メイヒェム! (2) (ゆべし)
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水色ウサギの目にナミダ。

 

1

 

 

 コンクリート造りの廃墟の地下。ところどころに薄汚れた白いライトが点灯している。中央にあるリングの周りを大勢の人が取り囲んでいる。派手な髪色、露出の高い服、威嚇するような大きなタトゥー。かたぎの人間が寄り付く場所ではないことは明らかだ。

 四方を黒い金網で囲まれたリングの角に、ポールは立っていた。ダークブルーのボクシングパンツを履き、上半身は裸だ。手にグローブもない。

 歓声やブーイングがひとつの塊となってポールの全身にぶつかってくる。それを払うように彼は軽く肩を回した。

 反対側の角に立つ男が顎を引いてポールを睨み上げている。くぼんだ暗い目をしている。

 ポールは目を閉じ、息を吸った。ゆっくりとまぶたを上げる。目つきが変わった。鋭く息を吐く。

 

 

 

 三日前。

 オフィスのデスクの上でポールはマシューと手を握り合っていた。汗をかき、真っ赤な顔をしているマシューに、ポールは少し困って目をうろつかせた。

 デスクについた肘をふもとに山の形をなして二人の手はてっぺんで握られている。

 この手をどちら側に倒すかでポールは迷っていたのだ。

 先輩に花を持たせるべきか。全力を出す方が礼儀か。

 中央で拳を維持するだけでマシューは精一杯のようだ。何度も息を吐いて、その度に二の腕の筋肉が盛り上がるのだが、拳は山のてっぺんから微動だにしない。

 ポールは少し力を弱めた。中央から拳の位置が少しずれた。赤い顔をしたマシューの口が僅かににやりとした。

 それから徐々にポールは力をこめていった。慎重に少しずつ相手の手を逆側に倒していく。

 しばらくして、とうとうマシューの手の甲がデスクについた。

 きゃーともわーともとれるジーナの甲高い声が聞こえた。ネイサンがわざとらしく両耳を塞ぐ。

「またポールの勝ちね」

 レフリーにしては穏やかすぎる声でイリスが宣言した。振り向いてホワイトボードの前に立つケイトに頷く。ケイトは赤ペンでリーグ戦の表に○と×を書き込んだ。

 ポールの全勝だ。

「終わったかー?」

 専用オフィスから顔を出したのはアビーだった。

「ダークホースですよ、ボス」

 イリスが微笑んだ。

 ほうと唸りながらアビーはホワイトボードをまじまじと見つめた。

「あと少しだったのに!」と悔しがるマシューに、「ナメてかかるからよ」とジーナがにやにやしながら肩をぶつけた。「いたいっ!」

 誰も見てはいなかったのだが、ポールは全力を出し切ったというアピールで手首を擦った。特にどこも痛くはない。

「ポーリィーやるう!」

 不意に背中に重みを感じてポールは前のめりになった。ジーナが飛び乗ってきたのだ。柔らかいものがあたっているが、彼女のことだ、わざと押し付けているのだろう。苦笑がもれた。ジーナに頬をつつかれていると、ふと視線を感じて顔を上げた。一瞬ケイトと目が合い、すぐに顔をそらされた。ああああああと頭の中で声がこだまする。

「重いからどけってさ」

 ネイサンがジーナに言った。

「誰が重いって?」

 ジーナが食ってかかる。

 巻き込まないでとポールは心で叫んだ。いつもなら二人をとりなしてくれるマシューは、筋トレ増やそうかなあなどとぶつぶつ言っている。

「俺の予測だとラウルさんが有力候補だったんですが」

 シャーッと八重歯を見せて威嚇するジーナを無視し、ネイサンがパソコン画面に向かってぼやいた。彼なりの計算方式があったのだろう。ただし、ラウルがどこまで本気を出すかについては予測できなかったようだ。細腕のネイサンにすらさっさと負けて、彼はタバコを買いに行ってしまった。

「ポール、意外と力持ちなんやなあ」

 アビーが振り返った。軍隊にいたときの癖で反射的に背筋が伸びた。するりとジーナが滑り落ちた。

「おめでとさん」

 なんとなく決まりが悪くて、ポールはどうしていいか分からず頬を掻いた。

 軍隊上がりではあるがポールは小柄で細身だ。マシューより10センチ以上背が低いし目方も軽い。オマケにどこかなよなよしい態度のせいか、誰もがこんなに力があるとは思っていなかった。

「今回の任務はあんたで決定や」

 突然の展開にポールはあんぐりと口を開けた。ブロンドのまつ毛に縁取られた大きなつり目がこちらを捕らえている。ジーナがノラ猫なら、こちらは野生の豹だ。

 一足遅れてポールは気が付いた。先ほどのおめでとうは、潜入任務決定おめでとうなのだと。

 

 

 

2

 

 

 

 タバコの買い物から戻ったラウルも含め、全員が会議室でモニターを見ていた。

 ガラの悪そうな二人の男が、金網に囲まれたリングの上で戦っている。薄暗い会場も異様な雰囲気だ。グローブは無し、殴る、蹴るは当たり前、閉め技、固め技なんでもありだ。格闘技だか喧嘩だか分かったものではない。

「違法なクファイトクラブなんて珍しくないだろう」

 タバコをふかしながら気だるげにラウルが言った。「取締なんて警察にやらせりゃいい」

「アホ。ただのファイトクラブなら端(ハナ)からそうしとるわ」

 アビーは全員に青いファイルに挟まれた資料を配った。

「胴元はアドルフ・バーニーっちゅうヤクザのお頭や」

「ここ最近、突如勢力を伸ばしてきたマフィアのボスですね」

 イリスが補足する。

「その最近ちゅうのが問題なんや」

 アビーがさらに資料を全員に投げて寄越した。

「セントクレア病院?」

 ジーナは首を傾げたが、イリスは眉を寄せた。

「つい先日、警察の監査が入った病院だわ。なんでも麻薬の輸入に関わっているとか。でも小さな個人病院で、そんな資金はないはずだし、結局、違法薬物は見つからなかった……」

