脳内テーマソングは、あさき氏の「つばめ」天庭verです。
最初はシナリオ形式にするつもりだったんですが、それだと製作スピードが出なくてねぇ。
海上、夜霧深く。
遠く、酷く遠く、細波の音が響いている。眠る海は、黒く透き通った水をたゆたえ、寂然としていた。
ふと、霧間を切り裂き、一筋の光が走る。
この静寂に比べ、余りにもか細いエンジン音を立てながら、海上を一艘のモーターボートが滑り来る。
船上に孤影一つ。黒く分厚い防寒着を着込み、フードを目深に被っている。背格好は女のそれではない。白い霧の中にぽつねんと黒く浮かび上がっていた。筒のようなそのシルエットに、たった一箇所、違和がある。その右手には銀色に輝くアタッシュケースをぶら下がっていた。御大層に、鈍く光る手錠で、右手首と繋がれている。
ボートが接岸すると、孤影は素早く上陸し、手近な岩に麻縄を括り付け、ボートを係留した。その動作には無駄が無く、手慣れている様に見えた。
晩秋、天高く澄み渡る。西の空にかかる半月に照らされ、夜は欺かれている。夜霧は白く立ち込め、視界はまるでモザイク画。外気温は凍みいり、吐き出す息は白く溶けゆく。
孤影は赤土の坂を上った。
坂の中腹まで来ると、霧は薄まり、眼前には雲一つない夜空が広がる。無数の星が瞬く空は、硝子細工の飾り窓。
頭上を一羽のツバメが横切って行く。渡りにしては時期外れである。迷いツバメであろうか。
やがて坂の終わりに達すると、視界はさらに開けた。
孤影は広がる風景に息を飲み、目深に被っていたフードを取った。彫りの薄い東洋人青年の、悲愴とも絶望とも取り難い、死相とでも言うべき表情が露わになる。
その視線が見つめるもの。
眼前に横たわる黒い水面を超えたその先。
細波の砕ける音の合間に。
瞬く星々の光の到着点に。
静かに渡るそよ風が運ぶ香りの元に。
それは在った。
「あれが、幻想郷……」
天を突き破る、巨大な単峰。
月明かりに照らされる尾根が美しい。広がる鬱蒼とした木々の間に、無数の有象無象の気配がひしめいているのが、遠く離れた此処からでも分かる。
視線を落とせば、水月浮かぶ静かな湖を見つける事が出来る。そのほとりには、自己主張の激しい深紅の館が、周囲の風景から悪目立ちしていた。
木々の間に走る道々の行き集う先に、大きな街があった。ざっと見積もって、数万は人口を有するであろうことが見て取れる。人間の里、此処ではそう呼ばれているらしい。
人間の里。
思えば、当然の言葉である。里という高度な社会的構造物を創造するのは、人間以外であり得るはずも無い。
しかしそれは、この青年の属する社会が持つ常識に依れば、である。
この地。この幻想郷で、人間の常識など通用しない。
ふと、青年は目を細めた。降り注ぐ月光が、その輝きを増したからだ。
何事かと月を見上げるその瞳は、突如として見開かれ、驚愕の色に染まった。
その瞳に映るのは、猛烈な速度で飛来する、大量の赤い物体。
その着弾の衝撃で、赤土がめくれ上がり、爆散した。何が起きたと、慌てて横っ飛びに逃れ、手近の岩陰に身を隠す。
ずきり、鋭く痛む左腕に目をやると、信じられない物がその目に映る。
赤く淡い光を発する紙片が、分厚いコートを貫通し、その左腕に食い込んでいた。手錠をした右手でそれを掴むと、金属のように硬いことが分かる。表面に何らかの呪い模様が描かれ、異様な気配を放っていたが、しかし、明らかに只の紙であった。さきほどまで立っていた坂の上を見やると、爆発跡に、同じ紙片が突き刺さっている。恐るべき事に、紙が肉をえぐり、紙が地面を爆発させたのだ。
引き抜くと、分厚いコートに血が滲む。傷は浅く、骨には達していなかった。
青年は負傷した左腕で、腰の後ろに差した二十二口径拳銃を取り出した。それは、今の状況ではあまりにも頼りない。それでも片腕で構え、岩陰から、攻撃の飛来した方向へと目を向けた。
その方向には、半分に欠けた月が在った。
いや。
月だけではない。
その輝きの中に、影が踊る。
まばゆい光の中。あふれる金色の海で、一点だけ、別の輝きが発せられていた。
青年は目を見張り、そして息を呑んだ。
それは、少女だった。
目を引く鮮やかな紅白の装束を纏い、右手には神道で使用する御幣を携え、左手には青年の腕に刺さったものと同じ紙片をずらりと構える。頭に着けた大きな赤いリボンが天を穿ち、闇に溶けるような黒髪が、白光の中で妖しく風にはためいていた。多分にあどけなさの残るその整った顔には、生身の人間とは思えないほどの凄絶な表情が浮かぶ。例えるならば、日本刀。触れ得ぬ刃金の美しさ。
月明かりの中の、幻想のような光景。
その時、青年は瞬きするのも忘れた。
月光が、空一杯に広がって行った。
朝靄立ち込める竹林の上を、一羽のツバメが飛んでゆく。それは速く、迷いなど無いかのようだ。
「来たのね」
永遠亭の縁側でそれを見上げ、蓬莱山輝夜は呆けたような声を上げた。
青空澄み渡り、湿り気を帯びた朝の空気は、昼にはからりと乾いているだろうことが予感できる。今日は、良い日だ。輝夜は上機嫌で鼻歌を歌った。最近現れた付喪神の姉妹が演奏する曲が、輝夜のお気に入りなのだ。
「永琳、イナバ達の武装を準備しておいて頂戴」
隣に座る輝夜の従者、八意永琳は、訝しげに眉を顰めて問うた。
「輝夜、いきなりどうしたの。まさか、呆けたの?」
あは、と輝夜は笑った。
「あら、存外、鈍いのね」
「貴女に言われるなんて、心外だわ」
永琳は従者だが、同時に輝夜の師であり友人であり共犯者でもある。周囲の目がある場合以外、永琳は友人に語りかけるような口調で輝夜と話すし、輝夜もそれを許していた。
「それとも地球に来て鈍ったのかしら、そのご自慢の脳細胞さんは」
輝夜は自分の頭を指の腹で叩きながら言う。
今でこそ永琳は薬師、輝夜は庭をいじるだけの暇を持て余す生活をしていたが、もともと二人は裏の月に住む民、月人であった。月で罪を犯し、地球に逃げている。
裏の月は現在の地球よりも圧倒的に科学技術が進んでいたが、薬剤はもちろん、あらゆる知識技術をその脳髄に収め、「月の頭脳」の称号を欲しいままにしていたのが永琳である。
「機の読み方は、貴女に教わったはずだけれど」
「ああ」
輝夜が言うと、永琳は得心がいった顔をした。
「引きこもりの貴女が、そんなに外に興味を持っていると思わなかったわ」
永琳の皮肉なぞどこ吹く風で、輝夜は永遠亭の庭を眺めた。白砂を敷き詰めた枯山水と、自慢の盆栽が燦然と輝いている。人型になる前のイナバたちが飛び跳ねるのは、万年咲く竹の花の下。清い水を湛えた池には、手塩にかけて育てた錦鯉が泳ぐ。
長閑で美しい、永遠を封じ込めたような庭。
みんなみんな、かけがえのない輝夜の宝物だ。
「しかし、武装が必要になるかしらね」
永琳は気乗りしない声でそう言う。
「なるわ」
裸足で庭へ降りる。白砂の感触が、柔らかな足裏の皮膚を刺激して気持ちいい。その場で二、三度足踏みをすると、キュッ、キュッと音が立った。
「敵が来ると?」
「今頃は、紅魔も守矢も山のブン屋も、あの愚かな賢者共だって、大慌てで準備をしているわ。隙間は……どうかしらね」
そのまま、輝夜は純真無垢な少女のように、庭の中を跳ねまわった。面白がったイナバ達がその後に続いて、まるでチンドン屋である。楽しくなった輝夜は、蓬莱の玉の枝を振って一つ二つの弾幕を上げ、枯山水を光で彩った。縁側の永琳の呆れ顔など、知ったことではない。
「永琳」
くるりくるりと舞い回りながら、楽し気に、しかし決然と、輝夜は言う。
「戦いましょう。私達が私達で在り続けるために」
目を開けた。
濁った目に映るのは、天井の板目模様。
青年は状況が飲み込めず、板目を眺めながらしばらくぼんやりとしていた。
視覚の次に蘇った感覚は、嗅覚だった。体が磯臭い。ああ、海に落とされたのだった、青年は独り言ちた。
触覚が蘇ると、いつのまにか、上着を脱がされ、畳の間に布団で寝かされていることが分かる。
かこん。
これは鹿威しの音だ、庭にでも据え付けられているのだろう。聴覚も戻ったようだ。
体を起こそうとして、痛みで呻いた。腕の傷。止血され、包帯が巻かれている。
体のあちこちに鈍痛が走っていた。全身に打ち身と擦過傷、しかしどれも大した傷ではない。そして、そのどれもが適切に応急処置が施されていた。
ハッ、として辺りを見回すと、白いYシャツとジャケットが綺麗に畳まれて布団の脇に置かれていた。その上には、二十二口径の拳銃。そして衣類の下に、鎖のちぎれた手錠の付いた、銀色のアタッシュケースが置かれている。青年は安心したように、息をついた。
首元に手をやり、ボタンほどの大きさの小さな装置が埋め込まれているのを確認する。バイタルサイン送信装置である。
寝かされていたのは、十畳ほどの広さの部屋で、床の間と小さな箪笥、卓袱台に行灯とがあるだけの、簡素な作りの部屋だった。床の間には掛け軸が掛かり、達筆で「一寸の光陰軽んずべからず」とある。部屋の主の座右の銘であろうか。
障子の隙間から庭が垣間見える。と、その障子に人影が写った。
引き開けられた障子に先に立っていたのは、塔の様な帽子を頭に乗せ、青い衣を纏った背の高い女性だった。湯のみの乗った盆を手にしている。
「勝手だが、手当させてもらった」
感情を押さえた声で、女性は言う。凛々しい、中性的な声色である。
目が合う。
理性的な光が灯る瞳。だがその顔は昏く、やつれているように見える。
女性の肩口から差し込む逆光に青年が目をしかめたその間に、卓袱台に湯のみを置いて、座っていた。
「波打ち際で倒れていた。朝の見まわりで私が発見しなかったら、どうなっていたことか」
お前も座れ、と言外に命令している。あまり快く思われていないようである。
青年はYシャツを羽織って立ち上がり、女性の向かい側に座った。
かこん。
庭の鹿威しが落ち、乾いた音を立てた。
「知らないのか。あの島がなんて呼ばれているか」
女性は厳しい目をして言う。
「神隠島だ。あの島に入ろうとして、何人行方不明になったことか……。無分別にも程がある。一体、何をしていたんだ」
どうやら、女性は相当の説教好きであるらしい。しかも、相当、精神に余裕が無いようだ。挨拶も紹介も礼儀もまるで忘れてしまっている。
差し出された茶に一口、口を付けてから、青年は口を開いた。
「――あの島の上で、紅白の化け物に襲われました」
「紅白?」女性は首をかしげ、眉を顰めた。「ああ、それは博麗の巫女だ。人間だよ」
青年は、苦笑しつつ。
「人間、でしたか。私はてっきり、妖怪変化の類かと思いましたよ。海に落とされて、まったく、死ぬかと思いました」
女性は表情を変えない。
「あの島が現れてから二週間。幾人もの人間が消えた。あの島が危険な場所だということは、里の人間なら誰でも知っている。誰でもな」
女性はずいと身を乗り出す。
「私はこの里の人間を全員記憶している。里以外の人妖だって。だがお前は見たことも聞いたこともない」
口調はまるで尋問である。
青年は目を閉じて茶を一すすりする。香り高く、苦味は強すぎず、口当たりはまろやかである。中々美味い茶だ。
目を開くのと一緒に、口を開く。それと同じく、心も開く。人と人との繋がりはそういうものだと、青年は師に教えこまれている。
「幻想郷について教えていただきたい。地形、歴史、経済、政治形態、要人の財政状況からその性格、性癖まで」
「何……?」
女性は眉を顰め、少し身を引く。
「少し話すだけでも分かります。聞いたとおり、貴女は聡明だ。此処へ来て、まず貴女のような方に出会えたのは幸運でした。貴女には是非とも私の仕事に協力をお願いしたい。上白沢慧音殿」
人間の里の教師にして半獣半人の守護神、上白沢慧音は、涼しく微笑む青年を睨みつけた。
「何故、私の名を……お前は一体、誰なんだ」
その言葉に応えるべく、青年はポケットの名刺入れから一枚の白い名刺を取り出し、びし、と机に置く。慧音はその名刺を覗き込むと、驚きに目を丸くした。
文字だけのシンプルな名刺に刻まれているのは、次のような文句である。
日本国政府 外務省 特務外交局 極区方面担当第二課 新興区担当 一等書記官 瀬名英志
「私は日本国政府外務省より派遣された特務外交官、瀬名英志です」
あまり聞きなれないだろう言葉の上に、行き倒れの男にいきなり名乗られたのでは無理もない。慧音はポカンとして、ただ英志の言葉を反芻するだけだった。
「セナエーシ……ガイコウカン……?」
英志は外交官らしく、凛とした表情を作って言った。
「貴女方との交渉に参りました。政府機関への取次をお願いしたい」
かこん、と鹿威しが落ちた。
レミリアは上機嫌だった。
「咲夜、二十年物のシャンパンがあったわよね。持ってきて」
「ここに」
咲夜の手の中には、白い布に包まれたシャンパンの瓶と、逆さにしたフルートグラスがあった。
望みを口にした時に、十六夜咲夜は既にそれを完了している。まったく、よく出来たメイドである。それでこそ、吸血鬼にして夜の帝王、レミリア・スカーレットに相応しい。レミリアは常々そう思っている。
湖の畔に立つ紅魔館。その一角、日差しの当たらないように計算して作られた階上のテラス。レミリアは湖を眺めていた。白いクロスを張ったテーブルの上、背の高い椅子に座り、あまった足をブラブラと揺らしながら。見た目は完全に、遠足前でワクワクしている幼女である。
太陽がその頂点に達するまで、もう少しという時間。
いつもは忌々しい湖の照り返しも、今日は心地が良い。鼻歌の一つでも歌いたくなるような気分だった。
レミリアにとっては遅い時間帯。眠たい目をこすりながら、グラスを傾ける。その甘く芳醇な香りが、齢五百を超えてなお幼いその体全体を包みこむよう。味はレミリア好みの、かすかな酸味を含んだとろけるように甘い味。もう朝は凍える時期であるからだろう、咲夜は常温にして持ってきてくれていた。それが一層甘みを深くし、炭酸が口の中でおだやかに弾ける度、レミリアは幸福を覚える。
「咲夜、あんたも飲みなさい」
「もったいないお言葉」
