誇り高き孤高の毒蛇 (ROCKSTAR)
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仮面と安寧、まどろみの蛇

 

 

 

 

 何て僕の人生はつまんないんだろう。

 やり場のない怒り、虚無感、厭世感、感傷、自暴自棄、現実逃避、自傷行為、破壊衝動。そんな負の感情ばかりの人生を僕は今も歩んでいる。

 こんな人生から、僕は抜けだせるのだろうか。

 僕を信頼してくれる人は、微笑んでくれる人はこの世にいるのだろうか。

 僕の人生に色が付く日は、果たして来るのだろうか。

 

 

 

 

 ああ、つまんねえ人生だ。本当に、つまんねえ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おい、起きろ将平(しょうへい)。進級早々遅刻なんてこっ恥ずかしいぞ」

 

「……ん」

 

 父親の声で重い瞼を無理矢理開け、体を起こし、ベッドから降りて朝食が用意されているダイニングへと向かう。

 

「まだ、寝起きは悪いままなのか?」

 

「そう、かな……今までこんなことなかったんだけど……」

 

「また、例の悪夢ってやつか?」

 

「うん、そう。というか、原因はそれだけなんだけど……」

 

 念のため目覚ましは欠かさずセットしているが、それでもセットした時間の10分前に起きることができるほど俺は朝に強い人間だった。しかしながら、最近になってそれができなくなってしまっていた。

 なぜそのようなことになってしまったのか。その理由は父親が今言った『悪夢』によるものだった。何者かも分からない誰かに殴打され、罵倒され、挙句には穴へと突き落とされてどこまでも落ちてゆく――そんな夢だった。

 ここ一か月は、ずっとこのような夢ばかり見るせいで、目覚めの悪い日々が続いていた。

 

「眠れないわけじゃないから、薬は飲まずに済んでるけどね」

 

「そうか……」

 

 朝飯のご飯とみそ汁、納豆と卵焼きをかきこむ。相変わらずとてもうまい。両親ともに料理の得意な家に生まれた俺だが、肝心の俺は料理が作れない。そろそろ教わった方がいいだろうか、ということを考えながら食べ終え、食器を流しに置く。

 歯を磨き、顔を洗ってから、適当に髪形を整える。制服に着替えて、通学鞄として使っているリュックサックに必要なものがちゃんと入っているか確認して背負う。

 

「……それじゃ」

 

「ああ。耳にタコができているかもしれないが、何かあったらすぐに連絡するようにな」

 

「分かってるよ」

 

 靴を履き、父親に短い挨拶を交わして、ドアを開け、通学路を歩き出す。

 同時に俺は仮面を被る。今日一日を無事に過ごせるようにするための、道化師の仮面を。

 ――今日俺は、ちゃんと床に就けますように。まどろみの中に落ちることが、できますように。

 教室に入るまで、俺はそんなことを考え、祈り続けた。

 

 

 

 

 進級初日なので、今日は始業式と新しいクラスにおける担任の自己紹介、明日の予定の説明などで、昼前に終了となった。

 本来ならこれで帰ることができるのだが、俺はそうはいかなかった。帰りの号令が終わると同時に、俺は席に着き直して、登校の間に買ったおにぎり2個を一緒に買ったお茶で流し込んだ。

 食べ終わるとすぐに席を立ち、図書室へと向かう。

 

 俺は図書委員会に1年生の時から所属している。部活とは異なり、委員会は進級時もそのまま継続されるわけではないが、希望することで継続することもできる。他の学校はどうなのか俺は知らないが。

 今日は新しく入った本や新入生用の貸出カードの整理のため、進級初日であるにも関わらず委員の仕事があった。当然ながら、継続を希望した人間のみで行うため、少ない人数で行う羽目になることが予想される。

 今日1日でいっぺんに終わらせるわけではないようなので、作業時間はそこまで長くないようだが、正直明日以降からでもいいのではないかとわずかながら思う。

 しかし、つべこべ言ってもしょうがない。翌日以降の作業が少しでも楽になるよう、できるだけ多くの作業をこなしておこうと考えながら、俺は図書室の中へ入った。

 

 

 

 

 

 

 ――まだ、誰も来てないのか。

 司書の人(基本的に図書室の仕事は委員の人間が中心で行い、司書がいるのは今日のような重要な仕事がある場合のみだ)に挨拶を済ませ、椅子に鞄を置く。

 だが、他の委員の姿はひとりも見えなかった。時間を考えても、俺が早すぎるというわけではない。

 不満そうな表情を浮かべ、『何で初日に仕事があるんだよ』みたいな愚痴でもこぼしながら、わざとゆっくり向かっているのだろうか。真面目な人間が多い図書委員が、そんなことをするとは考えにくいが。

 

「……来たか」

 

 やはり俺の考えは間違いだった。ぞろぞろと、多くの図書委員が図書室内に入ってくる。意外に継続を希望した人間はそれなりにいたようだった。ただその多くは、愚痴はこぼさずとも不満そうな表情をしていた。これだけは、俺の予想が当たったと言えるだろう。

 

 

 

 

 

 

「今日は、新入生の貸出カードの作成と、新しく入った本の整理を中心に行います。進級初日なので、今日は早めに終わらせる予定ですが、あまり作業が先延ばしにならないようにはしましょう」

 

 委員会活動開始前のミーティングを適当に聞き流す。話を進める委員長の3年生は、声こそ冷静だったが、表情は他の誰よりも面倒くさそうで、見るからに不満がだだ漏れだった。

 確か、『予約したゲームの発売日だから、始業式が終わったら速攻取りに行ってプレイしまくる』と他の委員に以前話していたことを思い出した。だからだろう。

 

「今回入った本は、去年の話し合いでも決めたようにライトノベルが多いですが、黒川(くろかわ)君の意見も取り入れ、高価な小説や図鑑も何冊か入れました」

 

 委員長がそう言うと、全員の視線が俺に向けられる。

 そういえば、そんなことを言っただろうか。

 

 確か、去年は今年入れる本は何がいいかを話し合った。その中で目立った意見は、『ライトノベルを入れたい』というものだった。『小説を読まない人でも、ライトノベルを読む人は結構いるので、図書室に入れたら利用者は飛躍的に増えるのではないか』という考えも、その時には出されていた気がする。

 だが、俺はそれに物言いをした。『自分もよく読むのでライトノベルを入れることは賛成だが、それだけではなく、高校生には手の出しづらい高価な小説や図鑑も入れるべきだ。手を出しづらい本を手軽に読める環境を作るのが図書室の本分ではないか』みたいな感じで言ったことを思い出す。

 

「黒川君の意見は図書室をより良くする、素晴らしいものだったと思います。正直自分もライトノベルを入れることばかり考えていたので、非常に勉強させられました。皆さん、黒川君に拍手を送りましょう」

 

 委員全員が俺に向けて拍手をする。その光景に少し面喰らいながら、俺は軽く会釈をした。

 

 別に拍手されるようなことをしたつもりはないのだが、まあ損することではない。むしろこれで、わずかではあるがコネクションも増えただろう。俺が物言いをしたのは、それが一番の理由なのだから。

 

 

 

 

 

 

 ほとんどの委員には新入生の貸出カードを作成する作業が割り当てられたが、俺は『図書室の発展に貢献することをした』ということで、比較的楽な、今回入った本を書棚に入れる作業と、書棚の整理をすることになった。もっとも、この作業が貸出カードの作成よりも楽な作業かどうかは人によるだろうが、少なくとも俺にとっては、名簿とにらめっこしながら行うそれよりはずっと好ましい作業だった。

 ただ、俺ひとりでは少々骨が折れるだろうということで、もうひとり作業に加わることになった。

 

「黒川君はすごいですね。私だったらああいう意見は言えないと思います……」

 

 わずかに落ち込んだような表情で、息を吐きながら本を整理するそのもうひとりとは、村上(むらかみ)文緒(ふみお)。2年に進級してから、同じクラスにもなった女子生徒だ。ちなみに俺と同様に、彼女は1年生の時も図書委員だった。

 

 彼女はおとなしい性格で、口数は多くない。今までの委員のミーティングにおいても、何か意見を出したところは見たことがなかった。それに伴って交友関係もそこまで広くはなく、親しい人間がいないわけではないが数は限られている。俺はそのひとり……と言えるだろうか。 少なくとも俺にとっては、ほとんど事務的なことしか話さない他の委員連中と比較して、彼女とはそれなりに会話をする方だった。

 

「正直、自分が読みたい図鑑を入れるための口実だよ。前にも言ったけど、俺、ほとんど小説読まないからね」

 

 そんなことを言ったら、『何で図書委員になったんだ』と首を傾げられるかもしれないが、俺が主に読む本は図鑑とライトノベルが中心であるというだけで、本を読まないわけではない。現に、この図書室にある魚・昆虫・植物の図鑑は1年生の段階でほぼ全て読み尽くした。ライトノベルの方も、以前から読みたかった作品が何種類か入ったので、図鑑に比べればはるかに遅いペースではあるだろうが、読み進めていくことになるだろう。

 

「でも、みんな感心してますよ。それに自分のためだけだったら、こういうことは出来ないと思います」

 

「……どうだろうね」

 

 村上さんの言葉からは、『謙遜する必要はない』とでも言いたげな雰囲気が漂っていた。その言葉に息を吐いて、俺は投げやり気味に呟く。

 謙遜など、俺は全くしていない。これは完全に独善的な意図で行ったことなのだから。

 

「……ん?」

 

 そんなことを思いながら、箱に入った本を整理していくと、見覚えのあるタイトルが目に入った。

 

「これ、入ったんだ……」

 

 それは辞書ほどもある分厚い小説で、チリの作家が書いた、いわゆる海外文学だった。裏表紙を見ると、前にインターネットでも見た通り、5千円以上の値段であった。

 

「それ、黒川君が入れてほしいって言ってた本ですか?」

 

「そうだね。もっとも、俺が読むわけじゃないけど」

 

 村上さんの言う通り、俺が欲していた本は、図鑑よりもこの小説であった。これは、コネクションを大きくするために必要……とまではいかないにしても、あるとより良いものであったので、導入されたのは幸運だった。

 内心俺は安堵しつつ、村上さんと共に整理の作業を進めていった。

 

 

 

 

 

 

「あっ、二階堂君……」

 

 しばらく整理の作業を続けていると、村上さんがある人の名前を口にする声が聞こえた。その『ある人』は、俺が今最も図書室に来てほしいと思っていた人物だった。

 声のした方へと向かい、俺も声をかける。

 

「ちょうどよかった。今日、二階堂くんが探していた本が入ったよ」

 

 二階堂(にかいどう)正美(まさみ)。1年、2年と連続で同じクラスになった男子生徒だ。

 彼もまた口数は多くない性格だが、それは村上さんよりも顕著で、苦手というよりは自ら人とのコミュニケーションを絶っているという印象だ。

 しかしながら、彼は成績が学年1位であり、運動神経も極めて良い。体格もかなり良く、身長は190cmあると本人から聞いた。さらに一人暮らしをしており、家事も全てこなすということから、その少ない人付き合いに反して憧れを持つ人は多い。

 

 そういった要素を持つことから、俺は彼とのコネクションを形成するために、彼に対して1年生の頃から積極的に交流していた。とは言え、俺の方からしか話しかけたり、昼に誘ったりはしておらず、彼の方から話しかけられるといったことはほとんどないので、『ゴマすり』と形容すべきなのかもしれない。

 先ほどの小説は、以前彼が図書室に導入してほしいと俺に頼んだ本であった。俺があの本を入れてほしいとミーティングで頼んだのは、彼に読ませることが目的だった。これも、『ゴマすり』のひとつと言えるだろう。

 

「……よく入ったね。あの時は完全に駄目もとで頼んだんだけど」

 

「終業式のちょっと前に、4月から新しく入れる本について会議があったんだけど、俺がその本を候補に挙げたら今日運よく通ってくれててね。高い本だからちょっと厳しいかなとも思ったけど、よかったよ。もし読むなら持ってこようか?」

 

「あ、ああ……悪いね」

 

 わずかに困惑したような二階堂くんの顔を一瞬だけ視界に収め、俺は書棚に入れたばかりの、先ほどの本を取りに向かった。

 俺が二階堂くんに行っている『ゴマすり』の意図を、彼自身が分かっているかどうかは分からない。ただ、これまでに嫌な顔をされたことはなく、うっとうしいという素振りをされたこともないので、別に問題があるわけではないようだ。

 

「ほい。それにしても、かなりでかい本だよね。余計なお世話だけど、貸し出し期限までに読み終わるかな? まあ、延長すればいい話だけど」

 

「……ここまででかい本を読むのは初めてだけど、多分大丈夫。5日もあれば読み終わると思う」

 

「マジか……俺じゃ1か月でも読み終わらないだろうな……」

 

 前に読書する彼を観察していて分かったが、二階堂くんはかなり本を読む速度が速い。本の種類にもよるが、かなり分厚い本でも数時間で読破してしまうことがよくあった。

 さらに入学してから現在に至るまで、二階堂くんは授業が終わるとすぐ、それもほぼ毎日のように図書室を訪れ、最終下校時刻まで本を読み続けることが日課となっていた。

 今日もすぐに来るかと思ったが、少しばかり遅れてきたのは委員の仕事があると分かっていたからだろうか。俺が比較的よく飲む炭酸飲料の匂いがわずかにしていることから、何か飲んで時間を潰していたのだろう。

 

「これ以上ここにいても邪魔になりそうだから、そろそろ行くことにするよ。とりあえずこの本借りたいんだけど、いいかな?」

 

「りょ~かい。今二階堂くんのカード取ってくるから、ちょっと待ってて」

 

 委員の仕事があるからと言って、他の生徒による利用を禁止しているわけではないし、別にいても問題はないのだが、それでも彼はすぐ図書室をあとにした。他の利用者はいなかったので、邪魔になると判断したのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 結局作業が全て終わったのは、予定の時間よりも1時間ほど経ってからであった。名簿の確認などにまごつき、カードの作成が予定よりも遅れたためである。本の整理は二階堂くんが図書室を出てから間もなく終わったので、俺と村上さんもカード作成に加わったが、それでも遅れを取り戻すには至らず、延長する羽目になった。

 

 

 

 

 

 

 色々あったが、何とか今日も無事に過ごすことができた。一体いつまで、この状況が続いてくれるだろうか。この安寧は、いつになったら終わってしまうのだろうか。

 床に就く際、眠りに落ちるまで俺はそんなことを考え続けた。

 

 

 

 

 こんな先の分からない日々が、いつ安寧が崩壊するか分からない日々が、俺は大嫌いだ。

 

 

 

 




作中に登場した小説は、ロベルト・ボラーニョというチリ人作家の『2666』という作品がモデルになっています。

自分も図書館で借りて読みましたが、最初の章しか読み終われませんでした。
いずれまた借りて読み進めたいとは思うのですが……


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虎の威を借る蛇

 

 

 

 

 俺がゴマすりを行う人間は、二階堂くんだけに限らない。基本的には俺が話しかけることによって関係を形成する場合がほとんどだが、逆の場合もわずかにあった。

 

「はい、この前話してた限定版」

 

「うわ~っ、これだよこれ! ありがとう黒川ちゃ~ん!」

 

 前者の場合における代表的な人物として、俺と同じクラスに所属する小野寺(おのでら)千鶴(ちづる)が挙げられる。ちなみに1年生の時も同じクラスだったので、連続で同じクラスになったというわけだ。

 

 漫画研究部に所属する彼女は、当然ながら漫画を読んだりアニメを見たりすることを趣味としている。さらに同人誌を執筆し、即売会で頒布することもある。以前何冊か彼女の描いた同人誌をもらったが、完成度は高く、俺は気に入っていた。

 俺も漫画やアニメを好む人間なので、話のネタを多く共有できる彼女はゴマすりをするのにうってつけの人物だった。

 今日は彼女が買い忘れたという漫画の限定版――こういったものは、DVDなどの特典が付いている――をたまたま入手できたので、学園に持ち込んで渡したのだった。

 

「あっ、今お金渡すね」

 

「別にいいんだけどね、これくらいなら」

 

「いやいや、さすがにそれはまずいでしょうに。安くないんだし、そこまで施してもらったら受け取れなくなっちゃうよ」

 

「まあ、そこまで言うならもらっとくけど」

 

 代金の受け取りに遠慮がちな姿勢を見せたのもゴマすりの一環だった。だが、小野寺さんの厚意を無視して意固地になるのは逆効果だと判断し、素直に代金を受け取った。むしろ素直に応じることが、彼女に対してのゴマすりになるだろう。

 

「前にも言ったけど、黒川ちゃん漫研に入りなよ。歓迎するよ? 図書委員の仕事優先で大丈夫だし、来たい時に来ればいいしさ」

 

「……俺も前に言ったけど、俺は絵が下手糞だからほとんど何もできないよ」

 

「私だって初めはそうだったんだし、これから上手くなると思うよ? それに、前見せてくれた模写、なかなか良かったじゃん」

 

「俺ができるのはあくまでも模写だけだよ。小野寺さんみたいに、オリジナリティーのある絵は無理だね」

 

「そんなことはないと思うけどねぇ。まあ、無理強いはしないけど、気が変わったらいつでも来なよ」

 

「うん、一応は考えておくよ」

 

 小野寺さんとの会話を終え、俺は自分の机に鞄を置く。

 趣味に反して(漫画やアニメが好きな人間が、コミュニケーションが苦手だと考える時代はもう過ぎ去っているとは思うが)小野寺さんは人付き合いが良く明るい性格であり、かと言って変に馴れ馴れしいわけでもないので、話しやすい人間だった。彼女のこういった性格も、ゴマすりをしやすい要素と言えた。

 

 さて、次は――。

 机に鞄を置いた俺は、そのまま席には着かず鞄を開けると、あるものを取り出し、それを持ってある人物の席へと向かった。

 

「有栖川さん、CD持ってきたよ」

 

「あっ、ありがとう~」

 

 そして後者の場合の代表的な人物が、やはり同じクラスに所属する有栖川(ありすがわ)小枝子(さえこ)だった。

 彼女は1年生の時は違うクラスだったが、何度か会話を交わしたことはあった。図書室をそれなりに利用していたことも関係しているだろうか。

 

 彼女は合唱部に所属し、歌唱力も高いと聞く。俺は聞いたことがないが、合唱でソロパートを歌ったこともあるそうなので、その評価は間違いないだろう。もちろん歌うだけではなく聴く方も好きなので、俺は彼女と好きなアーティストについて色々話すことがあった。CDを貸すのは今日が初めてだが。

 俺が聴くアーティストはさほど多くないので、小野寺さんほど趣味が合うというわけではないが、彼女も人付き合いの多く、話はしやすい人物なので俺にとってのゴマすりの対象となりえた。

 

「でもこの歌手の歌、結構暗い歌詞だからあんまり有栖川さん好みじゃないかも。それだけは気を付けといて」

 

「大丈夫よ。あまり聴いたことないけど、暗い歌詞が悪いってことはないと思うし、明るい歌詞と違った視点で勉強になることも多いと思うの。それに黒川くんが好きな歌手なら、きっといい歌だと私は思うわ」

 

「それならいいけど……」

 

「それよりも……」

 

「?」

 

「今、小野寺さんとすごく仲良さそうに話してたでしょ? もしかして、付き合い始めたの?」

 

「……はぁ」

 

 有栖川さんは、他人の恋愛話を好むという変わった趣味があり、恋愛相談に乗ることもかなり多く、そのおかげで付き合うことができたという報告もあったと聞く。その一方で、過剰なまでにお節介を焼こうとしたり、詮索してきたりすることも多いので、彼女の行動は賛否両論のようだ。

 

 彼女の詮索対象は俺も例外ではなく、少しでも女子生徒と会話しているところを見られれば、『好きなの?』とか、『付き合ってるの?』といったことをひっきりなしに聞いてくる。

 そもそも俺が有栖川さんと知り合ったのは、図書委員の仕事をしている際、彼女から『村上さんと付き合ってるの?』と尋ねられたのが始まりだった。どうやら、俺が村上さんと会話している光景が彼女には恋人同士の会話に見えたらしい。どうやったらそこまで飛躍した考えに至れるのかと、内心突っ込みを入れたくなったのは言うまでもない。

 

 それ以外の時にも色恋沙汰に関して詮索してくることが多かったため、失礼ながらうっとうしさを感じていた俺は、話題逸らしのために音楽の話題を持ち出した。それが功を奏し、それ以降は色恋沙汰の話を持ち出したら、すかさず他の話題で彼女の意識を逸らすようにしている。

 

「付き合ってないって。俺のことよりも、有栖川さんはどうなの? 好きな人とかいないの?」

 

「……私? う~ん……?」

 

 だと言うのに、有栖川さんは自分の色恋沙汰にはまるで関心を示さない。いやむしろ、『自覚がない』と言うべきかもしれない。男子生徒からの人気は高いのだが、彼女はまるで理解しておらず、言ってしまっては悪いが『鈍感』なのだ。ある意味『高嶺の花』と形容できよう。

 

「まあいいや。じゃあ、暇な時にでも聴いてみて。返すのはいつでも大丈夫だから」

 

「うん、ありがとう。もし好きな人のことで相談したいことがあったら、いつでも言いに来てね」

 

「まあ、機会があればね」

 

 そんな機会など訪れないだろうと思いながら、俺は有栖川さんの席をあとにし、自分の席へと戻った。同時に、ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴り響いた。

 

 

 

 

 

 

 二階堂くん、小野寺さん、有栖川さんと、ここまでは俺と同じクラスの人間だが、他クラスにも俺がゴマすりを行う人間はもちろんいる。

 隣のクラスに所属する、高桑(たかくわ)源五郎(げんごろう)鴨田(かもた)克之(かつゆき)芹澤(せりざわ)一二三(ひふみ)の3人がその代表格だった。3人ともかなりの有名人……とは言っても、それは学校行事で様々ないたずらをするからという、好ましい理由によるものではなかった。

 

 しかしながら、高桑くんは冗談を言って人を笑わせるのがうまく、さらに家が不動産屋を経営しているため、建築などの知識は非常に多い。

 鴨田くんはクラス内での討論では積極的に意見を出し、同級生からの信頼が厚い。そして高桑くんと同じように、冗談好きな性格だ。

 芹澤くんは他のふたりに比べて落ち着いた性格だが、実は行事のいたずらは彼がもっともたちの悪いことをするらしく、高桑くんも鴨田くんも手を焼かされることがあるようだった。ただ、彼は成績が学年10位以内の常連であり、運動神経もかなり良いので、女子生徒からの人気は結構高いと以前小耳に挟んだ。

 

「はい、前言ってたゲーム。笑えるとは言ったけど、クソゲーだから期待はあまりしないでね」

 

「サンキュー将ちゃん。いや、今まで将ちゃんの貸してくれたゲームが期待はずれだったことなんてないから、今回も期待するよ。仮にそうじゃなかったとしても別に文句は言わないしね」

 

 昼休み。

 いつもは二階堂くんととることの多い昼食だが、鴨田くんにゲームを貸すために、今日は3人ととっている。

 

 

 

 

 俺が彼らと交流するきっかけは、1年生の時に行われた球技大会だった。

 

 テニスを俺は選択したのだが、その際の対戦相手の3年生がろくでなしで、終始暴言を俺に吐き続けていた。憤りを感じながらも、俺は無視していたが。

 試合には僅差ながら俺が勝ったものの、『負け惜しみ』という表現が可愛く思えるほどの暴言を相手は懲りずに吐き続け、さすがに俺も我慢の限界となった。

 

 

『ごちゃごちゃうるせえんだよ、クソが』

 

 

 俺の言葉に相手は逆上し、タックルを仕掛けて俺を倒し、殴りかかろうとしたが、俺はその腕を掴んで三角絞めを極め、絞め落とした。先生の制止の声は聞こえていたが、そんなものは無視した。

 失神したことを確認した俺は技を解除し、白目をむいて失神している相手の顔面に唾を吐きかけ、ラケットを先生に返却し、そのまま教室へ戻って鞄を取り、帰宅した。当然、次の試合は棄権した。

 

 

『そのままそこで這いつくばって死んどけ、カスが』

 

 

 意外なことに、俺の行為は校内でほとんど噂にならなかった。恐らく、先生たちが変に広まらないように取り計らったのかもしれない。しかしながら、その話をどこで聞きつけたのか、俺にコンタクトを取ってきた人物がいた。

 その人物が、3人――もっぱら彼らは『3バカ』と呼ばれているらしいが、そんな表現は使いたくないので『3人』とする――の内のひとり、芹澤一二三であった。

 

 芹澤くんによると、俺と対戦した3年は体格の小さい人間やおとなしそうな人間にばかり因縁をつけていた奴だったらしく、彼はいつかぶっ飛ばしてやろうと思っていたそうだ。

 しかし俺のやったことを聞きつけ、ざまあみろと思う気持ちと、ぜひとも倒した人間と交流してみたいという気持ちが高まり、いてもたってもいられなくなったという。

 加えて彼は、俺と同じテニスを選択しており、俺が棄権していなければ対戦するはずの相手でもあった。

 

『もしよかったら、色々教えてくれないか! 黒川くん……いや、将ちゃん!』

 

『は、はぁ……』

 

『おい一二三、お前何やってんだよ! 明らかに困惑してるじゃねえか!』

 

『ごめん、黒川くん……だったっけ? こいつちょっと頭おかしいんだよ』

 

 凄まじい勢いで話しかけてきたことや、いきなり『将ちゃん』と呼ぶという馴れ馴れしさに、かなりの不信感を抱いていた俺だった。高桑くんと鴨田くんのふたりも、慌てた様子で止めに入っていた。だが、見た感じ3人ともクラスの人気者という印象を俺は感じ、コネクションの形成にうってつけと判断した。

 

 そして、今は昼を一緒に食べたり、ゲームや漫画を貸したりするなどの関係を形成するにまで至ったというわけだ。

 結局高桑くんも鴨田くんも、芹澤くんに流される形で俺のことを『将ちゃん』と呼ぶようになっている。この呼ばれ方は個人的に嫌いではないので、特に訂正を求めることはしていない。俺の方は出会った頃と変わらず、3人とも名字に『くん』付けで呼んでいるが。

 

「そういえば将ちゃん、ひとつ聞きたいことがあるんだけど」

 

 俺が3人と出会った経緯を思い返していると、芹澤くんが俺に質問をしてきた。

 

「将ちゃんのクラスに、二階堂って奴いるよな? そいつと将ちゃん、仲がいいって聞いたんだけど、本当か?」

 

「……えっ? まあ、仲がいいって言えるかどうかはちょっと分からないけど、クラスでは一番話すかな。昼もよく一緒に食べるしね」

 

 芹澤くんと二階堂くんが、仲がいいという話は聞いたことがなく、ましてや会話をしている場面すら俺は目にしたことがない。それは他のふたりにも言えることだった。接点など少しもないと思っていたので、芹澤くんの質問に俺は驚いた。

 

「そっか……」

「……」

「……ふぅ」

 

 俺の答えに生返事をする芹澤くん、俯く高桑くん、重々しく息を吐く鴨田くん。三者三様の反応だったが、物悲しい表情であることは全員が共通していた。

 

「実はあいつと俺たち、中学同じなんだ。ただ同じってだけじゃなくて、ダチだったんだよ……」

 

「だった、ってことはつまり……」

 

 彼らの表情とその言葉から、決して好ましくない状況であることは容易に想像が付いた。

 

「まあ、俺たちはそうだとは思ってないけど、きっとあいつはそう思ってるだろうな……。全部、俺たちの責任だからな……」

 

「……」

 

「だから、あいつと仲良くできてる将ちゃんが羨ましくてさ……」

 

「……」

 

 その後も昼休みの時間が終わるまで、3人とも『謝りたい』『どうしたもんかな』といった言葉を何度も繰り返していた。

 一体何があったのかと尋ねれば、恐らく教えてくれたかもしれないが、あえて俺は何も聞かなかった。

 

 これはいいことを聞いたかもしれない。

 むしろ俺は経緯よりも、3人と二階堂くんの間に接点があり、現在はぎくしゃくしてしまっているという状況そのものに着目していた。

 

 ――うまくいけば、より大きなコネを作れるかもしれない。すぐに実行するのはさすがに白々しいから、しばらくしてからだ。

 

 そんな考えを俺は頭の中で反芻(はんすう)していた。

 

 俺は彼らにとって切実な問題でさえも、ゴマすりのための道具として利用しようとしていた。

 この問題が俺にとって利用価値がないと判断していたなら、きっと俺は何かをしようとも思わなかっただろう。『どうなろうが知ったことか』と考えていただろう。

 

 だって、俺は打算的に行動しているのだから。

 この学園で誰かと交流するのは、全て打算的な目的意識を持って行っていることなのだから。

 

 

 

 



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光り輝く太陽と、暗く歩む冥王星

 

 

 

 なんでだよ。なんでなんだよ。

 少しぐらい、手を差し伸べてくれてもいいじゃねえか。

 僕は何か罪でも犯したって言うのか。この結果は、天罰覿面だとでもほざくのか。

 

 あれのせいだとでも言うってのか。

 冗談じゃねえ。だったら黙って泣き寝入りするのが正しかったのか。

 ふざけんな。そんな馬鹿げたことは絶対にごめんだ。

 あれが『善』とは言わずとも、『悪』だなんてありえねえ。断じてありえねえ。

 

 そこまで信じちゃいなかったけど、もう決めた。はっきり分かった。

 僕は神様なんて信じない。神様なんてのはどんな奴よりも、どんな残忍な犯罪者よりも腐り切った、ろくでなしのクソ野郎なのだ。

 みんなみんな、くたばっちまえ。いっそのこと、僕が殺してやる。ぶっ殺してやる。

 

 

 

 

「…………くそったれがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ―――――――――――――――――っ!!」

 

 他に誰もいない家の中を、慟哭が響き渡った。怒りと、悲しみと、怨恨の慟哭が、響き渡っていた。

 慟哭の主の足元には、身体測定や健康診断とおぼしき結果の紙が落ちている。それは極めて良好な診断結果であった。本人以外の人間からすれば。

 

 

 

 

氏名 黒川将平

身長 158.1 cm

体重 54.6 kg

座高…………視力……………聴力…………心電図…………

 

 

 

 

 

 

 もう少し後になってからにしようと思っていたが、予定を変更し、すぐ実行に移すことにした。実行するのは何かと言うと、二階堂くんと、高桑くん、鴨田くん、芹澤くんの3人との関係を、良好なものに戻すことだ。

 経緯も何も知らない完全な部外者の俺がそんなことをするのは、どう考えても無謀な行為でしかなく、上手くいく確率も限りなく低いだろう。

 だが、確率の低さに怯えてためらっている余裕はない。ここで何もしなければ、俺は終わりを迎えるだけだ。もちろん失敗しても同じ結果だろうが、いずれにしても賭けに出るしかない。

 しかし、成功できれば卒業までは安泰した生活を送れる。安寧は保障される。期間は決して長くはないが、次にどうするべきかを考える余裕は十分に作れるだろう。

 

 ――もう、やけくそだ。

 長期的に物事を考えることなど、俺にできはしない。一日一日を、『今』を確実に生きることしか、俺にはできないのだ。

 こんな、クソみたいな人生を生きていくには、こうする以外に方法はないのだ。

 

 

 

 

 

 

「この本、二階堂くんが好きそうなやつだから読んでみなよ」

「二階堂くんって、何のゲームが好き?」

「これ飲みなよ。確か好きだったよね?」

 

 そう決めてから、彼の好きそうな本を貸したり、ゲームを貸そうとしたり(二階堂くんはほとんどゲームをやったことがないそうなので、当然ハードも持っておらず、その時は貸せなかった)、飲み物をおごったりと、俺は過剰ともとれるくらいに二階堂くんに接し続けた。

 傍から見れば、そっちの気があると思われてもおかしくなかったかもしれない。

 

 彼との距離を縮めることにより、3人との間に何があったのかを聞きやすくしようと考えたためである。もっとも、こんな一方的なお節介焼きで俺を信用するかなど甚だ疑問ではあったが。

 しかしながら、二階堂くんは戸惑った表情を見せながらも、特に俺の行為にうっとうしさを感じているような素振りは見せなかったので、間違っていたわけではなかったのかもしれない。

 もちろん、彼から経緯を話してくれれば食いつきやすかったが、受け身なやり方は時間がかかると思い、考えには入れていなかった。

 

 

 

 

 しかし、俺の予想よりもはるかに早くその時は来た。

 

 

 

 

「だから、クソゲーだけど笑えるクソゲーなんだよね。もしやりたかったら貸すよ」

 

 学校からの帰り道。

 俺は二階堂くんと共に帰路についていた。さほど遠くない距離で道が違うのですぐに別れてしまうが、同じ徒歩での登下校であるため、このように何度か一緒に帰ることがあった。

 『このゲームなら携帯機だし、学校にも持ち込みやすいだろう』などと考えながら(鴨田くんの時も同じことが言えるが、『そんなことより、何でクソゲーを貸すんだよ』と突っ込みが来るだろうか)、俺だけが喋り続けるという状態が続いていた。

 

「……黒川くん」

 

 しかしそれは、ようやく口を開いた二階堂くんによって破られた。

 

「もう、俺なんかに構うのはやめた方がいい」

 

 そして二言目には、下を向いていた視線を俺の方へ移しながらそう言った。

 

 ――来た。

 

 経緯を直接言ったわけではないが、二階堂くんのその言葉は3人との関係を元に戻すための足がかりになると俺は感じた。予想よりも早く訪れた機会に少し驚いたが、俺は真剣な表情を装いながら、『何があったの?』とか『良かったら理由を教えてほしい』といった言葉を口にする。

 

 ――――何としてでも、成功させてやる。俺自身だけのために。

 

「…………だって俺、死ぬことしか考えてないから」

 

 『やっぱりそうだったか』と言うほど予想をしていたわけではないが、彼が暗かった理由に納得は出来た。多分、3人との関係の悪化が原因のひとつなのかもしれない。とはいえ、それだけで『死ぬことしか考えていない』というのはまずないと思う。何か大きな理由があるに違いない。

 そう思いながら、俺は素っ頓狂な声をあげる『演技』をした。その後も、より真剣な表情を装い、『俺で良ければ相談に乗る』、『少しだけ踏みとどまってみないか』という、わざとらしい説得を試みた。

 

 

 

 

「てめえに、俺の何が分かるっていうんだ!」

 

 そんな俺に、二階堂くんは激昂した。

 まあ、死にたいと思っている人間に対して俺が言った言葉は、はっきり言って効果があるとはとても言えないものなので、彼が怒りをあらわにするのも無理はないと言えた。

 もちろん、この反応も予想はできていた。彼の口にした『無菌培養された様な奴』という言葉には、少なくない苛立ちを覚えたが、ここで俺がそれを表に出しては話がこじれるだけと予想した。

 

 それに彼の表情を見て思ったが、彼は本心で激昂しているようには見えなかった。罵倒の言葉もあまり力強さが感じられず、恐らく彼の本当の性格は、こんな暗い人間ではないと、俺のような打算的な人間ではないと感じた。

 

 俺は二階堂くんに対抗するように、高桑くんたち3人が待っていること、彼が死んだら悲しむ人間はいるし、現に俺も死なれたら悲しいと思っていること、そして、『俺も死にたいと思ったことがある』ということをまくし立てた。

 ただ、あまりこの方法は使いたくなかった。ひとつめは特に問題ないが、ふたつめは嘘っぱちでしかない。高桑くんたち3人は間違いなく悲しむだろうが、俺は彼がたとえ死んだとしても、『ゴマすりできる相手がいなくなってまずい』という、道具をなくした人間のような心情にしかならないだろう。ある意味それも、『悲しい』という気持ちなのかもしれないが。

 そして何より、みっつめも――――嘘だ。嘘でしかない。これは一番言うべきではなかったことだったのだが、この時の俺は実際には何としても彼を繋ぎとめるため、なりふり構っていられなかった。後から思うと、迂闊だったと強く感じる。

 

「……っ!」

 

 俺の説得は、二階堂くんを余計に怒らせるか、逆に呆れられるだけと予想していたが、意外にも彼は心打たれた様な――俺が勝手に思っただけだが――表情になると、俺の前から駆けて行った。

 

 ――いくら何でも、上手く行きすぎじゃないだろうか。

 

 駆けていく二階堂くんは、一体何を思っていただろうか。『必死で説得してくれたのに、それから逃げた薄情者』とでも思っていただろうか。

 

 

 

 

 

 

 ――違うんだよ、二階堂くん。薄情者は、俺の方だ。俺は君を、自分の安寧のための道具ぐらいにしか思っていないのだから。そして、それを少しも、悪びれちゃいないのだから。

 

 

 

 

 

 

 帰宅した俺はすぐ芹澤くんに連絡し、明々後日の放課後に空き教室をひとつ確保するように頼んだ。この作戦の『トリ』を飾るための場所を。

 ……ちなみになぜ芹澤くんに連絡したのかというと、一番成績が良く、かつ冷静に物事を判断できる人物だと思ったからである。

 高桑くんと鴨田くんを馬鹿にしているという意図は…………ない、はずだ。

 

 そして明々後日の放課後。

 俺は3人を待機させていた空き教室に二階堂くんを連れ込んだ。二階堂くんは睡眠をろくにとっていなかったのか、目の下に隈ができ、かなりげんなりしていたが、気遣う余裕はなかったし、余裕が仮にあったとしてもそんなことをするつもりは全くなかった。

 

 逃げる気力もないのか、3人の姿を見た二階堂くんは床に座り込んでしまう。

 俺は扉の付近に立って、ことの成行きを見守った。目を閉じていたので、『聞いていた』と言う方が正しいかもしれないが。

 

 

 

 

「…………ふふっ。そんなら、もう、いいか…………俺の負けだ。……死ぬのは、やめだ。やめやめ……くだらねえ……」

 

 三日前の、俺の言葉に対する二階堂くんの行動から考えて、よりを戻せる可能性はかなり高いと踏んでいたが、予想以上にあっさりと二階堂くんは3人との関係改善を受け入れた。同時に喜びの声があがる。俺も、嬉しそうな『ふり』をした。

 

 ……正直なところ、他者との関係を改善できる二階堂くんたちが、俺にはうらやましかった。俺はそんなことできそうにない。

 俺と、目の前でわいわいと喜ぶ4人の仮初めの関係も、ここを卒業すると同時に消えてなくなるだろう。だが、それでいい。いやむしろ、そうであるべきなのだ。

 

 こんなしっかりとした強い友情を持つ4人の中に、打算でしか動かない人間など入りこんではならないのだから。

 

 

 

 

 

 

 その後二階堂くんは、別人と見紛うほどに明るくなった。

 教室に入るや否や、やたらとテンション高く挨拶したり、体をくねらせながらオネエ言葉を発したりしていた。その行動に初めはクラスの人間もおっかながったり、混乱したりしていたものの、今では何事もなかったかのように彼と接している。

 

 それは間違いなく、二階堂くんがずっと心の内に隠してきた本当の姿なのだろう。俺にはそれが、太陽のように眩しかった。

 それに比べて、俺は――――惑星から外れ、ひとり空しく軌道を回る、冥王星のようだった。しかし、それでいい。それでいいんだ。

 

 

 

 

 

 

 今日も今日とて図書委員の仕事をこなす。

 整理するという名目で、俺は委員の仕事が暇な時にサボって読むための本を探すために、図書室の奥にある書庫を物色していた。

 図書室中の魚や植物の図鑑はほぼ全て読んだと以前に言ったが、ここの本はあまり読んだことはない。蔵書の方も俺が生まれる前に発行されたものばかりで、むしろ全てと言っても差支えない。

 しかしながら、以前にここから引っ張り出して読んだ古い図鑑が非常に面白かったため、他にもないかと探しているところなのだ。

 

「ふーっ……」

 

 埃のかぶった植物図鑑へ、息を吹きかけながらそれを手に取る。

 今日はこれでも読みながらカウンターにいるか、と思いながらドアへ引き返そうとすると、ある人物の姿が目に入った。

 

「――――」

「――――」

 

 それは、カウンターで村上さんと談笑を交わす二階堂くんの姿だった。何を話しているのか俺には聞こえなかったが、村上さんの方も真剣な表情をしたり、顔を赤らめていたりしていることから、変な話をしているわけではないことは明確だろう。

 

 以前から、多少ではあるが予想はしていた。本を借りたり返したりする際は、いつも二階堂くんと村上さんは話をしていた。それだけではなく、芹澤くんたちとよりを戻した日の朝、疲労困憊で机に突っ伏していた二階堂くんに真っ先に声をかけたのも村上さんだった。

 憶測でしかないが、そう遠くないうちにふたりは結ばれるのだろうと思った。ふたりなら間違いなく仲良くやっていけるに違いない。その時は心の中で、俺はふたりを祝福しよう。

 

 

 

 

 

 俺? そんなもの、できるわけがない。恋人はおろか、友達だって俺にはできるわけがないのだ、そんな崇高な存在は。

 

 

 

 

 そもそも、俺には恋人も友達も作る資格などありはしない。

 かけらほども、ありはしない。

 

 

 

 



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気遣いか、やつあたりか

 

 

 

 

 正直、今は二階堂くんと顔を合わせたくなかったので、俺はまた書庫の奥へと踵を返し、本の物色を再開した。

 15分ほどした所で、もう一度図書室の様子を確認する。もう、二階堂くんの姿はないようだった。それにほっと一息つきながら、俺はカウンターへと戻る。しかし、カウンターには別の意味で厄介な人物がいた。

 

「ぐふふ~っ、文緒ちゃん独り占め~っ♪」

「も、望月さんってば……あっ、黒川君、望月さんを何とかしてください……」

 

 戻ってきた俺に気付き、村上さんは助けを俺に求める。

 その村上さんに抱きつき、おおよそ女性がするものとは思えない下品な言葉と表情の組み合わせを披露しているのは、隣のA組に所属する、望月(もちづき)エレナだった。

 

 写真部にも所属する彼女は、校内や学校行事などの写真撮影を主な仕事としており、昨年度における受験生向けの学校紹介のパンフレットにも、彼女の撮った写真がかなり多く用いられたと聞く。

 つまりと言うべきか、彼女の写真撮影の技術はかなり高く、コンテストでの受賞経験もある。学校紹介のパンフレットを始めとして、俺も何度か写真を見たことがあるが、どれも目を引くものだったと個人的には思う。

 

 ……しかしながら、彼女は色々と問題を抱えた人物でもあった。それは、過剰なまでの女子生徒好きであるということだ。今村上さんにしている行動が、まさにそれを証明していると言えるだろう。

 写真に関しても、大半が女子生徒を撮ったもので、パンフレットに使われた写真は先生や生徒会などの依頼を受けて、半ば仕方なく撮影したものだった。

 

「……望月さん、その辺で勘弁してあげなって」

 

 望月さんの経歴を思い出してここで棒立ちしているわけにもいかない。俺は望月さんを窘めるが、彼女は自分の世界に入り浸ってしまい、聞こえていないようだった。

 

「文緒ちゃんはどうしてこんなに可愛いのかしら~♪」

「は、放してください……」

「…………」

 

 こんな光景を目にすると、村上さんは望月さんのことをうっとうしい存在と思っていそうな気もするが、意外にもふたりの仲は良く、一緒に出かけることも多いと村上さんから以前聞いたことがある。

 性格が正反対のふたり。望月さんは村上さんに対して『可愛い』といった単純な好意以外にどんな感情を持っているのかは分からないが、村上さんの方は望月さんの積極的な性格を評価しているようだった。

 そういう背景が分かれば、この光景も微笑ましいと取れるのかもしれない。

 

 だが、俺は――――。

 

「文緒ちゃ~ん……って、きゃっ!?」

 

 俺は望月さんの腕を掴み、半ば強引に村上さんから引きはがした。

 

「……そこまでだ、望月さん」

 

 俺がそんなことをするとは思っていなかったのか、望月さんはぽかんとした表情で目をぱちくりさせていた。

 

「望月さんの気持ちは分かるけど、少しは相手の気持ちを考えないと。あんまりしつこいと、いずれ誰からも相手にされなくなっちゃうよ? 望月さんは分別がない人間じゃないんだから、限度を見極めなきゃ。それに他の利用者もこれから来るかもしれないんだし、騒がしくしたら迷惑だって」

 

「ご、ごめんなさい……」

 

 俺の言葉に望月さんは縮こまって謝罪する。

 その性格上、男子生徒とはあまり会話をしない彼女だが、標的――そう言うのは語弊があるだろうか――の村上さんと同じ図書委員かつ、一緒に作業をすることが多いということから、俺とはそれなりに話をする方だった。

 素直に応じたのは、そのためだろうか。とは言え、あくまで俺は『ついで』であることは否めないが。

 

「あ、ありがとうございます……黒川君」

 

 そんな俺の背後から、村上さんの若干戸惑いじみた声音の礼の言葉が聞こえた。普通なら、彼女に対して労いの言葉をかけるかもしれない。

 

「……村上さんも村上さんだよ?」

 

「……えっ?」

 

 しかし、村上さんの方に向き直った俺は、彼女に対しても苦言を呈した。

 

「本気で嫌だって思うなら、はっきり『やめてくれ』って言わないと。以前もここで同じようなことがあって、その時はちゃんと言ったんでしょ? それなのに、されるがままに逆戻りしちゃってるじゃない。仲がいいからこそ、いいことと駄目なことの区別ははっきりしないといけないんじゃないの?」

 

「あっ……ご、ごめんなさい……」

 

 村上さんも望月さんと同様に、縮こまってしまった。

 そんなふたりの姿を見ても、俺は別段罪悪感など湧かなかった。しかし、俺はふたりをフォローする言葉を口にする。ゴマをするために。

 

「……ごめん、俺も言いすぎた。今の言葉は忘れて」

 

「……ううん、言いすぎなんかじゃないわ。ありがとう、黒川くん」

 

 テンプレート通りと言っても過言ではない俺の言葉に、意外にも望月さんは感謝の言葉を述べた。男子生徒に対してそんなことを言う彼女の姿は、かなり珍しい光景と言えるだろう。

 

「私にそういうこと言ってくれる人ってほとんどいなかったから、調子に乗りすぎてたかも。おかげで、大事なことが改めて分かったと思うわ」

 

「……そう」

 

「……私も、あの時から少しずつ変わろうって思っていたのに、全然変われてませんでした……でも、黒川君の言葉で変わるきっかけが見つけられたと思います。ありがとうございます」

 

 村上さんの方も、俺に頭を下げながらそんなことを言う。

 

「え、えっと、黒川くん。うるさくはしないから、女の子の写真は撮ってもいいかしら……?」

 

「……別に俺は風紀委員じゃないし、写真を撮ることに口出しはしないよ。節度を持ってやってくれれば、ギャーギャー言うつもりはないから」

 

「……あ、ありがと~。よかった~」

 

 俺の言葉に望月さんは落ち込んだ表情から一転、ぱっと目を輝かせながら安堵の息を漏らした。

 

「でも、撮ろうと思ってる人が嫌がったらすぐやめときなね。……村上さんは写真、撮られても大丈夫?」

 

「えっ? あ、はい……少しくらいなら……」

 

 村上さんのその言葉に、望月さんの表情はより一層明るくなる。

 

「や~ん! 文緒ちゃんだいす……って、危ない危ない。またやらかすところだったわ」

 

 それどころか、恍惚とした表情とすら形容できる感じになり、村上さんに飛びつこうとするが、すんでのところで踏みとどまった。

 直後、1枚だけ村上さんの写真を撮り、何かおすすめの本はないか彼女に尋ねていた。

 

「…………」

 

 その様子を見て、もうしゃしゃり出る必要はないと考えた俺は、カウンターに戻って先ほど書庫から発掘してきた図鑑を読み始めた。本の整理などの作業はここ最近でほとんど済んでおり、先ほど望月さんに言ったように他の利用者もいなかったので、読む口実――言ってしまえば『サボる』こと――ができたと判断したためだった。

 

 

 

 

 

 

 珍しいことに、その後片手で数えるほどしか利用者は訪れなかった。戸締りを済ませ、鍵を職員室へ返却に向かう。

 もうやることはないのだから帰ればいいのに、村上さんは俺について来ていた。そのため、望月さんも俺の後ろを歩いていた。

 

「思ったけど、黒川くんって言うべきことはちゃんと言うわよね。だからと言って変にこき下ろすわけじゃなくて、ちゃんと気を遣ってフォローも入れてくれるからね。他の男子と違ってよく話せるのって、そういう理由もあるからなのかしら?」

 

「そうですね……私はそういうことが苦手ですから、黒川君が羨ましいです……」

 

「そこが文緒ちゃんの魅力なのよ~♪ だから無理して変わらなくてもいいのよ~?」

 

「……ど、どういうことでしょうか?」

 

 俺の後ろでふたりは、口々にそんなことをのたまっていた。

 そう、『のたまって』いたのだ。

 

 ――気遣いなんて、少しも考えちゃいない。

 

 俺が先ほどふたりに言った言葉は、すべてやつあたりだった。二階堂くんへの嫉妬から来る苛立ちを、紛らわせるための。

 一月もしないうちに多くの人と交流を深め、かつそれが二階堂くんによる一方的なものではなく、ちゃんとした信頼関係であることに、俺は苛立っていた。

 そうでもなければ、俺は望月さんを引きはがし、ふたりに苦言を呈すことなどしなかっただろうし、下手をすれば適当にはぐらかして放っておいたかもしれない。まあ、ゴマをするために何かしたかもしれないという可能性も否定はできないが。

 いずれにしても、賛美されたり、羨ましがられたりする謂れは少しもないのだ。

 

 ――――望月さんはどうか知らないけど、村上さん、きみは二階堂くんの方が仲のいい相手なんだから、俺じゃなくて彼を羨ましがったらどうなんだよ。

 

 

 

 

 

 

「それじゃあ、私たちは電車だから。また明日ね、黒川くん」

「あっ、そういえば黒川君、歩きでしたっけ。じゃあ、また明日ですね」

 

 駅の近くに差しかかったところで、改札に行こうとしない俺を見て、帰る手段が違うことを察したのであろう望月さんが俺を呼び止め、村上さんと共に軽く手を振りながら、別れの挨拶をした。

 俺の自意識過剰なのかもしれないが、ふたりとも嬉しそうな表情をしていた。まるで俺と初めて帰路を共にしたことを、嬉しがっているかのように。

 

 今さら言うのもなんだが、望月さんも村上さんも、男子生徒からの人気は高い。そんなふたりと帰路を共にしたということは、普通の男なら大喜びすることかもしれない。

 だが俺はそんな感情など露ほども持たず、帰りの手段が違うために、『家が近くなくてよかった』という安心感と、『その表情は、他の人に向けるべきだろう』という困惑が入り混じった、わけの分からない感情に支配されていた。

 

 

 

 

「くそったれ……」

 

 

 

 

 ふたりの姿が見えなくなったと同時に、俺は誰にも聞こえないくらいの小さな声で呟く。

 その呟きは、もちろん彼女たちにも聞こえない。でも、聞こえていてほしい。それなら、俺はとてつもなくどうしようもない人間だと分かるのだから。

 

 

 

 



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変わらない考えと改めた考え

 

 

 

 

 今日に至るまで、俺は多くの人間にゴマすりを行ってきた。しかし、そんなことをしようとも思わない人間――つまりは、嫌悪感を抱いている人間――も、少なからずいた。

 

 

 

 

 

 

 親が作る弁当を持って行くのが、俺の学校生活における昼食の基本だったが、今日は父親が朝早くに出勤したために用意することができず、かなり久しぶりに購買を利用することになった。

 

 ちなみに母親がいないわけではない。他県に単身赴任中だ。俺の両親は聖櫻学園(せいおうがくえん)――通っている高校の名だ――に俺が入学してから、交代で単身赴任するというスタンスを取るようになった。今は父親が家にいるが、夏になると母親と入れ替わる形で他県へ単身赴任する。父親の赴任期間は冬の始めまでということになってはいるが、その後母親がまた交代で単身赴任するのかは分からない。このスタンスが長期的に続くのか、それとも今年度限りなのかも俺は知らないし、別に興味があるわけでもないので親にも特に聞いていない。

 

 購買は結構混んでいたので、買えるかどうか不安だったが、それでも何とか焼きそばパン、クリームパンといった好みのパンを手に入れることができ、今は教室へと戻るところだった。

 隣のC組の扉を横切ろうとした矢先、俺はとある女子生徒とぶつかった。

 

「いてっ」

「いたっ」

 

 ぶつかった衝撃で、手に持っていたパンや飲み物が落ちる。開封はしていなかったので、中身がぶちまけられるということはなかったのが幸いと言うべきか。

 

「ちょっと、何のつもりなのかしら…………っ!?」

 

 ぶつかった女子生徒は、かなり不満そうな声を発しながら、威圧するような目つきで俺の方を向く。しかし俺の顔を見た途端、青ざめたような表情に変わった。

 

「……ご、ごめんなさい。すぐ拾うわ」

 

 それからすぐ謝罪の言葉を口にし、慌てた様子で下に落ちた俺のパンや飲み物を拾おうとする。

 

「……別に拾わなくていいよ」

 

