Was yea ra sonwe infel en yor… (ルシエド)
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戦姫も絶唱もないシンフォギア

「どんな魔法ならば、時の砂は逆巻くと思う?」


 人が生きている世界に『どこにでも居る平凡な人間』なんて存在は居ない。

 人間は一人一人に少しだけ変なところがあり、特別なところがあり、個性がある。

 誰一人として同じ人間は居ない。

 どこにでも居る平凡な人間、なんて形容はその時点で矛盾しているのだ。

 

 だからこそ。

 小説の書き出しで『どこにでも居る平凡な人間』という個性を付けられる主人公は、本質的には"今のところ特筆すべき記号的特徴がない人間"である。パンツを頭にかぶっていたり、性欲に溢れていたり、筋肉ダルマだったりはしない、ということだ。

 そういう主人公は言い換えるならば、一言でその者を言い表せるような特徴、『濃さ』がない。

 この物語の主人公も、そういう"濃さがない"少年の一人であった。

 

「ああ……連休が終わる……なんで僕は連休にこんな時間の無駄遣いを……」

 

 この物語の主人公は、幼少期に両親を事故で亡くしている。

 だがそれだけだった。

 幼児の頃に少しの期間だけ泣いて、幼児特有の立ち直りの早さであっという間に乗り越える。

 最初こそは周囲に同情されていたものの、十数年経てばもう同情もされなくなっていた。

 

 悲しい過去など、現実で他者に語ったとしても、その場の雰囲気を悪くする程度の効果しかもたらさない。不幸自慢にしかならず、他人からの印象を少しだけ悪くするものでしかない。

 2歳の時に両親を喪い、今17歳である彼は、自分の経験からそれをよく理解していた。

 

「預金が……んー、すぐには危なくないけど節約しないと」

 

 "両親が居ない"ということは、この少年にぼんやりとした悪影響を残していった。

 子供が自堕落になるのを止める役目を果たす大人が家に居ないのだ。

 ある程度の年齢までは親戚が育ててくれたが、その人らももう家には居ない。

 必然、受験や就職の時期にこの少年に危機感を持たせる大人が身近に居なくなる。

 大学受験を前にして、この少年が全く危機感を持っていなかったことに、家で全く勉強もしていないのだという事実に、学校の担任は気付きもしなかった。

 

 そして至極当然のように、少年は大学には受からなかった。

 更には正式に社会に出ること、就職することへの不安感からか?

 それとも大学に落ちるまで就職という選択肢を考えもしていなかったからだろうか?

 少年は就職の道も選ばず、自宅近くのコンビニでアルバイトを始める。

 社会の中で責任を背負う人間になることから逃げ、先延ばしに先延ばしを重ね、両親の遺産と貯金を僅かずつ削りながら生きていく道を選んだのだ。

 

 それは大人になることから逃げ、子供のままで居ようとする選択だった。

 

「食費抑えようかな」

 

 少年の胸中に広がるのは、形がないのにやたらと重苦しい『不安』。

 「これでいいのか」と何度も思う。

 「変わらなくちゃ」と何度も思う。

 なのに彼は現実を変えるための一歩を踏み出せない。

 夜寝る時にベッドに寝転がり、真っ暗闇の中天井を見上げるたび、孤独感と将来への不安に押し潰されそうになっているというのに、変わる勇気を絞り出せない。

 

「……何か更新されてないかな」

 

 不安と恐怖に押し潰されそうになっているそんな自分を誤魔化すように、騙すように、彼はさも今ネットのサイトが更新されているかどうかが気になったかのように、ネットの巡回を始める。

 ネットサーフィンをしている時だけは、面白い娯楽作品を見ている時だけは、この現実から目を逸らせたから。

 押し潰されそうなくらいに大きな不安のことを、忘れることができたから。

 

「奇跡か何か、起きてくれないかな」

 

 彼の先の見えない毎日を終わらせてくれる奇跡など、今日まで一度も訪れはしなかった。

 奇跡なんてものは欠片もない、透明で重い『現実』に押し潰されそうな毎日。

 どこか息苦しい日常、何故か生き苦しい繰り返し。

 そんな日々の中を彼は生きていた。

 

「……ふふっ」

 

 少年は動画サイトで、他者を笑顔にする奇術を繰り広げる奇術師を見て、少しだけ笑う。

 子供の頃、彼は純粋にマジシャンの魔法を楽しんでいた。

 輝く魔術、煌めくイリュージョン。

 17歳となった今でも、彼は奇術師(マジシャン)の手より生まれる奇跡(マジック)が好きだ。

 見るたびに心躍り、童心に帰ることができたから。

 

 ……子供の頃は純粋に楽しんでいたものを、今でも心から好きなものを、社会に出ることへの恐れと将来の不安から来る気持ちを塗り潰すために使っているのは、本当に悲惨だ。

 

(よし、そろそろ気持ちよく寝られそうだ)

 

 最後に、少年は専用ブラウザを使って匿名掲示板を巡回する。

 彼はそう多くのスレッドを開いていないがために、巡回にそう時間はかからなかった。

 そして開いていたタブの一番下、一番端のスレッド、サーバーが不安定だった時期に作られた2ちゃんねるの過疎板の避難所のスレッドが更新されているのを確認する。

 誰も居ないスレッド。

 誰も書き込まなくなって長い、惰性でタブに残していたスレッド。

 

 興味が湧いてそのスレッドを開き、彼は奇妙な書き込みを見た。

 

「……?」

 

611 名前:名無しさん[]投稿日:2027/06/17(木)23:50:26 ID:???

  未来と過去は、どちらが先にあると思う?

 

「なんだこれ?」

 

 その書き込みが、始まりであり終わりであった。

 

「電波君かな」

 

612 自分:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)00:01:20 ID:???

  過去に決まってるでしょ

 

613 名前:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)00:09:42 ID:???

  例えば時間を行き来できる人が居るとしよう。

  この際、平行世界というものは存在しないとする。

  未来から来た人間が過去を変えれば未来は変わる。

  なら、未来が変わったら? 未来から来た人間にその影響は出るだろ?

  過去を変えれば未来が変わる。

  でも未来が変われば、未来から過去に来た人間も変わり、過去も変わる。

  過去と未来は相互に変え合う関係にあるんだ。

 

614 自分:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)00:13:01 ID:???

  そんなの時間を自由に行き来できるって仮定ありきじゃん

  人間は過去から未来にしか行けないんだから、そういうのはタイムマシン出来てからでしょ

 

615 名前:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)00:15:59 ID:???

  かもしれない。

  ただ、時間を行き来できる存在が居たとしたら、過去と未来に前後関係はなくなる。

  そうは思わないか?

  本当は過去と未来にどちらが先か、なんて話はないんだ。

 

 興味本位で書き込みを返してみて、やはり電波なんだろうか、と少年は思う。

 少年は夢想気味の書き込みを心中で密かに小馬鹿にしていたが、何故だろうか?

 ネットの向こう側の誰かがしているであろうその書き込みに、真剣に考えた返答を返していた。

 

616 自分:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)00:20:51 ID:???

  そういう話がしたいんならそういうスレ行けばいいのに

  第一、タイムパラドックスは?

  例えば未来の子供が過去の世界に行って両親に会う

  →子供が両親が自分を産む前に、両親を殺す

  →これでその子供は生まれなくなるのに子供が居なければ両親の死は起こりえない

  この矛盾は?

 

617 名前:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)00:24:22 ID:???

  この世界に矛盾はない。

  それはそれを理解しようとする人間の解釈のどこかに矛盾があるだけだ。

  その両親は実は実の両親じゃなかったかもしれない。

  子供は両親を殺そうとしたけど運悪く殺せなかったのかもしれない。

  両親は最初から死ぬ人間と決まっていて、それを補完しただけなのかもしれない。

  時間を移動したくらいじゃこの世界に矛盾は生まれないのさ。

  それは万象を黙示録に刻むまでもなく、明らかになっていることなんだ。

 

618 自分:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)00:26:33 ID:???

  つまりあれ?

  何をしようが未来も過去も変わらず可能性は収束するとかそういう理論?

  俺もそういうSF好きだけどさあ

 

619 名前:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)00:31:19 ID:???

  それに近いかな。

  未来を変えれば過去が変わる。過去を変えれば未来が変わる。

  そして世界は、全ての人間の全ての意志による全ての変化を包括する。

  「未来を変える」と決断した人の行動の結果も含めて、今の未来があるんだ。

  人はそれぞれ、自分の意思を持っている。自分らしさを持っている。

  ハチャメチャな人も、型にはまった人もね。

  同じ時間、同じ世界、同じ状況の中でなら、人の心は必ず同じ選択を選ぶ。

  未来を変えようとする行動でさえも、既定の明日を作り上げるための要素ということなんだ。

 

620 自分:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)00:32:40 ID:???

  人が未来を変えようとして、実際変えるから、最終的な未来は変わらない的な?

  この手の話は、未来を変えようとする行動が徒労っぽくてそこが嫌だねえ

 

621 名前:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)00:33:01 ID:???

  そういうものなんだからしょうがない。

  未来が変えた過去も、また未来を変える。未来も過去も変わる。

  でもさっき言った通り、世界の形はタイムパラドックスを起こすほど変わりはしない。

  何故だと思う?

 

622 自分:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)00:34:46 ID:???

  知らね

 

623 名前:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)00:37:58 ID:???

  過去と未来の時間移動による影響を、最終的に包括した世界の流れ。

  最終的に決定された『あらゆる物事はこう流れる』と決められた世界の形。

  それを『運命』と言うんだ。

  普通の人に運命は変えられない。

  変えられるのは、選ばれた一部の人間だけだっていう話さ。

 

624 自分:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)00:39:17 ID:???

  急にロマンチストな単語が出て来て笑っちまったよ

 

 電波もここまで行けば本物だなあ、と思いつつ、少年はあくびする。

 時計を見れば、掲示板での一対一での話に熱中しすぎて、無駄に時間を使った時間がそろそろ一時間ほどになってしまいそうなありさまであった。

 少年はパソコンの電源を落とし、ベッドに寝転がる。

 目を閉じれば意識は微睡みに落ちていき、彼の一日はこうして終わった。

 

 一人だけしか居なくなったスレッドに、最後の書き込みが残される。

 

 

 

 

 

625 名前:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)0:55:55 ID:???

  『運命』にようこそ。そこで、素敵な夢が君を待っている

 

626 名前:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)01:11:11 ID:???

  奇跡を、頼むよ

 

 

 

 

 

 この少年に物語の主人公としての"特筆すべき特徴"はない。

 強いて言うならば、『勇気がない』ことだけが彼の特徴だ。

 親が居ないから愛もない。欲望も薄い。希望なんて欠片もありはしない。

 勇気がない少年は翌日の朝に起きると、バイトに向かうために家を出て――

 

「え?」

 

 ――車に轢かれて、その短い生涯を終える。

 誰かを庇って轢かれたなんてドラマはない。

 猫を助けるために轢かれたなんて優しさはない。

 彼は何の意味もなく、ただ運が悪かったというだけで、過失の事故にて命を落とす。

 

 これが、彼が最初に迎えた終わりの形だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして彼は、生まれ変わる。

 

 不思議なこともあるもんだ、と『少年だった子供』は自分の手の平を見る。

 彼は気付けば車に轢かれていて、気付けば新たな人生を歩んでいて、気付けば赤子としてまた世界に生まれ落ちていた。

 小さくなった己の手を見るたびに、彼は自分が死んだこと、自分が輪廻の輪を巡ったこと、そして"自分が死んだ時から数えて19年前"に自分が転生したことを強く自覚する。

 

「……世の中、本当に色んなことがあるなあ」

 

 リアクションが薄いが、彼はこれでも驚いている方だ。

 彼は死に、多少のんびりとした性格はそのままに、けれど性格の欠点がほんの少しだけ治っていた。彼がこの世界に生まれ落ちてから11年。

 その間に色々とあったし、何より彼は一度死んでいた。

 

 馬鹿は死ななきゃ治らない。

 逆説的に言えば、死ねば馬鹿は治る。

 堕落する一方だった、嫌なことから逃げ続ける馬鹿な子供でしかなかった彼は、死して多少はマシになる。

 

 そして死んで生まれてマシになったのは、彼の性格だけではない。

 彼の周りの環境もそうだった。

 前世の時、両親は3歳にもなっていない幼い彼を置き去りにしてこの世を去ってしまった。

 だが今世での彼の両親は、彼が11歳になった今も生きていてくれていた。

 彼の中に最初の親の記憶などない。

 それゆえある意味、彼は生まれ変わって初めて"親に育てられる"という経験をする。

 

 親に育てられなかった彼は、20年近い生を生きて初めて、親の愛を記憶に刻み込んでいた。

 

 

 

 

 

 彼の新たな母の名は、ラクウェルといった。

 心強く腕っぷしも強く、度量も広ければ優しさと凛とした美しさも併せ持つという、才色兼備

の一例を絵に描いたような武人であった。

 加え、ラクウェルの夫が彼女のことを語る時の内容を曰く、可愛いところもあるのだとか。

 夜、寝床にて手招きをするラクウェルを見て、彼はそれをちょっとだけ理解した。

 

「ほら、寒いだろう? 母さんの布団に来たらどうだ」

 

「……」

 

「どうした? ……母さんのことが、嫌いになったか」

 

「そんなわけない!」

 

 生まれ変わった後、彼は母の愛を一身に受けていた。

 彼はラクウェルが母親として文句の付けようのない人だと理解していた。

 彼女の愛を嬉しく思っていた。

 だからこそ、打ち明けなければならないと心に決めていた。

 

「母さん……」

 

 幼児らしさなんて欠片も見せられていない、今の自分の事情を全て話さなければならない、と。

 

「……話が、あるんだ」

 

 決断した彼は、自分の人生の全てを話す。

 その過程で、ラクウェルの下に転生したことも話す。

 今の両親に拒絶され、暖かく幸せな今の生活の全てを捨てる覚悟で、彼は打ち明けた。

 「親に愛されていたい」と願う彼の気持ちに変わりはない。

 それでも、ラクウェルに隠し事をしたままで母の愛を注がれ続けるということは、彼には耐えられないことだった。

 罪悪感だけで押し潰されそうなくらいに、苦しいことだった。

 だから打ち明けた。

 

 ……のだが、ラクウェルはさして気にしていない様子で納得したように頷いていた。

 

「ふむ、そうだったのか。合点がいった」

 

「……え? それだけ? 驚かないの?」

 

「いや、驚いている。それに子に秘密を打ち明けられたことを、少し嬉しくも思っているな」

 

「気持ち悪い、とか……」

 

「思わないな」

 

 ラクウェルは剣士がものを斬るように、彼の言葉をバッサリと切り捨てる。

 

「生まれ変わり。そういうこともあるのだろう」

 

 あんまりにもバッサリいかれたものだから、彼の方が逆に戸惑ってしまう。

 

「転生は超高度先史文明の時代、技術的には実用化されていたと知っているか?」

 

「え、い、いや……」

 

「この手の話はアルノーの方が詳しいだろうな。

 気にする者も居るだろうが、私は気にしない。

 アルノーもおそらくは気にしない。それだけのことだ」

 

 産まれた子が、自分の子でないどこかの誰かの生まれ変わりであることを気にする者も居るだろう。だが、気にしない者も居る。

 ただそれだけのことだった。

 ただそれだけのことが、彼にとってはこれ以上ない救いだった。

 

「それに、生前も子供。今も子供だろう、お前は。

 私はお前よりも少しばかり大人だ。愛し、面倒を見てやるくらいの度量はあるさ」

 

 『母』にそう言われ、子の目元から涙が溢れる。

 

「ごめん、なさい……!」

 

 頭を下げ、涙を流し謝罪する子供。

 今の両親を好ましく思うからこそ、"この両親には普通の子が生まれて来るべきだったのに"と思ってしまい、彼は涙ながらに謝り続ける。

 その子の頭を抱えるように抱きしめる母。

 優しく抱きしめ、優しく頭を撫で、優しく声をかけ続ける。

 

「僕みたいなのが、僕みたいな変なのが生まれてきて、ごめんなさい……」

 

「申し訳なく思う必要など無い。

 生まれ変わりであろうと、なかろうと、生まれた命が祝福されることに変わりはないのだから」

 

 彼の最大の幸運は、生まれ変われたことよりも、新たに得た両親に恵まれたことだったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 彼の新たな父の名は、アルノーといった。

 ややお調子者で、顔のパーツが整っていて、頭も良くてそれなりに口が上手い。

 その性質は、生まれ変わった彼にもほんの少し遺伝していた。

 

「ほらほら、もっと行くぞ!」

 

「わあ……!」

 

 奇術が好きな性格は、生まれ変わっても変わらなかったらしい。

 昔サーカス団に所属していたことがあるという父・アルノーのナイフさばきは見事なもので、20本あまりの抜き身の刃が宙を舞っている。

 一手間違えれば手がナイフで貫かれてしまいかねない、そんな曲芸。

 銀の刃が陽の光で煌めいて、宙を舞う度に目を奪う美しい光景を作り上げる。

 息子がそれに目を輝かせているのを見て、アルノーはいい気になってナイフを増やす。

 

 最終的に30本になったナイフ全てが頭上へと飛び上がると、そのまま何にも触れぬまま落下し、全てのナイフがアルノーの腰のホルダーに収まる。

 30本同時に、アルノーの体に触れることなく一直線に、だ。

 父の卓越したナイフさばきに、子は飾り気のない感嘆の声をあげる。

 

「おおー!」

 

「技も修めとくもんだな」

 

 父アルノーも、子に尊敬の目を向けられて悪い気はしていない様子だ。

 

「僕も、父さんに習えばできるようになるかな?」

 

「んー……危ないから、教えるのはお前がもう少し大きくなってからだな」

 

 父が子の頭を撫でる。

 二度の人生を生きてきたが、彼が父に頭を撫でられたのは、この時が初めてだった。

 "子供の小さな頭だからこそ大きく感じられる父の手"に撫でられ、子は穏やかな気持になっていく。

 

「大きくなったらって、どのくらい?」

 

「さあ、それは分からないな。

 大きくなってからじゃないと……ま、今は教えるっていう約束だけで我慢してくれ」

 

 父アルノーは子を抱き上げ、高くに担ぎ上げる。

 

「息子との約束を破るような父親には、なりたくないしな」

 

 彼もまた、息子の特異な部分を受け入れながらも愛情を注いでくれていた。

 とはいえ、侠気(おとこぎ)に溢れる母ラクウェルに対し、どこか女々しい父アルノーの方はちょっとした苦悩をしていたという事実もあったりする。

 それを乗り越え、割り切れたからこそ、今こうして笑顔で息子を愛してやれているのだろう。

 彼もまた、度量の大きな男であった。

 

「とりあえず今は、危なくないのから教えてやるさ」

 

 ナイフさばきを教えてやらない代わりに、アルノーは子に色んな技を教え込む。

 小石を使ったジャグリング。カードを使った手札当て。手の中から物を消す技。

 そして人の視線がどこに集まるかという学に、それを誘導するミスディレクション。

 それは人の錯覚や思い込みを利用し、あたかも実現不可能な"奇跡"が起こっているかのように見せる"奇跡の術"、すなわち『奇術』の種となるものであった。

 

 奇跡の元になるものを、子は父に教わり受け取っていく。

 

「ありがと、父さん」

 

「お前が笑ってりゃ、俺は満足だよ」

 

 父アルノーは口数が多い。口も上手い。知識も豊富だ。

 だが妻に対してであれ、子に対してであれ、愛を囁く時はシンプルな言葉を吐く男だった。

 生まれ変わった彼も、だからこそ、父の真っ直ぐな愛を実感することができていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 親の愛が記憶になかった少年は、生まれ変わってようやく親の愛を注がれる。

 そして親に正しく育てられることで、大なり小なりあった前世の歪みを矯正していく。

 生まれ変わった彼本人も不謹慎だと思ってはいるが、彼にとって"自分に愛を注いでくれた両親"は、今の両親だけだった。

 

(ああ、なんだろう)

 

 "魂が親子でない"という意識、劣等感、後ろめたさ、申し訳無さ。

 それを"流れる血が親子である"という意識が塗り潰した。

 父と母が「それがどうした」と子に注いだ愛が、この子の中の暗雲を晴らしてくれたのだ。

 

(僕、今、本当に幸せだ)

 

 結局のところ、成人していない子供が死んで生まれ変わったところで、二つの人生を合わせて30年近く生きたところで、彼は『子供』でしかなかったのだ。

 長く生きていれば子供でなくなるだなんてことはない。

 時間経過で大人になれるわけがない。

 彼は子供だった。ラクウェルとアルノーは大人だった。

 だから奇妙な形ではあったが、彼らは親子として成り立った。

 

(父さん、母さん……ありがとう)

 

 "子供から子供に生まれ変わる"という歪な人生を過ごした彼は、親に恵まれなかった前世の反動のように今世では親に恵まれ、幸せに育てられた。

 だから彼は気付かない。

 前世で山も谷もない下り坂な人生を生き、今世で幸せな人生を送っていた彼は気付けない。

 何のバックボーンも無く自己の連続性を保つ転生を成す。

 それがありえない『奇跡』であるという認識を、彼は毛の先ほども持っていなかった。

 

「すまない。ラクウェルは居るか?」

 

 ある日のこと。家の前で奇術の練習をしていた彼は、話しかけて来た誰かの方を向く。

 

 そうして、彼は運命(かのじょ)と出会った。

 

「母さんに何か用?」

 

「―――」

 

 振り向いた彼の顔を見て、彼女は目を見開いた。

 振り向いて彼女を見て、彼もまた目を丸くする。

 彼の耳に届いた声は声色こそ幼かったが、口調が歳経た大人のように落ち着いていて、『ラクウェル』と母を呼び捨てにしていたことから、彼は声の主が大人であると思っていた。

 なのに彼が振り向いた先には、自分より幼く見える少女が立っていた。

 

 可愛らしくも、前時代的を通り越して数世紀前のセンスを思わせる服。

 服というより魔法使いのローブにも見えるそれに加え、絵物語の中の魔女を思わせる黒いトンガリ帽子が、その少女の印象をとても幻想的なものへと変えていた。

 身長は130cmから140cmといったところだろうが、伸ばした髪を三つ編みにして垂らした毛先が地に付きそうになっているのも、また印象に残る要素だろう。

 整った容姿に据えられた深い色の瞳もまた、彼の目を引いた。

 

「えと、はじめまして?」

 

「……ああ、はじめまして」

 

 彼が挨拶をすると、彼女もまた挨拶を返してくる。

 その時の嬉しそうな、悲しそうな、辛そうな、安らいだような彼女の表情が、何故かやけに気になって、彼はその表情を目蓋の裏に焼き付ける。

 

「お前の名前は?」

 

 少女に名を問われ、彼は思わず前世の名を答えそうになって、口を噤んだ。

 前世の名をもう名乗らないこと。

 今世の名を唯一無二の己の名として使うこと。

 それが一度死んだ自分には相応なのだと、彼は思う。

 

 そして、大切に想う両親に付けられた名を、受け継いだ家名を、誇らしく名乗った。

 

「ジュード。『ジュード・アップルゲイト』」

 

 そして名乗った後、少女の名を問う。

 

「君の名前は?」

 

 少女は帽子のつばを指先で摘んで、帽子の位置を直しながら名乗る。

 

「オレは『キャロル・マールス・ディーンハイム』」

 

 鈴を鳴らしたような声で、彼の目をまっすぐに見ながら。

 

「奇跡を届けるために、お前を迎えに来た」

 

 彼と彼女の物語の始まりを告げる、鐘を鳴らした。

 

 

 



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卵が先か鶏が先か。明日が先か昨日が先か

 父アルノーは、家に居る時間が多くはなかった。

 その分、家に居る時はその全ての時間をジュードに注いでくれた。

 ジュードの父と母は一緒に仕事をしていると聞いているが、彼らが何の仕事をしているのかジュードが聞いても詳しい話を聞かせてもらえないため、彼もよく分かっていなかった。

 

「ごめんな。できれば、お前がもう少し大きくなるまではいつも一緒に居てやりたかったんだが」

 

「ううん、大丈夫。気にしてないから。それより新しい技教えてよ、父さん」

 

 ただ、両親が『正義の味方』のようなことをしているのだということだけは、理解していた。

 

「寂しくはないか?」

 

「母さん達が忙しい中でもいっぱい一緒に居てくれるから、そうでもないかな」

 

 母ラクウェルも、家に居ないことは多かった。

 だがアルノーほどではなく、ジュードを育てるために十分な時間を割いてくれていたので、そこにジュードが不満を感じたことは一度もない。

 だがラクウェルには、そこに思う所があったのだろう。

 

 それがもしかしたら、彼女にこの選択を選ばせたのかもしれない。

 世界を転々と渡り歩くアップルゲイト一家は、仕事の都合からか、ひとところに留まることは滅多になかった。

 加え、ジュードも両親がしている仕事が何やら危ない仕事である、ということも感づいていた。

 それに自分を巻き込まないために、両親が気を遣っているということも。

 世界が少しづつ、物騒になっていっているということも、彼は窺い知っていた。

 結果、両親が家を空ける間隔と回数は日々増えていく。

 

 ジュードは二度の人生の経験から、子供らしくない察しの良さを発揮していた。

 両親の仕事が忙しくなり、自分に割ける時間がどんどん減っているのだということも察する。

 近日中に両親が大きな仕事をする予定なのだということも、なんとなく察していた。

 

「ジュード」

 

 ゆえに、母は自分を危険に巻き込まないためにどこかに預けようとしているのだろうと、ジュードは推測していた。

 両親は人の命を救う仕事をしている。

 なればこそ、ワガママは言えない。

 両親に迷惑をかけかねない自分が己の身の安全を第一に考えることこそが、両親に対する最大の助けとなるのだと、ジュードは自分に言い聞かせる。

 だから"その時"が来れば素直に受け入れようと、ジュードは考えていた。

 

 まさか、自分より年下に見える女の子に預けられるとは思ってもみなかったが。

 

「今日からこの人がお前の面倒を見てくれる。

 ……すまない。だが、しばしの間、お前は命の危険がない場所に居て欲しい。

 親の勝手だが、どうか分かって欲しい。一年の間の辛抱だ」

 

「……こんな小さな女の子に?」

 

 小さな女の子、と言われてキャロルが少しムッとした様子を見せる。

 

「誰のためにこんな小さなナリをしていると思っている」

 

「え、誰のためなんだ?」

 

「……どうでもいいことだろう、そんなことは」

 

「えええ……」

 

 そっぽを向いたキャロルを見て、ラクウェルは苦笑する。

 それは、ジュードも初めて見るような母の表情だった。

 

「ジュード、この人を見かけで判断するな。

 30年前事故で孤児になった私を大人になるまで育ててくれたのは、この人なのだから」

 

「さんじゅ……!? え!?」

 

「オレは気まぐれで助けただけだと言っただろう。

 お前の家名が懐かしい響きをしていたから、そうしただけだ」

 

「それでも私は言い続ける。あなたが優しい人だから、私は助けられたのだと」

 

「……ふん」

 

 帽子を深く被り直して目元を隠すキャロルを見て、ジュードはなんとなく"信じられる人なのかもしれない"と思い、母の言を信じることにした。

 

「よろしくね……じゃない。よ、よろしくお願いします、キャロルさん」

 

「いい。敬語も要らん。さん付けも要らん。オレはただのキャロルだ」

 

「……分かった。キャロル、これからよろしくね」

 

 キャロルが差し出してきた手を、ジュードが取る。

 小さくて綺麗な手だな、と彼が思っていると、その思考を察したのか弾くようにキャロルが手を離す。少し気恥ずかしそうに見えたのは、気のせいではあるまい。

 キャロルはラクウェルの方を向き、視線だけで何かを伝える。

 そしてラクウェルが頷くと、キャロルがその場を離れていく。

 

 親子の別れの挨拶のためにこの場を離れ、彼女が時間を作ってくれたのだと、ここで遅まきながらジュードも気付いた。

 

「ジュード」

 

「母さん」

 

 ラクウェルがジュードを抱きしめる。

 ジュードも同じように抱きしめ返す。

 高身長のラクウェルがジュードの小さな体を抱きしめるような形で、親子は抱き合う。

 

「……ずっと一緒に、居たかった」

 

「……僕も」

 

 一分か、二分か。いや、もっと長い時間、二人は抱き合っていた。

 抱擁が愛を伝えてくれていた。

 言葉ではなく、互いの体の暖かさが伝えてくれる愛があった。

 どちらからともなく二人は離れ、ジュードは母を安心させようと口を開く。

 

「いってきます」

 

「……! いってらっしゃい」

 

 母ラクウェルから子ジュードへと向けられる"いってらっしゃい"。

 ジュードは前の人生の中で、親とこういう会話をした記憶さえも無かった。

 だからだろうか。何度言われても、親にこう言われることが嬉しくてたまらなかった。

 

「現地はバル・ベルデだったか。気を付けて行けよ、ラクウェル」

 

「ブラウディアは信用できる男だ。そちらもジュードを頼む、キャロル」

 

「ジュードに助けられるのはオレの方さ。

 前から言っているだろう? オレはこいつの奇跡を借りに来たんだ」

 

「……そうだったな」

 

 頃合いを見て話しかけてきたキャロルがラクウェルに話しかけると、ジュードがその言葉に反応する。

 

「奇跡って?」

 

「お前にやってもらいたいことがある。それだけだ」

 

「僕に奇跡なんて……」

 

「できるわけがない、か?」

 

「うん」

 

 『奇跡』。

 ジュードにはキャロルの言葉だ意味するところがよく分からないが、それでも彼女が大きなことを自分に期待していることは分かるし、自分がそんなたいそうな人間でないことも分かる。

 才ある人間、努力した人間、選ばれた人間、勇気ある人間。

 そういった人間にのみ一生懸命の報酬として与えられるものが、奇跡だ。

 ジュードはそう考えている。

 だから自分が、奇跡から縁遠い人間であると思っているのだ。

 

「この世界の全ての者が信じなくとも、オレだけはお前ならできると信じている」

 

 なのに、キャロルがジュードを見る目には、微塵の揺らぎもない。

 何故か彼女は初対面のジュードを信じている。

 既知の真理を信じるように、彼と彼の奇跡を信じている。

 

「お前を信じている。オレがお前を疑うものか」

 

「―――」

 

 発音の一つ一つが頭に刻み込まれるような強い言葉に、ジュードの心が震える。

 何故心が震えるのかも、何故彼女がその言葉にそれほどまでに強い信頼を込められるのかも分からないまま、彼はキャロルの深い色の瞳に魅入られる。

 母に別れを告げ、父に別れを告げ、キャロルの後ろに付いて行く彼に迷いはない。

 

 必ず母と父の下に帰ると誓う心に、いつの間にか新たな意志が宿っていた。

 

(こんなに期待されて、信じられたのは、初めてだったかもしれない)

 

 キャロルがジュードに向ける信頼は、ラクウェルとアルノーがジュードに向ける信頼と比べてもなお大きい。信頼だけでなく、期待もそうだ。

 誰にも期待しない、誰にも期待されない、平坦な人生を一度送った彼の心が震える。

 

(だから、何も出来ない僕でも……『応えたい』って、そう思ったんだ)

 

 時代遅れと(そし)られようが、それすなわちボーイ・ミーツ・ガール。

 少年はキャロルと出会い、ジュードの人生は少女と出会って初めて動き始める。

 ジュードが前世で見た言葉を用いるのなら、これもまた『運命』だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ジュードが連れられた先は、欧州のとある一地方だった。

 絵に描いたような秘境に、絵に描いたような隠れ家。

 そこにキャロルの家はあった。

 

「最初に言っておくか。オレは錬金術師だ」

 

「……え?」

 

「蔵書は好きに読んでいいぞ。どうせ使えることはない」

 

 呆気に取られるジュードを置いて、キャロルは家の中に入っていく。

 慌てて追いかけ、彼も彼女の家に入った。

 大きな家には錬金術に関して記した大量の蔵書、錬金術に使うであろう多くの機材が揃えられた実験室、錬金術に用いるらしき膨大な量の材料が収められた倉庫などがあった。

 

(錬金術……)

 

 オカルトチックな話になってきたなあ、と思ったのが彼がここに来た初日の話。

 ファンタジーだー!? 僕の世界こんなんだったの!? と驚いたのがその翌日。

 一週間経てば「錬金術ってなんでもありだなあ」と思うようになる。

 二週間経てば「これもうほとんど魔法だよね」と思うようになっていた。

 三週間経つ頃には「キャロルー洗ったフラスコここに置いとくよ」と言い始める始末。

 何事も慣れ。そして順応力だ。

 ジュードはかなり早いペースで順応したが、まあ妥当だろう。一度死んで生まれ変わったジュードが非科学的なものの存在を信じないなど、ギャグでしかないのだし。

 

「他人に料理を作ったのは久方ぶりだが……オレの料理に変な癖はついてないか?」

 

「ううん、美味しいよ。母さんのより美味しい」

 

「……あの味音痴と比べられてもな」

 

 キャロルが日々ジュードに作る料理も、彼が目を丸くするくらいに美味しいものだった。

 料理も錬金術もレシピ通りにすれば間違いはない、とはキャロルの言。

 本を読んでも錬金術が全く使えないジュードからすれば、理解の埒外の話であったが。

 

「お前にラクウェルの料理下手が遺伝してないことを祈ろう。

 オレの親も料理下手で、それは娘のオレには遺伝しなかったが、皆そうとも限らん」

 

「へえ……どんな人だったんだ?」

 

「……いい人だったさ。その内話すこともあるだろう」

 

 このタイミングで食器を洗い場に持って行くために席を立ったキャロルを見て、ジュードはキャロルの"今はこれ以上聞かれたくない"という意志を感じ取る。

 だからそれ以上は踏み込まなかった。

 皿を持ち、ジュードもキャロルの食器洗いの手伝うために席を立つ。

 

 彼にとってのキャロルはどこまでも、外見に不相応な落ち着きを持った少女だった。

 

 

 

 

 

 キャロルは家に居る時は部屋から一歩も出なかったが、しょっちゅうジュードを引き連れて家を出て、世界を旅して回っていた。

 世界で一番美しい海。世界で一番荘厳な山。世界で一番綺麗な町。世界で一番大きな塔。

 

「わぁ……すっげ……」

 

 キャロルは彼に世界を見せる度に世界を教え、世界の輝きを目に焼き付けさせた。

 美しい景色と共に知識を注ぎ、彼女はジュードを育てていく。

 

「お前と共に世界を回るのも、オレの役目だ」

 

 時に彼らは海の上を行く。

 

「おええ……」

 

「船酔いか。ほら、背中さすってやるから、吐けるだけ吐いておけ」

 

 顔を青くしたジュードを、錬金術で治してもすぐにまたなるから意味は無いと断じ、キャロルが船酔いの薬にビニール袋、背中さすりとレトロな対処を施す。

 海の上にも美しい景色はあったが、海自体初めてなジュードには厳しいものがあった。

 時に彼らは山の上を行く。

 

「……なんか気持ち悪い……」

 

「うん? 高山病か。錬金術でちょちょいと治してやるから待て」

 

 真っ白な雪山を行く中死にそうな顔をしているジュードに対し、キャロルは自分だけでなくジュードの周囲も対象として温度と酸素濃度を調整した領域を作る。

 大気をも操るディーンハイムの錬金術を用いれば、手に何も持たずエベレスト頂上に向かうことすら可能であるが、山自体初めてなジュードには厳しいものがあった。

 時に彼らは治安がちょっとよろしくない発展途上国にも行く。

 

「街のチンピラ風情が、調子に乗るな」

 

「男の僕が居る意味がまるでない……」

 

 街のチンピラにキャロルが絡まれ、ジュードが庇い、ジュードが突き飛ばされ、キャロルの目が細められてから10秒足らずで街のチンピラはムンクの叫びより酷いことになっていた。

 死んではいないのだろうが、チンピラ達も二度と彼らに絡もうなどとは思うまい。

 俗に言うサファリ観光を終え、キャロルとジュードは家に帰った。

 なお、一番見ものだった景色はキャロルVSキャット(ライオン)だった模様。

 

「……うーん」

 

 旅の日常、家での日常。

 二つを過ごしていく内に、ジュードは気付く。

 

「キャロル、笑わないんだよな」

 

 キャロル・マールス・ディーンハイムは笑わない。

 無表情でもなく、感情を顔に出さないわけでもなく、ただ笑わない。

 怒りや不機嫌は顔に出るのに、笑みだけが顔に出てこないのだ。

 それが次第に気になってきて、ジュードは色々と試し始める。

 

「……試してみようかな」

 

 が。

 

「で?」

 

 面白い話をした。が、返って来る反応は全て同じ。

 笑える話をした。が、返って来る反応は全て同じ。

 一発ギャグを披露した。が、返って来る反応は全て同じ。

 変顔など体を張って笑わせようとした。が、返って来る反応は全て同じ。

 何でもかんでも、思いつく限りの全てのことを試した。

 

「で?」

 

 しかし懸命に挑戦する度に「で?」と真顔で言われるのを繰り返されれば、彼のハートにも相当なダメージが行く。

 自信のあるギャグを言ってから、誰にも受けなかったそのギャグのどこが面白いかを解説するという苦行を、何十回と繰り返すに等しい。

 キャロルを笑わせたい。笑顔にしたい。

 そう思うも、彼の持つ技能は彼の想いにまるで付いて来ていない。力不足というやつだ。

 

(心折れそう)

 

 それでも諦めず、キャロルの迷惑にならない程度に、彼は頑張り続ける。

 そしてようやく、その頑張りが報われる時が来た。

 

「……ふふっ」

 

「!」

 

 最後にすがった、父から教わった奇術の技。

 前世でも今世でも彼が好んでいた奇術の初歩の初歩、子供だましのようなそれを見せた瞬間に、キャロルが少しだけ笑ってくれたことにジュードの方が驚いてしまう。

 それでも、キャロルの笑顔が見られたことが嬉しかった。

 だから彼は、その日から奇術の勉強を始めた。

 「あの笑顔をもう一度」という一心で。

 

 その手の本を読み、自分なりに研鑽し、ストリートで技を披露している野良マジシャンを穴が空くほど見つめたりもした。

 そうして初心者なりに見せられる奇術の種類を増やし、彼は笑顔でキャロルの下に向かう。

 手を触れずにテーブルの上の物を動かす超能力。

 何も無い所から紐で繋げた万国旗を出す魔法。

 52枚のカードの中からキャロルが選んだカードを見ずに当てる透視。

 ジュードはいくつもの奇跡の術を披露するが、それらはことごとくキャロルに見破られる。

 

「袖の中に磁石が入ってるんだろう?」

「その旗はここに入っていたんだろう?」

「単純な計算のトリックだろう?」

 

 人に奇跡を見せる術が奇術であるのなら、彼のそれはまだ奇術ですらない。

 キャロルの目には小細工か子供だましにしか見えていないのかもしれない。

 それでも、以前のように「心が折れそう」だなどと、彼が思うことはなかった。

 ジュードが一つ拙い奇術を見せるたびに、キャロルは一つ微笑みを見せてくれたから。

 彼女の笑顔を一つ見るたびに、彼の心は少しだけ満たされていた。

 

 前世でも今世でも好きだった奇術。それが好きな理由が、また一つ増えた。

 

「お前はオレを笑わせる以外にやりたいことはないのか?」

 

 ある日キャロルはそう言った。

 ジュードが何のために頑張っているのか、頭を使っているのか、気付かぬ彼女ではない。

 呆れたように彼女は言う。もっと他にやりたいことはないのか、と含みを持たせて。

 

「今は、それ以外にはないかな」

 

 対しジュードは、"ない"と言う。

 自分が他人を笑顔にできること。

 奇術を披露すれば見ることができるキャロルの笑顔。

 その二つが、彼の心を掴んで離していなかった。

 

 前世ではついぞ自覚しなかったが、彼はどうやら、他人の笑顔のためなら何にだって頑張れる者であったらしい。

 

「お前は変わらないな」

 

 ふっ、とキャロルは目を閉じ笑う。

 嬉しそうに、だけどそれ以上に懐かしそうに話す彼女が、何故か印象的だった。

 

 

 

 

 

 日々は過ぎ去り、気付けば十ヶ月以上の時間が経ち、ジュードも12歳になっていた。

 

 

 

 

 

 キャロルが家の外に出る時は、ジュードを連れて旅に出る時だ。

 錬金術の材料や食料の買い出しもその時に済ませるため、旅に出る時以外のキャロルはずっと家の中に居ることになる。

 ならば家の中で何をしているのかと言えば、彼女はずっと人形をいじっていた。

 

 人形とは言うが、正確には"ジュードが人形だと思っているもの"というのが正しい。

 更に言えば、その人形らしきものはキャロルの体より大きいという、とんでもないものだ。

 十代後半の女性くらいの大きさはある。

 だがあまりにもボロボロで、壊れかけていて、それは人の形をしていない。

 ジュードがそれを人形だと思ったのも、キャロルがそのゴミのような何かを、人の形に近付けようとする過程を見ていたからだ。

 

「おかしいな。オレにこいつを直せないわけがないんだが……」

 

 首を傾げるキャロルに水の入ったコップを渡して、ジュードは彼女に話しかけようとする。

 ちょうどいいタイミングでのそれを受け取り、キャロルは休憩することにした。

 

「キャロル、それは?」

 

自動人形(オートスコアラー)

 

 かろうじて人に近い形に見えなくもない状態のそれを顎でしゃくり、彼女はその名を呼んだ。

 

「錬金術の目指す場所の一つに、自分自身を神に等しい存在へと錬成するというものがある。

 アルス・マグナ、という代物だ。

 万象を知るという錬金術の大望を果たすため、全知たる神にならんとするアプローチだ。

 その過程で錬金術師達が研究を始めたものが自動人形(オートマータ)

 "人未満の人形を人に昇華できたなら、神未満の人間を神に昇華できるのでは?"