咲夜は辞退したが、レミリアは自分のグラスを押し付けて、無理に飲ませた。咲夜は顔色を変えず、抑揚の無い声で「おいしいです」とだけ言った。
「ずいぶん上機嫌ですね」
ナプキンで口元をぬぐいながら、咲夜が言う。
「前祝さ」
「前祝?」
「これから素敵なことが起こる。素敵なことが、ね……運命が、次のステージに入ったんだ」
東の方、湖の向こう。
紅魔館のテラスからは、出現した海とそこに浮かぶ島「神隠島」が見える。
「はあ」
咲夜が薄ぼんやりとうなずいていた。その鼻からだらりと鼻血が垂れているのは、レミリアの側からは見えない。
「ほらほら、暴れんなよ。傷が開いちまうぞ」
藤原妹紅は、竹林の中に在る自宅の縁側に座って、手当をしていた。迷いツバメの治療である。包帯片手に、ツバメの羽根に消毒薬をぶっかける。
当然、痛いのだろう、ツバメは身をよじって暴れた。怪我をしているわりには、バタバタと元気よく跳ねまわる。妹紅は悶えるツバメを左手で押さえつけながら、荒っぽく包帯を巻いてゆく。相手は野生動物、多少キツめに処置しなければ、すぐに包帯など外れてしまうからである。
傷を負ったのは何時だろうか、妹紅には鳥類に関する医学知識があまり無いので分からないが、まあこれだけ元気があれば大丈夫だろう。今朝、妹紅の部屋に迷い込んできた時は、羽ばたく力すら無かったというのに。
「しかしツバメなんて珍しいな。お前、どこから来たんだよ?」
荒々しく押さえた左手とは対照的に、右手の包帯は繊細に手早く動き、くるくると羽根に巻かれていく。最後に、両手で包帯を蝶々結びして、治療完了。
ツバメは妹紅を見上げ、はぐらかすように、礼を言うように、くりっ、くりっ、と顔を傾けた。
その仕草がおもしろ可愛くて、妹紅はケラケラと笑った。そんな様を見せられては、焼き鳥屋台の材料にしてやろうなんて気も起こらない。
「お前、里じゃ結構話題になってる有名人なんだぜ。今どき珍しい、それも時期遅れの迷いツバメだってな。ま、あの島が出てからは、そっちの話題でいっぱいだけど」
妹紅はツバメを手に乗せ、その頭を撫でようとしたが、直前、ツバメは飛び立ってしまった。
やってきた慧音の脇を通りすぎて、きゃっ、と慧音が可愛らしい声を上げる。それを見た妹紅はまた無邪気に笑い声を上げた。
ツバメは礼を言うように上空を大きく旋回すると、そのまま彼方へ飛び去って行った。
「もう怪我すんなよ~!」
妹紅は空に向かい手を振った。
慧音は妹紅の隣に無言で腰を下ろした。慧音の表情を見ると、妹紅から笑顔が消えた。
「行方不明者の捜索の方は?」
慧音は無言で首を振った。
「そっちもか。やっぱり、もう……」
「まだ諦めるのは早いさ。きっと生きている」
言葉とは裏腹に、慧音の顔は曇っている。普段は快活な慧音がこれほどまでに沈んでいるのは、頻発する神隠しの所為だ。
神隠し。
原因は様々である。口減し、事故、単なる家出、そして妖怪による食害や誘拐など。
しかし、今この時期に起こるそれは、否応無しにある事象と結び付けられる。そう、神隠島の出現とである。
慧音は空を見上げて、何かを振り払うように首を振った。
「でも、今日来たのは、そのことじゃないんだ。実は、妙なことを言い出す男を拾ってな」
慧音が差し出した名刺を受け取った妹紅は、眉をくねらせる。
「外交官? えっと、外交官て、ちょっと前に外の世界から現れた、あれか?」
外交官と名乗る人物の出現は、初めてではなかった。島の出現から三日と経たぬうちに現れた彼らは、守矢神社の神や神霊廟の道士、命蓮寺の尼僧などと交渉を行っていた。しかし現れた外交官達は、一週間前、突如行方不明となってしまっている。
慧音は頷く。
「それに、こんなものも一緒に渡された。分かるか、妹紅?」
またもや慧音が差し出したのは、一通の封書。
「これは……天皇の勅書じゃないか! 貴国との交渉の全権を委任する、だって?」
「本物か?」
「うん……、私の時代のとずいぶんと違うけど……」少し悩んだ後、妹紅は結論付けた。「たぶん、本物だと思う。こういうのは偽造する行為すら危ういものだからな。仮に偽書であったのなら、その国の警察能力の程度が知れるというもの。逆にその後の交渉がやりやすくなる」
千年前、ある経緯から不老不死の蓬莱人となった妹紅は、当時の知識と蓄えた近代知識を前提として、そう語った。時代は変われど、基本的な外交感覚というものはそう変わりはしない。要は、吐いた言葉に信頼が乗るかどうかである。
「やはりそうか。外交官は、私達にも分かりやすいよう勅書を頂戴してきたと言っていたが」
慧音は少し考えるように俯くが、すぐに顔を上げる。
「しかし、どう対処すべきか、私では判断が付かないんだ」
「先方はなんて言ってるんだい」
「この国の政府機関との交渉を望んでいるようだが……幻想郷にそんなものは無いからな……」
「なら、答えは簡単じゃないか」
妹紅が簡単にいうと、慧音は目をパチクリとさせた。
「八雲紫に引き会わせりゃいい」
「すっかり秋も暮れましたねえ」
箒片手に溜め息を吐くのは、妖怪の山の山頂にある守矢神社の巫女、東風谷早苗。
「秋ももう終わりかなー」
早苗は秋が好きだ。何故かと言うと、全ての物がカラフルになるからだ。それ以外、理由は無い。
「そろそろ冬が来ますね~」
早苗は冬も好きだ。何故かというと、雪が降るからだ。雪は白くて美しい。それ以外、理由は無い。
「冬の次は春、それに夏ですね~、楽しみだなぁ~」
早苗はまた、春も好きだ。春は咲き出す花が美しいからだ。また、夏も好きだ。夏は総てが色濃くなるからだ。それ以外、理由は無い。だが、早苗には十分な理由だ。何かを好きになるのに、理由なんて一つもあれば十分すぎる、早苗はそう考えている。
「早苗、喋ってないで手を動かしなよ」
石に腰掛けてぼんやりしていた洩矢諏訪子が、顔を向けて言う。
「今日日、境内の掃除くらい、麓のものぐさ巫女でもするよ」
諏訪子は何かを待つ子供のように、小さな体をゆらゆら揺らしている。体躯こそ幼女のようではあるが、洩矢諏訪子は守矢神社が祀る神の一柱、その具現した姿である。早苗にとっては信仰の対象であり、平たく言うと上司である。
「諏訪子様は」だから早苗は、諏訪子に敬語を使う。「どの季節がお好きですか?」
「ん? そうさね……」
諏訪子は目を閉じて、童顔に艶のある表情を浮かべ、空を仰ぎ見た。こう見えて、諏訪子は元人妻である。
「やっぱり春かね。春は、恋の季節だからねぇ」
「はあ。恋、ですか」
「早苗には少し早かったかな?」
諏訪子がからかう様に笑うと、早苗は膨れた。
「むっ、また子供扱いして。私はいつでも彼氏募集中ですよ。週末は人里でオトコ漁りに忙しいんですから!」
「そんな事してんのかい、この不良巫女が」
「まあ……」項垂れる早苗。「何故か皆さん、私が声を掛けると逃げて行くんですけど……」
諏訪子はニヤニヤと笑った。早苗は知らないが、後ろに鬼の様な形相で睨む柱神が控えていれば、巫女を口説こうなどどいう肝の据わった男はいないだろう。
「神奈子の過保護ぶりにも困ったものだわ」
「あ~、彼氏欲しいなぁ~」
「――血は争えないねぇ」
諏訪子は早苗のご先祖様である。実感はあまり無いが、早苗は神の血を引いているのだ。
風が舞った。
舞い踊るそれに乗って、赤く色付く楓の葉が、くるりくるりと回りながら空を飛んで行く。手裏剣てあんな感じで飛ぶのかしら、などと全く脈絡の無い事を考えながら、顔を空へ向けていると、そこに一つの影が過った。
「あら。ツバメ」
間違いない、外の世界の野球チームのシンボルマークに、あんなシルエットがあったもの。
つられて見上げた諏訪子は、急に目付きを鋭くさせた。
「早苗」
拝殿から顔を出した八坂神奈子が言う。神奈子も諏訪子と同じ、守矢神社の柱神である。
「これから出かけるぞ。支度しろ」
「は、はい」
早苗が返事をしたときには、神奈子はまた拝殿の中に引っ込んでしまった後だった。
「どうしたんだろう。怖い声……」
声色が普段フランクな神奈子のそれと違った。早苗はそれにかすかな胸騒ぎを覚えた。
諏訪子は、ぽつりとつぶやいた。
「戦争か……」
慧音が妹紅を連れて寺子屋に戻ったとき、外交官・瀬名英志は書台に座り、本を読んでいた。
「何をしている」
鋭く言うと、英志は気づき、頭を下げた。
「勝手ですが、読ませていただいています」
英志が読んでいる本の背表紙には、「幻想郷縁起」とある。稗田阿求が記した、幻想郷に住む妖怪を記録した書物である。稗田家は代々、幻想郷縁起を記すことを生業としている家系である。始祖である阿礼は、会得した転生術を用いて転生を繰り返しているという。現当主の稗田阿求も、阿礼の転生した姿であるという話だ。
「幻想郷縁起」は里の子どもたちの教育用に便利なので、寺子屋にも何部か所蔵があるのだ。外交官は蔵書庫からそれを引っ張り出してきたらしい。
「まあ、構わんが」
慧音がぶっきらぼうにそう言うと、妹紅が慧音の袖を引っ張った。妹紅のほうを見ると、無言で首を振っている。
慧音は英志への警戒感が抜けない。使う言葉もつい刺々しくなってしまう。妹紅はそれをたしなめたのだ。
「この稗田阿求という方……どうやら、怖ろしい人のようですね」幻想郷縁起を眺めながら、英志は苦虫を噛み潰したような顔をした。「程度の能力、とは……」
「何を言い出す?」
「稗田殿はこの言葉一つで、幻想郷の均衡を保とうとしているのではないでしょうか」
「何を言っているのか、よく分からんな」
慧音はそう言って、障子の戸を開け放った。昼の日差しが室内に満ち溢れ、英志は少し眩しそうに目を細めていた。
「そちらの方は、藤原妹紅殿ですか。私は日本国政府外交官の瀬名英志です。以後よろしく」
英志は慧音の後ろに立つ妹紅のほうを見て言った。
「ああ、そうだけど……よく分かったな」
妹紅は怪訝そうな顔をした。
「縁起には挿絵もついているんだぞ、妹紅。お前の絵もある。結構、似ているぞ」
「うぇ、そ、そうなのか?」
慧音が教えてやると、妹紅は慌てた。
「縁起は里の歴史書だからな」
「そ、それにしたって絵なんて……なんか恥ずかしいな」
顔を赤らめてもじもじする妹紅。そんなに恥ずかしがるようなことでも無いと慧音は思うのだが。
「それで、今は何処にいるのですか?」英志は本を閉じて書棚に戻しながら言う。「八雲紫殿は」
「なぜ、それを」
「先遣隊の報告と、幻想郷縁起の記述を見れば大体分かります。今、この状況で、私が会うべき人物が誰なのか」
先遣隊とは、行方不明になった最初の外交官達のことであろう。
「ブン屋の話では、博麗神社にいるらしい」
妹紅が言う。
「博麗神社……まあ、妥当な場所だな。会談には霊夢も立ち会ってもらおうと思っていたところだ」
博麗神社は、幻想郷と外の世界との境界に立つ。外の世界の使者と会談するのには打って付けの場所であろう。
そして、八雲紫をある程度押さえられるのも、慧音の知る限りでは、霊夢だけだからだ。
「ではさっそく、案内をお願い致します」
英志は立ち上がって、柱に掛けていたジャケットを羽織った。
「幽々子さま、お昼ご飯が出来ましたよ」
その言葉に反応したのか、ようやく主の眼差しは虚空を彷徨うのをやめた。考え事をする時の主の癖である。主の心はその時、思考の彼方へと連れ去られ、浮世ともあの世とも縁の無い、彼女だけの世界へ旅立つのだ。
魂魄妖夢は、知っている。
主が自分の世界に旅立つ時。それは、何らかの異変が起こる前触れなのだ。だから、剣術士である妖夢は、長物を差して主の前に傅いていた。主から異変の解決を命じられる、その言葉を待っている。
「――妖夢」
「はっ、はいっ」
主の指がついと動く。
その白百合の花弁のように滑らかな指先は、この屋敷、白玉楼の縁側を超え、庭師である妖夢自慢の手入れが行き届いた美しい庭を超え、白玉楼の名物でもある巨大桜「西行妖」の枝葉を超え、蒼く澄み渡る空の一点を示した。
「ん? 何かいますね。プリズムリバー三姉妹かな?」
目を凝らすと、果たして、それは違った。
「鳥だ。あれ? あの鳥……図鑑で見た事がある。もしかしてツバメじゃないですか?」
博麗大結界の影響か、幻想郷に渡り鳥は珍しい。群れからはぐれた迷いツバメであろうそれは、迷いに迷い、世にも迷ったのか、冥界に位置する白玉楼までやって来てしまったようだ。目の良い妖夢には、その翼に白い包帯が巻かれているのが見えた。親切な人間に治療でもされたのだろうか。
「運命が、追いついて来たのね」
ぽつり。主が溢す。
濡れた唇が薔薇色に燃えている。いつもいつでもどんなときでも脳天気な主には珍しく、目に涙を溜め、憂いで声が濁っている。まるで生きた人間のように艶めかしい。
妖夢の主、西行寺幽々子は、亡霊姫である。亡霊とは人間の思念そのもの。それは熱を帯び、情熱的で、生き生きとさえしているが、もちろん生きてはいない。主は亡霊として長い年月を過ごしており、相応の地位と名声さえあるのだ。亡霊なのに、この白玉楼で冥界の幽霊達の管理をしている。
普段の幽々子は、妖夢にとっては神に等しい存在だった。彼女の思考は妖夢のそれとは次元が違うようで、主が何を考えているのか、妖夢にはさっぱり分からないのだ。ただ一つ言えることは、幽々子のやる事に間違いは無いという事。主の御心は朧月、捉えどころがまるで無いが、分からないまま信じる事が出来るのは、幻想郷広しと言えど、我が主だけだろう。そう妖夢は考えている。それは妖夢の誇りでもあった。
「妖夢」
「はい」
だから、妖夢にとって、幽々子の命令は絶対なのだ。
「お昼は鳥肉が食べたいわ」
「え、だってさっき、牛肉のしぐれ煮が食べたいって……」
「そんな遠い昔の事、覚えてないわ」
……妖夢にとって、幽々子の命令は、絶対なのだ。
「はあ」肩で息を吐く。「分かりました。少々お待ちを」
妖夢にとって完全で、神にも等しい幽々子の、これが唯一にして最大の弱点である。亡霊の癖に、食い意地が張っているのだ。
