら詳しく問いたださなくては……。

 

「……嫌だわ。ただの想像なのに、変に苛立つなんて」

 

 お茶でも飲んで落ち着こう。

 巧が理由もなくいないことに何故か不安を感じる。永琳は自分でも何故こんなにそわそわするのか、皆目見当もつかなかった。

 

 永琳は元々身内と他人を分ける線が非常に分厚い女性であった。家族と認めた者に対しては絶対の信頼と愛を。それ以外の者は総じて価値は同じなのである。それは薬屋の常連客であろうと近所の主婦だろうと、月姫だろうと関係ない。彼女の内側に引き込まれた者以外は全てが等価値なのだ。

 

 彼女自身はまだ認めようとしないだろうが、彼女は心の奥底で蒼威巧という男の存在を受け入れつつあった。それはつまり、巧が彼女の中の境界線を踏み越えたことに他ならない。

 早く帰ってこないだろうか。永琳は何度見たか分からない時計をまた見る。そんな彼女を離れたところで輝彦が微笑ましそうに見つめていた。

 

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

「おらっ、さっさと入りやがれ!」

 

 薄暗い地下に男の野蛮な声が響いた。巧は背中をどつかれ前のめりに倒れる。両手を後ろで強く縛られているため受け身も取れず、衝撃によるうめき声と共に薄汚い床に転がった。

 

「そこでじっとしとけ。妙な真似はすんじゃねえぞ」

 

 屈強な男は吐き捨てるように言い、鉄格子を閉じた。

 

「……くそっ」

 

 巧は男を睨み付けるように呟いた。

 あの後犬斗率いる「黒犬」に拘束された巧は強引にある場所へと連行された。それがこの独房のような小部屋である。広さは畳二畳ほどの本当に狭い部屋だ。しかもろくな手入れがされておらず、天井には蜘蛛の巣が張っており、そこら中に埃が溜まっている。窓も無い灰色一色の世界に巧は閉じ込められたのであった。

 

「おいおいそんなに睨むなって。別に一生ここに閉じ込めるわけじゃないんだしさあ」

 

 そんな巧を鉄格子の向こうから見ていた犬斗が現れた。

 巧はこの男の、どこまでも人をなめきった性質を嫌悪していた。見かけは自分より一回りほど年上に見えるが、その態度は生意気な年下を連想させる。

 

「ここはどこだ? お前たちは一体何しに来た?」

 

「……聞き方が気に食わないが、初対面ということで一つ多めに見てやるよ。ここは各町に派遣された霊力者の拠点だ。お前を襲った奴らのことだな。そんでここの地下は今回みたいに聞き分けのねえ霊力者を捕まえておくためのものだ。今お前がいる場所がそこ。そして、俺たちの目的は、月姫の命令でお前をぶち殺すことだ」

「何でここまでして俺に拘る?」

「知らねえよ。俺達は命令でやってるだけだからな。あの女が何を考えてるかなんて知ったこっちゃねえ。ま、あのプライドの塊みたいなやつのことだ。おおよその見当はつくがな」

 

 くそ、と巧は歯を食いしばった。事態は彼の思っている以上に重い。まさか一般人が(ましてや異世界人である者が)国のトップに目をつけられる展開など思いつきもしまい。

 以前永琳から聞いた現月姫の話を思い出す。彼女は持てる力に恥じぬほどの大きな国を治め、その瞳は遥か高みからこちらを見下ろしている。人を人とも思わぬ残酷なその心に巧はどう映っているのだろうか? 彼女が遣わした「黒犬」は元々いた霊力者達をあっさりと殺し、今も自分をこんな目に合わせている。

 

 どうもここから出る良い方法が思いつかない。鉄格子は頑丈だし、両手は縛られている。犬斗達もどうもしばらくここから動く気が無いようだ。

 図書館を出てからそろそろいい時間が経っている。聡明で勘の良い彼女のことだ。以前の蜘蛛穢者の件もあってもしかしたら何かが起こったと察しているかもしれない。せめてこの場所を知らせることができれば、少しはこの状況も増しにはなると思うのだが、実現性は極めて低いと思われた。

 

 しばらくして、時間にして数十分後、地下に新たな男が下りてきた。彼は一見顔を引き締めた寡黙な男に見えるが、僅かに口角が上がっておりどこか興奮しているように思えた。

 

「待たせやがって……」

 

 地下に待機していた数名の部下とカードゲームを興じていた犬斗が言った。

 

「隊長、朗報だぜ。そこの男の家を調べてきたんだがえらいことが分かった」

「何だ?」

「すげーべっぴんさんがいる。かなりの上玉だ。ありゃ下手したら月姫より、だぜ」

「ほぉ。そいつは確かに朗報だ。行くぞお前ら」

 

 聞くが早く、男達は颯爽と準備を整え始めた。熱気を帯びざわつき出す地下室とは対象に、巧の心中は急速に冷え始めた。

 

「おい! お前らの目的は俺じゃないのか! 何であいつのところに行く!?」

「……俺達『黒犬』は一言でいうと《最悪》の集団だと言われてる。王都を歩きゃ唾を吐き捨て屑だカスだと罵られ、任務に出れば盛大に怯えられる。他の部隊からは顔も合わされない。何でか分かるか?」

 

 犬斗は鉄格子に顔を寄せるように近づき、嘲るように、とても楽しそうな表情を浮かべた。

 

「それはな、俺達が人殺しが大好きで女を無理やり犯すのが大好きで家を焼くのが大好きで糞共の血を見るのが大好きでそいつらの終わった顔を見るのが大好きで人を虐めるのが大大大好きな最高の奴らだからさ」

「この屑野郎が……!」

「おうおう何とでも吠えろ。どっちにしろお前に関係する人間も殺すことになってる。ま、今のお前には何にもできねえがよお! 行くぞお前ら」

 

 興奮に満ちたざわめきを率いて男達はその場を去った。もはや見張りすらおらず、先ほどまで騒がしかった地下牢は打って変わったように静寂に包まれている。

 

「見張りすらいらねえほど俺は無力ってか……!?」

 

 悔しさと怒りで全身が燃え滾るように熱い。好きな女と世話になった恩人が危険な目に合おうとしている時に、満足に動けない自分が恥ずかしくて仕方がなかった。

 ふざけんじゃねえっつうの! 沸き立つ怒りに身を任せ、全身を駆け巡る血という血が腕に集中する感覚の中、巧は叫んだ。

 

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

「巧君今日は遅いねえ」

 

 読みかけの医学書を机に置いた輝彦が不安げにそう呟いた。

 既に日が落ちてからかなりの時間が経っている。ここまで巧からの連絡は一つも無かった。もうここまでくると何かあったと考えざるを得ない。事件に巻き込まれたのか、それとも質の悪い飲み屋にでも引っ掛けられたのか。もうこの際どちらでもよかった。とにかく巧が行方が知りたい。

 もう我慢の限界だった。永琳は一旦自室に戻ると素早く着替え、足早に家を出ようとした。

 

「永琳! まずは落ち着きなよ。巧君が心配なのは分かるけど考え無しに探そうたって厳しいよ」

「分かってる」

 