「というわけや」

 ジーナが目をぱちくりさせた。

「どういうわけ?」

「だからつまり」

 察しの悪いジーナに苛立たしげにアビーは頭を掻いたが、アビーの説明もかなりおおざっぱだ。

 ネイサンがフンと鼻を鳴らした

「バーニーのクラブで違法に儲けた金で院長が薬物を仕入れた。商品は病院外のどこかに保管。それをバーニーらが売りさばく。膨らんだ金で院長はさらに薬物を買う。バーニーらが売る。あとはこの繰返し。つまり院長はヤクの売買の元締め、バーニーらは売人ってこと」

 オーケー? とジーナに向かって片手を差し向けた。

「そんなのすぐに分かったわよ」

「要するに」

 今にもネイサンに飛びかかりそうなジーナの肩を押さえつけ、マシューが話を戻そうとまとめた。

「そこに潜入して証拠を押さえろってことですね」

「そういうこっちゃ」 

 アビーが言った。

 そして、怖ろしいほど柔らかな笑みをポールに投げかけた。ポールの肩がビクリと跳ねる。

「やるからには勝ってこいや」

 優しげな言い方がかえって威圧感を増していた。

 

 

 

3

 

 

 

 助手席のシートを少し倒してラウルは大きくあくびした。病院の裏口に視線こそ向けているものの、頭の後ろに手を組んで暇を持て余している。運転席のイリスはくすくすと笑った。

「偵察って気長な仕事よね」

 偵察という任務を軽んじているわけではなく、ラウルの気持ちに寄り添った言葉だ。イリスは滅多に人を批難しない。

 ラウルは横目で彼女を見て口元だけで笑った。

「今日はお子さんは?」

「え?」

 唐突な話題に反応が遅れたが、イリスはすぐに微笑んだ。

「ベビーシッターがついてるの」

「優秀?」

「とても」

「娘さん、いくつになった?」

「今度6歳になるわ。……今日はおしゃべりね」

「そうか?」

 ヘビースモーカーの彼がタバコを吸っていない。狭い車内でイリスに匂いがつかないよう気を遣ったのだ。帰って子供が気付いたら怪しまれる。

「タバコがないと口数が増える、と」

 いかにも分析官ぽくイリスが言ってみせた。

「お子さんには、仕事のことはなんて言ってあるんだ?」

 イリスは微笑したまま病院の入口をじっと見つめた。僅かに目が曇る。

「パソコンを使う難しいお仕事よって」

「間違っちゃいないな」

 ラウルが軽く笑った。イリスはどこかほっとしたように表情を緩めた。「ありがとう」

「お」

 ラウルがシートから身を起こした。

「お出ましだ」

 小柄で腹の突き出た男が人目を忍ぶように裏口から出てきた。頭が禿げ上がった白人で、年齢は50代くらいだ。ラウルは手元の資料ファイルを素早くめくり、院長の顔写真と見比べた。

「コイツだな」

 指先で資料を弾いた。

 男は黒光りする車の後部座席に乗り込んだ。車が発進する。

 2ブロック後方にいた二人は、少し間を空けてからその後をつけた。

「どこへ連れて行かれることやら」

 ラウルが再び大あくびした。ハンドルを握るイリスが「そうねえ」と穏やかに笑った。

 

 

 

4

 

 

 

 ファイトクラブは廃工場の地下で行われていた。外観を一目見た限りでは地下に続きそうな道は見当たらない。工場の奥に通路があるのだろうか。いぶかしみながらポールは入口でたむろしている男たちにおずおずと声をかけた。

「クラブファイトに参加したいんですけど」

 チビで細っこく、水色のギンガムチェックのワイシャツにチノパン姿のポールを見て男たちは嘲った。

「帰れ、ぼうず。お前みたいなガキが来るところじゃねえ」

「どこで聞いたか知らねえが、ここはオトナの遊び場なんだ」

「に、23です」

 声が上ずった。

 男のひとりが彼の真似をした。残りが手を叩いて喜ぶ。

「いいから、とっとと帰れ」

「お金が必要なんです」

「ヤバいもんにでも手ぇ出したか。地道に働いて返すんだな。おぼっちゃん」

「クスリを売ってて」

 資料の記憶が残っていたのか、とっさに口から飛び出した。

「でも、そのお金、使っちゃって。上に売上を渡さなきゃいけないのに」

 男たちが興味を持ち始めた。

「いつまで?」

「明日。そのお金がないと殺される」

「じゃあ、荷物まとめてとっとと逃げるんだな」

 軽くあしらわれてしまった。

 どうしようかとまごついていると、後ろから気配がした。

「こいつ、見かけによらず強いですよ」

 マシューだった。黒いタンクトップにダメージジーンズ。二の腕に巻きついているタトゥーは見たことがないからシールだろう。

「あんたは?」

 男たちの視線がいっせいにマシューに向けられる。

「こいつの兄貴分」

 ポールの栗色の頭を掴んでぐりぐりと回した。

「ふうん」

 返事はそっけなかったが、男たちは頭をつき合わせて小声で相談を始めた。

 男たちはせせら笑いで会議を締めくくり、ひとりがマシューに向けて決議を出した。

「あんたも参加するならいいぜ」

「構わないよ」

 あっさりと了承したマシューにいくらか面食らった様子だったが、男はすぐにあざ笑いを浮かべた。

「案内する。ついて来い」

 彼らは二人を前後では挟んで、工場の奥にある地下へ続く階段へ導いた。

「ビビってもらすんじゃねえぞ」

 男の一人がポールに耳打ちして笑った。

 

 

 

5

 

 

 

 ファイトクラブの近くに小さなパブがあった。多くの客が昼間から酒をくらい大声で話している。荒っぽそうな若い連中がほとんどだ。

 中に入ったジーナはさっと店内を見渡し、カウンターで飲んでいる男性客にまっすぐ近寄った。

 クラブのオーナー、マフィアのボスであるバーニーだ。

 彼の隣に立ち、バーテンダーにビールを注文する。テーブルの上で腕組みし、その上に胸を乗せた。深い切り込みの入ったVネックシャツを着ている。すぐに隣からの視線を感じた。