この前締めた鶏の肉がまだ残っていたかしら、などと考えながら、妖夢は主の部屋から退出した。無用になった長物がやけに重く感じる。
「妖夢」
その華奢な背中が、幽々子の透き通った声で振り返る。
「な、なんですか? 幽々子さま」
いつもと違う調子の幽々子の言葉に、妖夢はグビリと喉を鳴らした。
幽々子は憂いを帯びた熱っぽい眼差しで、妖夢を射ながら言った。
「しぐれ煮も、食べるからね?」
博麗神社は里から少し離れた、幻想郷と外の世界との境界に立っている。里から神社までの整備された道は無く、獣道に毛が生えた程度の参道しかない。道の険しさはそれ程でも無いが、途中、ほんの少しだけ妖怪のテリトリーを横断する事になるので、里の人々は恐れている。一応、博麗神社周辺では人間を襲わないという妖怪同士の取り決めがあるらしいが、それは分別のある高位妖怪の話。頭の弱い妖怪であれば、襲ってくるとも限らないのだ。
「まあそれでも、祭りがあればみんなで神社に集まるんだがな。なんだかんだ言って、博麗の巫女だからな、霊夢は」
慧音はニコリともせずに言う。
「皆さん、健脚なのですね」
獣道を歩き慣れない英志にとって、博麗神社の参道は中々に険しい。気分はちょっとした低山登山である。
「心綺楼公演の時の入りはまあまあだったなあ」
「そう言えば妹紅は屋台を出していたな」
「おうよ、がっぽり儲けさせてもらったぜ」
にしし、と妹紅は笑った。
博麗神社周辺は完全な無人地帯というわけでは無く、まばらだが集落もある。参拝客を相手にするような休憩所もあり、栄えてはいないが、寂れ切っているわけでもない。博麗神社もきっと、そんな雰囲気を持つ場所なのであろう。
英志たちは参道沿いに建つ、古びて傾いた茶屋で休憩していた。
「外の世界はどんな所なんだ」
隣に座る慧音が聞く。慧音たち幻想郷の住人は、英志たちの国を外の世界と呼ぶ。
内と外。幻想郷と日本。それは博麗大結界によって隔てられる。博麗大結界が幻想郷を外界から隠し、隔離し、守護を行う。論理的な結界である博麗大結界は、幻想郷を物理的に隔離するだけでなく、人々の認識をもずらし、外界から発見されないように隠匿しているらしい。話を聞いた限りでは眉唾である。が、現に此処には、そうして生きながらえた妖怪と呼ばれる種族がいた。そしてそれは、今、目の前で会話をする、上白沢慧音や藤原妹紅も含んでいるのだ。
「別に面白くはありませんよ。確かに見た目は大分違いますが、人々の生き方なんてものは、何時の時代の何処の国でも、大体同じようなものです」
「そんなものか。つまらんな」
「だからこそ、こうして話も出来るのでしょう。文化は違えど、人は同じなのだから」
「……そう、だな」
慧音は少し思うところがあったのか、目を閉じて深く頷いた。
「おっ、あれ。見てみろよ」
妹紅がその細い声をあげる。
その先に見えた光景に、英志は眉を顰めた。
「な、なんですか、あれは」
「弾幕ごっこだ」
「弾幕? ごっこ?」
「ありゃあ魔理沙と、氷精のチルノだな」
箒に乗った白黒の、如何にも魔女服を纏った少女と、青い服を着た幼女と言っても差し支えない子ども――しかしその背には氷の結晶のような羽根がある――が、恐るべき事に空中を蝶が如く自在に飛び交い、さらに恐るべき事に、輝く光線、煌めく焔、凍てつく氷の塊や雪粒を、機関銃宜しく、激しく撃ち合っているのである。その様は宛ら花火、スターマイン。美しく華やかである。
しかし、空を彩るその爆影、それは英志も見た事があった。戦闘機のドッグファイトのそれである。
「あれは……な、なんなんですか?」
「だから、弾幕ごっこだって。遊びだよ、あ・そ・び」
「し、しかし、あれは実弾ではないですか?」
「まあそうだけど、力は抑えてる。当たっても死にはしないさ」
妹紅は、簡単に言う。
「弾幕とは形式化された決闘の事を言う。スペルカードと呼ばれる札で事前に宣言を行い、それを攻略できるかで勝敗を決定する。繰り出す攻撃の美しさも重要で、美しくない攻撃は無効となる。決闘を単に力と力のぶつかり合いにしないために。妖怪同士の小競り合いを平和裏に解決するには良い手段だ。まあ、里の風物詩のようなものだな」
慧音も特に慌てる風もなく、目を細めて見ている。
白黒の魔女は、見た所普通の人間にしか見えないが、氷の妖精とやらの放つ氷弾を、木の葉のようにゆらゆらと器用に回避し、幕間をぬって、星型の光を撒き散らしている。星型の光はある程度飛ぶと爆発し、空に大きな花が咲く。その爆発規模は、当たったらとても無事では済まないようにも見える。
「此処では人間が空を飛ぶ事も珍しくないと聞いてはいましたが……」
しかし、あの機動力は軍用ヘリのそれを大きく上回り、火力は戦闘機の空対空ミサイルにも匹敵するだろう。あんな力を持つ者が当たり前のように存在している事に、英志は戦慄した。
軍事的に脅威なのだ。戦争になれば、甚大な被害を覚悟せねばならない。日本国の保有する戦闘機は、あれ程の機動力を持つ物は無い。あれ程小さい的に超長距離からロックオン出来る火器管制システムも存在しない。そして、あの弾幕を受けてスクラップにならない装甲など保有していない。
先遣隊のレポートにあった幻想郷の「特異性」。その一端を垣間見て、英志は身体を強張らせた。戦慄と恐怖と、これから行う、日本国の命運を左右しかねない交渉への緊張で。
「おっ、魔理沙の十八番が出たな」
空を切り裂く一陣の、巨大な光の剣、極大のレーザー。
遠く離れた此処からでも見える光と衝撃、そして遅れて届く嵐の様な破壊音。世界最高出力のレーザー兵器でも、あんな威力は出せまい。何もかもが規格外である。
あれは本当に、『当たっても死にはしない』のか。
「魔理沙にマスタースパークを使わせるなんて、チルノの奴、腕を上げたか?」
「まったく、人里も近いと言うのに、あんなもの使いおって」
慧音と妹紅は立ち上がり、弾幕ごっこの行方を注視している。
英志は渋い顔で茶を啜っていた。
ふと、視界の端に、何か黒いものが映った。
目で追うと、それは少女の後ろ姿だった。肩まである金色の髪を揺らし、黒いスカートをひるがえして、両手を広げ、無邪気に駆けて行く。妖怪のテリトリーに近い場所で、それはあまりにも無防備に見えた。
「おっ、チルノもスペカを使うみたいだ、アイシクルフォールか?」
「大丈夫なのか、止めなくて。これ以上続くようなら、仲裁も考えんとならんな」
慧音と妹紅は弾幕に夢中である。少女の存在に気付いてもいなかった。
ため息を吐き、やむなく英志は一人で少女の後を追った。もう日が傾きかけている。危険な妖怪のテリトリーに入る前に、一刻も早く連れ戻さなければならない。
すぐに追いつけると踏んだ英志だったが、思いの外、少女の脚は速く、追いつくどころか離される始末である。
「君! 待ちなさい、そっちは危険だ!」
声を上げても、少女は振り返りもしない。
風のように走る少女は、いつしか英志の視界から消え、後には藪の中に残された英志だけが残された。
完全に見失ってしまった。
この上は戻って慧音に相談し、直ぐに捜索隊を出すしか無い。そう考え、英志が振り返ると、そこにはいつの間にか、件の少女が立っていた。
両手を広げ、ニコニコと屈託の無い笑顔を浮かべている。
「君は……」
英志が訝しげな目を向けると、金髪の少女は小鳥のようにくりっ、と首を傾げた。
「おにーさん、どーかしたの?」
英志は、感じた妙な違和感を振り払い、叱りつける様に強く言った。
「ここは危険だ。早く里に戻ろう」
「戻るの?」
「ああ。誰だって知っているぞ、此処が危険な場所だということは。此処は妖怪のテリトリーに近いらしいからな」
「そーなのかー」
金色の髪をした少女の、頭に付けた真っ赤なリボンが妖しく煌めく。その鬼灯の様に赤い瞳が、英志を舐めつけるように見つめる。
英志は、ようやく異変を感じ、一歩下がった。
「ねえねえ、おにーさん」
見た目は、あどけない少女だ。
英志は、気付くことが出来なかった。つい先程、人知を超えた力を持つ者たちを見たばかりであるというのに。
「おにーさんは、取って食べてもいい人間?」
少女の姿をした妖は、鋭い犬歯を剥き出しにして、返事も聞かずに英志に飛び掛った。その顔に張り付いたあどけない笑顔は、そのままに。
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これでも生涯で三番目くらいの速度で書いてるのですががが。
天空に星々が満ちて。
この世界が随分と騒がしくなってしまってから、幾星霜。絶えることのない命の音楽。生と死の連鎖。闘争と進化のバイブレーション。
それを閉じ込めた小さな箱庭。それが、幻想郷である。
ある人はそれを、楽園だと言う。
またある人はそれを、夢と妄想の国だと言う。
そしてまた、理想主義と諦観主義を拗らせた、いつまで経っても大人に成りきれていない様な人間は、こう言うのだろう。
地獄、と。
万年の孤独に上がる哀れな女の悲鳴が、もう何度目かも分からなくなった闘争を、飽きもせずに呼び込んで来た。人は戦わなければ、奪わなければ、そして奪われなければ、生きては行けないからだ。
しかし今、あの海からは懐かしい匂いがしている。
運命がどう転んでゆくのか。それは、運命を支配すると嘯く、可愛い可愛いあの吸血鬼の娘でも分からないだろう。こんな難題は、自堕落な月の姫にも出題出来まい。無責任な天狗などは考える気持ちすら持たないだろう。躍進を求める神や傲岸不遜な天人ならば、それすらも自らの支配下に置こうとするのかも知れない。人を超越した王は、求道者は、どの様に立ち向かうのであろうか。あの幽玄の娘の様に静かに笑って受け入れるのが、ヒトの取れる唯一つの道なのか。
幻想郷。
善悪虚実大小夢現定からぬ、この八雲紫ただ一人の為の揺籠の中で、たった一つだけ確かな事。
今日も、向日葵は美しい。
右腕の感覚が無い。体が瘧のように震え、立ち上がる気力すらもゴッソリと削ぎ落とされてしまったようだ。
幻想郷縁起に、その妖は名を連ねていた。
宵闇の妖怪、ルーミア。
闇を作り出す能力を持ち、人里近くの森に現れる事がある。辺りが急に暗くなってしまったのなら、その妖怪が近くにいるのかもしれない――縁起にはそうある。力は、弱いらしい。
しかし、力の弱いはずのその妖怪は、飛び掛った一撃で英志の右腕を砕き、拉ぎ、滅茶苦茶の肉塊に変えた。
大量の血を失い、英志は地に膝を突く。
ただの人間の少女にしか見えないその体躯の、何処にそんな力を秘めているのか。これでも本当に「弱い」妖怪なのか。妖怪と人間の力の差は、これ程までに大きいのか。こんな妖怪が、この幻想郷には一体どれ程存在しているというのか。
ぐるりぐるりと走馬灯のように、この脅威の前には全く無意味な思考が巡る。
少女の姿をした妖怪は、その手に付いた英志の血をペロリと舐め、トロンと目をとろけさせた。
「美味しい」それはキャンディを舐める子どもの顔となんら変わりが無い。「やっぱりおにーさんは、取って食べてもいい人間だね」
英志は、躊躇わなかった。
二十二口径の弾丸を、少女の心臓目掛けて撃ち込む。左手の抜き打ちだが、狙いは正確だった。日々の鍛錬を怠らなかったからだ。引鉄を引くのは、二度。殺すつもりで撃った。
少女は少しよろめき、白いブラウスのその胸の辺りを赤黒く染めた。
「痛いなぁ? おにーさんも弾幕、やるの? そーなの?」
その顔に浮かぶは、怒気ではなく、喜色。
血を吸った紅い唇の、その端をキュッと吊り上げて、真っ赤な犬歯を覗かせながら、声を上げて笑う。
小口径とはいえ、銃弾を物ともしない。その小さな体躯はしかし、英志には迫り来る戦車の無限軌道にも思えた。
「よーし、じゃあ、弾幕ごっこ開始よっ」
ルーミアは宙に浮かび上がった。その身体から噴き出した黒い靄が渦を巻き、周囲の空間をぞろぞろと舐って行く。汚染された空間は、光を貪欲に喰らい、咀嚼し、その胃袋に収めてしまう。
残されるのは、闇。
只の、闇。
墨筆を荒ぶる感情のままに振り回したかの如く、森の情景が闇色に塗りつぶされてゆく。
黒い闇の隙間から、赤い光球がぽつりぽつりと生まれ出ずる。宛ら、夜空に瞬く妖星。それは時間が経つにつれ、二次関数的に数を増やし、瞬く間に英志の視界を埋め尽くした。光球は超高速で回転し、荒れ狂う暴風と圧倒的な圧力とを放つ。それら一つ一つが、戦車の主砲並の威力を持つ事が容易に想像された。
多量の血液を失い、立つ力すら無く膝を突く英志は、それを見上げる事しか出来ない。眼前に展開される人智を超えた悪魔の遊戯は、美しく荘厳ですらある。最早、これはアートと呼ぶに相応しい。
なんだこれは。
なんなのだ、これは。
この出鱈目な破壊の嵐を前に、一体、人に何が出来るというのだ。
次元の違う相手を前に、ちゃちな拳銃を構える英志のその姿は、滑稽以外の何物でもない。
少女の姿をした化物は、宙に浮いたまま、ゆっくりと両手を広げた。その様はまるで、磔刑に処される聖者のようだ。血を失った鈍い頭で、英志は場違いな事を考えた。
そんな英志を嘲笑うが如く、ルーミアが指揮者よろしく両手を交差させると、赤光を放つ光球の雨が、英志に向かって殺到する。
その光景は、この世の終わりに等しく思えた。
晩秋の陽は、人見知りが激しい。顔を出したと思ったら、すぐに地平線の向こう側へ隠れてしまう。世話が焼けるが、駄目な子程可愛いとも言う。秋の夕焼けは、格別である。
太陽が赤付き始めた頃合い。
射命丸文は永遠亭の庭に降り立つと、真っ先に輝夜を探した。従者の永琳に捕まると面倒だからだ。取材ならばいざ知らず、それ以外の用であの癪に触る物言いを耳にするのは、ただ単純に無意味で苦痛なのである。八意永琳が何もかも全てを見下している事など、文にはお見通しなのだ。
輝夜はお気に入りだと言う庭の縁側に座っていた。
「あら。遅かったじゃない、情報屋さん」
振り返った輝夜のその顔を見て、文はギョッとした。
「なによ、変な顔して」
「な、何ですかそれ」
輝夜は顔全体に土色のドロドロした物体を塗りたくっていた。ドロドロした物体、というか、泥以外の何物でもないように見えるが。
