ナザリックへと消えた英雄のお話 (柴田豊丸)
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始まり

作者はオンラインゲームをやった事がありませんので、どこかおかしい箇所があったら指摘を頂けると嬉しいです。

2015年10月15日
矛盾解消の為の設定変更に伴い、本文の一部を改変しました。

2015年11月17日
ご指摘があった誤解を招く表現を改変、一部文章を追加しました。
追加した部分を見て「あれ? でもこの記述だと、どこそこの文章と矛盾してる気が?」となった場合は、お手数ですがご指摘を頂けたら幸いです。


「うりゃあ!」

 

 氷雪に覆われた広大な雪原の只中で、冷気の塊が大雑把な人型をとったような敵、ミニマム・フロスト・エレメンタル【小さな冷気の精霊】に拳足を叩きつけながら、イヨは咆哮した。白金の三つ編みを振り乱し、金の瞳で相手を睨み付け、外見年齢にして十五歳未満の小さな身体を全身全霊で駆動する。まるで少女の様な整った顔貌は、溢れる戦意で染められていた。

 

「あーもう、どうせ最後なんだし、適当にアイテムを売って他の武器を買えば良かったかなぁ!」

 

 イヨの武器である肘から先を覆う腕甲と膝から下を覆う脚甲は、共通の素材から作られた揃いの品だ。外見は、灰色の革に荒い研磨がなされた金属のプレートを組み合わせたもの。濁った金色と黄土色が混じりあった金属は加工を経てなお鉱毒を含んでおり、打撃した相手の神経を侵し、動きを阻害する特殊効果を持つのだが──この雪原に主に出現するモンスターはエレメンタル系。つまりは非実体であり、物理無効化と毒を始めとする状態異常無効化能力を合わせ持ったモンスターだ。

 

 武器の相性が思い切り悪い。一応は魔法の武器なので多少のダメージは通るのだが、効率は最悪に近い。腕甲【ハンズ・オブ・ハードシップ】と脚甲【レッグ・オブ・ハードラック】は、特殊効果を持つ分、純粋な威力は同ランク──聖遺物級の一つ下、遺産級の武器の中では低い方なのである。

 物理攻撃に対する完全耐性を有するモンスターにダメージを与える他の方法は魔法か、スキルやアイテムの使用などがあるが、ケチの気があるイヨは消費アイテムや使用回数制限のあるスキルを、ボスでも無い雑魚敵相手には使いたがらない癖があった。その上、随分前に魔法拳士という言葉に憧れて取った一レベルの魔法職で使える攻撃魔法は一つも無く、殆ど趣味のRP用に取った実用性の薄い魔法が三つあるだけだった。

 

 だから結局、効きの悪い武器である腕甲と脚甲で只管殴って蹴る事になるのだ。幸いにして、防具である三段可変鎧【アーマー・オブ・ウォーモンガー】は冷気や魔法に高い耐性を持っているので、受ける分にはある程度神経質にならなくて済むのが救いと云えば救いか。

 

 数十度の殴打の末、ようやく霧散していくモンスターを見送り、イヨは溜息を吐いた──気になった。勿論ここはゲーム内で、イヨは篠田伊代が操作するキャラクターに過ぎない為、表情などは変わらないが。

 

「たしか前もこれで諦めたんだよね、相手は状態異常無効だって忘れてたよ……」

 

 しかも、本来ならこの雪原フィールドは三十台半ばから後半程度のレベルで挑むのが適正とされる難易度だ。イヨはレベルアップを間近に控えた二十九レベルで、しかもソロであった。ボスでもないモンスターに出くわすたびに足止めを食らい、刻々と時間は過ぎて往く。

 

「今は……二十三時五十三分……無理だったかぁー」

 

 目的地はこの雪原の向こう、山脈の根元にある洞窟型のダンジョンだったのだが。あと七分ではどうしようもない。一度も敵と遭遇せずにひたすら走り続ける事が出来たとしても、洞窟の入り口を拝む事すら出来ないだろう。

 

「リタイアしたダンジョンにリベンジならず……今日が最後だったのになぁ」

 

 今日は、かつて一世を風靡したDMMO─RPGのタイトル──ユグドラシルのサービス最終日なのだ。篠田伊代がこのゲームを始めた頃にはとうに全盛期を過ぎ、相当に過疎ってはいたが、それでもマニアにとってはこのジャンルで一番のゲームといえばユグドラシル、と一押しされる古典の名作だった。

 

 受験からの解放感から面白いゲームを探していたかつての篠田伊代は、ゲーム好きの友人に勧められたユグドラシルに一時期嵌っていたのだ。所謂RPを重視するプレイヤーも多く、リアルで経験のあったTRPG的な遊び方が出来る土壌があるというのも嵌った理由の一つだ。道場に通う時と友人と遊ぶ時以外の余暇時間をユグドラシルに注ぎ込んでいたが、高校生活が始まって部活に熱中するようになり、以降今日の今日まで殆ど手を付けなかった。そんな折に友人からユグドラシルが終わると聞き、彼は急にこのゲームが懐かしくなったのだ。

 

 今日で終わり。

 

 友達と一緒に作成したアバターも、ゲームで出会った新たな友人と集めた素材で作った武具も──あのゲームそのものが全て終わる。

 

 思いに駆られるままにユグドラシルにログインした篠田伊代は、久しぶりに分身であるイヨとなって冒険に出た。目的は、サービス終了時刻である二十四時までに、かつて諦めたダンジョンを踏破する事。装備品やアイテム類を点検する時間すら惜しんでフィールドに出たのだが──

 

「間に合わなかったなー」

 

 ただでさえイヨにとっては難易度の高い狩場だ。しかもブランクの間に移動ルートを忘れて無駄歩きをし、戦闘技術まで錆びついているときた。時間が掛かるのも当然である。事前にwikiでルートを調べる事すら思い至らない猪突猛進さのせいもあるだろうが、正直に言ってお粗末であった。

 

 今頃街では花火やらイベントやらで盛り上がっているのだろうし、GMからの通知もひっきりなしだろう。狩場にいて通知類の全てをシャットアウトしているイヨにはさっぱりだが。

 

 終わり際の今になって思うが、イヨはユグドラシルの全てを楽しんだとは口が裂けても言えない。そもそもレベルからしてたったの二十九だ。単純に云ってもあと七十一レベル分の伸びしろがあるし、ゲーム全体の大きなストーリー展開の進行度からいっても初歩の初歩。無数のクエストの一%も熟していない。それらと共にある筈の強大なモンスター。対抗する為のまだ見ぬ武器や防具類、装飾品、特別なマジックアイテム。およそ二百あると云われているユグドラシルで最高峰のマジックアイテム、ワールドアイテム。

 

 ユグドラシルにおいて、イヨはモンスターと戦う事に喜びを見出すタイプのプレイヤーであった。

 

 ユグドラシルに限らず、ダイブ型のゲームでは現実の身体能力や技能が操作するアバターの動作に少なからず影響を及ぼす。無論、それだけで絶対の差がついてしまうほどのものでもないし、ゲーム側からもアシストやサポートがあるが、その少しの差が時として大きく響いたりするものなのだ。この影響は拳や剣で戦う前衛職が最も大きい。前衛職の最高峰たるワールドチャンピオンの一人は現役の格闘技の王者であるほどだ。

 

 現実でも空手道での全国大会優勝経験を持つイヨだが、スポーツ格闘技とは詰まる所、人間と人間が同一のルールを共有し、そのルールを順守する事を前提としたものである。極端に自由度が高い上に敵が人間だけでは無く、プレイヤーさえもモンスターそのものである異形種を選択可能なユグドラシルで、そのまま通用する訳は無い。

 

 だからこそイヨはモンスターとの戦いに嵌ったのだ。対人間とも対動物とも違う、魔法やスキルまでも含めた正に何でもありの戦いに。アーマード・ストライカーやマスター・オブ・マーシャルアーツ等の拳を始めとした五体で戦う系統のクラスを重視して選択し、持ち前の技術と負けん気を発揮して戦ってばかりいた。

 

 ユグドラシルのサービスが始まったばかりの頃、最初期のユーザー達の眼前に広がったのは本物の『未知』であった。何から何まで本当に自分たちで発見し、解明し、解析せねばならなかったのだ。

 最後期世代のプレイヤーであるイヨ達がゲームを始めた時点では流石に定石が確立され、各種別ごとのベターな職業構成、レベル帯や職業ごとのオススメの装備、効率的な自キャラの育成法、アイテムの入手方法などが確立されてはいたが、ゲームをする時に説明書も読まずネットで検索する事も一切しない主義のイヨには何も関係なかった。

 

 ユグドラシルにおいて、レベル九十台後半まではかなり早くレベルアップする。これは『レベルダウンを恐れて未開地を開拓しないのではなく、勇気を持って飛び込んで新たな発見をすべし』という製作会社の願いがあった為と言われている。

 

 特に低レベルの内は本当に早く、適正な強さのモンスターと戦えば戦うほどレベルアップしていくのだ。ユグドラシル全体を覆う未知の中で、眼に付いた部分で遊びまわっていたらどんどんレベルが上がっていった。

 それを、イヨは勿体無く感じた。

 ユグドラシル全体の姿が全く見えていないのに、目の前の戦いを熟していったらどんどん上に行ってしまう。後から通り過ぎていったレベル帯で「実は面白いダンジョンがあった」「変わった外見や攻撃をしてくる珍しいモンスターがいた」という発見があっても、レベル的に離れ過ぎているとそれだけで面白く戦えない。極端に言うと、工夫も何もなく殴っていたらそれで勝ててしまうのだから。

 

 だから、通り過ぎていったレベル帯で新しい発見がある度に、イヨはデスペナルティでレベルを下げて戦いに行っていた。「下から順番に上へ」「見も触れもしない内に通り過ぎていった部分をちゃんと楽しみたいから」という理由で。

 

 たたでさえライト層のエンジョイプレイヤーで、しかもそんな遊び方をしていた訳だから、当然ゲーム自体の進行は遅かった。下の方ばかりをうろちょろと遊びまわっていたとしか言えないだろう。

 最高到達レベルは五十七レベルだった。だから装備やアイテム等はレベルの割に上等なものも多い。その分レベル自体をより下げる必要が出てきた。レベルアップが速すぎて死ぬのが面倒臭いと文句を垂れたのはイヨくらいだろう。異形種の友人が上位種族になる為の前提条件に一定以上のPk数を求めれていた為、良く殺して貰っていた思い出もある。

 

 五十七レベル以上の戦いを、高レベルプレイヤーのみが闊歩できるフィールドを、強力なアイテムを、イヨは経験したことが無い。その分、低レベル帯のダンジョンやフィールドを人並み以上に堪能しはしたが。

 

 遊んでも遊んでも遊び尽くせないほどのボリュームが、ユグドラシルには在った筈なのに。

 

 無論、ユグドラシルではなく現実の世界で時間を過ごしたが故に学べたこと、体験できたこと、獲得できたこと。それらも紛れも無く貴重で素晴らしいものだが、それとこれとは話が別である。

 そんな事を考えている内に、現在の時刻は二十三時五十九分だ。ユグドラシルにいられる時間は、分身であるイヨでいられる時間は、あとたったの一分だけになっていた。

 

「楽しかったー! ……けど、もうちょっと遊びたかったなぁ」

 

 まごうことなき本音。しかし、もう終わりだ。ログアウトしたら直ぐに寝なければならない。明日もいつも通りに学校へ行き、授業を受け、関東大会に備えて部活動に励むのだから。

 ちらりと視界内に浮かぶ時計を見れば、残された時間はあと十五秒しかなかった。

 

 イヨはゆっくりと夜空を見上げる。満天の星々が輝く空。勿論それはそういう風に作られただけの仮想のものだが、今の世では現実に見る事が出来ないものでもある。五十年ほど前の地球環境を撮影した記録機器の映像を学校で見たことがあるが、それでもここまで綺麗では無かった。

 

「そういえば、夜空を見上げるなんて初めてだな……」

 

 こんなに綺麗だったのか。ユグドラシルで遊ぶ時間の大部分を、イヨはモンスターとの戦闘や、戦う為の装備品の充実に費やしていた。

 ──もっと他の、未知を既知とする、誰も見た事の無い景色を見る様な遊び方もしてみれば良かった。イヨは今更になってそう思った。

 

 

『俺、今日はずっとユグドラシルで過ごす!』 と涙目で宣言して学校をさぼったゲーム好きの友人。ユグドラシルというゲームを篠田伊代に勧めてくれた張本人であり、今日がユグドラシルのサービス終了の日である事を伝えてくれた恩人だ。

 

 完全に過疎と化し、街を歩いていても中々人とすれ違わない始まりの街で出会った五人の友達。彼ら彼女らが、ゲーム内で出来た初めての友達だった。このゲームでは街中にもモンスターが出るのか、という勘違いから殴り合いが始まってしまったのが切っ掛けだったが、六人での大乱闘の末に仲良くなれたのは楽しい思い出だ。

 

 フィールドでかち合った他のプレイヤーと口論している最中にモンスターの群れに襲撃され、咄嗟に同盟を組んで戦った時もあった。最初は十七人いたプレイヤーの内、最後まで立っていられたのは、イヨともう一人だけだった。その異形種のプレイヤーとは後々まで続くライバル関係になったものだ。

 

 その他にも無数の思い出が浮かぶ。

 

 記憶の中の輝きと、目に映る星々の輝きが重なって見えた。良い気分だ。

 

 残り五秒。イヨは眼を閉じた。

 

 次に目を開けるときは現実だ。そう思いながら数を数える。五、四、三、二、一──

 

「さようなら、ユグドラシル。楽しかったよ」

 

 ──零。目を開ける。

 

「え?」

 

 

 

 

 

 

 眼を開けると、其処には星空も自室の天井も無かった。其処は──深い森だった。

 



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此処は何処

2015年10月15日
矛盾解消の為の設定変更に伴い、本文の一部を改変しました。


 ぐるり、と辺りを見渡す。その際に遠心力で三つ編みが揺れ、視界を掠めた。つまり、自分はまだイヨであり、自室で椅子に座っていた筈の篠田伊代では無いという事だった。

 

 ──ゲームをしている最中に誘拐され、森のど真ん中に置き去りにされた訳ではないらしい。そもそも、こんなに豊かな自然の森は世界のどこにも残っていない筈なので、此処が現実と云う可能性は元から考え辛いのだが。

 

「サーバーダウンの最中に異常でも起こったのかな……?」

 

 それで冷気系エレメンタルが犇めく雪原から、何処かの森林フィールドまで移動してしまったのか。

 

 森は余りにも深い。足元は大小の木の根で隆起し、平坦な場所は全く無い。見える範囲の地面は支離滅裂にうねっているし、苔や低木、見渡す限りの雑草で覆われている。所々に巨大な茸が生え、木の幹には獣の爪で付けた様な傷跡があった。

 

 その木もまた巨大だ。街路樹などとは比較にならない。細い木はイヨが一人で抱き締められる位でしか無いが、大きいものは大人三人が手を繋いでも一周できないだろう。それらが上下左右全ての空間に幅を利かせ、視界の見渡しは悪く、非常に薄暗い。枝葉が太陽光を遮っているのだ。

 

「来たことないな、ここ……視界内のゲージやタイマーも消えてるし……これって僕だけなのかな。他のプレイヤーもこんな目にあってるとしたら、みんな何処かに──」

 

 もう一度辺りを見渡す。居そうもない。

 動植物系のモンスターなら幾らでも湧いて出そうだが。此処がもし高レベルプレイヤー向けのフィールドであったなら、モンスター一体とエンカウントするだけでイヨなど二秒で死ねる。

 

 あの連中は対策無しだと『見たら死ぬ』『見なくても近寄ったら死ぬ』『近寄らずとも知覚されたら遠隔攻撃で一方的に殺される』という理不尽が普通にあり得る。防具である【アーマー・オブ・ウォーモンガー】の三形態の内、今は最も平凡な性能の代わりにデメリットも無い衣服形態だが、最も物理・魔法防御能力に優れた重装鎧形態でもレベルの暴力の前には紙ぺら同然である。デコピン一発にすら耐えられずに弾け飛ぶ事になるだろう。

 

 ユグドラシル最後の瞬間を死体で迎えるなどさらさら御免であった。

 

「こういう時はGMに連絡すればいいんだっけ? どうやるんだったかな」

 

 何せ久しぶりのユグドラシルだ。戦闘に関しては勘が戻ってきたが、細かい操作は未だ記憶の霧の向こう側である。イヨは暫し頭を捻り、結局思い出せず、先ずはコンソールを出そうとして──

 

「あれ……」

 

 コンソールが浮かび上がらない。

 

 本格的におかしい。そう思いながらイヨは更に頭を捻り、コンソールを使わないシステムの強制アクセス、チャット機能、強制終了を試す。どれも不発だった。

 

「──どういう事?」

 

 漸く事態がただ事では無くなっていると気付き、イヨは焦る。ゲームでのトラブルであれは頼りになる友人がいる。サービス最終日である事を教えてくれた友人だ。彼は今日間違いなくユグドラシルにログインしている筈だが──連絡が着かない。フレンドリストの一番上に乗っているが、コンソールも出せないチャット機能も使えないでは連絡の取りようがない。〈メッセージ/伝言〉という魔法ならば或いはとも思ったが、イヨにはその魔法が使えない。

 

 ログアウトも出来ない連絡も取れない状態で一人っきりだ。確かこういう状態は電脳法で監禁として扱われるらしいので、今頃GMや運営会社も必死に事態の解決を図っているだろう。

 

 しかし、この見た事も聞いた事もない異常事態は一体どれだけ続くのだ? プレイヤーの位置どころかゲームとしての機能が軒並み駄目になってしまう様なトラブルなど、イヨは聞いた事も無い。

 

「もしかしたら……何日もこのままだったりして……」

 

 いけない。非常時でこそ、より冷静でいなければ。そう思い、イヨは深呼吸を数度繰り返す。

 

 初めて嗅いだ森林の空気は清浄でとても新鮮だった。生まれてからずっと吸ってきた排気ガスの味が全くしない。しかし、生き物の腐ったような臭いが僅かに混じっていた。つぅー、と頬を汗が伝い、口内に入る。しょっぱいな、とイヨは思った。舌で唇を舐め──舐める? 舌で?

 

「嘘!?」

 

 イヨは自らの口元に触れる。唇を指で摘み、舌を出し、頬を膨らませる。

 

「顔が動いてる!?  なんで、どうやって!?」

 

 いや待て、さっき自分は臭いを感じたし、頬を伝った汗を口に含んだ。それをしょっぱいとも思った。それはつまり汗が出ているという事であり、嗅覚と味覚があるという事に他ならない。

 

「有り得ない!」

 

 ユグドラシルはゲームだ。DMMO─RPGというゲームの一ジャンルの、新旧無数の中の一タイトルだ。顔はプレイヤーが操作するキャラクターの外装でしかなく、動いて表情を形作ったりはしない。電脳法を始めとする各種法律で定められた様々な制約を破るものでも絶対に無い。ゲーム中では嗅覚と味覚を完全に削除している筈だし、触覚や痛覚も制限されている。そうでなくてはならない。

 それが今はまるで──生きた人間の様だ。

 

「っ」

 

 息を詰まらせ──その感覚と動きがまた、生身と変わらないことに驚愕しつつ──イヨは自らの脈をとる。そこにはしっかり鼓動を感じた。体温も、じっとりと掻いた汗の湿りも。

 

「──あぁっ!」

 

 気合を入れ、イヨは自らの顎を鉤突きの要領で殴り抜いた。途端、加減した通りに意識が揺らぎ、傾ぐ上体を一歩踏み出して支える。軽い脳震盪だ。一分も大人しくしていると、狙い通りに症状は収まった。

 

「本物、だ。痛覚も、拳の触覚も。脳震盪も……部活と道場で何度となく味わったのと変わらない」

 

 篠田伊代ではなく、ユグドラシルのキャラクターであるイヨのものだが、この身体は本物の肉体だ。だとすると、この樹海も本物の森なのだ。

 

 足元を踏みにじれば苔が浚われ、濡れた地面が剥き出しになる。木を殴りつければ樹皮が傷付き、僅かに樹液がにじんだその下が露わになる。ここまで作りこんだ再現をするのは、ゲームではサーバーのスペック上不可能であり、それ以前に技術的にも無理である。

 

 自分の分身であるイヨが、もう一つの自分になってしまった。即ち、生きた人間に。

 

「じゃあ、此処は何処なの……?」

 

 現実世界では無い。突き詰めればサーバーに保存されたデータでしかないイヨが人間として実在しているのだ。こんな自然環境もとっくの昔に地球上から消えている筈だ。だから有り得ない。

 

「──ユグドラシル、なの……?」

 

 ユグドラシルのキャラクターであるイヨが実在している世界。ならばそこはユグドラシルではないのか。現実と仮想の世界が入れ替わったのか。

 

 ──今や、地球と篠田伊代の方が架空の存在なのではないか?

 

 踏み締めていた足から力が抜ける。イヨはそのまま、前のめりに地面に倒れた。頬に触れる雑草がくすぐったい。苔の質感は濡れた絨毯の様だ。そういえば、こんな風に地面に寝転がるのは生まれて初めてである。下に視線を向ければ、名も知らぬ小さな虫が這っていた。

 

「……ここが現実なんだとしたら」

 

 この土や草は本物の大地、天然の植物なのか。

 

 エアドームに覆われた人工緑化公園ですらこんな体験は出来ない。イヨの親世代やそのまた親世代はよく、失われた自然とか、行き過ぎた人類の環境破壊が地球を壊したと口にする。しかし、イヨたちの世代からすれば世界は生まれた時から灰色である。昔はもっと綺麗だったとか、多くの動物が生きていたのだと語られても、実感など出来るものでは無い。

 

 緑溢れる森林や清流のせせらぎは仮想空間の中にだけあるもの。

 空気とは有色で毒を含むもの。

 空とは黒く澱んでいるもの。

 海は汚染物質の溜まり場で、生き物が住めない所。

 

 それこそが子供たちが生まれた時から変わらず在り続けた世界である。

 

 では此処は何処なのか。失われた筈の自然が現存している此処は。

 

「過去の地球……?」

 

 そんな事があってたまるか。まだゲームが現実化したと云う方が道理に沿っていると思える。

 

 ──ではなんだ?

 

 分かる筈も無い。混乱が酷いと自己診断するが、こんな時に冷静でいられる奴は人間ではない。

 

「一体誰? こんな理不尽に僕を巻き込んだ奴は。張り倒してやりたい」

 

 イヨは生まれながらに女性的で整った容貌と、同じく女性的で、かつ鍛えれば速く正確に力強く動く素養のある身体を持って生まれた。反面、頭と性格の方は酷く感覚的で直感的であった。

『国語なんて問題文に答えが書いてあるんだから、その通りに書けば満点取れるでしょ?』『英語は無理。問題文からして読めないもの、赤点さえ回避できれば良いの』と当然の様に口にし、本当にその通りの点数を取ってクラスメイトに微妙な視線で見られるタイプの人間なのである。地頭は悪くないので糸口さえあればそれを辿る事も出来ただろうが、何一つ無いこの状況ではただ恨み言が口をつくばかりだった。

 

 虚脱に任せてこのまま寝てしまおうか、そんな事を考えた。その時、

 

「……──っ! ──ぁ──ぇ!」

 

 がばりと飛び起きる。

 

 声が、恐らくは人の声が聞こえたのだ。イヨは両手を耳にやって目を閉じる。今は聞こえない声を今度こそ捉える為に。

 

「だ──か──! ……た──て──!」

「あっちだ!」

 

 声が聞こえた方向に、イヨは全力で駆け出した。樹海の地面は走りやすい環境の対極に位置するが、そんなものはお構いなしだ。脚力に任せて、時折手も使って、兎に角声のする方向に駈ける。

 

 自分以外のユグドラシルプレイヤーが近くに居たのだろうか。それともGMがアバターを使って探しに来てくれたのか。そのどちらでも、いっそどちらでも無くとも構わない気持ちだった。

 

「何処とも知れない場所で一人で途方に暮れるよりはマシだよ!」

 

 ただそれだけが、イヨの脳内を占める全てだった。

 

 

 




精神作用無効による強制安定化が無い上に、イヨはまだ子供なので大いに取り乱しております。
でもまあ運は良かったんじゃないでしょうか。

まかり間違って転移先がナザリックだとしたらタイトル詐欺で速攻ゲームオーバーロードも展開として十分あり得ました。

侵入者扱いで拷問とか。
絶望のオーラⅤで即死とか。
ネガティブタッチ〈負の接触〉で死亡とか。
モモンガ様をさん付けで呼んで守護者からのプレッシャーで死亡とか。
「下等生物如きがモモンガ様と馴れ馴れしく会話を……!」で嫉妬&激怒の感情で圧死とか。

 やったね、モモンガ様! 自分以外のプレイヤーで蘇生実験が出来るよ! 


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チュートリアル・ゴブリンズと狩人親子

2015年10月15日
矛盾解消の為の設定変更に伴い、本文の一部を改変しました。





「何処とも知れない場所で一人で途方に暮れるよりはマシだよ!」

 

 叫び、イヨは走る。人に会えれば何かが分かるかもしれない。この事態の解決法とまではいかなくても、何が起きたのか分かるかもしれない。

 身体能力に任せて難路を踏破する事、体感時間で三分。舗装路とは全く違った森の地面が煩わしく、思う様に進めない。少しずつ大きくなっていく声の具体的な内容を、イヨの耳は捉えた。

 

「助けて! 誰か、誰か助けてくれ!」

 

 それは助けを求める声だった。裏返り、疲労と絶望の滲む窮状を訴える叫びだった。そしてそれを塗りつぶす様に、汚らしい濁った咆え声が森に木霊した。

 

 それを聞いた瞬間、イヨの脳内から悩みが消える。自分の置かれた状況を一時忘れる。

 

 ──助けを求めてる、速く行かなければ。

 

 それだけで頭がいっぱいになる。

 

 今やすぐそばで響く声。一際大きい樹木の根っこを乗り越えた瞬間、それはイヨの眼に飛び込んで来た。

 

「助けてくれ! 誰か、せめてこの子だけでも……誰か!」

「にがすな! かこめ!」

「えもノ、にひキ! クウ!」

「こロす!」

 

 小さな盆地の様になっている場所の中央で、血に塗れた少年を背負った中年の男性を、醜悪な面貌をした三人──三体と表現すべきだろうか──の小人が襲っていた。

 

 中年の男性と背負われた少年は動きやすそうな革の服を着ていて、腰にはポーチを付けている。血に塗れた少年だけでなく、中年男性の方も所々に傷を負っている様で、身体のあちこちから出血している。息は大きく乱れ、青くなった顔色は汗でびっしょりだった。

 

 対して、三体のゴブリン達は傷など負っていない。人間の子供並の背丈と細い四肢、対照的に突き出た腹。醜い顔付き。防具らしきものは身に着けていなく、腰にはボロ布、手には錆が浮いて刃の欠けた剣と粗末な棍棒。

 

 ──人間と、それを襲う小鬼【ゴブリン】だ。

 

「やめろ!」

 

 イヨの叫びに弾かれた様に、四人がこちらを見た。背負われた少年は最早意識が無いのか、ぴくりとも反応しない。中年男性の眼には、驚きが、ついで希望が宿る。対して、小鬼たちの眼には苛立ちと殺気が走った。

 

「──ふたりいけ! ころせ!」

「おオ!」

「にくガふエた!」

 

 三体のゴブリンの内二体がイヨに向けて走り出す。イヨもそれに倍する速度で盆地に入り、間合いを詰めながら両拳を握り締める。腕甲を覆う金属の装甲がぎしりと鳴った。

 

「僕が行くまで耐えてください!」

 

 男性と意識の無い少年に向けて叫び、唾を飛ばしながら雄叫びを上げていたゴブリンの顔面を殴りつける。鼻骨が砕け、前歯がすっ飛ぶのが手応えで分かった。ゴブリンはまるで猪の突進を受けたかのように、鼻血と前歯を撒き散らしながら吹っ飛んだ。余りの速度の差に自分が殴られた事すら理解できず、地面に落下して意識を失った。

 

 ──弱い。あと二体。

 

 瞬く間に片方が倒された事にもう一体のゴブリンが濁った黄色い目を見開く──より僅かに速く、流れる様にイヨの拳が鳩尾に突き込まれ、こちらも意識を失う。

 

 ──あと一体。

 

「ぎぃ! つよい!?」

 

 まさか目の前の獲物を始末するより速くに二体の仲間がやられてしまうとは思わなかったのだろう、残ったゴブリンは男性と少年を諦め、イヨに背を向けて逃走を開始した──が、遅い。

 

「いっ……ぎぃいいぃっ!?」

 

 ゴブリンが走り出すとほぼ同時、追い付いたイヨがその首根っこを引っ掴んで地面に引きずり倒し、その貧弱な胸板を踏みつけて、小さく醜悪な顔を覗き込んだ。

 

「答えろ! お前達は僕と同じユグドラシルのプレイヤーか!? だとしたらどうして人を襲った!」

 

 それは、二人と三体を見た瞬間に浮かんだイヨの疑問だ。

 

 ここが現実化したユグドラシルなのだとしたら、そこにゴブリンという亜人種のモンスターがいるのも、人が襲われているのも納得した。しかし、ユグドラシルにおいてゴブリン等の亜人種やモンスター以外の何物にも見えない異形種は、プレイヤーが選択できる種族としても存在した。

 

 初期のゴブリンは種族としては最弱に近く、その分レベルアップも早いため、あっという間にもっと上位の種族に進んでしまう人が大半だった。しかし、今日はユグドラシルのサービス最終日だった為、元々は亜人種でプレイしていたが引退してしまった人などが、新たなアカウントをとって最初期種族であるゴブリンでログインして来ていた場合を考え付いたのだ。

 

 もしも気が動転して血迷っただけプレイヤーだったらと云う可能性を捨て切れなかったからこそ、イヨは気絶で済ませたのだが、その可能性が余りに低い事も当然考えが及んでいる。

 

 引退した人が戻ってきたが為の最初期最弱種族のゴブリンだった。それ自体は有り得たとしても、そんな稀有な人物が三人も揃って血迷って人を襲うだろうか。しかも、異常事態が発生してから二十分も経っていないのに。

 

 人間の身体とあまりに異なるゴブリンとなってしまったショックで錯乱するなら、イヨにも気持ちは分からなくもない。が、それにしたって事態が頭に染み込むまでの時間が必要だろう。声質や、明瞭ではない発音の関係で非常に聞き取り辛かったが、ゴブリンが三人とも知性に欠けた殺意溢れる言葉を吐いていたのもそうだ。初期装備でも有り得ないほど貧弱で汚らしい恰好もそう。

 

 三体のゴブリンがプレイヤーである確率は、途轍もなく低いと云えた。それでも、なにもかもが不明な事態の中では絶対とは言い切れなかった為に生かした。さて、回答は如何に──

 

「お、おれたち、ゴフのもり、イグルぶぞくのごぶりん! ゆ、ゆぐどら? ぷれーあ? ちがう!」

 

 顔面に渾身の踏み付けを入れる。頭蓋骨が割れ、ゴブリンは絶命した。そのまま二体のゴブリンの元まで走って行くと、腹を殴りつけた方は意識を取り戻していたが、身体が痺れて動かない様だった。

 

 イヨの装備している腕甲の毒による状態異常だ。現在のイヨのレベルに合った狩場のモンスターなら、どんなに耐性の無いモンスターでも十回は殴らないと状態異常には出来ないのだが、レベルの差があり過ぎたようだ。

 

 それぞれに止めを刺す。ゲームならば得られた経験値が視界に表示されたり、データクリスタルが手に入ったりするのだが、何も起こらない。死体も消えたりはしなかった。今の世界がゲームでは無い事をより実感させられる。

 

「──大丈夫ですか!?」

「あ、ありがとうございます、冒険者のお方、でしょうか? お蔭で助かりました」

 

 急いで男性と少年に駆け寄る。間近で見た男性は白人風の──それを言ったらイヨだって今は金の瞳に白金の髪をしているが──顔付きで、こんな事態の後でさえなかったら、鋭い目付きが特徴的な、油断の無い緊張感を纏った顔つきだったんだろうなと察せられる雰囲気の容貌だった。今の男性は疲れ切った顔に、九死に一生を得た事に安堵した表情を浮かべている。

 

 そしてその感謝の言葉に、イヨは内心でほんの少しだけ落胆した。イヨとゴブリンとのやり取りをすぐ近くで聞いていたのに、出た言葉は冒険者。望み薄だと分かってはいたが、この人もプレイヤーでは無いらしい。

 

「いいんです、お礼なんて。それより、お子さんの怪我の具合は……?」

 

 促され、父親は背負っていた少年を地面に横たえる。細く、しかし鍛えられた身体をしていた。左の脇腹に深い刺し傷があり、それ以外にも全身、特に背中に多くの傷を負っていて、その全てから血が流れ出ている。父親似の、しかしより繊細な輪郭をした顔は、素人目にも分かるくらいに青白い。父親の顔が険しく歪む。

 

「……どうですか?」

「……悪いです。申し訳ありませんが、少し手を貸してくださいませんか。村に運ぶまで前に、出来る限りの応急処置をしないといけません」

 

 リグナード・ルードルットと名乗った男性の要請に、イヨは真摯な表情で頷いた。

 

「勿論です。指示を下さい」

 

 言いつつ、イヨは腕甲を外した。ユグドラシルではフレンドリーファイアが無効化されていたし、通常の手段ではクエストやイベントの進行に必要なNPCを害する事も出来なかったが、現実ではそんな特別扱いはあり得ない。ただでさえ危篤状態で身体が弱っている怪我人に鉱毒など流し込んだら、それこそ止めになりかねないからだ。

 

 リグナードは自らの子供──リーシャと云うらしく、イヨは名を聞くまで気付かなかったが、女の子だった様だ──の血に濡れた革服を脱がしていく。肌と共に惨たらしい傷口が露わになる。イヨは生まれて初めて見る刀傷に息を呑み、リグナードは眉を顰めた。それでも手先は止まる事は無く、ポーチから取り出した小瓶と包帯をイヨに手渡し、

 

「この軟膏を傷口に塗って、上から包帯を巻いてください。あまりきつく巻き過ぎないように、気を付けてお願いします」

「は、はい!」

 

 小瓶と包帯を受け取る時、イヨは自分の手が震えているのに気が付いた。戦っている時はこんな情けない事にはならなかったのに、と臍を噛むが、今は兎に角足を引っ張らない様にしなければいけない。その一念で必死に手を動かす。

 

 本当なら傷口を清浄な水で洗浄しなければいけないのだが、リグナードとリーシャは逃げる途中でポーチ以外の荷物を全て捨ててきてしまったらしい。村にさえ辿り着ければとの思いからだったが、今となってはその判断が裏目に出てしまったのだ。

 

「……酷い」

「そ、そんなにですか?」

 

 押し殺した、呟くような声だった。リグナードは比較的浅い傷をイヨに任せ、筋肉や内臓に達している可能性のある様な深い傷の処置をしていたが、

 

「……脇腹の傷以外はどうにかなりますが、骨も何本か折れていますし……それに、ここに来るまでに血を流し過ぎた様で、そちらの方が危ないかも知れません。どちらにせよ、時間が……」

 

 喋る間にも、リーシャの容体は悪化している。リグナードとイヨの処置も勿論全力で進めてはいるが、容体悪化の速度に追いつくことは出来ないでいた。

 

「時間、が……」

 

 リグナードの震えた声音に、イヨも涙が出そうだった。実の娘が目の前でどんどん死に近づいて行くなど、親としては絶望的な心境の筈だ。それでも気が折れることなく応急処置を続けていくリグナードの精神の力は、イヨなどより遥かに強い。

 

「村まで持てば……いや、村まで持ったとして何が出来る……? 特別な事など何もしてやれない……施療師でもこれ程の重傷は……この子は……もう……」

 

 イヨは目の前で起きていることが信じられなかった。全身に刀傷や刺し傷を負った瀕死の少女と、その少女に時代劇でしか見たことが無いような原始的な治療しか施してあげられない父親と自分という現実が。

 

 ──これがこの世界の普通なのか。たったこれだけの負傷で人間が死んでしまうのか。

 

 体内のナノマシンが血液の流出を防ぐ為に傷口周囲の血管を閉鎖する事も無く、ジェル状の人工万能細胞を封入した応急医療パックも無いという事は、ここまで死を身近にするのか。

 

 イヨは小学生のころ、道場の帰り道でリニアカーに撥ねられた事がある。伊代本人は事故のショックで覚えていないが、首や頭に腰などの骨が何本も折れ、幾つかの内臓が破裂するほどの事故だったそうだ。怪我の度合いで言えばリーシャよりずっと重かったはずだ。

 

 それでも、ナノテクノロジーを用いた通常の再生医療を受け、三週間後には退院する事が出来た。それも最後の一週間は念の為にという意味合いが強く、イヨはベッドの上で暇を持て余していたほどだ。退院したその日に、なまり切った身体を億劫に感じながら学校に向かったのを覚えている。

 

 即死さえしなければナノマシンが命を繋いでくれる。生きてさえいれば大抵の負傷は病院で治せる。伊代が知っている現実とはそういうもので、人の命とは、手厚く守られなければならないものだった。

 

 なのに何故、たかがこれだけの怪我で人が死ななければいけないのか。

 

「……死なないで……死なないで!」

 

 溢れる涙が熱かった。兎に角胸が苦しかった。十六年生きてきて、目の前で命の灯火が消えようとしている現場に直面したことなど、一度もない。

 

 例えば今目の前にこの子を殺そうとしているモンスターがいて、そいつと戦うなら何も怖くはなかった。現実では幼い頃から格闘技を習っていたし、試合なら何千何万とやった事がある。ユグドラシルでもずっと戦っていた。現実では有り得ないような大きな怪物に、同じく現実では有り得ないような力で挑みかかって行った。

 

 今の篠田伊代はイヨの身体を、ユグドラシルでの力を持っている。人の生命を守る為に戦うなら、どんな怪物とだって戦える。事実ゴブリンと戦った。道場で習い、しかし一度も実践した事の無かった技、殺すための技を振った。殺されそうだった二人を守る事が出来た。

 

 しかし、怪我からどうやって人を守れというのだ。どんなに速く走れても、どんなに力が強くても、それで人の傷を癒す事は出来ない。リグナードが言うには、リーシャは村まで持つかどうかも分からず、持ったとしてもこれ以上の事はしてあげられないと云う。

 

 恐らく、服装や応急処置のやり方からいって、この世界の科学技術は数百年以上も前のレベルだ。ナノマシンはおろか抗生物質さえも無いかと思われた。そんな世界で、こんな状況で、死にかかった人間を救うにはそれこそ神様の奇跡か魔法でも──魔法。

 

「……回復魔法の扱える神官様か、治癒のポーションでもなければ……」

「──それです!」

 

 イヨは叫んだ。今の自分は──医者でも神でも無い篠田伊代では無い。ゲームが現実になる異常事態、それに次ぐ命の危機という緊急事態のせいで今まで気付かなかったのが、

 

「僕は、イヨだ!」

 

 ならば、魔法が使える筈だ。魔法拳士に憧れて気紛れで取った、たった一レベルの魔法職──クレリックで使える三つの魔法の中に、第一位階回復魔法である〈ヒール・ウォーター/治癒の清水〉がある。

 回復量においては〈キュア・ウーンズ/軽傷治癒〉に劣る上、作成した水を飲まねば──勿論飲むような動作をするだけで、ゲーム中で実際に液体を飲む訳では無い──効果が表れないという特性から、ユグドラシルではあまり役に立たない魔法とされていた。

 

 何せ戦闘の最中に暢気に水を呷る暇などないし、作成した水は三分立てば消えてしまうので、あらかじめ作って溜めておく事も出来ないのだ。

 

 ただしこれはゲームのシステムで云う食事に該当するので、長時間の絶食によるペナルティを多少なりとも回避できるのが利点と云えば利点か。しかしそれだって飲食不要の異形種などには関係が無いものだし、コックなどの職業を持ったプレイヤーに料理を作ってもらった方がバフ効果もついてお得である。

 

 利点が少なく使い辛い、微妙な魔法。イヨもほぼRP目的で取っただけだった。

 しかし今この時においては、目の前の少女を救う手段になり得る。

 

「魔法で治せば、リーシャさんを助けられる!」

 

 突如として大声で自己紹介をした命の恩人をリグナードは一体どうしたんだという目で見たが、続く発言の内容に、大声で叫んだ。

 

「回復魔法を扱える神官様に心当たりが!? 同じパーティーの方ですか!? 今この森の何処かにいらっしゃるんですか、連絡手段は──」

「僕に仲間はいません。でも、僕が治します! ……治して見せます!」

 

 

 

 

「僕に仲間はいません。でも、僕が治します! ……治して見せます!」

 

 眼に涙を零しつつも決死の表情で叫んだイヨの言葉に、リグナードは混乱した。

 恐るべき敏捷さと外見からは想像も出来ない膂力でゴブリン三体をあっという間に葬ったこの小さな救い主は、魔法も使えるのだろうか、と。

 

 イヨと名乗ったこの少女──イヨのアバターは現実のおける当人の外見をスキャンした上に髪や瞳の色を変えただけのものであり、性別は紛れも無く男性なのだが、リグナードの目にはそう映った──は自らの娘よりも幼く見える為、十五歳を越えてはいないだろう。

 

 正直、リグナードの持つ常識では考え辛い事だ。魔法とは、天性の才覚を生まれ持ったごく一部の人間だけが習得できるもの。そして、その天才を以てしても、長い歳月を魔法一筋に捧げ、血の滲むような努力をしてようやく扱えるようになるものの筈だ。

 

 以前に村を訪れた冒険者の一員であった中年の魔法使いは、第一位階という初歩の初歩の魔法を修めるのに十年近い年月が掛かったと話していたほどだ。そして、今を以てしても第二位階魔法までが自分の限界だとも。

 物心ついた時から全てを魔法の習得に捧げ、更には冒険者となって実戦の中で練磨し続けた人物をして、凡人の自分ではこれより上の領域には進めないだろうと言わしめる。それが魔法だ。

 

 素人目に見てもイヨは強い。

 

 身を包む武具も身体能力も、技術も。過去にリグナードが見たどの冒険者と比べても同等以上だ。おそらく、相手がゴブリンどころかオーガ【人喰い大鬼】であっても難なく自分たちを助け出す事が出来ただろう。

 

 ──幼いという事は、生きてきた年月が短いという事でもある。ならば、身体の成長の度合いも未発達で、鍛錬につぎ込むことが出来た時間も短い筈だ。あの実力なら尚の事、殆どすべての時間を鍛錬につぎ込んでもあそこまで到れる人間は滅多にいないだろう。

 

 成人にすら至っていない小さな、可憐と云っても過言ではない少女が魔法の武具に身を包み、高い技術と身体能力でもってモンスターを蹴散らす。それだけでも十二分に常識を超えている。

 

 なのに、そこから更に、

 

「魔法さえも使いこなすのですか、貴女は!」

「使えるかは分かりません! 初めてやるので! でも、やります!」

「えっ」

 

 リグナードは一層混乱の度合いを深めた。

 

 

 

「えっ」 

 

 何が何だかわからない。そんな表情をしているリグナードを対面に、イヨは両の掌で器を作り、まるで天に乞うかのように掲げる。表情には意気込みと迷い、恐れが入り混じっている。

 

 絶対に助けて見せるという意気込み。やれるものなのかという迷い。やれなかったらという恐れ。全てが心の中で混沌と渦巻き、同居している。それが表情にも出ているのだ。

 

 今の自分がイヨなのならば、魔法が使える筈。だから治して見せると宣言した。だがしかし、今の自分は本当にイヨなのか? イヨの外装を纏っただけの篠田伊代なのではないか?

 

 先ほどゴブリンを打ち倒しはしたが、正直言って篠田伊代の身体能力でもあの位のモンスターなら倒せる気がしてきた。火事場の馬鹿力という可能性もある。

 

 第一自分が真実中身までイヨで、事実魔法を使う能力を持っているとして──どうやって使う?ユグドラシルでは、アイコンをクリックすればそれで魔法が使えた。当たり前だが、今までの人生で現実に魔法を行使した経験などない。

 

 ──刹那の間に浮いては沈む思考を無理やり鎮め、イヨは覚悟を決める。

 

 兎に角先ずは集中し、〈ヒール・ウォーター/癒しの清水〉を使おうと意識して──唐突に悟る。

 

 分かるのだ。

 

 〈ヒール・ウォーター/癒しの清水〉の、魔法行使の仕方が。効果も、再使用までの冷却時間も。

 

「〈ヒール・ウォーター〉!」

 

 舌が紡いだのは力ある言霊。自分の外にある巨大な力と自分がか細い糸で繋がるかのような感覚。そして僅かな心の疲労、精神力が削れる感覚もある。

 そして魔法は発現した。

 淡い光と共に、両の掌で作った器に水が満ちていく。薄暗い森の中でも輝く清水は、自らまるで星の様に光を発していた。

 

「──出来た!」

「おお──おおっ!」

 

 イヨは直ぐにリーシャの口に液体を流し込む。すると、彼女の身体がきらきらと光り、青紫色になっていた肌にも赤みが戻り、酷く浅く弱弱しかった呼吸も、正常なテンポと深さに戻る──までは行かず、若干荒いままで回復現象は止まった。見れば、深かった幾つかの傷と、なによりあの脇腹の刺し傷が完治していない。

 

「──回復量が足りてない!?」

 

 所詮は気紛れで取った、たった一レベルのクレリックだ。残りの二十八レベルは全て前衛クラス。当然ステータスもそれに準じた伸び方をしているし、装備したマジックアイテムにも魔法の力を高める物は皆無。要するに基礎となる魔力が弱すぎるのだ。五レベルの専業魔法職にも劣りかねないほどのステータスでは、死の淵に瀕した人間を一回で全快させることは出来ないらしい。

 

「もう一回──〈ヒール・ウォーター〉!」

 

 もう一度魔法を行使し、即座に飲ませる。それでも足りなかった為、更にもう一度行使。そうしてようやく、リーシャの傷は表面上完治した。

 

 リグナードが恐る恐る包帯を剥がして傷の在った処に触れると、そこには傷跡なども無く、最初から怪我などしていなかったかの様な、綺麗に日焼けした肌があるだけだった。

 信じられない面持ちでイヨと目線を合わせると、今度こそ、その鋭い目から涙が零れた。その眼には驚愕、喜び、感謝、敬意が満ちている。奇跡を見た男のものだった。

 

「あなたは……その幼さで、なんという……本当に、本当に有難うございました! あなたには親子揃って命を救われました! このご恩は一生涯忘れません!」

「いえいえそんな、お二人ともご無事で何よりです」

 

 魔力を消費したせいか僅かに身体がだるかったが、そんな些細な事が気にならない位にイヨは嬉しかった。

 自分の決断が人の命を救った事が、目の前にいるほんの二十分前に出会った親子が死別の悲しみを味わうことなく済んだ事が、とてもとても、どんな試合で勝った時よりも、どんなテストに受かった時よりも嬉しかった。

 

 おそらくは世界間の移動という人類史上に類を見ない事態に巻き込まれている自分が霞む位に。そんな無垢な喜びに浸っていたからこそ、リグナードの次の言葉はとんでもない衝撃を伴った。

 

「このお礼は必ず致します──我が家には満足な貯えもありませんが、家財を売り払ってでも田畑を手放してでも、あなたに恩を返しうるだけの謝礼を必ずや!」

 

 家財を売り払う。田畑を手放す。何のために? 謝礼の為に。誰に? ──決まっている、イヨにだ。

 

「そ、そんなものを受け取る訳にはいきません!」

 

 両手を盾の様にリグナードに突き出し、ほとんど悲鳴の如く声を挙げる。

 

 そんな事をされても困る。愛娘の命を救った事に恩義を感じているのは分かるし、それは至極人間的で真っ当な感覚だとも思う。イヨが誰かに両親や弟妹の命を救われたなら、これ以上ないほどの感謝と敬意を救い主に寄せるだろう。でも、

 

「駄目ですよ! 家財や田畑って、それを売ったりなんかしたら生きていけないじゃないですか!」

「しかし、そうせずには恩を返す事が──」

「そもそも僕が好き好んで勝手にやった事です、お礼なんていりません!」

「そういう訳には参りません!」

 

 二人の意見と常識、それと善意が真っ向からぶつかるかと思われたが、二人の激突を阻止できる者がこの場にはいた。

 

「んぐっ……か、身体だるっ……」

 

 ある意味渦中の人物、リーシャである。父親譲りの鋭い目をうっすらと開いた彼女は、自分が寝そべっていて、そんな自分のそばに父親と変わった格好をした見慣れぬ少女──顔立ちと三つ編みにした白金の髪を見て彼女はそう判断した──がいる事に気付き、

 

「父さん……と、誰……?」

 

 譫言の様に呟き、半身を起こす。この時点でイヨは彼女の身体から眼を逸らした。力を取り戻しつつあるリーシャの視線が、包帯しか身に着けていない自身の半裸体、ついで脇に避けられた血塗れの革服を捉え、

 

「なにこの恰好……ってか服が血塗れ──」

 

 眼の焦点が完全に合い、脳が衝撃で引っ込んでいた記憶を忘却の帳から引きずり出し──

 

「──ゴブリン! それにオーガも! 父さんヤバいよ、あいつら数が多すぎる! さっさと村の皆に知らせないと、あの群れが相手じゃ柵も人も長くは持たないよ! 追手は振り切ったの!?」

「落ち着け! それと嫁入り前の若い娘が半裸で跳ね起きるな! イヨさんが目のやり場に困っているだろうが!」

 

 そういえばリーシャさんは裸だったな、とさっき初めて気付いたイヨである。応急処置をしている時は、全身血塗れ傷だらけの命の危機で、思い至りもしなかった。

 

「なにを暢気な事言ってんのよ、リーベの村が滅びるわよ!? ってかイヨさんって誰よその子? 良いじゃん別に女同士なんだし、それより早く村に伝えて防衛の用意をしないとでしょ!?」

 

 後で訂正して謝ろう。そう思いながら、言い合う父娘を他所に、地面に生えた苔と正座でにらめっこをしつつ、イヨは今の情報を考えていた。

 

 ゴブリンとオーガ。上位種でも職業レベルを持った個体でも無い素のゴブリンとオーガは、確か一~七レベル程度のモンスターだ。二十九レベルのイヨからすれば、幾ら倒しても経験値を稼ぎ辛い弱いモンスターであり、百体いても鎧袖一触に蹴散らせる自信がある。

 

 ただ上位種が──オーガ・ハイウォリアーやオーガ・バトルロード、レッドキャップ、ゴブリン・ロードなどの二十五から五十レベルの個体が複数いた場合、イヨ一人ではどうにもならない事態である。

 

 高レベルのゴブリンは何気に強敵だ。的が小さい上に姿勢が低いので近接攻撃は当てにくいし、ちょろちょろとすばしっこいため、必中や範囲攻撃型の魔法以外を容易く避けてくるからだ。

 

 もし村を襲おうとしているのがレッドキャップだったら、刺し違える覚悟で戦っても九分九厘負けるだろう。十レベル違ったら勝てないという話はあくまで同じビルド同じ装備で正面から殴り合う場合の一例に過ぎないが、十四レベル差は技術や経験で覆し得る領域とは言い難い。モンスターが生命体としての個体差と自我を持っているこの世界なら尚更だ。

 

「もう一度言うぞ、落ち着け! あいつらは俺達が使う近道を知らんしあの集団では足が鈍る! 今からでも俺達の方があいつらよりも先に村に着く! だから落ち着け、時間はある!」

 

 リグナードはリーシャを抱き寄せた。そのまま命の鼓動を確かめるかの様に、強く強く抱きしめる。驚いて目を見開く娘を顧みず、涙声で、

 

「お前何も覚えてないのか!? お前はゴブリンどもに切り刻まれて死ぬ一歩手前だったんだ! そのお前を、通りすがりのイヨさんが助けてくれたんだぞ! それも回復魔法まで使ってだ!」

 

 父の言葉と血塗れの服に、自身が経験した惨状を思い至ったのであろうリーシャは、そこから自分を救ってくれたというイヨに驚きの視線を送った。

 

 イヨは初対面の女の子に向けて──視線は地面から上げず──ぺこりと頭を下げた。

 

「お助けできて何よりです──けど、その辺のお話は後にして、村に向かいませんか? 乗りかかった舟ですし、僕もお手伝いしますから」

 

 

 

 




主人公が動揺し過ぎですって? 
自分がユグドラシルのキャラのままである事は分かっているのに、アイテムボックスや魔法の存在が頭に浮かばないのはお粗末すぎると? 

いえいえこう考えてみてください、なんもかんも精神作用無効化が無いのが悪いんだと。

だってあれすっごい便利です。福音といっても過言ではありません。同時に罰ゲームでもありますが。



 


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チュートリアル・ゴブリンズ・アーミーとリーベ村:事前準備編

2015年10月15日
矛盾解消の為の設定変更に伴い、本文の一部を改変しました。


 ルードルット親子に先導されて村に急行しながら、イヨはこの世界は一体何処なのかという疑問に囚われていた。

 

 ユグドラシルからイヨの姿のままで途切れ無しに移動したし、ゴブリンというモンスターが存在し、ユグドラシルと同名かつ同じような効果をした魔法も存在するらしいので、てっきり此処は現実と化したゲームの世界、本物のユグドラシルなんだと考えていたのだ。

 もしかしたらユグドラシルというゲームそのものこそ、この世界をモデルにして作られたのではないかと考えを巡らせていたほどだ。ゲームがある日突然現実と化すよりは、ゲームのモデルとなった別世界に何かの拍子で来てしまったという方がまだあり得そうな事象に思えたから。

 

 だけども、どうやらその両方とも違うらしいという現実を、イヨは突き付けられつつあった。

 

「では──ミズガルズ、ニヴルヘイム、アルフヘイムなどの名称に心当たりはありませんか?」

「……申し訳ありません。どれも聞いた事が……」

「イヨちゃ──さんって、本当に遠くの国から飛ばされて来ちゃったんですね? あたしと父さんが知ってる名前が何一つ無いもの。でも、そのお蔭であたしたちは命を助けてもらえたのよね? イヨさんと、イヨさんとの出会いを与えて下さった四大神様に感謝しないと」

 

 ──これだ。

 

 今は走っているこの森はゴフの森だか樹海だかで、そのすぐ傍にあるのが二人の住むリーベ村。そのリーベ村は公国という大公が統治する国に属するらしく、公国の周辺にはバハルス帝国やリ・エスティーゼ王国といった国家があるらしいが──どれもこれも聞いた事の無い名前だ。

 

 ルードルット親子に聞く限り、この世界にユグドラシルと同じ地名は存在しない。名前だけが違っていて、本当は同じなのかもしれないが、それは地図を見るなどして地理と地形を把握しない限りは何とも言えないので、今は考えないことにする。

 極めつけは四大神だ。周辺の国々──二柱を足した六大神を信じる法国という例外はあるが──で主に信仰されている神様で、火の神、風の神、水の神、土の神の四柱を指すらしい。これも、ユグドラシルには存在していなかった。

 

 ユグドラシルは北欧神話の世界観を基幹として、世界中のあらゆる神話や伝承から様々な要素を取り込み、RPGの風味と掛け合わせたゲームだ。信仰系魔法詠唱者がクラス取得時に選択できる神だけで百柱以上が存在していて、更に課金や特定クエストのクリア、特殊職業の取得などによって選択可能になる神々も含めれば、その総数は二百にも届かんと云う数になる。それらの神々の殆どは固有名詞で呼ばれる。火の神や水の神と云った抽象的な呼ばれ方をする神はいないと云っていい。

 

 ──独自の地理、独自の信仰。同じ魔法にモンスター。この世界はユグドラシルそのものでは無く、しかし、ある程度の関係性をもった別世界なのだろうか。

 

「──僕も、あの土壇場で力を授けて下さった事を僕の信仰する神様、妖精神様に感謝してるよ。あ、僕の事はイヨって呼んで。僕も十六歳だし。あと、こう見えて僕は男だから」

 

 ええ!? と、歳と性別で二度びっくりする親子である。イヨは現実でも同じ種類の勘違いをよくされたが、ここまで大きいリアクションは中々お目に掛かれなかったものだ。

 

 イヨは自分の境遇を二人に説明する際、『ゲームの中からついさっき飛ばされて来ました!』とはとても言えなかった。ゲームの中などの概念が通じるか分からなかったし、通じたら通じたで狂人扱いされかねない。なので二人に境遇を伝える際、イヨは目いっぱい頭を捻って、この世界の住人にも恐らく意味が通るだろうニュアンスを考えた。

 

 その結果、イヨは遠い他国で探検家のような仕事を営んでおり、侵入した遺跡のトラップで突然見知らぬ場所に飛んできてしまった、という設定になった。

 

 この設定が受け入れられるかどうかは賭けだったが、幸いにしてルードルット親子の反応は『世の中、数奇な事もあるものだなぁ』といった程度だったので、なんとか許容範囲といった所か。

 これで、この世界で生きていたら知っていて当然の事も堂々と質問出来る。

 

 先の情報は全て、それで手に入れたものだ。

 魔法に関しては、幼い頃に少し習ったが才能が無く、土壇場になって初めて使えたと取り繕った。イヨは内心でアステリア様ありがとう、と誰にともなく呟く。やっぱりザイアかル=ロウドの方が良かったかもなんて二度と考えません、とも。

 

 この世界における神官とは基本的に尊敬を受ける立場である様で、見ず知らずの自分達を何故助けたのかと云う疑問をルードルット親子は、この人は本当に善良な神官様なのだろうと自己解決してくれた。

 

 それでもお礼の為に家財を売り払う発言を撤回してくれないのは、正直義理堅いにも程があるとイヨは思うのだが。折角助けたのに、今後の生活を傾けるレベルのお礼などされても困ってしまう。

 

「それはそれとして、お二人が見たオーガとゴブリンの群れはどの程度の数でしたか? 何か特殊な武器を持った個体や、特に強そうな個体などはいましたか?」

 

 走りながら問うだけでも、平坦とは程遠い地面の所為で舌を噛みそうになる。なにせイヨにとっては生まれて初めて走る天然の森林である。舗装された路面とは全く心地が異なり、気を抜くと転んでしまいそうであった。

 そんなイヨの前方を、身体能力と云う面では劣る筈の親子二人が軽やかに、音を殆ど立てず滑る様に駆けていく。流石は狩人といった所か。

 

「総数は正確には分かりませんが、把握できただけでもゴブリンは二十体を超えていたと思います。殆どが剣か棍棒で武装していましたが、中には粗末な弓矢や槍を持ったものもおりました」

「そんで、オーガが七体! 馬鹿でっかい棍棒を持って獣の毛皮を纏ってて、一際大きい一体だけが、巨大な剣を持ってました!」

「魔法の武具を身に着けた個体は何体位いましたか? 他に、知性を感じさせる個体は?」

 

 ユグドラシルの基準で言うならば、武装の立派さは大雑把なレベルを表すと思って良い。最低レベルの亜人種系モンスターは今二人が言った様な、非常に原始的で薄汚れた武装をしている。そういった連中は十レベルもあれば十分以上に余裕を持って倒せるし、戦法如何によっては数が多くても勝利を収めるのは難しくは無い。ましてやイヨは二十九レベルの拳士。たとえ雑魚が百体いようが物の数では無く、むしろそれらを纏めている上位個体の数が勝敗を分ける、のだが──

 

「……魔法の武具を纏ったゴブリンやオーガなど、聞いた事もありませんが」

「あたしも無いわ……あ、お伽噺で小耳に挟んだ事はあったかも?」

「え、いなかったんですか? 一体も? 全部素のゴブリンに素のオーガですか? 魔法詠唱者も?」

 

 イヨは安堵すると同時に、ほんの僅かに拍子抜けした。村が滅びると予想されるほどのゴブリンとオーガの軍勢と聞き、最悪の場合、自分が殿を務める間に村の人々を退避させねばならないかと考えていたのだが。

 本当にそれだけならば、イヨだけでも相手を殲滅する事は容易だろう。

 

「安心しました。それだけならば、皆さんを無事にお守りできそうです」

 

 ほっと一息をついたイヨに、親子が浮かべたのは唖然とした表情だった。ゴフの樹海と云うモンスターの領域に隣接する土地柄ゆえ、リーベ村に生きる者ならば、奴らの脅威は身に染みて知っている。ただの獣でさえも家畜や人間に被害を及ぼすし、ましてやモンスターともなれば戦士でも無い村人にとっては相当な脅威である。

 それらが三十体近くともなれば冒険者を雇って討伐隊を組むべき事案であり、対応の速度次第では村落の存続の危機となり得る。それだけと言ってのけるイヨは、この世界の一般人の基準からすれば異常である。

 

 

 

 

 リグナードとリーシャは背後の、湿った苔や朽ちた倒木で滑る地面を身体能力でねじ伏せる様にして走っている少年──には見えないが自称を信用するとなるとそうなってしまう──を見る。

 

 輝く白金の三つ編み、純真さを表しているかのような澄み渡った金の瞳。桃色の艶めいた唇、雪色の歯、沁み一つと無い肌。神懸った美貌とまでは行かないが、恋愛詩に詠われる様な可憐さだ。

 

 そしてその身を包む武装は、容姿とは別の意味で輝いている。

 

 貴金属の輝きを放つ白いシャツと、爬虫類の鱗と革を原材料とした薄青色のベスト。同じ素材で出来た上着とズボンは各所に鈍色の金属の装甲を追加しているが、仕立ての良さが防具と云う無骨な印象を与えない。衣服の延長にある様な外見だ。

 拳足を覆う腕甲と脚甲は美麗でありながらも毒々しく、二人が知る如何なる金属とも違う光沢を持つ。その他、治療の際に見せた指に嵌められた二つの指輪や、頭部を彩る髪飾り、耳朶に下がるイヤリング。恐らくはベルトもネックレスもブレスレットも、装飾品すらも全てが魔法の品。神官を名乗った割には聖印を所持していないが、転移の際に紛失したのだろうか。

 

 魔法の武具と云うのは恐ろしく高額である。最もランクの低い品であっても、狩人である二人の数年十数年分の収入に値するだろう。そんな代物を複数個所持するなど、山を成す金貨が必要だ。

 ましてやイヨが身に着けているそれらは、素人目にも大きな力を持っていると分かる品。一体どれだけの価値があるのか想像すら出来ない。

 

 そして、その強さ。

 

 リグナードとリーシャとて狩人、人外の支配する領域たる樹海に入る以上、危険な存在との接近を事前に避ける知識や、最低限身を守るだけの腕っぷしは備えている。だがそれでも三十と云う数に驚いて不意を打たれ、手傷を負ってしまった。重傷を負った我が子が背中で気を失い、流出する血が為に追手を振り切れず、遂に囲まれた。絶体絶命のその時だ。

 

 二人の救い主、遥か遠い異国から飛ばされてきてしまったらしい少年は、ゴブリンを瞬く間に打ち倒した。

 

 ゴブリン自体はモンスターの中でも弱い部類であり、リグナードとリーシャでも倒し得る。だがしかし、イヨの強さは、傍から見ても次元が違った。

 

 まず動きが目に見えなかった。リグナードは凛々しくも可愛らしい声でやめろと叫んだイヨを、それこそ藁にも縋る様な必死の思いで見つめていたのだが、イヨの動きを捉えることが出来たのは、一体目のゴブリンが殴り飛ばされた後だった。速度自体も常人の全力疾走など及びもつかない高速だったが、何よりを驚いたのは、初動が悉く捉えられない点と、一連の動作全てが遅滞も途切れもなく流麗だった点だ。

 

 リグナードには何も見えなかった。直立した状態から走り出す一瞬も、走りながら拳を突き出す刹那も、何も。目が追いついたのは動作が起こった後である。

 

 此処は平地などでは無い。歩くことにさえ訓練を要する土地、息をするにも気を使わざるを得ない場所。樹海とは、人類の領域の外とはそういう領域なのだ。地面は波うち、傾ぎ、歪んでいる。地表を覆う苔は不意の滑りを齎し、その下の柔らかな腐葉土で出来た土の所為で足は沈み、踏ん張りはまるで効かない。かと思えば、土中の岩が硬い手ごたえを返す。乱雑かつ無造作に繁茂する木々の枝葉や雑草が全方位から視界を狭め、無数の虫や小動物は雑多な気配を撒き散らす。

 

 その中にあってあれだけの戦闘を行うのは、通常ならまず不可能と言って良い。

 

 余りにも常識はずれな身体能力、何千何万という反復の末に身体に染み込ませたのだろう技術、幾多の冒険の末に獲得したのであろう武具。

 

 探検家にして神官である、と本人は語った。

 

 幼き頃に神官を志したが才に恵まれず、神から力を授かる事が出来なかったらしい。所作や言葉遣いからして、恐らくは裕福な家の生まれだったのだろうに、彼は探検家になったのだそうだ。

 

 当然の事だが、格のある家に生まれた子供とは、保持する富や技術、地位を次代に継承する事を念頭に育てられる。神官は誉れある聖職であるし、上り詰めれば権力を持つ事も適う。家格の高い家柄に生まれた子供が就く職としては、当人にとっても家にとってもマイナスにはならない。

 貴族などで直接の家督相続が難しい三男坊四男坊が身の頼みとする定番として、腕に覚えがあれば士官、知に長ければ文官、才あらば神官とある位だ。

 

 恐らく、イヨもそういった事情があって神官を志したのではないだろうか。リグナードなどはそう考えた。しかし、神官とは魔法使いと同じく、生まれ付きの才覚によって成否が定まってしまうものである。いくら信仰心があろうとも、万人が歩める道ではないのだ。そして、少なくともその時点でのイヨは、才が花開かなかった。

 お偉方の考えなど狩人である親子には分からないが、少なからず家中での立場を悪くしただろう。現在が探検家のなどと云う根無し草も同然の、職業とも言い難い職に身をやつしているのだから、もしかしたら勘当の憂き目にあったのかもしれない。

 

 想像が飛躍し過ぎていると思われるかもしれないが、イヨの年齢は自称を鵜呑みにするとしても十六歳である。一応成人には達しているが、純真無垢の少女染みた外見は十三か十四が精々といった所だ。

 

 そんな子供が、先にも語った様な煌びやかな武装に身を包み、常人離れした腕っぷしを持っているのだ。しかも神官を志したが挫折し、後に探検家となり、遺跡に残された罠により何処とも知れない異国に来てしまったというという経歴付き。

 

 そしてそんな人物に、二人は絶体絶命の窮地から救われたのだ。

 

 先祖代々お伽噺を聞かされて育った村人の想像力を刺激するには、十二分も過ぎるというものだろう。

 

 ──当人が生まれて初めての大自然を堪能し、虫や小動物を見つけるたびに喜色を浮かべているその前方で、リグナードとリーシャの狩人親子の想像は恐ろしい勢いで広がり、その像を確かなものとして行ったのであった。

 

 

 

「見えました! あれが村です!」

 

 体感時間で一時間ほども走っただろうか。木々が段々と密度を薄れさせ、頭上から陽の光が直接地面を照らすようになった頃、リーシャが前方を指で指しながら叫んだ。

 

 イヨが目を凝らすと確かに、なにか物見櫓のような木造建築物や、長く続く柵らしきものが見えた。柵は太い支柱が一定間隔ごとに地に埋められており、その間に横木を渡して塞ぐ丈夫な構造になっている。ずっと遠くまで続いているのを見るに、恐らく村を一周しているのだろう。

 しかしそれらはまだまだ遠く、漸く視界に入った程度であった。遠目から見る限り、家々は殆どが木造の一階建てで、稀に石造りやレンガ造りが混じっているようだ。

 

 今までを倍する速度で走ると、やがて門らしき場所まで来ることが出来た。門の脇には、麻の服の上に申し訳ばかりの防具を纏い、簡素な槍を構えた見張りと思しき村人が二人いる。

 ルードルット親子を視界に捉えた門番達は一瞬顔を明るくしたが、後ろに続くイヨを訝し気に見た後、二人の衣服に染みついた血に気付くと一気に狼狽えた。

 

「リグナードさん、リーシャちゃん! その血は如何したんです、怪我を!? それにその子は、ああいや、今はそれより直ぐに治療をしないと──」

「もう傷は治っている。細かい説明は後だ、ロッシさん。森の中でゴブリンとオーガの大群を見た、数にして三十近くのな。この村を襲う気だろう。直ぐに村の皆に伝えてくれ」

「ゴブリンとオーガですか!? それも三十!?」

「わ、分かりました! 直ぐに伝えます!」

 

 ロッシと呼ばれた男性は血相を変えて村の中に走っていた。一人残された相方の青年は不安気に槍を握りしめ、やや青い顔で口を開いた。

 

「リグナードさん、俺は──」

「お前は此処でこのまま見張りをしていてくれ、ボルド。恐らく、奴らは半刻もしない内に来る。もしかしたらもっと早く、準備が整う前に来るかもしれない。そうしたら練習した通りに角笛を鳴らして、門を閉めるんだ」

「は、はい!」

「リーシャ、お前は手近にいる連中と一緒に防衛戦の準備を頼む。矢をありったけ用意して、それが終わったら投石用の石を拾い集めるんだ。外れる事も考えると、準備していた分だけじゃ足りないかもしれない」

「分かったわ、父さんとイヨさんは?」

 

 緊張感溢れる切羽詰まったやり取りに気圧され、借りてきた猫状態で息をひそめていたイヨは、ここでびくっと身を震わせた。

 

「村長の所に行って、大まかに事情を話してくる。イヨさん、一緒に来ていただけますか?」

「了解です!」

 

 

 返事をすると同時に、時代劇などで耳にする甲高い金属音の連打──緊急事態を知らせる半鐘の音が響き渡った。叩き手の感情を媒介しているかの様な、不安と恐怖を孕んだ音色だった。

 

 一気に周囲が慌ただしくなる。イヨがリグナードの背を追う合間にも、家々から血相を変えた住人が飛び出したり、畑から急いで戻ってきたらしい女性が子供たちを集めて避難させたり、長い槍を携えた逞しい男性が走って行ったりした。

 

 辺境の村がモンスターに襲われて、そしてそれをプレイヤーが助けると云った光景はユグドラシルでは初期のクエストなどでよく見られるものだ。イヨも友人と一緒に何度もやった事がある。特定の条件を達成した上でクリアすると有用なレアアイテムが貰えるという偽情報に騙されて、三日間もひたすら同じクエストを回し続けた、今となっては良い思い出となった記憶もあった。

 あの時などは、友達と一緒に笑ったものだ。

 

『何回襲われるんだよ、この村。いや、私たちがクエスト受けるからだけどさ』

『あのバカでっかい蟲もよく絶滅しないよね、もう千匹くらいは狩った気がするよ』

『クリスタルがアイテムボックスを圧迫して来てるけど、こいつらが落とす奴ってあんま高く売れねぇんだよな』

『なあ知ってるか? あのモンスターって大昔に実在したカマキリっていう昆虫がモデルらしいぜ』

『うそ、あんな大きな虫が本当にいたの!?』

『昔は危険な生き物が沢山いたって言うしな。私たち、今の時代に生まれてよかったな』

『……イヨも白玉さんもお馬鹿か? あんなデカい昆虫がいる訳ないだろ、本物は掌サイズだぞ』

 

 当然の事だが、そこには村人の心配や危機感など全く無かった。だってユグドラシルにおける村人は所詮NPCで、数百のパターンを組み合わせて生成された外見と、定められた説明やある程度のランダムな会話を繰り返すだけの存在だったから。

 プレイヤーがクエストを達成しなくても村は滅びたりはしない。何時までも襲われる直前の状態のままだ。助けても、クエストが終了すればまた元に戻る。

 ゲームなのだから、それが当然だった。

 

 ここでは違う。この人達は生きているのだ。

 表情があり、血が流れ、感情を持ち、自らの意志で生きている。

 

 今訪れている危機は本物の危機で、間違いなく多くの人が危険に晒されているのだ。

 

「村長!」

「リグナード! 戻っていたのか、一体何があった!?」

 

 慌てて立ち止まる。イヨは完全に思考に没入しており、前から走り寄って来る壮年の男性と、男性に駆け寄ったリグナードが見えていなかったのだ。無意識に背中を追っていたので離れる事は無かったが、危うくリグナードの背中に追突する所だった。

 

「樹海の中でこの村を目指して行軍中とみられるゴブリンとオーガの群れに遭遇しました。数は大凡三十。あと半刻もしない内に攻めてくるものと思われます」

 

 要点だけを絞った報告に、村長は苦鳴を漏らした。

 

「例年の通り、森の中での競争に負けた部族の残党だろうな……。ただ、今までとは数が段違いだ。ゴブリンも不味いが、なにより柵を壊す事の出来るオーガは何体だ、何体いた?」

「目視できただけで七体です。二十体以上のゴブリンの中には弓を持った個体もいました」

「なんて事だ……半刻もしない内にだと? 避難すらも間に合わんな。兎に角、年寄りと子供たちを地下壕に匿い、他の者全員で迎え撃つしかあるまい」

 

 弓手の人数と矢の配分に話が続こうとした時、イヨはリグナードと並び立つように一歩進め出た。イヨの存在には無論気付いていたのだろうが、それよりも優先するべき課題に直面していた村長が、初めてイヨに視線を向けた。

 

「リグナード、こちらのお嬢様は? 見ない顔だが、誰のお客様かな?」

 

 イヨの恰好から富裕層の子女とでも予想したのか口調は丁寧だったが、事態が事態だけに、今は引っ込んでいてくれという本音が表情に滲み出ていた。

 当たり前だ。集団存続の危機的事態の真っただ中で、赤の他人との自己紹介に時間を割くことは無駄でしかないだろう。お互い生きていたら後で幾らでも相手をするから、今は物陰にでも隠れていてくれ、というのは真っ当な意見である。

 

「村長、この方は樹海の中でゴブリンどもの追手に殺されかけていた私と娘を助けて下さったのです。探検家でありながら異国の神に仕える神官でもあられる方です。今回の事態に際し、ご助力して下さると」

「イヨ・シノンと申します。微力ながら手を貸させて下さい」

「なんと! 神官の方ですか、幼い──いやお若いのに、これは心強い。先程は失礼いたしました」

 

 篠田を西洋風にもじった姓と名──金髪金眼に日本式の名は合わないかと思ったが故の措置だが、この世界では日本も西洋も無いので、名を変える必要は本来無い──を告げ、イヨと村長は互いに頭を下げ、握手を交わした。

 

 村長は、名をティルドスト・ウーツと云うそうだ。小柄ながらも分厚い筋肉質な肉体と陽に焼けた肌、白髪交じりの茶髪が特徴的な男性だった。

 

 ルードルット親子にも話した境遇をイヨが伝えると、信心深い村長は、村が危機に陥ったこの日この時に神官様に来ていただけるとは、これも四大神の思し召しに違いないと酷く感動している様だった。

 

 ここら辺つくづく、神が実在し、魔法が存在する世界で良かったとイヨは思う。これが現実世界の中世だったら、訳の分からない恰好で知らない言葉を話す異邦人として、馴染む事は難しかっただろう。

 

 ──そういえば何故、この世界では日本語が通じるのだろうか。それに、今まで会話をした三人が三人とも、遥か遠方から来た他国人であるイヨが、自分たちと同じ言葉を話している事に違和感を持ったり不思議に思ったりしていない。

 一瞬考えるが、今は他にやるべきことがあると判断し、イヨは思考を一時放棄した。

 

「回復魔法を使える神官様のご助力を頂けるとは、九死に一生を得た思いです。僅かながら希望が見えてきました。貴女には、後方での支援と救護をお願いしてもよろしいでしょうか?」

「いえ、最前線にてお役に立ちたくあります」

「イヨさん、それは無茶です!」

「心配していただけで嬉しいです、リグナードさん。でも、僕が一番役に立てることはこれです。魔法の腕はたかが知れていますし、僕は殴るしか能の無い人間ですので」

 

 殴る事なら──人並み以上だと自負できるだけの自信がある。現実でも十年以上に渡って格闘技の練習を続け、ユグドラシルでもひたすらにモンスターと戦っていたのだから。

 小学生の時には全国一位に輝いた実績があり、ゲーム内での対戦でも同レベル帯との勝率は高い。二十九レベルの力と元日本一の技は、間違いなくゴブリンとオーガを撃滅しえる筈だ。

 

 他の誰が戦うより、イヨが戦うべきなのだ。

 

「僕は神官として未熟も良い所です。それに、さっきまでの会話を聞いていると、皆さんだけではかなりの被害が出るものと予想されていた筈です」

「かなり腕に自信がお有りな様ですが……相手は三十にもなるモンスターの群れです。一人で如何にかなるとはとても……」

「それに、イヨさんが単身で敵に突っ込んでしまうと、我々は誤射を恐れて飛び道具を使えなくなります。結果として多くの敵がフリーになり、村内に侵入を許してしまう可能性が……」

 

 二人によると、こういった事態は辺境の村落では珍しくない事で、事実今まで何度もモンスターの襲撃があり、少なくない犠牲を出しながらもそれを撃退してきたのだそうだ。此処までの数が襲ってくるのは滅多にないことだが、神官がいてくれれば怪我人も治療できるし、きっと勝てる筈だと。

 

「我々が普段使う手段は人数を頼りとしたものです。剣や槍が使えなくとも戦力になれる投石が駄目となれば、勝ち目は無くなってしまいます!」

 

 作戦は先ず、相手が弓の射程に入った段階でリグナードを筆頭とした弓手五人が出来るだけ敵の数を減らし、次に従軍経験のある男性達が柵の後ろから槍を突き出して足止めをする。そして柵の前で固まった敵に、従軍経験の無い男性、少年期を脱したばかりの若い男、十分な体力があると認められた女性でなる投石班が後方からひたすらにスリングで石を投げつけるのだそうだ。

 拳大以上の大きさの石が雨あられと降ってくればただで済む筈も無く、怯んだところを弓と槍で追い打ちする。

 

 これは事前に襲撃が察知でき、相手に関する情報が一定程度ある場合の最善の手段であり、普通ならば村人が犠牲になってから初めてモンスターの襲撃と分かる場合も多いのだとか。

 

 しかし、村長もリグナードも分かっている事だが、この作戦では今回の場合は厳しい。ゴブリンならばまだしも、オーガは人を遥かに超えた膂力を持つモンスターだ。その身長は柵と同じくらいに大きく、体躯と筋力に物を言わせて柵を壊す事も容易い。

 

 一体二体ならば攻撃を集中して柵に到達する前に倒す事も可能かもしれないが、今回は最小で七体。弓手の矢も必中では無いし、敵に防がれる事もある。奇跡でも起きない限りは柵に何体か辿り着いてしまう。一か所でも穴が開けば、其処から水が染みる様に内部に浸食されてしまうのだ。

 

 そうなれば、最終的に全ての敵を倒せたとしても、それまでの時間に壊滅的な被害を受ける事になるだろう。養う親が死んでしまっては、地下壕に籠っていて助かった子供たちも死ぬしかない。

 そうすれば村は滅ぶ。生き残った者達も田畑を維持できず、他の村や町に移住してしまうのだ。

 

 このリーベ村は長い歴史の中で幾度となくモンスターの襲撃を経験し、多数の犠牲を出しながらも、その対策を数世代にわたって準備してきた。

 それが村を囲う頑丈な柵であり、緊急事態を告げる半鐘であり、いざと云う時に村と家族を守るべく訓練を積んだ村人たちなのだ。

 しかし、その村人たちと防備であっても相当の被害を覚悟した上で、壊滅すらもあり得る脅威。それが三十体にもモンスターの群れなのである。

 

「投石と矢……ですか。ちょっと試したことがあるんですが、協力してください」

 

 言うと、イヨはそこら辺に転がっている大きめの石を手に取り、リグナードに手渡した。

 

「それを僕に向かって投げてくれませんか? 強めの下手投げで、放る様に」

 

 リグナードはちょっと──いやかなり不思議そうな顔をしたが、命の恩人の真剣な表情を顧みて素直に従う事にした。

 言われた通りに強めの下手投げで、少年の細い胴に向けて石を放る。山なりの放物線を描いて飛ぶ石は、事前に知っていれば誰でも避けられる程度の勢いだ。子供ならば怪我をするかもしれないいが、たとえ直撃しても高価な武具に身を包んでいるイヨにとっては痛くも痒くもないだろう。

 この行いになんの意味があるんだ、そんな気持ちで放物線を見ているリグナードと村長の眼前で──石は中空で壁にでもぶつかったかの様に弾かれ、ぽとりとイヨの足元に落ちた。

 

「おおっ!?」

「これは……マジックアイテムの効果、なのですか?」

「そうです。僕が装備しているマジックアイテム──えっと、確かこのブレスレットによる、ある程度の威力までの射程を持つ攻撃に対する耐性、だったと思います」

 

 射撃に対する耐性では無い。『射程を持つ攻撃』に対する耐性である。

 目を見張る二人の眼前で、内心に成功して良かった安堵の息を漏らしたイヨであった。

 

 ──ユグドラシルのマジックアイテムはこの世界でも有効に作用している。

 

 ゴブリンに腕甲の毒が効いたのでそうだろうとは思っていたが、目に見える形で実証されて良かった。

 

「今度はもっと勢いよく、それこそモンスターにやる様に思いっきり石を投げてください」

 

 基本的に脳筋というか、【殴って倒す】のがイヨのスタイルだ。

 格闘戦においては人一倍だという自信がある為、勝負をそこに持ち込めれば、後は実力で勝利をもぎ取る事が出来るという思想が少年にはあった。

 故にイヨの装備するマジックアイテムは直接的な防御力よりも、移動に対するボーナス、状態異常等のバッドステータス・デバフに対する耐性、各種魔法への抵抗を主眼として揃えられているのだ。

 中でも特に飛び道具、魅了及び支配などの精神作用魔法、移動阻害に対しては高い耐性を持っている。この三つに限ってはレベル相応を遥かに上回るほどだ。

 

 試した結果、リグナードの全力投石──大丈夫そうだとは分かってはいても恩人に石を投げるのは気が引けたのか、数度やり直した──も、マジックアイテムによる飛び道具への耐性を突破する事は出来なかった。

 

 ユグドラシルでの効果と同一の性能を発揮しているとすれば、スキルによる強化や魔法による威力増幅などをされていない低レベルの飛び道具ならば完全に防ぎきるのだから、当然と言えば当然だろう。

 

「──このように、僕に投石や矢は利きませんので、誤射を気にする必要はない訳です。僕ごと攻撃してくれてかまいません」

「しかし……三十体にもなるモンスターの群れですよ? いくら強いと云っても、数の暴力でなぶり殺しにされるのでは……」

「上位種でもないただのゴブリンやオーガなんて、百体いても負けません。リグナードさんは、僕がゴブリンを倒すところを見たはずです。手加減しなければ一撃で倒す事も容易い。そしてそれは、何体いても同じです」

 

 ゲーム内における実体験を元に判断すると、二十九レベルのイヨに、一桁台のレベルでしかないモンスターはあまり傷をつけられない。ただ黙って攻撃を受け続けたとしても、イヨが倒れるまでには長い時間を要するだろう。

 

「僕が戦えば怪我をする人や死んでしまう人を減らせる筈です。もしかしたら、誰も傷つかないで済むかもしれない。お願いです。やらせてください」

 

 初対面も初対面のリーシャ一人が死にかけた時でさえ、イヨの心は千々に掻き乱れた。自分には、目の前の人達を救えるだけの力があるのだ。看過する事は絶対にできない。

 

 此処に至るまでにすれ違った人々は、皆が必死だった。

 

 震えるほどに怖いのだろうに、決死の表情で走っていく男たち。死ぬかもしれない現実が分かっているのに、それでも気丈に振る舞い子供を避難させる女たち。自分も辛いのだろうに、泣き続ける弟妹を優しく抱き締める年長の子供たち。柵が突破された時、もはや死は避けられないその瞬間に子供たちの盾となる覚悟を決めた老人たち。

 

 イヨにとっては全員が、名前も知らない赤の他人である。でも、すれ違う一瞬に見えただけのその人々を、イヨは助けたかった。

 だって、誰かに殺されて死ぬなんて、イヨにとっては余りに非現実的で、受け入れがたかったから。

 

「……何故、其処までして下さるのですか?」

「え?」

 

 呟いたのは村長だった。彼は感極まった様な困惑した様な、戸惑いと喜びを綯い交ぜにした表情をしていた。リグナードも近い表情を浮かべている。

 

「イヨさん、何故なのですか? 例えば貴女が冒険者で、売名や報酬を目当てにしているのであれば理解できるのです。神官様でしたら、お布施などでも」

「……失礼を承知で言いますが、私も分かりません。あなたは、回復魔法の代価に相応しいだけの謝礼をする、その為に田畑や家財を売る事も厭わないといった私に、そんなものはいらないと仰いました。自らの行いに対して対価を要求するのは当然の権利です。たとえ自分から要求するのが憚られる場面でありましても、相手から申し出られれば受ける。普通はそういったものでしょう」

 

 何故──

 

「──貴女は、見ず知らずの私たちの為に身を粉にすることが出来るのです?」

「──……」

 

 何故、と云われても。

 

 イヨは正直混乱する。だって、困っている人が目の前に居たら助けるのは普通ではないだろうか。

 道を歩いていて、泣いている子供が、重い荷を背負った老人が、身に迫る危機に気付いていない若者がいたら、多くの人は手を差し伸べるのではないだろうか。

 

 もちろん、用事があって急いでいるので仕方なくとか、何らかの事情によってそれが叶わない事は誰しも有り得るだろうけど。

 

 時間にも精神的にも余裕があり、自分に助ける事の出来る能力や力が備わっていた場合、あえてそれらの人々を見捨てる人間は少数なのではないだろうか。

 

 理由なんてものは所詮理由でしかない。理由が無くても行動する事はあるし、理由があっても行動しない事もある。人の行動を条件やパターン、利益や利害、感情で完全に解明する事は出来ない。こうすべき、こうせねばならないと縛る事も。

 科学文明と云う点では遥かに進んでいるイヨの世界であっても、それは変わらなかった。

 

 物事とは、結局の所──

 

「う、上手く説明できないですけど、僕がそうしたいからです。貴方たちの不幸な所や、辛い所を見たくないんです。助けなかったら後悔するから、僕も辛いから──自分勝手ですけど、僕は助けたいから助けるんです」

 

 真剣な答えを聞きたかっただろう二人に申し訳なくて、イヨは頭を下げた。

 頭上に感じる気配では、二人は茫然としている様だった。こんな訳の分からない答えを聞かされたらそうなるだろうと思い、イヨは更に低頭した。

 

「──ぁ、い、イヨさん! 頭をお上げ下さい、あなたは既にわが村の住人を救ってくださった! 私たちが頭を下げる事はあれど、貴女がそうせねばならない理由はありません!」

「そ、そうです。あなたは私と娘の命の恩人、これからも数多くの命を救うであろうお方です!」

 

 二人に諭されてイヨは、頭を急いで上げた。訳の分からない事を言ってごめんなさいと思ってした事なのに、それで相手を混乱させたのでは何のためにしたのか分からない。

 またまた申し訳がなくて、でも、もう頭を下げるのはやめた方がいいだろうしと、イヨが大規模な混乱の渦を心中で巻き起こしていると、

 

「イヨさんの提案をお受けします。是非とも力を貸していただきたく思います」

「良いんですか!?」

「勿論、イヨさんの足を引っ張らない様に、こちらでも出来るだけの事は致します」

「恩人をみすみす死なせるわけには参りません。及ばずながら、私を始めとした弓手を筆頭に、出来る限りの援護をいたします」

「──ありがとうございます!」

 

 反射的にまた頭を下げそうになるのを、慌てて止める。そんなイヨを、村長とリグナードは、眩しいものを見るような目で見た。

 

「イヨさんは──私たちが遥か昔に失ったものを持っておいでなのですね」

「今が間違っている訳では無いのですが──懐かしい。誰しもこんな時期があるものですな、村長」

「……? えっと……若いって事ですか?」

 

 そんなようなものです、と二人は笑う。どうにもその視線が子供に向ける様な暖かさで、イヨはちょっとむず痒い。

 自分は実際十六歳の子供だし、外見ではその年齢にすら満たないのだから、子供扱いは当然なのだけども。

 

「では、集まっている者たちの所へいきましょうか。村の者にもイヨさんを紹介せねばなりませんし、作戦の打ち合わせもあります」

「あっ、はい。よろしくお願いします!」

「防衛が成功し、この事態の後でも村が存続していた暁には、否と言おうとなんだろうと謝礼を受け取って頂きますぞ? 孫ほどの年齢の娘を矢面に立たせて戦わせ、挙句お礼も出来なかったとなればリーベ村の名折れですからな。是が非でも、村を上げて歓待させていただきます」

「なに言ってるんですか、村は残りますよ。一人の被害も出させません! お礼の方も、ちょっとだけなら頂きます。冷静に考えると、身一つで飛ばされて来ちゃったので、僕は無一文ですし」

 

 今日明日帰れるとは思えないので、考えてみればお金は必要だ。ユグドラシルの時のアイテム類や金銭も持ってこられていたらこんな心配もいらなかったのだが。

 

 襲撃を事前に察知できた場合は、あらかじめ決められた防戦パターンの中から定められた陣容に従って、村民による防衛部隊が布陣するらしい。

 しかも今回は襲って来るモンスターの種類までわかっているので、より実情に沿った防衛が可能だ。

 基本的にゴブリンもオーガも余り知能が高くなく、しかも三十もの数を揃えているとなれば気が大きくなり、真正面から絡め手無しで突っ込んでくるという想定でほぼ間違いないだろうと。

 ドベル街道──リーベ村の近くを通っている街道だ──を正面として後方にあたる、ゴフの樹海から真っ直ぐに、村の背面をつく様に攻めてくるだろうとの事だった。

 

 既に既定の取り決めに従ってそこに集合しているだろう村人たちの所に、三人は急いで向かう。

 

「あっ、村長さん。紹介していただく前に訂正しておきたいんですが、僕は男です。あと十六歳です」

「はっ……こ、これは失礼しました! てっきり女性かと……申し訳ありません!」

「いいえ、慣れてますから。リグナードさんやリーシャさんも最初は勘違いされていましたし」

「知っていたのか?」

「は、ですが、当人を差し置いて言うのもどうかと思いまして……私も半信半疑でしたので……」

 

 ──世界が変わり容姿が変わっても、僕の外見に対する初対面の人の誤解は変わらないなぁ。

 

 イヨは遠い目になりながらそんな事を考える。

 

 現実でも元々童顔で低身長の女顔であったし、誤解は慣れている。

 ユグドラシルを始める時のキャラクターメイキングの際、ゲームの先達でもあった友人に、あまりにリアルの自分と身長体格が異なると操作しにくい場合が多いと言われて作ったのがこのアバターだった。

 

 身長を百五十センチちょっとの設定にすると大人な外見や渋くてかっこいい顔立ちが余りに似合わないので、ファンタジー風に髪色や瞳の色を変えつつも、結局はリアルの自分をスキャニングしてほぼ同じ顔立ちのキャラクターを作ったのである。

 

 ログイン早々、『外国人になっただけでほとんどお前のまんまじゃねぇかwww』や『いっそリアルでも三つ編みにしろよwww』などとさんざん揶揄われたものだ。

 

 走りながらイヨが見上げた空は、生まれて初めて見る綺麗な蒼穹だった。

 

 

 




カルネ村と比べてリーベ村は歴史が長く裕福で、ハムスケの縄張りの中という恩恵も無かったため、防衛戦に対する意識も努力も数段上に設定しています。

イヨの容姿は『女性的で可憐かつ大らかそうな感じ』という設定ですが、ナザリック勢と比べると明確に劣ります。
ナザリックの女性陣は現実に存在する事が信じられないレベルの神懸った容姿、イヨは現実的にあり得る範疇で飛び抜けた容姿です。
まあ、「人間=下等生物・餌・虫けら・玩具」という蔑視や見下しの感情が無い分、親しみやすさや馴染みやすさという点ではイヨが圧倒的に勝ってますが。


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チュートリアル・ゴブリンズ・アーミーとリーベ村:決戦編

作者の設定捏造により、原作で明言された場合よりスキルを手に入れる方法を増やしています。
・五レベル毎にスキルを取得。
・総計レベルが一定値を超える度にスキルを取得。
・前衛系もしくは後衛系の職業レベル合計が一定を超える毎に任意または自動取得。
・職業レベルや種族レベルが定められたレベルに達する度に自動取得。
・新しい職業やクラスに付く毎に対応したスキルを取得。
・クエストクリアなどの報酬で貰える巻物・魔法書やアイテムによって取得。
・イベントや儀式を熟す事によって取得。
・その他様々な場合によって取得。
 等を考えております。




 リーベ村では麦や馬鈴薯の畑作に薬草の栽培、少数ながらも牧畜で生計を立てているのだが、それらの畑や牧草地、放牧地などは村の横手から前方にかけて広がっている。故に村の後方は、ゴフ樹海まである程度の距離を取っている他は田畑も建物は無く、村人が立ち入る事は無い。

 例外は樹海に入る事も生業の一つである狩人、そして時折訪れる薬師や冒険者位である。

 

 そんな村の後方に、イヨは柵を背にして立っていた。イヨと柵の距離は十メートルほどか。柵の後ろには槍を突き出した村人たちがおり、更にその後ろに投石を担当する村人がいる。

 

 弓手の者達は物見櫓の上に陣取っている。

 

 高みの利を取り、より多くの敵を接近前に倒すのが目的だ。優先度はまず、第一に柵を破壊できるオーガ。次に指揮官級の個体、三番目に弓手などの遠距離からこちらに被害を与えてくる存在。魔法を扱う個体は目撃されていないが、もしいた場合はそれらも優先攻撃対象となる。

 

 既に予想されていた敵の侵攻時刻を過ぎている。何時敵が姿を見せてもおかしくないので、イヨも村人も緊張していた。

 

「嬢ちゃ──イヨさん! 危なくなったら下がってくれよ!」

「気持ちは嬉しいし頼りにしてるが、此処は俺たちの村だ! あんたが命を懸けてまで戦う事ぁねぇからな!」

「大丈夫でーす! 皆さんもお気をつけて、怪我の無いようにして下さいね!」

 

 後ろには振り返らずに前方を注視したまま、イヨは手を振って返す。男だと紹介してもらったのに嬢ちゃんと言い掛けたのはどういう事だと思いながら。

 

 村人たちはイヨの助太刀を大歓迎してくれたが、一人で柵の外に出てモンスターと殴り合うと聞くと一斉に引き止めた。助力は嬉しいがそこまですることは無い、死んでしまうと。特にイヨと同じくらいの子供がいるらしい中年世代の声は大きく、見ず知らずの娘を巻き添えになどできないと口々に訴えた。

 イヨが拾った小石を握りつぶして砂利にして『これくらい強いんですよー! 心配いりませんから!』とアピールする事で反対意見は一応収まったが──ゲーム内でのスペック上多分出来る筈だと思ってやってみたものの、握力で自然石を砕くなどあまりにも荒唐無稽で、自分でやってて驚いた──イヨの外見のせいか、ちょくちょくこういう声をかけてくるのだ。

 

 外見が幼くて女の子っぽいのは、やはり男にとってはマイナスだと言わざるを得ない。イヨは今更自分の容姿を卑下したりしないし、コンプレックスもあんまり無いが。

 

「毒尾の亜竜【ポイズンテール・レッサードラゴン】とか倒した事あるんだよー、今はちょっと勝ててないけど、昔は全国優勝したことだってあるんだよー……」

 

 毒尾の亜竜【ポイズンテール・レッサードラゴン】は竜よりは格の低い亜竜に属するモンスターであるが、その実力は決して舐めてかかっていいものではない。竜より知能が劣るという設定の為に魔法を使ってはこないものの、レベルにして六十八の比較的強めな存在である。ユグドラシルの大半を占めていた百レベルプレイヤーにとっては箸にも棒にも掛からぬ強さだが、イヨにとっては本当に強敵だった。

 その強敵がドロップした素材とデータクリスタルは今、イヨの防具となっている。

 

「重装化は要らないかな、ゴブリンとかオーガが相手なんだし。──しかし、敵はまだ来ないのかな」

 

 何時敵が来るやも知れないという緊迫した状況で待たされるのは、精神的にも体力的にも過酷である。心身ともに頑強で勝利に確信を持っているイヨはまだしも、村人たちはこの時間が続けば続くほど消耗が酷くなるだろう。

 

「ユグドラシルだったら、アイテムで索敵とかもできたんだけどなぁ」

 

 イヨのクラスはクレリック以外、ほぼ純粋な前衛だ。気配察知と云うスキルを持ってはいるが、それは一定範囲内での隠密、隠蔽、透明化、不意打ちの察知に対するボーナスなどの効果を主とするスキル。より上位の気配看破などとは違い、遠方からの敵接近を知覚する領域にまでは至っていない。

 

「ユグドラシルだったらこう、手を中空に伸ばせば……えぇえ?」

 

 何気なく前方の宙に伸ばした手先に、何かがカツンと当たった。

 

 恐る恐る目をやると、手首から先が途切れている。水の中に手を入れたかの様に、イヨは別の空間に手を突っ込んで来た。指に触れた物の形を確かめると、それはユグドラシルで散々お世話になったポーションの瓶の形であった。

 引き戸を開ける時の様に手を横にやると、空間が開き、其処には店売りの各種下級ポーションがぎっしりと並んでいた。見慣れた、ユグドラシルにおけるイヨのアイテムボックスである。

 

「あ、あるんだ? え、これ一体どうなってるんだろう。僕自身と装備品は兎も角、この空間ってこの世界的にはどうやって成り立ってるの? ……魔法かな?」

 

 空間に出し入れ自在の収納スペースを作る技術なんて、それくらいしか思い付かない。

 

「使えると分かってたら、もっと早くリーシャさんを助けてあげられたのに……」

 

 イヨはちょっと落ち込む。しかし気付くのは遅くなってしまったが、アイテムボックスの中身が丸々全部使える状態にあるとは、素晴らしい朗報だ。

 

 イヨは例えラスボス撃破後の裏ダンジョンに潜る時でも、MP消費をケチる為に薬草を九十九個は道具袋に入れておくタイプの人間だった。ユグドラシルにおいてもそれは変わらず、各種類の一番安いポーション、その他状態異常に対応するアイテムを所持数制限の一杯まで、もしくは持っている分全部をアイテムボックスに詰め込んでいる。

 これらがあれば、怪我人が沢山出た時に、イヨの貧弱な魔力が枯渇して治療できないという事態にも対応できる。それにサブの武器や防具、装飾品、マジックアイテム。この不明な事が多い世界でこれらの物資は、イヨの可能性を最大限に拡張してくれるものだ。それに、

 

「アイテムがあるんだったら、もっと確実な方法が取れるね」

 

 そう一人ごちて、イヨは二本の短杖と金銀銅で出来た数本の鍵型アイテムを取り出す。

 

 ユグドラシルのアイテム類は多彩だ。イヨはそれほど多くの種類を所有している訳では無いが、それでも基本的なアイテムは押さえている。

 

 イヨがゴブリンに負ける事などあり得ないが、それでもたった一人に過ぎない以上、一度に相手にできる数は限られる。職業的に複数の標的に攻撃するスキルはほぼ持たないし、魔法の方も実にお粗末。フリーになっているゴブリンは村人の方に流れるか、逃げられるだろう。後顧の憂いを残す事になるし、出来れば住人たちに怪我をしてほしくは無い。

 だからこそ全力で戦って速攻で片を付けるつもりだったか、アイテムがあれば『範囲攻撃の手段が無い事』『頭数が不足している事』も覆せる。

 

 イヨは左手に持った黄色い宝石を嵌めた短杖と銅の鍵を掲げ、そして二度唱える。

 

「〈サモン・フェアリー・2nd/第二位階妖精召喚〉」

 

 イヨの両脇に優し気な輝きの光が灯る。それは段々と人型に固着し、三秒ほどの時間をかけて、暖かい光を発する妖精の姿を取った。身長が三十センチメートル程度だと云う点を除けば、外見上は白い衣を纏った長い金髪の女性である。ユグドラシルにおいて外見的に攻撃しにくい敵ランキングベストテンにランクインした光の妖精、スプライトだ。

 

「〈サモン・フェアリー・3rd/第三位階妖精召喚〉」

 

 今度は右手の赤い宝石が嵌った短杖と銀の鍵を構え、やはり二度唱える。

 瞬間、二柱の炎が吹き上がった。五秒近くも勢いよく燃え盛った炎から這い出てきたのは、全長二メートルにも達する炎で構成された大トカゲだ。火の妖精、サラマンダーである。

 

 イヨはこの時、不思議な感覚を覚えた。呼び出した四体との間に、ある種の絆の様なモノをはっきりと感じたのである。この子達は僕の言うことを聞いてくれる、とイヨは確信した。

 ユグドラシルにおいて召喚したモンスターは、種別によってある程度定まった行動しかできない様になっていた。タンク型のモンスターなら召喚者の近くに立って壁に、アタッカー型のモンスターなら敵に向かって突っ込んでいき、補助・回復型のモンスターは敵に近寄らない様にしつつ召喚者の周りにいる、と云った風に。

 

 召喚のされ方も矢鱈と凝っている。この妖精たちは恐らく、ゲーム的な制限に縛られずにイヨの頼みを受け入れる事だろう。

 

「い、イヨさん!? そのモンスター? は一体……!?」

「僕の召喚した妖精でーす! 皆さんに危害を加える事はありませんので、安心して下さーい!」

 

 心配そうな声のリグナードとどよめくリーベ村住人に、イヨは手を振って返す。イヨとリーベ村住人が同じパーティと見做されれば敵対行動は起こさないだろうと予想して呼び出したが、この様子なら心配はいらないだろう。

 

 イヨは妖精たちにお願いする。

 

「スプライ子達はリーベ村の人達と一緒に居て、怪我をした人がいたら治してあげて。僕の事は心配しなくていいからね。サラマン太達は僕と一緒に、これから襲ってくる奴らをやっつけよう。まずは魔法を叩き込んでから僕が突っ込むから、あぶれた奴らがあの人たちの所まで行かない様にして、守ってあげてね」

 

 イヨの指示に、四体の妖精は頷いた。二体のスプライトは柵の後ろまで漂って行き、サラマンダー達は柵とイヨの間に陣取る。やっぱり、自我らしきものがあるらしい。

 

「あっ、サラマン太ー! 君を呼び出しておいて悪いけど、敵が装備している武器や防具は出来るだけ燃やさない様にしてね! 勿体無いから! 中身だけ攻撃してー!」

 

 TRPGにおいて、敵から剥ぎ取る素材や物資は大変重要な収入源である。この世界でも多分売ったりすればお金になるだろうし、質が悪くて使えなくても、鋳溶かして再利用できる。それらの資源はリーベ村の今後に必要だろう。

 サラマンダー達は「ええー? まあ、がんばるけどさ……」的な仕草をしつつも首肯した。

 

 スプライトは回復魔法に特化した妖精、サラマンダーは炎による攻撃に特化した妖精である。レベル的には低いと言わざるを得ないが、それでもゴブリンやオーガ相手ならば十分だ。脇を固める戦力としては上々だろう。

 

 ふと、ユグドラシルのアイテム類はもう手に入らないから節約すべきではないかと思い至るが、まあ沢山あるからいいか、とイヨはあっさり納得する。惜しんで人死にが出たら悔やんでも悔やみきれないし、『妖精神に仕える未熟な神官』のRPをする都合上、妖精召喚の魔法を込めてもらった短杖や補助のアイテムは結構持っているのだ。

 

「次は索敵、と」

 

 続いてアイテムボックスを探り、イヨは二つのマジックアイテムを取り出した。それは獣の耳を模した物体──一般に、ウサ耳バンドと呼ばれる物と大きな丸眼鏡だった。

 

「よっと」

 

 イヨは慣れた手つきでウサ耳バンドを頭に装着し、丸眼鏡をかける。ウサ耳バンドはユグドラシルにおいて兎さん魔法と云われる人気魔法の一角、〈ラピッツイヤー〉と同じ効果を持つアイテムである。アニマルシリーズと呼ばれるアイテム類の一つとして幅広い層のユーザーに大きな人気があり、所謂ガチ勢には見向きもされない程度ではあるが、実用に耐えるだけの性能も併せ持っている。

 

 丸眼鏡の名は感知の眼鏡。作成者は生産職のイヨの友人である。サイズを自動で調節してくれる機能が当たり前のマジックアイテムだが、感知の眼鏡は作成者のこだわりの為、誰がつけてもやや大きめのサイズに調整されるように出来ている。ぶかぶか萌えという奴らしい。

 

 装着したウサ耳はピクピクと動き、周囲の状況を拾う。背後の村人たちが妙にざわついていた。やはりいつ戦いになるかと思って緊張しているのだろうか、などとイヨは考える。

 

 無論、村人たちは妖精を四体も召喚した上、突如ウサ耳金髪眼鏡っ子と化したイヨを見てざわついているのだが。

 

 もう少し遠くの方の音を意識して拾っていると──耳が僅かな異音を感知し、同時に眼鏡のレンズの端っこに幾つもの光点が映る。大小無数の音が重なり合い、素人であるイヨには正確な数や音の正体は分からなかったが、

 

「前方より複数の足音! リグナードさん、詳細は分かりますか!?」

「──こちらでも捉えました! この歩調と歩幅は人間のものではありません、ゴブリンとオーガです!」

 

 総員が手にする武器を握り直した瞬間、それらは樹海の闇から滲み出る様に走り出た。我先にと雄叫びと共に突進してくるのは、血と肉に飢えたモンスター達だ。

 

 先頭を走っているのは事前の情報通り七体のオーガ。三メートルにも及ぼうかという体躯は筋骨が隆々としていて横にも前後にも分厚く、推定体重は半トン程だろうか。牙を剥き出した顔は醜く歪み、高々と振り上げた棍棒はそれだけで人間の大人より大きい。中でも巨大な剣を持った個体は、他のオーガより頭二つは大きい。

 

 イヨの世界にかつて生きていたらしい大型の猛獣、樋熊に匹敵する大きさである。

 

「予想より敵の数が多いぞ……!? ゴブリンだけで三、四十体以上はいやがる!」

 

 イヨの背後で村人の一人が呻く。その者の言うとおり、森から湧き出るゴブリン達はとうに二十を超えている。見逃していたか、森の中を彷徨っていた残党のゴブリンが集まったのかもかもしれない。襲った人間から奪ったのだろう武具は手入れが悪く錆びているが、それが逆に野蛮さと獣性を連想させる。腰巻だけでなく、金属製の防具を身に着けた者も多く、全体的にもイヨが倒した個体より武具が上等であった。

 

「逸るなよ、射程に入るまで絶対に射るな! 先ずはオーガを狙え! 先頭のデカブツをだ!」

 

 駆けるモンスター達との距離は瞬く間に縮む。オーガ達がやや先行し過ぎているきらいがあるが、あの巨体の突進力で被害を受けた所にゴブリン達が浸食してくれば厄介ではある。

 たった五人の弓手では矢の弾幕による面の攻撃が出来ない為、一人一人の命中率を高める必要があり、結果としてある程度の接近を許してしまう。

 

 第一射が放たれたのは、イヨから見て前方百メートル、リグナード達からは大凡百十メートルの距離にオーガが達した時だった。空気を切り裂いて巨剣のオーガに矢が飛来し、五本の内四本が命中した。だが、オーガは巨剣を掲げて頭を守り、倒れるまでには至らない。腹部や腕に当たった矢も、分厚い筋肉に阻まれて骨や内臓を傷つけるまでには達しなかった。

 

「怯むな! いくらデカくて頑丈だろうと生き物だ、傷付けば倒れる、殺せる!」

 

 次々と放たれる矢は三体のオーガを骸とせしめたが、巨剣のオーガを含めた四体はもはやイヨの眼前、距離にして十メートルに迫っていた。

 

 身長百五十センチメートルと少しでしかない細身のイヨに、巨人の如きオーガが四体も殺到する様は、イヨが鎧袖一触に跳ね飛ばされる姿を冷酷にして厳然と見る者に想像させた。

 

 

 

 

「や、やっぱり駄目だぁ、逃げてくれ! 死んじまうよ!」

 

 リーベ村住人の内、多くの者が叫んだ。彼ら彼女らの脳内において、あの小さな三つ編みの自称少年が死ぬ運命にある事は疑いなかった。

 

 各々の胸に浮かぶ思いは罪悪感であり、自責の念だ。

 

 ──いくら強いと云っても、あの小さな子供の体で何が出来るというのか。

 

 多くのマジックアイテムを身に着けているから。妖精神に仕える神官としての力を持っているから。村で最も腕の立つ狩人であるリグナードとリーシャを助けてくれたから。本人が望んだから。

 

 そんな理由を並べ立てて、自分達はイヨを信じた。信じてしまった。藁にも縋りたい状況で、降ってわいた希望に飛びついた。──その希望が果たして本当に希望と呼べるものなのか考えもせず。

 あの善良な子供に、子供だけが持ち得る純真の善意に、大の大人が雁首揃えて依存してしまった。

 

 土壇場になって、村人達はようやく考え付いた。

 

 嘘をついてでも村から逃がすべきだった。それが叶わぬなら、せめて最前線に立たせるべきでは無かった。村の子供たちを地下壕に匿った様に、あの子もまた守ってやるべきだったのだ。

 

 それが大人の、子供に対する義務という奴だ。

 

 自分たちが戦うのは仕方が無い。その結果死ぬのも覚悟の上だ。何故なら此処は自分たちの村で、守る者は自分達しかいないのだから。でも、あの子は違う。余所者だ。

 

 この村の為に死ぬ義務も理由も無い。

 

 村人たちの声が、想いがイヨに殺到する。イヨもそれを聞いたし、感じた。

 リーベ村の人々の視線を一身に受け、イヨは一本の新たな短杖を構えた。まるで気負いなく、何処までも自然体のままで。

 

 この後に及んでその背中が震えも揺らぎもしていない事に、リグナードとリーシャだけが気付いた。

 

 最早手の届く位置まで近づかんとするオーガ達を前に、右手に持った短杖と金の鍵を掲げる。

 

「ギィイルゥ!」

 

 巨剣のオーガがその小さな人間を踏みつぶさんと間合いに入り──

 

「〈ストライク・エア/風塊の鉄槌〉」

 

 短杖より開放されし第四位階魔法によって、三体のオーガが吹っ飛ばされた。

 

 

 

 

 骨の折れる音が、肉の潰れる音が、内臓が弾ける音が、傲然とうなりを上げる大気の叫びが──それら全てを混成した名状しがたい音が響くのを、人もモンスターも等しく聞いた。

 

 巨剣は弾き飛ばされ、三つの巨体が宙に跳ね上げられて、次の瞬間にはぐしゃりと耳を覆いたくなる音を立てて地面に落下した。さらに直進した風の塊は十数体にもなるゴブリンを巻き込み、同じく骸とせしめた。──さっきまでモンスターだった死体が次々に落下するのを、その場にいる全ての者が目撃した。

 

 人もモンスターも、その場にいる誰も彼もが動きを止めた。振り上げられた武器は振り下ろされず、番えられた矢は放たれず、侵攻の足音も無い。それは本来戦場では有り得ない筈の、無音にして無行動の完全なる静寂。

 

 数瞬か、或いはほんの数秒の静寂を打ち破ったのは、それを齎した少年であった。

 

 イヨは両の手を上段中段に構え、鋭く素早く動いた。敏捷度を向上させる指輪に腕輪、移動速度にボーナスを得る装備、足場の悪条件をある一定の程度まで無視するスキルによって後押しされたその足捌きは、既に達人の領域だ。

 

 瞬きよりも早く、やや横に位置していた為に無事だった、棍棒を振り上げた格好のまま茫然としている最後の一体のオーガに肉薄し、身長差を帳消しにする分だけ跳躍する。

 

 とあるクエストをクリアした時の報酬である秘伝の巻物によって習得したスキル、【爆裂撃】が発動した。骨格ごと相手を破砕する威力を秘めた打撃が頭部に叩き込まれると同時、耳を聾する爆音と共に炎が奔り、オーガの頭部はこの世から消失した。

 このスキルが持つ効果は爆裂の追加ダメージと炎属性の付与、更には相手に火傷のバッドステータスを付与する。レベルが上がると一定確率で部位損失の追加効果を与える事も出来るが、イヨはまだそこまで熟練していない。だがそれでも十二分に過ぎる威力である。

 

「──い」

 

 身長差百五十センチメートル、体重にして十倍近い差がある相手を、さして力を込めた風もなく葬り去る光景を前にして最も早くフリーズから立ち直る事が出来たのは、その力を多少なりとも知っていた一人の狩人だった。

 

「──今だ! 敵の足が止まっているぞ、今のうちに射るんだ! 一体でも多く削れ!」

 

 オーガに遅れていたゴブリンたちは既に射程に入っている。オーガが全滅した事で柵を壊されて村内に侵入される可能性は低くなったが、相手はそれでも三十を越えるモンスターの群れだ。依然として大きな脅威には変わりなく、唖然としている暇は本来無いのだった。

 

 射撃を皮切りに、戦闘は再開された。ゴブリン達は一心に前進してイヨに殴りかかり、その他のゴブリンが柵を取り壊そうか乗り越えようとし、槍を構えた男たちと炎で構成された大トカゲの反撃を受ける。

 弓を持ったゴブリンの矢によって数人が傷を受けたが、負傷者は即座に白い衣を纏った金髪の妖精に癒され、弓持ちのゴブリン達はリグナードらの応射に倒れる結果となった。

 

 戦闘は余りに順調に進んでいた。まるで低位のアンデッドの如く無謀な攻勢を続けるゴブリン達を、只管に村側の戦力が撃退し続けるだけだ。村人の決死の反撃と四体の妖精も無論理由の一つだが、最前線で暴風の目と化して暴れまわっているイヨの存在は、敵にとっても味方にとっても余りにも大きすぎた。

 

「あイつだ! あノちびさえころセば──がっ!?」

 

 その拳は流麗にして苛烈であり、ゴブリン程度のモンスターには捉えられない。この場にいる者の中で、まるで一人だけ違う時間の流れの下に生きているかのようだ。

 

 少年はそれほど速く、また力強い。

 

 突き込まれる拳は防具の上からでも一撃で骨を砕き、肉を潰す。蹴りは肉体どころか武具に使われる鋼をも両断した。およそ肉体的に屈強とは思えない矮躯と線の細さだが、巨体を誇るオーガを一撃で殴り殺して見せたその力は本物である。

 

 一撃ごとに一体また一体と、一挙手一投足がゴブリン達を確実に殺めている。四方から振われる武器は掠りもしない。

 足さばきや立ち位置の調整によって避けるまでも無く当たらないか、僅かな身のこなしで空を切るか、その手先で受け、流され、捌かれるだけである。

 

 そこにあるのは一つの到達点だった。一身の隅々にまで行き渡る理、何万何十万という反復の末に体に刻み込まれた技術の集大成である。手先足先は速過ぎて霞んで見えるが、それを振っている大本である体幹、重心、軸足は僅かにも乱れない。まるで模範演舞の様に整った、整い過ぎていて戦闘中の動作とは思えない様な技の数々。

 

 繰り出される技は、全てが基本のもの。正拳、平拳、裏拳、鉄槌、掌底、貫手、鶴頭。前蹴り、回し蹴り、足尖蹴り、蹴上げ、蹴込みなどだ。ただその速度と力強さだけが、余りにも円熟している。

 

「すっげえ……」

 

 投石班のとある村人が零した言葉こそが、その場にいる全ての人間の代弁でもあった。頭部でぴこぴこ揺れているウサ耳や丸眼鏡が微妙な塩梅を醸し出してはいるが、あの幼い自称少年は、一体どれほどの鍛錬の末にあの力を身に着けたのだろうか。

 

 リーベ村では防衛の為、成人に達した人間は男女問わず戦闘の訓練を受ける。軍人や冒険者などの本職の人間と比べれば手慰み程度の時間と内容ではあるが、その訓練の成果によって、この緊急時であっても多くの人間がパニックにならず戦力としての役目を果たしていられる訳である。

 

「あんな強い人間は滅多に……ミスリル? オリハルコン? いや、まさかアダマンタイト級か?」

「アダマンタイト級……人類の切り札、最上位冒険者の強さに匹敵するってのか」

「あんな、まだ成人にも満たないだろう子供が……?」

 

 茫然とした声を漏らしたのは、普段の訓練では教官役を務める年かさの男達だ。年老いて引退した元専業兵士であり、徹底した集団での戦闘を心掛けているが為に前にこそ出ていないが、武器を持てばゴブリンの一体くらいには勝利を得られる実力の持ち主である。

 

 戦場で幾度となく命のやり取りを交わし、また敵味方ともに何人もの強者を目撃した者たちの言葉は重みがある。

 

 アダマンタイト級冒険者。それは人類種において最強の者たち。人間よりも遥かに強大なモンスターを葬り去る人類の切り札である。人の身としては極限の強さを持った存在、数多の武勲を謳われる武芸者。それに、彼らから見れば幼いイヨは匹敵するのだ。

 

「本人の言葉を鵜呑みにするとしても十六……外見は十三から十四くらいか? あの幼さで……」

 

 村人たちが相手をしているゴブリンの数は、あっという間に両手の指で足りる位の数になっていた。柵を乗り越えるか破壊しようとしていたゴブリン達は槍で突かれ、石を落とされ弓で射られ炎で焼かれ、そして何よりイヨに蹴散らされている。

 そう遠からず戦闘は終わるだろう。会敵から時間にして十分も掛かっていない、規模を考えても驚異的な速さと言えた。

 

 

 

 

 イヨは、自身の動きから徐々に遊びを薄れさせていった。ある程度崩していた姿勢や構えを整え、指先一本に到るまで神経を張り巡らせた動きとする。

 

 空手道の型の動きだ。イヨが日本一に輝いたのは組手の方であり、型競技においてはさほど目立った成績を残していない。だが、道場の方針で一定以上の練習量は熟している。

 

 腰を落とし、膝をしっかりと曲げ、背筋を伸ばし、足を張り、溜めと極めを意識する。

 

 自分の身体や動作と向き合い、自己把握をするのに型は役立つが故の行いだ。

 怪我をする人が少なくて済むように事を最速で終わらせつつ、新たな自分の身体を知る為に。

 身体の調子はすこぶる良く、まるで違和感が無い。石を握りつぶしたり、一時間にも渡って森の中を走って殆ど疲れなかったりと、明らかに身体能力が向上しているのに、だ。

 

 急激に上がった身体能力。なのに、全く違和感が無く、まるで生まれた時から慣れ親しんだものであるかのようだ。

 

 如何にユグドラシルで使い慣れた体とはいえ、ゲームの中と今では五感を中心に、様々なものが異なる。それらの機微は全力の運動中に浮き彫りになる筈だと思い、この機会に修正しておこうと思ったのだが。

 

「ふっ」

 

 上段上げ受けで振り下ろされる長剣を受け、正拳逆突きでゴブリンを地に沈める。続いて右の一体に蹴込みを入れ、斜め後方から突き込まれる槍を体捌きで避ける。手応えからして二体のゴブリンは即死しただろう。仲間がまた一体、戦闘開始から数えて三十体近くもイヨに倒されているというのに、ゴブリン達は無謀な戦いを止めようとはしない。

 

 ゴブリン達の顔に浮かぶの表情は最初から決死と不退転の決意だ。

 イヨはその理由を知っている。

 

「死にたくない、生きていたい。……ただそれだけなんだね」

 

 彼らにはもはや、生きていく力が無い。それは個々の個体としてでは無く集団として、部族としての意味で、だ。

 

 彼らは樹海の中での生存競争で敗れた部族の残党なのだ。指揮官に値する個体──ホブゴブリンや魔法詠唱者、族長など──がいないのは、既に以前の戦いの中で命を落とした後だからだ。

 

 一般の兵士に相当する個体しかいないのも、襲撃を予期して備えていたこちらにただただ突進してきたのも、頭部として機能するべき者達の不在が原因なのだろう。

 この戦い以前より彼らは敗者であり、その戦力は元から考えれば大幅に減耗している。

 

「樹海の中で集団を維持していくことが出来ない……だからこうして、人里を襲うんだね」

 

 ゴブリンは弱い種族だ。単純な身体能力で云えば人間よりも。そんな彼らが森の中で生きていくには、知恵や武に長けた個体を頭として集団を作り、相互に助け合わねばならなかったのだろう。

 

「く、くらエぇ!」

 

 内受けで弾き、即座に正拳順突きで返す。歩を進め、並び立つゴブリン達の群れを鎧袖一触に突破する。その際試験的に斧を腹で受けるが、ほんの僅かに痛痒が走る位で、痛手にはなり得なかった。イヨの防具はレベルの割にかなり上等なものだが、この衣服形態では同レベル帯のタンク職が身に着ける重装甲鎧などと比べて、防御力が相当に大きく劣る。それでもほぼ無傷だ。

 

 無理も無い。彼我には十倍近いレベルの差があるのだから。

 

 圧倒的な駆動速度の違いが、彼らに逃亡を許さない。彼らもその事を理解している。一体や二体が背を向けたところでイヨはそいつらを逃がさないし、全員が逃亡しても、二体の炎の大トカゲに焼き殺されるだけだと理解しているのだ。

 

 知恵と武の持ち主を失って烏合の衆となった時点で、生き残ったゴブリンは樹海の中で生存していけるだけの力を喪失している。後は他の強大な生き物に喰われるだけだろう。それを本能的に分かっているから、ゴブリン達は人間の村を襲うのだ。

 

 樹海の外は人の領域であり、其処に行けば争いになる。だけども、森の中では生きていけないから。樹海の中に籠ってただ少しずつ喰われていくよりは可能性があると思ったのだろう。

 

 身を隠す場所も無く実りも少ない平地は彼らにとっては生きにくい地だが、それでも賭けたのだ。事実彼らはイヨというイレギュラーな存在さえいなければ、リーベ村住民の大部分を殺戮し、大量の肉と新たな住居を手に入れただろう。いずれは事が露見し、領主から派遣される討伐隊との戦闘になったろうが。

 

「君たちは悪くないよ」

 

 人の価値観も常識も法律も、所詮は人だけのものである。他種族が共有する道理は無い。同じ様に、他種族の価値観や常識も法律も、人間を縛る事は出来ない。

 正当性が有ろうと無かろうと、殺されれば死ぬのだ。殺せば相手は物を言えぬのだ。

 

「でも、僕たちも悪くないんだ」

 

 生きたいだけ。生きていたいだけ。今までと同じように、これからも。

 

 そこに善悪など関係ない。お互いがお互いの在り方に従っているだけなのだから。異なる善と悪を比べて、どちらが正しいとか間違っているなどと云う事は言えない。

 

 相手の基準に立っていえばどちらも間違っているし、自分の基準に立っていえば正しいのだ。

 

 生きる為に殺す事は善でも悪でも無い。善悪自体が知的生命体の主観的な開発物であり、生きていくうちに後付けされる曖昧模糊とした価値観に過ぎないのだから。

 

 食べなければ生きていけない、競争を勝ち抜かなければならないといった天地自然の理は、それらとは本来関わりの無いものだ。

 

「僕は君たちを殺すよ。死にたくないし、殺されたくないから。同族の味方に立って、君たちを殺す」

 

 イヨは何故リーベ村を守りゴブリンを殺すのか。それはイヨが人間だからだ。イヨが人間を愛し、同族との交わりの中に幸福と悲しみを抱く、ごく普通の人間だからだ。

 

 イヨは生き物を殺した事が無い。その手で直接、という意味においては。ただ、両親と祖父母の努力で扶養してもらっている自分に何ができるだろう、まさかこれ以上親に無理を強いる権利など自分にはあるまいと思って、遠からず屍を晒す事になるだろうストリートチルドレンを見捨てた事は無数にある。

 

 今まで生きてきた年月のうちに食べてきた肉や野菜は──完全な人工物で出来た品は除くとして──無論元は生きている動植物だった。直接では無いと云うだけで、イヨの足元には無数の屍が積み上がっている。歩いていて知らない内に踏み殺した生き物だっているだろう。

 今まで数えられないほどの生き物を殺してきたのに、自分の手で自覚的に殺す時だけに罪悪感や忌避感を抱き、それを悪いことであると考える自分は善良だと思える感性を、イヨは歪んで感じた。

 

 善悪とは人工物。そう認識した上で、偽善の様に感じるのだ。

 

 だからイヨは割り切った。そういうものなのだと納得した。

 

 納得した上で、一人の人間として考えた上で、リーベ村の為に敵を殺すと決めた。

 客観的に言って、これは良くも悪くもない事だ。

 主観的に言えば、人の命を救ったのだから、これは良い行いだ。

 ゴブリンの立場で言えば、なけなしの足掻きと希望を打ち砕く殺戮者である。

 これらは矛盾しない。異なる立場の異なる見解というだけである。

 

 ──それら全てを噛み締めながら。

 

 目の前のゴブリンは他のゴブリンと比べてやや体格が大きく、表情にも理性が、細かな感情が浮かんでいる様に見えた。残存の部族を纏め、リーベ村への侵攻を指揮した個体なのだろう。

 

「くそが……くそがぁ!」

「さようなら」

 

 ──イヨは最後のゴブリンの頭を打ち砕いた。

 

 辺りを見れば、そこら中に死体が転がっている。幾つかは焼け爛れた死体もあるが、殆どはイヨが殺したものだ。この手で、この足で、撲殺したものだ。

 

 背後の村人たちからぽつぽつと声があがり、やがて大きなうねりとなって周囲を覆う。自分の声が聞こえないほどの大きな歓声の中で、イヨは顔を伏せ、ぽつりと呟いた。

 

「戦いって、やっぱり楽しいね? 君たちはそうでもなかっただろうけど。実力の拮抗した勝負だったら、もっと楽しかったろうにね」

 

 平等には二種類ある。絶対的平等と相対的平等だ。

 お互いに納得した上での戦いでは断じて無かったが、対等な立場で殺し合ったのだ。ただ実力差があっただけ。ただそれだけである。

 

 ゴブリン達の方が強ければ、彼らの足元に自分たちの死体が転がっていただろう。

 

「終わった事に拘泥するより、僕にはやらなくちゃいけない事もあるしね」

 

 顔を上げ、リーベ村の方に振り向いて叫ぶ。

 

「怪我をしている人はいませんかー!? 僕も治療をしますので、申し出て下さーい!」

 

 

 




イヨの持ち物の中で名前が英語になってる奴はイヨが自分で名付けたモノです。
イヨは「取りあえず英語で名付けておけばかっこよく聞こえる」と思っているので。

今回出てきた感知の眼鏡などは作った人物が名付けたか、手に入れた時からその名前がついていたものですね。

サラマンダーって妖精か? って思った方がいらっしゃるかもしれませんが、SW2.0では妖精カテゴリなので妖精にしました。



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イヨの職業構成とか:改訂版

※書籍巻末のキャラクター紹介みたいなものです。興味の無い方は読み飛ばして頂いても大丈夫です。

ここがおかしい、あそこが変だ、原作の記述と矛盾している等の指摘を頂けましたら嬉しいです。
web版も書籍版も読んでいますが、見落としている箇所も多いかと思いますので。

2015年10月15日、矛盾解消の為に追記・改変。
「信仰する神によって信仰系魔法詠唱者が習得できる魔法に差異が出る」との記述は原作で確か無かったと思うのですが(見落としているだけの可能性も多々あり得ます)、あれだけ自由度の高さや運営のはっちゃけ&こだわりっぷりが強調されているゲームで「どんな神様を信仰するかは選べるけど、何を選んでも特に差はありません! 全部一緒です!」ってのは無いかな、と。〈大致死〉が信仰系魔法なのもシャルティアの信仰神が邪神系なのが関係しているのかなとも思いまして、この設定を追加しました。

改変によって各話の本文も随時変更されますが、ご了承下さい。


主人公のステータス ※全ての設定に作者の妄想・趣味・捏造・改変が混入しています。

 

 名前:イヨ(篠田伊代)

 年齢:16歳(高校一年生)

 性別:男(リアルでも)

 身長:四捨五入の切り下げで150センチメートル(リアルでも)

 役職:無し(一般プレイヤー)

 住居:日々異なる

 属性:善~中立(カルマ値:100)

 種族レベル:人間種のため、種族レベル無し

 職業レベル:

 アーマード・ストライカー10レベル

 ベアナックル・ファイター10レベル

 マスター・オブ・マーシャルアーツ3レベル

 エンハンサー5レベル

 クレリック(妖精神アステリア信仰)1レベル

 総計29レベル

 

 

 

ベアナックル・ファイター:剣や槍などの武器を装備できない戦士職。代わりにHPなど肉体的な能力が上がりやすく、拳士系の防具も装備できる。「何のための戦士職だよ」「半端者過ぎる」「地雷職」等の理由で不人気。

 

アーマード・ストライカー:重い金属鎧を装備できるが、アクロバティックな動きや気の制御を要求される一部の拳士系スキルが習得不可となる。「地味」「モンクの方が汎用性高い」「ロマンが無い。重金属鎧を装備したけりゃ戦士やれ」等の理由で不人気。

 

マスター・オブ・マーシャルアーツ:拳士系の上位職。より純粋で高次な武術系スキルを豊富に覚える。モンク系とは系統が違い、気を扱う事は出来ない。「名前はカッコいい、名前だけカッコいい」「スキルが地味」「リアル技能自慢したい厨二病用」等の理由で不人気。

 

エンハンサー:百年以上の歴史を持つ日本の伝統的TRPG、SWの技能。練体士。ユグドラシルとのコラボで導入された。呼吸法によって時間制限の厳しい練技という自己バフを行える。一レベル毎に一つの練技を習得するが、使うたびにMPを消費する。「割と便利」「前衛職でも後衛職でもつまみ食い推奨」「取りあえず取っといて損は無い」等の理由で結構人気。でも専門職にバフかけてもらった方が効率は良い。

 

クレリック:原作と同じ。鎧や鎚、剣なども装備でき、前線でもそこそこ戦える半後衛半前衛的な魔法職。信仰する神によって習得出来る魔法に差異が出る。この職業のお蔭でイヨは武器を装備する事も出来るが、拳士系スキルがほぼ使えなくなるため著しく弱体化する。

 

イヨの信仰する神、妖精神アステリアはSW2.0の古代神であり、ユグドラシルとのコラボで導入された新要素の一つ。ユグドラシルはこれら以外にも多くの映画・ドラマ・漫画・アニメ等とコラボしており、少額の課金によって新たな種族、職業、武器防具に装飾品や外装を入手し、楽しむことが出来た。

課金によって解放され選択できるようになる様々な作品の神々は、ユグドラシルプレイヤーから課金神群と俗称されていた。

妖精神アステリアを信仰する事によって習得できる魔法にはSWにおいて妖精魔法に分類されるモノもあり、回復魔法である【ヒール・ウォーター】もその一つ。

 

 

 

Q なんで1レベルだけクレリックを取ったの? 

 

A さるギルドを襲った1500人の討伐隊が壊滅する映像を友人から見せられ「僕も派手な魔法を使ってみたい! 」と思い立って魔法拳士を志すが、本人の頭が単純すぎて敵を前にすると殴る蹴る以外の行動が頭からすっぽ抜けてしまう上、余程上手くビルドしないと万能型は器用貧乏に陥りやすいという現実をどうにもできなかったから。

他の魔法職はデスペナで消したが、クレリックは消費アイテムをケチるのとRP目的で一レベルだけ残している。でもぶっちゃけほぼ使わない。

 

Q なんでちょくちょくSW2.0要素が入ってんの? 

 

A イヨは現実でも友人と一緒にSW2.0をプレイした事があって、その思い入れが理由。というのが作中内の設定となります。

メタ的に言えば、作者がルルブを持っているからです。オーバーロードには丸山くがね先生のTRPG好きが内容に反映されている部分が多くあり、作中で描写されるユグドラシルもどこがTRPG的なテイストがあります。

親和性は高そうだし混ぜてみようかな、と思い至った次第です。

 

 

 

 

 




2016年1月19日
話の並び順を変更しました。


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イヨのこれから、そして転機

後世の書籍「各国各時代、最も人心を照らした英傑たち」より抜粋

 「小さな剛拳」イヨ・シノンはその昔、帝国と公国と王国の三国を股に掛けた英雄である。妖精神なる異教の神に仕えたという彼──伝承を知る諸兄等にとっては違和感を感じる事甚だしい表現だろうが、彼が『彼』だったのは明らかな事実である──が表舞台に姿を現したのは、今の世に言う「リーベ村の防衛戦」が初である。
 誰よりも笑い誰よりも泣き、常に感情豊かに人と交わり続けた彼の生涯において、この出来事が今後の生涯を定める契機になるとは、恐らく当時の彼自身も知る由も無かったであろう。
 


 走る。より速く走る、より強く走る、より無駄なく走る、より上手く走る、より負荷を掛けて走る。漫然と走ってはいけない。自分が何をしているかを知覚し、自分の体の状態を何よりも知らなければならない。

 何処までも何処までも誰よりも、只管に上を希求する。

 

 イヨにとって鍛錬とは日常である。とても辛く、厳しく、嫌で嫌で仕方が無い最高の娯楽だ。

 

 焼け付くような痛みを肺が訴えている。喉に棘でも生えているのかと思うほど呼吸が辛い。連続して酷使し続けた脚の筋肉は発火しているかのようだ。振う腕すら鉛の如き重さ。耳を澄ますまでも無く筋繊維の千切れる音が聞こえてきそうである。

 

 自分には限界が近づいている。それはしっかりと認識しなくてはいけない。まだ大丈夫だなどと自分を騙しても意味は無い。むしろ目を背けた分だけ限界の向こう側に踏み込み続ける覚悟が薄れる。

 

 やがて心より先に体が尽きる時が来る。それはそう遠くは無い。そしてその時が来たら、自らの意志で尚も走り続けなくてはならない。

 

 そして自分に告げるのだ。

 

 心よりも先に体が力尽きるだと? 生意気な事を言うな、事実お前はまだ走り続けているではないか。気合が物理法則を覆す事など有り得ない。太陽に向かって明日は南から上って北から沈めと命じてみろ。

 

 それで太陽は運行を変えるか? 変える訳が無い。

 

 走り続ける事が叶うのは、それが事実可能だったからに他ならない。限界を超えたのではなく、お前が自分に設定した限界が低すぎたのだ。基準を修正しよう。無理でなく、可能に。さあ新たな限界を臨みに行こう。

 より加速する。まだ終わらない。精根尽き果てそれでも続け、とうに失うはずの意識を繋ぎ留め、本物の限界が何処かを知るのだ。

 

 自分というモノの性能を知らずして、自分を万全に使いこなせる筈は無いのだから。

 

 これが終わったら熱くなりすぎた体を適度な温かさまで冷やし、解してから筋力トレーニングだ。腕立て伏せは四パターンの五十回ずつ、腹筋は五パターンの六十回ずつ、側筋と背筋は二パターンの百二十回ずつ、スクワットは三パターンの八十回ずつ。それらを一セットとして三セットほど。

 

 それが終わったら各種各段階に分けて基本動作。次は打ち込み。そして、相手はいないが一人で実戦形式をやる。

 

 血反吐を吐く程度の練習など誰でもしている。手足から骨が飛び出ていてもテーピングを巻いて試合に出場して勝ってしまう選手などごまんといる。素人から初めて一日十五時間の練習をこなして七か月で全国優勝を果たす人物だって沢山いる。

 

 というかみんなイヨの通っている道場の先輩の話である。

 

 あんな化け物を間近で見ていたらこの程度で十分などとふざけたことは言えない。

 

 既に強かった昨日の自分より更に前に。今日も強くなり続ける自分を更に先に。明日も強くなってもっと上に。

 

 そうしてこそ強く在り続け、より強くなることが出来るのだ。──因みに、自重を負荷とする筋力トレーニングは今のイヨでは効率的な練習とは言えない事がこの後判明した。二十九レベル前衛系の筋力は、小さく軽量な身体で熟す腕立ての数百回程度では全く疲労しなかったのだ。より高負荷の練習方法をイヨは模索し始めた。

 

 

 

 

「うっわ……細い、ひょろい、筋肉付いてない……」

 

 洗面桶の水面に映った自身の半裸体を見て、イヨは茫然と呟いた。

 

「一つも無い。開放骨折や粉砕骨折、裂傷の跡が……やっぱり、僕じゃなくてイヨの身体なんだなぁ」

 

 細い。すっごく細い。決して不健康なほどの痩せぎすという訳では無いが、現役の体育会系部員として人並み以上に鍛えていた現実での身体と比べ、今の身体は余りに痩せて見えた。

 

 脂肪は適度に薄く、全体としては健康体といって差し支えないが、どうにも筋肉の未発達具合がイヨの脳内の自分と違い過ぎていて、結構な違和感を醸し出している。

 体感における違和感は無くとも、記憶と照らし合わせればおかしいと分かるのだ。

 

 ぶっちゃけて言えば、女の子みたいな身体付きである。無論胸は無いし、骨格も男性のものだが。

 

「この身体でどうしてあれだけの怪力が……ゲームの時と同じといったらそれまでだけど、この世界はこの世界で現実なわけだし……物理法則からして違ってるのかな?」

 

 この小学校高学年生の女児の様な体で、イヨは昨日オーガの頭部を消し飛ばしたのである。

 現実として考えると間違いなくおかしい。体重が五十キログラムに遥かに満たないだろう人間が、その十数倍も重い生物を一撃の元に殺すなど、荒唐無稽も良い所だ。

 しかし、ユグドラシルの常識で考えれば何もおかしい事は無い。二十九レベルのプレイヤーがレベルにして一桁台の雑魚を十体や二十体纏めて屠った処で、それは至極当たり前の事である。

 

「ゲームの様な法則がある世界……鍛えれば鍛えただけ強くなれる? 筋肉繊維の数と太さからすれば物理的にあり得ない力を実際に出せてる……非物理的な出力の源か、だとしても出力に見合うだけのエネルギーを何処から?」

 

  ──こう、鍛えれば鍛える程筋肉じゃなくて魔力的な何かで強くなるとか。

 

 そう考えるイヨだが、リーベ村の住人の中には日々の農作業や狩猟で鍛えられた見事な筋肉を持つ者も多い。

 

 やはりこれは、世界の理からして違うからこそ成り立つ不可思議とでも考えるしか無いのか。

 質量保存の法則やエネルギー保存の法則は無いか、もしくは、この世界の成り立ちを元に全く別の要素をその身の一部として成立しているのだろうか。

 

「顔も、ユグドラシルでは無表情だったからまだしも、表情がついたら随分とまあ……」

 

 悪く言うと、能天気そうな緩い顔である。良く言っても、ぽわぽわした子供っぽい顔。

 いや、髪と瞳の色が白人系の金色になっていることを除けば、殆ど現実のイヨと同じ顔ではあるのだが。

 

「これは鍛えなおさないと。まずはランニング、筋トレから始めよう。村長さんに挨拶したら予定を聞いて、暇を見つけて少しずつやっていこうっと」

 

 モンスターの襲撃を蹴散らしてから既に夜は明け、イヨは村長であるティルドスト・ウーツ宅の一室に宿泊していた。

 

 貸してもらった天然素材の衣服──麻や木綿と云う種類の繊維で出来ているらしい──の半袖の上着と長ズボンを着こみ、イヨは貸し与えられた部屋を後にした。装備品の類はアイテムボックスに突っ込んであるので、実に身軽である。

 解いたままの白金の長髪がちょっと不思議な感じだが、現実で髪型を三つ編みにしていた事は無く、従って髪を結う事も出来ないので、取りあえずはこのままにしておくことにした。

 

 さして広くも無い屋敷の中である、少しも歩かない内に居間に着いた。既に起きて来ていた村長がテーブルに付いており、奥の炊事場からはコトコトとスープを煮込む音が聞こえて来ていた。

 

「おはようございます、イヨさん。よく眠れましたかな?」

「おはようございます、村長さん。ぐっすりでしたよ」

 

 何せ昨日は色々あった。ゲームの中から別世界へ転移し、死にかけた人を助け、流れる様にモンスターの群れと戦闘をし、その中で多くの命を奪い、救い、今後の方針を定めたのだから。

 空気清浄循環機能付きのカプセルベッドしか知らなかったイヨだが、機械装置のついていない昔ながらのベッドも良い物だと思った。寝転んだ瞬間から記憶が無いほどである。

 

「改めて、昨日は本当にありがとうございました。あれだけの数のモンスターの襲撃を受けて一人の死傷者も無いとは、正に奇跡です。これも全て貴方のお蔭です」

「いえいえ、僕は出来る事をしたまでですが、皆さんがご無事で何よりでした」

 

 あの戦闘の後、イヨはそれこそ駆けずり回って働いた。妖精たちも召喚時間が過ぎるまでは一生懸命働いてくれた。何せやる事は山ほどあった。負傷者の治療、死体の片づけ──ただ埋めるだけではアンデッドになりかねない為、ある程度様式に沿って弔わねばならないらしい──傷付いた柵の補修、どさくさに紛れて襲って来る魔物への警戒など。

 

 ほとんどの装飾品を筋力増強系のものに付け替えて一人でオーガ二体を引きずったり、スキルを使用して地面を殴って大穴を掘ったりとイヨは大活躍であった。お蔭で丸一日ほど掛かって終わらせる筈だった後片付けが三時間で終わってしまったほどだ。

 

 細かい所を言えば射った矢の回収や、ゴブリンとオーガの装備品を剥ぐ作業もあった。使えそうな物は村に時折やってくる商隊に売却して現金に、駄目そうな物は炉で鋳溶かしたりして、資源として再利用するらしい。

 

 ちなみ、売却して作った現金の主な使い道はイヨへの謝礼だそうだ。

 

 アイテムボックス内に多少の金貨が入っていることを知ったイヨは尚更謝礼を受け取る事を拒んだが、リーベ村の住民殆どに受け取って下さいと頭を下げられては、謹んで頂くしかなかった。子供が道理に沿わない我が儘を言って大人を困らせてはいけないのだ。

 

「あの、村長さん。僕は今日からなにをすればいいんでしょうか」

「はい? なに、とは何の事ですかな?」

「働かざるもの食うべからずと言いますし、何か仕事をしなければな、と思いまして」

 

 当然の気持ちで申し出た願いだったが、村長は泡を食って否を訴えた。

 

「貴方は村の救い主、村の大恩人ですよ! そんなお方に雑務などやらせてはリーベの沽券にかかわります! 現状でも恩に報いるおもてなしが出来ているとは言えませんのに、この上その様な──」

「で、でも、昨夜も色々な事を教えて頂きましたし、そのお蔭で今後の目標も出来ました。それだけの事をして頂いて、ただ惚けている訳にはいきません!」

「いえですからこちらにはまず村を救って頂いたという大恩が──」

「だからってそこまでして頂く訳には──」

「それに情報提供などは当たり前の親切の部類ですし──」

「だったら僕の助力だって当たり前のことで──」

 

 既に昨晩、イヨはこの周辺の地理や国家などの情報──ゲーム的に言うなら世界観に当たる情報を、村長や元兵士などの村の有識者たちから得ていた。

 

 聞けば聞くほど恐ろしい世界であった。なんと人間種が主となる国家はルードルット親子に聞いたスレイン法国、リ・エスティーゼ王国、バハルス帝国、公国で後他にも幾つか──たったそれだけで大体全部なのだと云う。

 

 その他の国は亜人種が主となる国家であったり、人間を食べるビーストマンで構成されていたり、オーガだかトロールの国もあるらしい。

 

 ではこの世界は人間種国家とその他種族の国家で覇権を争っているのかと云うとそうでもなく、王国と帝国など毎年カッツェ平野なるアンデッドが跋扈する地で戦争をしているのだとか。

 

 いや生物なのだからそれは争う事もあるかと思うが、やってる場合なのだろうか。

 

 亜人種は人間種より大体強靭だと言うし、頭の方も賢い種族は多いとか。その上モンスターは幾らでもそこら辺をうろついているし、普通の獣も沢山いる。狩人の職業に就いている者以外の村人では狼にも勝てない場合が多いという。そこだけはイヨの世界と同じなのだ。

 

 なんだか物凄く恐ろしい世界にイヨは来てしまったようである。

 

 そんな世界では二十九レベルでしかないイヨなど外見通りに文字通りの子供扱いなのではと思ってしまうが、この世界に在ってはイヨ並──即ちレベルにして三十前後──の強さを持つ者は非常に少なく、その領域に達した者は英雄と称され、人類の到達点、人類種の切り札などと呼ばれるらしい。

 

 ──呼ばれる、らしい。

 

 その数は非常に少なく、対モンスターを得意とする傭兵、冒険者の中にあってはアダマンタイト級と呼ばれる最高位者の中でも一握りの存在のみ。

 てっきり上にはヒヒイロカネ級とかアポイタラ級等があって『十代半ばでアダマンタイトとは将来有望な子だなぁ』的なニュアンスで褒められているのかと思っていたら、アダマンタイト級が最高位なのだった。

 

 公国内にアダマンタイト級の冒険者チームは居らず、その下のオリハルコン級冒険者チームが三チームいるのみ。公国が現在は実質的に従属しているバハルス帝国や、近くにあるリ・エスティーゼ王国にはアダマンタイト級が二チームずついるそうだ。

 

 冒険者チームは通常四人から六人位までが最も多いらしいので、間をとっても一チーム五人。五×四で二十人。

 無論の事、村長が知らない強者や表舞台に出てこない存在もいるだろうが、三十レベル前後の人間が三国の中で二十人。

 

 因みに、公国の国民の数は大まかにいって三百万人ほどだとされている、らしい。イヨの元いた世界、イヨにとっての現実世界ほどしっかりした戸籍制度が無い為、正確な所は不明なのだとか。

 

 近隣三国の数百万から数千万人中、三十レベル前後が推定二十人?

 

 正直に言って、イヨはこの話を聞き、己の中でのユグドラシルの知識と合わせて考えて────良く人間滅びなかったですね!? と思ってしまった。

 

 魔法関連の話も聞いたが、普通に才能のある人間が努力の限りを尽くして到達できるのが第三位階までで、第四位階以上はごく一握りの天才や飛び抜けた英雄の領域なのだと言う。

 単独で第六位階魔法を行使できる人物は一応実在しているらしく、帝国の首席宮廷魔法使いフールーダ・パラダインがそうであるらしい。それ以上の領域の魔法を行使した話は過去に魔神と戦ったという十三英雄など、噂やお伽噺程度には聞くものの、実際に使った実在の人物というのはとんと聞かないそうだ。

 

『あの、第七位階や第八位階、もしくはそれ以上の魔法の存在をご存じありませんか?』

 

 とイヨが問うと、

 

『そ、そのような神の領域にある魔法が存在するのですか!』

 

 と、村長たちに大層驚かれてしまった。

 

 総体的な感想としては──この世界やばい。というか人類がやばい。

 

 過去には八欲王や魔神といった神話的存在が実在していた様だし、人間を食料とする人間より強大な種族が国家を作ってもいる。それでいて内輪揉めが常態化している。よく今の今まで人類が滅びてなかったものだと、つくづく思う。

 

 イヨが良く友人とやっていたTRPG、SWの世界観に近いと云えば近いが、それでいて魔法やモンスターなどはユグドラシルと一緒だ。三十から百レベルのモンスターなど腐るほどの数がいたはずだが、本当になんで人類はまだ存続しているのか。三十レベルそこそこの人間が此処まで少数ならば、それこそ三十五レベルとか四十レベルのモンスター一体で国家が破滅しかねない筈である。

 

 何処かの秘密組織が人知れず人類の為に強敵を抹殺しているのかも、なんて創作の様な安易な想像をイヨはしてしまった。

 

 イヨの様な、対等の戦いを楽しみたいが故に積極的なレベル上げをせずに、むしろレベル下げを行う特異な人間でなければパワーレベリングなどの手段で持って一月二月で百レベルに達する事が出来たユグドラシルとは雲泥の差だ。

 

 これが現実とゲームの違いという事なのだろうか。

 

 それに、ユグドラシルでは金貨しか流通していなかったが、この世界では銅貨や銀貨もあるらしい。使用頻度的にはむしろ銅貨銀貨の方が主流だとか。大部分の人間にとって金貨は日常で使う貨幣では無く、商取引や貯蓄が主な使い道らしい。

 見せてもらった硬貨はやたらと不揃いでべっこべこに歪んでいたが、村長はそれを当然のものとして考えている様子だった。イヨの世界の硬貨も、百年も遡ればこういう出来だったのだろうか。

 

『あの……神隠しの逸話とか伝承って、この辺りにありませんか? 以前にも僕みたいな人が来たとか、そうでなければ何処か他の地でそういった言い伝えは無いでしょうか? どんな小さなことでも良いので教えてください』

『申し訳ありませんが……この近辺でその様な言い伝えは聞いた事がありません。転移を可能とする魔法の存在や、そういった系統の罠がある事などは小耳に挟んだこともありますが……他の大陸からの転移など、其処まで規模の大きなものは寡聞にして……』

 

 村長から受けた情報提供は大体これ位だが、イヨは凹んだ。それはもう、傍目から見ても分かるほど凹んだ。はたはたと涙を流して咽び泣き、多くの人を狼狽えさせてしまったほどだ。

 

 村長を始めとするリーベ村の人々には、イヨの故国は遠く離れた他の大陸にあるものと伝わっている。故にイヨはこの辺りの文化習俗にまるで疎いという方便、理由付けとなっているのだ。

 

 人生の殆どを生まれた村落の中で生きる村人たちにとって、想像の付く『遠方』とは精々が隣村か直近の都市、もしくは隣国位である。自分たちが住んでいる村は公国にあり、その公国の近隣には帝国があり、周囲には法国や王国が存在する。恐ろしいモンスターたちの国もある。そこまでは如何にか知識があり、実感は無いまでも感覚として『とても遠い』と理解しているのだ。

 

 だが、その先は? 

 

 この世界の人間の誰しもが、その先に何があるのかを知らない。

 大陸は何処まで続いているのか、海の向こうには何があるのか。

 其処には自分を見知った者など誰もいない、人間すらもいないかもしれない。

 もしも自分がその遥か遠い地へ、見知った物が何もない場所に行ってしまったら? 

 

 異世界と他の大陸という便宜上の変換があったにせよ、リーベ村の住人はイヨの状況をほぼ正確に把握し、その恐怖と心細さに打ちひしがれる少年に心から同情し、心配した。

 イヨとしては人前で泣いてしまって恥ずかしい位の認識でいたが、そんな悲劇にあってしまったのに、この子はそれでも見ず知らずの自分たちを助けてくれたのだと、リーベ村住人は感謝と敬意を新たにしたのである。

 

 そしてイヨの方はと云えば、一度年甲斐もなく泣く事で感情の奔流を鎮めていた。

 

 そして考え付いた。

 

 帰る方法を探しながら、自分と同じユグドラシルのプレイヤーを探そうと。自分では無い人の話を聞けば、何かが分かるかもしれないからだ。

 

 こちらの世界に来たのが自分だけなんて云う発想は、そもそもイヨの頭に浮かばなかった。だって、ユグドラシルにおけるイヨは特別でも何でもない存在だ。

 例えばワールドチャンピオンとか、大手のギルドマスターとか、ワールドアイテムの所有者とか。

 そういった人物であったなら、何某かの運命の導きによって、通常では成せない大事を成す為に呼ばれたのだと納得できたが、イヨは違う。

 たかが二十九レベルの一般プレイヤーだ。特別な職業も特殊なスキルも縁が無く、ユグドラシルへの思い入れだって廃人級のプレイヤーと比べたらあんまりない。

 

 まだイヨでは無く、中身である現実の篠田伊代の方が特別と強弁できるだけのものを持っている。

 

 小学校二年から六年生までの空手道全国大会の優勝者だ。身長が伸びず、中学一年生ごろから勝てなくなったが、伸びない身長をカバーするだけの修練を積み、高校一年生の現在になって都大会を突破し関東大会に出場が決定。今一度全国一位の座に返り咲かんと奮起している。

 生来女性的な容姿の持ち主で、未だに女子と間違われる。身長も百五十センチちょっとしか無く、同級生どころか後輩にも「伊代ちゃん先輩」「伊代ちゃんさん」「シノちゃん」などと呼ばれて慕われている。とてもとても可愛らしい七つ離れた双子の弟妹がいる。名前は弟が千代で妹が美代。

 

 王道とは言い難いが、なんとなく主人公っぽい気がする。

 

 そういったぽいとかぽくないとかの感覚的な話を無視しても、サービス最終日のユグドラシルには数千から数万のプレイヤーがいた筈である。その中でイヨだけがこちらに来てしまったと想像するより、他のプレイヤーも来ている筈だと考える方が確率的にありえそうだった。

 

 他にもプレイヤーはいる。イヨはその事については半ば確信している。そして多分探せば見つかる。

 

 何せ彼ら彼女らはこの世界でこの上なく目立つ。二十九レベルのイヨですらアダマンタイト級だ英雄だと騒がれるのである。ユグドラシルの大半を占めていた百レベルプレイヤーはあっという間に国際的に有名な存在になるだろう。

 

 百レベルの前衛は万軍を切り裂き、単身にて一国を落とす事も容易だろう。

 百レベルの後衛は空間を超越し、万人単位の大量殺戮を行う事も至極簡単だ。

 

 流石に其処までするプレイヤーがいるとは思えないが、それ程の強大過ぎる力を持って身を潜め続けるのは難しい。本人がそうしたくとも周りは絶対に放っておかない。

 そこまで考えると、何もしなくても見つかるよね、とイヨは至極楽観的になった。他のプレイヤーもやっぱりプレイヤーを探すだろうし、血眼になって探さなくてもその内出会えるだろう。

 

 とすればだ。後に残る目的は『帰る方法を探す』である。正直さっぱり分からない。世界間の移動、しかもゲームやってたら何時の間にか異世界に。そんな訳の分からない事態の究明などどこから手を付けたものか。

 取りあえずは、この世界に同じ様な話が伝わっていないか探す事にする。所謂神隠しの伝説を探すのだ。パワースポットみたいなものが原因かもしれないし。

 

 この世界で当分生きていくのだから、働かねばなるまい。しかしイヨは住所不定身元不詳かつ無職の未成年。言葉は何故か通じるが文字は読めない。そんな子供がどうやって職に就くのか。

 村長たちの話を聞いて、最適な方法を直ぐに思い付いた。

 

『僕は冒険者になります!』

 

 日銭を稼げる。腕っぷしがあればやっていける。情報を集めやすい。依頼内容によっては他国にも行ける。色んな人に出会えるからそのうちプレイヤーとも会えるだろう。多分他の人も同じことを考えると思うし。正にイヨの天職だ。イヨがモンスターを倒したり薬草を見つけたりすれば、それで人助けも出来るのだ。

 

 元兵士の老人が言うに、この国で冒険者をやるなら公都が一番らしい。帝国の国境とも近いから栄えているし、この国で最も多くの人が集まる。三チーム居るオリハルコン級チームの内、二チームも其処にいる。

 

 一旦行く道を選んでしまえば、イヨの単純な頭は悩みを生まない。次に商隊が村を訪れるという五日後まで、村を手伝いながら自分を鍛えて待つのみだ。

 商隊は二週間ほどかけて公都まで行くらしいが、リーベ村から謝礼が出るし、旅の間に荷馬車等の護衛を務めれば給金が貰える。ユグドラシルの金貨も持っている。後は冒険者になって働けばいい。

 

 良し。悩むことは何も無い。

 周囲の人間がおや? と思うほどあっさりイヨは泣き止んだ。

 泣かないだけで、合えない両親や弟妹を思うと無論悲しいが、悲しみすらも前進する力に変えていけるのがイヨだ。

 

 そうして一夜を明かし、現在。イヨと村長との労働交渉は──

 

「ではイヨさんが進んでやる仕事はボランティアとして扱い、こちらが依頼する仕事は謝礼に色を付けると云う事で対応を……」

「謝礼の増額は村の経済を圧迫しない程度の良心的な価格に留めるというのは?」

「ぐっ、そうでしたな。それが双方の妥協点としては最良でしょう」

 

 賃下げ交渉は双方が妥協し、イヨの『自由労働』を認めると云う形で決着した。

 村長は厄介な問題を片づけられ、得をする。

 イヨはタダ飯喰らいを回避しつつお金がもらえる。

 両者両得である。 

 

 緊急に頼みたい用事は無いという事なので、まずは食べましょうとそこで食事が始まった。

 

 豚肉と一緒に野菜を煮込んだスープとパンだ。パンはスープに浸して柔らかくしてからたべるらしい。

 村長は終始粗末な物しか出せず申し訳ないと恐縮していたが、実はこの食事は、イヨの価値観からすればとんでもないご馳走である。

 

 畑や牧草地を見た時から分かってはいたが、この世界の食材は全て天然の土と水、そして人の手で作られている。対して、イヨの常識からいえば食材とは工場で生産される物である。それも、本物の食材など祝い事の時でしか食べられず、普段口にするのは味と外見をそれっぽく作っただけの人工食品だ。

 

 工場では無く、汚染以前の手法で作られた食材はとんでもない高級品である。イヨの家は貧しくないが際立って裕福でも無く、そんな高い物は食べられなかった。

 初めて食べる天然の風土が育んだ食べ物。野趣が強く、味自体が濃い気がした。

 パンもなんだか体に良さそうな味がして美味しかった。

 

 この後のトレーニングも頑張れそうだな、とイヨはご満悦である。何度も言うが、彼の頭は単純なのである。家族との別離に泣いてから僅かに一夜。にも拘らず美味しくご飯を頬張れる神経は豪胆というか、冷淡というか。直面している物事に対して誠実とでも表現すればいいのだろうか。

 

 食事のあと、イヨは大きな声で行ってきまーす! と言って村長宅を出て行った。

 これから村の外周をランニングするそうである。

 

 なんとも元気で前向きな人だ、と村長は半ば感心しつつその背を見送った。




と云う訳で、冒頭の文章はランニング中のイヨの描写でした。

イヨは原作でモモンガ様が気付いた部分・可能性を考慮している部分にまるで考えが及んでいない為、既読者の方からすれば「あれ? そこスルーなの? なにも気付かないの?」な感じになりがちです。

他のプレイヤーとの敵対の可能性とかもある意味考えていません。人間同士相性の良し悪しは当然あると考えているので、現地人だろうとプレイヤーだろうと一緒くたに「まだ見ぬ人々」としてしか捉えていないからです。特別現地人とは分かり合えないだろうとか、プレイヤーなら悩みを分かち合えるだろうとかも思って無いです。彼の頭の中ではみんな「人間」でひとくくりですから。

次回は作者が捏造設定した国家・公国や大公のお話をします。短くなりそうです。


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公国と帝国、そしてイヨ

 さて、イヨはまるで気にしていない様だが、帝国に従属しているという公国とは一体どのような国家なのか? 

 

 彼が知っている情報は、村長を始めとする村の知識人各員から享受したもの。だがしかし、知らない事が余りにも数多く、広範囲に渡っていた為──何せ『ユグドラシルと同じ』部分以外は全く知らない──一つ一つの事柄に対する情報量はとても少ない。

 

 冒険者。ほぼモンスター専門の傭兵。実績や強さによって銅級からアダマンタイト級までの八段階にランク分けされる。組合に登録すればなれる。戦うお仕事。

 国。一杯ある。公国、王国、帝国、法国とその他幾つかが人間主体の国家。他はモンスターやらビーストマンやら。王国と帝国は仲が悪くて毎年戦争をしている。公国は帝国に実質的に従属している。

 神。火、風、土、水の四大神教がメジャー。法国だけは光? と闇? の二柱を足した六大神教を信仰している。他の宗教に対する風当たりはあまり激しくはない。ただ、法国は宗教国家だけあって敏感な人も多いらしい。ちょっと注意。

 

 ほぼ全てにおいて、この程度の情報しか知らない。

 

 村の知識人とは専門の教職員でも無く高等教育を受けた訳でも無く、元兵士であるとか元商人であるとかで『終生を村の中で過ごす大半の村人よりは物知り』程度の存在であり、彼らが語る情報はブレや欠落も多く、すでに時代遅れとなった知識も少なくない。

 

 加えて、聞いて覚える側であるイヨの頭もあまり良くない。イヨは大雑把に言って国語と社会と理科に属する勉強は得意だが、数学や英語は本人も匙を投げているレベルで苦手である。総合すると『学校全体で真ん中よりは上』程度の順位で収まるが、空手道のスポーツ推薦で入学した事もあり、多少の事は見逃されている節もある。平常点も非常に高く、つまり授業態度自体はとても良好なのも教師陣の覚えを良くしていて、『努力自体はしてるみたいだし、空手も忙しいらしいし』『まあいいか。篠田だしな』などで救済があったりもする。

 こと勉強という面にあっては、イヨは甘やかされて生きてきたわけだ。地頭は悪くないし考えも回る上、知恵働きも上々だが──。

 

 ──『知識』というモノに対しては貪欲でない。考えるという行為に熟達していない。知恵や発想から飛躍する事は出来ても、知識や考察から発展することが出来ない。

 

「王国と帝国は仲が悪く、毎年戦争をしている」事は知っていても、「何故戦争をしているのか?」「何処で何時どうやって戦争をしているのか?」という疑問を抱かない。

 

「公国は帝国に従属している」のは何故か、従属する事によって公国が過去と比べて如何に変わったのかに興味を抱けない。

 

 潜在的敵国だとかパワーバランスだとか国益だとか、そういった何処かで耳にした言葉で勝手に納得しているのだ。個人が個人の事情で行動するように、国には国の指針があり、恐らく多分きっと領土的野心とか経済植民地とかその辺りが理由だろうと。

 ここら辺が当たらずとも遠からずというか、何も考えていないにも関わらず正解の一部を思い浮かべている辺りは流石なのだが。

 

 イヨが共感し、感情移入できるのは個人、個人が集まって作る集団や組織、数多の集団が集まって作る村や街までなのだ。

 地方、領地、国家まで規模が拡大すると、途端に輪郭が薄れて何だか曖昧模糊とした良く分からない物になってしまう。大きすぎて見当がつかない。捉えきれない。

 

 イヨの頭の中の公国は『自分が今いる国』もしくは『リーベ村がある国』でしか無いのだ。

 

 

 

 

 さて、本題に入ろう。

 

 公国とはどの様な国家なのか。

 

 先ずは名前だ。いくら帝国に従属しているとはいえ、公国は建前上独立した一国家であり、通常は区別の為、名称がある。

 しかし現在の公国は、国家間の会談や公宮の官吏が作る書類上の話でもない限り、ただ公国と呼ばれる。それは単純に名称が一般に定着していないからである。

 

 公国と、公国を治める大公はつい先日──といっても年単位は前の事──今まで用いていた誇りと伝統ある名を廃し、非常に簡素で素っ気ない名を新たに名乗っている。

 

 貴族制度というものは複雑であり、時代によって国によって形が違う。しかし大公といえば普通は王の子息や弟、王家の分家の長などが就く地位であり、王や皇帝には流石に劣るにせよ、有り体に言えばとても偉いのだ。

 

 そして大公家の系図は、周辺でも大きな力を持った国家として知られるバハルス帝国から派生している。故に帝国の領土にへばり付くような感じで領土を構え、つい最近まで恙なく国交を交わしてきた。根っこを辿れば同じ国とも言えるし、君主同士は親戚関係に当たるのだから、これはある程度理解できるだろう。勿論国家である以上個人同士の関係の様には行かないから、お互い腹の中では知られたく無い事の十や二十は抱えていただろうが。

 その筈の大公と公国が何故、ある日国と己の名を廃したのか。それどころか独立国家としての誇りを捨て、帝国に実質的に従属しているのか。

 

 大公──現在のありふれた名は冠せず、あえて大公とだけ呼ぼう──はその昔、自分の能力に深く自信を持った男だった。

 過去の慣習と上手く折り合いをつけながらも自分の意思を政局に反映し、公国という国をまずまず上手く回していたのだ。

 統治者として、そして一国の頂点に立つ最上位者として育てられた彼には、幼き頃より胸の内で燃え続けていた一つの野望があった。

 

 それは立身出世である。

 

 既に大公として一国を治める地位にあっても満足せず、更に上を渇望する大望だ。

 

 ──何故自分が、公国などと云うちっぽけな地の統治者で一生を終えねばならないのだ。自分にはもっと多くの民を導き、もっと広く偉大な国家を成せる能力が備わっている。

 ──見よ、あの無能貴族が蔓延るリ・エスティーゼ王国の無様さを。ランポッサⅢ世の如き老害が血統だけで万民の上に立つからああなるのだ。いや、あの国の場合は代々の貴族が溜め込んだ膿のせいもあるか。しかしそれにしてもあの様は無かろう。いずれ私が取り込んで見せる。

 ──帝国も帝国だ。歴代皇帝の有能さは認めるが、王国と同じく禄を食むだけの無能貴族が多すぎる。あの豚どもを粛清し、放蕩に注ぎ込まれていた分の金を他に回せば、今頃領土は二倍にも三倍にも膨らみ、民も栄えただろうに。あそこも私が統治し、より良い繁栄を実現せねば。

 

 二国が誇る戦力、周辺国家最強の戦士であるガゼフ・ストロノーフと大魔法詠唱者フールーダ・パラダインの存在は確かに脅威だが、所詮は一個人だ。

 離れた所に同時に存在出来る訳でも無く、睡眠を必要としない訳でも無い。戦力的に排除が不可能ともなれば、戦略的戦術的に駒として浮かせ、その隙に本丸を落とせばよいのだ。わざわざ戦ってやる必要は無い。

 

 自分にはその力と資格がある。自己と自他を客観的に見比べ、そしてより優れた者を超える為に努力していけるだけの才覚が備わっている。

 

 彼が凡百の慢心家と違った所は、その実力が本物だったという点だ。

 彼の自己評価は決して無根拠な妄想では無く、確かな才覚があった。それを無駄なく伸ばすために最適な努力をし続け、文官武官に関わらず数多の優秀な人材を集め、やがては満天下に己の持てる力の全てをもってして挑んでみせるのだと思っていた。

 

 だからバハルス帝国先代皇帝が崩御した時、彼はついに時が来たのだと歓喜した。

 神が己に言っている、お前の時代が始まると告げているのだ、と。

 

 大公家は皇帝の血筋から派生した分家。そして自分はその直系。ならば正統支配者たる血脈は、皇帝の後継者たる資格は自分にも──否、自分にこそありと奮起した。

 先帝には血を分けた実子が複数いたが、多少の横紙破りなど問題にはならぬ。自分には資格があるのだ。有象無象が尻で玉座を温めた処で何も生まれぬ、自分という実力者が高き座についてこそ権威と権力を活かせるのだ。民草を導き、国家に栄華の道を歩ませることが出来るのだ。

 

 治安維持なり何なり、理由は何でもいい。とにかく軍を率いて帝都に上り、万難を排して皇帝の座を手に入れる。結果さえ出せば民は付いて来る。喚くだけの貴族など踏み潰せばいい。

 

 そうして大公は国内の諸侯諸族に号令を発し、意気揚々と軍を率いて帝都へと進軍した。道中一切の苦難は無く、モンスターどころか野犬にすら殆ど出会わないという順調な道行。やはり神は己を選んでいると確信した。

 

 彼は国境付近で進軍の足をいったん止め、全軍に休息をとる様に命じた。一分一秒が惜しい情勢だが、軍を率いて国境を変えればそれは即ち宣戦布告だ。一度国境を超えれば、後はひたすらに帝都目掛けて駆け抜けねばならない。

 疲れ切った兵では戦いになどならないし、落伍者が出れば野盗化して帝国内の村や町を襲うやも知れない。いずれ自分が玉座を手に入れた時、民には従ってもらわねばならないのだ。反感を買うようなことは極力避けるべきだった。

 まだ自国内にいるうちに兵と馬を休ませ、しかる後に進軍再開としようと決定したのだ。

 

 将校の中には休んでいる場合ではないとの意見をする者も出たが、帝都を中心とした帝国各地は蜂の巣をつついたような大騒ぎだ。あの混乱ぶりからすれば、こちらの動向に注視する余裕は無い──と、そんな会話をしていた時だった。

 

 新皇帝を名乗る人物が近衛を始めとする帝国騎士たちを率いて貴族を粛清、混乱を平定し玉座を我がものとした、との報告が入ったのは。

 

 有り得ない、と大公は愕然とした。皇帝の座を狙う人物が腐るほどいるのは当然の事として、その内の一体誰がこの異常な速さで事態を掌握できたのだ。

 大公とて思い込みだけで闇雲に軍を動かしていたのではない。長年収集し続けた情報と最新最速の情報を多角的に分析し、その上で行動を定めていたのだ。己の計算上では、まだ幾日もの猶予が合った筈。

 

 信頼の厚い部下からの報告でなければ欺瞞を疑っただろう、異常な速さと言えた。

 

 機を逃した事に憤り、神を呪う──などと云う無駄な事を彼はしなかった。

 混乱の平定させた上に新皇帝として名乗り上げまでも熟している人物に対して、自分は絶望的に後れを取っている。今から軍を率いて行っても、得られるのは汚名のみだ。

 

 ──実際に軍を動かしてしまった以上、ただで帰れば国内の非主流派、即ち自分に反対する者たちが騒ぎ出す。国境線の寸前にまで軍を寄せたという報が新皇帝の耳に入れば更に不味い事になる。

 

 大公は即座に方針を変更。軍内部から人員を選抜し、新皇帝への謁見を求めて一路帝都へ駆けた。多少苦しくとも、国境侵犯未遂は誤魔化さねばならない。

 

 そうして未だ本来の日常を取り戻したとは言い難い帝城に乗り込み──勿論正規の手順を踏んで──謁見を申し込んだ。先ずは先代皇帝崩御の訃報に対する悲しみと新皇帝即位の祝賀を述べ、その上で相手の人格と能力を見定めるべく。

 

 ──ほぼ有り得ない事だが、無能とあれば話術にて組み伏してやろう。自身と同じだけの才あらば我が大望を分かち合い、共に並び立つことも吝かでは無い。自らをも上回る傑物ならば……今は頭を下げ、しかる後に喰らう。

 

 そんな思惑を抱いていた彼にとって、新皇帝の対応は非常識としか言えないものだった。早々に家臣団と分断され、まるで一臣下の如くもてなしさえ無しに、謁見の間に放置されたのである。

 

 帝国と公国は国力こそ帝国が優勢だが、立場的には対等な国家関係を築いていた。それなのにまるで遥か格下の従属国の一使者にする様な扱いである。

 一体新皇帝がどのような思惑があってこのような行いに出たのか、さっぱり分からなかった。

 

 ──まさか、愚か者か? 

 

 そんな想いすら湧いてきた頃、漸く新皇帝──そう、未来において鮮血帝の名を轟かせることになる男、希代の支配者。

 バハルス帝国新皇帝であるジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスが、大公の前に姿を現したのだ。

 

 ──勝てない。

 

 その男──いや少年を視界に収め、一瞥を投げ掛けられた瞬間に、大公は思った。

 

 ただ対峙しただけ、ただ視線を合わせただけで、彼の精神は心底から敗北を認めていたのだ。

 傍に控えた大魔法詠唱者フールーダ・パラダインの姿も恐ろしかったが、何より大公を打ちのめしたのは、ジルクニフの眼だった。その余りにも冷徹で、現実的で、実利的な目つきだった。

 その眼は、言葉よりもなお雄弁にこう語っていた。

 

『お前は敵か味方か? お前は役に立つのか? この私が生かすに足る者なのか?』

 

 ああ、と大公は確信した。

 この男こそ選ばれし者。生まれながらの上位者。万民の統治者だ、と。自分などとは比べられないほど隔たった高みに立つ人物だと。

 この男に比べたら自分などは犬ころに過ぎない。他の犬よりやや毛並みが良く、ほんの少しばかり知恵が回るだけの犬畜生だ。

 駄犬の群れを見て思い上がり、自分の価値を高く見積もり過ぎた滑稽な犬なのだ。

 

 何を比べた訳でも、言葉を交わした訳でも無い。姿を目にし視線を受けるというただそれだけで、大公の審美眼は彼我の能力差を正確に測り切っていた。

 

『新たなる皇帝陛下に、我が忠誠を捧げるべく参りました』

 

 故に、彼は気付けば跪いていた。

 

『ほう? 我が帝国と御身の公国とは、対等の関係だと思っていたのだが?』

『滅相もございませぬ。より賢く強大で、正しき者が上に立つ。至極当然の理です』

 

 ただ当然の事実を口にするかの如く、

 

『陛下のお望みの為に、我が身の全てを差し出しましょう』

『……良かろう。お前の忠誠、確かに受け取った』

 

 独立国家公国の実質的な終わり、そして帝国の忠実なる臣下である新たな国が誕生した瞬間だった。

 

 家臣団を引き連れて帰国した大公は、当然の事ながら激しい非難に晒された。大口叩いて軍を動かした挙句、己が一存で帝国に公国を売り渡したと詰られた。

 表面的には今までと変わらずとも、各国の諜報と謀略の網を潜り抜けられる訳が無い。公国が誇りを失った事は直ぐに公然の秘密となろう。戦をした訳でも無く誰かに跪くなど天下の笑いものだ、と。

 

 しかし、それらの批判は直ぐに収まる事となる。

 

 理由は当然、ジルクニフが己に歯向かう全ての者に対して、圧倒的武力による苛烈な粛清を持って相対したからである。

 歴史ある大貴族が、誇りある名門が、まるで麦の穂を刈り取るかのように潰えて往く。

 歯向かった者だけでは無く、無能であるとか役に立たないというだけで消えて行く。

 そうして絶対的権力を持った皇帝ジルクニフ率いるバハルス帝国は、あっという間に国力を増大させ、周辺国家に幅を利かせる事となった。──最も早く服従し、最も協力を惜しまなかった公国と共に。

 

 民衆は正直だった。縁深い隣国である帝国の躍進と、公国の繁栄。自らの生活水準が向上した事によって、民衆の支持は自然と『あの皇帝と仲良くやっているらしい大公』に集まった。

 貴族たちも、少なくとも皇帝に敵対はしなかった大公の審美眼を認めざるを得なかった。あの鮮血帝は従わぬとあればこちらにも矛を向けただろうと理解したのだ。

 

 評判が回復した大公は次に、国内の効率化と清浄化に着手した。

 生まれの上下に関係なく能力さえあれば要職に就けるよう血統主義を見直し、平民にも門戸を開いた教育機関を立ち上げ、行き過ぎていた税率を引き下げ、汚職を徹底して撲滅した。

 国内のモンスター被害の対策として冒険者を今まで以上に活用し、それによって余った騎士たちの中から能力に優れた者を選出し、高水準の実力を持った新たな騎士団の編成に着手した。

 

 全ては皇帝ジルクニフに対する忠義が為? いや違う。

 

 彼はただ怖かったのだ。あの冷徹な目に見詰められた時の恐怖が忘れられなかったのだ。

 

 ──間違っても鮮血帝に眼を付けられるようなことがあってはならない。

 

 今の彼を突き動かすのはその一念だ。

 

 ──敵であれば有害として処分される。だから忠を尽くさねばならない。

 ──跪くだけの奴隷であれば無用として消される。だから役に立つ部下でなければならない。

 ──私だけでは無く国全体が、あのお方の利益であらねばならないのだ。

 

 そうでなければ死ぬ事になる。死にたくない、ただこの一心だ。この身は皇帝陛下の一臣下であると主張し、己が名と国名さえ表向きには尤もらしい理由を立てて変えた位だ。

 

 かつて大望を抱いた大公は、今や皇帝ジルクニフの忠臣として名を馳せている。

 

 

 

 

「……イヨ、あなた一体何をやってるの?」

「あ、リーシャ」

 

 リーベ村逗留三日目、イヨは昨日振りに会う女の子に声を掛けられ、振り向いた。

 

「なにをやってるって──」

「イヨにーちゃん! 次おれ! おれも抱っこして!」

「ずるい! あたしたちも遊ぶー!」

「もう一回たかいたかいやってよ! イヨにーちゃーん!」

「──みんなと遊んでるんだけど」

 

 子供と遊んであげているでは無く、みんなと遊んでいるという表現を用いる辺りに、リーシャはちょっと頭を抱えた。

 眼前の村の救世主は、手足一本ずつに一人、背中と胸前に一人ずつ、更に一人を肩車すると云った方法で七人の子供を鎧の如く全身にぶら下げていた。そしてウィーンガシャンウィーンガシャンと謎の効果音を口ずさみつつ、他にも多数の子供を引き連れて村内を練り歩いているのだ。

 

 子供かっ、とリーシャは思うが、外見上こういう姿が非常に似合うのも確かだった。まるで大家族の長女の様だ。

 

「……あんたたち、イヨはちょっと用があるの。一旦おうちに戻ってなさい」

「ええー! ずるいよ、おれまだ抱っこしてもらってない!」

「あたしもー!」

「村の用事なんだからつべこべ言わないの!」

 

 ちぇ、などと云いながらも素直に散っていく子供たちに手を振って見送り、イヨは改めてリーシャに向き直った。顔は相変わらずの笑顔である。

 

「村の用事だって? お仕事?」

「そうで──そうよ、村の仕事」

 

 敬語が出そうになるのを直すリーシャ。この辺りの話し合い──イヨが治療中にリーシャの裸身を見た件も含めて──は昨日の内に済んでおり、同い年なのだから敬称や敬語は無しという事で決着していた。

 命の恩人相手にそんな、という気持ちもリーシャには当然あったが、イヨを見ていると妹が出来た様な気分にもなるし、何より本人の頼みだからと受け入れていた。

 

「村長さんや父さんの発案なんだけどね──イヨに説法をして貰えないか、って」

「説法? あー、妖精神──アステリア様のお話をしてってこと?」

「そうよ。あなたは神官で村の恩人だし、あなたの呼び出した妖精に助けられた人も多いわ。で、あなたと一緒に妖精と妖精神様にも感謝を捧げるのが筋じゃないかって話になったのよ」

 

 イヨの信仰の対象、妖精神アステリアは当然この国には存在しなかった。

 全く見知らぬ異境の神であり、本来なら四大神信仰の厚い村人たちは受け入れがたかったろうが、その神官であるイヨに救われた事で、妖精や妖精神の事をもっと知りたいと願う村人が出てきたのだ。

 

 イヨにとっては願っても無い話である。

 

 要するに布教RPだ。神官をやっているなら布教RPは熱の入れ所であるし、この世界でも実際に特殊信仰系魔法が使えるのだから、『妖精神アステリア』や『妖精神アステリアと設定された何かから力を得るシステム』はこの世界にもあるのだろう。ならば住人たちを騙す事にもならないし、それでこの村に信仰が浸透し、プリーストやクレリックのクラスを得た者が現れれば、回復魔法の使い手が誕生するやも知れない。

 そうすればこの村はもっと住みよい所になるだろう。

 

 勿論イヨは快諾した。

 

「いいよ。アステリア様のお話に興味を持ってもらって嬉しいな。今からするの?」

「ううん。あなたさえ良ければ明日にしようって、こっちでは決まってるの。ここ数日結構働いてるし、疲れてるでしょう?」

「そうでもないけど……分かった、みんなが明日が良いっていうなら明日で」

 

 そう、イヨはこの所結構働いている。ただ子供と一緒になって遊んでいるだけではないのだ。

 開墾の邪魔だった馬でも動かせない大岩を片づけたり、怪我人や病人を癒したり、護衛としてリグナードと共に森に入り、普段だったら危険が大きい場所で希少な薬草を採取したりと、その働きぶりが生み出す利益は村一番であろう。

 

「じゃあ、今日はもう帰ろうかな。明日話す内容も考えたいし」

「村長さんの家じゃなくて、私たちの家よ? 分かってるでしょうけども」

 

 今日の夜はルードルット親子宅を訪れる予定だった。親子からのささやかな恩返しの一部として、夕食を共にしようと約束していたのだ。

 無論イヨは忘れてなどいない。

 

 リーシャの方も今日は終わりという事なので──村の夜は早い。燃料代を節約するため、日が落ちた直後に寝てしまうからだ──二人は連れ立ってルードルット親子宅に向かって行った。

 

「ねえ。気になってたんだけど、三つ編みはやめちゃったの? 可愛かったのに」

「うーん。別に三つ編みでもいいんだけど、やり方が分からなくて。やった事ないから」

 

 自分の髪を結んだことが無いなどと云う発言にリーシャは瞠目したが、そういえばこの子は家柄の良い裕福な生まれだったと思い出し──この勘違いは最早村全体に広まりつつある──じゃあ知らないわよね、と納得する。

 

 上流階級の生活など物語でしか知らないが、ああいった人種は何をするにも自分でやるのではなく、人を雇ってやらせるイメージがある。

 

「仕方ないわねぇ、教えてあげるわ。私はこう見えて、狩人として訓練を始めるまでは髪を伸ばしてたのよ。今でも村の小さい子の髪を結ってあげたりするんだから」

「本当? 助かるよ。ありがとう、リーシャ」

 

 肩が触れ合いそうな距離感で歩いて行く二人は、まるで仲の良い姉妹の様だった。

 

 畑仕事から帰宅してきた村人たちの微笑ましい視線を受けながら、二人はゆっくり夕映えの中を歩いてゆく──

 

 

 

 

 




 アインズ様の親友となる前のジル君の非常に威厳あるお姿でした。

 公国を追加した分だけ政治事情がちょっと異なっているため、ジルクニフ即位辺りの描写は原作とは少し違っています。ご了承ください。


因みに大公さんのレベルは、

グランドデューク(一般)──?レベル
ジェネラル─────────?レベル
オフィシャル────────?レベル
サーヴァント────────?レベル
ほか

と、総計で言えば結構高めです。頑張り屋さんですからね。
サーヴァント(従者)の職業レベルを持ってる大公って中々いないと思います。




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習練、旅立ち、道行

後世の書籍「各国各時代、最も人心を照らした英傑たち」末節より抜粋

~以上の様に、特に公国内において「小さな剛拳」イヨ・シノンと仲間たちの活躍、伝承は事欠かない。しかし、彼の足跡を追う者がどうしてもぶち当たる疑問が存在する。
 あれほどに多くの人を救い、高き勇名を馳せて活躍した彼が──何故忽然と姿を消してしまったのか、という疑問だ。

 自らの故郷に帰る事が出来たのだ、と結ぶ物語は多い。
 妖精神に導かれて妖精郷へと去ったのだ、と信じる者も多い。
 人知れず引退し、平和な余生を妻子と共に過ごしたと歌う吟遊詩人も数多いる。

 しかし、彼ほどの人物が人知れずして去るなどと云う事をするだろうか。
 第二の故郷として彼が常に心を寄せていたリーベ村には、今でもイヨ・シノンがいずれ約束を果たしに戻って来るという言い伝えが伝わっていると聞く。
 彼は第二の故郷に一度帰省したが、「帰る方法が見つかったら再び訪れる」という約束は守られていなく、故に彼は今一度戻って来ると。

 私は不思議に思うのだ。
 彼の伝承には意図的に無視されている、絶対に描かれないし歌われない結末がある。
 
 彼は確かに英雄だった。誰よりも優しく強い偉大な人物だった。それは間違いないが──何故誰も彼の死亡については語らないのだ? 
 英雄譚の最後に華々しく散る英雄と云う結末は決して珍しくは無い。これだけ彼の活躍が、事実と創作の双方が伝えられているのに──何故死亡という結末だけが一つも見当たらないのだ? 

 妄想と揶揄されるだろう非常識な話だが、私はこう思ってしまうのだ。

 ──誰か、恐ろしく広大な範囲に影響力を及ぼせる絶対者が、彼の本物の結末を覆い隠しているのではないか、と。 



 ただっぴろい草原の只中で、イヨを取り囲むように六人の男たちが各々武器を構えている。対してイヨは拳と足に綿を詰めた革製のグローブとブーツを履いている以外、全く武装していない。イヨと男たちの表情は真剣そのものだが、殺気などの剣呑な雰囲気は感じられず、練習時独特の空気があった。

 

「行くぞ、イヨ!」

「何時でも」

 

 どうぞ、と言い切る直前、背後から飛来した練習用に鏃を替えた矢をイヨは勘で回避した。首だけを一瞬回してレンジャーであるアリブラの姿を視認する。彼女の表情には『これでも駄目か』と言いたそうな驚愕が浮かんでいる。

 

 六人しかいない時点で彼女が隠れているのは分かっていたが、護衛対象である馬車の上からの長距離射撃とは。離れすぎていて声は聞こえない筈なので、予め動作などでタイミングを伝えると打ち合わせていたのだろう。

 

「ちぇぇ──だっ!?」

 

 正面から大上段に切りかかってきた戦士のバッフスを足払いで地に転がす。彼の頭のすぐ横の地面に下段突きを入れて止めを刺し、斜め後ろに一足分ほど移動。隙を狙って突きを入れてきた二刀の軽戦士、ニルスの喉元に蹴上げを寸止めで入れ──

 

「──やれ!」

 

 残る四人の前衛と中衛が同時に切りかかって来た。それだけならば良いのだが、明らかにイヨごとニルスを巻き込む軌道を剣が、槍が、鎚が描いている。思わずイヨが眼前の優男を見ると、『どんな手を使ったって勝てばいいんだ! 流石にこれは無理だろ!?』とでも言いたげな顔をしていた。

 あなた達は此処までして一本取りたいんですか、とイヨはちょっと、いやかなり呆れるが、その執念については素直に称賛の思いを抱く。

 

「かぁっ!」

 

 だからと言って負けてあげる気は毛頭無い。イヨは負けず嫌いなのである。それに、手を抜いて負けたら相手に失礼だ。練習をしている意味が無くなってしまう。

 発動させたスキル【喝殺咆哮Ⅰ】の効果によって周囲の全員が気圧され、一瞬硬直する。有るか無きかの文字通り刹那の隙だが、イヨにとってはこの場の全員を叩きのめすのに十分な時間である。

 

「あっだ!」

「いでぇ!」

「おお──うっ!」

「づっ!」

「いぃった……い!」

「おっう!」

「あーあ、これでも駄目かーって、え、ちょ、あたしも──痛っ!」

 

 丁寧に一人一人の頭に拳骨を落とし、初撃が外れた時点で戻って来ていたアリブラにも間合いを詰めてちゃんと額にデコピンを入れる。因みに、誰もイヨの動きを捉えられていない。唯一反応している様に見えるアリブラも、場の流れで何となく察しているだけである。

 

「いくら今日で最後だからって、仲間を巻き込んで攻撃する人がありますか!」

「いや、言っとくが発案はニルスだからな?」

「そうそう、俺達は反対したって」

 

 口々に男勢が調子の良い事を言い出すが、その程度でイヨの怒りは収まらない。刃引きすらしていない武器が当たったら、隔絶した実力を持つイヨ以外は怪我では済まないのだ。

 

「最終的には同意して実行に移してるじゃないですか! 怪我をしたら如何するんです!」

「ええ~? そうしたらイヨちゃんが治してくれるじゃない? だからあたし達、安心して訓練してるんだよ?」

「本当に当たりそうだったら止める予定だったんだぜ? 案の定如何にかされちまったけどな!」

「でもやったぜ! 最後の最後で初めてイヨに武技を使わせたぞー!」

 

 いよっしゃあああ! と一方的に盛り上がっている七人の男女たち。彼ら彼女らは皆、イヨが同行させてもらっている商隊の馬車の護衛に雇われた傭兵たちだ。本人たち曰く、冒険者で云えば鉄か銀位の実力であるらしい。

 イヨがリーベ村を出てから、既に二週間が経過しようとしている。

 明日の早朝には公都に着き、イヨの初めての旅も終わりを迎える訳だ。

 

 

 

 

「イヨにーぢゃんいっぢゃやだ~!」

「こら! あんまりイヨさんを困らせるんじゃないの!」

 

 商隊の馬車の前で、イヨに足に縋りついて一人の幼い少女が泣きじゃくっていた。少女の母親は子をあやそうとしてはいるが、如何にも手を焼いている。子供と云うのは意外に力が強い。幼少期に特有の無限大の体力も相まって、どうしても引き離せなかった。

この光景はリーベ村滞在の最終日、つまりはイヨが同行する商隊が村にやって来る日に入ってからあちこちで繰り広げられていたものと全く同一である。イヨと親交を深めていた子供たちが代わる代わる彼に縋って泣きついているのだ。たった五日で良くここまで懐かれたな、と思われるかもしれないが、子供の友情に時間は関係が無い。子供たちにとってイヨは既に掛け替えのない親友であった。

 

 自分たちよりちょっとだけ年上で、いっぱい遊んでくれる大好きなお兄ちゃんなのである。

 

「泣かない泣かない。また来るから、その時までお利口さんにして待ってなさいね」

「ぼんど? イヨにーぢゃん帰っでぐるの?」

「うん! 故郷に帰る方法が見つかったら挨拶に来るし、そうでなくてもたまには遊びに来るよ。そうしたらまたみんなで追いかけっこしよう?」

 

 イヨは慣れた様子で少女を抱き上げ、背中をさすってやりながら優しく抱きしめる。七歳離れた弟妹が居た為、イヨは子供の扱いには熟達しているのだ。自身も割かし子供っぽい男なので、感覚が近いというのもあるが。

 それでなくともこの一日で村の子供ほぼ全員と交わしたやり取りである。話せばわかってくれる聞き分けの良い子供たちなので、さして手間取る事も無かった。

 

 いまだぐずりつつもイヨから離れた子供は母親と共に村人の輪の中に帰り、ようやっと出立の用意が出来たという事で、イヨは商人と村長、それに村人代表のリグナードとリーシャの下に歩んでいった。

 

「お待たせしてすいません。公都までの道行、よろしくお願いします」

「なんのなんの、問題ありませんとも。こちらこそ、護衛を引き受けて頂いて感謝しておりますよ」

 

 人の良さそうな顔をした小太りの商人、ベーブ・ルートゥはイヨの挨拶に自らもしっかり頭を下げて返礼とする。彼はここら一帯の小村や開拓村と契約を交わしている商人の一人であり、定期的に各村へ日用品の売買と契約栽培をしている薬草や作物の買い取りに訪れる男だ。

 村人たちから『数十のゴブリンとオーガをものともしなかった』『強力な妖精を召喚し、従える』『癒しの力を持った水を生み出す異教の神官』『冒険者になりたがっている』『面倒見が良い子供好き』等のイヨの人物評を聞き、有望株の若手と友誼を結ぼうという商人らしい目的を持ったためか、彼は非常にイヨに好意的である。

 まあ彼の人物評も『他の商人に商談でやり込められていないか心配』『高い値で買い取ってくれるのは嬉しいが、あれで儲けが出ているのだろうか』『良心的過ぎて商売に向いていない気がする』であり、取引相手である村人たちに商才を心配されるくらいのお人好しらしいので、見知った村人たちを助けてくれたイヨに純粋に感謝している可能性も大いにあるのだが。

 

「荷馬車には買い取った作物や薬草の入った壺が満載されておりますので、こちらで雇った傭兵方と交代で休む他は徒歩での移動となりますが」

「問題ありません、体力には人一倍自信がありますので」

 

 村で売る為の品が積んであった馬車に、今度は村で買い取った品々を載せて、途中幾つかの町と村を経由しつつ、公都まで行く訳である。当然の事ながら人が乗り込む隙間は無く──今回は村を襲ったゴブリンとオーガの武具類もある為、本当に余裕は無い──ベーブと御者たち以外は周囲を警戒しつつ歩く事になる。

 

 正直に言うとイヨはファンタジーの定番である馬車に乗ってみたくもあったが、曲がりなりにも護衛として雇われた訳であるし、徒歩の旅もそれはそれでファンタジーの定番中の定番なので、一切の文句は無かった。むしろ生まれて初めての旅らしい旅に大変高揚している位だ。

 

 その後も拘束日数がどうしたモンスター襲撃時の討伐数における活躍報酬はうんたら護衛の不備によって荷に被害が出た場合の被害額は報酬から天引きやらと細かい話はあったのだが、イヨに労働条件の交渉を行うほどの知識と気概が無かった為、速攻同意で終わってしまった。

 

「これからも末永くお付き合いしたいと思っておりますので、ベーブ・ルートゥの名をどうぞよろしくお願いいたします」

「こちらこそ。困った事が有ったら公都の冒険者組合? 冒険者ギルド? でしたっけ? そこまでご連絡ください。そこに所属して冒険者をやる予定ですので」

 

 握手を交わし合った両者のうち、イヨにツッコミを入れる存在が三名いた。無論、村長とルードルット親子である。三者はそれぞれ苦笑気味に、

 

「イヨさん。冒険者組合、です。そして冒険者組合を通していない以上、契約に関する交渉は完全にあなた自身が果たすべき権利と義務です。そこまで話半分で頷くのはどうかと」

「村長のおっしゃる通りです。このお方は決して人を騙すような人物ではありませんが、それとこれとは別の話し。もう少し粘ってから頷くのが一般常識ですよ」

「ベーブさんの出した条件はかなり良いものだけど、あなたは全く考えずにはいはい言ってたでしょう? 駄目よ、商人なんて普通は海千山千の強者ばかりなんだからね」

「おおっとっとっと」

 

 考え無しの子供に注意する大人の如く──如くも何も完全にその通りなのだが──世間知らずなイヨに忠告を入れる三人である。純粋に心配して言ってくれているのが分かるだけに、イヨもちょっと反省する。

 

「や、良い人なのは分かったからこそ頷いたんだよ? そこまで考え無しじゃないよ?」

 

 前言撤回、やっぱり反省していない。リーベ村で受け入れられている人なら悪い人じゃないと思って、などと言い募るイヨに、三人はちょっと溜め息を吐いた。

 

「人格的な良し悪しと商売の事は別でしょうに……。やはり、もう少しその辺りのイロハを学んでから出発して頂きたかったですな」

「ええ、全く。いつか笑顔の詐欺師に騙されはしないかと心配でしょうがありません」

「強いのは間違いないけど、外見がこうだからねぇ……侮って吹っ掛けてくる輩もいるでしょうし」

「ふ、二人は兎も角リーシャは同い年でしょ!? なにその、幼い子供が心配だ、みたいな言い方!」

 

 たった五日間でリーベ村の日常に溶け込んだやり取りをこなし、四人と周囲のリーベ村住人は揃って笑い声を上げる。さっきまで泣いていた子供たちまでが笑っていた。

 

 和やかな空気を鑑み、今が頃合いだと判断したリーシャは、代表してイヨに告げる。

 

「イヨ!」

「はい!」

 

 男も女も幼子も老人も、村人全員が声を合わせて──

 

「いってらっしゃい!」

「行ってきまーす!」

 

 そうして、イヨはリーベ村を出発した。 その首に、村人たちからのプレゼントである風に舞う木の葉をイメージした木彫りの聖印、妖精神アステリアに仕える神官である事を示すものを下げて。

 

 

 

 

 リーベ村を出てからの旅路は、イヨにとってこの上なく刺激的で楽しいものだった。当たり前の事だが、常に移動している以上、景色も常に新しく変わりゆく。青い空に白い雲、といったこの世界の住人であったら見慣れたものですらイヨには目新しく、何処までも続く街道は大地の雄大さを知らしめてくれた。

 

 イヨの同僚に当たる七人の傭兵達も、イヨの素直な反応を微笑ましく見守っていた。彼らにとってイヨは余りにも幼く小さかったが、事前の情報を元にその装備品と身のこなしを見れば、自分達より強者である事は自ずと知れたのだ。

 ただ遠い異国から転移魔法で飛ばされて来てしまったという突飛な経歴をしているだけあって、イヨの知識の無さに彼らは本当に驚かされることとなった。

 仮にも冒険者になろうと云う人物が野宿の経験すらなく、旅も初めてで、自分で火を起こす事さえできないというのは本当に驚愕するしかない事だった。村で小耳にはさんだ『実はイヨは良いところの令嬢であるらしい』という噂がにわかに、いや絶対の真実味を持っている様に思えたくらいである。

 

 ただ、それで傭兵らがイヨを侮ったかと言うとそんな事は無かった。イヨが己の無知を全く隠すことなく認め、素直に七人の教えを乞うたからである。

 

 野営の時は地形条件を勘案しろ、起こした火を消す時は水では無く砂か土で消せ、夜中に戦う時は武器に炭や灰を塗って刀身の非反射処理を怠るな、といった細々とした約束事や常識を教える日々が続くにあたって、傭兵達はイヨを妹分として可愛がるようになったのだ。

 こう見えて十六歳です、そして男ですと云ったイヨの衝撃のカミングアウト──恒例行事とも言う──も済ませ、一行は非常に順調な旅路を楽しんでいた。

 

 一週間が過ぎて旅程の半分を消費し、モンスターによる襲撃を受けるまでは。

 

「十時の方向より敵襲―! オーガ二、ゴブリン四、トロール一! 全員武器持ち、飛び道具と魔法詠唱者は無し! 各員、戦闘準備!」

 

 小高い丘やちょっとした木立が多く、微妙に視界の利かない鬱陶しい場所を進んでいた只中の事である。時刻は夕暮れ時の薄暗くなり始めたばかりの頃。もう少しで街道に一定距離ごとに設置されている小屋が見えるからと、軽い無理をしていた時だった。

 十時方向と云えばほぼ進行方向の真正面であり、背を向けて逃げようとすれば来た道を戻る事になってしまうし、荷物を満載した荷馬車の動きでは背を見せた瞬間に追いつかれる。それに加えて直ぐに視界の利かない夜になる為、経験豊富な見張りの傭兵は即座の戦闘を決めた。

 

 イヨがこの世界に来てからニ週間もたたない内に、もう三度目の戦闘である。

 余りに頻度が高過ぎると思う向きもあるかもしれないが、ある意味でこれはしょうがない事でもあった。

 

 最近の公国は全体的に景気が良く、帝国との貿易における食料輸出なども上がり調子である。従来の商売の規模をより拡大する者、新たに商売を始める者も多い。また税率低減の煽りを受けて余り懐の裕福でない一般庶民にも『金を使って物を買う余裕』が生まれ始めており、商人たちの間には『売りに出せば出しただけ飛ぶように売れる』といった嬉しくてしょうがない悲鳴を上げている者たちも多いのだ。

 

 売れば売るだけ商売人とは基本的に儲かる訳で、出来る事ならもっともっとこの機会に儲けたいと思ってしまうのも人間の性である。しかし、機械による大量生産が可能でないこの世界において、品物とは人が手で作っているのだ。工芸品や食料品にしろ、農作地や職人は一朝一夕で出来るものでは無い。

 新たに人を雇っても一人前になるまで時間はかかるし、新たな畑を作ろうにも、それには人力で原野草原を開墾し、岩石や木の根を除去して畔を作らねばならない。まともに食物が取れるようになるまで何年もかかるのだ。

 それでも当然需要はあるし、生活を向上させたい思いは誰にでもある。商人たちからの『売れるからもっと作ってほしい。作ってくれただけ買い取る』という要望もあって、各農村では一気に開墾が進み、また今が好機とみて新たな開拓村を開く決意をした者たちも増えたのだ。

 

 長々と何が言いたいかと言うと──その畑や村を作ろうとしている『新たな土地』は無人なのであろうか? 確かに人はいないかもしれないが──普通、そこには人ならぬ者たちが住んでいるのである。

 

 人が生息領域を拡大しようとするという事は、人ならぬ者たちの土地を奪う事に他ならない。

 結果、公国内では人とモンスターのぶつかり合いが増えた。生息地から追い出されたモンスターや動物が他のモンスターや動物、そして人と衝突してその衝突が更に衝突を生み──と云う風に。

 それはそれで冒険者の需要増加という経済効果を生みもするのだが、単純な移動時の危険度で云えば随分と上がっているのであった。

 

「イヨ、この中ではお前が一番強い! トロールを頼ん──」

 

 だ、と油壷と火種を指し示した見張りの傭兵が言う前に。イヨは既に敵に肉薄していた。

 

 何せ彼の頭は単純である。敵を発見した、から、さあ戦おうになるまでが完全にノータイムだ。護衛の仕事を請け負った以上、人にも荷にも手を付けさせないのが自分の仕事、相手は倒せる相手だ、そして倒すしかない状況だ。ならば最速最短にて終わらせようという訳だ。

 

 戦う時に一番大事なのは駆け引きでは無い。先手を取り、そのまま相手に手番を譲らず、駆け引きすらさせずに一方的に圧倒的に磨り潰すのが最上である。

 審判が一々待ったをかけて仕切り直す試合では無いのだ。

 戦いだ。生存競争だ。双方に正当性が有り、どちらが勝ってもどちらかの理が折れ、どちらかの道理が通る。この世で最も後腐れ無き戦いである。

 

 傭兵達の眼がイヨに追いついたのは、彼の発動させたスキル【断頭斧脚】──効果はクリティカル率上昇、クリティカル時のダメージ増加──がトロールの首を刎ね飛ばした直後だった。血の尾を引いて落下する大きな禿げ頭が地面に衝突する前に、イヨは次の手を打つ。

 

 ──この世界のトロールはユグドラシルのトロールと同じか? 

 

 ユグドラシルにおけるトロールは再生能力を有する面倒な敵であり、生半可な攻撃力だと無駄に勝負が長引く相手だ。再生力でHPが元通りになる前に、それ以上のダメージを与えねばならない。

 

 ──再生能力はどの程度なのだ? 

 

 現実の生き物として考えるなら、首を刎ねれば即死である。普通は再生も糞も無い。

 

 ──この世界ではどうなのか分からない。

 

 剣と魔法の世界の生き物として考えるなら、ミンチにしても再生する可能性もあり得る。叩きのめした後、定石通りに酸か炎で焼く必要があるだろう。

 

 どちらにしろ確証は無い以上、殺せば普通に死んでくれるゴブリンやオーガよりも念を入れて、深めに殺しておく必要が出てくる。

 

 遥かな巨体の頭を目掛けて蹴りを放った直後故、イヨの身体は現在宙に浮いている。

 この場合、丁度目の前にトロールの胸がある訳だ。

 

 ごぎゃり、と。

 

 分厚い胸骨を貫通して肘までトロールに埋まったイヨの諸手貫きから放たれるのは、純然たる追い打ち、止めの一撃である。

 

 スキル【撃振破砕掌】。超高速の振動によって相手を破壊するスキルは、ユグドラシル時代においては肉バイブ拳などと云う不名誉極まりない俗称で呼ばれた事もあったが、その効果は防御力を無視すると云う凶悪な物である。しかも接触中は効果が持続する為、長く相手に触れればそれだけダメージを刻むことが出来る。

 

 わざわざ首を切り落としてからこのスキルを使用する辺りに、イヨの本気が伺える。

 肺と心臓を始めとする主要臓器に直接超振動による破砕を持続的にぶち込み続けると云う凶悪極まる攻撃を受けては、再生能力を持つトロールと云えでも再生が追いつかず、長時間の行動不能状態に陥る。

 

 体内のほぼ全てを液状寸前にまで破壊し尽くされ、トロールは仰向けに地面に倒れた。イヨは傭兵の一人が投げてよこした油壷の油をぶちまけ、着火した。

 

 ほんの数瞬で火炎を噴き上げて燃え盛る首なし死体を生産したイヨにモンスター達は恐怖し、傭兵達は畏怖を覚える。

 

 ──強いとは感じてたが、まさか此処までだったのか。

 

 傭兵らの心中はこうであった。アダマンタイト級という評価は決して行き過ぎたものでは無かった、と。

 

 残りのモンスター達がどうなったのかは、あえて描写するまでも無いだろう。

 

 こうして襲撃を退けた後、てっきりイヨは他の人達に怖がられるかと思ったのだが、意外にもそれは無かった。傭兵達は荒事になれているし、トロールを殺すのには徹底した破壊が有効な事も知っていたからだ。

 御者の中にはイヨを怖がる者も出たが、雇い主であるベーブ・ルートゥが物怖じせずイヨに接し、それに対するイヨの言動を見て考えを改めたのか、三日も経てば普通に話すようになった。

 

 そうしてイヨは次の日から、未来のアダマンタイト級と是非手合わせしたいと願う傭兵達と一緒に訓練をする事になったのである。

 

 




イヨは「武技? ああ、スキルの事をこっちではそう呼ぶんだ」と思い込んでいます。

妖精神アステリアについて

神像の多くは、優美な薄衣を纏った絶世の美女の姿で描かれます。
広大な自然を愛し、水や風と戯れる事を好んだと伝わっています。
その性格は自由奔放で気紛れ、感情の起伏が激しく嫉妬深かったと伝わっています。
太陽神を巡って月神と諍い、争ったという伝承が残されています。

教義は余り厳格ではなく、自然との調和を大切とし、自由と自己責任の重要性を説きます。

──自由と自己責任の重要性を説きます。


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公都

 公国最大の都市である公都は、周辺村落と合わせて人口三十万を越える大城郭都市である。公国の総人口がおよそ三百万とされているため、この一帯に国民の約十分の一が居住している訳だ。

 

 規模的にはリ・エスティーゼ王国やバハルス帝国の首都に及ばずともその賑わいは相当な物があり、特にここ数年は経済成長のお蔭か、居住する多くの人々の顔にも活気が見て取れる。

 特に大通りともなれば早朝でも道行く馬車やごったがえす人、人、人の波で真っ直ぐ歩くのにもコツがいる有様だ。近々大規模な区画整理が為されるとの発表もあり、〈コンティニュアル・ライト/永続光〉の掛かった魔光灯を主要な道に設置する計画が進んでいたりもするらしい。

 

 そんな活気あふれる早朝の公都に一人の少年がいた。

 

 あっちにふらふらこっちにふらふら、高い建物を見上げては『うわぁ!』立派な馬車が通るたびに『おお……』と感嘆の声を挙げるその子供は、絵に描いた様なおのぼりさんであった。詩を諳んじる吟遊詩人の声に耳を傾けては立ち止まって聞き入り、大道芸人の披露する軽業や手品に拍手を送る。見るもの全てが物珍しいとばかりに、あらゆるものに興味を示しては引き寄せられていた。

 

 三つ編みにした白金の長髪を尻尾の如く揺らしながら軽やかに歩いて行くその少年を良く見れば、シャツは貴金属の輝きを帯び、衣服の所々に鈍色の金属装甲が当てられていて、身を飾る装飾品の数々がマジックアイテムである事に気付けたかもしれない。

 齢十代半ばにも届かなさそうな少女の如き容貌をした少年の名は──イヨ・シノン。本来の名を篠田伊代と云う、十六歳のユグドラシルプレイヤーであった。

 

 思いっきり寄り道を繰り返してはいるが、彼の目的地は冒険者組合である。猫を追って横道に入ったりはしても、動物的感覚が優れているお蔭か、迷ったりはしない。猫を見失った段階で来た道とは違う細道を通って元の大通りまで帰還し、またふらふらと蛇行しながら進んでゆく。

 

 途中で空腹を覚えたのか、露店で串焼きなどを買って小腹を満たし──お代は金貨三枚等と云う露店の親父の冗談を真に受けて本当に払い、絶句した親父から説教を受けていた──イヨはとうとう昼頃になって、公都の冒険者組合まで辿り着いた。

 

 冒険者組合は街の中心から東に外れた位置にあり、貴族街に市民街、商人や職人たちの拠点が軒を連ねる地所など、どの地区からでもアクセスが良い場所に建っていた。

 何気に大公のおわす公城も近く、ちょっと離れて視界を広げれば一緒に眼に入った。公城は他の建物よりも高所にある為、下半分が冒険者組合の建物で遮られて天空城の様に見える。

 

 『あそこに偉い人──大公様だっけ? がいるんだよね』などと思ったイヨは、校長室を遠巻きに眺める小学生の様な気分になる。気にはなるが何となく怖くて近づきがたい、そんな感情だ。

 

 暫しして、イヨは冒険者組合に踏み入った。両開きの戸を静かに開け、閉める時も音を立てない様に静かに閉める。そうして前を向くと、多くの武装した男女──パッと見た所、受付嬢らしき職員たちを入れても、男女比は七対三ほどだ──の視線がイヨに殺到した。

 殺到した視線は僅かな時間で逸れたが、未だ多くの人間が自分に意識を向けているのをイヨは感じた。同時に、子供だから悪目立ちしているんだろうな、と納得する。

 

 イヨの他に十代と思しき人物は殆どいないし、ほんの僅かな例外も皆大人びた体躯や顔つきをしている。十代とは言っても十九か十八歳ほどの者達だろう。確か殆どの国では十六歳で成人として扱われているらしいから、そう考えると立派な大人なのだ。

 イヨも十六歳だが、自分の外見が実年齢より幼く見える事は自覚している。高卒から五十代までの大人で構成されていた空間に十代半ばの子供が一人紛れ込めば、それは違和感を覚えるだろう。

 イヨは努めて前だけを見ながら──気分は職員室に入ってしまった小学生である──受付らしきところまで歩みを進め、丁度手が空いたらしい一人の女性に話しかけた。

 

「冒険者として登録したいんですが」

 

 少し小声になったのは、何となく周りの人が聞き耳を立てているような気がしたからだ。別に聞かれて困る話ではないが、聞かれていると思うと何故か声を潜めたくなる。

 

 そのせいでもないだろうが、イヨに話しかけられた女性、栗色の髪の受付嬢は目を丸くした。視線をはっきりと動かしてイヨの身体を上から下まで見渡し、もう一度顔をまじまじと眺め、数瞬の間を置く。受け取った言葉が余程予想外だったのだろう、理解するのに時間が掛かっている様だった。

 

「はぁ……依頼では無く、登録でよろしいのですか 」

「登録です。冒険者になりたいんです」

「……ええと、本来こういう事を言うのは私の仕事では無いのですが、止めておいたほうがよろしいのでは? 冒険者は危険な仕事ですよ。大の大人の男でも危ないのに、お嬢ちゃんには荷が重──」

「こう見えて十六歳です。あと、僕は男です。実戦経験もありますよ」

「ええ?」

 

 受付嬢を責める事は出来まい。イヨだって、高校の部活動に、小学生にしか見えない子供が入部申し込みに来たらちょっと事態の把握に時間が掛かる。この国ではあまり戸籍制度がしっかりしていないそうだから、確認も困難であろう。

 

「えっと……こう言っては何ですが、年齢制限と云うのは実際有って無いようなものです。やろうと思えば幾らでも誤魔化しが利きますし、確認も証明も困難ですから。女性は冒険者になれない、という事もございません。実際、王国のアダマンタイト級の冒険者チームの蒼の薔薇は全員女性で構成されたチームですからね。公国のオリハルコン級チームにも何人もの女性がいますし……」

 

 歯切れ悪く長々と喋った女性は、更に言い募る。

 

「しかしですね、あからさまな虚偽を申告されても困る訳です。こちらとしては、本人が強く希望されたなら断る事は困難な訳ですよ。基本的には誰でもなれる職業ですし、自己責任の世界ですから。でもちょっとですね、えっと、流石に幼い子供は──」

 

 口は達者では無い様だが、余程真面目なのだろう、この女性は。言わんとすることも何となくは察せられる。本当に何となくだが。

 

「一応ですね、リーベ村と商人のベーブ・ルートゥさんの所で雇われの仕事をしたことがありまして、その時の顛末と実績、報酬などを書き記したものを書状として頂いているんですよ。それぞれ印と署名付きです。外見はこうですけども、性も歳も偽ってはいませんよ」

 

 この辺などはSWの導入でよくある『君たちは○○という冒険者の店に所属する冒険者だ』で流せたら楽なのだが。住所不定無職の子供が職に就けるだけでも有り難いと思わねばならない所か。

 

「ベーブさんは冒険者組合とも取引があるとのことで、事がスムーズに行くように口利きをして下さると言って下さったんですよ。そちらにもイヨ・シノンという名の人物が登録に来ると云うのは伝わっていると思っていたのですが」

 

 予めアイテムボックスから取り出しておいた書状を手渡す。

 

 イヨの外見では登録に際して手間が掛かるかもしれない、と予測した商人の配慮は間違っていなかった訳だ。リーベ村の村長が認めてくれたのと同じ書類を即座に用意してくれただけでなく、公都に着いてすぐに部下を冒険者組合に走らせてくれた彼に感謝の念をイヨは抱く。

 

 受付嬢は何かを思い出したのか様に手元の書類──厚手の紙で、あまり質は良くない──を漁り、やがて見つけた目的の一枚に素早く目を通し、眼前のイヨから手渡された書状と見比べた。

 

「オーガ、ゴブリン、トロールを一蹴……!? しょ、将来はアダマンタイト級にも至るだろう人材……!? こんな小さな女の子が、あ、いや、男の子? が……!?」

 

 その口でパクパクと譫言めいた言葉を口ずさみ、数秒掛けて落ち着きを取り戻した彼女は、イヨに向かって静かに低頭した。

 

「──申し訳ございません、確かにご連絡を頂いておりました。署名捺印もご本人様のもので間違いないようですし、直ぐに手続きをさせて頂きます」

「よろしくお願いします」

 

 イヨもしっかりと頭を下げる。冒険者組合の職員さんとは長く付き合う事になるだろうし、お互いに気持ちよく仕事がしたいものだと思いながら。

 

 イヨは元居た世界においてバイトさえもしたことが無い、ある意味箱入り息子であった。

 

 地方公務員の両親は高いお金を出してイヨを学校に通わせてくれたが、イヨ自身が空手の実績を積み重ねていくにつれて推薦と奨学金を獲得し、より良い条件の進学を叶えることが出来るようになった。二人の弟妹も小学校に通えているが、三人分の学費を賄うには相当に厳しかっただろう。イヨの学費が比較的低く抑えられているから、弟妹達が学校に通えているという面もある。

 

 その事について両親に『何時も助かっているよ、ありがとう』と言われた時、イヨは不思議な気持ちになった。

 

 部活や道場から帰って来て、忙しい両親の代わりに出来る限りの家事をこなすのは空手の練習と同じくらいに当然の事だったし、弟妹が生まれてからは二人の世話も増えたが、愛しい家族との触れ合いを億劫に思った事は無い。弟妹が小学校に上がってからはある程度余裕も出来たので、自分の時間を作ってゲームで友人と遊んだりもできるようになった。

 

 イヨは自分の好きな事を好きな様に続けているだけの気持ちであったし、両親の頑張りのお蔭で自分は暮らしていけていると強く意識していたから、まさか感謝されるとは思わなかった。

 

 その時からだ。強く在り続けるだけでは無く、勝ち続ける事にも意識が向いたのは。

 ただ強くより強くと思って熟していた練習時に、両親と弟妹の助けでいられるように在りたいとの思いが加わったのも。

 

 受付嬢が流れるように語る規約やら心得やらを聞き覚えながら、イヨは思う。

 両親の様に頑張って働こう、と。

 

 

 

 

「……以上で手続きは完了です。プレートの受け渡しは明日正午頃になります」

「ありがとうございました。ではまた、明日のお昼に」

 

 受付嬢と会釈を交換し合い、三つ編みの少年は冒険者組合を出ていった。

 

「今の女の子、妙に長く話してたな? よりによって冒険者組合に道を聞きに来たって訳でも無いだろうし、一体どうしたんだろうな」

「何処かの商家の下働き──って風でも無いな。物腰もえらく丁寧だったし、貴族家の子弟か何かじゃないのか? 書状を手渡してたみたいだし、依頼を届けに来たんだろう」

 

 そう話し合っているのは、依頼票の貼ってある掲示板の前でたむろしていた冒険者チームだ。五人組で、下げたプレートは鉄だ。鎧を纏った戦士が三人、軽装の野伏が一人、ローブに身を包んだ魔法詠唱者が一人と云った構成の様で、やや前衛に偏ったチームだった。

 

「なあ。丁度いいやつも無いみたいだし、どんな依頼が入ったのか聞いてみないか? 予想通りに貴族家からの依頼、それもわざわざ子弟に届けさせる様な代物だったら、報酬も期待できそうだしさ」

 

 野伏があげた意見に、リーダーらしき男は改めて掲示板を見渡し、ややあってから頷いた。

 

「ん……だな。ゴブリンやウルフなんかを相手にする様な身の丈に合ったのも無いみたいだし、前みたいに背伸びしてサンダーバード【雷の鳥】とかち合いたくはないしな」

「こっちの開拓村へ物資を運ぶ馬車の護衛依頼は? 悪くなさそうな条件だが」

「馬鹿、良く見ろよ。デナ平原を通るルートだぞ? 万が一フレイムホーン・ライノセラス【炎角の犀】なんかとぶつかる可能性も無い訳じゃないんだ、今の時期は止めといた方がいいだろ」

 

 意見の一致を得たらしい一行は鎧をガチャガチャと鳴らしながら受付へと歩いて行き、ちょっと天然が入っている事で有名な受付嬢、パールス・プリスウに、リーダーが代表して声を掛けた。

 

「すまん、さっき入った依頼の詳細を教えてほしいんだが」

「え? 依頼は掲示板に張り出してあるので全部ですよ?」

 

 見知った顔の冒険者チームだからか、パールスの態度は若干気安い。年甲斐も無く小首をかしげて疑問を表現する彼女に、冒険者たちは何時ものぼんやりが出たのだろうとさして気にする様子も無く再度問うた。

 

「さっき来ていただろう? 書状を持った女の子だよ、のんびりした顔で金髪三つ編みの。あの子が持って来た依頼の詳細を知りたいんだ。掲示板の物には丁度いい難度の依頼が無かったからな」

「え、あの子ですか。あの子は依頼者じゃないですよ?」

「あの子が依頼者じゃないのは察しが付くよ。あの子が持って来た依頼は、って聞いているんだ」

 

 お互いに思い込みがある為、微妙に意思疎通がかみ合っていない。しかも、パールスは『冒険者の人達ってあんまり人の話聞いてくれないのよねぇ』などと思っているし、冒険者たちは冒険者たちで『またこの女は適当な事を言いよってからに』と思っているので尚更だ。

 

 そのまま口論とまでは行かずとも、あーだこーだと云い合いが始まる。半分以上は見知った者同士のじゃれ合いの様なやり取りだが、終始天然扱いされていたパールスがつい口を滑らせた。

 

「だから、あの子は冒険者になりに来たんですよ! いいですか、依頼を持って来たんじゃないので、新しい依頼は入ってません!」

「はあ!? あんな小さな子が冒険者に!?」

 

 両者の声は大きかった。それはもう、冒険者組合の一階ロビーにいたすべての人間の耳に入る位に大きかった。

 

「おいおい、まさかそれを許したんじゃないだろうな!? あんな子供が冒険者になったって野垂れ死ぬかモンスターに喰い殺されるだけだぞ!?」

 

 イヨの年齢はこの国で成人として扱われる十六歳に達している。しかしそれはこの世界において証明しようのない真実であり、外見年齢は十三か十四歳ほどでしかない。

 

 勿論その年齢で働きに出ている子供は幾らでもいるが、イヨの外見はのんびりおっとりとした少女の如く可憐である。ただでさえ冒険者という職業は危険極まりないものとして認知されており、当たり前のように人死にが出る。

 子供がやっていける仕事ではないのは火を見るよりも明らかであり、常識的な人物なら当然引き留める訳だ。

 

「わ、私だってそう思いましたよ! でもほらこの書状に、すっごく強いって、将来はアダマンタイト級にも届く人材だって、そう書いてあるから……」

「ちょ、あんた、何を部外者に内容漏らしてんのよ!?」

 

 慌てて声を挙げたのは、隣の席の受付嬢であった。今の今までは暇であったために見逃して見物していたが、パールスが書状の文面に言及し、あまつさえ大声で内容を喋った事で、それどころでは無くなってしまった。

 

 道義的にも職責的にも、関係の無い人間に書状の中身を知らせるなど言語道断である。たとえ中身がどうでもよい内容だったとしても問題だが、今回のそれは組合と取引のある商人からの、特定の個人の推薦、口利きをする内容だ。

 不正、非合法の類では断じてないが、無関係な人間の耳に入れて良い事では絶対に無い。

 情報管理の在り方について、組合長からお叱りを受けるだろう事案である。

 

「あんたはもうほんっとに……! それさっさと仕舞いなさいよ!」

「す、すいません~!」

 

 イヨが去ったあと、冒険者組合は何時もよりももっと賑やかになっていったのであった。

 そして勿論、『十代前半の少女が冒険者となる事を組合が認めた』『さる商人から推薦を受けた大型新人が現れた』『道に迷った少女がよりによってあのパールスに道を尋ねて大層難儀したらしい』などの、真実をみじん切りにして練り物にしたような噂が広まったのであった。

 

 

 

 

 さて、そんな事は知る由も無いイヨはと言えば、冒険者御用達の宿屋に来ていた。大通りや組合の前などと違い、路面は舗装もされていない。だからと言って穴ぼこだらけであったり汚物が道端に捨てられている訳では無いものの、通りに立ち並ぶ建物の雰囲気と相まって、何となくアウトローな印象を見る者に抱かせる場所であった。

 

 宿屋は三階建ての木造で、良く言えば古色蒼然、悪く言えば蹴っ飛ばしたらそのまま倒れそうなぼろっちい建屋であった。好景気に沸く公都の中でこの建物周辺だけが時代から置き去りにされているかのような陰気さを放っており、今見ただけのイヨが、景観を害するとかいう理由で近隣住民から苦情が来ていたりはしないのだろうかと心配になって仕舞う有様である。

 

 それでいて出入りする人々の顔は暗くもなく普通なので、一層アンバランスな一角と化していた。

 

「ピカレスク風のキャンペーンをやった時のPCたちの根城がこんな風だったかなぁ……」

 

 裏通りにヤク漬けの廃人やら死体が転がっていれば、まさにその通りの塩梅になる。汚職役人と情報屋辺りがあれば役満だろうか。

 

 そう考えていると、何だかイヨはワクワクしてきていた。

 

 宿屋に向かってずんずんと歩を進めながら考える。やっぱり店主は強面筋肉質の大男で、『ミルクはねぇよ。此処は酒場だ、酒を頼め』みたいな事を言うのだろうか。

 

 ドアを元気に開けて中に入る。

 

 やはりそこはテンプレートと云うか、メジャーな造りをした内装だった。

 丸いテーブルに椅子が置いてあり、あまり清掃の行き届いていない薄汚さで、筋肉質で思い思いの武装をした人々が座って酒を飲み、もしくは煙草をふかしながらカードゲームに勤しんでいた。

 

 奥のカウンターにはやっぱり筋肉質で大柄で、熊の様に毛深い店主がいて、酒瓶を入れ替えたりグラスを拭いたりしている。全体的に賑やかで、イヨも嫌いでは無い雰囲気であった。

 

 イヨが入店した瞬間に店内は静まり返るが、本人は沸き立つ気持ちの所為でそれに気付かない。軽やかな足取りでカウンターに接近し──

 

「嬢ちゃんよ、何処と間違ってきたのかは知らねぇが、此処はお前さんみたいな娘が来る所じゃねぇぞ。警備兵の詰め所が通りをずっと歩いて行った所にあるから、道ならそこで──」

「違います、僕は此処に来たんです! 一泊お願いできますか?」

 

 店主は毛深い顔をぎしりと歪めた。そのままイヨにずずっと顔を近づけて眼を付け、

 

「間違って入ってきたんじゃあねぇとすると、お前さんはまさか冒険者って事か?」

「はい! 今日登録手続きをしてきました! あと、僕は嬢ちゃんじゃありません! 十六歳です、れっきとした男です!」

「かっ!」

 

 嘆かわしい、と言わんばかりに店主はそっぽを向いてしまった。肩を大きく上げて落とし、全身で苛立ちを露わにしている。

 

「お前さんみたいなチビが冒険者だと、十六歳だと! 嘘も大概にしろよ小娘、あんまり舐めてると女子供でも容赦しねぇぞ」

「嘘じゃないです、本当です!」

 

 事実本当なのだからそう言うしかないのだが、ぶっちゃけイヨ本人も年相応の外見には見えないという自覚があるので、店主の怒りは理解できた。

 イヨが店主だったとして親元に帰るように説得しただろうから。

 

 その後も押し問答が続いたが、結局は村長とベーブ・ルートゥの書状で押し通した。書状に眼を通した店主は尚もイヨを睨み付けたが、イヨが目を逸らさずに見つめ返すと、苦々しい顔で宿泊を認めてくれたのだった。

 

 相部屋に止まるという事で銅貨を数枚払い、朝食に肉を大盛りしてもらう分で三枚を追加で払って、イヨはめでたく本日の宿を手に入れたのだった。ちなみに、ユグドラシルの金貨はアイテムボックスに突っ込んである為、今払ったのはリーベ村と荷馬車の護衛で手に入れた現地の通貨である。

 

「イヨ・シノンと言います! 諸先輩方、これからよろしくお願いしまーす!」

 

 腰を直角以上に折り曲げて、イヨは居並ぶ面々に大声で挨拶した。そして踵を返し、二階への階段へと歩んでゆく。当然その道すがら、冒険者たちが屯しているテーブルの間を進むわけだが──

 

 イヨは与り知らぬ事だが、新入りの冒険者がこういった店に来た場合、先達から課せられる通過儀礼として、居丈高にいちゃもんを付けられたりあからさまに難癖で絡まれたりする事が良くある。

 

 先輩冒険者が新人に舐められない様にすると云う意味合いもあるにはあるが、本来的には危機的事態への対応を見る事によって、当人の人格やら能力やらを見測る目的があった。

 

 例えばこの通過儀礼で余りにも情けない様を晒せば、冒険者稼業を続けていく限り何時までもついて回る傷となりかねない。『あいつはいざという時、ビビるばかりで碌に喋れもしなかった』などの情報が公然の事実として出回ってしまう為だ。

 モンスターとの命の奪い合いを日常とする冒険者たちにとって、いざという時に頼れる人間かどうかは、仲間を選ぶ上でとても大きな判断基準である。いくら魔法の腕が良かろうとも恐怖で足が竦んでしまうようでは足手まといにしかならないし、いくら強かろうと危なくなれば味方を見捨てて逃げ出すような奴には背中を預けられないのだ。

 

 無論そういった物事は一朝一夕で分かるものでは無く、この通過儀礼もあくまで判断の一助でしかない。しかし、殆どの冒険者たちにとって、最初の関門が此処である。

 

 華麗に切り抜ける事が出来れば引く手数多だし、無様を晒せば嫌厭される。この第一歩を如何に踏み越えるかが重要なのは間違いが無い。

 

 さて、その第一関門はイヨにどう襲い掛かるのか、イヨはそれをどう潜り抜けたのかと云えば──

 

 ──何も起こらなかった。

 

 

 

 

 トントントン、とリズミカルな歩調で二階へ上がってゆく少年を見送り、先達の冒険者たちはお互いに視線を交わし合った。

 

 ──おい、何で誰も掛かっていかねぇんだ。知るか、おめぇが行けよ。そもそもあの子供は何者だ? なんで店主はあのガキを追い返さなかったんだよ。店主の子供か何かじゃねぇのか? 嘘だろ、あの猛獣みてぇな面からあんな娘が生まれるかよ。矢鱈と元気に挨拶していったが、まさか冒険者になろうってんじゃないよな。あんな子供は組合が弾くだろ、どっからどうみても年相応のガキにしか見えなかったぞ。店主に聞いてみたらいいんじゃないか。いやだよ、元白金級冒険者だぞ、おっかねぇよ。全く情けねぇ奴らばっかりだな。うるせぇ、だったらてめぇが行けってんだ! 

 

 視線を言葉に変換すればそんな所か。

 

 要するに、イヨは余りに子供過ぎたのである。会社の中を子供がうろついていても社員だとは勘違いしない様に、彼らの中の常識がイヨを『新人冒険者』として判断させなかったのだ。

 

 店に子供が入って来た時は驚いたが、危機意識の薄い迷子の箱入り娘が道でも聞きに来たのだろうと云うまだしも常識的な判断をしてしまったために、誰もイヨと店主の会話に耳を傾けておらず、それゆえに、イヨが金を払って二階に上がっていった時は訳が分からなかったのだ。

 

 ──迷子じゃなくて客なのか? 

 

 湧いた疑問に脳が判断を下す前に渦中の人物がさっさと行ってしまったから、ただ疑問だけが残ってしまったのだ。

 

「もし、もしだぞ? さっきのが新人だったらだ。明日改めて突っかかっていきゃいいのか? なんつーかよ、あんなちいせぇ子供に絡むのは罪悪感が先に立つんだが……」

「だからってお前、あの小娘が自分の実力を勘違いしてよ、野垂れ死にしちまったらそれはそれで後味が悪いじゃねぇか。速いとこ現実を教えてやるのが大人ってもんだぜ」

「武器は持ってなかったし、首から下げてた物は見慣れない形だったが多分聖印だろう? それで何か勘違いしてるんじゃねぇのかな、後衛なら直接戦わなくてもやっていけるとかさ」

 

 イヨは【ハンズ・オブ・ハードシップ】と【レッグ・オブ・ハードラック】を、公都に入る直前から外していた。触れただけで麻痺を齎す鉱毒の塊をぶら下げたままでは人混みを歩けなかったからだ。当然の配慮ではあるのだが、武装していないイヨなど本当にただの子供にしか見えない。だからこうなるのである。

 

 やがて冒険者たちの話題は徐々にイヨを心配するものになっていった。彼らは強面だし態度も荒っぽいが、だからと云って人の命をなんとも思っていない悪漢かというとそれは違うのだ。

 人並みに心を持っているし、仲間に対する思いやりもあり、家族を愛する心もある。いわば普通の人間たちなのである。

 

「多分相部屋に行っただろうし、誰か同じ部屋の奴は呼んできてやれよ。あんな小さな子供流石に見捨てられねえ。早いうちにやめとけって話だけでもしとこうぜ?」

「推定神官たって、あんな匙より重いものも持った事が無さそうな娘っ子はなぁ……いくら何でも無理だろう。説得すんのは速い方が良いやな」

 

 荒れくれの冒険者らしからぬ善意的で良心的な判断が纏まり掛けた時だ。一人の男ぼそりと声を挙げたのは。

 

「今日ってよ……リウルがいるんじゃなかったか? ほら、あの……」

 

 リウルと云う人名は、冒険者たちに雷鳴の如く響き渡った。さっきまで腰を浮かしかけていた男がどすんと椅子に落下し、他の席の男たちと気まずそうな視線を交換する。

 

「……俺は無理だ、最初の頃にモロ本人に言って怒りを買ってる」

「この前蹴っ飛ばされたばっかりだし、今日は一段と機嫌が悪そうだったからな、俺も遠慮するよ」

「あの外見じゃあパッと見分かんねぇよなぁ……無理だ、俺もパス」

 

 

 さっきまでの意見をかなぐり捨てても、そのリウルという人物には関わらないという意見で男たちは一致している様だった。

 苦虫を噛み潰した様な表情で酒を飲み下し、男たちは口々に呟く。

 

 

「公国に三つしかねぇオリハルコンチームのメンバーが、なんだってこんなしけた宿なんかに……」

「財布の紐がかてぇんだよ、飲食と仕事以外ではな。寝るとこなんか安ければ何処だって構わねぇってやつだからな」

「さっきの三つ編みの嬢ちゃん、無事だと良いがなぁ……」

 

 

 

 




SW2.0の超越者リプレイを呼んでいたら遅くなりました。

皇帝陛下強くてびっくり。
ライダー技能が生きててほろり。
やっぱマギシューは強いやと手を打ち。
ジークの姉ちゃんそれでええんかとツッコミ。

伝承に出て来たエンシェントドラゴンに乗った超越者ライダーって、一体どんだけ超越したらそんなのに騎乗できるようになるんですかね……。




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公都:出会い

「失礼しまーす。あ、同室の方ですか? 宜しくお願いしま……す……」

 

 相部屋に踏み入ってきたその少女を、リウル・ブラムは一目で気に入らないと判断した。

 

 道を歩くだけで人目を惹くだろう可愛らしい少女だ。容姿の整い方はそこらの貴族の娘よりも上だが、日向ぼっこしながら和んでいる飼い猫の如きのんびりほんわりした雰囲気がとても親しみやすそうで、近寄りがたい感じが一切しない。

 少女は何故かリウルの顔に頬を赤くして見惚れているが、もしも花の咲くような笑顔を浮かべていたら、魅了される人物が老若男女を問わず幾らでも湧くだろう。

 

 この宿に泊まるという事は、この少女も冒険者なのだろう。プレートを下げていない所を見ると、登録手続きをしたばかりの新入りか。

 

 年の頃十三か十四歳程だろうか、リウルが冒険者になった時と丁度同じくらいの年齢だった。自分は既に仲間がいたから冒険者になれたが、この少女が冒険者になる事を組合は良くも許したものだと驚嘆してしまう。

 

 本人の気質を表したかのような柔らかい金色の眼をした少女は、艶めいた白金の髪を三つ編みにしていた。穏やかでのほほんとした顔に似合っていて、いかにも可愛がられて育った箱入り娘と云った感じだ。それでいて甘ったれた雰囲気が無いのは好印象だが、思わず自分と対比してイラッとしてくる。

 

 リウルは黒髪を短く適当に切り詰めている上に、生来の眼付きの悪さと顔立ちの鋭さの所為で、新人だった頃から男に間違われる事が多かった。十七歳になり、名も売れた今ではその勘違いも少なくなったが、無くなりはしない。身長は伸びたが胸は余り育たず、斥候や盗賊として鍛えているせいで、細身なりに筋肉もしっかり付いている。

 間違っても可愛いとか可憐等と表現されるような容姿では無いのだ。

 

 ──俺とは天と地の差じゃねぇか、同じ冒険者をやっている癖に。

 

 少女は肌も綺麗だった。病弱に見えるほど白過ぎるでもなく、かといって日に焼けて黒くなってもいない健康的な肌だ。シミやそばかすが一切見当たらず、黒子すらも美観を損なわない様に職人が計算して配置を決めたかのような絶妙なバランスだった。

 

 けったくそ悪りぃ、とリウルは心中で毒づく。

 

 胸は無い。大きいとはお世辞にも言えないリウルと比較してもまだ小さい胸は、起伏が全く視認できないほどだ。リウルを貧乳とすればこの少女は無乳。ちょっと溜飲が下がった。

 

 四大神のそれとは違う、質素な木彫りの聖印らしきものを下げていた。少女はリウルも見知らぬ神の神官らしい。いくら魔法詠唱者だからと云っても、こんな細くて小さな体で戦闘がこなせるか。転んで額に痣でも作ればいいのに。

 

 細いと言えばウエストだ。爬虫類か何かの鱗と皮で作ったベストを着ているから、少女のくっきりとくびれた胴がとても目立つ。その細いウエストは痩せ型なリウルをしてほぼ同格といった風情だ。胸の差分だけ対比では自分が勝っている、とリウルは相対的勝利を誇る。

 

 対して足は完敗だ。少女の足は細いのに肉付きが良く魅力的であった。矛盾しているだと? ならば此処に来てこの少女の足を見ろ、それが矛盾を超えた回答だ。実際問題、この足の奇跡的なバランスは生来のポテンシャルによるものだろう。極度に良質な筋肉と程良い脂肪が整った骨格に乗っているのだ。だから見た目には柔らかく適度なボリュームで、それでいてひ弱な感じはしない。

 この少女はそれを分かっていてタイトな革ズボンなんて履いているに違いない、絶対そうに決まっている。つーか何の革だこれ。一見普通の服の様で目立たないが、良く見たらベストと同じ素材で出来ている様だ。しかも、ベストもズボンも上着も、良く見たら鈍色の金属装甲が各所に追加されている。

 

 結論。

 

 この胸以外は『のんびり屋で可愛らしい女の子の見本』の様な少女は、リウルにとってまるで好ましくない。胸以外は。

 

「あ、あの……」

「あ?」

「そんなに見つめられると、恥ずかしいんだけど……」

 

 おーいこの美少女は性格まで良いぞー! と、苛立ちのあまりリウルは叫びたくなった。

 なんだその意外と落ち着いた、しかし鈴を転がしたような綺麗で透明感のある声は。

 

 ──俺の眼付けを見つめると表現する感性と云い、恥ずかしそうに頬を赤らめる神経と云い、当てつけでも無くはにかんだ様な自然な困り笑いを浮かべる人格と云い。俺とは正反対だ。

 

 初対面の相手の顔や体を品定めの如くジロジロと視線で睨め回すのは、言うまでも無く礼儀に反した行いである。冒険者の様な荒っぽい職業に従事する者ならば、即座に掴み掛っての喧嘩に発展する可能性だってあるのだ。当のリウルがそのタイプだ。

 

 良い子ちゃん極まる良識的な抗議である。ムカつく。

 

「こう見えて俺も女だ。そういう意味で見てたんじゃねぇよ」

 

 リウルの口から出たのは、謝罪では無く言い訳だった。一方的に抱いた反感が素直な謝罪を阻んでいたのだ。

 

「いえ、あの……君が凛々しくて恰好が良い女の子なのは、見れば分かるんだけど」

 

 少女の表情から困惑が減じる。それと同時に浮かぶのは、やっぱりそうか、とでも言いたげな理解の表情だった。

 

 それにしても、リウルを指して凛々しくて恰好良い女の子と来たか。お世辞ではなく本心で云っているっぽいのが心の綺麗さを見せつけられた気分で、リウルは嫌だった。

 柄の悪い不良染みた小娘、とかだったら容赦なく喧嘩を売れたのだが。

 

 そんな事を考えている間に目の前の少女は言い放った。

 

「こう見えて、僕は男だよ。嫌では決してないんだけど、魅力的な女の子に見つめられるとちょっと照れるというか、恥ずかしいというか……」

 

──は? 