「おにいさん、ひとり?」

 注文したビールが来るとジーナは相手に声をかけた。がたいのいい30代前後の男で、口と顎全体に整えた髭を生やしている。なかなかハンサムだ。

 男はビールジョッキを口にあてたままジーナに目だけ寄越し、上から下までさっと見て品定めした。

「そうだが」

 男は、目線を下の方で留めたまま答えた。

 尻好きか。

 ジーナは腰を突き出すようにカウンターに寄りかかった。ミニのタイトスカートが彼女の身体の線を強調する。

「暇なのよねえ。なんか面白いことない?」

 ボブヘアの毛先を指でくるくる巻いては離し、男に流し目を送った。

「ないねえ。生憎俺は忙しいもんで」

 彼が小さく舌なめずりしたのをジーナは見逃さなかった。

「最近、仕事クビになっちゃってさあ」

「へえ。何の仕事」

「ウェイトレス。客にセクハラされたもんでひっぱたいたら、これよ」

 ジーナは二本指で首を切るジェスチャーをした。口ひげが動いた。男がかすかに笑ったのだ。

「あんたが何かモーションかけたんじゃねえのか」

「その気がない相手にそんなことしないわよ」

 グロスでてらてらした唇を尖らせた。

 男がジーナの腰を引き寄せる。

「じゃあ、今は?」

「さあ。どう思う?」

 ジーナは男に身体を密着させ、上目遣いにたずねた。

 男の手が徐々に腰骨のあたりまで下がった。

「仕事を探してるんだろう?」

「ええ」

「くれてやるよ。だが」

 手がジーナの尻に触れた。

「まずは面接をしなきゃなあ」

 ジーナは腰をくねらせ、男の手に自ら尻を押し当てた。

 

 

 

6

 

 

 

 ネイサンはパソコンに向かい、GPSでイリスとラウルの車の行方を追っていた。郊外を離れて町外れへと向かっている。その先にはあまり人の寄り付かない森があるくらいだ。

 そばでコトッと控えめな音がして、デスクにマグカップが置かれたことを知る。ケイトだ。

 いつもなら紅茶を置いてすぐに立ち去るのに、彼女の気配は背後から消えなかった。しばらく放っておいたが、いい加減に呆れて溜め息をついた。

「そんなに心配なら見に行ってくればいい」

 画面に向かったまま平板な声で言った。

 間もなくケイトの携帯が鳴る。

 ネイサンがファイトクラブのマップを送ったのだ。

 しかし、ケイトはまだその場を離れない。

「なんなの?」

 椅子ごと振り向いてネイサンがたずねた。声に僅かな苛立ちが滲んでいる。

 握り締めた携帯の画面を見つめ、ケイトは唇をきつく結んで俯いていた。

 片手でデスクに頬杖をつき、深々とネイサンが息をつく。

「訳が分からない」

 くるりと椅子を回転させてまた作業に戻った。

「何を迷う必要があるんだ。簡単じゃないか」

 ネイサンは続けた。

「二択問題だ。行きたければ行く。行きたくなければ行かない」

 ケイトはそれでもしばらく立ちすくんでいたが、やがて静かに彼の席から離れた。

 片手でキーボードを叩きながら、ネイサンはぬるくなった紅茶を口に運んだ。

 出入り口の扉が開き、閉まるささやかな音がした。

 

 

 

7

 

 R1と大きく書かれた派手なフリップを掲げ、黒のビキニ姿でジーナはリング上を笑顔で周った。男性客の視線が一気に彼女に集中し、野太い歓声が湧き起った。

 第一試合が開始するのだ。

 その頃、狭い控え室では薄汚れたベンチでマシューが頭を抱えていた。赤地で側面に黒のラインが入ったボクシングパンツを履いている。ポールが面目なさそうに、しかしかける言葉も見つからずにそばで見守っている。

「なんで俺まで……」

「すみません……」

「いやいや、お前のせいじゃないから」

 慌てて顔を上げた。成行き上、仕方のないことだった。潜入捜査だ。門前払いを食うわけにはいかなかった。

 それに、マシューは不慣れな環境に戸惑っているだけで、心配はしていなかった。

 彼もまた従軍経験があり、MI-5の決まりで定期的にプロの訓練を受けている。

 それに対して、いくら喧嘩が強いといっても相手は素人だ。

 試合はさっさと片付けて仕事に専念しようと考えていた。

 相手を見るまでは。

 

 

 

 場内で名前(もちろん偽名だ)が紹介され、マシューは出入り口から観客の間を通ってリングに向かった。新参者だからだろう、ひどいブーイングの嵐だ。少しずつ緊張してきたのが自分でも分かった。普段の任務の空気とは異質だ。

 しかし、その緊張も長くはもたなかった。

 リングのそばでセコンドレディを目にした途端、マシューはあんぐりと口を開いた。緊張など一瞬でどこかへ追いやられた。

 彼の視線に気付くとジーナは茶目っ気たっぷりにウィンクを寄越してきた。

 マシューは乱暴に手招きし、ジーナを呼びつけた。

「何してんの!」

 小声でマシューが叫んだ。

「見に来ただけ」

 とジーナは悪びれた様子もない。

「客として来ればすむ話でしょ!」

「違法な賭け事をするなんて私にはできなーい」

 マシューは思わず脱力した。緊張とともに高めた集中力までが風船のようにしぼんでゆく。

「何してる!」

 強面のレフリーが二人を咎めた。

「ごめんなさあい」

 振り返ってジーナは猫なで声を上げた。

 

 リングは四方を黒い金網で囲まれている。高さは3メートルほどだ。金網の一部に開閉できる場所があり、そこがリングへの出入り口になっている。その扉は、試合中は外から南京錠で施錠される。

 

 マシューと入れ替わりにリングの外に出たジーナは、すれ違いざまに頬にキスをした。

「いいとこ見せてよ」

 いたずらっぽく囁いて去っていった。

 ジーナにとってこんなのは挨拶代わりだ。マシューも慣れているので苦笑するだけだ。

 マシューは向き直り、気合を入れた。

 しぼみきった集中力を掻き集めてマシューは相手を見た。

 いや、見上げた。

 マシューより背が20センチほど高い。眉まで剃ったスキンヘッドの大男。太い骨に無駄に盛り上がった筋肉。まるでマンガのキャラクターだ。白い肌の上を、なんだか訳の分からない模様のタトゥーが脇腹から腕、肩、首、頭までうねうねしている。