「ああ、これ? 泥パックよ。知らない? 美容にいいのよぅ。これから人前に出るんだもの、おめかししないとね」
「はあ、そうですか」
やっぱり泥か、月人のやる事は分からないな、そう思いつつも、文の新聞記者としての嗅覚は、輝夜の言葉から不穏を感じ取った。
「誰かに会われるので?」
文が尋ねると、輝夜は眉を顰めた。
「何よ、まさか本当に知らないの? 外の世界の、外交官が来てるのよ」
「いや、それは知っていますが……、まさか貴女が会おうとしているとは思わなかったもので。しかし、既に行方不明になっていますが?」
「……ふーん?」
輝夜は泥パックでおどろおどろしくなった顔を綻ばせる。美人は何をしても美人だと言うが、そんな状態でも、輝夜はある種の美を放っていた。
「あんた、案外、馬鹿なのね? いや、わざと馬鹿になっている、そう言うべきかしら。天狗の悪癖だわ」
そう言って、ころころと輝夜は笑う。
「何を言っているのです?」
文は困惑した。永遠亭の人間は何を考えているのか分からなくて、不気味である。殊に輝夜は、ある意味分かりやすい八意永琳よりも底が知れない部分がある。
「能ある鷹は爪を隠すって言ってもね。思考停止して、自分の好きなものだけ目に入れていれば、鷹もいつかは飼い慣らされた家畜になるわ」
「流石、一日中道楽三昧のご身分の方は言う事が違いますね」
「本当に馬鹿に成り切っているのね。私は姫なのよ? 姫は幸せに、ダラダラ過ごすのがお仕事なの」
「次の台詞は、ケーキを食べればいいじゃない、ですか?」
「そうよ。食べればいいのよ。私が姫でいる限りはね」
文は溜息を吐いた。流石、天上の宇宙人は言う事が違う。地上のあらゆるものは、彼女たちにとって、家畜以下の価値しかないのだろう。慢心遣る方無い。
「紫とアリスはあんたの事を、幻想郷最強に近いって言ってたけど。最強ってのは、脳筋って意味だったのかしら」
輝夜の顔ときたら、一片の悪意の欠片も無いのである。こんなにマイペースな人間、もとい月人は見た事が無い。
「言いたい放題ですね」
「あら、ごめんなさい? 私ってばホラ、姫だから。素直で可愛いのも、姫の務めなのよ」
「貴女らしくもない、今日は饒舌じゃないですか」
「お祭りの前はウキウキするものじゃない」
「お祭り、ですか?」
輝夜は、溜息を吐いた。その吐息には、呆れが混じっている。正直、良い気分はしない文だった。
「今日は、売るわ」
急に語調を低くして、輝夜は言う。
商談に入ったのだ。
文は新聞記者として話題の収集を行う傍ら、情報の売り買いも行っている。勿論、記者の矜持として、個人のプライベートな情報は扱わないが。
「売り、ですか」
売る、という事は、輝夜が情報提供を行うという事だ。最近まで竹林の中で隔絶し、孤立していた永遠亭にしては珍しい。
「里に新たな外交官が来ているわよ」
「なんですって?」
「言葉の通り」
輝夜は涼し気な顔で庭を眺めている。
先に現れた外交官は、一週間程前、突如として行方不明になったという。確かに新たな使者が現れてもおかしくない時期ではあるが、人間の里を所狭しと飛び交う文より、永遠亭の縁側に座る輝夜の方が耳が早いとは、如何なる事か。示す事実は唯一つ、輝夜は里に斥候を張り巡らして……、
「違うから」
高速回転していた思考を的を得た言葉で遮られて、思わず文は息を呑んだ。
「情報ってのは足で探すもんしゃない。足で探すのは確証、そうでしょ? この程度は、予想と予兆の範囲内だわ」
「つまり確証のある情報ではない、と?」
「確信はあるけどね。外交官は、最初に上白沢慧音に会った筈だわ。今頃は八雲紫に会いに行っている、そんなとこかしら」
「八雲紫……、博麗神社ですか」
そう言えば、よく慧音とつるんでいる蓬莱人の妹紅が、紫の居場所を尋ねてきたのを思い出す。
「しかし何故、そんな事が分かるんです?」
「幻想郷にはこれだけ役者が揃っているのよ? 私が演出家ならそう配役するし、他の誰だってそうするでしょう? 滝の水が崖から流れ落ちるように、自然な事だわ」
輝夜はさも当然と言うが、要は勘であるという事だろう。
「いや、勘じゃないわよ?」
またもや思考を言い当てられ、文は一歩引いた。
「分からないかなぁ? こういう、物事の大きな流れがさぁ? 世界ってのは、得てして在るべき姿に落ち着こうとするもんなのよ? まあ、これは永琳の受け売りだけど」
小首を少し傾げたと思うと、輝夜は櫛を取り出して、髪を梳り始めた。その長い、海の様な髪の束に櫛は吸い込まれ、舞い踊るが如く、柔らかな黒波の合間を跳ねる。その動きは滑らかで、何の抵抗も受けていないようにみえる。梳る意味があるのか、疑問に思う程だ。
「って、何で貴女に機の読み方の講義なんてしてるのかしら」
「講義だったんですか? 全く内容が分かりませんでしたが」
「悪い聴講生ね。やる気が無いのが腹立つわ。本当、天狗の悪癖だわね。人の言うことはちゃんと聞くべきよ」
「それはどうも、悪うございましたね」
文は輝夜に背を向けた。
売買成立である。
輝夜の言うことは、確証の無い想像の話かもしれない。が、符号する事実も多い。何より、悔しいが文自身の勘がそれを肯定するのである。
「お代はまた後日」
「ああ、お金は良いわよ。腐る程あるし。その代わり」
梳る手を止め、振り向いた文を見上げるその瞳。
顔は泥塗れだが、その瞳だけは、宇宙に瞬く一等星のように、キラキラと光を放っていた。
「貸しにしといてもらうおうかしら」
「何を言い出すのやら」
文は眉を顰めて嫌悪感を顕にしたが、輝夜は意にも介さなかった。足をブラブラと揺らし、体も揺らし、楽しげに鼻歌を歌う。聞き覚えのある曲、これは最近現れた九十九姉妹の曲だ。
その仕草の全てに毒気が無い。それが逆に、文には恐ろしく感じられた。
「どうせ、あんたはきっと、私に借りを作ったって思うわよ」
歌詞の一つのように、歌いながら言う。
「……それでは」
無視して、文は飛び立った。
文のスピードならば、一瞬にして雲の上にまで出られる。
眼前には雲の絨毯と、それを染める夕日の炎。
輝夜の評価を改めなければならない。そう強く感じた。今日の輝夜は、底が知れない。あの恐るべき八意永琳が従者に収まっているのには、それだけの理由があったのだ。
しかも輝夜は、この異変に乗じて何かを企んでいるようだ。輝夜を計るためにも、文は博麗神社へ、八雲紫の元へ、そして恐らく輝夜の予測通り現れているだろう、外界の外交官の元へ向かう必要がある。
しかし、その前に、もう一つ仕事を片付けなければならない。文は黒い翼を開き、幻想郷一とも謳われるその飛翔、その速度を、観客のいない空に向かって、惜しげも無く披露した。
赤く染まった視界の中で。
前触れもなく、それは現れた。
膝を突く英志の前に、仁王立ちする影。
広げた白い傘は、幼子を模した妖の放つ光球の、その圧倒的な破壊波を、まるで初夏のそよ風を受けるかのように、事も無げに受け止めて見せた。
轟く爆音、飛び散る岩塊、舞い上がる土煙。宛ら、ここは実弾演習場。
そんな中に在っても、それは太陽に向かい佇立する向日葵のように、悠然と立っていた。
悪い冗談だ。
英志は、眼前の光景が子ども向け特撮映画のワンシーンだとしか思えなかった。
たっぷりと時間をかけて放たれたルーミアの光球の雨は、白い花のような傘によって、全て跳ね返されてしまった。
辺りには土煙がもうもうと立ち込める。木々はなぎ倒され、地面に開いたデコボコした無数の穴は、まるで痘痕。元の鬱蒼と茂った藪の姿など、見る影も無い。
白い傘を滑らかな手付きで畳むと、それは振り返った。
赤光に眩んだ目がようやく紅白以外の色を取り戻し、鮮やかなその姿を英志は目撃する。
女性だ。
その背は高く、植物の蔓のように伸びた暗緑色のショートボブがそよ風に揺れる。切れ長の目には慈愛の光が灯り、涼しげに瞬いていた。白いカッターシャツに、赤いチェック柄のベストとロングスカートを着け、足元は赤のラウンドトゥパンプス。白い布を被せたバスケットを小脇に抱えている。土埃立ち込める中、ささくれ立ったこの地に佇む姿は、荒野に咲いた一輪の赤い花。
女性が流し目で英志を見つめて瞬きすると、破壊された右腕がひとりでに跳ね上がる。ベキベキと音を立てて変形したかと思うと、めちゃめちゃに粉砕されていた腕は、見る間に元通りになった。指の開閉をして確かめても、血の通う感覚や、指先の繊細な触覚まで何の違和感もない。完璧である。
「あーっ、幽香だ!」
少女の姿をした妖は、驚きと歓喜の入り混じった声を上げる。途端、彼女の周囲に立ち込めた黒い闇は晴れ、瞬く光球達も夢幻と消えた。
風見幽香。
縁起にも記されている妖怪である。普段は紳士的であるが、その危険度は極高で、彼女と敵対する事は死を意味すると言う。人呼んで、フラワーマスター……しかし、英志の腕の回復しかり、見せたその力の一端は、とてもその枠に収まるようなものではないと感じた。
ルーミアは着地すると、自身の攻撃で開いた地面の穴をぴょんぴょんと飛び跳ねながら器用に避け、風見幽香の腕に縋り付く。
「ねえねえ、幽香も弾幕ごっこ、するの?」
その様は、近所のお姉さんと戯れる幼女そのままなのであるが、彼女達の戯れが人間にとって災害以外の何物でもない事は、先の戦闘行為が証明している。
「ごめんなさい、今日はやめておくわ。また今度、しましょう」
静かで落ち着いた、低めの声でそう言う。
「えー、しようよー」
ルーミアは顔を曇らせて、幽香の腕を引っ張っていたが、小脇に抱えたバスケットから幽香が取り出したバゲットを見ると、いっぺんに顔を輝かせた。
「幽香のパンだー!」
「それあげるから、今日のところはお家に帰りなさい。いいわね?」
「うん!」
受け取ったバゲットにさっそく齧り付きながら、ルーミアは屈託なく笑った。
バスケットごとパンを貰ったルーミアは、それを抱えてふよふよと何処かへ飛び去って行った。去り際に何度も振り返り幽香に手を振るその姿は、愛らしくさえあった。
「何故」
腕は戻っても、失った血は戻らなかった。英志は地に片膝を突いたまま、風見幽香を見上げた。
「何故、何の縁も面識もない私を助けたのです?」
幽香は涼しげな顔で、さらりと言った。
「井戸に落ちそうな子どもを見かけたら、利害を考える前に、手を差し伸べるものではなくて?」
古典を持ち出す辺り、風見幽香には教養がある。かつ、有名な文句を引き合いに出して、英志を試みているようだ。
英志は慎重に言葉を選んで口にした。
「朱子、ですか」
幽香は猫のように目を細めた。
「命の恩人相手に駆け引きとは、良い性格をしている」
英志は素直に頭を下げた。
「無礼はお詫び致します」
「いいえ。それでこそ、助けた甲斐があるというものだわ」
風見幽香の微笑には、肝が冷える。
「私は日本国政府外交官、瀬名英志です。貴女の助力に感謝致します。風見幽香殿」
「私も有名になったものね、嬉しい限りだわ」
クスクスと笑う。言葉に反し、この笑みはそんなものを意に介していない笑みだ。風見幽香という存在は、俗世の在り方から浮き上がっている、そう感じる。
幽香はベストの内ポケットから、何か白いものを取り出した。
「恩を着せる訳ではないけれど、貴方に頼みたい事があるの」
「依頼、と?」
幽香が差し出したそれは、見慣れない紋章が刻まれた白鞘だった。白鞘の継目は、微かに赤黒く変色しており、かつて血を吸ったであろうことが想像される。
受け取り、手に取ってみる。桐の手触りは心地良いが、それ以上に、圧倒的に禍々しい何かを感じる。
「これは……」
「儀礼刀」
風見幽香は、傘を開く。
「八雲紫の、罪の象徴。それがあれば、彼女との交渉を有利に進められるでしょう」
「何故、これを私に?」
「一人目は、死んでしまったから」
先遣隊の事だ。英志は拳を握り締めた。
「それを、元の持ち主の下へ、返してあげて欲しい」
「元の持ち主……?」
ふと、幽香は空を見上げた。
夕焼け色の空を、一羽のツバメが飛んで行く。幽香は瞳を閉じて、ふっと息を吐いた。人間の女性と変わりない、憂いのある、妙に艶かしい仕草である。
「八雲殿に返却なさるなら、ご自身で行うべきでしょう」
幽香は答えず、白い傘をさして英志に背を向けた。傘まで陽の色に染まり、いよいよ一輪の花そのものにしか見えない。
「風見殿、これは……」
「外交官殿」その背は物言わぬ花。「すべての人々は、それぞれの花を咲かせる為に生きている。そこに高下などは無い。ゆめゆめ、お忘れ無きよう。もしも貴方が道を違え、その刀を増やそうとなさるのなら」
振り返ったその瞳は、深紅に輝いていた。
「その時は、この風見幽香がお相手させていただく」
そよ風と共に歩いて行く。その足下から、緑色の津波が沸き起こった。草花が急速に育っているのだ。宵闇の妖怪に破壊された地が、緑の筆で塗り潰され、痛々しい痘痕面が花の化粧で飾られて行く。
残り香の様に、後には言葉だけが残った。
「また、お会いしましょう……」
彼女が去って後も、英志は暫く、息をする事が出来なかった。
あの瞳は、師のそれに似ている。
ようやく呼吸を思い出し、なんとか立ち上がると、白鞘をジャケットの内ポケットに突っ込んだ。
「幽々子様なら、先程ふらりとお出掛けになりましたが」
見るからに鈍そうな顔立ちをしたその半人前の庭師は、役立たずにもそう言い放った。腰の長者が滑稽である。以前に手合わせした事があるのだが、刀の方の腕前もまだまだ未熟だ。筋は悪くなさそうであるが、今現在では、文にすら及ばないだろう。
「幽々子さんは何処へ行ったのでしょう?」
「さあ……」
半人前の庭師は箒を握りしめながら、眠そうに目をこすっている。この娘は本当に仕事をしているのだろうか、とてもそうは見えないのだが。
と、庭師は何か思いついたようにポンと手を打った。
「ああ、そういえば。なんだか、天界を散歩してくる、とか言ってましたね」
「天界、ですか」
天界の総領主か、龍神に会いに行ったのだろうか。なんのために?