 努めて冷静さを出しているつもりなのだろうが、傍から見れば普段の彼女が持つ冷静沈着さは一体何処へ行ったのか。鼻息が荒いのはそれを失っている良い証拠である。

 彼女は玄関口で振り返り言い返そうとした瞬間だった。

 コンコン、と扉を叩く音が響いた。二人は思わず顔を見合わせる。

 こんな夜遅くに客だろうか? しかもこんな慌ただしい時に……。イライラとした気持ちを抑えながら永琳が玄関の扉を開けた時だった。扉の先から突如現れた腕に首を掴まれ、彼女は苦悶の声を上げる。まるで先ほどまで扉が開かれるのを今か今かと待ち構えていたかのように繰り出された速さに、何の身構えもしていなかった彼女が対応しきれるはずがなかった。

 

「こんばんわ~、毎度黒犬です」

 

 暗闇の外から現れたのは男達の集団だった。その中の筆頭である犬斗は自身が捕まえている永琳の姿を見て軽く口笛を鳴らす。

 

「おいおいおい、何だこのべっぴんさんはよお。こりゃ確かに上玉中の上玉だぜ」

「う……ぐ……」

 

 苦しみの中、永琳は必死に離れようと犬斗の腕を爪が食い込むほどの力で掴んでいるが、掴まれている当人は何の痛みも感じていないようだった。

 

「それに気が強いときてる。気に入ったぜ」

 

 永琳の刺すような睨みを受け、犬斗は口元のにやつきを抑えきれなかった。興奮の波が下半身を中心に広がっていくのが分かる。ぞくぞくとした熱だ。

 犬斗は昔から自身に対して反抗的な女を見ると、強烈な征服感に襲われた。今すぐ目の前の女を地べたへ引きずり降ろし、跪かせたい。柔らかな肉体を骨の髄まで味わい、朽ち果てた姿を見てみたい。自分に向ける殺意に満ちた瞳を、絶望に染めたい。そんな負に満ちた感情を思うがままに爆発させてきた。時には一人を、時には数人を。二度ほど町規模の集落を襲撃し、淫に爛れた宴を行なったことがある。数多くの女達の悲鳴と喘ぎに囲まれ、あの時は人生で一を争うほど充実していた時だったと言えるだろう。

 しかし、今はあの時と同じほど。いや、それ以上の歓喜に彼は包まれていた。何故ならば。

 

(こいつは、あの女とよく似ていやがる。これで興奮しないはずがねえ……!)

 

 髪形や色は違うが恐ろしいほどに似ている。時折瞼の裏に映る、あの女に。

 

「隊長。あまり時間はかけられません。騒ぎになる前に離れた方がいいかと」

 

 犬斗の背後にいた、理知的な部下がそう声をかけた。

 

「そうだな」

「ぐっっ……」

 

 彼は少し手に力を込め、永琳を気絶させた。そして彼女を肩に担ぎ玄関から出る。

 

「おらお前ら、さっさとずらかるぞ」

「ええ? 隊長そいつ殺さないんですか? 確かに良い女ですけど、命令は蒼威巧とそれに連なる者達の抹殺だったはずじゃあ……」

「そんなすぐに殺さなくてもいいだろ」

 

 そうして犬斗は八意家を後にしようとした。

 

「ま、待つんだ!」

 

 室内からの叫びに彼らが振り向くと、そこには武装した八意輝彦がいた。

 

「うちの娘をどうする気だ! 早く返しなさい!」

 

 どこから持ち出したのか、一本の刀を構えながら叫ぶ輝彦。その額には冷たい汗が流れており、その体はどことなく震えている。カタカタと聞こえる震えを必死に抑えながら、彼は思う。例え自分が命を落とすことになろうとも、何が何でも彼女を救う、と。

 そして彼は駆けだした。得体の知れない集団相手に感じる恐怖に包まれながらも、娘の為彼は懸命に立ち向かった。今まで人を救ってきたその手に持たれた殺しの刀。矛盾の姿に彼は今何を思うのか。

 

「あいつは?」

「この娘の父親です」

「なら、任務対象だな」

 

 隊長の言葉に耳打ちするように答える理知的な男。犬斗は何の興味も抱かない目で言い放った。

 

「殺れ」

 

 鮮血が地を染めた。

 

 

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 力づくで地下室から脱出した巧は急ぎ八意邸へ向かった。焦る心を爆発させながら、冬の風を一身に受けながら走った。

 彼がその場所に辿り着いた時にはもう何もかもが遅かった。家の前には少し前に見た顔触れが多くいて、その奥に見えるのはぐったりと抱えられている愛する女と夥しい紅に染まった恩人の姿だった。凍てつくような寒さが足元から駆け上がり、足ががたがたと震え出す。今すぐ二人の元へ走り出したい気持ちの半面、巧の両足は地面に縫い付けられたかのように動こうとしない。それは、目の前の現実を信じきれない心が表れたものなのか。

 

「あいつ! 何でここに!?」

 

 『黒犬』の一人が巧に気づき、声を荒げる。それに釣られるようにして何人かが彼の方に首を向けた。

 それがきっかけとなり巧は走り出した。また捕まるわけにはいかない。とっさにそう思った彼は策を飛び越え一直線に駆ける。

 

「輝彦さん!! しっかりして下さい!」

 

 抱き起した輝彦の体は大量の血にまみれており、体はまるで支えを失ったかのように重かった。この重みが彼自身の命の重みなのか。そしてその重さを腕に抱えているからこそ、輝彦の死をはっきりと感じられた。

 息はまだかろうじてある。しかしこの出血と胸の傷の深さでは長くは持たないだろう。巧は果ての無い口惜しさと無力感に襲われた。医療を職とする家に住んでおきながら、自分にはその知識が皆無だ。どうしようもないやるせなさに打ちひしがれる。

 傷は胸を袈裟斬りに裂かれた一筋の刀傷だ。かなり深く斬られた痕からは赤い肉が見える。

 

「おー、あそこから抜け出してきたか。どうやったんだ?」

 

 必死に輝彦の名を呼び続ける巧の耳に、憎たらしいほど軽い声が聞こえてきた。声の持ち主はどこか嘲笑うようにこちらを見ていた。その肩に担がれている永琳を見て、巧の肉体はさらに熱くなっていった。

 

「お前……許さねえぞ」

「そうは言われてもこっちも仕事なんでね。まあ許してくれや」

「ふざけんな!!」

 

 巧は輝彦をゆっくりと地面に寝かせ、勢い良く飛び出した。犬斗に向かって拳を握る。しかし相手はそこらの一般人ではなく、経験豊富の殺戮部隊である。彼らに素手一つで立ち向かうのはただの自殺と同義であった。

 

「ぐっ!」

 

 案の定であった。犬斗に向かう巧に側近の男が立ち塞がる。男は丸太のような足で丸腰で突っ込んできた巧を容易に蹴り飛ばした。胴体を蹴られた巧はそのまま地面を転がっていった。

 腹部に入った強烈な蹴りのせいで巧はうずくまるしかなく、痛みに耐えることで必死だった。

 

「素人が俺たちに敵うわけねえだろうが」

 

 男達の嘲笑が夜に響く。

 圧倒的な戦力差と体の痛み。瀕死の輝彦も放っては置けない。武器も無い仲間もいない。しかし今の巧に、『諦める』という選択肢は無く、また選ぶつもりもなかった。

 

「永琳を返してさっさと失せろ……この外道!」

「そういうセリフは雑魚が言うもんじゃねえんだよ」

「うぐっ」

 