 おっかねえ。

 思わず引きつった笑みがこぼれた。

 

 

 

8

 

 

 

 しかし、蓋を開けてみればあっけないものだった。

 相手の動きは鈍く、読みも甘い。恵まれた肉体に頼りきっただけの力任せの戦い方だ。マシューの当初の予測通り、所詮相手は喧嘩が強いだけの素人だ。

 見掛け倒しもいいところだと、気絶した相手を見下ろしてマシューは安堵の息をついた。

 レフリーが寄ってきてマシューの片手を持ち上げた。

 1ラウンドKO勝ちだ。

 

 会場を出て控え室へ向かう通路の途中で、ビキニ姿のラウンドガールがうずうずと待ち構えていた。やっぱりいたとマシューは内心笑った。

「おめでっとう!」

 正面から腕を広げて飛びついてきた。今度は両頬にキスをされる。猫にじゃれつかれているような気分だ。はいはい、どうもありがとうと、頭をぽんぽん叩いてジーナを降ろした。

 するとジーナはにこにこしながら自分の頬を指でつついている。要求を察したマシューは、タオルで汗をぬぐってから少し屈んで彼女の頬にキスのお返しをした。

 

 

 

9

 

 

 

 偵察組の二人のもとにネイサンから報告が来た。抑揚のない声で、

『マシューさんが勝ちました』

 とだけ伝えた。試合の内容や1ラウンドKO勝ちという結果については完全に省いた。

 ラウルは口笛を吹き、イリスはすごい! と小刻みに拍手した。

 が、

『相手は大男だったそうですが、所詮チンピラですからね』

 ネイサンの批評は辛辣だ。

『実働部隊の人なら勝って当然です』

 ラウルは面倒くさいため、イリスはおませさんと微笑ましく見守っているため、どちらも彼の大口にツッコミは入れなかった。

「ところでネイサン、私たち今森の中なんだけれども」

 通話はイリスに任せて、ラウルはサバイバルナイフで木の枝を切り倒しながら、歩きやすいように道を作った。

「森の入口で院長たちが車から降りてね、追っては来たんだけど、途中で見失ってしまって」

 

 ごめんなさいね、というイリスの声がヘッドフォン越しにネイサンの耳に届いた。

「いえ、そこまで特定していればあとは衛星映像で探せます。そうしたらお二人の携帯にマップを……」

 ここで突然、ヘッドフォンから雑音が聞こえ出した。

「イリスさん。ラウルさん」

『は……ネイ……音……』

 電波が悪いのか。いや、使っている機材は市販のものとは性能が違う。

 妨害電波か。

「二人とも。応答を!」

 ネイサンは声を上げたが、返事がない。

「くそっ、やられた!」

 ネイサンはヘッドフォンをデスクに投げつけた。

 

 

 

10

 

 

 

「ボス! 追跡失敗です!」

 いつになく血相を変えて専用オフィスに飛び込んできたネイサンに、アビーは目を丸くした。

「何があったんや」

 彼女のデスクにドンと両手をつき、

「妨害電波です。イリスさんとラウルさんが森に取り残されています。敵と遭遇する可能性があるかもしれない。至急応援を向かわせてください」

 一息でまくしたてた。肩で息をするほど取り乱している。

「んー、まあ、応援は送ってもいいけどもなあ」

 悠長なアビーの様子にネイサンは苛立った。

「早く! 相手は複数で、武装している可能性が高い」

「大丈夫だと思うで」

 紅茶カップを片手にアビーは笑顔で請け合った。

 は? と、ネイサンが貴重な間抜け面をさらした。

 

 

 

「あの二人はうちとマシューの一期上やねんけど」

 

「あらあ、通信途絶えちゃいましたね」

 深い森の中で、イリスが携帯をつんつんと突いた。

「戻るか」

 ぐっと伸びをしてからラウルがUターンした。イリスも従う。

 しばらく進んだところで、二人は同時に足を止めた。草薮の中で物音がする。

 二人は身構えた。

 飛び出てきたのは兎だ。

 しかし、ラウルは素早く腰にさした拳銃を引き抜きいた。

 

「なんや知らんが、人の上に立つのは向いとらん言いよって」

 

 間髪入れず、ラウルは茂みの中に銃を乱射した。

 野太い呻き声が一つしたと同時に、三人の男が飛び出してきた。でたらめに撃たれたのではかえって危険だと判断したのだろう。

 ラウルがさらに撃った弾の一つが、小太りの男の脇腹を掠めた。

「やっぱノーコンは直らんか」

 ほい、と無造作に拳銃をイリスに放り、血を垂らした小太りの男の脇腹に回し蹴りを入れ、横に倒れたところを傷を狙って踏みつけた。細身の男が銃を突きつけると素早く間合いを詰め、相手の腕をひねり上げて銃を落とさせ、さらに力を加えて捻るように地面に叩きつけた。頭を打って男は気絶した。発砲音がして振り向くと残るひとりが拳銃を構えていた。ラウルはベルトにさしたナイフを抜きながら相手の懐に飛び込み、その勢いを借りてナイフを胸に突き刺した。

 

「そんなわけでうちがボス、マシューがチーフをやっとるわけやけど、」

 

 拳銃をキャッチしたイリスはすぐさまラウルに背を向け、彼と同時進行で反対側の茂みに耳を澄ませた。両手で銃を構え、僅かな音の違和感をもとに一発、また一発と丁寧に三発の弾丸を撃ち込んだ。どさりと重いものが草の上に倒れた音が同じ数だけ聞こえた。マガジンを外してみればちょうど銃弾は空だった。ふぅと安堵の息をつく。

 

 

 

「二人の戦闘力はうちらとほぼ互角や」

 紅茶カップを軽く掲げてアビーはフフンと鼻を鳴らす。

 ネイサンは何か言いたそうに口を開き、考え直した様子で閉じ、また言おうとしてやめ、結局ふてくされ顔で黙ってオフィスを出て行った。ドアがぴしゃりと閉まる。

「スネんなや、最年少。お前もよう頑張っとるで」

 アビーは愉快げに声を投げて紅茶をすすった。

 

 

 

「無駄撃ちしちまって悪いな」

 ラウルが振り返るとイリスがふふっと笑みをこぼした。

「この感覚懐かしいわねえ」

「だなあ」

 ごろごろ転がる死体を見回しながら二人はまったりしていた。

 