文は認めている。西行寺幽々子は真の賢者である。殊、知略に関しては、幻想郷で右に出るものは居ないだろう。あの八雲紫が猛者連なる幻想郷で最強妖怪として位置づけられているのは、その隣に西行寺幽々子がいるからに他ならない。
「いらっしゃらないのなら仕方ありませんね。それでは、言伝をお願いできますか?」
「はいっ」
庭師は元気よく返事するが、その目は眠たそうである。
「……本当に大丈夫ですか? 眠そうですけど」
「別に眠くないですけど」
「まあ、いいでしょう。『人間らしくないお姫様が外出しようとしている』。そう伝えていただけますか?」
「はあ?」
庭師は首を捻った。
「幽々子さんなら、そう言えば分かりますよ」
「私には全くわからないのですが……」
「それは貴女が半人前だからです」
「そんなひどい」
庭師はぷくっと膨れた。
この娘は、頭の働きの半分を、周りに侍らせる大きい餅のような幽霊体に取られてしまっているのではないだろうか。彼女と一心同体ということであるし、ありえない話ではない。これは次の新聞に使えるかもしれない、文は文花帖を出してメモした、「妖夢の脳みその半分はお餅に食べられた」。
「ちょっと、なんか変なこと書いてないでしょうね!」
慌てて庭師が言う。
「いえ、別に」
「貴女がその手帳を開くと、いつも碌なことが起こらないんです!」
「被害妄想が激しいですねえ。まあでも、安心してください。今日は取材に来たわけではありませんので」
「本当ですか?」
「それより、言伝、頼みましたよ。いくら眠いからって、忘れないように」
「だから別に眠くないですってば!」
西行寺幽々子が既に動いているのなら、ますます輝夜の言葉に信憑性が増す。
ぷりぷりと怒る庭師を尻目に、文は白玉楼を後にした。
向かう先は、博麗神社。
英志は草むらの影から、ふらりと現れた。
弾幕ごっこを見ていた隙に英志がいなくなったことに慧音達が気づき、探しに行こうと思った矢先だった。
「何処へ行っていたんだ」
慧音が語気強く言うと、英志は誤魔化すように首を振った。
よく見れば、血の気の引いた青い顔をして、足取りは覚束ない。ジャケットの右腕が破れて、しかも血の痕まで見える。
「おい、どうした、顔色が悪いぞ。何かあったのか?」
妹紅が心配して声をかけるが、
「なんでもありません。それより、博麗神社に向かいましょう」
英志は振り切るようにして、うらぶれた茶屋を後にした。
「八雲紫殿は、どのような方なのですか?」
青ざめた顔で歩きながら、英志は尋ねて来る。
「一言で言えば、分からん、だな」
「分からん、ですか」
英志は苦笑いする。
「目の前でしゃべっていても、捉え処が無いというのが感想だ。目を合わせていても、彼女の視線は私ではない何処か遠くを見ている、そういう人だな。だけど幻想郷を愛していることだけは真実だと思う」
「複雑ですね。妹紅さんの印象はどうですか?」
「そうだなあ……」
妹紅は顎に手をやって考えながら。
「かわいい人、かな。あの人は、真面目でひたむきだよ」
「なんだか、お二人で矛盾した意見ですね」
「あの八雲殿をかわいい、なんて、さすがは妹紅だな」
「いや」妹紅は頷きながら言う。「彼女は大量の嘘の中に少しの真実を混ぜて話してるんだ。だから胡散臭く聞こえてしまう。本来のあの人は、自分のやることや信念を絶対に曲げようとしない、無鉄砲で可愛い『お嬢さん』だって思うな、私は」
その論理はよく分からない。が、妹紅の勘が鋭いことだけは確かだ。
「曲げようとしない。曲げようとしない、ですか……」
英志はその点が特に気になったのか、妹紅の言葉を何度か反芻していた。
参道と言う名の獣道を幾つか超え、慧音達は博麗神社へと到着した。
長い石段を登る。
英志の息は荒く、今にも倒れそうである。
「手を貸すか?」
「いいえ。大丈夫です」
慧音が差し出した手を避けて、英志は石段を登り続けた。
「意地を張るなよ。倒れたら元も子も無いだろう」
妹紅も声を掛けるが、それでも英志は聞かない。
「このほうが血の気も引いて、冷静な判断が出来るようになります。頭に血が登っては、交渉など出来ませんから」
「お前も八雲紫とおんなじだなぁ」
呆れ顔で、妹紅は言った。
石段を登り終え、鳥居をくぐる。此処へ来る度、いつも感じることだが、鳥居をくぐった瞬間に、異界へ来たような感覚を覚える。この場所が博麗大結界の境界にあるからなのかもしれない。
夕日がいよいよ赤を増した。
周囲の木々は色付く時期を過ぎ、その葉を散らし始めている。どうした事か、境内には落ち葉が散乱し、手入れがされていない。暇を持て余した霊夢が竹箒を振り回して掃除しているので、いつも見た目だけは小綺麗なのだが。
簡素な拝殿をぐるりと周り、裏へ回った。
「神社にしては、珍しい造りですね」
博麗神社を初めて見たであろう英志は、物珍しそうに目を瞬かせていた。
本殿の縁側にいつもの紅白の巫女装束を着た博麗霊夢が座っていた。
その隣にいる妖怪。
ウェーブのかかった長い金髪の上には、赤いリボンの巻かれた白い帽子、八卦の萃と太極図を描いた大陸風のゆったりとした衣を纏う。その涼しげなニヤけ面は、赤光の中では一層恐ろしく見える。見た目は妹紅の言う通りお転婆なお嬢さんだが、その実態は、物事の隙間を支配する力を持つ、幻想郷最強の妖怪。
「貴女が八雲紫殿ですか。初めまして。私は日本国政府外交官、瀬名英志と申します」
英志が名乗ると、紫は子猫のようにキラキラとしたその瞳を、慧音達の方へ向けた。
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八雲紫
意図はすぐに明らかになりますので、不快に思われる事もあるかもしれませんが、一時、ご容赦いただけると幸いです。
握り締めた指の谷間から、白い砂が溢れ落ちてゆく。
さらさらさら……
さらさらさら……
誰にも留めることが出来ない、時の流れのように。
因果は応報するものだ。これが誰の因果の果てに現れたものなのかは分からないが、目の前に現れた以上、これは既に自分たちの因果にも成ってしまっている。この海と、この砂浜とは。
「姐さん、何誰そ彼てんスか」
弟子の雲居一輪が近寄って来て、無遠慮に覗き込んで言う。
「一輪、いつも言ってるでしょう。、その姐さんと言うのはやめなさい」
「あっ。すみません、すっかり癖になっちゃって。気を付けます、姐さん。……あっ」
粗忽者の弟子は慌てて口を押さえた。この子が悟りを開くのはまだまだ先のようだわ、聖白蓮は溜息を吐いた。
「海だ海だ海だーッ! ヒャッハーッ! キャプテンインザシー!」
外来のへそ出し水着に身を包んだ村紗水蜜が、奇声を発しながら波打ち際ではしゃいでいる。
「あーあ、村紗のやつテンション上がりすぎちゃってまあ……」
一輪は呆れた声を出すが、そういう自分もちゃっかりと外来水着に身を包んでいる。
しかし白蓮は、弟子のはしゃぎっぷりに口を出すつもりは無かった。海を見たのは確かに久しぶりだったからだ。白蓮は魔界、彼女たちは地底に封印されていたのだが、そんなところに海は在るはずもない。そして、ようやく解放されてこの幻想郷に降り立って見れば、そこも外界と隔絶された言わば陸の孤島。だから、彼女たちの興奮ぶりも分からなくはないのだ。
「姐さん……じゃなかった、聖様は泳がれないのですか?」
「私はいいわ。一輪、行ってらっしゃいな」
「えーでもー」
「誰かは残って、この浜を監視しなければならないでしょう」
ニ週間前に出現した島は神隠島と呼ばれている。その呼び名の通り、島上、もしくは島に向かう海路上にて行方不明になった人間が、数多く居るのだ。その中には、外界からやってきた外交官達も含まれている……。だから、誰かが誤って近づかないよう、白蓮達は自発的に監視を行っている。
消えた外交官は、誠実な人物であった。女性の身で外交団の指揮を執り、要人との会談や島の測量、文化交流の為の催しなど、短い期間ながら勢力的に活動を行っていた。
中でも白蓮が感心をしたのは、外交使節団が一切武装をしていなかったことだ。突然繋がった見ず知らずの土地に、しかも妖が跳梁跋扈するこの幻想郷に武器も持たずにやって来るなど、並の人間には出来ることではない。まず付いて来る部下がいないだろう。それを実現させていたからには、よほどの信頼と実績を有していたに違いない。
その人物が、消えた。
幻想郷は、相手の誠実を裏切った形になる。
政治への関わりが薄い白蓮でも、次に起こることは分かる。因果は、応報するものなのだ。
だから、白蓮はここに居るのである。
「行ってらっしゃいな、一輪」
「じゃあ、お言葉に甘えて……イヤッホゥ! 海だ海だーッ!」
粗忽者の弟子は奇声を上げながら、海の中へ飛び込んで行った。
その様子を見て、微笑ましい半分、憂いが半分。思わずため息が出てしまう。
何事も起こらねば良いが。
この平穏が一時のものだと分かり切っていても、そう思わずにはいられない白蓮だった。
八雲紫は妖しく笑った。夕陽に照らされたその顔は、現実離れして美しい。まるで作り物のように。
「ようこそ、外交官殿。そろそろいらっしゃる頃だとは思っていました。私は八雲紫。この幻想郷で、結界の管理などを行っておりますわ」
紫の言葉の通り、彼女は幻想郷に張られた「博麗大結界」や「幻と実体の境界」など、種々の結界の管理を行っている。博麗大結界は幻想郷を外界から隔絶し隠蔽する効果がある。つまり、幻想郷を幻想郷たらしめているのが、博麗大結界なのである。それ故、その管理を行う紫は必然的に幻想郷でも特殊な地位を占める。
ちら、と紫は慧音の方へ視線を向ける。黄金色の瞳が慧音を捉える。若干の緊張が身体を小さく震わせた。しかし、気後れしているわけにはいかない。紫には尋ねなければならないこともあるのだ。
「先生達は付き添いかしら?」
「いえ」慧音は姿勢を正して答えた。「我々は彼の案内役と言ったところです。必要であれば、少し席を外しますよ」
「ああ、良いのよ」
紫は手をヒラヒラと振った。
「寧ろ、先生達にも同席して頂きたいわね。事は幻想郷全体に関わる話なのだし。霊夢、ちょっと拝殿を貸してくれないかしら?」
霊夢は静かに茶を啜っている。
何も言わず、視線も合わそうとせず。周りの物事に目もくれず、超然と茶を飲んでいるのである。
様子がおかしい。
普段はどうでも良い事を喧しく喋くる、脳天気が服を着たような女なのに。
よくよく考えてみれば、島や外交官の出現は、異変以外の何物でもない。それなのに、霊夢が動いている様子がないのである。英志は島の上で霊夢と会ったと言っていたが、異変は解決されてなどいない。
不審に思って霊夢の顔を覗き込んだ慧音は、凍りついた。
その顔は、まるで壁である。殺気こそ放っていないが、表情から感情が抜け落ち、無機物の顔になっていた。普段はだらし無く弛緩していて気付き難いが、霊夢は生来、刀剣のように整った顔立ちである。表情を失くした事で、それが際立っているのだ。
すわ、紫が何かしたのかと考えたが、
「まったくこの子はもう、どうしたのかしら」
当の紫も額に眉して困惑気味なのである。
この巫女から脳天気を取ったら、後に残るのは博麗の力だけだ。霊夢は今、純粋な力そのものとなってしまっている。一体何が彼女をそうさせているのだろうか。
「私はこのままで構いません」
焦っているのか、外交官・瀬名英志は立ったまま話を切り出した。
「詔勅を預けられているとは言え、私は実務者です。堅苦しい挨拶は抜きにさせていただきたい」
「構いませんわ。どうせ目的は分かりきっているのですから」
「お言葉に甘えさせていただきます。用件は勿論、あの島の事です」
紫はゆっくりと頷く。
「神隠島。私達はそう呼んでおりますわ」
出現から僅かの間に、もう何人もの人間が消えた。そこから付いた名、神隠島。呪われた名である。
英志は緊張しているのだろうか、深呼吸を一つする。
「既にご存知だとは思いますが、改めて宣言させていただきます。我が国はあの島の領有権を主張します」
「何だと?」
思わず、慧音は口を挟んだ。
「貴様、争いを助長する気か。同じ日本なのに、権利を主張しあってどうする。幻想郷は誰のものでもないぞ」
英志は首を振る。
「慧音さん、それは違います。我々は幻想郷という存在を認識すらしていなかったのです。お互いの立場を明確化しなければ、議論する事も理解することも出来ません。まずはお互いの主張を宣言する。交渉はそれからです」
「しかしだな……」
「慧音、話が進まないぞ」
妹紅が袖を引っ張るので、慧音はやむなく矛を収めた。
英志は話を続ける。
「繰り返しますが、我が国はあの島の主権を主張します。あの島は、我が国の領海内にある島です。我が国は、我が国の領土として島の主権を主張する権利を持ちます。これは当然の事です」
「それは、貴方の国の法に則れば、でしょう。我々がそれに従う謂れはありませんわ。それに、海岸線は幻想郷の方が圧倒的に近い」
紫の言うことも尤もである。幻想郷に外界の法を適用しなければならない理由はない。寧ろ、幻想郷はそこからはみ出た者達の集まりなのである。人間の法を適用するなど、不可能だろう。
「では領有権を主張なさると?」
「幻想郷は全てを受け入れますわ」
「その根拠は」
「我々の幻想郷にあの島が存在するから、ですわ」
「従来、幻想郷に海は存在しなかったと聞いておりますが」
紫はクスクスと笑った。
「分かりませんわよ? 隠されていただけで、本当はあったのかも? 現に今はあるのだし。逆に聞きましょう。貴方の国があの島の領有権を主張なさる根拠は?」宙を彷徨う紫の指が、ピタリと英志を捉えた。「領海内に有るという貴方の言を逆に辿れば、現実に実効支配が出来ていないことを認めている、もっと言えば、以前は存在さえ認識していなかったと言う事ではなくて? その証拠に、貴方の前任者があの島の調査測量を熱心に行っていたという目撃情報がありますけれど」
英志は目を細めて頷いた。
「認めましょう」
「待て、どういう意味だ? 頭が混乱してきた」
額に手を当て、妹紅が難しい顔で口を出す。慧音も同じ思いである。
「お前達は外の世界からやって来たんだろ? つまりあの島も海も、外の世界のものの筈だ。それなのに、お前達はあの島の事を知らなかったという訳か?」
英志は頷く。
「そういう事になります」
「なら、あの島は何だ?」