 

「……は? え? 男? 誰が? 俺が?」

「僕が。昔からよく間違われるんだけど、れっきとした男だよ」

 

 今まで猫だと思っていた生き物が実は犬だった。そんな気分であった。

 

「マジかお前?」

「マジだよ。証拠を見せろって言われたら、その、かなり困るけど……」

 

 外見がこうである以上、絶対確実に判断するには、股間を見るか触るか位しか方法が無い。そんなのはお互いに遠慮したいところであった。

 

 「嘘……じゃねぇみたいだな」

 

 少女──もとい、少年の顔を見れば分かる。その瞳は嘘をついている人間のそれとは全く違っていた。更に言えば、そんな誰も信じないだろう嘘をわざわざつく理由もないし、意味も無く初対面の人間に対して性別を偽る人間はかなり少数だろう。

 

 頭ではそんな事を考えながら、リウルは次善策として少年の胸をまさぐった。

 

「分かりにくいけど、一応堅いな。女の胸じゃねぇ」

「な、納得した様な事を言いつつ、確かめるものは確かめるんだね……?」

 

 真っ赤な顔をしつつ、避けようともしなかった少年がぼそぼそと呟いた。

 

「常識で云って有り得ないからとか、理由も無くそんな事をやる人間はいないだろうから、ってのはあくまでも推測、言っちまえば決めつけだ。十中八九当たってたとしても、後の一か二は外れてるもんなんだよ。だから確実に確かめなきゃいけないんだ」

 

 そして何時か、外れた一二のツケを払う時が来る。それがリウルの冒険者としての持論であり、信条だった。

 そんな台詞を口にはしつつ、リウルは心中で申し訳ない気持ちになっていた。

 

 ──俺は、男に対してやれ女の子らしいのどうのとイラついてたのか。

 

 リウルの言った言葉に素直な感嘆を示している少年。男だと分かった上で見れば、骨盤辺りの骨格は確かに男性のそれの様な気がする。

 

「間違えちまってすまねぇな」

「ううん、気にしないで。慣れっこだし、この外見だもの」

 

 少年はさして気にした風もなく、まだ赤いままの頬を緩ませて笑った。間違えるのも無理はないよ、と。

 

 リウルだったらこうは行かない。相手が素直に謝ってくれた場合や、悪意無く純粋に勘違いしていた場合は軽く毒づく位で済ませるが──一方的に決めつけてかかった挙句、訂正すると言い訳したり馬鹿にして来るような奴は徹底的に叩きのめす。二度と生意気な口が叩けない様にしてやる。

 

 リウルにとって性別を勘違いされるのは、それほどムカつく事だからだ。

 

 ──自分が死ぬほど嫌がってることを他人にやっちまったな……。

 

 本当に悪い事をした、と心中で再度呟く。

 

「マジですまん。──俺はリウル・ブラム、リウルでいいぜ。お前は?」

「イヨ・シノン。イヨって呼んで、リウル」

 

 リウルの方から手を差し出し、イヨがそれに応じる形で、二人は握手を交わした。

 謝罪の申し出であり、それを受け入れる表明であり、これから宜しく、の意味だ。

 

「イヨは飯食ったか? ちょっと早いけどさ、良かったら詫びも兼ねて奢らせてくれよ。見た所新人っぽいし、この街の事もついでに教えてやるからさ」

「いいの? ありがとう、お言葉に甘えさせてもらうね」

 

 イヨは本当に嬉しそうに答えた。リウルが想像していた、花の咲くような笑顔で、だ。その笑顔は正に想像した通りの、万人を魅了するだろう魅力を放っていた。

 

 ──やっぱ可愛いな、こいつ。

 

 口には出さないまでも、リウルはそう思った。性別は間違えたが、其処は間違っていなかったな、と。

 

 リウルとイヨは連れ立って相部屋を出て往く。二人揃って階段を下り、一回の酒場まで降りて、

 

「おお、嬢ちゃんが来たな、おーい──げっ! リウル!?」

「げっ、とは何だ。ひよっこ共。俺がこいつと飯を食いに行ったらいけねぇのかよ?」

「め、滅相もございやせん! どうぞお通り下さい!」

 

 飲んだくれていた全員が──酔いつぶれた者と一緒に荷物の如く抱えて──椅子どころかテーブルまでどかせて、イヨとリウルの為に道を開けていた。

 イヨはその光景に眼を見開いて驚くが、リウルはそんなイヨの手を引っ張って、委細気にせず堂々と進んでいく。

 

「こ、ここで食べるんじゃないの?」

「もっとちゃんとした所で食うんだよ、詫びも兼ねてるんだから。イヨはどんなとこが良い?」

「え、じゃあ……美味しくて量が多いところ、かな?」

「良し、任せろ。公都で一番の美味くて食いでがある店に連れてってやるよ」

「あ、ありがとう──あの、先輩方もありがとうございました!」

 

 あっという間に出て行った二人。その後の酒場は、イヨが来店した時とは違う種類の静寂で包まれていた。衝撃の展開に、みんな酔いが覚めた様だ。

 

「あいつ、外見だけじゃなくて中身まで男みたいになっちまったんじゃねぇのか?」

「しっ、声がでけぇぞ。まだ聞こえるかもしれねぇ。……あのリウルに気に入られるとは、あの嬢ちゃんは益々何者なんだ?」

「リウルが男みてぇに見える女ってのと同じように、あの嬢ちゃんが女みてえに見える男って可能性は?」

「流石にそれはねぇよ……ねぇ、よな?」

 

 大当たりである。

 

 

 

 

 篠田伊代は子供の頃から、自分が持っていない物を持っている人物に憧れを抱く人間だった。

 

 イヨは勉強こそ人並みに出来たが、推理力や考察力と云った物を持ち合わせていなかった。だから頭の良い人に憧れた。すごいな、と感心していた。

 

 イヨは空手こそずば抜けて優れていたが、球技や徒競走はそれほどでも無かった。だから体育の授業で活躍している人に憧れた。すごいな、と称賛していた。

 

 イヨは歌があまりうまく歌えず、楽器は全く弾けなかった。だから音楽に秀でた人に憧れていた。すごいな、と心を打たれた。

 

 イヨは多くの友達がいたが、どんな人とも一緒に居られる訳では無かった。だから心の広い人に憧れた。すごいな、と尊敬していた。

 

 イヨは生まれ付いて女性的な容姿の持ち主で、男性らしい部分が少なかった。だから背の高い人、力の強い人、男性らしい男性に憧れた。すごいな、と目標にしていた。

 

 イヨは生まれ付いて男性で、女性に性的な魅力を感じる異性愛者だった。だから女性に憧れた。すごいな、と惹かれていた。

 

 純粋で単純な心を生まれ持ったイヨにとって、世の中の殆どの人は『すごい人』だった。例外はよほどの犯罪者や腐れた根性の外道や飛び抜けた糞野郎、アンデッドモンスター位である。そいつらは嫌いだった。見てて嫌な気分になるから。

 『すごいとは思えない人』も世の中にはいたが、それは自分がその人の全てを見ていないが故に、『すごい所』が見つからないか、感情や解釈、相性の問題で『自分にとってすごいとは思えない人』なだけで、結局は『実はすごい人』なのだろうな、と思っていた。

 

 現実だけでは無く、ユグドラシルでも異世界でもそれは同じだった。

 

 より多くの攻撃に耐えるタンクが、より多くのダメージを叩き出すアタッカーが、より魔法を使いこなす魔法詠唱者が、多くの道具を作り出す生産職が、サモナーがテイマーがエンチャンターが亜人種プレイヤーが異形種プレイヤーが……全てが憧れだった。

 訳の分からない理屈で突っかかってくるふざけた連中は種類種別関係なしに死ねばいいと思っていたが。

 

 イヨが誰にでも懐くのは、根本的にはこの辺りが理由なのだ。自分以外の皆をすごいと思っているから自分以外の誰にでも敬意を抱いて接する事ができ、故に人に好かれた。

 そうして他人から褒められるたび、感謝されるたび、愛されるたびに『みんなと同じように僕もすごい!』と自信を持ち、『もっと褒められたい!』と努力したのだ。

 

 そんな世界観を持っているイヨにとって、目の前の少女は正に憧れの対象だった。

 

 鍛え抜かれた四肢、すらりと高い身長、鋭い眼つきと油断ない表情。

 間近にいても聞き取れない足音と、刃の様に鋭く、それでいて靄の様に捉え難い雰囲気。盗賊系の職業に就いている人間、それも大層な腕利きだと察した。

 

 下げたプレートはオリハルコン。イヨが志した道、冒険者の大先達である。

 

 そんな人物から熱い視線を向けられて、イヨは思わず赤面してしまった。

 

 イヨは自分の容姿が人目を惹くものである事は自覚している。生まれてから多くの人に褒められた数少ない長所の一つで、それ以上の誤解を生む特徴の一つなのだから。

 

 話してみれば、やっぱり彼女はイヨの性別を誤解していた様だ。誤解を正す途中、異性に胸を弄られるという衝撃の初体験をしてしまった。お蔭でイヨの顔は真っ赤である。

 

「イヨは飯食ったか? ちょっと早いけどさ、良かったら詫びも兼ねて奢らせてくれよ。見た所新人っぽいし、この街の事もついでに教えてやるからさ」

「いいの? ありがとう、お言葉に甘えさせてもらうね」

 

 彼女は自分がした勘違いについて随分と思う所がある様で、お詫びにとイヨを食事に誘ってくれた。イヨは勿論その誘いに乗り、二人は一緒に公都に乗り出す事になったのだった。

 

「おお、嬢ちゃんが来たな、おーい──げっ! リウル!?」

「げっ、とは何だ。ひよっこ共。俺がこいつと飯を食いに行ったらいけねぇのかよ?」

「め、滅相もございやせん! どうぞお通り下さい!」

 

 リウルは他の冒険者たちに異様に恐れられて、イヨは本当に驚いた。直後に手を繋がれた事にも大いに焦ったが。何せイヨは、年の離れた子供以外の異性と手を繋ぐことは初めてだったのだから。

 

 そうして宿から出て、イヨとリウルは公都を歩き回った。案内された鍛冶工房や薬師の商店などは多分イヨのアイテムボックスの中身が尽きない限り行かないだろうが、そんな事は関係が無く、良い体験だった。どちらかと云えば、リウルが自分で確かめた美味い飯屋などを教えてもらったのが、一番の収穫だったが。

 

「はぁ!? お前、十六歳ってマジかよ、俺の一つ下って! てっきり五つか四つは年下だと──」

「あー、うん。性別と並んで良く間違われるよ。リウルは十七歳なんだ?」

 

 日が傾いた頃になって、二人は活沸の牡牛亭という酒場兼宿屋に入った。中は肉体労働者と冒険者で一杯になっていて、黒山の人だかりの中を死に物狂いの形相で給仕が疾走していた。戦場の如き有様だが、リウル曰く、この時間帯に暇な様では潰れるらしい。混んでいるのは流行っている証拠だとか。

 

「リウルは盗賊さん?」

「お、良く分かったな。そうだぜ、俺がチームの目と耳だ」

 

 かっこいいなぁ、と返しながらイヨは赤身肉を頬張る。噛み締める度に滲む肉汁を楽しみながら、口元を手で隠しつつお行儀悪く喋り続ける。

 

「盗賊っていいよね。音も無く動く縁の下の力持ち。いなくちゃならないスマートな味方。僕なんかぶん殴るしか出来ないからなぁ」

「ぶん殴るって──お前、モンクかよ。聖印を下げてるからてっきり神官だと思ってたぜ。大丈夫なのか? 神官だって務まるか怪しいような細っこい身体して前衛なんてよ」

「モンクでは無いよ。気とか使えないし。相手が死ぬまでひたすら殴って蹴るお仕事だよ」

 

 寝覚めが悪いから死ぬんじゃねーぞ、と言いつつ、リウルは口内に詰め込んだ蒸した馬鈴薯を葡萄酒で流し込み、大きく息を吐く。まるで無頼の作法だが、心底食事を楽しんでいる気持ち良さもあった。周りが荒れくればかりなのも相まって、場に合った食べ方ともいえる。

 

「僕はこう見えて鍛えてるんだよ? 神官としては未熟も良い処だし、殴る方がずっと得意なんだよ。全国大か──えっと、国の武術大会? で優勝した事もあるんだからね!」

 

 強いんだよ、と胸を張るイヨ。場の雰囲気に酔っているせいか、何時もよりも活発だ。

 

「人は見かけによらねぇな、こんな小さいのに」

「身長はこれから伸びるからいいの! お父さんはリウルと同じ位あったし、僕もそれ位まで大きくなるから!」

「十六でその様だと望み薄だと思うがな……ま、希望を持つのは自由だな」

「な、なんて失礼な……!」

 

 所詮背の高い人には分からない悩みなんだ、とイヨは若干拗ねる。実際の所イヨの身長は中学校二年生の段階で成長が止まっているのだが、本人は未だ真摯に希望を抱き続けている。たとえ自分の身体を卑下していなくとも、身長が伸びれば色々と便利なのだ。故に期待してしまう。

 身長が伸びて身体が大きくなるという事は、即ち間合いも伸び筋力も増すという事だ。より遠くまでより強くぶん殴れるようになるのだ。それは素晴らしい事である。

 

「そんなに拗ねるなよ、悪かったって。折角美味い飯が目の前にあるんだから食えよ。しかめっ面してると俺が全部食うぞ?」

「食べるよ、僕だって。……それにしても此処のご飯は美味しいね!」

 

 美味いものを食べた瞬間に機嫌が治る辺り、本当にイヨは御しやすいというかお手軽な奴である。リウルは思わず笑ってしまいそうになるが、また機嫌を損ねられると面倒なので口を開いて誤魔化す。

 

「──だろ? この類の店としちゃ安い方じゃねえが、値段を補って余りある味に、それに量。良い店だろ? 小金が入った日の飯は此処で食うって決めてる連中は多いんだぜ」

 

 店主に認められればツケも効くぞ、と重大な秘密を打ち明けるかの様に小声で囁くリウルに、其処は大事な所だね、と真面目腐った顔で返すイヨ。息がぴったりである。

 

「ちょっと懐が寂しい時はさっき前を通った貧者の灯火亭が良いし、ぱぁーっと散財したい時は貴族街と市民街の境にある金の牡鹿亭が最高だ。あそこの店主は冒険者に恩があるって言ってよ、よっぽど騒いでも追い出されはしねぇんだよ。店の物を壊すと会計が凄まじい事になるけどな」

 

 ははは、とリウルが明るく笑う。何時もの眼付きの悪さや顔つきの鋭さは何処へ行ったのかと、普段の彼女を知るものが見れば疑問に思う位に。

 イヨとの会話が弾んでいる上に、それなり以上の酒精が入って気分が高揚している為でもある。

 

「イヨ! お前も飲め! 俺のおごりだ、たらふく飲め!」

「ええ? ぼ、僕はお酒とか飲んだことないし──」

「成人してる癖に酒が飲めない冒険者はイジメられるって法律で決まってんだよ!」

「ぜ、絶対嘘だよ、それ! ……でもまあ、興味がない訳じゃないし……ちょっとだけなら」

「良し、決まり! すんませーん、こいつに出来るだけ弱い酒を、果実水かなんかで思いっきり薄めて出してやってくれー!」

 

 やがて運ばれてきたそれは柑橘系の果実の風味が涼やかで、イヨがイメージしていた酒とは全く違っていてとても飲みやすかった。たたでさえ弱い酒を思い切り薄めているのだから当然と言えば当然だが。

 あっという間に一杯を飲み干し、イヨは此処で自信をつけた。つけてしまった。初めて酒を飲んで調子に乗る奴の定型である。

 

 『自分は結構酒に強いらしい』という勘違いだ。

 

「意外と飲みやすいね。……美味しいかも」

「おお! イケる口か、イヨ! じゃあ次はもうちょっと強くしてみるか?」

「う、うん……まあ、ちょっとだけなら」

 

 本来なら止めただろうリウルが先に出来上がっていたのもいけなかった。止める人間がいないのだ。酒が進めば気が大きくなって、まだ大丈夫まだ大丈夫という気分にもなってくる。

 その内に薄めず飲むようになって、酒精で痺れた舌はそれでも美味しく感じてしまう。

 

 結果。

 

 ものの三十分で、完全に寝入った酔っ払いが誕生する事となった。テーブルに突っ伏して寝息を立てており、熱を孕んだ頬は赤く、半開きの瞳は潤んでいる。

 

 相方が全く反応しなくなった事で、リウルの酔いも程良く覚めた。もとから飲み慣れているので、理性を取り戻すのも早かったのだ。

 声を掛けても揺すっても起きず、勿論寝ているのだから自力で歩行など出来るわけがない。まさか置いていくわけにも絶対に行かない。

 

「しまったな、飲ませ過ぎた。……背負って帰るか」

 

 結局はそれしかないのだ。リウルは軽くて細い体を抱えて会計を済まし、すっかり陽が落ちた夜道を歩く。十代の少年少女が夜道を歩くのは危険なのだが、オリハルコンプレートを下げた冒険者を狙う度胸の在る泥棒や暴漢は存在しなかった。

 

 中途で三度ほど『幼い少女を酔わせて何処に連れ込むつもりだね、君』などと言う夜警に捕まったが、リウルは顔が売れているから、彼女が女で少女が男だと説明する事も一応できた。

 『少年のようにも見える少女が、少女にしか見えない少年を介抱しつつ宿まで送っていただけである』という事実を、なんとか夜警に信じさせることが出来たのだ。

 

 ややこしい話になってしまった感は否めないが。

 

 そうして最初にイヨとリウルが出会った宿まで通常の三倍の時間を掛けて戻り、

 

「リウル、お前……」

「なにもしてねぇし、上でコトを始める気もねぇよ。第一男女が逆だろ?」

「ああ、そうだったな……つい、分かり辛くてな。すまん」

 

 店主に断りを入れ、常連客達の好奇の視線を睨み散らして二階へと上がり、

 

「俺も、もう疲れた……」

 

 流石に人一人を抱えて夜間の長距離は堪えたのか、イヨを抱えたままベッドに落下し──意識を手放し、眠りについた。

 

 同じ相部屋を使うはずだった冒険者たちは、その光景に驚愕したと云う。

 




あの世界は法国以外は十五とか十六で成人扱いだったので、ギリセーフという扱いでどうか一つ宜しくお願いします。

今回は、主人公が初対面のヒロインに酒で酔わされてお持ち帰りされるの巻でお送りいたしました。まあ、何も無かったんですけどね。

早く戦闘シーンとかが書きたいです。ただでさえオーバーロードっぽくない二次創作なのに、こういうシーンが続くと書いてる私自身も何を書いてるんだか分からなくなりそうなので。
公国内にいる内はほぼオリキャラしか出ないし、これから王国にも帝国にも行く予定なのに遠いこと遠いこと。

ようやくメインヒロイン登場回でした。ナザリックいきと云うラストを決めた時からイヨには幸せになってもらいたいと思っていたので、本当にやっとって感じがします。

普通に女の子みたいな少女をイヨの隣に並べると女の子二人組しか見えないので、カッコいい系の年上女子をヒロインに設定。弱冠十七歳でオリハルコンプレートを持つ才女です。


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公都:早朝

 イヨが自分の上に圧し掛かった重みを意識的に自覚したのは、多分明け方頃の事だった。部屋はとても薄暗く、視界はほぼ利かない。彼は未だ摂取したアルコールで脳が痺れていたから、霞む目を擦る事すら無しにその『重み』に視線を向けた。

 

 黒くて短い髪、革と金属を巧妙に組み合わせた衣服。寝ていても分かる鋭い眼つき。

 

 オリハルコンプレートの持ち主、リウル・ブラムだった。

 

 自らの胸にうつ伏せに寝ている彼女を見て、イヨの二重に惚けた意識に何故彼女が自分と共に寝ているのだろう、と云う当然の疑問が浮かぶが、長く悩むことは無かった。

 

 答えは記憶の霧の向こう側だが、その霧の存在自体が答えであるように思ったからだ。

 

 俄かに思い出せば、彼女と一緒に夕飯を食べた所までは記憶にある。途中から記憶が無い。今までこんな風に記憶が欠落する事は無かったから、理由は恐らく酒だろう。

 

 飲んだ覚えはないが、酒を飲む彼女と酒の二つに関心を持った事は記憶にあった。

 

 一緒に寝ている。彼女が自分に圧し掛かって寝ている。多分お酒を飲んだから。

 

 未だ酔いが覚めず寝起きからも覚醒していない頭で、飛び飛びに思考する。

 

 リウルは和やかに寝ている。自分も気持ちよく寝ていた。もう少し寝ていたい。彼女もまだ起きていない。

 意識が完全に覚醒し、酔いも覚めていたなら、そんな風には絶対に考えなかったのは間違いが無い。でも今の彼はそうでは無い。それが全てだった。

 

 ──ならば良し、と。そう考えて。

 

「お休み……」

 

 イヨは自らの胸に乗った彼女の頭を緩く抱きしめて、もう一度眠りに落ちた。

 

 

 

 

 リウル・ブラムが下敷きした人物の存在を意識的に自覚したのは、明け方の頃だった。頭をぎゅっと抱きしめられた拍子に、意識が覚醒したのだ。高位の盗賊である彼女は闇を見通す事に長けていたから、たとえ薄暗くても視認には全く問題が無かったし、酒には結構強いので酔いも残っていなかった。

 

 下に敷いた人物──白金の三つ編み、少女の如き顔付き、綺麗な肌──新人冒険者イヨ・シノンは、なんとも警戒心の無い幼子の様な有様で幸せそうに寝入っていた。

 

 しかも、リウルの頭を優しく抱き締めながら。

 リウルは彼の胸を枕にしてうつ伏せに寝ていたのだ。

 

 酔いつぶれたイヨを抱えて宿まで戻り、そこで力尽きててしまったのだ。リウルにははっきりと記憶があった。初めて酒を飲んだと言う彼に、調子に乗って飲ませ続けたのは自分であるのも覚えていた。

 

 あの程度の酒量で正体を失うなどあり得ない。現に記憶はしっかりある。……あるのだが。

 

 ──いやに懐かれたな? 

 

 リウルが疑問を抱いたのは其処だった。リウルはあまり子供に懐かれる質では無い。愛想もあまり良くないし、顔立ちも態度も柔らかくは無いからだ。いや、イヨが十六歳で、自分の一つ下でしか無い事は知っているが。

 

 ──俺はこの少年に何をしたか。此処まで好かれる事をしたか? 

 

 性別を勘違いして睨み付け、勘違いに気付かされて謝り、謝罪として街を案内して、夕飯を共にし、酒を飲ませて酔い潰した。抱えて宿に戻り、疲労感に負けて一緒に眠り込んだ。

 

 ──イヨに好かれるような事は特別していない。

 

 この少年は本当に子供っぽく、単純で純粋だ。昨日のやり取りで自分を親しく思っていても、さほどの違和感はないが。

 

 ──同衾を許し、あまつさえ抱き締めるか? 『親しく思っている』程度の相手を。

 

 リウルだったら──イヨとリウルが別人な時点で意味の無い比較だが──此処までは絶対にしない。起こさない様にベッドから這い出て毛布一枚被って床で寝るか、書置きでも残してさっさと部屋から出ていくだろう。

 

 何故自分は此処まで好かれている? 許容されている? リウルは其処が疑問だった。

 

 ──俺、イヨに何もしてないよな? 

 

 恐ろしい発想が頭に浮かぶ。

 酔った勢いで異性をベッドに引きずり込み、一時の性欲に任せてコトに及び、手籠めにしたと。その最中に無責任にも甘ったるい言葉を吹き込んで、この少年を誑かしたのではないかと。

 

 いやいやいやいや、とリウルは頭を振る。イヨが呻く。慌てて止める。

 彼が寝たままなのを確かめて一息つく。

 

 リウルには記憶があった。正気が飛ぶほどの量も飲んでいない。だから有り得ない。

 

 ──でも、そうだったらイヨの態度に納得がいく。

 

 ぶっちゃけイヨはチョロそうだ。直ぐ落ちそうな気がする。抱き締めて好きだと言えばイチコロっぽい。行為に及ぼうとしても、懇切丁寧に口説き落とせば割とすぐ許してくれそうな気がする。最悪無理矢理ヤっても謝れば楽勝で事後承諾が貰えそう。

 

 そういう想像をしてもあんまり非現実感が無い。

 

 本人が聞いたら顔を真っ赤にして烈火の如く怒るだろう失礼極まりない想像だが、昨日一日でリウルがイヨに抱いた印象は『恐ろしく純粋かつ単純な扱いやすい子供。詐欺に引っかかりそう。告白とか断れない奴っぽい』だった為、ひどい展開ばかりが頭に浮かんだ。

 

 んな訳ねぇだろ、と理性が否定。

 相部屋なのに俺達二人以外誰もいねぇし、と無駄に邪推。

 

 そうやって十数分ほど悶々と過ごし、リウルは唐突に悟る。服着てるじゃん俺達、と。

 服装も乱れていない。よくよく考えたら、女が男を一方的に襲うのは無理がある。男がその気にならなければ行為自体が成立しないからだ。

 

 ──素で懐いてんのかよコイツ! 子供か! 

 

 リウルは無言で怒る。疲れた。本当に疲れた。この一時間にも満たない間に全力の戦闘後並みに疲労した気がする。冒険者などと云う切った張ったを旨とする職業に身をやつしている内に、思考が男性化しているのではないだろうか。

 

 どうせイヨには寝る時にぬいぐるみを抱き締める癖でもあるのだろう。当人が十六歳だと本気で主張するから信じてはいるが、外見は十三か十四そこらの小娘である。そんな癖があっても違和感はない。むしろお似合いだ。絶対そうに決まっている。

 

 イヨにそんな癖は無いが、リウルのイメージするイヨはそんな少年であった。

 

 ──ああ、本当に良かった。何も無くて──

 

「男にモテないからと遂に同性に手を出したか、救えん小娘だ」

「しかも年下趣味とは筋金入りだな。俺の半径三間以内に近寄らないでくれ、犯罪者が感染する」

 

 背後から聞こえた見知った二人の声に、リウルは飛び上らんばかりに驚いた。実際に音も無くベッドから飛び降りて即座に背後に向き直った位だ。そこまで大きな動作をしてもイヨが全く起きる素振りを見せない辺り、リウルの腕の良さが分かる。高い技術を使って何をやってんだという話だが。

 

「お前ら、何時の間に──!」

「寝顔を眺めるのに夢中で儂等にも気付かんかったらしいぞ、仮にもオリハルコンのプレートを預かる冒険者が。恋とは──おっと、若き性欲とは偉大じゃな」

「そう詰ってやるなよ、爺さん。酒に頼ってまであのお嬢ちゃんを押し倒したかったらしいからな、明日には公都中の噂になってるだろうさ。俺たちが言わんでも街の皆が言ってくれるよ。──レズロリコン、と」

「なんにもしてねぇし、こいつは男で成人だボケ! 素っ首跳ね飛ばすぞ!」

 

 全身甲冑の巨人と矢鱈と健康的な肌艶の禿爺。

 

 何時の間にか部屋に入って来ていた二人のオリハルコン級冒険者を形容するなら、そういう感じだ。戦闘に適した強力なタレント【生まれながらの異能】を持つことで有名な二名で、リウルと同じチームに所属する仲間でもある。

 そのチーム名を【スパエラ】と言い、公国内に三チームしかいないオリハルコン級冒険者パーティーの中でも、実力ではアダマンタイトに最も近いと謳われる強豪である。昇格の機会が巡って来る度にメンバーの離脱が相次ぐ運の悪さでも名高い。

 

 因みに二人は普通に階段を上り、ドアからきちんと部屋に入ってきている。別に隠形などしていないし、甲冑も普通に音を立てていた筈だ。

 リウルが二人の接近に気付けなかったのは単に、極限の懊悩から解放された当人が油断していただけである。

 

「遂に自身の女性性の欠落さ加減を自覚して、略奪婚で婿取りか。犠牲となったその、小僧? に祈祷を捧げねばな。メリルがまだチームにおったら良かったのじゃがな」

「ロリコンでは無くショタコンか……この言葉はかの六大神が定義したそうだが、まさか実物を拝む日が来るとはな。仇名はショタレイパーに変更だな」

「お前ら俺になんか恨みでもあんのか……!」

 

 別に二人は恨みなど持っていない。持っていたら何年も組んでいない。

 

 珍しくリウルのスキャンダラスな場面に遭遇したので、ここぞとばかりに弄くり回しているというのが二人の正しい心境であった。

 

 リウルはこう見えて裕福な商家の長女とした生まれ育った上流階級出身者であり──と言ってもその時分から近所のガキ大将として有名な腕白だったらしいが──幼い頃に受けた教育が活きている為か、男遊びもしなければ賭け事も手を出さない。とある事件をきっかけに冒険者となって以降、仕事以外は大概飲んで食って鍛錬して寝て過ごすというある意味とても健康的な生活を送ってきた。

 

 そんな彼女が見ず知らずの少年とベッドを共にしている。本当に事に及んだ後だったら誓って見なかった振りをしただろうが、この様子だと酔い疲れて寝落ちしただけだろう。

 ならば、人生の先達にして仲間である二人としては、揶揄いの一つもしてやりたくなるものだ。

 

 気心知れた仲間ならではのやり取りである。少なくとも二人はそのつもりだ。リウルは本気で怒髪天だが。

 

「──リウル、組合長との約束を忘れたか? 多忙の折に時間を取って下さったのだ、朝一番の会談に遅れるわけにはいかんぞ。はよう起きぬか」

「お前が俺達と同じ宿に泊まっていてくれれば、そんでもって酔っ払って眠りこけていなければ、わざわざ迎えに来なくても済んだんだがな?」

 

 今にも飛び掛かりそうなリウルの形相に、二人は即座に方針を転換した。既に十分楽しんだのだ、引き際を誤れば痛い目に合うのは自明の理である。引く事を知らない冒険者は絶対に一流にはなれない。なる前に死ぬからだ。

 

「……言われなくてもちゃんと起きてたよ。つーか、あんな一泊するだけで金が飛ぶとこに泊まれるか。その金でポーションを買うか飯でも食った方がマシだ」

 

 だから当然リウルも引く。

 今までのやり取りは甚だ不愉快だが、場の流れが自分の不利から遠ざかったのだ。言ってることも至極ごもっともなのだし、乗っておくのが吉である。

 

「若いうちはそれで良いかも知れんがなぁ、儂は最近柔らかいベッドでないと腰を痛めるでな」

「体力には自信があったんだが、四十を過ぎるといい加減身体が無理を聞いてくれないんだよ」

「揃って爺臭い事言ってんじゃねーよ。アダマンタイト級になるまでは絶対引退させねぇからな」

 

 一旦落ち着けば、其処にいたのはオリハルコン級の名に相応しい歴戦の冒険者たちだった。此処がボロ宿の一室で、直ぐ隣では少女の如き少年が健やかな寝息を立てている事を差っ引いても貫禄があった。

 

 公都の朝は早い。日が出れば仕事が始まる。朝一番の会談に間に合わせるには今すぐ動かなければならなかった。

 

 さあ行こうとなった段で、リウルはイヨが気に掛かった。イヨ本人には昨日の記憶は無いかもしれないが、まさか丸一日分無くしている訳はあるまい。リウルと一緒に宿を出て食事をとった辺りまでは覚えていると予測するべきだろう。そうなるとイヨはどうして自分が宿に戻っているのか、リウルはどうしたのかと気にする筈だ。

 

 リウルはちょっと迷って、宿の店主に言付けておくことにした。こいつは素直な人間だし、それで問題は無いだろうと。

 

 最後に乱れていた毛布をイヨに掛け直してから、リウルは相部屋を後にした。

 

 

 

 

 寝付きと寝起きの良さは、イヨの自慢の一つだ。何処でも何時でも、目を閉じて横たわれば直ぐに寝られる。そしてどんな熟睡中でも、家族の声や地震があれば直ぐに目が覚める。

 なので、所謂『寝惚ける』という状態をあまり体験した事が無かった。

 

 眼を閉じれば三分で熟睡、目を開けた瞬間に完全覚醒。

 

 それがイヨの睡眠だったのだが、今日に限ってはとても心地の良い陶酔感と身体が宙に浮いているかの様な浮遊感を感じた。見聞きするもの全てに薄い布が被せてあるかの様な五感の鈍さ。身体も思考に対して若干遅れて動くが、不快感は無く、むしろ気持ち良い。

 

 そんな常ならぬ状態で目覚めたイヨは、緩慢に体を起こすと辺りを見渡した。宿の相部屋である。幾つか連なってベッドが置いてある他は殆ど物が無く、すっきりしている。

 

 心中に僅かな疑問が湧き、しかしその疑問さえ定かでなく、思考は回らない。

 

 バラバラに想起した習慣に従って着替えようとし、寝間着を着ていない事に気付く。野宿なら兎も角、宿に泊まったのなら着替える位はした筈。少なくとも金属の装甲がついた防具は脱ぐ。聖印を始めとした装飾品も外す。

 

 はてどうしてこんな格好でベッドに入ったのかと考え、やっと記憶の欠落に気付く。

 

 リウルと出会って、一緒に食事をとって、それで──覚えていない。そこから先は記憶に無かった。

 

 どうして、と小首を傾ぐ。徐々に鋭敏さを発揮しつつある嗅覚が身体の発する独特の臭気を捉え、少しして考え付く。

 

「お酒を飲んだんだった……かな?」

 

 状況から考えればそうなる。いくらイヨが鈍くとも、記憶が無くてアルコール臭がするとなればそれ位は考え付くのだ。間違いない、自分は酒を飲んだ。記憶が消える程大量に。

 

 飲酒の経験は無いが、酒を飲んだ人間がどういう事をしでかすかは知っている。

 

 泣く。怒る。喚く。笑う。絡む。構う。躁鬱。高揚。寝る。

 大体こんなところだろう。

 

 記憶が無くなる程、という点が気掛かりだった。普段ならしない様な事も平然とやっている可能性が有る。

 服装が乱れていないし、恐らく歩く事も出来なかっただろうイヨを此処まで送って来てくれたのは多分リウルだ。酔った勢いで不埒な真似を、という可能性は除外で良いだろう。リウルを押し倒したにせよリウルに押し倒されたにしろ、痕跡が残っていないという事はあり得ないのだから。

 

 イヨは頭が良くないのを自覚している分、推理や考察をしない。どうせ出来ないのだから端からやらないのだ。目の前にある現実と矛盾しない様に過去を想像するだけである。

 

「後でお礼しなくちゃね」

 

 酔った自分をここまで運んでくれたのだから。

 

 姿が見えない所を見ると、恐らく彼女はもう仕事に行ったのだろう。流石はオリハルコン級冒険者、公国内では最高位の冒険者だ。眠りこけるイヨを横に、格好良く颯爽と出勤していったに違いない。

 

 当然の事ながらイヨを敷布団にして一緒に眠り、イヨとヤってしまったかどうかで心底悩み、仲間に少女を酔わせて誑かしたレズロリコンやら年下の少年を押し倒したショタレイパー扱いされた等と云う現実は欠片も浮かばなかった。

 

 イヨの頭の中のリウルは仕事の出来る大人の女性、凛々しく恰好が良い大先輩なのだ。憧れの存在なのである。

 

「僕も頑張ろう!」

 

 小さく気合を入れ、ベッドから飛び降り、部屋を出て階段を駆け下りる。目指すべき目標を早くも目にすることが出来たのだ。後は其処に向けて駆けるのみ。

 イヨは立派な社会人に、人の役に立てる大人になるのだ。

 

 

 

 

 話題の人物、『あのリウルと同衾していた少女』が一階へ降りてくると、朝食を掻き込んでいた冒険者たちは一斉にざわついた。少女が宿の店主と朝の挨拶を交わして何やら言伝を預かり、肉が大盛りされたオートミールを持って席に着く。すると周囲の冒険者仲間からの視線を受けて、少女の隣の席に座っていた男が彼女に話し掛けた。

 

「嬢ちゃんよ、ちょっといいか?」

「あっひ、あひ──あ、はい。 なんでしょう?」

 

 熱々のオートミールを勢いよく頬張って舌を火傷したらしく、少女はちょっと涙目だった。口内から覗く真っ赤で艶やかな舌に視線を奪われつつも、男は目の前の少女をこっそりと観察する。

 

 服装も外見も、昨日見た時と何ら変わりない。首に下げた木彫りの聖印と、金属装甲が各所に追加された服装。それに幾つか身に帯びている装飾品。

 

 感想は昨日と同じ、富裕層の子女らしき人物というモノ。

 

 やはり外見通りの子供にしか見えない。こんな荒事に縁が無さそうな少女とリウルにどんな関係が? イヨの姿を見てそう考えながら、男は続ける。

 

「詮索する訳じゃないんだ、言いたくないなら聞かなかったことにしてくれ。 嬢ちゃんは、あのリウルとどんな関係なんだ? ……姉妹か?」

 

 その可能性が低い事は当然分かっている。

 

 リウルは南方系の血筋を連想させる黒髪黒目で、目の前の少女は白金の髪に金の瞳だ。明らかに人種が違う。血の繋がらない姉妹という可能性も無くは無いが、リウルの家族構成や半生は公都の冒険者の中では常識に近いレベルで知れ渡っているので、ほぼ有り得ない。

 昔の話をしたがらない冒険者は珍しくなく、過去の詮索をしないのは冒険者同士にとって暗黙の了解である。しかし、リウルは冒険者になる切っ掛けとなった過去の出来事を『冒険者リウル・ブラムの最初の武勇伝』と捉えている為、酒の席で酔いが進めば必ずと云っていいほど語りだすのだ。

 

 その武勇伝『ブラム商会崩落秘話』の中に、妹は一切登場しない。リウルには兄が二人いるきりだ。

 

 昨日の出来事を目撃した面々が立てた予想の中では、『お嬢様時代のリウルの知り合いで、元からリウルを訪ねてこの宿に来た』辺りが有り得そう線だとされている。因みに大穴は『リウルが同性愛に目覚めた』だ。良い処のお嬢様が何故一人で来たのか、待ち合わせ場所にならもっとまともな宿を選ぶだろうという当然の疑問は付いて来るが。

 

 それでもあえて確率の最も低い予想の真偽を聞いたのは、姉妹疑惑を否定するために少女が自分の素性を喋る事を期待した為だ。返答が「違いますよ」の一言だけだったとしても、こちらが疑う素振りを見せ続ければ、少女は反論なりするだろう。その中から情報を抜き出す事は十分に可能だ。

 

 この少女の様子からして、口は軽そうだし。

 

「えーと、二つ否定します」

 

 二つ? と男が疑問を持つ前に少女は続ける。

 

「一つ目。リウルとは姉妹じゃありません。昨日初めて出会って、ふとした事から一緒にご飯を食べただけです」

 

 少女の声は普通に大きく、聞き耳を立てている面々にもしっかりと聞こえた。次はその『ふとした事』がどんな出来事なのかを聞かねば、と男が考えている内に、

 

「僕はお嬢ちゃんじゃありません、男ですよ。十六歳です。昨日リウルもそれを間違えて、それでお詫びにご飯を奢ってもらったんです。記憶にないんですが、多分酔っ払った僕をリウルがこの宿まで連れて来てくれたんじゃないですか?」

 

 皆さんはその様子を見ていなかったでしょうか、と少女、いや少年が問うが、その場の誰もがそれどころでは無かった。

 

「……は? いやいや、お嬢ちゃんが俺と同じ性別とか嘘だろ?」

「嘘じゃないです。何なら手っ取り早く上だけでも裸になりましょうか?」

 

 どうやら此処にいる全員に女だと思われているらしいと察して、イヨは提案した。

 

「い、いや! 嬢ちゃんにも複雑な事情があるのは分かった、そこまでしなくてもいい!」

 

 イヨは、上半身までなら裸を見せる事に抵抗感があまりない。

 空手の練習をする時は下着一枚の上から空手道着を着るし、更衣室なんて上等な物、男子は使わないし用意もされていないのだ。大会などでも普通に観客が往来している場所で着替えねばならない場合が多く、視線など一々気にしていられない。女子選手には更衣室がある場合も多いが、女子は無地のTシャツの上から空手道着を着るので、気にしない人はやっぱりそこら辺で着替えていたりもする。観客の方も一々着替えなど気にしない。

 

 女子選手は更衣室がありますよ、と言われても普通に着替えを続行し、この通り男なので大丈夫です、と返すのが一番面倒で無く、話が早いのである。

 

「おい、ちょ、やめ──」

 

 周囲の人々が止める中、イヨは素早く上着とシャツを脱いで上半身裸になった。瞬時に全員の視線が胸部に集中し、全員の顔が一瞬で驚愕に染まる。そこには膨らみかけの可愛らしい乳房など無く、真っ平らな少年の胸があったからだ。

 

「ほ、本当に男だ……」

 

 その場にいる全員の驚愕と男性陣のがっかりを代表するかの様な男の台詞であった。

 

「分かって頂けたようで良かったです」

 

 魂消た顔の男衆と、良い笑顔で頷くイヨ。

 

 イヨの本音としては、今は女装をしている訳でも無いのだから普通に見分けてほしい所である。でも今のイヨは元居た世界の篠田伊代と違って体の線が細く、髪型は三つ編みなのだから、しょうがないかという思いで本音を飲み下す。

 

「──綺麗な肌……」

 

 ぼそっと呟かれたこの言葉でイヨはやっと数少ない女性冒険者の存在に気付き、急いで服を着た。冷静に考えると早まった行為だった気もするが、やってしまった事は仕方が無い。そう思って自身を納得させていた。

 

 

「嬢ちゃ──あ、いや」

「イヨ・シノンです」

「イヨか。十六歳ってのもマジか?」

「本当です」

 

 証明できないですけど、とイヨ。

 

この少年が十六歳だと云うのは本当なんだろうな、と冒険者たちは思う。この外見で事実男であるという驚天動地の出来事に比べたら些細な事に思えたのだ。到底十六歳には見えないが、個人差という奴だろう。

 

 男は何だか脱力していた。たまたま隣の席に座られたから聞き役が回ってきただけだと云うのに。朝からテンションの上下動が激しくて、疲れた気がしたのだ。

 

「お前、この宿に泊まったって事は冒険者なんだよな?」

「はい、昨日登録をしてきました。今日のお昼頃にプレートを貰う予定です」

 

 成程リウルと行動を共にしていたのはそういう事か、と納得する。自分たちと同じようにリウルも彼の性別を間違えたのだろう。男扱いされる事を殊更に嫌うリウルの事だ、らしくも無く恥じ入って、少々面倒を見てやったのだろう。そうして酒が進むうちにイヨにも飲ませ、あっという間に酔いつぶれた彼を背負って宿に戻ってきた。疲れたのでイヨと一緒に自分も寝台に倒れ込んだ。

 

 そんな所なのだろう、イヨ本人が言った事が真実ならば。リウルの性格を考えても辻褄は合う。

 

「お前みたいな小僧っこが冒険者としてやっていけるのかぁ? いくら神官たって体力は必要だぞ」

「その体力が唯一の自慢なんですよ、僕は。それにこう見えて本業は殴り合いなので」

「はっ、なんだそりゃ」

 

 分かってしまえばそれだけの事と言うのは簡単だが、オリハルコン級冒険者の一挙一動は影響力が大きい。実力的には最もアダマンタイトに近いと言われる【スパエラ】の一員の行動とあれば尚更だ。

 

 イヨは期せずしてオリハルコン級冒険者と縁を持った。本人の実力以外の部分も本人の価値の一部だ。公国内トップのオリハルコン級チームとの縁には十分すぎる価値がある。

 

「俺はな、こう見えて一チームのリーダーをやってる。見て分かるだろうが、ランクは鉄だ。こう見えて最も銀プレートに近いって評判なんだぜ、自分で言ってもだせぇだけだがな」

「そんなことありません、すごいですよ!」

 

 ただでさえ魔法詠唱者の絶対数は戦士や野伏より少ない。

 今は未熟だろうが、回復魔法の得手である神官はチームに一人は欲しい人材だ。本人の自己申告になる為程度は分からないが、イヨは体力には自信があると言う。教導すれば付いて回る位の事は可能だろう。新人が使えないのはどの業界でも何時の時代でも至極当たり前の事、出来るようになるまで教え導いてやれば良いのだ。

 イヨは素直な質の様だし、飲み込みも悪くなさそうだ。

 

「俺の名はバルドル・ガントレード。此処で会ったのも何かの縁だ。イヨ。うちのチームに──【ヒストリア】に入らねぇか? 冒険者は一人でやっていける仕事じゃねぇからな。お前さえ良ければ先輩として、同じチームの仲間として色々教えてやるよ」

 

 何より、だ。色々と理屈はこねたが、要は男──バルドルはイヨ・シノンの事が気に入ったのだ。この界隈では中々見られない純真さとその真っ直ぐな瞳の輝きに、可能性を見たとでも言おうか。

 現時点では誰に行っても笑われるだろう予想だが、バルドルは思ったのだ。

 

 こいつは強くなるぞ──と。

 

「新人の僕なんかを……良いんですか!? 是非ともよろしくお願いします!」

 




捏造設定:ロリコン・ショタコンという言葉を広めたのは六大神(ロリコン・ショタコンと翻訳される言葉では無く、ロリコン・ショタコンという単語そのものを六大神があの世界に齎したという意味)

期待を裏切ったのではないかとちょっと心配しながら更新。でもイヨとリウルの設定を改めて考えたら、こいつらそもそも同じ時間に起きねぇじゃんってなったんですよ。
リウルは兎も角酔いつぶれたイヨは中々起きないし、そもそも二人の性格的に、相手が目の前で起きてさえいたら普通に相手に聞いて誤解を抱く前に疑念を解消しちゃうんですよね。

何気にチーム名を考えるのが面倒臭い事に気付きました。人名は二秒くらいで書きながら考えるんですが、チーム名は時間が掛かります。
迷った時はそれっぽい単語を各国言語に訳せばそれなりにいい感じになる……のでしょうか。今回はそうしましたが。設定とネーミングの擦り合わせが大変でした。
ドイツ語とラテン語って偉大ですね。

蒼の薔薇とか朱の雫とかかっこいいですよね。漢字を使ってかっこいい感じを出すのが苦手なので、横文字に逃げました。


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公都:早過ぎる転機

「お前みたいな奴がうちのチームにいて良い訳がねぇだろ!」

「ええー!?」

 

 朝の勧誘を受けてから僅か四時間後の事である。イヨはバルドル・ガントレードがリーダーを務めるチーム、【ヒストリア】から満場一致の脱退要請を受けていた。

 

「そうだ! 鉄プレートのチームにいて良い訳がねぇ!」

「お前にはもっとお似合いの場所があるだろ!」

 

 一時間ほど前からどんどん集まってきた他の冒険者たちまでもが大きく声を張り上げる。正義はこちらに在りとばかりに自分の主張を咆え猛る。イヨの意見など誰も聞いてくれない。

 

「なんで……なんで皆さんそんな事を言うんですか……!」

「なんでも何もあるか! 常識で考えろ、この世間知らずのおこちゃまが!」

 

 口を開けば怒鳴られる。頭ごなしに高圧的に、だ。確かにイヨは世間知らずのお子様である。そもそも三週間ほど前にこの世界に来たばかりなのだから常識も何も持ち合わせていない。今この宿の裏の空き地にいる面子の中でも際立って幼い十六歳の子供でしかない。でも、だからって──

 

「お前みてぇに強い奴が! 銅や鉄程度のランクに収まってて良い訳がねぇ!」

「組合に直訴しようぜ、考えてることはあっちだって同じだろ!?」

「ああ、特例措置を要求すべきだ!」

「二十年ぶりに公国にアダマンタイト級が誕生するかどうかの瀬戸際なんだ、細かい規則なんて脇に避けておけってんだ!」

 

 イヨ以外の全員が言ってる様に、組合に直訴して飛び級を認めさせるなんて事、イヨには賛成出来る筈も無かった。

 

「そ、そんな、ルールを捻じ曲げるなんて──」

「じゃかぁしい! イヨは黙ってろ!」

「菓子でも食って待ってろ! おい、誰か甘いもん買ってこい!」

「僕の話なのに僕が喋っちゃ駄目なんですか!?」

「はーいイヨちゃーん? おじさんたちは難しい大人のお話があるんだって! イヨちゃんはお姉さんたちと良い子でお喋りして待ってましょうね~」

「僕そこまで子供じゃないです、あれは僕の話じゃ──やぁ! 何処触ってるんですか!?」

 

 即座に女性冒険者数名がイヨを取り囲んで隔離、じりじりと体を使って建物側に押し込める。イヨが包囲を突破しようとするなら相手の身体に触れねばならないのを逆手に取り、移動を禁じる。更に色恋やらリウル関連の下世話な話で気を逸らすという念の入れようである。

 邪魔なお子様を遠のけさせたことで、集った面々は現実的な方策を勘案し始めた。

 

「でもよ、実際特例ってのはイケる話なのか? 確かにイヨは飛び抜けて強ぇけどよ、実績の無い十六のガキだぞ。中身と外見はもっと子供だし」

「そこは色々と落としどころってもんがあるだろ。いきなりアダマンタイト級ってのは流石に荒唐無稽だ。理想はミスリルかオリハルコンのチームに加入させる事だな。実力は既にあるんだから、オツムや実績の方はこれから積み上げて行きゃあいい」

「イヨ一人でアダマンタイトを張ってくのは無理だからな。犬か猫でも追っかけて崖から落っこちるのがオチだ。誰か近しい実力の保護者を付けねぇといけねぇよ」 

 

 本人に聞こえていれば抗議が飛んだだろう失礼千万な評価である。流石にイヨでも崖に落ちる前に気付いて止まる事くらいは出来る。犬と猫は大好きなので時と場合によっては追いかけてしまうかもしれないが。

 

「だったら狙いは【スパエラ】だな。ついこの間前衛と後衛が一人ずつ抜けたばっかりだ。今日辺りに組合長との会談が入ってる筈だし、メンバー募集の掲示が昼頃には出るだろう」

「リウルとは既に知り合いなんだし、やっぱりそこらが妥当な線か……」

 

 喧々諤々と交わされる議論。響くイヨの悲鳴。女性冒険者の黄色い声。

 冒険者組合御用達の宿『下っ端の巣』の裏の空き地は、何時になく賑やかであった。

 

 

 

 

 イヨがバルドル率いる冒険者チーム【ヒストリア】への加入を決定したあと、彼は直ぐに三人のチームメンバーと引き合わされた。バルドルとイヨを含めて五人のチームになる訳だ。

 三人のチームメイトはイヨの幼さと性別と実年齢に一通り驚愕した後、暖かくイヨを受け入れてくれた。少々体格的精神的に幼過ぎるきらいはあるが、信頼するリーダーが選んだ人間なら大丈夫だろうと言ってくれたのだ。

 

「これからは対等の仲間だ、敬語はいらないからな」

 

 腕を組んで笑うモンク。褐色の肌をした巨漢、シバド・ブル。

 

「アタシにもイヨ位の弟妹がいたんだよ~! アタシの事、お姉ちゃんって呼んでくれてもいいよ!」

 

 飛び跳ねてはしゃぐレンジャー。紅一点にしてチームの妹分、赤毛のパン。名字は名乗っていないらしい。

 

「誰だって最初は初心者さ。分からない事が有ったら言ってくれ、何でも教えるよ」

 

 木の杖に寄りかかる様にして立つウィザード。痩身長髪のワンド・スクロール。

 

「冒険者ってのは馴れ合い所帯じゃねぇ。だが、同時に命を預け合う存在でもあるんだ。同じチームの仲間になったからには、俺達が責任を持ってお前を強くしてやるよ」

 

 そして帯鎧と長剣を装備した戦士。リーダーのバルドル・ガントレード。揃って男前な笑みを浮かべる面々を前にして、イヨは明るい前途を強く感じた。良い人たちと出会う事が出来たと、幸せに思ったのだ。

 

「これから、宜しくお願いします!」

 

 元気に礼をする拳士にして神官。金髪三つ編みの少女めいた少年、イヨ・シノン。

 

 新たな仲間を迎えた鉄クラス冒険者チーム【ヒストリア】は新たなる歴史を刻み始める──! 

 

 

 

 

 

 ──刻み始めたのだが……。

 

 

 

 

 

「うわー! イヨすごいね、小っちゃいのに体力あるじゃん!」

「えへへ、僕、運動には自信があるんだよ!」

「立派なもんだ。そのなりで冒険者になろうってだけはあるな」

 

 【ヒストリア】一行は、今日一日を新メンバーであるイヨの能力と知識の把握、そしてパーティー内で親睦を深めるのに使おうと決めていた。

 

 冒険者の仕事においてまず基本となるのが体力である。たとえ魔法詠唱者であろうとも、重い荷物と装備の重量に耐えて長距離の移動をしなければならないのだ。これは戦闘やら知識やら以前の段階の話である。歩くだけで疲れていては戦闘など熟せない。一回や二回の戦闘で疲れ切ってしまっては次の戦闘や移動に耐えられないのだ。組合に急報を伝える際や敵わないモンスターから逃げる時など、休憩なしで長く駆ける体力はあった方が良い。

 

 先ずはイヨが現時点でどれ程の体力を持っているのかを調べる為、ランニングから始めた。駆け足を維持しながら疲れ果てるまでひたすらに走り続けるのである。

 リーダーのバルドルが先頭に立ってペースを決め、何が何でもそれに付いて行く。何処かの時点で追走できなくなるだろうから、そうなるまでにどれだけ耐えたかで今後の方針を決めようと。

 

 大方の予想に反して、イヨは本当に良く走った。綺麗な姿勢と整った呼吸を維持したまま走り抜け、他のメンバーが息も絶え絶えになるまで付いてきたのである。

 額に汗を流し、頬が赤く上気する程度の疲労で。

 

 体力については申し分なく、むしろ他の面々を上回っていることが明らかになった。

 これなら後は戦闘の腕を確認した上で、他のメンバーとの連携を覚えればすぐにでも仕事を受ける事が出来る。

 

 次の確認は神官としての能力を見るものである。使える魔法が三つだけで、肝心の回復魔法も、微妙に使い辛い性能である事が確認された。

 

「それでもこの歳にしちゃあ十分さ。後は仕事をこなしていくうちに上達するよ」

「戦闘中に使えないのは痛いけど、ポーション代の節約としては問題ないしね」

 

 成り立ての新人としては常識的な能力である。今後の成長に期待、という事で認識は一致した。

 

 あれ? となったのは最後の最後。自信があるという戦闘に関する能力の確認の時であった。

 

 冒険者の宿『下っ端の巣』の裏手にはちょっとした空き地があり、其処では近所迷惑にならない範囲で鍛錬をすることが出来るのだ。

 取りあえずは同じく拳で戦う前衛であるシバドに見てもらって、その後にチーム内での戦闘の役割分担と連携の確認に移行しようという話になったのだ。

 

 他のメンバーが見守る中、イヨと対峙して構えたシバドは、静かに悟る。

 

 打ち込めない、勝てない、実力に隔たりがあり過ぎると。

 気迫がどうとか気配がなんだとか、そんなまどろっこしい問題では無い。ただ単純に分かる。動かないイヨに対して踏み込めない。踏み込む隙が無い。フェイントによってイヨを動かす事も出来ない。

 見切られているのだ。

 

 この時のイヨはこの上なく真剣だった。自分の正確な実力を仲間に知ってもらうべく、戦闘時と同じくらいに集中していた。

 傍から見ている他の面々からすれば「構えが堂に入ってるな」「結構出来るっぽいよね」「すごいなぁ、あの年で」位のものだが──

 

「強い、な……」

 

 シバドが茫然と呟く。

 

 構えはオーソドックスだ。半身になって前屈し、両拳を中段と上段に配置する。人体の急所が集中する正中線を守り、同時に相手への最短距離に武器である拳を置く。攻防一体だ。

 基本中の基本である。別段工夫がある訳でも無い。これ以上削りようも無い磨き上げた基礎基本に徹する、単純であるが故に合理性と万能性を有した構えだ。

 

 遥か格上の相手に対し、シバドは踏み込めない。何をしても通じないだろう現実が、この上なく正確に理解できる。身体が動いてくれない。

 

 ──だからと言って動かない訳にも行かない。

 

「〈武術歩法〉、〈拳撃〉!」

「なっ──」

 

 発動させたのは、モンク系で最も初歩的な武技だ。一撃の威力を引き上げる〈拳撃〉と踏み込みを加速させる〈武術歩法〉、この二つによって、せめて一手は通す。

 

 仲間たちの驚愕が聞こえるが、シバドに構っている余裕は無い。彼の精神は最早新しい仲間の実力を確かめるなどと云う目的を忘れている。

 

 第一実力なら既に分かった。自分たちよりずっと、イヨは強い。

 

 今のシバドにあるのは、唐突に現れた遥か高き頂きに全てを以てして挑み、手を掛けるという修練者の熱き思いだけ。頂きに一歩でも近づくという、ただそれだけが全てだった。

 

 顔面に対する上段突きをフェイントに、本命の中段突きを入れる。小細工は逆効果だ、ただ最高最速の一撃を──! 

 

 イヨはまだ動いていない、入った、と思った瞬間。

 

 シバドの踏み込み足に軽い衝撃が走る。足払い、その単語が頭に浮かぶより先に男の身体は背中からべったりと地面に落下していた。

 仰向けになったシバドの視界に映るのは青空では無く、寸止めにされたイヨの右正拳下段突きであった。

 

 拳が解かれ、差し伸べる掌に変わる。

 

 自分より一尺以上小さい少年に手を貸され、シバドは立ち上がった。茫然の気持ちすら湧かない。強い相手に挑んだ弱い自分が負けたという、当然の事が起こっただけだと素直に思った。

 

「ありがとうございました!」

「あ、ああ──あの」

「はい?」

「──助言を」

 

 口をついて出た言葉。それはアドバイスを求めるもの。道場に通っている生徒が、指導者に対して聞く様に。

 

「踏み込みの時に体がやや開く癖がある様に思いました。体軸を芯とした回転を意識して、無駄な動作を減らした方が良いかと。後は摺り足ですね。浮いていると、今みたいに払われます」

 

 イヨのそれに嫌みな所も、驕った風も無い。道場では良くある事である。年齢の上下があろうとも、指導するなら指摘して正してあげねばならないのだ。型を習う際はイヨだって小学生に頭を下げる事もある。社会人がイヨに師事する事もある。そういうものだ。

 

「動き自体はキレがあってとても良かったです。脱力も良く、初動が小さくて」

「そうか──ありがとう。俺からもアドバイスをしよう」

 

 どこまでも理に適った言葉だ。この歳で指導の経験があるのか、と思うほど。武の先達として助言をくれたイヨに、シバドは冒険者の先達として助言せねばなるまい。お互いを高め合うのが、仲間なのだから。

 

 イヨがそうした様に明るく、シバドも言った。

 

「敬語はいらんよ、遠慮はするな。俺達は対等の仲間だ。最初に言っただろう?」

「──うん!」

 

 太陽の如き笑みを見せたイヨに殺到したのは、バルドル、ワンド、パンの観衆三人組だ。彼ら彼女らは興奮気味にイヨに抱き着き、頭を乱暴に撫で、口早に質問をぶつける。

 

「すっごい! 今のどうやったの? イヨよりずっと大きいシバドがすぱーん! すぱーんて!」

「お前、本当に強いじゃねぇか! 人を見る目には自信があったんだが、まだ過小評価だったみたいだな?」

「武技か!? 武技だよね? 今どんな武技を使ったんだ!?」

 

 この時点で【ヒストリア】の面々は、原石を拾ったつもりが既に十分な研磨を施された宝石であった、と喜んだ。頼もしい仲間が増えた、流石はリーダー、人を見る目は確かだと。イヨもみんなに褒められて幸せそうだった。だったのだが。

 

 事態が急展開を迎えたのは、イヨの近接戦闘能力がどんどんと明らかにされていってからであった。

 

 拳士シバドと戦士バルドルの二人とイヨが戦い。

「ほ、本当に強い……! 一体どうやってこの幼さでこれだけの実力を!」

 

 野伏パンと魔法詠唱者ワンドも加わって四対一になり。

「これでも駄目か!?」

 

 騒ぎを聞きつけた宿の客たち、より上位の冒険者たちも戦いに加わり、イヨもスキルを解禁し。

「なんだか面白そうなことやってんじゃねぇか、俺達も混ぜろよ!」

「なにがあったんだ?」

「すげえ強い新入りが来たんだってよ、何人束になって掛かってもびくともしねぇらしいぞ!」

 

 やがてまだ宿にいた殆ど全員が参加する一大イベントと化し、参加者全員がムキになって勝ちを捥ぎ取ろうとし始めて。

「囲め! 同時に掛かれよ、技や力で勝負するな! 数で磨り潰せ!」

「おいこれ魔法使っちゃだめなのか!? 魔法ならいくら何でもダメージ入るだろ!?」

「殺し合いじゃねぇんだ、それにこっちにも先輩としてのプライドってもんがある! ぜってぇ近接で仕留めるぞ!」

 

 それら全てを超えてなおイヨが跪く事は無く──

 

「お前みたいな奴がうちのチームにいて良い訳がねぇだろ!」

「ええー!?」

 

 結果、こうなってしまった。

 

 

 

 

「じゃ、先ずは冒険者組合だな」

「よし、決まりだ。おい、行くぞイヨ!」

 

 先輩冒険者たちの中で結論が出たらしいが、勿論イヨには聞こえていない。

 

 彼は今、パンが筆頭して構成した女性冒険者の人垣の中で物理的精神的に圧迫されていた。女性冒険者の人垣、というと甘い響きがありそうだが、彼女らは当然全身を武装している為、金属の檻とほぼ同義である。

 そのくせイヨが檻から脱獄しようとすると、やれスケベだの好き者だのと面白半分で逆セクハラを始めるから始末に負えない。イヨは思春期の男子として当然女性に興味津々だが、興味があるのは女性であって女性が着用する革鎧や装甲板では無い。誰が着ていようと金属は金属である。柔らかくも無ければ暖かくも無いのだ。

 

「きゃー! イヨちゃん触り方がいやらしい~!」

「やっぱり昨晩リウルに色々な事を教わっちゃったのかな~?」

「イヨちゃんこんなに可愛いのにもうオトナのオトコになっちゃったんだぁ……」

「な・ん・の・は・な・し・で・す・か! 僕が押したのは盾ですよ!? リウルには確かにお酒を飲ませてもらいましたけど今は関係ないです、ってさっきから僕のお腹を触ってる人は誰です!?」

 

 勿論女性冒険者たちは節度を保って、イヨが本気では怒らないギリギリのラインでセクハラをしている。けれど、彼女らはわざわざ言葉使いをきゃぴきゃぴした女の子風に変える程イヨ弄りに熱が入っていた。理由はイヨが律儀に反応と反論をし続けるからだ。やはり良い反応が返ってくると弄び甲斐が増すのである。

 

「おい、もういいよ。離してやれって」

「ん。よし、開放!」

 

 人垣が一斉に割れ、中からどちゃっとイヨが排出された。息が切れており、傍目から見ても疲労しているのが分かる。というか戦っていた時よりも明らかに疲れている様だ。

 

 年上の女性達からよってたかって玩具にされるのは普通に考えてかなり辛い。肉体的圧迫に加えて猥談や逆セクハラの雨嵐となれば相当である。二十九レベルと云う英雄の端くれ並の頑強さを持つイヨでさえ無事ではすまない苛烈な試練であったのだ。

 

「おいイヨ、支度しろよ。組合に行って【スパエラ】への加入を申請するぞ。多分今なら本人たちがいるし、結構な確率で即日合格だろ」

「だからなんでですかぁ!」

 

 イヨは泣きそうである。実際、目に涙を溜めている。さっきまで仲間だと言ってくれていたのに、もう追い出されようとしている『悪いことなんか何もしてないです、捨てないで』と目で訴えかけてくる。

 イヨからすれば、褒められるのが嬉しくて頑張っていたらポイされそうになっているという状況である。理不尽過ぎると思ったわけだ。

 

「バルドルさん! 僕の事をチームに誘ってくれたじゃないですか! 教えてくれるって、強くしてくれるって言ったじゃないですか……!」

「いやだってお前、現時点で十二分に強すぎるし……」

 

 うんうん、とその場にいた全冒険者が頷く。勿論その中には【ヒストリア】のメンバーの姿もある。

 

 実際問題、鉄クラスのチームである【ヒストリア】にアダマンタイト級の戦闘力を持ったイヨが混じるのは無理がある。イヨ以外のメンバー全員を足して合わせた分より、イヨ一人の戦力の方が何倍も大きいのだ。

 

 突発的遭遇を別とすれば、鉄クラスの冒険者が受けられる仕事で出現するモンスターなどはたかが知れている。弱い部類の亜人種や巨大昆虫系、ウルフに魔狼、低位アンデッド位だ。

 

 その程度の奴らを相手にする上で、イヨの戦力は明らかに過剰である。

 

 そんな戦力差のあり過ぎる戦いにおいて、弱い【ヒストリア】の面々はやる事が無くなってしまう。効率や安全性を考えれば、イヨがイジメ同然の実力差で雑魚を蹴散らしている間、後方で守りを固めて周囲を警戒しながら応援でもしているしかない。

 

 勿論そんな歪な役割分担は正常な価値観を持っていれば即刻却下だ。彼らにだってプライドがある。

 

「今から説明するけどさ……」

 

 イヨが【ヒストリア】の一員である事が、お互いにとってのマイナスにしかならないのは確かなのだ。実力差のあり過ぎる仲間は対等ではいられない。周囲も対等として見てはくれず、扱われもしない。

 一見銅プレートの新人が混じった鉄クラスの冒険者チームであっても、イヨの実力が知れ渡れば、その実態はアダマンタイト級の子供一人におんぶにだっこの連中としか思われない。イヨが持てる力を使って一生懸命に仕事に励めば、自然とそうなってしまうのだから。

 

 【ヒストリア】の面々は大いに馬鹿にされるし、思い切り後ろ指を指されることになるだろう。噂が広まれば、組合の方からチームの在り方として良くないと注意勧告が来る筈だ。

 

 イヨも良くない扱いを受ける。自分よりずっと弱い連中を守ってやって内心馬鹿にしているに違いないとか、雑魚を率いてお山の大将をやってる性格の歪んだガキだとか言われるだろう。

 

 【ヒストリア】と一緒に居る限り、イヨはその実力の一片さえも使わずに終わる簡単な仕事しか受けられない。【ヒストリア】はイヨと共に居る限り、戦闘の大部分をイヨ任せにする事になる。たとえ本人たちにその気持ちが無くとも、そうならずに済む事は無い。ただ圧倒的な実力差故に。

 

「で、でも……僕は新人だし、順序立てて上に登っていかないと、やっぱり反感を受けます。一人で冒険者をやっていくことは出来ないから、どうしても誰かと組まなきゃいけない。どちらにしても反感を買うなら、普通に順番に……あ、でも【ヒストリア】のみんなも悪く言われるから僕だけの問題じゃなくて、えっと──」

「あー待て待て、まだ話は続くんだよ」

 

 イヨは強い。圧倒的に、余人の追随を許さないほどに。

 その強さは具体的にどれ程なのか? 

 

 今この場でイヨと戦った者の中で一番の強者は、元白金級冒険者である宿屋の主人だ。騒ぎに釣られて飛び入り参加した彼曰く、周辺国家最強の戦士として名高いガゼフ・ストロノーフに勝るとも劣らないのではないか、と云うほどの力量をイヨは持つらしい。

 

 リ・エスティーゼ王国戦士長ガゼフ・ストロノーフ。それは兵士ならずとも戦いに生きる者ならば誰もがその名を知る超級の戦士だ。

 

 御前試合にて優勝してランポッサⅢ世に召し抱えられ、新たに創設された戦士団の長となった、リ・エスティーゼ王国に伝わる五宝物、その内現存する四つを装備する事を許された人物だ。

 疲労しなくなる活力の小手、常時癒しを得る不滅の護符、致命の一撃を避ける守護の鎧、鎧すらもバターの様に切り裂く剃刀の刃と云う、これまた超級の武具をだ。

 この四つを装備したガゼフの力は正に一騎当千の名に相応しく、単身にて一千の兵に相当するとの評もあるほどの規格外の強者だ。

 

 戦士と拳士を同等のラインで比較するのは非常に難しい。その上装備の差もある。その辺りの事を考慮しても、イヨの単純な力量はガゼフと同等ではないかと宿の主人は言う。

 

 そう、イヨはガゼフ・ストロノーフに匹敵する強者。

 

 『転移の罠によって遠い他国からある日突然降って湧いた、無所属のガゼフ級拳士』なのだ。

 誰が放っておくだろうか、そんな存在を。あらゆる国家・権力・宗教と何の関わりも因縁も無い、国家級の戦力を。強いだけで幼く単純な、騙しやすい事この上ない少年を。

 

 ガゼフ・ストロノーフは、戦場の只中にてバハルス帝国皇帝ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスから直々に自らに仕えよとの勧誘を受けたらしい。

 一国の皇帝自らが戦場に出て直接声を掛けたのだ。そこまでして欲しいと思わせるだけの魅力を放っているのだ、イヨやガゼフといった実力者は。

 

 イヨの存在はあっという間に広がる。今日の午前中だけで数十人の冒険者にその強さは知れ渡った。一週間で公都中に、一か月で公国中に、一年で国家間に広がるだろう。

 イヨを、イヨの強さを欲しがる連中は星の数ほど湧いて出る筈だ。そこらの貴族家や大商人ならいざ知らず、国家や非合法の組織すらもなりふり構わず確保しようとするかもしれない。

 

 イヨ・シノンはそれに抗えるだろうか? 

 

 否。まず間違いなく否だ。

 『途轍もなく可憐で純真で、恐ろしく単純で素直で幼い少年』は、それらに対して抗うという発想すら浮かぶまい。国家間の争いごとに不干渉だという冒険者である事すら問題にならない。所詮は昨日今日なったばかり銅プレートだし、辞めてさえしまえば止めるものは無くなる。

 

 イヨは迂闊だ。【ヒストリア】の面々との親睦を深める途上で、聞かれてもいないのに自分の素性を話してしまうほどの、浮世離れした感性をしている。『イヨ・シノンがどういった人間か』は直ぐに衆目の知る所となる。

 

 善人の仮面を被った人間が懇切丁寧に礼儀正しく『とても困っているのです。あなたにしか出来ない事なのです。あなたならば多くの人命と財産を守れるのです』と泣きながら訴えでもすれば、イヨはまず間違いなく頷くだろう。持ち前の純真さでもって。

 

 そんな時、イヨの仲間として傍にいるのが【ヒストリア】であったなら、仲間として彼を助ける事が出来るだろうか? 騙されているぞと気付かせることが出来るだろうか? 

 

 これも否。たかだか鉄プレートに過ぎない【ヒストリア】など手助けにはならない。むしろ『冒険の最中に起きた不慮の事故』によって全滅するなり人質に取られるなりで、イヨの心を揺さぶる良い材料になりかねない。

 

 だからイヨが冒険者を続けて行くのなら、一刻も早く実力の近い仲間を得なければならないのだ。冒険者としてイヨを教え導き、イヨと対等の活躍が出来る者たちが。イヨとお互いを高め合っていける者たち、イヨと共にアダマンタイトになれる実力者が。

 

 イヨは『無所属のガゼフ級拳士』としてではなく、『アダマンタイト級冒険者』として有名にならねばならないのだ。

 

「み、みなさんそこまで考えて、僕の事を……」

「いや、まあな。お前みたいな危なっかしい子供の事を見捨てるのは」

「流石に良心が痛むんだわ。近頃十歳のガキでもここまで単純じゃねえしな」

「ああ、こんなガキっぽいガキは久しぶりに見た」

「本当、どんな育ち方したらここまで子供のまま生きてこれるのかしらね」

「な、なんか貶してませんかっ!?」

「良い子だなぁ、可愛いなぁって褒めてるんだよ。喜びなって! 」

「あ、そうなんですか? えへへ」

 

 マジで喜んだよコイツ……! とイヨ以外の誰もが戦慄した。これだから一人で表を歩かせる事すら躊躇われるなどと言われたりするのだ。今日会ったばかりの人間に。

 

 また、冒険者たちは意図的に説明を省いているが、イヨを高位の冒険者チームに突っ込むことか、イヨ自身により上にプレートを持たせることに拘っている理由は、勿論善意だけでは無い。

 

 それは、公国内には二十年近くアダマンタイト級が不在であるという理由に端を発する、ある風評からの脱却を願っての事だ。

 

 王国や帝国の冒険者などではアダマンタイト級が一チームもいない公国冒険者を『総じて程度が低い』『弱くて役に立たない』となどと下に見る動きが一部であるのだ。

 

 良識がある人物はそんな事は言わないが、冒険者たちの共通の話題である強者語りでは、

 

『やっぱ王国なら【青の薔薇】と【朱の雫】だろ。アダマンタイトはやっぱり別格だよ。冒険者以外ならガゼフ・ストロノーフだな』

『帝国のアダマンタイトはなんかなぁ。【漣八連】も【銀糸鳥】もそりゃ強いは強いけど、不可能を可能にする最強の存在って言うとなぁ? ま、帝国にはフールーダ・パラダインがいるしな』

『おいおい、贅沢言ってんなよ。公国なんかアダマンタイト級が一チームもいないんだぜ? 国家に所属する人間で飛び抜けて強い奴の話も聞かないしさぁ』

『【スパエラ】? だっけ? あと少しでアダマンタイト級に昇格するって一年くらい前から言われてる奴ら? あいつらもいまいちぱっとしないしねぇ』

『ま、公国なんてそんなもんだよ。国自体が小さくて冒険者も絶対数的には少ない。仕方ないんじゃないか? 国ぐるみで帝国の臣下をやってる様な連中だからな』

 

 この扱いである。

 

 その上、最近では国が躍進して栄え、それに伴って冒険者が引っ張りだこな公国冒険者に対するやっかみも入って、嫌みがきつくなってきているのだ。

 

 ──イヨがオリハルコン級のチームに入ってアダマンタイト級に上がれば、長かった公国のアダマンタイト不在の時代が終わる。

 

 冒険者たちの頭の中の四割を占めるのはこれである。卑怯だとか何だなどと言ってはいられない。それ程風当たりが強いのだ。他国の冒険者と一緒に仕事をする度にあれこれ言われるのはもう真っ平なのである。

 冒険者は国家に属している訳では無いのだ。如何に他国人だろうと公国で登録して公国で活動していれば、公国の冒険者と言えよう。文句は言わせない。

 

 だからこそイヨには早く上に上がって貰いたい。辛く惨めな時間は短ければ短いほど良い。幸いにして実力だけは確かなのだ。実力さえあれば実績を積み上げて、五月蠅い連中を黙らせることが出来る。イヨが。

 

「──行くぞ、イヨ! 目指すは冒険者組合だ!」

「は、はい! 皆さんの想いに応えて見せます!」

 

 そんな気など欠片も知らず、イヨは決意の足並みで進んでいく。六割の善意と思いやり、四割の打算と計算を背負って。

 




捏造設定:武技〈武術歩法〉。流水加速の踏み込み時限定版。モンク系武技。強い人は〈流水加速〉と重ねて使うが、シバドはまだ出来ない。
〈拳撃〉は〈斬撃〉と一緒。より強い一撃を放つ。拳か剣かだけが違う。

イヨ、強すぎてお断りされるの巻。

ガゼフ・ストロノーフ級のお子様(超チョロい・実力を隠す気皆無)がふらふらその辺歩いてるとか、どんな事態に巻き込まれても自業自得ですわ。カモですもの。

みんな良い人たちばっかりで良かったね。事と次第によっては下手すれば知らぬ間に闇の組織の一員とか、大公にとっつかまって帝国に献上(イヨ的には出向)されてたよ。
んでもって持ってるアイテムをほいほい渡して古田さんに捕まる。

「おおおおおおお! 第七位階の魔法が込められた短杖!? こ、こっちは第八位階のスクロール!? ももも、もっと何かないのか、魔法の深淵が込められたアイテムは!?」
「え、えっと、あとはこのアイテムとか、あ、これなんかは第七位階の死者召喚ですね、死の騎士を召喚する奴。あと、僕は使えないんですけど、第十位階を超えた超位魔法とかがあって」
「詳しく! 一片も余すことなく全てを話してくれ! あああ、君が語るその全てが深淵を照らす光だ……! 君はもしや魔法を司る小神が私に遣わしてくれた天使では……!?」
「えっ。……いや、まあ、喜んでくれて嬉しいです。天使じゃないですけど」



「じいがイヨ・シノンと魔法省に閉じこもったまま出てこない……謀略とかに穴が……」

(結果的に)ジルクニフ君、不幸! でもこれでじいの魔法は更に飛躍するね! 良かったね、未来でアインズ様に対抗()出来るかもよ!? 



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公都:面接申し込み

 公都の冒険者組合で働いている名物受付嬢、パールス・プリスウは、今日も今日とて頑張ってお仕事に勤しんでいた。本人的には至極真面目に一生懸命なのだが、今まで積み上げた輝かしい実績の数々の所為か、一挙手一投足にはらはらされがちである。

 

「ちょっとあんた、今その書類に同じハンコを二回押さなかった?」

「えっ。……大丈夫ですよ、ちゃんと正しい箇所に一回ですよ?」

「そう? ならいいんだけど……」

 

 信用されていない訳では無い。無いと思う。仕事は普通に任せられているし、処理能力に劣る訳でも無い。なのに如何にもチェックがキツイというか、信頼が条件付き染みている気がした。その条件とは、一人っきりで繊細さや正確さが要求される仕事をさせない、と云う物だ。

 

 冒険者の方たちなどはもっと酷い。依頼票の誤字精査や正誤を他の受付嬢に見てもらう位はパールスの目の前で平然とやってのける人がいる。

 

 曰く『君はちょっと抜けてる。しかも自覚が薄い』だとか。

 

 そう言う人に限ってパールスの事をまるで小さな子供の如く扱うのである。パーちゃんやスウちゃん等と気の抜ける仇名で呼ばわるほどだ。

 パールスはこう見えて十九であり、大人の女性である。子供の時分から冒険者組合で細々とした下働きをこなし、成人を期に受付嬢を任されている。身長は成人する少し前から伸びていないが、身体と中身はしっかり成長している。足りないのは身長だけだ。他の部分は全て大人の女に相応しいボリュームを備えている。

 

 自分が子供扱いされがちなのは全て身長の低さ故に違いないと、パールスが少々ズレた事を考えていた時である。冒険者組合の玄関が開かれ、一人の小さな人影が入ってきた。

 白金の三つ編みが歩みに合わせて尻尾の様に揺れている。金の瞳が気持ちキッっとしていて、なんだか子供なりに決意の表情である。パールスはその可憐な少女の如き容姿の人物に見覚えがあった。昨日冒険者組合を訪ねて来た少年である。

 

「あ、イヨちゃんだ」

「あんたね、友達じゃないんだから……」

「先輩、あの子あれで男の子なんですって。信じられます?」

「はぁ? あのね、人には色々と事情ってモノがあるのよ。本人がそう言ってるんだったら建前上でもそう扱うの。組合が冒険者と認めた以上はね」

 

 先輩受付嬢はなにか理由があってそんなあからさまな嘘をついているのだと思っているらしい。ならばそれを酌んで、そう扱うべきだと。

 本当に男だという現実は、どうやら可能性としてすら頭に浮かんでいない様だ。

 

 ──んー? でも本人は本当に男だって言ってるんだよね。書状にもそう書いてあったし……でも見た目は完全に女の子だよね。どっちなんだろ?

 

 パールスはちょっと悩んで、性別を区別せず『可愛い子供』として判断する事に脳内で決定した。イヨが十六歳だという事実は、彼女の頭からすっぽり抜け落ちている。

 

「あれあれあれ?」

 

 てっきりプレートを受け取りに真っ直ぐパールスの所に来るかと思えば、イヨは途中から鉄プレートの男性冒険者に引っ張られ、掲示板の方へ方向を転換した。依頼が貼ってある掲示板では無く、その横にある比較的小さな掲示板の方である。各チームがメンバー募集の広告を張ったり、組合の告知などが張り出されたりする連絡掲示板だ。

 

 よくよく見れば、イヨの周りには十人近い冒険者が付いて歩いている。偶然一緒のタイミングで来たのかと思えば、何やらイヨの付き添いの様な雰囲気だ。銅から銀位までの冒険者チームのリーダーたちであり、パールスも知っている顔ばかりだった。

 

 連絡掲示板が小さいと云ってもそれは依頼票が貼られる掲示板と比較しての話だ。小柄なイヨと比較すれば身長より遥かに高く、横幅も大きい。

 

 彼ら彼女らは身長が足りないせいでに全体を見渡せていないイヨに変わって、なにやら特定の掲示物を探している様だ。やがて見つかったのか、やはり小さいせいで手が届かないイヨに代わって、それを取ってあげている。

 

「……あの子、冒険者やって行けるのかしら?」

「え、でも強いらしいですよ? 書状に書いてありました」

「ひ弱そうな感じこそしないけど……本当に子供じゃないの。しかも女の子よ?」

 

 男である。十六歳である。公国の定めた法で云えば、立派な成人男性である。

 

 如何に外見が日向で和む猫の如き飼い慣らされた愛玩動物感を醸し出していようと、その一挙手一投足は岩をも砕き鋼を両断するのである。転移前の篠田伊代の身体ですら、その気になれば素手で鉄板を折り曲げただろう。

 スペックだけを抜き出して考えれば、イヨは相当に屈強な男なのだ。例え道端で予兆なく暴漢に襲われたとしても、即時に回避と反撃を行えるだけの実力と精神性を培っている。

 

 生まれ持った可憐な容姿と育んだ稚気溢れる人格が、ひたすらにそれらを感じさせないだけで。

 

「何をしてるんでしょうね。プレート貰う前に仕事を受けることって出来ましたっけ? ん? 出来たとして、やる意味ありましたっけ?」

 

 先輩受付嬢からの返答は無かった。パールスが隣に視線を送ると、彼女は金級の冒険者パーティーと依頼の受理手続きの真っ最中であった。彼女は正面を向いて滞りなく仕事を遂行しながら、パールスに向かって『前を向け!』と手付きで合図してきた。

 

 あ、はい。とばかりに前を向くと、

 

「あれ、イヨちゃん」

「え? は、はい。イヨですけど……」

 

 受付嬢からの突然のちゃん付けであった。イヨは不可思議とびっくりが入り混じった器用な表情を浮かべている。周りの冒険者たちは、またかと言いたげな生暖かい視線を彼女に送ってきた。

 

 パールスの足がカウンターの下で横からコツンと蹴飛ばされる。無論蹴ったのは先輩受付嬢である。円滑に笑顔で仕事を進めながら上体を全くぶらす事無く蹴りを入れ、パールスに向かってだけ怒気を放つと云う熟練の離れ業を行使する彼女に、パールスの肌が恐怖で粟立つ。

 

「も、申し訳ございませんっ。少々気が抜けておりました。……プレートはもう出来ておりますので、今受け渡しを──」

「あ、いえ、その前にちょっと要件がありまして」

 

 先程よりも強く蹴りが入った。放たれる怒気は最早殺気と同等の鋭さでパールスを刺す。『真っ直ぐ来たらいい所をわざわざ連絡掲示板に寄ってから何か持ってきているのだから、そっちが先でしょう!』と肉体言語でパールスに伝えているのだろう。たかが一蹴りでそこまでの情報量を伝達しうるとは、控えめに言って神業だ。

 

 先輩受付嬢ことリリュー・ムーは、結婚を機に引退して冒険者組合の職員となった元ミスリル級冒険者である。未だに現役時代の八割近い強度の鍛錬を熟しているだけあって、その戦闘力は恐らく受付嬢界では最高位であろう、不死殺しの異名を取った対アンデッド戦の名手だ。

 

 如何にパールスが自覚無しに鈍いとはいえ、流石にこれ以上の粗相は不味いと、心の中で深呼吸。

 少年がおずおずと手渡してきた通知に眼を通し、

 

「……こちらの掲示物が如何かいたしましたか?」

 

 少年が持って来たのは、公国内最高峰のオリハルコン級冒険者チームのメンバー募集要項が記載されたものだった。少年の意図が読めず、パールスは彼の周囲に控えた冒険者たちに目線をやるが、何やら口を出したいのを堪えている様な表情を浮かべている。

 

 パールスは真剣に疑問だった。書類に不備でもあって、親切心から持ってきてくれたのだろうか──あれでも最初からこれを探していたような素振りだったし? 等と思っていると、

 

「メンバーを募集していると伺ったもので、僕が──立候補? 志願? したいのですけど、【スパエラ】の皆さんは今は組合にいらっしゃると聞きましたので、宜しければ案内していただけないかと」

 

 ああ成程、とパールスは一人納得する。成り立ての新人さんだから、クラスやランク関係の事が良く分かっていないのだろうな、と。

 その辺りの事は昨日説明したのだが、一回では把握出来なかったのだろう。まだまだ遊びたい盛りの子供なのだから仕方が無い。自分もこの頃はそうだったものだ。

 

 そう思うと、パールスは急にこの少年に親近感が湧いてくる。同類の臭いがするというか、お友達になれそうな感じの子である。そう言えば身長も同じ位だ。

 

 此処は一つ、お姉さんが小さな親切をしてあげようと決め、

 

「えっとですね。イヨさんはですね、昨日登録したばかりなので、いきなりオリハルコン級のチームに、というのは無理かと。宜しければ私の方で銅か鉄プレートのチームを何件か」

「いえ、分かってます。僕は横紙破りを承知の上で、オリハルコン級のチームに入れて頂きたく参りました」

「ふえ?」

 

 漸く其処まで話が進んだかと、控えていた冒険者たちは揃って一歩前に出た。

 

「俺達は合同で、イヨの飛び級措置を組合に求めに来たんだ。今いるのは各チームの代表だけだが、他の面子も同意してくれてるぜ」

「この子の力は本物よ。実力だけなら今すぐにでもアダマンタイトを名乗れると保証しよう」

「前例は無いかも知れないが、門前払いせずに【スパエラ】と引き合わせてくれたら十分だよ。最悪後で直接会えば済む話だが、事後承諾じゃなく、組合認可の下でチーム入りさせてやりたいんでね」

「え……ええええええええ!?」

 

 素っ頓狂なパールスの悲鳴が一階ロビーに響き渡り、周囲の者たちは『またパールスが何かやらかしたのか』と慣れた様子でそれを聞き流していくのだった。

 

 

 

 

 組合長との会談の後、今後の活動についての話し合いを終えたリウル等は、だれた様子で愚痴っていた。話し合いの為に冒険者組合から借りた一室は、大きな机と十脚ほどの椅子の他は殆ど物が置かれていない殺風景な部屋だ。

 リウルは机に突っ伏し、他の二人は静かに座してその様子を見守っている。

 

「あーあー、どーすっかなー……」

「パーティーを組んでいないオリハルコン級の冒険者がその辺に落ちてる訳が無いしのう」

「また前みたいに、白金かミスリルの奴を鍛えるしかないだろう。暫くは仕事の難度を加減せねばならんが、致し方ない」

 

 公国内に三つしかないオリハルコン級冒険者チームの一角、実力では最もアダマンタイトに近いと噂される【スパエラ】は、昔から兎に角メンバーの入れ替わりが激しいチームだった。死亡や行方不明こそ少なかったものの、やれ引退だ結婚だと、何かにつけて仲間が去っていった。

 

 つい先日も、攻撃の要と支援の要が一気に抜けたばかりである。

 

 攻撃の要としてモンスターを切り裂いていた大剣使いの剣士は、故郷である帝国で道場を開きたいと言って帰郷してしまった。

 いやまあ、それ自体は良いのだ。

 彼は元より道場を開くための箔付けと武者修行の為に冒険者になったと公言していたし、何時かはチームを抜ける旨を常日頃から口にしていたから、来るべき時が悪いタイミングで来てしまっただけの話とも言える。

 

 しかし、支援の要である神官が時を同じくして脱退を打ち明けてきたのは不意打ちであった。

 

 話をよく聞くと、彼女は故郷の町に立派な神殿を建てる為に冒険者になったのだと言う。本人曰く白金級になった時点で目標金額には達していたらしいのだが、其処でなんとも聖職者らしい欲が湧いたのだとか。

 

 ──もう少しお金が溜まったら、神殿の隣に孤児院を構える事が出来る。

 ──もうちょっとだけお金があれば、神学を教える小さな私塾も建てられる。

 ──あとほんの少しだけ稼げば、大きな街から薬師や魔法詠唱者を招いて診療所を作る事も出来る。

 

 どう考えても少しとかちょっとで済まされる額では無いが、高位冒険者が一般人とは比較にならない金銭を稼ぐのは確かな事だから、努力次第で可能ではあったのだ。

 

 彼女の中の理想はどんどん膨らんでいき、結局当初の予定を超えて冒険者を続ける事となった。やがてミスリル級になり、気付けば欠員の出たオリハルコン級冒険者チームの新たな一員として活躍していた。

 

 節制と清貧を旨としていた彼女は私生活において全く浪費をせず、必要経費や消耗品代、チーム資金を差し引いた手取り額の殆どを貯金していた。そうして日々を過ごし、ある日ふと気付けば金庫には数えるのも怖いくらいの大金が貯まっていて、あまりの額に恐れをなしたのだと云う。

 辞めようと思いながらもアダマンタイトになるのだと意気込むリウルを見ては開きかけた口を閉じ、悶々としながらもずるずると時間は過ぎていき、本当にアダマンタイト級に手が届きかねない時までチームに居残り続けてしまったのだ。

 

『ミッツさんが国に帰ると仰った時、天啓だと思ったんです。この時を置いて他に打ち明けるタイミングは来ないと思って……今まで言い出せなくてすいませんでした!』

 

 こうして彼女はチームを抜け、故郷で夢を叶える事になった。五人での最後の仕事は、夢を実現する為に貯めた金銭と共に、彼女を故郷に無事送り届ける事だった。

 町の人々から笑顔と歓呼、測り切れない位の感謝で迎えられた彼女を見て、他の仲間たちは不覚にも涙腺が緩んだ。

 

 良い話である。仲間の夢が叶ったのだ、仲間として嬉しくない訳が無い。しかし、

 

「もっと早く言ってくれてたら良かったのによー」

「メリルは少々真面目過ぎる所があったからのう」

「控えめで遠慮しがちだったしな、良い子だったんだが」

 

 事前に言ってさえくれていたら、もっと前から次のメンバーを探す事も出来たというのに。別に、最初に言ってさえくれていたら何の文句も無かったのに。

 辞めるのは個人の自由でもあるから、事情があるなら仕方ない。しかし、その人物が熟していた仕事を後任に引き継ぐ都合上、最低でも一月前には申し出ていて欲しかった。前触れなく急に居なくなられるのは困るのである。高位の神官も腕の立つ戦士も、どこでも引く手数多だ。故に、代わりは中々見つからない。

 

「二人とも、誰かいい知り合いとかいねぇのか?」

 

 問いつつも、望みは薄いとリウルは理解していた。なにせメンバーの脱退が起こる度に投げかけて来た質問である。答えはいつも決まって同じなのだ。それでも問うてしまうのは、この現状をどうにかしたいという焦りからの足掻きである。

 

「儂はお前さんに工房から引っ張り出されるまで、引き籠って魔法の研究に打ち込んでおったのじゃ。知り合いなどおらんし、おっても儂以上の年寄りで根性曲がりばかりよ」

 

 役になど立たぬわい、と禿頭の老人は言い放つ。

 

 矢鱈と肌艶や血色が良く、皺が無ければ老人には見えない精気を感じる人物だった。長身の背筋は真っ直ぐに伸び、捻じれた杖を持つ腕には筋肉がしっかりと乗っている。服装や装備品は定型的な魔法詠唱者といった所だが、その肉体や外見は引退した元戦士かと思うほどに頑健そうだった。

 

 【スパエラ】の頭脳にして魔法火力担当、ベリガミニ・ヴィヴリオ・リソグラフィア・コディコスだ。長く複雑な名前の為、普段は爺やら爺さんと呼ばれているチームの最年長者である。

 

「知り合いは多いが、オリハルコン級チームのメンバーとして付いてこれそうな人物は殆どいないな。実力的に適任な数少ない連中も、自分のチームがあったり仕える家があったりだ」

 

 誘ってみても多分乗って来ないだろう、と巌の如き巨漢は首を振った。

 

 兎に角巨大な人物であった。身長は二メートルを楽々上回っているし、鍛えあげた分厚い筋肉で縦にも横にも常人離れして大きく太い。体重は百キログラムを遥かに超えて二百キログラムにも迫るか、もしくは上回っているのではないだろうか。そんな巨大な身体を全身甲冑が包み込んでいる為、ただそこにいるだけで圧迫感と威圧感を発している。壁に立てかけたタワーシールドや複数種類の武器を構えた彼と相対した場合、不破の城壁と対面した様な気分になるだろう。

 

 【スパエラ】の防御と統率を担当する重戦士、ガルデンバルド・デイル・リブドラッド。外見に反してお茶目な所もあり、チームのムードメイカーだ。仲間からはバルドと呼ばれている。

 

「リウルこそ誰かおらんのか? 心当たりは」

「一人もいねぇよ。いっそ副組合長でも勧誘するか?」

「はは、元アダマンタイトだからな。現在でも俺達に勝るとも劣らない力量だろうが、流石にご老体を引っ張ってくるの組合長が許さんだろう」

 

 英雄の領域に達した二人の剣士が率いた公国最後のアダマンタイト級冒険者チーム【剛鋭の三剣】の最後の生き残り、そして現在の公都冒険者組合副組合長。彼は奇刃変刃の異名で知られた二刀の軽戦士だ。既に六十も半ばを過ぎた老齢だが、その実力は未だ高位冒険者に匹敵するとされる。

 

 彼と云う前例がある為、公国の冒険者組合には多くの元冒険者がいて、より冒険者に親身になって寄り添う事が出来ている。甘ったれた事を言っていると尻を蹴飛ばされて鍛えなおされたりもするが。

 

「白金とかミスリルの奴を鍛えるって言っても、そもそもそいつらだって数が少ないんだよな。尚且つチームを組んでなくて、俺達と組むのには前向きで、伸びしろが有りそうな奴っているか?」

「まあ、そう簡単には見つからぬじゃろう。今までは比較的短期間で見つかっておったが、全体数から考えれば信じられぬ位の強運だったとしか言えぬ」

「三人でも簡単な仕事なら出来なくも無いが、安定性を欠くからな。人員の補充が出来るまでは大人しくしていた方が良いだろう」

 

 現在残ったメンバーである三人だけでオリハルコン級チームとして活動するのは、かなり厳しいものがある。

 

 今いるのは盗賊にして斥候であるリウル、魔力系魔法詠唱ベリガミニ、防御型重戦士のバルド。一見前衛中衛後衛がそれぞれ一人ずつで、人数が少ないながらもバランス自体は取れている様にも見える。しかし、実際にこのメンツで仕事を受けると考えると不安定な事この上ない。

 

 人間より遥かに強大なモンスター達と戦う上で最も重要なのは、多様で効率的な戦い方だ。エレメンタル系等の非実体モンスターと戦う時には魔法やマジックアイテムの力を用い、アンデッドを倒す時は打撃武器や信仰系魔法、炎を用いる。強い肉体を持ったモンスターを罠に嵌めて有利な状態を作り出す。

 

 時には後衛が魔法で前衛を支援し、また逆に前衛が自慢の技で後衛を生かす。中衛が両者を臨機応変に助ける。そうした連携と多種多様の手段でもって相手を倒すのが冒険者の戦い方である。

 

 人数が少ないという事はそれだけで一人ひとりの負担が増し、取れるパターンが減り、他者を援護する余裕がなくなるという事だ。勿論余りにも大人数での戦いとなるとそれはそれで弊害が出てくるのだが、今は置いておく。

 

 バルドは防御型の重戦士だ。守りに特化した構成をしている為、守勢に回る分には並のアダマンタイト級を上回る活躍が出来るが、その分攻撃はあまり優れていない。最も持続性が高い直接的な物理力による相手へのダメージが減る以上、それをカバーするために中衛と後衛が奮戦せねばならなくなる。

 

 だが、中衛であるリウルは盗賊であり斥候だ。接敵以前の警戒や探索で真価を発揮する職業を主とする以上、正面切っての戦闘では各員の補助と支援が主な役回りとなり、火力的にはそこまで期待できない。負担の多くは後衛に流れる。

 

 後衛であるベリガミニの魔法は強力無比。火球や雷撃の魔法は大抵の敵を葬る事が出来るだろう。しかし魔法の出番は戦闘だけではなく、行使する度に魔力を消費し、消耗の度合いによっては体調の悪化さえ伴う。そして一度魔力を使い切ればもう何も出来ない。時間経過によって魔力が回復するまで、戦力がほぼ零近くにまで落ちる。魔法詠唱者は瞬間的には戦士を遥かに上回る火力を投射可能だが、持続性が余りに無さすぎるのだ。

 

 負担が増した前衛を助けるために後衛の負担が増し、負担が増したせいで速くバテてしまった後衛をカバーするために前衛と中衛の負担が増し、負担の増したたった一人ずつの前衛と中衛をカバーできる者は一人もいないという悪夢の無限螺旋の如き惨状の出来上がりである。

 

 バルドとベリガミニのタレント【生まれながらの異能】は強力だが、決定してしまった不利を覆せるようなものでは無い。希少で有用には違いないが、持っていない他の者に比べれば戦いで有利だと云う、行ってしまえばそれだけの異能だ。

 

 こうなってしまった冒険者は、肉体的に強大なモンスターに磨り潰されるしかない。

 

 回復役である信仰系魔法詠唱者がいないのも不味い。それだけで冒険の危険度は一段どころか二段も三段も増す。単純明快な事実として、戦えば傷付き、その傷を癒せねば弱り、弱ったまま次の戦いに挑めば死ぬのである。

 ポーションや治癒の魔法が込められた巻物で補う事も出来るが、金銭的にも手間的にもベストとは言い辛い。やはり専門家が欲しい。

 

 当座に必要なのは、バルドが引き付けた敵に止めを入れる前衛の攻撃役と、後衛で回復や支援を熟す魔法詠唱者。欲を言えばもう一人、状況に応じて攻撃と支援を兼ねる中衛がいれば安定感が増す。

 前衛後衛中衛が二人ずつの六人チームだ。層が厚く、前衛同士後衛同士でも助け合ってやっていければ最上である。

 

 勿論理想的にであって、これから入る面子の力量や職業次第で幾らでも変わり得る理想なのだが。

 

「儂が言えた事ではないが、リウルはもう少し人と交流すべきじゃな。年端もいかぬ女子を寝台に引きずり込んでいる暇があったらな」

「爺さん、なんと驚く事にあの子は男らしいぞ? つまりは同性愛じゃなくて異性愛だ」

「何という事じゃ、儂らを冒険者の道に引きずり込んだリウルが寿引退か」

「なんだかんだでこの三人だけは変わらなかったのになぁ。まあしょうがないさ。仲間の幸せを祈ってやろうじゃないか」

「老けるより先に死亡で引退したいのかクソ爺ども」

 

 このネタで向こう三年は弄られ続けるのではないだろうかと、リウルは般若の如き顔で二人を睨み付けながらそんなことを思った。

 仲間二人の急な脱退が続いていらだっていた時だったのだ、イヨに出会ったのは。普段だったら特に注視せずにスルーしただろうが、半ば八つ当たりの様な気持ちで睨みつけてしまった。

 

 ──自分と一緒にいる所を大勢の人に見られた訳だから、多分絡まれたりすることは無いだろう。しかし、あのお子様が果たして冒険者としてやって行けているだろうか? 

 

 彼女らしくも無く一瞬心配するが、誰にでも懐いて結果的に上手いこと事を運びそうだな、と心配は霧散した。

 

 問題は何も解決はしていないが、仲間内で軽いやり取りを交わして雰囲気だけは良くなった。そんな時だ、控えめにドアを叩く音がしたのは。

 

「どうぞー」

「失礼します……」

 

 何故だか青い顔で入ってきたのは、名物受付嬢のパールスであった。ただでさえちまっこい身長をしている彼女がうなだれ気味になると、そのまま溶けて消えるのではないかと心配になる位に陰鬱そうな見た目になる。

 まあ、その外見を心配して気を使ってやると、内心そこまで萎れている訳では無いので結果的に損をした気分になるのだが。

 

「あの~皆さんのチームへ入りたいと仰る人がいましてですね?」

「ほう」

 

 リウルが姿勢を正し、三人ともが話を聞く体勢に入る。広告を掲げたその日に申し込みがあるとは幸先が良い。

 

「えーっとー、それで、皆さんにお会いしたいと」

「なんか妙に歯切れが悪いな、言い辛い事でもあるのか?」

「銅のプレート、それも昨日登録手続きをしたばかりの方なんですが……」

 

 リウルは一瞬渋面を作りかけるが、直ぐに思い直す。

 

 何も銅プレートである事が弱い事に直結するかと云うとそうでは無い。レアケースだが、騎士団や傭兵などで経験を積んだ強者などでも、成り立てならば大体一律で銅なのだから。

 実際こうして組合が自分たちの所に話を通している所を鑑みると、その可能性はかなり高いと見える。

 

「なんでも他国から来たばかりで、元は探検家を営んでいらしたとか。国内で登録以前にこなした仕事の実績などを書状で頂きましたし、複数の冒険者チームの方々がこぞって推薦を」

「ほほう、大したものじゃな」

「その実績の内容と、推薦している者たちの名は?」

「えっと、護衛として雇われて、数十のゴブリンやオーガ、それにトロールをほぼ単身で撃破しているそうです。まるで危なげなく、圧倒的であったと記してありました。推薦の方々は【ヒストリア】のバルドルさん、【独眼の大蛇】のレラーナさん、【ディバイン・フォース】のカルレさん──」

 

 俄かな期待で三人の目が輝く。実績の方が本当ならば大したものだ。後衛でも前衛でも合格点と云える。複数の冒険者チームの推薦などもかなり期待できる。パールスが告げた名前は銅から銀のチームとその代表の名だが、殆どは経験と実績のある者達ばかりだ。現在は銅や銀でも、これからの修練によって更に上に進めるだろう可能性が有る面子である。

 

 三人でアイコンタクトを取り、会ってもよさそうだと合意する。代表としてリウルが口を開き、

 

「いいぜ、会おう。案内してくれ」

「は、はい。了解しました~」

 

 そうしてパールスに先導されて案内される【スパエラ】の面々。その顔には隠し切れない期待が見え隠れしている。

 本当に傑物であったら良いのだが、冒険者に求められるのは強さだけではない。

 強さと同じ位に、仲間として信頼できる人格も求められるのだ。糞野郎としか思えないような輩はいくら強くても御免である。信頼も信用も出来ないし、チームワークを損なう。

 その点、前の仲間であるミッツとメリルは良い奴だったのだ。ミッツは竹を割ったような性格ながらも少し強情だったが、思いやりのある憎めない男だった。メリルは少し遠慮しいな所もあったが、やる時はやる意志の強さも併せ持っていた。

 

 これから会う奴が、あいつらと同じ位の良い仲間になれる奴だったらいい。そう期待しながらも、こんな少しの時間で新たな仲間が見つかるなど都合が良すぎるとも思っている。

 だが今回は多くの冒険者からの推薦を得た人物という事で、期待が勝っている。昨日登録をしたばかりの新参が、仮にもオリハルコン級冒険者チームへの推薦を得ているのだ。少なくとも性格や人格の部分は大丈夫だろう。

 無論猫を被っている可能性もあるが、冒険者たちの眼はそこまで節穴では無い。可能性として排除し切るまでは行かずとも、ごく低確率と思って良かろう。

 

「そやつはどんな面構えをしておった?」

「えっと、とても可愛らしかったですよ。何だか飼い慣らされた猫みたいな感じで」

「へえ、女性か? 歳は?」

「そうとしか思えないんですけど、男の子らしいんですよねぇ。十六だって言ってました」

「……んん?」

 

 親爺二人は何やら若いな、子供じゃないか等と話しているが、リウルの脳裏に引っかかるものがあった。

 

 可愛らしく、飼い慣らされた猫の様な雰囲気。

 女性にしか見えない外見で、十六歳の男。

 

 そんな奴と昨日知り合ったような。もっと言うと、変な意味では無く一夜を共にしたような。

 

「……そいつさ、すっげえ純粋かつ単純そうな見た目で、詐欺師に騙されそうな感じじゃなかったか? 年の割に幼い容姿で能天気っぽい」

「あ、良く分かりましたね、その通りですよ!」

 

 そんな話をしている内に、目的地に到着していた。パールスがやり取りを交わしてドアを開けると──其処にいたのは複数人の男女、知った顔ばかりだ。推薦者たちだろう。そしてそんな連中の前にいる、一人の可憐な顔付きの少女、にしか見えない少年。

 

「あ、あの! 僕、イヨ・シノンと言います! 皆さんのチームに是非とも加入させていただきたく思いまして、参上いたしました!」

「──やっぱりお前か、イヨ」

 

 向こう三年どころか、現役でいる限りは一生揶揄われ続けるかもしれない。緊張した様子のイヨを見て、リウルはそう思った。




いやはや進まない進まない。執筆も展開も全く進まない。

今回で面接の会話部分まで終わらせる予定だったのですが、やっぱり短く出来ませんでした。書く事と書かない事の取捨選択が出来ないのですね。文章力にも欠けるから、分かり易くて簡潔な文章が書けず、結果長々と書くしかない。力量不足を痛感です。


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公都:面接

「ふむ……本業は五体を武器に戦う前衛、モンクだと思っていいわけか?」

「すいません、僕はモンクとは系統が違うんです。気功などは出来ません。殴るだけです」

「ほう。世間一般に知れておるモンクとは系統の違う拳士とは、珍しいのう。具体的にどのように違うのか、もう少し詳しく説明してもらっても良いかな?」

 

 面接は概ね恙なく進んでいた。

 

 各チームの代表者たちから話を聞いて、今は暫定所属チームのリーダーであるバルドル以外は下がって貰っている。彼らはパールスに先導されて、組合にイヨの特例昇級措置を訴えに行った。何分急な話だから、こちらの面接が済む前に訴えに対する結論が出る事は無いだろう。

 

 バルドルは保護者的な立ち場の人間として面接に参加していた。一応イヨの力量に関しては了解し、今はもう少し細かい質問を重ねて、答え方から人格を見る段階に入っている。

 

 リウルとイヨの間柄に付いてバルドとベリガミニの二人も、流石にチームの今後に関わるこの時に弄くり回す気は無いようだった。採用にしろ不採用にしろ、後で間違いなくなんだかんだと言われるだろうが。

 

 しかし、まさかイヨが其処まで飛び抜けた力を持っていたとは。冒険者たちが語ったイヨの力は信じがたいものだった。実戦とは違うとはいえ、一人で数十人の相手をして屈しないとは、桁違いの一言に尽きる。

 

 イヨ一人で訪ねて来ていたら絶対に信じなかった自信がある。それ位非現実的である。何処の誰がこのお子様以上にお子様な十六歳が事実強いなどと云う話を信じるものか。

 まだ魔法詠唱者として優秀とかだったら信じる可能性もあっただろうが、前衛として強いなど、百人いたら九十八人が信じないレベルである。

 信じた二人の内一人はイヨの身体を狙う変態で、もう一人は孫と同一視した婆さん位だろう。

 

『僕は強いんですよ!』

『そ、そうなのかい? ちょっとあっちの方で実演してみてくれないかなぁ、お嬢ちゃん。うへへ』

 

『僕は強いんですよ!』

『そうなのかい? 小さいのに偉いねぇ。よしよし』

 

 脳裏でリアルな光景を想像してしまい、リウルは吹き出しかけた。お似合い過ぎる。

 

「なので、戦士並の重装甲を装備する事も出来て──リウル、どうかした?」

「ん、んん! 何でもねぇよ。で、お前はその重装備を何処に置いてきたんだ? 宿の部屋に入って来た時から手ぶらだったけどよ」

 

 イヨとリウルは昨日と同じくため口だが、イヨが最初に特別扱いはしないでほしいと明言している為、あくまで能力面人格面を鑑みて、純粋に仲間足り得るかどうかを審査している。まあ、元よりリウルにイヨを贔屓する気は一欠片だに存在しないが、口に出して周知の事実にする事そのものにも意味はある。

 

「イヨ、お前、俺らと手合わせした時も最初から最後まで無手だったよな?」

「僕の武器って毒がありますから、練習で使う訳にはいかなくて。しまってあるんですよ」

「何処にだ?」

「えっと──」

 

 イヨは何やら虚空へと手を伸ばすと──その手首から先が宙に消えた。

 

「……は?」

 

 驚愕と不可解で空気が凍った。冒険者たちが揃って腰を浮かして身を固め、見ている光景を理解しようと頭を回す。アレは何だと心中で疑問を叫ぶ。

 何らかの魔法か、マジックアイテムか、それともタレント【生まれながらの異能】? 

 

 そんな緊張感あふれる面々を他所に、イヨは戸を開ける様なノリでアイテムボックスをでかでかと開き、中身をごそごそとやり始める。

 

 一種類ごとに数十から数百はある多種多様なポーション、未知のマジックアイテム、これまた数多くの短杖や装飾品、武器や防具。猫耳に犬耳に熊耳。男物と女物の服がずらりと並ぶ。

 その多くが見たことも無い品で、多分魔法の品で、換金すれば金貨が比喩でなく山を成すであろう物で──いや、その辺りは分からないなりに見当も付く。他国、それも大陸すら違う遥か彼方異境の地から来た人間の持ち物だ。見慣れなくて当然、風変わりで当たり前だし、自分たちも知らない希少なアイテム類を所持しているのも、アダマンタイト級に匹敵する実力を持った元探検家という彼の経歴から納得はしよう。

 

 ──でもあの異空間はなんだあれ? いやマジで一体なんなんだあれ? 

 

 全員の視線と思考が一点に集中する事しばし、イヨはある布袋の中から四つの金属の塊を慎重に取り出し、四肢に装備する。

 

 それは肘から先を覆う腕甲と、膝から下を覆う脚甲。共通の素材から作られた揃いの品だ。外見は、灰色の革に荒い研磨がなされた金属のプレートを組み合わせたもの。濁った金色と黄土色が混じりあった金属は加工を経てなお鉱毒を含んでおり、打撃した相手の神経を侵し、動きを阻害する特殊効果を持つ。

 イヨの可憐な外見とは何処までも縁が遠そうな、無骨で毒々しい武装。遺産級の魔法の武器、腕甲【ハンズ・オブ・ハードシップ】と脚甲【レッグ・オブ・ハードラック】である。

 

「ふー、これって多分僕本人でも毒が回っちゃうんですよね。危なっかしくて一々扱いに気を遣うんですよ」

 

 大変大変、とまるっきり大変ではなさそうに笑い、

 

「これが僕の武器です! 防具は今着ている奴で、三段可変鎧【アーマー・オブ・ウォーモンガー】と云いまして──」

 

 自慢気に胸を張りながら何やら蘊蓄を語り掛けて、そこでやっと周囲の人々が名状しがたい顔で自分を見つめているのに気付く。そして何を誤解したのか、ちょっと恥ずかしそうに、でも嬉しそうに口元を緩ませる。

 

「えへへ、これ、友達が頑張って作ってくれた記念の品なんです。そんなに似合ってます?」

「今のは一体なんだおい!?」

「ひゃあ!」

 

 全員を代表して怒声を上げたリウルに、イヨはびくついた。大声で怒鳴ったのが悪かったのだろう、しかしそんな些末な事を気にする余裕はこの場の誰にも無い。

 

「今の……アイテムやら荷物が入っていた空間はなんだ? 君の所有するマジックアイテムか?」

「あっ!」

 

 やってしまった、とでも言いたげに顔を歪ませるイヨである。彼はアイテムボックスの存在については、一応人に見せない様に気を付けていた。

 

 この世界にも容量的に有り得ないほど荷物が入る背負い袋や、一日当たり一定量の水が湧く革袋はあるようだが、それらとアイテムボックスはまるで次元の違う物だ。

 なにせ外見的にはまったくの無手に見えて、その実大量の荷物が出し入れ自在で収納できる異空間だ。単純に言ってこの上なく目立つし、世界観的に浮きまくりである。中身が空であったとしても悪用の方法が幾らでも思い付く。その為にちょっかいを掛けてくる人間が出るであろうことも。

 

 そして、イヨのアイテムボックスの中身は空では無い。ユグドラシルで買った店売りのアイテム、友達が作ってくれた武器防具に装飾品、ドロップで手に入れたアーティファクトが沢山入っている。それらは、イヨにとってはさして貴重でも無かったアイテムと、今となっては思い出の品となった武器防具に過ぎない。

 

 たかが二十九レベル、最高到達レベルでも五十七レベル。

 

 色んな相手と戦う事に楽しみを見出し、通り過ぎていったレベル帯で新発見がある毎に適正レベルまで下げて挑みに行った、ユグドラシル全体で云えば下の方ばかりをうろちょろ遊びまわっていたライト層のエンジョイプレイヤーが入手できる程度の物でしかない。

 

 ユグドラシルプレイヤーに聞けば百人が百人、大したものは一つも持っていないと断言するだろう。イヨ個人にとっては友達が作ってくれた思い入れの深い武器や防具でも、ユグドラシルプレイヤーの大半を占めていた百レベルの人達からすれば、どんな状況だろうと役に立たないゴミ装備である。

 

 しかし、この世界に生きる者たちにとっては違う。多分、宝の山だ。

 

 この世界の水準は低い。魔法でも戦士の力量でも、文明でもそうだ。ユグドラシルと比べれば圧倒的に低すぎる。

 

 当たり前である。ユグドラシルはゲームで、この世界は現実なのだから。

 

 遊ぶための娯楽製品であるユグドラシルと現実であるこの世界では、ありとあらゆる物事が違い過ぎる。

 ユグドラシルではアイコンを押して選択するだけの物事でも、この世界では多くの手間と労力と時間と代償を払って、死に物狂いでなければ成し得ない。全般的にそれほどか、あるいはそれに近い位の差がある。

 

 ユグドラシルとこの世界の違いは、そのまま現実と仮想の違いだ。違いからくる差異だ。

 

 だからイヨが持つなんて事は無いアイテムや装備品であっても、この世界の人達からすれば相対的に上等で貴重な品ばかりだろう。大きな価値を持つはずだ。

 

 そんな物を山ほど持っている事が知れ渡れば、怖い人たちや悪い人たちが雲霞の如く幾らでも湧いて出てくる。イヨだってそれ位は考え付いた。

 アイテムボックスそのものとアイテムボックスの中身で二乗である。

 だから、アイテムボックスは人前でむやみに使わない様にしようと決めていた。中身のアイテムがどうしても必要な時とか、そういう事態以外では使わないと。

 

 なのにうっかりあっさり堂々と使ってしまった。そしてこの様である。もしかして僕は馬鹿なのではないかとイヨは真剣に悩んだ。実際、この少年は結構なアホの子である。議論の余地なく。

 

 言い訳をするのなら、イヨは面接で緊張していたのだ。『俺に勝ったらチーム入りを認めてやるよ……!』みたいな審査だったら全く気にしなかったのに、なんだか就職面接チックな堅い話し合いだったから。キチンとミス無くやらねばいけないと意気込み過ぎて内心切羽詰まっていたのだ。

 

 仲間になった人たちには後で普通に打ち明けるつもりでいたが、こんな不意打ちで常識外れな現象と直面したらみんな驚くに決まっているではないか。

 

「僕が持ってるアイテムボックスっていう……ま、マジックアイテム? です。色んなものを入れておける便利な入れ物……みたいな感じでしょうか」

「なんと、これはマジックアイテムなのか! 既存のアイテムとは全く違っておる、一体どのような理論と魔法で成立しておるのじゃ? おぬし、これを何処でどうやって手に入れた?」

 

 ──僕も全く分かりません。 ゲームを始めた時から普通にありました。

 

 そんな事は勿論言えない。そもそもゲーム云々が通じないだろう。イヨは既に他国から転移の罠で飛ばされてきてしまった探検家と云う設定を色んな人に告げているのだ。どの面下げて今更『異世界から来ました☆ ゲームの中で遊んでたらいきなり来ちゃって~♪』等と言えるか。

 

 まず間違いなく、イカレていると思われてお終いである。

 

 子供扱いはしょうがない。自分は事実子供であるという自覚がイヨにはある。女の子に間違われるのも仕方ない。イヨは事実女顔で、体型も欠片も男性らしくない。その上髪型は三つ編みだ。これで見抜けという方が理不尽だ。イヨが自分で男だと告げれば済む話である。

 

 でも狂人扱いは嫌だった。イヨは年齢相応以上に子供っぽくて間が抜けているが、心身ともに正常で健康な人間である。

 なにが悲しくて気を違えた異常人としてみんなから爪弾きにされねばならないのか。そんな扱いをされたらイヨは泣く。仲間はずれは悲しいし寂しいから嫌である。

 

 イヨは迷信における兎並に孤独に弱いのだ。

 

 初めから一人なのなら耐えようもあるが、大勢の人がいるのに誰もイヨを好きでいてくれない、関わってくれないという状態には全然耐性が無い。今までの人生でそんな状況は一度も無かった。

 

 TRPGで鍛えたアドリブ力をフル活用して考える。原理はまるで分かっていなのだから、其処は捏造するより素直にまるで分からないと告げた方が良い。問題は自分の持ち物なのに一切理解できていない理由だ。

 一瞬のうちに想像と発想は成った。

 

「探検家の仕事で潜った遺跡の最奥で古い時代の魔法陣に触れたんですその時から使えるようになったので僕自身も理屈はよく分かってません……!」

「ほ、ほう。その魔法陣に触れた時、なにか異常な現象はおきんかったか?」

「古びて擦れていた魔法陣が触れた途端に眩い光を放って収まったら何時の間にか使える様に、そういえば触れた部分に痣が出来たようなでももう治ってしまったので今はもう特に何も……!」

「急に早口になるなよ、気持ち悪ぃな」

「あ、ごめん……」

 

 当然の事ながらこれ以外にも様々な質問をされたが、イヨは全身全霊のアドリブでその全てを凌ぎ切った。違う世界から来たという事実を違う大陸から来たと変換していて本当に良かった。

 まかり間違って実在する国から来た等と言っていたら絶対に逃げきれなかったであろう。元探検家の設定はファインプレーだと自分でも思う位だ。

 

『こんなものを一体何処で!?』

『遺跡で見つけました!』

 

 万能である。

 SW2.0で取りあえず魔剣のせいあれもこれも魔剣の迷宮だからしょうがないを連発した事を思い出した。魔動機文明の遺産という事にしておけば大抵の機械はセーフ、みたいなものだ。

 

 ベリガミニがアイテムボックスに探査、検知魔法を掛けたりもしたが、魔法的反応は一切なかった。現状では何もわからないという事が分かっただけだ。

 

 閉じた状態では五感による知覚は不能。物理的な接触も不能。魔法的検知不能。魔法的感知不能。恐らくなんでも無限に収納可能。現在確認可能な手段では、本人以外は開けない。

 魔力系魔法詠唱者ベリガミニ・ヴィヴリオ・リソグラフィア・コディコスは、第三位階魔法のエキスパートだ。魔法上昇や希少なアイテムの補助などにより、第四位階魔法の限定的な行使すらも可能とする、オリハルコン級の中でも卓越した魔法の使い手と言えよう。

 

 探索や感知に特化した系統では無いにしろ、第四位階魔法の使い手にすら見破れない。それは人類種の殆どに見破れないという事だ。イヨ当人以外は全く干渉できない何でもいくらでも入る異空間──

 

 小さな部屋の中に静寂が満ちる。

 

 イヨは『あれ?どうしたんだろう、お咎めなしなのかな?』等と思っているが、それどころの話では無い。

 

「すまん、見なかった事にしていいか?」

「ヤバいどころの話じゃないだぞこれは……」

「滅茶苦茶危ねぇぞ……」

「悪用の手法が幾らでも思い付くのう。生物はどうやら入れん様じゃが」

 

 狡いレベルでいっても完全犯罪し放題だ。万引きで捕まる事は絶対に無いだろうし、禁輸品の密輸や非合法の売買では絶大の効果を発揮するだろう。関税のすり抜けや脱税にも引っ張りだこ。武力蜂起のお供にも最適。後一分考える時間をくれれば四人で数百通りの悪用法を列挙できる。それこそ、子供のいたずらから国家転覆の一手まで。

 

 幸い、この狭い部屋の中にいるのはイヨ本人を入れても五人だけだ。イヨ、バルドル、リウル、ベリガミニ、バルドの、ある程度気心と人格をお互いに見知っている五人だけだ。大馬鹿が一人混じっているが、素直な馬鹿であるから如何にでもなる。

 

 リウルが部屋の外を探り、近くに誰もいないことを確認。ベリガミニが連続して魔法の詠唱に入り、今までの出来事を見聞きしていた者がいないのを確認、そして出来る限りの防諜を渾身の魔法で実現させてゆく。バルドは壁に立てかけていた武装を手に取り、何時でも使えるようにする。バルドルはイヨの身体を拘束し、耳と目を塞ぐ。

 

「え? え? なんです? なにをするんですか?」

「……組合長に報告すべきか? ふっは、自分で言っとっても笑えるわい」

「いかんだろう。確実に公都の安全保障にかかわる問題だ。大公の耳に入りかねんし、その前後の流れで最小でも数人が知る。そこから十数人に漏れる」

「組合長から数人へ。数人から無数へ。裏社会にまで広まるの一週間と掛からぬわな」

「そうなったら、少なくとも知ってしまったこの四人は今までと同じには暮らせないな」

「イヨ本人はもっと不味い。コイツの強さだけでも謀略のエサだったが、アイテムボックスと合わせて考えれば利用を考える奴と排除を考える奴がぶつかり合って大規模の紛争になりかねねえ」

 

 持ち主であるイヨが死んだらこの異空間はどうなる? 消えてなくなるのか、もしや殺したものが新たな所有者となるのか? 事実としてどっちだろうと確かめ様は無く、争いは避けられない。

 

「こいつを野放しにするのは──」

「一番有り得ねぇ。うっかりでこんな代物を人前で使う常識の範疇を超えたボケだぞ」

「知ってしまった以上、恐ろしくて放ってもおけん。儂等が首輪で、鈴で、見張り番か」

 

 実際問題、アダマンタイト級を目指すこのチームにとって、イヨの戦闘力は魅力的に過ぎる。正直に言うとこの馬鹿さ加減は危なっかしいどころの話ではないが、教導してやれば改善自体は見込めそうだ。

 チーム入りを認めず弾いたとして、イヨはまた他のチームを探すだろう。本人は冒険者をやる気満々なのだから。そこでまたこんな大馬鹿をやらかされたら、次は大事になるかも知れない。この少年の性格的に、自衛を躊躇う事はなさそうだ。

 

 元より三人しかいない人材が枯渇しているチームで、降って湧いたアダマンタイト級の実力者を弾く選択肢を取るのは可能性として薄かった。ど素人極まりない人物だとしても、一番育むのに時間が掛かる実力自体はもうあるのだから、後は手取り足取り教えてやればいい。

 

 何よりこんな爆弾を野放しにしておくのは嫌すぎる。いつ何かの拍子で爆発するか知れたものでは無い。ならばいっそ【スパエラ】で囲って仲間にしてしまった方が良いのである。それがイヨの為にも、世間の平穏の為にも一番良い。

 

 何だか随分とイヨの扱いが酷い様に感じるかもしれないが、イヨ本人の性格と力量、それにアイテムボックスとその中身を考えれば真っ当な扱いである。一騎当千の実力を持った迂闊なお子様と云うだけで始末に悪いのに、おまけに巨万の富が入った四次元ポケットまで持っていると来た。

 

 【スパエラ】の三人とバルドルはアイテムボックスの悪用を阻止し、イヨを仲間に迎えて教え導き、自分たちの目標を達成すると云う三者が得をする結論を選んだだけだ。

 もしこの四人が悪人だったり、深く考えずこの事を吹聴して回ったりする愚か者であったならば、イヨは人生の殆どは不幸と絶望と戦いに溺れてしまった事であろう。

 

「危ない橋じゃのう」

「嫌か?」

「まさか。リスクを負う事が嫌ならミスリル級になった時点で引退して、村の名士かお気楽貴族の私兵にでもなってるよ」

「俺達が目指すのはアダマンタイトだ。その為にこいつは力になる。ついでに世間の平穏も保てる」

「バルドルさん? なんで僕は話を聞いちゃいけないんですか? 今一体なんの話をしてるんです?」

「ベリガミニさん、噂に聞く宣誓の魔法を頼めるか? 勿論イヨも込みの全員にだ」

「魔法上昇による第四位階魔法を五人にか。仕方ないとはいえ、今日これ以降の儂は殆ど使い物にならんと思っておけよ」

 

 使う魔法は第四位階、即ち常人や並大抵の天才を飛び抜けた領域の魔法だ。術者と対象が接触していなければ成立せず、魔法に対する抵抗の意思があれば絶対に効果を発揮しないと云う性質故に、戦闘に使える魔法では無い。だが、こういう時には有用である。

 効果は特定の秘密を守る事を強要するもの。この場合は五人全員で『アイテムボックスの存在を他者に教えない』事を共有する訳だ。

 魔法によって強制された秘密を破れば、その者の全身は激しい痛みに襲われる事となる。そして、五人の内誰が秘密を破ったのかは魔法の効果によって即座に全員に伝わる。

 

 これ位はしないと危険で仕方が無い。

 バルドルはイヨを開放し、【スパエラ】の一員として認められたと告げた。そうしてアイテムボックスの危険性を全員でイヨに徹底的して教え込み、宣誓の魔法を共に受ける事を要求する。

 

 イヨは勿論、顔を真っ青にして同意した。真っ先に少年の口から出たのは四人への謝罪だった。自分の持っているものとその扱いによって生じる危険性を漸く──本当に漸く、今になってやっと──理解したらしい。

 

 宣誓の魔法の成立後、リウルは真っ先にイヨに宣言した。ベリガミニは急激な魔力の消耗で疲弊した為、椅子に座りこんで肩で息をしている。バルドはそんな彼を労わっているので、新人の教導は自然とリウルの役割となったのだ。

 

「お前がマトモな人間になるまで徹底的に鍛え上げてやるからな。覚悟しろよ、イヨ」

 

 現時点のお前はマトモじゃないと宣言された様なものだが、その程度のごもっともな批判で落ち込む様な人間では無いのだ、イヨは。彼はこの上なく真剣な顔で、

 

「ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いしまーす!」

 

 居並ぶ四名に全力で頭を下げた。四人は本当に頼むぞ、本当に、と念を押す。これでまたうっかりを炸裂された日には、アイテムボックスとその中身とイヨ本人を巡って騒乱が起きるだろうから。

 

「お前は何でも入る不思議な異空間なんて持ってない、そうだな?」

「はい! 僕は何でも入る不思議な異空間なんて持ってません!」

 

 ここで、バルドルが横から不意打ち気味に問いかける。

 

「なあそこの君、ちょっといいか? さっき何もない所から急にアイテムを取り出さなかったか? アレは一体何だい?」

「きゅ──急に何の話です? 言っている意味がまるで分からないのですが? 僕はこれから用事がありますので、失礼いたします」

 

 一瞬口籠る辺り満点の対応とはとても言えないが、まあ及第点であろう。元の馬鹿素直からすれば取り繕えるだけでも進歩である。元が低すぎたともいうが。

 

 そうしてイヨへの演技指導や教育プランに話は移行した。バルドルも参加しているのはイヨの扱いに一日の長があるからだ。見た目に反して根性と負けん気の塊なので、とことんスパルタでよろしいとの助言を、彼は【スパエラ】に与えてくれた。

 

 

 そうして二十分もあれこれやり取りをしただろうか。コンコンとノックの音が響いた。リウルが視線で皆の同意を得て、

 

「どうぞ」

「邪魔するぜぃ」

 

 多分パールスが特例の昇級措置の話を持って来たのだろう、と思っていた四人の予想は外れた。ドアを開けたのは小柄な老人だったのだ。するりと部屋に侵入する足取りには淀みが無く、掴みがたい雰囲気であった。

 

 身長はイヨよりは高いが、リウルよりは低い。黒き革で出来たハードレザーアーマーを身に纏い、全身に指輪や腕輪、護符などのマジックアイテムを装備している。どれも使い込まれた風情の代物だが手入れは丁寧にされていて、古臭い感じはしない。

 深い皺が刻まれた顔つきは渋い。鋭い眼と短く刈り込んだ白髪が特徴と言えば特徴か。容姿に付いて、それ以外に取り立てて目立つ物は無い。ごく普通の、ほんの少し背が曲がった老人である。

 ただ、武器は大変珍しいものだ。腰の両側に下げた二本の小太刀は、鞘と鞘から推測できる刀身は日本刀に酷似している作りだが、柄と鍔は西洋剣の特徴を持っている。傍目にも分かる強い魔力を宿した、一級品の魔法の武器だ。

 

 イヨ以外の全員が驚愕する。この人物を知らぬ者は公国にはいない。公都で冒険者をやっている人間なら頻繁に目にする有名人だが、現役時代の武装をしている姿など初めて見たからだ。

 

 老人は全員の顔を見渡してから、一人の少年に視線を定めた。

 

「特例措置を求めに来たイヨ・シノン……ってのはお前さんでいいんだよな?」

 

 皺がれた、如何にも老人らしい声。だがしかし、其処には鋼の如き芯の強さが宿っている。イヨもそれを感じ取り、知らず知らず内に身を固くした。

 

「はい、僕です。……失礼ですが、何方でしょうか? お名前を頂戴しても?」

「おおっと、こりゃあ済まねぇ。お前さん、別の大陸から来たんだってな」

 

 顔なんざ知る訳ねぇわな、と一人笑って、老人は名乗った。

 

「ガド・スタックシオン。公都の冒険者組合の副組合長をしてる。……元アダマンタイト級冒険者チーム【剛鋭の三剣】最後の生き残り、っつった方が分かり易いか」

 

 その名前はイヨも知っている。今朝がた【ヒストリア】と親睦を深めた時に、真っ先に聞いたものだ。二十年前から公国にはアダマンタイト級がいない事。二十年前に命と引き換えに偉業を成し遂げたそのアダマンタイト級チーム【剛鋭の三剣】には、一人の生き残りがいる事。その人物は現在、公都の冒険者組合で副組合長をしている事。

 

「イヨ・シノンよう。俺の権限において約束しよう。条件付きでお前の特例昇級を認めてやるぜぃ?」

 

 ──現在においてもなお公国最高の剣士と称えられるかつての大英雄。曰く、最速最鋭の刃。奇刃変刃の異名を取った変則の二刀流使い。

 

「──俺と戦ってお前さんが勝ったら、お前に相応しいプレートをくれてやるよ」

 




一騎当千の実力を持ったお子様(巨万の富が入った四次元ポケット持ち):アホの子・うっかり属性。

歩くフラグとでも呼んでやって下さい。実際問題こんな奴がいたら危ないってレベルじゃありません。
本人だけでもヤバい、持ってるものだけでもヤバい、四次元ポケットだけでもヤバい。全部合わせてとってもヤバい。

書き進める毎にイヨのキャラが変わっていって私もびっくりです。初期を読み返してみると、ここまでじゃなかった気がするんですが。そもそも設定を思い出すと、一話の時点では男の娘としてすら書いてませんでしたからね。何時の間にかこんな子に。

次回はバトル回です。お相手は公国最大最後のアダマンタイト級の生き残り。奇刃変刃のガド・スタックシオンさん。ガチ英雄なのでレベルは三十超えてます。イヨよりは上でデスナイトさんよりは低い位。
二十年以上前に引退した人なので、他国では過去の人扱いであり、強者語りとかでは出て来ませんでした。
強い爺さん大好き。だってかっこいいじゃん? 燃えるじゃん? 


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公都:両雄激突

 数多くの冒険者組合でそうなっている様に、公都の冒険者組合の裏手にも修練場がある。一国の首都には不釣り合いとも思えるだだっ広い空き地だ。周囲を木の塀で囲み、それなりに長い歴史の間に数千数万の冒険者たちが鍛錬を行った場所である。

 黒土の地面は幾万もの踏み込みと駆け足訓練で石畳の如く踏み固められていて、歩けば非常にしっかりとした感触が返って来る。

 

 普段は数多くの冒険者たちで賑わうこの場所だが、今は中央に大きな空間が空いている。先程まで鍛錬に汗を流していた冒険者たちは外縁に退避し、中央の空間で向き合う二名を静観していた。様々なプレートの持ち主たちが入り混じった観衆の中で、【スパエラ】の面々だけが気持ち前の方で腕を組んで観戦する姿勢である。

 

 二名の内一名、イヨ・シノン。可憐で幼い容姿に似合わず、英雄級の実力を持つ拳士。

 もう一名はガド・スタックシオン。公国内に並ぶ者無き大英雄。老いて尚その名声は揺るがない。

 双方の距離は十メートルほど。二人は未だ構えていない。

 

 共に小柄な両者だが、放つ戦意は物理的な圧迫感を感じる程に高まっている。イヨの実力を知らない者たちも、老英雄と相対して全く引かない彼の姿勢に感じるものがある様だった。

 

「やるじゃねぇかよう、イヨ・シノン。見た目に反してお前さん、男だな?」

「こんな見た目ですけど男ですよ。それより何時始めるんです?」

 

 イヨはご飯を前に待てを連発された子犬の様な表情である。興奮の為か、頬すら赤らめていた。首に下げていたアステリアの聖印は、防御力を高めるマジックアイテムと交換されている。完全な戦闘仕様の装備だ。

 

 面接時にガド・スタックシオンが告げた言葉に、イヨは一瞬の逡巡も思考もせずこう答えた。

 『そういう分かり易いの、僕大好きです。何処でやるんですか? 僕は何処でも構いませんよ!』と。仮にも公国最高の剣士を相手にして余りに気安い発言だが、少年の顔には達人に対する無限の憧憬と、手合わせ出来るという望外の幸運に対する喜色だけが浮かんでいた。

 

「おおっと、済まねぇなあ。歳をとると話が長くっていけねぇよう」

 

 ──理屈はいらねぇ、さあやろうかい。

 

 声に出さずに呟いて、老人は二刀を抜き放つ。その動作だけで観衆がざわつく。

 公国最強最後のアダマンタイト級冒険者の愛刀、左刀貫き丸と右刀切り裂き丸は、それ単体だけで伝説として語り継がれる名刀として名高い。

 南方より流れ至る刀の構造を解析し、公都最高の鍛冶職が自前の技術と融合させて生み出した不朽の名刀を、帝国の大魔法詠唱者フールーダ・パラダインその人が魔法の武器化した一品。オリハルコンの刀身とアダマンタイトの刃を持ち、切先諸刃造りの刀身はギガントバジリスクの鱗すらも難なく切り裂いたと云う。

 

 凡そ考えうる限りあらゆるモンスターを切り伏せた名刀を、最高の使い手が振う。なんとも贅沢で、なんとも残酷な組み合わせか。

 

 これから行われるのが試験であり一種の試合であると知っている観衆ですら、相対する者の死を連想せずにはいられない。

 老人の構えは、これまた基本に忠実。前屈気味かつ半身の身体、切先を相手の正中線にぴたりと据えた二刀。その様はこの上なく堅実でいて美しくすらある。

 

 老人が積み重ねた鍛錬と経験の歴史が、そのまま垣間見えるかのような構えであった。

 

 そんな対戦相手を見て、イヨは知る。

 

 ──ああ、強い。

 

 人の持つ力量は外見に出る。オーラやら殺気などという何だか良く分からない物を感知するまでも無く、そのまま見た目に出るのだ。

 

 どんな武術武道であろうと遊戯競技であろうと、共通する事がある。強い者は大概、要求される動作や作法に対して、程度の差こそあれ熟練しているのだ。道着の着こなし等が分かり易い。素人は如何にも着慣れていなくて、どんなにちゃんと着たつもりでも何処かしら崩れているし、動けばすぐさま帯が緩み、合わせがずれる。

 慣れておらず、着こなしも動作も、本来こうあるべきと云う形から外れ、離れ、満たしていないからだ。

 基本動作や道具の扱いなども同様だ。面白い事に、同じ年数を捧げている同門の人間であっても、実力の上下によって結構な差が出るのだ。絶対の指標には間違いなくならないが。

 

 目の前の人物の二刀の扱い、なんと流麗なる事か。何千何万どころでは無い、数億かそれ以上の回数を必死かつ決死で熟していった者だけが到達できる境地と一目で分かる。

 既に現役を引退して二十年以上と聞く。当然身体は衰えているだろう、身体能力の衰退が技から冴えを奪った事だろう。それはこの世に生きる者ならば誰にでも訪れる当然の理である。

 しかし、最盛期を下回ろうとも、未だ健在。未だ精強。未だ遥か格上。

 

 これほどの強者と戦える、これほどの相手とこれから競い合えるという現実に、イヨはこの世界に来てから最も強い歓喜を覚えた。

 歓喜が熱となって体を巡り、目の前の人物に勝つための燃料源となる。

 イヨは強く呟いた。

 

「【アーマー・オブ・ウォーモンガー】、重装化」

 

 どよめきが上がる。ある一人の冒険者の言葉が、この場のほぼ全ての人間の驚愕を代弁していると言えよう。

 

「なんだあの防具は……重装鎧の拳士だと……!?」

 

 唱えた瞬間、イヨの着こんだ衣服の各所にあった金属装甲が元の質量を無視して増大し、流動した。鈍色の魔法金属が瞬時にして一部の隙も無くイヨの全身を覆う。四肢の【レッグ・オブ・ハードラック】と【ハンズ・オブ・ハードシップ】と結合し、定着。頭部は視界と呼吸を確保するための僅かな隙間を残して、三つ編みさえも金属の装甲板に覆われた鋼の尾と化した。

 

 アーマード・ストライカーとベアナックル・ファイターの本領、戦士にも負けず劣らずの重装甲だ。それはただひたすらに分厚く、頑丈で、無骨な全身鎧。装飾らしい装飾などなく、あえて言うならば額に生えた二本の剣の如き直角がそれに当たるか。

 

 ポテンシャルの全てを物理防御力と魔法防御力に割り振った、イヨが唯一持つ聖遺物級の防具。筋力増強系のマジックアイテムと併用せねば許容重量超過のペナルティを受けるほどの超重量武装。かつて友より贈られた思い出の品で、今のイヨのレベルでも分不相応な防具だが、使う事に迷いは浮かばない。持てる全てを持って挑むと云う当然の礼儀に徹するだけだ。さもなくば、戦いになるまでも無く五体を刻まれるだろう。

 構えは何時もの上段中段、前屈で半身。何億とまでは行かずとも、現実と仮想のどちらにおいても百戦で錬磨された戦いの結晶だ。

 

「聞いた通りだぜ、イヨ・シノン。大したもんじゃあねぇか。幾度の修羅場を潜ればその歳でその境地に到れるんだい」

 

 羨ましいぜ、と老人は至極明るく言い放った。皺だらけの顔には喜色が溢れている。

 イヨにもその気持ちは分かったから──重装形態の防具の所為で顔が一切露出しておらず、意味は全くないのだが──同じように笑顔を浮かべた。

 

 ──これから己と戦う相手が強い事が、何よりも嬉しい。

 

 心の内にあるのは、称賛、共感、感謝。そして果てしない我欲。

 

 ──より強い相手を踏破する事で、己はより高みへと到れるから。

 

 一層深まった二人の笑みが薄れて消える。後に残ったのは、張り裂けそうな程の緊張感。

 

「お互いの立場上、死ぬのは御免だよなぁ……?」

 

 何を言っているのか分からないほど、イヨは鈍くは無い。

 

「そうですね。治る程度なら全く構わないです。止めだけは無しでどうでしょう」

「だな。殺しさえしなきゃあ良い。死にさえしなけりゃ構わねぇってとこだな」

 

 当たり前の事としてルールを定める二人の会話が漏れ聞こえ、比較的近くにいたリウルが眼の色を変えて慌てるが、今やこの二人はお互いしか見聞きしていない。

 

「おい待てよ! これって特例昇級の審査だろ、何考えてそんな──」

 

 外野に一切合切取り合わず、二人は一手目から全力で激突した。

 

 

 

 

 ユグドラシルで言うレベルアップと同等の現象はこの世界にも存在し、それは端的に表すなら、より上位の生物への進化、超人への第一歩と言える。

 

 この世界の人類はホモ・サピエンス・サピエンスでは無い。より能力が高く、この過酷な世界で未だ種を存続させている彼らに名前を付けるならば、ホモ・サピエンス・マギテウスとでも呼べばいいのか。

 

 ユグドラシルキャラクターの身体を持っているイヨと同様に、複数回の進化を繰り返したホモ・サピエンス・マギテウスの肉体は人間の域を超越する。

 

 この世界において、金属の全身鎧を着用して長距離の旅や長時間の戦闘を可能とする戦士は数多く実在する。重量数十キログラムにもなり、イヨの元居た世界では一説によれば着用した状態での戦闘行動は五分が限界とさえ評される重甲冑を着こんで草原を旅し、街中で生活を送り、幾度もの苛烈な戦闘を熟すのだ。

 

 イヨの元居た世界の人間たちが絶対に越えられない物理的限界の壁を、この世界の人間は幾度もの進化の果てに平然と踏み越える。

 

 人間の眼球はカメラ眼と呼ばれる形態であり、眼の筋肉の動きで焦点を合わせる以上、高速で移動する物体に対する視認は困難である。

 人骨を構成するのが特定の無機物と有機物である以上、当然強度的限界が存在し、金属並の硬度もゴムの如き柔軟性も個人の努力では獲得できない。

 筋肉繊維の数を決める筋肉組織のキャパシティ、収縮する筋肉繊維の断面積に比例する筋力。限界まで鍛え込んだところで、人間では絶対に成体の象や羆には敵わない。

 信号の神経伝達速度、経験によって培われる神経ネットワーク、学習による効率化。仕組み上最低限度の必要時間を短縮する事は叶わない。

 

 この世界では違う。

 進化を繰り返す毎に物理的生理的な限界は高まり、性能は拡張し、能力は上昇する。十回にもなる進化を繰り返せば、イヨの世界のどの人間をも超えた超人と言えるだろう。

 

 ましてやイヨはユグドラシルプレイヤーとして、ガドはホモ・サピエンス・マギテウスとして、三十度もの進化とレベルアップを繰り返した存在。彼らの筋骨は並の使い手が振う鋼の剣など、皮膚とごく表層の筋肉だけで止めてしまう。射掛けられた矢を見てから避ける、若しくは手で振り払う、掴み取る事も至極容易。

 飛燕の速度、鋼の身体。彼ら超人の前では、比喩表現でなくなってしまう。幾ら老いたとて、外見的に幼く小柄とて、その力は純粋な筋力でも大型猛獣を下に見る。その筋力と技術によって成立する速度は駿馬を追い抜く。

 

 イヨは両拳を構えたまま、岩盤を割砕する勢いの前蹴りをぶち込んだ。

 ガドは二刀の狙いを喉と心の臓に定め、全力の振り抜きを打ち込んだ。

 

 彼我の距離は十メートル。長く遠いと思うかもしれないが、二人は英雄の領域に達した武人である。この程度の距離は一足の間合いであり、お互いがお互いに攻撃の意を持って踏み込む以上、十分の一秒も掛からず、距離は喰い潰される。

 

 まともに受ければ命の大部分が消し飛ぶだけの威力を持った攻撃だが、勿論双方共に達者である。ただで喰らう訳が無い。

 

 ガドが熟練にして老成の運足で蹴りを空かし、イヨが左右の手首の返しで、回転力と装甲の防御力を頼りに二刀を捌く。

 

 大きな二つの金属音と、擦れた一つの音が響いた。

 

 結果は明らかだ。イヨの前蹴りはハードレザーを掠っただけで避けられ、ガドの二刀はイヨの捌きを押し切って狙い通りの箇所に命中している。──つまり、双方健在。

 

 一発では終わらない。イヨが蹴り足を引き戻しつつ連突きを放ち、間合いを詰めながら繊細な足さばきで只管に急所を狙う。ガドは自分の間合いを維持しながら四肢を狙って二刀を振う。瞬間的には秒間数十発にも達する熾烈な斬打を両者が交わす。

 

 戦いの最中である、悠長に物を考える時間も思考の余裕も無い。かといって、考え無しの攻めなどカウンターか後の先を取られるだけだ。戦の最中の彼らの思考は、言語と云うより一瞬の閃きや色彩、音や光などに例えられる酷く感覚的な物だ。

 

 実際にこの様に考えているというより、その心中の光や色彩を言語に変換すればこうなる、といった解釈に近いと前置きさせて頂こう。

 

 ガド・スタックシオンは二刀を致死の旋風と化しながら思う。状況は不利だと。

 相手は孫位の年齢の、小娘の如き容姿の小僧。しかし、実力のほどは超一級品。歳を考慮すれば絶句したくなる程の技量と膂力、そして勝負勘だった。

 あと三年もすれば自分を上回る使い手となるだろう。自分は衰え、あの子は栄える。羨ましい事だ。しかし、現在においては自分の方が上だ。上だが──

 

 ──あの鎧と武器は不味いな。少なくともアダマンタイト以上の魔法金属か。

 

 蹴りを避けながら、捌きを掻い潜りながらの斬撃だったとはいえ、公国最速最鋭の二刀をもろに喰らって精々傷が付いた位とは。この名刀を自らの腕で振えば、鋼鉄位は容易に断てる。魔法金属であっても切断は可能だろう。それと比べれば、常識外れの防御力である。

 斬撃が防がれたとしても、衝撃までは殺せていない。威力が減衰した打撃となってイヨ・シノンを襲った筈だ、先の二連斬は。最低でも打撲と内出血、骨に異常が出ているやも知れない。しかし、勝利には遠い。

 

 ──相当に強い毒だ。防具の上から掠っただけで俺を侵すか。

 

 先の蹴りが掠った瞬間、確かに猛毒が自分の神経を蝕んだ。恐らくは麻痺性の鉱毒。マジックアイテムと生命力に物を言わせて抵抗しはしたが、何度も身に受ければ遂には動きを鈍らせるだろう。

 

 そうすれば自分はあの拳脚の餌食だ。老いぼれた身ではそう何発も耐えられまい。イヨ・シノンと自分の力量差は明らか。だが、絶対の差では無い。現状でも油断すれば避けきれない。毒で鈍れば尚更だ。一撃喰らえばそのままあの小さな剛拳に叩きのめされるだろう。

 

 長引けば長引くほど不利。それは小僧も同じだろうが。

 

 ──短期決戦と行こうじゃねぇかよう、小僧! 

 

 特に際立ったものの無い老人の顔に凄絶な笑みが宿る。この上なく楽しそうで、殺気に塗れた戦士の形相だった。腱と筋肉を余すところなく切断し、意思云々に関わらず地を這いつくばるしかない状況に追いつめてやる。と。

 

 イヨ・シノンは四肢を暴虐の嵐と化しながら思う。状況は不利だと。

 相手は奇刃変刃の異名を取った英雄級の剣士、国を代表する武の体現者。自分より強い事は一目見ればわかった。しかし、百聞は一見に如かずと言う様に、百見は一触に如かずなのだ。

 単純に格上と云う時点で恐ろしく厄介だ。何をしても上を行かれる。イヨの攻撃が全く入っていない訳では無いが、此方が一回当てる毎に五回は斬られている。

 

 既に前手の小指が鎧ごと根元から断ち切られている。同じ場所に幾度も斬撃喰らって、鎧が損耗したからだ。装甲の隙間から侵入した刃によって、肘の関節部分も血を流していた。首と胸骨には罅が。打撲と内出血は既に無数だ。全身で痛くない箇所の方が少なくなってきている。下手を打てば腱を断たれて拳が握れなくなるか、脚が使えなくなるだろう。

 

 ──あの二刀、あれこそが奇刃変刃の異名の由来か! 

 

 老人が振う二刀の刃は高速で強度と鋭利さを保ったまま変形しているのだ。最初の急所狙いも捌いたはずが、刃自体が首と心臓に迫ってきた。そのせいで喰らってしまった。

 

 高速で変形・変成する二本の刃。接近戦では恐ろしく厄介な代物だ。【アーマー・オブ・ウォーモンガー】が如何に強固で防御力に優れていようと、人間が使う装備品である以上、関節や腹部などの可動域を広く取る必要がある箇所は装甲に覆われていない。必ず継ぎ目がある。隙間がある。

 

 最初からそこを狙ってきている上に、刃が更に蛇の如く内部に侵入し、イヨの肢体を斬攪していく。言っている間にも右の頬が切り裂かれて大穴が開いた。血と唾液で兜の中が気持ち悪いが、首を逸らすのが遅かったら下顎を持っていかれていただろう。

 

 とはいえ、あまり奇想天外な変形は出来ない様だ。刃自体は鋭くとも軽量であるため、踏み込みと全身の筋力による重みが乗らなければ、十分な攻撃力を発揮しえないからだろう。あくまで通常の太刀筋と体勢から外れる程度。それでも厄介極まりないが。

 

 それを思えばまだマシと言える。気にせず戦闘続行だ。

 

 ──狙うは短期決戦。倒れる前に殴り倒す。

 

 イヨが兜の中で寒気のする様な笑みを浮かべる。少女の如き可憐な少年が浮かべる笑顔は、本来ならば人々を魅了するに余りあるものであっただろう。しかし、頬の片側が破けて穴が開き、顔を血化粧に染め、殺傷に向けて情念を燃やす彼の表情は戦士のそれだ。

 時間が経てば経つほど失血で体力が損なわれていく。僅かにでも足が鈍れば刃の奔流で全身を刻まれる。そうなればもう重装甲も役に立たない。腱と筋を断たれれば身体自体が動かないのだから。

 

 そうなる前に全力の打撃を当て、骨格と内臓ごと意識を粉砕してやる。身体云々に関係なく、意識が飛べば戦えないのだから。

 

 

 

 

 修練場には血風が吹き荒れていた。言うまでも無く、激突を続ける二者が垂れ流すものである。本来であれば地を濡らすだろう血液がお互いの動きが巻き起こす烈風に攫われ、空気さえも赤く染めているのだ。

 

 戦いを観戦する者たちは増え続けている。二人の戦いを邪魔しない様にと端に詰めている為、人だかりの人口密度は上がり続けていた。

 

 ほぼ全員が冒険者ばかりである。銅からオリハルコンプレートまで、依頼を受けていない冒険者の大部分が集まってきているのではないかと思ってしまう程の人数だ。

 

 冒険者。その職務内容を端的に表すならば、対モンスター専門の傭兵。野盗の掃討や希少物品の確保なども良くある仕事だが、それでも一番多いのはモンスターとの戦闘だ。

 モンスターとは、その多くが人間よりも巨大かつ強大である。ゴブリンですら農民が俄かに武装した位では敵わない存在だ。オーガともなれば兵士でも厳しいものがある。エルダーリッチや月光の狼【ムーンウルフ】などの強敵が複数ともなれば、上位の冒険者チームが討伐隊を組むべき事案である。

 

 冒険者は強大なモンスターを討伐するのが仕事。一般市民が生涯目にする事も無いような強者に挑み、打倒する事を生業とする者たち。

 自分自身が戦った事は無い場合でも、武勇伝や伝聞情報として強者の事を知っている。より上位の先達たちの語る戦いに憧れと恐怖を抱き、何時か倒してやるとも、出来れば出会いたくないとも思う。

 冒険者たちは強者を知る。強大なモンスターを、その強大なモンスターを打倒する勇者たちを知っている。

 

 しかし、目の前のこの戦いは何だ。こんな高みが存在したのか。

 

「人間って……あんなに速く動けるのか……」

 

 耳で聞くのと自分の目で見るのとでは、余りに違う。

 

 重装鎧の拳士の踏み込みが地を割砕し、彼らの目では捉える事も出来ない超速の突きを奇刃変刃の足さばきが避け、残像すら発生させる武技の剣撃を連続で叩き込む。拳士は幾度かその身に剣を受けながらも、拳から爆発を発生させて奇刃変刃を退けさせる。そうしてまた、煙幕を突き破る様にして必殺の足刀をぶち込むのだ。

 

 交わす一挙手一投足が一撃必殺級の威力。狙いは全てが急所。まともに当たれば骨が砕けて内臓が破裂する。腕か足が斬り飛ばされる。

 

 鉄プレートを下げた冒険者が呻く。あそこで交わされる攻撃のどれもが、一撃でオーガを容易く屠る威力なのだろうと。自分のいる位置など、まだまだ初歩の初歩なのだと思い知らされていた。

 

 白金のプレートを下げた冒険者が目を輝かせる。吸血鬼を倒した時、自分も一端の強者になれたと思った。でも違う、道の先はあそこまであるのだ。頂きはまだまだ先に、より高みに。知らず知らず、彼の眼から熱い涙が流れる。

 俺もああなる、あそこまで強くなると人知れず彼は決意していた。

 

「すげぇ……! 副組合長って、今でもあんなに強かったのか!」

「あの子供の方も強いぞ、奇刃変刃のガド・スタックシオンを相手にあそこまで! 一体何で出来てんだよあの鎧は!」

「な、なぁ。あの子供の方が優勢じゃないか?」

「馬鹿言うなよ! 武技が派手だからそう見えるんだろ!? 副組合長の方が上だよ、あの人は公国最高の剣士だぞ!?」

「互角だ、互角だよ! すげぇよアイツ、本当の本当にアダマンタイト級じゃねぇか!」

 

 すごいけどさ、と壮年の男が訝し気に口を開く。

 

「マジになり過ぎじゃねぇか? これ、試験なんだよな?」

 

 幾ら治癒魔法やポーションで怪我が治ると言っても、元は試験だった筈なのだが。

 重装鎧の方などは右腕を始めとする全身の出血が激しすぎて、そろそろ倒れるのではないだろうかと心配になってくるほどだ。

 副組合長もモロに喰らってはいない為一見元気そうだが、擦過傷やら痣やらで傷だらけだ。それに体力の消耗が激しいのか、眼に見えて息が上がってきている。

 

「死んだりはしない……よな? 其処まではやらない筈だろ? 二人とも」

 

 

 

 

 こめかみにめり込む肘の衝撃で飛びかける意識を必死で繋ぎ留め、ガドは殆どの本能のままで二刀を振るう。イヨの装甲の隙間に切先を突き立て、さらに刃を変形させて筋肉を穿つ。

 一瞬揺らいだ全身鎧の腹に押し込む様な蹴りをブチ当てて距離を作り、出来た距離を維持するために、ともすれば垂れ下がりそうになる両腕を掲げ、牽制とする。

 

 現役から退いて二十年以上、やはり体力の衰えは深刻だった。ガドの刃は幾度となくイヨの全身を切り裂き、流血による損耗を強要し続けていた。しかし、掠り以上の攻撃を受けてはいないにも関わらず、既に息は上がり、身体は疲労の蓄積を訴えて来ていたのだ。

 

 其処に駄目押しとなる先の肘だ。たった一撃で足に来ている。無論まだまだ戦えるが、これから先は弱るばかりだろう。毒への抵抗も厳しくなってきた。

 

 ガド・スタックシオンには限界が近づいている。だが、イヨの消耗はそれ以上だ。

 

 ──一撃入れる為に腕を片方捨てるか、思い切りの良い小僧だ。

 

 イヨは幾度も刃で切られ、肘を断たれて拳を握れなくなった右腕を使って特攻を仕掛け、半分になった右腕の肘をガドのこめかみに叩き込んだのだ。

戦闘の最中に四肢を失う覚悟位は誰でもしているが、たった一度の攻撃を成功させる為に腕一本を捨てる前提で突っ込んでくるとは。実際の戦闘中であったら効率の悪過ぎる手段だ。ただ、耐久性に乏しい老英雄を相手にならやる価値のある攻撃だった。

 

 ──それで勝利に近付けるとなれば俺でもやるわな。対処できなかった俺が間抜けってだけの話だ。

 

 既に老人は倒れる寸前だ。衰えた体力は枯渇一歩手前、短時間での連続した武技の使用で消耗が加速し過ぎていた。それに加えて先の一撃。あと五分も相手に凌がれればもう潰えるしかない。

 

 さて、勝負を決めるか、と老人は笑った。

 

 

 

 拳が割れても鍛錬を続けた。

 骨が折れていても試合に勝った。

 度重なる痛みを味わい、克服し、打ち勝つ。その循環を日常とし、痛みに対する耐性は常人とは比べ物にならない域に達する。

 

 痛覚が麻痺していては本末転倒。戦闘の最中、イヨの五感はこれ以上ないほどに研ぎ澄まされた状態にある。むしろよりはっきりと知覚できる痛みに対し、イヨは声を上げる事はおろか、眼を見開く事すらしなかった。

 

 何度も己が身を斬裂したせいで体温が移り生温かくなった刃が、何度も斬りつけられたせいで強度を失った鎧ごと右の下腕を両断する痛みをしっかりと感じ、狙い通りに腕が断たれた事にしめたしめたと肘を叩き込んだ。

 

 ──よし、入った。

 

 そのままノックダウンまで殴り続ける筈が、相手もさるもの、勝利の機会は遠のき、戦闘開始直前と同じく、お互いに間合いを開けて睨み合いの状態に戻ってしまった。

 

 既に互いは満身創痍。イヨの右腕は肘から先が無くなり、全身からの流血で死のほんの数歩前にいる。通常人の身体であったらとうに死んでいただろう。腕を断たれる痛みは蹴り同士がかち合って足の指が引きちぎれる感覚よりはマシだったが、精神を削るのに十分すぎる激痛だった。

 

 ただ立っていても命が流れ出ていく。ならば死ぬ前に倒さねばならない。

 

 もう既に、両者の頭に試合やら試験云々は残っていない。戦いが始まる前から薄れていた気さえする。ただあるのは、この強敵に打ち勝つという欲求のみ。

 

 ガド・スタックシオン。老いて尚公国最高の剣士の称号を手放さぬ大英雄。

 イヨ・シノン。アダマンタイト級に匹敵する若き実力者にして、英雄へと挑む挑戦者。

 

 両者は共に覚悟を決めた。

 ガドは二刀を刀身の全てが背に隠れる程振りかぶり、全てを切り伏せる構え。

 前手を断たれているイヨは左の貫手を思い切り引き、全てを貫く構え。

 

 双方ともに、此処に到るまで様々な理由があった。

 

 ガド・スタックシオンは公国最強最後のアダマンタイト級冒険者チーム、【剛鋭の三剣】の生き残り。他の面子は、当時既に四十台半ばで後は老いるばかりだったガドより、十も二十も若かった有望な仲間たちはみんな死んだ。分断されたガドが彼らの遺体を見つけた時にはもう腐敗が始まっていて、蘇生魔法ですら蘇らせることは叶わなかった。死ぬ事で、彼ら彼女らは本物の英雄になってしまった。

 それからずっと待っていた。衰える肉体を技量の向上で庇い続け、庇い切れずに弱くなり続け、それでも次の世代を待っていた。

 

 篠田伊代はかつての全国大会優勝者。生まれつき小さかった身体は成長期を迎えても大きくならず、身体能力の差に飲まれて一度は敗北の汚泥に塗れた。体格差を跳ね返すだけの鍛錬を積んで、今一度頂点に返り咲かんとした時だ。この世界に来てしまったのは。異世界への転移、生まれ育った世界との別離。人類史上に何人いるのだろう、このような受難に苛まれた人間が。

 元の世界に帰りたい。すぐには帰れない。この世界で生きる上でも、今までと同じように敗北を拒んだ。

 

 双方ともに、此処に到るまで様々な理由と人生があった。

 

 ──お前が真にアダマンタイト、公国冒険者の頂点に相応しい男であるのなら! 超えて往け、かつて一時代を築いたこの老いぼれの剣を! 

 

 周辺国家最強の戦士であるガゼフ・ストロノーフが、まだ剣を握ったばかりの将来有望な少年でしか無かった頃。公国に最速最鋭の二刀在りと謳われた彼の秘技。

 

 〈限界突破〉、〈能力向上〉、〈能力超向上〉、〈春水闊歩〉、〈二刀極斬〉、〈朧幻斬撃〉。限界を超えた筋力を発揮する筋肉の圧力に耐え切れず、骨に亀裂が入るほどの超負荷を代償に、今現在の自分が出せる最高の斬撃を叩き込む。

 

 ──負けられない、負けたくない! 今や自らの身体すら自分の物では無く、世界に僕を知る者はいない。ならば、唯一残った意思だけは貫き通す! 

 

 呼吸法による身体強化術、練技の全開使用。〈ビートルスキン〉で防御力を向上、〈マッスルベアー〉で筋力を向上、〈ガゼルフット〉で回避力を向上、〈キャッツアイ〉で命中力を向上、中位練技〈ジャイアントアーム〉で筋力を更に向上。そして【撃振破砕掌】を発動させる。

 自らの魔力のほぼ全てを消費する感覚に心胆が凍える。しかし、肢体が発火したかのような熱がその感覚を上書きした。段違いに上昇した膂力を技量で技に昇華させ、生涯最高の一手を放つ。

 

 人間として極限の領域に踏み込んだ二者の踏み込みを互いが知覚する。共に必殺、共に必中。相死にして相殺。

 全力の激突だけを望む二人はそんな事に頓着しない。思考すら濁り、判断すら淀み。全知覚の全てを相手に向けて、ただ死力を振り絞れば結果は出る。ただ勝利に向けて駆けるのみ。

 

 二刀と貫手が交錯し、遂に勝者が決する──その時、二人の間に人影が割り込んだ。

 

 身長二メートルを遥かに上回る小山の如き身体、全身甲冑込みで二百キログラムを遥かに超える超巨体。強化と補助の魔法をありったけ身に受けたその人物は、タワーシールドを両手に一つずつ構える異常な装備をしていた。

 

 〈不落要塞〉、〈不動剛体〉、〈巨盾強打〉。二人の間に割り込み、立て続けに武技を発動させたその人物が構える双盾にイヨとガドが激突する刹那──神懸ったタイミングで、二人に魔法が襲い掛かる。

 

 鈍化、弱体化、足止め、速度低下、部分石化──命を奪わず傷を負わせず、ただ勢いだけを削ぐ目的で放たれた魔法の雨嵐。恐らくは熟練の魔法詠唱者が放ったのだろう幾つかの魔法が超級の実力者である二人の抵抗を突破し、効果を発揮する。

 

 大きく威力を削がれた必殺技を全身甲冑の大男──ガルデンバルド・デイル・リブドラットが盾の打撃で受け止め、苦鳴を上げながらも相殺する! 

 

 乱入者たちに驚愕の思いを抱いた両名が口を開く前に、黒き疾風に攫われて、その手足から武器が消えた。

 黒い風、オリハルコン級冒険者リウル・ブラムは二刀と腕甲と脚甲を保持したまま、急場でまとめ上げた数十人の部隊に指示を出す。

 

 恐ろしい事である。半死半生の二人の英雄級を止める為に、オリハルコン級三名を筆頭として、数十人もの高位冒険者を動員せねばならなかったのだから。もしも二人が冷静でいたら、周りに気を配る余裕があったら、消耗していなかったら、不意を打たなかったら。

 これだけの人数でも、二人は止められなかっただろう。最後の最後、正面から一撃に全てを掛けてぶつかり合う瞬間だったからこそ可能な神業だった。

 観戦の当初から二人の異常な熱の入り具合に気付いて暴走を察知し、その場にいた者たちを纏め上げ、引き分けで両者死亡と云う最悪の結果を回避した【スパエラ】の功績は表彰ものである。

 

「二人共拘束して医務室に叩き込め! 治癒は拘束した後、運びながらだ!」

「て、てめぇリウル、何をしやがるんでぇ──」

「まあしょううはふいてあいお──」

 

 殺到する十数人の高位冒険者に鎖で巻き上げられながら、全身から出血した戦鬼の如き風貌のイヨとガドは非難する。が、帰ってきたのは途轍もなく冷ややかな視線と、裂帛の怒気だった。

 

「その場のノリで殺し合いしてんじゃねぇよ、馬鹿男ども!」

「ば、馬鹿とは何だこの、勝負の邪魔をしやがって!」

 

 あんまりな罵られように鎖で簀巻きにされたガドが反論するが、リウルは何処までも冷淡に告げた。

 

「この審査、あんたの独断だそうじゃねぇか」

「げっ」

 

 彼女が親指で示した先には、半泣きで老人を睨み付けている冒険者組合の職員がいた。

 

「仮にも組織の重職を担う人間が一人先走った挙句、当初の目的を忘れて命の奪い合いにまで事を大きくしやがって! 途中から完全に自分たちで決めたルールを忘れてたじゃねぇか! 医務室で頭を冷やしてろ!」

 

 ぐうの音も出ない徹頭徹尾の正論に、ポーションと治癒魔法を滝の如く浴びせられながら、半死半生の老人は医務室に搬送されていった。状態的には紛れも無く重傷だ。傍らには秘書と思しき女性職員と男性職員が涙をポロポロ零しながら着いていく。

 

「てめぇもだ、ボケイヨ!」

 

 イヨは口を開く事すら許されなかった。というか、頬に穴が開いている上に舌を切っているので、満足に喋れもしないのだが。リウルは憤怒のあまり、噛み締めた歯を軋ませている。

 

「お前はもう【スパエラ】の一員なんだよ! 審査を私闘化した挙句勝手に命掛けやがって、最短死亡記録を更新する気か!? なんでエスカレートする前に自重出来ねぇんだ!」

「はっへしょううあ──」

「それ以上無駄口叩いて寿命を減らしやがったらお姫様抱っこで医務室に運ぶぞ、このクソガキ……! つーか防具を戻せよ、傷の具合が確認出来ねぇだろうが!」

 

 男子の誇りを人質に取られ、イヨはこれまたポーションと治癒魔法を雨あられと浴びながら搬送されていった。斬り飛ばされた身体のパーツや防具と一緒に。

 

 公国最高の剣士と超新星の拳士の一騎打ち、公国の歴史に刻まれるだろう一戦はこうして幕を閉じた。

 暴走した二名は魔法で回復された後も三日ほど寝台に拘束され、強制的に安静を余儀なくされた。その傍らには常に見舞いと監視が絶えず、惜しみないお小言と称賛とお叱りが捧げられたという──。

 

 ──更に数日後、史上最速最短期間での昇格を成し遂げた冒険者が誕生し、公国を沸かせることとなる。

 




残酷な描写タグが仕事をしました。

ホモサピ? 否ホモマギ。レベルアップとは進化~辺りの描写は、原作者である丸山くがね様の活動報告からです。

十レベルもあれば超人、三十レベル前後は超人の中の超人。百まで行くと神。そんな感じだと思っています。持久走も普通に出来る室伏の兄貴で金とか銀クラス冒険者? らしいので(丸山くがね様はちょっとした冗談と書いておられましたが)

書いてる最中に(こんなに頑張ってても三十レベル以下だから絶望のオーラⅤで即死不可避なんだよね……)(ガドさんもデミウルゴスの支配の呪言で一発自害なレベルだ……)とかが頭に浮かんで世の無常を感じたり。レベルの差は絶対ですな。

ガド・スタックシオンさんは
フェンサー(ジーニアス)
ソードダンサー
ソードマスター
の職業持ちです。英雄級の三十三レベル。現役から退いて二十年、ステータスが衰えても三十レベル程の戦闘力を保持している作中最高の天才で努力家で達人。持久力と耐久力以外に弱点は無いです。そもそも攻撃が当てられないし、バテるまで粘るのがきっつい程の強さですが。
全盛期だったら・装備が対等だったら・よーいドンスタートの試合形式じゃなかったら。どの場合でもイヨに勝ち目はほぼありません。レベルでほぼ同等、装備で上回っていても、技量に差がありすぎます。

次回はネタ番外編のIFルートです。


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ネタ番外編IFルート:イヨがナザリック入り

イヨがもしナザリック近郊に転移していたら、という設定のIFです。続きません。
本編執筆以前に断念したネタを加工したものであり、本編とは何のかかわりも無い文章です。本編を期待していた方には申し訳ございません。

作中のオリキャラは元々はイヨではありませんでしたが(長田タマくんというイヨの雛形みたいなキャラでした)六割方同一人物なので、折角だからイヨに変換してあります。

原作キャラは色んな部分で「なんか違う」可能性が御座います。


 

 草原に少年が一人寝転がっている。可愛らしい顔は不貞腐れたように歪み、朱唇は不貞腐れて血が上った思考を表すかのようにぎゅっと引き結ばれていた。

 

 ──どうしろというのだ、一体。

 

 少年、イヨは思う。数分前までは泣いたり喚いたりと騒がしく自分の状況を嘆いていたが、今や指一本動かす気になれない。そんな気力は無くなってしまった。

 自分はただ、最後の最後までユグドラシルを楽しみたかっただけだ。最期の最期まで楽しんで、そうしてまたいつも通りの日常を生きる筈だった。

 

 普通そうだろう。そりゃあ思い入れのある人にとっては一大事だろうし、その気持ちも十分に理解できるが、言ってしまえばたかがゲームの一タイトルが終わりを迎えたというそれだけの話だ。

 

 世の中、どんな物にだって終わりはある。移りゆき変わり果てていくのが世の常だ。

 

 ましてやオンラインゲームなんぞ、百年前から流行り廃りが激しいものと相場は決まっている。十二年だ。ユグドラシルは十二年も続いたのだ。最初期はどれだけ斬新だったのか知らないが、最早化石である。もう十分だろう。この上まだ足りない、まだ続けるというのか。

 

 コンソールは出ない。GMコールも効かない。強制アクセスすらできない。即ちログアウトできない。

 これだけで電脳法で定められている監禁罪に相当する。結構な重罪だ。

 

 それでいてこの景色ときたらどうだ? まるで本物の草原のようではないか。本物の草原など生まれてこの方見たことは無いが、この草の一本一本が風に靡く様ときたら! おまけに千切れば草の汁が断面に滲み出て、青臭い臭いが鼻腔を刺激する。

 

 随分と手が込んでいるではないか。しかも五感が現実よりも敏感だ。

 

 凄まじい技術革新だ。ここまでの作り込みを視界一杯より広い範囲で、しかも全くラグが無いなど、常識に喧嘩を売っている。ユグドラシル2だとでも言いたいのか? 

 

「作るのは勝手だけどね、やりたい奴だけでやってればいい! 僕を巻き込むな!」

 

 夜空に向けて咆える。ああそうだ、この夜空! 全く素晴らしい、本の中でだけの表現だと思っていた満天の星空とやらは現実に有り得るらしい。星明りで本が読めるってのは比喩表現だと思っていたが、この眼で目にする機会が我が人生にあろうとは! 

 

「ふん。紙の本だなんて何時の時代の話?」

 

 ユグドラシル2。この言葉を聞いたのが一時間前だったら飛び跳ねて喜んだだろう。此処までの逸脱っぷりだと世間に知れたら引退組だけでなく、本来ゲームなどやらない人種まで我先に買い求める人類史上でも稀な大ヒット作になっただろう。聖書なんて目じゃなくなってしまう。

 

 本当はイヨだって分かっている。

 

 此処がゲームでは無い事くらい。ただ考えたくなかっただけだ。だって余りに荒唐無稽ではないか。ゲームをやっていたら別世界に来てしまいました? 一周回って新しい設定だ。内容次第で二百万部は売れると思う。アニメ化も夢じゃない。

 

 ただ当事者になってしまうと全く面白くない。

 此処は何処なのだ。一体何をすればいいんだ。

 

 「誰が何をさせたくて此処に僕を寄越した?」

 

 例えば近くに襲われている人がいるとか、そういった危機的事態の真っ最中だったなら、それに対処せんと頭を回せるのだ。そうしたらこんなだだっ広い草原で寝っ転がって星空を眺めているなんて暇な事はしなくても良かった。

 

「なんで僕なの?」

 

 イヨの心中を占めるのはこの一言である。

 

 例えば大手ギルドのギルド長とか、ワールドチャンピオンとか。ワールドアイテム持ちのプレイヤーだとか。

 

 そういった人物が別世界に飛ばされるなら、まだ分かると云うものだ。彼ら彼女らはユグドラシルにおいて特別な存在だ。数奇な運命によって、何らかの大事を成す為に呼ばれたのだと納得できる。

 

 イヨには何も無い。たかが二十九レベルの一般プレイヤーだ。特別な装備も特殊な職業も縁が無く、課金だってトータルで一万円も行かない位しかしていない。

 

 まだイヨでは無く、中身である現実の篠田伊代の方が特別と強弁できるだけのものを持っている。

 

 小学校二年から六年生までの空手道全国大会の優勝者だ。身長が伸びず、中学一年生ごろから勝てなくなったが、伸びない身長をカバーするだけの修練を積み、高校一年生の現在になって都大会を突破し関東大会に出場が決定。今一度全国一位の座に返り咲かんと奮起している。

 生来女性的な容姿の持ち主で、未だに女子と間違われる。身長も百五十センチ弱しか無く、同級生どころか後輩にも「伊代ちゃん先輩」「伊代ちゃんさん」「シノちゃん」などと呼ばれて慕われている。とてもとても可愛らしい七つ離れた双子の弟妹がいる。名前は弟が千代で妹が美代。

 

 王道とは言い難いが、なんとなく主人公っぽい気がする。

 

「なに考えてんだか」

 

 イヨ自身、荒んでいる自分を自覚している。普段ならここまで荒い言葉も思考もしない。世界間の移動などと云う前代未聞の事件に巻き込まれたせいで、心に余裕が無いのだ。誰もいない草原で一人っきり。四方八方何処まで見渡しても虫くらいしかいない。

 せめて誰かと出会えたら──

 

「もし、其処のお方。お休み中の所を申し訳ございません。少しよろしいですかな?」

 

 イヨは全力で跳ね起きた。

 

 

 

 

 ナザリック地下大墳墓を本拠地とするギルド、アインズ・ウール・ゴウンに仕える執事、セバス・チャンは現在主の命令を遂行すべく、ナザリック近郊の草原を探索している最中であった。共に居るのは戦闘メイドプレアデスの副リーダー、ユリ・アルファ。

 

 ナザリックでは稀有なカルマ値を持つ二人は、誠心誠意丁寧にそれでいて素早く辺りの様子を知覚する。至高の四十一人のまとめ役にして現在のナザリックに唯一残られた慈悲深き絶対者、モモンガその人の命であるからには、万に一つの手落ちも許されない。

 

 シモベとして生み出されたからには、かの御方々の為に身も心も魂も捧げて忠誠を尽くす事こそが自らの存在意義。不注意が為に命を遂行できなかったなどと云う事態になれば、最後まで残られたただ一人のお方すら失望しその身を隠されてしまうかもしれないのだ。

 

 それは、ナザリックのシモベならば誰もが恐怖する最悪の未来である。

 

 直々に命を受けた瞬間の歓喜は何物にも代えがたかったが、いざ遂行しようと墳墓の外に出た瞬間、セバスは驚愕した。

 

 栄えあるナザリック地下大墳墓は、沼地に存在していた筈。しかし、二人の目の前に広がったのは何処までも続く草原であった。地殻変動や魔法による転移では不可能。正に驚天動地の異常事態と言えた。

 

 ──この事態を見越して、モモンガ様は命令を下されたに違いない。

 

 セバスとユリは己が主君の神智とも称するべき能力に驚嘆し、より一層の忠誠を誓った。創造して下さった御方々の名に恥じぬ様に、あの御方に仕えるのに相応しきシモベであらぬばならないと改めて感じ入ったのである。

 

 そんな時だ。小動物以上の生き物が見当たらない草原で、一人の人間の存在を発見したのは。

 

「……セバス様」

 

 数瞬遅れてユリも気付いた様だ。モモンガより指定された一キロの範囲内からは外れているが、ここは自己判断で接触すべき場面だろう。

 

 広域知覚や存在感知等のスキルを持たない二人ではあったが、その五感の及ぶ範囲は常人どころか超人の域すらも遥かに逸脱して余りあるほどだ。片や守護者と同格の百レベルNPC。もう一人はプレアデスの副リーダーであり、生者の気配に敏感なアンデッドであるのだから。 

 

 アサシンの職業を修めているソリュシャンや、後衛として優秀なナーベラルとルプスレギナ、ガンナーとしても種族的にも優れた視力を持つシズ、中衛として幅広い能力を持ち、蟲を使っての人海戦術も取れるエントマも無論優秀なのだが、今回の命令にはナザリック外の存在との友好的な交流が必須。

 特定の種族に対する行き過ぎた蔑視の感情を持つ者や、相手の文化文明によっては特異に見えかねない者は避けた方が無難と判断し、前衛拳士二人と言うアンバランスな組み合わせも承知の上で、セバスは共にユリを選んだのだ。

 

 どうやらそれが功を奏したようだ。

 

 こくり、とお互いに頷き合い、二人は相手に無用な警戒を持たれないよう、あえて普通に足音を立ててゆっくりと近付いて行く。

 

 が、寝転んで空を見上げている少年──一見すると少女にしか見えないほど可憐だ──は、何か考え事でもしているのか、二人の足音に気付かない。そのまま三メートルほどの距離に付き、尚気付かないので、セバスは相手を威圧しない様に意識して声をかけた。

 

「もし、其処のお方。お休み中の所を申し訳御座いませんが、少々宜しいですかな?」

 

 少年は蹴飛ばされた猫の如く跳ね起き、即座に二人に向けて両拳を中段上段に構えた。実力のほどは取るに足らない物だが、姿勢は様になっている。二人の脳裏に僅かな関心が湧いた。数奇な事に、この少年も自分たちと同じく拳士であるらしい。対して、少年の大きな眼に浮かぶの純粋な驚きと警戒だ。

 

 ──いつの間に人が? この恰好は何だ? 執事? メイド? 誰? 

 

 表情から読み取れる内心はそんなモノだ。

 セバスとユリは静かに低頭した。

 

「驚かせてしまったようで、真に申し訳ございません」

「あ……え、ええ。こちらこそすいません。ちょっと考え事をしてて、気付かなくて」

 

 しばしお互いに頭を下げ合う。

 

 お互いにとって幸運な事に、言語の違いは無い様だ。謝罪の意として頭部を下げるという行為の意味が通じている事からも、ある程度近い文化を持っていることがわかる。

 

 未だに慌てている少年を落ち着かせる意味でも、セバスは話を切り出した。

 

「私はナザリック地下大墳墓にて至高の四十一人に仕えるべく生み出された存在の一人、執事のセバス・チャンと申します。こちらは戦闘メイドプレアデスの副リーダー、ユリ・アルファ」

「こ──これはどうも? 僕はイヨと言います」

「イヨ様ですね。我々は主人の命により、ナザリック周辺の地を探索しておりました。貴方さえよろしければ、少々お話をしたいのですが、どうでしょうか?」

 

 主人より下された命を遂行するためには、この存在と交流して情報を引き出し、かつその後に友好的にナザリックに招かねばならない。その為には、こちらの素性は積極的に明かすべきだ。

 

 少年、イヨは少し戸惑う姿を見せた。

 

「あの、お話をするのは良いんですけど、僕はついさっき此処に来てしまったばかりなんです。変に聞こえるでしょうけど、本当に前触れなく急にこの草原に居たんです。質問にもよりますが、満足のいくお答えが出来るかどうか……」

 

 セバスとユリは瞠目した。

 

 前触れなく急にこの草原に居た。それはナザリック地下大墳墓の者たちと同じではないか。もしやこの地の人間では無く、自分たちと同じように転移により来てしまったユグドラシルの存在ではないのか。

 お互いの状況を伝え合うと、やはり同じ事態に巻き込まれている様だった。

 

「良かったです、こんなに早く同じ境遇の人と出会えるなんて。ギルドホームごと来てしまったと云う訳ですか? 貴方達お二人の他に、何人のプレイヤーの方がいらっしゃるんです?」

 

 イヨは安堵していた。異世界に転移してしまったと云う異常事態そのものは何も解決していないが、やはり同じ境遇の仲間がいると分かっただけで気は楽になる。しかも、二十九レベルのイヨと違って、ユグドラシルプレイヤーの大半はレベル百なのだ。

 

 この世界がどういった世界なのかは分からないが、ユグドラシルのキャラクターのままでいてしまっている以上、自衛のための力はあった方が良い。しかも目の前の二人の落ち着いた理知的な雰囲気から察するに、外装だけでは無く中の人も大人なのかもしれない。

 

 キャラの外装も中身も子供である自分一人で行動するより、知恵と経験のある大人の人達に付いて行った方が安全な筈である。しかもギルドホームごと来ているのなら、この何もかもが分からない世界で、其処は安住の地となり得る。是非ともお邪魔させていただきたかった。

 

 そんな考えから来た発言だったが、セバスとユリは顔色を暗くした。月明かりの下でさえ、明らかに気分が沈んだのだろうと察せられるほど。

 

「我々は、四十一人の至高の御方々に創造されし存在……プレイヤー、つまり我らの創造主にして支配者である御方は、四十一人の内四十人がお隠れになられてしまいました」

「イヨ様の質問にお答えするのなら……プレイヤーたる存在はただお一人。至高の四十一人のまとめ役にして唯一残られた慈悲深き君、ナザリック地下大墳墓の絶対の支配者である御方のみとなります」

 

 正直に言って、この言葉を聞いたイヨの感想は『何を言ってるのこの人達?』であった。その沈痛極まる表情から、目の前の二人が深い悲しみを抱いて、それでもイヨの問いに応えるために今の言葉を伝えてくれたのだろうとは察しが付く。

 

 しかし、内容そのものは全く意味が分からない。

 

 最初から主人とか何とか言ってはいたが、創造主とか支配者とか、至高の御方々に創造されし存在とか、普通にゲームをやっていたら全く掠りもしない言葉ばかりである。要約すると、自分たちはプレイヤーに作られた存在で、プレイヤーでは無いと言っている様に思えるが。

 ギルドを持つプレイヤーが作ると言えば拠点防衛用のNPCが思い当たるが、確かそれらは拠点の外には出れず、しかもプログラムを組みでもしない限り喋れもしない存在の筈だ。

 目の前の二人は明らかに自我を持って思考と行動を行っているし、何よりもギルドホームであるナザリック地下大墳墓なる場所から外に出ている。NPCである筈が無い。

 

 ふざけている様には全く見えない。しかし言っている事は訳が分からない。

 

 イヨの知識で納得できるように解釈すると、この人達は『自分たちは作られた存在であり、至高の御方々(多分ギルメン?)にお仕えする被造物である』という設定の下に臣下RPをやっている変わったプレイヤーだと推測できなくも無いのだが。

 

 ──なんともまあ変わった設定のRPだなぁ。というか、この異常事態であっても設定を貫き通してRPを止めないとは、筋金入りのロールプレイヤーだ。ある意味、見上げた根性だなぁ。

 

 流石に社会人プレイヤーともなると遊び方も一味違うのだな、とイヨは一周回って感心する。

 

 正直言って普通に話してほしいのだが、イヨだってリアルではTRPGを嗜む趣味人でもあるので、RPへの意気込みも分からないでは無い。従者ロールプレイは結構楽しいのだ。イヨはSW2.0では良く、ルーンフォークのグラップラーで従者キャラをやっていた。ついうっかりリアルでもPLをご主人様呼びしてしまった時はあらぬ疑惑が生まれたが。

 

 この人達はもしかしたら、異常事態に巻き込まれているからこそ普段通りの言動を貫き通す事で、混乱や不安を跳ね除けようとしているのかもしれない。

 

 この人達も自分と同じように不安なのだ。この沈痛な表情はその感情もあっての事だろう。そう思うと、イヨの内心で二人に対する意識が変わった。

 

 よし、とイヨは意気込む。自分だってTRPGプレイヤー、此処は空気を読んで二人のRPに合わせて見せようと。

 

「……申し訳ありません。我知らず、お二方に残酷な質問をしてしまったようで」

「……いえ、謝られる必要は御座いません。我らには未だに忠義を尽くすべき御方がおられるのですから、悲しみに暮れてばかりでは、偉大なる創造主に顔向けが出来ませぬ故」

 

 イヨの謝罪を、二人は鷹揚に受け取ってくれた。

 

「イヨ様。我らが主人より受けた命令は、知的生命体との接触と交流、そしてその者をナザリックに友好的に招く事なのです。つまりは貴方を」

「どうでしょう? ナザリックにおいで願えませんか? 貴方は我々と同じ事態に巻き込まれた存在。お互いに協力し合えることもあるのではないかと思うのですが」

「はい! 喜んでご招待に預からせて頂きます! みなさんの──」

 

 所属するギルドの名は、と言い掛けつつ、

 

「──みなさんがお仕えするギルドの名を、お聞きしてもよろしいでしょうか?」

 

 顔には出さないものの、セバスとユリの内心に緊張が走る。

 

 自分たちが仕える偉大にして至高なる御方々が作りたもうたギルド、この世で最も貴きその名はアインズ・ウール・ゴウン。ナザリックのシモベ達にとって、己の全てを捧げてもまだ足りないほどの意味を持つ名。

 その名を口にする事すらもが喜びであり、仕える事こそ存在理由かつ責務。創られたモノとしての本懐にして至福。

 本来ならば、何よりも厳かにその名を告げるべきなのだ。至高の御方々の偉大さと想いの全てが籠った御名を。

 

 しかし、今は事情が異なる。

 

 アインズ・ウール・ゴウンは悪のギルド。異形種のみが集い、数多くの殺戮と悪事の限りを尽くしたギルドだ。無論、ナザリック内では珍しく善に片寄ったカルマ値を持つ二人だが、至高の御方々が残した功績の数々に尊崇の念を抱く事こそあれど、嫌悪感など一片たりとも持っていない。

 人間種に対する見下しや蔑視の感情こそ持っておらず、優れた能力と人格を併せ持った相手になら好感を抱き、もしも虐げられる弱者がいれば救う事すらもするだろう二人だが、アインズ・ウール・ゴウンに敵対、更には侮辱を行った者を殺戮する事になんの躊躇も罪悪感も無い。

 

 彼らが緊張を感じたのは、アインズ・ウール・ゴウンの名を教える事で起こる少年の反応を気にしたからだ。

 

 アインズ・ウール・ゴウンは悪のギルド。異形種のみが集い、数多くの殺戮と悪事の限りを尽くしたギルド。ユグドラシル全土にその名を轟かせた悪の大集団。当然敵は多く、以前には千五百人もの討伐隊が押し寄せた事すらある。至高の御方々の偉大さを理解出来ぬ愚か者どもから、蛇蝎の如く恨まれ嫌われているだろう。

 

 自分たちと同じくユグドラシルから来た存在であるこの幼い人間種の少年にとって、その名が嫌悪と畏怖の象徴たる名であったのならば、『そんな所には行きたくない』と言われかねない。それだけならばまだしも、もしもアインズ・ウール・ゴウンと至高の四十一人の御方々を侮辱する言葉を口にしたのならば──

 

 ──大墳墓を出て、周辺地理を確認せよ。もし仮に知的生物がいた場合は交渉して友好的にここまで連れてこい。交渉の際は相手の条件をほぼ聞き入れて構わない。行動範囲は周辺一キロに限定。戦闘行為は極力避けろ。

 ──プレアデスから一人だけ連れていけ。もしお前が戦闘に入った場合は即座に撤退させ、情報を持ち帰らせろ。

 

 それがモモンガの下した命令である。シモベであるセバスとユリにとって神にも等しい御方から下された命令だ。言うまでもなく、それは絶対確実に遂行せねばならない。

 

 もし来ることを拒むのならば、恐怖を抱くのならば。誠心誠意説得しよう。幸いこの少年は割かし素直な質である様で、現在までの所はこちらにも誠意をもって相対している。真っ直ぐに言葉を尽くし、安全の保障をすれば、あるいは案外すんなりと招かれてくれるやも知れない。楽観的な予想ではあるものの、そう外れていない予測でもある事実をセバスとユリは思う。

 

 侮辱や罵倒の言葉を吐きつけたならば。シモベの本音としては、その様な存在は頭蓋を砕いて骸とせしめてやりたい所だ。だが今は緊急事態の只中。情報源はどんなものであれ、あった方がいい。賛否分かれる判断ではあるが、セバスとユリはその場合、手足を砕いて猿轡でも噛ませ、客人では無くただ単なる『情報』として搬入するつもりであった。

 

 もしそうなった場合、主であるモモンガはどう思われるだろうか。妥当な判断だと頷くか、間違っていると叱責するか。

 後者であった場合、あるいは叱責そのものは怖くは無い。シモベとして命令を果たせなかった挙句お叱りを受けるというのは絶望を感じるに余りある、身切れるかのような苦痛であろう。しかし、それはセバスとユリが至らなかったせいという事で片付く可能性もある。至高の御方への謝罪として命を奪われるのであれば、二人の命で至高の御方が納得するのであればまだいい。

 

 だがもしも。他の御方々と同じく、お隠れになってしまわれるとすれば。セバスとユリだけでは無く、ナザリック地下大墳墓の全シモベに愛想を尽かし、『お前たちは要らない』という、苦痛よりも死よりも辛い無価値と不必要の宣告を受けてしまったならば──。

 

 一瞬のうちに其処まで考えが及んだからこそ、二人は緊張した。現時点では可能性でしかないそれらだが、可能性が有ると云う時点でなんと悍ましき事か。

 

 この少年がアインズ・ウール・ゴウンの事を知らないか、せめて悪感情を持っていませんようにと二人は願う。

 

 会話として常識的な間に圧縮された思考の後、セバスは外見的に一切の異常を見せず、その名に相応しく厳かに告げた。

 

「ギルド、アインズ・ウール・ゴウン。それが我らがお仕えする四十一人の至高の御方々がお作りになられた組織であり、私共の全てで御座います」

「アインズ・ウール・ゴウンと仰られるのですか! かっこよくて素敵なお名前で──アインズ・ウール・ゴウン?」

 

 イヨは英語に限らず外国語が著しく苦手であり、単語の意味などは皆目分からない。しかし、分からないなりに名前の響きに良きものを感じ、感じるがままの称賛を言葉としたが──不意に止まる。

 

 アインズ・ウール・ゴウンと、ナザリック地下大墳墓。片方では分からなかったが、両方が揃うと、頭の何処かに引っかかる。何処かで聞いたような、漫画やテレビでは無くユグドラシルの中で、ユグドラシルに関連した何かで。

 

 もう少しで思い起こせそうなのに、あと一歩で思い出せない。そんなもどかしい感覚がイヨの表情を歪め、眉根を寄せて視線を斜め上にやる。その顔は傍から見れば、負の感情の発露に見えなくも無かった。

 ユリとセバスが僅かに身を固くした事に微塵も気付かず、イヨは首を捻った。想起される記憶は、ゲーム内では無くリアルで友人と交わしたもの。ゲームを始める以前の、友人が語る話だけでユグドラシルを知っていた頃のもの。

 

『すっげえだろコレ!? 千五百人だぜ千五百人! 全員がプレイヤーって訳じゃないけど、たった四十人そこらで勝てる人数じゃないって普通さ! 全盛期はランク一桁だったらしいし!』

『うわぁ……なにこれ、あれ何が起きてるの? 魔法?』

『いや、ワールドアイテムを使った何かって予想がされてるだけで、実際の所は解明されてないんじゃなかったかな? wikiにもそこまでは書いて無かったし……でもホントすごいだろ! ワールドアイテムを十個以上持ってるんだぜ!?』

『十個以上!? あれって一個持ってるだけでもすごいって前に言ってなかった? へー……この、ギルド? チーム? パーティー? ってどんな名前なんだっけ?』

『最初に言っただろ? ユグドラシル最凶最悪の悪役RPギルド、その名も──』

 

 ──アインズ・ウール・ゴウン。

 

 一度思い出せば、後は雪崩のように記憶が蘇った。実際に眼にした事は一度も無かったが、友人を始めとする何人かから逸話を聞かされた事があった。

 

「アインズ・ウール・ゴウンって、あのアインズ・ウール・ゴウンですか!? あの、えっと、千五百人の討伐隊を返り討ちにしたあの! わあ、すごい! 会えるなんて思ってもみませんでした!」

「おお、イヨ様は至高の御方々の偉業を知っておられるのですか!」

 

 セバスとユリの顔色が、夜目にも明らかに良くなった。真剣な表情を緩ませ、微笑みさえ浮かべる程に。

 

 まあ一応知ってはいた。活動規模が随分と縮小して一説にはメンバーの殆どが引退したとの噂も流れていたし、事実イヨがゲームを始めた頃には全く表立って活動していなかったが、それでも非常に有名な話だ。ユグドラシルプレイヤーの中で、その名を聞いた事が無いものは存在しないのではないかという位に。

 幾ら本拠地の機能と優位性をフルに使っての防衛戦とはいえ、千五百対四十一で後者が勝つのは異常どころの話では無い。イヨが友達に見せられたムービーの一件などは違法改造ではないかとの訴えが続出して、運営の査察が入ったとまで聞いている。そして運営から違法性は無しとの判断が下され、アインズ・ウール・ゴウンとナザリックは正に伝説となったのだ。今思い出したが。

 

 他にも彼のギルドの武勇伝は事欠かない。大規模PKや敵対ギルドの討滅、稀少鉱山の独占など、悪のRPギルドだけあって、その所業は正に悪の王道。さながら魔王の如しだ。蛇蝎以上に嫌われていたとも、その苛烈な有様に魅了される者もまた多かったとも、イヨは聞いている。

 

 なにより、その有名性はなにも『悪い奴らだった』というだけが理由では無い。

 

「わ、ワールドチャンピオンのたっち・みーさ──様がいたギルドですよね!? エクリプスのモモンガ様がギルド長を務めておられるとお聞きしています!」

 

 ユグドラシルのwikiにはアインズ・ウール・ゴウンの項目があり、それとは別にアインズ・ウール・ゴウン攻略wikiなども存在している。それらのページにおいて、最も多くの文章量で『特に注意すべし』と綴られているのが、この二名を筆頭とした数名である。

 

 ワールドチャンピオン。それはサーバー毎のPVP大会で優勝した者のみが就く事を許される、正にトッププレイヤーの証明。強キャラが作りにくいとの一般論を打ち破って異形種でその座に付いたたっち・みーは、前衛職のプレイヤーの中では非常に有名である。異形種ならではの高ステータスと見事にかみ合った職業構成、そしてその超級のプレイヤースキル。彼のギルドでは珍しく、正義のRPを貫いた人物でもある。

 

 イヨの憧れの人である。もしも現役だったら是非手合わせして頂きたいと思っていた。アインズ・ウール・ゴウンの名は忘れていても、たっち・みーの名は忘れていなかった位だ。もしも先にこの名を出されていたら、それを切っ掛けにギルド名を思い出していたかもしれない。

 

 もう一人の要注意者、モモンガ。この人物、実はwikiには『RPに偏重したビルドの為、魔法職としての火力的には中の上から上の下』と明記してあり、そこだけ見ると同じく要注意人物であるウルベルト・アレイン・オードルなどの方が危険な様にも思える。

 

 しかし、彼の場合はそのRPに偏重したビルドが厄介なのだ。死を司る魔法詠唱者として異常に特化し、しかも全身を神器級装備と課金アイテムで武装。ユグドラシル全体でも数えられる程しかいないエクリプスの職業に就いたロールプレイヤーだ。

 即死完全耐性も即死無効化も貫通する超スキルと専用ワールドアイテム、そしてこれほどの情報が公に晒されているにもかかわらず、PVPで勝ち越すという本人のプレイヤースキル。たっち・みーとはまた違った方向性の超級プレイヤー。wikiのコメント欄でDQN廃人、反則廃人、ガチ魔王と異名とも陰口とも取れる名で呼ばれた人物。

 

 ぶっちゃけた話、百レベルの魔法職と云うだけでイヨにとっては憧れの存在である。なにせ、イヨは魔法職を諦めた人間なのだから。

 百レベルに達した魔法詠唱者は、最低でも三百の魔法を使えるのだ。三百の名前と効果と範囲と射程と──その他諸々の情報を頭に入れているだけでもうすごい。それらを場面場面によって有効に使い分けるとなれば、イヨには絶対にできない境地だ。

 更に、モモンガは七百以上の魔法を使い分けると書いてあった。雲上人だ、とその文を読んだときイヨは思った。またその威厳溢れるRPも有名で、攻略wikiとユグドラシルwikiの双方に『一見の価値あり。勇者RPで渡り合ってみるのも一興』と書いてある位である。

 

 そんなすごい人たちのギルドに行けるなんて夢のようです、とイヨはプロ野球選手に憧れる野球少年の如き情熱と興奮で喋り倒した。喋っている最中にRPが剥がれなかったのが奇跡とすら思える位であった。

 

「ああ、すいません! 僕一人で喋っちゃって……」

「いえいえ、イヨ様のお気持ちはしかと伝わりましたとも。どうか頭をお上げ下さい」

 

 これに非常に機嫌を良くしたのがユリとセバスである。自らが仕える主人、自らの創造主への無垢な憧憬と尊敬をぶつけられて、機嫌が悪くなろう筈がない。元々人間種に好意的な面もある二人は、目の前の幼い少年を好ましく思っていた。

 

 ──やはり、人間にも良きもの、見る目のあるものはいる。

 

 どのような人物であれ情報源としてナザリックに招く事は命令で決められていたが、やはりシモベの心情としては、下賤な者など至高の地に踏み入れさせたくはないのだ。

 その点、この少年は至高の四十一人とナザリックにとても好意的で、特にセバスの創造主であるたっち・みーと唯一残ったモモンガを殊更尊敬している様だ。この分ならば他の守護者たちも、情報を搾取した後に『有効利用』しようなどとは恐らく言い出さないだろう。

 

「ナザリックは近いのですか?」

「はい、ここから二キロと離れておりません。人の目では見えないかもしれませんが、あちらの方向に御座います」

 

 ──モモンガ様に、良いご報告が出来そうです。

 

 主人よりの命を完璧に遂行するのはシモベの義務であり、大いなる喜びだ。その達成感と幸福感は、命を受けた瞬間の歓喜にも勝るものとなるだろう。

 二名がともにそう考えた瞬間、セバスの脳裏に〈メッセージ/伝言〉が響いた。丁度今思い浮かべた、主であるモモンガその人からである。

 

「すみませんが、メッセージが届きましたので、少し外させて頂きます。ユリ・アルファ、しばしイヨ様とご歓談を」

「かしこまりました」

「はーい」

 

 僅かに低頭するユリと笑顔で送り出すイヨに背を向け、やや離れた場所にて姿勢を正し、

 

「これはモモンガ様……どうかなさいましたか?」

 

 

 

 

「そうか、でかしたぞセバス!! ──お前とユリの働きは称賛に値する」

『勿体無きお言葉で御座います。……しかし、モモンガ様より命じられた一キロの範囲を自己判断で超過してしまい──』

「よい、不問に処す。その場合で頑なに命令に固執するのは明らかな悪手だ。現場の柔軟な判断は成果を得るために不可欠。何も謝る事は無いとも」

 

 送り出したセバスからの報告を聞いたモモンガは、情報源が見つかった事に大きな喜び──直ぐ何かに押さえつけられたかのように平坦な状態へと戻ったが──を感じていた。慣れない上位者の振る舞いや言葉遣いも思わず滑らかになるほどだ。

 

 懸念材料は無くなっていない。やはりナザリックは何処か見知らぬ地へと転移したらしく、沼地であったはずの周囲は何の変哲もない草原だと云う。ゲームの現実化、若しくは世界間の移動。異常にもほどがある事態だ。

 

 だからこそ、そんな事態の只中で同じ境遇の存在を発見できた事は幸運だ。

 

 仮にここが異世界だとすれば、最重要の情報は現地の知識だろう。世界が違えば何もかもが違う可能性もある。極端な事を言えば、この世界では羽虫や小動物すらユグドラシルのレベル千に匹敵する可能性も無いとは言えないのだから。

 現地の人間、もしくは人間に相当する知性体から直接話を聞ければそれが最上だった。それは叶わなかったが、同じユグドラシルのプレイヤーと接触出来たのは次点の上出来だ。

 

 ──確定だ。この世界には他にもユグドラシルのプレイヤーがいる。

 

 自分とそのもう一人の共通点を探る事で、転移の切っ掛けや条件的なものが掴めるかもしれない。共通の何かを持ったプレイヤーが転移してきていると不完全でも推測できれば、そこから更に今後の指針を掴むことは十分に可能だ。

 

 モモンガは元から自分だけが選ばれた、来てしまったなどとは考えていなかった。そしてそれは早々に実証された。ナザリックとナザリックから数キロの範囲に二名もいるのだ。他にも沢山、もしかしたら数百数千、最終日の最後まで残っていたプレイヤー全員が此方に来ている可能性だって完全に無いとは言い切れなくなってきた。

 

 ──もしかしたらアインズ・ウール・ゴウンのメンバーも来ているかもしれない。

 

 その可能性は高まったと言ってもいいだろう。少なくとも、モモンガは全くの孤独ではないのだ。

 

 イヨという名前には聞き覚えが無いが、向こうは此方に著しく好意的で、人間種の少年アバターらしい。

 人間種のプレイヤーとの友好関係を築けば、今後出会うだろう他のプレイヤーに対する宣伝にも使える。悪のギルドとして此方を毛嫌いしていてもおかしくない人間種のプレイヤーに、実績としてアピールする事で争いを事前に回避できる手札となるだろう。悪役RPで知られた自分たちが人間種のソロプレイヤーを保護しているのはインパクトが大きい。

 

 しかもセバス曰く、イヨの実力のほどは体感で三十レベル程度。装備がレベルの割に上等である事を考慮しても四十レベル相当には到底達し得ない程度らしい。

 もし話し合いが拗れて敵対状態になってしまったとしても──聞く限りではその可能性は低そうだが──モモンガ一人でどうとでもなる。何ならプレアデスの内一人だけでも十分すぎる程だ。

 

 相手は最初から此方に好意的で友好的、しかもなんら脅威足り得ない弱者で、しかし利用価値は大きい。

 

 下手に正義感にあふれた百レベルの上位ランカーだったりした場合、負ける事は無いだろうがナザリック側に被害が出る可能性もある。それに比べて、イヨはファーストコンタクトの相手としては理想的と言ってよかろう。

 

 ……この異常事態の最中で同じ境遇の人物が見つかったと云うのに、その人間をいかに有効利用するか、敵対した場合の対処等を淡々と考えている自分にやや違和感を覚えるモモンガだが、今は他の事を考えている時間は無いと思い直し、深く考えるのを止めた。

 

 電話の先には指示待ちの部下がいるのだ。与えた仕事で見事に結果を出してみせた部下を放って私事にかまけるのは、上司として褒められた態度では無い。

 

 モモンガは無い舌で無い唇を湿らせる様な仕草──傍目から見たら僅かに上顎と下顎を動かしたようにしか見えない──をし、精一杯威厳ある声で命じる。

 

「セバス、現在アンフィアテアトルムに守護者全員を集めている。その人物を連れてそこまで来い」

『畏まりました、モモンガ様』

「極端に遅くならない限り、時間は特に指定しない。一応の目安としては二十分後だ。その人物と交流を深めて友好的な反応を引き出し、よりナザリックに親近感を持たせるのだ。場合によっては今後客人として遇する事も考えられる。他の者にも通達するが決して危害は加えず、不快にさせる様な真似も極力控えろ」

 

 了解の意を聞き、メッセージを解除。続いてアルベドに繋ぎ、セバスが連れてくる存在を害さない様に徹底させる旨の指示を出す。

 

 ──やっぱり支配者の演技は疲れるなぁ。ああそう言えば、他のプレイヤーの前ではこんなことしなくていいんだよな。そういった点でも、外部のプレイヤーを客人としてナザリックに住まわせるというアイデアは悪くないな。相手がまともな人でさえあれば、交流は息抜きにもなる。

 

 そうしてから、アウラとマーレの期待の籠った視線を思い出し、モモンガはスタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを掲げた。

 

 

 

 

 交信を終えたセバスが戻ってくると、ユリとイヨは何故か取っ組み合いをしていた。

 

「この状態で片足を取られますとほぼ詰みですので、相手の重心と自分の重心を──」

「なるほど、勉強になります。でもこの場合はもう割り切って組み技か絞めに行った方が良いのでは──」

「そこはケースバイケースですが、相手が多肢や不定形などの非人間的構造ですとそもそも密着状態そのものが不利過ぎますし、やはり基本は間合いを自由に使いながらの立ち技が──」

 

 なるほど、とセバスは得心する。共に素手での戦いを得手とする拳士職、共通の話題から入るのは会話の基本であるし、自然に指導や意見の交わし合いとなる為、交流は活発になる。親交を深めるにはうってつけの手段だ。

 流石はユリ・アルファ。プレアデスの副リーダーであり、ナザリックでは稀有な善の属性を持つ者だ。結果論ではあるが、やはり彼女を共に選んだのは正解であった。

 

「お待たせして申し訳ありません」

「あ、セバスさん!」

 

 警戒心の一切ない子供らしい足取りでイヨは駆け寄り、興奮気味にまくしたてる。

 

「お話はどうでしたか? ユリさんとっても知識が豊富で、僕、色々教えてもらってました!」

「いえ、私の方こそ良い刺激になりました。イヨ様はまだ幼いのに、とてもお強いです。同レベル帯なら私の方が勝率は低いかも知れません」

「ほう」

 

 真面目なユリの言う事であるし、浮かべた表情からしてもお世辞では無く本音の評価なのだろう。至高の四十一人の一人であるやまいこに創造された彼女に此処まで言わせるとは、イヨと云う人物の腕の良さが分かる。

 

「いえいえそんな、僕よりユリさんの方が攻めが多彩ですし、殴り合いだけが格闘じゃありませんから。ユリさんの方が強いですよ」

 

 両手を振って否定するイヨだが、褒められたのが嬉しかったのか、表情は明るい笑顔である。女性的な容姿の男の子と云う点では守護者であるマーレと同じ分類の存在である彼がそうすると、幼さが強調される。

 

「本当に強いですよ、ユリさんは。ちょっと失礼な質問かも知れませんが、リアルでも格闘技をやってらっしゃったりしませんか? 何歳位からやってたんです? もしかして、有名な選手の方だったり?」

 

 彼の質問に、セバスとユリは揃って不思議そうな顔をした。

 

「リアル……至高の御方々が拠点を持ってらっしゃると云う、我らでは立ち入れぬ地だったでしょうか? やはり同じプレイヤーであるイヨ様も其処に拠点を……」

「私は至高の御方であるやまいこ様に斯くあるべしと創造されたので、何歳位から、等はありません。生まれた時から、この定められた通りの力を持っていました」

「あっ……そ、そうなんですか。ちょっと口が滑りました、すいません」

 

 イヨは顔を俯かせて、小さな声でぼそりと口にする。

 

「ロールプレイ中にリアルの事とか聞いちゃいけないよね、うん、僕が悪い。しっかり設定に合わせていかないと。……僕も一人称を名前にしたりとか、キャラを作った方がいいのかな……」

「どうかなさいましたか、イヨ様」

「何処かお加減でも? 」

「いえ、なんでもないです! あのアインズ・ウール・ゴウンの皆様が統べる地に行けると思うと、歓喜で体が震えて来ちゃいまして! 本当に光栄です! 」

 

 このRPの方向性で良いんだよね、とイヨは思案しつつ喋っていた。アインズ・ウール・ゴウンは悪のギルド、ナザリック地下大墳墓はその総本山。そして自分はそれらに尊崇の念を持ったか弱い人間。大体そんな感じを基本として、魔王城に招かれた悪魔崇拝者的な感じをイメージの下敷きとする。

 

 イヨの言動に理解が及んだのだろう、ユリとセバスは揃って納得した。

 

「おお、そうでしたか。イヨ様。私は先ほど、ナザリックは第六階層まであなた様を案内するようにモモンガ様より命を下されました。道中歓談などをしつつ、ご案内させていただきたいと思っておりますが、宜しいでしょうか?」

「はい、ぜひお願いします!」

 

 

 

 

 所と時間は変わって、此処はナザリック第六階層アンフィアテアトルムである。情報源たるイヨの案内を命じられたセバス以外は既に集合し、各階層の異常の有無やナザリックの警備、隠蔽などについて話し合った後だ。

 

 モモンガは最後、居並ぶ守護者たちに自身をどう捉えているかと質問した。果たしてその答えは──

 

「美の結晶。まさにこの世で最も美しい方であります。その白きお体と比べれば、宝石すらも見劣りしていしまいます」

「守護者各員ヨリモ強者デアリ、マサニナザリック地下大墳墓ノ絶対ナル支配者ニ相応シキ方カト」

「慈悲深く、深い配慮に優れたお方です」

「す、すごく優しい方だと思います」

「賢明な判断力と、瞬時に実行される行動力をも有された方。まさに端倪すべからざる、という言葉が相応しき御方です」

「至高の方々の最高責任者であり、私どもの最高の主人であります。そして私の愛しいお方です」

 

 ──なにその高評価。全くの別人だろ。

 

 笑いながらそう突っ込んであげられたらどんなに気が楽だったか。居並ぶ守護者たちの表情は真剣そのもの、決して冗談で言っているのではないと理解できる。

 

「……なるほど各員の考えは理解した。それでは私の仲間たちが担当していた執務の一部まで、お前たちを信頼し委ねる。今後とも忠義に励め」

 

 なんとかそれだけ言うことが出来た。正直もう転移してこの真っ直ぐな崇拝と賛辞を突きつけてくる目線から逃げたかったが、セバスの報告がまだだからそうもいかない。

 現地の情報と招いた情報源の紹介は、皆が共有すべき情報だからだ。折角主要な者たちが集まっているんだから、ここで周知させておくのが一番手っ取り早い。

 

 とりあえず跪かせたままではなんだから、楽な姿勢を取る様に命じるか。こんな光景を他者に見られたくはないし──とモモンガが思考した所で、その優れた聴覚が速足で近寄って来る二つの足音を捉えた。

 

「モモンガ様、お待たせしてしまい真に申し訳ありません」

「遅くなってすいませんでした!」

 

 背後から聞き覚えのある重厚で低い声と、初めて聞く声変わりの気配も無い高い子供の声を聞いて、モモンガの全身から血の気が引いた。骨だが。

 ぎぎぎ、と音を立てそうな動きで振り返ると、腰を九十度に折り曲げて謝罪するセバスと同じく、頭を下げている金の三つ編みの子供が視界に移った。

 

 見られた、もしかしたら今までのやり取りも聞かれたかもしれない、とモモンガが脳裏で絶叫を上げる。子供の方は自分と同じくユグドラシルのプレイヤーなのである。当然NPCが如何いった物かも知っている。

 

 命じなければ動かない、プログラムを組まねば喋らない。当然自分の意思など持っていない存在。ユグドラシル時代ならばその理解で間違っていない。

 

 つまりこの光景は『お人形を跪かせて自分を賛美させ、偉そうに君臨して支配者ごっこに興じている大人』的なものにも見えかねないのだ。そうでなくても高々ゲームの一プレイヤーが支配者然とした振る舞いを取っているのは失笑物の光景だろう。

 

 かといって守護者たちの目の前で素の口調で外部のプレイヤーと接するのも問題がある。なぜ自分は此処に連れて来いなどと命じたのか。それが一番効率が良いからだ。にしたってこうなる事はちょっと考えれば想像できただろうに。

 

 テンパった心の水面が一瞬で平定し、静かなものとなる。

 

「構わないとも。時間を指定しないと命じたのは他ならぬ私だ。お前には何の責も無い。頭を下げる必要は無いぞ、セバス」

「有り難きお言葉に御座います、モモンガ様」

「ありがとうございます!」

 

 ──他所様の前で様呼びはやめろ、やめてくれ。

 

 またもや一瞬で平定。

 

 取りあえずは支配者然とした態度で通すしかない。組織の運用に必須で、仲間の子供とも言える百レベルNPC達と外部の三十レベル程度のプレイヤー一名。どちらを選ぶべきかははっきりしている。後で事情を説明するにも、色々ぶっちゃけて話せるプレイヤーの方が簡単だ。

 

 なるべく威厳たっぷりに、頭を上げた二人を見やり──少年と聞いていたアバターの外見が少女の物である事にちょっと驚き、マーレと同じ男の娘タイプかと納得し──未だ跪いている背後の守護者たちを少年の視界から隠すように立ち位置を調整する。

 

「セバス、その者が?」

「はい、ナザリック近郊にて出会い、協力を申し出て下さった御方で御座います」

「イヨと言います、初めまして」

「ああ、初めまして。イヨくんとやら。私はモモンガと──」

「失礼いたします、モモンガ様。下等なる人間風情が跪きもせず話をするのは不敬かと」

「私もそう思います」

「ちょっ」

 

 モモンガは後ろ弾を喰らった。頼むからこれ以上話を拗らせないでくれ、とデミウルゴスとアルベドを静止しようとするが、間に合わない。

 

『平伏し──』

「確かに重臣の御方の仰る通り。失礼いたしました、モモンガ様!」

 

 何故か少年は至極ごもっともだという態度で、支配の呪言発動前に自ら跪いた。セバスもそれに続く。ほう、と守護者たちが僅かに関心の声を漏らすが、モモンガはそれどころでは無い。

 

 ──ええええええええええ!? とモモンガは内心で再度絶叫する。精神の安定化が連発されるが、それでも追い付かないほどの動揺を感じていた。

 NPCであるアルべド達はまあ分かる。設定に忠誠を誓っていると書いてあるのかもしれないし、NPCとはプレイヤーに創られるものだから、そもそも前提としてそういう風に出来ているのかもしれない。

 

「先ほどは無礼を働きまして、誠に失礼いたしました。至高にして至尊なる御方、生者も死者をも超えた絶対の不死者、モモンガ様!」

「ふむ、成程──下等生物にしては礼儀を弁えているようだね」

「勿論でございます! 定められた寿命に縛られる我ら人間種との格の差は明らか。弱者が強者に、下位なる者が上位の者に服従するのは当然の摂理かと」

 

 なんでプレイヤーであるこの少年までが自分に跪く、褒め称える? 分からない、さっぱり分からない。アインズ・ウール・ゴウンは、そしてそのギルド長である自分は嫌われ者だった筈だ。

 

 勿論ファン的なプレイヤーが皆無だった訳では無いだろう。事実憧れを抱いていた者の何人かとは話した事がある。

 

 しかし彼ら彼女らは、あくまでも十大ギルドの一角である事に称賛の念を抱いたり、悪のRPに理解を示したりしてくれた普通の人達だった。決してこんな何処の漫画だ、と言いたくなるような言葉で自分を称える狂信者では無かった。

 モモンガが今まで偶然出会わなかっただけで、この様な熱狂的なファン? が今までも存在していたのだろうか。そう思うと背骨がうすら寒くなった。

 

「お──面を上げよ」

「はっ」

 

 俊敏な動作で顔を上げた少年の瞳に移るのは何処までも真剣な色と──はっきり見て取れるほどのモモンガへの肯定的な感情。嘘偽りの気配は欠片も無い。

 

 ──こいつ、本気だ。

 

 そう理解したモモンガは十歩分程退いて距離を取りたい衝動に駆られるが、背後には守護者達が居る。どっちを向いても熱狂的な信者に囲まれているという現実に鈴木悟の残滓が悲鳴を上げかける。が、立場上そんな事が出来るわけが無い。如何にか状況を打開するべく言葉を紡ぐ。

 

「そこまで硬くならずともよい。部下の発言は兎も角、私自身は君を客人として遇したいと考えている。対等な言葉遣いでかまわないのだが?」

「いえ、恐れ多いことで御座います。ナザリックの絶対支配者であるモモンガ様にその様な接し方は許されるものではありません。願わくば、シモベの一端として平伏す事を許していただきたくあります」

 

 ドン引きである。なんでそんなマジな顔ですらすらとそんな台詞が喋れるのだ。NPC達と違ってこの少年は自分と同じプレイヤーである筈なのに。

 まさかこの世界はみんなそうなのか? ゲームの現実化や異世界では無く、存在する全ての者がモモンガを神の如く崇め奉る嬉し恥ずかしな妄想ワールドに転移してしまったのか? なんだその地獄は。

 

 ちやほやされるのが嬉しくない訳では無いが、これは流石にあんまりだろう。此処までされたいと思った事など今までの人生で一度も無い。誓って言える。

 

「セバス、君にしては良き人間を連れて来たじゃないか。手間が省けるよ」

「お褒めの言葉ありがとうございます、デミウルゴス様」

「モモンガ様? 早速、この下等生物とセバスから外部の情報を受け取るべきかと思いますが」

「あ、ああ。……良きにはからえ」

 

 この場を任せるとの意を受け、アルベドが場を仕切りだす。そんな光景を半ば茫然と眺めながら、モモンガはこれからこいつらと一緒に過ごすのか、と前途に大いなる暗雲を感じていた。

 

「周囲は何の変哲もない草原であり、小動物以上の生物は全くおりませんでした」

「ふむ……天空城の様な物が浮かんでいる訳でも無く、特異なフィールドでもない、か」

 

 ──早く一人の時間が欲しい。

 

 切にそう思う。NPC達は神か何かの様に自分を崇拝し、同じ目線で話し合えるかと思ったプレイヤーすら自分を絶対の上位者として扱う。心の安らぐ暇がまるでないではないか、と。

 

 バッドステータスとしての疲労は無効化されている筈なのに、既に心が重たくて仕方が無いモモンガこと鈴木悟であった。

 

 

 

 二十分後、事実確認と情報の擦り合わせの為に嫌々イヨと二人きりになった時、

 

『アインズ・ウール・ゴウンの皆さんのRP、すごかったですよ! まるで本当の悪の組織みたいで、モモンガさんも魔王っぽさが板についてましたね! やっぱり普段からああやって遊んでいたんですか? 僕もついRPに熱が入ってしまって……いやぁ、楽しかったですね! 改めまして、篠田伊代と申します。モモンガさん、これから宜しくお願いします!』

 

と言われ、モモンガは全身脱力を起こして膝から床に崩れ落ちたという。

 

 




「モモンガさん! 世界征服って本気ですか!?」
「えっ!?」

「モモンガさん! 死体が欲しいからリザードマンの村を襲うって本当ですか!?」
「え?」

「モモンガさん!? 人間牧場って正気ですか!?」
「……え?」

みたいな展開を考えはしたけど、無理だなって断念したやつです。カルネ村で終始ガゼフと一緒に陽光聖典と戦うとか、そのまま王都にお呼ばれしてアインズ・ウール・ゴウンの名を宣伝するとか、原作とは同じストーリー展開で「原作のあの時、オリキャラは裏でこんなことしてたよ」みたいな展開のつもりでした。

この世界線の場合、イヨは終始客分であり外様の存在で、アインズ・ウール・ゴウンのメンバーにはなりません。モモンガ様がアインズ様に改名した後で、外付け良心回路として(都合の良い時だけ)使われる感じでした。鉱山のカナリアみたいな。

「もし他のメンバーの方が此方に来ていたとして、大量虐殺なんかしてたら嫌われてしまいますよ」「来てたら精神の異形化が絶対に起こるかも不明ですし、殺してからじゃ取り返しがつかないのですから、取りあえずヤバい事は避けていきましょう? お願いします!」「人を特別扱いしろとは言いませんけど、ね? 穏便に行きましょう?」「アインズ・ウール・ゴウンで世界を平和裏に、あくまで平和裏に征服しましょうよ。そうしたらギルメンの方を発見するのも簡単になりますし!」

苦労人キャラのイヨ……人格変わりそうですね。擦れて良くも悪くも大人になりそう。



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新生活と消えた記憶

「リウル、起きてー」

「んっが……」

 

 リウル・ブラムは酒が好きだ。単純に味が好みと云うのもあるし、あの心地よい酩酊感が何とも言えず、初めて飲んだ時からそれはもう大好きだった。最初の頃は止め時が分からず、気付いたら床で寝ていた、気付いたら朝だった、まだ大丈夫だと思っていたら次の瞬間に吐いた、と醜態を晒しに晒したものだが、一年も経つ頃には自分の酒量を身体で覚え、そんな事も無くなっていた。

 

 リウル・ブラムは酒が好きだ。体質的にも酒精に強いため、飲むときはガンガン飲んで食う。しかしまあいくら強かろうと無制限に飲める訳では決してなく、飲めば飲んだだけ酔う。

 リウルは歳の割にかなり強く、酒豪と言っても過言では無い。ただしザルでは無い。

 

「もう朝だよ?」

「……日は昇ったのか?」

「もうすぐ夜明け」

「はえぇよ……」

 

 自分の酒量を超えて飲み過ぎた。故に今のリウルは二日酔いなのである。

 

 声変わりの気配すらも無い少女染みた声も、今日に限っては割れ鐘の如く頭に響く。優しく、労わりと思いやりを込めて撫でる様な力加減で背を揺さぶってくる手も、今回ばかりは降り下ろされるハンマーの如き衝撃に感じる。

 普段無意識のうちに動かしている瞼さえ矢鱈と重く、石蓋をこじ開ける様な多大な労力を払い、どうにか右の眼を開ける。するとリウルの視界には、白金の長髪を流したまんまるおめめの子供が写った。

 

 金の瞳、薄桃色の唇、雪色の歯、血色の良い柔らかそうな頬。普段とは髪型が違う為に、外見だけなら良い所の令嬢の様だが、顔に浮かぶ稚気溢れる表情がその印象を覆しており、総評すると、幸せそうな子供と云った感じだ。

 

 ──三つ編み解くと途端に印象が変わるな、コイツ。

 

 これでお淑やかな表情や気品のある立ち振る舞いを覚えれば正にお嬢様なのだが、陽だまりで昼寝している猫の如き雰囲気の所為で、外見の良さが良い意味で目立たないのだろう。

 

「おはようリウル」

「……お前は昨日飲まなかったんだっけか?」

「あんまり覚えてないけど、アピル酒? だっけかな? それの果汁割りを飲んでたよ。甘くておいしかった」

 

 アピル酒は酒精が薄く口当たりのよい甘い酒で、年若い女性に人気がある。量さえ飲まなければ余程弱くても二日酔いにはならないとされ、その酒を更に果汁で割ったら殆どジュースである。

 

「俺はどの位飲んだ?」

「僕が覚えてる限り、葡萄酒だけでも一人で三本くらい空けてたかな? 最初は止めようと思ったんだけど、バルさんとベリさんがあの位飲んでた方が翌日静かでいいから放っておけって」

 

 にこにこと、何故か嬉しそうな笑顔でイヨは囁いた。あまり大きな声を出すとリウルの体調に触ると配慮したからだろう。彼自身も寝起きなのか、昨夜にわざわざ着替えたらしいゆったりとした寝間着のままである。清潔で簡素な白の衣装が良く似合ってはいたが、色使いの印象的になんだか修道女めいた感じ──今は髪を三つ編みにしていないせいもあってか──で、完全に男には見えない。

 

 ──これでも男で、しかも強いんだから世の中不思議だ。

 

 万全の態勢で寝入ったらしいイヨに対して、リウルは普段の装備品を身に着けたままだ。革と金属を巧妙に組み合わせた防具と、無数に仕込まれた道具、武器、マジックアイテムの数々を。お蔭で節々が妙に痛む。

 

「まるで覚えてねぇ」

「リウル、本当にたくさん飲んだもんね。はい、お水」

「ん」

 

 ベッドから体を起こし、イヨが無限の水差しで注いでくれた水を一気飲みする。乾いた体と口内に、冷えた水分が心地よかった。

 

「顔も洗うよね? いまお湯を用意するから、少し待ってて」

 

 水差しから机の上の桶に水を注ぎ、マジックアイテムで加熱し、清潔な布を用意する。そんな作業を手際よくこなす少年の後姿を、リウルは有り難い思いで見守っていた。

 此処は冒険者御用達の宿『下っ端の巣』の二階にある相部屋の一室だ。相部屋と言っても、イヨとリウルの仲を勘繰った他の冒険者は部屋を取っておらず、昨日の晩からずっと二人きりの空間だったが。

 

「なんで此処にいるんだ……昨日はお前の歓迎会って事で、金の牡鹿亭で飲んでたよな?」

 

 最初の内はちゃんと歓迎会だったのだが、その内イヨと副組合長の試合を見た連中やイヨを推薦した人たちが集まり、最終的には宴会になったのだった。楽しかったねー、とイヨは暢気に笑う。

 

「確か、リウルが僕を此処まで引っ張ってきたんだよ。幼いうちから無駄遣いをすると碌な大人にならない、って言って」

 

 言われてみれば朧げにそんな気がしてきた。商会のお嬢様時代に培った経済感覚と本人の嗜好が合わさってそうなったのだろう、食事は明日への活力だからしっかり食べる、酒は周囲との交流として欠かせない、しかし寝る所などは体調さえ崩さなければどうでもよいと云うリウルの主義だ。

 

 他人に迷惑を掛けないと云う大前提を守った上で、リウルが一人で勝手にそうしている分には個人の自由である。しかし、今回の場合は他人を巻き込んだのだから大いに反省せねばならない。

 

「……ごめんな」

「いいよ。リウルと一緒に居るの、楽しかったから。はい、タオルどうぞ」

「あんがとよ。……お前な、そういう台詞をさらっと言うなよ」

 

 二人はお互いに背を向けると、リウルは服を脱いで身体を拭きだし、イヨは防具に着替えて各種装備品を装着する。【アーマー・オブ・ウォーモンガー】は現在冒険者組合の負担で修理に出している為、アイテムボックスの中から急遽引っ張り出したモンク用装備だ。その後、微妙にぎこちない仕草で髪を結い始める。しばし無言の時間が続いた。

 

 現在はイヨと副組合長の戦いから数えて四日目の朝である。昨晩になってやっとベッドから解放され──拘束中はひたすらお勉強とお説教、後は昼寝などをして過ごしていた──前述の通り、改めて【スパエラ】への加入を祝って歓迎会を催して頂いたのだった。

 

 汗やら浴びた酒やらで微妙にぺたぺたする肌を拭きながら、リウルは思う。こいつ俺に懐き過ぎじゃないか、と。

 

 なんかもう、色々とあからさまだ。触れ方で動作で態度で距離感で言動で、ありとあらゆる全てで好意をあけすけに伝えてくる。バルドやベリガミニにだって懐いてはいるだろうが、リウルに寄せるそれは一段と強い気がする。

 

 子供特有のものなのか、イヨは自分の好意を表に出し、相手に伝える事に何の躊躇いも無い。好き好きオーラ全開でガンガン距離を詰めてくるのだ。

 

 好意を寄せられること自体はまあ、光栄というか普通に嬉しい。イヨの顔立ちは女性的とはいえ整っているし、何よりとんでもなく強い。それ程の人物に良い感情を抱かれているのは悪い気はしない。だが、此処まで好かれる様な事をしただろうかと疑問を感じる。

 

 ──俺、イヨに何もしてないよな? 