 しかし俺はそう言いながら、手を伸ばす彼女よりも先に全て拾い上げ、自分の教室へと入って行った。冷や汗の流れる彼女の表情を、少しも視線に収めることなく。

 

 

 

 

 

 

 神楽坂(かぐらざか)砂夜(さや)

 隣のクラスであるC組に所属し、新聞部の部員でもある。だからと言うべきか――彼女の場合は、新聞部員であること以上の理由があると思うが――校内の情報にはかなり詳しく、校内新聞の記事もかなり力を入れて執筆すると聞く。次期部長は彼女で間違いないという噂は、耳にタコができるほど聞いた。

 

 ところで彼女は、かなりサディストの気が強い――いわば、『女王』と形容されるような性格の持ち主であり、取材対象に威圧的な態度を取り、半ば強引に取材を受けさせるということが非常に多い。他の新聞部員に対しても、取材が滞ったり、そうでなくとも彼女の意にそぐわないことがあったりすると、同じような態度を取るようだった。

 そんな彼女に対する生徒間の評判は、『逆らえないし、逆らってはいけない』『まさに女王と呼ぶにふさわしい』といったものがほとんどだった。

 

 

 

 

 

 

「ごめんごめん。思ったより人が多くて時間かかっちゃったよ」

 

「「「どわっ!」」」

 

 教室に入り詫びの言葉を入れると、二階堂くんを除く3人が一斉に飛び上がった。その中でも、芹澤くんはかなり焦った表情だった。

 

 今日は、二階堂くんが芹澤くんたち3人とよりを戻したことを記念して、祝賀会――ただ一緒に昼を食べるだけだが――を行うことになっていた。

 全く関係のない俺がなぜその輪に加わる必要があるのか疑問は絶えなかったが、芹澤くんから『むしろ主役は将ちゃんだろ』と言い張られ、仕方なく参加することにした。

 

「……ど、どうしたの?」

 

「い、いや、ちょっとな……昨日こいつが神楽坂に拉致されて、根掘り葉掘り聞かれたらしいから、慰めてたんだ」

 

 その様子に呆気に取られながらも、何があったのかを尋ねると、芹澤くんは冷や汗を垂らしながらそんなことを言った。

 先ほど神楽坂さんと一悶着あったということもあり、芹澤くんの口から彼女の話題が出たことに、俺は複雑な感情になった。詳しい事情を聞こうとは思わなかったが、よい話題でないことはほぼ間違いないだろう。

 

「そうなんだ。……神楽坂さんか……俺はあの人、苦手かな……」

 

「将ちゃん、まさかあいつに何かされたのか!?」

 

 俺がそう自嘲気味に呟くと、芹澤くんが過剰なまでに心配そうな表情をしながら俺に尋ねる。

 

「い、いや……神楽坂さんとはほとんど話したことはないけど、色々噂を聞くから標的にされないかなって、ちょっとびくついてるから。俺の自意識過剰なだけだとは思うんだけどね」

 

「将ちゃん、もし何かあったら俺に言えよ? 遠慮することなんてないからな?」

 

 俺の返答を聞くや否や、芹澤くんはいきなり立ち上がったかと思うと、俺の両肩に手を置いて言う。

 

「う、うん……ありがとう……何かあったら泣きつかせてもらうよ。でも、最近はそんな気配もしないから、気にする必要もないんじゃないかなって思うけどね」

 

 芹澤くんの行動は、かつて俺が二階堂くんにとっていた行動に似ている気がした。もちろん、俺と違ってゴマすりの意図など微塵もないのだろうが。彼の言葉からは、本気の信頼とでも言える感情が読み取れた。

 

 

 

 

 俺は神楽坂さんのことを『苦手』と言ったが、実際には極めて強い嫌悪感を抱いている。

 逆らえないという評判が大半を占めるとは言ったものの、彼女を嫌う声が少なくないというのもまた事実だ。当然と言えば当然の話なのだろうが。

 彼女のせいで新聞部を辞めてしまった人もいるらしく、そういった人からは、憎しみに等しい感情を持たれているようだった。1年生の頃、『神楽坂の奴、許されるなら何回もぶっ叩いてやりたい』と、声を震わせて泣きながら同級生に話していた女子生徒がいたことを思い出す。恐らくその人が、神楽坂さんのせいで辞めてしまった元新聞部員だったのだろう。

 

 俺はその元新聞部員に同情の念を持つつもりは別にないが、神楽坂さんに対して悪い印象を持つには十分な理由だった。

 加えて、俺は彼女に標的にされそうになったことが実際に何度かあった。芹澤くんたちには『自意識過剰かもしれない』と言いはしたが、これだけに関してはそうではないと断言できる。

 しかしながら、その兆候が見られたのは1年の時の9月の上旬頃までで、それ以降は全く感じなくなった。その理由は、何となく察しは付くのだが――――多分、先ほど青ざめた表情を見せたのもそれが原因なのだろう。

 

 だが、そうと言っても彼女の性格は変わったわけではないようで、好ましくない話題は相変わらず耳に入ってきていた。二階堂くんが彼女に拉致されたという話も、そのひとつと言えるだろうか。

 きっとこれからも、俺が彼女に抱く嫌悪感は続いていくだろうし、恐らくそれがなくなるのは、卒業などで彼女との関係性が完全に断たれた時だろう。それまで、俺の考えは変わることはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 運動部に所属する女子生徒の多くが、俺は嫌いだった。

 中でも陸上部、ソフトボール部、ハンドボール部などに所属する人間は、やたら大きな声で騒ぐ連中が多く、さらに『体育会系のノリ』とでも言うべきなのだろうか、妙になれなれしい態度で接してくる奴も少なくなかった。俺はそういう行動にいらいらさせられる日も頻繁にあった。

 汚い言葉を使うが、分別のない馬鹿な人間で占められていたのだ。

 男子生徒にもそういう人間はいたが、1年の時に俺が見てきた限りでは、女子生徒の割合が圧倒的に多かった。

 

 そういった人間を、俺は『脳筋(のうきん)』――『脳味噌まで筋肉』という言葉の略語で、主に体力がある代わりに単純な思考の人間を揶揄する意味で使う――と内心では呼んでいた。

 

 

 

 

 

 

 ある日の昼休み。

 昼も食べ終わり、教室を出てトイレへ向かおうとすると、いきなり正面から声をかけられた。

 

「あの、すいません」

 

 下に向いていた視線を正面に戻すと、声の主は知らない女子生徒だった。胸のリボンやスカートの色から判断して、1年生ということが分かる。

 ただ、俺がそれよりも気になったのは、彼女の外見だった。顔や短い髪型から判断して、どう見ても運動部に所属しているようなタイプだった。良く言えばボーイッシュ、悪く言えば、散々嫌な思いをさせられてきた『脳筋』のテンプレートそのままの外見だった。

 1年生の頃の嫌な記憶を思い出し、俺は顔をしかめる。

 

「ひえっ、ごめんなさい!」

 

 そんな俺の表情に、やたらと慌てた様子で頭を下げる1年生。

 まずい。この1年生に俺は何かされたというわけでもない上に、勝手に『脳筋』のイメージを植え付けて憤慨するのは完全にお門違いだ。

 

「いや、謝らないでください。意味もなくしかめ面した自分が悪いんで。それよりも、誰かに用ですか?」

 

 詫びの言葉を入れ、すぐに俺は自分の教室を指差して話題を逸らせようとした。そもそも、彼女が俺に声をかけたのも、誰かに用があるためと考えるのが自然だろう。

 

「あっ、そういえばそうでした。二階堂先輩がいるクラスって、この教室で合ってますか?」

 

「それなら、向こうにいますよ」

 

 教室の窓から、読書をしている二階堂くんを指差しながら彼女の質問に答える。同時に二階堂くんも俺たちのやり取りに気付き、訝しそうな表情を浮かべていた。

 

「教室入っても問題ないと思います」

 

 用のある人間を見付けたはいいものの、教室に入っていいか決めあぐねているように見えたので、俺はそう付け加えた。

 

「あっ、本当ですか? ……おっと、すっかり忘れてた」

 

 俺の言葉に1年生は教室に入ろうとしたが、すんでのところでそれを中断すると、俺に向き直り、こうべを垂れた。

 

「ありがとうございました!」

 

 俺に礼の言葉を述べ、教室へと入っていった。

 俺は彼女が二階堂くんのもとへ行くところまでを見届けてから、今度こそトイレへと向かった。

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

「…………」

 

 なぜ、こんなことになっているのだろうか。

 

 昨日トイレから教室に戻った俺は、二階堂くんに『明日学食で飯を食わないか』と誘われた。初めて学食を利用するので、俺に案内させることも兼ねて誘ったらしい。俺を誘うぐらいなら芹澤くんたち3人を誘えばいいのにと思い、正直乗り気ではなかったが、渋々了承した。

 

 そして翌日の昼休み。学食に到着し、席取りをしようと椅子へ向かおうとしたところで、二階堂くんから『紹介したい人間がいる』と言われて別の席に誘導された。

 そこで待っていたのは、昨日会った1年生だった。

 戸惑ったような表情の彼女と、一体何が起こっているのか理解できていない俺を、二階堂くんは向かい合うように椅子に座らせた。

 

「さ、自己紹介」

 

 しかし、椅子に座ってもいつまでも口を開かない俺たちに痺れを切らしたのか、二階堂くんが自己紹介を促した。

 そんなことを言われたって、何でこういう流れになっているのかを説明してくれなければ、自己紹介もへったくれもあったものではない。

 

「く、黒川将平です。どうも……」

 

「は、春宮(はるみや)つぐみっていいます。よろしくお願いします……」

 

 とはいえ、このまま無言でいても埒が明かないと思った俺は、状況を理解できていないながらもとりあえず自己紹介を彼女にした。俺に釣られて、彼女も続く。

 彼女の名前から、俺は同名の鳥を思い浮かべた。彼女の外見からは、あまり鳥のような印象は持てなかったが。

 

 そう思っていたのも束の間、俺と1年生――今ので名前も分かったので、『春宮さん』とするべきか――が自己紹介を済ませたのを確認した二階堂くんは、満足そうな表情を浮かべながらその場を去ろうとした。

 

「ちょ、ちょっと待ってよ二階堂くん! 俺、どうすればいいの?」

「ま、待ってくださいよ先輩! どこ行こうとしてるんですか?」

 

 絶妙なタイミングで俺と春宮さんの声が重なる。

 説明もなしにこんな状況にした張本人にいなくなられては、混乱するどころの問題ではない。春宮さんの方も、かなり慌てた様子だった。

 

「いや、俺がいたって邪魔なだけでしょうに。何でもいいから、何か話せばいいじゃない」

 

「いやいや、むしろいなきゃ駄目だって! 何か話せって言ったって、二階堂くんがいないと何も話せないよ!」

「そうですよ! 先輩がいてくれないと、何話したらいいか分かりませんよ!」

 

 昨日の今日で会ったばかりの人間と話せと言われても、俺にはどうすればいいのか全く分からない。せめて、何でこういうことになっているのか二階堂くんから説明があれば少しはましになると思うのだが――――。

 

「そんだけシンクロしてれば問題ないでしょ。んじゃ、さいなら~」

 

「だ~っ! 待ってくれ~っ!」

「待って下さいよ~っ!」

 

 しかしそんな俺たちの懇願を完全に無視し、二階堂くんは凄まじい速さで駆け抜け、食道を去っていってしまった。俺たちの呼びとめる声は、空しく響き渡るだけだった。

 

 

 

 

 

「……春宮さん、でしたっけ? 二階堂くんから、何言われたんですか?」

 

「……えっ? あ、えっと、実はですね……」

 

 このまま黙って立ち去るのも春宮さんに悪いと感じた俺は、彼女にこんな状況になった理由を尋ねた。あらかじめ食堂で待っていたことなども考えると、俺と違って春宮さんの方は何か知っているのではないかと思ったからだった。二階堂くんがすぐ立ち去ってしまったことは、さすがに彼女の想定外だったようだが。

 

 俺の質問に春宮さんは経緯を話し始めた。それによると、彼女は自分が所属する陸上部に、二階堂くんを入部させるための勧誘係として上級生から送り込まれたらしい。彼女自身も二階堂くんの運動能力の高さに興味を示していたため、快諾したそうだ。

 しかし、二階堂くんは全く無関心で興味を示さず、最終的には彼が直接陸上部の部長の所へ赴き、断りを入れようという話になったとのことだった。昨日話していたことはそのことらしい。

 さらにそこから二階堂くんは、『コミュニケーションを取れる人間と話す方がいい』と言い出し、白羽の矢が立ったのがなぜか俺だった。

 

「黒川先輩は漫画やアニメが好きって、二階堂先輩が言ってました。だから話も合うんじゃないかって……」

 

 俯きながら春宮さんは俺にそう言った。彼女も俺と同様、昨日の今日でわずかに会話しただけの人間と、どういう話をすればいいか混乱しているのだろうか。二階堂くんは俺の趣味を彼女に教えたらしいが、それでもどのように話を切り出せばいいのか決めあぐねているように見える。

 

「どんなのが好きなんですか?」

 

「少女漫画は、よく読みます。でも、黒川先輩は少女漫画なんて読みませんよね……?」

 

「う~ん……」

 

 春宮さんの言う通り、俺は少女漫画というものをほとんど読んだことがない。無論、興味がないというわけではないのだが、普段読んでいる漫画とは毛色が違うというイメージを抱いてしまっており、どの作品を読めばいいのか分からなかったからであった。

 

 今まで見たアニメで、少女漫画が原作のものはあっただろうか。

 俺が見たアニメ作品は、原作の漫画や小説を読んでいない作品も結構ある。あれでもない、これでもないと思い返してみると――――。

 

「……あっ」

 

 そういえば、あった。しかもその作品は、俺がアニメを見る頻度を高めるきっかけにもなった作品だった。何ですぐに思い浮かばなかったのだろうか。

 

「春宮さん、この作品って知ってますか?」

 

 ポケットからスマートフォンを取り出し、インターネットの検索エンジンに例の作品のタイトルを入力して検索にかける。検索結果が出たのを確認してから、俺は春宮さんに画面を見せた。

 

「あっ、この作品、私大好きです! 全巻持ってますから! 黒川先輩も好きなんですか?」

 

 画面を見た瞬間、先ほどの困ったような表情は一瞬で鳴りを潜め、輝いたような表情をしながら俺に尋ねてくる。これが彼女の本来の性格なのだろうか。

 

「原作は持ってないですけど、アニメは全話見ました。登場人物がみんな感情移入できる作品だったと思います」

 

 とは言っても、俺がそのアニメを見たのは全くの偶然だった。夜遅くまで起きていた際、たまたまつけたテレビから放送されていたというのが最初に知るきっかけだった。それに、継続して見るようになった理由も、それ以前に見たアニメで知った、好きな声優が出ていたからというものだった。

 付け加えると、俺は幼いころからアニメや漫画は結構好んでいた。当時は話の内容より、声優の名前を覚えることが好きだったことを思い出す。

 どちらかと言えば、俺の今の趣味は新しく追加されたものではなく、昔からの嗜好が増大したものということだ。

 

「そうなんですよ! メインのキャラがみんな恋心抱いてるんですけど、結局どれも実らないんですよね~。切ないですけど、むしろそれがいいんですよ。アニメ見たことないから、今度見てみようかな……?」

 

「やってたのが去年なんで、借りるにしてもそこまで料金は高くないと思います」

 

「本当ですか? それじゃあ、絶対借りよう……」

 

 それから俺と春宮さんは、昼を食べることも忘れて互いの趣味を語り合っていた。さほど興味のあることではなかったかもしれないのに、春宮さんは俺の話を非常に興味深そうに聞いてくれていた。

 俺は俺で、彼女からおすすめの少女漫画を教えてもらった。原作を買うかはともかく、調べてみるとアニメ化もされてるようなので、近いうちに借りて見てみるのもいいだろう。

 ふと時計に目をやると、授業が始まるまで残り10分に迫っていた。話をしていた時間は精々20分程度ではあったが、それより長い時間話していたような錯覚があった。

 

「春宮さん、そろそろ終わりにしないと授業に遅れます」

 

「えっ? あっ、もうこんな時間ですか。危ない危ない……」

 

 俺たちは会話を打ち切って席を立ち、学食をあとにする。

 

 

 

 

 

 

「いやぁ、楽しかった~。二階堂先輩なんかと話してる時より、ずっと充実してましたよ。もっと早く知り合っておくべきでした」

 

「そうですか……」

 

 終始笑顔を絶やさずに、春宮さんはそんなことを言った。その言葉が二階堂くんの耳に入れば、彼は泣きわめくか、それとも喜ぶか。

 経緯から考えると、二階堂くんは誰かに春宮さんを押しつけたがっていたような意図すら感じたので、前者は多分ないような気がするが。

 

「……別に、敬語使わなくたっていいですよ? 呼び方も、呼び捨てにしてくれて構いませんし」

 

 昨日出会ってからずっと、俺は彼女に敬語で話している。呼び方も『さん』付けだ。それに不満を感じたのか、少しばかりむくれたような表情をした。

 

「あまり堅苦しいのはなしにしましょう? 私、これからたくさん先輩と話したいですから」

 

「そう……」

 

「そうですよ。だから、これからよろしくお願いします、先輩」

 

 再び笑顔に戻った春宮さんは、そう言いながら軽くお辞儀をした。

 

 実のところ俺は、上級生や下級生との交流がほとんどない。小学校の時も、中学校の時もそうだった。

 今所属している図書委員にしても、1年生の時は2年や3年とはほとんど事務的な会話しかこなさなかったし、今年度にしても最近入った1年生とはやはり事務的な会話を二言三言交わした程度であった。現在の委員長とはそれなりに話したことはあるが、同学年の人間と比べると圧倒的に比率は少なかった。

 

 しかしながら、極めて奇妙な経緯があったとはいえ、春宮さんとの会話は悪い気分ではなかった。いやむしろ、春宮さんとの会話を間違いなく俺は楽しんでいた。さらに、陸上部所属の人間は『脳筋』ばかりではないと、考えを改めた。

 これが、先輩後輩関係の楽しさとでも言うものなのだろうか。まだ良く分からない気分に包まれていたが、初めて知る感覚に理解が追い付いていないのかもしれない。

 

「それじゃあ、よろしく。春宮さん」

 

「……あれっ?」

 

 俺が変わらず春宮さんを『さん』付けで呼んだことに、彼女はずっこけそうになった。

 

「先輩……呼び捨てでいいって言ったじゃないですか……」

 

「悪いけど、どう呼ぶかは俺が決めることだから。生憎これは俺のポリシーみたいなものだし、何を言われたって変えるつもりはないよ」

 

「う~っ、何か釈然としないけど、敬語じゃなくなったからまあいいかな……」

 

 そんなやりとりを交わしているうちに、行き先が分かれる。1年生の教室と、2年生の教室とに。

 

「それじゃあ先輩、これで失礼しますね。何か面白いのがあったら教えてください。私も、先輩が好きそうな作品探しておきますから」

 

「ああ、うん……ありがとう……」

 

「はい、また明日!」

 

 春宮さんは今日一番の笑顔を俺に向けると、自分の教室を目指して駆けていった。さすがは陸上部というべきか、あっという間に彼女の姿は見えなくなった。

 

 

 

 

 

 ――――何をやってるんだよ、俺は。

 

 

 

 

 充実した感情は、春宮さんの姿が見えなくなると同時に鬱屈した感情へと変貌する。綺麗な花が、ドロドロと腐って溶けていくかのように。

 

 春宮さんは、俺の本性など知らない。だからこそ、あんなにいい笑顔を見せることができたのだ。

 俺の本性を知ってしまえば、さっきの不満げな態度が可愛く思えるほどに、不快な態度を見せるだろう。それを隠そうともしないだろう。

 もちろんこれは、春宮さんに限った話じゃない。俺の本性を知らない人全てに言えることなのだ。

 

 俺は人との交流を楽しんでいいような人間ではない。断じてない。

 だというのに、俺は――――。

 

 ――――何をやってるんだよ、俺は。

 

 心の中で、俺は先ほどと同じことをもう一度呟く。

 俺は一体、何がしたいのだろうか? 何のために、ここにいるのだろうか?

 

 

 

 

 何のために、生きているのだろうか?

 

 

 

 




今年最後の投稿。
来年はもう少し多く投稿できるようにしたい……


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ジウジツ・ブラジレイロ

 

 

 

 ブラジリアン柔術(じゅうじゅつ)

 とある日本人の柔道家に柔道を教わったブラジル人が、その技術を改変することによって生み出された格闘技である。柔道と違い、投げや抑え込みによる一本は存在せず、基本的には関節や首を極めることによって相手から『参った』を奪うか、有利な体勢を取ることによるポイントで勝敗を決める。

 

 その柔道を教えられたブラジル人は、小柄な人間でも大きな相手を倒せるということを目的としてブラジリアン柔術を生み出したという。

 パンチやキックのような打撃とは全く異なる目新しさに惹かれたというのもあるが、僕にはその目的がとても素晴らしく感じた。これを身につければ、こんな小さな僕でも強くなることができるんだと――――。

 

 

 

 

 

 

 ガタンゴトンと1時間近く電車に揺られながら、俺はとある駅へと降り立つ。そこは、俺が通う格闘技の道場の最寄り駅だった。

 

 こんななりの俺だが、ブラジリアン柔術という格闘技をやっている。中学を卒業して間もなくそれを知り、興味を持った俺は、家の近くに道場がないか探した。

 運悪く近所にはなかったが、諦めきれなかった俺は電車で1時間の距離にある道場を見つけ、入会した。両親は反対せず、それどころか月謝や電車賃まで捻出してくれていることには、頭が下がるばかりだ。

 

 道場に着き、他の門下生の人と挨拶を交わし、柔術衣(柔道着に比べて少し生地が薄い)に着替えて柔軟運動をする。

 間もなくこの時間帯に行われる基礎クラスが開始され、いつものように俺はそれをこなした。

 

 

 

 

 

 

 格闘技をしている人における、始める際の動機というものは、強くなりたいということ以外にも、ダイエットやストレス解消などの軽い目的も多いだろう。そういう軽い目的で始めたら、世界的に有名な選手になっていたという人もいる。

 どんな理由にせよ、練習が終わった後は何とも言えない快感に包まれるのではないだろうか。

 

「…………」

 

 しかし俺は、そんな快感とは真逆の感情に支配されていた。

 仕事帰りの人で寿司詰めになった、帰りの電車に乗った俺は、ため息をつく代わりに鼻で大きく息を吐いた。ちなみに椅子に座っているので、窮屈さを感じることはない。道場の最寄り駅は終点の駅なので、電車が駅に着いたと同時に乗ればほぼ確実に座ることができるのが救いだ。

 

 入会してからの約半年は、色々な技術を習得することに大きな喜びを感じていたが、それ以後はそんなこともあまり感じなくなってしまっていた。家からの距離が遠いために着くまでに時間がかかり、かつ電車賃もそれに伴って高いので、気軽に行けず、思ったように練習をこなせないのが原因のひとつだった。いくら親が工面してくれるとは言っても、限度というものがある。毎日のように『金くれ』とは言えるわけがない。

 

 だがそれ以上に大きいのが、同じような体格の人間がいないことと、練習における悩みを理解してくれる人間がいないことだった。

 

 俺は一番軽い階級である。同じ階級の人がいないわけではないのだが、俺が道場に来る時はその人はいないことが多い。そのため、必然的に自分より重い階級……つまりは、体格の大きい人間と練習をしなければいけなくなる。

 俺の運動神経が鈍いせいもあるのだろうが、体格が大きい人間の前では何もさせてもらえず、覚えた技を活かせない事態に陥るということが多くあった。

 大会には階級の制限がない無差別級も存在するので、それの練習だと思えばいいと言われるかもしれないが、今のところ無差別級に関心のない俺にとっては、そんなことを言われても慰めにもならない。それでも覚えた技を活かせればその考えに至らないこともないが、結局何もさせてもらえないのだから、無理矢理そう思うこともできない。

 

 そもそも俺は、ある事件をきっかけとして、大会へ参加するという気力がほとんど消し飛んでしまった。そのため、大会に出たことは一度としてない。それを境に、練習自体のモチベーションもどんどん下がっていった。

 モチベーションを落とさないためにはどういう練習をすればいいのか、どのような気持ちを持って練習に臨めばいいのか、いくら考えても納得できるものは思い浮かばなかった。

 よく一緒に練習をし、会話もしていた門下生の人に、どうすればいいかを相談したこともあったが、『やるしかない』の一点張りで全く話にならなかった。結構信頼していた人だったというのに、その言葉で信用はほとんどできなくなった。それに伴い、人間関係も段々良好とは言い難いものになりつつある。道場内の空気も、息苦しく感じてきていた。

 

 だが、そう言われても俺のように感傷的にならず、むしろ練習のモチベーションを上げる人もいるのだろう。例として二階堂くんは、多分そういう人間だと俺は思う。

 具体的な練習環境、練習のペースは聞いたことがないが、彼がキックボクシングを始めたのは、俺がブラジリアン柔術を始めたのとほぼ同じ時期らしい。『さほど興味があって始めたものではない』とも彼は言っていたが、それは恐らく謙遜だろう。根が真面目な彼は、かなり気合を入れて練習に臨んでいるであろうことは容易に想像できた。

 さらに、以前までの彼ならともかく、本来の性格を取り戻した今なら他の門下生の人との関係も極めて良好なものとなっているだろう。

 

 そして何より、二階堂くんは圧倒的な身長を持っている。体格が大きすぎて練習に支障が出るということはあるのかもしれないが、同じとまではいかずとも近い体格の人は多分いるだろう。階級にもよるが、180cm台なら二階堂くんの練習相手は十分こなせるはずだ。

 俺には、そんな相手すらいないのだから。俺には彼の高い身長がとてつもなく羨ましかった。

 

 『もう、辞めちまおうかな』と、俺は心の中で呟く。

 

 ここ最近の練習は、ほぼ惰性で行っているものだった。加えて、練習が終わった後も快感など少しも訪れず、むしろストレスが溜まる一方だった。『こんなところで練習を続けても、強くなんてなれないんじゃないか』という、虚無感に支配されるばかりだった。

 

 ――つまらねえ。本当につまらねえ。

 

 学校生活においても、プライベートにおいてもストレスが溜まり、感傷的な気分に浸るだけの生活がここ最近は続いている。これがいつか弾けて、どうしようもない事態に陥ってしまうのではないかという不安を、俺は毎日のように感じながら生きていた。

 

 

 

 

 

 

 僕は厭世観(えんせいかん)に支配されている。

 それはきっと、あの日からそうなる運命だったのかもしれない。

 ふざけるなよ。何で僕が、そんな目に遭わないといけないんだ。くそったれ。

 

 

 

 




ジウジツ・ブラジレイロ(Jiu-jitsu Brasileiro)というのは、ブラジリアン柔術のポルトガル語表記です。


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勘違いマイシスター(前編)

今月のレイド、何とか300位以内に入って文緒3枚確保できました。
やったぜ。


 

 

 

 

「そういえば将ちゃんってさ、妹っていんの?」

 

 昼休み。学食を利用したいという二階堂くんを抜きにした4人での昼食中、おにぎりを頬張りながら芹澤くんはそんなことを俺に尋ねた。

 

「えっ? いないけど……そもそも俺、一人っ子だし」

 

「じゃあ、1個下の女の親戚とかは?」

 

「いや、それもいないよ」

 

「そっか……じゃあ、赤の他人ってことだな」

 

「なあ一二三、将ちゃんにそっくりな女子でも見たのか?」

 

 芹澤くんがなぜそんな質問をしてきたのか、その意図を尋ねようとすると、俺が口に出すより先に高桑くんが尋ねた。

 

「……ん? ああ。部活入った1年に、黒川って女子がいてな。黒川って名字はそこまで珍しい名字ってわけじゃないし、ただ名字が同じってだけなら偶然で済ませられる話なんだが、そいつ、結構将ちゃんに似てたんだよな。まあ、将ちゃんに比べると不健康そうって言うか、ダウナーな感じだったけどな。(くま)もあったし」

 

 芹澤くんの回答に、なぜそんな質問をしてきたのか合点がいった。

 ちなみに芹澤くんは軽音楽部に所属しているので、その『黒川さん』なる人物は楽器が弾けるということだろうか。とは言え、ここ最近はある漫画の影響で、全くの素人でも軽音楽部に入部する人間は増えているらしいので、必ずしもそうとは言い切れないのだが。

 しかしそんなことより、俺に似ている、か。顔だけならまだいいが、ろくでもない性格までは似ていないでほしい。今芹澤くんが話すまでは存在自体知らなかった人間に対して、俺はそんな願望を抱いていた。

 

 

 

 

 

 

 放課後。

 図書委員の仕事が今日はないのですぐに帰ってもいいのだが、特に家ですることもなかった俺は、購買の自販機で買った炭酸を持ってある場所へ向かう。

 

 そこは中庭の外れにある、ちょっとした芝生のスペースだった。昼を中庭でとる生徒は多いが、ここは知っている人がほとんどいないのか、昼でも閑散としている。おかげで、ひとりでくつろぐには最適の場所だった。閑散しているとは言っても、汚いわけではなく、芝生も管理が行き届いているのか、綺麗に整っており、土がむき出しになっているということもなかった。そのおかげで、中庭よりも過ごしやすいと思う。

 

「……」

 

 鞄を下ろして芝生に腰掛け、スリープ状態のスマホを再起動させる。インターネットのブラウザを開き、漫画やアニメ関連のニュースサイトを適当に見る。

 数分ほどして、買っていた炭酸飲料の蓋を開けようとした時――――。

 

「あれ、先客がいる。珍しいね」

 

 声がしたのでその方向へ顔をやると、僅かに驚いたような表情をした1年生の女子生徒がそこにはいた。

 

「あれ、それドクペじゃん。先輩も好きなの? ……よっと」

 

 ゆったりながらも妙に馴れ馴れしい口調で話しかけながら、俺の横にどっかりとその1年生は座り込む。そこから間を開けずに手に持っていた炭酸飲料の蓋を開け、一気にあおった。よく見ると、それは彼女が先に口に出したように、俺が持っているものと同じ『ドクペ』という炭酸飲料だった。

 独特な香りと味で、好みの分かれる飲み物ではあるが、俺は結構好きなのでたまに買って飲むことがある。最近はあるゲームにも、明らかにそれをモデルにしたと思われる、似た名前の飲料が登場していたので、その影響で飲む人は……増えるかもしれない。

 

「ぷは~っ。やっぱりドクペは最高だね~。先輩もそう思うでしょ?」

 

 相変わらず馴れ馴れしい態度を崩さず、『ふひひ~』と、到底女がするものとは思えない笑い声をあげながら、その1年生は俺に同意を求める。望月さんも似たような笑い方をすることがあるのだが、彼女の場合はそれよりも危険――悪く言ってしまえば『ラリっている』――な雰囲気が漂っていた。本当にラリっているというわけではもちろんないのだろうが、色々な意味で心配になる印象だった。目の下にある大きな隈も、その印象を強めていた。

 

「……最高かどうかはともかく、嫌いではないですよ。最近は結構飲みますしね」

 

「でしょでしょ~。私の周りの人、みんなまずいって言うもんだからがっかりしてたんだよ。陽歌(はるか)(すみれ)も薄情なんだから~」

 

 きっと彼女の友人の名前なのだろうが、『はるか』や『すみれ』などとさも俺も知っているかのように言われても、俺には何も答えようがない。

 

「…………」

 

 正直、かなり面倒くさい人間と遭遇してしまった気がする。馴れ馴れしい態度がそうだが、その態度が『脳筋』の人間とはまた違ったベクトルの面倒くささだった。『脳筋』の場合は暑苦しさを感じるものがほとんどだったが、彼女の場合はドロドロとした得体の知れないものがまとわりついてくるような感覚だった。

 

「……ふう。そういえば先輩、名前なんていうの?」

 

「…………黒川。黒川将平です」

 

 けらけら笑いながらひとしきり喋った後、彼女は何の前触れもなく俺の名前を聞いてきた。

 あまり関わり合いになりたくなかったので、『何で教えなきゃいけないんですか』と言いたくなったが、喉元まで来たところで抑え込み、素直に教えた。教えておいてこんなことを思うのもなんだが、面倒くさいことになってはほしくない。

 

「……あれっ、私と同じだ。私も黒川だよ、黒川(くろかわ)凪子(なぎこ)

 

「……んっ?」

 

 少し驚いたような様子を見せながら、彼女は自分の名前を言った。その名前に、俺は昼休みの芹澤くんの質問を思い出し、同時に彼女の顔を凝視した。

 

「ど、どうしたのさ。私の顔に何か付いてる?」

 

 ――もしかしてこの人が、芹澤くんが俺の妹だと勘違いした人だろうか。

 

 芹澤くんの質問を思い返してみると、隈のある目、ドクペを飲む前のゆったりしたダウナーな雰囲気はまさにそうだった。顔も酷似しているというほどではないが、確かに俺に似ているような気がする。もっとも、俺は目の下に隈などない。性格もここまで馴れ馴れしくはない。

 

「……いや、特に何も」

 

「そう。……じゃあよろしくね、お兄さん」

 

「……はっ?」

 

「だって同じ名字だし、見た感じ顔も結構似てるから、お兄さんでいいでしょ~。まさかこんなところで生き別れのお兄さんと再会できるなんてね~」

 

 またけらけら笑いながら、彼女はそんなことをのたまった。後半の言葉は棒読み気味であることから、本気でそう思って言った言葉でないことは分かるが。

 

「お兄さ~ん、ドクペ買って~。10本でいいから~」

 

「はぁ……何言ってんの……」

 

 勝手なことばかり言う彼女に何も言えないでいると、突然彼女は身体をくねらせながら甘ったるい声を出して、ドクペをねだりだした。俺は彼女の行動もそうだが、それ以上に、ねだる本数の方に呆れてため息をついた。10本なんて、過剰にも程がある。もちろん仮に1本だけだとしても、今初めて顔も名前も知った人間に買おうだなんて気はさらさらないが。

 

「そんなことより、黒川さん……だったっけ? 部活があるんじゃないの? こんなところで油売ってるのはまずいんじゃない?」

 

 どうにかこの状況を脱出できないか考えていると、再び芹澤くんの言葉を思い出した俺は、彼女にそう告げた。この人が芹澤くんの言っていたのと同一人物なら、軽音楽部の練習があると考えたからだった。芹澤くんも部活へ行ったので、休みということもないはずだ。

 

「あっ、やべっ。すっかり忘れてた。陽歌と菫にどやされちゃうよ」

 

 幸運にも俺のその予想は的中したようだった。

 慌てた様子で立ちあがった黒川さんは、そのまま立ち去るかと思ったが、僅かに不満そうな表情を浮かべて、俺を見下ろしながら言った。

 

「……『黒川さん』じゃなくて、凪子。兄妹なんだからそんな他人行儀はだめでしょ~」

 

「はぁ……」

 

 本気で言っているのか冗談で言っているのか分からない彼女の口調に、俺はまたため息をつく。

 彼女に対する俺の口調は、いつの間にか敬語からため口に変わっていたが、それでも春宮さんの場合と同じように、彼女の呼び方を変えるつもりはない。ただ名字が同じというだけで、兄妹でないどころか血縁関係すらもなく、長い付き合いというわけでもない会ったばかりの人間をいきなり名前で呼ぶなど、はっきり言って嫌である。さっきも言ったように、俺はそこまで馴れ馴れしい人間ではない。

 

「……やなこった。何を言われたって『黒川さん』としか呼ばないよ、俺は」

 

「……まったく、頑固だねぇ~。まあ今日は諦めるけど、いずれは名前で呼んでもらうよ~。これからよろしくね~、お兄さん」

 

 一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに先ほどの上機嫌そうな表情に戻り、手をひらひらと振りながら去っていった。

 

「……ったく。何だってんだ一体……」

 

 他の人とのやりとりをした後に起こる、鬱屈した気分に俺は相変わらず陥ったが、黒川さんの場合は他の人とやり取りをした場合とはまた違った方向性でのそれだった。どちらかと言えば、疲労感の強さが際立っている。

 項垂れながら、あまり冷たくなくなってしまったドクペの蓋を開けて、腹いせ気味に一気にあおった。飲み干してからふと黒川さんが座っていた箇所に目をやると、ハンカチらしき布が落ちていた。

 

「そういや、上着のポケットからはみ出してたな、これ……」

 

 大方無造作にポケットに突っこんでいたせいで、先ほど立ちあがった拍子に落ちてしまったのだろう。黒川さんが去っていった方向に目をやるも、当然ながら彼女の姿はもうなかった。

 

「しょうがない、明日返すか……」

 

 軽音部の部室がどこか分からないので、今から返しに行こうとしても変に迷うだけだろう。教員に部室の場所を聞いてまで行こうとする気概は俺にはなかった。

 とは言え、このままこれを放置しておくのも気分が悪いと感じた俺は、鞄の中に空になったドクペのペットボトルと共に放り込み、帰路に着いた。

 1年生の教室なら去年利用していたこともあって場所は分かるし、少し見ていけばさほど時間をかけずに返せるはずだ。何なら彼女の知り合いに押し付けてしまうのも手だろう。

 

 

 

 



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勘違いマイシスター(後編)

 

 

 

 

 翌日。

 少し早めに登校した俺は、黒川さんにハンカチを返すために1年生の教室がある棟にいた。当たり前と言えば当たり前なのだろうが、多くの1年生からの視線を感じる。別段気になるものではないが、このまま晒され続けるのもあまりいい気分ではない。さっさと済ませてしまおう。

 

 俺は黒川さんがどのクラスに所属しているのか、当然知らない。それに本人がもう登校しているかどうかも分からないので、しらみつぶしに当たってみるしかないだろう。

 とりあえず俺は、A組から当たることにした。ちょうど教室に入ろうとしていた女子生徒がいたので、俺は声をかける。

 

「あの、すいません」

 

「はい、何でしょう?」

 

「黒川さんがいる教室って、ここで合ってますか?」

 

「えっ、はい、そうですけど……あの、どちら様ですか?」

 

 首を傾げながら、その1年生は俺に尋ねる。彼女の疑問はもっともだ。同学年の人間ならともかく、見知らぬ上級生が突然訪ねてくれば、そう聞きたくなるのは当然だろう。

 

「ああ、すいません。2年の黒川っていいます。でも、名字が――」

 

 だが、ここで俺は自分の名を名乗ってしまったことで、長く続くかなりの面倒事に巻き込まれてしまうことにまだ気付いていなかった。

『名字が同じってだけで、兄妹ではないんですけど』と言おうとする前に、『黒川』という言葉を聞いたその1年生は、顔を綻ばせながらこんなことを言ってしまった。

 

「あっ、もしかしてナギーのお兄さんですか!? ちょっと待っててくださいね、すぐ呼んできます!」

 

「……へっ?」

 

 その言葉に対して反応が遅れた俺を尻目に、その1年生は教室の中へ急いで入っていってしまった。

 

「ナギー、お兄さんが呼んでるよ」

 

「お兄さん……? ああ、なるほど」

 

 彼女の言葉通り、黒川さんはすでに登校していたようで、しかも比較的前の席にいた。これなら直接渡す方が、話がこじれずに済んだかもしれない。

 用件を伝えられた黒川さんは、初めは訝しげな表情を浮かべていたが、廊下にいる俺の姿を確認すると、合点が行った表情に変わり、にやつきながら俺の方へと歩いてきた。

 

「わざわざ教室まで来てくれるなんて、お兄さんも心配性だね~。もしかして、ドクペでも買ってきてくれたの?」

 

「……んなわけないでしょ。ほらこれ。昨日部活行く時に落っことしてた」

 

「……ん? ああ、そういえばなくなってたし、あそこにも落ちてなかったからどうしたのかと思ったけど、お兄さんが拾っててくれたのね。ありがと。妹思いだね~」

 

 俺は鞄からハンカチを取り出し、黒川さんに手渡す。

 一瞬驚いた顔をし、その後笑顔を見せる黒川さんだったが、今まで何度も見せていた、へらへらした感じでのものではなく、純粋に嬉しそうな表情をしていた。とは言っても、相変わらずの妹発言に俺は呆れてしまう。

 

「昨日も話したけど、お兄さんがいたならもっと早く言ってくれればいいのに~」

 

 苦笑しながら、先ほどの1年生が俺たちのもとに近づいてきた。

 ……ちょっと待った。『昨日も話したけど』ということは、もしかすると黒川さんは、昨日の出来事を『兄と話していた』とでも彼女にのたまったのだろうか。

 

「ちょっと待ってください。俺は別に……」

「あ、自己紹介がまだでしたね。風町(かぜまち)陽歌(はるか)っていいます。ナギーと同じ軽音楽部です。……えっと、『ナギー』っていうのは私の凪子の呼び方です」

 

 訂正の言葉を言おうとしたものの、1年生――風町さんの自己紹介によってかき消されてしまった。名前から察するに、昨日黒川さんが話していた友人のひとりだろうか。

 黒川さんとは対照的に、明るく真面目そうな印象だった。聞くまでもなく分かることなのに、自分の黒川さんの呼び方を律儀に説明しているところからも、それは確信できた。

 

「どうも……黒川将平です……」

 

 風町さんの自己紹介に、俺もつい律儀に自己紹介を返してしまう。こんなことをしたら、余計に話がこじれるというのに、何をやっているのだろうか。

 

「はい、よろしくお願いします。……わぁ、確かにナギーの言う通り、本当にそっくりですね。だけどナギー、お兄さんにあんまり迷惑かけちゃ駄目だよ? 忘れもの届けに来てくれたんでしょ?」

 

 そんな風町さんは、やたら嬉しそうな表情をして勝手に話を進めていく。黒川さんも黒川さんで、否定の言葉を言うことなく、にやにやと笑みを浮かべたまま突っ立っているので、余計にたちの悪い事態になりつつあった。

 

「ですから、俺たちは別に兄妹ってわけじゃ……」

「ハルー、ナギー、何してるんだがやー?」

 

 今度こそ兄妹でないことを風町さんに伝えようとすると、後ろから女子生徒と思わしき声が聞こえた。つい後ろを向くと、髪の両サイドを団子ヘアにした、小柄な女子生徒が近付いてきていた。彼女の発した呼び名から考えても、風町さんと黒川さんのことであるということに間違いはなさそうだった。

 

「……ん? もしかすると、この人がナギーのあんちゃんだがや?」

 

「うん、そうだよ。忘れ物届けに来てくれたんだって」

 

「ほうほう……確かによく似てるのぅ……」

 

 勘違いしたままの風町さんの言葉を聞いた団子ヘアの1年生は、まるで物色するような目つきでまじまじと俺を見る。一通り見終わったところで、にやりと笑みを浮かべたかと思うと、突然自己紹介を始めた。

 

「ハルやナギーと同じ軽音部の、蓬田(よもぎだ)(すみれ)っていうがや! よろしくだがや、あんちゃん!」

 

 どうやらこの1年生が、昨日黒川さんが話題に出していた友人のもう一方のようだ。話し方からしても、黒川さんとはもちろん、風町さんとも印象の異なる人だった。『天真爛漫(てんしんらんまん)』という表現が最も相応しいだろうか。語尾に『だがや』を付けるだけで、他のバリエーションがない、いかにもエセ方言のような喋り方もそれを助長している気がする。

 しかし、黒川さんと風町さんの『お兄さん』に続いて今度は『あんちゃん』とは。余計誤解が生まれそうな呼び方だ。

 

「だから俺は黒川さんの兄貴じゃ……」

「……まあまあ、それは分かってるだがや。だけど、いずれにしてもあんちゃん、アタシたちともう関わろうとしないんじゃないだがや?」

 

 三度(みたび)訂正の言葉を伝えようとすると、団子ヘアの1年生――蓬田さんは俺の口を塞ぐように手をかざし、小さな声でそう言った。

 

「…………」

 

 蓬田さんはなかなか鋭い。彼女の言う通り、もう俺は彼女らとこれ以上関わろうという気はなかった。かなり面倒くさいことになりそうなのに、わざわざ首を突っ込んで規模を広げるような馬鹿な真似をする気力は俺にはない。他の人のようにゴマをすろうという気も起きない。

 

「それじゃあ寂しいだがや。ハルの言葉を聞く限りじゃ、あんちゃんいい人そうだし、ナギーと兄妹じゃないにしてもアタシは興味が湧いたがや!」

 

「…………」

 

「だからハルの誤解を解くにしても、もう関わらないってことはなしにしてほしいだがや。アタシは、もっとあんちゃんと話してみたいからのぅ」

 

 白い歯を見せながら、まるで漫画のキャラのような笑みを浮かべる蓬田さん。

 ……どうして、会って数分も経ってないような人間に対して、そんな表情ができるんだ。それだけ、黒川さんがふたりに話した内容は惹きつけられるものだったとでも言うのか。

 

 ――これなら、あのハンカチは拾わず、放っておけばよかったと思ってくるじゃないか。

 

「……」

 

 沈黙を続けていると、予鈴のチャイムが鳴り響いた。このまま突っ立っていては遅刻してしまう。色々言いたいことがあったが、俺は一言だけ告げて自分の教室へ戻った。

 

「……図書委員やってるから、用があるなら図書室に来て」

 

 我ながら、俺の行動はつくづく意味不明だ。関わり合いにならないんじゃなかったのかよ、俺は。何で自分から、繋がりを求めるようなことを言っているんだ――――。

 

 

 

 

 

 

 悪い予感は、俺の予想をはるかに超えて当たってしまった。

 俺が自分の教室に戻った後、黒川さんらに話しかけてきた他のクラスメイトに、勘違いしたままの風町さんが、俺を黒川さんの兄貴だと言ってしまった。それを黒川さんだけではなく蓬田さんまで否定しなかったせいで変に話は広まり、1年生のほぼ全てが、俺と黒川さんは兄妹だと誤った認識をしてしまったのだった。

 

 黒川さんはともかく、蓬田さんまでなぜ否定しなかったのか俺には分からなかった。

 いずれにしても俺は――――。

 

「何だってんだよ、ちくしょう……」

 

 そう、ぼやくことしかできなかった。

 

 

 

 



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毒蛇の逆鱗 ―姫、屈服す―

 

 

 

 

 神楽坂さんは相変わらず、俺の姿が視界に入るとそそくさと退散する。必要以上に怖がっているのではないかとも思うが、変に近付いてこられるよりかはましと言っていいのかもしれない。

 

 ちなみに神楽坂さん以外にも、関係が好ましくない人がひとりいる。しかし、あまり関わり合いになりたいとは思わない神楽坂さんとは対照的に、その人の方は和解するとまではいかずとも、なんとかこの状況が続かないようにはできないかと思っていた。

 

 

 

 

 

 

「貸出しでお願いします……」

 

「はい……」

 

 5月も下旬に差しかかろうという頃、図書室で貸出しの手続きの仕事を俺はしていた。そこに、件の人物がかなり古い手芸の本を持って、それの貸出しを頼んだ。

 

「……6月3日までに返却をお願いします。どうぞ……」

 

「はい……ありがとうございます……」

 

 常日頃二階堂くんなどに取っているゴマすりの態度でないことはもちろんだが、以前黒川さんに取った態度よりもさらに冷淡――いやむしろ、『機械的』とでも形容すべき態度で俺は手続きを行う。俺に本を手渡されたその人は、俯きながら小声で礼を言うと、脱兎のごとく図書室を去っていった。

 

「はぁ……」

 

 その様子を見て、俺はため息をつかずにはいられなかった。

 

「黒川くんさ、時谷さんと何かあった? もちろん、話したくないなら無理には聞かないけど」

 

 そんな俺の様子が気になったのか、先に図書室へ来ていた二階堂くんが俺に尋ねてくる。

 

「ああ、うん……1年の頃にちょっと色々あってね……詳しいことは、俺の口からはあまり話したくないから、勘弁してもらえるとありがたいかな……」

 

「いやいや、全然問題ないから」

 

 起こったことがことだけに、迂闊に話しては二階堂くんとの関係もこじれるのではないかと思った俺は言葉を濁す。

 

「でも、二階堂くんが他の人から詳しいこと聞いても、俺は何も言わないよ。多分俺と時谷さんの間に何があったか知ってる人多いと思うし、その中に二階堂くんが加わったって、そんな変わらないだろうから」

 

 ただ、その現場を見ていた人間はそれなりにいる。当然ながら何があったか知っている人間は多いだろうし、自然と二階堂くんの耳に詳細はそのうち入ってくるだろう。変に隠そうとするよりは、そう告げておく方が面倒事にはなりにくいと判断した。

 

「黒川くんは嫌なんじゃないの? 見た感じ良い話題とは到底思えないし、そんなら他の誰かに聞くのもやめておくよ、俺は」

 

「いや、大丈夫だから。俺の口から話したくないってだけだし、それに二階堂くんなら、知っても問題ないと俺は思ってるよ」

 

「…………」

 

 もちろん、二階堂くんが詳細を知ったところで俺に対しての態度を変えないなどという確信は全くない。俺の言葉は、二階堂くんに対して『こうであってほしい』という願望を込めた、釘刺しと言っても差支えなかった。

 

「そう言ってくれるのはありがたいけど、あまり抱え込みすぎないようにね? 芹澤の言葉の真似になるけど、何かあったら遠慮しないで言っていいからさ」

 

「……うん。ありがとうね」

 

 その言葉に俺は、安堵と『よくそんなことが言えたものだ』という、半ば呆れに近いものが入り混じった感情になった。

 

「じゃあ、俺はこの辺で失礼するわ。そんじゃね」

 

「うん。また明日」

 

 俺の言葉に安心したのか、二階堂くんは軽く息を吐くと、本は借りずに図書室をあとにした。俺の呆れの感情は、彼には伝わらなかったらしい。

 

「はぁ……何であんなことしちゃったんだろ……」

 

 何の意味もない言葉を俺はぼやく。

 悲劇の主人公アピールでもしたいというのか、俺は。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――それは、去年の9月まで(さかのぼ)る。

 帰宅または部活で生徒の数がやや少なくなった廊下を歩く黒川将平に、ある女子生徒が声をかける。

 

「おっ、ちょうどよかった。お~い、黒川~」

 

 小柄な体格かつ、彼女と比較的会話をする男子生徒という条件を満たしており、彼は時谷(ときたに)小瑠璃(こるり)にとってあつらえ向きのファッションモデルだった。

 ――彼女の性格上、さほど親しくない人間でも無理矢理引きずって行ったかもしれないが。

 手芸部部員かつ、高校1年生でありながらファッションデザイナーとしての顔も持ち、行事に用いる衣装の提供もしているという背景から、発言力のある彼女に意見できる生徒は上級生も含めて皆無だった。

 

「時谷さんか……なに?」

 

「以前デザインした服のファッションモデルを探していて、黒川のような男子生徒を探していたんだが、本人がいて良かったよ。さあ、行こうか! 今日は図書委員の仕事もないのだろう?」

 

「……ごめん、時谷さん。委員の仕事がないっていうのは確かにそうだけど、今日はもう帰りたいんだ。悪いんだけどまた今度にしてくれないかな?」

 

 しかしながらこの時、彼はどうしようもないくらいに沈み込んでいた。夏休みに、通っているブラジリアン柔術の道場で、兄弟子の人間に一種のいじめを受けたからであった。彼の練習に対するモチベーションの低下、大会への参加意欲の消失は、これに端を発していた。

 学園内では平静を装っていたが、一月近く経っても精神状態の回復は芳しくなく、家に帰るとすぐにベッドにもぐって涙を流す日々を送っていた。

 とても小瑠璃に付き合えるような状態ではなかった。出来るだけ平静を装い、申し訳なさそうな表情でやんわりと断りの言葉を告げた。

 

「それなら、私に付き合っても大丈夫じゃないか。家に帰る時間が少し遅くなるだけだし、明日あさっては休みだから問題ないだろう?」

 

 しかし、小瑠璃にはそれも通用しなかった。強引な性格で知られる彼女は余程のことがない限り引き下がらない。そのため、彼女に振り回される生徒は後を絶たなかった。

 それに加え、古風な喋り方から姫たる風格を出し、断れる雰囲気にさせないのも、被害者の増加を招く一因と言えるだろう。

 

「……そうだけど、今は家で過ごしたいんだ。頼むから、今日は帰らせてよ。今度必ず付き合うから」

 

 ファッションに全く興味のない黒川であったが、小瑠璃の資質を素直に称賛していた。さらに1年生当時は、クラスは違うものの、それなりに話す人間ではあり、それが人脈形成――彼は内心『ゴマすり』と称していたが――にも繋がっていたことから、彼は彼女に対して感謝の念も持ち合わせていた。だからこそ、『今度必ず付き合う』と言ったのだった。

 

「い~や、今度なんて却下だ。絶対今すぐ来てもらう。行くぞ」

 

 しかし黒川のそんな最大限の譲歩も、小瑠璃の前ではあっさりかわされてしまった。腕を掴み、手芸室へ連行しようとする。

 

「……時谷さん……頼むから……頼むから、帰らせてくれ……」

 

 そんな小瑠璃に若干ながら怒りを抱く黒川であったが、表情には出さず必死に懇願した。

 