 今度は数人の攻撃が腹に、肩に、足に当たった。その度に激痛が走り、巧は苦痛の悲鳴を抑えることができなかった。攻撃は先ほどの蹴りとは違い、わずかに耐えれる程度に威力が低かった。しかしそれは故意であるのは明らかであり、見るからに巧を蹂躙するのを楽しんでいた。

 

「おーい。楽しむのはいいが殺すんじゃねーぞ」

「失礼ですが、蒼威巧を殺すことは任務のはずですが」

「こいつは王都に持って帰る。仕事を聞かされた時のあの女の顔見ただろ? ああいうのには結局の所本人にやらせた方が一番すっきりするし、俺らにも多少は機嫌良くなるだろ」

「隊長がそう言うならそれで了解です」

 

「何を、やっているの……?」

 

 突然聞こえた声に犬斗は横を見る。そして自らが担いでいた女が目を覚ましたことに気づいた。彼女は目を見開き、目の前の出来事が信じられないでいた。

 

「これは……何?」

「あーあ、目え覚めちゃったか」

「っ!? 放しなさい!」

 

 永琳はそう叫んで無理矢理犬斗から離れた。その際に地面に落ちるが、痛みなど感じる余裕はなかった。彼も無理に止めることは無かった。この女はただの一般人。どうせすぐに捕まえることができると思ったからだ。

 

「巧さん!」

 

 彼女の視線の先では巧は見るも耐えない姿になっていた。服はとうにボロボロで、血塗れになっている。腫れた頬は痛々しく、顔は真っ赤に染まっていた。

 胸がナイフで刺されたかのように痛む。

 ――やめて! どうして! 彼のそんな姿は見たくない! 

 永琳の心は悲鳴を上げる。

 急いで駆け寄ろうとするが、彼を囲んでいた内の一人に捕まり、暴れるも永琳は再び身動きが取れなくなってしまった。

 

「離せ!」

「この、暴れんな! おめえもあの男みたいにしてやろうか、ああ!?」

 

 そう言って男が指さした方に目を向けると、そこには自身の父が横たわっていた。

 

「……え?」

 

 血、血、血。見慣れた風景に映る異質な光景。

 いつも優しい父が無残な姿で横たわっている。いつも笑顔をくれ、褒め、時に叱ってくれた父が切り裂かれている。その顔に生気は感じ取れない。全てを疑い、かつて冷えていた己の心を救ってくれた男の温もりは、もうここには無いのだと悟った。

 

「とう、さん……」

 

 何かが――壊してはならない、決定的な何かが壊れたような気がした。

 

 永琳は全身から力が抜けたように座り込んだ。その両目から静かに涙が頬を伝い落ちる。それは決壊したかのようにとめどなく流れ、彼女の手の甲を濡らした。

 

 そんな無防備な彼女の様子を見て拘束を外していた男は、犬斗の命で彼女を回収しようと近づいた。その手を彼女の左肩に置いた時だった。

 

「…………す」

「あ?」

「貴様達全員、殺してやる!!」

 

 恐ろしい声だった。男が永琳の顔を覗き込んだ瞬間、彼の命は刈り取られた。

 

「何だ!?」

 

 突如として眩しいほどの銀の光が永琳を中心に発生した。うねるような光の奔流が辺りに走り、男を一瞬にして飲み込んだ。溢れ出る光は、まるで決壊したダムの水のように激しく輝いている。

 

(これは……霊力か! 信じられねえほどの純度と力だ……っ)

 

 犬斗はとっさに霊力を発動して盾を作り、銀の霊力から身を守っていた。けれどそのパワーに押され気味で、既に少なくない同胞達が光に焼かれたことを感じていた。

 殺傷能力があることは部下が証明した。通常では有りえないほどの破壊力を持つ霊力。ここまでの力を持つ者を彼は知っている。

 そして彼は見た。光の中で、漆黒から透き通るような銀へと髪色を変えた彼女の姿を。

 

(ははっ。何が「八意」だ! 銀の髪! こいつは蓬莱山一族の女じゃねえかよお!)

 

 そしてその変貌を巧もしっかりと見ていた。

 

(永琳……。やっぱりあの時、俺を助けてくれたのは……お前だったのか)

 

 思い出す。この世界に迷い込み、命の危機に瀕した時を。薄れゆく意識の中で見た、救世の銀色を。あの光に彼は救われたのだ。

 

「許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない」

 

 眩い霊力と反対に、怨念のような呪詛が聞こえる。

 

「ああああああああああああああああ!!!」

 

 まるで修羅のような表情だ。

 もはや痛みすら感じない。ああ、永琳よ。お前にそんな顔は似合わない。迸る光の中で巧はそう思った。

 

 次の瞬間、八意邸を光の爆発が包んだ。

 




次回から少しだけ過去編に入ります。


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12 八意輝彦という男

今回は回想だと言ったな。あれは嘘だ。
そしていつもよりかなり短いです、ごめんなさい。


 自分の人生を振り返ると、常に誰かの助けであろうとしていたと思う。

 人の助けになることはその人の人生に幸福をもたらすことで、それはとても素晴らしいことだと考えているからだ。そして誰かの笑顔は自分の笑顔に繋がり、皆の幸福を生む。それを信条に八意輝彦は薬師として、医術という職でそれを為そうとしていた。

 少年だった頃からおよそ二十余年間に渡り従事してきた仕事に彼は誇りを持ち結果を出してきた。

 

 彼が薬師を志したのはまだ五、六歳だった時だった。家庭は何ら特別でもなく、父親は医療関係の仕事で家族を養い、母親は夫と一人息子を家で温かく見守っていた。

 当時の輝彦は同年代の子供達のように外で遊ぶことはあまりせず、専ら本を読むことが多かった。本と言ってもそれは学術書などではなく、年相応の絵本だったが。様々な物語の中で特に彼が好んだのは、勇者と呼ばれる男が人々を助け悪を打ち倒すといった勧善懲悪の物語だった。彼は絵本の中で多くの人々を救い、大きな感謝と称賛に包まれる彼らに憧れた。そして彼らのようになるべく真似を始めた。当然の流れだった。

 しかし幼いながらも自身の運動に関しての適性の無さに気が付いていた輝彦は、その事実に打ちひしがれながらも憧れを忘れることはしなかった。

 

 そんなある日、彼の住む町を盗賊が襲った。

 十人程度の小規模な集団だったが、夜中の奇襲だったこともあり簡単に攻められ多くの被害を受けた。何人もの人が殺され、簡素な建物は破壊された。

 運良く襲撃地から離れた場所に住んでいた八意一家。当時輝彦は町全体に轟音を響かせる鐘の音に起こされた。襲撃に気づいた誰かが緊急の知らせとして町にある大きな鐘を鳴らしたのだ。緊張を孕んだ金属音はすぐさま全住民に伝わり、輝彦は焦る両親に連れられ家を飛び出した。

 当時の彼は何が起こったのかさっぱり理解していなかったが、両親の様子からとてつもなく嫌な空気を感じていたことは今でも覚えている。

 

 事態はすぐに鎮圧された。町の自警団がすぐに出動し、盗賊達を制圧したのである。残念ながら襲撃を受けた範囲は狭いながらも無視できない規模の損失が出ており、負傷者や死人も多くいた。