英志は慧音達のほうへ振り向いたが、それには答えなかった。すぐに紫の方へ向き直ると、声音を高くして言った
「得体の知れないものをそのままにしておく訳にはいきません。ましてあの場所は、国境線を引く上で重要な位置です。そこで我々は、貴女方に提案させて頂きます。あの正体不明の島をひとまず共同管理区域とし、相互に不可侵条約を結ばせていただきたい。その上で、共同の調査団を派遣致しましょう」
紫はその言葉をせせら笑った。
「不可侵、ですか。聞いて呆れますわね。最初に武力によって島を占拠しようとしたのは、貴方達でしょうに」
英志は首を振って否定する。
「確かに先遣隊は島上に滞在していましたが、非武装でした。貴女の非難は当てはまらない」
「洋上に待機させている艦隊。知らないとは言わせませんわよ?」
その言葉に、慧音はギョっとした。
「か、艦隊だと? どういう事だ!」
口をはさみかけたが、妹紅が強く腕を引っ張ったので、それは叶わなかった。
英志は大きくかぶりを振って言う。
「八雲殿。ご理解いただきたい。貴女方にとって我々がそうであるように、我々にとっても貴女方は異邦人なのです。増して、貴女方は人智を超えた力を有している。人の心は弱い。我々が警戒心を持つのも、無理からぬ事だとご認識いただきたい」
「その腕……、既に洗礼を受けられたようですわね?」
紫の言葉で、慧音は英志の右腕を再び見やった。袖は肘の辺りまで破れ、赤黒い血の染みが付いている。
今更ながらに気付く。英志は隠したが、慧音達が弾幕ごっこに夢中になっている隙に、妖怪に襲われていたのだ。
「まあ、そんなことはどうでも良いのです。貴方達が剣を取ろうが弓を引こうが、何処で朽ち果てようが」悪びれた様子も無く、紫は言う。「すべてはあるがまま。混乱も混沌も、幻想郷はすべてを受け入れます。来る者拒まず、去る者追わず。あの島が幻想郷に存在する以上、あれも既に幻想なのでしょう。それ以上、私からは述べる事はありませんわ」
「八雲殿、それでは話が前に進まない。神隠島の存在は貴女方にとっても懸念のはずだ」
傍から見ても明らかに、英志の表情は険しい。
「些細な問題ですわ」
「ならば、我々の存在すらもそうだと言うのか」
「うふふ。ご想像にお任せ致します」
そして紫は興味を失くしたように、外交官から顔を背けた。
事実上の交渉拒否である。慧音の目から見ても、紫には譲歩の姿勢はおろか、対話の姿勢すら無いように映る。と言うか、興味そのものが薄いようにも思える。
しかし、英志はなおも食い下がった。
「貴女は分かっているはずです。今、我が国と幻想郷とが危機に瀕していることを。今は条約を結ぶべきです。最悪の事態を避けるために」
紫はゆっくりと欠伸をしながら言う。
「どのような事態になろうと、我々はそれを打開し勝利する自信がありますわ」そして、英志の腕の傷を指さす。「我々の力。貴方も文字通り、骨身に染みたのではなくて?」
「……確かに、そうかもしれません」
歯噛みして、英志は言う。
「これではお話になりませんわね」
扇子で口元を隠し、目で笑う紫。
慧音は紫のその様子に疑念を覚えた。紫の意見は全く建設的ではないのである。事態を放置しても解決などするはずがないというのに。幻想郷を心から愛する紫ならば、真っ先にこの事態の解決を願うはずなのだが。
そう言えば、紫は先遣隊とも交渉を行わなかったと言う。紫ほどの立場の人物が、である。わざわざやって来た外交使節団に対し、常識的に考えて、余りにも非礼な態度ではないだろうか? これではまるで、争いが起きる事を待っているかのようだ。
ふと、英志はジャケットの懐に手を突っ込んだ。
何かを出そうと言うのだろうか。
数瞬の逡巡の後、外へ出したその手には、特に何も握られてはいなかった。意味不明の行為に慧音は首を傾げた。
代わりに、英志の様子は一変していた。
「……成る程。貴女方はご自分の利益のためなら、他国の人間がいくら死のうとも構わないというわけですか。有する力だけでなく、貴女方は心まで妖怪なのですね。我が国と国民とを食い物にしようと言うのか。それは、未開の野蛮人のやることだ」
英志は眉をひそめ、語気荒く非難をし始めた。紫の交渉姿勢にいらだちを覚えたのだろう。
「そのような事は申しておりませんわ、外交官殿。我々も戦いなど望んでいません」一方の紫は、からかうように、挑発するように、ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべている。「確かに我ら妖怪は、人と戦い、人を襲わねばならぬ宿命。しかし我らも、ここでは平和で文化的な文明を維持しておりますのよ。我々は此処で、妖怪のサガ、その理を大きく削ぐことに成功しております。野蛮などというのは的外れの意見ですわ。貴方もご覧になったでしょう? 妖怪と人間とが秩序立ち、一つ処に暮らしている。ま、たまに跳ねっ返りはいますけれどね」
ちらり、嘲りの視線を送る先は、英志の右腕である。その様子、その物言いは、はっきり言って、底意地が悪いと感じる。
「異邦人の私の目からすれば、人間が妖怪から一方的に搾取されているとしか見えない。現在人里で頻発しているという神隠しがいい例でしょう」
慧音に視線を送りつつ英志は言う。
同意を求めたのだろうが、慧音は肯定するわけにはいかない。ただ唇を噛んだ。
「その理解は不十分ですわ、外交官殿。貴方は物事の一つの側面しか見ていない。妖怪は人を襲うもの。そして人によって退治されるものですわ。悪さをした妖怪はきちんと退治されますのよ。貴方の国でもそうでしょう? 起きた争いは、司法によって平和的に裁かれるもの。それは我々も同じです。争いの平和的な解決。それは、ある一つのシステムによって実現されておりますのよ」
「なるほど。それがあの擬似決闘というわけですか、貴女が原案を作ったという」
「そう。平和的な闘争。コントロールされた戦い。美しき決闘。我々がたどり着いた、誇るべきシステムですわ」
紫は恍惚とした表情を浮かべる。スペルカードルールを誇りに思っているのだろう。
しかし、
「唾棄すべき文化だ」
吐き捨てるように英志は言った。
紫の笑顔が瞬時に固まる。
「……関心しませんわね。他国の文化を頭ごなしに否定するのは。お里が知れますわよ、外交官殿」
「国民の生命、財産を無意味に損ねる冒涜的な文化を野放しにすることは、人権の保護・促進を掲げる我が国の理念に反します。あれは、許容を超えている」
「何を言うかエーシ、エーシと呼ばせてもらうぞ」
耐え切れず、慧音は口を挟んだ。
「おい、慧音……」
妹紅は相変わらず慧音の腕を引っ張るが、こればかりは黙っていられない。
「弾幕は将棋と同じだ。洗練された遊戯だ、人の死なない決闘なんだ。一種のスポーツだよ」
振り返った英志の目は、刺すように鋭かった。
「決闘は遊びじゃない。スポーツでもない。気紛れに行うべきものでもない。殺し合わない殺し合いを続けるなど、正気の沙汰とは思えない」
その声色には明らかに怒気が含まれている。何故かは分からないが、英志は弾幕ごっこに怒りを覚えているようだ。
しかし、慧音も引いてはいられない。
弾幕ごっこが普及してから、妖怪と人間との関係はより安定化されたのだ。その意義は主張しなければならない。
「我々は正気だよ。スペルカードルールは一定の成果を上げている。殺し合う殺し合いをするよりは、平和的なはずだ」
「なぜ? 安全を求めるならば、貴女の言うとおり、将棋でも指していれば良いはずだ。それが出来ないから、貴女方は弾幕を使うのではないですか。命を賭けるべき理由があるから」
「闘争の末に死人を出すよりかは良いだろう」
「出ていないと本当に言い切れるのですか」
むっ、と慧音は口ごもった。
弾幕戦の末、死亡者が出た例を知っている。観客が流れ弾に当たって亡くなった事もあった。
「決闘は、名誉と命を賭けた戦いです。半端な覚悟で決闘を行うことは、死への冒涜に他ならない。人はそれを野蛮と呼ぶのです」
「お前の意見は一方的だ、エーシ。人間にとってはそうあるべきかもしれないが、妖怪にとってはそうではないのだ。少なくとも、今はまだ。お前は激烈な理想論を振りかざしているに過ぎない」
幻想郷。此処は、この場所はまだ、変わりゆく過渡期なのだから。
「弾幕は……」
紫が、口を開く。
「長く生きる妖怪が、お互いを傷つけないための知恵よ」
静かな怒りを込めて言う。
空気が張り詰めている。
八雲紫の怒りは、即ち幻想郷の怒りである。
「逆だろう。お互いを傷つけないから長く生きられるのだ」
その威圧を感じているのかいないのか、英志は舌鉾を収めない。慧音達は言葉を失っているというのに。度胸があるのか、単に空気を読めないだけなのか。
「どれほどの差異があると言うのかしら」
「違うな。貴女のしたことは、幻想郷の住人から死を奪うことに等しい」
「それの何処が悪いと言うのか、私には理解出来そうもありませんわ」
口喧嘩に飽きたのか、紫は匙を投げた。
英志に哀れなものを見るような目を向けると、扇子でパタパタと顔を扇いだ。
「どうやら、貴方には理解出来ないようですね。この幻想郷という楽園を維持するための、素晴らしきシステムを。貴方は我々を野蛮だと言いますが、他国の文化風俗に自らの価値観を押し付ける方が野蛮ではなくて? そんな方が外交官を務めていらっしゃるとは……、貴国の政治機構を疑いますわ。同情すら覚えます」
「……楽園、ですか」
英志の言葉には、静かな気迫が込められている。幻想郷全てを否定するかのように、両手を広げた。
「どこにそんなものがあるというのですか? ここは違う。ここはまるで煉獄だ。貴女の、貴女のためだけの」
突き付けた英志の指が、紫を正面に捉えた。
途端、紫の動きがピタリと止まった。
一陣の風が吹き抜ける。
その風で、紫の金色の髪がバラリと翻る。彼女の感情の昂ぶりを示すかのように。
英志は続ける。そのドス黒い闇を孕む瞳には、明らかな敵意の光が灯っていた。
「この幻想郷を作り、維持するために、一体どれだけの血が流れたというのでしょう。私には見える。貴女は数え切れないほどの罪を犯している。貴女はここで、永遠に終わる事のない贖罪を続けているのだろう。その贖罪の為に新たな罪を犯しながら。だから決闘を封じ、他者から死を奪ったのですか。残されるのが怖いから、一人が嫌だから、寂しいから。そんなに道連れが欲しいというのですか、寂しがり屋のお嬢さん」
パチン、と音がする。
紫が扇子を閉じた音である。
垂れた前髪の間から覗くまん丸の瞳は、月の様に妖しく輝いていた。
「……昔、同じ台詞を言った男がいた。そいつは八つ裂きにして、次元の狭間にバラ撒いてやった……」
普段の胡散臭いしゃべり方は鳴りを潜め、紫のその声は低くドスがきいている。
体が震える。全身の神経が警告を発し、脂汗が噴き出る。慧音は思わず、その場から一歩後ずさった。
「この幻想郷、月夜ばかりではないぞ。肝に銘じておくが良い、外交官」
彼女の背後で空間が裂け、唇のように上下に広がったそれは、紫を頭から吞みこんでしまった。隙間を支配する紫の力、その顕現である。
慌てて、慧音は叫んだ。
「待ってくれ、八雲殿! 伺いたい事がある! 人里で頻発する神隠し、貴女は何かご存知ではないですか!」
しかし、紫は無視して、隙間の向こう側へ消えてしまった。
「くそ……」
平手に拳を打ち付けて悔しがっていると、今まで我関せずと茶を啜っていた霊夢がくるりと首を回し、慧音の方へ向いた。
「紫を疑っているのなら、それは見当違いよ。紫はそんなことしないわ。する必要がない。妖怪が食料にする人間は、外の世界から連れてくればいい。それに、幻想郷から人間が減ればどういうことになるか、紫は十分に理解している」
「霊夢……いや、それは分かっている。八雲殿を疑っている訳じゃないんだ」
「そう……」
霊夢は機械人形のように正確に首を元の位置に戻すと、再び茶を啜り始めた。
会談を終えた英志は、踵を返すと、最早用も無いとばかりにスタスタと境内を歩いて行ってしまった。慧音と妹紅は、相変わらず反応をしない霊夢に、一応、礼を言ってから、英志の後を追った。
「お前は」慧音は、英志の背に問いかける。「本当に外交官なのか」
「はい」
「しかし、交渉をする気があるようには、とても見えない」
「それならば、危険を冒して、ここまで来ていません」
石段を降りて行く。
「しっかし、お前、度胸あるな。八雲紫にあそこまで言える人間は、そういないぞ」
妹紅が感心したように言う。あのやりとりで、妹紅は寧ろ、この外交官を評価したらしい。
「……失敗しました」
石段の途中で立ち止まり、ぽつりと英志が言う。
その情けない一言に、妹紅は声を上げて笑った。
「若いなぁ」
「少し感情的になり過ぎてしまった。事前に血の気が抜けていてもこれです。面目無い。師からも常に注意されているのですが……。この交渉、やはり私には荷が勝ちすぎているのかもしれない」
そうか、と慧音は思った。
外交官などという肩書きを持っていても、英志は生身の人間なのだ。しかも見たところ、まだ歳若い青年。常に完全である事など、出来はしないのが当たり前なのである。時には弱音を吐く事もあるだろう。そして、この困難な交渉に、不安を抱いていたのである。
慧音は外の世界の人間を、どこか恐れていたのかもしれない。恐れは反感に繋がる。反感は人と人との隔たりとなる。
この隔たりを超える、それが外交交渉というものなのだろう。今更ながら、その難しさを想像した慧音だった。
英志は赤い空を見上げながら、自分に言い聞かせるように言葉を発した。
「しかし、いまさら投げ出すわけにもいきません。今、私に行える最善を尽くさなければならない……」
「まあ」妹紅は腕組みしながら、したり顔で言う。「次からは相手を怒らせないように気をつけるんだな」
「え?……ああ」振り返った英志は、事務的に言った。「いえ、あれはわざとです」
「何ぃ?」妹紅は驚きで目を剥いた。「強がり言ってんじゃねえよ」
「八雲殿が交渉する気が無いのは明らかでした。少しでも情報を引き出す為に、ああしたのです。その人の人となりを知るには、何に対して怒りを抱くのかを観察するのが一番ですから。流石の私も、他の地域の文化を頭ごなしに否定するつもりはありません。外交官として、と言うより、人間として当然の事でしょう」
確かに、それはそうだ。