 という仮設からなる、存在の昇華術式を求めた『人に近い精神構造の人形』だな」

 

 キャロルが優しげに、その人形らしきものの頭のような部分を撫でる。

 それが本当に人形であるのならば、これは物理的な損壊というより、経年劣化に近いものなのではないかとジュードは思う。

 時間の流れに飲み込まれた大昔の壁画や、錆びて粉々になってしまった金属製品と、"それ"がどこか似ているような、そんな気がしたからだ。

 

「こいつはオレがその研究を自己流にアレンジして作ったもの……の、はずなんだが……」

 

「はず?」

 

「そこは気にするな」

 

 『オートスコアラー』。

 キャロルがオートマータの亜種として作ったものらしいが、どうにも歯切れが悪い。

 何かしらの事情があるのだろうが、ジュードに分かるはずもない。

 キャロルは自分のことを多くは語らないのだ。

 

 そしてキャロルの自信なさげな"自分が作った"という主張をそのまま反映しているかのように、二人の眼前のオートスコアラーは微妙な修復状態を見せている。

 キャロルが作ったのだから、キャロル以上に修理に適任な人間が居るわけがない。

 そのため当然のように、オートスコアラーの大部分は修理を終えられていた。

 にもかかわらず人形は動かない。

 自分が作ったのだと微妙に言い切れていない、今の彼女の様子をそのまま反映したかのように、人形は微妙に直りきっていないということだ。

 

 キャロルは論理的に思考する。

 

「ん? ……そうか、オレが作った『はず』か」

 

 そして理詰めで、一つの可能性に辿り着いた。

 

「ジュード」

 

「そろそろおやつにする?」

 

「違う! この人形、お前が直してみろ」

 

「えっ」

 

「一年間オレの書き溜めた錬金術の研究所と指南書を読んでいたんだ。

 錬金術を使えなくても、知識はあるだろう?

 お前がいじれる範囲でいい。好きにやってみろ」

 

 そうして、何故かキャロルでさえも出来なかった作業を、ジュードが引き継ぐこととなった。

 

「えーと……」

 

 子供特有の小さな手で、二度の人生を過ごしてもたいして専門知識のない頭で、ジュードはオートスコアラーの躯体をいじり回す。

 直せるわけがない、というのが彼の認識だった。

 彼はキャロルの蔵書から吸い取った知識を総動員して作業を進めるものの、直しているのか壊しているのかすら、自信を持って断言することはできなかった。

 どこまでも手探りに、大きく壊さないようおっかなびっくり修理は続く。

 実力不足と、不安と、恐怖と、未知との戦いだった。

 それでも、彼の手は止まらない。

 

 彼の後ろにはキャロルが居る。

 彼女は椅子に座り、膝の上に大きな本を乗せ、ゆっくりとそれを読んでいた。

 そしてその合間合間に、ジュードの作業を見守っていた。

 紙のページがたおやかな指先にめくられ、そのたびに聞き心地のいい音が部屋に広がっていく。

 

 キャロルは一切口を出さず、手を貸さず、ただジュードの背中を見守っていた。

 ジュードもキャロルに助けは求めず、背中に視線を感じながら、ただひたすら目の前の修理(こと)に専念していた。

 合理的に考えるならば、ジュードはキャロルの申し出を今からでも断り、この一件を断念すべきなのだろう。

 されどキャロルが彼の背に向ける視線は、どこまでも"ジュードならできる"という信頼と期待に溢れていた。エスパーでなくとも、背中越しにそれが理解できるくらいに。

 

 ならば、途中で諦めるなんていう格好悪い姿を、男の子が女の子に見せられるわけがない。

 

 ジュードに『できる』という自信はない。

 でも『期待と信頼に応えたい』という意志はあった。

 それゆえに彼は一生懸命に、誠実に、生真面目に目の前の修理(こと)に取り組んでいく。

 前の人生で一度もしたことがないくらいに、必死に。

 

 そして、至った。

 

「……あれ?」

 

 音はなかった。だが"カチリ"と何かがハマる感覚を、ジュードは確かに感じた。

 目隠しでしていたパズルの最後のピースをはめたような、そんな実感。

 それを皮切りに、彼がいじっていた人形のような何かが動き出す。

 

 チリッ、と木炭が焼けるような音がして、それと同時にオートスコアラーが震え始める。

 揺らした(ふるい)から砂が落ちるように、揺れに相応に躯体より光も漏れ始めた。

 振動が光を産み、その光が人形らしきその姿を包み、呑み込んでいく。

 そして光がひときわ強く輝くと、光の中から"少女の人形"が現れた。

 

「んー、グッモーニン」

 

 気の抜けた挨拶と共に、それは二人に起床の挨拶をした。

 青い眼、青い服、青いリボン、黒い髪。

 服装である青と紺のエプロンドレスに、髪の色や眼の色までもが近似色でまとめられていて、人間ではありえないような"服だけでなく容姿までもがデザインされた"印象がある。

 陶磁器のような肌、という人に対する褒め言葉があるが、その少女の肌の色はあまりにも白すぎて、無機物のような印象を受けすぎて、過剰なくらいに人間味を感じない。

 パッと見では普通の人間のようにも見えるが、むき出しの膝球体関節が、その少女が人ならざる者であることを如実に証明していた。

 

「おやおや」

 

 少女の人形はキャロルの顔を見て少し驚いた様子を見せ、ジュードの顔を見てニヤリと笑う。

 

「もうそんな時期ですかぁ、マスター?」

 

「ああ。もうそんな時期だ」

 

 立てた人差し指を頬に当て、少女の人形はウィンクして可愛らしい表情を見せる。

 それだけなら可愛らしいのだが、開いた口の間から覗くどう見ても『食事用』ではなく『戦闘用』な鋭い歯が、ジュードの頬を引きつらせる。

 

「よきかなよきかな。ガリィちゃんの出番ってわけですね!」

 

 少女の人形はうやうやしく、されど過剰に礼儀正しすぎて逆に小馬鹿にしているような姿勢で、お辞儀をしようとする。

 なのだが、その途中で変な動きをした自分の肘を見て、首を傾げる。

 そして不機嫌そうな顔で、ジュードに話しかけた。

 

「ジュード、なんか肘の調子悪いんだけど」

 

「え? 僕名乗ったっけ?」

 

「いーからさっさと直しなさいな」

 

 少女の人形が有無を言わせない様子でジュードに肘を押し付け、ジュードは不承不承了承して人形の肘外装を開き、内部の回線を弄る。

 十分ほど調整を繰り返せば、そこには支障なく稼働する肘と、満足気な少女の人形があった。

 問題が無くなった彼女の体の動きは、まるでバレリーナのよう。

 

「うんうん、悪くない」

 

 その場でくるりと回り、軽やかなステップを踏むと、人形はジュードの額にデコピンをした。

 

「つーかあんた、あたし直すのと奇跡起こす以外無能なんだからそこだけはしっかりしなさいよ」

 

「……僕、君に何かした?」

 

「うんにゃ」

 

「君、僕のこと嫌い?」

 

「うんにゃ」

 

「なんか辛辣じゃない?」

 

「そんぐらい笑って許しなさいよ。むしろ喜びなさい」

 

「性格悪いなぁ君!」

 

 人形は慇懃無礼に、懸糸傀儡のような奇妙な関節の動きで、人のようにお辞儀をする。

 

「『ガリィ・トゥーマーン』」

 

 そして、ジュードに向かって名を名乗った。

 

「性根の腐ったガリィと言えば、あたしでございますよっと」

 

 取り繕わないガリィの笑みは、(ほとばし)る胡散臭さとにじみ出るゲスさに満ち溢れていた。

 

「ま、ほら? 脳内お花畑なあんたにクールな属性のあたしが冷たくするのは当然の成り行――」

 

「ガリィ」

 

「――はぁい、マスター! ガリィ自重します!」

 

「ああ、それでいい」

 

 キャロルはまたジュードを言葉でいたぶろうとするガリィの機先を制し、釘を刺す。

 ガリィも悪い口を開こうとする理由に趣味以上のものはないため、その言葉に従った。

 どう見てもキャロルは愛想が悪く、ガリィは性格が悪かったが、交わす言葉からは両者の間にある確かな信用関係が見える。信頼関係ではない。

 

「マスター、例によって経年劣化が色々とアレですけど」

 

「分かっている。必要なパーツは回収済みだ」

 

 ガリィが自身の内部機関のチェックの結果を報告すると、知っていたとばかりにキャロルが応えて、部屋の隅に置いてあった古い大時計の親指で指し示した。

 

「運命を変えること能わず、時の前後を完結させる、大時計の聖遺物はここにある」

 

「ひゅー、流石マスター」

 

 キャロルが"大時計の聖遺物"を開き、その中から瑪瑙(めのう)に近い色合いの玉を取り出すと、手の平大のそれをガリィに投げ渡す。

 ガリィは口笛を吹きながらそれを受け取り、自分の腹を開いて、その中のくすんだ色合いの玉と取り換えセットした。

 

「はいな、っと」

 

 そして、腹の中の玉を入れ替えるガリィを見て目を丸くするジュードの前に立ち、キャロルはいつになく真剣な表情で口を開いた。

 

「ジュード。お使いを頼んでいいか」

 

「え? う、うん」

 

「この頼み事は少し長くなる。そこは分かってくれ」

 

「いいけど……何をすればいいのかな」

 

 帽子のつばを摘み、目元を隠す。

 キャロルがこの行動を取る時は、少しだけ後ろめたい気持ちを感じている時なのだと、この一年の付き合いでジュードも分かるようになっていた。

 

「それはその時々に適宜『私』が何か言うはずだ。その場に応じて、頼み事を聞いてくれ」

 

「うん、分かった」

 

 ジュードの二つ返事を聞いて、キャロルが微笑みを浮かべる。

 

「ガリィ、頼むぞ」

 

「はいはい、頼まれましたよー」

 

 キャロルの命を受け、ガリィはガシッとジュードの肩を掴む。

 女の子が異性の肩を触るように、ではなく。重いゴミ袋を掴むがごとく。

 

「それじゃ行きましょ。なーに、たった数百年の距離ですよ」

 

「え?」

 

 そしてガリィの体内から、何かしらの機械装置が稼働する音が漏れ、光が放たれる。

 ガリィより発生した光の柱は言葉を発する間も与えず、ガリィとジュードを飲み込んだ。

 数秒後、光の柱が消えた後に残されるのは、キャロルただ一人。

 

「これは『終わり』を告げる『始まり』の光」

 

 キャロルはほうと、深く息を吐く。

 

「今でも信じてる。これは、あの時出逢った懐かしい光だから。……なあ、ジュード」

 

 そして帽子をかぶり直し、その場に背を向け、この場を去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 光に呑まれると同時に、ジュードは思う。

 

(この感じ……どこかで……)

 

 この感覚に、覚えがあると想起する。

 

(そうだ……死んだ時……あの時にも、この感じが……)

 

 そして光の中で失神に至っていた意識を、覚醒させた。

 

「―――!」

 

 光に呑まれて途切れた意識。光が消えると同時に戻って来た意識。

 瞼を開いたジュードの目に移ったのは、どこからか落ちて来た金髪の少女だった。

 一も二もなく、彼はその子を受け止めるように胴から飛び込んだ。

 ボディスライディングに近い姿勢で受け止めたため、ジュードの服は汚れ、打ち付けた腹のせいで息はできず、両腕は手首から肘辺りまで酷く擦り剥けてしまった。

 だが、そんなこと飛び込む前から承知の上だ。

 彼が傷付くという代価と引き換えに、落ちて来た少女はどうやら無事に済んだ様子。

 

「い、づ……!」

 

「……あれ? 痛くない?」

 

 苦悶の声を上げるジュードの腕の中で、目を閉じていた少女が恐る恐る目を開ける。

 その少女の顔を見て、少年は目を見開いた。

 

「キャロル?」

 

 その顔も、声色も、同じだった。

 その少女の容姿は、寸分違わずジュードが知るとある少女と同じだった。

 

「わたしのこと、知ってるの?」

 

 だが、違う。

 ジュードの知るキャロルは自分を『オレ』と言うことはあれど、『わたし』とは言わない。

 その違いが、ジュードに"自分の知るキャロルとこのキャロルは違う"という決定的な事実を突き付ける。

 

 彼はまたしても時を遡った。

 

 ここは17世紀の欧州。

 現代においては『暗黒大陸』とすら呼ばれる土地。

 そして、『魔女狩り最後の最盛期』『魔女狩りが終わった時代』と語られる時代であった。

 

 

 



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少女にとって初めての―――

 17世紀のキャロル・マールス・ディーンハイムは、9歳の少女だった。

 その容姿は21世紀のキャロルとほとんど変わらない。

 強いて言うならば、21世紀のキャロルの方が少し身長が高く、三つ編みにした長い髪があり、目付きが悪い、くらいだろうか?

 容姿だけで言えば、両者にパッと見で分かる差異はない。 

 

 容姿以外に違いはあるか? と問えば、そちらはいくつもの違いがある。

 まず喋り方が違う。

 21世紀のキャロルの語調は落ち着きこそあるが、やや刺々しい、男言葉に近いオレ口調だ。

 対し17世紀のキャロルは幼い印象を受ける、滑舌も大人ほど育っていないわたし口調。

 キラキラとした無垢な色の17世紀のキャロルの目。眉根を寄せて目を細めて目付きを悪くした、深い色の21世紀のキャロルの目。そこから透ける性格も差異と言えるだろう。

 総じて、この両者には会話すればよく分かるくらいに明確な違いがある。

 

 そして何よりの違いは、キャロルの隣に『父親が居る』ということだろう。

 

「キャロル、危ないぞ」

 

「へーきへーき」

 

 中世が終わり近世に入った時代のヨーロッパの、とある町。

 塀の上を歩くキャロルに、父『イザーク・マールス・ディーンハイム』が声をかけた。

 子供は特に意味もなくこういうことを好み、塀に限らず道路の白い線などの上を危なっかしく歩く。子供特有のキャロルの行動は、本当に歳相応といった感じだ。

 父であるイザークからすれば、おてんばな娘の行動はハラハラして仕方がないのだが。

 

「キャロル。錬金術にだって、治せる怪我と治せない怪我があるんだ」

 

「もう、パパったら心配症なんだから」

 

 イザークはその道では名の知られた高名な錬金術師の一人だ。

 ()を解し、(ことわり)を重ね、学の延長として奇跡のような偉業を成す男である。

 彼は国から国へと渡り歩き、万象を知り世界に通ずるという錬金術の最終目的を目指しながら、困っている人々を錬金術で救い続けていた。

 父を誇らしく想い慕う、一人娘のキャロルを引き連れて。

 

 彼らがこの町にやって来たのも、薬が足りなくなっていたこの町の診療所に薬を売り、生活費の補充と人助けを行うためだ。

 "蒸留は錬金術師が生み出した技術"と言われるように、オカルティズムに傾倒せずとも、科学・医学などにおいても優秀であるのが錬金術師である。

 病に効く薬を煎じ、人に与えて救うことなど、彼にとっては朝飯前のことだ。

 

 そんな彼でも、重傷や死は治せない。

 

「キャロル、落ちたら危ないんだ。だから……」

 

「あっ」

 

「! キャロル!」

 

 そして、彼の嫌な予想は当たってしまう。父が塀の上のキャロルを諭して降ろそうとしたその矢先に、キャロルが足を滑らせてしまったのだ。

 落ちる。そう理解したイザークは叫んで手を伸ばした。

 だが、キャロルはイザークとは反対の方向に落ちていってしまう。彼の手は届かない。

 娘が塀の上から無防備に落ち、嫌な音が響くという最悪の未来をイザークが想像した、まさにその時。

 

 塀の向こうに、キャロルが落ちたその場所に、光の柱が現れた。

 

「!?」

 

 まばゆい光に目を覆うイザークは、光が収まると同時に塀を越えようとする。

 

「一体何が……キャロル!」

 

 が、運動不足と運動音痴が重なって四苦八苦。

 息を切らしながらなんとか塀を越え、その向こうを覗くと、そこには彼が予想もしていない光景があった。

 目を瞑り身を縮こまらせているキャロルと、それをなんとか受け止めてくれたらしき少年。

 そして今まさに、ボディスライディングに近い姿勢でキャロルを受け止めたまま立ち上がっていない少年の上に出現し、その背中の上にブーツで着地した人形。

 

「よっと」

 

「ぎゃふん!?」

 

「あら、ごめんあそばせ」

 

 謝ってるのかバカにしてるのか分からない口調で、ガリィはジュードの背から降りる。

 キャロルのために飛び込んだものの、腹を打って腕を擦り剥いた上に、背中にくっきり足跡まで残されたジュードは文字通りの踏んだり蹴ったりといったところか。

 イザークは塀を越え、10代20代だった頃より動かなくなってきた肉体の息を整えつつ、明後日に来るであろう筋肉痛の存在を錬金術師の卓越した頭脳で予測し、娘を助け起こす。

 

「キャロル! 大丈夫かい?」

 

「う、うん」

 

 父はキャロルを助け起こすものの、娘は服に砂すらついていない。

 それどころか、イザークが目を向けてみれば娘を助けてくれた子の傷の方が酷い。

 命には関わらないだろうが、血がポタポタと垂れていた。

 この年頃の子供なら泣いていてもおかしくはないだろうに、と、イザークはその少年を心の中で褒めつつ、少年と人形の二人組に問いかける。

 

「君達は、いったい……」

 

 腹を打って息ができないせいか、一人で呻いているジュードをよそに、"人に限りなく近い人形"という怪しさ満点のオートマータが問いに応える。

 

「ま、あたくしこういうものでして」

 

 そして手の平の上で青い光を紋章と編み上げ、千の言葉よりも雄弁な証明を成した。

 イザークは絶句し、息を呑み、その青い紋章を目に焼き付ける。

 

紋章形而(クレストグラフ)……!?」

 

「ええ。ディーンハイムの秘奥、紋章錬金術(クレストソーサー)紋章(クレスト)ですよぅ」

 

 ディーンハイムの錬金術は、世界を五大元素と解釈した上で理解するものだ。

 基礎となる考え方の提唱者の名を取り、四大元素(アリストテレス)と呼ばれる四つの元素に『質量のない世界の構成要素』たる第五元素を加えた五つ。

 ディーンハイムが用いる錬金術は遠い未来に、これを理想的に制御するため、"力の流れる道"を作る目的で紋章の形の制御基板を生み出した。

 この紋章を組み合わせ大規模魔法陣を組み上げることで、従来の錬金術とは比べ物にならないほどの力を発することができるようになったのだ。

 

 風と流体、緑の紋章(クレスト)

 水と包括、青の紋章(クレスト)

 土と積上、茶の紋章(クレスト)

 火と焼却、赤の紋章(クレスト)

 そして空と天体、黄金の紋章(クレスト)

 

 独自の理論から紋章を用いてエネルギーを制御するという発想は、ディーンハイムの錬金術特有のものであり、イザークが現在進行形で研究を続けている技術体系だ。

 そして同時に、イザークでさえまだ紋章の形成すらできていない、そんな技術体系でもある。

 ガリィの手の中にある紋章(クレスト)は、はるか未来のディーンハイムの錬金術に他ならなかった。

 そしてこれ以上ない身の上の証明にもある。

 ガリィのクレストには、ガリィの製作者であるキャロルの生体パターンが刻まれているからだ。

 

「あたしはガリィ。ガリィ・トゥーマーンと申します」

 

 ガリィはイザークに頭を深く下げ、紋章を浮かべた右手の指をパチンと鳴らす。

 すると右手の光が弾け、傍のジュードの体を包み、人体の治癒能力を促進させる。

 両の腕から血を流していたジュードの怪我は、あっという間に消え去っていた。

 ガリィはジュードの怪我を治し、彼の服の土や砂を手で払ってやりながら、丁寧に助け起こす。

 

「あ、ありがとう」

 

「いえいえ」

 

 そして、イザークとの会話を再開した。

 

「マスター・キャロルに作られ、主の命にて時間を遡って参りました」

 

「……!」

 

 その言葉に、ガリィ以外の全員が驚愕の表情を浮かべる。ジュードもだ。

 魔法と大差ない錬金術というファンタジーを知り、扱う彼らでも、"時間遡行"などという奇跡を自在に行うことなどできはしない。

 だが現実にその奇跡は起きている。

 何も事情を知らない三人に対し、全ての事情を知るガリィは、慇懃無礼に礼をする。

 

「微力ながら、この美少女ドールガリィちゃんと無能ジュード君の同行を許してくださいませ」

 

「無能!?」

 

 そしてイザークとキャロルの旅に、自分達も同行させて欲しいと申し出た。

 ジュードの声はガン無視で。

 イザークは顎に手を当て、ガリィの言葉にいささか思案する様子を見せる。

 

「……キャロルは、何と?」

 

「『いずれ分かる』と」

 

 イザークはガリィ――ひいてはガリィに命令を出したキャロル――の目的を暗に聞くが、ガリィからその答えは返って来ない。

 経験の浅い者は自分が何もかもを知っていないと不安になり、隠し事をする人間を全く信用しないという愚行を犯しがちだが、イザークは違う。

 彼は"知らない"ということが時にアドバンテージとなり、"知らせない"ということが時に善意で行われることを知っている。

 

 未来のキャロルは、自分が余計なことを知らないことが最善だと判断した。イザークはそう悟って、ガリィにそれ以上は追求しない。

 そしてガリィの身上を理解して、彼女の隣の少年のことをガリィに問う。

 

「この子は?」

 

「マスター・キャロルの錬金術の弟子みたいなものですよー」

 

「なるほど。はじめまして、私はイザーク・マールス・ディーンハイム」

 

「あ、はじめまして。ジュード・アップルゲイトです」

 

 礼儀が何たるかを知った上で他人の神経を意図的に逆撫でする、ガリィとは違う。

 イザークの所作は教養の高さを滲ませるものであり、子供に対し受けの良い好感を持てる第一印象を抱かせるものであり、親しみを持てる程度に崩された礼であった。

 親しみが持てる反面、格式張った礼儀作法は苦手そうで、世渡りが下手な印象を受ける、そんな礼。小市民的、と言い換えてもいいか。

 ジュードも好意的な第一印象を受けた様子で、名を名乗る。

 

「どうやら君も状況が飲み込めていないようだけど……

 キャロルの意思とあらば、私も君に悪意はないと信じよう。よろしく」

 

「よ、よろしくおねがいします」

 

 イザークはガリィを信じたわけではない。ジュードを信じたわけでもない。

 ガリィが見せたディーンハイムの錬金術を、その裏に見える"未来の娘"を信じただけだ。

 彼はお人好しに分類される人間ではあるが、理由なく初対面の人間を信用しきれるほどに聖人ではない。

 彼はただ、一人の父として"どれだけの年月が経とうとキャロルはキャロルだ"と信じ、その目的が善いものであると信じ、ガリィとジュードの同行を許可しただけなのである。

 少なくも、今はまだ。

 

「さて、少し話を聞きたいところだが……そうも行かないようだ。移動しなければね」

 

 イザークに促され、一行はその場を離れるために歩き出した。

 ジュード達が現れた時に発生した光の柱。

 あれを見た者達が、何事かとこの場に集まり始めているのだ。

 長居は無用。面倒事になりかねない。

 先頭を行くイザーク。何度かジュードの方を振り返りながら、父の後に続くキャロル。

 二人から少し離れた後方を、ジュードとガリィは並んで付いて行く。

 

 だが、ジュードもそろそろ混乱が治まってきた頃だ。

 時間遡行の経験は二度目――1度あるだけでもおかしい――だが、今回はどう考えても21世紀のキャロルとガリィが組んで起こした企みだ。

 どういうことだ、と、ジュードは問わずには居られない。

 

「なあ、どういうことなんだ?」

 

「聖遺物の力。あんたも知ってるでしょう?」

 

「それはまあ……」

 

 『聖遺物』。

 今の人類文明が築かれる前の時代、今の文明よりもはるかに優れた超高度先史文明が残した、異端技術(ブラックアート)の塊の名称だ。

 それは剣であったり、槍であったり、弓であったりする。

 おそらくはあの時、キャロルが手にしていた大きな古時計。あれが聖遺物だったのだろう。

 "時間を行き来する聖遺物の力"と聞いて、ジュードの脳裏に、ふとあの時のことが蘇る。

 

(時間を行き来しても、最終的に過去と未来は同じ形に帰結する……

 『運命』を変えられる人間じゃないと、最後に辿り着く結果は変えられない、だっけ?)

 

 最初の人生が終わる前日の夜に、掲示板で見た書き込み。

 十年以上前の匿名掲示板での何気ないやりとりなど彼が完全に覚えているはずもなく、その記憶は朧気だが……それでも、かすかにならば覚えている。

 ジュードが記憶を想起しているのを知ってか知らずか、ガリィが続けて発した言葉が、彼の意識を記憶の中から現実へと引き戻す。

 

「あたしの躯体もマスターが作った、ちょっとした聖遺物のパッチワークなのよ。

 細かい理論はメンドくさいから省くけど……

 ま、今あたし達が居るこの時代が、あの時代から数えて数百年前って覚えてりゃ問題無しよ」

 

「問題無し、って言われてもなあ……あだっ!?」

 

 面倒くさいから説明すんのやだ、とほざくガリィ。

 当然のようにジュードは食ってかかるが、デコピン一つで黙らせられてしまった。

 

「まーだ気付かないの? このノータリン。

 あたしはこの旅にあんたの案内役として付けられたのよ」

 

「この、旅……?」

 

「そんなに心配そうな顔しなくても大丈夫よ。

 あんたはちゃんと元の時代に、両親とマスターの下に帰れるから」

 

 ジュードはガリィのその言葉に少しだけ安心する。

 だが同時に、ガリィの言葉によく分からない違和感も感じ取った。

 どこか、何か、ニュアンスがおかしかったような……そう思うも、何が変なのか分からない。

 

「無事に、とは言わないけどねぇ」

 

「え」

 

「きゃははっ! 今すっごいい顔してたわ、ジュード。やっぱあんたは飽きないわね!」

 

 そんな違和感もガリィの冗談に吹っ飛ばされ、少年は考えるのを辞めた。

 バレエのような動きで踊るようにくるくると動くガリィに付きまとわれ、いい加減鬱陶しいな、と彼が思い始めたまさにその時。

 

「……え?」

 

 信じられないような光景が、彼の視界に入って来た。

 

「これ、人……?」

 

 焼けた木の柱。

 鼻につく、焼肉屋で何度か嗅いだ記憶がある"肉が焼ける臭い"。

 木の柱に括りつけられた黒焦げの『何か』。

 その黒焦げの何かの下で、プスプスと燃え続ける炭化した木々。

 

 それは間違いなく人だった。それも、生きたまま燃やされた人だった。

 

 人の体はタンパク質で出来ているため、燃やされれば体の各部が熱で変性し曲がっていく。

 縄で不自然な体勢で縛られ、熱で筋肉が収縮したその死体は、見るに堪えない形をしていた。

 死ぬまで下から火で炙られたからだろう。

 足の指の肉が溶け、炭化し、ころりと何本か転がり落ちてしまっている。

 ……おそらくは、生きている内にこの足の指は焼き切られていたに違いない。

 縄で縛り付けられた部分の擦り傷が、この人間が火で炙られどれだけ強く激しく暴れたのか、どれだけ痛み苦しみ悶えたのかが、よく分かる。

 

 死後硬直の関係か、突如首がガクンと動き、その眼窩から目玉が落ちる。

 転がる目玉がジュードを見つめ、ひぃ、と彼は引きつった悲鳴を上げた。

 

「火刑でしょ、そんな珍しいもんでもなく」

 

「珍しくないって、そんなわけ……! ……あ」

 

「そら、あんたの生まれ育った時代ならそうかもだけど」

 

 ガリィは"見せるべきじゃないものを見せちまった"と言わんばかりに舌打ちし、表情を不機嫌なものへと変えて、指をパチン鳴らす。

 すると一瞬で火刑の跡も死体も凍り、砕けて消える。

 後には何も残らなかった。

 まるで、ガリィがこれ以上あの光景をこの少年に見せないがためにしたかのように。

 

「今あんたがどの時代に居るのかってのを考えなさいな。

 西洋圏では"死体が残ってる限り死後の救いが許される"。

 死体を残さない火刑は、生きて幸せになることも死後に幸せになることも許さないということ」

 

 ジュードの脳裏に、『魔女狩り』という単語が思い返される。

 それは彼の前世において、誰もが知っていて当たり前の、惨劇の歴史の名称だった。

 

「つーまーり、あたし好みの相手をどん底に落とす殺し方ってことよ」

 

「そん、な……」

 

 だが実際に目にするまで、彼もここまで残酷で痛々しくグロテスクなものだとは思っていなかった。ここまで"刑罰を受ける人間の救いを否定する"ものだなんて、思ってもみなかった。

 吐き気がジュードの小さな体に満ち、喉の奥まで吐瀉物が上がってくる。

 それを必死に抑え込むジュードを見て、ガリィは淡々と語り始める。

 

「この時代、『異端』に対するシステムは結構発達してたのよねえ。

 正当な手続きの下に行われた魔女狩りの告発は、いつしか民衆のガス抜きになっていた。

 恐れる民衆に"この者は魔女ではなかった"と国と教会が証明するものになっていたのよ。

 告発された者の半数は魔女である証拠がなく釈放。

 こいつは魔女だ、と叫ぶ人間以外にこいつは魔女ではない、と証言する者が居れば釈放。

 根拠なく他人を魔女と呼び貶めた者にも相応の刑罰を課した。

 擁護できないくらい怪しいことやってた奴は悔い改めさせて"魔女ではなくなった"としたわ」

 

 ガリィは人形だ。

 だが人間であるジュードよりもはるかに豊富な、知識の蓄積がある。

 

「そりゃそうよね。

 魔女"裁判"というからには、ちゃんとした聖職者がする限り、法に則って裁くんだもの。

 てっきとーな事実無根のいちゃもんや思い込みは通らないわよねえ?

 異端審問官だってそう。スペインとかガッチガチの異端審問官の目は誤魔化せない。

 だって本当に隠れてる『本物の異端』を見分ける本職よ?

 ままごとみたいな理屈で行われる魔女裁判なんてするわけがないでしょうが」

 

 彼女は国、宗教、システムが腐敗したものよりも、もっと悪質なものを知っている。

 

「それでもこの時代、万単位の人間が悪魔、魔女、異端と呼ばれて殺された。何故?」

 

 そんな枠組みやカテゴリがなくとも、『特別でないただの人』が集まることで救いようのない存在になることを知っている。

 

「それは、人間がクズだからよ」

 

 ガリィは『人』を、鼻で笑った。

 

「国でもなく教会でもなく、民衆主導の田舎の方が魔女狩りの被害者多いってんだから傑作よ。

 言っちゃえば最高裁判所が寛容なのに民事裁判で死刑連発してるようなもんでしょ、これは」

 

 下衆(ゲス)が外道を、見下し笑う。

 

「魔女狩りは社会が不安定になると、そのガス抜きとして行われる数が増える。

 つまりはストレス解消ね。

 悪魔だなんだとケチつけて殺さないと何されるか不安でしょうがない奴が居る。

 つまりは不安の解消ね。

 異端としてぶっ殺した奴の財産は好きに出来た。

 つまりは小金持ちを妬んでの小遣い稼ぎね。

 そんなとこでしょ。こんなものに大した理由なんて無いわよ」

 

「こんなものにって、そんな言い方!」

 

「こんなものに大した理由なんてあるわけ無いじゃない」

 

 所詮、こんなものは集団心理の産物だ。

 言うなれば、"最近それが流行ってるから"気分で行われるものと大差はない。

 それだけの理由で、人は泣きながら命乞いをする人に、油をかけて火を付けられるのだ。

 

「そんなもんでしょうよ、人間なんて」

 

 ガリィは氷のように冷たく言い放つ。

 性根の腐った彼女は、特例を除いた他者を等しく小馬鹿にして見下していた。

 

「……それでも」

 

 ジュードは彼女の言葉に押し黙ってしまう。

 ガリィが言っていることはある意味では正しい。ある意味では真理に近くすらある。

 知識の量でも、この世界に生きてきた歳月の長さでも、彼女のそれは彼とは比べ物にならないほどに多く長い。議論を交わしたところで、勝敗など目に見えている。

 

「みんながみんな、そうじゃないって、僕は思いたい」

 

 それでも、ジュードはガリィの色には染まらない。

 親の愛を貰えぬままに終わった前世。親の愛を一身に受けた今世。

 その二つを知っているからこそ、彼は人の愛がなければ人の心がどれだけ寂しく辛くなるのか、人の愛がどれほど人の心を暖かくしてくれるのかを、知っている。

 それを自分以外の者に向けられる人間の素晴らしさを、知っている。

 

「はぁ~、その頭の中のお花畑、くっそ踏み荒らしてやりたいわ」

 

 対しガリィは、その甘々な彼の感性に反吐が出そうな顔をする。

 理想家夢想家妄想家は彼女が最も嫌い踏み躙ろうとするタイプの人間だ。

 ジュードも薄々それは分かっていたし、この後ガリィに散々何か言われるんだろう、と覚悟していたのだが――

 

「でもま、あんたにゃそれがお似合いよ」

 

「……ガリィ?」

 

「あんたがそう思うんならそうなんでしょ、あんたの中では」

 

 ――ガリィは彼の予想に反し、何も言わなかった。

 そしてそのまま、彼から離れていく。

 

(何も言わなかった?)

 

 からかいも罵倒も飛んでこないことに違和感を抱きつつも、ジュードは振り返る。

 そこには焼けた地面だけがあった。

 焼けた木の柱も、そこに括り付けられていた人の死体の燃え残りも、もうそこにはない。

 なのにその場所を見るだけで、気分は悪くなってしまう。

 

(……人が『殺された』のを見るのは、初めてだったな)

 

 ジュードの気持ちが沈んでいく。

 ごく普通の世界にしか生きていない人間にとっては、人が死ぬどころか大量出血をみることすらパニックを起こすに足る衝撃だ。

 事故で死んだ死体を見て一生もののトラウマになる者も少なくない。

 まして、焼死体など見てしまったのだ。心にダメージが行ったことは想像に難くない。

 そうして気分が落ち込む彼の手を、誰かが取る。

 

「……?」

 

 ジュードが顔を上げれば、そこには彼の手を取るキャロルの姿。

 

「キャロル?」

 

「そ、その……元気、出して?」

 

 この時代に生まれ落ちたのだ。キャロルも"ああいった光景"は何度も見てきたに違いない。

 ジュードと同じように、焼き殺された人の死体に気分を悪くしたこともあっただろう。

 だから彼女は、こうしてジュードの気持ちに理解を示し、優しくしてくれている。

 その優しさが、ほんの少しだけ沈んでいく彼の心を()ってくれた。

 

「ありがとう、キャロル」

 

 礼の言葉にはにかむキャロルを見て、ジュードは心底実感する。

 『このキャロル』と、『あのキャロル』は、同一であると同時に別個の人間であるのだと。

 同一人物であっても、同一の性格ではないのだと。

 本当に稀に儚げに笑う未来のキャロルと、屈託なく笑う過去のキャロル。

 "キャロルの笑顔"が、彼に長い長い時の隔たりを実感させる。

 

「未来の私を、知ってるんだよね?」

 

「うん。錬金術とか色々教わったし、一緒にずっと旅をしてたんだ」

 

「……そ、その、どんな感じの大人だった? こう、綺麗系とか可愛い系とか」

 

 もじもじと指先を合わせ"自分がどんな大人になっていたか"を聞いてくるキャロルに、「いや外見はほとんど変わってなかったよ」と現実を突き付けない優しさが、ジュードの中にもあった。

 キャロルが遠い未来でも子供のままな姿で居た理由、そも何百年もの未来で生きていた理由はいまだ不明だが、ジュードは"錬金術すげー"くらいしか思っていない。

 

「……えー、あー、面影はだいぶ残ってたかな。でも、素敵な女性になってたよ」

 

「そっか……えへへ、そうなんだ」

 

 キャロルは照れからか、嬉しさからか、それともそれ以外の感情込みの理由からか、頬に赤みが差した表情で彼の手を引いていく。

 

「行こっ! パパが待ってる!」

 

 父に教わり導かれるだけだった小さなキャロルが、"未来から来た自分の錬金術の弟子"というジュードを前にして、その手を引こうとした気持ち。

 17世紀のキャロルを通して21世紀のキャロルを見るジュードが、目の前に居るキャロルではなく未来のキャロルを大人として見ている少年が、大人しく手を引かれることを選んだ気持ち。

 二人はまだまだ互いのことも理解していないし、互いの行動の理由となる気持ちも分かっていない。

 それでも、繋いだ手だけが紡ぐものがあった。

 

 冷えて暗くなりそうな心を照らし暖めるものが、繋いだ手から伝わっていた。

 

 

 



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奇跡が悲劇であることを彼だけが知っている

予約投稿日ミスってたてへぺろ


 ジュードには一年をかけて付けた錬金術の知識がある。

 ディーンハイムの錬金術における代表的なものの数々は、彼には扱えなかった。

 しかし彼は21世紀の義務教育と高等教育、21世紀のキャロルの研究資料という、17世紀の人間にとって値千金どころではない知識を持っていた。

 そういう意味で、イザークの錬金術研究にブレイクスルーをもたらす存在だった。

 

 ジュードとガリィがこの時代に来てから数ヶ月。

 自然の成り行きで、ジュードはイザークから錬金術の基礎を学びつつ、イザークの助手として日々を過ごすようになっていた。

 今日も彼らは、ディーンハイム親子の拠点である一軒家にてフラスコを見つめている。

 

「ジュード君、A11フラスコをこちらに」

 

「はい、どうぞ。沸騰石足りてます?」

 

「……少し心もとないな。取って来てくれるかい?」

 

「了解です」

 

 ジュードは以前未来のキャロルに対し、外見年齢に不相応の落ち着きがあると感じた。

 それは今のイザークがジュードに対しそれを感じているそれと、ほぼ同一のものである。

 知識だけの子供ならばイザークもジュードを助手に付けることなどしなかったのだろうが、幸いジュードには子供特有の危なっかしさがなかった。

 その点ではある意味、見習い錬金術師のキャロルより頼られていると言えるのかもしれない。

 

「二番倉庫の右列三番目で良かったですよね?」

 

「ああ。頼んだよ」

 

 記憶力が優れているのではなく、助手作業の過程やイザークの言ったことを逐一メモして記憶力を補っているジュードは、この数ヶ月でそこそこ信頼されるようになっていた。

 ジュードは優れているわけではない。ただ、懸命なだけだ。

 面倒見のいいイザークのことだ。頭のいい生徒より、こういうやる気のある生徒の方が教育には気合が入る。フラスコを見つつ、彼はこれからジュードにどう学ばせるのかを考えていた。

 とりあえず基礎をしっかりと……と考えたところで、部屋のドアが開く。

 

「早かったね、ジュードく……おや?」

 

「ちょいと失礼いたしますよ」

 

 バレエの動きを思わせる所作で一礼し、入って来たのはガリィであった。

 イザークの錬金術を受け継いだ、未来のキャロルが作ったという自動人形(オートマータ)

 本来ならば紋章錬金術師(クレストソーサレス)であり、相応の知識も持っているガリィ以上に錬金術師の助手が相応しい者など居ないのだろうが、本人は「やーよ面倒くさい」とイザークの手伝いを頑なに拒み続けている。

 なのでイザークと話す機会もジュードほど多くはない。

 いい機会だ、とイザークは考え、口を開いた。

 

「ガリィ君か。丁度よかった、少し君に聞きたかったこともあったんだ」

 

「オートスコアラー、の名の由来ですかあ?」

 

「! 流石勘がいい……いや、もしや、私がそう聞くのを知っていたのかな?」

 

「さーてどうでしょうかねー」

 

 はぐらかすガリィに、確信に至るイザーク。

 これだから頭がイイ奴は嫌なのよ、とガリィは頭の中で呟いた。

 

「オートマータと、記録(スコア)を合わせた造語……いや、譜面(スコア)かな?」

 

「いえいえ、そんなご大層なものじゃありませんよ」

 

 『オートスコアラー』の名の由来を問うイザークの言葉に、ガリィは肩をすくめて答えた。

 

「ガラじゃないと思うんですがねえ。幸運(スコア)でございます」

 

 "譜面"や"記録"とは無縁ですよと、ガリィは言う。

 それを聞いてイザークが微笑んだのは、未来でも娘がそんなに変わっていないことを知ったがための安心感か。

 何にせよ、イザークはガリィとの問答の中で一つの確信を得たようだ。

 問いかけの内容とは、関係なしに。

 

「それじゃ、あたしの話をしても問題ないですかあ?」

 

「ああ、構わないよ。すまないね、こちらの話を優先してもらって」

 