 翌日には早くも町の復興が図られた。多くの人が走り回る中、負傷した人々の治療の仕事を受け、輝彦の父も早々に現場へ向かった。そこで彼はいつも着ている上着を家に忘れてしまいう。真っ白で清潔さに溢れた物だ。それに気づいた輝彦は急ぎ彼を追った。

 被害区画に入ることで彼は様々なものを見た。破壊された建物の多くが火によって焼かれており、炭の黒さが見慣れた光景が破壊された姿を見るのは、幼くも優しい少年の心には辛いものがあった。

 父の元にはほどなくして着き、無事に忘れ物を届けることができた。そこで見た汗水流して働く父親の姿は普段家で目にする穏やかな姿とは違い、命を救う男――戦士――としての父だった。見慣れない父に妙な気恥ずかしさを覚えると同時に、胸が熱くなるような憧れを感じた瞬間であった。そして彼が心を決めた瞬間でもある。

 自分も誰かの助けになる人になりたい、と。

 

 それから十数年、父から継いだ医療技術とひたむきな心で輝彦は多くの人をその手で救ってきた。血が繋がっていないとはいえかけがえのない娘もでき、ようやく彼女を任せれそうな青年にも出会えた。出自とそれまでの経験故気難しいところがある彼女だが、彼のことは受け入れているようで父としては嬉しく思っている(本人の自覚があるのかは疑わしいが)。

 

 そんな自分の最期が、まさか人を傷つけようとして終るだなんて、何かの皮肉のようにしか思えない。

 

 輝彦はもぞもぞと体を動かす。もはや痛みは感じない。

 永琳の放った霊力の嵐は八意家一帯を巻き込んだ。物理的な破壊力を持ったそれは緑の木々を薙ぎ倒し、石造りの家を倒壊させた。輝彦は建物が壁となり、内部へ吹き飛ばされるだけという比較的軽傷で済んだが、他の者達がどうなったかは知る由もない。

 とはいえ既に瀕死の重傷を負っている彼には致命的なダメージに違いなかった。

 

 吹き飛んだ壁、塵や草木や壊れた家具で散らばった床。八意家は先ほどまで人が住んでいたとは思えないほど荒れた家と化した。輝彦のすぐ側には同じように吹き飛ばされた巧が倒れていた。どういう風に飛ばされたかなどどうでもいい。輝彦には、彼がここにいて、自分がここにいる。それが奇跡のように思えて仕方がなかった。

 

 痛みを感じないほど感覚が鈍った全身。朦朧とした意識の中で動けているのかどうかも分からないまま彼は動いた。まるで死にかけの虫が最期に何かを為そうとするかのように、必死にもがいた。

 指先が何かに当たったことを輝彦は僅かに感じ取れた。透明なビンだった。中は透き通った緑の液体が保存されており、永琳が作った薬であることは一目見て分かる。それを掴むほどの力もない彼は、繰り返すように何度も手を当てることで、徐々に物を移動させた。栓をされた丸いビンはコロコロと転がっていき、巧の体にぶつかり静止した。

 

(これで……いい。あとは、運だ……)

 

 急速に胸が、心が冷えていくような感じがした。まるで命の熱が消え去るが如く。近づく足音にも気づかないほど感覚は死んでいる。

 聞けば輝彦の最期は無残と言えるものかもしれない。しかし彼の死に顔は悲観に暮れたものではなかった。彼は言うだろう。自分の人生は確かに幸福であったと。そして最後は、一末の希望を残せたのだから。

 彼は確信していた。かつて読んだ絵本の勇者のように、巧が永琳を救い出すことを。自分には進めなかった道を、彼が往くことを。

 

(たく、み、くん。えいりんを……たの、ん……だ……)

 

 ゆっくりと目を閉じる。

 闇の中で彼が最期に見たのは、美しい銀髪の女性の姿だった。

 

(てる……)

 

 八意輝彦は眠るように息絶えた。

 



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13 照と蓮 ①

 ざっざっざっ。がらがらがら。

 

 荒れた地面を進む音が一つ、二つ、三つと続く。

 

 ざっざっざっ。がらがらがら。

 

 夜が支配する世界で、先の見えない道をランタンの光を頼りに進んでいく。蝋燭を光源としたそれは、風対策にガラスで覆われているはずが何せ所々壊れているせいか風が入りやすくなっている。そのせいで通常よりも慎重に扱わざるを得ない。

 一体今がいつなのか正確な時間は分からない。この世界には時計はあっても、懐中時計のように小型化された物が存在しないのだ。それでもある程度は確かめることができる。星や月の位置の変化を見て、夜明けまでどれぐらいあるかを予想するのだ。

 

「夜明けまで、あと小一時間ってとこか……」

 

 黒のコートを纏った男が夜空を見てそう呟いた。その様子にはいつもの陽気さは欠けて、しかし何かを心待ちにしているようにも見えた。

 

 男――犬斗は暗い夜道を十人の部下を引き連れて歩いていた。小型の馬車とそれを引っ張る馬二頭と共に。部下達は全員彼の腹心の部下と言っていい者達で実力もある。犬斗を含めた四人はどこか疲労している様子だった。彼らが纏う部隊の象徴でもある黒コートは各人所々破れており、血の跡がある。

 

「隊長ー。この後どうするんでしたっけ?」

「ああ? お前話聞いてたか?」

「だってめちゃくちゃ痛いし疲れてたし。馬鹿見てえなあの攻撃をなんとか凌ぎきったんですよ? ちょっとぐらい大目に見てくださいよお」

「この山を越えれば麓に町があります。そこで一旦仕切り直してから王都に向かうんですよ」

「なるほどねえ。じゃ、もうちょいがんばりますか」

 

 口の軽そうな青年に几帳面そうな男が答えた。後の一人は無口な男で当たり前のように会話には参加しない。犬斗はそんな彼らを無視してひたすら歩み続ける。

 

 数時間前、八意永琳の放った霊力の奔流を犬斗は必死に防いだ。自身の霊力で作った即席の盾を使いながら、何人もの部下を犠牲にして。そうして傷を負いながらもなんとか生き残ったのだ。

 その場にいた十数名の部隊員達は彼を含めて四人しか生きていなかった。他は全員光に飲まれ跡形もなく消え去ったのだ。残ったのは見るも無残なほど破壊された八意家一帯とその中心にいた永琳だけで、彼女は気を失った状態で倒れていた。

 犬斗はすぐさま彼女を回収し、その場を離れた。そして拠点に戻り待機させていた部下達による一先ずの治療を終え、起きない永琳を拘束して町を出たのであった。

 

 月姫から受けた命令は結果的に成功した。負傷しており尚且つ霊力の扱いもろくに知らないあの男に、あの光は防げまい。後は王都に戻り報酬を貰い、馬車に積んだ女が今の彼の目的だった。

 

「それにしてもあの女、一体何なんですかねえ? 並の術氏でもあんだけの力の持ち主はいないっすよ」

「さてね。でもどうやら今までは一般人として暮らしていたようだし、力の使い方もよく分かっていないように見えます。現に暴走していましたしね。今はぐっすり眠っていますよ」

「何の夢見てるんだろうねえ?」

「さあ……。幸せな夢じゃないですか?」

 

 後ろの二人の会話を聞きながら犬斗は思う。ふと後ろの荷台を振り返っても何の様子の変化もない。彼の言う通り、まだ夢の中にいるのだろう。

 