 

 何時かと全く同じ心配をしながら、リウルは酒で飛んだ記憶を思い出そうと眉をひそめた

 

 

 

 

 リウルもイヨも酔っ払って覚えていないのだが、二人を含む飲み会連中は二件目にはしごしていた。最初に歓迎会が催された金の牡鹿亭では予算が掛かり過ぎる為、人数がどんどん増えて全員に適度に酔いが回った頃、彼ら彼女らは活沸の牡牛亭に河岸を変えていたのだった。

 

 店で普通に飲み食いしていた無関係の者たちまで巻き込み、宴会は拡大の一途を遂げていた。テーブルや椅子を端に避けて店の中央に大きな空間を作り、立候補者や他薦された者たちが其処で歌を歌ったり即席の踊りを披露したりと、酔っ払い共に酒の肴を提供していた。まあ、やっている連中も酔っているのだが。

 

 現在その空間ではバルドルが顔に合わない美声で恋愛詩を披露しているのだが、最初にイヨがやった空手の型の所為でハードルが上がっており、周囲の観客から野次を受けていた。

 

「てめぇその顔で歌が上手いってどんな理屈だコラァ! なんか腹立つから引っ込め!」

「内容は感動するのにアンタの顔の所為でマイナス百点よ! その悪人面を整形してから出直せ!」

「元吟遊詩人を舐めんなバーカ! 文句があるんなら掛かってこいやこの酔っ払い共めが!」

 

 言っている事は乱暴だが、当人たちも見ている者たちも皆楽しそうな笑顔である。見ている側は酒杯を掲げて一斉に囃し立てているが。

 

 何故か上着を脱ぎ捨てつつ野次った連中──本来は店の給仕だった者たちだが、客と従業員間の垣根は綺麗さっぱり無くなっている──の所に歩み寄ったバルドルは『空の食器を積み上げてより高い塔を作った方が勝ち』と云う勝負を提案。受けて立った二名と共に食器製高層ビルの建築に着手し始めた。

 

 因みに【ヒストリア】のメンバー四人の内、バルドル以外の三人は下戸であり、酒が飲めない。三人は牛乳を飲みながらバルドルの狂乱に生温かい視線を送っているのだが、泥酔した人間には何も伝わらなかった。

 この上なく真剣でアホっぽい勝負に身を投じた三名を他所に、中央の空間には二人の女性冒険者が新たに立つ。

 

「ぃよぉし! 此処は私たちがやるしかあるまい、昇級祝いの時の為に密かに練習していたとっておきの芸を! レラーナ・ミルクラムと──」

「同じく【独眼の大蛇】! リローナ・ミルクラム! 姉妹剣舞いきまぁす!」

 

 観衆が歓声を上げた。単純に見眼麗しい姉妹の躍動に眼を見張っている者が半数と、酔っていてもぶれない剣捌きに感心している者が半数だ。使っているのがモップだと云う一点さえ気にしなければこの上なく見事な出し物であった。

 

 そんな喜々快々とした騒動の中、二本の酒瓶を抱えて方々に挨拶回りをしている一人の少年──全くそうは見えない──がいた。イヨ・シノンである。上着を脱ぎ捨ててシャツ一枚になり、そのシャツのボタンも三つ程開けた開放的な恰好であった。

 

 チラチラと覗く胸元にこっそり目をやっては膨らみがない事に驚愕&落胆して自棄酒を喰らう男衆を大量発生させながら、彼は自分も飲みつつお酌をして回っていた。冒険者、労働者、従業員の区別なく、宴に参加している全員に自己紹介をし続けていたのだ。

 

「新人冒険者のイヨ・シノンでーす、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いしまーす!」

「おうおう、相当酔ってんな少年。俺は冒険者じゃなくて皮なめし屋なんだけど、縁があれば宜しくな」

 

 注ぎ過ぎて溢れた酒が中年男性の手を濡らすが、男性はさして気にした様子も無い。既に酒やら汗やら料理の汁やらで手は濡れていたからだ。

 

 少年と中年は乾杯を交わし、酒杯の中身を飲み干す。 

 

「初見でよく僕が男だって分かりましたね! おじさんは実はすごいおじさんですか?」

「零した酒でシャツが濡れて肌に張り付いてんぞ少年」

 

 首元から下腹にかけてが透けて見えていた。

 酒のせいで守備範囲が拡大した男女がさっきからずっとそれを凝視していたのだが、イヨは彼ら彼女らになんとなく手を振ったりするくらいで、別段気にしてはいなかった。

 

「あー、道理で視線を感じると……別に見られて減るものじゃないし、いいんじゃないかなぁ。駄目でしょうか? どうですおじさん?」

「明日もし覚えてたら後悔すると思うぞ? あと、俺の名はゲドリックだ」

「じゃあ多分忘れるからセーフですよぉ! じゃあねです、皮リック屋のゲドなめしさん!」

「お前いま相当面白いぞ少年。じゃあな」

 

 ゲドリックに対して超近距離で両手を振って去っていくイヨ。あまり働いていない頭で全員に挨拶し終わったと判断し、二本の酒瓶を手近な酒飲みに寄付してから、元の居場所に戻る事にした。

 

 そもそも全テーブルが端に避けられているので、イヨが最初に座っていた席も何処かに行っていた。そんな中でイヨが求めた『自分の居場所』は、

 

「リウル、さっきの見ててくれた!?」

「ん? ああ、見てた見てた。何をやってたんだっけか?」

 

 リウルの隣の席だった。彼女の隣に椅子を持ってきてちょこんと腰を下ろし、ベッドに拘束されていた三日間殆どずっと傍にいてくれた憧れの女の子に、一心に話し掛ける。

 

 リウルが三日間つきっきりだったのは別に彼女がイヨに恋心を持っているからとかでは無く、単にイヨが隠れて抜け出したりしないように見張りをし、またただ寝ているだけでは時間が勿体無いのでイヨに冒険者としての教育を施す必要があったからだった。更に言えば、残りの男二人がなんだかんだと理由を付けては、イヨの世話をリウルに押し付けたからでもあったのだが。

 

 イヨだってその事は知っているが、理由はどうあれ三日間を楽しく一緒に過ごした彼女に、イヨは一番懐いていたのだった。

 

 宴会の中、【スパエラ】の面々は散らばって思い思いの時を過ごしていたのだが、その中でもリウルは静かにしている方であった。魔法詠唱者の集いの中で魔法談議に花を咲かせているベリガミニ、ひたすら腕相撲で連勝記録を伸ばしているガルデンバルド、リウルは料理と酒に舌鼓を打っている。

 

「いや、見てたぞ。見てたんだけどな、ちょっとど忘れっていうか……何をやったんだっけ?」

 

 何時になく抜けた表情で小首を傾げるリウル。全体的に顔が赤く、眼は潤んでいる。この場の誰もと同じに、彼女も相当酔っていた。

 

「空手の型だよ、慈恩と燕飛って云う奴! どうだった!?」

 

 イヨは平常時でも大分分かり易い性格をしているので、その表情から内面を読み取るのは至極容易である。ましてや酔いが回って気が緩みに緩んだ現在では正に顔に書いてある状態だ。この場合だと『僕がんばったよ! 褒めて褒めて!』だろう。

 

「そうだったそうだった、ジオンとエンピな。カッコよかったぞ。力強くて男らしかった」

「ほ、本当? えへへ、嬉しいなぁ」

 

 リウルにたった一言褒められただけで至福の表情を浮かべるイヨ。酒杯の中身を一息に飲み干そうとして中身が空である事に気付き、まだ仕事をしている数少ない給仕にお代わりを要求する。

 

「僕にリウルが飲んでるのと同じお酒を、あとリウルにもお代わりと何か追加で料理を下さいな」

「こいつの酒だけキャンセルで。代わりに水をくれ」

「りょーかい」

 

 素面なのは見た目だけで、女性給仕も飲んでいた様だ。男前な態度で親指を立てて颯爽と歩いて行った。

 

「なんで僕は水なの?」

「お前既に大分飲んでるだろ。これ以上飲んだら寝落ちするからもう止めとけ」

「むうー……」

 

 微妙にむくれるが、特に反論する事も無く素直に収まった。幾ら酒が入っていても人格の根本が変わる訳では無い為、やっぱりイヨはイヨのままだった。二人はそのまま肩が触れる距離で周囲の喧騒を眺めていたが、頼んだものが来たところで仕切り直した。

 

「かんぱーいっ」

「乾杯」

 

 陶器の酒杯を打ち合わせ、そのまま一気に中身を呷り、共に深く息を吐く。

 

「お前が飲んでるのは水だろうが」

「直ぐに酔いが覚める訳じゃ無いもの」

 

 頬や首が熱く、足元が定まらない不思議な感覚だった。以前にリウルと飲んだ──飲まされたとも言う──時は直ぐに寝てしまったのだが、今回は如何にか意識を保っている。普段から気を付けている体軸が面白いほどブレていて、なんだかおかしくて笑ってしまう。

 

 このままでは椅子から転げ落ちそうだったので、思わずリウルの肩に頭を預けてもたれかかった。

 

「大丈夫か? 無理すんなよ」

「へーき~……」

 

 平気では無いし、平静でも無い。今一自律が利かず、少しテンションが暴走気味であった。何時もよりももっと子供っぽい仕草で、イヨは興味のままに疑問を口にした。

 

「リウルってさ、なんでリウルって名前なの?」

「ああ?」

 

 脈絡のない問いだが、酔っ払いの行動に合理性や一貫性を求める程、リウルは馬鹿では無かった。

 

「今は豚箱に入ってるクソ親父が訳分かんねぇ名前付けようとした時に、見かねた爺さんが付けたんだってよ。うちは町民に愛される商会だから、もう少し短くて覚えやすい名が良いだろうってさ」

 

 リウルの父親が付けようとした名前は一国の姫君の如く豪奢で煌びやかな、一商会の娘に名付けるには気合が入り過ぎた名前であった。リウルの父の父、即ちリウルの祖父が取りなさなければ、彼女の名前はミスティリアーヌとかシャルフィリアとか、そんな感じだったのではないだろうか。

 

 そんな面倒な名前を名乗る羽目にならなくてよかったと、この話を聞かされた時にリウルは心の底から思ったものだ。結果論だが、父の考えた名前は彼女の現在の風体にあんまりにもマッチしていない。

 

「リウルのお父さんって……」

「俺が六歳の時だったかな。病で母さんが死んでから頭がおかしくなってな。年々悪化して、遂にはよりによって実の娘である俺を押し倒そうとして来やがったんで、半殺しにしてカーテンで簀巻きにしてな、ロバで引きずって町の警備兵に突き出した」

 

 公都の冒険者の間では非常に有名な話である。父の指先が自分の身体に触れた瞬間に、リウルは一切の容赦なく顔面に拳を叩き込んだのだ。

 

 リウルの父はブラム商会の三代目だったが、栄達を急ぐあまり阿漕な商売のやり方に手を染めて町の住人にも代々の部下にも家族にも嫌われ、初代と二代目が築いた信頼を食い潰していた。妻の後を追うように祖父も亡くなって素行は一層悪くなり、平民に生まれながらも貴族趣味に傾倒し、遂には金で貴族位を買おうとして商会の利権を独断で売却しようとさえしていたのだ。

 結局家人と部下に思惑が露見し、企みは頓挫。ただでさえ顧客からの信頼を失っていた父は引きずり下ろされ、既に成人していた長男を四代目に据えて巻き返しを図る事となったのだ。

 

 リウルの父には能力があった。しかしプライドは能力の数倍も高く、他人を見下す男だった。商会の主という高みに立っていた内はそれでも満足していたが、より高みに立とうとして失敗し、地に落とされた。

 

 完全に自業自得だが、妻と祖父の死に商売の業績悪化、野望の頓挫。三つが合わさった事で、彼は心の均衡を失った。

 

 錯乱した父は死んだ妻に似ている娘を毒牙にかけようとしたが、算盤弾きと書類仕事しかやった事の無い放蕩趣味の中年男にガキ大将のリウルが負ける筈も無く。リウルが語った通りの末路を迎えた。

 

 悪評高らかな父親を自分の手で成敗したリウルは女傑として町の住人に称えられ、もはや自分を縛るものは何も無しと、幼き頃からの夢であった冒険者となるべく生まれ育った町を出た。変人として有名だった魔法詠唱者、ベリガミニを半ば強引に道連れとして。

 

 父親と違って町の住人からの信頼も厚かった彼女の旅立ちは、多くの人に見送られた盛大なものであったと云う。

 

「その後兄貴二人はブラム商会を一旦完全に解体して、親父の残した膿や歪みを取り去ってから新ブラム商会を立ち上げたよ。我が兄ながらタフな事だな」

 

 父親の悪行が根強くこびり付いているブラム商会の四代目では無く、新たな商会の初代として生きる事に決めたのだ、彼女の長兄は。次兄も代々の従業員たちと共にそれを補佐しているらしく、業績を順調に伸ばしているらしい。

 

「……大変だったんだね」

「まあな。でも、俺にとってはこの出来事が出発点で、最初の武勇伝だ」

 

 誇りこそすれど、恥じらう事など何もない。そう言って胸を張るリウルの肩で、イヨは憧れの気持ちを強めた。

 

「もしリウルのお父さんが出所したらどうするの?」

「頭がマトモでちゃんと働く気があるんなら別にどうもしねぇけど、まだイカレてんなら親子の縁を切る。後は野垂れ死ぬなり消えるなり好きにしろ、って感じだな」

 

 ──この人は本当に強い人だ、と。胸に火が灯った様な熱を感じた。

 

「お前の名前は?」

「え?」

「俺だけ自分語りしたみたいでなんだから、イヨさえ良ければ教えてくれよ。名前の由来」

 

 イヨ・シノンと云う名前は、イヨが自分でも考えたものである。元の名前である篠田伊代の方はと言えば、

 

「僕の名前ってある種適当に決められたものだから、由来らしい由来も無いんだよね。短くて覚えやすくて書きやすくて、男の子でも女の子でも違和感のない名前って事で伊代になったらしいけど」

「どっちかと言えば女みたいな響きの名前だと思うけどな。でもまあ、覚えやすい名前ってのは良い事じゃないか?」

 

 確かにその通りであった。平仮名でも漢字でも二文字で、発音しやすく覚えやすい良い名ではあるとイヨ本人も思う。

 

 名前自体はその位の意味合いしかないが、イヨの名前がイヨになるまでには結構アレな過程があったそうである。

 

 まず、伊代の両親と云うのがちょっと天然の入った大人だった。幼馴染みでずっと相思相愛でお互いがお互いにべた惚れで、一緒に居たいがために同じ仕事場に就職。何年か勤めて生活が安定したのを機に、初子である伊代を計画的に身籠ったのである。

 満を持して宿った待望の我が子に、二人のテンションは急上昇した。あなたの子だから運動が得意で人にやさしく出来る良い子に育つわ、君の子だからおおらかで可愛らしい良い子になるよ、と生まれる前からそれはそれは期待を寄せていたそうである。

 

 二人は話し合い、男の子の名前を父親が、女の子の名前を母親が考える事とした。

 母が考えた名前は何処の国のお姫様だと云いたくなるような可愛らしい名前で、父の考えた名前は戦国武将か漫画の主人公かと思う様な格好良い名前。

 

 危うくその名が付けられる所だったのだが、のぼせた馬鹿ップルの頭を冷やしてくれる人物たちが現れる。父と母それぞれの両親である。

 

 『明らかに日本人の名前では無い』『この漢字にそんな読みは無い』『名字の篠田と全く合っていない』『難読過ぎて絶対読めない』『生涯この名前で過ごす子供の気持ちを考えろ』『就職面接や学校での自己紹介でこの名を名乗ったらどんな空気になるか』『中年になっても老人になってもこの子はその名前で生きていくんだぞ』と──、冷静かつ現実的な意見の集中砲火を浴びせたらしい。

 

 イヨの両親は多少暴走してはいたが、根本的には真面目な公務員さんだったので、頭さえ冷えれば『確かにこれは無い』とまともな判断を下す事が出来たらしく、前述の呼びやすさや覚えやすさを鑑みた結果、イヨは伊代という名を授かった。

 

「何処の親も考える事は同じだな。っていうか、お前がどっか抜けてるのは親譲りか」

「お母さんもお父さんも良い人なんだよ、ちょっと冷静じゃなかっただけで。弟と妹には最初から普通の名前を付けてくれたし」

「へえ、弟と妹がいるのか。名前は?」

「千代と美代、七つ年下の九歳で双子だよ。すごく可愛いよ」

「チヨとミヨ? どっちが弟だ?」

「千代の方。すっごく可愛いんだよ」

 

 矢鱈と可愛さを強調してくるな、とリウルは思った。十にもならない子供なんて大体みんな可愛いんじゃないかとも思うが、イヨの容姿を思い起こすに、確かに弟妹も可憐なのだろうな、と。というか、男にも女っぽい名前を付けるのはシノン家の慣習かなにかなのだろうか。イヨはまあ外見も女らしいので合っているから良いとして、弟が普通に男らしい見た目に成長したら嫌がられそうなのだが。

 

 リウルの肩に乗ったイヨの頭が緩く前後に振れる。甘える幼児の様である。

 

「二人とも僕に本当に懐いてくれててね、大きくなったら伊代をお嫁さんにするって言って聞かないんだよ。困った子たちだよねー」

「なんかおかしくねぇか、それ」

「えぇ? 子供の言う事だもの。それ位好きってことでしょ? 兄冥利に尽きるよぉ。何時も呼び捨てだから、お兄ちゃんって呼ばれた事は一回も無いんだけどね」

 

 実の兄を嫁にしたいと望む弟と妹。

 ありなのだろうか。九歳と云う年齢を考えればありなのか。しかし九歳にもなればもうちょっと物事の道理が分かっていても良さそうなものだが。少なくともリウルが九つの時には、そんな事は言っていなかった。

 

「……お前の弟と妹って、二人ともお前に似てるのか?」

「え? うん、僕そっくりだってよく言われてたね。ていうか、兄弟三人とも容姿はお母さんに似てるんだよ。お父さんと似てるのは髪質位かな? ただ、千代と美代は僕と違って頭脳派だからね。下手したら僕より頭良いんじゃないかな」

「……そうか」

 

 夢見が悪くなりそうなので、この話はもうしない方がよさそうだ。リウルは脳内でそう決定した。二人の視線の先では、相も変わらず人々が楽しそうに過ごしている。喧噪の中で二人だけが──酔い潰れて泥のように眠っている者も複数いたが──静かだった。

 

 何となく言葉が絶え、喧噪の中で二人の間だけに静けさが響き渡る。しばしその悪くない静寂に身を浸していると、リウルは肩に乗ったイヨの頭が震えている事に気が付いた。

 

「……泣いてんのか?」

 

 返事は動きだった。だらんとしていたイヨの手がリウルの服を掴み、身の震えを伝播させる。

 

「ごえん……家族の話をしてたら、きゅうに、さっきまで、なんどもながった、のに……」

 

 嗚咽でまともな言葉にはなっていなかったが、悲痛さと物悲しさはより明確に伝わった。

 

「泣いとけ泣いとけ、今ならみんな酔っ払ってるし、誰も見ちゃいねえよ」

 

 普段はその外見と行動に目が行きがちだが、イヨは家族との永久の別離に怯える少年なのである。持ち前の意志力で抑え込まれ、前進する力へと転換されていたものが、今になって一気に出たのだろう。

 

 リウルは黙ってイヨの肩に手を回し、強く抱き寄せた。普段はひたすらに可憐で元気な印象が強いし、戦っている時は外見と反比例するかのように勇壮で苛烈だが、泣いている姿は見たままの子供であったから。

 

 こうして抱き寄せると感じるのだが、イヨは本当に小さく繊細な少年なのだ。

 

「俺もな、仲間が死んだ時とかは酔っ払って泣き喚いたりもしたよ」

 

 【スパエラ】はメンバーの入れ替わりが激しいチームだった。死亡者は少なかったが、皆無だった訳では決してない。多くの冒険者と同じく、リウルも仲間や親友との死別に涙した経験があった。

 この世界には死者を蘇らせる魔法が存在する。本来覆す事の敵わない永遠の別れを覆す、正に奇跡の術が実在するのだ。しかしそれは信仰系の第五位階魔法と云う遥か高みにあり、殆どの人間は死んだらお終いである。第五位階をも扱える信仰系魔法詠唱者は公国には存在しないし、法国や王国の使い手を頼るには、考え得る限りありとあらゆる制約が重く圧し掛かって来る。

 

 例外的な極少数を除いた殆どの存在にとって、死は絶対だ。

 

「我慢する事ぁない。ちゃんと泣いてちゃんと前を向け。お前はそれが出来る奴だと、俺はそう思う」

 

 泣いていたって如何にもならない。泣いた処で物事は善い方向には転がらない。それは確かな事実なのだが、泣くと云う行為がイコールで後ろ向きかつ無為な物かと言えば、それは絶対に違う。

 

 人は胸の内に籠った情念を行動で表す事で発散し、それを昇華する事が出来る。念や感情と云う物は、無理をして溜め込んでいたらより悪い方向に転がっていく事も多い。

 その感情を感じた時にしっかり泣く、怒る、悲しむ、楽しむのはとても大切な事である。

 

「ごめん……いまは楽しい時間なのに、もう会えないかもっておもっだら、急に、か、かなしくて……」

「また会えるさ。お前はあんなに強いじゃねえか、出来ない事なんかねぇよ。ちょっと時間はかかるかもしれないけどな?」

 

 私人としてのリウルは誠実にイヨを励ましているが、オリハルコン級冒険者リウル・ブラムは、少年が家族と再会できる可能性はほぼ絶無に近いと考えている。

 

 転移魔法の罠によって違う大陸から来てしまった。それがリウルの理解するイヨの状況である。転移魔法はただでさえ第三位階という尋常な天才の届き得る限界域に位置する高位の魔法だ。

 ましてや別の大陸などと云う超遠距離に人間一人を飛ばしてしまえる魔法など、少なくともリウルは聞いた事が無い。第五位階か第六位階に複数の対象を転移させる魔法が存在する事は知っているが、イヨが効果を受けた魔法はその域を超越している様に思う。

 

 すなわち第七位階か、もしくはそれ以上の転移魔法の効果による現象だと推察できる。第七位階以上など、神話や英雄譚から存在がうっすら伺える程度の、実在すら疑問視される超々高位魔法である。人類どころか竜などの圧倒的強者たちですら扱えるものはいないのではないだろうか。

 

 どれほど優秀な魔法詠唱者がどれだけの時間や手間暇を掛けようと、その様な天蓋の領域にある力を再現する事は出来ない。かの大魔法詠唱者フールーダ・パラダインでも無理だ。もし再現できたとしても、イヨの故郷がこの世界の何処にあるかも分からない以上、魔法が正しく効果を発揮するかは怪しい。

 

 魔法以外の手段でも無理。イヨの語る『ニホンのユグドラシル』なる国がある位置が不明な為、当てもなく地の果て海の果てを彷徨うしかない。少なくとも人類の活動領域にその国は存在しない。他の大陸などと云う物が何処にあるかを知る者もいない。

 

 ──イヨは十中八九家族の下へと帰れない。この国に骨を埋める事になる。

 

 そんな事実を今突き付けてイヨを絶望させる事に意味は無い。この少年であったらわざわざ突き付けられずとも、数年から十数年の内にその事実を悟り、乗り越えるだろう。

 

「イヨ、お前は強いよ。俺が保証する。だから大丈夫だ。お前には俺やバルドにベリガミニ、他の連中もいる。孤独じゃないぞ。安心して泣いて、しかる後に前に進めば良い」

「うん……ありがとう、リウル」

 

 イヨの頭を乱暴に撫で、リウルは力強く告げる。新たな仲間を先人ととして支えんとする。

 

 リウルには年下の兄弟が無く、イヨには年上の兄弟がいなかった。だからだろうか、お互いの存在がしっくりくると云うか、気が合うのは。

 

 鼻を啜って涙をぬぐい、イヨは少しだけ痛々しい崩れた笑みをリウルに向けた。その瞳の熱が先ほどまでよりも増しているのは、憧れだけが理由なのだろうか。

 

「本当にありがとう。……リウル、大好き」

「……いくら酔ってるって言っても、たかが四日五日程度の付き合いの奴にそんな事言っちまうからお前はみんなにチョロいって言われるんだぞ?」

「ぼ、僕はチョロくないもん!」

「もん、ってお前。素面になったら赤面必至だな。でも、元気出たみたいだな。良かったぜ」

 

 先程までの消沈の分まで騒がしくなったイヨに釣られて、リウルは目の前の宴会の喧騒に飲み込まれていった。

 

 

 

 

「駄目だ、なんにも覚えてねぇ」

「リウルも? 僕も最初と最後がうっすら記憶にある位で、殆ど覚えてないよー」

 

 でもなんだか身体がすっきりしてて調子が良いや、と階段を下りながらイヨは微笑んだ。その笑顔を見るとなんだか記憶が想起されそうになるのだが、結局リウルは昨晩の宴会の最中の記憶を思い起こす事は叶わなかった。

 

 二人は『下っ端の巣』一階の酒場で朝食を取っていたバルドとベリガミニに合流し、本日の予定を話し込む。

 

「リウル、『ニコッポ・ナデェイポ』なる魅了魔法の存在を知っているか? かの六大神が使いこなしたという特殊な魔法で、魔力を用いずに頭部に触れたり笑い掛けたりする事で対象を魅了状態に陥らせる魔法らしいんだが」

「急になんだよバルド。知らねぇけど? 」

「儂は古文書で見たことがあるのう。一切の詠唱が不要で、動作のみで発動すると云う奴じゃな。法国の、それも六大神がその魔法の創成者じゃったのか」

「その神様の魔法がどうかしたの? バルさん」

「いや、俺は昨晩から、リウルこそがこの魔法の伝承者じゃないかと思っているんだが」

「はあ? 俺に魔法の才能はねぇよ。んな惚けたこと言う前に、今日の予定を確認すんぞ」

 

 イヨが加入した新生【スパエラ】の本日の予定は、良く指名の依頼をくれるお得意様への挨拶回りと、イヨが異境の神の神官という事で、四大神を崇める神殿の長たちに根回しを兼ねた面通しを行う予定である。

 後はイヨの防具の修理が本日で終わるという事なので、その受け取りに行ったりもする。

 

 イヨのプレートがまだ発行されていない為、【スパエラ】が本格的に活動しだすのはまだまだ先の話であった。

 

 上った太陽が地上に投げ掛ける優しい光が窓を通り、四人を含む宿の冒険者みんなを照らしてた。

 

 



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プレート受け取りと初依頼

2016年1月3日
ほんのちょっとだけ冒頭部分を書き換えました。



「ガドさんに会えるかと思ったら、『副組合長は現在大変叱られておりますので多忙です』だって。結局会えなかったよ」

「あの爺さんは全く……ま、そっちはいいじゃねぇか。それより、お前のそれはどうだ?」

「すごいよ、なんか色々書いてあるし。これ、僕が冒険者だっていう証なんでしょう? 免許証みたいなものなんだよね……」

 

 冒険者組合内の一室にて、イヨ・シノンは先ほど賜ったばかりのそれを興味深げに両手の指先で弄くっていた。

 

 手の中のそれは、手で握れるくらいの大きさの金属の板であった。冒険者としてのイヨの情報が細かい文字で刻まれており、両端に小さく開けられた穴には紐が通されていて、首に下げるのに丁度良さそうな塩梅だ。

 

 八段階ある中でも上から三番目の高位に位置する凄腕冒険者の証、ミスリルプレートである。

 

 イヨはそれを握ったり振ったり撫でたり、兎に角弄くり回していた。さながら新しい玩具を貰った子供の様にだ。一通り感触を確かめると、満を持してそれを首に掛け、目の前の三人の仲間たちに改めて向き直った。

 

「紛れも無く最速最短記録だな、抜く奴は現れねぇだろうよ」

「見とって違和感しか無いのう。こんな子供がミスリルのプレートを持つとは」

「冒険者組合の方でも色々と勘案した結果だろう。どう転んでも異例の話だからな」

 

 発言順に、黒髪を短髪にした盗賊兼斥候の少女リウル、禿頭の老年魔法詠唱者ベリガミニ、見上げる程の巨躯を持つ全身甲冑の壮年戦士ガルデンバルドの三名である。イヨが少し前から所属するチーム、【スパエラ】のメンバーだ。

 

 公国に三チームしかいないオリハルコン級冒険者パーティーの一角にして、純粋な実力では既にアダマンタイトに達しているのではないかとの評価もある面々だ。仲間との出会いには恵まれるのに、その仲間とさほど長続きせず別れる定めにある者たちとしても名高い。

 

 そんな彼らが最近仲間として迎え入れた者こそ、今目の前ではしゃいでいるイヨ・シノンであった。

 

 約一週間前に冒険者組合裏の修練場で演じた老年の大英雄ガド・スタックシオンとの決闘──目撃者たちの中で、あの死闘を特例の昇級審査と正しく認識できている者はほぼいない──以降、その名は冒険者のみならず公都の住人にまで広がり始めている。

 

『イヨ・シノン? あの三つ編みの小さい子、そんな名前だったのか。細い体でよく食べるよねぇ。うちの串焼きと隣の屋台の蒸かし芋、この通りを歩く度に買っていってるよ。冒険者さんと歩いている所を最近よく見かけるけど、あの子の親御さんは余程娘を溺愛しているみたいだね。公都の大通りを歩くのにも護衛を付けるなんて。え、本人も冒険者? 一緒に歩いているのは仲間? 何言ってんだいあんた、そんなわけがないだろう?』

 

『ああ、イヨちゃんねぇ。最近越してきたのかしらね? 家の前の掃き掃除をしている私にいつも元気よく挨拶をしてくれるのよ。笑顔以外見たことが無いってくらいに明るい子だし、うちの息子もああいう女の子を嫁に貰ってくれたらいいんだけど、イヨちゃんは良く一緒にいる黒髪の男の子にお熱みたいだし、無理そうね。え? 性別が逆? イヨちゃんが男の子で、男の子が女の子? あはは、あんたねぇ、おばさんを揶揄おうたってそうはいかないわよ?』

 

『警備兵の間でも奇刃変刃のガド・スタックシオンっていったら、やっぱり憧れなんだよ。あの人は英雄だからね。俺たちの世代はあの人と仲間の冒険譚を聞いて育ったって奴が多いんだ。でさ、老いてもなお公国最高の剣士と呼ばれるあの人と互角の戦いをした子供が出たってっ云うじゃないか。顔見知りの冒険者さんからそれを聞いた時は愕然としたよ。非番の日に探して見に行ったんだけど、人は見かけによらないとはあの事だね。ありゃ強すぎる』

 

 現時点では行動や容姿のイメージが先行している様である。大なり小なり実力第一主義な所がある冒険者間ではやはりその強さが第一に、子供っぽさが第二に印象づいているのだが、一般人の目に触れるのは買い食いで満面の笑みを浮かべている場面、野良の犬猫や近所の子供と遊んでいる場面であった。

 

 『最近公都に越してきたらしい女の子』としか思われていないイヨが突如としてミスリルプレートを下げて現れたら、一般の人達はびっくり仰天するだろう。

 

「きらきらしててカッコいい……どう? 似合うかな?」

「全然似合わねぇな、もっとビシっとした顔しとけよ」

「おぬしが付けると、飼い犬の首輪めいて見えるのう」

「外見的に力不足なのに実力的には役不足とは、なんてことだ」

「さ、三人とも容赦ないね!?」

 

 別段馬鹿にする気こそ無いのだが、嘘偽りの無い本音でもあった。本当に似合っていないのだ。ベリガミニが最初に言ったが、違和感しかない。精神年齢十二歳、外見年齢十四歳、実年齢十六歳の子供がミスリルプレートを付けているのは普通有り得ない。

 無論例外的な人物はいくらでもいる。弱冠十七歳でオリハルコン級を張っているリウルもそうだし、王国のアダマンタイト級冒険者チーム【蒼の薔薇】のリーダーなども十代の年若い女性である。圧倒的な個人差が、年の差や性差などとは比べ物にならない隔絶を齎す事は往々にしてある。

 

 そう言った点を弁えて考えればイヨが高位のプレートを預かる事も、極稀な事態ではあれども異常な出来事とは言えないのだが、実物を見るとどうしても『こんなのおかしいだろ』感が拭えない。

 

 風格や威容といった、人の皮膚感覚や直感に訴える凄味が全く欠けている為だ。四方八方何処から見ても子供にしか見えないのだ。体幹の強さや重心の安定感等の要素は姿勢の良さやお行儀の良さと解釈されてしまいがちであるし。初対面の人間がイヨの強さを知るには衣服の如き防具類の性能を見抜くか、全身に装備したマジックアイテムから類推するしかない。

 

 まあそれらを察しても尚、『裕福な親が子供に買い与えたのだろう』『良いとこのお嬢さんだからか装備は良さげだな』というまだ常識的な判断に陥りやすいのだが。

 

「しかし、ミスリルか……ワンチャンでオリハルコンもあるかと思ったけどな」

「え、いきなり上から三番目だよ? 僕は銀を貰えたら嬉しいな、ってくらいの気持ちだったけど」

「欲がなさすぎるのも考え物じゃの」

 

 ミスリルは言うまでも無く高位の、多くの実績を成した選ばれし者のみが到達し得る高みである。ミスリルプレートを得るまでの功績で村や町の危機を救っていてしかるべき、吟遊詩人の歌に謳われる偉業を成す位の逸話を持っていてもおかしくはない。そんな高みだ。

 紛れも無く強者であり、同業者のみならず大衆からも羨望の視線を集める者だと表現しても過分では無いだろう。

 この位まで至らずに死亡する冒険者はとても多く、死ななかったとしても白金のプレートにすら届かず、老いや怪我で引退する者もまた多数である。

 

 例えば成り上がりを志して村を出た農家の三男坊が、幾年の後に白金級の冒険者となり、引退して村に戻ってきたとする。そうしたら、その人物は村人に歓呼の声で迎えられるだろう。その桁外れの強さを持って村を守り、蓄えた財で周りの者たちを助ければ、数多の尊敬を一身に受ける村の名士として栄誉を手にする事となる。

 

 そもそも冒険者と云う仕事そのものが村で一番の力持ち等の存在では務まらない、ある種の選業なのである。鉄クラスの冒険者ですら警備兵や一兵卒よりは強い。先の例えで云うと、白金に到った人物一人がいれば、片田舎の集落の生活は大きく変わるだろう。安全面での変化などは目を見張るものになる筈だ。

 

 一説には、白金クラス以上の冒険者の割合はその国の冒険者の二十%と言われる。王国を例にとって云えば、八百万を越える民の内冒険者が三千人、更にその内白金以上の冒険者は六百人である。

 因みに公国は他国よりも冒険者の社会的地位が高く──ガド・スタックシオンを始めとした【剛鋭の三剣】が余りにも英雄然とした英雄であり、民に慕われている上、その気風を後進の者たちも受け継いでいる為良いイメージを抱かれやすい──国民に対する冒険者の割合も多いが、二倍三倍もいる訳では無い。

 

 高位冒険者とはそれほど狭き門なのである。

 

 殆ど功績の無い──内容を別にすれば二度のモンスター討伐と試合だけ──弱冠十六歳の少年が、ミスリル級からスタートする。──これを決定した公都の冒険者組合がどれほど強者の確保に力を入れているか分かるだろう。

 次代の英傑の出現を、彼らも待ち侘びていたのである。二十年もの間、人類の切り札たる不可能を可能にする存在、アダマンタイト級が不在だったのだ。降って湧いた宝石を逃がすまいと必死なのである。

 

 余談だが、イヨを公国に根付かせるべく数多の案が考えられ、その内幾つかの方面の事柄については『そもそもあの子は男なのか? 女なのか?』『どちらだとしてもあの年頃の子供にそういった謀は逆効果も甚だしいだろう』『存外社交的な性格の様だし、こちらから何もせずとも自分で相手を見つけそうだが』『既に噂が立っているようですし、此処は静観して動向を見守った方が良いのでは』『では、当面は情報収集と観察という事で』『他の組織からのアプローチや引き抜きに対する警戒も忘れてはなりませんぞ』と、冒険者組合の幹部会合で結論が下されている。

 

「僕が正式に冒険者になれたって事は、もう依頼を受けられるんだよね?」

「ぼちぼちな、ぼちぼち。白金やミスリル辺りの依頼から徐々に慣らしていくさ」

 

 早速お仕事しようよ、と張り切っているイヨに、三人はちょっと考え込む。新人の仕事に不安があるのは何処の世界でも変わらない。

 

 イヨは十六歳である。元居た世界の常識でも転移後の世界の常識でも、歳だけで考えればとっくに働いていても良い年齢なのだが、なんとなんと高校に通っており、社会に出た経験がない。小卒でさえ貧困層における勝ち組とされる世界に生まれておきながら、親の努力と本人の努力の両輪で高等教育に進んでいたのである。

 

 生まれも育ちも現実世界の一般市民としてはかなり上の方であって、巨大複合企業の関係者等の雲の上の富裕層を例外とすれば相当に恵まれた人生を歩んできた、ある意味勝ち組と表現しても差し支えないだろう。

 

 故に社会経験はほぼ完全にゼロであり、一人前と勘定して仕事をさせるのは無謀を通り越して殆ど暴挙と言える。一人で歩かせたら何が起こるか分からない怖さもある。元探検家と云う設定を信じている周りの人間にしてもこの少年の浮世離れっぷりは周知の事、やはり『まずは教育からだな』という判断が下る。

 

「仕事はまあ、せねばならんな。イヨ坊の習熟も課題じゃしの」

「最初から無理をしても良い事は無いからな。まずは安全率を多めにとって、一緒に教えながらだ」

 

 いくら強くとも、イヨのそれはほぼ殴り合いの強さに特化している。仕事のイロハの何を知っている訳でも無いので、何は兎も角色々と経験を積まねばならない。冒険者の仕事はモンスター退治だが、世の中どんな職業でも人付き合いは必須であり、その辺りの細々とした約束事やモンスターの知識などは知っておかねば立ち行かないのである。

 

「勿論仕事はするが、イヨはもう少し座学を中心に知識を高めてもらおう。事前の準備を怠れば力量が活かせない厄介なモンスターも多いし、字が読めないのも不安要素だ。最低限、一人で依頼書を読める位にはなって貰わないと困るからな」

 

 そう、それにイヨは文字が読めない。医務室に拘束されていた時からベリガミニに少しずつ習ってはいるが、流石に数日ではどうしようもない。元よりイヨは母語以外の言語にてんで弱いのだ。読めない契約書を口頭で説明されて詐欺師に騙されるといったベタベタな展開は誰も得をしないので、そういった根本の部分から学ばねばならない。

 

 自分の専門は殴り合いだからリドルは任せると豪語して解読系のアイテムを所持していなかったことに、イヨは軽く絶望を覚えたという。世の中そう甘くは無かった。

 

「分かりました! 頑張ります!」

「うむ、元気な返事で宜しい」

「お前、ここ数日で少しは進歩したんだろうな?」

「自分の名前を書けるようにはなったよ!」

「単語幾つ書ける?」

 

 少女が放った問いに少年はあからさまに目線を逸らし、首元のプレートを弄くり始めた。リウルは無言で彼の脇に両手を差し入れて胸に手を回し、そのままぐいっと持ち上げて遠心力と筋力で振り回す。

 

「てめぇ他国人この野郎、カラテドーの練習は言われなくてもアホほどやる癖に!」

「公国語難しいんだよ~! 英語っぽいかと思ったら全然違うし、良く分かんない!」

「普段根性の塊みたいな訓練してるじゃねぇか、勉学の方も根性出してやれ!」

「きゃあー!」

 

 無言で年長者二名が椅子やテーブルと共に回転範囲外に退避し、イヨの楽しそうな悲鳴をBGMに進捗報告を交わし始める。

 

「で、どうなんだ爺さん。実際の所は?」

「普通じゃのう。際立って頭が悪いでも無く、目立って才に溢れるでもなく。苦虫を噛み潰したような顔で、一の努力に対して一の進歩。時たま際立った勘働きを見せるが」

 

 筋肉のしっかり乗った腕を組み、禿頭の老人は椅子に座り直した。

 

「モンクの……ああいや、モンクとは違うんじゃったか。格闘の才とは打って変わって全く見た目通りの子供の様じゃ。天は二物を与えずと言ったところかの」

「ふむ……まあ、戦闘の訓練に比べれば大した時間も取っていないからな。普段から好んでリウルの隣にくっついて歩いているようだし、一人の時に言質や署名は絶対に書かない取らせないを徹底しておけば、当面は大丈夫だろう」

 

 短所を短所のまま放っておくのは以ての外だが、短所を埋めるために長所の伸びを阻害したのでは元も子もないのである。

 

 二人の視線の先ではイヨとリウルのじゃれ合いが足技合戦に発展しており、其処はやはり前衛職であるイヨに一日の長がある。襟と袖を取り合った体勢でリウルが面白いくらいに足を払われ引っ掛けられ、イヨが支えているお蔭で如何にか転ばずに済んでいる様な格好であった。

 かなり好意的な贔屓目で見れば、一風変わったダンスに見えない事も無い。

 

「はい右足、左足、右足、左と見せかけて右足、上体でバランスを崩して右足、なんだかんだで右足、右足、右足、右足」

「こ、このやろ、ちくしょ、分かってるのに対応できねえ!」

「ふははー、元全国一位の力を思い知ったかー! 大内刈り、小内刈り、大外刈り、小外刈り!」

「なんかこれカラテドーと技術体系違くねぇか!?」

 

 流石オリハルコン級の冒険者と言うべきか。イヨのやったそれは柔道の技である。要するに足を掛けて倒す技なので、正式に練習した事は無くとも、空手をやっていると意外に使う事が多い。イヨの場合はわざわざ柔道部の練習に混ざって習得した本式である。

 

 イヨは相手をコロコロ転ばせて、倒れた相手に嬉々として追撃して一本を狙うタイプの選手だったので、足癖の悪さには定評がある。しかも、対戦相手の突きが入った瞬間に足を掛けて体勢を崩し、残心が成されなかったとの理由で相手の攻撃をルール的に無効化させる小技を常習的に用いる。

 

 スポーツマンシップ的に見ると卑怯に思われるかもしれないが、競技化されようと格闘技は格闘技である。倒れた相手には当然追撃し、背中を見せれば背中を打ち、騙し空かしあらゆる手を尽くして──勿論ルール的に認められる範囲で──相手を完膚なきまでに叩きのめそうとする精神性に満ち満ちている。

 

『殴る時は拳が相手の身体を突き抜けて背中に抜ける位の気持ちで殴れ』『死体で無い限り反撃してくるものと心得よ』『息の根を止めて初めて勝ったと言える』『相手の心臓が動いている内は手を止めるな』等、スポーツ化されても尚こうした理念は形を変えて生きている。

 

 リウルも勿論オリハルコン級に相応しい実力の持ち主だが、近接戦の機微では当然本職でない分だけ劣る。その状態でイヨと戦うのは魚が陸上で猫と戦う様なものであり、詰まるところ非常に珍しく、リウルがイヨに遊ばれる結果となった。

 

 少女が先輩の意地を発揮して釣り手と引き手を切り、手四つでがっしりと組み合って拮抗状態を作り上げる。

 

「酒の味も分からん癖に小癪なお子様だなコラ……!」

「リウルだって一つしか違わないじゃない、子供みたいな寝相してる癖に……!」

「街の中でくらい好きに寝させろ、お前こそ寝言で俺の名前呼ぶなビビるだろうが……!」

「意識ないもん如何にも出来ないよ! それを言うならリウルだって人前で手を繋ぐのはやめてよ恥ずかしい……!」

「お前が野良猫追っかけていくからそうしないといけないんだろうがよ、自分の立場分かってんのかこの能天気が……!」

 

 照れと形ばかりの怒りが混じり合った赤い顔で凄んでも怖くないし、イヨの方に到っては言い返す為だけに反論してるだけで全然気にした様子は無い。むしろ楽しんでいる。

 そんな二人は傍目から見たら完全に同レベルである。此処は個室とはいえ、冒険者組合の中なのだが。

 

 その有様が『年下の恋人が出来てつい童心に帰ってしまった青年の図』に見えて仕方が無いバルドとベリガミニだが、口に出したら殴られるし、見ている方が後々ネタに出来て得だから静観する事にした。一応二人とも声は控えているので物を壊さない限り迷惑でもなさそうだったし。

 

「若いって良いよなぁ、爺さん。妻と付き合い始めた時を思い出すよ。今考えれば馬鹿ばかりやったもんだ」

 

 仕事中もこうだったら迷惑どころの話ではないが、日常時のこうしたやり取りはコミュニケーションの円滑化につながる為、許容範囲内である。

 特にバルドはリウルを父親のような気持ちで見ている面もあった為、遅めの春が来たかと少しほろりとした気分にさせられた。

 同じチーム内での男女関係はメンバーの死亡率を引き上げるが──男が死ぬ時は女を、女が死ぬ時は男を情で道連れにする上、他のメンバーとの扱いにどうしても差が出来てしまう──まあでも年長者二名はこの二人が本当に恋は盲目状態になる可能性は低いとみている。あの二人の組み合わせは基本的にリウルが主導権を握っているし、そのリウルが危険性を何よりも知っているからだ。

 

 自身の感情の状態を客観的に鑑みて身の振り方を決める位は当たり前のように出来る。でなければ十七歳でオリハルコンプレートを預かるなど不可能だし、そういった人物でなければチームの耳目としてある意味全員の命を握る仕事を熟し、メンバーに認められる事は出来ない。

 

「そうじゃのう。──儂、結婚はしとらんが子供はおってなあ」

「……初耳だぞ爺さん」

「青春の真っただ中に工房に籠って魔法の研究ばかりとか発狂するじゃろ? 二十代三十代の時は研究と遊びが半々じゃったのう。儂が全身全霊で魔法に打ち込んだのは四十も半ばを過ぎてからじゃよ」

 

 ベリガミニはこう見えて割りと遊びを知っているのであった。

 

 それで第四位階に手が届く領域まで自らを鍛え上げたのだから大したものだが、巷の苦悩する魔法詠唱者諸氏がこれを聞いたらそれこそ発狂するだろうな、とバルドは思う。

 

「ん。待てイヨ、ストップ」

「なに? どうしたの?」

「人が来る」

 

 遊んでいたリウルが何かを感知し、四人が緩んでいた空気を引き締めてテーブルや椅子を元の位置に戻して、さも真面目に話し合っていましたよ、と言った感じの雰囲気を作る。およそ三十秒の後、

 

「失礼します、今お時間頂戴できますでしょうか」

「構わないよ、どうぞ」

 

 バルドが代表して応えた。全員が全員とも、さっきまでの空気を完全に払拭している。なんという切り替えの早さだろうか。

 

 ノックの後に現れたのは、またしても名物受付嬢のパールス・プリスウであった。イヨ並の身長に女性らしさ溢れる身体つき、豊かな髪の毛を長く伸ばした人物だ。

 

「【スパエラ】の皆さんに、プルスワント子爵より名指しの依頼が入っています」

 

 プルスワント子爵。つい最近覚えた名に、イヨは僅かに身動きをして反応した。

 

 公国内に幾人もいる子爵の位を持つ貴族の一人で、偶然公都に居たが為に先日【スパエラ】の新規加入メンバーとして挨拶に行ったお得意様の一人だ。

 

 【スパエラ】は流石公国内最高峰の冒険者チームだけあって、複数の有力貴族や大商人、名高い名工と関係があった。例外なく耳聡い彼ら彼女らはイヨの存在も見知っていた様で、内心は兎も角外見的にはこの上なく丁寧かつ丁重に少年を記憶に刻んでくれた。

 

 ほんの僅かな時間会話をし、お互いの名前を交換した程度の記憶しかないが、ひたすら畏まるイヨに鷹揚な接し方をしてくれた威厳ある壮年男性だった。

 帰り道で覚える様に言われた情報曰く、古き良き貴族の典型。平民と貴族とは違う生き物だと頭から信じており、誇りを汚すような無礼な口を叩かれれば首を刎ねる事すらするが、民と領地を治める者として領民を手厚く守る人物。

 貴族の道に外れる行いを嫌悪しており、質実剛健にして清廉潔白。大公ひいては現在大公が忠誠を誓う皇帝への忠義は目を見張るものがある。

 公国北方のある大きな町と周辺村落を治める──イヨが知る情報はその位である。

 

 リウル、バルド、ベリガミニの三者曰く『礼節と身分さえ弁えればあれ程信頼できる人物はそう居ない』『気高き者の義務を頑なに遂行する柔軟な石頭』『マシな方の貴族の代表例』。

 

「名誉な話だが、我々は現在必要最低限の人員を割っている。受けられる仕事には限度があるが」

「子爵も先刻承知だと仰っておられました。その穴を埋める為にミスリル級を一チーム、【スパエラ】の皆さんの裁量で雇い入れて構わないそうです。勿論報酬はその分も此方で出すと」

 

 なんとも太っ腹な話である。オリハルコン級に加えてミスリル級を一チーム雇うとなると、目の玉の飛び出る程とまでは行かずとも、結構な額の出費になる。貴族とは言えその金額はぽんと出せるものでは無い。

 

 パールスが何時になく神妙な顔で告げる。

 

「組合では依頼内容を精査の末──不明な点は多く、不確定要素は排除し切れなかったのですが──この依頼を、ミスリル級若しくはオリハルコン級が請け負うべき難度と認定いたしました」

 

 不確定要素と不明な点は気に掛かるが、難度だけならオリハルコン級とミスリル級が一チームずつでややお釣りがくる程度ではある訳だ。

 

 イヨが先輩三人の顔を仰ぎ見ると、三者はアイコンタクトの末に頷いた。

 

「まずは詳細を聞きたい、続けてくれ」

「はい。分類としましてはモンスター討伐の依頼です。プルスワント子爵領の巨大湖に生息する、淡水生クラーケンと思しき不確定モンスターの討伐をお願いしたい、と」

 

 




短めの九千文字。

調べれば調べる程貴族制度に関しては闇が深まって全容を把握できなかったので、『公国ではこうなっている』という事でどうか一つ。

帝国に行こうか王国に行こうかとも考えましたが、初依頼は取りあえず国内。国外で早々デカいことやると皇帝陛下や僕らの魔法キチこと古田さんに献上されかねんから。

公国内の貴族は割とマトモ。何故ならあからさまなのは代々の大公が間引いてる上に、ジルクニフの忠臣と化した後の現大公が国内の効率化の一環として叩きのめしたから。ただし闇に潜んで陰であれこれしてる奴は当たり前にいて、大公と影のいたちごっこをしてます。

設定を詳細に考えれば考えれるほど王国が亡国になっていく。モモンガ様が降臨される頃には存在しないかもしれないレベル。


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初依頼:子爵領への道中

 見渡す限りの青い空と、なだらかな平原が続いていた。道の先に視線をやると、遠方には森なども見える。公国の首都たる公都から北に進むこと二日目。彼方へと続く街道は平原に伸びる蛇行した一本線の様だった。

 遮蔽物の存在しない平原は見晴らしが良いが、それは同時に相手からも此方が丸見えだという事である。公国から定期的に冒険者組合へと依頼される街道の危険排除業務が頻繁にある為、そうやすやすと襲われる事も無いが、決して油断は出来ない。最善を尽くしていてもあっけなくモンスターの胃に収まってしまう事も珍しくないのがこの世界である。警戒は必須だ。

 

 街道を行く一台の幌付き馬車の周囲には複数人の人影があった。四方八方何処から何が来ても感知対応が可能な様に作られた陣形だ。それぞれが一目で高額な品と分かる武器防具やマジックアイテムを装備していて、皆が首からプレートを下げている。

 

 移動中の冒険者集団だ。ミスリルとオリハルコンの混合チームらしく、その高い練度は足運びを見るだけでも言わずと知れる。一筋の緩みも見当たらず、しかし過度の緊張によって体力精神力を削っている訳でも無い熟練者の群れである。

 

 アダマンタイト級が存在しない公国においては正にトップクラス。これ以上の戦力は容易には用意できまい。

 

 そんな者たちに囲まれた馬車の中には、交代で休憩している三人の人影があった。その内の一人はなにやら木箱の前に座って書き物をしている少女──にしか見えない少年だ。

 

 凄腕冒険者の中で、その少年の背格好は浮いていた。痩せ細ってはいないものの、体躯は小さく細い。年の頃は十四か十三にも見えるが、その実十六歳の成人男性であると自称している。同じチームの人間以外にはあんまり信じられていないが。

 澄み渡った大きな金の瞳、穢れを知らぬ輝く白金の三つ編み。内面が見て取れるかの様な無垢で精緻な顔貌。外見だけなら貴族の令嬢か大商人の箱入り娘でも十二分に通ずる美貌だった。外見だけなら。

 

 明らかに戦える人間の外見では無いにもかかわらず、首に下げたプレートはミスリル。全身を衣服の如き防具と数多のマジックアイテムで武装していた。何故か大きめの丸眼鏡と髪色と同じ毛色のウサ耳が頭部を飾っているが、本人は特に気にした様子も無い。鉱毒の腕甲と脚甲だけは、今は外している。

 

 公都で今話題の人物トップテンにランクインしているだろうこの少年の名は、イヨ・シノン。

 交代で取っている休憩時間を利用して、ただ今文字の練習中であった。

 

 公国の文字はイヨが見た印象だと、一見アルファベットの様に見えなくも無い。と言っても『離れた場所から文章の羅列を見たら一瞬そう思うかもしれない』程度で、実際の所は当たり前だが全くの別物である。

 

 共通点は表音文字である程度か。それ以上の何かに言及しようとすると、イヨ自身の知識不足が原因で訳が分からなくなる。英語よりはラテン語とか何だかその辺に似ている。イヨはラテン語の文章を読めないし碌に見た事も無いのだが、ただ印象的にそう思った。

 

「書き取り終わりましたー……」

「──うむ。まあ良し。次は見本を見ずに書いてみい。口に出して確認する事も忘れるな」

「はいぃ……」

「なんじゃその情けない声は。おぬし、故郷では学校に通っておったのじゃろう」

 

 学校に通える人間とは、イヨの元居た世界でもこの世界でも裕福な層とされる。イヨの世界では義務教育制度が撤廃されている為、小学校卒業でも貧困層からすれば高学歴の部類となる。中学高校を出たとなれば大変なエリートである。大学ともなると一般人はほぼ皆無で、巨大複合企業に所属する者及びその関係者の子息や一族が十割近い。

 

 この世界で一般的に学校と言えば──学校そのものがまず一般的では無いのだが──知識人が経営する私塾の事で、経済的に余裕のある家々が子供を通わせるのものだ。大抵は商家などの子で、大成するために教養を身に付けさせる目的がある。

 それ以外の子供は読み書き計算を親に教わる程度で、それすら出来ない者もいる。なにせ親自身が分からない場合は教えようがないからだ。近所の物知りや教会の読み聞かせなどから知識を得るしかない。

 

 では貴族の子弟が国立の学校に通っているのかと言えば、まあそうなのだがこれも実はあまり一般的では無い。家に家庭教師を招いて教育を受けさせる場合が多いからだ。殆ど一般人と変わりがない名ばかり貴族などは親が教える例もある。

 

 と云うか、国立の学校自体が滅多に無い。近隣諸国では帝国と公国にある位だろうか。帝国には能力のある者を広く迎え入れる帝国魔法学院があり、王国には学校自体が存在しない。公国のそれも歴史がとても浅く、平民にも平等に門戸が開かれているとはいえ、一般人にまで名が知れ渡っているとまでは、まだ言えない。

 つまりこの世界の常識で言えば、国立の学校に通っていた経歴がある時点で知識人だと判断され、当然勉学に優れていて恐らく家柄も良いのだろうと思われるのだ。

 

 そのイヨが何故文字の勉強位で疲労感を滲ませた青色吐息なのかと言えば、

 

「僕は武道の特待生枠で入学したの……だから勉強は、専門外……」

 

 如何にスポーツの特待生枠とは言え、学徒にとって勉強が専門外であって良い訳が無い。本来ならば。でもイヨは平常点と得意科目の高得点、それに至極真面目で積極的な授業態度などが相まって色々とお目こぼしを頂いていたのである。

 

 篠田だからまあいいか、で見逃され、それに甘えてきたツケが今回ってきていた。外国語の筆記とかマジ無理である。イヨの年齢が半分の八歳だったら恥も外聞も無く『お勉強やだ!』と駄々を捏ねていただろう。だが、流石に十六歳になっては感情だけで喚く事など出来ない。仕事上、字は読めた方が良いに決まっている。

 

 自分の声が萎れているのが分かる。折角の青天なのに何故筆を握って字の練習をせねばならないのか。必要な事だと頭では分かっていても、心と体が運動を欲している。

 

 言い訳する気は無いが、元居た世界の環境だったらもっと勉強にも身が入った筈だ。事実そうしていた。しかし、この世界には誘惑が多すぎる。

 

 走って頬に風を感じたい。陽の光を存分に浴びて汗をかきたい。空を飛ぶ鳥の姿をこの目で見たい。幾度味わっても飽きないその快感に酔いしれたい。元居た世界では絶対に体験できない自然を存分に満喫したい。

 

 がたんごとんと揺れる幌付きの馬車の片隅では、陽の光を直に浴びる事も叶わない。

 

 ──どうして言葉は通じるのに文字は読めないのだろう。日本語を使っているなら日本語の読み書きが通じてもいいでは無いか。

 

 流石のイヨもこれだけの日数を過ごして多くの人と関われば、自分以外の面々が使っている言葉が何故か通じるだけで日本語では無い事くらい気付いているが、理由がさっぱり分からないので不平を言ってみただけだ。

 

「しかし、面白いのう」

「そのアイテム、気に入った?」

 

 そんな膿んだ心境だったので、イヨは教師役たるベリガミニがつい零したその呟きに飛びついた。敬語はいらないと言われたからこその常語だが、数倍も歳の差のある人物にそんな口を利くのはちょっと変な気分になる。

 

 日本語で云う五十音に相当する文字が書き連ねられた羊皮紙から顔を上げれば、其処には座り込んだ禿頭の老人が見えた。

 

 我こそは魔法詠唱者であると言わんばかりのフード付きローブに捻じ曲がった木製の杖、そして全身に装備したマジックアイテム。装束とは裏腹に全身には見事な筋肉が乗っていて、背筋などは若者にも負けないほどピンと伸びている。

 外見で云うならイヨより余程頑強そうな、皺が無ければ老人には見えない人だ。ただし、本日この時のベリガミニ・ヴィヴィリオ・リソグラフィア・コディコスの頭頂部には、茶色い毛並みの猫耳が生えていた。

 

 見間違いでは無い。本当に、禿頭の老人の頭には、猫耳が生えていた。

 

 正確には猫耳仕様のヘアバンドなのだが、人気アイテムであるアニマルシリーズの一角〈キャッツ・イヤー〉は、シリーズ共通の仕様として装備状態ではヘアバンド状では無く、本当に獣耳が生えているかのように見える様に設定されている。

 

「全く、弾んだ声を出しおって」

「普段やってる分までは終わったもの、ちょっとだけ休憩」

「体を酷使する事はどうとも思わん癖にのう」

 

 等と言いつつ、ベリガミニ自身もアイテムについて聞きたいことがあったのか、それ以上の追及はしなかった。因みに馬車の中にいるもう一人の人物、ミスリル級冒険者チーム【戦狼の群れ】に所属する信仰系魔法詠唱者の女性──名をイバルリィ・ナーティッサと云う──は、今のベリガミニの姿を見ると思わず笑ってしまって失礼だからと云う理由で、フードを深く被って体育座りで寝ている。

 

「このマジックアイテムの効果は知っておるな?」

「敏捷力の増強と、落下時・転倒時のダメージを軽減、受け身判定にボーナス……だった、と思うよ? どう? 合ってるかな?」

「なんで持ち主であるおぬしがうろ覚えなんじゃ? 掛かっている魔法からしてもそのようじゃな。しかしの、この形状には一体どんな意味があるのかのう。猫の耳を象ったアイテムで、猫に因んだ能力の増強効果がある。それ自体は一見分かり易いのじゃが、魔法さえきちんと掛かっていれば別にこの形でなくとも良いじゃろう」

 

 こんな目立ちやすくて必要性の無い、遊びに溢れた形に作る理由が分からん、と老人は不思議そうに首を傾げた。

 

「ええっと……だってほら、猫って可愛いじゃない?」

「愛玩動物としての猫が人気なのは分かるが、このアイテム一つ作るのにも相応の金銭と素材が使われている筈じゃろう。かなり高性能なマジックアイテムじゃし、十二分に実用に耐えうる。なのに何故……同じ魔法を指輪か腕輪にでも込めた方が余程合理的ではないか」

 

 実際に、ほれ。と、ベリガミニはイヨの頭部を指し示す。少年がウサ耳の事かと思って首を傾げると老人は、違うわい、今では無く普段着けている方の奴じゃ、と言った。

 

「おぬしが普段着けている髪飾りの様なアイテムにした方が道理に沿っておるし、色々と利点が多いじゃろう。あれは小さく質素な作りで、しかも髪色とほぼ同じ色使いじゃから視認性が低く、装備している事自体が気付かれにくい。外見からは性能の予測も付かん。マジックアイテムとはそうあるべきじゃろう?」

「う~ん……効果云々って云うより、猫の耳を象っているっていう事の方が本質なんだと思うよ。僕なんかは、可愛いから好きで着けたりもしてたし。今も眼鏡と一緒に索敵の為に着けてるし」

 

 友達の受けも良いのでガチ戦闘以外ではわりとこの系列のネタ装備を好んでいたイヨだが、そんな真面目な視点からアニマルシリーズを考察した事は無かった。だってこれらのアイテムの意味と云うか意義は、正に可愛いからとか格好いいから一点なのである。

 性能だってユグドラシル基準で云えばネタ装備にしては良心的程度のもので、同レベル帯でもっと良い性能の防具や装飾品は幾らでもある。実際イヨの髪飾りなどはそのマトモな装備品の類である。毒や疾病などの状態異常への耐性を引き上げてくれるアイテムだ。

 

「おぬしが持つ同系列の他のマジックアイテムと共通する点としては、おぬしが付けると白金の毛並みに、リウルが付けると黒の毛並みに。儂が付けると茶色に。装備した者の髪色に合わせて毛色が変化する訳じゃな。こういった性能とは無関係な細部も妙に凝っておる。おぬしの故郷ではやたらと遊び心や自由な発想に拘るんじゃなぁ」

 

 ──ところ変われば文化も変わる、当たり前の事じゃが面白いのう。

 

 外した猫耳をイヨに手渡しつつそう呟く年の離れた仲間に、イヨはウサ耳をぴこぴこ揺らす事で返答とした。

 

 イヨが所有する変わったマジックアイテムは老魔法詠唱者の知識欲を刺激した様で、時折こうして研究されているのである。他の二人も外見は兎も角有用なアイテムだと云う事で、意外と興味津々な様だった。イヨとしてはリウルに狼耳を付けてほしかったり、イヨも犬耳を着けて疑似ペアルックなどをしてみたかったりするのだが、装備部位を一つ潰して重要でない能力を増強するのは割に合わないとして却下されていた。

 

『だ、だったらウサ耳を着けてみない? 可聴範囲と可聴音域の拡大で、聴覚関連の知覚力を増す効果があるんだよ。斥候の役に立つと思うんだけど』

『矢鱈と目立つしこの上なく不審で馬鹿っぽいって云うデメリットで相殺されるな。やだよ』

 

 現実は非情であった。いやまあ、リウルの身を危険に晒してまで装備してほしかった訳では無いので、別に気にしてはいないのだが。

 

『……ま、本来索敵能力の無いお前が疑似でも予備の野伏として活躍できるようになるのはメリットがあるし、お前が装備してりゃいいんじゃねぇの。……お前なら似合いそうだし。どうせ平原だと、相手からは居場所は丸わかりだからな』

『──うん! 僕、頑張るね!』

 

 そんな経緯があって、現在のイヨは〈ラピッツ・イヤー〉と感知の眼鏡を装備している訳なのだ。決して趣味だとか遊んでいるだとか、そういう訳では無い。強化された聴覚によって、外の人達が『他国のアダマンタイト級と仕事をした時も思ったんだが、桁外れて強い奴ってのは何処かしら常人とは違うんだよな。なんだよあの装備は』『ああ見えて有用なマジックアイテムだっていう説明は聞いたし、確かに優れた効果だとは思うが……下手に似合っているのが始末に悪い、なんだか直視するとビクッっとする』等と会話しているのが丸聞こえであった。

 

『事前情報無しで見たら実は人間じゃなくてラビットマンだったのかと思うな、アレは。一見して作り物には見抜けん』『しかし、あと五年もしたら結構な美女になるだろうに、あのセンスはなあ。明らかに好んで着けてるっぽかったし』『な。折角可愛いのに惜しいよ。ああいうのが好きって奴もいなくは無いだろうが』『あの見た目で男だって言い張ってるのもよく意味が分からないよな? あれかな、何か性別を隠す理由があるのかな? 生まれ付き身体は女で心は男って奴だとか……』

 

「心も身体も男ですってば」

「急にどうしたのじゃ?」

「いや、外にいる【戦狼の群れ】の人達の会話が聞こえてきて……っていうかバルさんも一緒に居るんだから訂正してくれても良いのに」

 

 多分面白がっているんだろう。副組合長との戦いを目撃している人達だから、イヨの実力のほどははっきりと認識している。そっちをちゃんと分かっているなら性別の方は別に事故の元にはならないから、此処は黙っていた方が面白いだとか、そんな事を考えているに違いない。

 

 ──声に悪い感情は籠ってないし、ただ単に話のタネになってる感じかな。

 

 だったら別に良いか、とイヨが心中で一人納得していると、外から件のガルデンバルドの声が響いてきた。

 

「先行偵察中のリウルとビルナスから連絡が入った! 前方に敵影及び障害物は無しとの事だ! 我々は現在の進路を維持したまま進むぞ!」

「了解!」

 

 イヨも馬車の中の面子を代表して声を上げた。体感時間だが、あと少しで休憩も交代なので、今の内に追加の分の書き取りを終わらせておこうと筆を握り直した。

 

 所で、先行して偵察に当たっているリウルと【戦狼の群れ】のビルナスは斥候兼盗賊と野伏である。当然魔法は使えない。リウルが盗賊系なのでスクロールを騙す事は出来るが、〈メッセージ/伝言〉の魔法は信用し過ぎては行けない、と云うのが現代の常識だ。遥か昔、この魔法による情報の誤伝達がきっかけで滅びた国があったとされているし、実際距離が離れる毎に雑音が混じったりする。なので、便利ではあるが出来るなら多用も重用もしない方が良いとされている。しかも定時連絡で毎度の事スクロールを使うのは財布に悪い。

 

 なのに何故遠方にいながらバルドと連絡が取れたのか。誤報の危険性を呑んでスクロールを使った訳では無い。それは、イヨが提供したあるマジックアイテムの効果である。

 

 その名は通話のピアス。名前の通りの見た目と性能を持つアイテムである。一対のピアスの片方ずつを、全体の指揮役であるバルドと一番腕の立つ偵察役であるリウルが装備しているのだ。

 元はSW2.0の物品だが、コラボに当たってユグドラシルにも登場したアイテムの内の一つだ。このアイテムは本来の仕様だと一日一回十分までしか通話が出来ないのだが、ユグドラシルには既にゲーム機能としてのチャットやメッセージその他情報系魔法が腐るほど、本当に腐るほどあったので、このままだと余りにも使用するメリットが無さすぎると運営によって判断され、やや仕様変更の末に導入されている。

 

 一日十分までと云う上限は変わらず、その代わり通話時間計十分までなら一日何回でも使用可能かつ距離制限なし。何の対策もなされていない素の状態でも、盗聴系の魔法やスキルにある程度の耐性を持つ。それがユグドラシルバージョンの通話のピアスである。その他の点は元の仕様とほぼ同じだ。

 

 ぶっちゃけこれでも使う者はかなり少なかった。たったそれだけの為に装備部位を潰すとかねぇわ、との意見が大勢であったのだ。しかしピアス自体が水晶の様な鉱物をあしらった上品な造りだったし、SWシリーズに思い入れの強いプレイヤーがコレクターアイテムとして所有したりして、一時期ほんの少数のプレイヤーの間で『あえてこれを使うのがお洒落なのだ』的な風潮が出来たりもした。

 

 正直言ってイヨもほぼ使った事が無い。友人に女装ドッキリを仕掛けた時にアクセサリーとして着けた位である。

 

 世界の垣根を超えてから重用されるようになるなんて考えてもみなかった。そう思うと感慨深い。自分の持ち物が仲間の役に立っていると思うと、イヨの胸に温かい気持ちが宿った。どういう形であれ、人の役に立てるのは良い事である。無論時と場合にもよるが。

 

 筆を握り羊皮紙とにらめっこをする。やりたくないと訴える本能を理性で殴り倒して文字の練習である。我が儘は良くない。弟妹の千代と美代であったらこの位は軽く熟してしまうのだろうな、と思ったりもするが、向き不向きはもうしょうがないので精一杯頑張るしかない。

 

 手は文字を書き、口は書く文字を音読しながらも、イヨは頭の中で今回の依頼で討伐する対象であるモンスターの事を考えていた。

 

 クラーケン。

 絶滅するまではイヨの元居た世界に存在していたのが信じられない位の化け物である。ユグドラシルでは外見がキモ過ぎるとして人気は著しく低かった。足が八本も十本も、種類によっては何十本もあるのが非常に面倒臭い。そもそも海などの水中若しくは水上や船上で戦わざるを得ないステージそのものが不人気だったが。

 

 イヨの祖父や曽祖父の世代はあの生き物を好んで食べていたらしい。そう聞いた時は友達全員と一緒に絶句したものである。最初はクトゥルフ系の神話生物をモチーフにしたモンスターだと本気で思っていたのだが、後々現実に存在した生き物を元にそれらの怪物が創作されたのだと聞いて『海ってあんなのが住んでたの? そんな所で泳ぐとか、昔の人度胸あり過ぎるでしょ』とみんなが思ったものだ。

 

 クラーケンは色々と種類があり、低レベル帯のものならあまり強くない。キモイ触りたくない足多過ぎという三難関を潜り抜けられれば倒せない事は無い位である。

 しかし、高レベル帯のクラーケン型モンスターはマジモンの怪物である。分類が巨大生物では無く魔獣だったり神話生物だったりし、なんらかの魔法を使って来たり、名状しがたい特殊能力があったりする。全種類をひっくるめたレベル幅は十二から九十程までとかなり幅広い。

 

 この世界のクラーケンも、やはり珍しく悍ましい存在とされている様だった。まずこの世界においてはクラーケンがただの巨大な海洋生物なのか、それとも魔獣なのかすら定まっていない。伝説上には足が数百本もあり吸盤一つ一つが大型船の帆より大きかったとされるクラーケンも語られてはいるが、海で漁師の網に数メートル程度の大きさの小物が掛かる事もあり、それが幼体なのか別種なのかも議論の種である。

 

 ともあれ、組合では著しく難度──この世界での強さの単位である──の幅が広いモンスターとして扱ってはいるものの、討伐例自体数が少なく、分かっていない事の方が多いらしい。

 

 巨大湖の淡水生クラーケンは前回の討伐例が百年近く前で、その時の個体は十数メートルほどの大きさだったとか。前々回の討伐例ともなると古すぎるのか記録が無かった。

 

 巨大湖の畔の漁村では度々遠目からの曖昧な目撃情報があるだけで、実際にはっきりと確信出来るほどの近距離で見た者はいない。地元では所謂UMA的扱いを受けていたらしい。

 

 ただ、最近になってその目撃例が急増。実際に吸盤の生えた触腕を見たとの声も上がり、漁師が不気味がっていた所に実害が発生し、それが収まらずにどんどん拡大。やがて漁業で支えられていた村の経済を脅かすまでになり、それが周辺一帯の領主であるプルスワント子爵の耳に入って此度の依頼発生に至る──らしい。

 

 冒険者組合の定めた推定難度は七十から八十五。イヨが見知っているモンスターの難度とレベルの差を勘案する限り、難度は大体大雑把にレベル×三くらいが標準だと思われるので、レベルにすれば二十三から二十八程か。ただし不明な点が多く、これより上になる可能性も高いとの事。

 

 単純にレベルだけで考えれば、倒せない敵では無い。だからと言って楽観する事は許されない。既に大勢の人が直接的間接的に犠牲となっているのだ。人の命を左右する職業に進んで就き、これからそれで生計を立てて行こうとする以上、自分の働きが人々の生命に直結すると思って望まねばならない。

 

 弱肉強食である。クラーケンだって生きていくために喰わねばならないのだろうが、人間だって生きていきたいから喰われたくはないのだ。同等では無くとも、対等の立場から駆除する。

 

「ベリさん」

「なんじゃ、何か分からない所でもあるのか?」

「──僕、頑張りますっ!」

 

 両拳を固く握りしめて宣言した少年に、老魔法詠唱者は一瞬目を見開き、直ぐに男らしい笑みを浮かべた。

 

「その意気じゃ、若人よ。ただし逸ってはいかんぞ、いくら強かろうとも冷静でなければ力は発揮し切れぬ。ましては今回の相手はデカい水溜り中じゃ。見つけるのも一苦労じゃし、戦うにしても一筋縄ではいかん。道中である今は無為に疲労を溜めぬようにな」

「はいっ!」

「イヨ、そろそろ時間だ。ナッシュと交代してくれ」

「あっ、はーい!」

 

 タイミング良く外からバルドが声を掛けると、少年はベリガミニに黙礼をしてから勢いよく馬車から飛び降りていった。書きかけの羊皮紙の上に、筆を置いて。

 

「あやつめ、目を輝かせて行きおったわ」

 

 息子どころか孫ほども歳の離れた少年。しかし実力は誰よりも高く、その癖外見通りの言動をする。

 

 全く不可思議で面白い人物が仲間になったものだ。高位冒険者には変わり者が多いが、それでもあそこまでの者は中々いない。十七歳のリウルですらがオリハルコン級としては若過ぎると云うのに、イヨはあの年齢で、あの身体で、あの性格で、腕が千切れても戦うのである。

 

 一体どのようにしてそれだけの実力を身に付けたのか、常識では考えられない。稀有にも程がある。あんな人物は数百万人に一人、いや数千万人に一人の稀さだろう

 

 ──長生きはするものじゃのう。

 

 老魔法詠唱はふと思う。

 

 自分は何時まで現役でいられるだろうか。後衛職だとはいえ、身体は冒険者の資本である。加齢による衰えは避けられない。有名なワーカー、老公パルパトラなどはベリガミニやガド・スタックシオンより高齢であるにもかかわらず現役であり続けているが、自分はあそこまで行けるだろうか。

 

 イヨやリウル、バルドと何時まで共に戦えるだろうか。ベリガミニは彼らしくも無くそんな事を考え、御者席側から差し込んでくる光に眼を細めた。

 

「ふうー、この時期にしては日差しが強いな。この位の行軍は何とも無いけど、少し汗をかいちまったよ。──あれ、ベリガミニさん、どうしたんだい?」

「なんじゃ、儂の顔になにか付いておるか?」

 

 イヨに代わって休憩を取りに来た髪を赤く染めた若者、【戦狼の群れ】のナッシュ・ビルに声を掛けられ、ベリガミニは一瞬ギクリとした。まさか自分は、見て取れるほど感傷的な表情でも浮かべていたのだろうか、と。

 

 人間は老いを自覚した瞬間に老化が早まると云う。自分に限ってまさかそんな、と考えていると、

 

「いや、何時になく戦意漲ると云うか、滾った顔をしてたからさ。ちょっとビクッっとしちゃったよ」

「──ははっ」

 

 老魔法詠唱は思わず笑ってしまった。自分は自分で思っているよりももっと、気が若かったらしい。

 

 ナッシュは怪訝な顔をしたが、ベリガミニは彼が何か言う前に、心配いらんと手を振った。

 戦意漲る滾った顔。自分がそんな表情を我知らず浮かべていた理由は、これしかないだろう。

 

「いやなに──まだまだ若い者には負けられんと、そう思っていたところじゃよ」

 

 

 




食べ物として見る文化抜きで考えれば、タコやイカって多分こんな感じの感想を抱かれるんじゃないかなと思いました。オーバーロードの現実世界は荒廃し過ぎですね。イヨは多分犬や猫等の愛玩動物以外の生き物を見た事も触った事もありません。

「このモンスターは何々っていう現実に存在した生物がモデルなんだよ」
という話を聞く度に、
「昔の人ってすごいなー、あんなのが跋扈する中を生きてきたのかあ……」
みたいな感じで間違った前時代の地球観を育んでそうですね。

友人への女装ドッキリは仲間と共に共謀して仕掛けたもの。最重要仕掛け人たるイヨはお祭り根性で割とノリノリでしたとさ。イヨは文化祭とかでも女装とか着ぐるみ着たりしてそう。最初は「これはちょっと……」と思っていても、褒められたり好意的な反応を寄せられる度に態度を軟化させていく感じです。


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初依頼:子爵領は巨大湖の畔にて

遥か後世の書籍『人類史』より抜粋。

 ~全知全能にして唯一至高、この世の全天と全地、そこに在る全ての有存在と非存在を統べる絶対の君より人類種の管理官の地位に任ぜられたデミウルゴス様は、我らにこのような言葉をお掛けになられた。

「人は余りにも愚かで矮小です。しかし、私は人の愚かさを、矮小さこそを愛しているのですよ。心からね」




 想像してみよう。

 

 此処は森の中で、貴方の目の前に現れたのは一糸纏わぬ裸身の美少女であった。

 男であったら誰もが見惚れるだろう蠱惑的で幼さを残した顔貌、外見年齢の割に豊満で形の良い乳房、無駄なく絞られた細い腰つき。透き通る様な金髪が背中までを覆い、細い腕は素肌を隠す事もせず、一心に貴方を求めて伸ばされている。

 

 ただし下半身は丸太以上の太さを持つ十メートル近い大蛇で、浮かべる表情は魔性の美貌も消し飛ぶ殺気立ったものとする。

 

 そんなモノを前にしてスケベ心を沸き立たせる事の出来る男は、豪傑以上に稀有な大馬鹿者であろう。

 

 彼女らの種族は雌性しか生まれない。繁殖には他種の雄を必須とする。此処だけ知ると先程書いた事も忘れて是非お近づきになりたいと考える者もいそうだが、それは大間違いである。

 

 一つ、彼女らは人肉をも食料とする。

 一つ、彼女らが雄と交わるのは、雄を死体にした後である。

 一つ、彼女らが繁殖に用いるのは、若く容姿に優れた者のみである。

 

 上半身の外見がもれなく絶世の美女、美少女、美幼女で薄着な為、ユグドラシルの男性プレイヤーから多大な人気があった種族、ラミア【魔女蛇】。ゲームでは年齢規制に引っかかるが故に必ず申し訳ばかりの衣服を着用しているが、この世界では個体と時と場合によるらしい。

 

 イヨの友人が創作していたユグドラシルの二次小説では、メインヒロインがラミアの少女であった。モンスターであるにも関わらず人間である主人公と種族の垣根を超えた恋に落ちてしまった彼女は、人食いの本能と男を愛しく思う気持ちを自分の中で相反させつつ、やがてそれらを止揚し、真実の愛を育んで行く──確かそんなストーリーだった筈だ。

 一巻は重厚な文章で紡がれたドシリアスな恋愛ものだったが、二巻から最終巻までは途端にラノベ染みてイチャイチャちゅっちゅっしまくったり、次々登場するヒロインたちにてんやわんやしていく高低差の激しい作品だった。因みにメインヒロイン大勝利エンドである。イヨは人間種な幼馴染みのサブヒロインを応援していたのでショックだった。

 

 そんなモンスターが大樹に背中を預けて息を潜めていた所にばったり出会ってしまった。それが現在のイヨの状況であった。

 

 放たれる鬼気で分かり切っていた事だが、どう考えても彼女はイヨに一目惚れなどしていないし、間違っても此処から二人の恋が始まったりはしない感じだ。表情、気配、挙動。全てが殺意と食欲に塗れている。

 

「貴女はユグドラシルのプレイヤーですか?」

「──」

 

 鎌首をもたげて何かを叫ぼうとしたラミアが発声する前に、一足で間合いを詰めたイヨは名も知らぬ彼女の顎を前拳で正確に打突した。瞬時に意識を切り落とされたラミアは力なく上半身を地面に投げだし、ぴくりとも動かなくなった。

 

 イヨはこういったモンスターを見るたびに思うのだが、臓器はどうなっているのだろうか。

 

 上半身は人間だが、蛇体の下半身も含めると明らかに人の臓器では処理能力が追い付かないだろう。そもそも口が人間のそれなので、本物の蛇のように巨大な獲物を丸呑みにする事も出来ない。あの小さな口でこの巨体を維持するだけのエネルギーを摂取するには、それこそ四六時中食料を食べ続けていないといけない筈である。と云うか、恒温動物なのか変温動物なのか。

 

 ゲームではゲームだから良いとしても、現実にはどうやって生きているのか。それとも、魔力や魔法がある世界に住まうモンスターを、元居た世界の法則に当てはめて考えること自体が野暮で無為なのか。

 

 根本的にはラミアの生態などどうだっていいのである。生きて此方を害そうとするならば、死して害せなくなるまで殺してやるまでだ。ただ、見た目は人間の上半身だが、人間と同じ臓器が同じ位置関係で入っているとは思えなかったから、急所は何処なのかとふと考えただけだ。

 

 ただ何方にせよ脳は見た目通り頭蓋骨の中に存在した様で、人間と同じく脳震盪を起こして倒れ伏した。頭、首、前面に比べて傷の多い背中が丸出しである。首の骨と脊髄諸共を踏み潰すと、身体が痙攣するだけのれっきとした死体になった。

 

 地に伏せる死体を前にイヨは残心の体勢で警戒し続けていたが、やがて構えを解いた。

 

「……びっくりしたぁ」

 

 賭けても良いが、びっくりしたのは彼女の方である。

 

 少年はほっと胸を撫で下ろす。物音がしたと思って大樹の陰をひょいと覗いたら全裸のラミアがいたのである。ばっちり目が合った。

 

 ラミアはプレイヤーも選択可能な種族である。

 異形種自体が不人気であまり数はいなかったのだが、ラミアは魔法詠唱者系の職業と相性が良い割に肉体的な性能も低くは無く、容姿にも優れている。なので選択するプレイヤーは比較的多かった。

 荷馬車護衛の時のトロールやゴブリンと違ってカチコミを掛けてきた訳でも無かったし、だから全裸の時点で多分プレイヤーでは無いんじゃないかと思いながらも、一応聞いてみようとした訳だ。無反応で襲い掛かって来る素振りを見せようとしたので叩き潰したが。

 

「おいイヨ、今の音はなん──っと! ラミアか!?」

 

 音も無く藪を駆け抜けて来たのは、【戦狼の群れ】のメンバーであるビルナス・ルルツベルナルだ。野伏らしくない筋骨隆々で大柄な体躯と、緑色に染めた髪を短く刈り込んでいるのが特徴である。高位の冒険者らしく立派な装備で、魔獣の皮を用いた皮鎧に魔法の武器化したショートソードとコンポジットボウ、魔法金属の矢じりを持つ矢、それと少数だが第一から第三位階の魔法が込められた矢をも所持している。

 

 【戦狼の群れ】のメンバーは女性一人以外は皆髪を染めているのだ。個々人を特徴付けて人目を惹き、名前や顔を覚えてもらうのが目的らしい。

 日本人であるイヨの価値観からすると、赤やら緑や青に染めるのは悪目立ちが過ぎるのではないかと思ってしまうのだが、この世界では別に染髪を忌避する感性は無いらしく──他の国にイヨは行った事が無いので、もしかしたら公国だけの風習なのかもしれないが──子供でさえも染めている事があったりする。

 野伏のビルナスが緑、重戦士でリーダーのナッシュが赤、信仰系魔法詠唱者で紅一点のイバルリィが天然の金髪、魔力系魔法詠唱者のバルツネヒトが青の長髪、二刀軽戦士のダーインが黒に染めている。メンバーそれぞれの髪色を列挙するとそんな感じである。

 

 余談だが、公国では金髪や明るい茶髪が多数を占め、次点が暗めの茶髪や栗色に赤毛。天然の黒髪は結構な少数派である。純粋な公国人で黒髪はほぼ零であり、黒髪の者の系譜を辿ると何処かしらで南方民族系の血統が混じっている事が多いのだそうだ。リウルのブラム家は一族郎党黒髪黒目で、かなり珍しい家系らしい。

 イヨの白金の髪色は金髪のバリエーションと捉えられる為、数がとても少ない割にあまり人目を引かない特徴となる。金の瞳も一般的なので、どちらかと云うとイヨは公国人的な外見的特徴を持っていると見做されるのである。中身の篠田伊代は黒髪黒目の日本人だが。

 

 閑話休題。

 

「怪我は無いか──無い様だな。良かった。このラミアは何処から湧いたんだ?」

「此処の木の後ろにいたんです。びっくりしました」

 

 ビルナスはラミアが完全に死んでいる事を確認すると、首をねじって顔を確認したり蛇体の部分の鱗を調べたりし、

 

「鱗の色褪せ具合や上半身の外見年齢からして、二十から四十歳未満の若い個体だな。連中が二百年生きた記録もあると聞くが、実際そんな長寿な奴にゃお目に掛かれん。いっても百超えだ」

 

 それでも普通は十二分な脅威なんだが、と口を結ぶ。腰に下げた刃物で手際よく証拠部位を切り取り、イヨに放って収める様に指示を出した。

 

「小便をしにたったの数十歩森に分け入ってラミアと遭遇するとはな、運が悪い。接敵から何秒で倒した?」

「多分……三~四秒くらいだったかと」

 

 流石に速いな、と大男は破顔した。子供を褒める大人の顔であった。

 

「こいつに悲鳴や雄叫びを上げる時間も与えなかった訳だ。他の皆はお前がモンスターとかち合った事に気付いてもいないだろう。近くに居た俺でさえ、お前が滑って転んだのかと思ったくらいだ」

 

 こんこん、と撫でる様な力加減でイヨの額を小突くと、ビルナスは背を向いて歩きだした。イヨもその背を追って行く。

 

「感知系アイテムを装備していればもっと前に気付けたんですが」

「あの眼鏡と兎の耳か。流石に戦いを控えてあの装備ではいかんだろう。そっちは俺達に任せて、お前は周囲を疎かにしない範囲で前に集中していればいい」

 

 公都から北に駆ける事四日、プルスワント子爵領最大の町へと到達。子爵の館にて不在時の執務代行を務める重鎮と顔を合わせ、その日の内に街を出て、もう一日掛けて巨大湖の畔に存在する漁村、ガバルの村へと到着した【スパエラ】と【戦狼の群れ】の合同パーティは村長宅で夜を明かした。

 

 そして現在、巨大湖──正式な名はあるのだが、地元民の間では湖イコール巨大湖である為区別の必要が薄いらしくその名を全く使わない──周辺を探索中である。

 

 

 

 

「ラミアぁ? また珍しいもんにぶつかったな。公国内最大の一族は【天葬術理】が率いた討伐隊に駆除されたんじゃなかったか。そいつはどんな様子だった?」

「あれはかなり南方でしょう。それに高々一月前ですよ。討ち漏らした残党が逃散していたとして、わざわざこんな所まで来ますかね? あまり聞きませんが、元々ここいらに住んでいたのでは」

「僕はその辺の事情は分かりませんが、身体の前面には傷が無くて綺麗でしたよ。服を着てなかったので間違いないです。背中は結構傷付いてましたけど、そこまで悲惨な感じでも無かったです」

 

 森と湖の境であった。ガバルの村からほんの三十分か一時間ほど離れた辺りである。相手の巨大さと、嘘か真か短時間なら陸上での活動も可能との未確定情報を考慮し、人の生活圏から距離を取っているのだ。一行は歩きながら──無論警戒を怠ってはいない──会話している。

 

 一方を見れば水平線が見えるが、反対に眼をやれば鬱蒼とした森だ。自然の水源がほぼ壊滅した世界の住人であったイヨからすれば、人の手の入っていない天然の透明な水がこんなにも大量にあるのは我が目を疑う光景だった。この中に馬鹿でかい頭足類がいるのだと思うと皮膚が粟立つ思いである。

 

 戻ったイヨとビルナスが事態を仲間たちに告げると、彼ら彼女らは俄かに議論を始めた。転移以前の出来事が深く関係しているお話なので、予備知識が皆無なイヨには八割方理解不能な会話である。若干の寂しさを感じた少年はビルナスに問うた。

 

「ラミアってそんなに危険なモンスターでしたっけ?」

「ふむ。イヨはラミアについてどれ程の知識を持っている?」

 

 たいして何を知っているでも無い。リトルでもオールドでもエルダーでもない普通の個体のレベルが、確か十を超えても十五に届かない位だったと思う。常時発動では無いものの魔眼持ちで、魔法も使う。そんなあやふやな知識がイヨの持つ全てである。

 そう告げると、ビルナスはうんと首肯した。

 

「まあ合っているが、もう少し知識を持っていても損は無いぞ。俺で良かったら教えようか?」

「お願いします!」

 

 話に付いていけないのが寂しいイヨは真剣な表情で頷いた。大男はその様子に良しと返す。

 

「彼女らは部族ごとに纏まって生活し、性成熟していない若い個体は縄張りの外には出ない。子供を常にテリトリーの内側に匿っている訳だな。子を成せる様になると部族内で成人として扱われ、同時に戦士として狩りにも出始めるんだ」

 

 まず単純に強いのだそうだ。人間より優れた肉体能力に高い知能、特殊能力、そして魔法。モンスターに良くある特徴として、長生きすればするほど強大になる。長い年月を生きて魔法の腕を高めたラミアは、単純な戦闘力だけでエルダーリッチ以上ギガントバジリスク以下の脅威だとか。

 そして彼女らは野蛮な獣では無い証明に、ただ襲い掛かるだけでなく罠も使う。

 

「お、なんですかなんですか? 若い子同士でお勉強ですか? おばちゃんも話に混ぜてくださいよー」

 

 こう見えて神殿で一般教養の先生もやっているんですよ私、とイヨに微笑みかけながら話に混ざってきたのは、【戦狼の群れ】の神官であるイバルリィ・ナーティッサだった。

 肉食の猛獣じみた野性的な美貌とは裏腹な親しみやすい笑みと話し口調が特徴的な人物で、まだ三十一歳の若さにも関わらず、時折自身をおばちゃんと称する癖がある。

 

 晩婚化が進みに進み、男女ともに生涯未婚率も高い世界の住人であったイヨからすれば三十一はまだまだ若いのではないかと思うのだが、十代後半から二十代前半までに結婚して子を産むことが普通の世界では、彼女は確かに若いとは言い辛い年齢である。特に農村の感覚で言えば人生も残り半分といった感じだろう。

 因みに、彼女はパーティ内では年齢順で丁度真ん中に収まる人物である。ビルナスとダーインが三十歳で、リーダーであるナッシュが三十五、バルツネヒトが一番年長で四十一だ。だから年齢差的にはそこまで離れてもいないのだが、それでも年長者の振る舞いが似合うのは本人の人間性故であろう。

 

 軽量化の工夫と魔法を施した改良金属鎧にヘビーメイスとモーニングスターを装備していて、頭はマジックアイテムで防護しているので外見的には丸出しだが、その他の部位は全身ガッチガチに武装している為、喋っていないと外見が非常におっかない人である。

 

「ラミアは上半身がみんな十代前半から三十代後半くらいまでの美人ですからね。あの外見を餌や欺瞞に使ったトラップもよくあるんですよ。冗談抜きで一般人には脅威です。スケベ心抜きでも引っかかってしまう人はいるんですよ」

「奪った衣服を身に纏って、下半身の蛇体を藪や水中に入れて隠すんだ。そうして遭難者や行き倒れを装う。連中にとっては意味の無い金銭や宝石を携えてな。ラミアは自分の外見の良さに自信を持っているから、繁殖目的の捕食には色仕掛けを持って挑む事もある。そうしてより良い雄を得てより強い子を産んだ個体は、部族内の地位が上昇するんだ」

「ラミアにもラミアなりの文化や習俗がある訳ですか」

 

 もしかしたらユグドラシルのラミアにもそうした設定が存在したのだろうか。良く覚えていない。基本的にバトル野郎なので、フレーバーテキストには殆ど興味を抱いていなかったのだ。

 イヨの友人などはエロモンスターウオッチング等と称してラミアやサキュバス、ウィンディーネやヴァンパイア・ブライドと戦うでも無く超至近距離で掠り避けしながら胸部や臀部を凝視する変態行為に勤しんでいたが、その横でガチンコの泥仕合を演じるのがイヨの立ち位置だった。

 

「ラミアは社会性のあるモンスターだ。まとまりがある。上半身の外見が人間の女性と酷似している事からも分かる様に、餌としても繁殖相手としても主に人間種をターゲットとしている。だからどの国の冒険者組合でも積極的な討伐を推奨しているんだ。帝国や王国なんかでは近年目撃例討伐例共に大分少なくなったらしいが、公国ではまだまだこれからといった所かな」

 

 ラミアは強くて結束力があるモンスターで、人間を主なターゲットとしている。そんな種族に眼を着けられた人間種が未だ大地に生きている理由として、人間を獲物として見るモンスター間での縄張り争いも大きいと考えられている。

 

 モンスターにとって冒険者や兵士等の例外を除く大多数の人間は餌であり、競争相手では無い。モンスターの競争相手が、同じく人間を獲物とする種類や部族の異なるモンスターである事は珍しくないのだそうである。人間はあくまでもこの世界に存在する数多の生物と非生物の中の特に弱い部類の一種族であって、間違ってもイヨの世界の様な万物の霊長、地球で最も繁栄し過ぎて自分たちごと地球を滅ぼしかけている種族では無い。

 この世界の人類に『モンスター同士殺し合っててくれてラッキー』等と浮かれている余裕は全く無いのだ。そもそも数多くのモンスターに競争相手ですらなく簡単に獲れる餌と見做されている時点で相当な崖っぷちであるのは間違いない。

 

「他のみんなが話しているのは【女喰らいの赤鱗】と仇名されたラミアを長とする大部族を、他の都市を拠点とするオリハルコン級が率いた討伐隊が壊滅させた話だな。それが一月前なんだ」

「私たちや【スパエラ】の皆さんは違いますけど、公都からも何チームか参戦している位に大きな仕事でしたね。ここ数年でも珍しい規模の大討伐戦だったらしいですよ」

 

 通常のラミアはその種族特性から男性を好んで襲うが──因みに女性が見向きもされない訳では勿論無く、男性の次は女性が当たり前のように襲われる──女性だけを選んで捕食し続ける赤い鱗のラミアがとある都市の近隣に居たのだと云う。

 

 存在が判明し有名になったのはここ十年程の事だが、目撃者の語る情報から判断すると、推定百二十歳越えのかなり強大な個体であったらしい。統率力に優れた彼女を頭とした部族は己らの存在を巧みに隠蔽し、自分たちの仕業と分からない様に人間を捕食し続けていたのだ。

 存在が明るみに出てからも集落ごと移動するなどして長く逃げおおせたそうだが、一月前に漸く大規模な討伐作戦が展開され、事実はどうあれ全滅させたと発表が為された。

 

「相当な数がいたと云うから、もしかしたら一部逃げ切った連中もいたんじゃないかと噂になっていたんだ。其処にお前がラミアと遭遇したから──」

「元から此処に住んでいたのか逃げて来たのか、どちらにせよ十中八九群れで生息してる筈だから、他にもいるのではないか、という事ですね」

「そうなんですか……」

 

 クラーケンだけでも地元村民にとってはただ事では無い死活問題だというのに、この上ラミアまでいるのか。イヨにとってはお色気担当モンスターのイメージが強いが、この世界で生きてきた人たちにとってその性質は正に恐怖そのものである。

 

 他の先輩冒険者たちの間ではリウルが、

 

「──子爵様からの依頼内容にはクラーケン討伐の他に村や都市近隣のモンスターの間引き、薬草の採取も入ってる。大物を片づけた後でそっちも調査しとくのがいいだろ」

「そうだな。予想より強大な個体だった場合も検討して、補給物資はかなり持ち込んでる。場合によってはそのままラミアを駆除する流れも可能ではある」

 

 大物討伐と小物の間引きに加え、この依頼は採集も兼ねている。かなり多目的な依頼である。むろんクラーケン討伐が主目的であり、その他二つはあくまでも余力があったらの話だ。例えば討伐だけでリソースの大方を使い切ってしまった場合はやらなくても問題はない。報酬が討伐分だけになり、他の冒険者かもしくは後日にまた依頼が出されるだけだ。

 

「──少し疑問なのは」

 

 そういって腕を組んだのはガルデンバルドだ。イヨ以外は男女ともに体格がよく長身の傾向がある集団の中にあってなお、彼の二メートルを遥かに超える体躯は視線を上向ける必要がある。

 

「子爵様が俺たちに依頼を出すまでの流れが妙といえば妙だな。挨拶回りの時直に詳しい話をした上で組合に依頼を出すか、しないにしろ近々依頼を出すからよろしく頼む、程度の事は言っておくのが普通だが、あの時は本当に挨拶位で他には何もなかった」

 

 問題の発生時期と公都までの道行きにかかる日数、それに報酬の事などを鑑みるに、当たり前だがクラーケン討伐の依頼を出す事自体は自領の町を出るずっと以前に決まっていた筈である。子爵は【スパエラ】を信用し、【スパエラ】との繋がりを重要視している。今までも多くの依頼を出し、バルドらがそれを成功させてきた実績からくる深い関係があるからである。

 

 今更他の、腕前は同等だとしても付き合いの浅いオリハルコン級チームに依頼を出す理由は、普通に考えれば無い。勿論世の中は普通の事以外にも様々な出来事があるが。

 

「あ、そう言われてみれば確かにそうかも……?」

「お前今気付いたのか……」

 

 口には出さないまでも、イヨ以外の全員はその事に感づいていたらしい。一気にみんなから微笑ましい未熟者を見る生暖かい視線に晒された。その中に感じる微妙な圧は、もう冒険者なんだからそれ位は察せないと駄目だぞ、といった意味合いのお叱りであろう。

 

「ぜ、全然なんとも思わなかったじゃないよ? ただ子爵様がちょっとうっかり言い忘れたのかなとか、その程度に思ってたから……」

「そんなお前みたいなこと、普通の大人はしねぇよ」

 

 あからさまな子供扱いに流石にちょっと悔しそうな顔をするイヨだが、偉い人が自分並みの頭をしているとは自分自身全く思えなかったのもあって、あっさりと納得した。

 

「そ、そうだよね。きっと何か事情があったんだよね。子爵様はすごく立派な方だもの」

「や、確かにまあ立派な方ではあるし、何か事情があったのだろうという点には同意じゃが、心象だけで判断するのは危険じゃぞ」

 

 例えば子爵が何か企み事をしていてその達成のために冒険者を騙そうとしていたのだとか、そういった展開は心配しなくても良い。そもそも騙そうとしていたのなら、こうして冒険者たちに『何故だか何時もと違ったな、ちょっと違和感があったな』と思われている時点で半ば失敗の予兆があるのだし。

 

「イヨは少し尊敬のハードルが低過ぎるな。もう少し長い目で判断した方が良いぞ」

 

 実際に会って見た外見に言動、そして雰囲気。そして道中の子爵領の町や村で人柄を聞くに当たり、イヨはすっかり『子爵様はすごく良い人、立派な大人』との認識を築き上げていた。

 

 まず外見がかっこいい。背が高くて体格が立派で、短く刈り込んだ髭は大昔の映画に出てきそうな感じであった。身分を弁えてちゃんとした言葉遣いと礼儀作法をしろと事前に三人から言い含められていたので、もしかしたら『控えい控えい、この儂を誰と心得るかこの平民どもが!』等と怒鳴られるのではないかと内心びくびくしていたのだが、非常に丁寧に接して頂けて、それだけでイヨは感動の面持ちで子爵に尊敬の念を抱くに至った。

 

 イヨの元居た国、日本は民主主義の法治国家であり、貴族や王族といった特権階級は存在しないことになっている。法の下に万民は平等である、といった建前が一応まだあるのだ。しかし実質的には巨大複合企業や財閥の一族郎党が世の中を差配する貴族階級であり、一般庶民などは劣悪な環境でひたすらに働き蜂であることを強いられる社会であった。国家は既に傀儡で、公務員などは民衆の不満や不平が巨大複合企業に向かない様にスケープゴートとして存在しているに等しい。

 まあ、そんな中でも職務に熱意と充実感を持って当たってしまうイヨの両親の様な例外も一部にはいたが。

 

 当然の事ながら、その実質的貴族階級の人間は下の者の事など僅かにも考えない。そもそも二一三八年現在の社会形態そのものを作り出したのが彼らである。大昔天から雨が降ったように、大地から作物を授かったように、もはや社会的生物である人間の生態系として貧困層からの搾取の構造は完成している。例え貧困層が不満を爆発させて蜂起したとしても、それで犠牲になるのは同じ貧困層とスケープゴート、もしくはやや裕福なだけの一般層である。

 アーコロジー内部に住まう特権階級の人々は外の世界とはまるで異なる世界に生きている。その清らかな空気や清潔な水、豊富な食糧のためにどれだけの一般人が苦鳴に喘いで生きているか等は省みる事も想像する事も無い。彼らにとってそれは当然で当たり前の世界の仕組みそのものだからである。

 

 そんな世界で、多少人より幸福に恵まれながらも生まれ育ったイヨであったから、子爵の業績や行いを聞いて本当に感動したのだ。

 

「いっそ僕の国も貴族制だったら良かったのにな……」

「うーん……君の国が君の国なりに順風満帆とは行っていないのであろう事は、おばちゃん否定できませんけどね?」

 

 プルスワント子爵は大層領民に敬われていた。お膝下の町の住民からも、やや離れたガバル村の住人からも。皆口を揃えて言うのだ、公平で公正な筋の通ったお方だと。

 

 子爵は領民を手厚く保護する。徒に、無為に負担を増すような施政は絶対に行わない。無論窮状の折にはしょうがなく税を増す様な事もあったけれど、それとて必要な分だけである。それが響いて領民の生活が悪化した場合、後に可能な限りの救済を行う。身寄り無き孤児の内、才ある者を自らの養子として迎え入れる。部下や家中の者の不正や暴力を断固として認めず、厳しく統率なさっている。身内だから血族だからと云った理由での優遇や甘やかしは大層お嫌いであり、自身のみならず臣下一同も主のその気風に忠実である。

 

 何も子爵が聖人君子な人並み外れて清い人格の持ち主である訳では無い。其処には当然打算も計算も、直接領民を想ってというより、本人が奉じる理想に依る行動も沢山ある。領民を虐げないのは、その方が領の運営に都合が良いからでもある。

 

 ──嫌がる人間を鞭で打って牛馬の如くに酷使するのは実際として効率が悪く、何より高貴なる者のする事ではない。絞れば税を吐き出すかのように農民を扱えば、その無理は必ず後に響いて長期的目線での税収低下を招く。第一に、その様な鬼畜の行いは騎士道に反する。その上反乱など起こされては双方ともに害しかない。大公殿下より預けられた領地を荒れさせるのは不忠の極みである。主君にも臣下にも同胞にも領民にも公国にも帝国にも、凡そこの世の全てに顔向けできぬ。

 

 子爵は心からそう思うが故、自身の信ずる道に乗っ取って政治を行っているに過ぎない。逆に、民が子爵甘しと見て己が職責と役割を放り出してもっと慈悲をなどと乞えば、彼はその不心得者どもを一人も余さず牢にぶち込むであろう。

 

 子爵家は代の浅い貴族家である。現子爵当人より四代も遡れば、戦場の最前線にて剣を振るった一兵士に過ぎない。勇敢な戦いぶりにて戦功を重ね騎士に叙され、今度は人を率いて勝利に貢献し、子爵の位を授かった一族だ。かの家の血筋に連なる者は徹底した現実主義と実力主義の下で育まれる。人生の殆どを戦場で過ごした初代が、戦場にて分不相応な地位を持つ無能がどれだけ害悪かと嫌悪に嫌悪を重ねていたからである。

 

 かの家に伝わる金科玉条、初代が定めた鉄の掟はこうである。『人の上に立つ者はそれに相応しき能力と実力を、そしてそれを正しく振るう品性と知性を兼ね備えよ。それを持たぬ者は戦場にて害悪であり、多くの人間を巻き込んで死ぬ運命にある。故に、次代が無能浅慮な恥知らずであれば、家督を譲らず磔に処せ』

 

 前大公時代の社交界ではやや煙たがられもしたが、今の大公に時代が移ってからはその働きぶりは一層素晴らしきものとなった。近々領地の経営以外にも国家の要職を授かるのではないかと専らの噂である。そんなやや頑固ながらも信頼に値する領主に、領民は敬意を抱いて日々を過ごしている。

 

 複数の死人が出たガバルの村に一定の税の免除と見舞金を出し、依頼を出すのに掛かる金銭を全額肩代わりしたものだから、かの村の住人は揃って領主への尊敬の念を新たにしている。ガバル村は規模の割に多くの税収の見込める要所であり、放置して廃れるより手助けした方が割が良いと、統治者の理屈ではそうなのだが、実際に救われた村の住人からすればそれは慈悲深き救済の一手に他ならないのである。

 

 ──我らは良き領主様に恵まれた、ありがたやありがたや。そういって領主の館のある方向に手を合わせる老人の姿は、イヨの目にしっかりと焼き付いている。

 

「貴族様ってすごいよね。偉いのに優しくて、本当にしっかりしたお方なんだ。僕もああいう大人になりたいなぁ」

 

 完全に大人を尊敬する子供の目をしているイヨも、今回は何も間違っていない。だがしかし、子爵様ってではなく、貴族様ってすごいよね、と零した為、若干目つきを厳しくして声を上げた人物が二名いた。

 

「おいイヨ。子爵様は良い。俺らが本人のいないとこでも様付けて読んでるのは、あの人がそれに値する人物だからだ。だけどな──」

「ああそうだ、子爵様みたいな良い意味での堅物ならいいさ。だが他の貴族連中まで一緒くたに高評価するのはちょっと見過ごせないな」

 

 この場における貴族嫌いの二大巨頭、イヨの憧れの女の子であるリウル・ブラムと【戦狼の群れ】のリーダーであるナッシュ・ビルである。ナッシュは子供を相手にすると口調がやや丁寧になる性格の様だ。

 

 ナッシュは赤く染めた髪をやや長めで揃えた優男風の外見だ。重戦士だけあって彼の身長はとても高い。桁外れに巨大なガルデンバルドよりは小さいものの、イヨより三十から四十センチは上だろう。

 装備は魔獣の骨と皮を用いた非金属の全身鎧とカイトシールド、巨大な月光の狼の頭骨をそのまま加工した兜がトレードマークである。メイン武器はバスタードソード、腰にはスティールブロウと呼ばれる打撃武器と、短槍と見紛う大きさの特注品のエストックだ。

 

「え、だって貴族様って偉いんでしょう? 政治とか軍事とかをやるお仕事なんだよね? そんなまさか、創作に出てくるような悪い貴族もそうはいないだろうし」

「いるよ。貴族制の無い国から来たお前には実感が湧かないかもしれないが、それこそ物語の悪役みたいな性悪貴族なんざ腐るほどいるさ」

「王国や帝国、勿論公国にもね。公国や帝国はトップの目が行き届いているから表立って蔓延ってはいないけど、それでも裏でろくでもない事をやっている奴は大勢いる」

「そ、そうなの?」

 

 私怨と義憤と侮蔑の入り混じった怖い顔の二人の圧力に押され、イヨは思わず周囲の人々に助けを求める視線を向けるが、誰一人として目を合わせようとはしなかった。気付けばパーティはイヨとその両脇を固めたナッシュとリウルを中心に円形を成している。一行の歩みは緩まない。

 

「良い方だろうが悪い方だろうが、固定概念や思い込みに囚われるのは危険だ。冒険者も上の方になると色んなお貴族様々方と付き合わなくちゃならなくなる。ここらで一つ教えておこう」

「ああ。申し訳ないけど、少しばかりの間、索敵警戒は皆に任せよう。悪人はどの国にも業界にもいるけど、貴族の場合は公権力を持っている分だけ厄介だからね」

「え、え?」

 

 リウルもナッシュも悪徳貴族が大嫌いである。リウルは商会のお嬢様時代にあくどいお偉い様を幾度も目で見たし、実の父が貴族趣味に傾倒して散財を重ね、挙句の果てには商会の利権や財産を勝手に売り飛ばして貴族になろうとした過去がある。

 

 この場にいる面々の内イヨも含む【スパエラ】のメンバーは知らない事だが、ナッシュの方も生来のタレント【生まれながらの異能】が為に親元から金で買い叩かれて貴族の子弟となり、十四の時に才能と異能の不一致に見切りを付けられ塵の如く捨てられた過去がある。

 

 それに加えて、二人とも冒険者となって以降も腐った貴族に幾度も会っているのだ。

 

「いいかイヨ。俺とナッシュはな、貴族はみんな悪党だから心を許すなとか、全員まとめて嫌いになれって言ってる訳じゃないんだ。まずはそこを分かってくれ」

「そうだ。さっきも言ったが、何処の国の人だろうと金持ちだろうと貧乏人だろうと、職業が違おうが年齢が違おうが、悪人も善人もいるんだ」

 

 例えば貴族だから悪人に違いないとか、公国人だから良い人に違いないとか、子供だから悪いことはしないだろうとか、そういった思い込みをしてはいけないと二人は口を揃えていった。

 身分や職業、国籍等ではなく、その人個人の人格や立場を見極めるのだと。組織や集団を相手にするときはまた別の立ち回りがあるとも言い含められた。

 

「う、うん。分かったよ」

「その上で言っておくが」

「うん」

「貴族相手には気を緩めるな。いくら良い奴だなと思っても相手から親しくしてきても、分を弁えた態度で接しとけ。間違ってもお友達感覚で接するなよ。特に公国以外の国に属する奴には絶対だ」

「え」

 

 リウルの反対隣りではナッシュがうんうんと頷いてるが、それを含めてもイヨはちょっと納得がいかない。さっきまで言っていた事と少し矛盾している気がするからだ。

 

 慌てて口を開こうとすると、お前の言わんとする事は承知済みだとばかりに手で遮られた。

 

「『平民如きと馴れ馴れしく会話をしていた』、逆に『貴族に対して舐めた口を叩いた』。これだけでも性根のねじ曲がった奴にとっては難癖引っ掛けるのに十分以上の理由になるんだ」

「貴族はある意味、俺たち冒険者以上の弱肉強食の世界で生きてる。一見華やかでも魑魅魍魎共の足の引っ張り合いが絶えない。自分の面子が平民数十人の命より大事だって思ってる貴族は幾らでもいる。立身栄達の為なら他人の命など知ったこっちゃないって奴もね」

 

 イヨと善良な貴族が仲良く話すというただそれだけの出来事でも、イヨもしくは相手の貴族にいちゃもんを付けてくる悪人は沢山いる。だから双方の為にも態度と言葉遣いは気を付けなければならない。そういうことを言いたいらしい。

 基本的にどんな位にあっても貴族とは一勢力の主であり、もっと大きな勢力の一員なのである。一つの国の中で複数の勢力がぶつかり合い、そして同じ勢力の中でも重鎮がそれぞれの派閥を形成し、所属する者同士で相争うといった構図は何処の国にもある。

 

 帝国などは皇帝が絶対王政を布いている為、表立って反皇帝を表明している派閥は存在しない。皇帝への不忠を露わにした輩は皆殺されるか幽閉されるか、最も穏当な処分でも爵位を剥奪されているからである。帝国の貴族は全員が皇帝に対する絶対の忠誠を誓っている。隠れて反感を抱いている勢力も無いではないが、彼我の圧倒的な戦力差と鮮血帝への恐怖がある為、表立って行動を起こすような事例は極々少ない。

 

 かつての公国の場合は大きな力を持つ大公派と少数の反大公派の構図の歴史が長かったが、その時代であっても大きな争いは少なかった。基本的に大公派が利権と主導権を握っていて、殆どの分野で反主流派は表立って実際の行動を起こせなかったからである。そうして安定的な国家運営を続けてきた。歴代大公と側近の努力の賜物であると言えよう。

 現在の公国は実質的に帝国へ服従している上、大公は皇帝への忠誠を公言し、その部下として認められているので、反大公派はほぼイコールで反皇帝派と見做される。故に帝国からの外圧と大公の粛清によってそれらはほぼ根絶している。

 

 皇帝と大公は共に汚職や行き過ぎた放蕩、平民からの苛烈な搾取を非効率で愚かしいと厳しく取り締まっている為、所謂悪徳貴族は大分数が減っている。あからさまな無能と害悪は牢獄か死後の世界に叩き込まれたと言って良い。水面下に潜った連中、己が悪事を隠す知能があった連中にしても、現在は小康状態である。

 

「……じゃあ、大丈夫なんじゃないの?」

「お前は甘い。国家や君主がどんだけ締め付けをきつくしても、それでみんな突然良い奴になる訳じゃ無いんだよ。馬鹿は確かに少なくなったけどな」

「俺の因縁の相手ももう牢獄の中だしね。でも、本当にやばい連中は捕まるより早くより深い闇に潜った。公国も帝国もまだ綺麗さっぱりとは行かないさ。だから注意しなくちゃいけないんだ」

 

 堂々とした悪人など普通はいない。法が健全に運営されている限りにおいて、罪を犯した者は処罰されるからである。悪人は通常隠れているものなのだ。そして、平民に比べて大きな公権力と富を持った貴族や大商人はそれが遥かにやり易い。

 殺しも盗みも、権力と恣意的な法の運用で覆い隠してしまえば人目に触れないからだ。事が露見しない限りは裁かれる事も無く、領地持ちの貴族の場合は自身が法の側に立っている様なものだ。そうでなくとも鼻薬をかがせて煙に巻く事も出来る。

 

 たとえ高位冒険者であっても、貴族は敵に回さないに限るのである。

 

「公国内だったらまだ、俺たちを重要視してる貴族家も多いから何とかなるかもしれないけどな。帝国の方もまあ皇帝が皇帝だし、公国からの圧力も利かんでも無いから最悪よりはマシだ」

 

 そう言うとリウルは不快げに鼻を鳴らし、ナッシュは腹立たしいとばかりに地面を蹴った。イヨはそんな二人に挟まれて、さっきまでの話の内容を忘れないように口に出して確認しだす、と、

 

「今一番警戒すべきは王国貴族だな、それは間違いがない」

「え、王国? り、り、り……リエステーゼ王国だっけ?」

「リ・エスティーゼ王国な。何年か前から滅ぶ瀬戸際だったのに、最近やっと自覚が出てきたらしくてな。俺ら他国人の目線からすると今更気付いたのかよって位なんだが、近頃ただでさえあからさまだった屑具合が加速してるんだよ」

「く、屑って……言い過ぎじゃない……?」

 

 流石にそれはと思ったイヨに対し、ナッシュは諭す様に言った。

 

「シノンもあの国の貴族の依頼を受ければ分かるよ。物語に出てくる悪役貴族の典型みたいな奴が悪行を隠す事すらせず、堂々と裏組織との関係を語って恫喝してくるんだ」

 

 【戦狼の群れ】はそれなりに長い期間活動しているチームなので、自国以外の冒険者組合や依頼人からの仕事をした事が何度もあった。

 【スパエラ】に至っては一時期、王国に活動の場を移していた時期がある。リウルが自分の目標であるアダマンタイト級冒険者を間近で見ながら活動する事を望んだからだ。帝国の【漣八連】や【銀糸鳥】よりも王国の【蒼の薔薇】や【朱の雫】の方がリウルの目指すアダマンタイト級冒険者像に近かったのが、王国を選んだ理由であった。

 

「良い思い出も無いでは無いんだけどな。【蒼の薔薇】の何人かと直接話せただけでも収穫だった。でもあの国で暮らしてる平民が可哀想になるぜ、本当にな」

 

 其処で口を開いたのはガルデンバルドだった。後ろを固めていた彼は珍しく苛立ちを露わにした声で、

 

「流石にあんな連中が多数ではないと思いたいがな。全員が全員ああだったら国家の運営が立ち行かない筈で──いや、殆どがあの様だから滅びかけているのか」

「少なくとも儂らが王都におった三か月の内に出会った貴族は、どう美辞麗句を並べようとも腐臭の隠せん輩ばかりじゃったな。周りがああでは王が哀れじゃ」

 

 口々に語られる王国貴族の悪口。面食らったイヨが居並ぶ面々の顔を見比べると、誰もがそれに対して同調している。

 

 そんなまさか、と思いはすれども、イヨは公国と日本以外の国を知らない。公国と縁深い帝国はまだしも、王国の話を聞いたのは殆ど初めてである。

 滅びかけている事すら今知った位だ。

 

「ど──」

「ああ、見えてきたな。目印の廃棄された漁船、アレじゃないか?」

「っと、その様だな。全員お喋りは終わりだ、気を引き締めろ」

 

 『どう悪いの?』『どうして悪いの?』『王国は何故そんな有様なの?』そんな質問をしようと思った矢先、話の糸口は何処かに行ってしまった。

 

「……」

 

 イヨは無言で思考を断ち切る。

 王国の事も気になるが、今は目の前の依頼に集中せねばならない。国同士の戦争よりかは規模の小さい話だが、この依頼にだって多くの人の命と生活が懸かっているのだ。自分はただでさえ新入りの素人である。真剣に一生懸命にやっても不手際をやらかすかもしれないのに、片手間では尚更だ。

 

 視界は広く、思考と身体は柔軟に、力強く。そうでなければ勝てはしない。

 

 人知れず静かに深呼吸をした少年の脳内に、最早一切の雑味は存在しなかった。

 

 一行は湖と森林の境界を確固とした足取りで進んでゆく。

 




原作よりも王国を取り巻く環境が悪化中。帝国+公国VS王国。二対一です。

~以下作中世界内の近隣諸国事情~

王国「やばい! 滅びそう!」
帝国「勝利はとうの昔に決まっていた、後は何時どうやって滅ぼすかだけの問題だ」
公国「兵はそれほど出してないけど裏工作やってます」
法国「王国は帝国に取り込まれる、公国は帝国に従属している……後は帝国とさえ話がつけば人類種の大同盟が一気に近づくな。鮮血帝は苛烈だが馬鹿ではない、話は通じるはずだ。無論油断は禁物だが、人類の未来が少し明るくなってきた。よし! 景気付けに今年はビーストマンを念入りに叩きのめしておくか!」
ビーストマン「え!?」
竜王国「やったー!」

法国のスタンスは「人類に内輪揉めをしている余裕はない、纏まらねば生きていけない」ですが、公国と元王国を従えた大帝国とさえ話が付けば人類統一が大分近づくと皮算用がちょっと混じった想定で動いてます。聖王国等は情報不足なので(私が)一旦放置してます。
あと一~三年したら原作通りにナザリックがやってきますが。



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: 少し時を遡り

遥か後世の書籍『偉大なる戦史』より抜粋

 その日、トロール国との和平交渉の席に立たれたシャルティア・ブラッドフォールン様は、開口一番にこう仰られた。

「──蹂躙を開始しんす」



2016年2月15日
ご指摘のあった問題の箇所を修正しました。修正によって矛盾が発生している、一部分が修正されていない等の問題がありましたらご一報下さいませ。


 其処は公国で最も高みに近き場所と呼ばれる建造物の内側であった。

 

 その一室は狭く、多くの書籍や書類を収めた棚に四方を囲まれていた。凡そ飾り気がなく、装飾品や芸術品の類は一切見当たらない。強いて言えば天井から室内を照らす照明器具は永続光他数種の魔法が掛かった高級品だが、やはり実用一辺倒の趣である。

 

 ただそれはあくまで一面的な見た目の上の事。見方を変えればこの部屋は莫大な予算の掛かった構造である。書棚と壁の更に内側には各種情報系や精神系の魔法、もしくは単純な魔法的物理的破壊力に対する十二分の対策が為されている。

 

 そんな部屋の中央には、大きな机が設えてあった。その机について書類と筆記具で事務作業をこなしている男が一人。

 

 年の頃は四十代終わりほど──に見えるが、恐らく元は銀色だったのだろう短めに刈り揃えた頭髪が八割方白髪に染まっており、顔中に深い皺が刻まれているのも相まって実年齢以上に老けて見えた。

 大柄な鍛えた体躯で着ている物もとても立派である。顔立ちも老けているなりに威厳があり、碧眼の目つきの鋭さたるや鷹の如しだ。だのに、こうして椅子に座って事務作業に勤しむ光景を見ると、どうにも中間管理職染みた印象が拭えない。

 

 黙々と手元の書類を処理し続ける事数時間。すると、

 

「失礼、父う──と、殿下。少々お時間を頂いても?」

「……入ってきてから言うでない。後にしろと言ってもどうせ聞かん癖に」

 

 一人の女性、否、少女が入室してきた。きびきびとした男性的な動作は纏った美しいドレスに似合っていないが、彼女がすると妙にしっくりくる歩き方であった。

 

 

「申し訳ない。──しかし、国家の大事なれば」

「この書類とて大事だ。国家に小事は無い。ただ優先順位が有るのみだ」

「皇帝陛下の無茶ぶりを捌く内に口調まで変わってしまわれた……おお殿下、おいたわしや」

 

 美しい少女であった。やや幼さを残した怜悧な顔立ちで、年の頃は十五か十六ほどに見える。白銀の美髪を腰まで伸ばし、色素の薄い肌をしていた。繊手や頤など、その他にも彼女の優れた容姿を吟遊詩人に語らせれば、それだけで詩歌の五つや六つは出来かねない。

中でも際立って人目を惹く特徴として赤い瞳がある。一部のモンスター、吸血鬼や悪魔等もこの色を持つが、彼女のそれは怪物たちのものと違い、人に親しみと憧れを抱かせる優しい色味を持っていた。

 

 そんな彼女に対し、殿下と呼ばれた男は書類から顔を上げ、強い視線を向けた。

 

「口には気を付けんか。陛下は無茶ぶりなどせぬ。持ちうる能力の全てと弛まぬ努力、機転、そして並み外れた根性を持ってせねば達成できない難題をほいほい投げてくるだけだ」

「十二分に無理難題ではないですか。下手に有能であるのも考え物ですな。まあ、そうでなければ今頃殿下の首は晒し者にされていたでしょうから、言ってもしょうがないのでしょうが」

 

 向けられた視線にまるで動じず、少女は机に山と積まれた書類の一枚を手に取った。それはなにやら重厚な仕立ての手紙の様で、優美な筆跡で文章が書き連ねられていた。

 

「これは王国貴族からの? この名は……六大貴族では無いにしろ、結構な大物ですな。一体何の用事で──」

 

 文章に目を走らせながらそこまで言って、少女は口を噤んだ。顔に浮かぶのはあからさまな呆れの色だ。そのまま深々と、手紙に向かって溜息をついた。

 

「呆れた。本当に呆れた。まさか未だに公国が帝国に武力で無理強いされて従属していると思い込んでいるとは……。しかも未だに王派閥だ貴族派閥だ等と言っている」

 

 我らは未だに士気軒昂であり、この戦で勝利するのは我らである。なれども帝国の不当な侵略行為は周辺の情勢に悪影響を与える事甚だしく、その卑劣な策術により、我らはそれなりの被害を被っている。一度は邪知暴虐の鮮血帝に膝を屈した貴国なれども、その心根は未だ誇りを失っていないであろう事を我々は知っている。今こそ我々は手を携え、共に悪の帝国に鉄槌を下すべき時である。勝利の暁には、貴国に対して我らはあらん限りの賛辞と報奨を惜しまない。色よい返事を期待している。

 

「公国に対する王国貴族の見下しっぷりはこの期に及んでも健在と見える。いやはや、ど田舎の小国と陰口を叩かれた日々を思い出します」

 

 無駄な部分を省いて内容を要約すると、手紙にはそのように書いてあった。

 何を言っているのやら、と少女は心底から思った。突っ込みどころしかない文章である。文面を見るに交渉役を任された訳でもない様だし、個人的に寝返りたいと表明している訳でも無い。それでいてまるで自分が国家の代表であるかのような書き方だ。全体から滲み出る僅かな上から目線も大いに不愉快であった。

 

「我らが行っている扇動、分断、離間の工作が上手くいっている証左であろう。かの国の者どもが己に都合の良い世界で生きているのは昔からの事だ。気にするな」

「平民の反乱、貴族たちの団結阻害及び裏切りの誘発、国王の権力のそぎ落とし、でしたか? 確かにこの様子だと上手くいっているのでしょうな、来年の王国軍は戦場に陣を布く事さえ容易ではないでしょう」

 

 公国は弱く小さい国である。人口からして三百万ほどでしかなく、どう頑張っても周辺国と伍するだけの大軍を編成、維持する事は出来ない。やれば国政と国民生活が破綻する。帝国のフールーダ・パラダインや王国のガゼフ・ストロノーフの如き卓越した実力者もいない。今の今まで国家を維持してこれたのは、帝国と隣接した領土を持つ歴史的経済的に近しい国であった事が大きい。

 

 帝国の傘の下にいたから、安穏と生きてこれたのだ。公国自体は取るに足らずとも、後ろには帝国がいると知れ渡っていたから。だから他国を帝国の威光で遠ざけ、モンスター対策や国の内側の問題に力を注ぐ事が出来た。

 

 そんな公国が唯一他国に勝る分野が、謀略、工作、情報収集である。

 

 弱く小さくとも生き残る為に、代々の公国指導者が長い時間と膨大な予算を掛けて国内外に張り巡らせたネットワーク。育て上げた諜報員。関係を築いた間者たち。それだけが純粋な実力で他国を上回るたった一つの取柄、長所である。

 

 現大公の御代になってから更に注力し、増強したその力を、公国は帝国の為に振るっていた。

 

 王国は元より貴族階級の内輪揉めと搾取が横行し、度重なる徴兵や増すばかりの徴税に多くの民が苦しんでいたのだ。貴族に国と民を導く意思は無く、国民には貴族と国に対する忠誠が無い。非合法組織が陰に日向に影響力を持ち、足掻く王や一部の貴族たちは多数派の愚か者に動きを制限され、碌な手立てが取れない。

 

 帝国という目に見える外敵に釘付けになっていた彼らの足を掬うのは容易い事であった。

 

「盤石な敵を打ち崩すのは難しい。だが、基礎を蚕食された倒れかけの敵などはどうとでもなる。そういう事だ。皇帝陛下の御為とあらば喜んで国崩しを行うとも」

「ふむ……ただでさえ強敵と戦をしている時に内紛内乱反乱不服従、あらゆる惨事が頻発する訳ですからね。しかし──」

 

 少女の赤い目は語る。此処までせずとも勝てるのでは、と。

 

 貴族は我先にと裏切る。言い訳をして自領に引きこもる。情報を流す。

 民は逃散し、徴兵を忌避する。一つや二つの村なら打ち据えて晒し者にすれば済む事だが、あちらでもこちらでもと頻発すれば今度は取り締まる手が足りなくなる。

 

 結果として、今の王国は目を覆う惨状である。今年の戦などはまだ大敗必至ながらも戦争の態は成すだろうが、来年は戦にすらならないかもしれない。

 

 帝国だけの力でも、王国は数年の後に敗けた筈である。遅麦の収穫期を狙って国力を割く帝国の策謀は効果を発揮していた。真綿で首を締めるが如く、帝国は遠からず王国を窒息死させた筈だ。

 

 其処に公国が加わり、王国は窒息死どころか放っておいても衰弱死しかねないほどの有様を晒している。

 

 それこそ、帝国軍が思い切り攻勢を掛ければ数年後ではなく今年にでも勝てる程に。

 

「殿下も陛下も、意味も意義も無い事はお嫌いだ。何を狙っておられるのです?」

「教えてやっても良いが、まずは自分で考えよ。その為の教育は施した筈だ」

「全く、こう云う時ばかり父親らしい顔付きをする。兄上たちにもそうしてやれば良かったのでは?」

「あやつらの事とて父として愛しておったよ。馬鹿な子ほど可愛いものだ。だが、私人としての私の感情で国政を行う訳には行かぬ。私人の私は我が子らを愛したが、公人としての私は、国を背負うには器の足りぬ者どもを見限った。それだけの事だ」

 

 この男の長子と次子、つまり少女の二人の兄は、共に死んでいる。方や事故死、方や病死である。

 次男が死んだのは少々前の事になる。成人間近だった彼は反主流派の重鎮と密約を交わした帰り道、馬車がモンスターの被害にあって死んだ。

 長男が死んだのは割と最近だ。公国が帝国に服従する道を選んだ時、大公に対する反乱を起こさんと密かに企み、野望叶わず疫病に掛かって死んだ。

 

「男たるもの野望を抱けと教育してきたのだがな。あやつらには敵を見極める眼力が無かった。故に敵わぬ敵に挑んで死んだ。それだけだ」

「別に思う処はありませぬが、それで残ったのは私だけではないですか。そしてその私は皇帝陛下との婚姻が内密ながらも決まっているのですが?」

「元より帝国から分かれて出来た国よ。元の形に戻るまでだ。心配せずとも、私が隠居する前に形は整えておくとも」

 

 そういった心配はしておりませんが、と少女は微かに笑った。父たる男と自分の思考が似通っている事に、でも少しだけ見方が異なる事に妙味を感じたからだ。

 

「──眼もそうだが、皇帝陛下はお前の頭脳の方にも期待しておられる。さ、陛下と私の企みを見抜いてみよ」

「話しながら考えておりましたのでもう分かりました。陛下と殿下は、王国の人心を取り込むおつもりですね? 内的要因で心身を疲弊させて」

 

 あっけらかんと言ってのけた少女に対して、男は珍しい事に大きく瞠目した。

 

「兄たちの話をしたのは考える時間を稼ぐ為か。全くなんという子だ、あの世で二人が泣いているぞ」

「兄上たちが泣くなら父上に対してでしょうに。それに、私をこの様に育てたのは父上だ」

 

 口調を親子のそれに変えて、二人は声を揃えて笑った。父たる男は子の逞しさに、子たる少女は僅かなりとも父親の予想を上回った事に、大きな声を上げて笑った。

 

「悪政の象徴は王と残りの六大貴族ですかな? 民衆の面前で大々的に死んでもらって、自分たちは民草を虐げた大罪人を誅したとして正義面をすると」

「制度の違いはあれど、実際悪人であろう。民を虐げ国を裏切り、自分だけが生き残る気でおるのだ。まあ正義云々は建前だが、王とレエブン侯は殺さぬよ。あの蝙蝠は惜しいし、王は生かしておいた方がガゼフ・ストロノーフをものにする上で役立つのでな」

「帝国は公国に加えて、最強の魔法詠唱者と最強の戦士を保有する訳ですか。なんとも剛毅ですな。わが友たるラナーも加われば正に敵無しだ」

 

 わが友たるラナー。その言葉を少女が口にした時、男は僅かに顔色を曇らせたが、それを娘に悟らせる事は無かった。

 

「ラナーはとても頭が良い。私よりも殿下よりも、無礼を承知で言えば、皇帝陛下をも上回りかねないほどです。それに国民思いで友達思いの優しい娘だ。きっと陛下の御為になりましょう。是非とも心身共に無傷で生かしてほしいものです」

「……うむ。ラナー王女は聡明だからな。彼女は処刑する六大貴族や退位させるランポッサⅢ世の代わりに、王国の象徴として陛下と婚姻を交わす手筈になっている」

 

 公国と帝国の企みは、言葉で言うだけなら簡単である。

 

 王国の膿を王国の者の手で切り落とさせ、適度に力を削いだ状態で手に入れるのだ。

 

 王国の兵士の大部分は徴兵された平民である。幾らいけ好かない貴族に無理やり引っ張られて戦場に立っているにせよ、その憎しみは実際に剣を交わし殺し殺される帝国騎士に、引いては帝国にも向いている。

 

 確かに今年の戦で王国を落とす事は可能である。しかしそれには予算も掛かるし、なにより進軍の途中で多くの犠牲がでる。帝国騎士の、では無い。それも皆無ではないが、犠牲の大部分は王国の兵士たる平民であろう。

 兵士の大軍を切り裂いて王を捕らえ貴族を殺し、王国を負かす事は容易い。ただでさえ自力で勝り策で勝っていた上、王国は今現在の時点でも全くと言っていいほど団結できていないからだ。

 

 ただ、その方法では多くの王国民を殺す事になる。一人の兵士には家族がいて、親戚がいて、友がいるのだ。一人を殺せば十人二十人の恨みを買う。恨みを買えば反抗される。反抗されれば統治が難しくなる。反抗を鎮める為に武力を用いれば更に大きな恨みを買うのだ。

 

 統治する者が王国から帝国に代わる事によって、現王国民の生活水準はむしろ向上するだろう。皇帝には王国の民を意味もなく虐げる気がない。

 しかし、『暮らし向きが良くなった』からといって『親しい者を、愛する者を殺された』事を吞み込めるか、受け入れられるかといったら、それは全く別の話である。

 

 故に彼らは王国の民の反乱を煽り、彼らの手によって王国を実質的に自壊させるつもりである。

 帝国と公国対王国の戦ではなく、王国支配者層対王国被支配者層の戦いによって、平民の手で貴族の政治を壊させるのだ。

 

 ここ最近の戦で、帝国は王国兵士を積極的に殺傷していない。無論戦端が開かれれば至極全うに戦うが、刃を交える以前に表立って声をかけて兵の逃散を助長誘発させている。そして裏からは公国の工作員や諜報員が元々抱いていた平民の貴族に対する不満の気持ちを大いに掻き立て、徴兵逃れを多発させているのだ。

 

 全ての村や町に反抗の火を付ける必要はない。そこまでするには流石に人員も予算も足りない。ただ、元より領主が苛烈な統治をしているある程度の村々に言葉巧みに声を掛け、そして陰ながらに手助けをしてやれば良い。

 

 どれだけ虐げられているか、今の状態がどれだけ不幸で不平で不当なのか。

 

 ──嫌がる娘を妾にと無理やり引っ張っていかれ、文句を言えば殺される。そんな風に扱われて悔しくないか。

 ──毎度毎度戦の度に、収穫期の忙しい時期に兵役を課され、愛する夫が怪我をして帰ってくる。愛しい息子が死んでしまって帰ってこない。そんなのあんまりじゃないか。

 ──どんな頑張って戦っても、手柄は上の連中のものにされちまう。俺たちの手に褒美なんか渡らない。損ばかりじゃないか。そんな戦いをする意味があるのか。

 ──少ない人手で、女子供が血の汗を流して精一杯の収穫をして、人手を奪っていった貴族どもは容赦なく税を取り立てていく。自分たちの食うものが無くなる。このままじゃ生きていけないじゃないか。

 

 一旦火が付けば、正に枯野に火を放つが如く広がっていく。実際問題、王国貴族の統治は酷いのである。善政を布いている者の方が希少な位だ。元より溜め込んでいたフラストレーションを爆発させるのは容易い。

 

 そしてこうも言っておく。

 

 ──他の国ではそうじゃない。今戦っている帝国や公国にしても、兵士は望んだ者がなるんだ。無理矢理引っ張っていかれる様な事は普通ない。

 ──帝国の貴族は王国ほど酷くはない。皇帝の締め付けが厳しいから、下手な事は出来ないのさ。鮮血帝なんて異名は、平民にとっては関係ないも同然だ。その証拠に、あの皇帝は民に好かれてる。

 

 勿論すぐさま帝国のイメージが良くなったりはしない。戦争を吹っかけているのは帝国の方である。しかし、目線をそらせれば十分だ。なにせ、反乱された側の貴族がやり返すから。

 反乱を鎮圧しようとするのは統治者として当然の行いである。だが、それは統治者の目線での話。

 

 いままで散々殴られてきて我慢が出来ずに殴り返した。そんな平民たちに、統治者の行為は悪政を押し付ける悪者の行動としか映らない。やってやりかえされて、騒ぎはどんどん大きくなる。

 

 平民の反乱が頻発しているとなれば、貴族が平民に向ける目は厳しくなろう。やられる前に黙らせようとする者も出てくる。それがまた反発を呼ぶのだ、『俺たちはやってないのに』と。

 

 もう帝国との戦どころではない。外ではなく、内側で戦が起きているのだ。まだここまでは進行していないが、放っておいたらいずれきっとそうなる。

 

 王国は荒れる。国土と民は適度に衰退する。しかし、その矛先は帝国にも公国にも向いていない。貴族の矛先は平民に、平民の矛先は貴族に向いている。

 

 あとはタイミングを見極めて──このタイミングが中々難しいのだが、ジルクニフは自信があるそうである──帝国が平民の味方をして貴族を刈り取るだけだ。此処はある程度なら難しくはない。何せ王国貴族の中には帝国に寝返っている者も多くいるのだ。しかし、

 

「寝返った王国貴族どもはどうするのですか? 全員が全員そうではないにしろ、同胞としても統治者としても、ついでに能力的人格的にも、歓迎したくない者どもがそれなりにいますが」

「実権と縁の薄い名誉職や地位を与えて様子を見る事になろうな。王国の貴族であった時と同じ様な振る舞いを続けるのなら、帝国と公国の法に基づいて処罰する。まあ特に問題のある幾人かは自らが治めた民の手で、こちらに来る前に死ぬ事もあろうが。それらの場合は我らが約束を反故にした訳では無いからな」

 

 民から骨肉の恨みを買っている様な者は、今治めている領地からいなくなって貰わねばなるまい。そうでなければ王国貴族から帝国、公国貴族に肩書が変わっただけで、実際は何も変わらなかったと平民の反発を煽る事になる。その為に実権から切り離して名誉職を宛がうのだ。

 

 そうしてそこそこ荒れた、しかし膿が洗浄された元王国でまともな政治をする。非合法の裏組織もこの段階で殲滅せねばなるまい。ある程度までは農民を初めとした平民たちに援助もしよう。刈り取った貴族連中から接収した金と税率の軽減で民の忠誠と信頼が得られるなら得な話である。

 

 勿論これらの策は失敗に終わる事もあるが、その場合はごく普通に戦争して勝てばいいだけである。なにも難しい事はない。

 

 強いて言えば混乱の最中に王やラナーが死なないかは少し不安だが、彼らのそばには近衛やガゼフ、そしてガゼフ直下の戦士団がいる。通じている貴族にも害することは厳禁と伝えてある。

 それに、民の大部分にとって統治者とは自分が住んでいる場所を治めている者だ。わざわざ遠方の顔を見た事も無い王よりは、日頃痛めつけてくる憎いあんちくしょうの方をぶん殴りたいのが人情というものである。

 

「王国と公国を従えて、皇帝陛下は何処に向かわれるのでしょうな。次は都市国家連合? 竜王国? 聖王国? 評議国? それともやはり法国ですかな」

「皮算用はやめよ。我らは未だ勝利していない。勝利に向かう道の途上にいるのだ。油断すれば奈落に落ちるぞ……それに、近頃法国とのやりとりは活発になってきておる」

「戦争の前触れですか? 最後通告染みたやり取りではないでしょうね」

「いや、全ては陛下しか知らぬが……新しい時代の在り方について話し合いたい、と」

「新しい時代……?」

 

 共に首をかしげる二人。まさか法国が人間種国家の大同盟を考えていると感付くには、未だ情報が足りていない。

 ここ最近では珍しく長話をした二人は、はあ、と大きな声で溜息をついた。疲労が滲んだ溜息である。ややあってから、

 

「して、お前が言っていた国家の一大事とは何のことだ?」

「──あ」

 

 完全に忘れていた少女は口を手で覆った。対して男は額を手で覆う。

 

「頭は良い癖に、何故時たま馬鹿をやるのだ……?」

「た、たまたまですよ! 普段の私は殿下の娘らしく聡明ではないですか!」

「自分で聡明とか言うか普通……」

 

 おっほん、と娘はわざとらしく咳払いをした。もうやめてくれ、の意思表示である。時間を無駄にするのは本意ではない男も、色々と言いたいことを呑み込んで少女の言葉を待った。

 

 少女は先ほどのポカを払拭しようと、一際真剣な顔を作り、

 

「例のガド・スタックシオンと五分の勝負をしたという少年。先日見て参りました。丁度プルスワント子爵の邸宅に来訪の先触れがあったので、其処で密かに見ました」

「子爵の……そうか。どうだった」

「太陽です」

「なに?」

 

 少女の赤い目は真剣そのものの色で男を見据えた。少女は僅かに興奮を滲ませて言う。

 

「ああまで大きく強い光は初めて見ました。ガド・スタックシオンや殿下や陛下、パラダイン様にラナーですら比較になりません。普通の人間を蝋燭、才ある者を煌々と燃え盛る松明とするならば、彼は天に輝く太陽です」

 

 殿下、と前置きし、

 

「国家予算の千分の一を費やしてでも彼を手中に収めるべきです。少なくとも、今すぐその布石は打っておくべきですとも。私を手札として切る事も想定すべきです。それだけの価値が彼にはある」

 

 少女が持つ、頭脳とは別の才能──タレント【生まれながらの異能】。彼女の赤い目に宿ったその力はいうなれば看破の魔眼。魔力系魔法詠唱者として力量を一目で見抜くフールーダ・パラダインの持つそれの亜種とも表現できる。

 ──人が持つ才能の多寡を光量として見通す力。

 公国内でも知る者は本人と父であるこの男しかいないほどの最高機密。この世でも知る者は僅かに三人。二人のほかは皇帝ジルクニフのみ。

 

「許す。やれ。但し細心の注意をもってだ。間違ってもそんな人物を敵に回したくはないからな」

 

 男は即断した。

 

 公国の英雄たるガド・スタックシオンと弱冠十六歳で張り合った少年。ただ者の筈はないと思っていた。だから娘にタレントを用いて調査するよう命じたのだ。

 

 しかし、それほどの才を持つとは想定外だった。自分は兎も角、ジルクニフやフールーダをも超える才能。魔法詠唱者の頂点で、第六位階魔法すら使いこなすフールーダを超える。

 

 かつて少女はフールーダ・パラダインの輝きを巨大な灯台と表現した事があった。対して、少年は太陽だ。

 

 それは最早神の領域に迫る力である。齢十六でかの老英雄と互角ならば、既にその才は花開き始めているというわけだ。

 

「その少年をお前が見たことを知っているのは他に誰だ?」

「双影の片割れと近衛の副長です。共に私の護衛でした。しかし、表向きは私のわがままで子爵の館に訪問した事になっています」

 

 良し、と男は声に出して呟く。

 

「あらゆる手段を許可する。お前自身も手札としてよい」

 

 もしも女の魅力で落ちる類の少年ならば、娘である少女は最高の手札である。黄金のラナーと並び称される美貌の持ち主と周辺国家に名が轟いている程なのだから。

 少女は皇帝との婚姻が内密に決まっているが、そんな事はどうでもよい。ジルクニフが欲しがっているのは彼女の頭脳と気性、そしてタレントである。結婚前に純潔を云々は全く一欠片も気にしないだろう。それより神の領域の才を持つ者の血を取り入れた方が余程御心に沿う。

 

「ただし、最初は穏便にだ。調査に調査を重ねるのだ。人格、特徴、思考、嗜好、全てだ。間違っても相手に警戒心を持たれてはならない。絶対に。最悪此方の思惑を全て空かされても、公国に根を下ろして貰わねばならないからな」

「分かっておりますとも、大公殿下」

 

 少女は自信とやる気に満ち溢れた表情で大きく頷いた。心なしか、赤い瞳が煌いた様な気さえする

 

 そのまま、まるで舞台に登った紳士がする様に胸に手をやって優雅に一礼し、

 

「この私、黄金のラナーと並び称される白銀のリリーにお任せあれ」

「……お前に全てを任せるのではない。当然だか私も一枚も二枚も噛むぞ。むしろ主導する」

「わ、分かっておりますともっ! 言われずとも分かっておりましたとも!」

 

 またしてもうっかりを炸裂させた上、自分で自分の二つ名をノリノリで名乗るリリーに、大公は一抹の不安を感じた。

 

 イヨが仲間たちと連れ立ってクラーケン討伐に出立した日の出来事である。

 




正直言って、「黄金のラナーと並び称される白銀のリリー」ってフレーズが書きたくてこの話を書きました。ラナーさんが金髪碧眼なのでリリーは銀髪赤目。
突貫工事だから誤字やミスが多いかもしれません。

リリーのレベルも結構高め。
プリンセス(一般)────?レベル
オフィシャル───────?レベル
キースミス────────?レベル
など

上に行くほど高レベルだと思ってください。彼女のタレントは読者目線で言うと限界レベルを見抜く力。イヨはユグドラシルプレイヤーなので限界レベルは百となります。ぺロペロしないのは別に才能キチとかではないから。


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初依頼:クラーケン討伐

遥か後世の書籍『宮廷史』より抜粋。

「何故その様な惨い事をなされるのか」

 そう問われたのは、至高の君の隣に侍るかのお方。彼女は悠然と微笑んでこう仰られた。

「──決まっているじゃない。愛故に、よ」


2016年3月4日
作者の勘違いが原因でスキル名を変更しました。
成形炸薬撃→爆裂撃



 まるで海の様だ、とイヨのみならず修繕した漁船に乗り込んだ皆が思った。

 足元の板切れの下には、身長の何倍何十倍の水深を湛えた湖があるのだ。事前に用意しておいた木材と魔法で仮修繕を行った為、少なくとも今すぐに船が壊れる筈もない。無論長期的な使用には到底耐えきれないが、元よりほんの僅かな間だけ壊れなければ問題の無い代物である。短期的には平気な筈だ。

 

 しかしそれでも、もしもと思ってしまう。巨大湖は文字通り広大だ。深遠なまでの水量を誇る。かのクラーケンを筆頭に水生モンスターも多数生息しているが、長い歴史の間に人類が体験し、学習し、獲得した比較的安全圏の内側ならば、頻繁に襲撃を受ける事は無い。だから地元の民が漁をして生活を営んで行けるのである。

 

 感じる恐怖は、モンスターと斬った張ったをする命のやり取りとはまた別なモノ。

 それは遥かな高所に立つ様な、支えるものの無い空に身を投げる様なそれと似た種類の恐怖。落ちれば普通は助からぬと云う余りにも常識的で当たり前な怖さ。

 

 人の生息域は当然陸上である。水の中ではない。水中では呼吸が出来ない。森の中ですら人の領域ではなく、本来の性能を発揮するのに訓練のいる場所である。水の中はその比ではないのだ。

 

 泳げる事とて気休めである。

 

 人の泳ぐ速度など水生生物に比べれば遅々たるものである。通常の服とはまるで重量と取り回しの異なる戦闘用の防具類武器類で全身を覆っているのだから、生身一つより遥かに消耗は重く、沈みやすい。振るう剣一つにしても威力も速度も桁違いに劣化する。

 

 命と引き換えならば高価な武装を放棄することも当然有力な選択肢の内だが──陸から離れれば離れるほど、事前の備えはあれどもやはり怖い。もしも、と思ってしまう。

 震えるほど臆病ではないにしろ、恐怖を御せないほど小胆でも無いにしろ、こういった本能的な恐怖は完全には無くせないし、無くしてはならないものだ。

 

「この中で、クラーケンとの戦闘経験のある者はイヨだけだ。ろくすっぽ情報も無い敵相手だが、その経験のお陰で相当の事前準備が出来た。それこそ、組合の想定より一回り強大でも対応は可能だ」

 

 墨を吐くとか、混乱の状態異常を付与するとか、拘束を仕掛けてくるだとか。そういった特殊能力及び、もしかしたら使ってくるかもしれない各種魔法への対応策は準備済みだ。

 ある程度まで進み、櫂を漕ぐのを止めた時、ガルデンバルドが切り出す。既に岸からは遠く、普段漁師が働いている水域まで来ている。つまり、クラーケンの出現した領域の極近くである。

 

「事前の打ち合わせ通りだ。イヨが言った難度百を遥かに超える様な化け物相手なら何を置いても引く。各自連携を維持しつつ死なない事を最優先に」

 

 強いクラーケンはこの場の全員でも全く歯が立たない。レベルが違い過ぎるし、最高レベル帯のクラーケンは邪神の眷属と云う設定持ちだったりするので、スペックもそれに準じて怪物級だからだ。可能性は低いにしろ、その場合は耐性無しで視界に収めると発狂まであり得る。そんな相手とは戦えない。対策も焼け石に水である。

 もしそうだったら逃げの一手だ。

 

「骨格に縛られない柔軟な動き、数多くそして自由自在の触腕。動きの感覚は普段戦っているモンスターとかなり異なる筈だ。前衛は常に一歩も二歩も遠間気味に、視野を広く保つこと。不測の事態があっても対応できるだけの余裕を持っていてくれ」

 

 見知らぬ敵は常に脅威だ。実体験の伴わない知識だけの相手も似た様なものである。この一戦で仕留め切らずとも一様再挑戦自体は可能な相手である以上、人的損耗は出来るだけ避けるべきである。彼ら彼女らは冒険者なのだから。命あっての物種なのだ。

 

「後衛は火力、そして支援として機能して貰う。前衛から防護に優れた俺が援護に付く。当たり前だが自分自身でも警戒を怠らない事。魔力の残量に気を使っていてくれ、さっきのラミアがどうも気になる。どんな場合でも自力で走れる程度には余力を残しておいてくれ、他の面子に担いで走る体力が残っているとも限らない」

 

 頷く魔法詠唱者達に頷き返し、ガルデンバルドは野伏と盗賊に目を移した。

 

「中衛は全体の負担を軽減するべく臨機応変に。前と後ろで負担が偏った方に助勢をしてもらう。基本は自由な立ち回りを許すが、耳目を活かすのは忘れないように。重ね重ね言っておくが、ラミアが気になる。連中は泳ぎも上手いし、気付いたら包囲が完成しているなどという状況はごめんだ」

 

 全員で決めた作戦──といってもやる事自体は単純である──を再度確認していく。最後にバルドは、この場で最も小柄な少年を指し示した。

 

「そして全員周知の事と思うが、今回は新人がいる。腕っぷし自体はこの場で最も強大な武人と表現して差し支えないものの、冒険者としては素人同然だ」

「素人ですけど頑張ります!」

 

 意気軒昂とおててを掲げて、イヨが言った。彼の武装、腕甲【ハンズ・オブ・ハードシップ】と脚甲【レッグ・オブ・ハードラック】には、特殊な革帯が巻き付けてあった。本人はこの上なく真剣なのだろうし、実際表情には些かの緩みも見受けられないが、元の顔立ちが子供っぽさ満点である為、お皿洗いに志願するお子ちゃまチックな雰囲気であった。

 

 年長者たちはその様子を見て僅かに目を細め、

 

「……とまあ、突っ込み過ぎた場合や場の流れに気付いていない場合等、申し訳ないが手を貸してやってくれ。副組合長との一戦を見たみんななら分かっていると思うが、経験さえ積めば文句なく最上位冒険者として相応しい人間になれるだろう逸材なんだ」

 

 【スパエラ】の三名は最早イヨの扱いを熟知していると言っていい。何分単純で、非常に素直かつ扱いやすい人物なのである。メンバーの入れ替わりが激しいチームでもあったので、新入りを中核の三人で育成する事にも慣れている。なので問題らしい問題は、ぶっつけ本番である事位しかない。

 

 そして【戦狼の群れ】は、人員の少なさと新入りが一人いるという不安要素を戦力の拡充によって補強する目的で雇われたチーム。なので、バルドの言葉はこの場の全員というより、【戦狼の群れ】の面子に向けて言った側面が強い。

 

「勿論だ。二十年ぶりのアダマンタイト級の誕生を、俺達みんなが待ち望んでたんだからね。その初陣をしっかりサポートしてあげるさ」

「単純に強い味方ってだけで得難く有り難い存在だからな。その腕っぷしを十二分に発揮してもらえれば、全体の被害や損害が減る。後ろは任せてくれて良いぞ、その分前は頼んだからな」

「実力では敵いませんが、私たちの方が経験も年齢も上ですからね。子供の世話は大人の役目ですよ」

 

 歴戦の強者らしい威厳たっぷりの笑みで、年長者たちは請け負った。心強い大人の姿であった。バルツネヒトとダーインも寡黙に、しかし確かな自信を窺わせる表情で頷く。

 バルツネヒトはちょっと子供が苦手で物静かな性格なだけなのだが、ダーインはかつてのモンスターとの戦いで顎と声帯の一部を損傷している為、話す事自体は可能だが、明瞭な発音があまり得意では無いのである。元より無口な男だったが、それで輪を掛けて無口になったのだった。

 

 魔力系魔法詠唱者バルツネヒト、彼のパッと見の外見は『悪の魔法使い』である。

 経年劣化の著しい闇色のローブの上から更にフード付きロングマントを身に纏い、顔色はちょっと心配になる位に青白い。その上骨の浮いた腕で携えているのは亜人種と魔獣の骨で作られた杖だ。無論どれも正規の手順で手に入れた強力なマジックアイテムだが、なんだか全体的に呪われていそうな感じであった。

 そんな彼の悩みは矢鱈と子供に好かれる事である。悪人まっしぐらな外見と善人そのものな人格のミスマッチは、意図せずお子様に大人気であった。

 

 二刀使いの軽戦士ダーイン。顎から喉にかけての大きな傷が目立つ彼の外見は、ぶっちゃけ裏稼業の人間を想起させる。

 生来藪睨み気味の三白眼も少々刺激が強く、革と軽金属の防具も傷が目立ち一見柄が悪そうに見える。公国の二刀流戦士はガド・スタックシオンという偉大な先達の影響で、両手それぞれに同一の武器をもって苛烈に攻めるスタイルが主流だが、彼は利き手に通常の大きさの武器を、反対の手に小さく軽量な武器を持つスタイルの戦士だ。利き手側の武器は相手によって刺突、打撃、斬撃を切り替え、反対の手の装備は常に受けと防御に優れた短剣であるマンゴーシュを振るう。

 因みに目を見張る様な美人のお嫁さんと結婚していて、五人の子を持つパパである。無名の冒険者だった頃は家族と出歩くたびに街の警備兵に声を掛けられたそうだが、今ではそんな事もなくなったらしい。

 

そんな先輩たちに無言の低頭で返礼したイヨに対してバルドは、

 

「お前はクラーケンとの戦闘経験を持つ唯一の人間でもある。何か気付いた事があったら遠慮なく声を上げて周知してくれ。新人だからといった気遣いはいらないぞ。お互いがお互いの命に関わる立場だからな」

「了解しました!」

 

 

 

 

 さて、そうして冒険者達は作戦に移る訳だが、まず当のクラーケンと出会えなくては戦いも糞も無いのである。まず発見し、接敵し、交戦しなければならない。その為にどうすればよいか? 

 

 単純に面積で見てすら大きな街が四つ五つは入ってしまうこの巨大湖を探して回るのか。いやさ、それは非効率が過ぎるというものである。幾らクラーケンが大きいとはいえ、巨大湖はその数万倍も大きく、そして深い。水の上をお船でぷかぷかしていたら何時発見できるか分かったものではない。

 

 クラーケンの被害が看過できないほど頻発しているとはいえ、それは湖に船を出せば百%襲撃を受けるといった次元ではない。もしそうだったらガバル村はとうに廃村になっている。連日朝晩数十隻の漁船が出る中で、何日かに一、二隻が襲われ、乗組員数人が死亡する。被害の度合いはそれ位である。それ位と言っても、辺境の寒村からしたら到底容認できない被害だが。

 

 で、広大にして深遠な湖の中から敵を見つけだす為に、冒険者たちが考えた方法とは──

 

「最低限の緊張感は途切れさせんなよ、ここが一番出現情報が多い処、奴の縄張りの推定ど真ん中なんだからな」

「あー、シノン君。そんな一心不乱にやらなくてもいいよ。あくまで負担にならない位にね。投網を打つのと同じくらいの音が出せたらそれで十分なんだから」

 

 漁船の上から櫂と切り出した木の枝を使って水面をバシンバシン叩く。叩いて音を出す。要するに縄張りの真ん中で存在を主張することで、捕食か排除の為に相手から姿を見せる様に仕向ける策である。

 

「僕の武技の爆発でもっと大きい音が出せると思うけど……」

「それだと、漁で出る音と比較してデカすぎると思うんだよ。魔獣の類だったらむしろ向かってくるかもしれんが、相手が動物並の知能だったら逃げ出しちまう。動物って意外と賢いもんだぞ、下手に恐れられると二度と近寄ってこないかもしれねぇ」

「地元の方々の情報から推測しますと、ただ船で水上を移動している分にはあまり襲われないっぽいんですよ。被害が出る時は大体作業中で、水面を騒がせている時です。その状況を疑似的に再現するのが──って、この話題何度目です?」

 

 初期の作戦立案の時点から総計すると七、八度目位。船に乗ってからだと三度目位だろうか。ちょくちょく移動しながら交代で水面を叩き続ける事既に二時間が経過しており、正直集中力も緊張感も持続しなくなってきていた。警戒態勢は保っているが、無理をしてトップギアの状態を維持していると疲労が募るので、現在適度に力を抜いている処である。

 

「殴り合いなら緊張しないのに……ただ待つ時間って辛いね。早く村の人たちを安心させてあげたいよ」

「その為にも、今は余分な体力を消耗しないように抑制しておく事じゃな。なにせ相手が喰いつくまではこれを続けるんじゃ、逸っておると辛いぞ」

「はい……あ、リウル見て。あっちにでっかい恐竜さんがいるよ」

 

 イヨは少しばかり気を張っている様だったが、先輩たちに諭されて多少は落ち着いた様子だ。

 この時子供っぽい言い方がちょっとツボに入ったらしいイバルリィが噴き出しかけたのだが、当人であるイヨは気付かなかった。

 

 両手が塞がっているイヨが視線で示したのは、船首を十二時として九時の方向に数十メートルの距離にいた大きな生物であった。首から先を僅かに水面から出し、円らな瞳で興味深げに船の方を窺っていた。

 それは翼の無いドラゴンの様な姿をした生き物である。体長はおよそ数メートル程で、柔らかそうな青白い鱗で全身が覆われていた。大きい二頭と小さな一頭が連れ立っている。親子だろうか。

 

「あー……確か、カマウェトだったか? 難度は十二だった筈だな。伝聞情報だけど、図体の割に温厚で人懐っこい奴らしいぞ。海の近くだと牛や馬みたいに人と共存してたりもするとか聞くな」

 

 あー、そう言えばそんなのもいたね、とイヨは頷く。体つきや鱗の色など微妙な違いがあるが、たしかあの種族はユグドラシルにもSWにも居た。わあすごい実物を見ちゃった、等と一瞬はしゃいでから、

 

「──あれ、カマウェトって海の生き物だったよね? 分類的には動物じゃなくて幻獣なんだっけ。なんで湖にいるんだろう」

「なんだ知ってんのか。あいつ等に限らず、巨大湖には本来海に生息してる筈の生き物が結構いるぞ。大昔に実在したらしい水棲竜の伝説とかシーサーペントの目撃例とかもあった筈──」

 

 リウルの視線の先で、ついさっきまで和やかに過ごしていた三頭のカマウェトが泡を食って潜行し、遠ざかっていった。同時に、脚下から巨大な生き物が近寄ってくる気配。

 

「──総員退避! 船を捨てろ!」

 

 叫んだ直後、水面を引き裂いて現れた巨大な触腕が漁船を木っ端微塵にした。

 

 

 

 

 飛び散る木片と水飛沫の中、【スパエラ】と【戦狼の群れ】両チームの面々は回避に成功していた。この程度の事態に対応できない様では、彼ら彼女らは遥か昔にモンスターの腹の中に納まっていただろう。

 警戒の叫びからクラーケンの触腕が船を叩き潰すまでは一瞬だが、凡百の冒険者を遥かに超えた力量を有する歴戦の勇士たちにとっては、船外に退避するのに十分な時間である。

 

 それぞれが飛び立つ際の体の捻りでクラーケンを視界に収めつつ、適切な方向に逃げる。しかし、逃げ出した先は水深数十メートルとも数百メートルとも囁かれる湖である。当然全員がどぼんと音を立てて淡水に沈む──事は無かった。

 

 空を飛ぶ術を持たぬ者達は、なんと波荒れる水面をまるで地を行くが如く疾走する。水の神に仕える神官であるイバルリィ・ナーティッサが全員に行使した魔法、〈ウォーター・ウォーキング/水上歩行〉の効果だ。船上にて効果時間が半分を切るたびに買い漁ったスクロールを用いて掛け直していた為、効果は後四十分は続く。

 

 バルツネヒト、ベリガミニの両名が〈フライ/飛行〉を発動し、ローブをはためかせて宙を舞う。飛行魔法を扱う事の出来る高位魔法詠唱者は敵と距離を取る事だけに意識を割く簡単な方法で機動戦をものにするが、経験豊かな熟練者である二人の描く軌道は見事であった。大木の如く長大で巨大な触腕の手の届く内から速やかに退避し、全体を見渡せる高所を目指す。

 

 ──おお、何たるデカブツじゃ! 

 

 濁った水面から突き出す触腕は四本ばかり、そしてその先には未だ水面下に身を横たえた巨大な影がうっすらと見えていた。全長は三十メートル以上か。胴体部だけでも四~六メートルは下るまい。彼我の大きさの違いだろうか、クラーケンは未だ冒険者たちが己が襲撃を回避し得たとは気付いていない様であり、漁船の残骸を触腕で水中に引きずり込まんとしている。

 

「続けバルツネヒト、一番槍はこの儂らが頂こうぞ!」

 

 と言っても、放つそれは攻撃魔法ではない。ベリガミニ・ヴィヴィリオ・リソグラフィア・コディコスは杖を持つ右手の中指に装備した指輪の力、一日に一回だけ装備者の魔法行使能力を補助、増強させる切り札を初手から発動させる。

 

「〈バインド・オペレーション/拘束作動〉!」

 

 魔法上昇による第四位階魔法の行使。指輪の助力によって消費魔力を抑えられたそれは、しかし巨大な海魔の移動を制限する。完全な停止までは行かないが、移動力は元の力を考えれば遅々たるものと化す。そして、効果の発揮と同時に追い打つ攻撃が叩き込まれた。

 

「〈ライトニング/雷撃〉」

 

 クラーケンの直上から斜めにズレた位置取りより放たれたバルツネヒトの魔法は、本人の覇気に欠けた発声からは想像も出来ない威力を持って海魔に迫る。自然界の理とは異なる術理の下に発現せし雷が、二本の触腕と水中に蠢く本体を雷速で穿った。

 

 激しくのたうち、幾本もの触腕を捻じれ振り回すクラーケン。彼──彼女かもしれないが、頭足類の雌雄の区別などこの場の誰にも付かない──に発声器官があったならば苦悶の叫びを挙げた事だろう、しかし彼にはそのような器官も、そして声を上げる暇も与えられなかった。

 

 イヨとダーイン、この場で最も速度と攻撃力に優れた二人の前衛が、クラーケンの元へと突進していたからである。

 

 

 

 

 リウルの号令によって全員が逃げる時、一番早く行動に移せたのがイヨであった。レベルの差、この世界の目線に立っていうならば進化の度合いの差による、神経伝達速度と反射神経、身体能力の差もあるが、パッシブスキルである【気配察知】の恩恵でもあった。

 

 号令とほぼ同時に脚下から迫りくる奇襲を感知し、船から飛んだ。

 

 背後で水面が爆裂し、現れたうねる触腕がさっきまで乗っていた船を圧搾する刹那、目の端で他の面子が問題なく避難したのは確認した。

 

 直後、水面に着地し、同じく攻撃的前衛を務めるダーインの下へ駆ける。

 〈ウォーター・ウォーキング/水上歩行〉は、地を行くが如く水面を駆ける力を与えてくれるが、それは『水面を地面と同じにする』のとは違う。あくまで地面を行く様に水面を行く事が可能となるだけで、水は水のままだ。

 

 即ち、水面の荒れ様に思い切り影響を受ける。踏み締める筈の地面が波打ち、流動する状況で、満足に歩行を行える人間がいるだろうか。いる。イヨを含んだこの場の全員がそうである。卓越した身体能力とバランス感覚、積み上げた経験と対応力で疾駆する。

 

 中でもイヨはマスター・オブ・マーシャルアーツの一レベルにて自動取得したスキル【仙理の運足Ⅰ】を保有している。スキルの効果は足場の悪条件を一定程度まで無視し、移動と行動に対するボーナスを得る事。最大でⅢまでレベルが上がるこのスキルは、スキルレベルⅡで壁面や水上を闊歩し、Ⅲレベルに至れば空気中の塵や水分を足場にした二段ジャンプを可能とする地味に強力なスキルだ。

 

 マスター・オブ・マーシャルアーツという職業の特徴は豊富なスキルを覚える事。どれも地味に有用だが、基本的に他の職業で得るスキルやマジックアイテムで代替が可能だ。それでいて効果的エフェクト的に酷く地味。しかも有用ながらも活躍できる場面が限定的で活かし辛い。上級職相応に強いは強いが、飛び抜けた性能は無かったのだ。伊達に『リアル技能自慢したい中学生用の職業』との評価を頂いていない。

 

 だが、今この場が正に活きる場面であった。不安定の極めにある荒れ狂う水面を、ダーインと共に獣の如く疾走した。

 

 上空からの拘束魔法がクラーケンを縛る。しかし、かの第四位階拘束魔法が縛るのは移動であって行動ではなく、続いて雷撃に撃たれた海魔は苦痛に激しく身を捩る。

 

 荒れ狂う幾本もの触腕。その一本一本は濁った緑色の体表も相まって、苔に覆われた大樹の如し。一撫でされれば遥かに軽量な人の身は木っ端同然に吹き飛ばされよう。──只の人ならば。

 

 ダーインと共に走り出しはしたが、速度差故にイヨがやや先行気味になっていた。前衛としての初撃は少年の手によって成される事となる。

 

 知らないモンスターだ、とイヨは思う。ユグドラシルのクラーケンに似てはいるが、外見や大きさはちょっと違う。何度も戦った事がある訳では無いので詳しくは分からないが、兎に角なんか違う。

 

 共通点は足が八本で気持ち悪くて悍ましい事くらいである。その悍ましさも何らかの精神作用を及ぼしたりはして来ていない以上、単に外見がキモいだけで、特殊能力の類は無いのだろう。

 

 言語化されない思考でそんな事を考えながら、イヨは軽く跳ねて暴れまわる触腕の狭間に飛び込んだ。そして、その根元まで進行せんと走る。触腕は大人しくなどしてくれない。のたうつ触腕に打撃されそうにもなり、挟まれて磨り潰されそうになりもする。

 

 だが、狙いを付けている訳でも無いそれらを避けるのは簡単な事であった。単純な速度で言えばかなりのものだ。身体の九割が筋肉で出来ているだけある。全身が筋肉で骨格が存在しないが故の柔軟さは動作の予測を困難にする。だけども、それだけである。ただ痛みに耐えきれずのたうっているに過ぎない。

 

 イヨは一本一本の触腕の動きを目で追わない。戦闘中にあからさまに視線を動かして物を見る事自体しない。人間の眼は白目の部分が大きいため、眼球の動きで何処を見ているのか判断する事が容易で、狙いを読まれやすいからである。なので見る時は全てを見る。一部で無く全体を、全体の大も小も諸共見る。一々視線を向けるのでは無く、視界丸ごとを凝視し注視する。それで対処できない時に、例えば対戦相手の一部分──腕だったり足元だったり──に注目したり凝視したりするのである。無論その時だって他の場所を疎かにしたりは出来るだけしない。

 

 そういった物の見方を訓練と経験によって体得している。

 

 イヨは今視界内の暴れ回る触腕を含めた全てを、それこそ水飛沫一つに至るまで捉え、害を成すものを避けている。

 

 更に言えば眼だけで物を見る事も、またしない。知覚は常に五感で行う。背後から迫りくる触腕の打撃を、イヨはひょいと避けた。視覚は最も重要だが、同時に五感の一つに過ぎないのだ。そして視覚が捉え得る範囲が視界の内側に限定される以上、知覚に聴覚や嗅覚、触覚を用いるのは至極当然の事であった。【気配察知】の力も大きい。

 

 ──ユグドラシルから此方の世界にきて、随分やり易くなった。

 

 イヨは心からそう思う。ゲーム内では現実では有り得ない身体能力や能力で、現実では有り得ない行動を実現できる。が、味覚と嗅覚を完全に削除されていて、触覚にもある程度の制限があるのは大層動き辛かった。

 

 味覚はまだ如何にかなるが、嗅覚と皮膚感覚が活かせないのは痛かった。空気の動きが分からないからだ。相手の動作で動く空気を肌や体毛、鼻で感じられないのは大きな損失である。

 

 『見てから動く』時点で後手に回っている。故に『動きの前兆を捉える』事で相手と同等になれる。『動きの前兆の予兆を捉える』事でやっと相手を上回れる。それには五感の活用が必須。そういう感覚を当たり前のものとしてきたイヨにとって、ユグドラシルというゲームの中は慣れるまで随分辛かった。

 

 これは別にイヨが特別なのではない。『前兆の予兆を捉える事で、相手が実際に動作する前に対応する、先手を取る』位は初級者以上なら大なり小なり誰でもやっている常識的な行いである。別段格闘技に限定せずとも、あらゆるスポーツ分野で、なんならスポーツ以外の日常の最中でも。

 ただ、仮にもかつて空手道全国一位の頂に立ったイヨのそれは大抵の人間より鋭い。ましてや今のイヨは二十九レベルの、通常人類を遥かに超えた肉体性能を持つ。

 

 この世界は篠田伊代の生まれた世界ではないが、現実である。相手は生き物で、自分も生き物。互いに自我をもって動く。其処に予め決まられた動きは無い。故にとてもやり易い。分かり易い。

 

 水面を駆け、ついにイヨはクラーケンの真上、触腕のほぼ根元まで辿り着いた。走る勢いを殺さず放つのは、中段回し蹴り。

 

「──しっ」

 

 僅かな呼気と共に放たれる蹴り技は、ユグドラシルプレイヤーの目線から見れば大したものではない。『お、レベルの割に良い動きじゃん。リアルでもなんかやってんのかな』と、その程度でしかなかろう。だが、この場で共に戦う仲間達からすれば、それは武の精髄の発露とも言うべき技だった。

 

 少年の回し蹴りはたった一撃で、クラーケンの大樹の如き触腕二本を『切断』した。少年が腕甲と脚甲に巻いていた革帯、ブレイドテーピングと呼ばれるアイテムの効果によるものである。動物や魔獣の牙と蛇型モンスターの皮で作られるこのアイテムは使い捨てであり、戦闘終了後に使い物にならなくなるが、一時的に拳士系の武器を斬撃武器として扱う事が出来るようになる。

 

 柔軟な身体を持つが故、クラーケンは打撃武器に対して耐性を持つ。そんな相手を効率的に殺傷する為、イヨは出来る限りの準備をして来ていたのだ。

 

 巨体だけに体液もまた多量であるらしく、酸素と結合したヘモシアニン──かどうかは知らないが、パッと見はそれらしい──の青い血液が身震いと共に振り散らされていくが、イヨはそんなものに頓着しない。間髪入れずに即座の連撃、狙いは下段。水面下のクラーケンの胴体だ。

 

 魔法の効果によって水面歩行が出来る様にはなっているが、本人が望めば潜る事も可能だ。故にイヨは腰まで水に浸かり、更に左拳を深々と沈め、

 

「ああっ!」

 

 気合いと共に【爆裂撃】の爆裂を発生させた。水の中であっても構わず迸った炎と衝撃がクラーケンの胴体を炙り、引き裂く。更に攻撃を叩き込まんとする。

 

 此処まで、戦端が開かれてから七秒ほど経過しただろうか。この時やっとクラーケンは自身に起きている出来事を正しく認知するに至った。即ち、自分は襲撃を受けているのだと。

 

 ──狩る側から狩られる側に回りつつあるのだ、と。

 

 クラーケンはその事を良しとしない。この巨大湖の生態系を生き抜いてきた彼は生まれながらの強者であり、歴戦の強者である。今と比べれば弱く小さかった幼体の時代を、捕食される事無く生き抜いているのだから。

 

 動物は人間と比べて頭が悪いと一概に言うのは間違いである。人間は文字が書けるし言葉も使うが、動物は出来ない。だから動物は人間より頭が悪いと、そう判ずるのは公平な判断ではない。判断に用いた価値観と基準自体が人の持ち物で特技で得意分野だからだ。

 それは、鳥は飛べるが人間は飛べないから下等だとか、ゴブリンは繁殖力が人間より優れるから上等だと言うのとあまり変わらないレベルの暴論である。

 

 異なる種別の生き物を同列に比べる事は出来ない。この世に生きる全ての生き物は、己が生態に沿った能力を獲得しているからである。犬には犬の、鳥には鳥の、ゴブリンにはゴブリンの、クラーケンにはクラーケンの生き方があり、そうして生きていく為の力がある。

 第一イヨの生まれた世界ならば兎も角、この世界には人間以外にも言葉を操り文字を用い芸術を生み出し愛を紡ぎ、歴史を綴る種族が厳然と存在する。それらの種族の多くは人間より頭が良く身体も強い。更に種族によって繁殖力にも優れ寿命も長く、魔法も得手とする。

 

 それらの種族と比べて人間は劣っているから下等だと、だから滅べと言われたら納得できるだろうか。出来るわけがない。生きているのだから。

 

 このクラーケンは、ユグドラシルの分類に当てはめるなら動物である。常識外れだし、地球の理に照らせば存在自体が有り得ないのだろうが、事実として魔獣でも神話生物でも無い。故にその知能は人間の基準で言うなら高等とは言えず、正しく動物並みである。しかし、その事実は弱い事と同義ではない。

 

 野生に生きる彼らは生粋の捕食者である。通常のタコでさえ知能は人間の三歳児を凌駕すると提唱する学説があり、人と同じく五感で周囲を知覚する。特に視覚の発達は高度である。

 

 クラーケンは自身に宿る捕食経験と本能と知能により、自己の状態をほぼ正確に把握していた。

 

 ──現在の自身は、何故だが分からないが著しく移動を制限された状態にある。身体があまり動かない。

 ──自慢の八本の腕は二本が断たれ、残り六本。内二本は負傷。先の上方から襲い掛かってきた『痺れる痛み』も痛手であった。

 ──今回の『縄張りを荒らす小さい餌』達は、餌であって餌ではない。自らを害する術を持つ外敵だ。逃げる事が叶わない以上、排除せねばならない。

 

 これは事実としてそう考えている訳では無いが、実際この時のクラーケンの思考を人の思考に翻訳したならば、これに近い結果が出るであろう。

 

 彼は巨体を躍動させる。自慢の腕を振るい、外敵を叩き潰さんとする。吸盤で吸い付き、自らの場である水中に引きずり込まんと欲する。最初の狙いは高みで此方を見下ろしている空飛ぶ連中では無く、己が身を直接傷つけた者達だ。

 

「時間ば稼いだ、引げ」

 

 遠間で触腕を斬りつけている者と、懐で二本の触腕を断った者。二者を諸共害そうとし、あっさり空振りする。移動を制限された今のクラーケンは、言わばフットワークを殺された武術家に等しい。幾ら振るう拳が一撃必殺の威力だろうと、遅々とした歩みしか許されない足のせいで、間合いの主権を相手に譲り渡している状況であったのだ。その様で当たる訳がない。

 

 率直に言うと、初手の拘束魔法を抵抗できなかった時点で、クラーケンの趨勢は負けに傾いていたのである。ベリガミニの魔法は移動を著しく制限するもの。あの魔法を喰らった時点でクラーケンは、牛馬の如き遅々とした移動を強制されていたのだから。

 

 逃げるには遅すぎるから戦おうと、それ自体は悪手では無かった。相手が普通ならば。

 

 今この場に集った冒険者達は、定員を割ったオリハルコン級一チームとその不足を補うべく選ばれたミスリル級一チームの計九人。一人一人を難度で測れば最低でも六十は下らない。イヨに至っては武装とマジックアイテムによる補正込みで難度百をも上回りかねない。

 

 今日此処でクラーケンと相対しているのは、紛れもなく公国最強の冒険者達であった。その手練れ達は予めクラーケンに狙いを定め、作戦を立て、装備とアイテムを選りすぐって来ていたのである。

 

 事前に想定された最も高い依頼失敗の可能性は、クラーケンに逃げられる事だった。海と見紛うばかりの湖の深遠に逃げられては、当然手も足も出ない。

 その可能性を封じる為の第四位階拘束魔法の初手行使。それが通った以上、始まるのは──その効果時間内にクラーケンを屠り殺す為に研ぎ澄まされた手順、その冷厳なる実行のみだ。

 

 前衛二名がクラーケンの触腕の檻の中から退避した瞬間、彼に降り注いだのは三つの火球だった。卓越した腕前が織り成す芸術的なまでの連携による、第三位階魔法〈ファイヤーボール/火球〉の三発同時着弾だ。

 

 ベリガミニとバルツネヒトの上空からの魔法行使、ビルナスの魔法蓄積された矢。ビルナスの矢より解放された魔法は他の二者のそれより威力的には劣るが、それでも十二分に過ぎる。

 

 超常の理が発現させた紅蓮の烈火が急激に膨れ上がり、クラーケンの滑る触腕を炙り焼き、そしてまるで幻だったかの様に急激に消失する。範囲攻撃魔法である火球の威力は、クラーケンの長大な触腕を八本諸共巻き込んだのだ。後の残ったのは半死半生になった無残な海魔だった。

 

 最早放っておけば一日持たずに死するだろう有様。惨たらしい焼け爛れた身体。触腕の先端の細い部分に至っては炭化して風に攫われていく。

 

 其処にイヨ、ダーイン、後衛の援護から離れたナッシュがカイトシールドを投げ捨て突貫し、残り一日足らずの命を切り刻んでいく。

 拳足とロングソードとバスタードソード、縦横無尽に振るわれる刃が意味を成さなくなった触腕を次々に切り落とし、

 

「引け!」

 

 また全員一斉に引いてゆく。

 

 前衛が引いて射線が空くと、狙いすましたタイミングで二連の〈ライトニング/雷撃〉が撃ち込まれた。狙いは勿論、最も傷の浅い胴体だ。耳を聾する雷鳴と雷光が鳴り止んだ時、其処に『生物』はいなかった。元々生命力に優れた魔獣でも無いこのクラーケンが第三位階魔法の三重撃をモロに喰らって生きていたのは、肝心の胴体が水中に有った為に炎の影響が減じた点が大きい。

 

 剣と魔法の追撃は、命の灯を完全に消した。

 

「──……ふう。終始計画通りにいったか。概ね組合の想定通りの難度だったな?」

「俺のカイトシールド、誰か回収しててくれたかい?」

「俺が回収しといたよ。つか、俺今回一発も相手に入れてないぞ」

「中衛であるリウルが積極的に前に出ざるを得ない様な戦いにはならなかったという事だ、いいじゃないか。横槍は無かったが、周囲に気配は? 」

「終始なんも無し。こんだけ視界が開けてりゃ、何か来ても気付けると思うぜ」

 

 一拍の後、ビルナス、ナッシュ、リウル、ガルデンバルドは少しだけ緊張を解いて順に発言した。役割分担上割と距離が離れているので、みんな結構な大声である。其処に、ローブとマントをはためかせて魔力系魔法詠唱者二人組が降りてくる。

 

「儂が言うのもなんじゃが、〈フライ/飛行〉からの攻撃魔法を使える魔法詠唱者が二人もおったのじゃからな。型に嵌まれば苦戦しないのは当然と言えば当然じゃよ」

 

 老人が得意げにそう言い、口には出さないバルツネヒトも頷いている辺り、自分達の仕事には自信があるらしい。さもありなん、である。実際、今回交戦中に最も貢献したのはベリガミニ、次いでバルツネヒトとビルナス、斬り込んだ三人、他は全員が横並び位であろう。交戦以前の前準備や立案段階、補助の分野ではガルデンバルドとリウル、イバルリィも大活躍している。

 

「治癒が欲しい人はいますかー? おばちゃん今回は戦闘中一回も魔法使ってないんで、ちょっとした傷でもオッケーですよー」

「あ、僕ちょっと吸盤に触れた時力尽くで剥がしたので、血が出てるんです。治癒下さい」

「はいはい」

「お前、今回はあの鎧を使わなかったんだな?」

「あれ、視界が狭いし閉塞感もすごいですから。一応拘束に対する耐性はマジックアイテムで付けてますけど、出来れば捕まりたくなかったので止めときました」

 

 今回の作戦は実に質素である。基本に忠実とも言う。

 後衛が先制の魔法を叩き込んで前衛が突っ込み、前衛が稼いだ時間を使って後衛がまた魔法を叩き込む。そうして半壊した敵に前衛が再度突撃し、後衛が止めを刺す。文字にすればこれだけだ。

 

 『足止めして囲んで叩く』という、単純かつ強力無比な人類の伝統的戦法である。それこそ原始時代から──この世界の原始時代がどういったものであったかは知らないが──マンモス相手にやってきた戦い方だ。効果のほどは実証済み。

 

 リウルやナッシュ、ダーインやベリガミニが周囲の警戒に戻り、しばし時間をおいてからガルデンバルドが、

 

「よし、全員引くぞ。隊列を組め。〈ウォーター・ウォーキング/水上歩行〉の効果時間はまだまだ残っているが、一旦陸まで引く。証拠部位と無事な部分で金になりそうなものは回収したか?」

「ばっちりだ」

 

 ビルナスが無限の背負い袋を叩いて親指を立てていた。希少なモンスターの素材は物によっては高く売れる為、剥ぎ取っていたのだ。今回の場合触腕の大部分は焼け爛れてしまったが、僅かに残った無事な部分と墨袋等を回収していた。

 

 彼らは今一度警戒態勢を組み、速やかに陸地に戻った。幾ら魔法のお陰で歩けると言っても、水の上は落ち着かないのである。下から何かが襲ってきそうな気がしていた。

 

「クラーケンってあれ一体だと思うか? もう少し調査した方が良い気がするな」

「同感です。もう一日くらい湖の方を調査してから森の方の仕事に行きましょうか」

「初陣にしては見事だったと思うよ、シノン。やはり個人の武勇では敵わないな」

「いえ、ダーインさんが近くで助けてくれてましたから。僕は目の前の事で一杯一杯でした」

「ぎにずるな……声をがげた、だげだ」

「今回は殆ど事前の計画通りに事が進んだが、ここまで完全に上手くいくのは稀も稀じゃ。今後も油断はするでないぞ」

「はい! 」

 

 冒険者たちはその後、ガバルの村でささやかながらも心の籠った歓待を受け、村長の許可を得てクラーケンの犠牲となった人々の墓に仇を取った旨を報告した。

 

 そして翌日、早朝から別のポイントに足を延ばし、五メートル級と九メートル級二体のクラーケンを討伐し、その後丸二日を掛けて薬草の採取とモンスターの間引きを行った。ラミア等には特に注意していたのだが、意外にも遭遇する事はなかった。

 そうして『漁は様子を見つつ、慎重にやった方がいい。何かあったら組合に連絡をくれ』と言い残して、ようやく公都へ向けて旅立ったのだった──

 

 

 

 

「納得できません。アリアは死んだのですよ。仇も取ってやれないのですか」

 

 ずるずると、何か巨大なものが這いずる音が静かに響いていた。岩肌の周囲は薄暗く、とても視界が良いとは言えない。しかし、音の発生源である二体の半人半蛇の異形は、それを全く苦にしていない。種族的に闇を見通す目を持っている為だ。

 

「あの戦いを見たでしょう。彼らは強大です。ただでさえ数の減った今の我々が戦うべきではない。アリアは運が悪かったのだと思いなさい。一人の弔いより、我ら全員の命が大事です」

「くっ……」

「此処も、引き払わねばなりませんね。調査隊が来るやもしれません」

 

 二人の女は美しかった。下半身が蛇体である事すら、美しさを引き立たせる一要素でしかないと思ってしまうほど。それは人間が持ち得る魅力を超えた魔性の美であった。

 

「あの少女は本当に強い。私にすら届き得る牙です。他の者達も歴戦の強者たち。多くの犠牲を出せば葬れるやもしれませんが、あれほどの者たちを失ったとあれば人の世界が黙っていないでしょう。私たちは個々の力量においては優越していますが、国一つ敵に回しては磨り潰されるしかないのです」

 

 より長大な身体を持つ者が零し、背後を振り返った。彼女と比較すれば小さなもう一人の女は、涙を流していた。

 

「長らくそうして生きてきたではないですか。死者を悼みましょう。そしてもう犠牲を出さない為に努力するのです。人と我らは切っても切れぬ縁です。ならば」

 

 ──より長い付き合いにしようではないですか。

 

 舌なめずりをして、赤い鱗のラミアは淫靡に微笑んだ。

 




今回三回ほど書き直したんですが、クラーケンがイカとタコでごっちゃになってるかもしれません。基本タコをイメージして書いてましたが。
あと、参考にしようと思ってD&Dの魔法を少し調べてみたんですが、射程ものすごい長いですね。例えばSW2.0だとファイヤーボールって射程三十メートルなんですが、ちょろっと調べた限りD&Dだと術者によっては二百メートル以上(フィートかも?)届くそうで。ぱねぇ。

活動報告の方で質問なども受け付けてます。


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宴の熱狂の最中で:前編

※オリ主とオリヒロインの恋愛描写がほぼ終始に渡って繰り広げられます。また、男の娘の女装描写もあります。苦手な方はご注意ください。


 ちょっと引いた。と、リウルは混乱の混じった自身の心情を推測する。

 

 此処は活沸の牡牛亭である。復路を踏破し公都に到着した【スパエラ】と【戦狼の群れ】の合同パーティーは、冒険者組合での諸々の手続きをさっさと済ませ、良い仕事が出来た祝い、今回もまた誰一人欠ける事無く生きて帰ってこられた祝いに、打ち上げを初めていた。今回は新人にして新入りであるイヨの初依頼でもあったし、獲物も珍しいモンスターであった為話題性もたっぷりで、

 

『またなんかすげえ依頼をこなしたんだって? ちょっと話を聞かせてくれよ』

 

 といった注目も浴び、大いに盛り上がった。同じ店内で打ち上げをしていた他の冒険者を巻き込み、その騒ぎに一般の客も釣られ、最早大宴会の様相を呈していったのだ。

 

 そうして宴の開始から二~三時間もたっただろうか、リウルは視線の先の光景に対して冒頭の思考を抱いた。

 

 いや、と彼女は考える。其処まで言うのは酷いかもしれない。驚いた、というのがより正確な表現やも。奇異である事は確かだが、似合ってはいるのだ。それこそ、普段の恰好よりも余程。

 

 ──引く、までは行かないかもしれねぇな……。 

 

 可愛いか可愛くないかでいったら、明確に可愛い。魅力的だと思う。そう褒めてやったらそれはもう飛び跳ねんばかりに喜ぶだろうし、そうやって自分の言葉で喜ぶ少年の姿が見たいか見たくないかで言ったら──

 

 ──見たい。いや、でも、あれはなぁ……。

 

 無自覚ながらもリウルはその光景に釘付けだった。

 

「なんじゃアレ。……なんじゃアレ?」

「…………」

「何でも、鉄板の持ちネタだそうだぞ」

 

 【スパエラ】の中核三人が見守る視線の先で、イヨは女子だった。彼は相変わらずそうは見えないなりに彼であるし、其処は本人曰くブレてないそうだが、やっぱりどう見ても女の子だった。

 

 端的に言うと、酒場に作った特設ステージの上で、イヨは女装姿で歌って踊っていた。

 

 テーブルを連ねて作った特設ステージの周辺では、なんだか熱の入った歓声やら大音量の笑い声やらが木霊していた。黒山の人だかりを形成している者達は全員酔っ払いであるからして、上げる声には遠慮がない。全く隠蔽や隠密というものが利いていない。本音がより鋭く口をついて出ているのだろう。

 

 誰も彼もが熱狂的で、お祭り根性だった。多分筆頭はイヨだ。『同じアホなら踊らにゃ損々』という奴だろう。その可憐な顔は真っ赤である。羞恥では無く、昂ぶりと熱気でだ。

 

「ぶあっははは! イヨぉー! お前さいっこうだな! 俺が思ってたより十倍は面白い奴だったな! 見直したぜ!」

「イヨ、お前って奴は……なんで、なんで男なんだちくしょー!」

「全くだ、女だったら、女でさえあったら……! 五年後十年後を見据えて今から声をかけておくのに……!」

「イヨちゃん! これ先輩からの真摯なお願いなんだけど、そのまんま成長しないで! ずっと今のまんまのイヨちゃんでいて! お願いだから!」

「誰か魔力系魔法詠唱者はいないか!? 酔いが醒めて二度とやらないとか言い出したらどうするんだ、今の内に絵にしておくべきだろうこの瞬間を!」

 

 みんなの笑い声と歓声を一身に浴びるイヨは、南方で着用されるというスーツ姿だった。

 女物のパンツルックで色は黒。下に着たベストも黒いが、シャツは純白だ。明らかに特注の設えであろう上等な布地で、小さく細い肢体にサイズがぴったりぴっちりだった。

 男ならある筈の男性の象徴をどう隠したのか知らないが、膝から太腿、内腿から臀部にかけてのラインが半端じゃない。煽情的ですらある。リウルの眼から見ても見事だ。露出は全く無いのに正直色気があった。きゅっとしまった細いウエストもたまらない。普段三つ編みにしている髪を解いて流しているのも、何時もと違った印象で人目を惹く。

 

 ──俺は毎朝起きる度に見てるけどな。

 

 特に意味も無く、そして半ば自覚も無く。騒いでいる観衆に対抗するかのようにリウルは心中で呟いた。

 

 外見年齢相応に小さ目な胸は詰め物らしい。が、何故か上着もシャツもベストも胸部立体縫製が施されていて、絶妙に強調されている。作った奴が何を考えていたのか問いただしたい気分になったが、超楽しそうな輝く笑顔のイヨを見ると、リウルはむしろイヨの方を問いただしたくなった。

 

『みんなで楽しく、歌って踊りましょー!』

 

 第一声はこうだった。決めポーズがやけに手慣れていたのは一体なんだったのだろうか。

 歌と踊りの方ははっきり言ってお粗末である。仮に劇場で金を取って公演したら客が暴動を起こすだろう。だが、兎に角明るくて純真で、非常に一生懸命で真摯だった。

 現代人の目線で言うなら、ノリノリで歌うカラオケの様な感じだ。みんなで共に熱狂し、普段ならばやらない様な馬鹿をやる。そういう面白さに溢れていた。

 

 

 

 

 それからどれ位の時間が経っただろうか。長くても二十から三十分くらいだと思うが、正確な時間はリウルには分からなかった。無意識的に酒と料理を堪能しつつ、イヨのはしゃぎっぷりを後日どうからかってやろうかと思考に耽っていると、

 

「いやぁー、すごいですね。おばちゃん若い子のパワーにびっくりですよ」

 

 いつの間にかリウルの隣にはイバルリィ・ナーティッサがいた。普段と同じく改良金属鎧で素顔を晒しているが、その表情は殊更緩い。大分酒が入っているのだろう。満腹になって寝転がる虎か獅子の如き顔付きだ。酔っ払い振りに関してはリウルも人の事は言えないが。

 

「……バルドと爺さんは? さっきまで隣にいた筈だが。あと、他の連中は?」

「ベリガミニさんは先ほどもう休むと仰って上に上がりましたし、ナッシュとビルナスはバルドさんとあっちで力比べしてますよ。バルツネヒトは何時もと同じく一杯飲んで直ぐ引っ込みました。ダーインは丁度明日が五女のキリィちゃんの二歳のお誕生日だそうで、公都に付くなりさっさと帰ったじゃないですか」

 

 そうだっただろうか。そうだったかもしれない。ぼんやり考えていると、イバルリィに笑われた。

 

「大分酔ってますね? ま、肴が良いとつい飲み過ぎるものです」

 

 リウルは眉を潜めた。この女の言いたい事が分かったからである。

 

「褒めてあげないんですか? 何か出し物をやれ、なんていう先輩からの無茶振りに対する新人の返答としては、最高だったじゃないですか。きっと喜びますよ」

「褒めるとあいつは本当に喜ぶから駄目だ。うちのメンバーのお子様っぷりを人前で周知するのは趣味じゃねぇ」

「成程、後で二人きりになったら褒めると」

「その言い方はやめろ」

 

 お子様っぷりの周知に関してはもう遅いような気がするが。

 二人の視線の先で、特設ステージから降りたイヨが今度は下で、冒険者たちによる即興演劇に見入っていた。キャストも飛び入り上等でストーリーも終始アドリブ、縦横無尽に話が飛びまくっている劇なのだが、少しも気にはならないらしい。

 

 竜王に攫われたお姫様が降って湧いた十三英雄の一人とシンクロ・ダブルパンチで竜王を退治し、世界に平和が訪れた所で英雄の結婚詐欺と浮気が発覚。これまた急に湧いた被害者女性集団とお姫様が逃げた元英雄の討伐に赴いたところだった。

 

「お、イヨちゃんが謎かけするスフィンクス役で乱入しましたよ。僕の性別を当てられたら此処を通してあげましょうって、あの子意外と自分をネタにしますね」

 

 お姫様一行が声を揃えた即答で『女装野郎』と答えると、スフィンクスはぐうの音も出ないから正解と宣言して元英雄を売り渡していた。控えめに言って、全く謎かけでは無かった。

 

「イヨちゃん、どう考えてもリウルにべた惚れですよねー」

 

 わざとらしく囁かれたその言葉に、リウルは周囲の喧騒の中で自分たちの方を窺っている者がいないか、声の聞こえる範囲に人がいないか確かめ、いない事を確信すると、

 

「……知ってるよ」

 

 べたんと机に突っ伏した。酒瓶に頭がぶつかってゴツンと音を立てる。

 

 だって、超あからさまで分かり易いから。朝起きて顔を合わせた時点で笑顔だし、何でもない事で声を掛ける度に触れる度に幸せそうな表情を見せるし、めっちゃ甲斐甲斐しくて割と気も利くし──二人とも早起きなのだが、酒さえ入っていなければイヨの方がより起きるのが早いので、公都にいる時のリウルは大体イヨに起こされていた──それでいて隙だらけで目を離していられない。実利的実害的に。

 

 仕事中は真面目だったが、日常の中でのイヨは常にリウルに対する純真無垢な好意を示し続けていた。

 

 少女は思わずと言った様子でぽつりと、

 

「あいつ俺の事好きすぎないか? 俺は特にあいつになにをした訳でもねえぞ。恋愛ってのはもっとこう、絶体絶命の窮地で命を救われたりとか、見た瞬間雷を落とされた様な衝撃が有ったりとか、そんな感じのあれで始まるんじゃねぇのか?」

 

 あいつは一体俺の何処に何時惚れたんだろうか、と疑問する。モテない男女から見れば自慢かと思う贅沢な悩みかもしれないが、当人にとっては真剣な疑問である。なんというかこう、リウルの恋愛観からすれば、もっと明確で劇的なきっかけがあって、はっきりとそこを起点に恋が始まるのではないかと、そう思うのだ。

 

 そういった『劇的で明確なきっかけ』が、自分とイヨには無い様に思える。酔い潰して流れで同衾したのはリウル的にロマンもムードも糞も無いのでノーカンらしい。あれはきっかけでは無く、軽率が齎した事故だ。しかもイヨはその事を覚えてない。

 

「そう言えばリウルは元お嬢様でしたね。歌劇の見過ぎですよ、そんな劇的な事態を待ってたら誰も結婚できないですって。普通の人は日常の最中の些細なきっかけで好意を持つのが大半ですよ。でもイヨちゃん目線で見たら、別の大陸に飛ばされて右往左往してたら超好みな年上のお姉さんに拾われた訳で、その条件を満たしてるんじゃないですか?」

 

 しかもいつも一緒で毎日同じ部屋で寝起き。これは落ちますね、とイバルリィは心底面白そうに笑った。そんな彼女に対し、億劫そうに身を起こしたリウルは、

 

「あいつの好みとか分かんねぇだろ、適当な事──」

「背が高くて強くて逞しくて優しくて綺麗で可愛くてカッコいい年上の人が好きだそうで。あ、ご心配なく。同性はノーサンキューだって言ってましたから。あの子はちゃんと女性が、リウルが好きですよ」

「……いつ聞いたんだよそれ!」

「道中の不寝番で何度かイヨちゃんと一緒だったんですよ。因みにその時の彼の視線はばっちりリウルの方に向いてましたよ」

 

 ──背が高くて強くて逞しくて優しくて綺麗で可愛くてカッコいい年上の女性が好き? 

 

 イヨの好みを聞いてリウルが反射的に想像したのは、かつて実際に会って言葉を交わした事がある王国のアダマンタイト級冒険者の姿だった。あの人物は百人が見れば百人背が高くて強くて逞しいと評するだろう。面倒見のよい性格だし優しくもある。同じ冒険者でカッコいいとの印象を抱く者も多いはずだ。可愛いは兎も角、純粋に顔立ちを品評すると綺麗で整っているとも表現できなくはない。

 

 ──そっか、イヨの好みの女性はガガーランの姉貴だったのか。そうだな、あの人は強いし魅力的だよなぁ──

 

「急に遠い目をして、どうしたんですか。寝落ちしそうならもう休んだ方が良いのでは? 送っていきます?」

 

 労わる様子のイバルリィに声を掛けられて、リウルは正気に戻った。大丈夫だ、と手を振って示し、酒杯の中身を一息に飲み干して、

 

「その、イヨが言った『背が高くて強くて逞しくて優しくて綺麗で可愛くてカッコいい年上の人』って──俺の事を指してんのか?」

「それはそうでしょう」

「えー……」

 

 『何処が?』というのが、本人であるリウルの感想であった。

 まあ、背は高い。百七十を数センチ超える背丈は、女にしては長身であろう。イヨには及ばずとも、オリハルコン級の冒険者であるからして当然強いし逞しいとも言えよう。高位冒険者としての働きぶりで羨望の的となる事もあるのだし、自分で言うのもなんだが百歩譲ってカッコいいも当て嵌まるとしよう。まあ悪口さえ叩かれなければ暴力を振るったりもしないし、イヨの目線からしたら自分は優しくも見えたのだろう。千歩譲ってそう思う事にする。

 

 だが、綺麗と可愛いは何処から引っ張ってきたのだ。リウルにその表現が当て嵌まったのは六歳までである。

 

 綺麗で可愛いという表現は、それこそ戦っている時以外のイヨの様な小さくて純真な子供にこそ相応しい言葉の筈だ。どう客観的に考えた所で、現在の自分のどこかに『綺麗で可愛い』部分があるとは、リウルには思えなかった。

 

「……あいつ、俺になんか幻想でも抱いてるんじゃないのか?」

「私も綺麗で可愛くて優しいリウルという新説に学術的な疑問を抱きまして、具体的にどこら辺が綺麗で可愛くて優しいのか質問してみましたが──」

「おい」

「やぁん、別に悪口じゃないですよ?」

「やぁんとか言うなよ、いい年こいて」

 

 別にイバルリィはリウルが嫌いなわけではない。彼女は自分よりも年下ながら自分よりも高位のプレートを持っているリウルを尊敬している。リウルも自分より長く冒険者として活動し、豊富な経験を持つイバルリィに敬意を払っている。

 なのでこのやり取りは、年の離れた友人同士としての忌憚の無いやり取りなのである。恋バナ大好きな年長女性が恋愛感情そのものに疎い年少の少女を弄っている図ではない。

 

 そんなイバルリィは肉食獣染みた容貌に『あらあらお熱いですこと』みたいな笑みを浮かべ、

 

「イヨちゃんは、リウルの大きくて暖かい手が大好きなんですって。手を握られると心が温かくなるそうですよ」

「はあ?」

「ご飯を美味しそうに食べる顔が子供みたいで可愛い、口調は荒っぽいのに所作が丁寧なのが可愛い、寝顔があどけなくて可愛い、普段は大人なのに口喧嘩になると途端に年相応になるのが可愛い──」

 

 リウルは濁流の如く流れ出る可愛いの連呼を両手でしっかりと押し止めた。端的に言うと、目の前の女神官の口を手で塞いだのである。

 アイコンタクトで『分かったから黙れ』と申し付け、同じくアイコンタクトで『はいはい了解しました』と返してきたのを確認し、静かに手を放す。

 

「まだ可愛い編がこの五倍くらい、それにリウルのなんちゃらがどうたらで綺麗編、優しい編が丸々残ってるんですけど、聞きます?」

「もう良いっつのっ。あの野郎、人のいねえとこで好き勝手言いやがって!」

 

 荒っぽく言うリウルの顔は赤い。まあ彼女の名誉のために言うなら、酒のせいで元から赤かったので、今の言葉が原因がどうかは、一応断言できない事ではあるが。

 そんなリウルをいっそ愛しそうに見やるのはイバルリィである。彼女は普段、リウルがイヨに向けている様な視線を彼女に向け、

 

「命短し恋せよ乙女。四大神の一柱、我らが崇める水の神様がこの世にお伝えになった言葉ですよ。良~い言葉じゃあありませんか。頑張ってくださいね、おばちゃん応援してますから」

「ニコッポ・ナデッポやらロリコンショタコンやらといい、宗教界は妙な言葉ばっかりだな!」

「神々が残されたお言葉の数々は、我ら人の身には深遠かつ不可思議なのです。故に長年の研究と研鑽と信仰でもって、少しずつその英知を紐解いていくしかないのですよ」

 

 ──私は孤児院の子たちで精一杯ですから、貴方の将来は真剣に応援してますよ。同じ女として。

 

「さーて! 私は明日も早いので、ここらへんでお暇しますね。他の御三方にどうぞよろしくお伝えください!」

 

 そう言い残し、イバルリィ・ナーティッサはさっさと退散していった。残されたのは自分でも何故熱いのか分からない頬の熱を持て余したリウルだけであった。

 

 相変わらず周囲は騒がしい。リウルが後方のテーブルに視線を伸ばせば、公都冒険者腕相撲王者のガルデンバルドが挑戦者を打ち負かしている光景を見る事が出来ただろう。ナッシュが本日何度目かの再挑戦申し込んでいて、同じく既に敗れたビルナスがそれを応援する所も。それ以外でもみんな飲めや騒げや歌えや踊れやの大騒ぎだ。

 

 しかし、少女にはその騒ぎの殆どが耳に入らなかった。

 

 その少女は手近な水差しからまだ微量に酒が残っている酒杯に水を注ぎ、一気に飲み干す。続けてもう一杯飲み干した。冷たい液体を取り込めばこの熱は冷めるだろうかと、そんな思い付きを試しているかのようだった。

 

「はぁー……」

 

 深く息を吐く。そして今一度机に突っ伏した。

 

 正直に言えば、リウルはイヨに好かれていることが嬉しかった。余程ひねくれていたり特殊な事情が有ったりしない限り、人間は自身に好意の感情を向けてくる者に好意を、自身に嫌悪の感情を向けてくる者に嫌悪を抱くものである。

 

 好きか嫌いかで言えば、イヨの事は間違いなく好きだった。まだまだ短い付き合いだが、あれだけ単純で純粋で幼く、そして一途に自分を慕ってくる年下の少年の事を知るには、その短い月日で十分でもあった。

 あの少年の何処が一番好きかと聞かれたら、腕っぷしの強さとそれを如何なく発揮する戦闘姿勢が一番好ましいと即答するだろうけども。

 

 でも正直、恋心とやらの事はさっぱり分からない。リウルは生まれながらの冒険者気質の持ち主で、心に決めた事は必ずやり遂げてきた。ひらひらした服装より動きやすい服装が好きで、お部屋で着飾ってお茶を飲むより泥だらけになって外を走り回る方を好んでいた。商会の若奥様より、荒野を駆ける冒険者になりたかった。刃の輝きと宝石の輝きだったら、前者に惹かれる女なのだ。

 

 それらは別に何らかのトラウマや劇的な出来事がきっかけとなって芽生えた訳では無く、それこそリウル・ブラムという一個人に生まれながらに根付いていた根源的な欲求である。あえて後天的な理由を探そうとするならば、多分道端で日銭を稼ぐ吟遊詩人の語る英雄譚に心を揺さぶられたからとか、誰の子供時代にもありがちなその程度の体験が理由だろうか。

 

 強くなりたかった、自分が望む様に生きたかった。そうして我を通してきた結果が近所のガキ大将であり、実父を牢獄送りし、たった数年でオリハルコン級までを駆けあがるという急成長なのだ。

 

 恋愛感情とはそもそもなんなのだろうか。強い前衛を頼もしく思う気持ちや、賢い後衛を有り難く思う気持ち、アダマンタイトという冒険者の頂点に登りつめたいと願うこの灼熱の如き熱と比べて、それは何かが違っている特別なものなのだろうか。

 

 イヨの子供っぽさ、年齢不相応の純真さ可憐さはもう受け入れた。あれもあいつの人間的な魅力の一つなのだろうと思える。子供っぽさに関しては危なっかしいからさっさと大人になれとも思うが。

 

「面倒くせぇー……」

 

 リウルにとって誰かと恋仲になるとかならないとかは、殺し合いよりも遠い非日常の世界である。『詩歌や歌劇の中で騎士と乙女がなにやら長々とぐだぐだやるアレ』というのが色恋沙汰の正直なイメージなのだ。

 

 今までは興味も無い故に眼中にも無く、そもそも冒険者の仕事や自分の研鑽が忙しいから脳内に浮かぶ事も無かったが、リウルは生まれて初めて誰かに異性として好かれるという一大事の真っただ中だった。

 

 自分から誰かを、とかだったらまだ自分の内でなんとなく判じる事が出来るが──自覚すら無しに『そんな事より刃毀れしたダガーを研ぎ師に出しに行こう』と忘れてしまう可能性が大だが──他人に好かれた場合はどうすればいいのだろう。どう対処すればいいのだろう。

 

 好意を察しているのに無視は不義理な気がする。片思いをこじらせて戦闘中に判断ミスをされたらメンバー全員の命にも関わる。無視は無い。

 

 ──つーかあいつはその内普通に『リウルの事が好きです!』とか告って来そうな気がする。

 

 実際は既に『リウル、大好き』とイヨに告げられているのだが、幸か不幸かその事は、イヨもリウルもお互い覚えていない。

 

 仲間内のあれこれもある。パーティー内で恋愛関係とかは割と死亡率が上がる案件である。過度な不和と同じくらいに人が死にやすくなる。公国には夫婦で冒険者やっている変わり種の連中もいるし、その者たちは婚姻前からずっと一緒にやってきていたが、かなりのレアケースである。

 

 何が面倒だって、もし告白されたらなんて事を長々考えるくらいには、リウルはイヨに好感情を持っている事だった。例えば今この場で告白された場合、『お前とは無理だわ、ごめんな』と『良いぜ』の二択で、前者を即答する事は恐らく出来ない。

 

 リウルは強い奴が好きだ。より優れた者に惹かれる人間の本能としても、個人的にも。今のイヨに抱いている好意だって、大本はその強さに対する憧れと称賛、敬意が根元にある。あれが強さを持っていない見た目通りのただの子供だったら、多分弟か小動物か健気な後輩くらいの位置に収めていただろう。

 

 結局のところ、煮え切らない原因はリウルの恋愛経験が完全に『無』なのが原因であった。リウルにとって恋愛とは、『言葉と存在は知っているが、関わった事も興味を持った事も無く、理解できていないもの』なのだった。故に超分かり易く好意を伝えてくるイヨに対する対処法が分からず、『そもそも恋愛ってなに?』なんて事まで考えてしまうのである。

 

 因みに、対するイヨの恋愛観は『好きだから好き、惚れたから好き、好きだから惚れた。リウルが大好き』だ。

 

「わけわかんねぇ」

 

 今までモンスターと殺し合う事ばかりに時間を割いてきた。アダマンタイト級冒険者という夢しか目に入っていなかったのだ。遅れてきた思春期に、リウル・ブラム十七歳は苦悶の呻きを上げた。

 

 

 

 

「リウル、大丈夫? 調子悪いの? お布団まで運んでいこうか?」

「──……大丈夫……」

「ほんとに平気? お水飲む?」

「あー、大丈夫、大丈夫だよ。水より酒をくれ、何でもいいから」

 

 言われた通りに、少年は少女の酒杯に手近にあった瓶から酒を注ぎ、自分の分の酒杯を手に隣へと座った。

 

 動作に沿ってふわりと広がる白金の長髪、無垢な金の瞳が印象的な、可憐かつ無邪気な表情を浮かべる顔貌。外見年齢相応に小さいながらも絶妙に強調された胸部立体縫製の胸元、くびれた細いウエスト、未成熟を思わせる細さながらも女性的な魅力を振りまく美脚。四捨五入で百五十センチの肢体を包むのはタイトな女物のパンツスーツ。

 

 そんな女装少年イヨ・シノンがリウルの下へ戻ると、彼女は机に突っ伏していた。横顔から覗ける目はちょっと漠然としている感じで、イヨの好きな刃の如き鋭さは少し鳴りを潜めていた。多分酔いが深いのだろうな、と少年は内心で頷く。自分とて人の事は言えないほど酔っているが。

 

「お前さー……女に間違われるの苦手じゃなかったか?」

「苦手っていうか、困るんだもの。僕は身も心も男だし、格好だって男物なのに間違われるなんて」

「……今のその恰好は?」

「女装は僕の持ちネタだから。鉄板でウケが取れるし、場が盛り上がるからね。それに、ぶっちゃけ僕の外見的には女性装の方が似合うでしょ?」

 

 持ってる取柄は活かさないと、と思わぬ芸人根性を発露させ、イヨは朗らかに笑った。意外と宴会の盛り上げ係とかに向いている人材なのかもしれない。みんな楽しんでくれたみたいで嬉しいよ、と会心の笑みだ。

 

 ──似合ってるけど、確かに似合ってるけど。普段男の服を着てても女に間違われるんだから、女物の服が似合うのも当然と言えば当然──しかし、なんつーか、それで良いのかこいつ。

 

 リウルは吐息し、あらゆる思考を断ち切って──放り投げたとも言う──身体を起こすと、自らの隣に座った女装少年を直視した。視線を受けた少年は嬉しそうな顔で、

 

「スーツ、似合うかな? 僕はこの服、なんだか『大人!』って感じがして大好きなんだけど、いつもよりちょっと大人びて見えちゃったり?」

 

 言いながら、如何にも褒めて欲しげな視線をリウルに投げ掛け──本人は多分さりげないつもりなのだろう──イメージする『大人っぽいポーズ』を取って見せる。両手を腰にやって、やや胸を張って自信たっぷりな笑顔を浮かべる姿勢だ。

 リウルはそんなイヨの頭をぞんざいに、しかし求められるままに撫でた。少年は小動物の如く気持ちよさそうに目を細める。

 

「ああうん、似合ってる似合ってる──けど大人には見えねぇよ、晴れ着を着てはしゃいでる子供にしか見えない。つーかお前の国って南方系の服があるんだな。南方と交流のあった国なのか?」

「え、こっちのせ──大陸にもスーツがあるの? 」

 

 あるぞ、とリウルは頷く。ブラム家は先祖代々黒髪黒目の容姿を持つ南方系列の血筋が濃い家系だが、大昔から公国に住んでいるので実際の南方文化とは縁遠い。故に大した知識もないが、刀やスーツが南方に由来する物だという事くらいは知っていた。

 

 へぇー、と目を丸くしたイヨは、別の大陸でも似た文化ってあるんだねと感心した様子だ。

 

「実際問題遠すぎるから交流があったかは分からないけど、意外と人の文化って似通うのかもね」

 

 イヨは思う、世界って不思議だなぁ、と。

 この世界とイヨの世界は地続きではない。物理法則の違いや、モンスターと魔法の存在がそれを教えてくれる。それらはしかも、オンラインゲームの一タイトルであるユグドラシルと同じものだ。まず間違いなく、此処がイヨの世界の数万年後の未来だとか過去だとかはあり得ないだろう。分かたれた別個の世界である筈だ。

 

 それなのに、この二つの違う世界は時折妙な符合を見せる。

 

 生態系も物理法則も違うのに、この世界にはイヨの見知った地球の生物が多数いる。人間がいる、牛や豚や鶏、犬や猫がいる。無論ど素人のイヨが外面だけ見るから同一に思えるだけで、例えば専門の学者が骨格の構造や毛の色彩、染色体や遺伝子構造、塩基配列を調べてみたら全くの別の生き物なのかもしれないが、それでも外見はほぼ相似だ。鍛えればより屈強になれるという違いはあるが、それはこの世界の法則に属する差異だろう。

 

 いま周りの人たちが身に着けている衣服や武具だって、イヨの世界の大昔に着用されていた物と同じだ。所謂洋服を、大昔の地球のヨーロッパの衣服とほぼ同一の筈の物を着ている。典型的な中世ヨーロッパ風ファンタジー世界の文化と言えばそれまでだが──イヨが中世ヨーロッパの何たるかを承知している訳では無いので、イヨの『中世ヨーロッパ観』の根本はゲームや子供向け娯楽小説とTRPGの類で、しかもそれらに特に詳しい訳では無いのである──考えれば考えるほど、縁を感じる。

 

 たしか刀もあるのだし、公国を初めとした周辺国が欧米に人種的文化的に似通っているように、この世界のどこかには極東風の文化が根付いているのではなかろうか、と思い至る。魔法があるが故に、そして違う世界であるが故の、分野と貧富に依る発達のばらつき。まあ、ばらついていると感じるのも、『こうでない文化を持つ世界』出身であるイヨを中心とした考え方になってしまうが。この世界の出身者からしたら、イヨの世界の方が違っているのだろう。

 

 所が変わっても環境が近ければ、生き物はある程度似通った進化を遂げ、同じような文化を育むのだろうか。イヨは柄にもなくそんな難しい事を考える。収斂進化とか平行進化、生態的地位がうんたらとかそんな感じのアレなのかな、と意味を知りもしないそれっぽい用語をぽわわんと思い浮かべて賢しげに頷いて見たりする。

 

 そんなイヨのアホ面を見ていて、リウルは若干毒気を抜かれたらしかった。

 

「世の中って不思議だね、リウル」

「俺はお前の方がよっぽど不思議な存在だと思うぞ」

「ぼ、僕を不思議ちゃんみたいに言わないでよー」

 

 相当不思議な存在だと思う。リウルならずとも、イヨの存在を知る公国の民は何処かしらこの少年を数奇に、不思議に思っているだろう。あれだけの強さを獲得する上で当然常人とは隔絶した難事や苦難を味わい、それらを経験として取り込んでいる筈なのに、どうしてか人並み以上に子供っぽい。

 見かけで人を判断するなとは言うが、この少年は強さ以外の全てが見かけ通りである。

 

 不思議存在呼ばわりされたイヨは若干拗ねるが、リウルが酒を飲みつつ手つきで『ごめんごめん』と謝ると速攻で機嫌を直して笑顔になり、

 

「えへへ、リウルはちゃんと謝ってくれるし、優しいから好き。僕、リウルの事本当に大好きだよ」

「ごっぼ」

 

 少女は酒を吹き出し、激しく咽た。

 

「り、リウル!? どうしたの急に……」

「お、おま、お前がっ! 急に変な事言うからだろうが!」

 

 口周りを濡らす酒をイヨが手渡してくれたハンカチで拭きつつ、リウルは常の彼女らしくなく動揺しながら言う。よくよく見れば元々酔いのせいで赤かった顔が更に赤くなっており、ちょっと体調が心配になるくらいだ。

 

 割と常からこの種の行為──普段のは言葉以外で好意を伝える事だが──をしているイヨだが、普段のリウルはこんな過剰なアクションはせず、淡々と返す反応しかしない。その様が大人らしく落ち着いた態度に思えて、其処もイヨは好きだったのだ。故にこの急変は一体何があったのかと、心配が先んじた。

 

「今日のリウル変だよ、調子悪いんじゃないの? 明日明後日に長引いたらいけないし、もう帰った方がいいよ。僕も付いていくから──」

「いいよ。俺一人で帰るから、お前はもうちょっと此処で遊んでろ。あっちで力比べにでも参加して顔を広げとけ。子供なんだから色んな人と関われ。俺は一人で帰るから」

 

 俺は一人で帰るから、ともう一度繰り返し、リウルは酔っているとは到底思えない恐るべき速度の早歩きであっという間にイヨの遠ざかっていった。慌てて追う視線の先で、酒杯に残っていた酒を一滴残らず干し、しっかり飲み食いした分の代金を店員に手渡している辺り、流石である。

 

 イヨは一瞬で置いていかれてしまった訳だが、彼は割と冷静に浮かしかけた腰を椅子に戻し、自分の酒杯から一口果汁で薄めた酒を飲んで、一言。

 

「リウル、もしかして照れてた……?」

 

 最初は体調が悪いのかと思ったが、常人の通常走行よりも速い超速の早歩きと、残りの酒と会計をしっかり処理して店から出る冷静さから考えて、不調は考えづらいと判断していた。そうすると次に浮かぶ可能性は、彼女は自分が示した好意に過剰反応したのではないかという疑いで、

 

「わぁ、嬉しい……」

 

 自分からの好意の告白に対して、リウルは照れと思しき反応を示した。これはつまり、リウルに取ってイヨは、少なくとも嫌悪や無関心の対象では無いという事だ。

 イヨは喜色を満面に浮かべて呟いた。そして直ぐ、何がリウルの琴線に触れたのだろうかとあんまり性能のよろしくない頭を捻って考え出す。

 

 イヨの頭は単純である。正に子供の如く、物怖じせず好意を人に伝える。そして、好きになった人に自分を好きになってもらいたいという誰でも持っている欲求にも忠実だ。

 

 実際に口に出して言葉で伝えたのが良かったのだろうか。言葉に出さずとも感情は伝わっていると実感していたが、やはり直接的な発言の直球さは別格という事なのか。しかし何度も言葉を重ねすぎると軽く捉えられかねないし、リウルの性格的には鬱陶しい思われる可能性もある。

 

 それに仕事もある。私情に傾倒しすぎて人の命が掛かった仕事を疎かにするような人間に、人を愛する資格があるだろうか。否、無い。イヨが第三者だったらそうした人物を嫌うだろうし、リウルだってガルデンバルドだってベリガミニだってそうした人物をチームに置いておきたい筈がない。自分がまだ新人も新人のド新参だという事実は軽視できない。

 色恋にうつつを抜かして依頼の遂行中にミスをし、それで助けられた筈の人命を危機に晒すような事態は絶対に起こしてはならないのだ。

 

 優しい心根を持った少年は、例え見ず知らずの人物であっても、人に死んでほしくなかった。

 

 気と機を捉えて的確に正確に、有効な場面で有効な手立てを取る。この世の万事に通ずる秘訣は恋にも通じよう。ただ無策に攻めるだけで負けて当然、戦いも恋も同じコミュニケーションだ。油断はいけない。あと少しという所で逸って逆転負けを期するのは勝負事では良くある事だ。

 

「頑張ろう……!」

 

 ぐっ、と両拳を握ってイヨは決意する。

 

 宴会の中で一人で何やらブツブツと小言を呟き、やおらに握り拳を作って決意の表情を浮かべる女装少年はぶっちゃけ不気味だが、幸い周囲の人々の大半は酒とお喋りと遊興に夢中であり、少年の奇行に気付いた人物は少数であった。

 

 その少数の内の一人、【戦狼の群れ】のリーダーであるナッシュ・ビルは、通算三十八度目本日三度目の腕相撲王者ガルデンバルドへの挑戦が惨敗で終わり、悔しさに歯を食いしばりつつ更なる鍛錬と再挑戦を誓った所であった。彼は見知った顔の少年が決意を固めている処を丁度目撃し『何をだがは知らないが、シノン君も頑張っている様だ。しかしあの格好はどうしたんだろうか』等と思いつつ、それをさして気にする事も無く宴会のただ中に戻っていった。ビルナスが一足先に食べ物や飲み物を注文してくれているのだ。一度共に仕事をした彼にとって、イヨがちょっと変な子なのは既知の事実であった。

 

 喧騒の中に埋没したかのように一人だった女装少年の下に、声を掛ける人物が一人いた。

 

「隣、ちょっといいかね?」

 

 イヨが振り向くと、其処にいたのは明るい茶色の髪を長く伸ばした、商家の娘風の人物だった。身に着けた衣服は華美ではないが質が良く上品な物だ。燭台の灯りでしか照らされていない酒場の中だというのに、理知的な茶色の瞳は、まるで煌々と照らす太陽を見るかのように細められていた。

 

 今現在恋をしているイヨの目から見ても、ちょっと驚くくらいに綺麗な少女だった。外見に反して男気のある悠然とした笑みを浮かべた彼女は、ゆったりとした口調で口を開き、

 

「君がイヨ・シノン君で間違いな──あん? 女?」

 

 まるで今気付いたかのようにイヨの女装に目を丸くして驚愕。困惑の色がはっきりと表れた視線がイヨのパッド入りの偽胸、胸部立体縫製によって強調されているささやかな膨らみに釘付けとなった。その内心を言語に翻訳したならば、

 

『え? ん? 少女? いやそんな筈は、情報では確かに男の筈。少女にしか見えない容姿だとは知っていたし、見た感じも確かにその通りだったが、それでもイヨ・シノンは男だ。性別を間違われる事を嫌がっているとの評判もあったし、女装などする筈がないのに──え、この子は誰だ? こんな光を持つ者が二人もいるのか、おいおいどんな奇跡だというのだ。容姿は非常に似ているが、妹だろうか。しかし、そんな存在の情報は何処からも上がってきていないぞ!? この服装は南方の……彼の故郷は別の大陸だったのでは、事前に収集した情報に重大な欠落が、こんなデカいヤマが私の所にまで来ないとは! まさか情報網に寸断が? もしくはこの少女とイヨ・シノンがそれ程の隠密及び隠蔽技術の持ち主だとでも──』

 

 となるだろう。下手に頭が良いばっかりに、一瞬に混乱の極めに達して動作を停止した少女に対し、イヨはああ、と原因に思い至り、

 

「僕はイヨ・シノン本人ですよ。間違いありません。今ちょっと女装してまして」

「──一体全体何考えてそんな事をしているのだね君は!?」

 

 少女は声を抑えて絶叫した。同時に強張っていた全身から力が抜け、崩れる様な動きでイヨの隣に腰かけた。ごんごんと握りしめた拳で机を叩きながら、

 

「びっくりした。何を、何が、とは言わないが、私は非常に驚いたぞイヨ・シノン君。君にどんな趣味があろうと個人の自由だがね、もう少し手加減をしてくれたまえよ。普段でさえ天然でほぼ女の子だというのに、わざわざ女装しなくても良いだろう」

「ぼ、僕の女装は趣味じゃなくて、持ちネタですから! そこのところ間違えないで下さい、趣味じゃないです、受けを取る為のネタです!」

「どこら辺がネタなのだね、完成度が高過ぎて引くレベルだよ全く。女物の服を着ればそれで十分だと言うのに、何考えて偽胸まで……特殊性癖かね?」

「な、なんて失礼な……! そもそも貴方は誰なんですか、こんな夜遅くまで出歩いて、お父さんとお母さんが心配してますよ」

 

 恐らく年下と思われる少女に、イヨは年上ぶって注意した。見知った人物ではないし、年恰好を見るに労働者でも冒険者でもない様だったからである。公都はわざわざ危ない場所に行ったりしない限り治安の良い都市だが、夜の闇は犯罪の隠れ蓑としていつの時代も大活躍だ。

 

 未成年の、それも裕福そうな少女一人で歩くのは、半ば自殺行為も同然である。

 

 しかし、少女はイヨの真剣な指摘をそよ風の如く受け流し、最初に浮かべていた悠然とした笑みを復活させた。

 

「私は見ての通り裕福な商家の娘でね、心配せずとも親が付けた護衛が傍にいるよ。そうでなければこんな夜更けに出歩きはしない。私はね、君に会いに来たのだよ」

「僕に会いに……?」

 

 ああそうだとも、と少女は笑みを深めて身体を起こし、手を差し出して握手を求めた。

 

「ガド・スタックシオンと互角に戦ったという話を聞いてね、どうしても直接会って話をしたくなったのだよ。私の事は──」

 

 イヨが差し出した手を少女は驚くほど力強く握り、

 

「気軽にマリーとでも呼んでくれ給えよ、イヨ・シノン君」

 

 




最初はここまで長々と恋愛描写をする予定では無かったのですが、原作七巻のイミーナさんとヘッケランさんを見て「あ、書こう。書きたい」と思いました。

因みに、もしイヨが王国に転移して王都で冒険者をやる場合、イヨはガガーランさんに惚れます。理由は強くて逞しくて背が高くて良い人だから。
何かとネタ扱いされるガガーランさんですが、転移後世界では屈指の良識人で良い人だと思うのです。

捏造設定:六大神が転移後世界に広めた言葉は他に『リアージュ・シェーネ』『スェーナガック・バックハッツ・シェロー』等があります。
どれもスルシャーナ様が他の五大神の婚儀、嫁取りや婿取りの際にぼそりと発言したとされる言葉で、法国神学部の研究では強い言祝ぎ、最上級の祝福の言葉であろうと推測されています。祝福なら堂々と言うだろうし、他の意味もあるのではと一部では意見されますが、主流の見解ではありません。主に地位の高い人物の婚儀、もしくは困難な愛を貫き通した者達に対して使われる言葉です。


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宴の熱狂の最中で:後編

 少女はこの時を待っていた。イヨ・シノンの周囲から人気が失せ、彼の保護者である【スパエラ】の面々から横やりが入らなくなるこの時を。

 リウル・ブラムは宿に帰ったし、ベリガミニ・ヴィヴィリオ・リソグラフィア・コディコスは二階に取った寝室で寝入っている。ガルデンバルド・デイル・リブドラッドは喧騒の彼方で力比べのチャンピオンとして挑戦者たちと激闘を繰り広げている。今回仕事を共にした【戦狼の群れ】の面々もほぼ同様に不在か、それぞれが自由に離れた場所にいる。今が好機だった。

 

 無論彼らは歴戦の凄腕だ。例えば裏組織の刺客の如き者が場に居れば、如何に酔っていようと感知し得たかもしれない。しかし少女は知識面頭脳面は兎も角、技能や身体能力としては一般人並みの存在でしかない為、体捌きや所作から異常を察知する事は出来ない。当たり前だ、異常など無いのだから。

 少女の護衛は真実少女の護衛でしかない上に、本当の目的を知らされていない。当人たちも『気まぐれな少女がお忍びで物見遊山に出てきた』としか思っていないのだ。実際普段から頻繁に城下をうろついているので慣れたもの、目立たず離れた場所で場に溶け込んでいる。

 

 目的であった少年自らリウル・ブラムの傍に行く為に宴の中心から離れ、そしてリウル・ブラムがすぐさま少年から離れた。この誂えたかのような好都合な状況、少女が見逃す筈は無かった。

 

 こうして少女、自称マリーは活沸の牡牛亭一階の酒場の隅っこで、まんまとイヨ・シノンの隣の席に何食わぬ顔で座っているのだった。

 

「ま、そんなに畏まらないでくれ給え。お互い初対面だが歳は近いし、フランクに行こうじゃないか」

 

 眼前の少年──女装だが──は僅かに困惑を滲ませながらも、マリーの提案に頷いた。マリーはその困惑にまるで気付かなかった風を装い、忙しく飛び回っている店員の一人に飲み物を注文する。

 

「此処のニバロン茶を飲んだことはあるかね? 普段酒ばかり飲む客が多いから影は薄いが、中々イケるよ。少し苦みがあるが」

「苦いならちょっと遠慮したいんで──」

「敬語」

「え、遠慮するよ」

 

 注文を受けた店員は中途で空いたテーブルの空食器を片づけたりしながらも、素晴らしい速さで飲み物を持ってきてくれた。この手早い対応もこの店の長所の一つなのだろう。

 

 まだ微妙に距離の遠い少年と少女は、少女の側が主導して乾杯を交わした。ニバロン茶とは要するに紅茶の一種で、あまり高級な茶葉では無いのだが、その独特の風味は一部で人気がある。酔っ払いに飲ませると酔い覚ましの効果もあるらしく、酒場兼宿屋である活沸の牡牛亭に置いてあるのはその為だろう。

 

 幾度となく城下を歩いた経験のある少女は、その出自からすれば破格なほど庶民の生活に詳しいのだ。

 

 自称マリーの正体は、勿論公女であるリリーである。髪や瞳の色も他者の手によって施された魔法的・非魔法的な手法による変装だ。顔付き自体も若干弄っているので、元の顔とは少し違う。今後公女リリーとして会う事があっても、似ているだけの別人としか思われない様にしてあるのだ。

 そうまでしてリリーが出張ってきた今回の目的は、言うなれば威力偵察であろうか。

 

「聞きしに勝る容姿だな……十六歳というのは本当かね? 私より一つ上には見えないが」

「本当に十六歳だよ。マリーこそ、僕より年下なの? なんだかとっても大人びて、格好良く見えるな」

「ふむ、よく言われるよ。まあ、生まれながらに発育は良かったからな。最近少し胸が重い」

 

 公女として生まれた以上、外見の良さは大切なポイントだ。自国の姫君が美しいのと美しくないのとでは、国民の寄せる感情が違う。いずれは嫁いで他家や他国と縁を繋ぐ役目を果たすのもあり、自身の価値をより高く維持するのは支配者層に生まれた者としての義務とも言えるのだ。

 故にリリーは頭脳と同じくらい容姿にも気を配って養育されたし、自身でもそうして来たが、実際にこうして異性から言葉で伝えられると実感が湧く。

 惜しいのは、出来れば現在の変装では無く、異名の由来ともなった白銀の髪色と紅の瞳の、本来の姿の時にその言葉を貰いたかったのだが。

 

「そ、そういう意味で言ったんじゃないよ、僕は!」

 

 ぷるぷると首を振る少年に対し、少女は笑い声を上げて冗談だと返した。

 

 威力偵察とは敵の勢力や装備を知る為に、実際に敵と交戦し、肌身で敵戦力を推し量る事だ。

 この場にいるのは公女リリーでは無く商家の娘であるマリー。その前提を最大に生かして話し、問い、反応を見る事でこのイヨ・シノンという人物を知る。

 

 話の内容は、ぶっちゃけ適当でも良い。今はまだ工作以前の情報収集段階だからだ。それこそ『好奇心だけで家を抜け出してきた箱入り娘』が興味のままに無遠慮な質問を続ける形で構わない。多分政治の話などしても碌な返答は無いだろうし、あまり偏ると邪推を呼ぶ。雑談の中で様々な話題を振って、その反応から『イヨ・シノンという一個人』を推し量る。

 

 その為にリリーはこうして城から出てきたのだ。しかし、

 

「いや、私はね。君の噂を聞きつけてこうして館から脱走してきたのだよ。最低限護衛を連れていけば後で言い訳も立つだろうと打算して、あの老英雄と互角に打ち合った強者に会いたい、実際に会って話をしたいという乙女心一心でね? まさかその強者が──」

 

 リリーはあえてねっとりとした視線でイヨ・シノンの肢体を舐め回す。少年が反射的に自身の体を手で庇うほどの粘度は最早変質者か色情狂もかくやのいやらしさだ。少年が着込んだ女物のスーツは非常にタイトで、細く柔らかそうな体のラインがはっきりと出ている。そういう意味では裸同然だ。主に太腿や内股、股関節、尻と言った下半身を重点的に眺め倒し──

 

「お色気女装でフィーバーしているとは思わなかったよ。なんだね、自分の太腿や股間、ケツのエロさを自慢したいのかね? なんとスケベな子だ、ガド・スタックシオンが草葉の陰で泣いているよ?」

 

 実際のガドが今のイヨを見たら、間違いなく筋肉痛になるまで大笑いするだろうけども。

 

 いや、あえて無礼な事を言って反応を云々の目的抜きで、本当に予想外だったのだ。何を考えて女装なんぞしているのだろうか。そういった趣味がある事自体は別に犯罪でなければ個人の自由で良いと思う。公国に異性装そのものを罰する法律は無いのだから。

 

 しかし、この容姿と組み合わせるとある意味犯罪的である。主に性犯罪方面のあれこれを誘発するといった意味で。それらは半分冗談としても、リリーはあわや神域の才能を持つ者が二人いたのか、公城のお膝元である公都の情報網に穴があるのか、とびっくりさせられた意趣返しがしたかったのであった。にしても下品かつ無礼極まりないが。

 

「ガドさんはお元気です! 今日だって本当はこの宴会に来てくれる筈だったもの、サボるなって怒られてたから結局無理だったけど──って、この服装は別にそんなんじゃないよ!」

 

 僕の国では大人が仕事をする時に着る物で、露出も一切無いし全くいやらしくない大人の服なのだと言い募る少年を、リリーはばっさり切り捨てる。多分イヨの頭の中ではエッチ・いやらしいイコール裸・露出なので、肌が出てさえいなければ気にならないのであろうが、

 

「私の見る目は確かなのだよ。君本人はそういうつもりで着ていないのかもしれないが、その衣服の誂えは明らかにそういったアピールをする為のものだぞ。あからさまに肌を晒すとありがたみと淫靡さが薄れるからあえて全身を覆い隠し、しかし肢体のラインだけを誇示する事で、着用者の性的魅力を殊更に強調する。そういった目的で製作されたスーツの筈だよ、それは」

 

 魑魅魍魎が蠢く貴族の世界で生き抜いてきた眼力は、偉大なる父から教育によって受け継がれた審美眼は伊達では無い。服に込められた意図など一目で見抜ける。

 断言した少女に対し、イヨは割と真剣な怒り顔で語気荒く断固たる反論をした。普段ふにゃふにゃした表情ばかり浮かべている顔がキッっとして、ほんの少しだけ年相応の少年らしく見えた。

 

「この服は友達が僕の為に作ってプレゼントしてくれたの! そんないかがわしい意味なんて、一切! 全然! 全く! 無いから!」

 

 ある。

 

 少年は教えられていない上に騙されたので知らないのだが、この服をデザインしたイヨの友人こと白玉は、ぶっちゃけ自分の趣味嗜好のみを追及してこのビジネススーツを作ったのである。

 なにせイヨが関知していないこのスーツの真なる名からして『肌を晒す事だけがエロスでは無いシリーズその七~少年性と少女性の狭間にこそ神秘は宿る・下半身編~』というトチ狂いっぷりなのだ。

 

 

 

 

 話せば長くなる上に本筋とは全く関係のない話なのだが、元々白玉は生粋の武闘派プレイヤーだった。ガッチガチのガチビルドで固めた前衛職であり、その腕前は下の方とは言えランキングに名が乗る程。ユグドラシル全体ではセミトップクラスで、百レベルのプレイヤーであっても一つも所持していない事が珍しくないと言われるほど入手製作共に困難だった神器級アイテムを十は所持していた。

 全身を神器級で固めて山ほどの課金をする廃人の中の廃人と比べれば見劣りするが、一般プレイヤーと比べれば十分に廃人。ユグドラシル全体では明らかに上の方だが、精々中の上と上の下、その中間の存在。それが白玉だった。

 

 ユグドラシル歴七年で、イヨの友人たちの中では際立って長いプレイヤー歴を持つ彼女──少なくともアバターは女性だった──が、ガチビルドの前衛だった彼女が、そのプレイスタイルを生産職に転換した出来事、否、出会いがあった。

 

 それはユグドラシルの全盛期、イヨたちがゲームを始めるずっと前の、さるギルドへの侵攻。悪のRPギルドとして最も有名なギルドに攻め込んだ軍勢の中に、白玉はいた。

 

 彼女自身がかのギルドに恨みを持っていた訳では無く、ただ同じユグドラシルのプレイヤーが築いた大拠点に大人数で突っ込むという一大イベント、言わばお祭りに参加したかっただけだった。

 

 白玉はそのギルド拠点に、悪の名に相応しい不気味な墳墓に突っ込んだ。傭兵NPC等で膨れ上がった軍勢は千五百人にも達し、トップのギルドは参戦していないものの、数の暴力でもってあらゆる敵を粉砕するだろうと思われた。

 しかし出るわ出るわ、迎え撃ったのは極高の嫌がらせ性能を持った罠、罠、罠。難解極まりない上に引っ掛け満載のリドル、組み変わる迷路、低~中レベル程度の癖に的確に足を引っ張る特殊能力を所持した配置モンスター。そしてそいつらの相手をしている隙を狙って不意打ちを仕掛けてくる敵ギルメン。

 

 途中で白玉はなんとゴキブリの海に叩き込まれたりもした。それでも尚侵攻を止めなかったのは『あいつら絶対ぶっ飛ばす』という強い意志だ。害虫の海に泳がされた恨みは刃で晴らす、と。

 

 ヤスリでも掛けられたが如く徐々に数を減らしていったが、それだけで千五百の大軍が止まる訳はない。製作者の熱意が窺える女吸血鬼を倒し、地底湖の攻城用ゴーレムを空かし、見事な武器を持った蟲王を圧殺する。

 

 六階層目はジャングルだった。良くもまあこれだけの物を作り上げたもんだ、と感心してしまったほどの作り込みが為された樹木の海。配置されたモンスターや罠も地形に合わされ、強いこだわりを感じた。

 そして第六階層の守護者──そういう設定付きで生み出されたNPCが各階層にいたのだ、そのギルドでは──が姿を現した時、白玉は一撃で心を打ち貫かれた。

 

 六階層の守護者は闇妖精の姉弟だった。事前に調べた情報では、女装の方が弟で男装の方が姉らしい。そんな事より武器とか使う魔法とか装備とかテイムモンスターの種類とか調べろよと思っていたのだが、情報関連は防護がきつく、下の階層ほど不明な点が多いらしかった。

 

 そんな事はどうでもいい。白玉が目を奪われたのは、女装の弟の方だった。男装の姉も超可愛いのだが、魂に一番響いたのは可憐な女装少年だったのだ。

 白玉は困惑した。『私、男の娘趣味なんか持ってない筈なんだけど』と自己診断し、しかし強制ログアウト寸前で高鳴る心臓の鼓動は収まらない。

 慌てすぎて回避をミスった白玉は、女装弟のスカートの翻りに気を引かれすぎて死んだ。なんか横から鞭で打たれた後魔法をぶち込まれ、最後はフェンリルに噛まれて死んだ。どうせなら女装弟の方に止めを刺してほしかったが、世の中そううまくは行かなかった。

 

 その後更に下の八階層で残りの討伐隊も全員死んだらしいが、白玉にとってはそんな事、もうどうでも良い事だった。あの日の邂逅を切っ掛けに、ある種の覚醒を果たしたのだから。

 

 ──あの闇妖精の子、可愛かったな……。

 ──美少年の、女の子にしか見えない位の美少年の……男の娘の女装姿。悪くない。

 ──いや、むしろ良い。非常に良い。

 

 何時しかその想いは更なる昇華を遂げ、気付けばガチの前衛だった筈の職業構成は、生産職が八割を占めていた。主に武器防具や装飾品を自分の手で作る為だ。

 

 彼女は恋い焦がれたあの存在、闇妖精の男の娘NPC──誰かが自分の理想を煮詰めて結晶化させた存在、思いの丈が結集してできた筈の存在の自分版を作ろうと思い立った。

 

 ──確かにあのNPCには価値観を揺さぶられた。しかし、あの子はあの子を作った人の理想の結晶である筈。いわばその人にとっての最高である筈。

 ──私の理想は、私の最高は他にある。私の手で私の最高を形にしたい。

 

 例えば、白玉はミニスカートよりロングスカートが好きだ。スカートそのものよりパンツルックの方が好きだ。露出されるより隠された方が興奮する。そういった自分の好む要素を抽出し、好みの塊、何処をどう眺めてもストライクど真ん中の存在を作りたい。

 

 難しかった。服装は兎も角、自分の理想を現実の形にする行為はとんでもなく難易度が高かった。

 例えば絵で上手く出来ても、その外見を立体のアバターに起こした途端に違和感が出る。その違和感は小さくはなれど、完全には消えてくれない。創作及び製作の方面に関しては完全に素人だったため、最初期の試作は『これじゃない』感の塊の如き有様だった。

 

 長きに渡る練磨の甲斐あって着せる予定の服と武装だけは次々完成するが、肝心のNPCは完成を見ない。及第点のアバター外見案は幾つか出来たが、満点の太鼓判を押せる出来では無かった。中身あってこそ服装が輝くのだ、其処を妥協する事は出来なかった。

 

 悩むうちに時間は過ぎ、覚醒のきっかけとなったギルドは噂も聞かないほど活動が縮小した。少し調べた範囲で得られた情報では、メンバーの殆ど全員が引退したらしかった。未だランキングに残り続けている為誰かが維持はしているのだろうが、もしやあの闇妖精を製作した人物も引退したのかと思うと、ほんの少しだけ寂しくなった。

 

 昔からの友人もどんどん辞めていくし、NPC自体は後発の新しいゲームでも作れる。もう自分もユグドラシルを辞めてしまおうかと、そんな風に思い始めていた時だ。

 

 白玉は、作るまでも無く存在していた自身の理想に、天然物の最高に出会った。

 それは、過疎ゲーとなったユグドラシルでは実に珍しい新規プレイヤーらしき、人間種の少年アバターだった。そのアバターの性別が男であると分かったのは、初期装備の簡素な衣服が男物だったからに過ぎない。そうでなかったら普通に少女のアバターと判断して『可愛いな』位の感想でスルーしていただろう。

 

『是非とも私とお友達になって下さい!』

『いいんですか? 是非ともよろしくお願いします、一緒に遊びましょう!』

 

 非常にあっさりと、白玉とイヨは友達になった。ゲーム内のシステムで言うフレンド登録をしただけではなく、共通の友人などと一緒に日々遊ぶようになったのだ。それは紛れもなく、友情を育む行いだった。

 

 白玉の目線から見て、イヨはアバターの外見とほぼ相似した精神性と人格の持ち主だった。マナーの問題でリアルの話題は殆どしなかったが、もしも白玉がゲーム内のイヨの外見とリアルの篠田伊代がごく近い容姿だと知ったら、何らかの暴走状態に陥った可能性も無いとは言えなかった。

 

 自分が思い描いた理想と九割方近似の存在がリアルにいるだなんて、特定の趣味の持ち主からしたら本当に夢のような出来事だったろうから。

 そして白玉はイヨと友人たちと残り短いユグドラシルでの日々を楽しく過ごした。友人連中と一緒になってイタズラしたりされたり、口車で騙し合い、時にはPVPで押し合いへし合いをし、本当に気の置けない友人となったのだ。

 

 イヨは防具として性能の高い品は【アーマー・オブ・ウォーモンガー】一つで十分としたので、白玉は仲間たちと共に時には注文に答えて武具を作成し、時に口八丁手八丁で自分好みの衣装を着せと、その本懐を遂げたのだった──

 

 

 

 

 閑話休題。

 

「これを作ってくれた白玉さんはお茶目で、服を作るのが大好きな良い人だったんだよ。着ぐるみとかのネタ装備も沢山作ってもらったし、女装用の衣装も率先して製作してくれたんだ。お祭り好きな楽しい人だったの。ちょっとツッコミ所のある人でもあったけど。そんなにエッチな人じゃないよ」

 

 当の白玉がここに居たら土下座でもしただろうか。無論彼女はイヨのアバターがリアルの篠田伊代のスキャニングで作成された物だとは知らなかったし、まさか自分の製作物が世界の境を跨ぎ、現実の異世界で日の目を見るとは知る由もなかったのだけれども。

 

 因みにこの服を贈られた時、イヨは『こういう服を着ると大人っぽく見えるぞ』の一言で狂喜乱舞してノリノリでスーツを装備していた。白玉は許可を取ってスクショを取りまくっていた。

 

「そのシラタマなる人物、職人としての腕はいいのだろうけどもね。性癖の方が……まあ、個人の自由だし、君が良いのなら良いんじゃないかな。私はこれ以上何も言わんよ」

 

 あくまでも友を信じて聞かないイヨを前に、マリーことリリーは大人な態度で引き下がった。同時にカップを傾けて顔を隠し、『この子の世間知らずっぷりは情報以上だな』と眉根を寄せた。

 

「分かってくれたならいいけど……」

 

 知らぬが仏とはまさにこの事である。自分が来ている衣服が白玉の趣味を結晶化させた様なお色気装備だと何時か気付いたその時に、イヨはもう会う事も出来ない友人に対して怒りの声を上げるだろう。『また騙したの!? もうしないって言ったのに! 白玉さんのド変態!』と。その怒声が世界の垣根を超えて友に届く事は、絶対に無い。

 

 でも『スカートと、スカートによって齎される露出だけが持て囃される風潮に異を唱えたい。タイトなパンツスタイルこそが最強』が口癖の人物を何度も信用して何度も騙されるイヨも悪いのである。

 

 まあまあ、とリリーは話題の切り替えを意思表示しつつ、イヨの酒杯に手近の酒瓶から酒を注ぐ。

 

「ま、そこら辺の話はいい。私が訪ねてきたのは、君の武勇伝やらなんやらを聞きたかったからなのだ。良ければ何か話してくれないか? そうだな、どうやって十六の若さでそれ程の力を手に入れたのか、とか」

 

 内心で、これだけの才があるのならある意味当然かもな、と呟き、リリーは表情を真剣な引き締まったものに変える。

 リリーのタレント【生まれながらの異能】は才能の目視。個々人が生まれ持った才覚を、光量として見通す事が出来る。

 

 その視覚でもってして見るイヨの姿は、全身に黄光を纏った圧巻の超人だ。

 常人ならば僅かに弱い光を放つだけ。才人であっても闇夜の松明程。この少年は正しく桁が違う。イヨの放つ光が大きすぎて、その向こう側にいる人間の才能が見通せないほどだ。

 リリーのタレントには幾つもの弱点がある。見通せるのは生まれ持った才覚のみで、現在の実力は一切分からない事。一か所に多くの人間が集っている所を見ると、それぞれの光が重なり合って個々の才覚を視認し切れなくなる事。その他多数。

 特に大きいのは、その生まれ持った才覚が何に対する才なのか分からない事と、生まれ持った才覚が実際に花開くかどうか判別できない事だろう。

 

 驚くべき才能を持った子供を発見し、未来の公国を背負って立つ者として養育すると決定したとしよう。その子供は一目で常人とは異なる強い光の持ち主で、才能が正しく伸びれば間違いなく歴史に名が残る程の傑物と見て取れた場合だ。例えるならば、フールーダ・パラダイン並みの。

 

 実際にそういう例があったのだ。さる孤児院で年長者として年下の子らを纏めていた少年だった。十四歳だったその少年に様々な教育を施したが、結局『優秀な官僚』にしかならなかった。得難い人材には育ったが、持っている大魔法詠唱者と同等の筈の才覚と比べれば、余りに小粒の出来だった。多額の予算を掛けて一流の英才教育を施し、健全で豊かな人格と力強くしなやかな身体に育ったのにも関わらず。

 

 理由は、その『歴史に名が残るだろう才』を見つける事も、伸ばしてあげる事も出来なかったから。

 

 どんな王侯貴族だろうと涙させる料理の才能だったかもしれない。どんな荒地も見渡すばかりの農園に変える農夫の才だったかも。モンスターと心を通わせる魔物使いの才か、はたまた暗殺者として闇夜を駆ける才能か、女を誑かしどんな聖女も娼婦に貶める才能だったか。

 

 最初、その少年は剣が得意かと思われた。たった半年の訓練で教官役の壮年騎士を上回り、周囲を驚愕させたが──それ以上伸びなかった。腕前としては、冒険者で言う金級に僅かに届かない程。幾ら時間を掛けてもそれ以上の飛躍が認められなかった為教育方針を転換し、最終的に少年改め青年は、先に述べた通り文武両道の優秀な官僚になった。

 

 その他にも大小さまざまな常人以上の才能を持った人材を育てたが、才能に見合った能力を獲得したのは僅かだった。掛かった資金と得た人材の数との効率を見ると微妙だ。これなら玉石混合の大人数に一括で教育を施して、芽が出た者だけを拾い上げた方が数の面で見るとまだましだった。

 

 先天的才能と後天的資質が合致するとは限らない。そして、その才能はもしかしたら四十年五十年の苦難の末にようやく開花するのかもしれないし、幼年期のとある出来事をきっかけとしてのみ花開き得たのかもしれず。いやさそもそもリリーの目に留まる以前に、難産で生まれた端から母と共に死している場合も当然あるだろうし、辺境の寒村で木こりとして一生を終えている可能性だって高い。

 

 少年には剣を握らせ魔法を習わせ、文官としても武官としても教育を施して、結局『凡夫と比べて遥かに優秀』以上にはならなかったのだ。少年の才はそれらとは別の事柄に対する才能だったのだろう。それを見つけてあげられなかった。リリーの目には、少年の天凛の光輝がしかと見えていたのに。

 

 難しいな、とリリーは思う。

 大公が新たに創設した教育施設、生まれの上下も関係ない実力主義の学校にはリリーも関わっているが、結果が出るのは余程の幸運に恵まれない限り、最短で数年先だ。

 才能の採掘は続けているが、今現在、リリーの目は索敵用にも使われている。既に仕上がった人材の脅威度を判定する用途などだ。他国に行った時はこれが役に立つ。なにせどう素性を偽ろうと才能は隠せない。

 

 法国の特殊部隊などは揃って丸裸である。明らかに一般人を超越した者たちが群衆に交じって有機的に連携して動いていれば嫌でも目に付く。あれだけ大きな才能の持ち主となれば、多少の数では誤魔化せない。

 

 リリーの目に見える光は、あくまでも実際には存在しないモノであり、どんなに巨大で強大な光であろうとも、視界の内外で影を作ったりはしない。そのリリー独自の視覚がどの様な状態であるかを他者に教えるのは、生まれつき視覚を持たない者に『見るとはどういう事か』を教えるのが困難であるのと同様に難しい。

 少なくとも、彼女が父とどれだけ検証し合っても、実際的に彼我の違いを理解し合うのは不可能であった。

 

「君は今や有名人だからね。色々と噂は聞いているよ、元探検家だとか? やはりその時期に鍛えたのかね?」

「お酒ありがとう。……うーん、一応そうなるのかな? 道場でもすっごく練習したけど」

「そこの所を教えてくれ給えよ。その道場に通う様になった切っ掛けとか、どんな風に鍛えたか、どんな風に戦ったのか、誰と何とどれだけ戦ったのか。君の事なら何でも知りたい」

「そ、そんなに? うーん、道場に通う様になった切っ掛けかぁ──」

 

 だからこそこの少年は、目の前のイヨ・シノンは逃がせない。

 人類の最大最上級を遥かに上回る神域の才を持ち、しかも既にそれが開花し始めている存在なのだ。人材としても欲しいし、この才能の血脈を公国に根付かせたい。この子の次代や次々代にこの才能の半分でも遺伝すれば、それは英雄をも超える才覚を生まれ持った人間の量産にも等しい成果となる。

 

 リリーは興味深げな表情を保ったまま、内心で高ぶる熱を必死に抑えていた。

 

 まさかの女装のせいで少しばかり調子が崩れたが、リリーはこの邂逅を奇跡だとすら思っている。この人物を見出し、公国に組み込む為にこそ、自分と自分のタレントはあったのではないかと本気で思っていた。

 

 彼女の中でイヨ・シノンと自身の出会いは、六大神の降臨にも匹敵する歴史的な出来事だった

 神々の降臨により人類が束の間の繁栄を謳歌した様に、この出会いをきっかけとして再び歴史は姿を変える筈だとベッドの中で夢想してはしゃいでいた位だ。

 

 そう思っていると、目の前のイヨ・シノンが実態以上に美麗で可憐な存在の様に思えてくる。男だというのにこの繊細な顔立ち、細いのに肉付きの良い肢体。十六歳とは思えぬ稚気と無垢。

 

 リリー自身も相当な美貌の持ち主だが、この少年のそれは自身と非常に近しい領域でありながら種類が違う。自身を異名の通りの白銀、貴金属の気高さと高貴とするなら、この少年は清らかな水や吹き抜ける風といった人の手を離れた自然の美だ。

 

 ──ふふ、まるで妖精の様ではないか。

 

 今この瞬間こそは、遥か後世の歴史書で大英雄をも超越した超英雄として語られる人物の一ページ目かもしれないのだ。

 

 イヨ・シノンはゆっくりと口を開き、歴史の一ページ目を語り出す──! 