「いえいえ。あたしの話は、ジュードをどう指導するのかという話でして」

 

「……? 何か腹案があるのかい? 聞かせてもらってもいいかな」

 

「そういうわけじゃないんですけど、来週あたりに改めて考え直す予定で居た方がいいですよぅ」

 

「?」

 

 ガリィは自分の服の襟元を直しながら、ガリィの言葉に瞬時に幾百もの予測を頭の中で組み立てている、聡明なイザークに笑いかける。

 

「どうせ、来週には紋章(クレスト)余裕で作れるようになってますからねえ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 イザークの研究や仕事を手伝い、イザークから報酬代わりに錬金術の基礎を教わるジュードは、空いた時間にも自分なりに勉強を続けていた。

 今日も今日とて、21世紀のキャロルを真似して紋章(クレスト)形成を練習練習。

 が、女の子が見てる前だから格好付けて頑張って成功させられた、なんてことはなく。

 キャロルの前でジュードが形作ろうとしていたクレストグラフは、形にもならなかった。

 

「ダメか」

 

「ダメみたいだね」

 

 はぁ、と溜め息を吐くジュードを、キャロルが励ます。

 ディーンハイムのそれをキャロルが昇華させた錬金術は、エネルギーの制御を主とする。

 そのため基軸に錬金術の技術を据えつつ、魔法のような現象を引き起こすことができるのだ。

 が、誰にでもできるわけではないようで、ジュードは今日に至るまで一度も成功させることができていなかった。

 

「うーん……術式は多分間違ってはないと思うんだけど……」

 

「ジュードにも原因は分からないの?」

 

「僕だから分からないのかも。未来のキャロルなら、すぐに分かったかもしれない」

 

 キャロルの前でいい格好をしたいのか、普段より少しだけ気合を入れるジュードを、頬杖をついたキャロルが見守る。

 少年の言葉の節々から、少年の未来のキャロルへの確かな信頼を感じさせる言葉が、未来のキャロルへの確かな評価が、それらを耳にするたびにキャロルをこそばゆい気持ちにさせる。

 素直な好意というものは伝わるものだ。

 たとえ、ジュードのそれが、目の前のキャロルではなく未来のキャロルへと向けられるものであったとしても。

 

「未来のわたし、そんなにすごい人だったの?」

 

「頼りになる人だったよ。少なくとも、僕にとってはそうだった」

 

 父に付き従い各地を点々とするキャロルにとって、ジュードは数少ない同年代の友達だった。

 会いたい時に会えるという意味では、唯一の友達であると言っていい。

 そんなジュードの勉強をじーっと見つめていたり、飽きてジュードを遊びに誘ったりする毎日を送っていると、キャロルも自然とジュードが書いたり読んだりしている文や絵図を覚える。

 一々メモを取るタイプのジュードとは違い、キャロルは記憶力には自信がある。

 一度記憶した想い出をそうそう忘れない記憶力は、彼女が胸を張って自慢できる長所だった。

 

 彼女はそうして、ジュードが頑張って真似しようとしている『キャロルが考えた覚えのない、キャロルが考えた錬金術』を覚えていく。

 

(『わたし』の錬金術、か)

 

 新しいことを覚えると、好奇心から試したくなるのが子供というものだ。

 子供は行動の前にあまり深くは考えない。

 小学生が何も考えずエアガンを友達の顔に向けて引き金を引き、後悔するのがそれにあたる。

 ましてキャロルが覚えたそれは、未来の自分が生み出した技。

 理屈をひとたび覚えてしまえば試したくなるのは当然の成り行きであった。

 

「……こうかな?」

 

 キャロルの指が(くう)を滑る。

 滑る指先がジュードの描いた絵図を真似して、空中に緑の紋章(クレスト)を描いた。

 すると、力の流れが自然界の中ではありえないレベルでスムーズに流れ、形を成す。

 それは大気に干渉する風の錬金術となり、ジュードの手元の紙を舞い上げた。

 

「うわっ!? って……キャロル!?」

 

 見様見真似で魔法に等しい錬金術を行使したキャロルに、ジュードも驚きを隠せない。

 この知識を持って来たジュードも、その知識を知った一流の錬金術師であるイザークでさえもまだ何も使えていないというのに、だ。

 それは、錬金術における稀代の天才の膨大な才能が、密かにその片鱗を見せた瞬間だった。

 

「ふふふ、未来のことだけどわたしがおししょーさんだからね。

 弟子のジュードには負けられないのだ! すごいでしょ!?」

 

「さすがキャロル。錬金術に関しては、やっぱり僕じゃ足元にも及ばないみたいだ」

 

「でしょー?」

 

 キャロルが研鑽した錬金術だ。彼女が使うために最適化されていたとしてもおかしくはない。

 が、それを差し引いても彼女の才気は凄まじい。

 これは野球少年が未来にメジャーリーガーになっていた自分のプレーを見て、それを真似して小学生なのに高校球児並みの能力を発揮したに等しい。

 キャロルに自覚はないようだが、ジュードは彼女に対する確信を更に深めていく。

 キャロル・マールス・ディーンハイムは、間違いなく稀代の天才なのだと。

 

「ようやく……」

 

「え、何?」

 

「ううん、なんでもない。

 これからはわたしも錬金術を教えてあげられるから。ししょーと呼びなさい!」

 

「いや僕、元の時代でもキャロルを師匠って呼んだことなかったし……」

 

「ええっ!?」

 

 おそらくはジュードが未来の自分の教え子であると知った時から、キャロルはこういう関係を構築したかったに違いない。

 すなわち、教え子に錬金術を教え、教え子からすげーすげーと尊敬される関係だ。

 ジュードが未来のキャロルに尊敬を向けているのが理解できているからこそ、早く見習い錬金術師を脱したいという願いがあったからこそ、その思いは強かったのだろう。

 

 紋章錬金術(クレストソーサー)を扱えた瞬間、彼女は"ようやく"と言った。

 ジュードに出来ないことが出来るようになった瞬間、彼女は嬉しそうな表情を浮かべた。

 そして彼の態度があんまり変わっていないことに、彼女はガーンとショックを受けた。

 無愛想だった21世紀のキャロルとはあまりにも違う17世紀のキャロルの百面相に、ジュードも思わず苦笑してしまう。

 

「これでわたしも、パパの助手になれるよね!」

 

「え」

 

「……え?」

 

「いや、どうなんだろうか、それは……

 だってそれを使えることが助手の条件なら、僕が助手をやってることがおかしくならないかな」

 

「あっ」

 

 そして喜々としてジュードと距離を詰め、飛び跳ねながら喜ぶキャロル。

 固まるジュード。固まるキャロル。

 考えなしのキャロルに対するジュードの指摘は、キャロルの精神的急所に一撃当てていた。

 

「じゃ、じゃあ、どうすればパパのお手伝いができるの!?」

 

「え、いや、僕に聞かれても。イザークさんに許可貰えたらじゃないか?」

 

 ぐいぐい来るキャロルに困惑するジュードの言葉に、ガクリと落ちる少女の肩。

 俯くキャロルは見るからに落ち込んでいる。

 それも、一瞬期待したせいかダメージが倍増した様子だ。

 広がる沈黙、約数秒。

 どう声をかけたものかとジュードが悩んだ数秒の間に、キャロルの方が口を開いた。

 

「……なんでパパは、わたしを助手に使ってくれないんだろ」

 

 ポツリと呟き、ガバっと顔を上げ、キャロルはジュードの襟元を掴んでぐいっと引き寄せた。

 そして前後にぐわんぐわんと揺らす。

 イザークはジュードを使うことはあっても、キャロルを助手に使うことはない。

 それがキャロルの心に棘のように刺さっているのだ。

 彼女を突き動かすその感情は、名を『嫉妬』と言う。

 

「羨ましい、羨ましい、羨ましい!

 ジュードは『わたし』の弟子なのに、わたしと違ってパパに頼りにされてる!」

 

「どーどー、落ち着いて落ち着いて」

 

「むむむ」

 

 150cmと少しあるジュードの襟首を掴むキャロルの身長は130cmと少し。

 必然的にちょっと危なっかしい姿勢で、キャロルはジュードをぐわんぐわん揺らしている。

 転ばれてはことなので、ジュードはキャロルが転ばないよう気を付けつつ、いつでも支えられるよう気を配りながら、キャロルをなだめる。

 

「ほら、愛娘を怪我させたくないからまだ早いと思ってるとか、そういうのなんじゃないかな」

 

「むすー」

 

 頬を膨らませるキャロルは歳相応のすね方をしているが、21世紀のキャロルを知るジュードはこう言った一面を見るたびに、何故か見てはいけないもの見てしまったような気になってしまう。

 身近な大人の小学生の頃のバカ顔をアルバムの中に見つけてしまったような、そんな心境。

 "キャロルが幼い子供である"という現実が、彼を僅かに困惑させ戸惑わせる。

 彼が戸惑いを振りきれない内にキャロルの気分はどんどんと沈んでいき、すねつつ、怒りつつ、嫉妬しつつ、泣きそうな顔になるという、至極面倒くさそうな表情を彼女は浮かべていた。

 

「……パパ、わたしのことあんまり好きじゃないのかな」

 

 キャロルが何気なく口にした言葉。

 子供が考えなしに口にした、血の繋がった親子の愛を疑う言葉。

 その言葉に、ジュードは過敏に反応した。

 

「それだけは絶対にない」

 

 ジュードは自分の襟を掴むキャロルの手を離させて、その手を握る。

 そして至近距離で真っ直ぐにキャロルの目を見て、言い聞かせるように言葉を紡いだ。

 

「血の繋がった親子だろう? そこは疑っちゃいけない所だ」

 

「……」

 

 ジュードの目から逃げたのか、言葉から逃げたのか。

 キャロルは真っ直ぐに見据えてくるジュードから逃げるように、顔を逸らす。

 

(……本当に、どうしたものかな)

 

 機嫌を損ねたキャロルはそう簡単には機嫌を戻してくれそうにない。

 キャロルとてイザークの愛を本気で疑っているわけではあるまい。

 ただ、自分には大好きなパパの手伝いができなくて、ジュードにはできているこの現状が、とても羨ましくて悔しいのだ。

 だから子供らしく頬を膨らませ、すねてしまっている。

 

(どうにかして機嫌戻してもらわないと。このむすっとしてる顔を、どう笑顔に――)

 

 キャロルがそういう表情を浮かべていると、心穏やかに居られないのがジュードという少年だ。

 笑顔でない彼女を見ると、彼女に笑顔で居て欲しいと、彼は自然にそう思い始める。

 

 そして、脳裏に刻まれた想い出を想起した。

 

(――キャロルを、笑顔に?)

 

 この時代ではなく、遠い未来で見たキャロルの微笑みを。

 

(そうだ、それがあった。……それに、驚かされてばっかりってのも、癪だしね)

 

 ジュードは顔を逸らしっぱなしのキャロルの手を離し、彼女が顔を向けている方に回り込む。

 そしてキャロルの目の前に右手を突き出した。

 彼女はすぐさま顔を逸らそうとしたのだが、迫って来る右手に思わず視線をやってしまう。

 彼が彼女の視線を誘導するために、意図してそうした思惑の通りに。

 

 キャロルの目の前で、握られていたジュードの右手が開く。

 するとその手の中から、突如一輪の花が現れた。

 

「ええええっ!?」

 

 大きな声を上げながら、吃驚仰天するキャロル。

 そんな彼女に微笑みを見せ、花を手渡すジュード。

 

「はい、どうぞ。キャロル」

 

「あ、ありがと……って、そうじゃなくて!

 ジュード、隠してただけで実はクレストソーサーを使えたってことなの!?」

 

「いや、これはキャロルが使ってた魔法みたいなものとは違うよ」

 

「じゃあ、一体……?」

 

 キャロルの問いに、ジュードは微笑みで返す。

 

「その目で確かめてみるといい、キャロル!」

 

 彼の手の中に、『奇跡』が生まれる。

 キャロルの目に『奇跡』が映る。

 どうやっているのかも分からない奇跡は、キャロルの心を一瞬で魅了した。

 

 右手にあったコインが左手に移る。

 瞬間移動だ、とキャロルは身を乗り出した。

 手と手の間にあった二つの紐の輪が、ぶつかり合ったかと思えばすり抜けた。

 透過だ、とキャロルは目を輝かせた。

 机の脇に置かれていたキャロルの帽子の名から突然ハトが出て来た時はたいそう驚き、後に怒りもしてきたが、それでもキャロルは驚きながら笑っていた。

 文句の付けようのない笑顔だった。

 

 17世紀の過去でも、21世紀の未来でも変わらない。

 ジュードは知っている。

 自分の奇術が、キャロルを笑顔にできるのだと知っている。

 その笑顔が好きな自分を、そのためなら頑張れる自分を、ちゃんと自覚している。

 

「これ、錬金術じゃないのなら……まさか、魔術!?」

 

「錬金術でもなければ魔術でもないよ」

 

 いつしかワクワクを抑えきれず笑顔だけを浮かべるようになったキャロルに対し、ジュードは話しながら五本のナイフを巧みにジャグリングする。

 空中でナイフの発する反射光が色とりどりに変わり、いつの間にか四本になったり六本になったりと、見ているだけで心躍る奇跡の術だ。

 

「錬金に至る術が錬金術。

 魔法のような現象を起こすのが魔術なら……

 この手の中に奇跡を生み出す奇跡の術は、奇術と呼ぶんだ」

 

「奇術……」

 

 見惚れるキャロルに"技術で成される技"を"ありえない奇跡"に見せるタネを隠しきり、舞い踊るナイフを収め、ジュードはうやうやしく一礼をする。

 ここまで楽しんでくれたキャロルに対する、礼も含めて。

 

「すごいすごい! すごいよ、ジュード!」

 

「お褒めいただき光栄です、っと」

 

 パチパチと両手を痛そうなくらいに叩き、拍手をするキャロルを見て彼も満足気だ。

 

「やっと笑ってくれたな」

 

「……あ」

 

 キャロルは慌てて怒った顔を取り繕うとしたが、ひとしきり奇術を楽しみ、笑顔で居たからだろうか、先程まであった様々な気持ちはどこかへ飛んで行ってしまったようだ。

 彼女を怒らせていた気持ちも、すねさせていた気持ちも、もうどこにも見当たらない。

 

「それじゃ、行こうか」

 

「え? どこに?」

 

「イザークさんのところにだよ。キャロルができるようになったそれ、見せに行こう」

 

 キャロルの機嫌が戻ったのを確認して、ジュードは彼女の前に手を伸ばす。

 

「キャロルはすごいなって、絶対に褒めてくれるさ、絶対」

 

「―――」

 

「な、行こう?」

 

 ジュード・アップルゲイトは、キャロル・マールス・ディーンハイムの理解者であり、理解者ではない。

 21世紀のキャロルは、本音の大半をジュードに明かすことはなかった。

 皮肉なことだが、ジュードは未来のキャロルの方が付き合いが長いというのに、未来のキャロルよりも過去のキャロルのことをよく理解している。

 

 ジュードは過去のキャロルより、未来のキャロルへの好意の方が大きいというのに。

 未来のキャロルが何を求めていたのかなんて、今でも分かっていないというのに。

 過去のキャロルが『本当に求めているものは何か』はきちんと理解していた。

 

「うんっ!」

 

 キャロルも彼が自分のことを分かってくれていると、そう理解したのだろう。

 ジュードが差し出した手を取り、キャロルは愛する父の下へと向かう。

 大好きなパパに褒めてもらえる未来様相図を思い浮かべているのか、その頬は緩んでいた。

 キャロルの手を引きながら、ジュードは益体もなくぼんやりと思考する。

 

(……手の感触は、同じなんだな)

 

 21世紀では、外見に不相応な落ち着きを持っていたキャロルがジュードの手を引き導いていた。

 なのに17世紀では、外見に不相応な落ち着きのあるジュードが、キャロルを励ましている。

 逆転した関係。一致しない(ガワ)(ナカミ)

 子供から"自分より少しばかり大人な相手"に向けられる、信頼の一部である好意。

 はてさて、ジュードとキャロル、どちらがどちらを信頼したのが先だったのだろうか?

 

 流転する奇妙な関係がそこにはあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 イザークはジュードに助手を頼んだが、同じようにガリィに雑用を頼むこともあった。

 例えば洗濯。例えば料理。例えば掃除。

 料理は「パパのご飯は私が作る!」と譲らないキャロルが居たため、人形作の料理が振るわれることは多くなかったが、ガリィがキャロルに料理を教える光景が何度か見られるようになった。

 ここだけ聞けば勤勉で誠実で心優しい人形であるようにも聞こえる。

 ……が。そんなわけがない。

 ガリィは基本的に性根が腐った人形である。

 

「なんで僕はガリィの代わりに、ガリィがやる予定だった掃除やらされてるのかな……」

 

「は? あたしが頼んだからに決まってるでしょ? そこホコリ残ってるわよ」

 

 ソファーで偉そうに横になりながら、自分が頼んだ掃除を真面目にやっているジュードの掃除の仕方にケチを付ける。このゲスさこそガリィの持ち味だ。

 

「てかね。君の掃除代わるくらいなら構わないけどさ……

 そうやって僕イジメて暇潰すのやめてくれない? 君の頼み断りたくなってくるんだけど」

 

「オンナノコの頼み事を断るなんて、躾の程度が伺えちゃうわね」

 

「僕の親に喧嘩売ってるなら買うよ? 買うよ? 表出ろ」

 

「やだもー、オトコノコは喧嘩っ早くて困るわ。あたしの周りマザコンファザコンばっかし」

 

「……はぁ。最近はガリィが"そういう奴"だって分かって来たから、いいけどさ」

 

 落として上げて、上げて落とす。

 相手が激怒するラインをきっちり見極めているからか、貶めて上げる調整も巧みだ。

 彼女は自在にジュードを激怒させることもできるし、ジュードを激怒させないこともできる。

 つまり、ジュードはガリィのいいオモチャであった。

 

「いいからこうやってあたしの雑用代わって、あたしに貸し作っときなさい。損はないわよ?」

 

「損はない?」

 

「あたしのお願いをあんたが一つ聞く代わりに、

 その内あんたのお願いをあたしが一つ聞いてやるってんのよ」

 

「えええ? 僕、ガリィに頼みたいことなんて今のところないんだけど」

 

 ソファーで横になるガリィが頬杖をつきながらため息を吐く。

 箒の柄先に顎を乗せるジュードには、この腹芸も演技も得意そうなゲス青人形が何を考えているかなど、窺い知ることはできない。

 

「こーんなお得な取引、あんたにしか提示しないわよ。

 あたしゃ基本的に貸しは踏み倒させないけど、借りは踏み倒すから」

 

「最悪じゃないかなそれは!」

 

 かくして人形が人間に雑用をさせているという光景、人形が人間で遊んで楽しんでいるという逆転現象が発生する。しょうもなし。

 

「ま、強い奴には恩売って媚び売って損はないってことよ。

 あたしも媚売られるのは悪い気分じゃないし、それを踏み躙ったらなお最高だもの」

 

「じゃあもうそれは貸し借り云々じゃなくて他人をいじめたいっていうただの趣味なんじゃ……」

 

「ほらほらー、口より手ぇ動かしなさいな。

 さすがにあたしもあんたに売られた媚を踏みつける趣味はないわよ」

 

 そしてジュードがガリィに口で勝てるはずもない。

 問い詰めても適当に流されたりはぐらかされたりするのがオチである。

 なんやかんやと言いくるめられ、ジュードはいつの間にか"僕は自分の意志で掃除を始めたんだ"と思い込まされ、釈然としない気持ちで掃除を再開させられていた。

 

(んー、そろそろかしら)

 

 あくびをする体なんて持っていないのに、あくびをする所作で人間を真似るガリィ。

 無駄な動作だが、彼女は"そう作られている"のだから仕方ない。

 彼女は体内のタイマーから時間を計り、そろそろだろうかとあたりをつけて、指をぱちんと鳴らした。

 

 するとなんということでしょう。

 (ガリィ)の手によって操られた水により、部屋のゴミがみるみる呑まれていくではありませんか!

 仮想水分子の一つ一つに至るまで完全に制御された水の錬金術は、家具を濡らすことなく細かな部分まで清掃し、ものの十数秒で部屋の全てのゴミを取り除いて見せました。

 匠の華麗なる技に、ジュード氏も開いた口が塞がらないようです。

 

「……おい、ガリィ」

 

「あはっ、なぁに?」

 

「可愛い声を作って誤魔化すな! これ……これ……僕が掃除頑張った意味は!?」

 

「まーまー、気にしない気にしない。

 格好付けて言うなら『あたしの目的は最初から時間稼ぎだったのよ!』ってやつよ」

 

「時間稼ぎ!? え!? なんのための!?」

 

 ガリィが右手の指を指揮棒のように動かすと、部屋のゴミを吸った水が家の外に放り出される。

 ガリィが左手の指をたおやかに動かすと、ジュードの首から下が氷の柱に飲み込まれた。

 

「何故に!?」

 

「あはは、今日はいい反応見せてくれるじゃない。あたし口も氷で塞ぎたくなっちゃいそう」

 

「それだけは死ぬからやめて」

 

 氷のこけしのような姿になったジュードは、ガリィの操作でふよふよと宙に浮き、部屋から出て廊下をゆったり飛んで行く。

 そんなジュードを先導し、ガリィがバレリーナのような姿勢で廊下を滑っていく。

 首から上だけを見れば歩く歩道でよく見る光景なのだが、首から下が笑えるくらいに滑稽だ。

 

「……で、僕はどんな墓標に入れられるのかな」

 

「アホくさ。説明もめんどいからその目で確かめてみなさい」

 

 そうして、運ばれて行った先で。

 

「え?」

 

 彼は不慣れな飾り付けと、手を尽くした料理と、笑顔の父娘を目にした。

 

「「誕生日おめでとう!」」

 

「え? え? え?」

 

 ディーンハイム親子の言葉に戸惑うジュード。

 カレンダーを見てようやく、彼は"そういえば"と気付いたようだ。

 つまり、『誕生日パーティー』というやつである。

 

「あ……今日、僕の誕生日か。あれ? 誰かに僕の誕生日教えてたってけ……」

 

「ガリィちゃんマジ有能でしょ?」

 

「ああ、ガリィか……いやいやいや、ガリィにも教えた覚えないんだけど」

 

「実はあたしの頭には万象黙示録ってのがあって、何だって知ってたりすんのよ」

 

「そうだったのか!?」

 

「嘘に決まってんでしょ。こんなのに騙されるとかオツム大丈夫?」

 

「この野郎……!」

 

 ツンデレとかそういうのではない。

 ジュードの誕生日を祝うために動く。誕生日パーティーの準備中にジュードが会場に行かないように時間を稼ぐ。ジュードをからかう。ジュードをバカにする。

 これら全てを嘘偽りない正直な気持ちで平行して実行するのがガリィである。

 心根が悪いわけではないのだが、性根はまごうことなく腐っていた。

 

「ジュード」

 

「キャロル?」

 

 ガリィのせいで誕生日に意味もなく疲労を感じさせられたジュードの服の裾を、キャロルが引いた。振り向けば、彼女の手には花の冠。

 そして花の可憐さにも負けない、キャロルの笑顔があった。

 

「ハッピーバースデー!」

 

 『二つの誕生日プレゼント』を受け取って、ジュードにも自然と笑顔が浮かぶ。

 

「ありがとう、キャロル」

 

 そして少年少女の微笑ましい光景を見て、ガリィはツバを吐き捨てた。

 イザークは若いっていいなあ、と思考し、自分が老けたことを実感してちょっと落ち込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ジュードはこうして、13歳の誕生日を迎えた。

 後に彼は自分の人生を振り返り、こう語る。

 "この日もある意味自分の人生の転換点だった"、と。

 

「イザーク師匠(せんせい)、これ超カッコいいですね!」

 

「そうかい? 気に入って貰えてよかったよ」

 

 興奮気味なジュードが手にしているのは、イザークがプレゼントとして渡した革の手袋だ。

 錬金術の作業中に、手を守るための手袋である。

 『いい革は生きている』とイタリアの職人が口を揃えて言うように、いい革は人の汗を吸って発散するために、大抵の人が想像している以上に蒸れない。

 革の元になった生物の生体構造がそのまま残っているからだ。

 

 が、当然そういう革は高い。

 上手く仕上げてくれる職人への依頼料は更に高い。

 はははと笑うイザークの笑顔は、さほど金持ちでもないのにこういうことをするお人好しっぷりがにじみ出ている。

 ちょっと貯蓄を切り崩したのか、あるいはその人の良さで友人に制作を頼んだのか、そのどちらかだろう。ジュードの手にぴったりなことからも、オーダーメイドなことは明らかだ。

 

 子供の手などすぐに大きくなり、この手袋も使えなくなってしまうだろうが、それでも手袋と想い出は残るだろう。

 

「デザインと付け心地がバッチグーです」

 

「バッチグ……?」

 

「……あ、これもジェネレーションギャップか……いや国籍ギャップでもあるんだろうか……」

 

 未来を先取りするという極めて稀有なジェネレーションギャップを感じつつ、ジュードはイザークに例を述べる。

 威厳は無いが優しさ溢れるイザークの笑顔は、子供に好かれやすい大人のそれだ。

 それも要因の一つとなって、イザークに対するジュードの好感度は天井知らずであった。

 キャロルの好感度も天元突破だ。

 ガリィは特に何とも思っていない。

 必然的に、このコミュニティはイザーク周りが面白い感じになっていたりする。

 

「ジュード、この料理私が作ったんだよ?」

 

「ん、美味いな。キャロルは僕の母さんより料理が上手いと思う」

 

「ありがと! パパ、これも食べて!」

 

「ああ、頂くよ。いやあキャロルは料理上手だなあ。いいお嫁さんになるよ」

 

「やだもうパパったら! ガリィ、お皿持ってきて!」

 

「いえっさー、マイマスター」

 

 そしてイザーク周りと同じくらい、キャロル周りも面白い。と言うよりキャロルが面白い。

 このコミュニティが実はキャロルを中心として構成されていることなど、誕生日パーティーで張り切りガールと化している彼女に自覚はあるまい。

 台所に消えていったキャロルを見て、イザークとジュードは揃って苦笑いしていた。

 

「それにしても、いいんですか? この手袋、ちょっと高そうですけど」

 

「子供がそんなことを気にするもんじゃないよ」

 

 ジュードが手袋を摘んで持ち上げて見せると、イザークは笑って彼の頭を撫でる。

 子供の不安げな様子を見抜けずして、何が大人か。

 子供の遠慮を笑い飛ばしてやらずして、何が大人か。

 イザーク・マールス・ディーンハイムは、まごうことなく立派な大人であった。

 

「家族としておいた方が検問を通りやすい、ということもある。

 ここに居る間だけでも、君は『ディーンハイム』の姓を名乗るといい」

 

「……え?」

 

「君はいつか故郷に帰るのかもしれない。

 それでもここに居る間は、私も君を家族として大切にしたい。そう思ったんだ」

 

 一緒に暮らすならば家族として扱いたいと、イザークは言う。

 家族として大切にしたいと、ジュードとガリィに対して言う。

 情に厚いにもほどがある。

 だが呆気に取られているジュードを見て、"自分が図々しいことをしている"と思ってしまったのか、イザークは申し訳無さそうに頬を掻いて前言を撤回しようとする。

 

「あはは、やっぱりちょっと図々しかったかな? 聞かなかったことに……」

 

「あ、いえ、不快だとかそんなこと思ってないです!」

 

 それを見て、ジュードも慌てて声を上げた。

 

「家族や親と思う人が何人居たって、構わないと、僕も思います。

 どの親が先とか後とか、その親が大切とか、そういうのもなくて……

 ええと……その……上手く言えないんですけど……ありがとうございます! 嬉しいです!」

 

 あたふたしながら肯定の言葉を吐くジュードを見て、イザークも安心したように笑う。

 

「そうか。それはよかった」

 

 イザークは優しくジュードの頭を撫でる。

 頭がその手の感触を感じるたびに、少年は父アルノーのことを思い出さずにはいられない。

 触れられるたび、思い出すたび、彼は心が暖かくなっていくのを感じていた。

 その手は紛れも無く『父親の手』であったから。

 

「おまたせっ!」

 

 そうこうしている内に、台所から追加の大皿を持ったキャロルが現れた。

 

「おいキャロル、走り回ると危ないぞ」

 

「へーきへーき、わたしもすごい錬金術を使えるようになったんだから」

 

「それと"走り回っても危なくない"ってことに何の因果関係があるんだ……?」

 

 大きな料理皿の重さでちょっとバランスを失いつつも駆けて来るキャロル。

 イザークがキャロルを助手として使わない最たる理由の一つが、目に見える形で表出していた。

 ディーンハイム親子は、どこか抜けている父としっかり者の娘と見られがちである。

 が、その実態はそうでもない。

 

 キャロルはしっかり者で居ようとする少女ではあるが、"ここぞ"というところで失敗しがちだ。

 子供特有の危なっかしさ、足元を疎かにする欠点がある。

 対しイザークはお人好しで善意の塊のような人間ではあるが、頭の良い知識人だ。

 バカだから損をする人間ではなく、いい人だから損をする人間である。

 そこにキャロルのような危なっかしさはない。

 

 何が言いたいかというと、だ。

 

 キャロルは"テンションが上がると何かに躓いて大失敗する"人間だということだ。

 長い期間入念に準備をした事柄でも然りである。

 大皿を持ったキャロルが転んだのは、ある意味必然だった。

 

「あっ」

 

「!」

 

「キャロル!」

 

 しかも最悪なことに、キャロルは反射的に丹精込めて作った料理の皿を庇ってしまった。

 急所を守っていない。受け身も取っていない。皿が割れれば"最悪"もありうる。

 一瞬以下の時間で反応したイザークが飛び出し、僅かに遅れて一瞬で反応したジュードも飛び出すが、距離が遠い。

 不運に不運は重なるもので、転ぶキャロルの頭が四角のテーブルの角に当たる、そういう最悪の軌道で彼女は転んでしまっていた。

 

(届かない……!?)

 

 イザークの方がジュードよりも前を行っている。

 イザークの手が届くことはあっても、ジュードの手は届かない。

 そしてそのイザークの手ですら、間に合わないタイミングであった。

 キャロルが怪我をする未来が、二人の脳裏に想像として浮かび上がり始める。

 それでもジュード・アップルゲイトは、手を伸ばすことを止めはしなかった。

 

(届け、届け、届け……! 届いてくれ……! 『届かせろ』!)

 

 結果、偶然でもなく、幸運でもなく、"必然の奇跡"が彼の手に宿る。

 

「え?」

「え?」

「え?」

 

 ジュードの右手の先に現れたのはガリィが用いる『青の紋章』。

 そこから伸びた水の腕が、離れた場所で転んだキャロルの胴を抱き留めるように受け止める。

 その光景を見ていたイザーク、助けられたキャロル、助けた当人であるジュードの戸惑いの声が重なり、三人の視線がジュードの右手に集まった。

 微塵も動じていないのは、主の危機に反応すらしなかったガリィのみ。

 今日までまるで使えなかった、なのにキャロルの危機に応じるように彼の内より湧きいでた『奇跡』に、皆動揺を隠せない。

 

「クレスト、ソーサー……!?」

 

 水の腕はキャロルを優しく床に降ろし、大気に溶ける。

 キャロルしか気にしていなかったジュードの意思を反映したかのように、水の腕は料理をキャッチしなかったため、そちらはあえなくガシャンと床に落ちた。

 今の現象を頭の中で分析するため足を止めたイザークの代わりに、ジュードが怪我の有無を確かめるためキャロルに駆け寄る。

 

「キャロル、怪我は?」

 

「え、あ、うん、だいじょぶ」

 

 ガリィが前髪をいじりながらやる気なさげに腕を振り、水を舞わせて、床に飛び散った料理や皿の破片を面倒くさそうに三角コーナーとゴミ箱に捨てていく。

 その横で錬金術師の(サガ)なのか、現象への分析を終えたイザークが口を開いた。

 

「ジュード君、いつの間に使えるようになったんだ?」

 

「いえ、僕にも何がなんだか……とにかく無我夢中で」

 

「何かきっかけに心当たりはないかい?」

 

「と言われましても……昨日、キャロルに錬金術を教わったことくらいしか」

 

 キャロルは紋章錬金術を覚えてからというもの、やたらとジュードに紋章錬金術を教えたがっていた。イザークにもジュードにも使えない彼女のアイデンティティだ。

 彼女はジュードに見せびらかしたかったし、師匠ヅラもしたかったのだろう。

 なのでキャロルからジュードへのちょっとした指導があったのだが、そもそも現段階で『錬金術の知識・ジュード>キャロル』『錬金術の才能・キャロル>ジュード』の構図があるのだ。

 天才に凡人は育てられない。知識が無い者に知識がある者を指導できるわけがない。

 よって、ただひたすらに時間の無駄だった。

 

 必然的にと言うべきか、ゆえに昨日の時点ではジュードも魔法のような技を使えなかったのだが……?

 

「キャロルが教えた途端使えるように? ……愛の力とか、そういうのかな」

 

「あ、ああああああああああ愛!?」

 

「何故そこで愛ッ!?」

 

 イザークのちょっとしたお茶目にキャロル沸騰、ジュード大困惑。

 ガリィは興味なさげに凍らせたランチマットで鶴を折っていた。

 

「とにもかくにも検証だ、ジュード君。再現性がないと何とも言えない」

 

「あ、はい!」

 

「明日からね。今日は君の誕生日だ、ゆっくり楽しもう」

 

「……はい!」

 

 錬金術は万象を知り世界と通ずることこそが本懐。

 イザークも内心は分析したくて仕方がないのだろうが、今日はジュードの誕生日だ。

 そこに水を刺したくない、という気遣いがあった。

 

「案外、遠い所にいる君の両親からの誕生日プレゼントだったりするかもしれないね」

 

「……だったら、素敵ですね」

 

 イザークの言葉に、ジュードはうっすらと笑う。

 彼は思う。"遠い所に居る両親"とは、どっちのことなんだろうか、と。

 イザークの知るアップルゲイト夫妻のことか。

 それとも、イザークの知らない日本の■■夫妻のことか。

 ジュードには分からない。

 彼は最初の親が自分を愛してくれていたのかすら、知らないのだから。

 

 

 

 

 

 男二人が話している傍ら、ボーっとしながら呟く少女が一人。

 

「また、助けてくれた」

 

 キャロルの中でジュードは、『自分が危ない時は必ず駆けつけてくれる人』と定義されていた。

 無論、そんな都合のいい人間など居ない。

 そんな人間になれる者が居るとすれば、それはあらゆる苦境を乗り越えた本物の英雄だけだ。

 キャロルが子供特有の根拠のない思い込みで、彼に対しそう思っているに過ぎない。

 

 だが、そんな"常識的な考え方"などどうでもいい。

 彼女は彼に対し、そう確信している。

 

「えへへ」

 

「うわっマスターの照れ顔気持ち悪っ」

 

「!?」

 

 そこに空気読まないガリィ、推参。

 

「そらいつだって、ジュードがマスターの危機を見逃すわけないじゃないですかあ」

 

「!?」

 

 ジュードを信頼しているのか、評価しているのか、馬鹿にしているのか。

 キャロルの背後から現れたガリィは、その手に乗せた皿の上のホットドッグに、マスタードとタバスコを一見して見えないように大量に仕込み、それをキャロルに差し出していた。

 

「食べます?」

 

「それ食べるって言ったらわたしすごくアホの子だよ……」

 

「そですかー」

 

 第一ターゲットのキャロルを逃したガリィは、第二ターゲットのジュードに狙いを定めた。

 ガリィはゲス笑顔でゲス口笛を吹かし、目元をゲスく光らせる。

 

「ちょ、ま、ガリィ!?」

 

「あたし、定期的に苦しんでる人の顔を見ないと禁断症状出ちゃいますのー」

 

「未来のわたしがそんな風に作るわけないでしょ!?」

 

 

 

 

 

 身近に迫る危機にも気付かず、ジュードはハッと気付く。

 気付いてしまった。

 いっそ気付かなければよかっただろうに。

 気付いたが最後、内心彼は確信して"それだ"と結論づけてしまう。

 

(前世で17回の誕生日。今世で13回目の誕生日。そっかー、僕今日で30歳で童貞かー)

 

 彼の故郷には、"30歳で童貞だと魔法使いになる"という古来から伝わる伝承があった。

 無論、彼に女性経験など皆無である。

 高校に上がってからは女性との会話経験ですら希薄であった。

 

(いやいやいや、まさか、まさか、まっさかあ)

 

 ネットのテンプレとばかり思っていたら事実だったなんて……! と彼は戦慄する。

 

(……死ぬほど嬉しくないなあ……)

 

 何故誕生日にちょっと落ち込まなくてはならないのか。

 下を向いたジュードに、横合いからホットドッグが差し出される。

 

「あったかいものどうぞ」

 

「あったかいものどうも」

 

 そしてパクリと一口。

 

「あーあったかいあったかいてかあったかい通り過ぎて舌が焼けるように痛辛ぁッ!?」

 

 んでもって、彼は火を吹いた。

 

 キャロルが慌てて水を持ってくる。

 イザークは笑っているが、ガリィを小突いてもうしないようにと注意する。

 ガリィはてへっと笑って誤魔化した。

 

 ジュード・アップルゲイトの誕生日パーティーは、こうして笑顔の中で終わるのだった。

 

 

 



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君のためなら捨てられる

 さて、自身に突如芽生えた能力に童貞30歳現象と結論づけたジュード。

 彼は前世の記憶があるがために、ちょっと余計なことを考えてしまうタイプだ。

 21世紀のキャロル由来の錬金術知識こそあるが、ジュードは錬金術師としてはキャロル以上に未熟な人間であり、万象を解する錬金術師としてのスタンスを身に付けてはいない。

 

「いや、そんなわけないだろう。都市伝説のようなものを根拠もなく信じるものではないよ」

 

「え、ですけど……」

 

 そんなジュードの変な思い込みを、イザークはバッサリ切り捨てた。

 

「錬金術師は、奇跡を解して理に落とす。

 奇跡を"よく分からないもの"のままにはしないものだ」

 

「理に落とす……」

 

「万象を誰にでも理解できるほどの理にまで噛み砕くのも私達、錬金術師の目指すところさ」

 

 錬金術師イザークは、少年に自身の推測を語って聞かせ始めた。

 イザークは理詰めで推測を組み立てるため、ジュードから転生のことを含めた多くの事情を聞き出し、そこから理論を構築する。

 結果、この時代でも指折りの錬金術師であるイザークは、一つの結論に至っていた。

 

「リインカーネイション・システム」

 

「リインカーネイション?」

 

「大昔の文明にあったとされる、転生による不死を実現させる科学技術さ。知らないかな?」

 

「あ、いえ、母と父から少しだけ聞いたことがあります。

 遺跡にそれに関することが記されているのを、一度だけ見たことがあったと」

 

 ジュードも錬金術師としては未熟でも、最低限の理解力と知識、落ち着いた思考はある。

 余分な説明をしなくて済んだことで、イザークは子供を褒める意志を見せて微笑み頷いた。

 

「『人に炎で死なない力を与える』という伝承の、ネフシュタンの蛇。

 錬金術の始祖が象徴として据えたという、循環を象る自らの尾を喰らうウロボロス。

 人々に知恵の実を齧らせ、分不相応な知慧を与えたという楽園の蛇。

 人の歴史の中には、語り継がれていく内に元の形が残らなかった"蛇の伝承"がいくつもある。

 その中の一つが、先史の文明最後の王・ギルガメッシュが蛇に『不死を奪われた』話だ」

 

 イザークは先史の文明が残した遺跡を、錬金術師としていくつも調査してきた。

 そして遺跡のいくつかと人類の歴史の転換点に、たびたびその姿を語られる『蛇』の存在に気が付いていた。

 

「ギルガメッシュ王は実在の人物だったと言われていてね。

 大昔に『誰か』が彼から"転生で不死を実現させる"システムを奪った……

 私はそう推測している。その事実が、語り継がれる内に形を変えたものなのだと」

 

 蛇。

 イザーク・マールス・ディーンハイムは、永遠の刹那を生きるその"誰か"を、そう呼んでいる。

 

「推測だが、君が死んだ日に、君の国で死んだのだろう。

 コンマ一秒のズレもなく、おそらくは数十kmと離れていない地点で。

 その"リインカーネイション・システムを使っていた者"がね」

 

「!」

 

「死の瞬間、死の衝撃で君の魂の波長は揺らいだ。

 たった一瞬、されど一瞬、君の魂の波長は"その者"と波長を同じくした。

 神の奇跡に等しい、ありえない確率で発生した『偶然』だったんだろう」

 

 錬金術の基本は、理解・分解・再構築だ。

 完全にとは行かないが、人の魂に対してもその分析は行われている。

 この分析が進めば、魂を擬似的に紐付けることで、複製した肉体と記憶のダウンロードにより転生せずとも自己の連続性を保つこともできるだろう。

 

 イザークが分析したところ、ジュードの魂の波形は常時ブレていた。

 無論、普通の人間がそんなことになるわけがない。

 それは普通の人間で言えば、常時指紋が変化し続けているようなものだ。

 

 ジュードの身に起きた奇跡の理由をイザークが科学的に分析するには、それだけで十分だった。

 