 

 

11 

 

 

 

 マシューと同じく激しいブーイングの嵐の中を通らされたポールは、やはりリング上のジーナに驚き呆れてから、金網の扉をくぐった。

 ジーナは励ましのキスを送る代わりに耳打ちした。

「気をつけて」

 ポールは対戦相手を盗み見た。歳も背丈も彼と同じくらいで、同じく細身だ。

 しかし、くぼんだ目が鈍い光を放っていた。鳥肌が立った。いやな感じがする。

 振り返ると心配そうに見つめるジーナと目が合った。

 安心させようとちょっと微笑んでみた。

 ジーナの表情は変わらなかった。振り返って会場の外へ歩き去った。

 

 

 

 レフリーが手を振り、二人をリングの中央に呼んだ。

 ゴングの代わりに拳を合わせたら試合スタートだ。

 ポールが握った手を突き出す。

 相手もゆっくりと腕を伸ばしてきた。

 と思ったら、ポールは伸ばした腕を突然引っ張られ、その場に膝をついた。

 首の後ろに衝撃が走る。

 その場に唾液を吐いた。

 ポールは顔を上げて鋭く相手を見た。

 薄く青黒い唇が糸で吊り上げたように笑っている。

 

 観客の中に立つマシューの隣にジーナが身体をねじ込んできた。

「あいつヤバイよ」

「分かってる」

 マシューは腕を組んでリングを睨んでいた。

 

 相手が指を揃えて後ろに腕を引いた。

 相手の指先が目についた。爪の先が鋭く尖れている。

 ふいに立ち上がったポールの腕を相手の指先が掠めた。破れた皮膚から血が流れる。

 再び相手は指を揃えた手を引いた。目を狙うつもりだ。ポールは首を傾け、腕で叩いて防いだ。

 そのまま拳を相手の腹に打ちこむ。が、腕でガードされた。

 逆の手で素早く二発目、今度は顔を狙った。避けられた。

 三発目。逆の頬。また避けられ、さらに相手の膝が腹にめり込んだ。

 二、三歩後ろによろめいたがなんとか耐えた。

 しかし、その隙を狙って敵がポールの腕をとり、捻った。ギクリと鈍い音がした。肩の関節が外れた。

 ポールは急いで間合いをとりながら、痛みを堪えて強引に肩の骨をはめた。

 余裕をたっぷりに相手が歩み寄ってくる。

 ポールは肩を擦りながらじりじりと後退した。

 相手が大きく振りかぶった。

 これを待っていた。

 ポールは素早くしゃがみこみ、片足を軸に弧を描いて蹴りつけた。

 軸足をとられ、相手は飛ぶようにして仰向けに倒れた。

 無防備に腹をさらした相手を見下ろし、ポールは迷った。

 踏み潰せば内臓にまでダメージを入れられる。そうすれば試合続行は無理だろう。

 けれど、一般人にそこまでしたくない。

 相手が肘をついて上半身を起こした。

 ポールを睨みつける。見下されたと思ったのだろう、濁った目に怒りがたたえている。

 ポールはごくりと唾を飲みこんだ。

 相手は跳ね起きると、いきなりポールに突進してきた。

 そのままフェンスにポールを叩きつけ、やみくもに腹や顔を殴打した。

 ポールは両腕を合わせて防いだが反撃しなかった。

 

「何してんの、あの子」

 ジーナはあ然として呟いた。

 勝てるチャンスをわざと放棄したように見えた。おまけに今は攻撃すらしない。訳が分からない。

「ポール!」

 ジーナが叫んだ。聞こえていないのか、彼はいまだ殴られるがままだ。

「ポールの様子がおかしい!」

 隣に立つマシューの腕を揺さぶった。彼は顎を引き、まっすぐにリングを見据えている。

「なんか言ってよ!」

 ジーナが叫んでもマシューは動かなかった。

 

 相手の拳が目の前に迫ってくる。防ごうとしたが間に合わなかった。片目に一撃を喰らった。ぶれた視界で、相手が一瞬ニヤリと笑ったのが見えた。

 間髪入れず腹にもう一撃喰らった。

 くずおれそうになるのをなんとか堪えたが、さらにもう一発、今度は蹴りを入れられた。

 とうとうポールは膝をついた。固いブーツがポールの側頭部を蹴った。

 ポールは勢いよく床に倒れた。頭の中がぐわんぐわんと揺れる。蹴られた耳の奥が熱い。液体がつーと垂れてくるのが分かった。

 

 ジーナはリングから背を向けた。走り出そうとしたとき手首が握られた。マシューだ。

「どこ行く気だ」

「外! 通報するの」

「ダメだ。作戦が台無しになる」

「なら試合を止めてよ!」

 マシューは考えこむように押し黙った。

 一度リングを見て、ジーナに向き直り、静かに言った。

「ネイサンたちがまだ薬物の保管場所を見つけていない」

「そんなのどうでもいい!」

「頭を冷やせ」

 マシューが怒鳴った。ジーナはびくりと肩を震わせた。初めてのことだった。

「作戦は続行する。俺たちはここで院長との繋がりを示す手掛かりを探す。もしくはボスのバーニーを無理やりでも連れて帰る」

 淡々と言った。

 ジーナが俯いて唇を噛み締めた。

「止められないならせめて試合を見守りたい」

 マシューは首を振った。

「行くよ」

「離して」

 握られた手首を振りほどこうとジーナは乱暴に腕を振った。マシューはさらにきつく握り返した。

 嫌がるジーナを連れて歩き出した。出口の前で一瞬だけリングを振り返った。

 

 

 

12

 

 

 

 会場を抜けるとマシューとジーナは薄暗い廊下に出た。床から天井まですべてコンクリートで塗り固められている。四角いトンネルのようだ。

 辺りを見渡した。左側に伸びた廊下の突き当たりに扉があった。扉の前では浅黒い肌をした屈強そうな男が仁王立ちしている。番犬といったところか。

 ジーナの手を引いてマシューはそちらへ進んだ。が、途中でジーナが乱暴に腕を振りほどいた。

 マシューが振り返った。ジーナはそっぽを向き、むくれ顔で手首を擦っている。

「頭は冷えた?」

 優しく声をかけた。が、ジーナは口を尖らせ、顔も合わせようとしない。

 マシューは苦笑した。

 向き直り、大きな番犬のいる扉へと歩いてゆく。ついてくるかどうかはジーナの意思に任せた。ほどなくして、不満げなヒール音がこつこつと後に続いてきた。

 