 

「見学の時に楽しそうだったのもあるけど……決め手は、練習の後たまに貰えるアイスが美味しそうだったから、かな?」

 

 上がったテンションの分だけ急降下し、リリーは座った椅子からずっこけた。

 

 

 

 

 いきなり床に滑り落ちた少女に、イヨは慌てて手を差し伸べた。

 

「だ、大丈夫、マリー! どうしたの急に?」

「いや、何でもない、何でもないぞ! というか君今なんと言った? 氷菓子が貰えるから武術を始めたと? お菓子欲しさにその道を歩き始めたと、そう言ったのか?」

「え? う、うん。月謝で結構高いお金を取られるから最初は無理かなぁって思ったんだけど、お父さんとお母さんはいいよって言ってくれたんだ。アイス、美味しかったよ」

「んな事は聞いていないぞ! ええ!? 氷菓子欲しさに!? 希代の武人の出発点が食欲って、それでいいのかねオイ!」

 

 予想外の極みの余りに口調さえ変わってしまった少女は、傍から見て可哀想な程の動揺ぶりであった。這い上がるようにして椅子に座り直し、震える手で紅茶を一気飲みする。

 その有様は優雅とは程遠く、砂漠で迷子になった人物が久しぶりの水分をただ流し込むかのようだった。

 

「う、ううん……いや、空腹は死に至る病だし、なんら悪い事ではないのだが……すごく複雑だ。意外と英雄譚の始まりというのは卑俗的なものなのかもしれないな……ま、まあ、氷菓子は高価だしな。それを一入門者にまで振る舞うとは、随分余裕のある道場なのか。もしや其処は王侯貴族御用達の歴史ある大道場なのではないかね? 国一番の有名所とか。そうなのだろう?」

 

 そうであって欲しい、という願望がいっそ哀れな位に滲み出た台詞だった。

 

「いや、普通に学校の近所にある築二十年くらいの道場だけど。柔道剣道あと卓球と同じスペースを時間割場所割で使ってるから、結構狭いよ。一番込み合ってる時は基本をするのも窮屈だったね。月謝さえ払えれば特に条件もないし、六十代位のおじいちゃんから当時の僕みたいな子供までいたよ」

 

 先生や先輩には強い人も沢山いたけど、規模的にはありふれた小さな道場だよ、と少年は朗らかに笑い、自分の酒杯から酒をカパーっと景気よく飲み干した。次いで手酌でお代わりを注ぐ。

 

「えぇえー……マジでか……」

 

 リリーは自身の体から、気合いとか気負いとかそういうのが少なからず失せていくのを感じた。想像と違う。例えばリリーの知己でもある王国のアダマンタイト級冒険者で蒼の薔薇のリーダー、ラキュースの様に、高貴な生まれでありながらも冒険に憧れて家を飛び出したとか、そんな感じの『らしい』エピソードがあるのだと思っていたのに。

 

 そんな小さな、しかも子供も老人も混じった道場で和気藹々と格闘技の練習をやっていたのか。氷菓子を食べながら。

 

 脱力しかける身体を如何にか立て直し、リリーは必死で気合いを入れ直す。

 

 別に物語の登場人物の様な人生を目の前の少年が歩んでいなかったとしても、それはそれで良いではないか。事実今現在強いのだから、その過程が多少拍子抜けだったとしても実力に疑いは無いのだし。そう、むしろそんな環境からこれだけの力を得たのだから、流石神の才覚の持ち主とさえ言えるかもしれない。

 

「な、成程ね。君はそういった環境で基礎を積んだ訳だ。その時期は……どういった鍛錬を積んでいたんだね? そして、何か大きな実績等はあるかね? 例えば、かのガゼフ・ストロノーフの様に御前試合で優勝したとかだが」

「特に特別な練習はしてないかな、筋力トレーニングとか基礎基本と打ち込めに試合形式とかの普通の練習だね。血反吐に嘔吐、骨折に気絶する位はやったけど、それは割と本気でやってる人ならみんなしてる事だし──あ、四回全国優勝したよ! すごいでしょー!」

「お、おお、そうか……良かった、やる事はやってたんだな。少し安心したよ」

 

 此処で、酔っているが故の誤解が出た。イヨは勿論、自分が小学生の時に小学生の全国大会で一位になった話をしているつもりだが、リリーの脳内では今よりもっと小さいイヨが大人の武道家を蹴散らして文字通り国で一番の栄冠に輝いたのだと思っているのだ。

 

 素面のイヨだったら世界の違いと生身の自分とキャラクターのイヨの違いを考慮して説明しただろうが、現時点で宴会開始から四時間近くが経っているのだ。幾ら薄めて飲んでいようといい加減頭は酒浸しであり、結局この誤解に気付く事は無かった。

 

 ああ、良かった。この時、リリーは深く心でそう思い、実際に安堵の溜息さえついた。ただでさえ先ほどは妖精の様ではないかと思いもしたイヨの顔立ちが、能天気なお子様スマイルにしか見えなくなっていたのだ。これ以上ほのぼのとした幼少時代を聞かされたら、自身の内から真剣さが更に薄れる所であった。

 

 豆の煮物や蒸した馬鈴薯、腸詰、焼いた鶏腿、パンと酒。そういった粗末でこそないが特段高級でも無い料理を一々美味しそうに幸せそうに食んでいる目の前の少年を直視すると、『この子本当に強いんだろうか?』と疑問さえ湧いてきかねないのだ。

 まあリリーの場合はタレントと収集した情報があるのでその疑問を打ち消せるのだが、純粋に噂だけを聞いて会いに来た人間が今ここに居たなら、やはりそうした疑問を拭いきれなかっただろう。

 

「ご飯美味しいねー」

「ああ、うん……」

 

 口にさえ出しやがった。

 何時か公式に城に招く時が来たら美食でもって持て成すのも上策かな、と少女は心の策術帳に一筆書き加える。畏まった晩餐会では無く、あくまで内々の場でないといけないな、と少年の手つきを見て思う。食べ方が汚い訳でも口から食べ物を零す訳でも無いのだが、公城の晩餐会か会食に耐えうる程のテーブルマナーに熟達していないのは明らかだ。

 

「それだけの武功があったのなら、国元ではそこそこの地位に就けたのではないのかね。公国なら、本人の意思次第で士官も十二分に可能だろうな。更に手柄を立てれば貴族になる事も出来よう」

「うーん? 僕は子供だったし、それにうちの国は建前上貴族制じゃないもの。幾ら強くても貴族にはなれないよ。そもそもそういう制度が無い。お手柄って言うなら、推薦と奨学金を貰えた事が一番かな。色んな人に褒めてもらったし」

「国の教育機関に招聘されたと? 順調に出世コースを歩んでいるじゃないか、なのにどうして探検家になったんだね?」

「えっ? あー……」

 

 イヨはちょっと困った。そもそも探検家になってなどいない。そのまま中学校高校に進んだのだ。それはあくまでもゲームしてたら別世界に云々を誤魔化す為の方便であり、嘘だ。

 

「あー、えっとねぇ……うん……」

 

 なってないのだから当然理由も存在しない。さも何か事情があった風に口を閉ざせばそれでいいのだろうが──そもそも答える義理も何も最初からないのである──、興味津々な様子を装った少女を前に、イヨは頑張って口を開いた。

 

「じっ……自由? に憧れて? こう、野に吹く一陣の風になりたい、的な? そういう、なんかこう……欲求があったんじゃないかな──ううん、あったの! 風になりたかったんです!」

 

 誰でも一目で嘘と分かる揺らぎっぷりであった。恐らく勢いで誤魔化そうとしたのだろう、イヨは酒を豪快に呷って咽た。一連の流れ全てが嘘くさい。

 

「いや、君……言いたくないのなら言いたくないと言ってくれれば、私はそれで気が済んだのだが」

 

 というかリリー的には、此処までペラペラと喋ってくれている方が慮外の事だったりする。冒険者に過去を語りたがらない者は珍しくないし、そうでなくとも初対面の箱入りお嬢様が尊大な態度でどうだったのか語ってくれと迫ってくるのである。普通の人間なら、酒宴の席である事を差し引いてもリリーの素性を問い質したり、拒否拒絶の反応を示したりするものである。

 

 リリーも最初は何処で拒否されるか、拒否されるまでに何処まで喋るか、どの様に拒否するか、その辺りが情報収集の折り目になるだろうと考えていたのだが。イヨは一向にその類の反応を見せず、聞かれた事に疑問を覚えずポンポンと喋っていく。

 

 人を疑うという事を知らないのか、外見も所作もただの少女でしかないリリーを警戒に値しないと考えているのか、ただ単に初対面の赤の他人との会話に忌避感や嫌悪感が無いのか。

 美しい異性だから下心で会話しているにしては、話し口調にも動作にもそれらしい所が全く無い。

 

 どれにせよ、つくづく警戒心の無い子供だとリリーは一周回って感心していた位だ。

 

 十六歳となった今でさえこれなのだから、両親はさぞ育児に苦心したであろう。飴玉一つで誘拐犯にでも付いていきそうである。

 

「なんと言うべきか……君あれだろ、犬とか猫とか好きだろう。好きな食べ物は肉で、晴れの日だとなんとなく楽しい気分になるだろう。それでもって、雨とか曇りでもそれはそれで良い気分になるだろ」

「すごい、どうして分かったの!?」

「なんか、君という人間の事が分かってきた気がするよ」

 

 腕っぷしが矢鱈と強い子供だ。

 それなりに裕福な家庭で両親に愛されてとても幸せに、人並み以上に『子供らしくあれる、子供らしくある事が許容される』境遇で伸び伸びと育ってきた子供。自身が肯定され保護される環境下で、自発的な努力と周囲の支えの二つでもって超級の実力を養ったのだ。人格に歪みや捻じれが殆ど見受けられないのは、両親の育て方が良かったからだろうか。愛されて育ったが、甘やかされてはいなかったのだろう。

 

 リリーは探検家時代にどんなモンスターと戦ったのかも聞いた。アンデッドやドラゴン、亜人種、知っているモンスターから聞いた事のない未知の敵まで様々な相手との戦歴に圧倒された。

 というかこの子、探検家の癖に戦闘しかしていない。本人の口から語られる限り、探索や情報収集、謎解きを仲間にまるっきり任せている。ひたすら戦ってばかりだ。

 

「でも、アンデッドは苦手。急所関係ないし、毒効かないし、しつこいし、厭らしい特殊能力満載だし、外見が怖くて気持ち悪いし。僕はこう見えて神官だからね、相容れない」

 

 イヨは単に異形種を選択しただけのプレイヤーなら別に──戦闘における相性は別として──嫌悪感は無いのだが、モンスターとしてのアンデッドは本当に嫌いで苦手である。死んでるから急所も毒も関係ない、確かに仰る通りだが、マジ勘弁である。今は平気になったけども、ユグドラシルを始めたばかりの頃は怖くて怖くて半泣きで戦っていた。

 

「ああー……そういえば君は神官でもあるのだったね? そんな気配が欠片も無いから忘れていたが。聖印はどうしたのかね。祈りを捧げているところも、見たという話を聞かないが」

「アステリア様はおおらかな神様だから。聖印も、普段は付けてるけど依頼中は護符と交換しておいてるかな。死んだらそれこそ申し訳が立たないからね、生存最優先で」

「後半は兎も角前半はどういう事だね。そのアステリア神とやらがおおらかで、それで何故祈らない事が正当化されるのかね」

 

 痛い所を付かれたとばかりに顔を俯かせたイヨは、非常に小さく聞き取りづらい声で、

 

「い、祈ってないわけじゃないもん。ご飯食べる前にちゃんと頂きますって言うし、人に親切にして貰ったらお礼を言うもの。そういう日常の些細な事で感謝を捧げてるの。それが多分アステリア様のご意思に沿う行いなんだよ。…………ぶっちゃけ、教義とか格言とかあんまり覚えてないし。ザイアとかル=ロウド、ダルクレムにライフォスなら兎も角……特殊信仰系魔法も大半が抵抗消滅で精神効果だし、効果そのものも限定的だし、射程接触が二つもあるし……割と使いにくい……」

「最後の方が聞こえなかったのだが、なんと言ったのだね?」

「な、何でもないよ、気にしないで」

 

 何だかとっても悪い事を言ってしまった気がするので、イヨは両手を合わせてお祈りをした。自然を愛する美しい女神様なのに心と精神に悪影響を与える魔法ばかりなのはなんでだろうとか二度と考えません、と真剣に心の中で謝っておいた。しかし、その胸中の謝罪までもが無礼であった。

 

 リリーはその後も質問を重ねる。無遠慮に、我がままに、思うがままを装って。

 

 転移の詳細。

 

「う、うーん。何分、第七か第八ってくらいの高位魔法に巻き込まれた訳だから、ね? 何が何だか分からないよ。気付いたらこっちにいたんだ。本当だよ」

 

 初めてであった人々。

 

「リーベ村っていう所に出たんだよ。知ってる? 正確にはその近くの森だけどね。みんなすっごく良い人たちでね、絶対また会いに行くって約束したんだ」

 

 冒険者となった理由。

 

「僕の唯一の取柄を活かせる仕事だと思ったから。住所不定無職の子供がお金を稼げるんだもの、有り難いよ。これからも頑張りたい。ちょっと気になる事もあったし──ううん、気にしないで。先輩方に相談はしたんだ。後は僕自身の問題だから」

 

 戦う時に感じるもの。

 

「戦ってる最中は──無我夢中かな。色々考えてはいるんだけどね。矛盾してるって? 僕もそう思うんだけど、でも言葉で表すとそんな感じなんだよ。ねえ知ってる? 考えてるのに考えてない、そんな状態の事を思うに非ず思わざるに非ずって意味で、非想非非想天の境地って言うんだって。ち、違うよ! 僕が考えたんじゃないもん、仏教っていう宗教の……詳しくは知らないけど、そういう奴なんだよ!」

 

 これからの人生。

 

「……分かんない。冒険者は続けていきたいけど……僕ね、公都を出発する前に組合に依頼を出してたんだ。桁外れに強いモンスターや人間の情報と、神隠しに関する情報を集めて欲しいって。でも、今の所両方とも見つからないんだって。難度百を超える魔物の伝承なんかは見つかったらしいけど、僕が探してるのはもっと上なんだよ。難度で言えば……三百とか。あはは、そうだね。そんなのがそうホイホイいたら、堪ったものじゃないよね。不可解に人が消える話って、意外と無いものなんだね。大概は普通のモンスター被害とか、遭難なんだってさ」

 

 ──もう会えないかもしれない家族。

 

「会いたいよ。家族だもの。大好きで、ずっと一緒にいたんだもの……離れたくなんてなかった。でも最近ね、もしかしたらもう会えないんじゃないかって気がしてるんだ。こっちを知れば知る程、元居た所との隔たりが分かってくる。別世界なんだよ、何処までもね。帰りたい、まだ諦めるなんて出来ない。──けど、もし帰れないなら。せめて幸せになりたいんだ。お父さんとお母さんは何時も言ってた、幸せになりなさいって。自分だけじゃなく、たくさんの人と一緒に。会えないならせめて、そうしたい」

 

 ──思いやりがあって優しく、人並みに正義感があり、順法意識も承認欲求も自己顕示欲もある。喜怒哀楽がはっきりしていて、感情に忠実。人の言う事をよく聞く。学習能力自体は良いが、論理的思考力に難あり。性格的にも思慮深さに欠け、育ちと腕前のせいか、直感的行動が多い。教育必須。手綱を取る人間がいれば良いかもしれない。欲も情も倫理も、人が人として当たり前に備えている物は普通に持ち合わせている。

 

 そして、戦う者として望まれるあらゆる全てを身長体格以外兼ね備えている。これ程子供っぽいのに、敵が死体になるまで攻撃を加える事を前提に拳を振るえる。必要とあらば壊す事も殺す事も逡巡しない。懸念は対人か。確認がいる。才覚は神の領域、現時点の実力すら英雄級。長じればそれを遥かに超える事はほぼ確定──

 

 リリーは口を閉ざし、イヨに向かい直って頭を下げた。

 

「うむ……今更だがすまなかったね、調子に乗って聞くべきでない事まで聞いてしまった。許してくれ給え」

「ううん、僕も話せて良かったよ。溜め込んでると何だか暗い方に暗い方にばっかり気が行っちゃってね」

「そう言ってくれると私も嬉しいよ。何か追加で食べ物か飲み物を頼まないかね? 長話をさせてしまった詫びだ、何か奢らせてくれ」

「いいよ、悪いもの」

「そう言うな、将来あのイヨ・シノンに飯を奢ったのだと自慢の種にするつもりなのだからな。遠慮せずに頼み給え、金はある」

 

 口では喋りながら、落とせるな、とリリーは冷静な計算の結果を出す。

 

 落とせる。騙す必要すらなく、ものに出来る。人を意のままにするのに、わざわざ非合法であったり後ろ暗かったりする方法を用いる必然性はない。それしか方法が無い、それを実行しても問題が無いのだったら話は別だが、正攻法で落ちる相手は正攻法で落とすに越した事は無い。

 

 このイヨ・シノンなる一個人を公国に組み込むのには、正攻法が一番良い。騙すでも騙るでもなく、真っ当な話し合いの末にイヨの方から此方の陣営に踏み入って貰おう。

 

 ──自分ならば、白銀の異名を持って語られるこのリリーならば、それが出来る。知恵比べならラナーに敗けるが、策術ならば敗けん。

 

 正直イヨ相手なら自分で無くとも可能な気はするのだが、其処は気分の問題だ。盛り上がりは重要である。

 

 冒険者として過ごしている現在でも利益にはなっている。何故なら彼はアダマンタイト級の実力を持つ人物、英雄とさえ渡り合った傑物なのだから。オリハルコン級のチームに所属してやがて名実ともにアダマンタイト級になってくれたなら、それはそれで喜ばしい事である。国家はいざと云う時のモンスター対策の切り札として活用できるし、国民にとっては分かり易い希望になるし、冒険者らにとっては発奮を促す材料だ。

 

 『降って湧いてきた善良な実力者』である彼は、まさしく天が遣わしたかの如く有り難い存在である。兵士と違って予算を掛けて教練した訳でも無く、近隣諸国から移ってきたのでもない人間。棚から牡丹餅の最たるものだ。冒険者組合の幹部連中等は出来る限りの素性調査をしつつ、神に感謝の祈りの一つも捧げた事だろう。『こんな都合のいい強者を有り難う』と。

 

 しかし、冒険者はどう足掻いても冒険者でしかない。公国で活動しているには違いなくとも、国家に所属している身分ではないのだ。

 【スパエラ】の面々が『アダマンタイト級冒険者のいる所で活動したい』という理由で一時王国に移っていた様に、『気が変わったからあっちに行く』が法的にも実際的に公然と出来る職業なのだ。気分次第で何処にでも飛んで行ってしまえる渡り鳥、身一つ風呂敷包一つで旅立つ自由人。本人たちはそれでよかろうが、こっちは困る。

 

 冒険者であり他国人である彼には、国家の強制力や制限力が全くと言っていいほど働かない。今は人間関係やらなにやらが彼を公都に定着させているが、それ以外に『此処』にいる理由は存在しないのである。

 

 最悪の場合、『パーティのメンバーと喧嘩して居辛いから他に行く』『公国以外も気になるから王国に行ってみよう』『なんだか冒険者って思ってたのと違う。探検家に戻って放浪しよっと』『何時まで経っても帰れない。もう諦めた方が良いのかも。そうだ、最初に出会ったリーベ村のみんなと一緒に畑を耕し家畜の世話をする生活を送ろう。戦いはもう嫌だ』等と云った本人の心境の変化で、あっさりと何処かに去ってしまうかもしれないのだ。

 

 公国内や帝国に行くならまだマシだが、下手に他国に行かれて、それで定住でもされた日には目も当てられない。ただでさえ官民共に他国より矮小非力な公国なのだ、強者一人も逃がしたくない。畑なんぞ耕すより、その小さな剛拳でもって敵を一体でも多く葬ってほしい。

 

 ──是非とも貴族になるなり公職に就くなりして、公国に所属して欲しい。出来れば両方やってもらえれば最上だ。

 

 大公──引いてはバハルス帝国の皇帝──を絶対の権力者として仰ぐ公国で貴族になるという事は、即ち国家に忠誠を誓い大公に仕える事とほぼ同義だ。冒険者と比べて、干渉する材料は格段に多くなる。

 

 また、彼の身ならず、彼の伴侶も将来出来るだろう彼の係累もコントロールしやすい。

 

 公国内は正に大公と大公の臣下の支配地なのだ。

 

 貴族の結婚相手は貴族であるのが常識だし、普通当人同士の感情より家同士のつながりや派閥の関係、国家の利益が優先される。本人がそこまで貴族になり切れなくとも、イヨ・シノン程の単純純粋チョロお子様っぷりならちょっと一計を案じるだけでその気にさせられるだろう。

 

 目標とする人物の心を奪う手練手管は、貴族の娘なら大なり小なり誰でも仕込まれる心得である。しかもそれは同じく教育を施された貴族を対象とするもの。一般人のお子ちゃまなど比喩表現抜きで赤子の手を捻る様なものだ。

 

 出来れば──無論そのように工作するつもりだが──公式非公式問わず、より多くの女性と数多くの子を成してほしい。女性の方はこちらの手で容姿、才覚、血統、人格、全てに優れる相手を見繕おう。そしてその優れた女性との間に、神域の才覚を継いだ子を沢山作ってほしいのだ。

 

 才能が血統によって受け継がれるか否かは場合によるとしか言えない。歴史を紐解けば、有能かつ歴史ある名門から無能が生まれる例も、その名に恥じぬ英傑が生まれる例も山ほどあるのだ。

 才覚の多寡や有無を直接判別できるリリーにしても、生まれ持ったそれを花開かせることが出来るか否かは分からないのである。故に母数と試行回数は管理できる範囲で多い方が良い。そうして出来た成功例である次代の英傑は勿論、貴族の子であるから他の貴族家の者と婚姻を結ぶだろう。

 

 弱者である公国には、出来るだけの多くの強者が必要なのだ。なにより弱者である今から脱却するために。公国の為に、帝国の為に、引いては人類の為に。

 

 ──法国には神の血を引いた常識外れの強者たちがいるとの情報もある。強者は兎も角神の血云々は知らないが、だとしたらあの国の特殊部隊である六色聖典、特に陽光聖典と漆黒聖典の活躍ぶりも納得できると言うものだ。公国が掴めた情報だけでも驚くほど多く人類の敵を葬っている。戦果から推定できる保持戦力は驚異的を通り越して感動的ですらある位だ。あれだけの力がもし手元にあったならば、父上は恭順では無く争いの道を選んだだろう。

 

 少女が談笑しつつ脳内に浮かべるのは、恐らく公国と帝国を足し合わせたより多くの国力を保持するだろう近隣国の事だ。

 ある意味、人類の守護者とさえ言えるだろうかの国。

 出来るなら争いたくない相手である。人類種の天敵たちは、人類の生存圏の外側を完全に覆いつくしているのだ。対法国戦は、勝ち目が薄い上に大きな視点で見れば内輪揉め。戦いたい訳がない。

 

 しかし、いつの日か人類が統一国家を形成し得ると仮定して、いざその時に連中に都合の良いルールを押し付けられるのは真っ平御免である。こちらの意見を通すだけの戦力は持っていたい。

 

 皮算用? 否、何処までも冷徹に厳然と引かれた設計図である。目指す所は遥かに遠く、過程においては確かに難い。しかし、国の、人民の、人類の為ならやらねばならぬ。

 

「私はそろそろお暇しよう。楽しかったよ、イヨ・シノン君」

「お話はもう良いの? 僕も楽しかったよ。今からじゃ危ないから送っていくよ、お家何処なの?」

「ああいや、気にしなくていいとも。護衛が多いのでね」

 

 ──しかし、此処までちょろいと手札としての私を切るのもどうかな。確か南領侯の娘は今七歳だったか? 仮に全て上手くいったと仮定して、貴族としてのイヨ・シノンが身を固める頃には年頃になっているだろう。未来における有力候補の一人と数えておくか。

 

 少女は思う。父上はもう少し駒を作っておくべきだったな、と。

 

 余り多くても争いの元だが、大公の直系である後継者候補が男二人女一人は少ないのではないか。成長過程で損耗する可能性も考慮すれば少なすぎる。特に女子はもう一~三人いても困らなかっただろうに。他所に嫁に出せる駒が自分一人はどうかと思う。

 

 予備の駒は無いのですかと問うた事が昔あったが、自分一代で大国を成す気満々だった若い頃の失策の一つだと真顔で返された。野望達成の後の事など次代の者らが好きにしたら良いと、その時は真剣に思っていたそうで、後継そのものをあまり考えていなかったらしい。我が父ながら馬鹿じゃねぇの、というのがその時のリリーの素直な感想であった。

 

 ──そして私の使い道は陛下の妃と内定済み。裏ではどうとでもなるが、表向きには動かせない。姉がいればそちらを陛下に──いや、駄目だな。このタレントを生まれ持った私がいる時点で、陛下は他の女など欲しがるまい。

 

 人材不足は深刻である。頭数も質も不足している。だからこそイヨ・シノンが欲しい。彼一人を手中に収める事で得られる可能性が欲しい。

 

「──さようなら、イヨ・シノン君。次に会う機会があれば幸いだ」

「さようなら、マリー。そうだね、また会えたら良いね」

 

 

 ──次に君と会う時、私は商家の娘マリーではなく、公女リリーだろうがね。

 

 微笑みと握手を交わして席を立ち、リリーはあっさりと少年に背を向ける。そうして喧騒を避けて、不自然な程周囲の人目を引かずに店から出て行った。

 

 

 

 

 

「結局あの子、何処の子だったんだろう」

 

 マリーと別れた後、イヨはさして気にした風もなく呟いた。今のイヨは結構な有名人になりつつあるので、マリーの様な存在は珍しくない。やれ武勇伝を聞かせてくれだの強さの秘訣が聞きたいだのと、冒険者から小さな子供にまでよく聞かれるのだ。

 

 しかし、それらとマリーは何処となく雰囲気が違う。

 違うのだが、何処がどう違うと明言できない。無意識下で引っかかるのだ。

 

「まあ、何だか変わった子だったしね」

 

 独り言ちて、イヨはテーブルの上に載った料理の残りを片付ける。マリーに奢ってもらった林檎の蜂蜜漬けを堪能し、僅かに残った極薄のアピル酒を飲み干す。少しふらつきながら立ち上がって、店の中央で騒いでいる人たちと別れの挨拶を交わした。

 

 ガルデンバルドやナッシュ、ビルナスといった知り合いとは個別に挨拶をし、今回共に楽しんだたくさんの人々に大きな声でさようならを告げた。

 

 そうして、彼はうきうきした足取りで店を出る。目指すは格安の冒険者向け宿屋『下っ端の巣』。其処の二階の相部屋だ。

 夜の公都の通りで夜風と月光に身を浸しながら、

 

「リウル、下手したら部屋でも飲んでるかもしれないからなぁ。寝落ちしてるならしてるで、ちゃんとお腹に毛布掛けてるといいんだけど」

 

 愛しい人を想って呟く。

 

 公女であるリリーの見立ては間違っていない。確かにイヨは単純だ。子供で、容易く、説き伏せるのはとても簡単である。話しは通じるし、生活の安定や金銭、地位や名誉といった世俗の理で動かす事の可能な人物である。

 

 少しばかり巡り合わせが違ったなら、彼女と大公の企みは呆気ないほど簡単に現実のものとなっただろう。公職に就き、いずれは貴族となり、思惑の通りに生きる可能性はとても高かった。

 

 しかし、もう遅いやもしれない。彼は恋をしているのだから。

 

 少年は子供で、純粋で、とても自分の欲求に素直だ。

 子供らしい行動原理と人格を併せ持つという事は、時には理屈よりも道理よりも利益よりも、感情を優先する事が有り得るのだ。

 

 少年は愛する家族との別れが辛かった。もう二度と会えないかもしれない友達を想うと悲しかった。だからこそ、幼子の如く真摯に愛情を求め、人との関わりを欲し、社会の一員として活躍し、人々に自分の存在を受け入れて欲しいと思ったのだ。

 

 イヨ・シノンは、篠田伊代はとても一途なのだ。好かれるのにも一生懸命なのだ。

 

 そんな彼を口説き落とすのは、公女様でも大公様でも至難の業であろう。

 




このペースで書き続けた場合、ナザリック勢は何時出せるのか。

今現在のイヨに誰が告白しても一秒でお断りされます。理由は「好きな人がいるから」。
イヨの性格上、ハーレムとか絶対無理です。「複数の相手と関係を持つなんて不純、不義理、不潔。有り得ない」と真顔で言うでしょう。ピュアお子様だから。



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フールーダ・パラダイン

 バハルス帝国に住まう者で、フールーダ・パラダインの名を知らぬ者はいないに違いない。また、彼に尊敬の念を抱かぬ者もいないか、いるにしろ極々少数である事は間違いないだろう。

 

 なぜ彼はそれ程までに高名なのか。それを説明するには、まず魔法の事を説明せねばなるまい。

 

 魔法という技能は、天性の才覚が無ければ使う事も出来ないと一般には思われている。実際、魔法詠唱者たちはその様に言う事が多い。確かに世界との接続と称される行為が出来ねば魔法は使えないが、実の所、費用対効果を完全に無視してひたすらに練習を続ければ、誰でも何時かは魔法が使える様になれる。他の才能を伸ばす時間を潰してしまうので、圧倒的大多数の人間は掛かった時間に見合う利益が得られず損をする位に時間が掛かってしまうが。

 

 魔法には位階と呼ばれる段階、位の分け方があり、基本的には数字が増すほど高位にして高級で強力な魔法が揃っている。勿論、そうした『凄い魔法』ほど習得の難易度は高い。

 

 一番下にあるのが、第0位階魔法である。指先に小さな火を灯す事の出来る魔法等があり、最も低位だけあって習得も──より上の位階の魔法と比べれば、の話ではあるが──容易である。しかしこの位階は奇術や手品と同一視される為、0位階魔法しか使えぬ者は魔法詠唱者とは普通呼ばれない。

 

 次に第一位階魔法。この位階が使える様になって初めて魔法詠唱者を名乗れる領域である。普通の才能を持ち、普通の努力しかしてこなかった者は生涯をこの位階で終わると言われる。信仰系魔法詠唱者ならば〈キュア・ウーンズ/軽傷治癒〉がこの位階で、他には〈フローティングボード/浮遊板〉や香辛料を創造する魔法がある。

 

 その上に第二位階魔法があり、五千人から一万人に一人の才能を持つ者がこの位階に到達できる。一般の人間が努力で到達できる極みとも言われ、到達できない者の方が多数派である。第一位階魔法詠唱者が世間と密な所で雇われるのに対し、この位階に到達した者は貴族や国家に雇われる事も多い。信仰系魔法詠唱者ならば中傷治癒、病気治癒、毒治癒が可能となる。

 

 そして、第三位階魔法。名高き〈ファイヤーボール/火球〉、〈ライトニング/電撃〉、〈フライ/飛行〉がこの位階である。この領域に至れば魔法詠唱者として大成したと見做され、多くの人間から尊敬を受ける立場となれるであろう。数十万人規模の都市ならば複数人いてもおかしくは無く、高位の冒険者などにもそれなりの数がいる。

 

 更に上に第四位階。天凛の才覚を生まれ持った者が極限の努力によってようやく到達し得る領域であり、オリハルコン級やアダマンタイト級の冒険者、若しくは大神殿の長等が行使を可能とする。国単位でもトップクラスであり、一つの国の第四位階魔法詠唱者の数を数えるのには片手で足りる。冒険者ならば冒険者界隈で、宗教者ならば宗教界で殆どの者がその者の名を知る。

 

 第五位階魔法。人間でありながら人間という生物種の壁を超えた領域に立つ者達のみが操る高位魔法。最早天才等と云う言葉では収まらず、英雄の領域として語られる。その者の成した偉業が英雄譚として吟遊詩人に語られても不思議では無く、小国ではこの位階の魔法を行使出来る者が一人もいない、といった事態も珍しくない。この領域に到達した信仰系魔法詠唱者は死した者を復活させる事すら可能とする。同じ業界で名前を知らぬ者は一人としておらず、複数国家間に渡る名声を得ているだろう。

 

 無数の凡人と数多の天才が人生を投げ打って魔道の探求に身を焦がしているというのに、かの深淵は未だ底を見せない。果ての無い暗黒の荒野を苦悩にのたうちながら歩み続け、そして第三位階にすら手を掛けられずにこの世を去る者のなんと多き事か。

 

 魔法とはかくも貴重で希少、苦難で至難なものなのだ。

 

 ──そしてフールーダ・パラダインとは、その果てない荒野の遥か先で誰よりも長く単独行を続ける英傑である。

 その齢は数世紀を数える。独自に開発した儀式魔法にて寿命を延ばし、人間の限界を超えて尚生き続ける。

 操る魔法、その位階は第六位階。表の世界でその魔法を行使した、行使できると公に知られているのは、お伽噺の英雄たちを除けば彼のみである。

 人類の壁を超えた者を英雄と呼び、英雄の域すら超越した彼を、人は尊崇に近い敬意を込めて逸脱者と呼ぶ。魔力系、信仰系、精神系、加護系、その他系の五系統の内三系統に精通するその叡智を讃え、三重魔法詠唱者、大魔法詠唱者とも呼ばれる。

 

 そんな人物であるからして、その気は無くとも語れば語る程賛辞が尽きぬ。

 

 彼が魔法史に刻み込んだ足跡は数十等と云う些末な数では収まらない。発見し、研磨し、伝承し、解明し、新たな魔法を発明し、魔力運用の効率化を推し進め、より高次の術式を編み出す。

 彼が存在するが故、帝国は他国の謀略から無縁だと囁かれる。そして、その噂は的を射ている。フールーダ・パラダインの名を出せば、それだけで周辺国家に対する牽制となり得るのだ。

 

 帝国の歴史を紐解けば、国家の危機を単身で打ち破った事も複数ある掛け値無しの大英雄。歴史に名を刻んだ生きた偉人。戦い方と条件次第で帝国全軍にも勝利し得るとの説もある、比喩表現抜きで万夫不当の超人である。

 

 魔法詠唱者を兵科として軍に組み込むまでの魔法大国でもある帝国の隆盛は、彼の力による部分も大きい。歴代皇帝の教育係でもあり、魔法省の総責任者でもあり、長き年月の間に総計数百人の高弟──第三位階、第四位階を使いこなす──を育てた教育者でもあるのだから。

 

 彼の偉人振りは良く分かって貰えたものと思う。

 一般人が彼に抱くイメージは正に賢者そのものだ。その身に纏ったローブも、白髪の長髪も長い髭も、肌に刻まれた皺の一本とて叡智の現れだと信じて疑わないだろう。落ち着きがあり、思慮深き人格者。老練にして老獪な知識人。多分国民のほぼ全員がそう思っている。

 

 ──そんな彼は今現在、己が城とも表現できる帝国魔法省の深部で──

 

「はっ、はっ、はっ──」

 

 顔を赤くして激しく息を切らし、豪快なストライド走法で廊下を全力疾走していた。

 

 フールーダ・パラダインはしつこい程語った通り魔法詠唱者であるのだが、何十度もの進化──プレイヤー目線で言うレベルアップ──の恩恵で身体能力も向上しており、老化による衰退を考慮しても王国の兵士なら数人纏めてぶん殴って倒せるレベルの筋力を保持している。

 

 その筋力によって成立する速度は中々のものだ。だが一体、歴史に名を刻んだ偉人である彼が何故息を切らせて走るのか。余人がみたらもしや国家崩壊の危機に奔走しているのかと顔を青くしそうな事態である。

 

「〈フライ/飛行〉!」

 

 短く唱えると、彼は広い廊下の宙に舞って増速した。走るより飛んだ方が速いと、冷静さを欠いていた頭で思い出したらしい。仮にも国家の重要省庁の室内で空飛んで移動しようって時点で普通ではないのだが、今の彼には常識や規律などどうでも良いのだった。

 

 鳥にも勝る速度で廊下を飛び続け、目当ての扉の前まで辿り着いた。理性そのものは残っていたらしく、航空突貫で扉を突き破る寸前で急ブレーキをかけ、一分一秒の時間経過も耐えられぬとばかりに急いで入室し、

 

「届いたか!」

「はい、師よ。使者の方よりしかと受け取りました」

「師の仰った通りの物で間違いございません」

 

 部屋の中は狭かった。いや、実は広いのだ。広いのだが、余りにも多くの物があるので一見すると狭苦しく感じられる、と言った方が正確であろうか。

 

 散らかってはいない。むしろ良く整理整頓され、片付いている。しかし、大きなくくりでも書物、武具、巻物、短杖、装身具、鉱石、金属、モンスターの素材──分類も数も多すぎた。それらに共通するのは魔法に関連がある品だという事。一見フールーダ・パラダインとは縁遠そうな巨大な剣や金属鎧にしても、彼の探求の糧、もしくは結果として此処にあった。

 

 製作年代は現代より数百年を遡る古物、つい近日に冒険者から買い取ったとあるモンスターの角。一読しただけでは単なる絵本だが、相応の知識ある者が読み解けばさる系統の魔法知識について詳述されていると分かる書物。国単位でも貴重なマジックアイテム。そういった、市井の魔法詠唱者が見れば腰を抜かすほどの価値を有する物品たちが整然と陳列されていた。

 

 帝国魔法省でも深部に位置するこの部屋こそは、かの大魔法詠唱者の探求の場である。より深き深淵に踏み込む為の努力が日々行われている、皇帝の臣下として公的な職務をこなす時間を除いた、個人的な探求の拠点だ。

 

 フールーダの眼前、二人の高弟の間には小さな台。そしてその上に乗っているのは、奇妙な本だった。

 

 フールーダは普段公式な場での振る舞いとはかけ離れた歩み──まるで恋人へと歩み寄る思春期の青年の様な──で近寄ると、その奇妙な本を恭しく持ち上げ、検分する。

 

「──確かに。おお、これを手にする日が遂に来たか。一時期、夢にまで見たものだ」

「師よ、これは本当に?」

 

 高弟の内一人が問い掛ける。その瞳には隠しきれぬ熱があった。

 フールーダ・パラダインの弟子である彼らは、無論フールーダ当人より腕が劣る。しかし、大陸最高の魔法詠唱者の一人と比べるのは酷な事だ。彼ら一人一人の腕前も十二分に一流を超えている。特にこの場にいる二人は、第四位階魔法の行使をも可能とする達人の中の達人だった。

 

 フールーダ・パラダインがいる帝国では無理にしても、他の国家なら主席宮廷魔術師の座を射止める事も可能な人材。そんな彼らの目で見ても、目の前の書物は余りにも魅力溢れる研究対象だった。

 

「間違いない。これこそ、表向きには存在すら秘された公国の秘宝──禁忌の魔導書に他ならぬ」

 

 国家の宝と言えば、リ・エスティーゼ王国の五宝物が有名である。人によってはフールーダ・パラダインこそ帝国の宝だと言う者もいるだろう。しかし、公国にもその類の宝物があると知る者はいない。秘されているからだ。

 

 帝国の民から世俗を超越した賢者、帝国の守り神の如き尊敬を集めているフールーダ・パラダインの欲求──それはより深き魔法の理解。解読、会得、体得、習得。

 

 フールーダ・パラダインは大陸最高の魔法詠唱者の一人。単独で第六位階魔法を行使出来る者は他にいないとされている。しかし、一般にはあまり知られていないし、研究者の間でも実在を疑問視する声があるのだが、魔法には更に上の階梯が存在する。

 

 お伽噺の英雄たちや、その仇役たる魔神が行使したと伝わる第七位階。第七位階すら超えた規模の魔法を行使した伝承から存在が推測される第八位階。そして、更に上、第九位階と第十位階。フールーダ・パラダインが目指す深淵とはそれらの領域を指す。

 

 その欲求の深さは、彼の理解者の一人である皇帝の想像すら超える。もしも、あくまでもしもの話だが──より深い魔法の知識、深淵に自らを誘い、その知恵を教授してくれる存在が現れれば──帝国や自身の人生を含めた全てを投げ打つ程だ。

 

 仮定の話にしても不味すぎる真実なので、口に出して述べた事は無いのだが。それでも皇帝や大公などは知っている、彼が導き手を欲していることを。

 

 今目の前にあるこの書物は、深淵に差す一筋の光となり得るかもしれない貴重なものなのだ。

 

「陛下を通じて、大公殿下には大きな感謝をお伝えせねばなるまい」

 

 その書物は一般人が見たなら『これ本なのか?』と疑問するだろう奇妙さだった。まず表紙も無ければ題名も無く、紙製でも羊皮紙でも無い。病んだ様な気持ちの悪い黄色をした金属の板、それが何枚か纏まって、端っこをカビの如き色合いの金属の輪で止められていた。

 極薄の金属板を捲ってみると、其処には記号の様な絵の様な奇妙な文字が連なっている。

 

 これの存在を知ったのは、六十年ほど前の事だった。当時から主席宮廷魔術師の職に就いていたフールーダは、研究に際し古書──それ自体も目の玉が飛び出るくらいに希少で高価なものである──を読み解いている最中に、『人類以外の種族が書き記したある魔導書』の存在を知った。

 

 実を言うと、それ自体は珍しくはあっても目新しくは無いものだった。オーガソーサラー【人食い大鬼の妖術師】の様に、魔法を使うモンスターや他種族は普通にいるし、それらの種族とて魔法の研鑽を行うのだから。

 

 しかし、フールーダ・パラダインの心を強烈に掴んだのは、『第七位階以上の魔法について詳述されているかもしれない』という、調べれば調べる程確度を増した不確定情報。

 

 当時のフールーダには既に焦りがあった。このままでは魔法の深淵を覗く前に寿命が尽きる、そんな遠い未来の避けられない結末に対する焦りが。その焦りの中で発見できた魔導書の存在は大きかった。

 

 他に欲していた物と共に収集する事を目指し、実力と立場の双方をもって探した。

 所在自体はあっさりと──といっても年単位の時間を掛けて──発見できた。帝国と縁深い公国の、大公家が所蔵しているらしかった。帝国魔法省の総責任者であり主席宮廷魔術師、第六位階魔法詠唱者であるフールーダだからこそたった数年で実在を確認し、所在を特定する事が出来とも言えよう。

 

 そこからが大変だったのだ。交流の活発だった両国の首脳同士の対話に際し閲覧を願い出ると、当時の大公は驚愕に目を見開きながら、絞り出すようにこう言った。

 

『何故それを知っ──いや、大魔法詠唱者たるパラダイン殿ですからな、流石、と言うべきか。しかし、それは願いを聞き届ける訳には行きませぬ。あの書物は存在しない、存在しないものとして絶対に人の目に触れる事の無いよう扱え、と伝承されています。無いものは見せられません』

 

 幾度も願い出た。幾度も説き伏せようと試みた。秘密裏にではあったが、何度かこっそり持ち出すなり侵入するなりして見るだけでも事は叶うまいかとも考えた。

 もしもフールーダ・パラダインが国家の重鎮では無く、ただ野望に身を焦がす一個人であったらその策を実行したかもしれない。しかし、彼の存在は大きすぎ、それ故に『公人』として振る舞う事が求められた。

 

 如何に公国が帝国から分かれて出来た国で、力関係においても帝国が優越しているとはいえ、建前上は対等な友好関係なのだ。否という相手の腕を無理矢理捻って要求を飲ませる真似は出来なかった。

 時の皇帝も助力はしてくれたが、最終的には両国間の関係を揺るがせる訳にはいかぬとして立ち消えた話だ。秘された国宝に触れる事はならない、大きな災いの元になるかもしれないからと、時の大公は最後までそう言っていた。

 

「まさかこうも気前よく譲渡してくれるとは」

 

 それを現大公はあっさりと譲り渡した。対価も無く条件も無く、時世が変わったのを機に今一度話を切り出したフールーダに対し、『分かりました。慎重な扱いを要する物と聞いております故今日明日にとは行きませぬが、戻り次第準備を始めます。しばしお待ちを』と即時に返したのである。

 

 そうして本当に直ぐ送ってきた。『常人が触れるには危険が過ぎる魔導書と伝わっております。我が先代達は、通常知られるより高位の魔法の知識を争いの元として秘したのでしょう。フールーダ様以上に適格な所有者は他にいないと存じます。どうかお役立て下さい』との伝言付きで。

 

 確かにこうして手に取ってみると、尋常ならざる魔力を感じる。しかしそれは長き年月の間に堆積した埃の様な質のモノと、経年劣化や外部からの物理的・魔法的破壊力に対抗するための付与魔法が発している様だ。

 この魔導書自体に何らかの呪いや呪術的属性の仕掛けは施されていない。フールーダは魔法による調査で確信した。

 

「共に送って頂いた書物も素晴らしいものです。流石にその秘宝には劣りますが、十二分に過ぎる」

「伊達に一つの国が長年に渡って集めてきた物ではないと、そういう事でしょうな」

 

 高弟二人が視線を送った方向には大きな箱があった。木材を金属で補強した頑丈な代物だ。中に詰まった物はこれまた魔導書、もしくは魔法に関連する稀覯本の類だ。秘宝と一緒に送られてきた品々である。帝国魔法省にはこれと同等の希少さ有用さを誇る品々も数あるが、これだけの新しい書物を一気に手に入れたとなれば、ちょっとした事件である。

 

「大公殿下は魔法詠唱者ではないが、魔法研究の重要性を理解しておられる方だ。陛下などは一度にこれだけの本を手に入れた私が、研究に夢中になる余り公務を投げ出すのではないか等と仰っておられたが」

 

 因みにジルクニフは冗談や洒落の類でその台詞を言ったのではない。本当にやりかねないフールーダに対して『そんな事はしないよな? しないな? するなよ?』と釘を刺したのだ。そんな皇帝の心情を想像できただけに、二人の高弟は特に言葉を述べず、控えめかつ曖昧に頷くに止めた。

 

 公国には第五位階魔法詠唱者がいない。第四位階も、国に属している者だと三人だけだ。公国の宮廷魔術師、大公家付きの神官、帝国から派遣されてきたフールーダの高弟。今回大公がフールーダに秘宝を含めた沢山の魔法関連の書物を贈ったのは、限られた物資を有効に活用するために最も適切に効率よく扱える人物の所に送るべき、そういう判断のもとで実行された行動である。

 

 ぶっちゃけた話、手持ちの人材が努力によってそれらを読み解き進歩するより、フールーダとその弟子たちが解読した結果を教えてもらった方が手っ取り早い。故に実用書というよりは研究分野における貴重な書物を贈ったのである。

 

『魔法関連のあれこれ見せて、貸して、触らせて』

『うちでは持て余し気味で有効活用にコストがかかるのであげますよ。読み解けたら教えてくださいね』

 

 既に従属的同盟関係が板についている公国と帝国は、あらゆる分野でこういった協力を積極的に行っている。魔法分野は帝国が一枚も二枚も上手であるからこうだが、逆に帝国情報局などはフールーダのお陰で経験が浅いので、公国側からノウハウその他諸々を教わっている。

 

「目録はこちらですが、内容の全てを公国側で把握できている訳では無いので、抜けがあるやもと但し書きが」

「元より全て解読する積りではありましたが、この量では時間が掛かりますな。通常業務もありますし、私共の弟子より有望かつ優秀な者を幾人か回しましょうか?」

 

 フールーダ自らが直接指導した、選ばれし三十人と呼ばれる弟子たちは皆優秀な魔術師である。第四位階や第三位階を使いこなし、もしくは各自の研究分野について格段の功績を誇る者達だ。彼らは徒弟であると同時により下位に位置する者達の師である事も多くあり、フールーダの孫弟子曾孫弟子とも呼べる者たちは結構な数に上る。

 

 そうした者の中から信頼できる実力者を選び抜いて使おうかと、高弟が言い出したのはそういう話であった。

 

「それで良い。ただし、重要度の高いものについては私か、お前たちの手で管理しなければな。特にこの──」

 

 フールーダの枯れ木の如き細い手が、抱えたままだった奇妙な秘宝をより強く握りしめた。

 

「禁忌の魔導書に関しては、地下のあれに次ぐ体制で管理せねば」

「了解いたしました、師よ」

「ではそのように取り計らいます」

 

 目配せを受けて退出する弟子たちを見送り、フールーダは部屋の中央に位置する机に付き、秘宝の金属板を捲った。そこにあるのは未知の種族の言語だが、読む事自体は魔法を用いれば可能である。老人は体内から巻き上がる興奮を抑えて詠唱を行い、魔法を発動する。

 

 フールーダは廊下を爆走し更に飛行した事からも分かるように、非常に興奮していた。深淵へと至る手掛かりが手に入ったのだから当然の事だが、同時に頭のどこかの冷静な部分が囁いていた。

 

 ──この書物は確かに貴重で希少な手がかりだが、私に飛躍を齎す事は無いだろう。

 

 今までの経験で分かる。魔法の深淵とはそれほど容易いものではない。この秘宝にしたところで、確かに第七位階以上の魔法について詳しく書かれていたとしても、直接的に行使の仕方を一から十まで書いてあるわけでは無い。

 

 この奇妙な書物は他に例を見ない貴重品。しかし、この中にあるのは深淵の知識の欠片も欠片、有るか無きか些細な手掛かりだ。針の穴より小さい隙間から、奈落の底に細い光が差している様なもの。とても深淵を照らす導きの光とはなり得ない。

 

 しかし、フールーダ・パラダインにはそれで十分だ。

 完全な暗闇の中を歩いてきた。教え導てくれる者も無く、手掛かりすらなく、それでも這いずって這いずって此処まで来た。人類未踏の領域と語られる第六位階魔法を詠唱するまでに到達したのだ。

 暗中模索を数百年、無明の荒野の最先端で単独行を続け、自らの進む道を自分の手で切り開いてきた男には、その程度の些少な灯火でも十分すぎる。

 

「……」

 

 分かり易い飛躍など望めない。虫けらにも劣る速度で僅かずつ進んでいくしかない。それでもフールーダ・パラダインならば進歩できる。人類史上でも最上級の才を狂的な努力で誰よりも長く磨き続けた人物ならば。

 

 ──やはり素晴らしい書物だ。読むことが出来たのは幸運に他ならない。飛躍は齎さずとも、進歩の糧としては大きい。

 

 内心でぽつりと呟く。先ほどまでの言葉が冷静な頭の一部分が発した言葉ならば、これは熱狂した頭の一部分が発する言葉だった。

 

「──流石は国宝、と言った所か」

 

 ──国宝と言えば、陛下が王国を取り込めば、かの五宝物をこの手で調べる機会も来よう。

 

 フールーダはそう思う。王国の五宝物は、十分興味深く研究に役立つだろう素材だからだ。

 

 フールーダには、あれらと同等の力を持つマジックアイテムを作成できない。あれらの性能は第六位階魔法によって発現できる限界を超えていると考えても不思議はなく、即ち第七位階以上の魔法の手掛かり足りえるものかもしれない。

 

 それは勿論フールーダが専門の付与術師では無く、作成に特化した魔法詠唱者では無いからでもあるけれども。

 

 ──もしも本当にそうした超高位魔法によって魔化された物品なら、手掛かりとしてはこれ以上無い程のものだ。

 

 熱に浮かされた思考は前向きにそう言っている。しかし、同時にこんなことを考えてしまう。

 

 ──なぜ私には師が、教え導てくれるお方がいないのか。いればこんなにも遠回りをせずにすんだ、こんなにも時間を無駄にせずとも良かった。

 ──もっと深き深淵に手が届いていたのに。

 

 自らの弟子たちが羨ましくすらあった。彼ら彼女らには自分という導き手がいた、時間を無駄にせず効率的に成長が出来た、自分より若く早く位階を駆け上がっている、と。

 

 考えても詮無い事。そう済ましてしまうには、積み上げた年月と抱く情熱が巨大すぎた。胸の内を燻らせる炎を諫めながら、フールーダは外見的には一切の異常を表す事無く、目の前の魔導書を読み解いていった。

 

 

 

 

 公都の警備兵であるレアルト・ムーアが、夜の通りを自宅に向かって歩いている。平均より大柄で筋肉質な体躯を持つ彼は、しゃっくりをしながらゆったりまったり宵闇の中を歩いていく。手に携えた灯りだけが足元を照らす材料だ。今宵は雲が濃く、月が出ていないから。

 彼は先も述べた通り、公都の治安を守る警備兵だ。衛士とか騎士、酷いと憲兵等という全く間違った名で一般人から呼称される事もたまにあるのだが、警備兵である。

 

 街中で酔っ払いの保護や夫婦喧嘩の仲裁、道案内などを主な職務としている為、なんだかほんわりしたイメージを持たれがちなのだが、彼ら警備兵は一般の民から志願者を募って構成される公人である。

 

 この近年は中々に平和かつ好景気であり、犯罪者の捕り物等の大きな仕事は比較的少なかった。代々の大公殿下のお膝元たる公都は、あからさまな非合法組織や犯罪者の徒党は軒並み撲滅されているのである。完全に人っ子一人いない訳では無いにしろ、表社会にまで力を振るう事の出来る大きな組織は存在しない、と一般には思われてる。

 

 軍人並みとまでは言わないまでも、彼ら警備兵はそれなりの訓練も熟している。選考に当たって最低限の体力試験もある。あからさまに運動ができなかったり、著しく体格が劣っていたり、職務に差し障るほど気弱な者は警備兵になれないのだ。

 

 あと犯罪歴がある者も弾かれるが、それは当たり前と言うものだろう。

 

 冒険者や専業軍人である騎士などとは到底比べられないけども、一般の人々と比べれば強い方だ。国から支給される装備品にプラスして、自前で購入した過度でない程度の武装をする事も認められていた。

 

 レアルトは今日、直属の上司の昇任祝いでしこたま酒を飲んだ帰りであった。ごく真っ当な人事で、彼の上司は現場で数人を指揮する立場から、一隊を纏める立場に昇進した。上司は少々頭が固いが、熱意と気骨のある尊敬できる男だった。聞けば実家は鍛冶屋だという。跡目は幾人かいる兄が継いだそうだが、父親はそれこそ鉄鉱石の如き堅物で、幼い時から厳しく育てられたのだそうだ。

 

「だー、もう、あんまり何回も話すから覚えちまったよ」

 

 酔った上司は幾度も同じ話をした。お陰でレアルトは彼の半生を殆ど知った。二十歳になったばかりのレアルトにとって、父親と同じくらいの年代の男の身の上話は少しばかり退屈なものだった。上司の事は尊敬しているが、それだけは辟易とさせられたものだ。

 

 レアルトは上司に気に入られている。若い者の中では根性があって、仕事の覚えが良いからだ。一見すると厳めしい顔をしているが人当たりが良く、笑うと年相応の柔らかさが出る。そういうのが市民には受けが良いのだとか。

 

 少しばかり面映ゆい感もあるが、期待されているというのは嬉しい事だ。レアルト本人も、その期待に応えるべく日々訓練と職務に精を出している。

 

 そんな彼の耳が、通りの脇にある小道から異音を拾った。物を引っ繰り返した様な音と、何か硬いものが地面を打つ音の混成音であった。

 

 レアルトはぴたりと足を止め、手に持った灯りを音のした方に差し向けた。そこに在るのは脇道というよりか、建物と建物の隙間とでも表現する方が的確な、本当に小さな小道であった。

 青年は空いている片手で自分の頬を二三度張って酔いを散らし、歩み寄り、

 

「其処に誰かいるのか?」

「──…………」

 

 問う声に、奥まった所から本当に小さな身動きの音が帰ってきた。ついで、なにやらもがく音が聞こえてくる。

 

 人がいるらしい。そう判じたレアルトの行動は速い。彼は一応自分の武装──支給品は保管庫に置いてきているので、腰にあるのは自分で見繕った棍棒だけだ──を確かめ、その小道に分け入った。

 

 狭い。一応そのまま入っていく事は出来たが、左右に一歩分の隙間もなく、窮屈な思いをする。しかも足元にはゴミやら廃材やらの不法投棄物が沢山あって歩き辛かった。音の人物──酔っ払いかなにかだろうか──はそのせいで転んだのかもしれないと考えた。

 

「大丈夫ですか? 私は公都警備兵のレアルト・ムーアです。こんな夜更けにどうし──嘘だろ!」

 

 声を掛けながら十数メートルほど進み、レアルトは大声を出した。

 

 其処に居たのは酔っ払いでも浮浪者でも無かった。灯りに照らされたその姿は、明らかな異形。

 ゴミか何かに蹴躓いたらしく地面に這いつくばって、無造作に立ち上がろうとしてはまた転んでいるのはアンデッド。それも白骨死体。肉も皮膚も完全に無くなった死者──骸骨【スケルトン】だった。

 

 レアルトは腰の棍棒を抜き放ちながら大股で十歩下がり、そして灯火を高く掲げて出来る限り広範囲の前後を見渡し、同時に耳を澄ました。来た道にも行く道にも、何者の姿も身動きの音も見受けられない。目の前の白骨以外は。それを確認し、青年は誰にともなく罵倒を吐いた。

 

「なんだってこんな所に──此処は墓場じゃないぞ! 打ち捨てられた死体があって、それが誰にも見つからずに白骨になるまで放置され、んでアンデッドになって動き始めたってか? 馬鹿も休み休み言え、ちくしょう!」

 

 表の大通りではないにしろ、此処は一国の首都の通り道、そのすぐ近くである。巡回警備の者も毎日周辺を通るし、出入り口はどうやら使われていないらしいが、左右に立ち並ぶ建物には住人がいる。死体一つ腐っていって誰も気づかない訳がないのに。

 

 酔いなど一瞬で吹き飛んだ。レアルトは灯火を地面に置いて、武器を構えていない方の手をフリーにする。そうしてから、ようやく立ち上がりかけている化け物を睨んだ。

 

「アンデッド、スケルトン。難度は普通なら三──だったよな? もっとあったっけ、でも十までは行ってない筈だ。最低位アンデッド全般の特徴として知能が低く、盲目的に生者に襲い掛かる。動死体【ゾンビ】に比べれば俊敏で、もう死んでるから痛みを感じないし殴っても怯まない。完全に偽りの生命力を失うまでは頭を割っても背骨を折っても襲ってくる……んで、即死条件は首を刎ねる事」

 

 一撃で首刎ねんのは難しいよな、と己の技量を鑑みて苦渋を滲ませる。

 

 動揺している自身を落ち着かせる為に、警備兵として教育を受けた時に習った知識を声に出して呟くレアルト。そうして、大丈夫だ、と自身を鼓舞する。

 

 公都の墓地区画を巡回するときに、出くわしたアンデッドと戦う事がたまにある。レアルトも同僚の警備兵たちと共に何体かその手で葬っている。先輩方の中には、もっと強いアンデッドと遭遇しても生きて帰ってきた人がいる。

 何時もは長い槍のリーチを有効に使い、遠い間合いから一体を複数人で囲んで叩く戦法が多用される。今はその戦い方は出来ないが、幸い此処は狭い路地で、前方の一体以外に敵はいない。前だけに集中できる。そして、手に持った棍棒は堅い木材で出来た立派な打撃武器だ。スケルトンには打撃が有効だから、これも有利に働く。

 足元の散らかり様にさえ気を付ければ、条件は良い。

 

「おら、来いよ。生きてる俺が憎いんだろ、さっさと来い」

 

 挑発に釣られた訳では無いだろうが、完全に立ち上がったスケルトンは青年に向かって走った。目の前に現れた生きの良い生者を害するという目的、願望、欲望を果たすために。

 

 その動きは俊敏だ。鈍いゾンビと違って骨しかないスケルトンは──そもそも何故筋肉も腱も無いのに動けるのかという点は置いておいて──身軽で、故に意外と素早い。青年が期待していた、足元の物に躓いて転ぶといった偶然は起きなかった。

 

 しかし、それは機も何も無いただ近寄って掴みかかるだけの動き。一般人なら慌てて背を向けたり恐怖で足が竦んだりしたかもしれないが、訓練を積んだ警備兵であるレアルトは臆さない。

 

「おおっ!」

 

 動きを見極め、狙い澄ました棍棒の一撃をスケルトンの胸骨に叩き込んだ。骨が幾本も割れ砕け、衝撃で突進の勢いが一瞬緩む。その瞬間にもう一撃、今度は右の肩口に思い切り振り下ろす。

 即座に相手を突き飛ばしながら自身も引く。そうしてそのまま、蹴躓いて転ばないように摺り足で一歩、二歩、三歩とゴミを蹴散らしながら下がり続けると──

 

「──……!」

 

 スケルトンはまた無策の突貫を行う。さっきの二撃で上半身は半壊、片腕は取れて無くなっているのに。低位アンデッドであるスケルトンには、戦術を考える知能など殆ど無い。精々目の前に見えている落とし穴を避ける程度だ。

 

『自身の怪我の度合いと相手の力量を考えて一旦引く』とか『相手の戦法を悟って対応する』、そういった高度な思考が行えないのだ。

 アンデッドは生者より優れた点を幾つも持つ。疲労しないし恐れない、痛みを感じず食べなくても寝なくてもまるで問題なく動き続ける。それは戦う者として見た場合、大きすぎる利点だ。それらは長期戦となった場合これ以上無い程のアドバンテージとなる。

 

 だからこそ、

 

「短期決戦……! どりゃああああっ!」

 

 両手で棍棒を握りしめ、レアルトは大上段からの振り下ろしを敢行。下顎と後頭部を残した顔面と頭頂部を粉砕し、

 

「うらぁ!」

 

 棍棒を短めに持ち直すと、やや窮屈な姿勢に腕を畳みながらも豪快なスイングで半壊した胸部にもう一撃。残りの胸骨肋骨諸共背骨を叩き割り、身体を両断する。頭部の半分と上半身を失ったスケルトンは不法投棄のゴミクズに紛れ、地に横たわった。

 

 レアルトは肩で息をし、ほっと胸を撫で下ろす──寸前で、スケルトンの残骸から急いで離れた。

 

「確実に倒せたか、外見での判断がし辛い為、完全に動かなくなるまで油断は禁物──ですよね、隊長」

 

 昇進した上司の教えを反芻し、用心深く半ばバラバラになった白骨を窺う。死んだふりをする知恵など無いと分かっていても、どうしても不安なので試しに不法投棄物を投げつけてみたりして、ようやく倒せたらしいと安堵の息を吐いた。

 

「っはぁー……すぅー……はぁー……」

 

 何回も深呼吸をし、息を整える。緊張感で誤魔化していた酒酔いが出たのか、少しふらついて壁に手を付いた。警備兵であるレアルトにしても、たった一人で、しかも棍棒だけでスケルトンと戦うのは初めての経験であった。日頃の訓練で手を抜かなくて良かった、と厳しい上司に感謝する。

 

「墓場や戦場ならまだしも、こんな街中でアンデッドが出るなんて明らかな異常事態だ。夜警の連中に報告して警戒態勢と事実関係の調査を願い出ねぇと」

 

 一体何故こんな所でアンデッドが発生していたのか。大昔に此処で人死にがあって、長い年月をかけて妄念によってアンデッドと化したのだろうか。それとも公都のど真ん中で死霊魔法を行使した者でもいたのだろうか。アンデッドは自然発生するものの他にも、なんらかの特殊技術や魔法によって発生もしくは作成・創造されると聞いた事がある。

 

 どちらにせよ、迅速な対応が必要だった。この場にはレアルト・ムーアの様な若年の警備兵では無く、専門家によるきちんとした捜査と情報収集が必要なのは明らかだ。

 

 アンデッドは死と縁深い場所で良く出没する。分かり易い例では墓場や戦場だ。公都の墓地区画の様な手入れの行き届いた場所であっても、そこそこの頻度でアンデッドが湧くのだ。

 そして質が悪いのは、アンデッドの存在はアンデッドの発生を促進するらしいという事。帝国と王国の国境付近には年中霧で覆われたカッツェ平野があるので有名である。其処は霧の中にアンデッドがうようよいる上、エルダーリッチ等に代表される強力なアンデッドも多数存在するらしい。

 

 もしかしたらこんな街中にスケルトンが現れるという今回の異常そのものが、強力なアンデッドの存在によって起こった事態なのかもしれないのだ。

 

「こんな夜中じゃなかったら近所の住民に伝えるように頼んで、その間に俺が此処を固めて誰も入れないようにするんだが……俺、結構デカい声で叫んだよな? 物音もしてたし、両隣の奴は起きてこないのか?」

 

 余程寝入りが深いか、何らかの荒事と判断して関わり合いにならないように避けているのかもしれない。兎も角彼は灯りを拾い──

 

「もう一体いたりとかしないよな……」

 

  走り出す直前、アンデッドが今の一体だけとは限らない事に気付くレアルト。自分が走り出した後で通りがかりが襲われたのでは洒落にもならんと、出来るだけ早く周囲を見回り、改めて走り出した。

 




※公国の禁忌の魔導書と公都に現れたアンデッドは別口です。分かりにくかったらすいません。

捏造設定:警備兵は公国が貧乏だった時代に「騎士より掛かる金が少なくて練成期間が短く補充しやすい、そこそこの力量を持つ治安維持要員」として作られた。昔は民衆からやや評判が悪かったが、今はもう長年のイメージ向上努力によって民衆の間に誉れある職として根付いている。


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黄金のラナー

 

ラナー・ティエール・シャルドルン・ライル・ヴァイセルフ。黄金の異名を持って讃えられる、輝かしい容姿と心を生まれ持った少女である。

 

 リ・エスティーゼ王国第三王女としてこの世に生まれ落ちた彼女は、人として望まれる全てを合わせ持っていた。

 神の創造物を思わせる神々しき美しさ、弱き者達の為に手を尽くす慈悲深い精神。無限の優しさと慈しみを持った心。様々な政策を考え出す溢れんばかりの叡智。一つとっても人の身には過ぎたる宝物を、三つ四つと持って生まれたのだ。

 

 周辺国家に知れ渡ったその美貌。

 色素の薄い金の長髪は太陽光を受けて正に黄金の様な輝きを放ち、見る者の目線と共に心を奪った。もし仮に少女が街中を出歩けるような身分に生まれ育ったとしたら、彼女が道を歩くたびに通行人が足を止めた事だろう。宝石の如き青の瞳は純真なる無垢と清らかな心の有様を体現したかのようで、暖かい眼差しは見る者の心を優しく見通す。

 

 誰よりも優しき心は美貌に劣らぬ輝きを持っていた。

 奴隷制度の廃止を初め、彼女が提案する政策は、弱き立場の民草を想ってのものである事が多い。理知にも優れた彼女の発案は平民だけでは無く、結実すれば国そのものの強化や盤石化に繋がる政策だったが、第三王女という立場に生まれた彼女には貴族たちとのパイプが無く、そもそも日の目を見る事すらなく潰える事の方が多かった。

 

 そうして、民を想っての政策が体面をばかり気にした貴族の横槍によって消え行く度に、優しい少女は人目を忍んで泣き濡れた。唯一傍に侍る事を許した兵士、クライムの前でのみ嘆き悲しんだのだ。そうして弱い自分を外に出す事を、気丈に振る舞おうとする彼女は良しとしなかったのだろう。

 だから唯一心を許した男の前でだけ泣き、また国の為民の為に全力を尽くすのだ。

 

 少年と青年の境に位置する年齢のクライムは、本来ならば王族の傍に控える事が許される様な生まれでは無い。ラナーが雨の中で死にかけている彼を救わなければ、何が不幸か何が幸福かも知らずに死んでいただろう。

 

 彼には姓が無い。あるのはただクライムという名前のみだ。

 彼には親がいない。生物学的な母親と父親は無論存在するだろうけども、保護者として傍に居てくれる両親を生まれながらに持たなかった。

 幸せか幸せでないかで言えば、紛れもなく不幸な子供だった。しかし当人はそもそも『幸せ』を味わった事が無い為、不幸がなんなのかすらも分からなかった。日々の辛い暮らししか知らず、それが日常で、全てだったから。

 

 この世界のどこの国にも一定数存在する貧困層の更に下層の存在として一人として生まれ──庇護者もおらず仲間もいなく、まるで野良犬か何かの様に残飯を漁ってどうにか日々を生き、そしてそんな生活すら悪い方に傾いてあっさり死ぬ。

 

 ──あの日あの時の出会いが無ければ、間違いなくそうなっていただろう。

 

 死の間際にいた彼に手を差し伸べてくれたのが黄金の少女、ラナーだった。それはクライムにとって、天に輝く太陽が直接自分に救いの手を差し伸べてくれたのと同義の出来事。

 

 その日、ラナーはクライムにとっての全てとなった。時が経ち、クライムはラナーの支えとなった。

 

 敬虔なる信徒が神の教えに忠実に日々を過ごすのと同じく、否、むしろそれ以上にクライムは彼女の為に尽くした。あの日の恩を返す為、自分を人間にしてくれた少女に報いる為──身分違いは百も承知の恋心を只管に押し隠し、ただ一心に励んだ。

 

 仕える主──あらゆる全てに恵まれ、しかし周囲の不理解が為にその行いが結実しないラナーと違い、クライムには際立った才が全くなかった。身体、知恵、武、魔法。どれをとっても素の才覚は平均かそれ以下。

 才ある者なら障害にもならない些細な壁が、彼にとっては不破の絶壁となってしまう。全てを鍛えては何者にも成れない。一つを徹底的に鍛えても天才や秀才を超えられない凡才。それがクライムだった。

 

 それでも彼は唯一の取柄ともいえる忠誠心、ラナーに対する感情によって、尽くせる限りの努力を尽くしに尽くした。牛歩の速度で上達し、限界の壁に体当たりを続ける日々。

 

 狂信に近い想いに支えられた反復練習によって、剣の腕は冒険者で言う銀~金級にまで到達した。もしも仮に敵がオーガや虎、羆程度であれば十分に打倒し得る腕前である。凡人が努力だけで得られる強さの限界点と言っていいだろう。それでも彼は満足しない。むしろより強くより役に立てる自分に、主に恥じぬ自分にと努力を続けた。

 

 美しく賢い清純な姫君と非才で直向きな兵士。無限の尊敬と憧憬と忠誠、そして生涯隠し通すと決めた恋心を抱えたクライム。無垢の信頼と信用、自らが拾った少年にやや過大な寵愛を抱くラナー。

 二人は詩歌や歌劇の中の登場人物の如き組み合わせだった。

 

 もしも安寧の世に生まれたのだったら、二人は添い遂げられないなりに幸せになれたかもしれない。しかし、二人が出会ったこの世はこの国は、安寧とも平穏とも程遠い時代の真っただ中だった。

 

 今現在、王国は崩壊の瀬戸際にある。昨日も今日も、そして恐らく明日も、国のどこかで混乱が起き、民は怒りと悲しみに叫び、貴族は仲間割れや独断専行を繰り返すのだろう。

 

 リ・エスティーゼ王国は──滅びようとしていた。

 いや、一部分においてはとうの昔に壊死していたやも知れない。ただ国という巨大な図体の生き物は、一箇所二箇所が腐り落ちても死に掛けても、短い間ならさも問題が無いかのように振る舞う事が出来てしまうのだろう。

 

 何時か死ぬという未来から目をそらし続ける限りは。その死の瞬間までは。死んだ部分から全体に波及する歪みや腐敗を見て見ぬ振りをする限りは──

 

 

 

 

「失礼、いたしました。ラナー様……」

 

 クライムはラナーの私室を退去した。その背中は、普段から主に相応しい兵士であろうと己を律する彼らしくなく、小刻みに震えていた。硬く引き結んだ唇からは今にも苦鳴が漏れ出そうで、しかし鋼の如き精神力により、寸前で律されている。

 

 ほんの僅かな間その場に佇んだ彼は、部屋の中から漏れ聞こえる嗚咽に背中を押された様に歩き出す。何処に行くのか本人にも分からない。主人の命──否、頼みだけが彼を動かしていた。

 

『これ以上情けない処は見せられないから──クライムには、見せたくないから』

 

 主はそう言った。痛々しく泣き腫らした顔から新たな涙を零しながら、それでも微笑んで。

 また頑張る為に、また自分の出来る事を一生懸命やる為に立ち直ると。その力をクライムから貰ったから、もう大丈夫だと。

 

 クライムの心中に吹き荒れるのは激情。主人以外のありとあらゆるものに対する怒りや憤り──混然とした真っ赤な感情の嵐だった。

 

 王国は荒れ始めている。貴族派閥と王派閥の争いや犯罪組織の横行、近隣国からの侵攻などの問題を抱えた国ではあったが──これ自体は、程度を無視して言えばいつの時代の何処の国にも少なからずあった問題なのだけど──それらの問題が、多様化かつ甚大化してきているのだ。

 

 王国はクライムやラナー、ラキュース等の目線で見ても問題が多過ぎ、そして重大過ぎた。

 外部の脅威に対してさえ団結出来ないほどの行き過ぎた対立構造、足の引っ張り合い。数代に渡って裏組織と関係を持ったせいで、連中の操り人形と化した一部の貴族。そういった者たちが各所に圧力を掛けるせいで機能しない司法。将来的な税収の低下に繋がり、回り回って自らの首を絞めるにも関わらず徒に平民を虐げる者達。

 

 帝国との戦争に公国が加わり一層不利になる前ですらその有様だったのだ。今は全般的にもっと酷い。情報の誤認や風説の流布により、味方同士で権力では無く武力での闘争が勃発する可能性すら見え隠れしてきている。今まではそれ程多くなかった平民の逃散や反乱の傾向すら見え始め、国全体が軋みの如き鳴動を奏でていた。

 

 クライムは骨が軋むほどの力でもって拳を握り締める。各所に立つ騎士たちに見咎められぬ様、平常を保って歩くのが困難な程の怒りを抱えていた。

 

 王は近頃心身ともに疲労を抱え過ぎたのか、何時にも増して顔色が悪い。問題を解決すべく全力で執務に励まれているのに、状況が好転する兆しは見えない。懐刀たるガゼフ・ストロノーフ王国戦士長とその戦士団も王の手足となり働いているが、相変わらず貴族に嫌われている為、今まで以上に横槍が絶えない。

 

 数少ない良い変化を挙げるなら、今まで両派閥間を行き来する蝙蝠として知られてたレエブン候と、ラナーを化け物と言って憚らなかったザナック第二王子が、実は誰よりも王国の将来を真剣に考える者だったという事実が発覚した事だろうか。

 

 彼らの立場は表向きには変わっていない。表立って統制を取り出すと四方八方からあれやこれらと口出しに横槍を受けるからだ。だからこそ今までは陰で両派閥間のバランスを取り、裏切り者や卑劣漢に情報が渡らぬ様努力してきた。

 

 『屑は裏切りを、アホは権力闘争を、馬鹿は不和を撒き散らす』──自分とその派閥の者以外の貴族の元に賢い者がいないという有り得ない状況の中で足掻き奔走し続けた男、レエブン候の心の叫びである。

 

 ガゼフは、今まで候を良く思っていなかった。それこそ、両派閥間を飛び回って暗躍する蝙蝠という異名の通りに嫌悪していたとさえ言っていい。クライムも良く分からない人物だと思っており、好感も嫌悪感も、はっきりとした感情を抱いていなかった。

 王派閥の陰の支配者。王国の崩壊を驚異的な政治手腕で防いできた功労者。レエブン候の真の姿を知った時、二人は己の不明を深く恥じた。蛇蝎の如く嫌ってきたレエブン候、良く分からない人物だったレエブン候こそ最も王の為に力を尽くしてきた人物であるという事実は、二人が培ってきた宮廷内の世界観に革命を齎すに足る衝撃であったのだ。

 

 レエブン候と候に従う者たちが、裏で限られた相手に対してのみとは言え自分がやってきたことを明かし、協力と団結を求めたのは──そうでもしないと本当に王国が持たない、という冷徹な予想があったからだ。

 

 下手を打てば今年、下手を打たずとも来年、ありとあらゆる全てを精一杯上手くやって再来年。──何の対策も取らず、座したままの今まで通りで王国が持つ年数を、レエブン候が予想したものである。

 今のままでは今年の戦争で王国が帝国に敗れる可能性すらあると察し、志を共有出来る者たちで徒党を組もうと候は考えたのだ。今現在王国の中枢で足掻いているのは王とザナック第二王子にレエブン候とガゼフ、ガゼフ率いる王直轄の戦士団、王と候の元に集った貴族とその配下、ラナーとクライムに、戦力として限定的ながらも蒼の薔薇と朱の雫。

 

 錚々たる面子である。王国の内部にこれ以上の能力と人格を併せ持った人間はそうはおるまい。悲しいのは、それでも王国内部において多数派では無いという一つの事実だ。数が足らないし、頭脳も戦力も勢力も足りていない。

 王であるランポッサⅢ世はリ・エスティーゼ王国において最大の勢力を有する領主、レエブン候は各分野の中で一つくらいは王を凌ぐと称される六大貴族の一角、ザナックは第二王子、ラナーは第三王女、レエブン候と王に従う貴族の中にもそれなりの権力と地位を持った人間はいる。

 

 この面子は例えで言うと『王国内権力者ランキング』の様な物を作ったと仮定した時、上位百人に位置する者達も多くいる。王、レエブン候、ザナック王子の三人は間違いなく十指に位置するだろう。ラナーは貴族とのパイプ持っていない上に未婚だが、その善行と人格により国民に慕われている。

 

 大きな力に思える。それでも足りないのは、同じく十指以内に位置し第一王子バルブロを擁する六大貴族の幾人かが敵方に寝返っていたり、はっきり敵方に付いた訳では無いが王国に居続ける事が利益になるか思案している最中であったりする為である。その者達の配下や派閥の貴族たちも同様で、酷い者になると『帝国も公国も恐るるに足らず、敵対派閥さえ打倒したら全ての問題は解決できる』と考えている者が未だに存在する。

 

 もう一度言おう。ランポッサⅢ世、第二王子ザナック、第三王女ラナー、六大貴族の一角たるレエブン候、周辺国家最強の戦士ガゼフ・ストロノーフと蒼の薔薇と朱の雫。そして彼ら彼女らの元に集った貴族や兵士、騎士、戦士。これだけの面子をもってして尚、王国の意思を統一し、生き残り勝ち残るという一致した目的に動かす事は難しい。

 

 『強い権力を持っている人間が複数集まった』程度の対策で国の淀みを一掃してしまえるのだったら、そんな事はもっと以前にやっていただろう。王国は確かに甚大な問題を多く抱えていた。だが、王国を愛し、救いたい、良くしたいと思っていた権力者は何時の時代にも存在したのだ。今の時代にもこれだけの面子が王国を、王国の民を救いたいと思い行動している。

 

 恐ろしいのは奇々怪々にして跳梁跋扈、人の形をした権力と欲望の魔物どもの悪意と、人間が誰しも持っている愚かしさの積み重ね、其処に付け入る者共の悪辣さである。

 人間集団で生きる限り誰も社会と無縁ではいられず、善人たちは国家の空中分解、内乱による自滅を回避するために細心の注意を払わざるを得ず、そうこうしている内に優勢の敵は更なる一手を打つ。それがまた状況を悪化させる。

 

 王国は荒れ始めている。今年は何とか戦の体を成すだろうが、来年はそもそも戦場に軍を展開させる事も出来るかどうか。

 犯罪組織は活動を複雑に活発化させ、その煽りを受けた走狗の貴族は奔走する。敵国の靴を舐める欲の亡者は日増しに増え、滅びの気配を嗅ぎ取った民は不安に胸を焦がす。

 

 ──賢く優しい王女は今日も泣き暮れる。知恵を絞り力を尽くし、それでも全員は救えないと涙を流す。

 

「ラナー様……」

 

 気付けばクライムは自分の部屋にいた。ロ・レンテ城を守る十二の塔一つにある彼一人だけの部屋だ。決して豪華でも豪勢でもないが、第三王女付きとはいえ一兵士であるクライムにとっては過分とも言える待遇の一人部屋。

 

 何時の間に此処まで歩いてきたのか記憶が無い。今の自分の身体の状態すら定かでない。唯々胸が痛く、怒りを湛え、無力感に苛まれていた。

 

 ラナーはこの所毎日泣いている。

 以前の何倍も叡智を絞って様々な策を考え出し、蒼の薔薇や腹違いの兄、レエブン候と協議をし、どうにか王国を──一人でも多くの民草を生かすべく努力し、そうして忙殺の中で一日が終わり、明日もまた動き続ける為だけに休養を取る。取らねば倒れる。天才的な賢さを持つラナーが倒れれば、王国は大きく滅びに向けて歩を進めるだろう。そんな事態を引き起すわけには行かないから、逸る心を静めて休む。

 

 眠りに落ちるその間際に僅かな時間だけ、ラナーは嘆く。慈悲に溢れる優しい王女は、自分にもっと権力があれば、自分がもっと賢ければ、自分がもっと頑張っていればもっと多くの人を救えただろう、と。苦鳴を漏らす。それを慰め、励まし、宥めるのはクライムの役目だ。

 

 ラナーは王国を取り巻く環境がどんどん悪化してくるに連れ、クライムにより長く自分の傍に居る様にと懇願した。今では彼女が起きている時、クライムは出来る限り傍に居る。傍で支えになり続けている。

 

『ラナー様は誰よりも民の為に努力しておられます。その働きによって救われた人々は数えきれないでしょう』

 

 必死でラナーを宥める度、クライムは思わずにはいられない。何故この王国でも最も優しく優れた人物である主が嘆かねばならないのか、と。

 

『無駄などではありません。ラナー様の成す事は他の者には出来ない事ばかりです。例え実際に手を伸ばす事は叶わずとも、誰よりも民の為に心を砕いておられるでは無いですか』

 

 何故太陽の輝きを放つ筈の顔が、涙を流さねばならないのか。クライムは主人を悲しませる全てが許せなかった。王国の地を汚す帝国も公国も、足を引っ張るばかりの一部の貴族も、民を食い物にする犯罪組織も、全てが憎くて堪らなかった。

 

『ラナー様……どうか泣かないで下さい、ラナー、様……』

 

 そして──王国で最もラナーを敬愛し、尊崇しているだろうクライムが何より許せないのは、クライム自身であった。

 

 智に優れる主やザナック第二王子、レエブン候。

 武勇において並ぶ者なしと讃えられるガゼフ・ストロノーフ戦士長、人類の切り札たるアダマンタイト級冒険者である蒼の薔薇に朱の雫。

 数多の経験を持ち、王としての正当な血統と権威を持つランポッサⅢ世。

 集った数多くの兵士に騎士、戦士と貴族たち。

 みんなが王国を滅びの定めから救うべく働いている。それはクライムとて同じだ。ラナーの傍に唯一侍る事を許された兵士として、一秒も気を抜かず主の傍で主を守り続けている。出来る事を目一杯の精一杯にやっている。

 

「くっ……ぐう、ぅう……」

 

 歯も砕けんばかりに噛みしめた青年の口から嗚咽が漏れる。断じて泣かじと鋼の意思で抑え込もうとするが、漏れる声は途絶えない。滲む涙で視界がぼやけていく。

 胸に走る激痛は自責の念と無力感、自己嫌悪。

 

 ──何故、自分はこんなにも弱い。

 

 ラナーによって命を救われたその日に誓った筈だ。救ってもらったこの命の全てをラナー様の為にと。受けた恩を必ずやお返しする為にと。黄金の笑顔を曇らせない様にと。そうして死に物狂いで努力を続けた筈だ。限界の限界にまで肉体を酷使し、ただひたすら主の為に──

 

 例えばクライムがかの十三英雄に匹敵する剣の使い手であれば、魔法詠唱者であれば、知恵者であれば。その力でもって苦難を払い、王国を救い、主に安寧を齎すことが出来た筈だ。

 其処まで荒唐無稽な力を持っていなくとも、周辺各国に名が知れる程の剣士だったら、魔法詠唱者だったら、知恵を持っていたら、主の力になれた。主の負担を減らし、手足となって人を救う事が出来た。

 

 クライムには何もない。実力が無い。才能が無い、知恵も無い。

 剣の腕は王国の兵の中では手練れである。農民にただ武器を持たせた様な兵では、十人いようとクライムは倒せないだろう。かの帝国四騎士相手は無謀としても、ただの帝国騎士であれば十分に倒し得る強さを持っているのだ。

 

 人によっては十分強いではないかと言うかもしれない。だが、クライムにとってその程度の強さを持つ事など慰めにもならない。彼の目指す目標は、努力しても努力しても届かない目標は、もっともっと高い所にあるのだから。

 

 それに、クライム自身考えるまでも無く分かっているのだ。この王国の窮状に対して、高々十人力二十人力の強さを持つ兵士が一人いた所で焼け石に水である、と。

 文字通り単身で一千の兵を打倒し得る一騎当千の戦士、ガゼフ・ストロノーフの存在ですら、何万何十万がぶつかり合う戦場においては『無視できない大きな個人』でしかないのだ。その存在感は巨大で強大だか、帝国もそれは重々承知の上で戦略と戦局を組み立てている。

 

 圧倒的強者であれ、絶対的要素とはなり得ない。なっていたらこうも毎年攻め込まれていないだろう。

 

 五宝物を装備したガゼフ・ストロノーフでもそうなのだ。それより圧倒的に弱いクライムに何が出来ようか。戦場という海と比べてガゼフが湖の大きさとすれば、クライムは大きめの水溜りでしかない。

 

 主の愛する国が滅びゆくその瀬戸際に、ただ励ます事しか出来ない。ただ支える事しか出来ないのだ。自分より遥かに優れた人間であるラナーに声を掛ける事しか──今まで出来なかった。

 

 ──自分の様な無能な人間を傍に置いているせいで、ラナー様にご迷惑をおかけしている。

 

 そうであってはならないと剣を振ってきた。勉強をし、振る舞いを身に着けた。だがどれもこれも常人の域を出ないのだ。クライムとは比べるのも烏滸がましいほど武に優れたガゼフ、智に優れたレエブン候の様に職務をこなせない。

 

 自分に彼らの様な力があれば、主の嘆きをもっと減らせただろうに。主が愛する王国の民を救えただろうに。

 クライムにはただ傍に居て声を掛ける事しかできな──かった。

 

 今までは。

 

『お願い、します、く、クライム……』

 

 クライムはラナーに恋心を抱いている。それは自分で分かっている事だし、周囲の幾人かもそれを察している。身分違いにも程がある、明かすべきではない恋だ。成就など夢想する事も許されない恋だった。

 だから今まで押し隠し、律してきた。履き違えてはいけない。本来ならお傍に仕えるどころか近くで見る事も出来ない程尊いお方なのだからと。拾われた恩を返すために傍に居るのに、そんな事は許されないと。

 

『お願いです、クライム……』

 

 今日、その誓いを破った。

 一兵士の領分を超え、自らに課した掟を台無しに、尊崇する貴き主に触れた。

 

『抱きしめて、くれませんか……?』

 

 泣き腫らした顔が余りに悲壮で、愛する民の為に涙を流すその様がただ可哀想で、ほんの少しでも僅かでも力になりたくて。

 

 ──他に出来る事など無いと自分で分かっていて。

 

 クライムはラナーを抱きしめた。その涙を白銀の鎧の胸で受け止めたのだ。そうして耳元で慰めの言葉を囁き続けた。愛する女をこの手で抱きしめているという幸福を、いくら消そうとしても消えない嬉しさを、男の喜びを胸の奥に抱きながら。

 

「ラナー様……申し訳ございません、ラナー様……!」

 

 嘆くばかりではどうにもならない、実際の行動が必要だ。まだ寝入って体を休める方が明日への活力となるだけ有益だろう。自分の中の強情な部分がそう理屈を語るが、まだ少年と青年の境に達したばかりの年齢であるクライムには、己を責める声を断ち切る事が出来なかった。

 押し殺した慟哭は何時までも続く。響く嗚咽は石造りの塔に遮断され、誰の耳にも届くことは無かった──

 

 

 

 

 同時刻。その室内には幸せそうな笑い声が充満していた。聞いた者をも幸せにしてしまいそうな、喜色に溢れた乙女の美声だ。

 リ・エスティーゼ王国第三王女ラナーの自室を出所とするこの声は、当人以外の誰の耳にも届いていない。声の主が頭のどこかに冷静さを残しており、声の大きさをセーブしているからだ。扉の外に立つ不寝番の騎士も気付いていないだろう。それ程小さく秘められた声なのだ。

 

「やっとクライムが私を抱きしめてくれたわ、ふふふ」

 

 部屋の中にいるのは当然部屋の主であるラナーだ。

 

 心優しく慈悲深い第三王女。神々しき美貌と叡智、それに劣らぬ慈愛に溢れた人格を持つ美しい少女。黄金の異名を持って周辺各国にも名が轟く人物。

 悪化するばかりの情勢に心を痛め、民を想って毎晩泣き暮れる彼女は──

 

「毎晩泣いた甲斐があったわ。もうクライムったら、もうちょっと早く抱きしめてくれても良いのに」

 

 何処までも嬉しそうな笑顔──輝きの欠けた目以外──を浮かべ、ベッドに身を横たえていた。

 泣き腫らした跡はしっかり残っている。痛々しい顔である。しかし、本人の声と表情には欠片も悲しそうな様子など残留していない。痛みと貧困に喘ぐ民の事など眼中に無いかのように。

 

 民から慕われる優しく賢い王女様、クライムが敬愛する主人としての姿は何処にも無い。其処に居たのは、愛する男に抱擁されたという出来事を喜ぶ一人の少女。

 

 ──化け物の如き本性を秘めた美しい少女。異端で異常な恋する乙女。

 

「帝国も公国も、こんなくそったれな国なんてさっさと滅ぼしてくれないかしら」

 

 口の端に笑顔の欠片を残しながら、ラナーは一転して温度の消え失せた声色で呟いた。その内容は誰もが絶句するだろう、この少女が言う筈の無い台詞である。ごく一部の例外を除いた殆どの者が幻聴か聞き間違いかと思う、有り得ない筈の言葉。

 

 ──ラナーには、王国と民を思う心など僅かにも存在しない。王国と民のみならず、父も兄も姉も、友と称するラキュースやリリーに対する親愛の情も、一片たりとも存在していない。

 

 彼女の心にいるのはクライムだけだ。彼女の目に映るのはクライムだけだ。彼女の世界に存在するのはクライムだけだ。彼女が必要とするのは──子犬の様な瞳で見つめてくる愛しい青年、クライムだけだ。

 

 彼女、ラナー・ティエール・シャルドルン・ライル・ヴァイセルフの世界は、自分とクライムだけで完結している。

 

 王国が滅びた所で彼女の心は痛まない。王国の民が一人残らず死んだ所で気にも留めない。自身とクライムさえ生き残り共にあり続ける算段が立つならば、他の全てが破滅したとしてもまるで頓着しないだろう。そんな彼女が表向き王国と民の為に尽くしているのは、クライムがそうある事をラナーに望んでいるからだ。クライムが抱くラナー像を壊さない為にのみ、そうしているに過ぎない。

 

 別に精神の均衡を失った狂人である訳では無いのだけれども、それが事実である。それが彼女の異常の一部分。自分と愛する男以外あらゆるモノを価値無しとする世界観だ。

 

 もう一つの異常は、その頭脳。

 例えば全ての人間の賢さを上の上から下の下までの九段階で表すとする。その場合、ラナー・ティエール・シャルドルン・ライル・ヴァイセルフはどの段階に位置するのか。

 

 人類最高峰の智謀を持つ皇帝、ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスを上の上、それに近い見識を備えた公国の大公を上の中、二人に付き従う歴戦の家臣団を上の下としよう。そして、この者共が寄り集まって時間を掛けて話し合う事により、個人の知を超え、集団知により特上の賢さを発揮し得ると仮定する。

 

 それと比べた場合、ラナーの賢さは評価規格外である。

 彼女の頭脳は人間の枠から飛び出し、人外の域すら超えている。この世界の全人類どころかその他の種族をさえ上回る異常な知力だ。

 考える事、考えるという事象に関するあらゆる全ての能力の異常発達。彼女が位置する高みは、人類種より優れた異形の種族のトップオブトップと比較してようやくほぼ同等だろうか。

 

 その力は王国を取り巻く状況が此処まで悪化する以前、権力も権力者とのパイプも無い、手足を捥がれた上に城に軟禁されているのに近い状態で、宮廷内の全てを見透かしていた程だ。兄であるザナック第二王子と幼き頃の彼女を見たレエブン候はその異常性をうっすら予見できていたが、ラナーはその予見すら上回る化け物だった。

 

 ラナーの本性とその天性。この二点を踏まえた上でもう一度王国の状況を考えると、其処には一つの疑問が湧いてくる。

 

 何故そんな、人類の頂点とも言うべき頭脳を備えた人物が日夜働き続けているのに、王国は滅びかけているのかという疑問だ。

 

 先も述べた通り、ラナーの知能は単独で集団知を上回る。そして彼女は現在、以前までと違って王国の中心に位置している。救国の為に集った者達の頭脳として、多くの情報を束ねる位置にあるのだ。国内の情勢も以前より更にクリアに見えているし、帝国と公国の策など情報収集の上で少し時間を掛けて考えれば見通せる。

 

 それでも王国が数年の内に滅びる可能性が濃厚と予想されるほど崖っぷちのままなのは、国内状況が帝国と公国の思惑通りに悪化の一途を辿っているのは、何故だろうか。

 

 ラナーの知能は優れに優れていても、操る手駒が足りないからか。そもそも彼女が手腕を発揮し始める前に、詰みから逃れられない程王国の状況が悪化していたからか。帝国と公国の首脳部と現場の人間が、全力をもってラナーの悪魔的智謀を上回ったのか。

 

 確かに物理的戦力差と劣勢は覆し様が無い程明らかである。この状況を、物理的にあらゆる全てが足りない状況を知恵だけで覆すのは不可能とも言える。

 しかしそれでも、王とレエブン候とザナック第二王子と言葉を交わし合い、彼らの権力と勢力を協議の末で間接的に行使できる今のラナーならば、もう少し何か出来るのではないのか。

 

 何故何もかもが帝国と公国の思い通りに進んでいるのか。人間の域を超えた悪魔的智謀の持ち主の存在など、レエブン候とザナック第二王子という知恵者が身近で見ていてさえ完全には予見できなかったのに。明らかに想定外なイレギュラーが存在するのに、どうして? 

 

 その答えは、

 

「折角私が手伝ってあげているのに、もう少し効率よく事が進まないのかしら」

 

 ──ラナーが王国の内に居ながらにして、王国を敗北に導いているからだ。

 

 彼女は今、王国の中心にいる。数多の情報をその手で直接手掛け、権力者の権力を協議の末間接的に行使できる位置にいるのだ。他人にそうと気取られないように敵を勝たせる事も可能なのである。簡単な事だ。九十九%確実な勝利を応援して、百%にしてあげれば良いのだから。今のラナーにとっては、簡単な事だ。

 

 彼女は王国に利する策を発案し実行に移させる時、その策の実行によって帝国と公国の企みの内最も重要な部分が確実に成功するように王国側をコントロールしている。

 

 王国は彼女の一の働きによって十の利益を得て良い変化が起こる。しかし、ラナー以外の誰の目にも見えていない部分の未来において、百の損が確定する様に調整されているのだ。ただでさえ劣勢なのに、そんな事をされていて勝てる訳がない。

 

 あまり王国側を不利に傾け過ぎると派手に壊れて巻き添えになるかもしれないので、基本的には読み取った帝国と公国の予定に則って調整しているが、彼らの策が予定と寸分の狂いも無く、順調過ぎる程順調に進捗しているのはラナーの補佐のお陰である。

 

 王国は人類で最も賢い頭脳を持つ獅子身中の虫を飼っているのだ。もう一度言おう、勝てる訳がない。

 

 彼女の背反に気付いている人間は現在時点では存在しない。皇帝ジルクニフと大公が作戦の手応えからうっすらと感知し、元から化け物なのではないかと考えていたザナックとレエブン候が彼女を注視しているだけだ。

 

 普通は分からないだろう。誰が思うのだ、誰がその真実に至り得るのだ? 

 二か国の争いを、裏で自国の完全敗北に向けて調整しているたった一人の少女がいるなど。可能だとは思えないし、可能だとしてもそんな事をやる奴などこの世にいないと考えるだろう。考え付く事自体が普通無いが。

 

 だがラナーは出来るし実行する。

 

 先も語った通り、彼女は王国も帝国も公国も、基本的にはどうでも良いと思っている。どうでも良いからこそ、自分とクライムの蜜月を現実のものとする為に全部利用する。

 

 もし万が一億が一、王国が勝つか引き分けるか講和を結んで良い形で負けるかして半端に形が残った場合、ラナーは王女のままでクライムは一兵士のままだ。形式上も実質的にも結ばれない可能性がどうしても残ってしまう。

 

 帝国と公国が勝てば、ラナーは鮮血帝と婚姻を交わす事になるだろう。

 だがジルクニフは損得の計算が出来る頭を持っているし、ラナーを滅多糞に嫌っているので──面と向かって言われた事は勿論ないが、彼女はそれを理解している──『形だけ結婚した上でその頭脳を帝国の為に使うなら後はクライム君とお好きにどうぞ、敵に回ったらマジ殺す』という条件で話を付けてくれるだろう。

 

 だからラナーは帝国を勝たせ、王国を滅ぼすお手伝いをしている。そっちの方が望む未来を実現できる可能性が高いから。

 

 王国を滅ぼす上で彼女が唯一懸念している事があるとすれば、それはクライムに負担を掛けていることだ。今頃自責の念で胸を痛めているだろうと思うと愛しさが込み上げてくる。

 でも、クライムは立ち直るだろう。

 何故ならラナーにとってクライムが全てであるのと同じく、クライムにとってはラナーこそが全てだからだ。ラナーが其処に居れば、クライムは必ず立ち直り、またラナーに尽くす。

 

 そうして、また何時もの様に、あの眩しく純粋な瞳でラナーを見てくれるのだ。

 

 クライムは彼自身が思っているよりずっと強い男だ。それはラナーが一番よく知っている。

 

「ふふ」

 

 小さく笑い、彼女は今日も眠りにつく。愛する男との幸せな未来に想いを馳せながら。明日からもクライムが自分を抱きしめてくれると良いなと、そう思いながら──

 

 その日の彼女の夢は、首輪を付けたクライムとの散策であった。

 

 

 

 

 ほぼ同時刻、公都。某宿の裏の空き地にて。

 

 二人の男女が対峙している。双方とも戦装束では無く、身軽で気軽な恰好である。男の方は小柄な少年の様で、無手だ。女の方は細身の長身で、構えた前手に短剣を持っている。

 

 宵の闇の中では視界が利かず、宿の方から僅かに漏れ出る明かりが光源の全てだ。対峙する二人の力量は少年の方が上手だが、女の方は職業柄夜目が利く。それを踏まえても後者が不利だが。

 

 ──どうしようかな。

 

 少年は思う。自分は拳士系の職業構成、それもモンク系とは別系統だ。殴り合い特化構成と言えばいいだろうか、気によって癒す事も人を操る事も出来ず、そういった特殊系は一切不可能。

 其処だけ聞くと完全な劣化仕様だが、素の殴り合いに関しては同レベルのモンク系構成の者よりは上である。気の制御や使用に使う分の性能が殴り合いに関する性能に集中している為だ。

 普通、同レベルの戦士とモンクならば、正面戦闘は戦士が勝ると言われる。先に挙げた特殊系スキルを持つモンクはその分だけ汎用性があり、故に戦士に正面戦闘で劣る。無論、その特殊性汎用性を生かして立ち回れたならば、モンクが戦士に勝る事とて十分にあり得るだろうけども。後はまあ武器防具の有無や質も差の一部か。

 

 しかし少年は殴り合い特化仕様。今は身に着けていないとは言え分厚い金属鎧を装備する事も出来るし、特殊な事は何もできない代わりに正面戦闘において戦士と互角。腕には自信があった。

 

 しかも眼前の相手は戦士では無く、軽戦士でも無い。前衛ですらない。本来積極的に前に出る職業とは異なる中衛である。

 

 こうしてお互いを眼前に構え、一足の距離に身を置いてしまえば負ける要素はない。殴り蹴り絞め極め投げ打ち空かし捌き、どれをとっても仕留めるに足る相手である。

 

 ──でも、油断していい相手じゃない。

 

 軽んじれば敗ける。その可能性のある相手である。自分が有利にして優位だからこそ、その優れた部分を生かして動き、相手を確実に仕留めねばならない。

 

 ──急く必要は無し。絶対確実に詰め寄って圧殺する。

 

 少年が摺り足で僅かに間合いを詰めようとした瞬間、女は肘から先だけを使ったノーモーションの手振りで短剣を投擲。顔面狙いのそれを少年は構えていた前手で弾くが、既に女は新たに何処からか取り出した短剣を構え直して攻撃動作に入っていた。

 

 速く、そして上手い。機先を制し先手を取ったのだ。

 

 近いが遠い。短剣とは言え武器を持つ女の間合いである。

 軽い振りだが鋭く、短剣を弾いたばかりの少年の前手を切り付ける動きだ。対する少年は牽制気味の軽い刻み突きで拳と刃をぶつけ合わせる狙い、と思わせて、

 

「ふっ」

 

 短い呼気と共に繰り出す本命は下段足刀蹴り。狙いは女の踏み込み足の膝だ。まともに当てれば脚が逆に曲がって使えなくなる。

 

 女は強引に斜め前方へと飛んで回避しつつ短剣を首に走らせようとし、しかしその手首が掴まれる。

 

「捕まえ──た!」

 

 大蛇の如き動きで迸った少年の腕が、僅かに空に浮いた女のベルトをも捉えた。空いている手指で目を狙う女の刺突を額で受けつつ、少年はそのまま体格に見合わぬ剛力に物を言わせて女を持ち上げ、思い切り地面に叩き付ける──

 

「まいった」

 

 寸前でブレーキをかけ、降伏した女を今一度持ち上げてから、直立した状態で地面に下した。

 

「わあい、リウルに勝った!」

「お前なら勝てるに決まってるだろ、俺は斥候兼盗賊だぞ」

 

 先ほどまでのやり取りが嘘のように言葉を交わす二人、イヨ・シノンとリウル・ブラムはお互いに笑みを交換し合った。イヨのそれは無邪気な笑顔で、リウルのそれは苦笑いという違いはあったが。

 

 リウルの発言は正しいものだ。英雄級の拳士であるイヨが、アダマンタイトに近い実力者との評判を持つとは言え、オリハルコン級の斥候兼盗賊であるリウルに一対一の戦闘で敗ける可能性はごく低い。専門が違うしレベルも違うのであるからして。

リウルの専門は正面切っての斬り合い殴り合いではないのだから。

 

「それでも普通の奴よりは正面戦闘もいける自信があったんだけどな。やっぱお前位の相手になると俄仕込みで歯が立つ領域じゃねぇか」

 

 普段は『リウル大好き!』な癖に、試合だ戦闘だとなると全く躊躇わず遠慮せずに殺しに来るのだから、この新人は頼もしい。一番確実な戦闘不能が死亡だという事を弁えている。一応事前にお互い寸止めで、汗をかかない程度に軽く留める事は決めておいたのだが、イヨのやる事は背筋が冷えるほど真剣だ。

 

 ──しかも、前より明らかに強くなってんな。未だ成長の途上って訳だ。末恐ろしいにも程がある。

 

「ちなみにこれが本当の戦いで、相手が敵だったらどうしてた?」

「地面に叩き付けた後、頭か身体を死ぬまで踏み付けて止めを刺す」

 

 この様に、イヨという非常識の塊のような少年が常識を弁えているというだけで、リウルは少し晴れ晴れしい気持ちになる。戦っている時は余計な事を考えずにすむし、こうしていると主にイヨ関連の悩みが消えてなくなったような錯覚さえ覚えた。

 

「正しい対応だ。生け捕りにする必要がある時は半殺しでストップな?」

「はい!」

 

 なんだか目が冴えて眠れないからと始めた鍛錬だったが、たまにはこういうのも良いものだ。

 リウルは晴れやかな笑顔で言い、イヨも勝気な笑みを浮かべて返す。

 

「もう二、三戦いくか。せめて一発はその顔面にぶち込んでやるから覚悟しろ、お子ちゃま」

「ふっふーん。また何度でも叩き伏せてあげるから泣かないでよね、リウル?」

 

 リウルが初手で投じた短剣を懐に収め、イヨは距離を取って拳を構え直す。お互いの笑みが溶け落ちたかのように消え、この上なく真剣な表情に変化。

 

 ──二人の鍛錬はその後も長く続いた。

 




ラナー様はすごく(描写の)難易度が高いお方です。
一応、クライム君が原作より打ちひしがれてるのは、主人であるラナーがこの所ずっと嘆き続けているからで、それに対して無力感や自責の念を抱いているからです。ラナー様がちょっとはしゃいでいるのは、クライム君と一緒にいる時間やスキンシップが充実しているからです。

以下、王国の現状↓
野望の鮮血帝・ジルクニフ「さあ、我らが」
服従の補佐役・大公「腕の中で」
恋する獅子身中の乙女・ラナー「滅びるが良い」
王国「」

ちなみに法国は帝国との外交に注力しているので、王国をほぼガン無視してます。相変わらず戦争の際は声明を出してますが、文面はちょっと帝国寄りに変化してたり。

活動報告の方で作品に関する質問等に回答してます。拙作の内容について疑問を感じられた方はどうぞお気軽にご質問して頂けたらと思います。


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レベルアップ:前編

 公都は都会である。断じて都会である。帝国や王国の首都と比べたら規模も小さいし人もいないが、公都在住の公国人はみんな口を揃えて言う。『デカけりゃ良いってもんじゃない、趣きと人情味なら公都が一番だ』、と。

 

 ちなみそう言う者達の殆どは他国の首都を見るどころか公国から出た事すら無いのだけれども、まあそこの所はご愛敬という奴である。

 この世界で国境を跨ぐ様な旅をする人間は全体数からすると極々一部、冒険者に商人と侵攻する軍人位だ。圧倒的大多数の人間は普通、生まれた町や村から出る事も少ない。隣町もしくは隣の領地に行く様な短い旅でも、一般人からすれば結構な大冒険である。

 

 そんな訳で公国が誇る大都会たる公都は、一国の首都だけあってそれなり以上に栄えている。近年は上がり調子の経済のお陰か、一層その傾向が強い。適当な酒場にでも足を踏み入れれば、仕事終わりの一杯を酌み交わす労働者諸氏の喧騒を目の当たりにする事が出来るだろう。

 

 景気が良いと人や物の流れはより活発になる。活発になるとそれがまた人と金の流れを生む。人と金の流れは物流を呼ぶ。世の中はそうして回っているのだ。普段国家等という大きなモノの存在を意識しない一般市民にとってさえ、雇用の充実や自己の生活の向上が起きれば、『最近の公国、良い感じだよなぁ』と思ってしまうものだ。

 んでもってつい気紛れを起こし、『皇帝陛下も大公殿下もあんがとさん、これからも頑張ってくだちゃい』とか言ってみたりしちゃうのである。本人を目の前にしたら絶対言えない台詞だが。

 

 公国という国は元から帝国ありきで成り立っている部分が多々ある。現在の好景気も帝国の順調な経済成長を受けた輸出入の増加及び活発化が根底にある事は、大抵の国民がそれとなく判じている事であった。

 

 元から公国人の多くは帝国に好意的だ。歴史書の一冊も紐解けば公国は帝国から分かれて出来た国だと書いてあるし、長い間友好的に協力し合ってやってきた歴史があり、経済的にも非常に密接なのだ。公国人は極自然に、帝国に対して親しみを抱いてきたのである。

 

 かの皇帝は鮮血帝なんて呼ばれているから実は怖いのかもしれないが、遥か遠く離れた公国に住んでいる人々にはそんなもの関係ない。『その異名だって駄目な貴族を処罰したのが元らしいじゃないか、俺達平民に横暴しないんなら別に良いんじゃない?』とすら思っている。家門を潰された当の貴族からしたら堪ったものではないが、対岸の火事を眺める人というのは得てしてそんなものだ。

 

 今日を生きる国民にとって重要な事は、自分と自分の周囲の人々が幸せか幸せでないかだ。もっと言うと、満足に食べていけるかそうでないかだ。お上は色々と難しい舵取りをせにゃならんのかもしれないが、国を栄えさせる指導者は基本的に好かれる。廃れさせれば当然嫌われる。

 

 人間、生活に余裕が出てくると、良くも悪くも心にも余裕が生まれるのである。

 

 ──なんだか負けそうらしい王国はちょっと気の毒だけど、勝てば帝国と公国はもっと栄えるのだろう。うちの大公殿下も皇帝陛下と仲良いらしいし、何よりだな。

 

 そろそろ例年の戦争の時期だが、国民性からして楽天家一歩手前の前向き気質である公国の民草はそんな程度に思っていた。

 

 

 

 

 そんな公都の中にあって、四六時中鋼のぶつかり合う音が鳴り止まぬ場所がある。

 

「おらぁ、気張って声出せやぁ! そんな様でモンスター相手に戦えると思ってんのか、このひよっこ共が!」

 

 近隣を通れば、木製の塀の向こう側から響いてくる大声に思わず首を竦める事もあるだろう。

 その場所は騎士や警備兵の訓練場では無い。しかし、金属鎧が鳴らすがちゃがちゃとした騒音や、振るう武器が空気を切る音、裂帛の叫び、肉を打つ痛烈な打音を不思議がる者はいない。

 

「いけっ! ド新人相手に腰が引けてる様じゃアダマンタイトなんざ夢のまた夢だぞ、根性見せろ──と、おいそこ! きちんと受け身を取らねぇから転がされる度に無駄に痣作る羽目になるんだ、立ち上がりも遅すぎるぞ! もっと基礎を身に付けろ!」

 

 其処は冒険者組合裏手の習練場である。対モンスターを得手とする冒険者達の多くが汗を流す場所だ。何時の時代でも五月蠅い位の賑やかさを誇った場所だが、最近は殊更多くの人が集い、何時にも増して熱狂している。

 

 その理由とは、

 

「ありがとうございました! ──お願いしまーす!」

「今日こそてめぇから一本取ってやるぜ!」

「返り討ちにしてやりますよー!」

 

 ある人物の存在だ。

 

 その人物を見て第一に湧いてくる感想は『小さい』だろうか。

 

 その者──イヨ・シノンは小さい。身長的にも年齢的にも。外見年齢は十三から十四歳ほどで、身長は百五十センチメートルちょっとしかない。約百五十センチと言えば、十二歳六か月の男子女子の平均身長とほぼ同等である。かの者の実年齢が十六歳である事を考えると結構な短躯という事になる。

 

 冒険者の中でも前衛系が多く集っているこの場に混ざると、対比でより一層小さく感じた。屈強な冒険者諸氏ならば、猫の子か何かの様に片手で摘み上げる事も可能だろう。

 

 第二に思う事は、外見に対する感嘆だろうか。

 

 イヨ・シノンは紛れもなく男性だが、大層可愛らしい子供であった。御淑やかな表情を浮かべて着飾りさえすれば、深窓の令嬢と称しても疑う者はいないであろう。健康的で艶の良い色味の唇、生気を宿して輝く眼、適度に細く、しかし柔らかそうな四肢。繊細さの中に強靭さを秘めた細い手指。部分部分を挙げてさえ、幼さ故の魅力に溢れている。

 

 その外見について普段と違っている所を挙げるとすれば、傷の多さだ。

 

 赤黒く変色した蚯蚓腫れ、皮膚がずる剥けて血の滴った拳、こめかみの大きな瘡蓋、親指の爪が剥がれた右足、踏まれて骨に罅が入り腫れ気味の左足、無数の打撲、切り傷。他多数。手当こそされているものの、イヨは全身傷だらけである。

 まあこれくらいは練習してれば日常茶飯事だし、大なり小なりみんな何処かしらは怪我しているので、本人含めて誰も気にしていなかったりするが。

 

 上は下手くそな毛筆の公国語で『拳』と書かれたTシャツ一枚、下は空手道着、足は裸足。マジックアイテムも含め、他には一切何も身に着けていない。全身汗だくで、身動きの度に三つ編みにした白金の長髪が鞭の様に空気を切り裂いていた。

 

 彼はこの場で最も注目を集める存在であり、熱気の中心であり、最も人気のある人間であった。

 

 一応言っておくと、注目を集めているのは子供が珍しいからではない。容姿が優れているからでも無い。熱気の中心というのも、子供の体温が大人と比べて高い事とは無関係だ。容姿や人格も人気の直接的な原因ではない。

 

 実際問題、この場にいるイヨ目当ての人間に『あの子可愛いっすよね』などと声を掛ければ『んな事ぁ知らんわボケェ! 次こそはあの面に一発ぶち込んでやるんだよ! それまで俺は何十回でもあのガキに挑むって決めたんだよ!』と逆切れされかねない。

 

 散々引っ張ったその理由は──

 

 

 

 

 肋骨の隙間に差し込まれた貫手が男の肺を強打した。痛み等という言葉では到底収まらぬ苦痛に、幾多の経験を積んだ冒険者たる男も思わず身体を折る。その瞬間、襲ってくる浮遊感。

 

 思考の空白を縫う様な機を捉えた投げであった。受け身は無論取ったが、大地に叩き付けられる強烈な衝撃が全身の感覚を奪い去り、秒単位の行動不能を齎す。

 

 秒単位……一瞬一瞬を争う戦いの最中に在っては巨大に過ぎる隙である。余程の未熟者でもない限り、武術を身に着けた者ならば隙を見せた者を数回分は殺傷して余りあるだろう。

 

 貫手と投げ、二度の苦痛を受けても尚閉じなかった男の目に映るのは晴れやかな青空と、寸止めされた踵蹴りであった。

 

周りで見ていた者達も、喰らった本人たる男も思わず感心する様な妙技。

 

「ありがとうございました!」

「クソ、また負けたか。やっぱり強いなぁ、お前」

「ふふん、それだけが自慢なのです」

 

 ──イヨがこの場で最も大きな存在である理由。歳でも容姿でも無いそれは単純な事だ。

 イヨがこの場で最も強い。自身より遥かに大きく断然重い相手にもまるで屈さぬその腕前は、既に超一流の領域に達していた。

 単純に腕前で言うとアダマンタイト級冒険者相当、現状の階級はミスリルである。

 

 冒険者という人種は程度の差こそあれ、実力主義者である。年功序列よりも持っているプレートが、つまりは積み上げた実績とそれを達成した実力が物を言う。

 ミスリル級ともなればその場に居るだけでも同業者から憧れと敬意の視線を向けられる凄腕だ。その上のオリハルコンやアダマンタイトは一国でもそう数はおらず、冒険者という垣根を超えて羨望を集める者達と言えるだろう。

 

 ましてやイヨは、【剛鋭の三剣】以降二十年間に渡ってアダマンタイト級が不在だった公国に突如降り立った超新星。公国が誇る武人であり、現役時代から拠点としていた公都に限ればかの十三英雄をも超える知名度を誇るガド・スタックシオンと五分に戦った少年。

 

 実績さえ重ねればアダマンタイトは確実、次代の英雄とも目される大注目株なのであった。

 それほどの人物が、この所連日冒険者組合裏手の習練場に足を運び、熱心に鍛錬に励んでいる。

 

 ──『一目その姿を見たい』。『言葉を交わしたい』。『あわよくば手合わせをしたい』。そう願う冒険者が続出するのも無理ならぬ事であった。中には冒険者でもないのに習練場まで乗り込んできて『誓約書を書いてきたから俺と生死を掛けた戦いをしてくれ』と懇願する武芸者もいたりした。

 

 冒険者や武芸者、一部の傭兵などの人種は『強さ』に並々ならぬ拘りを持っている。近隣から遠方の強者の情報は常に収集しているし、新手のマジックアイテムやより優れた武器防具を欲し、優れた戦法を探求し自身の鍛錬を希求する。それらを呼吸同然に行っている。

 

 そんな彼ら彼女らにとって、強者との闘いは自身が強くなるために絶好の糧だ。アダマンタイト級相当の実力者との試合、鍛練などは大金を払ってでもやりたいという者達は山ほどいるのである。

 ましてや向こうから『ご一緒に練習しませんか?』『僕も混ぜて下さいませんか?』とぐいぐいくるのだから尚更だ。

 

 例えば王国のガゼフ・ストロノーフや、帝国のフールーダ・パラダインが『実力の高低は問わない、やる気がある者は共に訓練をしないか?』と公に発言すれば、国境を超えて多くの者が押し掛けるだろう。

 それと同質かつ小規模な現象が、今ここでイヨを中心に起こっているのだ。

 

「うぉらああー! 喰らえやボケがあぁあー!」

「すっ、せいぁあ!」

 

 ──その割にはあんまり敬われていないのは、本人のキャラクター性故である。

 

 

 

 

 広大な敷地面積を誇る公都冒険者組合裏手の習練場、その中で最も活気溢れる者達は、

 

「この野郎、くたばりやがれぃ!」

「りゃあ! ──っていうか皆さん、さっきから口悪過ぎませんか!?」

「十も二十も年下の子供に敗けっぱなしでいられるかぁ! 例え数十人がかりの連戦を仕掛けてでも勝てばいいんだよ!」

「そうだ、やったれゼンガ! おーい、再戦可能な連中はこっちに並べ! 一秒たりとも休む時間を与えず攻め立てるんだ!」

「俺ぁ密かにリウルを狙ってたんだよ! 毎日人目も憚らず二人で和気藹々としやがって、あんな柔らかい笑顔のリウルを見たのは初めてだぜ! 溜めに溜めた逆恨みの念の全てを今! お前にぶつけてやる……!」

「今日こそやってやらぁ、ド新人相手に連戦連敗じゃあ先輩の面目が立たねぇ!」

「囲め囲め! 多対一の練習に移行する瞬間を狙うぞ! なるたけ上のプレートを持ってる奴が前に出ろよ、ファーストコンタクトが一番大事なんだからな!」

 

 今日も元気に訓練に励んでいる冒険者たち、計数十人の集団の姿であった。

 外見年齢十四歳の少女──本当は十六歳の成人男性だが──相手に、筋肉をこれでもかと搭載した大柄な男女が一列に並んで、陰性の感情こそ籠っていないにしても、目を血走らせて口々に絶叫する様は実に不気味である。

 

 しかしもっと不気味なのは、ほぼ無装備の、体重五十キログラムにも満たないだろう少年の方が連戦連勝を続けているという事実だが。

 

 その瞬間だけを切り取ってみると集団リンチの真っ最中かと思ってしまう。

 列の先頭の一人がイヨと試合を行い、決着がついた時点ですかさず次の一人が戦いを挑む。戦い終わった一人は列の最後尾に並び直す。冒険者達は代わる代わる休憩を挟みつつ、時間と体力が許す限り挑戦する。イヨも気力と体力が許す限り、次のメニューに移るまで延々戦い続ける。過酷な鍛練である。

 この集団の横には最も年長の教官が付き添い、常に双方に対して声掛けを続けている。

 

「マルゴット、見学もいいが手を動かさねぇか。素振り百回、まだ半分もいってねぇぞ」

 

 昨日冒険者として登録したばかりの新人、マルゴット・ネイトは、素振りの手を止めて思わず視線の先の光景に見入っていた。

 

「あ、すいません教官。……ちょっと、驚愕の光景過ぎて」

「別にそう堅苦しくならなくてもいいぞ? 教官なんて呼ばれちゃいるが、結局の処は基礎体力訓練を施して武器の扱い方を一通り教えるだけの雇われだからな。軍属と違って上下関係がある訳でも無いし──っと、話が逸れたか。あの連中の戦いぶりはすげぇの一言だろう? 武技無しでやってるからこそ素の技量ってもんが良く分かる」

 

 イヨと共に練習に励んでいる者達の中には白金級以上の腕利きも多く、見学の対象としてはこれ以上ないほどだ。

 飛び交う言葉は兎も角として、剣の一振りや槌の一閃、足さばき。どれをとっても見事であり、そしてそれらを上回っていくイヨの動きは凄まじいものがある。

 

「今日は蹴り技をあまり使わねぇし、何時になく投げを多用してるな。本人なりにテーマがあるんだろうが──」

 

 教官を務めている元冒険者がそう評した直後、

 

「おらイヨへばったかー! 疲れたからってペース落としてんじゃねぇ! 腰を落とせ、足を動かせ、小さく纏まろうとすんな! 根性見せろやぁ!」

「おぉっす!」

 

 視線の先では少年が同じく教官役の爺様に叱咤を受けていた。威勢のいい返答と同時に疲労の溜まった体に鞭打って気合いを入れ直す。頭部狙いの振り下ろしを捌き、中段順突きで沈めた。

 

「シノンさんって、実力だけならアダマンタイト並みかそれ以上なんですよね? なのにわざわざ習練場まで来て他の方と混じって、教官指導の下で練習してるんですか?」

「本人が指導して欲しいってんだから断る理由もないしな、ってか素振り……はあ、一旦休憩にするか。見学も兼ねてな」

 

 教官がそう口にした途端、数人がどしゃりと音を立てて地面に座り込んだ。

 マルゴットと横並びで素振りを熟していた新人たち、その内でも体力的に優れていない数名だ。その中にはマルゴットの同郷の人物が一人混じっている。

 

「体力面で言うなら魔法詠唱者にでもなった方がマシなんじゃない?」

「軽々しく言ってくれるなよっ。散々走り回った後に鉄の塊を数十回も振り回せば普通はこうなるんだ!」

 

 玉の様な汗を浮かべて荒々しく息をついてる男の名は、セネル・ハルセウズ。

 知的な印象を受ける名前の通りに背が高く細身で、容姿も涼やかに整っている。しかし幼馴染であるマルゴットに言わせれば、内面はごく普通の十六歳である。別段クールな性格でも無く、お人好しで放っておけない人物だ。

 マルゴットも身長は高いが、セネルと比べれば一回り小さい。それでも女性としては長身の部類に入るけれど。彼女はセネルとは違い、僅かに汗を浮かべた位で、疲労の色を見せていない。

 

 実際の所、金属製の武器を用いた素振りは確かにきつい。

 暇な人はそこら辺の木の棒か、もしくは木刀辺りを三十回程振ってみると良く分かるだろう。高々と振りかぶって深く下す。そうした動作は疲れる。慣れない者なら尚更だ。ましてや数キロの鉄の塊など、心得の無い者は十回も振ればどこかしらの筋肉が疲労を訴える事だろう。

 

「確かに一般人ならお前の言う通りさ。剣って奴は金属で出来てんだ、重くて仕方ねぇよ。だが冒険者になるってんなら決定的に体力不足だぞ? 百回二百回の素振りは暖気運動として熟せる位にならなきゃ、お前ら死ぬぜ?」

 

 ──死にたくなかったら死ぬ気で励め、それでも無理だと察したら、死ぬ前に辞めるのも一つの道だぜ。

 

 茶色の髪に多くの白髪が混ざった教官は主に座り込んだ連中に向かって言った。此処で並んで素振りをしている新米冒険者は一応全員戦士という事になっているが、実際の所は魔法や探索等の特殊な技能を持っていないが為に、戦士として登録されているだけの者たちである。

 

 要するに、冒険者になりたいという志はあるが、武芸の心得はほぼ無い。

 それでも自分なりに鍛えていたり生まれつき運動に自信があったりはするのだろうが、実際に依頼を熟して生計を立てるのには不足気味な者達なのである。

 

「俺達の方から積極的に辞めちまえとは言わねぇがな、訓練期間の内に考えとけよ。講習でも習っただろうが、ただの村人や町人から冒険者になった奴は大半が死ぬんだ。こうして実際に体を動かすとよ、自分は他の連中とは違うなんて考えがただの思い込みだと分かるだろう?」

 

 公国の冒険者組合が新たに冒険者となる事を望む者達に初期訓練を課す事を定めたのは、実は周辺各国でも珍しい事例であった。

 

 というのも、本来冒険者組合は初心者に指導を行ったりはしない。金を払えば別だが、基本的に冒険者という職業は自己責任の世界に生きる職であり、冒険者組合の方から最初期の駆け出し冒険者を指導しよう、育てようという考えを持っていないのだ。

 

 そういった環境の中から実力でのし上がってきた者達を大切にする、という考え方とも言い換えられる。

 

 ──実力不足で死のうが何しようが自己責任。事前に説明位はしてやるし、金を払えば教えもするが、それも否というなら勝手にどうぞ。お前の人生はお前のもんだ、歩き方はお前が自由にすればよい。だけど結末もお前のせいだから恨むなよ。

 

 乱暴な言い方をするとこういう事である。冒険者組合とは、冒険者とはそういう物なのだ。

 

 他国と同じくそういう物だった筈の公国の冒険者組合がこういった取り組みを始めたのは、十年前の事だ。十年前。すなわち、アダマンタイト級冒険者が公国からいなくなって十年経った時である。

 

 当時の公国冒険者組合は、次代の強者を欲していた。

 なにせアダマンタイト級冒険者とは人類の切り札たる者達、桁違いの強者。モンスター対策においてなくてはならない存在だ。それが国内に一チームもいないのは誤魔化しようのない不安要素であった。

 

 強大なモンスターが出現した時、ゴブリン等の繁殖力に優れた種族が大軍を成し、優れた個体を導き手に侵攻を開始した時。そういった危機的事態において、アダマンタイト級の不在は重大過ぎた。

 

 他国のアダマンタイト級に依頼するにしても即応性に欠け、更には遠くから長い時間を掛けて来てもらう分だけ──拘束時間が長くなるので──費用も嵩む。その他国とて多くて二、三チームしかいない切り札を長期不在させたくないという感情もある。

 

 故に即座の対応が求められる状況では、自国のオリハルコン級チームを複数投入するか、オリハルコン級チーム一つを主軸にミスリル級や白金級のチームを補助として数個付けるか、という対応になる。

 

 この対応の仕方は人数を増やす事で戦力を増加するという単純であるが故に効果的な策であったが、問題も多かった。

 

 第一に、オリハルコン以下級の上位冒険者チームとてそう数は多くないのである。彼ら彼女らは多くの修羅場を掻い潜ってきた精鋭で、その領域まで至れる者は数千数万、下手をすると十数万に一人の逸材たちだ。当然数は少なく、一つの依頼に複数投入すると他の対策に回す数が足りなくなる。

 

 第二に統制の問題だ。通常冒険者のパーティは四人か五人辺りが適当である。人数が多くなると意思統一と連携が飛躍的に困難になるからだ。仮に三チーム合同の依頼となると、一行の人数は十人を軽く超えてしまう。それぞれのチームのリーダーがそれぞれ統制を取ると指揮を出す者が三人いる事になり、別行動を取る時などは例外としても、混乱が生じやすくなるのだ。

 この問題はあくまでチーム単位での連携に徹する、最も高位のプレートを持つチームのリーダーが最上位の指揮者となる、各チームの代表が交代で指揮をする等の工夫で解決も出来はしたが。

 

 第三の問題は、死亡率の上昇だ。本来アダマンタイト級が出張るべき案件をより下位の冒険者たちにやらせるのであるから、人が良く死ぬのだ。例え人数を増して戦力の拡充を図っても個々人の力量がアダマンタイト級を下回る事実は誤魔化せず、最善を尽くしに尽くしても悪い巡り合わせであっさり戦死してしまう例が多かったのである。

 

 何度も言うように、上位の冒険者は希少なのである。その数少ない手練れを失っていけば今度こそ完全に立ち行かなくなる。公国の冒険者組合は今までとは異なる解決法を模索せねばならなかった。

 

 アダマンタイト級を他国から引き抜く策──却下。実現が難しい上に、実現できたとしても軋轢が生まれるのは避けられない、それ以降の協力が出来なくなるかもしれない。

 アダマンタイト級に匹敵しうる裏社会の存在を非公式に使う策──却下。素直に従う筈は無く、如何に冒険者組合が国際的な組織であろうとも国の法律を完全に無視した様な手立ては取れない上に、嵌める首輪も首輪に着ける鈴も見当たらなかった。

 

 その他にも様々な案が考え出され、いずれも実行には至らなかった。そういった経緯を経て唯一現実に実施されたのは、組合が今までより積極的に冒険者を育成するという新方針を打ち出す事であった。

 

 稚魚に餌を与えある程度生育してから放流し──同時に十中八九死ぬだけだろう者たちはこの段階で弾き──より多くの稚魚が成魚となって上に登っていく事を期待して、である。

 

 基本的にこの初期訓練は半強制である。前述した様な『ただの村人が冒険者になる』場合等はほぼ必ず受けさせられる。例えば傭兵としての経験があり、既にある程度の実力を有すると認められた場合等を除き、散々拒否し続けない限りは座学と共に受ける事になる。

 また初期訓練を終えてからも、組合の習練場を訪れれば元冒険者の教官から指導を受ける事が出来る様になったのだ。

 

 因みに、教官役を務める元冒険者の多くは金もしくは白金プレートを保持していた者達である。ミスリル以上級は絶対数が少ない上、既に残りの人生を遊んで暮らせるだけの金銭を稼いでいるし、後半生は戦いから無縁に生きたいと願う者も多かったからだ。また自分で道場を開く道や、貴族階級のお抱えに転身する道を選んだ者もいた。

 

 この制度の実施から十年、公国は下位冒険者の質において他国を優越し始めている。それによって、中位や上位の冒険者も将来的に数を増していくと予想される。問題は肝心のアダマンタイトが十年経っても現れない事である。

 

 この制度は良い事ばかりでは無く、『手厚すぎて逆に手ぬるいのではないか』『下位~中位の冒険者の質は向上したかもしれないが、肝心のアダマンタイト級は未だ現れていないではないか』『予算が掛かり過ぎている』等数々の批判もある。

 また冒険者間で共に訓練を受けた同期という考え方ができ、その延長で先輩後輩といった年功序列に近い秩序が生まれつつあり、公国冒険者独特の気風も出来上がってきている。上のプレートを持つ者が上位であるという実力主義を覆すほどではないが、ここら辺も『激しい競争が起こり辛くなり、互いに切磋琢磨しなくなるのではないか』という懸念が一部ではある。

 

 それを馴れ合いと取るか否と取るかは視点によるだろうが、兎も角公国の冒険者組合と冒険者は、良くも悪くも他国とは少し違う。小国故の苦悩、世代交代の失敗を回復しようという足掻きである。

 

 古株の冒険者や引退した元冒険者からは『これのせいか知らんが、近頃の若者は小さく纏まった良い子ちゃんばかりでつまらん』『そうだな、若さ故の勢い、良い意味での荒っぽさって奴が感じられん』『雑魚なんざ手塩に掛けても大き目の雑魚にしかならねぇよ、金の無駄じゃないのか』等の声も聞こえる。

 が、生存率の向上などを受けて『俺の時代にもこの制度があれば死ぬ奴はもっと少なかっただろうよ』『質が高まるとなれば、金と時間を掛けてもやる価値はある』『縦横のつながりが出来やすくなれば、バランスの取れたパーティも作り易いだろう』との意見もあり、結局の所は賛否両論である。

 

 今ここで訓練を受けているような、冒険者になった時点で自分の道を定めていない者たちは、これから試行錯誤によって自分の役割や職という物を見つけていくのである。

 組合側もある程度まではそれを支援していく。

 ただし厳しい現実として、得意分野を見つける前に死亡してしまったり、もしくは何をやっても芽が出ずに冒険者を辞めてしまう者も毎年多く出るのだが。

 

「その点マルゴットは良い線いってる。体力に関しちゃ中々だ。タッパもある方だしバネも良し。覚えも早い。もう少し筋力と技術を身に付ければ、新人の銅級冒険者としちゃあ及第点だな」

 

 教官役のその言葉に、居並ぶ新人たちが様々な表情を見せる。

 

 あいつでも及第点でしかないのかよ、と地面に座り込んでいる少年が苦い顔をし。

 そうすると俺は有望株って処か、と体力が有り余った様子の筋骨隆々の青年が笑みを浮かべ。

 すごいなぁ、パーティ組んでくれないかなぁ、と肩で息をしてなんとか立っている女性が尊敬の眼差しを向けた。

 

「ありがとうございます。で、シノンさんは何故此処で練習を?」

「褒め甲斐のない奴だな全く……何故も何も、さっき言ったろ? 本人が指導を乞うたからだよ。ぶっちゃけ俺達教官側もあいつに指導なんざいるのかと思っちまったが、見てみたら納得したよ。あいつはまだまだ発展途上なんだ」

 

 ──発展途上? アダマンタイト級相当の実力を持つとされ、老英雄と互角に渡り合ったというあのイヨ・シノンが?

教官の口から出たその言葉に、新人たちは揃って視線をイヨの方に向けた。

 

「お前らには分かり辛いかもしれないが、見てると何となく感じないか? 確かにあいつは滅多矢鱈と強いが、武の道に終わりはねぇって事だよ。事実イヨの動きはブレもあれば間違いも──」

「教官、速いやら上手いやらで目が追いつきません」

「シノンちゃ……さんだけじゃなく、今戦ってるミスリル級の方もです」

「動きに全然目が付いて行かないっす。凄いのは分かるんですけど、何がなんだがさっぱり」

「…………お前らはそれ以前の段階だったなぁ……」

 

 教官は思わず肩を落とす。今まさに熱を入れて語り出そうとした瞬間だったのであるが、気が抜けてしまった。

 呆れ半分の視線を居並ぶ新人たちに向けると、そんな目で見られても困るとでも言いたげな若人の群れ。

 

 まあ無理もない。白金やミスリルに到達した冒険者は、身体能力という一点に関してさえ下手なモンスターより上である。ぶっちゃけた話、ついこの間まで純度百パーセントの一般人だった新人たちが視線を動かすより、ミスリル級冒険者が五、六回切って払って薙いで突く方が余裕で速い。

 

 身体能力が物理的限界を超えないイヨの世界の人間同士であっても、一般人ではプロボクサーの拳を見切り、反射し、避ける事は不可能であろう。ましてやこの世界の人間は鍛え方次第で羆より強靭になるのだ。

 

 同じ人間という種族であっても、両者の間に横たわる能力差は隔絶している。種族的に同一の身体構造とスケールを持っていながら、家猫と獅子か、それよりもっと大きい能力差があるのだ。目が付いて行かないのも当然である。

 

「今の振り下ろしすごいですよね、こう……びゅって感じで。此処まで風切り音が聞こえてくる」

「動きの中途から末端までが消えて見えるな。なんであの子は避けられるんだ?」

「こら、あの子って言い方は無いだろ。シノンさんはミスリル級の──え、今なんで対戦相手が倒れたんだ? 急病か?」

「うーん。多分、シノンさんが前手の刻み突きで……いや、後ろ手の鉤突き……分からん。蹴りじゃないのは確か……だと思う。多分」

 

 身体能力だけでもその差。技術、単純な武術の腕まで含めれば差は更に広がる。故に見えない、捉えられない、反応できない。目に映りすらしない。

 致命としか思えない一撃が知らぬ間に空振りしている。どう考えても押し切られてしまう筈の一押しを不動で受ける。超人的身体能力と超人的技量が織り成す武闘。常人が立ち入れぬ領域。

 

 視線の先の先輩冒険者たちが強者であるならば、この新人たちは強者を目指す者。強者に憧れる者。

 自然視線には憧れと尊敬が混じり、思わず拳に汗を握る。

 

「俺も見たかったなぁ、シノンさんと副組合長の試合。もうちょっと早く冒険者になるべきだった」

「あの人、女装姿で歌い踊ってるのしか見た事なかったんだけど、本当の本当に強いんだな」

「たまに猫に話しかけてる所を見かける程度だったけど、こう見ると別人みたいだ」

「近所の子供と追いかけっこしてる姿からは想像も付かない。かのガゼフ・ストロノーフとさえ五分じゃないかって噂も頷ける」

 

 ──あいつ外でなにやってんだよ。

 

 口々に漏れる驚愕の声。教官はその中から聞き捨てならない風評を耳ざとく拾う。

 無論、猫と対話を試みようと子供と一緒になって遊ぼうと女装しようと、犯罪でない限り個人の自由である。冒険者組合の規定にも『動物との対話及び異性装を禁ずる』の一文は何処にも無い。

 

 だからまあ口出しする大義は無いのだが、ミスリルプレートをぶら下げてそんな事をするのは正直止めてもらいたい。幾ら外見も中身も子供そのものだとは言え、色々減る気がするのだ。高位冒険者の威厳とか風格とかが。

 

「庶民派とか親しみやすいとか、そんな見方で収まってくれれば良いけどよぉ」

「大変ですね教官」

 

 実に気安く言ってくれやがったのは、薄い表情を湛えたマルゴットであった。このマルゴットという少女は、セネルと違って表情が動かない。何処か宙を見た様な視線──大抵本当に空か、そうでなければセネルに向いている──で、ぼんやりとしている。

 

 今もまた、教官に話しかけているにもかかわらず、その視線は手を握り締めて見入るセネルとイヨの間を往復していた。

 

「他人事みてぇに言いやがって……其処らの子供なら兎も角、あいつはこの先二十年公都冒険者組合の看板を張るかもしれねぇ男だぞ。人の趣味にとやかく言いたかねぇが、流石になぁ」

「でも良かったではないですか。多少型破りでもシノンさんはあの実力です。公国のアダマンタイト不在の時代はもうすぐ終わるでしょう。遂に【スパエラ】がアダマンタイト級になるのです」

 

 マルゴットという少女は表情が薄い。声も平坦である。視線も大体明後日かセネルの方ばかり向いている。それは今も変わらないが──なんだか微妙に鼻息が荒い。

 よくよく見れば、青い瞳が妙に輝いている様な気がする。例によって教官を見ていないので、はっきりとは分からないが。

 

「ガルデンバルドさんもベリガミニさんもリウルさんも、実力ならばアダマンタイトに匹敵すると評されるお方々。これにシノンさんが加われば鬼に金棒です。ああでも、願わくばメリルさんがいてくれたらバランスが良かったのですが……」

「お前……奴らのファンか」

「良くお分かりになられましたね」

 

 ──誰でも分かるわ。

 

 教官は心底そう思った。この少女の声色に、僅かながらも熱を感じたのは初めてであった。怜悧な美貌が若干浮ついている様にも思える。

 

 実際、上位の冒険者に憧れを抱いて冒険者となる若者は珍しくない。マルゴット以外の若者たちの中にもそれなりの数がいるだろう。

 

 本来冒険者とは対モンスターを専門とする傭兵。しかも国家に忠誠を誓っていない武力集団だ。故に、自前の兵力でモンスターに対処できる国力を持つ国家においては社会的地位が低くなりがちであった。例えば帝国では現皇帝の御代となってからより一層その傾向が増している。王国での社会的地位も、高位冒険者を除けば高いとは言えない。

 

 対して公国では元より他国と比べて冒険者の地位が高い。冒険者を重用しなきゃやってられんほど国力が弱い、とも表現できる。最近では経済活発化やらなにやらで更に需要が増加していた。

 

 他の国なら兎も角、公国においては割と『アリ』な選択なのだ。腕に自信があるからであったり、もしくや憧れを抱いて冒険者となるのは。危険な仕事だから死人が沢山出るのは何処の国でも変わらないが。

 

「【スパエラ】がアダマンタイト級にな……其処までは堅いと言えるだろうが、問題はその後だ」

「む。どういう事ですか」

「お前普段からそういう人間らしい反応しろよな、スケルトン並みに無表情だぞ何時もは。──歳だよ、歳」

 

 歳──とオウム返しに復唱して、マルゴットは数秒押し黙る。やがて理解の色が顔に広がり、

 

「どういう意味か教えてください」

「今分かったんじゃねぇのか?」

「考えても分からなかったから教えてもらおうと判断しただけです。……私の顔って、どうにも他人からは頭良さげに見える様ですね? こう見えて浅学無知な村娘なのですが」

 

 その口調がなんかもう頭良さそうなのである。顔付きも知的で態度も冷静かつ平静。

 しかし彼女は、本人が語った通り村娘である。学校に通ったことも無く、ごく簡単な算数と文字の読み書きを親に教わっただけで、頭より筋肉で物を考えるタイプであった。

 

 一見頭良さそうなキャラに見えるのは、生まれ持った怜悧な顔付きと物静かな話し口調のせいだ。実の所、彼女はイヨに近い精神性の持ち主である。

 

「そのまんまだよ、年齢だ。【スパエラ】の四人の年齢を考えてみろよ。イヨが自称十六、リウルがもうすぐ十八、ガルデンバルドが四十三、ベリガミニが六十一だぞ。後半の二人がこの先十年以上も現役でいられると思うか?」

「むむ。教官は【スパエラ】がアダマンタイト級になったとしても、長続きはしないとお考えで?」

「常識で考えればな。ガルデンバルドもベリガミニも、とっくに引退しててもおかしくない年齢だ。冒険者としては老境も老境だよ」

 

 多くの冒険者やワーカーは四十代半ばで引退する。早い者では三十代終わりごろに身を引く事もあり、五十代を迎えても現役で有り続ける者はかなり少数である。八十歳になっても第一線を引かない某ワーカーは有名だが、彼は例外中の例外だ。誰もが彼の様に在れる訳では無い。

 教官たるこの男も、引退したのは四十五の時分である。

 肉体的にピークを過ぎ、能力の伸びが停滞し、更に衰退し、気が萎え始めるが故に。

 

 ガルデンバルドもベリガミニも肉体年齢的にはかなり若い方である。実年齢からすれば驚異的な程強さを保ち続けている。

 

「イヨとリウルは大禍なく過ごせれば後二十年は現役でいられるだろう。その二十年の内、ガルデンバルドとベリガミニの年長組が一緒に居られる期間は……普通に考えれば一から五年。どう長く見積もっても十年は越えないだろうな」

 

 拳士と盗賊兼斥候の二人だけでは当然やっていけないので、新しいメンバーを募るか、もしくは自分たちが他のチームに合流する事になるだろう。ただ、その場合はアダマンタイト級として活動を続けられるかというと微妙だ。

 新メンバーが同等の力量の持ち主ならば幾度か実績を成したのちアダマンタイト級で継続だろうが、それが出来ずにミスリル級やオリハルコン級のパーティに合流した場合等、扱いは『アダマンタイト級二名が所属する○○級パーティ』だろう。

 

「むむむ。確かにお二人は若くはありませんが……」

「まあ、言ってたってしょうがねぇ話ではあるんだけどな。世の中なるようにしかならんし、その頃には後進も育ってるだろうしよ」

 

 ただ、一応冒険者組合の所属である教官としては、色々と将来の事も考えねばならないのだ。

 アダマンタイト級不在の時代など一秒とて長引かせたくはないし、もう一度訪れる事など絶対に有ってほしくない。しかし現実を見据えると色々不安なのである。

 

 公国内に存在するオリハルコン級は三チーム。【スパエラ】、【八条重ね矢】、【天葬術理】だ。公平な視点から見て、この三チームはどれも少なからず不安要素を抱えている。

 

 この内、【スパエラ】の不安要素は先ほど上げたメンバーの半数が高齢で引退が近いだろうという点と、他には癒し手の不在。──それと、経験の不足である。

 イヨは言わずもがなとして、リウルも冒険者歴が約三年の若手。ベリガミニは元々市井の魔法詠唱者だったので、冒険者歴自体はリウルと同じで約三年。ガルデンバルドも冒険者としてはかなり遅咲きで、組合に登録したのが三十一歳の時である。他の二チームと比べると年齢の割に若手なのだ。

 

 公都を拠点とするもう一つのオリハルコン級【八条重ね矢】の不安要素は、その尖がり過ぎたパーティ構成である。八人中四人が魔力系魔法詠唱者兼射手、二人が癒し手兼壁役の神官戦士、残り二人が盗賊と野伏というとんでもないチームなのだ。

 十代中盤に冒険者となった三十代前後の者達で構成されており経験豊か。しかし『敵の射程範囲外から魔法と矢の雨を降らす。基本的に近接距離には近寄らない』という方針で固まっていて、前衛と中衛が後衛を活かす事のみに特化したアンバランスな構成。強大な敵を無傷で一方的に殲滅した逸話は数知れず、しかし接近されて乱戦に持ち込まれるとかなり不安定で脆い。

 

 【天葬術理】は他の大都市に居を構える者たちで、実年齢としても冒険者歴としても若手だ。しかし結成当時からメンバーが変わらないまま在り続けたが故に、連携は目を見張るモノがある。攻撃的前衛と防御的前衛、補助的中衛、癒し手の後衛、火力的後衛と構成のバランスも見事である。

 問題は、チームの中核である攻撃的前衛と火力的後衛の男女が大貴族の出身で、しかもお家の継承に深く関わる長子である事。今は五月蠅い実家を活躍で黙らせているようだが、今後どうなるか不透明な所がある。

 

 ──公国のオリハルコン級は……なんつーか、人間的に濃いというか、一癖も二癖もあるというか。

 

 何処の国の高位冒険者も大概そうなのだが、一筋縄では行かない、そんな感じの連中なのである。

 

「【戦狼の群れ】辺りは昇格も視野に入り始めてるし、その辺りに期待ってとこか」

「──良い事を考え付きましたよ、教官」

「……なんだ?」

 

 マルゴットの無表情も、つい十分前とは全く違った風に見え始めた教官だった。

 

 うお、と新人たちからどよめきが上がる。

 

 丁度イヨが鋼剣を受け損ね、拳を深々と斬裂された所だった。訓練は既に最後の追い込み、多対一の戦闘に突入しており、現在急場の連携でイヨに躍りかかっているのは白金級三人とミスリル級一人の混合チームであった。

 連戦に次ぐ連戦で完全な疲労状態に陥っている少年に対し、最後のこの時を見越して体力を温存していた四人はまだ元気溌剌だ。多数の利と豊富な体力を活かして的を絞らせない立ち回りを続けているが、

 

「あ」

 

 イヨの身に刃が届いているという事は、剣の持ち手は間合いの内に存在するという事。斬裂と同時に放たれていた蹴りがミスリル級剣士の意識を奪い、次いで中心人物を失った三人に襲い掛かった。

 

「あの怪我は練習の範疇を超えている様な」

「イヨはポーション持ってるから、一応大丈夫だ。ナナロバ薬品店の最高級品だぞ、あの効果と値段がクソ高い奴。……で、良い事ってなんだ?」

 

 イヨはアダマンタイト級に匹敵する拳士だが、モンクではない。故にモンク系の技である〈アイアン・ナチュラル・ウェポン〉を保有していない。その裸拳は鉄板を貫通し岩をも砕くけれども、無傷でとはいかないのだ。故に受け方を間違えればこうして痛手を負う事になる。

 

 イヨが普段の訓練を無装備状態で行うのは、より正確な受け技を養う為。そして生身を虐め尽くす事で、より頑強な身体を得る為だ。立木や砂袋を殴りつけて拳を鍛えるのと同じような行動である。

 

「──この私、マルゴット・ネイトとセネル・ハルセウズがアダマンタイト級に上り詰め、【スパエラ】の後代となるのです」

 

 今日もまた、夢見る若者が一人、冒険者の道へと踏み入っていく。ちなみに彼女の相方であるセネルは『は!?』とでも言いたげな動きで後ろを振り返り、首を痛めた。

 

 




まず第一に、色々とすいませんでした。
どんなに忙しくても月一回は投稿しようと考えていたのですけど、かなり頑張ってもギリギリでした。
しかも間が空きすぎて自分自身「どんな展開にしようと思って此処まで書いたんだっけ……?」と思ってしまう始末。五千文字位で次の場面に映る筈が一万六千を超えるってどういう事なんでしょう。無駄に長くてすいません。これでもまだ尻切れ蜻蛉なんです。だってレベルアップに言及出来てませんもの。後編ではそこら辺をちゃんと書きたいです。

この前ふと思い立って「白金 髪色 画像」で検索してみたんですが、白金ってどんな色か今まで知らずに書いてました。「へー、白金の髪ってこんな風なんだ」って感慨深かったです。多分イヨの髪はちょっと白っぽい金髪って感じかと。


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レベルアップ:後編

2016年7月15日
ご助言に伴い、主人公の職業アデプト・オブ・マーシャルアーツをマスター・オブ・マーシャルアーツに変更します。名称以外の設定は変わりません。ここ以前の文章も適宜書き直していきますので、ご了承ください


「ありがとうございましたー!」

「おう、こっちこそありがとうな」

 

 日が傾き始めると練習も終わりである。基本的に冒険者は自己を高めることに熱心であるが、宵闇の中で明かりを灯してまで鍛錬を続けるのは、余程熱心な者のみだ。基本的に夜は休む時間である。

 この世界の例えば農村においては、日が暮れれば寝る時間だ。明かりを灯すにも薪や油といった物を消費する為、起きていればいるほど金が掛かるからだ。其処までする余裕はないし、其処までしてやらねばならない事は明るい内にやっておくのが常識である。故に、日が落ちれば家族団欒もそこそこにさっさと寝る。

 

 都市部や一部職業の者たちはまた事情が異なる。一国の首都たる公都、そして冒険者はその事情の異なる者と場所のど真ん中に当たる。

 歓楽街などは仕事終わりの宵の口からこそ人賑わいのある地所であるし、冒険者は昼日中から酒をかっくらっている事もあれば、仕事次第で深夜に街道を疾走している事もある。そんな連中であるからして、夜になったからベッドに直行などという事はしない。

 

 折角大人数で集まったのだから、これから街へ繰り出すのである。パーっとやりにいくのだ。これには一応同業者間でのコネクション作りや情報交換の意味合いも含まれる。

 

 今までこうして習練場にて汗を流していた者たちの中にはなんと、明朝には依頼のため公都を発つ者もいたりする。そういう者たちは流石にさっさと休むのが大半だが、中にはコンディションなんざ知るかとばかりに酒を浴びる者、今日の体験を生かす為、明日が仕事だからこそ行きつけの道場に移って鍛錬を続ける者もいる。

 

 良くも悪くも、冒険者には常識をぶっちぎった輩が多いのである。そもそもモンスターと殺し合いして金を稼ぐお仕事という時点で色々とアレだ。軍人以上にいつ死んでもおかしくない職業である為、先を見据えつつも時として刹那的といったある種矛盾した在り方。

 

 友と語らいに行く者。家族の下へと帰る者。仲間と連れ立って歩む者。その場で談笑を始める者。

 思い思いに散っていく人々の中で、何か未練でも有るかのように剣を握りしめたまま佇む一人の青年がいた。赤みを増していく斜光の中、首下のミスリルプレートが揺れている。

 

 鎧、剣、装飾品。どれをとっても輝かしい武装であった。今でこそ土汚れや埃が付着しているが、それでもなお人を魅了する光を放っている。

 

 ミスリル級の冒険者は、例え引退したとしても残りの人生を遊んで過ごせるだけの金銭を稼いでいる。一つの依頼を熟すたびに、一般人が数か月から数年、下手をすると十数年掛かって稼ぐ様な大金を手にするのだ。そんな彼らの武装は無論高級品である。

 

 仮に装備品を然るべき所に売り払った場合、その代金だけでちょっとした豪邸を建てる事だって出来るだろう。強力な武具やマジックアイテムはそれほど高価である。金銀財宝で飾り付けられている訳ではなく、より強くより堅くより軽く──そうした実戦・実用性の果てしない追及、高機能を実現するための手間暇が、高価値に直結しているのだ。

 

 エルダーリッチやスケリトルドラゴン、大軍を成した亜人──強大な怪物どもを打倒するためにそれだけの武装が必要不可欠なのである。武具を身に着けた状態で縦横無尽の躍動を可能とする体力、武具の性能を十分以上に生かし切る知識と技術と同様に。

 

 青年は押しも押されもせぬ歴戦の勇士であると言えた。依頼を通して幾多の人命と財産を守った好漢として人々から尊敬と羨望を抱かれる男はしかし、複雑な感情を覗かせて俯いている。

 

 陰鬱なものでは無いが、思い悩む感情が表に出ている。

 そんな青年の下に歩み寄る男が一人。背は低いが筋肉質な身体で、驚異的な身体の厚みは戦士としての高い力量を存分に感じさせる。立ち止まっている男と同じチームに所属する戦士だった。

 

「おい、どうした?」

 

 問う声までもが太い。既に中年と言うべき年齢だというのに、少しも弛み緩みを感じさせない、活力と自負に満ち満ちた声だった。見れば肌艶さえも若者の如くであり、加齢は今のところ、この男に負の変化を及ぼしていない様であった。

 問われた青年は間違いなく聞こえていただろうに、反応を見せない。聞こえてはいても取り合ってはいない。何か他の物事に熱中していた。

 

 声を掛けた男はその実、聞く前から同僚が考えている事を知っていた。だから特に怪訝な様子も見せず、ただ静かに、

 

「あいつの事が気に食わないか?」

「──ああ、気に食わないさ。でもそんな事は関係ないんだ。新参だとか子供だとか、そんな理由じゃあの強さは覆らない。みんなその事が骨身に染みてるから大半は何も言わないんだ。でも俺は──」

「あいつにどうやって勝つか、どうやって追いすがるかを考えていたんだろう?」

 

 漸く隣の男が意識の端に掛かったのか、青年は顔を上げて向き直った。

 

「相手は複数の武技を恒常的に発動しつつ更に違う武技を数種類も重ねてくる化け物。難度で表すなら九十を超え、武具の分まで含めれば一人でオリハルコン級チームを相手取れる計算になってしまう。そんな事が出来る奴はもう、英雄と呼ぶしかないんだろうな」

 

 その化け物とは、公都の冒険者界隈に衝撃を齎した異邦人──ある少年の事に他ならない。

 曰く、あからさまに年を誤魔化した子供。

 曰く、自身を少年と称する少女。若しくは少女にしか見えぬ少年。

 曰く、片腕を切り飛ばされて尚気力の萎えぬ傑物。

 曰く、公国が誇る高位冒険者たちを軒並み叩きのめして見せた新参。

 

 ほんの僅かな時で急激に知名度を上げた怪物──イヨ・シノン。彼が公国で成した事は多くない。老英雄との一騎打ち、最高峰のオリハルコン級チームへの即時加入とミスリルプレートの授与、初依頼を勝利で飾る。数にしてたった三つだ。

 

 その一つ一つが強烈過ぎ、更にここ最近の訓練で高位冒険者を薙ぎ払って見せた事によって、少なくとも彼の強さは嘘偽りのないモノとして周知されるに至っていた。

 

 ──難度にして九十に匹敵するか上回る、と。

 

「そんな化け物にそれでも勝ちたい、追い抜きたい。お前の頭にある事はそればかりなんだろうな」

「……そりゃそうだ。あれだけ完膚なきまでに負けて、悔しがらない奴はいないさ」

 

 多くの冒険者が練習にかこつけて、若しくは正々堂々と一騎打ちを望んで、そして彼に負けている。

 

「結局一対一で勝てた奴はいなかったな。当然と言えば当然だ、相手は現役時代の武装で身を包んだ副組合長と互角に戦ったのだからな」

 

 老英雄ガド・スタックシオンとイヨ・シノンとの戦いは、多くの冒険者が目撃していた。だから見た者はみんな知ってはいたのである。かの少年がどれ程の強さを持つかなど。

 ミスリルプレートですら実力に見合っているとは到底呼べない事も。

 

 あれだけ強ければと納得した者も多かったし、イヨを推薦した冒険者たちの様に、アダマンタイト不在の時代を終わらせてくれる頼もしい奴だと受け入れた者も多数であった。イヨがそれなりに礼儀正しい振る舞いをしたのもあって、納得した訳ではないにしろ何も言わないでおくか、と判断を下した者も。

 故に最も多くの人間が選んだ不満や嫉妬、怒りの処理方法は『沈黙する』であった。

 

 自身の立ち位置──事実として実力で負けているという点を鑑みて唇を噛みしめた者がいた。

 

『気に入らないけど、今更文句を言ったところで組合の決定は覆らないしな。そこそこの数と仲良くやってるし、副組合長も大分気に入ってるだろう? あの子。結局の所実力はあるんだしね。どうにもならない以上、鬱憤を晴らす為だけに騒ぎ立てるより黙ってる方が賢いさね』

 

 『組合公認【スパエラ】所属でしかもそこそこみんなに受け入れられてて味方が多い。そんな奴に感情だけで喧嘩売っても割を食うだけ、何時か追い抜くその時まで口を噤んどくよ』、と感情を飲み下した者も。

 

『いや腹は立つよそりゃさ。俺なんか十三年掛けてやっとオリハルコン級になったんだぜ? んでアイツは五段飛ばしでいきなりミスリルじゃん。ざっけんな夜討ちしたろか位は思ったけどね、ほら……そう遠くない内にガルデンバルドとベリガミニも引退するじゃん多分。そん時にイヨとリウルは確保しておきたいからさ。優秀な仲間は欲しい。もし上手くいったらその時にデコピンでもかましてやるとして、今は普通に仲良くやっておこうかなってね』と、思惑を抱いた者も。

 

 実際問題、普通の冒険者は活動するうちに三回か四回くらいはチームを変える。仲違いや実力差が出来た場合等だ。活動中ずっと同じメンバーで一緒にやっていく者たちはかなり少数派である。そういう意味で、イヨが【スパエラ】から抜けた場合自分の所で確保するために、彼と仲良くなっておこうと考えた者はかなり多かった。

 

 要するに打算で感情を飲み下した訳である。冒険者は実力主義と同じくらいに実利主義なのだった。嫌われてもなんらおかしくないイヨが表だって非難されないのは大体がこの理由である。

 

 ただまあ、全員がそうではなかった。冒険者は実力主義だが、人間である以上それだけでは割り切れないのも当たり前である。理屈も糞もあるかあのガキは気に喰わんのじゃボケ、と思った奴も当然いたし、ぽっと出のガキが俺の上に立つなんざやってられるかと憤った者も山を成すほどいた。

 そういう理屈や打算込みでもイヨに一言物申さねば気が済まなかった連中がなにをしたのかと言えば、直接本人の所に一騎打ちを申し込みに行ったりしたのである。

 

 この青年もその類の一人であった。青年は思い出す。自分とあの少年の試合を。

 真剣勝負をしたいから武装を身に着けてくれと願った青年に対し、少年は素直に頷いて武器を、防具を、マジックアイテムを装備した。明らかに練習の域から外れた気迫を漲らせた青年に、一言も疑問を挟まずただ首肯したのだった。

 

 勿論青年も完全武装だ。爪先から頭の天辺まで隙はなく、手にした長剣も入念に整備をした最良の状態。

 対峙した瞬間に、冒険者として鍛え上げた見識が判断を下した。今まで見たどんなモンスターより強大な相手だと。

 

 試合開始の合図から十数秒ほど、静かな時間が流れた。相手の間合い寸前を挑発の様に前後し、側面に回り込もう、回らせまいと双方が円を描く。

 

「上段突き──だったと思う」

 

 少年が起こした中段突きの挙動は恐ろしく速く鋭かったが、極限の集中状態にあった青年の身体は対処を開始し、斜め後ろに下がって攻撃の軌道から外れつつ、武器を持つが故の間合いの有利を持って敵の頭を打ち砕く──と、思った。

 

無い筈の隙を突かれた、というのが素直な感想だった。

 

 次の瞬間に視界と意識が白く飛んだ。顔の前面から後頭部までを二回ほど衝撃が貫通し、痛みが襲うより速くに重心を打ち抜かれた。膝から崩れ落ちて行く身体は言う事を聞かず、顔横にぴたりと添えられた蹴り足はまるで死神の鎌の如く感じられた。

 

 中段逆突きをフェイントにワンツー、スリーを中段に。そして膝立ちになった青年の頭部に寸止めの中段前回し蹴り。無論まだ動く様なら追撃を加える気満々である。立会人が止めに入って、そして青年が異を唱えなかった段階で初めて構えを解き、向き直ってありがとうございましたと頭を下げる。

 

「何が悔しいって、手加減抜きで打った癖に力加減は完璧だったって所だ。俺は後に響くような怪我を一つもしてない、安いポーションを飲んだらすぐ完治する程度だ」

「まあ、そこは互いに事故を防ぐための最低限の決め事だからな。……こちらは、練習中死ぬ気になって攻勢掛けても手傷を負わせるのが精一杯だったが」

 

 ちなみにイヨは本人的にも試合バッチこいな気性である上に、『真正面から喧嘩売ってくる奴は正々堂々節度を保って叩きのめせ、冒険者ってのはそういう商売だ』と仰せつかっていたので二重に容赦が無かった。

 同業者として互いに切磋琢磨して強くなっていくのであって、健全な競争心から来る争いは行き過ぎない限り許容されるべきとの考えが表出した例である。

 

 そうして率先して喧嘩を売った連中は、この二人と同様合同練習に参加している。無論もっと強くなって朝一番の世間話に『昨日パンに蜂蜜をかけたら甘くて美味しかったです』とかのほほん顔で抜かすボケガキにリベンジする為である。

 

 『女装が趣味』『普段の男装の方が趣味』『白昼堂々リウルと手を繋いで歩いていた』とか噂が立ってるアホな子供に負けたというのは、実力的に順当な結果であっても受け入れ難いのだった。普通に考えて悔しいにも程がある。

 

 こうした者たちは多くがプラスの努力に転じた分だけ前進しているとも言える。割かし可哀想なのは正面からの攻撃では無く口撃を選んだ者たちであった。

 

 最初に言っておくと、彼らは別に品性下劣な卑怯者だった訳ではない。ある意味冒険者らしく低俗な冗句を好み、気安いと親しみやすいの判断が難しい言動をしていただけであった。要するにお調子者の類である。

 彼ら彼女らはイヨにある程度複雑な、妬み嫉みの感情を抱いていたが、同時に『あいつすげえなぁ、見習わなくちゃな』といった向上心も持っていた。ただそれを素直に表現することが出来なくて、結果的に揶揄い半分の冗談として口を滑らせた。

 

『はっ、お強くて結構な事だねぇ、あやかりたいぜ。でもよぉお前さん。冒険者みたいな荒事稼業をやるより、そのツラなら男娼にでも身を窶した方が稼げたんじゃないかね? んでもって選んだのがリウルとは物好きな──』

『俺に追い越された時もそんなこと言ってたよなアンタ、最終的に褒める癖に本当にへそ曲りだぜ。でもまあその根性は買った、表に出ろ』

『あ、ちょ、え、リウ──』

 

 頭にタンコブを作る者が続出した。

 冒険者はメンツの商売でもあるので、正面からあれこれと言われてただ引いたら、仕事に支障が出かねないのであった。

 タコ殴りにしない分だけリウルは丸くなったとの評判も流れた。イヨは馬鹿にされた事を怒ったらいいのだかリウルを止めたらいいのだかおろおろしていた。

 【スパエラ】の年長二名は顛末が耳に入ると同時、怒るどころか腹を抱えて大笑したと云う。

 

 はー、と青年は深く溜息をつく。手に握ったままだった剣を鞘に仕舞い、顔を俯かせる。表情はどうしようもなく振るわない様子であった。

 

「……難度九十なんて人間じゃないですよ。モンスターでも九十とか滅多にいない。そうほいほい居たら人間はとっくに滅んでる。そもそも何で難度で表すんですか。普通冒険者って言ったらプレートでしょう。あいつだけですよ、英雄だ難度九十だ王国戦士長並だとか言われてるの」

 

 青年の口調は少年と呼ばれていた頃の、新人だった時のものに戻っていた。

 

「そら最初は意味分かんなかったっすよ。依頼から帰ってきたらみんな大騒ぎしてる。年端もいかない女の子が、俺が小さい時から寝物語で聞いてた副組合長と互角の勝負をしたって? それで飛び級でミスリル? 所属はあの【スパエラ】? そんな訳分かんない天才が突如降って沸いて、俺たちを追い越してったってみんなが言うんだ」

 

 中年の男はただ黙って聞いている。青年の口はただただぼそぼそと力ない言葉を紡ぐ。

 

「んで実際見にいってみたらあのツラであの体格体型ですよ。みんなして俺を揶揄ってるんだと本気で思った。何度聞いても本当だやばいんだとしか言わないからシカト決め込んで寝て起きたら騒ぎがデカくなってて……」

 

 本当の話だと理解できた頃にはもう当人は依頼で公都から出て行っていた。副組合長との一戦の粗筋を根掘り葉掘り聞き出し、やはり本人の実像と合致しないので頭がおかしくなりそうであった。

 

 外見と戦力がまるで一致していないのだ。何処からどう見ても強そうではないし、立ち振る舞いや纏う雰囲気に、威厳や風格、威圧感や迫力といったモノが皆無であった。パっと見た限り、同い年の集団の中に混じった時、容姿以外で目立つ要素は殆ど無い様に思えた。

 

 ぶっちゃけ戦闘の場に居合わせていなかった冒険者たちは年下の新参に追い越された怒りなどより、『あいつら変な夢でも見たんじゃねぇの?』と目撃者たちを三日位遠巻きにしていた程である。

 

 『これ以上アダマンタイト空位の時代が続くのを嫌った組合が偶像を作ったんじゃないか?』『それにしちゃあ設定がイカレ過ぎだろ、作り話だったらもっと説得力のある人物像にするぞ普通』『それこそ【スパエラ】を多少無理くりにでも昇格させた方がまだ納得できる筋書きだよな』『嘘にしちゃ下手過ぎるから一周回ってマジだってのかよ?』『いやそうとは言い切れないが……少なくとも直接見た連中はマジだって口を揃えて言うし……』『人数的に全員グルってのは有り得ないよなぁ』『嘘偽りなく本当だよ、俺はこの目で見たんだ』

 

 こんな会話がそこかしこで交わされた。

 

 更に日数が立ち、噂の人物を含む【スパエラ】と【戦狼の群れ】が帰還してきた。真偽をこの目で確かめなきゃ信じられん、と打ち上げ会場の酒場に突入した者たちが目にしたのは、女装で下っ手糞に歌い踊る例の少年と、大盛り上がりの見知った連中の姿であった。

 

 この時点で『組合が認めても俺はお前なんか認めねぇぞ!』と言い出す人間がいなかったのは、完全に出来上がったテンションでどんちゃん騒ぎしている連中のただ中に突っ込んでいくのが躊躇われたからであった。あの連中絶対話し通じそうにないじゃん、と云う奴だ。

 

 そして翌日からイヨは組合裏の習練場で練習を始めた。後は今まで語ってきた通りである。イヨの実力を疑う者はいなくなった。力は何よりも雄弁だったし、子供ではあっても生理的嫌悪感を催す様な悪人では無かったから。

 

「今までずっとアダマンタイト目指して頑張ってきたんですよ。俺なら、俺たちなら絶対なれるって努力してきた。負けた今でもどうやったら勝てるかってずっと考えて考えて──考えた結果、勝てる気がしない」

 

 青年はかつて天才と呼ばれた人間であった。

 幼少期にある偶然の出会いから剣の師を得て、尋常ならざる才覚でもって急成長を遂げてきた。他人の何倍も学び、何倍もの勝ち負けを積み上げ、耐え難き習練に耐えた。十四歳で師と並ぶ腕前を誇り、十六歳になる頃には完全に超えていた。

 

 『お前を育て上げた事こそ、私が成した最大の功績だ』──打ち負かされた師が笑顔で告げた言葉だ。青年はかつて、一万人に一人の天才と呼ばれた人間だった。

 

 だがしかし、非常に乱暴な言い方になってしまうが、一万人に一人の天才など単純に計算しても公都三十万の民草の中に三十人、公国人口三百万の中に三百人いるのである。もっと上の、十万人に一人、百万人に一人の才能を持った人間だって存在するだろう。

 

 より強くなる為により強い敵を求め、その時少年だった青年は冒険者となった。人よりはるかに強大なモンスターとの戦いは少年に飛躍を齎し、二年でミスリルプレートに到達した。

 

 そしてそのミスリルという高みに立った時──青年はもう特別では無かった。才が枯れた訳でも、成長が止まった訳でもなかったけども。

 彼は今現在も天才のままで、成長を続けていて──でも、もう特別では無かった。

 

 同ランクのミスリル級、格上のオリハルコン級にアダマンタイト級の冒険者たちは、全員が青年以上の天才で努力家で達人だったのだ。何万何十万何百万に一人の才能を持ち、気が狂う様な鍛錬を積み上げ続け、今なお研鑽による前進を辞めぬ魔人超人の群れ。

 

 青年は自分より強い者を何人も見た事があった。幾度も敗北に倒れ、その度に立ち上がってきた。そうして年長の強者たちに追いすがり、追いついて追い抜かして高みに立ってきたのだ。

 しかし──どれだけ必死に走っても距離の縮まらない背中に、人生で初めて出会った。

 

「この先──あいつより強くなれる未来が思い浮かばないんです。俺は今よりもっと強くなれる。デルセンさんたちと一緒にもっと上に行けるって自信は今も変わってない。でも、でも──その時あいつらはもっとずっと前に進んでいるだろうって痛感してしまってるんです」

「……そうか」

 

 中年の男、デルセンは静かにそれだけ言った。

 青年の言葉は最早イヨだけに向けたものでは無くなっている。

 

 血の汗を噴くほど必死に鍛錬を積んでいるのに何故追いつけないのか。答えは簡単だ、前を行く者が自分より速く、より前に進んでいるからである。同じく必死に、青年以上に過酷に自らを高めているから。

 

 青年は今十九歳である。十六歳で冒険者となった為、冒険者歴は三年だ。

 近い時期に冒険者となったリウルとは、以前までどちらが先に昇格するかを競っていた。尤も、リウルは仲間以外の全員を好敵手と見做しているので、向こうは青年を特別視していなかったであろうが。

 

 年下と長く競り合い、負けたのは初めての経験だった。

 しかも国外に目を向けてみると上には上がいるのだ。リウルと同じく青年より年下で、冒険者の頂点たるアダマンタイト級として君臨する【蒼の薔薇】のリーダー、魔剣キリネイラムの担い手たるラキュース・アルベイン・デイル・アインドラなどが。

 

 才能にかまけて努力を怠った人間、才能が全くのゼロで努力のみによって身を立てた人間など、トップにはいなかった。

 恐らくどこの国のどの業界でも変わらないのだろう。機械的に言って、同じだけの努力をしているならより才能がある方が、同じだけの才能を持つならより努力をしている方が勝つのだ。両者が全く同等だとしても、生まれ育った環境でも上下は付くだろう。

 

 人より才に恵まれ、人より努力し、人より頭を使い、人より効率良く──ありとあらゆる全てをもってして存在する、上に立つべくして上に立つ者ども。

 

 自分があの領域まで這い上がるのに何年かかるだろうか? 否、そもそも時間を掛ければ手が届くような領域なのか? 仮に幾年も掛けてアダマンタイト級まで上り詰めたとして──彼ら彼女らはその時どれ程の高みにあるのか。

 

「……お前が弱音を吐くだなんて、いつ以来かな。らしくないぞ」

 

 尤もな言葉だ、と青年は更に項垂れた。自分たちはミスリル級、同輩たちから羨望と尊敬の眼差しを向けられる存在。

 その自分が情けない顔をして弱音を吐いていては、後進の者たちに示しがつかない。自分の自信に溢れた覇気ある表情に頼りがいを感じる一般人、俺もああなりたいと憧れる新人も居る筈だ。

 

 上に立つ者が弱い姿を見せれば、下まで動揺や不安が広がってしまう。アダマンタイト級という絶対的存在が不在である公国にあっては、オリハルコン級やミスリル級が模範とならねばならないのだ。

 

 既に夕暮れ時で人は殆どいないとは言え、組合裏の習練場でしていい態度では無かった。青年は意識して背筋を正し、デルセンに向かって頭を下げる。

 

「すいません……本当にすいません。情けない発言でした」

 

 謝罪に対し、デルセンが返したのはお叱りや窘めでは無かった。彼は人に安心感を与える太い声で、

 

「違う。泣き言くらい幾らでも吐け。若い内は悩んで成長するものだ。悩みっぱなしで歩みを止めてしまわないように、先達である俺たちがいる。俺がらしくないと言ったのは、お前の発想の方だ」

「発想……?」

 

 そうだ、とデルセンは腰の戦斧を片手で構える。大きく分厚い刃に加えて柄の部分まで、全てが魔法金属で作られた逸品だ。多大な重量を誇るが、恐ろしく太い腕の筋肉が軽々とその重さを支えている。

 

「アイツは強すぎる。どうやったら勝てるか追い越せるかと思案しても、勝てる気がしないほど、追いつける気もしないほど強いと、其処で止まってしまうのがお前らしくない」

 

 ──俺らしくない。そうオウム返しに言った青年に対し、デルセンは再度、お前らしくないと反復した。

 

「普段のお前だったらこう思い至った筈だ。これはまたとないチャンスだと」

「チャンス、ですか」

「そうだ。難度九十越えの化け物なんて何回お目に掛かれる? 出会えたとしても、五体満足で生きて帰ってこられる可能性はどれだけの低確率なんだ? 普通はそんな怪物と戦ったら間違いなく死ぬぞ。手足の一、二本を失うくらいの怪我で済んだら幸運だろうな」

 

 例えばの話。ギガントバジリスクは難度九十以下である。個体差による上下もあるが、成体ならば大凡八十台前半から後半程度とされる。

 全長、つまり頭部の先端から尾の先端までが十メートルを超える巨体。その巨体からくる膂力。視認範囲内であればどれだけ離れても身を蝕む石化の視線。ミスリルに匹敵する硬度と語られる堅牢な鱗。その鱗の下に流れる血液は即死級の猛毒。

 

 仮に戦士であれば、神官などの癒し手による助力無しで戦闘を行うのは自殺行為であるとまで言われる。石化の視線も驚異だし、相手を打倒せんとする自らの攻撃が、降りかかる猛毒の体液という形で己に返ってくるからだ。

 

 単体で都市を殲滅する事も可能と評される生きた災害。高位冒険者を初めとする強者たちですら倒す事は困難を極める。挑みかかって力及ばずに倒れ伏した者たちは、討伐に成功した者たちよりもずっとずっと多いだろう。高難度のモンスターとはそれ程の脅威なのだ。

 故にこの怪物を打倒できるのであれば、それは冒険者の最高位たるアダマンタイト級に相応しき偉業とも称えられるのである。

 

 無論、このとんでもないモンスターはゴブリンの如くほいほいと湧いて出てきたりはしない。

 単純に出現頻度で言えばそう滅多には出てこないと言っていいだろう。滅多に出てこない以上戦う機会も少ないし、出現したとしても討伐依頼が舞い込むのはアダマンタイト級か、公国においてはオリハルコン級である。

 

 厄介さで言えば、同じだけの強さを持つ人間よりもずっと上である。強くなりたいから武者修行をやろうと思っても、あらゆる意味で気軽に戦える存在ではない。それに比べ、

 

「俺たちは何回だって、安全が保障された命の危険がない環境で戦えるんだ。その桁外れの化け物と。しかも相手は化け物並みに強いってだけで同じ人間だぞ。身体構造も何もかも異なるモンスター共とは違う。どれだけ遠くとも、あいつは俺たちの延長線上にいるんだ」

 

 青年の顔色が変わる。あ、とその口から声が漏れた。

 

「あいつをただの壁と捉えるな。あいつを敵わぬ敵と思い込むな。これは考えようによってはこれ以上ない幸運だぞ。帝国や王国、竜王国の冒険者だって、アダマンタイト級相手に訓練だなんてそう気安く出来る事じゃない」

 

 どんどん暗くなる夕暮れ時、あたりはもう殆ど夜と表現して良い様な暗さだ。しかし、青年はその時確かに見た。

 デルセンの──自分より三十近くも年を取った、戦士としての黄金期が過ぎ去りつつある男の目に宿る、果てのない向上心。執念。

 人類の切り札──アダマンタイト級になるという人生を掛けた夢の輝き。

 

「何回でも挑んだら良い。挑んで負けて、反省点を洗い出し、弱点を補い、長所を伸ばす。自分が強くなる為に、強者との戦いはこれ以上ない糧だ。だとしたらアイツは糧として最上級だろう。あいつから学びつくしてあいつらを超えれば良いんだ」

 

 先達の言葉はどんな刃より早く鋭く、青年の心に届いた。

 

「──はいっ……!」

 

 ──そうだ。自分は何を考えていたのだろうか。

 

 追いつけないとか敵わないとか、見たことも無いほど強い奴の出現に戸惑って気弱になってた。

 

 そうじゃない。これはチャンス。

 勝てる気がしないほど実力差がある。追いつける気がしないほど相手は強い。──そんなにも強い奴が身近に、目の前にいるという事は幸運なのだ。

 

 幾度も見て盗めばいい。何度も戦って学べばいい。より強く優れた者に学び、そして絶対に追い越す。今現在勝てる気も追いつける気もしなくても、其処で歩みを止めてしまえば其処までなのだ。

 

 発想を逆転させればいい。ずっと遠く速い背中をそれでも必死に追えば、自分一人で走るより速度が出る筈だ。そう思って足を止めずにいれば、それはやがて強さに繋がる。

 

「……同じことを考えてる奴は、沢山いるでしょうね」

「ああ、勿論だ。今まで空位だった最高位の座がぽっと出の若造に持って行かれようとしてるんだからな。此処で奮い立たない奴はいない」

 

 強さは人を引き付ける。尊敬を、憧憬を、闘争心を引き立てる。

 ──俺もああなりたい、俺こそがあいつを超えてアダマンタイト級になるのだ、と。

 

「上ばかり見てもいられませんね。下からもせっついてくる訳だ」

「ああ、油断は出来んぞ。ただでさえ最近は同格の【戦狼の群れ】に水をあけられているんだ。【赤き竜】の力を見せてやらんとな」

 

 ──だからもう、そんな頼りない言葉遣いはよせ。リーダー。

 

 その言葉を受け、ミスリル級チーム【赤き竜】のリーダー──ハルゼーは剣を抜き払った。今のハルゼーの心境の如く澄んだ音色が鳴り響く。

 

 青年はそれを、デルセンが構えた戦斧とぶつけ合わせる。

 

「ああ、すまなかった。もう大丈夫だ。俺が、俺たちがイヨ・シノンを──【スパエラ】を追い抜いてアダマンタイト級になる。公国のアダマンタイト不在の時代は俺たちが終わらせる!」

「それでこそ俺たちのリーダーだ!」

 

 二人の男は夕闇の中、晴れ晴れしく吠えた。青年に先ほどまでの弱気はもう、欠片も残っていない。

 

「そうと決まればこうしている暇はない。今から全員を集めて行こう」

「ああ。確か【下っ端の巣】だったな。其処の裏の空き地に居る筈だ。あいつは帰った後も一人で練習をしていると聞く。一つ共同稽古を願いに行くか」

 

 行き先は例の最上級の糧──イヨ・シノンの常宿だ。未だ牙を研ぎ続けている奴の所へ、二人は武器をしまうなり勢い込んで走り出す。

 

『よろしければ皆さんもいらして下さい、僕は用事が無い限り其処で練習してますから』と礼をした大型新人の澄み渡った笑顔を思い出しながら。

 

 

 

 

 イヨがそれを初めて経験したのは、クラーケン討伐依頼の三日目の時であった。

 【戦狼の群れ】と【スパエラ】は初日と二日目をクラーケンの間引きに努め、三日目は薬草採取がてらモンスターの間引きをするという事で、森の奥深くに分け入ったのである。

 

 集落からほど近い森の外縁付近、つまり比較的安全な場所に生えている薬草はある程度の心得と知識、危機意識を持っていれば村人でも採集が可能である。実際、農耕の他にそうした副業で収入を得ている村落は多い。

 

 対して、高位冒険者に依頼が回ってくるような薬草採集は桁が違う。

 目的とする薬草が生えている場所からして、森の最奥であったり強大な魔獣の縄張りの内側であったりするのだ。一般人どころか一端の冒険者であっても踏み込む事すら難しい。甚だしくは高難度植物系モンスターの骸を持って来てほしいと依頼されることもあるのだ。

 

 オリハルコン級の【スパエラ】とミスリル級の【戦狼の群れ】、その合同パーティに達せられた依頼も、その類のものであった。

 

 踏み入るは森林の奥深く、亜人怪物魔獣が跳梁跋扈する人類生存圏の枠からはみ出た場所であった。人の領域の内側に存在する、人でない者共の領域である。

 

 ユグドラシルでなら幾度もの薬草採取経験があったイヨであるが、例によってこの世界の薬草はユグドラシル時代のそれとは全く違った。知っている種類が何一つとしてなく、そもそも特徴を教えられても素人目ではとんと見分けがつかぬ。

 

 イヨの草木に対する知識は、針葉樹と広葉樹は見分けがつく、そんなレベルである。

 

 種類を見極めた上で最も効能が強い時期の必要部位のみを必要量採取する訳である。一か所から取り過ぎると不味いとか、そういった配慮も込みでだ。

 言葉では分かるのだが実際の所、三葉期のナリバサネの根をどうこうとか、樹齢が百を超えており徒長枝等が少なく樹形の整ったカルバシャの木の樹皮が云々……と言われてもさっぱりなのであった。

 

『これがエンカイシで合ってますか?』

『いや、それは良く似たエンカイシモドキだな。正式な名称は忘れてしまったが……薬効は無いに等しいが、一応食べられる野草だぞ。あまり美味くは無いがな』

 

 素人目には全く同一の外見に見えるが、明確な違いがある為、知識を持つ者なら見分けるのは容易いらしい。特に分かりやすいポイントとして、エンカイシは摘み取ると鼻を刺すような強い臭いがするが、エンカイシモドキは草花らしい青臭さがあるだけで臭いは強くない。

 

『む、イヨ。マイトヌブを取ってしまったのか?』

『え、駄目でしたか? 道中で質の高いポーションの材料だと習ったもので、てっきりこれも採集するものと……』

『俺の説明不足だったな、誤解させてしまったか……マイトヌブは確かに強い薬効を持つが、葉の水分が蒸発するとその成分が急激に薄れてしまうんだ。だから、運搬に時間が掛かる場合は取らない。運んでいる最中に役に立たなくなってしまうからな』

『すいませんでした、ビルナスさん……確かに、よく見ると採集リストには入ってないです……』

『気にするな、半分は俺の教え方が悪かったせいだ。イヨは周囲の警戒の方を頼む』

 

 ──専門家になれとは言わないさ。この類は薬師や森司祭、野伏の得手だからな。役割分担は基本中の基本だ。でもまあ、冒険者として最低限必要な知識は覚えておいたほうが良いだろう。俺も今度は気を付けてしっかり教えよう。

 

 役に立てないと微妙にしょぼくれていた所をそう諭され。森のど真ん中で安穏と授業する時間はないので、帰ってから実物を教材により詳細な講義を受ける事が決定された。

 

 結局イヨは諸先輩方の指示に従って出来る限り静かに周辺の警備を全うし、行きでもした様に帰る道すがらモンスターを倒し、そして依頼はお仕舞、後は帰るのみ──と、ここである出来事が起きた。

 

 率直に言うと起きた出来事自体は大した事がないのである。

 絞首刑蜘蛛〈ハンギング・スパイダー〉と呼ばれる蜘蛛を発見し、これをイヨが討伐しただけだ。

 

 大したことではない。このモンスター、一般人や銅から銀級の冒険者等であれば脅威だが、その場にいたのはミスリル級とオリハルコン級の冒険者たちだ。強い敵とは言えなかった。

 

 その証拠に、主な警戒要員であるリウルとビルナス以外の者たちまでが事前に存在を察知し、こちらから討って掛かってすぐさま仕留めた。位置的に適任な場所にいたイヨがだ。

 

 その一連の流れにはまるで問題がなく、モンスターの間引きとしてこの依頼中何度も同じような光景があった。

 

 ──故に、蜘蛛を一撃の下に仕留めたイヨが立ち尽くしている事にこそ、周囲の人間は訝しんだ。

 

 この時イヨは自らの体に起こった事態を受け、ただただ困惑していた。

 

 お決まりのファンファーレがなったりはしなかった。新しいスキルを習得した旨のメッセージが出たりもしなかった、眼前、若しくは頭の中に数値的にどれだけステータスがアップしたのかが表示されることも無かった。

 

 ただ有ったのは自覚と自認──機能の拡張、性能の上昇、それが今自分に起こったという現実の認識。

 

 例えば普通、筋力は日々のトレーニングで少しずつ上昇していくものだ。

 腕立て伏せならば最初はそれを日に十回繰り返し、余裕が出てきたら十五回や二十回と数を増やして行き、何か月か何年かが経つ頃には、最初は到底できなかった連続百回の腕立てを熟せるようになる。

 その頃には、腕を初めとする各所の筋肉もボリュームを増し、元と比べて太く強い筋繊維になっている訳だ。

 

 個人差や効率の違いを考慮しても、基本的に成長というモノは時間が掛かる。筋力鍛錬の例で言うなら筋肉が疲労して傷付き、その後十分な休養を取るにつれて超回復が起こり、元より高い筋力が得られる──こういう風に。

 

 徐々に負荷を増して、一か所では無く全面的に、目的を強く意識して、各々の個性や競技に合った鍛え方し、それを継続する。これが原則である。

 

 ある日いきなり思い立って千回の腕立てを熟そうと思っても到底完遂できないし、突然限界を超えた負荷を与えられた体では継続的な鍛錬は難しいだろう。それに、そういった何となくで始めた非常に辛いトレーニングは、普通は長期間持続しないものだ。

 滅多矢鱈と身体を痛めつけても、ほとんどの場合は文字通り身体が痛むだけ。急に千回分の腕立てを熟す筋力を得る事は出来ない。

 

 ──通常はそうである。筋力鍛錬ではなく、実戦を熟すことで筋力が強くなるという事はある。実際の戦いの中で筋肉を酷使し、回復することによって筋繊維が太くなる。これは同じだ。

 

 だがこの時、イヨは自身の筋力を初めとする各種能力が上昇したことを感じていた。新たなスキルを獲得したという事も『自分の事なのだから当たり前だ』と言う様な当然の感覚で把握していた。

 

 二倍三倍といった飛躍的な上昇でこそ無かったが、例えば──階段を一歩分上った様な変化。

 

 本来は長い時間を掛けて徐々に起こる筈の変化、能力の上昇、機能の拡張。単に筋力だけならまだしも技巧のそれさえも。

 

 それが今一瞬で起きた。

 

 この現実的に考えれば不自然極まりない超常現象に、イヨは身に覚えがあった。無論現実でそんな体験があった訳では無く、ゲームの、ユグドラシルの中ではごく当たり前で常識的な『アレ』だと直感的に感じたのである。

 

 ──レベルアップだ、と。

 

 レベルアップだと割り切ってしまえば納得は出来るのだ。蓄積された経験値が一定の数値に達したからレベルが上がった、ただそれだけの出来事だと思ってしまえば。

 

 レベルアップしたなら当たり前だ、身体能力と技術を初めとする能力全般がその場で即座に上昇するのも。

 恐らくイヨが保有する上位職、マスター・オブ・マーシャルアーツが四レベルになったのだ。ならば当たり前だ、四レベルで自動取得すると定められているあるスキルを覚えたのも。

 マスター・オブ・マーシャルアーツが四レベルにアップしたという事は、イヨは合計レベル三十に達したのだ。ならば当然だ、あのパッシブスキルは一定レベル以上の拳士系職業を保有した上で三十レベルに達すれば自動取得するのだから。

 

 ゲーム的に考えれば何も疑問はない。定められた行為、即ち戦闘によって経験値を取得し、それが一定に達したからレベルアップし、取得できると決まっているスキルを得ただけ。

 

 ──わあ、訳分かんない。

 

 イヨは素直にそう思う。

 いや、『ゲームやってたら別世界に来てしまいました』なんて事態の後で今更非常識を糾弾しようとは思わないし、世界の境を跨いだ後で物理法則を気にしてもしょうがないだろうとは思うけども、地球出身者としての違和感は禁じ得ない。

 

 どんな理屈でそうなってるの、と云う奴である。

 

 ぼんやり『ゲームの姿と能力のまんまって事は、レベルアップもするのかなぁ』と考えてはいた。しかし実際に体験するとやっぱり違和感がすごい。ややこしいが、身体的感覚的に違和感が無いのも違和感の元だ。

 

 百歩譲って反射神経や筋力などの肉体面の能力上昇だけならまだしも──それだってどうなんだろうとは思う──精神力とか格闘技術とかは一体どんなあれこれで向上しているのだろうか。不思議である。

 

 使えて当然のものとして会得している新たなスキル──一日の使用に回数制限のある大ダメージ技と恒常発動のスキル──に至ってはいっそ不気味ですらある。

 

『どうしたんだ、イヨ?』

『──う、うん。ちょっとね。後で話すよ』

『そうか? なら良いんだがな、森から出るまでは警戒を怠るなよ』

『うん、了解したよ』

 

 一行は相も変わらず進んでいく。イヨは何も言わずに皆の背を追う。殿だからである。

 

 ──不気味ではあるが、この変化は大きい、とイヨは思う。

 

 レベルアップによる成長は、戦力の向上としては最も確実で重大ものの一つだ。

 

 ユグドラシルで有名な『九、十レベル差があると低レベル側の勝率がほぼゼロになる』という話がある。

 

 言うまでも無いが場合によりけりである。

 

 純魔法詠唱者系構成のプレイヤーと純戦士系構成のプレイヤーが殴り合いで勝負をする、片方は裸で片方はフル装備、遠距離攻撃手段のない相手に対し引き撃ち戦法を敢行する、多人数で一人の敵をボコる位の有利不利があれば、時として十レベル差だろうと二十レベル差だろう三十レベル差だろうと、覆ることは大いにあり得る。

 

 しかしこの話は同じ職業構成、同じ装備、正面からのぶつかり合いという前提で言うなら、ほぼ絶対の真実でもある。

 それでも尚奇跡を起こせてしまうのは、ワールドチャンピオンやワールドアイテム持ちに代表される様な次元の違う怪物位であろう。もちろんイヨはユグドラシルプレイヤーとして、ありとあらゆる意味でその域に達していない。

 

 イヨは格闘の腕という意味では最上位陣の末席に座れる位の実力はあると自負しているが、プレイヤースキルを総合的に見た場合、良くて中の上だろう。スキルの使い方や装備品の選び方などは上級者と比べると圧倒的に見劣りする。

 

 勿論、純戦力的には三十レベルという時点で下の下。仮にイヨが百人千人いようと、殆どのカンストプレイヤーに全く歯が立たないだろう。

 

 イヨのスキルの使い方、装備品の選び方は『より大きなダメージを出したいからこれを使う』『こいつは火に弱いからこれを使う』『もっと与ダメージ量を上げたいから筋力増強系を装備する、良い武器を作る』『冷気を多用してくる相手だから耐性のある防具を使う』といった程度だ。間違ってはいないが玄人とも言えない。

 

 ましてやこの世界に来てしまった以上、もうゲーム時代の様には行かないのだ。

 リビルドしたいからと言って自殺など絶対に出来ない。そこらのお店やバザーに行ってレベルにあった装備品をお手軽に購入する事も出来ない。どうしてもクリアしたいイベントに詰まったからネットで攻略法を検索しようという訳にも行かない。

 

 都市間を移動するには時間が掛かるし、食料や水も必要だ。食わねばペナルティどころか餓死するのだから。友達と一緒に転移して高効率の狩場で拠点狩りもできない。

 

 これからはモンスターが跋扈するこの世界で、冒険者としてやっていくのだ。依頼の失敗は自分と仲間、それにもっと大勢の人々の命に関わる。実際に生きる人々の命が掛かっているのだ。

 

 多くの先輩方の助勢によってミスリル級という、沢山の冒険者の上に立つランクを得た。今イヨが背負う責任は、時と場合によっては町一つ都市一つの命運を左右しかねないものだ。

 

 今回の依頼で、イヨは肉親を失った村人たちの涙を見た。仇を取ってくれてありがとう、と礼を言われた。死者の鎮魂はもとより今を生きる我々も救われた、お陰でこれからも暮らしていける、との言葉も賜った。

 

 身が引き締まる思いであった。

 

 もっと強くなろう、とイヨは隊列の最後尾で静かに拳を握る。

 

 篠田伊代は子供っぽく、明るい話題や楽しいお話が好きな人間で、お調子者の気もある。酒が入ると一層その傾向が顕著である。その性質は単純で純粋、悲しくなれば泣くし、楽しければ笑う。

 辛い出来事や悲しい出来事をも乗り越えて、前進する力に変える事の出来る強い少年なのだ。そして──愛情と親しみをもって他者と接する事の出来る男であった。

 

 イヨは知っている。ユグドラシルプレイヤーとして、三十レベルを遥かに超える──こちらの世界において難度百以上とされるモンスターたちの存在を。こちらの世界にいないという保証はない。

 

 ──いや。一夜で国を滅ぼしたとされる吸血鬼、国堕としや多種多様な魔神に代表される様に現在に伝えられている伝説等からして、数は少ないながらも存在していると考えた方が良い。

 

 もっと強くなろう、僕だけでは無くみんなで、とイヨは思う。

 

 イヨにとって冒険者という職業は、初依頼を熟している最中のこの時既に、元の世界に帰る方法が見つかるまでの繋ぎではなくなっていた。

 

 イヨは思う。自分には、『元の世界に帰れればまた会える』という可能性、心の支えがあると。

 もう二度と会えない『かもしれない』という自分が抱える不安と悲しみどころではない。肉親を失った人々はもう二度と、絶対に愛する人に会えないのだ。

 

 もし両親や弟妹、祖父母、親友が死んでしまったらと思うとイヨは泣きそうになる。頭の中で考えただけでこんなにも悲しいのなら、実際にその体験をしてしまった人々はどれだけ辛いのだろうか。

 

 自分がもっともっと強くなる事で一生懸命に暮らしている人々の悲しみや辛さを減らせるのなら──自分のたった一つの取り柄であるこの腕っぷしの、これ以上の使い道は無いと思えた。

 

 今までよりもっと強くなる為にと改めて考えれば、思い至ることは沢山ある。

 

 良く良く考えれば、イヨは練習において以前の常識を引きずっていた様に思うのだ。

 

 四肢欠損級の、選手生命はおろかガチの生命が危うくなる様な怪我でもポーションを飲めば即座に治癒するのだから、練習はもっともっと実戦的に、質量ともに厳しくやっても大丈夫なのだ。

 筋力鍛錬の効果は治癒を受けると消えてしまうので頼り切りにはなれないが、格闘家や運動選手は怪我との戦いだ。どれだけ効率的かつ安全に、限界寸前まで体を痛め付けるかに神経を使っている。怪我が常態化して関節等が半ば壊れたままになっている様な選手は多い。ボロ屑になった関節や切れた靭帯を即座に修復して、全き健康体で練習や試合に復帰できるのは夢のような環境である。

 

 仕事や先輩方からの習い事、各方面とのお付き合いを除けば一日フリーの日も多い。そうした日には朝練、午前練、昼練、午後練、夜練と、日の半分以上を練習に使える。合宿並みの練習量になるが、休息をしっかり取って回復させれば身体は持つ。

 

 かねてより気にしていたこの細く小さな体も、大きくしたい。いくらレベルアップでも戦力は向上するとはいえ、同じ程度の技量力量を有する者同士の戦いにおいて、大きく重い方が有利なのは変わらない筈である。

 リアルの篠田伊代の身体はどれだけ努力しても小柄なままだったが、この身体までそうであるとは限らないのだ。男の十六歳は普通、成長期の真っただ中である。空手道選手として夢にまで見た『大きく強い身体』を実現することも可能やもしれない。

 

 人間をはじめとする生き物は、所詮食べた物で出来ている。イヨは普段から体格の割に人一倍食べる方だが、食べる事も練習と思って、丈夫で強い身体を作るためにもっともっと食べなければ。

 

  元より自分が強くなるための鍛錬は、イヨの生態の一部とも評し得るほどに、イヨの人生に浸透していた。其処に、また一つ新たな意味が刻まれた形である。

 

 クラーケン討伐、薬草の採取、モンスターの間引き。これら三つの目的を達成した【スパエラ】と戦狼の群れ】は、行きと同じだけの日数を掛けて公都に帰還を開始。

 

 ちなみにその道中、イヨがそれとなく『僕強くなったよ』と口にした際、

 

『本当かよ、何時だ? あれって大体強いモンスターを倒した時に起こるけど、お前クラーケン戦の時そんな素振り見せなかったよな』

『あれか──冒険者稼業を始めてから何度も体験して居るが、どういう原理で起きる現象なのかのう』

『はっきりとは解明されていない筈だな。確か定説は、極限状態で超回復に似た現象が起こる事による異常活性、倒した相手の魔力や生命力を取り込んでいる、後は──』

『あ、宗教界では神々が人間にくれる祝福って考えが主流なんですよ。おばちゃんも一応神殿付きの神官なので、その説を支持してますよー』

 

 との会話を聞き、内心で『え、この世界の成長ってレベルアップ制もあるの……!?』と仰天した。世界が違えば何もかもが違うという事を改めて認識したイヨであった。

 

 そして帰ってから依頼達成と全員の無事を祝って騒ぎ──その次の日から、各々鍛錬の日々に戻ったのである。そして知っての通り、組合裏手の習練場はイヨの登場によってかつてない大盛況が連日続く事となった。

 

 

 

 

「あれ、【赤き竜】のみなさんじゃないですか。こんばんはです、どうなさったんですか?」

「ああなに、折角昼に誘われたものだからな、練習に付き合ってもらいたくて。今大丈夫か?」

「勿論です、ありがとうございます! やっぱり一人よりみんなで練習した方が良いですから、願ったり叶ったりです!」

「それは良かった。──イヨ・シノン!」

「はい?」

「──負けないからな、アダマンタイト級になるのは俺たちだ!」

「──僕だって負けませんよ、もっともっと強くなるんです!」

 



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脅威

 認識できないモノは気付きようが無い。

 

 認識できないという事は、個人の認識で形作られる主観世界の中で、それが存在しないという事だからである。

 

 無い物は無い。だから無い。

 

 社会の中でも同じ事が言える。

 

 誰も気付かず、直接的にも間接的にも発覚していない出来事は、気付かれるまでは起きていないのと同じである。

 

 物事の訪れや発生が唐突に感じられるのは、その前段階を見ていないからだ。

 荷馬車に撥ねられた時。後頭部を殴打された時。家が焼けてしまった時。

 近付いてくる車輪の音に、背後から寄ってくる前後不覚の酔漢に、朝の火の不始末に。それぞれ気付いていれば、少なくとも『何の前触れも無く何故突然こんな事に』とは思わないであろう。

 

 人が気付いていなくても、事態発生までの間には様々な出来事が起きている。

 原因があり、過程があるから実際に事が起こるのだ。何もない所から突如湧き出る事件など滅多にない。

 

 例えば、三十万人が生活する首都のど真ん中でアンデッドが発生していたとしても。それが、強大なアンデッドの存在に影響されて起きた出来事だったとしても。どんなに『普通は有り得ない事』でも、それを実現しうる過程があった場合、実現するのである。

 

 ただ、誰も気付いていない以上事前の対処も警戒も一切されず、突然突如唐突に人々に降りかかるというだけで。

 

 何よりの証拠となるスケルトンの残骸が消えていたから。そのスケルトンを討伐し、上官に事態を報告しようとしていた警備兵も『失踪』していたから。

 

 宴会の帰りに一人で家路を歩き、一人でアンデッドを討伐し、一人で報告に駆けた将来有望な若者──レアルト・ムーア。不幸な事に、彼は道半ばからは誰にも見られていなかった。

 彼が『この騒ぎに、住人は誰も出てこないのか』と疑問を覚えた建物は既に無人で、居住者は彼が訪れる以前に全員殺されていたのだ。

 

 空き家となっている家屋に住み着いていた路上生活者六人が喉を掻き切られた惨殺死体で発見された事件。

 若手の警備員一名が行方知れずとなった事件。

 

 この二つの出来事は別件として認知され、特に前者が、平和な公都に生きる民草の心胆を寒からしめていた。

 

 『惨い事をする奴もいたものだ』『早く犯人が捕まると良いわね』『子供たちを遅くまで外に出していると危ないかもな』と、ただそんな風に囁かれていた。

 

 この時点で一般の人々が想像する犯人像は『凶悪な犯罪者』『気の触れた残虐な人物』『複数人の裏社会の住人』位であった。

 

 

 

 

 話は変わるが、イヨはペットが大好きである。

 

 犬が好きである。猫も好きである。ハムスターも好きである。ネズミはちょっとばっちいイメージだ。鳥はなんだか動きが機械的な気がして距離を感じてしまう。亀やトカゲは可愛いと思えるが、魚は目と目で通じ合えない感があって苦手だ。虫はゴキブリ等のイメージが強いので、どちらかと云えば嫌いな部類である。カブトムシやクワガタムシは強くて格好が良いので好きだ。実物は見た事が無いが。

 

 小学校に入ったばかりの頃、家でクマを飼いたいと願い出て両親を困らせた事がある。その時は代わりにテディベアを買って貰い、後に弟と妹に譲るまで大事に大事にしていた。

 

 イヨは犬が大好きだが、犬はイヨの事を好きではない場合が多い。どうにも下手に出ていると思われるらしく、格下として扱われ、吠えられる。

 可愛がりたいのだが、向こうが自分を好かないので出来ない。犬はイヨにとって、遠くから距離を取って愛でる生き物であった。

 

 その点、猫はイヨの友達である。

 舐められているのか親しまれているのか、よほど人嫌いな子でない限り、雄でも雌でもすぐ仲良くなれる。一声掛ければ初対面であっても撫でるまで行ける程だ。

 

 勿論証明する術は無いし、自分自身勝手な思い込みではないかと思っているのだが──意思が通じる気がするのであった。親近感すら覚える。

 

 イヨの生まれ育った世界にあって、現実で飼うかゲーム内などの仮想空間で飼うかと幅が広がりはしたが、ペットを飼うという行為は遥か昔から引き続きメジャーであった。

 外で飼うのは事実上不可能なので、殆どは完全室内飼いである。現実で実際に飼う場合はマンションやアパート等の規則があったり、スペースや費用といったハードルもあるが、やはり世知辛い世の中で動物は人の心を癒してくれるものなのだ。

 

 現実で飼う場合小さくて掛かる費用とスペースが少なくて済む為、ハムスターなどは人気がある。そして犬猫はどの時代であっても強い。

 

 篠田家も弟妹が生まれるまでは──アレルギー反応があったのである──猫を飼っていた。母方の祖父母の家に引っ越していく飼い猫の姿を思い出すと、イヨは心がきゅぅ、と苦しくなる。

 

 まあ、その後何回も会ってはいたのだが。イヨより年長な猫だったので、イヨが中学校二年生になって直ぐの頃に死んでしまった。享年十八歳であった。

 

「猫ちゃんおいでー」

 

 そんな訳でイヨは動物の中で猫が一番好きである。故に世界の垣根を跨いでもなお、少年は猫に話しかけるのであった。

 

 冒険者組合近くにある通りで一匹の猫を発見したイヨは、即座にそう声を掛けた。猫は数瞬イヨの様子をうかがった後、ゆったりと足元まで歩み寄ってきた。

 

 和猫とは違う。厳密な種類は分からないが、全体的にスリムでしなやかなシルエットの猫がこちらの世界では主流なようだ。ただ、今イヨが声を掛けた猫は例外的に丸く、たったったと走るとお腹がたぷたぷ揺れるほどだ。

 毛の艶と身動きからしてかなり若い猫だが、勝気そうな顔をしているので、このあたりのボス猫なのかもしれない。野良っぽい割に素晴らしく美しい毛艶だ。

 

 イヨは許可を取ってから猫を胸前に抱え上げた。見た目相応に重く、体重はなんと十キログラム近くありそうである。

 

「見ない子だね、どこから来たの?」

 

 猫は無論にゃあとしか鳴けぬが、イヨはその『にゃあ』という鳴き声から、『遠くの方から来た』といった意味に近いニュアンスを感じた。

 

 ──遠くから来たのか。直感に従ってそう理解する。

 

「飼い猫──じゃなさそうだね。名前は? 無いの?」

 

 猫の瞳の色が、なんとなく『無い』と言っているように思った。

 

「そっか、無いんだ──僕が名前を付けてあげてもいいかな?」

 

 猫は興味なさげであった。どっちでもいいと思っているように見える。

 イヨは耳の後ろと喉、背中を代わる代わる撫でながら考える。どんな名前にしようかな、と。

 

 時に。ネーミングセンスとは人それぞれの個性が出るものである。

 

 例えばプレイするゲームの自キャラの名前、付けられるのであれば仲間の名前、所属する集団の名前、武器や防具の名前。どの様にどんな名前を名付けるか名乗るか、当然だが人それぞれで異なる。

 ゲーム内であっても自分の分身であり自分自身だからと本名をそのまま名乗る、イヨこと篠田伊代。オンラインゲームでは兎も角、オフラインのゲームでは割と良くいるタイプである。単に考えるのも面倒だからそうしているという者もいない事は無い。

 

 自分の好きな食べ物や持ち物、動物、物事の名前を借りる者。ウケ狙いでネタを仕込む者。辞書をめくって良さげな響きの言葉を名とする者。最初から付いている名を変えずそのまま使う者。特に考えずフィーリングで適当に決める者。名前なんかどうだっていいので『ああああ』にする者。

 

 千差万別である。

 イヨは自キャラの名前は本名の伊代で固定、武器防具やアイテム類はカッコいい──と本人が思っている──英語で付ける。そんな人物であった。

 ただ、人や動物に名付ける名前に関しては、もうちょっと考えるタイプなのである。

 

 ──この子は雄みたい。顔を見れば分かる。しかも猫社会の中で上位の存在のように思える。そうなると、やはり立派で強さそうな名前が良いよね。

 

 といった具合に。

 

「よし、今日から君の名前は──」

 

 此処で思い出して頂きたいのは、イヨの育てと生みの親である両親は、自らの子供にお姫様や戦国武将の様な名前を付けようとした人物だという事である。

 

「──柳瀬爪衛門胤近君だよ。チカ君と呼んであげよう」

 

 野良猫改め柳瀬爪衛門胤近君は、意味ありげに『ぶなぁあごぉおぉうぅ……』とあんまり可愛くない声で一度だけ鳴いた。以降は全く頓着せず、喉を撫でるイヨにされるがまま、腕の中で弛緩している。

 

 この少年のネーミングセンスは控えめに言って独特であった。

『速攻で愛称を付けてそっちで呼ぶならそっちが本名で良くない?』『名前は兎も角苗字も付けるの? あと真ん中の爪衛門ってなに?』『長いし呼びにくいし読みにくいよ』等と正論を言っても無駄である。

 

 イヨは自分の考えた名前がカッコよくて強そうで立派である事を心から確信しているのだから。猫科動物の持つ鋭い爪牙から爪の一字も貰って、猫らしい名前であるとすら思っている。二文字に縮めた愛称は日常での呼びやすさを考慮しての事だろう。

 

 本人は真剣である。

 

「僕はイヨ・シノン。イヨにゃんもしくはイヨ・シニャンと呼んでくれても良いよ?」

 

 もし人語を理解できる存在が間近にいたのなら『何を言ってるんだお前』、もしくは端的に『は?』と言われただろうアレな発言であった。

 

 朗らかに笑って言うイヨだが、勿論猫は人語など喋れぬし、よって名前を呼ぶことも無い。更に、自分の名前ににゃんを付け足したからと言って猫の文化習俗に寄り添った呼び方になるかと云うと、絶対に違う。でも彼は言う。相互理解の為には双方の歩み寄りが重要だと思っているからである。

 

 チカ君は『ぼにゃ』と声を上げ、喉元を撫でていたイヨの指先に噛みついた。両前足でしっかりと固定し、ガジガジと噛んで引っ掻く。

 

 イヨはその様子に相好を崩し、一層愛おしそうに猫をあやすのであった。

 

 

 

 

「天下の往来で動物相手に何をやってんだあいつは……」

 

 一人の悪相の男が、ある光景を見てぽつりとつぶやいた。

 悪い顔であった。余人に威圧感を与える強面や人三化七の不細工と云うよりは──底意地の悪さ器の小ささを見る者に感じさせる様な、小悪党染みた面である。

 

 ただ、彼は持って生まれた顔こそ甚だしい悪人面ではあったが、性根物腰人当たりの方は良い人間である。育ちが良い訳では無いので口調こそ紳士とは言い難いものの、総体としては顔と反比例する好漢、人に好かれる男であった。

 

 彼は、姓はガントレード、名はバルドルと云った。

 

悪人面の戦士バルドル・ガントレード、褐色の巨漢拳士シバド・ブル、赤毛の野伏パン、長髪痩躯の魔力系魔法詠唱者ワンド・スクロール。この四人でなる鉄級冒険者パーティ──【ヒストリア】。

 イヨが最初に声を掛けられ、そして声に応じた者たちであった。

 

 そのリーダーであるバルドルは道端で猫に話しかけている少年を発見し、我知らず呆れた声を出した。

 

 いや本当に、何をやっているのか。

 

 世の中、幼い我が子を愛しいと思う気持ちが大であるばかりに、ついつい話しかける時口調が幼く、赤ちゃん言葉のようになってしまう親はいる。

 それとはまた別種だが、畜獣や騎獣に声を掛ける者もいる。愛着が高じて猫なで声になってしま者も。動物に話しかける事自体は、珍しくない。

 

 しかし、イヨのそれはやや毛色が違う。

 

「チカ君は遠いところから来たんだっけ。どっち? あっち? ああ、あっちの方? 僕あんまりあっちって行った事ないんだよね、色んな人からあんまり一人で歩くなって言われてて。僕、方向感覚は鋭い方なんだけどなぁ。チカ君は普段と友達と出かけたりする?」

 

 ガチで会話をしている。

 通じないと弁えて尚話しかけているのではなく、さも意思疎通が成立しているかの如く流暢に声を掛け、猫の身動きやら鳴き声やらに対して頷いたりしている。

 

 バルドル及び【ヒストリア】の面々は、イヨ・シノンとその後も親交があった。ほんの数時間とは言え同じパーティに所属した間柄だし、なによりイヨ当人が四人に懐いていた。先輩先輩、バルドルさんシバドさんと見かけたら向こうから走り寄ってくる位である。

 

 人間慕われると悪い気はしないし、イヨもやや物を知らない所がありながらも基本は良い奴だったので、四人は時折先輩風を吹かしつつ、対等の付き合いをしていたのである。折を見て練習に付き合って貰ったり、一緒に飯を食いに行ったりと。

 

 イヨを最初に見出したのは俺たちなんだぜ、なんて、鼻が高い思いでもあった。

 

 流石に鉄プレートのチームである【ヒストリア】とオリハルコン級チームに所属するミスリル級冒険者であるイヨでは、状況によってはそう気安く口をきけない事もあった。イヨは気にしないだろうが、周囲と誰より【ヒストリア】の面々が気にするのだ。

 

 そういう事情も当たり前にあるのだが、四人とイヨは友人付き合いであった。バルドルらは『すげぇ奴と知りあっちまったもんだ』と思ったし、『イヨは良い人たちと知り合えた』と思っていた。

 

 とはいえ、『あいつ子供と一緒になって遊んでたぞ』とか、『酒宴の席で女の格好をしていた』とかの噂を聞いても、『まあ、イヨのやる事だからなぁ』とある種親戚の子供を見る感覚に近い苦笑いを浮かべていたのだが──

 

 ──いくら何でもちょっと……。

 

「おーい、イヨ! お前、朝っぱらから何をやってんだ?」

 

 現在、早朝なのである。もう少し日が高くなれば人通りも出てくるだろう。

 

 バルドルが一声上げると、ぴんとイヨの背筋が伸びた。同時に抱えられている猫が抗議の声を上げる。

 

 振り返った少年は、声の主を見つけると顔中に喜色を宿した。猫の機嫌を損ねないように配慮しつつ、そろりそろりと歩み寄ってくる。対してバルドルは普通に歩いて距離を詰めた。

 

「おかえりなさい、お仕事から帰って来られたんですね!」

「おうただいま。ばっちり決めてきたぜ。お前の方は──えーと、猫相手に何やってたんだ?なんつうかその、お話しでもしてるみたいに見えたが」

「一緒に遊んでました。さっき知り合った、柳瀬爪衛門胤近君です。チカ君と呼んであげて下さい」

「動物が好きなのは良いけどな、あんまり表でそういう事するなよ? 周囲の人々に誤解されるかもしれないからな?」

 

 バルドル自身、ちょっと掛かる言い方になってしまったかと危惧したが、眼前の少年は全くそうは感じなかったらしく、殆ど常時浮かべている柔らかい笑顔で、屈託なく頷いた。

 

「はい、バルドルさん。いつもは気を付けてるんですよ? でもこの子があんまり可愛かったもので、つい」

「あ、ああ。それならいいんだが。で、その──すまん、名前をもう一回頼む」

「やなせ、そうえもん、たねちか君です。ニックネームはチカ君です」

「ヤナセ・ソーエモン・タネチカ? 縮めてチカ、か。なんつうか、ふとした時にお前がすげえ遠い所から来たんだって実感するよ」

 

 風変わりな名前であった。耳慣れない異国的な響きで、聞き取り辛い。というか、猫一匹に随分大仰な名を付けるものだ。三つで構成された名前であるという点では、貴族的か、もしくは洗礼名を含めた法国的な名前とも解釈できる。意味は分からないが。

 

「可愛いでしょう? 大人しくて良い子ですよ。僕と気が合うみたいです。ねー、チカ君」

 

 猫可愛がりとはこの事である。デレデレとした笑顔で抱えた猫を撫でると、少年の顔は一層多幸感で緩んだ。対して猫は微動だにせず、撫でられるがままである。

 

「思い切りお前の事をシカトしてる様に見えるが。それに、可愛い、ねぇ……」

 

 控えめに言って、可愛くない。バルドルがこの猫を褒めるなら、どっしりしているとか胆力がありそうだといった表現を選んだだろう。その位大きくてふてぶてしい。かなり肥満が進んでいるし、面構えも愛想の悪い中年男性の如しである。

 濃い茶色の毛色のせいか、綿の詰まったクッションに手足と頭をくっつけただけの様な風情さえある。随分重そうなクッションだが。

 

「猫はみんな可愛いです。身体が柔らかくて毛がふわふわで、自由で気ままです。僕はどうも犬に嫌われてしまうんですが、猫とは友達になれます」

「俺はどっちかっつうと犬の方が好きだな。忠実だし。猫はどうにも人間を眼中に入れてない感じがして好きになれん」

 

 犬は番犬や狩猟の共になるし、猫は鼠の害を減らしてくれる。男が生まれ育った農村では、猫も犬も役割を熟す事で利益を生み出してくれる生き物であり、もし飼っているとしたらその前提の上で飼っているのだ。そういう扱いの存在だ。可愛がりもするが、愛玩動物の意味合いは薄い。

 もっと言うと牛や馬などの農耕や運搬に役立つ動物、豚や鶏などの食べて美味い動物の方が好きだが、イヨが言っている好き嫌いはそういう意味では無いだろう。

 

「その捉えどころのない感じが猫の魅力なんですよ、ねーチカ君?」

「まあそうしてお前に抱かれてじっとしてる所を見ると、こいつは人懐っこい奴みたいだが──」

 

 そう言ってバルドルがチカ君に手を伸ばした瞬間である。

 彼は全身の脂肪を感じさせない機敏な動きで身を捻り、一瞬でイヨの腕の中から逃れると、お腹をたぷたぷ揺らしながら横道へと消えてしまった。

 

 バルドルは伸ばした手を所在なさげに数回開閉し、ぽつりと、

 

「人じゃなくてイヨに懐いてたって訳だな……動き自体は機敏だったが、猫のくせに体重が重すぎて足音が殺し切れてなかったぞ。デシデシデシデシって音立てて行きやがった」

「男はちょっとくらい太ってた方が貫禄があってカッコいいと思いますけど、さすがにあれは心配になってきました……今度会ったら言っておきますね」

 

 さらりとそんな台詞を言われると、バルドルも遂に力が抜けてきた。自分ならずとも脱力するだろうなと考えた。彼はしかし、次の瞬間思い付く。

 

「お前のそれって、もしかしてタレント【生まれながらの異能】なのか? 動物と意思疎通が出来るって類の?」

 

 当人が普段の振る舞いで見せる人間性故、無意識的にその可能性を除外してはいたが。

 

 ──普通に考えればタレントである可能性が高いのではないか、バルドルは思考する。

 

 タレント、生まれながらの異能と総称される固有の能力。おおよそ二百人に一人という割合で生まれ持つ為、確率で言えばタレント持ち自体はあまり希少では無い。数百人に一人か二人と考えると珍しいとも思えるが、公国全体ならば一万五千人は存在する計算になるのだ。

 

 その種類は膨大で千差万別。何の役にも立たないタレントもあれば、その者の人生を大きく変えてしまう様な強力なタレントも存在するとされる。戦闘に適したタレントを生まれ持った人物がその固有の取り柄を活かして冒険者になったりする例も多いが、選ぶ事も変える事も出来ない先天性の力である為、宝の持ち腐れで終わったりそもそも気付かなかったりする例も、また多い。

 

 公都の冒険者ではガルデンバルドとベリガミニが戦闘に適したタレントの持ち主として有名だ。当人たちが喋らない為に詳細は知られていないが、両者とも魔法に関連する強力なタレントだと噂される。

 

 バルドルの身近では同じチームのパンがタレント持ちで、暗闇を見通す暗視の異能を先天的に保有している。彼女がレンジャーとなったのも、その力を持つからこそだ。

 

「え! 僕のこれってタレントなんですか!?」

「いや、俺に聞かれても分からんが」

 

 バルドル自身はタレント持ちでは無いし、そちらの方面の専門知識を有している訳でも無し。実際異能を持って生まれた者がどのようにそれを自覚するのかは知らない。しかし、タレントの中には他人から指摘されても直ぐには分からないような微妙な物もあると聞く。

 

 ましてや本人にとっては生まれ持った力なのだから、案外他のみんなもそうなのだと思い込んで生きている者も多いのではないかと思った。

 あと、これは決して口には出さないけれども、イヨが猫と喋っていても本人の性格ゆえの行いと解釈する者が多数で、誰も今まで指摘してこなかったから自覚が無いのだと推理したのだ。

 

「動物全般となのか猫だけなのか知らないが、普通は意思疎通なんか成立しないし……まあ普通出来ない事が出来るってのはタレントの可能性十分だとは思うがな、外からズバリ判別する方法なんて……なんかそういう魔法があるって話を小耳に挟んだ事がある、そんな気がするって位だな」

 

 俺は学がねぇからなぁ、とバルドルは内心で頭を掻いた。農家の四男として生まれ仕事を求めて大都市へ、そこから立身出世を夢見て冒険者へ、という自分のありがちな経歴に僅かな思いを馳せる。

 農民や冒険者としての知識は多少あるが、その範囲を超えると途端に無学が顔を出す。

 知識の量も力の一つとして、脇も固めていかねばならないな、と思考を結ぶ。

 

 身近のタレント持ちであるパンは幼い頃に自然と分かったそうである。なにせ周りが見えない中で、自分だけが夜に明かりを必要としなかったのだから当然だ。家族も直ぐに察したらしかった。

 

 バルドルが小耳に挟んだ、タレントを保有しているか否かを判定する魔法はしっかりと存在する。だがそれは精神系の第三位階──非才の身では生涯到達し得ない高位魔法である。しかも、更なる詳細な情報を得るにはより高位の魔法か、そうでなければ別の手段が必要となる。

 

 それ自体があまり広くは知られていない事である。特別知ろうとしない限り普通知らない、と言えるほど知名度は低い。

 精神系第三位階と云う高位魔法を用いてやっと有る無しが分かるだけ、其処からどんな力なのか調べ、やっと見つけても役に立たないものの方が多いとされる為、効率が悪い事も理由の一つだ。

 

 むしろ、滝に打たれたり瞑想をしたり薬物でトランス状態になったり、様々な方法で試してみる方が良いとまでいう者もいる。何かが組み合った感じがして突然自分のタレントが分かる様になる、との見解もある位である。

 

「猫とお話しできるタレント、ですかぁ……!」

 

 因みにイヨはタレントを元の世界で言う超能力みたいなものだと認識しており、『この世界では超能力も実在してるんだなぁ』と思っている。同時に『もしかしたら元の世界でマジシャンだと思っていた人たちの中にも、本物の超能力者がいたりして!』と想像を膨らませていた。

 

 自分がそのタレント持ち──イヨの理解で言う超能力者──ではないかと問われ、彼は興奮した。なんと夢のある話だろうか、もしかしたらそうなのかも、とその気になった。

 

「ベリガミニさんだったらその辺詳しそうだし、実際にそういう魔法があるなら、その使い手と伝手があってもおかしくないと思うぜ。なんだったら今度聞いてみたらどうだ?」

「うーん……いや、良いです!」

「え、良いのか?」

 

 夢を壊したくないので、とイヨは続けた。眼をきらきらと輝かせて両の拳をぐぅっと握り、

 

「実感とか自覚はさして無いんですが、そういう力が自分にあるかもってだけで満足なので! 逆に、これで判定して無いと決まってしまったらショックですから、あると信じて生きていきます」

「そうか? まあ、お前自身の事だし、俺からどうこう言う事じゃないが」 

 

 本人がそう言うなら、バルドルとしても特に言う事は無かった。

 これでなにか利益になる使い道があったり戦闘に利するタレントの可能性があるなら、冒険者の性として有無をきっちり判定してもらうべきだと意見を述べたかもしれないが。

実用性や戦闘への応用性などを考えると無力に近いタレントだし──タレントだとしての話だが──確かにまあ、真偽を明らかにしなくても、本人がそう信じる方が幸せだと思うなら、それで良いのかもしれない。

 

 正直な話、これからイヨがより頭角を現して有名になっていくだろう将来において、

 

『あのー……今朝アダマンタイト級のシノンさんを見かけたんですが、なんだか獣とお喋りしてて……あれは何なんですかね?』

 

 という事態があった時、

 

『ああ……あれは、うん、まあ……本人の趣味なんだよ、放っておいてやれ』というのと『ああ、あの人は猫と意思疎通が出来るタレント持ちなんだ。珍しいだろう?』というのとでは外聞の面においてあまりに違うので、評判としてもそっちの方が良いだろう、という打算、心配もあった。

 

「小さい頃は家で猫を飼ってたんですよー。もしかしたらそういう環境が、僕のタレントを育んでくれたのかもしれません」

 

 有識者がここにいたら『いやタレントってそう云うものではないよ』と優しく、しかし断固として訂正しただろう。【生まれながらの異能】は文字通り生まれながらの、先天性のものである。後天的にタレントを獲得した例は現在一例も確認されていない。

 

 イヨ本人はもう見るからにうきうきとして、嬉しそうな様子である。

 実際、少年は脳内で『ソードワールドのやり方で【猫と喋れる】や【猫の友】って称号は名誉点幾らで取れたっけかなぁ』等と考えていた。もしルールブックが手元にあったら個人称号のページを捲ろうとしていただろう。

 

 二人はその後もなんやかんやと取り止めのない立ち話に興じた。年が近いだけあって──バルドルもついこの間まで十代だったのである──話題は多い。美味い露店の話、安い酒場の話、気になる異性の話、色々である。

 しかし二人とも冒険者であるからして、特に意識せずとも話題は徐々に仕事の話へと向かっていった。

 

 【ヒストリア】はイヨの特例試験から数週間経った今日この日まで、何度も依頼を熟すために公都からの出立と帰還を繰り返していた。

 

「ハンツさんはどうでした? 正式に加入して頂けそうでしたか?」

「それが、俺たちとしちゃあそうして欲しかったんだけどな……本人がやっぱり自分には向いてないって言ってよ。プレートを返上して、神殿に戻るそうだ。残念だが、やりたくないって言ってる奴に無理強いは出来ないからな。良い腕してたんだがな……」

 

 一回ごとの報酬額が多くそして依頼そのものがあまり頻繁にないミスリル、オリハルコン級冒険者と比べ、銅~銀級の冒険者は多忙である。今の公国では特にそうだ。引く手数多である。

 

 まだまだ駆け出しと言っていい──銀級は駆け出しと一端の中間と位置付けられる事も多いが──立場であり、直近の生活資金、将来的な武装の強化や更新の為の費用貯蓄を考えれば、自転車操業にも近いペースで依頼を熟さねばならない事が多いからだ。

 

 冒険者となって直ぐの銅級が受けられる様な簡単な依頼の報酬は安く、純粋に懐に入るのは一人頭銅貨数枚等という事もある。その程度の金銭は、安宿でその日の寝床と食事を取ればほとんど消えてしまうのだ。

 勿論手こずって負傷をしたりすると、手負いで敵と戦えば死ぬ可能性が高い為、ポーションの購入や治癒魔法行使の代金の工面が必要となる。もしくは自然治癒で治るまで療養期間を取らねばならなくなる。そうするとその期間は仕事が出来ないのだから、収入はゼロとなってしまう。

 

 ただ考えなしに我武者羅にやっていると、多くの場合死ぬ。かといって慎重に傾き過ぎると上に行くまで時間が掛かるし、生活も苦しくなる。自分と仲間の体調や能力を見極め、安全マージンを取りつつ、するべき時はある程度の無理もする、そんな身の振り方が求められるのだ。

 

 こういった環境も、冒険者としてやっていけるかのふるいの一つだ。死んだ者は当然脱落だが、死なずともこうした駆け出しの辛い時期に挫折してしまう者は多い。

 

 血走った眼で睨み付け、粗暴な喚き声を上げながら殺意を撒き散らすゴブリンやオーガとの死闘。日々の鍛錬の辛さ。競争の激しさ。苦労の末に得られる数枚の銅貨、銀貨。

『英雄譚や自由な生き方に憧れて、冒険者になってはみたものの……』と云う奴だ。形は違えど、どの業種にもある事である。

 

 流石に一定以上の数依頼を熟して実績を作り、冒険者組合から昇格試験を受ける許可を得、そして突破した鉄、銀級ともなれば少しずつ事情は変わってくる。が、まだまだ裕福という言葉とは程遠い生活が続く。

 

 良い食事、良い寝床、良い生活。良い武具、良い道具。それらは英気を養い、戦闘時における生存性を高めてくれる。しかし上を求めれば切りが無く、分不相応に背伸びをすればそのしわ寄せが他に来る。

 

 バルドルとて防御力の高い全身鎧や、切れ味の良い名工の剣、効果の高いマジックアイテムは欲しい。他の仲間もそれぞれより良い自分の武装を欲しているだろう。だが現実の金銭的事情を考えれば、今現在の武装が精一杯で最善なのだ。

 

 そして武装と同じか、より重視すべき事柄にチームとしてのバランス、適切な構成と役割分担や連携が出来ているかというものがある。

 

 【ヒストリア】の構成は戦士、拳士、野伏、魔力系魔法詠唱者だ。癒し手が不在という一見にして明らかで分かり易く、致命的とも言える隙があった。勿論その隙を無くそうと、森司祭や神官などの治癒魔法の使い手を募集している。イヨに声を掛けた理由の一つでもある位だ。

 

「冒険者に限らず、今の公国だと何処でも引く手数多だからな。治癒魔法の使い手は。組合にも口利きを頼んでるんだが、中々」

「僕たちもそうなんですよ、神官の方を募集してるんです。僕の治癒魔法だと使い勝手が悪い上に回復量が不足も不足で」

「公国屈指の前衛であるお前が回復に回らざるをえなくなるような展開自体が、状況としては最悪の部類だからな。そんな風になったらヤバいってのは俺でも分かるさ。……鉄級の俺たちは兎も角、オリハルコン級の実力を持つ神官はそう簡単には見つからないだろうし」

 

 【スパエラ】も【ヒストリア】も、今はポーション初めとしたアイテム類の所持数を増やす、受ける依頼の難度を下げる、他のパーティと合同で組む、戦術を制限する等の工夫で、どうにかやっている状況である。

 

「俺たち、昇格試験はもう受けられる状態なんだ。銀級でやっていけるって自信もある。ただ、どうせなら万全な状態で上がりたいからな。今のところは癒し手の確保を優先する方針でな。最近帝国や王国から活動の拠点を移してくる奴も多いらしいから、その辺りを当たってみようかと思ってる」

 

 政情不安に陥りつつある王国と、銀級冒険者に匹敵する専業兵士、騎士が国内の治安維持を行う帝国。この二か国から公国へとやってくる冒険者は近年増加傾向にあった。

 この二者はどちらかと云うと、帝国から移ってくる者の方が多い。王国の方はきな臭い世情を避けんとする者がいる一方、騒ぎが起きそうだからこそ一旗揚げる好機と捉える者、国の事情は冒険者には関係が無いと割り切る者もいた為、そこまで大きな動きにはなっていなかった。

 

 帝国の冒険者は前述の騎士の働きにより、特に低位冒険者の仕事が無くなってきている。故に景気の良い公国に移ってくる者が多いのだ。

 中位や高位の冒険者はそこまで逼迫していないからか、目立った流入の動きは見えていない。個々の実力が銀級相当である騎士では対処困難な高難度のモンスター相手は、やはり彼らの仕事であった。金と時間が掛かった存在である騎士を損耗するよりは、金を出して冒険者に依頼した方が総合でプラスである案件も多いからだ。

 

 とは言え順風満帆とまでは行かないらしく、やはり全般的には帝国冒険者界隈は斜陽の様相を呈してきているそうである。ほぼ無関係と言えるのはオリハルコン級とアダマンタイト級と云った最高位格くらいだろう。

 

「神官と言えば、お前は大丈夫なのか? 神殿関係とか」

 

 イヨが異教の神官である事は周知の事実である。こちらでメジャーな四大神教──もしくは法国の六大神教──とは異なる神を奉っている。妖精神アステリアと云う名の神をだ。

 

 妖精神アステリアにはエルフと親しく感情豊かで自然を愛する等の様々な設定が存在するのだが、仲間たちからのアドバイスにもあってイヨはそれを詳しく語ってはいない。ソードワールドではという前置きが付くが、この世界では異種族扱いのエルフが多く信仰する古代神とされるアステリアの存在は、既存の宗教界との軋轢を招きかねないからだ。

 

「あ、大丈夫ですよ。皆さんのご助力もあって良くして頂いてます。実は今日もランニングがてらお参りに行くところだったのです」

「ああ、そうなのか! 宗教界も海千山千と聞くから心配してたんだが、それなら良かった」

 

 悪人面をお人好しな風に弛緩させ、バルドルはほっと一息付いた。

 

 なにせイヨはTRPGプレイヤーでロールプレイヤーだが、現実に妖精神アステリアに対し真摯な信仰の念を抱いているかと云うと、それは明確に否なのである。

 彼にとってアステリア神はフィクションの中で登場する創作神であり、たまたま選んだ神様であった。信仰系魔法が使えるから祈りはするが、根っこの所の、本来の意味で言う信仰心は皆無同然である。

 

 公都の宗教勢力との関係は概ね良好であった。

 各神殿側からの『強要する権利が無い事は百も承知だが、お互いの為にこれこれこういう形で我々に配慮してほしい、ある程度弁えてほしい』という要求は、イヨが殆ど丸呑みする形で交渉が成された。

 

 四大神もしくは六大神とアステリア神の上下を初めとする関係は『触れず語らず』、お互いに『敬意をもって配慮』する事が決定している。『無関係なりに、友好的に何事も無く共存していきましょう』と。

 

 治癒魔法の行使代金等の事柄も大筋では決まっている様である。

 

 所属チームである【スパエラ】のこれまでの活躍と交渉が大であるが、かつて実在し実際に人を助けた本物の神様である四大神に対しイヨが敬意と尊敬を覚え、自発的に神殿に参るようになったのも良好な関係に一役買っていた。

 イヨは異教の神々に敬意を払い、四大神神殿側は神々に捧げられた異教の神官の敬意を受け入れる。先に挙げた話し合いで成立した約束事の中の、『友好的』と『敬意を持って配慮』に当たる部分と解釈されている。

 

 特に水の神の神殿は【戦狼の群れ】に所属するイバルリィ・ナーティッサが経営助力を行っている孤児院も併設されている為、知己が多く付き合いもより親密である。憶測で痛くも無い腹を探られると双方に面倒が起きるので、あまり水神の神殿ばかりに遊びにも行けないのだが。

 

「他のみんなもその辺気にしてたんだぜ。この前なんかその事で──」

 

 バルドルは此処で僅かに、勿体ぶるかの様に言葉を溜めた。

 

「副組合長に声を掛けられてよ、俺如きの名前を覚えて頂けてた、あまつさえ声を掛けて下さったって俺ぁ舞い上がっちまってもう──」

「ガトさんとお会いできたんですか! いいなぁ。僕、中々会えないし、お話しできないんですよ」

「まーそりゃあ、あの人は冒険者組合の副会長だぜ? しかも誰もが知る英雄だ。多忙も多忙の身だし、仕方ねぇよ。──……俺は会えたし言葉も交わしたがな! お前の話題でだけど!」

 

 嬉しくて仕方が無いといった顔でバルドルは大いに自慢した。実際、彼の様な鉄級冒険者にとっては滅多にない幸運であった。姿を見る事だけならなんら珍しくないのだが。

 

 バルドルが何百人と束になっても歯が立たないだろう幾多の逸話を残した往年の大英雄と、その他大勢の中の一人としてではなく、一個人として相対して会話したのである。

 

 しかも、向こうから歩み寄って声を掛けてくれたのである。公国冒険者の多くと同じく老英雄に憧れと敬意を抱くバルドルからすれば、これはもう本当に嬉しい事であった。

 しかもしかも、相手からすれば何気ない一言であっただろうが『最近頑張ってるじゃねぇか、期待してるぜ。これからも精進しな』と去り際に激励まで頂いたのである。

 

 バルドルは嬉しくて自慢したくて堪らなかったのだが、誰彼構わず吹聴しすぎると思い出が軽くなってしまう様な気もして、話したいけど話せなかったのである。故に、その会話の話題でもあったイヨにここぞとばかりに喋っているのだった。

 

「良いなぁー! 羨ましいです! 前回の試合の事とか、僕もお話ししたい事はたくさんあるのに!」

 

 イヨは本気で羨ましかった。試合内容の事や武道の技術に関する話など、交わしたい言葉は幾らでもあるのである。稽古をつけて頂きたいとも思っていたし、可能ならば何度でも戦いたかったのだ。

 見掛ける機会には何度も恵まれたし、ガドの方もイヨと話をしたそうに見えたのだが、毎度多忙──実際多忙なのだが──を理由に、お付きの職員に引き離されていた。

 

 冒険者組合側の『また殺し合いなんぞされては堪らん』との思惑もあったのだろう。冒険者組合側としては、折角現れた次代の英雄と過去の大英雄のどちらかを私闘で失うなど真っ平なのだ。

 冒険者組合は、止められなかったらどちらかが死んでいただろうあの戦いが再現されるのを大いに危惧している。前科がある分だけ、締め付けがきついのである。

 

「正直、あの面接で現役時代の武装をした副組合長を目の当たりにした時は、もう圧倒されちまってな。強者のオーラって奴をヒシヒシと感じて石像みたいに固まっちまったが……日常で会話してみると全然そんな感じがしないんだ、お前の事だって自分の孫みたいに気に掛けてたんだぜ。流石英雄、出来たお方だよホント」

 

 バルドルは改めてガド・スタックシオンへの尊敬を深めた様だが、イヨとしてはもう其処まで言われると効果覿面だ。なんとしても直接会ってお礼をして、指南指導をして頂きたくなってきた。

 

「うーん……あらかじめ受付でアポを取っていたら大丈夫、なのかなぁ」

 

 忙しいならあらかじめ会う約束を取り付けておく。それはとても真っ当で常識的で、故に絶対確実の手段であるように思えた。

 そう、冷静に考えたら、大きな組織の副長に何となく顔を合わせた折に時間を取ってもらおうというのが非常識であったかもしれない。出会いが出会いだったので何処か親しみと共感を抱いていたが、本来とても偉い人なのである。

 

 こちらの方から段取りを経てちゃんとお会いしよう、イヨの心がそう固まった瞬間である。

 

「その方法なら多分時間取ってもらえるとは思うが、副組合長は今公都にいねぇぞ」

「え、ガドさんいらっしゃらないんですか!?」

 

寝耳に水であった。驚くイヨに対し、バルドルは記憶を思い出そうと視線を斜め上にやり、

 

「昨日出立した筈だな。あれだよ、幾つか都市を回って講習会だか講演会だか……ま、とにかく話とかすんだよ確か。助言やら教導やらな」

「き、昨日……えっと、何時頃帰って来られるんでしょうか?」

 

 バルドルは視線をそのままに、眉を歪めた。

 

「そんなには掛からない筈だな。公都を長く開けるのも不都合があるだろうし……一月前後ってとこじゃないか? 覚えてる限りだと毎回そんな所だったと思うぞ。一回で全都市回る訳じゃないんだし」

 

 要するに、公国冒険者組合による冒険者支援策の一環なのである。新たな冒険者に訓練と教育を施すのと同じだ。

 名高き英雄たちの唯一の生き残り、冒険者として未だトップクラスの知名度と名声を誇る大人物が姿を見せ言葉を投げかけ、これから冒険者になろうという者、冒険者として生きていく者に発破をかけるのだ。高みを垣間見せ、助言をするのだ。

 

 ガド本人に言わせると『人材を集め、発奮させる為の広告塔』らしいが。まあ少々掛かる言い方になってしまうけども、その通りとも言える。

 

 イヨが現れたとは言え、公国の上位冒険者層は未だ厚いとは言えないのであるからして。

 

「お仕事ですか。ううん、手紙を出したら届きますかね? ……何方に頼めばいいんでしょう?」

「いやそれより、約束を取り付けたいんだったら組合に申し出れば良いんじゃないか? 帰ってきたら会えるように」

「成程……受付の方に申し出れば良いんでしょうか」

「ああ、大体それで大丈夫だろう。それでもし──と」

 

 バルドルとイヨは何やら大荷物を抱えた道行く人から身をかわした。いつの間にか進路を妨害する形で立っていた様である。大通りと比べれば狭い道は、徐々に人通りが出始めてきていた。

 

 見れば太陽も高く昇っている。早朝と表現されるべき時間も、終わりが近づいてきていたのだ。

 

「随分長く話し込んでたみたいだな」

「そうみたいですね」

 

 イヨもバルドルも時計は持っていなかったが、体感時間で言うと一時間近く話をしていた様な気がした。道端の立ち話としては長い部類だろう。

 

 すっかり頭から飛んでいたが、バルドルはチームの皆と冒険者組合で待ち合わせをしていたことを思い出した。元からかなり早めに出てきていたので遅れてはいない筈だが、流石にこれ以上お喋りはしてはいられないだろう。

 

「悪い、俺そろそろ行くわ。長く捕まえちまって悪かったな」

「いえ、僕もまだ時間には余裕がありますから。皆さんによろしくお伝えください」

 

 今度稽古付けてくれよ、その時はまた一緒にご飯食べましょうね、とお互いに言い合って、二人は別々の方向に小走りで向かっていった。

 

 

 

 

 イヨは細い細い裏道を小走りで進んで行く。滅多に人が通らないだけあって整備などされていない、ゴミやら凸凹が沢山ある歩きにくい道だ。狭いのと相まって、道と云うよりは建物と建物の隙間とでも表現した方が的確な位である。

 

 それでもイヨがこの道を選んだのは近道だからだ。表の大通りを行くよりもショートカットになっていて、短い時間で目的地まで行けるのだ。まあ、イヨが持つ高い身体能力と方向感覚、そして狭い道も相対的に広くなる小さな身体あってこそだが。

 

「──こっちかな」

 

 イヨはひょいと角を曲がる。始めて通る道だが、感覚で位置が分かる。多分あっちが目的地だ、といった具合に。

 

 今日のイヨの用事は、朝のランニングがてらのお参りと、以前お世話になった商人であるベーブ・ルートゥを訪ねる事である。

 あれ以降ちょくちょく使いの人が訪ねてきていたり──昇格おめでとうございます的な文言だったり何かありましたら是非当商会にご用命ご相談下さいだったりだ──したのだが、今回初めて自分から訪ねる。

 

 頼み事があるのである。リーベ村への届け物、という頼み事が。ベーブの商会は、売り買いの為に年に数回あの村を訪れるので、その際に一緒に届けてほしい物があるのだ。

 

 届けてほしい物、それはイヨが書いた手紙である。

 イヨは最近、公国の文字を一通り覚えた。と言っても、英語で言うAからZまでのアルファベットを書いて読める様になり、単語を数十個覚え、拙く短い文がどうにか書ける様になったただけだが。

 

 正直、まだマトモな文章が書けるレベルでは無い。書けず読めない単語熟語も山の如しであるし、文法もまだまだだ。故に、手紙も酷い出来だ。色んな人に教えられながら書いたから、文意が読めない程ではないけれど。

 

 日本語で表すなら『みなさん、おげんき、ですか。ぼくはすごく、げんきです』に近いレベルの文章がブツ切りで並んでいる手紙である。村長、リグナード、リーシャを初めに特にお世話になった人、仲良くなれた人にそれぞれ宛てた手紙が十数枚。後は申し訳ないが、村の人たち全員に宛てた手紙が一枚だ。

 

 流石に全員分を書くのは何時まで掛かってしまうか分からないので、今回はそれだけである。

 

 少年の心は弾んでいた。足もそれに応じて軽やかに動く。不法投棄のゴミや未整備の悪い道、狭さなど大した問題にはならなかった。

 

 手紙には色んな事を書いた。旅の途中で見た景色、大過なく公都に着けた事、公都の素晴らしい情景。ベーブの助けもあって問題なく冒険者になれた事。沢山の良い人たちと出会えて、友人も一杯出来た事。副組合長との戦い、初めて依頼を受け、成し遂げた事。近況はどうかと尋ね、なにかあったら頼りにしてほしいとも。

 

 ──そして、とても素敵な人に出会って恋をした事。これは流石に恥ずかしかったので、ほんの数人に向けた手紙にだけ書いた。

 

 すべての手紙は、『こうとから、ぼくは、みんなのしあわせを、ねがっています』で締められている。『よろしければ、おへんじをください』とも書いた。

 

 

 数か月後にリーベ村から届くだろう返事が、イヨは今から楽しみであった。

 

 ローステンさんのお子さんは無事生まれただろうか。兄と喧嘩してしまったヒース君はちゃんと仲直りが出来たのか。腰を痛めていたマルお婆ちゃんは良くなっただろうか。リーシャに四度目の告白をして速攻で断られてしまったピピン、イヨを含めた村の若い男は皆彼を勇気ある者として一目置いていた。そんなピピンに淡い恋心を抱いていたクレリア。その一途な想いを応援していたので、進展はあったか大いに気になる。

 

 一週間にも満たない時間に、少年はあの村の人々からあまりにも多くの優しさと愛情をもらっていた。公都の人々も好きだが、イヨはリーベ村が大好きであった。というかこの少年は世の中の人は大体好きなのだが。例外は悪人である。

 

 少年は今日、朝から楽しく前向きな気持ちであった。

 日々の暮らしでは悲しい事も辛い事もあるにはあったが、少年は意識的無意識的に、それらをより直近卑近かつ自身の努力によって解決できる問題にすり替えて捉えていた。あくまでも前向きに、ただ前向きに。

 

 天に任せるしかない事象を。もう起きた現実である不幸を。これからほとんど確実にそうあり続けるだろう不幸を。

 それらは要するに、家族友人元いた世界に関連する物事だ。

 イヨの強さはそれらを心の奥底で受け入れかけていたが、完全に割り切ってしまうには年単位の時間が必要だっただろう。

 

 通常ならば。

 

「──生ある者を片端から殺して回りなさい」

 

 ──は?