「そこでシステムは誤作動を起こす。

 君の魂と死したその者の魂を、システムは同時に転生の道に乗せてしまった。

 けれど、システムはおそらく、君の方には転生先を用意できなかったんだ」

 

 転生先にも条件があるのかもしれない、とイザークは研究用に書き記した文献を開いて見せる。

 

「君の魂は弾かれて、時間と時間の狭間に落ちてしまった。

 世界各地で僅かながら確認されている『空間の狭間から来る怪物』の生息地帯……

 あるいは、未来のキャロルが危惧していた空間転移の際に落ちる危険性がある場所……

 空間の位相差地点に類似した場所にね。空間の隙間ではなく、時間の隙間。

 そこに落ちたからこそ、君の魂は時間を遡り、奇跡的に母の胎内に生まれ落ちた」

 

 それこそが、ジュードが一度死に、19年前の過去に生まれ変わった理由。

 

「君はその際、システムに魂を加工されたんだ。

 何せシステムが魂を運ぶための"魂の型"は、君の魂の形に合わせていたわけじゃないのだから。

 だから君は今でも、魂の波形が安定していない。

 君の魂は、転生する予定だったその人の魂の形に少しだけ寄ってしまっている」

 

「僕の、魂の形?」

 

「ああ。きっとその人が錬金術に関わりの深い人だったんだろう。

 おそらく、その人には錬金術に関する卓越した能力があった。

 君は昨日の誕生日にて、その能力の一部を偶発的に覚醒させたんだ」

 

 錬金術は分析と技術と理論によってなされる、科学と魔法が分化する前の技術体系だ。

 ゆえに、彼らは現代人では理解できない思考による理詰めの分析をもって、世界を知る。

 イザークの推測は、恐るべきことにほぼ正答と言っていいものだった。

 彼の推測はどれも確証の無い仮定だらけのものであったが、それでも可能性の低い推測を一つ一つ削った先にある、確度の高い推測であったからだ。

 

「正直な話『ありえない』とまではいかなくても、天文学的な確率の事象だよ。これは」

 

 言っているイザーク本人が、その推測が現実であるという荒唐無稽さに舌を巻いていたりするのだが。

 

「ジュード君。君はね、存在そのものが、魂そのものが、奇跡の塊なんだ」

 

「奇跡……」

 

 ジュードは凡庸な人間だ。少なくとも、そのはずだった。

 だが天文学的な確率の偶然が重なり、彼は一度死んで蘇るという奇跡を果たした。

 その奇跡のおまけとして、何の力持っていなかった彼に、錬金術の力が宿った。

 彼の力は才能によるものでもなく、努力によるものでもなく、奇跡によるもの。

 

 いわば、『奇跡』こそが彼の絶対的な個性であった。

 

「何か、最初に死んだ時に何かを見た覚えはないかい? きっと何かを見ているはずだ」

 

「何か、と言われても……あ」

 

 ジュードはもう十数年前の彼方、死の前後で曖昧になっている記憶を懸命に漁り、自分が死の直前に見たものを思い出そうとする。

 自分を轢いた、何かから逃げるために信号を無視して飛ばしていた車。

 地面に赤く広がる自分の血液。

 そして仰向けに倒れる自分の目に映った、青い空を背景として鎮座していた――

 

「遠くの空に……赤い竜が見えた……ような……」

 

「竜、か。一番最初に思いつくのは『黙示録の赤き竜』だけれども」

 

 ――一体の、赤い化け物。

 こちらはジュードと違いほとんど情報がないからか、イザークも思考はすれどそれが何であるか分からない様子だ。

 だがその転生する蛇と、黙示録の赤き竜の二つに、彼は何らかの関連性を見出している。

 

「……いや、これ以上はあまり推測しても、休むに似た下手な考えになってしまいそうだ」

 

「僕からすればイザークさんの思考回路は凄すぎてどこがどうなってるんだかさっぱりです」

 

「ははは、君もいずれはできるようになるさ」

 

 イザークはいつも娘にそうしているように、凡庸な存在に奇跡を宿した少年の頭を撫でる。

 

「君は僕の知らないキャロルの教え子で、僕の教え子で、僕の知るキャロルの教え子なんだから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 キャロルが発展させたディーンハイムの錬金術は、0からエネルギーを生み出すといったような物理法則を無視したものではない。

 それはれっきとした、この世界の法則を理解し利用するものなのだ。

 

 まず、術者が脳内の電気信号をエネルギーと変える。

 『想い出』とも呼ばれるそれを過剰に消費しないよう注意しつつ、「錬金術を使うぞ」という強い意志によって発生する脳内の電気信号を変換・錬成。

 そのエネルギーで紋章形而(クレストグラフ)と、それを組み合わせた魔方陣を作る。

 

 作り上げられた魔法陣は、異次元からエネルギーの塊を引きずり下ろす降魔儀式を起動。

 更には天体を構成する第五の要素の力、すなわちエーテルを吸引し始める。

 四大元素に連なる第五の力、黄金のクレストで制御されるものこそがエーテルだ。

 脳内の電気信号の『焼却』で得られたエネルギーは、この二つで更にブーストされる。

 このエネルギーを一気に放出、あるいは貯蓄し後に使う。

 未来にキャロルが完成させた錬金術は、こうしたプロセスを経るのである。

 

 降魔儀式で得られるエネルギーは事前準備の量と質に比例する。

 天体運行より得られるエーテルのエネルギーは時期と星の配置により決定される。

 よって緊急性の高い状況で高いパフォーマンスを発揮するためには、記憶を失う覚悟で『想い出』を焼却するしかないわけだ。

 ……さすがにジュードも、よっぽどのことがなければ記憶を捨てるなんてことは、怖すぎてできないだろうが。

 

「いっくよーっ」

 

 そんな魔法のような錬金術で、キャロルとジュードはイザークの立ち会いのもと、練習も兼ねて的当てをしていた。

 キャロルが声を上げ、手を前に突き出し的に向ける。

 ジュードは呼吸を整え、無言で集中力を高めて手をかざす。

 イザークもまた真剣な表情で、二人の子供を見守っていた。

 

「―――ッ!」

 

 キャロルの手から風の刃が飛ぶ。

 それは遠く離れた大木の幹に、浅く切り傷を付けた。

 ジュードの手から水の塊が飛ぶ。

 それは彼が狙った木を大きく外れて、隣のキャロルが狙った木に当たり、切り傷を癒やした。

 

「よしっ!」

 

「なんでだよ!」

 

 言うまでもないが、この二人は木に攻撃するという同じ目的で錬金術を撃った。

 その結果がこれである。

 キャロルは既に攻撃の術として使える練度にまで至っており、ジュードは狙った場所にも飛ばない上に攻撃の術が何故か回復の術になる。

 もはやギャグの領域であった。

 

「さて、ジュード君のこれはどうしたことか」

 

「死んで治るバカもあれば、死んで治らないバカもあるってことでしょ」

 

「……ガリィ君か」

 

 キャロルの好調に一人の父として親馬鹿な笑顔を見せつつ、ジュードの不調に一人の錬金術師として考察をするイザーク。

 顎に手を当てる彼の背後から現れたのは、何やら事情を知っているらしき様子のガリィだ。

 人形はイザークの横を通り過ぎ、頭を抱えているジュードに駆け寄り、"プギャー"と効果音が付きそうな所作で彼を指差しこう言った。

 

「ネタバレするけど、あんた他者を傷付ける方向性で錬金術使えないから」

 

「えっ」

 

「あんた魂レベルで他人を傷付けられないタチなのよ」

 

 バカは死ななきゃ治らない。逆説的に言えば死ねばバカは治る。

 が、せきが止まることと風邪が完治することがイコールでないのと同じように、ありとあらゆるバカが死ねば治るわけでもない。

 彼の中に残った欠点。

 それはとても優しいイザーク以上に、純粋で可憐なキャロル以上に、『人をその手で傷付けることを厭う』というものだった。

 

 彼が優しいから他人を傷付けたくないのか? いや、その答えでは正しくない。

 彼が臆病だから他人を傷付けたくないのか? いや、その答えでは正しくない。

 

 一度死んだ彼は、死の痛みと苦しみをその身で覚えている彼は、誰にも"あの時のような"傷と痛みを与えたくないと、そう思うようになった。

 ひとたびの死が、彼を変えた。

 木を傷付けることにすら、無意識レベルで引け目を感じてしまうほどに。

 

「前から言ってるじゃない、あんた基本無能だって。こんだけヘタレなんだからさあ」

 

「なあガリィ、お前隙あらばハズレとかヘタレとか無能とか呼ぶのやめてくんない?」

 

 ジュード・アップルゲイトの錬金術は、何があろうと誰一人として傷付けない。

 

「ジュードはヘタレじゃないですー、優しいだけですー」

 

「やだマスターったら盲目! このガリィ、爆笑を抑えるので精一杯です!」

 

 ジュードの背中に隠れつつ、顔だけ出して彼を擁護しつつイーッとガリィを威嚇するキャロル。

 一瞬だけ抑えていたがすぐに爆笑し始めたガリィ。

 キャロルで遊ぶのはやめろガリィ、と言いながら目付きを鋭くするジュード。

 

 子供らの戯れを見守りつつ、イザークはキャロルが切りつけジュードが治した木肌を触る。

 物を壊すのは簡単だ。力を込めればそれでいいのだから。

 なのだが、ジュードが治した部分を触ってみると、そこは切りつけられる前と比べても寸分違わない形に治されていた。

 目には見えないが、樹の細胞ひとつひとつに至るまで、精密に。

 

(はてさて)

 

 未来でキャロルが完成させたという、魔法じみた錬金術。

 出力、成長速度、多彩さ、応用力その他諸々はキャロルの方が圧倒的に上。

 だが木の細胞の一つ一つすらも緻密に再現する精密性、それを成すイメージ力という二点において、ジュードのそれはキャロルをはるかに超えていた。

 

(これは才の欠落か、それとも才の偏りか。ガリィ君はその辺り、明かしてくれないからね)

 

 何か一つができなくて、他のことは均一にできるのか。

 何か一つができて、他のことは均一にできないのか。

 治された木の傷跡からイザークは推測するも、答えは出ない。

 

 結局その日はイザークの腹が鳴ったのをきっかけに、そのまま昼御飯の運びとなるのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昼食が終われば、錬金術師としての仕事の時間だ。

 近隣の村への薬を格安で販売するお仕事の始まりである。

 ジュードの手伝いのおかげで単純に人手が二倍になったことで、イザークが用意した薬の量も純粋に二倍。

 だというのに、イザークの表情は優れない。

 その表情の理由をなんとなく察しているジュードの表情も、また然りだ。

 

「今日はどこにお仕事に行くの?」

 

「伝染病で大変なことになってるっていう大きな村……なんだけど」

 

 キャロルに話しかけられたジュードが、歯切れの悪い言い方で返す。

 どうしたんだろう、とキャロルが思っていると、ジュードは話をイザークに振った。

 

「薬、足りるでしょうか?」

 

「村の人口を考えれば少し厳しいかもしれないね。

 君のおかげで今日だけは、薬が足りないという状況を避けられるだろうが……」

 

「? お薬、足りてないのに足りてるの?」

 

 ジュードは薬が足りるかどうかを危惧し、イザークも同様に薬の残量を危惧しているのに、何故かイザークは"今日は大丈夫"と言っている。

 キャロルが疑問を口にすると、二人の男は揃って丁寧に解説を始めた。

 

「僕らが今日行ってできることは、対症療法としての薬を処方するだけなんだ」

 

「私達はまず特に症状が重い人が亡くならないように動くんだ。

 そして流行り病にどの薬が効くのかを特定した後、一旦家に戻って薬を作る。

 そしてその薬を改めて処方して、それでようやく病を根絶できるんだよ」

 

「あ、そっか。パパとジュードは、苦しいのを和らげる薬をとりあえずたくさん作ったんだね」

 

「そういうことさ。キャロルは賢いなぁ」

 

「えへへ」

 

 地頭がいいキャロルは、少し説明されればすぐに察する。

 例えば、解熱鎮痛剤は患者を楽にはするが病気を治す薬ではない。

 厄介な病を治すためには、根本的にその病気の原因を治す薬を投じなければならない。

 

 ジュード達が今回多く携えているのは、つまり解熱鎮痛剤の方に近いものなのだ。

 患者の苦しみを和らげるものでしかなく、病気の種類によっては熱を下げることで悪化させてしまうこともあるため、考えながら投与しなければならない。

 こちらの薬は十分に足りている。

 大きな村の住民全てに与えてもまだ足りる。

 ……が、病気を治療する方の薬の材料の在庫が、足りるかどうか微妙なのだ。

 

 それほどまでに、予想される患者の数が多かった。

 一人や二人の錬金術師の手で生産できる薬の量には、限りがある。

 材料を集める過程、材料を薬にする過程、薬を投与する過程。生産の基盤がある現代とは違うのだ。それら全てをイザークとジュードでこなさなければならない。

 薬が足りているけど足りていないというのは、そういうことだ。

 まだ足りないと決まったわけではないが……時と場合によっては、対症療法で手遅れになる患者が出ないよう状況をコントロールしつつ、途中で材料を調達しに行くことになるかもしれない。

 

(ガリィ)

 

 ジュードの不安を煽るのは、ガリィが無言で彼らについて来ること。

 時たま思い出したようにいつも通りに振る舞うが、時折とても冷たい表情で居る彼女の存在が、彼の脳裏に何かしらの警鐘を鳴らす。

 何か、何かが起こる時が近付いてるんじゃないかと、ガリィの表情がそう思わせる。

 

(何かあるのか?)

 

 聞いたところでガリィは答えないだろう。

 彼女は筋金入りの秘密主義者だ。自分の利にならなければ絶対に話すまい。

 自分にすがるジュードを嘲笑って、問いかけるジュードを足蹴にするだろう。

 ガリィはそういう者だ。彼女は自分の期待に応えない者に対し、怖気がするほど冷酷である。

 ジュードは後頭部を掻いて、思考を切り替える。

 

(……考えても分からないことを、あれこれ考えてもしょうがないか)

 

 ジュード、キャロル、ガリィの三人に向かって、イザークが出立の号令をかける。

 

「案ずるより産むが易し、だ。まずは現地に向かおう。いいね、皆?」

 

 三者三様の返答が、彼らの旅立ちにおける第一声となった。

 

 

 

 

 

 この時代の旅の道中は、21世紀に生きていたジュードからすれば、目を見張るような風景が時折見られる素敵なものだった。

 豊かに残る自然。壮大で美麗な山、森、湖。

 産業革命さえ起こっていない時代の欧州は、コンクリートのジャングルの中を生きていた人間の心には、さぞかし素晴らしいものに見えているだろう。

 

(本当に凄いなあ……)

 

 なのだが、この風景を見ているだけで飽きない気持ちになるのはジュードだけだ。

 イザークもキャロルも、この風景は見慣れたもので面白くもなんともない。

 自分ばかり楽しんでいるのもなんだかな、と、ジュードが歩きながら簡単な奇術を見せ始めるのは当然の流れだった。

 キャロルの目が輝いて、イザークの表情が興味深そうなものへと変わる。

 

 そうして、彼は歩きながら見せられる奇跡を披露した。

 手を触れずに離れた物を動かす超能力。

 何も無い所から紐で繋げた万国旗を出す魔法。

 52枚のカードの中からキャロルが選んだカードを、見ずに当てる透視。

 

「すごいすごい!」

 

 一つ見せるたび、一つキャロルの笑顔が見れる。一つキャロルの賞賛が貰える。

 しかし、事象を解する錬金術として一流であるイザークの目は騙せなかったようだ。

 ジュードは技術の一環として、自分の奇術を見ている人の視線がどこに行っているかを把握し、その視線を逐一誘導している。

 そのため、相手の視線を辿ることで"タネがバレている"ということもすぐに分かるのだ。

 

 袖の中に磁石、袖口の旗が出て来る服の中の道、カードの内容を把握するための単純な計算のトリック。初見でそれら全て見透かされてしまった様子。

 ジュードはイザークに対しすごいなあ、と思う。

 と同時に、すぐさまタネを見破られて悔しいとも思う。

 未来のキャロルみたいだ、とジュードはイザークがキャロルの父親であることを実感する。

 

 タネを見破りこそしたものの、イザークはジュードの指先の動き、視線誘導の技術、多彩な発想の組み合わせなど、この時代にはないそれらを心から賞賛していた。

 

「見事なものだね。君の指の動きは、私から見ても職人のそれに近いように見えるよ」

 

「違うわパパ、この指は奇跡の指なの!

 ひとたび指を動かせば奇跡が起きて、みんなを笑顔にできるものなんだから!」

 

 興奮気味に語るキャロルを見て、イザークはこらえきれずにちょっとだけ噴き出してしまう。

 

「ふ、ふふっ、ジュード君は指先に少し怪我しただけでも、キャロルに怒られてしまいそうだね」

 

「勘弁して下さい……」

 

 まだまだ一流の域には届かぬものの、彼の指は奇術師の指。

 キャロルから見れば奇跡を生み出す指先である。

 ピアニストの子を持つ親のようなものだろうか?

 キャロルは少し、彼の指先を過剰に評価しているように見える。

 

 少々照れているジュードを見て、イザークはポン、と手の平の上に拳を落とした。

 

「そうだ、キャロル。

 お前も楽しませてもらってばかりじゃなくて、彼を楽しませてやったらどうだい?

 ほら、キャロルは歌が得意だったろう? お返しにはちょうどいいんじゃないか?」

 

「ええええええっ!?」

 

「え? キャロル、歌ったりするんですか?」

 

「ああ。身内贔屓を抜きにしても良い歌声だと、私は思ってるよ」

 

「あわわわわ」

 

 キャロルは歳相応に、自由気ままに歌うことが好きだ。

 今は亡き母に幼い頃聞かされていた子守唄。

 町に薬を届けに行った時、耳にした吟遊詩人や楽団の歌。

 歌を正式に習う機会は一度もなかったが、キャロルには一度記憶した想い出をそうそう忘れない記憶力がある。彼女は大雑把に耳コピし、自分なりにアレンジした歌を歌うようになった。

 まるで、その身に譜面を刻むかのように。

 

 かくして、彼女は父の前では趣味の歌を見せるようになった。

 が。

 子の恥部を何もかも知っている親の前で歌うのと、同年代の異性の前で歌うのとでは、難易度及び羞恥度合いが段違いである。

 「今からクラスに行って男子の前で得意な曲をアカペラで歌って」と言われて、歌える女子学生が何人居るだろうか? そういうことだ。

 なにするものぞ、と叫んで開き直れるような男らしさをこのキャロルは持ち合わせていない。

 

「ぱ、パパ! それは無理!」

 

「どうしてだい? パパには時々聞かせてくれるじゃないか」

 

「は、ははは恥ずかしいんだってば!」

 

「パパはよくてジュード君はダメなのかい?」

 

「パパはいいけどジュードはダメなの!」

 

 笑うイザークの背をジュードが肘で小突き、男二人はひそひそと内緒話を始める。

 

(イザークさん、本人が嫌がってますし無理には……)

 

(君は本当にキャロルの味方だね。

 そこは嬉しいが正直に言ってみなさい。キャロルの歌、聞きたいだろう?)

 

(………………………それは、そうなんですが、キャロル嫌がってますし)

 

(嫌がってるわけじゃないさ。照れているだけだよ。父親の私がそう言うんだ、間違いない)

 

 あまりこういう話を長くしているとキャロルに訝しまれるだろう、と、イザークは会話を打ち切ってキャロルの方に向き直る。

 なんだろう。ちょっと楽しんでいるように見えるのは、気のせいだろうか?

 

「しかしキャロル。

 キャロルが歌を恥ずかしがるように、彼も奇術を披露する時は恥ずかしいんじゃないか?」

 

「う」

 

「それはフェアじゃないだろう。フェアプレーの精神だよ、キャロル」

 

「パパ、それは何か違うと思う」

 

 うー、とキャロルは顔を赤くして悩み始める。

 歌は父親に聞かせるよりも、赤の他人に聞かせる方がハードルが高い。そして彼女にとって、赤の他人に聞かせるよりもジュードに聞かせる方がなおハードルは高かった。

 

「大丈夫、ジュード君もキャロルの歌を好きになってくれるさ」

 

「……!」

 

 それでも、父親がちらつかせてきた『餌』に食いついてしまう程度には、彼女は子供だった。

 

「ジュード、な、何かない? こう、ご褒美みたいなの」

 

「え?」

 

「……わたしが、勇気を出せる理由になりそうなもの、ない?」

 

 恥ずかしい、という気持ちの合間から、褒められてみたい、という気持ちが顔を覗かせる。

 それを見て、ジュードは前世を思い出し心の中だけで苦笑した。

 彼は、勇気が足りなかった前世の自分を覚えているから。

 

(勇気の出し方なんて、僕から一番縁遠いものじゃないか)

 

 ジュードはちょっとだけ考える。

 キャロルの歌は、ジュードの奇術へのお礼としてどうかとイザークが提示したものだ。

 なのだが、キャロルは勇気を出す理由として「歌って得られるもの」が何かないかと言う。

 無論、彼女は物欲にまみれているわけではない。ただ"勇気を出す理由"が欲しいだけだ。

 

 と、いうわけで、ご褒美は過剰に大きなものではいけない。それでは最初の前提がどこかに行ってしまう。

 かつ、キャロルに勇気を出させるような、キャロルが好むものでなければならなかった。

 

(キャロルが好むもの――)

 

 そうなれば、ジュードが頼るのは自分の記憶。キャロルと共に過ごした記憶。

 未来のキャロルと共に過ごした記憶の中から、彼はどうすべきかの選択肢を拾い上げる。

 想い出が、彼に正答をくれる。

 

(――そういえば)

 

 ジュードの想い出の中から浮かび上がるは、キャロルに手を引かれた旅の光景。

 握ってくれた手の暖かさと、見せられた美しい世界の風景が、彼の脳裏に蘇る。

 自分に優しさをくれた人に、人が優しさを返すのと同じように。

 してもらったことをして返してこそ恩返しになるはずだと、ジュードは考えた。

 

「キャロルが歌を聞かせてくれるなら、僕はキャロルと一緒に、世界を見に行くって約束する」

 

「……世界?」

 

「そう、世界?」

 

 ジュードは世界の広さを身振り手振りで表すように、両腕を広げて笑顔で語る。

 

「この世界には、僕らが知らないだけでたくさん素敵なものがある。

 世界で一番美しい海。世界で一番荘厳な山。世界で一番綺麗な町。世界で一番大きな塔。

 一緒に見に行ったら、きっと感動できるし、きっと楽しめると思うんだ」

 

 キャロルが世界を見せてくれたから、僕もキャロルに世界を見せる。

 ジュードは彼女にそうすべきだと思っていたし、彼女とそうしたいと思っていた。

 

「キャロルが歌ってくれるなら、僕と君で一緒に世界を見て回るって、約束する」

 

 そして何より、キャロルの歌を聞いてみたいと思っていた。

 

「いいですよね、イザークさん?」

 

「構わないよ。けれどまだキャロルは小さいからね。

 君達二人で行くのなら、最低でもあと数年は待って欲しいな」

 

 イザークから了承が出てしまえば、あとはキャロルの一存で決められる問題だ。

 

(……世界……)

 

 キャロルはジュードの手から生まれる素晴らしい光景を知っている。

 そのジュードが『素敵』『世界一』と太鼓判を押す風景だ。気にならないわけがない。

 ……だが、それでも、恥ずかしいものは恥ずかしいわけで。

 心情的には九割くらい"歌ってもいいかな?"な状態だったが、なんとか残り一割が頑張って、キャロルは何とかこの場だけは誘惑に耐え切る。

 

「……でも、歌……う、ううう……ほ、保留で!」

 

「うん、楽しみに待ってる」

 

「保留だってば!」

 

 キャロルがジュードに歌を聞かせたならば、二人で一緒に世界を見て回る。

 世界の各地にある素敵な景色を、一緒に見る。

 それは忘れられない想い出である限り、いつかの未来に必ず果たされる約束だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だがその前に、彼らには乗り越えるべき壁がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 片道二時間ほどの旅を終え、彼らは流行り病に侵されていると聞かされていた村に辿り着く。

 だがそこで、彼らは燃え盛る村を見た。

 人の怒号が忙しなく上がる中、大きな村のいたるところで火の手が上がっている。

 

「な……!?」

 

 ジュードも、キャロルも、イザークも、驚愕の表情と声を隠せなかった。

 彼らは村が視界に入ると同時に足を早める。

 息を切らしながらも辿り着いた村の状態は、"ひどい"の一言だった。

 炎が燃える音が小さく、人の悲鳴が大きく、ジュード達の耳に届く。

 

「ガリィ! お願い!」

 

「はぁいマスター、ガリィ頑張りまぁす♪」

 

 キャロルが頼めば、ガリィは即座に動いてくれた。

 ガリィは得意とする幻術を用いて自分の姿を隠し、村を飛び回りながら消化に動く。

 今日の天気が曇り空であったことも幸いした。

 ガリィは水を降らせて雨天を再現し、それと同時に村を飛び回って火元に水を叩き込んでいく。

 

 ただ雨が降っただけにしては異常な速度で火が消えていくが、普通に生きている人が"雨が降った場合火事の鎮火にどれだけの時間がかかるか"、なんて知識を持っているわけがない。

 村人は何の違和感も感じぬまま、雨に感謝し、火事が収まっていくことに感謝していた。

 それでも、異端である自分の存在を隠しながら消火作業を続けるのは、ガリィにも厳しいものがある。危険域を脱するまで、あと十分かそこらはかかるだろう。

 

「二人共、ここを動くなよ!」

 

「はい、イザークさん!」

 

 ガリィにばかり任せてはおけないと判断したのか、イザークも動く。

 おそらくは救助作業を手伝うのだろう。

 ただでさえ流行り病の患者が大量に発生していたというこの村で、人手が足りているとは思えない。イザークは「キャロルを頼む」と暗に匂わせ、ジュードは「任せて下さい」と無言で答えた。

 ガリィが去り、イザークが去り、この場にはジュードとキャロルのみ。

 自然と、ジュードの握った拳に力がこもる。

 

(僕がしっかりしないと……)

 

 その時。キャロルを守らないと、と自分に言い聞かせていた少年の耳に、物騒な呟きが届いた。

 

「いいぞ、もっと燃えろ……不浄は、焼いて清めねば」

 

 彼はまずその声を拾った耳を疑った。

 だが幻聴ではないと確信するやいなや振り向き、辺りを見回して声の主を探す。

 

「!? 今の……!」

 

 小さな声であり、呟くような声であったが、滑舌がよくハッキリとした声であったのが幸いだった。ジュードは、その言葉の一つ一つをしっかりと記憶している。

 "この火事が何故起きたのか"という問いに対する答えを、期せずして彼は知ってしまった。

 

(この火、まさか放火……!?)

 

 犯人の目的は分からないが、何かしらの目的でこれを為したことは疑いようがない。

 ジュードは横を見て、キャロルの方には聞こえなかったようだ、とほっと一息つく。

 だが、片方に聞こえてもう片方に聞こえなかった声は、一つではなかった。

 ジュードだけが聞いてキャロルには聞こえなかった声があったように、彼女には聞こえて彼には聞こえなかった声も確かにあった。

 

「ジュード、今何か聞こえなかった? 助けて、って」

 

「え?」

 

「こっち!」

 

「! キャロル、待って!」

 

 走り出すキャロルを引き留めようと手を伸ばすが、もう遅い。

 ジュードは表情に焦りを浮かべ、手が届かないくらいに先行するキャロルの後を必死に追った。

 ガリィの消火作業はまだまだ大部分が終わっていない。

 火事による建物の倒壊に巻き込まれれば、キャロルの小さな体なんてすぐに潰れてしまう。

 

(キャロル、一体どこに向かってるんだ……!)

 

 すぐに連れ戻さないと、と思いながら足の差で距離を徐々に詰めるジュードは、前を行くキャロルが上げた大声につられ、そちらを見る。

 

「いた!」

 

 キャロルが向かう先には、煙を吸い込んでしまったのか、気を失っている子供が居た。

 

(キャロルが探してたのはあの子か! でも、あの位置は……!)

 

 だがその子供は、今にも崩れそうな燃えている家の中に居た。

 ドアが崩れ、ドアの向こうの廊下に倒れていることは分かるのだが、同時にその頭上に燃えて崩れそうになっている天井や柱も見えている。

 イザークやジュードならば、危険性を考えて慎重に動くことを考える場面。

 だがキャロルは子供特有の危うさ、前のめりな考え方で、躊躇いもなく踏み込んだ。

 

 リスクを何一つとして認識しないまま、子供を助けるために躊躇なく踏み込んだのだ。

 

「待て、待って、キャロル!」

 

 ジュードが上げた声が聞こえていないのか、それとも聞こえているのに無視しているのか、キャロルは子供を助けるために果敢に燃える家の中に踏み込んだ。

 

「熱っ……大丈夫!?」

 

 キャロルは飛び散る火の粉に猛火の熱さを感じながらも、怯まない。

 痛みにも熱さにも怯えず人助けに奔るその姿からは、滾る勇気が溢れ出ていた。

 倒れていた子供にキャロルが駆け寄り声をかけるも、返事はない。

 仕方なく彼女は子供を背負って家の外に出ようとするが、体の小さなキャロルに子供一人を軽々と持ち上げることなどできず、ふらふらよろよろとしか移動できない。

 

 泣きっ面に蜂。最悪に最悪は重なる。

 キャロルがもたついていたせいか、このタイミングでとうとう家が倒壊を始めてしまった。

 もう少し早く崩れていればキャロルは家の中に踏み込みなどしなかったのに。

 もう少し遅く崩れていればキャロルは家の中から逃げ切れていたというのに。

 これ以上なく、最悪のタイミングでの倒壊であった。

 

「!」

 

 天井が崩れ、キャロルと彼女が背負った子供に向かって一直線に、柱が二本倒れて来る。

 キャロルの腕の数倍の太さがある柱二本。キャロルを押し潰して余りある質量の天井。

 目を閉じることも、咄嗟に腕で頭を庇うこともできず、車に轢かれる直前のネコのように、呆然と迫り来る脅威を見つめるキャロルに死神の鎌が迫り――

 

「……え?」

 

 ――間に割って入った、キャロルのピンチを絶対に見逃さない少年によって、止められた。

 

「づ、ぅ……間に、合った……!」

 

 少年は走りながらクレストを形成、土の錬金術によって"崩れて天井ではなくなった破片"をひと繋ぎにし、崩落を止める。

 更にそのクレストを消失させないよう維持しつつ、柱の一本に生み出した土の柱をぶつけ、何とか食い止めた。

 だが、それでも一手足りない。

 錬金術をもう一発撃つより先に、残った柱の一本がキャロルを押し潰してしまう。

 そう判断したジュードは、キャロルと柱の間に自分の体を滑り込ませ、柱を支えた。

 

 燃え盛る大質量の柱を、素手で。その手が使い物にならなくなることすら覚悟して。

 

 キャロルを守れるなら構わないと、ただその一心で。

 

「ジュード! 手……手が!」

 

「走れ」

 

「え?」

 

「走れ!」

 

「ジュ―――」

 

「走れッ!」

 

 キャロルは一瞬躊躇ったが、自分がいつまでもここに居たらジュードも逃げられやしないと悟って、子供を背負って必死に家の中から跳び出した。

 

「ぐ、う……!」

 

 柱を受け止めたジュードの手は、悲惨の一言だった。

 手の平で柱を受け止めたというのに、手の甲の傷から血が垂れている。

 それは柱から突き出ていた焼けた釘の一本が、彼の手を貫通したということを意味していた。

 左手から流れ出す血は、手から手首、腕、脇へと流れ落ちていく。

 焼けてささくれ立った柱の表面は左の手の平の肉を削ぎ、むき出しになった肉を焼いていた。

 

 先日、魔女狩りで火刑に処されていた人の周りにあった臭いと同じものが、彼の鼻孔をつく。

 それは木が焼ける臭いと、人の肉が焼ける臭いが入り混じったものだった。

 それは、彼の手が焼けていく臭いだった。

 

 燃える柱、燃える天井からぱらりぱらりと火の粉が落ち、彼の肌のいたる所を焼いていく。

 煙を吸って、彼はむせこむ。あと一呼吸か二呼吸で一酸化炭素中毒になりかねない。

 更には加熱された熱風が吹き込んでくるようになり、風に当たるだけでも火傷してしまう。

 

「……あ、ぎ、じぃ……!」

 

 ジュードは踏ん張るが、とうとう膝が折れてしまう。

 腕が釘に貫通されているせいで逃げることもできない。

 痛みでクレストグラフを形成することさえもできない。

 ただでさえ、13歳の子供に柱一本を支えることなど不可能だというのに。

 

 最悪なことに、そこで更にもう一本、柱がジュードに向かって倒れて来る。

 

 絶対の死を前にして、彼の中に浮かび上がるのは三つの気持ち。

 痛い。この痛みと苦しみから開放されたい。

 死にたくない。嫌だ、あの場所に、帰りたい。

 良かった。キャロルは、守れたんだ。

 迫り来る焼けた柱を前にして、彼はその三つの気持ちしか抱いていなかった。

 

「ジュードっ!」

 

 キャロルが叫び、柱が倒れ、大きな音と共に何かが潰れる音が鳴り、そして―――

 

 

 

 



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勇気の証、勇者の証

 キャロルが叫び、柱が倒れる。

 倒れる柱とジュードの間に向けたキャロルの手には、黄金の紋章が浮かんでいた。

 

「ジュードっ!」

 

 天体を象徴する紋章(クレスト)が『圧力』という四大元素(アリストテレス)のどれにも属さない現象を引き起こし、柱を360°から押し潰す。

 何とか即死こそ免れたが、ジュードがもう一本の柱に押し潰されそうになっている以上、ほんの数秒の延命にすぎない。

 だがその数秒が、彼の朧気な命運を繋いだ。

 

「―――ったく、想定外に次ぐ想定外にもほどがあるわ」

 

 その数秒が、ガリィ・トゥーマーンが駆けつけるまでの数秒、彼を生き長らえさせたのだから。

 ガリィが手を振るえば、ガリィが温存していた想い出が一気に焼却され、大規模なエネルギーが瞬間的に錬成される。

 放たれたのは、総数108の氷の刃であった。

 氷の刃はジュードを押し潰そうとしていた柱を吹き飛ばし、接着という一時しのぎの対応をされていた天井を粉砕し、適宜水に姿を変えて火を消して、ジュードの周りを円周回して彼の身をあらゆるものから守るよう動く。

 

 たった一撃。ガリィが放った一撃で、ジュードの命を脅かしていた燃える家屋は跡形も無く消え去っていた。

 ガリィは地に降り立って、一秒の間も置かずジュードの傷を癒やしにかかる。

 以前彼の擦り傷を治した時と同じ、人体の治癒能力を促進させる水の錬金術だ。

 ……だが、これはあくまで治癒能力の促進でしかない。

 案の定、回復に特化しているわけでもないガリィの錬金術では、完治させられないようだ。

 ジュードの失血死だけは回避できたようだが、それだけ。

 

「チッ……目を離したつもりはないのにこれ? ざっけんなっての」

 

「が、りぃ……」

 

「寝てなさい。起きてても苦しいだけよ」

 

 ガリィの言葉に頷いて、ジュードは気が緩んだのか気を失う。

 村の火を消すために飛び回りながらも、ガリィは二人から目を離していなかった。

 だと、いうのに。

 たった一瞬だけ目を離した隙に二人は動き、そのせいでガリィはほんの僅かな間二人を見失ってしまい、結果ジュードは大怪我を負ってしまった。

 

「はぁ……"これ"は変わんないのね。

 マスター、こればっかりは流石のあたしも謝りますわ」

 

「……ガリィ?」

 

「やんなっちゃうわぁ」

 

 ガリィは人のように眉間を揉んで、忌々しげに表情を歪め、ジュードを抱え上げる。

 村の火がだいたい収まったのを確認しつつ、ガリィとキャロルはどこかジュードを安全に寝かせられる場所を探し、歩き始めた。

 

 

 

 

 

 ガリィとキャロルが急場しのぎの避難所にジュードを寝かせ、イザークが村で出来る支援を一通り終わらせて村長達との話を終え、彼らが合流したのは夜になってからだった。

 

「ねえ、ガリィ、治せないの……?」

 

「結局、錬金術は錬金術なんですよ。これそのものは魔法でも奇跡でもありませんので」

 

「ガリィ君でも、流石にこれは難しいか……」

 

 合流してからというもの、いつもどおりの調子を崩さないガリィに対し、ディーンハイム親子の表情は曇ったままだ。

 三者三様の視線の先に居るのは、呻きながら横になっているジュードその人。

 腕には痛々しく包帯が巻かれていて、包帯の変色がその傷の深さを物語っている。

 そしてその怪我をガリィですら治せないのだということは、ガリィの錬金術よりも旧式なこの時代の錬金術では、ジュードの腕を治せないということでもある。

 イザークはそれを確信し、キャロルもそれに薄々感づいていた。

 

(そうなると、この手はこれ以上治しようがない。以前のように動くことは、もう……)

 

 奇跡を生み出す手は焼け爛れ、失われてしまった。

 キャロルのことをジュードに任せたイザークも、"ジュードが何のために両手を捨てたか"をちゃんと分かっているキャロルも、後悔せずには居られない。

 もしも時間を巻き戻せるのなら、とすら思ってしまう。

 

「わたしのせいで、ジュードが……」

 

「マスターのせいじゃないですよ。

 結局のところ、マスターを助けに行ったのはこいつの意志です。

 こいつは好きで自分の体を投げ打って、結果的に死に損なった。それ以上でも以下でもなく」

 

 後悔の言葉を吐くキャロルを、ガリィはジュードを馬鹿にするような、キャロルを慰めるような言葉で否定する。

 

「それに"わたしのせいで"って言うのは、男の覚悟に失礼だとあたしは思いますけどね」

 

「ガリィ……」

 

「ま、あたし個人としては自己満足と心中するなら好きにせえやって感じですが」

 

 自分の身を犠牲にしてまでキャロルを助けたジュードの選択を、ガリィは快く思ってはいないようだ。言葉にいつもより何割増しか棘が多い。

 

「ジュード君の状態は?」

 

「感染症……簡潔に言うなら、火傷で皮膚が無くなった所から病原体が入ってますねえ。

 まだ明確な症状は出てませんが、時間が経つにつれて洒落にならなくなってきますよ」

 

 今のジュードは、怪我のダメージに加えて合併症まで引き起こしてしまっている。

 皮膚というフィルターが無くなってしまったことで、病原体の侵入が防げない・体液がどんどん体外に出てしまう脱水症状・体温が体外に出てしまい正常な体温調節ができない、などの悪影響が多重に彼を苦しめているのだ。

 特に、体力が弱まっているこの状況で体内に病原体が入ってしまっていることが最悪だ。

 ガリィの錬金術に、細菌やウィルスをピンポイントで弾くものはない。

 

「ジュードにも薬は要るでしょうね。錬金術の補助を受けた皮膚がある程度治るまで」

 

「流行り病の件もある。あまりもたもたはしていられない、か……」

 

 俯くキャロルをよそに、ガリィとイザークはこの先のことを話し合う。

 話はそれなりに纏まって、ガリィが引き継いだジュードの薬管理の仕事のことへと移る。

 

「ジュード君の仕事を引き継いでもらってすまないね。手持ちの在庫はどうなってる?」

 

「あと丸一日の間は大丈夫じゃないですかあ? ただまー、本丸はまだ先ですし」

 

「そうだね。今夜はここに一泊して流行り病の原因を特定、明日の朝一で移動しよう。

 この村の患者も、ジュード君も、一旦戻らないと助けることはできなさそうだ」

 

 イザークの言葉に反応し、キャロルが顔を上げる。

 彼女が反応したのかこれからどうするのかということに関する言葉か、それともジュードを助けるという言葉か、果たしてどちらなのだろうか。

 

「パパ、どうするの?」

 

「少し研究を前倒ししよう。『仙草アルニム』の採取と調査を優先しようと思う」

 

「仙草、アルニム?」

 

「万病に効くとされる希少な薬草さ。近い内に採取しに行こうと思っていたんだ」

 

 イザークはジュードから、未来における医療技術に関する話も聞いている。

 ジュードも一般市民相応の知識しか持ち合わせてはいなかったが、未来において研究を重ねられた医療概念は、イザークの研究には大いに参考になった。

 そしてその結果、イザークが研究予定だったものの中から、すぐにでも研究すべきと判断していたものがある。

 それが、仙草アルニムだ。

 

「アルニムの薬効成分は病・怪我・細菌・ウィルスのどれにも効くものだと考えられる。

 勿論、調べてみなければ分からないし、彼の話を参考にして推測しただけなのだけれどね」

 

「え!? そ、そんなものが……!?」

 

「伝承に伝わる万病薬アルニムの逸話は幅広い。例えば―――」

 

 イザークいわく、アルニムはメジャーな薬草でない代わりに、使われるたびに信じられないような効果をもたらしてきたらしい。

 ある文献には、鉱山から川に流れた毒を飲んでしまった人達をたちどころに治したという。

 ある伝承には、ちぎれた肉も短期間で完治させたという。

 またある時は、悪質な風邪が流行した時にそれをすぐさま治しきったという。

 更にはこれで蔓延した黒死病を治療したという医師の証言まであった。

 