「さあ、しゅっぱ~つ!」

 

 だが、必死の懇願は無視され、小瑠璃は視線を黒川から外し、掴む力を強めて楽しそうな声をあげながら歩き出す。廊下や教室からその様子を見ていた他の生徒たちは、付き合わされる彼に同情しながらその様子を見守っていた。

 しかしながら、小瑠璃のその行為はもはや黒川の逆鱗に触れる行為でしかなかった。

 

 この瞬間、彼は彼女を『敵』とみなした。

 自分の邪魔をするだけの、忌むべき『敵』だと――――。

 

「…………帰らせろ、っつってんだろ…………!」

 

「ん? 何か言っ――」

 

 そう言いながら振り向いた小瑠璃の目に映ったのは、目にも止まらぬ速さで廊下の壁に蹴りを入れる瞬間の、黒川将平の姿であった。

 

 

 

 

 文字で表現するなら、『ドッゴオオオオン』とするのが一番適当だろうか。

 彼の放った蹴りは、それほどまでの大きな轟音と、凄まじいまでの振動を廊下に与えた。振動は廊下の端から端まで響き渡り、窓枠はガタガタと激しく揺れた。地震と勘違いした生徒が一斉に廊下へと飛び出す。

 だが、廊下に出てすぐに、思考から轟音及び振動に対する驚きは消え失せた。振動の発生源から生じる、禍々しいまでの憎悪による悪寒によって。

 

「……えっ?」

 

 小瑠璃は、何が起きたのかすぐには理解できなかった。あまりにも唐突に起きたことで脳の処理が追い付かなかったのだろう。

 しかし、それは何が原因で起こったのか、その場に居合わせた黒川を除く誰よりも深く、強く理解することになる。

 

「く、黒川……?」

 

 轟音と振動が彼によって起こされたものだということをようやく理解した彼女は、恐る恐る声をかける。かけたはいいが、まるで初対面の人間に話しかけているような気分だった。黒川将平という人間はまず間違いなくそこにいるのに、そこに立つのは全くの赤の他人のような雰囲気が、彼から出ていた。

 

「…………」

 

 彼女の声に反応するかのように、黒川はゆらりと顔を上げる。

 だがそこに映っていたのは、おとなしいながらも人付き合いが良い、優しく真面目という、多くの人間が抱いていた印象の彼ではなかった。

 どす黒い憎悪――否、『殺意』と言っても差支えないものを双眸(そうぼう)に宿し、姫の風格を完膚なきまでに叩きつぶさんとする、毒蛇の眼光だった。

 

「ひっ……!」

 

 生まれて初めて、彼女は怯えの声を上げた。文字通り蛇に睨まれた蛙のように、体が動かない。それなのに全身は震え、特に膝はガクガクと痙攣していた。

 彼の後ろでは巨大な蛇が2匹、牙から毒液を滴らせ、『お前を噛み殺してやろうか』と威圧――もちろん、錯覚なのだが――していた。

 そんな錯覚を彼女はするほどに、彼の眼光は凄まじいものだった。小瑠璃以外にはその錯覚は見えず、彼女ほどの恐怖は抱かなかったにしても、その場に居合わせた全員が、例外なく震えあがった。その中には、あの神楽坂砂夜の姿もあった。

 

(へ、変な真似をしないで正解だったわね……下手をしたら、殴り倒されるどころじゃ済まなかったかもしれないわ……)

 

 入学当初から黒川に目を付けており、あわよくば少しいじめてあげようかと思っていた砂夜であったが、その考えを即座に投げ捨てた。今までかいたことのない冷や汗を、大量にかきながら。

 

「…………」

 

 当の黒川は、そんな彼女らの恐怖など知る由もなかった。意識は目の前の『敵』にのみあった。

 ふと彼は、視線を下へ向ける。その先には未だに自分の腕を掴む、『敵』の手があった。

 

「……あっ」

 

 慌てて彼の『敵』――もとい、小瑠璃は手を離す。『放せ』とは言わず、かといって払いのけることもせず、ただただ眼光を飛ばし続ける彼の姿は、より一層どす黒く、禍々しかった。

 

「ご、ごめんなさい……引きとめてしまって……ど、どうぞ、お帰り下さい……」

 

 引きつった笑みを浮かべながら、同学年の人間に敬語を話す彼女の姿を一体誰が想像できただろうか。いや、誰もいない。彼女の目の前に佇む者を除いて。

 正直なところ、その言葉を発した小瑠璃は後悔していた。彼女のプライドに反したからではもちろんない。黒川の怒りを余計に増幅させるだけになってしまうと思ったからである。怒りを爆発させた彼に、殴り倒されると思ったからである。他の面々も同じ考えを抱いていたが、その予想は意外にも外れることとなった。

 

「…………ふん…………」

 

 すぐに身体を180度回転させて、階段を下り、彼は姿を消した。

 それでもしばらくは、廊下の静寂が喧騒に変わることはなかった。それから2分後、『本当に、黒川君なのか、あれ……?』という男子生徒の言葉を皮切りにざわめき出していったが、その言葉を発した男子生徒は、その2分はまるで1時間近くに感じたという。他の面々も、似たような感覚がしたそうだった。

 黒川の姿が消えてすぐに、小瑠璃はその場にへたり込んでしまった。駆けつけた同クラスの女子生徒に支えられて立ち上がろうとするも、2人がかりで支えないと立ち上がることすらできず、まともに歩けるようになり、自宅へと帰るまでに3時間も要した。

 

 

 

 

 この日より、姫は毒蛇に屈服した。

 後に学園トップクラスの発言力を持つと言われる彼女であるが、彼にだけは一切逆らうことができなくなった。

 彼女は、今もなお毒蛇の眼光に怯える学園生活を送っているのであった。

 

 

 

 

 この事件の目撃人数は、当時の状況が状況であったためか、さほど多くはなかった。目撃者自体も、ことがことだけに話そうとする者はほとんどいなかったが、それでも噂などでそれなりに生徒間での広まりはあった。

 

 また、当事者の知らぬところで、どちらを擁護するのかというやり取りもわずかながらなされた。

 『あれは全面的に時谷ちゃんが悪い』とした小野寺千鶴、『黒川くんが怖いと思った』と話す笹原野々花、中立気味ながらも、『もう少し黒川くんの気持ちを汲んであげるべきだった』と言った望月エレナ、何も話さない神楽坂砂夜、そもそも事情を知らない有栖川小枝子など、反応は十人十色であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時谷さんに反抗したことそのものを、俺は後悔してはいない。反省しているかどうか聞かれても、恐らく首を傾げてしまうだろう。

 

 時谷さんは風格があるとか、発言力があるとかいう評判は、1年生の頃からかなり頻繁に耳にしていた。しかし、正直なところ俺にはどうでもいい話だった。自分がやりたいと思っていることでもなければ、義務というわけでもないのに、勝手な都合で自分の時間を他人に浸食されることが、俺は大嫌いだった。

 時谷さんに限った話ではなく、誰かの『命令』などと称した強引なやり口に、俺は従ってやるつもりなど毛頭ない。

 

 時谷さんに反抗したのは、当時の精神状態が不安定だったというのが大きな要因ではあるが、衣服のモデルという、俺にとって興味のないことであったことも少なからず関係している。

 『必ず付き合う』と言いはしたが、仮に時谷さんが引き下がったところで本当にそうしていたかどうかはかなり怪しい。

 

 俺が後悔しているのは、壁を蹴り、彼女を睨みつけたという行為であった。別にそんなことをしなくても、無理矢理にでも掴まれた手を引きはがし、走って逃げるくらいはできたはずだった。小柄かつ、力もそこまで強くはない時谷さんなら、なおのことそれはできたはずだった。

 後日時谷さんに文句を言われたり、また連行されそうになったりした可能性はあるが、その都度逃げればいい話だった。いずれにしても彼女を利用してコネを作ることなど、もうできないのだから。

 

 とは言ったものの、一種の愉悦を俺は感じてしまっていた。誰もが逆らうことのできない、『姫』と形容される人間を屈服させたというカタルシスを。

 今思えばやらなくて良かったとは思っているが、あの時の俺は時谷さんをぶちのめしてやろうかとすら思っていた。

 

 

 

 

 ――それなのにこの状況が続かないようにしたいだって? 笑わせるなよ。お前なんかが時谷さんと和解なんてできるわけねえだろ。屈服させて滅茶苦茶嬉しがっていたくせに、綺麗事をほざいてるんじゃねえ。

 

 

 

 

 その通りだ。これが俺の本性だ。俺は称賛されるような人間では、断じてないのだ。

 俺はプライドばかりが過剰に高い、蛇のように狡猾(こうかつ)な人間なのだ。

 

 

 

 

 



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リスジャグラーとゴマ団子

 

 

 

 

 ここ最近の俺は、ひとりで昼食をとることが多くなっていた。今日は中庭のベンチに座って昼食をとっている。

 食べ終わってペットボトルのお茶に口を付けた際、対角線のベンチで興味深いことをしている1年生の女子生徒を発見した。

 

「よっ、ほっ、ほいっと……」

 

 その1年生は、3つのボールを投げたり取ったりする、いわゆるジャグリングをしていた。傍らにはクラブと呼ばれる、ボウリングのピンのような形をした棒も置いてあり、どうやら本格的なジャグラーのようだった。

 

 いつの間にか俺は、『ありゃいいな』と思いながら彼女の芸を凝視していた。

 以前インターネットの動画サイトでジャグリングの動画をいくつか見て、思わず唸ったことを思い出す。彼女の技術は、動画のジャグラーと比較しても遜色ないものであると個人的には感じた。

 しかしながら中庭には意外に人が少なく、いる人間はいる人間で、食事や会話に夢中になっている者しかおらず、彼女の芸に目を向けている者は皆無だった。

 

「ほいっ、ほいっと……」

 

 そんな状況を把握しているのかどうかは知らないが、彼女は一心不乱にジャグリングを行っていた。ただ取っては上に投げを繰り返すのではなく、腕を交差させて投げたり、横に投げたり、高さを変えて投げたりと、様々なテクニックを披露していた。

 

「…………」

 

 だと言うのに、俺以外に誰も見ている人間がいない。変わらない状況に勝手に憤った俺は、ベンチから立って購買へと向かった。

 

 

 

 

 購買で菓子とお茶を買った俺は、先ほどの1年生のいるベンチへと向かった。いなかったらまずいと思ったものの、まだジャグリングを続けている彼女の姿を見て、それが杞憂に終わったことに安堵する。

 

 相変わらず何をやっているのだろうとは思う。スナック菓子の類は全て売り切れ、売っていた菓子がゴマ団子だけだったのは、ゴマすりばかりしている俺に対する皮肉だろうか。

 ただ、今回ばかりはゴマすりと言うよりも、良いものを見させてもらったという感情から来たものだった。言ってしまえば芸を見せてくれたこと(もっとも、俺に見せるつもりでやっているわけではないことは明らかなのだが)への対価――つまりはチップのようなものだ。今まで見ず知らずの人間に対してそういうことをするのは、馴れ馴れしいにも程がある行為であることは承知しているが、『ゴマすりよりはましだろう』と開き直ることにした。

 さすがに現金を渡すのはまずいので、代わりにこれを渡そうと思ったのだった。彼女がゴマ団子を好きかどうかは分からないが、嫌いと言われたら俺が食べればいいだろう。

 

「よっ、ほいっ……わっとと!」

 

 取るタイミングがずれたのか、彼女はボールを落とした。『ちょうどいい』と言うには若干語弊があるかもしれないが、話しかけるタイミングとしては、ジャグリングを行っている最中よりは好ましいだろう。

 

「あの、よかったらこれどうぞ。チップと言ったらあれですけど、いいもの見せてもらったんで」

 

「……へっ? もしかして、ずっと見てたんですか?」

 

 見られていたとは思っていなかったのか、俺に話しかけられた1年生はかなり驚いた表情をした。

 

「……まあ、そうです。ゴマ団子しか売ってなかったんで申し訳ないですけど、良かったら食べてください。押しつけがましいってことは分かってますけど」

 

「ゴ、ゴマ団子!? ……って、そうじゃなくて。いやいや、そんなことまでしていただかなくていいですよ!」

 

 『ゴマ団子』というワードを耳にした彼女は、一瞬目を強く輝かせるも、すぐ我に帰り、両手をぶんぶんと振りながら俺の差し入れを断る。

 

「それに、差し入れを期待してやってたわけじゃ……あっ……」

 

 なおも断りの言葉を言い続ける彼女の腹が、グーと盛大な音を立てる。たまらず顔を真っ赤にして、腹を押さえながら俯いてしまった。

 

「もしかして、昼食べてないんですか?」

 

「あ、あはは……夢中になってすっかり忘れてました……」

 

 冷や汗をかき、苦笑しながら後頭部をぽりぽりとかく。

 

「それなら食べてください。今から学食で食べるには遅いですし、その反応からしてゴマ団子好きそうですしね」

 

「ほ、本当に、いいんですか……?」

 

「……いらないのなら、自分が食べます」

 

「じゃ、じゃあ、いただきます……」

 

 おずおずと手を差し出して、ゴマ団子とお茶が入った袋を受け取る。

 

「わぁ……」

 

 袋から取り出したゴマ団子を見た瞬間、彼女の目は先ほど以上に輝きだした。好物な上、空腹であることも手伝っているのだろうか。

 

「はむっ……ん~っ、おいひ~♪」

 

 容器の蓋を開けて、それを頬張った瞬間、まるで天にも昇るような至福の表情を浮かべた。その後もひとつ頬張るごとにそんな表情を見せ、10個入りのゴマ団子はあっという間に彼女の胃袋へと収まっていった。

 

 

 

 

 

 

「ごちそうさまでした~っ♪ ……あっ、お金払いますね」

 

 お茶の方も飲み干した彼女は笑顔で両手を合わせると、上着のポケットから財布を取り出そうとした。

 

「……いりませんよ。そういうつもりで渡したわけじゃないんですから」

 

 金を受け取ったら、俺の行為はただの押し売りになってしまう。そもそも名前も知らない1年生に対してそんな真似をすれば、顰蹙(ひんしゅく)を買うどころの騒ぎではない。いずれにしても俺の行為は、傍から見ればかなり怪しいことに変わりはないのだが。

 

「ほ、本当にいいんですか?」

 

「……同じことを何回も言わせないでください」

 

「そ、そうですか……ありがとうございます……。そういえば、自己紹介がまだでしたね。1年B 組、大道芸研究会の相楽(さがら)エミです。よろしくお願いします!」

 

「……ん?」

 

 溌剌(はつらつ)と自己紹介をする彼女の言葉に引っかかるものがあったので、俺はわずかばかり首を傾げる。

 

「大道芸研究会って……そんなものありましたっけ?」

 

 前年度はもちろん、今年度の部活紹介のパンフレットにもその名前は見かけなかった。最近誰かが作ったのだろうか。

 

「あはは……知らないのも無理はないと思います。入学して少ししてから、わたしが作ったんです。まだできてから1か月しか経ってないですからね」

 

 何とこの1年生――相楽さんが、当の設立者だった。部活紹介のパンフレットは新1年生の入学前から製作の準備に取り掛かるので、載っていないのも無理はなかった。

 

「ちっちゃい頃に大道芸見て、自分もやってみたいなって思ったんです。……って、今でもちっちゃいですけどね、あはは……」

 

「……」

 

「ここに大道芸の部活があったら入ろうと思ってたんですけど……まあ当然と言えば当然なんですけど、なかったので作っちゃいました」

 

「そうですか……」

 

 自分で部活を立ち上げるなど、余程の気力がなければできる芸当ではない。先ほどのジャグリングにしても、たくさんの練習を重ねたことによる賜物だろう。彼女の強い気力は、お世辞抜きで称賛できるものだと思う。

 

「……俺とは大違いだ」

 

 かたや俺はどうだろう? 柔術は惰性で練習を続け、何ひとつとして誇れるものを持っていない俺は。

 彼女と同じように、柔術の選手の技や言葉に惹かれて始めたはずなのに、このざまだ。

 彼女と俺の気力の差には、天と地の差があると言っても何らおかしくはなかった。

 

「えっ? 今何か言いましたか?」

 

「……いや、特に何も。ただ、相楽さんはすごいって思っただけです」

 

「い、いやいやっ! わたしなんてまだまだですよ! 不器用だし、ずっとうまい人はたくさんいますから!」

 

 俺の言葉に、オーバーなくらいに手と首をぶんぶんと振って否定する相楽さんだったが、先ほども思ったように彼女のジャグリングは、動画サイトで見たジャグラーの芸と比較しても遜色ないと思う。彼女の言葉は完全に謙遜にしか聞こえなかった。

 ところで、なおも首を振り続ける彼女の髪型を見て思ったが、ツーサイドアップのそれは、さながらリスの尻尾のようだった。ふとベンチに目をやると、先ほど見たクラブ以外に、リスのぬいぐるみも置いてあった。リスが好きなのだろうか。恐らくこの髪型も自分でセットしたものなのだろう。

 

「でも、そう言ってもらえるのは嬉しいですけどね……えへへ……」

 

 ひとしきり手と首を振った後、顔を赤らめ、頬を軽くかきながらはにかんだような表情を見せる相楽さんだった。

 

 ――そうだ。もっと嬉しがっていいんだよ。それは間違いなく、誰かに誇れるものなのだから。そして、称賛されるべきものなのだから。

 

「あっ、そういえば先輩の名前って、なんて言うんですか? ごめんなさい、自分のことばっかり話しちゃってて」

 

 話していてすっかりと忘れていたが、確かにまだ名乗っていなかった。黒川さんの時とは別の意味で気乗りはしなかったが、ここは素直に名乗っておく。

 

「黒川。2年B組の黒川将平です」

 

「……あれ? もしかして妹さんっていますか? わたしの学年にも黒川さんって……」

「断じて違う」

「わっ!」

 

 1年生のほとんどが、俺と黒川さんが兄妹であると思い込んでいることをすっかり忘れていた。相楽さんもその例に漏れていなかったらしく、言い終わる前に俺は全力で否定した。顔をずいと近づけてそう言ったために、彼女は思わずベンチから立ち上がって飛び退く。

 

「……ごめん。でも、誰に何を吹き込まれたのか知らないけど、あの人は俺の妹じゃないどころか、血縁関係すらないから。それだけはしっかり頭に焼き付けておいて」

 

「は、はい。分かりました」

 

「はぁ……面倒くさい真似をしてくれたんもんだよ……」

 

 念を押した俺の言葉に若干うろたえながらも了承の言葉を確認できたので、俺は安堵の息を吐くと同時に、黒川さんに対する恨み節を呟く。

 それと、ついため口になってしまったが、もう敬語に直す必要もないだろう。呼び方は相変わらず『相楽さん』のまま変えるつもりはないが。

 

「さて、そろそろ戻らないと……」

 

 ふと校舎の時計を見ると、あと1分で予鈴が鳴る時間だった。別に走らずとも十分教室には間に合うが、すぐ戻るに越したことはないだろう。

 

「……いいものを見せてくれてありがとう。それじゃあ」

 

「……あ、あのっ!」

 

 踵を返して校舎に戻ろうとすると、相楽さんが俺を呼び止めた。振り向くと、彼女は俯きながらおずおずとした様子でこう言った。

 

「ま、またわたしの芸、見てくれますか……?」

 

「…………」

 

「ここに入学してから感想言ってくれたの、先輩が初めてだったので……」

 

「…………」

 

 ――駄目だよ、俺なんかにそんなことを言っちゃ。そんなこと言わなくたって、君の芸を見てくれる人は、称賛してくれる人は必ず出てくる。他人を喜ばせるために努力ができるなら、尚更だ。その言葉は、その人に対して言うべきなんだよ。

 ろくに努力もせず、自分のために誰かを利用する奴なんかに、そんなことを言っちゃいけないんだよ。

 

「まあ、気が向いたらね……」

 

 しかし、口から出た言葉は思ったこととは正反対のものだった。それは、思ったことをそのまま口に出したら彼女を傷つけることになると考えたからだろうか。それとも、新たなゴマすりの対象を逃がすわけにはいかないと思ったからなのだろうか。

 前者であろうが後者であろうが、どちらにせよ俺はクソ野郎だ。彼女の純粋な気持ちに、まともな意図で応えようとしてなどいないのだから。

 名乗ることに気乗りしなかったのも、俺の本性が彼女にばれた時、彼女はどんな顔をするのかが怖かったことが大きな理由だった。

 

 純粋な称賛の意味でゴマ団子を差し入れしたはずなのに、何で俺はいつの間にこんな気持ちを抱いてしまっているのだろう。

 何で春宮さんの時と同じような、虚無感から来る自己嫌悪に苛まれないといけないのだろう。

 

 

 

 

「はい! それで十分です! ありがとうございます!」

 

 背後でとても嬉しそうに礼を言う彼女のその言葉は、俺の心にぐさりと、強烈に突き刺さった。

 

 

 

 



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後にマドンナと呼ばれる少女

 

 

 

 

 ――ちくしょう。近いうちにこうなることは何となく予想できはしたが。

 俺は今、朝の通学路を全力疾走しているところだった。

 

 以前にも言ったことではあるが、ここ最近の俺は寝起きが芳しくない。気力で何とか重い身体を起こしたり、父親に起こされたりするというパターンがほとんどだった。

 今日は運の悪いことに、寝ぼけ眼で目覚ましを解除し再び寝てしまったことと、父親が早朝出勤であったために起こしてもらえなかったということが重なり、次に目が覚めた時には、本鈴まであと15分ほどしかない時間になっていた。

 即座に飛び起き、朝食を強引に胃へと押し込み、数十秒で歯磨きを済ませ、十秒足らずで着替えると、鞄を持って家を飛び出した。必要なものは昨日の内に入れておいたので、それに時間を取られず、なおかつ忘れ物をする心配はなかったのが救いと言えるだろう。

 

 ちなみに俺の家と聖櫻学園までの距離は、ぎりぎり自転車通学ができる範囲だった。そのため、俺は自転車通学の登録をしており、それを証明するシールも自転車に貼っていた。自転車に乗ることができれば、この時間帯に家を出ても余裕で間に合っただろう。

 しかし今日は厄日なのか、自転車の鍵がどこにも見つからず、どこに置いたかも覚えていないという失態をやらかしてしまった。そのため、こうして全力疾走で登校する羽目になっていたのだった。

 泣きっ面に蜂とは、まさにこのことだ。

 

 何とか間に合うとは思うが、結構ぎりぎりだ。

 自分の責任であるということを否定するつもりはないが、それでも何が悲しくて朝っぱらからこんなにゼーハー言いながら、汗だくになって授業を受けなければならないのだと思ってしまう。

 6月に入り、まだ真夏と言うには早い時期ではあるが、気温は確実に上がり始めている。おまけに俺は汗をかきやすい体質のため、Yシャツの下に着たインナーのシャツは、速乾性であるにもかかわらず、かなり湿り気を帯びていた。

 

 頭の中で悪態をつきながらも、思っていたよりかは早く移動できたようだ。安堵の息を吐き、走るペースを少し落とした矢先――――。

 

「ぐあっ!?」

「きゃっ!?」

 

 左手側の道から飛び出してきた人間に、俺はぶつかった。それなりに強い衝撃ではあったが、何とか倒れるのは踏みとどまる。

 

「……くそったれが……」

 

 左右の確認を怠り、加えてそこまでスピードは落とさなかった俺にも責任はあるので、こういう態度は取るべきではないことは分かっていたはずなのだが、下手をすれば遅刻するという焦りもあって、思わず舌打ちをしながら悪態をついてしまった。先ほどとは違い、今度は口に出して。

 

「ごっ、ごめんなさい! 大丈夫ですか!?」

 

 ぶつかった相手の方へ目をやると、その人間は俺と同じ聖櫻学園の1年生の女子生徒だった。俺とは違って、彼女の方は尻もちをついてしまったらしい。

 俺の悪態を耳にしたのか、痛がるよりも先に慌てて立ち上がり、謝罪の言葉を述べながら俺のもとに近づいてきた。

 

 ――しまった。

 俺がそう思ったのは、ぶつかった相手が女だったからというわけではない。自分で言うのもなんだが、俺は男か女かで態度を変える人間ではない。

 ぶつかった際は結構な衝撃だった上に、尻もちまでついてしまったので、痛みはそれなりにあっただろう。だというのに自分のことはそっちのけで俺の心配をしてきたのだ。目を潤ませながら。

 そういう態度を取られてしまえば、さすがに俺も罪悪感を抱かずにはいられなかった。

 

「いや、大丈夫です。それよりそっちの方こそ大丈夫ですか?」

 

「あ、はい……別にどこか怪我したわけではないので……。あの、本当に大丈夫ですか?」

 

 なおも俺にそう言ってくる彼女に対し、俺の罪悪感は増大するばかりだった。俺が一方的に抱いたものではあるが、こういった態度を取ってきたこと、さらには見た目からして礼儀正しそうな印象が彼女からは感じられた。

 

「はい。……あの、悪いのはろくに確認しないで走った自分の方なんで。それなのに悪態なんかついちゃってすいません。今の言葉は撤回します」

 

「いえ! 確認しなかったのは私の方ですから!」

 

「いやいや、そんなことは……」

 

 自分が悪いと言って譲らない、キリのない押し問答を続けていると、校舎から予鈴のチャイムが鳴り響く。

 ここから校舎まではもう100メートルもないが、もたもたしているわけにはいかない。

 

「……とりあえず今は急ぎましょう。こんなところで油売ってたら、ふたりとも遅刻します」

 

「……あっ、はい!」

 

 彼女の返事を確認し、校門へ向かって俺は走り出す。意外なことに、彼女はすぐに俺の横に並んできた。あまりそのようには見えなかったが、運動神経がいいのだろうか。

 

 ――いや、それだけじゃない。

 またそれだけではなく、俺の運動神経が鈍いというのもあるのだろう。柔術をやってはいるものの、体育の成績は大して良くはなく、特に球技全般はかなり苦手なせいで、球技の授業は憂鬱な気分になることがかなり多かった。

 息を切らせかけている俺とは違い、彼女の方はさほど疲れた様子ではない。1年だけではあるが、下級生かつ女子生徒よりも運動神経が鈍いという現実を突きつけられた俺は、わずかながら複雑な気分だった。

 

 

 

 

 

 

 校門をくぐった俺たちは、移動のペースを走りから歩きに変えた。ただ、立ち止まっていては確実に遅刻するので、俺は1年生に何も言わずに2年の教室の棟へと向かう。

 

「あ、あのっ! 先輩のお名前は?」

 

 大方予想はしていたが、背後からその1年生が俺を呼び止める。だが俺は立ち止まることはしない。そんな余裕すら今の俺にはない。

 

「図書委員!」

 

 代わりにそう告げて、振り返ることなく棟へと入っていった。

 彼女なら俺の言葉の意味は、『知りたきゃ図書室に来るように』ということは自ずと理解できるだろう。さすがに名前が『図書 委員』だなんて解釈はしないはずだ。

 

 

 

 

 

 

 今日は父親が早朝出勤のため、当然ながら弁当は用意されていなかった。昼休みを告げるチャイムが鳴り響くと、俺はすぐに購買へ向かった。

 

「おっ、将ちゃんも今日は購買?」

 

 廊下を歩いていると、背後から声をかけられる。声の主は、高桑くんだった。

 

「ああ、うん。親父が朝早くて、弁当作れなかったんだよ」

 

「そういや、将ちゃんのお母ちゃんって単身赴任してるんだっけ。いいよな~、料理の作れる父親って。俺の親父は料理なんててんで駄目だから、羨ましいよ」

 

「そういうもんかな?」

 

「そうだよ。……そういえば話が変わるけど、将ちゃん今朝椎名(しいな)さんと登校してたよな。やたら息切らせて」

 

 俺の問いに高桑くんはしみじみと答えた後、何かを思い出したような表情に変わり、そう尋ねてきた。

 

「その椎名さんって……あの1年生のこと?」

 

 校門をくぐった際、俺の周囲に1年生は他にもいたが、『息切らせて』という高桑くんの言葉から、ぶつかったあの1年生であることは確かだった。もっとも息の切らせ方は、俺と彼女では明らかな差があったが。

 

「そうそう。何、もしかして付き合ってんの? 羨ましいじゃねえかこんちくしょうめ~」

 

「……んなわけないでしょ。知り合ったのは今朝だし」

 

 俺はあの1年生――椎名さん――とは大して会話もしなかったどころか、名前すら教え合わずに別れたので、そもそもあれが『知り合った』と形容できるかはかなり怪しい。

 ゲームや漫画の世界において、『出会い頭にぶつかる』というシチュエーションはそれなりにあるのだが(もっとも、とうの昔に使い古されている気はするが)、そのようなものと違って俺と椎名さんの出会いは、良いことが起きる前触れとは考えにくかった。

 

「というか、何で高桑くんがあの人の名前知ってるの?」

 

 口ぶりから察するに、高桑くんが彼女と知り合いであるというよりは、彼女自体が知名度が高い人間であるという感じであった。

 まだ入学から2か月ほどしか経っていないのに、そこまで有名になる要素があったのだろうか。

 

「そりゃ1年の中じゃトップクラスの美少女とありゃ、野郎どもの間で噂にならないわけがないよ。最有力のマドンナ候補とも言われてるからな」

 

「……そうなんだ」

 

「おまけに礼儀正しく性格も優しいとくりゃあ、なおのことだね」

 

 確かに高桑くんの言う通り、彼女は可愛かったとは俺も思う。礼儀正しいという性格に関しても、ぶつかった際に自分より俺の心配をしていたことから、間違いないと言える。まあ、あれは俺が悪態をついたせいでもあるのかもしれないが。

 

「さらには新体操部期待の新人とも聞いたな。……あ~っ、レオタード姿見てみてぇ~」

 

「……それはいくら何でもどうなのよ」

 

「そんなこと言ってるけど、本当は将ちゃんも新体操部のレオタード姿を堪能したいんじゃないの~?」

 

 本音を隠そうともしない高桑くんのその言葉に俺は半ば呆れた返事をするが、高桑くんはにやつきながらそんなことを尋ねてくる。

 

「……ぶっちゃけるとイエスだけどね」

 

「でしょ? ありゃ見たくないって言う方がおかしいって」

 

 とは言ったものの、俺は聖人君子でもなければ禁欲主義者でもない。はっきり言ってしまうと、彼の言葉には全面的に賛成だった。

 レオタードというのは、新体操やバレエなどで着用する衣服のことだが、下手をすれば水着と同じ――いや、それ以上に露出が大きくなるタイプのものも多く存在し、男の下心を強く煽る衣装と言っても過言ではないと思う。

 現に俺もレオタードは好きな人間だった。新体操で用いられるタイプは特に。

 

 新入生向けの部活紹介や、校内のイベントで新体操部の演技が行われることがあるが、俺は何度か見たことがある。演技そっちのけというわけではないが、実のところ意識は8割方レオタード姿に向けられていた。

 

 そんな俺のような下心丸出しの男の視線を阻止するため、新体操部は余程の理由がない限りは、男子生徒が練習を見学することは基本的に禁止されていると聞いた。

 まあ、仮に禁止されていなかったとしても、わざわざ見学しようとは思わない。下心がないわけではないと言っても、そこまで下卑た人間に堕落したくはなかったからだ。

 

「ま、期待の新人って言うくらいだから、そう遠くないうちに演技は見れるだろうな。そしたらガン見しちゃろ」

 

「出過ぎた真似はしないようにね……」

 

 にやつきながら、まるで望月さんのようなことをのたまう高桑くんに、一応俺は忠告の言葉を送っておいた。

 

 

 

 

 

 

 放課後になり、俺は村上さんと共に図書委員の仕事をしていた。もっとも、本の整理などは前日辺りでほとんど済んでいることに加え、利用者もほとんどいないせいで暇だった。村上さんはカウンターで本を読んで過ごし、俺は整理する振りをしながら本の物色をして過ごしていた。

 

 ここ最近の俺は、村上さんや二階堂くんの影響で、小説に手を出すことが多くなっていた。しかしながら、二階堂くんが以前借りていたような分厚い小説は、本人に対しても言ったように、相当な時間をかけないと読み終われない。迂闊に手を出すと時間を無駄にしそうな気もしていたので、基本的には村上さんが読んでいるような、小さめのものを中心に読んでいた。

 ただ、今日はあまり小説を読む気にならず、本棚からもこれと言ってよさそうな本を見つけられなかったので、仕方なく俺はカウンターに戻り、脇に置いてあった自分の鞄から魚の図鑑を取り出して、閲覧テーブルへと向かい、椅子に座って読み始めた。

 

「村上先輩、すみません」

 

「あっ、椎名さん。今日はどうされましたか?」

 

「あの、実は今朝、失礼なことをしてしまった先輩に謝ろうと思って来たんです。その方、図書委員だっておっしゃっていたので」

 

「お名前とかは、聞いてますか?」

 

「いえ……図書委員としか聞けなかったので……いつ図書室にいらっしゃるのか分からなかったので、駄目もとで来てみたんですけど……」

 

 しばらくすると、カウンターの方からそんなやりとりが聞こえた。俺のいる場所はカウンターからは死角になっており、姿は見えなかったが、聞こえた声と村上さんの発した『椎名さん』という言葉からすぐに合点が行く。

 俺は図鑑を閉じてカウンターの方へと向かった。

 

「わざわざ律儀に来なくてもいいのに……」

 

「……えっ? あっ、先輩! えっと、今朝は本当にごめんなさい!」

 

 ああ言いはしたものの、その実本当に図書室を尋ねてくるとは思っていなかった。半ば呆れながら椎名さんに声をかけると、彼女は不意を突かれたような表情になり、間髪入れずに深々と俺に頭を下げる。

 

「……」

 

「ふふふ……」

 

 ふと村上さんの方へ視線をやると、彼女は困ったような笑みを浮かべるばかりだった。当事者でも何でもない彼女に助けを求めても仕方がないことは分かっていたが、『どうにかしてくれ』と思わずにはいられなかった。

 

「はぁ……もう気にしてなんかいないから、頭上げて」

 

「で、でも……何かお詫びをしないと……」

 

「そう思うんだったら、本でも借りてって。誰もいなくて暇なんだよ」

 

 俺は親指で後ろの本棚を指差してそう告げた。ひとり利用者が来たところで暇な状況が変わるわけではないが、誰も来なかった場合と違って少しは仕事をした気になる。

 

「それじゃあ、何かおすすめはありますか?」

 

「図鑑とかだったらそれなりにあるけど、小説とかが借りたいなら村上さんに聞いて。そっちは俺の管轄外だから」

 

 図鑑の類を借りる人間は、基本的に俺のような物好きがほとんどだ。彼女がそのようなタイプには思えなかったので、村上さんに押し付ける意味合いも兼ねて俺はそう言った。

 

「あっ、そうですか……」

 

 少しばかり残念そうな表情をし、椎名さんは村上さんの方へ向かおうとする。その時、俺はすっかり忘れていたことを思い出した。

 

「そういえば、まだ名前言ってなかったよね。黒川、黒川将平」

 

 さらに、1年生なら確実に言っておく必要があることを補足する。

 

「……それと同じ学年に黒川さんって人がいるかもしれないけど、あの人は妹じゃないから」

 

 とりあえず、今後知り合った1年生に自己紹介する時は、いかなる場合でもこの言葉を付け足しておくとしよう。

 

「あっ……! は、はい! 椎名(しいな)心実(ここみ)です! よろしくお願いします、黒川先輩!」

 

 椎名さんは俺の自己紹介にやたら目を輝かせ、深く頭を下げながら大きな声で自己紹介をした。もしかすると彼女は、俺の名前を聞きたかったのかもしれない。

 黒川さんとの関係も、彼女は多分理解してくれただろう。

 

 しかし、俺は彼女の自己紹介に『よろしく』とは返さず、今取った行動を指摘した。

 

「図書室では静かにね、椎名さん」

 

「あっ! す、すみません……」

 

 俺の指摘に顔を赤らめ、先ほどよりも大分角度が小さく遠慮がちな会釈をする椎名さん。そんな様子に、村上さんはくすくすと笑っていた。

 

 

 

 



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厭世観と自虐

 

 

 

 

 僕の本性がばれた時、みんなは僕をどう思うだろう。

 落胆、失望、侮蔑、罵倒。どんな反応を見せるだろう。

 いずれにしても、僕の周りからは誰も彼もいなくなる。そうなったら、僕はどうしよう。

 意外なことに頭はかなり冷静だ。最終的にこうなることが分かっていたからだろうか。

 結果的にどう転ぼうとも、僕の安寧(あんねい)は崩壊する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――この世に生まれたことが、僕にとっての一番のはずれくじ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「黒川くん、飯食わない?」

 

「……ごめん、今日もひとりで食おうと思ってるんだ」

 

「……そうなんだ。分かった、じゃあまた」

 

「……うん」

 

 二階堂くんからの昼の誘いを断ったのは、これで何度目だろうか。回数なんてもう覚えちゃいない。

 今までは俺の方から彼を昼に誘うことしかなかったが、彼が本来の自分を取り戻してからは、立場が逆転し、彼の方から誘うことが多くなった。いやむしろそれだけではなく、俺の方は彼を誘わなくなったということも付け加えておくべきだろう。

 

 以前、俺はひとりで昼を食べることが多いと言った気がするが、それは、どの場合においても二階堂くんらの誘いは全て断ったうえでのことだった。

 初めは適当に理由をでっち上げていたが、数日前からはもはや理由すら言わず、ひとりで食べるという旨を告げるだけになっていた。

 

 でっち上げなくとも、彼らとの食事を拒む理由を俺は持っていた。だが、それを俺は少しも口に出そうとはしなかった。

 いや、出せるわけがない。そんな真似をしようものなら、俺は一瞬で終わる。終わるのだ。

 

 

 

 

 ――――本当の俺は絶対的な単独主義であるということなど、彼らのことを『友達』だなんて思っちゃいないことなど、口が裂けても言えるわけがねえ。

 

 

 

 

 

 

「ごめん、土日はどっちも用事があって行けないんだ」

 

 そんな俺の態度を訝しがったのだろうか、後日高桑くんたちが、次の休日に俺を含めた5人で、学園の最寄り駅から少し先の町まで行かないかと誘われた。しかし――いや、当然ながらと言うべきか――俺はその誘いを断った。

 

「将ちゃん、それなら何の用事か教えてくれたって――」

「分かった。用事があるならしょうがない。残念だけど、また次の機会にな」

 

 もちろん俺は、その『用事』について詳しいことは何も言わなかった。高桑くんの憤りも当然と言えるだろう。鴨田くんにしても二階堂くんにしても、困惑したような表情を見せていた。

 そんな中、芹澤くんは食い下がろうとする高桑くんを制止し、わずかばかり残念そうな表情をしながらも、俺にそう告げた。

 

「……本当にごめん。それじゃあ」

 

 俺は4人に申し訳程度に頭を下げ、そのまま帰宅した。予想していなかった芹澤くんの助け船に、大きく安堵しながら。

 

 

 

 

 

 

 今までの昼食の誘いを断った時とは異なり、その『用事』はでっち上げではなく、本当にあった。もし俺が彼らのことを信頼していたのなら、何とかそれを口にすることができたかもしれない。

 だが、実際にそんなことを話そうものなら、今俺が彼ら――いや、彼らだけではない。今までに知り合い、会話をしてきた同級生及び下級生の人間を、誰ひとりとして信用していないことがばれるだけの結果にしかならないことは目に見えていた。

 

 

 

 

 

 

 そして、その『用事』の日――俺は、学園の最寄り駅から少し先の町にある、心療内科を受診していた。彼らが俺を遊びに行こうと誘った目的地と同じ場所にいるとは、何の皮肉だろうか。

 

「最近の調子はどうですか?」

 

「まあ……勉強に支障は出てないです。寝起きは良くないですけど、遅刻も何とかしないで済んでますから」

 

 担当医の質問に、俺は経過報告を行っていた。

 聖櫻へ入学する少し前から、俺は心療内科へと通い続けている。入学当初から約半年間は1週間に1回のペースで通っていたが、それ以降は2~3週間に1回通っていた。

 

「ただ……ここ最近は、人間関係の面で不安があります」

 

「……そうですか。もし差し支えがなければ、教えていただけますか?」

 

「…………今学内で関わっている人に、自分の本性って言えばいいんでしょうか、本当は信頼関係なんて持ち合わせていない、自分の都合のために利用しているだけってことがばれるんじゃないかって」

 

 俺が自身の本性、それ以外にも聖櫻へ入学して以降の学園生活において起きたことを話すのは、この担当医ただひとりだけであった。両親には、当たり障りのないことしか話したことがない。

 俺と担任の教師、親を交えた三者面談では、教師の言うことに適当に相槌を打つだけで、特に親に状況報告をしたことはなかった。

 

 1年次の担任は、『黒川君は成績も良く、同級生との交流も積極的です』と絶賛していたこと、その時の面談相手だった父親が、嬉しいような悲しいような、どちらともつかない表情をしていたことを思い出す。

 現在の状況をろくに話してはいないとは言ったが、なぜ俺がこのような状態になっているのかを両親は良く知っていた。そんな背景も手伝って、曖昧な表情を浮かべていたのだろうとは思う。

 

「意外に冷静ではいられるんですけど、ぼんやりとした不安みたいなのを、ここ最近は頻繁に感じるようになってます」

 

 芥川(あくたがわ)龍之介(りゅうのすけ)の自殺の動機――もっとも、これだけが原因だったわけではないらしいが――のようなことを、俺は担当医に対してぼやいた。

 

「そうですか……今学校では、どのようにして過ごしていますか?」

 

「ほとんどひとりでいることが多いです。昼の時間にクラスの人から一緒に食べないかって誘われますけど、全部断っているので。正直、墓穴を掘っているだけなんじゃないかって気もしますけど……」

 

「…………」

 

「実は先日、一緒に行動することが多かった同級生たちから、この日に遊びに行かないかって誘われたんです。ここにいるから察しはつくと思いますけど、もちろん断りました」

 

「…………」

 

「当然の結果だと思いますけど、みんなあまりいい顔はしていませんでした。でもひとりだけ、助け船を出してくれた人がいたので助かりました」

 

「…………黒川さんは、将来的にどうしたいと考えていますか?」

 

「……えっ?」

 

 それまで俺の言葉に軽く相槌を打つだけだった担当医は、俺が言い終わると同時に、穏やかな雰囲気を崩さぬままそう尋ねてきた。

 

「今話してくれたことを聞いて、黒川さんが厭世観(えんせいかん)に苛まれているということは痛いほど伝わってきました。だからこそ、これから先黒川さんが何をしたいと思っているのか、どんな些細なことでもいいですから、何でも言ってください」

 

「…………ぶっちゃけてしまえば、ゴマをすることなんてしないで、本当の意味で友達が欲しいとは思っています」

 

 正直に言ってしまえば、聖櫻で俺が出会った人間のほとんどは、生徒にしても教師にしても、『いい人間』と形容して差し支えないと思っている。むしろそれどころか、『素晴らしい』と言ってもいいのかもしれない。

 絶対的な単独主義だと言いはしたが、俺の場合は限度があったようだった。まったくもって矛盾した性格だ。

 

「こんな馬鹿馬鹿しいことをしないで、自己嫌悪なんかしない生活を送りたいです。色が付いた人生を、自分は生きてみたいです……」

 

 曖昧なことばかり行い、それによって自己嫌悪してばかりのこんな日々に、俺はうんざりしていた。しかしながら、どのようにすればいいか分からない。

 

「……気に障ったら謝りますけど、もしかすると同級生も後輩も、黒川さんがゴマをすっているとは思っていないかもしれませんよ?」

 

「……えっ?」

 

 担当医のその言葉に、俺は俯いていた状態から、まるで引き戻されるかのような感覚を覚えた。

 

「無責任なことを言ってしまうようですが……学校で黒川さんが交流してきた人は、純粋に黒川さんのことを信頼していると、私は思っているんです。『あんなのがゴマすりだったの?』って、笑って流してくれると思いますよ」

 

「……そうでしょうか」

 

「黒川さんは、今の状況を脱却したいって考えているんですよね? その気持ちがあれば、大きく前へ進めるはずです。たとえ進める距離が小さくとも、確実にいい方向へは進んでいけると思います。大丈夫ですよ、黒川さんなら」

 

 そう言って担当医は、にこりと微笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 診察を終えた俺は、その足で近くの本屋へと向かう。今日は読んでいる漫画の最新刊の発売日でもあるため、雑誌の立ち読みも兼ねて向かうことにした。

 

 本屋に入り、最新刊のコーナーを見て、目当ての漫画が山積みになっていることを確認した俺は、それを手には取らずに雑誌のコーナーへと赴く。目当ては格闘技の雑誌だった。俺は早速手に取って読み始めた。

 当然ながら、試合結果や試合後のインタビューなどはインターネットでも見ることができる。動画サイトの発展により、興業側が過去の試合やインタビューの動画をアップロードしていることも当たり前の光景となった。

 しかしながら、こういった雑誌には、記者が選手などに独占インタビューをしている場合もあり、そういった情報を入手することができるという点では、決して無意味なものではない。さらに、紙媒体にはインターネットとはまた違った魅力があるものだと思う。それは具体的に何かと尋ねられると、正直答えに窮してしまうが、分かる人には分かるのではないだろうか。

 

「…………」

 

 しばらく読んだところで、俺はそれを閉じる。棚に戻さず手に持つと、先ほど確認した漫画の最新刊と共に購入した。

 

 

 

 

 本屋を出た俺は、続いてゲームセンターへと向かった。

 ちなみに俺はUFOキャッチャーや、格闘ゲームといった、いわばゲームセンターの『顔』とでも言うべきゲームは絶望的に下手糞なために、全くと言っていいほどやらない。そもそも俺がやるのは、クイズゲームだけだった。

 

 オンラインの発達により、ゲームセンターの多くのゲームは新機能の追加や、不具合の修正などといったアップデートが恒常的になされるようになった。また、別売りの磁気カードなどを購入することで、記録の保存が行えるゲームも珍しくない。インターネットのサイトに登録することで、記録の閲覧や他プレイヤーと交流することができるゲームもあり、ゲームセンターというものは一昔前に比べて、がらりと様相が変わったと言っても差し支えないだろう。

 

 俺がプレイするクイズゲームもその例に漏れず、新しい問題の追加がなされ、磁気カードに記録を保存することももちろんできる。

 特にクイズゲームはやり続けるうちに問題をほぼ全て把握できてしまうので、問題の追加が行えるという意味でも、オンラインの恩恵を非常に強く受けたジャンルと言っていいかもしれない。

 

 磁気カードを筐体のカードリーダーにかざし、読み込みの完了が画面に出たことを確認して100円硬貨を投入する。モードを選択する画面に入ったところで、特定のジャンルの問題のみが出題される、『検定』と呼ばれるモードを選ぶ。

 

 数日前に、このモードで格闘技の問題だけ出題される検定が追加されたので、俺にとっては待ちに待った追加と言えた。

 スポーツは得意でない上、さほど観戦もしないために知識はかなり少ないので、スポーツのジャンルの問題はかなり苦手だが、格闘技となると話は別だと個人的には思える。

 ――どれ、ちょいといきがってみるとしようか。

 

 

 

 

 

 

 ゲームセンターをあとにした俺は、次の目的地へと向かう。

 検定の結果は、我ながらかなり満足のいく結果だったと思う。ランクは最高を獲得できたうえ、全国の二桁台の順位に入る得点を得ることもできた。さすがに一桁台の順位を狙うとなると、知識だけではなく解答速度も求められる。俺は大して速くない上に、格闘技全般に対して知識があるわけではない。

 俺は上の順位を狙うことよりも、正解率の低い問題に答えることができた時の方が愉悦に浸ることができた。

 

 その後俺はカードゲームを取り扱う店や、スーパーの食料品売り場などを適当に散策し、特に何も買うことなく、帰りの電車に乗り込み、帰宅した。

 

 

 

 

 

 

 そんな俺の姿は、数多くの人間に目撃されていたことを、俺は知らない。

 

 

 

 

 

 

 担当医が言ったように、実際のところ俺は二階堂くんたちからの信頼は得られていると思っている。しつこいくらいに俺は彼らとの交流を『ゴマすり』と形容しているが、客観的に見れば普通の交流と何ら変わらなかった。もっとも、それはゴマすりの意図をうまく隠すことができていると言い換えることもできるのだが。

 

 しかし、俺の行動をゴマすりとみなさず、彼らからの信頼は得られていると考えたとしても、肝心の俺は彼らを信用できていなかった。

 

 友達と思っていないことがばれるのが怖いからというわけではない。今までの反応などを考えても、担当医が言ったようにさほど気にせず流してくれるだろうとは思えた。

 

 人間不信なのかと問われれば、それは肯定することになる。単独主義も、それから生じたものだ。しかしながら、俺は聖櫻で出会った彼らを、彼女らを信用してもいいのではないかという気持ちは、僅かながらあった。2年生になってから、それは確かなものになったような気もする。

 

 

 

 

 

 

 だが、そんなことはいずれにせよ無意味な考えだった。交流を純粋なものにしたところで、俺の本性が分かってしまえば、誰であろうと一瞬で俺の前から去っていくだろう。

 担当医にも話していない、俺以外では両親しか知らない俺の本性。もっとも両親も、それを『本性』と捉えているかはかなり怪しいが。

 

 

 

 

 ××奴を徹底的に××××、××××、×××××××、××し、××することが俺の至上の喜び。

 ××××××、××××××は、俺にとっての極上フルコース。

 こんな狂気に満ちたことを喜びとしている奴など、誰ひとりとして寄りつかない。両親だって、本当はもうこんな俺にうんざりしているのかもしれない。

 

 

 

 

 俺はいかれている。骨の髄まで。

 オレハイカレテイル。ホネノズイマデ。

 

 

 

 



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幕間 クズの逆恨み

 

 

 

「なあ、一二三……」

 

「……何だ?」

 

「やっぱり将ちゃんってさ、俺たちのこと……」

 

「もうやめろ。正美だって変な推測はするなって言ってただろうが」

 

「そうなんだけどさ……」

 

「俺も、将ちゃんがどういう人間なのかちょっと分からなくなってきたな……」

 

「カツまで何言ってんだ。まったくお前ら、いつものお前ららしくねえぞ」

 

 

 

 

 高桑源五郎、鴨田克之のふたりは、先日遭遇した黒川将平の姿から、彼の意図を図りかねていた。『力になる』と言いはしたものの、後になって考えてみれば、腑に落ちないことは多かった。事情があるというのも間違いないのかもしれないが、明確に納得するには至っていなかった。

 

「お前たちの思ってることは俺も分からないわけじゃない。だがな、そんなことばっか考えてるんじゃ、本当に将ちゃんからダチって思われなくなっちまうだろうが」

 

 ふたりの行動を(たしな)めた芹澤一二三も、黒川の行動を訝しがっていたことは事実であったが、彼の場合はふたりと異なり、彼に友達と思われていないという心配はしておらず、そもそもなぜ彼が自分たちとの交流を突然絶ったのかということへの疑問を抱いていた。

 彼とは学外で遊んだことがなく、それどころか彼の家にも行ったことはなかったが、それでも学内ではゲームソフトや漫画の貸し借り、勉強の教え合いを積極的に行っていた。だというのに『友達と思われていない』という考えは、些か短絡的だと考えていたのだ。

 

(くそっ、何か少しでも理由が分かれば行動も起こしやすいんだが……分からねえな……)

 

 だが、そうふたりを窘めはしたものの、思い当たる節が全くないことと、そのために黒川の力になろうにもなれないという状況に、芹澤はやきもきしていた。

 

「……ん?」

 

 そんなもやもやした心境を抱きながらの帰り道、芹澤の目にある光景が留まった。彼の発した声に、俯いていた高桑と鴨田のふたりにもそれが目に留まる。

 

 

 

 

「だから足りねえっつってんだろ。殺すぞてめえ」

「人にぶつかっておいて、これだけで済むと思ってんのか?」

「生意気だな。何かいらいらしてきたからやっちまおうぜ」

「…………」

 

「も、もう許してください……」

 

 三人の視線の先にあったのは、彼らと同じ聖櫻学園の1年生と思わしき男子生徒が、他校の生徒四人に囲まれ、脅されている光景だった。

 四人のうち、ひとりだけは視線を逸らし、気まずそうな表情をして無言で佇んでいたが、他の三人は極めて高圧的な態度で詰め寄っていた。

 詰め寄られている男子生徒は目を潤ませ、震えながら許しを請うていたが、当然とでも言うべきか聞き入れる様子はなかった。

 

「あーもうめんどくせえ、やっちまお!」

 

「うわぁぁっ!」

 

 実に身勝手なことをのたまい、拳を振り上げる。

 しかしその拳は、振り下ろされることはなかった。

 

「何やってんだ、てめえら」

 

 なぜかと言えば、事態を即座に察知した芹澤によって腕を掴まれたためであった。彼は強い怒りを込めた眼差しを四人に飛ばして言い放つ。

 

「俺のところの後輩にカツアゲとは、いい度胸してんじゃねえか。そもそも高校生にもなって寄ってたかってそんな真似とか、恥ずかしくねえのか」

 