「常道を曲げた形になりますが、しかしその収穫はありました。彼女も戦争は望んでいないことがはっきりした。二人目の外交官が死ねば、もはや戦争は避けられない。彼女にとっては虫けらにも等しいだろう、この私の命。あそこまで挑発しても殺さなかったのは、あえて戦争は起こしたくないから、それ以外には考えられない。これで少なくとも、先遣隊を壊滅させたのが八雲殿ではないということが分かりました。これは今後の我が国の交渉方針に大きな影響を与えるでしょう」
慧音達は、唖然としてしまった。
「じ、自分が殺される可能性も計算に入れていたというのか」
「正気じゃねえ。……って、私も人のこと言えないけど」
震える声で慧音達が言うと、英志は簡単に言った。
「仕事ですから」
そうして、英志は再び石段を降りて行った。
外の世界の人間というのは、やはり怖ろしいものなのかもしれない。幻想郷の物差しではとても測り切ることが出来ない。慧音はこの外交官を名乗る男に対する認識を改めた。この男は、普通ではない。考え方が慧音の知る人間のそれではないのだ。この男はまるで、何か自分よりも大きな力によって突き動かされているかのようだ。
「しかし、次はどうすんだ? 交渉しようにも相手が怒っていなくなっちまったぞ。菓子折り持って謝りにでも行くのか?」
英志の背に妹紅が問いかける。
歩みも止めず、振り返りもせず、英志は言う。
「交渉する相手がいないのなら、作れば良いだけの事です」
「ああ?」
「これから、幻想郷に政府を作ろうと思います」
慧音は早くも再び、この外交官を名乗る男に対する認識を改めることになった。
この男は、普通ではない。
そして、まるで正気と思えない。
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誰そ彼の王①
なんかてるあやになってしまった。なんだこれ。
「正気じゃあない」
兎に角、妹紅は繰り返していた。
「お前はまるで正気じゃあないぞ、エーシ」
外交官・瀬名英志は妹紅の言葉を受けても何処吹く風で、書代に向かい書状を認めていた。
慧音は寺子屋の一室を英志の滞在場所として提供した。
頻発する神隠しのせいで今は休講同然であるから、特に問題は無い。人の住まなくなった家屋は壊れやすいとも言う。人間に使ってもらってこそ、寺子屋も建てられた価値があるというものだろう。
元々、寺子屋は民家を改装したものである為、居住性も高い。書物も多いので、種々の事務作業もこなさなければならない英志にとっては都合が良いらしい。
「幻想郷は元々、朝廷や政府なんかとは縁遠い。寧ろ、そこから弾き出された者達の集まりだと言っていい。政権運営なんか経験もなければやる気すら無いぞ。それに、妖怪の存在を忘れてるんじゃないのか。妖怪ってのは我儘の化身みたいなもんだ。そんな奴らが傘下に入るとは思えない」
激しているのか、妹紅は声高に英志へ迫る。幻想郷に激烈な変化をもたらそうとしている英志に、多少の怒りを覚えているのだろう。
外交官・瀬名英志は、幻想郷に政府を作ると言った。それは必ずしも、日本政府による幻想郷の侵略を意味するわけではないらしい。
英志はどうやら、幻想郷の勢力をまとめて臨時政府を作り、その政府と交渉を行おうとしているようだ。当然、八雲紫に対する発言権を持つために、新たな政府にはある程度の規模が必要になる。八雲紫との交渉が決裂した、というより、八雲紫には交渉の意志が全く無いと分かった今、英志は幻想郷へのアプローチの仕方を変えたのだ。八雲紫一人を相手にするのではなく、幻想郷それ自体と交渉をしようと言うのである。
それにしても、考えるだけで気の遠くなるような話だ。
「幻想郷には幾つもの妖怪勢力が在るんだ。そんな中で一つの勢力に肩入れなんかしてみろ。縄張り争いで幻想郷中が争乱状態になるぞ」
妹紅の危惧も尤もである。
紅霧異変を起こした恐るべき吸血鬼、紅魔館のレミリア・スカーレット。春雪異変を起こした冥界管理者、白玉楼の西行寺幽々子。強大な天狗達と、その山に現れた外界の古き神々、守矢神社。傲岸不遜の天人達に、地底に住む古き妖怪達。そして、永夜異変を起こした永遠亭の蓬莱山輝夜。数え上げればキリが無いほどに、幻想郷には問題児が多い。まるで突けば破裂する、火薬庫だ。幻想郷は危ういバランスで成り立っているのである。
「此処を焦土にするつもりか。お前のやろうとしていることは、幻想郷に対する侵略行為以外の何者でもないぞ」
美しい顔をしかめる妹紅とは対象的に、涼しい顔で書状を認め終えた英志は、筆を置いて妹紅に向き直った。
「貴女方の危惧は、私も理解しているつもりです。しかし、私は幻想郷を侵略するためにやってきたわけではありません」妹紅をなだめるように言う。「そもそも、今回のように、為政者から交渉を拒絶されるケースは珍しくない。ある程度治安の安定した国では尚更です。我々は完全なる異邦人ですから、為政者は自らの既得権益が侵されることを恐れるのでしょう。武力によって自らの主張を一方的に通そうとすることも侭あります。それに対する対応策として、我々と交渉可能な勢力を作り上げる。これは、遥か昔より行われてきた、伝統的な外交術でしょう」
敵の敵は味方。そういう事なのだろう。確かに、歴史上数え上げるまでもないほどに多く行われてきた外交策であろう。
しかし。慧音達は歴史を見ない愚者ではない。
「その対応策とやらがどのような結果をもたらしてきたのか、語るまでもないだろう。分裂、内戦、そして荒廃だ」
慧音の意見に、英志は首を振った。
「慧音さん、それは一面的な物の見方でしかありません。無血で繁栄と平和を成し遂げた例も少なくない」
「それこそ、一面的な物の見方だろうが。都合の良いように解釈をするな」
妹紅の痛烈な批判を受けて、英志は頷く。
「認めましょう。所詮、個人の意見など一面的にならざるを得ないのです。結局の所、善悪の議論など、現実の問題の前にはニの次でよい」
「貴様。何が起こるか分かっていて、それでもやろうと言うのか」
慧音はあっと息を呑んだ。
妹紅の掲げた拳が、炎を纏ったのだ。
妹紅の怒りは慧音の予想を遥か超えていたらしい。
「貴様が幻想郷を害そうとするのなら、今、此処でその害を取り除かせてもらう」
開いたその手は、まるで朱雀の爪。
妹紅の目は据わっている。本気だった。
「やめろ、妹紅」
「止めても無駄だ、慧音」
妹紅にとってこの幻想郷は、気の遠くなるようなん長い流浪の果てにたどり着いた、ようやく安らげる場所なのだ。幻想郷それ自体を害そうとする者が現れるのなら、妹紅は喜んで拳を振るうだろう。そういう女だ。
自分にはとても止めることは出来ない。慧音はそう強く感じた。
一方で、不死鳥の炎を前にしても、英志の顔には細波一つ立っていなかった。
「どうやら幾つか思い違いをしているようですね、妹紅さん。私は政府を作ると言ったのです。幻想郷を統一するなどとは言っていない」
その言葉に、慧音も妹紅も眉を顰めた。
「貴女方の言うとおり、妖怪の勢力をまとめ上げることは不可能でしょう。しかし、人間ならばどうでしょうか。この幻想郷では確かに妖怪が強い勢力を持っているのかもしれません。しかし一方で、妖怪は人間無しでは存在できない。人間の政府が存在しえた場合、妖怪達もその存在を無視することは出来ません。八雲紫ですらそうでしょう。後は我々日本国が、新たな政府を交渉相手として承認すればよい。妖怪勢力をどうこうする必要はありません」
「なるほど……」
確かに、妖怪たちの自治権を認める英志の案ならば、反発は少ないだろう。基本的に妖怪は我儘で独り善がりである故に、干渉さえしなければ、人間の里の出来事に頓着することなど無いのだ。
「だけど、そんなことが出来るもんかよ。結局、妖怪への抑止力は必要になるんだろう。完全に人間の味方で、妖怪に影響力を持ち、しかも政権運営能力を持つ人間なんて、幻想郷の何処にいるってんだ」
「いえ。私の記憶が間違っていなければ、たった一人だけ存在するはずです」
英志は書状を丸め、眉根を寄せる妹紅と慧音へ差し出した。
「さあ、この書状を届けて頂けますか。古の王の元へ」
「あら。やっぱりまた来たのね」
夜陰、文が永遠亭の縁側を訪れた時、輝夜はまたもや謎の行動をしていた。
「今度は何ですか、それは」
「知らない? 美顔ローラーよ。美容に良いのよう」
金属製のローラーを顔に当てて、コロコロと転がしているのである。張りのある輝夜の若い皮膚が、ローラーの圧力を受けてぐにぐにと歪み、とても異性には見せられないような顔になっている。
本当に何をしているんだ、この女は。
「何よ、シケた顔しちゃって」
ローラーで顔をぐにぐにしながら輝夜が言う。
「今の貴女の顔よりはマシだと思いますが」
「沈む美人より笑顔の不細工なのよ、モテるのはね」
「なら、貴女はさぞかしモテるのでしょうね。美人な上に、年中無休で能天気に笑い転げていられるご身分なのですから」
「そりゃそうよ。平安のプレイガールをナメんじゃないわよ?」
輝夜に皮肉は通じない。あっけらかんと受け流されてしまった。もしかしたら輝夜は、自分が何もしない暇人であるという事、それ自体を誇りに思っているのかもしれない。穀潰しである事に誇りを持つなど、普通の神経では考えられないが。
「それで? あくせく働くサラリーマンさんは、一体何しにいらしたのかしら?」
散々な言われようである。
「当ててみてください」
「へえ」
文が言うと、輝夜はニヤリと笑った。
しかし、文がそう言うのは、輝夜の言動に気分を害したからだけではない。
文は輝夜を信頼し始めていたのだ。正確に言えば、輝夜の智を。
「そうね……」
輝夜は指で宙をなぞる。
軌跡は光り輝く一筋の線となり、宙空に残った。それに両手を突っ込んだ輝夜は、目を見開くと、光の筋を上下に押し開ける。
空間の裂け目が開き、その向こう側には、得体の知れない目玉達が蠢いていた。
八雲紫の力の一つ、空間の断裂、隙間。それを輝夜は再現して見せたのだ。
しかし、上下に開かれた光の筋は見る見る輝きを失い、空間の断裂はボロボロと崩れ落ちてしまった。
「ありゃ。案外安定が難しいのね、これ」
「それを自在に扱う八雲紫は、流石と言った所でしょう」
「そうね。私には扱えそうもないわね。貴女がそうであるように」
「貴女も、流石な様です」
八雲紫の隙間を支配する力は、実は元々、誰にでも備わっている力である。人は誰しも、自分だけの場所を創り出す力を持っている。それが強いか弱いか、それだけの差。
もちろん、隙間を創り出す事くらい、文にでも出来る。しかし、八雲紫ほど上手く扱う事は出来ない。人にそれがあるように、妖怪にも得手不得手があるのだ。それが即ち、生と呼ばれる事象なのである。妖怪も生きている。あの「か弱い」八雲紫の強さの根源は、生命、その根源と同じなのである。
「噂の外交官。どうやら、思った以上に危険な様ね? 話を聞かない聴講生が、一息で素直になってしまうなんて」
「認めましょう」
「あらあら。かわいいわね。でも、怖いわ。貴女は従順な時が一番怖ろしい。翼の下で爪を研いでいる、そんな顔をしているもの」
口ではそう言いながら、輝夜はニヤニヤと笑っている。美顔ローラーで肩を叩きながら。
「私の予想に確証を与えに来た。そんな所かしら」
文は頷いた。
「その様子では、既に察していた様ですね」
輝夜は賢者逹の存在、その確証を求めていたのである。今まで文から買った情報から、文はそう予想していた。そしてそれはズバリ、的中していたのである。
異邦人である輝夜は、幻想郷に馴染もうとしている。そのために大規模な宴会や月都万象展などをとり行い、人を集めていた。
おそらく輝夜は、賢者逹の一員になろうとしているのだろう。それが幻想郷に受け入れられる最大の近道だと考えているに違いない。
「如何にも、ありそうじゃない。何処にでもそういうのを好む輩はいるものだわ」輝夜はフッと自嘲気味に笑った。「月にもね」
「成る程、如何にも、ありそうですね」
だからこそ、輝夜は月を追放されたのかもしれない。だからこそ、輝夜は月を捨てたのかもしれない。
「彼等は愚かにも、自分達を賢者と定めています」
輝夜は腹を抱え、声を上げて笑った。
「そういう事を考える輩の趣味は万国共通なのね」
よほど可笑しかったのか、雅な衣の袖で涙を拭きながら言う。きっと、月の「影の支配者気取り」の連中も、同じ様な名前を名乗っているのだろう。
文は知っている限りの賢者達の名を挙げた。輝夜は黙ってそれを聞いていた。その顔に動揺は見られない。
「……そして最後に、風見幽香です」
その名を口にした瞬間、輝夜の眉がピクリと動いた。
「風見、幽香……」
さしもの輝夜も、その名が賢者達の一員として刻まれている事を、予想していなかったようだ。
「面識はある。酒宴でも同席した事があるし、永遠亭の花も彼女から分けてもらっている。敵対的ではない。寧ろ、この幻想郷では珍しいほどに紳士的でさえある、しかし……確実に、強者」
文も同意見だ。
風見幽香は異質である。
稗田阿求はその著書、幻想郷縁起にて彼女を「妖怪らしい妖怪」と評したそうだが、ある意味でそれは的を得ているのかも知れない。
幻想郷において日常を得、変質した妖怪と言う存在。彼女は変質する前の妖怪に近い気がしている。それは総じて単純である。人の恐怖、怒り、迷いや苦しみ、憎しみに怨み、そして快楽や幸福、美しいと思う感情。自然への畏怖。それらが妖怪のアーキタイプである。考えてみれば、風見幽香という存在は実にそれに忠実ではないか。まるで花のように美しく、嵐のように暴力的で、海のように穏やかに、山のように聳え立ち、雨のように慈悲あふれ、風のように爽やかに……
「彼女に支配欲があるなんて、到底思えないけれど……」
「人は見かけに寄らないものです。貴女が到底、智者に見えないように」
「貴女も実力者には見えないわよ、情報屋さん」
「或いは、彼女は他の賢者達の暴走を止める為に参加しているのかも知れませんね。あの西行寺幽々子のように。尤も、賢者達という組織自体、出来上がった時から形骸化している、老人達のごっこ遊びの場に過ぎないのですが」
賢者と定める者達の中に、文が認める智者はわずか一握りもいない。それは天狗社会の統率者であり、文の上司にあたる天魔も例外ではない。どいつもこいつも力も知恵も思慮も品性すら足りず、八雲紫の太鼓持ちに過ぎないのである。紅魔館の幼い吸血鬼や、守矢神社の柱神が現れてからというもの、いよいよ形骸化が進んでいる。むしろ、賢者逹でない者達のほうが、賢者を名乗るに相応しい。全くもってお笑い草である。