 毒素、負傷、ウィルス、細菌。

 話を聞く限りでは本当にアルニム一つであらゆる病気を治している。

 ジュードの知識を参考としたからこそ、彼はアルニムのデタラメさが理解できたのだろう。

 同時に、この状況に対する最高の一手となりうると考えたのかもしれない。

 

 この状況を仙草アルニムから抽出した薬効成分で打破することができれば、他の地方で同じように拡散している流行り病を治すこともできる。

 その後、別の病気にもその薬効成分が有効ならば即座に使用することもできる。

 ジュードの感染症も確実に治すことが出来るはずだ。

 

 仙草アルニムはハリムという土地の渓谷にあるらしい。

 この村からハリムに向かい、アルニムを確保し、拠点に戻って薬を作って戻ってくるだけならば丸一日はかからない。

 イザークの言う通り朝一に行動を始めれば、日が高い内にこの村に戻って来れるはずだ。

 

「そういうわけだから、二人共あまり夜更かしはしないように。朝起きれなくなるからね」

 

 イザークはそう言ったものの、キャロルが早く寝ることはないだろうなと思う。

 キャロルは後悔をにじませながら、苦しみながら眠るジュードのことをじっと見ていた。

 ジュードが起きなければ、徹夜してでも彼をずっと看病するつもりなのだろうと誰にだって分かるくらいに真剣に、彼のことをずっと見ていた。

 

 

 

 

 

 それから一時間ほど後に、ジュードは目を覚ました。

 

「……う」

 

「おはよう、ジュード君。君は間がいい男なのか間が悪い男なのか判断に困るね」

 

「イザークさん……?」

 

 苦笑するイザークを前にして、ジュードはぼーっとした顔で焦点の合っていない目を向ける。

 ずっとずっと看病してくれていたキャロルが、夕飯を作るためにちょっとだけ席を外していたほんの少しの間に起きたジュードを見て、キャロルの父としては苦笑せざるをえないのだろう。

 イザークも、ジュードが目覚めた時最初に見るべきは、キャロルの顔なのだと思っていたに違いない。

 人が起きる時無意識にそうする動きで、ジュードは腕をついて体を起こそうとする。

 そこで両の腕に、鈍くぼんやりとした激痛が走った。

 

「づっ」

 

「ああ、腕は動かさない方がいい。痛み止めだけで抑えられる痛みじゃないはずだ」

 

 今のジュードの両手は、火傷で酷いことになっている。

 その痛みが鋭敏に彼に突き刺さっていないのは、イザークが錬金術の粋を集めて作った痛み止めの効能と、感染症により彼の思考が混濁しているからだ。

 少年は腕をゆっくり持ち上げ、包帯でぐるぐる巻きにされたほとんど動かない腕を見て、淡白な声を漏らす。

 

「……腕……」

 

 ボロボロの腕を見ている内に、ジュードは何が起こったのかを思い出し、思考も徐々にハッキリしてきたようだ。

 格好良くキャロルを助けて、キャロルが助けようとした子供も助けるつもりだった。

 怪我をするつもりなんてなかったし、痛い思いをするなんてごめんだとも思っていた。

 

 だが蓋を開けてみれば、キャロルを庇って大怪我をして、手はもうほとんど動かない。

 咄嗟にキャロルを庇うために体が動いてしまった結果がこれだ。

 ……だというのに、"キャロルを守れた"という事実だけで、全く後悔していないというのだからもう本当に筋金の入ったスタンスだ。

 

「あー、なんて格好悪い……」

 

 もうちょっと格好良く、痛い思いもせずに助けたかったなあと思いつつ、ボヤく。

 だがジュードの自嘲の言葉を、イザークはやんわりと否定した。

 

「格好悪いものか。それは勲章さ」

 

 イザークはジュードの腕の包帯が癒着しないよう、新しい包帯へと換える。

 その際に痛み止めで多少和らいだ地獄の痛みがジュードを襲うが、何とか歯を食いしばって耐えた。

 

「その腕を見て、私は祖父によく聞かされていた話を思い出したよ」

 

「いづづ……イザーク師匠(せんせい)の、お爺さんですか?」

 

「東欧出身の人でね。

 希望の西風を運ぶ竜の神様の話など、祖父の故郷の伝承をよく聞かされたものだよ。

 その中でも、祖父が特に好んでいたものがあってね。"火傷は勇気の証、勇者の証"だと」

 

 火は恐ろしいものだ。

 文明が未熟な民族においては、痛みや苦痛を課す試練を乗り越えることで勇気を示し、その人間を勇者と認めるという文化があることが多い。

 その試練に、火を用いることも珍しくはない。

 獣は本能的に火を恐れる。人も本能で火を恐れ、理性でその恐怖を打倒して初めて立ち向かうことができる。

 イザークの祖父が住んでいた地域にも、そういった風習があったのだろう。

 『火傷』を火に立ち向かった勇気の証として、讃える文化が。

 

「先祖代々、『焔に立ち向かうものこそ勇者である』と家訓のように言い伝えてきたらしい」

 

 ……あるいはもっと別の理由で、"恐ろしい焔"に立ち向かう者を勇者とする文化があり、それが長い時の流れの中で形を変えたという可能性もなきにしもあらずだが。

 なんにせよ、それはこの話とは関係のないことだ。

 大切なのは、イザークが火傷を勇者の証として褒め称える文化の存在を知っていたということ。

 そして前世では勇気なんてものを持てなかったジュードが、今世でキャロルのために勇気を振り絞り、腕を焼かれたのはその結果でしかないのだということ。

 

 彼の腕の消えない傷、消えない後遺症は、キャロルのために振り絞った勇気の証。

 

「この腕は、誇っていい腕だ。少なくとも、私はそう思う」

 

「イザークさん……」

 

 それをイザークが肯定してやらずして、誰が肯定してやるのか。

 助けられたキャロルはそう言いづらいだろうし、誰も言ってやらなければジュードはそう思わない。だからこそ、彼が言ってやる必要がある。

 少しだけ自分の腕を誇らしく思えるようになったジュードの視界に、また新たな見舞い客が一人現れた。

 

「ジュード!?」

 

 それはずっとジュードを看病していて、イザークの分も含めた夕食を作るために離席していたキャロルであった。

 キャロルはジュードが起きたらすぐに「ごめんなさい」と謝るつもりで居た。

 だから扉を開けて、その向こうでジュードが起きているのを見て、すぐに駆け寄ろうとした。

 なのに、足は意志に反して動いてくれない。

 

 足が固まって、廊下と部屋の境界線を越えられない。

 謝らなくちゃと思うのに、口が開かない。

 それはキャロルの中のとても大きな罪悪感と、"謝っても許してもらえなかったらどうしよう"という気持ちが生んだ、彼女の足を止める見えない鎖だった。

 

(謝らなきゃ……わたしのせいで……わたしのせいで……!)

 

 キャロルが足を止めた一秒か、二秒か。その逡巡が終わる前に、ジュードの方が先に口を開く。

 

「無事で良かった、キャロル」

 

「―――っ」

 

 恨み言でもなく。然りの声でもなく。許さないという糾弾でもなく。

 ジュードがキャロルに向けた第一声は、キャロルの無事を喜ぶ声だった。

 彼が彼女に見せた表情は、彼女の無事を嬉しく思う表情だった。

 喉の奥まで出かかった謝罪の言葉を、キャロルはグッと飲み込む。

 

(わたしは―――)

 

 キャロルは考える。

 助けてくれた恩を返すには、まずここで何を言うべきなのだろう?

 そのためには自分が言いたいことではなく、ジュードが言われたい言葉を言うべきだ。

 ならそれは、「ごめんなさい」じゃない。

 ジュード・アップルゲイトは、キャロル・マールス・ディーンハイムに罪悪感を抱かせてしまったと知ってしまえば、それだけで申し訳なく思ってしまう少年だ。

 だからキャロルは、自分の罪悪感を紛らわす言葉ではなく、ジュードの心を満たす言葉を選ぶ。

 彼に"甲斐があった"と思わせる、そんな言葉を選んだ。

 

「ありがとう、ジュード。ジュードが居なかったら、わたしきっと、大変なことになってたよ」

 

「どういたしまして。キャロルが無事で何よりだ」

 

「本当に、ありがとう」

 

 キャロルに『ありがとう』と言われるだけで、ジュードは幸せだ。

 それだけで彼は、両の手を犠牲にした甲斐があると、そう思える。

 彼女が選んだ言葉は文句なしに正解だった。

 それでもキャロルの胸に後悔は残る。

 ジュードの腕を見るたびに、彼女は"あの時にもう一度何かをする機会があれば"……と思わずにはいれらない。今日もそうだし、明日からもそうだろう。

 

「食欲はある?」

 

「あんまり、無いな」

 

「オートミールだけど、ちょっとでも食べた方がいいよ」

 

 いつの間にか、イザークは部屋から消えていた。

 若い二人でごゆっくり、と気遣ったのだろう。流石のナイスガイだ。

 キャロルが腕を使えないジュードの代わりに、彼の口に粥のような食事を運んでいく。

 こうして誰かの手を借りないともう食事もできないジュードを見て、キャロルの胸は痛む。

 ジュードはキャロルに食べさせて貰えて、それだけで結構幸せだった。

 

 食事のさなかに二人でなんでもないことを話し合う。

 だが次第に、ジュードの眼の焦点が合わなくなってきた。

 会話も噛み合わなくなってきて、意識もハッキリしていない。

 病魔がその身を侵しているのだと、専門知識がないキャロルにも明確に見て取れた。

 

「ジュード」

 

「……どうした?」

 

「わたし、頑張る。わたしが、きっとジュードを助けてみせる」

 

「……そっか」

 

 そして、ジュードの意識は正常な形を保てなくなった。

 気絶するわけでもなく、意識が覚醒した状態でもなく、ただ単純に『痛い』『苦しい』『まともに思考ができない』という状態が続く。

 苦しくて眠れない。苦しくて意識を保てない。

 病魔が全身を侵食し、体のいたる所がじりじりと焼けるように痛む。

 

(頭が熱い……体が火照る……どこもズキズキして、苦しい……あれ、何考えてたんだっけ……)

 

 完治というゴールはまだ見えず、眠りという逃げ道もない、苦しむだけの時間。

 苦痛から逃れられず、唸りながら悶えるジュード。

 今の彼に何を見せても、彼の目はそれを正しく認識しないだろう。

 今の彼に何を言っても、彼の耳はそれを正しく認識しないだろう。

 だからこそ、彼の耳と肌を震わせる『それ』は、この場で唯一彼の救いとなりうるものだった。

 

(……歌……)

 

 言葉が通じなくたって、歌は万国共通の統一言語だ。

 言葉が理解できなくなった頭にだって、優しい旋律は届く。

 キャロルが歌い聞かせるそれは、今は亡き母に寝かしつけられるたびに聞かされていた、明日を想う子守唄だった。

 

 旋律は血液一滴残らず響き、彼の血に満ちる病魔を掻きむしるが如く痛みを抑える。

 苦しみに満ちる彼の心を落ち着けて、彼の意識を眠りに誘う。

 君のために歌いたいと、少女から少年へと思いが届く。

 

 "安らぎをあげたい"という気持ちを歌にして、メロディーにして願う。

 旋律はジュードに足りていない命を、健全な血を注ぐように、ほんの少しだけ彼の体調を持ち直させた。

 少女(キャロル)の歌にも、血は流れている。

 

(……キャロルの、歌……)

 

 優しい気持ちで紡がれた歌に包まれながら、ジュードはようやく眠りについた。

 

 

 

 

 

 翌朝、太陽がようやく登り始めたくらいの早朝。

 ジュードを含めた村の人々の多くがまだ寝ている時間帯に、村の入り口にてイザーク・キャロルは出立の準備を終え、ガリィに送り出されていた。

 

「ガリィ、ジュードをお願い」

 

「はぁい、ガリィにおまかせですっ」

 

 ジュードをガリィに任せ、彼らは村を立つ。

 目指すは仙草アルニムが群生しているという、ハリムの深山に位置する渓谷。

 この村の流行り病の患者、及びジュードを一緒くたに救うことができる薬草をまず確保する。

 それが彼らの第一目標だった。

 

「キャロル、彼の側に付いていてあげなくてもいいのかい?」

 

「いいの。わたしは、わたしにできることをしたい」

 

 この村に留まっていてもいいと、暗に言うイザークの勧めを彼女はぴしゃりと跳ねつけた。

 キャロルは既に覚悟を完了している。

 ジュードがキャロルのためならば強くなれる人間であるように、キャロルもまた、自分が大切に想う誰かのためならば強くなれる人間だった。

 

「わたしが、助けてあげなくちゃいけないんだ」

 

 今、ジュードのために踏み出すキャロルを止められるものなど居まい。

 イザークは、娘がこれほどまでに強く自己主張をするのを見たことがなかった。

 娘の成長を実感し、自然と父の顔には微笑みが浮かぶ。

 

「急ごう、パパ!」

 

 真剣な顔で走り出した娘の後を追い、イザークもまた、人を救うために駆け出すのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ん」

 

 イザークとキャロルが村を出立してからしばらく後。

 窓から差し込む木漏れ日が顔に当たって、ジュードは目を覚ました。

 

「あら、起きたの?」

 

「……ガリィ?」

 

「そこに朝飯置いてあるから、好きに食べなさい」

 

 寝かされているジュードの横で壁に背を預けるガリィは、分厚い本を読んでいた。

 ジュードが横合いに置かれた皿に手を伸ばせば、すっかり冷えた粥のようなものがあった。

 一晩ぐっすり寝たからか、体力はそれなりに回復している。

 だが症状は更に悪化したようで、体調は差し引き多少良くなった程度の回復に留まっている。

 一口、二口、と口にして、ジュードはそこでスプーンを置いて横になった。

 食欲が無いジュードに手ずからちょっとでも食べさせて体力を回復させようとしたキャロルと、食欲が無いなら食べなくていいと放置するガリィの対比が光る。

 

「本読んでるなんて、珍しいね」

 

「手っ取り早く想い出溜めてんのよ。ちょっとばかり有事に足りるか不安になってきたから」

 

「想い出……」

 

「あたしもあんたも、紋章錬金術(クレストソーサー)を使うには想い出が要る。

 使い切ったら動くこともできなくなるあたしはあんたらより死活問題なの、分かる?

 昨日はちょっとばかし派手に使い過ぎちゃったしね……ちまちま回復してんのよ」

 

 オートスコアラー、及びキャロルの錬金術の使い手のパワーソースは『想い出』だ。

 ガリィは本を読むことで情報を物量で叩き込み、雀の涙ほどの回復を行ってる様子。

 彼女は錬金術さえ使わなければ日々の中で想い出を溜めていけるため、回復量が消費量を上回っている状態を維持できるのだが……村一つの消火とジュードの救助に、それなりの想い出を消費してしまったらしい。

 

「そっか……お疲れ様」

 

「そりゃこっちの台詞よ。頑張っちゃったからあんたもそうなってんでしょうが」

 

 ガリィは本を閉じ、椅子に前後逆に座って背もたれに顎を乗せる。

 その視線の先には、もう二度と正常には動かないであろう腕があった。

 それどころか、イザーク達が持って来た薬で感染症を治せなければ、そのまま死にかねない真っ赤な顔があった。

 

「ったく、なんであんたはマスターのことにだけそんな頑張れるんだか」

 

 ガリィの問いに、ジュードは苦笑で応えて口を開く。

 

「僕、さ。前の人生では、勇気を出したことも、本気で頑張ったこともなくって」

 

 病気で弱った心から漏れてきた気持ち。

 朦朧とする意識の中、口から漏れてきた言葉。

 それは何一つとして取り繕っていない、嘘偽りのないジュードの本音。

 

「でもキャロルと出会ってから、本気で頑張れるようになった。

 自分のためじゃないことにも、勇気を出して挑戦できるようになった。

 今までできなかったことが、"キャロルのため"って思えば、できるようになったんだ」

 

 思い返すは、21世紀のキャロルと出会ってからの日々。

 17世紀のキャロルと出会ってからの日々。

 前世で頑張らず、勇気も出せず、何もできなかったジュード。

 彼が本当の意味で『生まれ変わった』のは死んだ時ではなく、キャロルと出会った時だった。

 

「キャロルが、僕に勇気をくれた。

 キャロルが、僕を変えてくれた。

 キャロルのためなら何だってできて、何だって頑張れたんだ」

 

 ジュードが体を張って一方的にキャロルを救っている? とんでもない。

 キャロルがジュードを救ったからこそ、今があるのだ。

 どちらが先に救ったかなど、この際考えることすら無粋というものだろう。

 

「あの笑顔を見れるなら、って、思ったら……けほっ、げほっ」

 

 病がジュードの命を脅かし、言葉を紡ごうとする彼をむせこませる。

 ガリィがコップの水を飲ませてやり、濡れタオルで軽く首周りを拭いてやると、少しだけ楽になった様子だ。ガリィはそのまま、呼吸を整えたジュードに問いかける。

 

「それはマスターへの恩義? 感謝? 優越感?」

 

「違うよ」

 

 ガリィの問いに、ジュードは熱に浮かされた顔で答える。

 過去のキャロルではなく、未来のキャロルが浮かべていた、儚げな笑みを思い返しながら。

 

「僕が、キャロルを好きだからだ」

 

 迷いなく、そう言った。

 

「あの人を好きになったから、いつかあの人になるキャロルを、守りたかった」

 

 ジュードはこの時代のキャロルも人として好んでいる。

 だがそれ以上に、自分が元居た時代のキャロルが好きだった。

 過去のキャロルと未来のキャロル。二人のキャロルに対し違う種類の"好き"があって、それが合わさって、まぜこぜになって、今の彼の好意がある。

 

「好きな人だから、守りたかった。理由は、それだけなんだ」

 

 それは兄が妹に向ける好意であり、少年として少女に向ける恋慕であり、二つの気持ちは一人の少女に同時に向けられつつも矛盾しない。

 

「ノロケがうざすぎてあんたが怪我人じゃなかったら蹴り殺してたわ」

 

「はは、冗談に聞こえないなあ……」

 

 ジュードの聞いているだけで恥ずかしくなるような台詞を、ガリィは嫌そうな顔で聞き流す。

 

「ったく、どうしてこーあたしの身内は言ってもわからないバカばっかなんだか」

 

 嫌そうな顔で、それでも確かに、笑いながら。

 

 

 

 

 

 イザークとキャロルは一刻も早く帰らなければならなかった。

 村の病人も、ジュードも、いつ症状が悪化するか分からない。

 ガリィならばある程度は対応できるだろうが、それでも"ある程度"でしかない。

 少しでも早くアルニムを確保し、少しでも早く薬を使って帰還しなければならない。

 

 だというのに、彼らは道中で立ち往生を喰らっていた。

 

「参ったな、これは回り道をするしかないか……」

 

 どうやら川の堤防が切れてしまっているようで、道が大量の水でぬかるんでいるのだ。

 舗装されていない天然の道は、地面の質と水の量が相まって下手したら膝まで沈みかねない。

 しかも相当に広範囲にわたってぬかるんでいた。

 これでは歩いて通れない。

 時間はかかるが、回り道してこのぬかるみを避ける以外に道はないだろう。

 

「? キャロル?」

 

 だが覚悟完了したキャロルは、そう考えるイザークの予想を遥かに越えていく。

 キャロルは足を止めることなくぬかるみに向かい、その手をかざす。

 そして思考・手・口を同時に動かした。

 

「Safty device cancelation:.Leading to the Material:.Ready to operate Code-M」

 

 両手の指と口、三つの出力端子から空間に紋章(クレスト)と魔法陣が刻まれる。

 紋章の色は赤。四大元素の一つ、火の属性だ。

 キャロルの意志から生まれる一瞬の想い出を焼却し、天体からエネルギーを引き出した術式は、地面を炙るように熱して固める。

 たった一瞬で、ぬかるんだ地面は人が歩ける強度にまで焼き固められていた。

 

(! 足りない技量を、口頭詠唱での術式構成で補って……!)

 

 キャロルの技量はガリィには遠く及ばない。

 だが両手のみならず口頭での術式制御というプロセスを追加することで、キャロルはガリィに迫る術式規模と術式精度を手に入れていた。

 無論、口などという処理プロセスの遅いものを使っている限りガリィには届くまい。

 だがキャロルが自身の未熟さを埋めるため『応用』でこの発想に至り、実用レベルに昇華させたという事実そのものが、この少女の恐るべき天賦の才を知らしめる。

 

 練習の時間など無かったはずだ。

 なればこそキャロルが今用いているこの『応用』は、ジュードへの想いと気合が生んだものに他ならない。

 彼女もまた、大切な人への想いを原動力に不可能を可能にする者だ。

 

「急ご、パパ」

 

「……ん、そうだね。急ごう」

 

 足を止めず、キャロルとジュードは突き進む。

 

(待ってて、ジュード)

 

 今のキャロルは、一人の少年のことだけで頭の中がいっぱいだった。

 

 

 

 

 

 一方その頃、ジュードの体調は順調に悪化していた。

 ガリィの見立ててでは、放置しておけば三日ほどで確実に死に至るだろうという体調。

 顔が真っ赤で思考がボーッとする状態は脱したが、その代わりに顔が土気色で相当に気分が悪そうに見える。

 イザークが残した薬を適宜彼に呑ませながら、ガリィは彼の体調が急変しないように見張りを続けた。

 

「ガリィはさ、造り主であるキャロルはまだしも、なんで僕を助けてくれるんだ?」

 

 そのさなか、ジュードは何度か苦しそうにしながらも話しかけてきた。

 気分の悪さを紛らわせたいのだろう。

 会話ですら体力を消耗しているというのに、無理をして口を開く様子が痛々しい。

 ガリィはため息を吐きながら、ジュードの気分転換に付き合ってやろうとする。

 人は病床で心細くなるものなのだと、遠い昔にインストールされた彼女は、人の気持ちが分かるから。ジュードになら、少し付き合ってやってもいいかと考える。

 

「一説には世界最古の奇術の名前はね、カップ・アンド・ボールって言ったらしいわよ」

 

「?」

 

「その説の次に有力な説でも、世界最古の奇術はカップを使うもの(acetabularii)という名なの」

 

 ガリィにとって、キャロルこそが唯一無二のマスターだ。

 されど彼女は、ジュードも唯一無二であると認識している。

 自分の製作者でもなく、自分のマスターでもないというのに。何故?

 

「奇術こそ杯。杯こそ奇術」

 

 その答えは、最初から彼女の名の中にあった。

 

「あたしにマスターが与えてくださった名はガリィ。意は水を司る大天使。

 あたしにあんたがくれた姓はトゥーマーン。意は杯を示す小アルカナ。

 オートスコアラーの名が無意味に付いてるとでも思ってたのかしら?」

 

 彼女の名は、『ガリィ・トゥーマーン』。

 水を司る幸運の自動人形(オートスコアラー)

 

「僕が……?」

 

「そーよ、それがあたしの始まり」

 

 ガリィはジュードにかかっている掛け布団を肩までかけ直してやり、デコにデコピンをかます。

 そして想い出を補給するために、また本を読み始めた。

 

「見捨てやしないわよ。あたしがこの名を名乗っている限りはね」

 

 問いたいことはまだまだあったが、病魔に侵されているジュードにその余裕はない。

 彼はまた、削られた体力を取り戻すため、眠りに落ちた。

 

 

 

 

 

 イザークとキャロルは、砕けた岩の上を行く。

 山が噴火し、岩が積み重なり、それが途方もない時間をかけて砕かれて、苔だらけの岩だけで構成された道ならぬ道を作る。そんな道の上を行くディーンハイム父娘であったが、キャロルはここでまたしても転んでしまった。

 

「きゃっ!?」

 

「キャロル!」

 

 強かに打ち付けた腕は痛み、尖った岩の先はキャロルの肌を傷つけ、血を流させる。

 以前のキャロルなら、ここで泣いていてもおかしくはなかった。

 パパ、と叫んで父に甘える理由にしてもおかしくはなかった。

 

「痛くない……」

 

 だが、今のキャロルにそんな弱さはない。

 

「こんなの、痛くない!」

 

 ジュードがキャロルを理由に勇気と力を振り絞るように、彼女もまた、ジュードを思う度に勇気と力が心の中から湧いてくる。

 

「ジュードの方が、きっともっと痛かった……!」

 

 キャロルは両手を岩の破片だけで構成される地面に当てて、口頭で補助した術式をぶち込む。

 

「Safty device cancelation:.Conduct a symphony:.Optimized Secret-Code-G!」

 

 紋章の色は茶。四大元素の一つ、土の属性だ。

 大地に干渉する土の錬金術は、岩の破片だけで構成された地面を一瞬で平たい道へと錬成する。

 水浸しの地面と違い、"水をどこにやるか"を考えなくていいこの地面なら、火ではなく土の錬金術の方が効率的に道を作り出せる。

 錬金術の基本は理解・分解・再構築。

 "一刻も早く"という思考が、彼女の状況を理解し最適な錬金術を使う能力を磨き上げていく。

 

「負けない……! ぜったい、負けない! ジュードを助けるまで!」

 

 困難に一つ立ち向かう度、キャロルの錬金術は洗練されていく。

 

 

 

 

 

 病気の影響、及び寝たり起きたりを繰り返しているこの状況のせいか、ジュードは起きているのか寝ているのか自分でもよく分かっていない状態で薄目を開けていた。

 そんなジュードの腹を布団の上から優しくぽんぽんと叩き、ガリィは彼を寝かしつける。

 

「もうちょっと寝てなさいな。体力が低下してるから、寝てないと保たないのよ」

 

 うとうとと、ジュードは何度目かも分からない睡眠を始める。

 こうして寝て、浅い眠りで体力を回復して、病の苦痛で目が覚める。

 ガリィも今日何度も見ている繰り返しだ。

 唯一違ったのは、今回は病で心細くなっていたジュードが、寝る直前に言葉を遺したこと。

 

「ねえ、ガリィ……」

 

「なぁに?」

 

「……僕達、友達かな……?」

 

 言うだけ言って、ジュードは寝てしまう。

 聞くだけ聞いて返答は求めないとは、彼が今どういう状態にあるのかよく分かるというものだ。

 ガリィは席を立ち、呆れて顔でジュードに背を向ける。

 

「何バカなこと聞いてんだか」

 

 そして部屋を出て、家を出た。

 

「嫌な空気ねえ」

 

 今ここにイザークが居れば、ガリィと同じ感想を抱いていただろう。

 村の空気がおかしい。

 明確な言葉にできないのだが、おかしいのだ。

 人々のヒソヒソ声が時折聞こえて、一人一人の視線の向きに違和感しかない。

 

(……さて)

 

 家の前に出たガリィの眼前に、村人が二人歩み寄ってくる。

 

「失礼ですがディーンハイムさん、あなた達の荷物を改めさせてもらってよろしいでしょうか?」

 

「あらー、申し訳ありません。あたしあの三人とは違ってディーンハイム姓ではありませんの」

 

「む、そうでしたか」

 

「要件があるならあたしが承りますよぉ?

 一人は病人、二人は外出中。理由を話していただければ、お通し致しますわ」

 

「あなた方の潔白を晴らすためです。やましいことがなければ、荷物を調べさせていただきたい」

 

「あらあらー、お引取り願えますか?」

 

「……それは、やましいことがあると判断しても――」

 

「お引取り願えますか? ああもういいやめんどくせえ、『帰れ』」

 

 ガリィが拳を開けば、そこには極小の青い紋章(クレスト)

 それを村人二人に向けるやいなや、ガリィは被っていた猫を投げ捨て強い言葉を叩き付ける。

 するとどうしたことか?

 先程まで確固たる意志を宿していた男二人の両目の焦点が、合わなくなったではないか。

 

「……そうですね、今日は帰ります」

 

「……ええ、何も異常はなかった」

 

 ガリィがやったことは、"脳内水分の操作"である。

 一見洗脳にも見えるが、ガリィは適当に脳内の水に干渉して脳の働きを鈍らせただけだ。

 判断能力を低下させ、夢見心地にしたともいう。

 そこに強い言葉を叩き付け、命令を叩き込めばこうなるのは当然である。

 

 そも、離れた場所にある水分を操れるという時点で、ガリィは人に対して無敵に近い。

 人体の何%が水であり、人体急所のどこに水があるかを考えれば、それは当然である。

 彼女が即殺で勝てないのは、マスターが"殺すな"と言った人間、あるいは聖遺物のエネルギーを身に纏うような反則だけだ。

 ガリィの基幹プログラムには、"人を殺すな"と"人から想い出を奪うな"の二つがある。

 この二つがあるかぎり、残念ながら頭蓋骨を内側から破裂させるような技をガリィが使うことは許されないのである。

 

「……どーしたもんかしら」

 

 できればここで殺して埋めておいた方が良かったわよねアレ、なんて去り行く村人二人の背中に呟くガリィは、とんでもなく物騒な考え方をしていた。

 

 

 

 

 

 仙草アルニムは、深山奥地の渓谷にある。

 見つけたまではいいものの、生えている場所が人の手に届かない場所にあったのも、ある意味必然だったのかもしれない。植物は、人間に摘み取られるために摘み取られやすい場所に生えようとするわけではないのだから。

 

「まだ尽きてない、まだ、折れてない……!」

 

 イザークの体重では崩れてしまう崖の壁面を、キャロルは父の警告を無視して登っていく。

 目指すは壁面の一区画にある、仙草アルニムの群生だ。

 キャロルは声を出して自身を鼓舞し、身体能力の限界すら超え、アルニムを目指す。

 

「キャロル! 無理はするな! 落ちそうだったら戻ってくるんだ!」

 

 下から聞こえる父の声。

 それがまたキャロルの体に力をくれるが、あいにく天然の壁面は力があれば登れるというものではない。

 運良くアルニムの近くまで辿り着いていたキャロルだが、そこでとうとう掴んでいた岩が外れてしまった。

 

「! キャロルッ!」

 

 イザークの悲鳴が響く。

 その一瞬、ほんの一瞬、死を覚悟したキャロルの脳裏に走馬灯が浮かび上がる。

 それも何故か、ジュードとの想い出だけが浮かび上がる走馬灯だ。

 

 初めて出会った時、キャロルはジュードに何かを感じた。

 それは自分の危機を救ってくれたジュードに対する、形にならない気持ち。

 あの日抱き留められた時、ジュードに感じた言葉にならない気持ち。

 

 それは少女にとって初めての――― 一目惚れという名の、恋だった。

 

 最初から好きだった。

 途中でもっと好きになった。

 きっと未来でも好きなまま。

 外見で好きになった? 救ってくれたから好きになった? バカバカしい。

 そんな要因でキャロル・マールス・ディーンハイムが一目惚れをするはずがない。

 

 彼女が彼と出会った時、彼に感じたのは『運命』。

 一生の内で出会う人々の中にたった一人だけの、小指の赤い糸の先だ。

 永遠に自分だけを見てくれる、自分だけを愛してくれる一人の存在だ。

 

 一目惚れは、その人がそれまでに積み重ねてきた人生の反映そのもの。

 どう生まれたか、どう生きたかが、一目惚れする運命の相手を決定付ける。

 十年を生きたキャロルの初恋・一目惚れならば、それは十年の片思いに等しい。

 運命さえ感じたその初恋は、きっと数百年の時を経ても色褪せない。

 

「―――ッ!」

 

 心と口で、同時に吠える。

 キャロルは一瞬の走馬灯で大量の気合を獲得し、それを意志として一気に燃焼し、錬金術を発動した。

 

「Safty device cancelation:.Conduct a symphony:.Install Forbidden-Code-F!」

 

 紋章の色は緑。四大元素の一つ、風の属性だ。

 風は圧縮した空気に指向性を持たせて開放し、キャロルの軽い体を浮かび上がらせる。

 口と両手を使っても今のキャロルでは3mほど浮かび上がるのが限界だが、それでもアルニムに近い位置から落ちたという前提があれば、それで十分だった。

 キャロルは何とか、アルニムが群生していた崖の出っ張りに辿り着く。

 

「やっ、た……!」

 

「キャロル、すごいぞ! よく頑張った!」

 

 下からイザークの歓喜の声が響いてくる。

 キャロルは切れる息を整えながら、仰向けになって空を見上げた。

 

(……わたし、こんなに頑張る子だったっけ……)

 

 空に手を掲げると、崖を登る際にボロボロになった手が見える。

 ジュードと違い、この程度の傷なら傷跡も残らないだろう。

 キャロルはそこに少しの罪悪感と、"おそろい"という少しの嬉しさを感じる。

 その手の傷もまた、他者のために傷付くことを恐れない心が刻んだ、勇気の証だった。

 

 キャロルはその手をギュッと握り締め、ジュードを想う。

 

「ぜったい、ぜったい、死なせてたまるもんかっ……!」

 

 そしてジュードと村人を助けるための薬草を握り締め、崖から飛び降り、風の錬金術で減速しながら父の前に着地した。

 

 

 

 

 

 一方その頃、ガリィは自らの身を水鏡による光の屈折で隠しながら、村の様子を調査していた。

 無論、最優先事項であるジュードの護衛もバッチリこなしながら、だ。

 村の様子がおかしいことは目に見えて明らかなことだった。

 何か一つきっかけがあり、膨れ上がれば、最悪の展開にも転がりうる。

 

(さて、あんだけ『証拠』をでっち上げられる可能性を見せられると、ちょっと焦るわね)

 

 ガリィは人の流れを監視し、不自然な部分を洗い出していく。

 そして自分の当たって欲しくない予想がドンピシャで当たったことに、表情を歪めた。

 ついつい独り言を口走ってしまった彼女を、誰が責められようか。

 

「うっへぇ」

 

 彼女が見たものは、この村に立つ教会。

 加えて教会で屯する、殺気立っている数人の人間。

 そしてその者達に何かを吹き込んでいる、怪しい一人の男の姿だった。

 

 

 



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その手の奇跡は笑顔のために

 キャロルはずっと、父の手伝いがしたかった。

 だから父に頼られない自分が悔しくて、父に頼られるジュードが羨ましくて、すねてしまったこともある。

 仙草アルニムを確保して、拠点に帰ったキャロルは、父が自分に助手を頼んだことに心臓が飛び出るほど驚いた。

 

「キャロル、手伝ってくれるかい?」

 

「!」

 

 なんで今日は手伝うことを許可してくれたんだろう、とキャロルは思うが、彼女にとっては二つの意味で願ってもないことだった。

 父の役に立つこと。

 ジュードを自分の手で助けること。

 その二つは彼女が同じくらいに強く、心の底から願っていたことだった。

 

「いいの……?」

 

「ああ。ただし、パパが指示したことだけをするんだよ?」

 

「うんっ!」

 

 真剣な表情で器具に向き合うキャロルを見て、イザークは娘の成長を再確認する。

 今のキャロルなら助手も大丈夫かもしれない、と彼は思っていた。

 今日のキャロルがイザークの助手を問題なく勤め上げられたなら、キャロルは明日からもイザークの助手として使われるようになるだろう。

 勿論、キャロルが失敗して問題を起こしてしまう可能性もある。

 だがその心配は杞憂でしかない。

 

(ここまで真剣なキャロルの顔は、初めて見たな……)

 

 ジュードの病を治す薬を作るため、全身全霊を集中させている今のキャロルが、つまらないミスなどするはずがない。

 『大切な人を守るため』に打ち込むキャロルは、躓かない。

 深山の渓谷を踏破した時と同じように、進み続ける彼女の意志は止まらない。

 

 

 

 

 

 カチャリ、という音でジュードは目が覚めた。

 

「あ……起きたの、ジュード?」

 

 キャロル、と横になったままジュードは口を開こうとしたが、声が出なかった。

 症状はかなり悪化してしまっているようだ。

 寝て起きたというのに体力はほとんど回復しておらず、ジュードの体調は最悪一歩手前にまで至っており、今では喋ろうにも舌がまともに回らない。

 口から声を出そうとして、息しか漏れていない彼の体調に、キャロルは眉を顰めて手に持っていた木製の入れ物をジュードの口元に持っていく。

 

「はい、お薬」

 

「……ん」

 

 ジュードを寝かせたまま、キャロルは彼の口に少しづつ薬を流し込んでいく。

 一気に飲ませても、むせるか吐くかしてしまうだろうと考えて、少量づつゆっくりと。

 そうして仙草アルニムの薬効成分を調節し、他薬品も混ぜた上で、果汁などで味を整えるなど少女らしい気遣いで作られたキャロル製の薬は、全て飲み干されて消える。

 

 その効き目は抜群で、ほんの十数分でジュードが喋れるくらいにまで回復したほどだった。

 

「……楽になってきた」

 

「わたしが言うのも何だけど、効き目すごいね……」

 

 キャロルは初めて作った薬は、ジュードの命を救うための薬であった。

 それがちゃんと人の命を助けられたことに、キャロルはほっと息をつく。

 達成感、充実感、ジュードを助けられたという嬉しさで、彼女の胸の中はいっぱいだ。

 

「それ、わたしが調合したんだよ?」

 

「キャロルが? ということは……」

 

「うん。パパが手伝っていいって言ってくれたんだ」

 

 キャロルはいつもの彼女がそうするように、自慢気に胸を張る。

 されどいつもの彼女とは明確に違い、そこにはお淑やかさと落ち着きがあった。

 それを見て、ジュードは僅かに目を見開く。

 自分が寝ている間に、キャロルに一体何があったのか? そう思うも、答えは出ない。

 

(ちょっとだけ、21世紀(みらい)のキャロルに、近くなった気がする……)

 

 今のキャロルの雰囲気は、ジュードが初めて出会った時の二人のキャロルの、丁度中間くらいの雰囲気だった。

 子供でもなく、大人でもなく。

 一年前には確かにあったはずの子供特有の危うさがほとんど見当たらない。

 彼と出会ってからの日々という長い成長、彼が倒れてからの数時間という短くも劇的な成長、二つが綺麗に噛み合って、17世紀のキャロルを21世紀のキャロルに近付けていた。

 

 ジュードが思いを寄せていた、未来のキャロルに。

 

「夕方までには治ると思うから、ゆっくり休んでね」

 

「ああ」

 

 薬の影響で楽になったものの、まだまだ絶不調を脱していないジュードは、もう一眠りしようとする。だがそこで、キャロルが申し訳無さそうに自分の手を見ていることに気付いた。

 キャロルの薬のおかげでジュードの命は助かった。

 だがそれでも、彼女の薬はジュードの両手を元に戻すには至らない。

 

 奇跡を生む彼の指は、失われてしまったのだ。

 

「僕は好きでこうしたんだ。キャロルが気に病むことはないよ」

 

「でも……」

 

「キャロルを失ってたら、この手よりもっと痛い想いをしたと思うんだ。だから、いいんだよ」

 

 ジュードは痛みをこらえながら、傷付いた右手を誇らしげにキャロルに差し出す。

 その傷が何でもないものだと思わせるために、強がって、その手を繋ぐために差し出した。

 

「僕の奇跡は全部、君に届けるためだけにあるんだから」

 

「―――っ」

 

「キャロルが無事だったことが奇跡なら、それでいいんだよ」

 

 痛みをこらえて強がりながら、紡がれたジュードの本音の言葉。

 キャロルはその言葉を受け取って、ジュードが差し出した手を受け取った。

 痛みを生まないよう、差し出された彼の右手を優しく上下から両手で包み込む。

 俯くキャロルが頷いて、包帯でぐるぐる巻きにされたジュードの右手に、雫が落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガリィはこの村に来てからというもの、自分の存在を徹底して偽装してきた。

 膝関節などは水の錬金術の応用でテクスチャを貼り付けてある。

 今のガリィは一見して、色白の若き美人といった風体にしか見えまい。

 更には、この村に来てから外を歩く時は極力目立たないようにし、イザーク達が薬を持って戻って来た後も、病人の治療の手伝いなどは一切しなかった。

 なので村人視点ではガリィが錬金術師であるという印象は持っていないだろう。

 せいぜい錬金術師お抱えの使用人、といったところだろうか。

 

 結果、ガリィは村人視点で絶妙な位置に居た。

 存在を認識されながらも、あくまで錬金術師のおまけでしかない存在。

 ガリィは自分の存在を認識されながらも、警戒はされていない。

 よって自分の存在を完全に隠し通す労力を払う必要がなく、見咎められても警戒はされない。

 

 ガリィは村人から自分に対する認識をコントロールし、"もしも"の時に自分が動きやすい状況を作り上げていた。

 

 村を歩き回り、村人の様子を見て回る。その際、村を包む異様な雰囲気も確認する。

 また、無防備で脳天気な使用人を装って、村人から自分への警戒度を引き下げる。

 いざという時、「あの青い使用人はどこに行った? まあいいか」「どうせ何も出来ないだろう」と思ってくれれば儲けもの。

 そうしてガリィは、頃合いを見て自分の姿を錬金術で消し、教会へと向かった。

 

 そこに集まっている者達の話を、盗み聞きするために。

 

「なあ」

「やっぱ、怪しいよな」

「村の医者が絶対に治せないって言った流行り病を、こんなに簡単に」

「……神の奇跡か?」

「いや、本人に聞いてみたらそうじゃないと言っていた」

「……なら……もしかしたら邪教の……」

 

 そこには村人の中でも、比較的若い者を中心とした集団が居た。

 かといって若い者だけではなく、それなりの歳の者も多い。

 彼ら彼女らは一様に殺気立っていた。怯え混じりの、疑心暗鬼から生まれる殺気。

 彼らの中心には一人の司祭が居て、彼らは司祭を取り囲んで思い思いに話し合っている。

 

 集団心理、というものがある。

 村人達は今まさに、集団心理という名の悪魔に取り込まれ、悪意的に操られていた。

 "○○ってこともありえる"が、"○○かもしれない"になり、"○○だって話だ"と変わり、"○○に違いない"と転換され、"○○だ"という断定に至る。

 群集の心理が、小市民の集団をおかしな方向へと暴走させる。

 

「俺は怪しいと思ってたんだ」

「錬金術って魔術の一つだと聞いたぞ」

「でも俺達を助けてくれたじゃないか」

「どうだか。別の目的があるに違いない」

「薬だってこんなに安いのはおかしいもんな。何か本当の目的が……?」

 

 有り体に言えば、イザーク・マールス・ディーンハイムは『有能すぎた』。

 そして、善人過ぎた。

 彼は人が神の奇跡としか思えないような術を披露し、多くの見返りを求めなかった。

 弱き人々にとってあまりにも都合のいい存在だったイザークは、「何か裏があるのでは?」と疑われてしまったのだ。

 そして善であれ悪であれ、異端は異端だ。

 人は異端を悪だから排除するのではない。"自分と違うから"排除しようとするのだ。

 

「流行り病が出て、すぐにあいつらが来て、あいつらがすぐに治した」

「! そうか、そもそもこの病を撒いたのが、あいつらだったのか!?」

「普通に考えたらおかしいもんな」

「医者が治せない病気が急に広がるのも……」

「……それを突然現れた奴がパパっと治しちまうのも、おかしい」

「じゃあ、黒幕はあいつらだったってのか!?」

「ゆるさねえ、うちの女房をあんなに苦しめやがって……!」

「私の家の子もだ!」

 

 何の根拠もない推論がまかり通り、それはいつしか確信へと変わる。

 彼らは『真実に近い推論』ではなく、『自分が最も納得できる推論』を求めた。

 古今東西、誰しも陰謀論というものは大好きだ。

 古今東西、人助けをして殺される人間を殺すのは、こういう人間だ。

 村人達は異端技術を用いる錬金術師という"おかしなもの"に抱く恐れを胸の奥に押し込んで、自分が恐れているということからも目を逸らし、集団の狂気に身を委ねていく。

 

「錬金術なんて異端を少しでも信じたのが間違いだったんだ」

「あれは姿を変えた魔女かもしれない」

「あれが神の奇跡でないのなら、人の身に過ぎた悪魔の知恵だ!」

「裁きを! 浄罪の炎でイザークの穢れを清めよ!」

「磔にせよ!」

「我々の手で、この村を守るんだ!」

「あいつらが何かをしでかさない内に!」

「神の名の下に、火と十字架に彼奴を捧げよ!」

 

 鍬を握り、鎌を握り、斧を握り、皆揃って大きな声を上げた時。

 彼らの中に『人を殺す』という意識はなく、狂気によって正気は削がれ、おかしな方向性を持った空気に誰もが酔っていた。

 ガリィが人間を"クズ"と断言した理由がよく分かる光景が、そこには広がっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日が沈み始めた夕刻に、それは来た。

 横になっているジュードと、彼を看ているキャロルが居る部屋に、突如入って来る男達。

 男達の手には鎌や鍬といった人を殺せる農具が握られており、危機を感じたキャロルは咄嗟に動けないジュードを庇うように立つ。

 

「二人共、我々に付いて来てもらおう」

 

「な、なんですかあなたたち!」

 

「君達には異端の疑いがかけられている。招集を拒み、異端審問を逃れようとするなら――」

 

 有無を言わせぬ男達の声。

 が。

 

「あ、そういうのいいんで」

 

 何の前置きもなく現れたガリィが手を振れば、一瞬で全員が気絶してしまった。

 めまぐるしく動く状況にキャロルは頭が追いつかないが、自分達のピンチに颯爽と現れたガリィが助けてくれたこと、鮮やかな手腕で村人を気絶させたことだけは理解した。

 ジュードはまだ体調が万全ではないのか、黙って成り行きを見守る姿勢だ。

 

「ガリィ、何が起こってるの?」

 

「マスターのお父上が異端認定を受けました」

 

「……え?」

「なっ」

 

「今夜中に火刑が執行される運びとなってるみたいですねえ」

 

 ガリィの言葉に、キャロルとジュードの思考が止まる。

 

「ま、魔女狩りではありふれた光景ですねえ。

 記録されてる例だとスポーツ万能だった神父が

 『神父がここまで異常な身体能力を持っているのはおかしい』

 って理由で魔女認定食らった例もありますし。要するに目立ちすぎたってことですよ」

 

 この時代において錬金術師と魔術師を同一視する者は少なくなかった。

 そこにジュードを十数分で明確に回復に向かわせた、仙草アルニムによる治療だ。

 奇跡のような治療、奇跡のような効き目の早さが、人々に尊敬ではなく恐怖を抱かせたのも無理のないことだろう。

 それを理解したキャロルの顔から、さっと血の気が引いていく。

 

「ガリィ、パパを……パパを助けて!」

 

「え、やーですよ」

 

「……!? なんで、どうして!?」

 

 今キャロルが頼るのならば、絶大な戦闘力を持つガリィをおいて他には居ない。

 なのに、ガリィは自分にすがりつくキャロルの願いを断った。

 キャロルも驚いたが、ジュードも同様に驚いた。ガリィはなんだかんだ言うものの、キャロルに忠実な人形である。それが主の命を拒絶したことに衝撃を受けたのだ。

 

「あたしは人を殺さないよう作られてますので。

 あの数相手に殺さないよう加減して戦ったら、すぐに想い出切れちゃいますよ。

 第一、助け出した後はどうするんです?