「……放せやコラァ!」

 

「お断りだ。放してほしけりゃ、盗った金全部返しな」

 

 掴まれた腕を振りほどこうと抵抗するものの、まるでゆるむ様子はない。そんな様子に芹澤はまるで汚いものを見るような、蔑んだ表情を浮かべ、掴む――もはや『握る』と形容できよう――力を強める。

 

「……痛えっ!」

 

「……関係ねえ奴が、しゃしゃり出てきてんじゃねえぞ!」

「……死ねやぁ!」

 

 突然の割り込みに苛立ったか、嘲るような表情に憤ったか、腕を握っていれば隙だらけだと察したか、あるいはその全てか。他のふたりが怒鳴りながら芹澤に殴りかかった。

 もうひとりは、相変わらずその場に立ち尽くしていた。芹澤の顔を見た瞬間、『まずい』という表情を浮かべ、冷や汗を額から垂らしながら。

 

「…………だから、てめえらみてえなクズは嫌いなんだよ」

 

 その呟きは、発した本人以外の誰の耳にも入らなかった。

 芹澤は握っていた手を放し、間髪入れず前蹴りで吹っ飛ばしたかと思えば、殴りかかってきたふたりの顔面に、目にも留まらぬ速さの左ジャブを、連続で叩き込んだ。

 

「あがっ!」

「ぐえっ!」

 

 顔面にまともに食らったことも関係しているのだろうが、ジャブでありながら結構な距離まで吹っ飛んだ。前蹴りを食らったひとりも、鳩尾付近に入れられたこともあって、うずくまって呻いていた。

 

「ち、ちくしょう……」

「こ、この野郎が……」

 

 ジャブを食らったふたりは、そう悪態をつき、顔面を手で押さえながらよろよろと立ち上がる。どちらも鼻を切ったのか、少量ながら鼻血がポタポタ滴り落ちていた。

 

「……やばい。こいつ、芹澤一二三だ……」

 

 そんな中、ずっと無言だったひとりがぼそりと呟く。先ほどの『まずい』という表情は、怯えに近いものへと変わりつつあった。

 

「……に、逃げた方がいい! こいつ、中学時代にたったひとりで不良グループ10人血祭りに上げた、あの芹澤一二三だ!」

 

「……何だって? まさか、あの芹澤か?」

 

「そうだよ! 俺たちが敵う相手じゃねえ! 早く逃げようぜ!」

 

 先ほどまでの静かな様子が嘘のような大声でまくし立てる。その様子を見た芹澤は、にやりと笑みを浮かべる。

 

「へぇ。俺って意外に有名人なんだな」

 

「……っ!」

 

「10人だったかどうかは忘れたけどな、確かに中学時代にてめえらみてえなゴミを掃除したことがあったな……」

 

 『くっくっく』と言いながら笑みを浮かべる芹澤の姿は、かつて二階堂正美も想像したことがある、悪役さながらのものだった。

 

「お前らも掃除……と言いてえところだが、生憎俺も悪魔じゃねえ。盗った金全部返しゃあ、見逃してやるよ」

 

「……く、くそっ!」

 

 ジャブを打ち込まれたひとりが、そう悪態をつきながらポケットから財布を出し、地面に叩きつける。

 

「まだ逃げんじゃねえぞ。ここで見逃して中身はすっからかんなんてオチにするわけにはいかねえからな」

 

 芹澤はそう釘を刺しながら財布を拾い上げ、持ち主に渡す。

 

「中身、何も盗られてないか?」

 

「…………は、はい。大丈夫みたいです」

 

「……分かった。おいてめえら、またこんな真似してみろ。例外なくぶちのめすからな。分かったらとっとと消え失せろ」

 

「……ちっ」

「くそっ……」

「ちくしょうが……」

「ほら、さっさと行こうぜ……」

 

 四人の内の三人は、相変わらず悪態をつき、残りのひとりは安堵した表情をしていたが、全員が逃げるように走り去ったということでは共通していた。

 

「……大丈夫か?」

 

 重々しく息を吐いて逃げる姿を見送った後、財布の持ち主の1年生に向き直って尋ねた。

 

「……は、はい……ごめんなさい、見ず知らずの僕なんかに……」

 

「……気にすんな。ここって、君の帰り道なのか? もしここ以外にも帰れる道があるなら、遠回りしてでもそこの道を通った方がいい。この辺りはろくでもねえ奴がうじゃうじゃいるからな」

 

「……はい、そうします。ここから帰るのが一番早いんですけど、もうあんな目に遭うのは嫌ですから……」

 

「だな。もしこれからも何かあったら、遠慮しないで俺のところに来てくれ。俺は2年C組の芹澤だ」

 

「はい。……本当に、ありがとうございます!」

 

 彼は深々と頭を下げながら感謝の言葉を伝えると、急ぎ足で去っていった。

 

「……今の奴ら、稲山二高(いなやまにこう)の連中だな」

「……だね。それに多分、1年生だと思う」

 

 それまでずっと口を開かなかった高桑と鴨田は、財布の持ち主である聖櫻の1年生の姿が見えなくなったと同時に、そう呟く。

 稲山第二(いなやまだいに)高等学校。通称『稲二(いなに)』『稲山二高(いなやまにこう)』と呼ばれる、聖櫻学園からそれなりに近い場所に位置しているその高校は、ガラの悪い人間の巣窟として悪名高いところであった。たちの悪いのは、明らかに弱い人間を狙って恐喝まがいの行動をする生徒が後を絶たないということだ。不良漫画に出てくるような義理堅い人間や、弱い人間には手出ししない好人物もまるでいないという有様で、それも評判の悪さに拍車をかけていた。

 

「けっ、情けねえ真似しかできねえゴミ共をかき集めたような高校に、価値なんてあるかってんだ」

 

 吐き捨てるように芹澤は言う。その目には単なる怒りだけではなく、強い憎悪や悲哀が入り混じっていた。

 

「一二三……」

「…………」

 

 彼の気持ちを察してか、高桑も鴨田も、気まずい表情を浮かべることしかできなかった。

 

「……俺たちも行こう。こんなところに留まってたら、吐きそうだ」

 

「……ああ」

「……だな」

 

 苦虫を噛み潰したような顔をして呟く芹澤の言葉を契機として、止まっていた歩みが再開された。

 重い足取りで歩を進める三人の心境は、もやもやと言うよりもドロドロとした重苦しいものへと悪化していた。

 

 

 

 

 

 

 当然ながらと言うべきか、四人組の内の三人、つまり高圧的な態度で恐喝していた三人は、芹澤に対しての復讐心を抱いていた。しかしながら、自分たちは芹澤に敵うほどの戦闘力は持ち合わせていない上、他に人間を動員したとしても、自分たちを合わせて精々10人が限度な上、その人数でも勝てる見込みはなかった。

 

 そんな中、芹澤のジャブを食らったひとり――最も高圧的な態度を取っていた――が、芹澤の友人を標的にしてやろうという、実に身勝手で卑劣な方法を思いついた。高桑と鴨田のふたりは芹澤と一緒に行動することが多いために却下となった。そのため、標的の候補となったのは――――。

 

 

 

 

 

 

「こいつ、芹澤のダチの中じゃ一番チビだし、運動も得意じゃねえらしいから最高のカモだぜ。しかもこいつ、最近芹澤たちとそこまでつるんでねえみてえだからなおさらカモれるぞ。聖櫻の1年って名乗っておけば、聖櫻を混乱させられるかもしれねえしな。何か面白そうじゃねえか」

 

 ――――標的の候補となったのは、今現在厭世観(えんせいかん)に苛まれ続け、他者との付き合いをほとんど行っていない、黒川将平だった。

 一体どこから、そんな情報を手に入れてきたのだろうか。

 

「なあ、やっぱりもうやめようぜ。これ以上やったら墓穴掘るどころの騒ぎじゃ済まねえよ」

 

「……何だって? お前俺に意見しようってのか? 殺すぞ?」

 

「そうだそうだ。このまま引き下がるなんて俺は嫌だぜ」

「それにこういう弱そうなチビってのは、絶対いい声で泣き喚いてくれるぜ」

 

「……分かったよ」

 

 その日より、芹澤へのくだらない逆恨みから生じた、黒川を襲撃するための計画が練られることとなった。

 

 

 

 

 

 

 しかし、この連中が彼を襲撃する考えに至ったことが、黒川将平の人生の大きな転換点となることに、黒川本人を含む誰ひとりとして気付きはしなかった。

 

 

 

 



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Raging!

 

 

 

 

「…………」

 

 日が沈みかけ、薄暗くなった人気の少ない道を俺は歩く。

 今日は図書委員の仕事もなく、あとはまっすぐ家に帰るだけだったが、俺はあえてそれをせず、遠回りしていた。なぜそうするに至ったのかは、自分でも分からない。これから先どうすればいいのか分からず、自棄(やけ)になってそうしたのか、それともこの辺りの道は両隣が山になっているので、綺麗な空気を吸いながらこれからのことを考えたいと思ってそうしたのか。

 

「…………」

 

 反対側の歩道に移るため、歩道橋の階段を俺は上がる。上がり終えて正面に目をやると、通路を塞ぐように立っている人間が複数人いた。数にして7……いや8か。その中で、ひとりだけは焦ったような表情を浮かべていたものの、それ以外の7人はガラの悪そうな視線を俺に送っていた。

 

「おい、そこのお前!」

 

 そのうちのひとり――キツネみたいな顔で、ニンニクのような汚い鼻をした、見た目からしてろくでもない奴という雰囲気が漂っていた――が、俺に向かって喚く。

 

「お前、黒川将平だな! 芹澤一二三のダチの!」

 

 俺はこんな奴との面識はない。芹澤くんはまだしも、なぜこいつが俺の名前を知っているのかは分からなかった。

 

 ――そもそも、さっきから何でそんな偉そうな態度なんだ。うざってえ。

 

「……だったらどうだってんだ? そもそもお前ら誰だ?」

 

「芹澤の野郎に天罰を下す、聖櫻1年のチームとでも名乗っておいてやる!」

 

「…………」

 

「俺はあいつに邪魔されていらいらしてんだよ! それどころか俺の顔まで殴りやがって! だからダチのてめえで憂さ晴らしすんだよ!」

 

「…………」

 

 ――久しぶりだ、こんなゴミに遭遇したのは。

 

 何を邪魔されたのかは分からないが、どうせろくでもないこと――恐喝か、暴力か、それともいじめか――をしようとして芹澤くんにぶっ飛ばされたのだろう。芹澤くんはそういった行為をかなり嫌う人間だ。容易に想像できる。

 それで反省をするどころか、芹澤くん本人ではなく俺で憂さ晴らしか。まあ、他の人間ではなくて良かったとも言えるかもしれないが。

 いずれにしても、こいつは下等生物未満の存在だ。それに付き従う周りの連中も。

 

「……今年入った1年は、まともなのが多かった気がするんだけどな。てめえらのようなクズも紛れてたか……」

 

「……んだとこのチビ、殺すぞ?」

 

 『チビ』。

 ……いきがるな、ゴミが。

 

「……やれるもんならやってみろ、ニンニク鼻が」

 

「……て、てめえ……。おい、やっちまえ!」

 

 俺の挑発に怒りをあらわにしたニンニク鼻は、そう怒鳴り散らす。一斉に飛びかかってくるかと思い身構えたが、なぜか正面の連中は少しも動かない。

 

「うおらぁぁぁぁ!」

「よそ見してんじゃ、ねえよ!」

 

「なっ……!?」

 

 その号令は、俺の知らぬ間に背後から忍び寄り、不意打ちを食らわす要員ふたりに対する合図だったのだ。正面の連中に気を取られていたせいで対応が遅れ、頬を殴られた俺はあえなく倒れた。

 

「がっ……!」

 

「死ねぇぇぇぇ!」

 

 俺の転倒を合図としてニンニク鼻を含む正面の連中も一斉に俺の元へなだれ込む。罵声と同時に繰り出される蹴りや踏み付けを、俺は何発も浴び続けた。

 

「ぐあぁぁぁぁぁぁっ!」

 

 

 

 

 

 

 時間にしてどれだけ経ったか分からないが、暴行の嵐は収まったようだった。

 あれだけ食らっていながらも、俺の意識は飛んではいなかった。だが、全身の痛みから立ち上がることが出来ない。うつ伏せに倒れたまま、俺はニンニク鼻の下卑た笑い声を聞かされた。

 

「はーはっはっは! ざまあ見やがれ芹澤のクソ野郎! 俺の邪魔なんかするからこうなるんだよ!」

 

「……お、おい。もうこの辺にしとけって」

 

 そんなニンニク鼻を窘める声がひとつ。もしかすると、正面にいた連中でひとりだけ焦ったような表情を浮かべていた奴だろうか。

 

「うるせえんだよ。お前だけ何もしなかったくせに指図してんじゃねえ。……よし、止めの一発食らわしてやるか」

 

 そう言ってニンニク鼻は俺の元へ歩み寄り、背負いっぱなしになっている俺のリュックサックに手を伸ばし、何かをちぎり取った。

 

「おいクソチビ、これを見ろ」

 

「…………!」

 

 ニンニク鼻がちぎり取ったのは、リュックサックのファスナーにぶら下げていた蛇のぬいぐるみだった。それは俺にとって命よりとは言わずとも、極めて大切なものだった。

 本体の方は無事だったが、紐はちぎられたせいで損傷していた。

 

「……た、頼む! それだけは、それだけはやめてくれ!」

 

 この後何をされるかが、俺には容易に想像できた。先ほどまでの態度を翻し、俺はニンニク鼻に懇願する。

 

「へっへっへ……んじゃ、グッバーイ!」

 

 だが、俺の懇願は聞き入れられるわけがなかった。ニンニク鼻は俺の姿に実に満足そうに、汚らしく下卑た笑みを浮かべ、ぬいぐるみを歩道に隣接している山の茂みへ投げ捨てた。

 

「あぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 小さいぬいぐるみだったからというのが一番の理由だろうが、歩道橋の通路という高さのある場所から投げ捨てたことと、ニンニク鼻の投げる力が強かったことも加わり、ぬいぐるみはあっという間に暗い茂みの中に消えてしまった。

 

 

 

 

 俺の叫びは、空しく響き渡った。

 

 

 

 

 

 

「ぎゃっはっはー! 見ろよこいつのこの顔! 俺の言った通りだったろ! こういう奴はいい声して泣き喚いてくれるって!」

 

「…………」

 

「よし、そんじゃ帰ろうぜ。あーすっきりした。これで芹澤も袋に出来りゃ言うことなしだな。案外できるかもしれねえぜ?」

 

「…………」

 

 

 

 

 やっぱり俺は、どこに行ってもおもちゃにされるだけだった。この世に生まれたことは、最低最悪のはずれくじだった。

 

 

 

 

 なら、もう好き勝手したって、関係ないよな。

 こいつら全員、ぶっ殺したって構わねえよな。

 

 

 

 

『おいチビ! ちゃんとキーパーやれ! 殺すぞ!』

 

 ぶっ潰せ、ぶっ潰せ。

 あの日の怒りを思い出せ。怒りに己を浸すんだ。

 

『あんたカンニングしたでしょ! あんたなんかがあんなにいい点取れるわけない! 調子乗らないでよこのチビ!』

 

 ぶっ壊せ、ぶっ壊せ。

 楯突く奴らは俺の敵。全部全部ぶっ壊せ。

 

『死ね、チビ』

 

 ぶっ殺せ、ぶっ殺せ。

 奴らは敵だ、俺の敵。ぶっ殺すことが快楽だ。

 

 久しぶりだ。この感覚は実に久しぶりだ。

 身体がブチッ、ボキッと鳴り響く。

 副腎髄質(ふくじんずいしつ)から、アドレナリンがだくだくと供給される。

 瞳孔が開き、目が充血する。

 痛みは完全に消え失せた。

 

 

 

 

 さあ、怒り狂え、誇り高き毒蛇よ。

 

 

 

 

 ぶっ殺せ! ぶっ殺せ! ぶっ殺せぇぇぇぇっ!

 

 

 

 

「…………カッカッカ。てめえらみてえなクズ共を久しぶりにぶち殺せると思うと、興奮してきちまうよ…………ケッケッケ…………」

 

 立ち上がった俺は、その場を去ろうとしているニンニク鼻連中に向けて言い放つ。だが奴らの返答など待つことなく、続けざまに突っ込んだ。

 

「……へっ? ぎゃあっ!」

 

 ひとりは頬に左の殴打を。

 

「て、てめえっ! ……ごっ!」

 

 ひとりは側頭部に右の蹴りを。

 

「キエエッ!」

「があっ!」

 

 ひとりは首相撲から左の膝蹴りを。

 

「キョエエッ!」

「んがっ……!」

 

 ひとりは顎に掌打を。

 

「カァッ!」

「あがっ!」

 

 ひとりは顔面に頭突きを。

 

「ケェアッ!」

「がはぁっ!」

 

 ひとりは右側の腹部に左の殴打を。

 

「シャアァッ!」

「ぎゃああああっ!」

 

 ひとり――ニンニク鼻――にはこめかみに右の肘打ちを叩きこむ。

 攻撃は奇声を上げながら、薬物でいかれた人間のように繰り出した。

 10人中7人を倒したところで、俺は高々と手を上げながら叫ぶ。

 

「何だよ……つまんねえなぁ……一発でやらてるんじゃねえよ……もっと、耐えろよ! 抵抗してこいよ! 『この野郎』って、刃向かってこいよ! そうでなきゃ、ぶち殺す楽しみがなくなっちまうだろうがよぉ! 刃向かってくる顔を、ぐちゃぐちゃにして、命乞いして泣きわめく姿を見てえんだからよぉ! ゲェーハッハッハッハッハ!」

 

 ああ、何という快感だ。何というエクスタシーなのだ。

 心臓が高鳴る。俺が生きていることを実感できる。これが俺の生きる意味なのだ。俺にとっての究極の存在理由なのだ。

 ゴマすりなんてする必要はなかった。初めからこうしていればよかったのだ。刃向かうクズ共をなぶって、なぶって、なぶりまくって、徹底的に蹂躙(じゅうりん)し、殲滅(せんめつ)することこそ、俺の欲求が満たされる唯一の行動なのだ。泣き喚く表情、断末魔の叫びは、俺にとっての極上フルコース。

 食欲も、睡眠欲も、終いには性欲でさえもこれには敵わない。

 

 さあ、残りはわずかだ。

 殺せ、殺せ、殺せ殺せ、ぶっ殺せ!

 

「な、何なんだよ、こいつ……バケモンか……」

「狂ってやがるぜ……ドSなんてレベルじゃねえ……マジモンの戦闘狂だ……」

「だ、だからやめとけって言ったんだよ……」

 

 そんな怯え顔はつまらない。俺がみたいのは泣き喚く顔だ。さあ、早く向かってこい。迎え撃つ方が俺は好きなのだから。

 

「こ、このクソチビが……いきがってんじゃ、ねえぞ……」

 

 この時俺は、数多くの相手を叩き潰したことによる極度の興奮と、前の連中に気を取られていたことで、背後でニンニク鼻が立ち上がったことに全く気が付かなかった。倒した奴は全員気絶しているか、そうでなくても戦意はとうに喪失していると思い込んでいたためであった。

 

「死ねやぁぁぁぁ!」

「……バカ! やめろーっ!」

 

「かっ……」

 

 背後から聞こえた叫び声に振り向いた瞬間、顎に凄まじい衝撃が走った。同時に、急に目の前が電気を消したように真っ暗になる。

 何も見えない。体が動かない。だが音は聞こえた。『ざまあみやがれ!』と言っているのだろうか? しかしそれも、数瞬遅れて途切れた。

 

 

 

 

 

 

「……はぁ、はぁ……くたばれや!」

 

「待てっての! これ以上やったら、俺ら確実にブタ箱行きだぞ!」

 

「…………くそったれが! そのまま死んどけ、クソチビ野郎!」

 

「やめろって! ……お、お前らもぼうっとしてないで、行くぞ!」

 

「あ、ああ……」

「…………」

 

 

 

 

 

 ニンニク鼻を含む4人は残りの6人も立ち上がらせて去ったのだろうか、辺りには誰もいなくなった。後には倒れ伏す俺だけが残っていた。

 

 

 

 

 

 

 俺は顎を打ち抜かれ、失神していた。

 

 

 

 



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激昂、裏切り、別れ

 

 

 

 

 重い瞼をゆっくり開けると、見慣れない真っ白な天井が目に入った。状況を確認するために身体を起こそうとするが、全身にズキリとした痛みを感じ、再び仰向けの体勢に戻ってしまった。

 

「おい将平、無理するな」

 

 そんな俺に声をかけたのは父親だった。視線を父親の方へやると、かなり心配そうな表情をしていた。

 どうやら俺が寝ているのは病院のベッドらしい。一体何があったのだろうか。

 

「歩道橋で怪我だらけで倒れてたって病院から連絡が入った時は、心臓止まるかと思ったよ。一体何があった……いや、さすがにそんなこと話せる余裕はないよな。無理に話さなくていい」

 

「……!」

 

 初めはどうしてこんな状況に置かれているのか理解できなかったが、父親の口にしたその言葉を聞いた瞬間、全てを思い出した。

 再び憤怒(ふんぬ)が湧き上がる。アドレナリンの供給が再開される。こんなところで寝ている場合ではなかった。

 

「お、おい! 何やってんだ!」

 

 即座にベッドから飛び起き、そばのラックに置いてあったリュックをひったくるように取って背負い、病室を飛び出す。

 父親の慌てたような声が聞こえたが、そんなことを気にしている余裕などありはしなかった。

 

 俺が運ばれた病院は、今までに何度か行ったことのある総合病院であったことは不幸中の幸いだった。ある程度走ったところで通学路へとたどり着く。そこから俺はさらに速度を上げ、駆け抜けていった。

 

 

 

 

 

 

 校門を抜け、向かうのは俺の教室がある棟ではない。1年生の教室がある棟だ。階段を上り、教室がある2階へたどり着いたところで、俺は叫ぶ。

 

「昨日俺を袋叩きにしやがったクズ共に告ぐ! 雁首(がんくび)揃えて出てきやがれ! 一人残らずぶち殺してやる!」

 

 俺が今立っている廊下の端から反対側の方まで届くくらいの、今までに出したこともない巨大な怒声を俺は放った。

 間もなく廊下はざわつき始め、辺りにいた1年生たちのほとんどが俺に視線をやった。俺は首を動かして視線を移動させながら、昨日の連中がいないか確認したものの、それらしき姿は見受けられない。

 

「……ざけんじゃねえぞ! くそったれが!」

 

 そんな状況に俺の怒りはより一層強さを増していく。血走った目をぎらつかせ、頭の血管を浮き出させ、口から舌を出しながら、俺は罵声を飛ばして廊下を闊歩した。

 辺りに唾液が飛ぶことを、少しも気に留めることなく。

 

 

 

 

「俺に楯突きやがったあのクソ野郎どもは、どこだぁぁぁっ! ぶっ殺してやる! 腹かっさばいて、晒し首にしてやる! とっとと出てきやがれぇぇぇっ!」

 

 俺の行動は、今まで俺を慕ってくれた1年生全員に対する裏切りだった。

 

「「お兄さん!?」」

「あんちゃん!?」

 

 黒川さんを、風町さんを、蓬田さんを。

 

「せ、先輩!?」

「ど、どうしたんでしょう……」

 

 相楽さんを、椎名さんを。

 

 俺は裏切った。醜態をさらして、裏切った。

 

「隠れてんじゃねえぞ、カスが! 俺にあんだけ楯突きやがったんなら、当然やり返されるのが筋ってもんだろうが! ぶっ殺してやるから、早く出てきやがれぇぇぇっ!」

 

 だが、今の俺はそんなことに悲観的になるほど冷静ではなかった。彼女たちの悲痛な視線を気にも留めず、暴言を吐きながら廊下を闊歩し続けた。

 

 

 

 

「黒川くん、落ち着け!」

 

 しかし、ある人物によってそれは止められた。後ろからかなり強い力で羽交い絞めにされ、俺はその場から動けなくなる。

 

「何しやがんだ! 離しやがれ! てめえも俺にぶっ殺されてえのか!」

 

 羽交い絞めにしたその人間に対して、俺は罵声を浴びせながら全力で振りほどこうとしたが、どうやらその主は力がかなり強いようで、びくともしない。

 

「俺だ! 俺だ! 二階堂だ! 落ち着け、俺だ!」

 

「!」

 

 そのフレーズでようやく気付く。俺を羽交い絞めにした人間は、二階堂くんだった。

 顔が見えなかったと言うことを考慮に入れたとしても、普段の俺なら最初の『落ち着け』という声を聞いただけですぐ二階堂くんと判断できたかもしれない。

 

「俺を見ろ! 落ち着け、俺だ!」

 

「に、にかい、どう、くん……?」

 

「そうだ、俺だ! 俺を見ろ、大丈夫だ!」

 

「…………」

 

 俺の前へと回り込み、俺の肩をつかんで必死の形相で連呼する彼の姿を見た俺は、崩れるようにその場に座り込んだ。

 

「……おい、お前ら! 見世物じゃねえんだ! とっとと散れ!」

 

 それと同時に二階堂くんは、周囲に向かってそう怒鳴り散らした。野次馬となっていた1年生に向けて放った言葉だろうが、その中には黒川さんなども含まれていた。

 ほとんどの1年生がすごすごと去っていく中、黒川さんだけは憤ったような表情で二階堂くんに詰め寄ろうとしたものの、風町さんと蓬田さんに制止され、仕方なく自分の教室へと戻って行った。

 

「悪いが春宮も、教室に行っててくれないか? そもそもお前、着替えないとまずいだろ」

 

 二階堂くんの発した『春宮』という言葉に俺はわずかに後ろを向く。そこには黒川さんたち以上に悲痛な表情を浮かべた、春宮さんの姿があった。

 そう、俺は春宮さんまでも裏切ったのだ。あそこまで俺に笑顔を振りまいて接してくれた彼女を。

 

 二階堂くんに制止されてしまったことで、俺は冷静になってしまっていた。それによって罵声を発していた際にはかけらほども思っていなかった、醜態を晒したことで多くの人間を裏切ったことによる自己嫌悪が、じわりと滲み出してきた。

 

 二階堂くんは春宮さん、それに加えて騒ぎを聞きつけやってきた教師たちと何かを話していたようだったが、俺の耳には入ってこなかった。

 その最中に、俺は二階堂くんに肩を貸され、立ち上がらされた。教師たちに何かを伝えた二階堂くんは、そのまま俺を支えるようにして歩き出す。

 

「どいてくれ……ひとりで歩ける……」

 

 だが俺は、そんな二階堂くんの支えを振りほどこうとした。こんな醜態を彼の目に晒し続けたくなかったからだ。

 

「お、おいおい。いくらなんでも無茶だって」

 

「……邪魔だ!」

 

 慌てたようにそう言いながら、彼は脇を締めて俺の抵抗を阻止しようとする。しかしながら、そんな彼の気遣いも今の俺にとっては邪魔なものでしかなかった。怒鳴り声を上げて力を振り絞り、無理矢理振りほどく。そのせいで、身体はよりズキズキと痛んだ。

 

「…………あっ」

 

 階段に差し掛かった俺の目に映ったのは、村上さんだった。なぜこんなところに来たのか初めは分からなかったが、大方二階堂くんの後を付いてきたのだろう。二階堂くんにしても、春宮さんから話を聞きつけてきたのかもしれない。

 

 だが、そんなことはこの際どうでもいい。俺が裏切ったのは1年生や二階堂くんだけではなく、村上さんもだった。

 愕然とした表情を浮かべる村上さんを軽く一瞥した俺は、そのまま横を通り過ぎて行った。

 

 

 

 

 そのまま俺は、自分の教室へと戻った。病院を飛び出した時から背負いっぱなしのリュックサックを下ろして机の横にあるフックに引っ掛け、椅子に座る。

 

「おいおい、どうしたんだよ……何であんなに傷だらけなんだ?」

「えっ、もしかしてあれ、黒川君なの?」

「何があったんだ?」

 

 予鈴のチャイムが鳴り響くと同時に、教室はざわつき始める。視線を左右に動かすと、ほぼ全ての人間が俺に視線を送っていた。

 ――時谷さんだけは俯いていたが。

 

 今の俺は自己嫌悪や、冷静になったとは言ったものの再び滲み出してきた憎悪などが入り混じった感情に支配されていた。

 

 ――ヤラカシテシマッタ。ヤバイヨドウシヨウ。

 ――アイツラハドコニイル。ハヤクブッコロサセロ。

 

「やばい奴と喧嘩でもしたんじゃねえの?」

「黒川君、真面目な人だと思ってたのに、ちょっと幻滅したな」

 

 俺の感情をよそに、クラスの人間はそんな言葉を口にしだす。

 それは何も間違いではなかった。やばい奴とやり合ったことも、俺は真面目な人間ではないということも、全て事実だ。

 だがそれは、俺が今までゴマをすってきた、小野寺さんや有栖川さん、村上さん、二階堂くんなどだけが口にしていいことだ。

 

 

 

 

 ――てめえらのようなどうでもいい連中に、そんなことを言われる筋合いなどこれっぽっちもねえ。俺はてめえらの見世物じゃねえ。てめえらの野次馬根性に応える義理なんざ、持ち合わせちゃいねえんだよ!

 

 

 

 

「……黙れ! てめえら全員ぶっ殺すぞ!」

 

 俺は叫ぶ。

 どうでもいい連中を、黙らせるために。まともな人間に、俺の本性を知らせるために。

 

「な、何があったんだ……?」

 

 静寂に包まれた教室に僅かな間を空けて入ってきた担任は、冷や汗を垂らしながら困惑した表情を浮かべていた。

 

 

 

 

 

 

 身体の痛みを気に留めることもなく、結局俺は全ての授業を受けていた。見栄を張ったのか、やけくそになっていたか、あるいはその両方か。

 授業が始まる度に、担任を含む全ての教師から何があったか尋ねられたが、俺は一切口を開かなかった。

 

「…………」

 

 ホームルームが終わると同時に、俺はリュックを背負って教室を出る。

 

「待ってくれ!」

 

 廊下へと出てすぐに、背後から俺を呼び止める二階堂くんの声が聞こえた。首だけを後ろにやり、彼の姿を見る。

 

「少しだけでもいい。何があったのか教えてくれ」

 

 悲痛な面持ちの彼を見て、『以前と立場が逆転してるな』とこの状況を冷静に分析していた。だが、俺と彼では決定的に違いがある。彼は俺と違って、人を自分の利益のために利用するような人間ではない。

 

「……ここの1年に、昨日襲撃された……」

 

「……へっ?」

 

「……10人近い人数で、袋にされたんだよ。俺が言えるのは、それだけだ……」

 

「そ、それはどういう……」

 

「結局俺は、どこに行ってもおもちゃにされるだけだったってことか……まあ、ふざけた真似をしたツケが回ってきたんだろうね……」

 

「……?」

 

 俺はまだ、二階堂くんに対して未練があったのだろうか。こんなことを話しても何の意味もないというのに。

 

「二階堂くんは、俺なんかがいなくても大丈夫だよ……。高桑くんたちともよりを戻せたし、それ以外にもたくさん話が合う人ができたんだ。俺ひとりがいなくなったって、大して変わらないよ……。もう、俺のことは無視してくれ……そこらへんの石ころみたいにね……」

 

「…………」

 

 ――君はもう、大丈夫。俺と違って、全てを持っているのだから。

 

「ばいばい、二階堂くん……」

 

「…………」

 

 俺は彼に別れを告げた。

 それは、ゴマをすってきた日々が、俺の偽りの人間関係が、全て終焉(しゅうえん)したことを意味した。

 

 

 

 

 

 

「おい将平、何病院飛び出してるんだ! 心配させるな!」

 

 校門まで着いた時、父親が怒鳴りながら俺に詰め寄る。いきなりあんな真似をすれば、そうしたくなるのも無理はないだろう。

 

「……ごめん親父、少しだけそっとしてくれないかな? 病院には戻るからさ……」

 

「…………」

 

 俺の様子を見た親父は、俺の心情を察してくれたのか、険しい表情を緩め、軽く息を吐く。

 

「まあ、あとは軽い検査だけだし、今日には退院できるって話だったからな……。とりあえず戻ろう。病院に話して検査の時間をずらしてもらったとはいえ、その時間までそんなにないからな」

 

「うん……」

 

 親父の言葉に小さく返答した俺は、後ろを向いて校舎を仰ぎ見る。

 数秒ほど見つめた後、俺は視線を正面に戻し、親父とともに病院へと戻って行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 みんな僕のことを、忘れてくれますように。

 もしくはろくでもない奴だったと、軽蔑してくれますように。

 

 

 

 



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幕間 彼女の贖いと彼の贖い

 

 

 

 『今日も遅くなってしまった』と内心ぼやきながら、時谷小瑠璃は学園から家への帰り道を歩いていた。もうすぐで夏至とはいえ、時刻は午後の7時を過ぎており、周囲は薄暗くなっていた。

 

「…………」

 

 2年生になってから、ファッションデザイナーの仕事はますます順調だった。各方面から高い評価を受け、引っ張りだこの状態だ。

 所属する手芸部の方においても、イベントで用いる衣装の発案及び作成を先導して行っていた。帰りが遅くなったのも、ずっと衣装作りに追われていたせいであった。そんな彼女の手腕に3年生はもちろんのこと、入部してまだ2か月の1年生からも非常に大きな信頼を得ていた。

 

「…………」

 

 だが小瑠璃は、そんな今の自分を取り巻く状況を少しも嬉しく思っていなかった。その原因は、彼女が過去に逆鱗に触れた人物、同じクラスに所属している黒川将平であった。

 今朝、なぜか傷と痣だらけの顔で登校してきた彼は、かつて彼女に見せたどす黒い憎悪の表情をむき出しにしていた。いやむしろ、彼女にはあの時以上のどす黒さだったようにも感じられた。

 加えて、ひそひそと彼の身勝手な噂話を始めた同級生に対する怒りの咆哮。小瑠璃を含む、教室にいた同級生の全てが、心臓が飛び出す錯覚に陥った。

 

 さらに、以前同じクラスの男子生徒、二階堂正美から『なぜ自分を見ると怯えたような顔になるのか』と問われた時には、自分の馬鹿な行為を思い出し、激しい自己嫌悪に陥った。

 手芸部の部室でそれを問われたが、他の部員が誰ひとりとして責めることや変な詮索をしなかったことに、彼女は深く感謝していた。

 

 

 

 

「……ん?」

 

 ふと上を見上げた時、小瑠璃の目にあるものが映った。それは歩いている歩道の左側をずっと覆い尽くす山の茂みに生えた木に引っかかった、蛇のぬいぐるみだった。

 彼女はそれに見覚えがあった。そのぬいぐるみは、黒川が自分の鞄に1年生の頃から付けていたものと同じだった。

 蛇というのは、多くの人間から敬遠される生き物だと彼女は考えているが、そのぬいぐるみはそれを感じさせない、可愛らしくデフォルメされたものだった。彼女も内心『どこで買ったのだろう』という興味がわずかにあった。

 

 そういえば、ホームルームが終わって無言で教室を出た彼の鞄を見た時、それが付いていなかったことを思い出す。

 もしかしたら、誰かに投げ捨てられて、ここに引っかかったのだろうか。そうでなければ、こんなところに引っかかっているわけがない。今日見た彼の痛ましい傷と痣も、それに関係しているのだろうか。

 

「よいしょ、っと……」

 

 反射的に彼女は行動に移していた。

 近くに落ちていた手頃な木の棒を使ってそれを引っ掛ける。小柄な彼女には骨の折れる作業だったが、それでもどうにか回収できた。

 特に汚れや損傷は本体にはなかったが、よく見ると頭部に付いていたはずの紐が損傷している。どう見ても、誰かの手でちぎられたものだった。

 間違いなくこれは黒川のものだと、彼女は判断した。

 

「…………」

 

 だが、これをどうやって彼に返却すべきだろうか。何があったのかは分からないが、今の彼は極めて深刻な状態であることは容易に想像できる。今すぐ返しに行くのは正直好ましくないだろう。

 だが、それ以前の問題がある。それは拾ったのが、小瑠璃であるということだ。

 以前二階堂にも放った言葉だが、きっと彼は今でも自分を激しく恨んでいるに違いなく、彼にとって自分は一番拾って欲しくない人間だろうと小瑠璃は思っていた。少し時間を置いて返しにいったとしても、感謝されるどころか罵声を浴びせられる可能性は非常に強かった。

 

 

 

 

『何でてめえなんかに拾われなきゃいけねえんだ! また俺に喧嘩売りたいってのかよ、てめえは!』

『1度ばかりか2度も俺にふざけくさった真似しやがって! とっととくたばったらどうなんだ? このカスが!』

 

 

 

 

「……っ」

 

 そういった暴言を吐かれることは想像に難くなかった。しかし、そう言われても仕方ないことをしてしまったのだ。

 

 それでも、誰かに依頼して渡しておいてもらうということは、絶対にしたくなかった。そんなことをしては、自分が彼との問題から逃げていることになる。

 彼に許しを請うつもりはない。だが、(あがな)いをしたかった。自分が彼にできる、最大限の贖いを。

 

 自己満足ということは分かっている。きっと罵倒もされるだろう。だとしても、このぬいぐるみを、彼が大切にしているこれをそのままここに放置してしまうのは、もっといけないことだ。

 

「…………うん」

 

 小瑠璃は決心した表情をすると、ぬいぐるみを大切そうに制服のポケットにしまい、その場をあとにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……いや、待てよ?」

 

 二階堂正美、高桑源五郎、鴨田克之の3人が黒川将平に対して何のアクションも起こそうとしないことに業を煮やした芹澤一二三は、怒りをあらわにした表情で1年生の教室がある棟へと向かっていた。

 

 しかし、ふと湧いた疑問に彼は足を止めた。二階堂は、黒川が『ここの1年に袋叩きにされた』と言っていたが、果たしてそれは本当なのだろうか、という疑問だった。

 黒川が嘘を言っているということではもちろんない。彼はそんなことをする人間ではないし、そもそもそんなことをしても何の意味もないからだ。

 

「……まさか」

 

 考えを巡らせた結果、芹澤はひとつの答えに辿り着く。

 

 ――まさか将ちゃんを襲撃した奴は、聖櫻の生徒を(かた)ったんじゃないか。それなら将ちゃんが勘違いしてしまっても無理はない。

 

「…………」

 

 ――落ち着け、情報を整理して考えろ。急いては事を仕損じる。考えなしの行動は、余計に事態を悪化させるだけだ。あの時みたいに友達を守れないなんてのは、死んでもごめんだ。

 

 ここまで黒川に対して必死になるのは、中学時代の友人に、自分が守れなかった大切な友人に、彼が極めて似ているということも関係していた。重ね合わせて見てしまっていることは事実だった。

 しかしながら、黒川は黒川であって、その友人ではない。顔が似ているだけの全くの別人なのだ。(あがな)い、と言うには(いささ)か語弊がある。

 それでも、このまま彼を放っておくつもりは毛頭ない。こんな形で拒絶されても、納得などできない。全力で力になり、支えるのが友人というものなのだ。

 

「…………」

 

 ――それなら、本人に聞いてみることにするか。正美に比べりゃ俺は信用されていなかったかもしれない。それでも、何か少しでも手がかりがあれば答えを導き出せるかもしれない。

 

 踵を返し、芹澤は所属する軽音楽部の部室へ歩を進めた。

 

 ――とりあえず今は俺のなすべきことをするだけだ。おそらく将ちゃんは来週の月曜日、間違いなく登校してくる。将ちゃんは真面目な人間だ、よほど体調が悪くなければ休むなんてことはしない。その時がチャンスだ。

 

 部活の後輩である黒川凪子、風町陽歌、蓬田菫の3人から、一体黒川の身に何があったのかと、悲痛な面持ちで問い詰められたが、『俺が何とかするから、まずは落ち着け』と説得した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黒川将平が、鱗を剥がされ、肉を削がれて暴れまわる毒蛇のごとく怒り狂った事件を機に、彼を取り巻く人間の心理は、めまぐるしく変化してゆく。勝手な憶測を始める者、困惑している者、(あがな)いをする者――――。

 だがひとりとして、黒川がゴマすりをしていたなどと思ってはいなかった。否定的な考えに至った者もそうでない者も、彼を真面目な人間と評していたのだから。

 

 ましてや、彼が進学して最も恐れていた『×××』をしようと思う人間など、誰ひとりとしていなかったのだから。

 

 

 

 



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擁護されるシリアルキラー

 

 

 

 

 土日、病院で簡単な検査を行い、『後は自然治癒(ちゆ)で大丈夫だろう』と俺は医者に言われた。

 月曜日。それでも顔のあちこちに絆創膏(ばんそうこう)や脱脂綿が貼られた俺は、通行人にこれを長い間見られたくないという考えから、自転車で登校していた。

 そもそもあんなことがあったというのに、律儀に登校している俺はプライドが高いのか、もしくはただの馬鹿なのか。

 

 学園に到着してからも、教室に入ってからも俺に対する奇異の眼差しは途絶えることがなかった。もっとも、教室に関しては俺が怒鳴り散らしたことも関係しているのか、噂話めいたことをする人間はひとりとしていなかった。

 

 

 

 

 昼休みに入り、俺は教室を出る。すると背後から、待ち構えていたかのように俺を呼び止める声がした。

 

「将ちゃん!」

 

「…………」

 

 声の主が二階堂くんなら、俺は振り向くことなく去っていたかもしれない。しかし、その声の主は意外なことに芹澤くんだった。振り向いて辺りを見渡すが、高桑くんの姿も鴨田くんの姿もない。珍しくひとりのようだった。

 

「……二階堂くんからもう聞いてると思うけど、俺のことは放っといていいよ……」

 

 だが俺は、そんな珍しい状況であっても態度を変えるつもりはなかった。芹澤くんにまで、こんな醜態を見せたくはなかった。

 

「分かってる。だけどひとつだけ、どうしても将ちゃんに聞いておきたいことがあるんだ」

 

 しかし俺の言葉に芹澤くんは説得するような言葉を使わなかった。何かを知りたがっている、そんな印象だった。

 

「…………何?」

 

「将ちゃんを襲った奴って、どんな顔してた?」

 

「……えっ?」

 

 彼のその質問は、俺も予想していなかった。『誰に襲われたか』ではなく、『襲った奴はどんな顔をしていたか』という質問は。

 

「……他はあまり覚えてないけど、リーダー格っていうか、一番いきがってた奴はニンニクみたいな鼻で、キツネみたいな目してたけど」

 

「……!」

 

 そんなことを聞いて何になるんだ、と思いながらも一応答えておく。さっさと答えて、この場を去りたかったからだ。

 だが俺の返答に芹澤くんは驚いたように目を見開き、納得がいったような表情をして『やっぱりそうだったか……』と呟いた。

 

「……将ちゃん。そいつら、聖櫻(ここ)の生徒じゃない。稲山二高のクソ野郎共だ」

 

「……えっ?」

 

「何かおかしいと思ったけど、将ちゃんの今の話を聞いて全部分かった。そいつら、ここの制服なんて着てなかったんじゃないか?」

 

「あ、うん……私服、だったけど……」

 

 確かに俺が奴らを聖櫻の生徒だと判断したのは、ニンニク鼻の放った言葉だけだった。それ以外には、何も証明するものはない。

 

「あのくそったれ共……俺にやられた腹いせに将ちゃん襲ったばかりか、ここの1年坊に罪擦りつけるような真似しやがって……」

 

「…………!」

 

 眉間にしわを寄せ、歯を食いしばりながら彼は怒りをあらわにしていた。

 だが、そんなことはどうでもいい。

 

 

 

 

 ――――それじゃあ、それじゃあ、俺は。勝手にここの1年が犯人だと決め付けて、無意味に醜態を晒しただけ。

 

 

 

 

「…………」

 

 俺は踵を返し、芹澤くんに別れの言葉を言うこともせずに、ふらつきながらその場を後にする。

 

「将ちゃん! 何があっても、俺は将ちゃんの味方だ! だから、諦めないでくれ!」

 

「…………」

 

 必死に叫ぶ芹澤くんの言葉は、俺の耳に届きはしなかった。

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 中庭の外れにある芝生に腰掛けながら、俺は項垂れていた。購買でパンを買いはしたが、封を開ける気にもならない。

 今の俺にある感情は、猛烈な自己嫌悪だけだった。

 

「……やっぱり、ここにいたんだね。お兄さん」

 

 ここにいれば、誰かから声をかけられることなんてないと思っていたのに。しかも声の主は、ここで初めて会った、俺と同じ名字の人間だった。

 

「金曜、何があったのさ? 教えてよ、力になるから」

 

 あの時と同じように、俺の隣にどっかりと座りながら尋ねてくる。

 

 ――何で、まだ会ってから大して日が経っていない俺なんかに、大して話をしてない俺なんかに、名字が同じなだけで血縁関係が全くない俺なんかに、『力になる』なんて言えるんだ。

 

「他校の生徒に袋叩きにされて、それをここの生徒の仕業と勘違いして、勝手に切れて喚き散らして、醜態を晒しただけの話だよ……」

 

 半ば独り言じみた感じで俺はぼやく。

 そういえば彼女には、もうひとつ言っておくべきことがある。今度は彼女の方に視線を向けて言う。

 

「……もう、俺のことを『お兄さん』と呼ぶのはやめるんだ。それと他の1年にも、俺は全くの赤の他人だって言ってくれ。こんなろくでなしの妹だなんて噂が流れたら、とばっちりを食うのは黒川さんの方なんだから」

 

 俺の懸念はまさにそれだった。彼女の単なるおふざけで広まった、俺と黒川さんとの関係を誤解している1年生は非常に多い。さほど多くはないかもしれないが、上級生にもその誤解をしている人間はいるだろう。

 時間が経てば経つほど、誤解を解くことは難しくなり、黒川さんに対する風評被害は広まってしまう。俺の馬鹿な行為のせいで、何の関係もない彼女が巻き添えを食うことは絶対にお断りだった。

 

「……やめないよ、私は」

 

 だが俺の言葉を聞いた黒川さんはそんな言葉を返した。いつものへらへらとした雰囲気を、まるで感じさせない真剣な表情で。

 

「醜態でも何でもないじゃないのさ。むしろろくでなしなのは、お兄さんを襲った奴と、勝手な噂話をする奴だよ」

 

「…………」

 

「お兄さんと私は赤の他人かもしれないけど、無関係なんてことはないんだよ。私はお兄さんのこと気に入ってるし、まともな人間ならそんな勝手な憶測なんてしないのが普通なんじゃない?」

 

「…………」

 

「それに陽歌も菫もすごく心配してたよ、お兄さんのこと。春宮さんとか相楽さんもね。それにひふみん先輩だって。私と同じ考えの人は、お兄さんが思っている以上にたくさんいるんだよ?」

 

「…………」

 

 『ひふみん先輩』というのは、芹澤くんのことだろうか。どちらにせよ、俺はそんなことを言われても何も響くものはなかった。

 未開封のパンが入った袋を持ち、腰を上げて歩き出す。

 

「お兄さん、これだけは言わせて!」

 

 背後から、黒川さんは叫ぶ。彼女の印象からは、信じられないくらいに大きな声だった。

 

「少なくとも3人は、お兄さんのことを軽蔑なんてしてないから! 誰が何て言おうと、これは絶対に変わらないから!」

 

「…………」

 

 ――――何だってんだよ、ちくしょう。

 

 

 

 

 

 

 放課後になり、あの時と同じように無言で教室を去っていく。多くの人間からの視線を感じたが、もはや俺は気になどしていなかった。

 

 

 

 

「先輩!」

 

 校門まで差し掛かったところで、背後から俺を呼び止める声が聞こえる。珍しく周囲には他の生徒の姿はおらず、俺に向かって放たれた声であることは明白だった。

 

「…………」

 

 振り向くと、そこに立っていたのは相楽さんだった。息を切らせた様子から、走って俺を追いかけてきたのだろうか。

 

「はぁ……金曜日……はぁ……何が、あったんですか?」

 

 昼休みの黒川さんと同じことを相楽さんは尋ねてくる。黒川さんは『相楽さんも心配していた』と言っていたが、その様子を見ると、黒川さんは昼休みに俺が言ったことを相楽さんに話してはいないようだった。

 

「……他校の生徒に袋叩きにされて、それをここの生徒の仕業と勘違いして、勝手に切れて喚き散らして、醜態を晒しただけの話だよ。これでいいでしょ?」

 

 黒川さんに話したものと全く同じ言葉を、俺は相楽さんに対して呟く。

 

「もう俺と関わるのはやめときな……。ろくな目に遭わないよ……」

 

 黒川さんとは違い、相楽さんは名字が同じことによって、変な噂話をされるリスクはない。だが、何度も話をしているようではどちらにせよ同じ結果になる。

 そもそも俺は、自分のために誰かを利用する人間だ。噂話の有無に関係なく、このままでは相楽さんに不快な思いをさせるだけでしかない。

 だが、相楽さんにも俺の言葉は通じなかった。

 

「いやだよ……」

 

「…………」

 

「どうして……どうしてそんなこと、言うんですか……」

 

「…………」

 

「あの時、わたしに『すごい』って言ってくれた先輩が、ゴマ団子までくれた先輩が、嫌な人なわけ、ないじゃないですか……」

 

 声を震わせながら、相楽さんは搾り出すように言葉を発する。

 

「先輩ともう関わらないなんて、わたしは絶対にいやだよっ!」

 

 そして間髪いれずに彼女は叫ぶ。目を潤ませて、前かがみになりながら、校舎にまで響き渡りそうな大きさの声で。

 

「……あの時の俺は本当の俺なんかじゃない。本当の意味で相楽さんに『すごい』って言ってくれる人は他にたくさんいるんだ。そういう人を、大切にするべきだよ……」

 

 それだけ俺は彼女に告げると、返答も待つことなく校門を抜けていった。

 

 

 

 

「他の人に言われたって、全然嬉しくなんかないもんっ! 誰が何か言ったって、あの時の先輩が本当の先輩じゃなくたって、先輩は絶対いい人なんだからぁぁぁぁぁぁっ!」

 

 

 

 

 ――――ふざけるなよ。ふざけるなよ。何の根拠もないことを、さも当然のように言ってるんじゃねえよ。

 

 背後から響き渡る声は、いつまでも俺の鼓膜を揺らし続けているような気がした。

 そして俺はその言葉に、困惑と苛立ちがない交ぜになった感情を抱いていた。

 

 

 

 

 

 

 翌日の昼休み。昨日と同じ場所に俺は腰掛けていた。

 幾分食欲のあった俺は昨日とは異なり、購買で買ったパンを頬張っていた。

 

「先輩……」

 

 そんな俺の元に、またも別の刺客が現れた。初めてできた後輩――そう言っていいのかはかなり微妙だが――でもある、春宮さんだった。

 

「妹さんが言ってました。昼休み、先輩はここにいることが多いって……」

 

「……ちっ」

 

 春宮さんが俺の前に現れても、俺は我関せずでパンを口に運び続けていたが、春宮さんの放った『妹』というフレーズには、舌打ちをせざるを得なかった。

 春宮さんと知り合ったのは、黒川さんと知り合うより前だ。当然俺と黒川さんが兄妹であるという誤解も存在していなかったので、他の知り合った1年生には必ずしていた事実の説明を、春宮さんにだけはしていなかった。黒川さんと知り合って以降は春宮さんと話す機会がなかったため、説明するにもできなかったということも関係していた。

 

「……俺は黒川さんの兄貴なんかじゃない。あの人は俺とは血縁関係もない、名字が同じだけの全くの赤の他人だよ。まだ『お兄さん』って呼んでるのかよ……」

 

 黒川さんがさっさと俺を切り捨てていれば感じることのなかった、不必要な苛立ちを俺は感じていた。

 

「えっ、そうなんですか? てっきり兄妹だと思ってました……」

 

「…………そうだよ。それで春宮さんは、俺に何の用があってここに来たわけ?」

 

 昨日の芹澤くんと黒川さん、相楽さんを見て大体の予想はできていたが、それでも俺はわざわざここに来た目的を尋ねていた。何でそんな面倒になるだけのことをしたのかは、俺にもよく分からなかった。

 

「先輩、心配しないでください。先輩に対する根拠のない噂なんて、絶対誰にもさせませんから」

 

「…………」

 

 俺の予想していたものとは違ったが、大して驚きもしなかった。俺を擁護する言葉であることに変わりはなかったからだ。

 

「黒川さんから聞きました。他校の生徒に襲われて、それをここの生徒と勘違いしちゃったって。別に先輩は悪いことなんかしてないじゃないですか。ここの生徒の誰かを殴ったわけじゃないんですから」

 

「…………」

 

「私や黒川さんだけじゃなくて、相楽さんや椎名さんも同じ考えです。それ以外にもたくさん先輩の力になりたいって人はいるんです」

 

「…………」

 

「黒川さんが妹じゃないって知った時は驚きましたけど、でも黒川さん、本当の妹みたいに先輩のことを心配してました。だから……」

「この学園には、馬鹿か聖人君子(せいじんくんし)しかいねえのかよ……」

 