 

 楽しい気持ち、嬉しい思い出。それらによって踊っていた心と体が、身を引き裂くような強烈な悪寒によって一瞬で凍結した。

 

 耳に入ってきた言葉を理解するより本能が身体を動かし、走行を急停止。イヨは通り過ぎようとしていた横道に向き直り──それらを見た。

 

 フード付きロングマントで身を覆った人影。背丈はイヨより僅かに大きいほどの、先ほどの声の主と思われる者。布から出た片手には、萎びた黒い心臓の様なモノを捧げ持っている。

 

 しかしイヨの視線はその人物より更に奥──黒い靄から今まさにその身を確定させ、実体を帯びつつある化け物に釘づけにされていた。

 

 狭い路地の中で視界が狭まり、極度の集中状態に入ったイヨが滲ませた思考は──『ふざけるなよ』という憤りと怒り。──『お前みたいなアンデッドがこんな所に存在して良い訳が無いだろう』という無言の絶叫。

 

 それは戦いに臨むべく形作られた死の姿。

 

 二メートルを三十センチ近く超える背丈は、通常人類とは比較にならぬ厚みを備え。その身を包み漆黒の全身鎧は脈動する血管の如き真紅が表面を這っていた。体の大きさに見合った武装は暴力そのもの、巨大なタワーシールドと波打つフランベルジュ。双眸に満ちる仄暗い赤光は生者に対する憎悪の現れ。

 

 ──モンスターレベル三十五を誇るアンデッド、デスナイトの威容──

 

 イヨの意識と無意識が凄まじい音量の警鐘を鳴らした。──駄目だ、と。

 まだ近いレベル帯の他のモンスター、アンデッドならまだましだった。

 しかし、絶対に──デスナイトは駄目だ。駄目なのだ。あれの持つ能力は、この現実世界にあって最悪の部類だ。

 

 一瞬で実体を確定したデスナイトの身体が狭い路地に収まりきらず、左右の建物の壁を削り壊す。それと同時に、イヨの全身の体毛が一斉に逆立った。長い髪までもが俄かに角度を上げ、風も無いのに騒めく。

 

 その現象は怒りや戦意によるものではなく。弱い小動物が捕食者を前にして、少しでも僅かでも体を大きく見せようと必死になっているかの如くであった。

 

「あ」

 

 手前にいた人物が声を発して振り向く。片手に捧げ持っていた黒い心臓が、液状の闇と化して宙に溶け消えた。

 

フードによって見えぬ筈のその人物の表情から、イヨは確かに感じた。『丁度良いトコに一匹いるし、手始めにコイツからやっちゃおっか』とでも言い出しそうな気軽さを。

 

 マントの合わせ目からすらりと伸びた繊手の、異常に青白い指先がイヨを指し──

 

「こ」

 

 殺せ──と発声され終わる前に、イヨは全身を躍動させて敵を殺しに掛かった。

 




ようやく原作における大人気キャラであるデスナイトさんを書くことが出来ました。
デスナイトさんって本当にやばいですよね、実在の脅威として考えた場合悪夢みたいなアンデッドです。敵の攻撃を完全に引き付け、一撃では絶対に死なず、殺した相手をアンデッドにする35レベルモンスター。こんなの街中に呼び出されたら国が滅びそうです。

活動報告の方に【スパエラ】の三人、リウル、ガルデンバルド、ベリガミニの大雑把な職業構成その他を書きましたので、興味のある方はご覧下さいませ。


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人界に潜む不死者たち

「こ」

 

 篠田伊代は常、誠心誠意真面目に真剣に殴り蹴り、殺してきた。ポイントを取り合う様に骨を折り折られ内臓を破裂させ破裂させられ、最後には勝ち名乗りを受けるように屍に目線をやっていた。

 

 意思を定めたのが何時かと言えば、多分リードルット親子を襲うゴブリンを目にした時だ。やめろと叫んだあの瞬間無意識的に、本能が決めたのだ。そしてリーベ村を襲ったゴブリン部族を壊滅させたあの時に頭で割り切った。

 

 本来訪れる筈のない実戦証明の時は不意に訪れ、少年は自分が戦える人間だと知った。

 

 今この公都の裏路地での疾走は、イヨにとって初めての体験だった。死ね、死んでくれと願って祈って殺さなければと焦る様に殺しに行くのだ。

 

 三十レベルの前衛たる彼の五体に宿った敏捷力と筋力は軽量の身体を二歩でトップスピードまで加速してくれるが、極限の集中によって成る認識速度の前ではもどかしいほど遅く感じた。

 

 段階を飛ばし一息に最高潮の躍動を行う身体とは裏腹に、脳裏に響き渡るのは恐怖を色濃く宿した警鐘。自分がこれから数秒で成す一挙手一投足が万単位の人命を左右するという重圧。

 

 普段戦うとき、イヨの脳内からは言語が消える。まだるっこしく遠回りな言葉も文字も消え、光の瞬きや色彩の濃淡にも似た、閃き染みた思考、感覚だけが残る。

 

 ──デスナイト。デスナイト、デスナイト! 駄目だ、それは駄目だ! 

 

 その色彩が、閃きが叫んでいた。あれは駄目だ、と。

 

 ──何人死ぬ!? 此処で止められなかったら何人──何千何万人死ぬ、死んでしまう、殺される! 

 

 三十五レベルのアンデッドモンスター、デスナイト。痛みと疲労を感じず破壊されるまで全力で動き続けることが可能な生者を憎悪する不死者。殺した者をアンデッドに変える能力を持つ、難度にして百五の化け物。

 

 公都三十万の人口の内、圧倒的大多数は戦う力を持たない一般人。レベルにして一前後。デスナイトどころかスクワイヤ・ゾンビ【動死体の従者】やただのゾンビですら致命的脅威だ。

 

 フード付きロングマントで全身を覆い隠した人物。イヨの狙いはそいつだった。デスナイトは攻撃を完全に引き付ける特殊能力を持つが、この狭い道の中、互いの位置関係からすればそれは不可能に近い。

 

 ゲーム内では攻撃を完全に引き付ける特殊能力を持つが現実ではどうだか分からない。

だが、今までの自身を鑑みるに、ほぼ必ずゲームでの能力通りにブロックしてくるだろう。つまり未だ棒立ちで手を伸ばした体勢から動けていない手前の人物を殴ろうとすれば、庇うデスナイトを確実に殴れる。

 

 万に一つの幸運が起こりデスナイトが庇えないのなら、手前の人物の眼に二本貫き手を差し込み、【爆裂撃】で内側から頭部を爆散させて即死させる。デスナイトに虐殺命令を下す様な輩は生かしておけぬ。

 

 デスナイトだけでもイヨの勝算は低い。四十レベル相当の防御能力を三十レベルのイヨが貫くのは至難だ。だが逃げられない、逃げる訳には行かなかった。

 

「ろ」

 

 イヨは二歩目を踏み締め、上段貫き手の挙動を起こす。ゲーム内では喉を切り裂こうが心臓を串刺しにしようがクリティカル扱いでダメージが大幅増加するだけだが、頭部の半分も吹き飛ばせば高等生物の殆どは即死だろう。

 

 直立静止状態から数瞬で十メートルを駆ける脚力と普通人の限界を超えた技量の両立は、彼我の距離を一瞬で食い潰す。

 

「せ──ぇ!?」

 

 咄嗟に背を反らして避けようとする人物。体捌きは素人同然だが速度そのものは恐ろしく速い。明らかに通常人類の限界を超えた動きだ。

 だが当たる。身体能力の割に戦士系の心得が無いのか、荒事に慣れていないのか、その両方か。そもそもの動き出しが遅過ぎたのだ。もう間に合わん。

 

 碌に動けていないテロリスト。両側の壁を削りながら剣を振り上げるデスナイト。其処までは良かった。──このまま一人獲れるかと思ったその刹那。

 

 イヨの指先が肉体を捉える事は無かった。敵が衣服ごと濃い霧と化し、避けられないままに攻撃を無効化したからだった。

 

 渾身の攻撃を外したイヨに次の瞬間襲い掛かってくるのは──

 

「──ォオ!」

 

 五体で壁を破砕しながら振り下ろされる、デスナイトの唐竹割りであった。

 

 

 

 

 霧はまるでガス状生物の如く空気の流れを無視した動きで移動し、デスナイトを盾とする立ち位置、つまり背後で実体化。元の人型に戻った。

 

「──たかが人間の癖に!」

 

 生意気にも不意打ちを、と続けるフード付きロングマントで姿を隠した不審人物──いや、もっと良い形容の仕方がある。不審人物は──テロリストはフードを下ろし面貌を晒してたのだ。

 

 彼女は美しかった。明らかに人の領域を超えて、恐ろしいほどの魔性の美を宿して輝いていた。

 宵闇よりも尚濃く暗い、全てを呑み込むかの如き漆黒の長髪。肌は色白というより蒼白で、すぐ下の血管が透けて見えそうな程に薄く肌理が細かい。男性のみならず女性すらも魅了しかねない起伏豊かな肢体は、十五歳ほどの外見年齢にも関わらず女性美の極域に届かんとしていた。

 

 彼女に一瞬視線を投げ掛けて貰えるのなら地に這い蹲る。意外なほど低い少年的でさえあるその声音で己が名を呼んで貰えるなら親でも切り捨てる。その身体をこの腕で抱きしめる為なら命を捨てても構わない。

 

 そういった狂気的な報身に人を誘いかねない程、彼女は女として未完成のまま完成していた。

 

 ──凶器としての用途にさえ耐えそうな長い犬歯も。血に濡れた紅玉としか表現し得ぬ紅い瞳も。彼女に魅入られた者たちには些細な、問題にすらならない単なる特徴──否、より美しさを際立たせる長所にしか映らぬのだろう。

 

 此処まで特徴的な外見を持つ彼女の種族は明らかだった。それは、長きに渡り無数の創作物の中で描かれ続けた最も有名な怪物──

 

「不死不滅の血族である私に、必滅者たる人間如きが──」

 

 ──吸血鬼。ユグドラシル広く知られる化け物然とした姿でこそ無かったが、間違いなくそうだ。

 

 不快感の滲み出る表情で抑えた怒声を漏らし、女吸血鬼はデスナイトと素手で格闘しているいけ好かない少女を睨み付けた。吸血鬼の基礎能、視線に依る魅了の力でシモベとする為だ。

 

「偉大なる父の子たる我が下に平伏しなさい!」

 

 自身が絶対的上位者である事を疑わぬ、力の込められた咆哮。女吸血鬼の持つ美貌と魅了の力が合わされば、殆どの生命体は雌雄の区別なく魅了状態に陥る筈であった。しかし、

 

「──おお!」

 

 白金の三つ編みをした少女は微塵にも揺るがない。激闘の最中に確りと視線を合わせたというのに、ただの一瞬も精神を揺さぶる事はできなかった。

 余程強靭な精神を有しているのか、強力な精神防御系マジックアイテムを装備しているのか。恐らくその両方であろう。

 

「何処までも生意気な……!」

 

 容姿と反比例した雄々しい戦振り。自身の容姿と魅了の力を物ともしない揺るぎ無き有様。澄み渡った眼が向けてくる敵対的な視線。『優しい家族に愛されて幸せに育ちました』と言わんばかりの目付き、面付き、雰囲気。全てが女吸血鬼の癇に障った。

 

 個としても群としても弱者でしかない人間の、しかも年齢で言えば成体ですらないだろう雌餓鬼如きが自分を敵として──抗えぬ絶対者としてでは無く、ただ単なる脅威、打ち倒すべき一体のモンスターとして見ているのだ。

 

 これが腹立たしくなくて何だと言うのか。

 痛め付け、鎖で縛り、踏み付けにして、ありとあらゆる種類の苦痛と凌辱を与え──最後には吸い殺して下僕にし、飽きたら再度殺す。それ位の罰を与えなければ気が済まないほどの苛立ちが、地獄の業火の如く彼女の心の底で揺らめいていた。

 

 ──屑みたいな人間が。弱い癖に、弱い癖に、弱い癖に。強者に虐げられるしか取り柄の無い弱者の癖に!

 

 先の苛立ちを解消する為に、女吸血鬼は脳内で思い描いた『罰』を与えるべく、少女に向けて一歩踏み出した。幸いにして相手はデスナイトと同等以下程度の力量のようだ。

 攻撃能力という面において、彼女はデスナイトに近い力を持つ。自分が加われば容易に倒せるだろう。陽光は女の肌を焼き、力を鈍らせているが、燃え滾る怒りの前では些細な問題だった。

 

 二歩目を踏み出し、三歩目からは疾走となる筈だった。

 

 女吸血鬼の歩みを止めたのは彼女自身の自制心では無く、『父』に言い付けられた言葉を思い出したからであった。

 

 ──一人の時には絶対に無茶をしてはいけない。デスナイトに命令を与えたら、君は直ぐに此処まで戻ってくるんだ。

  

  『父』の命令には従わなければならない。しかし、眼前の少女は許し難い。少女は数瞬悩んだが、

 

 ──以前の法国の一件で学んだはずだよ。人間のような取るに足らない生き物でさえ、中には強い者もいるんだ。君や私が傷ついたのは油断と驕り故。また徒に目立つ真似は控えるべきだ。

 

 ──デスナイトはこういう仕事にはうってつけのアンデッドだから、こいつに任せればいい。我々が表に出る必要はない。傷が癒えるまでは特にね。だから、約束だよ。デスナイトを召喚し命令を与えたら、まずは戻ってくる事。警戒に値する者と遭遇した場合も同じだよ。

 

 女吸血は歯を噛み締め苛立ちも露わな足取りで踵を返した。そして身体を端から霧に変じながら、

 

「デスナイト! 命令通りより多くの生きとし生けるものを殺しなさい! 死者の群れでこの都市を死の都に変えるのよ! 邪魔する者を──」

 

 吸血鬼は憎悪を込めて、可憐な戦乙女を睨み付けた。

 

「──一人残さず殺しなさい!」

 

 大声で叫んで、彼女は全身を霧と化し、宙を駆けていった。

 

 

 

 

 霧が宙を走り去ってゆく。

 

 それを合図に戦闘は加速した。明確に一対一、お互いに全力を傾注する状況が整ったのだ。背後の主人を庇う必要も、首謀者の不意打ちに神経を割く必要もなくなったのだ。

 

 イヨの【アーマー・オブ・ウォーモンガー】が重装化し、全身を覆う。デスナイトの虚ろな眼窩に灯る鬼火が勢いを増す。

 

 当然だが会話はない。片やアンデッド、片や生者。人間とモンスターよりもっとずっと会話が成立しない。極々一部の例外を除いてまともな意思疎通すら成立しない両者は、存在の根本からして対立しているのだ。

 

 二十五レベル相当の攻撃能力を持つデスナイトの斬撃は、この世界の力量水準にあっては超一流のものに他ならない。金属鎧ごと人体を両断するのも容易い巧緻極まる剛剣だ。

 

 攻撃を完全に捨てて防御に専念するだけでも、腕利きの白金かミスリル級。対等に戦おうと思うなら最低でもオリハルコンかアダマンタイト級相当の実力が要求されるだろう。

 その事実は、この世界で生きる人類の殆どは反応すら出来ず切り殺されるしかないと云う現実を表している。公国の警備兵や王国の兵士はもとより、精強で知られる帝国騎士ですら到底歯が立たない。

 

 デスナイトと刃を交えて生き残る事が叶うのは国家に名だたる強者たちのみだ。殺す事の出来る者となると、表の世界では五指に満たないだろう。

 

 死の騎士は強過ぎた。特殊能力も含め、単騎で小国を滅ぼし得る戦力であるとの評価は全く大げさではない。

 

 なればこそ。

 公都の、否、公国の民は感謝すべきである。偶然に感謝するべきである。

 

 最低でも数千数万が死に、一国の首都が不死者蔓延る死都と化す。その最初期段階に『人類の殆ど』に当て嵌まらない例外的存在が居合わせた偶然に──

 

「おおおぉおっ……!」

「オオォオオオー!」

 

  場所は奥まった細い路地だ。常識外の巨体で巨大な獲物を振るうデスナイトが不利で、小柄かつ徒手空拳のイヨは有利──というのはあくまで常識の範囲のお話。

 

 紙ぺら一枚で作られた壁は障害物足りえるだろうか。否である。

 廃屋の老朽化した壁など、デスナイトやイヨにしてみれば壊そうと思えば幾らでも壊せる物でしかなく、視界視線こそ遮れども動きを制限する要素には到底ならない。

 

 死の騎士は盾を前に押し出しつつフランベルジュを振るう。一挙手一投足毎に刀身が、盾が、五体が建造物を瓦礫に変じていく。この光景を目撃した者にデスナイトは防御に秀でたアンデッドで攻撃は得手ではないと言えば目を疑うだろう。基準が狂っているとしか思えない筈だ。

 

 八十センチ近い身長差。無手とフランベルジュという獲物の差。それは圧倒的なリーチの差として現れる。『相手の攻撃が届かない距離からぶん殴れる』と云う戦士的に天国な状況。

 

 死臭と共に撒き散らされる致死の剛剣、その雨嵐。常人なら既に百回は死んでいる。剣音は鳴り止まずただただ連続する──連続し、終わらないのは対象が生きているからに他ならない。

 

 一方的な猛攻。ただ、忘れてはいけない。デスナイトの攻撃能力が二十五レベル相当ならば、イヨの回避及び防御能力は三十レベル相当である事を。

 

 死の剣境の内に身を置き、少年は攻め込んでいた。手は届かない。しかし攻撃を捌き避け空かし、一心に前進する。普段柔らかな笑みを湛える顔貌に浮かぶは決意の色。例え死んでもこの場で殺すという決死の思い。

 

 それはまるで、荒れ狂う濁流を切り裂いて前進する一筋の細やかな清流のよう。

 

 間合いの内側まで分け入ってしまえば、そこから先は拳の領分。約八十センチ身長差、素手とフランベルジュというリーチの差。それは圧倒的な取り回しの差となって結実する。片手で振るう大剣が、至近距離で躍動する五体に勝る道理はない。

 

「──っ」

 

 目と鼻の先。スとシの中間めいた短く鋭い呼気と共に繰り出されるのは裂帛の拳。

 基本中の基本である上肢と下肢の合一からなるその威力はありとあらゆる全力を束ねたモノ。握力筋力捻転力回転力遠心力重力気力精神力体力、持ち得る総力の結集。

 

 強風を纏って叩き込まれた拳は轟音と共にタワーシールドに止められる。無論一発では終わらない。拳を引き戻す動作と連動して連撃を放つ。一発ごとに相手を圧迫するかの如く踏み込んでいく。

 当然デスナイトもただ迫られ殴られている訳ではない。盾を前面に出しつつ剣の牽制を用いて有利な間合いを得ようと距離を開けんとする。

 

 より近い間合いで戦いたいイヨ。より遠い間合いで戦いたいデスナイト。両者の思惑は駆け引きとなって戦闘の密度を上げていく。相互の攻撃と防御だけに絞っても秒ごとに数十は交わされる濃度の高い戦闘。

 

 イヨが攻勢でデスナイトが守勢。この戦いを見守る第三者がいたなら、より手数が多く、より多く相手を叩き前進していく少年のほうが優勢だと思ったかもしれない。しかし実情は違った。

 

 ──くそ、堅い! 

 

 イヨは心中で毒づいた。デスナイトの守りは矢張り堅いのだ。その上物理的に鎧も盾も硬い。

 交戦開始から数十秒の間に、もう幾度も渾身の一撃を叩きこんでいる。其の内一つとして有効打になっていない。殆どは盾で何事もなく受け止められ、僅かに体を捉えた一撃も鎧の装甲を抜けていない。

 

 ゲーム的に言うなら、数千のHPを誇る相手に一か二程度のダメージしか与えていないだろう。不意の遭遇戦であるために【レッグ・オブ・ハードラック】と【ハンズ・オブ・ハードシップ】を装備していないのが痛過ぎる。

 

 一旦撤退してでも装備品類を見直したい所だったが──十中八九それは駄目だ。不利を承知で積極的に攻勢を続け、敵を自分の下に押し止めなければならない、とイヨは判断していた。

 

 四十レベル相当の防御能力──ただ硬いと言うだけではなく、純粋な防御技術の高さ、防戦の巧みさ。本能のままに襲い掛かる低位アンデッドとは一線を画する高度な戦闘技術。戦術眼。

 眼窩に宿る赤光は憎悪の塊で、荒々しく殺意と暴力に塗れた太刀筋。しかし、根底には確固とした知性がある。

 

 一方的に叩きつけられる攻撃を捌くのとは異なる相互に殴り合う戦闘。目まぐるしい相互のやり取りの中で、地力の違いが徐々に浮き彫りになっていく。

 

 それは唐突に思えたが劇的では無く、当然の帰結が如く起こった。

 

 イヨのその一手は、僅かに開き始めた間合いを詰める意味も含んだ後ろ回し蹴りだった。狙いは一応中段だったが、相互の体格差の為に足は高々と上がっていた。勿論油断は無かった。注意もしていた。技量気勢共に申し分無い一撃だった。

 

 それがなんだと言わんばかりに上を行かれただけ。

 

 デスナイトはその一撃を受け止めるのではなく、見極め、浚った。

 

 斜めの軌道を描く足先に剣を握ったままの手を当てがい、加速させるように上方に導いたのだ。足に引っ張られたイヨの小さく軽い身体はいっそ笑えるほど宙に浮き──再び足が地に着く間までの数瞬、否応なく無防備であった。

 

 繊細な技術。力強さ。刹那のタイミングを容易く手中に収め、有効活用するセンス。どれをとっても三十五レベルの前衛型、騎士の名を持つモンスターに相応しい腕前。

 

 無防備の数瞬をそれほどの力量の持ち主が、生者を憎むアンデッドが、主より果たすべき主命を受けた騎士が見逃すはずは無く。

 

 例えるならば大地が俎板、フランベルジュが包丁。イヨは粗挽き肉となるべき肉の塊であった。哀れな肉に出来た事は、急速な落下と衝突に備えて防御姿勢を取る事くらいだった。

 

「オオオァァァアアアアアア──!!」

 

 聞く者の肌が粟立つ大咆哮と共に、幾度も幾度も大地が揺れ、金属音と血肉を引き潰す音が響き渡った。

 

 

 

 

 闇を見通せぬ眼しか持たない種族では、身動きすらままならぬだろう暗黒に包まれた何処か。およそ尋常な生物の棲み処でない事は明白で、どうにも生ける者の生気や気力といった輝かしさからは遥か距離を置いた地所と思えてならない。

 

 生き物の気配は微塵もないが、そうでない者の気配は一つだけあった。黒く硬質で粗削りな椅子にもたれる存在が一人。

 

 呼吸音は無し。体温も無し。闇に苦慮する様子も無し。アンデッドと判断できるその何かは、青白い身体を貴族趣味的な衣服に身を包み、半ば闇と一体化しているかのように其処にあった。

 後ろに撫で付けた白髪は酷薄な印象を醸し出し、高々とした鼻やこけた頬、細長く骨ばった指。全体的に痩せぎすな体格だが、身長だけは随分高い。『病弱かつ残酷な貴族の図』とでも銘打てば多くの人が成る程と頷きそうな背格好だった。

 

 正常な時間感覚の失せるその空間でどれ程の時が経っただろうか。十分よりは長いだろうし、一日よりは短いだろう。それくらい大雑把な捉え方をしないと狂ってしまいそうなほど、行き過ぎて静謐な空間、其処にいる男だった。

 

「──ただいま、お父さん」

「ああ、おかえり」

 

 なればこそ、響き渡ったその声と新たな存在の放つ気配は、冷たく空虚な宇宙に太陽が出現したかのような変革を感じさせた。

 

 常識を超えて美しい少女は矢張りアンデッドだった。父と呼ばれた男と同じで、しかし全く違う。父なる男が百年を超える月日を歩んだ古物であるならば、この少女は成り立ての新品。だからではないだろうが、いっそ人間的なほどの感情──怒りの波濤を全身から放っていた。

 

 アンデッドであるのに生気すら──あくまで性格的精神的な話だが──漂うほど、ある種生き生きしていると言えなくもない。

 

 少女が闇の中に沈んでいたランタンに火をつけると──まだ人間だった頃の習慣が抜け切っていないのだ──暗黒から薄暗い位にはなった。

 

 貧弱な炎に照らされた室内は地面に直接穴を掘った様な地下室未満の代物だった。広く乾いた空間だが、男が座る椅子以外には調度品の類も見当たらない。

 

 男の座る椅子は光源に背を向ける様に配置され、娘は巨大な椅子の背もたれに隠れて姿の見えない父に対し畏まった。

 

「首尾はどうだったかね、愛しい我が娘よ」

「ごめんなさいお父さん──デスナイトの召喚自体は出来たわ。でも、それと同時に横槍が入ったの」

 

 項垂れて報告する娘の姿に、父たる男は眉を僅かに跳ね上げて問いを投げた。

 

「詳しく話を」

 

 少女は自分の体験を言葉で語った。

 父から授かったアイテムを用いてデスナイトを召喚した事。現れたデスナイトに出来る限り多くの死を振りまくよう命令を与えた事。ちょうど居合わせた小娘を殺すよう命令を下そうとしたら、その前に攻撃を仕掛けられた事。魅了しようとしたが出来ず、その小娘はデスナイトと戦闘が出来る程度の戦闘力を持っていた事。

 

 小娘の生意気な目付きが気に食わず憎くて憎くて溜まらなかったが、父の命令を忠実に守って、此処まで直ぐに戻ってきた事。

 

「……こんな感じ。私は何か間違った事をしたかしら、お父さん」

「……ふむ」

 

 一言そう言ったきり、父は押し黙る。

 

 長い沈黙では無かったが、少女は不安になった。父は怒っているのだろうか。こんな事も上手くこなせないのか、なんと間が悪いのだ要領が悪いのだと呆れているだろうか。少女は自らの身を包むロングマントをぎゅうと握り、不安に身を焦がしながら父の言葉を待った。

 

 やがて沈黙に耐えられなくなり、少女は悔いる様に、

 

「……やっぱり、殺しておくべきだったかしら。あの女。デスナイトとようやく互角くらいの腕だったと思うもの、私が加勢すれば直ぐに殺せたと思う……」

 

 他者と遭遇した場合直ぐに全てに優先して逃げ帰ってこいと命じたのは他でもない父である。少女にとって父の言葉は絶対だった。暗く沈むばかりだった人としての生から自分を救い出し、吸血鬼としての強大な力を与え、強者として弱者を支配する在り方を教えてくれた偉大な父。

 

 父の言う事は絶対。其処に疑いは無いが、少女は父と隣り合う存在になりたいと願っていた。父の言葉をただ鵜呑みにするのではなく、状況によって一人でも適切な行動ができる様になりたかった。

 

 ただ言うことを聞くだけなら低級のアンデッドだって出来るのだから、父の言いなりであるだけで無く、陰に日向に父を支えられる存在でありたい。

 

──そうあってこそ、真に父の為となれる。だって私は父の娘であるだけではなく、この人の──

 

「……いや、間違っていない。私の言った通りすぐに戻ってきて正解だ。良くやったね、フローラ」

 

 いつも通りに平静な父の声。少女の病的に青白い顔が目に見えて明るくなった。だが、続く言葉でまた凍る。

 

 今度の父の声は、娘である彼女すら消滅の恐怖を感じるほどの激情を孕んでいた。 ひぃ、と椅子に隠れた姿も見えない父の怒りに声が出そうになる。

 

「死の騎士と渡り合えるほどの戦士がそういる筈も、都合良く居合わせる筈も無い──法国のクソ共め、未だ付き纏うか。どう察知したか知らないが、連中の手は思ったよりも長いようだね。こんな田舎にまで手の者がいるとは」

 

 

 

 

 人間は弱い。

 種族としての肉体的な能力で大きく他種族に劣り、その割に特別成長が早い訳でも知能が高い訳でも繁殖力に優れる訳でもなく、恵みある森林や環境の厳しさ故に競争相手の少ない極地で生きて行けず、弱きが故に隠れ住む場所もない平原を棲み処とするしかなかった。

 

 男の様な自然発生の高位アンデッド──存在の発生当初から他者と隔絶した力量を持ち、長い年月を過ごす内、学習によって更なる高みに達した者からすれば、比べ物にならない程下等な存在である。吸血による血液の摂取や眷属化以外に玩具程度の利用価値しか持たないと言ってよい。

 

 奇跡の様な幸運の連続でたまたま絶滅していない、そんな種族。なにせ六大神が降臨したり八欲王が跳梁跋扈したりした結果生き延びたのだから、これは本当に奇跡である。

 

 大陸中央を始めとする有力な種族の支配地域でも人間の姿は見かけるが、概ね奴隷か餌としてだ。その周辺で野生の人間と言えばごく小規模な集団を作って、大した文化文明も持てず育めず細々と生きながらえているのみである。勿論ビーストマンやトロールが狩りに捕獲にと現れれば、そんな生活も呆気なく終わりとなる。

 胃袋の中にお引っ越しである。運が良ければ柵の中か、焼き印や首輪を貰って奴隷として生き延びる事ができる。

 

 人間が有力な他種族と同等程度の規模の群れを保持して独自の文明を築けているのは、広い大陸の中でごく一部分に過ぎない。少なくとも男が知る限り、人間が此処まで大規模な集団、国家を成している地域は他にない。

 

 『餌に過ぎない人間風情がどんな国を作り、どんな風に暮らしているのか見てみようではないか』

 百年の長きに渡り大陸中央を遊び歩いていた高位吸血鬼の、それは思い付きのお遊びだった。

 『生育する環境が違えば悲鳴の声音や血の味も違うだろう』──それを楽しもう。それ位の考え。

 

 旅行に出たようなモノである。男は随分と諸国を遊び歩き、沢山の生ある者を殺し、血を啜った。その途中、フローラという得難き同族も得た。これぞ奇跡、これこそ運命と、男はそれ以来この愛すべき同族を連れ歩き、高貴なる吸血鬼としての在り方を教えてきた。

 醜い凡百の同族下位種などとは一線を画す、強く美しく誇りある在り方だ。

 

 人生の──フローラは兎も角男は存在の当初からアンデッドだが──の絶頂期と言えた。

 

 ──人間に追い立てられる未来など想像もしていなかった。

 

 人間は弱い。慢心でも油断でもなく、男にとって当然の事実として弱かったのだ。腕の一振りで数人纏めて殺せてしまう生き物などそれ以外に表現できないだろう。

 兵士や騎士、冒険者と呼ばれる比較的強い者たちにしてもそれは同様で、やはり腕の一振りで数人纏めて殺せてしまう程度でしかない。オリハルコン級冒険者とやらと遊んだ時にほんの僅かな傷を負った位だ。最終的な感想としては幾分しぶとかったので長く遊べて楽しかったと言った所か。

 

 そんな時に、連中は現れた。

 

『其処までだ、吸血鬼よ』

『あんたら、ちょっと調子に乗りすぎちゃったねー』

『ほうほう、これはこれは。驚いたな、人間風情がこれ程の高みに達しえるのか……いや、素晴らしい。君たちは賞賛に値するよ』

 

 屈強という言葉を体現したような筋骨隆々の男、信念と自負を秘めて立ち塞がる。

 何処か享楽と狂気を漂わせた美しい金髪の女、見下しの念も露わに嗤っていた。

 

 漆黒聖典なる者共が最初に目の前に現れた時、男はむしろ喜んだ。漲る威風に強力かつ風変わりな装備、一目でそうと分かる──自分には及ばないものの、近い実力を持った人間。人の世で英雄と呼ばれる力量の持ち主。恐らく人類史を通しても稀有な最高戦力だろう。

 

 虫けらを踏み躙るのにも飽いてきた処に、まともな戦いの出来そうな相手。強者を更なる暴力で捻じ伏せ地に這い蹲らせるのは、弱者を蹂躙するのとはまた違った喜びがあるというもの。自分の強大さを目に見える形でフローラに示すのに丁度良かった。

 

 フローラを後ろに下げて二対一の戦闘。終始男が優勢で進んだ。地力で勝っている上、更に種族差が響く。

 いくら強かろうと人間は所詮生き物である。戦闘が長引けば疲労は溜まり、呼吸は乱れやがて活力が底を付く。対するアンデッドは破壊されぬ限り全力全開で無限永久に動き続けることが出来、男は吸血鬼の特殊能力として高速治癒と生命力吸収を保有している。

 男女二人の英雄も弱点である神聖属性や炎属性の武器を用い、負の属性に耐性を持った防具を纏うなど工夫をしてはいたが、短期決戦を逃し、実力差故に削り殺す事も出来なかった時点で趨勢は決まっていた。

 

『もう一度言おう。君たちは賞賛に値する。一つの種族の頂点に立つだろう者たちと比較しても、その力は決して劣るものではない。故に呪いたまえよ、それすら上回る我が力を!』

 

 唯一フローラさえ敵の手に掛からぬよう気を配っていれば負けようもない。それ程に優位が固まったが為の勝利宣言。

 

 勝負の時間は終わり、ただ愉しむ為の拷問が始まる。せめてもの手向けとして最後には眷属化させて手元に置いてやろう──そんな時に異常は起こった。

 

 援軍が現れたのだ、二人と同等の実力を持つであろう者たちが複数人。

 

 おかしいだろう、と思ったのを覚えている。

 男が掛けた言葉は決して嘘や誇張ではない。自分自身には劣るものの、男女二人は一つの種族の頂点として君臨していてもおかしくない程の実力の持ち主。人間共が用いる難度という尺度で表すなら個々人が確実に百を超えている。

 

 種族として人間より優れている亜人種の中でもこれ程の力量を誇る個体はそういない。何度も言う通り、王として種族を率いるか、揺るぎ無き強者としてかなり上の立場を得ているだろう。

 種族的に劣る人間の基準で言えば無双という他無い者共の筈。人間でありながら人間を超えた存在。事実男が見てきた人間共の誰よりも強かった。成る程、英雄と呼ばれるのも頷ける。そう思わせるだけのものがあった。

 

 こんなに数がいる筈が無いのだ。仮にいたとしても偶然都合よく一堂に集ったりするものか。

 脆弱極まりない人間として生まれながらこれ程の高みに上り得るのは、普通に考えれば数百万か数千万に二、三人いれば上出来の筈。それはつまり、常識で考えれば一国に一人か二人程度という少なさだ。

 

 それが当時、男の目の前に五人も集まった。英雄だけを集めた集団だとでも言うのか。

 

 男は、負ける、勝てないという現実に直面したのは初めてだった。

 一人一人と一対一ならば勝てると断言できる。二人でも気を付けてさえいればまず負けない。三人でも相性と状況次第で勝ち目はある。しかし、しかし五人もいては、守るべき者を抱えていては。奥の手を用いてすら──。

 

『足止めご苦労、先陣よ』

『自らを強者と驕る愚かなモンスターが……その傲慢がお前を殺すのだ』

 

 駆け付けた援軍の内二名がそう言っていた。残りのもう一人は強力な治癒魔法で男女を癒していた。男はそれを見ているしか無かった、突っ込めば殺される。自分か背後のフローラか──高確率で両方がだ。

 

『さんっざん偉そうな口聞いてくれたじゃんー? ……舐めやがって。端から削る様に嬲り殺してやるよ』

 

 傷の全てを癒された金髪の女が肉食獣の笑みに狂気を滲ませて言った。

 

 男は歯噛みした。人間風情に追い込まれている自分自身に。

 男は自分が圧倒的強者であると自負していたのだ。強力な種族が成す一国丸ごとを敵に回すか、竜王でも相手にしない限り敗北など在り得ないと思っていた。他者を蹂躙してきた百年の時間が、その認識を正しいものだと肯定していたのだ。

 

 人間諸国を渡り歩くうち、英雄のみが集う部隊の存在など聞いた事は無かった。間違いなく人類最強の一団だろうに誰にも知られていないのは、秘されているからだろう。

 何故人間等という弱者が未だ絶滅していないのか。六大神が去り八欲王が消えて数百年、未だ生き延びている理由──男は否応なく理解した。

 

 目の前にある在り得ない筈の現実と、知識で知る史実。其処から推測される事実。これ程の者たちが複数人、この場にいる者で全員とすら思えない。不規則に遊び歩いていた自分たちを捕捉した手腕といい──背後には目の前にあるモノ以上に巨大で強大な組織がある。

 

 表ならず歴史の裏に潜む強者の集団、それを束ねる者たち──人類の守護者たち。

 

 ──神々の時代以降、こいつらがありとあらゆる脅威から人を守ってきたのだ、と。

 

 六色聖典が一つ漆黒聖典──後に知った彼らの名であった。

 

 

 

 

「──……くっ」

 

 身に刻まれた敗北と屈辱を記憶で想起し、現在の男は身を震わせた。

 

「お、お父さん……」

「……大丈夫だよフローラ。君が私の言いつけを忠実に守ってくれたお陰で、時間はまだある筈だ。ともあれそう余裕は無いだろう。一刻も早く此処を引き払おう。それと、一人で出歩くのはやはり駄目だ。今後はお互い単独行動をしないものとしようか」

 

 たった一人しか敵が現れない処を鑑みるに、敵はおおまかな動向までしか掴めていないと男は見た。デスナイトが暴れてくれれば其方にも人員を割かねばならないので、逃げる事は出来るだろう。

 

 男は敗戦以来、油断というモノを努めて排除した行動を心掛ける様になったのだ。

 

 あの時逃げる為に使ったのもデスナイトだった。防御に優れ敵を引き付け、一撃では絶対に死なない。殿を任せるには最適のアンデッド。それを用いてさえ死に物狂いの逃避行だった。

 

 男が数十年を費やして辿り着いた死霊系魔法の極みだ。本来の男の実力で作成・召喚できる位階を遥か超えた高みにあり、大量に集めた負のエネルギーを用いる技術によってようやく実用できる。が、あれ以来幾度か受けた追撃で長年溜め込んだ負のエネルギーも底を付きかけている。

 

 人間の領域の中でも辺境と言って良いほどの田舎で強者が少ないとされる公国に来たのは身を隠す為と、大量の死をばら撒く事によって負のエネルギーを補充する為だった。万単位の生ある者を殺せば、当面不自由しないだけのエネルギーを確保できる筈だったのだが。

 

「この傷も癒せて尚余るだけのエネルギー……惜しいが、既に頓挫したに等しい計画に固執するのは愚かか」

 

 椅子から立ち上がった男のシルエットは歪んでいた。力無く垂れる右袖は、男の右腕が欠損している事を表している。それだけではなく、右の肩や胸近くまでも無いようだった。

 

 男の体を削ったのは何度目かの追撃に参加していた漆黒聖典の誰かだ。恐らくは聖戦士の職業に就く者。

 タレントか、魔法か、スキルか、武技か、武器の効果か──あるいは複数の組み合わせか。既に死したるが故に不死の身であるアンデッド、その身体を支える負の生命力の上限そのものを削り取る一撃を身に受けた。

 

 アンデッドは負のエネルギーによる攻撃を受ける事によって傷を癒せるが、この傷は癒せなかった。負の生命力の上限が削られているので、男の身体は現状、これで完治している状態なのだ。治すためには解呪に相当する未知の手段か力技──膨大で過大な負のエネルギーを注ぎ込む事で無理矢理に治すしかなかった。男は後者を選んだが、その道は断たれてしまった。

 

 この身体では戦闘になった時フローラを庇えない。未だ男と比べて未熟な娘は、漆黒聖典の隊員一人とすら戦えないだろう。

 大陸中央部に逃げない理由も同じだった。アンデッドは人間だけで無く生ある者全ての敵対者だ。あそこには男の百年分の悪行、遊び殺した歴史がある。万全な身なら兎も角、弱った状態で戻った事が知れたら悪縁のある者たちから討伐隊を差し向けられかねない。

 

 男は、フローラを失う訳には行かないのだ。

 

「お父さん、準備が出来たわ」

「──ああ、すまない。手伝うつもりだったのだが、結局全てやらせてしまったね」

「ううん、気にしないで」

 

 生体活動を行わず、飲食不要のアンデッドである。必要な物があったら全てその場で奪ってきたし、魔法詠唱者としての研究成果はすべて男の頭の中だ。研究に必要な道具等も多くは逃げる途中で散逸したのもあって、嗜好品として愛飲する葡萄酒以外に大した荷物もない。

 

 椅子を除いた全ての荷物は、五体満足のフローラが抱えるトランク一つに収まった。マジックアイテムを始めとする装備品の類は常に身に着けているので、その上に陽光から身を守る為のフード付きロングマントを纏えば、一応昼間でも出歩ける恰好だ。街道を歩く様な優雅な姿とはほど遠い逃避になるだろうが。

 

「……お父さん、次は何処に行くの?」

「ふむ。取り合えずは一所に留まることなく、コツコツ地道に、少しずつ殺して負のエネルギーを集めようと思っている」

 

 この男の言うコツコツや少しずつとは、数人から十数人単位の殺害を指す。男は残っている左腕で、後ろに撫で付けた白髪を整えた。

 

「アンデッドの秘密結社があると云う話も聞くし、話さえ付けば其処に身を寄せるのも悪くないかもしれないな。もしかしたらかの国堕とし殿の情報を知っているやもしれないしね」

 

 国堕とし。一夜で一国を滅ぼしたとされる存在。伝説として語られる情報が真実ならば、男より強力な吸血鬼である可能性が高い。十三英雄なる者共に滅ぼされたとする伝承もあったが、男は未だ世に潜んでいる可能性も高いと個人的に思っていた。

 

 人類の守り手に追われている自分たちがこうして長らえているのだから、国堕としとてそうだったのではないかと思うのだ。

 例え一時苦境に晒されようと、強く貴き吸血鬼がそう簡単に終わってしまう筈が無い。男はそう信じていた。

 

「彼は──もしかしたら彼女かもしれないが──私より古く強力な吸血鬼であろうからね。是非とも語り合ってみたいものだ」

「……国堕とし様は、女の人なの?」

 

 フローラの声音が僅かにトーンを下げた。男は少女の心情を敏感に察知し、優しく手を握る事で答える。

 

「かもしれない、と言うだけの話だよ、フローラ。我が愛しき同胞よ。心配せずとも、君に勝る女性など何処にもいないさ。私の心は君のものだ」

「……うん。そして、私の心はお父さんのもの。──あなたは私に全てをくれたもの」

 

 緩く手を握り返す感覚に男は笑みを浮かべる。フードに隠れて見えない彼女の顔は、間違いなく笑顔だろうと確信が持てた。

 

「さあ行こう。我が娘にして我が花嫁、私をも超える貴く尊い吸血鬼の姫君──恐らく世界で唯一のヴァンパイア・プリンセスよ」

 

 男にとって少女は奇跡の様な授かりもの。庇護すべき愛しい者。今はまだ外見相応に未熟で幼いが、永き研鑽の果てに自分を超えるだろうと確信していた。

 

 




遅れてしまい申し訳ありませんでした。デスナイトさんとイヨの死闘、開幕です。

原作で描写されてない場所ってどうしても気になるんです。竜王国とか聖王国とか法国とか自由都市同盟とか大陸中央を始めとする人間の支配域でない地域とか。
六色聖典さんや法国の上層部の方々は描写されていない所で日々こういう脅威を排除して人類を守っているんだろうなぁと思ってこの話を考えました。

吸血鬼の男とフローラは現地の存在としてはかなり強い設定です。あの広い世界の中にこういう存在もいるんじゃないかなと妄想してます。大陸のほかの地域がやっぱり気になります。



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死闘:成人式と卒業式

2017年2月15日
一部を修正しました。全体の流れに変わりはありません。


「伊代、伊代~? お母さんよ、お・か・あ・さ・ん。ママでも可よ、さあ呼んでみて~?」

「なんて可愛いんだろうなぁ、僕らの子は。パパだぞ。ぱ、ぱ!」

「あ、あー?」

 

 これは夢だね、と空中からその光景を見降ろしつつ、篠田伊代は思った。

 夢に決まっている。

 

 狭いながらも暖かい思い出が一杯に詰まった我が家。最新の記憶にあるより若い父母の姿、弟と妹は影も形も見えず、床で腹這いになって両親を見上げている赤ん坊は伊代と呼ばれている。

 伊代本人は赤ん坊の姿で其処にいるのに、伊代はこの光景を見た覚えがあった。確かホームビデオだったと思う。いつ頃見たのかは覚えていない。みんな映りたがって誰もカメラを持とうとしなかったので、棚に置いて録画したのだと聞いた、そんな話ばかり頭に残っている。

 

「まだ喋る訳ないでしょう、何か月だと思ってるの?」

「いや、でも、この子は早熟だからな。足腰もしっかりしてきた気がするし、そう遠からず歩いて喋るかもしれん」

「奉仕郎も早かったが、どうじゃろうのう。わし等が喋る言葉を聞いとる様な感じはするんじゃが。意味はまだ分かっとらんじゃろう」

「千鶴、そろそろ伊代はご飯の時間じゃないかねぇ」

 

 伊代の父の名は篠田奉仕郎、母の名を篠田千鶴という。父の旧姓は柏だ。両親は二人とも一人っ子だったので、伊代は四人の祖父母にとって、双子の千代と美代が生まれるまではたった一人の孫であった。

 

 思い出すまでも無く直ぐに分かる、母方の祖父が篠田巌、祖母が篠田千歳。父方の祖父は柏徹夫、祖母は柏美津子という。今でもしょっちゅう遊びに来てくれる。

 

 家も近いのに何故同居しないのか昔から不思議だったのだ、と伊代は唐突に思い出した。

 

 夢の中というのは不可思議なものである。時間も空間も人物像も伸び縮みしている様な気がして、輪郭も感覚も曖昧だ。

 

 この厳しいご時世に篠田夫妻が三人もの子をもうけ、育んでいけたのは四人の祖父母の協力あってこそだろう。二人ともどうしても多忙な時は、四人の内誰かしらが時間を作って子供の面倒を見てくれていたのだ。

 

 四人の祖父母も子供が独立したとはいえ、未だ現役で働き続ける労働者だったのだが。

 

 伊代はその暖かい光景を見て、何故だか泣きそうになった。何故も何も、もう会えない両親祖父母と夢ででも会えた事が嬉しくて悲しくて泣きそうになってしまったに違いないのだが、今の本人には理由が分からなかった。

 

 体は動かない。目線も動かせない。ただこの光景を見降ろしている。

 

 伊代は何時でも何処でも元気が有り余っていて、相手にする大人の方が疲れてしまう様な無限の体力を持った子供だった。最もそれは多くの子供に言えることだったろうが。

 とにかく昔から警戒心というモノが無く、誰にでも懐くので有名だった。家に来た人には無条件で遊んでほしがり、初めて会った親戚や来客でも直ぐ膝に座りたがったし、分かりもしないのに会話の輪に加わりたがった。

 人目を引くのが赤ん坊のころから大好きだった。大人たちが自分を見ていないとなると、注目を集める為に歌いだしたり踊りだしたり賑やかだったそうだ。

 ハイハイも歩くのも喋るのも滅多矢鱈と早かった。個人差の範疇ではあったらしいが、ちょっと聞かない位早いので、両親は心配して伊代を病院に連れて行ったりしたそうだ。

 際限無き好奇心は留まる所を知らず、幼児用防護マスクも付けずに──そんなものを用意するまでも無く、幼い内は極力外に出すなというのが現代の常識だが──汚染物質舞い散る家の外に脱走しようとして何度も捕まったらしい。幼き伊代に取って家の外は輝く未知の惑星で、自分の足で其処を歩いてみたくて堪らなかったのだろう。

 

 そんな思い出話を、伊代の両親はいつも嬉しそうに語ってくれた。

 

 両親、祖父母、周囲の人々。溢れんばかりの愛情をこれでもかとばかりに注がれて育ったのが篠田伊代だった。

 

 篠田千鶴は伊代にそっくりな母であった。正確には伊代が母にそっくりなのだが。子供頃の画像を見たことがあるが、未だ加齢の痕跡が現れていない母の姿は癖っ毛以外伊代と瓜二つだった。篠田三兄妹は皆母親似である。

 篠田奉仕郎は強く優しく逞しく、父親の理想像として子供たちの憧れとなっている。幼馴染だった母に婚約を申し込んだのが小学生の時だというから凄い。両親ともに仕事は忙しく、家に帰ってくる頃には疲れ果てている筈なのに、伊代は一度として邪険に扱われた事など無かった。

 

 伊代は生まれた時は大きかったのだ。

 四千グラム近くの体重で生まれてきたと教えられた。その後もすくすく大きくなり、母方の祖父母は『この勢いだとあっという間に追い越されるなー』なんて言っていたらしい。しかしその身長も百五十センチちょっとで止まってしまった為、『早く追い越してくれよー』と言われるようになってしまった。

 

 父方の祖父母は面白い人である。

 伊代のユーモアのセンスはこの二人から遺伝したと言っても過言ではない。なにせ孫である伊代の誕生を機に『これからは名実ともに老人キャラで行く』と宣言して一人称と語尾を変えてしまったのであるから。

 

『子供の事から漫画みたいな喋り方する老人ってリアルにはいねぇよなって思ってたんだよ。いい機会だからより祖父っぽい祖父になれる様にキャラ変したるぜ』

『狂ったかジジイ』

『はあ? てめえの方が年上だろうが──じゃろうが? 孫の為にキャラ変も出来ない様な男とわしでは格が違うんじゃよ格が。つう訳でこの子の真の祖父はわしじゃから』

『なにが真の祖父だアニメオタクの漫画狂いが、大概いい歳だと言うのに未だに現役中二病とは恐れ入るわ』

『なんじゃてめえ喧嘩売っとんのか? ん? お? 言いたい事があるなら拳で聞いたるわ表に出ろジジイ……!』

『そうして私だけ出た所でドアに鍵かけるつもりだろうが、二度とその手には乗らんぞクソジジイ……!』

 

 本当に面白い人たちだった。この騒動の横で父方の祖母は無言で携帯端末を操作し、『昔話 お婆さん 口調』で検索していたというのだから凄い。それ以来しれっとお婆さん口調で過ごしている。

 

 幸せな思い出ばかり次々と蘇る。辛い事も悲しい事もあったけれど、伊代の人生はずっと幸せだった。どんな試練も家族が傍で支えてくれていた。だから何時でも頑張る事が出来た。

 自慢の息子だと、自慢の孫だと言われたくて。褒められたくて、撫でて欲しくて、抱きしめて欲しくて。受ける愛情がただ暖かくて幸せだったから、その愛情に応えたくて一生懸命に学び、挑んだ。心の底から家族が好きだった。

 

 全ては過去形で語られねばならない。

 

 痛い。痛くて苦しい。耐え切れず、伊代は身体を折った。赤ん坊の自分はただ無垢に振舞っている。

 

 弟と妹が生まれた日を、伊代は覚えている。初めて守るべきものを得た日。篠田家で常に愛され守られ一番大事に扱われていた少年より、もっと愛され守られ一番に大事に扱われるべき存在が生まれた日。伊代の幸せが加速した日。

 

 小さな小さな弟妹を見た瞬間に勝る喜び人生で未だ無い。全国大会優勝よりも嬉しかった。傍らの父に掛けられた『今日からお兄ちゃんだぞ、伊代』という言葉。生涯忘れまい。

 

 頭の天辺からつま先まで優しさと愛情に漬け込まれて生きてきた温室育ちの箱入り息子にとって、それは世界の変革にも等しい大事件であった。なにせ家族が増えたのである。

 

 母のお腹が大きくなって行くのには戸惑ったし、お腹の中に弟か妹がいるのだと言われれば不思議に思ったし、弟と妹の二人がいるのだと分かった時は驚いた。母が病院に運ばれていったときは無性に不安で泣いた。結局、『弟と妹』なる存在について実感が湧いたのは、その姿を目で見てからであった。

 

 それでも見た瞬間には愛情を感じていたのだから、人間とは不思議である。

 この日から伊代は『僕はお兄ちゃんだから』が口癖となる。お兄ちゃんだから自分の事は自分でできるし、弟と妹の世話も自分がやる、と言い張った。

 言うまでも無くこの時の伊代は小学校低学年生であり、自分の事だけならまだしも赤ん坊二人の面倒を完璧に見るなど不可能であった。『もうお兄ちゃんだから子供じゃない、大人だもの』等と主張する七歳児のお子様は微笑ましいが、時には空回りして仕事を増やす事もあった。そうして少しずつ、余人よりややゆっくり目のペースで大人になっていったのだ。

 

『いよー』

『いよー』

『そうだよ、伊代だよ! お母さんお父さん、千代と美代が喋った!』

『おお! 良かったなぁ伊代! よおし二人とも、パパだぞ、パパ』

『伊代もお世話頑張ったものね、二人ともちゃんと分かってるのよ。次はママよね、ま・ま』

『まぁま、ぱぁぱ』

『まぁま、ぱぁぱ』

『すごいよ、もう受け答えできてる。千代も美代も賢いなぁ』

『本当ねえ。あらそうだ、お義父さん達にも報告しないと』

『可愛いなぁ、僕の弟と妹はなんて可愛らしいんだろう』

 

 伊代は幼くして脳まで含めて全身が運動神経で出来ていると評されるほどの卓越したスポーツマンであったが、その弟妹である千代と美代は兄の分まで補うほどの賢さをもって生まれてきた天才児であった。

 きっかり一年で見計らったかのように喋りだし、歩き出した。半年もすると流暢な会話を熟し、三歳になる頃には兄を諭し、五歳にもなると肉体面での未熟さ以外では精神的学力的に大人と変わらない能力を備えていた。

 

『千代、美代、今時間ある? ちょっと分からない所があるんだけど』

『大丈夫だよ伊代、数学かな?』

『大体見当は付いてるわ伊代、英語もでしょう?』

『ちょっと忘れちゃっただけなんだけどね、まあ、ほんのちょっと分からなくて』

『良いんだよ伊代、僕と美代は頭脳』

『スポーツは伊代、人は助け合って生きていくんだもの。分からない事はなんでも千代と私に聞いて』

『ありがとう、千代も美代も僕にはもったいない位の弟妹だよ。……でもね、たまには名前じゃなくてお兄ちゃんって呼んでくれても』

『それは僕らの信条に反する』

『伊代は伊代だもの。奉仕郎さんや佳代さんと同じく、役柄なんかでは呼ばわる事の出来ない、私たちにとって唯一無二の存在なのよ』

『二人の言う事は難しくてカッコいいなぁ』

 

 篠田家と柏家の大人は皆が寛容であり、無条件で子供たちを愛し、真っ直ぐに育つよう真摯な努力を怠らなかった。個性は他人への迷惑にならない限り常に肯定され、伊代も千代も美代ものびやかに育ったのだ。

 

 想起するたび、現在の伊代は後悔に襲われる。

 あんなにも愛してくれた家族に恩返しができただろうか。与えられるばかりで何も返せなかったのではないか。

 

 もう会えない。薄々察し掛けては目を逸らしていた事実に、伊代は直面していた。

 推論より、探求より、時間より、もっと直感的で故に誤魔化し様の無い理解。最も高い可能性として真っ先に考え付き、しかし嫌だから無視していた当たり前──『世界間移動等という馬鹿げた災害に巻き込まれて帰れる訳がない』。

 

 何の根拠も無いと言えばそれまで。しかし、伊代に取っては胸の激痛がその証明であった。

 幸せな過去である筈の光景がただただ遠く、苦しく、痛いのだ。それは別離の痛みに他ならなかった。現実ではなく夢だからこそ、感情が脳を騙す前に辛い現実と向き合うことが出来ていた。

 

 伊代は幸せそうな家族と自分を見降ろして泣いた。泣くと苦しくなってもっと泣いた。悔いは無数にあり過ぎて数えきれない。

 両親に孫の顔を見せてあげたかった。小さい頃の伊代がしてもらった様に、老いた祖父母を背負って一緒に歩きたかった。妹と弟の卒業式を見たかった。家族にしてもらった分だけ、家族にしてあげたかった。

 

 機会は永遠に失われたのだ。

 

 夢の中というのは不可思議なものである。時間も空間も人物像も伸び縮みしていて、輪郭も感覚も曖昧だ。当人の頭の中だけで起こる物事は、理屈を超えて否応ない理解を可能とする。

 

 篠田伊代は理解した。問答無用の答えを飲み下した。

 

 ──ああ。

 

 ──お別れなんだ。いや、とっくの昔に別れてたんだ。もう一人立ちをしなければならないんだ。

 

 十六歳まで養ってもらったのだ。

 とっくに昔に就職して自分の食い扶持を稼がなければいけない歳なのに、事実小学校の頃に同級生だった者たちの殆どはそうして働いているのに。

 

 ──少し遅く、少し急になっただけなんだ。

 

 こんなにも長く守ってもらったではないか。

 中学校どころか高校まで通わせてくれた、普通よりずっと長く子供でいさせてくれた。すぐには悲しみは消えないけれど、悲しんでいれば家族が手を差し伸べ助けてくれた時間は、もう終わっているのだ。

 

 もう自分で歩かなければならないのだ。

 

「──ぁ」

 

 嗚咽を堪えて伊代は背筋を伸ばした。

 涙で滲む視界の中、いつの間にか真っ直ぐ向き合っている両親、両祖父母、弟妹と対面する。

 その姿は過去のものでは無くそれぞれ記憶にある限り最も新しい姿で、赤ん坊の伊代は消えていた。

 

「……恩返しが出来なくて、ごめんなさい。……今まで、ありがとうございました」

 

 家族は静かに微笑んでいる。とても優しいいつもの笑顔。

 篠田伊代は溢れる涙に顔を歪めながら、精一杯心を込めて礼をした。

 

「──さようなら」

 

 そしてイヨ・シノンは覚醒した。

 

 

 

 

「おあぁああ!」

 

 拳を振るう。意識の覚醒と同時に成されたその動作は、芯まで響く強烈な衝撃と甲高い金属音を生んだ。

 

 見聞きするものの認識より、行動の方が速かった。発動するのは練技、呼吸によって魔力を取り入れ身体を強化する技術──筋力増強系である【マッスルベアー】。

 短期の間だけ熊の筋力を身に宿したイヨは装甲の頑強さと筋力に身を任せ、再度振り下ろされるフランベルジュを強引に掴み、立ち上がりざま、

 

「るぅ、らぁ!」

 

 衝動に任せた剛拳をデスナイトに叩き込んだ。明らかに先の一撃より威力が跳ね上がったその攻撃は、恐れを知らぬアンデッドをして警戒からの後退を選ばせる程のものであった。

 

 立ち上がったその鎧姿からは血が滴っていた。ガド・スタックシオンの斬撃にすら耐えた防具【アーマー・オブ・ウォーモンガー】は一見すると汚れ以外に何の変化もない様に見える。事実は傷などついていない。防具は無事だ。

 

 傷ついたのは中身の身体の方だ。例え鎧の上からでもぶん殴られれば身体は傷付く。斬撃は打撃と化して人体に刻まれる。

 

 防御能力に偏重したデスナイトではなく他の三十五レベルモンスターが相手であったなら、イヨはあのまま押し切られて地面の赤い染みと化していたやもしれない。

 

 ──変形の走馬燈だろうか。

 

 衝撃で気を失っていたのは多分、本当の本当に一瞬の事だろうとイヨは思った。振り下ろされたフランベルジュが振り上げられて、再度落ちてくるまでの一瞬の出来事なのだろうと。

 

 いい夢だった、イヨは心からそう思う。

 例えイヨの脳味噌の中で完結している出来事でも、家族と会えた。感謝と別れ、謝罪を告げる事も出来た。心の区切りとしてはもう十分。

 

 幸せだった。誰よりも愛され慈しまれたという自覚、自信、自負がある。遥か故郷の家族を悲しませないよう、これからも幸せでありたい。より多くの人と共に。何処にいようと、自慢の孫だと、自慢の息子だと、自慢の兄だと誇ってもらえる自分でいたい。

 

 そしてその為には、眼前の敵、憎悪の権化が如きアンデッドが著しく邪魔である。イヨの様な阿呆でも一目瞭然で分かるこれ以上ないほどはっきりした『害』だ。

 

「お前に一対一で勝てるとは思わない」

 

 言葉など通じないだろうし、仮に言葉が通じた所で会話は成立しないだろうが。イヨは構え直し、僅かずつ距離を詰めて行く。【マッスルベアー】の効果はあと少し持つ。

 生存を考慮するなら逃げるべき状況。逃げないまでも勝率を考えるなら、一旦引いて装備を整えるべき。確実を期すなら増援到着までは交戦しない方が良い。それほどの実力差。

 

「でも戦う」

 

 しかし打って掛からぬ訳には行かない。逃げればイヨは間違いなく逃げられるだろう、デスナイトは十中八九追っては来ない。野良のアンデッドならいざ知らず、眼前の騎士は命令を受けた召喚モンスターであるから。

 

『デスナイト! 命令通りより多くの生きとし生けるものを殺しなさい! 死者の群れでこの都市を死の都に変えるのよ! 邪魔する者を──一人残さず殺しなさい!』。デスナイトが最後に受けた命令はこうである。

 

 『多くの生きとし生けるものを殺せ』『死者の群れでこの都市を死の都に変えろ』『邪魔する者を一人残さず殺せ』。それが命令。

 

 デスナイトは凡百の下位アンデッドとは桁が違う。人間と同等かそれ以上の知能を持ち、三十五レベル相応に戦闘に秀で、召喚モンスターであるが故に主命を違わない。如何に生命を憎悪するアンデッドであろうと、私怨に走る事は無いのだ。

 

 デスナイトはイヨが憎くて戦っている訳ではない。『積極的に打ち掛かってきて来て邪魔だから』戦っているのだ。そうでなければ目もくれずに走り去っていく事だろう。

 

 イヨの様な半端に強くて殺しづらい人間を相手にする必要などない。『より多くの人間を殺しこの都市を死の都に変える』なら、そこら中に幾らでもいる一般人を惨殺した方が何百倍も効率が良いに決まっている。

 

 『邪魔する者は殺せ』と命じられたし、実際問題放置しておけるほど弱くも遅くもないから、本来の目的を一刻も早く達成するために、デスナイトは襲ってくるイヨと戦っているのだ。

 

 イヨが逃げるなら、もしくは積極的攻勢を仕掛けてこないなら、背を向けて走り出すに決まっている。そしていそいそと心置きなく、主命と本能の欲求を兼ねた楽しい大虐殺に勤しむ。

 

 ──ふざけるな、許して置けるか。

 

 例えばこれが百レベルのモンスター相手だったら、イヨは逃げたと思う。全力で走りながら、『みんな逃げろ』と叫びながら一目散に逃げただろう。まず確実に逃げられず死ぬとしても、最も自他の生存確率の高い選択肢として逃走を選んだだろう。

 だって百レベルを前にしたら三十レベルも一レベルも大差ない。十分の一秒掛かって死ぬか五分の一秒掛かって死ぬか程度の差である。多分殴ってもダメージが一切通らないので本当に逃げるしかない。

 

 でも眼前にいるのは三十五レベルのモンスターだ。イヨは三十レベルだ。勝ち目は低いが無い訳ではない。イヨが頑張れば数万人の命が救える。自分一人と数万。やらぬ訳はいくか。

 

 そう。

 たとえ相性が最悪で、かつ武器を装備していなくても。装備品が普段用のままでも。高確率で死ぬとしても。骨の五、六十本、手足の五本や六本失う位の怪我で済んだら御の字でも。

 

 逃げる等という選択肢、イヨが取る訳もない。

 

 目の前の高レベルな腐乱死体を殴り倒して、そもそもの元凶である吸血鬼を討伐する。自由意志と憎悪の下にテロをやらかす自立した疫病なぞ駆除以外になにをしろと言うのか。

 

 心臓に杭を刺して銀の武器でバラバラにして炎で燃やし、灰を聖水と香油で清めた上に聖別を施して一週間神殿に安置した後、各部位ごと別々にそれぞれ異なる水源から流れ出て一度も交わらない川に灰を流してやるのだ。

 

 未来永劫間違っても復活など出来ない様に。

 

「篠田家の長子にして長男を舐めるな……!」

 

 イヨは雄叫びと共に殴り掛かった。

 

 

 

 

 建物の倒壊をも引き起すほどの激烈な戦闘、その馬鹿げた騒音。多少奥まった、人の賑わいから見放されたような地区の小道とはいえ、三十万都市である公都の中にあって目立たない訳がない。

 

 事態は速やかに人目に晒される事となった。

 

 公都の治安を守る警備兵がその異常を察知したのは、事態発生と殆ど同時。遅めに見ても数分以内である。明らかに日常で発生する筈のない音がしたからだ。

 

 彼らの職務上、怒声や叫び声は良く聞く。如何に平和な都市だろうと十万単位の人間が暮らしていれば、諍いや取っ組み合い、剰え刃傷沙汰とて全体においては珍しい物ではないのだ。

 

 酔っ払いやチンピラの喧嘩の制止制圧、夫婦喧嘩の仲裁等は警備兵ならば誰しも職務上心得たもの。勢い余ってそこら辺のものを投げつけたり壊したりするのも日常茶飯事。故に、破壊音も耳慣れている。大人しい娘さんなら『きゃあ!』とでも叫ぶだろうが、警備兵は『はいはいどうしたの、ちょっと駄目だよこんな往来で喧嘩はー』と来たもんである。チンピラ相手だともう少し荒っぽい事もある。

 

 今回は違った。

 

 皿が割れる音とか、骨が折れる音とは全くかけ離れたその音。地を伝って僅かに身を震わせる振動。巡回中の警備兵たちは反射的に音のした方向に向き直り、そして走り出した。

 

 考えるまでも無く異常事態。骨にまで染みた職責が、判断より早い行動を選択していた。老朽化した建物が倒壊したのか──何にせよ一早く現場に到着し、状況を把握。適切な対応を取らねばならない事だけは確かだ。

 

 近づくにつれ大きくなり、続けて響く異音。警備兵たちは程なく、その音源が先の惨殺事件の現場周辺から聞こえている事に気付く。そして、その元凶が建物の倒壊等ではない事も。

 

 離れていても魂を揺るがせる怨嗟の咆哮。周囲に舞う土埃。そして桁外れた膂力が起こす激しい金属音。人知を超えた破壊の音色。

 

「ま、まさか」

 

 ──戦闘? 公都で?

 

 それも、化け物と化け物のぶつかり合いとでも評すべき逸脱した次元でのそれ。未だ何棟の建造物を挟んでいる筈だが、もう間違えようがない。

 

 まるで城門に破城槌を打ち付けているような規模の剣音。騎兵と騎兵の正面衝突が如き大気の震えが鼓膜に叩きつけられ、警備兵としての責任感すら今にも吹き飛びそうだった。

 仮にも兵を名乗る職業に就きながら、都市内での治安維持を職務とする彼らはモンスターとの戦闘経験がほぼ無い。墓場で自然に湧く低級アンデッドや下水処理施設などの地下空間から時たま出没するジャイアントラット【巨大鼠】が精々である。殆どの場合難度は十以下程度。実体験として想起できる化け物、遭遇しえる脅威など其処までなのだ。

 

 ──どんな怪物が暴れたらこんな。

 

 それでも知識はある。知識しかない。人の二倍はある人食いのモンスター。小屋ほどもある巨大な昆虫。剣も矢も通らないと言われるほど堅牢な火吹きの怪物。モンスター専門の傭兵である冒険者の死亡率の高さは有名である。

 

 街中にそんな魔物が湧く。街中でそんな魔物が暴れる。それは紛れもなく想定外の脅威、公都の安全を脅かす存在であり自分たちが──どうにかしなければならないモノであった。

 

 鈍りそうになる足を叱咤して走る。有事の際に役立たなくてなんの為の兵なのか、そんな思いで。最も若年の一人を第一報の伝令として走らせ、小隊長を筆頭として残りの三人が先へと進む。

 

 不思議と人がいないのは、もう逃げたからか死んだからか。元々人の少ない地区だが、先日の惨殺事件もあって尚の事人気が失せているのだろう。

 

「此処だ、全員覚悟を決めろ!」

 

 小隊長の勇ましい言葉に奮起し曲がり角を曲がると、建物が幾つか消え、細い路地だった筈の場所は瓦礫が山を成す広場になっていた。切り崩された建物が崩壊したのだ。

 

 そして、それすら思考の埒外に飛んで行ってしまう程の桁外れた化け物がいた。

 

 心が折れる、という表現がある。正にそれが起こった。

 

 覚悟は決まっていた。建物が倒壊する音も、目の前の存在の絶叫さえ聞いていた。想像し得る限りの『想像も付かない強いモンスター』を想定し、それを相手に職務を果たす所存であった。

 まずは一当てとか、それが出来ない様なら外見から出来る限りの情報を見て取り、上へと伝えて対策を練る──そんな策を練っていた。自分たちが強くない事など百も承知である。それでも出来る事が在る筈で、やらねばならぬ立場なのだ。

 

 三名の警備兵はその人生で初めて、死と対峙した。

 絶対の存在として眼前に屹立する断絶、終末を前にし──心が生を諦めた。覚え悟ると書いて覚悟。彼らは瞬時に死を覚え、悟ったのだ。

 

「オオオァァァアアアアアアー!!」

 

 腐った死体、動く死体などとうに見慣れた筈なのに。

 こんなにも強大で、超大な暴力を無理矢理人の形に押し込んだかのような、押し込めきれずに膨らんで歪んだかのようなアンデッドはお伽噺にすら聞いた事が無い。

 

 最強格のアンデッドと言えばエルダーリッチ、スケリトルドラゴン。少々格は落ちるがスケルトン・ウォリアー等も強い。

 どれ一つとして実際に見た事は無いけども、本能で確信できる。その三者よりももっとずっと、目の前の存在──形容するならそう、死の騎士だろうか。

 

 こいつの方がずっと強いんだろうなと、警備兵たちは素直にそう思った。

 

 先程と同じ、精々近づいた分だけ声量が増したというだけの、同じ怨嗟の声である筈。さっきはこれを聞いてもなお前に進めた筈。なのに今は凍り付いたかの如く足は動かず、口は浅く速い呼吸を阿呆の様に繰り返すばかり。武器を構えた手は力なく垂れさがる。

 

 知らないという事は幸せで、そしてとても不幸な事なのだ、と三人は三人とも実感した。

 

 こんな奴がこの世にいるなんて知らなかったから、俺たち戦おうなんて気になって走ってこられたのだろうな、と。

 

「ぁ……」

 

 誰の嗚咽だっただろうか。

 一瞬が一秒にも一分にも膨らむ死に際の集中力。死を回避するために起こる筈のその現象は、警備兵たちにとって呪いに等しかった。何故なら恐るべき死の騎士が、彼らを目指して走ってきたからである。

 

 つい一瞬前まで背を向けて何かと戦っていたのに──後ろ姿ですら死を覚悟させるのには十分過ぎるものだったのだ──前触れなく踵を返し、彼らを抹殺すべく疾走を開始したからである。眼窩の仄暗い焔が、哀れな警備兵たちを獲物と定めたのだ。

 

「ひっ……」

 

 ──逃げなきゃ。

 

 心も体も義務感も超えた本能の命令を受け、三人の身体がやっと動いた。間延びした時間の中で振り返り、一歩足を踏み出し、走り出す──走り出した時には、彼我の距離は半分以上埋まっていた。

 

 まるで地鳴りの様な足音。瞬くより早く接近してくる。やっと三歩目を踏み出した時、背後で風切り音がした。武器を振り上げたのだと直感的に分かった。死の騎士の影は完全に三人を覆っていた。

 

「させるかぁあ!」

 

 轟音と共に影は吹き飛んだ。訳も分からず涙を零しながら走り続け、やっと振り返ると、其処には血みどろの小さな全身鎧が躍動していた。

 あれほど絶対的に見えた死の騎士に単身打ち掛かり、攻め立て、追い込んでいる。比べ物にならない位小さな体で、同じ位に大きな威風を放って拳と剣を交わしている。

 

「──い」

 

 直接の面識は無いが聞き覚えがある。かの老英雄と互角に渡り合ったとされる人物。多少なりとも武に関わるなら公都で知らぬ者はいない、突如として公国冒険者界に現れた超新星。

 

 恐ろしく重厚な鈍色の全身鎧。装甲が三つ編みごと頭部を覆っている為、後頭部には鉄の尾が生えたよう。額には刀剣が如き双角、察せられる装備者の身長は子供か小柄な女性ほど。顔など見えずとも見間違えようが無い。

 

 何よりその、常人の眼では追う事すら難しい超級の戦闘力! 

 

「──イヨ・シノンか!?」

「早く逃げて下さい……!」

 

 こいつは、と小さな鎧姿は続けた。呼吸が乱したせいか、頭部に痛打を喰らって体勢が傾ぐ。それを力尽くで挽回しながら血を吐く様な声音で、

 

「──殺した人をアンデッドにする能力がある、逃げて下さい!」

「なっ」

 

 轟音、轟音。また轟音。先程から響く戦闘音は彼の奮戦によるものだったのだ。滴る血、赤く染められた鎧。どんな者でも一目で死闘と分かる戦装束。デスナイトの醸す死の気配に目が眩んでいた。それに、無意識のうちに化け物同士の戦いだと思い込んでいたのだ。

 

「お……おおおお! すげえ! 次代の英雄、次のアダマンタイト……本物だ!」

「やれ、やってくれぇ! そんなアンデッドが人の世界に……この世にいて良い訳がねぇ、倒してくれー!」

「お、お前らっ」

 

 逃れようが無い筈だった死から一転して生。極限の状況から救われた反動。若年の警備兵二名は完全に熱狂していた。このあまりに劇的な展開に。

 自分たちがまるで物語の登場人物の様に、英雄の奮戦を見届ける役割を四大神から授かったのだ、とまで思ってしまったのだ。

 

「この馬鹿ども、引け! 今の言葉を聞いただろう、走るぞ!」

 

 年かさの小隊長が無理矢理に引っ張ると、二人は何故そんな事をと言わんばかりに、

 

「勝てますよ! 一方的に押してます、あの人──いや、あの方なら勝てる!」

「小隊長も見て下さい! あれが、あれが英雄なんだ……! 俺たち、伝説の一幕を」

 

 熱に浮かされた目。澄み切ったその瞳は、お伽噺の英雄に憧れる子供のモノ。生き物の、人間の本能としてある──強者に憧れ、強者に惹かれた者の眼だった。あの小さな冒険者が振るう剛拳に、奮戦に憧れている。興奮している。死からの反動故に。

 

 小隊長はそんな二人の顔面を続けざまに殴り付けた。警備兵の職務は公都の治安維持であって、冒険者の応援でも足手まといでも無い、と。

 

「この大馬鹿ども! あの方は逃げてくれと言っていただろうが! まず走れ!」

 

 たたらを踏んで引っ張られていく若手二人に、小隊長が続けて叫ぶ。

 

「その英雄を、命の恩人を無駄死にさせる気か! 人間があの出血で長く持つと思うか、あれだけのアンデッドがただやられていると思えるか! 俺たちが後ろにいるから、命を削って無茶な攻めをしているんだろうが!」

 

 小隊長は、別に若手の二人と比べて強い訳ではない。長らく警備兵をやっている分だけより訓練を積んでいるので、技量面に関しては一枚か二枚上手だろう。しかし、単純な筋力や持久力なら若手の方が上である。

 

 総合としては同等かやや強い程度。冒険者や騎士と比べてしまえば劣る事に違いはない。弱く年を重ねた、真面目が取り柄の男。

 

 だからこそ熱に浮かされず、英雄譚の輝かしさに惑わず。異常に眩まされず。非常な事態に当たり前を熟す。

 

 一見一方的に攻め立てている満身創痍の人間イヨ・シノンと、一見一方的に攻め立てられている殆ど無傷のアンデッド。

 外見上如何に優勢に見えた所で、圧倒的に劣勢なのは前者に決まっている。アンデッドが疲れ知らずの痛み知らずである事など警備兵でなくとも知っているし、その二つの利点が長期戦に際してどれだけ有利かなど子供でも分かる。

 

 ようやく自分の足で走り出した若手を叱咤しながら、警備兵たちは元来た道を戻り始めた。

 

「死ぬ気で走れ! 伝令だ、本部には俺が行く、お前たちは冒険者組合に走れ! ミスリル級やオリハルコン級のチームを急派する様伝えるんだ! 道中会う者皆に伝えろ、逃げろ、絶対に近づくなと!」

 

 伝説に語られるだろう桁外れのアンデッド。アダマンタイト級相当と噂される高位冒険者が苦戦する相手。そんな存在を滅ぼすのに、警備兵や騎士が何人いた所で屍の山を築くだけだ。そしてその山を成す屍は、地を覆う不死者の軍勢と化す。数の力が役に立たない所か、相手を利する要素となる。

 

 ──殺した者をアンデッドにする能力を持つ、伝説に語られるようなアンデッド? 

 

 最悪にも程がある、最悪中の最悪たる存在だ。自由にすればどれだけ被害が拡大するか想像も付かない。

 

「はっ、し、しかし」

「良いから行け! シノン殿が倒れればあの化け物は我が物顔で人を殺しだすぞ! 公都が滅ぶかどうかの瀬戸際だ!」

 

 応援の派遣と同じくらいに、周辺一帯からの住民避難も急がねばならない。今でも建物の倒壊や戦闘音に脅かされて逃げているだろうが、もっともっと広範囲で住民を退避させるべきであった。人命救助の意味でも、事態悪化を防ぐ意味でも。

 この区画から──いや、時間の許す限りにおいて、あの化け物が打倒されるまで、範囲を限定せずに出来る限り広範囲かつ徹底的に避難をさせるべきだ。

 限られた精鋭以外、誰も近寄らせてはならない。

 

「俺たちの走りが何千何万の人命を左右すると思え! 一分一秒でも早く走るんだ!」

 

 先に走らせた第一報を受けて、既に本部は動き始めている筈。其処に第二報である小隊長がより詳細な情報を持ち込めば、避難の方は──其処まで大規模な住民避難となると前例も想定も無いので、大きな混乱が予想されるが──可能。

 公城への情報伝達も行われている筈。後は上が判断するだろう。

 

 別れて冒険者組合へと走っていく二人の背中を見届け、自身も本部へ全力で駆けながら男は思う。問題は、冒険者がどれだけ早く来られるか。そして、

 

 ──シノン殿がどれだけ持つかだ。

 

 あのアンデッドと戦う。一対一で。既に鎧から血が滴り落ちるほどの傷を負っているのに。

 

 死の騎士もイヨ・シノンも、小隊長からみれば雲の上の強者である。高すぎてどれだけ差があるのか分からない天蓋の存在。しかし、生ある者の敵対者たるアンデッドという存在故かも知れないが、小隊長には死の騎士の方が強く、よりおぞましく思えた。

 

 長引けば長引くほど人間であるイヨ・シノンが不利だ。

 如何に英雄的な実力者とは言え、伝説的な化け物相手にどれだけ戦えるだろうか? 

 

 もし死ねば。

 

 ──あの英雄がアンデッドに変じて、敵として立ちはだかるのか。

 

 男はその想像を頭を振り払って打ち消した。

 小隊長に出来る事は、声を発する労さえ惜しんでただただ早く走る事だけだった。

 




デスナイトとの戦いは前中後もしくは前編後編に分けます。

守られ、育まれたお陰で強くなったイヨの精神的一人立ちの時という事で。

此処数か月でパソコンが三回も壊れましたが、ちゃんと直してもらいました。書き続けます。


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死闘:死に果てるまで

 人が来たのはイヨにとって待ち望んだ事態であった。救援を呼べるからだ。救援として機能し得る救援、公国最高峰のオリハルコン級冒険者チーム【スパエラ】を。

半機能不全に陥ってる【スパエラ】の分も依頼を受けている【八条重ね矢】が現在公都にいない以上、戦力として数えられるのはミスリル級チームが幾つかと【スパエラ】だけ。

 

 デスナイト相手に数で押す戦法は相性が最悪。殺された分だけアンデッド化して相手方の戦力と化してしまうからだ。一体でもスクワイア・ゾンビが生み出されれば、イヨは圧殺されるか足止めされるのかの二つに一つ。公都の破滅は確定となってしまう。

 

 ──そうはさせない。

 

 救援が来るのは何分後だろうか。デスナイトの召喚直後から、既に十分近くは戦闘を続けている様に思う。既に気付いて向かってくれている場合でも十分は掛かるだろう。背後の警備兵らが走って知らせたとして──奇跡的に都合よく事が運んでも三十分? 

 

 上等である。何分でも何十分でも死ぬまでやってやろうではないか。

 

 イヨ・シノンは今をもってしても死ぬ気は無いが、死ぬ覚悟ならある。

 

 これだけの力を何の努力も無しにゲームから引き継いでおいて、英雄だ次代のアダマンタイトだと期待と喝采を浴びておいて、その期待に応えて見せると公言しておいて、これしきの難事も切り抜けられないなど嘘である。

 

 ──此処が生命の使い所だ。

 

 アンデッドの特性──衰えず歪まず痛がらず、ただ命じられるがままに己が全力最良を発揮し続けるという性質。人間ならば筋肉が千切れ腱と骨を痛める最大出力を、数十秒しか維持できない最高の運動性能を壊れるまでだ。

 

 一秒間に十の斬撃を放つ事も、デスナイトにとってみればなんら無理ではないのだ。致死の剛剣精妙極まれり。

 

 それでいて元よりステータスに優れる異形種で更にはレベル的に圧倒的格上で、こちらには弱点を突く手段がないという状況は、ゲームだったらレベル上げして装備整えてから再挑戦一択である。

 

 その有利に任せて圧殺すべくただただ攻めてくる姿は最早雪崩か津波かといった圧迫感。振り下ろす一太刀は瀑布も切り裂き金剛石を砕き、構える大盾、身を包む鎧は城壁の如き。

 剛力剣技は一騎当千体力無限。そんなものが此度の相手だ。

 

「おお!」

 

 既に潰れた喉で声を張りあげて、抗う。抗うのみならず、攻める。

 

 斬撃は避けられる。反撃も叶う。問題は反撃に対するカウンター。此方の全力を事も無げに受け止め、息をする様に崩し、致命の一撃を返してくる。連続して到来する命の危機を綱渡りで切り抜け、また戦う。

 

 まだ戦う。

 

 命を守る為に肉も骨も切り捨てる様な戦い方でしか、命を繋げられない。既に【マッスルベアー】の効果は切れている。

 

 アンデッドは疲労無効かつ精神効果無効である。人間の様に心構えや体調での戦力上下は無いに等しい。常に最も安定して全力だ。

 

 そしてデスナイトはモンスターとしてもシンプル。特殊能力に攻撃用のモノは存在せず、つまり攻め手としては技能と膂力の限りを尽くした通常攻撃の連続である。

 

 ──よっし、慣れてきたぁ……! 

 

 イヨはデスナイトの丁度いい位置にある膝に蹴りを叩き込んだ。痛みは無くとも動きが阻害される為、全体の動きに不調和が生じる。その隙に叩き込むのは、重心を貫く中段突き──を、フェイントに【爆裂撃】付きの足の甲への踏み付けである。

 

 デスナイトはアンデッドの癖に──これはイヨの私情であるが──炎ダメージ倍加を保有していないと言う、アンデッドの風上にも置けない非常にくたばってほしい特徴があるのだが、さりとて炎に対して耐性を持っている訳でも無いので、特別有効でないだけで普通にダメージを喰らわせる事が可能である。

 

 【爆裂撃】は職業によって取得したスキルではなく、あるクエストをクリアした事で後取りしたスキルである。その理由は、単純に使い易くデメリットのほぼ無い、低レベル帯拳士御用達のスキルだと友人に勧められたからだ。

 

 例えばイヨの持つスキルの中で、【断頭斧脚】は文字通り蹴り技でしか発動させられない。【撃振破砕掌】は手形が掌を成しているか、少なくとも五指を開いている必要がある。スキルの名称から理解できる通りだ。

 

 対して【爆裂撃】はと言えば、打撃攻撃に分類されるならなんだってアリである。蹴りでも突きでも良いし、なんなら体当たりにでも、刺突かつ打撃として扱われる貫き手にだって合わせて発動できる。

 特定の動作や発声を必要とせず、再使用までの時間も極短く、使う事で隙が増えたりもしない。ただ単純に炎属性のダメージを攻撃に上乗せする、非常に優秀なスキルなのである。

 

 まあ、その上乗せされる威力がほぼ固定かつレベルや攻撃力に依存せず一定な為、レベルが上がっていくにつれて使うメリットは減り、一定レベルに達すると『普通に殴るのとほぼ変わらないから他のスキルを使った方が良い』扱いで一切出番が無くなる実質序盤専用スキルなのだが。その分序盤は神なのでプラマイゼロとする。

 

 前触れなく吹き出す爆炎は目くらましにもなる。単純に視界を遮るという意味と、攻防のやり取りにおける囮という意味でもだ。

 

 デスナイトは常に全力かつ最良で殺しに来る。最高のパフォーマンスのまま変わらない。変化しないのだ。変わるとしたら単に戦士としての新手か戦術の一環か、イヨが身体構造を破壊した事による劣化に限る。

 

イヨはデスナイトとの戦いに適応してきていた。より効率的で長持ちする殴り合いの仕方を会得しつつあった。

 

 そもそもこのデスナイトはイヨと初めて戦うが、イヨは何度かデスナイトと戦った事があるのだ。それに、相手が格上であるだけで一々負けている様な奴は日本一になどなれねぇのである。

 

 精神力が物理現象を覆す事など断じてない。もしあったとするならばそれは錯覚である。

 心で限界は超えられない。しかし、限界に臨むには心が、精神が必要なのだ。そういう意味で、イヨは根性論者であった。使えるものは全部酷使するのだ。

 

 刻一刻と近付く死、その淵にあって──イヨ・シノンという天凛の才は輝きを増そうとしていた。

 死の淵故の死にたくないという思い、その強烈無比なること。死にたくない、生き続けたい。生物としての根幹が発揮される。

 

 学習と効率化。習得と練磨。慣れ。

 

 人格的に未熟かつ幼稚ですらある少年が磨いてきたモノ。持って生まれ、育まれ、育み、成長し続けてきた戦闘に対する感性。理合。動作。技術。皮膚感覚。

 

 其処に加わったのは、ユグドラシルのキャラクターとして保有していた三十レベル相当の戦闘力。その戦闘力を実現させ得る理外の膂力と、通常人類の範疇を超えた技術力。

 

 持ち合わせていたもの、育て上げてきたもの、付け加えられたもの。その全ては転移後からの鍛錬を通じて一体化し、身体を構成する血肉と化していた。

 

 レベルアップではない。ステータスの上昇でもない。スキルの習得でもない。

 地球人類でも転移後世界の人類でも、人間なら誰もが重ねるその向上、上昇、上達を──成長という。進歩という。

 

 少年の打撃が、デスナイトの身体を有効に捉え始めた。少年の防御が、デスナイトの攻撃をより安全確実に捌き始めていた。少年の足さばきが、デスナイトの周囲をより自由に思うがままに刻み始めていた。

 

 イヨは強くなっていく。一秒一秒を重ねる毎に、一つまた一つと傷付く毎に。

 

 だからと言って相手は弱くならないし、自分は相手より遥かに弱いままだし、有限の血は流れ、体力を消耗し、身体は破壊され続けるのだが。

 

 あと少しで死ぬ事になんら違いは無いのだけれども。

 

刻一刻と殺されながら、加速度的に死にながら、徹底して自身を使い潰す方法に熟達していった。

 

 

 

 

「オオオオォォオォアアアアアー!!」

 

 何を言っているのか皆目見当もつかない。憎いとか妬ましいとか、込められた感情はそんなものだ。アンデッドにだって感情はあるのだろう。憎くて憎くて殺したのがアンデッドだからだ。

 

 どうであれ、イヨは『うるさいお前が死ね』以外の返答を持ち合わせていなかった。

 

 生者と生者の戦いならば、それは異種族間であれ同種族間であれ、生存競争なのである。悲喜こもごもあるものと思うが大きな視点で見たら当たり前でしょうがない事なのだ。生の営みなのだ。

 

 だがアンデッドは違う。死者である。何かの間違いで未だ動いているだけの死体である。終わった後でもまだ動いているだけの死体なのだ。

 

 そもそも召喚や作成によってなにも無い所から湧いて出た様な輩に生前の姿などあるのかさえ疑問だが、生きていた頃の人格や人生には敬意を払えども、百害あって一利なしを体現した様な現行の動く死体は破壊するが最善と信じる。

 

 アンデッドは動くだけの死体である。もう死んでいるから死なないだけで壊せば滅びる、つまり殺せる。全然不死じゃない。そんな迷惑千万な死者に殺されて良い生者などいないのだ。

 

 生ける者は生ける者同士の営みの中で、生きて死ぬべきなのだ。

 

 ──ああ、僕なんだか神官みたいな事を考えてるなぁ。

 

 ともすれば分裂しかける思考の一片が呆れた様に笑った。正しい意味での信心などただの一度も抱いた事の無い癖に、と。

 

 頭部を割る一撃、捌く猶予は無し。斜めに受けて滑らせよ。衝撃に揺れ崩れる脳、まだ動くなら問題無し。左足の傷を抉りにくる。大動脈は死守。拳足、粉砕骨折多数。四肢末端が肉片になっても、根元が無事なら動かせる。鎧は徐々に変形して来ているがまだ身体は支えられる、構わず叩きつけてやれ。

 足場は地面だけではない、相手の身体も振るわれる剣も十分に足場。この身体なら叶う。

 

 全身の激痛は精神を圧搾するに余りあるもの。

 だが、イヨはその痛みを歓迎する。強い痛みによって、痛みを与えてくれやがった怨敵をより強く意識出来るからだ。痛みが、身体の損傷を教えてくれるからだ。頬を叩いて眠気を飛ばす様に、痛みが意識を続けさせてくれるからだ。

 

 痛くないより痛い方が気持ち良いからだ。

 

 今のイヨにとって、痛みは意思や技術、肉体と同じくらいに自分を支えてくれる存在だった。痛いと感じられる内はまだ生きていられる、もっと戦えると思えていた。

 

 【アーマー・オブ・ウォーモンガー】の隙間から肉片交じりの血液が漏れ、宙に赤い尾を引く。全身は満遍なく傷付いていた。前に、前に、前に。頭部装甲がデスナイトの甲冑に触れるほどの近距離で拳を振るう。

 

 蹴りは頻度を著しく減らしていた。隙が大きく、必然片足になるからだ。拳も大振りはほぼ無くなった。小さく刻む鋭い狙いの拳が絶妙に腐肉を抉り、焼く。

 

 大きな動きに耐え得る強度と運動性能を、肉体が失いつつあったのも理由の一つだ。

 

 足は巨大な盾の防御範囲をすり抜ける為に死力を尽くす。

 あるか無きかの一瞬の隙を突くべく拳が瞬く。より小さい隙と隙間を最大に貫き切り裂く為、手形は貫き手や一本拳も増えた。

 

 急所の存在しないアンデッドの身体であっても、鎧の上から殴るよりは直接殴った方がダメージは通る。太く大きい箇所より細く小さい箇所の方が壊しやすい。中心線の攻撃にそれでも拘るのは、其処が末端より重く、それだけ殴った時に相手の動きに及ぼす影響が大きいからだ。

 

 アンデッドに痛みや恐怖による錯誤はあり得ないが、判断のミスはあり得る。攻防の偏りも同じだ。それは相対のやり取りである戦闘を専門とする戦士であるからだ。

 

 イヨは跳んだ。デスナイトの身体を足場として跳んだ。デスナイト自身の膂力により身体を狙った方向に吹っ飛ばしてもらった、という表現の方がより正しかったが。

 

 戦闘開始前より物理的に軽くなった身体は小枝の様に飛び──身長差を埋め合わせ、デスナイトの腐り果てた口腔に左拳を叩き込んだ。

 

 同時に火焔が爆ぜ、爆発音は空を迸った。小石か何かの様に吹っ飛んでいくのは、デスナイトの歯だ。

 

 スキルの爆発は威力的に一定範囲内を超えないが、鎧の上からや体表で爆ぜるのと体内で爆ぜるのとでは、結果的に威力が違う。爆発力のより多くが敵に当たり、より多くを焼くためだ。

 心臓や頭蓋に穴が開くのも、指を落とされるのも同じダメージなのがアンデッド。何処でも同じならより沢山焼いた方が良いのだ。

 

 即座に胸甲に包まれた胸板に蹴りをぶち込み脱出──と同時に振り下ろされた剛剣一閃で地面をバウンド、最早耳慣れた骨の折れる音を聞きながら勢いに逆らわず制動を加えて着地。

 

 敵もやはり、感情ではなく判断として焦っているのだろう。顔を上げれば、デスナイトは背を向け走り出す姿勢となっていた。これ以上時間稼ぎをされると命令遂行が難しくなるのだ。無論逃がす訳が無い。既に何度か繰り返した遣り取りであった。

 

 デスナイトの長距離走力はイヨより勝る。一度逃げられれば追い付けない。が、軽量故の瞬発力と加速力はイヨが有利。極短距離ならば速度が乗り切る前に追い付ける。このせいでアイテムボックスから何か取り出すような隙は見せられない。

 

 肉食昆虫並みの獰猛さと無機質さでイヨは助走した。

 

「ぃ──っ──」

 

 喉も肺も顎も舌も駄目で、気合が言語にならぬ。それでも後頭部へ飛び足刀──意識喪失。激痛で即座に復帰。

 

 思考未満の本能で滅茶苦茶に暴れて逃れる。前後の状況は頭から消えていた、その事から頭部に重大な衝撃を貰った事が分かる。右の視界が無いのは目玉が潰れたからだろう。片方で済んで良かった。顎や頬の辺りは大分前に砕かれていたので、顔面の原型は既に無い。

 

 逃げる振りをして、襲ってきた所にフルスイングのカウンター。フランベルジュがバットでイヨはボール。

 

 地面に付く筈の左手が消えている。切られた、いや、装甲の継ぎ目から歯で嚙み千切られていたのだ。あの時にイヨは既に四肢損失すら直ぐには気付けない程、身体感覚が失せていた。

 

 ──追撃が無い。

 

 約三分の一秒ものんびりしていた失態に気付くと、視線の先には小さくなったデスナイトの背中。追ってくるなら戦闘、背中を襲うならまたフルスイングカウンター、死ぬなら放置。

 

 イヨにとってデスナイトは怨敵だが、デスナイトにとってイヨは小五月蠅い虫けらである。半端に強いから無視したくても出来ず、積極的に襲い掛かってくるからしょうがなく戦い、ずるずる相手をしていただけ。

 

 やっと潰えたか、という喜色さえその背中からは漂っている気がした。

 

 そのデスナイトの姿が妙にゆっくり動くので、イヨは自身が死に掛けている事を悟った。半死半生が完全死に移り行く。極限の集中状態を上回る体感時間の遅さ、死に際の時間。

 

 安静にしていても残りの寿命は三分も無いだろう。戦闘を続けるなら一分を切るのは確実。三十レベルの前衛が如何に超人然とした生命力を誇るとは言え、心が途切れれば肉体が生命を手放すまでに破壊され尽くした身体である。

 立ち上がってまた挑めば、命が尽きる前に殺されるのもまた確実。

 

 詰みだ。

 

「ぁ……ぃ……ぁあ!」

 

 ──だからって諦めていられない。

 

 イヨは【マッスルベアー】【キャッツアイ】【ガゼルフット】【ビートルスキン】【ジャイアントアーム】──己が習得する全練技を使用した。

 

 それは、貧弱な魔力の全てを消費して成せる行い。

 MP──魔力の消耗は体調万全の状態でも激しい頭痛、全身疲労及び脱力、意識の喪失もしくは混濁を伴う。練習で何度も体験したから知っている。

 心身を削りに削り今まさに死に逝かんとする肉体でのそれは、確実な手法での自殺である。

 

 だが、どうせ死ぬならイヨは戦って、一回でも多く敵を殴って、一瞬一秒でも人を守って死にたかった。

 

 

 

 

 アンデッドであるデスナイトは、五感による知覚の他にアンデッド独特の感覚、生者に対する憎悪による知覚能力を持っている。生物では理解も解明も出来ない、アンデッド独特の知覚である。

 

 なのでデスナイトは知っていた。先程まで交戦していた全身鎧姿の生者の状態を。

 生命の輝きとでも言うべきものが自分が叩き込む一斬ごとに失せていき、今まさに風前の灯火となっている事を。刻一刻と死に向かっている事を。

 

 とっくに気を失っていて当然。何故死なないのか不可思議。何度叩いても叩いても、恐れず痛がらず怯まず悲鳴も上げず、戦意が衰えない。それこそアンデッドの如く挑みかかってくる邪魔者だった。それのせいで命令遂行にどれだけ遅れが出たか分からない。

 

 元より生者に憎しみを抱くデスナイトからすれば、どれだけ甚振って苦痛と絶望を味わわせても足りない存在である。生者の無駄な抵抗、死に際の絶望や痛みにあげる絶叫などは高い知性を持つデスナイトにすれば暗い喜悦を抱くものだが、苦鳴一つ漏らさずただただ時間を無駄に使わされたのでは苛立ちしかない。

 

 背後で遂に地に膝を付いたかの者を殺したいと思う。それはアンデッドにとってあまりにも根源的な欲求だったが、召喚モンスターである彼には本能よりも欲求よりも優先すべき使命、主の命令があった。

 

 より多くを殺してこの都市を死の都に変えよ。

 

 主命を遂行せねばならない。既に時が経ち過ぎているのだ。それでも抵抗するだろう死にぞこない一人に掛けるのと同じ時間で、何十倍何百倍もの無力な生者共を殺せる。邪魔者などにこれ以上関わっている時間は無かった。

 

 今すべきは走る事。無力な生者共の気配は幾分遠ざかってはいたが、これだけの大都市に住まう住人が僅かな時間で避難を完了できる筈も無い。

 デスナイトの脚力をもってすればあっと言う間に辿り着く。背後の邪魔者と違って、剣の一振りで五人十人と殺すことの出来る者共だ。

 

 絶叫、そして迸る血飛沫。生者共の悲鳴はデスナイトに歓喜をもたらしてくれるだろう。それは存在の根本に根差す喜悦であり、同時に主命の遂行となるものだ。

 

 死者は不死者として起き上がり、また生者を殺して不死者を作る。主が望んだ死の都は直ぐ其処だった。

 

 腐り果てた醜悪な顔で、デスナイトは嗤った。殺されゆくだろう無力な生者を嘲笑うものであり、召喚者たる主の命令が現実のものとなる事に対する快哉だった。

 

 ──! 

 

 ──しかし。

 

 走り出してより十歩もせぬ内に背後の死に掛けから、尽きた筈の生命力が溢れた。

 

 人間であったら苛立つなり戸惑うなりする所である。一分持つかも怪しい惨殺死体擬きが突如息を吹き返したのだから。

 

 だが高位アンデッドの騎士たるデスナイトにその様な無駄な心の動きは無い。迫りくる背後からの強襲に対して、正確無比のカウンターを叩き込んだ。

 

 

 

 

 その斬撃は完璧な威力、タイミングをもってして最も有効な角度でイヨに叩きつけられたと言って良かった。

 

 死人擬きのはねっかえりを文字通り地に叩き伏せ、血の染みとするに相応しい威力。走り寄る影の首元、装甲の隙間から滑り込んで首を刎ねる──事無く寸前で止まる。

 

 波打つ巨剣が手掌で受け止められ握力によって固定、刃が文字通り毀れて小さな金属片となり、地面に落下していく。

 

 一度あった筋力上昇時の限界をも超えた異常な膂力。叩き付けられる刃を手掌で捉え、負傷する事無く捕獲してのける運動性能、身体の耐久力。

 

 明らかに健在時の限界を一段も二段も超えている。そして即座に叩き込まれるのは、

 

 ──一度で良いから自分の身体でやってみたかったんだ。

 

 ある意味お約束の技。無いなんて事を気にしてはいられない時専用の、技なのか破れかぶれなのか判別不能の自傷技。

 

 無い拳を用いた左腕のボディアッパー、著しい身長差故の変則の打ち貫き──

 

 デスナイトの構えた盾が凹み、巨体が宙に浮いた。

 

 

 

 

「──ァァアオ──ゥるゥウ──!」

 

 イヨ・シノンの発したそれは、最早人間の声では無かった。

 体中潰れていたり破れていたり、切れていたりもう無かったり。正常な発声などとっくに不可能。声というより音──管、空洞を空気が通って生じる異音であった 

 

 エンハンサーなる職業は、自身の身体を強化する練技を使いこなす職業である。

 エンハンサーを極め十五レベルに至ったのち特殊な条件をクリアすれば新たな職業を得て、敵に存在を認識できなくする、竜そのものに変化する等の更なる達人技も可能とされる。

 

 この超現象を実現させる練技は、SWシリーズ及びそれらとコラボしたユグドラシルでは、呼吸によって空気中のマナ、魔力を吸い込み体内の魔力を活性化させる事で発現させているとしている。

 ゲーム内ではそういう設定であった。

 転移後世界という現実における物理現象としての解明は、一からの長い研究を必要とするだろう。

 

 イヨ・シノンはエンハンサー五レベルであるからして、其処までは出来ない。彼に出来るのは、

 

 【ビートルスキン】によって皮膚は皮膚としての機能を保ったまま、ジャイアントビートルの甲殻に匹敵する堅牢さを宿し。

【ガゼルフット】によって足は骨格腱筋肉等の構造を不変のまま、大地を駆け跳ねて地上最速の動物からさえ逃げ切る脚力に類する能力の一切を己がモノとし。

 【マッスルベアー】及び【ジャイアントアーム】によって筋肉は姿と量を変えずして羆と巨人の筋力、自分自身の出力に耐え得る強靭さを手に入れる。

 【キャッツアイ】によって眼球及び眼筋、神経と脳を変異変形させず人間の視覚能力にプラスする形で猫の時間分解能、視野の広さ、動体視力等を得る。

 

 等である。防御力、攻撃力、回避力、命中力の向上だ。これらの練技は呼吸可能な状況下であれば一瞬で発動し、鎧の上からでは外見での変化がないため、発動していない状態との見分けが付かない。つまり最高の不意打ちとなり得る。

 

 爆発的な各種身体能力の向上はすなわちステータスの上昇であり、戦闘力の劇的な増加を実現させる。

 

 デスナイトの巨体が中空にある。軽く見ても数百キログラムの重量を、防御ごと殴り抜いて足さばきの根本たる大地から引き剝がしたのだ。例え数十センチの高度であろうと、蹴りつける大地無くして移動は出来ぬ。明確な隙であった。

 

 デスナイトは慌てない。巨大なタワーシールドは既に完全な防御を成しており、一瞬の乱れは文字通り一瞬で立て直していた。そもそもが力負けしたのではなく、ただ単純に敵の筋力と攻撃の威力を見誤ったが故の失態である。

 

 これだけの威力をこの敵は発揮し得るのだと分かってしまえば、それ相応の受け方をするだけ。

 何ら敗着には到底結びつかない。

 

 ──身体が宙に浮いていなければ。

 

 疾風すら突き穿つ渾身の飛び後ろ回し蹴りがタワーシールドに突き刺さり、デスナイトは完璧な防御姿勢のまま再度飛ばされ、ボールの様に地を三度跳ねた。

 

 大地で支えられた身体を蹴り飛ばすには相手の抵抗を抜かねばならないが、宙に浮いているのは高々数百キロの重量を蹴り飛ばすだけで済む。その数百キロの身体が生み出す膂力をほとんど相手にしなくていい。

 

 超剛力を実現した今のイヨならば、その程度の重みは大して苦にならなかった。

 小さな身体は直ぐ其処まで迫った死を一時忘れ、人類の限界を超えた速度で肉薄。立ち上がり様のデスナイトの顔面に踵蹴りを叩き込み、そのまま身体中を連続で踏み付けにし続ける。

 

 一撃ごとに地面にめり込み、死の騎士の装甲が歪み、腐肉の下で骨に罅が入った。鎧に受け止められて肉体を傷付けるまでに至らなかった攻撃が、確実に死の騎士を消滅に追い込んでいく。

 少しずつ少しずつ、真綿で首を締める様に。

 

 無論デスナイトも跳ね起きようとする、防ごうとする。叩き込まれる足を掴み、そのまま振り回そうとするが──いずれも空振りに終わる。

 

 徹底した嫌がらせ、上昇した膂力にモノを言わせた蛮行そのものの攻撃。一度見せた弱みに何処までも何処までも漬け込み続け死に追いやる武道の基本にして本懐。

 

 ──やり合う気など無い、塵の様に死ね。手番は渡さない、伏して死ね。反撃の芽も許さない、実力など発揮させない、潰えるまで殺し続ける。

 

 デスナイトを敷物にして絶叫を上げながらの踏み付け攻撃は、まるで地団駄を踏んでいる様。嫌だ嫌だお前なんか嫌いだ死んでしまえという幼稚な台詞を書き足しても違和感はない。

 ただ子供の駄々と違うのは、表の世界において最高クラスの技術と身体能力、特大の殺意が込めに込められた攻撃で、威力が攻城兵器級だというという事。

 

 一撃目。地面に蜘蛛の巣上の亀裂が走り、砂塵が舞い上がった。

 

 連続一秒目。デスナイトの上半身が地に埋もれ始めた。

 

 三秒目。打撃音と金属音に破壊音が混じり始める。

 

 五秒目。デスナイトの腐れた顔面と土塊、兜の金属が入り混じって顔が顔で無くなった。

 

 七秒目。頭部半壊。胸骨及び肋骨粉砕。脊椎損傷。

 

 十秒目──

 

「ァァアォオアアアア!」

 

 死の騎士が逃れる。地を掻き毟って無理矢理に這い出てくる姿は正にアンデッドである。彼に痛覚があったなら吹き付ける雨粒の頻度と破城槌の威力をもって叩き込まれる攻撃のせいで、動く事も出来なかったであろう。

 

 その姿はこれ以上無いほどに死者であった。無残な死体が歪んだ防具を纏った姿。この姿を初見した者がいたならば、散々に馬に踏みつけられて轢死した戦士のアンデッドだと思ったはずだ。

 

 より新鮮な傷と血だという点を除けば、【アーマー・オブ・ウォーモンガー】を剥いだイヨ・シノンも似たような姿である。

 

 事此処に至って、戦闘は大きな死体と小さな死体の戦いに、外見上は見えた。

 

 無理攻めは此処が限界。値千金の時は去った。──イヨは一歩分の距離を取ってデスナイトと相対する。

 

 作った隙に付け込んで反撃を封じ、傷め付けられるだけ傷め付ける夢の時間はもう終わり。立ち上がる事を許してしまったのだから。此処からまた始まるのだ、さっきまでの様な殺し合いが。

 

 ただ違うのは、実力差が一時的に縮まっているという事。双方損害を考慮している時間も余裕も無い事。イヨは命の残量が、デスナイトは時間がない。

 

 イヨの気力は萎えない。身体の爆発的な賦活が精神を支えていた。自意識は失血により曖昧だが、揺るがぬ想いがある。自分が戦って、守るのだと。

 

 デスナイトは揺るがない。汚れて壊れて漸く一戦を交える最中に相応しい姿となったが、この程度の損壊はアンデッドにとって大した意味は無い。消滅しない限り怨嗟も忠義も消えない、彼は不死者の騎士たる存在なのだ。

 

 対峙と静止は一瞬も無かった。全ては流れの中の出来事だったからだ。双方が地を割って踏み込み、拳と刃を交わした。

 

 共に直撃。次の攻撃が直撃。次の次の攻撃が直撃。次の次の次が直撃、次の次の次の次の──無数に続く──。

 

 

 お互いが巻き起こす破壊の嵐の中で、負の生命と正の生命が共に消し飛んでゆく。

 

 

 イヨは千切られ潰され無くなっていく身体を目の端ですら捉えない。そんなものを見ている余裕は無かった。短期的に機能を維持できるならばどれだけ傷付いてもいい、どうせあと少しで練技が切れる。そうすれば即座に死亡するのだから、死ぬ身体を守るより一撃でも多く叩き、僅かでも多くダメージを刻む方が良い。だから良い。

 

 割り切りが極まると狂気になる事の好例だった。

 

 デスナイトは勝利を確信していたし、種族的にそもそも感情豊かとはほど遠いし、召喚モンスターだ。だからこの期に及んでも無駄な情緒は無い。損壊していく身体にも執着は無い。機械にも似た冷徹さと、憎悪と忠義がフランベルジュを振るい、タワーシールドを構えていた。

 

 イヨは何故最期の最期まで何故練技を出し惜しんだのか。それには魔力の全消費によるデメリット以外にも理由があった。その理由は──練技分のステータスアップを考慮しても、デスナイトの方が強いからだ。

 

 だから最後の手段。全快の状態で使っても勝てず、その後倒れるか倒れる寸前まで体調が悪化する。だから死に際の身体を保持する為に、僅かでも長く時間を稼ぐ為に使った。不意打ちした。

 

 みんな大事なのだ。リウルやガルデンバルドやベリガミニや友達は元より、冒険者組合の受付であるパールスに宿屋の店主、屋台の親父さん、二三度話しただけの同期の冒険者、教会の子供たちに至るまで。

 良い人で優しい人たちなのだ。誰一人死んでほしくないのだ。三十万人の一人ひとりに生活と家族が在る筈だ。イヨにだってあったし大事だったのだ、人は皆自分の家族が、親友が、恋人が大事な筈だ。

 

 守れるものなら全部守りたいのだ。イヨは自分が辛かったからその辛さを他人に味わってほしくないし、支えてくれた人、良くしてくれた人に恩を返したいのだ。

 

 そして負けたくない。死んでも負けたくない。死んだとしても負けたと認めない。死が確定しても死ぬまで戦う。

 

 デスナイトを弱らせれば後続が倒しやすくなる。イヨが死んだとしても、その装備と身体を損耗させておけば、スクワイア・ゾンビとなったイヨの戦闘力は落ちる。だから死ぬまで戦って時間を稼ぐ。

 

 イヨの身体から痛みが身体から失せていく。限界が近い。

 

 イヨ・シノンは今をもってしても死にたくない。生きていたい。だが死ぬ覚悟ならある。

 

 ──切り札は最後にとっておくものだ。

 

 少年の動きが変わった。

 両腕は連撃の動きをやめ、脚は前方に溶け落ちるが如く間合いを詰める。

 

 それは打撃格闘技の、立ち技の動きではない。

 デスナイトの対応が瞬時遅れる。例えアンデッドに心理的なフェイントや痛みによる錯誤はあり得ずとも、判断のミスはあり得る。攻防の偏りも同じだ。それは相対のやり取りである戦闘を専門とする戦士であるからだ。

 

 デスナイトは高度の知能故に学習し、対応していた。その学習と対応を逆手にとって、最大の攻撃を決める。

 

 イヨが空手を基礎とした技術で戦うのはそれが最も心技体と魂に刻み込まれた、高度かつ安定した『自身』の戦い方だと判断、信頼していたからだ。それしか出来ぬからではない。

 イヨはマスター・オブ・マーシャルアーツ。素手の武術であるならば文字通りマスターしている。ユグドラシルというゲームがイヨ・シノンに授けてくれた戦う力。

 

 三十レベルで新たに習得した一日の使用回数に制限がある大ダメージ技──その投げ技を確実に決める為に、戦闘開始から今に至るまで投げ技を一切使わなかったのだ。

 

 釣り手である左手は、破壊され露出したデスナイトの骨盤に纏わりつかせて引っ掛ける。前回の四肢切断時とは違い、肘から先が二十センチほど残っているのだ。だからこう言う風に使える。引き手でタワーシールドを持った左腕、その手首を取る、取った。

 

 このスキルは基本威力が高いうえ、相手が巨大であるほど、重いほど成功率が低くなり反面最終的に与えるダメージが増す。デスナイトはバランスのとれた丁度いいサイズであった。

 

 低い身長と、小さな体に纏った超重量の防具。低い重心と低い体勢は、より投げ技を凌ぎ難くする。身長二メートル三十センチのデスナイトがイヨより重心を低くすることは至難。

 

 策は、努力は、献身は、覚悟は実を結んだ。

 

「ぅ──るぁあ──!」

 

 投げ技は安全に配慮した場所で安全に怪我無く試合をするルールが定められ、双方がそれを守る事で無傷が一応保証される。が、害する気しかない、安全など一毛たりとも配慮しない殺し技としての投げはほぼ必殺である。

 

 使うのは握力筋力捻転力回転力遠心力重力気力精神力体力。此処までは打撃技や関節技と同じ──投げ技には更に、相手の力と体重が威力に加わる。

 

 フェイントによって相手の動作を誘導し、抗おうとする力をそっくり頂いて利用。相手の頭頂から地面までという長大な距離を用いて加速し、地上最大最重量武器である地面に叩き付ける。それが投げ技だ。

 

 デスナイトはこの時、一瞬警戒したのだ。イヨが起こした一瞬の押しの挙動に。そして、先の踏み付けられた状況の再現に。後方の地面に押し倒されまいと言う警戒は、押す相手の力に抗う前方への力として成され──利用される。

 

 もう止まらない。そしてマスター・オブ・マーシャルアーツ四レベルで取得する大ダメージ技が完成する──刹那。

 

 フランベルジュの切っ先がイヨの腹部を貫通した。

 

 

 

 

 ──知ってたよ。

 

 貫通したフランベルジュの波打つ刃は損壊した【アーマー・オブ・ウォーモンガー】の隙間から侵入し、腹筋と臓物を千切り裂いて先端が僅かに背中側に抜け出ていた。

 

 元よりフランベルジュの刃は相手の傷口を広げる為に波打たせている。自身の失敗を悟ったデスナイトは咄嗟に抵抗を放棄し、むしろ相手の投げの動作に乗るが如く前方に身を乗り出し、刹那の隙を突いてイヨの腹部側から背中に抜ける刺突を成功させていた。

 

 まさに一瞬の神業。死中に活を見出す武人の冴えと言えた。

 

 ──お前だったら、この世界において天下無双の強さを誇る三十五レベルのモンスターだったら、それが出来るって事は知ってたよ。

 

 何も失敗は無かった。デスナイトは出来る事を完全に成した。何も見誤っていなかった。

 ただ──デスナイトがそれを成し遂げるであろう事をイヨは予想していた。

 

 【アーマー・オブ・ウォーモンガー】の重装鎧形態はデスナイトの剛剣をもってしても一撃では壊せない。何発何十発──何百発もの度重なる攻撃によって漸く装甲を破壊することが出来る。

 

 その破壊された装甲の隙間を狙われるだなんて当たり前の事、イヨは当然分かっていた。だから覚悟済みのその瞬間に、一瞬、ほんの少し身を捻ったのだ。

 

 露出した腹部に剣を突きさすなら、絶対に狙いはあそこだ。其処だけ外せれば、大丈夫だと。

 

 ──脊椎は守った。まだ繋がっている。

 

 脊髄を切り離される事による神経伝達機能の完全途絶。イヨが人間である以上、これをやられると練技もクソも無く動けなくなる。

 内臓と筋肉を犠牲に、損傷部位以下の全機能の喪失は回避した。

 

 ──ならば動く。どれだけ重傷だろうと動いて見せる。

 

 役目を終えた【アーマー・オブ・ウォーモンガー】が変形する──防御特化の重装鎧形態から、攻撃特化の軽装鎧形態へと。

 

 その外見はただひたすらに無骨だった重装鎧形態とは違い、如何にも漫画的でゲーム的で煌びやかでカッコよくて尖がったものだった。アニメキャラクターが身に着けていそうな、実用性に疑問符しか付かないお洒落鎧だ。

 

 この形態は攻撃力が上昇するが、デメリットとして防御力が著しく下がる。だから普段使わない。三段変形する鎧というアイデアに魅せられて作り始めたはいいが、重装形態を実現するためのレア金属とレアクリスタルの厳選が終了した時点で心が折れ、残りの二形態を余ったクリスタルの流用で作ったからである。

 

 エンジョイ勢だったイヨとその仲間たちは果てしなく続く厳選作業に飽きてそれで満足した。その結果、お洒落着こと軽装鎧形態と平凡そのものの衣服形態、ガチ性能の重装鎧形態の三段変形鎧、【アーマー・オブ・ウォーモンガー】が完成した。

 

 もう後は無いのだから攻撃に耐える必要も無い。今はほんの僅かでも攻撃力が欲しい。

 

 全身に力を籠め、腹筋を固める。今度こそ完成したのは前代未聞の技──両腕と腹に刺さった剣の三点投げ。頭から大地に突き落とす殺人技。

 

 その名も──【傾天・荒落とし】。

 

 公都北東の元スラムにて、局所的な地震が観測された。

 

 

 

 土煙の中。

 技を終えたイヨ・シノンは地に両膝を付き、項垂れていた。腹に刺さったフランベルジュは投げられたデスナイトが手放さなかった為、引き抜かれている。

 既に痛みは無い。感覚もほとんど無い。

 

 練技の効果がまだ続いているお陰で生きてはいるが──ついに命が尽きるのだ。後十秒足らずで練技の効果時間が終わる。

 

 ──HP……三割強……いや、四割弱は削ったかな。

 

 眼前で、抉れた地面に頭から突き刺さったデスナイトは、体勢を回復しつつある。目の前で敵が動いていると言うのに、指一本動かす事が出来ない。

 

 むしろ良く此処まで持ったと思う。出来る事は全てやった。やり切った。最後まで奮戦した。最期まで戦えなかった事は心残りだが。

 

 イヨ・シノンは全身を破壊しつくされていた。常識で考えて、死んでいないのが不自然とすら思える程。防具も大概ボロボロだ。スクワイア・ゾンビになっても戦闘力は低くなるだろう。

 

 願わくば誰かを殺す前に討ち取られたい。イヨはそう思った。

 

 眼前に巨大な影が立ちはだかりつつある。デスナイトだ。イヨには最早姿を捉えることが出来ず、光の明暗によってシルエットが認識できる程度である。

 

 その動きは妙に歪で、鈍い。首や背骨といったフレームに重大な損壊を受けたため、全体の動きが不和を得ているのだろう。それでも動けるのだからアンデッドは反則だ。

 デスナイトの戦力も相応に下がっている。武装もある程度損耗した。仲間たちならば倒せる筈。倒せるとイヨは信じている。

 

 イヨは既に何も感じない。五感もほぼ失せた。振動も空気の流れも分からない。ただ、ついにフランベルジュを振り上げたデスナイトの姿を、像を結んでいない目で睨め付けていた。

 

 

 だから背後に迫ったその姿を。デスナイトはイヨに対して剣を構えた訳ではない事を、少年は分からなかったのである。

 

 

「おおおおぉぉおぁ!」

「オァアアアアアァアァァアア!」

 

 走り寄った巨体の生者の剛打を、巨体の不死者が盾で受け止めた。

 

 その力は、その巨体は両者拮抗している。

 

 その人物は装備も背格好もデスナイトと似通っていた。全身甲冑でタワーシールドを持ち、身長は二メートルを遥かに超え、身体は異常に分厚い。武器だけが刀剣ではなく打撃武器であり、文字通りオーガ並みの筋力が無ければ持ち上げる事も出来ないと言われる巨大なメイス、オーガモールを持っている。

 

 そんな人物は公都広しといえどただ一人しかいない。

 

 かつて『彼が最初から冒険者の道を選んでさえいたら、公国のアダマンタイト不在の歴史はもう終わっていただろう』と語られた人物。曰く、中年の星。曰く、一人城壁。曰く、鉄人。

 

 公国最大最硬の冒険者の名を欲しいままにする男。身長二メートル二十六センチ体重二百六キログラム、ガルデンバルド・デイル・リブドラッド──。

 

「──っ、速く、イヨを癒せ! 死ぬぞ!」

 

 死人の様に動かないイヨを抱えて下がるのは、漆黒の斥候リウル・ブラム。そして彼女が向かった位置には、水神の聖印が刻み込まれた輝く盾を構えた女性──【戦狼の群れ】に所属する女神官、イバルリィ・ナーティッサの姿があった。

 

 そして、空を舞う禿頭の魔法詠唱者も。

 

「〈バインド・オペレーション〉! ──クソ、化け物め! 指輪の助力を得た儂の魔法に抵抗しおった! リウル、イバルリィ! 効果は十秒も持たんぞ、急げ!」

 

 今一度、激しい戦闘音が響き始めた。

 

「イヨ、聞こえるか!? 良く持たせた、良く戦った! お前を絶対死なせはしねぇぞ!」

 

 距離を取ったリウルはイヨにありったけのポーションをぶちまけ始める。液体はすぐさま吸収され回復効果を発揮するが、全身に刻まれたダメージが深すぎて、多少回復してもすぐさま状態が悪化してしまう。

 

 腹に空いた穴、失った腕、折れた骨──特に大きい傷だけ見てもポーションが複数本必要な大怪我なのに、それらが全身に幾重にも重なっているのだ。少し治癒して血の気が戻ると、残った傷口から戻った血が流れ出てしまう。

 

 それでもリウルはイヨにポーションを次々掛ける。焼け石に水であっても、イバルリィが詠唱する治癒魔法が完成するまで時間を稼ぐために。

 

 少年の奮戦は実った。仲間たちは間に合い──そしてこれから、公都史上最大の戦いは終幕に向かい、加速する。

 




エンハンサー周りの細かい描写も微妙に捏造だらけだったりするんです。外見がどの程度変化するかどうかとか、はっきり分からなかったので。

デスナイトさんは強い。三十五レベルで防御は四十レベル相当。強いのです。

次回、決着。


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死闘:英雄の時間は終わり

二万字を超えてしまいました


「クソ、全然治癒しねぇ……!」

 

 傷が深すぎる、とリウルは臍を噛む。眼下に横たわっているのは、元は可憐だったのだろう少女の惨たらしく損壊した死体──にしか見えないリウルの仲間、イヨ・シノンだ。

 

 ぶちまけられた幾本ものポーションの溶液が吸収され、治癒効果を齎す。が、快癒には程遠い。

 

 魔法のみで作られたポーションは込められた治癒魔法と同様の、即時の回復効果を齎す。それは失血をも癒す事が出来、無くした手足が生える程のモノだ。その効能をもってすれば──十分な量を揃えた前提なら──死に瀕した人間を全き健康体に復活させられる。

 

 それを何本も使用すれば余程の重傷であっても治る筈なのだが、

 

 ──なんでコイツは全身を均等かつ徹底的にぶっ壊されてんだ……!?

 

 折れていない骨が無いのではないかと思う程。罅の入っていない箇所が無いのではないかと思う程。全体のシルエットが歪んで短くなっている。腐っていない点を除けばアンデッドと外見がほとんど変わらない。

 腹に空いた風穴には肉片と血と臓物の中身が溜まって、すぐさまやや粘質な音と共に体外に零れ落ちている。

 

 リウルの膝は血溜まりに没している。回復作用によって戻った血があらゆる個所から流出している為だ。全身の全体が徹底的に損壊している為治癒が追い付かず、多少治った傍から流血その他諸々のせいで悪化していく。

 より長く戦うため少しずつずらして攻撃を受け、傷付いた身体でそれでも戦い、そのせいでより悪化したとしか思えない傷の数々。

 軽装鎧形態の頭部装甲はオープンフェイス型の為顔が露出しているが、それでもイヨであると認識するには髪や瞳の色、体格や身長と言った情報に頼らねばならなかった。

 

 生きているのが不思議、本音を言えば死んでいないのが不自然と思えるほどの重体だ。恐らく後数秒ポーションの投与が遅れていたら死んでいただろう。

 

 そこらの一般人と英雄級の前衛であるイヨでは生命力の総量とでも言うべきもの、その多寡が全く異なる。膨大な生命力が軒並み削り尽くされている為、それに見合う量の治癒を注ぎ込まなければ危険域を脱する事が出来ない。

 

 ──絶対に死なせねぇ。

 

 これ程負傷してなお心折れずに戦った仲間を。見事時間を稼いだ勇士を。【スパエラ】の名に懸けて絶対に死なせない。

 

「──イバルリィ!」

 

 傍らで治癒魔法の詠唱を行っているイバルリィに声をかけると、彼女は強く頷いた。女神官が構えているのは、以前まで持っていなかった筈の流麗にして華美な装飾が施された大盾だ。

 盾自体が光り輝き、中央に配置された水神の聖印が正しく神の恩寵を思わせる神聖なる力の波濤を放っていた。

 

 冒険者に時間を与えてはならない。

 彼ら彼女らはプロフェッショナルだ。モンスター討伐の、戦闘の──生き残る、死なないという事に関してこの上なく長じている。

 特に高位冒険者には絶対に、時間を与えてはならない。天与の才をもってして漸く到達できる第三位階魔法を操るまでに熟達し、金貨の山を注ぎ込んで得た貴重なアイテムと装備品を備え、幾百の死線を踏破した彼ら彼女らを無力化する唯一確実な手段は、殺害しかないと覚悟すべきである。

 

 気絶させた、半殺しにした、武装を剥いだからといって油断してはならないのだ。高位冒険者という者たちは人間の極限、その一歩手前の存在なのだから。生きているなら、仲間との連携が保たれているなら──著しくはたった十秒の猶予でさえ、戦線に復帰してのける。

 

 四肢欠損すら治癒し、気絶しても起き上がりこぼしの如く復活するのだ。

 ましてや数分もの時間を与えてしまったのなら、推して知るべしである。

 

「盾から引き出し終えました、行きます──〈キュア・ハート/損傷治癒〉!」

 

 公国最大の規模を誇る公都の水神神殿において、代々の神殿長が代替わりの時のみ触れる事を許された宝物──イバルリィは公都の危機に際し、保管庫の壁を破壊して独断でそれを持ち出していた。

 まるで盾自体が魔法を行使したかのように、放たれる光輝が膨れ上がる。

 

 そして結実したのは、イバルリィの力量を超えた第四位階の治癒魔法。〈ミドル・キュアウーンズ/中傷治癒〉を大幅に超える回復力を誇り、英雄と呼ばれる規格外の者たちが扱う魔法を例外にすれば、ほとんど最高位と言って良い治癒魔法だ。

 

 莫大な治癒力を宿した光がイヨの身体を包み、まるで逆再生の如く破壊された身体が元に戻っていく。折れて飛び出していた骨が体内に戻り、はみ出していた臓物が収納されて腹の穴が塞がり、無くした腕が生え、蒼白だった肌に血の気が戻っていく。

 

 ほんの数瞬の治癒現象が収まったあと、横たわっていた死人同然の少年は、一般的な重傷患者のレベルまで回復していた。擦過傷や打撲切り傷、何か所かの骨折を残して健康体だ。顔を見ればイヨ・シノンだとはっきり分かる程度には元の形に戻っている。

 

 命の危機は脱した。

 それを確認したリウルは安堵する暇も無く、

 

「後はポーションで対応できる、バルドとじいさんの援護に回ってくれ。直接戦闘しようなんて思うなよ。あのクラスのアンデッド相手に俺らじゃ間合いに入って速攻斬られるぞ」

 

 副組合長と並んで公国最高峰の一人であるイヨ・シノンが潰される相手である。防御に優れたガルデンバルドでやっとであり、専門の前衛職以外の者たちでは殺されるだろう。

 

「了解、援護に努めます。後は頼みました」

 

 即座の頷きを返し、イバルリィはデスナイトを押さえている年長者の元へ駆けて行く。彼女が右手で構えた大盾は、幾分かその輝きを減じていた。

 

 リウルは懐から更に三本のポーションを取り出し、握り潰して三本一気にイヨにぶっ掛けた。二本分の青い液体と一本分の緑の液体が、少年の体に吸収されていく。

 

 青い二本は治癒の作用を齎す物だが、緑の一本は気絶状態から復帰させる〈アウェイクン/覚醒〉の魔法が込められた物だ。生きてさえいるならこのポーションで目は覚める。逆に、これを使って目覚めない様なら通常の気絶や失神とは異なるなんらかの状態異常に掛かっている疑いがある。

 

「んっ……」

 

 果たして、イヨ・シノンは即座に正常な意識を取り戻した。彼は同時に跳ね起き、

 

「現況は、今はなん──」

 

 そしてその視線は、交戦中のデスナイトと仲間たちの姿を捉える。ガルデンバルド、ベリガミニ、そして何故か【戦狼の群れ】のイバルリィ・ナーティッサ。

 彼らの姿を認めた瞬間、心中で沸き上がったのは安堵であり、ついで充足、安心、最後に戦意だった。

 

 間に合った。成し遂げた。最悪の事態は回避した。自身の身体はほぼ回復していて──

 

「戦えるか?」

 

 戦闘に耐え得る。

 イヨは愛しい先達の問いに頷きを返した。枯渇した魔力は未だ回復していない。立ち回りの覚束ない前衛など本来は役に立たないものだ。

 身体は中途で気体になっているかの如く力が入らず、鈍器を打ち付けられているかの様に頭が痛い。それでもなお、寝ている場合では無かった。三十レベルという抜きんでた基礎スペック故に、多少弱体化しても戦うことが出来る。仲間と共にならば。

 

 少年は頬の内側の肉を噛み千切り、咀嚼した。滲む様な痛みと血肉の味が、霞む思考を尖らせてくれる。

 

「大丈夫。二十秒ちょうだい、ポーション浴びてから行く」

 

 僅かに覗かせていた心配の気配がリウルの表情から消え、二人の少年少女は獰猛な笑みを交わし合う。

 

「難度は百以上。攻撃も強いけど、防御は尋常じゃなく上手。敵を完全に引き付ける能力と、どんな攻撃を受けても一撃は絶対に耐える能力がある。攻撃面に関しては特殊な能力無し、剣技が全部。物理攻撃で削るのは厳しいから、出来れば魔法で絨毯爆撃した方が良い。前衛はそのための足止めと割り切っても良い位」

 

 正直、第二から第三位階に到達した魔法詠唱者をダースで頼みたい。

 

 イヨが情報共有と自己の意思伝達を早口で行うと、リウルは前線を援護すべく駆け出して行った。立ち回りや武器攻撃能力において前衛に劣るリウルでは、デスナイト相手に直接戦闘は無謀だろう。

 彼女の役割は前衛と後衛を生かす為の、両者の補助だ。本来盗賊の技能も会得している彼女ならば搦め手を活用した役回りがあるものだが、『防御型かつ圧倒的格上のアンデッド』である今回の相手は相性が悪い。

 

「おおっし!」

 

 両手で頬を思い切り張り、イヨは空に手を伸ばした。懐に忍ばせていた分は全て地面に叩き付けられた際に割れてしまったが、まだこの中には──アイテムボックスの中には、一昼夜戦い続ける事が可能なだけのポーションが貯蔵されている。

 

 空間を押し開き、プレイヤーの全てを収納する空間を開帳する。

 装備品まで弄っている暇は無いが、【ハンズ・オブ・ハードシップ】と【レッグ・オブ・ハードラック】だけは装備する。アンデッドに対して有効な武器ではない。しかし、他のもっとレベルが低かった頃の武装と比べれば上等である。

 

 数百本を数える店売りポーションの棚に手を伸ばし、端から引っ掴んで胸元に叩き付け、中の液体を浴びていく。一本一本飲むよりこの方が速い。

 

 レッサーストレングスポーション、レッサーデクスタリティポーション、インドミタブルポーション、スカーレットポーション、スピードポーション、兎に角肉体を賦活し、精神を活性化する系統の物を浴び、ついでに何種類かの薬草を口内に押し込んで咀嚼。

 

 短杖や巻物の類は扱える位階を考慮すれば殴った方がまだマシなので放置。数少ない課金アイテムである金銀銅の鍵はリーベ村の一件で金銀の鍵を使い切ってしまったし、銅の鍵で扱える程度の位階ではデスナイトの魔法抵抗力を突破できない上、一位階や二位階で召喚できる妖精の強さなどこのレベルの戦闘では誤差だ。

 

 合法の薬漬けとなったイヨは雄叫びを上げ、不死鳥の如く戦場に舞い戻る。

 

 

 

 

 なんと言う怪物だ……とガルデンバルドは内心の慄きを隠せなかった。

 

 それなりに長い間、冒険者として活動してきたつもりである。三十一歳の時から十年以上も常に第一線で活躍し続けてきた。

 

 ガルデンバルド・デイル・リブドラッドは、およそ肉体の潜在能力という点においては人類史上最高級のモノをもって生まれてきた。

 身長二メートル二十六センチ、体重二百キログラムオーバーという超巨体。子供の事のあだ名はハーフオーガ、巨人だ。

 彼が持つ身体能力を端的に表すなら、『何事においても一番』という表現に尽きる。

 

 すなわち。誰よりも速く走り、高く跳躍し、遠くに投げ、重い物を持ち上げ、柔軟でしなやかに、何時までも動き続けるという事だ。

 

 幼少の頃より誰と比べても負ける事が無かった。噓か真か、冒険者になったばかりの銅級の頃でさえ、ゴブリンを片手で遠投しオーガに競り勝ったという伝説を持つ。

 元より比類無かったその『力』は、冒険者となって鍛え上げ己の方向性を獲得するにつれて、より強大無比なモノとなっていた。

 

 巨大なタワーシールドは破ること能わず。振るう武器は何物をも打ち壊し。肉体能力でさえモンスターに並ぶ。更には技術も一流の水準で、頭も冴え人当たりも良い。信頼できる仲間で尊敬を集める同業者で理想的な夫、父親。

 

 他人より遅いスタートで誰よりも速く強くなった男。いや、最初から強かった男とさえ称された。勿論華々しい名声と活躍の影に隠れてはいたが、彼は地道な努力も怠らなかったのだけれども。

 

 『何故三十を迎えるまで、石工や肉体労働者に甘んじてしまったのか。もし十年十五年早く冒険者の道を選んでくれていたら、アダマンタイト級空位の時代はもう終わっていただろうに』

 

 冒険者の組合の幹部が大真面目にそう評するほど、ガルデンバルドの能力と活躍は目覚ましく素晴らしかった。

 

 幾つかのチームを渡った後、彼はリウルとベリガミニといった自身に比肩する程の者たちを仲間とし、【スパエラ】の中核を成す様になった。

 

 公国最強の冒険者はと問われれば、人々の回答は割れるだろう。ガド・スタックシオンの名を上げる者、イヨ・シノンの名を上げる者。そもそも冒険者の強さは個人で無くチームで語るべきだと主張する者、そもそも何をもってして最強と称するのかと定義を問う者。

 

 恐らく結論は出ない筈だ。しかし、確かな事が在る。公国最大最硬──最も大きく力強く、最も防戦に優れた冒険者は、ガルデンバルド・デイル・リブドラッドをおいて他にいないという事だ。

 

 【スパエラ】の三人はそれぞれが純粋な実力では既にアダマンタイト級の域に達している、達しているのではないかと噂される。その中でも特に、防御に限ったガルデンバルドの実力はアダマンタイトと比べても頭一つ抜けているやも知れないとの評もあるほどだ。

 

 そのガルデンバルドをして遥か凌駕するアンデッドが今、眼の前にいた。

 

 ねじ曲がり、引き潰された様なアンデッド。恐るべき威風を漂わせていたのだろう武器と防具は見る影も無く、腐れた肉体は傷の無い箇所が見当たらない程破壊されている。

 特に目立つのは傾いだ状態で半ば胴体に埋まっている頭部だ。首は埋まっていて目視できない。やや前傾気味の姿勢と合わせて考えるに、首から骨盤に至るまでの脊椎が複数個所折れ砕けているのだろう。

 

 ガルデンバルドは守勢、防戦を得意とする戦士である。自身と味方を守る技術に秀で、一方攻撃面においては技術的に一段も二段も劣る。だが、彼の場合は生まれ持った素質を徹底的に鍛えあげ作り上げた超人的な剛力がそれをカバーしている。

 

 同レベルの攻撃に長けた職業の者には譲らざるを得ないが、一撃一撃の純粋な破壊力のみで論ずる限り、ガルデンバルドは攻撃においても一線級と言って良かった。

 

 その一線級の攻撃が一切通じない。超人的な剛力でも及ばない。いやそもそも、攻撃に回れる機会すら殆ど巡ってこない。

 

 公国随一と謳われるガルデンバルドのそれと似た系統の、しかし次元の異なる防御技術。明らかに格が違う。一枚二枚どころではなく、五枚六枚も違う。

 

 渾身の一振りが、受け角度の調整によって鎧の上を滑る様に流される。かと思えば、微動だにせず受け止められた。まるで空気を殴っている様で、同時に山と戦っているが如く。

 

 アンデッドには傷一つ付けられない。攻撃すると逆に自分の体勢が崩れて、相手に付け入る隙を与えてしまうばかりだ。かと言って受け身に回ると逃亡しようと試みる為、こちらから打って出て対応を強制せねばならない。

 

 剣術の根本にして奥義、時には剣を振る事そのものよりも重要とされる足捌きは芸術の域だ。相手がアンデッドでなければ、ガルデンバルドは伏して教えを請いたい位だった。それ位に洗練され切った身体操作の理合。

 

 ──こと防戦において、俺はもとより副組合長もイヨをも超えているぞ。

 

 ガルデンバルドが知る最強の武芸者たる二名であっても、此の域には遠く及ばない。ましてや自分などは言わずもがな。

 

 更には、このアンデッドは上空から打ち込まれるベリガミニの魔法に、今のところ完全に抵抗している。魔法に対する抵抗力は生命力や精神力、もしくは内包する強さ、耐性等によって決まるが、全ての魔法に抵抗していると言うのは並大抵では無い。規格外だ。

 

 魔法は抵抗されると全く効果を発揮しなかったりする事もあるのだが、攻撃魔法の多くは抵抗される事によって威力が半減する。抵抗を突破した場合に比べて、半分程度のダメージしか与えられないのだ。

 

 ベリガミニの奥の手、一日一回しか使えない指輪の増強効果を込めた第四位階魔法が抵抗された。それは、ベリガミニが使用する魔法のほぼ全てが抵抗を突破できない事を意味する。

 公都において随一たる魔法詠唱者、ベリガミニ・ヴィヴィリオ・リソグラフィア・コディコスの魔法がだ。事実上、公都にこのアンデッドの抵抗を突破できる者はいないも同然である。

 

 このアンデッドが魔法に対して特別強い抵抗力を持ち合わせているのか、それとも実力差の隔絶が故に、ただ単に力不足であるが故に通らないのか。しかも、

 

 ──徐々に強くなってきている……いや、本来の実力を発揮し始めているのか!?

 

 デスナイトはイヨとの戦闘で破壊され、変形した自身の身体の効率的な使い方を急速に編み出しつつあった。隻腕となった剣士が隻腕ならではの戦い方を会得する様に、フレームが歪んだ身体に適合した防御を、攻撃を実現しつつあるのだ。

 

 耐えられる。ガルデンバルドならば攻撃には耐えられる。しかし、それだけだ。

 

 ──怪物。

 

 その怪物と戦う専門職たる冒険者、その中でも最高位に次ぐ高位であるオリハルコン級冒険者の見識でもって尚、それ以外に形容が出来ない。正に伝説級のアンデッド。動く災害だ。

 

 魔法や負属性攻撃などの特殊な能力こそ持たない様だが、それでも厄介に過ぎる。

 

「加勢します! 〈セイクリッド・シールド/神聖防盾〉、〈セイクリッド・ウェポン/神聖武器化〉!」

 

 背後から響いた詠唱と同時、ガルデンバルドが装備している防具と武具が光り輝く。信仰系魔法により、アンデッドと属性が悪に傾いた存在に対してダメージが増し、更にそれらの存在から与えられるダメージが低減する。

 

 たまたま共にいて、急報の際に神官不在の【スパエラ】の穴を埋めるべく動向を願い出てくれたイバルリィが戦闘に参加してきたのだ。安易にアンデッド退散などの、実力差があり過ぎて効果が薄いであろう手段を取らない辺り冷静かつ実直である。

 

 神官は本来対アンデッド戦で大きな戦力となるが、此処まで規格外の存在が相手では厳しいものがある。『強い』という事はただそれだけで策謀や工夫、戦術を破壊できる長所なのだ。

 

「バルド! ──あと少しだ!」

 

 聞き慣れた声と共に、背後から投擲されたダーツがデスナイトに直撃。無論でそれで傷付くほど柔ではないが、一瞬の隙をついてベリガミニの第二位階魔法、〈リープ・スラッシュ/斬刃〉が腐肉を切り裂いた。

 

「全く通らんわけでもない様じゃな」

「スケリトルドラゴンみたいに無効化って風では無いにしろ、期待できる確率じゃなさそうだがな──全員、聞け!」

 

 何処かほっとした様なベリガミニの声と、冷静に思案するリウルの呟き。そして、イヨから齎された情報の周知。人間の盾たるガルデンバルドの背後で、仲間たちが集結しつつあった。

 

 既にベリガミニによって掛けられている各種強化魔法と相まって、ガルデンバルドは戦士として更に強大な存在となった。だが、男は既に分かっていた。耐える事は十分出来ても、攻撃に転ずるには未だ足りないものが多すぎると。

 

 だが、勝負は此処からだ。地をも踏み割らんばかりの足音が、彼の復帰を教えてくれる。

 

 防御技術と膂力の全てをもって、ガルデンバルドはデスナイトの剣撃を受け流し、盾ごと体当たりを敢行。一瞬で良い。一瞬でも動きを止めれば、あの少年は其処を突く事が出来る。

 

「──ぁあィ!」

 

 矢の如く飛来したイヨの飛び蹴りが、完璧なタイミングでデスナイトに刺さった。

 貴金属の輝きを放つ軽装鎧は、重装鎧形態とは打って変わって煌びやかだ。そもそも胸甲やオープンフェイスの頭部装甲、肘や膝などを別として、身体を覆っている部分が目に見えて少ない。装飾性豊かで刺々しい。

 額部分には刺突に使えそうなほど巨大で鋭利な、吹き荒れる炎の如き形状の一本角。金糸の三つ編みには本物の金属糸が混じり、先端で三片に別れた棘を形成している。

 

 鎧であるにも関わらず攻撃力向上の効果があり、逆に物理・魔法防御力が下がるという際物だ。敵との相性次第ではマイナスの効果の方が大きいため、単身での戦闘においては使わない事が多いと本人は語っていた。

 

 だが、信頼できる仲間がいれば話は別だ。盾役たるガルデンバルドが、魔法詠唱者であるベリガミニが、全体の補佐にして調整役であるリウルが、癒し手であるイバルリィが、イヨが攻撃に専念出来る状況を作る。

 

 戦況が安定し始める。言葉は大して必要としなかった。イヨは実力があり、勘も働き、良く気が付く子供だった。またその他の面々も非常に優秀で経験豊かな先達であり、連携と言う点においてまだ一歩及ばぬ所のあるイヨを主体にした動きで戦闘は推移する。

 

 ただ、総員が遺憾なく実力を発揮し続けて尚、デスナイトという存在は強大であった。二人の前衛はガルデンバルドが防御に専念して総員の盾となり、イヨが攻撃を受け持つ鉾であったが──死の騎士は二者を相手にして一歩も前進できずにいたものの、また一歩も引かなかった。

 

 ガルデンバルドは正に不破の城壁として死の騎士の猛攻を見事防ぎ続けたが、反面殆ど攻撃に転ずる事が出来ず、疲労無効のアンデッド相手に消耗戦を強要され続けた。

 前衛火力としての役割を一手に担うイヨにしても魔力枯渇による極度の体調悪化は深刻であり、朦朧とする意識を自傷による痛みで紛らわさねばならぬ有様であった。それでも各種ドーピングと補助魔法による強化もあってデスナイトの身体を削るが、反撃を受けて負傷する事も多かった。

 

 そんな前衛を支える後衛たちも歯噛みする思いだった。リウルとイバルリィは並みのモンスター相手ならば前衛として戦う事もある職業に就くが、デスナイトという規格外のアンデッド相手に張り合うには根本的に火力と耐久力が不足しており、前衛の支援に専心していた。

 

 唯一デスナイトの剣撃から無縁なのは魔法によって空を飛ぶベリガミニである。だが、彼の魔法もまた決定打とはなり得なかった。この五人の苦戦は偏に、四十レベル相当──難度百二十という常軌を逸した高みにある、デスナイトの物理・魔法防御力が原因であった。

 

 辛うじて有効と言えるダメージソースは精神力で戦っているに等しいイヨの攻撃と、イバルリィ・ベリガミニ両者の魔法であった。しかし物理攻撃は兎も角、魔法もやはり抵抗されてしまう為効率が悪い。治癒魔法は抵抗されると効果を発揮せず消滅してしまうのもあって、イバルリィやリウルなどは治癒のポーションを投げつけ始める始末である。

 

 だが魔力にしろポーションにしろ有限であり、また攻撃だけに使うものでもない。

 

 戦況はイヨが命を削って単身勇戦していた時とは比べようも無いほど安定し、デスナイトを完全に封じ込めていると言って良かった。ただ、この場における安定とは、停滞とほぼ同義であった。負けはしないもの快勝とも程遠い戦場──。

 

 ──【スパエラ】の予想通りである。

 

 

 

 

 ことこの戦闘に限って、時間の価値というものは双方で決定的に異なっていた。

 単身孤立の身であるデスナイトにとって時間が過ぎ去る事は目的達成が遠のく事と同義であり、戦闘による時間経過など百害あって一利なしを地で行くものだった。

 

 対して冒険者たちにとっては防衛戦であり、公都という一大拠点内での戦闘である。急いて事を起こさずとも時が過ぎれば──絶対に援軍が来る。

 

 そして五人での戦闘が始まって数分。驚異的に奮戦する疲労無効のアンデッドのペースに付き合って戦い続けたその時間は決して短い時間では無かったが──ついにその時が来た。

 

「英雄の時間は終わりだぜクソアンデッド。圧し潰されて死ね」

 

 皮肉気に笑ったリウルの言う『英雄』とは、人数差をものともせず戦うデスナイトを指したものであった。

 

「儂らだけで仕留められれば昇格間違いなしの大功なんじゃがなぁ。まあ、万が一という事もある。人命には代えられんし、より確実な手段があればそちらを取るのが人の道というものじゃろ」

 

 僅かな強がりを含んだベリガミニの言葉。

 無論全力で滅ぼすべく戦っていたに決まっている。だが結果から言えば出来なかった。そして、時間と状況が味方をしている事は分かっていたのであるから、移動を封じ込めてさえいられれば十分以上なのだ。

 

 ──一国の首都のど真ん中で十分も二十分も戦っておいて、集う戦力がたったの五人である筈が無いのだ。人間並みかそれ以上の知能を持つデスナイトは当然それを分かっていて、可及的速やかに不死者の軍勢を作るべく行動していたのだが、冒険者たちの奮戦がそれを阻んだ。

 

 【スパエラ】に遅れる事しばし。その者たちは続々と戦場に現れた。

 

 

 

 

 それは【戦狼の群れ】や【赤き竜】を含む、複数の高位冒険者パーティだった。

 それはゴーレムを従える老年の魔法詠唱者を筆頭とした宮廷魔術師、魔術師組合の有志たちだった。

 それは長刀を携えた、地位の高さを感じさせる華美な鎧の公国騎士だった。

 

 英雄の時間は終わり。デスナイトを支えていたものはデスナイトの隔絶した実力、そのたった一事である。単身の武勇でもって集団を、戦術を圧倒する強さだけが。

 

 今、それが崩れた。

 デスナイトを取り囲む戦士、盗賊、野伏の戦列は十数人にも厚みを増し、足止めを続けるイヨとガルデンバルドを中心に二重三重の包囲を敷きつつあった。

 歴戦の勇士たちによる封じ込めの後背には、歴戦の魔法詠唱者たち。一流の領域に達した魔道の探求者たちが群れを成す。空を駆ける高位魔法詠唱者すら何人も見受けられる。

 

 強い冒険者などに代表される一部の人間は、時に一軍すら相手に出来るという。

 

 デスナイトは単身で万軍を切り伏せ、不死者の軍勢を編成する存在。ただ一人で難攻不落であり、ただ一人で国を落とす。

 

 軍団を凌駕し一国に相当するアンデッドを滅ぼす為に集ったのは、同様に国一つに相当する戦力だった。

 

 一国対一国の戦い。両者の違いは、前者が孤立奮闘する絶対強者であり、後者が互いを補い合う集団であるという事だ。

 

「オオオォオァアー!!」

 

 死の騎士が吼える。挑む様に、圧する様に。その姿は主命を果たさんとする不屈の意思を体現していた。

大気が波濤し、戦士の背筋を戦慄が走り、心に怯懦が沸き上がる。だが、誰も彼もがそれを押し殺した。

 

「臆するな! 心得よ、この場に集った我らにこそ公都の、公国の未来が掛かっておる! 家族を、友を、同胞を思うなら引いてはならぬ!」

 

 対抗するかのように吼えたのは一人の老人だった。

 大陸最高の魔法詠唱者から直接の師事を許された者たち、選ばれし三十人が一人──『ゴーレム狂』と呼ばれる操霊魔法の達人、第四位階到達者の中でも後半と呼べる高みに身を置く男──エルアゼレット・イーベンシュタウ。

 

 外見だけなら師であるフールーダ・パラダインよりも更に年老いて見える、小さな小さな老人である。身体の前面を覆い隠すほど伸ばした白鬚に異常な分厚さの片眼鏡を掛けた彼は、老いた矮躯に渾身の魔力を漲らせ、震えていた。

 

 この場においては、イヨの他に彼だけが死の騎士という存在を知っていた。かの存在の強大さを、かの存在に相対するという無謀さを、恐怖を。

 

 彼は第四位階を操る破格の魔法詠唱者だが、本来研究者であり学徒である。

死を前にして怯えずにいられるほど、豪胆でも無神経でも無かった。魔法省の最奥で同種のアンデッドに向き合う時も、そのアンデッドを師らと共に捕らえた時も、精神防御の魔法を用いねば姿を直視する事も出来なかった。

 

 初めて見た時はマジックアイテムに乗って空から魔力の続く限り爆撃を行った。それ以降は魔法、マジックアイテム、物理的手段によって雁字搦めにされた姿しか見ていない。

 

 暴れ回るかのアンデッドの姿は泣き出したいほど怖い。今すぐ走って逃げたい。齢八十を超え残りの時間を意識する事も増えたが、その残り少ない時間が惜しくて惜しくて堪らなかった。

 

 ──それでも自らの職責と良心が、彼をその場に押し止めている。

 家族を、友を、同胞を思うなら引いてはならぬという台詞は、周囲への呼び掛けであると同時に自身に言い聞かせる言葉でもあった。

 

「先陣の冒険者諸君、良くぞその災厄を食い止めてくれた! 此処からは皆と同じく私の指示に従って貰いたい! 私は師であるフールーダ様と共にそのアンデッドを倒した経験がある!」

 

 冒険者の、特に前衛の連携はシビアである。如何にそれぞれが一流の実力を持つと言っても、慣れない他チームの人間と更に官民が入り乱れて、人間大サイズでしかないデスナイト一体に集中攻撃を掛ける事は不可能だ。互いの存在が邪魔になり、人数が増える程逆に弱くなる事すらあり得る。

 後衛にしても、遠距離攻撃手段ならば人数が多くとも火力の集中投射は前衛に比べ容易であるが、標的の周囲に味方が蠢いていては範囲や射撃の魔法が使えない。同士討ちになるからだ。

 

 実際に戦闘で足を止めさせる少数の他は周囲を囲み、二重三重の人垣と化して万一突破された際の安全柵とする。その安全柵の更に外側が魔法詠唱者たちのポジションであり──飛行魔法が使える場合は上空だが──互いの距離は発声で確実な意思疎通が取れる程度で良い。

 後は当然魔法を雨霰と叩き込む重爆撃を行う──というのが理想なのだが。

 

 帝国でデスナイトが現れた際、戦場となった場所はカッツェ平野だった。上空からの魔法を遮るものも防ぐものも隠れる場所も無く、故にデスナイトは一方的な魔法の爆撃で嬲られた訳だ。だが公都は違う。

 

 僅かでも自由を許せば、建物の間を通るなど、上空からの射線が通らない移動経路など無数にある。デスナイトの膂力ならその建物自体も脆いものでしかない為、究極的には壁を突き破って移動すれば例え〈フライ/飛行〉を使える高位魔法詠唱者が数十人いたとしても、その攻撃を躱す事は容易だろう。

 

 そういう意味でも『大都市に死の騎士が出現する』という事態は最悪なのだ。唯一勝率の高い戦法と言える魔法による絨毯爆撃が有効に機能しない可能性があるのだから。

 

 走らせた時点で終わりである。なので、戦士による足止めは絶対に必要だ。ただ、味方の戦士の存在は魔法による爆撃を忌避する要因となってしまう。味方ごと焼き殺す事になるのだから当然だろう。それも、デスナイトの足止めが出来るような最上級の、代わりが効かない戦士をだ。

 

 帝国は以前出現したデスナイトを捕獲し、厳重極まる管理体制を敷いて帝国首都の魔法省地下に封印していた。

 如何に強固な封印、捕縛を施せども、あれほど強力なアンデッドを帝都に置く以上、万一に万一が重なった際の──デスナイトが戒めを破って脱走した際の対処等も当然考えている。

 

 因みに、想定されるパターンの中でも最悪に最悪が重なった際の対処法は帝都放棄である。初期対応に完全に失敗し、デスナイトから数えて孫世代までのネズミ算による万単位のアンデッドの軍集団が生まれてしまった場合の話であり、最早人の手に負える状況ではないとの判断からだ。

 

 それに対し、今回の事態はほぼ完璧と言って良かった。エルアゼレットは師であるフールーダと同じく魔法を司るという小神を信仰していたが、今回ばかりは人類を守護するという偉大なる四大神に感謝する。

 

 発生と同時に強力な戦士がデスナイトを足止めし、一人の被害者を出す事も無く──敵が増える事も無く──更に激しい戦闘の余波で老朽化した建物が崩壊し、狭い路地だった場所は数十人規模の布陣が叶う広場となっている。

 

 勿論瓦礫が大量に転がっているが、高位冒険者ならばさして問題にはなるまい。正に、誂えたかの様な、理想的な状況だった。

 

「戦士諸君はそのままデスナイトの拘束を頼む! こちらの統制で魔法を打ち込むので、そのタイミングで──」

 

 この男が公国に、公都にいる事も。

 

「私のゴーレムたちと入れ替わり、魔法を回避してくれ!」

 

 老人の号令と同時に身構えた三つの人型。それはストーンサーバントと呼ばれる、石で出来た人型のゴーレムだ。同じく石で出来たストーンゴーレムと比べて小柄かつ非力であり、人間よりやや大きい程度の身長しかないが、個人が同時に運用できる数として三体は破格である。

 

 エルアゼレットはゴーレムの作成と使役に特化した魔法詠唱者であり、本人がゴーレムたちへの指示と強化に専念する事で、同時に三体の戦闘機動を実現できる傑物だ。半世紀を超える研鑽と私財、公費を注ぎ込まれ改良されたゴーレムたちはかなり洗練された体型と動作性を持ち、全身を黒曜石の盾や鋼玉、珊瑚の枝など計五つの魔法的な強化素材で飾っていた。

 

 投じる状況如何によっては高位冒険者にすら比肩しうる三体である。当然、使い捨てにするには貴重かつ高額に過ぎる物だ。帝国魔法省の警備に使われるストーンゴーレム、古の時代に作成された特別なゴーレム等の例外を除き、通常の手段で製作できるゴーレムの最上級と言って良いだろう。

 だが、デスナイトという災厄を確実に葬る為ならば愛しい子であるゴーレムすら安い代償である。エルアゼレットは魔法詠唱者以前に人間として、そう思った。

 

「了解したぁ! だが、討伐が最優先だ! もしもの時は俺達ごと焼いてくれて構わん!」

 

 視線の先で、デスナイトの反抗は狂気的な領域となっている。白刃の閃きは最早濁流の如く連続して重なり合い、この世の全てを飲み込む暴力の体現だった。

 それを前にして戦い続ける二名の戦士──エルアゼレットの様な冒険者界隈に疎い者ですらその名を知る、巨漢のガルデンバルドと小柄なイヨ・シノン。アンデッドと違って疲労する彼らからは、絶えず汗と血飛沫が飛び散っている。

 

 既に疲労は相当な物だろう。デスナイト相手に近接戦を挑める様な武力も精神力も、エルアゼレットからすれば理解の外だ。だからこそ尊敬に値する。

 

「……応とも! その覚悟確かに受け取った! 総員、使えるものの中で最も威力が高い魔法を準備せよ! 合図で一斉に放て……!」

 

 ゴーレムを対象とした強化魔法である〈インテンス・コントロール〉を受けたストーンサーバントたちが、人工物とは思えない流麗さと力強さで駆け出した。自身が敵と共に焼き払われる定めであったとしても、意思無き彼らの疾走は術者の思いのままだ。

 

「三、二、一──」

 

 イヨとガルデンバルドの二者と入れ替わり、三体のゴーレムがデスナイトに取り付く。完全に攻撃を捨てた、囲んで耐える事のみに専念する動きだ。長く持たない事は明白。だが、この一瞬耐えればそれでよい。

 

「──今!」

 

 質の暴力を滅ぼすべく、数の暴力が解き放たれた。

 

 

 

 

 結果から言うとデスナイトは滅ばされたが、その驚異的な戦闘力は参加した全ての者の奥底に、恐怖と共に刻み込まれる事となった。

 

 総勢が放った魔法は天に吹き上がる火の柱と化し、生ける者全ての鼓膜を痺れさせ、大地を黒く焼け焦がした。どんな凄腕の戦士であってもこの炎の中で生命を保つ事は出来ないであろう、そんな確信を抱かせるに十分な破壊の姿。

 

 だがデスナイトは総計七回の統制された魔法爆撃に耐え、魔法爆撃の時間を稼ぐために行われた同じく七回目の選び抜かれた戦士による切り込みによって漸く殲滅されたからである。

 

 足止めを努めたゴーレムたちは事前の強化と防御魔法にも関わらず、一度目の爆撃を受けた時点で三体ともほぼ大破の惨状であったが、エルアゼレットの魔法によって応急処置がなされ、二度目の爆撃で完全に破砕。修復不可能な石ころと化した。

 

 三度目の爆撃は炎属性防御を付与されたガルデンバルドとイヨを諸共巻き込む形で行われ──魔法攻撃は信仰系を除き、アンデッドに対して有効とされる炎属性のものに限定されていた──その後の切り込みで、公国騎士の男がデスナイトの右足を切り落とす事に成功。

 

 移動力が激減したデスナイトは尚も暴れ狂ったが、漸くはっきりした戦力的優勢を確立できた公都守護勢力の猛攻の前に潰えた。

 

 七回目の爆撃の後、デスナイトは黒焦げの上半身と折れたフランベルジュを離さぬ右腕しか残っていなかったが、その有様で剣の断面を地面に突き立てて這い回り、尚も声無き絶叫を上げて生者に挑みかからんとした。

 

 その執念、憎悪は冒険者たちをして二の足を踏ませるほどだったが、最後はイヨ・シノンが全身灰と化すまで踏み躙って討伐した。

 

 国を滅ぼすに足る化け物を討伐した。戦った者たちは国を救った訳である。しかし、デスナイトの余りの強大さを目の当たりにし、誰しも直ぐには声が出なかった。

 

 静寂の訪れと共に膝を屈し、荒い息を吐く者も多い。その筆頭はイヨ・シノンだ。肉体は癒えても、連続した過酷な戦闘と緊張状態は彼の精神を削りに削っている。気を失わないだけ大したものであった。

 

「……やったんだよな」

 

 誰かがぽつりと漏らした呟きが全体に浸透し、ようやく人間らしい情動を呼び起こした。

 

「……ああ。完全に消滅した筈だ。シノンさんの情報だと、あいつは非実体化したり消えたりは出来ない筈だ。おい、アンデッド反応は?」

「……無い。無いぞ、全く無い」

 

 ──勝ったんだ。そんな実感が漸く湧いてくる。

 歓喜の感情が徐々に高まっていく中、エルアゼレットが代表して、居並ぶ勇者たちを祝福した。

 

「未曽有の災害、伝説にして究極のアンデッド。……死の騎士は我々によって間違いなく討伐された。国側の人間として、命の危険を顧みず戦った皆、特に【スパエラ】の方々とその中でもイヨ・シノン殿の献身と奮戦に、深く感謝を──」

「──まだです!」

 

 労いの言葉を中断させた叫びは、最大の功労者たるイヨ・シノンのものだった。

 

 

 

 

「まだ終わっていません、僕はこの目で見ました! デスナイトを召喚し、殺戮を命じた輩がいます!」

 

 誰一人として反応できなかった。

 ですないとをしょうかんしたやつがいる、とエルアゼレットの舌が本人の意思を無視して言葉を反芻し、しかし理性が理解を拒否していた。

 

 此処にいるのは全員が強者であり知恵者である。一般兵士数十から数百人に相当する戦力を持つ、百戦錬磨の魔法詠唱者、戦士、野伏、盗賊、神官──そんな者たちだ。

当然数多くの敵と戦った事があり、例え自身の専門で無くとも、魔法に関しては詳しい。

 

 ──ですないとをしょうかんしたやつがいる。

 ──デスナイトを召喚した奴がいる。

 ──難度百を超えるアンデッドを、召喚出来る魔法詠唱者がこの世に存在する?

 

 不屈の意思で立ち上がったイヨ・シノンは、必死の表情で尚も言葉を紡ぐ。

 

「恐らく高位の吸血鬼です、少女の姿をしていました! 殺そうとしたのですが逃亡されてしまい、行方は分かりません! 第二第三の事件を起こす可能性があります、このまま直ぐにその吸血鬼を──」

「でぇえ!!! デ、デス、デスナイトを召喚だとぉおお!?」

 

 漸く人語として理解できたエルアゼレットが狂気染みた金切り声を上げ、勝利の余韻に浸りつつあった総員は最悪の現実に引き戻された。

 

 ふざけんじゃねーよ、とリウルのみならず、その場にいた殆どの者が絶叫を上げる。特にアンデッドの召喚や作成の知識を持つ魔法詠唱者たちは、今にも卒倒しそうな表情であった。

 

 公都にいる冒険者の最上位層を軒並み動員し、宮廷魔術師や公国騎士──一人だけだがいい腕をしている──と共に数の暴力で寄って集って滅多打ちにして漸く討伐できた化け物が死の騎士なのである。それだって何かの間違い一つあれば包囲を打ち破られ、被害が拡大する可能性は十分にあったのだ。

 

 そんなデスナイトを召喚できる輩など、それこそ神か魔神かその配下であろう。いずれにせよ人間が太刀打ちできる存在ではない。デスナイト自体が伝説に語られる魔神であるとか、死した十三英雄の一人が怨念でアンデッド化してしまった姿だと言われても信じてしまいそうな強さなのに。

 

 ──それを召喚し、使役し、殺戮命令を下す吸血鬼がこの世に──公都に存在している? 

 

「おい誰でもいい、上空から公都の様子を確かめろ! 他の場所でも戦闘が起こっているんじゃないか!?」

「い、今のところその様子は無いが──」

「不味い、この場にいるのは考えられる限り最大限の戦力だぞ! もし他の場所で暴れられたら到底防げない!」

「どんな化け物だその吸血鬼は、まさか古の魔神──いや伝説に謳われる国堕とし!?」

「今すぐ大公殿下に報告しろ、事態はまだ収束していない!」

 

 一気に騒がしくなった戦場跡地で、イヨは多くの者たちに詰め寄られて、詰問されていた。

 

「あり得るのか、そんな事が! 儂の常識で言えば──召喚自体が信じ難いという点を無視しても──あのアンデッドは死霊魔法に特化した超一流の魔法詠唱者が、長期に渡る準備と多大な労力を費やして大規模な儀式魔法を実行し、ようやく召喚可能な存在の筈じゃぞ」

 

 ズーラーノーンなどの組織に所属する高弟が、弟子を率いて何年も何年も準備に時間を費やし、大量の生贄を捧げて死の力を集める。そういった手段をもってしてさえ可能かどうか判断が付かない。

 デスナイトと言う規格外のアンデッドが殆ど全く存在を知られていない点も合わせて考えるに、人為的な召喚など出来ないと考える方がむしろ自然な気がする。ベリガミニが召喚可能な存在と称したのは、召喚の瞬間を目撃した仲間の証言を信用したからに過ぎなかった。

 

「もしそうだとしても、一体何位階に到達した魔法詠唱者なのやら見当もつかん。……かのフールーダ・パラダイン様を超えるやもしれんぞ」

「もしそうだとすると、少なくとも第六位階以上の魔法詠唱者だと……お伽噺や神話の世界だな」

「イヨ、一応聞いとくが見間違いじゃないんだな?」

「目の前で虚空から呼び出したんだよ、間違いないと思う」

 

 超えるやもでは無い。もし本当にそうだとしたら、少なくとも死霊系魔法に関しては完全に超えているのだ。

 エルアゼレットだけが分かる。何故ならエルアゼレットは高弟として側近として部下として、フールーダの傍で何度も見ているからだ。尊敬する師が、人類史上未踏の領域に到達した偉大なる大魔法詠唱者が、デスナイトの支配に失敗するのを。

 

 ──ふざけるな四大神、世の秩序はどうなってるんだ。

 

 周囲の者たちが官民問わず発覚した新たな危機に対する情報収集と現状把握に努めていると言うのに、老人は先程感謝したばかりの神々に内心で罵声を吐いた。元より別に信仰もしていない神なので都合が悪ければこんなものだ。

 

 傍らでは宮廷魔術師たちや公国騎士たる男がなにやら問いを投げかけていたが、今の彼の耳には届かない。

 

 このエルアゼレット・イーベンシュタウという男、魔法を司る小神を信仰してはいるが、それも『師であるフールーダが信仰している』から祈りを捧げているのだ。むしろ第六位階魔法詠唱者であるフールーダその人を人類の可能性、神に最も近い人物と己の中で定めている節があり、詰まるところそれ以上の魔法詠唱者の存在は彼にとって秩序の崩壊を意味した。

 

 才能と努力次第で人間は其処まで至れるのだと、『道』がある事をフールーダ・パラダインが証明してくれたから。高位の魔法は長寿の異種族や一部のドラゴンだけの専有物では無いのだ、と。

 

 だからクソの様に難解で、馬鹿みたいに進歩が遅くて、関節の痛みや薄毛に悩まされるような年齢になってやっと初心者の域を脱する事も珍しくない『魔法』等というモノに身命を捧げる事が出来ていた。遥か先を行く偉大な先達の指導があったからこそ、第四位階に到達できた。

 

 エルアゼレットにとってフールーダ・パラダインこそが師で、親以上で、目標で、憧れで、人間の可能性で──魔法を司りし神の化身だった。

 

 エルアゼレットは考えずにはいられない。

 ──神を超える存在等認められない。そもそも神を超える様な相手とどう戦えばいい? 第六位階魔法詠唱者である師は条件次第で帝国全軍を滅ぼせるだろう。ならば推定第七位階を使える吸血鬼の戦闘力はどれほどか? 究極のアンデッドとも称すべき死の騎士を従える者など、それだけでも国家規模の存在だ。お伽噺の様に攻撃魔法一つで地形を変え、平原を見渡す限りの毒沼に変える様な所業が出来ないとも言い切れない。しかもアンデッドだ。それ程の力を持ち、無限の命を誇り、生者を恨む存在にどう対処すればよい? 仮にアンデッドの召喚に特化した魔法詠唱者で使える位階の割に本人は弱いと仮定しても、まさか一般人程度の戦闘力しか持たない等と言う都合の良い事はあり得ない。吸血鬼自身も相当に強い筈。召喚されるデスナイトと召喚者は必然的に前衛後衛であり、お互いを強力に補助し合えるだろう。それだけの戦力を相手に人間である我々が──

 

 思考は最早濁流の如し。

 デスナイトと対峙する為に絞り出した勇気はとうに消し飛んでいた。魔法に関してならば師は竜にも勝るとエルアゼレットは固く信じており、死の騎士と対峙できたのだって、同輩と共に師に引き入られて打倒したかつての経験があったからだ。

 

フールーダ・パラダインを頂点とした老人の世界観は崩壊寸前だった。崩壊する理性は、しかしその間際に一つの違和感へと辿り着く。

 

 ──そんな存在を相手にして、何故イヨ・シノンは死んでいない? 公都は滅びていない?

 

 其処まで考えた瞬間、エルアゼレット・イーベンシュタウは老いた身体から出たものとは信じられない程の大声で周囲に叫んでいた。

 

「──シノン殿、少しよろしいか!?」

「は、はいっ!?」

 

 エルアゼレットの怒声に反応したイヨが、弾かれた様に老人の傍らへとやってきた。周囲の者共も余りの大声に反応して注目が集まり、一旦混乱が収まる。

 

 全身が赤黒く染まった少女の様な少年。老いて鈍くなった鼻でも強烈に感じる血臭。どれ程の激戦の末にどれ程の血を流したのか想像も付かない。若かった頃の自分と同じ位の背丈かも知れない、と背が曲がって目線の高さがドワーフ並みになってしまったエルアゼレットは思う。

 

 直接の面識は無く、エルアゼレットの方が一方的に知っているだけの二人ではあったが、老人は自己紹介しようとする少年を手で制し、端的に問うた。

 

「デスナイトを召喚した吸血鬼は、人を殺せと命じた。そして、貴方はそれを止めるべく戦いを挑んだ。そうですな?」

「その通りです、あの」

 

 エルアゼレットは矢張り無視した。と言うより、気に掛けている余裕が無かった。飛躍の発想が現実に即しているか、今の彼が気に掛けているのはそれだけだ。

 

「吸血鬼にとって、貴方は邪魔者でしかなかった筈。召喚モンスターの邪魔をし、自身の望みを妨げる輩であった筈──しかし、吸血鬼は貴方に対してなんら危害を加える事なく、加勢すれば間違いなく貴方を討ち取れたであろうにも関わらず、逃亡した。そうではないですかな?」

「そ、その通りです。一度は戦闘に参加する気配を見せましたが、踵を返して逃亡しました。………何故お分かりに?」

「矢張り。感謝いたしますぞ、シノン殿」

 

 そう。常識で考えれば当たり前の事だった。

 いる訳が無いのだ、如何に異形の種族であろうとも、一分野においては逸脱者たるフールーダ・パラダインを超えたとしても、死の騎士ほどの存在を何のリスクも無しに召喚・使役し得る様な──そんな超越者が存在する筈が無い。

 

 どんなに世界が広くても、そんな絶対者は常識を超え過ぎている。常軌を逸し過ぎている。この世界に存在する等信じられない。

 工夫に工夫を凝らして、大儀式を行い、長い長い時間を掛けて──多大な代償を払って漸く成した秘術の中の秘術、奥義の中の奥義である筈なのだ。

 

 エルアゼレットは集った全員に向けて叫んだ。

 

「総員、力を貸して頂きたい! これは動き回る未曽有の災害を人の世から消し去る為のまたとない好機である!」

 

 邪魔者を殺す事なく逃げ出したのがその証拠だ。

 如何に本能的に生者を憎み殺して回るアンデッドとは言え、それ程の高度な魔法技術を持つ相手なら高い知能が在る筈。国の首都を落とそうとするなら理由がある筈。理由があるなら簡単に諦めたりしない筈。

 

「冒険者諸君らも疲労している筈。これ以上の連戦は難しいとの打算、消耗した状態で再度デスナイトと、しかもその召喚者までとも戦わねばならぬという恐怖、痛いほど分かる。──しかし、公国の、否、人の世界の為に協力して頂きたい!」

 

 にも関わらず、その吸血鬼とやらは加勢すれば難なく倒せた筈の相手に手を出さず逃亡している。殺さなかった結果、公都は守られ、吸血鬼が望んだ殺戮は成されなかった。何故戦わなかったのか、殺さなかったのか。

 

 ──戦える状態では無かったから。殺せるほどの力が残っていなかったからと考えれば辻褄が合う。

 

「諸君らも想像できよう、デスナイトを召喚するという行為がどれ程の離れ業、常識を逸脱した魔法なのかを!」

 

 エルアゼレットは状況から推測した仮説を、全員に向けて説明する。

 例えば、魔法上昇という特殊技術がある。通常より遥かに魔力を消費する事で、本来扱えない筈の上位位階の魔法を無理矢理行使する技だ。

 

 恐らく、吸血鬼が死の騎士召喚に使用したのはそれに近い、より対価が大きくリスクが高い技術だ。そうでなければ極端に時間が掛かるか、予め負の生命力などを溜め込んで、それを用いて力をブーストする必要があるかだ。

 

 イヨ・シノンという計画達成には排除が不可欠な障害を前にして手出しせず逃げ出したのは、その巨大な対価を払った召喚魔法行使の直後であったため、魔法が使えないかそれに準ずるほどの負荷が掛かった状態であるからだと。だから身の安全を確保するために逃げたのだと。

 

 恐らく、再度デスナイトを召喚するのは不可能に近い。もし可能だったとしても年単位、どんなに短くても数か月の準備が必要な筈。

 仮に即座に行えるのなら、駄目押しでもう一体召喚し、公都滅亡を確実なものとした筈だ。

 

 筈、筈、筈。仮定ばかりだが、人生を掛けて学んだ魔法の知識と己の世界観、現状を考えればそれ以外にあり得ない。エルアゼレットは自分を、世界を信じたかった。

 

「現在の公都になんの異変も起きていないのもその証拠! その吸血鬼は著しく消耗した状態にあると考えて間違いない、故に好機である! もしこのまま逃がせば時と共に身を癒し、準備を重ね、またこの様な事態を起こす可能性がある!」

 

 既に再度の召喚の為に、闇に潜みおぞましい秘術を練っているやもしれない。もし脱兎の如く逃げ出していたとしても、その確証を得るまでは安心できない。この世から退場させない限りは、真なる安全は訪れない。

 

 今回の様な奇跡が起きない限り、人為的なデスナイトの召喚は少なくとも一都市、王国や帝国が滅ぶ可能性も十分あるほどの巨大な爆弾なのだ。

 

「無論冒険者諸君にはこれまでの戦い、そして協力して頂けるのならこれからの働きに対しても、公国から十分な報酬が支払われると確約しよう!」

 

 そんな爆弾が国内、それも首都に存在するかもしれない可能性を許容し得る為政者はこの世にいないだろう。滅ぼす事は出来ないまでも、『ひとまず安全だ』『当面は心配無い』というある程度の確証が無ければ話にならない大事件だ。

 

 エルアゼレットは今でこそ公国は大公の下で宮廷魔術師たちの教師を務めているが、それは帝国魔法省からの出向の形であり、上役はフールーダ・パラダインで、忠誠を捧げているのは皇帝ジルクニフである。

 そういう意味では同じく皇帝に忠誠を誓う大公と同列とも言える。無論、乱暴に言えば同じ臣下とはいえ、一国の長と魔法詠唱者では色々と違い過ぎるが。それでも実戦経験者で第四位階詠唱者であるため、今回の一件では現場の裁量権を預かっている。近衛の副長を付けられたのは、単純に戦力としてと、対外的なお目付け役という事だろう。

 

 此度の事件、間違いなく国家規模の物だ。フールーダ・パラダインを超える魔法詠唱者が関わっている可能性が高い以上、間違いなくフールーダその人も興味を示すだろう。

 自分の第一の臣下のお膝元を滅ぼそうとした輩を、皇帝ジルクニフは許さないだろう。無論大公も同じだ。

 

 この事件はいずれ周辺各国に知れ渡るだろう──エルアゼレットは思いつつ、最後の叫びを放った。

 

「緊急事態故冒険者組合への話は後で通すが、依頼を受けてくれる方々は我々の指示に従って貰いたい! ──これより公都を総浚いする!」

 

 公国という国家、冒険者組合、魔術師組合、各神殿勢力──その全てが巨悪討伐の為に力を合わせる事となる、歴史に刻まれる事件の、それは終端の一幕だった。

 

 

 

 

 無論【スパエラ】は依頼を受けた。通話のピアスを装備したベリガミニが先行して現在上空で目視と魔法による索敵を行っており、他の皆は駆り出された騎士や神官と共に、墓地区画へ向かっていた。今の所、異常は起きていない。

 単純に考えて、敵が未だ公都内に潜伏していると仮定した場合、最も可能性が高い場所の一つが其処だと考えられるからだ。アンデッドにとってはさぞや居心地が良いだろうし、公都の中にあって最も死の力、負の力が蟠っている。

 秘密組織や邪教集団、犯罪者の根城などあっても何らおかしくない。

 

「リウル、走りながらちょっと聞いてほしい事があるんだけど」

「ああ!? 別にいいけどお前、喋ってる暇が有ったら少しでも回復に努めた方が良いんじゃねぇか?」

 

 リウル・ブラムがイヨ・シノンに切り出されたのは、その時だった。

 

「大丈夫だよ、僕の魔力なんて専業の魔法詠唱者の人たちと比べたらほんのちょっとだから、もう結構回復して来てるんだ。それよりも、リウルに聞いてほしい事があって」

 

 それもあるが、リウルは精神的な負担などの心配もしているのだけれども。最初から最後まで徹頭徹尾先頭に立って戦い続けていたのだし、掛かった負荷は相当なものであろう──と。

 しかし、イヨ抜きでは最早【スパエラ】は【スパエラ】足りえないのも事実。この事態に際して下がっていろとは言えない為、リウルはイヨの頑張りを嬉しく思った。

 

「こんな時にこんな事言い出すなんて自分でもどうかとは思うけど──こんな時だからこそ言っておきたい。僕、今回の戦いで痛感したんだよ」

「──?」

 

 非常に真剣な口調。共に走る少年の方に目線を向ければ、其処には何らかの決意を滲ませた男の顔があった。

 

「僕、冒険者のお仕事っていうのを、何処かで舐めてたかもしれない。自分は大丈夫だって、根拠のない安心感を抱いてたかもしれない」

「そんな事はねぇだろうよ」

 

 素直にそう思う。自分にも他人にも厳しい態度で臨むリウルの眼で見ても、イヨはこの上なく真剣だったし、日々努力していた。それは誰もが認める所だろう。

 

「ううん、でも何処か甘く見てたんだよ。でも今回の戦いで、本当の意味で分かったんだ。冒険者の仕事って言うのはいつ死んでも可笑しくない危険な物なんだって──いや、この世で生きていく上で絶対安全なんて無いんだって事」

 

 ちなみにこの時点でガルデンバルドは感づき、同行してくれている軍属の騎士や神官たちと共に、二人から少しずつ距離を取り始めていた。

 

「いつ死んでもおかしくないんだ、そう理解した瞬間に僕は思ったんだよ──後悔だけはしたく無いって。たった一度の人生で、死んだらやり直せないんだって生まれて初めて、本当の本当に実感したんだよ」

「お前──」

 

 流石のリウルも、イヨの言に雲行きの怪しさを感じた。嘘だろうイヨ。まさかそんな、こんな時にそんなことを言い出す奴じゃないだろお前は、とそう思う。しかし、イヨの告白は止まらない。

 

「リウルは怒るかもしれない、こんな時に何言ってんだって軽蔑するかもしれないけど──こんな時だからこそ自分の気持ちに正直になりたいんだ」

 

 何時か訪れる死の瞬間に後悔したくないから、とイヨは言う。その顔は限りなく真剣で、何処か思い悩んでいて、不安がっている様で、それでも毅然としている。──強い意志、不屈の意思を見る者に感じさせた。

 もう心は決まっている。誰が何と言おうと曲げない。そんな想いを。

 

「リウル・ブラムさん、僕は──」

「おいイヨ、お前まさか──」

 

 リウルは叫ぶ。しかしイヨの叫びはリウルのそれを掻き消すほど大きかった。

 

「──冒険者を辞めるなんて言う気じゃ」

「──貴女を愛しています! ずっと前から好きでした! どうか僕と結婚してください!」

 

 ──え? 

 

 凡そ三十秒間リウルは返答も反応も出来ず、ただペースを守って走り続けた。

 

「……ぇ」

 

 思わず上方を仰ぎ見ると其処にはベリガミニがおり、彼は何も聞こえなかったかのようにただただ前方を見つめている。

 背後に視線をやると、さっきまですぐ後ろを追走していた筈のガルデンバルドを始めとした連中は十メートルほど離れていて、『何かあった時サポートできる距離を保ちつつ出来る限り離れました』と言わんばかりに何やら情報交換に勤しんでいた。

 

 隣を見ると相変わらずイヨがいて、真剣極まりない視線を自分に向けており、返答を待っている。

 

 そうした逃避的な反応の末、リウル・ブラム十七歳はようやくイヨ・シノン十六歳の告白──プロポーズの意味する所を正確に認識し、

 

「……はぁ!?」

 

 酷く赤面した。

 




考えれば考える程デスナイトが強すぎる。一番レベルが高いイヨでも三十レベルで、デスナイトさんは防御面四十レベル相当ですよ。鬼か悪魔かと。
フールーダさんも考えれば考える程転移後世界では存在が大きすぎるんですよね。自分で寿命を延ばして数百年間魔法を研究し、第三位階まで至れば大成した天才なのに第六位階ですよ。神格化されそうなレベルで偉人。

推定フールーダ・パラダイン以上の魔法詠唱者でデスナイトを召喚するアンデッドとかホント考え得る限り最悪の存在ですよね。当の本人たちはもうすっかり逃避行を満喫してますけど。
「む、デスナイトが滅ぼされたか……まあ、漆黒聖典相手にこれだけ時間を稼げば上等だな」
「見てお父さん、旅人よ。私たちと同じ二人連れ」
「おお、丁度良い。葡萄酒も良いが矢張り血が一番だ。水筒代わりに攫って行こうか、娘よ」といった感じで。

いずれ本編と同時公開する予定の番外編IFルート、『もしイヨが百レベルの人間種エンジョイ勢プレイヤーだったら』と『もしイヨが百レベルの異形種ガチ勢プレイヤーだったら』の設定公開を活動報告にて行っております。設定を公開する事によって背水の陣を敷くスタイルです。


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個人の世界と国家の世界

 スレイン法国は人類の守護者である。

 

 法国上層部や特殊工作部隊群六色聖典は──彼ら自身は信仰心故にそうだとは口が裂けても言わないだろうが──神々の時代以降における人類の守護神と評しても、決して言い過ぎではないだろう。

 

 なにせ法国の表裏に渡る活動が無ければ、人類は地上から絶滅するか他種族の家畜か奴隷か──兎も角それに近い惨状であったであろう事は間違いが無いのだから。

 

 法国は千五百万を超える人口を有する。リ・エスティーゼ王国が九百万とされる事を考えれば遥かに多い数字である。総合的な国力の差はそれ以上であろうが。

 

 数は力だ。優れた個の力量が数の暴力を粉砕する事が可能なこの世界であっても、それは変わらない。数の力も質の力も、どちらも二極の力であった。

 

 一騎当千の強者とて万の軍勢には勝てまい。

 千人の軍勢とて万夫不当の戦士には勝てまい。

 

 至極乱暴に纏めると、数と質を兼ね備える事こそが最強なのである。数だけ、質だけでは駄目なのだ。

 

 およそ人間種の国家という括りで語るならば、スレイン法国の国力は周辺のどの国と比べても卓越していると言って良かろう。なにせ、桁違いだ。

 

 数も質も。情報も歴史も。背負う責任も、視野の広さも。

 

 戦力という一つの面で語ってさえ、法国は他の追随を許さない。表の世界では周辺国家最強の戦士とされるガゼフ・ストロノーフを超える戦士職すらも、両手の指の数を超えるほど抱えている。

 魔法詠唱者もそうだ。信仰系に偏りがちではあるが、他の国では考えられない程の数と質が揃っている。非合法活動に従事する秘密機関六色聖典が一つ、陽光聖典に限っても第三位階に至った魔法詠唱者が百名近くいるという凄まじさである。

 

 人的資源の桁が違う。

 

 もし法国がその気になれば、人間種のどの国家であっても打倒し、組み伏せる事が出来るであろう。しかし、彼らはそれを望まない。

 

 彼ら彼女らには──法国の指導者たちには誰よりも現実が見えているからだ。実態を知っているからだ。窮状を理解しているからだ。

 

 『他種族の脅威』『人間の、人類の弱さ』というものを限りなく実態に近い形で知っている。神々の降臨より前の人類がどんな立場であったのか知っている。八欲王の巻き起こした騒乱と混沌がどの様に世界を荒らしたか知っている。

 

 六大神の庇護無き今、一見安寧に見える人間の生存圏が、どれだけ危ういバランスの上で成り立っているか理解しているのだ。

 

 理解して、法国は人類全体の生存の為に戦っている。人類同士の足の引っ張り合いなど本来やっている暇は無いのであった。

 

 法国は人類の守護者である。自分たちに人類の守り手と言う誓いを課した者たちだ。

 受け継いだモノが違うのだ。法国は、法国代々の指導者たちは、神々より遺志を受け継いだ。人類存続、人類救済の意志を。

 

 賜った装備も、流れる神の血も、高き視座から見据えて長きに渡って高めた国力も──全てはその為にある。

 

 法国の最高指導者たちなどは、ある意味聖人の集まりで、ある意味悪鬼の集まりだ。

 どれだけの人間の命を救ったか分からず──また、彼らの手は罪なき人間の血で汚れている。罪なき亜人種の血で染まっている。ただ、それは人の身で戦ってきたが故の汚れであり、穢れだ。

 

 人一人の人生やその場の行動ですら、正邪では分けられない事が往々にしてあるのだ。この世に完全な善人は一人としていないだろう。人である彼らが人類を守り続ける為の、それは必要かつ仕方ない少数の犠牲だった。

 

 ──切り捨てられる少数の側からしてみれば、『何が人類の守護者だ』と罵声の一つも浴びせたいだろうし、到底受け入れられないし、それは感情の面、当事者の面であればもっともなのだけども。

 

 法国の行いが全肯定、誰もが諸手を上げて賞賛すべきものだとは本人たち自身思っていないだろう。しかし間違いのない真実として、これまでの法国の活動が無ければ、人類は滅んでいた可能性が高い。

 

 さて、法国の事は語った。次は法国の目線から見た他の国々を語ろう。

 まずは三つの国を。

 

 法国から見てバハルス帝国は優秀な国だ。国力の面、纏まりの面、指導者の面。総合的に考えて優秀であり、ある程度信頼できると思われている。

 

 法国から見てリ・エスティーゼ王国は──ゴミだ。

 約二百年の時を重ね、結果腐り果ててしまった。最高執行機関の者たちでさえ『王国の馬鹿ども』と称して憚らないその腐りっぷりは、国内で纏まらないのみならず優秀な帝国にすら麻薬と言う形で悪影響を与えている。

 

 安全で肥沃な大地で多くの人間が生まれ、優秀な人材が多く出現し、異種族の侵攻と戦う勇者たちが育つはず──そう期待していた法国の側から見れば、理想と現実の余りの乖離に憎さ百倍という訳である。

 

 そして最後に公国。法国の目線から見てこの国は──

 

 ──身の程知らずのクズであった。

 

 そう蔑まれていた時期が、確かにあった。

 

 

 

 

 公国は、帝国から別れて出来た国である。他の主だった国々より少しだけ若い。その当時は魔神関連のゴタゴタの余波がまだ強かった時期でもあり、人の力が弱まっていた時期だ。

 余力を残していた法国も混乱の中で今ほど情報を収集し切れなかった頃で、公国はバハルス帝国皇帝の血縁者が大功を成して出来上がった、程度に思っておけば間違いではない。

 

 戦乱の世、波乱の世では平時では埋もれていたであろう人材が頭角を現し、才覚と実力でもって名を上げる事が往々にしてある。初代大公もそうした人物で、言うならば『乱世の英雄』染みた人間であったとされている。

 

 個人的武力と求心力とその場の勢いで勢力を築き上げ、出来たばかりで安定していないバハルス帝国内に収めておくには少しばかり大きく、勢いがあり過ぎていた。

 当時の皇帝と後の初代大公は仲が良かったと当世には伝わっているが、その周囲はそうでも無かったらしい。皇帝の側近は飛ぶ鳥を落とす勢いの『皇帝の血縁者』を警戒し、初代大公の周囲の者たちは破天荒な大公の下で実力で成り上がった、言ってはなんだか半ば荒れくれの様な人物ばかりで、そうした生い立ちと振る舞いによって周囲から嫌厭されていたと言う。

 

 力を持ち過ぎた皇帝の血縁者は大公の地位と肥沃な──でも小さい──領土を与えられ、帝国内部から切り離されて一国家を構えた。皇帝と初代大公がお互いをはっきり分け、物理的形式的にある程度距離を置く事で後代の安定を図ったとの説もある。

 

 後にバハルス帝国を周辺国家に冠たる大国に育て上げた血筋に連なるだけあって、初代大公も優秀な人物だった。乱世の英雄は治世の世では色々と持て余したり持て余された挙句、やらかしたりしてしまう例も多いのだが、意外な事に初代大公は政治家としては地に足が付いていた。

 

 周囲の者共の勢いを新たに授かった領地の開発及び統治の方向へと誘導し、皇帝にはしっかり頭を下げて、皇帝からはそれ相応に礼節をもって遇され、『公国という国』を堅実に纏め上げた。

 建前上独立国、実質的に従属臣下という現在まで続く姿は殆ど出来上がっていた。

 

 それ以降の周辺の歴史において、公国の存在感は大きくない。帝国の傘の下で、帝国と一緒に少しずつ成長していった。

 

 ある一時期まで、法国の目線から見た公国は『地味』の一言であった。いるのかいないのか分からない。無難にやっているらしく、比較的安心して見ていられるが小身で期待もされていない、といった感じだ。

 初代大公が前半生において武辺者として名を馳せたので、強者の血筋としてほんの一時注目されたが、後の大公家は悉く文官タイプ政治家タイプであまり目立たなかった。

 

 『実質的には帝国の一部』として長らくバハルス帝国と一緒くたに扱われてきた。

 

 公国が存在感を増してきたのは、百年以上の時間が経ってリ・エスティーゼ王国が少しずつ腐敗を始めた頃であった。

 

 王国は当初から人類の希望の地として多くを望まれており、多大な期待が掛かっていた。

 対して公国は物の弾みでひょいっと出来た国で、小さく目立たない為に期待などされていなかった。

 

 当時の法国上層部では道を外れて膿を溜めていく王国に対して失望と苛立ちが募りつつあり、自分たちが影から手を回しても改善せず悪い方に進んでいく様に怒りすら湧いてきていた。

 同じく期待されていた帝国は期待通りか、むしろ期待を上回る位の成長を見せていたから、余計にである。

 

 そんな空気の中で、公国という小粒な原石はやっと価値を見出された。公国は一貫して拡大と伸長より国内の堅実化と帝国との協調を図っていて、この頃国内に関してはかなりの安定を誇っており、自国内部の問題は内部できっちり処理していたし、対外的にも大人しいもので面倒を起こさなかった。

 

 『帝国の傘の下の小さな国』という己の程度を弁え、相変わらず周辺国家と比べて弱小なりに上手くやっていたのである。情報及び諜報面での伸長も長所として出来上がりつつあった。

 

 要するに対比である。

 元より存在感が薄く期待もされていなかった公国は堅実に一歩一歩前進している。

 対して、大いに期待されていた王国は腐り、進んで足踏みして後退してまた足踏みを始めた。

 

 あえて掛かる言い方をすれば、公国は『地味で小柄で弱弱しい、でも手間の掛からない優等生』。

 王国は『図体は大きくなったのに成長しない所か腐り始めた劣等生』であった。

 

 相変わらず存在感は無かったが、時折思い出した様に会議の席で『地味ながら良くやっているな』と名前が出るくらいにはなったのだ。ただ、純粋に公国を褒めていると言うより腐り続ける王国に対する当て擦りが半分だった。

 

 時間が経つ内に公国の情報分野での成長は法国をして一目置くに値するものとなり、安定した年月を過ごした為か視野も広がって、人類の窮状と法国の活動、思惑の一部を実態として理解し始めるに至った。

 

 小身の弱者が一芸を磨き続け、そして自分たちの足元に届きつつあるというのは法国にとって嬉しい誤算であり、帝国と一緒になってもっともっと進歩してくれたら良いな、と暖かい視線が注がれた。

 

 法国上層部内における公国の地位というか、心証が最大限に上昇した時代であった。

 上り切れば後は下がるのみなのは道理であり、そして法国にとってクソ程も有り難くない人物が歴史の舞台に上った──現在の大公の登場である。

 

 大公は先代大公、つまり父親の急逝によって若年の頃に即位している。

 因みに次男として生まれていたが、兄は十代半ばの頃に病気で亡くなっている。

 因みにもっと後の話だが、大公自身の長子と次子も病気と事故で亡くなっている。

 

 どれもこれも全くもって疑わしい所のない、非の打ちどころも無い病気に事故であり、陰謀論の類は『殆ど全く』取り沙汰されなかった。絶対何かやっただろコイツ、と言うのが法国指導者層の共通認識だったが、どう調べても異常な点は見つからず、病気で死んだ者は以前からその兆候があり、徐々に悪化していた所を治療の甲斐なく惜しまれて世を去っていた。

 

 神の祝福でも受けていない限り絶対何かやっている筈だが、尻尾どころか毛の一本さえ掴ませない男だった。

 だがまあ、多少後ろ暗い節がある事くらいは貴族ならば、為政者ならば、統治者ならば誰にでもある事である。綺麗事だけで世の中が回っている訳ではないという事を、法国の面々は良く知っていた。

 

 勿論汚い事だけで回っている訳でも無いので、支障がないなら綺麗であるに越した事は無いし、綺麗に見せようとする努力や体面、口実、理論武装、大義名分は必須である。そうした面から見れば大公はむしろ有望な人材ですらあった。

 

 君主制の国家にとって君主となる者の能力は国の衰退に直結する。無能が頂点に立てば一般的に国は傾くし、有能な者が頂点になれば、大まかに言って国は栄える。

 一般に、大まかに、とするのは、それだけで全てが決まる訳では無いからだ。有能な王でもどうしようもない状況は存在するし、無能でも務まってしまう状況もまた存在し得る。

 リ・エスティーゼ王国のランポッサⅢ世などは相当追い詰められた状態でその治世がスタートし、長年にわたって溜め込まれた膿をどうする事も出来ず、現在晩年を迎えつつある。かの王は無能では無かったが──平穏な世ならばそれなりの統治をしただろうという意味で──国を正す事も盛り立てる事も終ぞ叶わなかった。

 

 数代に渡って深刻化した腐敗を一代で一掃するなど、歴史に名を残せるほどの名君でも困難であろう。

 国家と言う巨大なものに巨大な変化を及ぼすには、膨大な準備と時間が必要なのだ。それら無しで変革を起こすには、人の身を超えた絶対的な力が必要となってしまうであろう。バハルス帝国が絶対王政を実現するまでに二代に渡る準備を必要とした事を思えば良く分かる。

 

 その膨大な準備と時間を短縮したり長引かせたりする要素の中でも比較的大きいものが、君主その人の有能無能だったりする訳である。

 バハルス帝国は現皇帝ジルクニフより六代前まで遡っても、代々神が選んだかの如く優秀で才能に恵まれた者が皇帝の座についた。その幸運はかの国の国力増大という形で結実している。そして、公国を従え、遠からず王国も手中にするだろうジルクニフは、歴代最高と称えられる傑物である。

 

 話を戻そう。

 有能な指導者の登場は、法国としてはむしろ歓迎する所である。

 

 特別突出してはいないが普通に優秀、得意な事は根回しと調整と話し合いですといったオールマイティーには一歩及ばない器用貧乏の秀才を量産し続けていた大公家の血筋にあって、その男は久方ぶりに現れた天才だった。

 

 幼少時から一貫して天才ぶりを周囲に見せつけ続け、そのまま長じて公国の最上位の席にどっかと座り込み、期待に恥じぬ成果を上げた。

 父の急逝は文字通り急で突然の死でしかなかったにも関わらず、男はまるで全ての準備が整っていたかの様に公国を回した。

 

 指導力と求心力を兼ね備え、表裏の根回しや交渉に通じ、目先の利益に釣られる事なく大局を見据えた判断を下すことが出来た。

 公国内において初代大公は伝説で、カリスマだ。公国貴族の多くは初代大公と共に乱世を駆け抜けた面々の子孫であり、そしてその血筋を今に受け継ぐ大公家は元来の権力と権威を損なわず、今に至るまで保持し続けていた。『小国であり周辺のどの国と戦争になってもまず敵わない』という公国の事情もあり、建国当時から纏まりがあった。

 

 元よりそうした性質を持っていた公国において、現大公の代になってから一層中央集権と効率化が進んだ。また同時に軍備増強も進んだ。これは別に良かった。多少なりとも人類の力が増すのなら法国としては万々歳である。

 

 ──だが、大公個人の思惑と言うか、思想が良くなかった。大公が極近しい側近だけに覗かせたソレは、回り回って法国まで届いたのである。

 

『狂ったか?』と当時の法国最高指導者たちがまことしやかに囁いたその野望は──全国統一であった。

 

 頭おかしいとしか言いようが無かった。そもそも全国って何処から何処までを指すのかとか、王国一国でも人口比較で三倍の開きがあるとか、出来る訳ないとか。

 万言を尽くしても言い切れないだけの粗とか突っ込み所が存在したのだが。

 

 大公の野望はそれだった。自身にはより多くの民を統べ、より広い領土を支配できるだけの能力、器がある。だから持てる力の全てを使って成り上がり、自分の大帝国を作ってやると。

 

 大公は頭が良かった。常識を知っていた。普通の価値観を持っていた。審美眼があった。戦略や戦術の知識もあった。人類が瀬戸際な事も、法国が裏で何をしているかもある程度知っていた。

 

 ──だが、それら全てより優先する大望があった。控えめに言って夢見るクソ野郎だった。

 

 何も知らない愚か者ならば兎も角、高い能力を持ち、人類の生存状況をある程度知っている上で『それはそれとして戦争で勝って領土広げたいぜ! 夢はでっかく世界征服だぜ!』等と抜かすクソボケの登場。

 狂ったのでも誤報でもないと確認が取れた後、法国の指導者たちは激怒した。

 

 明らかに仲間割れであり、人間種全体の力を落とすに違いない無駄な野望であった。

 そもそも公国などというちっぽけな国の支配者が、周辺国家で最弱であろう一騎当千の個も一騎当千を打ち崩す大軍も持たない国が、勝てる訳がない。

 

 現実的に考えれば、無駄な騒乱を巻き起こして真っ先に潰されてお終い。

馬鹿が一人で死ぬ分には勝手に死ねばいいのだが、国ごと巻き込んで一国を滅ぼして後には混乱と火種だけが残るなど最悪中の最悪である。潰れた公国の民と領土は更なる争いの火種となるだろう。

 

 『大人しく手間の掛からない小さな優等生』だった公国に優秀な、同時にとんでもなく馬鹿な指導者が現れる。しかも身の程を弁えず周辺に戦争吹っ掛ける気満々の男が。

 ゴミと称して憚らない王国の方がまだマシとさえ言われた。少なくとも王国は悪臭と悪影響を周囲に滲ませつつある腐った果実であって、大雪崩の引き金となりかねない狂気の時限爆弾では無かった。

 

 当然ながら、即刻大公排除の提案が成された。

 

 だが、最終的には見送りの判断が下される。理由は簡単、優先順位だ。

 何時の時代も法国は多数の懸案事項を抱えていた。その中には竜王国を襲うビーストマンの様に、ほとんど毎年の恒例行事で直接的に国家の存亡にかかわる物も数多くあった。

 

 人類の勢力圏の内側であっても、ゴブリン等の多産な種族は目を離すと直ぐに数を増やして脅威となった。トブの大森林が有名だが、森の中は人間の世界では無かった。国々の支配も其処には及んでいない。

 比較的レアな事例として、悪しき竜王の復活や人間種を餌として見る強者の流入もあった。

 

 一国の懸案事項でも数が多いのは当たり前だが、法国は持ち前の力と理念のもとに他国の領域にまで目を光らせ、直接間接を問わず脅威を抹殺していた。

 

 とかく世界は異種族だらけで、人間は弱かった。六大神降臨以前の人間種がどんな立場だったかなど、今を生きる人間は考えたくもないだろう。現在でさえ大陸中央の六か国中三か国では人間は食料だ。他の三か国でだって奴隷階級である場合が殆どである。

 

 先に挙げた竜王国を襲うビーストマンなど、『放っておけば勝手に増える餌場』程度にしかかの国を思っていないだろう。竜王国は毎年の如く襲い掛かる惨事に対して国庫を圧迫するほどの軍事費を計上し、それでも足らずに法国に多額の寄進を行っている。

 無論、漆黒聖典や陽光聖典などの、武力による救済を乞うて。恒例行事をやり過ごすだけでもこの苦労だ。逆にビーストマンの国に攻め込む事など夢のまた夢。下手に攻め込んで『勝手に増える餌場』から『敵国』に昇格してしまったらどうなるか。竜王国が滅んだらどうなるか。

 

 人間を至上とし、他の種族から身を守る為に団結せよと唱える法国だが、竜王国を見捨てない、見捨てられない。例えかの国の女王が八分の一竜の血を継いでいようとも。

 国民の殆どは人間であるし、防波堤が崩れてビーストマンが雪崩れ込んでくるなど悪夢であるがゆえに。

 

 放置したら人間の世界が崩れる可能性のある事件など、幾らでもあった。大火は大きな火種から始まると考える者は愚かである。どんな小さな火種だって放置すれば全てを焼き尽くす獄炎へと成長し得る。法国の指導者たちは愚かでは無かった。全てに手を回せる余裕は無い以上、危険度の高い順に優先して処理するのは当たり前の事だ。

 

 大公は途方もない大馬鹿者としか言いようが無かったが、能力の面だけ見れば優秀な男だったし、『自身の大帝国を築き上げる』という野望も、本人にしてみれば真剣なものなのだ。

 何事もないイーブンの状態からでは無理も無理な野望である。機を伺うだろう、年月を掛けて成功率を高めるべく準備するだろうと言うのが大方の予想だった。そして伺った所で準備した所で、所詮は万が一の可能性。

 その万が一すら突破するともなればその時こそ処理すれば良い。

 

『小国とは言え一国の頂点に立ったのです。全能感に浸ってつい大きな口を叩いてしまう、若かりし頃に特有の病やもしれません。様子見で良いのでは?』

『今の時点であのクズが消えれば、公国は荒れますな。その拍子に何かないとも限りません。あの地は帝国は元より王国にも近い』

『波乱を起こさせない為に波乱を起こしたので元も子もありませんし……まだ若いですしな、時間を与えてもいいでしょう』

『では、様子見という事で。次の議題ですが──』

 

 会議では一応そういったやり取りの末に様子見が決まったが、この言葉は楽観では無く、自身の中の怒りを処理するためにそうした台詞を吐いたに過ぎない。内心ブチ切れである。

 

 素行の悪い者がちょっと善い行いをすると実は良い人なのではと思われる理論の逆転、素行だけは良かった者が思い切り非行に走りギャップで二倍悪い奴に見える理論であった。当時の最高執行機関の面々は全員、大公に対してブチ切れていた。

 

 若かろうが老いていようがイカレている奴はイカレているし、年を取って落ち着くどころか悪化する者もいる。『いざ実行に移そうものならその前にぶっ殺してやる』として、法国は全く気を緩ませていなかった。

 

 元より法国の情報網は周辺国家とは比較にならないレベルであるが、公国、それも公都の大公に向けられた監視の目は飛び切りである。国家としての規模、国力と比べたら行き過ぎな位だ。

 帝国の首都や三か国の利害がぶつかる要衝、エ・ランテルと比べても遜色ない。

 

 それ程の注意、警戒を法国はイカレ大公に向けていたが──それから二十年ほど、何も起きなかった。

 

 公国は大公の手によって平穏に発展した。そう、平穏にである。ドンパチも起こらなかったし、起こさなかった。

 

 それでも歴代と比較して大いに躍進したのだが、帝国はもっと発展したため、差は縮まらなかった。王国との差なら多少は縮まったのだが、国力の基礎となる人口差が三倍である。現在周辺国家最強の戦士として知られるガゼフ・ストロノーフをも有した王国相手に、多少程度の進歩で喧嘩が売れるものではない。

 

 この頃になると法国の最高執行機関の面々も幾人か顔触れが変わっており、若かりし頃の大公の大言壮語は『伝え聞いたもの』『若気の至り』となりつつあった。

 なにせ大公が野望を口にしたのは本当に、即位して直ぐの若い頃であった。実際に二十年を穏当に過ごした事実を積み重ね、更には側近に『野望はどうされたのですか?』等と問われ、顔を赤くして『そんな昔の事を何時までも言うな』と苦笑いした、という話が強化された監視網を通して伝わるなどしたのだ。

 

 それでも『もう大丈夫だろう』として監視を緩めたりしない辺りが、法国の優秀な所であった。

 

 ……法国の最高執行機関の面々は、現実を見て物事を判断する者たちであった。

 現実的に必要であり避けられないなら、百を救うために十を殺す必要があるならば、殺す。人類の生存の為に人間を殺す必要があるならば、殺す。そうした判断を『現実』と『実利』の元に下せる。

 

 徹底した現実主義者。彼らは理想を持つが、それは目標に向けた現実的な努力として。

夢物語は追わない。こうあってほしいと言う願望と現実を混同しなかった。『全人類誰一人欠かさず幸せになる』『よく話せばみんなが理解してくれる』といった誰でも無理と分かる無理を信じたりはしなかった。

 大人だった。常識人だった。冷徹者だった。数十年は元より、数百年単位のそれぞれの寿命すら超えた目標を見据えて前に歩む理性と常識の権化。

 

 ──だから国より世界より命より、自分の夢の方を優先する大馬鹿野郎を、一種の狂人を理解できなかった。

 大人になっても子供のままで、頭は良いのに馬鹿で、理屈も条理も確率も全て無視して夢を追う──そんな輩に出し抜かれる事となったのだ。

 

 おぞましい事に、皇帝崩御の報と大公率いる公国軍進撃の報はほぼ同時に法国へと届いた。

 

 

 

 

 何の事は無い、奴はまるで成長していなかったのだ。

 

 二十年の歳月で大公は少年から中年になった。経験と努力を積み上げて成長した。自身の理想通りの公国を実現すべく国を成長させた。

 

 公国という国が小さく弱い事を知っていた。小さく弱く、成せる事も小さい公国程度にどの程度のリソースを法国が割り振るか──二十年間雌伏して知り尽くした。

 千載一遇の好機を今か今かと待ち続けていたのだ。

 

 好機など訪れずとも、恐らく彼は晩年、力を失う瀬戸際に賭けに出た事だろう。しかし時は来た。バハルス帝国皇帝、その突然の崩御。

 

 真っ向からのぶつかり合いにおいて、公国が帝国に勝つ確率など万に一つも無いだろう。何かの間違いで一回勝てたとしても、二回目で完膚なきまでに叩き伏せられてお終いである。しかし、バハルス帝国と言う巨体の頭脳が唐突に消えたその刹那、その混乱の隙を突けば──勝率は高まる。

 

 万に一つから、一割程まで。一万分の一から十分の一にまで。それは途方もない差で、逃せば二度と来ない覇の萌芽となり得る天の配剤だった。

 

 ──失敗すれば死ぬだけ、国が亡ぶだけだ。

 

 たまたま帝国だったから帝国に進軍した。王国で何かが起これば王国に戦争を吹っ掛けただろう。切っ掛けはなんでも良かったのだ。どんな契機だろうとモノにするべく、積み上げてきたのだから。

 

 公都はおろか公城、側近の周辺にまで潜んでいた法国の密偵はこの時この一瞬、大公にしてやられた。例え法国が誇る諜報員と言えど、遠距離で物理的に隔てられている以上情報の伝達には時間が掛かる。

 情報的に隔離し、第一歩を躓かせてしまえば、後はその一手の有利でペースを掴める──大公の狙い通りであった。

 距離を無にする情報伝達方法の一つに〈メッセージ\伝言〉があるが、離れれば離れるほどノイズが混じり誤伝達や未達が起こるこの魔法は、国家間の超遠距離を繋ぐには確実性に欠け過ぎていた。マトモな人間であれば使用を忌避する程に。

 

 実際この時〈メッセージ〉の使用に踏み切った諜報員は存在したが、正確な伝達は成されず、『何かが起こった』というそれだけが伝わり、事態の発覚を早める程度の結果に終わっている。

 

 少々遅れて事態を把握できた時、最高執行機関のある人物などは痩せ嗄れた手で水の入ったグラスを握り潰し『やりおったなあのクズめが!』と罵声を吐いたとされる。

 

 結局この事態は大公が新皇帝ジルクニフに頭を垂れた事で穏当に終着したのだが、大公と公国の印象は建国以来最悪を維持したまま現代に至っている。大公が最終的に暗殺されずに済んだのは、即刻従属宣言をして引き返した事と──それ以上にジルクニフによって首輪を付けられ、ジルクニフが狂犬を飼いならす事に成功したからだった。

 

 

 

 

「あのクズの下でデスナイトが?」

「はい。クズのお膝元である公都にデスナイトが出現したと」

 

 遂に天罰が下ったかと一瞬納得してしまった男──土の神官長レイモン・ザーク・ローランサンだが、流石に天罰の一言で済ませて良い出来事ではないなと即座に思い直した。

 クズが治める小国でも人類勢力の一端であり、首都が死に滅びたとなればその影響は国内のみならずその外にまで及ぶやもしれない。頭部を失った公国が崩壊する可能性も十分あり得る。

 

 影響が帝国にまで及びもう一つのお荷物であるゴミ──王国を帝国に併呑させる計画に差し障りが出る様では本格的に困るのだ。

 それに、公都は周辺村落と合わせて三十万を超える人口を有した都である。其処が死の騎士によって落ちたとなれば、少なくとも万の不死者が闊歩する死都が出現する事になる。

 

「そして──」

「とすると、公都とその一帯は滅びるか……クズとその一族が脱出できたかどうか、確認は取れるか? 人間性はクズでも能力だけは高い男だ、流石に死んではいまい」

 

 首都は滅びたとしても支配者その人が生き延びているなら、国力は落ちるし動揺もするだろうが、まだ公国は勢力として纏まるだろうとレイモンは言った。

 

 レイモンは元漆黒聖典所属であり、十五年以上戦い続けた護国の英雄だ。そして現在は最高執行機関の一員で、六色聖典を指揮する立場である。

 伝説過ぎて逆に知名度が低いとされるほど希少なアンデッドであるデスナイトについて、恐らく最も詳しい人間の一人であろう。その厄介さと強大さは嫌になるほど知っている。その致命的な性質故に、一度でもぶつかれば二度と忘れる事など出来まい。

 

 英雄だけを集めた部隊である漆黒聖典とて、同数以上になった時点で絶望的だ。アダマンタイト級の冒険者パーティだって一体二体を相手に出来れば驚嘆すべき奮闘だろう。

 

 更にはかの騎士が増やすアンデッド、そのアンデッドがこれまたアンデッドを増やし──あっという間に軍勢と化し、その大軍が更なるアンデッドの発生を促進する。かの冥府の騎士は生きとし生ける者を死滅させる為だけに存在するかのような悪質さを持っている。

 

 到底公国だけで如何にかなる戦力ではない。主従関係である帝国の助力は元より、法国も事態に介入せねばならない事案だ。漆黒聖典から何人を出せねばならないかと思案しながら、

 

「このタイミングは明らかにあの吸血鬼が元凶だろうな……公都は実質的に奴の居城と化したと想定せねばなるまい。大儀式による最高位天使の召喚を視野に入れ、次の会議で──」

「……その、神官長。既にデスナイトは討滅され、事態はほぼ収束しています」

「──なに?」

 

 レイモンは自身の耳を疑い、報告する部下の顔をまじまじと見返した。執務室の机越しに見える彼の表情は、いつも通りの真面目なものだった。

 

「何が起きた? 戦力的に不可能に近いだろうが?」

 

 勿論無事倒されたならばそれに越した事は無い。被害は無く、損害覚悟で強大な敵に戦いを挑む必要も無いのだから。しかし、疑問がある。

 

 公国が保有する戦力は大したことが無い。デスナイト相手では数の力が役に立たない為、必要なのは圧倒的な個の力だ。公国にはその個がいないのだ。

 魔法詠唱者は一応第四位階に到達した者が三人いた筈だが、その内対アンデッド戦において有力な神官は高齢であり、魔法の行使には支障が無くとも戦闘には耐えられない。筆頭宮廷魔術師は実戦経験がほぼ皆無な箱入りだ。実戦の場で戦力として数えられるのは帝国から出向してきているパラダインの高弟一人と、その他の宮廷魔術師たちの一部程度だろう。

 戦士は確か、近衛の副隊長がぎりぎりで冒険者で言うオリハルコン級に至るかどうか程度の腕だった筈で、他に目ぼしい実力者は居なかったと記憶している。

 冒険者ですらアダマンタイト級が空位で、その下のミスリル級オリハルコン級はその煽りを受けて忙しく国内を飛び回っていると聞く。

 

 物理的に戦力が足りない。全く不可能とは思わないが、今あげた戦力でデスナイトを打倒するには相当な強運が前提となってしまう。それこそ通常あり得ないと言って良いほどの。

 

「被害のほどは? どれだけ死んだ?」

「報告によりますと、戦闘による直接の被害者は零であり、一般市民の大規模な避難活動の混乱等で死亡した者が少数であると」

 

 手渡された書類に目を通すと確かにそう書いてあった。公都の各所に潜む諜報員たちが己が耳目と手足で集めた情報を纏めたものだ。イカレ大公の帝都進撃以降一層強化された連絡網でもって届けられたそれは、日時を確認すると三日前のものだ。巫女姫の高位魔法によるリアルタイムの監視を別にすれば格段の速さと言って良いだろう。

 

 其処だけ見てみると正直あり得ないの一言しか出ない。

 官民の強者たちが準備万端で待ち構えている処にデスナイトが投じられる──そうした未来予知の如き隔絶した神の恩寵が無ければ現実になり得ない結果だ。

 

「……む」

 

 大きな役割を果たしたとしてイヨ・シノンなる新人の、しかし驚異的な実力を持つとされる人物の名が上げられていた。新人というだけあって聞いた事の無い名だった。元漆黒聖典であり現在の役職上、各国の強者の情報は気を配っているが、流石に冒険者となって数か月の人物となると全く知らない。所属しているらしい【スパエラ】というチームは聞いた事がある気もするが。

 

 事態発生の瞬間に居合わせ、増援到着までの間孤軍奮闘にてデスナイトに食らい付き、討伐に大きく寄与したらしい。この人物が語った情報として美貌の女吸血鬼の存在が確認されている。

 英雄級と目される人物がぽっと出というのは少し気になる物がある。普通それ以前の段階で話題になる筈だが。

 

「こちらがその人物、イヨ・シノンの情報を別途纏めた資料になります」

「用意が良いな──やけに厚いな?」

 

 提示されたそれは、パッと見ただけでも先の報告書の三倍は厚い。少しめくってみると身長体重趣味特技武器防具に戦闘スタイル本人の思想人格一日の行動パターンと、あらゆる方面について詳述されている。数パターンの似顔絵まで付いていた。何も知らずに渡されたら一体何年かけて調べ上げたのかと思ってしまう程の分量だ。

 

 強者を始めとした目立った人物の動向や素性は確かに情報収集の対象だが、たった数か月で此処までとなると異常な入れ込みようである──等と思っていると、この人物がやたらと多くの法国諜報員と接触している事に驚く。

 

 市井に潜り込んでいる者の半数と関わっている気すらしてくる程の人数である。特に職人や屋台の店主等の偽装身分を持っている者らとの接触は頻繁だ。

 

「テラスティア大陸ザルツ地方出身……?」

「報告からすると、偽装の職業に従事する者として対応した所非常に懐かれ、以後頻繁に声をかけてくるようになり、聞けば聞くだけ答えた為情報が集まり、結果この資料が出来上がったようです」

 

 一瞬『諜報員と見抜いてあえて接触して来ているのではないか?』と思ってしまう程の接近振りだが、『万人に対してこうであり見抜かれている可能性は皆無と思われる』との事。

 なんでも公都中に友人知人が数百人はいるらしい。人物評として『あえて嫌われる様に振舞わなければ、声を掛けるだけでほぼ確実に友好的な関係が築ける』『何一つ隠す気が無い為あえて収集せずとも勝手に情報が集まる』とまで断言されている。

 

「少しは警戒心というモノが無いのか──『警戒心に欠け、人格は善性と言って良いが著しく幼児的』──成る程」

 

 真実だとすればテラスティア大陸やレーゼルドーン大陸なる他の大陸、そこに暮らす人類の情報は気になると言えば気になる。

 だが、かの六大神が健在だった時代でさえ──失伝しているだけやもしれないが──遥かなる遠方と交流を持った記録は無い。その事実を思えば遠すぎてお互い干渉のしようが無いし、昔も今も人類はこの大陸の隅っこでさえままならないのだ。気にはなっても、実際気にかけている余裕は無いだろう。

 

 知的好奇心は湧くが、それまでだ。

 

 死の騎士を相手に単独で戦闘し、そして生きているという時点で人類屈指の強者である事は疑いが無い。漆黒聖典の足元にすら届き得ると評価しても良いだろう、他の大陸からの漂流者。興味深くはあるが、今は他に重要な事が在る。素性も戦力も何もかも、もう割れているし。

 

 人間の強者が増える事、それ自体は大歓迎だ。願わくばどこぞの蒼薔薇の様に視野の狭い──法国の目線で言えば──正義感を振りかざしてこちらの邪魔をしなければ尚良い。

 

 『人間を守る為なら何の罪も無い亜人や森妖精を殺しても良いというのか』──陽光聖典の隊長から報告された連中の台詞を思い出し、レイモンの心中に僅かな焔が生まれる。

 愚かとしか言い様が無い。ニグンもそう述べていたが、レイモンも全く同感だ。アダマンタイト級冒険者として数多のモンスターを葬り去って人を守ってきた癖に、間違った神を信仰してとは言え第五位階という余りある恩寵を授かった神官である癖に。

 

 人としては善良で心優しいのかもしれない。だが余りに視野狭窄で愚かだ。平和に暮らしているだけの亜人や森妖精を殺す理由だと? 平和に暮らしているからに決まっている。

 人類の領域の只中やすぐ隣で平和に暮らし、数を増やし、勢力を増し、繁栄しているからに決まっているではないか。そうして増えた数を養う為に、より繫栄する為に遠からず人類と争う事になる。

 

 そうなる前に法国は、六色聖典は人類の守り手として敵対種を狩っているのだ。人類の犠牲を未然に、より大きな犠牲が出る前に防いでいるのだ。

 

 亜人種の村への攻撃を食い止め、それを善と勘違いする等愚かにも程がある。目の前で殺される亜人種は見捨てられないが、将来殺される人間はどうでも良いとでも思っているのだろうか。恐らく本人はそう思っていないつもりだろうが、レイモンやニグンからするとそうとしか思えない。

 

 弱き人間は己を守る為に様々な手を使わねばならない。手段を選んでいられる余裕などない。どうしてそれが理解できないのか。

 

「神官長?」

 

 レイモンの沈黙を不思議に思ったのだろう、目の前の部下が問うてきた。レイモンは意図して内心の怒りを霧散させる。蒼薔薇の一件は腹立たしいが、今は目の前の案件に対処せねばならない。

 

「いや、なんでもない。この一件、上手く収まったようだが、あの吸血鬼共の仕業と考えて間違いないな」

「そう思います。今回姿を現したのは娘だけの様ですが、あれがあのまま滅んだとは考えられません」

 

 大陸中央からやって来た強大な吸血鬼の親子──アンデッドが子を成せる訳が無いので、あくまで親子関係を結んだだけの他人同士だろうが──法国は既に何度も連中と戦闘し、逃げられている。

 

 目下の所最優先に近い懸案事項であり、早急な解決、つまり討伐が必要とされる存在だ。難度百数十に及ぶ父、戦闘を行っていない為詳しくは分からないが、難度六十~八十程度と推定される娘。それだけでも厄介だが、死の騎士の召喚を可能とするなど、看過できない者共だ。父を名乗る方は片腕を半永久的に奪うまで追い詰めたが、デスナイトを始めとした高位アンデッドを殿として召喚する方法で今の今まで逃げ延びている。

 

 アンデッドだけあって往生際が悪い。

 

 本来ならデスナイトを召喚できる魔法詠唱者は、法国と言えども正面切って敵対するのは危険と判断せざるを得ないほどの存在である。デスナイトは単身で小国の軍事力にすら匹敵する為、国一つに対するが如き対応を求められる。

 

 だが、根本的に生ある者の敵対者であるアンデッド、しかも既に人類に多大な被害を及ぼしており、今後もそう在り続けると思われる相手では敵対は危険等と悠長なことを言っている暇も無い。

 

 その追討には数人の漆黒聖典隊員を始めとして、六色聖典が数多く割り振られている。少なくない数の死者も出た。これ以上長引かせるのはリソース、危険度の面から見ても容認し得るものではない。事実仕留めきれず逃がしたせいで、危うく万単位の犠牲を出し、地上に新たな死都が誕生するところだった。

 

 弱き人間と比べて強大過ぎるモンスター──しかし、所詮は底の見えた存在だ。加えて強大な種族特有の傲慢と上から目線を備えた慢心者でもある。漆黒聖典五人で追い詰めた様に、捕捉さえ出来れば討伐は十分に可能。

 

 父の方は真なる神器の予定さえ空けば洗脳し、使い捨ての先兵にしても良い。だが既に大きな被害が出ている以上、余裕があればの話だが。

 

「先も言った様に、最高位天使の召喚──それか、神人をぶつける事も考えねばなるまい」

 

 これ以上自由を許してなるものか。確実に消す。デスナイトの召喚があの吸血鬼をしても大きな負担を余儀無くされる行為である事は分かっているのだ。あれ以来大きな事件は把握している限り起きていない為、膨大だった負のエネルギーも弾切れだろう。この機を逃す手は無い。

 

「何時までも失敗した場所に留まっているほど頭が悪いとは思わないが、念のため、潜伏の線も捨てずに調査せよ」

「了解しました」

「──それと」

 

 持つ手に重量を感じる程分厚い資料を掲げる。

 

「その来歴と言い、出来過ぎたタイミングと言い、戦闘力と言い、少し気になる存在だ。この少女の事も少し調べろ。まさかと思いたいが、此度の英雄劇自体が仕込みである可能性もある」

 

 偶然召喚の瞬間に居合わせた奇跡と言えばそれまでかもしれないが、起きにくいから奇跡なのだ。運が良かったで安堵して罠に飛び込みたくはない。

 因みに資料にはしっかり男性と明記されているが、似顔絵を見たレイモンはごく自然に誤字だろうと判断していた。

 

 法国の目線で見る人間の世界は今日も危うい。

 

 

 

 

 国家という高く巨大な視点での問題は巨大で膨大である。安寧の日など無いに等しい。日々土を耕す農民の人生はありきたりで、それでいて楽とは決して言えない苦難に溢れているだろうが、彼らは幸せかもしれない。

 

 少なくとも彼らにとって日々の天気や今日明日の生活が重大事であり、国家転覆や人類の生存圏、何千何万という人命の危機を意識する事も無い。

 

 無知であるが故に彼らは幸せなのだろうか。いいや、国には国の悩み、指導者に指導者の悩みがある様に、一般市民、只人には只人の重大な悩みがあるのであった。

 文字通り国家と個人の著しい規模の違いこそあるが、重大である事には違いが無い。周囲から見てどれだけ簡単そうに、あるいは幸せそうに見えても、当人にとっては三日三晩頭を悩ませてもまだ足りない程の難題で、解決しがたくしかし放っておく事など出来はしない、避けては通れない人生の岐路なのだ。

 

 個人の世界と国家の世界。

 

 日々移り変わる世とそれに対応せん適応せん、より良い明日を掴まんとする国家の如く。

 

 今此処に、目の前の難事を打破すべく悩む個人、ある少女がいた。

 既に公都の危機を退けてより三日である。完全にとは到底行かないまでも、一息つく時間を作れる程度には事態も収まりつつあった。収まったという事にして平穏を取り戻すべく努力していた。

 

 ある高級飲食店、商談などに用いられる奥の部屋である。一旦入ってしまえば外に声は漏れず、外から内に声は掛けられない。秘密の話にはうってつけだ。

 

 今そこに、四人の女性が揃っていた。

 黒髪黒目の細く鍛えられた体躯──盗賊兼斥候、オリハルコン級冒険者リウル・ブラム。睡眠不足故か普段の五割増しで目付きが悪く、顔が赤い。

 

 右手の座席に彼女の親友、ミスリル級冒険者、神官イバルリィ・ナーティッサ。普段通りの笑みを湛えている。

 リウルから見て左手に鉄級冒険者チーム【ヒストリエ】より赤毛の少女、パン。ただでさえ周囲の面子と比べて小さいのに、遥か上位のプレートの持ち主たちに一人混じっている為か、委縮して子供の様に見える。

 

 そして対面──この場で最も大柄で筋肉質な人物。男性の戦士と比べても見劣りしない体格を誇り、しかし生まれ持ったものなのか女性らしさを保った体形の女戦士。

 夫婦で同じ白金級冒険者パーティに所属する者として有名な人物──櫛の通った綺麗な茶の短髪、愛嬌に溢れた笑顔が素敵なアネット・ノーバリー。

 

 「……折り入って相談したい事がある」

 

 矢鱈と小さい声だった。部屋が静寂に満ちていなければ絶対に聞き逃していただろう程のそれは、リウル・ブラムが発したものである。眉根をぎゅうっと寄せた怖い顔に赤い頬で、

 

「噂で知っているかもしれんが──」

 

 そもそもなんで噂になってやがるのだと内心で歯噛みしつつ──

 

「その、俺は三日前にイヨに……きゅ、求婚され、た、訳だが──その事で、話を聞いてほしい」

 




遅れてすいませんでした。

レイモンさんって今の所敬語で喋ったシーンしか無いっぽいので、素に近い口調がどうなってるのか書いてて不安でした。ほぼ法国目線なので蒼薔薇のみなさんに対する当たりがきつくなってしまいました。

現役農民である私として必要な時に雨が降らない水が無い、いらない時に雨が降るといった天候は重大事であります。本当に。


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イヨとリウルとその関係

凄く長いです。二万八千字あります。
※始まりから終わりまでぎっしりオリ主とオリヒロインの恋愛描写です。苦手な方はご注意ください



「その、俺は三日前にイヨに……きゅ、求婚され、た、訳だが──」

 

 求婚されたのである。結婚を申し込まれたという事だ。半分パニックになって三回確認したから間違いは無い。リウル・ブラムは、イヨ・シノンに結婚を申し込まれたのだった。

 

 思い出すと──思い出すもクソも現在進行形なのだが──リウルは顔が真っ赤になりそうであった。というか今絶対顔赤いと思う。

 

 どういう感情でなのかは分からない。ただ熱いのだ。発火しそうに熱い。首回りと頬、耳の辺りが腫れあがっているのではないかと何回も触って確認したくらいに熱くなる。

 

 夜が明ける度に『なんつう夢見てんだ』と深く深く息を吐いて、そして隣の寝台に見慣れた少年の姿は無い事を切っ掛けに、夢では無かったのだと思い知るのだ。そして全力で顔を洗う。顔を冷やす為だ。

 

 結婚ってなんだよ、とリウルは思う。好き合って一緒にいる者同士が婚姻を交わして夫婦、妻と夫になるという事である。家族になるという事だ。

 正直言って自分の人生にそんな契約が関わってくるとは思ってもみなかった。子供の時分より将来の夢は冒険者で、冒険者となってからはアダマンタイト級になるのが夢だった。

 

 その夢はもう叶いかけているのだ、と思考がズレる。伝説に語られるべき超級アンデッドの討伐。首都の危機を救う、その一角を成した。今回の事件は色々と大き過ぎる。自分たちはアダマンタイトに、ミスリル級の中からも昇格が出てもおかしくない。むしろ出ない方がおかしい、と言うべき規模だ。

 

 通常ならば実力は確かでも一度しか依頼を熟した事のないイヨがネックになるかもしれないが、イヨは最大の戦功者で、一般市民の間では新たな英雄として街中の至る所でその名が口に上っている。公国の方からも何らかの形で、依頼の対価とは別に報酬が出るだろう。

 

 公都の人心は動揺し、恐怖している。

 当たり前だ。街の外で冒険者が五人十人死んだのとは訳が違う。

 最終的に戦死は無く関連の死者も少数だったとはいえ、安全と信じていた大都市の只中に強大なアンデッドが湧き、一時の事で既に家に戻ったとしても、平穏に暮らしていた一般の民草が取る物も取らず家を捨て生活を捨て避難したのだ。

 あり得ない筈の事が起きた。一度あったなら二度目もあるかも知れない。次は抑え込めず、もう住み慣れた我が家には帰れないかも。それ所か死ぬやも──か弱い一般人が不安に思うのも当然と言える。

 

 お上は警備兵どころか騎士、一部では近衛すら街中の巡回に駆り出して全力を尽くして民を守る姿勢を誇示し、治安維持を徹底。そして危機は去ったと宣言を出した。

 しかし、それですべての不安が払拭される訳ではない。一方で英雄譚そのままの冒険者達による奮闘と新たな英雄誕生の熱気、周辺各国と比べて秀でていないとされていた公国の戦力が強大な敵を打ち倒した事によるある種の快哉もあり、公都は良くも悪くも落ち着かない。

 

 公国を司る者たちが今回の騒動によって広まりつつある動揺、今後広まるだろう風評にどう対処するかによっては、イヨに爵位の授与などが行われる可能性すら無いとは言い切れない。

 新たな英雄として大々的に祭り上げ、英雄誕生の報で此度の一件で民が感じた不安や動揺を打ち消す為に──

 

 ──イヨ。──求婚。──結婚。

 

 ズレた思考は結局其処に戻ってくる。此処数か月のリウルの生活を思い出せばほぼイヨが一緒にいるので逃げられる訳がない。

 

 逃げた所でどうにもならない。ただ悶える事既に三日である。多忙にかまけて後回しにするにしても限界がある。実際多忙でそんな事をやっている暇が無かったこの三日間だが、曲がりなりにも事態収束の宣言が出された以上徐々に日常へと戻っていくのだ。

 

 実際何処をどう探しても吸血鬼はおろかスケルトン一匹見つからなかったのだから。無関係な人間の犯罪者は幾人も捕まえてお上に突き出したが。

 

 高位冒険者を始めとする人員には非常事態として未だ依頼が出されたままで、厳密には【スパエラ】は現在も警戒待機状態なのであった。なので余りメンバー同士で離れられないし、酒など以ての外だった。

 それも安全宣言が出された以上、近いうちに依頼は打ち切られるだろう。

 

 もう仕事に熱中して誤魔化せなくなる。第一後回しにする、逃げるという行為がそもそもリウルの性に合わない。如何に専門分野では無いとは言え、これ以上は負けた気がする。

 

 答えを出し、イヨに対して正式に返答する。どう答えれば良いのか現時点で全く決心が付かないが、その『答え』を出す為に恥を忍んでこうして人に集まってもらったのだ。リウルの信条として、情けない姿で負け散らす位なら恥をかいてでも勝つべきである。

 

 最初に相談したのは勿論、仲間であるガルデンバルド・デイル・リブドラッドとベリガミニ・ヴィヴィリオ・リソグラフィア・コディコス。バルド、爺さんと呼ぶ信頼に足る人生の先達だ。

 だが最も頼りにしていたこの二人が、なんと不発だった。突き放された訳ではない。ただこう言われた。──『何時かこういう日が来ると思っていた』、と。

 

『儂らは今回、中立不干渉の立場を取る。自分の人生じゃ、儂らの事など気にせず自分で決めい』

『ただこれだけは言っておく。お前とイヨがどんな選択をしようと、俺達二人はお前達の味方だ。これは絶対だ』

『まあ有り得ぬとは思うが、お主らが冒険者を辞めるというなら引き留めぬ。他の誰が何と言おうとその選択を支持する。勿論冒険者を続けるのなら今まで通りじゃ』

『お前とイヨが夫婦になろうが仲間であり続けようが、それは変わらない。俺達もチームの一員として力を尽くす。だから、誰の事も気にせず自分たちの事だけを第一に考えて決めてくれ』

 

 そうして去って行った。『眩いのう、若者の人生は眩い。老いぼれには直視できぬわい』『あんな時があったよな、俺達にも。さあじいさん、酒は飲めんが、二人の今後を祈って乾杯と行こう』『うむ、眩い未来を祈り祝って、じゃな』

 

 今は何処ぞで昔語りでもしているのだろう、水で。リウルとイヨに親心に近い思いを抱いていた二人は、高位冒険者のしがらみに囚われずにと告げ、百パーセントの支持だけを残して見守る立場と決めた様であった。

 

 そして、代って集って貰ったのが目の前の女性三人だ。

 

 ──これ以上恥をさらすな俺。既に噛んでるんだ、ゆっくり正確に、いつも通りに喋れ──

 

 加速が著しい思考は焦りと動揺の証拠であった。

 

「──その事で、話を聞いてほしい」

 

 言い切って三人の様子を窺うと、イバルリィは了解した様子だが他の二人の顔には驚きの表情。噂は耳に届いていないらしい。

 

 リウルはアネット・ノーバリーには特に期待している。イヨとの接点は一番薄く、恐らく組合裏の修練場で何度か手合わせした程度だろうが、数少ないこの道の先達なのだ。

 

 三十歳、白金級冒険者。魔法詠唱者である夫とパーティを組む、公国では有名な夫婦冒険者の片割れだ。農民出身のアネッサと貴族であった夫の身分差を乗り越えた恋という二重の話題性もあって、多くの吟遊詩人が夫婦の詩を作った。が、

『全部実話だと思っている人にたまに声を掛けられるが、幾らなんでも強敵を目の前にして痴話喧嘩からの口付けで仲直りとかしないぞ。死んでしまうわ』

『夫の実家は名ばかりも名ばかりの泡沫貴族で、しかも夫は四男だぞ。反対どころか私たちの収入で家計が改善すると大喜びで婚姻を受け入れていただけたがなぁ。歌では親族一同の大反対を乗り越えて一緒になった事になっているが』

 脚色が多分に施してあるので、二人の詩歌というより二人を元ネタにした詩歌らしいけども。

 

 リウルはアネットとパンの驚いた様子に共感と僅かな癒しを覚えた。

 

 ──そりゃそうだ、急に結婚なんて言われたら俺だけじゃなく、誰だってそういう反応をするに決まってる。そりゃ予想外だし驚くだろう。俺とイヨが結婚するかどうかなんてのは寝耳に水でしかないはず──

 

 誰だってびっくりして当然なのだ。自分だけでは無い、とそう思っていると、

 

「おお、遂にシノン殿と婚姻されるのか! というと相談とはパーティ会場の準備か何かかな? 私に任せてくれ、泡沫とは言え貴族は貴族、夫のツテでバッチリ良い所を押さえてみせるぞ!」

「わあ、おめでとうございます! 正式に一緒になるって事ですよね!? もしかして籍を入れる気は無いのかなって思ってたんですけど、そんな事無かったんですね! 本当の本当に、おめでとうございます!」

 

 結婚おめでとうと物凄い勢いと笑顔で祝福された。リウルは一瞬思考の停止と同時に息を止め、次の瞬間胸いっぱいに吸って、

 

「なんでだよ!!!」

 

 と叫んだ。

 

 

 

 

「なんでだよ!!!」

 

 この時、パンは座ったまま一尺くらい浮いたのではないかと思う位ビクついた。

 そもそも殆ど面識のない──向こうは有名人なので一方的に知っているだけだ──遥か格上の冒険者に呼び出されて内心びくびくしていたのだが、さっきの怒声でそれが表に出てしまったのだ。

 

 ──び、びっくりしたぁ……。

 

 パンは鉄級冒険者チーム【ヒストリエ】に所属する野伏である。イヨより僅かに高い背丈と赤毛、そばかすが特徴的だ。普段は勝気で元気一杯の笑顔が魅力的な十七歳だが、今現在は借りてきた猫の様であった。

 

 そもそも怖いのであった。【戦狼の群れ】のイバルリィに『イヨちゃん関連の事でちょっとお話があるので、彼と一番親しいであろう異性のお友達であるあなたが呼ばれたんですよ』と教えてもらわなかったらもっと怖かったと思う。

 

 正直、真っ赤な顔を思い切り顰めているリウル・ブラムを見た瞬間、パンは『あたし何か悪いことしたっけ』と自身の日ごろの行いを振り返ってしまった。その後すぐ怒りによる紅潮ではないと分かったのだが。

 

「ぶ、ブラム先輩、一体どうしたんですか?」

 

 パンは自他ともに認めるイヨの友達であるも、その実【スパエラ】の面々とは全く付き合いが無い。鉄級とオリハルコン級では色々と格が違い過ぎるので当たり前だが、矢張りこうして対面してしまうとどんな風に話せばいいのか分からなくなる。

 

 ──ちょっと前よりは怖くなくなったと思ってたけど。

 

 リウルはイヨと付き合う様になってから丸くなった。それは恐らくリウルとイヨ以外の全冒険者及び組合職員の共通認識であろう。イヨの持つ春の陽気の如き気性が──口さがない人からは『脳内春真っ盛り』等と言われる──彼女の生来の厳冬染みた気性を中和していたのだ。

 

 何処に行くにもイヨを連れ歩くリウルの姿は何処となく微笑ましいというか牧歌的というか、小型犬を従えた狼の如しであったが、本来リウル・ブラムは生半可な者では近寄るのも躊躇われる人物だったのだ。

 

 イヨと交流を持つ以前のリウルは目付きは鋭く態度は尖がって言葉は荒い、仲間以外の全てがライバルだと言わんばかりにいつも気迫を漲らせていた。格下を虐める様な真似こそ一切しなかったが、まかり間違って喧嘩など売ろうものなら正面からボコられるのは確定であった。

 

 勝気と負けん気の塊。

 

 それがかつてのリウル・ブラム。立ち振る舞いそのものが鋭すぎる刃物の如き少女。生まれながらの冒険者と呼ばれ、仲間と共に瞬く間にランクを駆け上がった孤高の天才。

 

 だったのだけど。

 

「え、ブラム殿どうしたのだ急に」

「どうしたもこうしたもあるか……!」

 

 アネットも再度びっくり顔で問うていたがリウルは半ギレであった。顔の赤みが大いに増している。

 アネットは祝福の笑みを薄ませながら困惑気味にイバルリィへと視線を向け、

 

「ナーティッサ殿がいるという事は、挙式自体は水神の神殿と話が付いているとばかり思ったが……ああ、シノン殿はアステリア神なる異教の神の神官であったか! なにか風変わりな儀礼でもあるのかな? 私に協力できることならば何でもするが」

「そういうんじゃなくて、だから……」

「……他に何か問題があるのか?」

 

 パンも同感だったのでリウルの顔色を窺った。顔の赤みはもう今更としても、僅かに目が潤んでいる辺り本気の困惑が見て取れる。雲の上の人とばかり思っていたが、同い年なんだよなぁとパンは実感する。

 

 パンはイヨを弟妹の如く思っている。時折青い空を見上げて動かなくなったり、地面を這う虫をしゃがみ込んで観察していたり、季節外れの夕立で謎の歓声を上げたり。

 言動が外見より尚幼いのだ。一度あまりに熱心に流れる雲を見ていたので『まさか雲を初めて見たとか言わないよね』と揶揄ったら『白い雲はこっちに来て初めて見た』と反応に困る冗談で返された事がある。

 

 あれだけ強いのに、危なっかしくて放っておけない。あの腕っぷしではまず有り得ないのに、人攫いに連れて行かれるのではないかという気さえする。

 

 聞けば幼いころ本当に一度攫われているらしい。服装からして裕福な家の子供だと思われたのだそうだ。幸いその時は正義感の強い警察官──イヨの国で言う警備兵に相当する人々らしい──がすぐ傍にいてあっという間に助けられたらしいが。

 

 それだけ隙の多いイヨなのだから、隣に立つ人は苦労するだろうな。パンはそう思っていた。だからこそオリハルコン級の斥候兼盗賊たるリウル・ブラムとイヨ・シノンは実に対照的で、故にお似合いだと。

 

 パンはそう思っていたのだが。

 

「……なんでその、俺とイヨが当然結婚するんだろうって風に受け止められてんだよ!?」

「え。お二人は随分前から恋仲であろう? 雰囲気的にそろそろそういう時期かな、と思っていたからな。ああやっぱりそうなのかと」

「あたしも、お二人とも十六を迎えているので、何時かはそうなるんだろうなーって思ってて。……違いました?」

 

 両想いに見えていた二人にも、余人には分からない複雑な事情があったのだろうか。パンはそう心配しながら言ったが、リウルの口から衝撃の一言が飛び出た。

 

「そもそもまだ恋仲じゃねぇよ!!!」

 

 ──え。

 

 立ち上がって叫んだリウルの言葉に、パンとアネットは反射的に思い出していた。

 二人の脳裏に浮かぶのは普段のイヨとリウルの姿である。この都市で活動する冒険者なら誰もが少なからず見た事のある、二人の姿だ。

 

 手を繋いで歩く二人。同じ部屋で寝起きする二人。和やかな微笑みを交わし合う二人。イヨの頭を撫でるリウル。リウルにお酌をするイヨ。目と目で通じ合う二人。

 

 リウルと視線を合わせるかの様に二人もまた立ち上がり、異口同音に、

 

「えぇ!? 日頃あれだけイチャついておいて恋仲ではないと!?」

 

 この言葉に、リウルの羞恥はもはや限界を超えたらしかった。

 

「い、何時俺がイヨとイチャついたんだよしてねぇよそんな事!」

「いやいやいやいや、ブラム殿本気で言ってるのか!? 毎日仲睦まじくイチャついてるだろう、自覚無いのか!?」

「イヨの好意をしっかり受け止めて、なおかつご自分も好意で返しておいてそれは無いでしょう先輩!?」

 

 少なくともパンが育った村だと、イヨとリウルの様な二人を恋人同士と認識するけども。

 

 そもそも世間一般では、リウルの方が積極的にイヨを口説き落としたものと認知されていたりする。

 初対面でディナーに誘い、酩酊状態で部屋に連れ込み、床を共にした。その一連の流れが多くの人間に目撃され、以降イヨの側がリウルに首ったけである事からも『ああ、やっぱり』という納得を生んだのだ。

 

 三人の喧騒を前に、イバルリィはただただ穏やかに微笑んでいる。

 

 

 

 

 立ち上がったまま述べるリウルに対し、パンとアネットも立ったまま対峙する。その三人の横でお茶を飲みつつイバルリィが見守っていた。

 

「お、お前らあれか、手を繋いで歩いてたから恋仲だとかなんとか言う気か。子供じゃねぇんだからそんな訳ねぇだろ」

「待て、ブラム殿。恥ずかしがっているのは理解したからまず真剣に答えてくれ。ブラム殿はシノン殿と恋仲である気は無いのだな? 其処は分かった。では、シノン殿の恋心は認知していたか?」

 

 尋問か何かかよ、とリウルは思った。

 

「……自覚はしてた。けど、何て答えたら良いか分からくて、な」

 

 あれだけあからさまで分からない訳が無い。分かるからこそどうしていいか分からなくて対応に苦慮していたのだ。自分でもどう答えたものかと悩んでいた。

 その答えが出る前に『結婚してください』を喰らったからより一層悩んでいるのである。

 

 結婚は関係性の変化としては少々飛躍し過ぎではないだろうか、と。正直、それこそ恋人同士になりたいと言われればもう少し悩みは軽かった気がする。

 好きか嫌いかで言えば間違いなく好きなのだから。一緒にいて呆れた事はあったし、大変な事もあった。しかしそんなものはお互い様である。不快な思いはしなかったし、共にいる事そのものが負担になりもしなかった。

 

 共に過ごす時間は心地よいものだった。リウルはここ最近頭を悩ませた事で、どうにかそれを認めることが出来ている。以前だったら気恥ずかしさに耐えきれず思考を打ち切っていただろう。

 

「分からないのに手を繋いだり頭を撫でたりしていたんですか?」

「……其処ってそんなに重要か?」

 

 もしかして世間一般では手を繋ぐ、頭を撫でるといった行為が婚約に等しいものとして認知されているのだろうか。

 

 十七年公国で生きてきてそんな風習は耳にしたことが無いし、もしそうであったら子供の時分に父母や近所の人たちにされる分にはノーカウントなのだろうか、とリウルは馬鹿みたいな事を考えた。

 

 僅かに呆れの色さえ含んだリウルの返しに、しかしパンは言い募る。

 

「ブラム先輩が自分で言ったじゃないですか、子供じゃないんだからって。十代後半の男女が、しかも一方の恋心をもう一方が自覚している状態で、手を繋いで歩いたり頭を撫でたりして特別な感情は無かったと?」

「ブラム殿は、例えばさして親しくも無い者に同様の行為をされそうになったらどうする? 話した事も無い者が自分の手を握ろうとしてくる、殆ど初対面の異性が頭を撫でようとしてくる、そうされそうになったらどんな気分だ? もしくは逆に、自分自身でそういった振る舞いを他人にしようと思うか?」

 

 リウルの方から呼び出しておいてなんだが、この一点に此処まで喰い付かれるとは予想外である。というかこの二人、イヨ側に立ってリウルを諭してきている気がする。

 

 いや、言わんとしている事は分かるけれども。でも確かにリウルは特別な感情でもってそうしていた訳ではないし、はっきり好きと言われてからも改めなかったのは、今更やめたら逆に、如何にも意識している風に見られると思ったからだ。

 

 最初に手を繋いだのはイヨが何かに釣られて道を外れるのを抑止する為で、それ以降はなんとなく習慣で、である。あの小さく柔らかい手は握り心地が良かった。

 最初に頭を撫でたのは──覚えていないが、多分イヨを落ち着かせる為だ。気持ちを和らげてやりたかったからだ。撫でてやると如何にも嬉しそうに幸せそうに、まるで幼子の如くイヨが笑うからでもある。

 

 今振り返ってみると、特に後者は家族との別れに苦しみ嘆くイヨを憐れんでの行いだったのだろうと思う。しかし特にイヨが嘆いている訳でも無いタイミングででも撫でたのは──何故だろうか。

 

 ──他者に促されて考える内に、リウルはより客観的かつ懐疑的に自身の行動を分析し始めていた。

 

 目の前の二人が言いたい事は分かる。その根本にはリウル本人でも自覚していない、自覚を避けていた無意識の愛情、恋情があったのではないかと言いたいのだろう。

 

 リウルは自問する。お前は見ず知らずの他人、会ったばかりの人物にそんな事をしようと思うかと。

 考えるまでも無く答えは一つ、する訳が無い。

 

 再度自問する。逆に、他人がそうした行為を自分にして来ようとした場合どうするのだ、と。

 これも答えは一つ、身に触れる事すら許さず『なんだてめぇ』と睨みの一つもきかせるだろう。

 

 面倒臭いな、とリウルは思う。イヨがどうこうではない。こうして一々益体も無い事を脳内で紐解こうとする自分自身が面倒臭い。言い訳臭い。男らしくない。リウルは女だが。

 

「お、俺って……イヨの事が好きなのか……? そういう意味で……?」

 

 呆然と呟くオリハルコン級冒険者を前にし、パンとアネットの二名は内心『当人すら分からないものをこちらに聞かれても……』『まず其処からなのだな……』と思ったが、深刻そうな雰囲気だったので言わないでおいた。

 

「それはブラム先輩ご自身じゃないと分からないですけれども」

「少なくとも、シノン殿は心底ブラム殿を好いているぞ。求婚されたのだろう?」

「はいはい、それで今回お二人をお呼びしたわけです。パンちゃんはイヨちゃんのお友達として、アネットさんは既婚者としてです。ちょっと遠回りしましたけど、この子の相談に乗ってあげて下さい」

 

 リウルが大人しくなった瞬間を見計らい、沈黙を保っていたイバルリィが三者に着席を促す。ようやく此処からが本題ですよ、と。

 

 思索に沈みかける──そして恐らく沈んだら浮かんでこない──リウルにお茶を飲ませ、パンとアネットに、

 

「と、言う訳でして。リウルは恋愛方面に関しては銅級もいいとこなんですよ。ここ最近ずっと悩んではいたんですが、答えが出る前に一足飛びにプロポーズされて混乱に拍車が掛かったんですね。お話、聞いてあげて下さい」

「……ブラム殿は、自身のシノン殿への感情がどういう種類の好意かも分かっていない様に見えるのだが」

 

 それを言われるとリウルも辛い。

 自分自身で予期出来た問題で、実際何時か──一足飛びにプロポーズは予想外だったけれども──こう言う事もあるのではないかと初依頼の打ち上げの時に少し考えたのである。

 それ以降も考える時間はあった。あったのに結論は出ていない。

 

 断ってもイヨはリウルに対する態度を変えたりしないだろう。冒険者も辞めず、チームから抜けようともしない。少しギクシャクするだろうが、本当に少しの時間を掛けて普段通りの振る舞いを取り戻す。

 

 ──ただ少しだけ、俺との距離が遠くなる。多分それだけだ。

 

 それだけと言ってしまえばそれだけなのに、それを思うと断ろうとは思えない。

 ぶっちゃけた話、断る理由は幾らでも上げられる。同じチーム内で恋愛は不味いとかだ。これは仲間の命と、託された依頼の成否、引いては依頼人や関係者の生命財産にも関わってくる問題だ。

 

 咄嗟の時に情が邪魔をして正しい判断が下せなくなる可能性がある。それを思えば断る理由としては十分以上なのだ。冒険者の頂点に立つ事を夢見るリウルにしてみれば、これ以上の重大事は無い。

 

 でも。しかし。それでも。

 

 安易にノーの判断を下せない。優柔不断過ぎて自分が嫌になるくらいである。正しくイバルリィが言った通り、恋愛に関してのリウルは銅級も良い所であった。普段から好意を伝え、そして面と向かってプロポーズに踏み切ったイヨの方が遥かに恋愛巧者に思える。

 多分恋愛ランクミスリル級くらいはある、とリウルは大真面目に自分が相対する男の恋愛的戦力評価を上方修正する。

 

 何がなんでも冒険者と戦闘に絡めて理解しようとする辺り、リウルは本当に頭が茹っていた。

 

 きちんと答えを出して向き合いたい。しかし出来ない。だからリウルはアネットの、先人の知恵を借りようと思った。同年代の一般的な恋愛観というものを知りたくて、イヨの友人でもあるパンを呼んだ。

 

 パーティの仲間以外でももっとも信頼する人物の一人であるイバルリィに補佐を頼んだ。全ては対等の立場でイヨと相対する為である。

 

 回り道はしたが、そう言う事なのだ。

 

「なんというか、あれだな。ブラム殿は少し理屈で考え過ぎな気がするな、私は。もう少し肩の力を抜いた方が良いと思うぞ」

 

 まあそれはそれとして、せっかく頼って貰ったのだから私見を述べさせてもらおうと続け、アネットはあっけらかんとした口調で、

 

「取り合えず結婚してみれば良いのではないかな。寄り添ってみなければ分からない事も多いし。もし添ってみて合わないなら別れれば良いと思う」

「そうですね……一旦枠に収まる事で分かるものもあると思いますし、物は試しで結婚してみては? お似合いだと思いますよ」

 

 真剣に『えっ』としか反応できず、リウルは固まった。

 

 

 

 

「逆に聞きたいんですが、どうして其処まで躊躇うんですか? 良いじゃないですか、相手としてイヨ以上はそうそういませんって。そんなにイヨの事が嫌いですか?」

「き、嫌いじゃねぇよ。そう言うんじゃなくて、結婚ってのはもっとこう──」

「論理的に納得するに足る理由なんて、今のブラム殿では絶対に探し出せん。其処まで深く考えずに気持ちで決めてみたらどうだ? シノン殿と結婚して今までと何が変わる? 仲良しのまま実情に形が追い付いただけでは無いか? 逆に、結婚せずに他人同士のままでいて何か良い方向に変化するか?」

 

 二人揃って『良い話じゃん。悩むくらいならしてみたら? 結婚』といった意見であった。

 どう見ても好き合っている様にしか見えないし、現状でも一緒に生活している様なものなのだから、結婚して何が変わるでも無し。今までと同じように結婚生活を送って、より進展するようなら目出度し目出度し。支障が出るなら話し合って関係解消。それで問題は無いじゃないか、と。

 

「シノン殿は随分女性に人気があるのだぞ、ブラム殿。振った後傷心のシノン殿が他の女性に掻っ攫われていって何も思わないか? 思い切って今自分のものにしてしまえ、絶対その方が良い」

 

 イヨが女性に人気があるのは嘘では無いが、それは首から下げたミスリルプレートの力も大きい。冒険者の社会的な地位が高い公国でミスリルプレートを下げていて尚異性に縁が無い人物というのは、それこそ『よっぽど』の人物である。

 

 イヨは成熟した女性から見て『幼い同性にしか見えない年少の少年』であり、そういう意味では一般的に言う魅力的な男性像とは乖離も甚だし過ぎて言及が面倒になってくるレベルである。

 しかし、人間が生存の危機に立たされる弱小種族であるこの世界において『強さ』の求心力は地球の比では無く、他の短所を補う足る魅力なのだ。かつての大英雄と並び立つとされるイヨの強さは、男女問わず働きかける大きな魅力として万人の眼に映る。

 

 また、高位冒険者は大金を稼ぐ。それこそ一生遊んで暮らせる程の財を。

 また、冒険者はその仕事上家を空けがちである。『亭主元気で留守が良い』を地で行く。

 また、イヨは現在身寄りがいない。仮に結婚後に死亡した場合、遺された財産は唯一の権利者である妻の物となる。

 加えて、イヨは誰にでも好意的な能天気であり、非常にちょろい印象がある。

 

 以上の点もあり、イヨは結構異性に目を付けられる。それでも実際に寄り付く女性が少ないのは誰がどう見たってリウルに惚れているからであり、そもそも何時も二人で行動を共にしている為、モーションを掛ける隙が無いからである。

 

 因みに、イヨが最も好かれるのはお年寄りと小さな子供にだったりする。

 

 今回のプロポーズが破談で終わった場合、イヨが女性に群がられる未来もあながち無いとは言えないのであった。

 

「私事で何だが、私と夫は一緒にいるのが気楽だったからこれからもずっと一緒だろうし結婚しておくか、と言った流れで結婚したからな。互いのそりが合えば大丈夫なものだぞ」

 

 当時はもう少し色々あった気もするが、今振り返ってみればそんなものであった。お互い冒険者である為一般的な家庭とは程遠いが、幸せである。一緒にいるのが幸せ、楽、互いに気を使わないで済む。自然体でいられる。結婚の理由なんてそんなもので良いのだ、という考えがアネットにはあった。

 

 人間、親友や家族恋人とだって、何時も何時でも何処でも一緒では気が疲れるものである。たったの数か月とは言え、四六時中顔を突き合わせていて嫌にならないならもう十分過ぎる程相性はばっちりであろう。リウルとイヨは。

 

「想像してみるんだブラム殿。シノン殿が自分から離れ、見ず知らずの女と睦まじく過ごす光景を。顔を赤くして女性を見つめ、時に撫でられて至福の笑みを浮かべる姿を。──忸怩たるものを感じないか? その光景は自分のものだと思わないか?」

「お、俺は別に──」

 

 リウルは反射的に想起する。先程の断った場合の未来のそのまた先、失恋を乗り越えたイヨの隣に知らない誰かがいる光景を。

 誰かがイヨの肩を抱く。腰に手を回す。手を握る。頭を撫でる。──そしてイヨが幸せそうな顔を──。

 

「……」

 

 胸の中のそのざわめきは、『イラッ』では無く『チクリ』に近く、強いて言えば寂しさに類似していた。

 

「……何も感じなくは、無いが……無いけど……」

 

 言語化できない。これは独占欲とかそういった類の感情なのか、と自分でも疑問に思う位だ。

 

「なんていうか、ブラム先輩がこれほど初心だとは思いませんでした」

「初心というか、慣れてないんですよ。そっち方面に全く興味も関心も無かったんですよねー、誰それが所帯を持ったとか娼館行ったとか下ネタとかは他人事なので『ふーん』って感じだったんでしょうけども、自分の身に降りかかるとこうなっちゃうんですよー」

「お、俺の心理を俺そっちのけで解説するのは止めてくれよ」

 

 パンとアネットの二人は『もしかするとイバルリィの方がリウルの心理に詳しいのではないか』と疑問を抱くが、本人を差し置いて結論を出しても意味が無いため、何も言わないでおいた。

 

「あたしの身近な例で恐縮なんですけども、気が通じ合っていれば割と上手くいくものですよ。あたしの両親なんか収穫祭で羽目を外し過ぎて結婚したらしいんですが──」

 

 収穫祭の夜に踊りの輪から外れて茂みの奥に消えていく若い男女の行動については、みんな知っているだろうしあえて説明するのも恥ずかしいので何も言わない。パンはリウルと同い年の乙女であった。

 

「そんな一時の勢いの余波でくっついたような二人でも今の今まで続いてますし、あたし含めて十一人子供がいますからね。お二人なら大丈夫だと思いますよ」

「え、子供十一人って凄くね……?」

 

 一応商会のお嬢様であったリウルは本題とは別の部分に反応する。

 

 娯楽が無く、また子供も労働力として数えられる農村では子供は五人程度が平均である。成人まで成長する事が難しい様な環境ではもう少し多くなる。衛生環境が良く、避妊薬があったり治療する神官がいるような都市部ではもっと少ない。

 

 十一人はリウルの常識と照らし合わせるまでも無く、人数としてかなり多い。

 因みにパンは下から三番目の子で、上の兄姉とはあまり仲が良くない。そもそも物心ついた時にはもう家を出て行っていた者たちもいたので、仲が良くなるほど顔を合わせた記憶も無かったりする。

 パンの両親はどつきどつかれ罵り合い、若い時のノリそのままで日々喧嘩が絶えないが、娘の立場からすると不思議と仲が悪い印象が無い。どんなに喧嘩しても夕飯の時には笑顔で卓を囲む両親であった。

 

 友達みたいな夫婦でも良いじゃないですか、今までと同じように一緒にいたら良いと思いますよ、とパン。

 

「それと、私を呼んだ最たる理由はこれだろう? 同じパーティに所属する者が恋仲、あるいは夫婦となる事で冒険者稼業に支障が出るかどうか、実際に不利益はあったか。それを聞きたいと」

 

 異性がいると揉める、という例は別に冒険者界隈に限らない。が、冒険者が互いの命を預け合う濃厚な時間を過ごす内、信頼とは別の感情が生まれてしまうというのはままある話であった。なにせ命を預け合うのだ。戦闘の最中という極限の状況で。

 無理からぬ話だが、判断の乱れや仲間内での扱いに差が出てしまう等として、一般に歓迎されない。あり得るかもしれない不和の事前回避として同性だけでパーティを組む者は珍しくない、というか、どちらかと言えばそれが普通ともいえる。

 

 勿論そうでない者たちもいる。性別に関わらず、能力的人格的に仲間足り得るかどうかでメンバーを選んだ者達だ。

此処に集った四人の冒険者は皆男女混合のパーティに属しており、アネット以外の三人は紅一点の立場である。アネットのパーティは男女同数の四人構成だ。余談だが、アネットと夫が夫婦冒険者として有名なせいで、残りの男女二名も夫婦だと誤解される事が多いらしい。

 夫婦二組で構成された有名なチーム等という間違った認識で見られるたびに、その二名がお互いを指さして『なんでこいつなんかと!』と怒り心頭に達する様は最早名物であった。

 

「簡潔に言うと、無いとは言えない。大きな影響は殆ど無いが、些細な問題は今まで結構あったな。特に最初の内はそうだ。まだまだ若造だった頃だからか、先達に絡まれることも多かったし、同格でも色々と言っては来るしな」

 

 顕著な例だと、当時の仲間が二人抜けた。窮地に立たされた時に恋人を優先する、つまりはその他の仲間である自分たちは後回しにされる可能性を危惧してだ。

 当時は五人で構成されていたアネットのチームだが、抜けた二人を除くもう一人は一応、結婚しても同じチームで続けていきたいというアネットと夫の意志を尊重してくれた。ただ、命の掛かった仕事をする立場として、感情に囚われて誤った判断や失敗をしてくれるなとしっかり言い含められた。

 

 アネット自身、公私の区別が完全についていたとは言い難い。自分としては割り切って振舞っているつもりでも、何処かしら態度に出ているのだ。気にし過ぎて逆に互いを蔑ろにしてしまった事もある。

 

 しかし、

 

「だが、最終的にはプラスに働いたと思う。夫婦となってからも活躍し、実績を上げ続ける内に普通よりずっと名が売れた。指名の依頼も多くなった。実力にそぐわない名声を重荷に感じた事も有りはしたが、ブラム殿ならそれも無いだろう」

 

 冒険者が街中でも重装備を付けたままで過ごす理由は急な依頼に即応する為でもあるが、同時に名を売る為でもある。装備や髪を奇抜な色に染め上げる位は一般的に行われている事だ。特に冒険者の数が多く、競争が激しい場所では。イバルリィの所属する【戦狼の群れ】などは全員が染髪している。

 

 夫婦冒険者としてその活躍と半生が──多分にラブロマンスを振り掛けられ脚色されてとは言え──吟遊詩人の詩として広まり、それが世の人々に受け入れられた。認知度の上がり方は他の冒険者の比では無く、アネットらのチームは知名度だけで言うならより上のランクの冒険者にも匹敵する。

 

 山ほどの実績を積み上げオリハルコン級に至った冒険者である【スパエラ】、その実力と実績を前にすればチームメンバー同士の結婚程度は大した話ではない。無論色々言ってくる輩もいるだろうが、二人が今後も変わらぬ活躍を続けられるならその位は鎧袖一触だろう。

 

「自分の最善を選ぶしかないな。今更外野にぐちぐち言われた程度で揺らぐ精神でもあるまい? 冒険者は実力主義社会で、自己責任の世界だ。揺るがぬ覚悟と力があれば何の事は無い」

 

 力強く言い切るその様は威厳さえ漂う。筋力の高さや知恵の量などとは違う積み上げた人生の重みだ。

 目の前に人生の先輩がいる、とリウルは畏怖さえ感じた。アネットは常の柔らか笑みを浮かべ、

 

「逆に言うと、結婚する事で覚悟や力が揺らぐのであれば止めた方が良いな。煽っておいてなんだが。もしくはどちらかが引退する──しかしこれはシノン殿もブラム殿も望まないだろう?」

 

 勿論望まない。其処は既に確認が取れている。イヨは冒険者を辞めたいとも、リウルに辞めてほしいとも全く思っていない。

 もし結婚したら冒険者を辞めてほしいなどと言われた日には、リウルは逡巡すらせずその場で話を蹴っていただろう。アダマンタイト級になる事は、なって活動し続ける事はリウル・ブラムの人生を掛けた目標であり、人格の根幹を成すものだ。

 

 冒険者を辞める時はもう続けられない程老いた時。そうでなければ死ぬ時だ。誰に何を言われようと其処は曲げられない。

 

「ふぅー………」

 

 リウルは深く深く、肺の中の空気を残らず絞り出した。そして一旦止めてから吸う。顔の熱は引いていた。

 

 強敵との戦闘を控えた様な、静かな湖面の如き精神状態で黙考する。

 

 そして周りのみんなを見渡す。空気の変化を読み取ってか、三人はリウルの口から言葉が出るのは見守ってくれていた。

 

「俺は、イヨの事が好きなんだと思う。女として、だ」

 

 やっと口に出すことが出来た。認めて、受け止めてしまえば分かる。それは追認だ。心の奥底ではずっとそうだった事を、今自覚できた。

 

 そもそも結婚の話を考慮した時点で周囲からすれば自明だっただろう。あのリウル・ブラムが、脇目も降らずただ冒険者であり続ける女が、チームメンバーとの結婚等という話を『考慮し、悩んだ』のだ。

 

 冒険者として活動する事で満たされているリウル・ブラムが少なからずその活動を揺るがせかねない事柄を即座に突っぱねるでも無く、『悩んだ』。

 

 ──紆余曲折を経てやっと認めることが出来る。

 

「俺の中でイヨ・シノンは、短い間に冒険者である事と同じ位大きな存在になってたんだ」

 

 冒険者は止められない。愛した男の願いであってもそれは間違いないが、イヨは共に冒険者を続けたいと言っていた。ならば、ならば──。

 

「俺は、あいつが好きなんだ」

 

 ──再度不安が首をもたげる。

 

「……俺は、あいつを幸せに出来るかな?」

「え?」

 

 パンの『え?』はリウルの耳には入らなかった様であった。

 

「いやだって、世間一般で言う普通の結婚生活とか、所帯持ってたら当たり前の幸せとか……俺はイヨに与えてやれないんじゃないかって……」

 

 イヨがリウルの前でだけ見せる悲しみ──家族との別れ。二度と帰れない郷里への想い。それを癒してあげられるだろうか。

 イヨはどう足掻いても元居た場所へは帰れないというのがオリハルコン級冒険者リウル・ブラムの見立てである。イヨも内心それに気付いていたのだろう、そして今回の一件で吹っ切れた──かどうかは兎も角、折り合いを付けようとしている。

 

 リウルは思う。自分はあの少年を幸せにしてやれるのか、と。

 

 お互い冒険者である以上、安眠できる時間さえ限定される。家を空っぽにして野を駆ける、安寧とは程遠い日々が続くのだ。街にいる日々とて鍛錬に多くの時間を費やすだろう。

 

 穏やかな家庭とこれ程遠い結婚生活もあるまい。

 

 失った家族はもう戻らないが、新たな家族を得る事は出来る。結婚すればイヨとリウルは家族だ。しかし、たった二人の家庭に新たな命を授かる日は遠そうだ。イヨが父親に、リウルは母親になる日は何時の事だろう。

 

「子供だって何時産んでやれるか分かんねぇし……」

 

 正直感覚的に実感など湧かないが、結婚し家族を成す以上はそう言う事だ。

 子供を作るのは男女の儀だが産むのは女の仕事だ、とリウルは思う。腹に宿して産まねばならないのだからどうしたってそうだ。つまり自分の役目なのだが。

 

 正直に言って、今のリウル・ブラムに──全盛期かつ成長途上であるリウルに、妊娠・出産・子育てに捧げる時間は惜しい。

 

 リウルとて幼き頃に母を亡くした身だ、愛情を注いでくれる筈の庇護者が傍にいないという環境が子供にとってどれだけ辛いかは身をもって知っている。

 

 最低でも物心つくまでは子供の傍にいてやりたい。そういう思いはある。しかし、子を宿してから産むまで、産んでから復帰の為の訓練を熟しつつ子を育てる時間は、どう短めに考えても五年は下らないであろう。

 

 最低五年のブランク。死ぬ可能性は無視するとしても、現在十七歳である自分はどれだけ現役で働き続ける事が出来るだろう──二十年は堅いと思うが、三十年には至るまい。

 

 二十年の内の五年。四分の一に相当する期間だ。もっと長くなる可能性もある。

 

 余りにも長い。そう考えてしまう自分は利己的なのだろうか、自分勝手なのだろうか。イヨは理解してくれる気がするがそれは『理解して待ってくれる』と言う事だ。

 

 血縁も無ければ面識も無い初対面の子供にすら愛情を向けるイヨが、自分の子供をその手に抱く夢を抱いていない訳が無い。

 一緒になった相手との子宝を望むのは男女に関係なく余りに普通で、有り触れていて、そしてとても尊い願望だ。

 

 結婚というお互いがお互いに責任を持つ、尽くし合う、共に生きる形態において、イヨは多くのものをリウルにくれるだろう。真摯な愛情、誠実な奉仕、公私両面でリウルを支えてくれるだろう。持てる全てをリウルに向けてくれる。今までもそうしてくれていた様に。

 

 リウルは初めて考え、そして怖くなった。

 

「俺は、あいつに何をしてやれるんだろう……?」

 

 特別な何かをしてやれるだろうか。イヨが差し出してくれるものと釣り合うだけの何かを。

 

 リウルの側だけ一方的に恩恵を受ける関係を対等と言えるだろうか。その結婚生活は正常と言えるだろうか。お互いが幸せになってこその結婚であろうに。

 

 実の所かなり溺愛され、自由を許されたお嬢様育ちであるリウルの結婚観はこのようなものであった。

 

「ブラム殿……」

 

 そんな事をぼそぼそと呟いたリウルは、アネットの声に顔を上げる。自分の懸念になんらかの意見をくれるだろう、この道の先達に縋る気持ちで──

 

「ブラム殿はほんっとうに恋愛に関しては銅級も良い所だなぁ、ちょっとびっくりしたぞ私は。というか、自分がシノン殿に想われているという点に関しては相当自信があるんだな。一瞬愛され自慢かと思ったぞ」

 

 呆れた様な声で恋愛銅級呼ばわりされた。自他の温度差に声が詰まる。するとその隙に、

 

「ブラム先輩って豪放磊落に見えて、実は結構思い悩む人なんですね……さっきまでと今では別に意味で桁外れてますよ」

「こんなリウルはおばちゃん初めて見ましたよー」

「あ、あれ……」

 

 『俺は今この上なく真面目な話をしてたのに、もしかして通じてないのか?』。そんな風にさえ思ったリウルの眼前で、三人はお互いに譲り合う様な仕草をした後、揃って唇をお茶で潤してから次々に、

 

「ブラム殿。この場で最もシノン殿との親交が浅いであろう私があえて断言するが、シノン殿はそんなの端から織り込み済みだからな。そうじゃなかったらブラム殿にプロポーズしたりしないから。仮にシノン殿が普通の結婚生活なんて望んでたらそもそもブラム殿は選ばれてないぞ」

「イヨからご自分に向けられる愛情には凄く高い価値を計上してるのに、ご自分がイヨに向ける愛情を軽視し過ぎでは? イヨはなんというかその、ブラム先輩の傍にいられるだけでも凄く幸せだと思いますよ?」

「自分の方が年上で先輩で大人だっていう意識が無意識の底にあるんでしょうけども、気負い過ぎですよ。子供は天からの授かりものですが、同時に作るものでもあるんですよ。二人の間で話し合って了解が取れたのであればその時期が一番なんです」

「え? え?」

 

 立て続け過ぎてリウルの理解が追い付かない。

 

 ──つか俺が今考えた事をイヨは全部了解済み? 考慮済み? 俺って今やっとイヨと同じラインに立っただけなのか? 嘘だろ、俺ってそんなにイヨの後塵を拝してるのか?