 運良く想い出を温存して助けられたとしても、追手に狙われる毎日が来たらすぐ尽きますよ?

 マスターだってそうです。想い出燃やしても今のマスターじゃたかが知れてますし」

 

 ガリィは自分がいくら強くても、リソースの問題で勝てないと言う。

 イザークを助ける戦いで力尽きるかもしれない。

 イザークを助けたとしても、そこからの逃避行で確実に力尽きてしまう。

 有限のリソースでは軍隊には勝てないし、欧州には錬金術以外の秘儀(オカルト)がいくつもある以上、どこかで力負けする可能性すらある。

 ダメ押しとばかりに、ガリィは今魔女狩りに動いている村人の途方も無い人数という絶望を、キャロルに告げた。

 

「あたしにゃあの数は無理ですよ、マスター」

 

「そん、な……」

 

 キャロルは肩をすくめるガリィにすがりつくのをやめ、その場に力なく座り込んでしまう。

 希望がない。打開策がない。どうしようもない。

 少女の双眸から涙が漏れて、両の手が涙が流れる顔を覆う。

 流れる涙は、泣き黒子を伝って床に落ちていく。

 

「パパぁ……」

 

 だからこそ、彼は立つ。

 立たないわけがない。

 ジュードは立ち上がり、ガーゼがいたるところに貼られた体の上にシャツと上着を羽織る。

 そして、ガリィに"自分が行くべき場所"を問うた。

 

「ガリィ、場所は?」

 

「……ジュード?」

 

 少年は膝を折り、目線を合わせて少女へと語りかける。

 

「僕が行く」

 

「え?」

 

「僕がイザーク師匠(せんせい)を助けてくる。キャロルはどこか、安全な場所に隠れてて」

 

 その言葉に一瞬呆然としてから、すぐさまキャロルはジュードを止めようとした。

 

「む、無理に決まってるでしょ!?

 だってジュード、ただでさえ怪我してるのに……!」

 

「だったら、イザークさんのことを諦められるのか?」

 

「それは……」

 

 だが、ジュードに止まる気はさらさらない。

 キャロルの悲しみの涙を止めるためならば、彼は何だってする男だ。

 彼女もまた、父に死んで欲しくないがために、ジュードを本気で止め切れない。

 

 それでも、それでも―――キャロルは父と同じくらい、ジュードにも死んで欲しくないのだ。

 

「……諦められるわけ、ないよ……でも……」

 

 ジュードに危険なことをして欲しくないというキャロルの気持ちを汲み取って、ジュードは指一本動かない手で、不器用にキャロルの震える手を取る。

 キャロルの包帯が巻かれた手と、ジュードの包帯の巻かれた手が、重なる。

 

「大丈夫。いつもと同じさ。僕はキャロルに奇跡を見せる」

 

 絶望に沈み、悲しみの涙を流すキャロル。

 そんな彼女を前にして、彼はどこまでもいつも通りな笑顔を浮かべていた。

 奇跡を生み出す手を失ってなお、彼はいつものように笑っていた。

 

 そして取っていた手を離し、ジュードはキャロルを抱きしめる。

 

「だからいつも通り、笑顔を見せて欲しい」

 

「―――」

 

「僕に任せてくれ」

 

 ジュードに抱きしめられショートしてしまったキャロルを離し、彼はガリィに向き直る。

 

「ねえ、ガリィ。もしかして僕がこの時代に来た意味は、ここにあったのかな」

 

「ご名答。今日だけは褒めてあげるわ、ジュード」

 

 そしてイザークの居場所を聞き出し、たった一人でそこに向かい、走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 走るだけで、腕が痛む。

 腕が痛むたびに組織液と血液が染み出して、包帯が変色してしまう。

 それでも、走る。

 

「はぁ……はぁ……痛っ……!」

 

 手首が自分の意志で動かない。

 指が自分の意思で動かない。

 だから走るたびに関節が勝手に動いて、そこから体液がにじみ出てしまう。

 皮膚がなく、包帯等を皮膚の代わりにしているジュードは、走る姿勢を変えて手首と指を固定しながらなんとか走る。

 

「ぜぇ……ぜぇ……!」

 

 行って何ができるのか?

 奇術さえも使えない今の自分に何が出来るのか?

 痛みと苦しみだけで、今にも倒れそうな自分に救うことが出来るのか?

 考えに考え、思考に思考を重ね、ジュードは走る。

 

「イザークさん……師匠(せんせい)……!」

 

 それでも、足を止める気は毛頭ない。

 ジュードがイザークがくれた優しい言葉を覚えている。

 イザークが撫でてくれた頭の感触を覚えている。

 家族として迎え入れてくれた時の嬉しさを、覚えている。

 

 "後から手に入れた家族の大切さ"を、知っている。

 

(! 見えた、あそこだ!)

 

 そしてジュードはとうとう、魔女裁判が行われている場所に辿り着いた。

 

「皆の者! これよりこの者が悪魔である証明を行う!」

 

 気付かれないよう距離を詰めるため物陰に隠れながら移動していると、魔女裁判の人の輪の中心から声が上がった。

 なんだろうか、とジュードがそちらを見れば、イザークの手の甲にナイフが突き刺されているではないか。

 一瞬目を見開いたジュードだが、イザークの手に傷一つ付いていないのを見てホッとする。

 

「この者は刃で突き刺しても傷一つ付かない!

 これはこの者が悪魔の力を借りている証明である! 異端は、証明された!」

 

 だが、ホッとしたのはジュードだけだったようだ。

 人の輪の中心で誰かが叫ぶと、その場に居た村人全員が盛大に叫ぶ。

 殺せ、殺せと、物騒な声まで上がり始めた。

 

「なんだ、あれ……?」

 

「魔女狩りの時代、奇術は魔女が人ならざるものであるという証明に使われていたのよ」

 

「! あ、ああ、ガリィか。驚かせないでよ」

 

「皮肉なものねえ。あんたが愛する奇術が、イザークの処刑に使われてたなんて」

 

 そこでジュードの背後に現れたガリィが、状況が読めていないジュードに解説を挟む。

 この時代、奇術師は魔女狩りの対象から外れたものの、奇術師の技術は権力者や教会の一部によって吸収され、魔女狩りの道具とされてしまっていた。

 今、イザークが「ナイフで刺したはずなのに切れていない」、「つまりまともな人間ではない」と人前ででっち上げの証拠を作られてしまったのを見れば、それがよく分かる。

 

 奇術師は魔女狩りで多くが殺され、その技術も奪われ魔女狩りの道具にされてしまった。

 今ここで、奇術がイザークを殺すために使われているように。

 それがこの時代に広がる現実だった。

 

 錬金術師、魔女狩り、奇術。この三つは、本当に密接な関係にあったのである。

 

「そんな……」

 

 その現実が、ジュードを打ちのめす。

 打ちのめされているジュードを、ガリィが静かな表情で見つめる。

 自分が信じた奇術が人を殺すために使われているのを見て、少年は歯を食いしばった。

 

「それが神の奇跡でないのなら、人の身に過ぎた悪魔の知恵だ!」

 

「裁きを! 浄罪の炎でイザークの穢れを清めよ!」

 

 だがイザークを殺そうとする人々の声を聞き、彼は前を向く。

 苦悩は後でいい。考えるのも後でいい

 ただ、今は、するべきことをする。

 自身の心に鞭を打ち、ジュードはしかと大地に立つ。

 

「ガリィ、それでも、僕は――」

 

 そして振り向き、ガリィに語る。

 

「――奇術(これ)は人を笑顔にするためにあるものなんだって、信じてる」

 

 自分が信じる、人を笑顔にする奇跡の術のことを。

 

 ジュードは無言で足裏に紋章(クレスト)を形成し、跳ぶ。

 そして人の輪の中心の空白、イザーク近くに落下し、素早くイザークに刺されたナイフを奪い取った。

 

「!? な、何だお前は!?」

 

「はい注目!」

 

 ジュードは自分が飛び込んだと同時には声を上げなかった。

 だが自分が飛び込んだことで、自分に注目が集まるのは分かっていた。

 それゆえに、集団の中から第一声が上がるのを待ち、その声を食い気味に声を上げたのだ。

 結果、この場の皆の視線は最高の状態でジュードに集中している。

 奇術の基本、視線誘導の技の応用だ。

 

「このナイフ、一見何の変哲もないナイフに見えますが……

 なんとこの刃が、押し込むと柄の中に入るようになっております!

 これでは生身の肌を傷付けることなどできませんね!」

 

「え!?」

「おいおい」

「……そうだったのか、あれ」

 

 そして視線を集めてからの第一声で、最高の効果を発揮した。

 奇術で必要なのは、五分以上退屈な時間を客に見せないこと。

 目まぐるしく速いペースで注目する事象を起こせなければ、観客に"目が離せない"という状態を押し付けられなくなってしまう。

 ゆえに、ジュードは登場からあっという間に畳み掛ける道を選択した。

 

 彼の登場で全員の視線が集まったタイミングを逃さず、この種明かしだ。

 村人の間に動揺が広がっていく。

 魔女裁判を開いていた側がインチキを行っていたという事実は、この場にも多い"流されるまま参加した者達"を動揺させ、人々の間に波紋を呼ぶ。

 

「ジュード君、どうして……」

 

「家族ですから。助けに来ました」

 

「―――」

 

 イザークとジュードの会話、人々の間に広がる動揺を見て、一人の男が大いに焦る。

 そして魔女裁判の熱が消える前に、有耶無耶にされる前に、畳み掛けようと声を上げた。

 

「お前も異端の仲間か……構わん! こやつも磔にするのだ!」

 

 その男の声に賛同した者、男の声で気を取り直した者、周りがそうしてるからと流されるまま従う者、多くの人間がジュードを捕らえようとにじり寄る。

 捕らえられたが最後、ジュードもまた縛られイザークと共に焼かれてしまうだろう。

 そんな未来は、最低最悪のバッドエンドに違いない。

 

「神の奇跡だ、悪魔の知恵だ、そんなこと言ってて楽しいかい?」

 

 だが、彼にそんなものを受け入れる気は毛頭ない。

 ジュードは地面をダンと踏むと、緑のクレストが彼を華麗に宙に舞わせた。

 "どれだけ見栄えよく宙を舞えるか"をとことん突き詰めた術式による跳躍で、ジュードはその場の全員の視線が届く位置に移動。

 そしてもう一度地面を踏み、茶のクレストを叩き込む。

 今度は地面を隆起させ、円筒状の高いお立ち台を錬成してその上に立った。

 

「さあ、幕を上げるよ、皆!」

 

 ジュードは円筒の頂点を踏み、五色のクレストを空中に浮かべる。

 この場の民衆は、イザークを異端として裁くために集まった者達だ。

 ……だが、流石にここまで現実離れした光景を目にするだなんて、想像もしていなかったのだろう。誰もが口をあんぐりと開け、ジュードに目を向けていた。

 目を奪われていた。

 心を奪われていた。

 ジュードが次に何をするのかと、一挙手一投足も見逃さないよう、凝視していた。

 

 それが奇術師ジュードの思惑通りであるとも、気付けぬままに。

 

「神の奇跡でもなく、悪魔の知恵でもない、人の奇跡をここに見せよう!」

 

 さあ、奇跡を始めよう。

 

 

 



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奇跡の殺戮者の対極

 イザークは善人である。

 世のため人のために錬金術を使い、世界を知ることで人が繋がる道をずっと探し求めてきた。

 きっと未来に人が繋がれると信じ、夢を追い求めてきた。

 だが、その想いはとうとう裏切られてしまう。

 

「それが神の奇跡でないのなら、人の身に過ぎた悪魔の知恵だ!」

 

 善人は当然の帰結としてバカを見る。

 それでもイザークが今日までやってこれたのは、理解者が居たからだ。

 今は亡き妻、愛する娘、そして奇縁の少年。

 されど理解者が居たからやってこれたということは、その在り方は基本的に理解されない在り方であるということでもある。

 燕雀安んぞ、鴻鵠の志を知らんや。

 俗物な人間に、強い意志で善性を貫く人間の(こころざし)は理解できない。

 

「裁きを! 浄罪の炎でイザークの穢れを清めよ!」

 

 皮肉なものだ。

 世界を知ることで人と繋がることを目指す錬金術師であるイザークが、救いを求めてきた人達に磔にされ、相互理解を求めた相手に焼かれようとしているのだから。

 今、イザークの中には裏切られたことへの悲しみがある。

 目の前の人々の愚かさへの苛立ちがある。

 

 だがそれ以上に、こうなることを予想できなかった自分の軽率さと愚かさへの軽蔑と、あの時ああしていればという後悔と、"人と人を繋ぐ"という夢を果たせなかったことへの無念、この現実に押し付けられた諦観の方が大きかった。

 

(……これが、私の終わりか)

 

 死が怖くないわけがない。

 イザークにも『生きたい』という気持ちはあり、その気持ちは誰の中にもあるものだ。

 それでも人々が自分を罵り、自分を責め、自分の善意を悪意であったと断定し、身に覚えのない罪を炎で裁こうとしている光景は、イザークの心を折るには十分過ぎた。

 

「最後に何か言い残すことはありますか?」

 

 宗教色の濃い服装を身に纏った男の一人――この村の教会に居た、二人の宗教家の片割れ――がイザークに問いかける。

 彼は父親として、最後の心残りを口にした。

 

「私の子達は関係ない。私以外には手を出さないと約束してくれ」

 

 本当の本当に追い詰められた時、人の本質は出る。

 死の間際にキャロルとジュードの身の安全を案じたイザークは、まごうことなく善の人だった。

 彼は命乞いすらしなかった。

 男はイザークの願いを聞き、頷く。

 

「いいでしょう。子に罪はない。悔い改めればそれでよろしい」

 

「ありがとう」

 

 礼を言い、イザークは目を閉じた。

 これで後悔はない。二人に最後の言葉を残せなかったことが心残りと言えば心残りかもしれないが、瑣末なことだ。

 イザークは理不尽な現実に自分が抱いた感情をゆっくりと噛み砕き、静かに死ぬ覚悟を決めていく。避けられないと諦めた死を、まっすぐに見据えながら。

 

 だがその悲壮な決意も、新たに乱入して来た少年によって打ち砕かれた。

 

 奇術の披露は笑顔で終わると、そう信じる少年が、悲劇の舞台を己の舞台に塗り替える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 キャロルもまた、ハグのショートから脱してジュード達の後を追っていた。

 もしも何か起こっていたら、自分が助けないと……そう思う彼女が現場に辿り着いた時、そこでは今まさにジュードが幕を上げようとしていた瞬間であった。

 ジュードは人々の視線を集め、五色の紋章(クレスト)を空中に浮かべている。

 「失った手を補うにはどうすればいいのか」という思考から生み出された、逆説的に言えば"腕を失ったからこそ彼が辿り着けた"、そんな技巧の極致であった。

 

 ジュードが一歩を踏めば、世界が揺れる。世界が揺らぐ。

 そしてその場の全員を、彼は別の世界へと招待した。

 

「これ、って……!?」

 

 たった一瞬。まばたきすらもしていないというのに、キャロルは自分が居た世界がいつ塗り替わったのか、まるで認識できなかった。

 それはキャロルに限らないようで、村人達も困惑からか四方八方を見回している。

 彼女らは、黄金の宮殿の中に居た。

 

 華美な装飾がなされた黄金と白亜を基調とした宮殿。

 それは平凡な村人では足を踏み入れることすら許されない、王の城を思わせる。

 宮殿の周囲には何十mもある大きな鏡が重力に逆らっていくつも浮いていて、窓の外の大鏡を見せることで、この黄金の宮殿が縦に1kmはあろうかという巨大なものであることを分からせる。

 

 村人達やキャロルは気付けば宮殿の大きなホールに居て、そこには数えきれないほどのテーブルと、その上に並べられた料理があった。

 歓迎、もてなし、パーティー、そういった意図が見えてくる光景。

 その中心で、高台の上にてジュードは格式張った口調と動きで、周囲の全てに礼を尽くす。

 

「ようこそ皆様方、僕の世界へ。お手元の料理は好きに召し上がってくださいな」

 

 うやうやしい礼から始まり、ジュードは会場に並ぶ食事を指し示す。

 この場の誰もが、ジュードの一言一言を聞き逃してたまるかと、集中して聞き入っていた。

 

「錬金術は人を傷付けるかもしれません。

 神の御業や悪魔の仕業にも見えるかもしれません。

 ですが、使い方を間違えなければそれはあくまで人の仕業です。

 皆様方の目の前の料理のようにね」

 

 彼はいたずらっぽく笑い、縛られたままこの世界へと飛ばされてきたイザークを見る。

 

「イザークさんは料理下手で何でもかんでも黒炭にしてしまうんですよ。

 同じ食材を別の人が扱うとこんなにも美味しくなったりもするわけです。

 どんなものでも人次第、そしてそれをどう扱うか、扱い方次第というわけです」

 

 なんてこともない言葉。

 だがジュードは錬金術の無害さを語るふりをしながら、言葉の節々にイザークの"人間らしさ"を語り、村人達の認識の中に"イザークは人間"という意識をすり込んでいく。

 奇術師が「この右手をご覧ください」などの発言を織り交ぜることで、観客の意識を間接的に操るように。それが最後に、彼らの手を止めさせると信じて。

 

「今日は皆さんを、ここではない別の世界に招待いたします。

 錬金術が素敵なものであると知ってもらうために。素敵な夢を、ご覧ください」

 

 少年が一礼をすれば、ぽう、とシャボン玉のようなものが空中に散り始める。

 触っても壊れない、ほんのりと香水の香りがするシャボン玉だ。

 それがこの空間に満ちていくことで、人々は視覚と嗅覚の両方をほんのりと魅了されていく。

 その中の一人が、ハッと我に返って、ジュードに向かって叫び始めた。

 

「お、おい! 私達は村に帰れるのか?」

 

「はい、それは勿論。これは皆様を楽しませるためだけの余興でございますので」

 

「……そ、そうか。よかった……」

 

 その者がほっと一息つくと、ホールのいたる所で食事に手を付ける者が出始める。

 

「うまっ」

 

「お、おい! 何が入ってるか分からない料理に手え出すなんて……」

 

「いやだって腹減ったし……じゃああんたは食わなければいいだろ? その分オレが食うからさ」

 

「……た、食べないとは言ってないだろ」

 

 どうしても三大欲求には流されてしまうのが人間だ。

 ましてジュードが作り上げた料理の数々は、その大半が村人達が食べたことのない料理であり、その実未来の洗練された技術による料理であり、一部はキャロルの料理であった。

 文句なしに美味しく、かつ彼らにとっては未知の料理だったというわけだ。

 一人が食べ始めて、毒が入ってなさそうだと判断すれば、この場の人間の多くが食欲に流され手を伸ばす。

 そして腹が満ちれば、心に余裕や寛容さが生まれるのが人間だ。

 物騒な考え方や集団の狂気が『腹が満たされた』という意識に押され、薄れていくのをジュードは感じ取る。

 

「皆様、お楽しみ頂けていますでしょうか?」

 

 錬金術の基本は理解・分解・再構築。

 そして錬金術師が目指す地平は、この世界そのものの理解だ。

 世界を理解するために世界を分解することも、理論上は不可能ではない。

 世界を理解せずとも、世界の分解を再構築で止めることも、理屈の上では可能なことだ。

 

 だが、もし、世界を『理解』し、『分解』し、望むように『再構築』できたなら―――?

 

 "世界そのものを対象として錬成"できたなら?

 

 その答えが、ここにある。

 

「さて、次の舞台へと参りましょう」

 

 錬金の術は、世界から世界へと人々を渡らせる奇跡の術となった。

 

「舞台の幕の数は12。第一幕は黄金の宮殿。第二幕は――」

 

 世界から世界へと移動しているというジュードの言葉を村人の誰もが疑わぬまま、またしても世界が書き換わる。黄金の宮殿が上書きされる。

 

「――花と妖精の世界で御座います」

 

 次に現れたのは、山もビルも木々もない、四方八方全てに地平線の果てが見える、この世ならざる広大な草原であった。

 草原の四割ほどは密集した花畑であり、草原には清らかで心地良い風が吹いている。

 草の匂い、花の香りが風に乗り、胸いっぱいに息を吸い込めば、それだけで体の疲れが全てどこかへ行ってしまいそうだった。

 

 春先になると、昼間の陽気についつい居眠りしたくなってしまう時がある。

 それに限りなく近い魔性が、この世界にはあった。

 眩し過ぎずぽかぽかと暖かい日差し。涼しげな風。横になれば寝心地が良さそうな草原。

 既に何人かは、この草原に寝っ転がって寝てみたいと思っている様子。

 

「どうやらこの世界の住人が、皆様をもてなしたいと思っているようですよ?」

 

 だが奇術師ジュードが、自身の舞台で観客に居眠りなんて許すわけがない。

 ジュードが世界に見惚れる人々に声をかけると、人々の前に小さな生き物が現れた。

 あるものは羽の生えた手の平に乗るサイズの小さな美少女。

 あるものは空中を歩く小さな子猫。

 あるものは二つの足で地を歩き、燕尾服とシルクハットで紳士風な服装をした子犬。

 

「……妖精!?」

 

「二足歩行の子犬!?」

 

 現実にないファンタジーが、そこにある。

 ニーベルングの歌然り、アーサー王伝説然り、古今東西『ファンタジー小説』というものは、多くの人に好まれてきた。

 自分達の生きている世界とはまるで違う、幻想の世界。

 自分達の生きている現実にはない、"夢"がある世界。

 人々は古来より、それらを好んだ。

 

 『ここではないどこか』『素敵なものがあるどこか』を人は求め、夢見る。

 ジュードが紡ぐ奇跡の術は、誰もが心の奥底に抱えている"ここではない世界への憧れ"を刺激して、皆に素敵な夢を届けていた。

 

「やだ、可愛い……」

 

 子犬に対して女性がそう言う。

 

「ああ、可愛いな」

 

 美少女の妖精に対して男性がそう言う。

 両者の"可愛い"にはちょっとしたニュアンスの違いがあるのだが、まあそれは置いておこう。

 子犬、子猫、妖精、モモンガ、リス、小鳥といった者達が現れ、人々をこの世界の色んな場所へと導いていく。

 ある人は寝っ転がるには最適な場所へ。

 ある人はこの世界に広がる広大で美しい湖へ。

 そして多くの人達を、この世界の花畑へと連れて行った。

 

 この世界の花畑は、彼らが居た人の世界にある世界中の美しい花を集めた花畑でありながら、現し世には存在しないような花もあるという、幻想の花畑である。

 

「銀の花!?」

 

「これ、もしかして、氷の花なのか……?」

 

「……すごい、この青い花、花びらを空に掲げると、雲が透き通って見える……」

 

 磨き上げられた鏡のように、綺羅びやかに輝く銀の花。

 触るとひんやり冷たいというのに、ずっと触っていても溶けない氷の花。

 色合いと造詣の美しさのみならず、現実離れした透明感までもを兼ね備えた青い花。

 どれもこれもが、現実離れした特性と美しさを持っていた。

 そして一部は、美しさだけに留まらない。

 

「……? 蜜? 飲めってことか?」

 

 妖精の一人が、村人の一人の前に摘んできた花を手渡した。

 そして渡さなかった方の花を、村人の前で吸ってみせる。

 村人は妖精の真似をして、隣に居た村人の制止の声も聞かずに花の蜜を吸ってみた。

 

「おまっ、だ、大丈夫なのか!?」

 

「……甘い。うん、甘い。凄く美味い」

 

「……本当?」

 

「本当本当」

 

 ミントとハチミツのいいところを合わせたようなその味は、この時代の人間にとっては衝撃的だった。妖精はまだいくつも花を抱えていて、おそらくはその一つ一つがまた違う味なのだろう。

 『味』においても、ジュードは現実に存在しないような素晴らしい物を創造していた。

 風に草がざわめく草原を人々が堪能し、次の世界はどんな世界に行くんだろうと、胸を踊らせ始めたそのタイミングで、ジュードは彼らに呼びかける。

 

「それでは第三幕……と、行きたいところですが。

 ここでわたくしから、皆様にお願い申し上げます」

 

 ジュードが丁寧な所作で指し示すは、いまだ縄で縛られたままのイザーク。

 

「そこの方を、離して頂けないでしょうか?

 皆様に楽しんで頂きたいのに、お一人だけ仲間外れというのは心苦しいです」

 

 ジュードが求めたのは、イザークの解放だった。

 一部の人間は、解放するわけがないだろうと訝しんだ。

 一部の人間は、もっと見てみたかった他の世界を見れなさそうなことに、肩を落とした。

 一部の人間は、もっと見たいという気持ちから、解放するかしないかを迷っている様子だ。

 そして一部の人間は、解放に踏み切った。

 

「! な、何やってんだお前!」

 

「だ、大丈夫だろ……俺達だってこんだけ居るんだから逃げられねえよ。

 逃げたらすぐ捕まえればいいだろ? な? お前もそう思うだろ?」

 

「え、オレ!? ま、まあ、そうなんじゃね? 逃げんのは無理だろ、そりゃ」

 

 ここに集まった人間は、ごく普通の一般市民相応に流されやすい者が多い。

 一人がイザークの解放に動けば、二人、三人、十人と加速度的に後に続いて、止めようとする人間を押し切ってあっという間にイザークを解放してしまう。

 それも当然。

 頭が冷えて判断力が徐々に戻ってくれば、『人殺し』なんて陰鬱になることなんて誰もしたくはないし、『世界旅行』という楽しいことを誰だって邪魔されたくはない。

 同調圧力で人間の行動を恒久的に強制することなど、どだい無理な話なのだ。

 楽しいことを提供し、人の行動選択を誘導する。

 ジュードがしたことは言うなれば、面白いゲームを皆に渡して、町内会の連帯行動をサボらせたに等しい。

 

「……」

 

 そして、ジュードは一人じゃない。だから彼の思惑も、彼の予想以上に上手くいく。

 ジュードは真っ先にイザークの解放に動いた村人の一人と、その村人に続いた村人の一人に目を向ける。その二人はイザークを連れ、人々がジュードに注目してることを利用し、イザークを人の輪の外側へと連れて行っていた。

 錬金術を付加したジュードの目には、その二人の正体がよく見える。

 『水の錬金術を体表に貼り付けて村人に変装しているガリィ』と、『ガリィが作った水分身』という正体が、よく見えている。

 

 これもまた、民衆の心理を利用した心理誘導だった。

 

 ジュードは村人を煽った瞬間、ガリィの目を見た。

 アイコンタクトで彼の意を汲んだガリィは"最初に動いた一人目"と、"一人目に続いた二人目"を演出。一人目と二人目を用意すれば、人々は後は勝手に続いてくれた。

 とてもシンプルで労力の少ない一手によって、ジュードはいとも容易くイザークを救い出す。

 そしてイザークを積極的に処刑しようとしている数人の意識を逸らすために、間髪入れず第三幕を展開した。

 

「さて、紳士淑女の皆様方! ここからは更に幻想的な第三幕が始まります! 第三幕は――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 常識を外れた者が殺されるなら、いっそ突き抜けてしまえばいい。

 常識を崖とし、そこから一歩外に出ることが死を意味するのなら。

 いっそ全力で常識という崖から飛び出して、向こう岸に辿り着いてしまえばいい。

 ジュードは異端を裁くはずだったその空気を、規格外の異端によって上から全て塗り潰し、人々を異端の技で魅了してみせた。

 

 イザークはそんなジュードを見ながら、自分に肩を貸してくれているガリィに問う。

 

「ガリィ君、あれは……」

 

「ええ。位相差世界の構築、四大元素の流入による世界構築、それらを第五元素で昇華。

 つまりは擬似的な世界錬成……"世界の分解"と対になる、"世界の再構築"ですねえ」

 

 ジュードは別の世界への移動だなどと言ったが、彼は平行世界を移動する技など使えない。

 彼はこの世界を一枚の下敷きと例えるならば、その上に更に下敷きを重ね、その下敷きに自分なりに美しい絵を書き、それを人々に見せているだけ。

 世界の端と世界の隙間の間に、それっぽい空間を作り上げているだけだ。

 彼はハリボテの世界を、こことは違う素敵な世界に見せかけているだけだ。

 ほんの小規模な世界改変を、広大で雄大な世界に見せかけているだけだ。

 彼が作った世界など、10km四方もない小さな世界なのだから。

 

 ジュードはそこで人々に考える間を与えないよう間を調整し、トークで思考を誘導し、このチャチな幻想の庭の正体を見破られないよう、ありとあらゆる手を尽くしていた。

 錬金術師でもない、奇術師でもない人間にはまず見破れまい。

 

 奇術とは本来、奇跡でない技を奇跡のように見せかけるものである。

 奇跡ではないものを、奇跡へと昇華させるものである。

 それゆえに、錬金術を奇跡へと昇華させたジュードのそれは、まごうことなく奇術であった。

 

「あたしに聞きたいことはそれじゃないでしょう?」

 

「……小規模とはいえ。これは世界そのものへの理解、分解、再構築に近い。

 何の外付け装置もなく、道具の補助もなく、パワーソースもなく、こんなことをしたら……」

 

「ええ、ガス欠になりますねえ」

 

「だが現実に、ジュード君は世界を塗り替え続けている」

 

「つまり、どっかから世界を一つ作って維持するだけのパワーを得てるってわけですね」

 

 だが、これは人の身より生まれし、人の身に余る奇跡。

 世界そのものに干渉し、人の心を震わせる幻想の世界を作り上げるほどの力。

 そんなものを生み出すとなれば、方法はたった一つだけ。

 

 『想い出の焼却』。

 

「ジュード君は、この奇跡の対価にどれほどの『想い出』を……!」

 

 奇跡の術で人の心を動かしたいのなら、相応の奇跡を見せなければならない。

 大きな奇跡を起こしたいのなら、相応の対価を支払わなければならない。

 これほどの規模の錬金術だ。

 今、ジュードの中からどれほどの『想い出』が失われているのか、想像するだけで恐ろしい。

 取り押さえられた時に殴られて、体が自由に動かない状態でなければ、イザークはすぐにでも飛び出してジュードを止めていただろう。

 

 ジュードが成す奇跡は、人の命を救ったイザーク・マールス・ディーンハイムとある意味同じ。

 人を笑顔にする、人の病を治す、という違いはあれど、錬金術により形を成した奇跡だった。

 ただ、輝きだけが違っていた。

 ジュードのそれには、己の命をも燃やし尽くそうとする人の覚悟の輝きがあった。

 それは見る者に夢を見せ、その心を照らす。

 どこか夜闇の中で人を導く灯火の輝きに、似た光であった。

 

「ジュードは最悪、ここで燃え尽きていいとすら思ってるでしょうねぇ」

 

 ガリィはその輝きを、眩しいものを見るような目で真っ直ぐに見つめる。

 

「誰も悲しまず、全員が笑顔で終われるのなら、それでいいと思ってる。

 マスターも、イザークも、ここの村人達も、全部全部。何故ならあいつは」

 

 火の中に飛び込んで行く虫を見る時のような感情を浮かべて見つめる。

 

「あいつは、前世でずっと愛想笑いで生きていて、他人に本当の笑顔を見せないまま死んだから」

 

 ガリィ・トゥーマーンは、ジュードが笑顔にこだわる理由を知っている。

 

「誰も笑顔に出来ずに一度死んだあいつは、皆が笑って終わる光景を、誰よりも夢見ている」

 

 キャロルを笑顔にしようとした想い、その根源を知っている。

 

「それに、何より。アイツは惚れた女のためなら、どんな奇跡だって起こせる男だもの」

 

 奇術の始原たる杯の名を持つ人形は、呆れた顔をして肩をすくめた。

 

「ホント、頭の中お花畑なんだから」

 

 自分らしく在る少年の輝きを、彼女はずっと見守り続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 塗り変わる世界の形は第三幕へ。

 

「――宝石の砂漠を、お楽しみくださいませ」

 

 妖精の草原の次の世界は、色とりどりに煌めく砂の砂漠だった。

 それも、ただ色の付いた砂粒ではない。

 

「この砂漠……いや、まさか……これ全部宝石なのか!?」

 

 砂漠の砂粒一つ一つが、砂粒サイズまで砕かれた不純物のない宝石。そんな砂漠だ。

 近くに見える砂の山は、サファイアの山。

 遠くに見える赤い山はルビーの山。

 皆が立っている場所の緑はヒスイ、黒はブラックダイヤモンド、紫はアレキサンドライト。

 右を見ても左を見ても宝石だらけ。そんな幻想の世界であった。

 

「すっ、げ……なんだこれ……」

 

 その光景はあまりにも圧倒的だった。

 宝石を見たこともない者さえ居るというのに、この世界の地面は全て宝石。

 否、地面どころでなく、この砂漠の世界は全てが宝石だけで構成されている。

 控えめに照りつける太陽も、宝石を煌めかせるための添え物でしかない。

 

 砂粒の一つを拾って太陽にかざせば、その美しさに魅入られる。

 砂を手の平で掬って滑り落としてみれば、それだけで非現実的な美しさとなる。

 砂山の上に登って世界を見渡してみれば、それだけで一生想い出に残るような光景を目にすることができた。

 

「さて、ここらで一つ盛り上げましょうか。皆様方、お手元の傘を差してくださいませ」

 

 ジュードが手首から先が動かない腕を大雑把に振り、皆の手元に傘を創る。

 彼の言葉に素直に従い、次は何が来るだろうかとわくわくする人々が全員傘を差したのを見て、ジュードは砂山の一つに向けて腕を振った。

 同時に、爆音。

 人々の周囲にあった幾つもの宝石の砂山が、一斉にはじけ飛んだ。

 

「なんだ!?」

 

 人々は一瞬動揺するが、すぐに目を見開いて固まった。

 目の前の光景の美しさに対する驚愕が、爆音に対する驚愕のそれを上回ったからだ。

 

 ジュードが引き起こした爆発は、宝石の粒で出来た砂山を舞い上げる。

 舞い上げられた宝石の砂粒は太陽の光を乱反射して、大気の中に"芸術"を生み出した。

 まるで模様が刻一刻と変化していくステンドグラスだ。

 一瞬一瞬の中に今見逃せば二度とは見られない芸術が浮かび上がって、この場の誰もが見逃してたまるかとばかりにその光景を食い入る様に見つめ、その記憶に刻んでいく。

 

 この光景は現実の世界では絶対に見られないほどに美しいもの。

 そして舞い上げられ移りゆく宝石の模様は、それぞれがこの一瞬にしか見られないもの。

 それゆえに、この瞬間に彼ら一人一人が見た美しい光景は、その人だけが見たその人だけの想い出だ。過去にも未来にも、この光景と同じ光景は一つとして存在しないのだから。

 

 "たった一人しか見ることが出来ない、その人だけの宝物となる美しい景色の想い出"。

 それは、つまり――

 

「『宝石の雨』で御座います」

 

 ――これもまた、幻想の景色であった。

 

 宝石の雨が収まると、人々の間から拍手と歓声が上がる。

 人々の中には、傘を投げ捨てて宝石の雨をもっと間近で見たかったと思う者すら居たようだ。

 美しい歌が言語の壁を超えて人の心を揺らすように、美しい光景もまた人の心を揺らす。

 人々の心が『美しい』と感じる気持ちで、一つになる。

 美しさへの感嘆で、皆の顔に笑顔が浮かぶ。

 

 それは大昔に"人を繋げるため"に歌や錬金術といったものを生み出した者の予想を外れた、まるで予想していなかった、人と人とを繋ぐ手段。

 見る者皆の心を一つに、皆を揃って笑顔にするという、奇術師が目指し続ける境地でもあった。

 

「続いて第四幕に参りましょう。宝石の砂漠、大地に足を付ける世界の次は――」

 

 そしてジュードはファンタジーの世界に、SFの世界を重ねた世界を生み出し上塗る。

 

「――御伽の宇宙。作り物の星空です」

 

 気付けば、誰もが無重力の宇宙の中に居た。

 困惑の声が上がり、上下も左右もない世界に誰もが戸惑い、息を呑む。

 上を見ても下を見ても星空がそこにあった。

 輝く太陽、輝く恒星、煌めく満月に煌めく一等星。

 

 現実の宇宙空間では星の光はそのほとんどが見えなくなってしまうものだが、この空間においてはどの星々も鮮やかに輝いており、都合のいい分だけがファンタジーな、そんな宇宙空間だった。

 

宇宙(そら)のもてなし、どうぞお楽しみください」

 

 一見、星空を忠実に再現しているこの世界。

 だがその実、ジュードの趣味全開のファンタジー空間だ。

 

「やあ、ぼく冥王星! よろしくね!」

 

「星が喋った!?」

 

 何しろ、星が話しかけてくる。

 

「!? 何お前星座食べてんの!?」

 

「いやなんか、食べられるらしい……ちょっと食べてみなよ」

 

「……金平糖じゃん、これ」

 

「……うん、口の中に入れると金平糖になるだよ、その辺の星」

 

 しかも、一部の星は食べられる。

 村人の一部は彗星に乗って空を駆け回り競争をしたりもしているようだ。

 思い入れのある星座を間近で見ている者も居る。

 精密に再現された地球を見て、何故か涙を流してしまう者も居た。

 これだけ個人個人が思い思いの行動を取ってしまうと、誰が何をしでかすか分からなくなってしまいそうなものだが、ジュードは草原の世界で妖精や動物を数十匹同時に操っていた時と同じように、星々の全てを操作して彼らの行動の全てをコントロールし続ける。

 観客の意識の向きを完全に掌握し、舞台のタネが割れないようにすることは奇術師の基本中の基本であるからだ。

 

 そんなジュードに、教会の司祭が話しかける。

 この村の教会に所属する二人の人間の片割れだ。

 

「あなたは……何がしたいのですか? 我々に何を伝えたいのですか?」

 

 司祭の問いに、ジュードはニッコリと笑って口を開く。

 

「誰の人生の時間にも限りはあります。

 ならば好きなこと、楽しいことにたくさん使った方が良いと思いませんか?」

 

 隠しもせず、偽りもせず、少年は本音をそのまま口に出す。

 

「死後に救いがあったとしても、我々の人生は一度きりなのですから。

 嫌いなものをその手で叩くことなんかに、無駄遣いしていい時間なんて無いと思いませんか?」

 

 嫌いなものを嫌いだと騒ぐ時間があるなら、好きなもの、素敵なものを探すために時間を使った方が幸せな気持ちになれるはずだと、ジュードは思う。

 

「だって、もったいないでしょう?