 ひとりでまくし立てる春宮さんだったが、俺はその流れを断ち切るように言葉を紡ぐ。

 

「こんな奴ひとりのために、何そこまで必死になってるんだ……」

 

 春宮さんの言葉で、昨日から溜まっていた苛立ちが爆発――とまでは行かなくとも、口に出して発散させたいレベルにまでは達していた。

 

「そんなことしてる暇があるんだったら、自分のために時間を使った方がよっぽど有意義だろうが……。馬鹿じゃねえの……」

 

 俺はパンを全て食べ終え、ゴミをポケットに突っ込んで立ち上がり、この場を去ろうとした。

 

「……だったら、私は馬鹿でいいです」

 

「…………」

 

「誰かを助けるのが馬鹿なことなら、私は喜んで馬鹿になります」

 

「……俺の本性が分からないから、春宮さんはそんなことが言えるんだよ」

 

 その言葉は、俺以外の人間が聞けば心を動かされたかもしれない。実際俺も春宮さんから、彼女の決意とでも形容できる、強い意思が感じられた。

 でも、それは俺の本性を知らないから。自分のために他人を利用することよりも、もっとどす黒く狂気に満ちた俺の本性。

 だから俺は、薄ら笑いを浮かべてそう言葉を返した。

 

「鼻や腕をへし折ったり、顔の肉を食いちぎったり、金玉蹴り潰したりすることに快感覚えるような奴にも、そんなことが言えるの?」

 

「……えっ?」

 

 俺の言葉に春宮さんは、呆気に取られたように目をぱちくりさせていた。無理もない。こんな猟奇的な言葉が俺の口から飛び出すなど、まるで予想していなかっただろうから。

 

「こんないかれた奴に構ってたら、春宮さんまで確実におかしくなる。馬鹿っていうのは訂正するよ。むしろ狂っちまうよ」

 

「…………」

 

「黒川さんとかにも言っといて。俺はシリアルキラーじみた、頭のおかしい奴だって。憎い人間をぶちのめすことに、快感を覚えているって」

 

「…………」

 

「ばいばい、春宮さん……。友達とか他の先輩との関係を、大切にね……」

 

「…………」

 

 先ほどとは逆に俺がまくし立て、春宮さんが沈黙する状態になっていた。しかしながら、俺と違って春宮さんは何も言い返さなかった。別れの言葉を告げて横を通り過ぎても、相楽さんの時のように背後から叫ぶ声は聞こえてこなかった。

 

 

 

 

 

 

 そう、俺はシリアルキラーだ。憎い奴は、男女の区別なく徹底的に叩き潰す。『生まれてくるんじゃなかった』という思考に至るまで。

 それが、俺の快楽の究極系なのだから。

 

 

 

 



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勇気の証明

 

 

 

 

 子供の頃によく見ていた、特撮ヒーロー。

 僕はそんな存在には、まずなれやしない。プライドの塊で、自分のことしか考えず、口を開けば暴言だらけの僕には。

 

 だけど一方で、僕はそんなヒーローの勇気には賞賛を送りたい。仲間を信じ、たとえ裏切られても諦めないその心意気には、驚嘆させられるばかりだ。

 憧れなどしない。なりたいとも思わない。それでも僕は、そんな彼らを称えたい。

 

 どうかその勇気を、いつまでも捨てることなく持ち続けて欲しい。

 『いい人間』にはならずとも、僕のような『嫌な奴』にはならないで欲しい。

 

 僕は勇気のある人間を賞賛する。僕が到底得ることのない物を持つ人間を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………ん」

 

 どうやら、帰りのホームルームの間に寝るという珍しい行動を起こしてしまったらしい。重い目をこすりながら顔を上げると、教室には読書をする二階堂くんと、行事用かデザイナーの仕事用かは分からないが、書類らしきものをまとめている時谷さんの姿しかなかった。

 

「…………」

 

 別に教室でやる必要もないだろう、などと思いはしたが、そんなことを思ったところで何の意味もない。

 春宮さんに俺の本性の一部を話して以降、俺はほとんど誰とも口を利いていなかった。同学年の人間はもちろんのこと、今まで知り合った1年生からも話しかけられていない。春宮さんが俺のことを周囲の人間に話したかどうかは定かではないが、いずれにしても俺は見限られたということだろう。

 

「…………」

 

 今日は図書委員の仕事はないが(少し前までは病院に行って検査をするという口実を付けて休んでいたが、最近復帰した。当然ながら村上さんをはじめとする委員の人間とは、事務的な会話をわずかにしただけだった)、こんなところに残って時間を無駄に過ごす理由もない。寝るにしても、家のベッドで寝るほうがはるかにいい。

 俺は席からゆっくり立ち上がると、机のフックに引っ掛けているリュックを取って背負い、教室を出ようとした。

 

 

 

 

「……黒川くん!」

 

 だが扉に手をかけようとしたところで、背後から俺を呼び止める二階堂くんの声が聞こえた。普通なら無視してそのまま帰ってしまっていたのだろうが、なぜか今日の俺は振り返って用件を尋ねていた。

 

「……何か用?」

 

「黒川くんの鞄って、確か蛇のぬいぐるみ付いてたよな? ないみたいだけど、どうしたんだ?」

 

「……っ」

 

 ――細かいところに気付くものだ。

 いつも共に行動していた彼なら、あのぬいぐるみはよく知っていてもおかしくはない。軽く話した程度ではあるが、大事なものだと以前話したこともあった。

 もっとも、あんな異様な行動を起こした俺に対して、なぜまだそんなことを尋ねることができるのかという疑問の方が強かったが。

 

「……襲われた時に、ちぎられて山の茂みに投げ捨てられたんだよ。探したってもう見つかりゃしない」

 

「……えっ?」

 

 用件を尋ねておいてこんなことを思うのは矛盾しているように感じるが、俺はさっさと帰りたかった。襲撃されて『チビ』と罵られ続けたこともそうだが、ぬいぐるみを投げ捨てられたことは、それ以上に思い出したくないことだったからだ。

 吐き捨てるようにそう告げ、困惑した表情を浮かべる二階堂くんを尻目に、踵を返して今度こそ教室を出ようとした。

 

 

 

 

「…………あの、黒川くん!」

 

 しかし、今度は別の人間から呼び止められた。ただ、その人間から呼び止められるということは全く予想していなかったため、思わず振り向く。

 

「…………」

「……時谷、さん?」

 

 声の主は、席から立ち上がってこちらへ駆けてきた時谷さんだった。

 教室に残っているのは俺と二階堂くん以外には彼女しかいないので、必然的にそうなるのだが、あの事件以降、本の貸し出しや連絡事の報告のような事務的なこと以外で彼女が能動的に話しかけてくることはなかったため、俺は驚きを隠せなかった。

 二階堂くんの方も、彼女が俺に声をかけることは予想していなかったのか、「……あらっ?」っと漏らして彼女に目をやった。

 

 俺が彼女の名を呼んだことに一瞬身体を震わせた時谷さんだったが、すぐに意を決した表情になると、制服のポケットからあるものを取り出して、俺に見せた。

 

「……その、なくした蛇のぬいぐるみって、もしかしてこれのこと?」

 

「……っ!?」

「おお、そうそう、こんなやつだったな。よかったよかった」

 

 それは紛れもない、あの時ニンニク鼻に投げ捨てられた、俺の蛇のぬいぐるみだった。

 万――否、億にひとつも可能性としてありえない状況を目の当たりにして、目を疑わずにはいられない。時谷さんに声をかけられたことも強い驚きだったが、ぬいぐるみが無事であったこと、加えてそれを彼女が持っていたことは、声をかけられたことの驚きがちんけなものに思えるほどだった。

 俺の反応とは対照的に、二階堂くんの反応は淡白だった。ぬいぐるみがなくなっていたことに気付いたのは恐らく今が初めてであり、しかもそれがもう解決へ向かっていると言っても過言ではない状態なので、無理もないが。

 

「ど、どうして、これを……?」

 

「……帰り道に、木に引っかかってたのを見つけて。黒川くんのものじゃないかなって思って、持ってたの……」

 

「…………」

 

 だが、今は彼の淡白な反応も、俺が襲撃されたあの道が時谷さんの帰り道であったことも、些末なことだ。

 目を見開き、口を半開きにしたまま俺は立ち尽くす。

 ――何で。何であんなことをした俺に対して、そんなことができる。

 

「……黒川くんにとって、私は一番拾って欲しくなかった人間かもしれないけれど……でも、このまま放置していたら、もっといけないと思ったから……ごめんなさい、どうぞ……」

 

 無言で立ち尽くす俺に、時谷さんは拾った理由を伝え、蛇のぬいぐるみを俯きながら差し出す。その身体は、微かに震えていた。その目は、わずかに潤んでいた。いずれにしても、それは普段の時谷さんはまず取らない動作だった。

 

 

 

 

 

 

 

 俺は、どうしようもない馬鹿だった。

 こんなに強い勇気を持った彼女を、俺は9ヶ月以上も怯えさせていたというのか。

 彼女を屈服させたカタルシスなどという、ゴミほどの価値もないものに浸って愉悦を感じていたというのか。

 

 放置しても良かったはずなのに。むしろ、より人目につかないところへ投げ捨ててしまっても良かったはずなのに。それなのに拾って届けるという本当に強い勇気を、彼女は見せた。

 

 ならば俺も、それに応えなければならない。彼女が証明した勇気を、無駄にしてはならない。

 『一番拾って欲しくなかった人間』なんて、とんでもない。このぬいぐるみは、彼女に拾われるべくして拾われたのだ。時谷さんが、これを一番拾って欲しかった人間なのだ。

 

 

 

 

 

 

「……時谷さん」

 

「……は、はい……」

 

「本当にありがとう。…………それと、あの時はあんな真似をして、本当にごめん」

 

 ぬいぐるみを受け取った俺は、時谷さんに向けて深く頭を下げた。

 こんなことをしても、俺があの時彼女に対して取った蛮行に対する贖罪(しょくざい)になるとは到底思えない。所詮は自己満足でしかない。

 だから俺は贖罪と言うよりも、彼女の勇気に対する敬意の意味を込めて頭を下げる。こんなろくでもない俺に、強い勇気を見せてくれたことに対して。同じ自己満足でも、この意味合いの方が少しは価値もあるだろう。

 

「えっ……?」

 

 頭を下げた時間は十数秒。頭を上げると、時谷さんは戸惑った表情を見せていた。それに俺は気まずさを感じる。

 

「……それじゃあ、俺は帰るね。見たいテレビがあるから、あんまり遅くなるわけにいかないし」

 

 誤魔化すように俺は、時谷さんにそう声をかける。

 見たいテレビ番組が今日放送されるのは本当だが、実際には放送されるまで、まだかなり時間がある。その言葉は、立ち去るための口実でしかなかった。

 

「ん。そんじゃまた明日。よかったじゃん、見つかって」

 

 二階堂くんに声をかけたつもりはなかったが、状況を察したのか彼は俺に別れの言葉を告げる。

 ただ、その言葉がよりこの場を去るための強い理由付けになったのは事実だった。

 

「……うん。それじゃあ」

 

 俺は二階堂くんへ視線を少しだけ向け、そう言って教室を後にした。

 

 

 

 

 

 

 まだ俺は、多分大丈夫だ。俺に対してこんな勇気のある行動をしてくれる人がいるということは、まだ俺は生きていてもいいのだ。

 『死にたい』という気持ちがまだ消えたわけではない。しかし一方で、『生きたい』という気持ちも強くなっている。

 それならまだ、頑張って生きてみよう。まだ俺は死なない。まだ俺は、くたばりはしない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうして……」

 

 ――どうして。

 

「……どうして……悪いのは、全部私なのに……謝らなきゃいけないのは、私なのに……そもそも謝って済む問題じゃないのに……どうして、黒川くんが謝るの……?」

 

 中指を突き立てられると思った。顔に唾を吐きかけられると思った。『死んじまえ、ゴミ屑』と罵倒されると思った。

 しかし彼が行ったのは、それとは正反対の行為だった。本来私がしなければいけない、『謝罪』という行為を。

 

 

 

 

 私の頭は、混乱するばかりだった。

 

 

 

 

「……もうさ、いいんじゃないの?」

 

「…………」

 

 私と黒川くんとの一部始終を見ていた二階堂は、鼻から深く息を吐き、私に向けて呟くように言った。

 

「これ以上時谷さんが変に気に病んでも、余計黒川くんが嫌な気分になるだけじゃないの? もう、これからは普通通りにしてりゃあいいんだよ。今回のことで、時谷さんも色々分かっただろうし、二度とこんな禍根は生まれないだろうからね。いいもんもらったと思って、堂々としてればいいんだよ」

 

「……分かってる、そんなの分かってる……だけど……だけど……!」

 

 二階堂の言葉は理解できないわけではないが、納得は到底出来なかった。

 こんな(あがな)いとも呼べない行為に感謝される謂われなんてありはしないのに。ましてや、私の愚行に対する当然の反撃を謝罪するどころか、頭まで下げる必要なんてありはしないのに。

 

 

 

 

「……黒川くんは、時谷さんのことを恨んでなんかいなかったってことだよ。素直に受け取っておきなって、黒川くんの気持ちをさ」

 

「……っ! うぐっ……ううっ……」

 

 二階堂の言葉に、私は感情の制御がもはやできなくなった。目から涙が、堰を切ったように溢れ出す。

 彼が言葉にしたことでようやく理解できたなんて、なんて私は馬鹿なのだろう。

 黒川くんは、誰よりも思いやりのある人間だった。こんな馬鹿な私にも、それを享受させてくれる――――。

 

 

 

 

「なんなんだ、私は……なんなんだよ、私はっ……この馬鹿っ……大馬鹿っ……」

 

 自分を罵倒しなければ、自分の置かれた状況を整理することができない。

 私は学園内での功績や、ファッションデザイナーであることをいいことに威張りくさり、周囲からは『姫』などと呼ばれたことでさらに天狗になり、人を思いやることをすっかり忘れてしまっていたのだ。その結果が、黒川くんの怒りを買うことであった。

 それにもかかわらず、彼は私の罪滅ぼしとも呼べない行為に深く感謝し、去年の行動を謝罪したのだ。誰がどう見ても、彼に落ち度など少しもないというのに。そんなこと、してはいけないのに。

 

 私は彼の気持ちを尊重しないばかりか、『後で必ず付き合う』という譲歩すら突っぱねて怒りを買い、挙句の果てには絶対させてはいけない『謝罪』などという行為をさせてしまった。

 謝罪しなければならないのは私の方なのに、私は代わりに嗚咽を漏らすだけだった。その姿はどうしようもなく滑稽で、みっともない。

 

「ごめんなさい……黒川くん……ごめんなさい……ごめん、なさ……ごめ……な……さ……」

 

 黒川くんの姿はもうないのに、私は意味もなく謝罪の言葉を口にしようとする。

 しかしながら、初めはともかく途中からは言葉が出そうにも出せなくなった。代わりにエグエグとしゃくり上げる。涙がいつまで経っても収まってくれない。

 

「明日教室に着いたら、真っ先に黒川くんに話しかけな。そうすりゃあ、向こうから話の輪を広げてくれるだろうし、すぐ忘れることができるよ、きっと」

 

「……ううっ、ううっ……」

 

「……んじゃ、俺も帰るぞ。いつまでもみっともない泣き顔を眺める趣味なんて持ち合わせていないからな。……鼻水はちゃんと拭きなさいよね」

 

「……う、うるさい!」

 

 二階堂の言葉に私はむきになって言い返したが、全く説得力はなかった。鏡がないので見えないが、どこからどう見ても私は、みっともない泣き顔だろうから。涙と鼻水にまみれた、生まれてから一番汚い顔になっているだろうから。

 

「そんだけ言えりゃ大丈夫だな。……さーさ、かーえろ」

 

「うぐっ……ひっく……」

 

 二階堂が教室から去っても、しばらく私はひとりでしゃくりあげていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日。

 ホームルームが始まる10分前と、俺はいつもより少しだけ遅く登校した。教室に入ると、クラスの何人かは俺に視線を向けてくる。それは軽蔑の視線か否か。どちらにせよ、俺の校内での人間関係は良好なものとは言いがたい。これから先、どうするべきか。

 

 とは言え、そこまで悲観的になってはいない。時谷さんのおかげで、まだ俺は大丈夫という気持ちを多少ながら持つことができた。

 とりあえず今は、ゆっくり考えよう。俺を見限ったのならそれでいい。自分がまいた種なのだから、馬鹿馬鹿しい弁明をするつもりもない。

 

 

 

 

「……黒川くん?」

 

 自分の席へ腰を下ろし、鞄から取り出した教科書やノートを机の中に押し込むと、背後から声をかけられる。振り向くと、気まずそうな表情を浮かべた時谷さんの姿があった。

 

「……どうしたの?」

 

 昨日の今日であのような出来事があった分、わずかながら俺の方も気まずさがある。とりあえず、用件を尋ねてみた。

 ……心なしか、周囲の視線が俺たちに集中しているような気がする。教室に入った時よりも、多くの人間から。

 

「……その……っ! 去年はあんな馬鹿なことして、本当にごめんなさい!」

 

 時谷さんは一瞬言い淀むも、すぐにぶんぶんと首を振って姿勢を正し、深く頭を下げて謝罪の言葉を口にした。

 昨日に続き、それは普段の時谷さんからは考えられない行動だった。昨日と違って教室には多くの生徒がいるため、辺りはざわめき出す。

 

「今更かよって言われても文句は言えないし、許してもらおうとも思ってない。だけど、私だけ何もしないのは絶対嫌だったから」

 

 

 

 

「……時谷さん、顔上げて」

 

「…………っ」

 

「すごく上から目線な言い方になっちゃうけど……あの時のことは、お互いに運が悪かったってことにしてくれると、ありがたいかな」

 

「……えっ?」

 

 あの件のことを、俺はもう蒸し返したくはなかった。当事者がそんなことを思っても説得力はなさそうだが、あの件において誰が善で誰が悪かなんてものは、明確にできるものではないと思う。

 この様子からすれば、時谷さんはこの件を解決したいと考えているようだし、俺の方も引き合いに出して偉そうな顔をするなどというふざけた真似はしたくない。

 

「それに何もしてないなんて言うけど、すごく大きなことをしてくれたじゃん、時谷さんは」

 

 俺は下ろしていたリュックを持ち上げ、ファスナーの部分に付けられた蛇のぬいぐるみを見せる。あの後家に帰ってすぐに、俺は小学生時代に使っていた裁縫道具を引っ張り出し、裁縫の本を参考にしながら紐を付け直した。手頃な紐が家にあったこと、俺が裁縫をそれなりに得意としていることは幸いだった。

 

「……あっ」

 

「絶対見つからないと思ってたけど、時谷さんはこれを見つけてくれた。それだけで十分なんだよ」

 

「…………」

 

 『偶然だろう』と言われるかもしれないが、俺はそうとは思わない。昨日も思ったように、間違いなくこれは時谷さんに拾われるべくして拾われたのだと思う。したことの大きさは、彼女の方が圧倒的に上だ。俺の謝罪の価値など、それには到底及ばない。

 

「……その、黒川くんは、本当にそれでいいの?」

 

「……もちろん。むしろ妥協案じゃなくて願望だね。それにこの場で『んなわけあるか』なんて言ったら、俺が全面的に悪者になっちゃうしね」

 

 なおもおずおずとした調子で尋ねてくる時谷さんの気分を和らげる目的もあって、俺は冗談めかして言った。

 

 

 

 

「……それなら、私もそうしたい、かな……」

 

「……ありがとう、時谷さん」

 

 ゆっくりとではあるが、視線を外さずはっきりと言い切る彼女の意思に、嘘や偽りは感じられない。感謝の言葉を俺は口にすると、肺に溜まった空気を一気に吐き出す。

 

「……ずいぶんと遠回りになっちゃったけど、改めてよろしく、時谷さん」

 

「……っ! うん……うん……!」

 

 俺は時谷さんに軽く頭を下げ、時谷さんは目を手のひらで押さえながら、何度も頷いた。

 

 

 

 

 それから5秒ほどの間の後、教室内は大きな拍手に包まれた。

 

「な、何だ……?」

 

 何の前触れもなく訪れたそれに、俺は頭に疑問符を浮かべながら周囲を見渡す。

 有栖川さんを初めとするクラスの人間の3分の2近くは、訳も分からず拍手をしている様子だったが、残りの人間はしみじみとした――――まるで、歴史が動いた瞬間を見るような――――表情だった。『世紀の和解だね』と小野寺さんの発した言葉が、印象深かった。

 

 

 

 

 ずいぶんと長く、かつ面倒な遠回りをしてしまったが、俺と時谷さんの約9ヶ月に渡る関係のこじれは、今日をもって終結した。

 だがこれは、全て時谷さんの強い勇気と優しさがあってこその結果だ。俺は何もしていない。

 後出しじゃんけんのようで、あまり褒められた行為ではないが、代わりに俺は彼女の勇気と優しさを、心の底から誇張や嘘偽り抜きで賞賛したい。そして感謝したい。このぬいぐるみを俺に届けてくれたことに。

 

 

 

 

 ――本当にありがとう、時谷さん。

 

 

 

 



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嘲りの称号/死なないための希望

 

 

 

 時谷さんとの和解も終わり、俺は授業の合間の休み時間を利用してクラスの人間へ挨拶――釈明とするべきだろうか――をしていた。

 

「良かったね、時谷ちゃんと仲直り出来て」

 

「ありがとう。……その、小野寺さんには迷惑かけちゃったね、ごめん」

 

「何言ってんの。何があったかは知らないけど、黒川ちゃんが悪いことをしたわけじゃないのは明らかなんだから。変な噂をするほうがおかしいんだから、堂々としてていいんだよ」

 

 小野寺さんは俺を見限るどころか、全面的な擁護の立場を取ってくれていた。気を遣わせてしまったことに申し訳なさを覚える。

 あの日以降、俺は彼女ともまるで会話などしていなかったが、こうして俺が話しかけてきたことに、かなり安心した表情を見せていた。

 

「ずっと黒川ちゃんと話が出来なかったせいで、退屈ったらありゃしなかったからね。今期は面白いアニメがたくさんあるし、漫画だっておすすめのがいっぱいあったんだから」

 

「そうなんだ。ここ最近はアニメも漫画も見てなかったから、調べておかないとね」

 

「うん。……そういえば黒川ちゃん、夏コミに参加する予定は……」

 

 話をしていなかった反動からか、小野寺さんはまるで機関銃のように話を連発してきた。その姿に俺は少し気圧されたが、悪い気分ではなかった。俺も俺で、小野寺さんとの会話は好きだったのかもしれない。

 それならもう、彼女とのやり取りを『ゴマすり』などと形容するのはやめにしよう。彼女がそうしてくれるのなら、そんな形容など空しいものでしかないのだから。

 

 

 

 

 

 

「その、有栖川さんには何て言えばいいのか……」

 

 そしてもうひとり。次の休み時間に、俺は有栖川さんにも声をかけた。俺が声をかけたことに、初めは驚いた表情を見せたが、すぐに安堵したような表情へと変わった。

 

「ううん。何があったのかは分からないけど、私はあの時のことは全然気にしてないから心配しないでね」

 

「ああ、うん。ありがとう……。えっと……」

 

 小野寺さんと同じような言葉を口にした有栖川さんに、俺は不安が多少は解けたが、それから何を話すべきか決めあぐねてしまった。

 小野寺さんと比較すると、有栖川さんとは共通の趣味があるとは言いがたく、どうすればいいか分からない。

 

「あっ、そういえばすっかり忘れてたわ」

 

 俺のそんな姿を見て不憫に思ったのかどうかは定かではないが、有栖川さんは何かを思い出した表情になると、自分の鞄から何かを取り出す。

 

「はい、この前貸してくれたCD。なかなか返すタイミングが掴めなくて……ごめんね?」

 

「あ、ああいや、いいんだけど……」

 

 そういえば、ここ最近色々なことがあったせいで、CDを貸したことをすっかり忘れていた。さすがに有栖川さんはそんなことをする人間ではないと思うが、そのまま借りパク――借りたものを返さず、自分のものにしてしまうこと――されても気付かなかっただろう。

 

「……泣いちゃったわ、聴いてて」

 

「えっ?」

 

 一瞬有栖川さんが何を言ったのか分からなかったが、どうやらCDを聴いて泣いたらしい。そういう反応を見せたということは、嫌な気分になってしまったということだろうか。

 

「すごく歌詞が突き刺さると言うか、他の歌手じゃ絶対使わない言葉をたくさん使ってて、圧倒されちゃった。でもネガティブってわけじゃなくて、染み渡る感じだったわ」

 

「でも、結構有栖川さんが嫌いそうな言葉も歌詞にあったと思うけど……」

 

 しかしながら、彼女の意見は俺の予想とは正反対だった。

 このアーティストはラブソングを皮肉ったり、暴力的な言葉や、直接的ではなくとも性的な言葉が入ったりする歌も結構ある。念押しをしたとはいえ有栖川さんは性格上そういったものは嫌うと感じていたので、その絶賛振りには驚いた。……貸しておいてそんなことを考えるのはどうかとも思いはするが。

 

「最初に聴いた時はすごく驚いたわ。だけど聴いているうちに、ただ罵倒するためにそういう言葉を使っているわけじゃなくて、心の叫び……って言えばいいのかしら? 本音をぶつけるためにそういう言葉を使ってるのかな、って感じたわ」

 

「そう……」

 

 インターネットで以前見た、このアーティストへの評論に近い感想を有栖川さんは述べた。その意見に便乗するようではあるが、俺も同じ意見ではある。

 最初に聴いた時は、他のアーティストがまず使わないような言葉をこれでもかと詰め込んだ歌詞に、衝撃を覚えたものだった。ただ、それは敵愾心(てきがいしん)や復讐心などから来るものだけでは決してないことが、何度も曲を聴いたり、アーティストへのインタビューを見たりするうちによく分かった気がする。

 

「近いうちに、ライブにも行ってみたいって思っちゃったもの」

 

「そこまで気に入ったの……?」

 

「ええ」

 

 有栖川さんの評価は少なからず社交辞令のようなものが混じっていると思ったが、『ライブにも行ってみたい』とまで言い出すということは、社交辞令のない純粋な評価であることが窺える。ここまで評価する社交辞令など、回りくどいだけでしかない。

 

「俺もライブは行ったことないから、そのうち行ってみたいとは思うけどね」

 

「好きな娘と一緒に行ってみるのもいいんじゃないかしら?」

 

「……どうだかね。気になる人なんて今はいないし、仮にいたとしてもその人がそもそも気に入ってくれるかどうかも分からないよ。それならひとりで行く方が気が楽だね」

 

「うーん……」

 

 俺の返答が自分の望むようなものにならなかったためか、残念そうな表情を浮かべる有栖川さんだった。それに多少申し訳ない気持ちになる一方で、俺は嬉しさを感じていた。共通の趣味があるとは言いがたかった彼女との間に、ひとつだけではあるが話のネタに出来るものが見つかったからだ。話せることは小野寺さんなどの場合と比べるとはるかに少ないが、それでもないよりかはずっといい。

 CDを貸したことはゴマすりの一環でしかなかったが、もうそんな形容をする必要もないだろう。ここまで気に入ってくれた彼女に対してそんな形容をするのは、野暮というものなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ごめんなさい。『そんな呼び方しないで』って、しつこく言ったつもりだったんですけど……」

 

「……別にいいって。そう言いたいなら言わせておくよ。客観的に見て、あの時のことはどう考えてもそういう噂されても仕方ないことだったしね」

 

 

 

 

 『黒川大魔王(くろかわだいまおう)』。

 多くの1年生から、俺はそんな異名を付けられていた。その異名に畏怖の念など込められていないことは明白だ。さも異常者を(あざけ)る目的で付けたのだろう。

 

 

 

 

 昼休み。

 俺はこれまでに話をしたことのある1年生数人に釈明をするため、1年の教室がある棟へ向かった。到着するや否や、「やべえ、大魔王だ……」「誰か黒川大魔王に何かしたのかよ……」といったひそひそ話をする者に数多く出くわす。

 予想はしていたのでそこまで気にはせず、見知った顔がいないか探していると、ちょうど教室から出てきた春宮さんを見つけたので、声をかけた。俺が声をかけてきたことに、春宮さんは一瞬ではあるもののかなり驚いた表情を見せたが、すぐに安堵の表情に変わると、「ここじゃあれですから、食堂で話しましょう」と言ってきた。

 

 その言葉に従って食堂へ向かい、定食を購入して席へ着く。今日は父親が弁当を作れなかったため、話の場が食堂になるのは都合がよかった。

 ……席へ着いた途端、何人かの生徒が即座に席を立ったのは気のせいではないだろう。そこから、先ほどの俺の異名に対する春宮さんの謝罪へと戻ることになる。

 

 

 

 

「それよりも、春宮さんは何で俺をかばうの? あの時かなりえぐいこと言ったはずなのに」

 

 自分から会いに行っておきながらこんなことを聞くのは矛盾しているが、具体的な表現や、それに至った経緯は避けたとはいえ、春宮さんには猟奇的な行為の話をした。普通の人間ならまず間違いなくドン引きし、関わり合いにもなりたくないと思うのが普通なはずだ。

 しかしながら、会った時に浮かべた安堵の表情や、『黒川大魔王』呼ばわりされることを防げなかったことに対する謝罪などを見るに、そういった感情を持っていないことが分かる。

 怒り狂う俺の姿を見ていない同学年の人間はともかく、怒り狂った俺の姿を目の当たりにした1年生であり、かつ俺の口からとんでもないことを聞かされた春宮さんが俺をかばう理由が分からなかった。

 

「……私は、先輩のことを信じてますから」

 

「…………」

 

「あの時の話を聞いたときは、確かに固まっちゃいましたけど、それをせざるを得ない理由があってやったことなんだって思います。先輩が何の意味もなくそんなことをする人に、私は思えないんです」

 

「…………」

 

「あの時私は、何も聞かなかったことにします。だから先輩も、私を信じてください」

 

「……そう」

 

 あそこまで言ったにも関わらず自分の考えを曲げないのなら、俺も春宮さんの意思を汲むべきだろう。

 

「信じるかどうかはともかく、そこまで言うならこれ以上春宮さんに対して自虐するような真似はしないよ。だけど俺はプライドがやたら高いし、かなり偏屈な人間だってことは理解しといて」

 

「……別に私は、先輩が偏屈だなんて思いませんけどね。プライドが高いことにしても、それで人に迷惑かけるようなことはしてないじゃないですか」

 

「……そこまで春宮さんとは話をしたわけでもないのに、よくそんな好意的なことが言えるね?」

 

 1年生の中では話した回数が恐らく最も多いとはいえ、それでも両手で数えられるほどの頻度でしかない。そんな少ない頻度でなぜそこまで分析が出来るのだろうか。彼女に対して自虐する真似をしないという考えになりはしたものの、さすがにその言葉には首を傾げてしまった。

 

「だったら先輩は、何であの時私にアニメのこととかを教えてくれたんですか? 『知らん』って言って逃げちゃってもよかったはずなのに」

 

「……あれは、媚を売ってただけだよ」

 

「それにしては先輩、楽しそうな顔してましたけどね。媚売るのにあんな顔ってできないと思いますよ?」

 

「…………」

 

 確かに、あの時は楽しさがあったのは事実だ。それまで皆無だった下級生とのつながりが出来たことに一種の高揚があったのも否定はできない(すぐネガティブな感情に染まってしまってはいたが)。

 

 

 

 

「春宮さん、何でお兄さんと?」

 

 俺が春宮さんの言葉に対して沈黙を続けていると、背後から聞き覚えのある声が耳に入る。振り向くと、驚いたような表情を浮かべた(あかのたにん)の姿があった。

 

「…………」

「あっ、黒川さん」

 

 正直、彼女とはもう少し時間を置いてから話しかけようと思っていた。しかしながら、こうして鉢合わせしたのなら早めに話しておいた方がいいだろう。幸いなことに、彼女の方から話しかけてきたことと、俺をまだ『お兄さん』と呼んでいること(こっちは『幸い』と言えるのかは微妙だが)から、彼女の俺に対する印象は特に変わっていないようだった。

 

「陽歌たちと教室で食べようかと思ってたけど、やめた」

 

 黒川さんは購買で買ったであろうパンをテーブルに放ると、俺の隣の椅子へと躊躇う様子も見せずに座った。

 

「その様子を見る限りじゃ、もう心配する必要はないみたいだね、お兄さん」

 

「……俺なんかより、自分の心配をするべきなんじゃないの? 大魔王の妹なんて言われたら完全なとばっちりなんだからさ。あの時に、誤解を解いとけって言ったってのに……」

 

 俺が最も懸念していたのは、黒川さんのことだった。1年生の大多数が、俺と黒川さんを兄妹だと勘違いしていることと、彼女が未だに俺を『お兄さん』と呼ぶことをやめていないことから考えると、彼女がとばっちりを受ける――――つまりは、やばい人間の妹呼ばわりされてしまうのではないかという懸念があった。あるいは、もう言われているのかもしれない。

 以前、お兄さん呼ばわりするのはやめるように言ったが、聞き入れられなかったらしい。その際口にした『やめないよ』という言葉を、彼女は曲げなかったようだ。

 

 早めに解決すべき懸念があるにもかかわらず、俺が黒川さんと話すのを先延ばしにしようとしたのは、彼女に対する苦手意識があるからに他ならない。前にも話したが、彼女と話しているとドロドロとした得体の知れないものがまとわり付いてくる錯覚を覚える。

 ただ、俺は彼女に嫌悪感を持っているわけではない。ふざけているのか真面目なのかよく分からない態度ではあるが、威張りくさったような高圧的な態度は取らないために、変に振り払うのも憚られることが大きな要因だった。

 本当は、そんなことを考えている場合ではないのであるが。

 

「知ったこっちゃないよ。大魔王の妹だなんて、むしろかっこいいじゃない」

 

 ふん、と鼻で息を鳴らしながら黒川さんは口角を吊り上げて淀みなく答える。

 何がかっこいいというのか。そして妹じゃない。

 

「…………」

 

「そんなことより私が許せないのは、お兄さんに対して訳分からない噂する奴だよ。私のクラス、そんなのばっかでさ。今朝、頭に来たから怒鳴っちゃったよ。黙れ、ってね」

 

「……そこまでするの」

 

「今朝の怒鳴り声、やっぱり黒川さんだったんだ……」

 

「ああ、春宮さんとかには迷惑かけちゃったね、ごめん。後で陽歌たちにもまた謝っておかないと」

 

 ため息をつかずにはいられない。さすがに春宮さんの方も、黒川さんが行ったことに苦笑いを浮かべずにはいられなかったようだ。

 俺の擁護をしてくれるのはありがたいと言えばありがたいが、あまり事を大きくしてほしくはない。先ほども思ったように、俺の勝手な思い込みから始まった騒動の巻き添えを食う事態にはしたくなかった。

 

 

 

 

「……言っておくけど、お兄さんは私の心配なんかする必要ないんだからね?」

 

「……えっ?」

 

 黒川さんの言葉を聞いて、俺は心が見透かされたような錯覚を覚えた。

 「まったく……余計なところで気を遣うんだから……」と呆れ気味に彼女はぼやく。

 

「とばっちりを受けるんじゃないかって思ってるのかもしれないけど、私はどうでもいい奴からバカと言われようがアホと言われようが、知ったことじゃないね。そもそも、とばっちりだなんて思っちゃいないし」

 

「…………」

 

「でも、お兄さんがバカとかアホって言われるのは絶対に許さない。だから私は、これからもお兄さんをバカにする奴に『ふざけんな』って言い続けるよ」

 

「…………」

 

「……本当に先輩って、黒川さんのお兄さんじゃないんですか?」

 

「春宮さん、何言ってんのさ。私とお兄さんは紛うことなき兄妹だよ?」

 

「……はぁ」

 

 初めは沈黙を通していたが、春宮さんの問いに対する黒川さんの『当然でしょ』とでも言わんばかりのドヤ顔で放たれた答え――根拠も何もない、完全な嘘っぱち――を聞き、彼女へ気遣いをしてももう無意味だと察した。

 

「……もういいよ。黒川さんがそうしたいなら好きにしな」

 

「おっ、ようやく兄妹って認めてくれたね。変なところで意固地になっちゃって~」

 

「……そっちの方じゃない。俺を擁護したいなら好きにすればいいってことだよ」

 

「もちろんそのつもりだよ。兄を大切に出来ないようじゃ、妹失格だからね~」

 

「……ちっ」

 

 つくづく、手のかかる(あかのたにん)だった。

 春宮さんに視線を向け、『何とかしてくれ』と訴えるが、苦笑いを浮かべて『私にはどうしようもないですよ』とでも言いたげな視線を返された。

 俺の舌打ちなどどこ吹く風と言わんばかりに、けらけら笑いながら俺の肩をポンポンと馴れ馴れしく叩く黒川さんを見て、何があろうとも彼女を『黒川さん』としか呼ばないことを誓ったのだった。

 

 

 

 

「……さて、お兄さんも大丈夫ってことが分かったし、ひとつお兄さんに言っておきたいことがあるんだけど、いい?」

 

「……何?」

 

 正直、いらない疲労感がのしかかり続けていたので、『早く用件を済ませろ』と言わんばかりの生返事を黒川さんに対して俺はしたのだが、直後、黒川さんは憤っているような表情に変わり、先ほどまでのふざけた話題ではないことをすぐに俺は察した。

 

「あの二階堂ってデカブツとは、もう関わらない方がいいと思うよ。正直かなりむかついてるんだよ、私はあの男に」

 

「……へっ?」

「……えっ?」

 

 黒川さんの口から放たれたのは、予想の範疇にも入っていない、二階堂くんの名前だった。それは春宮さんも同じだったらしく、ふたり同時に素っ頓狂な声が漏れてしまった。

 

「黒川さん、それは一体どういうこと? 二階堂先輩に何かされたの?」

 

 俺が尋ねるよりも先に、春宮さんは疑問を黒川さんに投げかけた。

 春宮さんは俺と知り合う前、二階堂くんへ積極的に陸上部への勧誘を行っていたこともあり、交流がそれなりに多かった。当然の疑問と言っても差し支えないだろう。

 俺としても、二階堂くんと黒川さんとの間に接点があるとは思えなかったので、彼女の憤りがなぜなのか分からなかった。

 

「……私は別にあの男に何かされたわけじゃないよ。あの男のお兄さんに対する態度に腹立ってるだけ」

 

「「……?」」

 

 ますます分からない。怒り狂ったあの日以降、二階堂くんとは片手で数えるほどの交流しかしていない。それには理由があるのだが、今は省く。ただ、客観的に見れば俺が褒められる理由でないのは間違いない。そのため、俺に対して腹が立つのなら分かるのだが。

 

「あいつはお兄さんにいっつもベタベタくっ付いてたのに、お兄さんが辛い思いしてたことに全く気づいてなかったんだよ? そのくせに、私たちに『とっとと散れ』なんてほざいてさ。あーっ、昨日ぶん殴ってやればよかった……」

 

「もしかして、昨日二階堂くんに会ったの?」

 

「……会ったって言うよりは、私の方から探しに行ったって言う方が正しいかな。『あんたはお兄さんの支えになんてなれやしない』ってね。そう言わなきゃ気が済まなかったんだよ」

 

 

 

 

「「…………」」

 

 正直、黒川さんの二階堂くんに対する意見や、やったことは的外れと思わざるを得ない。ベタベタくっ付いていたのはむしろ俺の方な上に、二階堂くんはあのとき怒り狂っていた俺を止めてくれたのだ。彼に羽交い絞めされなければ、俺は関係ない人間に殴りかかっていた可能性もある。

 そもそも俺は自身の心中を二階堂くんどころか誰にも話していない。俺の腹の中が分からないのは当たり前の話だ。

 俺が二階堂くんに関わろうとしない理由を抜きにしても、彼女の行動には同意できなかった。春宮さんの方も困ったような表情を浮かべており、おそらくは俺と似たようなことを思っているのだろう。

 

「……二階堂くんは、悪い人間じゃないよ。だから、あんまり責めないでやってほしいかな」

 

「……そうですね。黒川さんの気持ちは分かるけど、私も二階堂先輩にはお世話になったことがあるから、できれば怒らないであげて」

 

「…………」

 

 俺と春宮さんの言葉を、黒川さんは肯定も否定もせずにただ沈黙していた。それは俺たちの言葉に反論する術を見つけられなかったからか、それとも自分の意見を否定されたことへの苛立ちを沈黙で表しているのかは分からない。

 

 

 

 

「……あーそうだ。あいつのことばっかり考えてたから、危うく忘れるところだったよ」

 

「……?」

 

 しかし、長く続くかと思われた沈黙も黒川さんによってすぐに破られた。変に長引かせて軋轢(あつれき)を生むのもよくないと判断したのだろうか。

 

「陽歌と菫には私の方から言っておくし、椎名さんとかもそこまで強く心配してる感じじゃなかったから後回しでもいいけど、相楽さんのことは早めに安心させてあげなね?」

 

「……相楽さん?」

 

 あの時俺に何があったのか訪ねた1年生のうち、彼女だけはここにいない。

 

「相楽さん、悔しいけど私なんかよりもずっとお兄さんの心配してたよ。ここのところずっと落ち込んだ顔してるし、昼休みにやってるジャグリングの練習にも身が入ってないみたいだからね。お兄さんが大丈夫って分かれば、きっと元気になると思うから」

 

「…………」

 

「……私も相楽さんには、『先輩は大丈夫』って言ったんですけど、あんまり効果がなかったので……。ですから、先輩が直接相楽さんのところに行って話をした方がいいと思います」

 

「…………」

 

 

 

 

『先輩ともう関わらないなんて、わたしは絶対にいやだよっ!』

『他の人に言われたって、全然嬉しくなんかないもんっ! 誰が何か言ったって、あの時の先輩が本当の先輩じゃなくたって、先輩は絶対いい人なんだからぁぁぁぁぁぁっ!』

 

 

 

 

 俺の要求を拒否した言葉と、何の根拠もない全面的な擁護の言葉。

 相楽さんが声を張り上げて口にしたふたつの言葉は、今でも妙なくらいに頭に残っていた。

 

「…………」

 

 黒川さんと春宮さんの言葉を聞いて、相楽さんへの罪悪感のようなものが顔を出しつつあった。

 春宮さんも黒川さんも比較的ながら落ち着いた様子だったので、相楽さんも同じような状態だと思い込んでしまっていた。

 つくづく馬鹿なことをしたと思う。それが分かっていたなら、真っ先に相楽さんに会いに行ったというのに。

 

「……それなら、近いうちに声をかけてみるよ」

 

 話を聞いて気まずさが増してしまったというのはある。しかし、まだ死にはしないと決め、こうして春宮さんや黒川さんと話をしたなら、相楽さんだけ放っておくというわけにはいかない。

 俺は相楽さんの言うような『いい人』では断じてないが、心配をかけたことへの謝罪はするべきだろう。

 

 

 

 

「あそこまで心配するってことは、相楽さんはお兄さんにほの字かもね」

 

「……はっ?」

 

 相楽さんに声をかけるとして、どんな言葉をかけるべきだろうかと考えていた俺の耳に、何の前触れもなくその言葉は入ってきた。素っ頓狂な声を漏らして顔を上げ、隣に目を見やると、相変わらずのにやけ顔を声の主は浮かべていた。

 

「好きでもない人間をあそこまで心配できるわけないし、あれは間違いなく好きってことだね。『付き合ってくれ』って言えば、コロッと落ちちゃうんじゃないの?」

 

「……寝言は寝て言ってよ」

「あ、あはは……」

 

 真面目な話をしたかと思いきや、またふざけたことを言う。彼女への苦手意識は、日に日にどころか数分で大きく増してしまっていた。春宮さんも苦笑いを浮かべるしか、彼女の戯言に対応する術を見つけられなかったらしい。

 

 そもそも、相楽さんが俺に惚れているなどまずありえないだろう。他の1年生に関しても同じことが言えるが、まだ片手で数えるほどしか彼女には会っていない。ジャグリング技術を褒めたり、ゴマ団子を差し入れしたくらいで惚れられる要因になるとは到底思えない。

 100歩譲って仮にそうだとしても、俺はどういう言葉を返せばいいのか。

 

「まあ、恋愛感情は抜きにしても、相楽さんはお兄さんに好意的なのは事実だと思うよ。私も陽歌も菫もそうだしね。春宮さんだってそうでしょ?」

 

「……えっ? ああ、うん。そうかな? 先輩の中だと一番話しやすいしね」

 

「でしょ? ……これだけ味方がいるんだし、もう変に孤立しようとしなくていいんだよ、お兄さん」

 

 再び真剣な表情に戻って、黒川さんは言葉を紡ぐ。

 

「…………」

 

 俺は無言で冷めてしまった定食を全て胃へと流し込み、空のトレーを持って席を立つ。

 

 

 

 

「……ありがとうね」

 

 去り際ふたりに呟いたその返答は、今までの俺ならまず口にしないであろう言葉だった。

 

 

 

 

 ――味方。

 その存在のありがたみを、俺は今更ながら強く実感することとなった。時谷さんの勇気は、俺の考えをこういったところでも改める要因となっていた。

 ただそんなことを口にしたら、『私のおかげじゃないの?』と、黒川さんには嫌な顔をされてしまうだろうか。

 

 

 

 

 

 

 翌日の昼休み。

 昼食をすぐに済ませた俺は、中庭へと向かった。

 

「……いた」

 

 目当ての人間はすぐに見つかった。最初に会った時と同じように、ジャグリングの道具を横に置いてベンチに座っていたが、俯いてため息をつくばかりで、道具を手に取ろうともしなかった。

 

「…………」

 

 俺はすぐ彼女のところへは向かわず、購買の方へと足を運ぶ。

 ゴマ団子は、今日売っているだろうか。

 

 

 

 

 

 

「…………はぁ」

 

 これで何度目のため息を、今日だけでついたのだろう。そばに置いてあるジャグリングの道具を、ここ数日は手に取ることさえしていない。

 

「…………」

 

 ――みんな、いくら何でもひどすぎる。

 

 先日黒川先輩が、1年生の教室のある棟の廊下でものすごく怒っていた姿を見せて以降、教室では黒川先輩に対する否定的な噂がひっきりなしにされていた。

 ただ『怖かった』と言うだけならまだしも、『頭がおかしい』『狂ってる』といったひどい言葉を、わたしは何度も聞かされた。

 

「…………」

 

 『先輩は大丈夫』と言ってくれた春宮さんや、今朝ものすごい怒鳴り声が聞こえた黒川さんなど、先輩の味方になってくれている人がまだいることは救いがあったが、わたしにとっては安心材料になどなっていなかった(もっとも、黒川さんとは違うクラスなので姿自体は見ておらず、声で判断しただけだ。それに先輩への噂話に対して怒ったのかどうかもはっきりはしていない。それでも、黒川さんは先輩と仲がいいようなので、わたしは間違いなくそうだと思っている。本当に、兄妹じゃないのかな?)。

 『先輩はいい人なんだから』とわたしは説得したが、効果はなかった。それ以降、わたしは先輩の姿を見ていない。

 

「……うっ」

 

 ――もしこのまま、先輩が学校に来なくなってしまったら。

 最悪の事態を想像し、わたしの目はうるみだす。

 

 

 

 

「……そろそろ練習再開したら? これ食べれば、少しはやる気も出るでしょ?」

 

 目の前にスッと差し出されたゴマ団子とお茶。そして、声。

 がばっと顔を上げたわたしの視界には、困ったような、もしくは気まずそうな、どちらとも取れる表情を浮かべた――――。

 

「黒川、先輩……」

 

 

 

 

 

 

「みんな、ひどすぎるよ……」

 

 彼女が口にしたのは、相変わらずの俺への擁護の言葉だった。肩を震わせながら、絞り出すように。

 

「先輩と全然話したこともないのに、勝手な憶測でひどいことばっかり言って……。先輩は、いい人なのに……おかしくなんか、ないのに……!」

 

「…………」

 

「わかんないよ……平気な顔でひどいこと言うなんて……わたしにはわかんないよ……!」

 

「……言いたい奴には、言わせておけばいいんだよ」

 

 悲痛な様子の彼女とは対象的に、俺は下を向いて軽く呟くように言った。

 俺なんかのためにここまで神経を磨り減らして苦しむ姿を見るのは、正直もうたくさんだ。

 

「……えっ?」

 

「弁明なんかしたって、罵倒する奴はするんだよ。そんな連中にかまけても、疲れるだけなんだからさ」

 

 中学時代、そんな連中を嫌というほど見てきた。そんな奴らに何かを訴えたところで、さらなる罵倒が返ってくるだけだ。だったら、最初からそんなところに目を向けないで、諦めてしまう方がいい。

 

「そんな……それじゃあ、先輩が……」

 

「だけどさ……」

 

 そんな俺の返答に愕然とした表情を浮かべる相楽さんだったが、俺は一方である考えにも至っていた。中学時代までは気づかなかった……いや、そんなものは存在しないと否定していたと言うべきか。

 視線を正面に戻し、相楽さんの言葉をかき消すようにその考えを言葉にして口に出す。

 

「相楽さんみたいに、かばってくれる人って言うのかな……まあ、そういう人がいるって分かったから、俺はもう大丈夫だよ。春宮さんとか、黒川さんもそうみたいだし」

 

「…………」

 

 とは言え、いざ口に出すと曖昧な表現になってしまった。本当は『味方』のありがたみも伝えたかったのだが。それでもある程度意図は伝わったと思いたい。俺は諦観などではなく、少ないながらも希望を持てていることを。

 

「……でも」

 

「……そんならこれ、あげないけど?」

 

「……え、ええっ? どういうこと……って、あっ!」

 

 なおも愚図つく相楽さんに苛立った俺は、最終手段に移行した。

 ぶら下げた袋からゴマ団子のパックを取り出し、これ見よがしに彼女に見せつけつつ言い放つ。

 

「全部食ってやろ。せっかくあげようと思ってたのに……」

 

「わ~っ! 待って待って! ごめんなさい! もう何も言いませんから~っ!」

 

 限定品というわけでもない購買のゴマ団子でここまで慌てふためき、あっさり態度を改める姿には、キャッチセールスやネズミ講に騙されてしまわないだろうかという心配が少なからず募る。しかし、今はその態度が純粋にありがたいとも思うのだった。

 

 

 

 

 

 

「……うん、おいしい……」

 

 声のトーンはやや暗いが、表情は対照的にやたら嬉しそうだ。

 今しがたありがたいと思いはしたものの、さすがにこうもあっさり態度が変わるのはどうなのだろうか。そのせいで、彼女へ罪悪感など抱くべきではなかったのかもしれないと感じてしまう。

 

「……まあいいや。その分なら復活したってことだろうし、またやりなよ、ジャグリング」

 

 最後のひとつを食べ終えたところを見計らい、俺はベンチに無造作に転がったジャグリングの道具を指差す。なんとなくではあるが、俺にはその道具から物悲しさのようなものを感じた。道具に表情があるわけではないが、『落ち込んでないで早く使ってくれよ』とでも言いたげな雰囲気が。

 

「……あっ……はっ、はい! ちょっと待っててくださいね!」

 

 俺の言葉に彼女ははっとしたような表情になったかと思うと、目を輝かせて空になったゴマ団子のパックを脇に置き、道具を手に取る。ボールとクラブをふたつずつ。どうやら、別の道具を交えたジャグリングを行うらしい。同じ道具を使うものと違って、明らかに難易度が高そうだ。

 

「あんまりこれはうまく行ったことないんですけど……でも、今日は特別な日ですから、やってみます!」

 

 最初に会った時よりもはるかに真剣な表情を浮かべた彼女は、一度だけ深く深呼吸をしてボールとクラブをひとつずつ空中へ放る。そこからほんのわずかな間を置いて、残りのひとつずつも放り投げた。

 

「ほいっ……」

 

 最初に投げたボールとクラブをキャッチ。しかし、手にとどまる時間はごくわずかだ。間髪入れずにもう一度放られたそれらは再び放物線を描く。

 

「よっ……ほいっ……」

 

「…………」

 

 初めて会った時に見たボールのみを使ったものとは違い、動き自体は至ってスタンダードなものだった。何か変わった動きを取り入れているわけではなく、ひたすら投げては取り、投げては取りを繰り返すだけ。

 それでも俺は、それに純粋な感動を覚えていた。何か名画でも見た時のような、絶景を眺めた時のような、そんな感動を。

 

 

 

 

「……ほいっと。……で、できた……今までこんなにうまく行ったことなかったのに……」

 

 道具全てを手のひらに収めた相楽さんは、自身でも驚いたような表情を浮かべてそんなことを呟いた。俺にはとてもそうとは思えないほどにしっかりとした動きだったが、どうやら彼女が先程口にした言葉は本当のことだったらしい。

 

「……よかったよ、すごく。そんじゃあね」

 

 軽く拍手をして俺は相楽さんに告げると、踵を返して立ち去ろうとした。

 