(精々良い夢を見てるんだな……。それがお前の最期の夢になる)

 

 暗い思惑を抱いた男達は闇の中を歩いていく。

 

 ざっざっざっ。がらがらがら。

 

 暗い男達に囚われた永琳。彼女は今、過去にいた。

 

 

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 

 永琳の生まれは常世の国の中心である王都であった。そこで国を治める月姫の名を連ねる蓬莱山一族の一人として生を受けた。

 始まりは王都。そして彼女の母の名は、蓬莱山(てる)。一族特有の銀髪を持ち、また類稀なる量の霊力を宿した女性だった。そして比較的美形の生まれやすい一族の中でも、「奇跡」と称されるほどの美貌の持ち主でもあった。

 

 王都――国を築いた神が最初にこの星に降り立った場所と言われている。神はここで人を作り、国を築き、そして月へ帰ったという。その中心にある城が『月下城』と名付けられたのはその所以だ。

 早朝、月光の如く白を強調するその建物の中に彼女はいた。

 当時九歳の八意照である。

 

「何してるの権蔵(ごんぞう)。早く行かないと祝祭終わっちゃうよー?」

 

 幼い彼女は広い廊下を進みつつも後ろを気にしている。体の奥底から突き上げるような興奮を抑えつつも、その足はわたわたと落ち着かない様子だ。

 権蔵と呼ばれた老人の男はそんな彼女をせっせと追いかけていた。照を世話する執事である彼の黒を基調とした制服に汗が染みていく。

 

「照様~、そんなに急がなくても祭りは終わりませんぞ。少しはこの爺を労わって下され~」

「そんなのいいから、早くっ」

 

 この日は毎年行われる建国記念日の祝祭。王都ではあちこちがお祭り騒ぎとなり、より多くの人々が賑わう日である。多種多様な出店から目を引くような出し物の数々、そして蓬莱山一族による派手な凱旋も祝祭の目玉的催しとなっている。

 本来ならばこの日彼女は一族の一員として数ある催しに参加するはずなのだが、ある理由によってその任から除外されている。よってこの日は一人の参加者として祭りを楽しむのが近年の(つね)となっていた。勿論執事である権蔵と共に。

 

 蓬莱山一族を象徴する城のワンピースを身に纏った少女は、早く早くと権蔵を急かす。そんな彼女に対して、彼はやれやれとした表情であった。この活発な少女は『天真爛漫』という言葉がよく似合う。

 権蔵は子宝に恵まれた今代の月姫夫婦の子供達と違って、先代の一人娘である照が一番子供らしく純粋に育っているのではないかと思う。これには彼女が他からやっかみを受けていることが原因であるが、それでも良き成長を遂げていると思うのだ。

 だだっ広い廊下に差す陽光の中で笑う彼女の姿は、まさに心が洗われるようだった。

 

 

「うわ~。今年もすごい人だね、権蔵!」

「そうですなあ。この日は国が最も栄える日ですから。でも照様、楽しみだからって一人で勝手に動いてはなりませんぞ。迷子になってしまったら大変ですからな」

「分かってるよ。権蔵は相変わらずうるさい」

 

 権蔵の心配を他所に照は目の前の人だかりに夢中だった。真剣に聞いている様子は無く、権蔵ははあ、と溜息をつく。まあ、いつものことなのだが。

 二人は人目につかぬように城を出て、今は町の大通りに来ていた。ここはかなり広く作られており、王都の主要道路だ。また凱旋順路に指定されている道である。数階建ての建物が続くこの道には多くの店が立ち並んでいて、今日はどの店も稼ぎ時だと言わんばかりにあちこちから呼び込みの声や客を出迎える声が聞こえてくる。

 

 今の照は肩にかかる程度まで伸びた髪を隠すようにフード付きの上着を着ていた。それに合わせて権蔵もいつもの制服から一般人の服装に着替えていた。二人が一族の関係者だと悟らせないようにだ。一度知られてしまえば騒ぎは免れない。そして彼女は民衆からは歓迎されない立場にあり、もし存在がバレれば何が起こるのか分からない。これだけは絶対に避けなければならないのだ。

 権蔵は改めて決意を胸に、好奇心旺盛な彼女がどこかへ行ってしまわないようにしっかりと手を繋いで街中を歩く。一見して二人を見ると、仲良しの祖父と孫にしか見えなかった。

 

 いろいろな店を回り、権蔵にせがんで買ってもらった飴玉を舐めながら照達は大通りを進んでいく。

 

「今日は前になかった店もあっておもしろいね」

「民達も毎年試行錯誤を繰り返しております。同じことをいつまでもやるのはおもしろくないですからなあ」

「そうだね。あっ、見て権蔵。あそこで何かやってるよ。あれは何?」

 

 そう言って照が指さした先には、ある雑貨屋の前に何やら人だかりができていた。少なくない数の人が集団を作っているため、ただでさえ混雑している道の中で二人は立ち往生を余儀なくされた。そこからは何人かの怒号が聞こえてくるなど、ざわめきは祭りの活気とはまた違った雰囲気を纏っている。

 よく覗いてみると、大柄な男が一人のひ弱そうな男に青筋を立てながら詰め寄っている。周りから聞こえてくる話を繋ぎ合わせてみると、あの弱そうな男が盗みを働こうとしたらしい。大方祭りの喧騒に乗っかろうとしたのだろう。毎年このような輩は現れるものである。

 

「あれは……。嘆かわしい。喧嘩です。照様、巻き込まれないうちに離れましょう」

「う、うん」

 

 権蔵は囁くように照に告げた。彼女は戸惑いながらも頷く。無理もない。あれほどあからさまな争いというものを見るのは初めてなのだから。

 権蔵は照の手を引きながら半場強引に人込みを搔き分けるように歩みを進めた。しかしそれは結果的に彼女の運命を大きく左右する決断となった。

 

 二人がちょうど店と対面するような位置まで進んだ時、突然騒ぎが大きくなった。盗人の男が逃げ出したのである。男は恐怖に引きつった顔で人込みの中に紛れ込もうと必死だ。力づくで人を押しのけていく様子はその体つきからは想像できないほど。所謂火事場の馬鹿力というやつなのだろうか。

 犯人を追いかけて大柄の店主も駆け出した。店には他の従業員が残っているので営業に心配はいらないようだ。加えて見物人の何人かも彼に加わり走り出したのは驚きである。己の正義感に従ったのか、はたまた店主の知り合い故なのかは分からないが、とにかく状況は一度に何人もの男達が混雑した道の中に走り出したのである。

 その結果、当たり前のように大通りは混乱に陥った。人と人が混ざり合い、物を落とした者もいれば、圧力に負けてこけてしまう者もいた。そして照と権蔵のように人の大波に押されはぐれてしまう者も。

 

「きゃああ!」

「て、照様!?」

 

 人波に押され繋いでいた手は離れてしまった。権蔵は必死に照を追いかけようとするが人の圧力には勝てなかった。照は少女故に体格は小さく華奢だ。不幸にもそれが追い打ちとなった。混乱している大人の目線では子供は映り難く、照は無造作に押され叩かれながら流されていく。

 

(痛いっ、痛いよ!)

 

 子供の体には大きな打撃を受けながら必死に流れから出ようとする。しかし上手くいかない。激しい衝撃の中、照はフードだけは解けないないように必死だった。こんな民衆の中で己の髪を曝け出すことの意味を、幼いながらも知っているからだ。

 

(誰か! 助けて!)