「まあ、統制なんて取れそうもないしね。特に風見幽香とかね」
「そういう事です」
「しかし、意外だわね。賢しいウチのイナバも入っていると思ってたんだけど」
「因幡てゐですか。『ボケ老人の介護なんてまっぴらごめんウサ、馬鹿共同士、勝手につるんでるが良いウサ』……だそうです」
文が声真似をすると、輝夜は大爆笑した。縁側に転げ回ってひぃひぃ言っている。本当に姫なのだろうか、こいつは。
「超似てるー、あんた、芸人でも喰っていけるわよ」
「まさかこんなにウケるとは」
今度の新年会の一発芸にでもしようか。文は文化帖に書き留めておいた。
「その他の事は、言うまでもないでしょう。全て貴女の予想通り」
「ああ、じゃ、やっぱり政府を作るとか言い出してるのね、件の外交官は」
もちろん、輝夜も予想していたようだ。
考えてみれば、当然である。八雲紫が交渉に乗る訳が無いし、その場合に外交官に残された手段は、幻想郷内部に協力的な勢力を作り上げる以外無いのである。あの外交官が戦争回避を目的としている限り、それしか無い。何故なら、一人目の外交官は誰かに殺害されているからだ。逆を言えば、二人目の外交官・瀬名英志は真に戦争回避しようとしている証拠になる。
輝夜の言った言葉の意味が、文にも段々と理解出来るようななってきた。
滝の水が崖から流れ落ちるように。今の事態は、成るべくして成っている。
おそらく、この異変の切っ掛けも。
「これで貸し借りは無しです」
「本当、クソ真面目ね」
「借りを作ったままでいるのは、性に合わないもので」
文は黒い翼を開いた。要件は済ませた。必要以上に輝夜と話すことは、危険だと判断したのだ。
去り際に輝夜は言った。
「お次は神霊廟かしら?」
輝夜は本当に、何もかも見通しているらしい。
「いえ。もう行きましたよ。あの外交官、思ったほど手際良くはないようです。だから、幾つか先回りをさせて貰いました」
「ああ……」輝夜は今更、袖元で口を隠しながら笑った。「性悪だわね、あんた」
文が何を目論んでいるのか、この人間らしくない姫はすぐに察したようだ。ただの一手から、数手先までを読まれてしまう。うっかり口を滑らせられない。
「天狗の利益を最大にするように動く。それが私の使命ですから」
「交渉役にされたって訳ね。中間管理職は大変ね?」
「私もたまには、だらだら過ごせる姫になってみたいものですよ」
あっはっは、と文は笑った。
しかし、輝夜は笑っていなかった。
薄明かりの中、袖で口元を隠し、顔の半分も見えないが、その目は哀れみを孕んでいるように見えた。
「――そうよ、文。あんたは中間管理職に過ぎない。それがあんたの選んだ道なのだから。もしも真実が残酷であった時、どうか自分自身の理に殺されぬように……」
いつになくか弱い声でそう言う。
それは、夏頃、天狗の山でアリス・マーガトロイドに浴びせ掛けられた台詞と似ていた。
『天狗を滅ぼすのはあんた自身だ』
『穢れた真実に喰い殺されるがいい』
アリスの辛辣な謎掛けが、今も脳髄の奥に突き刺さったまま。
「あんたは少し真面目過ぎる。友人として、私はそれが心配……」
文の目を見つめながら、輝夜がぼそりと口にした。
胸がドキリとする。思ってもみなかった言葉であった。
「友人、ですか。月人にもそのような情緒があるとは驚きです」
思わず、辛辣な言葉で返してしまう。しかし輝夜は気にした風も無かった。
「あら、こういうのはお嫌いかしら?」
「……いいえ。悪くはありません」
照れ隠しに突き付けた指。
「しかし、馴れ合いはしません。私を懐柔した所で、天狗連の大方針は変えられませんよ」
うふふ、と静かに輝夜は笑う。
「でしょうね。中間管理職さんには、ハナっから期待してないわ。私達も天狗の利益とやらに配慮するつもりは毛頭無いし」
「それでこその幻想郷です」
やはり、蓬莱山輝夜は怖ろしい女であった。
文の心にも、この人を敵に回したく無いという思いが生まれてしまったのだから。
妹紅は目を丸くしていた。
「な、なんだ? 神霊廟って、こんな所だったのか?」
朝の日差しを浴びて煌めく銀髪が、爽やかなそよ風に揺らめいていた。蒼空を飛ぶ極楽鳥の鮮やかな色を背景にしても、それらが引き立て役にしかならない。妹紅は地に降りた天使である。
妹紅の驚愕は無理もないだろう。初めて見た時、慧音も腰を抜かすほど驚いた。
神霊廟。幻想郷の隙間に、道教を信仰する豊聡耳神子が仙術によって創り出した亜空間。
亜空間と聞くと、どんよりとした灰色の空に無機質で冷たい建造物、人気の無さを想像しがちだが、神霊廟はその真逆だと言って良い。空は青く澄み渡り、山は萌え鳥は飛び蝶は舞い、川のせせらぎが耳に心地良い。堅牢に造られた家々は華美な装飾の無い簡素な作りながら瀟洒であり、広い街路に沿って整然と並んでいる。碁盤目状に走る街路にはたくさんの行き交う人々や牛車が活気に溢れている。その賑わいは里の目貫通りにもひけと取らない。中心に聳える神霊廟は威厳に満ちているが威圧的ではなく、大きく開かれた門が親しみを与えている。街の外周は高い石の城壁でぐるりと囲まれ、妖怪に襲われる心配も無い。
おそらくは中国の城塞都市を手本にこの神霊廟を作り上げたのだろう。道教に精通する神子ならば考えそうな事である。
しかし、恐るべきはその構築期間である。神子達が出現してから日も浅いと言うのに、この完成度。しかも建築は神子の仙術ではなく、人間の手によって行われている。かく言う慧音自身も城壁構築を手伝ったことがあるのだ。伝説の通り、いやそれ以上に神子は政治力、特に行政面の知見に長けていた。
「これは……想像以上ですね。流石は聖徳王です」
街路を歩く外交官・瀬名英志も感心し切っている。
「城壁内部には山や畑もあり、川も流れている。自給自足すら可能なようだ。この街は完全に一つの都市機能を持っています。独立国家と言っても差し支えない」
実際には人里からの物資供給がなければ神霊廟と言えども存続は出来ないだろうが、かなりの長期間、孤立状態でも持ちこたえられるのは真実である。
よくよく考えてみれば、この神霊廟は戦闘の為に造られた要塞のようにも思える。この場所が存在するだけで、戦乱の火種になりかねないのではないか。現に、外界の外交官はこの城塞都市の完成度合いに目を輝かせている。この場所を作り上げた神子は、そして構築を止めもしなかった八雲紫は、一体何を考えていたのだろうか。
「しかし、いいのかエーシ。その格好で」
英志のジャケットの右袖は、妖怪に襲われてボロボロになったままである。流石に血は拭ったようだが。
「聖徳王殿に会う前に、繕ってやろうか?」
「いえ。大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
英志はその左手で右腕を強く掴みながら言う。襲われた痛みを思い出しているのだろうか。聞けば、なんでもあの花の妖怪、風見幽香に助けられたと言うが……。
「これは自分への戒めです。軽率な行動で全てを無に帰さぬよう」
「そんなものか」
理由がよく分からないその頑固さが、瀬名英志という人間の持つ個性なのかもしれない。
慧音達三人は中央の目貫通りを進み、やがて目指す神霊廟へと到着した。
普段は参拝客や修験者で賑わっている神霊廟だが、今日は閑散としている。門の入口に立つ神子の弟子と思わしき修行装の青年達が、参拝に訪れた人々を通さず、人払いをしているためだ。外交官、即ち英志との交渉を行うためである。
慧音と妹紅によって英志の書状を届けられた神子は、使者を通じて二つ返事で会うことを確約した。交渉の会場として指定されたのが、神霊廟だった。神子にすれば、己の威厳を示すのに絶好の場所なのであろう。実際それは功を奏していた。
門の入口にて英志が名乗ると、慧音達は神霊廟内の霊堂へと通された。
窓の少ない霊堂の内部は薄暗く、怪しげな雰囲気が漂っている。
壁には朱色で抽象的な龍、それも五爪龍が描かれている。五爪龍と言えば龍の最高位の存在であり、中国では皇帝以外にはその意匠を用いることが許されなかったという。龍神の怒りに触れそうなものだが、それを恐れもしない神子の自尊を端的に示している。
壁際に設置された台の上には様々な宝物類――銅鏡や宝剣、玉などが展示されていた。簡素ではあるが、並ぶ品々は一級品に違いない。神子の趣味がうかがえる。
「うわっ……」
天井を見上げた妹紅が声を上げた。
見上げた先には、見事な天井画が描かれていた。
紅蓮の焔に灼かれる無数の手が縋るように伸びる先。中心に鎮座するは、後光を背負い、紫雲に乗り、手に笏、腰に七星剣を佩き、髪を逆立てた美しい女性。豊聡耳神子である。半眼で哀れみとも笑みともつかない、神々しい表情をしている。さながら、仏教画の弥勒菩薩だ。神子による救世の様を描いているらしい。
「こりゃぁすごいなぁ……」
元貴族であり、美術品への造詣も深い妹紅をして感嘆させる程である。後世まで語り継がれる作品であるに違いない。
「これが、聖徳太子……?」
一方、英志は美術にあまり興味がないのか、天井画を見上げてぼんやりとしている。男性のそういった感性は往々にしてあるものだが、これほどの芸術を前にしても心動かされない所を見ると、外界の人間の感性は劣化しているようだ。それとも、この外交官の感性が特別鈍いのだろうか。
「ようこそ、神霊廟へ」
凛々しい、しかし何処か暗い声が、霊堂内に響いた。
薄暗がりの中。少ない窓から差し込む光の道の向こうに、人影が浮かぶ。和の文字の書かれたヘッドホンに、角のように髪を逆立てた特徴的なシルエット。
「付き添いの上白沢女史に、そちらは藤原妹紅殿か」
豊聡耳神子、その人である。
しかし、天井画のそれとは違い、その表情には陰が差している。覇気も無く、存在すら薄まったようにも思える程である。
「その節は世話になったね」
神子は妹紅の方へ会釈する。少し前に起きた都市伝説騒ぎの最中に面識を持ったらしい。
「なんだ、どうした。具合でも悪いのか? 不老不死の仙人のくせに」
妹紅は怪訝そうな表情でストレートに疑問を口にしたが、神子は軽く笑って流してしまった。
正直に言って、慧音は神子を警戒していた。
神子は神霊廟にて真剣に治安や治水に取り組んでおり、完全に人間の味方であるのだが、同時にどうしようも無く好色で、さらに唯我独尊を地で行く性格なのである。特に好色具合は自ら吹聴して回るほどで、その対象は男女を問わず、美しい者と見ればすぐに寵姫として囲おうとする癖があるらしい。そんな者の所に妹紅を連れてくるなど、猛獣の檻に子鹿を投げ込むようなものなのである。
だが今、目の前に立つ神子は、生気も感じられず、妹紅の美貌に反応すらしないのである。拍子抜けを食らった思いがする慧音であった。
「君が外交官かね。期待したほど好青年ではないようだな」
神子はようやく英志のほうに向き直った。……それにしても、すさまじい言い草だ。流石は神子である。調子は下がっているようだが、その性質が消えたわけではなかったらしい。
英志は気にした風もなく、丁重に礼をすると、名刺を取り出しながら言った。
「はい。私は日本国政府から派遣された外交官、瀬名英志です」
神子は英志の差し出した名刺を受け取って眺めるが、その表情には特に何も浮かばなかった。虚無である。
一方の英志も、どこかぼんやりとした表情を浮かべている。目の前で起こっていることが信じられない、まるでそんな顔だ。
神子は手招きすると、中央付近に設置された長机へと慧音達を誘導した。装飾の施された黒い長机が口の字に配置され、その上には茶が用意されており、淹れたてのジャスミン茶が香りを放ってる。
神子の従者である物部布都と蘇我屠自古がすでに席についていた。神子は疲れた様子で、彼女達の間の席に腰を下ろした。
布都と屠自古が神子の顔をチラリと見やるが、二人の表情も暗い。神子の不調を心配しているのだろう。
慧音達が対面の席に着こうとすると、神子は首を振った。
「君たちの席はそこではない。そちらへ」
そして、神子達の席のある辺の隣の一辺を指すのである。
困惑しつつも、慧音達は指差された一辺の席に着いた。
机を挟んで、斜めに対峙する英志と神子達。どことなくシュールな絵面である。そもそも、二者交渉なのに、何故神子は机をこのように配置したのだろうか。
「聖徳王殿。この度は交渉の場を設けて頂いた事、心から感謝申し上げます」
英志が格式張った台詞を言うと、神子は面倒くさそうに言った。
「堅苦しい挨拶はそれくらいにしてくれ給え。ここは儀礼的な場ではない。お互いに損しかないだろう」
出鼻を挫かれた英志は少し詰まったが、すぐに言葉を継いだ。
「では本日の要件から入りましょう。聖徳王殿には……」
「この神霊廟を国家として宣言して欲しい、そのための支援は惜しまない……そんな所か」
神子に先回りされた英志は、言葉を失った。
流石は聖徳王である。英志からの書状を受け取った時点で、その狙いを察していたのだろう。
「――はい。我々日本国政府は、神霊廟が国家としての要件を十分に満たしうると考えています」
英志が取り繕って言うと、
「君は、若いな」
神子が断じた。
「もう少し物事の背景に気を配り給え。その話をするには少々役者が足りていない」
「私では役者不足、と?」
英志は眉を顰める。
「その言い方は正確ではない。どうやら教育が足りていないようだね、上白沢女史」
「え? は……」
急に話を振られて、慧音は焦った。思わず変は声を出してしまう。
「まあ、いい。たった今、役者が揃ったようだからね」
神子はそう言って、霊堂の入り口に視線を向けた。皆、その視線に倣った。
するとその時、霊堂の扉が勢いよく開け放たれた。
「頼もう!」
差し込む光を背に立つ三人の人影には、見覚えがあった。
先頭の、腕を掲げて凛々しく立つ、喧しい割に陰が薄い少女が、入道使いの雲居一輪。
脇に立つ、柄杓を構えた水兵服の少女が、舟幽霊の村紗水蜜。
そして奥に控える、菩薩のような表情で圧倒的な存在感を放つ尼僧が、命蓮寺の実質的な指導者、聖白蓮である。
「ようこそ。神霊廟へ」
商売敵の突然の襲撃にも、神子はその虚ろな表情を変えもしなかった。
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