「……あ、あのっ! 黒川先輩……じゃなくて、将平先輩!」

 

 しかしそれは、彼女の呼び止める声によって妨げられた。

 ただ呼び止めるだけならともかく、予想していなかった言葉が混じっていたことで、思わず目をぱちくりさせながら振り向いた。

 

「……今、俺のこと名前で呼んだの?」

 

「はい、将平先輩!」

 

「……何で?」

 

「さっきも言いましたけど、今日は特別な日ですから。先輩が大丈夫だって、分かった日ですから! それを祝ってです!」

 

「……?」

 

 全く意味が分からなかった。まだぎりぎり片手で数えられる程度の回数しか会ったことのない俺を、なぜ名前で呼ぶのか。

 それならまだ、会っていきなり俺を名前で呼んだ芹澤くんの方が理解できる気がする(『将ちゃん』というあだ名ではあるが、俺の名前をもじっているので名前呼びと同列に考えても問題はないだろう)。

 

「ですから先輩も、わたしのこと『エミ』って呼んでください!」

 

「……はい?」

 

「いつまでも『相楽さん』のままじゃ他人行儀じゃないですか。わたしは先輩に名前で呼んでほしいです」

 

「…………」

 

 名前で呼べ、か。それじゃあ俺は――――

 

「分かったよ、()()()()

 

「はい! ……って、あれ?」

 

 ――――相楽さんの要望を拒否した。春宮さんの時と同様に。

 

「悪いけど俺は、誰かを名前で呼ぶってことはしないんだ。俺のことは好きに呼べばいいけど、俺は『相楽さん』って呼び続けるから」

 

「そ、そんなぁ…………うう~っ、エミ!」

「相楽さん」

「エミっ!」

「相楽さん」

「エ~ミ~っ!」

「さ・が・ら・さ・ん」

 

 むきになって自分の名前を言い続ける相楽さんと、淡々とした口ぶりで彼女の名字を言い続ける俺という、わけの分からない押し問答が続く。最終的には、俺の態度に相楽さんが諦める形となった。

 

「むうう~っ、どうしたら名前で呼んでくれるんですか……?」

 

「……さあね。俺にも分からないよ」

 

「な、何でですか……じゃ、じゃあせめて、『相楽』って呼んでくださいよ……」

 

「……もっとないね。俺が呼び捨てにする人間は憎悪の極みに達した奴だけだから。相楽さんはまずそうなることはないから、呼び捨てにするってこともないよ」

 

 そうだ。

 相楽さんを、()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ぞ、憎悪の極みって……で、でもそれって、言い換えればわたしのこと、後輩って思ってくれてるってことですよね?」

 

「……まあ、そう考えてくれても俺は否定しないよ」

 

 はっきり『そうだよ』とは言わずに言葉を濁したのには、気恥ずかしさのようなものがあったからだろうか。『どっち付かずな奴だな』と言われてしまいそうだが。

 

「まあ、それならいいか……うん!」

 

 先程までのがっかりした表情はどこへやら、今日一番の明るい笑顔を浮かべて彼女は俺に宣言した。

 

「ならわたし、絶対先輩に『エミ』って呼んでもらえるようにしますから! このまま引き下がるなんてしませんよ!」

 

「……何億年後だろうね」

 

「ふっふっふ~、もしかしたら明日かもしれませんよ~?」

 

「……じゃあ、頑張りなね」

 

 俺の皮肉も軽く受け流せるようになった相楽さんを見て、もう心配する必要はないと判断した俺は、彼女に向けて右手を軽く挙げ、中庭をあとにする。

 

 

 

 

「将平先輩! わたしは何があっても先輩の味方ですからね!」

 

 俺の背に向けて放たれた相楽さんのその言葉は、しばらくの間俺の鼓膜を震わせ続けた。

 

 

 

 

 

 

 自分が撒いた種とはいえ、この学園で今後も俺は糾弾されたり、嘲笑されたりするだろう。それに対して『気にしない』や『どうでもいい』という感情を持って臨めるだけのメンタルの強さは、生憎俺は持ち合わせてなどいない。間違いなく『ふざけんな』という考えに至ってしまうだろう。

 だが、『味方』と言える人間は確実にいることを、この目で、耳で、心で……確かめることができた。それだけで十二分に希望はある。

 

 何とか生きていこう。死なないために。

 

 

 

 



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文緒編 クソみたいな人生
憧れ、恋心


分かりにくい流れになっていますが、この話は時系列的に『厭世観と自虐』からの続きとなっています。


 

 この世を生きるというのは、最悪に等しい罰なのかもしれない。

 

 何をやっても馬鹿にされ、何もしなくても馬鹿にされる。僕の存在を否定される。

 ふざけんなよ。何で僕がこんな目に遭わなきゃならないんだ。

 『人生はいいことばかりじゃない』と、何も分かっていない間抜けな奴はほざきやがる。言っていることは分からないわけじゃねえ。でも、反対に悪いことだけの人生じゃなくたっていいじゃねえか。少しくらい、いいことが起こってほしいと望んでも、バチは当たらないじゃねえか。

 

 こんな人生はクソみたいだ。くそったれ。くそったれ。くそったれ。

 そして、この世に呪詛の言葉を、唾を吐き続けている僕は、もっとクソみたいだ。

 

 誰か僕を救ってよ。こんな悲観主義な僕に、手を差し伸べてくれよ。つまらねえ日々に、色を付けてくれよ。

 

 

 

 

 

 

 『生きてて良かった』って思える人生を、送られるようにしてくれよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は、誰かに助けられてばかりだ。そのくせ人付き合いは苦手で、助けられた恩を返すことも満足にできない。本で得た知識はそれなりにあると自慢できるかもしれないが、それも彼の前には霞んでしまう。

 そんな彼は知識が豊富なだけではなく、人付き合いも上手い。豊富な知識を、たくさんの人との交流に上手く活かしているだけではなく、悩んでいる人のために尽力し、助けになる優しさを持っている。かと言って媚びるようなことはせず、駄目だと思うことはしっかり言葉に出してくれる。まさに、誰かの支えになれる人だった。

 

 彼は、私の憧れだ。私が持っていないものを、たくさん持っている。いつか私も、彼のようになれるだろうか。……いや、『なりたい』と言い換えよう。

 

 

 

 

 

 

 私は、誰かを支えられる人間になりたい。

 

 

 

 

 

 

 6月中旬の土曜日。

 以前から気になっていた文庫本が発売されたので、聖櫻学園の最寄り駅から少し先の町にある本屋へ、私は向かっていた。

 

「……あっ」

 

 本屋への道を歩いていたところで、ふと思い出す。そういえば、黒川君が以前薦めてくれたライトノベルの最新刊も、今日が発売日だった。

 今までライトノベルを読んだことは全くなかったが、以前委員の議題で取り上げられ、図書室に何冊か入ったことをきっかけとして、多少の興味を持った。その議題で黒川君はライトノベルを読むと言っていたことから、彼に面白い作品はないか聞いてみた。その質問を聞いた彼は、一番良く読むという作品を快く私に貸してくれた。

 

 ……実際には、黒川君以上にライトノベルを愛好する委員はいたのかもしれないが、それでも彼に聞いたのは、彼が図書委員では一番よく話す人だったからというのが、大きな理由だと思う。しかし、そんな理由を仮に無視しても、私は黒川君に聞いてよかったと思う。

 彼の薦めてくれた作品は、中々凄惨な描写や、救いのない結末の話も少なくないものだった(貸してくれる際に、そういった描写があるけど大丈夫かどうか聞いてくれたことに、彼の気配りの良さを強く感じた)。それでも人間の心理や、人生観といった色々なことを考えさせてくれる作品だった。総じて、面白い作品だったと思える。

 そういったこともあって、私は彼に1巻を返したあと、自分で購入して読むようになった。それは私が初めて購入したライトノベルだった。

 

「……」

 

 予算にはそれなりに余裕がある。目的の文庫本と合わせて買ってもさほど問題はないので、私は買うことに決めた。

 

 実のところ、黒川君とは図書委員の中では一番よく話すと言いはしたが、それは図書室内に限った話で、それ以外の場所ではさほど話す頻度は多くなかった。2年生になってから同じクラスになりはしたものの、教室内で話をすることはやはり少ない。

 加えて私は、彼との共通の話題をまるで持ち合わせていなかった。読書ぐらいしか趣味と呼べるものがない私とは対照的に、黒川君は実に多くの趣味を持ち合わせていた。

 

 代表的なものは、図鑑を読んで生き物の名前や生態を知ることだった。

 彼は委員の仕事が暇な時、よく図鑑を読んでいる。小さい頃から図鑑をよく読んでいたそうで、その影響で植物、虫、魚などの知識が極めて豊富だった(哺乳類や鳥などはあまり詳しくないと言っていたが)。

 そういう背景もあって、彼は理系の科目の成績がかなり優秀だった。化学や生物の試験で満点を取ったこともあるようで、成績優秀者として廊下の掲示板に名前が載っていたことを思い出す。理系の科目があまり得意ではない私にとって、純粋にそれは羨ましい。

 

 他にはアニメや漫画、ゲームなどの造詣も深く、漫画研究部に所属し、1年生の時も同じクラスだった小野寺さんや、C組に所属する仲良し3人組の男子生徒とは、特によく話しているのを見かける。

 それ以外にも、何の話題で話しているのかは知らないが、同じクラスの有栖川さんとも比較的高い頻度で話をしているようだった。

 

 生き物にも、アニメや漫画などにも詳しくない私にとって、このライトノベルは黒川君との唯一とも言える共通の話題になるものだった。私も、もう少し自分に興味のありそうなものを探した方がいいのだろうか。

 以前黒川君は、『物好きなだけ』と言っていたが、それはむしろいいことだと私は思う。多くの趣味を持つことは、それだけ多くの人と交流できる要素となり得るからだ。読書以外にも何か好きなことがひとつでもあれば、私はもっと多くの人と交流できるかもしれない。人付き合いが苦手という性格も、克服とまでは言わずとも、改善はできるかもしれない。

 

「ふ~み~お~ちゃん♪」

「きゃっ!」

 

 そんなことをずっと考えながら歩いていると、後ろから突然声をかけられ、両肩に手が乗る感触がした。思わず身体がびくりと跳ねる。誰の仕業かは、声ですぐに分かった。

 

「も、望月さん……脅かさないでください……」

 

「ふふっ、ごめんごめん、ついね。文緒ちゃんは、何かお買いものかしら?」

 

「はい、そうですけど……あっ」

 

 望月さんとそんなやりとりをしていたら、もう本屋は目と鼻の先の距離まで迫っていた。本屋に入ることを望月さんに伝える。

 

「じゃあ、私も付いて行くわね~」

 

 特に断る理由もないし、むしろ望月さんと会えたことで考え事から一旦目を逸らすことができた。彼女の返答に、私は頷いた。

 

 

 

 

 

 

「あらっ……?」

 

本屋に入って文庫本のコーナーへ向かおうとした時、ある人の姿が目に入った。

 

「どうしたの文緒ちゃん、急に立ち止まって……ってあら? あそこにいるのって、黒川くんかしら?」

 

 文庫本のコーナーの道中にある雑誌のコーナーで立ち読みをしていたのは、先ほどまでずっと考え事の対象となっていた、黒川君本人だった。

 

「あれって、格闘技の雑誌かしら? 黒川くんって、格闘技も好きなのね。ちょっと意外だわ~」

 

 望月さんが言ったように、黒川君は格闘技の雑誌を読んでいるようだった。本人の口からも、他の人の話からも格闘技が好きという話は聞いたことがなかったので、少し驚いた。いずれにしても、彼の趣味の範囲の広さは羨ましい限りだった。

 

「でも、何だか怖い顔してますね……」

 

 ただ私はそれ以上に、黒川君の表情の方が気になっていた。今まで見たことのない、かなり険しい表情をしていたからだ。怒っているような、悲しんでいるような、もしくは達観しているような、ひとつの表現では形容しにくい、様々な感情が入り混じったような表情だった。

 黒川君には失礼を承知の上で端的に言ってしまうと、それは『怖い表情』と呼べるものだった。

 

「……声、かけない方がいいかもしれないわね。黒川くんの時間を邪魔しちゃったら悪いしね」

 

「そう、ですね……」

 

 あのような険しい表情をしているのは、恐らく好ましくないことがあったからなのだろう。今まで学外で黒川君と会ったことはなかったので、初めて見かけたことに少なからず嬉しさはあったが、ここは望月さんの言う通り、迂闊に声をかけて彼の気分を害すのは慎むことにしよう。残念だが。

 

 

 

 

 

 

 目当ての文庫本とライトノベルを手にしてレジへ向かう際、雑誌のコーナーにもう黒川君の姿はなかった。漫画のコーナーなどにもいなかったことから、恐らく用を済ませてお店を出たのだろう。

 

 本を購入した私は望月さんと共に、彼女の行きつけである写真屋へ向かった。写真の現像をお願いするらしい。今日はたまたま会ったが、望月さんと一緒に出かけたことは過去に何度かあるので、その際に私も行ったことがある。

 現像された写真は、当然ながらと言うべきか女子生徒の写真ばかりで、私の写真もそれなりにあった。

 別にこの光景は今に始まったことではないので、さほど驚きはない。少しだけ呆れのため息はつかせてもらったが。それでも、以前黒川君に窘められてからはある程度自重するようになったようで、写真は以前のような隠し撮りまがいのものは少なくなっていた。……『ゼロじゃないのか』と突っ込まれてしまうだろうか。

 

 ところで、その性格上と言うのは語弊がありそうだが、望月さんは男子生徒と自発的な交流はほとんどしない。

 しかしながら、そんな彼女とよく話す数少ない男子生徒のひとりが、黒川君だった。以前望月さんは黒川君のことを『他の男子と違ってよく話せる』と言っていたが、それ以外にも彼女から聞いた話によると、黒川君も写真を撮ることがしばしばあるそうで、うまい撮り方に関して色々教えたそうだった。

 もっとも、黒川君が写真に撮るのは虫や植物がほとんどな上、撮影もカメラではなくスマートフォンのカメラを使うとのことだった。ただ、ここ最近のスマートフォンのカメラはかなり綺麗な写真を撮ることができ、下手なカメラよりはるかに綺麗に撮れるものが珍しくない。私の持っているスマートフォンもカメラが付いているが、適当に撮っても極めて綺麗に撮れたことを思い出す。

 

 何が言いたいのかというと、私は望月さんが羨ましかった。被写体の違いこそあれど、写真撮影という、たった1種類のライトノベルの話題よりもはるかにスケールの大きい話題で盛り上がれることに、羨望を抱かないわけがなかった。

 加えて、ほとんど女子生徒としか交流を持たない望月さんからも信頼を得られている黒川君の人間関係の広さを称賛せずにはいられない。

 

 

 

 

 

 

 望月さんの用事が終わり、私たちは喫茶店で一息ついていた。

 本当はこの町には、同じクラスの笹原さんのおじいさんが経営し、笹原さん本人もお手伝いをしている喫茶店がある。以前から何度か行ったことはあり、今回もそこに行こうと思ってはいたが、窓からお店を見るとすでにお客さんでいっぱいになってしまっていたので、泣く泣く他の店で我慢することになってしまった。

 

「でも、どうしてあそこまで険しい顔だったんでしょう……? 黒川君があんな顔しているところ、今まで見たことありませんでしたから……」

 

 注文したアイスティーを軽くすすってから、そんな言葉が私の口から出た。

 先ほどから黒川君のことばかり考えているが、最も気になっていたのは本屋で見た彼のかなり険しい顔つきの理由だった。

 

 悩み事や、嫌なことでもあったのだろうか。1年生の時に、時谷さんとトラブルがあり、それがまだ尾を引いていることを望月さんから以前聞いたので、まったくないという考えはさすがに度を超えているだろうが、それでも学園内でそういった素振りをまるで見せていなかったので、なおさら気になる。

 ただ、ここ最近図書委員の仕事は淡々とこなしていることが多かった。もしかすると、それも今回の険しい顔と関係しているのだろうか。

 

「もしかして、彼女とケンカしたとか?」

 

 そんな私に望月さんは悪戯じみた笑みを浮かべ、とんでもないことを口にする。

 そんな、まさか。

 

「えっ!? 黒川君って、彼女いるんですか!?」

 

 その言葉に私は思い切り立ち上がって、半ば問い詰めるように望月さんに尋ねる。ここまで大きい声を出したのは、生まれて初めてかもしれない。

 

「ひゃっ! ……い、いや、知らないけど……どうしたのよ文緒ちゃん」

 

 私の反応に望月さんはびくりと飛び跳ね、その後ぽかんとした表情で尋ねる。仮に望月さんでなくとも、同じような反応をしただろう。

 周囲に視線をやると、他のお客さんも不思議そうな顔で私を見ていた。

 

「……あっ……ご、ごめんなさい……」

 

「別に気にしてないわよ。文緒ちゃんの意外な一面が見られたからね。まあ、誰かとケンカしたってわけじゃないと思うわ」

 

 望月さんに謝罪し、椅子に座り直す。そんな私の様子を見て、望月さんは苦笑しながらそう言った。

 

「ど、どうしてですか……?」

 

 そう言われても、私の心は落ち着かなかった。

 いや、そもそも私はなぜこんな不安な気持ちに苛まれているのだろうか。

 

「実は私、前にも黒川くんを学外で見かけたことが何度かあるんだけど、その時もすごく険しい表情だったのよ。一回だけならともかくどの日もそうだったから、誰かとケンカしたっていう一時的なものじゃないって可能性は高いと思うわね~。それに彼女がいるって話も聞いたことないしね」

 

「そうですか……」

 

 大きく息を吐く。気持ちは、わずかばかり安堵へ変わる。

 どうして私は、不安になったり安堵したりしているのだろう。

 

「……文緒ちゃん、もしかして黒川くんのこと好きなの?」

 

 苦笑の表情から一変、真面目な表情になった望月さんは、またしてもとんでもないことを口にした。

 

「……えっ!? そ、そんなことは!」

 

 立ち上がりこそしなかったものの、驚きは先ほどよりもはるかに大きかった。心臓が大きく飛び跳ねる。顔が一瞬で熱くなる。両手をぶんぶんと振り、先ほどより大きい声で否定の言葉を口にする。

 周囲の視線にさらされることを考える余裕など、完全に頭の中から消え去っていた。

 

「やっぱりね。うんうん」

 

 しかし、望月さんは嬉しそうな顔をしながら頷くばかりだった。

 

「ま、まだ何も言ってないじゃないですか……」

 

「その慌てようを見たら、誰でもそう思うわよ~」

 

「…………」

 

 まだ明確に自覚できてはいないが、彼のことで不安になったり安堵したりと、忙しなく感情が行き来しているこの状態は、間違いなく意識しているということなのかもしれない。

 

 ――それは言い換えれば、彼のことが好きという、恋愛感情だった。

 

「……あ、あの、何も思わないんですか?」

 

「……? どういうこと?」

 

「望月さんなら、『文緒ちゃんを男子になんて渡さない』みたいなことを言うと思ったので……」

 

 ただ、腑に落ちないことがあった。望月さんの反応だ。

 他人の恋愛事情をやたらと知りたがる有栖川さんなら、このような反応をしても何ら違和感はない。しかし、『女の子、女の子』と常日頃から言っている彼女が、それも一番撮影対象にしたがる私――自分で言うのもなんだが――のこういう事情に対して、嘆くどころかむしろ笑顔を見せていることに、怪訝に思わないわけにはいかなかった。

 

「う~ん、そうねえ……」

 

 私の問いかけに望月さんは、顎を両手のひらに乗せて考える仕草をする。

 その表情からは、彼女も自身の思いに対してわずかながら驚きを感じているという印象があった。

 

「……確かに他の男子が相手なら、多分そう言ったかもしれないわ。でも黒川くんになら、文緒ちゃんを任せてもいいかな~、とも思うのよね」

 

「どうして、そう思うんですか……?」

 

「黒川くんって、すごく人のことを思いやれるからよ」

 

 望月さんは一切の間を空けずに即答した。

 

「だからと言って媚びて機嫌取りするようなことは絶対しないし、駄目なことは駄目ってちゃんと言ってくれるからね。私にあそこまで言ってくれたの、男子じゃひとりもいなかったから」

 

「……」

 

「同じクラスだから、もしかしたら聞いてるかもしれないけど、二階堂くんって以前はすごく暗かったのに、急に別人みたいに明るくなったじゃない? それは黒川くんのおかげって二階堂くんは言ってたから、多分二階堂くんのためにすごく親身になってあげたんだと思うわ」

 

「そうですね……」

 

「そうじゃなきゃ、あそこまで変わることなんてないと思うしね」

 

「……」

 

 その話は、二階堂君本人から聞いている。私も二階堂君の変わりようには驚いたが、それは黒川君のおかげだから、お礼を言っておいてくれと頼まれ…………しまった。黒川君にそのことを伝えるのをすっかり忘れていた。何をやっているんだ、私は。とりあえず、黒川君に会ったらすぐに伝えることにしよう。

 

 ……話を戻すと、私が黒川君をより意識するようになったのは、二階堂君からそう聞いたことによることかもしれない。

 自分以外の誰かのために、進んで動くことができる、強くて綺麗な心。人付き合いが苦手な私は、それを持ちたいといつも思っている。黒川君は、私が持っていないものを持っている。まさに彼は、私の憧れだった。

 

 ――認めよう。私は、黒川君のことが好きなのだ。間違いなく。

 将来的に誰かを好きになるであろうという考えは、漠然ながらあった。しかしながら、ここまで早く――他の人から見れば遅いと取られるかもしれないが、私にとっては高校生でそうなるのは十分に早い――巡ってくるとは思っていなかった。

 

「いっそのこと、告白してみたら? 案外すんなりOKもらえるかもしれないわよ?」

 

「えっ!? そ、そう言われても……」

 

 そうとは言っても、彼に私の気持ちを伝えられるかどうかとなると、また話は変わってくる。どのように言えばいいのか、そもそも言うタイミングはどうするのか、課題は山積みだ。仮に言う言葉やタイミングを決めたところで、私の性格上尻込みしてしまうかもしれない。

 それに私が彼を好きだからと言って、その逆も成り立つとは限らない。下手をすれば、私の人付き合いの苦手さや、趣味の少なさにげんなりしている可能性だってあるのだ。私なんかが、彼とつり合うのだろうか。

 

「……他の子に、取られちゃうかもしれないわよ? 文緒ちゃんは、それでいいの?」

 

「……えっ?」

 

 テーブルへ向けられていた視線は、望月さんのその言葉によって彼女の顔へと引き寄せられた。先ほどまでの笑顔はなりを潜め、望月さんらしからぬ真剣な表情へ変わっていた。

 

「黒川くん、千鶴ちゃんや小枝子ちゃんと仲がいいのは知ってるでしょ?」

 

「は、はい……」

 

「他にも同学年の女子で仲がいい子は結構いるし、それに1年生にも仲がいい子が多いのよ。陸上部のつぐみちゃんとか、大道芸研究会のエミちゃんとかね」

 

「……」

 

 同学年の人だけでなく、1年生にも仲がいい人が多いことは私も知っている。私は望月さんが例に出したふたりのことは誰なのか知らないが、図書室において、文芸部に所属し恋愛小説を書くことが好きな夏目(なつめ)さんや、絵本が好きな加賀美(かがみ)さんとは結構な頻度で会話しているのを見たことがある。夏目さんの恋愛小説を書くことと、加賀美さんの絵本好きは、他の人にはほとんど教えていない秘密だが、もしかすると黒川君はそれも知っているのかもしれない。

 

「好きって言えないまま黒川くんが他の子と付き合っちゃっても、文緒ちゃんは後悔しないで祝福できる?」

 

「…………それは、できません…………」

 

 当たり前だ。そんなこと、できるわけがない。

 告白した結果が駄目で、その後彼が恋人を作ったという流れなら、まだそう思うことはできなくもない。しかし、何も言えないまま彼が恋人を作ってしまったとしたら――――。

 

 ――私は、自分の性格を責め続けることになる。みっともなく涙を流して。

 

「今回だけでいいから、勇気を出してみない? やらない後悔より、やる後悔よ。私は文緒ちゃんのこと、全力で応援するからね」

 

「…………そう、ですね」

 

 先ほど言ったことの繰り返しになるが、正直言って私は黒川君とそこまで交流は多くない。彼が首を縦に振ってくれる見込みは薄いかもしれない。

 だが、こんなことを言うと夏目さんに嫌な顔をされそうだが、付き合っている人というのは、付き合う以前は交流が少なかったという人の方が多いのではないだろうか。お見合いというものも、多くは面識のない人同士で行うものなのだから。

 

 ――いや、何で結婚の話になっているのだろう。

 勝手な想像をして勝手に顔を熱くしている私を、望月さんは不思議そうな目で見ていた。

 

「伝えてみます、黒川君に」

 

 変な想像は置いておくことにして、私は望月さんに自分の意思をはっきりと伝えた。

 まごついて後悔するようなことはしたくない。なら、玉砕覚悟で先制攻撃をしよう。もし駄目だったら、その時は部屋で少しだけ泣けばいい。引きずらないとは言えないけど、言えずに泣くよりはるかにいい。

 

「うん! 頑張って、文緒ちゃん!」

 

 今日一番の望月さんの笑顔は、そんな私の背中を強く押してくれた。

 

 

 

 



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どす黒い、まぶしい、目が潤む

 

 

 

 

「…………」

 

 適当に本の整理をしながら、図書委員の仕事をしているふりをする。

 もう少しで図書室を閉める時間ということもあって、利用者は誰もおらず、今いるのは俺と村上さんのふたりだけだった。

 

「…………ふぅ」

 

 ――つまらなくなってきた。

 俺は作業の手を止めて、カウンターに戻る。戻ってきた俺の気配を感じたのか、村上さんは本を読む手を止める。そしてなぜか勢いよく顔を上げた。

 

「あ、あのっ、黒川君! このあと、すっ、少しだけ、時間、いいでしょうか?」

 

 そして顔を赤くし、やたらと上擦った声で俺にそう尋ねる。そういえば今日の村上さんは、作業が始まる前から様子がおかしかった。俺に何度もちらちらと視線をよこしたり、大きく息を吐く動作をしつこいくらいに繰り返したりしていたのだ。

 

「……? まあ、帰るだけだし、少しくらいなら大丈夫だけど」

 

 何か俺に用事でもあるのだろうか。委員の仕事が他にあるわけでもないので、それの報告とは考えにくい。彼女に貸した本の返却にしても、ここ最近は彼女に本を貸していない上に、仮に貸していたとしてもいちいち時間があるかどうかを確認するようなものではない。

 だが、変に詮索するのも好ましくはない。俺は彼女の意図は尋ねず、了承の意思を示した。

 

 

 

 

 

 

 図書室の戸締りを済ませ、鍵を職員室に返却してから、俺は村上さんに中庭のある場所まで連れてこられた。そこは俺がよく利用していた、さらに黒川さんと初めて出会った、人目に付きにくいあの場所だった。

 

「……それで、どうしたの?」

 

 正直早く帰りたかったので、俺は催促するように村上さんに告げる。

 村上さんはわずかな間俯いていたが、やがて意を決したような表情に変わった。

 

 

 

 

「私は、黒川君のことが好きです」

 

 そして間を空けずに彼女は言葉を発した。

 それは、毛ほども予想していなかった、生涯無縁と思っていた、告白の言葉だった。

 

「――――はっ?」

 

 彼女の告白に対して、まず俺から出た言葉がそれだった。

 俺は彼女の言葉を理解するまでに、数分の時間を要した。予想外の出来事に、しばらくは口を半開きにして呆気にとられるままだった。

 

 

 

 

 

 

「……意外だね。村上さんは、二階堂くんのことが好きなんだと思っていたけど……」

 

 肺に溜まった空気を大きく吐き、後頭部をかきながら、次にそんな言葉を俺は口にした。村上さんの告白に大きな疑問を感じたからだ。初めは冗談を言っているのかとも思ったが、村上さんはこんな冗談を言うような人間ではない上に、その真剣な表情からとてもそうとは判断できなかった。

 

「……えっ? ど、どうしてですか?」

 

 しかし村上さんは俺の言葉に対してかなり不思議そうな表情をして、その理由を尋ねる。

 

「二階堂くんが図書室に来る度に、よく話していたと思うんだけどね。この前なんか、笑いながらすごく仲良さそうにしてたじゃない。体調が悪そうな二階堂くんに真っ先に声かけてたのも村上さんじゃないの」

 

 『そのうち結ばれるのだろう』と考えてしまうほど、あの時の二階堂くんと村上さんは親しげに見えた。さらに人付き合いが苦手な村上さんが体調悪そうにしていた二階堂くんに真っ先に話しかけるなど、好きだからそうしたのだと考えるには十分な理由だった。

 

「そ、そんなに仲良さそうでしたか? 確かにあの時はそうですけど、凄く辛そうだったからですし……。二階堂君には申し訳ないですけど、そう思ったことはないですよ?」

 

 何気に二階堂くんに対して辛辣(しんらつ)なことを言っているような気もするが、それを突っ込むのは野暮と判断した。

 

「俺の勘違いだったってわけか…………でも、何で俺なの? 二階堂くんはもちろんだけど、俺なんかよりいい人はたくさんいるよ?」

 

 突っ込む代わりに、俺は至極まっとうな疑問を口にする。正直、俺なんかのどこに惚れたのか、全くと言っていいほど理解できなかった。

 例に出した二階堂くんもそうだが、高桑くん、鴨田くん、芹澤くんなどの、俺には足元にも及ばない、しっかりした人間性の男子はたくさんいる。そういった人ではなく、なぜ俺なのだろうか。

 

「黒川君は、私にないものをたくさん持っているからです。友達も多いですし、自分の言いたいことをしっかり言えますし、人を気遣える優しさもあります」

 

「…………」

 

「私は、そんな黒川君のとても強くて、綺麗な心が好きになったんです。一緒にいられたら、私も少しだけ近づけるような気がするんです。言いたいことをしっかり言えて、人を気遣えるように……」

 

「…………」

 

 ――――言いたいことをしっかり言えて、人を気遣える、だって? 冗談も休み休み言ってくれ。

 村上さんが口にした俺に対する印象は、まるで見当違いのものだった。視線を下にやり、軽く首を横に振って、呆れに似た感情が混じった息を鼻から吐き出す。

 

 おまけに『強くて、綺麗な心』ときたものだ。こんな歪みまくって、どす黒く濁った心のどこがどう綺麗に見えるのか、理解に苦しむ。言葉の主が村上さんでなければ、きっと俺はげらげらと、薄汚く笑っていたことだろう。

 

「…………村上さん。俺のことなんか、好きになるべきじゃない」

 

 薄汚く笑う代わりに、俺はやんわりと拒絶の言葉を口にした。しかしそれは拒絶と言うよりも、曖昧でどっちつかずではっきりとしない、くそったれなものだった。

 

「……ど、どうしてですか?」

 

「村上さんは、俺のことを『いい人』だとか、『優しい』なんて思っているみたいだけど、それは大きな間違いだよ。俺は断じてそんな人間じゃない」

 

「で、でも、みんな黒川君のことをそう思っていますよ? 望月さんですら、そう言っていますから」

 

「望月さん、ね……」

 

 他の人間はともかく、普段から『女の子、女の子』と連発している彼女がそう言っているのなら、極めてその言葉の信憑性は高いと言えるだろう。だがそれは俺以外の男子なら当てはまるが、俺だけには決して当てはまらなかった。望月さんは、なかなかに鋭い感覚を持った人だと思うが、俺の本質を見抜くまでには至っていないらしい。

 

「……みんな、俺のことを分かっていない。いなさすぎるよ……。都合のいいところにしか、目が向いてない……。盲信だよ……そんなもん、盲信でしかないよ……。俺みたいな奴のどこに、そう思える要素があるってんだ……」

 

「……?」

 

 空を仰ぎながら、自虐気味に俺は笑った。

 今日の夕陽は、やたらまぶしく感じる。目が少し(うる)んだのは、そのせいだろうか。

 

「……俺は村上さんと付き合う資質なんてこれっぽっちもない。仮に付き合っても村上さんが後悔するだけだよ。悪いことは言わないから、俺のことは諦めたほうがいい。これから先、俺なんかよりずっといい人に会えるから」

 

 視線を村上さんの元へ戻し、そう告げる。

 だが俺の予想に反して、村上さんは引き下がろうとはしなかった。

 

「納得、できません……」

 

「……えっ?」

 

「……他に好きな人がいるとか、私のことが嫌いだってことなら、私は諦めます。でも、そんな言葉じゃ、私は諦めたくありません」

 

 そう言う村上さんの表情は、先ほど以上に真剣なもので、今までに見たことのない『覚悟』とでも言うべきものが表れていた。

 

「二階堂君が言っていました。『黒川くんは、突き放すなんて馬鹿な真似して、何度拒絶しても逃げずに正面から向き合ってくれたし、何より俺のことを友達って言ってくれた』って」

 

「…………」

 

「だから私も逃げません。どんなことがあっても、後悔するつもりなんてありません。私が知らない黒川君を、知ってみたいんです。悩みがあったら支えになりたいんです」

 

「…………」

 

「それが、こ、恋……人……の、役目だって、思いますから……」

 

 『恋人』という単語にはっとなって顔を赤くし、しどろもどろになりながらも村上さんははっきりと言い切った。

 その言葉は村上さんのような人が言ったからということも関係しているが、嘘偽りのない強い意志があった。普通の男がこんなことを言われたなら、間違いなく狂喜乱舞するだろう。

 だが、そんな意志も俺の本性を知ってしまえばあっさり崩壊してしまう。たとえ村上さんでも怒りをあらわにして、『消えちまえ、顔も見たくない』と罵倒するだろう。

 

 そして何より、二階堂くんも俺に対してそんな感情を抱いていたことに、俺は『何でだよ』と思わずにはいられなかった。

 あんな安っぽい言葉で俺を盲信なんかしてどうする。俺みたいな人間は一番裏があって危ない奴だと、何で少しも思わないんだ。

 

 とは言え、村上さんに曖昧な返事をするわけにはいかなかった。彼女の決意には、俺も真摯な態度で応えなければならないのだ。

 

「……分かったよ。それなら、一週間でいいから考える時間を俺にくれないかな? 正直、今頭が混乱してるから、ちゃんとした答えを出せそうにないんだよ。必ず返事はするから、少しだけ待ってて欲しいんだ」

 

「……分かりました。それじゃあ、待っていますね」

 

「……ありがとう。じゃあ、今日は帰るから」

 

 ただ、今すぐにそんな返答はできそうになかった。その場しのぎと時間稼ぎを兼ねた返事に対し、村上さんが了承したことに安堵しながら、俺は踵を返して家路へと歩を進めた。

 

 

 

 

 

 

「ちくしょう……どうすりゃいいんだよ……」

 

 家路をしばらく歩いていると、先ほどまでの安堵は焦燥へと変わりつつあった。『必ず返事はする』と村上さんに言いはしたが、どのような返事をすればいいのか考えようにも、最善のものが思い浮かばなかったからだ。

 

 『イエス』とは、もちろん答えられない。仮に俺が村上さんと付き合ったところで、どうせ馬脚を現して村上さんに嫌な思いをさせるだけの結果にしかならないことは目に見えている。

 となれば『ノー』と答える選択肢しかなくなるが、その理由をどうすればいいか分からなかった。俺は村上さんのことが嫌いではない。むしろ、彼女の人間性を高く評価している。そんな彼女に『嫌い』と嘘を付いてまで拒絶したくはない。

 

 ――なら、俺の本性を話す? 駄目だ、もっと駄目だ。

 

 そうなると残された方法はもはやこれひとつしか残っていないが、これは最も悪手だった。嫌な人間ならともかく、村上さんに、しかも能動的に俺の本性を明かすなんて、くたばりに行くようなものだ。

 これは時谷さんに反抗した時とは違う。あれは受動的なものだった上、周囲からの反応が悪いものに変わる覚悟は出来ていた(もっとも、あの時は予想に反して影響は少なかったのだが)。

 だが、今はそう覚悟できるような状況などではない。自分を『好き』と言ってくれた人に対して、自分のどす黒く濁った本性を余さず語り、嫌な思いをさせて罵倒される。一体何の拷問だ。

 そうなれば対象が村上さんに限らず、誰であろうと俺のクズっぷりは他人に伝わり、俺は罵倒の波状攻撃に晒されるのだ。

 

 俺の頭の中は混乱どころではない。台風でも発生したかのようにぐちゃぐちゃにこんがらがり、まともなことを考える余裕が瓦解していた。

 

 あんな生き地獄はもう嫌だ。オモチャニサレタクナイ。

 四方八方、敵は嫌だ。ダレカ、タスケテクレ。

 

 

 

 

 

 

 ――――俺は、どうすりゃいいんだよ!

 

 

 

 



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暴露/求めていたもの

この話は前話からの続きと言うよりも、時系列的には『擁護されるシリアルキラー』からの続きとなります。分かりにくい流れになってしまい申し訳ありません。


 

 

 僕が死んだら、あなたは悲しんでくれますか。

 僕が死んだら、あなたは涙を流してくれますか。

 僕が死んだら、あなたは『何で死んだんだ』と嘆いてくれますか。

 

 

 

 

 あなたは僕を、肯定してくれますか。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……将平、大丈夫か?」

 

 家を出ようとしている俺に、極めて深刻そうな表情で尋ねる父親だった。そこまで俺は、やばい表情をしているのだろうか。

 

「うん……。大丈夫……多分……」

 

「……何かあったら、いつでも連絡するんだぞ?」

 

 全く説得力のない返事を俺はした。そんな俺の返事に父親はそう返したものの、悲しげな表情を浮かべていた。

 正直両親は、今現在の俺にとって一番信頼できる人間なのかもしれない。しかし、俺は今の自分の心中を父親に話す気には全くなれなかった。

 

 

 

 

 

 

「しまった……」

 

 家を出て自転車にまたがり、時間を確認するためにスマホで曜日を確認した際、俺はあることを思い出した。

 

 村上さんに告白されて、今日でちょうど一週間。それは、返答のタイムリミットでもあった。

 村上さんには申し訳ないことだが、ニンニク鼻たちに袋叩きにされたことによって、頭からそれが抜け落ちてしまっていた。

 

「…………」

 

 先週の金曜日から昨日に至るまでの図書委員の仕事は、病院で検査をするという口実を付けて休み続けていた。だが怪我の具合は大したものではなく、実際に病院に行っていたわけでもないため、さすがにもう潮時だろう。都合のいいことに、今日は村上さんと作業する日のため、返答するにはちょうどいいタイミングでもあった。

 

「…………」

 

 とはいえ、気乗りはもちろんしなかった。『ノー』としか答えられないこともそうだが、先週彼女には、俺の醜態を見せてしまっていたことが特に強い要因だった。

 いやむしろ、俺が返事をするまでもなく彼女から告白の撤回をしてくれるかもしれない。俺としては、その方が好都合だった。それならこの心配も無意味なものになる。

 

「……くそったれ」

 

 悪態をつきながらスマホをポケットにしまい、俺は自転車を漕ぎ出す。

 いずれにしても彼女には会わなければならない。もう、後戻りなどできないのだ。

 

 

 

 

 

 

 放課後になり、俺にとって一週間ぶりの図書委員の仕事が始まる。

 村上さんはわずかに俺から遅れる形で図書室に入ってきた。だが彼女は意外なことに、俺に対して軽蔑するような視線は送ってこず、告白を撤回するような言葉も言ってこなかった。むしろ逆に心配するような、悲しげな視線だった。

 

「……それじゃあ村上さんは、カウンターをお願い。俺は本の整理してるから……」

 

「あっ、はい……」

 

 一週間が経過したとはいえ、俺の顔にはまだ多くの絆創膏が貼られている。こんな顔でカウンターの作業をするのは好ましくない。まあ、仮に貼られていなかったとしても俺がカウンターでの作業をすることはなかったと思うが。

 

 俺が話しかけたことに驚いたような反応を見せる村上さんを一瞥すると、俺は作業に入っていった。

 

 

 

 

 

 

 滞りなく作業は進み、あと20分ほどで戸締りをする時間となった。本の整理はあらかた終え、俺はカウンターの方で村上さんからやや離れた位置に立っていた。

 利用者の姿はもうない――いや、数十分前に来た、閲覧テーブルで会話をする3年生の男女ふたりずつのグループがいた。

 

「でさー、まじありえないっしょー」

「こいつがマジでうぜえんだよなー、死んでくれよマジでー」

 

 だが俺は、こいつらを利用者と形容したくはなかった。本を読もうともせず、下卑た話を大きな声で延々と繰り返すその姿には、村上さんはもとより、他の利用者も嫌な顔をしていた。

 まれにではあるが、このように図書室で馬鹿騒ぎをする奴はいる。司書の人がいれば即座に叩き出されるし、過去に上級生の委員が叩き出している現場を見たこともある。

 時間が中途半端であること、叩き出すべきかと思った時にはもう他の利用者はいなかったこと、そして何よりやる気が起きなかったことから、俺は特に何も言わずに放置していた。村上さんも性格上気が引けてしまっていたのか、嫌な顔をしながらも何も言おうとはしなかった。

 

「つーかさ、チビの男ってマジありえなくね?」

「うわ、分かるわ。あいつらって何のために生きてんだろな?」

 

「……!」

 

 そんな中、グループの放った言葉に俺は心臓を鷲掴みにされたような気分になった。俺の心中など察することもなく、グループは会話を続ける。

 

「160あればまだいいけど、160ない男ってマジ意味不明。どんなイケメンでも160なかったら即終了ー」

「それにチビって性格もナヨナヨしててうぜえのが多いんだよなぁ。マジぶん殴りてぇー」

 

「…………」

 

 ――なんなんだよ、てめえらは。俺が何かてめえらに恨み買うようなことでもしたのかよ。

 

 連中の視界には俺の姿はまるで入っていない。俺に向けて放たれた言葉ではないことは明白だったが、まるで俺に対して言っていると錯覚するほどに、その言葉は俺にグサグサと連続で突き刺さった。

 

「黙れよ…………」

 

 俺は呟く。しかし、連中の声にかき消される。

 

「アタシ絶対チビの男なんかと付き合いたくなーい。アタシが白い目で見られるしー」

「でも貢がせてやってもいいかもねー。チビってこういうときは必死になりそうだしー」

 

「黙れよ…………!」

 

 先ほどよりも大きな声で俺は呟く。しかし、連中の声にかき消される。

 

「ほんとこの世からチビの男って消えてくんねえかなー」

「俺が政治家になったら、チビは死刑! なんつって! ぎゃはははは!」

「ちょっとそれ、笑えなーい」

「でも平和になりそー。あはははっ!」

 

 

 

 

 ――チビハ、ソンザイカチガナイ。オレハ、ソンザイカチガナイ。

 ――フザケルナ。フザケルナ。フザケルナ。

 

 

 

 

 ふざけんじゃねえええええええええええええええええええええっ!!

 

 

 

 

 

 

「静かにしてくだ……」

「……黙れっつってんだよ!」

 

 意を決して注意しようとした村上さんの言葉をかき消すように、俺は連中に向かって咆哮した。

 

「さっきからギャーギャーピーピー発情期の豚みてえに喚き散らしやがって! ここはてめえらの盛り場じゃねえんだよ! 盛りてえんなら、誰もいないとこでやりやがれ! さもなきゃぶっ殺すぞ、カス共が!」

 

 そばに村上さんがいることもお構いなしに、俺は『発情期の豚』、『盛り場』という極めて下卑た言葉を躊躇いもなく放った。

 一瞬で連中は沈黙し、冷や汗を垂らしながら逃げるように去っていった。全員が視界から消えたと同時に、俺は糸が切れたマリオネットのようにそばの椅子に座り込んだ。そんな俺の様子を見て、心配そうに村上さんが駆け寄ってくる。

 

「黒川君……大丈夫ですか……?」

 

 あんなに汚らしい言葉を吐いたというのに、まだ俺の心配ができるというのか。

 村上さんの心理が、俺にはもはや分からなかった。

 

「村上さん……昔話を、聞いてくれるかな? 俺の、昔話を……」

 

 だが、いずれにしても俺は終わりだ。誰にも話さなかった全てを暴露して、彼女の告白に対して終止符を打つことにしよう。

 

「……えっ? ……はい」

 

 一瞬何のことだか分からずに混乱しているようだった村上さんだが、すぐに真剣な表情に戻った。

 俺はゆっくりと自分の過去を、本性を、胸の内を彼女に語り始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 中学時代までの俺は、他人とコミュニケーションを取ることが苦手な人間だった(現在もそうなのだから、『まで』とか『だった』などの過去形は語弊がある気もする)。加えて運動もまるで駄目。そして――――。

 

「……村上さんは、俺の身長がいくつか知ってる? 誇張とかはなしに、正直に答えてほしい」

 

「えっ……? …………163、くらいですか?」

 

 本当に誇張なしで答えた数値なのか、気を遣ったのかは俺には分からない。村上さんは変に嘘を付くような人間ではないと思うので、多分前者なのかもしれない。自分で振っといてこんなことを思うのもあれだが、どちらの場合でも俺にとっては辛いだけでしかなかった。

 

「……はっはっは。そのくらいあったら、どれだけよかったか」

 

「…………」

 

「……158。そんだけしかないんだよ、俺は」

 

 

 

 

 俺の厭世観(えんせいかん)のほぼ全ての要因。それは、男としては極端に低い身長だった。

 もちろん、俺より身長の低い男子生徒は学園内にそれなりの数がいる。しかし、そういった人は様子を見た限りでは、みんな友人が多く、明るい人間性に見えた。俺のような経験は、恐らくせずに済んだのだろう。

 

 俺の場合は低い身長を初めとする様々な要因が重なり、同級生から標的にされた。連中にとって俺は完全にカモだったのだろう。

 

 

 

 

 つまり俺は中学時代、いじめに遭っていた。

 

 

 

 

 体育の授業における球技ではミスをするたびに『死ね』『殺すぞ』などと罵倒され、テストではカンニングをしたと身勝手な言いがかりを付けられた。それどころか、何もしなくても罵倒されたことも数知れない。

 そういった連中が使うお決まりのフレーズは、『チビ』だった。小学生の頃までは低身長であることをさほど気にしてはいなかったが、中学時代に数え切れないほど言われたそのフレーズのせいで、俺の身長に対するコンプレックスは異常なまでに肥大した。

 

 コンプレックスだけではなく、精神的に病む日々も続く。一時は登校拒否も考えたが、たったひとり信頼できる友人がいたおかげで、何とか踏みとどまることができていた。いじめの悩み事も、よく話していた。

 

「……だけど、そいつは俺を裏切った。いや、端から俺を友達なんて思っちゃいなかったんだ」

 

「えっ……?」

 

 3年生になって間もなくした頃、そいつ自身が暴露してきたことだった。実際には、俺がそいつに話してきたいじめによる悩み事は、全部そいつを通じていじめグループに筒抜けになっており、笑いのネタにしていたらしい。

 

 その瞬間、俺は全てが崩壊した。他人を信用すること、優しくすること、暴力を振るってはいけないこと――――。生まれてから意識してきたそれらが、全て無意味なものだったと理解し、同時に連中に対する報復を決意した時でもあった。

 

 インターネットの動画サイトや、購入した格闘技の教本――ボクシングやレスリング、ムエタイなど――を参考にし、家の近くの山の人目に付かない場所で、自己流のトレーニングを徹底的に行った。連中を血祭りに上げるという、ただそれだけを目標にして。

 

 

 

 

 そして報復決行の日。その日は、中学の卒業式だった。もちろん意図してその日にしたのだが。

 式が終わっても連中はすぐ帰らないことを事前に調べていた俺は、トイレに行くなどして単独状態になるのを見計らい、ひとりずつ処刑していった。

 男子4人、女子2人の、計6人。女であろうが俺は躊躇わなかった。

 

 裏切った奴だけは、気絶するまで顔面を殴り続ける程度に留めた。仮初めであっても、一応『友達』でいてくれたからという理由があったのかもしれない。

 だが、それ以外の5人には、一切情けをかけなかった。

 

 パンチ、キック、肘打ち、膝蹴り、頭突き。あらゆる打撃を顔面と腹部に叩き込んだ。腕に肘打ちを入れてへし折った。顔面を壁に叩きつけたり、踏みつけたりして鼻を破壊した。

 

 俺を一番罵倒していたリーダー格の男子生徒は、それだけに留めなかった。

 頬に噛み付いて肉を食いちぎり、咀嚼(そしゃく)した。不味かったので吐き出した。

 頬骨が陥没骨折(かんぼつこっせつ)するまで壁に叩きつけた。

 下腹部を何回も踏みつけ、睾丸(こうがん)をふたつともぐちゃぐちゃにした。二度と、男としての機能が使えないように。遺伝子を後世に残せないように。

 

 血だるまでもはや原型を留めていない顔となり、虫の息と形容してもおかしくない状態のそいつに、俺はある言葉を放った。

 

 『くれぐれも、俺より先に死んでくれるなよ』と。

 

 俺は奴らに長生きしてほしかった。怪我も治して、身体だけは健康的に生きていってほしかった。

 そして、俺の姿が片時も頭から離れずに、震えながら生きていってほしかった。『生まれてくるんじゃなかった』と思いながら生きてほしかった。100年どころか、200年は生きてほしかった。死の直前まで、俺に怯えながら。

 

 連中の処刑が終わったとき、俺は得も言われぬ快感に包まれた。憎い人間を処刑することは、こんなにも素晴らしいものだったのかと。

 あんなに俺を罵倒していた奴らが、血だらけで涙を流して命乞いする姿、それを踏みにじって蹂躙(じゅうりん)の限りを尽くし、止めを刺してやること。俺にとっての快楽の究極系だった。

 

 さらに風の噂で聞いた話だが、俺を裏切った奴以外の5人は、例外なく家にこもって震える毎日を過ごしているとのことだった。進学予定だった高校には入学式すら行かずに中退したと聞く。

 リーダー格だった男子は、声を出すこともなく歯をカチカチ鳴らして震えているとのことで、俺の快感はさらに高まった。

 

 

 

 

 だが、これによって俺も代償を支払うことになる。

 

 

 

 

「……本来俺は、聖櫻に進学するはずじゃなかったんだ。公立の進学校に通う予定で、ここは滑り止めで受けてたんだよ」

 

「……そう、なんですか?」

 

 返り血を浴びて帰宅した――道中、通行人の姿はひとりもなかった――俺を、驚愕した表情の両親が迎えた。『何があった』と尋ねる両親に、俺はゲラゲラ笑いながら『ひとりでクズ共に復讐したぞ』と歓喜していた。

 それ以降のことは、あまり記憶にない。大分後になって両親から聞いた話によると、俺の行為は中学側がもみ消したらしい。当然連中の父兄から抗議があったようだが、全く取り合わなかったという。元々俺へのいじめももみ消していたろくでなしの中学だ。やられた人間が、俺だろうが他の奴らだろうが関係なかったのだろう。

 だが、その情報が本来進学する予定だった高校に流れ、俺は合格を取り消された。だというのに、聖櫻には入学できたことは今でも不思議でしょうがない。時期などを考えても、申請の期間は終わっていたはずなのだが。とはいえ、俺はその詳細は両親には尋ねなかった。苦労をかけたのかもしれなかったからだ。

 

 

 

 

 

 

「……これが、俺の過去と本性。まあ、先週の俺を村上さんも見てただろうから、今さらかもしれないけどね」

 

「…………」

 

 両親でもなければ、二階堂くんや3人組のように多くゴマをすってきた人間というわけでもない彼女に、俺は全てを暴露した。シリアルキラーとしか言いようのない、猟奇的でおぞましい本性を。

 心療内科の担当医にすら話したことのないことも含めた、文字通り『全て』だった。

 

「ここに入学した時も、『チビ』って言われるんじゃないかって思ってた。いや、今でも思ってるって言った方が正しいかな」

 

「…………」

 

「当初は、『罵倒する奴なんか皆殺しにしちまえ』って思ってたけど、すぐそんなことしても意味がないって気付いたから、俺はあることを思いついたんだ」

 

「……それは、一体何でしょうか?」

 

「ゴマすり。運動神経がいい人とか、友達が多い人に媚を売って、コネを広げようと考えたんだよ」

 

 中学を卒業して以降、俺の身長はほとんど伸びなかった。そのせいでまた罵倒されると確信した俺は、二階堂くんを初めとする運動が得意な人間や、友人の多い人間に対して積極的に話しかけていった。他にも、芹澤くんたち3人組が俺に話しかけてきたのはまさに好機であった。最初は戸惑ったが、棚からぼた餅と思って、すぐに媚を売った。

 先月行われた身体測定における身長の結果が、去年とほぼ変わりなかったことで俺は自暴自棄となり、媚を売る頻度――特に二階堂くんに――を上げた。

 

「ぶっちゃけるけど、俺は二階堂くんたちを友達とは思えていない。二階堂くんたちは、俺にとっては友達なんかじゃなくて、おもちゃにされないようにするための盾なんだよ……。明るく振る舞っていたのは、みんな演技だよ。いい人ぶることで、コネを作って標的にされないようにするためのね……」

 