 

 救いを求めるように伸ばされた手。しかし誰もそれに気づかず、小さな手は群衆に掻き消されそうだった。

 突然、照は己を掴む温もりを感じた。

 次の瞬間、勢い良く引っ張られ、照は地面に倒れこんだ。

 

「痛ったい……」

 

 何が起こったのか分からないが、自身を襲う波の消失に、彼女は人込みから脱出できたことを理解した。けれども当然ながら痛みは残る。痛みに耐えながら起き上がろうとする彼女は、側にいる気配に気づいた。

 

「大丈夫か?」

 

 そこにいたのは自分より少し背の高い同い年ぐらいの少年だった。

 自身とは対照的な漆黒の髪は年頃の少年らしい髪形に整えられている。服装からして庶民の子であることは明白だった。

 彼は痛みに震える照の肩を支えるように起き上がらせ、路地へと連れて行く。と言っても十メートルほど奥に入っただけだが。

 

「どこが痛い?」

 

 少年は建物の壁に背を預けるように照を座らせ、そう聞いた。

 

「えっと、腕と足……」

「あー……、ちょっと痣ができてるな。血も出てる。歩けるか?」

「何とか……」

 

 初めて話す人――しかも同年代の男の子だ。普段関わりがあるといえば、一族とそれに仕える者達だけ。男と言えば執事の権蔵しかよく知らず、しかも子供同士遊ぶこともなく、むしろ煙たがられる自分だ。突然初めてまともに話す男の子に対して照は珍しく緊張し、言葉数も少なくなっていた。

 

「祝祭の日は人がわんさかいるんだから、勝手に大通りには出るなって家族に言われただろー? 君、ちょっと危なかったぞ」

「でも私は、権蔵と一緒で……」

「ごんぞう?」

「私のしつ、じゃなかった。おじいちゃん! さっきまで普通に歩いてたのにいきなり大騒ぎが起きてぐちゃぐちゃになっちゃってはぐれちゃった……」」

「ふーん。じいちゃんと来てたんだ。でも今から探すにはなあ」

 

 少年は視線を横にやる。照もそれに続いて見てみると、大通りは依然と混雑したままだった。これでは人一人探そうにも探せない。

 

「どうしよう……」

 

 普段全く出歩かない町の地理なんて、九歳の子供が把握しているはずもない。道は全て権蔵任せ。これでは月下城に帰ろうにも帰れない。

 照は急に胸が締め付けられるような不安に襲われた。独りとは、なんて心細いものだろうか。

 そんな彼女を見かねて、少年が言った。

 

「とりあえずさ、怪我してるしまずは手当てしよう。俺んちこの近くだから行くぞ」

「え? で、でも」

「怪我してるんだからでももくそもないだろ? 君のじいちゃんも君が怪我してんの見たら驚くぞー。大丈夫! 絶対会えるって!」

 

 少年は笑ってそう言って、照の手を掴み歩き出した。彼女は呆気にとられていた。

 後から思い返すとなんて根拠の無い発言なんだろうか、と失笑してしまうが、それでもこの時の照にはとても頼りがいのある言葉だったのには間違いない。

 自分の同じぐらいの背丈の少年の後姿は、権蔵や他の大人たちと比べると格段に小さく非力だ。しかし何故かこの人なら大丈夫だと信じさせてしまうような、そんな力があった。

 

「あ、あの」

「何?」

「あなたの、名前は?」

「俺? 俺は(れん)ていうんだ。君は?」

「私は、照。照っていうの!」

「そっか。よろしくな、照」

「うん! 蓮!」

 

 照は蓮に手を引かれながら路地裏の奥へと進んでいった。

 

 照と蓮。出会ってしまったこの二人。

 彼らを結ぶ運命の糸は真っ赤に染まり、両者を巻き込み破滅の道へと誘う。しかしそれでも二人は一つになるかのように惹かれあう。それが血に濡れた赤だとも知らずに。

 



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14 照と蓮 ②

 (れん)の家は大通りから二十分ほど歩いた所にあった。他の住宅と比べれば少しこじんまりとした印象を受ける家は、そこにひっそりと建っていた。その裏は空き地となっているようで、手入れのされていない雑草が好き勝手に伸びている。建物の敷地と空き地を区切っている柵は見るからに老朽化していて子供でも出入りが可能かもしれない。

 

「ここが蓮の家?でもここ……」

「ああ、言ってなかったな。俺んち武具店なんだ」

 

 彼はそう言って扉を開けさきさきと家の中へ入っていく。その背中を照は慌てて追いかけた。どうもこの入り口は店舗用と家庭用の兼任らしい。入り口から入ると店としての内装があり、その奥にある扉から居住スペースに繋がっているようだ。蓮は照に、少し待つように、と告げ扉の奥へ消えていった。その間彼女は特にすることもないので、なんとなく店内に意識を回す。

 初めて入る他人の家に、不思議な興奮を覚える照。店中は蓮の言った通り様々な種類の武器やが並べられていた。戦闘用の剣や槍に盾、それ以外にもナイフや斧に鎌など実に豊富な品揃えだった。城で兵士達が訓練等でこれらの武器を使っているのを日常的に見ているとはいえ、こんなにも間近で見るのは照には初めてで新鮮であった。珍し気な表情で店内を見回していく中で彼女の目を一番引いたのは、ある一張りの真っ白な弓だった。それは他の品よりも高い場所に飾られてあり、一番存在が強調されている。

 

「これは……」

「おーい。何してんだー、って何見てんの?」

 

 そこで蓮が戻ってきた。腕に薬箱を抱えて。それで照の処置を行うつもりなのだろう。

 彼は照がじっと見ていた物を見て少し焦ったようになった。

 

「照っ。その弓は絶対触ったら駄目だぞ! それうちの親がすげー大事にしてるやつだからなっ」 

「ご、ごめんっ。私まだ触ってないよ!」

 

 彼の剣幕に少しびっくりしながらも照は聞き返した。

 

「でも触っちゃ駄目なほど大事ならこんなところに置いておかなきゃいいのに」

「それは俺も思うけどさあ、なんでもお守りなんだと」

「お守り? 弓が?」

「うん。なんか前に聞いたんだけど、これは俺の爺ちゃんが前の前の月姫様のために作った弓らしいんだよ。そん時の月姫様が大人になってから死ぬまでずーーーっと使ってたんだって」

「へー……。おばあ様が……」

 

 照は不思議な心地で件の弓を見つめた。まさかこんなところで自分のルーツに繋がる物を発見するとは思ってもいなかったからだ。弓の持ち主である前々代の月姫は、彼女の祖母に当たる人物だからだ。もっとも、照が生まれる前に亡くなったので彼女自身は会ったことがない。伝え聞く話によると、とても慈悲深い女性だったという。

 

 弓――それは蓬莱山一族にとって、いや、月姫という称号にとって無くてはならない物である。初代月姫が自在に操った武器が弓とされていて、それ以来弓は月姫と同等のような位置づけにされた高貴な武器なのである。それ故弓術を会得することは月姫として必須条件で、先代の月姫達もその多くが弓を扱った(そうでない者もいたが)。

 未来の月姫を育てる為、蓬莱山一族の娘達は幼い頃から弓術を習う。この技術力と持ち前の霊力。この二点が女王になるために非常に重要な項目なのだ。

 