 

「そういう懸念があること自体は相手の幸せを考えていて立派だと思うが、シノン殿は絶対にそれを前提として了解した上でプロポーズしているから。賭けてもいい。悩む気持ちは分からないでも無いが、我々にうんちゃら言うよりは当人同士で話し合うべきだな」

 

 ──え、いや、だからその、その当人同士で話す考えが纏まらないから、何をどうして良いか分らなかったから、こうして人に頼っているんだが。

 

「もう分かっただろう。今さっき自分の恋心を自覚したな? 言っただろう、俺はイヨが好きなんだって」

「いや、その、言ったは言ったけどいきなりそんな」

「これ以上は逃げですよブラム先輩」

「ちょ、ま」

「相談を受けた我々と致しましては、これ以上はリウル自身の問題であり我々の及ぶところではないという意見で一致してます。それでは頑張ってきて下さーい」

 

 示し合わせたかのように立ち上がった三人は揃ってリウルを扉の方に押しやり、強制退去に追いやろうとする。

 

「おい待て、俺はまだ心の準備がっ!」

「ブラム殿。今後の一生で主導権を握り続ける秘策を教えてあげよう。──有無を言わさず抱き締めて口付けしろ。それで勝てる」

「イヨは意外と押しが強い所があるので大変でしょうけど、ブラム先輩でしたら戦えるってあたし信じてますから!」

「リウルの背中を押すのは友人である私の役目──応援してますよ!」

 

 暖かな言葉とは裏腹に断固たる腕力で廊下へと追いやられたリウルの眼前で、無慈悲にも扉は締め切られた。

 

 後に残ったのは初めて戦場に向かう新兵の如き心模様のリウル・ブラムただ一人である。

 

 

 

 

 イヨ・シノンはリウル・ブラムに惚れている。好きである。大好きである。愛しているのであった。

 

 最初から恋愛的な意味で好きだった訳ではない。兎角一目惚れと言うか、イヨが余りにもちょろく、ちょっと優しくされたらあっという間に惚れたかのような印象を抱かれがちだが、実際は違う。

 

 好意的だったのは確かである。すごい先輩だと尊敬していた。しかしそれを言うなら、イヨは世の人々の大半に対して好意的で肯定的である。老若男女に対してだ。例外は悪人位である。悪い人は牢屋に入るべきだと思っている。

 

 そういう思考を持っているイヨ・シノンの事であるから、当然知り合ったばかりのリウルにも肯定的で好意的であった。リウルの方も不思議と馬が合った為か、お互いの存在がぴったりとあるべき位置に収まったかの様だった。

 

 そうして共に日々を過ごす内に、自然な流れでイヨはリウルに惚れたのである。具体的に言うと出会って三日四日位してだ。

 

 イヨから見たリウルは背が高くてカッコいいし、強いし、逞しいし、大人だし──それに可愛らしくて綺麗で凛々しい。真剣に真摯に貪欲に夢を追う姿は輝いていて、一緒にいて自然と安らいだ気持ちになれる。あんなに魅力的な人はいない、と真剣に思っている。

 

 物心ついてからは初恋である。物心つく前の初恋は両親だと思う。小学校に入って直ぐの頃は担任だった眼鏡の先生が好きだったが、それは恋以前の憧れの感情だった。

 

 リウルは自分とは比べ物にならない位しっかりしていて、賢くて頼り甲斐のある自立した大人の女性であり、イヨは強く惹かれた。この人の夢を支えたい、自分も一緒に頑張りたいと、そう思った。

 

 イヨは恋愛経験が無い。しかしイヨは天性にして天然のファイターであり、経験が無くとも本能と気持ちで戦える人間であった。自分の感情に素直なのだ。其処が同じく恋愛経験のないリウルとの違いである。

 

 自分の好きという気持ちを知ってほしかった。相手にも自分を好きになってほしかった。そうした欲求は思考以前の本能であり、無意識的にイヨはリウル・ブラムに対するアプローチを始めていた。イヨが意図してそうしていた訳では無いのだ。それはもっと幼くて原始的で、それ故純真で単純な衝動に任せた子供の好意の表れ。

 

 『僕は貴女の事が好きです』という想いを動きに、視線に、言葉に通して相手に伝える。

 

 数日数週間数か月と共に過ごした月日が積み重なるつれ、その想いは深くなる。リウル・ブラムという人物に触れる度、新しい一面を見付け、より好きになる。

 

 幼いとしか形容のしようのない、両親譲りの恋愛観。この人を支えたい、一緒にいたいという想い。

 

 幼稚であるが故に純真で、だからこそ人に伝わる。わかりやすいからだ。恋愛という概念は知っていても観念として備えていなかったリウル・ブラムにすら察せられるほどの真っ直ぐさ。

 

 この先何か月、何年かして何らかの形で実を結ぶ筈だったその想いは、ある試練を経て急展開を遂げた。

 

 デスナイトとの戦闘──実際に死に臨む経験を経て。

 

 自分の人生は保証されていない。当たり前のことに気付けていなかった。既に両親の庇護は無く、モンスターと命のやり取りをする職業に就いているのに。

 

 降って湧いたような危機を必死に戦って初めて気付く。自分は何時死んでもおかしくないのだ。自分だけではない、リウルもガルデンバルドもベリガミニも──引いてはこの世に生きる者は全て何時死ぬとも知れず、何時死んでもおかしくないのだと。

 

 今更に思い知った。現在生きているのは偶然に等しいのだと。

 

 戦っている最中、イヨは死にたくなど無かったが、同時に死を覚悟していた。死ぬまで戦う。自分を尽くして逝ったなら、後の始末は仲間たちがきっと付けてくれると信じていた。そしてより深く尊敬した。先達はとっくの昔にこの覚悟をもって生きてきたのだろうと。

 

 死を切り抜けて、改めて思う。死にたくないと。何時か死ぬにしても──戦いの中で果てるのか、老いて寝床の上で死ぬのかに関わらず、後悔を残しては死ねない、と。

 

 待てなくなった。不安になった。ただ想っているだけで幸せで、何時かこの想いは通ずるはず、既に通じ始めている──それだけでは満足できなくなった。

 

『貴女を愛しています』

 

 伝えたいと思った。伝えなければと思った。

 

『ずっと前から好きでした』

 

 自分もリウルも誰も彼も、その生は必ずしも続いていくとは限らないのだから。

 

『僕と結婚してください』

 

 イヨは告白した。

 

 

 

 

 もう戻らない、とイヨは手製の位牌を前に決めた。

 

 依頼継続中に付き公国より提供された宿屋の一室にて、イヨは床に直置きした位牌と正座で対面する。

 不格好な位牌に公国語で刻まれているのは祖父母、両親、弟妹──そして篠田伊代の名である。

 

 無論家族は死んでいない筈だ。死んでいるとしたらあの世界の伊代の方だろう。

 そしてそのイヨも、意識は今この世界で連続している。生きていると言って良かろう。

 

 だがもう決めた。何度も思い返すと思う、幾年経とうと心は離れないと思う。死ぬまで忘れられないだろう。──しかしもう戻らない。戻れないを言い訳にしない。戻れる機会があったとしても、もう戻らないのだ。

 

 どれ程殺しただろう、どれ程助けただろう。もっと確実に殺められなかったのか、もっともっと助けられなかったのか。

 これから先どれ程壊して殺すだろう。どれだけ築き助けられるだろう。

 

 イヨは思う。これだけ殺しておいて助けておいて、帰る方法が見つかったらこれ幸いと帰るのか。

 頼りにしてくれる人々を置いて、惚れた女性を置いて、仲間に背を向けて、友達にさよならして帰るのか。帰って家族と感動の再会をし、年月が経ってから希少な経験をしたとでも思い返すのか。

 

 もうそんな所は通り過ぎたと断ずるべきだ。

 

「親不孝でごめんなさい。……みんな、ずっとずっと大好きです」

 

 位牌に頭を下げる。随分長い間そうしていたが、ある時思い切って頭を上げる。

 

 手に取るのは篠田伊代の位牌だ。真ん中から圧し折って、火の付いていない暖炉に投げ込む。残りの家族のそれは一つ一つ布で包み、一塊に纏めてアイテムボックスに仕舞った。

 

 イヨの心境は説明しがたい。イヨの語彙や観念では正確に言い表す事は出来ない。それでも強いて言うなら、最後まで責任を取りたかったのだ。

 

 だからこの世界に残る決断を下した。戻れないと諦めて涙するのではなく、戻らないと決めて泣く。この世界で生きて行く。

 

 それがありとあらゆる事に向き合う上での最低限のけじめと勝手に定めた。

 

 そうでなければどの面下げてリウルに求婚など出来よう。イヨ・シノンはもうこの世界に骨を埋める覚悟を抱いている。出来る精一杯の事をやり遂げ続けようと決意している。

 

「だから、リウルさん」

 

 自分のしたプロポーズはリウルを酷く動揺させたものと思う。リウル・ブラムは恋愛に関しても決して鈍くは無い。むしろ鋭いと言える。だが、疎い。著しく不慣れである。彼女の為を思うならもっと時間を掛けて関係を築いていくべきなのは間違いが無かった。

 

 だが、全て承知の上で尚求婚した。共に何時死ぬとも知れぬ職業に従事する身だ。

 

「今宵、絶対に貴方を口説き落としてみせます」

 

 そして彼は戦場に向かう。相変わらず少女のような容姿で、浮かべる表情は恋する乙女のよう。しかし彼は今間違いなく、男だった。

 

 

 

 

「リウルさん」

「お、おう」

 

 心臓がうるさい。自分で呼び出したイヨが予定通り姿を見せただけだと言うのに、たった二人きりの静寂な部屋だと言うのに、鼓膜に響く鼓動がうるさくて閉塞感を感じそうなほどだ。

 

 所詮宿の付近から動いていなかった身の上である。割り当てられた個室で待機していたイヨと、直ぐ近くの高級飲食店の個室で作戦会議中だったリウル。二人は何かあった時チームで行動せねばならない制約上、この三日間実は離れていないのだ。普段の様にくっついていなかったと言うだけで。

 

 歩くときは一歩間合いを空け、事務的な会話に終始し、寝る時は別の部屋。ただそれだけである。ただそれだけなのに、冒険者としてでは無く私人として相対するとこんなにも緊張する。

 

「……」

「……」

 

 彼我の間合いは三メートル。

 

 こんなイヨの顔はそう見ない。リウルの思い出の中のイヨは常に楽しそうで嬉しそうで幸せそうで──ごくたまに、悲しそうに泣いている。笑顔のイヨを見ていると自分も心が和やかになるのを感じていたし、悲し気にしていれば慰めてやった。

 

 今のイヨは決意の表情。まんまるおめめは鋭くリウルを見つめ、表情は凛々しい。プロポーズの時もこうだった。こんな顔も出来るのか、とある意味驚いた覚えがある。

 

 何時ものイヨは陽だまりで和む飼い慣らされた猫の如き少女に見えるが、今のイヨは戦場に向かう騎士の如き少女に見える。どっちにしろ男には見えない点しか共通していない。

 

 練習中だって戦っている時だってイヨはこんな表情はしない。それこそもっと自然体で力みが無い顔をしているのだ。そんな顔で圧し折ったり圧し折られたりしている。

 

 俺に求婚するってだけでどんだけ真剣だよ、と一瞬思うが、一生ものの話なんだしそりゃ真剣かと思い直す。

 

「……」

 

 ──俺はどんな顔してるんだろう。

 ──せめてイヨがもうちょっと普段通りだったら俺の方だって意地張って年上風先輩風吹かせて平常を装えたのに。というか何故何も喋ってくれないのだ。やっぱり俺の方から切り出すべきなのか。

 

 イヨからすれば告白の返事を聞きに来ているからである。プロポーズの返答を保留され、改めてその件で話がしたいと呼び出された。それがイヨの側の状況であり、この三日間でリウル側の考えも固まったから呼び出されたのだろうと思っているのだ。

 また自分から口を開いても言う事は一つしかない訳で、その一つに対する返答は保留中なのだ。これ以上はごり押しというかしつこくて押しつけがましいかとも思っていた。

 

 イヨとて不安である。なにせ目の前のリウルが見るからに挙動不審で、今まで見た事が無い位に視線が泳ぎ、自分と一切目を合わせてくれないからだ。

 

 常に即断即決で泰然としていて気が強く、大人なリウルとは大違いな姿。自分の告白に対する返事がイエスであってほしい期待と、ノーだったらどうしようと云う不安。

 心中は揺れているが、情けない姿を見せたくない、どんな答えだって受け止めて見せるという決意が外見を揺るがせない。

 

 根競べ染みた沈黙合戦。永遠にも思えるような数分が過ぎ、静寂に耐え切れなくなったのはリウルの方だった。

 待たせているのは俺の方という意識があり、心構えの強固さの上でもリウルは負けていた。色恋の場でさえ勝ち負けが判断基準になってしまう様な不慣れさが原因ともいえるだろう。

 

 ──しっかりしろよ。……イヨが惚れたのは、こんな意気地なしな俺じゃねぇだろうが。

 

 自分に一番ダメージが来る叱咤を掛け、少女は口火を切った。

 

「……イヨ。俺は、その」

「はっ、はい!」

 

 二人とも音量調節を間違えた。意気込みに反して蚊の鳴くようなリウルと、待望の答えに逸って大声を出したイヨ。二人とも若く、初戦なのであった。

 

 此処で止まったらまた身を焼かれるような沈黙が戻ってくると感じたリウルは勢いだけで続けた。

 イヨからの好意を自覚してから散々待たせたので、此処ではっきり言わず何時告げる。そう──三人も言っていたじゃないか。何もかもはっきり告げ、二人で話し合えと。

 

「俺は……俺も! お前の事が好きだ。好きだと思う」

「そ、それは……」

 

 イヨの瞳が期待で輝く。久しぶり──三日ぶりだが──に見たその輝きをリウルは素直に綺麗だと思った。だが、続けねばならない。

 

「だけど、結婚は悩んでる。お前と一緒になって良いのか分からない」

「な、何故ですか? 僕に何か問題があるなら──」

「俺は!」

 

 遮って叫ぶ。そうではないのだ。

 正直イヨは良い夫になってくれると思う。絶対によそ見をしない。浮気なんて発想は頭に浮かびすらしないだろう。公私共に背中を預けられる相棒に、イヨ以外の人間等考えられない。

 

「俺は……誰かと一緒に歩む人生なんて考えた事も無かった。続けられなくなるまで冒険者をやるつもりだったし、今もその気持ちは変わらない。お前に──」

 

 お前を、と言い直す。

 

「お前を幸せに出来る自信が無い。結局全部冒険者稼業の延長になるとしか思えないんだよ。家庭を持った男として当然の幸福をお前に与えてやれない。子供だって、下手したら引退した後になるかもしれん。──俺は家庭に向いてない……お前は良い夫になってくれるだろうけど、俺は良い妻にはなれないと思うんだ……」

 

 喋っている内に不安が増大していく。

 

「お前と結婚したら俺の方は幸せだと思う! お前がくれる好意や愛情は心地良い、嬉しいよ。何よりも俺を優先してくれる──でも、それでお前は、イヨは心から幸せか?」

 

 イヨは別に冒険者になりたかった訳ではない。それはイヨの夢ではなく、リウルの夢だ。

 事故で家族と別れて何に拠り所も無い場所に来て、食い繋ぐ為に冒険者を選び、リウルと出会った。それがイヨ・シノンのこれまで。

 

 リウルは今なら自分の気持ちが理解できる。リウルはイヨを手放したくない。今や冒険者リウル・ブラムも、私人リウル・ブラムもイヨ無しではいられないのだ。

 

「俺は一生冒険者を辞めない、辞められない。お前を一生手放さない。最高の仲間で伴侶だから、絶対に手放したくない。──でもそんなの自分勝手すぎるだろ? 何もかも俺の総取りか? お前の人生を俺が貰って、お前の時間を全部俺の夢に付き合わせて、一生一緒で幸せって胸張って言えるかよ」

「リウルさん……」

 

 リウルが外していた目線をイヨに戻すと──イヨの顔は決意の表情に戻っていた。リウルの狼狽を睥睨し、まんまとリウルは射竦められた。

 

「……言いたい事が幾つかあります」

「……なんだよ」

 

 俺は全部話した。リウルはそう思う。迷いの全てを吐き出した。葛藤も含めて胸の中の答えを返した。

 今度は、リウルの答えに対してイヨが答える番だ。その答えは──

 

「僕と結婚してください」

 

 再度のプロポーズだった。

 

「──なっ」

「リウルさんの言った事は全部承知の上です。そういうリウルさんに惚れたから一緒にいたくて結婚を申し込んでいるんです。結婚したからってリウルさんに生き方を変えろなんて僕は言いません。平穏な家庭が欲しかったら最初からリウルさんにプロポーズしてません」

 

 僕が欲しいのはリウルさんと、リウルさんと一緒に過ごす人生です──一気に言い切る少年の姿は、ほんの僅かに怒っている様ですらあった。

 

「第二に。一緒になって本当の本当に幸せになれるのが自分だけだなんて思わないで頂きたい。冒険者は既に僕の夢でもあります。僕は出来る限りに人を助けたい、幸せになりたい。その為に最善の手段を選んだつもりです」

 

 イヨは大股で距離を詰め、リウルの傍に置いた。身長差さえなければ鼻と鼻がくっつく距離。其処から真っ直ぐに見上げてくる。上目遣いではなく、顔ごとだ。

 有無を言わせぬ断固たる口調。僕の意志はこうです、受け取るも放り投げるも貴女次第。さあどうしますかと挑むような。

 

「僕の人生を受け取って頂きたい。リウルさんの時間と、夢を共有させて欲しいのです。それが僕の最たる望みです」

 

 リウルは自分が気圧されていると察した。イヨの瞳に圧力を感じる。イヨの語調に滲む強固な意志に、イバルリィ、パン、アネットの三人が予見した通りの覚悟に。

 

「そして!」

 

 イヨはリウルの右手を掴み、がっしりと両手で包んで自分の胸に抱いた。最近の訓練で少しずつ皮が固くなってきていた手は、デスナイト戦の大怪我をポーションで治したせいで赤ん坊の様な柔らかくしっとりした皮膚に戻っていた。

 

「──リウルさんの人生を、貴女の時間を僕に下さい。僕の隣にいて欲しいのです。僕がリウルさんの隣を歩む様に、リウルさんに僕の隣を歩んでほしいです」

 

 言葉のナイフが心の臓に突き刺さったように、リウルは感じた。

 

「僕の愛情を受け入れて、僕を愛してください。それ以上は望みません。冒険者である事は、冒険者であるリウルさんと一緒に冒険する事は、僕の生涯の夢なんですから」

 

 言葉のナイフが自身の頸動脈を一瞬で断ち切るさまを、リウルははっきり幻視した。

 

 最後は歴然とした力の差で押し切られた、とリウルは思う。覚悟の差とでも言おうか。所詮恋愛銅級の自分がミスリル級のイヨに勝てる訳が無かったのか。

 

「僕はリウルさんが良いです。リウルさんじゃなきゃ嫌です。リウルさんはどうですか?」

 

 此処まで言われてまだうだうだする様なら最早負け以下だ。

 畜生、負けちまったと。少女は悔しく、しかし晴れやかに思い知らされる。

 

 多分、このやり取りを勝ち負けで判断しようとしている事自体、話せば呆れられるだろう。子供っぽいイヨにすら『子供じゃないんですから』なんて言われてしまうだろう。

 リウルはオリハルコン級冒険者だ。冒険者として最上位に駆け上がるべくそれのみを志して生きてきた女だ。恋愛に関しては銅級も良い所──そして、家庭人としては今此処でやっと、最初の一歩を踏み出す。

 

 俺だって、と。

 

「……俺だってお前じゃなきゃ嫌だよ。お前が了解済みなら遠慮はしねぇぞ。一生依頼でも私生活でも尽くしてもらうからな」

 

 自分で自分の顔が見てみたかった。そう思案すると、一つ思いつく。

 顔を下に向けて真っ直ぐイヨと見つめ合えば──彼の澄んだ金の瞳に、自分の顔が映っている。

 

 ──呆れてしまうほど真っ赤で、情けなくも目に涙をためて、その癖イヨの様に微笑む。初めて見るリウル・ブラムの顔。

 

「お互い様に、ですね」

「ああ──俺もお前に尽くすよ。お前の家族が愛してくれる筈だった分まで、お前を好きになる」

 

 お前の全部を受け取って、俺の全部をお前にやるよ、と。

 完敗を宣言するかのように、空いている左手をイヨの背に回し、全力で彼を抱きしめた。自分より幾分高い子供の体温が身に染みわたる。

 この三日間を埋め合わせる様に、二人は互いを強く強く抱きしめた。

 

「お前、子供好きだろ? さっきも言ったけど、俺とじゃ何時になるか分かんねぇぞ」

「何年だって待ちます。僕の国では三十四十を超えて初子を授かるのも普通でしたよ」

「お前、色恋沙汰の時だけ急に大人っぽくなり過ぎだよ」

「十六歳ならこれくらい普通です。むしろリウルさんが色恋沙汰の時だけ、純で真っ直ぐ過ぎるんですよ」

「なんかすげぇ悔しい。俺はこの三日間ずっと悩んだんだぜ?」

「僕は何週間も前から、どうやったらリウルさんに首を縦に振ってもらえるか考えてましたよ」

 

 旗色が悪いなとリウルは眉をしかめる。勿論口元は緩んでいるが。

 

「俺だって色々お前の事考えてたんだぞ」

 

 ──結局俺が至らなかっただけか。

 

 三人の言った通りイヨは全ての覚悟を完了していた。リウルに寄り添う覚悟。冒険者としても夫婦としても一緒に生きて行く、それが本望だと。

 

 しかもイヨに言わせると、『どうしてリウルさんの中での僕がそんな家庭的なイメージなのかがそもそも疑問。僕なんて殴り合いだけが取り柄だし、家事も出来ないのに』らしい。それでも自分と比べたらよっぽど所帯持ちが似合う人物だとリウルは思ったが。

 イヨは元居た世界での一般的な家庭環境においてなら、家事全般どれをとっても人並みに熟せる自信があった。しかしこの世界には使い慣れた機械装置──家電の事である──は一切なく、その為一からやり方を覚えねば何も出来ないのである。

 因みにリウルは根本的に器用なので大抵の事は出来る。元お嬢様の経歴も何のその、ガキ大将の後冒険者になっただけあって応用力が非常に高い。

 

 時間をやり繰りしてこれから家事を覚えます、とイヨは奮起。そういう所が家庭的なんだよとリウルは返した。二人は依然抱き合ったままで言い合う。

 

「でもリウルさん、少し他人行儀ですらありましたよ。俺についてこい位の事は言ってくれるかもと期待していたのに、『お前にはお前の幸せがあるだろ』だなんて言い出すなんて」

 

 僕ってそんなに遠い存在でしたかね、と当て擦りめいた口調。無論わざとだ。

 

「それは──悪かったよ」

「平穏な家庭なんてどうだって良いじゃないですか。僕とリウルさんなりの幸せな家庭で十二分ですよ。世間一般との比較なんてどうだって良いです。僕たちそのままで等身大の夫婦であれば良いです。別に良い夫良い妻になんかならなくたって」

「……全くもってその通りだな」

 

 リウルは単純純真なお子様であるイヨの事など全て知っているつもりだったのに、この少年はこうして新しい一面を見せつけてくる。出会ってたった数か月、それを考えれば当たり前であろうか。

 

 ──イヨって意外と大人なのかもな。いや、俺が子供なのかな。

 

 正直ガルデンバルドやベリガミニとセットでイヨの保護者である様な意識さえあったのに、今こうして上を行かれている。それがちょっと悔しい。先輩として年上としてイヨをリードしていた日々──なのに色恋沙汰になると逆転する。それが結構悔しい。

 

 負けず嫌いはリウルの生来の性質であった。俺の方が年上だし先輩だし、背だってずっと高いし、これまでお前の手を引っ張ってきたんだぞ、と。別に偉ぶりたい訳では無いが、優位に立たれると覆したくなる。

 

 ──そんなリウルの脳裏に、先達からのある助言が飛来する。

 

『ブラム殿。今後の一生で主導権を握り続ける秘策を教えてあげよう』

 

 閃く逆転勝利の可能性。なんだかんだ言ってもイヨはイヨ。単純純粋純真、ちょろいお子様で知られる男。絶対勝てるに違いない。

 

 ──いやでも、俺も恥ずかしいな……すげえ恥ずかしい……経験ねぇし……。

 

 湧き上がる躊躇い。羞恥。別の意味で顔が熱くなる。しかし、抱きしめているお陰で絶対にイヨに顔を見られる事は無い。

 

 くつくつと沸騰する負けず嫌いの精神。恋愛を勝ちか負けで捉える疎さ。

 

 ──夫婦になるからには何時か絶対するし……速いか遅いかの違いと思えば。

 ──告白はイヨからだし、こっちは俺が先に仕掛けても順番的には順当……か?

 ──経験が無いのはイヨだって同じはず……恥ずかしいのは俺だけじゃない……。

 ──前もって覚悟する時間がある分だけ俺が有利、か?

 

 言い訳染みた──本来言い訳などいらないのに──理論武装の数々。

 

 『ブラム殿。今後の一生で主導権を握り続ける秘策を教えてあげよう』。反響する台詞。リウルの心がぐらりと揺れる。揺れて、一方向に転がり落ちて行く、

 

 ──別に主導権を握りたい訳じゃねぇけど。負けっぱなしは癪に障るだけ──って違う。お礼っていうか謝罪っていうか──これも違う。

 

 これは、これは──そう。

 

 ──これは愛情表現だ。正当で真っ当な愛情表現。世の中の誰だってやってる事だ。俺達がやっても何も悪くない筈。つかこの空気ならむしろやって当たり前。ただそれだけ、だ。

 

 リウルはさり気なく、イヨを抱きしめる腕を背中から腰のあたりに移動。少年の細い腰にしっかりと巻き付け、動きを制限する。続いて握り合った手を優しく振りほどいてフリーに。次の行動の為に準備を整える。

 

「……イヨ」

「はい?」

 

 これ以上予兆は見せない。見せたら奇襲効果が薄れる。リウルはイヨの返答に取り合わず、ただ黙って動いた。

 イヨの身体を持ち上げ気味に、前触れなく背をかがませるリウル。急速に接近するイヨの顔、その眼が驚きに見開かれる。

 

 『ブラム殿。今後の一生で主導権を握り続ける秘策を教えてあげよう──』

 

 それを見て、リウルは助言の効果を、自分の勝ちを確信した。

 

『──有無を言わさず抱き締めて口付けしろ。それで勝てる』

 

 リウルは、リウル・ブラムは──白金の前髪を掻き避け、イヨ・シノンの額に口付けした。

 

 

 

 

 ほんの僅かな接触。時間にして半秒未満。ただそれだけの接触。しかしリウルは、己が勝利の光景を、自身の行いの多大な成果をしかと確認する。

 

 真っ赤っかな頬。首筋。否、肌が見える場所全部が赤い。赤面とはまさにこの事。驚きの余りか目には涙が溜まっている。崩れた表情。不意打ちに震える朱唇。一気に汗ばみ、輝く肌。

 

 可憐としか表現しようのないイヨ・シノンの顔──挑んだ戦いに勝利し、リウルが獲得した報酬だった。

 

 自身の胸の内が急速に満たされるのを少女は感じる。敗北の苦みが勝利の甘露に取って代わり、腕の中の小さな少女の如き少年に対する愛情が深まる。

 

 年上の威厳を取り戻した余裕たっぷりの態度で口を開き、勝利宣言。

 

「イヨ、急にして悪かったけど、これが俺の気持ち──」

 

 思い切り背伸びをしたイヨ・シノンによってその唇は塞がれた。

 

 

 

 

 僅かな接触。お淑やかで節度を弁え、相手のレベルを考慮した控えめな接触。ただし三秒きっかり。

 

 語るまでも無く効果は絶大も絶大。先程とは比べ物にならぬほど。

 

 リウルの顔など最早描写の必要もあるまい。筆舌に尽くしがたい。

 

 イヨは純真そのものの素晴らしい笑顔で、特に誇るでも無く余裕を滲ませるでも無く、ただただ嬉しそうに幸せそうに、真っ赤っかなまま告げた。

 

「お気持ち嬉しいです。──これは僕の精一杯の返答です。これからずっと、末永くよろしくお願いします、リウルさん」

 

 

 

 後日周辺各国に知れ渡ったデスナイト出現事件には、大小二つの情報が付随していた。

 まず大。脅威の大事件と並んで多くの人々を驚かせたもの。

 デスナイト討伐に大きく寄与した冒険者チーム【スパエラ】のアダマンタイト級昇格、公国において二十年続いたアダマンタイト空位の時代が終わりを告げた事。

 

 そして小。個人的な事情であるし、地元以外ではあまり耳目を集めなかった情報。

 ──【スパエラ】所属の冒険者二名が結婚し、尚且つ、今後も変わらず冒険者稼業を続けて行くと決めた事。

 




お待たせしました。
此処まで長く恋愛描写をやるとは自分自身想像もしていなかったです。ですが先の先を考えると大事な話だったと思うので後悔はしていません。
興味のない読者の方には申し訳ないです。次からはストーリーも少しずつですが進むかと。

番外編が何万文字書いても終わりません。下手すると十数万字の分量でお届けする事になりそうです。今現在番外編は三万文字ちょっとまで書きました。

よろしければ感想を頂けると嬉しいです。


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:殆ど時を同じくして

「もう無理です」

「無理か」

「無理ですよ」

 

 腹立たしいと言わんばかりの声に口調だった。

 

「全く持って腹立たしい」

 

 言った。

 

 書類と本棚に囲まれた大公の執務室、其処にいるのは勿論大公その人と、その娘たるリリーであった。支配者としての権威と風格を保つべく常に人目を意識した立ち振る舞いを実践する二人だが、余人の眼が無いためか幾分その姿には疲労が滲んでいる。

 

 大公は書類を脇にどけ、両肘を執務机に乗っけて体重を預けている。対面する公女は豪奢な椅子に背中を預け切って、殆ど天井を見るほどずり落ちた体勢だ。

 

「そもそも。言っても意味が無いと承知で口に出しますが、普通あんなの湧きますか? 実は公都は神か悪魔に呪われているのでは? 殿下、身に覚えがおありでしょう。さっさと謝ってください」

「謝って不幸が起こらぬなら幾千幾万とて頭を下げるがな。無駄な事をしている余裕は無い。時間も体力もな」

 

 今現在二人がこの場でこうして愚痴を垂れていられるのは奇跡であった。二人の国は滅びかけたのだ。たまたま運が良かったから滅びなかったのである。

 

「事後処理はもう大丈夫ですよね。必要な命令は下しましたし、人員も適切に配置。これ以上混乱が表沙汰になって長期化すると、折角奇跡的に軽傷で済んだ事態が燃え広がりますよ」

「注意深く見守り、問題の兆候が出れば対処する。何をやるにしても変わらぬ」

 

 為政者にとって今回の事態、終わってからが第二の本番であった。直接デスナイトに殺された者はいなかったにしろ、避難活動や戦後の総浚いの際に三桁近い死人が出ている。

 百人近い人死にが出た。避難の際の混乱で押し合いへし合いが起こった圧死があり、民衆に不安が広まって一部で乱闘騒ぎも起こった。

 他にも一時的に無人化した民家で火事場泥棒を働いていた者、捜索過程で非合法組織の拠点、秘密結社の潜伏地を発見した等で戦闘も発生し、其処でも人が死んだ。

 

 その他諸々での死亡者が百人に迫る数。幾千幾万がぶつかり合う戦場でなら兎も角、民草の住まう大都市で起こった人死にとしては多大な数だ。

 

 だが大公や公女、エルアゼレット・イーベンシュタウらの様な一定以上の視点を持った者、デスナイトの脅威を理解している者からすれば奇跡的なまでに少ない犠牲だ。この百倍千倍の人間が死に、公都が陥落していても不思議では無かったのだから。

 

 犠牲者は丁重に弔った。任務の中で亡くなった騎士や警備兵、混乱の中で命を落とした一般人の遺族には大公の名のもとに出来得る限りの事をする。幸いにして──言ってはなんだが──そちらはそれで収まる。

 

 むしろ今回の件は外に広まるうちに、公国という国の、そして公国で活動する冒険者の武威を高める効果すら生むかもしれない。ここ二十年官民ともに強者が出なかった公国では、これ程の脅威を自力で、しかも突発的事態にも関わらず殆ど犠牲を出さずに退けたという武功は大きい。

 

 事実城下の民草の中では早くも此度の一件が英雄譚として語られつつある。三十万の民の中で死んだ者は百人、湧いたのは一国に匹敵する怪物。怪物の手に掛かった者はおらず、崩落した場所は打ち捨てられつつあったスラム。

 身近な者が死ななかった、直接被害を受けなかった殆どの人間にとっては『そういう話』なのだ。突然取る物も取らず家から逃げろと追い立てられた者たちとて既に何事も無く元居た場所に戻っている。

 

「奇跡ですね」

「奇跡だな」

 

 幸いという他無い。しかし二人の顔は晴れない。何故なら冒頭の『もう無理です』が掛かる一件は別なのだ。

 

 その一件──その人物は此度の一件の中心にいて、最も大きな役割を果たした。

 

「現状の路線では、イヨ・シノンはもう我々の物にはなりません」

 

 上に立つ者として断言する。今後五十年百年のスケールで見た場合、百人や千人の只人よりもイヨ・シノンの一人の方がずっとずっと重要だ、と。

 

 

 

 

 イヨ・シノンがリウル・ブラムに求婚してから三日。多くの目撃者がいたその出来事を、勿論この二人も掴んでいた。

 そしてリリーは言う。幾らリウル・ブラムが恋愛沙汰に不慣れだと言っても流石に逃げきれなくなっているだろう、今頃は既に答えは出ていると。──これからも末永くよろしくお願いしますの方向で。

 

 そして、それを裏付ける報告がつい先ほど上がってきた。二人は結婚するそうだ。

 

「そもそもあの子は人の上に立つ器じゃないんですよ」

「そうか」

 

 子供の頃から優秀な娘だった、と大公は我が子を前に思う。

 他の子も悪くは無かったが、自身の才覚を最も色濃く受け継いだのがリリーであった。

 

「世の人間を支配する側とされる側に分けるなら、あの子は完全にされる側。何をどう頑張ってもあらゆる面で支配者に向いてない。人の上になど立てはしない。あれを王にしたら三日で国が滅びますよ」

「そうだな」

「力の限り全力で駆けた結果、人々の先頭に立つ事はあるでしょう。しかしあの子に大集団を導く能力は無いし、小集団を纏める力も無い。当人が言う様に、あの子にあるのは殴り合いの技能と──善良なる小市民の心だけです」

 

 リリーがイヨ・シノンをあの子と称する様になったのは、実際に会って言葉を交わして以来の事だ。

 外見年齢は兎も角、実年齢ではリリーの方が幼いのだが。

 

 リリーは優秀だ。若い時の大公に似ている。自信家で、自信に見合った実力を持つ。タレント込みとは言えバハルス帝国皇帝ジルクニフに見初められるほど。

 その能力と研鑽、持って生まれた才覚が彼女に失敗を経験させなかった──訳ではなく、海千山千の貴族界で幾度も政治的外交的な勝敗を経て磨かれて来た。大公とてなまじ優秀に生まれ付いた娘を半端者にしない為に、壁を与え試練を与え、それを乗り越えさせてきたのだが。

 

 そうした実体験に裏打ちされた実力だからこそ、及ばずにいる事が耐え難いという面もあろう。

 何のかんの言ってもまだ十五だ。普通とは程遠い親子関係。一般的な親子の触れ合いなど大公もリリーも必要としなかったし、意味も感じなかった。

 

 それでも愚痴や負け惜しみを聞く位の事はしても良いだろう、と大公は思う。

 

 少女は天井を見上げたままでぶつぶつと言う。

 

「あの子に向いているのは酒場の給仕とか隠居老人の身の回りの世話とか子守りとか……」

 

 言っていて何かが胸の内で再燃してきたのか、苛立った動きで椅子に座り直し、自身の膝を手で叩いて、

 

「──貴人の従者とか! 人に使われる仕事、人の為に尽くす役目が向いている。自主自立より誰かに従い誰かに尽くす、たった一人の為に一身を捧げる、そうした適性の方が余程大きい!」

 

 怜悧な美貌は珍しく歪む。彼女の心に残った一抹の自尊心が仕事を放棄すれば、彼女は頬を膨らませ目に涙を溜めて悔しがっただろう。惜しがっただろう。

 

 ──あれは私が欲しかったのに、と。

 

「最初に出会ったのが私でさえあれば……たったそれだけで何の問題も無く、あの子は私のものだったのに!」

 

 ふーふー、と荒い息を吐きながら歯を食いしばる姿は乙女と言うより、夢破れた若武者に近かった。

 つくづく私の娘だ、とその姿を見て、大公は内心で天を仰ぐ。若かりし頃の自分が魔鏡に映し出されているかの様だ。

 

 大公家の血筋──もっと言うと初代大公の血。それも飛び切り濃い。欲しいモノが欲しくて欲しくて溜まらず、やりたい事成し遂げたい事が出来るとそれだけに専心してしまう。

 

 公国の為に、そして何より皇帝陛下の為に神域の才覚の持ち主を取り込む──紛れもなくそういう話だった筈で、『イヨ・シノンは我々の物にはなりません』から始まったのにも関わらず、今娘の口から出たのは『私のものにしたかった』という願望だけだ。

 

「ラナーにだってクライムがいるのに。私だって私だけの従者が欲しかった」

 

 野望を抱いてしまったのだろうな、と。大公は半笑いの感すらあった。

 

 まあそう云う教育はしてきたのだ。なにせ自分自身鮮血帝の臣下に鞍替えするまで周辺に覇を唱えんとしていたのだから。

 そんな自分を間近で見て育った娘がこんな気性になってしまうのも仕方が無いというもの。

 

 大公はむしろ同情的ですらあった。自分は半生野望を抱き、その為にのみ生きた。もはや過去のものだが、胸の内に絶対の志を抱いていた年月は楽しかったものだ。挑んで負けて、今がある。精一杯を尽くして至らなかったから、生きる為に他の方向を向けた。

 

 対してリリーはイヨ・シノンに関して、何か行動を起こしたわけではない。自分でやった事と言えば姿を見て才能を目視し、自分で話しかけて実地調査を行っただけだ。

 

 ──しかも余裕綽々だと宣っていたからな。

 

 実際に会って確かめてきたリリーは、大公にこう報告していた。

 

『楽勝ですな。赤子の手を捻る様なものです。騙されやすいという次元ですらない、騙すまでも無く手に入りますよ。私が今後もマリーとして接触を続け、折を見て本来の私と引き合わせれば良いでしょう。彼にとって友達の友達は友達でしょうし、誰とくっつけるも自由自在ですよ』

 

 余程自信があったのだろう。近年稀に見る良い笑顔だった。『イヨ・シノンなど所詮はイヨにゃん……否、性質的にはイヨわん?』等と動物扱いするレベルで容易い相手だと確信していた。

 

「くそがぁ!」

 

 今は眼前でこの様だが。流石に外でこの様な発言をしたら立場も忘れて引っ叩く処だが、この部屋の中なら見逃してやろうと大公は思った。彼にだって慈悲の心はあるのだ。

 

 正攻法で仲を深め、正攻法で取り入る。それが可能だという見積もり自体は大公から見ても確かなものだったと言える。だから最終的には合意した。

 リウル・ブラムへの恋心すら、それがあの少年の胸に秘めた想いである内は如何にかなると想定していたのだ。

 

 僅かな時間──数か月ほど──で何の瑕疵も無くイヨ・シノンを手中に出来たのなら、それは最上の結果と言えただろう。新メンバーが加入し、なお欠員補充の見通しが立たない【スパエラ】の活動はしばらく大人しいものになるだろうという予測もあり、それは十分に間に合う期間の筈だった。

 

 アダマンタイト級にまでなってしまうと手が出しづらい。国家は巨人であり政治は怪物で、一人や数人ではその力に抗し得る訳も無い。それが常識だが、アダマンタイト級は常識を超えた存在だ。

 

 彼ら彼女らは冒険者である。殆どの場合公権力とは縁遠いモンスター専門の傭兵で、有り体に言えば力自慢の類だ。だが、力自慢も幾十万の頂点に立つほど極まれば余人とは違った重みを帯びる様になる。

 

 アダマンタイト級冒険者を軽んじる事の出来る人間は、地上に存在しないに等しい。王であろうと皇帝であろうと、大魔法使いであろうと──あの者たちを『一冒険者』として扱う事など出来はしないのだ。

 

 その圧倒的武力。替えの効かない存在であり、掛け値無しの英雄であるが故に。

 人類の切り札とされるその戦力は並大抵では無い。人類最強の代名詞、それがアダマンタイト級だ。国を滅ぼす怪物にすら対抗可能な存在達。

 

 無論、実際にアダマンタイト級冒険者と王が相対すれば、頭を下げるのは冒険者の方であろう。身分の差、礼儀、世の理と言う奴だ。しかしだからといって、王が彼らを顎で使って軽んじるなど絶対に出来ない。

 

 一部の極まった冒険者はその存在価値故に、身分に囚われない。大国の支配者ですら敬意を持ち、尊重し、時として顔色を窺わざるを得ない。凡百の貴族とアダマンタイト級冒険者を秤に掛ければ、殆どの為政者は後者を尊重するだろう。

 

 実力と云うただ一点でもってその高みに上り詰めた者たち。王国の【青の薔薇】や【朱の雫】、帝国の【銀糸鳥】に【漣八連】、竜王国の【クリスタル・ティア】──彼ら彼女らは例外なく、人間の極限に最も近い強者だ。

 

 ましてや【スパエラ】は今回の一件における救世主たちの代表として活躍し、二十年ぶりに誕生した公国のアダマンタイト。民衆が彼らに向ける熱量、喝采や期待は公国の支配者であろうと軽視出来ぬ。出来ぬのだ。

 

 なのでそうなる前に、まだミスリル級で収まっている内に事を済ませたかったのだが──

 

「降って湧いた様に伝説級の化け物が出て! 狙ったかの様に居合わせて討伐し! アダマンタイトへの昇格はほぼ確実! 挙句の果てにリウル・ブラムと結婚! ええいくそ、こんな奇跡まで計算できるか!」

 

 

 

 

「まあ待て。落ち着いてもう少し考えてみろ。まだ手は残っていないか、本当にもう無理か。二人で考えてみようではないか。諦めるには惜しい存在だ」

 

 大公はあやす様に言った。正直大公も無理だとは思っているが、ずっとこのままでいられても鬱陶しいので正気に戻す為に頭を使わせようという魂胆であった。

 

「惜しい。惜しいですよ。最悪薬でも盛って種だけでも──阿呆か私は。正攻法が良いと判断したのは私自身であろうが。関係性の悪化、低い成功率、現実的で無い。あの子ほど肉体能力を高めていては生半可な薬では効かないし、そもそもあの子は毒使い。自らも用いるのに他人がそれを用いる可能性を考えない訳が無い。あー馬鹿馬鹿」

 

 ──頭自体は良いのに、頭脳ではなく心でモノを考えたがる奴だからな。

 

 特に追い詰められた時ほどその傾向が顕著になる。土壇場で直感に従う、これもまた大公家の血筋であった。当時の大公が皇帝ジルクニフを前にして戦わず跪いた様に。

 大公はもう人生半分生きて落ち着いてきたのだが、若い娘にはまだ難しかろう。

 

「無理ですよ。イヨ・シノンだけならどうとでも料理出来るし、本人さえ丸め込んでしまえば個人の事に赤の他人が口出しするな、本人の心は決まっているぞという理屈も使えましたが、リウル・ブラムは無理です」

 

 リウル・ブラムは有名人だ。国内に三つしかないオリハルコン級チームの一員であり、音に聞こえた天才児である。本人が生い立ちを隠さないだけあって知ろうとすれば幾らでも知る事が可能である。

 そしてチームの一員としての彼女は兎も角、私人としての彼女は大の貴族嫌いだ。父親の放蕩振りと貴族趣味に端を発したその気性は、実際に尊敬に値しない幾人もの貴族と関わるに連れて非常に強いものとなっている。

 

 勿論リウル・ブラムは大人である。そして仕事人だ。貴族を目にするのも嫌だとか、貴族階級に属する連中は例外なく悪人だ等と云う思想を持っている訳ではない。内心好かないと思っている者からの依頼でも、一度受けると決めたなら黙々と仕事をこなすだろう。

 高位冒険者としてそうした割り切りは出来る人物だ。そして、尊敬に値すると認めた相手なら貴族だろうと商人だろうとその対応は分け隔てない。

 

 事実、【スパエラ】に指名の依頼を出す貴族、冒険者としての【スパエラ】を信用している貴族は多い。大公とて公都に住まう彼らに何度か依頼を出しているし、そう長い時間では無いが直接言葉を交わした事もある。

 

「彼女が夫が貴族になる事を許容しますか? 自分が貴族となる事を許容しますか? ただ純粋に冒険者として活動するだけなら爵位など無用の長物、無用なら必要ない。イヨ・シノンにとってそうした彼女の言葉は絶対でしょう。実際彼らの活動スタイルならクソの役にも立ちませんしね」

 

 高位の盗賊にして斥候たる彼女の力量は鍵開けや罠解除のみに留まらず、所謂裏の事情裏の思惑、政治的策術の類にも嗅覚が働く。オリハルコン級──否、二十年ぶりに誕生したアダマンタイト級冒険者のそれは間違っても侮って良いものではない。

 

 イヨ・シノンという破格の人材を欲しがる者がいるなど、それこそ赤子でも分かる事。隙の塊の如き少年をカバーする為に、彼女は接近する全ての相手に対して警戒を怠らないだろう。

 冒険者として仲間であるのみならず私人として伴侶となっては尚更である。魔法詠唱者ベリガミニや戦士ガルデンバルドとて高位冒険者に相応しい知見の持ち主であり、侮れない。

 

 それ故に前回リリーはマリーに変装し、リウル・ブラムを躱してイヨ・シノンと交流を持ったのだ。オリハルコン級冒険者の警戒網を掻い潜り、イヨ・シノンの友人と言うポジション──後の戦略における橋頭保を築くために。

 

 今となっては半ば無駄だが。

 

「そしてイヨ・シノンを女で調略するのももう無理。なにせ結婚しちゃったんだから。あのお子様が愛故にくっついちゃったんだから。他の女とか絶対無理。下手に迫ろうものなら変態としてぶっ叩かれるんじゃないですか?」

「そこまで潔癖か?」

「あのお子様にとって結婚は神聖な契約ですよ。両親の仲が良かったと言っていましたし、その姿が恋愛観結婚観の根本にあるのでしょうね。妻は生涯通して操を、愛を、敬意を捧げる相手。浮気? 無理無理。お子様であるが故に無理。あの子がリウル・ブラムに抱く愛は幼児が父母に向けるものと同等かそれ以上の混じりけの無い愛──いや、根っこの所では憧憬に近いやもしれない」

 

 どんな美女や美少女を差し向けても友人以上に仲を深めようとした途端、『この人は既婚の男に色目を使う様な人なんだ……』という失望と嫌悪を抱き、二重三重に嫌われて距離を置かれるだろうと少女は述べる。リウルに対する自分の想いが軽んじられた様な、汚された様な気さえするだろうと。

 

 子供は単純で純粋で、故に潔癖である。特に恋愛方面に関するイヨ・シノンはそうだ。確固たる相手が出来た以上その他の異性同性はリウル・ブラムとの関係が解消される事態でも起きない限り──解消されてさえ数年は引きずりそうだが──永遠に恋愛対象としての土俵に上がれもしないだろう。

 

 そうした性質があると思っていたからこそ、片思いの内に横からかっさらおうという計画だった。

 

「厄介な事に、あの子は何故か色恋沙汰に関しては鈍くも疎くもないのですよねぇ。何の経験も無さそうですし、事実無いでしょうに。動物的感覚で動いているとでも言えばいいのか…」

 

 やけくその態度で手をひらひらと振る動作をしながらリリーは言う。そんな彼女に大公は思わず素の態度で、

 

「お前はイヨ・シノンの専門家か何かか?」

 

 何のかんの言っても一回会って言葉を交わした、直接の接触はそれだけだろうに、と。

 

「言い得て妙ですね。確かに、私こそが公都で五人目のイヨ・シノンの専門家と言えるでしょう」

 

 嫌味も通じなかった。

 

「くそ、リウル・ブラムめ。あの様なら関係性の発展までに年単位の時間が掛かると思ったのに……容易く押し切られたな。これだから冒険しかしてこなかった女は。まともに異性と付き合った事も無いのか」

「お前が言えた事か?」

 

 公国において至上の権力者の娘として生まれ落ちたリリーも、世間一般で言う『まともな異性との付き合い』などしたことが無いだが。

 黄金のラナーの対として白銀と称えられる生来の美貌をリリーは自身の武器として自覚し、それを最も有効に用いてきたが、それは実際には手を触れさせる事もない見せ札として使い方であった。

 

 あーあとひと際大きく嘆声を上げた美貌の少女はまるで男の軍人の如き動作で身を叩くと、誠にお淑やかかつ少女らしい動作で椅子に座り直した。

 背筋を自然に伸ばし、手を重ねて腿の上に置く。浮かべる微笑みはそのまま絵画にしても良い位の魅力溢れるもの。

 

 少女と女が同居した魅力を放ちながらリリーは歌う様な口調で、

 

「まあ良しとしましょう。リウル・ブラムの才能は他国のアダマンタイト級と比べても遜色ない。そこらの凡才女とくっつかれて神の才覚を薄められるよりずっとマシだと思えば、事態は最悪と言う程でも無いですし」

 

 破局してくれれば傷心のあの子を落とすチャンスでもあります、と少女は続ける。

 

「出来る事なら積極的に破局させたいくらいですが、正直それも難しいでしょう。あの子のリウル・ブラムに対する信頼は全面的かつ圧倒的ですし、リウル・ブラムもイヨ・シノンという人間を良く理解している」

 

 仲違い『させる』事は難しい。無理くり誤解を生じさせた所で話し合いを行われれば其処まで。二人とも思い込みの激しいタイプではないし、確認を取らず相手を疑ってしまう程せっかちでもない。素の相性も花丸レベルだ。

 むしろ仕掛けを見破られる恐れもある。その場合、イヨ・シノンなど癇癪を起して鉄砲玉となって突っ込んできても不思議ではない。城壁を殴って破壊できるお子様など怒らせたくない、それは誰だってそうだろう。

 

「仕切り直しましょうか。流石に何時までも過去ばかり見てはいられません」

「──賛成だ」

「まず前提として、イヨ・シノンの身柄を抑え、こちらで選んだ女と掛け合わせて血統ごと確保する事は現時点では無理。かといって諦めるには勿体ない。──私は次代を見据えたいですが」

「彼の子か」

「勿論あの子自身も公国から出さない。既に里心付いているでしょうし、このままこの地を第二の故郷としてもらいましょうか」

 

 【スパエラ】は一度は王国に拠点を移した前科があるが、その際に活動地としてのリ・エスティーゼ王国には失望している。もう一度好き好んでそちらに行こうとは思わないだろう。

 そして帝国に行かれるならそれはそれで良い。問題は無い。それより遠方は──今後大きな動きが無ければ可能性としては除外で良いだろう。

 

「それに、考えようによっては数が増えるので良いかもしれません……あの二人なら子供二、三人は堅いでしょう。出来れば全員我々が頂く」

 

 リリーは王者の笑みで──公女だけれども──にっこりと笑った。

 

「まずは計画を前倒しして、真っ向からあの子とお友達になりましょうか。ええそう、家族ぐるみの付き合いをするくらいの、身分も立場も超えたお友達に。これには殿下のお力もお借りしたい。私と殿下ならば殿下の方が有利ですからね」

 

 報告で見聞きしただけの者と実際に接触した者の差故、この案件に関しては大公よりリリーの方が的確な案を出す。その案を補正して実行の形に移すのが大公の役回りであった。

 

「【スパエラ】の功は大きい。他の功労者共々直接招いて褒美を与えるのは容易い、というかむしろ当たり前だ。そこで時間を作るのも──しかし、私の方が有利か? 女であり年が近いお前の方が彼も接しやすいのでは?」

「殿下の方が圧倒的有利です。何故ならば、殿下の方が年上であり偉いからです」

「──うん?」

 

 ピンと来ないといった風情の父親を前に、リリーは肩をすくめると首を横に振った。その整った顔貌はちょっとした優越感で綻んでいる。何事であれ、尊敬する父の上を行く、父の分からない事が自分には分かるというのが、彼女にとっては心地よくくすぐったいのであった。

 

「仕方ありませんねぇ。イヨ・シノンマスターである私が殿下に教えて差し上げましょう」

 

 アホみたいな肩書だなと心底思う。というかたった一回会っただけでマスターされてしまったイヨ・シノンとはどれだけ単純な人間なのかと。大公は大人なので口には出さなかったが。

 

 そんな父の心を娘は知らず、リリーは椅子を引きずって執務机に近づくと、書類の山の中から白紙の紙と筆を取った。

 慣れた手つきで白紙に描くのは、

 

「犬……?」

「あの子の事は犬だと思っておけば良いのです」

「……」

 

 私の教育が悪かったのだろうか、教師として付けた者の中に妙な性癖を持った者が紛れ込んでいたのだろうかと悩んだ大公だったが、その視線を受けたリリーは言い訳をする様に、

 

「なんですかその眼はっ。少し変な言い方にはなりましたが、要するに私はあの子の人間性の根本がよく躾けられた犬の様だと言いたいだけです」

「──」

 

 『こいつを皇帝陛下の下へ嫁にやって良いのだろうか』とさえ考え込んだ大公の硬直をどう解釈したのか、リリーは犬の絵を筆先で突きながら言葉を紡ぐ。

 

「世間一般においてはむしろ猫的な気性であるとの見方も多いようですが、私の見解は違いますね」

「すまん、何処の世間一般の話だ? まさかとは思うが私の国の事ではあるまいな……?」

 

 リリーは黙殺した。

 

 リリーは自らが描いた犬の絵に、首輪と紐を書き足す。そして隣にその紐を引いた人間を追加する。飼い主と思しきその人物は何処となくリウル・ブラムに似ていた。

 

「犬は集団で生活する生き物でしょう。それに上下の関係が決まっている。誰かに従っている方が精神的に安定する。あの子にも同じことが言えます」

 

 犬と飼い主の周りに老若男女を書き足し、ついでにその隣には如何にも悪人といった人相の悪い人物に噛み付く犬を足す。悪党が嫌いだというイヨ・シノンの姿だろう。

 

「あの子は人が好きなのです。基本的に他人に対して好意的ですが、優れた長所を持つ人間には特に好意的です。努力家である、真面目である、心優しい、勤勉、親切、強い──そうした長所ですね」

 

 更に書き加えられたのは巨大な甲冑姿と杖を持った魔法詠唱者。ガルデンバルドとベリガミニ。両者の傍らにはそれぞれ『屈強、巨大、剛力、優しい、妻子を養う父親』『博識、頑健、魔法詠唱者、お年寄り、優しい』と注釈が付けてある。

 

「年長者、先達、目上の者に対してもとても従順です。よく躾けられた犬の如し、実に扱いやすく好ましい。年少者、子供に対しては面倒見がいいですし庇護欲が強い。母性──失礼、父性から来るものもあるでしょうが、幼い弟妹を故郷に残している反動も多々あるでしょう」

 

 此処からが重要ですが、と他の絵より気合の入った筆致で描かれるのは──着飾り、今までの登場人物たちの上に位置する者たち──貴族の絵。

 

「あの子は公権力にも従順です。自分で言うのもなんですが、我々は偉いでしょう? れっきとした地位と権力、それに責任と義務がある。人より重い責務と責任を背負って生まれ育ち、それを果たす──そうした姿はあの子にとって殊更に立派で凄いと、そう映る訳です」

 

 イヨ・シノンの生まれ育った国は民主主義を掲げていて、表向き国民は平等であり貴族や王族等の生まれながらの特権階級は存在しない扱いだったそうだ。

 しかし現実には巨大複合企業なる幾つかの大商会が国を支配しているに等しい影響力を保持しており、国家政府は傀儡で、その者たちは正に特権階級。大多数の庶民とは殆ど物理的に隔絶した場所で優雅な生活を送っていて、そうでない者たちはイヨ・シノンが『正常に呼吸をするにも費用と道具が必要』と比喩する様な生活を送っているらしい。

 

 アーコロジーなる建造物内に住まう特権階級者は、その外に住まう人々の事を気に掛けない。

 

 イヨ・シノンの国が如何なる歴史の末にそうした姿を取るに至ったかはリリーには分らぬが、正直その有様を聞いた時酷く歪だと思ったのを覚えている。君臨もするし統治もするが、自分たちだけの住居に引きこもってその責任は取らず、ただ搾取している、と。

 

 世に言う『悪い貴族の過酷な統治』とは一枚違った気持ちの悪さ、質の悪さとでも言えばいいのか。

 

 そうした国で育ったイヨ・シノンからすれば姿をさらして人々の上に立ち、実際に国を統治する貴族や王族の在り方は、妙な言い方になるが正々堂々としたものに感じられるのだそうだ。

 実際に舵を切り、責務を背負う。イヨ・シノンの言葉を借りれば『同じ場所に住んで、本当に導いてくれる』という姿が。

 

 尊敬を目に宿してそう語る少年の姿は正に幼子といった風で、少しばかり綺麗な解釈をし過ぎている様にも見えた。

 そして同時に思ったものだ、『これを利用しない手は無い』と。

 

「殿下は公国で最も強大な権力と、最も重い責任を負うお方。年齢もイヨ・シノンから見れば父親くらい。殿下は殿下であるだけで、既にあの子から相当な畏敬の念を抱かれております」

 

 その畏敬の根っこは『きっと立派な人に違いない』という思い込み、『良い人であってほしい』という期待であり、実際の姿を見ないまま、市井の人々の暮らしを見て、その中に入り混じって居住するうちに出来上がった偶像ですらある。

 

 大公は悪政を敷いている訳ではないし、民を富ませているという点に関しては良き支配者であるが、決して聖人君子ではない。子供の想像に添える程綺麗なだけの男では無いのだ。

 汚い事も後ろ暗い事も、必要とあらば行ってきた。

 

 だがわざわざそんな所を見せる必要はない。

 

「あの子の働きを大いに褒め、労い、優しくしてやってください。さすればあの子の尊崇は確かなものとなりましょう。多分あの子の方は言われずとも畏まりますから、殿下は威厳を保ちつつ親しげなくらいがいいでしょう」

「ふむ。お前はどうするのだ?」

「私はあの子より年少ですから、公女として気丈に振舞いつつも年相応の弱さを垣間見せる風でいこうかと」

 

 人間的な弱さをチラ見せしつつ責任感故、民草にとって理想の公女たらんと頑張る──そういうのがイヨ・シノンにはドンピシャなのである。頑張るとか一生懸命とか、そういうのが好きな奴なのだ。頑張っている人を見ると応援せずにはいられないのだ。良い鴨である。

 

 イヨ・シノンの眼力では貴族社会で鍛えられた腹芸を見抜く事など不可能。他の【スパエラ】の面々でさえ、悪事は兎も角腹芸となると怪しい。彼ら彼女らがアダマンタイト級の冒険者であるように、大公と公女は政治という世界におけるアダマンタイト級なのだ──明確な格上としてバハルス帝国皇帝ジルクニフが存在する事を考えるに、オリハルコン級と下方修正した方が良いやもしれないが。

 

 二人はその後も様々な大小の事柄を話し合うと、

 

「当座の所はこんなものか」

 

 大公のその言葉を最後に、話題が変わる。リリーの落書き帳と化していた書類を脇にのけ、紙束の山から一枚また一枚と書類を抜き出し、順に処理していく。

報告書の内容を頭に入れ、時には差し戻して書き直しを求める。部下の前でするのとは異なる素早さと正確さだけを意識した手つきでハンコもしくはサインを行う。

 

 大公が手でそうする間も、政務の一部を請け負うリリーとの会話は続く。

 

「そろそろ法国にも情報が届いた頃でしょうか? あの国は吸血鬼の存在を知っていたとものと推測しますが、あえて野放しにしているのでしょうか。我々は其処まで疎まれている?」

「それは無いな。連中は私を蛇蝎の如く嫌っているが、殺すとしても私一人の筈だ」

 

 必要とあらば法国は無辜の民草であろうと殺す。そうするだけの意味があるなら千人でも万人でも。大公はそう理解しているが、同時に意味も無く人間を殺す様な事はしないとも思っている。

 大公が邪魔ならば大公だけを排除する事が法国には可能である。可能であるのに吸血鬼などを用いて街中で暴れさせる意味が無い。今の時期に公国が揺らぐ事を彼らは望まない筈。

 

 大公は神を信じていない為心からの共感は出来ないが、人類の守り手たらんとするかの国の信念は確かなものだ。長きに渡る歴史の中で磨かれた人類生存への想い。

 他国が見えていない、気付いていない分まで脅威を排除し、人類全体を守っている。その活動は公国の情報収集能力をもってしても全体図を窺う事は出来ない。

 

 大公的には『ありがとう』という感じである。法国が裏でやってくれているだろう分まで自国のみで対処するには予算も人材も足りない為、非常に助かっている。その感謝の念を献金で表してもいい位だ。働き相応に払うと此方の懐がアレなのであくまで『感謝の念』程度だが。

 

「単純に、対処し切れていないのだろう。想像するに、一度は相見えたが取り逃がしたといった所か……。彼らとて人だ。我々より遥かに優越していようとも限界はある。お前は少々法国を過大に、同時に過小に評価しているな。彼らは神でも無ければ悪魔でもないぞ」

 

 法国の国力、抱える戦力はその他の人間国家を薙ぎ払えるほどだと推測できるが、それを人間に向けて悦に浸るほど愚劣でも暇でも無い。その殆どの力は正しく人類の生存の為に振るわれている。ただ、幾ら強大でも広大な人間の領土と多くの人命全てをカバーする事は不可能。故に彼らは守れる最大数を守る為に少数の犠牲を切り捨てる。

 

 本音で言えば大嫌いであろう大公が治める公国でも、彼らは感情を交えず守り通しているのだ。多分クズだのゴミだの罵倒を吐きながらだろうが。

 

「遠からず、法国の活動は秘密裏に行われるだろう」

 

 大公は法国に感謝している。今日の人間の命があるのは、多くが彼らのお陰だ。今も現在進行形で守られている。まるで無力で無知な子供を大人が守る様に。

 

 ──何時までもただ守られていると思うなよ。

 

 大公は反骨の人である。自分の能力に自信を持っている。昔とは少々変わったが、根っこの所は変わらない。

 

 自分の国すら自分の力では守れない────本来国防の任を負う訳もない他国の人間に守られている──そんな事実は一国の支配者にすれば屈辱である。自分の事すら自分で出来ない子供だと言われているに等しい。

 

 いずれ追い付いてやる、と大公は内心の深く深い所で思う。その時には公国は無いだろう。自分どころか娘すらこの世に無い後世に違いない。

 

 だが追い付く。何時までもおんぶにだっこでいられるものか。娘であるリリーを通じて後代のバハルス帝国皇帝に流れる大公家の血が絶対にそれを成す。

 

 遥か先を行く、一国で人類を守り続ける大いなる強国に追い付く。追い付き、対等の目線で対等の立場に立ってやる。もう守られる事のない強さを手に入れる。彼方が此方に頼るくらい、むしろ守ってやるほどの強さを。

 

 大公は若き日に夢見た。自身が統治する大帝国を。

 大公は現在の一瞬に夢見る。人間が支配する大陸を。

 

 ──道中は困難なほど良い、敵は強大なほど良い。達成が至難であればこそ、それは叶えるに値する大望となる。男に生まれた以上、大きな夢を見なくてどうする。

 

 法国に追い付き、並び立ち、追い越す。法国の願いは人類存続。大公の夢想はこの瞬間、その一歩先──人類の覇権を見ていた。

 

 勿論大公は異種族の強大さ、現実というものを理解している。法国ですら大陸中央の六大国はおろか評議国にすら、真正面から喧嘩を売ろうなどとは露とも思っていない筈である。

 仮に実現可能だとしても何百年後か何千年後かという話であろう。

 

「だが、それだけの大望なら──この身の今生は礎で構わない」

「急にどうされました、殿下?」

「いや、少し悪巧みをな」

「好きですねえ、悪巧み」

 

 私も好きですが、と裏表のない笑みでリリーは笑った。

 その礎のそのまた一つとして、イヨ・シノンが内包する神の才覚が欲しい。フールーダ・パラダインをも遥かに超える人類の限界を超えた才能の血統。

 

 あれは絶対に公国の、帝国の、そして人類の役に立つ。

 

「もう少し予算の無駄を無くせませんかね。今回の一件もありましたし、公都は勿論公国全体の防衛をもう少し如何にか……今回のような極大級の脅威を想定して……法国におんぶにだっこも癪に障りますし、直ぐには無理でも自力で如何にかしたいものです」

「大いに賛成だが、その為にはまず目の前の案件を処理せねばな」

 

 日々の仕事も疎かには出来ない。どんな大望も地道で小さな一歩なくしては成らないのだ。対等の力が無くては対等に言葉を交わす事は出来ない。公国と帝国は、ジルクニフという絶対の権力を頂点に進んでいく。

 

「帝国魔法省にご協力いただいて、武具の魔化を前倒して進められませんかね。皇室空・地護兵団の纏う鎧は素晴らしいものでした」

「あの武具は同じ重さの黄金を超える価値があると言う。昨今の我々の懐事情は近年稀に見る暖かさだが、必要な金銭と、更には金さえ出せば幾らでも手に入れられる類ものでない点を考えると直ぐには無理だな」

 

 これは二人だけではなく、他の部下とも話し合うべき議題であった。

 お前がその眼で有望な者を拾ってきてくれれば楽なのだが、と大公は意識して軽口を叩いてみた。娘は何処か作った様な声で笑った。

 

「エルアゼレット殿から瓦礫の下で魔法儀式の痕跡を発見との報告──発生した負のエネルギーの受け皿の役割を担うモノで、一部に人間の血液が使用されている、と。随分と筆致が乱れていますね」

「興奮と過労が見て取れるようだ。いい加減睡眠を取らないと倒れると何度も言ったのだかな……」

 

 途中入室してきた官僚と秘書も交え、職務は夜が更けるまで続いた。

 




私は先日田んぼに続く農道を歩いていた所、後ろから熊に追い越しされました。あまり熊の生態には詳しく無いのですが、随分小さかったので子熊だったのかもしれません。あんなに近くで見たのは初めてでした。
勿論逃げましたよ、ええ。


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公城にて

 イヨ・シノンは大層慌てていた。時はデスナイト討伐より四日目。愛しい人へのプロポーズが成功し、冒険者組合からアダマンタイト級への昇格を伝えられた次の日である。

 

 少々性急の気もする昇格ではある。【スパエラ】は未だ治癒を司る者が不在の、欠員を抱えたチームだ。しかも一度しか依頼を達成していない新人もいる。

だが組合は様々な事情を総合的に判断し、昇格を早期に決定し、【スパエラ】もそれを受け入れた。

 

 二十年に及んだ空位の時代と降って湧いた大災厄の討伐、揺らぐ人心。それらを鑑みれば、実力的には妥当とされるチームを──不安要素があるとは言え──そのままにしておく手は無いだろうとの決断に達した様だ。

 普段影の薄い組合長が仕事をした結果だ。無論彼女は何時でも真剣に働いているが、副組合長がしっかり広告塔として機能している為、裏方的に捉えられがちであった。一番頑張っているのに。

 

 イヨは公私の両面で数多の人々から祝福の言葉を頂き、嬉しいやら恥ずかしいやら、今後も一層励まねばと思いを新たにした所で、その話は告げられた。

 

 公国で最も高みに近い場所──大公殿下がおわす公城へと呼びたてられたのである。イヨは大層困った。

 

 無論怒られる訳ではない。それどころかこの上なく賞賛されるだろう。此度の事件で功を立てた他の多くの人々と共に、その筆頭として。

 

 だがイヨは使者から登城を願われて、焦った。

 

「何をそんなに焦ってんだよ、お前」

「だ、だってリウル、大公殿下だよ? 一番偉い人だよ、王様だよ」

 

 大公である。王ではない。

 普段ならば使わないお高い宿屋の一室で、イヨは落ち着きなく視線を動かしながら、

 

「いやだって僕、作法とか分からないし……礼儀がなってないとか言われて処刑されそうになったらどうしよう……」

「どんなイメージだ、それは」

「お伽噺の悪い貴族じゃねぇんだぞおい」

「無い無い。イヨ坊が出合い頭に大公殿下の顔面をぶん殴ったら話は別じゃがの」

 

 高級品というモノは偉大である。素の体重ですら二百キログラムを超える──装備品込みならもっと重い──ガルデンバルドの巨体を支えて、豪奢な椅子は軋み一つ上げない。

 最近腰痛が悪化してきたと零す事の多いベリガミニも、久し振りに全く痛みを感じずに座ることが出来ていた。

 

 普段最も安い宿屋の相部屋を好むリウルも自分が金を払っている訳では無いので、心から金貨が何枚何十枚吹っ飛ぶか分からない代物に腰掛けていられた。

 

 正面のリウル、左隣のガルデンバルド、右隣のベリガミニから半ば呆れの込められた目で見つめられたイヨは、でもでもと焦った様子で、

 

「……怒られないかな」

「平民のちょっとした間違い程度でブチ切れて処刑だなんだと騒いでたら国のトップなんかやっていけねぇよ。いや、怒らなきゃいけない状況ってのもあるだろうけど」

 

 周辺でも一際小さい弱小国であり、正面からの喧嘩となったら王国一国相手でも滅ぼされる可能性が濃厚だった国。それが公国である。

 見下される事もままならない事もあっただろうし、それで一々激高していたらどうにもならない。無礼だからと言って救国の勇士たちの一人を殺そうとするなど、上に立つ者としては器を疑われる所業だろう。

 

「ふ、服とかどうしたら良いと思う? この服で本当に良いのかな、ちゃんとした服の方が……紋付き袴と燕尾服のどっちが良いかな?」

 

 仲間の眼しかない状況なので、イヨは警戒心が無いに等しい。

 アイテムボックスをでかでかと開けて、中から持っている衣服の中で最もフォーマルな二つを取り出し、左右の手に持ってこっちかなそれともこっちかなとやっている。

 

 イヨの友人が作成してくれた数々の衣装の中でもこの二つは、防具としての性能は低く鋼の全身鎧とどっこい程度であるが、外見がカッコいいのでイヨお気に入りの品だったりする。ゲーム内で着る機会は殆ど無かったけども。

 

 先達三人はその風変わりな衣装を見て、いやいやと首を横に振る。

 

「服は向こうで用意してくれるんだから良いんだよ。使者だってそう言ってただろ。少なくともその……なんかすげぇ服は着るな。悪目立ちする」

 

 つーかスーツの方は兎も角そっちは何処の国の装束だよ、とリウルが疑問する。と言っても、答えを聞きたい訳では無さそうな様子だ。

 

「仕舞え仕舞え、平時でもカモフラージュ用のマジックアイテムから取り出している様に見せ掛けろと前に言っただろう?」

 

 多種多様かつ山を成す量の衣服の中に紋付き袴と燕尾服が埋もれていく。『王侯貴族でもこんなに服持ってねぇだろ』とは初見時のリウルの台詞である。

 

「妙に緊張しておるなぁ、イヨ坊。そんなに人見知りだったかの?」

「お得意様に挨拶回りした時だって緊張してたよぉ、でもあの時は挨拶と自己紹介くらいで済んだからまだ大丈夫だったのに……」

 

 オリハルコン級にまで上り詰めた【スパエラ】に指名の依頼をくれるお得意様は、結構な割合で有力者だったり名の知れた商人だったり力ある貴族だったりするのである。付き合いがあると言っても決してお友達では無く仕事上のそれである場合が大多数だ。礼儀作法は当然守らねばならなかった。

 人としても自分よりずっと大きく、遥かに年上で、仕事の出来る大人たちの下への挨拶行脚は、イヨにとってはかなり緊張する出来事だった。

 

「お前ルキスラ帝国やらアイヤールやらの皇帝と会った事あるとか言ってたじゃねぇか。いい加減慣れろよ」

「あ、いや、会ったは会ったけどそれは……」

 

 TRPGの中の話である。

 イヨの卓はさほどレトロなスタイルに拘っていた訳では無いので、公式NPCの多くはルールブックにデータが付属している立体ホログラムを被ったGMだし、オンラインでも同じだ。音声だって固定の電子音声以外はボイス変換が主流でこそあるが、それでも喋っているのがGMなのは変わらない訳で。

 

 ルキスラの皇帝ユリウス・クラウゼの方は死後昇神したのもあってユグドラシルとのコラボでもNPCとして登場しているが、生身の生きた人間、実際に国を統治しているお方と比べるのは無理がある。

 

「……セラフィナ陛下やユリウス陛下は……ぶ、武人気質? で、身分の差とかを感じさせないお方だったから……」

「ああ、そう言えば二人とも滅茶苦茶強いって言ってたよな。お前と気が合ったのか」

「う、うん……そんな感じ……」

 

 イヨが語る『僕の故郷の話』はその多くが現実世界とユグドラシルとSWをごちゃ混ぜにした人外魔境譚であった。そのまま話すと齟齬が出るからとその場の勢いで辻褄を合わせ、楽しかった思い出を思い出のままに喋った結果がこれである。

 

 篠田伊代が生身にて対面し、会話した事がある『偉い人』は学校の先生方に道場の先生、家に訪れてきた両親の上司、大会で入賞した時に表彰状を渡してくれる人、その辺りであった。

 

 其処からいきなりモンスターが跳梁跋扈する世界で三百万の民草を擁する国の頂点を務めておられるお人に招待されたとなれば、緊張するのも致し方ないであろう。

 

「なに、大公殿下は良く出来たお方じゃ。心配する事はあるまいて」

「大公殿下ってどんなお方なんだっけ……?」

 

 イヨとしては不安感から出た言葉であり、『優しい方だったらいいなぁ、怖かったらどうしよう』と言った意味合いの台詞であったが、にこやかだったベリガミニが渋面になる。

 

「儂が教えた気がするんじゃがなぁー、何度か指名依頼を受けた重要な依頼主であり、名実ともに公国の頂点たるお方としてしっかり教えた気がするんじゃがなぁー」

「あ、いや、その、【スパエラ】に関わる人たちって多すぎていきなり全部は覚えられなかったって言うか……」

 

 なんにも知らなかったイヨであるが、働く上で自分のいる国の事も所属しているチームのお得意様の事も何も知らない、知らないままでいる何て事が許される筈も無く、当人と周囲双方の求めにより教育は始まっていた。

 

 主要な講師陣はリウル、ベリガミニ、ガルデンバルドである。格闘に対して非常に高い適性を発揮するイヨだが、反面おつむの方は常人並みであり、常人離れした世間知らずと予備知識の無さが為、未だ求められる水準に達していなかったりする。

 

 授業態度は基本的に真面目なのだが、まだまだ時間が足りないのであった。

 

 ベリガミニはイヨの方に五秒ほど視線を留めると、急に天井を見上げ、何も考えず文章を音読する様な声音で、

 

「大公殿下は幼少の頃より非凡な才能を発揮され、また日々の努力を怠らず今日の公国の繁栄を実現なされた。その知識は深く、知恵は冴え、また下々の者に対しても慈悲深く、治世は元より用兵においても多大な才能を──」

「あ、何処かで聞いた覚えある」

「そりゃ表立って悪口言う奴はいないわな」

「……実際の所はどうなの?」

 

 おいおい不敬だぜその物言いは、とリウルが半笑いで告げた。続けたのは苦笑いのガルデンバルドだ。

 

「実際、親子共々優秀な方だよ。少なくとも公国内で悪い噂は聞かないな。話した感じ自信家だが傲慢でも無いし、まあイヨが怖がるような方ではないな。むしろ好ましいとすら思うだろう」

 

 ガルデンバルドは巨大な手掌でベリガミニを指した。

 

「先程の美辞麗句もまんざらお世辞という訳では無いんじゃよ、ああも列挙されると如何にもおべんちゃらに聞こえるがの。少なくとも殿下の力量のほどは、代替わり以降の公国の繁栄が証明しておる」

 

 ベリガミニが視線をやるとリウルはこれが俺の答えだと言わんばかりの態度で、

 

「俺は王国に嫌気がさした後、この国に戻って来たぞ。帝国に行こうかかなり迷ったけどな」

 

 帝国に行ってたらお前と出会えてねーし、その点も含めて俺は自分の判断は正解だったと思ってる。リウルはそう言い切って視線を逸らした。

 

 仕事中は仕事仲間として接しようと、四人で集まった時に開口一番にそう提案したのは彼女である。恋人として夫婦として接するのはあくまでもプライベートで、二人きりの時だけにしようと。

 

 【スパエラ】の四人でいる時は当然として、人前では冒険者でいたい。冒険者でいるべきだ。最早自分たちはアダマンタイト級であり、真なる冒険はこれからが始まりなのだから。

 

 そう語ったリウルにイヨ、ベリガミニ、ガルデンバルドの三人は同意した。が、こうして外部の眼が無い環境で、なおかつイヨが不安がっている事から、リウルは敢えて『冒険者でない姿』を見せたのだろう。

 

 事実、その一言でイヨは目に見えて平静を取り戻し、その様子を見た年長二名も相好を崩した。

 

「おやおや、我々の前でそういう姿を見せるという事は、揶揄っても構わんという事かの?」

「いやぁ爺さん、早かったよなぁ。何時かはこうなると予想はしていたが、まさかこんなに早いとは予想外だったよなぁ。近頃の若い者は情熱的で見ていて眩しいなぁ」

「二人して水を得た魚の如く語り出してんじゃねーよっ」

 

 意地でも表情を変えてなるものかと云った鉄面皮でリウルが小さく叫び、イヨはころころと笑った。

 そんな二人の姿を目にし、年長者たちは矛を収め、真面目な話を再開する。

 

「大公殿下のみならず公女殿下も有能で有望なお方と聞いている。積極的に政務に携わっておられるらしいし、孤児院への訪問等も非常に精力的だな。大公殿下は共に優秀とされた男児二人に先立たれるなど身内の不幸が目立ったが、残ったリリー様も随分出来が良いらしい」

「特にその美しさ可憐さは白銀と謳われ、リ・エスティーゼ王国のラナー殿下と並んで黄金と白銀の姫君として名高いのう。実際両方を見た儂が保証するが、確かにお美しいお方よ」

 

 そして、これは真偽の怪しい話なのだが、如何にも姫君と言った外見に反してお転婆な人物でもあるとされ、幼い時分より城から抜け出しては身分を偽り、城下を見て回っているとの噂があるそうだ。

 

 その噂話によるとリリー殿下は鍵開けと変装の達者であり、従者や世話係を巻いては、信頼する少数の護衛のみを率いて城下で民草の生活を見て回っていると言う。流石に一国の姫君がそう簡単に何度も脱走できるとは思えないが、公都の民草の中で地味な髪色の見慣れない美しき少女を見た、知り合いが実際に話をした、その少女こそは変装したリリー様に違いない──等と言う都市伝説が実しやかに囁かれているらしい。

 

「まあいずれにしろじゃな、悪い扱いはされんだろうという事じゃよ。我ら冒険者が大々的に英雄として賞賛を受ける等公国においてすら滅多に無い事じゃ」

「何度も言うが、褒められに行くのだからな。胸を張って堂々としていたらいい」

 

 大丈夫大丈夫、緊張する事は無いぞ。揃ってそう言って聞かせてくれる先達たちに、イヨはようやく表情を落ち着かせた。

 

「だ、だよね。褒められに行くんだもんね。大公殿下も公女殿下も良い人みたいだし……うん、緊張する事なんか無いよね」

 

 

 

 

「あわわわわわわ」

「落ち着け、落ち着けイヨ」

「震えるでない。この先、悪目立ちすれば末代までの恥となりかねんぞ」

「ゆっくり深呼吸、ゆっくりと深呼吸をするんだ、イヨ!」

 

 歯の根が合わぬ。視界が狭い。震えが止まらない。デスナイトと戦った時でさえ武者震いであったのに、今の震えは正真の恐怖と緊張から来るものであった。

 

 宿にとても立派な馬車が迎えに来てくれた時点で『あれ?』とは思ったのだ。でもその時はまだ、大丈夫だと思っていた。

 

 ただその無根拠な『大丈夫』は、公城の前で整列して出迎えてくれた騎士の方々の一斉の低頭や、真っ先に通された部屋での専門家による化粧などで段々と削れていった。

 

 『あれ、これって僕が思っているよりずっと大規模な行事なのでは?』。そう思ったイヨは本日専属で世話をしてくれると言う触れ込みの従者──人を従えて歩いた事など無いので、その時点ですごく緊張した──に聞いてみたのだ。願望込みで。

 

『あの……そんなに大きな、式典? ではありませんよね?』と。

 

 とても品が良く、歩く姿を見ただけで生まれつきの上流階級である事が理解できる従者──むしろイヨの方がこの人に傅いた方がよっぽど絵になりそうである──は、とんでも御座いませんという態度で口を開いた。

 

『公都を、引いては公国を救って下さった皆様への感謝を示すもので御座います。大公殿下公女殿下は元より、文武の百官も勢揃いで──』

 

 途中から頭の中が白くなってしまって最後まで理解できなかったのだが、どうやらイヨの想像が及ばない様な『とってもすっごい』式典らしかった。

 

 出来の悪いゴーレムの如き動作で居並ぶ仲間たちの顔を見ると、イヨほどでは無いものの動揺していた。彼ら彼女らでさえ、其処まで大規模なものだとは予想も出来なかったらしい。

 

 衣装係の有能さは尋常では無かった。身長二百二十六センチ、体重二百キログラムオーバーのガルデンバルドでさえぴったりの儀礼服が問題なく用意されていた上に、リウルに至っては髪を整え化粧を施しドレスを纏うという変わりっぷりで、その様変わりといったら殆ど変身である。

 イヨは恐らく二度と見られないであろうその美しい姿に何時までも見入っていたかったが、そうもいかなかった。リウルが本気の口調かつ死にそうな顔で『見るなよ』と言ったし、イヨ自身も飾り付けられる側になったからだ。

 

 イヨの儀礼服もガルデンバルドやベリガミニのものと同じく男物だったのだが、デザインはかなり違った。若年であるからか、容姿のせいか、それとも最も功を立てた者だからか? 

 男物であるには違いないのだが、一部がピンク色や薄い青だったり刺繍が入っていたり全体の印象が妙に柔らかかったり、他の男性二者のそれと比べて根本的に方向性が違うものであった。

 

 その上三つ編みを解かれて白金の髪に櫛を通すと、鏡には『完璧に着飾ったイヨの顔をしたイヨではない生き物』が映っていた。イヨはその姿を瓜二つの別人なのでは無いかと疑ったが、動作を完全にトレースされたので、渋々鏡に映ったそれを自分であると認めた。

 

 化粧と衣装は偉大である。野に生きる冒険者四人を、何処に出しても恥ずかしくない紳士淑女に改造してしまったのだから。

 

『そのまま舞踏会の主役になれるのう。男女どちらも雲霞の如く寄ってくるじゃろう』。完全に面白がっている口調のベリガミニが、イヨをしげしげと眺めて囃し立てた。

 

 これらの儀礼服は大公殿下より四人に下賜された物である為、返す必要はないと従者は言う。

 

 この時点でイヨは滅茶苦茶に怖がっていた。どうも、この厚遇ぶりが自らの身の丈に合っていない様な気がしたのである。イヨがイメージしていたのは、謁見の間で高段にある大公殿下に跪き『この度はご苦労であった。褒美を取らす』『ははぁー! 有難き幸せに御座います』形式であった。

 

 公国の偉い人たちって功績を立てた下々の者をこんなに厚遇してくれるんだ、とびっくりした。イヨなど公国の国民ですらなく、何処とも知れぬ遠方から流れてきた素性も定かでない子供なのだが。

 

 イヨは自覚が薄いが、アダマンタイト級にまでなれば他国人だろうと異種族だろとなんだろうと厚遇される。それは厚遇する方からしても当たり前である。いざという時の切り札の気をわざわざ悪くさせたい者などそうはいない。

 

 それに、公国の貴族は少なくない割合が武門の家系なのである。特に開国以前よりの功臣と呼ばれる重要な貴族たちは、その大本を初代大公と共に戦場を駆けた戦士にまで遡る。

 つまり、国として元々武を貴ぶ文化があるのである。二百年近く貴族であり続けた為にやや薄まっているが、実力主義の風潮もだ。大公の改革の一つであった身分血統も関係ない純実力・能力主義の学校が成立するくらいには。

 

 更に、大公とリリーの裏の思惑もある。武力の最高峰と言っても過言ではないアダマンタイト級冒険者が、命を張って功を立てた武芸者が尊重されるのは、この国においてある種必然なのである。

 

 この辺りから、イヨは極度の緊張で記憶が曖昧になり始める。覚えている事の第一は、前を歩くリウルの背中だ。

 徐々に集まりだした他の功労者──見慣れた顔の高位冒険者やイヨがデスナイトから助けた警備兵、後の捜索活動時に活躍したのであろう騎士などが同じく緊張した顔でいるのを見て僅かに平静を取り戻したが、それも一時の事だった。

 

 ついにその時が訪れた瞬間、なけなしの冷静さは吹き飛んだ。戦闘時の数百の分の一にまで狭まった視界と、同じく数百分の一にまで落ち込んだ認識力は、式が始まると同時に破綻した。

 

 廊下を歩いていた時。何も覚えていない。

 なにせ廊下の両脇には、侍従だか侍女だかの、公城で働いているのだろう人々が──公城に務められる時点で、本来身分的にはイヨよりずっと偉いのは確定である──一糸乱れぬ統制で低頭していたのだ。

 

 どこぞの広間に着いた時。覚えていない。

 物凄く煌びやかで、それでいて実戦に耐えられる頑強さを併せ持った装備に身を包んだ立派な騎士様方が待ち構えており、其処でも矢張り一礼を受け、武器を掲げて作った道を潜って進む。視界の端で花弁が舞っていた様な気がしたし、荘厳な音楽が鳴っていた様な気もしたが、良く分からない。

 

 いざ広間に入った時。もう何も分からない。

 その広間は中央の通路が床よりも高くなっており、イヨ達はその高くなっている所を通る様になっているのだった。両脇には顔に歴史を刻んだ威厳ある老人が、経験と肉体能力が高度に釣り合った壮年の騎士が、貴公子然とした美しい青年が、見るからに有能そうな官僚らしき人々が儀礼服でずらっと並んでいた。

 

 位置する場所の高低差が為、イヨらはそうした人々から見上げられて進む事になる訳である。イヨは終始前を歩くリウルの背中を凝視していたので気付くのが遅れたが、広間の最奥にして最上段には大公殿下その人が座しており、功労者らを待ち構えていた。

 

 

 本当に記憶が無いので後から聞いた話になるが、式典の最中幾度か拍手喝采が起こり、勲章が授与され、大公殿下直々にお褒めの言葉を授かり、更には抱擁されたと言う。

 

 

 ──イヨが覚えているのは跪いたり立ち上がったりした上下動と、緊張による発汗で徐々に重くなっていく服の感触だけだった。

 

 終了後、『夜には舞踏会がある』と聞かされイヨは体調悪化を理由に欠席しようかと本気で悩んだが、『極々打ち解けた雰囲気で行われるので是非に』と懇願され、つい頷いて了承してしまった。

 そしてまた化粧と衣装替えである。式典と舞踏会で服を変えるのはまだ分かるが、化粧までやり直さなければならないと言うのは全く理解の外であった。

 四人に与えられた服──夜会服というのだろうか──は例によって大公殿下より下賜された服であるので、返却の必要は無いとの事だ。

 

 そしてイヨは知る事になる。貴族の常識で言う『打ち解けた雰囲気』というものが、純粋培養の平民にとってどれだけハードルの高いものか。挨拶地獄に紹介地獄であった。

 

 

 

 

「死ぬ」

「死なないで、リウル……」

「お前良く平気でいられるな、俺は何度あのドレスを破り捨てようと思ったか知れたもんじゃねーよ」

「僕だって平気では無いよ……」

 

 一夜が明けた。明けたったら明けたのだ。【スパエラ】を始めとして、殆どの出席者は公城に宿泊した。気を使われたのか何なのか、部屋割りはリウルとイヨ、ガルデンバルドとベリガミニがそれぞれ同室である。

 

 肉体的には居心地が良いが精神的には居心地の悪い高級感溢れる部屋で、リウルとイヨはそれぞれのベッドに腰掛けて項垂れていた。何故かと言うと、単純に昨夜の疲れが抜け切っていないからだ。

 

 リウルは元商会のお嬢様であり、【スパエラ】のメンバー中唯一ダンスを踊れる人材だったか、煌びやかなドレスで着飾って優雅に踊る等と言う行為はリウルからすれば拷問に等しく、精神を削る所業だったようだ。

 

 ガルデンバルドは体格上ペアを組める女性が存在しなかったので踊らずに済み、ベリガミニはここぞとばかりに節々が痛むと弱った老人の振りをして誘いを固辞し続けた。自慢の杖でゴブリンの頭をカチ割る彼の姿を見た者ならばそれが嘘だと分かるのだが、貴族界隈の紳士淑女は『如何にアダマンタイト級とは言え魔法詠唱者、しかもご高齢では……』と理解を示して、まんまと彼はダンスから逃げおおせたのだった。

 

 結果的に、ほぼ全てのお誘いはイヨとリウルに集中した。二人は事前に示し合わせて『夫婦だから』と長い事二人でダンスを踊り続け──る振りをし──ていたのだが、遂に逃げ切れなくなったのである。

 

 イヨの下に幾人かの男性がダンスを申し込みに来たりもしたが、それ以外は概ね問題なく舞踏会は終了したと言って良かろう。勿論概ね問題なくと言うのは多数派である貴族の方々の意見であって、イヨとリウルの二人からしたらもう一回デスナイトと戦った方がマシという位に難事であった。

 

「ちゃんと会った方々全員の名前と顔、覚えたか? 貴族にとっての挨拶と紹介は冒険者同士のそれより重いぞ。次に会った時分からない、どなたでしたっけ、何て事は無い様にしろよ」

「うん。大丈夫、覚えてるよ。……みんな良い人だったよね?」

「またイヨの良い人が始まった。そりゃ良い人にも見えるわ、貴族なんか腹芸のプロだぞ」

 

 そもそも公国のトップオブトップである大公殿下その人が新たなアダマンタイト級を讃える方向で行動しているのに、確たる理由もなくそれに反する行動を、まともな貴族がする訳が無い。

 内心どうであろうと、外面は完璧に取り繕うのが普通だ。人間大人になると、親の仇が如く嫌悪する人物とでも笑顔で握手せねばならない時がある。魑魅魍魎の巣窟である貴族界隈で生きる者なら尚更である。

 

 中には『何故この私が平民の冒険者如きと云々』と考えている者もいた筈だが、少なくともイヨ視点ではみんな良い人に見えた様だ。

 

「まあでも、割と今回は心から接してくれてた人も多かったんじゃねぇかな。自分で言うのもなんだけど、やった事が事だし」

 

 感慨深げな顔でリウルは言った。飛び級でいきなり高位冒険者になったイヨとは違い、彼女は銅から順にのし上がってきたのだ。

 銅級の冒険者など味噌っかすである。顔も名前も覚えてもらえず、依頼もより上のランクと比べれば実入りの少ないものばかり。リウルも当時先輩たちから『連中が何度目の依頼で死ぬか賭けようぜ』等と笑われた事があった。

 

 銀級や金級になると一人前として扱われ、白金級で腕利き、ミスリルで文句なしに一流。

 オリハルコンにまでなると超一流。周囲からの扱いもそれに準じて変わっていき、その待遇は冒険者として得られる最高のものと言って良かった。

 

 だがそれでも、アダマンタイト級は別格だ。最早その扱いは冒険者としてのそれではない。

 人類の切り札。人間の極限。不可能を可能にする存在。過去現在の各国でそれぞれのアダマンタイト級チームが成し遂げた偉業の数々が身分を超えた羨望と信頼を集め、成り立ての【スパエラ】も当然その実力を備えているものとして、周囲はそれを期待する。そうであると信じる。

 

 それが式典で、舞踏会で向けられた敬意と賛美に繋がる。

 

 此処からが俺達の始まりだ、とリウルは一人ごちた。

 

「此処からが本番だな」

「──うん」

 

 前後の繋がりに欠けるリウルの言葉。しかしイヨは全てを理解して、肯定を返す。リウルも察する、イヨの『うん』に込められた意味の数々を。

 『僕たちだったら出来るよ』という自信。『僕も頑張る』という意気込み。『どんな時も傍で支えるよ』という献身。『リウルさんの夢だもんね』という理解。どんな時も、今も瞳で輝く好意。

 

 リウルは唐突に『俺ってすげぇ愛されてるな』と自覚し、自分でも意外に思うほど素直に『俺も好きだぞ』と心中で想い浮かべる。

 

 リウル自身でさえ自覚しない何らかの表情の変化があったのか、視線を合わせたままのイヨは穏やかに微笑んだ。幸せです、と告げている様だった。もっと幸せにしてやりたい、と少女は思った。

 

 当座の所、もっとも着実かつ確実な手段で迅速に幸せにするべく、少年を抱きしめる為にリウルはイヨの方へと歩み寄る。イヨの瞳が期待で輝きを増し、リウルへと手を伸ばした。

 

「イヨ……」

「リウルさん……」

 

 コンコンと響いたノックの音で、両者はびたりと動きを止めた。

イヨは即座にドアの方に向けて『はーい!』と返答し、特に直前までの状況を引きずっている感じはしなかった。が、一方リウルは酷く赤面した。

 

 リウルとイヨは生活パターン上朝が早く、特に休日と決めた場合でも無ければ日の出前には起床している。それは公城に泊まった今日とて例外では無く、今は正に日の出の直後であった。

 

 この世界の平均的な生活の基準からすれば、特段例外的とも言えない、ごく普通の起床時間である。

 

 リウルはもうちょっとゆっくり来いよ等と思ったが、頭の方では昨日付けられた従者が来たのだろうと考えていた。だが、

 

「失礼、早朝からすまないな。少々時間を頂けるだろうか」

 

 開いたドアからひょこっと現れたのは、公国のトップオブトップである大公殿下その人であった。

 

 

 

 

「はっはっは、いやぁすまんね。私も人間、堅苦しい日々が続くと少しばかり悪戯をしたくなるのだ」

 

 昨日も幾度となく顔を合わせている筈なのに、目の前の人物は初めて見る表情で呵々大笑した。

 

 リウルやベリガミニと比べても大きい背丈は目算で百八十センチメートル以上。年齢は四十代終わり頃から五十代初め程か。白髪が入り混じった銀の髪、顔には深い皺が幾本も走っている。今は柔らかく微笑んでいるが、真剣な表情をすると眼は猛禽類の如く鋭い。

 

 所作の力強さから考えるに、身体は鍛えこまれている。地位に見合った豪奢で威厳ある衣服に身を包んではいるが、戦装束も似合いそうだ。

 

「大変驚きまして御座います、殿下」

 

 怪しい敬語で言ったイヨの返答が、【スパエラ】の四人の内心を的確に捉えている。リウルもイヨも大層驚いたし、その後でベリガミニもガルデンバルドも同じように度肝を抜かされた。

 

 早朝、ドアを開けたら大公殿下ご登場である。誰だって驚くだろう。

 

「昨日は我々の流儀に付き合わせてしまったからな。正直に言うと如何にも貴族的な、政治言語を用いた会話は好かんのだ。貴族相手ならば兎も角、君たちを相手にあの話し方では無駄が多すぎる。互いに疲れるばかりだ」

 

 ざっくばらんと表現してもまだ控えめなほど、直截な言葉遣いである。とても大公位にある、一国を支配する人物のそれとは思えない。生まれた瞬間から人の上に立ち、人を従えて育った者特有の雰囲気が無ければ好々爺染みてさえいる。

 

「良い景色であろう? 私は子供の頃からこの場所が好きだった」

 

 大公が未だ面食らっている四人を落ち着かせる為にか、風景に話題を移す。

 此処は公都において最も高い場所にある公城のそのまた最上に近い高み、公都全てを見渡す位置にあるバルコニーだ。その場所にイスとテーブルを持ち込み、五人は全員が座したまま会話しているという非常に畏れ多い状況だ。

 

 古く趣のある、しかし徐々に生まれ変わりつつある公都の全てが一望できる。古き良きと新しきが融合している都市、それが公都。正に支配者の視点と言って良い光景だ。実際この場所は大公家の私的な生活空間内に存在し、其処に通されるという事がどれだけ異例の事かは考えるまでも無い。しかも大公殿下その人の案内でだ。

 

 本来大公に付いて回る筈の数々の役職者たちはその全てが遠ざけられており、その言葉遣いと態度が表す通り、大公は公人としてではなく私人として、【スパエラ】と相対していた。

 

「……如何なるご用向きで、私共はこの場へと呼ばれたのでしょうか?」

 

 リウルが問う。普段如何なる場においてもはっきりとした振舞をする彼女だが、流石にこの流れは読み難いらしく、言葉通りに『何故今此処でこうしているのか分からない』らしい。

 

 既にうだるような暑さは過ぎ、涼風が吹く季節である。雲一つない青空の下の日差しに晒されたとて汗ばむような事は無く、ただその暖かさが身に染みる。

 

 大公は笑みを消し、真剣な表情となる。そうすると途端に、持って生まれた顔つきの鋭さが表立つ。リウルの如く刃の様でなく、猛禽の眼だ。ただその視線に険は無い。むしろ其処に浮かぶのは──感謝と敬意。

 

「私の国と、其処に住まう民の生命と財産。それらを身を挺して助けてくれた君たちに、私自身が納得できる形で礼を言いたかった」

 

 大公は、四人に向かって座したまま深々と白髪交じりの頭を下げた。銀と白の短髪が、日の光で輝いた。

 

「本当にありがとう──そして、すまなかった。感謝する」

 

 

 

 

「あっ……」

 

 驚愕は全員が共有していたが、最も早くそれを表に出したのはあらゆる面で若輩であるイヨ・シノンだった。

 

「頭をお上げ下さい、御身が我々などにその様な──」

「その通りです。我々は冒険者として働いたまで。それに、昨日の時点で身に余る賛辞と報酬を得ています。殿下ご本人からも」

 

 大公は頭を上げたが、その眼は自身の行動の正しさを信じている眼だった。彼はしみじみと語る。

 

「それでは到底足りないのだ。──私のような立場に生まれつくと、恩人に頭を下げるという当たり前の事さえ周囲の視線を気にせねばならん。昨日の式典での言葉も真なるものではあったが、あれで感謝の全てを伝えきれたとは思っていないよ」

 

 式典でのそれは居並ぶ全ての功労者に対して述べられたものだったが、その大まかな内容は文献奉読官的な人が長々と『忠実なる臣民たる彼らの国家に対する偉大なる献身とその功績を讃え~』と読み上げる形式であり、知識のないイヨではその話の長さも相まって九割方何を言っているのか分からない事だった。

 が、勿論イヨは、イヨ以外の三人も、あれだけの大規模な式典を開いてもらっておいて不足だ等とは全く思っていなかった。

 

「先程コディコス老は冒険者として働いたまでと言ったが、依頼自体が事後に出されたものであり、君たち冒険者の活動は完全に、君たち自身の善意と義務感に基づいた行いだった」

 

 依頼ならば頼まれた事を仕事でやっただけというのもある種道理だが、そうでない以上冒険者に戦う義務は無く、逃げたとしても──道義的には兎も角──問題は無かった。だが、【スパエラ】を始めとする多くの冒険者チームがデスナイトへ死を覚悟して挑み、これを討伐しているのだ。

 

「私は公国の支配者、公国の頂点にある者だ。この国で最も大きな権力と権利を持つ。であれば、最も大きな義務と責務を負うのが道理だ。私の国民を、その生活を財産を守るのは私であり、私の手足たる者達でなければならない」

 

 民から税を取り様々な制約を課し、国民としての義務を負わせる以上、その義務を全うした者は支配者に守られる権利がある。支配者は民としての義務を全うした者たちを、守る義務がある。

 しかし実際的に、デスナイト程のアンデッドが出現した今回の事態は、公国の発見と対応は遅れていた。冒険者、そして冒険者組合の自発的かつ迅速な対応──それには魔術師組合への出動要請も含まれる──が無ければ多大というのも過小なほどの、破滅的な被害が出ていたのは間違いが無いであろう。

 

「当時の君たちはただ必死であり、私の事など頭にも無かっただろう。しかし、私が果たすべき義務と責務を代行し、幾十万の民を守り、公都を、引いては公国そのものを救った」

 

 大公はこの事柄に限っては、異論を挟ませる気が無いらしい。

 

「罪には罰を。功にはそれに見合う褒美を。これもまた上に立つ者の義務だ。これを行うだけの力が無い人間は支配者とは言えないし、直ぐにその座から引きずり降ろされるだろう」

 

 身に余る報酬を得たと君たちは言ったが、と続ける。

 

「どう少なく数えても十万を超えるだろう民の命、財産、生活。彼らの働きによって生み出される利益。首都。引いては公国そのものの未来」

 

 【スパエラ】の面々は功労者の中でも第一級として讃えられ、多くの報酬を得ていた。依頼達成による金銭、勲章、感謝の書状、公国より公的に讃えられ、歴史に名を刻まれるという名誉等だ。

 

「それだけで功に見合うとは、私は思っていない。そもそも君たちは勲章にも感謝の書状にも、本質的に価値を感じていないだろう。相手が何を価値とするかを無視して、我々にとって価値ある物をわんさと押し付けておしまいでは、私の気が済まん」

 

 其処で一旦、大公は言葉を切った。既に置いてきぼりにされつつあるイヨは大公の言葉の意味を理解しようと内心唸っていたが、ガルデンバルドが『僭越ながら』と口火を切る。

 

「無礼に当たるやもしれませんが、大公殿下にこの様な一面があるとは思いませんでした」

「以前会った時には猫を被っていたからな。私の本質はこちらだ。──幼少の頃より、上に立つ者に相応しい態度は徹底的に叩きこまれてきた。私の気性がそれとはかけ離れているからだ」

 

 こう見えても、我が家は武門の血筋なのだ、と大公は誇る様に言った。リウルは漸く意図を理解したとして、総括すべく言葉を紡ぐ。一人、未だに置いてきぼりな人物が隣にいるからだ。

 

「我々に何を下さると?」

「望むものを。例えば、金銭と言うなら金貨の山を。望まないとは分かっているが、地位を欲するなら伯爵位を与える準備がある。君たちが救ってくれた私の国、民。それと同等になるまで積み上げて見せよう」

 

 伯爵位と口にした瞬間イヨが青ざめたので、大公は最後に茶目っ気を出して『流石に大公の位を明け渡せと言われては困るがな』と冗談を付け足した。イヨの顔はもっと青くなった。

 だが、少年の中では目の前の人物に対する尊敬の気持ちが、今までより深く強く根を張りつつあった。大公の言葉には責任感と、そして城下で生きる民草に対する慈愛が感じられたからだ。

 人を大事に思える人。仕事に一生懸命で真剣な人。少しばかりの子供っぽさ。歩み寄ってくれる姿勢。そうした部分が、イヨの好悪の琴線を良い方向に擽ってくるのだ。

 

「君たちには私から直接伝えたかった。特にシノン殿。君がいなければ、他の者がその場に集うまでに千を数える死人が、不死者の軍が出来ただろう。そういう意味で、君には特に感謝している。──君の望みは何かね?」

 

 水を向けられたイヨは、また緊張で心拍が跳ね上がるのを感じた。しかしその心臓の暴れようは、式典や舞踏会でのそれと比べてずっと静かだった。頭も明瞭だ。目の前の人物があるがままの心の様を見せてくれたという認識が、心の壁を払いつつあったのかも知れない。

 

 その微妙に揺れ動く少年の心を見透かしたように、大公はまた微笑を浮かべ、少しばかり重くなってしまった空気を入れ替える様に軽口を叩く。

 

「私とて立派なだけの人間ではない──これからアダマンタイト級として長く活動するだろう君たちに度量の広さを見せつけて、より良い感情を抱いてもらおうという打算もあるには、ある」

「……ふふ」

 

 その素直にも程がある言葉に、イヨはつい笑ってしまった。少年の心の内から、ついに緊張が完全に溶けてなくなった瞬間であった。

 

「──失礼いたしました」

「いいや、気にせずとも良い」

 

 イヨは低頭する。実を言うと、【スパエラ】の面々で前々から考えていた事が一つあり、その実現の為には大公の力を借りるのが確実そうではあった。今やアダマンタイト級である【スパエラ】ならば可能ではあるだろうが、より迅速かつ真っ当に行くならその方が良い。

 

「バルさん、ベリさん、リウル」

 

 三人を仰いで聞くと、即座返ってくる頷き。他の面々も同感なようだ。イヨは大公に向き直り、口を開く。

 

「それでは──僭越ながら、二つほどお願いしたい事が御座います」

「思うがままに褒美を取らす。なんなりと申してみよ」

 

 今一度公人の顔に戻って待ち構える大公にイヨが、【スパエラ】が願う褒美とは、

 

「バハルス帝国皇帝ジルクニフ陛下、そして大魔法詠唱者フールーダ・パラダイン様にお目通りを願いたく存じます。どうか殿下からご紹介頂きたい。──託したいモノがあるのです」

 




公女殿下「イヨ・シノンはこういう人物が好きです。こんな感じで」
大公殿下「なるほど」

遅れしまい誠に申し訳ございませんでしたぁ!
一回パソコンを修理に出すと二週間は戻って来ないのがキツイ。明らかに壊れる間隔が短くなってきてますが、まだ無料保証期間が残ってるんですよね……。高い買い物だったし、もう少し持ってほしい所です。具体的には無料期間が過ぎるまで二年ほど。

大公殿下と会話させるとみんな一人称私になって口調も似たり寄ったりになるのが辛い。かと言って大公殿下を前にしても「俺」「儂」「僕」とか言っちゃうのはキャラらしくない。大変でした。敬語とか自信ないです。


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公国の支配者たちと【スパエラ】

「ふむ、皇帝陛下とパラダイン殿に……」

 

 ──願いが二つという点を含め、予想外ではあるな、と大公は思案する。

 

 【スパエラ】が報酬として望むのは金銭か、そうでなければ公国が所有する宝物の類、上記二つでもないなら『望まない』。この三つのどれかだと大公は思っていた。

 

 三つの内どれであっても問題は一切無い。言った通り望めば望むだけくれてやるつもりだったし、望まないなら無形の恩という事で今後の役に立つ。勿論【スパエラ】の頭脳であるイヨ・シノン以外の三人は王侯貴族の習性を理解しているから、出来れば金銭で測れない貸し借りを残しておきたくは無いだろう。

 だから実質の選択肢は二つ。それが事前の予想だった。

 

 そもそも分を弁えない弁えられない欲深の愚か者とは違い、【スパエラ】は基本的に常識人の集まりだと大公は見ている。

 ここぞとばかりに大枚をせしめよう等といった発想とは無縁だ。故に報酬は『救国』に対するモノとして巨額になりつつも現実的な範囲で収まるし、双方が収めようとする。そして、額が大きければ大きいほど、それを惜しまず授ける大公の度量も大きく見える。

 

 しかし、皇帝と大魔法詠唱者に対する謁見の要求とは。これ自体はわざわざ大公を間に介さずとも、アダマンタイト級ならば叶い得るものだが。

 その『託したいモノ』が相当に厄介なのか。

 

 この少年は、こちらの大陸に漂流する以前からアダマンタイト級の実力を持ち、探検家や格闘家としてテラスティア大陸やレーゼルドーン大陸なる広大な大地を渡り歩いていたとの報告が大公に届いている。

 そうした人物の所有物、それも持て余すが故他者に託したいのだと推測される物。何が出て来ても不思議では無く、何が出てくるか見当も付かない。

 

 大公は鬼が出ようが蛇が出ようが驚かないだけの覚悟を済ませると、先を促した。イヨ・シノンは言葉を区切りつつ、考えながらに話す。

 

「私が故郷にて冒険の末に手に入れた物なのですが、私自身は元より、知己の誰であっても持て余してしまうものなのです。四人で話し合いまして、死蔵するには余りに貴重で有用、かと言って悪意ある者の手に渡れば危険。なので、扱い得る力量と良識を持つお方に託すのが良いのではないかと結論が……」

「それで皇帝陛下とパラダイン殿にと」

「はい」

 

 まあ適任ではある、と大公は思う。周辺に冠たる帝国の頂点と、その帝国を六代に渡って見守ってきた第六位階到達者。

 

 ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスは大公が知る限り最高の支配者だ。冷徹かつ合理的な人物で必要とあれば血を流す事を欠片も厭わないが、判断基準の一つとして良識も持ち合わせているし、多少危険でも有用な糧となり得るなら引き受けてくれるだろう。

 そして第六位階魔法の使い手であるフールーダ・パラダインは言うまでも無く人類最強の一人であり、尋常な人間の遥か及ばぬ英知も蓄えている。僅かずつ老いてはいるが、それでもこれから先、皇帝が二代か三代は代替わりする程に生き続けるのは間違いない。

 

 『アダマンタイト級冒険者ですら持て余す程貴重で危険で、かつ有用な品物』を預けるのに、彼ら以上の適任を探すのは難しい。国家級の個人を上回るのは超級の国家と言う訳だ。

 

「託するという事は、その扱いに関しても陛下とパラダイン様にお任せするという事かな?」

「はい。私はこちらに来てから日が浅く、お二方のお人なりを存じませんが、立派なお方々と聞いております。……正しい形で、世の中の役に立てて頂きたいと願っております」

「……一応聞いておきたいのだが──」

 

 この問いは傍から聞くと冗句そのものに聞こえるが、大公としては真剣に聞くだけの意味はある問いだった。人生もぼちぼち後半に入ったこの男は、自身の培ってきた常識や世界観というモノが、時には現実に裏切られる事もあるのだと良く知っていたのだ。

 

「私は立場上、あらゆる方面に関して一定以上の知識を持ち合わせていると自負している。しかし、その道の専門家、特に戦闘や魔法といった分野の突出者と比べて己は遥かに無知であるとも自覚している」

 

 支配者が万能、全能である必要はない。それは生ける者であってはどうあろうと成し得ない事だからである。

 ただ支配者は最低限、己が全能でも万能でも無く、他者の存在無くして成立し得ないのだと自覚する必要がある。支配者は自身の支配圏において最上の高みに位置するが、支えを失うと転落し、地に叩き付けられて死ぬ。必要なのは自信でも自虐でもなく、過多過小の無い自覚である。

 

「その託したい物と言うのはお伽噺に聞くような魔神や悪神の一部であり周囲の者を呪うとか、自らの意志を持ち脱走・暴走を企てるとか、物体として仕舞い込んでおく事そのものにすら支障を来す様な存在では無いのであろうね?」

 

 実物を目にした事は無いが、世の中には使用者を洗脳するとか、思考を誘導する様なインテリジェンス・マジックアイテムも存在する。アダマンタイト級冒険者が持て余す物品であればそれに輪を掛けて悪質であっても不思議は無い。

 アダマンタイト級が洗脳されるのも相当な厄介事だが、皇帝や大魔法詠唱者が思考を捻じ曲げられるのは人間世界崩壊の危険性さえある厄ネタである。

 

「いえいえいえいえ!」

 

 そんなまさか、と可憐な少年は顔の判別も付かぬほど首をぶんぶん振って否定した。他の三人も思わずといった様子で立てた手の平を横に振っている。

 

「その、確かに場合によっては相当な危険を呼び込み兼ねないモノではありますが、それ自体は並外れておるというだけで、完全にただの物品でありまする故、殿下のご懸念には当たりませぬ」

 

 第四位階に手を掛けし者、ベリガミニ・ヴィヴィリオ・リソグラフィア・コディコスが否定した。

 

「同質かつ低価値の物ならば市井でも見掛けます。ただその希少価値が少々伝説級と言いますか、私共には使いようもなく、かと言ってただ置いておくには秘めたる可能性が大き過ぎるのです。故に是非とも皇帝陛下に、その下の帝国魔法省とフールーダ・パラダイン様にお預けしたく──」

「相分かった。私から陛下に話を通しておこう。そして、私にその物品の詳細を教える必要はない」

 

 割り込んで請け負うと、イヨ・シノンがまたもや素直にも驚きの声を上げた。大公は思わず、造りではない素の笑いを口元に刻む。

 少年の顔には『物の詳細も聞かず、何故はいと頷いてくれたのか分からない』とはっきり書いてある。これは別に大公でなくとも気付くだろう。

 

 更に驚くのだろうなと十割的中するだろう予想をしながら、大公はイヨ・シノンの口が紡ぎかけた問いに先行して答えを返した。

 

「まず第一に。私は君たちを心から信頼している。その思いは飾らぬ会話を通してより深くなった。第二に、私は皇帝陛下を心より尊崇しており、下されるだろうその判断を正しいと信じている」

 

 実際の所は尊崇では無く尊敬、より優れた存在と認めているが正しく、その判断が正しいかどうかも、信じる信じないでは無く個別の事案ごとの判断によって熟慮の末に決めるが、外面上の立場としてそう答えておく。

 

「君たちが出来得る限り知る者が少ない方が良いと考えるなら、あえて問うまい。そして、私が知っておくべきか否かは君たちに件の品物を託された皇帝陛下が決める事。陛下が知らぬ方が良いと決されたなら私は知らぬままでいるし、知っておいた方が良いとされるなら教えて頂こう」

 

 多分に不安そうであったし、他の三人が見定める目をしていたので──隠してはいるが大公には分かる──大公は出来得る限りの真摯な態度で、四人の目を順に見詰め、物心ついた時より修練を続けた支配者の物腰で言った。

 

「私は皇帝陛下を真に国家の頂点、万民の支配者として相応しい方だと確信したが故、身命と絶対の忠誠を捧げている。陛下に成り代わり私が保証しよう。陛下は断じて邪心に惑わされる事無く、国と民の為を想い、賢明な決断をされるだろう」

 

 幼き頃鏡の前で練習を重ね、帳面に威厳溢るる台詞を考えては書き連ねた日々が思い出されるようだった。青年期には思い出したくもない過去となっていたが、何事も無駄にはならないものだ。

 

 向かいの少年など大きな目を煌かせている。こうも簡単に尊敬を勝ち取ってしまうと、一周回って疑ってしまいそうになるが、この少年に限ってそういう事は出来ない。

 当たり前だがリウル、ガルデンバルド、ベリガミニは少年ほど単純には出来ていない。特段此方に隔意は無くとも、幼子の如き全幅の信頼など大の大人が寄せる筈も無し。その顔貌はあくまでも冷静さを保ち、礼儀作法に則って低頭してくる。

 

「殿下に仲介の労を担って頂き、感謝に堪えません」

「構わん。なんでも申せと私が言ったのだ──しかし君たちは無欲だな。アダマンタイト級にまで至っては己の力で実現できない事の方が少ないだろうが、多少は欲を見せて貰わないと此方も大見得を切った甲斐が無い。まあ、それは二つ目の願いの方に期待しよう」

 

 【スパエラ】としてはそれだけの懸案事項であったのだろう。しかし此方としてはまだ気が済まないよとアピールしつつ、大公は押しつけがましくない程度に飴玉を示しておく。

 

「何度でも言うが、本当に感謝している。公国内において君たちの活動を不法に妨げるモノは、私の目が黒い内は存在させない。帝国、王国であろうと力の限りを尽くそう。何か困った事があれば言ってくれたまえ。何代を重ねようと、大公家は恩を忘れぬ」

 

 大袈裟なくらいが丁度いい。首都救済の功は、どれだけ賛辞を尽くそうと大袈裟にならないだけの価値がある。物質的に清算するのではなく、形なく積み重ねた恩は今後の関係を保つ上で限りない財産となる。

 

「ただ一つお願いしたいのは、今後の公国において君たちの力が必要になる可能性も大いにある故、謁見の機会はある程度時期を待ってほしい。陛下もパラダイン様も多忙であらせられる。勿論君たちが火急にと言うなら私は骨折りを惜しまないが──」

「私共も、あえて皆々様のお手を煩わせたいとは思いません。アダマンタイト級という看板の重さは、焦がれ続けた我々が何より知っております。依頼の絶えない内は公国を離れようとは思いません」

 

 如何に帝国と公国が距離的に近いとはいえ、国家の重鎮との接触を前提とすれば一月か二月は時間が掛かるだろう。

 

 冒険者は他の職業に比してかなりの自由を有するが、アダマンタイト級にまでなると自由気ままにあっちこっち飛び回られるのはかなり不味い。無論行政の側に彼らに命令・強制する権利は無いものの、『二十年ぶりに誕生した唯一のアダマンタイト級』相手に『お願い』する事くらいは許容範囲であってほしいものだ。

 

 この辺り、常識人との会話というのは実に良いものだと大公は思わずにはいられない。彼の周囲には娘を筆頭に、皮一枚剥けば常識を含有していない本性を晒す人間が多いのだ。

 

 その後の話し合いにて、謁見の時期は冬に決まった。大概の生き物が生命活動を低調化させ、それに準じて冒険者も人間国家も幾分活動が鎮まる時期だ。

 イヨにとってはそれが、初の国外への旅になるだろう。

 

「それで、もう一つの願いの方だが──」

 

 晴れやかな蒼空の下で、ぐぅと大きな音が響いた。大公は目を丸くし、イヨはこの上なく赤面。他の三人も思わずイヨに視線を向ける。少年は死ぬほど恥ずかしかった。

 

「……大変失礼いたしました……!」

「いやいや、これは済まなかった。気が逸って朝も早くに押し掛けてしまったからな、私のせいで朝食を食べる時間も無かったろう」

 

 呵々大笑した大公の提案によって、一同は朝食の席を共にする事となった。

 

 

 

 

『父上、父上。あの子との食事の場合、メニューはこれが良いかと』

『……大きく、そして良く焼いた肉。具沢山で熱々な汁物。魚の丸焼き。ふかふかな焼きたてのパンを山盛り、新鮮な生野菜のサラダ、柑橘系の果汁水……随分と大雑把だが』

『以前会った時に食事の好みは聞いたのですがね、大好物は肉と魚と穀物で、好物が野菜と飲み物だと言い切られてしまいました。公国に来てから不味いものは食べた事が無い、みんな美味しくて好きだと』

 

 どうもイヨ・シノンの国に美食を貴ぶ文化は無かったか、国土が痩せていて碌な食物が取れなかった様である。彼が以前良く食べていた料理も質問したが、どれもこれも料理なのか疑わしい様な、栄養補給だけを重視した様な物ばかりだった。

 

 必要な栄養素を固めた粒とか、肉の味が付いた粘液とか、外見を野菜に似せた疑似野菜型の食物とかだ。一体どんな国でどんな文化だとリリーは思った。

 

 またそういう点を抜きにしても、イヨ・シノンの味覚の好みはストライクゾーンが広すぎる。食物でさえあれば口にしたものは全て美味しく感じるといったレベルだ。強いて言えば苦みのある物は好きではないらしいが、それすら『好きではない』だけで嫌いでは無いのだ。

 

『はっきり言って碌な物を食ってないせいで味覚が未発達です。見ただけで原材料と調理法が理解できて、味が想像できる様な料理でなければ出してもポカーンとされるだけとなってしまう可能性があります』

 

 どれだけ手の込んだ料理を出してもそれを受け止めて理解できる教養が無いので、どんな美食家も唸る珍味を出そうと『何味なのかも分からないけど多分すごく美味しい』で止まってしまう。それがリリーの見解であった。しかも、

 

『まず間違いなく、我々が賓客を持て成す時のような料理を彼に出しても困惑するばかりです。何処から如何食べればマナー的に失礼にならないかと、それだけが気になって料理を味わう所では無くなってしまうでしょう』

 

 当然会話も弾みません、とリリーは断言する。

 

『あの子の味覚に合わせるならばそれが一番良いかと。他の者が席を共にする晩餐では宮廷料理に苦労してもらって、我々だけの食卓ではこの料理を出しましょう。無論、最高級の材料を使って最高の調理人が作る最高の品として。そうしてから、煩わしい礼儀作法を気にせず普通に食べる』

『それが一番彼に刺さる持て成しだ、と』

『ええ、そうです。あの子は単純ですから、我々の思いやりと気遣いに大いに感謝感激し、そして尊敬するでしょう。食べた時は今までのどんな食事より美味しいと感動する。他の面々だって彼ほど効果的で無くとも悪くは思わない』

 

 彼の中で我々の評価は鰻登り間違いなしですよ、と悪巧みでもしているかのような、歯を剥いた男らしい笑顔で笑うリリー。外では絶対に見せない顔である。

 こんな彼女も世間では完璧な猫かぶりにて、美貌と人格を兼ね備えた絶世の美女と大の評判。リ・エスティーゼ王国の黄金の姫に並ぶとの評価を得ているのだ。

 

 大公にとっては見慣れた本性であるが、何処で育て方を間違えたのかと、一瞬空虚な思考に身を委ねてしまった。

 

 能力としては申し分なく優秀だし、こうした策も理解できる。

 ──が。

 目の前で『あーあ、今からでも私だけの騎士に出来ないですかねぇ、あれ程の駒があれば私だってもっとこう……一人の人間として野望を追い求める道が……』等とブツブツ呟いている姿は、父親である大公の目から見ても要警戒対象である。そんな隙を見せる気は無いが。

 

 

 ●

 

 

 イヨ・シノンは此処は天国だろうかという心地で料理を口にしていた。

 

 目の前にあるのはステーキだ。大きな焼いたお肉だ。この料理の説明はそれだけで事足りる。

 芯までしっかり火が通った赤身の肉はそれでも柔らかく、かつ噛み応えがあり、一噛み毎に本能に訴える『肉の味』が味覚を強烈に打撃し、脳に多幸感が溢れる。

 

 美味しい。イヨにその美味しさを語り上げるだけの語彙を持たないが、言語化などする気も起こらない程の暴力的に真っ直ぐで飾り気無く、この上なく力強い強烈な『美味』。

 

 複雑でなく、単純で良い。美味しいものそれだけで十分に美味しいのだから。食事はそんな風なのが一番良いのだ。

 前夜の晩餐では見た事も無く、何処から手を付ければ良いのか悩むような高級で難易度の高い料理が所狭しと並べ連ねられた為、イヨは余計にそう思った。

 

 公都を一望するテラスでの食事は雰囲気も抜群である。天気が良いというだけで心が湧きたって良い気分になるのがイヨという人間だが、今感じるこの高揚は決して天気のせいだけではあるまい。その証拠に、リウルやガルデンバルド、ベリガミニの三人も常より和んだ調子で食事を続けている。

 

 大公に『一緒にどうかね』と言われた時には緊張がぶり返す程焦ったが、ふたを開ければ和やかな食卓だった。なにせ大公その人からして、宮廷の作法に縛られない──勿論人として当たり前のマナーは守る──食事作法を実践しているのだ。話題に関しても、【スパエラ】の活動に絡めて良い具合に振ってくれる。

 

「少し前にプルスワント子爵の依頼を受けてくれたそうだね。私からも礼を言うよ、彼は私の盟友でね」

 

 この魚も彼の領地にある巨大湖で取れたものだ、君たちがクラーケンを退治して領民の平和を取り戻してくれたあの湖だよ、大公は続ける。指した先には、大きくて脂の乗った見事な焼き魚が鎮座していた。

 

「巨大湖で取れた水産物の内、特に質の良い物は加工場で〈プリザベーション/保存〉の魔法を掛けて各国に輸出される。その取引によって得られる利益は、近隣の村のみならず子爵領全体を潤すほど大きいものだ」

 

 だから巨大湖で漁が出来ないという事態は、プルスワント子爵領において大きな問題であったのだという。

 

「私も彼から伝え聞いたが、オリハルコン級の名に恥じない成果を上げたと聞いている。こうしてまた巨大湖産のカイオビスを食卓に出せるのも、君たちのお陰だ」

 

 なんでも巨大湖は内陸の湖であるにもかかわらず、海水魚が取れるのだそうだ。魚の姿形や味は海で獲れる同じ種類のものと比較して僅かに違いがある。つまり、世界で巨大湖でしか獲れない産物、巨大湖産の物を買い入れる事でしか味わえない珍味と言え、実際にそう宣伝している。

 

 そうした特徴は珍しい物好きの貴族や財力の誇示の為なら金に糸目を付けない大商人に愛され、輸送上の利点──単純に海より距離が近い──と相まって、プルスワント子爵領、引いては公国の産業として名を高めているとか。

 

 イヨがほえーっと感心していると、大公の話術はベリガミニの歳並外れた頑健さや健啖家振り、近々成人するらしいガルデンバルドの次男について等同席者を飽きさせない身近さと多彩さで花咲いていた。

 常に話題の中心でありつつも、自分だけが語り手の座に居座る事も無い。自然と同席者の口も滑らかになる。淀みのない自然な会話のリレーが其処にあった。

 

 直近の慶事であるイヨとリウルの結婚についても当然口に上ったが、舞踏会や晩餐で散々語られ尽くしたせいでリウルは内心うんざりしており、そうした彼女の気持ちを察したのか、簡単に祝いの言葉を口にしただけで次の話題に移った。

 

 食事が粗方終わり、食後のお茶を楽しむ時間帯にもなるとイヨはすっかり、この優しく公正明大で民想いの君主が好きになっていた。誠にちょろい男である。

 この頃にもなるとイヨは完全に普段の調子を取り戻しており、大公に乞われてユグドラシル時代の武勇伝などを二三披露する程であった。

 

「さて……腹も満たされた所で、二つ目の願いを聞かせてもらえるかな」

「はい……?」

「いや、願いは二つあると言っていただろう? 一つ目は聞かせてもらったから、残る一つを聞こうというのだよ」

「あっ……」

 

 まあ、そういうのを油断、緩みと世間では言うのだが。

 如何に距離を縮めた様に見えても最低限の心構えを捨てない先達三人とは異なり、イヨはもう完全に気が緩んでいたのである。

 『殿下の前で無かったらお説教だぞ』という雰囲気を醸し出す三人から逃れるべく、イヨが慌てて二つ目の願いを口に出す──瞬間である。

 

「お役目見事果たしてまいりましたわ、お父様ー!」

 

 バーンという扉が壊れそうと音を立てて、テラスに一人の少女が侵入してきた。

 昨日とは全く振舞の違う、公女殿下であった。

 

 

 

 

 何度見てもすっごい美人さんだ、とイヨは思った。

 

 自分の人生の内、これほど美しい人と出会う事がこの先何度あるだろうと思ってしまう程。イヨにとって絶対の女性はリウルであり、それは関係が破綻しない限り生涯不変の真理である。だが、まるで人間の手の及ばない雄大な自然現象を目の当たりにしたかのように、感動が沸き起こる。

 

 父である大公からの遺伝であろう鋭い顔付き、しかしその顔貌は子供らしく少女らしい柔らかさを兼ね備え、老若男女を魅了する。怖気だつほど美しく、それでいて親しみやすい。

 

 目鼻や輪郭など細かい部分を語ればどれだけ時間を掛けて褒めちぎっても語りつくせない程、人間の女性として一つの極限にある美貌だった。

 

 ──クソが。

 

 同レベルの美貌を見た事によってイヨの脳が喚起したのは、デスナイトを召喚した吸血鬼の少女だった。漆黒の髪、蒼白の肌、紅玉の瞳。あそこで滅する事が出来なかったのは自分の不手際である。

 

 ──次は必ず滅ぼす。

 

 もう二度とあんな事はさせない。手掛かりの一つも手元にあったのなら、イヨは事件後即座に追撃を進言しただろう。

 

 イヨの顔は内面の感情がどうであろうと威圧感や凄みといったものを表出しない。ただただ幸せに、苦労を知らず──苦労を苦労とも思わず──生きてきた子供の顔である。其処に威厳や権威はどんな表情をしていようと漂わない。

 

 この時、イヨは別に顔色も表情も変えていなかった。一瞬の思い出しであり、一瞬の決意である。なのに──周囲は明らかに異常を検知し、その動作を止めていた。

 

 大公は笑みを消し、三人の仲間は高位冒険者の顔に戻っていた。

 

「……カップを握り潰すんじゃないぞ」

「……はは。一応それも大公家秘蔵の歴史ある物でね、そう簡単には壊れんよ。……アダマンタイト級冒険者の握力すらも耐えるかどうかは、正直自信が無いがね」

「一体どうしたんじゃ、イヨ坊」

「あわわ、ごめんなさい、ちょっと考え事を──」

「【スパエラ】の皆様方!」

 

 ほんの僅かに剣呑な雰囲気が漂い始めたテラスに構わず突進してきたのは、先程派手に登場したにも関わらず、面々からなんのリアクションも貰えなかった公女殿下であった。

 

 見事な白銀の長髪と赤い瞳──吸血鬼のそれと違って、人間らしい暖かみを感じさせる色味の──が陽光を反射して眩いほど輝いている。

 

「私も、私も皆様にちゃんとお礼を言いたかったのです! もう、お父様ったら酷いですわ、自分だけ皆様とお喋りなんて! 私はお父様に言い付けられたお仕事をきちんと果たして来ましたのよ!」

 

 ……威厳、風格、高貴さという点に関しては大幅に劣化しているとしか言いようが無かったが。

 

 イヨは『お姫様って本当にですわって言うんだ、すごいなぁ』程度だが、【スパエラ】の三人は目を白黒させながら言葉を失っていた。正に絶句だ。

 

「私ほんっとうに感動しましたの! いえ、立場上感動するだけなど以ての外の税金泥棒なのですが! でもでも、皆々様の成した事に対しては──」

 

 公式の場では貴族の姫君かくあらんという優雅、貞淑、絢爛を兼ね備えた方であったが、今目の前で身振り手振りを交えながら事件に関わった者たちの勇敢さを褒め称える様は活発、闊達自由奔放といった所だ。

 

 ──つーかこの身振り手振り、動作の幼さ、滅多矢鱈と輝く瞳……イヨに似てる。

 

 リウルなどは無礼にもそう思った。イヨ並みに幼いなどという表現は実質的幼児扱いに等しいので、誠に失礼である。イヨは十六歳で公女殿下は十五歳だが。

 

 大公の笑みすらも僅かに引きつっている様な気がする。口の端が二三度痙攣したかのように見えたが、気のせいかもしれない。

 

「はっはっは……リリー、皆さんに失礼だろう。今少し節度というものを──」

「──特にイヨ様!」

「はい!?」

 

 畏れ多くも大公殿下のお言葉をシカトした公女が、少女の如き少年の手を両手で握った。座ったまま固まったイヨに対して鼻と鼻がくっつかんばかりに超接近し、

 

「貴方の心根、執念、不屈、闘志! 感服いたしましたわ……! 非礼は百も承知で願います、私に仕える私だけの騎士になっては頂けませんか!?」

 

 

 

 一回ならセーフ、言うだけならタダだとリリーは思う。あまり重く受け止めて以後倦厭されては困るが、軽く考えられても今後に差し障る。

 

 故に相手の真面目さに期待し、真剣に、しかし勢いに任せて熱烈に突っ込むのだ。

 

「貴方が冒険者という生き方に寄せる情熱も信念も知っています、リウル様への愛も……! しかし! 私はこの想いを胸の内に秘め続ける事は出来ないのです……!」

 

 歌い上げる様に紡ぎ、イヨの手から離した両手を自身の胸前で重ね、蒼天下のテラスで白銀の姫君がアクトレスの如く、舞う。つま先で一回転し、そのまま舞い落ちるが如くイヨの足元に片膝を付いた。

 

 誰もが公女の独演会を前にして身動き取れず──呆気にとられ、ただそれを見ている。

 

純白のドレス──イヨの目から見えればウェディングドレス染みて見えるデザインだ──に身を包み、繊手を伸ばす。

 

 その動作に込められた意味は明白。

 

 ──どうかこの手を取って頂きたい。

 

 『私のものになって下さい』という、完全に男女が逆転した構図だった。外見だけを語るのであれば美少女が美少女に求婚しているかの如き有様だ。

 そう考えてみれば、両者の容姿は共に優れ、髪色なども銀と金で対を成している。ぱっと見はお似合いかもしれなかった。

 

 後者の少女は外見だけのパチモノであり、実の所は既婚の成人男性だが。

 

「この願いを叶えて頂けたならば、私は貴方の望む全てを与えると誓いましょう。財も、名誉も、愛でさえも! どうか私と主従の絆を結び、歴史の表舞台で踊って頂きたくあります!」

 

 一国の姫君が、地に膝を付いて乞い願う。高位の者がらしからぬ低姿勢を取る行為は、それだけで相手に圧力を伝えてしまう重みがある。

 だが、イヨは気圧されてこそいたが、返答は即座だった。咄嗟に身動きが取れず、無礼にも座したままの返答となったが、揺るぎ無く言う。

 

「申し訳ありません、殿下の御手を取る事は出来ません」

 

 少年の答えが即座なら、少女の答えも同様であった。間を開ける事無く縋る。

 

「何故とは問いません。知っていて申し上げました。──無理を通してなお願います、私のものになって下さい」

 

 ここから、僅かな遅滞も無く言葉が連続した。公女は決然と、少年は動揺しながらという違いはあるが、言葉に込められた決意の固さには相違ない。

 

「私にはもう、一生を共にすると誓い合った女性がいます」

「愛の一番はリウル様、忠義の一番は私。それでも構いません」

「私にとって、生涯の唯一無二がリウルです。互いの同意によってそうある内は、背く事はしません」

「どうしても、その想いに変わりはありませんか?」

「永遠に変わりません」

「そう、ですか……」

 

 ガルデンバルドとベリガミニ、大公の大人三人組はさる人物を見て『おや、昼間だというのに真っ赤な夕日が』等と脳内ジョークを浮かばせたが、それを口に出す事は無かった。大人は空気が読めるのだ。

 

 一人の少女の羞恥と三人の大人の配慮で成り立った空間の中で、公女は緩やかに立ち上がり、イヨに向かって低頭した。

 

「お手間を取らせて申し訳ありません。元よりこうなると予想はしていたのです」

 

 その顔に浮かぶのは美貌からすると意外にも思える、少年的で爽やかな笑顔だった。必要以上には粘らず物分かりの良さと相手の意志を尊重する姿勢を示すのが、好感触で終わらせるコツである。

 

「もう気は済みましたわ。すっぱり、貴方の事は諦めます。でもそう、宜しければ、お友達になって頂けませんでしょうか」

「公女殿下……」

「リリーと呼んでくださいまし。イヨ様だけではなく、リウル様も、ガルデンバルド様も、ベリガミニ様も──」

 

 一段落付いたと同時、満を持して身を乗り出した大公が公女の後頭部に平手打ちを叩き込み、乙女の独演は終わりを告げた。

 

 

 

 

 意図せぬ事とは言え、恐らく世界一高貴な打撃──否、ツッコミであっただろう。

 四人はその目撃者となった訳だが、目の前で起きた常識を超えた事態にどう対応したらいいものか、さっぱり分からない。

 

 一国の支配者が外部の人間の目の前で姫君をぶっ叩いたとか、普通に考えたらかなりの大事件だと思うのだが。字面から想像できるほど真剣でも悲壮でも無いし、いや本当にもうどう反応したらいいやら。

 

 まだドラゴンの殴り込みでもあった方が対応は容易である。常々やっているモンスター相手の戦いなのだから、難易度は兎も角迷う事は無い。

 

「痛い! 痛いですわお父様! お父様と私が不仲等と言う噂が流れでもしたら国政に影響が!」

「すまない……本当にすまない。本性がこれ故、外では一層まともな振舞を義務付けてはいたのだが」

 

 この時ばかりは大公殿下も、年頃の子供を持つ人の親であった。

 

「他言無用で頼む」

「それはもう、此方としても……」

 

 誰に言えるかという話だ。誰にも言えまい。

 公女が手を鳴らして人を呼ぶと、壮年の侍従らしき人物が椅子をもって現れ、低頭して城内に消えていった。

 

「皆様はお父様とどんなお話をされていたのかしら。私も混ぜて下さいまし」

 

 その椅子に当然の如く座って──位置的には大公の右隣である──公女は興味津々の様子で切り出した。【スパエラ】の四人は揃って大公の顔色を窺うが、

 

「……此度の騒動を解決した報酬について話していた所だ」

 

 娘をこの場から追い払うというアイデアに大公は抗いがたい魅力を感じていた様だが、何秒かの沈黙を挟んで、結局会話に加わることを容認したらしかった。

 深々と眉間に刻まれた皺からして、追い出したら追い出したで後で何かやらかすに違いないという現実的な脅威を危惧したのだろう。

 

「………………信じ難いかも知れないが、娘はこう見えても能力的には優秀なのだ。その点においてだけは信じて欲しい。君たちにこれ以上の不利益や迷惑は掛けないと我が名において誓う」

「いやですわお父様、優秀だなんて。私などまだまだ半人前でしてよ」

 

 すごい。何がすごいって、褒め言葉以外の部分を完全に受け流しているのがすごい。イヨですら真面目な場面でこんな事は出来ない。先程のプロポーズ──違うけれども──といい、色々な意味で常人とはかけ離れた感性をお持ちらしい。

 大公がこう言う以上【スパエラ】の側から追い出して下さいとは到底言えないが、一抹の不安を感じる瞬間だった。

 

 

「お父様からも話はあったと思いますが、皆々様の働きは正に英雄的なものです。その筆頭たる【スパエラ】の皆様に対して、公国はあらゆる賛辞報酬を惜しみませんわ」

 

 ──なんでも仰ってくださいませ。

 

 真面目な顔さえしていれば本当に人間離れした美貌で高貴なお人なのだが、どうも先程の暴走が脳裏に刻み込まれているせいか、裏表の表としか思えない四人であった。

 

「は、はい。私たち【スパエラ】は報酬として──」

 

 代表として口を開くのはイヨだ。こういう場合普段はガルデンバルドがやり取りを行う事が多いが、少年の成長の為積極的に経験を積ませたいという思惑があり、事前に代表者をイヨと決定していた。

 自分たちがこの先どれだけ冒険者を続けていられるか年齢的に不確かなので、若年組であるイヨとリウルに出来るだけ多くの経験を積んでほしい。それがガルデンバルドとベリガミニに共通する思いだった。そうすると、必然的に矢面に立つのは未熟でありより早い成長が望まれるイヨとなる。

 

「──比類なき武具を賜りたく存じます」

 

 

 

 

「武器は強い神聖もしくは炎の属性を持ち、防具は負・邪悪・死霊系の魔法に耐性を持つ物が望ましいです」

「聞くまでも無いだろうが──それは、今回の事件の首謀者と目される吸血鬼対策の為の物と考えて良いのだね」

「その通りです、殿下」

 

 ──次こそ一欠片も残さず滅却してみせます。

 

 少年の言葉に、他の三者が強く頷く。瞳には決意と戦意。

 一度戦った敵。自分たちが取り逃がした獲物。生者を好んで襲う不死身の災害。新アダマンタイト級チーム【スパエラ】は、首謀者である吸血鬼を因縁の怨敵と認定していた。

 人類の切り札たるのがアダマンタイト級冒険者である。国をも滅ぼしかねないモンスターの存在はどうあっても放っておけない。

 

 倒す。必ず。その為には、伝説級の超アンデッドであるデスナイトすら屠るだけの力がいる。その為に願い出た報酬だ。

 

 大公側としても公国の保有戦力で吸血鬼を倒すのは相当に困難な以上、国内最大級の戦力である対モンスターの専門家、しかも撃退実績を持つ者たちに依頼を出すだろう事は想像に難くない。というかそれ以外にどうすれば良いのかという話だ。

 

「成る程、頷ける報酬だ。念の為幾つか聞いておきたいのだが、アンデッドに対して神聖属性や炎属性の武器を用いるのはこの上なく正攻法だな。此度の吸血鬼は高い知能を持つと聞く。対策の可能性は?」

 

 対策されるのならそれはそれで結構です、とイヨは先程までとは打って変わって、冷静に冷徹に言った。感情豊かな平時の態度では無く、戦闘時の徹底的で熱狂的な物腰だ。

 猛り狂うが如く打撃を浴びせながら頭は冷え、状況を冷静に見ている。それが戦闘者イヨ・シノンの姿。その切り替えはこの底の浅い少年にあって唯一、怖さを感じさせる要素だ。

 

「殆どのアンデッドにとって神聖並びに炎の属性は大きな弱点です。その両方に十分な対策をするなら他の部分に回す余力は少なくなり、疎かになります。それはそれで好機かと」

 

 異形種は人間種や亜人種では及びも付かない強大な力や特殊能力を持つ代わりに、明確な短所や大きな欠点を持つ場合が多い。

 

 全身を神器級で完全武装したカンストプレイヤーですら、全ての弱点に完全な対策をする事は出来ないのだ。

 

 だからこそ駆け引きが生まれる。相手に偽の情報を掴ませて勝負を有利に運ぶのは基本中の基本だ。だからこそ此処一番でそれを成功させるのは難しく、トップクラスの場でそれを成し遂げ勝利する者が強いプレイヤーと呼ばれる。

 

 相手の弱点を突く。相手に弱点の対策をさせる。リソースを使わせる。実際に対策されてもされなくとも損は無い。此度の女吸血鬼の実力ならば囲めば滅ぼせる。むしろ戦力としては、

 

「私からも宜しいでしょうか。此度の事件で暴れ回ったのは吸血鬼が召喚したデスナイトなるアンデッドです」

 

 能力的には優秀という大公の言、そして城下での噂は幸いなことに真実であったらしい。官僚的な口調で問いを投げた公女リリーの姿は、【スパエラ】の彼女に対する評価を大いに改善させていた。

 

「シノン様やエルアゼレット様からの報告によりますと、かのアンデッドは炎に対する脆弱性を持たず、剣技においては人間の最高峰を遥か上回り、死者を不死者にする特殊能力を持つとか」

 

 召喚から一歩でも出遅れれば敵戦力は倍々に──実際にアンデッド化の能力を持つのはデスナイトとスクワイア・ゾンビまでだが──膨らむ可能性がある。

 幾ら戦力を揃えても、死んだ傍から敵に回られるのではキリがない。凡そデスナイト相手の戦闘において、『これだけ揃えれば安心』と楽観できる戦力は事実上用意が不可能だ。

 

「一つの仮定として、デスナイトが生み出したアンデッド軍に他の戦力を全て拘束されたと前提した場合、【スパエラ】の皆様だけで吸血鬼とデスナイト、もしくは更に増えるかもしれない召喚モンスターに勝利できる可能性は如何程でしょうか」

「大いにあり得る状況ですね……」

 

 実際、戦力的に考えてもデスナイトと相対出来る者は相当限られてくる。疲労しない三十五レベルと向き合って殺されない者は相当稀有だ。そういう意味でも『敵首魁対アダマンタイト級冒険者。そしてそれ以外』という構図はありがちである。合理的だし、自然だ。

 当然イヨたちもそうした状況は想定してきた。

 

「勝算は十分あります。此方から攻めて掛かるならばまず勝てる、と言って良いかと」

「根拠をお聞きしても?」

「まず一つに、今回、私は武器を装備しておらず、また他の装備品も最適化しない状況でデスナイトと当たりました。あれが私の実力の全てではありません」

 

 イヨの普段の装備は移動力の強化やバッドステータス・デバフに対する耐性、各種魔法に対する抵抗を主眼に揃えられている。それ以外には【アーマー・オブ・ウォーモンガー】の重装形態に耐える為の筋力強化などだ。

 

 武器に至ってはアンデッドに完全無効化される毒武器である。デスナイトと相対した時などは素手だったのだ。

 それらを対アンデッド仕様に組み替えれば実質戦闘力は跳ね上がる。

 

 元よりイヨとデスナイトのレベル差は五レベル。圧倒的不利だが、絶対的不利ではない。腕と装備で覆せると、イヨはユグドラシル時代の経験から断言できる。

 

 なにより、冒険者の強みは数と連携、多種多様な手段でもあって敵を追い詰める所にある。これは相手にも言える事だが、一人から四人になれば取れる手段や対応は数倍になるだろう。

 

 人類の天敵を取り逃がすという大失態を前にしてイヨの心は燃えている。確実に討ち滅ぼす力を手に入れる。それは素の実力の向上も含んでいる。

 

 より苛烈に自分を追い込み、叩き上げる。もっと強くなる。その必要性をイヨはひしひしと感じていた。

 

「デスナイトを単身で抑える事は今回ですら出来た事です。装備を整えチームで当たれば、吸血鬼とデスナイトを同時に相手取り、尚撃破する事も十分に可能と存じます。──ただ」

「ただ?」

 

 勝算を語る意気を落とし、イヨは仲間たちと話し合って出した結論を告げる。冒険者組合とも同じやり取りをした。

 

「──私が出会った女吸血鬼。あれが全ての元凶、敵の首魁とは思えなくなってきました」

 

 

 

 

「……報告には無かった推測だな」

 

 演技でなく、正真の寒気から大公が零す。

 

 通常、吸血鬼は白金クラスの冒険者ならば問題なく討伐できる難度のアンデッドだ。

 だが此度の女吸血鬼は外見からして一線を画す特徴的な存在で、単純な身のこなしでも通常の域を上回る身体能力を見せた存在である。

 

 まず間違いなく通常出現する事のない上位吸血鬼──未だ結論は出ていないが、宮廷魔術師たちの分析では国堕としで有名な〈吸血鬼王侯/バンパイア・ロード〉では無いかとの推測もあるのだ。

 

「それより上の存在がいる、と……?」

「対峙した者が私しかいませんので、私の主観がその予感の根拠となる事を前置いておきますが──あの女吸血鬼は戦闘に不慣れな様に見受けられました。単に魔法詠唱者だから肉弾戦を不得意とするといった感じでなく、戦いそのものに疎い様に思えるのです」

 

 底が浅く思えるのだ。極めた一事は万事に通ずるというが、あの女吸血鬼から円熟した技術や芯に通った実力は感じなかった。

 

 イヨが殴り掛かった時、吸血鬼は避けようとした。脅威的な身体能力の、しかし大して武に通じていない動きでだ。デスナイトを召喚できる程の魔法詠唱者なのだから前衛としての能力を持っていないのだと考えれば一応納得できるが、熟達した魔法詠唱者は妨害を受けても集中力を持続させ、魔法を発動させるという。

 ベリガミニ程の強者ならば身を切り裂かれながらも発動を完遂し、魔法を放つ事とて不可能ではない。

 

 驚きの声を漏らし、無様に、霧と化す能力を持ちながらも身を捻って攻撃を避けようとしたあのアンデッドがそれほどの超高位魔法詠唱者なのだろうか。冷静になって考えれば考える程、振舞と想定される能力が見合わない。

 

「魔法詠唱者の全てが戦闘者と言う訳でもありません。研究者肌の高位魔法詠唱者も存在します。そうした人物なのでは?」

 

 公国の筆頭宮廷魔術師など正にそのタイプである。第四位階に到達した人物ながら戦闘の場では何の役にも立たない、しかし研究室においては有能な魔法詠唱者だ。

 

「公女殿下の仰る事も最もだと思います。それなら納得がいくのも確かです。ただ、私の中で懸念が消えません」

 

 イヨが言えた台詞では無いが、逃げるか戦うかの判断より先に罵声を吐く事を選んだあの吸血鬼が其処まで頭の良い存在とも思えないでいた。勿論、頭が良くて実力があっても沸点の低い人は存在するけども。

 

「あの女吸血鬼は、自身を『偉大なる父の子』と表現しました。およそアンデッドの台詞とは思えないものにも聞こえますが、吸血鬼は下位種の創造能力を持ちますので、それを考えれば違和感はありません──」

「その『偉大なる父』やらは更なる上位種である可能性が濃厚となる。それが今回の首魁、敵の親玉やも、か」

 

 勿論推測だから、否とも応とも確たる事は言えない。しかし、不確実として下げるには余りに悍ましい可能性だ。

 

 ──もしデスナイトの召喚・作成を可能とするならば、その者はフールーダ・パラダインすら超える第七位階魔法詠唱者である可能性すらある──エルアゼレット・イーベンシュタウの言葉が大公と公女の脳裏で木霊した。

 

 そうすると敵の想定戦力は更に増大する。真の首謀者である『偉大なる父』と今回姿を見せた女吸血鬼、そして召喚されるデスナイトだ。

 

 場が重い沈黙に包まれる。此度、存在が浮かび上がったのは人類最高戦力すら上回る超害悪だったのだ。晴れやかな陽光の下でさえ、宵闇に潜む不死者の存在を思えば身の震える思いがした。

 

 長い沈黙の後、

 

「……私はこの国と、其処に住まう民を愛している。実の息子は二人も亡くしてしまったが、残った一人娘と民だけは、何としてでも守り通さねばならない」

「……殿下」

 

 総員の視線が大公に集まる。その猛禽の様な眼差しに、その奥深くに宿る暖かく強い光に。

 

「地位を望むならば伯爵位を授ける用意がある。そう言ったのを覚えているかな、諸君」

 

 それ程の恩を感じていた。それだけの褒美に値する大功であり、もしうんと頷かれたのならば事実そうしてやるつもりだった。

 

「我が大公家は公国の支配者にして守護者であらねばならぬ。そして、大公家は恩を忘れない。功を立てたのならそれに見合う褒美を。国と民を守る為に出来得る全てを」

 

 ──巨悪を打ち破るべくなりふり構わず力を求める、その姿勢に私も乗ろう。

 

「恩を返す為、そして公国の未来を守る為。我が国で唯一かの者共を打ち滅ぼし得る戦力である君たちに、私から約束しよう──領地一つに匹敵する武器を。伝承の英雄たちに並ぶ防具を、必ずや君たちに与えよう」

「はっ……! 私共もアダマンタイト級冒険者として、必ずやかのアンデッドを討伐し、人々の憂いを払うと誓います!」

 

 座した椅子から立ち上がり、大公と公女に礼をする。忠誠を誓う臣下の作法とは異なるが、それは確かに君主に敬意を払う民のものだった。

 リウルもベリガミニも、ガルデンバルドも──そして今はイヨも、公国に住まう一人の人間なのだ。

 民を守る主君としての大公の姿には、跪くに足るだけの威厳があった。

 




大公「実の息子は二人も亡くしてしまったが~」←殺したのはこいつです。

大公の言ってる事は言葉も想いも本音ですが、その表し方には演技が入ってます。率直に言うとカッコつけてます。シナリオ上あり得ませんが、大公と公女はパンドラズ・アクターに出会うとテンションが上がる類の人間です。

【もしイヨが百レベルの人間種だったら】の書き溜めは現在5490文字です。
【もしイヨが百レベルの異形種だったら】の書き溜めは現在50229文字です。連載版のタイトルは【終にナザリックへと挑む暴君のお話】に決定いたしました。本編と同じく、ナザリックは最後まで登場しません。実際の投稿はかなり先になりそうです。


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公城にて親善試合

 超恥ずかしい、とリウルは思う。周りの連中が何も言わない所を見ると隠し通せてはいる様だが、内心恥ずかしくて恥ずかしくて堪らない。

 

 ──なんで人前でそう言う事言っちゃうんだよ。言えちゃうんだよ。恥ずかしげもなく。

 

 リウルなどは聞いているだけで悶え死にそうになったのだが。

 

 『一生を共にすると誓い合った女性がいます』『私にとって、生涯の唯一無二がリウルさんです』──。

 

 恥ずかしい。

 

 リウルだって年頃である。結婚するまでに至った相思相愛の伴侶にそういう事を言われて嬉しくない訳ではない。他の女、それも絶世の美女の誘いに対して一片の揺らぎも見せず断言したのだ。まあ元より何の心配も動揺も無かったが、それでもだ。

 こんなにも想われてる、そう思うと幸福感や嬉しさ、充足を感じる。

 

 だがそれはそれとして超面映ゆい。超恥ずかしい。『わざわざ人前でそういう言い方しなくてもよくね?』と本気の本気で思う。人目もはばからず道端で絡み合っている軽薄な男女では無いのだから。いや、それと比べれば遥かに真面目だしまともだとも思うけども。

 

 ──二人きりの時なら別に……いや、それはそれで逃げ場ねぇし別の意味で対応に困るが。

 

 なんでイヨはそういう台詞を素面で、真剣に、真面目に、断固として言えてしまうのだろう。リウルからするとすごく不思議である。リウルが何かの拍子に同じセリフを吐こうものなら、喋る前と喋っている最中と喋った後に脳内で言い訳大会が開催される事疑い無しだ。

 

 普段、リウルのそうした感情は言わずともイヨの方が過たず察してくれるので──それがまた良くも悪くもむず痒い感もあるけど──ほぼほぼ口に出さない。イヨからアピールしてきた場合も、それらを拒絶せず受け入れる、もしくは手を握ったり抱きしめてやったりと行動で表して肯定している。

 

 他に人が無いなら兎も角、人前とか本気で無理であった。ただ取り乱すのも子供っぽいし、赤くなるなど持っての他と思って死ぬ気で平静を保っただけだ。

 

 ──割と世間ではこういうのを恥ずかしく思わないのが標準なのか? 俺が過敏過ぎて恥ずかしいとか思っちゃってんのか……? この方面における俺ってやっぱりイヨより子供なのか……? 

 

 あと、結婚前はタメ口だったのに結婚してからは二人きりの時に敬語を使われるようになったのも気になる。呼び方だって名前にさん付けだ。距離遠くなってないかと思う。

 

 結婚の約束をした日の夜とかもリウルはかなり緊張した。『子供はまだって決めたけどイヨ的にはそういう事自体はしたかったりすんのかな』とか考えた。『夫婦なら寝台は一緒のが自然か?』とかめっちゃ考えた。

 

 頭から湯気が出る程考えたのに結局自分からは何も言えなくて、イヨはそんなリウルの全てを受け入れてくれる優しい笑顔で隣のベッドに入り、優しく手を繋いでくれた。

 

『焦らなくていいよ、大丈夫だよ。僕はリウルさんと一緒にいられるだけで、すごくすごく幸せですから』

 

 今まで自分がイヨを引っ張ってきたという自覚がリウルにはあったが、この時初めてイヨに大人の余裕や包容力と表現すべきものを感じた。それらを束ねて母性、あるいは父性と人は呼ぶのかも知れない。

 

『舐めんな焦ってねーよ余裕だ』

 

 早口でそれだけ言ってリウルはイヨ側のベッドに移った訳だが、結局悩んだ様な事は何もなかった。寝られそうにないリウルに反してイヨはものの数分で穏やかな睡眠に入り、釣られる様にリウルもやがて寝入った。

 

 体温の高いイヨは冬に近付く夜にあって何とも心地良く、その細く柔らかく小さい身体は変な意味でなく抱き心地が良い。特に腰回りのくびれ、その繊細さは抱きしめれば改めて驚くほどだが、衣服の上から感じる好ましい他人の肉体は妙な気恥ずかしさと幸福感をリウルに齎してくれる。

 

『なんかコイツめっちゃ良い匂いする』、と安心半分敗北感半分の中で眠りに落ちる。五割を占める敗北感はリウルの内心でうずたかく積み上がった謎の気負いが発生させているに違いなかった。

 他のすべての面で良くも悪くも子供っぽいイヨ・シノンであるのに、殴り合いと恋愛だけは妙に達者かつ達観している様に思う。

 

 リウルは公城内を歩きながら、心の片隅で思う。なんか悔しい、と。

 何時か絶対俺が勝つと謎の宣言をすると、意識して思考をぶん投げ、もとい切り替えた。

 

 

 

 話し合いらしい話し合いは終わったのだが、『話は済んだんで帰ります』というのは余りに味気ないとの事で、【スパエラ】は両殿下直々の引率の下、公城内を案内してもらっていた。

 テラスから出ると両殿下の手足となる幾人かの人間が一行に付き従ったが、主人の意向を慮ってか、常に一定の距離を取って邪魔にならない様に務めている。

 

「元々、この城は純粋な軍事拠点として建設された。高台にあるのはその為だ。土台や基礎は数百年前に存在していた廃城のものを一部流用し、かなりの突貫工事で完成させたと記録されている。時代と共にある程度増改築を行った上美術品や調度品で飾り立ててはいるが、根っこの造りが無骨なのだ」

 

 やがて魔神騒動が収まって比較的平和な時代が到来するに当たって大公家の領地として賜り、城の周囲には民が多く集い、徐々に街として拡大していったのだとか。

 

 公城は帝国や王国辺りの付き合いが緊密な国家からは質実剛健と称えられる一方、裏では古く無骨が過ぎ雰囲気が暗く華が無い、威圧的に過ぎる一方威厳に欠けると専らの評判だった。

 歴代大公は武門の血筋である事を誇り、そうした評判をむしろ好ましく思っていたそうだ。戦に用いる砦が煌びやかでどうする、派手で風流でどうする、この城の面構えこそ我が公国の武威の証と他国よりの訪問者に胸を張ったとか。

 

「まあ要するに見栄を張ったのだ。実際の所、代を重ねるにつれそうした感覚は薄れていたのだろう。もしも心の底から誇りに思っていたのなら、他国の立派な城を羨んで改築などした筈が無い」

 

 聞かされる側である【スパエラ】としては反応に困るが、大公は先代以前の統治者たちについて辛い評価を下した。

 

「勿論国にとって体面も見栄も重要だ。侮られる事は不利益にもなる。取り繕う行為を一概に否定する気は毛頭ないが、時代に即した改築とするには余りに中途半端で──」

「お父様」

「と、こんな話を君たちにしてもしょうがないな。すまない」

 

 はいそうですねとは言えなかったが、四人は大いに同意した。語り口こそ穏やかであったが、君主による前君主への駄目出しは民の立場として何とも言い辛いものがある。

 

 小さめとは言っても城であるから、人の足で歩くと如何にも広大に感じる。特にこうした巨大建築物──ビルなどの縦に大きい物は兎も角──に縁が薄いイヨからすれば驚愕に値するほど広く大きく豪勢に思える。流石にアーコロジーよりはずっと小さいだろうと思うが、実際に中に入った事は無く、遠目に見ただけなので比較は出来ない。

 

 ただ少なくとも、公国で訪れた事のあるどんな貴族や大商人の館と比べても豪奢で華美で洗練されている様に思えた。

 

 これでも帝国の帝城や王国のロ・レンテ城と比べると『小っちゃい上に実用一辺倒過ぎてダサい』と他国で評価されていると言うのだから、他の国の城はどれだけ立派で優雅なのか、イヨの想像力では思い描く事も出来ない。全部屋歩いて回ると一週間とか掛かってしまうのだろうか。

 

「君たちに会わせたい者がいる。既に出会っているが、面識は無い筈だ。これから更なる難事が予想される中、互いの実力向上の為に是非とも君たちと彼を会わせてやりたい」

「既に出会っているけど面識は無い……?」

「っははは。意図せずして謎めいた言い方になってしまったが、直ぐに分かるさ。特にシノン君、君なんかは彼と気が合うだろう」

 

 お城勤めで僕と気が合いそうな、既に出会っているけど面識のない人って誰だろう。イヨは悩んだが、ずんずん進んでいく大公の手前仲間たちと答え合わせをするのも憚られて、どうせ目的地に着いたら分かる事だと判断し、考えるのを止めた。

 

 最上階のテラスから案内が進むごとに下り続けて広大な城の下層に到着し、大公が案内したのは、ある意味この城で最も【スパエラ】が馴染むであろう場所だった。

 

 公城の中でも単純な広さで言うならば一二を争うだろう、騎士たちの屋内訓練場である。用途で使い分けているが、屋外にも同様の施設が存在するとの事だ。

 城下にも練兵場という名の施設は存在するが、此方は城勤めの者たちが常の訓練を行う場所の一部であるとの事。

 

 壁に設えられた棚に収められた訓練用の様々な武器防具、そして鍛錬器具。こうした設備の整い様においては冒険者組合の修練場など及びも付かない。

 

 中には案山子相手に刺突を繰り返す恐らくまだ見習いであろう少年たちの姿があり、立派な鎧兜を着込んだ騎士たちがいて、最も装備の整った実力者らしき高級騎士の集団もいる。大まかには三グループの別れている様だ。数えられるほどだが、幾人かの女性騎士の姿もあった。

 

 公国の騎士である以上彼ら彼女らの最上位指揮官は大公殿下その人である。剣も忠誠も捧げている。そんな人物が公女と新たなるアダマンタイト級冒険者を引き連れて現れたのだから、反応は即座だった。

 

「総員! 大公殿下と公女殿下に──」

「良い。訓練を続けよ。それとバドを此処へ」

「はっ!」

 

 全員が姿勢を正して相応しい儀礼を実行しかけたが、大公の一言で例外なく訓練に戻る。熱気が舞い戻り、激しい風切り音や踏み込みの音、気合の叫びが再び場を満たした。

 

 こうした姿を見るに、大公が騎士たちの訓練場を事前の予告なく訪れるのは、公城において頻繁にある事らしい。余りにもみんな慣れている。

 

 そうしている内に、一人の騎士が歩み出てきた。

 

 その歩く姿だけでも、この場にいる騎士の中で隔絶した実力を持つ事は疑いなかった。

 高級騎士と比べても一際華美な意匠の鎧だが、外見一辺倒の見掛け倒しで無い事は既に周知である。マジックアイテムだったとしてもその重量はかなりのものと思われるが、足運びや所作はその重量をまるで感じさせない。

 

 兜を脇に抱え、晒した顔貌は切れ長の目をした中年の男のものだ。栗色の短髪はよく手入れされ肌は生気に満ち、静かな青い目には理性が宿っている。口元に整えた髭を蓄えていて、そうした姿は貴族的に整った風貌だが、僅かに除く首筋や顎回りの太さには並々ならぬ鍛錬の痕跡が如実に表れていた。

 

 その出身がどうであれ、類稀なる実力でもってその地位を勝ち取ったに違いない男であった。

 

 成る程、大公の言った通りである。イヨたち四人はその人物を見知っているが、顔を見たのは初めてだった。

 

「先日振りです。その節はお世話になりました」

「いえ。主命に従い、義務を果たしたにすぎません。貴方方こそ、良くぞ戦ってくれました」

 

 彼はデスナイト戦において前衛を勤めたたった一人の公国騎士。デスナイトの右足を奪った男だった。

 

 

 

「貴方はもしや、ガド・スタックシオンさんの血縁ではありませんか?」

「……良く分かりましたね。……私はガドの次男に当たります」

 

 要するに大公の提案とは、互いの実力向上と親善のために試合を執り行おうというものであったらしい。

 

 イヨという名の脳筋のツボを良く分かっていらっしゃるとしか言えない采配であった。あるいは公女殿下の発案であったかもしれないが、名案である。

 

 一度共通の敵を前に轡を並べた者同士とあって、多分イヨの脳内では公国近衛騎士団の副団長──バド・レミデア・フィール・ミルズス男爵──は既に仲間にも近いカテゴリーに分類されていたのだろう。

 

 冒険者で言うオリハルコン級には今一歩至らないというのがかの男爵の国際的な評価らしいが、デスナイト戦で見せた力量はまず間違いなく超一流の域であった。互いに相手にとって不足は無い。

 

 戦働きによって平民から功を積み上げて男爵位を授かった人物だけあってバド副団長も乗り気であり、その場で他の騎士たちを観衆とし、親善の御前試合が執り行われる事となった。

 

 因みにイヨの【アーマー・オブ・ウォーモンガー】、【レッグ・オブ・ハードラック】【ハンズ・オブ・ハードシップ】はいずれも現在半壊につき修理中なので、武器防具は以前も着用したモンク用で代替した。ユグドラシル製のものなので、予備とは言え此方の世界では一級品だ。

 

 壁際に整列した複数階級の騎士たちが熱の入った視線で見守る中、アダマンタイト級冒険者イヨ・シノンと公国近衛騎士団副団長バド・レミデア・フィール・ミルズス男爵は対峙する。

 視界の端では出番をイヨに譲った【スパエラ】三名と共に、両殿下が騎士たちへ『滅多にない機会であるのでこの一戦を糧とする様に』と一席ぶっていたが、両者は既に互いしか目に入っていない。

 

 イヨの視界の中で、かの男爵の貴族的な礼儀正しさには罅が入り、何らかの私情を覗かせつつあった。

 

「ああ、やっぱり。初めて会った時からそうじゃないかと思っていました。ガドさんとは立場上あまり話せませんが、とても尊敬しています」

 

 組合に所属する冒険者と副組合長という間柄で余り言葉を交わせないのは、立場上の問題というより戦闘者としての二人の相性が良すぎる点が憂慮されての事だが、イヨはその辺り余り自覚していない様だった。

 

「……良く」

「はい?」

「……本当に良く、分かりましたね。私と父は全く似ていない。姓は変わりましたし……名前の語感が近い程度か……その他全て一切が違う、容姿も生き方も武の流儀も」

 

 既に兜を装備している為、表情は分からない。ただ俯き、足元を見つめたまま呟く様は何処か鬼気迫るものを感じる。もしかして言ったら不味い事だっただろうかと、イヨは今更思った。

 

「正直勘の様なもので、特に何処がと言う訳でも無いのですが……足さばきの呼吸に共通するモノを見たのです」

 

 細かく言えば戦士と騎士では装備が違う。特にガドは特異な刀剣を振るう二刀流の戦士で、息子であるバドは正統派剣術の使い手、武器も何の変哲もない長剣である。勿論業物ではあるが。

 違うと言えば何処までも違う。だが、足さばきは剣術の根っこだ。最も大事なその部分に、イヨは単に技術的な面とは異なる縁を感じたのだった。

 

「幼少の頃に僅かばかり基礎を教わりましたが……そうですか。私の剣に父の息吹が、まだ……そうか、まだ……」

 

 兜の隙間から覗く目が、妙に鬼気を増した。

 この話題を続けるのはやっぱり不味いかもと野生の勘が疼き、イヨは大公の方を見やるが、あえて試合前の交流を止めようとは思っていない様だった。安全のために距離を取っているので、会話の内容までは聞こえていないのだろう。

 

「……副団長閣下はもう一人立ちして長いのですね! 私など親離れしたばかりで日々勉強の毎日です。えーっと、その、ご、ご兄弟とは最近会われましたか? 何人兄弟でいらっしゃるのでしょう?」

「……兄と妹がおります」

「そうなんですか! 私も三人兄弟で──」

「妹とは幼少期以来顔を合わせていません。年も離れていましたし……風の噂で今は帝国にいるとは聞きましたが」

「あ、そうなんで」

「兄は父が殺しました。最も濃く父の才能を受け継いでいましたが、力を求めるあまり裏社会に身を託しましてね。一般には殆ど知られていませんが、当時の兄の実力は父に切迫しており、かなりの激戦ではあったようです」

「……あ」

 

 イヨは全身にじっとりと脂汗を掻いた。

 

「父をして殺さざるを得ない程の実力に至った兄を、当時の私は羨ましく思ったものです。妬ましかったとはっきり言っても良い。あれから十年以上、私の力量は未だ父の足元にも及ばぬのですから」

 

 最早、目の前の騎士の言葉はイヨに向けられたものというよりか、誰に言うでも無い内面の自白だった。

 

「妹は私よりも弱い筈ですが、私の様に父の影に縛られておりません。自由に生きている。弱いのが悪いのではない、父は公国の歴史上最も強い英雄なのだから、比肩する者など満天下に幾人もいないのですから。只管に父の背中しか見えず、ただただ劣等感に苛まれるこの様が無様で、一心に努力する事も出来ず絶えず自己嫌悪から抜け出せない私だけが──地位を得てはみたものの渇きは──逃げだと内面の私が──欺瞞に満ちた在り方──器が──」

 

 段々と高速化していく発声速度は遂に可聴域を超え、イヨは聞き取れなくなった。少年はただ、何かスイッチを押してしまったのだと後悔し、恐れていた。

 

「貴方は父と引き分けたそうですね」

 

 唐突に冷静さを取り戻し、がっくんとバドの顔が地面からイヨに向き直った。イヨは怯えた。

 

「はい、しかし」

「デスナイト戦で見た実力からすれば理解できるお話です。成る程、貴方は父と同等の実力を持つお方である訳ですな。その若さで同等となれば、貴方は将来的に父を超える男という訳ですね」

 

 早口で一方的に言われ、イヨが咄嗟に返答できずにいると、

 

「良い試合をしましょう」

 

 イヨの心情を置いてきぼりにして、試合は始まるらしかった。

 

 

 

 

 何かおかしいな、とガルデンバルド・デイル・リブドラッドは違和を感じた。

 眼前では公国近衛騎士団の副団長バド・レミデア・フィール・ミルズス男爵が向かい合っているが、気力充溢した様子のバドと違い、イヨは僅かに狼狽えている様に見えた。

 

 固唾をのんで見守る騎士たちは上から下まで気付いていない様だが、それなりに時間を共にした三人からすれば一目瞭然だ。

 

「何らかの盤外戦術でもあったかの?」

 

 試合とは言え力比べである。戦闘者である以上勝つ為の手段を否定する気は無い。ましてや揺動作戦的な非常にポピュラーなものであれば猶更だ。アダマンタイト級という高みにあっては、その程度で一々揺らいで実力を発揮し切れない方が未熟かつ問題である。

 

「こと戦闘において、イヨが口八丁手八丁で揺らぐとは思えないがな」

 

 冒険者組合での練習でもなりふり構わずそうした手段を用いる者はいたが、イヨは完全にガン無視を決め込んで相手を殴り倒し蹴っ飛ばし投げ飛ばして勝利してきた。戦闘時に限って、煽り耐性の高さはアダマンタイト級の名に相応しいものだ。だったのだが。

 

「だが、事実身が入りきってねぇ。散々言い含めたから副組合長戦の再現にはならないと安心してたが、こりゃ逆の意味でどうだろうな」

 

 三人がひそひそと言葉を交わし合う先で、大公が試合開始を宣言。観戦する騎士たちが歓声を上げた。まだ少年時代を脱していない見習い騎士候補生らの高い声が目立つ。

 

「シノン殿。お互い力を尽くしましょうぞ」

 

 剣を抜くより先に、バド副団長が籠手に包まれた手を差し伸べる。イヨは一瞬虚を突かれたが、

 

「あ、はい、よろしくお願いしま」

「あ、馬鹿」

 

 リウルの呟きを他所に、伸ばしたイヨの右肘から先がバドの長剣に切り飛ばされた。

 

 

 

 

「ちょ!」

「おま!」

 

 大公と公女が地位に相応しからぬ声を漏らした瞬間、公国において騎士の鑑とされる実力者の騙し討ちに、騎士たちが声を失う。

 

「イヨ坊にしては珍しい油断じゃのう」

「うむ、らしくない」

「まあ、これも経験だな。次は同じ失敗はしないだろ」

 

 慣れっこだと言わんばかりに腕組して観戦する【スパエラ】の三名だけが、この場から限りなく浮いていた。

 

 

 

 

 ──不覚! 

 

 反応できた攻撃だった、とイヨは自らの油断を諫める。慣れ親しんだ激痛の信号が脳に届く頃、既にその思考は完全に立ち直ってい──なかった。

 

 臓腑がねじ切れる様な衝動が奥底から沸き上がり、気付けばイヨは身体をくの字に折って、床に血反吐を吐き散らしていた。

 

 当然、無防備を晒す頭にバドの長剣が叩き込まれる。

 

 

 

 

「お三方っ、誤解なさらないで下さい! 我々にイヨ様を陥れよう等と言う気は──」

「凄まじい毒だな。マジックアイテムで強化したイヨの耐性を突破するとは」

「副団長殿、前身は流浪の戦士だったとか。道理でのう、良くも悪くも騎士の戦い方ではないわ」

「俺も欲しいなぁ。あいつ耐毒訓練でも生命力と体力だけで大抵の毒に耐え切るからな」

「──お、落ち着いておりますわね」

 

 眼前ではなりふり構わぬ戦闘が続けられており、その余りの激しさに周囲は試合を制止させる事すら出来ない。バドは容赦なく急所を抉らんと刃を突き立て踏み付け、イヨは自身の血に塗れながら転げ回り、少なくない傷を負っていた。

 

「ああ、お気になさらず、両殿下。我々もイヨも慣れっこですから」

 

 試合開始の合図の後ですし、イヨが油断しただけです。あれで副団長殿を責めれば、それこそイヨは自責の念から気を悪くするでしょう。さらりと言ってのけるリウルの言に、大公も公女も一応の落ち着きを取り戻しながらも、気遣わし気だった。

 自らの臣下が卑劣と言っても過言では無い行いを、多数の部下の前で行ったのだ。しかも大公側の事前の打ち合わせに無い暴走である。大公にとってみればこれまでの友好関係構築の成果が、一方的な裏切りによって台無しになったとされても仕方のない失態であった。

 

「本人も我々に制止を求めていません。あれの中では滞りなく試合続行している状態です。このまま見ていれば宜しいかと」

「し、しかし、腕を切り落とされ、しかも毒まで……」

「無しと明言されていないのですから、当然警戒していてしかるべきです。試合とは実戦を想定して行うもの。事前の約束に無かった以上アリでしょう。少なくとも本人同士のレベルでは同意があったものと思われます」

 

 あの通り二人とも戦っています、と視線を逸らさずリウルが宣う。

 イヨは防具の優秀さとセオリーも何もない滅茶苦茶な回避運動で命を拾っている状態に見え、幾度か手痛い攻撃を貰っていた。耳孔、鼻孔、眼──顔中のありとあらゆる穴から粘り気の強い血液が溢れている。

 

「──あれが試合と呼べるか?」

「かなり重めではありますが、練習としてはまあ有りかと」

「──」

 

 両殿下を始めに、控えている騎士らも揃って絶句した。今まさに眼前で繰り広げられている凄惨な光景を試合、練習と言い切るアダマンタイト級冒険者の姿に寒気がする思いだった。

 未だ少年と言って良い年齢であり、実戦経験のない見習いたちの中には吐き気を堪えて口元を手で押さえる者までいる。

 

「両殿下、皆さま。イヨは普段の冒険者同士の訓練でも真剣を用いますし、骨折も日常茶飯事です。四肢切断とて頻繁ではないにしろ幾度も経験がある。事前の申告があれば多人数でも罠でも毒でも弓矢に魔法でも、なんでもありです」

 

 我々もイヨをチームに迎えてからは似た様な訓練を時たま行う様になりました、とガルデンバルドが添えた。

 

「ははは、そうした訓練を日々行うせいで、イヨ坊の手は何時まで経っても乙女の如き柔肌から変わりませぬがな。毎度ポーションを飲まざるを得んのですよ」

 

 ベリガミニが笑みを零した。

 

 大公も公女も優れた政治家だが、戦闘の分野に関しては戦術や戦略の知識が大半を占めていて、こうした桁の外れた者たちの思考や感性は理解しがたい面があった。それは大半の騎士たちにしても同様で、三人の言葉は一層恐ろしげに聞こえた事だろう。

 

「あえてこういう言い方をしますが、あの程度の負傷で死ぬのなら、イヨはデスナイト戦で五回は死んでいたでしょう」

 

 イヨのこういった点において、三人とて何も感じないではない。行き過ぎるなら制御しなければとは思う。ただ、普段の天真爛漫な姿と両立した苛烈な姿勢は既にイヨの個性として認識してもいる。実際、そうだからこそ若くしてあれ程の力量を持つに至ったという面もあろう。

 出来る分には肯定してやりたい、というのも偽らざる心情だった。

 

「それはそうかもしれませんが……」

「私どもも当然、イヨと何度も練習試合をしています。故に断言できますが、戦闘者としてのイヨの最も恐ろしい点は高い身体能力、異常なほど冴え渡る技巧、卓越した勝負勘、そのいずれでも無い」

 

 【スパエラ】に並び立つ二人の前衛の片割れ、ガルデンバルドが断言する。

 

「どの様な傷を負おうとも命尽きるまで攻撃を止めず、相手が絶えるまで喰らい付き、どんな状況でも勝利への意志が揺らがない……折れない戦闘意欲、比類なき殺傷信念こそが最大の強みです」

 

 

 

 

 全身を犯す激烈な毒物が心を乱し、思考は散らばり自意識が揺らぐ。今の自分が動いているのか停止しているのかすら曖昧となり、攻撃を受けているのに立ち上がる動作が取れない。

 二足歩行を取り戻すのに一秒強を要し、その間に致命傷を加えられるだろう。

 

 現在転げ回っているのも回避運動というよりは、痛みに耐え兼ねそうせずにはいられない衝動の割が大きく、当然攻撃を喰らう。

 

 だがそんな状況下にあって、イヨは未だ動き続けていた。戦闘続行中であった。イヨとて昆虫では無いので痛い時は痛いし、苦しい時は苦しい。ただ普通よりずっとずっと『痛い』と『苦しい』に慣れていて、我慢が効くだけだ。我慢できる以上の痛みは辛い。

 なのにどうして耐えられるのか。心の平静の最後の一線を保ち続け、心の水面がどれだけ荒れ果てても深く深い本能の部分で確固として在り続ける事が可能なのか。

 

 実を言うと其処に難しい理屈や特異な仕組みは無い。これもまた『慣れ』である。幼い子供は転んで膝を擦りむいても泣くが、大人は泣かない。顔を張られると殆どの人は反射的に眼を瞑るが、訓練すれば殴られる間際にも相手を視認し、アクションを起こす事が出来る。

 

 『これくらいなら大丈夫』『これ以上は駄目』という限界の一線に幾度も触れ、馴染み、既知のものとする。そうすると人格が砕けそうな痛みであってもやがては慣れ親しみ、『それはそれとしてどうするか』という思考の余地を残すことが出来る様になる。

 

 心や精神の全てが痛みに頭を垂れる事が無い。脳の九十九%が無様に泣き叫んでいても、残った一%が身体を手繰って反撃・防御・回避を実行する。

 

 訓練を通じて脳と体に刻み込み、自分を作り変えていくのだ。研ぎ澄まされ鍛え上げられた本能と理性は、察知できなかった刃が身体を切り裂き始めた刹那に反射的な回避を選択・開始し、重傷化を避ける事が可能である。

 

 そして。

 

「ぬう!」

 

 反撃も。

 

イヨは手の触れた何かを渾身の握力で掴み取り、そして振り回した。

 

 

 

 

「うわあああああああ!」

 

 例によって見習い騎士たる少年たちの悲鳴が、いっそ可愛らしいまでに響いた。

 彼らの憧れの的だった近衛騎士団の副団長が宙に半円を描き、頭部から思い切り地面にたたきつけられたのである。

 

 下手人は全身血みどろ、頭部顔面及び胴体と手足に無残な傷を負ったイヨ・シノンだ。握り締めたバドの足首を脚甲ごと圧壊させながら振り回し、遠心力を利用して立ち上がった怪物は、毒物の影響か瞳孔の開いた目が爛々と狂人めいた輝きを発している。

 

 元の顔立ちが下手に美しく可憐である為に、幾つかの刃傷が縦横断する顔面はより一層化け物染みており、端的に言って人間離れしていた。アンデッドの一種に見えかねない。

 

「き、ぎぃいぬふぅいひひ」

 

 未だ体内に侵入した毒物への抵抗に成功していないイヨ・シノンは非人間的な鳴き声を上げたあと、景気よく派手に吐血し、

 

「ぜぇあああああああ!」

 

 裏返った奇声を上げ、思い出した様に副団長を振り回し、連続して地面に叩きつけ始めた。敵から加えられた攻撃は致命傷で返すと言わんばかりの、悪魔か人食い鬼の如き暴力の行使だったが、長くは続かない。

 

 脳震盪を起しつつも、バドが自らの足を膝下から両断し、イヨの手から逃れたからである。

 

 遠心力に従って宙に弧を描いた彼はしかし、片足にも関わらずしっかと大地に立ち、僅かに上体を揺らしながら剣を構える。本来ならすかさず追撃する筈のイヨも、毒で朦朧としている為間に合わなかった。

 

 対峙したままふらふらと、但し眼だけは異常に輝かせながら睨み合う事しばし。無限さえ思われる数秒が過ぎた後、二人は、

 

「いぃええあぁあああ!」

 

 お揃いの奇声を上げてケダモノの如く相手に飛び掛かった。血みどろの泥仕合の再来であった。

 

「お三方の内どなたでも構いません、もう止めた方が良いのでは!?」

「いや、二人とも朦朧としてるから分かり辛いのは確かですが、攻撃の筋を見る限り殺す気は互いに無いですね。勝つ気であって殺す気はない、ちゃんと冷静です。続行で良いのではないかと」

「殺し合い以外の何物にも見えないのですが!?」

「そりゃまあ試合ですから多少はしょうがないですよ。治療の準備だけお願いいたします」

 

 『しょうがない多少』はその後数分間続き、ガルデンバルドの『其処まで』一言で二人はぴたりと止まった。本当に正気だったらしい。

 

 

 

 

「本日はありがとうございました!」

「いえ、こちらこそ。我ながら初撃は満点に近かったと思いますが、その後がいけませんでしたなぁ。流石はシノン殿、二撃目で仕留められなかった時点で私の敗北は決定していたも同然でしょう」

「いやぁ、本当に腕を切り落とされた時はしまったと思いました。毒の効果時間がもう少し長かったら僕も──あ、いえ、私も押し負けていたでしょう。副団長殿こそ見事であります、瞬時に足を切り落とした判断で流石でございました」

 

 治療を受けながら爽やかに感想などを言い合い始めた二人に、騎士たちは少なからずドン引きした。自らの上司が行った不意打ちに憤っていた者も、平然と語り合う二人を見た怒りのやり場を失いつつあった。

 

「もしや、試合前のあの言動も演技だったので?」

「あっはは! 私は騎士であって役者ではありませぬよ。ただ、私的な激情に任せて勝てる相手ではないと分かっていましたから、自分を律したまでです。──いつも以上に力が入ったのも事実ではありましたが」

「もおー! 私すっごく驚いたんですよ!」

「はっはっは! ならば、そちらでは私が一矢報いたという所でしょうか」

 

 余りにも平然としているのだ。とても気が合いそう、というか合っている。

 

「私としても得る物の多い試合でありました。今後ともこのような機会があれば是非」

「喜んで! 共に切磋琢磨していければ幸いであります!」

 

 大多数の気持ちを置いてきぼりにして親善と友好は成り、交流は終わった。というか二人以外の、特に騎士たちの側がそう言う雰囲気でもなくなってしまったので、大公は終わりにした。

 

 

 

 

 例の大公の執務室である。限られた側近だけが立ち入りを許される部屋に、今は大公当人と公女、それとバド副団長が入室し、その瞬間、

 

「このアホーッ!」

 

 公女が思い切りバドの向う脛を蹴り上げた。当然一般人に毛が生えた程度の身体能力しかない公女がオリハルコン級に迫る実力者にそんなことをしても、痛むのは彼女自身の足である。

 

 バドは世の中の全てが鬱陶しいと言わんばかりの表情で、

 

「おやめ下さい、怪我でもしたらどうするのですか」

「いつつ……うるさい! 父上もうコイツ本当嫌です、如何にも真人間みたいな顔しといてこれですよ! 狂戦士か!」

「いやぁ、不意打ちで父の話が出たのでつい……仲良くはなれましたし、次回への布石も打てました。上々では無いですか」

「あんなんイヨ・シノンが天然の気狂いじゃなかったら一生顔合わせて貰えない案件! 上手くいったのは奇跡と形容するのも悍ましい理解不能な何かのお陰!」

「デスナイト戦の時から、なんとなく気が合いそうな気はしていました。彼の専門は矢張り対人です。技術の根っこも対人用の殺人術……むしろ人を相手にした方が本領を発揮する……似ている様で父とはタイプが異なる……根本から違うのでしょうなぁ、私のような凡人とは……」

「だーかーらー! もういいから直接父親に殺し合い挑んできてよもう!」

「……二人とも、児戯は止めよ」

 

 疲労感を滲ませた大公の言葉に矛を収めた二人──矛を向けていたのはリリーだけだが──は一応話を聞く体勢に入った。最も大公自身娘が爆発していなかったらややトーンを下げて、しかし内容的には同一の台詞を二三吐いていたかもしれない。

 

「【スパエラ】には予定通り穏便にお帰り願った。今頃はもう宿に着いただろう。親善試合も執り行った。友好を深め、次に繋がる関係を構築した。予定通りだ」

 

 もっと色々やる予定も無い事は無かったが。

 

「ですな」

 

 臆面もなく頷いて見せるバドの姿に苛立つ大公だったが、野で初めて出会った時から変わらずこの態度なので、承知の上で召し抱えている身としては今更言う事無い。根本が自由人の癖に複雑に屈折鬱屈した気性なので、下手に何か言うと『じゃあ辞めます。お世話になりました』と言い出すやもしれないからだ。

 

 命令は聞く。それこそ生命の危機に及ぶ命であっても。態度も見た目も取り繕う。与えられた役割は熟し、演じる。忠誠心も、常人のそれとは違えど無い訳ではない。故に表向きは『忠節の騎士、近衛騎士団の副団長』である。

 

 だが本人が心の底から焦がれ憧れ嫉妬し追い縋る父親と同じく、その魂は自分以外の価値観に染まらない。

 

 バド・レミデア・フィール・ミルズス男爵は名実共に大公家の剣である。大公と公女の本当の顔も知っている。ただ、意思を持つ剣だ。十分名剣と称し得る鋭さを持つが、振るわれるがままにある刃ではない。

 

 其処が面倒でしばしば役に立つ、こういう時に特に面倒臭い輩だ。

 

「だが、あの試合運びは見ている者の目にはまるきり殺し合いとして映っただろう。見習いの幾人かは明らかに衝撃を受け、体調を崩している」

「公城で教育を受けるに足る成績優秀者とは言え、過半はお育ちの良い貴族子弟で実戦未経験者です。そういう事もあるでしょうな。乗り越えられねば騎士など務まりません。相手がモンスターにしろ人間にしろ、戦争は決闘ほど綺麗な物ではありません故」

「……現役の騎士、中には直属の近衛からもお前の戦い方に異議のある者が当然いる。最後の訓示でフォローはしたが、お前の求心力は下がったぞ」

 

 【スパエラ】が当たり前の様に受け入れ、当のイヨ・シノン本人が一毛も気にしていないが故にその程度で済んでいる。

 

「また纏めます。不幸な誤解は後日解いておきましょう。それに、私の求心力が下がったという事は尚更団長殿の指導力は上がる。全体の纏まりとしてはトントンかと」

「……分かった、もういい」

 

 強くてまともな人間性を兼ね備えた人材が欲しい。大公はそう思ってしまうが、この裏の仕事も任せる事が出来、表でもまともな振りが可能な人材もそれはそれで有用だ。

 近衛騎士団の団長は侯爵家の人間で、家柄は元より人品骨柄実力容姿振舞統率どれをとっても花丸という逸材であるが、柔軟ながらも正義感の塊で後ろ暗すぎる事は許容できない。高い地位で清濁併せ飲む器量を持ちつつも濁り単品は無理という人間。だから裏では使わずひたすら表で輝かせておくのが一番良い使い方だ。

 

 『古き良き理想的な貴族の女騎士』と『腕一つで地位を勝ち取った実戦の雄』の両立は、様々な方面から見ても扱いやすく分かりやすい。だから用い続けてきた。しかし、後者が汚れを見せすぎるとバランスが崩れる。

 

「彼女は良い人間ですし、理解できない事でも理解しようと努力するだけの器量はあります。まあ大丈夫でしょう。だから好きになれないのですが」

 

 派閥のトップ同士が認め合い、常に協力し合うからこそ下の者も過度に対立しない気風。バドの側が見せる友情が半ば以上偽りだという点を除けば、欠点の無い布陣だ。

 

「戦えば仲良くなれる。シノン殿は誠に単純で宜しい。ただ彼相手に戦いが成立する人材は少ない。団長殿では力不足でしょう。普通の訓練になる。そうすると、冒険者組合にいくらでもいる者たちとなんら変わらない。彼の特別になれない。ままなりませんなぁ」

 

 ──私とてこれだけ手札を重ねてやっと『善戦』が精一杯です。

 

 バドとイヨの戦力差は大きく開いている。同じ人間同士である分それを覆す手段が多いのも事実だが、純粋に評すればイヨとデスナイトの差よりも大きく開いている。

 不意を打って毒を盛って善戦。腕を片方切り落として運よく毒が効いてやっと善戦。殆ど錯乱状態で転げまわる相手を倒しきれなかったのは正に実力差──生物としての隔絶した性能差、武道家としての次元の違いというものだろう。

 

 骨や筋繊維の強靭さからして、イヨはバドより遥かに強いのだ。

 

「公国軍人で彼の戦友になれるのは私一人でしょう……それとてぎりぎりだ。後は頑張っても全員お友達です。それなら市井にも沢山いますから、あまり意味が無い。後は──」

 

 陰鬱そうなバドの視線が、未だ怒りの失せていない表情で腕組みしているリリーを──公女を見据えた。

 

「現状既にお友達である公女殿下と、公女殿下の嫁ぎ先の方々にどうにかして頂きましょうか。大公殿下が仰るところによるとそう遠く無い未来、一つの国に戻るらしいですからね」

 






ちょっと原作者様の真似をしてみたり。

バド・レミデア・フィール・ミルズス(旧姓バド・スタックシオン。既婚)
生まれながらに大天才で優秀だったのに父と兄が超天才で超優秀だったために劣等感を抱き、その劣等感を自身の人間性が父や兄より劣る証として心の内に押し込め続けた結果、内圧で人格が歪んだ人。放任主義の父と過保護な母親の下から逃げ出して三十年くらい経つ。
実はナイトの職業レベルを持っていない。ファイターのレベルも大変低く、毒を使っていたことからも分かる通り後ろ暗い系のレア職業を高レベルで保有している。正当派剣術は囮である。

団長(女性・未婚)
何一つ欠点が見当たらない人。実力は高いが、バドより二段落ちる。基本真面目で融通も効き、政治力もある。まとも過ぎるほどまともな人なので大公の仲間にはなれない。


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束の間の日常と、老いた元英雄から現英雄へ

 【スパエラ】が公城に招かれてより十日ほど後の話である。水神の神殿のある私室に、二人の女性の姿があった。

 

「イヨに指輪を送ろうと思うんだ」

「指輪、ですか」

 

 『何故指輪?』というのがイバルリィ・ナーティッサの正直な感想であった。

 

「なんでもイヨの故郷では婚約や結婚の際に愛の証として指輪を送るのが一般的らしい。大抵は金や白金のリングにダイヤモンド。婚約の場合は右手の薬指、結婚の場合は左手の薬指にお互いがペアで付ける」

「へぇ~、そんな風習があるんですか」

「ああ。前に言ってた。こっちには無いって知って随分驚いてたな」

 

 勿論、こちらにも結婚、婚約、交際の時に互いに贈り物をする習慣自体はある。大切な相手に特別な贈り物をする、それは世界の何処でも変わらない。人間が毛皮の衣服を纏い洞穴に住んでいた時代から、愛し合う者同士は互いを想ってその証を示し合った筈だ。

 

 だが、此方の場合はイヨの国における指輪、左右どちらかの薬指という様な決まった習慣は無い。地方や地域の範囲なら『普通はこれ』と言える物もある筈だが、概ね気持ちが伝わるかが重要であり、ペンダントでもイヤリングでもネックレスでも──勿論指輪でも良い。花でも家でも家畜でも悪くはないだろう。

 

「と言うと、イヨちゃんの国では指輪を送る事そのものが結婚や婚約の申し出として通用するわけですか。『この指輪を受け取って、薬指に付けて欲しい』と言えばイコール結婚の申し出である、と」

「そんな感じらしいな。金や白金、ダイヤが使われるのは永遠に変わらない愛の象徴なんだとか。金や白金は酸化や変色を起さず、ダイヤモンドは自然界でも硬い方だからまず傷も付かない。無色透明な輝きは純潔を象徴する──らしい」

「成る程──王侯貴族とかだと魔法金属を使用したり、マジックアイテム化したりするんですかね?」

「其処までは聞いてねぇけど、そうなんじゃないか? イヨの国に王や貴族はいないそうだが、金持ち連中ってのは世間一般からどれだけ飛躍するかに万金積み上げる習性が──って、そんな事はどうでも良いんだよ」

 

 イヨは結婚指輪の風習が此方に無いと知ってかなり残念がっていた。強い憧れがあったんだそうだ。ふとした拍子でこの話をしたのは、まだ二人が出会って間もない頃だった。

 お互い──イヨの側はもうリウルに好意を持っていたらしいが──其処まで真剣に話すでもなく、ただ異国の文化が物珍しくて語り合ったのだ。

 

「でも、イヨちゃんの事だから指輪ではないにしろ、結婚を申し込んだ時になにか贈ったんじゃ無いんですか?」

「あの時は突発的な申し込みで事前の準備が無かったから用意できなかった、ってのが本人の言だ。後日二人で何か買いに行こうって言われたが、俺は『一緒にいられるだけで幸せだ』って穏便に断っておいた」

 

 無論この企みの為にそう言っておいたのだ。

 

 恐らくそれでもイヨは何らかの贈り物、リウルが喜んでくれる贈り物をしようと画策しているだろう。近頃何かと一人で出かけたがり、名の通った商人の下へ単身訪れているのがその証拠だ。サプライズであり、本来はもっと早くにしておく物だから余計に特別な品であるべきと考えて随分悩んでいるらしく、未だ決めかねている様だ。

 

「その隙に俺の方から結婚指輪を贈る。互いが大事に思えるモノでないといけない、イヨはそう考える筈だ。だからあいつの国の習慣である指輪は絶対に選ばない。贈られる俺の側は実感が湧き辛いだろうとイヨなら考えるだろうからな」

 

 最高の不意打ちがかませる、とリウルは何故の意気込み。なんの勝負をしてるんですかねこの子、とイバルリィはかなり呆れた。

 

「リウル……不慣れなのは分かりますけど、もう少し地に足を付けましょうよ」

「してやられっぱなしじゃ腹の虫が収まらねぇんだよ。ここら辺で勝ち癖を付けとかねぇと」

「勝つとか負けるとかに執着してる時点でイヨちゃんの足元にも及んでませんよリウルぅ」

 

 やろうとしている事自体はとてもロマンチックで良いと思うけれどもだ。イヨだってそれはもう涙を流すほど喜びであろうけどもだ。

 友人であるイバルリィから見ると方向性を間違えている気がしてならない。

 恋愛のれの字も実感していないのではなかろうか。イバルリィは神殿の神官としての職業柄様々な人々からの相談を持ち掛けられ、時には忠告や諫言を授ける立場にあるが、この拗らせ方はかなりレアケースである。

 

 思えばリウルはプロポーズ受諾直後にもアネット、パン、イバルリィの三人の下へ『お前らの言う必勝法を実行したら負けたんだが』とやけくそ気味に突撃してきて、一部始終を聞いた全員から『その流れでおでこにキスとか流石に無い、負けて当然』と異口同音にて返り討ちにあっていたものだ。

 

「俺は日々一緒に生活してるだけで心臓がうるせぇのにあいつは幸せ一色で余裕も余裕だ。たまには俺と同じ気分を味わえ、赤面しろ、狼狽えろ、照れろぉ!」

「多分イヨちゃんはそういうリウルを見て幸福の度合いを増してると思うんですが……」

 

 イヨとリウルの結婚生活はそれはもう円満で、今は新居を構えるべく色々と準備中らしい。安宿愛好者であったリウルも、流石に家庭を持ってもなお二人して宿の相部屋で過ごすのはどうかと思ったらしく、今は条件の合う物件を探しているがまだ見つからないとか。

 

 条件は主に冒険者組合に近い事が第一だが、イヨは友達を沢山呼べる広さやどんな天気でも練習できる設備、猫を飼いたいだとかと色々希望があるらしい。金銭的には困っていないので、なんなら新築になるかもしれないとは二人の言葉である。

 

 リウルもそうしたイヨの希望にかなり前向きで、二人の新居は質素な一軒家に屋内外の練習場を兼ね備えた道場の如き作りになるやもと囁かれている。

 

「第一あいつは何処触っても柔らかいし良い匂いするし──」

 

 リウルが思春期の少年みたいな事言い出しましたよ、とイバルリィは無言で目を細めた。

 

「──気は利くし気付いたら身の回りの仕事してるし、外では兎も角家の中では欠点なさ過ぎるんだよ! 今は近所のばあちゃんから家事全般習ってんだぞ! 全部俺の為に!」

「あっれえ私いま自慢されてます? うちの夫が私の事大好き過ぎて大変とかそんな話ですかこれ?」

 

 イヨに言わせると『リウルさんは自分の事は全部自分で出来ちゃう人だからちょっと寂しい。もっと僕に甘えて欲しいなぁ』だそうだ。ある意味お似合いのカップルかもしれない。

 

 基本的にリウルもイヨも、当たり前の事は当たり前に熟せるタイプだ。リウルは言うまでも無く万事に要領が良く、自分の身の回りの世話で他人を煩わせる事は無い。イヨだって時たま常識を知らないが故にぶっ飛んだ事をやらかしたものだが、それも今は昔の話で。

 公都に住み始めて早数か月。殆どこちらの風土に順応していて、日々の暮らしは順調である。

 

 冒険者としての知識を学び、武術家としての鍛錬を行い、同業者や街の人々と交流を深め、沢山の友達がいて、今は家事炊事も習い始めて──寝ている間を除けば日々を濃厚過ぎる程有意義に過ごしている。疲れが溜まるとお昼寝を挟んで元気復活、何処から何処までも非の打ちどころのない健康優良児だ。

 

「まあ、確かにイヨちゃんは尽くすタイプに見えますけどね」

「尽くされ過ぎて俺の方が同等のものを返せてるのか不安になる……だからこそここらで一発逆転を」

「……うん。おばちゃんもう何も言いません。諭したり心配したりするだけ無駄な感じがしてきました。二人はこうで良いのかも知れませんね」

 

 近頃のこんな感じのリウルだが、外では何事もなくアダマンタイト級冒険者として活動できているのだから不思議だ。結婚してから手を繋ぐのも目線を合わせるのも恥ずかしくなった等と言う癖に、『仕事中は夫婦ではなく冒険者仲間』であるからそう言う事をまるで意識せずに済むという。

 

 多分初心なリウルとしては、同じ距離の近さでも男女のそれでなく冒険者として触れ合う方がかなり気が楽で、その方が落ち着くのだろう。むしろ冒険者としての振る舞いの方が休憩になっている様だ。公私の私で緊張して公で安らぐって、普通は逆だと思うが。

 

「まあ、おばちゃんの前でくらいそういう悩みを表に出しても良いんですよ。先は長いんですから、自然と慣れるでしょうし」

「そういうもんかなぁ」

 

 この感情に慣れる日など来るのだろうか、そう考えている表情でリウルが首をかしげる。

 

「慣れますとも。人間は慣れる生き物です。どんな非日常も繰り返す内に日常になります。ただ、その日常をあって当たり前のものとして軽んじる様ではいけません。繰り返す一瞬一瞬は、同じようでいて常に掛け替えのないものなのです」

「……おお」

「愛情も幸福も、常に維持と向上を忘れてはなりません。信頼し合うのは良い事ですが、ただ与えられるがままに溺れる様では互いの為にならず、遠からずすれ違いが始まるでしょう。夫婦とは言え元は他人です。放っておけば元の状態に戻ってしまうのはある種自然の摂理の様なもの。愛する努力と愛される努力を怠りませぬよう」

 

 逆に言うと、愛する為愛される為の労力を払い続けるのが億劫になってきた時、既に愛は熱を失いつつあると言っても良いだろうか。燃え上がるだけが愛では無いが、冷めきってしまっても愛とは呼べないだろう。

 

「……立て板に水とはこの事かって位の口上だったが、神殿って結構そういう相談が多いのか?」

「実を言うとかなり多いですね。結婚後半年から三年くらいの方は結構お見えになりますし、逆に付き合う以前のどう告白したら良いだろうかと相談に来る若い方もいらっしゃいます」

 

 別に神殿は恋愛相談所では無いのだが、地域住民から信頼されている証だと思って、出来得る限りの助言をしている。人間誰しも、一人で思い悩んでいると迷走するものだ。

 迷走だけならまだ良い方で、迷走の末暴走して衝突事故を起こす方も世の中にはいらっしゃるので、そうなる前に悩みを打ち明ける事の出来る存在は非常に重要だとイバルリィは思っている。

 

 そして多くの人にとってより身近で頼りになる存在、それが神殿である様に常に心掛けているつもりだ。

 

「……じゃあもののついでに相談なんだが、イヨから実家に挨拶に行きたいって言われててな……」

「行けば良いじゃないですか。冬になれば時間の余裕もあるでしょう」

「えぇー……俺の実家なんて親父は豚箱だし母さんは墓の下だし面白いもん何にもねぇぞ。つーか面倒くせぇ」

「リウルには分からないかもしれませんが、イヨちゃんの側からすればですね、相手家族にきちんと紹介されて認められたいという気持ちが──」

「つーか結婚報告なんかしたら絶対兄貴たちに揶揄われるんだよなぁ」

「……ちょっと待ってくださいリウル、貴女もしかして手紙でですらイヨちゃんとの事知らせてないんじゃ──」

 

 徐々に冬の足音が大きくなっていく日々の、平和で平凡な光景であった。

 

 

 

 

 時は更に過ぎ、冬の気配は日に日に濃くなる。

 人々の吐き出す息は白くなり、もう少しすれば朝方に霜が降りるだろう。農村では外仕事が無くなり、家の仕事へと移っていく時期だ。農作業は植物のペースに合わせて行われる。雑草取りにしろ播種にしろ刈り取りにしろ、植物は自然にそうなる時期にしか成らないのだ。

 魔法やマジックアイテムが存在するこの世界ですら、大部分でその法則は不変だ。都市でも物流にはそれに合った変化が起きる。実らない物は店頭に並ばないし、無いのだから買えない。

 

 彩りが種類を減らし、白や灰色が多く見られる季節がやってくる。

 

 冒険者にとっても、この時期は休みの季節だ。第一仕事が少ない。普段追い回し、時には追い回されるモンスターからして冬には姿を潜めたり森の奥に引っ込んだり──人が家に籠る様に、彼ら人ならぬ者の多くも冬を越す為の準備に入る。

 

 全く同じ場所でも、寒さと雪に包まれればそれだけでより生存し難い。

 

 互いの接点が少なくなる以上仕事は減り、遺跡の探索や未知への挑戦にしろ、わざわざこの季節は選ばない。冒険者にとって冬は休息、娯楽、鍛錬、副業の季節だ。

 

 公国に二十年振りに誕生したアダマンタイト級冒険者パーティ【スパエラ】にしてもそれは同じである。少ないが故にある時は急な案件である場合が多い依頼の為にチームとしての鍛錬も無論怠らないが、平時と比べて余裕のある時間をそれぞれ家族団欒に、研究に、練習につぎ込んでいく。

 

 公都は寒気こそ強いものの地理的な条件によるものか、降雪量は余り多くない。何らかの悪条件が重なって大量積雪という惨状は稀である。用の無い者は表に出なくなり、数少ない道行く人は皆厚着をしている。

 

 今少し季節が進んで本格的な冬となれば、【スパエラ】は帝国に赴くだろう。大公が約束した時期はもう遠くない所まで来ていた。

 ちなみに、少し前に行われた王国と帝国の戦争──公国も一枚噛んでいるが──は帝国側が歴史的大勝を収めたらしい。

 

 イヨが下手な隠形で夜の街を走っていたのは、そんな寒々しい月夜の晩の事であった。

 

 如何に専門外とは言え、その身に宿った力は人を超えつつある域である。少なくとも一般市民の目にも耳にも気取られる事無く、宵の闇に紛れて高速で進んでいく。防寒の為に纏った外套が、良い具合に少年の姿形を隠していた。

 

 やがて少年は公都を囲む防壁まで辿り着く。既に日は落ちて久しく開門時間は過ぎているし、そもそも少年が至った其処はただ頑丈で高い石造りの壁があるばかりで、門など無い場所だ。

 

 イヨはそんな場所できょろきょろと辺りを見回し、人がいない事を確認すると、

 

「よいしょっと」

 

 壁の凹凸や石と石の境目に手先足先を引っ掻け、身体能力を頼りに登り始めた。身体能力において大半の人類より魔獣の方に近いイヨにとっては、指一本で自重を支える事は、技術的には兎も角筋力的には造作も無い事であった。

 

 追手がある訳でも無し、イヨはむしろこの壁登りを楽しみながら、よいしょよいしょとゆっくり防壁を登り切り、同じようにして反対側──都市外へと降りた。

 

 公国で最大の都市とは言え、防壁から出てしまえば其処は都市の外である。一応、安全とは言い切れない。現在の公都は先の事件で警戒態勢を強めている為、防壁上で巡回警備をする警備兵や騎士に見つかれば問題になるかもしれない。

 

 冬らしい雲に覆われた夜は視認性が悪いが、なればこそ巡回の者たちは異常を見逃さない様に注意深く警戒している筈。

 

 イヨは風の様に走り出した。目指すは公都から見えない程度に遠く、いざとなればすぐ戻れる位に近い場所──指定された『東の丘』だ。

 

 走る、走る。大概の生き物が追従できないその速度は正に疾風。今公都で英雄と呼ばれる彼にしてみれば、一里や二里の距離は準備運動にもならない。

 

 約束のその場所、丘と呼べるかも怪しい様なこじんまりとしたその場所には、約束通りに一人の男が立っていた。夜に紛れるその姿に、イヨは歓喜を滲ませながら手を振り、声を掛ける。

 

「ガドさん! お待たせしました!」

「おう、来たかいイヨ・シノン──って」

 

 気軽に手を上げ返す老人、かつてイヨと死闘を繰り広げた現冒険者組合副組合長、凶報を聞き付け急遽出先から舞い戻ってきた往年の大英雄ガド・スタックシオンだったが、近距離でイヨの姿を見た途端呆れた顔になる。

 

「なんでぇその恰好は、何処の娘さんが忍んで来たのかと思ったぜ」

「誰にも見つからない様にとの事だったので、一応変装をしてきました!」

 

 例によって少年は女装していた。

 

 

 

 

「お前さんもけったいな趣味してるよなぁ」

「僕の持ちネタですから!」

 

 自慢げに胸を張る少年は、外見的には少女だった。武器防具着用のことと事前に連絡があった為、服装は修理から帰ってきた【アーマー・オブ・ウォーモンガー】【レッグ・オブ・ハードラック】【ハンズ・オブ・ハードシップ】、そして各種装飾品だ。

 

 だが、雲の切れ間から注ぐ月光に輝く髪は艶やかな黒。瞳の色も金から黒へ。暗視の能力を持つマジックアイテムでもある知的なスクエア型眼鏡。そして髪型は──

 

「僕の国では一部の界隈で縁起が悪いなんて言われたりもする髪型なんですけど、僕はこれ結構好きなんですよ。母性的な感じがしませんか?」

 

 イヨの友人が見た瞬間に『こういう髪をした母親キャラって割と高確率で死ぬか、もう死んでるかだよな』『母親キャラの場合はそうかもしれないけど、イヨはリアルでも男っしょ? いやーどうなんだろ』と零したその髪型はルーズサイドテール。

 長髪を下の方で結わえ、片方の肩越しに前に流した髪型だ。

 

「……………………………………おう、まあ、縁起云々は分かんねぇが、お前さんが良いんなら良いと思うぜ。ちなみにお前さん、髪切る気はねぇのかい?」

 

 言外に、『そんな髪してっから女に間違われるんじゃねぇの』と問うガドだが、イヨの返答は即座だった。

 

「今の所無いですね。長い方が髪型のバリエーションも多いですし、リウルさんも綺麗だって褒めてくれますし……。それに僕、子供の頃から短髪ばっかりだったので、長い髪って憧れなんです」

 

 それとこれはリアルでの実体験になるが、イヨはどうせ短髪だろうと坊主だろうと少女に間違われるのだ。空手道場に入門する前から短髪だったが、初見でイヨを男と見抜いた者は少ない。

 

 空手道場に入門して坊主頭にするともっと面倒になった。

 イヨを良く知らない他の学年の先生はイヨの家庭環境を心配して事情を聞きに来たし、防塵マスクで顔など半分以上隠れているのに道行く人からは奇異の目で見られるし、虐待の疑いで警察官が話しかけてきた事もある。重病の治療で髪が抜けるから坊主にしたのだと噂も流れた。弟と妹は泣いた。坊主も似合うけどパパとママはもうちょっと長い方が好きよ、と優しく両親に諭された。祖父母も同様だ。

 

 悲しい事にイヨの少女っぽさはもう髪型でカバーできる範囲ではないのだ。以降リアルでは短髪であり続けたものの、坊主頭にした事は一度もない。余りに似合わな過ぎるというのも理由の一つだが、『五厘刈りの少女』として周囲に見られるのは色々と面倒が多かった。

 

「ふーん……そんだけ長いと色々手間じゃねえか?」

「別にそんなには……朝にささっと軽く櫛を通す位ですし」

「いやあ、俺の嫁とかつての娘を見ててつくづく思うんだが、その長さの手入れはささっとじゃすまねぇだろうよう」

「そうでしょうか……僕の手入れなんて梳いて終わりですよ? むしろリウルさんの髪の方が硬くて、今まで無頓着だったのもあって時間が掛かるくらいで」

「髪質が良いって事かね? 得な体質だねぇお前さんも」

 

 真夜中の都市外での世間話は、如何に首都近辺とは言え、この世界の事情を考えれば危険極まりない。いつ何が出てくるともしれないが、この二人に限っては多少の危険など剣一振り拳の一突きで解決可能である。

 

 例えエルダーの成長段階に至ったドラゴンの急襲を受けたとしても、人類の極限たる英雄二人にとって致命的な事態では無い。立ち回り次第で突破可能な危険に過ぎないのだ。

 

「家を建てるそうじゃねえか。随分な豪邸が立つって噂だぜ?」

「そんな噂になっているんですか。お恥ずかしい、全天候型の練習スペースを考慮するとかなりの面積になってしまったのは事実ですが、家自体はごく普通のものになる予定なのですが」

「結局名前はシノンのままなんだってな?」

「はい。僕もリウルさんも自分の姓に拘りはありませんでしたが、リウルさんがその方が良いと」

 

 リウルには二人の兄と親族が存命であり、名が変わった所でブラム家がどうこうなる訳ではないし、彼女にとって自分の名前がどうであろうと自己の何が変わる訳でも無し、確固たる『自分』は揺るがない。

 

 だがシノンの──篠田の名を持つ者は、当たり前だがこの大陸に伊代一人だ。

 イヨがイヨ・ブラムになればそれで篠田の名は消える。あまり家の存続や苗字の変更について拘りが無い、むしろ結婚して相手の名字を名乗る事にある種の憧れ染みたものさえあったイヨだが、唯一転移前から自身が持ち続ける家族からの贈り物はやはり大事だった。

 リウルの方からそう言ってくれた。『俺がリウル・シノンで良いだろ。お前の名前は変えちゃいけねぇよ』と事も無げに。当たり前の様にそう言ってくれるこの人と一緒になれて自分は本当に幸せ者だ、とイヨは感じ入ったものだ。

 

「まあリウルさんは名前が売れていますから、しばらくはリウル・ブラムと呼ばれる事の方が多いでしょうけども、おいおい知られていったらいいかなと」

 

 暗闇の中、白髪の老人はうんうんと頷いた。その様はやはり平凡にも見えかねない程気負いないが、イヨは何処か張り詰めた物を感じる。

 

 周囲は殆ど暗闇に等しい。時折差し込む月光は明かりとしては当てにならない。雲に遮られて僅かに地を照らす程度だ。

 

 視線の動きから察するにガドも何らかの手段で暗視能力を得ている様ではあるが、イヨに武装をしてこいと伝え、自身も現役時代の装備に身を包んでいる以上、ただの世間話が用事である筈は無いのだが。

 

 二人の間にふと静寂が満ち、イヨはそれに身を任せてガドの口が開くのを待った。ガドはイヨに対して横に身体を向け、目線は暗雲の空を見ている。

 

 どれほど時間が経っただろうか、

 

「……イヨ・シノンよう」

「はい、ガドさ──」

「今のお前であっても、この剣は見えねぇか?」

 

 少年の首筋にはいつの間にか刃が添えられていた。勿論、それを握る者は目の前のガド・スタックシオンである。

 

 

 

 

「……〈朧幻斬撃〉ですね」

「おうよ。誰かに聞いたか?」

「いえ。一度見た武技ですし、何時かまたお手合わせ願いたいとも思っていたので、名前以外は自分で。剣撃の起こりを隠蔽する武技と見ましたが」

「正解だ。この武技は今みてぇに刀身を鞘に納めた状態からでも効果が無い事ぁねぇが、剣を抜き構えてからの状態でこそ最大の効果を発揮する。なまじ剣が見えてるとよ、動かない以上動いてねぇって頭が判断しちまうんだよなぁ」

 

 奇刃変刃、公国最速の刃。いずれも現役時代のガド・スタックシオンを讃えて付けられた異名だ。彼の能力であれば、ただ抜刀して叩き付けるだけでも大抵の人類は斬首にて絶命に至る。

 其処に武技が加われば尚の事。近距離戦において目の前の老人を上回る人間が世界に幾人存在するだろうか。

 

 広い世界にはまだ見ぬ強者も多いだろうが、少なくとも本気の殺し合いという前提で言うなら、イヨは恐らくガド・スタックシオンに殺されない強者の中に入っていないだろう。

 

 武技──その戦士版の魔法とも言うべきこの世界特有の力は、ユグドラシルのそれとは毛色が異なる。転移直後などはスキルの事をこちらでは武技と呼ぶのだろうと思っていたが、幾度もの経験を経て、イヨはその力に対する理解を深め、その脅威たるを存分に認識していた。

 

〈流水加速〉、〈不落要塞〉、〈即応反射〉、〈剛腕剛撃〉、〈能力超向上〉、〈超回避〉──この世界において極一部の天才のみが習得を可能とする強力な武技の数々は、冒険者たちとの鍛錬の中でイヨに数多くの失着を、時には敗北を味合わせてきたのだ。

 

 そして目の前の英傑が使うそれらは、極一部の天才たちだけが至り得る言わば上位武技の更なる発展改良形──自分自身で開発、習得した大英雄ガド・スタックシオンのオリジナルだ。

 

「これに加えて、足さばきと踏み込みから予備動作と淀みを消し、更なる加速を齎す〈春水闊歩〉、一撃で巨人を両断したと言われる〈二刀極斬〉……目にも眩い苛烈な攻撃に混じる致命にして不可知の一撃、これがガドさんの必殺なんですね」

「おうよ。俺に斬られて自身の死を自覚できた奴は片手にも満たねぇ。大抵は戦いの最中に自覚無く死んでそのままよ。首ぃ刎ねてやった後、五秒近く生きてるみてぇに戦い続けた奴もいた」

 

 あん時ぁ距離が空き過ぎてたな、ガドは呟き、愛刀を鞘に納めた。イヨの特例昇級の審査という建前で前に行ったあの試合の最後──互いが正面からぶつかり合おうとしたその瞬間を言っているのだろう。

 

 試合の様に息の合ったぶつかり合い等実戦の中には殆ど存在しない。騙し、騙り、錯覚させ、裏を取ろう隙を突こう拍子を乱そうと虎視眈々に狙い合う。

 

 あの時、周囲の冒険者たちが【スパエラ】と共に仕掛けた二人の激突阻止は正に奇跡的な成果を齎したと言って良いだろう。ぶつかり合う超実力者を互いに傷つける事無く止めたのだから。

 

 防御系の武技を三つも重ねて発動したガルデンバルドに苦鳴を上げさせたイヨとガドの致死的な攻撃は、互いの人体を完膚なきまでに破壊するには十分過ぎる威力だった筈だ。

 

「……止められなかったら、死んでいたのは僕でした」

「それは穿ち過ぎだろうよう。俺もギリギリだったんだぜ? 九分九厘、相打ちだっただろうな」

 

 ──残った僅かな例外は貴方の勝利、僕の敗北だった筈です、とイヨは口内で言葉を転がした。

 

「俺が公都にいなかった頃、公城で俺の息子と戦ったんだって?」

 

 あの一件は試合内容もあってあまり広まってはいない筈だが、ガドならばむしろ知らない方が不自然だろう。

 

「……はい」

「バドは善戦したが、最終的にはお前が勝ったと聞いている」

「…………はい」

 

 バド・レミデア・フィール・ミルズス男爵には悪いが、ガドの言いたい事がイヨには痛いほど分かる。逆の立場だったら自分だってそう叱咤しただろうから。

 

「勝てて当たり前の格下相手に手古摺った末の辛勝。これはお前にとって負けに等しい無様だ。そこんところは分かってんな?」

 

 

 

 

「お前らはアダマンタイト級だ。そしてお前は英雄だ。自覚がどうあれ人はそう見る。人類の切り札だ。最強の代名詞だ。人の守り手だ。そうでなきゃならねえ。最強が負ける意味、知らねぇとは言わせねぇ」

 

 勝って当たり前の実力差があった。でも負ける寸前まで手古摺った。

 負けて当たり前の実力差があった。でももう少しで勝てるという所まで相手を追い詰めた。

 人々が称えるのは後者だ。前者は『最終的に勝ったから良い様なものの、あの内容では』、だ。

 

 こういう時、勝ったから良い等と言ってくれる人は少ない。小学生の空手道全国大会王者の経験があり、そして其処から転げ落ちたイヨにとっては余りに耳慣れた台詞だ。

 勝てる相手には勝って当たり前。圧勝が当然。五分の相手とだって負ければ手抜かりだ。負けが濃い相手にでも勝たねばならぬ。

 

 一番とはそういうもの。実際がその理想とは遠かったとしても、志は常に上に上に。血の滲む様な努力など当たり前の前提であって、ある程度以上のレベルならばそれは誰も彼も例外なくしているのだ。していない者などいない。

 二度や三度頂点に立ったとて、勝ち続けられなければ最終的には負けなのだ。

 

 体格の差が開くにあたって王者どころか上位大会進出すら叶わなくなった時期、かつて鎬を削った強敵が、顔も知らない誰かが、初戦敗退常連だった顔見知りが自分を負かして上に昇っていく──今強い人たちを下から眺める日々。

 『王者は勝って当たり前』。強かった時も弱かった時も、イヨはこの言葉があまり好きでは無かった。空手は好きだったし勝てば嬉しかったし、負けは負けでこれ以上無い糧だったが、言葉として好ましくなかったのだ。

 

 だが、今の自分が好ましいとか好ましくないと言える立場で無い事は承知している。【スパエラ】の先達三人にも口を酸っぱくして言われた事だ。

 

「一応言っとくがよう、俺は息子を愛してる。俺に似ず真面目に──ちぃとばかし個性的ではあるが、真面目に育って今や一人前だ。自慢の息子だ。だがな、それはそれ、これはこれ。お前の力量ならバド風情は何の問題も無く叩きのめしてやらなきゃあ嘘だぜ」

 

 自慢の息子を風情と言ってのけるガド・スタックシオンは既に人間の顔をしていない。闇夜に浮かぶその表情はただ真剣なもの──そうである筈なのに、其処に人として当たり前の揺らぎや波を感じないのだ。これは、そう──鬼気が漲っているとでも言うのか。

 

 先程刀を突き付けられてより、何ならやり返さんと気を伺っているイヨ・シノンであるが、その隙は無い。彼我の距離が至近でなく、刀剣の間合いだと言うのも理由の一つではあるが、では距離を詰められるかと言えばそれも難しい。

 

 ああ、これが私人でも公人でも武人でもない顔、英雄としてのガド・スタックシオンの顔かと少年は唐突に理解した。

 

「アダマンタイトが負けたら誰が負かした奴を相手にするんだ? 最強が負けた、もう勝てる奴ぁいねぇ、人々にそう思わせちゃいけねぇんだ。中でもお前さんは特によ、デスナイトと対峙した男よ」

 

 国をも亡ぼすモンスターと互角に戦った男。そして、そのモンスターを滅ぼした勇者たち。その存在は公都の民草の希望の象徴だ。

 

「今回は味方同士の人間同士だからまだ良かったが、本来相手が死に損ないの老英雄だろうと、種族の頂点に立つモンスターの王だろうと、国堕としだろうとお前は勝たなきゃならねぇんだ」

 

 仲間を亡くし、既に引退して二十年が過ぎる英雄の言葉は冬の夜より尚寒々しく、それでいて刃の様に鋭い。

 

「英雄は例え死んでも負けちゃならねぇんだよう。勝って死んだならまだ象徴として使えるが、死んで負けるも負けて生きるも最悪よ。死ぬにしろ生きるにしろ勝つ。俺の様に、俺の仲間たちの様にだ。英雄を破るほどのその相手は絶望の象徴となる。最強より強い奴に勝てる訳はねぇ、血を見る事も無く平和に生きる人々にそう思わせちゃいけねぇんだよ」

 

 アンデッドはクソだ、と老人は暗夜に断言した。

 

「弱い連中は自壊も恐れず盲目的にただ生者を襲う。強いのは万策尽くしてひたすら生者を殺す。生きる為でも何でもねぇ、とうに終わった筈の連中がただ殺すだけ。存在するだけ百害あって一利なし、一刻も早く死の安寧に戻してやんのが世の為人の為連中の為ってもんだ」

 

 死ねば仏と言う訳でも無いが、この世界の宗教観によれば例え罪人であっても、刑が執行されて死んだ時点で罪は拭われている。罪が拭われた後に起き上がり、生を憎む死の具現となって生者を襲い続ける等、余りに悍ましく哀れだ。

 勿論そんな連中に故も何もなくただ殺される被害者は更に哀れである。これほど報われない、何の得にもならない死はあるまい。

 

 アンデッドによって生ける者が殺されて得をする、喜ぶのは同じアンデッドか、生きながらにして不死者に傾倒した変態位である。

 

「お前さんは高位吸血鬼と思しき小娘を取り逃がしてる。更にはその背後に、輪を掛けて強大な化け物がいるものと推測される」

「分かっています。あの時終わらせられなかった僕の手抜かりです。必ずや」

「おうよ。殺し損ねた悪党は地の底まで追い詰めて念入りにあの世に送れ。一度死に損なった実績のある連中だぁ、二度三度と這い上がって来ねぇ保証もねぇ。塵も残さず滅ぼし尽くせ」

「はい、絶対に……!」

 

 滅ぼします、そう暗夜に誓う。

 第三者が居合わせたならば息苦しささえ感じただろう、濃密な気迫の放射だった。

 

 大先達からの叱咤激励。新婚の幸せに浸ったイヨの気を一段締め上げるには十分過ぎるものである。こと戦いに関して微に入り細を穿って大胆不敵に熱烈激情、冷徹にして不動、生来にして後天の戦闘特化者たるイヨ・シノンの熱が更に高まる──反面、対面のガド・スタックシオンは萎んだ。

 

 構えも変わらない。顔つきも。何も変わらないのに、何故だろうか、イヨは目の前の人物が急に、年相応の老人になってしまった様な気がした。相変わらず其処にいるガドの姿に、自分は隙を見出せないのに。

 

「はぁ」

 

 ──何が変わった? 外見は変わらない──心境? 心構え? ──自覚?