 担当医は『ゴマすりと思っていないかもしれない』と話していたが、やはり俺のやっていたことはゴマすりなのだ。俺は彼らを友達だなんて、少しも思っていないのだから。

 

「それにみんな俺より身体がずっとでかくて、運動神経も良くて、コミュニケーションだってしっかりとれる。俺はそんなの、ひとつとしてない。だからそういう人に媚を売ってないと、俺はすぐおもちゃにされるのが関の山だ……」

 

「黒川君……」

 

「だけどそんな俺の考えとは逆に、二階堂くんたちは俺のことを信用しちゃってた。それは俺にとって予想外のことだったんだよ」

 

 他の人もそうだが、特に二階堂くんや3人組とは浅い付き合いをして、卒業したらフェードアウトする――という流れを作ろうと思っていた。

 しかし、彼らの方から昼食を誘ってきたり、街へ遊びに行こうと言ってきたりしたことに俺は困惑した。3人組の方は、俺の家に行ってみたいと言ってきたこともあった。

 

「飯を食うならともかく、どこかに行くとか、ましてや俺の家になんて絶対に行かせたくなかった。友達なんて思ってなかったし、それに俺はひとりで時間を過ごしたかったんだ」

 

 ゲームや漫画を貸すことはあったが、それは全て校内で行い、理由をでっち上げて家には一切近づけようとしなかった。

 

「でもすぐ気付いたんだよ。こんなことを続けていたら、いずれ俺の本性がばれるんじゃないか、って……」

 

「…………」

 

「……ばれるだけなら別にいいんだよ。俺が恐れてたのは、それで怒りを買って、中学時代以上に罵倒されることになるんじゃないかってことだったんだ。先月の身体測定、去年とほとんど身長が変わってなかったから、また『チビ』って言われてトラウマを抉られるんじゃないか、ってね……」

 

「…………」

 

 二階堂くんたちと出かける誘いを断り、病院に行って診察を受けた日が過ぎてからは、落ち着くように努めていたものの、内心ではパニックに近い状態になっていた。

 ニンニク鼻たちに襲撃される直前までその考えは続いていたが、連中に襲撃され、怒り狂って1年の教室がある棟を闊歩していた際には霧散し、二階堂くんに止められた時にはまた芽生え出したものの、その時はもうパニックと言うよりは諦めに近い感情になっていた。

 

 当初思っていた『皆殺しにしちまえ』という考えも一瞬頭をよぎったが、そんなことは到底無理だった。

 高校生になると女はともかく、基本的に男は体格が大きくなる場合がほとんどだ。それに伴い力も強くなる。こんなちんけな俺が仮に彼らに罵倒され、怒りをあらわにして殴りかかったとしても、あっさり返り討ちに遭うのがオチだった。

 特に身長が190cmもあり、運動神経もかなりよく、キックボクシングまで身に付けている二階堂くんには、まず敵うわけがなかった。止められた際に抵抗しても全く振りほどくことができなかったので、その確証も得てしまっていた。

 

「俺は多分、もう身長は伸びない。高校生にもなればもっと伸びて、少なくとも160cmを少し超えるくらいにはなるんじゃないかと思ってたけどね……。考えが甘かったよ……甘すぎた……」

 

「…………」

 

「女と違って、低身長の男ってのはマイナスの要素は際限なくあっても、プラスの要素は少しもありゃしない。さっきの奴らが言ってたみたいに、一生俺は『チビ』って馬鹿にされ続けて、おもちゃにされるのが運命なんだよ。今も、これからもね……くそったれ……」

 

 あんなにおぞましいことをぶちまけたくせに、『何て俺は可哀想な人間なのだ』とでも言わんばかりの、見苦しいにも程がある被害者アピールを延々と口にする姿は、実に惨めで滑稽(こっけい)だった。馬鹿げていた。腐り切っていた。

 

「…………」

 

「……村上さん。これで分かったよね? そもそも俺は、村上さんと付き合う資質なんて、かけらほどもないんだよ。俺は優しくなんかないし、思いやりのある人間でもない。俺は自分の都合だけを最優先して、そのためには平気で人を利用する奴だ……。チビとかそれ以前の問題だよ……」

 

「…………」

 

「そして何より、憎い奴を罵倒して、顔に唾を吐きかけて、ためらいなくぶん殴って、血祭りに上げて屈服させることを何よりの喜びにしている、どうしようもないクソ野郎なんだ。だから、俺のことなんか、もう忘れてよ……。こんなことを楽しむような人間、軽蔑されてしかるべきなんだ……。好きになんて、なっちゃいけないんだよ……」

 

「…………」

 

 途中から村上さんは、完全に無言になっていた。

 

 

 

 

 

 

 もう、どうでもいい。

 悪夢の極みであった、忌々しい中学時代よりはマシな生活を送れると思っていた俺が馬鹿だったのだ。俺は結局悪手を打ち続け、自分で自分の首を絞めただけだった。

 

 さっさとおだぶつしたい。消えてなくなってしまいたい。

 死にたい。死にたい。死んでしまいたい。

 こんな腐り切った世界に居続けるなんて、そんな生き地獄はまっぴらごめんだ。

 

 なら、どんなに醜態を見せても同じことだ。惨めであることに変わりはない。

 誰彼からも軽蔑されて、後腐れなくくたばる方がよほど楽だ。

 

 

 

 

 ――――今日が、俺の人生最後の日だ。本当に、クソみたいな人生だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ごめんなさい……」

 

「……はっ?」

 

「ごめんなさい、少しも気付こうとしなくて……。黒川君の優しさに甘えてばかりで、肝心の黒川君自身のことを、ちっとも理解しようとしていませんでした……」

 

「……はっ? ……はっ?」

 

 私は、黒川君の何を知っていたのだろうか。

 自分の意見をはっきり言えること、人を気遣うことができること、たくさんの人と交流できること。

 それが全部、辛くて、辛くて、辛すぎた中学時代のような日々を、もう繰り返さないようにするために、現在進行形で続く苦しみを何とか和らげるために、必死になって行っていたことだったのだとしたら――――。

 

 私は彼を、軽蔑なんてできるわけがない。絶対に、できるわけがない。

 むしろ私が、彼に軽蔑されても文句は言えないのだ。

 

 私は彼の苦しみに気付かなかった……いやむしろ、目をそむけていたのだ。彼の優しさや人間関係の多さに私は憧れるだけで、『悩みなんてない』と勝手に決め付け、本心を理解していなかった。しようともしていなかったのだ。

 

 『憧れは、理解からは最も遠い感情だ』と以前読んだ本にあった言葉に書かれていた。その言葉は私の心に強く残っていたはずなのに。

 

 

 

 

 私は、馬鹿だ。

 

 

 

 

「何で……何でなんだ……。罵倒してくれよ……ぶっ叩いてくれよ……。『顔も見たくない。あんたなんか消えちまえ』って言ってよ……」

 

「そんなこと、できるわけありません……。やれって言われても、絶対に嫌です……!」

 

「わけが分かんないよ……どうしてそんなことが言えるんだ……。普通、軽蔑して罵倒するもんでしょ……?」

 

「それなら、私は普通じゃないってことです。でも、それで私は構いません。そんなことが普通なら、私は普通じゃなくていいです……!」

 

 『優しくない』、『どうしようもない』と彼は言ったが、それは間違いだ。彼は私と知り合う前から、今に至るまでずっと優しかったのだ。だからこそ、どんなにいじめられても耐えてきた。

 だが、どんな人にも限界はある。優しい人の我慢が弾けた時の怒りのすさまじさは、とても言葉では形容できない。

 確かに彼の行った報復は極めて凄惨(せいさん)なことだったかもしれない。だが私は、報復された彼らに同情などできない。彼の優しさを踏みにじり続け、小柄な体格や運動が苦手であるという、だれにも迷惑をかけてなどいない特徴を、いじめるための口実に使い続けていた彼らには、当然の報いだ。

 そもそもいじめなどしていなければ、彼はそんな行為など決して行わなかったのだから。

 

「…………」

 

「私は黒川君の支えになりたいんです。馬鹿にするような言葉なんて、絶対に誰にも言わせません。それに、罵倒したり殴ったりすることが好きなら、それが好きじゃなくなるようにしてみせます。だからこれ以上、自分を傷つけないで下さい……。『死にたい』なんて、言わないで下さい……」

 

 それなのに彼はこんな私に、辛すぎる過去と今抱えている悩みを、何の脚色もすることなく語ってくれた。本当は話したくもなかったはずなのに。

 だから私は、彼を支えたい。当たり前だが、哀れむ気持ちでそうしたいのではない。彼のことが好きだからそうしたいのだ。

 彼は『自分のことなんかもう忘れてほしい』と言ったが、私はそんなことをするつもりは全くない。軽蔑なんて、罵倒なんて、するわけがない。私が彼を好きであるという気持ちは、何も変わっていない。

 仮に誰も彼もが彼を糾弾したとしても、私は絶対にそちら側には回らない。罵倒や暴力が好きだという感情にしても、初めから形成されていたものではないはずなのだから。

 

「付き合ってなんて言うつもりはないです。突き放してもいいです。でもせめて、このわがままだけは、聞いて下さい……」

 

 だが彼は、私に呆れてしまったかもしれない。自分のことを少しも分かっていないくせに、『納得できない』などと偉そうなことを言い、いざ分かればみっともなく涙を流す私に、彼は憤っているかもしれない。でも、それでも構わない。突き放されたって、『ふざけるな』と言われたって、私は文句を言えない。

 

 しかしそれでも私は、彼の自虐と自殺願望はもう終わりにしてほしかった。どんなに突き放されたとしても、これだけは譲れなかった。

 死んでしまっては、何もかもが終わってしまうのだから。

 

 

 

 

 

 

「…………ふーっ…………」

 

 俺の手を強く握る彼女の涙が、彼女の手の甲に落ち、俺の手にも流れていく。それは妙なくらいにひんやりと冷たかった。

 ふと窓に目をやると、恐らく開いた窓から侵入したのであろう、窓枠をうろちょろしているハエがいた。それを目で追い、『ハエって1秒に100回以上羽ばたくんだっけ』などと、全くもって関係のないことを考えながら、ひとつだけ大きく息をついた。

 

 

 

 

 聖櫻に入学してから今に至るまで、俺は将来に絶望しきっていたこともあって、何を求めて生きていけばいいのか全く分からなかった。だが、今俺が求めていたものが何か分かった気がする。

 

 自分を認めてくれる人間。

 自分を肯定してくれる人間を、俺は渇望していたのだ。別に猟奇的な行動を肯定しろというわけではない。

 

 俺の過去を知っても拒絶しないこと。

 俺の本性に恐怖せず、むしろ直るようにしてくれること。

 チビな俺のコンプレックスを、和らげてくれること。

 

 俺が求めていたのは、これだったのだ。

 承認欲求まみれの感情だということは分かっている。だが、散々存在を否定されてきた俺なんだ、このくらい望んだって別にいいだろう。

 

 将来の夢だとか、未来的なものはまだ分からない。だが、自分を肯定してくれる人間さえいれば、まだ希望はある。

 

 

 

 

 ――なら、もう少しだけ頑張ってみても悪くはないんじゃないだろうか。まだ俺は、生きていてもいいんじゃないだろうか。彼女が俺を、肯定してくれる限りは。

 

 村上さんは、俺の全てをぶちまけても嫌悪するどころか、涙まで流して謝罪した。彼女が許しを請う必要など、何ひとつとしてありはしないのに。

 ここまで俺を認めてくれた彼女に、『ノー』なんて返事はできない。してはならない。

 

「村上さん……俺は凄く――いや、そんな言葉で表すのも適当じゃないくらい面倒な男だ……。それに、村上さんのことを一番に大切にするなんて恋愛小説みたいなことは言えない……。まだ、自分自身が絶対的に大切な存在だよ……。そんなんでも、いいの?」

 

「……はい。一番に大切にするなんて、まだ考えなくていいんです。まず自分を大切にしてください。それに黒川君は、面倒な人なんかじゃありませんから」

 

 ――それなら、もう少し頑張って生きてみよう。死ぬのは、何もかもなくなってからでも遅くはない。

 

 

 

 

「……じゃあ、こんな俺で良ければ、これからよろしく……」

 

 もう一度窓を見ると、ちょうどハエが外へと飛び去っていくところだった。まるで『お前らと一緒の空間にいられるか』と、嫉妬するかのように。

 

「……はい! 私こそ、これからよろしくお願いします!」

 

 さっきまで『死にたい』と思っていた俺に彼女ができた。しかも、向こうからの告白で。

 俺は、夢でも見ているのだろうか。あまりにも都合が良すぎる。

 そうだ、これは夢だ。腕をつねってみよう。痛かった。なんじゃこりゃ。

 

 

 

 

 

 

 ――俺の人生最後の日は、新たな人生の始まりへと昇華されたのだった。

 

 

 

 




自分がこの話のプロットを思いついてから今日に至るまで、およそ2年が経過していました。

ようやく、自分が本当に書きたかったことを文章にできた気がします。

もちろんこれで終わりではありません。濃厚なイチャラブ……と言えるのかは分かりませんが、読んでくださる方が感情移入できるような将平と文緒の交流を描くことができたらいいなと思います。

夏準備、水泳教室、海水浴、清涼祭、紅葉デート、イースターバニー、チャイナドレス、サバゲーなどなど……カードイラストから書きたい話はたくさん湧いてきます。

すぐに書くことは難しそうですが、できるだけ早く書けるようにしたいです。


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たくさんの『初めて』(前編)

 

 

 

「…………」

 

 つねった腕が痛いことを実感した俺は、しばらくの間無言でじっとしていた。村上さんの方に視線だけを移すと、彼女も同じように、口を閉じてじっとしていた。俺の手を握ったまま。

 

「村上さん……ひとつだけ、お願いしないといけないことがあるんだ……」

 

 しかしながら、このままじっとしているわけにはいかない。

 村上さんは俺のことを認めてくれたが、これから俺が実行に移そうとしていることの詳細を話してもそれが維持されるとは限らない。ある意味、賭けを俺は行おうとしていた。

 

「……何でしょう?」

 

 だが村上さんは、訝しがるような表情にはならず、いつもと変わらない穏やかな表情のままだった。まるで、『何でも言ってほしい』とでも言わんばかりの。

 

 

 

 

「俺は、俺を襲いやがった奴に、報復する」

 

 

 

 

 『この表情を曇らせてしまったらどうしよう』という不安も頭をよぎったが、それでも俺は間を空けずにその言葉を口にした。

 

「黒川君、やっぱりあの時、誰かに襲われたんですか?」

 

「……うん、帰り道で10人くらいに袋叩きにされた。初めはここの1年だと思ったんだけど、芹澤くんが言うに、稲山二高って高校の連中らしくて。勝手に勘違いして、醜態晒しちゃったけど……」

 

「…………」

 

 他校の情報などまるで耳に入れない俺にとって、その稲山二高なる高校はどこにあるのか、どのような校風なのかまるで知らない。……まあ、聖櫻の近くにある高校であること、ろくでなしの生徒の巣窟であることは容易に想像できるが。

 

「何か芹澤くんがどうのとか言ってたから、多分ろくでもないことして芹澤くんにぶっ飛ばされたんだと思う。それで腹いせに俺のこと狙ったんじゃないかな? 『てめえで憂さ晴らしする』って言ってたしね」

 

「そんな……ひどい……」

 

「村上さんは、俺が鞄に付けてた蛇のぬいぐるみのことは知ってる?」

 

「えっ? あっ、はい、知ってますよ。可愛いですよね」

 

 蛇という生き物は神として崇められることもある一方で、その長い身体や毒を持つ種類もいることから、嫌悪ないし敬遠の対象となることは多い。

 

 だが、俺は蛇という生き物は非常に好きだった。生命力の強さや、基本的に単独で行動する種類が多いことに、誇り高い生き物であるという印象を抱いていた。毒を持つことにも、特別な力のようなものを感じさせる格好良さがあると思っている。まあ、さすがに噛まれたいとは思わないが。

 爬虫類の知識は大してないが、一番好きな動物は何かと聞かれたら、俺は『蛇』と即答するだろう。

 

 とは言え、俺がつけていたぬいぐるみはそういった雰囲気はない、デフォルメされたもので、俺個人の感想では『可愛い』と思えるものだった。村上さんが顔を綻ばせながら『可愛い』と言ったことに、俺は嬉しさを感じる。

 

 女々しい趣味と言われそうだが、俺はぬいぐるみが結構好きな人間で、部屋にもそれなりの数が置いてある。あのぬいぐるみは100円ショップで購入したものであったが、俺が好きな動物であること、可愛いデザインであることが加わり、非常に思い入れが強かった。

 

「だけど、投げ捨てられちまった……」

 

「えっ……!?」

 

 あのぬいぐるみは紐が付いており、鞄に付けられるようになっていたのが裏目に出てしまった結果であった。

 苦笑い気味に呟いた俺の言葉に、村上さんは愕然とした表情になった。俺の方も当時のことを思い出し、怒りが湧き上がる。

 

「ニンニクみたいな鼻した、汚い顔の野郎にね……。鞄から引きちぎって、ゲラゲラ笑いながら、山の茂みにぶん投げやがった。しかも、何度も『チビ』って抜かしやがってね……」

 

「…………」

 

「袋叩きにされるだけならともかく、そんな駄目押しまでされたんだ……。正直、他の連中はもうどうでもいいけど、それでも、あいつだけは……」

 

 歯を食いしばり、拳を思い切り握りながら、俺は言葉をゆっくりと紡いだ。

 

「あいつだけは、絶対にこの手でぶち殺してやらねえと気が済まないんだよ……!」

 

 村上さんに八つ当たりすることになってしまうため、怒鳴り散らしたい気持ちを必死に抑えながらも、俺は汚い言葉を交えながら気持ちを搾り出す。

 

「俺に馬鹿のひとつ覚えのようにチビチビ連呼しやがった、俺の大切なものを投げ捨てやがったあのクソ野郎を野放しにできるほど、俺は人間ができちゃいない……!」

 

「…………」

 

「いくら村上さんが相手でも、俺はこの考えを曲げるつもりは全くない……。だから、これが受け入れられないなら、悪いけどさっきの話はなかったことにしてほしい……」

 

「…………」

 

 

 

 

 

 

 自意識過剰だが、村上さんが俺の考えを受け入れてくれるかどうかは、五分五分だと思う。『暴力や罵倒を好きじゃなくなるようにしてみせる』という彼女の言葉は本心から来るものだと俺は信じているが、復讐を決行するつもりという俺の考えを聞いても、そう言ってくれるかは分からない。

 

 彼女が俺の考えを受け入れられなければ、振り出しに戻るだけ――――いや、ゲームオーバーだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……分かりました。黒川君がやろうとしていることに、私は何も言うつもりはありません。でも……」

 

「…………」

 

 私のその言葉は、暴力の容認に他ならなかった。

 言い訳するつもりも開き直るつもりもないが、私は許すことができなかった。ただ傷つけるだけでは飽き足らず、古傷を抉り、大切なものを投げ捨てるという卑劣な真似をしたその人を。

 『泣き寝入りしろ』だとか、『気にするな』などと言えるほど、私も人間ができてはいない。好きな人を傷つけられても、黙っていられるような人間にはなりたくない。絶対に。

 

 私の返答に、黒川君は驚いたような表情を見せた。意外に感じていたのだろうか。

 たとえ黒川君が復讐する考えでも私の思いは揺らがない。彼を好きであることに何も変わりはない。しかしひとつだけ、彼にお願いしなければならないことがあった。

 

「でも、やり過ぎないようにしてください。これだけは、約束してほしいです」

 

「…………」

 

「多分私が黒川君なら、同じことを言ったと思います。でも、やり過ぎて黒川君が悪者になることだけは絶対に嫌なんです」

 

 先ほどの表情から、黒川君の怒りは計り知れないものであることは容易に想像できる。だがその怒りに歯止めが利かなくなり、相手を過剰なまでに打ちのめしてしまっては、どんな理由があろうと一方的に黒川君が悪いことになってしまう。私は、それだけは避けたかった。

 

「……分かった。約束するよ、絶対に。ありがとう、村上さん」

 

 しかしながら、実のところ私はあまり心配はしていなかった。黒川君なら大丈夫だと信じていたから。

 私の言葉に、険しかった彼の表情は穏やかなものへと変わった。

 

「……さて、ここでじっとしてるわけにもいかないし、帰ろっか」

 

「……あっ、そうでしたね」

 

 立ち上がってそう言った黒川君の言葉にふと時計を見ると、戸締まりの時間からもう30分近く過ぎていた。早く戸締まりをして鍵を返却しなければ、先生方に迷惑がかかってしまう。

 カウンターと閲覧テーブルの椅子を軽く整頓し、忘れ物がないか確認をして、消灯と戸締まりを行って早々に図書室を後にした。

 

 

 

 

 

 

 黒川君と一緒に帰り道を歩くのは、先月望月さんも交えて一緒に帰った時以来、二度目だった。

 しばらくはお互いに無言だったが、黒川君のある言葉で沈黙が破られた。

 

「村上さんは、誰かと付き合ったことってあった?」

 

「い、いえ。黒川君が初めてです」

 

 人付き合いが苦手な私が、誰かを好きになるであろうと明確に意識し出したのは、高校生になってからだ。そういった背景もあり、私がはっきりと恋愛感情を持った人も、ましてや付き合った――いや、『付き合っている』か――人も、黒川君が初めてだった。

 そう考えると、私は中々に貴重な経験をしているのではないだろうか。夏目さんがこのことを知ったら、どんな反応を見せるだろう。

 

「黒川君は、誰かと付き合ったことはあるんですか?」

 

「……あるわけないよ。というか付き合うとか、ましてや告白されるなんて少しも考えたことなかったから」

 

「……そう、ですか」

 

「…………」

 

 私が黒川君の返答にそう返してから、再び沈黙が訪れる。

 

 ――付き合い始めたと言っても、これからどうすればいいのだろうか。

 彼も私と同じように、誰とも付き合ったことはなく、私が初めてだったことに、小さくない嬉しさを抱いてはいたものの、彼とこれから先どんな交流をしていけばいいのか、中々思い浮かばずにいた。

 

 教室で話す頻度を増やしたり、一緒にどこかへ出かけたりすればいいのかもしれないが、私が出来る話題は精々本のことぐらいで、出かける場所も本屋や図書館などといった、本に関するところぐらいだった。

 自分の引き出しの少なさに、先が思いやられる。何とかこらえたものの、ため息が出そうになってしまった。

 

 

 

 

 

 

 気が付けばお互い無言のまま、駅に着いてしまっていた。

 

「それじゃあ、また明日……」

 

 それと同時に私は別れの言葉を切り出す。

 せめて、『次の土日にどこかへ出かけないか』くらい言えばいいのに。

 こんなところでも人付き合いの苦手さを発揮して、尻込みしてしまっている自分が情けない。

 

 

 

 

「……村上さん!」

 

 黒川君を軽く一瞥し、軽く項垂れながら改札へ向かおうとする私の腕を、彼が掴んだ。

 

「ど、どうかしましたか?」

 

 あまりに唐突だったので、思わず身体が飛び跳ねそうになるが、何とか抑えて黒川君の方へ振り向く。

 

「……次の土日って、何か予定入ってる?」

 

「……い、いえ。何もないですけど……」

 

「……もし村上さんが嫌じゃなければ、俺の家に来ない?」

 

「……えっ?」

 

 『他力本願だ』と叱られるかもしれないが、正直に白状すると、私は黒川君が何か言ってくれないだろうかという願望があった。とは言っても、いざそれが叶ったことに私は、嬉しがるより先に心を読まれたのではないかと錯覚してしまった。

 

「俺って、自分の部屋に親以外……ああ、そういえばエアコンと火災報知機の点検業者の人もそうか……まあ、それ以外入れたことがないからさ……」

 

「…………」

 

「受け身なものじゃなくて、能動的っていうか……本当の意味で初めて俺の部屋に入る人の1号は、村上さんになってほしいんだよ」

 

「…………」

 

 そう言い終わってから、『1号って言い方はまずかったかな……』と呟く黒川君だったが、私はまずいだなんて少しも思わなかった。むしろ、強い胸の高鳴りを感じている。

 黒川君の過去を考えると、嬉しがるのはあまり良くないのかもしれない。それでも私はその言葉を聞いて、彼の支えになることができたのかもしれないと、喜ばずにはいられなかった。誰かを支えられる人になりたいと思っていた私にとって、『1号』というものは特別な称号のように感じられた。

 

「村上さんに興味のあるものは大してないと思うから、来てもつまらないかもしれないけど……」

「いえっ、そんなことありません!」

 

 苦笑い気味に呟いた黒川君の言葉をかき消すように私は叫ぶ。望月さんと以前彼の話題をした時とは違って、周囲の視線など気にはならなかった。

 

「黒川君のお家に、行ってみたいです」

 

「……そっか」

 

 軽く息を吐いて黒川君は微笑む。それは私が今まで見てきた彼の笑顔とは、趣が異なるように感じられた。もしかすると、これが彼の本当の表情なのかもしれない。

 

「じゃあ土曜日、駅で待ってるね。昼過ぎくらいでいいかな?」

 

「……はい。楽しみにしてますね」

 

「あんまり期待しない方がいいと思うけど……まあいいや。じゃあ、また明日」

 

「はい。また明日」

 

 二階堂君や、仲良し3人組よりも先に、文字通り最初に黒川君の家に行くことができるという優越感に胸を高鳴らせながら、私は改札を抜けていく。

 彼は私の姿が見えなくなるまで、ずっと立ち続けて見送ってくれていた。

 

 

 

 



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たくさんの『初めて』(後編)

先月のレイドは、多くのものを失いながらも文緒を3枚確保しました。
しかしながら、そのせいで今月のナイトプール文緒を交換するためのダイヤがなくなってしまい、かなり苦しい状況……。

ミラクルを14回も回したのに、出たのはたったの1枚。しかも1回目で出て、それ以降はずっと外すという始末。
バッジで最終進展に必要な枚数分確保することはできますが、そのためには多くの犠牲が伴ってしまう……。

やはり推しを手に入れるためには、犠牲は付き物なのだろうか……。


 

 

 

 翌々日の昼過ぎ。

 電車に揺られながら、私は聖櫻学園の最寄り駅――黒川君の家の最寄り駅と言い換えるべきか――へ向かっていた。

 

 登校日以外で黒川君に会うのは、これが初めてだ。街の本屋へ望月さんと向かった際に、格闘技の雑誌を読んでいた彼を見たことはあるが、彼が私たちに気付かなかったこと、彼の様子から判断して声をかけなかったため、あれを会ったうちに数えることは出来ないだろう。

 一昨日私は、『付き合ったのがお互いに初めてだということは、中々貴重な経験なのではないか』などということを考えていたが、付き合ってから初めてこうして学外で会うのもまた、経験した人が少ないのではないだろうか。

 

 

 

 

 駅に到着し、電車を降りると熱気に体が包まれる。

 7月も近い。夏休みもあと一月もしないところまで迫っていた。夏は多くのレジャー施設で賑わう季節でもある。海、山、プールなどはその代表例だろう。

 

「…………」

 

 今年の夏休みは、黒川君とどこかへ出かけることになるだろうか。山はともかく、海やプールに行くとなると……水着が必要になる。黒川君は、どんな水着が好きなのだろう。それ以前に、そうなると彼に水着姿を見せることになるという事実に、猛烈な気恥ずかしさが襲ってきた。

 

「……きゃっ!?」

 

 そんなことを考え、気恥ずかしさに俯きながら改札を抜けて進んでいくと、突然腕を掴まれた。思わずびくりと飛び跳ね、掴まれた腕の方へ視線を移すと――――。

 

「……改札通ったと思ったら、ずっと下向いてずんずん行っちゃうんじゃ、こうでもしないと駄目だと思うんだけど……」

 

 少しだけ不満そうな表情を浮かべた、黒川君の姿があった。

 

 

 

 

 

「ご、ごめんなさい……」

 

「い、いや、別に気にしてはいないけど……」

 

 周囲に誰もいなかったのは幸運だった。私のせいで黒川君が誤解を受けてしまったら大変だ。

 

「……そんなことより顔赤くなってるけど、大丈夫? 熱中症になってないよね?」

 

「い、いえっ、大丈夫です!」

 

 失礼なことをしてしまった謝罪をすると、黒川君は不満そうな表情を一変させ、心配するような表情でそんなことを聞いてきた。

 さすがに水着姿を見られることを想像して赤くなっていたと言える勇気はない。この調子では、どんな水着が好きか尋ねることもできそうにないので、しばらく日にちが経って落ち着いてからにしよう。

 

「そう? それならいいけど、無理はしないでね? ……それじゃあ、行こうか」

 

「あっ、はい」

 

 私の返答にとりあえず納得したのか、黒川君は家への進行方向と思われる道を指差して歩を進める。私もそれに遅れる形で歩を進め、彼の横に並んで歩き出した。

 

 

 

 

 

 

「……センスない格好で、ごめん」

 

「えっ? 何がですか?」

 

 しばらく歩いていると、唐突に黒川君がそんなことを言い出す。いったい何のことか分からず、聞き返してしまう。

 

「……俺の服。センスないでしょ?」

 

「そ、そうですか?」

 

 黒川君の服装は、Tシャツの上に麻の半袖シャツを羽織り、最近CMでよく目にする速乾性を謳ったズボンの組み合わせという、夏らしい涼しげなものだった。確か本屋で見かけたときも、これに近い格好をしていた気がする。別にセンスがないとは思わないのだが。

 

「情けない話だけど、俺って自分で服買うことほとんどないからさ。ジーパンも、高校生になってからめっきり穿かなくなったしね」

 

「…………」

 

 服の買い方というものは人それぞれだと思う。私は別に彼のスタイルにとやかく口出しをするつもりはないし、そもそもする権利もないと思う。

 私の持っている服だって、お母さんが買ったものが何着かあるのだから。

 

「それに引き換え、村上さんはちゃんとしてるね。いいと思うよ、その服」

 

「……そ、そうですか?」

 

 先ほどと同じようなことを尋ね返す私に、黒川君は無言で親指を立てる。

 今の私の服装は、黒のキャミソールに青のスカートという組み合わせだった。スカートはともかく、上はキャミソールだけなのは少しまずかったような気もする。黒川君はいいと言ってくれてはいるが、一枚何か羽織っておくべきだったかもしれない。

 

 

 

 

「……着いたよ。ここが俺の家」

 

 それからはお互いに話もなく、気付けば黒川君の家に着いていたようだった。彼のその言葉で、下に向いていた視線を上げる。

 

「……大きいですね」

 

「……そうかな? まあ、それなりに金は持ってるみたいだからね。いくら持ってるのかなんて聞いたことはないけど」

 

 『豪邸』と称するにはさすがに語弊がありそうだが、彼の家は結構大きな一戸建てだった。周囲の家と比較しても、なかなかに差がある。

 そんなことよりも、私は彼や彼のご両親などを除く、初めて彼の家に入る人間になるということを改めて実感し、緊張感が高まっていた。

 

「親父は仕事でまだ帰ってこないし、母ちゃんも単身赴任でいないからあんまり硬くならなくていいよ。自分の家みたいにくつろいでくれればいいからさ」

 

「で、でも……」

 

「さあ、入って入って」

 

 ポケットから鍵を取り出し、開錠してドアを開けた黒川君は、私の躊躇いなど意に介さず手招きしてくる。

 

「で、では……お邪魔します……」

 

 しかし、ここで佇んでいてもしょうがない。私は手招きする彼のもとへ向かった。足取りは、まるで侵入するかのようだった。

 

 

 

 

 

 

 中に入り、靴を脱いだ私は2階にある黒川君の部屋に案内された。先ほどの尻込みはどこへやら、いつの間にか期待に胸が高鳴っていた。

 

「大して綺麗な部屋じゃないけど……」

 

 そうぼやきながら、黒川君はドアを開ける。そこはまったく想像していなかった、驚きの光景が待っていた。

 

 壁に貼られたたくさんのポスター。アニメや漫画のキャラクターが描かれたものはもちろん、格闘技のものと思われるポスターも多かった。

 机の上に置かれた多くの人形。本当の名称は『フィギュア』だっただろうか。

 そして本棚には、様々な本が並べられていた。漫画やライトノベルを初めとして、アニメの情報誌、格闘技の雑誌や教本、植物や動物の図鑑などがあり、まさに『ごった煮』だった。もちろんいい意味でだ。

 

「すごい……」

 

 私の部屋とは全く異なる空間を目の当たりにして、思わず言葉が漏れる。今までは彼だけの領域だったこの部屋に入ることが出来ているということに、興奮が収まらなかった。

 

「すごい……のかな? かなりごちゃごちゃしてるし、机なんてフィギュアだらけで宿題とかするスペースもあんまりないんだけどね……」

 

「そ、そんなことないと思います。これなんて可愛いじゃないです……か……」

 

 あまり考えずに指を差した先にあったのは、水着姿の大きな――20cm以上はあるだろうか――フィギュアだった。胸、お腹、太ももなどが強調されたデザインを見て、顔が熱くなった。そんな私とは対照的に、赤い髪をしたフィギュアの女の子は、白い歯を見せて笑顔を振りまいていた。

 

「ああ、いいチョイスだね。1週間前に買ったやつだけど、俺も一番気に入ってるかな? 1万円越えだったけど、損したとは全く思わないね」

 

「い、いちまん……って、そんなにするんですか!?」

 

 黒川君はさらっと口にしたが、その値段に私は驚きを隠せない。彼の部屋にあるフィギュアはこのひとつだけではない。大きさの差異こそあれど、適当に数えても数十は確認できる。そう考えると、かなりお金がかかっていることは間違いなかった。

 

「以前はもっと安かったんだけどね。このくらいの大きさでも7千円前後だったんだけど……。まあ、その分クオリティもかなり上がってるから、そんなに文句を付けようとは思わないけど」

 

「……そうなんですね」

 

「うん。……そんなことより何かつまめる物と飲み物用意しないとね。麦茶とドライフルーツって、村上さんは大丈夫?」

 

「あっ、はい。好きですよ」

 

「それならよかった。それじゃあ、少し待ってて。その辺りにあるクッション、適当に使って座ってていいから」

 

 そう言って黒川君は部屋をあとにし、私だけが残る。『お構いなく』と言っておくべきだっただろうか。

 

 

 

 

「…………」

 

 気付けば私は、先ほどのフィギュアを凝視していた。

 私はフィギュアがどのようにして作られているのかは全く知らないが、色塗りのはみ出しやムラが見受けられないことや、爪にまで綺麗に色が塗られているところを見るに、完成度が高いことは容易に理解できた。

 

「……そのフィギュア、気に入った?」

「……きゃっ!?」

 

 ずっと見ていたせいで、黒川君が戻ってきたことに全く気が付かなかったらしい。彼の言葉を耳にして、思わず飛び上がってしまった。――今日は、驚いてばかりだ。

 

「いっそのこと村上さんもフィギュア買ってみたら? おすすめのやつを教えることならできるけど……」

 

「え、えっと……考えておきます……」

 

 正直に告白すると、私はフィギュアに興味を持ってしまっていた。とはいえ、1体でもかなりの高額であることから、気軽に手が出せるものではない。なので、今は曖昧な返答をすることしかできなかった。

 

「このタイプなら4~5千円だから、比較的買いやすいんじゃないかな? 店にもよるけど、値崩れして安くなってるのもあるからね」

 

 そう言って黒川君は、机の上に置いてある小さなフィギュアを手に取る。2頭身ほどのデフォルメされたもので、小さいとは言っても普通のフィギュアに比べてであり、大きさはそれなりにあった。

 

「まあ、今すぐ買えって強要するつもりはないし、本当に欲しいと思ったら買えばいいと思うよ。安くはないからね」

 

「……そうですね」

 

「そんなことより、これ食べれる?」

 

 黒川君は、テーブルに置かれたトレーを指差す。そこには大きなピッチャーに入った麦茶と、氷の入ったガラスコップがふたつ、そしてお皿には2種類のドライフルーツがあった。

 

「これは……イチジク、ですよね? でも、この茶色いのは分からないです……」

 

「村上さんは、デーツ……ナツメヤシって言った方がいいのかな? ……その名前、聞いたことある?」

 

「……あっ、そういえば」

 

 以前世界史の授業の際、その名前を聞いたことを思い出す。中東や北アフリカなどでよく食べられていて、『神が与えた食べ物』とも言われていると聞いたことも思い出した。

 全く興味がなかったわけではないが、『多分手に入らないだろう』と思っていたためにさほど強く記憶に残っていたわけではなかった。まさか、黒川君の家でお目にかかることができるとは。

 

「かなり甘いから、好みが分かれるかもしれないけど……口に合わなかったら吐き出してもいいからさ」

 

 黒川君はピッチャーの麦茶をコップに注ぎ、私に差し出す。それを私が受け取ると同時に、デーツをひと粒つまんで口に入れた。

 初めて口にするものではあるが、甘いものが好きな私なら恐らく大丈夫だとは思う。当たり前の話だが、仮に口に合わなかったとしても吐き出すようなことをするつもりはない。

 

「じゃあ、いただきます……」

 

 意を決してひと粒を手に取り、口に入れて咀嚼する。

 

「……!」

 

 初めに感じたのは、濃い甘さ。しかしながら、砂糖菓子のようにぎとついた甘さではなく、口の中がべたつかない。加えて、『旨み』とでも形容できる味わい深さも感じられる。

 気が付けば私は、中に入った種を口から出すと、無意識にもうひと粒を取って咀嚼していた。

 

「……気に入ってくれてよかった」

 

「……あっ、ご、ごめんなさい。すごく美味しかったので……」

 

 ふたつ目を飲み込んだと同時に、黒川君は満足そうに呟く。

 まずい。意地の張った食べ方をしてしまった。

 

「それなら、イチジクも大丈夫かな? よかったらそれも食べてみて」

 

 勧められるままに、イチジクのほうも口にする。

 これも非常に美味しかった。スーパーの果物売り場などで売っている生のものとは大きく印象が異なり、独特の香りもなく食べやすい。さらに種――後から聞いた話だが、実際には種ではなく実らしい――のぷちぷちとした食感も癖になる。

 

 気付けば私は、このふたつのドライフルーツの虜になっていた。

 ただ、さすがに食べ続けると口の中がべたついてくるので、麦茶で口の中を潤わせ、糖分を洗い流す。

 

「……あら?」

 

 飲んでみて分かったが、今まで飲んだ麦茶とは大分違う。渋みは全くなく、風味と香りが引き立っている。加えてのど越しもいい。

 

「その様子なら、味の違いに気付いたかな? 村上さんも敏感みたいだね」

 

 私の反応に、黒川君はにやりと笑みを浮かべた。

 

「何か、特別な麦茶なんですか?」

 

 この麦茶といい、ドライフルーツといい、いいものばかりご馳走になってしまっている。近いうちに何かお礼をしないといけない。

 

「いや、麦茶自体はどこにでも売ってる普通のやつ。でも、水は天然水を使ってる」

 

「まあ……」

 

 さすがのこだわりようだ。お茶に限った話ではなく、料理を作る際にも水は大事だ。少し前に見たテレビ番組でも、出汁を取るのには天然水がいい、といったことが放送されていた。

 

「それも店で買ったものじゃなくて、汲んできた」

 

「えっ……えっ!?」

 

 黒川君の口から飛び出した全く持って予想外の言葉に、思わず私は2度聞き返してしまった。

 『汲んできた』とは。まさかこの辺りに湧き水が出る場所があるということだろうか。そんな場所は山奥にでも行かないとないと思っていたので、驚きは非常に大きかった。

 聞けば、最寄り駅からいくつか電車を乗り継いだ先の駅のすぐ近くに山があり、その麓に湧き水が出ている場所があるとのことだった。無料で汲むことができるため、汲みに来る人が後を絶たず、大きなポリタンクを持って汲みに来る人もいるそうだ。

 黒川君もそのひとりで、週に2回くらいのペースで汲みに行くそうだ。一度に10リットル前後は汲むが、2~3日でなくなってしまうらしい。

 

「でもそれだと、交通費がすごくかかりませんか?」

 

「それが嫌だから自転車こいで行ってるよ。片道で1時間近くかかるし疲れるけど、好きでやってることだから面倒には感じないかな。運動する名目にもなるしね」

 

「……すごいですね。……黒川君は、本当に何でも知ってるんですね」

 

「……前にも言ったけど、ただ物好きなだけだよ。水を汲む人が多いとは言っても、俺くらいの年の人なんてひとりもいないからね」

 

「…………」

 

 私はただ、驚嘆するばかりで言葉が出なかった。

 黒川君の家に来て、彼は多くのことに対して造詣が深いことを改めて私は実感した。1時間近く自転車をこいで水を汲むということをここまで定期的に行えるというのは、本当に好きだからこそ成せることだろう。以前も同じことを考えたが、物好きなことはいいことだと私は思う。

 

 

 

 

「……村上さんはさ、つまらなくない?」

 

 だがそんな私に向けて黒川君は意外な言葉を口にする。少しだけ困ったような、悲しんでいるような、どちらとも取れる表情で。

 

「……えっ? どういうことですか?」

 

「水にしても、ドライフルーツにしても、フィギュアにしてもそうだけど、どれも村上さんは興味がそこまでなかったものでしょ? そんなことをぺらぺら得意げに話されても、ちんぷんかんぷんでつまらないだけなんじゃないか、ってね……」

 

「…………」

 

「俺ってさ、自分の趣味を他の人にひけらかすって言えばいいのかな……とにかく、話したがる癖があってさ……。高校からはほとんどしてないけど、中学まではそういうことばかりして、空回りすることも多かったから」

 

「…………」

 

「『俺は何もしてねえよ』って思いたいけど、いじめの原因はこれでうざがられたことなんじゃないかなって、たまに思うからさ……」

 

 

 

 

「そんなこと、ありませんよ」

 

 俯きながら言葉を漏らす彼の手を取り、私ははっきりと言い切った。

 

「つまらないなんて、少しも思っていませんよ。むしろ、すごく興味が湧いてるんです」

 

「……そうなの?」

 

「はい。私は読書くらいしか趣味って言えるものがないですから、他にも何か趣味ができたらいいな、って思ってたんです」

 

「…………」

 

「黒川君の趣味を、私も好きになりたいです。色々なことで黒川君と話せるようになりたいんです。だから、心配しなくても大丈夫ですからね」

 

 私が興味を持てたのは、黒川君の説明の上手さも関係していると思う。フィギュアの場合は値段や完成度の変遷、ドライフルーツの場合は歴史的背景、湧き水の場合はどうやって汲みに行っているのかといった、引き込ませるエピソードを話に組み込んでいる。

 黒川君の言うように、いずれも興味がなかったものなのは間違いないが、彼の話はそれを興味深いものへと変えてくれた。

 

「そう言ってくれるなら、ありがたいんだけど…………」

 

 私の言葉に、黒川君は頬をかき、視線を逸らしながら呟いた。何か気まずそうなものが感じられるその表情に、何かまずいことでも言ってしまったのだろうかと少し不安になる。

 

「……まあいいや。ありがとう、村上さん」

 

 しかしすぐ表情は元に戻り、感謝の言葉を私に述べた。

 何であんな表情になっていたのか気になるが、変に尋ねるのも野暮というものだろう。

 

 

 

 

「おーい将平。帰ってるか? 入るぞ」

 

 そんな中、別の人の声が部屋の外から聞こえた。黒川君の名前を呼んでいたことから、恐らく彼のお父さんだろうか。

 

「なっ!? おい、ちょっと待ってくれ!」

 

 それに黒川君はかなり驚き、慌てた様子で制止の言葉をかけるが、それは届くことなく、ドアはガチャリと音を立てて開かれた。

 

「石鹸ってどこにしまってた…………っけ?」

 

「…………」

 

「あ、お、お邪魔してます……」

 

 三者三様の反応だった。ぽかんとした表情の黒川君のお父さん、がっくりと項垂れる黒川君、お父さんに会釈する私。

 それからしばらくは、沈黙が続いた。

 

「……将平、ちょっと来い」

 

 最初に沈黙を破ったのは、黒川君のお父さんだった。黒川君に手招きし、自分のところへ来るように促す。

 

「……はぁ。村上さん、ちょっと待ってて」

 

 大きくため息をついて腰を上げた黒川君は、私にそう告げると部屋を出て行った。ドアが閉まり、再び静寂が訪れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「な、ななな、何がどうなってるんだ!? あのめちゃくちゃ可愛い子は誰なんだ将平!?」

 

「彼女だよ! 文句あるか!?」

 

「か、彼女!? 『一生独身で過ごす』って言ってたのにか?」

 

「それ幼稚園の時に言ってた言葉じゃねえか! そもそも、何でこんな早く帰ってきてるんだよ……」

 

「思ってた以上に早く終わってな。明日は休みだし、少しはぐうたらしたいから早く帰ってきたんだ」

 

「まあ、早く帰ってくるのはいいけど、いいとも言ってないのに部屋のドア開けんなよ……」

 

 最悪という言葉は、まさにこういった状況に対して使うべきだろう。いずれ親に顔を合わせることになるのだろうと考えてはいたが、まさか初日にこんな巡り会わせをしてしまうとは全く予想していなかった。

 

「それにしたって、好きな女がいるなんて素振り全く見せてなかったじゃないか」

 

「……向こうから告白してきたんだよ」

 

「……本当か? そりゃすごいな……」

 

 からかわれるかと思ったが、父親は素直に感心しているようだった。まあ、そこまで空気の読めないことをする人間ではないので、そこまで驚きはしないが。

 

「それで、どんな子なんだ? 見た感じおしとやかそうだけど……」

 

「分かった。飯の時に好きなだけ話してやるから、今はそっとしてくれ……。あと、石鹸は洗面所の一番上の棚にあるから」

 

 村上さんを部屋に残したまま、父親といつまでも話してるわけにはいかない。部屋に入る際に言っていた石鹸のありかを教えると、俺は父親を押し出して部屋から遠ざけた。

 

「とりあえず将平、また連れてこい」

 

 最後に父親はそんなことをのたまった。

 

「言われなくてもそのつもりだよ。でもしばらくは親父に会わせることはしないからな。何しでかすか分からねえんだから……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日も沈みかけてきたので、私は帰る旨を黒川君に伝えた。すると駅まで送ってくれるとのことだったので、お言葉に甘えることにした。

 

「ありがとうございます。送ってもらっちゃって」

 

「まあ、このくらいはしておかないとね」

 

 他の人が聞けば、義務感からそうしたように聞こえる言葉ではあるが、私にはそうは思えない。黒川君は、自分から進んで送ってくれると言っていたのだから。

 

「……すごく、楽しかったです。黒川君のことを、たくさん知ることもできて」

 

「……俺も、すごく楽しかったよ」

 

「えっ?」

 

「今まで俺は、誰かを家に連れてく――いや、それどころか、家の場所だって絶対教えない、って決めてた。だけど、今日村上さんに来てもらって、色々と考えも変わった気がするからさ」

 

「……友達も呼べたらいいですね」

 

「……そうだね。今はまだ、村上さんしか呼びたい人はいないし、友達って呼べる人間もいないけど」

 

 今は、彼の色々なことを知っているのは私だけという独占欲に浸っているが、それがいつまでも続くのは好ましいことではない。彼にはもっと多くの信頼できる人ができて然るべきだ。

 ただ、それでもふたりだけの時は――――。

 

「あのっ、黒川君」

 

「……ん?」

 

「明日は、何か予定ってありますか?」

 

「いや、何もないけど……?」

 

「そ、それなら、また明日、来てもいいですか?」

 

「……えっ?」

 

 ふたりだけの時は、独占したっていいだろう。多少強引な気もするが、尻込みしてばかりの自分の性格を少しでも変えるためでもあると言い訳することにした。

 

「……俺は大歓迎なんだけど、明日は親父も休みだからな……」

 

「そうですか……」

 

 仲が悪いということではないと思うが、扉越しに黒川君と彼のお父さんとの会話を聞いた限りでは、私をお父さんに会わせたくないようだった。

 私は何も問題はないし、気恥ずかしさが黒川君にあるだけなのかもしれないが、変に詮索するのもよくないだろう。

 

「それなら、湧き水のところに行ってみない?」

 

「湧き水って……あの麦茶の?」

 

 しばらく考えるような仕草をしていた黒川君は、私にそう提案してきた。

 

「……出かける場所としてはあまりにも場違いなのは承知してるけど、映画は何がやってるのか知らないし、ゲームセンターってのもなんか違う気がするから、どうせならありきたりじゃない場所がいいかなって思ったんだけど……」

 

「……はい、行ってみたいです」

 

「もし嫌だったら忘れて……って、いいの?」

 

 私の返答に、黒川君はかなり驚いた表情を見せた。彼は断られると思っていたのかもしれないが、そんなことはない。彼と趣味を共有できるようになりたいと思う私にとって、その誘いは願ってもないことだった。そういった場所にはほとんど行ったこともないため、期待値も高かった。

 

「……そっか。じゃあ今日と同じくらいの時間に駅集合でいいかな? 改札通ると余計に金かかっちゃうから、着いたら連絡してくれればいいから」

 

「はい、分かりました。気を遣ってくれて、ありがとうございます」

 

「いや、いずれにしても電車降りないといけないから、面倒なことをさせちゃってるんだけどね……でも、行き違いになるのは何か嫌だからさ……」

 

「いえ、気にしないでくださいね」

 

「…………」

 

 私がそう答えると、黒川君は空を仰ぎ見て、しばらくの間無言で佇んでいた。

 

「……村上さん。俺は他の男と違ってかなり変わり者だけど、これからもよろしくね」

 

 そして、私の方に視線を戻し、大きく息を吐いた後にそう言った。今日一番の、満足した笑みを見せながら。

 

「……はい!」

 

 今日は本当に素晴らしい一日だったと、心から思うことができた。こんな日が、ずっと続いてほしい。

 

 

 

 




プロットを考えるのはそれほど難しくなくても、それを説得力のある文章に表現するのは難しい。

自分の文章に説得力があるかは分からないが、それでも書き終わったときの達成感は何物にも代え難い。


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湧き水汲み

 

 

 

 

「…………」

 

 昨日もそうだが、今日はすっきりとした目覚めだった。まるで今までの寝起きの悪さなど、初めからなかったかのように感じられるほどに。

 

 村上さんと約束した時間まで、まだかなりあるが、余裕を持っておくに越したことはない。俺は身体をベッドから起こし、ダイニングへと向かった。

 

 

 

 

 

 

「珍しいな、こんな早い時間に」

 

 ダイニングでは、すでに起きていた父親がニュース番組を見ながら朝食をとっていた。昨日は『ぐうたらしたい』と言っていた割に規則正しい生活リズムを維持していることは、俺も見習わないといけないだろう。

 

「今日はちょっと予定があるからね。時間まではまだあるけど、早く起きれたならそれに越したことはないし」

 

「もしかして、昨日の()……村上さんだったか? その娘とデートか。羨ましいな、まったく」

 

「……母ちゃんに言っちまうぞ、今の言葉」

 

「冗談だ。それで、どこに行くつもりなんだ?」

 

「……湧き水のところだけど」

 

「…………それ、本気で言ってるのか?」

 

 こういう反応をされることは察しが付いていた。目をぱちくりさせながら、半ば呆れた表情の反応は、多分父親以外の人間もしたに違いない。母親はまだ分かってくれそうな気もするが。

 

「しょうがないだろ……俺の性格考えたら、映画館とか服屋とは無縁だってことぐらい分かるだろうが……」

 

「まあ、それがお前のいいところでもあると思うけどな、俺は」

 

 ため息をつきながらぼやいた俺に対し、父親は表情を嬉しそうなものに一変させる。

 

「俺は女じゃないから知ったような口は利けないけど、俺が女だったら映画館とかのようなありきたりな場所より、そういうところの方がずっと行ってみたいと思うけどな」

 

「…………」

 

「それに村上さんも、嫌な顔をしたわけじゃないんだろう?」

 

「……まあね。『行ってみたい』とは言ってくれたけど」

 

「それなら何も問題はないな。悪かったな、変なこと言って」

 

「いや、別に謝る必要はないと思うけど……」

 

 変なところで気が利くというか、しっかりしているというか。俺の考えを妙に立ててくれるのはありがたいと言えばありがたいが、客観的に見れば出かける場所にはふさわしいものとは言いがたいのは間違いないので、謝られる義理まではない。

 

「それに将平。お前のここまで生き生きとした表情を久しぶりに見れて、俺は本当に嬉しいよ」

 

「…………」

 

「村上さんは、本当にすごい娘なんだな。俺や母さんがそれをできなかったのは歯がゆいと言えば歯がゆいけど、それでも本当に良かった。何も話を聞けなかったから、お前が高校でどんな生活をしてるのか心配だったけど、杞憂だってことが分かったからな」

 

「……別に、親父や母ちゃんを信用してないわけじゃないよ。正直俺も、変に溜め込みすぎてたなとは思ってたし」

 

 俺が両親に高校生活の現状を相談できなかったのは、学内の人間のように信用していなかったからと言うよりは、これ以上俺の尻拭いをさせたくなかったからというのが大きかった。