 世界にはまだまだ美しい光景がある。

 世界には楽しいことがたくさんある。

 好きなものだけを追い求めていても時間は足りないくらいなのに……

 嫌いなもののために時間を無駄遣いしてしまっては、人生がつまらなくなってしまう」

 

 だからジュードは、奇術で"人が好きになれるもの"を、"人を楽しい気持ちにさせるもの"を、生み出し続ける。

 第一にキャロルのために。第二に、たくさんの人達のために。

 

「僕はこの力を笑顔のために使いたい。この世界の素晴らしさを伝えるために。

 本当に良い世界なんだぞ、と、この世界に生まれた全ての人達に知らしめてあげたい。

 他の世界よりずっと良い、こんなにも素敵な奇跡がある世界なんだぞ、と、教えてあげたい。

 この世界に夢を持てない人達に、最高の夢を、幻想を、奇跡を見せてあげたいと思っています」

 

 ジュードの思いに呼応するように、星空の星々が煌めき始める。

 一つ、また一つとまたたき、小さくとも美しい輝きを見せつける。

 それらが幾千幾万と折り重なって、360°全ての方向に星が見えるプラネタリウムとでも言うべき、とても美しい光景を創り出していた。

 

「皆さんに山ほどの美しい光景をご覧にいれます。

 この世界に生まれ落ちた者だけが見れる光景を、沢山見せてさし上げます」

 

 ジュードは心からの想いを言葉に乗せる。

 『僕はこの世界に生まれてきたことを、本当に嬉しく思っている』と。

 

「皆さんがこの世界に生まれてよかったと、今まで生きていてよかったと、そう思えるくらいに」

 

 自分以外の人達にもそう思って欲しいのだと、純粋な想いを言葉に乗せる。

 

「だから錬金術を使う僕らが危険な人間でないということを、知って欲しい。

 あなた達と一緒に生きたいという想いを分かって欲しい。それが、伝えたいことです」

 

 司祭は深く息を吸い、目を閉じ。深く息を吐いて、目を開く。

 

「……なるほど、それがあなたたちの言い分でしたか」

 

 世界の全てを知りたい、と思うのが錬金術師だ。

 されどジュードは、人々に自分達のことを知って欲しいとのたまった。

 

 この世界の全てを知ろうとすることこそが、錬金術師の本懐だ。

 だがジュードは、この世界に無いものを一から創り上げている。

 この世界の全てを知ったとしても、知りようがないものを創り上げている。

 

 そういう意味でも彼は錬金術師ではなく、どこまでも彼は奇術師だった。

 

 世界を知るために錬金術を使うのではなく、世界を作り世界の素晴らしさを伝えるために錬金術を使っている時点で、彼は本当にどうしようもなく奇術師だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ジュードが生む幻想の景色は、未来とのキャロルの旅の中で見た景色が元になったものだ。

 21世紀のキャロルがジュードに見せ続けた美しい光景の数々は、ジュードの中に"人が美しいと思うもの"の普遍的感覚を身に付けさせ、また"美しいものはどういうものなのか"というセンスを磨き上げさせた。

 この時代においてジュードが美しい光景を創り上げられるのは、未来のキャロルの功績でもあるということだ。

 

 ならば21世紀のキャロルの功績を見ている17世紀のキャロルはどうしているか、というと。

 

(な……なんでこんなに恥ずかしいの!?)

 

 顔を真っ赤にして、人目につかない場所で蹲っていた。

 

(なんで、なんで!?)

 

 彼女が恥ずかしがるのも当然。

 普通の人には理解できず、優れた錬金術師であるキャロルであるからこそ直感的に気付けたことではあるが……そもそもの話、ジュードの奇術は基本的に全てキャロルのためのものだ。

 キャロル以外にも見せるし、キャロル以外の笑顔のためにも使われるが、全ての奇術に共通してその始点には"キャロルのため"という意識がある。

 

 言ってしまえば、ジュードの奇術はそれら全てがキャロルに対するラブコール。

 万感の想いを込めたキャロルへのラブレターなのだ。

 人を楽しませ、笑顔にするための擬似世界構築も、その根底には"どんな世界だったらキャロルを楽しませられるんだろう"という無意識下の想いがある、と考えれば分かりやすいだろう。

 

 が、渦中の人間であるキャロルからすればたまったものではない。

 

「うう……」

 

 キャロル自身、何に恥ずかしさを感じているのかまるで分からない。

 錬金術師だからこそ、直感的に理解できているだけだからだ。

 キャロルはジュードが作り上げる世界の美しさに魅了されている。

 時折熱っぽい息を吐いたりもしている。

 だが熱中している自分に時々ハッと気づくと、頭をブンブンと左右に振って、キャロルは自分の正気を何とか取り戻すのだ。

 

(ど、どうしちゃったの、わたし……)

 

 ジュードが生み出した幻想を通して、己が何を聞かされて何に気恥ずかしさを感じているのか、己が何に夢中になってぞっこんになっているのかも気付かずに、キャロルは幻想の世界に魅了され続ける。

 見惚れているのか、惚れているのか、熱っぽい頬の理由は果たして如何に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「予定されていた幕も1/3を終えました。さて、第五幕と行きたいところですが……

 皆様方には、この第五幕が終わるまでに考えていただきたいのです。

 こんな素晴らしいものを……今でもあなた達は、焼いて消すべきものだと思いますか?」

 

 ジュードの言葉に、人々の間に動揺が走る。

 彼はただひたすらに、錬金術を人を楽しませるために、笑顔にするために使っていた。

 誰もが悪魔の知恵だなどと思えないくらいに、真摯に誠実に。

 それが人々の中に動揺を生む。イザークを疑い、積極的に火刑に処そうとしていた者達ですら、錬金術師が悪であるという認識を揺らがされていた。

 

「ほんの少しでも、楽しいとは思ってくださいませんでしたか?」

 

 楽しいと一度でも思った者達が揺らぐ。

 つまりその一言で、村人全員が心揺らがされていた。

 集団の心理を、たった一人で揺らがし変える。これもまた奇跡と呼ぶに相応しい。

 

「では、始めましょう。第五幕!」

 

 ジュードが声を上げれば、声の波紋が広がるより早く、世界の形が組み替えられる。

 

「ここは空が海で海が空、そんな世界の港街でございます。

 さあさ皆様、空にご注意を! ここでは雨の代わりに魚が降りますよ!」

 

 一見、なんてこともない港町。

 だが目を凝らせば、どこもかしこもおかしいのだということがよく分かる街だった。

 空を見上げれば、青空に波がある。

 海を見れば、海面に雲がある。

 

「うおわぁ!?」

 

 そしていきなり、ジュードの警告通り、空から魚が降って来た。

 

「本当に来たぁ!? うわっ!」

 

「ぶふっ、お前頭に魚乗ってんぞ!」

 

「うっせぇ!」

 

 すぐさま止んだ魚の雨に、「ああ今のって通り雨だったんだ……」と思い至るのはごく少数。

 残りは魚が降るという珍妙な事態に、コントでも見たかのような大笑いだ。

 現代で言えばタライの雨が降ったようなものだろうか?

 そしてすかさずそこに、奇妙な光景の第二波が来る。

 

「猫!? ね、猫の波だ!」

 

 それは道路の上、塀の上、屋根の上を駆けて来る猫の大群だった。

 それも100や200どころではなく、猫の歩行の振動が重なってドドドドドと地面を揺らしているほどの数、すなわち万単位の猫の大群である。

 超シンプルに、奇抜さや物珍しさではなく、圧倒的な数でジュードは観衆の度肝を抜いた。

 

「猫さんのお食事の時間のようです。

 皆様、お手元に魚がありましたら、あげてやってくださいな」

 

 ジュードがそう言うと、村人の一人である女性が近くにあった魚を持ち上げる。

 そして目の前の長靴を履いた猫に差し出した。

 猫は恭しく礼をして、女性から魚を受け取った後、女性の手の甲にキスをする。

 

(やだ、可愛い……飼いたい……)

 

 ちょっと時間が経てば、猫に魚の礼として運んでもらったり、懐いてきた猫を肩に乗せる者達がところどころに散見された。

 十数匹の猫に背負われて運ばれる経験など、誰も無かったに違いない。

 なるほど、ここは空が海で海が空な、猫と魚の世界であったようだ。

 

「そしてこの世界においては、下から上へと雨が降ります」

 

 皆が一通り猫と仲良くなった時を見計らって、ジュードが時の針を進める。

 海が空、空が海であるということは、この世界の雨は下から上に降るということだ。

 下から上へと振っていく雨粒を、皆が不思議な気持ちを抱きながら無言で見つめる。

 やがて雨は皆の頭上の海に溶け、皆の視線は頭上の太陽に集まった。

 

「うっわ、ここも凄いな、綺麗だ……」

 

 海の中にある太陽。

 海を照らし、海を通して地上に届くまばゆい陽光。

 空があるはずの場所にあるのは、中に太陽を内包した宝石のように煌めく海。

 

 これもまた、現実にはない幻想的な光景だった。

 

「第五幕は、そろそろ終いとなります。

 皆様、どうでしょうか? これは本当に、悪魔の知恵が成すものなのでしょうか?」

 

 分岐点が迫る。

 ジュードやキャロルが選び、運命が決まる分岐点ではない。

 名も無き村人達が選び、ジュード達の運命が決まる分岐点だ。

 

「錬金術は、皆で寄ってたかっていじめて……

 この世から消さないといけないものなのでしょうか?」

 

 やれるだけのことは全てやった。

 心を誘導する術は全て費やした。

 言葉の節々で"錬金術師も人間だ"という認識を刷り込み続けた。

 ジュードは自分にできることを全てやり尽くした。

 それでも、決めるのは彼ではなく村人達である。

 

「我々は、本当に仲良く出来ないのでしょうか?」

 

 錬金術師が人々に受け入れられるかを決めるのは、心強くはない人々である。

 

「人を焼くのと、この世界と、どちらが楽しい気持ちになれましたか?」

 

 ジュードが問い、沈黙が流れ……やがて一人の男がジュードの前に歩み寄り、手を差し出した。

 差し出した手をジュードは取ることが出来ない。

 だからその村人は、痛々しく包帯でぐるぐる巻きにされた子供の手を、そっと取る。

 痛まないようにと、割れ物を触るようにそっと優しく。

 

 男の後に、女性が続いた。老人が続いた。青年が続いた。少女が続いた。

 一人、また一人とジュードに歩み寄り、ジュードに何かを言ってから、彼の手を取る。

 

 何を言っているのか、なんてわざわざ描写する必要すら無いだろう。

 錬金術師と村人達が手と手を取り合ったことこそが、千の言葉よりもずっと確かな証明だ。

 

「お、おい! あんな子供の戯言に……!」

 

 往生際悪くいまだ錬金術師の処刑にこだわる一人が吠えるが、この流れは止まらない。

 イザークが諦めるほどに絶対的だった処刑の流れは、今や180°反転してしまっていた。

 一人の男が、口を開く。

 

「怖かったんだ、俺達は、きっと……あの、錬金術ってやつが」

 

 治せない流行り病への恐れ。

 それをあっという間に治してしまった錬金術師への恐れと疑惑。

 そしてそれらを全て吹っ飛ばしてくれた、奇術師の特大のインパクト。

 今や錬金術師に対する恐れなど微塵も無い男に続き、今度は一人の女性が口を開く。

 

「きっと、あの子に夢を見せられてるのね、私達は」

 

 素敵な夢の中に居て、幸せな気持ちになれていることを、彼女は隠さず口にする。

 

「でも、さ」

 

 流されるまま人を殺しかねなかった青年が、ジュードを眩しい物を見るかのような目で見る。

 

「この夢、本当に素敵で、優しいんだ」

 

 村人の一人が、この夢に(ほだ)された理由を語る。

 

「この優しい夢を、信じてみてもいいと思ったんだ……俺たちは」

 

 加害者になりかけていた一人が、信じた理由を語る。

 

 そして一人を除いた村人全員に認められたジュードが、第六幕の幕を上げる。

 

「第六幕を終えましたならば折り返し!

 ここだけの話となりますが、実は前半の六幕より後半の六幕の方が自信ありです!

 後半戦は楽しみにしていただくとして、まずは第六幕! ジャックと豆の木だ!」

 

 この時代にはまだ執筆されていない、ジャックと豆の木をモチーフにした幻想が体を成す。

 気付けば皆、揃って大きな豆の木の葉の上に乗っていた。

 豆の木は人を乗せたままぐんぐん伸びていき、やがて雲を突き抜け雲の上の世界に至る。

 

 そこは宗教の中に語られる天上の国でもなく、リアリティを追求した何もない雲の上の世界でもない、『鳥の世界』だった。

 それも全ての鳥が人よりも数倍大きいという、絵に描いたようなファンタジーの世界だった。

 ジュードが豆の木から雲に降りれば、彼の足は沈むことなく、雲の上にしかと立つ。

 村人達も恐る恐る彼の後に続いてみれば、皆の足も雲の上にちゃんと立ってくれていた。

 

 雲の上に立つ人々の前に、大きな鳥達が忠義をにじませ頭を下げる。

 

「皆様、お好きな鳥に乗ってくださいませ。これから空の上の不思議な世界をご案内致します!」

 

 そうして彼らは、創られた空の世界の雲の上、空を駆ける幻想に身を委ねるのだった。

 

 これ以上は、この事件の顛末を語る必要はあるまい。

 彼は十二の舞台を演じきり、この場の全ての人々の心に、奇跡の術の跡を刻み込んだ。

 その後が消えない限り、彼らが魔女狩りで錬金術師を狩ることはもうないだろう。

 

 素敵な思い出が皆を満たしていく。その想い出が、皆を変えてくれる。

 

 たとえ、どこかの誰かが想い出を焼却して無かったことにしたとしても、彼は鮮烈で強烈な想い出を皆の心に刻み続けるだろう

 どこかの誰かが奇跡を殺しても、彼はその手から奇跡を生み出し続けるだろう。

 どこかの誰かが愛を否定しても、愛を肯定して力に変え続けるだろう。

 

 愛を見て、愛を理解し、愛を終わらせず、力に変える。

 奇跡を起こし、奇跡を捧げ、奇跡の術を絶えず操り、笑顔に変える。

 

 どこかの世界に奇跡の殺戮者が居るのなら、この世界には彼が居る。奇跡の紡績者が居る。

 

 奇術師ジュードが居る限り、キャロルとイザークにバッドエンドはありえない。

 

 彼はそういう人間だった。

 

「さあみんな! 素敵な夢を見よう!」

 

 ジュード・アップルゲイト・ディーンハイムの奇術の後には、笑顔しか残らない。

 

 

 



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『ディーン』と『氷の女王』

 痛む頭を抑えながら、ジュードは奇術の幕を下ろす。

 一斉に行われる拍手、上がる歓声、奇術の舞台が開かれる前と比べれば一変した空気。

 体調の悪さを抑え込みながら、ジュードはうやうやしく礼をする。

 

「皆様、ありがとうございました。また後日の開演をお待ち下さいませ」

 

 人を魅せる奇跡の劇場は、これにて終わり。

 見れば老若男女の村人達も、キャロルも、イザークも、誰もが笑顔だった。

 ハリボテの世界を幻想の世界に仕立てあげる彼の奇術が生んだ光景だ。

 今やもうこの場に、他人を傷付けようだなどと思う者は居まい。

 

「こ、こんな茶番で誤魔化されるか!」

 

 たった一人を除いて。

 

 声を上げたのは、教会に所属している二人の内の片割れ。

 その男はイザークの手に奇術のナイフを突き刺すなどの工作を行い、ジュードの奇術に見惚れながらも錬金術師に対し苛烈な姿勢を貫き、今なおジュードに対し敵意を向けている男だった。

 先程ここに来てすぐの時はジュードの方が民衆の中で浮いていたが、ジュードが空気を一変させた今、魔女狩りにこだわるその男の方がむしろ浮いていた。

 

「貴様らが異端であることに変わりはないのだ! それを――」

 

 それでも、その男は浮いていただけだった。

 村人の中に紛れ込み、村人の声を真似たガリィが、この場の空気を更に一変させる叫び声を上げるまでは。

 

「私見ました! その人がこっそり家に火をつけて回ってたのを!」

 

「――なっ」

 

 今、このタイミングでなら。

 『真犯人』を指差しても、錬金術師の苦し紛れの時間稼ぎと思われかねない時間が終わった、この瞬間になら。

 『真犯人』の名を告げる意味がある。

 魔女狩りに動いていた教会の人間こそが『真犯人』であったと、言う意味がある。

 

「……そういや、俺も見たな……」

「自分も……」

「え、本当に?」

 

 ましてこの男は、火事の時にジュードに声を聞かれてしまい、消火作業中のガリィに姿を確認されてしまうほどに迂闊で考え無しな人間だった。

 ガリィが自分の姿を隠しつつきっかけとなる声を上げれば、その男が怪しい行動を取っていたのを見た人間が、村人の中から次々と現れる。

 ちょっと怪しい、と思っていた程度の印象が、確固たる疑惑へと変わり始める。

 

 普通に生きている分には問題なくとも、こういう時にボロが出てしまうのが普通の人間だ。

 悪い事をしなれていない人間の悪行など、すぐに露呈して当然である。

 村人達が揃ってその男へと目を向け始める。

 その視線に耐え切れず、男は威圧するように大きな声で叫んだ。

 

「な、何が悪い! あのままでは流行り病で全滅を待つだけだったではないか!」

 

「! あなた、まさか……!」

 

 男が放火した理由は非常に簡潔だ。

 それに気付いた教会の司祭――イザークの最後の願いを聞いたり、ジュードに問いかけたりしていた神父――が、男を問い詰める。

 

「火から逃げられない病人を病魔ごと焼き尽くそうと、火を付けたのですか……!?」

 

「私は私を含めた最大多数が生き残れるはずの最善手を打ったのだ! 責められる謂れはない!」

 

 彼は『治せない』と医者が断言した伝染病が今以上に広がること、その病気に自分がかかることを恐れたのだ。

 この時代ではまだ、細菌やウィルスといったものの存在ですらも認識されてはいない。

 ジュードの知識を得たイザークは知っているが、それだけだ。

 病原体がどこからどう来るのかという知識すら無かったこの時代、治せない流行り病というものは、これ以上なく恐ろしい悪魔に等しいものだった。

 

 だから燃やした。

 この時代に殺菌の概念はないが、煙でいぶすなど病気の原因に『火』で対抗しようとする概念はあった。病気を恐れた男は、病魔と病人を一緒くたに燃やそうとしたのである。

 流行り病への恐れが、人の道を外れた外道行為に男を駆り立てたのだ。

 

「だから錬金術師殿を裁くことにあれほどこだわっていたのですか……

 『放火もあの異端がやったことだ』と、皆が自然に思うよう仕向けるために」

 

「……そうだ」

 

「罪を他者になすりつけるその所業、神が許しませんよ!」

 

「そんなことは分かっている!」

 

 放火した教会の男も、罪悪感がないわけではない。後悔がないわけではない。

 だが、既に自分がやってしまったことなのだ。

 病を恐れ、とんでもないことを自分がやらかしてしまったことを後悔しながら、錬金術師に全ての罪をなすりつけることしか思いつかなかった。

 その男は、弱い人間だったから。

 

 ジュードは村を燃やし、イザークまでもを燃やそうとした『人の弱さ』を抱える男を見て、哀れみを滲ませた声を漏らす。

 

「……救うことを諦めたのか、あなたは」

 

 だがその同情、哀れみ、言い換えるならば見下しが、その男の逆鱗に触れた。

 男がジュードに向かって拳を振り上げるが、

 

「何も知らぬ子供に何が分かるッ!」

 

「大人が何も信じられなかっただけだろ?

 正義に胸を張れないだけだろ? そんなの、カッコ悪いだろ」

 

「……っ」

 

 結局のところ、この男が暴走したのは、皆が助かる未来を信じられなかったからだ。誰かが病を治せるだなどと信じられなかったからだ。誰も死なない結末を信じられなかったからだ。

 この男が最後の最後まで、正しいことと人の義に胸を張って生きられなかったからだ。

 この男が"格好良く生きよう"と、世界に己の意地を貫けなかったからだ。

 

 弱さが、彼を凶行に走らせた。

 

「なら僕は、まだ子供でいいよ」

 

 少年は、間違ってしまった大人をまっすぐに見る。

 

「貴方が言う『大人』になるくらいなら……

 この理屈を世界に貫けるようになるまでは、まだ子供でいい」

 

 彼もいつか大人になるのだろう。

 最初の両親か、次の両親(アップルゲイト)か、家族として見てくれる今の親(ディーンハイム)か。どの大人に彼が近くなるのか、まだ分からない。

 それでも、ジュードの中に"こうはなりたくない大人"のイメージは確固としてあった。

 自分がそう見られていることを察したのか、放火した男は激昂する。

 

「子供が、私に説教などするな……! くっ、離せ、離せっ!」

 

 そして力自慢の村人数人に連れて行かれた。

 この後、男がどう扱われるかは分からないが……無罪放免ということはまず無いだろう。

 男が連れて行かれた後、司祭はジュードに向かって深々と頭を下げる。

 

「申し訳ありませんでした」

 

「あなたが謝ることじゃないですよ」

 

 同じ教会の人間として、身内に騙されてイザークを異端だと思い込み、軽率な行動に出てしまった自分を悔いているのだろう。

 同時に、身内の恥を申し訳なく思っているのかもしれない。

 なんにせよ、13歳の少年に目を覚まさせられたことが、司祭に大きな影響を与えていることは間違いない。

 

「僕も昔はロクな人間じゃありませんでしたし」

 

「子供が言う台詞としては正しくないですね」

 

「あはは」

 

 笑って誤魔化すジュード。

 文字通りに生まれ変わったような気持ちで彼が頑張ったことなど、司祭は知るよしもない。

 魔女なんてものより、死んで生まれ変わった彼の方が基督教的には爆弾になる存在なのだろうが……まあ、ジュードがそれを自分から明かすわけもないだろう。

 司祭は懐に手を突っ込んで、一枚の紙を取り出しジュードに手渡した。

 

「これを持って行ってください」

 

「これは……?」

 

「世俗裁判所とベッタリの一派……

 今、魔女狩りを各地で行っている者達の予定表の一部です」

 

「!」

 

「以前中央の集会で貰ったものですが、これで危険な地域を避けて行ければ」

 

「神父様……」

 

 ジュードが人々を奇跡に酔わせ、錬金術師に対する許しを掴み取ったものの、錬金術師が異端と認定される時代であることに変わりはない。

 この司祭もそれをよく分かっているのだ。

 錬金術師は日陰に生きていかなければ、今日のようなことは何度でも繰り返されてしまう。

 魔女狩りは、誰か個人をどうにかすれば止まるようなものではないのだから。

 

「汝の隣人を愛せよ、でしたっけ?」

 

「汝の敵を愛せよ、ですね」

 

 ジュードは微笑む司祭に向けて一礼し、彼に別れの挨拶を告げる。

 

「僕らはこのまま帰ります。もう、二度と会うこともないでしょう」

 

「……そうですか」

 

 殺されかけた錬金術師の側も、殺しかけた村人の側も、ここからべたべたと仲良くすることは難しいだろう。

 どうしても、事あるごとに火刑が行われかけた時のことを思い出してしまうからだ。

 だからここで去るのがいい。

 この村に残った場合、仲良くなれる可能性も、破綻する可能性もある。

 だがそのどちらも捨てて、ジュードはこの場を去ることを決めた。

 彼は全ての人間の相互理解を求めているわけではないから、安全策を取る。

 ジュードは、誰の中にも輝きがあると信じられるような英雄ではない。

 

 彼が村の入口の方を見れば、そこにはガリィに連れられたキャロルとイザークの姿が見えた。

 

「私に祈る資格があるかどうか分かりませんが」

 

 村人達が今さっき見た奇跡の幻想を語り合う中、ジュードは人知れず去っていく。

 

「君達の行く先に、幸多からんことを祈っています。

 ……今日見た夢を、私は一生忘れはしないでしょう」

 

 司祭はその背中に感謝を告げて、祈りを捧げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから一週間。

 司祭が想定していた真逆を行って、ジュードは魔女狩りが盛んな場所を狙って飛び回っていた。

 彼は想い出を焼却して力を得ながら、多くの人々に魔女狩りをやめさせ続けていた。

 

「さあ、素敵な夢をご覧ください!」

 

 無論、ジュードを殺しに来た人間も一人や二人ではない。

 そこで他人を傷付けられないジュードを守ったのが、護衛として彼に付いて来たガリィである。

 ジュードとガリィの二人旅。

 二人は錬金術で長距離を移動しながら、ジュードは奇術で人々の意識に変革を促し、ガリィは異端審問官等に追われるジュードを守り切る。

 恐ろしく濃密な一週間の中、ジュードはあらゆる場所に奇跡の幻想を見せていく。

 

「幕を上げましょう!」

 

 誰もすがらない奇跡。

 人を笑顔にする奇跡。

 世界を変えうる奇跡。

 その対価として、錬金術はジュードに想い出の焼却を求める。

 

 だがジュードは一週間の間に絶え間なく奇跡を紡ぎながらも、一切の記憶障害を発生させていなかった。想い出を焼却しているというのに、彼の記憶は何一つとして失われていない。

 いったい何故?

 

(ホント、あたしから見てもとんでもないわコイツ)

 

 想い出の焼却とは、脳内の電気信号を変換・錬成し力と変えることである。

 が、記憶とは本来、脳の神経に保管されるものだ。

 電気信号が失われたくらいで記憶が失われるわけがない。

 ならば何故、人が想い出を焼却するとその記憶は失われるのだろうか?

 

 それは人が思い出を焼却する時、術式によって微細に発生してしまった熱が、脳内の神経細胞を熱変性させてしまうからだ。

 物騒な言い方をするなら、"頭の中が焼かれてしまう"とでも言うべきか。

 オートスコアラーは擬似脳の中に溜め込んだ想い出という電気信号を消費し、人間は想い出を消費するたびにその想い出があった場所が焼け付いてしまう。

 これが記憶の喪失のプロセス、"想い出の焼却"だ。

 

 だからこそ、ジュード・アップルゲイト・ディーンハイムは『唯一無二の反則』である。

 彼はリインカーネーションシステムを用いて生まれ変わった転生者だ。

 このシステムは、転生の際に記憶を完全に引き継げるようになっている。

 そして例えば、転生の対象になった人間の体に、転生させたい人間の魂を入れた後、転生が完了する前にその魂を魂を切る鎌等で両断した場合、その体に魂の記憶は残らなかったりする。

 つまり、システムが記憶を刻印するのは脳ではなく魂なのだ。

 

 リインカーネーションシステムで発生した転生体は、脳ではなく魂由来の記憶と想い出を持っている。老化によるボケで記憶が失われるということもない。

 結果、ジュードの想い出は脳ではなく魂より生み出され、力と錬成されるプロセスを経る。

 そのため"想い出を焼却しても想い出がなくならない"のだ。

 これを反則と言わず、何と言う?

 

(マスターの父親は『存在と魂そのものが奇跡』って評したらしいけど)

 

 先史の時代に作られた、記憶を保持するリインカーネーションシステム。

 今の時代に作られた、想い出を焼却し力を得るキャロルの錬金術。

 その二つを兼ね備えた、唯一無二の反則使い。文句無しに奇跡の存在と言っていい。

 

(まさにそれだわ。こんなん、反則もいいところよ)

 

 リインカーネイションシステムの製作者も、使用者も、想い出の焼却なんていう技術を生み出すキャロルの存在や、ジュードなどという反則が生まれることなど想像もしていなかっただろう。

 無論、ジュードが焼却できる想い出は魂に刻印された想い出だけ。

 要するに最初の人生で刻んできた想い出だけだ。

 だがそれでも、事実上の永久機関に近い力が得られている。

 

 数百年に渡って想い出を溜め込み、それを一気に焼却するような化け物じみた戦闘力には届かないだろうが、小さな奇跡の世界を創り上げるには十分過ぎる。

 彼の力はどこまでも、"転生した"という過去が裏付けになる運命にあるようだ。

 

 舞台を終えたジュードの顔面に、ガリィは真っ白なタオルを投げつける。

 

「お疲れ」

 

「ありがとう」

 

 汗を拭くジュードが頭痛そうにしているのを見て、ガリィは「ちょっと頭痛くなるくらい実質ノーリスクなんだから我慢しなさいよ」と言い、ジュードは「痛いものは痛いんだ」と返す。

 脳に負荷はかかっていないのだが、脳を通して想い出を消費している以上、ちょっとした頭痛は避けられないものだった。

 

「そろそろ帰るわよ。もう時間が残ってないもの」

 

「……もう、なのか」

 

 ガリィが時を告げると、ジュードが寂しい表情を浮かべる。

 彼がこの一週間にやってきたことは、あの村でイザークを助けた時と同じ。

 魔女狩りで焼かれそうになっていた人間を救い、多くの人間に魔女狩りを止めるよう声をかけ続け、その心を染めるために奇術を披露しただけだ。

 諦めず根気強く一週間続けたおかげか、成果はそれなりにあった。

 

 ジュードは『残り少ない時間』の全てを"錬金術師キャロルが生きやすい世界"の構築のため、費やしていたのである。

 

「もう十分よ。これで、この時代の魔女狩りは終わる」

 

「確定なのか?」

 

「元の時代に帰ったら、魔女狩りの歴史の本でも買ってみなさいな。

 『名も無き一週間の聖人』とかそういう名前で、あんたのやったことの影響が載ってるから」

 

「うっへぇ」

 

 そして彼の名は残らないが、彼の功績は後世に残る。

 ジュードがもたらした魔女狩りへの反動風潮は、時間をかけて広範囲に広がっていくだろう。

 

 彼は一週間だけ奇跡を見せて回った。

 それはやがて人々の間に"一週間だけ姿を見せた謎多き奇跡の聖人"として語り継がれ、『聖人が今の魔女狩りに苦言を呈した』という事実だけが残る。

 ジュードはかなり凡庸な性格をしているが、一週間だけの奇跡、及びその神秘性を損なうような行動が一切人に見られなかったということが、奇跡的に噛み合っていた。

 どういう人間かよく分からない人間の方が神秘的、ということである。

 

 聖人の後押しを受け、一部の人々は今の時代の過剰な魔女狩りの風潮に反抗し、それに対して魔女狩りを主導していた人間が対立するようになる。

 結果、国と教会が動き、この世界における魔女狩りは終わりを告げるのだ。

 ジュードが起こした奇跡は数あるが、これ以上の奇跡は彼の人生に二つとない。

 

 とんでもないことに。

 彼はキャロルを守るためだけに、"魔女狩りの時代"そのものを終わらせたのだ。

 

 ここは17世紀の欧州。

 現代においては『暗黒大陸』とすら呼ばれる土地。

 そして、『魔女狩り最後の最盛期』『魔女狩りが終わった時代』と語られる時代であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 聖遺物の力に限界があると、ガリィに聞かされたのが一週間前。

 物を過去に送るならまだしも、人を過去に送るには制限があると聞かされたのも一週間前。

 人形のガリィはこの時代に残るが、人間のジュードはもうそろそろ元の時代に引き戻されると、そうガリィに聞かされたのも一週間前だ。

 

 だからジュードは、その一週間を全てキャロルの未来のために使うと決めた。

 

「あ、おかえりなさい」

 

 テレポートジェムで帰ってきたジュードとガリィを見て、キャロルは二人を笑顔で迎えた。

 彼女はどうやら洗濯をしていたようで、物干し竿に吊ったシーツに囲まれている。

 今はジュードとイザークのシャツを干しているようだ。

 家事も万能なキャロルは、"いいお嫁さんになるだろう"とイザークが言った言葉が親馬鹿でないということを、如実に証明している。

 

「ちょっと待っててね、お腹空いてるでしょ?

 洗濯終わったら、何かジュードの好きなもの作るから」

 

「キャロル」

 

「なぁに?」

 

「お別れだ」

 

「―――え?」

 

 その一言に、キャロルが固まる。

 

「今日はキャロルに、お別れを言いに来たんだ」

 

 ずっと側に居てくれると思っていた。

 ずっと一緒に居てくれると思っていた。

 ずっと守ってくれると思っていた。

 ずっと守りたいと思っていた。

 そんなジュードからの言葉に、キャロルの思考は完全にショートした。

 

「なるほど、今日がその時だったか」

 

「! イザークさん……」

 

「やあ、ジュード君。確証はなかったが、やはりそういうことなんだろう?」

 

「……知っていたんですか?」

 

「時間移動のプロセスの分析、君とガリィ君の発言からの推測だけどね」

 

 そこに現れたイザークは、全ての事情を承知している様子であった。

 分析、研究、推測という分野では、やはりいまだジュードやキャロルでは届かない高みに居るようだ。会話から情報を抜き取られたことにガリィが嫌な顔をした理由もよく分かる。

 ジュードは21世紀に帰る。

 ディーンハイム親子とも、ここで別れる。

 それをジュードが語り、イザークは自分の推測が間違っていなかったことを確認し、ガリィは無表情のまま佇み、キャロルは呆然とへたり込んだ。

 

「今日まで、本当に助かったよ。ジュード君」

 

「こちらこそ、どれだけ世話になったことか……

 誕生日にくださったこの手袋、一生の宝物にします」

 

「小さい手に合わせて作ったものだからね。

 君に子供が出来た時にでもあげたらどうかな?」

 

「いやいやいや、子供とか僕にはまだ早すぎますって」

 

 イザークが差し出した手に、ジュードの動かない手が重なり、イザークがその手を優しく握る。

 

「ディーンハイム姓は、君の好きにするといい。捨てるも、名乗るも」

 

「なら、大切にします。僕もディーンハイムの錬金術師ですから」

 

 心の中に悲しみはある。寂しさもある。

 それでも笑顔で別れよう、と思えるくらいには、イザークは大人の男であった。

 それでも笑顔で別れよう、と思えるくらいには、ジュードは大人になりつつあった。

 イザークは21世紀の未来には居ない。

 もうこの二人が出会うことはない。

 

 ここで、永遠のお別れだ。

 

「私達錬金術師は世界を知ることこそが本懐だ。

 そんな私達でも知ることができないものがある。一つは未来。

 そしてもう一つは今この世界に無くて、今この世界に生まれたものだ。君の奇跡のように」

 

 イザークは未来に帰ろうとしているジュードを見て、これから先の未来を作っていく子供達を、交互に見る。

 

「知ることの喜びは絶対でも、全てを知るなんていうことが絶対であるわけがない。

 絶対の未来を知ることなんて、誰にもできはしない。

 君達が生み出す明日(みらい)の光景は、万象を知る者にも知ることはできないだろう」

 

 もう一人子供が増えたみたいで嬉しかったと、イザークは心の中で思う。

 彼は手入れの行き届いた愛用のコートを脱ぎ、ジュードに着せてやる。

 成人男性用のコートはジュードが着るにはあまりにも大きくて、ダボダボで、袖も裾も丈が余りに余っている。

 だが、イザークが自分にコートを託した理由を、ジュードが問うことはしなかった。

 そんな無粋なことはしなかった。

 

「だけど君は、遠い未来を知っている。そうだろう?」

 

 託されたものが、『イザークの大切なもの』が、コートを通して少年の体にのしかかる。

 

(みらい)と出会えたこの奇跡に、感謝を」

 

「こちらこそ、師匠(せんせい)と出会えて良かったです」

 

 ジュードはイザークに背を向けて、キャロルの前に歩み寄る。

 彼の姿を認識するやいなや、キャロルはすがりつくようにジュードを抱きしめた。

 その手を離したら、ジュードがどこかに行ってしまうと、そう思ったから。

 

「やだ……行かないで!」

 

 お別れなんて嫌。長い間会えないなんて嫌。ずっと傍に居てほしい。

 まだ、"大好き"と伝えてもいないのに。

 そう思うキャロルは、ジュードを離そうとしない。

 

「お願いだから、行かないで……」

 

 されど、現実は無情に彼と彼女に迫る。

 ジュードの体からぽつぽつと、光の粒が漏れ出した。

 光の粒が体から漏れ出て行くたびに、ジュードの体はその質量と等量に消えていく。

 やがて彼の体は全てが光となり、光はあの日見た光の柱の形となって、未来に跳ぶのだろう。

 それを見たキャロルの口から悲鳴が、目から涙が漏れて流れる。

 

「……っ! いや、いやっ!」

 

 涙を流すキャロルは、別れを認めたくないがために声を上げて首を降る。

 彼女が泣いたならば、放っておけないのがジュードという少年だ。

 ……けれど、その涙を止めるために何かを考える必要はない。

 ジュードが別れの言葉として用意した言葉を、口にすればそれでいい。

 

「キャロル」

 

「いや、聞きたくない!」

 

「キャロル」

 

 ジュードは耳を塞いで目を閉じ、自分の言葉を拒絶するキャロルの顔を真っ直ぐに見る。

 耳を塞ぐ両手を取って、その手を握る。

 彼女の名を呼び、目を開けさせる。

 そして互いの息がかかる距離で、彼女としっかりと目を合わせた。

 

「未来を知ることなんて、本当は誰にもできない。

 だけど、僕は……絶対の未来を知ってるんだ。また会えるって」

 

 何度時間を飛び越えたって、二人は必ずまた出会う。

 

「だって僕が時間を飛び越える時はいつだって、君に会いに行く時なんだから」

 

「……ジュー、ド……」

 

 未来から過去に飛んだ時。彼はキャロルと出会った。

 過去から未来に飛ぶ今も、きっとキャロルと出会うだろう。

 だって、ジュード・アップルゲイト・ディーンハイムは――

 

「キャロル。僕、君が好きだ」

 

「―――」

 

「もし、君が良ければ……この告白の答えを、遠い未来に聞かせて欲しいな」

 

 ――キャロル・マールス・ディーンハイムを、愛しているのだから。

 

「永遠のお別れじゃないって、僕は信じてる」

 

 ジュードの体の大半は、もう消えていた。

 キャロルは涙を袖でぐしぐしと拭って、赤くなった顔を彼へと向ける。

 行かないで、とはもう言わなかった。

 未来に彼を迎えに行くんだ、と彼女の胸に宿った決意があった。

 

 『大好き』と、彼に胸を張って伝えるために。

 

「また、未来で」

 

「……未来でっ!」

 

 交わされた約束があった。

 消えていった少年が居た。

 涙した少女が居た。

 はためくシーツがあった。

 寄り添った父親が居た。

 空を仰ぐ人形が居た。

 完結した運命があった。

 

 別れに終わった、出会いがあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 止まりかけの人形(ガリィ)を見て、キャロルは呟く。

 

「なあ、ガリィ……お前ひょっとして、ジュードのことが好きだったりしたのか?」

 

「はぁ? 人形(もの)人間(ひと)に恋するわけがないじゃないですかぁ。

 マスターちょっとあたしに対して、NTRとか警戒し過ぎじゃないですかね……」

 

「そうか」

 

 あの日から、途方も無い年月が経過していた。

 

「人形が恐れるのは、踊る舞台がなくなることですよぅ?