「でもこんなとこに飾られてたら盗まれるんじゃないの?」

「そこは大丈夫。この弓はすげえものでな、弓に選ばれた者しか使えないって代物なんだよ。だから盗人が来ても意味ないってわけ」

「すごい! 私触ってみたい!」

「ダメダメ。どうせ無理だし、もし触ったらバチバチッてなって怪我するから」

「えーーー」

「えーでもダメ」

「でもさ、何でそんなすごい弓が月姫様のところじゃなくて、ここにあるんだろう?」

「さあ? それは俺も知らない。まあ大人の事情ってやつだろ」

「そうかなあ」

 

 照はじっと弓を見つめ、顔も知らぬ祖母のことを考えた。

 物心つく前に両親を亡くした彼女は、同じ血を持つ者の愛を感じたことがない。権蔵のことはまるで父のように思っているが、本当の家族ではない。蓬莱山一族も厳密にいえば家族に当たるが、照は全くそのように思っていなかった。現月姫の叔母は自分を嫌っているし、その影響か他の血縁者達も照を疎ましめに思っているようである。

 もし、祖母に出会えたなら、彼女はどんな顔で照を迎えてくれるだろうか。きっと、権蔵の話に聞くように高潔で慈悲深くとても優しい人なんだろう。顔も知らぬ祖母が弓を構える姿はきっと美しいに違いない。

 

「弓かあ。ちょっと、やってみたいかも」

 

 ぼそっと呟く照。

 彼女はとある事情によりその訓練を許可されていない。他の同年代の子供達が練習しているのをたまに覗き見るだけで、触らせてももらえない。

 しかし実際に弓を、しかも大昔の月姫が使ったとされる物を見て、彼女の好奇心と月姫への憧れが心に広がっていく。無理かもしれないけど、帰ったら権蔵に頼んでみよう。そう思った照であった。

 

「おーい。さっさとするぞー」

 

 蓮の声にはっと我に返り、ささっと彼の元へ近づく。

 

「そういえば、お父さんとお母さんは?」

「今は出店で稼いでる。俺は暇してたからぶらぶらしてたんだ」

「そうなんだ」

「ほら、これだ」

 

 戸棚から取り出した薬を照の擦り傷に塗り込んでいく。照は傷に染みる刺激に痛みを感じるがぐっと堪えた。「いたたた」と声が漏れてしまうが、「我慢しろ」の一言でバッサリと切られてしまう。最終的に包帯まで巻かれてしまう羽目になってしまった。

 

「ちょっと大袈裟すぎるんじゃ……」

「べ、別にいいだろっ」

 

 巻き方は慣れていなかったようで、見るからに雑な処置になっていた。素人感丸出しの見栄えだ。本人も少し自覚しているのか恥ずかしそうにしている。そんな彼を見て照は思わず笑ってしまう。

 

「笑うなよっ。じゃあもうそれ外す!」

「ごめんなさい。でも馬鹿にしてるわけじゃないよ」

「じゃあ何」

「嬉しいの。蓮、ここまでしてくれてありがとう」

 

 そう、照は嬉しかった。誰かにここまで優しくされたことは権蔵を除けば今まで経験したことがなかったからだ。しかも蓮は同年代の子。それが彼女の気持ちに拍車をかける。

 

「う、うん」

 

 ――可愛い――。そんな言葉が胸に走った。照の眩しいほどの笑顔にむすっとした表情は一瞬で解れていく。顔が熱くなり、目の前の少女の目が見れない。あの笑顔を見続けるのはなんだか恥ずかしいような、そうでないような奇妙な気持ちだ。蓮は分かりやすく照れていた。

 仲の良い女友達などいない彼だ。そんな少年に異性に対する十分な耐性などあるはずもなかった。

 

「でもこれからどうしよう。権蔵がどこにいるかなんて分からないし」

「どうせ探そうとしたって探せないしさ、祭り楽しめばいいじゃん。最後はみんな家に帰るんだし会えるのは確実じゃん」

「え?」

 

 深刻そうに考えている彼女を他所に、蓮は気楽そうにそう言った。自身の身分のこともあり、常に権蔵の傍にいることを当たり前としていた彼女にはまるで死角から受けた打撃のように突拍子もない意見だった。

 

「そうだ! どうせ俺も暇なんだ。一緒に回ろうぜ」

「え? え?」

 

 蓮は名案とばかりにはしゃぎだし、照の手を取り家を出ようとする。彼女は戸惑いながらもその手を放すことはせず、ずるずると彼に引っ張られていった。

 家の中は一時の熱を冷ますかのように静まっている。しかし当人達は名すら無い淡い熱を互いに抱えたまま、盛況している町の中へと紛れていった。

 

 

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 

 権蔵は途方に暮れていた。

 胸を締め付けるような悲しみと不安が足元から広がり自分を蝕んでいる。悲しみは涙に、不安は痛みへと姿を変え、体の中から溢れ出してくる。

 

「照様……」

 

 祝祭は日が沈むまで続く。そして今は夕暮れ。落ち着いた夕暮れが王都を照らしている。町の様子は昼間の盛況ぶりと比べれば、やや落ち着いたように見える。しかしまだ終わりではない。太陽の沈みと共に『第二部』が始まるのだ。こんなめでたい日に夜が静まり返ることなど、ない。いわば人々は今、それに備えての一時の休息をとっていると言えるだろう。

 しかし彼らの興奮とは裏腹に、権蔵はただひたすらに意気消沈していた。理由はただ一つ、照とはぐれてしまったことに他ならない。お目付け役としては最悪の事態である。

 

 彼は照の手が離れてしまったことにすぐ気づき、必死に人込みを掻き分け探した。しかしあまりの人の多さと密集度に翻弄され、彼女がどこに行ってしまったのか、全く分からなくなってしまったのである。

 権蔵は絶望した。

 照は血の繋がりは無いとはいえ、生まれた頃から面倒を見ている人物だ。元々は前月姫の夫の付き人であったが、主人が亡くなる前に彼の一人娘である照を頼まれたのが縁だった。妻も子供もいなかった権蔵であるが、それからというものまるで我が子のように照を見守り続けた。それが無き主人への供養にもなると信じていたからだ。

 

「それがこのざまじゃ……。儂は執事失格じゃ。よりによって照様を見失うなどと!失格じゃ失格じゃ失格じゃ!」

「何してんの権蔵」

「失格じゃ失格じゃ失格じゃ失格じゃ……、ほえ?」

「何でずっと一人で喋ってるの? 変だよ?」

 

 権蔵が項垂れていた頭を上げると、今し方まで探し求めていた少女が目の前にいた。彼女は不思議そうな目で権蔵を見つめていた。本気で何をやっているの、と問いかけている目だ。権蔵は年甲斐もなく恥ずかしくなった。

 

「て、て、照様ああああああ!!」

「ちょっと権蔵! うるさいって!」

 

 権蔵は年甲斐もなく涙をだらだらと流しながら照を抱きしめた。周囲の人々は何事かと一瞬ざわめいたが、すぐに収まった。祝祭では迷子の子供と保護者の再会劇は毎年の恒例だからだ。照は周りの反応に恥ずかしながらも親代わりの彼を抱きしめ返した。やはり一番不安だったのは子供の彼女だったのだろう。

 