 

「偉そうに先輩風吹かせてはみたけどよう」

 

 老いた英雄が。

 

「俺が言えたこっちゃねぇんだよなあ、公都が危ねぇって時に現場に居もしなかった俺にはよう」

 

 老いた元英雄に。

 

 

 

 

「ガドさん……?」

「俺はよう、まだまだそこら辺の若いのには負けねぇ自信がある。不意打ちで良いなら目下の所公国最強だろうお前さんの首でも刎ねられる。あの場にいたなら出来る事は山ほどあった筈だ」

 

 そんな事を言っても仕方が無い。どうしようもない。あの時こうしていたら──どう仮定した所で変わらないのだ。

 

 そもそもガドは現役を引退して長く、冒険者組合副組合長の職にある人間である。その職務の為に公都にいなかったのだ。もしかしたら一国を滅ぼせる化け物が来るかも──そんな天文学的な不幸を予期していなかったとして、それを責められる者など地上の何処にもいやしない。

 もし責める者がいるとしたらば、それは八つ当たりというものである。

 

 ただ。本人が自分を責める場合は──。

 

「ガドさん──」

「英雄ってのはよう、英雄たる機会に恵まれるんだ。そうして英雄たるを示して見せた者、そう言う奴だけが英雄だ」

 

 終生を平穏無事に過ごし、誰にも脅かされず誰とも戦わなかった者がいたとする。その人物がどれほど強かろうとも、英雄とは呼ばれない。脅威の下でこそ英雄は生まれる。

 

「分かり切ってたつもりだった。だが分かってなかったんだな。半端に強さを保ち続ける事が出来たばっかりに。元英雄としての自分の使い道を探してよう、後進の為と思って象徴に徹した。時にはこっそり請われて敵も斬った」

 

 イヨは公城でのバド・レミデア・フィール・ミルズス男爵の言葉を思い出した。ガドは自分の長男を、その強さにおいてガド本人にも追随するとされた自らの息子を斬り殺している。

 裏社会に身を寄せたからだと言っていた。そしてそれは一般には殆ど知られていないとも。

 

 官民共に強者不在の時代が長かった公国では、かつての英雄に迫るほどの強さを持った悪者を如何にかできるのは、引退した英雄本人しかいなかったのだろう。

 

「どっちつかずだった。でもよう、今回でこそ、痛いほど分かり切った。もう俺は英雄たる定めから外れちまったようだ。必要な時に俺はその場にいなかった──居合わせたのはお前さんだ、イヨ・シノン。新たな英雄よ」

「英雄たる定め──それも、アダマンタイト級冒険者の心構えでしょうか?」

「いんや? 少なくとも現役の時はこんな事僅かにも考えなかったぜ。今のアダマンタイト級がどうかは知らねぇが、俺と同世代の連中もそんな細かい事は考えてなかったように思う……初めて天の定めってのを意識したのは、仲間が死んで俺だけが生き残った時、引退した後だな」

 

 その辺りの事はイヨも教わったし、自分でも調べたので知っている。ガドがリーダーだった【剛鋭の三剣】のメンバー、ガドと並び立って一時代を築いた若き天才たちは、最後の依頼で全員が死亡している。

 

 狂った竜とゴブリン部族の侵攻──公国では誰もが知る英雄譚だ。正気を失ったドラゴンが七つの村と二つの街を壊滅させ、その混乱に乗じてゴブリンの部族連合が森から湧き出た。史上稀に見る大きな被害を巻き起こした事件である。

 

 チームを二つに分け、狂った竜とゴブリンの軍の両方を討ったのが公国史上最大最強のアダマンタイト級チーム【剛鋭の三剣】。

 中でも『ガド・スタックシオンの千人斬り』や『四英傑の竜落とし』の逸話は今でも語り草であり、彼らは公国東部数十万の民を救ったとして押しも押されもせぬ大英雄として歴史に名を刻んだ。

 

 一人でゴブリンの軍を相手取ったガド・スタックシオンは瀕死の重傷を負いながらも生き残り、酸のブレスを吐く黒竜に挑んだ四人は相打ちとなっている。

 

「実際千人も斬ってねえけどな。一人でやった訳でもねぇ。まあ突っ込む時こそ一人だったけどよう……族長やらの上位種どもを狙ってひたすら奇襲繰り返してよう、頭を失って逃げ散る多数の雑魚は騎士と他の冒険者が追い討った。その後俺は仲間の方に行ってよ、溶けた大地の中で──思い出したくねぇな」

 

 ガド・スタックシオンは仲間全員の蘇生に失敗している。腐敗と損壊の激しさが原因であると言われていて、この出来事と高齢が彼の引退を決定付けた。

 ガドに並ぶと言われた剛剣の使い手も、飛び影と称えられた隠密も、地神の杖と慕われた神官も、第五位階も間近と噂された最年少の天才魔法詠唱者も──皆死んでいる。

 

「つまりよ。俺が英雄引きずるのも限界ってこったな。これからは新たな英雄、【スパエラ】の時代。中でもお前さんだ。俺が殺し切れなかった男、俺を殺す寸前まで追い縋った男。だから呼んだ」

 

 本題である。ガド・スタックシオンの、一度は沈み萎んだ気が充溢していく。はち切れんばかりに。

 

「若いもん殺す訳には行かねぇからよう。今まであんまり人に稽古つけてやった事はねぇんだが──」

 

 不器用なのだ。若い頃から。そして本物とは実戦の中でこそ育まれるものであり、それを伝えるのも実戦でしか出来ないと思っている。

 修練場の教官連中には万人を責め殺して一人の英雄を見出すやり方は現実的に無理だと言い切られてしまったが、既に英雄たる者なら心配ない。

 衰え切る前に、数十年の経験から培った全てを伝えたかった。

 

「お前さんなら生きて耐えられると見込んでの事だ。どうだ、俺の稽古を──」

「是非ともお願いします!」

「おう、それでこそだぜイヨ・シノン!」

 

 イヨが嬉々として両拳を構えると、ガドも喜色満面に双刀を引き抜いた。

 

 雲の過ぎ去った月下に、二人の戦鬼が対峙する。

 

 自分と同等以上の強者との戦い。イヨにとってそれは願ってもやまない機会である。不遜な物言いだが、単身でイヨと互角に戦える強者は公国にはいないに等しい為、今までは質の不足を数で補う方法を取っていた。

 

 強くなるには無数のものがいる。努力、才能、環境、時間、良い指導者。増してや今のイヨは篠田伊代ではなく、ユグドラシルのキャラクターをベースとしたイヨ・シノン。

 戦えば戦うだけ強くなれると保証がされているに等しい。約束されたレベルアップ等と言う現実的にはあり得ないご都合が確定している。

 

 どれだけ身体を磨り潰そうともポーションや治癒魔法がある。強くなるために無限の修練と戦闘を重ねるのに必要なのは、後は心だけだ。これだけお膳立てをしてもらって、努力を惜しむ事が何故出来よう。

 少なくともイヨには出来ない。

 

 切創も裂創も割創も擦過傷も挫創も挫滅創も刺創も咬創も熱傷も、内臓破裂や解放骨折、四肢切断も。ありとあらゆる負荷を気にせず、痛みと好きなだけ慣れ親しんで自らを鍛えられる地獄のような天国は少年の理想であった。

 

 そして今。

 

 目の前には自分を踏み付け切り刻み喉を割かんとする指導者がいる。人生を戦闘に捧げ生き残った本物の戦士が。その全てをもって自らを鍛えようとしてくれている。

 

 こんなに恵まれていて良いのだろうかとイヨは一瞬悩んだが、次の瞬間全て忘れた。他の事に脳細胞を用いる愚は死を招く。目の前の老戦鬼をどう破ろうかという事だけに心技体を尽くさねば。

 

 イヨは前回の戦闘から一レベルアップし、新たなスキルを二つ覚えた。そういう意味では戦力差は縮まっている筈だが、ガドはガドで疲労対策など何か考えてきているだろう。完全にカバーするのは不可能な筈だが、装備品の内一つか二つを疲労軽減のマジックアイテムに交換されるだけでイヨは厳しい。

 

「三つほどお聞きしたい事が。何故僕だけなのですか? ガルデンバルドさんやリウルさん、ベリガミニさんは?」

「防御型の戦士はまだしも、斥候や魔法詠唱者に何を教えろってんでえ。そもそも俺ぁ人にもの教えられるような出来た人間じゃねぇんだ、お前はまだしも連中は俺相手にしたって強くなれねぇよ」

「成る程、申し訳ありません」

 

 心が逸っているのが分かる。心の臓が高鳴っているのも。だってしょうがないじゃないか、あの特例審査以降今一度拳を交えたくて仕方が無かったのだから。

 

 それをこうも整った形で叶えてくれた。

 

 ──次、次に雲が月に掛かった瞬間だ。僕は月を背にしている、僅かな明暗の差にガドさんの眼が順応する隙を突こう。

 

 まだかまだかと胸を弾ませながら、イヨは喋り続ける。僅かにも気を逸らせたらいいなぁ、と絶対に成功しないであろう企みに望みをかけて。

 

「僕の身体ももう僕一人の物では無いので、出来れば死なない様にお願いしますね」

「分かってらぁ。俺だって前回嫁にしこたま絞られてんだよ。もっとも、お前が死んで当然のミスを犯した日にゃあ知らねぇがな」

 

 ──もう少し、もう少しだ。最後にこれだけは──

 

「──なんでこんな郊外で隠れて戦うんですか? 練習なら普通に組合裏の修練場で良いのでは?」

「はっ」

 

 イヨの問いに白髪のガド・スタックシオンは鼻で笑い、子供みたいな顔で答えた。

 

「おいおいイヨ・シノンよぉ、面構えだけじゃなく性根も女子供になっちまったのかよう? ──練習は兎も角、男の特訓ってなぁ古今東西人知れずこっそりやるもんと決まってんだろうがぁ!」

「あぁ! 成る程、そうですね!」

 

 そっちの方がカッコいいから。

 

 百%の納得と共に、イヨ・シノンとガド・スタックシオンは互いに全力の攻撃をぶち込んだ。長い長い死闘──もとい秘密の特訓の開始であった。

 

 

 

 因みにこの秘密の特訓であるが、家に帰った瞬間それぞれの妻に思い切りバレて超説教を喰らい、次回以降公開練習となった事は二人の名誉のため敢えて記さずにおく。

 




次回から帝国編です。イヨの武者修行的な内容も含みます。


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帝国と重爆

本日投稿する二話の内、これが一話目です。


 周辺国家に冠たる大国、バハルス帝国における騎士の最上位、最高の武力とされる四人の騎士がいる。

 

 その名も四騎士。彼ら彼女らは、個人の武力は元よりバハルス帝国の膨大な国力からバックアップを受けている。

 

 全身を覆う武具やマジックアイテムの内鎧一つ取って見ても、地上最も高い硬度を持つ希少魔法金属アダマンタイトを用いて造られ、更に強力な魔法で魔化されている逸品だ。

 これ程の物はバハルス帝国広しと言えど数える程しか──もっと率直に言えば、四騎士と四騎士に匹敵する実力を持つとされる帝国皇帝直下白銀近衛の隊長が纏う分、片手で数えられる数しか存在しない。

 

 金貨にして何枚分の価値があるか等計る事も馬鹿らしい。鎧一つ分でも館が立つ程だろう。総合的な装備の充実度で言うなら最高位冒険者に勝るとも劣らない。

 

 強く、煌びやかで、一人の例外を除けば忠誠心に溢れるその姿。

 その四人を知らぬ騎士などいない。四人に憧れぬ騎士もいない。帝国最強戦力として国家を守護するその姿は民に安心を与える。

 

 誉れ高き四人の名は、

 最も強く忠義溢れる戦士、【雷光】バジウッド・ペシュメル。

 騎兵にして神官戦士、【激風】ニンブル・アーク・デイル・アノック。

 寡黙にして不沈たる最硬の騎士、【不動】ナザミ・エネック。

 

 そして最後の一人、バハルス帝国皇帝ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスと、すっかり顔馴染みとなった客人の警護を務めているのが──

 

「──全く。お前も大分言う様になったな。以前はもう少し配慮というものがあった様な気がするが」

「はっはっは。そうかもしれませんな、なにせ鮮血帝と呼ばれる邪知暴虐残忍非道で知られる恐るべき人物が、私という人間を見定めようと眼を光らせていたらしいですから。こう見えて臆病ですからね、命の危険があると思えば慎ましさの一つも芽生えようというもの」

「なんと! 我が友であるお前にそんな目を向ける者がこの帝国にいたとは。その邪知暴虐冷酷非道のなんたら帝とやらは寡聞にして知らないが、もし見掛けた折には私自らガツンと言っておいてやらねば」

「はっはっは! また陛下はその様な事を仰る!」

 

 最も攻撃能力に長け、最も忠誠心に欠ける呪われし女騎士──【重爆】レイナース・ロックブルズ──にこやかに談笑する皆の傍らで、傍目には真面目に、内面的にはさしたる熱も何もなく、彫像の様に立っている女性であった。

 

 

 

 

 レイナース・ロックブルズという女性にとって人生の目的は自身に降り掛かった悍ましい呪いを解く事であり、極論すればその他の全ては些事でしかないと言える。

 もし他に並び得るものがあるとすれば呪いに苛まれた自身を裏切り虐げた人々に対する復讐がそれに当たるが、最たる復讐相手──彼女の実家と元婚約者──への報復は今の主君であるジルクニフの助力もあって既に果たされている為、残っている他の連中は呪いが解けた後で良いと考えている。

 

 レイナースは帝国四騎士に名を連ねてはいるが、その実バハルス帝国にもジルクニフその人にも忠誠心はほぼ無い。全く無いではないが、そのなけなしの忠誠も、仕える事によって忌まわしき呪いの解呪が実現する可能性がある故の物だ。

 

 ただの呪われた神官戦士レイナース・ロックブルズでいるより、バハルス帝国最強戦力四騎士の一人レイナース・ロックブルズでいる方が解呪実現の可能性が高いから。

 

 故にレイナースはジルクニフを主君とし、帝国の為に刃を振るっている。逆に言うと、他の誰かが呪いを解いてくれると言うならば──口だけであるのみならず騙そうとする輩にも散々出会ってきた故、そう簡単には耳を貸さないけども──レイナースは帝国での地位を捨てる事に全く躊躇いは無い。

 

 確実な解呪と引き換えに帝国を売れ、ジルクニフに剣を向けろと言われたなら、一欠片の迷いもなくそうするだろう。

 

 最もレイナースはその旨をしっかりと宣言し、ジルクニフもそれを承知でレイナースを召し抱えているので、いざ裏切ったとしても非難される謂れは無いと彼女は考えている。

 端からレイナースは己の呪いを解く為にバハルス帝国と其処に所属することで得られる地位を利用するつもりだし、ジルクニフも万事承知の上でレイナースを使っている。手元に置き続ける為、裏切られない為程度に解呪の方法を探っているだろう。

 

 言ってしまえば四騎士の中で最も信用ならない人物がレイナースなのであるが──呪いを受けた日より金もコネも何もかも、全てを用いて探し続けている解呪の方法は未だ見つからないので、今の所帝国を離れたり裏切ったりする予定は無い。

 

 故に最上位の騎士の一人として職務を熟しつつ、呪いが解けたらやってみたい事を日記に認めたり、頭の中で解呪後の幸せな日々を空想したり、自分を虐げ騙した者共を地獄の業火に叩き落とす計画を練ったりして、彼女は日々を過ごしている。

 

 何処に出しても恥ずかしくない自慢の娘だ、愛していると笑顔を見せながら、呪われた顔を見ると悲鳴を上げ、醜聞になるとしてレイナースを追い出した両親。家ごと燃やした。

 君の全てを愛している、どんな障害も二人で乗り越えていこうと囁いた婚約者。呪いという障害を打ち明けると即座に婚約破棄の申し出が家に届いた。死という障害を与えてやった。

 絶対に治してみせると豪語した自称高徳の神官は、最後にはレイナースを魔物呼ばわりして逃げた。殺した。

 レイナースの苦境を理解し慰めるような素振りを見せつつ、裏では彼女の呪いが他人に移るものだ等と吹聴していた女がいた。殺した。

 例え呪われていようと君を愛している、共に呪いを解く術を探そうなどと嘯いた男。端から信じてなどいなかったが矢張り金目当てだった。殺した。

 散々助けてやったのに汚い物でも見る様に顔を背け、中には石を投げてきた者もいた元領民。殺してやりたかったが、数が多く大規模になるので現在保留中である。

 

 既に達成済みの復讐も多い。計画や空想の段階で留まっている復讐も。それらの数々はレイナースの顔面右半分が膿を分泌する歪んだ姿に変わってより、どれだけの心ない言葉と迫害に晒されてきたかを表している。

 

 昔のレイナースは身も心も美しい女性だった。両親を愛し、婚約者を愛し、領地と領民を愛していた。自身の手で領民を脅かすモンスターを討伐することを誇りとし、神を敬い世の中の助けとなる事を幸せとしていたのだ。

 何もかもが上手くいっていたかつての日々を思い出す。皆を愛し皆に愛された日々。充実していた過去。例え形を変えど、例え苦難に見舞われど、それらを皆と共に乗り越えてこの幸せは続くものと疑わなかったあの頃。

 

 今より遥かに弱く、しかしずっと満たされていたレイナース・ロックブルズの記憶。今は思い出すのも苦痛だ。そうして満たされ幸せだった記憶がしっかりとあるが故、その全てが自分を裏切り虐げる側に回った時が痛くて辛くてやるせなくて、何よりも憎い。

 

 呪いを受けて、レイナースは変わった。しかし、呪いを受けたから心まで醜くなったのかというとそんな事は無い。顔の半分が歪んでしまった後だって、レイナースの心は清いままだった。

 

 誰もが褒めてくれた生まれ持っての美貌を失った事。それ自体は言うまでも無くショックではあったし、自分自身の魔法は元より、懇意にしていた神殿の神殿長の魔法ですら元の姿に戻れないと知った時は確かに絶望を感じた。今まで築き上げてきたものが崩れ去る様な感覚を味わった。

 

 しかし、その時のレイナースには希望があった。愛する両親が。愛する婚約者が。愛する領民が。こんな不幸に見舞われた自分を憐れみ、我が事の様に動揺し、それでも自分を愛してくれると信じていたからだ。

 

 自分自身でさえ醜い以外に表現が見当たらないその右半分の顔を見たら、確かに誰もが驚愕するだろう。得体のしれないものだと恐怖を感じ、一時は遠ざけたく思う事もあるかも知れない。

 

 しかし、しかしそれでも愛してくれる筈。支えてくれる筈。寄り添ってくれる筈。

 

 自分とは違い戦う力もモンスターや魔法に関する知識も無い両親は、この顔を見たら悲鳴を上げるかもしれない。原始的な恐怖と嫌悪から、その足は自分から一歩二歩と後ずさりして距離を取るかも。

 

 でもでも、それ以外の全てが愛した娘のまま変わらない事を理解して、自分に歩み寄ってくれるに違いないのだ。共に涙を流して抱擁してくれる。嗚咽を堪えながらも、呪いを解く方法を探そうと言って、自分を守ってくれるに違いない──。

 

 レイナースは今までの人生で育んできた彼我の愛情を信じていた。

 

 なのに、現実はそうならなかった。たかが顔の半分。それ以外は心も魂も何も変わっていないのに。

 まるでレイナースの全てが悍ましい魔物と化したかのように、両親はレイナースを家から追放し、婚約者は会ってもくれず、領民は悲鳴を上げた。

 

 今まで守り守られてきた拠り所から追放され、レイナースは彷徨い、彷徨う内に幾多の人々から悲鳴と罵倒と嫌悪と憎悪と不理解と──今までの人生で縁の無かった不幸と不遇を一身に受けた。

 

 たかが顔の半分である。確かに珍しいかもしれない、こんな目にあった人は他に居ないかもしれない。どんな魔法も薬も拒絶する不治の呪いなんて悍ましいかもしれない。でも他の全ては変わらないのだ。

 

 他の人間にうつる事も無ければ人格が悪に変わった訳でも無い。誰もが認めてくれた昔と顔の半分以外は何も変わらないのに。元はと言えば領民の為に身体を張ってモンスターと戦って受けた呪いだ、名誉の負傷とすら言えるモノである筈なのに。

 

 時には理解者が現れる。助けてあげると手を差し伸べる人が現れる。傷心のレイナースは彼ら彼女らの手を取って、そして騙され傷付いた。結局呪いは解けなかった。

 顔を隠して生きるレイナースと友情を交わし、この人ならばと思えた相手もいなかった訳ではない。だが結局、意を決して隠していた半面を晒すと逃げた。

 

 ひたすらに苦境を味わい、足蹴にされ、時には自己防衛の為に刃を血で濡らす。

 そんな日々を過ごす内、レイナースは変わってしまった。変わっていく自分、不幸と痛みに塗れ性格が歪んでいくのをレイナース自身感じ取っていた。

 

 それはそうだ、一体誰が汚物に塗れたどん底で聖者になれる。一体誰が、誰も助けてくれないのに人を助けようという気になれる。愛してくれないのに愛そうという気を起す。

 

 レイナースは元々持っていた優しさや慈悲、思いやりというものを徐々に擦り減らしていき──遂には幸せな他者を憎む様になった。謂れなき苦痛を味わう自分と比較して、不幸も痛みも知らず美しいままでいる他人を嫌い、妬む様になった。

 

 皮肉な事に、呪いを解こうと以前ならば有り得ない程自他を顧みない生き方をする内、レイナースは貴族令嬢だった頃よりも格段に強くなっていった。

 

 他を圧倒して強い呪われし神官戦士の噂を聞き付けたジルクニフがレイナースの前に現れる頃には、既に歪んだ人格は凝り固まって元には戻らなくなっていた──。

 

 四騎士となり、ジルクニフの庇護の下で他人から尊敬や信頼、見下しの無い同情を向けられるようになっても、今更心は回帰してくれない。呪われたままの自分をレイナース自身が認められず、許せないのだ。

 

 そうして彼女は、呪いを解く為であればなんでもする今のレイナースとなった。

 

 

 

 

「件の我が国に誕生した新しいアダマンタイト級冒険者、【スパエラ】メンバーの似顔絵です。今回陛下に託される物の現在の所有者はこの者、イヨ・シノン殿ですな。……私の娘の『お気に入り』でもあります」

 

 大公も立場が立場だけに、自身が直接ジルクニフと言葉を交わすことの出来る機会は少ない。それに対し、意思統一やすり合わせをすべき話題は数多くある。【スパエラ】が求めた謁見と献上もその数多くの中の一つだ。

 既に付き合いは十年近くにもなり、互いに慣れた。国家の首脳同士の会談ではあるものの、その会話はかなり軽快で速度重視であり、両者の側近も今更その事は気にしない。

 

「──ほう! リリーの……これはこれは、目にも麗しいご令嬢だな」

 

 公女とジルクニフの結婚は内部的には確定事項である為、呼び捨てについて今更反応する者はいない。そしてこの世で三人だけが知るリリーの秘密を知る者もいない為、『お気に入り』の正しい意味を解せる者もまた、いなかった。

 

 ──チッ。

 

 大公が机上に広げてみせた似顔絵を一目見た瞬間、レイナースは心中で舌打ちした。気に障ったのだ。気に食わなかったのだ。腹が立ったのだ。死ねばいいのに、と思ったのだ。

 

 魔法で写生したと思しき簡素で写実的な四枚の似顔絵の内最後の一人──公国における新たなるアダマンタイト級チームの中核を成すとされる少女が、整った顔で幸せそうに笑っていたから。

 

 画家に描かせた場合と魔法で写生した場合。後者の場合は魔法によって実像をほぼそのまま紙に写す訳だから、どちらが本物に近いかと言えば後者であると言える。

 

 貴族などの高い地位にいる者たちが肖像画などに用いる時、この『実像そのまま』というのが一部で好かれると同時に嫌われる原因である。画家が筆で描くのと違い、魔法で写生する場合は所謂理想化や美化が不可能な為だ。

 『時間を掛けず即座に完成する点は確かに優れているが、情緒と芸術性に劣る』──自身の子の結婚相手を探す時などがより顕著だが、貴族界隈ではそう評価される事が多い。高名な画家に描かせた方が自身のコネや財力を誇示できる点も理由の一つだ。

 

 家同士の思惑で結婚相手が決まるのが貴族の常識で、顔も知らない、会った事も無い相手と添うのも珍しい話ではない。だが、どうせなら相手は美女・美男が良いと考えるのも人情だろう。所作や教養は教育で如何にかなるが、容姿は生まれ持った要素も大きい。

 そんな事情で、『顔を合わせた事も無い婚約相手の親が見せてくる肖像画が画家の描いたモノか魔法で写したモノか』というのは、貴族の青年男女の間で結婚への不安や期待を増減させる一要素となっていたりするのであった。

 

 レイナースは己が失った美しさを持つ女、つまり美人が嫌いだ。己が呪いによって奪われた幸せに浸る人間は大嫌いだ。

 魔法によって写生されている以上、間違いなく現実にその容姿である筈の少女はあどけなさに大きく偏ってはいるもののかなり整った造形──昔のレイナースよりは断じて劣るが──で、この上なく幸せそうに、自分自身になんら卑下する所の無い様子で微笑んでいる。

 ついでに付け加えるならアダマンタイト級である以上、十中八九レイナースより強いのだ。

 

 『生まれてこの方何の苦労もした事ありません』とでも言いたげな馬鹿面。『どんな辛い事でも私、負けません!』とでも言いたげなアホ面。『私の笑顔でみんなを元気にしちゃいます☆』とでも言いだしそうなムカつく面。自分で自分の事を可愛いと思っているに違いないったら違いないツラ。

 

 此処まで腹の立つガキ臭い微笑みを見たのは初めてかも知れなかった。よくよく見れば僅かな緊張感を漂わせているのも初心をアピールしているようで癪に障る。

 

 レイナースの脳内においてまだ会った事も無いイヨ・シノンという少女の評価は似顔絵の笑顔一つで地に落ち、地を穿ち、地の底に到達して更に墓穴を掘り始めた。

 

 舌打ちを心中に留められたのが奇跡と言える位に嫌いな存在だった。

 

「こちらのリウル・シノンとある者、名だけは前に聞いた事がありますが確かブラムという姓では──ああ、イヨ・シノンと同じという事は、結婚したのですか? 珍しいですね、冒険者が同じチーム内で、とは」

 

 ジルクニフに仕える秘書の一人がそう口を挟んだのを切っ掛けに、レイナース・ロックブルズの苛立ちと憤りは頂点に達した。

 

 黒髪黒目の珍しい容姿でそれなりに精悍な──やや女性的でもあるけども──人物が写された似顔絵を睨み付けると、そこには確かにリウル・シノンの文字。

 

 言うまでも無いがレイナースは呪いに苛まれさえしなければ、相思相愛だった婚約者と一緒になり、貴族的には十二分に幸せな結婚生活を送る筈だったのだ。呪われし騎士等と言う不名誉な綽名を付けられ、今ほどの苦難に塗れる筈は無かったのだ。

 

 自ら血祭りに上げた元婚約者に今更一片の心残りも愛情も無いが、自身が逃した幸せをより年少な少女が手にしていると思うと負の感情が止まらない。

 

 レイナースを取り巻く外側の世界では、救国のアダマンタイト級冒険者という注目度の高い人物に関する世間話兼情報交換として、滅多クソに腹の立つ会話が繰り広げられていた。

 

 出会って数か月のスピード結婚。イヨ・シノンの側がリウル・ブラムに一目惚れして口説き落とす。夫婦仲は極めて良好らしく、危機的な大事件の直後に起きた戦功者同士の慶事として城下でも大きな話題──等々。

 

 レイナースの前歴を思えば避けてほしい話題ばかりだが、『とてつもなく希少な物品を捧げに来る人物の重要な情報』とあって、手短かつ端的に大公は話しているらしい。皇帝と大公の周りを取り巻く部下たちも、気遣わし気な様子を見せるのは逆に侮辱的であるとの判断故か、この会話の発端となった秘書を含め、事務的な会話に終始している。

 

 フールーダは殆ど興味が無さそうだったが。彼からすれば、アダマンタイト級冒険者が自分を頼る程の物品についての興味の方が億兆倍は大きいのだろう。

 

 もう我慢が出来なかった。

 

 レイナースは舌を打ちかける。場が場だから礼儀の上で言えば問題だろうが、もう知った事か。

 

 ──どうしてこうなってしまったんだろう。

 

 呪いを受けており幾千回も繰り返した問いが、心の奥底で残響する。辛くて無為で、いつしか考える事もしなくなった問いが。

 

 本当は分かっている。胸の中で渦巻くこのあらゆる悪感情の根本は無力感であり、失った幸せの喪失感であり、呪いという不運に対する怒りで、呪いによって降り掛かってきた苦境に対する苦痛で──誰かの顔がどうとか幸せそうだとか、自信に溢れた様子がどうとか、そんなものは八つ当たりだという事くらい。

 

 例えるなら、抗えない何かによって嫌な気分にさせられたから、壁や柱を蹴飛ばして鬱憤を晴らす様な。抗えない何か──レイナースの場合は呪いだが、それがどうにもできないから他の者や物に当たるのだ。

 

 でもしょうがないでは無いか。嫌なのだ、辛いのだ、他人の美しさや幸せというものがもう、今のレイナースにとっては堪らなく。呪いを受けてよりかつて満たしてくれた愛や信頼は全て裏返り、嫌な事辛い事ばかり沢山で──そういう風になってしまったのだ。

 

 こんなにも不幸で辛いのだから、何を害する訳でも無くただ恨む位は、八つ当たり位は許されてもいい筈だ──。

 

 自他への入り混じった万感の嫌悪を込めてレイナースの舌先が遂に──

 

「しかし、私の記憶違いでなければリウル・ブラム──失礼、今はシノン殿でしたね。この人物は確か女性では? 同性婚とは珍しいですね」

「はっはっは。ヴァミリネン殿の記憶は正しいものだ。だが、同性婚というのは違う。陛下、面白いので黙っていましたが、イヨ・シノン殿は男性ですよ」

「──ッ!?」

 

 部屋中を驚愕が満たすと同時、レイナースは人知れず舌を噛んだ。

 

 

 

 

「この顔でか!? 成人だろう!? 爺──フールーダが魔法で延命している様に、何らかの魔法的手段で少女そのものの外見を作り上げているという事か?」

「ほう」

 

 魔法という言葉に反応してフールーダが興味を惹かれた風に身を乗り出して似顔絵を覗き込むが、続く大公の言葉で再び興味を失った。

 

「いえ、自前の様ですね。生まれながらにこういった容姿なのだとか。──本人から聞いた話なのですが、彼の国には女装して酒宴に紛れ込み、敵を討ち果たした英雄の逸話があるとかで。シノン殿も女装を得意としていると聞きます」

 

 ジルクニフは帝国の頂点に立つ者、これ以上無い英才教育を受け能力を開花させた者として、様々な意味で人を見る目には自信があったつもりだが、絵一枚からでは全く本来の性別を見破る事は出来なかった。

 

「この似顔絵作成に協力してもらった時は、特に化粧などしていませんでしたが」

「…………男だと言われれば男のような気もする、か? いや、しないな。身体の成長が止まっているんじゃないのか」

 

 ジルクニフもまあ、能力と同じく容姿も相当に優れているので、年齢が十に至る以前の子供の頃はある程度中性的と言うか、その外見に少女的な要素を含んでいた時期があったとも言える。

 ただそれは言うまでも無く男女の性別的特徴が発達する前の未分化な時期だからで、既に成人である筈のイヨ・シノンのそれとは全く異なる訳だが。

 

「我が娘曰く、実物を前にして腰回りの骨格などを特に注視し、所作に注意を払えば本来の性別を看破する事も人によっては可能との事。女装した状態では不可能だそうです。マジックアイテムを駆使して顔立ちは元より目の色や髪の色、声色を可変させ、身長や体型もある程度変えるそうですから」

 

 それだけの変装──女装を可能としながら、とんでもない金額になるであろう多量のマジックアイテムを有しながら、密偵としての技術が皆無である為潜入捜査など向いていないという。

 つまり完全に趣味に特化した女装なのだ。精々酒宴の席で盛り上げ係をするくらいのただ単なる芸、特技なのだとか。

 

「……我が国の英雄たちといい、アダマンタイト級冒険者は変わり者でなければいけない規則でもあるのか?」

 

 誰もが知る風変わりな英雄の姿──袈裟を着込んだ禿頭の僧侶や裸の上半身にボディペイントを施した若いシャーマン、真っ赤な毛並みの猿猴という亜人種の戦士など──を想起し、最上位者の冗談に、一名を除いた皆がひとしきり笑った。

 

「しかし、人材というのはいる所にはいるものだな。つい半年ほど前に別の大陸から来たというこの者は例外としても、まさか既に半死人に等しい王国から、局地的とはいえあれほどの反撃を受けるとは」

 

 緩んだ雰囲気が今一度引き締まる。そして動かずにいたレイナースを始めとする警護の騎士たちも僅かな身動きと共に関心を寄せた。

 話題と雰囲気の変わりようにも関わらず、大公は即座の反応を示す。

 

「──名前自体は有名な男です。ただ御前試合にてガゼフ・ストロノーフと互角の勝負をして以降、足取りは不透明で露出がほぼありませんでした。かなり高位の貴族も含めた数多の誘いを断ってまで在野にあり続けた男──今更仕官するなど、正直予想外ではありましたな」

 

 これは裏付けのある情報では無く私の憶測になりますが、恐らくガゼフ・ストロノーフとの個人的な縁が要因でしょう、大公はそう結ぶ。

 

 ──ブレイン・アングラウス。

 周辺国に歴史的大勝として認知されている此度の王国との戦争において、帝国に局地的劣勢を強いた男の名だ。

 

 直接ぶつかれば四騎士をも下すだけの実力を有する者──そして新たに王国副戦士長の役職に就いた希代の戦士。

 

「当然ですが足掻きますな、王国は。今更勝敗が覆る事はあり得ませんが。例えガゼフ・ストロノーフが二人になった所で、五宝物が十宝物になる訳も無いのですし」

 

 ブレイン・アングラウスの表舞台への登壇は、大公の言う通り周辺国家最強の戦士ガゼフ・ストロノーフが二人に増えたのにも近い変化だったが、時が過ぎている。此度の戦では不意を突かれたがそれでも将軍や四騎士は一人として討ち取られる事無く、大勝は大勝だった。

 

 戦争開始に至るまでも相当にごたごたとしていた王国側は順当に負け順当に力を落とし、当たり前の様に滅亡の道をまた一歩進んだ。

 王派閥の力はやや増したという報告が密偵や内通者から来てはいるが、それはより大きな被害を受けた貴族派閥との相対した上での話であって、絶対的に言えば矢張り国力は落ちたし統率も更に乱れている。

 

 予想外はあったが、それでも許容範囲の予想外だ。計画の道筋から外れる程の障害ではない。今更戦場の英雄が一人増えた所で、国力の差は覆らず崩れていく政治は止められないのだから。

 

 帝国と公国は勝利し、王国は負ける。全ては順調だ。順調すぎるほどに。

 

「……どうも舗装された道を歩いている様な気分だな。何事も無さ過ぎるし、何事かあったとしても最小限に留まり、著しくは予想外だったはずの何事かが結果的には利益にさえなる場合が多すぎる」

 

 ジルクニフが言外に匂わせる事柄が、大公には容易に想像が付いた。

 

 あの気持ちの悪い女。今は以前よりもずっと影響力を発揮し、かつてないほど発言力を増した筈なのに、表向きには精々『主要人物』に出世した程度の存在感しか発しない黄金の姿が見え隠れする。

 

 ジルクニフは以前よりラナーが嫌いだった。ラナーの行動を見ていると失敗したくて失敗している様な違和感を覚えたものだ。その思考を考察し理解しようとすると、まるで蜘蛛の巣に囚われるかの様な嫌な気分があった。

 大公も同じだ。自らの娘と友誼を交わす黄金の少女を実際に見た時と、その話を見聞きする時。彼の心中は妙なざわめきで満たされる。今まで裏切った事のない裏付け無き警戒心──嫌な予感が胸を満たす。

 

 今のラナーはもっと露骨だ。やっている事は何処までも王国の為──なのに完全に王国を見限っていて、自身を無言でこちらに売込んでいる気がする。『生かして活かした方が得ですよ』と。

 ますます不気味で気持ち悪い。ジルクニフの個人的な感情で言えば死んでくれた方がよっぽどすっきりするし、本人に戦闘能力は皆無であろうからそれは十分可能だ。しかし、利用価値を思えばあり得ない選択肢である。

 

「頭では分かっていても心底嫌だな。政治的な意味以外無いとはいえ、あの女と婚姻か」

 

 ラナーはジルクニフの脳内嫌いな女ランキングでここ数年単独トップを爆走中である。

 

「心中お察しします」

「あれと比べればリリーは遥かに可愛げがある」

「これはまた陛下らしからぬお言葉を……恐れ入ります。我が娘も喜ぶでしょう」

 

 顔も美しいに越した事は無く、抜けた所はあるにしても頭脳自体は悪くはない。そして白銀の彼女は黄金の化け物よりずっと人間的で、なによりタレントの価値が計り知れぬ。

 

 この戦争は、ジルクニフが運悪く落雷にでも当たって即死でもしない限り完勝以外は無いに等しい。故に、彼らが見ているのはその先だ。

 

「……重要度としては先日の法国との会談の方がずっと上でしょう。陛下、此方で検討と裏合わせを致しましたので、ご報告を」

「……うむ。聞こうか。やれやれ、忙しくて嫌になるな。早く歴代皇帝の様な、大雑把に命令するだけの立場に戻りたいものだ」

 

 空気の切り替えと同時に、一名以外全員が笑った。王国を取り込み、公国を統合し吸収するという大きな仕事が残っている以上、ジルクニフがそうした立場になるのはずっと先、それこそ頭髪が心許なくなる様な未来の話だろう。

 

 【スパエラ】が帝国を訪れる前の、ある日の帝都アーウィンタールの一日である。

 




最近ちょっと一話が長くなり過ぎているかと思い、切りの良い所で分けました。
こちらでは【スパエラ】登場せず、よって原作キャラとオリキャラの交流も起こらず……。
本日二話目もすぐ投稿します。


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バハルス帝国と【スパエラ】

本日投稿する二話の内、二話目です。まだ読んでいない方は一話目「帝国と重爆」を先にお読みください。


 月日は過ぎ、【スパエラ】は帝都へと到着した。流石は関係良好な二国間を結ぶ主要街道だけあり道中は全くの安全で、何度も街道を警備巡回する騎士とすれ違った位で盗賊にも魔物にも出くわさず、何の苦労も無く国境を越え、幾つかの村や街を経由して、そして今日到着したのだ。

 

「でっかくない? お城も大きいよね?」

「そらでかいよ、帝都だし帝城だぞ。でかいに決まってるだろ」

「道が全部綺麗に舗装されてる……」

「流石に全部が全部じゃないだろ。いくらなんでも探せば舗装されてない道だってある筈だ……裏道とかに」

「冬なのに活気がすごいよ、今日はお祭りなのかぁ」

 

 ついで、道行く人の雰囲気も全体的に垢ぬけている。つまり、此処に暮らす多くの人々は服装や身なりのお洒落に気を使うだけの生活の余裕があるのだ。公都在住歴が長くなるうちに都会に慣れたと思っていたイヨの感覚の更に上を行く大都会──それが帝国首都アーウィンタールであった。

 

 馬車道と歩道が機能的に整備され、道路脇には魔法の明かりを灯す街灯が立ち並ぶ。ほぼ全ての道路は石や煉瓦で舗装され、新しい建物が次々と立つ。

 冬であるにも関わらず人通りは多く、寒気にも負けない騒がしいほどの熱気が渦巻いていて、市民一人一人の顔も明るく希望に満ちていた。都市としても資材や人材の流入は活発であろう。

 

「人口的にも発展度合的にも公国の上位互換、それが帝国だ。アダマンタイト級も二組いるぜ。しかしお前って本当に、おのぼりさんの見本みたいな奴だよな……あんま現実逃避してんなよ」

「……うん」

「……事が事だもんなぁ」

 

 リウルが遠方に目を向ける。視線の先には正に支配者の住まい、帝国の象徴たる威風溢れる城があった。

 

 今からあそこに行くのである。相手は人類最高峰の魔法詠唱者、生ける伝説フールーダ・パラダインと──やがて三国を統一してバハルス帝国の黄金期を築き上げるに違いない若き大皇帝だ。

 

 町一つを壊滅させる様な化け物相手だって恐れず戦う、それが冒険者の頂点アダマンタイト級──なのだけど、流石にちょっと緊張する。なにせ【スパエラ】はアダマンタイト一年生である。

 

 許可は得ているし事前に訪問の予約も入れてあるので、本当なら緊張する謂れも無いのだけども。

 

「緊張は無理もない、リウルの言う通り事が事じゃ。今から身震いがしよるわ。皇帝陛下とパラダイン様相手に主に喋るのは儂じゃろ? 嫌じゃ嫌じゃ」

「今ほど専業の戦士であって良かったと思う時は無いな。なにせ専門外だから殆ど喋らずに済む。俺は端っこでデカい置物になっておくから、イヨと爺さんは頑張ってくれ」

「俺にコイツのお守りを全部押し付ける気かよ……」

「夫婦は互いの行動に責任を負うものだろう?」

 

 夫婦という言葉にリウルは眉を顰め、イヨは幸福感を滲ませて微笑んだ。そしてその手指が左手の薬指に嵌まった指輪を撫で、

 

「その癖は外でするなって言ってんだろ。見る度にこっぱずかしいんだよ」

 

 辛辣さを意識してリウルが言うが、赤い頬では棘も何もあったものではない。事実イヨは欠片もダメージを負っていなかった。

 

「いやぁ、あの時のリウルさんはカッコ良かったなぁ。プロポーズの時が人生最良の瞬間だと思ったら軽々と更新してくるんだもん、もう嬉しくて幸せで……僕が会ったばかりの時になんとなく話した事を覚えててくれたなんて、しかもサプライズプレゼントなんて……」

「その乙女顔やめろ、外でそう言う事話すな。つか指輪外せ。仕事中はマジックアイテムの方の指輪と交換しろって言っておいただろ!」

 

 完璧に決まった自身の策と圧倒的な勝利感に酔ってかなり恥ずかしい台詞を連発してしまったその瞬間を思い出し、リウルは尋常でない羞恥を感じた。感動の涙まで流させてやったのだからもう疑い様も無く自分の勝ちだ、との驕りが今の恥ずかしさを生んでいるのだと思うと身がしまる所ではない。

 

 ちなみに二人の新居は公国に帰る頃には完成している予定なので、その時にも何かひと悶着ありそうな予感がしていた。

 

「さて、緊張も解れた所で行くか。話は通っているが、あまり遅くなるのも不味いだろう」

「この国で厄介事に巻き込まれる可能性は低いじゃろうが、最低限の警戒は怠るなよ。目立っておるぞ、この上なく」

「っ!」

 

 言うまでも無いがアダマンタイト級は目立つ。アダマンタイトプレートという身分証明を首から下げている分だけ、下手をすると王侯貴族より人目を引く事もあり得る。しかも少し前に他国で誕生した新しい最上位冒険者、『帝国では殆どの人が知らない有名人』なのだから相当目立つ。

 

 ガルデンバルドなどは物理的に巨大なのでそれはもう、人ごみの中ですら頭二つ三つ抜けていてまるで広告塔の如く目立ちまくる。『なんだあのデカいの──あ、アダマンタイトプレート!?』といった具合に、四人に注目する衆目はどんどん数を増してきていた。間違いなく噂になるであろう。

 

 好奇心に負けた誰か一人が寄ってこようものならそれに釣られて人だかりが出来かねない。歩くだけで噂になり、その存在が常に人々の耳目を集める──それがアダマンタイト級冒険者というクラスだ。

 

 かつて僅かな間王国で過ごした時、【蒼の薔薇】や【朱の雫】のそうした姿を見ていたリウルからすれば、自分がそういう立場になった事について感慨深さもあったが、今は無用な注目を集めて浸っている場合ではない。

 

「……行くか」

 

 四人は足早に歩き出した。無論皇帝陛下の下へ向かってだ。

 

「ああ、モンスターと戦っておった方が余程気が楽じゃい。……それはそれとして、フールーダ様にお会いするのが楽しみじゃな。儂がこの世に生まれる遥か以前から大魔法詠唱者じゃったお方よ。第六位階魔法到達者、三重魔法詠唱者──幼い頃はその荒唐無稽さに空想上の人物だと思っておった位じゃ……人間としての人となりは分からぬが、魔法詠唱者としてあの方以上はあり得ぬ、頂点じゃ。僅かな時間でも良いから講義の一つも受けたいものよ……」

 

 きらきらと輝く子供の目をしたマッチョな禿頭の老人から視線をずらし、リウルは全身鎧の巨漢を見る。こちらはベリガミニよりかまだ冷静さを残していたが、

 

「早くこの一件を済ませたいモノだよな……四騎士の一人に不動と称される防御の達人がおられるだろう。盾を二つ持つという異端の流儀のお方だ。盾二つだぞ、二刀流だって現実的な戦闘の合理性と難易度から満足に扱える者は少ない。持つだけなら誰だって出来るが極めるのは至難だ。俺だって一度やってはみたが猿真似の域を出ん。同じ防御を得意とする戦士としてその技術を学びたいものだ……」

「実は楽しんでるじゃねーか」

 

 学習意欲溢れるその姿は立派だけども。嫌な予感がしてリウルはイヨを見た。予感に反し、少年は普通に緊張していた。

 

 

 

 

 皇帝の後を追って帝城の廊下を歩むフールーダ・パラダインの内心には、少なからぬ期待があった。皇帝の護衛として隣を歩むバジウッド・ペシュメルなどは普段とは僅かに拍子の異なる歩調からそれを察知していたし、ジルクニフに至っては尚の事。

 

 希少で貴重で重要な魔法の品。アダマンタイト級が託したいと願う程の品物。そんな逸品に対して、魔法に全てを捧げ生きてきた男の心が沸き立たぬ筈は無いのだ。

 

 一体どのような品物であろうか。話を聞いてからまるで誕生日を心待ちにする子供の様にこの日を待ち侘びていたと表現しても決して言い過ぎではない。

 

 なにせ、その品物の所有者たる新アダマンタイト級冒険者チーム【スパエラ】のメンバー、イヨ・シノンは他に例を見ない特異な経歴──『文献にすら見当たらない様な超高位の転移魔法によって別の大陸から来た人物』だ。

 

 大陸間等と言う一般の転移魔法とは比較するのも馬鹿らしい程の度外れた超長距離を転移する魔法の罠──正直言ってそれだけでも話を聞くに値する興味深い情報である。数百年を生きてこと魔法の知識に関しては他の追随を許さないフールーダだが、それ程の超高位魔法を直接体験した人物との接触は余りに希少である。

 ましてやそんな人物が自分を頼るほどの物品──興味は尽きない。老いた心身が抑えられぬ知的好奇心と渇望で浮足立つようだった。

 

 だが一方で、何処かそんな自分の感情に抑制を掛ける心情も存在していた。期待が大き過ぎると、その分期待外れだった時の失望も大きいという経験則から来るものだ。

 

 数百年という時間は長すぎた。自分以上の魔力系魔法詠唱者には、ここ二百年以上出会っていない。

 

 第六位階魔法という常人の遥か及ばぬ高みに達してから、どれだけの時間が過ぎただろう。より進んだ事で見えてきたより深き深淵に挑み、既にどれだけの時間が経っただろう。

 

 第六位階は前人未到の領域。フールーダに並ぶのはかつての十三英雄くらいだろう。誰もがフールーダを讃え恐れ敬う、大魔法詠唱者、三重魔法詠唱者、第六位階到達者と──しかし第六位階というのは余人の遥か及ばぬ逸脱者の高みではあっても、第十位階まで存在するとされる魔法の下から七番目でしかないのだ。

 第七、第八、第九、第十位階の魔法。研究者の間でも実在を疑問視される信用性の若干乏しい超々高位の魔法、遥かなる深淵──第六位階に至ったフールーダだからこそ、より深き深淵、それらに焦がれる。それらの存在を追い求め、至らんと足掻く。

 

 ──未だ至らず、未だ遥か遠く。暗中模索で道を切り開く浪費を他に回せていれば──自分の弟子たちが自分の作った道を歩んだように、自分にも師が、教え導いてくれる存在がいれば──

 

 遅々とした歩みに焦り、老いを、魔法の深淵を覗く事無く死ぬという未来の事実に恐怖し、早く効率よく位階を駆け上がる後進の弟子たちに嫉妬し、そんな自分を慰め──そんな日々を過ごす年月は長すぎた。

 

 只人の何倍にもなる長き時を生き、もう痛いほど嫌なほど分かっている──そう都合の良い事は起こらない、分かりやすい飛躍など早々望めないと。

 

 勿論フールーダ・パラダインの魔法への渇望はまるで衰えず、むしろ年を経るごとに強くなる一方だ。帝国の首席宮廷魔術師となったのも、時間を割いて弟子を育成するのも根本の部分で言えば、より充実した研究環境を得て、より魔法研究を大規模かつ活発にし、己が進歩の糧とする為──という言い方だって出来る。

 

 此度の一件、イヨ・シノンが自分に見せてくれるだろう『何か』には大いに期待している。そして程度の差こそあれ、それは自分にとって得難い糧、貴重な研究材料であろうと客観的に判断できる。

 

 ただ何処か期待し過ぎる事を避け、冷静でいようとする心の動きもある。要するにそれだけの話だ。

 

 もしさほどの物でも無かったとしても、他にも得る物はある。アダマンタイト級冒険者には希少品の入手などで依頼を出す事もある為、ただ面識を持って伝手を得るだけでもプラスだ。

 イヨ・シノンは残念な事に甚だ未熟ではあるものの、信仰系魔法詠唱者でもあるという。つまりは他の大陸からきた魔術師だ。例え初歩的な物であったとしても、此方の大陸のそれとは異なる魔法理論や魔法体系の一片でも得られれば、それはこの上ない刺激、新たな知識となるだろう。

 第七位階魔法と推測される魔法を扱う可能性のある吸血鬼の眷属や、アイテムを用いたとされるデスナイト召喚の詳細も是非聞いておきたい。既に公都に派遣した高弟から報告は受けているが、当事者による一次情報からは、紙面に文字で記された顛末からとは違った何かが掴めるかも知れないからだ。

 

 【スパエラ】に所属する魔法詠唱者たるベリガミニ・ヴィヴィリオ・リソグラフィア・コディコスも、第四位階到達間近の凄腕だ。第四位階に手を掛ける所まで自身を高めた人物は、帝国魔法省ですら非常に数が少ない。フールーダの直弟子たる選ばれし三十人の中でも中々いないのだ。

 

 そうした人物との魔術談義、魔法討論──十分に心躍る。自身が教育した弟子たちとの会話でも時として自分からは出ない発想、既知のそれとはかけ離れた視点からの新論が出て糧になったりするものだ。

 

 外来の、自分の弟子では無い高位魔法詠唱者との接触は新たな魔術的知見を得るには有用だ。

 

 と、其処まで考えて、フールーダは目指す場所、【スパエラ】の面々がいる応接室まで来ていたことに気付く。なんだかんだ言いつつ、やはり己は高揚していた様だ。何時の頃からか皇帝の背中を負って無意識に歩きつつ、思考に没頭していた。

 

 帝城に存在する幾つもの応接室の内、其処はアダマンタイト級冒険者に相応しい最高位の部屋だ。

 

 入室する皇帝ジルクニフの後に続き、フールーダも部屋に入った。

 

 

 

 

「すまない、少し待たせてしまったようだ」

「いえ、そんな。我々の為に貴重なお時間を割いて頂き、感謝しております。──お初にお目に掛かります、ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクス陛下。お会いできて光栄です」

 

 最上位者であるジルクニフに続いて、【スパエラ】の面々はフールーダやバジウッドにも敬意の籠った礼をして見せた。七人で使うには少しばかり広すぎる応接室だったが、品物を出来るだけ人目に触れさせたくないという【スパエラ】の事情があってこうなったのだ。

 

 如何にアダマンタイト級冒険者とは言え、いざという時を考えれば皇帝の傍にいる者がたった二人と言うのは如何にも問題である。だが大公の保証と、そのたった二名をジルクニフの部下の中で最も強く信頼のおける戦士であるバジウッドと帝国の守護神たる大魔法詠唱者フールーダ・パラダインとする事で実現した。

 

 逸脱者フールーダ・パラダインが傍らに侍るのならば、それは帝国全軍に匹敵する戦力を従えている事とほぼ同義だ。例え英雄の域に至った者を相手にしたとしても、魔法発動に必要な一瞬の時間さえ前衛が稼げば眼前から逃げおおせる事が可能である。『皇帝の身を守る事』を可能とする最小の人員だ。

 

「我が友の国を救った新たなる英雄と会えて私も嬉しい──君たちの話はライザから聞いているが、折角だ。是非とも君たちの口から紹介してくれないかね」

 

 ライザとの呼称に【スパエラ】は一瞬不可解そうな顔をした。無理もない、一度改名している公国の大公の名を、しかも愛称で呼ぶ人物はそうはいない。単純に、一瞬誰だか分からなかったのだろう。

 

 そうした無難に、しかし丁寧に互いは自己紹介。フールーダも長く宮廷で──宮廷文化にはほぼ興味は無かったが──生きてきただけあってこの辺りはまるで問題ない。

 

 見るからに屈強で精強で、一目で強力な戦士である事を他に理解させる外見の戦士、ガルデンバルド・デイル・リヴドラッド。広々とした応接室が彼の存在でやや手狭に感じる程の、並外れた全身鎧の巨漢だ。ヘルムを外したその顔貌は岩を削った様だが、同時に声や目の輝きに知性を感じる。彼がチームのリーダーらしい。

 

 暗色のフード付きローブに捻じ曲がった木の杖、そして全身の各所にマジックアイテム。我こそは魔法詠唱者であると言外に叫んでいるが如き魔法詠唱者然とした姿だが、全身に乗った戦士並みの筋肉がその服装と何処かちぐはぐな禿頭の老人、ベリガミニ・ヴィヴィリオ・リソグラフィア・コディコス。フールーダのタレントを通して見える魔法のオーラも力強く、第四位階到達間近という話だったが、既に到達しているのではないかと思えた。

 

 革と軽金属を巧妙に組み合わせた防具は一見すると衣服の様にも見えるが、良く見るとそこかしこに何か忍ばせている風情だ。無手の様でも、バジウッドなど戦士の目から見ればそれこそ、斥候兼盗賊らしく全身を武装している姿だろう、リウル・シノン。目付きは悪く顔立ちは整いつつも何処か青年的に尖っているが、珍しい黒髪黒目を考慮しても【スパエラ】のメンバーの中では最も一般大衆に溶け込む外見だった。

 

 そして今回の一件における最大の主要人物──イヨ・シノン。

 

 男だと事前に知らされなければまず気付けない程に、相当可憐で可愛らしい容姿である。歳も実年齢よりか、下手をすれば二つか三つは幼く見える。薄く汗を掻いていて見るからに緊張しており、そうした様子も相まって、フールーダの目からはとても高い戦闘力を持つようには見えない。

 

 白金の髪も金の瞳も、細い肢体に柔らかに整った容姿も。着飾っていれば問題なく『容姿に恵まれた育ちの良いご令嬢』で通っただろう。それ故マジックアイテムを身に着けている姿は冗談にも見える。こうした外見をジルクニフが感想した様に魔法で保っているのならば驚異的であろうし、その魔法的技術にも興味は湧いたのだが、生来の生身ではしょうがない。

 

 異なる姿と能力に変形する性能を持つとされる鎧も、今はただの金属の意匠──実際は要所を守る装甲らしいが──で飾られた上等な衣服の様だ。フールーダとしてはこの防具がどの様に魔化されたのかにも興味があった。

 

 さてさてこの人物は自分にどんなアイテムを見せてくれるのか──

 

 ジルクニフと【スパエラ】の面々が本題の前に社交辞令を交わす間、フールーダは皇帝の臣下として言葉少なに彼らを眺めていた。その興味は彼ら自身にも僅かに向いているが、圧倒的大部分はやはり見せてくれるのだろう魔法の品に集中している。

 

 「そうか、すると君たちは──これはすまない。どうやらフールーダが待ちきれない様だ。せっつく様で悪いが、時間も限られている。例の品物を見せてくれないかな?」

 

 そんな内心が、抑えているつもりでも表に漏れ出ていたのだろう。ジルクニフが先を促すと、皇帝とその側近に完全懐柔されてニコニコ笑顔でジュースを味わっていたイヨ・シノンがびくついた。外見年齢相応かつ実年齢不相応なその仕草に、横に座った妻たる女性が肘で腹を突く。

 

「こ、これはすいませんでした。ご多忙の折に無理をして時間を作って頂きましたのに──」

 

 アダマンタイト級冒険者に対するジルクニフの友好的な態度にすっかり緊張感を取り払われていた少年は、再び『すごく偉い人』を相手にしている事に気付いて身を固くするが、其処は矢張り、ジルクニフは元よりフールーダもバジウッドも人の上に立つ者だ。

 

 アダマンタイト級冒険者は身分や地位の上下に囚われない例外的存在だが、あえて半ば以上子供に対する様な鷹揚さを見せて、先を促した。

 

「お気遣い痛み入ります──えーとそれでその、本題のアイテムなのですが、エル・ニクス皇帝陛下とパラダイン様は大公殿下からどの様に」

「シノン殿が冒険の末に手にした物で、死蔵するには貴重で有用、悪意ある者の手に渡れば危険。同質かつ低価値の物は市井にも存在するがその希少価値は伝説級──貴方方が殿下に仰られた事をそのまま伝え聞いておりますぞ」

 

 意図せずして食い気味に反応してしまったフールーダに、ジルクニフがちらりと目を向けた。その視線は明らかに、自らの恩師にして親の様にすら思っている臣下を宥めている。『気持ちはわかるが少し落ち着け』、と。

 

 その視線によって、フールーダも少し冷める。フールーダは魔法以外の事を煩わしいと感じそれらに殆ど関心を持たないが、流石に自分の振る舞いが帝国の威信を傷つけるのは望む所ではない。

 なにより、目の前の【スパエラ】の面々は『アイテムを扱い得る力量と良識を持つ者に託す』目的で動いている。此処まで来て『振る舞いがおかしいから渡したくない』等と言い出されては生殺しも良い所だ。

 なので、殊更丁寧に謝罪しておき、再度イヨ・シノンに水を向ける。少年は緊張のぶり返しを堪えながら言い辛そうに話し出した。

 

「あ、あの、えーと……説明する前に、まずは現物をご覧いただきます。私のものではありますが、これらはもう私の手には到底収まり切らない物なので──」

 

 言って、イヨ・シノンが懐に手を入れて一つ、二つ、三つ、四つと件のアイテムを取り出していく。さして大きくも無いそれらは、魔法詠唱者でなくとも冒険者や高位の騎士ならば見慣れたものだ──フールーダに至っては何百年も慣れ親しんだなんら特別感の無い物。

 ──魔法の巻物と短杖二つだ。それと、外見からは内容の察しが付かぬ題名も何もない古びた本。

 

「──第五、第六、第七、第八位階の魔法が込められたものです。これを、陛下とパラダイン様に託したく」

 

 告げられた内容に、フールーダの呼吸が止まった。

 



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フールーダ・パラダインと【スパエラ】

「第七、第八位階だと……」

「はい。これらを託したいのです。強大で豊かな帝国を治められ、史上最高の賢帝と称えられるエル・ニクス陛下に。史上並ぶ者無き大魔法詠唱者、大英雄、帝国の守護者たるパラダイン様に──国を治めるという事は、綺麗事だけで済むほど容易い事ではないと頭では理解しています──」

 

 実在するのか。正直に言えばジルクニフの第一の感想はそれだった。

 

 フールーダから幼少より教育を受けただけあって、ジルクニフの魔法に関する知識は深い。しかし受けた教育はあくまで支配者のそれ、帝国の頂点に立ち国を差配する者の知識や心構えを学んだのだ。

 実際に魔法詠唱者では無く、当然自分が表に立って戦う事も魔法を使う事も論外な身分の人間として、教養や魔法詠唱者たちを運用する側の視点で高度な魔法教育も受けた、という話だ。

 

 フールーダの操る第六位階魔法は英雄の域すら超えた領域、現実的には並ぶもの無き高みだ。実際、二世紀以上の年月を魔法だけに捧げたフールーダ以外に、表立って第六位階、もしくはそれ以上の領域への到達を証明して見せた人間は存在しない。

 

 もし存在したならフールーダは今頃帝国の首席宮廷魔法使いでは無く、その人物──例え人以外の種族だったとしても──の弟子であっただろう。二百年以上も己の上に立つ存在がいない事を悲嘆する日々を過ごした訳は無い。

 

 第七位階以上の魔法とはそれ程にあり得ないもの──もっと率直に言えば噂だけの存在。現実には存在しないと言い切る者ですら珍しくないお伽噺の英雄譚に登場するものだ。それに、英雄譚の英雄たちですら実際に七位階以上の魔法を行使したかについては謎が多い。

 

 

「──しかしそれでも、お願いいたしたく。これらをどうか、世の為人の為に役立てて頂きたいのです。……これらが使い方次第でどういう結果を及ぼすか──私ですら分かる事です。それは避けたい、そんな事は起きて欲しく無いのです」

「──うむ。シノン殿の言う事も最もだ」

 

 ──何が出るかと思っていたが、まさかこんな物が飛び出すとは。

 

 当たり障りのない返答をし平静を装いながらも、ジルクニフは重厚な机の上に並んだ四つの品物に視線を走らせた。

 本物だろうかという少しの疑い、こうまで手間を掛けて調べればすぐ分かる偽物を出す筈がないという判断、中身の魔法がなんであれこれが帝国の物になればどれだけの可能性が生まれるかという打算が脳裏を高速で走り始めた。

 

 一定の知識を持つだけで実際には魔法を使う事のないジルクニフですらこうなのだ。その道に全てを捧げた魔法詠唱者がこれを目にしたらそれこそ発狂寸前の驚愕を味わう事になるだろう──そう、例えば隣にいる、正に魔法だけに全てを捧げて数百年のフールーダの様に。

 

 ──フールーダ。

 

 ぞわっと、特大の悪寒が皇帝の背筋を走った。

 

 そうだ。自分ですらこうなのだ。あのフールーダが、熱狂的な数百年物の渇望を内に秘めた大魔法詠唱者が、こんな代物を前にして平静を保てる訳がない。

 

 横を向くというただそれだけの動作が、加速した主観時間の中でひどくゆっくりに感じる。

 

 ──分かっているのか、フールーダ。

 

 目の前の歴史的な逸品たちは、イヨ・シノンがこの大陸に来る以前の冒険で手に入れた物。つまり彼の個人的な所有物だ。

 そして、外見通りに子供じみた考え方を持つこの少年の思惑は『手に負えない、しかし死蔵にするには価値のあり過ぎるアイテムを扱い得る力量と良識を持つ者に託す事』である。

 

 第三位階に到達した魔法詠唱者ならば、直線貫通の魔法である〈ライトニング/電撃〉や範囲魔法である〈ファイヤーボール/火球〉で一度に数人から十数人を殺傷するのは容易な事だ。

 第五位階に達した信仰系魔法魔法詠唱者なら死者の蘇生を可能とする。

 第六位階に達したフールーダの戦力評価は帝国全軍にすら匹敵する。

 

 中に込められている魔法が実際にどのような物であれ、第七、第八位階の魔法ならば、その価値や威力において第六位階魔法を上回る代物であるのは確定的であろう。つまり、使い方次第で多数を生かすも殺すも自由自在と言って良い様な、お伽噺の大偉業を現実にする様な代物だ。

 

 アダマンタイト級冒険者に至る様な英雄的な戦闘力を持ちながら、同時に小市民的な、善良な一般人の感性も持ち合わせるイヨ・シノンからすれば、そんな代物を安易に世に出したくない、下手な人物には渡せないと考えるのも当然である。

 

 幼き頃よりフールーダの最も近くにいたと言っても過言では無いジルクニフにとって、フールーダの魔法に対する執着は承知の事だ。尊敬する恩師であり、肉親の様にすら思っている人物だが、魔法が関わると途端に少し駄目な人間になる事もある。

 

 ──此処でそんな面を出すな、爺。

 

 感情的に言えば理解は出来る。数百年を費やして未だに辿り着けぬ魔法の深淵、それそのものが目の前にぽんと現れたのだ。積み上げた努力と焦がれ続けた情熱は積年等と言う通り一遍の表現では到底語り尽くせない。

 常人の人生数回分に渡って求め続けた答えそのものが目の前にあるという状況──多少狂気的で常軌を逸した行動をしようとも、それが人前でないならばジルクニフはその姿を強くは咎めず、むしろ長年の想いが報われた事を祝福する気持ちすら抱いたかもしれない。

 

 ──だが、そんなものは他人には関係の無い事だ。

 

 そう、それはあくまでフールーダの人となりを理解する身内であるジルクニフの見方である。『良識と力量を両立する人間に託したい』イヨ・シノンからすれば、『我を忘れて発狂したかのような行動』などそのまま『我を忘れて発狂している姿』でしかない。

 

 世間一般に語られるフールーダの姿がどれだけ英雄的で賢者的で、イヨ・シノンがそれを見込んでこうしてフールーダの下を訪れていようとも、百聞は一見に如かずを地で行かれれば又聞きの印象など簡単に覆るだろう。

 

 何処の誰が、狂人の如く喚き立てる人物に『大勢を生かすも殺すも自由自在の力を持つ歴史的な物品』を託したい? 

 

 託したくないに決まっている。狂気の勢いで暴発されたら堪らないからだ。

 

 目の前のアイテム類は帝国としても見逃せない。是が非でも己が手の内に収めたい。この機会を逃せばこんな希少品を手に入れる機会は、それも労せず相手の方から近寄ってくるような事は二度とないだろう。

 

 これを逃してしかも他所に持っていかれたのでは二重の損だ。逃した魚は大きい所の話では無いし、ある意味自業自得とは言え、目の前にブラ下げておいて『やっぱり嫌です渡しません』ではフールーダが素直に納得する筈も無い。

 感情の爆発によって実力行使に訴える可能性すらない訳では無かった。アダマンタイト級冒険者と帝国首席宮廷魔法使いが殺し合うなど語るも愚かしい大問題である──人類有数の頭脳を持つが故に、数瞬の間にそれだけの思考を働かせたジルクニフは、出来るだけ強く、しかし冷静な言葉で傍らの大魔法詠唱者の名を呼んだ。

 

 落ち着け、とそれだけが伝わる様に。加速した主観時間の中で横を向くという動作が遂に完了し、

「フールー」

 

 フールーダの姿は隣には無かった。

 

 

 

 

 誰もいない右隣という目の前の光景を脳が処理し『──は?』という感想を抱くに至るまでジルクニフの明瞭な頭脳は僅かな時間も要しなかったが、その僅かの間に正面からイヨ・シノンの驚愕する声が響いた。

 

「おっわぁ!?」

「失礼いたします──疑う訳ではありませぬが、魔法による鑑定を行ってもよろしいでしょうか?」

「ど──どう、ぞ?」

 

 再度正面に向き直ったジルクニフが目にしたのは、何故か机を挟んでイヨ・シノン側に姿を現して立ち、少年の顔を覗き込む様に腰を曲げている大魔法詠唱者フールーダ・パラダインの姿だった。鍛えられた冒険者だけあって【スパエラ】の四人は腰を浮かせて防御姿勢を取り掛けていたが、フールーダが何事も無かったかのように言葉を紡ぐと、隠し切れない奇異の目を向けながら座り直す。

 

 イヨ・シノンが最後に取り出し、未だ彼の手中に存在していた古びた本を直接手渡され、さらに既に机上に並べられた品々も拾い上げて、フールーダは申告した通りに魔法を掛けて鑑定を行っている。

 

 『この短距離で手を伸ばす時間すら惜しんで転移魔法を使用しやがったなこの野郎』と皇帝らしからぬ想いを抱く間に鑑定は完了していた。

 

 皺だらけの顔面が、長大な白鬚で覆われた口元が、名状しがたい複雑な感情によってぐんにょりと形を変え、

 

「おお……おおぉおぉ……!」

 

 地の底から響くような、万感と言うのも生易しい物質的な質感すら感じられそうな低い声がフールーダの口腔から漏れるに当たって、ジルクニフは己の努力の全てが水泡に帰す事を確信した──が。

 

「これは、確かに仰られる通り、第五から第八位階──常識を超えた高位魔法の数々が込められている……仔細は分からずとも間違いは無い。シノン殿──このような代物を本当に、帝国に?」

 

 聖人の如き清らかな面相に人並みの驚愕を張り付けて、フールーダが誠に正常に、この上なく理知的な態度で礼儀正しくイヨ・シノンに問うていた。

 

「は、はい。それでその、お二方の人となりを疑る訳では御座いませんが、あの──人の道に外れる様な……」

「おお、シノン殿。それは言うまでも無い事。これ程の大きな力、正しく使えばどれだけの民草を救えるか──使い方を誤れば、どれほどの厄災となり、人々を不幸にするか……」

 

 狂乱や錯乱、異常行動の臭いなど僅かにも感知し得ないその姿は正に誇り高く同時に慎ましく、思慮深く慈悲溢れる賢者然としていて。

 

 魔法の深淵を前にしたフールーダ・パラダインにあり得る筈も無いその姿を目にした瞬間、私人としてのフールーダを知っているジルクニフとバジウッドは揃って『誰だコイツ』と思った。

 

 

 

 

 もしも目の前に現れたのが『深淵の魔法が込められた品々』では無く『深淵の域に至った魔法詠唱者』であったならば、フールーダはどうあっても表面を取り繕う等と言う理性的な行動は取れなかったであろう。

 

 それは誰よりもフールーダ自身が認める所だ。老いた身体に内包した魔法に対する執念と執着は、理性や常識等と言った貧弱な枷と手綱で御せる範囲を遥か彼方通り越している。

 

 自分を上回る魔法詠唱者が、自分を指導し更なる深淵に導いてくれるかもしれない存在が目の前に現れたのならば、フールーダはどんな状況であろうとも構わず平伏し、懇願し、靴を舐めてでもそのお方の弟子になろうとしたに違いない。

 

 そのお方がなにか条件を付けたのなら思慮を挟む事無く全てを受け入れ、肯定しただろう。

 魂を捧げろと言われれば捧げ、帝国を売れと言われれば瞬時に売り渡したに違いない。

 あらゆる全てを投げうってどうかお慈悲を、深淵の知識をと、許しを得られるまで百度でも二百度も頭を床に打ち付けただろう。

 

 大魔法詠唱者という名高き勇名も、帝国の守護神という名声も、深淵の魔法とは比べるに値しない取るに足らぬ些末な物であり、そんな程度の外面をかなぐり捨てるのは容易に過ぎる。

 

 だが、今目の前にあるのは『第五から第八位階の魔法が込められた品々』であり、『それらを冒険の末発見し所有する人物』である。

 

 ──どれほど懇願したとてフールーダを深淵に誘ってなどくれない。『自らの手に収まらないからとフールーダを頼ってきた』この少年には、魔法に関する知識も力も無いのだから。

 

 ならばどうするのが最善か。

 フールーダに漲る魔法に関する欲求は目の前の深淵の魔法を己がものとする為に──そしてそれらを己の下に運び込んできてくれたこの少年と【スパエラ】から、徹底的にそれらに関する知識を搾り取る為に、自らが有する全知全能を動員していた。

 

 ──自分であったらこんなモノは絶対に他人には渡さない。

 ──出して見せたこれが全てなのか?

 ──悪しき者の手に渡る事を懸念するのならば、渡した相手が悪しき存在だった時の為に、対抗する力を己が手の内に残さんとする打算もあると想定しても不思議は無い。

 ──こんな超級の遺物を手に入れるほどの冒険を繰り返してきたのだ、二つを合わせて考えればまだ何か持っている可能性は十分ある。

 ──このアイテムを入手するに至った冒険とは? どこでどうやってこれらを手に入れた? 当時の状況や、もし遺跡ならばその年代は? 様式は?

 ──過去の遺跡や遺産ならば自分だって手を尽くして予算や時間の許す限り探した。でも見つからなかった。単に運か? それともこの大陸とイヨ・シノンの出身大陸では魔法技術の発展に差があった?

 ──話が聞きたい、根掘り葉掘り全て。

 ──この者の持つ鎧は三形態に変形するという非常に希少な能力を有すると共に、硬度において最硬の金属であるアダマンタイトを上回るという情報もあった。深淵の魔法との関りは?

 ──他の大陸の魔法知識もやはり欲しい。

 ──人に渡す間に自分自身でも、そして仲間内でも調べる事はした筈。その上で手に負えないという判断を下したからこうして他者に頼みに来た。既に判明した情報があるならばそれだって欲しい──

 

 無数の欲望が火花の様に瞬いて、一つ一つの可能性が他の可能性と絡み合い、フールーダの脳内を埋め尽くす。

 

 ──この縁は切ってはならない。

 

 目の前のアイテム群が内包するのは途方もない価値を有する深淵の魔法そのもの。今までの欠片の様な僅かな情報を下に試行錯誤するより、暗闇の中を手探りで進むより、ずっとずっと比べ物にもならない躍進を約束してくれる。

 

 そのものだ。深淵そのものが目の前にあるのだ。マジックアイテムの形をとって、其処に込められているのだ。

 

 現物がある以上調べ上げれば幾らでもその要素を知る事が出来るのだ。

 

 どんな小さな点も見逃さず徹頭徹尾徹底的に調べ上げ、情報を術式を方式を理を成り立ちを素材を手順を解明し──そして吸い上げられるだけ吸い上げてから、実際に使用してみて魔法そのものを観測し記録し記憶し、今まで積み上げてきた研鑽の成果と照合し類推し比較し相違点を洗い出し、そのデータを徹底的にまた分析する。糧にし尽くす。

 

 ──人を殺すだとか殺さないだとか、不幸にするとかしないとか、人の道がどうしたこうしたと。そんな些末な事の為にこのアイテムを無駄遣いするなど、そんな愚行は己の目が黒い内は誰にもさせない。

 

 ──誰にも渡さない。渡してなるものか。

 

 例えどれだけ困難であろうとも、どれだけ難易度が高く時間が掛かっても、最早焦る事は無く絶望を感じる事も無い。焦がれ続け探し続けた到達点が見えていて、そして其処に向かって真っ直ぐに走って行けるのならば。

 

 内面の感情の波とは全く切り離した所で、フールーダの口が身体が別人のそれの様に動作し、イヨ・シノンやベリガミニ・ヴィヴィリオ・リソグラフィア・コディコスと会話している。比肩するもの無き英知と民草を慮る慈悲と、そして他者の命や尊厳に敬意を抱く賢人そのものの態度で。

 

 その内容は彼らの賢明さと誠実さ、偉大さを讃え、そして自分をこの様な貴重な品を預けに足る相手と見なしてくれた事に感謝し──そして、私などで良いのだろうかと謙遜する様な態度も取る。

 

 そうした迫真の演技をする事によって好感度を向上させ、より親身で好意的な感情を育て上げる。更なる情報を──実物を調べるだけでは得られない種類の情報を、自分ではない他人の視点での解釈を──得る為に。

 

 今にも狂った様な笑いが口を割って迸りそうだ。目の前のイヨ・シノンと【スパエラ】という存在が実態以上に美しく大きく荘厳に見え、まるで天使か何かの様に神聖な光を放っているように感じた。天使と称してもなんら可笑しくないだろう、この者たちは正に、フールーダの下へ魔法を司る小神からの贈り物を届けてくれたのだから。

 

 自分を見込み、自分を信じて、このフールーダ・パラダインならばと考えて目の前に深淵を曝け出してくれたのだから。もしイヨ・シノンが転移の罠に嵌まる事無く此方の大陸に来なかったら、そうでなくとも何かの間違いや手違いで他の誰かの下に持ち込まれ、自分がこれらの存在を知る事が無かったらと思うと気が狂いそうになる。

 

 もしそうなっていたら、自分はこの確かに存在する深淵を見る事も無く、また虫の這う様な遅々とした速度で進歩を続け、そして何時か伸ばした寿命も尽きて死んだに違いないのだ。

 だが。

 ほんの数分前ならばフールーダの心に暗い影を落とし、弟子たちに対する嫉妬の炎を燃え上がらせたに違いないそうした悲観は、もう笑い飛ばせてしまえるほど遠いものになっていた。

 

 ──この縁を切ってはならない。利用する、全てを。吐き出させる、全部を。絞り尽くす、一切を。

 

 ──その為に、まずは。

 

 フールーダは笑顔を作った。作られた物とは到底思えない、人に安心感を抱かせる大英雄の笑顔だった。

 

「貴方方がこの私に託してくれた可能性を、神域の魔法を埋もれさせはしませんぞ。魔法の更なる発展は必ずや帝国の、いや人間種族の全体の大いなる財産となりましょう。どれ程の時間が掛かろうとも、この域に追い付き、そして民草の為に役立ててみせましょうとも」

「ぱ、パラダイン様……!」

 

 人間離れした執着とタガの外れた欲望が、フールーダの弁舌能力を異常な領域に引き上げていた。そういった系統の職業を一切有していない為、相手の意識や心に直接働きかける様な特殊能力の類は無いが、その言動は真なるものとして、大英雄の言葉として相手に届く。

 こと魔法に関して狂人と言っても過言では無い執着の持ち主が、その執着故に、人の身に余る莫大な欲望を完全に制御し切っているのだ。

 

 研究者であったフールーダの、これは一世一代の芝居であり大演説であっただろう。確実にこの場を回しているのはフールーダであり、主人である筈の皇帝ジルクニフを脇に追いやる程の圧倒的な活躍振りであった。

 

「私からも言わせてくれ。確かにシノン殿の言う通り、国を差配する、守るという事は綺麗事だけでは回らない。私自身綺麗な手はしていない。……しかし、それでも踏み外してはならない一線というものは存在する。私やフールーダの目が黒い内は、バハルス帝国がその一線を犯す事は無いと誓おう」

 

 ジルクニフとて武力での粛清を行った人間であるし、無能や外道を闇に葬り、処刑台に送った事も数えきれない。しかしそれらはバハルス帝国を今の形にするのに間違いなく必要な行為で、私腹を肥やす意図や血に酔った様な理由は無かったと断言できる。

 故に、この言はある程度真実だし事実で、今の所嘘にする気はない誓いであった。まあ、今までのジルクニフを調べ許容したから【スパエラ】もこうしてアイテムを持ってきたのだろうし、今後特に方針を転換する気はなどは無いが。

 

 大魔法詠唱者を皇帝が側面から補佐するという普段とは逆転した役割を熟しながら、ジルクニフは神々しいまでに輝く微笑みを浮かべた老人に対し、未だに心の中で『誰だ、こいつ』と呟き続けていた。この方が都合が良いのは確かだがどうにも気味が悪いぞ、と。

 

 他にはどんな物を持っているのだろうか、その頭の中に自分の知らないどんな知識があるのだろうかと、フールーダの目がイヨ・シノンの肢体の上を舐め尽くす様に見た。少年はジルクニフの言葉に耳を傾けていて、視線を感じフールーダの目を見返す頃には、大魔法詠唱者の瞳から、地獄の業火が如く燃え猛る欲望の焔は完璧に隠されていた。

 

 ──例え内面に狂気的な、道理も愛も責務も顧みない執着を秘めていようと、フールーダ・パラダインは逸脱者の域にある者、人類史上に燦然と輝く無上の傑物。人類の頂の、その更に先に位置する存在である。

 

 人生の経験値という一点を比べてさえ、種族の限界を超えて長き時を生きたフールーダに比類する者は人間種族にはいないであろう。世の中で古老長老とされる者たちでさえ、フールーダの半分も生きていないのだ。

 

 ガルデンバルドが当然の用心として、リウルは己の役割として、ベリガミニが同じ魔法詠唱者として。国家の重鎮たる者にしては人間的に綺麗過ぎるフールーダの振る舞いに裏で疑惑の目を向けたが、それらは疑いの域を出ず、確信には至らなかった。

 

 フールーダの振る舞いは演技で、言ってしまえば偽りだが、その心根には一点の曇りもない。白でも黒でも悪でも善でも無く、そうした二元に別れる以前の一つの願望──魔法への渇望だけが、フールーダ・パラダインの全てだった。

 

 

 

 

「言うまでも無いだろうが、他言無用だ」

「当然、分かってますよ。陛下」

 

 専門外故、護衛として黙して侍るに専念していた雷光の名を冠する騎士は即答した。純粋な前衛であり、魔法に関しては仲間との連携や敵の魔法への対処のための知識しか持たないが、それでも外に漏らせばどうなるかは容易く想像できる。

 

 同僚として多くの魔法詠唱者が傍にいるから知っているのだが、ああいった人種は思い入れが極端の域に達している者も少なくない。代表格は今直ぐ近くでなんだか不気味に清らかな雰囲気を纏っている大魔法詠唱者だ。

 貴重な魔導書を巡ってさえ、持ち主を殺してでも奪って自分のものにしたいと考える魔法詠唱者は存在する。

 

 第五から第八位階の魔法が込められたアイテムなど、本来善良で良識的な人物をさえ狂気の行動に走らせてもおかしくない代物だ。それに、切り札は隠しておくべきだ。バジウッドはそう思う。

 

 例え味方であっても、このアイテムを知る者はごく限られた信用できる少人数に留めておくべきだろう。魔法省地下のデスナイトはフールーダの弟子であれば数十人がその存在を知るが、それより遥かに厳重な取り扱いが必要だ。

 

 フールーダとジルクニフはそう断じた。【スパエラ】の側も大いに賛成、というかそうした扱いをしないのなら渡せないレベルだ。

 

「短杖や巻物は既存のそれと同じです。私如きが皆様に説明するまでも無いと思いますので割愛しますが──」

 

 語り手をイヨから専門家のベリガミニに交代し、託すモノの説明を続ける。

 

「中身の魔法も既に判明しています。手に入れた時のイヨの証言、それと私が出来得る限りは調べ、確認しました。……正直に申しまして、その時はもう少しで気絶する所でしたが」

 

 ぶっちゃけこれらはイヨが友達から貰った物、店で買った物、魔法詠唱者としてのレベルを上げていた時期に自分で作ってみた物である。なので中身の魔法は知っていたのだが、うろ覚えだったので改めて確認してもらったのだ。

 そして、そんな事が素直に言える筈も無いので全て『遺跡で手に入れた』と言ってある。イヨをこの大陸まで飛ばした転移魔法の罠が存在した遺跡で一緒に手に入れた設定だ。

 

 ベリガミニの口から一つ一つ告げられる魔法の名に、フールーダは絶頂寸前の興奮を味わいながら、外面的には『なんとも興味深いですな』くらいの表情に抑える。本音で言えば絶叫しながら頬ずりして快哉を叫びたい位だったが、此処は我慢である。

 

 ジルクニフはその魔法の効果を一つ一つ説明されるにつけ興味、驚愕、喜びを表情に浮かべ、最後には少し疲れた様な心境になっていた。これらのアイテムが帝国の物になるとすればその利益は計り知れないが、アイテム一つにつき少なくとも一月はフールーダを熱中させ、他の事への関心を大きく引き下げるだろう。しばらく使い物にならないな、と心の中で勘定する。

 

 そして、この場で話し合うべき問題はもう一つある────これだけの益を齎してくれた者たちにどう報いるか、という話だ。

 

「まずは感謝を。先程フールーダも言ったが、これらは帝国の、そしてゆくゆくは人間という種族の大きな力になるだろう──短期的に見ても、王国に比べて我が国が劣っていた数少ない点の一つをこのアイテムは消し去ってくれた」

 

 ジルクニフは二つの短杖の内一つを見る。三十センチメートルほどの長さで象牙製、先端部分には黄金の輝き、握り手にはなにやら見慣れない文字が彫ってある。神聖な雰囲気を放ったアイテムだ。

 

 ジルクニフは未だに慣れない綺麗なフールーダに短く問うた。

 

「フールーダ。これらのアイテム、その価値をどう見る」

「非常に、非常に高い。そう言うほかありませんな」

 

 フールーダも端的に即答した。

 

「金銭で贖えるかすら微妙な代物です。私でしたらこれらの内一つ──特に高位の二つを手に入れる為に、魔法省の予算一年分を費やしても一切後悔はありません」

 

 帝国魔法省は今日の帝国の隆盛に多大な貢献をした機関だ。魔法大国であり、魔法詠唱者を軍に多数組み込み、上位の騎士は魔法の武具を纏い、そして帝都の夜を魔法の灯りが照らしている。長年の魔法省の貢献と研鑽の賜物である。

 

 フールーダが手塩に掛けて育て上げた有能な人材が犇めいている。その予算一年分と言えば金貨数千枚等と言う些末な金額では収まらない、正に国家予算的な額面になる。如何にバハルス帝国が近年成長著しい富国であろうとも、完全に予定外の、しかもそんな大金もしくはそれに相当する何かをポンと出す事は難しい──が。

 

「あのう、対価でしたら、私たちの方から願いたいモノがありまして」

 

 話し手を譲り渡して以降緊張感から解き放たれた様子で安堵していたイヨ・シノンが、おずおずと切り出す。

 

「君たちほどの英雄が何を望むのか、是非聞かせて欲しい。無論の事、出来る限りは叶えよう」

 

 相手の方から直接『これをください』と言ってくるなら、その実行可否の問題となる。ジルクニフは脳内で展開しつつあった財務計算を一旦ストップし、交渉の姿勢に入った。

 

 

 

 

 イヨはちゃんと学習していた。

 国の頂点たる偉い人たちにとって、イヨの『頼みごとをしに来た立場なのでお代とかはいりません』という対応は論外なのだと。これだけの価値の物品が行き来する話を『無償の善意』で済まされるのは、お話としては綺麗かもしれないが現実的に問題があり、皇帝陛下の側としても困るのだと。

 金銭で測れない無形の恩、貸し借りは時として金銭的負担より重く扱い辛い。

 

 ちゃんと対価を貰った方が、ちゃんと対価を払った方が、お互いにとって収まりが良くそして問題が起きにくく、感情的にもすっきりする──事前にリウル、ベリガミニ、ガルデンバルド、そして大公と公女両殿下からきちんと教えられたので、ちゃんと考えてきたのだ。

 

 ちょうど欲しい物、手伝って欲しい事もあった。現在のイヨが【スパエラ】が欲してやまない物、それは──

 

「先の一件で我々は大公殿下に、報酬として並ぶもの無き武具を頂きたいと申し出ました。我々の武具の調達もしくは作成に、皇帝陛下とパラダイン様も協力して頂きたい。それがまず一つです」

 

 そして、

 

「我々の実力向上のための鍛錬にもご協力頂きたく」

「それが報酬か? 私の側から言わせてもらえば、これらのアイテムの対価としては随分控えめに思えるが」

「無礼な口利きをお許しください、皇帝陛下。陛下のお言葉は政治家としての価値観から出るものかと」

 

 イヨはより強くなりたい。強くなって、みんなを助けたい。自分が死にたくない。敵を打ち払いたい。取り逃がした仇敵を葬り去りたい。

 その為にはこれまで以上に強い装備が、そしてより苛烈な鍛錬が必要だ。これは【スパエラ】の三者にしても共通する思いだ。アダマンタイト級冒険者としてこれまで以上の活躍をするのには実力が不足している。

 

 吸血鬼とデスナイトとの戦いでその事が骨身に染みた。いずれ訪れる決着の時に、そして人間を襲う災難を打破し続け、英雄たるを証明して見せる為に、もっともっと力がいる。

 

 ユグドラシルのアバターであるイヨの身体は経験値を積む事でしかレベルを上げられないし、中身の篠田伊代は運動が得意なだけの子供である。

 

「我々冒険者にとって、強さ以上の価値を持つ物はありません。それを得る為には、陛下とパラダイン様のご協力が必要です。どうかお願いいたします」

 

 ジルクニフとフールーダにとってそれは、アダマンタイト級冒険者らしい落ち着きと迫力を醸し出していた他の三人と違い、『人並みに緊張する子供』の姿しか見せていなかったイヨ・シノンが、初めて威風や圧力と言える物──非凡さを見せた瞬間であった。

 

 すなわち、更なる力を求める武芸者のそれを。武具を、艱難辛苦を、試練をと願う姿を。

 

 血と汗を流す事でしか、イヨは強くなれないのだ。

 




とっても綺麗で清らかなフールーダ・パラダインさんでお送りしました。

次回、『帝国四騎士と【スパエラ】』


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帝国騎士たちとイヨ・シノン

「……なんか僕、すごく嫌われてない?」

「というより、恨まれているな」

「憎まれておるのう」

「……なにかしたんじゃねーの、お前。以前会った時失礼な態度取ったとか」

「こっちに来てから公国の外に出たのは初めてだよ。以前も何も無いよ」

 

 以前のイヨは別の大陸にいた──というのは建前で、実際の所この世界に存在すらしなかった訳で、過去の因縁などあろう筈も無い。

 

「だよなー……?」

「ではあの視線はなんなのじゃ、幾ら今から試合をするとはいえ、どう控えめに解釈した所で初対面の者に向ける目付きでは無いぞ」

「……親の仇か何かにイヨが瓜二つとかじゃないのか?」

 

 無いのであるが──帝国四騎士の一人、【重爆】レイナース・ロックブルズはイヨ・シノンという存在を認識した瞬間から、露わにした左の眼から射殺さんばかりの視線で告げてくるのだ、『貴様が嫌いだ』と。

 

 鉄壁の無表情に浮かぶ暗澹とした目付きはかなりの威圧感があり、レイナース・ロックブルズの隣に並んだ【雷光】バジウッド・ペシュメルと【激風】ニンブル・アーク・デイル・アノックの両名も、何だかんだ普段の仕事はそつなくこなしていた同僚が醸し出す謎の圧力に気圧されている様であった。

 

 勿論イヨ当人は元より、【スパエラ】の誰もその悪感情の意味は分からず、分からない以上何らかの行動を起こす事も出来ず、こうして仲間内でひそひそ相談し合っているのだった。

 

「陛下にちゃんと話は通ってるんだよね……?」

「当たり前だろ、ついさっきの事だ。しっかり話は通した。みんなこの耳で聞いたぞ」

「じゃああれってやっぱり僕に対する個人的な怨恨って事に……?」

「儂らを葬る気──な訳は無いし、やはりイヨの何かがレイナース殿にとって決定的に受け入れられないのではないじゃろうか」

「大丈夫なのか? こちらは勿論あちらだって、事故があればタダでは済まないぞ」

 

 アダマンタイト級冒険者と帝国最上の騎士なのだから。

 

「いやでもこんな機会は滅多にないし──城内の練習場まで時間貸ししてくれたのに」

「何はともあれ、こうしてばかりもいられんじゃろう……ほれ、イヨ、話しかけてみぃ」

「殺されそうになったらどうするのさぁ……」

 

 言いつつ、イヨはそろりそろりとお三方に近寄っていく。何処か腰が引けていて、警戒心が露わになっていた。

 

 この辺りでは特に珍しい事ではないが、濃淡の違いはあれど三人とも金髪である。なんなら白金の髪色を持つイヨも含めて四人金髪だ。

 

 鍛え抜かれた身体の偉丈夫、同じく鍛え抜かれた美丈夫、鍛え抜かれた美人。全身を覆う黒いアダマンタイト製の鎧。ただ立っている姿でさえ見て取れる高い実力。纏う威気。

 

 バハルス帝国の武力を代表する四騎士の内三人──多忙を極める方々だが、皇帝ジルクニフより受け渡される対価として、イヨに稽古を付けてくれる事になっている。

 

 因みにガルデンバルドは残る一人の四騎士たる【不動】のナザミ・エネックと、ベリガミニはフールーダ・パラダインの高弟たちと、それぞれ時間を取って修練に付き合って頂く栄誉に預かる事となった。

 

 リウルはイヨの監視兼首輪である。心配そうにこちらを窺いながら立ち去っていく年長者二人の気配を感じながら──各関係者のスケジュールの都合上、今日は二人は別行動なのだ──イヨは挨拶を口にした。

 

「ペシュメル殿とは先程振りですが、お二方とも初めまして、イヨ・シノンと申しま」

「女装が趣味だそうで」

 

 じわぁ、と。イヨ・シノンは自身の全身が一気に冷や汗を掻くのを感じた。同時に実感する。なんでか分からないけどやっぱり僕嫌われてる、と。

 

「え、あ、その、趣味と言う訳では……」

 

 会話の初球をピッチャー返ししたのは四騎士の紅一点、奈落の如き瞳をしたレイナース・ロックブルズであった。

 

 

 

 

 健康的な肌艶。潤った桃色の唇。雪色の歯。こじんまりとした鼻。大きく和やかな雰囲気の目。そうした部品の集合体である顔は幼少期に特有の可憐さを未だ保ち、同時に快活で陽性、親しみやすい印象を見る人に抱かせる。

 この場の誰と比べても頭一つ以上小さな身体は十六歳という年齢を考慮すればかなり短躯だが、それでいて均整はとれている。小さいなりに胴は短く手足は長い。上に乗せた顔に負けず劣らず肢体も可憐で、細い手足はしかしひ弱さを感じさせず、成熟した大人とは別種の柔らかさを湛えている。くびれたウエストは全体的に幼い少女らしさ溢れる『彼』の外見の中で一際目を引き、女性らしさを強調する──。

 

「女装が趣味だそうで」

「え、あ、その趣味と言う訳では……」

 

 レイナース・ロックブルズがその、男なら持っていて当然の男らしさを母親の腹の中に忘れてきたような生き物を目の当たりにした時抱いた第一の感想は、『死ねカマ野郎』というものだった。

 

 ──大の男が十六にもなって可愛いアピールしてんじゃねぇですわ。

 

 女の可愛いアピールもムカつくが。美女が美しさをひけらかすのも腹が立つし、醜女が同じことをやっても腹が立つ。だが野郎の可愛いアピールなど銅貨一枚の得にもなりゃしねぇ上に悍ましい。

 

 ──こういう輩はどうせ『猫と甘い物が大好きでぇ~、最近はお料理に挑戦中ですぅ♪』とでも言い出すに決まっていますわ。

 

「女装は趣味では無く、ネタといいますか、持ち芸でありまして……あの、練しゅ」

「女装した自分を見て可愛い、綺麗だ、美しいと思う事はおありですか……? もしくは世間一般の女性と比べて自分の方が外見的に優れていると感じる事は……?」

「い、いやぁ、あはは……そういうのは考えた事も無いですが、周りが笑ってくれるので私も楽しくて……」

 

 ──こんな面に生まれて好き好んで髪を伸ばし、自分から女装に勤しむ輩など変態に決まっている。『僕こう見えて男なんですぅ~』等と言う位なら最初から坊主頭にでもしておけですわ。

 

「どうしたんだ、レイナース」

 

 主君の客人という立場にあるイヨ・シノンに投げかける言葉としては無遠慮極まりないその物言いを聞いてニンブルがレイナースに問うが、レイナースはそれを黙殺した。元々主君に対する姿勢の違いから、同僚だとしても心の底から仲間だと言えるような関係では無い両者だが、レイナースの言動は常のものとはまた違っており、訝しんでいる様だった。

 

「すいません、うちの仲間がなにか失礼な事でもしたでしょうか」

 

 黒髪黒目のリウル・シノンが常とは違う余所行きの言葉遣いでやんわりとレイナースを牽制すると、レイナースは内心を完璧に押し隠し、愛想のよい笑顔で詫び、僅かに低頭した。噂通り男性とは思えないほど余りに可憐だったのでつい好奇心が先行して問うてしまった、という取って付けた様な説明と共に謝罪する。

 

 イヨはまだレイナースに対して警戒を捨てきれない様だったが、元より他人──一国家の代表と見なされる程の武力と格式を持つ人間相手なら尚の事──に対して好意的で肯定的な人間なので、眼前の女性が自分に対して抱くただならぬ悪感情に対する疑問を一旦心の内に仕舞って、再度自己紹介をする。

 

 表面上当事者同士が諍いを捨て交流する姿勢を見せたので、それ以上問題にしようとする者はいなかった。

 

 レイナース、バジウッド、ニンブルも今度は、四騎士としてアダマンタイト級冒険者を相手にするのにふさわしい対応をすることが出来た。相手は国家に所属する人間でこそないが、間違いなく他国の重要人物であり最新の英雄だからである。更に言えば、眼前のシノン夫妻に対する協力は主命であった。

 

 具体的に自分たちはどの様な『協力』を行えば良いのかと問うた三人の騎士に対して、イヨ・シノンの返答は耳を疑うものだった。

 

「私の事を三人がかりでボロクソに叩きのめして欲しいのです。私も全力で抗い、戦いますので、その抵抗を踏み躙って頂きたい」

 

 少なからず動揺した様子の三名を前にして、イヨは自分の言葉に足りないものが多すぎると気付いたのか、改めて続きを付け足した。

 

「私は、強くなるためには血と汗を流すしかないと思っています。より強くなる為により強い敵とより多く戦いたいのです。出来る事ならば、絶対に勝てないと思える様な相手である事が望ましい」

 

 イヨの隣でリウルがひっそり口の端を捻じ曲げたが、夫にして自身が知る中でも最強の戦士の一人である男の言葉を遮ろうとはしなかった。リウルの基準から見てもイヨの鍛錬法は極端だし行き過ぎだが、彼はその拷問染みた練習の日々に嬉々として浸り続けている。彼にとって、自分を虐め抜き鍛え上げる事は最早生態の一部だ。魚に向けて鰓呼吸をやめろと言っても仕方が無いのと同じであった。その様に生まれついているのだから。

 ならばせめてその脇を固め、周囲との齟齬をきたさない様に支えるのがパーティメンバーとしての自分の役割だとリウルは考えていた。

 

 公城でバド副団長とした様な血肉舞い散る異常な戦闘は、外部の人間、それも他国の要人として良い物では絶対に無い。あのノリは同じ位に戦闘に傾注し過ぎた一部の特異な人間だけと交わされるべきだ。そうでなければ問題になる。だから、リウルは今回イヨの首輪に徹する気だった。

 

 三人の騎士に対してイヨは『実戦に近い振る舞いの下自分を殺す寸前まで追い詰めてほしい』と求め、逆に自分は『練習試合としての一線を守り命を危ぶめる様な行為はしない』とルールを定めた。

 

「如何にアダマンタイト級である貴方でも、それでは勝ち目は薄過ぎるのでは? 強敵を想定した練習という状況設定は理解できますが、その様な枷があっては一方的な展開にしかならないとも思いますが……」

 

 ニンブルが疑問する。

 

 四騎士は大公と皇帝の間で交換された情報を共有しており、イヨ・シノンが正面切っての殴り合いという分野においてはアダマンタイト級冒険者の中でもなお優れた能力を持つと知ってはいる。

 比較対象として魔法省地下のデスナイトの情報も改めて頭に叩き込んだ。あれを相手に一人で一定時間戦闘を行えるなら、確かにその能力は凄まじいものがある。拳士と戦士という違いがあるので正確ではないだろうが、周辺国家最強の戦士、過去四騎士の地位にあった者二人の首を取った男、ガゼフ・ストロノーフとすら伍するかもしれない。

 

 とは言っても戦場における王国戦士長はリ・エスティーゼ王国に伝わる五宝物を装備し、その能力を遥かに高めているので、『通常の装備に身を包んだガゼフ・ストロノーフとなら伍するかもしれない』という評価が正当だろう。

 

 ガゼフ・ストロノーフにすら迫るとの評価を受ける男──男なのだこれでも──である以上、四騎士一人一人と直接的な戦闘力で比較するのであればまずイヨ・シノンが勝ると言える。四騎士の中に、一対一でガゼフ・ストロノーフと互角の戦いができるものはいないのだから。だが、三対一ともなれば話は全く違う。

 

 しかもその内訳は専業戦士一人と神官戦士二人──ニンブルは騎兵系の職業も持っているが──と拳士一人の戦いだ。イヨ・シノンは信仰系魔法の使い手でもあるが魔法詠唱者としての能力は著しく低く、戦闘の最中に使用できる、使用する意味があるほどの魔法は一つも使えない。

 

 冒険者が単体の力量では遥かに強いモンスターを連携と多様な手段で打ち倒すのと同じだ。強い戦士一人対劣る戦士三人の戦いならばまだ勝敗が分からない部分もあるが、そこに治癒や強化の魔法が絡むと天秤は更に傾く。

 互いを庇い合い、様々な魔法で自陣の能力を高め傷を癒す事が出来る三人と比べ、イヨ・シノンの側は傷を負ったら負いっぱなしで、鈍った動きをカバーする者はいないのだから。彼我の順守するルールの差も合わせれば、十回戦えば十回バジウッドたちが勝つだろう程度には差が開く。

 

「私の想定する敵はまさに単独では勝ち目のない敵であり、私はその域の感覚を磨きたいのです。敗北必至の戦いを勝ち抜ける──たった一回の戦いで万に一つを捥ぎ取る勝負勘をこの手にしたい。ご協力お願い致します」

 

 対して、イヨの返答は淀みがない。イヨはこの冬季帝国滞在の間に自身を殺し得る力量を備えた強者の下を訪れ言葉を、出来れば拳をも交わし、その後に時間を作ってカッツェ平野を訪れ、目下最大の敵であるアンデッド相手に得た知見を試す気でいた。

 

 怪我は幾らでも治せる。どれだけ傷付いた所でイヨは気にしない。苦にしない。気に病まない。痛みは進歩の実感として感じられ、とても心地良かった。戦闘時、肉体の損傷によって、イヨの精神はむしろ癒され賦活するのだ。

 

 殺し合いの世界に身を浸してなお幼気に輝く彼の瞳を見る者が見れば、或いは常軌を逸した何かを見出したかもしれない。

 

 

 

 

 今のレイナースにとって美しい他人や幸せそうな他人は、感情の波風の高低こそあれ、万事苛立ち、嫉妬、嫌悪の対象である。

 

 ましてや目の前にいるのは恋愛結婚ほやほやの幸せ真っ盛りで少女として恵まれた容姿を持った、男である。

 

 こういう時、レイナースは己が信じる神を呪わずにはいられない。野郎に女らしさなど与えた癖に、何故自分には苦難しか与えないのかと。

 こんな持って生まれた性別と相反する要素を練り固めた様な男に相思相愛の異性との運命の出会いを与えた癖に、何故自分には裏切りと別れを与えたのかと。

 

 奪われたのが美しさだけなら歪まなかった。ただ顔の半分の外見が醜くなっただけで、育んだ愛情も恋も家も地位も、一切合切が己から去っていった。

 

 幸せだった分、どん底に落ちた時の苦しさは尋常では無く、長く苦境に身を置く内にレイナースは性格すらも歪んだのだ。

 

 イヨ・シノンの容姿について性別不一致の恵まれ損という事で億歩譲って許してやっても、周囲に幸せオーラを撒き散らす間抜け面で己の前に立つ大罪は度し難い。

 

 正真の善人だったかつてのレイナースが今の境遇に堕ちる。それが世の理と言うのであれば、このような輩は木っ端微塵に爆発四散して死ぬべきでは無いだろうか。

 

 目の前の少年を見て思う。その輝く瞳を見て、血色の良い頬を見て、綺麗な手指を見て思う。

 

 降り注ぐ陽光に、人々が向ける視線に、期待に、愛に、憎悪に、一切疚しさも躊躇いも懺悔も後悔も無いのだろう。己が身に対して一欠片の引け目も傲慢も抱かぬ姿──過不足無く自身の自身たるを自覚し、自己の自己である所と真っ直ぐに向き合えるのだろう。

 

 考えもしないのだろう、自分は自分でありそれ以上でも以下でも以外でも無いと。自分とは何かと感じる事も無く、自分の行動に疑問を抱く事も無いのだろう。何処を非難されようと、何処を褒め称えられようと、ただ受け止める事が出来るだけの己を確立しているのだろう。

 

 自分自身というものに、ぴったり一人分の自信と自覚を備えているのだろう。

 

 全くの子供のままで十六歳まで過ごしてこられた時点でそう云う事なのだ。

 

 恵まれていたに違いない、愛されていたに違いない、守られていたに違いない、肯定されていたに違いない、身に掛かる不運を苦難を災難を全て跳ね除けてきたに違いない。痛みすら挫折すら当たり前の様に喰らって血肉としたに違いない。他人に愛され他人を愛したに違いない。

 昔のレイナースと同じ様に。

 

 そしてレイナースとは違って、『どうにもならない責め苦』『謂れなき苦境』『降ろす事の叶わない重荷』に見舞われる事だけは、無かったのだろう。

 

 其処まで考えて、レイナースは理解した。何故こんなにもイヨ・シノンが気に入らないのか。

 

 ただその、己に恥じる所なしと言わんばかりのツラが憎いのだ。

 

 『かつてのレイナース』と同じだ。両親に婚約者に領民に神に愛し愛され、己の全てを誇っていられた頃の、最早取り戻せないかつての自分と重なるのだ。外圧によって歪みに歪んだ今のレイナースの人格が、目の前に現れた『過去の自分』と比し比べ、堪らなく卑屈な思いを抱かせる。

 

 『呪いさえ受けなければお前だって、今もこうして笑っていられたのにねぇ』と嘲笑われている様な気にさせるのだ。

 

 顔は似ていない。背格好も全く違う。性格も異なる。生まれも育ちも似通った所は無い。なのにイヨ・シノンの姿が『あのまま何不自由なく生きていたらこうなっていただろう自分の姿』の様に思えてならない。

 

 ──ああ、私、目の前のこの子の全部が大っ嫌いで、妬ましくて、憎いのですわね……。

 

 幸せな他人が憎くて辛くて、気に入らない。結局のところいつも通り。ただとても幸せそうで、真っ直ぐに輝いていて、今の自分よりずっと強いから、特段に憎くて辛くて気に入らないだけ。

 

 家ごと両親を焼いた様に、婚約者を殺した様に、騙してきた者共を地獄に送ったように──この上なく気に食わないから八つ裂きにしたいだけなのだ。

 幸せそうで自信に満ちた他人が嫌い──かつて同じく幸せで自信に満ちていたけど、今は違う自分を痛感させられるから。

 

「そういう訳で、是非とも訓練の一環として私を死の寸前まで痛めつけて欲しく──」

「分かりました。誠心誠意、お相手を務めさせていただきますわ」

「ご協力頂けますか!?」

 

 内なる感情がすっぱりと刃物で切り分けられ、理路整然と嫌悪と憎悪に分たれたあと、レイナースは不思議と穏やかな気持ちになった。

 先程まで身体中を暴れまわっていた負の感情は、まるで道具の様に──慣れ親しんだ己の愛槍の様に、しっかりと手中で怨敵の血肉を穿つ時を待ち焦がれている。

 

「ええ、勿論。貴方方に協力せよと陛下より命じられておりますし、私も武人の端くれですもの。より強くあらんという志は理解できますから──本当の本当に、殺す気で行かせて頂きますわ」

「わぁ、ありがとうございます! ロックブルズ殿! ペシュメル殿、アノック殿!」

 

 大丈夫かこいつら、と。

 

 奈落の底の様な目をしてにっこりと微笑むレイナース・ロックブルズと。

 一片の曇りもない輝かしき瞳のイヨ・シノンを見て。

 

 奇しくも三人──リウル、バジウッド、ニンブルは同じことを思った。

 

 

 

 

 同時刻、皇帝の執務室にて。普段は多くの秘書や警備が室内にいるが、今回部屋の中にいるのはたったの二人だけだ。

 

「第六位階魔法はレイナースの解呪に使う。異論はないな、フールーダ」

「ええ、そうですな。妥当でしょう。ただ、その前に一通り短杖を精密に検査する時間と、実際に使用する時に魔法を観測・分析する為の準備時間を頂きたいものです」

 

 一見いつも通り滑らかに返答した思えたが、ジルクニフは見逃さなかった。未だイヨ・シノンから譲られた品物たちを抱きかかえたままの大魔法詠唱者の腕が、尋常ならざる力でぎゅうと絞られたのを。

 

 フールーダにとって専門ではない信仰系の魔法で、第六位階の魔法だ。純粋に位階だけで言えばフールーダのそれと同等──だが、専門外であるが故に、フールーダには高位の信仰系魔法は使えない。

 

 七位階や八位階の魔法とは比べ物にならないにしても、これを逃せば次に見られる機会はまず巡ってこないであろう貴重な研究材料だ。専門違いとは言え、進歩の為の閃きは何処に転がっているか分からない。魔法に関する貴重な事柄ならば全て丸裸にして糧にしたいのだろう。

 

 第六位階と言えば一般的に未知と言って良い領域だ。なにせ行使できる者はいないに等しい。英雄の領域として語られる第五位階の更に上なのだから。この機にしゃぶり尽くせるだけしゃぶり尽くす気なのだ。

 

「良いだろう」

 

 ジルクニフは頷く。今のフールーダは一度魔法の研究に着手し始めれば少なからず会話が困難になりかねないので、今の内に話を纏めておきたかった。

 

「フールーダ。第六位階魔法〈リムーブ・カース/解呪〉が込められた短杖は使用回数の残量をまだ半分以上残している。一回や二回使った所で支障は無い。そうだな?」

 

 目の前のフールーダ・パラダインその人が魔法を掛けて確認したのだから、揺るがしようの無い真実だ。

 

「そうですな。その通りです。既に何回か使用された痕跡が見られますが、問題は無いでしょう。込められている魔法を別とすれば、もう一本の方とは違って、一般に流通している短杖と比べて格段の差異は今の所認められません。多少材質が異なる程度です」

 

 ジルクニフとフールーダ間では、普通に会話が成立している様に見える。しかし、フールーダの視線は腕の中のマジックアイテムから不動だ。普段の働き振りは考えられないほど気もそぞろである。口調も表面上は整っているが、声色は何処か不自然に軽い。

 仮に今、流れをぶった切って『行っていいぞ』と申し渡せば、フールーダは脇目も降らず部屋を出て魔法省の自室に籠り、研究に没頭するだろう。

 

「召し抱える時、レイナースが何と言ったかは知っているな。お前も私の隣で聞いていたのだから。それに私がどう答えたかも」

 

 レイナースの最優先は呪いを解く事。例えジルクニフに仕えたとしてもそれが揺るがぬ最優先。『呪いが解けるのであれば陛下にだって剣を向ける』とはっきり宣言し、ジルクニフはそれを踏まえて彼女を配下にしたのだ。

 

 レイナースがジルクニフに仕えている理由はただ一点、仕える事によって自分にメリットがあるというただそれだけだ。彼女は四騎士の地位を利用して解呪の方法を探っているし、ジルクニフも手元に置き続ける為にその姿勢を認め、働きに報いる程度には協力している。

 

 四騎士は能力で選んだ者達で、その忠誠心の度合いはまちまちだ。最もレイナースほど忠誠心の無い者は他にいない。言うなれば最も信用ならない四騎士がレイナースなのだ──日々の仕事はそつなく熟すが、条件が揃えばジルクニフをあっさり裏切るだろう。

 

 その姿勢込みでも手元に欲しいだけの能力の持ち主であるが故、召し抱えてきた。だが当然、信用できる配下であるのならばその方が良いに決まっている。忠誠心の無いレイナースとあるレイナース。能力が変わらないのならば当然後者の方が望ましい。

 

 レイナース当人ではないジルクニフの第三者的目線で見て、レイナースの呪いは現状解呪不可能と判断するしかないものだった。あらゆる癒しを跳ね除けて、未だに彼女の顔面右半分を占領し続けるしつこさだ。

 レイナースは四騎士となる以前も以後も、なりふり構わず全てをもって呪いを解こうとしてきた。高名な神官、癒しの秘術、万病を癒す薬草。邪をもって邪を退ける様な手段だって試しただろう。しかし呪いは解けていない。その事実を思えばまず無理と表現するしかない。

 

「まさか、図らずも私の下にその手段が転がり込んでくるとはな。イヨ・シノンは知っていたと思うか?」

「全く知らなかったとは言い切れないかと。しかし直に対面した限り、仮に知っていたとしても然程情報は得ておらず、重視もしていなかったでしょう」

 

 イヨ・シノンがレイナースに掛かった呪いの存在自体は知っていたとしても──ごく普通に知らなかった可能性もあるが──その呪いを彼女がどれほど疎ましく思っていて、その呪いが彼女の人生をどれ程捻じ曲げたかまでは間違いなく知らないものと思われる。

 

「信じ難い面もありますが、あえて言うならただ単純な善意から来たものかと。謀ではないでしょう。彼にそうした神経があるとは思えませんし、仮にあったとしてももっと良い方法は幾らでもあります」

 

 ジルクニフは普段貴族──つまり政治家、一筋縄ではいかない者たち──を相手にしてきている癖で記憶を掘り返し、当時のイヨ・シノンの口調や表情からその腹の底を分析しようとする。だが出た結論は当時と変わらないものだった。

 

「そうだな。純粋な善意──そうでなければ、只何となく良かれと思ってと言った所か。この点は正直気にする必要も無いだろう」

 

 フールーダが少し前に述べた見解を、ジルクニフも肯定する。恐らくイヨ・シノンはまだこういった超貴重なアイテム類を保有している。他人に渡すものを選べる程度には数と種類を揃えている可能性が高い。

 

 あれ程底の浅い人間は初めて見たかもしれない、とジルクニフは内心で思う。貴族や商人の生まれならば五歳の子供でもイヨ・シノンよりは深い考えを持っていて、己の利益というものを念頭において行動しているものだ。

 

 こと頭の出来や腹に抱えた思惑という点で見る限り、イヨ・シノンという人間の底は浅い。そして単純で透き通っている。見る目のある者なら一目で見抜くだろう──特に何も考えていないな、と。

 

 この時ジルクニフとフールーダは、非戦闘時のイヨの人間性を百%余すところなく理解し切っていたと表現しても過言では無い。つまり、ただ単に良い子ちゃんなお子様だ、と。

 

「何はともあれ、レイナースの真なる忠誠を勝ち取れるのならば払う価値のある代価だな」

 

 極まった個の力が軍勢を打ち破る事も可能なこの世界において、強者の価値はイヨの生まれた世界より遥かに高かった。

 それに、もし解呪の可能性が高いアイテムを手に入れておきながら秘匿していたとレイナースにバレれば、レイナースはそれを裏切りと捉え、ありとあらゆる手段でもって『万難を打ち払い、己が望みを果たす』だろう。その途上で裏切り者とその仲間を何人殺そうと気にも留めないに違いない。

 

 何回も使えるアイテムの使用回数残量をケチって有用な人材の離反を招き、そんな被害が発生する可能性を享受するのも馬鹿らしい。

 

「……解呪できると良いが」

 

 その名の通り呪いを解くという効果に特化した第六位階魔法で解く事が出来なかったら、レイナースの呪いは如何なる手段をもってしても現実的に解呪不能と表現するしかなくなる。解呪失敗という形でそれが証明されてしまえば、彼女は心の均衡を失うかもしれない。

 

 不安要素としては、短杖などに込められた魔法は、術者が直接その魔法を使用した場合と比べて効果が低くなるという点は厄介だ。それにレイナースの呪いの様な半永久的な悪効果を治す魔法の場合は、呪いと魔法の効果、どちらが打ち勝つかの競り合いという要素がある。

 

 もしイヨがこの場にいたら少し考えてこう言っただろう──『ああ、達成値の比べ合いとかそういう奴ですね』と。

 

 しかしそういった点を考慮しても、解呪特化の第六位階魔法だ。通常の手段と比べて遥かに目のある賭けには違いなかった。

 

 通常扱えない高位階の魔法でも、多人数を用いた大儀式などの手法によって時間さえかければ使用可能なのは長寿化を達成したフールーダが証明している。そして今回は魔法の込められた短杖というアイテムがある。準備に長い時間は掛からないだろう。

 

「こと魔法に関して絶対とは言えませんが、成功の可能性は大きいと思われますぞ」

「……場合によっては複数回使う必要があるかもしれんな」

 

 成功したら成功したで、レイナースの休暇取得が増えるなどの変化が起きる可能性もある──だがその程度は問題なく許容しようとジルクニフは思う。ジルクニフは情を判断基準とする事こそ無いが、別に鬼の如き冷血漢という訳でも無い。部下を十全に使う為には休みを取らせる事も必要だと当たり前に判断できる。

 

 同じ城の別な場所で練習という名の殺し合いが始まりつつある頃、皇帝の執務室で交わされる会話としては比較的和やかな部類の話と言えた。

 

 なにせ、不幸に見舞われ人生を狂わされた一人の女性を救う話なのだから。

 




呪い解けちゃったらレイナースさんもうカースドナイトじゃないし職業失うんじゃね、下手したらレベル下がるんじゃねとか考えちゃったりしましたが、『意図せずなんらかの条件が整っていたため他の職業にレベルはそのままで置き換えられた』的な解釈で作中内での強さは変わらない設定にする可能性が大です。

書いててイヨってオーバーロードの世界観とミスマッチ起こしてるよなとか一瞬考えちゃいました。考えない事にしました。此処まで来たら行ける所まで走り続けるしかないのです。


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イヨと三人の騎士の戦い

「では、よろしくお願いしますね」

 

 ──実戦に近い振る舞いの下、殺す寸前まで追い詰めて欲しいのでしたよねぇ……?

 

 お辞儀の後踵を返して距離を取ろうとしたイヨ・シノンの背中に、レイナースは愛槍の穂先を真っ直ぐに突き込んだ。実戦なら開始の合図などあろう筈も無いし、背中を見せた敵を慮る事などあり得ないという計算を基に。

 

 アダマンタイトを上回る硬度を誇るという金属で作られた変形する鎧の情報は伝え聞いている。神官戦士であり、魔法による強化無しでの直接的な戦闘能力は同レベル帯の専業戦士に劣るレイナースにとって、それほどの装甲を正面から突き破る事は現実的では無かった。

 

 ならばどうするか。鎧を重装化する前に奇襲すればよい。どんな堅い装甲も身に着けていなければ無意味だ。さほど防御力が高くないと聞く衣服形態を維持している内に急所を貫く。アダマンタイト級冒険者であろうと人間である以上、生身の肉体が魔法金属並みに頑丈である事などあり得ないし、例え常人の何倍も頑丈だったところで死に至る急所を抉れば死ぬ。

 

 バジウッドと比べれば劣るだろう。アダマンタイト級と比べても遅いに違いない。しかしそれでもレイナースの槍捌きは熟練の域であり、強烈な感情で勢いを増したその速度は飛燕といって良いものだった。

 

 イヨ・シノンの背中、その中心に走る背骨の位置に、自分以外の全てを置き去りにしてレイナースは渾身の突きを見舞う──寸前で、爆裂した地面から殺到する土塊と石礫に襲われ、体勢を崩した。

 

 

 

 

 スキル【爆裂撃】の長所はどんな攻撃でも対応可能な汎用性である。なんたら脚、なんたら掌という名称を持つスキルはその名の通り蹴り技や掌打でなければ発動しないが、【爆裂撃】は蹴りだろうと突きだろうと、打撃であるならば対応して発動する。

 

 ──ならば二足による歩行を地面への蹴りと解釈して【爆裂撃】を発動する事が可能なのではないか。

 

 それは強さを模索する過程でイヨが思いついた使用法であった。実際に人間は足裏で地面に体重を掛けて身体を支え、地を蹴って進んでいるので、試した所成功したのだ。

 

 後は足裏の角度調整によって地面──砂や土、石を爆裂によって意図した方向に吹き飛ばす事が可能となった。従来の目くらましと違う所は歩く動きだけで発動可能な為準備動作が大幅に省略され、相手に察知されにくくなった点だ。より広範囲に土と石の散弾をばら撒くならこの方法が優れていたが、指向性を高め一点を狙うならば地を足で蹴った方が修正が効き、狙いやすい。

 

 イヨは【爆裂撃】の反動を膝で吸収しつつ、三人の騎士の方へと向き直っていた。

 

「──」

 

 喋る事は無い。実戦であろうと練習であろうと、試合の最中に相手と喋る事など無い。今の行為について言う事もまた、無い。イヨ自身立場が逆なら背後を襲っただろうから。強いて一つ言うなら、レイナースは一人先手を打つのではなく、他の二人と連携して確実にイヨを殺すべきだった。

 

 視界の端、リウルが音も無く離れていく。眼前、ニンブルとバジウッドの二人が問う様な視線を同僚の女性にやりつつ、位置取る──バジウッドがイヨの正面で対峙し、ニンブルと、殺意の籠った目をした土塗れのレイナースがその後ろで並ぶ。

 

 背後からの不意打ちでさえ通じなかったのなら、正面からの拙速など到底無理という判断だ。

 

 会話の為脇に抱えていたヘルムを三人がしかと被ったのを確認し、イヨは両拳を掲げ、構える──と、同時に【アーマー・オブ・ウォーモンガー】を重装化。

 

 イヨの体表面を奔走する流体金属は瞬時に増大し、極厚の装甲と化して定着。イヨの外見は鈍色の戦人形となる。ただただ厚く硬く強靭で、戦う為だけの姿だった。金属製のゴーレムにも近いその姿の中に人間が入っている証拠は、頭部装甲に存在する隙間──呼吸と視界を確保する隙間から僅かに見える朱唇と金の瞳だけだ。

 

 直剣にも似た額の双角と三つ編みを覆って作られる鋼の尾が、無骨な姿の中で獰猛に存在を主張する。

 

 つい先ほどまで、レイナースの態度に冷や汗を流しおどおどとしていた少年の姿がこれである。ほんの一瞬前まで、協力を約束したレイナースの言葉に恩義を感じ、嬉しそうに笑っていた少年の、今の姿がこれなのだ。

 

 後方からニンブルが見るイヨ・シノンの瞳は相変わらず混じり気無しに輝いているが、最早其処に揺れ動く子供らしい感情は見えない。戦闘とそうでない時で、境目無しに切り替わっている。激風と呼ばれる騎士の脳裏に、人伝に聞いた主君の言葉が思い浮かぶ。

 

 ──我が国の英雄たちといい、アダマンタイト級冒険者は変わり者でなければいけない規則でもあるのか、だったか。

 

 人間の極限、揃いも揃って化け物ばかりのアダマンタイト級の中でこの少年だけが特別に只人である筈も無かったのだ。三人がかりで嬲り殺し寸前まで痛めつけて欲しい等と言いだす人間だ、外見がどうだろうと内に何を秘めているか分かったものでは無い。

 

 ともあれ、主命である。

 

 バジウッド、レイナース、ニンブルは、息を揃えて鈍色の戦人形に斬りかかった。

 

 

 

 

 バジウッドが数度イヨと剣と拳を交わし、最初に思った事は『硬い』だった。アダマンタイトより硬いとされる金属で出来た重装鎧──斬り込んだ感触は最早防具に身を包んだ人間を叩いたものではない。

 

 金属の塊か、巨大な岩に剣を叩き付けたが如き衝撃が手に返ってくる。ただの岩や鉄程度であったらバジウッドの腕ならば叩き切る事も可能なのだが、今の所イヨ・シノンの鎧は微細な傷以外損傷を負っていない。

 

 バジウッドの持つ黒剣が強力な魔化を施されたものでなかったら、今頃折れていたかもしれない。幼き日、棒きれで立木相手に繰り返した打ち込みを思い出させてくれるほどの頑丈さだった。

 

 この感触から分かるのは、相手の鎧がただ硬いだけのものでは無い事。装甲は分厚く、重量は馬鹿げて重い。物理のみならず魔法も決定打にはなっていない──単身で挑む前提だけあってマジックアイテムで耐性を高めているのだろう。

 普通の人間は身に着けても身動きすら出来ないだろう鎧、その重みを人間である事が疑わしく思えるほどの異常な膂力で駆動し、一撃一撃に乗せてくる。

 

 戦士としておよそ恵まれていないイヨ・シノンの体格も曲者だ。小さな身体は半身になって更に的を小さくし、低い位置から痛烈な打撃が突き上げてくる。真正面から受ければ重心を揺さぶられ、体幹ごと揺り動かされるような超重量の打撃は四肢先端、肘膝、頭と相手の身体の端々から縦横無尽にやってきた。

 

 小さく低い的に対する三人の攻撃も打ち下ろし気味になり、武器の重量と重力で重みを乗せやすいが、しかし敵は機敏であり、早々相手の鎧を貫通してダメージを与えられるような大振りが出来ない。

 

 戦場では中々見ないタイプの敵である。際立って小柄であるのに武器を持たず──手足に防具と一体になった腕甲と脚甲は付けているが──それでいて鎧を着込んで向かってくる敵など。

 

 色々な意味で、人間を相手にしている気がしない。五宝物に身を包んだ鬼神が如きガゼフ・ストロノーフと比べたらまだ御しやすいが──なにせあの男は疲労しない上に傷は自動で癒え続け、手に持つ剣は鎧ごと敵を切り伏せる──感覚的にはやはりゴーレムかアンデッドでも相手にしている気になる。

 

 恐らく、中身のイヨ・シノン自身も身体能力に優れた職業に就き、更に装備で力の程を高めているのだろう。どちらが厄介かと言われれば断然王国戦士長だが、恐らく身体能力に関してならばイヨ・シノンの方が上だ。恐ろしい事に、魔法による支援を受けても尚、バジウッドとイヨ・シノンの身体能力差は縮まりこそすれ、埋まってはいない。

 

 三対一であり、戦力差上、お互い一歩踏み込めずにいた。

 

 三対一であるという事は当然、イヨ・シノンは初見の三人を一度に相手取らねばならず、警戒は三等分、対処すべき攻撃の量は単純に言って三倍だ。逆に、三人の側は全てを三人で受け持ち、互いを助け合える。

 

 実戦を想定しているイヨ・シノンは情報の無い三人からの初見殺し的攻撃手段を警戒している──逆に三人は実力的には優越している個を下す方法論を探している。

 

 ──負けるとは思わないが、『三人なら勝てる』と一言で言えるほど優勢でもねぇな。

 

 バジウッドは思う。身を包むアダマンタイト製の鎧も、完全に身を守ってくれる訳ではない──失着一つが粉砕骨折を招きかねない。一人前衛を務めるバジウッドが足が完全に止まるほどの重傷を負えば、神官二人が治癒を飛ばす──だがその一瞬の間にイヨ・シノンは二人の後衛の内どちらか一方に取り付く。

 

 そうなれば、高確率で一人落ちる。同程度の力量を有する戦士と神官戦士が戦うなら、魔法による自己強化や治癒の影響で神官戦士側には十分な勝ち目がある。だが実力差が大きい戦士と神官戦士の戦いは──魔法込みでも勝算が覚束ない。

 

 負け筋は見えた。誰か一人でも落とされれば三人の負けだ。二人ではまずイヨ・シノンを抑えきれない。特にバジウッドが落ちた場合は確実に負ける。城内の練習場という限られた空間で基礎身体能力に勝る相手に専業戦士を欠いては──魔法と剣二足の草鞋を履く利を活かしきれない。

 

「レイナース!」

 

 一声で意を察したレイナースは今までより距離を詰める──その程度には連携が取れるし、レイナースの頭も怨敵を縊り殺す為に冷めていた。

 

 イヨ・シノンにはバジウッドとレイナースで当たる。バジウッドは主攻として張り付き、レイナースは助攻として、槍と魔法の間合いを生かして立ち回る。

 

 拳足は至近距離から近距離の武器だ。額をぶつけ合う様な距離から手を伸ばせば届く距離まで。

 剣は近距離から中間距離。腕の長さに剣の長さが足される。

 槍はその外。魔法は更に外だ。実力によらず武器を持つ者が拳足で戦う者に対して持つ有利を生かす。

 

 本来騎手でもあるニンブルには一人後衛を務めてもらう──矢張り騎兵は騎獣を駆ってこそが本領であるが故。

 

 バジウッドは知っている。勝つ為に此処の能力値で相手を上回る必要など無いと。冒険者がモンスターを狩るのと同じだ──モンスター並に強い相手ならばモンスターとして戦えばよい。

 

 『負けない』を積み重ねる事が生存に繋がり、生存と戦闘の続行が単騎の相手に負傷を重ねさせていく。人数の利の最たるものは役割分担による負担軽減と足し算による手数の多さ、各々を活かし合う掛け算の連携、そして単一標的に対する総員のリソース集中、その全てだ。

 

 硬く分厚く重い鎧、それを十全に駆動し得る超人的身体能力。低く小さく速い動き、正確な狙いで叩き込まれる威力の高い硬軟自在の攻撃、しかも毒を持つ──強みはもう見た。既知の強みを恐れる必要はない──警戒すればそれで足りる。

 

 弱みも見つけはした。

 

 通常の鎧と比べて、イヨ・シノンの鎧は格闘戦を前提とした作りである為、より柔軟で多彩な動き──足を頭より高く上げたり、それこそ飛んだり跳ねたりする様な──を可能とする為に、言うならば可動部が多い。可動域の広さを確保する為により多くの装甲で覆えていない部分が存在する。

 

 硬く分厚く頑丈であり、人間が装備し得る鎧として考えられる最大に近い防御能力を備えていながら、付け込む場所そのものは普通の鎧よりむしろ多いのだ。勿論こんなものは対峙する全員が即座に気付く事。装備者であるイヨ・シノンが誰よりも知っている事。

 

 隙である筈の可動部分ですら網目の細かい鎖帷子になっていて無防備ではない。物理的装甲の頑丈さとは別に魔化の効果として鎧全体が持つ防御力が存在する。

 

 それでも他の個所と比べれば格段に攻撃を通しやすい──しかし、恐らくイヨ・シノンはそうした隙を相手の攻撃を読む手立てとすらしていて、先読みした攻撃に対して致命的な後の先を差し込みに来る事は容易に想像が付く。

 

 つくづく容易くはない相手──皇帝の騎士としてでは無く、戦士としてのバジウッドを昂らせてくれる相手だった。四騎士の立場であっても、この域の強敵と訓練を行える機会はそうない。

 

 ──陛下が王国を飲み込んだら、ストロノーフさんとは同僚だな。

 

 少なくとも彼らが主君、ジルクニフはそうしたいと思っている。あの鬼神が如き戦士が味方になるというならば何とも心強いが、外様相手に束にならねば敵わない四騎士というのも余りに恰好が付かない。

 

 ──そっちが修行ってんなら、仮想ガゼフ・ストロノーフ戦としてこっちも練習させてもらうぜ!

 

 これから更に大きく強くなっていくであろうバハルス帝国で、主君たるジルクニフの鋭き刃、堅き盾であり続ける為に。バジウッドは更なる強さを求めていた。

 

 言ってしまえば、バジウッドの様な路地裏生まれの由緒正しからぬド平民が国家における最高位の騎士に名を連ね、最上の御座におわす皇帝の傍に仕える事は、考えるまでも無くあり得ない事なのである。

 バジウッドはそれに格別の悦楽を覚える様な質では全く無かったが、今や彼は生来の身分で考えれば顔を見る事も出来ない様な高位の貴族たちに『我が娘を嫁にどうでしょうか』等と乞われる様な立場であった。もう既に妻と愛人が合わせて五人もいるのだが、皆娼館上がりなので、貴族連中からすれば『きちんとした身分の嫁がもう一人二人いても何の問題もない』とでも思われているのだろう。

 

 彼の主君であるジルクニフは、父祖代々の皇帝たちが卓越した指揮力と指導力を発揮して強大になっていったバハルス帝国の、その在り方を変えたのだ。二代に渡って準備されてきた改革の、表立って実行された大部分はジルクニフの手腕によるものである。

 

 その途上、数多の古き悪しきを文字通り切り捨て、鮮血帝とすら呼ばれる様になるほど。

 

 新しく、そして風通しは良く更に強大に──皇帝ジルクニフの時代が一年また一年と過ぎるに当たって、目に見える速度でバハルス帝国は『強い国』になっていったと、路地裏の育ちから騎士になったバジウッドは思う。

 

 ジルクニフ以前の時代ならばどれだけ腕っ節が立った所で平民生まれで何の後ろ盾も血統も無い男が最上位の騎士に──権限だけで言えば将軍と同格の地位を有する──なるなど絶対あり得ない。例え能力がある程度評価されようと、それより優先される上位の価値観として、門閥や家柄、血統、そして前例が結局全てを決めただろう。

 

 バジウッドだけが特別ではない。ジルクニフの治世においてバハルス帝国は正に、実力があれば認められる国となったのだ。生まれがどうであろうと『何ができるか』で見られる国に。貴族であろうと無能に地位は無く、平民の生まれであろうと能力次第で要職に就ける。

 

 改革に伴って切り捨てられる側であった者共──貴族の中でも特に家柄、過去の先祖の栄光『だけ』が取り得であった者たちなど──からすればどうだか知った事では無いが、バジウッドは今の国の有り様を、ジルクニフという主君を『良い』と思う。

 

 ならばこそ、最初は形式的に上に立っている主君でしか無かったジルクニフに対して、傍で見続けている内に真なる忠誠を向ける様になった──剣として遮る者を切り捨て、盾としてその身を守り、その王道を支えたいと力の限りを尽くす様になったのだ。

 

 故に、バハルス帝国が公国を従え、後に王国と共に合するであろう道行の中で、バジウッドは強さを欲する。

 

 ──俺が陛下に望まれてる働きはそれだからな!

 

 強さを買われて取り立てられ、信頼されているのだ。皇帝が無数に抱える剣の内、最も強いものがバジウッド・ペシュメルなのだから。

 

 オリハルコン以上アダマンタイト以下とも言い表される四騎士の強さ──バジウッドはイヨ・シノンという望みうる最高に近い糧を喰らい、更に先へと進むべく、熱中した。

 

 

 

 

 先天にして後天の戦闘特化者、本能派ファイターたるイヨは、目の前の三者を分析していた。勿論頭を使って考えているよりか遥かに心で測る方に偏っているけども、デスナイト戦で少ない脳みそを使って考えた様に、勝つ為に考えていた。

 

 ──バジウッドさんが守勢に秀でているのは正直意外だったかも。

 

 急いたら狩り落されるだけの戦力差があるからして、イヨは慎重だった。一人を落とせばイヨの勝利はぐっと近くなるが、相手がそれを分かっていない訳は無いので、拙速はこの場合万全に待ち構えた相手に勝機を与えるだけだ。

 

 無理をせねば勝てない戦力差だが、無理をするにも機を見なければただ負ける。

 

 相手は帝国四騎士、国家を代表する武力の持ち主である。武技も強力なものを使用し、個々人の力量は精強無比。纏う装備は個人や小集団で揃えられる限界を遥か超えた質の良さだ。冒険者プレートに使われる僅かな量だけですら計り知れない財産ともなる希少金属アダマンタイト製の全身鎧を始め、纏う全てが超一級品。

 

 毒などはその効果が戦闘の最中において致命となりやすいが為に真っ先に防護を固められる攻撃手段の一つだが、練達の武人であり国家の要人でもある目の前の三者は隙なく耐性を整えている。期待はしない方が良さそうであった。毒に期待して時間を掛ければ、イヨは反撃する体力すら失せるほど待たねばならない。それでは本末転倒だ。

 

 イヨは三者からの攻撃を捌き、足を使って僅かでも魔法攻撃の的を絞らせないようにしながら、僅かな事前の情報から得ていた印象と目の前の実体を擦り合わせ、攻め手を模索していく。

 

 顔立ちや身目振る舞いに引きずられた感は否めないが、イヨはバジウッドをもっと攻勢に重きを置いたタイプの戦士だと思っていた。もしそうであれば互いに激しく攻め立て合う最中に痛打を加える事も出来たかもしれないが、手堅く着実にイヨを磨り潰しにかかってきていて、中々隙は無い。

 

 レイナースは全身から噴き出す様な鬼気が強烈で目に見えない存在感が非常に大きく、位置取りは助攻的であるが、突き出す穂先は過剰に塗布したかのような殺気で滑り煌いている様にさえ思えた。一瞬でも隙を晒せば急所を抉り立ててきそうで全く警戒を緩められない。一番隙の見せられない相手だ。

 

 ニンブルは位置取りが非常にいやらしく、まさに全体の要たる後衛を託するに値する武人だ。振る舞いは回復役めいているが、バジウッドとレイナースを相手にしているイヨの死角に常に身を置き、心理面での圧迫は最も強い。常に頭を押さえつけられている様な気持ちにさせられる。この男が畳み掛けるべき機を見逃す事は無いだろう。

 

 ああ、やっぱり練習はいいな、とイヨは本能の思考で思う。

 

 ここ最近旅路という事もあって中々纏まった練習時間が持てなかった。身に切傷一つが刻まれ、魔法が叩き込まれる度、錆が落ちていくような感覚があった。依頼中の戦闘やデスナイト戦では決して浮かぶ事の無かった感情──喜楽を感じる。

 

 重装形態の【アーマー・オブ・ウォーモンガー】の下で、イヨの口元にはガド・スタックシオンと戦う時以来の深い笑みが浮かんでいた。

 

 練習は良い。実戦も良い。実戦・死地でしか得られないものがある。練習・安地でしか得られないものがある。

 

 死を回避し、相手に死を押し付ける為に最善手を模索し続ける実戦の中では切り捨てられる新たな発想を、手段を、限りなく実戦に近くしかし命が比較的安全保障された状態で実践する事が出来るのだ。

 

 バジウッド・ペシュメルの【雷光】は、レイナース・ロックブルズの【重爆】は、ニンブル・アーク・デイル・アノックの【激風】は、未だその姿を明らかにしていない。イヨも未だ練技を使用してはいない。

 

 それらは状況を一変させ得る手札であり、そして何度も使えるものではないからだ。ここぞという時にこそ切るべき札。そして本日の練習はこれ一回ではない。ならばまず初回は情報収集と実地試験に終始して敵の骨身が知れた二回目以降でこそ切り札を有力に使える──などという考え方、イヨはしない。

 

 ──どんな敵とだって最初は初見。

 

 そう、それは前回何の力も見せず逃れた吸血鬼も、そしてその後ろにいると思われる更なる古き吸血鬼も同じ事。

 

 何度だって戦えるから、何度も戦うから一回目は手を抜こう力を抜こう等と言うやり方は目的に沿わない。

 

 イヨは万に一つを捥ぎ取る勝負勘を得たいのだ。負けて当然の戦いで勝ちを掴み取る為の練習なのだ。

 

 むしろ初見でこそ挑むべき。一度一度を全力で、常に勝ちを狙っていくべきだ。例え二度目三度目の戦いで消耗に喘ごうとも、その時はその時の状況で勝ちを取りに行くべきなのだ。

 

 練習とは実戦を想定して行うものなのだから。

 

 イヨは笑みを掻き消し、眼前のバジウッド・ペシュメルと組み合いに行った。

 

 

 

 

 ──組み技だと?

 

 勿論格闘戦の得手と戦う以上、警戒していなかった訳ではない。しかし、実際にそういった展開になる事は無いだろうと考えていた為、バジウッドにしてみれば意外であった。

 

 何故なら一対一の戦いでは無いのだ、これは一対三の戦いなのだ。突きや蹴りと違って、組み投げる技はどうしても攻撃の完了までに時間が掛かる。動作も大きい。抗われればそのまま足が止まる。

 

 その間、残りの二人が思い切った攻勢に回る事が出来てしまう──それが分からないイヨ・シノンではなかろうに。

 

 確かに身体能力、個々の力量ではイヨ・シノンが優越する。賭けに出たとして、成算も無い訳でも無いだろう。しかし、バジウッドとて不意を突かれたからといって狼狽え、身体が動かなくなってしまう様な新兵では無いのだ。

 

 真っ直ぐに突っ込み、腰と腕を取りに来るイヨにバジウッドは剣の切っ先を向ける──が、イヨは重装甲を頼りに力尽くで抜け、バジウッドは両の手首を捉えられた。剣は取り落としはしないが、行動は著しく制限される。なによりこの超接近状態では体術に通じたイヨ・シノンが圧倒的に有利──だが。

 

 ──そっちだって即座に投げは打てねえ!

 

 抵抗に成功し、この僅かな膠着を作り出した時点でバジウッドは仕事を果たしている。バジウッドが必死に抵抗する内、イヨ・シノンの足は止まるのだ。

 

 一秒止めれば、その間にレイナースとニンブルが剣と槍を目の前の冒険者に突き刺す──と彼が思考したその刹那。バジウッドを戦士の直感ともいうべき根拠なく、しかし確信を伴った危機感が襲い、肌が粟立つ。

 

 同時、バジウッドは『真後ろ』から後頭部を強打された。

 

 

 ●

 

 

 身の捻りによって相手の後背に投げ出した蹴り足を振り上げ、反らせ、相手の後頭部を足裏で蹴るこの技は、イヨの道場では変則裏回し蹴りと呼ばれていた。

 

 互いに組み合うまでの近距離からイヨの柔軟かつ俊敏な五体を駆使して瞬時に繰り出されるこの蹴り技は、ヘルムを装備しているが故の視界の狭さも相まって、相手の真背面から迫りくる慮外の一撃となり得る。

 

 『真正面にいる敵に真後ろを蹴り飛ばされる』という状態は、技の威力以上に完全な不意打ちである点などから、頭部打突による昏倒を容易に引き起こす。例え察知し防御しようとしても、練技を使用して筋力と命中力を増したイヨの腕を振り払う術は無く、両腕を通して身体を縛められている状態での防御では、避ける事も防ぐ事も叶わない。

 

 エンハンサーたるイヨの自己強化技たる練技は、呼吸可能な条件下において無音無動作で、常の呼吸に紛れて瞬時にその効果を発揮する。外見でも動作でも音声でもその前兆は読み取れない──人間は常に呼吸をしているし、その上全身鎧で生身を隠してしまうからだ。

 

 つい先ほどまで堅調に推移していた戦況は一気に加速し、此処からの互いの動作は瞬時の判断の下連続した。

 

 騙し討ちにてバジウッドを沈めたイヨ・シノンはその身を蹴り転がし、既に此方に攻撃を加えるべく突き掛かってきた槍の穂先を視認する──傍から見ていたニンブルとレイナースにすれば、イヨの奇手による一連の動きとその顛末は自明であろう。

 

 自明であるならば、最大の攻撃を確実に当てる瞬間を逃すことも無い。

 

 レイナース・ロックブルズの槍先に凝縮する莫大な力の波動を感知した瞬間、イヨは更に防御力を向上させる【ビートルスキン】を追加発動。鎧の下で、イヨの柔肌がジャイアントビートルの外骨格に匹敵する堅牢さを体現する。

 

 イヨは負傷を恐れない。命ある限り喰らいつく。少年は僅かな間に、手足を吹き飛ばされない様に四肢を縮め、同時に胴体と頭部を庇った。

 

 同時、レイナース・ロックブルズの【重爆】──闇そのものと言える黒色の波動が炸裂し、少年を飲み込んだ。

 

 

 

 

 イヨはおろかレイナース当人ですらあずかり知らぬ事であるが、本来彼女の職業であるカースドナイトはユグドラシル上において、最低でも六十レベル以上の職業クラスを積み重ねる必要がある。

 

 レイナースはその点においては、カースドナイトになれる筈も無いのである。しかし、呪いによって汚れた神官戦士という設定はこの上なく彼女の今の境遇に近く、この世界における固有かつ独自ルートとして──彼女自身はそんなものまるで嬉しくないだろうが──カースドナイトというユグドラシル全職の中でも強い部類の職業に至っている。

 

 呪われし神官戦士カースドナイトは強い部類ではあるが、同時にペナルティも強力であり人気で言えば無かった部類の職業だ。そんな職業で会得できる特殊技術は即死の呪いや呪いの傷を与えるもの──そして、闇の波動を放つ力。

 

 総計レベルの問題からユグドラシルでカースドナイトに至った場合ほどの威力は出ていないものの、本来ならば前提条件クリアの為に六十レベル、そして特殊技術を得るまでの分で七十レベルを必要とする筈の攻撃である。

 

 四騎士最大の攻撃能力、【重爆】の名の由来──その威力が低かろう筈も無く。

 

 槍先から放たれた黒、闇の具現たる波動はイヨを丸呑みにし、次いで爆ぜた。

 

 騎士たちの教練に用いられる広々とした練習場を狭しと爆風が駆け巡り、堅く締め固められた筈の地は抉れ、引き裂かれた大気は悲鳴を上げる。その瞬間確かに──僅かながら、城が震えた。

 

 彼女が呪いに身を汚されてより得たこの忌まわしき力は、凡百のモンスターならば一度に十二十と消し飛ばして余りある威力である──が、相手は超アダマンタイト級の装甲、そして外骨格化した皮膚という生体装甲を併せ持つ最上位冒険者。

 

 ぬぅ、と。濛々と煙る土煙の中から滑る様に進み出てきたのは、赤く染まった鈍色の戦人形。精々軽傷しか追っていなかった身体は、四肢に一つの欠損も無い代わりに全身を等しく暴威に嬲られ、一気に半死半生まで歩を進めていた。

 

 つまり、肉体的にも精神的にもベストコンディションである。

 

 皮膚が裂け、肉は千切れ、骨は軋み罅割れる。一部の粘膜は焼け爛れた。だが意識は健在であり、全身の状態を承知して尚戦闘続行の心構えである。

 

 元より、この一撃は『受けて耐える』前提で突っ込んだのだ。

 

 大技を放った直後のレイナース・ロックブルズを、視界の利かぬ土煙から走り出て即座に叩き伏せる──筈のイヨ・シノンであったが、其処であり得ぬものを目にする。

 

 割れた様な笑みをヘルムから覗かせるレイナースと──その傍らで雷光纏いし黒剣を振り上げている偉丈夫、バジウッド・ペシュメルの姿である。

 

 こと戦場においてイヨは驚愕に足を止めるとか、理解の出来ない現実に思考が停止するという事は無かった。だが、それ故に自身の状態を即座に察した──避けられない、と。

 

 確かにイヨは殺さぬ様に蹴った。しかし、相手は他ならぬ帝国武力の象徴、四騎士である。手加減した等と上からモノを言える相手では端から無いのだ。殺す気で蹴ってこそいないが本気で蹴り飛ばした。それこそ一般兵なら兜ごと頭部を砕かれ四散するほどに。

 

 もしイヨが人並みに思い悩む性質であったらならば、こう疑問しただろう──何故動ける、何故立ち上がっている、と。

 

 バジウッドが地面に倒れ伏してからイヨがレイナースに向き直り、突進し重爆を浴びるまでは一瞬である。眼前の状態を鑑みるに、バジウッドは倒れるや否や直ぐ起き上がり、状況を把握して剣を振り上げた事になる。

 

 男は未だ足が震え、目は微妙に焦点が合わぬようだった。ダメージは確実に刻まれている。だがそれでも力強く剣を振り上げ、今まさに振り下ろさんとしていた。

 

 イヨのそれとはまた違った種類の意志力の強さ故のその耐久、その頑強さ、その不屈を──あるいは人は忠義故のものと表現するかもしれない。

 

 黒剣に纏わりついたその紫電は、明らかに直線貫通の〈ライトニング/雷撃〉ではない。勿論その上位である〈ドラゴン・ライトニング/龍雷〉や〈チェイン・ドラゴン・ライトニング/連鎖する龍雷〉でも無かった。

 

 ユグドラシルでイヨが見知った如何なる魔法とも違うその雷光は、武器に宿ったこの世界固有のもの。

 

 【重爆】レイナース・ロックブルズが四騎士最大の攻撃能力の持ち主とされる以上、威力においては劣るのだろう。しかしその雷は文字通り雷速である。回避の余地がないという点では【重爆】をも上回る──。

 

 第二撃、雷の奔流がイヨに襲い掛かった。

 

 

 

 

 既に傷付き、防御力が大きく落ちた状態で受ける【雷光】の一振りは、魂までも揺さぶられるほどの痛撃であった。

 

 視界は白く染め上げられ、全身を熱が蹂躙し、精神が歪みかける。目玉の片方が白濁して視界を無くし、臓器は傷付き口内に沸騰した様な熱い血が溢れた。

 

 それでもなお、動きに精彩を無くしながらも前進しようとするのは、生来の負けず嫌い、際立った勝利欲──少年の不屈故である。

 

 相手とて無傷では無いのだ。二人は最大の攻撃手段を使った後、その内一人は立っているのも難しい深手で、もう一人は──もう一人は?

 

 生命力の低下が視界を狭め、思考をも低調化させたものか、イヨは今やっと、ニンブル・アーク・デイル・アノックの姿が見えぬ事に気付いた。これは不覚という他無いだろう──例え見えていたとしても、防げたかどうかは別の話だが。

 

 頭上にて、鳥獣の雄叫びが高らかに響き渡った。

 

 天を振り仰ぎ、その姿を認めた時、イヨは自らの不明を恥じる。自明の理すら考え付かなんだ己を大いに恥じ、そして納得した。

 

 ──これを待っていたから、ニンブルさんが後衛だったんだ。

 

 ──騎兵の実力に騎獣が含まれるのは至極当然の事では無いか。

 

 急降下にて騎兵最大最強の攻撃、突撃を見舞ってくるその巨影は──剣を構え片手で手綱を操るニンブルと、その愛騎たる鷲馬、ヒポグリフであった。

 

 

 

 

「……っ──ァ──ぃ」

 

 これぞ【激風】と言える勢いの突進によって地面に押し倒され、喉元に長剣を突き付けられたイヨは『完敗いたしました』と言ったつもりだったが、言葉にはならなかった。身体がボロボロだからだ。息つく間も無い三連撃によって見事討ち取られてしまった。

 

 【アーマー・オブ・ウォーモンガー】の方には血みどろであること以外重大な損害は無いように見える為、一瞬分からないが、イヨは放っておいたらその内死ぬくらいには重傷だった。

 

 勝負ありと見てニンブルが引き、リウルが駆け寄り、少年の身体にバシャバシャと景気よく治癒のポーションを掛けると、やっと人心地つく。

 

「はぁー……」

 

 思わず、イヨは深々と溜息を吐く。十回戦えば十回負ける戦力差があるという事前の想定通りに負けてしまった。

 

 地面に手を突いて立ち上がり、同じくポーションで傷を癒した三者に向き直る。

 

「完敗いたしました」

 

 会釈をすると、最後の止めとなったニンブルがいえいえと手を振った。

 

「正直に言うと、初戦から切り札全てを晒す羽目になるとは考えても居ませんでした」

 

 もっと言うとレイナースとバジウッドの最大攻撃を直撃させ、まさかまだ動くとも思っていなかった。

 

 なるほど、アダマンタイト級冒険者は人間の極限とは言い得て妙である。敵味方を通じ、人間非人間問わず幾多の強者を見た四騎士をして、イヨ・シノンは『人間とはこれほど肉体的精神的に頑丈になれるのか』と思ってしまう程タフだった。

 

「勝ちたかったです……」

「我々も、そう易々と負けてはいられません故……大分、手古摺らされましたが」

 

 流石にあり得ないだろうが、心臓を刺し貫いても最後の拍動の分だけ動き続け、自分を殺した者の首を折ってから息絶えそうな程にイヨ・シノンは闘争心と不屈の塊である。

 

 戦力差で言えば、四騎士の側は勝って当たり前だったし、イヨは負けて当たり前だった。その点においては実に順当な結果と言えるが、心情の面ではそうもいかない。

 

 イヨは負けて当たり前を切り抜ける力を養いにきたのだし、四騎士の方も危うく一人が落ちかけ、二つ名の由来ともなった【雷光】【重爆】【激風】を全て叩き込んでの勝利である。

 

 負けて当たり前とは言えイヨにとって敗北は受け入れがたかったし、勝って当たり前の立場たる四騎士の側にとっても全力投入による余裕のない勝利は誇り難かった。

 

 『実戦同様殺す気で痛めつけて欲しい』とは確かに言われたが、まさか此処まで徹底的に痛めつけねばそもそも止まりもしないというのは四騎士の予想を超えていたのだ。

 

「次こそ、勝ちます」

「此方も、次も勝たせていただきますとも」

 

 互いに言い合うと、四人は皆笑みを浮かべた──レイナースの笑みは少し種類が違ったが──リウルは無事に済んだ事に安堵の息を漏らした。

 

「それであのう、お三方のご都合もあると思いますが、今日はあと何回位お相手頂けますでしょうか。私の方は今日一日でも大丈夫なのですが──」

「……魔力と職務の都合上……あと一度か二度ほど、でしょうか」

「了解いたしました! それではもう少し、よろしくお願いいたします!」

 

 幾ら傷は治ったとはいえまだやるのか、と何となく『中々の激戦だったし今日はこれまでだろう』という雰囲気を感じていたニンブルは面食らった。

 

 本日三戦の内、ついぞイヨの勝利は無かったという──だが、試合内容は徐々に良きものとなっていき、事後の反省会が終わった後、後日の機会の再戦を約束した。互いに得る物の多い一日の練習であった。イヨにしてみれば壁は高いほど乗り越え甲斐があり、競い合う好敵手は強いほど心が沸き立つのである。競い合う好敵手であって、討伐すべき敵ではないという点が重要だ。

 




登場人物が多い分長くなってしまいました。

レイナースさんの闇の波動は書籍二巻のカースドナイトの能力から、バジウッドさんの雷撃はWEB版オーバーロード:前編の設定から、ニンブルさんは空を飛ぶ騎獣を駆るライダーである事からです。

オリキャラで楽をしていた分原作キャラを読み解いた上で捏造を加える作業はちょっと大変でした。これからも頑張ります。

最新刊楽しみですね!


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番外編:ある日のシノン夫妻

本日投稿する二話の内一話目ですが、番外編です。次話が本編になります。内容的にはオリ主とオリヒロインがイチャついているだけです。興味の無い方は飛ばしてくださいませ。



 なんだか最近、矢鱈とイヨが可愛い。リウルは近頃つくづくそう思う。

 

 別に容姿の話ではない。

 一途に純朴に愛情を示してくる仕草がいじらしく、堪らなく愛しい。それは本当に不思議なくらい、思わず見惚れてしまう位に可愛らしくなった気がする。思い返せばそう感じ始めた様のは結婚してから──『俺のイヨ、俺だけのイヨ』になった時からである。

 

 本当の本当につくづく不思議なほど愛しく思える様になったので、かつて助言を求めた三人の女性冒険者に『なんかイヨが急に可愛くなった気がするんだが、なんでだろうな』と尋ねたら『うっわぁ、悩んでたと思ったら遂には相談風夫自慢を始めましたよ』と嫌そうな顔で言われた。

 

 俺は真面目に聞いたのに、とリウルは理不尽に思った。幼気で、健気で、献身的で、慎ましやかで、忠実で、それでいてちょっと抜けていて目が離せない。そんな最近の夫との生活について回る疑問を少し質問しただけだというのに。

 

 リウル自身恥ずかしさを堪えながら真剣な思いで質問したというのに、子供の賢さや伴侶の魅力を語りだしたら止まらない煩わしい輩と同一視されたのは心外であった。

 

「……なあイヨ」

「なぁに? リウルさん」

 

 その声が余りにも嬉しそうに弾んでいたので、リウルはちょっと続きを口にするのを躊躇った。

 最近リウルは気付けばイヨを眺める様になった。その癖、『こいつ俺の夫なんだよな』と今更な事実が脳裏で反響し、無性に胸が苦しい様な、その姿を直視できなくなってしまう様な──兎も角、そうした謎の情動が日々増していた。

 

「……いやさ、俺の短い髪なんて撫でてて楽しいか?」

「すっごく幸せですよ? ずっとこうしていたいくらい……」

 

 即答である。すっごく幸せらしい。リウルはなんと返せばいいのか悩んだ。

 

「頭、重いだろ? 疲れないか?」

「全然重くないです、むしろ癒されます。リウルさんはどうですか?」

 

  俺の頭って治癒効果でもあるのかな、等とリウルは馬鹿みたいな事を考える。

 

「ああうん、高さも丁度いいし程よく柔らかくて快適だぞ。暖かいし」

「えへへ、そうですか。良かったです」

 

 リウルの申告に偽りはない。しかも、体勢上視界正面には常に緩んだ笑みの夫の幸福顔がある訳で。そういう意味では実にリラックスできる体勢ではある。髪やら頬、額を撫でる手も優しくて心地よい。

 

 少しばかり時間を遡ればこの無垢な笑顔が自他の血肉で赤く染まっていたなど、誰も信じないだろうなとリウルは感慨深く思った。イヨ自身は己の肉体がどれだけ傷付こうと苦にせず、痛みを感じはしつつもそれを気に病む事は無いのだが、リウルは最近少し心配である。

 

 言葉にせねば通じないという当たり前の事実が、リウルには少しばかり辛い。面と向かって言えないのだ、恋愛方面においては特に。言ってないのに通じるというのもそれはそれで困るが。

 

 愛する夫のこの幸福そうな笑みを、愛らしい稚気を大切にしたい。守ってやりたい。何時までだって自分の隣でこうして微笑んでいてほしい。余り他の奴の前でみだりに笑みなど浮かべるな。例によって面と向かって口にした事は無いのだが、リウルは遅れてやって来た思春期と突然やって来た結婚生活の中で、年下の少年に対するそうした純朴な愛情とちょっとした独占欲を深めていた。

 

 ただ──これまでの人生で頼れる仲間や家族という者こそあれ、異性との年相応なお付き合いの経験は無く、幼少期に母親を無くして以来『甘えられる相手』というものを持たなかったリウルにとって、こうした他者に身を委ねる行為そのものは誠に不慣れで、心情的には落ち着かないのも事実だった。

 

「……お前こういうの好きだよな。抱き合ったりとか、手ぇ繋いだりとか」

「大好きです。リウルさんはこういうの、嫌ですか」

 

 嫌な訳は無い。リウルはイヨが背負う別離の悲しみや日々の鍛錬の苦痛をも上回る幸せを与えてやりたいのだ。一途に、ただただ誠実に己を想ってくれる最愛の伴侶を幸せにしてあげたいのである。

 

「全然嫌じゃねぇけど、けど」

 

 不慣れなのである。何となく気恥ずかしい。他人に身を委ねるとか、身体を、体重を預ける行為に未だ慣れない。幼い頃母親を無くして以来、家族や友人にすら信頼し信用はしても、依存はせずして生きてきたリウルからすれば、甘える様な行為全般が『相手に負担を掛けている』様で本能的に忌避する感覚があるのだ。

 

 そうした思慮の必要ない相手こそ伴侶だと頭では理解できる。夫と妻の関係である。互いに思いやりは必要でも、遠慮などはいらない。

 

 なんなら普段はリウルがリードする側であり、頼られ甘えられる立場なのだから、たまには頼って甘えてもなんら悪い事は無い──というのが頭では分かっていても、むず痒い。

 しかし一方でリウルの中には愛する他者に全てを委ねる甘い安堵と心地好さに浸り始め、その悦楽を享受している面もあり、心中複雑だ。

 

 リウルは今宿のベットで、両足の間に尻を落として座るイヨの膝に頭を預けていた。要するに愛する夫の膝枕を堪能していたのである。

 

 必要とあらば荒れた地面の上でも問題なく安眠できるリウルであるが、イヨの膝枕という寝具は、高さは程良く柔らかさは心地良く高めの体温は落ち着く。しかもイヨのやわっこい両のお手々が髪を撫で付け、安眠を促す様に頬や頭を愛撫してくる。

 

 イヨの少女染みた体躯など何処を取っても細く小さく薄く幼いのに、何処も柔らかな肉感で触れれば心地良く、温かい。香水など付けていない筈なのに何故良い匂いがするのだろう。リウルは不思議に思った。

 

 イヨは毎度の練習で必ず血塗れ泥塗れ汗塗れの戦場帰りが如き有様になってしまうので、その度に身を清めている。水浴びをするか、購入したマジックアイテムを用いて衣服ごと自身に〈クリーン/清潔〉を掛けるのだ。

 

 なので人並み外れて身綺麗なのである。日に数回も身を清めるのだから貴族子女でもそうはいない位に結果として清潔だ。その為悪臭など全くしないし、生き物として当然あるべき体臭すら薄い。でも、僅かに甘い良い匂いがする。その様にリウルは感じる。

 その薄い自然な体臭がリウルにとって好ましいだけなのだろうか。もしもこの少しばかり変態染みた執着に気付かれたらと思うと恥ずかしい所の話では無いので、まさか本人になど聞けはしない。断じて知られたくない。年上の威厳が崩壊する。

 

 愛する夫の奉仕精神溢れる膝枕は、一度恥じらいや意地というものを捨て去ってしまえば最早離れがたく、手放しがたいほどの優れた寝具であった。

 

 場所が高級宿のベットであるからして枕は当然存在するのだが、今更そちらに取り換えようという気は正直全くしない。

 

 事実リウルは頭の隅っこで『俺がこのまま寝ちゃったらイヨは動けないし、ずっと同じ体勢でいるのは苦痛だろう』と考えつつも、その他の大部分では睡眠の安楽に委ねる寸前の状況にあった。

 

 そのリウルの『寝てはならじ』という思考を呼んだが如く、イヨは微笑みつつ囁いた。

 

「僕はもっとリウルさんに頼ってほしいし、甘えて欲しいんです。僕なら大丈夫ですから、リウルさんもちょっとお休みしましょう?」

「………………じゃあ……仮眠取るから、一時間経ったら起こしてくれ」

「了解しましたぁ……お休みなさい、リウルさん」

 

 結局リウルは三大欲求の一つ睡眠欲の誘惑に耐え兼ね、イヨの猫撫で声に促されるまま、夢の世界へ落ちていった。その間際リウルの脳裏に浮かんで消えたのは、ある理解であり悟りであった。

 

 こういう甘えられたがりモードの時のイヨは誰かに似ていると、リウルは前々から思っていたのだ。それが具体的に誰に似ているのか分かった。というより、思い出した。

 

 母だ。

 

 最早記憶が薄れる程の幼き頃──冒険者への憧れすらふわふわとしたものだった、一人の少女リウル・ブラムの幼少期。全幅の信頼と愛情を寄せていた母の姿に、イヨの雰囲気や顔付きが何故か被るのだ。

 

 ──イヨが母さんに似てる? んなわきゃねぇのに……。

 

 まあイヨの外見は男としてはかなり例外的であるから、リウルの父親か母親のどちらかと言えば断然母親に似ている。リウルの父とイヨの共通点など人間の雄である点くらいだ。他の全ては全く違う。

 

 それはそれとして、母とイヨの顔はかなり異なっている。まず性別が違うし、年齢も違う。リウルは母の三人目の子だった訳で、リウルを生んだ時点で母はもう三十近かった筈だ。顔立ちの系統もかなり違う──イヨはどちらかと言えばおっとりしたとした、しかし明るい笑みが似合う幼気な女顔だ。

 

 リウルの好きな顔である。別段少女の様な顔の少年が好きとか、そんなこんがらがった趣味は無かったのだが、なんだかいつの間にか好きにさせられていた感がある。顔が好みならば体型も好みだ。少女的で、細く柔らかく触れると瑞々しい弾力があって温かい。

 

 ──なんか俺そればっかり言ってる気がするな。

 

 身体の感想ばかり言っているとまるで自分がイヨの身体にしか関心が無い様だ。断じてそんな事は無い、とリウルは内心で自己弁護。

 同性にも異性にも全く興味関心は無かったし今も無いのだが、イヨだけは愛おしい。髪を耳に掛ける仕草とか、ちらりと見えるうなじとか、前掛けと三角巾を付けて食材と向き合う姿とか。何故か目を奪われる。

 

 リウルの母親は容姿自体は整っていた方だが、正直美女とは言いにくい顔だった。残っている肖像画などを見るからに普段から相当キツイ表情をしていたのが分かる。美しい、綺麗と言った褒め言葉より怖そうという感想が先に立つ迫力溢れる眼力の女性だった。

 

 リウルの髪を長く伸ばしてドレスで着飾り、女盛りの年齢にして身体が女性らしさを増せば、髪と瞳の色以外はほぼほぼ母の似姿になるものと思われる。確か、母も十代の頃は少年の様だと言われていたとリウルは伝え聞いていた。

 

 それでも、絵画などの記録では無く、リウルの記憶にある母は常に優しく微笑んでいる。怖いと思った事は一度も無い。

 

 リウルは夢うつつのままに考える。目の前にはイヨの顔。リウルと居る時特有のただひたすらに幸せそうで充実感溢れる──同時に、こう言ってはなんだが、何にも考えて無さそうな子供っぽい──笑顔。

 

 ──母さんとイヨの共通点は──俺に無償の愛を与えてくれる所?

 

 其処まで思い至って、承知しがたいこっぱずかしさを直視し兼ねたリウルは、夢の世界に落ちていった。

 

 

 

 

「了解しましたぁ……お休みなさい、リウルさん」

 

 リウルさんって思考や目線が男性的なんだよね、と最近つくづくイヨは思う。思えば初めて会った時、イヨの性別を勘違いしていた時も胸回りや腰回りを凝視された様な気がする。リウルが異性の身体──男性の身体つきを注視している処は見た事が無いのだが、女性の身体について探る様な目付きをしているのは時たまあるのだ。

 

 結婚して以降、イヨはリウルの視線を感じる事が増えた。リウルはリウル自身が自覚するよりももっとずっとイヨの身体に執着していて、イヨはそれを感知していた。リウルはイヨの太腿やお腹、腰回り、首筋、頬や唇などに特段の関心を寄せているらしい。

 それと、体臭に対しても意外なほど執着が強い。身体的に密着した時など、リウルは事ある毎に鼻で深呼吸をしている。恐らくリウルにしてもこの行動自体は半ば無意識だと思うのだが、彼女の中でイヨの匂いになにか好ましく感じるモノがあるのは確かなようだ。

 匂いに対する興味関心について、『遺伝子的・本能的に相性の良い相手の体臭を、人間は好ましいものとして感じる』という俗説を知っているイヨは内心で殊更に喜んでいた。どんな事柄であれ、愛する異性に気に入られる要素が己にある事はイヨにとって幸福なのである。

 

 視線もそうだが、イヨのアプローチに対するリウルの反応は何処となく思春期の──異性慣れしていない少年的ですらある。まあそういった特徴ごと纏めて好きになってしまったイヨからすれば全部愛しいので気にした事は無いけれども。むしろパートナーが自分に興味関心を持ってくれるのはどんな形であれ嬉しく、望ましい事だった。

 

 そういうリウルこそを満たしてあげたい、抱き締めてあげたい。愛し愛されたい。ようやく思春期が訪れたらしい年上の伴侶が尚溺れるほど、目指せもっともっと相思相愛。

 

 こと恋愛に関してのみ、リウルの億歩先を行くのがイヨである。何にも考えていない訳がない。恋愛に関して銅級からやっと一歩を踏み出したばかりのリウルの目にどう写ろうとも、その脳内は幸せや充足に浸ると同時に、戦闘時並みに熱を帯びている。

 そのイヨとて十六歳の、思春期真っ盛りの男である。当然愛する女性と手を繋ぎたい、抱き合いたい、キスをしたい、関心を引きたい、頼られたい、甘えられたいという欲求がある。

 

 だと言うのに、リウルは何時まで経っても夫婦という二人の新たな関係に慣れてくれない。もうそれなりの日数は経つのに、一向に『なんか恥ずかしいし、緊張する……』というふんわりとしていて、それでいて強固な羞恥心を捨て去ってくれないのである。

 

 口には出さないながら多少の独占欲や支配欲なども芽生えてきたようで、そこは進歩だと思うが、イヨとしてはそうした感情をもっと表に出して、自分に向けて欲しいと思う。リウルに独占欲や支配欲があるのならば、イヨには被独占欲や被支配欲、奉仕欲があった。

 

 表面上は何の問題も無いように見えようとも、リウルは不可視なる羞恥と遠慮の一線を持っており、その向こう側に踏み入るのを頑なに避け続けている。

 

 夫婦でも恋人でも無かった時の方がスキンシップという意味ではむしろ充実していたかもしれない。少なくともただ単なるパーティーメンバー、気の合う仲間という関係だった時のリウルは手を繋ぐ事に躊躇いを覚えたりしなかった。

 

 勝手にうろつくんじゃねーよと言わんばかりにむんずとイヨの手を握り締め、颯爽と歩いていったものである。

 

 今のリウルは『今までは普通に繋いでたんだし、今更止めたら意識してるのが丸わかりだよなー……でも今までとは関係が違うんだし、むしろ公私のけじめって意味では人前でも手は繋がない方が……』等と悩みに悩んだ結果答えが出る前に目的地についてしまう、といった具合である。

 

 公私の私でもこうだ。公私の公、冒険者として仕事中である時のリウルなど全ての悩みから解放された様な顔で生き生きとしている。仕事中にそういうのは無しと互いの同意の下に決めているから、そもそも悩まないで済むという訳だ。

 

 リウルの悩みそのものについてはこれからの生活の為にも慣れてもらうしかない、無理に急いでも良い事は無い、自分の方がリウルのペースに合わせなければと思っていたイヨだが、流石に季節が移り変わるほど月日が経っても一向に慣れないというのは想定外であった。

 

 リウルは自分のそうした現状に謎の敗北感を覚え、同時に何時か勝つと意気込んでいるにも関わらず、勝利する為の具体的な行動や努力を放棄しつつある。結婚指輪を送ってくれた時などかなり夫婦らしい行動を取ってくれたのに、それ以降進歩らしい進歩が無いのだ。

 結婚指輪を送ってくれた時の嬉しさや感動をイヨが口に出せば、リウルは恥ずかしがって声を荒げるばかりでもう一度そうした行動を取ろうとはしてくれないのである。

 

 ──寝ている僕の身体を抱き締めたり撫で回したりするのは恥ずかしく無い癖に……。

 

 イヨは寝つきが良い。目を閉じてから数分経たずに寝てしまう程だ。だが同時に寝起きも良く、起きる時は一瞬でパッと起きる。

 

 寝に入って直ぐの頃に身体を触られればそりゃあ起きるというものである。起きているとリウルに悟られない様にするのは、単にリウルに気を使っているからである。最早意識の有るイヨと手を繋ぐのも恥ずかしいリウルだが、寝ているイヨを抱き締め、撫でるのは何故だか彼女的にはセーフらしい。

 

 かと言って、『起きてますよー』等と言えばリウルが──一方的に──咎められた様な気になって真っ赤になるのは目に見えている。イヨを抱き枕にしたい、お腹やら太腿を触りたい、匂いを堪能したいと他ならぬ妻が思うならイヨとしては全く構わない所か望ましく嬉しい事なので、寝たふりをして好きな様にさせているのだ。イヨも幸せだ。

 

 そうこうしている内に互いに気分が安らぎ、夢の世界に落ちていくのがシノン夫婦の就寝パターンであった。

 

 これ以上待っていられない、と決心したイヨは行動を起こした。リウルの自然なペースに任せていたら夫婦らしい夫婦になるのに何年かかるか分かったものではないからだ。

 

 あくまでも接触のレベル自体はリウルに合わせるが、イヨの側から積極的にスキンシップを敢行する事にしたのである。イヨ『が』甘えたい、イヨ『が』甘えられたいという形であればリウルは──自分の方が上手の立場であると思えるなら──『しょ、しょがねぇなー』と一定の冷静さを残したまま触れ合いを許容する事が出来るから、それを利用してだ。

 

 現在もその活動は継続しており、帝国最高級の宿の一室で膝枕中であるが、愛しい妻の寝顔を見ながらイヨは思う。リウルさんの方から強請ってくる様にしてやるもんね、と。

 

「リウルさんは僕の家族になってくれた。僕の寂しさに寄り添って、悲しみを癒してくれた。だったら僕もリウルさんにそうしてあげたい。なれるものならリウルさんのお母さんにだってなってあげたいんだよー?」

 

 甘えてもいいのである。イヨにだけは。

 むしろ甘えてほしい、頼ってほしいのである。イヨにだけ。

 

 リウルの場合は他の家族は存命であり、取ろうと思えば幾らでも連絡が取れる状態だ。だがしかし、完全に立ち直っていると言って良い程度ではあるが、幼少期に母を無くしているという経験はリウルの中に、本人すら自覚が薄い小さな小さな傷跡と、その傷跡に端を発する忌避感を残しているとイヨは見ている。

 

 リウルがその存在で家族や友人と二度と会えないイヨの気持ちを慰めてくれた様に。イヨもリウルの喪失を癒してあげたい。

 

 イヨはリウルを求めるし、リウルに求められたい。イヨはリウルを独り占めしたいし、リウルに独り占めされたいのである。

 自主自立で独立独歩、必要とあらば一人でなんでもこなせるリウルも素敵なのだが、そこはこう、もうちょっと夫である自分に甘えて欲しいのだ。

 

 イヨは戦いと同じ位恋にも愛にも全力で挑む。恋愛においても生まれついてのファイターなのである。惚れた相手との結婚という結果を勝ち取ったイヨであるが、結婚がゴールでは無くスタートである事を本能的に知っていた。

 

 遥か遠き故郷を思い起こさせるリウルの黒い瞳、黒い髪。短く強い黒髪を撫でながらイヨは思う。愛おしい、と。あのクソ女吸血鬼の髪も黒かったがあれは邪気で染まった様な感じであり全然イヨ的には親愛もクソも無い。討伐対象である。いずれ滅ぼす。絶対に。

 

 既に朝起きて髪に櫛を通す行為などはイヨの手によって行うものと習慣化させていた。それに続いて狙うは膝枕の習慣化だ。回数を重ねて徐々に忌避感を無くしてやるのだ。

 腕枕なども実は憧れがあるのだが、あれは顔の距離が近いのでリウルの方が恥ずかしがることが予想される上に、イヨの腕では枕としてボリューム感が足りず不適格と言わざるを得ない。

 

 人の気持ちは日々移り変わる。どんな不幸もどんな幸福もやがて順化し、日常になる。すると特別感が失せ、伴う情動も平坦になる。恨みつらみが時間が過ぎ去るにつれて薄まるように、愛も恋も永遠ではない。その他全ての感情と同じく訪れ重なる時間によって埋没し、薄まっていく。

 

 一時の成果を永遠不変のものと勘違いし妄信し続け、顧みる事見詰め直す事を忘れると、あらゆる全ては経年劣化や変事の前に脆く崩れ去る。

 

 なればこそ、日々新しくより強く愛を恋を重ね塗りし、更新していかなくてはならない。慣れや忘れを上回るほど恋し恋され、愛し愛され続けるのだ。生まれて初めてのこの恋が愛が終生続けられればどれだけ幸せかと、イヨはそう思っているのだから。

 

 勝利と実力向上の為に治る程度の身体損壊などどうでもいい様に、愛しい妻と終生添い遂げる為にはどれだけの努力も惜しくない。

 

 リウルさんのペースに合わせてもう少しゆっくり事を進められたら良かった、とイヨは今でも思っている。異性にまるで興味の無い段階から一気に結婚まで事を進めてしまい、リウルは困惑しただろう。そしてここから更に順化を進めるのだ。

 でもしょうがない。何時死ぬとも分からぬ世界なのだ。気持ちを打ち明けられずして死んだらそれこそ死にきれない。

 

 炊事洗濯は勉強中。リウルの好む味付けも勉強中だ。食べ物には結構こだわる人なので、そこら辺は努力のし甲斐がある。

 

「お義父さん……には会えないかもしれないけど、お義兄さんやお義姉さんに会うの、楽しみだなぁ」

 

 リウルが散々面倒臭いかったるい忙しいと先延ばしに先延ばしを重ねていた彼女の実家への初訪問も、帝国からの帰還後遂に実現する予定なのである。これはリウルにとっても初めての帰郷である。年末年始にかけて三日ほど滞在する予定だ。こればっかりはイヨも渋るリウルが頷くまでごねにごねまくってと首を縦に振らせた。

 

 イヨ・シノン、未だ攻略中かつ売込み中──ッ!

 




時系列は帝都滞在中の何時か。
こういう前後をあまり考えなくていい話は簡単に書けるんですが、本編はそうもいかないので書くのが大変です。

今後も時折、本編に混ぜ込むには微妙な話、一話分には満たない分量の話を番外編という形で同時投稿するかもしれません。
次の番外編は王国舞台で蒼薔薇のみなさんとブレインさんを描写する予定です。


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帝都道中

本日投稿する二話の内、二話目です。本編です。一話目は番外編になります。


 珍しい、と少女──アルシェ・イーブ・リイル・フルトは思う。

 

 僅かに見えていた小さな背中が雑踏の向こう側に消えていく。揺れる白金の三つ編みは、規格外に巨大な戦士と黒い斥候らしき人物の後を追って走り去った。

 

 年齢はどう考えても十代後半には至るまい。普通に考えれば十代半ば、もしかすると前半という事さえあり得る。それくらい幼げで擦れていなさそうな顔、未成熟ながらも整った小さな体躯だった。

 

 見た事の無い人物だ。面識がないと言うだけでは無く、何となくの心当たりすらない人物だ。目立つだろうに、もしかしたら他の都市から来た冒険者なのかもしれない。

 

 一般的に冒険者等という言葉から連想されるような人物像は物々しい武装に身を包んだ屈強な成人男性だ。人によってはその人物像に、逞しいもしくは頼もしいといった好意的な印象か、汚らしいや荒っぽく物騒等の嫌悪や嫌厭から来る言葉が付け足される。

 

 勿論、冒険者にも女性や年若い少年少女と言うべき年齢の者はいる。だが割合で言えば少数派の存在だろう。そうした例外的な少数者を一般像として思い浮かべる人間は少ない。

 

 ましてや小柄で育ちの良さそうな少女を思い浮かべる者などもっといない筈だ。存在しない、と断言してしまってもいいかもしれない。

 

 一体どんな事情で裕福そうな幼い少女がそうした職業に身をやつすと言うのか。例え実家が没落するか何かして早急に仕事を探して金を得ねばならないという事情があったとしても、だからと言って冒険者になろうなどと考える上位階級出身の少女がいる訳は無い──例外的な、本当に例外的な能力と事情を抱えてしまった者は別として。

 

 そして何らかの事情でなってしまったとしても、前述した様な武骨で粗暴とすら見られる男連中に混じってモンスターとの殺し合いに身を投じ、どうして命を長らえる事が出来ようか。

 

 なる為の制限は多少の金銭以外無いに等しく、法的な拘束は緩く、上り詰めれば身分の上下すら超越した名誉と富を手に出来る職業──それが冒険者である。

 一方ただの村人が憧れや食を繋ぐためだけの目的で冒険者になった場合、五度の依頼を達成する前に半分が死に、残った五割の更に半分は引退を決意。それでも冒険者を続けていく残った者たちも一年以内に更に更に一割五分が死亡する──という話もあるくらいだった。

 

 大雑把に、戦う職業として同じ分類になる兵士や騎士などの軍人よりも遥かに死亡率が高く、死んだとしてもなんの補償もない。低位でいる内は殆どの国において名誉どころか半ならず者めいて見られる事すらあった。

 どんな仲間を集めどれだけ安全を確保しつつ危険を切り抜けるかも含め、正に自分の力以外に何一つ頼れるモノの無い仕事──そうした厳しい現実もまた、冒険者そのものである。

 

 そして、そんな冒険者より一歩社会の裏や非合法に近い所で生きる黒に近い灰色の存在──それがワーカー。冒険者から脱落した者たちとされる、アルシェと仲間たちの仕事だった。アルシェたちは、ある意味冒険者よりも過酷な仕事をこなしている。

 

 非合法の仕事すらも受けるワーカーだが、より悪質で違法性が高まるとダスクワーカーと、また別の呼び方をされる。近い所か黒の存在だ。アルシェの所属するチームであるフォーサイトは其処までいかない、様にしている。

 

 アルシェたちフォーサイトが冒険者では無くワーカーである理由は、ぶっちゃけて言えば金が必要だからだ。冒険者組合を中間に挟まない分、依頼主からの報酬がそのまま手に入れられるだけ──勿論組合という組織からの庇護や利益もまた受けられないので危ないが──実力と世渡りの冴えさえあれば儲かるのだ。

 

 十代でどこか幼げな雰囲気さえ残っている少女であるアルシェもまた、先程見掛けた少女と同じく非常に珍しい存在だった。

 

 アルシェには類稀な天才と評すべき優れた魔法の才能が有り、しかもその才は若くして既に大輪の花を咲かせていた。仲間にも恵まれた。

 そして家は没落していて、幼い妹と、少なくはなったものの未だ付き従ってくれる家臣、使用人たちがいて、品の良い顔で品の良い服に身を包んではいるけども、未だ現実を見知る事無き両親もいた。

 

 能力があり、金を稼ぐ必要があり、だから必死に金を稼いでいる。アルシェの事情とはそういうものだ。

 

 同年代でアルシェと同等の能力を持っている者など、万人に一人もいないだろう。万を十万や百万に拡大した所で複数人いるかは非常に怪しい。十代で第三位階とはそれほど隔絶した早さであり、高みだ。

 

 先程見掛けた三つ編みの少女の首元に揺れるプレートは一瞬の事だったのでよく見る事が出来なかったが、冬には珍しい好天の陽光を反射する強い輝きは、人垣を間に挟んでいてもアルシェの目に飛び込んできた。

 

 あの輝きは、銅や鉄と言った金属の鈍い輝きでは無い。銀か金か白金、もしかすると魔法金属の輝きだったやも。

 

「──ふふ」

 

 ふと、アルシェの口から小さな笑いが漏れる。アルシェは没交渉な人見知りでは無いけども、積極的に人と関わる社交的なタイプでも無い。学園にいた頃からどちらかと言えば静かで落ち着いた方だったが、ワーカーとなってからはよりそうした振る舞いに拍車が掛かった。

 

 仲間だけと共にいる時ならばいざ知らず、他の同業者たちの前で年頃の娘らしい姿などを見せるのはなんらプラスにならない行為だ。ただ侮られるか、もっと質の悪いトラブルを招く可能性もある。だから年相応のそれとはかけ離れた、一人の仕事人たるワーカーの所作が身に沁みついた。

 

 そんなアルシェが自然に浮かべた微笑みだった。

 

 一見の姿は兎も角、三つ編みの少女が身に着けていた装備品には多くのマジックアイテムが含まれている様に思えた。これ一つとってもその他大勢の未熟者ではあるまい。

 仲間たちも、ぱっと見ではあるが結構強そうだった。まあ、アルシェが信頼する三人の仲間には敵うまいけども。

 何より、名も知らぬ少女の顔には笑みが浮かんでいた。彼女は仲間に笑顔で駆け寄る事が出来るのだ。

 

「──頑張れ」

 

 アルシェが笑みを浮かべた理由、それは共感であり親近感だった。同じ位の年頃の、似た様な背格好な少女が冒険者として活躍している。その事実に、僅かに袖振り合った多生の縁におかしさを感じたのだ。

 

 冒険者やワーカーなんて仕事をしていたら命が幾つあっても足りない。

 看取る者も無く荒野で一人屍を晒す。

 依頼の中途で失敗し、死してモンスター達に食い荒らされる。

 

 そうした結末は、冒険者やワーカーの最期としては特に珍しくも無い有り触れたものだ。ワーカーの場合、時として同業者との殺し合いなども有り触れた死に様に追加される。

 

 夢見た栄達を実現して円満に引退する者の数百倍、ひょっとすると数千数万倍はそうして無名に朽ちる者がいる。

 

 それでも。

 

 どんな理由があって冒険者なんてやっているのか、知る由も無いけれども。

 

「──頑張れ」

 

 もう一度そう言って、アルシェは名も知らぬ三つ編みの少女、とうに雑踏の向こう側に消え、全く姿の見えない彼女に小さく手を振った。

 

 目的の為、守る者の為、頼れる仲間と一緒に頑張れ、と。

 私も頑張る、と。

 

「アルシェ、どうしたー?」

「何か珍しい物でも見つけましたかね」

「知った顔でもいたの?」

「──なんでもない」

 

 仲間たちの声に、自分が知らず知らず歩調を緩め、遅れていた事を知る。

 

 アルシェ・イーブ・リイル・フルトはきっぱりと前を向き。

 

 三つ編みの少女がしたように、頼れる年上の仲間たちに追い付くべき、駆け出した。その整った横顔には珍しく、小さく目立たない、しかしとても美しい微笑みがあった。

 

 

 

 

「どうかしたか?」

 

 前方のガルデンバルドからそう問われたので、イヨは向き直って答えた。どれだけ首都の人通りが多かろうとガルデンバルドを見失う事だけは有り得ない──なにせ巨大だ──ので、イヨは安心しておのぼりさん全開できょろきょろしていられた。

 

 そもそもこの人並みの一部は【スパエラ】の面々の首に下がったプレートによって発生している。

 

「いやちょっとね、さっき僕と同じ位の武装した女の子を見かけたんだよ。プレートは下げてなかったし、ワーカーさんかも。珍しいなって」

 

 イヨが口にした『僕と同じ位の』という言葉は背丈を指したものだったが。それに対するガルデンバルドとベリガミニの反応はこうである。

 

「イヨと同じ位の? それは外見年齢でか、実年齢でか? それとも身長か?」

「その少女も実は少年だったりするのかのう」

 

 どういう意味じゃい、と思ったが反応するのも子供っぽいのでイヨはあえて無視する。

 

「一瞬だったから良く分からないけど、多分十代半ばじゃないかな? 後半だとしても十九とか十八では無さそう。杖を持ってたから魔法詠唱者だろうね」

 

 プレートという分かりやすい目安が無いので実力は分からない。元より魔法の力は身体の内に宿るので一瞬の目視で実力を推し量るのは困難である。だが、身に纏った装備品の質とその着こなしは、職業に関係なくある程度通用する実力判定基準だ。

 

「本人も仲間っぽい連中も完全実用で堅実な、見た目以上に良い装備をしてたな。少なくとも第二位階は使いそうだ。もしかしたら第三まで行ってるかもしれねぇ」

「ほほぅ! 十代でそれとは紛れも無く天才の部類じゃのう。かなり名の知れたワーカーやもしれんぞ」

 

 雑踏の中でも目ざとく高い実力の持ち主たちを感知していたらしいリウルが言葉尻を引き継ぐ。その言に興味をそそられたベリガミニが背後を振り返って少女魔法詠唱者の背中を探すが、とうに人並みに紛れていて見つけられなかった。

 

「ね、珍しいよね。魔法って本当に難しくて訳わかんないのにすごいなーって」

「イヨ坊も魔法詠唱者じゃろうに」

「僕は神様に祈ってたら使える様になったから。魔力系は頭が付いていかなくて」

「幾ら信仰系とは言え、それだけな訳は無いと思うんじゃがなあ……」

 

 因みにイヨはベリガミニから魔力系魔法についての基本的な理論を拝聴した事があるのだが、最初から最後まで聞いて僅かも理解できなかった。途中何度か数学か物理の授業を受けている様な気分になり、『すごいと思った』と授業後に感想を言ったらベリガミニは頭を抱えた。少なくとも学問としての魔法詠唱者の才能はイヨには無さそうだ。事実神官でもある以上感性で魔法に習熟する系統ならばむしろ向いているのかも知れないが。

 

 因みに因みに、イヨはフールーダに魔法に関する質問をされた時も『すいません僕信仰系なので……お祈りしたら使えました』と答えてかの老賢人に膝を突かせた。異大陸からの新たなる魔法知識を僅かでも少しでもと期待していた老人にとって、イヨの言葉は絶望に値するものだったらしい。

 

「冒険者でもそうだけど、あの位の子でワーカーって大変だよね?」

「露骨に話を──まあ、そうじゃな。公国程ではないにしろ、ワーカーの社会的な地位は冒険者と比べてすら低い」

 

 国家に所属しない武力集団たる冒険者だが、それ故に冒険者組合という組織の決まりを守るように定められている。ルールをないがしろにすれば組合から警告や追放処分もあり、噂では特別悪質な規約違反者には組合が抱える暗殺集団が送り込まれるという。

 

 ワーカーにはその組合という枷すらなく武装してグレーゾーンの、時には丸っきり非合法の仕事をしていたりするのだから、多くの国で裏社会の住人と半ば同一視される。

 

「組織の理屈や利益に左右されず人を助けたいという理由であえてワーカーをやっている人もいたりするから、驚くほどの善人もたまにいたりするんだがな」

「人には色々事情があるからのう」

 

 冒険者からのドロップアウト組である彼らは警戒と嘲笑を込めてワーカーと言われるが、公国では其処に更に侮蔑が混じる。それぞれの個々人は兎も角、公国では『冒険者』は時に英雄の卵的な見方すらされる職業だ。他国より社会的な地位が高い。

 

 冒険者としての陰の側面を求めた彼らに、『英雄から背を向けた者たち』という世間の視線まで追加されるのだ。具体的に言うと警備兵からしょっちゅう声を掛けられて大変らしい。

 一方、ガルデンバルドが上げた様な組合や神殿のルールに左右されず人を助ける目的でワーカーをやっている様な一部の人々は公国ではホワイトワーカーとも分けて呼ばれ、陰ながらの称賛を送られるアンチヒーロー的な扱いを受ける。

 

「まあ何か事情はあるんだろうな。知らねえけど」

 

 リウルはどうでも良さげである。冒険者に憧れて生まれ故郷を出た彼女であるから、冒険者から脱落した者たちに良い感情は無さそうだった。

 

「そんな事より今日の予定だよ。陛下の所が最優先だったけど、冒険者組合魔術師組合、それに神殿。さっさと挨拶回りするぞ」

 

 言動は時として荒いが、元お嬢様という生まれ故かそれとも仁義を通す不良めいた価値観か。彼女は礼儀に対して細かく、そしてマメだ。頻繁に指名依頼をくれるお得意様には時候の挨拶を欠かさないし、イヨの時もそうだが新しいメンバーが入ると何らかの形で紹介に訪れる等、縁の繋ぎに熱心である。

 

 初めて訪れる帝国首都であり、そして今や自分たちはアダマンタイト級。かつて憧れ仰ぎ見た大先輩たちと同じ地位。夢に見て、そして辿り着いたその高き位を汚すまいと振る舞いには一層気合が入っている。

 

 それなりの期間滞在する予定なので、関わりそうな所には前もって顔を出しに行くのだ。【スパエラ】は未だ神官募集中だし、異教の神を信仰するイヨの事など、両組合は元より神殿にも気を使っておいて損は無い。

 

「オス──」

「最後! 散々四騎士の方々と戦ったろ、何時間か早く行った所で日程はそう変わんねえよ。ハコの都合やスケジュールだってあるだろうしよ」

「パル──」

「明日にしろ。そもそも向こうの定宿だって分からないんだから今日は無理だ」

 

 ここぞとばかりに二連挙手したイヨの発言をリウルが切って捨てる。

 

「俺は明日ナザミ殿との約束があるからな。そっちには行けんぞ」

「明日は儂も終日魔法省じゃからのう、そのつもりでな。いやー、渡した物が物とは言えまさか部外者である儂に許可が出るとはのう。言ってみるもんじゃ」

 

 若手二名のやり取りを傍目に笑う年長者たちである。前回の反省を生かし、日常時でも通信手段は付けっぱなしにしておくのでその辺は大丈夫だろう。

 

 今回の帝国での一件で肩の荷が下りた気分であった。

 

 イヨは魔法が怖い。脅威であると感ずる。自分がこの世界に持ち込んでしまった幾つものアイテムに脅威と恐怖を覚えた。

 

 元々、イヨはユグドラシルをじっくり遊ぶ為にレベル下げまでしていたプレイヤーだ。持ち物には大した物が無かった。ネタアイテムは充実しているが、ユグドラシルプレイヤーならその大半が口を揃えて価値の高い物は無いに等しいと評しただろう。

 

 それでも、魔法詠唱者の道自体が狭き門であり、その中でも第一位階以上の魔法を扱えぬまま世を去る者も珍しくなく、第二位階ですら一万人に一人の才覚が必要とされ、第三位階に至れば魔法詠唱者として大成したと見做されるこの世界では、ユグドラシル産のどうって事の無いアイテムだって人命を蔑ろにしてでも奪い合うに値する秘宝と成りかねなかった。

 

 第六より上というとこの世界では人跡未踏の神の領域、専門書よりもお伽噺や神話の領分である。

 

 ゲームとしてのシステム上微妙な代物になってしまっていた疫病を撒き散らしたり害虫の群れを呼ぶ魔法、多数の雑魚を召喚する魔法などそのまま街一つに対する大量虐殺手段に早変わりだ。

 

 第五から八位階の魔法が籠ったアイテムなど使いようによっては物理的に国が揺れる代物だ。単純な攻撃魔法でも第六より上ともなればその威力、効果範囲は一度に三桁の命を殺傷するも、或いは可能であった。

 

 フレンドリーファイアが有効で、乱戦に範囲魔法を打ち込めば味方も焼いてしまうこの世界では、下手に低レベルな内に巻物や短杖で高位魔法を使える状況にあっても使いにくい。万が一にも味方を巻き込めばただでは済まないし、魔法によっては周辺環境ごと更地になる。街中では絶対に使えない。

 

 よりにもよって、イヨが持っている巻物や短杖の多くは遊び用だった。超位魔法や第十位階魔法が乱れ飛び、プレイヤーの多くがレベルカンストしているユグドラシルでは遊びに使うものに他ならなかった。

 

 真面目にゲームをやっている時では無く、友達と一緒に遊んでいる時にでも『奥の手を使わせてもらおう……!』『馬鹿な、何故お前がそれを……!?』といった風に互いに戯けてオリジナル詠唱などを加えてぶちかましたりする奴だ。どうせ味方の魔法は害を及ぼさないし、敵として当てられ死んでもすぐ蘇生してやり返してやる気楽な遊びだった。

 

 エフェクトが派手で、大規模で、高火力で。つまりゲーム内ならエンジョイ勢的には人気の高い魔法で、此方の世界なら対象を周辺一帯ごと破滅させる禁忌の魔術だ。多分皇帝ジルクニフに献上した物のうち、第八位階のそれなどは帝城を崩せる。

 

 仕舞ったままにしていた玩具をふと手にした時、【スパエラ】の三名から危険性を説かれ、騒乱を招き直接的な被害以外にも多くの人を殺しかねないと理解したイヨは生涯アイテムボックスに封じ、人目に触れさせまいと思った。

 

 だがそれにベリガミニが強硬に異を唱えた。遥か太古の超魔法文明の遺産──イヨはアイテムの出処を古代遺跡で見つけたと言い繕ったのだ──を持ったイヨが同じく超高位転移魔法でこの大陸に来た事に運命めいた、人の域を超えた何者かの導きすら感じると、老魔法詠唱者はそう言った。

 

 死蔵するより活かすべきだ、悪用の危険があるというなら信頼の出来る相手に託すべきだ、幸いの今の時代には人類史上最高峰の大魔法詠唱者が存在する、その方に──と。

 

 仲間内で幾度も話し合いを重ね、結局その通りにする事にした。

 

「ねぇベリさん」

「なんじゃ、イヨ坊」

「陛下とパラダイン様、本当に大丈夫だと思う?」

 

 自分は単なる偶然によって、理由なくただただこの世界に来た──そう察し始めていた当時のイヨに、ベリガミニの語る運命論は甘美な、抗いがたい魅力があった。

 

 役割があった。人の役に立てる役割が。それを果たす事が出来る。魔法の進歩、新たなる地平、より深き深淵の開拓は遠近の未来で莫大な人類の財産となる。規模が大きくて耳障りのいい話だった。だからこそ一般市民として育ったイヨからすれば、全てが悪く回った時の悪影響が気になったのだが。

 

 例えば、常人の人生数回分もの時間を魔法に捧げてきた人物が、超高位の魔法を手にして心の均衡を失うとか。

 例えば、既に超大国の支配者として高みに立つ人物が、神の如き暴力すら手に入れて野心を暴走させるとか。

 

 その結果戦乱やら騒乱が巻き起こって、幾多の国々で人が死ぬとか。多くのフィクションに触れてきたイヨであるから、そうした悪いパターンを想像する事は容易であった。

 

 ──だって絶対何かある流れだもの。もし漫画アニメでこの流れがあってその後何も無かったらそれはそれでもにゃっとする位だよ。

 

 実際に見た皇帝ジルクニフと大魔法詠唱者フールーダは、イヨの目から見れば聡明な君主と慈悲深き賢者に見えた。だがイヨはこと戦闘以外において自分の見識や観察眼を信用していない。

 

 職業とレベル、そして鍛錬によって実戦証明された戦闘以外でのイヨの知識など甘やかされて育った温室育ちの子供のものでしかない。転移してより此方の世界で、己の力のみで世の中を渡ってきた多くの大人と交わり、イヨはつくづく痛感した。

 

 日常生活時は兎も角、仕事において頭脳労働は自分の役割ではない、と。故にそちらの担当者を頼る。因みにガルデンバルドとリウルは既に二者を『信用できる』と裁定しており、ベリガミニだけが首をかしげて返答を保留していた。

 

 ベリガミニの返答は即座であった。内心で既に考えは纏まっていたのであろう。老いてなお矍鑠とした老人は張りのある、しかし雑踏に紛れる小さな声で、

 

「陛下の方は問題ないと思うのう。音に聞く通り聡明であられる。要らぬ敵を増やす趣味は無さそうじゃし、魔法の価値を十分に分かっておられるものと見受けた。あの火力をわざわざ人なんぞ向ける場面もそうあるまい」

「互いの間に繋ぎを作っておこうという意図も十分通じたしな」

 

 一個人にして軍勢を打破する者、それがアダマンタイト級。その気になれば国家とだって相打ちに持ち込める存在だ。モンスター対策という一点において国の行く末すら左右する。故に重宝され、尊重されるのだ。

 

「ただ……パラダイン様のあの態度は真なるものかどうか……」

「……! 何かありそうなの?」

 

 イヨが青い顔で反応する。

 

「魔法詠唱者にしては綺麗過ぎる気がするのじゃ」

 

 確信がある訳では無く、ただ単なる勘なのじゃが、と老人は前置きし、

 

「儂の経験上、飛び抜けた何かを持つ人物は人格やら性癖も一風変わった、癖のある人間である事が多い様に感じる」

「あー……」

 

 思う所があるようで、リウルが左斜め上を見ながら呻きを発した。ガルデンバルドも無言で腕を組み、深く頷く。元の世界と公国しか知らないイヨと違って、リウル、ベリガミニ、ガルデンバルドの三人は他国にも足を運んだ事がある。

 

「例としてはどの国のアダマンタイト級も個性豊かじゃしな。まあ大概普通とは程遠い素質を生まれ持ち、窮地を切り抜け、そして万人の頂に立つ力を持つに至った方々じゃから普通と違うのも当たり前といえば当たり前かもしれんが」

 

 そしてフールーダ・パラダインとは、英雄の領域すら超えた超人であり、単純に考えても百年単位で魔法に打ち込んできた人物である。それ相応の執着、執念、いっそ怨念めいた強烈な関心があって然るべきだが、それが見えなかったのが気になるという。

 

「第三位階までですら多くの人間が拒絶される高みよ……ましてや第六位階詠唱者が更なる高位魔法と向き合ったのじゃ、むしろ取り乱す位で当たり前と思ったが余りにも──善人過ぎる」

「爺さんもパラダイン様とは初対面だろう? あの時のパラダイン様の反応に不自然な所は無かったと思うが、疑う根拠は?」

「だから言うておるじゃろ、同じ魔法詠唱者としての勘よ」

 

 根拠など無いわ、とベリガミニ。

 

「いや、ただ単に良い人という可能性も普通にあるのじゃが、前人未到の域まで己を高めた超人たるお方にしては清過ぎている気もする、というのが儂の意見じゃな」

「その点について、ベリさんは根拠がないにしてもほぼ確信してるんだね」

「まあそうじゃな、なんというか……儂が思い描いていた憧れの大魔法詠唱者、魔法に憑りつかれた正気の狂人というイメージとの落差が気になってのう」

「もしそんな人だったら僕、ちょっとアイテムを託すの怖いんだけど……」

「一体何故そんな恐ろしい大魔法詠唱者像を信じる様になったんだ……」

 

 魔法に狂っている魔法詠唱者など掃いて捨てるほどいるのに、云百年研究を続けてきた魔法詠唱者の頂点が真人間であるのは不自然、というかむしろ理不尽、狂気の執着あればこその前人未到の境地である筈──それがベリガミニの認識だったらしい。

 

 先に上げた、『飛び抜けた能力を持つ人間は性格や性癖もトんでいる事が多い』の例に沿った考え方である。

 

「じゃあ、陛下は兎も角パラダイン様は危ない……?」

 

 イヨの瞳に決意が宿る。

 

 表情は変わらない。歩みも変わらない。殺気も戦意も無い。ただ『戦闘の可能性』をノータイムで了解し、有事の際の心構えを再度完了する──何も無ければそれが一番だが、何かあったらその際は責任を取ってやらねばならない、と。

 

 元々、日常時の不意打ちでも問題なく対処し襲撃者を沈黙させる事が可能な人間、それが篠田伊代である。戦闘や殺傷に覚悟や準備は必要としない。必要とあらば肉食の虫が獲物を喰うのと同じ次元でイヨは戦える──

 

「いや、それも無いと思うのう」

「え、無いの?」

 

 ただ、今はそういう展開では無かったらしい。

 

 これにはイヨばかりでなく、リウルやガルデンバルドも首を傾げた。

 

「爺さんから見て少し違和感があるんだろう? 仮に本性を偽っていたとして、それは怪しいという事じゃないのか?」

「仮に儂の勘が当たっており、パラダイン様が本性を偽っていたとしても、それは偽った理由によるじゃろうよ。儂は案外、先程のイヨの言葉がその答えじゃと思っておる」

 

 僕の言葉ってどの言葉、とイヨが考え、そして、

 

「そんな人だったらアイテムを渡すのは怖い……?」

「善人だろうと魔法狂いの取り繕いだろうと問題ないと儂は思うんじゃよ。善人なら言わずもがな、魔法狂いじゃとしても尚更つまらんことにあの魔法たちは使わんよ」

 

 神話級の魔法の使い道としては虐殺やらなんやらはつまらない上に無駄だ、とベリガミニは言う。勿体ない、と。

 

「聖剣や魔剣を台所包丁にする様なもんじゃ」

「でも、力を持って変わる人もいるよ」

「おいおいイヨ坊よ。誰に物を言っとるんじゃ? 相手はパラダイン様。人間の限界を超えた英雄の領域を更に超越したお方よ。誰も敵わぬ圧倒的な力ならとっくの昔に持っておる」

 

 単身で帝国全軍に匹敵する戦力であり、通常人に数倍する寿命があり、首席宮廷魔法使いという地位があり、幾多の国難を打破した護国の人という名誉名声があり、歴代皇帝を最も近くで支え続けた男でもある。数多の弟子や孫弟子、部下たちの中には皇帝では無く師の意志にこそ従うという者だって多いだろう。

 

「パラダイン様に常人並みの権力欲や上昇志向等というものがもしあったなら、帝国はとっくの昔にあの方に支配されておってもなんら不思議ではないわ。幼い内に都合の良い考えを吹き込み皇帝を傀儡に──いや、それこそパラダイン魔法国を打ち立てる事すら不可能では無かったじゃろう」

 

 全てを力尽くで意のままに出来る能力がありながら、何十年もの間首席宮廷魔法使いという地位に収まり皇帝の腹心の部下として在り続けている事自体が、ある意味そういった欲の無さを証明しているという。

 

 ベリガミニは同じ魔法詠唱者として無根拠に確信する──あの方には、魔法詠唱者の頂点たる老賢人の中には、恐らくきっと魔法しか無い。魔法の為なら狂喜さえ封じ込めてみせるだろうと。

 

「……じゃあ、結局大丈夫って事で良いの? 陛下もパラダイン様も良い人で良いの?」

「人を善悪二分で考えんの止めろつったろお前よー」

「儂はなんにも言えん。根拠ないしのう。魔法詠唱者としての願望交じりの決め付けじゃしのう。でも儂は問題ないと思うとる。まあ過信しない程度に警戒しつつ様子を見取ったらええ。事前に話し合いで決めた事と同じじゃあ」

「まあ例え信用できた所で全く警戒しないって事は有り得ねぇしな。つーか俺としてはロックブルズ……殿の見せた敵意の方が気になる。異常だぞあれ」

 

 あーあれかぁ、とイヨがちょっと悲しそうに眉を歪める。覚えは無いなりに迫真の敵意にして隔意にして殺気であった。イヨは城を去る最後の瞬間まで首筋に刃の感触を幻覚していた。

 

「練習は混じり気なく真剣にやってくれたし、あまり悪い人じゃ無さそうなんだけど……毎回殺されそうになっちゃった。あの黒い波動は凄い、尊敬する」

「……こいつはとても遠い国から来たんだよなぁって、こういう時に実感するよな」

「……イヨも強者だからな」

「うむ。イヨ坊の故郷の歴史もかなり複雑じゃしのう」

 

 イヨの語る『僕の元居た国の話』は現実日本とユグドラシルとSWが混じり合った人外魔境譚である。空気は穢れ土は死に水は淀み蛮族と魔物が跋扈し、そんな中でも人間はしぶとく生き残り続けている──話を聞いた人々にはそんな風に捉えられていた。

 

「四騎士の方々と戦えただけでも帝国に来てよかったと思えたよ……でも他にもアダマンタイト級が二チーム、武王、伝説の老兵……偉大なる先輩方。ワクワクが止まらないね」

 

 花咲く笑顔でイヨが笑う。弾む足並みで前に進む。流血の予感に、更なる激戦に、自らの進化への期待に血流が加速し、心臓は鼓動を速め、頬を染める。

 

 食べる事、眠る事、交わる事──イヨは生きるのが大好きだ。何処であろうと生を謳歌する。故に食べる様に眠る様に交わる様に戦う、戦える。戦いたい。それが人の助けになれるのなら尚更。

 

 逃がした敵はこの手で滅ぼす。その為に更なる力を。練習を。

 

「あとお買い物もしたいね! リウルさん、新居用の家具とか買ってく!? さっきから見てたんだけど、家庭用のマジックアイテムとかも種類凄いよ! 僕冷蔵庫欲しい!」

「──荷物増やしたくねぇなぁ、下見だけしといて最終日に買おうぜ」

 

 リウルは瞬時、その笑顔に目を奪われた。幼げなその笑顔には生死が、平穏と闘争が、愛情と共に同居している。

 




最新刊や既刊の読み直しで新設定、再発見がある度に自作を書き直したくなるが、エタる自信があるので「これはやばい」という点以外は不定期に細々直していく所存。

新刊良かったですね。ネイアさん予想外過ぎましたが。ゼルンの王子様好きです。
アニメ三期も始まりましたね。まさか三か月も更新できないとは我ながら……。田んぼと畑と猛暑が悪い。ごめんなさい。


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興行主オスクと首狩り兎

「……」

「……」

「…………?」

「あの、何か……?」

 

 二人が無言で見つめ合って対峙し、もう二人は意味が分からんと言わんばかりの疑問顔で対峙を見守っている。

 

 対峙する二人の内一人はラビットマンという種族の女性だ。概ね人間に近い顔──可愛らしいが、やや野性味を帯びた動物的な美貌──で、その種族名が表す通り頭部には兎の耳が生えていて、メイド服を纏っている。

 

 そしてもう一人は人間の少女だ。ラビットマンの女性と比べてかなり小柄で、年齢もずっと下だろう。こちらも街で同等の容姿を持った少女を探すのは困難だろうと思わせる程の可憐さだが、今は緊張感を漂わせた真剣な顔で姿勢を正している。

 

 そして『何やってんだこいつら』という内心を礼儀作法で包み、謎の対峙を見守るのは執事服を着た品の良い老人と、鋭い顔立ちをした細身で黒衣の人物だ。

 

 女性と少女が互いの姿を視認し、時が止まった様に見つめ合う事既に一分近い。

 

「貴方のそれは……何のために?」

 

 少女が静かな声で問うと、意味不明な緊張感が深まった。自然と執事と青年の視線がラビットマンの女性に向き、彼女は深く落ち着いた声で、

 

「……仕事のため。今は本領で無い様だけど、君は?」

「……芸事です。一応今の格好で素なのですが」

「……素。そう、か……」

 

 頭部上方に無数の『?』マークを浮かべながら会話に聞き入る部外者二名。立ち入れない、理解できない、何もかも。

 

 ラビットマンの言葉を受け、少女が動く。素早く三つ編みを解いて柔らかな白金の髪をストレートに。そして懐に手を差し入れ、取り出したのは蝶の意匠をした髪飾りだ。そしてそれを既に付けていた地味なものと交換で頭部に装備した。

 少女趣味な代物で、大人の女性がちゃんとした場で付けるならば不似合いだが、正に少女と言うべき年齢である彼女の白金の長髪と相まって雰囲気が一気に華やぎ、ただ髪型を変え、一つ小物を足しただけなのに生来の美貌に一層の磨きがかかる。

 

 少女の一連の行動を見守ったメイドラビットマンはゆっくり幾度か頷き、鋭い目で改めて少女を見やると、やがて鷹揚な仕草で片手を差し出した。少女は深々と頭を下げると、自身の両手でしっかりのその手を握り締め、数度揺さぶる。

 

「──中々の腕と認めよう。今後も精進すること」

「──ありがとうございます……!」

 

 執事と青年は完全に置いてきぼりである。一切合切最初から最後まで徹頭徹尾意味が分からない。

 

 分からないが、目の前の二人は既に謎の決着感を醸し出しており、何だかその雰囲気からして今この場で改めて疑問を挟むのも憚られた。結果、

 

「……ご案内いたします」

「あ、ああ。頼む」

 

 執事が咳払いをしてから改めて切り出すと黒衣の斥候が応じ、やっと時間が正常に流れ出す。対峙していた二人も何事も無かったかのような割り切りで、ラビットマンの女性は執事に、白金の美髪を持つ少女は青年に寄り添って颯爽と歩み始めた。

 

 屋敷の奥、主が待つ応接間へと。

 

 

 

 

「期待外れにも程があるな、全く」

「そうだった?」

 

 そうとも、と恰幅の良い男──オスクが自慢のコレクションに囲まれた部屋で、ソファにどっかりと尻を落としつつ零した。

 

 その声に反応したのは先程のメイド服に身を包んだラビットマンの女性──にしか見えない男だ。そう、彼女は実は彼であり、れっきとした男性なのだ。

 

 彼女にしか見えない彼は遠方の戦場で『首狩り兎』の異名で恐れられた腕利きの傭兵であった。冒険者のランクにしてオリハルコンは確実という高みに立つ暗殺者兼戦士である。

 

 女装の理由は油断を誘う為、急所を狙われない為などだ。最も部外者の目が無い時でも仕草まで含めて一貫して女装なので、雇い主であるオスクは密かに私的な趣味なのでは無いかと思っているが。

 

「イヨ・シノン──とんでもなく強いアンデッドと一対一で殴り合った新進気鋭の拳士だと言うから期待していたのに……なんだあれは? あれが戦士か? あれが男か? 何処をどう見ても鍛錬の痕跡さえ見えないじゃないか」

 

 オスクは戦士を愛する。そして戦士と戦士の魂と技のぶつかり合いに心底惚れこんでいる。だが自身に戦士たる才は無く、故に自身の代理戦士たる強者を見出し、育て上げ、闘技場でその輝きを煌かせる事こそを己の道とした。

 

 逞しい戦士が大好きなのだ。度重なる鍛錬で厚く頑丈になった掌やぶっ太い精強なる首、大地を踏みしめる強靭な脚、振るう武器が空気を切り裂き敵を打つ様──それらに魅了されてやまない。

 

 理想の姿は王国のアダマンタイト級冒険者、【蒼の薔薇】のガガーラン。少しボリューミーに過ぎるが勿論武王も堪らない。女にしか見えない首狩り兎にしても度重なる局部鍛錬でボールの様に丸くなった手などは戦う生き物感が剥き出しで誠に興奮する。

 

 だからこそ、若いながらも英雄の領域に踏み込んだ拳士と聞いて生唾を堪えて興味津々で対談した訳だが──

 

「女顔の美少年という噂ではあったが、程度や限度というものがあるだろう……少なくとも外見は少女、それも戦闘はおろか労働すらした事のない箱入りの少女そのものだ」

 

 オスクが想像したのは、例え女顔の少年であったとしても、それはそれとして鍛えられた体つきの少年だった。細く引き締まった筋肉がちゃんとついている図を思い描いていたのだ。武器など握らない市井の娘らとて日常の家事炊事で多少手指の皮は厚くなるものだというのに。

 

 あの柔らかそうな手指、細い腰も括れた胴も何もかも、身体のつま先から頭のてっぺんまで一切合切がオスクの好みの対極に位置する存在だった。斥候にして盗賊だというリウル・シノンの方がまだしもオスクの嗜好に適う。彼女は細身でこそあるが身のこなしの軽やかさや油断の無さは素晴らしいものだった。

 

 女性として魅力的な体型を保った強者というのはまあそれなりにいるが、だとしても鍛錬を積み引き締まった肉体と両立しているのが大半だ。鍛錬による変化や痕跡が一切見当たらない強者というのは常識的物理的にいない。普通に考えれば外見を偽装しているのだろうが、本人曰くあの見た目は天然物だという。

 

 本当に強いのか、とさえオスクは思ってしまう。願って見せて貰った武具こそ素晴らしい物ではあったが、それを込みにしても思わず辛い目で見てしまう人物だった。物腰も行儀のいい良い子ちゃんといった感じで全く覇気に欠ける。

 

「本当に強いのか? 公国の冒険者は長い事アダマンタイト級が空位だったな」

 

 そのせいで『公国冒険者は全体的に他国より力量が劣る』という評価を一部で受けていた。装備は素晴らしかったが、相応の手間と金を掛ければ弱い者を強い装備で覆う事は出来る。

 

「まさか外部へのアピールの為に架空の強者を作り、祭り上げているんじゃないだろうな……当日になって箔付けの為の芝居に付き合えと言われても困るぞ。──評価は?」

 

 よほどに期待外れだったのか──密かに惚れ込んでいたガルデンバルド・デイル・リヴドラッドが同道していなかったという落胆も合わさって──立て板に水の如く不満を垂れ流していたオスクが、ようやく傍らに立つ首狩り兎を振り仰ぐ。すると、

 

「かなりやばい」

 

 即答する声に、オスクの顔が驚きに染まる。いや、アダマンタイト級冒険者である事を考えればその答えはむしろ当然なのだが、疑っていた分だけ虚を突かれた思いだった。彼女もとい彼が武王を『超級にやばい』、四騎士を『やばい』と評していたのを鑑みるに、その中間ほどの強さだという事だろうか。

 

 そうであるならば確かにそれは、英雄の名に相応しい武力であると言えた。

 

「一緒に居たリウル・シノンの方も結構やばい。新進とは言え流石アダマンタイトって感じ」

「なら、あの外見はお前のやっている様な高度な偽装か? 敵を油断させるための?」

 

 自分で言うのも何だが、オスクは戦士としての技量や観察眼を有さないなりに、人生の大部分を掛けて強者を見続けてきた。その自分の目利きさえ眩まされるとは、あの外見そのものが一種の優れた隠形であり武器とも言える──とオスクが思っていると、

 

「あれは素だって」

「あれは素なのか」

 

 ちげぇのかよ、どうなってんだ。とオスクは思った。

 

 因みにこの時のイヨの身体は表面の部分が焼け爛れたやらなんやらでポーションを飲んだ為、表皮に関してはほぼほぼ赤ん坊並みの柔肌具合であるし、指などの末端に関しては生えてから一日ほどの新品である。

 現在のイヨの肉体は三十レベルに至るまでの全経験をユグドラシルというゲーム内で熟している。ゲーム内ではHPが減る事はあっても肌が痛む事は無く、再生もしない。レベルアップによって筋力値が上昇する事はあっても、筋繊維が千切れて超回復しより太くなる事も無い。

 

 此方の世界に来てからも肉体の変化が定着する前に肉体をぶっ壊し、無くした四肢さえ生えるポーションで再生してしまう生活を日々続けている。リーベ村に降り立ってから公都に至り副組長と戦うまでの数週間程度の生活によって、生まれてから一度も穢れに触れず生きてきたが如きゲームキャラの現実化と言える不自然なまでの清らかさは既に失っているが、それでもこの世界で生きる普通の人々と比べればまだまだ華奢で綺麗過ぎる。

 

 『戦闘はおろか労働すらした事のない箱入りの少女そのもの』というオスクの見た目は、外見に関して言えばほぼ正確である。イヨの身体に宿る強さは生理的物理的な鍛錬のたの字も無く、ゲーム的でデジタルな数字によって設定された強さをそのまま保持しているだけなのだから、ただ座っている姿やただ歩いている姿をいくら見ようと其処に戦闘力を見出す事は難しい。

 

 イヨの強さを認めた公国の者たちにしても、そのほぼ全員が戦う所を直に見るか、信頼できる者たちから情報を得てからその事実を現実と認識した。

 

 スポーツ競技に熱中しながら幸せに生きてきた篠田伊代の人格がゲーム内で仮想モンスター相手に暴れていたアバターイヨ・シノンの肉体という皮を被っている、つまり別々の物が後からくっつけられた不自然極まりない産物だ。

 ぶっちゃけ詐欺そのものなのだ。

 外見と中身が本当に関係無い上にそもそも生来の生身ですらなく丸ごと貰い物など、こんな奴はユグドラシルプレイヤーであるイヨしかいない。どんな人生を送ってきたとしてもこんな奴には絶対出会わないだろう。

 まあイヨのアバターの外見はリアル伊代のスキャンで作られているが、それでも『ある程度似通っているだけの完全な別物である』事は間違いない。

 

 首狩り兎が実力を見抜けたのは、『実際に仕掛けたとして勝てるか否か』という幾多の実戦経験によって培われた戦士の目故だ。『絶対ではないにしろ、相当分の悪い勝負になる』という結果を、イヨが培った訳でも無くただ持っている『力』を彼は見抜いた。

 

 本人も女装によって己の脅威度を偽っている故か、割合簡単にイヨの偽装を超えた偽装を看破した様である。しかし彼からすれば気になる点は他にもあったようで、背筋をまっすぐに伸ばし腕を組み、何処か虚空を睨みつつ、

 

「十代の内はまだ肉体的に成熟し切らない部分があるし、そう考えると容易ではあるんだけど、彼のそれはもう、そういう常識的な領域じゃないねー……」

「……?」

 

 ──十代の内? 外見的に成熟? 戦いの話ではない、と直感したオスクは怪訝に思いながらも聞き入っていると、

 

「あれは正に天性、正に才能、生まれた時から普通とは違う……余人がどれ程己を磨こうと辿り着く事敵わぬ遥かなる境地、そら恐ろしくなる程の──女装の才」

 

 オスクは座ったままがっくりと肩を落とした。真面目に聞いたのが馬鹿みたいである。雇い入れてからそれなりの期間が立つが、こんな首狩り兎は初めて見る。

 

「技量的にはまだまだ粗削りだけど──研鑽を積めば遠からず私の喉元にも届き得る」

「首狩り兎……お前矢張りその恰好は趣味なんじゃ」

「女の格好をしていると相手が舐めて油断するし股間を攻撃されないという二つのメリットがある」

 

 一息で言い切り、首狩り兎はじろりとオスクを睨んだ。

 

「ほーん?」

 

 手を腰に当て、首狩り兎が変な声を上げる。その目線は明らかに追及を嫌っていた。代わりのいない強者である首狩り兎に契約更新などを盾にされるとオスクはあまり強く突っ込めない。

 

 まあオスクとしても其処まで雇用している者の趣味嗜好に関心がある訳でも無い為、素直に引っ込む事にする。強い者というのは大なり小なり我が強く、変わり者ばかりなのだ。

 

 話題を切り替える意味を込めて、先程二人が退室していった扉の方に眼をやり、オスクは二度三度と頷く。

 

「プレートに相応しい実力があるのなら、武王の相手としては申し分ないな……」

 

 勿論力量の程は武王の方が圧倒的に上だ。武王こそは闘技場最強の戦士。生まれながらの強者たる種族が後天の研鑽を積み遥か高みへ辿り着いた稀有なる存在。

 種族的に生まれ持った肉体の性能だけでも人間を圧倒する生物が戦士としての修練を重ね、弱い種族の様に技術を学び、それ自体が優れた武器であり防具である身体を更に武具で覆う。故に武王は強い。

 

 帝国最強の四騎士ですら四人がかりでも武王には敵わない。

 

 故に武王は欲している。己に相応しい相手を。

 

 強過ぎる武王は己を害し得る敵との戦闘など数える程しか経験していない。特に戦士としての技量を積んでからはそうだ。だから苦戦する状況を求めて、対戦相手の情報を事前に求める事はしないなど己に縛りを課す様になった。

 

 それでもなお、勝利は積み重なり続ける。前武王【腐狼】クレルヴォ・パランタイネンを破り、武王の名を継いで以来無敗。それ以前とて敗北は少なかった。

 

 戦う相手への期待と興奮が失望に変わってから、もう長い。戦士を最も成長させるものは自分と同等以上の強者との戦いだ。武王は自分より強い戦士、自身こそを挑戦者とせしめる絶対強者が己の前に現れる事を強く願っている。

 

 アダマンタイト級冒険者とて、単身では武王に遥か及ばないだろう。冒険者の強さは連携と多様な手段によって敵に当たる事にある。

 

 だがそれでも、挑戦者の気概でもって挑む若き英雄の死力が、無敗の王の喉元に届いてくれたなら──同等の実力者との戦いではないにせよ、きっと武王の無聊は慰められる。

 

 弱い挑戦者への失望が、かつて心を満たしていた期待と興奮に取って代わる事があるかもしれない。

 

 勝負が盛り上がった方が興行的に喜ばしいという興行主としての打算抜きで、オスクは己が育て上げた最強の戦士にして無二なる友の為に願う──イヨ・シノンが強く武王に挑み、その無敗を揺るがしてくれる事を。

 

 そしてその上で、武王ゴ・ギンがより高みに昇る事をだ。

 ひとまずオスクは興行主として、久し振りに武王の試合が組まれる事をしっかりと宣伝し、流血に飢えた観客たちで闘技場を一杯にする準備を始めた。

 

 

 

 

 オスクの館を出た『性別以外少女そのもの』ことイヨと『イヨのせいで男に間違われる』リウルは次なる目的地に向かって帝都を歩いていた。例によって周囲から多数の視線が集中しているが、元よりリウルは他者の視線に気を取られる質では無いし、イヨも目立つのは好きな方だ。幼い頃は大人たちに構って欲しくてアホな事を一杯したものである。

 

 まあそれでも、常に人の目がある状況でアダマンタイト級冒険者として相応しい行動しなければならないというのは少し大変だが、極端な話、そういう時は首に下がったプレートを服の下に仕舞えばいい。情報の伝達速度が人の移動速度とほぼ等しく、ネットに写真がアップされたりテレビで報道されたりしないこの世界では、隣の国まで来てしまえばどんな有名人でも一般人に人相までは知られていない。

 

 冒険者や傭兵、騎士など一部の者たちは兎も角、道行く市井の人々はイヨ・シノンの名もデスナイト討滅事件も詳しい事は何も知らないだろう。隣の国でそういう事があったらしいという噂を聞いた、くらいはあるかも知れないが。

 

 プレートさえ外せばイヨはあっという間に一人の子供に早変わりだ。それでも一般人らしからぬ服装や容姿のせいでどうしてもある程度は人目を引いてしまうが、人類の最高位者、人類の切り札としての注目に比べたらほんの些細なものである。

 

 他の三人は実績を積み己の力で今の地位を掴んだのだからこういう反応に耐性があるというか、受け止めるだけの度量があり苦にならないのかも知れないが、貰った力で一足飛びに最上位まで至ってしまったイヨとしては、『すげぇ、あれ見ろよ……アダマンタイト級冒険者だ……』『おお……!』みたいな無条件の畏敬が籠った呟きが耳に入る度に、ちょっとクるものがある。

 

 強さが大きな魅力として映るこの世界の価値観にプラスして、アダマンタイトプレートという至上の武力の証明、英雄の証が『見知らぬ冒険者』の人間性さえ英雄に相応しき者として保証しているように見えるのか、老若男女問わずの熱い視線は決して少なくない。それもちょっとキツい、時がある。

 

 公都だともう『英雄イヨ・シノン』では無く『馬鹿みたいに強いアホな子供イヨ』を知っている人がたくさんいるので、こういうむず痒さを感じる機会は少なかったりするのだが。

 

 良くも悪くも『外国まで来たんだなぁ』とイヨは実感する。

 

「つーかお前いつまでその髪型でいるんだよ」

「え、リウルこれ嫌い?」

 

 黙していたリウルが唐突に指摘した通り、イヨは解いた三つ編みをそのままにしている為、白金の長髪がさらさらと靡いている。普段の三つ編みは純朴な快活さを見る者に感じさせるが、こちらは行き届いた手入れと髪質の良さが強調され上流階級的な美麗さを感じさせる。

 

 本来就寝前などの限られた時間しか目に出来ない俺だけのイヨの姿なのに──とかリウルは別に思ってない。思ってないったら思ってない。

 

「好きとか嫌いとかじゃなくて……そもそもあの遣り取りなんだよ? あの一瞬でラビットマンのメイドとお前の間に何の意思疎通があったのか俺は全く理解できないんだが」

「いやあ、お互い女装者としてシンパシーというか、通じ合うものがあったんだよ」

 

 イヨが楽しそうに言うと、リウルは眉間の皺を一層深めた。

 

「女装者ってなんだよ? つーかあのメイドも男か……」

 

 ラビットマンは容姿が比較的人間に近いので、異種族ながらも美醜の価値観もまた近しい。

 

 リザードマンの様に立派な尻尾と鱗の艶どうとか、ドワーフの様に手入れされた髭がどうとか、トロールの様に太い四肢や太鼓腹が云々とかでなく、人間種目線での『容姿の整い』『容姿の良し悪し』が比較的通じる種族なのである。

 

 闘技場を借りて演目を行う興行主の中でも最も力を持つ男、オスクの下で出会ったメイド姿のラビットマンは動物的な可愛さを持っており、人間種目線でも十分魅力的な女性として見えたが、実は男だったらしい。

 

 暗殺者兼戦士としてかなりやるだろうという実力は見抜いたリウルだったが、性別までは見抜けなかった。というかそんな疑いの視線を向けるとか以前の女装の完成度だった。

 

 リウルは正直、公私共にパートナーであるイヨの女装に対する熱意だけはさっぱり理解できない。この上なく似合っているとは思うが『しかし何故女装を……』という感覚は抜けないのだ。決して嫌いでは無く、これもまたパートナーの魅力であると思ってはいるが。

 理解できないなりに頭ごなしに否定したくは無く、イヨ曰くイヨの国は神話の英雄が女装し、数百年の歴史を持つ伝統文化にも男の女装があり、女の男装がある異性装に一家言持ちの国家だそうなので、文化の違いという事ならば分からないなりに尊重はしたいと思っているのだが。

 

 『せめて俺の前でだけやれよ』と無意識に思ってしまったリウルの胡乱気な視線の先でイヨはなにやらテンションを上げていた。

 

「うーん、本題と別件の所で大先達に出会えるとは思わなくてね、びっくりしちゃったよ。でも先輩から頑張りなさいって言われたし、僕もこれからもっと頑張らなくちゃ。芸は磨き続けないと飽きられるからね」

 

 

 ──現時点で先輩に立ち打ちするには、これまで温存しておいた秘技を用いないとどうにもならないね。

 

 イヨは意味深にそう呟く。リウルに突っ込んで欲しいという雰囲気が表にバシバシ出ている。『俺が口火を切ったとはいえこの話長引くのかよ』と思ったリウルだったが、半ば義務感で聞く。

 

「……秘技って、お前まだ女装の引き出しあんの?」

「良くぞ聞いてくれましたぁ!」

「うるせぇ」

 

 元気と愛嬌を過剰積載したデカい声が耳に響いたのでリウルは端的に窘めた。同時にプレートを服の下に仕舞うよう指示を出す。これから先の話を『アダマンタイト級冒険者同士の会話』として周囲に拾われたくなかったからだ。

 

「ふふふ、いいリウル? 今までの女装は素のままの僕が衣装だけを女物に変えた省エネバージョン。言わば簡易女装形態イヨ・シノン! 僕はまだ──完全女装形態と虚像女装形態、超理女装形態の三形態を残しているんだよ!」

 

 髪型以外にも髪や目の色を始め顔立ちや身長体格にも手を入れる完全女装形態イヨ・シノン。

 純然たる詐欺こと虚像女装形態イヨ・シノン。

 最早定義的には女装ですらない超理女装形態イヨ・シノン。

 もう何と言えばいいのやら。

 

 身振り手振りと共にテンション高く語るイヨを前にリウルは理解不能だと内心で端的に断じ、同時に『誰がイヨをここまでアレにしたんだ、前話してたシラタマとかいう奴か。あいつが丸め込んだのか』と軽く嫉妬心を抱く。

 

「僕も先輩を見習って久し振りに着てみようかな、メイド服」

「持ってるのか」

「戦闘用と作業用とお洒落用で七着持ってるよ。僕も好きなんだけど、白玉さんは半端じゃなく好きでね」

 

 因みに白玉はミニスカや半袖、胸が開いた露出の多い系統のメイド服絶対反対派閥である。『スカート丈は踝まで。露出は顔以外ゼロであれ。手袋着用かつチョーカー装備が望ましい』というのが彼女の個人的正義だ。ただし歴史的史実的に正しいメイド服にはそれほど関心が無く、ファンタジーで良い、ファンタジーが良いと思っている。

 

「メイドが主人公の漫画──ええと、娯楽用の書籍? 読み本? とか沢山持ってるんだって。作業用はシンプルだけど戦闘用とお洒落用は結構凝ってて──」

 

 ──戦闘用のメイド服って何だよ。メイド服って要するに女の使用人であるメイドが着る仕事着とか作業着の事だろ? 戦うメイドってそれメイドか? 戦士じゃないのか? 戦士が使用人の衣服を着たとしてもそれは戦闘に不適当な恰好をした戦士であってメイドじゃないんじゃないのか? 何らかの理由でメイドが戦うのだとしても戦闘行為を前提とするならメイド服じゃなくてちゃんとした防具を装備しろよ、わざわざ戦闘用のメイド服なんていう良く分からん代物を誂える意味とは……? 