「ボスの部屋だよね」

 番犬の前に立つと、マシューは扉を指して社交的な笑みで声をかけた。

 相手は腕組みをしたままじろりと彼を見下ろした。

 マシューは笑みを絶やさずに続けた。

「用があるんだ。入れてもらえない?」

「失せろ」

 低いしゃがれ声が威嚇するように言った。

「頼むよ。急用なんだ」

「取り込み中だ」

「どうしても?」

「しつこい」

 番犬が苛立ってきた。厚い唇の隙間から頑丈そうな歯がのぞいた。

「まあ、そうつんけんしないで」

 マシューが取っ手に手をかけると男は太い腕を伸ばしてきた。

 素早くその手を掴んで捻り上げ、マシューは男を壁に押しつけた。

「取り込み中なんでしょ? 静かにしてないと叱られちゃうんじゃない?」

 振り向こうとした男の頭を手で押さえ、躊躇なくコンクリートの壁に打ちつけた。

 赤い筋を壁に描きながら男はその場に沈んだ。

「さて、入ろっか」

 振り向いたマシューはジーナに笑いかけた。

 彼女の目は見開かれ、口はまっすぐに引き締められていた。

 

 

 

13

 

 

 

 敵はポールを見下ろしてニヤついていた。

 先ほどの仕返しのつもりなのだ。ポールが立ち上がるのを待っている。

 ゆっくりと身体を横にしてから、膝を支えにポールは立ち上がった。床を踏みしめたつもりが、重心がとれずに足がよろめいた。まともに立っていられない。

 ひどい耳鳴りがする。鼓膜が破れたか。

 無意識に自身の身体を点検していた。

 平衡感覚が鈍っている。片目の視界が悪い。腕とあばら数本が折れている。内臓もやられた。

 ポールの身体は全く思うように動かなかくなっていた。

 相手が歩み寄ってくる。

 とどめが来る。

 ポールは奥歯をきつく噛んだ。

 そのとき、会場で大きな電子音が響いた。

「携帯の電源は切るように!」

 レフリーが怒鳴った。

 探さずとも、すぐにひとりの女性の姿が目に飛び込んで来た。荒くれ者たちの中で彼女の姿は浮き立っていた。

 生成り地のワンピースを着たケイトが、焦点のぼやけたポールの目には幼い少女のように見えた。胸元で祈るように携帯を握り締めている。

 怯えた大きな目。

 どこかで同じような目を見たような気がする。

 彼女の目は黒かった。

 肌を焼くような暑さ。砂ぼこり。バザール。反乱軍。政府軍。巻き込まれた一般市民。銃撃戦。なぎ倒された看板。路地に散乱した食べ物。雑貨。死体。

 少女はぼろ雑巾のようになった女の子のぬいぐるみを抱きしめていた。

 半壊した屋台小屋の隅で縮こまっている。

 周りには武装した男たちが隠れていた。

 反乱軍だ。

 ふと、少女の視線が自分に向けられているのに気が付いた。

 目が合った。

 黒い目がじっと自分を見ている。

 そのとき、隣で発砲音がした。

 すぐに激しい撃ち合いになった。

 ぼくはどうした。

 ぼくは、固まっていた。

 

 ケイトと目が合った。

 大丈夫だよ。赤黒く晴れ上がった目でポールはにっこりと笑ってみた。

 頬骨に強い衝撃が走った。

 視界が大きく揺れ、見ているもの全てがゆっくりと倒れてゆく。

 視界に靄がかかってゆく。

 異国の少女の悲鳴が、聞こえたような気がした。

『やめて』

 ごめんね。ごめんね。

 閉じたポールの目から一筋の涙がこぼれた。

 

 

 

14

 

 

 

 無言でアビーのオフィスに入ってきたネイサンは、やはり何も言わずにデスクの上に数枚の写真を置いた。

「あの森か、これ?」

 いまだにネイサンのおへそが斜めなことはさておいて、アビーは写真を手に取った。

「衛星写真です。確認できた人家はありません。この森にある建物はせいぜい猟師小屋くらいです」

 アビーはニヤリとした。椅子の背にゆったりともたれる。

「お偉いさんが好きこのんで使う場所やないなあ。それに、猟師小屋じゃあ大事なブツを隠しても持主に見つかってまう」

「陽動です」

「森に行ったのは目くらましやったっちゅうわけか」

「まあ、報告はこれだけですが」

 そっけなく言ってネイサンは扉を開けた。

「ネイサン」

 アビーは勢いよく背を起こし、デスクに身を乗り出した。

「ようやった」

 笑いかけると、ネイサンはムッとした顔をした。

「失礼します」

 ネイサンが出ていくとアビーは忍び笑いした。

「かわいいやっちゃ」

 彼は照れるとしかめ面をする癖があるのを、アビーは知っている。

 

 

 

15

 

 

 

 あら、と言ってイリスはナイフの切り口がある枝の先をつまんだ。

「ひょっとしてここ、さっきも通ったんじゃないかしら」

 先を進むラウルが足を止めた。ふむと唸って辺りを見回す。

「そうかもしれない」

 名前も分からない鳥が大勢羽ばたいて、木々をさざめかせた。

 イリスが手で廂を作って鳥を見た。

 ラウルが腰に手をあててのけぞった。

「迷ったかしら」

「そうかもしれない」

 アホーと鳥が鳴いた。

「方角を調べましょう」

「方位磁石があるのか」

「いいえ」

 イリスは影の位置を確認し、反対側を指さした。

「太陽があっちだから、あとは」

 と、ラウルを振り向き、

「時計持ってる?」

「ん」

 ラウルが腕を突き出した。のぞきこんでイリスは目をぱちくりさせた。

「デジタルじゃダメねえ」

「だなあ」

 二人は同時に木々を見上げた。

「ま、なんとかなるだろ」

「とりあえず時間は分かるものね」

 ハイキングでもしているような危機感0の足取りで、二人は再び歩きだした。

 