 学費などはともかく、柔術の会費や嗜好費などで、俺は両親からかなり恵んでもらっている。それらに加え、進学予定の高校入学が取り消された際、聖櫻の方へ入学することができたのは間違いなく両親が奔走してくれたからだろう。

 それで信用しないという考えに至るほど、俺は薄情者にはなりたくなかった。

 だが、それで厭世観(えんせいかん)に浸り続けるというのは正直もうごめんだ。やばいと思ったら、多少は相談する方が息苦しくない。

 

「……前も言ったけど、何かあったら遠慮しないで言え。子供の悩みも分かってやれないようじゃ、親の資格なんてないからな」

 

「……ありがとうね」

 

 昨日はあんなことを言ってしまったが、父親に村上さんを会わせても問題はないだろうか。それなら単身赴任に行く前に、一度くらいは――――。

 

「……そんなことより、いつになったらまた家に連れて来るんだ? 早く話がしてみたいんだよ」

 

 ……前言撤回。やはり父親は父親だった。

 子供のように目を輝かせながらそんなことをのたまってきた。

 

「……少なくとも単身赴任から帰ってくるまでは、親父には会わせない」

 

「な、何でだ!?」

 

「昨日も言っただろ。何しでかすか分からない。親父よりはまだ母ちゃんの方がまともな対応してくれるよ」

 

「くそっ……くそっ……そんなに信用されていないのか、俺は……」

 

 頭を抱えてテーブルに突っ伏し、嘆く父親だった。

 ……まあ、とりあえず会わせるか否かは、少し考えることにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 電車を何本か乗り継ぎ、湧き水が出る場所の最寄り駅に私と黒川君は降り立った。改札を抜けて少し歩くと、果樹のものと思わしき畑が数多くある。都内らしからぬのどかな光景を目の当たりにして、爽やかな気分になる。

 

「この辺りは梨が有名な地域なんだよ。ここで作られた品種もあるしね」

 

「そうなんですね」

 

 梨は好きな果物だ。そのまま食べるのはもちろんだが、何年か前に食べた梨のケーキがとても美味しかったことを思い出す。

 たくさんの品種があり、品種ごとの味の違いを楽しめることも魅力のひとつだと思う。私が知っているのは、幸水(こうすい)豊水(ほうすい)二十世紀(にじっせいき)などの一般的な品種くらいだが。

 

「もうすぐで着くよ」

 

 しばらく歩いていくと、黒川君がそう言うと同時に川が見えてきた。川を挟んで右側には、今日の山においてよく見かける針葉樹が植えられた林ではなく、多種多様な広葉樹が見られる、文字通り『雑木林』があった。見渡した感じでは、どうやら山になっているらしい。

 

「いいところですね……」

 

 川の方も視界に入れたところで、私は思わずそう呟いた。住宅街を流れる川は、基本的にコンクリートで固められて川岸と呼べるものがない場合が多いが、この川は砂利の川岸があり、アシなどの水辺に生える植物もたくさんあった。

 

「カワセミもよく飛んでくるから、水質もいいんだろうね」

 

 さらに上流側に目をやると、腰を下ろせるコンクリートのスペースもあった。これからの時期は暑くなるのでさすがに難しそうだが、涼しい時期に読書をするには最適の場所かもしれない。穏やかな川の流れを視界に時々入れながら読書をすることを想像したら、気持ちが高揚してきた。

 湧き水の有無に関係なく、私はここが気に入った。

 

「ほら、ここがそう。他に汲みに来てる人もいないみたいだし、ちょうどよかった」

 

 黒川君の言葉に視線を川の方から移すと、そこにはテレビでしか見たことのなかった光景が広がっていた。

 岩に刺さったパイプから、勢いは強くないが透明な水が流れ続けている。初めからこんな状態ではなかっただろうから、水源を整備しているのだろう。水のおかげか、それとも太陽を遮る雑木林のおかげか、かなり涼しい。暑い時に涼むには絶好の場所と言える、まさに自然のクーラーが効いていた。腰を下ろせるベンチでもあれば読書が捗るのに、と考えてしまうのはさすがに贅沢だろうか。

 

「あ~、くそ暑い」

 

 そうぼやきながら、黒川君は背負っていたリュックサックを下ろし、ファスナーを開けてタオルを取り出し首にかけると、湧き水の方まで歩を進める。流れる水を手に取り、勢いよく顔を洗った。続けざまに、手に取った水をごくごくと飲み始める。

 

「あ~、生き返る」

 

 タオルで顔を拭いて呟く黒川君の表情は、学園内では見たことのない、非常に生き生きとしたものだった。

 

「……普段はこんな独り言を言うことはないんだけど、他の人と一緒に来たのは初めてだから、ついテンション上がっちゃってさ……」

 

 その様子がずっと見られていたことに気まずさを感じたのか、黒川君は弁明するように言葉を発した。

 『弁明』と言いはしたが、私は今の行動が気まずくなるようなものとは全く思わないし、むしろ黒川君の生き生きとした表情が見られて嬉しかった。

 

「その水って、そのまま飲めるんですか?」

 

 なので私は、話を逸らす意味も込めてそう尋ねた。見た感じでは湧き出たばかりの水であること、黒川君は躊躇うことなく飲んでいたことから全く問題はなさそうだが。

 

「……ああ、立て看板には『煮沸しろ』って書かれてるけど、俺は完全無視してるね。1年以上そのまま飲んでるけど、死んでないし、腹を下したことも1度もないからね。あくまでも、そのまま飲んで腹下しても責任は持てないってことなんだと思う」

 

「そうなんですね。それじゃあ……」

 

 私も黒川君に倣い、湧き水の方まで歩を進め、手にとって口に含む。その時点で、水単体で飲むことがあまりない私でも、水道水との違いがはっきりと分かった。

 消毒に使う塩素の臭いがしないことはもちろんだが、まろやかさというか、『甘さ』とでも表現できそうな『味』があった。お茶や料理に適しているであろうことはもちろんながら、そのまま飲んでも美味しいと言える。

 

「こんな素敵なところがあったんですね……」

 

 私は改めて周囲を見渡しながら、しみじみと呟く。自分の行動に対して『しみじみ』という表現を使うのは、少しおかしな気もするが。

 

「……気に入ってもらえたってことで、いいのかな?」

 

「はい、とても。私だけだったら、こういう場所があるってことにも気付かなかったでしょうから」

 

 少しばかり不安そうに尋ねる黒川君だったが、その心配は無用なものであるということの証明のため、私は間を空けずに言葉を返した。

 

「それならよかった。さて……」

 

 安堵の表情を浮かべた黒川君は、下ろしたリュックサックの口を開けると、中から空のペットボトルを4本取り出し、湧き水をそれに注ぎ始めた。全てに水が満ちると、リュックサックの中へしまって背負う。

 

「……重くないですか、それ?」

 

 4本とは言っても、2リットルのペットボトルなので、全てに水が満ちれば重さはかなりのものとなる。黒川君はあまり大変そうな表情をしていないが、それでも少し心配になる。

 

「正直言って重いよ。いつもは自転車のかごに入れて帰るから大した苦労はしないけど、今回は電車だからね。でも普段は6本分持ち帰るわけだし、そこまで気にしなくても大丈夫だから」

 

「……それでしたら、1本は持たせてください」

 

 力のない私では、持てても1本が限度だろう。しかし、彼にだけ重いものを背負わせておくというのはいい気分ではない。1本でも持てば負担はそれなりに軽くすることができるはずだ。

 黒川君の性格上断ってきそうにも思えるが、そうなったとしても食い下がろうと思う。

 

「……それなら、お願いしようかな」

 

 しかし私の予想とは裏腹に、黒川君はあっさり私の申し出を受け入れてくれた。

 

「じゃあこれは、村上さんにあげるよ」

 

 リュックサックから1本取り出し、そう言いながら私に差し出す。

 

「これなら村上さんに持ってもらう理由にはなりそうだからね。それにせっかく来たのに何も収穫なしってのも寂しいし。これがお土産って言えるかはかなり微妙だけど」

 

「いえ、そんなことはありません。大切に使いますね」

 

「……まあ、俺より村上さんの方が上手く使いそうだね。俺はそのまま飲むか、お茶用にしか使わないから」

 

 黒川君はそんなことを言うが、料理をほとんどしない私にとってこの水の使い道は、彼と同じようにそのまま飲むかお茶に使うかの二択になってしまうだろう。使い方が上手いのは、お母さんの方だと思う。

 

「……あっ」

 

 お母さんのことを考えていて思い出すことになったが、私はまだ両親に黒川君と付き合ったことを話していない。彼のことを何度か話したことはあるが、それでも名前を出しはせず、『同じ委員の男子』という感じで濁して話していた。

 話を聞いていた両親からは、黒川君の評価はいいものだったので(以前お母さんは『付き合ってみたら?』と言ってきたことがある)、付き合ったことを報告しても変なことは言われないと思う。

 

 とは言え、気恥ずかしさは非常に強かった。何とか受動的に気付く形になってくれないだろうかとも思うが、この水を持ち帰ったら、そこから話が展開されて(いや)(おう)でも話さなければいけなくなってしまうに違いない。ただ、それを避けるためにこの水を『やっぱりいらない』と言って返してしまうのは、黒川君にも失礼だ。

 ここは往生際の悪い真似をするべきではない。恥ずかしさに負けてばかりいるようでは、黒川君の支えになるという思いに嘘をつくことになってしまうのだから。

 

「……どうしたの、顔赤くして?」

 

「い、いえっ! 何でもありません!」

 

 ひとりで勝手に恥ずかしがっている私に当然の疑問を投げかけてきた黒川君へ、私は大きく首を振って誤魔化した。

 

 

 

 

 

 

 その後私は黒川君に連れられ、川沿いの道を進んだ先にあるショッピングモールへと赴き、本屋で本を買ったり、喫茶店でお茶を飲んだりして時間を過ごした。

 帰りの電車で別れる際も、彼は私の姿が見えなくなるまで駅のホームに立って見送ってくれていた。

 

 

 

 

 余談だが、水の入ったペットボトルは私の小さい鞄に入らないため、ずっと抱きかかえることになったせいで周囲からの視線に晒されたり、案の定水を見つけた両親に黒川君のことを話すことになり、しつこいくらいに『連れてきなさい』と言われたりして、私は予想以上の恥ずかしさに襲われることになった。

 それでも、今日は昨日とはまた違う方向性でいい日だった。知らないことを知ることが出来たという意味では共通するが、気分が高揚し続けた昨日とは対照的に、今日は心が穏やかになった日だった。

 二日連続でこんな経験ができるのは、贅沢だとも感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もちろん、俺は忘れてなどいない。彼女と共にたくさんのことを経験できたからといって、あいつに対する復讐心を忘れられるような聖人君子ではないのだ。

 

 死んでもあいつは叩き潰す。

 俺の報復攻撃(ホウフクコウゲキ)が、これから始まる。

 

 

 

 



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ホウフクコウゲキ

 

 

 

 

 黒川将平が村上文緒と結ばれた日の夜、ある人物の携帯電話が鳴り響いた。その持ち主は、画面に表示された名前――つまり、電話帳に登録してある――を見て、慌てた様子で手に取ると、連打するように通話のボタンをタップする。

 

「しょ、将ちゃんか!? どうした!?」

 

 鳴り響いた携帯電話の持ち主は、芹澤一二三。彼の元へ電話をかけてきたのは、彼が今現在もっとも気にかけている人物である、黒川将平だった。

 『もう放っておいていい』と言った彼から電話がかかってきたことに、芹澤は期待と不安が入り混じった感情で応対する。

 

「芹澤くん……ひとつ頼みたいことがあるんだけど、いいかな?」

 

「……あ、ああ! 何でも言ってくれ!」

 

 黒川の口から放たれたのは、頼み事だった。それに対して芹澤は頼み事の詳細を尋ねない。『何でも言ってくれ』という返答は、言葉通りの意味を持っていた。

 

「俺を襲いやがったクソ野郎をぶちのめそうと思うんだけど、何とか引きずり出すことって出来ないかな? 芹澤くん、そういうのが得意そうに思ったから……」

 

 芹澤の行動力の高さが、他校の人間を引きずり出すことに役立つかどうかは、黒川の勘でしかなかった。黒川が芹澤を当てにしたのは、行動力の高さと言うよりも、『何があっても、俺は将ちゃんの味方だ』という彼の言葉を頼ったためと言う方が近いだろう。

 

「……ああ。そういうのは大得意だから任しときな。それで、どうする? 全員まとめておびき出してやっても問題ないけど」

 

 ただ、その勘は見事に的中した。友人を自殺未遂に追いやった人間を叩き潰した時から、芹澤の情報収集能力はかなり高いものとなっていたのだ。

 

「いや、正直どうでもいいんだ。ニンニク鼻の野郎以外はね……」

 

「…………」

 

「……あのくそったれだけは、この手で処刑してやらないと気が済まないからね……。何があっても、俺はあいつを狩る」

 

「…………そうか、分かった」

 

 どす黒く濁った憎悪が、電話越しからでも伝わる。今までに聞いたこともなかった黒川の声音に、芹澤は冷や汗を流すものの、すぐに心を落ち着かせた。

 

「それなら、来週の月曜の放課後までに何とかするよ。本当は明日すぐにでも将ちゃんのところに引っ張り出してやりたいけど、他校となると情報集めないといけないからな……」

 

「いや、無理しないでよ。というか月曜日までって、早くない?」

 

「いや、そんぐらいあれば十分だ。あの手の連中の行動パターンは手に取るように分かる。土日どこに出かけてるかなんてのも余裕だ」

 

「そ、そうなんだ……」

 

 芹澤の自信たっぷりの言葉に、黒川は感心半分、呆れ半分の様子だった。

 

「ところで将ちゃん。俺からもひとつ確認しておきたいことがあるんだけど、いいか?」

 

「?」

 

「……ニンニク鼻以外はどうでもいいってことは、ニンニク鼻以外の連中を俺が狩っても問題ないってことでいいんだよな?」

 

「えっ……? まあ、そうなるのかな?」

 

「ありがとう将ちゃん。俺も久しぶりに、マジでむかついてるからな……ぜってえ許さねえ、あのくそったれ共が……」

 

「……お、俺がこんなことを言うのもあれだけど、あんまりやりすぎないようにね?」

 

 黒川の方もまた、怒りをたぎらせた芹澤の声音に冷や汗をかいていた。苦笑い気味にそう伝え、何とか芹澤の感情を和らげようとする。『やりすぎないように』という言葉を伝えられたのは、今日文緒が彼に同じことを言ったことが影響しているのは言うまでもなかった。

 

「その辺りは気をつける。あの手の連中は一撃食らわせればそれで終わりだしな」

 

「分かった。それなら芹澤くんを信じるよ。……ありがとう」

 

「…………」

 

 黒川の口にした感謝の言葉は、今までとは違いゴマすりの意図など全くなかった。純粋な感謝の意を示したものだった。

 芹澤も電話越しながら、今までとは明らかに違う言葉の重みにしばし沈黙する。

 

「それじゃあ、あいつを引きずり出したら将ちゃんにすぐ連絡する。悪いけど、それまで待っててくれ」

 

「うん」

 

 黒川の返答を確認した芹澤は、通話を終える。大きく息を吐き、「よし、やってやろうじゃねえか……」とゆっくり呟く。黒川のために動くことが出来るという高揚感と、彼を袋叩きにした連中への怒りが入り混じった感情が、芹澤の心中に渦巻いていた。

 

 

 

 

 

 

 翌週の月曜日の放課後。ホームルームが終わってから30分近い時間が経過していたが、黒川は席に座ったままじっとしていた。黒川以外に教室に残っているのは、わずかに不安そうな表情を浮かべた、文緒だけだった。

 

「……ん」

 

 そんな中、黒川のポケットに入ったスマートフォンが震えだす。画面を確認すると、芹澤からの電話だった。通話のボタンをタップし、スマートフォンを耳に当てた。

 

「もしもし、芹澤くん? うん……うん……分かった。すぐ行くよ」

 

 20秒にも満たない短い通話を終え、黒川は席から立ち上がる。文緒の方へ視線を向け、小さく頷くと、教室を後にしていった。

 

 

 

 

 

 

 黒川が向かった先は、聖櫻学園からそう遠くない場所にある野原だった。見晴らしがよく、レジャーシートを敷いて食事をするには最適の場所と言える。しかしながら、今は時間も中途半端なせいで、黒川と芹澤、そして『ニンニク鼻』と呼ばれた稲山二校の1年生以外には誰もいなかった。

 

「将ちゃん、こっちだ!」

 

 黒川の姿を確認した芹澤は、大きく手を振って叫ぶ。彼のそばにいた1年生は、小突かれでもしたのか僅かに鼻血が垂れている。黒川が辿り着くと同時に、不満げな表情で悪態をついた。

 

「て、てめえら……ふたりがかりで俺を袋にするなんて卑怯な真似しやが……あぎゃっ!」

 

 しかし、言い終わる前に芹澤の裏拳が顔面に炸裂する。かなり手加減したものであったが、血の垂れた鼻に当たったこともあって威力はそれなりにあったようだ。鼻を押さえてうずくまる。

 

「ひとりを10人がかりで襲いやがった奴の言う言葉じゃねえだろ。それにてめえを狩るのは俺の役目じゃねえよ」

 

 芹澤は視線を黒川の方へやりながら、1年生のそばを離れる。

 

「将ちゃん、これで大丈夫か?」

 

「うん、大丈夫。あとは全部俺の仕事だから」

 

 黒川の声音と表情は端から見れば穏やかだったが、実際にはどす黒い憎悪を紛らわせるものでしかなく、それも大して意味を成していないことは、芹澤にも1年生にも、そしてこっそり後をつけて、少しだけ離れた木のそばで見つめていた文緒にも分かり切っていた。

 

「……久しぶりだな、クソ野郎」

 

「て、てめえ……」

 

「てめえをぶち殺すことばかり考えていたから、怪我も普段よりはるかに早く治ってくれた……。今からてめえに『チビ』って言われまくり、蹴られまくって、大切なものまで投げ捨てられた痛みを、全て返してやる……」

 

 背負っていたリュックサックを近くに放り投げ、顔に貼られた絆創膏を次々と剥がし、笑みを浮かべながら黒川は言葉を紡ぐ。傷は綺麗に治っていたばかりか、痕すら見受けられない。本当に怒りが治癒力を高めたのか、元から彼の治癒力が高かったのかは定かではない。

 だが絆創膏を今日まで貼り続けていたのは、挑発の意味合いが込められていたことは間違いないだろう。わざと貼りっぱなしにしていたのだ。

 

「……へ、へへっ。俺のパンチ一発で失神したくせに、何言ってやがんだ? なら今度は、時間をかけていたぶって……」

 

「……てめえなんぞとじゃれ合うつもりなんかないわ。本当は100回くらいぶち殺してやりたい気分だが、生憎俺は約束している人がいる。だから安心しろ。一撃で終わらせてやるわ」

 

「……っ! ひっ、ひぃ……」

 

 必死の強がりは、黒川の全く意に介さない様子で放たれた言葉が終わると同時にかき消された。穏やかな表情から一転、双眸に凄まじいまでの憎悪を宿し、拳を構えて戦闘態勢に入る姿がそこにあった。

 

 神経毒を持つコブラと、出血毒を持つクサリヘビ。2匹の蛇が牙から毒を滴らせる。『早く噛み付かせろ』と言わんばかりに。

 

 かつて小瑠璃が目にした毒蛇の姿が、芹澤、1年生、文緒の3人の目に映る。その憎悪が誰に向けられているかは言うまでもないが、対象以外のふたりも、冷や汗をかくほどに凄まじいものだった。

 

「だけど俺から仕掛けたんじゃつまらねえ。てめえに攻める機会を与えてやるよ。かかってきな……」

 

「……こ、こんの、クソチビがぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 

 逃げることなく向かってきたという意味では、彼はまだ勇気のようなものがあったのかもしれない。だが、それはもはや蛮勇でしかなかった。

 せめて、『チビ』という言葉を使っていなければ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「やっぱりてめえは、ただのゴミだ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぶごっ……」

 

 構えから、パンチか以前食らわされた肘打ちを使ってくると予想していた。しかしその予想は外れる。頭を両手で掴まれ、『しまった』と思った時には後の祭りだった。

 

 跳び膝蹴り。

 ムエタイの教本に載っていた技で、最も黒川が練習に費やした技が、人中――人間の急所――に鋭角に突き刺さった。

 距離にして2m近く吹っ飛び、ドタッという音を立てて倒れた1年生は、白目を剥き、口から泡を吹いて失神していた。

 

 

 

 

 蛇は己の毒を、一瞬で対象に流し込んだのだった。

 

 

 

 

「…………二度と俺の眼前に姿見せんな、ボケ」

 

 追撃したい気持ちはあったが、約束を守るために押さえ込む。見下すような視線を飛ばしながら悪態をついたのは、それを紛らわせるためだったのかもしれない。

 しかし悪態をついて間もなく、怒りと憎悪はみるみるうちに引いていった。追撃する気も、押さえ込む必要を感じなくなるくらいに霧散していく。

 

 

 

 

(跳び膝蹴りをあんな的確に叩き込める人間、初めて見たな……。三角極めたって聞いて戦闘能力高いとは思ってたけど、打撃も出来るなんて……。ここまで強かったのか、将ちゃんは……)

 

(す、すごい……)

 

 芹澤も文緒も、驚きを隠せなかった。芹澤の場合は予想以上の戦闘能力の高さに、文緒の場合は全く予想していなかった戦闘能力の高さに。『予想以上』と『予想外』とで異なりはするが、いずれも黒川の戦闘能力の高さに驚いたということでは共通していた。

 

「将ちゃん、大丈夫か?」

 

「うん……なんとか……」

 

 黒川を労うためと、自身の驚きを紛らわせるために、芹澤は黒川のもとへ近づいて尋ねる。まるで肩の荷が下りたような清々しい表情を、黒川は見せていた。

 

「……芹澤くん」

 

「……ん?」

 

「……よかったら、俺の家に来てよ」

 

「……! ほ、本当に、いいのか?」

 

 『家に来て』。

 他の人間にとっては他愛もない言葉だが、黒川にとってその言葉は非常に重要な意味合いがあった。芹澤もすぐに意図を理解したが、念を押して確認する。

 

「……うん。大したもてなしはできないけど、歓迎するからさ」

 

 それは、黒川が芹澤を『友人』と認めた瞬間であった。

 芹澤一二三は、黒川将平にとって初めての友人となったのであった。

 

「……ありがとな、将ちゃん。これからも、よろしく頼む」

 

「うん。俺のほうこそ、ありがとうね」

 

 冷静に振舞う芹澤であったが、内心ではのた打ち回りたくなるほどに歓喜していた。高桑でも鴨田でもなく、ましてや黒川といつも行動していた二階堂よりも先に、黒川からの信頼を勝ち取った独占欲に入り浸っていた。

 

(うおっしゃああああああああああっ! 見たか3人とも! 動いたから俺はお前らよりも早く将ちゃんからダチって認めてもらえたぞ! 早くお前らもここに来い!)

 

 しかし、いつまでも芹澤は独占欲に浸ってはいなかった。他の3人にもこの喜びを味わって欲しいと願っていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 『怪我の功名』と形容してしまうのは些か語弊がありそうだが、他校の生徒に襲撃されたことは、黒川将平に数多くの恩恵をもたらした。心の底から友人と呼べる人間と、コンプレックスも本性も、全てを肯定してくれた恋人を。

 

 一筋の光を手にし、人生最後の日を新たな人生へと昇華させた彼は、その光を大きくしていく。蛇のごとき生への執念が、そうさせたのかもしれない。

 誇り高き毒蛇の人生は、ようやくスタートラインを離れ始めたのだ。

 

 

 

 



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『友達』と語り合う

文緒どころか、ガールが登場しない話になってしまいました。ごめんなさい。


 

 

 

 

 報復を終えた翌日の放課後、俺は約束通り芹澤くんを家へと案内した。今までずっと行けなかった反動なのか、芹澤くんは『すぐにでも行きたい』と言ってきたので、その期待に応える形となった。

 

「で、でかいな、将ちゃんの家って……」

 

 俺の家を見た芹澤くんの第一声がそれだった。

 

 

 

 

「す、すげえ……」

 

 俺の部屋に入った芹澤くんは、村上さん以上にテンションが上がっていた。目を輝かせながら驚きの声を漏らしている。そんな中、部屋に張られた格闘技のポスターを見て表情が変わった。

 

「ま、まさか将ちゃんって、格闘技好きなのか……?」

 

「えっ? まあ、そうかな。会場に行って見たことはないけど、ネットの視聴サイトに登録するくらいには好きかな。MMAがほとんどだけど」

 

「……ンギャーッ!!」

 

 その質問に答えた途端、芹澤くんは叫んでその場にうずくまる。

 

「ちっくしょう、もっと早く知っておくべきだった……将ちゃんが格闘技、しかもMMAが好きだったなんて……」

 

 MMAとは、Mixed(ミックスド) Martial(マーシャル) Arts(アーツ)の頭文字を取った略称のことである。日本では『総合格闘技』と言った方が伝わりやすいかもしれない。

 打撃だけではなく、投げ技や絞め技、関節技の使用も認められるルールの下で行われる格闘技のことだ。ルールの整備によって、やってはいけない行為も多く定められているので、『何でもあり』と形容するのはさすがに語弊があるが、それでも多くのことが出来る格闘技であることは間違いない。

 ボクシングやキックボクシングなどもそれなりに見はするが、俺は様々な技の攻防が見られるという点から、総合格闘技の観戦が一番好きだった。最近ではインターネットで過去の試合を見れるサイトを開設している団体もあり、それに登録しているほどである。

 

「芹澤くんも好きなの?」

 

「ああ、滅茶苦茶好きだ。……ところで将ちゃんさ、何か格闘技ってやってるか? 三角が得意みたいだから、柔道でもやってるんじゃないかって思ったんだが」

 

「……いや、柔道はやってないけど、ブラジリアン柔術なら」

 

「…………」

 

 質問に答えると、今度は無表情で沈黙した。何かまずいことを言ってしまったのだろうかと焦りかけるが、

 

「将平様、お願いいたします。この(わたくし)めに寝技をご教授ください」

 

 刹那、芹澤くんは土下座をして俺に懇願するような言葉を発した。その目は、さも俺を礼賛(らいさん)するかのようだった。

 

「……とりあえず芹澤くん、落ち着こう」

 

 いつもの落ち着いた雰囲気がかけらほども見られない彼に内心驚きを隠せなかったが、俺は平静を装って落ち着かせた。

 

 

 

 

「なるほどな。柔術やってたから、あの時三角極められたのか」

 

 落ち着きを取り戻した芹澤くんは、うんうんと頷きながら感心するような仕草を見せる。あの時というのは、もちろん去年の球技大会でのことだ。

 正直あれは褒められた行為では到底ないが、無理矢理肯定的に捉えるなら、芹澤くんらと知り合うきっかけになった行為でもある。

 当の本人は、初めて会ったとき以上に嬉しそうな表情だった。先ほど彼が言っていたことだが、格闘技の話題が出来る人が他にほとんどいなかったというのも関係しているようだ。

 

「とは言っても、あの頃はまだ始めてから一月も経ってなかったけどね」

 

「だけどそれで極められるって、センスあるってことじゃん。さすがとしか言いようがねえよ」

 

「そうなのかな……」

 

 芹澤くんの褒め言葉に、正直俺は気まずくなる。辞めようと思っていることを話すのは躊躇われた。

 

 

 

 

「まあ、寝技のことは追々聞くとして…………将ちゃん、村上さんとは上手くいった?」

 

「……えっ!? 何で芹澤くんが!?」

 

 格闘技の話題を終えたと思ったら、唐突に村上さんとの関係を尋ねられた俺は驚きを隠せなかった。

 

「おっ、かまかけたつもりだったけど、当たりだったか。まあ、俺に連絡くれたのは彼女でも出来て精神的に落ち着けたからなんじゃないかって思ったからな。電話越しの将ちゃんの声、かなり活き活きしてたし」

 

「……でも、何で村上さんってことまで分かったの?」

 

「図書室に行く度に目にしてたけど、村上さんっていっつも将ちゃんのことちらちら見てたぜ。『こりゃ気があるな』ってすぐ分かったよ」

 

「……そうだったんだ」

 

 村上さんが俺にちらちら視線を寄越してきたことに気付いたのは、告白された日だけだ。ただ、それまで気付かなかったと言うよりは、目を背けていただけなのかもしれないが。

 

「それにこの前俺が将ちゃんに声かけた日に、望月の奴が村上さんのこと慰めてたんだ。『黒川くんは大丈夫よ』なんて言ってたから、多分ふたりの間に何かあったんだろう、ってな」

 

「…………」

 

「で、何て言って告ったんだよ? 参考にするから、教えちくり」

 

 にやつきながら芹澤くんは、有栖川さんのようなことを聞いてくる。もっとも自分の恋愛事情に鈍感な有栖川さんは、『参考にする』とは言わないだろうが。

 

「……何て言うも何も、村上さんから告白してきたんだよ。大体、俺が誰かに告白できるような人間だと思うの、芹澤くんは?」

 

「マ、マジで……? というか、村上さんから告白するなんてことの方がよっぽどないと思うんだけど……」

 

 芹澤くんは呆気に取られた表情をしていた。確かに俺も彼と同意見だ。

 加えて村上さんは、二階堂くんが好きなのではないかと思っていたというのもある。

 ただあの時は、告白してきたのが村上さんであるということよりも、告白されたことそのものに驚いていたのだが。

 

「まあとりあえず、その後ちょっと色々あったけど、OKして今に至るって感じかな? この前の土曜日は家にも呼んだしね」

 

「ほうほう」

 

「今まで家に誰かを呼んだことはなかったから、村上さんが初めての人だったんだけど……何かごめんね?」

 

「何言ってんだよ。俺なんかより彼女を優先するのは当然だろうに」

 

 村上さんの方が先になってしまったことに、わずかばかり罪悪感を抱いてしまったが、芹澤くんはそんなものは無用と言わんばかりに右手を振る。

 

「それにダチとしては俺が第一号なんだ、十分すぎるっての」

 

 それから右手の親指を突き立てて、口角を吊り上げながらそう言った。

 

 

 

 

「俺の方からも芹澤くんに聞いておきたいことがあるんだけど、いいかな?」

 

「ん、なんだ?」

 

 芹澤くんを家に連れてきてから俺は質問されてばかりだったが、俺の方からもどうしても彼に尋ねたいことがあった。

 

「どうして芹澤くんはさ、俺なんかにそんなに協力的になってくれたの?」

 

「…………」

 

「俺は高桑くんとか鴨田くんのように芹澤くんの幼なじみってわけでもないし、二階堂くんみたいに中学時代から知り合いだったっていうわけでもないのに」

 

「…………」

 

「話すのに差支えがなければ、教えてくれるかな?」

 

 俺の問いに芹澤くんは、しばらく無言でいた。話したくないことを尋ねてしまったのかと感じた俺は、そう付け加える。

 

 

 

 

「……そっくりだったんだよ、将ちゃんは」

 

「……えっ?」

 

 しかし芹澤くんは、ゆっくりと語りだす。懐かしむような表情からは、悲哀とも取れる感情が見え隠れしていた。

 

 

 

 

 

 

 村田(むらた)賢介(けんすけ)

 それは芹澤くんが中学時代、幼なじみのふたりよりもはるかに一緒に行動していた友人の名だった。

 しかし2年生の中頃、村田くんは芹澤くんの気付かぬところで遭っていた凄惨ないじめが原因で、自殺を図ってしまったという。幸い一命は取り留めたが、学校に戻ることはなく他県へ越してしまったらしい。

 

 ただ、それでは理由と言うには苦しいものがある。

 一番の理由は、俺と村田くんの顔が同一人物に思えるほどそっくりだったからというものであった。

 とは言っても、今でも158cmしかない俺に対し、村田くんは中学の時点で160cmを超えていたために体格差があったこと、加えて声質が全く異なるものであったことから、他人であることはすぐに認識したようだが。

 体格差のことを話し終えると、『別に将ちゃんの身長を馬鹿にする意図はないからな』と焦った表情で付け加える芹澤くんの気遣いは、気にしてないと思う一方で、ありがたくもあった。

 

「……俺は、将ちゃんのことを賢介と重ね合わせてるんだと思う」

 

「…………」

 

「賢介をいじめてたクソ野郎は皆殺しにしてやったけど、それでも賢介は何も言わずに行っちまった。気付いていれば、そうはならなかったと思うんだ……」

 

 大切な友人がそんな目に遭ったことに芹澤くんは激昂し、いじめに関わっていた人間10数人をたったひとりで病院送りにし、停学処分を受けた。『後悔なんて微塵もしちゃいない』と、彼は話の最後に付け加えていた。

 

「…………」

 

「だから正直、将ちゃんが稲二の連中にやられたって知った時は、チャンスだって思っちまってた。ここで将ちゃんを助けることが出来れば、賢介を守れなかった罪滅ぼしが出来るんじゃないかってな。顔もそっくりだから、尚更だったよ……」

 

「そっか……」

 

「将ちゃんは賢介じゃないし、そんなことをしたところで俺があいつを守れなかったってことに変わりはないのにな……。将ちゃんにも、ひでえことをしてるってのに……。本当身勝手な奴だよ、俺は」

 

「…………」

 

「実は今年の正月、あいつから年賀状が届いたんだ」

 

「えっ、そうなの? それなら……」

「いや、でもあいつは、俺のことを憎んでいると思う」

 

 『それなら連絡してみればいいのに』と言おうとしたところで、芹澤くんは言葉で遮る。

 

「届いたはいいんだが、全部機械で印刷されたものだったんだ。手書きの文字も、写真もなかった。一応返事を出したけど、それ以降は連絡もしてない。多分あれは、決別の意味合いがあったんだと思う……」

 

 

 

 

「……その村田くんって人は、恐らく芹澤くんのこと、憎んでなんかいないんじゃないかな?」

 

「……へっ?」

 

 正直なところ、芹澤くんは考えすぎではないかと俺は思った。そもそも憎んでいるなら、年賀状を出すという行為自体しないと思う。メールやSNSなどの発達により、年賀状は書くことすら敬遠される傾向が年々強くなっている。

 それにもかかわらず年賀状を出したのは、決別するという意味などではないことは容易に想像できた。仮に決別の意味で出すのなら、怨嗟(えんさ)の言葉を書きなぐったものを出すだろう。……もっとも、これは俺に当てはめた場合だが。

 

「…………」

 

 俺がそのことを伝えると、芹澤くんは戸惑うような表情を見せていた。俺の考えに喜ぶべきなのか、俺の考えを否定すべきなのかという、ふたつの感情がぶつかり合うことによって生じる戸惑いのような。

 

「俺の想像だけど、手書きの文字も写真もなかったのも、気まずさみたいなのがあったんじゃないかな?」

 

「…………」

 

「話を聞く感じだと、その年賀状で久しぶりにコンタクト取ったんだよね?」

 

「あ、ああ……」

 

「多分、どんな年賀状にしたらいいのか分からなくなっちゃって、機械的になっちゃったんだと思うんだよ、俺は」

 

 とは言ったものの、俺はその村田くんがどういった人間なのか全く知らない。芹澤くんに今言ったように、これは単なる憶測でしかない。

 肯定的に捉えるべきだと言いはしたが、自分の意見を全面的に否定されたことで、芹澤くんは苛立つかもしれない。

 

 

 

 

「将ちゃんは俺と違って、人の気持ちってものをかなり深く考えられるんだな……」

 

 しかしながら、芹澤くんは大きく息を吐きながらぽつりと呟く。先ほどまでの戸惑うような表情は鳴りを潜め、まるで解放されたかのような清々しさを感じ取れた。

 

「……そうだな。すぐには難しいかもしれないけど、連絡取ってみようと思う。ありがとな、本当に」

 

 憶測で言ったことではあったが、芹澤くんは俺の意見を尊重してくれたらしい。

 

「まあ、偉そうなことを言える立場じゃないけどね。こんな人間嫌いな奴が」

 

「……将ちゃんって、人間嫌いなのか?」

 

「まあね。本来の俺は明るい性格なんかじゃなくて、かなり偏屈だよ。今信用できる人間も、両親を除けば芹澤くんと村上さんしかいないからね」

 

「……そうか」

 

 その言葉に芹澤くんは、少し寂しそうな表情になっていた。他の人間は友達と思っていないという意思の表明になってしまったため、無理もないのだが。

 

「それに……」

 

 話すべきか迷ったが、信用できる人間になら話してもいいだろうと判断した俺は、芹澤くんに自分の過去を話した。

 村上さんに話した時と違って、復讐の詳細などの猟奇的な内容は話すことを控えたが、それ以外はおおむね同じことを伝えた。

 

 

 

 

「……すまねえ、本当に。言い訳にしかならねえけど、まさか将ちゃんもそんな目に遭ってたなんて、気付きもしなかった……」

 

 愕然とした表情で、芹澤くんは俺に謝罪の言葉を述べた。

 

「謝ることはないって。悟られないようにしてたわけだから、気付かないのも無理はないよ」

 

 むしろ俺としては、復讐したことに対して何も言わなかったことが正直ありがたかった。球技大会の時以上に褒められた行動でないことは言うまでもないが、変に否定されたくないという気持ちもあったからだ。

 村上さんの場合にも同じことが言えるが、自分を肯定してくれることは信用の大きな要因たりうる。

 

「……将ちゃん。前も言ったけど、俺は何があっても将ちゃんの味方だ。何でもかんでも話せってわけじゃないけど、辛いことは辛いって言っていいんだ」

 

「…………そうだね」

 

「……まあ、こういうのは村上さんの役目なのかもしれねえけど、俺だって俺なりに出来ることはあると思うしな」

 

「……ふっ」

 

 村上さんに対して対抗意識を燃やす芹澤くんを見て、俺は柄にもなく吹き出してしまった。

 

「な、何で笑うんだよ?」

 

「ごめんごめん……」

 

 

 

 

 それから俺たちは、お互いの趣味に関してかなり長い時間語り合った。格闘技の造詣が深く、アニメや漫画、ゲームの話題も結構知っている芹澤くんとの会話は、村上さんの時とはまた違った楽しさがあった。

 趣味の合う人間との会話の楽しさなんてものは、もう何年も味わっていなかったような気がする(小野寺さんは趣味の合う人間ではあるが、時間を忘れて語り合うまでに至ったことはない)。

 

 気が付けば、時間は7時近くになっていた。慌てて帰る支度をする芹澤くんだったが、その一方で興奮冷めやらぬ表情でもあった。

 帰る間際に彼が放った『これからもよろしくな』という言葉は、姿が見えなくなっても俺の頭に残り続けていた。

 

 

 

 

 

 

 友達。

 そんなものは存在しない、あってもゴミみたいなものだと思い続けていたが、少しは考えを改めてもいいのかもしれない。

 少なくとも彼は間違いなく信用できる、『友達』と形容できる人間なのだから。

 

 

 

 



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聖衣の談義(前編)

「村上ちゃ~ん、それで全部~?」

「あっ、はい。これで終わりです」

 

 5時間目の体育の授業を終え、用具を片付ける。

 小野寺さんの問いかけに片付けが終わったことを伝えて体育倉庫を出ると、私は彼女と一緒に教室へと歩を進めていった。

 

「用具の片付けって地味に時間かかるんだよね~。こりゃ6時間目が終わってからじゃないと着替えられないかな~」

「そうですね……」

 

 小野寺さんのその言葉に、私はほんの少しだけ憂鬱になった。本当ならすぐにでも制服に着替えたかったけれど、それでは6時間目に間に合いそうにない。体操服のままで受ける必要がありそうだった。

 

「よくよく考えたら、黒川ちゃんってその姿を独り占めできるってことか……望月ちゃんが知ったらむせび泣くんかねぇ……」

「……?」

 

 なぜか私のことを上から下まで眺めながら、ぼそぼそと何かを呟く小野寺さんだったが、言っている内容は私には聞き取ることができなかった。

 

 

 

 

 

 

 そんなこんなで6時間目の授業もホームルームも終わった。

 案の定、授業は私も小野寺さんも体操服のままで受けることになった。とはいえ、私たち以外にも体操服の生徒はそれなりにいたので、あまり気まずさを感じずに済んだのは幸いだったかもしれない。

 

「村上さん、それじゃ行こう……って思ったけど、その前に着替える方が先か」

「あっ、そうですね……用具を片付けていて着替える時間がなくて……。すみません、ちょっとだけ待っていてもらえますか?」

「分かった。それなら着替え終わるまで待ってるから」

 

 今日は黒川君と一緒に図書委員の仕事がある。一緒に図書室へ向かおうと私に声をかけた彼だったが、私の姿を見てすぐ言葉を改めた。

 体操服のままであっても図書委員の仕事自体に支障はほぼないし、実際そうしている人は過去に何度か見たことがある。とはいえ、私はそうするつもりはないし、今後しようとも思わない。

 

「ありがとうございます。すぐ着替えてくるので……」

「時間あるし、そんなに急がなくてもいいよ」

 

 黒川君はそう言ってくれたものの、私としてはすぐに着替えを済ませたい。それは黒川君を待たせたくないからと言うよりも、個人的な理由からだった。

 

(やっぱり恥ずかしいな、ブルマって……)

 

 私がやたらと着替えたがった理由。それは、体操服がブルマだからだ。

 

 

 

 

 

 

 今、私たちと同年代で『ブルマ』という単語を聞いたら何を思い浮かべるだろうか。有名な漫画でそんな名前の登場人物がいた気がするので、そっちを思い浮かべる人の方が多いかもしれない。とはいえ、小野寺さんいわく漫画やアニメ、ゲームなどではまだ現役とのことなので、本来のものを思い浮かべる人もまだいるのだろうか。事実、前に小野寺さんから読ませてもらった漫画では、着用していた描写があった。

 

 ブルマ。主に女性が着用する体操服の一種で、数十年前までは学校における女子生徒の体操服として一般的に採用されていたと聞く。現在では男子生徒と同じハーフパンツなどに統一されて、姿を消した……と言いたいところだが、聖櫻学園では未だにブルマが採用されている。

 しかしこれだけ聞いても、私がどうして着替えたがるのか、ブルマがどういったものなのか知らない人の場合は首を傾げるだけだろう。

 

 問題はブルマのその形にある。……下着のような形をしているのだ。さらにその形の関係上ハーフパンツとは違って体にぴったりと密着するため、より下着のような見た目になるので正直とても恥ずかしい。そのせいで体育の授業は苦手な運動とブルマの恥ずかしさと、二重の面で憂鬱な気持ちになる。授業に限らず、体育祭や球技大会などの1日中体操服のままでいる時はなおさらだった。ハーフパンツになってくれないだろうか、と思った回数は多すぎて数え切れない。

 そんな私と同じように、体操服がブルマであることに対して否定的な意見を持った女子生徒ばかり……と思いきや、意外にも好意的な意見も多い。運動部に所属している人や、そうでなくても運動が得意な人には『動きやすい』『はき心地がいい』といった声をよく聞く。小野寺さんにしても恥ずかしいという気持ちは持ちつつも、漫画などでしか見られなかったブルマを実際に着用できることに『貴重な経験だね』と話していた。

 ちなみに望月さんに関しては――――容易に想像ができるとは思うが――――凄い形相で大喜びしていた。……と言うより、しない日はほぼないと言っていい。その一方で、望月さん自身もブルマをはくことは結構恥ずかしいようだ。それでも『かわいい女の子ちゃんの姿を写真に収めるためなら、恥ずかしいのなんて苦じゃないわ!』と。……私は呆れて何も言えなかった。

 

(別に嫌いってわけじゃないんだけど……それでも……)

 

 胸中でそんなことを呟きながら、制服へと着替える。

 私もブルマを頭ごなしに否定したいわけではない。動きやすさやはき心地の良さに関しては分かる面もある。しかしそれでも恥ずかしさの方が圧倒的に勝ってしまい、そういったメリットを実感しにくいというのが、私がブルマをはくことに抱いている気持ちだった。

 

(…………)

 

 ブルマは男子生徒からの人気も高い。その理由は……まあ、望月さんと同じと言えばおおむね合っているだろう。それを考えるといい感情は湧かないが、特に変な出来事は起こっていないので過剰な心配をする必要はないかもしれない。むしろ女子生徒である望月さんの方が露骨なことをしているので、そっちを心配するべきだろうか。

 

(黒川君は、どう思っているのかな……)

 

 そんなことよりも私は、黒川君にブルマ姿を見られることの方が余程落ち着かなかった。好きな人の前ではこの恥ずかしさが極めて強くなってしまうようだ。さっき黒川君に声をかけられた時も、恥ずかしさを悟られないようにするので必死だった。

 黒川君も、他の男子と同じようにブルマに対して興味があるのだろうか。とはいえ、私に声をかけてきた際の彼の様子を見るに、特に何とも思っていないような雰囲気ではあった。

 

「ふう……」

 

 制服のスカートをはき、ブルマを脱ぐとようやく恥ずかしさも引いてきた。

 ハーフパンツならこんな気持ちにはならなくて済むのに、というもう何度至ったか分からない考えを頭に浮かべながら、体操服のシャツから制服のシャツへと着替え、リボンタイを着ける。

 

(でも、これじゃだめだよね……)

 

 とはいえ、ここで恥ずかしがり続けているのもどうなのだろうと感じる。

 近いうちに水泳教室もあり、その時はスクール水着ではあるが着ることになる。個人的にブルマの方が私は恥ずかしく感じるが、肌の露出自体は体操服よりも多いので、そういった気持ちがないわけではない。

 それでも同じクラスの黒川君とは必然的に一緒に受けることになるだろうし、私は泳ぎもかなり苦手なので、できることなら彼に泳ぎを教えて欲しい気持ちもある。

 それに夏休みに入れば、海やプールに行くことになるかもしれない。その時には新しい……も、もう少し露出が多くなる水着を用意する必要があると思う。

 それなのにこの時点でやたらと恥ずかしがり続けていては、黒川君をがっかりさせてしまうことに繋がりかねないのではないだろうか。

 

(……しっかりしなきゃ)

 

 心の中でそう呟いて、気持ちを引き締める。

 ……とは言え、恥じらいをすぐ隅に追いやれるかどうかは、私の性格からしてかなり怪しいものがあった。

 

 

 

 

 

 

「「…………」」

 

 図書委員の作業も特に滞りなく終わり、私と黒川君は家路を歩いていた。

 普段なら授業や本の話など、他愛もないことを話しながら歩くことが多いが、今日に限ってお互いに一言も言葉をかけていない。

 私はともかく、黒川君が先ほどまでとは打って変わって、妙に気まずそうな表情を浮かべていたからだ。何があったのか尋ねようとも思ったがタイミングを掴めず、結局何も話さない状態が続いてしまっている。

 

「……あのさ、村上さん」

「……あっ、はっ、はい。何ですか?」

 

 何か話題はないだろうかとあれこれ考えていたところで、沈黙を破ったのは黒川君だった。話題を考えることに集中していたせいで反応に少し遅れたが、彼の方に顔を向けて用件を尋ねる。

 

「ひとつお願いしたいことがあるんだけど、いいかな?」

「……えっ、お願いですか? はい、私にできることでしたら大丈夫ですよ」

 

 意を決したような表情をした黒川君の用件とは、私へのお願いだった。お願いの詳細はまだ分からないが、望月さんが頻繁にしてくるような無茶なものとも考えにくかったので了承する。

 

「……前置きしておくと、完全に下心丸出しのお願いだから、嫌だったら躊躇わずに嫌って言って。すぐ諦めるし、今後一切話題にもしないから」

「……?」

 

 しかしながら黒川君は少しだけ視線を横に逸らし、先程とは打って変わって気まずそうな表情になりながらそう念押しする。私は一体どうしてそうなるのか分からず、首を傾げるばかりだった。『下心』という、彼からはとてもではないが想像の付かない言葉も、よりその疑問を強くする。

 

「……次に俺の家に来る時になったらさ、体操服姿を見せてほしいんだ」

「……えっ? 体操服、ですか? 大丈夫ですけど、それがお願いでいいんですか……?」

 

 体操服姿を見せてほしいという、果たしてそれはお願いと呼んでいいのか分からないものに私の疑問は尽きなかった。しかし特に断る理由もなかったので、私は深く考えずに了承する。

 

「……ブルマ、って言えば、何で俺が『下心丸出し』って言ったのか分かるんじゃない?」

「あっ……!」

 

 了承したとはいえ、少しでも疑問を解消すべくそれの意図を黒川君に尋ねた私に返ってきた『ブルマ』の3文字。

 それを耳にして、私はなぜ黒川君が気まずそうな表情をしていたのか、『下心』という言葉を使ったのか、全て察しが付いてしまった。かあっと、顔に熱がこもるのを感じる。恐らく、色も朱に染まっているだろう。

 

「……そ、その……黒川君も、ブルマ、好きなんですか……?」

「ぶっちゃけ、ちょっと前までは好きじゃなかったんだけど……でも今じゃ、逆転しちゃってるね。めちゃくちゃ好きになった」

「そ、そうなんですね……」

 

 好みが逆転してしまうということは、余程の事態があったのだろうかと気になったが、今はそれ以上に強まり続ける恥ずかしさを抑える方が重要だった。

 望月さんのように露骨な様子は見せていないことや、何より好きな人の好みということもあって嫌な気持ちは生まれていないが、恥ずかしさ自体はむしろ圧倒的に強い。

 

「さっき教室で俺が話しかけた時に村上さん、かなりそわそわしてたよね?」

「えっ……? き、気付いてたんですか……?」

「自意識過剰なこと言ってるとは思うけど、俺にブルマ姿見られるのが恥ずかしかったのかなって」

「ううっ……」

 

 教室では恥ずかしさを悟られないようにしていたつもりだったが、黒川君には見抜かれてしまっていたらしい。抑え込みがもはや意味のないものになってしまうほど、その言葉は恥ずかしさを強くする強烈な追撃になってしまった。

 

「……まあ、そういうことだからさ。無理はしないでね。強引に言いくるめて了承させるような真似はしたくないから」

「…………」

 

 何度も念を押すように、黒川君はそう口にする。ブルマ姿を見たいのは下心によるものだと明確にしながらも、強引なことはしたくないという意思には、彼の思いやりの強さを改めて実感した。

 

(私は、黒川君のそういうところが好きになったんだから……)

 

 そうだ。

 恥ずかしさこそ極めて強いが、黒川君はちゃんと弁えてくれている。不安になる要素は何もない。何より、しっかりしないと、と意気込んでからまだわずかしか経っていないのにこれでは先が思いやられてしまう。

 

(黒川君は勇気を出してお願いしてるんだから、私も勇気を出さなきゃ……)

 

 彼は自分の気持ちもしっかりオープンにした上でお願いしているのだ。

 私はそう自分に言い聞かせて意を決し、「……いえ、大丈夫ですよ」と、了承の返事をした。

 

「……本当に大丈夫? 無理して俺の下心に付き合わなくてもいいんだからね?」

「……む、無理をしてるわけじゃありませんっ」

「うおっと……」

 

 私の了承をいまいち信じられていないような表情を浮かべてそう尋ねる黒川君に、私は身体をずいっと前に突き出して反論した。少しだけ驚いた顔をして、黒川君は仰け反る。

 誰に何と言われようと、これは黒川君に言いくるめられたわけではなければ、ましてや嫌々ながらの気持ちで了承したわけでもない。私がしたいから、ブルマ姿を彼に見てほしいから了承したのだ。うん、断じて。

 

「ですから、黒川君は私のブルマ姿を見てくださいっ」

 

 周りに誰もいなかったのは幸いだったが、事情を知らない人がもしこの光景を目にしたら、私は変な人としか思われないだろう。目をぐるぐるさせながら半ば自棄(やけ)気味になってまくし立てる姿は、我ながら滑稽なものだった。

 

「わ、分かったから。村上さん、ひとまず落ち着こう」

「あっ……は、はい……」

 

 黒川君に宥められてようやく私は我に返る。我に返ったら返ったで、今さっきの行動を思い出し、また恥ずかしさに支配されてしまった。

 

「そういうことなら、じゃあ、見せてくれるってことでいいのかな……?」

「は、はい……」

「それじゃあ、明日の休みでも大丈夫……?」

「はい……予定もないですから……」

「分かった。……そう言ってたらもう駅か」

 

 彼のその言葉で今になって気付いたが、話をしているうちに私たちは駅まで辿り着いていたらしい。

 

「それじゃあ、俺はここまでだね」

「……はい。では、また明日。……その、あまり期待はしないでくださいね?」

「うん。めっちゃ期待してる」

「……は、はい」

 

 そんなやり取りをしながら、私は改札まで黒川君に見送られた。

 

(ううっ……結局全然恥ずかしさが抜けてくれない……こんなことで大丈夫かな、私……)

 

 ホームに着いてすぐに来た電車に揺られながら、私は上気した頬を両手で押さえていた。

 下はブルマという前提はあるが、体操服姿を見せるという端から見れば大したことでも何でもないのに、まるで大勢の前で発表する直前のように心臓は激しく鼓動を打っていた。



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