 人形(あたしたち)が死ぬ時、それは、子供(あなたたち)に飽きられて、捨てられた時です」

 

 オートスコアラーでも、経年劣化は避けられない。

 

「壊れたって、直されている内は、愛されている内は、人形(わたしたち)は死にません。

 人の絆は壊れても直せます。人形だって壊れても直せます。

 でも、人と人形の絆なんて、壊れたらそれっきりです。取り戻すなんざどだい無理です」

 

 子供は、愛せなくなり捨てた人形のことなんて振り向かない。

 

「大人になってから『懐かしい』と人形を求める人は……

 子供の時からずっと人形を好きでい続けてくれた人だけです。

 だから案外、あたしは人形の中では恵まれた方じゃないかなあと思ったり」

 

 ギギギ、と不協和音を鳴らす肘を動かし、ガリィは横たわる自分の姿勢を整える。

 

「あたしほど人間様に長く愛されてる人形は他に居ないんじゃないかな? きゃはっ」

 

「……ガリィ。お前はこれから、スリープ状態に入る。来たるべき日まで、ずっと」

 

「あたしは基本的にマスターとジュードの想い出で動いてますからねえ。

 動くだけで忘れるのはちょっと嫌ですし、寝るのは大歓迎ですよう」

 

「次に起きた時、それはお前がジュードをあの時代に送る時だ。

 お前はまた、何度目かも分からない遡行を行い、ジュードをあの日のあの場所に送る」

 

「申し訳無さとか考える必要ないですよ、マスター。

 人間なら地獄かもですけど、人形には天国ですからね。

 未来永劫、人形として人に愛され続けるこの繰り返し。貴女の舞台で踊り続けますとも」

 

 人間なら耐えられない。けれど人形ならば耐えられる。

 未来永劫ガリィはこの時間を繰り返し、キャロルとジュードの想い出を焼却しながら、キャロルとジュードと想い出を作る日々を繰り返す。

 素敵な想い出を忘れながら、素敵な想い出を何度でも得ていく。

 幸せな日々を繰り返し、別れ、眠り、壊れる度に自身を想い出で修復し、過去へ飛ぶ。

 

 彼女はゲスだ。性根も腐っている。

 だがマスターに逆らおうとしたことは一度もないし、マスターを軽んじたことは一度もないし、マスターを傷付けようとしたことは一度もない。

 彼女はいつだってマスターに忠実だ。

 彼女はマスターと共に過ごしているだけで、それなりに幸せだ。

 

 彼女はゲスだが、いつとてキャロルを敬愛している、

 

「……すまない、ガリィ」

 

「いいってことですよ、マスター。マスターの命令ですからね」

 

 薄れゆく意識の中、ふとガリィは忘れかけていた想い出の一つを思い出す。

 

―――……僕達、友達かな……?

 

 ふっ、とガリィの顔に皮肉げな表情が浮かび上がる。

 こんなゲスにどんな返答を期待してるんだか、と呆れた覚えがある。

 「何バカなこと聞いてんだか」と言った記憶がある。

 その時、何も答えなかった思い出がある。

 

「それに、ま、『友達』が待っていると考えれば、悪いもんでもない……」

 

 だからガリィは、笑ってそう呟いた。

 

「……あいつの奇術、忘れて新鮮な気持ちで見られるのは、ちょっと役得ですしねえ……」

 

 そう言って、自動人形(オートスコアラー)ガリィ・トゥーマーンは、機能を停止した。

 

 キャロル・マールス・ディーンハイムは、帽子を深く被り直して目元を隠した。

 氷の女王(ガリィ)は、『ディーン』のため、あの少年にまた会うために、永劫を繰り返すだろう。

 何度も、何度も、何度でも。

 この時の輪を、運命を完結させるために、何度でも時間を繰り返す。

 

 あの日見た奇跡を、あの日刻まれた想い出を、無かったことにしないために。

 

 停止したガリィの躯体の上に、春風に乗った花が舞い降りる。

 

 四月の風花(Avril Vent fleur)が優しく、疲れ朽ち果てた戦士の休息を、祝福していた。

 

 

 




Avril Vent fleur(アヴリル・ヴァン・フルール)


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エピローグ

「物語は終わりを迎えるけど、無限の明日に咲き誇ろう」



 キャロルは未来に、ジュードを迎えに行くと決めた。

 そして錬金術の申し子たる彼女が開発したのが、人の肉体から人造躯体への精神移行技術……人工生命体『ホムンクルス』の製造と、それへの自身の記憶の転送複写である。

 途中までは上手く行っていたが、魂の紐付けによる自己の連続性の保持という問題がネックになった。

 

 例えばキャロルが自分の複製を作り、髪の色や黒子などが完全に複製されなかった失敗作に、自分の記憶をダウンロードさせたとする。

 だがその失敗作は、キャロルの記憶を自分の記憶として認識しながら、自分のことをキャロルであると誤認することはない。

 "自己の連続性"とは、そういうことだ。

 

 自分がキャロル・マールス・ディーンハイムであるという認識の下地がなければ、記憶をダウンロードしただけでは『新しいキャロル』を生み出すことはできない。

 ホムンクルスに関しては父由来の錬金術の知識という基礎がある。記憶を用いる技術はジュード由来の知識という基礎があり、かつキャロルの得意分野である。

 だが魂に関する技術は完全に専門外だった。

 

 一から研究し、彼女が最初の躯体に意識の転送を果たした時、既に長い年月が経っていた。

 年老いたイザークが、天寿を全うしようとしていたくらいに。

 

「パパ」

 

「……おお、キャロル。その姿は、懐かしいな……」

 

 ベッドに横になっている、年老いたイザークの手を幼い容姿のキャロルが握る。

 

「キャロル、世界を知るんだ……それが……」

 

「うん、分かってる」

 

 容姿こそ子供だが、子供らしくない柔らかく穏やかな笑みを浮かべて、キャロルはイザークに微笑みかける。

 

「わたしは世界の全てを知ることを目指すよ。

 人が人と分かり合うためにはとても大切なことだから、でしょ?」

 

 先史の時代、人はバベルの塔の崩壊と共に相互理解を失った。

 その日より、人は"相手のことを理解できない"という理由から、互いを傷付け合うようになってしまった。

 その果てに人類の相互理解、失われた統一言語を取り戻すために創造されたもの。

 それが錬金術である。

 ゆえに本懐を忘れていない錬金術師が目指すものは、皆同じ。

 

 『人と人が分かり合える未来』だ。

 

「パパが果たせなかった夢は、わたしが叶えてみせるから」

 

「……ああ」

 

 イザークはそれを『夢』として追った。

 されどそれは彼の人生を丸ごと費やす程度では届かない、高い頂。

 

 イザークはその『夢』に手を届かせることはできなかった。

 されど彼の夢を継ぐ者が居る。

 

 イザークの『夢』は儚く散った。

 されどその夢は、キャロルの手によっていつの日か果たされるだろう。

 

「ありがとう、キャロル。私は、いい娘を持った……」

 

 夢を継いでくれた娘の声に、イザークは本当に安心したような表情を浮かべ、目を閉じる。

 そして二度と、目を開けることはなかった。

 

「おやすみ、パパ」

 

 ジュードは去った。

 ガリィは止まった。

 イザークも逝った。

 

 がらんどうになった家の中を、キャロルは歩く。

 誰も居なくなった家の光景を、キャロルは想い出の中に刻んでいく。

 父と母が居た頃の記憶を思い返しながら。

 ジュードとガリィが居て四人揃っていた頃の記憶を思い返しながら。

 時を越えて来た少年のおかげで、最期まで共に過ごせた父との記憶を思い返しながら。

 

 家の中から本当に大切な思い出の品だけを持ち出して、キャロルは家に火をつける。

 彼女が生まれた時からずっと過ごしていた家。

 そして残しておくには、錬金術という危険な技術があまりにも刻まれていた家だった。

 

 焼却されていく想い出の家を、キャロルは一人、ずっと見続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 世界を渡り、知識を求めた。

 世界を渡り、聖遺物も確保した。

 彼女は体を何度も何度も乗り換えて、ジュードとイザークに言われた『世界』を知った。

 そして世界を巡る度、世界と人の美しさと汚さを知っていった。

 

 子供が大人になる過程で一人称や話し方が変わっていくように、17世紀から21世紀の数百年を生きたキャロルもまた、一人称や話し方が変わり果てていく。

 

「そうだ、もう一度、わたしはあの人に会いたくて。

 この世界に一人ぼっちになってしまった寂しさを、終わらせたくて」

 

「ボクは世界を知りながら、目指すものを見据えて錬金術を練り上げて」

 

「ただオレは、流れ行く長い月日を乗り越えた」

 

 寂しい。そう思うけど、諦めない。

 悲しい。そう思うけど、諦めない。

 つらい。そう思うけど、諦めない。

 だって"未来にまた会おう"と、彼と約束したのだから。

 

「キャロルさん」

 

 パパなら助ける。ジュードなら助ける。

 ピンチの人を見るたびにそう思ってしまうキャロルは、数百年の間、色んな場所で色んな人を助けていた。

 錬金術で手を貸してやったこともあった。

 小さな子供が自立するまで育ててやったこともあった。

 ちょっとしたことで聖遺物が暴走し、国家の危機になっていた時もあった。

 家庭の問題に参戦した時もあった。

 気付けばキャロルの周りには、人との繋がりがいくつもあった。

 

「キャロルの姐さん」

 

 皆が彼女の名を呼ぶ。親愛を、友情を、信頼を込めて。

 

「ミス・キャロル」

 

 味方だけでなく、敵も彼女の名を呼んだ。

 助けた見返りに罵倒が返って来た時もあった。

 それでも彼女は「パパなら」「ジュードなら」と思い、数百年を生き続けた。

 数百年の生が、彼女の中から"綺麗だから世界が好き"という考え方を消す。

 数百年の生が、彼女の中から"汚いから世界が嫌い"という考え方を消す。

 結果、彼女の中には出来の悪い家族を見るような『世界への愛』が残った。

 

 綺麗な部分があって、汚い部分がある。それが世界。

 父の「世界を知るんだ」という言葉に隠された意味を、数百年を経て彼女はようやく理解する。

 世界を知るから、世界を愛せる。

 世界を愛しているから、世界を許せる。

 あの魔女狩りの日からちょっとだけあったキャロルの中の人間不信も、世界とその一部である人というものを知る過程で、いつの間にか消え失せていた。

 

「私達、結婚することになりました」

 

 キャロルはその生涯の中で、何度か子供を助けた。

 その子供達の中の二人、ラクウェルとアルノーが合縁奇縁で巡り合い、なんかいい感じになって結婚すると聞かされた時、キャロルは笑顔で祝福した。

 特にラクウェルの方は『アップルゲイト』というファミリーネームが琴線に触れ、病気になったらアルニムを取って来てやるなど、特に面倒を見てやった覚えがあるからなおさらに。

 生を転じて姿を変える親の下で育ったというのに、その子らは健やかに育ってくれたものだ。

 

 夫婦の幸せを喜ぶキャロル……だが、いかな運命か。

 キャロルがジュードとガリィの言葉から計算していたジュードの生年月日に、ラクウェルとアルノーの間に『ジュード』という子が生まれると、彼女は感慨深く息を吐く。

 

(……ああ、そうか、そういう繋がりになるのか)

 

 卵が先か、鶏が先か。

 キャロルは惚れた男が生まれ落ちる時に立ち会ってしまったらしい。

 ……こうまで運命的に引き合っているのを見ると、時空を超えて二人の愛が互いを引き寄せているんだとか、そういう理屈まで頭によぎってくる。

 が、帽子を深く被り直して顔を隠し、キャロルは赤くなった顔とその思考を隠した。

 

 やがてキャロルは、詳細は伏せてラクウェルとアルノーに頼み込む。

 ある時期になればジュードを預からせて欲しい、と。

 キャロルを信じるラクウェルとアルノーは、彼女を信じてその頼みを了承した。

 

 ジュードと父以外はどうでもいい人間だと、そう思っていたはずだったのに。

 また出会うためなら、世界だって犠牲にしていいと思っていたのに。

 キャロルは自分を信じて愛する子を預けるラクウェルとアルノーを見て、両腕が使い物にならなくなるジュードの運命を思い出し、胸が締め付けられるような気持ちになってしまう。

 それはキャロルが、この数百年で大人になったということでもあった。

 この時代において"ジュードが惚れるキャロル"になったということでもあった。

 

 昔日の少女の恋心は、幼さの抜けた愛へと変わる。

 

 キャロルは変わるが、その恋心が消え失せることはない。

 

 彼女の中に、あの日々の想い出がある限り。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最初は短い間しか生きられなかったホムンクルスの躯体の寿命も徐々に伸び、10番目の躯体を使う今となっては、80~100年の時を保たせることも難しいことではなくなっていた。

 キャロルは"あの日の続き"を始めるために、ジュードと別れた日の体を再現した躯体を使う。

 

「えと、はじめまして?」

 

「……ああ、はじめまして」

 

 それでも、『今』のジュードはキャロルのことを知りもしない。

 キャロルのことを好きどころか、興味すらも持っていない。

 ただの"はじめまして"に、彼女の胸はやたらと痛んだ。

 

「お前の名前は?」

 

「ジュード。『ジュード・アップルゲイト』」

 

 それでも、ここから始まるものがある。

 

「君の名前は?」

 

「オレは『キャロル・マールス・ディーンハイム』」

 

 キャロルに取っては道半ば、ジュードにとっては道の始まり。

 

「奇跡を届けるために、お前を迎えに来た」

 

 導かれるように、引き合うように、彼は運命(かのじょ)と出会った。

 

 

 

 

 

 何かを思い出すというわけでもないのに、何かそれが形を結ぶというわけでもないというのに、キャロルはジュードに色々なことをした。

 あの日のように、料理を作ってご馳走した。

 料理の味の感想を聞いた時、キャロルは何を思っていたのだろうか。

 

「他人に料理を作ったのは久方ぶりだが……オレの料理に変な癖はついてないか?」

 

 歌を聞かせたら、二人で一緒に世界を回る。

 その約束もここで果たした。その約束を、『今』のジュードは知らないというのに。

 世界で一番美しい海。世界で一番荘厳な山。世界で一番綺麗な町。世界で一番大きな塔。

 それが自己満足と知りつつも、キャロルはジュードを連れて世界を回り、彼にこの世界の美しさを見せ続けた。

 

「お前と共に世界を回るのも、オレの役目だ」

 

 一緒に暮らし続ける内に、キャロルは目の前のジュードが、自分の知るジュードでないことを知る。彼女に告白した時の彼とはあまりにも違うことを知る。

 過去に飛んだジュードが、過去のキャロルに対して思ったのと同じように。

 それでもいつか、奇術を手に入れたジュードは、幼いキャロルが一目惚れする様になる。

 

「お前はオレを笑わせる以外にやりたいことはないのか?」

 

 何故ならば、キャロルがこう問えば、ジュードは"ない"と断言するほどの男だったから。

 この頃からずっと、彼はブレていなかったから。

 キャロルを笑顔にするために、勝手に奇術を磨き始めるような少年だったから。

 

 そんなジュードが、キャロルに腕と共に失われた奇術を見せる。

 キャロルがそれで笑顔にならないなんてこと、あるわけがなかった。

 

 

 

 

 

 キャロルはジュードを引き取って、ガリィの復活の大詰めに入る。

 一度再起動してしまえば、ガリィは自分の体の大部分を再錬成し、それなりに動けるくらいには元に戻ってくれる。

 だからキャロルは、ガリィの再起動に関わる部分、ガリィが自分で直せない部分だけを直していけばいい。

 

「時計の砂が逆巻くなら、あの日、オレが奪ったあいつの両手を、戻してやりたい……!」

 

 キャロルは一つ工程を終えるたび、一つ願いを込める。

 

「ガリィに託すしかないとしても……運命が変わらないのだとしても……オレは……」

 

 あの運命だけ変わってくれればと、彼女はそう思わずにはいられない。

 たとえそれが絶対に不可能なことなのだとしても。

 徒労に終わると分かっていても。

 運命は変わらないと知っていても。

 それでも、彼女はあの日のジュードのために、何か手を尽くさずにはいられない。

 

「……頼むぞ、ガリィ」

 

 そうして、キャロルがガリィの体を作る。

 ジュードが手を貸して、ガリィが再起動する。

 キャロルが世界を回り確保した時を渡る聖遺物が組み込まれる。

 そしてガリィに拉致されるように、ジュードは時の壁を越える。

 

 数百年ぶりに見た光の柱は懐かしくて、嬉しくて、やり遂げたという達成感を感じさせて、キャロルの涙腺をちょっとだけ緩ませる。

 

「これは『終わり』を告げる『始まり』の光」

 

 キャロルはほうと、深く息を吐く。

 

「今でも信じてる。これは、あの時出逢った懐かしい光だから。……なあ、ジュード」

 

 そして帽子をかぶり直し、その場に背を向け、この場を去った。

 

 

 

 

 

 涙をこらえて、キャロルは家の前に出る。

 ガリィが首尾よくやってくれたならここに来るはずだと、そう考えるも"もし失敗していたら"という不安をどうしても抑えきれずに、彼女はそわそわと落ち着きのない様子を見せる。

 だがそれも、杞憂に終わったようだ。

 

 彼女の前に現れるは光の柱。

 そして光の柱の中から現れる、あの日別れた時のままの姿の少年。

 腕の痛々しい包帯と、ちょっとだけ伸びた身長がその証明だ。

 

 時を越える旅を終えたジュードが、キャロルに向かって口を開く。

 時を過ごす旅を終えたキャロルも、ジュードに向かって口を開く。

 互いの言葉は、ほぼ同時。

 

「ただいま」

「おかえり」

 

 そしてキャロルは、ジュードを正面からギュッと抱きしめた。

 彼女は"次に会った時絶対に言う"と決めていた言葉を口にする。

 短くも、数百年間揺らがなかった一途な愛を、言葉に変える。

 告白の返事に、ありったけの恋心を込める。

 

「愛してる。大好き」

 

 時は完結する。

 運命は完結する。

 ジュードとキャロルの時に阻まれた恋の物語は、ここに一つの結末を見る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから、七年の月日が経った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

611 名前:名無しさん[]投稿日:2027/06/17(木)23:50:26 ID:???

  未来と過去は、どちらが先にあると思う?

 

612 自分:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)00:01:20 ID:???

  過去に決まってるでしょ

 

613 名前:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)00:09:42 ID:???

  例えば時間を行き来できる人が居るとしよう。

  この際、平行世界というものは存在しないとする。

  未来から来た人間が過去を変えれば未来は変わる。

  なら、未来が変わったら? 未来から来た人間にその影響は出るだろ?

  過去を変えれば未来が変わる。

  でも未来が変われば、未来から過去に来た人間も変わり、過去も変わる。

  過去と未来は相互に変え合う関係にあるんだ。

 

614 自分:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)00:13:01 ID:???

  そんなの時間を自由に行き来できるって仮定ありきじゃん

  人間は過去から未来にしか行けないんだから、そういうのはタイムマシン出来てからでしょ

 

615 名前:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)00:15:59 ID:???

  かもしれない。

  ただ、時間を行き来できる存在が居たとしたら、過去と未来に前後関係はなくなる。

  そうは思わないか?

  本当は過去と未来にどちらが先か、なんて話はないんだ。

 

616 自分:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)00:20:51 ID:???

  そういう話がしたいんならそういうスレ行けばいいのに

  第一、タイムパラドックスは?

  例えば未来の子供が過去の世界に行って両親に会う

  →子供が両親が自分を産む前に、両親を殺す

  →これでその子供は生まれなくなるのに子供が居なければ両親の死は起こりえない

  この矛盾は?

 

617 名前:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)00:24:22 ID:???

  この世界に矛盾はない。

  それはそれを理解しようとする人間の解釈のどこかに矛盾があるだけだ。

  その両親は実は実の両親じゃなかったかもしれない。

  子供は両親を殺そうとしたけど運悪く殺せなかったのかもしれない。

  両親は最初から死ぬ人間と決まっていて、それを補完しただけなのかもしれない。

  時間を移動したくらいじゃこの世界に矛盾は生まれないのさ。

  それは万象を黙示録に刻むまでもなく、明らかになっていることなんだ。

 

618 自分:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)00:26:33 ID:???

  つまりあれ?

  何をしようが未来も過去も変わらず可能性は収束するとかそういう理論?

  俺もそういうSF好きだけどさあ

 

619 名前:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)00:31:19 ID:???

  それに近いかな。

  未来を変えれば過去が変わる。過去を変えれば未来が変わる。

  そして世界は、全ての人間の全ての意志による全ての変化を包括する。

  「未来を変える」と決断した人の行動の結果も含めて、今の未来があるんだ。

  人はそれぞれ、自分の意思を持っている。自分らしさを持っている。

  ハチャメチャな人も、型にはまった人もね。

  同じ時間、同じ世界、同じ状況の中でなら、人の心は必ず同じ選択を選ぶ。

  未来を変えようとする行動でさえも、既定の明日を作り上げるための要素ということなんだ。

 

620 自分:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)00:32:40 ID:???

  人が未来を変えようとして、実際変えるから、最終的な未来は変わらない的な?

  この手の話は、未来を変えようとする行動が徒労っぽくてそこが嫌だねえ

 

621 名前:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)00:33:01 ID:???

  そういうものなんだからしょうがない。

  未来が変えた過去も、また未来を変える。未来も過去も変わる。

  でもさっき言った通り、世界の形はタイムパラドックスを起こすほど変わりはしない。

  何故だと思う?

 

622 自分:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)00:34:46 ID:???

  知らね

 

623 名前:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)00:37:58 ID:???

  過去と未来の時間移動による影響を、最終的に包括した世界の流れ。

  最終的に決定された『あらゆる物事はこう流れる』と決められた世界の形。

  それを『運命』と言うんだ。

  普通の人に運命は変えられない。

  変えられるのは、選ばれた一部の人間だけだっていう話さ。

 

624 自分:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)00:39:17 ID:???

  急にロマンチストな単語が出て来て笑っちまったよ

 

625 名前:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)0:55:55 ID:???

  『運命』にようこそ。そこで、素敵な夢が君を待っている

 

626 名前:名無しさん[sage]投稿日:2027/06/18(金)01:11:11 ID:???

  奇跡を、頼むよ

 

 

 

 ジュードは掲示板に最後の書き込みを終え、背筋を伸ばす。

 今彼が居る日本ではない家には複数人の居住者が居るが、パソコンも回線も一つしかないため、家族でよくパソコンの取り合いになっていた。

 そしてようやく、この時間になってから書き込めた、というわけである。

 "この時間"とは言うが、掲示板に表示されている時間は日本時間だ。

 ジュードが書き込んだ時刻は、彼の国基準なら真っ昼間である。

 

 椅子から立ち上がるジュードは、今年ようやく20歳の青年となっていた。

 背は伸び、体格は細身だが身長も170半ばを超えている。

 10番目の躯体に成長するものをチョイスしたキャロルの肉体も成長し、今ではジュードの一つか二つ下くらいの年齢の容姿となっていた。

 七年の月日が流れれば、彼らの容姿もそうも変わるだろう。

 

「さて、ちょっとしたヒントを与えて……あ」

 

 過去の自分、最初の人生の自分にアドバイスして満足したところで、ジュードは気付く。

 

「いや待てよ、僕がここでこの書き込みをして、ちょっとだけ夜更かしさせたから……

 あの時の僕が起きる時間がズレて、あの時間に車に轢かれたとかあるのか……?」

 

 "あの日自分を死なせた要因の一つは、今自分がここでした書き込みなんじゃないか?"と。

 たらり、と一筋冷や汗が垂れた。

 すぐさま何か掲示板に書き込もうかとも思うが、この時間帯には既に過去の自分が寝ていたことを思い出し、無駄だということを悟る。

 

「いやいや、まさか……まさか?」

 

 彼が死んだのは、今のジュードから見ればちょうど20年前であり、明日だ。

 記憶が多少曖昧になっても仕方あるまい。

 最初の書き込みで『sage忘れ』したことも、地味に彼にとってはショックなことであった。

 どうしようかなあ、と考えつつ、ジュードは部屋を出て廊下を歩く。

 

「あ、お兄様」

 

「ん? ああ、エルフナインか」

 

 そこに現れたのは、キャロルと似た容姿を持ちながらも、黒子がなく金髪にならなかった若草色の髪を持つなど、明確な容姿の違いを持つ『エルフナイン・ディーンハイム』という少女だった。

 ネットの変な文化にかぶれたディーンハイム一家の皆に何を吹きこまれたのか、ジュードを"お兄様"と呼ぶのが何ともちぐはぐな印象を与えてくる。

 キャロルの妹か何かなのだろうか?

 

「今日も"ガリィ"を?」

 

「ああ。とはいっても、僕の手じゃいつも通り大したことはできないんだけどね」

 

「お共します。ボクの手を使ってください!」

 

「ありがとう。助かるよ」

 

 エルフナインは張り切った様子を見せ、微笑むジュードの一歩先を移動しながら、ドアを開けたり機材を集めるなどの手助けを甲斐甲斐しく行っていく。

 ジュードの動かない手の代わりとしては、十分過ぎるほどだった。

 そして二人は準備を終えて、台の上に横たえられた人形を挟むように立つ。

 

 その人形は、『ガリィ・トゥーマーン』の姿を寸分違わず再現していた。

 

「さて、始めようか」

 

「はいっ!」

 

 この人形は昔に見たガリィを参考にしてキャロルが作り上げた、何体ものオートスコアラーの開発で得られた技術、及び聖遺物の解析から得られた技術をフィードバックし、キャロルがかつてのガリィを極限まで再現したものだ。

 されど同時に、細かいところを弄るだけでもそれなりに大変な精密機械でもある。

 ジュードは文字通りにエルフナインの手を借り、紋章(クレスト)で手を使わず調整を繰り返していたが、それでも汗と疲労が目に見えていた。

 懸命にジュードに尽くすエルフナインは、一息つくタイミングを見計らって彼にその理由を聞いてみた。

 

「何故、そんなに頑張るんですか?」

 

「友達を、取り戻したいんだ。……いや、そう思ってるのは僕だけかもしれないんだけど」

 

 ジュードは眼前の"ガリィを模した新造人形"を見て、その向こうに昔日のガリィを見ながら、今でも色褪せていない友情を語る。

 

「時間に矛盾はない。世界に矛盾はない。

 時の中に輪が出来ていても、輪の外に始点と終点があることはある」

 

 ジュードは時を遡って来た人間だ。

 そんな彼だからこそ体感した世界の真理があり、だからこそ立てられる理論があった。

 彼だからこそ理論建てて道筋を考えられる、技術で成される奇跡があった。

 

「今なら分かる。彼女の旅の始まりはここで、彼女の旅の終わりもここなんだ」

 

 それはキャロルのためではなく、ガリィのためだけに捧げられようとしている奇跡。

 

「誰も作っていない人形はループの中には入れない。

 那由多の彼方に壊れる人形である以上、ガリィは永遠のループを構築できない。

 その矛盾を解消する最後のピースがこれだ。

 このガリィと、ループの中に居るガリィを時間移動で『交換する』。

 ガリィという存在はここに始まり、ここに役目を終え、ここに帰って来るんだ」

 

 過去から未来への時間の流れは、一本線だ。世界線も時間軸も一つしかない。

 にもかかわらず、時の一本線に時の輪が接続されることで、ガリィのループは無限回数繰り返したとしても時の流れに矛盾が発生することはない。

 時が一度流れる間に、彼女は壊れるまで理論上無限回数時を繰り返すことが出来る。

 

 例えば彼女が仮に一週間を繰り返す人形だったとしよう。

 彼女は一週間を無限回数繰り返すことができる。

 一週間という限りある時間の中で、無限の経年を重ねるという矛盾を成立させることができる。

 

「"ガリィを必ず迎えに行く"と思い立ってから、七年も経っちゃったけどね」

 

 だから一つの時間軸の中で、ガリィが作られ助けられるという行為が一度づつ行われるのだということと、ガリィが何度も時間を繰り返していたことは矛盾しない。

 彼女のループの始点と終点の形だけは、絶対に変わらないからだ。

 ガリィが何度もキャロルとジュードと出会うことと、一度だけ助けられることは矛盾しない。

 

 奇妙な話だが、矛盾しないのだ。

 

「友達思いなんですね」

 

「友達に会いたいだけだよ」

 

 ジュードは13歳から20歳、つまり日本で言うところの中学1年生から大学3年生になるまでの時間を、ガリィという一人の友達を助けるために費やしていた。

 彼自身はそれを誇らしいことだと思っていないのか、恥ずかしそうに苦笑している。

 だがエルフナインが彼を見る目は、情けない男を見る目ではなく、もっと違う何かだった。

 

「あの、お兄さ―――」

 

「……何を楽しそうに話し込んでいる」

 

「あ、キャロル」

 

「よーすジュード」

 

「やあ、ミカ。今日も元気だね」

 

「……うぅ」

 

 何かを言おうとしたエルフナインだが、そこに現れたキャロルと赤い髪の人形に遮られてしまった。赤い髪の人形の名は『ミカ・ジャウカーン』。

 ガリィと同じ、自動人形(オートスコアラー)である。

 そしてキャロルが作った中で、現存する最古のオートスコアラーでもある。

 

「みゃはは、エルフナインも言いたかったこと遮られちゃってかわいそうだゾ」

 

「え? ぼ、ボクは別に……大したことでもありませんでしたし……」

 

「マスターとエルフナインは性格の基礎の部分が同じで同じ趣味嗜好。

 だからマスターはエルフナインにジュードが取られないか心配なんだゾ」

 

「……そんなわけがないだろう」

 

「なのでマスターはジュードがガリィとやらにお熱なのも気に入ってないんだゾ」

 

「ミカ」

 

「オートスコアラーの想い出吸収機能を口から移したのもそういうことだゾ?

 色々試してれば、我々が想い出無制限のジュードから補給するようになるのは当然。

 でもそうするとオートスコアラーとジュードがキスしないといけないわけで―――」

 

「ミカ!」

 

「マスター、うるさいゾ」

 

「……これだから調整不足の初期型は……!」

 

 ミカの自由奔放ぶりに翻弄されるキャロルの様子には、普段キャロルがジュードにしか見せないような彼女の地の性格が透けて見える。

 キャロルは基本的にいい子なのだ。

 そしていい子はいじられても本気で怒りにくいため、人が集まるコミュニティの中では、必然的にいじられ役になりやすい。

 

「『ファラ・スユーフ』、入室しますわ」

 

「『レイア・ダラーヒム』、地味にファラの手伝いで入るぞ」

 

 そこに新たに現れた二体の自動人形。

 ファラとレイアと名乗った二人は、機械のパーツが大量に入ったダンボールを抱え、部屋の中に入ってくる。

 キャロル、エルフナイン、ファラ、レイア、ミカ、そしてジュード。

 今はこの六人――三人と三体――が揃ってディーンハイム一家である。

 ファラとレイアは、ジュードの左右に彼が必要としていた細かなパーツを置いた。

 

「旦那様、パーツを持って来ました」

 

「今日もご苦労様だな、旦那様」

 

「ああ、ありがとう。ファラ、レイア」

 

「お前らもジュードを旦那様と呼ぶのはやめろ!」

 

 そしてファラとレイアも隙あらばお茶目さを見せていく。

 二人がジュードを"旦那様"と呼ぶと、キャロルが顔を赤らめて叫んだ。

 叫ばれた途端、顔を見合わせるレイアンドファラ。

 

「だって、ねえ?」

 

「だって、なあ?」

 

 そこにミカまで加わって、なんか止められない流れが出来上がる。

 

「旦那様でいいんじゃないですか、奥方様」

「旦那様でいいだろう、奥方様」

「奥方様は照れてるんだゾ」

 

「クソこいつら、自由行動権を与えたらネットで変な知識と想い出ばっか身に付けて……!」

 

 想い出の補給もできるからと、オートスコアラーにもネットを開示したのが間違いだった。

 オートスコアラーのAIは、キャロルとジュードの精神構造構成要素をシェイキングして、それに個性としての方向性を持たせたものである。

 言い換えるなら、二人の子供達とでも言うべきものだ。

 ……なのだが、そこにネットで得た知識などの余計なものが加わった結果、オートスコアラーズはキャロルの従者というより友人に近いものになってしまっていた。

 

 キャロル、エルフナイン、ファラ、レイア、ミカ、そしてジュード。

 今はこの六人――三人と三体――が揃ってディーンハイム一家である。

 ここにガリィが加われば、キャロルが憤死する虹色のフリューゲルが完成しかねない。

 

 オートスコアラー自体、キャロルの"一人が寂しい"という気持ちから生み出された『寂しさのマリオネット』であるので、ある意味これは想定以上の完成度であると言えるのかもしれない。

 ……いじられているキャロルの精神状態を鑑みなければ、の話だが。

 ジュードが割って入って三体を止め、キャロルがその隙に特大の溜め息を吐くと、部屋の時計が食事時だと皆に知らせる音を鳴らした。

 

「そろそろ飯にするか」

 

「あれ、もうそんな時間?」

 

 ジュードが部屋を出ようとすると、エルフナインがすかさずドアを開けて彼を通す。

 甲斐甲斐しいエルフナインにジュードが笑顔を見せて礼を言うと、キャロルがエルフナインと目を合わせる。鷹のような目であった。

 エルフナインはキャロルへの好意からか、キャロルへの恐怖からか、その場でオロオロしながら右往左往。そして最終的にジュードの影に隠れた。

 目つき鋭いキャロルを見て、ジュードは苦笑をして彼女をなだめる。

 

「キャロルももう少しエルフナインに優しくしてやりなよ」

 

「……お前が頼むから、一人の人間として生かしてやっているだけだ。

 お前と再会できた以上、廃棄予定だった11番目の躯体(エルフナイン)を残す必要はない。

 ジュードのたっての頼みだから、ディーンハイムの人間として認めているにすぎない」

 

 エルフナインの体は、キャロルの交換用躯体の一つだったものだ。

 キャロルはジュードと再び会うために、体を何度も取り替えながら生き長らえてきた。

 結果、ジュードと会えた時点で"次に転生する予定だった体が一つ余ってしまった"のである。

 それを捨てず、人として生きる道を与えたものが、エルフナインという少女だった。

 七年前に九歳くらいの肉体年齢でロールアウトされたエルフナインもまた、キャロルの肉体と同じように歳をとっていたが、その精神年齢はキャロルのそれよりはるかに幼い。

 

 キャロルと同じ体に、常識レベルの記憶はキャロルのそれをダウンロードしたエルフナイン。

 ミカが性格の基礎は同じ、と言ったのはそういうことだ。

 エルフナインは生まれ落ちたその時から、ジュードを信じ頼る心を持っている。

 なので追い込まれると、習性的に彼の影に隠れるのである。

 

「マスターはジュードの好みの顔が自分だと知ってるからエルフナインに妬いてるだけだゾ」

「あらやだミカちゃん、本当のこと言っちゃダメよ」

「そうだぞミカ。こういう時は地味に事態が動くのを待つんだ」

 

「黙ってろこのハゲタカドールズ!」

 

 隙あらばいじりに来るハゲタカ人形達を蹴散らして、キャロルはジュードの横に並ぶ。

 ジュードはキャロルとエルフナインにもっと仲良くして欲しいようで、何度目かも分からない仲裁の言葉をまた口にした。

 

「キャロルはエルフナインのお姉さんなんだから、優しくしてやりなよ」

 

「……オレとあいつが姉妹というのは、決定事項なのか」

 

 はぁ、と溜め息をつくキャロル。

 溜め息吐きたいのはこっちだゾ、とミカは呟いた。

 ジュードがマスター以外に惚れるわけないんだからその頓珍漢な嫉妬と不安をすぐに投げ捨てるべきなんだゾ、とファラも呟いた。

 ゾ、とレイアも呟いた。

 そして全員聞こえるように呟いていたため、キャロルは盛大にブチギレるのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから、三ヶ月の後。

 

「ジュード、ここはどこなのかしら?」

 

「ファラは来たことがないかもしれないけど、ここが日本って場所さ。僕の……故郷かな」

 

「知っているぞ。この地味な石の配列は、日本の墓だろう?」

 

「そ。レイアの言う通り」

 

 ディーンハイム一家は、皆揃って日本の墓の前に居た。

 

「この墓は、僕の両親の墓なんだ。結局、一度も墓参りには来なかったんだけどね」

 

「? お兄様のご両親はまだご存命のはずでは……」

 

「いや、この人達も、確かに僕の両親なんだ。」

 

 "日本の両親"の墓の前で、ジュードは両の手を合わせる。

 他の者達も、日本の作法など知りもしなかったが、彼を真似して両手を合わせた。

 彼の主観では30年以上、ずっと来ていなかった墓だった。

 そうでなくとも、彼が一度も来ていなかった墓だった。

 彼の視点では自分を愛していたのかも分からない、両親の墓だった。

 手を合わせるジュードだったが、そこで突然キャロルが彼の目の前に写真を差し出す。

 

「キャロル、これは?」

 

「お前の境遇は聞いていた。……だから、お前の両親が死ぬ前に、お前の両親に会ってきた」

 

「―――!」

 

「お前の両親は、お前を確かに愛していた。それはオレが保証する」

 

 そこに写っていたのは、幼い日本人の子供を愛おしげに抱える夫婦とキャロルだった。

 一緒に写真を撮って欲しい、とでも言ったのだろうか?

 その写真に写っている両親の顔は、最初の人生で鏡の向こうに何度も見た顔とよく似ていて、ジュードに紛れも無く自分の両親なのだということを、突き付けていて。

 愛おしげに幼い自分を抱えている姿が、まごうことなく彼が愛されていたことを証明していて。

 

「ありがとう」

 

 ジュードは泣きそうな声で、キャロルに礼を言った。

 

「ありがとう、キャロル」

 

「……公衆の面前だ、離せ」

 

 そして彼女をギュッと抱きしめる。ありったけの愛をこめて。

 ジュードに抱き締められているキャロルの表情は見えないが、口では拒絶しているものの行動で拒絶はしていない。

 そしてジュードは彼女を離す気がまるでなかった。

 このままずっと存在忘れられたまま放置されるのはやだゾ、でも邪魔するのもやだゾ、後でからかうゾ、とミカが思った、まさにその時。

 

 地面が、地震とは違う異常な揺れ方をした。

 

「!」

 

「なに!?」

 

「あれは……」

 

 その場の全員が緩んでいた気を一瞬で引き締めて、空を見上げる。

 否。地面に立っているのに、あまりにも大きすぎて、空を見上げるようにしないと見れない巨大な怪物を見上げる。

 そこには、最悪に凶悪そうな黒色の大怪獣が咆哮を発していた。

 

「『ネフィリム』だな。……50mはありそうだ」

 

 聖遺物に詳しいキャロルが正確に分析するが、分析している場合ではない。

 

「マスター、ジュード。戦闘か逃走かの選択を」

 

「いや、待つんだレイア。特異災害対策機動部の人と、ここで合流する手筈になってる」

 

「例の組織と? 何故?」

 

「技術協力の見返りに、古時計の聖遺物を譲り受ける契約なんだ。

 あの聖遺物がないとガリィを時間の檻の中から引っ張り出せないから……」

 

「成程。探してもなかったあれが、まさか日本の組織の倉庫にあったとは」

 

 そろそろ時間だ、とジュードが口にしてから数秒後。

 墓場の前に、十人ほど乗れそうな車両がドリフトしながら停止した。

 

「皆さん、急いでこちらに!」

 

 一課のロゴマークがなされたその車を見て、ディーンハイム一家はすぐさま乗り込んでいく。

 

「ディーンハイムさん達ですよね?

 林田悠里と申します。一課の人間で、友達や同僚にはユウリィって呼ばれてます」

 

「お迎えありがとう。さて、合流しようか、キャロル」

 

「ああ。行こう、ジュード」

 

 これにて、彼らの物語は終わり。

 外伝は終わり、そして本編へと合流する。

 世界のいたるところで繰り広げられていた物語は、最後の結末へと収束していく。

 

 迫り来る世界の危機。

 

 引き寄せ合い、絆を紡ぎ、手を取り合う力ある者達。

 

 そして、錬金術師達は世界を救い、本懐を果たす。

 

 それは遠い日のことではなく、近く訪れる必然の未来の日であった。

 

 

 

 




シンフォギア世界では異端技術のことをブラックアートとも呼びますが、日本発祥のブラックアートという奇術もあったりします。そんな無駄知識にて〆て、この物語は完結となります
彼らの物語はここで終わりますが、この世界の物語は本編にてまだ続いていきます

時間がありましたら、ワイルドアームズ5のEDであり、翼さんの中の人が歌っている曲であり、作詞の人の名前がヒビキというこれでもかと運命的な要素が詰め込まれた『Crystal Letter』なる曲をどうぞ
歌詞を読むだけでも感慨深くなる歌でございます

それではここまで読んでいただき、本当にありがとうございました!


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