 

 

「ボス! イリスさんとラウルさんの信号がまだ拾えない! 森で何か……」

 再びオフィスに飛び込んだネイサンは、アビーのにやついた顔を見てまたしくじったと唇を噛んだ。

 

 

 

16

 

 

 

「銃、持ってないよね?」

 マシューが振り向いてジーナに聞いた。ジーナは少し距離を置いて立っていた。マシューの質問には首を振って答えた。

「だよなあ」

 マシューは彼女の態度は気に留めず、扉に向き直ってしばし考えた。

 かたやボクサーパンツに半裸、かたや水着にハイヒール。銃器など隠す場所はない。

「じゃあ仕方ない」

 躊躇いもなくアルミ製の扉をノックした。

 途端に銃弾が数発打ち込まれ、アルミ板に小さな窪みをつけた。

「入れるかな」

 窪みを指さしてジーナに聞いてみた。

「誰だ!!」

 扉の向こうからドスのきいた声がした。

「試合の参加者だよ。ちなみに勝った」

「部外者は立ち入り禁止だ!」

「それは聞いたんだけどね」

 と、足もとで気絶している男を見下ろした。

「失せろ!」

「ちょっと壁際に寄ってて」

 ジーナに指示するとマシューはいきなり扉を蹴り開けた。

 弾は飛んでこなかった。護衛らしき男は虚をつかれたようだ。

 彼の背後のテーブルで二人の男が古いスツールに座っていた。ガラの悪い若者と太った中年。バーニーと院長だ。急な事態に二人は腰を浮かせた。

 護衛の男が銃を構えるとマシューは素早く扉の裏に身を隠した。

 さらに銃が数発撃ち込まれ、しばらくすると攻撃がやんだ。弾が切れたのだろう。

 その隙に部屋に押し入った。

 装填が間に合わず護衛はマシューに飛び掛ってきた。顔面めがけて飛んでくる拳をマシューは数回かわし、最後に手の平で受け止めて殴り返した。間髪置かずに腹部に拳を叩きこみ、身体を折った相手のうなじに握った両手を素早く振り下ろした。相手は床に伸びた。流れるような動作だった。

 数回銃声がして、その一発がマシューの腕を掠めた。血が流れ出す。バーニーがマシューに拳銃を向けていた。

 流れ出る血はそのままに、相手が引き金を絞るタイミングを見計らってしゃがんだ。護衛の銃を奪い取り、すぐさま弾を補填し、その体勢からバーニーの膝に向けて撃った。続けざま院長の膝にも。

 二人が痛みで呻くのを見て、反撃してくる様子がないと判断するとようやく立ち上がった。銃口は彼らに向けたままだ。

「ジーナ」

「はい」

 上ずった声が返ってきた。

「ボスに連絡して」

 すぐさまジーナは携帯を取りに引き返った。

 

 

 

17

 

 

 

『ベテラン諜報員が二人揃って迷子だなんて信じられない!』

 ようやく妨害電波の外に出られたと思ったら、イリスとラウルはいきなり最年少スパイからの叱責を受けた。顔を見合わせて揃って首を傾げる。

「なんで怒ってんだ、こいつ」

「なんでかしら」

『なんで分かんないんだっ!』

 さらに怒鳴られた。インカム越しに荒い息づかいが聞こえる。

「落ち着けよ、ネイサン」

「ちょっと深呼吸してみたら?」

『あんたらアホですか?』

 また怒られた。

『こっちがどんだけ心配したかと……』

 そこまで言って、しまったとばかりに言葉を切った。

「おお、そうか。そりゃ悪かった」

「不安にさせちゃったわね。ごめんなさい」

 ネイサンが何度も深呼吸している。

 それから落ち着き払った声がした。

『俺が言ったのは、作戦が滞ることに懸念を覚えたという意味であり、決してお二人を心配したわけではありません』

「なんだ、違うのか」

「それはそれで淋しいわねえ」

 今度は唸り声が聞こえる。

 普段はほとんど感情を表に出さないネイサンが、今日は何やら忙しない。

「なんだか様子が変だけど、何かあった?」

 イリスが、母親が息子に学校の様子を聞くように尋ねた。

「困ったことがあったなら言えよ」

 ラウルが兄貴分らしく請合った。

 しばらく応答が途絶えた。また妨害電波だろうかと二人が思っているといきなり、

『誰のせいだと思ってんですか!!!』

 ネイサンが爆発した。

 二人は顔を見合わせて目をぱちくりさせた。

「どういうことだ?」

『もういいから、とっとと帰ってきてくださいっ』

 それを最後にブツリと通話が切られた。

「どうしたのかしら」

 イリスが心配そうに言った。

「ややこしい年頃なんだろうよ」

 ラウルは肩を竦め、とにかく戻るかと歩き出した。イリスが彼に続く。

 ややもしないうちに、再びネイサンから連絡が入った。

『そっちじゃないです、バカ!!』

 その後、森を抜けるまでずっと、二人はネイサンの指示に従った。

 

 

 

18

 

 

 

 事件は終わった。

 当初の予測に反して、院長とマフィアの取引はファイトクラブの一室で行われ、そこに薬物も隠してあった。無防備とも言えるが、灯台下暗しでもあった。試合を見に来た客に売るにも都合がいい場所だった。

 

 マフィアの方は警察に任せて、アビーは院長を聴取し、密輸ルートを白状させた。

 取調べ室から出てきた院長をたたまたまネイサンが見かけた。顔面蒼白で、心なしか身体もひと回り縮んだように見えた。対して、後から出てきたアビーはシャワーでも浴びた後のような清々しい顔をしていた。ネイサンはどんな聴取をしたのか好奇心に駆られたが、アビーの顔を思い浮かべると聞く気も起きなかった。きっとロクなことじゃない。

 もう一つ、ネイサンには気になることがあった。

 森での迷子事件以来、妙にイリスとラウルが彼を気にかけてくるのだ。

 「紅茶いる?」とか「調子はどうだ」とか内容は些細なことばかりだが、以前より明らかに声をかけてくる回数が増えている。

 ネイサンは不審に思ったが、考えても彼らの意図がさっぱり読めず、そのうちどうでもよくなった。

 