「照様、お怪我はありませんか!?」

「ちょっと怪我しちゃったけど、蓮に治してもらったから大丈夫だよ」

「れ、蓮?」

「あの子だよ! 蓮が私を助けてくれたんだー」

 

 照が指さす方へ誘われるように目を向けると、彼女の後方には一人の少年が手持ち無沙汰に立っていた。蓮と呼ばれた少年は背や体格から照と年頃は同じようだ。なるほど。この少年のおかげで照は運良く助かったらしい。権蔵は目の前の小さな救世主に大きく感謝した。

 

「蓮君といったかな。照さ、孫を助けてくれてありがとう」

「いいよ別に。でもお爺さんがどこにいるか分かんなかったから、勝手に俺達で祝祭回っちゃったよ」

 

 その言葉を受けて二人の格好をよく見ると、確かにあちこちの出店で買ったのだろうお面や土産物が頭や手にあった。こんな幼い子供二人で大丈夫だったのだろうか。しかし照の表情を見ると実に満足気な顔をしている。大層楽しめたのだろう。自分はもう何十回と祝祭を経験しているので、結果的に彼女が楽しめたのであれば良しとしよう、と権蔵は思った。

 

「照様。髪は見られなかったでしょうな?」

「大丈夫。しっかりフードと帽子で隠してたから、そこは安心して」

 

 小声で尋ねるものの自信たっぷりに返ってきた返事に権蔵は安堵した。そして蓮へ向き直ると。

 

「蓮君。これはお礼として受けっとくれ」

 

 権蔵は懐からいくらかの紙幣を渡した。それは彼が照のためにと用意していたお金全額であった。突然手渡された決して少なくない大金に蓮は戸惑った。子供が持つには相応しい金額ではなかったからだ。

 

「うわっ! これすごい大金じゃん! こんなの無理だって!」

「いいから受け取っとくれ。役に立たなかった爺のせめてもの奉仕じゃ」

「でも……」

「それに、君はそれに見合う、いやそれ以上のことをしてくれた。本当ならこれでも少ないくらいじゃ」

 

 そう。今では不遇な立場に立たされているとはいえ、国を統べる蓬莱山一族のれっきとした血族を無事に守ったのだ。本当ならこんな少し色のあるような額では到底足りないぐらいの功績なのだ。

 最終的に権蔵の押しに負けた蓮は、多額の紙幣を受け取ることとなった。九歳の少年には手に余る重みに、蓮はうおお、と目を丸くしながら唸った。その様子に二人はくすりと笑う。

 

 そろそろ日が落ちて夜になる。祭りの影響で町はまだまだ眠らないが、小さな子供がうろつくにはもう遅いだろう。権蔵はその旨を二人に伝えた。蓮もそれを分かっていたのですぐに了承したが、駄々をこねだしたのは照だった。

 

「もっと蓮と遊ぶーーー!!」

 

 照にとっては初めてできた同年代の繋がりだったし、実際彼と二人で祭りを回るのは笑いが止まらないほど楽しかった。他人といることの喜びを覚えた彼女がそう言いだすのも無理からぬことだろう。加えて、一年を月下城から全く出ずに過ごす彼女だ。夜の町の怖さを知らないのも我が儘に拍車をかけた。

 

「そんなことをおっしゃ、言ってもじゃの。夜は危ないのですぞ?」

「いやいやいやいや! 蓮ともっといるの!」

 

 これにはさしもの権蔵も困った。なんせ気を許した者にはあれこれ我が儘を言い、相当断らないとあきらめない頑固さを持った子なのだ。一旦この状態に入ってしまえば言うことをきかすまで長い時間がかかってしまう。加えて月下城ならばともかく、普通ならばいるはずのない一般の広場では余計な注目を浴びてしまう。蓬莱山照だとバレてしまえば大事件確定だ。

 しかし照の我が儘は単に甘やかされて育った由縁のものはないので、それが権蔵のきっぱりとした拒否態度を緩和させていた。偉大な両親が死んで、紆余曲折あり照は一族から爪はじきにされる立場となってしまった。自分と仲良くしてくれる子も導いてくれる大人もおらず、世話係の権蔵だけが頼り。そうなれば、唯一味方の執事に甘えだすのも無理ない話であった。

 それにしても権蔵は思う。ちょっとはそっとでは心を開かない照がここまで気を許しているとは。泣きわめく照の隣にいる蓮を見て、もしかしたら、もしかして、と思った。

 

「照」

 

 保護者の言うことになかなか首を縦に振らない照に、蓮は言った。

 

「……何」

 

 彼に呼ばれたことで一旦の涙を堪えた照は、ぐすんと鼻をすすった。先ほどまでの大騒ぎから一転して一応の聞く気を見せたことで、権蔵は苦笑した。

 照は赤くなった目で蓮を見た。

 蓮は彼女に近づき、その肩を掴んで言った。

 

「また会えるから。そんなに泣くな」

「……本当?」

「うん。大体、同じ町に住んでるんだから当たり前だろ? それに……」

 

「俺らはもう、友達なんだから」

 

 時が止まったと思った。

 そんなことを言われたのは初めてだったからだ。いつも城では自分を拒絶する意思しか感じなかった。そのたびに心がざわざわした。今もしている。分からない。でも、嫌な気分じゃない。蓮は自分を優し気な表情で自分をじっと見つめていた。彼の目を見ようとすると、胸が熱く溶けそうだった。

 

「友達……?」

「友達だ」

「……ふふっ。うん、分かった。今日は帰る。でも絶対また会ってね」

「ああ、また家に来いよ」

「うん!」

 

 にこやかな笑みを浮かべた照は今度こそ権蔵に手を引かれるようにして彼に背を向けた。蓮は彼女の背が少しずつ小さくなっていくのを見送りながら、不思議な子だったと思い返す。するとその不思議な子がこちらへ走ってくるのが見えた。

 蓮は何事、と困惑している間に照は再び彼の元へ現れた。そして互いの吐息がかかるほど顔を近づけると。

 

「蓮。ありがと!」

 

 そして最高の笑顔で照は走り去っていった。そして今度こそ、二人の姿は見えなくなった。

 蓮は固まったようにその場から動けずにいた。暗い夜の中でも分かるほど顔を赤くしながら、口をパクパクさせている。その熱源は、明らかに彼の頬だった。

 

 

「照様。いつの間にあのような悪いことを覚えたのですか」

「何が?」

「あの少年の頬に接吻をするなどと……儂はそのように育てた覚えはないですぞ! ましてや初対面の男に……。なんて日じゃ!」

「本で読んだだけだよ。あれができる女の去り際テクニックだって」

「何ですじゃその雑誌はあああ!!」

 

 吠える権蔵。傍から見れば、年頃の娘の心配をする過保護な父親にしか見えなかった。

 

「ごほんっ。それはともかく、照様も意地悪な事を言いなさる。また会うなどとそんなことはできませぬぞ。ただでさえ周りの目があるのにそんな無茶なことをしていたら月姫様にどんなことを言われるか……。」

 

 権蔵はその後も云云かんぬん諭していたが、照の耳には全く入っていなかった。

 吠える執事を尻目に照は月下城の廊下を歩く。もうすっかり空は真っ黒に染まって、外から差し込む満月の光が彼女を照らしている。

 

「また会いに行くよ。絶対」

 

 月光に照らされた照は頬を染めてそう呟いた。

 



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