 森を抜けた後の帰りの車内で、イリスとラウルはネイサンについて話し合った。もちろん通話は切ってある。

「ネイサンは思いやりが強いのね」

 イリスはしみじみと言った。ネイサンが聞いたら大声で完全否定しただろう。

「不安だったんだじゃないかしら。私たちが傷つくかもしれないって」

「なるほどな」

 ラウルはすんなり同意した。

「素直じゃねえからな、あいつ」

「そうねえ」

 イリスがくすくす笑った。

「帰ったらさりげなく甘やかしてあげましょう」

 的外れな二人の会議は的外れな結論を出して、その後ネイサンを困惑させる結果となったのだ。

 

 

 

19

 

 

 

 アビーに報告書を提出してマシューは廊下に出た。少し進んだところで、壁を背にしてジーナが彼を待っていた。

「どした?」

 マシューが聞くと、ジーナはもの言いたげな視線を寄越したが、すぐに俯いてだんまりした。

「どしたの」

 少し屈んで小柄なジーナに視線を合わせた。ジーナは目を伏せてしまった。

 困ったようにマシューが笑う。

「なんかあった?」

 あやすようにぽんぽんと頭を叩いた。

 すると突然ジーナがしがみついてきた。

「ジーナ? どうした?」

 マシューの胸に頬を押しつけたジーナは、目を合わそうともしなかった。引き結んだ口は、泣きそうなのを堪えているようにも見えた。

 マシューは何も言わず、彼女の後ろ頭を優しく撫でた。

 しばらく経ってからようやくジーナが口をきいた。

「恐かった」

「ポールの試合?」

 マシューの胸にこすりつけるようにしてジーナは頭を振った。

 そしてまただんまりしてしまった。

 マシューはなんとなく彼女の気持ちを察した。

「ごめんね」

 彼女が恐がったのは自分だろう。

「マシューさんが悪いんじゃない。あれが仕事だ」

 しゃべり方が子供じみてきた。

「私がいけない。プロじゃない」

 マシューは黙って耳を傾けていた。

「ポールの試合のときもそうだ。ワガママやった」

「ポールが心配だったからだろう」

「それじゃダメだ。もっと理性で判断して行動すべきだった」

 ジーナは強く頭を押しつけた。

「みんなちゃんとやってるのに、なんでちゃんとできないんだろう」

 噛み締めた奥歯から絞り出すような声だった。

 マシューは子供をあやすように背中を叩いた。

「ほれ、泣くなー」

「泣いてないっ」

 とっさにジーナは顔を上げてマシューを睨み上げた。

「ほんとにー?」

 わざとにやついてからかった。

「誰が泣くかっ」

 ジーナが食ってかかる。

「おー、よしよし。恐かったんでしゅねー」

「気持ち悪いっ」

 マシューの胸を押し返した。

「慰めてやってるのにひどいなあ」

「慰める? 誰が誰を?」

「俺がジーナを」

「ハア?」

 ジーナは挑発的に笑い、

「逆でしょ、マシューさん」

 上目遣いで彼を見つめた。調子が戻ってきたようだ。

「試合の興奮は収まった?」

「うーん、そこそこ」

「闘って興奮した後って、シたくなるってよく言うじゃない?」

「そうだね」

 ジーナが指先でマシューの頬をなぞった。

 爪先立ちになり、彼の耳に唇を寄せた。

「手伝ってあげようか」

 囁いた。

「いいの?」

 マシューが驚いた顔を見せるとジーナは鼻に皺を寄せて舌を出した。

「バーカ。ウソに決まってんでしょ」

「ですよねえ」

 肩を落としてみせる。彼女の冗談を全部分かっていた。これがいつもの彼ららしいやり取りなのだ。

 じゃあねと背を向けたジーナは、数歩進んだところで少しだけ振り向いた。

「マシューさん」

「うん?」

「アリガト」

 俯きがちにぼそっと言って駆け出した。

 マシューは優しく微笑んだ。

 

 

 

20

 

 

 

 意識を取り戻したポールの目に、白い天井が映った。間もなく全身に激しい痛みが走った。そのおかげで何をしていたのかすぐに思い出せた。

 痛みを抑えて上半身を起こした。病院の個室だった。恐らく諜報機関専用の病院だろう。

 初めて来た。ポールは興味深げに辺りを見たが、首を回したら激痛にみまわれた。

 手をあてようとして点滴に繋がれていることに気が付いた。思ったよりも長い時間ここにいたのだろうか。作戦はどうなったんだろう。みんなはどうしているだろう。

 今度はそっと首をめぐらしてみる。サイドテーブルにシンプルな花が飾られていた。まだ新しい。

 花瓶に手紙が立てかけてあった。

 両面を見たが差出人の名前はない。

 淡いブルーの封筒を開けると一枚のカードが出てきた。

 

 YOU  ARE  WINNER.

 

 あなたこそが勝者。

 中央に印刷文字でそれだけ書かれていた。ポールは苦笑した。病院送りにされるほどボロ負けしたというのに。

 差出人の名前があるかとカードを裏返した。こちらにはかわいらしいイラストがついていた。

 かわいいウサギのぬいぐるみの絵だ。布地は水色のギンガムチェック。コテンパンにやられたらしく、バッテン印の絆創膏があちこちに張られ、片側の目は包帯でぐるぐる巻きにされている。しかし、レフリーらしき男の手に片手を持ち上げられていた。黄色いスポットライトがウサギを照らしている。

 ポールは胸の奥が温かくなってゆくのを感じた。

 これでよかったのかも。そうだったらいいなあ。

 カードを両手で胸にあてて目を閉じた。自然と笑みがこぼれた。

 

 

 

 なんとなく帰りがたくて、廊下の壁に寄りかかっていたケイトを顔見知りになった看護婦が見つけた。

「今日も来てたの」

 看護婦が親しげに声をかけるとケイトはびくりと肩を跳ねらせた。ポールの病室はすぐそこだ。

 ぺこりと素早く頭を下げ、逃げるようにケイトはその場を後にした。

 看護婦は不思議そうに彼女の後姿を見送った。

 病室に入ると担当患者がちょうど意識を取り戻したところだった。

 

 

 

 



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