 

 普通に考えれば非戦闘要員を装った護衛等が思い浮かぶ。さっき見た女装ラビットマンのメイドの様な『戦士兼暗殺者が偽装としてメイド服を着ている』存在だ。だがイヨの言っているニュアンスはそれらとは根本的に異なっている様に感じた。

 

 戦闘用メイド服という圧倒的に意味不明なワードで隠れてしまったが、お洒落用メイド服というのも『それはそれで何だ?』という気がする。

 

 ──洗濯炊事掃除や誰かの身の回りの世話をするのが仕事でその為の仕事着だろ? それでお洒落用ってなんだ。大貴族や大商会ともなれば財力や権力を誇示する為一使用人にすら上等な衣服を着せる事もあるかもしれねぇけど、それとは違うのか? 飾りでも付いてるのか? ドレス風にでもなってるのか? 仕事し辛くないか? 仕事しないのか? やっぱりそれメイドじゃないんじゃないか……?

 

 幼少時、商会のお嬢様として自分付きの女性使用人を持っていたリウルの中のメイド観が揺らいできた。楽し気な傍らのイヨを尻目に、彼女は首を傾げる。

 

 自分とイヨの間でメイドという観念というか概念がかなりかけ離れているという事だけは理解できた。リウルにとっては家庭内の労働を行う女性の使用人がメイドであり、そのメイドが戦うというのはかなり意味が分からない話だった。ファッションとしてのメイド服という概念も彼女には無く、メイドそのものに対するロマンや需要の知識も皆無である。

 対してイヨにとっては──流石に漫画と現実の区別はついている──友人の好むバトル漫画やメイド漫画で見た様な主人に忠誠を誓う全方位万能超人が見知ったメイドであった。イヨは主人や主君に忠義を尽くすとかそういうのがカッコ良くて好きなのだ。故に執事や騎士も好きだ。そりゃあ話など通じるまい。

 

 ──イヨが戦闘用やらお洒落用やらの意図不明系のメイド服を着たとして、それで似合わないって事は無いと思うが──ここは止めるべきなのだろうか、冒険者らしくないと叱るべきなのだろうか。

 

 尊重と野放しは違う、とリウルは思う。

 

 ──後輩やら世間の人らに示しが付かない……けどガガーランの姉貴とかもある意味飾らない気さくな人柄で慕われてたし……いやでもイヨにガガーランの姉貴みたいな器のデカさは無いし……どうなんだこれ。常識的に言えば駄目だろうけど……。

 

 英雄に憧れてアダマンタイトにまで至ったリウルは『英雄らしさ』に拘る所があるが、同時にかつて出会い直接話をした【蒼の薔薇】や【朱の雫】に関しては割と全肯定というか、後輩として素直に憧れており見習っていきたいとも思っている。

 

 大先輩たるガガーランの童貞食いは同意があってやっているので悪い事をしてる訳では無い故セーフとして、女装って英雄的にどうなんだろうか。伝え聞くイヨの故郷的にはオーケーというかむしろ王道なのかもしれないが最上位冒険者的に。

 

 酒が入った時笑いを取る為に行う出し物や持ちネタの類であるイヨの女装だが、それが高じて日常時でも女装する様になったりすると妻としても仲間としても非常に微妙だ。少し前までリウルは公都の顔見知りなどから『最近あんた年下の女の子にご執心なんだって? ちらっと顔を見たけど、あの子に男を名乗らせるのは無理があるでしょ』等と直球の勘違いを投げつけられる事もあった位なのに。

 その風評がぶり返すかもしれない。

 

 やっぱ駄目だわ、とリウルは結論し口を開く。しかしその口から言葉が発せられる寸前、

 

「リウル、呼び方何が良い!? バリエーション豊富だよ、リウル様、ご主人様、あるじ様、旦那様、お嬢様、マスター、他多数!」

「あ、え、俺がお前の雇用者なのかよ」

「うん。そりゃあ僕がメイドだとしたら、お仕えする相手はリウル以外いないよ。基本殴り合い専門だったけど、最近は家事炊事もそこそこできる様になったからね! 僕の性能はリウルの為に日々向上してるんだよー?」

 

 一切の淀みなく当たり前の様に告げられた言葉に、リウルは反射的に口をつぐんだ。そして数瞬悩み、やがて、

 

「……ま、まあ、アレだな。暇な時にな。人前では自重しろよ、俺達は下の連中のお手本にならなきゃいけないんだから。でもまあ偶にならいいかもな。呼び方はまあ、お前の好きにしろ」

 

 惚れた弱みはお互い様なのである。

 

 オスクからは闘技場のスケジュールや十分な宣伝を打つ都合などがある為、具体的な日にちが決まったら宿の方に連絡すると言われている。大まかにこれ位掛かるだろうという予測は伝えられた為、イヨの仕事はその日程に合わせて体調を調整し、最良のコンディションで武王に挑戦する事だ。

 

 帝国には強い人たちが沢山いる。イヨの前の【スパエラ】メンバーであった男は道場を構えているそうだし、この前組合に顔を出した時には不在だった二組のアダマンタイト級パーティも、予定通りならそろそろ依頼を終え帰ってくる頃だという。

 

 先ずは重い練習で血肉を削り、その後軽い練習で整え、十分な休養を取って頂点に挑む。イヨのテンションは上がりっぱなしである。

 




ついに原作女装キャラクターである首狩り兎さんと邂逅。彼の本名ってこれから出る機会はあるのでしょうか。そもそも再登場の機会自体あるのでしょうか。

因みに、イヨが好んで遊んでいたTRPGでユグドラシルともコラボしていた設定のSW2.0では非金属鎧のカテゴリーにコンバットメイドスーツがあります。
融合神リルズという神様を信仰すると使える七レベル特殊神聖魔法コンヴァージョンで性別を変更する事が可能です。
飲むと一時間の間性別が逆転する性転換の薬というポーションも存在します。


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【銀糸鳥】と【スパエラ】

 騎馬立ちに構え、水の入った樽に掌底を当てる。所謂寸勁など元居た世界の練習ではやった事がない。漫画の真似をして遊んだ事ならあったかもしれない。ロマンというか、カッコいい技だと思う。

 

「──ッ」

 

 呼気。

 

 瞬間、樽の上蓋が木片と化して弾け飛び、詰まった水が円柱状に噴き上げる。樽は無傷だが中身の水は全てたたき出され、重力に従って落下し、周囲に半分飛び散りもう半分が樽に帰還した。

 

 向き直る。

 

 其処には台の上に乗った陶器の壺。平行立ちで、揃えた五指の指先を壺の腹に当てる。

 

「──ッ」

 

 再び、呼気。

 

 貫き手がほぼ無音で壺を貫通。引き抜くと、手首の形に添った楕円の穴が壺には空いていて、其処から向こう側の風景が見える。打突箇所以外に傷一つ、罅すら入れる事無く、手指が焼き物を串刺したのだ。破片は全て小指の爪の先より小さく砕け散っている。

 

 人間を超えた身体能力と技術が可能にした武である。

 

 これらの現象に、スキルや武技は一切関わっていない。ユグドラシルの格闘系スキルとして存在する方の勁力を用いて打突したなら、水が内側から気化爆裂して樽を木端微塵に吹っ飛ばした筈だ。

 イヨは一時期通常の鍛錬によって職業的に系統の違うスキルを習得できないか試したが、結果は恐らく不可能であろうと判断できるものだった。

 

 通常の技術の段階までは寸勁発勁粘勁沈墜勁纏勁──なんなら気配で相手に幻を見せる事も出来た。イヨが篠田伊代だった時に学んだ空手の技術体系ではない、マスター・オブ・マーシャルアーツという職業の設定によって保有する武術の知識によって理解して、体得『していた』。だが、それがゲーム的な、魔力的もしくは気功的な作用を必要とするスキルの域に達する事は無かった。短い時間でイヨは体感的に察してしまったのだ、『この道は何処にも繋がっていない』、と。

 どうも通常の鍛錬とは別のトリガーが必要とされている様な気がしてならない。得られたのは徒労感だけだった。

 

 試しを終え、若き達者──イヨは見物人たちに向き直り、ゆっくりと一礼した。興奮した様な叫び声、呆気にとられた様な呻き、様々な声で周囲が溢れた。

 

 そんな中、パチパチと拍手の音が響く。埋没してしまいそうな音量でありながら、それを契機として騒音が退いていき、やがてそれだけが取り残された。

 

「いやー、すごいね。器用な技ね。ただぶっ壊すだけならまだしも、私それ真似できないよ」

「お目汚し、恐縮です」

 

 イヨはその声の主、そしてその仲間たちに向けてがっしりと頭を下げる。見物人たちにした一礼と比べて丁寧さは遜色ないが、明らかに緊張を滲んだ低頭だった。

 

 周囲の尊敬と畏怖の視線を一身に集めるその五人こそは帝国冒険者組合の最上位、その二チームの内一チーム。

 それぞれが珍しい職業に就き、変わった能力を持つと言うアダマンタイト級冒険者チーム【銀糸鳥】の五人である。

 

 一目見ただけで向こう一年忘れられそうにない面子が揃っている。

 吟遊詩人と暗殺者系の男二人はまだしも、禿頭に編み笠錫杖の袈裟姿とボディペイントを施した半裸体、真っ赤な毛並みの猿猴という亜人は、黒山の人だかりの中でも闇夜の松明の如く目立つ存在だろう。

 

 猿猴の戦士ファン・ロングーに並んで進み出たのは吟遊詩人、チームのまとめ役であるフレイヴァルツ。彼は美しい所作で手を広げると感嘆の吐息を漏らし、

 

「おお、貴方のその容姿、手腕、数奇なる人生、吟遊詩人として非常に興味をそそられる題材です。お時間さえ頂ければ私の手で是非とも一編の詩歌を捧げさせて頂きたい! そう、例えば清冽なる無垢に彩られた可憐にして勇壮な──」

「リーダー、止めてあげてくれませんかね。いきなりそのノリは若い子にはキツイ、聞いてるだけで俺もサブいぼが」

「良いんですかぁ! 光栄です、是非ともよろしくお願いします!」

 

 イヨは詩歌の類は好きであった。自分が題材となった詩歌もその例に漏れず、時たま街の辻で声を発す流しの吟遊詩人の詩に耳を傾けるのが、多数ある趣味の一つでもある。なにせ又聞きと脚色に次ぐ脚色よって自分のやった事とはまるで乖離した英雄譚になりつつあるので、同じ出来事を題材にしているのに人によって全く違った物語を奏でていて面白いのだ。

 

 面白いのだけれども、『別人だし別の出来事だよねこれ、デスナイトは腕八本も無いし僕は全身から光を発してたりしないよ!? そもそも男だし! 純人間だし! 混血とかじゃないし! 家族生きてるし! 順風満帆に生まれ育った余所者ってだけじゃ盛り上がらないからってバックボーン盛り過ぎだよ! それに、僕以外にも戦った人はたくさんいるのに省くなんて酷いよ駄目だよ!』という気にも当然なるので、制作の段階から話を聞いてもらってちゃんとした歌を作ってもらうのならアリかと考えていたのである。人々の希望となるのは最上位冒険者の務め故。

 

 あと、イヨはリウルの影響でアダマンタイト級冒険者ファンなのでお話できるなら割となんでも嬉しかったりする。

 

「すいません、うちのはああいうの好きで」

「……リウル・ブラムさんね、名前は聞いてるよ。あんたはきちんとした明るい所の出と聞いてたが、物騒な技ばっかり身に付けちまったもんだ」

 

 表情を笑みに象った小柄な小男、ケイラ・ノ・セーデシュテーンが笑っていない小さな目を細めて返す。

 

「恐縮っス……自分、今はシノンと名乗ってます」

「ほー……? ほー! それは目出度い、拙僧からもお祝い申し上げる!」

 

 禿頭、編み笠、錫杖、袈裟。全身異国情緒の塊のような僧侶、ウンケイが言う。

 

「話には聞いていましたが、同性婚だいや相手は少年だと性別すらはっきりしなかったので意味不明の誤報の類かと思っていましたが──」

 

 アダマンタイト級冒険者ほどの有名人となると日常の些細な事でも周囲の人々の耳目を集める為、そういう意味不明意図不明の噂話の類も生まれては消えるものらしい。流石に国境まで超えて耳に届くものは少ないそうだが。

 

「本当だったのですね。おめでとうございます、こんな仕事だとそういう一般的な幸せとは縁が遠くなりがちですが、良い事ですよ」

 

 理知的な口調でそう述べたのは、腰ミノ半裸のボディペイント、ポワワンだ。

 

「いや、まあ、はい……恐縮っス」

 

 お互い直接の面識は無いのだが、後進のアダマンタイト級冒険者を先達が歓迎してくれるという形で至極良好に交流することが出来た。

 話には聞いていても実際に対面して外見に圧倒された部分はあったが、【銀糸鳥】の面々は外見に反してとても良識的で友好的だった。リウルは声を掛けられる度に『恐縮っス』と言っている。他の冒険者もいる手前、同格としてあまり遜った態度は取れないという思いから動作にこそ表さないが、終始ヤンキーの如き敬語だ。

 

 【銀糸鳥】や【漣八連】より王国の【蒼の薔薇】や【朱の雫】の方が好みと言いつつ、何だかんだ尊敬しているし好きなのだろう。

 

 冒険者の尊敬を集める二つの最上位チームの一つ【銀糸鳥】、そして他国から来た新しいアダマンタイト級の【スパエラ】が交流中とあって、帝都冒険者組合の修練場は黒山の人だかりである。他国に比べて専業兵士である騎士たちのモンスター退治をも含めた治安維持が行き届いている為、やや斜陽気味の冒険者組合は熱気に包まれている。

 

 イヨも先程の試し割りで注目を掻っ攫ったが、【スパエラ】の五人の中でも物理的に巨大なガルデンバルドなどは特別何もしていないのに滅茶苦茶目立っている。

 外見で強さが分かりにくいイヨの対極、どっからどう見たって強いに決まっていると赤ん坊でも分かる戦士、身長二メートル二十六センチ体重二百十キログラムのガルデンバルド・デイル・リヴドラッド。

 

 恵まれに恵まれ倒した巨体と、その巨体を覆う人骨に搭載できるとは到底思えない筋肉に次ぐ筋肉。それを極厚の装甲を持つ鎧で覆い、縦にも横にも巨大で分厚すぎる。戦士であるならば誰もが羨望と恐れを抱かずにはいられないその存在感に、多くの者がざわめいていた。

 

 ──強そうにも程があるだろ。プレートが見えねぇのか馬鹿、強そうじゃなくて強いんだよ。アダマンタイトにしたって強そうだろ、噂は聞いてたけど誇張じゃなくてマジであのサイズだなんて信じられるかよ。担いでる武器が俺と同じ位の大きさだぞ、本当に人間か? オーガだかトロールとの混血だって聞いた事あるぜ。でっけぇ。お伽噺じゃあるまいし、ある訳ねぇだろそんな話が。

 ──でもあの娘っ子、おっと、お嬢様の方もエルフだかドワーフだか妖精の血が混じってるって聞くぜ。そっちも相当な化け物だな。歳幾つだ、十五か十四くらいか? 王国の蒼薔薇もリーダーが十代と聞くが、それより下とは恐れ入るなぁおい。若いってより幼いって位だろ。ちっちぇ。あの髪や肌の艶、貴族出身かな? だとしたら相当なお転婆で破天荒だな、座ってるだけで飯が食える身分に生まれて冒険者とは。

 

 遠巻きに聞こえるざわめきの大半はそんなもの。帝国においてほぼほぼ属国扱いの隣国、アダマンタイト級空位が二十年も続いた国の連中とあって一般市民よりか畏怖の度合いがやや低い。

 癒しを担当する者が不在と聞くがなんとかその席を手に入れてチームに滑り込めないだろうか、難度百を大きく超えるアンデッドを相手にしたという勲を詳しく聞きたい、そんな声も聞こえてくる。

 

 【スパエラ】の面子で、初見時もっとも目を引く者と言えばガルデンバルド、ついでイヨだ。禿頭マッチョ魔法詠唱者たるベリガミニ、黒髪黒目でモロに異邦人的容姿であるリウルも二人と比べれば常識的冒険者像に近い存在である為あまり目立たない。

 

「あなた、武王と戦うって聞いたね」

 

 ファン・ロングーの一声とその内容で、ざわめきが止んだ。

 

「……はい、そのつもりです。もう告知されてるんですね」

「今朝、久し振りに武王の試合が組まれた事、相手があなたである事が公表されたよ。まだ知らない人も多いけど、一部の界隈では既に大騒ぎね」

 

 最新最小の英雄と、最大最強の武王の一戦。

 そう銘打たれた組み合わせは武芸者や流血マニア、戦闘愛好家、惨劇嗜好者の間で大注目を向けられていた。人界最強の称号アダマンタイト級を戴く冒険者が闘技場の舞台に上がる、そして相手は人魔の境無く帝国最強の戦士、武王ゴ・ギン。

 

 共に世の人々から最強と畏れられる存在同士の衝突は当然多くの耳目を集める。ファン・ロングーが言う所の知らない人々であった冒険者たちも、先に倍するざわめきを漏らした。

 

「あれは強いよ。実際に戦った事は無いけど、私よりあなたより武王は強いね。一対一で殴り合ってあれに勝てる生き物は帝国にはいないよ」

「その様に聞き及びましたので……」

 

 短く澄んだイヨの返答。ファン・ロングーは無言で目を細める。人とは異なったその顔立ちに込められた感情を見通せるのは、長く共に歩んだ仲間たちのみだろう。

 逆に言うと、猿猴であるファン・ロングーの目からしても人間の表情や年齢は分かりにくい。人間の国で過ごした時間も長いので普通の異種族よりはかなり判じられるようになってはいるのだが、眼前のイヨ・シノンは幼い雌だろうと思える容姿でありながら既に成体であると自称している上、ごく薄い匂いはどちらかと言えば雄らしく感じる。

 

 雄っぽい匂いの雌なのか、雌的な見た目の雄なのか。まあどちらにしろえらく紛らわしい人間であった。子供なのは間違いが無いと思うのだが。

 

「だから戦う?」

「はい」

 

 しかし、そうした見た目の造形等よりも雄弁に訴えかけてくるものがある。

 

 闘争心。幼子の様に煌く瞳に宿ったらそれは最早物理的な光輝を感じさせる域。物言わぬ物体相手に試し割りをしてみせた時とは比べ物にならない。武王との試合の話を出した直後から、明らかに戦闘意欲の類が強く表に漏れだした。

 基本的に、弱くても王を名乗れるのは人間種だけだ。強き者こそが王。強い戦士や魔法詠唱者が上位の地位を占める。そうした性質は世の中の基本であり、大抵の種族はそうした性質を持つ。

 

 猿猴も例外ではない。人の社会での暮らしが長いとは言っても、その本質は人間等より遥かに弱肉強食であり、荒事向きの種族である。

 言葉よりも雄弁な闘気を間近に、ファン・ロングーは牙を剥き出しにして笑った。

 

「……良いねぇ。シノンさん、あなたに人間以外の種族の血が流れてるって噂、私は話半分に聞いてたけど、実は本当? 正直ちょっと親近感を覚えるね」

「先祖代々まで遡っても百パーセント純人間で間違いないのですが、何故かそうした噂が絶えず、私自身は困惑しております。……バルさんの方はどうだか分かりませんが」

「おいこらイヨ」

 

 歳の割に背が小さいのは曾祖父がドワーフだからだとか、歳の割に身目が幼いのは長寿の種族の血を引いているからだとか、男なのにああした容姿なのは人と妖精の合いの子だからだとか。

 所詮は噂話の範疇なのだが、イヨやガルデンバルドのやや特異な身体的特徴や馬鹿げた膂力を説明する為に時たま、何処かの誰かが混血という設定を引っ張ってくる事がある。

 

 特別である事の分かりやすい理由付けというものだろう。

 神もいなければ人間以外の知的種族すらいない地球の史実でも、良くも悪くも並外れた事を成した人物に対し神の加護や英雄の血筋であるとか、異類との婚姻の結果生まれた存在である、通常より一年長く母親の腹の中に居て髪も歯も生えそろった状態で生まれてきたとか、所謂『異常な出生』が後付けされ伝承される事はままある。

 

 厳密に言うと今のイヨの身体は父母から生まれたモノでは無くゲームのアバターが現実化したものである為、ゲームの設定によってはちょっと分からない部分もある。設定で言えばそもそもプレイヤーは加護を受けた特別な存在で、だからこそ蘇生によってレベルダウンはしても消滅はしないのだ。まあこの世界ではどうだか知らないが。

 だからと言ってイヨは自身が人間ではない等とは思わないし、数多の種族が歴史を紡ぐこの世界で人間じゃなかったからなんだという話だとすら思う。

 

 種族や出自がどうだろうと敵は砕くし味方は守る。

 

「あなたが強い事は分かるね。でも武王はもっと強い、あなたが勝てるとは思わないよ。だから勝てとは言わないね。ただ……」

 

 言下に、ファン・ロングーの体毛が逆立つ。剥き出された牙は変わらないが、その意味が笑いの感情を表すものでは無い事は誰もが察した。

 怒れる巨獣から距離を取れ。無形の圧力に晒された冒険者たちが、本能の命令に従って一歩下がった。不動を貫いたのは【銀糸鳥】と【スパエラ】──そして対面のイヨ・シノンだけだ。

 

「承知しております」

 

 最強の称号、人類の切り札、人間の最高位者たるアダマンタイト級冒険者で数多の観衆の前で負ける。例え万夫不当の武王が相手であっても、試合が興行でも、冒険者の本分であるチーム戦では無く一対一の戦いだったとしても、負けは負けだ。

 無様な負け方をすれば不利益を被るにはイヨ一人では済まない。

 

「若輩者ではありますが、戦士の名誉に懸けて恥ずかしくない戦いをすると誓います」

 

 肌を刺す怒気を満身に浴びながら、イヨは微動だにしない。イヨは公国冒険者の頂点として帝都の地に立っているのだ。先輩とは言えクラスとして同格である以上、人前で圧される事があってはならない。対一だったらごめんなさいするのだが。

 

 イヨ・シノンとファン・ロングーの身長差は二十センチほどだが、背丈の高低以上に四肢の太さや胴の厚みなど、戦う生き物として外見上は天地の開きがある。苦労も飢えも知らぬ飼い猫と野生の狒々の差だ。

 

 血に飢えたモンスターも二の足を踏む猿猴の大戦士、ビーストロードの威圧を前にして不動を貫くその胆力は確かに、小さな体に秘めた意気と武力を見る者に感じさせた。

 

 ファン・ロングーは小さな人間に対し手を差し伸べる。握手ではない。

 

 立てた両手を差し伸べるその動作の意味、見誤るイヨでは無かった。イヨもまた両手を差し出し、ファン・ロングーのそれとがっちりと噛み合わせた。

 手四つだ。イヨの柔らかお手々とファン・ロングーのグローブの如き分厚さを誇る手掌は如何にも不似合いだが、兎に角組み合ったのだ。

 

 視線を交わし、息を合わせた次の瞬間──ミヂリ、と肉と肉、骨と骨が喰い合う音が確かに響いた。互いの総身の筋肉が対手を屈さんと膨らみ、軋む程に歯を食いしばる。

 

 両者の間で交わされるのは石を圧壊させ金属塊に手形を残す超常の握力と、それを突端にした持ち合わせる筋力と根性の比べ合いである。

 

 ファン・ロングーのそれと同じ位、歯を剥き出したイヨの顔は笑みに近かった。限界を超えた膂力を引き出さんと力を絞る余り顔面は斑に紅潮していたが、実際に笑っていたのかもしれない。

 

 三十秒もしない内に、イヨの全身から滴る様な汗が噴き出した。太い血管が浮き上がり首の筋が張り、食いしばった歯茎からは血が流れている。とても淑女の姿では無いが、イヨは男なので問題はない。

 

 真紅の毛並みに覆われたファン・ロングーは汗や筋肉の膨張と言った変化が分かりにくいが、一分が経つ頃になるとイヨにやや遅れて、彼の身体も震え始める。

 

「ヌぅ……!」

「ギ、ギ、ぐ、ぁ!」

 

 喉奥から絞り出す声は両者共に何の意味も持たない。イヨは劣勢を脱しようと奥歯が砕け手指の骨が悲鳴を上げるのも構わず、更なる剛力で掛かる重圧を跳ね除けようとするが、表面上対等な姿勢を維持するのが精一杯だ。

 

 如何にイヨの筋力が同レベル帯の人類が持ち得るものとして至上に近い領域にあっても、そもそも亜人種であるファン・ロングーとは根本のステージが違う。

 種族が異なるという事は次元が違うという事だ。人間より身体能力が優れた種族であるファン・ロングーの膂力は同レベル帯どころか近レベル帯の人類では到達不可能な領域にあった。

 

 砕けた歯ごと噛みしめる顎から溢れる血を飲み下しながら、イヨは更に笑みを深める。

 

 ──流石先輩! なんという剛力! 試合ではないとは言え勝負の栄誉に預かったからには、偉大な先輩に後輩の意地を見せねば……!

 

 腕が、背骨が、膝が今にも砕けそうだ。力を抜けばその瞬間自分は潰れる。この力の差をどうやって埋める? 力以外に介在する余地のないこの勝負、それでもなお勝利を目指すならば、

 

 ──根性……!

 

 余りの圧力に手指は骨が砕けることも無く変形を始めていたが、苦境にあって自壊をも躊躇わず、筋繊維の千切れる音を無視して更なる蛮力を発揮せんとイヨは唸る。

 

 イヨの視界の端で、【銀糸鳥】の面々が『おいおいおいおい』と言わんばかりに勝負に割って入ろうとしている。五体が砕けるぞ、と純粋に心配してくれているのだろうが、その動きをリウルが遮った。『すんません、ああいう奴なんです。好きにやらせてやってください』──流石リウルさんは僕の事を分かってくれてる、とイヨは嬉しくなった。

 

 静まり返っていた冒険者たちが不意に歓声を上げる。ファン・ロングーの剛腕と力比べをしてこれ程の長きに渡り耐えた人間はかつて存在しなかった。明らかな無理無茶無謀であっても、不可能だった筈のそれを未だ維持している人間が現に目の前に存在するのだ。

 

 ただ単に全力を発揮する負荷に疲労を感じているだけの赤き猿猴と違って、イヨはその総身が彼我の馬鹿力で歪みつつある。最終的にどちらが負けるかなど火を見るよりも明らかだが、そもそも身体能力に優れる亜人種と人間が真っ向から競い合えるという時点で既に大偉業なのだ。

 

 どんな筋力でどんな根性だよ、と先程の試し割りの時などとは比べ物にならない程の称賛と驚愕がイヨに殺到する。何処ぞバカ垂れが『あと三十秒持つか持たないか、俺は持つ方に銀貨十枚!』等と賭け事をおっぱじめるのが聞こえた。

 

 期せずして、イヨは荒れくれな男たち──とそんな男たちにも負けない逞しき少数の女傑──から『添え物斬りの上手なお嬢ちゃん』では無く『尊敬すべき大いなる馬鹿力』の称号を勝ち取れた様だ。

 

 結局イヨが左手首の骨折と同時にギブアップを宣言したのは二十五秒後で、先程の銀貨十枚の男には悪い事をしてしまったが、その並々ならぬ負けず嫌いと見た目に反した骨太な気性に、そして勿論勝利したファン・ロングーにも惜しみない喝采が降り注いだ。

 

 イヨは無事な方の手で──比較的、と付けねばならないが──ファン・ロングーと今度こそまともな握手を交わした。赤き猿猴の姿は一時の怒気が嘘の様に穏やかだ。

 

「見た目の割に大した雄ね。人間で私と此処まで張り合った者は初めてよ」

 

 そう言うファン・ロングーは全然余裕そうである。イヨは全身が微痙攣しているが、彼はしゃんと立っている。

 

「貴重な経験をさせて頂きました──」

「これで、一対一ね」

 

 一対一、とイヨの唇が音を出す事無く反芻した。そして直ぐ、試し割りの時に言われた台詞、『私それ真似できないよ』が思い出される。技の器用さでイヨに、筋力の強さで自分に軍配が上がった事でイーブンだという事だろうか。

 

「武王との戦い、私も見に行くよ。頑張ってね──」

 

 ファン・ロングーが背をかがませ、イヨの耳元で囁く。

 

「──次はギャラリーのいない所で立場とか関係なく一戦、ね?」

 

 成る程確かに親近感を抱く、とイヨの顔にぱぁっと笑みが広がる。

 

「是非やりましょう、お願いします。人目を気にしなくていい場所で、今度はガチンコで」

「あっはっはっは、やっぱりあなた、かなりこっち側よ! 人間にしておくには惜しいね」

「バルさんも一緒にやろうよー」

「試合自体は構わんが、あまり年寄りに無理させんでくれよ。俺はもう四十超えてるんだぞ」

 

 弱肉強食式、もしくは直接殴打式コミュニケーションという人間種社会では蛮族的な、しかしいわゆるモンスターや亜人種の社会ではそこそこに通用する価値観の下、二人は意気投合した。

 

 雄同士が互いの力量を計るべく、命の危険が無い範囲で一勝負するという習性は生物界で多く見受けられる。

 

 肩を組んで大笑いしながら『ファンさんの毛並み、すごく綺麗です!』『がっはっは、あなたが同じ種族の雌だったら嬉しい言葉だったんだけどねー』等とはしゃぐ二匹の戦人を、周りの常識人たちがちょっと良く分かんないな、という目で見ていた。

 

 というかイヨの折れている方の手首が未だプラプラしているのでちょっとかなり結構気味が悪い。歯が砕けている為か顔の輪郭もちょっと変形している。

 

 ウンケイが痛くないのですか、と問うとイヨは変わらぬ笑顔で『めっちゃ痛いです!』と元気よく返答した。リウルとセーデは揃って『そりゃそうだろうよ』と呆れを含んだ声音で零す。

 

「よろしければ拙僧が治癒魔法を掛けましょうか? 見ての通り拙僧は四大神を崇める神殿とは中々友好を深める機会が無く──」

「ああいえ、大丈夫です。自前のものがありますから」

 

 慣れっこな為か怪我の割に言葉は流暢である。

 暗に『仲間が圧し折った骨なので無料で治癒魔法を掛けてもいい』と申し出るウンケイの言葉にイヨは笑顔で返し、折れていない方の腕で懐からポーションを取り出し、風呂上がりの牛乳でも飲むかの様に一気に呷る。

 傷は即座に完治した。『ああ、すっきりした』と痒い所に手が届いた的な感想を抱くイヨであった。

 

 そんな一連のやり取りを見ていたフレイヴァルツは手近のベリガミニに、

 

「あの、疑う訳では無いのですが……彼、薬物か何かで痛覚を麻痺させていたりしますかな?」

「ああ、あれがあ奴の常態です」

「──近頃の若者は怖いですなぁ……」

 

 フレイヴァルツが作る予定のイヨの詩歌、その路線がやや変更になりそうだった。

 




自分ちの稲刈りが終わって親戚の稲刈りも終わって近所の稲刈りも終わってやっと更新。でももう次の作物が始まる。

【漣八連】の皆様はまだ依頼中でご帰還していない様子(原作で名前以外登場していないので描写できません)。
ただ【銀糸鳥】の皆様も依頼中に皇帝陛下相手に会話した所しか描写が無いので、同格もしくは格下の相手とどういう風に接するのか未知数ですが現状こんな感じで。原作でまた登場する事があったら書き直します。

また、【もしイヨが百レベル異形種だったら】の連載版タイトル【終にナザリックへと挑む暴君のお話】の第一章、約94000文字を何日かに分けて投稿予定。


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見知らぬ先達を訪ねて

大変長らくお待たせいたしました。本日更新する二話の内、一話目です。


 こっちの武具って地球産のそれより大きくて分厚くて重い物が多いよね、とイヨは思う。

 

 重量二桁キログロムに達しよう地球だったら到底実用とは言えない『片手用の』武器を持ち歩き振り回す輩、金属鎧を着込んだまま日常生活を送り旅路を行く人間が、この世界には跳梁跋扈している。

 

 何の知識も無く、またそれなりゲームに親しんだイヨだから見逃してしまいそうにもなるが、ふと他の冒険者の持つ武器などを見て『あの剣、えらく幅広で分厚くない?』とふと思う事が良くあるのだ。

 

 イヨはTRPGでそういう武器を振るっている延長で現実の武器類にも興味を覚えて友人から資料を借りた事があるのだが、所謂普通の刀や剣のページを見ると重量が一キロ足らずから二キロ程度のものが多く、『へー、それ位なんだ。なんかイメージより軽いかも……あ、でも軽めのダンベル位って考えたらこれ位でも振り回すのは大変だよね。そりゃああんまり重くは出来ないか』と意外に感じつつも納得した記憶がある。

 

 単純明快な事実として、金属は重い。

 地球における人間の筋力には個人差こそあれれっきとした限界というものがあるのである。重過ぎればそれだけでもう実戦では使えない。鍛えるにしても、何事にも限度がある。

 故に長柄武器ですらその大半は重量数キログラムの範囲で収まっていたのである。

 

 これは防具にしても同じ事で、いくら頑丈でも重すぎれば人間には使えない。

 地球人が着込む金属の鎧であっても、全身を覆うものであればその総重量は二十キロから五十キロに及んだと言う。軽量化を施しても重量が三十五キロ超えであるとか、特定形式の試合用であり実戦を意図していないため着込むと自力ではまともに動けない鎧もあった。

 勿論地球の人間はそうした鎧を常に身に着けていた訳ではない。いざ戦闘いざ試合という場面以外では外していたのだ。

 

 こちらの世界では使用者である人間の筋力が鍛錬や進化によって人間の限界を超越する上、より優れた素材としてミスリルやアダマンタイトなどの希少金属、そして魔法による防御力向上や重量軽減があるので、一言に『剣』や『金属鎧』と言っても、地球でのそれと比べて異様な武具と化している事が良くある。

 

 低レベルな内は地球人とそれほど差が無い様に思われるので所謂『普通の防具や武器』も無論存在するのだが、進化と言う名のレベルアップを幾度も繰り返した存在達は比喩表現抜きの超人である為、『超人用の武器防具』も同様に実在している。

 

 これはイヨの体感だが、恐らく銀、金級冒険者の身体能力は地球で言えば歴史に名を残すトップアスリートの域だ。それ以上ともなると熊やゴリラレベルの肉体性能を持っており、イヨなどは恐らくサイやゾウなどの大型四足獣に肉薄するびっくり人間である。

 

 前述した様なえらく幅広で分厚い、その割に短い訳でも無い長剣などだ。同じ速度で振り回せるなら重い方が威力は高くなるし、同じ素材で出来ているなら細く薄いより太く厚い方が頑丈なので、十全に扱える筋力と体力がある前提ならば、この地球的に異常で現地的に正常な剣はより優れた武器であると言える。使い手の筋力と体力が物理的限界を超えて上昇する以上、武器の大型化は必然的な工夫であり進歩なのであろう。

 

 しかしいくら筋力や体力が超人的だとしても体重などは恐らくあまり変わらない訳で、その体重でとんでもなく重い物を身に纏いまた振り回したりするのは身体の方が振り回されたりしないのかと思わないでも無いが、無理をして自分に見合わない得物を振るった等の場合を除き、そういう姿を実際に見た事が無い。

 

 多分こう、レベルとか魔力的な何かが原因で重い場か何かが生まれて、それでなんかこう上手い具合に──とかなんとかイヨは無い頭を捻って考えるのだが。良く分からない。物理法則が違うからしょうがないと今では思考停止している。

 

 かく思うイヨの【アーマー・オブ・ウォーモンガー】にしても前衛系の三十レベルに達した現在ですら許容重量超過のペナルティを避ける為に筋力強化のマジックアイテムとの併用が前提と言う代物であり、当然死ぬほど重いし分厚い。装備者であるイヨ本人より遥かに重いという正にゲーム的でマジカル極まる鎧なのである。三段変形するし。

 イヨがその気になれば『自身の身体より大きい武器を振り回す細身で小柄な少女』というフィクションを実現できる。男だが。

【アーマー・オブ・ウォーモンガー】は防御型の重戦士であるガルデンバルドの防具と同じく、マジックアイテムとしての魔法的な防御力を抜きにしても雑兵の弓矢や刀剣の一撃を小石か何かの様に弾く。

 

 そして、そうしたこの世界的、もしくはユグドラシル的な超地球的武具ですらより上の──例えばレベル五十や六十に達した存在の攻撃、より強度の高い金属でできた武器、より強力な魔化を施された防具の前には容易く断ち切られ、無力な小枝の如く弾かれるのである。

 

 なにが言いたいのかというと──そうした武器が有り触れているこの世界ですら、目の前の男が持つ大剣はそうそう見ない代物である言う事だ。

 

 振り回す当人よりも剣の方がデカい。その名もずばり両手剣──ツーハンドソードという剣だ。双手で一本の剣を操る剣術は冒険者界隈でも有り触れているが、どちらかと言えば盾との併用の方が良く見る。

 

 目の前の男はガルデンバルドほどの規格外では無いにしろ十分に大男と言える長身であり筋骨隆々だ。そしてその大男よりこの剣はデカい。大きさや長さはポールウェポンの域だろう。人間の顔が軽く隠れるほど剣身が幅広でそれに見合った肉厚さ、そして恐ろしく鋭い。柄も長い。

 地球史上において長さは兎も角、人間が実際に実用した武器としてこれに並ぶ大物はまずないだろう。そしてこの世界の常識上ですら、この武器は稀有だ。

 

 いくら筋力と体力が地球人類より遥かに勝ると言っても、冒険者という仕事をしていてこれ程長く大きい剣を使う者はまずいない。剣が他の武器より勝る点に持ち運びやすさと取り回しの良さ、あらゆる状況でそこそこ役に立つ器用貧乏的万能性があるが、これほどデカいとその長所が少なからず減じる。

 

 要するに持ち運びにくく、取り回しが悪く、活用できる状況がやや限定される。重量配分の工夫や各所の細工をどう考慮しても、この剣は同サイズのポールウェポンより遥かに重いはずだ。なにせ使われている金属の量が違う。

 剣という形状と性質を保ったままの大型化は行き過ぎれば当然無理が出てくる。妙な話だがこれほど巨大な剣にもなると剣術の一般的な理が通用しなくなってくるだろう。

 

 大きくて重くて長ければその分操る事に並外れた筋力と技量が要求される。大き過ぎればそれだけ内に入られた時致命的であるし、軽く小さい方がより余裕をもって扱え、小回しが利き咄嗟の対応に有利だ。

 

 いくら身体能力が超人だったところで体型と構造は人間そのままである以上、大きければ大きいほど良いという話には断じてならない。目立つ為名を売る為にどれほど奇抜なファッションで身を飾ろうとも、自身の生命線である武具に関して、冒険者は自分に合った『丁度良い武具』を選ぶ。最も多く使われるのは常に『普通の武具』だ。

 歴史の中で淘汰洗練され、そして必要だけが残って形が定まった物に自分用の細かい調整を加えた、『一般的な武具』なのである。

 

 ──そうした通常の懸念を技量と腕力で単純かつ完璧に解決している目の前の偉丈夫こそがイヨの前に【スパエラ】のメンバーだった男。現在は帝都で道場を構えているミッツ・ベリハーディーだ。

 

 持って生まれたもの、後天的に獲得するもの。あらゆる全てを持ち合わせていなければこれほどの得物を縦横無尽に、手足の如く操る事は出来ない。わざわざ『大剣使い』と名乗るだけある。

 

 ──利き手の指を失ってなおここまで操るとは……!

 

 初手の振り下ろしに合わせて蹴上げで右の手指を砕き、そのまま沈めるつもりだったが、ミッツは手指が圧し折れると同時に〈不落要塞〉を発動させ追撃を防ぎ、ついで〈剛腕剛撃〉とイヨの知らない武技を連続使用して間合いの外に逃れ、仕切り直しを実現させた。

 

 幾ら治癒魔法で元に戻せるとは言え、剣士に限らず大抵の人は戦いの最中に四肢や指が一瞬で使い物にならなくなると肉体的なダメージ以上に精神的に動揺して思考に空白が生まれるか、もしくは反射的に委縮する、痛みに身を固くする等適切な対応が取れない事が多いのだが、決めの一撃を避けるべく防御系武技を使用する辺り手強い相手だ。

 

 自分の身体が壊れる事に、壊れた状態で戦う事に慣れている。

 完全に粉砕し使用不能となった手掌の代わりに前腕部を巧みに用いて利き腕では無い左腕を補助し、全身運動で巨剣を操っているのだ。常人では振るうどころか構える事も困難な獲物を実質的に四肢を欠いた状態で扱い、余勢に姿勢を崩される事もなく制御し切っている。

 

 直感的に理解する。この男はかつてのガド・スタックシオンと同じだ。目の前の男は自分の命より上に勝利か、もしくは戦いそのものを置いている。

 戦いと勝利に関する執着が命に対するそれより大きい。例え試合であっても九分九厘死に踏み込む事に覚悟すら必要としない。

 

 世界の垣根をまたぎ、生死の境に臨む様になってからこっち、イヨは時折こういう人物に出会う。

 

 イヨはガードを下げて頭部と胴体を相手に晒す。重量を威力とする武器が最も力を発揮する大上段からの振り下ろしを誘う構えだ。

 地力で劣り負傷を抱えるミッツの側にとって、例え誘いと分かっていても僅かな勝機をモノにする為、この勝負は乗るしかない。

 

 練習着に武器のみを身に着けて対峙する二者の内、ミッツの方が浅い笑みを浮かべ、上段に構える。場の空気が冷え、沈黙が周囲を満たした。

 

 両者とも身構えに力みは無く、どの様に動くものか察する事は出来ない。目はただ静かに何処を見るともなく自然に見開かれている。

 

 本人達ではなく見守る者たちの方が、緊張のあまり呼吸を止めてしまうほどの静寂。誰かがごくりと唾をのんだ。その瞬間。

 

 切っ先が天を指す大剣が、動く。渾身の振り下ろしと同時に右手の掌で柄を押し放ち、複数武技の同時使用と共に撃ち込まれるその剣勢は本日最強最速──イヨはそれを、斜め前への身体移動で躱す!

 

 戦士の魔法とも言えるもの、ユグドラシルのスキルとは成り立ちを異にする御業。それが武技である。一部の武技はユグドラシルのスキルよりも戦闘における使い勝手や効果が強力とさえ思える物もある。

 慣れない内は何度も煮え湯を飲まされたが、戦士の魔法との例えでも分かる通り、この武技もまた対価を必要とする万能ではない能力だ。

 

 使用には精神力の集中を要し、武技それぞれによって肉体的な負荷の増大や脳疲労、体力消耗を招く。強い戦士であれば同時に四つ五つと発動する事も可能だが、当然その分の負担も四つ五つ分襲いかかってくるのだ。

 

 如何に速まろうと威力を増そうと武器の辿る道筋は肉体の動作によって導かれる。鞭や分銅であってもそれは変わらない。だからこそ、その条理から外れてのけるガド・スタックシオンの攻撃は恐ろしいのだ。

 どんなに速かろうが強かろうが、起こりが見えれば躱す事は不可能ではない。渾身の斬撃を躱された相手の取る次の手は、意識が迎撃、回避、防御などどの方向に向いているかによって異なってくるが──

 

「っ!」

 

 体勢を攻撃前のものに無理矢理戻す武技、〈即応反射〉によって引き戻される踏み込み足をイヨの踏み付けが大地に縫い付けていた。ミッツの次の行動を完全に予期していなければ出来ない動きだ。

 

 其処から差し込まれる連撃は刹那のもの。

 

 踏みつけた足をそのまま踏み躙り、地面で磨り潰すが如く半歩の踏み込みから放たれるのは中段逆突き。深々と手首まで肉体に埋没する程の強打。引くと同時に叩き込まれる肘は肋骨ごと内臓を破壊する。

 

 意識を揺るがせ崩れ落ちる肉体をさらに加速させ地面に打ち付ける踏み付け──

 

「せ、せんせ──」

 

 ようやく戦況の推移に眼が追い付いたらしい弟子たちが叫ぶと同時、イヨはミッツの頭部を踏み付けた。

 

 

 

 

 

 

 ミッツが帝都で構えている道場は随分と大きい物だった。私財の大部分を投じたのだろう、立地も良く設備も整っている。

 引退した元オリハルコン級冒険者にして現役の武芸者が道場主だけあり、門下生には冒険者や騎士も多い。

 

 締め固められた黒土の床では、偉丈夫と子供が対峙していた。揃って地面に座している。

 

「良い勝負だった」

「誠に」

 

 双方とも平静な顔付きであったが、壁際に整列して対峙を見守る門弟たちの視線は穏やかとは程遠い。畏怖にしろ恐怖にしろ、イヨにある種の怪物を見る様な視線を向けていた。

 

「実力で遥かに劣る俺を相手に対等の勝負をしてくれた事、誇りに思うよ」

「その様な──」

「良い。俺が一番わかっている。みんなについて行けなくなってチームから離れた俺とシノンさんでは文字通り格が違う」

 

 直接聞いた訳では無いが、ミッツの肌艶や筋肉の張り、挙動の軽重を見るに、年齢はまず間違いなく三十代初頭だ。鍛え上げられた肉体は実際の大きさ以上の存在感があり、太く雄々しい眉と実直な顔立ちは威厳に溢れている。

 経験、技量、肉体能力が最も高い次元で釣り合う戦士の黄金期、その真っ只中。そうである筈のミッツの面立ちには、何処か老人の様な陰りがあった。

 

 肉体的なものではない。精神的なものだ。

 

 ミッツは遥か格上の後輩と、そして自分を慕う弟子たちに対し諭す様に言葉を綴る。

 

「一緒に居る内にな、少しだけ辛くなっていったんだ。日々僅かに、しかし確実に詰まり、そして離されていく実力の差、才能の差……いずれ俺は足手纏いになる、そんな近い未来がはっきりと分かるようになった」

 

 ミッツより遥かに年上であるガルデンバルドとベリガミニ。肉体的にはとうに下り坂に入っている筈の二人は、まるで伸び盛りの少年の様に力を伸ばし続ける。

 遥かに年下であるリウル。乾いた大地が水を吸う様な吸収力は常人ならとうに頭打ちである域に至ってもまるで衰える事が無かった。

 

 冒険者として経験を積めば積む程、際限なく成長し続ける仲間たち。

 

「メリルは知ってるよな? 俺と同時期にチームを抜けた女性だ。彼女とも時折話したんだ。俺達は英雄を間近で見ているってさ」

 

 そして自分たちはそうではない、と。

 第三位階に到達した神官。オリハルコン級の戦士。ミッツもメリルもれっきとした天才だった。

 

 だが、英雄の器には遥かに足らなかった。

 

「ベリガミニ、ガルデンバルド、リウル……【スパエラ】の中核だ。この三人は常に不動だった。俺とメリルは比較的長く在籍した方だが、何時だって三人以外の面子は頻繁に入れ替わった。多くは死亡では無く離脱でな。誰も、この三人の歩みについて行けなかったんだ」

 

 飛躍についていけない。共にいる事に耐えられなくなる。

 実力差、力量の不一致。傍に居る事で否応なく分かってしまう彼我の格差。

 

「面と向かって言った事は無いんだが……一緒に居続ければ死ぬ、それが分かるから誰もが離れていったんだろうな。常人が否応なく足踏みを続ける所でひたむきに、しかし確実に前に進んでいくあの三人が眩しかった」

 

 余りにも圧倒的な格差に意地を張る事すら無意味に感じ、諦観と共に【スパエラ】を抜けていった過去の者たち──その心情が我がものの様に想像でき、そして共感できた。

 潮時だと思った、と。

 

「それで【スパエラ】を? だから、僕だけで来てくれと?」

「俺やメリルの夢は本物だとも。だが、三人と共にいる内に道場主より英雄の方に惹かれたのも事実だ。俺は夢破れたんだよ。そして身の程を知って、初心に立ち返った……弟子たちは俺の宝だ。実はこっちに戻ってきてから程なくして、帝城の方からもお声がけを頂けた」

 

 陛下の下で功績を上げ続ければいずれは上級騎士、働き次第で四騎士の座も夢ではない──冒険者とは違った道に興味が無かったと言えば嘘になる。

 

「だが俺は一時でも仲間と共に英雄を目指し、そして諦めた。新しい夢を見るには頭が冷えすぎたよ、三十過ぎて宮仕えってのもな……生まれてこの方野で生きてきた、今更堅苦しいのは御免だ──おっとすまん、フーリッシュ、タルト」

 

 その宮仕えの騎士なのであろう、居心地が悪そうに身じろぎをした年長の門弟に詫びるミッツをなんとも言えない気持ちで見ながら、イヨは背筋を伸ばした。

 

「シノンさん、あんたの噂を聞いた時俺は納得したよ」

 

 突如として現れた年若い大拳士。かつての大英雄とさえ伍するほどの怪物にして傑物。嘘か真か、遥か遠い海を隔てた大陸から訪れたという。隣人を愛する心優しい少年だとか。

 そうした評価を向けられた当人は微妙そうな顔をしていたが。

 

「英雄にはそれに相応しい仲間がいるべきだ。シノンさんと三人の出会い、俺は運命だと思っている。事実、あんたの加入後ほんの僅かな期間でみんなは念願のアダマンタイトに到達しているしな」

 

 俺は多分此処までだ、と。

 俺はもう、今以上にはなれない、と。

 今の実力を維持する事は出来ても、より上に伸びる事は無理なんだろう、と。

 

「対武王戦の為の鍛錬相手に俺を選んでくれた事、末代までの誉れだ。心から光栄に思う。あんたと【スパエラ】の為なら俺はなんでもするさ。だけど、一つだけお願いがある」

 

 ミッツが両手で示すのは、左右の壁に並ぶ門弟たちだ。下は十代半ばの少年少女、上は頭髪に白い物が混じる年齢の者まで。

 

「武王戦の済んだ後、時間の有る時で良いんだ。こいつらに稽古を付けてやってくれないか? それとそれまでの間、今日みたいに見学を許してやって欲しい。こいつらに本物を見せたいんだ」

 

 治癒した手指を掲げて、ミッツは語る。

 

「俺の新しい夢なんだよ、シノンさん。俺を超える戦士──英雄の領域に踏み込む戦士を育てたい。俺が望み、しかし届かなかった頂に、誰もが焦がれる領域にこいつらを送り込んでやりたいんだ。目指す場所を明確に見知っているのといないのとじゃあ全然違うからな」

「願っても無い事です。私もまた道半ば、互いに学べるものがあると思いますので」

 

 丁度地球に居た時の道場でしていた様に、イヨは座したまま正面のミッツ、左右に居並ぶ面々に深々と低頭した。

 

 慌てて返礼する人々と対面の偉丈夫に対し、申し訳ない、という感情は無論ある。

 イヨより高い身長ゆえの高い目線から、それでも仰ぎ見る様にこちらを見る沢山の人々。

 

 それでもこういう立場に身を置き、そして持てる力で人の為に出来る事がある。ならばイヨはやらねばならぬ。

 

 この力でぶち殺せる敵がいる。この力で無いとぶっ殺せない敵がいる。今よりも尚強くならねば滅ぼせない仇敵がいる。矢面に立ち、刃に身を晒し、敵を倒す事で人の為になれるのなら。

 

 イヨは強い者の義務賢い者の義務という言葉が苦手──言うにしろ言われるにしろもやもやする──のだが、棚ぼた以下の気軽さで何故か持っている力だ。なんの苦労も工夫も幸運すら用いず、ただ持たされた力だ。この上努力をすら惜しみ痛みを厭うて安穏に逃げては、今まで以上に世間様と背を向けた家族に、ただ単純に申し訳が立たない。

 

 イヨが強くなり、敵を倒す事で助けられる人たちがいるのだ。アダマンタイト級冒険者とは、そういう地位だった。人類の矛であり盾であって欲しい、とアダマンタイトプレートを授かった時に言われたのだから。

 

 持てる力の限りを尽くし、尽くせる努力の全てを尽くして役目を全うするとその時改めてイヨは誓ったのだ。

 

「ありがたい……色よい返事をもらえて嬉しいよ」

「ただし、条件があります」

「ああ、アダマンタイト級冒険者に稽古をつけてもらうんだからな。勿論きちんとした謝礼を──」

「いえ、そうではなく」

 

 互いに利がある合同稽古でお金を取ろうとはイヨは思わない。

 

「リウル、ベリさん、バルさんとちゃんと会って下さい。三人とも、ミッツさんと久しぶりに会うのをすごく楽しみにしてたんですよ」

 

 『合わせる顔が無いから』という言い方ではあるのだが、ミッツから出来れば道場に来ないで欲しいという受け取り方しかできない言伝があり、三人は非常に困惑していた。

 

「どんな敵を相手にしても臆せず切り結び、決して後ろに通さない。どんな窮地も手にした剣一つで切り払う。一度としてその実力と人柄を疑った事は無い。みんな口を揃えて言ってました」

 

 三人の認識によればミッツは常に頼りになる前衛で、気の合う仲間で、かけがえのない友人であったからだ。パーティを抜けはしたが道を違えた訳では全くなく、隔意も当然なかった。

 イヨが少し寂しく思ってしまう程『久し振りにあの野郎の暑苦しい顔を拝みに行ってやるか』と三人は公都に居る時から多いに盛り上がっていたのである。

 

 イヨがちょっと疎外感を抱いてしまう位に。イヨがそれなりに拗ねてしまいそうになる位に。

 三人はかつての仲間の話題で盛り上がっていた。ついでだからアイツのとこにも顔を出すか、と公都から帝国に向かう途上で同時期に脱退したもう一人の仲間、メリルの下を訪ねた程だ。

 因みにメリルからミッツへの手紙なども預かってきている。

 

「三人からこう伝える様に頼まれてきましたので、そのままお伝えします──『おいこの野郎、仮にも同じ釜の飯を食った仲間に向かって来るなとはなんつう言い草だ。事情があるなら説明するのが筋だし、まだぞろ真面目をこじらせて妙なこと考えてるならとんでもねえ話だ。どっちにし水くせぇこと抜かしてんじゃねぇ尻を蹴り上げるぞ』──だそうで」

 

 真面目な顔で最後まで言い切ったイヨに対し、ミッツは困った風に眉根を寄せた。

 

「……三人というか、ほぼほぼリウルだな」

「ええ。でも、ベリさんやバルさんも同意見の様でした」

「むう」

 

 腕を組んで唸るミッツである。やはりこの人物は、根の部分ではイヨに似ているのかも知れない。その仕草にはどこか少年の様な若さがあり、彼を覆っていた老人の様な陰りが薄くなったようだった。

 

「初対面ですし、ミッツさんが【スパエラ】にいた時の事を僕は伝聞でしか知りませんが、やっぱり水臭いと思いますよ……先輩」

「あいつらと俺は違う……一緒に居て俺なりに肌で感じ、実感した思いだったんだが……」

「三人の方はそんな事ちっとも思ってないみたいです」

「……これだから天才ってやつは……」

 

 打ちのめされた顔であった。とは言っても、暗いものではない。ほんの少し、外見に近い生気がミッツの内に蘇った。

 

「……昔からあいつらは人を見下すって事をしないんだ。善良とか純粋っていうんじゃなく──悪口で言ってる訳じゃないぞ──そんな事をしている暇が有るなら他にやるべき事があるって感じでな。嫌う奴は嫌って、邪魔な奴はぶん殴って、くだらない奴は忘れて、そうして止まる事無くさっさと前に進む──」

 

 イヨはあえて言葉を掛けようとはしない。言えることも無い。

 

「そうか……俺はまだ三人にとって過去じゃなかったか……てっきり俺が思ってるようなことは当然向こうも思ってるもんだと……」

 

 理解できるとも思わない。それはおこがましい事である。イヨの如き若造がこれ以上口を挟まずとも、ミッツと【スパエラ】の間にはしかと絆が存在する。

 

「──すまない、シノンさん。ちょっと伝言を頼まれて──」

「手近な酒場でみんな、僕からの連絡を今か今かと待ち望んでる所です。ちょっと待っててくださいね、全力疾走なら十分かかりませんから」

 

 ちょーっとだけ寂しい気持ちが無いではないけども、この時ばかりはイヨは仲間外れで良いのである。旧交を温めたその後に、手招きと共に輪に迎え入れてもらえると信じているのだから。

 

 

 




大昔に名前だけ出た人とか誰も覚えてないんじゃないかなぁとは思いましたが折角帝国に来たので……。

ガゼフさんやバジウッドさんが使ってる剣とか剛剣って感じがして好きです。武器が刀であるブレインさん、同僚であるニンブルさんとの違いが際立って見えますよね。


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灰色の老公との顔合わせ、そして闘技場へ

本日更新する二話の内、二話目です。これより前にもう一話あります。


 寒々とした夜であった。

 

 月明かりすら雲間から僅かに注ぐ程度で、夏であったならば心地よかったであろう風は冷たく、衣服の隙間から侵入して肌を舐め、道行く人々に鳥肌を立たせた。

 

 そんな夜半であっても繁華街は活気に満ち溢れ、主要な通りでは街灯が闇を照らしている。

 より強く新しく生まれ変わり発展し続ける都、バハルス帝国の中心である帝都は眠らない都市である。

 

 そんな帝都にも闇に覆われた部分は存在し、老いた男が歩いているのはそういった場所だった。

 

 大通りから脇道に外れたその場所には遠くからの街灯の灯りが薄く差し込み、もう二、三歩も進めば宵闇に全身が浸るだろう。

 

 明と暗の境。暗闇に近く、しかし、弱いながらも灯りが届く場所。

 あるいは、その老人の社会的な立ち位置も似たようなものだった。

 

 頭頂部は毛髪が抜け落ちて久しく、歯も加齢から幾本も抜け落ち、筋肉は衰え、肌は張りを失い皺が寄っている。どこからどう見ても、孫やひ孫の顔を見る事が何よりの楽しみであろう年代の老人である。

 

 しかし、男は武装していた。前述した様に其処は街中で、老いているにも関わらず。

 そしてその威容は、年寄りの冷や水などと揶揄できたものでは到底ない。

 

 最も目立つのは朝露に濡れた緑葉の如き輝きを放つ鎧だ。帝都において強さに頼る生き方をしている者たちならば、この鎧とその装備者は既知であろう。

 

 パルパトラ・オグリオン。それがこの男、伝説的なワーカーの名だ。

 かつて仲間たちと打ち倒したドラゴンの鱗や牙を用いた武具を見纏った彼の年齢は、八十歳にも至らんとしている。

 

 冒険者や傭兵、そしてワーカーなどの職業に就く者たちは多くの場合四十代半ば、いっても五十代で引退する。肉体の衰えという不可避の要因がその主な理由である。

 

 そんな中にあって、パルパトラは未だに最前線に立ち続けるある種の怪物であった。無論その実力はオリハルコン級とも言われた全盛期から遥かに衰えているが、それでも冒険者で言うミスリル級に匹敵すると言われるワーカーチームを率いる手腕は嘘偽りのないものである。

 

 所詮八十の老人などと侮れば、余程の例外的存在でない限り痛い目を見るだろう。

 

 誰よりも長く戦い続けたその生涯において掴み取った報酬総額は帝国一、その報酬で得たマジックアイテムはアダマンタイト級冒険者のそれを上回るとも噂される。

 

 現存する人間の戦士が生まれる前から今に至るまで生き残り戦い続けてきた男──アンダーグラウンドな仕事をしている為社会的な名誉となると皆無に近いが、業界では多くの者たちが彼に敬意を払う。

 

「そろそろ出てきてくれんかのう」

 

 闇を背負ったパルパトラが光の方向に向けて静かに問うた。

 

「お主中々の健脚しゃか、密偵の心得なとは無い様しゃな?」

 

 前歯の殆どが無いため空気の抜けた様な発音だが、その声音に無駄な遊びは無い。

 

 身をやつしている職業が職業である。どちらかと言えば、否、はっきりとやくざ者の類だ。

 身辺を嗅ぎ回される心当たりなど無数にある。危ない橋や裏のある話など年中行事。そうでないならワーカーなどに出番は回ってこない。

 

 パルパトラはそれら全てを回避し、乗り越えて今まで生きてきたが、ワーカーにとって同業者との殺し合いや依頼主からの口封じなどは有り触れた死に様なのである。

 

 見知った顔がある日死体になって見つかる。もしくは、忽然と姿を消す。そうした日常的な出来事が自分に回ってこない等と言う保証は、この仕事をしている限り有り得ないのだ。

 

 冒険者もワーカーも、基本的に常に武装している。急な依頼に対処する為等の理由でだ。ワーカーは半身が黒に浸かったグレーなので日頃の立ち振る舞いや巡回の騎士の機嫌によっては危ないのだが、なにせ法的な庇護が無いし脛が傷だらけなので自分の身の安全の為にも武装は手放さない。

 

 この世界の平均寿命からしても老いに老いているパルパトラ、しかし既にその心身は戦闘態勢だ。背に負った槍で前方を一突きするのには瞬き一つの時間があれば充分である。

 

 誰何に反応し、現れた人影は──夜中出歩くには不適当と思われるほど、小さい。

 

「後をつける様な真似をしてしまい、申し訳ありません」

 

 姿形を隠す為かもしくは単に防寒か、フード付きロングマントを着用しているが、すぐさまフードを上げて顔を晒す。

 

 街灯の灯りを受けて輝くのは色素の薄い金の髪──白金の髪色。精緻で微細、美しい面はちんまりとしている。

 

 パルパトラをして少なからぬ驚きがあった。歩調から追跡者が小柄な人物であろう事は察していたが、まさか身長相応の幼げな少女であるとは到底思わなかったのである。正体が一気に分からなくなった。

 

 なんらかの因縁のある同業者かと思っていたが、こんな人物がワーカーである可能性は極低い。あるチームに所属している第三位階魔法詠唱者の存在を知る以前ならば皆無だと断じていただろう。

 手指や髪の手入れの行き届きよう、肌艶や雰囲気からすれば素性は生活になんら不足不満の無い裕福な子女であろう。素直に外見から察するならば、冒険者でも騎士でもワーカーでもない。

 

 そんな人物がたった一人で自分の後をつける理由は思い当たらないし、今の今まで振り切れなかったという事実こそが、目の前の人物が外見通りの存在では無い事を証明している。

 

 ──囮か? 事実儂はこの状況を判じかねておる。帝国社会の闇に名を轟かす暗殺者集団の頭領は女じゃとも聞くが──

 

 そうした思考は、目の前の少女が身体に纏わせていたフード付きロングマントの前を開いた事で吹っ飛んだ。

 

 マントの下にあったのは、顔付きから想像できるのと寸分たがわぬ細く整った肢体、そしてそれを包む金属の飾りが特徴的な衣服──首元に下がった希少金属のプレート。

 

 若かりし頃、竜狩りを成し遂げたパルパトラ・オグリオンの全盛期ですら及ばなかった境地、その証明──アダマンタイト級冒険者の証。

 

 ──まさかっ!

 

 【銀糸鳥】でも【漣八連】でもない最上位冒険者チーム、すなわち現在帝都に滞在中の【スパエラ】の一員。隣国である公国の人間である。

 

 【スパエラ】のメンバーは常軌を逸した巨体の戦士ガルデンバルド、老年の魔法詠唱者ベリガミニ、黒髪黒目の斥候リウル。その内誰とも異なっている以上、残っているのは自動的に、

 

「初めまして。【スパエラ】のイヨ・シノンと申します。老公パルパトラ・オグリオン殿、ご高名はかねがね伺っております」

「……なにを。こちらこそ、こ高名はかねかね、しゃとも」

「私の事をご存知で?」

「お主たちか一体何を成し、そしてとれたけの間帝都に滞在しとると思うんしゃね」

 

 新世代の有望冒険者として公国の冒険者組合が登録と同時にミスリルプレートを授けたとも噂され、その後僅か一件の依頼を熟した後に死の騎士騒動において破格の活躍。恐らく全冒険者組合でも最短記録であろう月日で最上位の座に上り詰めた麒麟児だ。

 

 武王との試合が組まれている事、頻繁に帝城に訪れている事、近在の村々からカッツェ平野まで、精力的に依頼を熟している事など、【スパエラ】の一挙一動が人々の噂にならぬ日はない。

 

 男とは思えないほど麗しい紅顔の美少年と聞いてはいたが、思えないも何も何処から如何見ても少女である。世の人々の大多数が少女の前に美をつけるだろう、どう言い繕った所で少年には見えない少女だ。

 一体どんな目と頭をした奴がこの少女を見て可憐な容姿の美少年と形容したものだか、本気で疑問を抱くほどだった。

 

 だが目の前の人物の容姿など今はどうでも良い話。問題は一体どんな繋がりでアダマンタイト級冒険者が自分の後をつける状況になったのか、という点のみだ。

 

 パルパトラは素早く思考を走らせる。

 

 パルパトラは単に強いだけではなく、とても用心深い男だった。だからこそ引退する前に大半が死ぬと言って良い仕事をこの歳まで続けることが出来たし、ドラゴンだって退治出来た。

 アダマンタイト級冒険者がワーカー風情の後ろを付けるという状況が依頼以外の何かで発生したと考えるのは、目の前の少女が礼儀を正して接して来ていたとしても楽観的に過ぎた。

 何を目的としてかは不明だが、最悪の場合はパルパトラ・オグリオンの討伐依頼を請け負ったという事態もありえる。

 

 それにしても、帝国騎士の一隊や顔馴染みのワーカーたちが雁首を並べるのならまだ分かるが、わざわざアダマンタイト級冒険者を動かしてまで自分たちの首を欲しがる相手には心当たりがない。

 

 本気で、心当たりがない。

 

 所詮はワーカーと呼ばれればそれまでだが、頭にダスクが付かない程度には仕事を選んで来た、もしくは事が露見しない様に気を使ってきたという自信がパルパトラにはあったのである。

 ミスリル級に並ぶ実力を持つパルパトラのチームには社会の裏からも表からも様々な依頼が舞い込むが、どの方面にしたってどうこうするよりも放置して都合良く使っておく方が得だと判断される位には使い勝手のいい優れた駒だった筈だ。

 

 しかし現実として今目の前にイヨ・シノンは──存在する。

 

 この外見からは信じ難いとしか言い様が無いが、【漣八連】や【銀糸鳥】と違い、【スパエラ】というチームはその戦闘力、個々の能力の高さでもって欠員を抱えながらも昇格を果たしたチームであると聞き及んでいる。

 

 見た所イヨ・シノンは無手だが、拳士が無手だったところでそれは非武装を意味しない。その五体そのものが殺傷力漲る武具である為だ──その筈なのだが。

 

 立ち姿に隙は無いと言えばまあ、無い。無形の構えとでも言えばそれらしいかと思えなくも、無い。先手を取って撃ち込めば通るかと問われれば、まあ通らないであろうという気はする。

 

 それでもなお、パルパトラの常識と経験は目の前の存在の戦闘力を否定している。強さが見えない。威風も無い。名乗りを受け証を目の当たりにしても尚、裕福な子女という第一印象が覆らない。

 

 人の外見とは内面の最も外側であると言う。顔付きには人格が現れるとも言う。手指足指には人生が現れるとも言う。美醜という意味では無く、だ。

 生死の境で長い人生の大半を過ごしたパルパトラだからこそ分かる。目の前の少女からプレートを獲得するまでに乗り越えたであろう苦難を、努力を、修羅場を感じない。

 修羅場どころか、十代の少年少女なら誰しも多少は持っているだろう大人や世間に対する肩ひじ張った態度すら皆無だ。そうした気持ちや雰囲気が染み出て、外見同様この人物を幼げに見せている。

 

 だが同時に、直感が自分を遥かに上回る存在だと──首から下げたプレートに相応しい力の持ち主だと判断を下している。例えプレート以外の全身から一切力強さや威厳というものを感じないでも。

 

 どれだけの才能があっても有り得ない事である以上やはりそれは有り得ないのだろうが──強くなるという過程をすっ飛ばして力だけを掴んだ存在がいるとしたら、こんな顔でこんな見た目なのかもしれない。

 

 有り得んしゃろう、とパルパトラは自身の感覚が正しい物だと仮定した場合筋の通る想像を否定した。考えるまでもなく、この世に生まれ落ちてそんな風に出来上がる人間がいる訳がないのだ。

 

 実際の所はごく普通に裕福な家に生まれた見目良く才に恵まれた少女であり、自身の生まれ持った外見を維持する為に多大な、パルパトラの見識眼をも欺くほどの努力をしていると考えるのが現実的であろうか。

 

 それはそれで凄まじい手間暇の掛け方だが、幼いとは言え女性であれば自身の容姿は気になるのだろう。

 

 取り合えず自身が感じた違和感を切り捨てたパルパトラは会話を試みる。

 

「……アタマンタイト級冒険者ともあろう者か、一体この老い耄れになんの用しゃね。儂ももう若くはないての、娘子に声を掛けられたとはしゃける元気はないんしゃかの」

「あ、こんな外見ですが私は身も心も解釈の余地なく男、男性です」

「そうかね」

 

 どんな事情があるのか知らないが、そうまで言い張るのならせめて外見も男に寄せるくらいの努力はすべきだろうとパルパトラは思った。だがまあ、目の前の少女が身に秘めた武力に比べれば性別やそれを偽る事情など些末な事だ。

 

 今まで幾人も見てきた真のアダマンタイト級に並ぶだけの『力』。それはパルパトラの全盛ですら遥かに及ばない高みである。

 

「ええと、本題に入る前に再度謝罪いたします。失礼な真似をしてしまい、すいませんでした。実を言うとここ数日ご老公を探しておりまして──仲間の協力を得られれば話は早かったのですが、ちょっとこの件に関してはあまりいい顔をされなかったもので、その」

 

 緊張感が抜ける。

 わたわたと纏まりなく喋る姿は、少なくとも戦意は無さそうである。

 

「私の様な者に付きまとわれ、ご老公におかれましてはさぞご迷惑というか、混乱──」

「……もっと普通に喋ってくれんかの。敬意を払うてくれるのは嬉しいんしゃけとも、他の誰かの耳に入った折には儂の方も外聞か悪いわ」

 

 実力こそが全ての職業であり、界隈である。パルパトラが同業者から一目も二目も置かれているのはただ年老いてなお現役だからではなく、年老いてなおミスリル級の腕を保ち頭の働きも明敏としているからだ。年齢相応に衰えていようものならどれだけ必死に現役にしがみついていたとしても、浴びせられるのは賞賛では無く嘲りだっただろう。

 

 自分よりも強い者に敬いの籠った態度を取られれば多少嬉しい気持ちもあるが、過ぎれば辟易とする。単に丁寧な態度というだけならまだしも、イヨ・シノンの振る舞いは明らかに自身を下位に置いたもので。

 

 実力の上下を抜きにしても社会的名誉という点において天地の隔たりがあるアダマンタイト級冒険者がやくざ者のワーカー風情にどんな態度を取ったとて、無礼を咎めようとする者などいよう筈も無いのだ。

 

 ただの子供なら礼儀正しさは美徳であり長所であろうが、界隈で最も上に立つ者がはみ出し者に対し自身を風下に置くような、ともすれば遜り寸前の馬鹿丁寧さでは冒険者も市井の人々も微妙な気持ちを抱くだろう。

 

 パルパトラ自身でさえ苛立ちを感じる。

 

 元々パルパトラは組織人として最悪の類だった当時の冒険者組合の長をぶん殴ってワーカーとしての道を歩み出した男である。今の帝国では斜陽とはいえ冒険者に、特にその頂点たる者たちには、胸の奥底で眩い思いを抱いていた。

 

 ──不可能を可能にする人類の切り札、最強の存在──全盛期の儂でさえ届かなんだ高みに立つ者が、格下のジジイ如きにぺこぺこするな。

 

 かつての自分が憧れた英雄の姿そのままに、最強たる風格と威厳を備えた存在であって欲しい。それが目の前のお嬢ちゃん冒険者を前にしてパルパトラが抱いた素直な感想であった。

 

 老人の顔に走った苦みをイヨ・シノンはしかと汲み取ってくれた様で、咳払いをして居住まいを正した。物分かりの良さからして、普段から周囲の人々に立ち振る舞いについて諭されているのかもしれない。

 

「──んん。すみません。これは言い訳ですが、立場というものに未だ慣れない部分がありまして」

 

 相も変わらず丁寧だが、初対面同士としてみれば普通位の口調にはなっていた。

 

「私がご老公に敬意を抱いているのは本当です。私の先生──元アダマンタイト級冒険者のガド・スタックシオンをご老公は覚えていますか? 面識があると聞きましたが」

 

 随分と久しく聞いていない名前だったが、無論パルパトラは覚えていた。今までに幾人か対面した真のアダマンタイト級の一人である。実力だけではなく気位と態度もアダマンタイト級だったが、それを全く嫌味に感じさせない威厳も──傲慢とて相応の器量を伴えば威厳として映るのだ──兼ね備えた男だった。

 

 短い間に些細な交流を持ったが、友人だったかと言えば否だ。歳は無論の事実力には遥かなる隔たりがあった。良い所で知り合い、ガド・スタックシオン側が言っている様に『面識がある』位が妥当な所であろう。

 それでも、あの苛烈で奔放だった剣の暴君が未だ自分の事を記憶に留めていたと思えば悪い気はしない。

 

「懐かしい名しゃ。そうか、主はあの男の弟子か……はん、あれか人の師とはの。主もさそ苦労しておろうて」

「私自身が望む苦労ですので、痛くはあっても辛くはありません。練習は楽しいです」

 

 柔らかく微笑んで、少女は言ってのける。大人には形作る事の出来ない、純真で眩しい子供の笑みだ。

 

 健気で殊勝な事である。だからこそ恐ろしい。現役時代のガドが自分に課していた修練を僅かなりとも知るパルパトラからすれば、あんなものは拷問でしかない。自分で自分を殺そうと躍起になっている様な物だ。

 あれに耐えられる、どころか耐える必要すらなく嬉々として身を浸すことが出来るのならば、その精神性は少なからず人間的な当たり前の感性からぶっ飛んでいる。

 

 強さに憑りつかれている──というほどの逸脱した圧は受けないが、やはりプレートに見合った常識外の部分を、この身も心も幼いといって差し支えない娘子は内包している様だ。

 

 敵にしたくはない、とパルパトラは損益の部分で判断する。アダマンタイト級冒険者であるとかそういった点を抜きにしても、こういう輩は敵に回したくない。威厳の無さが、言動の軽さが、垣間見える未熟さが、ひっくり返せばとても恐ろしい。

 多分この少女は、そうせざるを得ないという必要に迫られれば、今こうして笑みを浮かべているのと同じくらい自然かつ真摯にパルパトラの頭部を拳で打ち砕くだろう。

 

 そしてパルパトラにそれを防ぐ術はない。一撃位なら受けられないことも無いかもしれないが、それ以上は無理だ。

 

 現在に至るまで生き残ってきた伝説の老兵は、好々爺然とした笑みを意識して形作った。

 

「友というほと気安い関係てもなかったか、古い知り合いとの思い出は良いもんしゃ。年老いてますますそう思うわ──して、シノン殿は儂になんのようしゃね? 本題の方かあるんしゃろう?」

「はい。実を言うと、ご老公に依頼をしたいのです」

 

 依頼。

 まあ順当と言えば順当なのであろうが、反応はまあ以来の内容による所だ。目線で先を問うパルパトラに、灯りを背負ったイヨ・シノンは、

 

「誰よりも長い経験を積み、誰よりも多くの修羅場を潜り抜けた伝説の老公、パルパトラ・オグリオン殿。あなたに私の師となって頂きたいのです」

 

 イヨ・シノンが武王に挑む前日の夜の事であった。

 

 

 

 

 

 

 国の中心として今代皇帝ジルクニフ即位以降平和そのものの高発展を続けてきた帝都にあって、大闘技場は庶民と好事家たちにとって最大の娯楽であった。人と人、もしくは人と魔獣。専業の戦士から金と栄誉に飢えた出場者まで。

 

 蛮性を呼び覚ます興奮と巨大な金が動く賭博を兼ね備えた催し物は常に満員盛況である。しかし、本日のそれは普段とは桁が違った。

 

 膨れ上がった期待が熱気として人々から立ち昇る様に渦巻いている。冬の都にあって、この場所だけは真夏の様だ。

 

 闘技場内にぎっしり詰まった貧富も様々な人々。余りの客足と盛り上がりに、運用に支障を来さない範囲で立ち見まで本当にぎっしりだ。貴族や成功した商人などが利用する幾つかのランクに分かれた貴賓席も一つ残らず埋まっている。

 

 入場出来なかった者たちの一部が騒ぎを起こして騎士隊が出張る羽目になった位なのである。ここ十年で一番の客入りと言えるだろう、その理由は単純だ。

 

 武王の試合が組まれているのだ。強過ぎて勝負にならない為試合が組まれなくなって久しい闘技場で最強の存在、武王が今日この日、戦うのである。

 しかもその相手は人類の切り札、最強の代名詞であるアダマンタイト級を戴く冒険者。

 

 最強対最強と銘打たれたこの組み合わせが発表されてから、人々は今日この日を今か今かと待っていたのだ。メインイベントである武王戦の前試合も普段ならば大トリでもおかしくない豪華な組み合わせが実現しており、超満員の観客席は既に最高潮に盛り上がっている。

 

 賭博で大損をしたのか、奇声と共に暴れ出す身なりの良くない男性。興奮のあまり卒倒する者。贔屓の剣闘士が負けたのか絹を裂くような悲鳴を上げる貴婦人。白熱した名試合と、それに伴って発生する死人怪我人の数が増える度、人々は熱狂の度合いを高めていく。

 

 今もまた、近頃不敗の天才剣士などと呼ばれ始めているらしい刀を使う男が魔獣の太い首を一刀の下に刎ねた。派手で見栄えの良い決着と大量の血飛沫に満座の観客たちは大歓声を上げ、男は気取った一礼でそれに答える。

 

 地団駄や叫び声で大闘技場が微振動するほどである。しかしこれほどの熱狂も、この日に限ってはまだ序の口だ。いざ武王とその対戦者が姿を現せば比較にならない歓声と絶叫が上がるだろう。

 

「ついに武王の試合だ! クソ、一体何時以来だ? ああ、待ち切れねぇ!」「私、この為に足を運びましたのよ!」「今度の対戦相手はどれだけ持つかな?」「アダマンタイト級冒険者ですよ、武王相手でもいい勝負をするでしょう!」「アダマンタイトと言っても一人ではねぇ。人間が武王に勝てる訳がない」「公国のだぜ? 実際どの程度のもんなんだか。武王に全額だ!」「国をも滅ぼすっつう化け物みてーなアンデッドをぶっ殺した奴だぜ、今日は武王が死ぬところを見れるかもしれねぇ!」

「女と見紛う程の美少年、天才拳士だぁ? けっ、俺達の武王に潰されて死んだらいいんだ」「シノン様ー、頑張ってー!」「……既婚者らしいわよ?」「ええ!? もう、いい男ってどうしてこう私が目を向けた時にはもう誰かのものになっちゃってるのかなぁ」「たとえ独身だったとしてもあんたに何のチャンスがあるのよ……」「頼むぞ英雄、俺に一獲千金を運んできてくれ!」「やんごとなき家柄、妖精の血を引くっつう絶世のご令嬢だと! 実際どれくらい可愛いのかな。俺ぁ彼女に勝ってもらいたいね」「派手な血飛沫上げてくれぇ、武王!」

 

 歴代最強の武名も高き武王のファン、闘技場マニアと呼ばれる玄人観衆、最強の武王が死ぬところが見たいという者、弱いと聞く公国冒険者の強さを疑問視する者、見目が良い天才少年と聞いて取り合えず死を願う者、話題になっているから来てみたミーハーな町娘とその友人、可愛い女の子と聞いて応援する本能に忠実な者、兎に角血が見たい流血愛好家、惨劇嗜好症者。そして数多の博徒。

 

 専業兵士である騎士が存在する帝国において、戦場というものは一般人にとって遠い世界になっていた。大闘技場は、人々を日々の平和な生活からかけ離れた世界に連れて行ってくれる異空間なのだ。誰も彼も、客席と言う安全圏から見下ろす血と汗と暴力に、非日常に酔い痴れている。

 

 宣伝された事実と虚実入り混じった噂が混濁し、件の最高位冒険者の人物像さえ人によって違っている有様だった。

 

 それでもなお、老若男女貴賤貧富を問わず、此処に集った全ての人々はそれぞれの気持ちで、今たった二人の戦士を待ち侘びている。

 

「お集まりいただいた紳士淑女の皆様、長らくお待たせいたしました。これより本日のメインイベ──」

 

 場内の清掃が終了し、マジックアイテムで拡声された司会者の声が響く。しかし、余りの大歓声に後半の声は掻き消された。司会者自身、もう待ち切れないという心情だったので前口上は省く事にする。

 

「──それでは皆様拍手でお迎えください! 勇敢なる挑戦者の入場です!」

 

 観衆に負けぬよう、司会者は喉を震わせ叫ぶ。

 

「隣り合う友邦から冥府の騎士を打倒せし最新最小の英雄が今! 我らが最大最強の王に挑むべくお越しくださいました! 公国アダマンタイト級冒険者──『小さな剛拳』イヨ・シノン殿です!」

 

 最新最小の英雄と、最大最強の王の戦い。

 万雷の拍手の中、小さな人影がゆっくりと闘技場に進み出た──。

 




八十歳でなお現役で身体が動くとかパルパトラさん凄すぎませんかね。アダマンタイト級とは別方向に超人で怪物だと思います。

次回から対武王戦『頂きに挑む』が始まります。三月中に更新したいです。


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頂きに挑む:初撃

「そんなに心配?」

「心配じゃない訳があるか」

 

 闘技場内、出場選手の為の控室の様な場所。

 心身ともに準備万端のイヨが背後を振り返って問うと、リウルは憮然とした顔で返す。勿論その両隣にはベリガミニとガルデンバルドがいる。

 

「不利なりに勝算はあるよ? 間に合ったしね」

「ああ……それは分かるが」

 

 そう、長い時間がかかったがイヨは間に合っていた。だがそれでも、信じる事と妄信する事は違う。

 リウルはイヨを信頼しているが、それとイヨが武王に勝てるかは全く別の話だ。彼女の見立てでは九割方武王が勝つ。圧勝でだ。

 

 実の所、闘技場での試合に出るというイヨの希望に対して、リウルは当初は反対派だった。様々な理由で、だ。

 

「闘技場で死ぬ人は意外と少ないんだって。何代か前の武王が──」

「知ってる。お前より遥かに。殺す事が基本の決着だったのは昔の話だが、それでもこの闘技場で死人が出ずに終わる日はまず無いんだぞ。それに──」

「公国冒険者の頂点である【スパエラ】のメンバーが負ける事の意味。百も承知だよ」

「──万に一つの機会を一回で捥ぎ取る練習。……戦うからには勝って来いよ。負けるにしても武王を半殺し位までは追い詰めて、生きて負けてこい」

 

 何度も繰り返した話である。勿論リウルも、本気でこの期に及んで引き留めようとしたわけではない。イヨの理解者である事を己に任じたのだから。

 

「僕が死んだら蘇生をお願いね」

「ああ。必ず生き返らせるからちゃんと戻って来いよ」

 

 もし、とすらイヨは言わなかった。いつもの笑顔で告げられたその言葉に、覚悟を決めた笑みでリウルは応じる。

 

「例え死ぬとしても、恥ずかしくない戦い方をして死なないとね」

 

 イヨは今後の為に一度死んで、死を経験してみるのもいいかと考えた事があった。ほんの一時の気の迷いである。

 死んだらレベルが下がり、弱くなる。この世界の環境でレベルを上げ直すのは余りにも手間と時間が掛かる作業だ。必ず滅ぼすと誓った仇敵の存在、それを別にしても冒険者として日々の仕事がある。まあ当たり前だが論外だ。

 

「僕は勝つよ。少なくとも勝つ気でやる。見ててね、リウル、ベリさん、バルさん」

 

 ──僕は戦闘より試合の方がずっとずっと得意だし、経験豊富なんだから。

 

 付き出された三つの拳に自分のそれをぶつけて、イヨは笑顔で通路に歩みを進めていった。振り返る事は無かった。

 

「……副組合長と戦った時に浮かべてたのと同じ笑顔だ……あいつは仕事中は兎も角、試合では度々笑いやがる……」

「男には戦わなければならない時があるものだ」

「そしてまあ、イヨ坊は常に戦いたがっておる。あやつはもうああいう生き物なのじゃろう」

 

 知っている。言われるまでも無く、この世の誰よりもリウルはイヨを理解している。ただ彼女は何処まで行っても武人でも軍人でもなく冒険者であり、『何事も命あっての物種』という信条があった。

 死のリスクは冒険者にとって日常的なものであり、己の命を賭けて受けた依頼を達成するのが仕事である。だがそれは『死んでもいい』とか『命より依頼が大事』という感覚とは対極に位置する生き残る覚悟と計算あってのもので、『勝算のある賭け』に勝ち続けるのがリウルの考える冒険者だ。

 

 強くなる為の自己鍛錬でまで過剰に死のリスクを背負い込む事は、はっきり言ってリウルの考える冒険者の姿ではない。

 だが、人間でありながら人間を超えた存在として、正しく超人である事を望まれる最上位冒険者である彼ら彼女らが、人と同じ事をしていては更なる成長が望めないのも全く正しい事だ。イヨは自分が冒険者であり続ける為にこれらの行為が必要だと思っている。その姿勢は尊重し、支えたいとリウルは考えている。

 

 恐らく純粋に資質で論じるならば、イヨには冒険者よりもっと向いている職業が沢山ある。その腕っ節が殆どの人々の目を欺いているが、市井で年相応の少年として汗水たらして生計を立てていく生き方の方が彼にとってはずっと自然で憂いの無い人生を送れただろう。

 

 しかし、ただ一回の人生においてイヨは確かに冒険者を選び取り、三人の冒険者はイヨを選んだのだ。

 

 例え背筋にひり付くような悪寒を感じ、その五感が行く先に濃厚な死の気配をしかと捉えていたとしても、少年の歩みに淀みも気負いも無い。

 

 

 

 

 

 

「調子の方はどうだ?」

「何も問題はない。最高のコンディションだ」

 

 ──そう、何も問題はない。何も。それこそが大問題であると言えた。

 

 武王は退屈に飽いていた。

 更なる強さの獲得──人間を遥かに上回る肉体能力を持つ種族たるトロール、その中でも異彩を放つ戦闘に特化したウォートロールたる彼が持つ最大の欲求。

 

 肉体的な能力に優れた種族は技術的な鍛錬をしない傾向にある。既に強いからであり、その強さでもって相手を叩き潰す事が自然で相性の良い戦い方でもあるからだ。

 

 虎やライオンは走り込みをしない。生来の爪牙の代わりに武器を装備することも無い。毛皮の上から防具を纏う事も。

 しかし、虎もライオンもゴリラも象も──人よりずっと大きく重く速く、遥かに強い。例え鍛えた人間が鎧と武器で武装したとしても、一対一でこうした生き物と戦うのは余程卓越した一部の例外的存在を除き、不利だと言わざるを得ないだろう。

 

 オーガ、トロール、ビーストマン等の亜人種の有利、戦力的優越とは人間と大型動物の関係に似たものだと言える。更に言えば、彼らは動物よりも人間に近い、もしくは人間と同等と言える知能を持ち、道具を扱い、文化文明を持つ。

 

 地球人類は大昔に自分たちより遥かに大きいマンモスを絶滅させたとされるが、例えばマンモスたちが体躯はそのままに人間並みの知能を持ち二足歩行、即ち空いた両手で道具を扱う上位互換生物だった場合、果たして絶滅したのはどちらだっただろうか。

 

 人間種の国家が立ち並ぶ大陸の一部分以外での人間がどんな立場に立たされているか、幸か不幸か殆どの人間は考えることも無い。法国の上層部辺りは時たま思いを馳せる位はするやもしれぬ。

 

 そんな生まれついて人間より強い生き物である武王──ゴ・ギンは種族的に特異としか言い様の無い行動、訓練や武装による更なる強さの獲得に挑み続けていた。

 

 ──自分の強さは種族の特性から来る強さ、真の強さではない。その気付きと信念が、彼を更なる高みへと押し上げた。

 

 生来強い者がより積極的に鍛え、戦いの果てに更なる強さを獲得する。それを実現した者こそが武王であった。彼が自分に課した度重なる戦闘は、トロール種の頑強な肉体を元々より遥かに進歩させたのだ。

 

 その体躯に相応しい巨大な武具を身に纏う彼は、まるで鋼の小山だ。

 戦士としての力量に限れば武王と同程度であろう銀級冒険者が十人二十人束になっても、武の巨人は小揺るぎもせずそれらを薙ぎ払うだろう。

 

 幾度も、幾度も闘技場でそれを証明して見せた様に。

 

 故に武王は退屈に飽いている──ただのゴ・ギンだった彼が七代目武王【腐狼】クレルヴォ・パランタイネンを死闘の末打ち破り、八代目武王となって以来幾年が経ったか。

 

 闘技場の入り口まで、オスクと連れ立って歩く。武王は語らない。その歩みには何の感情も気負いもない。ただただこれから行く先へと移動していると言うだけである。

 

 戦う相手が見つからない。見つかっても満足のいく戦いにならない。待ち受ける戦いへの期待と興奮が、弱い挑戦者たちへの失望と退屈になってから、武王の世界は幾分か色褪せた。

 

 武王は今日戦う相手について何も知らない。戦い方や使う武器は勿論の事、種族さえ一切合切何も知らない。意図的に情報を遮断し、未知なる相手に挑むという不利を己に課しているからだ。そうでもしなければ敵と呼べるほどの敵に恵まれなかったからだ。

 

 あるいはこれは油断であり、驕りなのかもしれない。

 これから戦う相手は今までの挑戦者よりずっと強く、油断した己は痛手を負い不利な戦いを強いられるか、ともすれば敗北するやもしれない。

 

 ──そうであってくれたらどれだけ良いか。

 ──そうであってくれと願い、今までどれだけ裏切られてきたか。

 

 身体も思考も冴えている。しかしその心には燃え滾る強い感情は無い。それでも彼は王者で、戦士である。例えその身になんの予感も無かろうと、これから行く先になんの期待も無かろうと、彼の歩みに淀みは無い。

 

 

 

 

 

「公国アダマンタイト級冒険者──『小さな剛拳』イヨ・シノン殿です!」

 

 万雷の喝采の中、イヨ・シノンは闘技場に足を踏み入れた。観客のいる試合には慣れている。大会ともなれば現実でもゲームでも、地区大会でも全国大会でも常に人の目があったものである。

 

 生来人前で何かするという事に対して恐怖や忌避感より高揚を抱く質なので、マイナスな意味でのプレッシャーというものを彼は全く感じなかった。むしろこの、無数の人々がこれから戦う自身の一挙手一投足に注目しているという状況に対して懐かしさすら感じた位だ。いやまあ此方の世界に来てからとて何かと注目されっぱなしではあるのだが。

 

 強いて言えば、これ程大声で囃し立てたり野次られたりというのは初体験だった。なにせこの試合は興行であり見世物だ。『試合の妨げになるので大声やヤジはご遠慮ください』などというアナウンスが入る事は無い。

 

 人々は熱狂のままに叫び、文字通り熱中している。司会だか実況だか、先程から拡声のマジックアイテムで喋っている人の声が会場内に響いているが、勿論それとて抑止では無くより盛り上げ煽り立てる口上を述べていた。

 

「おいおい、小柄とは聞いていたがあんなに小さいのか? ガタイも随分細いぞ」「えー! 嘘、あれがシノン様? 人違いじゃないの? 女の子よ?」「おお、噂に違わぬ容姿──いや噂以上だ! ……しかし、彼女は本当に戦えるのか?」「誰だよ美少年とか適当こいた奴──うぉーい! 死ぬなよー! 野郎がどうなろうがしったこっちゃっねーが若い娘が死ぬとこは見たくねー!」

 

 大半は兎角熱狂している叫び声だが、市井の人々を中心にそういう反応をする者たちも少なからずいた。自身の耳が拾い取ったその声に、イヨは笑みを深める。

 

 歓声にこたえようとした、その時である。これから戦おうとする戦士に対するものとは別の声がうなりを上げたのだ。

 

「この一番の大試合を、エル=ニクス皇帝陛下もご観戦です。皆様、上にある貴賓室をご覧ください!」

「あらあら」

 

 頭上を仰ぎ見れば、貴賓室の中でも最も格式高い歴代皇帝専用室に、一人の人物が立ち上がっていた。

 

 ──予定が空いているから足を運ぶかもしれないとは聞いたけど、てっきりお忍びかと思ってた。

 

 若く、しかし既に余人とはかけ離れた威厳を纏う美麗なる支配者──ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクス皇帝陛下の姿であった。

 

 ここら辺は文化が違うという事なのか、観客の反応などからしても、国の頂点に立つ皇帝がこんな血生臭い場所を訪れるという事は然程奇異では無いらしい。歴代でも非常に人気のある皇帝らしく、男性も女性も、老いも若きも支配者を讃える歓声を上げている。

『ローマだがギリシャだがの大昔の国でもこういう感じだったんだっけ?』とイヨは乏しい、しかも漫画由来の知識でちょっと不思議に思う。

 

 手を上げて国民の声に応えた皇帝とイヨ・シノン。見下ろす視線と見上げる視線が真っ直ぐぶつかった。皇帝ジルクニフは『健闘を祈る』と言う様に、微笑みと共に頷きを送る。イヨは片膝を突いて皇帝に礼を示した。

 

 他の貴賓席にも低頭しておき──ある一室に【スパエラ】の面々もいた──それから三百六十度の観客の声援に、両手を一杯に振って笑顔で応じた。

 

「初めましてー! イヨ・シノンと申します、一生懸命戦いますので、皆様よろしければ応援して頂けるとすっごく嬉しいでーす!」

 

 わぁっと会場が盛り上がった。手を振り返してくれる観客も多数いる。

『思いの外、なんというか……愛想のいい英雄だな』『見た目通り愛嬌もあって可愛らしい少女だ』『のほほんとしやがって戦う気あんのかアイツ、相手は武王だぞ』──大別すれば三種類の反応をしっかりと受け取る。

 

「うんうん。初めて立つ場所だけど良い雰囲気。これはこれで楽しい!」

 

 赤い頬で声援を送ってくれる青少年諸君や落胆も露わに溜息を吐いている淑女諸氏には悪いが、こればかりは持って生まれた容姿なので諦めてもらうしかない。

 ここは武王の本拠地であり人気は向こうが圧倒的であろうが、どうせ戦うのだから自分だって応援してもらいたい。十分に愛想を振り撒いたイヨ・シノンは正面に向き直り、余計な力みのない自然体で武王を待った。

 

 

 

 

 

 

 アレが俺の相手か、と武王は目をぱちくりとさせた。

 通路から闘技場へと出る──相も変わらず満座の観客、相も変わらず地鳴りの如き大歓声──とうに慣れきって最早意識することも無い光景、その中にあって異質なもの。

 

 余りにも小さく細く、柔らかい生き物。

 

 勿論、武王の種族であるトロールと比べればあらゆる全ての人間は小柄で細身で肉体的に貧弱としか言えなかったが、ただでさえ種族的に矮躯である人間の中でも、目の前の輩は可哀想な程に小さく思えた。

 

 これは雌──いや雄だろうか? 匂いが非常に薄くいまいち判別が付き辛いが、いずれにしろ幼体である様に思えた。

 

 人間の顔つきや身体つきはトロール種族と比べて何事も控えめである。まず絶望的にボリュームが足りない。ゴブリンに毛が生えた様な矮躯はホブゴブリンとどっこい程度で、顔かたちは平坦で突出が少なく、丸く小さい耳と低く短い鼻が特に奇妙に思える。

 体型も不自然に腕は短く必要以上に足は長く、幅と厚みに乏しい薄っぺらな胴部にそれらがくっついている姿は正直滑稽だ。腰の位置が高いのでその分だけ重心も高めで、安定感に欠ける体型と言えた。

 

 武王も戦士として名声を手にする前は──今とて言われるが──醜いモンスターとして罵声を浴びたものだが、人間の醜さとて中々だと思っていたものだ。強さ以外に関心が薄く人間の国で長く暮らしている武王とてそう感じる位だから、一般的なトロールからすれば人間は『そこそこの味だが食いでが無い奇形のチビ』でしかないだろう。

 

 それでも二足歩行の哺乳類であるからそれぞれの種族なりに雌であれば乳房が膨らみ臀部が丸みを帯びていて、雄であれば体型が比較的がっしりしている位の共通項はある筈だが、幼体となるとそれらの特徴も希薄で殆ど見分けが付かない。

 

 武王が対戦相手に抱く興味関心は強さ以外無いに等しい。そんな武王でも思案してしまう位、強さが疑われる背格好だった。

 

 これが俺の相手なのか、と対面する位置にまで歩みを進めながら、武王は改めて思った。元より期待もしていなかった故落胆もないが、それでもやや不可思議に思う。

 

 今まで武王の対面に立った人間は生まれついて貧弱な人間の身体を精一杯に鍛え少なからぬ筋肉で武装し、更にそれらを鋼で覆っていたものだ。技量面に限れば全ての者が武王を上回っていたと言える。

 人間とて鍛え上げれば外見からは想像もできない大力を発揮する事は幾度もの実体験で見知っているが──目の前の幼い人間は殊更に矮躯で貧弱で、しかもその生まれ持った貧弱さそのままの姿で対面に立っている。生来の不利を少しでも補おうと鍛錬に身をやつしていた様には到底思えない。

 

 友であるオスクが自分の目の前に立たせることを承知した以上普通より強い事は間違いないのだろうが──そもそもこの生き物は身体を鍛えた事などあるのだろうか。肉体を鍛える必要が無いほど技術的に優れているのだろうか。

 

 ──俺が言うのも何だが、頭が良さそうにも見えないし魔法詠唱者ではないと思うんだが。

 

 雰囲気が丸っこい。頭の良い奴にこういう雰囲気は出せない、それに杖や短剣など魔法詠唱者的な武器も持っていなしな、と武王は判断する。

 それに闘技場では飛行や転移の魔法は禁止されているので、魔法詠唱者が出場するとしてもまず仲間とセットだ。限られたフィールドで戦士と一対一で向き合っては相当な変わり種でもない限り不利であるから。

 

 装備しているのも多少装飾が凝っていて美しい装いだが、装甲はほぼ無く衣服の様だ。護符に指輪、耳飾り、チョーカー、ベルト、それらはマジックアイテムだろう。豊かな頭髪を後頭部で結わえているのは蝶結びの髪紐で、これもまた神秘的な輝きを発している。

 しかしそれにしても武器らしい武器を持っていない──いや、手先足先が刺々しい赤い金属製の具足で覆われている。拳士なのだろうか。

 

 小器用な手先と非力ゆえの工夫で武具の扱い、技術を習練する事は一般的なトロールと比べて人間が勝り得る数少ない長所だったが、それすら半ば捨てている様なものだ。ほぼ素手の格闘は武器戦闘より肉体面の比重が大きい。

 

 未だゴ・ギンが武王であり続けている以上今までの全ての挑戦者もそうだったのだが──確実に武王より弱い。勿論外見だけの問題では無く、こうして対面しても恐怖や威圧感というものを感じない故の戦士の見立てである。

 

 ジロジロと見下ろす視線に反応したものか、対戦相手が丁寧に一礼した。

 

「お初にお目に掛かります、イヨ・シノンと申します──武王陛下、とお呼びすればよいのでしょうか?」

「ふは」

 

 大声では無いが、喧騒の最中でもしっかりと耳に届く透き通った声。しかしその内容に思わず笑いが漏れ出た武王である。

 

「俺をそんな風に呼ぶ奴とは初めて出会ったな。俺は闘技場最強の戦士として武王の称号で呼ばれてはいるが、別に爵位や、ましてや皇帝が治めるこの国で王号を持っている訳ではない」

 

 一番強いという点を差し引けば、武王はただの闘技場の戦士なのである。確かオスクに連れてこられたばかりの頃、法が定める公的な身分で言えばオスクが飼育し所有しているモンスター扱いだと説明された気がする。今もそうなのかは知らないが、まあ変わってはいないだろう。

 同じ人間種でも法的な身分の保証があったり無かったりするこの国で武王が認められる状況など、それこそ国に仕えでもした場合位であろう。全く興味は無いが。

 

「ではなんとお呼びすれば?」

「ただ武王と、もしくは名前でゴ・ギンと呼べ。イヨ・シノンとやら」

 

 力強さに欠ける響きではあるが、人間にしてはそこそこいい名前だな──長く暮らしている内に人の名づけの習慣を学びはしたが、トロール的にもまずまずな短さであるその名前を武王は少し気に入った。

 

「では、武王さんとお呼びします」

 

 にっこりと笑い、こちらを見上げるイヨ・シノン。武王の感性としてはちょっと笑ってしまいそうになる容姿ではあるが、妙な愛嬌を感じる。強者の威風というべき雰囲気は全く皆無であるが、今までの挑戦者の様に武王に威圧されたり、隠し切れない恐怖や怯え、その反動から来る強がりめいた猛々しい戦意も無く見つめてくる視線は物珍しかった。

 

「正直に言うと期待はしていなかったが……イヨ・シノン、俺は少しお前との戦いが楽しみになってきたぞ」

「おお、本当ですか? 光栄です、私も全力を尽くします」

 

 考えてもみれば、今までの挑戦者だって武王より肉体的に劣っていて、技術的には勝っていた。少々──いやかなり毛色の変わった相手だが、その点は変わらないであろう。武王のやる事も変わらない。

 

 幾多の戦歴を重ねた武王をして全く初見、今までに見た事が無いタイプのこの妙な人間がどんな戦いを見せてくれるのか。僅かな期待感が武王の中で萌芽していた。

 

 ──まずは思い切りぶん殴ってみよう。

 

 何はともあれまずは叩け。ごちゃごちゃした考えがすうっと消え、武王は束の間ではあるが、初心に帰る事が出来た。

 

「俺を失望させてくれるな、俺の退屈を揺るがしてくれ、イヨ・シノン」

「──ええ、思いっきりやらせて頂きます」

 

 笑みを深めたイヨ・シノンが、握り拳を差し向けてくる。意図を呼んだ武王は、小さな拳に自身の巨槌めいた拳をぶつけ合わせた。会場中がもう待ち切れないとでも言いたげに、今日何度目かも分からない大歓声を上げる。

 

「ここのルールは知っているな?」

「はい」

 

 二人の耳目から観客が消える。気にしていないという意味では無く、最早五感から消え失せるほどに薄く遠い存在となる。

 静寂の世界で知覚に値するのは、地形と己と対手のみ。戦場ならばいざ知らず、闘技場であればこそ仲間の存在や第三者の介入、流れ弾もあり得ない。集中が尖っていく。意識が開いていく。感覚の練磨と同時に気が高まる。

 

 深い没入の中で、呼吸が合う。

 

 武王が左足を引いて身体を開きつつ、棍棒を上段に担ぎ上げる。

 イヨが大股で三歩飛び退き、軽く腰を落とすと顎の高さで両拳を構えた。

 

 静寂の世界の中で鐘の音が響く──同時、両者は激突した。

 

 

 

 

 

 

 武王は巨躯でありその重量は二足歩行で動くには重すぎるものとすら思える。しかし、その動作は鈍さなどとは完全に無縁である。

 

 地球においては言わずもがな、この世界においてすら、大きいという事は強いという事だ。

 

 超重量の体躯と装備を一瞬で最大戦速まで引っ張り上げるのは人知を超えた筋力であり、またその一撃を導くのは確かな技量だ。

 瞬き一つの間に、どころでは無い。視界の中で否応なく存在を主張するその巨大な人型が、ただ最短を行く真っ直ぐな一撃が消えたと感じる程の速さ。中間を切り落としたかの様に、動いた時、既に打撃は至っている。

 

 見てから動くのでは、自身が死んだ事すら自覚できず潰される事になるだろう。

 機を捉え一歩先んじて尚、その一撃は回避不能の速さ。後の先を塗りつぶす武力。

 

 目にも止まらぬ神速の撃ち込みに、武王自らだけは目が追い付いている。故に棍棒がイヨ・シノンの頭上一尺に迫り、その小さな身体が棍棒の下に半ば隠れた時、当たったという確信を得た──その時、武王は見た。

 

 如何なる言葉も、此処に至っては意味がない。何故なら戦いは常に相対的で、全力をもってぶつかり合う事だからだ。

 条件を比べる事、ある一点を比べる事、多寡を比べる事。全ては机上の空論である。今まさに殴り合う瞬間において、相手を打ち倒した方だけが勝者。相手を地に這い蹲らせたというたった一つの事実が万の理屈を捻じ伏せる。

 弱くても勝ち得ると言い切るには夢想的だ、強ければ勝てると言い切るには世の中は厳しい。しかし確かな事がある、実践の実戦において勝った方はその瞬間、間違いなく強者なのだ。

 

 打撃の瞬間、武王の感覚は肉体の動きよりも尚速く延伸して、その動きを捉える。

 武王の用いる武器はその体躯と筋力に相応しく巨大である。それ故小さ過ぎる標的に対して細かい狙いが付けられない。上から叩けば多少左右にずれようと全身を潰す形になるし、横に振っても身体の約半分を大まかにぶっ飛ばす形になる。

 

 ──重装化。

 

 必中を確信するまでに迫った棍棒に、全身に鈍色の金属を迸らせたイヨ・シノンが体の捻りと共に内から外に向けて前腕を叩き付ける。全身の筋力が棍棒に伝わり、同時に打撃の威力は手首の返しによる回転で逸れる。僅か十数センチ。それでも半身を削ぎ死に至る威力──同時に、イヨ・シノンは斜め前に半歩踏み込んでいた。

 

 当事者二名以外に、その動きを知覚出来た者が何人いただろう。

 観客の大半は全てが終わったその後に「うわ死、いや避け、おお!?」と何拍も遅れて悲鳴を上げたし、戦士として多少の心得がある者でも「攻撃がすり抜けた!? 魔法か!?」と誤解した。

 

 動きの前兆の予兆を捉え、身体の内側で完全な準備を整えて『捌いた』と理解する事が出来たのは、皇帝の護衛である四騎士二名を含めても十指に満たなかった。

 

 武王の打撃は文字通り紙一重の距離を開け、イヨ・シノンの肩口横を通り過ぎて地を深々と抉った。その瞬間にはもう、小さな戦士は棍棒を握る武王の手を足場に飛び上がっていた。反射的に武器を引き戻す動きすら利用し、伸びあがる様に跳ぶ。

 

「【火足炎拳】、通常起動」

 

 キーワードに反応し、四肢の具足が発炎する。

 四肢に猛火を纏って迫りくる双角の金属鬼が繰り出す二連撃──身体及び鎧の構造上比較的防御の薄い肩口と、兜のバイザーの隙間を狙ったものだ。

 

 それ自体が鎧とも言えるトロールの頑強で分厚い皮膚と筋肉に驚くほど鋭く重い打撃が突き刺さり、右の瞼と眼球を猛火が撫でていった。

 

 武王が振り払おうとした時にはもう、少年は身体を蹴って地に逃れている。正面よりやや右に寄ったその位置取りの意図は明らかだ。武王の視界は右目側が僅かに白濁している。

 

「……技量もさることながら、人間とは思えない身体能力だな。その妙な鎧の能力か、それともお前は人間では無いのか?」

「私は紛れもなく人間です。しかし、持てる限りの武装を凝らし──」

 

 今のイヨを魔法や毒物、直接的な物理的手段以外で殺そうと思えば常より遥かに容易だろう。今のイヨの装備は多様なモンスターを相手にする職業として到底実戦的とは言えない、完全物理タイマン仕様。

 正面切って相対するたった一人の純戦士との殴り合いを制する事、全身の装備部位はその為のマジックアイテムで完全に埋まっている。致命的な状態異常や魔法に対する最低限の備えすら投げ捨てた、闘技場などの限定的な状況以外ではまず常用できない特化装備だ。

 

 肉体的な攻撃力と防御力において、今の少年は恐らく人間として地上最強の一角だろう。更に──

 

「──そして、より強くなる為に数多の生き物を殺し、ひたすら自分を虐め続けてきました」

 

 この世界に来て初めてレベルアップを経験しあの時から、怨敵を取り逃がしデスナイト相手に生死の境を彷徨ったあの日から──イヨは出来る限りの実戦を繰り返し、人類に危害を及ぼす者を殺し続けてきた。

 

 ユグドラシルにおけるレベルアップは早い。九十台後半まではかなりの速度で上がっていく。特に低レベル帯などは課金やパワーレベリングによってその気になればあっという間に駆け上る事も出来る。

 レベルが高い事など当たり前だった。レベルが百になってスタートラインに立ったと言えた。手間でこそあれ少し頑張ればレベルは割合簡単に上がるのだから、時には取り合えず突っ込んで何処まで行けるか試してみようか、というある種の特攻も珍しくなかった。

 

 それがこの世界では、一レベル上げるのに、選り好のんで討伐依頼を受け続けても季節が移り変わるほどの時間が掛かった。だがイヨは帝都に到着してからやっと、ギリギリで間に合ったのだ。現状持ち得る最高の力を持って挑む、という最低限の礼儀を失する事は回避できた。

 

 ──今のイヨは三十一レベルに到達しているのだ。

 

「武王さん、僕は勿論あなたを殺すつもりで戦います。それで──僕はあなたが本気で殺すに値する戦士でしょうか? あなたをして全力で殺さざるをえない資格を勝ち取りたいものです」

「お前が俺より弱いと判じた俺の直感は覆らないが──ただ潰されるだけの敵未満ではない様だな」

 

 鎧に身を包んだ小人と巨人。片方の手には巨大な棍棒、片方の四肢には燃え盛る焔。両者は眼をぎらつかせ──武王は兜の下で僅かに、牙を剥いた笑みを浮かべた。

 

 



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頂きに挑む:王の賛辞たる一撃

大変お待たせしました、本日投稿する二話の内、一話目です。


 イヨと武王は双方、対手の打倒を目指して動き出した。

 

 身目にも明らかにタイプが違う二者だが、外見ほど差異は大きくなかった。

 まず二人は挑戦者と王者、挑む側と受ける側で、見るもの全てが初見の武王と事前に情報を収集し対策を練り作戦を立ててきたイヨ。違いと言えばそれくらいである。

 

 武王の強さは非常にシンプルだ。

 一撃一撃が五体を砕くほど重く強く、眼にも止まらぬ程速く、超重量級の身体と装備は防御などせずとも生半可な攻撃を無効化し、炎や酸による攻撃以外ならミンチになっても治る再生力を持つ。

 

 それでいて持てる力をストレートにぶつけてくる重量級戦士タイプ。

 物理的な面において全ての能力が高度に纏まっている。イヨと比して技量が拙いという事実はあるものの、種族的長所を鑑みれば本来技術など必要としないと表現する方が正しく、肉体能力だけでも無類の強さであるがその上一定の技術まで持っているとするのがより実際的であろう。

 

 対してイヨは同じく殴る蹴るが取り柄の正面戦闘タイプであり、技術的に勝っている代わりに肉体が圧倒的脆弱で特殊能力の類も無い。装備面でも優れていると思われるが、それで差が埋まるほど容易い相手では無かった。

 

 シンプルであるが故に、武王もイヨもその強さを発揮できる状況において盤石であり揺らぐ事が無い。詰まる所、この開けた場所で一対一という状況においては実力で遥か優越する武王が圧倒的優勢であるという事だ。

 

 褒美として賜るイヨの武装が神聖属性を帯びた物となる事が決まった為、イヨが私財で求めたのが【火足炎拳】──アイテムボックスの中から幾つかの財宝を取り出し、または売り払い、四つの冒険者チームに依頼を出し、各分野において公都随一と呼ばれる職人たちの手によって製作されたもの──炎の属性を持つ武器。

 

 ミンチになっても元通りになるという再生能力を打ち消してもなお、武王の体躯は雄大であり強大である。種族的長所の内たった一つを失効させた所で形勢の偏りは逆転などしない。

 

 もし対戦相手ではなくモンスターとして武王を見た場合、イヨは『接近戦は嫌がらせと足止め程度にしておいて主な攻撃はベリさんが上空からファイヤーボール、弱ってきたら袋叩きでいこう』と判断しただろう。

 

 防御面において四十レベル相当を誇るデスナイトよりは遥かにぶっ叩きやすいのだが、反面攻撃はかなり辛い。完全物理タイマン仕様の装備品類によって元よりは遥かに差は縮まってはいるが、それでもなお不利だ。

 イヨが経験した一レベル分の能力値の上昇がなければかなり不味い戦いになっただろう。たかが一レベル、されど一レベルだ。たった一レベルでも差が縮まっている分、一割前後は不利が軽減している。

 

 適応力が高く多数の亜種が存在する種族ゆえ一言にトロールと言っても色々なのだが、大抵は身体的なステータスが高く、特に筋力の値が伸びやすい。亜人種と人間種では元々ステータスの次元が違う。

 

 人間種の中でも初期ステータスが平たく特徴らしい特徴が余りない、つまりどんな職業に就くかによってどんな方向にでも成長し得る人間と種族によって千差万別な亜人種や異形種。

 

 それぞれの種族の得意分野で比べて見れば同じレベルでステータスの値に二倍三倍の差が付く事は全く珍しくない。ただ長所があれば短所あり、メリットがあればデメリットがあり、何かを得れば何かを失うのがユグドラシルだ。

 百レベルに到達し、名にワールドを冠する職業に代表されるいわゆる強い職業に就き強いスキルを覚え、装備を整えてプレイヤースキルを磨く。そこまで行けば単純なステータスの高さは絶対的な物では無くなっている。

 

 ユグドラシルでは異形種は一般的に人気が無かった。一番数が多かったのは人間種だ。亜人種はまあ中間である。

メ リットがあればデメリットもある。高いステータスに多様な種族特性、特殊能力の代償。一部の街に入れなかったり一部NPCに敵対行動を取られたり相性の悪いワールドに居るだけで様々なマイナス補正を受けたり。

 種族ごとに向き不向きが尖っている場合が多く、一部のステータスがとても高ければ一部のステータスはとても低かったり、そもそも種族によってはある方面の職業に就けなかったりするのだ。特化型にしろ万能型にしろ、突き詰めてハマれば爆発力も持続力もがあるが単に制約が多いとして忌避する者も多かった。

 使いこなすのが難しいとか、結局強い職業には就けない場合が多いとか、単に外見がキモいとかだ。なんとなくで選ぶには考える事が多くて大変なのもあったかもしれない。その点人間種は全般的に取れる選択肢が多く後からでも方向修正が楽だし、人数が多いだけあって参考となる情報も手に入りやすかった。

 

 ユグドラシルでは。

 

 ──パワーとスピード、ウェイトは裏切らない。満足に動ける範囲でデカければデカい程良い。

 心技体で一番重要なのは並び順から見ても分かる様に体である。心も技も身体という土台あってこそ。肉体無くして心は無い。人の心は、思考は身体の一部である脳にあるのだから。肉体無くして技は無い。身体の動かし方が技そのものなのだから。

 優れたフィジカル無くしてメンタルもテクニックも何もあったものでは無いのである。戦いに耐え得る身体があるという前提で初めて技量の高低や心の強さは話題に上る。極端な話強い心や技術など相応に優れた肉体があったら要らないのだ。

 逆に、病んだ肉体死に掛けの肉体に強い心や優れた技術などどう足掻いても宿らない。脳が衰えれば心も衰える。動かない肉体では技もクソも無い。老いと病はどんな達人も老人、病人、死人に変える。

 未だ強者たる力量を保っている特異な年長者たちでさえ己の衰えはとくと自覚する所であるし、要するにまだ強さを保っていられているに過ぎないのだ。

 

 優れた肉体に優れた精神が宿ってくれたらどんなに良い事か、という言葉が歴史に残っている事からも明らかである。仮に人格がクソでも殴り合いが強けりゃそれでイケる時代というのは、手を変え品を変え程度を変えなんだかんだ現在まで続いているのだ。

 

 何故心技体の内上から二つが尊ばれがちなのかと言えば、後天的に努力で獲得し得るものだからだろう。持ち合わせている肉体を筋トレでマッチョにする事は出来ても、身長を三十センチ伸ばして臓器の処理能力を上げ骨格の形状を変え筋肉の質を良くする事などできやしないのだ。ならば持たざる者は上二っつに賭けるしかない。努力するしかない。

 

 そして努力した所で格闘技を習ったチビマッチョと趣味は読書なひょろノッポなら前者の勝ち目も相応にあるかも知れないが、格闘技チビマッチョと格闘技デカマッチョではやっぱり不利なのであった。

 スポーツの世界にはこんな言葉がある。『どんな名コーチも身体は与えてやれない』。およそどの競技にも言える言葉だろう。逆に、『身体さえあれば後は周囲が伸ばしてやれる』とも。

 

 不平等がないように、公平に競い合えるようにルール化がなされた界隈でさえそうなのである。

 

 どの世界においても上に行けば行くほど全てを持っている者同士の戦いになる。ただデカくて運動神経が良いだけではなく器用で柔軟で不屈で屈強で努力家と言う風に。ジャイアントキリングに必要なのは上に立つ側の油断か劣る側の幸運、そもそも両者の実力が近い事。それらの内どれかもしくは全部だ。そもそもの総合力がかけ離れていれば万が一など起こらない。

 

 少女に見える程の低身長で細身でついでに可愛い顔立ちという戦う上でハンデにしかならない特徴を持ち合わせて生まれたイヨはそう思っているし知っているし味わっている。

 

 そして、その優劣は転移後の世界でも無くなってはいない。レベルや職業構成にステータス、装備等が数値化して比べられない為詳細は不明だが、およそ三から六はレベル差があるだろうガルデンバルドとイヨの能力値が肉体能力に限っては僅差である事からもそれが分かる。

 

 才能と素質、努力、環境。ゲームであるユグドラシルではゲーム性故にプレイヤーの能力に関与しない排除された個人差、個体ごとの揺らぎが、この現実の異世界と文字通り生身の肉体を持つ事となったプレイヤーにはある。

 同じ職業構成同じレベル同じ装備のユグドラシルプレイヤーと此方の世界の人々が戦う場合、あるいは勝負を決めるのはその揺らぎかも知れない。生まれつき、そして鍛えあげた肉体と精神の特性と特徴、その上下の幅が。

 

 要するに何が言いたいかと言うと、三十一レベルという低レベル帯であり習得しているスキルが少なく、強いスキルも無いイヨでは種族差から来るステータスの差が実に大きく響くという事だ。

 一レベルのトロールと人間による殴り合いほど悲惨かつ致命的では無いが、きついかきつく無いかで言うと断然キツイ。

 

 百レベルまで育てばさして大きいものでは無くなる単純なステータスの差が、余りにも高く立ちはだかる。そりゃあ亜人種や異形種が強い訳だ。そりゃあ竜や巨人が強い訳だ。デカい奴が弱い訳は無い。なにせ生まれつき強いので生き残りやすく故に更に強くなりやすい。環境的に弱肉強食故本当に弱い奴は死ぬので生き残っている奴らはなにかしらの強者である。

 

 今のイヨはゲーム産なりに自分の肉体を持っているので、それを鍛える事は出来る。

 

 だがイヨは大きい上に頑張って強くなった奴相手に、小さいけど頑張って強くなった奴が敵わないという現実的な現実を良く知っている。前衛系の三十レベルたる魔人超人の身体能力に、この細く小さく柔らかい子供の様な肉体をどう鍛えても雀の涙程度のプラスにしかならないと思い知っている。

 実際、現実では敵わなかった。イヨが全てを兼ね備えた真の天才でいられたのは小学校高学年までだった。自分の外見はイヨにとってコンプレックスでは無かった。ただ、何時でもこの身体は長所で、短所で、個性的に過ぎる個性だった。人並みの成長を望んだ事くらい、イヨにだってあったのだ。あるもので戦うしかないという現実と向き合っただけで。

 

 篠田伊代の身体能力は非常に高かった。異常なほど高かった。『小ささの割に』考えられないほど優れていた。伊代ほど小さく伊代ほど強い選手は他に居なかっただろう。いわゆる恵まれた体格を持つ同年代の少年と比べれば絶対的に劣っているとしか言えなかっただけで。

 

 ああ、異形種の文字通り異形の身体でさえ慣れれば問題なく操作できるユグドラシルというゲームにおいて、イヨは何故『操作しやすいらしいから』なんて理由で現実と相違ない肉体を形作ってしまったのだろうか。

 

 ゲームの中でこそ、夢見る程に憧れた大きくて強い身体を持ってみればよかったのに。そういう身体なら鍛える意味があった。恐らく素の肉体能力、レベル、職業補正などからなる総合的なステータスの値において、時間を掛けて身体を鍛える意味も見いだせた。

 小学校高学年生並みのこの身体に搭載できる最大限の筋肉など、相手の身長が十センチ高く、同じ位鍛えていればそれだけでほぼ完全に負ける。肉体面においてイヨを下回る者など世の中にそうそういない。結局の所イヨの強さとはレベルに由来する強さなのだから。

 

 肉体と関係の無い数値で能力値の高さが保証されている以上、イヨは肉体能力の向上を切り捨てた。得られる成果が見合わないからだ。ポーションや治癒魔法の使用を制限し、訓練の強度と密度を落としてまで小さい身体の少ない筋肉を後生大事に鍛える意味が見出せなかった。

 確たる意志としてそう決めたのはデスナイト騒動以降である。イヨは既に高校生の篠田伊代ではなく、部活の大会で成績を残す為に鍛えている訳ではない。強くなる為に、依頼を達成する為に、敵を確実に葬る為に、『強さ』の獲得の為に決めた。

 

 筋トレよりレベルアップを目指した方が確実に強くなれる。

 筋トレに構わずポーションや治癒魔法を使って鍛錬の密度を上げた方が強くなれる。

 

 地球でなら生涯に一度や二度体験できるかどうか、体験した後は確実に障害が残り戦えなくなるほどの大怪我でも、そんな大怪我の可能性がある過酷な訓練でも好きなだけできる。此方の世界の人間でもコネや費用、常識の問題でそんな鍛え方をする──出来る──者はそうはいないのだ。

 

 そう、いっその事身体はこのままでいい。肉体に関係なく保証されている能力値という条件を前にして、こんな小さな身体に構っている暇がない。身体を大きくする努力だけはしておいて念願叶って大きくなったらその時こそ鍛えるだろうが、今の小さな身体でいる限り、むしろより軽量で、的が小さく、柔軟で可愛い方がいい。イヨの強みは能力の大部分が肉体と無関係である点にある。

 

 『幼く可愛らしい女の子』『滅多に見ない美しい少女』『育ちの良さそうなご令嬢』──そう見える今のままでいい。イヨは己の容姿すら武器にして見せる。勝つ為に。

 

 この世界にテレビもネットも無い。『アダマンタイト級冒険者イヨ・シノン』の情報がどれだけ出回ろうと初見で素性を知られる事など実質的に有り得ないのだ。実際に見知っている人以外、イヨを見てイヨだと判断する事は出来ない。

 イヨの様な戦士はまずいないがイヨの様な背格好の娘っ子は何処にでもありふれている。プレートなど服の下に隠してしまえ。髪や目の色など苦も無く変えられる。伝聞の情報が広まろうと紛れる事は容易い。あえてそう主張しなければイヨはまず前述の様な無害で可愛いだけの元気で優しい女の子にしか見えないのだ。なんならゲーム時代ではネタアイテムだった性転換の薬を使って本物の少女になってもいい。

 

 ──可愛いと思ってくれていいよ! 

 ──可憐だと見惚れてくれたら嬉しいな!

 ──戦えない、容姿が取り柄の弱い生き物だと見做してくれれば最高だね!

 ──だってその評価はその油断は、対手の首を圧し折る上で余りにも貴重で得難い時間と契機を僕にくれるもの!

 

 勝利の為の強さが欲しい。実戦で勝つ為の強さが欲しい。その為ならば戦士然とした外見などいらない。正々堂々たる敗者となって人々を守れないより、狡猾な狩人として敵を抹殺できた方がずっと良い。

 

 事実武王ですらもイヨの外見からその強さ、戦闘方法を類推する事は出来なかった。イヨの方が弱いからする必要も無かったのかも知れないが。

 

 初手で【アーマー・オブ・ウォーモンガー】を重装化した判断は正解だったと言えよう。

 

 うなりを上げて襲いくる武王の棍棒。先端部分に規則的に配置された突起が打撃力を集中させ威力を上げる工夫の施された代物だ。装備品としての質ではイヨが勝るが、その巨大さと重量、何より使い手の能力が圧倒的な威力の差となっている。

 

 武王の鎧と外皮の防御力を貫く為に攻撃特化の軽装鎧形態を用いる案も事前の段階では考えていたのだが、それを実行していたらイヨは武王の攻撃を受けずとも捌くだけでダメージを負っていただろう。軽装化した【アーマー・オブ・ウォーモンガー】は鎧の癖に──そんな風に作ったのはイヨと友人であるが──なんと防御力が下がるのである。その状態で直撃を喰らったら二発か三発で死にかねない。致命的な一撃ならば確一で死亡も無いではないだろう。

 

 デスナイトも大概だったが武王は更に大きい。身長百五十センチ少々のイヨより七十センチほど大きいのがガルデンバルドで更に十センチ大きいのがデスナイトで、更に更に一メートルくらい大きいのが武王である。

 

 トロールの平均と比べても大柄であろう。人より大きい生き物はかつての地球に数多く実在したらしいが、人より大きい人型常時二足歩行生物はいなかった。少なくとも人と同じ時代には。

 

 同じ人型同士でも、その戦い方は対人とは大きく異なる。イヨの戦い方は纏わりつき、躱して打つという一言に尽きる。武王は反対に、離れて打つ、だ。

 

 大きな獲物を使っている場合、近すぎる対象に全力の攻撃を行う事は出来ない。バットや木刀で自分に密着している相手を殴るのは難しい。全力でとなるとほぼ無理だ。加速距離がほぼゼロだから殴ると言うより押すに近いし、武器の半ばから先端辺り、棍棒の場合打撃部で打たねばまともな威力は出ない。

 しかも、相手の大きさは自分の半分以下で至近距離を保ったまま前後左右を俊敏に行き来して手足の指とかをめっちゃ殴ってくるのだ。人間が小猿と戦うサイズ比である。

 

 天頂から流星の破壊力を伴って降り注ぐ棍棒の一撃を、イヨは足運びと手元の捌きで避け、流す。わざわざ初手で高く遠く殴りにくい顔面と肩口を狙ったのが効いている。僅かながらも視覚に支障を来している武王の一撃はほんの僅かに狙いが甘い。見えにくい分だけ、それを補正する当て推量が混じっている。利き腕側の肩の不如意がキレに影を落としている。その分をカバーする為に本来必要とされている分より多くの力を込めて武器を振るっている。

 

 イヨは自身の動きが武王にどう見られているか、その動きを捉える為武王がどう動くかを察知し、動きの緩急と欺瞞で武王の理解と解釈に揺さぶりを掛けていく。

 

 対戦相手の僅かな劣化と細かい工夫。満点の一撃と比較してほんの僅かな差がイヨの有るか無きかの余裕となって命を繋ぎ、反撃の機会をくれている。まあぶっちゃけ武王は今の所手癖のまま全力攻撃を繰り返している状態なので、理由としてはそれが一番大きいのだが。

 

 イヨが躱し、透かし、捌き、棍棒が地を打つ度に、イヨが反撃する度に観客が絶叫する。

 

 武王の攻撃を躱している。武王を一方的に叩いている。──武王より強い? 武王に勝つのか? 武王が──負けるのか。

 

 観客の大多数を占めるのは実際的な戦闘の知識や経験を持たない一般人だ。一部のマニアや目利きを除いた彼ら彼女らの大多数は実際の実力の上下や勝敗より何よりかにより、見応えのある試合を見て盛り上がりたい人々なのである。

 

 絶対の王者たる片方の攻撃は空振り続け、初見の挑戦者たる片方は殴り続ける。そういう人々がそんな光景を見れば前述した様な考えに至るのも無理は無かった。特に武王はその強さ故に、既に過去のモノとなった前武王との戦い以来接戦や劣勢を見せた事は無いのだから。

 

 目にも止まらぬ一撃が地を揺らし空を切る度、場内に響き渡る重い金属音。躱しざまに撃ち込まれるイヨの打拳である。棍棒を握る武王の指を、イヨの肘や拳が迎え撃っている。

 

 如何に巨人の剛力と言えど、総身の膂力が込められた四肢先端と武器を握る手指一本の比べ合いならば前者が勝る。

 

 そして、隙を見てイヨの蹴りが武王の足指や足首を叩いている。その些細な、しかし確実に拍子を乱す蹴りを嫌った武王が棍棒で足元を薙ぎ払い、足蹴りでイヨを踏みつぶそうとする。

 

 大きな武器は描く軌道も大きい。初動が掴めれば小柄かつ俊敏たる利点を生かし、内に入り込む事で避けられる。武器攻撃は兎も角蹴りなどカモであった。

 

 回避を優先している為、足元を定めて全力攻撃を行う訳にはいかない。常に動き回る中で実現し得る最大を打ち込んでいく。一発一発は些細な威力だ。だがしかし、それは十、二十と積み重なった時、大きな意味が出てくる。

 

 武王とデスナイトの総合的な力量はほぼ同程度──殴り合えば武王が勝ちそうだが──と思われる。

 武王は速く重く強いがデスナイトより柔い。この綱渡りを続けた先に、遥か遠くとも間違いなく勝利があった──武王がこのままやられていてくれるなら、だが。

 

 そして、当人同士も含めた全員が分かっている。んな訳ねぇ、と。

 

 格下がなんか必死に頑張ってる程度で負ける王者がいるはずは無い。現在筋力的な意味で全力を出している武王が、己の持ち得る全知全能の全力を発揮し始めた瞬間、この一方的な殴り合いは立場が逆転する。

 

 そしてその瞬間はすぐそこまで来ていた。

 

 

 

 

 

 

 『俺の強さは種族の特性からくる強さであり真の強さではない』──その様な考えを抱く位であるから、武王には技や鍛錬というものに対する信仰の様な想いがあった。

 それは現在より遥かに弱く──それでも大抵の生物よりは強く──狭い世界観と拙い口調で街道に陣取っていた頃からのものだ。

 

 更なる強さへの執着。その為に自ら望んで鍛錬を積み、強者を求め戦う感性。ただ生きていく為には不要な苦労を望み、自分から進んで死の危険を求める、そうまでして強くなりたいという生物の本能にすら勝る欲求。

 

 生まれついての強大さに不足を感じ、更なる強さ、更なる速さ、更なる硬さ、更なる巧みさを求めた結果が今の武王だ。『元からすごく強い奴が一杯練習して強い武器防具を持ったら凄まじく強くなった』というある種当たり前である種残酷な存在。

 

 しかしそれでもゴ・ギンは、自分は強いと知りつつもその強さに満足しない。どころか、前述した様に自分の強さを真の強さではないとすら言ってのける。無双の高みに立ちながらも自らをそう評してのける考えは、前向きな努力となって彼をさらに強くしている。

 

 種族特性に由来したものが大きいから真の強さではない。

 

 これはもう完全に武王の信条というか、彼の拘り、価値観からくる物の見方と言える。個人的な問題である。彼の求める理想、目標が余人の想像の及ばぬほど高いから、自分に感じる不足の大きい点を挙げてそういう考えに至るのだろう。

 

 イヨ辺りと討論すると『強さに種類や分類、程度、高低はありえたとしても真とか偽とかなくないですか?』なんて形で価値観の違いが露わになるだろう。イヨの世界観において偽物の強さというものが存在し得るとしたらそんなのはゲームパワーで戦ってる自分自身に他ならない。

 

 偽物だろうと本物だろうと勝敗はそんなものとは関係なくつく。勝った方が勝者でありその対戦において強者であるという形で。

 

 何が言いたいかと言うと、今武王はイヨに対して感動と称賛を抱いているという事だ。

 

 こんなにも弱い生き物がこんなにも強く戦っているという事に心の底から感心していた。まるでタネの分からない手品を見ている様だった。

 

 ──歳は幾つだ? 人間の寿命から考えて、雑に十歳から二十歳の間として十五歳だとすれば、戦歴はどうあがいても十年が精一杯だろうに。

 

 技量は自分──武王とは比べ物にならない程高い。武王の見識では到底理解の及ばぬ完成度、高次元。

 肉体能力は低い──だがやはり人間としては異常な剛力頑健さ。装備品の効果などを考慮しても異常であり、本当に人間かどうかも疑わしい位である。

 自らの振るう棍棒と具足を打ち合わせた感触からするに、装備品の質もイヨ・シノンが上である。オスクから与えられた装備品とて現実的に入手し得る最上級品である事を考慮すれば、素直に羨ましくなる程の武装だ。

 

 奇しくも武王にも近しいストレートな強さ。

 

 この三点を単純に比べれば二対一でイヨ・シノンに軍配が上がる──では三点を合わせた総合力ではどうか。武王が遥かに上だ。戦士としてどちらが強いかと言えば、武王の方が二段も三段も勝る。

 

 イヨ・シノンは武王より弱い。武王とも戦える稀有な戦士だがそれが事実。このまま成長を続けてくれれば五年後十年後にはもっと良い戦いが出来るかもしれない、そういう将来性込みでなら大有望株であろう。

 

 現状は武王の方が強い。最初から分かり切っていた事。しかし、これはどうした事だろう。

 

 当たらない。全力を込めた打撃が当たらない。初撃以降、当たらないが積み重なる。

 

 当たる、当たった、と思う。しかし、実際はすり抜けたかのように地を叩く。そして必ず、武王の手指、少なくとも四肢末端に反撃が打ち込まれる。これほど小さな体でどうやって、という速く重い一撃が。

 

 ──すごいな。

 

 弱いのに。

 

 小さく強い身体を生かした立ち回り、高い技術を生かしたいなし、捌き、受け、流し、小さくしかし確実な回避。人間と戦うたびに目の当たりにしてきた弱く強い者の戦い方──その最上級。

 余りにも武王とは体格が違い過ぎるが故そのまま使う事は不可能だが、学ぶところの多い技術だ。

 

 ──余程俺を学んだのだな。

 

 武王とイヨ・シノンを比べて後者が勝る点。事前の情報収集とトレーニング。武王は少しでも不利な状況を作る為に、対戦相手の事など何一つ知らないままこの場に立った。当然、挑戦者たる相手は武王に打ち勝つべく今まで組まれた試合、知れ渡っている武王の強大さを調べ上げ、分析し、対策を立てる。

 

 ──お前の気迫を肌で感じるぞ。

 

 弱者たるイヨ・シノンから、それでも迸る戦意。意気軒高。完全かつ完璧にこの一戦に向けて調整してきている。

 

 総合的に見てイヨ・シノンは弱く、武王は強い。しかしそれでも、現状は完全にイヨ・シノンが攻め立てている。燃え上がる火焔を伴った打撃によって小さく確実なダメージを身に刻まれているのは武王の方だ。

 

 要するに、ベストコンディションながら『今回の相手はどれだけ耐えてくれるか、少しでもまともな戦いはできるだろうか』『また何時もの様にあっさりと苦戦のくの字も拝まないまま勝ってしまうのではないか』『弱い相手からでも何か得る物を得て糧にせねば』と考えている武王。

 

 値踏みするべく取り合えず全力だけ出している王と、恐らく人生でも最高のコンディションで死力を尽くし、勝利を掴まんとしている挑戦者の差。それがこの勇戦の正体。

 

 ──すごいなイヨ・シノン。

 ──しかと覚えたぞ、お前の名前。

 ──今まで戦った相手の中でも三本の指に、いや、人間に限定すれば紛れもなく最強だ。

 ──お前ならばクレルヴォとも良い試合が出来るだろう。

 

  武王の知る最強の敵であった前武王との比較。それは惜しみない最上級の称賛である。

 

 ──戦っている感じがする。

 

 今の所戦いになっている。それも、現状己が不利な戦いに。

 

 癖がついていた。弱い挑戦者との退屈な試合からでも、得る物を得る為、学ぶ為の癖。始まってすぐ相手が潰れて何一つ得る物が無いまま終わり、にならないような戦い方をする癖。相手の全てを見ておこうとする癖。失望に囚われない様に、前に進もうとする努力。

 傍から見ればそれは、相手の全てを受け止めてなお上回り圧倒するという王者の戦い方でもある。

 

 退屈に飽いて、夢見る程に切望した『強敵』には及ばないまでも、その片鱗を宿した存在が今、目の前に。

 

 兜の下、武王の笑みは深まる。少しずつ、少しずつ深まる期待感。上向く意識。向上するテンション。

 

 ──どこまで戦ってくれるんだイヨ・シノン。

 ──お前はどこまで俺に付き合ってくれるんだ?

 ──俺がこれ以上を出した時、その時でもお前は壊れないでいてくれるのか?

 ──お前にも今以上があると、そう思ってしまって良いのか?

 ──お前はもっと、頑張ってくれるよな?

 

 鈍色に身を包んだ小さな姿に、武王は初めて興味や楽しみでは無く戦意を抱く。

 

 その瞬間、眼に見えるのに目に留まらない動きをしていたイヨ・シノンの姿が、遅く感じた。

 

 武王は思う。引きつる様な肩の痛み。焼かれて僅かに白く濁った眼。これが傲慢の代償であればよい、と。驕り高ぶっていたという現実を、苦戦という形で俺に突き付けて欲しい、と。

 

 ──これくらいなら他に出来る奴もいた、もっともっとだ。

 

 俺の方が強い筈なのに弱い筈のコイツに負けてしまったとか、すごく苦しい戦いになってやっとの事で息も絶え絶えになりなけなしの知恵を絞ってどうにか勝利するとか。久しく味わっていないそういう感じが欲しい。

 

 初撃を交わした瞬間、イヨは『ただ潰されるだけの敵未満』から『対戦相手として見てやっても良い』という評価を得た。

 武王の中でイヨの評価が再び改まる。好敵手、少なくともその候補足り得る可能性を持つ存在だと──

 

「──〈剛撃〉」

 

 武王の肉体に戦意という炎が宿り、戦士の真価たる一片を垣間見せたその瞬間。直撃を受けたイヨは吹っ飛んでいた。

 




特典小説で明らかになった設定で色々と作品内の描写が原作設定と大きく食い違う事も多くなってきたのですが、取り合えずはこのまま進行します。
イヨの行動がかなり変わってしまう設定もありましたが、投稿済みの部分を修正するより続きを書く方向で逝きたいと思います。もしかしたら途中で原作準拠の設定を採用して以前までと描写が変わってしまう事もあるかも知れませんが、ご容赦くださいませ。


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頂きに挑む:足掻く弱者、変容す

大変お待たせしました、本日投稿する二話の内、二話目です。


 派手に吹っ飛んだイヨ・シノンは地面を削り土砂を撒き散らしながら壁に激突し、其処でようやく止まった。

 装備品込みの重量ならばガルデンバルドにすら迫るイヨをまるで綿の詰まったお人形さんが如く跳ね飛ばす、恐ろしい武王の一撃。これを喰らって人間の形を保っていられる戦士は帝国広しと言えどそう多くない。

 

「見事だ、イヨ・シノン。殴られ慣れているな」

 

 殴った時の手応えがぬめっていた。会心の一撃とは程遠い。大歓声を背負いながら、武王は少年に賞賛を投げかける。イヨが激突し崩れた壁面、土煙がけぶる方向に上機嫌で歩み寄っていく。

 

「身体ごと吹き飛ぶほどの攻撃を受けつつも急所は守り、更にどうにかしてダメージを最小化しているのか? 素晴らしい技術だ。重くデカすぎる身体のせいで俺には真似できないだろうな」

 

 わざわざ真似る意味がないともいう。

 

「小さき者ならばこその技術、工夫だ。見上げたものだな」

 

 弱点である軽量矮躯を出来得る限り有効活用する術。短所を短所のままにしておかない足掻き。持ち得るモノの長所化。

 

 いくら情報を集めて対策したとて、実際の体験が無くてはこうも完璧に受けられまい。武王は対戦相手たる小さな人間が希代の戦士である事を最早疑っていないが、体験が、学習が、鍛錬が無ければ技は技に成らない。

 

 並ぶ者無き武王の一撃を受け完遂してみせたその能力、来歴、興味は尽きない。

 

「俺と同程度……いや、俺より強い相手と戦った事があるのか? この試合の後でお前が生きていたら話を聞いてみたいものだ──」

 

 大分近付いたのだが、イヨは未だ動く気配を見せない。既に武王は間合いに入っているというのに。今まで何度も見た光景だ、本気の一撃がきちんと当たってしまい、それ以降立ち上がれない、もしくは死んでしまう挑戦者。

 だが、この相手がそうなってしまうのはおかしい。先程の手応えからしても到底会心の一撃では無かった。立ち上がれるはずだ、あれ程の力量を示した戦士ならば。

 

 ──それとも、過大評価だったのだろか。あれが限界一杯の動き、奇跡の連続による必死の勇戦だったのか。それを見て、余りにも強敵に飢え過ぎていたから実体より大きな虚像を作り上げてしまったか。

 

 なまじ強過ぎて対戦相手を得る事すら困難だった武王だけに、その想像はリアルだった。今までずっとそうだった通りこの相手もか、という感想がほんの一瞬脳裏に浮かぶ。

 

 だが武王はいや、とその想像を否定する。この対戦者が人間というカテゴリーにおいて最強の敵であるとした自分の見立ては正確な物だ。弱い相手との糧にならない試合に飽き飽きし、以降碌に試合も組まれなくなったとはいえ其処まで錆びていない。

 

 試合から遠ざかり、帝都に住まう都合上実戦からも昔と比べれば縁遠くなったが、鍛錬を怠った事など只の一度も、一秒たりともありはしないのだ。

 

 この相手は強い。たった一撃で沈むはずは無い。だが現実としてピクリとも動かない鈍色の人型。思わず呼吸はしているか、と気にかけてしまった。鎧を纏っているので分かりづらいが息はしているようだ。よくよく見れば手足は微かに痙攣している。

 

 武王の耳目に、観客が戻ってくる。

 イヨ・シノンが地に倒れ伏したまま不動となってまだほんの数秒しか経っていないのに湧いてくる勝利への喝采。大穴に賭けた者たちの絶叫、罵倒。『結構頑張ったんじゃないか』といった類の対戦者への称賛。

 その中で立ち尽くす自分の姿は、まるで何度も何度も何度も体験して飽き切った、味気ない勝利そのもので。

 

 違うはずだ、という己の考えさえ色褪せてしまいそうな、灰色の勝利が頭をよぎった。

 

 ──否定してくれ。

 

 その想いを胸に武王は棍棒を打ち込み。

 

 それと入れ違う様に。

 

 跳ね起きるや否や疾走したイヨ・シノンの【爆裂撃】付き頭突きが武王の股間に直撃した。

 

 

 

 

 

 

 ゴシャ、もしくはゴチュ、グチェ、という音が居合わせる全員の耳に響いた──気がした。

 

 総重量二百キロ前後という金属の塊が人外染みた低姿勢の短距離加速を見せ、体当たりの如く頭から武王の金的にぶち当たったその瞬間を、多くの者が間延びして感じた。

 

 それがヤバい行為だという事は戦闘に通ずるか否かに関わらず、本能的に多くの者が知っている。身体を切り裂かれても吠え声を上げて敵に躍りかかる戦意旺盛な戦士が、その攻撃をモロ食らいした瞬間内股になって倒れ伏す光景は闘技場ではまま見られるものだった。

 

 その中でもこの一撃は、速度といい威力といいマジでヤバい感がどんな素人でも一目でわかった。

 

 だから男女問わず息を呑み、

 

「──こっ」

 

 その内約半数、男性諸氏が正しく悲鳴を上げた。

 

「これだから女は!」

 

 イヨは男である。因みに、一部の女性と極一部の男性という非常に限られた種類の観客は興奮の喝采と黄色い悲鳴を上げていた。

 別に股間に攻撃食らって痛いのは男だけでは無いのだが、まあ確かに睾丸なんてあからさまな急所をぶら下げているのは男だけで、より致命的である。

 

 だからまあ、ルール的にアリなら狙わない理由は無いのである。追撃の前に武王がなにやらお喋りを始めた時点でイヨはこれを狙っていた。

 

 この時のイヨの心情を言語化するとしたら一言に尽きる。

 

『やっぱり僕、生身の生き物って好きだなぁ。アンデッドと違って全身弱点の塊だもん』

 

 身体能力が近付いた所でレベル差は無くならない。ならばどうしても、威力を伝えダメージを与えるには弱所を打たねばならないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 イヨは装甲とパットの向こう側にぐしゃりという確かな手応えを感じ、瞬間的に折れ曲がる武王の肉体から飛び退いて距離を取った。

 股間へのダメージは灼熱の如く痛いし苦しい。反射的に体を丸め、眼を瞑り、目の前が真っ暗になり吐き気を覚え汗が溢れ酸素が足りなくなる。睾丸が破裂した場合ショック死する事もあり、多くの血管が通っているのでショックで死ななくとも適切な処置をしないとやっぱり死ぬ場合もある。

 

 文字通り死ぬほど痛い訳だ。故に本能的無意識的に庇う癖もあり、当然格闘技では致命的急所の一つとして攻撃から守るべき部位とされるし、スポーツでは反則なのである。

 実際金的は余り簡単に決まる攻撃ではなく、執拗に狙うよりはフェイントだったり寝技時に手で狙う方が実戦的とも言われる、が、なんだかんだ運動をしているとうっかり入ってしまう経験は結構誰でもする。心当たりがある方も多いだろう。

 

 笑い話で済む程度なら兎も角、本当の本当にガチで喰らってしまった場合、根性で我慢できる攻撃、ダメージではない。イヨでも元の世界では悶えたし、此方の世界に来てからでも睾丸が破裂すれば一秒は動きが止まり以後確実に戦闘力が劣化する。訓練の中で何度潰しても決して慣れない痛みだ。下手に治癒できるからイヨはもう既に常人の人生何回分もその痛みを味わっている。

 

 何故その決まりにくい攻撃が完璧に入ったのかと言うと、武王はデカくてイヨはちっちゃいというのも理由の一つだ。背丈の話である。

 身体の大きさが別の生物レベルで異なる為、距離的に股間が近く股下にも潜り込みやすい。小さい身体は相対的に細く鋭い攻撃を可能とし、他愛もない隙間を突破し、デカい急所に突き立つのだ。

 

「【火足炎拳】──」

 

 イヨはこの攻撃を隙あらば狙っており、特大のチャンスが舞い込んだためその機をこれ以上無いほどの形でモノにしたに過ぎない。

 

 ──あー、やっぱ頭が下がると殴りやすくて助かる。

 

 身体を丸める事で下がった頭はなんと美味しい獲物なのだろうか。第三者としてこの試合を見ていたらイヨはそんな感想を抱いただろう。戦闘中のイヨは肉食の昆虫の如く弱みに付け込む。

 

 およそ考える限り理想形そのものと言える美しい軌道を描いて振られる、死神の刃。種族的にクリティカル無効であるアンデッド相手では全く役に立たなかったが、真っ当な生き物相手には良く効く。

 

「超過駆動」

 

 瞬間、烈火が弾ける。

 迸る爆炎は見る者の目を焼き、長時間持続すれば自壊を招き、装備者の四肢を炭に変える程の熱量。アダマンタイトすら危ういとされる猛火に耐え得るのは、聖遺物級武装【アーマー・オブ・ウォーモンガー】と三十一レベル拳士たるイヨ・シノンであればこそ。

 それだけの莫大な熱量を纏って延髄に叩き込まれる上段蹴り──【断頭斧脚】。

 

 防御など出来よう筈も無いタイミングで撃ち込まれた足技は正しくクリティカル、会心の一撃。スキルの効果によってダメージ量を更に増大させ、武王の頑強な首を圧し折らんばかりの大威力を発揮する。

 

 響く渡るそれは歓声を押しのけて闘技場内を圧倒する、耳を覆いたくなるほどの打撃音。金属と金属がぶつかり、それらを隔てて骨肉の芯まで破壊力が通る音。

 

 観客たちは世にも稀なる光景を目にした。歪なくの字を描いて僅かな距離、しかし確かに蹴り飛ばされる武王の姿を。

 

 ただのトロールなら二、三体纏めて抗い様も無く断頭されている。骨にも脊髄にも致命的な損傷を受けずに済んでいる武王の耐久力は常軌を逸していた。

 

 明らかに先程までより、防備が堅い。

 

 吹っ飛び倒れ伏す武王に追随して、イヨは雄叫びを上げて蹴りを叩き込む。ヘルムの上から、ヘルムの隙間から、首に、鼻下に、鼻っ柱に、こめかみに、耳の付け根に、目玉に。デカいので急所もデカい、的がデカい分最高に殴りやすい。

 感覚器が集中している顔面への攻撃はダメージ以上に相手の視界や感覚を乱し、脳の働き、思考を妨げる。片玉を潰され立て続けに脊髄にモロ食らいした後ならば尚の事である。

 

 ただ、一般人と違って戦士という人種は、ダメージを受けてこそ心身が賦活し、敵手を打ち倒すべく活力を沸き上がらせる生き物でもある。怯むのではなく、怒るのだ。その危険さは、イヨの背筋に死を感じさせ、突進を止めさせる。

 

「──き」

 

 小五月蠅く纏わりつく毒虫の如きイヨ・シノンを棍棒で払いのけて立ち上がった武王は既に深いダメージを負っていた。〈外皮強化〉〈外皮超強化〉によって打撃は減衰できても属性ダメージには大した効果を持たないし、再生力の阻害はどうしようもないのだ。

 アーメットヘルムの下で頭部周辺は焼け爛れ、股間からは大量の血が滴り落ちている。鼻の芯が砕かれ、上の前歯も吹っ飛んだ。喉奥に流れ落ち、口内にまで血が詰まる様で息がしづらく、酸素が頭に回らない。

 分厚い皮膚、筋肉に覆われた箇所と違って頭部、特に顔は脆い。頑丈な頭蓋骨にさえ構造上薄い箇所、脆い箇所がある。イヨが乱打の如く連続し、しかし精密に狙い打ったのは全てが急所だった。

 

 だが、その程度で武王は倒れない。この程度のダメージで王と呼ばれる領域にまで自らを叩き上げた亜人種の生命力は尽きないのだ。大きなダメージではあるが、それよりなによりイヨの攻撃が呼び起こした最も大きな効果は、武王の怒りを招いた事であった。

 

 ──戦っている。

 ──戦っている。

 ──痛手を負った。

 ──何時以来だ?

 ──こんな戦い方をも出来るのだな。

 ──ブレた気持ちを利用された、素晴らしい。

 

 痛みと怒りの奥底で、武王は確かに高揚していた。まだ足りない。まだ足りないが、想像よりも想像以上だ。すかさず追撃していれば食らうことも無かったという気持ちすら湧いてくる。油断、そう油断と傲慢だ、結果から見ればまさに。

 

 一度は集中し切った筈の精神が予想以上の美味しい敵を前にして前のめり、独り善がりに陥った。ゴ・ギンが弱い相手を弱いと思い、自分以下なりに強い方だという期待を抱く所まで相手は読んでいた。

 

 この相手は戦闘経験のみならず、試合経験も豊富な奴だ。

 武王の対陣に立つ事を許される程の強さ、つまりその身に宿した武力だけで万難を打ち砕く事さえ可能とする最上位に近い強さを持ちながら、武王が一切する必要のなかった強さ以外の戦闘手段まで練磨し、獲得している。詐術に騙し討ち。親近感を抱かせる程ストレートな強さで振る舞いながら、臆面もなく弱者である事を利用する。

 

 付け焼刃ならば見破れる。この類の手段を用いる者など野の獣から対戦相手まで今までに幾らでもいたのだから。この相手は熟達振りが尋常ではない。弱さを使い慣れている。弱さの練度が余りにも高い。繁殖力だけが取り柄のそこら中で多数死んでは数多生まれていく矮小な生き物の如く。

 

 武王より強い相手と戦った事があるどころでは無い。自分より強い相手とばかり戦ってきたみたいに。何時だって自分より強い相手に不自由しなかったであるかの様に。

 

 ──俺と打ち合えるほど強くありながら、ここまで弱さを磨ける程強敵に恵まれていたとでもいうのか!?

 ──なんて羨ましい奴。

 ──許せん!

 

 独特の思考展開を経て、最強を拗らせし王はキレた。

 

「──貴様ッ!」

 

 どんな痛みに襲われても手放さなかった棍棒による、これまでのどんな攻撃より早く速い一撃──怒りによって加速された打撃である。

 

 ダメージが抜け切らない状態で放った一撃は容易く避けられた。だがそれが何だと言うのだ? 今までだって何度も避けられている。何度も殴られている。そんな事は問題ではない。

 

 全てを受け止めなお強く立ちはだかり、そして圧倒的な力で圧し潰す。それが王の戦い方。

 

 猛る心の一方で武王の頭が冷え、巡る。

 

 必要なのは当たらない大振りではない。ただまっすぐな速い一撃では無い。この傷付いた身体で放つ事の出来る、当たる一撃、当てられる攻撃、その為の工夫。

 

 幾度も繰り出す打撃は避けられる。戦意と気迫に満ちるにも関わらず繰り返されるそれは、まるで先の再現の様に見えただろう。しかし違う。武王の内面が違う。これは避けられる前提で放つ、避けさせるための一撃。当てる為の前準備、その為の調整に他ならない。

 

 火傷を伴った傷は再生しないが、最低限ダメージが身体から抜け、ある程度体力が戻るまでは均衡を維持しなければならない。武王の迸る闘争本能が脳内麻薬の強烈な分泌を促し、再生能力抜きでも抜きん出た生命力を持つトロールの頑健な肉体は、徐々に衝撃から立ち直りつつあった。

 

 時間は常に武王の味方だ。

 

 見事にしてやられたダメージは決して死に至るものでは無いが、大きな負傷である事に相違ない。痛み、出血、戦闘力の低下は免れない。だがそれは相手も同じ。

 

 先に当たった〈剛撃〉の一閃、その後の狸寝入り──一見殆どダメージが無かったかのような振舞だが、そんな事は無いのだ。武王とイヨ・シノンでは、許容できる負傷、出血の限界量が全く異なる。

 

 細々ちまちまとした拳足を十発食らっても、一発叩き込めばお釣りがくる。それが二人の実力差であり、体力差であり、種族差だ。

 

 この相手は怪我に慣れている。怪我をした状態、生命力が損なわれた状態での最善の動き、総合的な運動能力を保持する怪我の仕方、怪我をした部位の使い方に熟達している。痛みを感じないのかと思う程。

 

 再生能力故に四肢欠損さえたちどころに元通りになるトロールはそもそも負傷を抱えた状態が数秒以上長続きする場合が殆どない。炎や酸さえ伴わなければ切り傷打ち身は一瞬の痛み、骨折や内臓破裂も精々数秒から十数秒の不自由。弱点の属性で攻撃されて初めて他の種族と同等の『負傷』となるのがトロールである。

 生来そうした身体を持つ武王には中々養いにくい方面の能力であると言えた。

 

 現状重傷なのはイヨ・シノンも同じ。ただ、動きの劣化は相手の方が少ない。しかし武装の劣化、そして情報の有無はどうだろうか。

 

 先の一瞬、常に倍する炎を吐き出した四肢の具足は今や熾火の様な静かに揺らめく炎を纏うばかり。当初より明らかに火力が落ちている。

 

 冷却時間の様なものが必要でそれが過ぎればまた元通りになるのか、それとも過剰な力の代償に性能そのものを損なったのか。どちらにせよ今が好機だ。

 

 それとは別に、先程頭からも爆炎を噴き上げた。元からの炎に紛れて分かりづらかったが、思えば手足の具足の攻撃にも火力のムラがあった。防具の能力かそれともスキルか。いずれ相手は今が使い時と判断し伏せておいた札を一枚切ったのだ。同じ事がどれだけできるのか、あと何枚の隠し札があるか知れないが──

 

 ──粉砕してやろう……!

 

 武王に隠し種は無い。王として君臨する彼は常に見られ、記憶され、語り継がれる存在だ。戦士としても純粋なタイプで搦め手を持たず、必要ともしない。試合に出ていない期間の間に成長していたとしても、その強さは以前までの強さの延長であり、拡大だ。

 調べられれば丸裸。故に挑戦者が最も有利な時間とは、試合開始直後である。武王が自らに課した縛り、勝利への努力の意図的な放棄。それ以降はお互いの持つ情報がどんどんイーブンに近付いていく。

 

 外見以外に何もわからないびっくり箱である挑戦者は備え立て磨き上げた己の武器、智謀、策略をもって不敗の王に挑み、その骨身を削り、『不明』であり『初見』である力でもって有利に戦う。力量不足という根本的不利の中で精一杯に。

 

 そして全ての力を出し切って負けるか、それ以前に耐え切れず負けるか。それが今までの対戦者のパターンだ。

 

 時間が過ぎれば過ぎる程お互いは対等になり、そして元の力の差分だけ挑戦者が不利になる。正確には武王が己に課していた意図的な不利が解消されていく。

 

 武王は強くなりたい。今よりももっとだ。故に己こそが挑戦者となるほどの強者を求め、それを打倒する事を望んでいる。弱すぎる相手からだって、己の糧となるものを得ようとする。

 しかしそれは、手加減や引き延ばしとは一切無縁のモノだ。武王はいつだって、相手の弱さ故に必死でこそないかもしれないが、盤石真剣に戦うのだ。

 

 武王の全力を躱し切り、そして幾度となく反撃を打ち込んだ力は賞賛しよう。

 心に火が灯った武王の一撃を受け、戦闘可能な状態を保っているのは凄まじい事だ。

 即座に企み事を練り、武王を謀って見せた弱者故の強かさ、そしてその後の猛攻は武王が武王でさえなければただ一撃を取っても死に至る類稀なる武威を放っていた。

 

 歴代の挑戦者の中でも最上位に負けず劣らず、人間としては最強格たるその力──真価が試されるのはここからである。

 

 果たして今まで武王に与えたダメージと、『一切の情報なし』という今まさに消え去っていくアドバンテージはどちらが勝るのだろうか。値千金の時間は過ぎ去り、手負いの獣同士の殴り合いが始まる。

 

 

 

 

 

 

 強敵に飢えていたのは何も武王だけではない。観客たちもまた、最強の王の全力を引き出してくれる対戦者に、より高レベルでもっと血みどろで更に興奮できる試合に飢えていた。

 

 折角の歴代最強の誉れも高き巨人の王は、強過ぎて相手が見つからず試合から遠ざかる始末。たまに組まれた試合も圧勝。前武王戦以来、全力の武王を誰も見ていない。血と興奮に飢えた観客たちだって退屈していた。

 

 どっちが強いのかなんて、一般人には分からない。レベルで言えば五かそれ以上は違いそうな巨人も少女も一般大衆からすれば余りに雲の上の存在過ぎた。強いと弱いならまだ分かる。しかし彼ら彼女らには、とてつもなく強いと滅茶苦茶強いの区別など付かないのだ。

 

 『玉潰されて火を噴く蹴りを何度も受けてあれだけ血を流しても元気なのだから武王の方が当然強い、でっかいし一撃でシノンを吹っ飛ばしたじゃないか』『いやいや、あの体格でずっと大きい武王と渡り合っているのだから挑戦者の方が強い。より多く攻撃を当ててるし一発貰った後もまだまだ余裕そうだぞ』──どこかで誰かがそんな話をしていた。

 

 極論観客は技量とか腕力とは強弱はある程度どうでもいい。見応えが全て、盛り上がるかどうかが全て。強いて言えば派手で残酷で流血が一杯であるほど観客のボルテージが上がる。

 

「ふっざけんな! こっちは落ちてる金拾うようなもんだと思って武王に全財産賭けてんだぞ、万が一勝ったらぶっ殺すぞクソ化け物の玉潰し娘!」

「いけ! そこだ、やれ! あんたが勝ったら俺は一躍億万長者だ、頼むぅ、勝ってくれ俺の女神!」

 

 こういう、その後の人生を左右するレベルで金を賭けている脳の配線ぶっちぎれな高レベル博徒と武王のファン、そして俄かに惹かれてきているイヨのファン。そういう者たち以外はどっちが勝つのかには興味津々でもどっちに勝ってほしいという感情は割と薄い。

 

 大多数の観客たちは手に汗を握り声を枯らしてテンションのままに叫びながら、大量の血を流す武王と、今の所互角っぽく戦っている挑戦者を見ている。二人の壮絶な削り合いを見ている。

 

 

 

 

 

 

 互いに手負い故に万全な動きとは程遠く、それ故に荒っぽく激しくぶっ叩き合う派手な戦い。

 

 足を引いて体を構え直しつつ、武王は地面ごと抉る様にして低く薙ぎ払う一撃を放つ。基本的に距離を縮める戦いをしてきたイヨもこれには溜まらず斜めに下がって避けた。距離が出来れば飛んでくるのは〈剛撃〉の乗った上段からの振り下ろしだ。

 

 予期していた流れではあった。が、だからと言って楽に躱せるかは別だ。イヨは全身のバネを使って斜め前方に小さく鋭く前回り受け身。背後で弾けた地面。飛び散る砂を浴びながら、一度は受けたその一撃の回避に成功する。下がった時点で予想していた事、一度体験した技である事、武王に与えた負傷、どれか一つでも無かったら当然また吹っ飛ばされる人型のボールになっていた。

 

 武王に対して真っ直ぐな動きは自殺同然だ。互いの軸をずらす方向に動かねば押し込まれて死ぬ。武王も無論動いているのでそれを読まねば矢張り死ぬ。

 

 今の武王相手に最初の様な綺麗なカウンターは不可能だった。その余裕がない。イヨを学習されている。イヨの動きは既に過半が既知となり、対応がどんどん素早く正確になっていく。予期され、合わされる。

 急所を潰し、感覚器官にダメージを与え、出血を強要し、幾多の癒えぬ傷を受けながらも、その戦闘力は未だに衰えない。イヨが実力差を事前準備と戦術で誤魔化してきた様に、慣れと学習で身体能力の衰えと体力の低下を容易くカバーしている。

 

 守りのみならず攻めもまた変わってきている──当てる事を優先する攻撃、避けさせる攻撃、体力を消耗させるための攻撃。自分の体力の回復を待ちながら、隙あらばイヨを削る攻撃だ。

 

 狙っている──勝負を決める一撃を。

 待っている──自らの回復、イヨの消耗を。

 警戒している──まだ見ぬイヨの切り札を。

 

 巨大さはそれ自体が防御力であり攻撃力だ。急所に手が届かない。先の不意打ちの様に体勢を崩さない限り、イヨの攻撃は決して急所には届かないのだ。

 武装の奥底で、身体の軋む音がする。イヨが急所だ奇襲だとちまい事に必死になっているのに対し、堂々たる武王の一撃はたった一打で急所ごと全身を破壊する。もし先の一撃が剛撃では無く噂に聞く至高の一閃であったなら、戦いは事実上あそこで終わっていたやもしれぬ。

 

 試合が始まったばかりの頃、幾度も踏破した距離がどんどん遠くなってくる。何度も避けた攻撃が避けられない。打ち込めた反撃が打ち込めない。

 

 徐々に、徐々に削られていく。直ぐに掠る様に、やがて引っ掛ける様に、そしてそう遠くない内に直撃する。

 

 事前の想定から言えばあまり良い流れではない。

 最上の流れは初見を叩き込み続けて常に相手を受けに回らせる事。強みの発揮を許す事無く叩き潰す事。強い相手に何もさせない事。立て続けに痛打を与え続けて押し切る事。

 

 イヨは望んだ流れを掴む事が出来なかった。試合では良くあることだ。特に相手の方が上手の試合では。弱い方が主導権を握り続けるあまりに都合の良い未来は、強者の強者たる所以によってあっさりと否定された。鼻骨を焼き潰されながらも防御する事無く反撃に転ずる武王の神経は尋常ではない。

 邪魔の入らぬ一対一という事は、紛れが少ないという意味でもある。

 

 ここから先は乱戦になる。ここからもう一度本物の乱戦に持ち込まねば、可能性すら潰えてしまう。

 

 イヨのびっくり芸はまだ終わりではない。

 

 イヨは脆弱矮小な生身の身体を鍛えない事を選んだ。僅かばかりの強さより高確率の成功が望める奇襲を選んだ。

 

 ならば、それが失敗したらどうする? 一度その戦闘力が露呈してしまえば、同じ相手との戦闘中に、華奢な身体は往々にしてハンデだ。

 

 ではどうするか。──もう一度正面から奇襲する。もう一度『有り得ない』をぶつけてやる。誰もが予想し得ない『初見』で思い切り殴り付ける。

 

 学習は最初からやり直していただく。

 

 イヨは苦しい状況の中で機を窺う。そしてそれは苦しい状況の中でですら訪れる。互いに構え探り合う状態ではない、冷えた頭で荒く激しく入り乱れタイミングを窺い合う、このやり取りの中でこその眩ませる機会。

 そんな事を警戒する者はいないから。

 

 武王が振りかぶる瞬間、半ば地に膝を突くほど低く構えて、一見無謀とも思えるタイミングで飛び掛かる。

 

 宙で相手に背を見せる様に回転を起すその動きは、常識的に考えて無駄と言えるもの。手だろうと、足だろうと、間合いが足りない。辛うじて身軽さと俊敏さ、それ以外の全ての『速さ』でイヨは劣っているのだから。

 

「──【ドラゴンテイル】」

 

 その小さな小さな呟きを拾えた者は誰一人としていなかった。いたとしてもどうしようもなかっただろう。

 

 特殊な呼吸法によって体内の魔力を活性化させ、肉体を強化及び変容させる技術、練技。呼吸可能な状態ならば、その多くは無音無動作。

 使用者の体型変化を感知した【アーマー・オブ・ウォーモンガー】が、再度流動し、最適化する。

 

「──なんっ」

 

 僅かに身を引いて、中空で致命的な空振りをするだろうイヨの背を打つ構えを見せた武王が、更に仰け反る。

 まだ見ぬにも程があった。驚愕に眼を疑い、それでも反射的に顔面、ヘルムの隙間に迫る『それ』を避けようとする武王の目前で『それ』は意志を持つかの様にのたくり──装甲の隙間、武王の右の肩口に浅く突き刺さり、爆炎を噴き上げた。

 

 

 

 

 

 

 内から焼き裂かれ半切断に至った肩を抑えながら、武王は後退した。片腕で対手に突き付ける棍棒の構えには、防御の意図と同時に混乱が見て取れる。

 

「……成る程。あの段階からブラフを織り交ぜていた、か? 人間とは思えない身体能力を持つお前の正体は、そのまま非人間だったと……」

 

 ゴ・ギンは尻尾の生えた種族となら何度も戦った事がある。だが、『無かった尻尾を生やす人間的外見のなにか』などという生物がよもや目の前に現れるとは想像したことも無かった。

 

 僅かに感じる雄の様な匂い、雌の幼体らしき外見、非人間的身体能力、僅かな鍛錬の痕跡すらない見た目にそぐわない戦闘力。幾つものちぐはぐ、不自然。

 人間に姿が似ている、否、人間に擬態できる未知の種族と考えれば納得がいく。作られた見た目であるのなら、その本質が外身に全く反映されない事はむしろ当然と言えるからだ。

 

 眼前、その他の全身と同じく鈍色の装甲に覆われた『それ』は、武王の肩関節に突き刺さり、内側から爆炎を噴き上げた『それ』は──どう見てもイヨの尾骶骨の辺りから生えている、尻尾だった。

 

 着地後、四肢を地に着いた姿勢のイヨ・シノン。その腰から伸びるのは猫科動物のそれの様に左右にくねりながら揺れ動く鈍色の尻尾。その動きは生体ならではの艶めかしさがあり、特殊な装備品などでは無い事が直感的に感じ取れる。

 

 イヨの脚よりも太く、イヨの身長よりも長く、鈍色の金属はその先端で打突部、斧刃、槍の穂先、鉤爪を形成している。叩き、切り割り、突き刺し、引っ掛けるその形状は長柄武器──王宮の警護兵なども携えるというフットマンズ・アックスの一種に近い。

 

 体重が足りないなら増やすまで。四肢が足りぬなら増やすまで。間合いが足りぬなら延ばすまで。パターンを読まれたなら組み換え、組み足すまで。練技は人体の根本的構造をも変えるのだから。

 

 カテゴリー格闘に属する武器、練技〈ドラゴンテイル〉による竜の尾。イヨがエンハンサーのレベルを上げる事によって獲得したそれは、現在確認出来る限りこの世界の人間では彼だけが持ち得る独自の武装であった。

 

 多分に見当違いを含んだ問いには答えず、得体の知れない生き物と化したイヨは地を這う姿勢で武王に襲い掛かった。

 




玉を潰したり潰されたりした経験が豊富な格闘系元気っ子美少女(成人男性・変態能力持ち)

エンハンサー技能を伸ばすと身体を強化したり竜の尻尾を生やす他に、
・牙を生やして噛み付く。
・口から火を吐く。
・口から投擲武器(例:ジャベリン、ハンドアックス、ナイフ等)を吐き出して攻撃する。
・翼を生やして空を飛ぶ。
・指先から蜘蛛の糸を出す。
・カメレオンの様に体表の色を変える。
・犬や猫、馬や豚に変身する。
等の事が出来る様になります。高レベル練体士は外見や行動が人外になりがち。




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頂きに挑む:頂きを打ち据える

「オオオォォオオー!」

「がぁぁああぁっ!」

 

 空を波打たせる音──。両者の中央でぶつかり合い、拡散する波濤が万物を叩く。

 

 自然界の頂点捕食者層、強さこそが全てである野生の世界ですら王を名乗り得る武の巨人が、渾身の威圧を込めて放つ気合い。

 そして、王にすら肉薄し追随する人面人身の可憐なる人型──得体の知れない小さな生き物が放つ、精神的打撃力を伴った叫び。精神効果無効であるアンデッドには意味の無かったもの、三十レベルに至った時点で進化していた【喝殺咆哮Ⅱ】。

 

 同レベル以上の相手や精神を防護している相手には基本的に効果の無いそのスキルを、それでも使うのは己を鼓舞する為。遥かに強大な生き物に向けて放つ再度の宣戦布告。

 

 たった二体の生き物が発した大音声の雄叫びに、殺し合いを見るべく闘技場に詰めかけた万倍を超える観客たちが圧され、身を竦ませ、押し黙る。

 その一瞬、誰もが観客席という安全圏に座る我が身の境遇を忘れた。視線の先に居る生き物が地位もあれば分別もある闘技場最高最強の戦士、最上位冒険者であるという事実を忘れた。

 

 彼ら彼女らの口を噤ませ、身を震わせたのはたった一つの絶対的な真実──『あれらに敵対すれば自分は死ぬ』という本能的恐怖。強者の暴力から我が身を守る術はないという理屈抜きの確信。

 

 『今此処にいる全員束になったって、あの二頭に敵わない』──か弱き一般市民が本能で感じたその答え。四騎士二名を始めとして多くの高級騎士、上位冒険者、有名ワーカーが詰めかけている今この場において勘定として実際に正しいかはさておき、戦場を知らない大多数の人々にとっては余りに酷い悪寒だった。

 

 イヨのスキル効果範囲外の者まで硬直した──それほどまでに、二者の叫びには純真な闘志と原始的な鬼気が乗っていた。

 

 人間と怪物の戦い──だと、多くの人々は思っていた。

 

 愛想の良い可憐な少女。笑顔があどけなく、小柄で細身、華奢で柔らか。優し気で幼気な雰囲気の最上位冒険者。妖精だが何だかの人ならぬ血を引くという──見た目からは想像もできない戦闘力を秘めるという──そんな触れ込みだった生き物。

 

 いざ戦闘が始まって人々が目にしたのは我が身を鋼に包み込み、巨人と打ち合い、騙し討ちを敢行し、長大な尾を生やし、咆哮で人の精神を脅かす生き物だった。

 

 共に怪物。

 

 大きな怪物と小さな怪物の戦い。

 

 人々の理解は今、目の前の現実に追い付いた。

 

 

 

 

 

 

 ──誰も知らない。誰も見た事がない。竜の尾を持つ人間の戦い方。

 

 長大な尻尾をという第三の支え、重量物を持つ人間の疾走を、突きを、蹴りを、誰も体感した事がない。それら全ては未知の領域、完全に人外の動き。

 

 当然人間のそれではなく、尻尾を持った他の異種族ともなお異なる。故に人外。人の動きでは無く、異種族の動きでも無い。『尻尾という武器を持つ人間』の戦闘。

 

 歴戦の覇者である武王さえも。

 

 イヨの頭上を武王の棍棒が唸りを立てて通過していく。正面から打ち据える筈だったその攻撃が外れたのは、速度を落とさぬまま地に顎が付く寸前まで身体を前傾させる走行姿勢への切り替えが原因だ。

 

 腿が胸にくっつくほど引き寄せられた足が一瞬身体を支え、そしておぞましい程に強く後ろに伸びて地を蹴る。

 

 極端な前傾を可能としているのは軽量小柄なイヨの体躯を前方に吹き飛ばすほどの脚力、三十一レベル前衛の身体能力が生む速度。倒れるより速く進む、落ちるより速く飛ぶ、なので倒れない。そして、尾骨から後ろに向かって伸ばした竜の尾という後部ウェイトかつ舵が生みなすバランスに寄るもの。

 

 走る速さに全てを賭けた獣が尻尾で方向転換を補助し姿勢を制御する様に、のたくり、微妙に左右に揺れ、時折極端に振れて通常人類では考えられない機動を実現する。

 

 人間としての姿形を捨てた人間の未知の動きに即応するのは武王とて難しい。既に負傷している身ならば尚の事。

 

 およそ大きさに関わらず、人型の生き物は直下と直上に対する視認性が悪い。そして当然ながら、大きければ大きいほど身体の直下には悪さをするスペースが生まれてしまう。

 

 イヨはそのスペースに、全身で回転を作りながら文字通り飛び込む。振るわれる武器も体捌きも乗り越えて、不敗の王に肉薄する。

 

 使うのは無論の事、カテゴリー格闘に分類される武器、竜の尾。腰部という人体の重心位置に直結し、腕よりも脚よりも重く長く、しなやかで硬い、鱗に覆われた器官。

 

 尾を構成するのは強靭な筋肉と、幾つもの関節。それを覆うのは鱗とユグドラシルにおいても中位に分類される魔法金属の装甲。

 

 その重量は、その硬さは、その長さは、しなやかさは、人体の何処よりも勝る。蹴りよりも尚長大で、術技を伴ったコンパクトな円弧。遠心力を纏って、それは極太の鞭の様に叩き付けられる。

 

 ──【テイルスイング】、【爆裂撃】。

 

 複数対象を的に捉えるほどの有効範囲を持つスキルが、武王の身体前面、正中線を縦に襲う。

 フットマンズ・アックスに似た形状の先端、斧刃の部分は武王の顔面に直撃、アーメットヘルムの内側にまで爆炎と衝撃を伝えていた。

 

 今までに貰ったどの攻撃よりも重く鋭い一撃に、武王の視界は一瞬白く飛ぶ。既に潰れていた鼻や裂けていた唇がより深く傷ついた。そしてその一瞬で、イヨはまるでヤモリの様に蜘蛛の様に、体表を滑り這いまわって武王の首に取り付き、全身で首を締め上げていた。

 

「ぐぉ!?」

 

 彼我のサイズは兎も角として、形だけならば父親に肩車をされる幼子の様に。だが当然、その危険度は親子の微笑ましいスキンシップの比ではない。

 そもそもイヨは三十一レベルという人界でも頂点に近い位置に立つ強者であり、修めた職業の関係上同レベル帯人間種プレイヤーの中でも際立って身体能力に秀でていて、更に各種装備品の調整によってその力を極限まで高めている。更には尻尾が武王の無事な方の腕に大蛇の如く絡まり、その行動を阻害していた。

 

 武王の防具、その頸部がギチギチと悲鳴を上げる。人外の剛力、その総身力を束ねて圧され、捻られる首もまた同様だ。総力の比べ合いならば武王はイヨの数倍の高みに達している。だが、首と全身の比べ合いならば当然イヨが勝る。

 

「おっ! がああああ!」

 

 端から黒く染まっていく視界、痺れる脳──そんな中武王は怒りの咆哮を上げ、尾の拘束を剛腕で捻じ伏せて首に纏わりつく子猿を圧し潰そうとするが、瞬間、締めを解いたイヨは首筋を蹴り飛ばして地面に逃れている。

 

 ──クソ! 片腕か、コイツを相手に!

 

 半切断に至った片腕の傷は、武王にとってこの試合で初めて受ける致命傷であるとも言えた。すぐさま死ぬという事では無く、死に直結しかねないという意味でだ。

 

 まともに動かない片腕というデッドウェイト。死角。

 

 勿論武王の筋力ならば、無事なもう片腕のみでも武器は使える。なれど武器は全身で操るものだが、保持し、直接の操作をしているのは腕である。その速度威力確度操作性命中性能は、両腕の打ち込みと比べれば確実に劣ってしまう。

 

 片手で振るう武器は粘りと決めが損なわれるし、同じだけの加速、威力を得るのにより多くの距離と、時間が必要となる。

 

 片腕だろうが武王の攻撃は命に届く。ただ重量を威力とする武器を扱う者の宿命、全力の一撃の後の立て直しや制動が覚束ない。半ば動かない片腕を抱え無事な片腕のみで全身の力を込めて棍棒を振るえば、一撃一撃が振り抜き気味となる。悪ければ放り投げだ。勢いを制御し切れず棍棒が流れてしまうのだ。

 

 同じような体格の者が相手ならばまだしも、武王が対するのは彼の半分にも満たない身長の小男である。どの様な振り方をしようとも殆どの攻撃は下方向への加速を伴い、それは威力を発揮しやすい反面余勢を持て余しやすい。五体に不備あらばそれはより顕著となる。

 

 攻撃そのものもワンパターンなものとなる。健全なれば間合い一つ取って見ても両手持ちの打ち込み、片手持ちの打ち込み、肩の入りと腰の割り、正体、半身、踏み込みの具合によって遠近も大小も変幻にして精妙自在である。正面からの真っ直ぐな一撃と表すれば一種類の攻撃に思えるが、実際にはその都度一撃一撃に千万の差別がある。

 

 取り得る選択肢そのものの狭まり、攻撃防護回避全てにおける確実な劣化は、未知の強者を前にして大きな枷。

 武王の完全な一撃からすら生還している存在を前にして──余りにも頼りなかった。

 

 背筋がゾクゾクとした。

 

 ──あの尾の先端! 要するにハルバードと同じだ、打撃、斬撃、刺突、全ての攻撃手段が揃っている! 

 

 それが厄介だ。トロールは単純に人間より身体的に優れているが故に筋力や生命力が高いが、別に魔法や物理的攻撃手段に対して耐性を持っている訳ではない。再生能力によって結果的に著しく致命傷になりにくいだけで、それに相応しい威力の攻撃を受ければ打撃でも斬撃でも刺突でも負傷自体は普通にするのだ。

 

 それだけで考えれば、先程まで打撃だけで戦っていた相手が斬撃や刺突を使う様になったからと言って、厄介かも知れないが武王の極端な不利にはならない様に思える。だが、問題はもう少し単純な所にあるのだ。

 

 打撃と違って、斬撃や刺突の攻撃はその接触面が線もしくは点だ。より狭い面積に威力が集中する事で鋭さを得ていると言い換えても良い。

 その分対象の体内に深く割り入ってくる。言ってしまえば至極当たり前な事実とイヨ・シノンが使う攻撃と同時に爆発を起こす武技が合わさると──

 

 ──体内に侵入した刃によって、身体の内側で爆発が起こる。

 

 その結果が、半切断に至った武王の右腕である。トロールの分厚く頑丈な皮膚の表面で爆ぜるのと、その只中で爆ぜるのとでは被害の深刻さが桁違いだ。イヨ・シノンの尻尾による刺突攻撃自体は大した傷では無かった。トロールの再生力を持ってすれば数瞬で塞がる様な傷だ。

 

 だが現状、吹き飛び、内から開いた傷は元の刺突痕と比べて数倍の巨大さと凄惨さだ。爆発の威力で肉は吹き飛び、焼け爛れている。

 

 吹き飛んでいる、そこが重要だ。

 

 皮肉にも、焼け爛れたお陰で動脈からの大量出血は免れているが、骨と腱が繋がっている程度で筋肉に損傷がある為まともに動かせない。平時であったら武王とて苦鳴を漏らしただろう負傷だ。

 

 同じ攻撃を首や目玉といった致命的急所に受けていたら、例え武王といえども無事では済まなかった。首が半分千切れるか、顔の四半分が弾け飛ぶ様な怪我をしただろう。

 

 自分はそうした怪我を負って尚も戦う事が出来ただろうか?

 武王はこうして闘技場に立つ以前、山林で多くの獲物を狩った。ほんの一撃頭を叩いただけで一見無傷にも見えるのに呆気なく死んでしまう者がいた。反面、確実に殺したと思えるような傷を負わせても力無く武器を振り上げ、武王に向かって七歩も詰め寄ってからようやく倒れた者も居た。

 

 生き物というのは時として呆気にとられる程脆く、時として想像もできない程しぶとい。武王は殺す側としてその両方を数多く見てきたし、自分自身数少ない危地の折に後者としてそれを体験してきた。

 

 身体が内側から焼け弾けるという未知の時、『今度』の自分はどちらなのだろうか。今の自分の被害が片腕で済んでいるのは咄嗟の反応ゆえの結果か、それとも幸運か。

 

 飛躍した刹那の思考を、武王は振り払う。こうした延伸した時間感覚、刹那の長考について武王は経験があった。戦い以外の事を考えていると言う意味では散漫とも言えるが、つまりは冴えているという事だ。

激 痛と失血にも関わらず視野は広く、思考は澄み渡っている。それは己が死地に居る時だ。

 久しい感覚だ。最近、遠ざかっていた。

 

 鍛錬は絶え間なく続けていた。強くなっているという実感もあった。しかし、やはりこうした戦闘らしい戦闘が無いと、芯の部分が錆びる様だ。

 

 武王は笑っていた。折れた鼻骨と裂けた唇がズキズキと痛んだが、笑みは深まるばかりだ。焼けて引きつった顔で浮かべるその笑顔は明らかに凶相だった。

 苦しさの中で、痛みの中で、澄んだ思考で──次に同じ位良いヤツを喰らったら俺は負けるな、と判断する。

 

 敗北。

 

 待ち望んだ筈のそれが、昔懐かしいそれが、武王の眼前にぼんやりと首をもたげていた。

 

 久方ぶりに臨んだそれは、全身を覆う鈍色の鎧の隙間から、澄んだ金色の瞳で何処かを見ている。何処を見ているか分からない。

 真っ直ぐに視線を合わせても、目が合った気はしない。もしやすると焦点すら合っていないのではと思わせる無色透明な金眼が──武王の対手であった。

 

 ──スカしたツラしやがって、ぶっ殺してやる、と胸の中で呟いて。

 

 武王は勝利の為に時間稼ぎを始めた。

 

 

 

 

「……何度見ても人間じゃねぇわ」

 

 英雄が見せた奇天烈な切り札に狂乱する観客たちの中、貴賓席のリウルが呟き、ガルデンバルドとベリガミニが無言で首肯する。

 暗器の警戒はするだろう。罠の想定もするだろう、反則への備えだってあるだろう。なんなら客席からの乱入という事例さえ過去の闘技場では実例がある。

 だがこの世に『こいつは急に尻尾を生やしてその尻尾で斬り掛かってくるかもしれない!』などと考える奴が果たしているだろうか。

 

 そんな奴はいない、いないのだ。

 

 人間の、否、まともな生物のやる事ではない。イヨの習得する技術、練技の概要は知っていたが、筋力や反射神経の強化はまだしも、存在しない器官を数瞬の内に生やすなど余りにも常識の範疇から逸脱している。

 

「どんな呼吸したら人間から竜の尾っぽが生えるんじゃか、未だに意味が分からん。異なる種族への変身を可能とする魔法と似たような技術ではあるのかもしれんが……」

「魔力を使うらしいからな。練技という一種の変則的な魔法技術、と考えるしかないだろう。俺達戦士も一時的な能力向上の武技を持つ者はいるが、それとの混合系なのかもしれないな」

 

 アンデッド化や魔法生物化、異種族化。一時もしくは永続的に自身を変化させる系統の魔法よりは変化の幅は少ないかも知れないが、練技という現在この大陸ではイヨ以外に使い手のいない技術故の独自性が其処には存在する。何の準備もいらず、呼吸可能な条件下なら無音無動作で、殆どは瞬間的に効果が発現するのだ。

 

 生き物の形状はその形状として完成している。生活に合わせた形状であり形状に合わせた生活を送っているのだ。単純にその身体に無かった部位を足したり、安易に一部を縮小もしくは拡大する行いは、常識的に考えれば人間として前提にある全身の運動バランスを損なう筈なのだ。

 

 まだ全身を丸々別物にしてしまう方が齟齬が少ない。急に長大な竜の尻尾など生やした所で単純に動かす事だけなら未だしも、運動能力を保ったまま武器として自由自在に扱う所までは時間が掛かる。少なくとも、今までに触れた事の無かった未知の武器種の使い方に習熟する程度の時間は。

 

 なんにしてもそうだ。一つの技を、一つの魔法を習得し実行できる事とそれを実戦の最中に有効的効率的に運用できる事は別物だ。

 

「それをあいつは……」

 

 イヨが【ドラゴンテイル】を習得したのはつい先日だ。まともな練習の時間など取れていない。物理的にそんな時間は無かった。『生まれ持った自分の身体の様に感じる』、イヨはそう言った。そこまでは恐らく練技という技能の効果の内なのだ。

 

 問題はそこからだ。イヨは尻尾という新たな武器の使い方、それを活かす為の全身の使い方を見る見る習得し、今目の前で暴れている。まさに怪物の如く。

 

 かの少年の天性と感性、殺傷と戦闘に寄せる有り余る情熱。牛が草を食む様に、獅子が肉を喰らう様に彼は鍛錬し、想像し、是正し、改良し、そして至る。

 より良く戦う為、美貌の少年は人間が永い年月の果てに獲得した形態と身体操作の理合いを組み替えて飲み下し、新しい自分に適合した運動の術理を体得した。

 

 これまでに幾度も驚愕すれど共に過ごす年月が積み重なる内、イヨに慣れた、イヨを知ったつもりでいた。とてつもなく強いなりに、近い実力を有する者としてその存在を受け入れることが出来ていた。

 

 だが、彼は瞬き一つの間に飛躍する。リウルの、ガルデンバルドの、ベリガミニの、人間の当たり前から。大きくなり強くなる事、拡大と伸長で足りないならと変容と新造に手を伸ばし、自分自身の生まれ持った身体を作り変える道に躊躇わず踏み込んだ。

 

『……それなんなんだよ、魔法じゃねーの?』

『練技は魔法みたいな事も出来るけど魔法じゃないよ。僕の出身地だと元々はドラゴンや幻獣の技だって伝えられてる──筈だよ。あんまり覚えてないけど』

 

 髪や瞳の色と同じ、陽光に照らされて白く眩く輝く白金の鱗。それに覆われた竜の尾を揺らしながら──やや前傾姿勢で──話す彼はとても普段通りで、自分がした事について特に何も考えていない、感じていないのが良く分かる。

 

 普段多用する爆発の武技を相手の体表の下、体内で発動させてより効率よく致命的な傷を負わせるという、単純かつ合理的で悪辣な発想。イヨの真面目さ、そして真摯さの結晶だ。

 

 実際、イヨのいた大陸、彼の故郷ではさほど珍しくも無いのかも知れなかった。近頃めったに感じなくなっていた根本的な価値観の違いを感じ、異邦人という言葉を思い出す。

 

『竜がそんな事をするなんちゅう話はこちらの大陸では聞いた事が無いのう……』

『魔法でも無いのに、どういう呼吸をしたら尻尾が生えるんだ? 筋力の上昇や皮膚の強靭化はまだ分からなくも無いが……』

『うーん……ちょっと口では説明し辛いなぁ、空気中から取り込んだ魔力で体内の魔力を活性化させて、色々……僕は使えないけど、練技には小動物に変身したりする技もあるから、〈ドラゴンテイル〉は原型を大部分保ってるだけまだマシな方だと思うけど……』

『人間の身体に異物がくっついておるだけ外見のインパクトはむしろ強いんじゃが……』

『ああ……まあ、初めてだとびっくりするよね』

 

 魔法だって似たような事できるじゃない、と当時のイヨは一瞬思ったが、理屈の分かっている既知の技術と未知の何かでは感じ方も違うのだろう。そもそもその似たような事である魔法生物化やアンデッド化、一時的な変化系の魔法等のイメージ自体よろしくなさそうであった。何時の時代のどんな人間も大なり小なり『自分や周囲の価値観・常識に見合わない変なもの』を嫌う。自らの意志で人間の形では無くなる人間など、どれだけ文明が進み文化が成熟しても偏見を完全になくす事は出来ないだろう。ましてやイヨの場合他に使い手のいない怪しげな技術でそれをやっている。

 

『……全般的に練技って僕の故郷でもそれ自体はあんまり知名度無いんだよ。戦士とか拳士の技能の延長だって思われてるから。肉体の変化を伴う練技は偏見の対象になりがちって事で、人前では控える人もいるよ』

 

 お前んとこでも普通じゃねーんじゃねぇか、と三人はイヨを叱った。イヨはしゅんとした。

 

『…………邪悪系の魔法じゃ、無いんだよな? つーかお前、普段練技の練習とかしてたか?』

『魔法じゃないよ、それだけは断言できる。僕魔力すごく少ないもん。練習は……まあ練技は主に格闘術と一緒に鍛錬するし、呼吸術だからね。どんな動きをしていても練技の呼吸が出来るようにするのが訓練っていう面もあるから、それ単品の専門的な訓練は普通しないかな』

 

 世界観の設定上はそんな感じだが、実際にプレイする上では、エンハンサー技能はかなりメジャーである。メインに据えてキャラクターを育てる人はあまりいないが、サブ技能やつまみ食いで習得する人はかなり多い。

 

 SW2.0の世界観において、天才的な閃きで練技を習得する一部の者を『幻獣の生まれ変わり』や『竜の子』などと称する事がある。

 

 ただでさえ性別と相反した類稀なる美麗や卓越した実力などの性質故に異種族との混血疑惑が上がっているイヨである。

 

 突如として飛躍し、瞬く間に新たな力を使いこなして見せたイヨの天性は、ゲームの法則に縛られた存在であるという部分を抜きに考えれば、周囲の人々が彼にそうした特殊性を見出すのも的外れなりに無理からぬ事とも言えた。

 

 『妖精の血統』『幻獣の生まれ変わり』『竜の子』──イヨの生涯に終生付きまとう風評や噂話が本格化し、遠方においては事実であるかのように語られだしたのは、この形態変化の技を習得してからであった。

 

「ただあいつ、武器の扱い下手くそなんだよなぁ……!」

「お主と比較されてはイヨも可哀想と言うもんじゃが、確かに」

「拳士だからな……素人として見れば上等だがアダマンタイト級として見れば塵芥以下だ」

 

 リウルが苛立たし気に呟いた。そう、イヨは武器の扱いが下手くそだ。強い肉体、拳士として培った戦闘感覚がある為戦えばまずまず強いかも知れないが技量については精一杯高く評価しても初心者としか言い様が無い。

 

 尻尾の扱いはあっと言う間に上達したが尻尾の先端に付いたそれらについてはまだまだ向上の余地があり、熟達の域とは程遠い。限られた時間で出来るだけの事はしたが、可能ならば何百倍の時間を掛けて磨き上げてから実戦の場に送り出したかった。

 

 刀剣、刃物というのは繊細な武器なのだ。ある物体をある刃物で斬る時、正解とされる斬り方は厳密に言えば寸毫のズレも許されないたった一つしかない。刃物は理に沿い適切に扱う限り個々の性能に応じて最大の成果を約束してくれるが、馬鹿が滅茶苦茶に使うとどんな名剣もなまくらに堕ちる。

 

 要するに敵の肉体に切り込んでいくほどに細く平べったい金属板が刃物なのだから、下手な使い方をすると何か拍子にポキンと折れたりガチンと欠けたりグニっと曲がったりする。そうするともう目も当てられない。リウルなどはイヨの武器の使い方を見た瞬間我慢できず叫んだものである、『お前はオーガか! 敵をぶっ殺したいのか武器をぶっ壊したいのかどっちだ!』と。

 

 幸いイヨには人間として規格外の程の筋力があり、刃は【アーマー・オブ・ウォーモンガー】と同じ素材で出来ていて、形状は要するにハルバードのそれであり、しかも遠心力を生かせる長い柄、強靭な筋肉と骨と鱗の塊である尻尾の先に付いている。叩き付けるだけでも大抵の物を破壊できる威力は出る。問題は当の武王が大抵等とは程遠い生き物だという事だ。

 

 細腕の娘子が包丁の様な小さく薄く軽い刃物で戦う場合より遥かに威力が出やすく、細かい事は気にしなくてよい。イヨには刃物で斬るという極めても極めきれない果て無き道をどうこうするより、身体の重心から尻尾の先端まで筋を通して振るえと助言してある。

 

「クソ、最初の一発で首を飛ばせればそれが最高だったんだが……しばらくは兎も角、直ぐに厳しくなるぞ……」

「分かってはおったが武王も遥か怪物じゃ」

「再生能力を持つ身の上で、しかもあれだけの実力だ。片腕を取られる機会などそうそう無かっただろうに、恐らくは土壇場であれ程動けるとはな」

 

 イヨのセンスならばそれでもかなりの所までやれる。だが、土壇場でものを言うのは日々の修練、それを如何に己のものとしているかだ。天性だけで通用するほど甘い世界、低いレベルの戦いでは無い。

 

 今の三人には見守る事しか出来ない。イヨも、無論武王も全てを賭けて全てを磨き上げた末に此処にいる。観衆の懸念などには関わらず時が過ぎれば結果は出るのだ。

 

 




明けましておめでとうございます。今までにない位遅れてしまい、誠に申し訳ありませんでした。
取り合えず武王戦終了までは37000字ほどで書き上がったので、これから一日一話、多分四日かけて投稿します。

去年は農家的に大変な年でしたし今年はもう少し幸多き一年であって欲しいと願っています。もうすでに暖冬で雪が降らないなど異常気象気味ですが。


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頂きに挑む:分水嶺

「何の種類の生き物だ、お前は……!」

 

 計算され、十分な強度を持っている筈の闘技場の石壁が打撃で抉れる。例え万全の状態でなくとも、この程度の建造物に傷を付けるくらいの所業は武王にとって容易な事だ。

 

 それを行う為にどの程度の時間が掛かるか、それを行った結果どの様な結末を迎えるか等の点を無視すれば、武王はこの世に存在する大抵の物体・生物を独力で破壊できる。棍棒一本で城を瓦礫の山にする事だって物理的には可能だ。

 

 だが、少し程度は落ちるものの、全く同じ事が対戦者にも言えた。

 

 武の極限を体得し、秘奥を体現して見せた武芸者二名が己の技量と膂力を存分に発揮し、骨身を削り続けている。

 

 トップスピード自体はほぼ変わっていないが、非人間的構造を露にした事で人外の姿勢、挙動、行動を実現させたイヨ・シノンに対し武王が狙ったのは、反撃の機を待つ時間稼ぎ。この状態での勝負は死を招くという判断の下での積極的防勢──障害物の無い闘技場において相手の優れた運動性能を封殺する限られた手段、壁際に追い詰め動き回る為の空間そのものを奪う策。

 結果的に言えば武王のその行為は、裏目に出た。

 

 四足にて壁面を立ち回るイヨ・シノンが壁を蹴って武王に飛び掛かり、また一つその身を打ち据える。

 

 地面という平面上を動き回るのみならず、場内をぐるりと囲んで円を成す縦の壁。それをも足場とする事で、取り得る軌道のバリエーションは劇的に増加する。

 

 元よりイヨは足場の悪条件を一定程度まで無視し、また移動と行動にボーナスを得る【仙理の運足Ⅰ】を保有していた。スキルレベルⅠの状態では壁面及び水面を足場に出来る程の強い補正は無いが、イヨは筋力と【アーマー・オブ・ウォーモンガー】の強度に物を言わせて石壁に指を貫き込んで強引に動き回る。

 

 直ぐにコツを掴んだ。重力が地面に押し止めてくれる前提での普段の足運びでは落ちる。壁面を走るには蹴りよりも寄せだ。這いまわる様に全身を壁に寄せ、足裏全体の摩擦力を生かして身体を引き寄せる。

 

 元よりスキルによる若干の補正とある程度の勢いさえあればイヨは十二歩まで壁面を走れるのだ。手指足指の力で時折固定を入れれば落下はしないし、尻尾の力はイヨのステータス上の筋力値を参照しているのでイヨの全身の自重をものともしない。鉤爪部分を壁に打ち込めば其処を起点に胴体を振り回して飛ばす事も出来る。

 

 武王のセンスがイヨの奇手を理解しだした時、天秤は今一度王の側に傾く。ならば続けざまに新手を叩き付け続け、慣れさせないのが勝利への道だ。

 

 壁面を疾駆するその様は虫か爬虫類の如し。ただし、その五体から発せられる暴力は竜や巨人のそれに近しい。

 

 壁面を走り、壁面を跳ね、壁面を滑り、唐突に落下し、空中に居る所を捉えたかと思えば壁に打ち込んだ尻尾で自身を引き戻し、武王の身体をすら足場とする。

 

 壁、地面、武王の身体。三方向の三面を足場としたイヨの動きは最早ゴムボールの乱反射に近い。

 

 絶え間なく反転し回転する空の青と地面の褐色、常に下方に掛かる重力、人間という生物の設計上本来しない筈の動きを高速で連続する事で平衡感覚が狂っていくが、そもそもイヨは自分史上初めての四肢切断状態でも戦闘行動を続行できるほど精神性と感覚が柔軟で優れている。

 

 異常を来した感覚と混乱する脳を思考と感覚で紐解いて現在の正しい自分の姿勢を把握。イヨは一瞬でコツを掴んだ。目で見ようとしないが要点だ。一方向に掛かり続ける負荷、重力の掛かり方を肌で感じそれを指標にする。なんなら頭は振り回されない様に顎を引いて出来るだけ固定しておけばいい。目は焦点を結ぶことを放棄して見える範囲をただうすぼんやり見ておけばそれで事足りる。

 

 最大限高めた三十一レベルの身体能力と磨き抜いた戦闘感・観・勘はイヨの身体の中で水の様に空気の様に満ち満ちて滞りが無い。勝利以外の全てから──生死すら──脱している。

 

 囚われのない自由で自然な精神状態を保ったまま、自分のプラスになるものだけをその時々に合わせて好きに執着出来る。

 

 本来人間に無い部位を自由自在に操作するにはある種の特異な能力、適性が必要であり、イヨは器用な方ではあったがユグドラシル時代、その一部の特異能力者に該当しなかった。新たなる身体部位、非人間的器官という真価を今完全無欠に発揮できているのは、それが真なる肉の身体、イヨ・シノンを構成する生身だからである。

 

 脳内演算機も体内ナノマシン、ニューロン・ナノ・インターフェイスも、コンソールもゲームサーバーも仮想空間も──操作するイヨと操作される身体を幾重にも隔てていたそれら全てが取り払われているからこそ。

 五感の内過半に制限を受けたユグドラシルの頃では絶対に出来なかった。篠田伊代の、イヨ・シノンの全てを尽くした全力の戦闘。

 

 全ては現実だからこそ、肉の身体だからこそ。

 

 ユグドラシルにおいて十八禁に触れる行為は厳禁だ。ものによっては十五禁もアウト。それらはエロ方面は勿論グロ方面においてもほぼ同じ事。ユグドラシルにおけるグロとは、精々ゾンビゲーさながらのグロキモなアンデッドたちくらいである。

 相手のプレイヤーを切ったからと言って鮮血が噴き出したりしないし、断面から黄色い脂肪層、赤い肉が見えたりしない。内臓が零れ落ちることも無い。手足も基本捥げない。そもそも攻撃を受けても装備の耐久値が削れて壊れたり赤いダメージエフェクトが表示されHPバーが削れるだけで、装備や肉体の見た目に一つ一つの傷は反映されないのだ。

 それぞれの種族に設定された弱点部位、人間種では頭や首、心臓部などを攻撃されるとクリティカル扱いでダメージが大幅に増えるだけだ。HPがより大きく削れるだけ。骨や内臓、筋線維の一つ一つは諸々の計算が増え過ぎて無駄に複雑になり容量を喰うので省略されている。キャラクターたちの体内を覗いても血は流れていないし内臓も筋肉も無いのだ。ゲームだから。そういうゲームじゃないから。そこを無駄に作り込んでも意味が無いから。

 

 思い出して欲しい、ユグドラシルは基本的にはキャラクターの表情すら動かない為エモーションアイコンを使って意思疎通を補助するゲームだったことを。

 

 ダメージは単純に両者のステータス、装備、スキルなどの諸々の値を参照した攻撃力と防御力の比べ合いで決まる。だから足の小指の先っちょを攻撃されても胴体のど真ん中を攻撃されても、クリティカルでないならばダメージが変わらないという様な事も往々にして起こり得る。キャラクターたちが生きているのは滞りなく全身に血液が回っているからでも各種臓器が健全に働いているからでも呼吸によって酸素を取り込んでいるからでもなく、HPが残っているからだ。

 

 毒や酸欠、酩酊などによってまともに動けなくなったり死亡したとしてもそれはそういう状態異常に晒され悪影響やダメージを受けたというだけであってそれらの状態が言葉通りに正しく再現されているからではない。

 

 であるからこそ、イヨがかつて狙った『相手の目から指を差し込んで頭部を内側から吹っ飛ばす』や『体内で爆発を起こし筋肉や血管、内臓に効率的に損傷を与え四肢を捥ぐ』というのは現実ならではの戦い方なのだ。

 

 どれだけ強かろうと大抵の生き物は心臓に穴が開けば死ぬ、脳が吹き飛べば死ぬ、手指がなければ武器は持てず、足指が無ければ移動力は半減以下だ。問題は強いほど基本頑丈で生命力がある為、攻撃側はそれ相応の攻撃力を要求されるという事だが。

 

 やっぱリアルって最高である。

 

 ゲームとは殴り心地も殴られ心地も違う。 肉の身体と痛覚を備えた種族としてユグドラシルプレイヤーがこの世界に来た場合、肉体的精神的苦痛はそのポテンシャルを発揮する上で最大の障害になるだろう。イヨもそう感じた。元々我慢強いという自負はあったが──大会によっては骨が折れていても欠場しなかった──果たして今までに経験のない想像を絶する苦痛を実体験しても尚、自分の我慢強さは通用するのか。

 

 数値として確保された強さを使いこなせるのか。それは恐らく、イヨが終生追い続ける命題であろう。イヨはこの世界の存在とは違う、その基盤はユグドラシルのデータに基づいて定められた総計レベル三十一の人工物である。

 

 それこそゲームを見れば分かる。全く同じスペックのキャラクターを操作していても、プレイヤーの腕次第でその戦闘力は天地程も開く。

 

 だからイヨは頑張って練習しているのである。

 

 ただ単に真剣を用いて限りなく実戦に近い鍛錬をしていると言うだけではなく、イヨは日頃の練習で幾度となく実体験を繰り返し殴られ心地切られ心地刺され心地焼かれ心地──肉体のあらゆる部位における損傷とその影響を知り尽くしている。

 『腹に刃物が刺さって筋肉が断裂し臓器から出血して口から血を吐く』状態がどの様な怪我でどの程度で死ぬのか知識だけではなく体感からも完全に把握できるのだ。どの筋肉どの腱がどの動きに、どの内臓がどの程度傷付くとどれ程で運動性能や生命の維持に支障を来すのか──何度も何度も経験するという最も確実な方法で学んだ。

 

 地球でならば人生で一度や二度経験できるかどうか。そしてその一度や二度の経験で高確率で死亡してしまい、仮に生き残ったとしても重篤な後遺症が残り、後の人生に多大な影響があるだろう大怪我をどれだけでも後腐れなく経験できるこの世界の環境はイヨの様な強さを追い求める者にとって理想郷。

 

 イヨは戦える。

 折れようと砕けようと潰れようと焼け焦げようと戦える。その様に練習し経験し鍛え上げ確かにそれが可能だと証明して見せたのだ。それが可能なように傷を負う方法を積み重ねた実体験の果てに体得したのである。

 

 イヨは死ぬまで戦える。

 骨が折れようと砕けようと内臓が潰れようと体表が焼け焦げようと戦える──HPがどれだけ減っても、どんな死の淵にあっても最後の一ドットが残っている限り変わらず戦い続けるゲームのキャラクターのように。命ある限り戦える。

 

 その様に求めて自分自身を作り上げた。勝つ為に、世の為人の為自分の為に、単純により強くなれる事が嬉しくて。

 

 人類史上自らの手で幾百幾千を殺し、人はどうすれば死ぬのかを知り尽くした医者や武芸者、兵士は沢山いるだろう。

 だが自らの身体で幾百幾千回死に歩み寄り死に寄り添い、臨死の恍惚さえ舐め飽きるまでに受傷、喪失、流失、欠損に熟達した人間が何人いるだろうか。少なくとも物理法則と人間の治癒力体力そして医療技術の都合上、地球では一人もいないだろう。

 

 現在のイヨ・シノンの前に仮にユグドラシル時代のイヨが敵として立ちはだかったとするならば、後者のイヨは例えレベル的優勢があったとしても現在のイヨに手も足も出ず叩きのめされる。

 例え近しいスペックがあったとしても、既にその腕前は隔絶している。

 

 今のイヨ・シノンは名実ともに自分史上最強のキャラクターでありプレイヤーであり武芸者であり、人体心身酷使道の達人である。

 

 全き互いをぶつけ合う試合ならではの感覚。武王を打ち据える触感、切り裂く筋肉の柔らかさと硬い骨の感触すら心地良く、返す刃で傷付く自身の身体、打ち曲がる骨格と出血する内臓、流出する血液、一瞬たりとも安定する事の無い変化が常に新しい状況への対応を迫る。その充実で心が華やぐ。

 

 全力の競い合い。身に充満する痛みと苦しさ、その全てを味わい尽くし、脳から溢れる快感と苦鳴を飲み下しながら、満面の無表情でイヨは舞う。

 

 叩かれれば叩かれるほど鍛え上げられる。

 追い込まれれば追い込まれるほど磨き上げられる。

 苦しければ苦しいほど冴え渡る。

 傷付けば傷付くほど輝きを放つ。

 一瞬の決意がただひたすらに不変で不屈。

 必要なだけ柔らかく必要なだけ硬い。

 

 苦しい事は避けたい、辛ければ逃げたい、楽であれば楽であるほどに好ましい、大変ならば妥協したい。生物として当然のその心理、本能の欲求を永遠無限に際限なく踏み躙って何処までも進む──勝利の為に。

 

 武王の体表面を飾る爆炎と噴き出す流血の彩りは連続して重なり合い最早全身を覆うほど。

 

 十三秒。武王とイヨが壁際で死力を尽くしたその時間は、此の域の戦闘においては余りにも長く。

 元を言えば武王がイヨの機動力を制限すべく壁際に追い詰めた事から端を発したその戦闘は、その開始と同じく武王の動きによって終わりを迎えた。武王が引いたのだ。

 

 試合を動かしているのは武王──というにはその様は余りにも。

 

「武王が──武王が逃げた!」

 

 無名の一観客が叫んだその一声にこそ、的外れでこそあれ見る者の素直な感想が現れていた。自ら離れるのと、敵の攻勢に押されて逃れようとするのは大きく違う、と見る者は思うだろう。

 

 攻撃手段の増加、機動力の増加、体重の増加はそのまま攻撃能力の高まりであった。延長した間合いを、斬撃や刺突という新たな攻撃手段を──イヨは【ドラゴンテイル】によって獲得できるあらゆる長所利点の全てを活かし尽くしていた。

 

 武王の全身に刻まれた戦傷と、其処から漂う焼けた血肉の臭い、垂れ流される血液がその証だ。例え武王と同程度のレベルであったとしてもオーガやジャイアントならばとっくに死んでいるか、最低でも瀕死の致命傷だろう傷の数々。睾丸が片っぽ潰れている時点で一般的にはとんでもない大怪我だし戦うどころか動き回るだけでも論外なのだ。

 頭が半分に潰れてもなんら問題なく元通りになるトロールならではのしぶとさと言えた。

 

 無論イヨは炎を用いて攻撃していたが、それでも傷がそのまま残る訳ではない。焼けた部分以外は失血すらも再生するのであるから。

 

「余りにも見事だ──などと上からモノを言える状況では最早あるまいな」

 

 武器も下げて直立したまま、武王が口を開く。

 

 試合中にお喋りするのは主義に反すると言うか、常識的に考えて駄目でしょというのがイヨの価値観なのであるが、

 

「……何を抜け抜けと」

 

 これが例えば会話による時間稼ぎであれば、イヨはどんな言葉を投げかけられようと無視していた。だがこれには応じる、応じざるを得ない。

 

 何故ならこれは王の慈悲であり、賛辞であるから。

 武王は間違いなく、ついさっきまで追い詰められていた。イヨが王を追い詰め、打ち破る寸前であった。

 

 だが、今は違う。

 

「ここまで追い詰められたのは久し振りだし、武王と呼ばれるようになってからは初めてだ」

 

 武王は今も深く傷ついている。処置せぬまま時間が経てば弱って死ぬくらいにはズタボロだ。その負傷の程度は今やイヨより遥かに大きい。彼我の状態を比べ、優勢なのはイヨの方だと間違いなく言える。

 

 しかし、有利なのは武王の方である。

 

 何故ならば、彼は既に時間を稼ぎ終わり、既に準備が整っているのだから。

 イヨは押し切る事が出来なかったのだ。イヨ・シノンの怒涛の如き乱撃連撃を前にして、武王は己の戦士としての命を守り切った。四肢は勿論手指足指、首に背骨──表面の肉や臓器はともかく、決着を付けるのに最低限必要な物は全てが揃っている。

 

 そう、全てが。

 

「俺はお前の素性も種族も知らん。どの様な経緯で人間の社会の中で人間として生きていく事にしたのかも知らんが──その戒めを破っても、俺との戦いに全力を出してくれた事は誉れだ、イヨ・シノン」

「お言葉はありがたいですが、誤解が一つ。私は紛れもなく人間です」

「魔法詠唱者でも無いのに尻尾の生える人間がいるか? ついさっきまでの動きにしても人間離れしているし、流石に、この期に及んでそう言い張るのは無理だと思うぞ。第一、お前の変身は精度は兎も角やり方が下手くそだ。何のこだわりがあるのか知らないが、素直に内側も女にするか外見をもっと男らしく寄せろ。偽装にしても無駄に特徴的だぞ」

 

 トロール的に奇天烈かつ不細工なイヨの外見が少女のそれである事は武王にも理解でき、しかし武王は殴った感触でイヨの性別──骨格や内臓配置──が男である事も確信していたらしい。そしてそれは外見と性別の不一致で周囲から違和感を覚えられるだろう、と。

 トロールである俺がそう感じる位だから人間からしたらその設定は目立つし無駄に注目を集めるだろ、と武王が真面目に忠告する。

 

「私は紛れもなく人間で男なのですがー……」

「……今のお前の外見の元となった人間がいて、その女との間になんらかの約束──誓いか何かがあるのか? その女はお前の恩人か? それとももう死んだのか?」

 

 武王なりに最大限『何処から如何見ても破綻している嘘をそれでもなお貫き通そうとするに足る理由』を推察しての言葉であった。彼の価値観は人間とは異なるが、死者との約束や恩義などの事情があればこうした不自然を敢えて続ける理由にもなるかと考えたのである。

 女の外見を模倣しつつ強いて男だと名乗り続けるのはその女に対する何らかの感情故か、とも。

 イヨの顔が【アーマー・オブ・ウォーモンガー】の頭部装甲で覆われていなかったら、一種の慣れを漂わせて困った様に眉をしかめるイヨを見て武王は自分の勘違いを悟っただろう。

 

「まあ、その辺の事情は正直どうでもいいが──この俺の足元に、否、喉元にまで迫った強者がどんな形であれ素性を偽って世渡りをしている事は釈然とせん。お前の持つ強さはお前にまつわるあらゆる問題を粉砕する筈だぞ。もっと堂々と生きても良いんじゃないか? 事情も知らず他人の生き方にケチを付ける気は無いが、それが俺の偽らざる本音だ」

「その辺のあれこれは後で良いじゃないですか。殴り合う時間はちゃんと殴り合いましょうよ。勿体ないですよ」

 

 イヨはぴしゃりと言った。別に話し続けた所でイヨだけが一方的に不利になる訳では無いのだが──武王の身体は常に失血などによる変調と再生を繰り返している、つまりは安定していない為イヨと同じく体力と気力を消耗する──殺し合いならば兎も角試合中に会話などで有利不利の天秤の傾きを変えたくない。

 それはイヨの勝ち取る勝利、齎される敗北の価値を変質させてしまうからだ。

 

「ああ、すまないな。無駄な時間を過ごした。俺達には言葉より尚雄弁な会話の方法があるというのに。もうこれ以上は再生しないと分かったし、もしかするとこれが最後で最期だと思うとついな」

 

 言下に、動かない筈の武王の右腕が持ち上がり、左腕と共に棍棒を握り締めた。

 




ちょっと文字数少な目でした。次と次は一万文字を少し超える位になる予定です。明日と明後日も更新予定です。


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頂きに挑む:武の極光

 何のことはない。

 焼けていなければ治るのである。単純に内からの圧力で開いただけの箇所、もしくは爆風で吹っ飛んだ部分──そういう、火傷を負っていなかった部分が治った、だから多少なりとも動かせるようになった。

 時間が掛かったのはイヨの猛攻のためと、火傷を負った再生しない部分を巻き込んで押し包む様に筋肉同士がモザイク状に繋がるのに手間取った、頑強な身体を持つ武王にとってそうした怪我が初めてで自身の状態を手探りに確かめていただけである。

 

 曲がりなりにもこうして両腕が使える様になれば──武王には勝負を決める一撃がある。

 

 かの至高の一閃が。

 

 武王はイヨ・シノンの瞬時の機を掴む勝負勘と眼力、掴んだ機会を用いて今度こそ己の首に致命の一撃を叩き込むだろう力量を疑っていなかった。

 速度と威力に頼ってただ放つだけの武技では不足──そう直感したからこそ、最低限自身の最大威力の一撃をコントロール出来る状態になるまで時間を稼いだのである。

 

 それは速度故に必中の一撃。

 それは威力故に必殺の一撃。

 それは彼が掴んだ至高の一閃であり、故に必勝の武技である。

 

 狙い澄まして全力で打ち込めば、如何なるモノをも打ち砕き圧し潰す。

 

 初手でそれを使わぬ理由は、決め手は秘するものであり、武王が闘技場の王者であり武芸者で求道者であり──そして何より大抵の相手にとって過剰威力であるからだ。

 

 武王がこの一撃を使用した事は、彼が王者として君臨してから組まれた数少ない試合の中でも尚希少であった。出すまでも無かったのだ。

 

 純粋に勝利の為に必要として使ったともなれば、ほぼ皆無と言って良い。

 

 この武技を出すまでに、この武技を必要とするまでに武王を追い込んだ──その一事で以てしてあらゆる関係者の記憶に、イヨ・シノンの名は永遠に刻まれるだろう。これはそういう技であった。

 

 両腕で保持された棍棒が、先端が武王の真後ろを向くほどの深い横構えでぎりぎりと引き絞られるのを、イヨ・シノンは足を止めて見ていた。

 

 動きで攪乱しよう等とは一切思わなかった。彼にはそれがどれだけのものか、本能的技量的に理解できたからである。乱雑に動き回る程度の事で回避できる可能性など万に一つも無い。それはか細い勝機を自ら消す行為だ。

 

 必要なのは幸運では無く、最高かつ最適な狙い澄ました反応──そう、武王の初撃を捌いた様な。そちらであれば、可能性は残る。万に一つの可能性が残る。

 

 これから決まるのだ──イヨがただ単に百万人に一人の才能を持ち持たされたと言うだけの凡人であるか、その身に宿った力に相応しい英雄たる光輝を持つ者かが。

 

 もう、何もいらない。仲間の事も、命の事も、対戦者と己以外何一つとして。全てを捨て去り全てを賭けた全力の先にのみ目指す境地がある。勝利がある。

 

 尻尾の重さの分だけやや前傾したその姿勢が示すのは脱力。風に揺れる草葉の様に頼りなく、一見吹けば飛ぶ様な所在無さ。しかし、少年のその姿には、武の深奥に踏み入った者にしか感受しえない凄みがある。

 

 引き絞られた弓の様な体勢で放つ武王の覇気。風に揺蕩う草花の如く存在する挑戦者の静謐。

 

 その瞬間は、程なく訪れた。

 

 それを知覚し得た者は、まごう事無く武王とイヨ・シノンの二者のみ。

 

 己の身一つを以てして、頂に上り詰めた者の放つ技。その意志で、力で、己を極限まで鍛え上げ磨き上げた者だけが至る境地。

 

 それはガゼフ・ストロノーフが至り、そして今なお錬磨せし〈六光連斬〉と同じだった。

 それはブレイン・アングラウスがその有り余る天性を磨きに磨いて結実させた〈神閃〉と同じだった。

 それは全盛期のガド・スタックシオンが掴み取り、そして老齢となった現在持て余しつつある〈二刀極斬〉と同じだった。

 

 百万に一人の才を生まれ持った者が幾千の危地を踏破し、幾万の死を乗り越え、対戦者という対戦者を喰い荒らし、数え切れぬ程の屍の山を築き上げ、登り至り──遥かなる研鑽を経て、この輝きに達するのだ。

 

 故にその輝きは全ての戦士を魅了する、それは『その他大勢』たる彼ら彼女らの血と肉と命を吸って研磨された至上の玉であるから。誰もが目指し誰もが潰える、その先にのみ結晶するものであるから。

 

 手の届かぬものは、手に負えぬものは輝いて見えるのである。

 

 真正の異邦人たるイヨが生涯その裾野を踏む事さえ許されぬ高峰の頂点──その御業には、正しく神技の名こそが相応しかった。

 

「──〈神技一閃〉」

 

 閃光が奔った。

 

 

 

 

 

 

 武技発動の瞬間、武王の全身が鮮血を噴き上げた。全力を超えた全力を発揮する五体の負荷に耐え切れず、今までに負った傷の全てが花開いたのだ。末端の血管は爆ぜ、筋肉は再び裂け、骨には亀裂が走った。

 

 五体満足であれば多少の身体負荷と集中力の消費、つまり武技相応の体力消耗で済むが、今の武王は五体満足とは程遠い惨状である。傷付いた身体で放った切り札の代償は平時とは比べ物にならない程巨大だった。最終的に発揮した威力も消耗に応じて下がっているだろう。

 

 己の奥底で命の猛りが僅かに、そして確かに減じた──そうした内観を武王は冷静に捉える。しかし、そんなものはどうでも良かった。生と死の境にて死力を振るう、彼はずっとそうした戦いに焦がれていたのだから。

 

 重い一撃。今の我が身では一瞬御し切れなくなりそうなそれを、武王は歯を食いしばって振り切り、叩き付けた。

 

 闘技場が揺れた。

 

 瞬間的に目の前が暗くなり四肢末端の感覚が薄れる程の消耗はしかし、トロールの種族的特徴故に急速再生され、瞬く間に癒える。焼かれた箇所を残して裂けた筋肉は再び合わさり、血管が修復され骨が元通りになる。莫大量の失血さえも増血によって埋め合わされる──十秒に満たない程度の時間さえあれば間違いなくそうなる。

 

 身体の芯にこびり付く疲労感と四肢の重み。こればかりはトロールと言えど再生しない。

 

 狭まった視界が戻り始め、己の切り札の行く末を再び捉えた時、彼は笑った。

 

 眼下には、打撃のインパクトで地面に斜めの轍を刻みながらも、未だしかと立っているイヨ・シノンの姿があったからだ。

 

 武王はヘルムの下で破顔した。何故なら彼には見えていたのだ、打撃の瞬間──『自分が動くよりも速く自分の攻撃を避け始めた』挑戦者の姿を。

 完全に足を止めてじっくりと構えた状態からの一撃だったのだ、純粋な武術の腕と言う意味では自身の遥か上に立つ者ならば、それ位の事は出来るだろう。

 

 完全に機を掴まれていた。先の先を取られる、仮に実力が同じならば返す刃の一撃で命を奪われていても不思議ではない程の失態。

 

 相も変わらず滑った様な手応え。受けられている。敵もさるもの。だが、それでもなお。即死こそ避けられたが重傷は負わせた。芯を外してなおも骨を砕き内臓を潰す威力。

 

〈神技一閃〉は〈竜牙突き〉シリーズの様に攻撃に追加効果を持たせる類の武技ではない、言うならば武技として最もポピュラーで習得者の多い〈剛撃〉や〈斬撃〉の究極進化型──つまり単純に攻撃の威力が増す系統の武技だ。

 

 ただ強く速く重いという〈打撃〉〈剛撃〉系統を極限まで磨き上げた到達点たるその威力は、結果的に後出しとなって尚『先』を取る。

 

 武王の初動より早く的確な回避と防御を実行したイヨ・シノンの対応を、〈神技一閃〉は追い抜いたのである。

 

 ──知っていたさ! お前なら当然耐える!

 

 限りなく延伸した時間感覚の中で、全身にダメージを受けながらも、一瞬後には踏み込んできそうな挑戦者のその動きを加熱加速した武王の意識は『捉えた』。

 

 我が身の再生を待つ時間など無い。まず一撃を当てさえすれば──お互いに崩れた体勢からならば──後はそう、どちらが先に尽き果てるかという純粋な力比べだ。

 

 死ぬまで殴る。

 殺すまで止まらない。

 先に音を上げた方が負け。

 それが真剣勝負というものだ。

 

「〈剛撃〉〈神技一閃〉……!」

 

 再生しかけていた身体中のあらゆる全てが再度、より深く、より致命的に弾ける。体中から千切れる音、潰れる音が響き、視界の全てが赤く染まった。繊細な眼球や四肢末端のそれのみならず、臓器や脳の中でさえ筋肉と血流の圧力に耐えかねて血管や神経が破断していく。

 

 それら全てを代償として──武王は初撃の余勢を残す棍棒を、自らをも蝕む剛力で再度叩き付ける!

 

 渾身の一撃を振り抜いて流れた身体を逆方向に思い切り捩じり、自らが放った技の威力が抵抗となって初動が遅れるが、その威力を身体で受け止めたイヨの方が条件は遥かに悪い。

 

 余人には、この二連撃は単発の打撃としか捉えられないであろう。一流の戦士であっても目にも止まるまい。共に超一流として脚下に全ての戦士を置いて立つ超高域の武芸者であるからこそ互いは互いに昂り、荒ぶるのだ。

 

 手に宿す必殺の感覚は再度裏切られる。イヨ・シノンを包む緑色の薄光。ただ硬いのとは違った威力が通らない、攻撃が響かない感覚。幾度も経験があるそれは──打撃耐性。

 

 必殺の筈の二撃目を打ち込んで尚立っている挑戦者の姿。その身には頼りない防護の光を纏っている。今にも消えそうな薄明かり。今まさに消え行く儚い光。

 

 SWには、ユグドラシルには、この世界には破壊する事でたったの一回だけ本来の効果を遥かに超える力を齎す種類のアイテム群がある。詳細を知らぬままに武王は理解する。今の一撃の威力を半分以上は喰われた、と。

 

 武王は笑った。お前もギリギリか、と。

 たったの一回だけなのだろう、今までもほんの僅かずつ我が身を守っていたそれを、今まさに不可逆的に使い潰したのだろう。もうそれは無いんだろう? その鎧の下で確実に何かが失われたのだ、と。

 

 残った半分でさえイヨの蝕むには十分過ぎたという事も武王は理解していた。理解した上で、自分と同じく全身を血に染めて、鎧の隙間から血液を始めとするあらゆる体液、その混合物を垂れ流す姿に愛おしさすら感じた。

 

 自分と同じだ。死の臭いがした。普通の生き物ならば数十回は死ぬほど骨に筋肉に臓器に精神に痛みを負っている。お互いとっくの昔に、鎧が身体を守っているのだか縛り付けているのだが分からない程の苦痛と疲労の極地だろう。

 

 それでもなお俺に向かって歩を進めるお前こそを殺したのだと、武王は裂けた喉で、口内に溢れ返る血液を吐き散らしながら叫んでいた。

 

 ──ああ、イヨ・シノン、俺は──

 

 言葉になどならない。言葉にすら出来ない。物理的に。最早唇を割って出てくるものは完全に気の狂った様な奇声でしか無かった。もう耳も碌に聞こえていなかったがそうである筈だ。特に右腕は固まった手が棍棒を離さないというだけの重りに過ぎなかった。

 

 〈流水加速〉。本来ならばこの状況で即座に体勢を立て直して更なる追撃を加えるのならば〈即応反射〉が最適だろうが武王は使えない。故に選んだこの一手は負荷を支えきれず崩れていく体勢を更に加速させた。

 

 極度の疲労は武技由来で無い負荷と相まって脳細胞に致命に近いダメージを与えるがトロールなので治る。勝った後に治る。故にまず勝つ事が先決だった。

 

 己の振るった棍棒に引っ張られるように身を回す姿は殆ど曲芸だった。だが、打撃の超威力の制御を放棄して更に武技で加速させたそれは人知を超えた速度であり、また加速距離の長さとなって威力を稼ぐ。

 

 広く前面を捉える左右の横振り二連撃から身を回して繋ぐのは、地面を削ってイヨ・シノンを下から上に跳ね上げる理外の三撃目。

 

 武王の本能が自身の状態を度外視して放った止めの為の繋ぎ──技術巧者を寄る辺たる大地から引き剥がすし何ならこれで殺すという気迫が籠ったものだ。

 

 粉砕された土砂ごと打ち上げられて天を舞うイヨ・シノンが輝いている。意志の光だ。戦意の光輝だ。吹っ飛ばされつつ自身の姿勢を制御している。まだ殺すべき敵でいてくれる対戦者は歓喜を通り越して愛おしいとともにもう鬱陶しい。

 

 死ね、殺す、死ぬな、抗え、生きろその後に俺の手で死ね殺すこの一撃でまだ何かあるんだろうもっと出来る筈だそろそろ死んでおけ俺が殺す。物理的損傷によって不規則に加速する思考は最早本能の願望と閃きの連打乱舞であり言語化不能。それでもなお最後に残った一念が──

 

 ──お前に勝ちたい……!

 

 逃れようのない空中で潰れて死ね。

 武王は一秒足らずの内に都合四回目の〈神技一閃〉。上への跳ね上げのまま後背に投げ出した棍棒を、残った総身の筋力と気力を振り絞って再度叩き付けた。

 

 

 

 

 

 

 武王が秘められた──というより今までは使うまでも無かった──武技の使用を決心し、それを阻止できなかった段階でイヨが事前に想定していた勝ち目は完全に吹き飛んでいた。

 

 それこそ事前の想定では『その武技をどうやって凌いで、尚且つ反撃するんだ? 話聞いた限りじゃ最低でも全盛期の副組合長の奥義とタメ張るレベルだぜ』『その時はもう、っていうかその時点でもう負けだねぇ』としてどうしようもないので対策不能という現実を割り切り、その前に押し勝つ以外に現実的な策など考えようがなかった。

 

 『そもそも事其処に至って勝ち筋を想定する事自体が都合の良い空想』。

 

 それが数え切れない程勝ちと負けを積み重ねてきたイヨの答え、それが本気の武王ゴ・ギン。

 

 ──そしてそれでも勝つのが英雄だ。

 ──空想を、伝説を生きるのがアダマンタイト級冒険者だ。

 

 イヨはかなり可愛くてそれなりに強くてほどほどに人に好かれる十六歳の新婚少年イヨ・シノンちゃんではない。たったそれだけの自分に満足できない。もっと背負って見せろと求められ、応えると決めてしまった。

 

 なるべきは人界の守護者、新しい英雄イヨ・シノン。

 人々がイヨに期待しているのは絶世の美貌で絶対無敵に強くてあまねく人々の尊敬を一身に集めそれでいて家庭人としても完璧なイヨ・シノンなのだ。

 

 無理を蹴倒し道理を投げ飛ばす程度の事が出来なくてどうして英雄など名乗れようか。既にそれを成した諸先輩方に鼻で笑われよう。名乗る為に必要な実力はちゃっかり貰って持っている癖に。

 

 理屈をこねて諦める物分かりの良いイヨ・シノンなど死ね。他ならぬ自分自身であるのならばこの世のどんなクズよりも気軽に殺せる。自分の弱音の化身が目の前に現れたなら瞬時に首を捻って死体を踏み付けにして唾を吐いてやる。他の誰にもそんな事はしたくないが自分にはそれくらいで丁度いい。

 

 イヨは空手を始めて三か月で大会に出て二回戦で負けた。イヨは泣いたが周囲はむしろ褒めてくれた。『一回勝てただけすごい』『いい試合内容だった』『初めての大会で良く動けた』『次はもっと上にいける』『負けて泣けるって事は悔しかったんだ、そういう子は強くなる』と。

 

 イヨはずっと泣いていた。勝ち進んだ同じ道場の子の応援中も泣いていた。閉会式でも泣いていた。家に帰っても泣いていた。次の日朝起きても泣いていた。学校でも泣いて先生に心配された。道場の稽古中にも泣いていい加減にしろと怒られた。

 

『まだ初めて三か月だろ。いきなり優勝でもする気でいたか? 出来ると思っていたのか? お前よりもっと長くもっと辛い稽古をしている子はごまんといるんだぞ』

 

 その瞬間イヨは泣き止んだ。涙の理由を知ったからだ。

 誰にも負けたくない。勝ちたい。キャリアも稽古量も身長体重もクソ喰らえ。もっと頑張ってる子がとか長くやってる子がとかなんとか言うならハナから勝ち負けで勝負を決める大会になど出るか。出るな。努力の量比べがしたいなら腕立て伏せの回数でも競ってろ。

 僕が負けたのはありとあらゆる全ての積み重ねの結果として僕が弱かったから。そうだとも、自分は一番になりたかったのだ。

 

 瞬間的にキレ散らかしたイヨはそんな事を半分幼児語で言ったらしい。

 

『急にどうしたんだ一体……』

 

 ドン引きされたらしい。当時イヨは小学校低学年である。ぶっちゃけほぼ覚えていない。

 

 死んでも負けたくないのだと知った。何が何でも勝ちたいのだと知った。空手が大好きで勝負が大好きで大好きなもので一番になりたいのだと知ったのだ。

 何百回も勝ってトロフィーと賞状を飾る場所が無くなってもまだ勝ちたかった。『一位は篠田がいるから無理として、二位になる為には決勝まで篠田と当たらないトーナメント表で反対の山に入ってなきゃいけない』と評された全盛期でももっともっと上手くなりたかった。

 周りに次々追い越されて勝利の栄冠がどれだけ遠ざかっても負けには慣れる事が無い。

 

 今やイヨが背負うものは自分の気負いなどではない。公国冒険者の代表と言う看板、人類の守護者という期待、千万の人々の命、人間の極限という宿命だ。

 

 敗北は例え不可避だったとしても許されない。

 

 ──僕の方が! もっと! 誰より! あなたに勝ちたい! 

 

 事前に負け確定と自ら認めていたパターンに入った時、イヨの自我は過熱した。イヨの全知全能が向かい来る死、振り下ろされる棍棒を前に一極化する。

 

 極限の状況を前に自意識すら切り捨てたイヨは頭上から迫りくる『支え』を感知する事に五感の全てを向ける。

 

 ある意味それは虫や小動物が捕食者に襲われた時滅茶苦茶に暴れまわる類の爆発的行動に近かった。考えても思ってもいないという意味では完全に闇雲である。

 

 ただし完璧に狙い澄まされている。

 

 過ちも外した狙いもあたかも全てこの時の為であったかのような。狙い過ぎて使い損ねたのではなくこの一撃の為の全てであったかのような調整と発想。

 

 【ドラゴンテイル】【マッスルベアー】【ジャイアントアーム】【キャッツアイ】【ドラゴンテイル】──筋力と命中力は跳ね上がり二回の重ねを経て竜の尾はより長くより太くより強大に伸長する。

 

 イヨの全力は武王の全力に届かない。故に一度見せてしまえばその時点で切り札としての役割を果たせなくなる。だから使えるのは一回だけ、一撃で勝負を決める狙い撃つ奇跡の一発だけ。

 

 その奇跡を手繰り寄せる事が出来るか否かが今回の勝負の分かれ目であり、本来の筋書きで言うならイヨは既に負けた後であると言えた。だが此処にきて、勝機というものは正気とはかけ離れた狂気の果てに今一度結晶する。

 

 重装形態は解けない。ある程度硬さが、威力を受け止められるだけの頑丈さが必要だからだ。既に体勢は調整済み。直上から落ちてくる様な一撃は正確に言うとやや斜めの楕円軌道を取っている。

 

 首を下げ背を丸めて空に浮くイヨの身体──の前に垂らした上半身──に破壊の神威を宿した棍棒が予期した通りに当たる。

 

 身体は宙に浮いている。つまり上からの衝撃と挟んでイヨを潰す地面からは離れているのだ。武王最強の一撃を受けたイヨの全身は一瞬の抵抗の後に着弾箇所から破壊されてつつ下方に落下していく──その身体にイヨ独力では到底生み出し得ない『勢い』、『運動量』を得ていく。

 

 粉砕される鎧で、弾ける骨で、千切れる筋肉で、潰れる内臓で──棍棒に押し潰されながらイヨの身体は前方に縦回転。身体に伝えられる衝撃に残存の筋力を足し合わせつつ全身運動で四肢──否、第五の、そして最長最大最強の器官へ送る。

 

 空気を引き裂く音がした。

 

 それは考えるでも思うでも間に合わない文字通り刹那の御業。

 

 イヨの全力は武王に及ばない。一人では勝てなかった。此処には武王とイヨしかいない。ならば武王本人の力を盗む以外に道は無い。

 

 執念が作り上げた相殺のカウンター。イヨと武王の一方的盗作による合作。

 

 武王合力【テイルスイング】プラス【爆裂撃】──まごう事無く地上最強の一閃である。

 

 武王の首が爆炎と血飛沫を噴き上げ、イヨの半身が一部を飛散させながら押し潰れた。

 

 

 

 

 

 

 万の観客が詰め寄せる闘技場内が沈黙で満たされた。

 彼ら彼女らの眼前には二人の戦士──否、二人の戦士だった死体が転がっている。

 

 死体など見慣れた、むしろ死体こそが、生き物が殺し合いの末実際に死ぬ事を期待してわざわざ出向いてきている観客たちが、多くは声も出せないでいた。興味本位で見に来たミーハーな町娘が失神している場合や死闘愛好家が絶頂を噛みしめて余韻に浸っている場合など種別に違いがあったが、死闘の末の決着を拝んだ闘技場としては異例の沈黙には違いない。

 

 ダブルノックアウト。

 

 不敗神話を打ち立て過ぎた結果試合そのものが組まれなくなってしまった強過ぎる王が、顔と肩の一部まで含めた首回りが弾け飛び骨が見える様な状態で地面に力無く両膝を付いている。

 未だ棍棒を手放さぬ両腕は力なく垂れ下がり、だくだくと流れる血液は地面に水たまりを作っていた。

 

 可憐なる戦乙女として前半はその奮戦で、後半は曝け出した本性と正体で観客を驚かせた挑戦者の半身が原型を無くし、手足の一部は飛び散っていた。

 右の肩から入った武王の打撃はそのまま右肩ごと右腕を引き千切り、生身の胸部、腹部とそれを覆っていた装甲を諸共攪拌しながら右脚を肉の塊にしていた。大出血と潰れた内臓、粉砕され撒き散らされたイヨ・シノンの一部は死者など見慣れた観客たちの基準でも凄惨だ。

 

 恐らくたった数秒だっただろう沈黙の時間は、殆どの者にとって永遠にも等しく感じられた。

 

 しかし、しかし、大いにそれを期待していたとは言え、まさか王も英雄もどちらも死ぬなど。興奮や恐怖より、これどうなっちまったんだ、どうなっちまうんだと言った現実的な感覚が徐々に戻ってくる。

 

「──お」

 

 最初に声を取り戻したのは誰であっただろうか。

 或いは大損した博徒であったかも知れず、或いは勉強の為にと世間的に最強と言える者同士の戦いを見に来ていた冒険者やワーカーの類か、趣味人の貴族か……。

 

 いずれにせよ、その一声が合図だったかの如く。戦士たちは再起動した。

 

 ビクンと大きく身体が震えるのは完全に同時だった。

 

「おい、嘘だろ……」

 

 武王の首が再度鮮血を噴き上げ、同時に片膝を立てて立ち上がろうとするのと、地に片手を付いて起き上がろうとしたイヨがバランスを崩し、咄嗟に地面に尾を打ち込んで身体を支えたのは同時だった。

 

 霞む視界で互いを捉えた二人は二人とも己の瀬戸際の不手際と相手のしぶとさを呪った。

 

 ──俺は何をされた? 首元が熱くて涼しい──何故お前まで生きている。半分までも潰してやって何故動ける。作り上げた身体であって本来の形では無いから? 何処かにある核か何かを潰すべきだった? まさか、単純に脳と片肺、心臓が無事だからまだ死なないとでも──見た事がある、腹を裂かれた動物が腸や胃袋を引きずりつつ逃げていく姿、心臓を穿たれても首を落とされてもしばらくは暴れ続ける動物も──俺が殺し損ねたのか、最後の最後で狙いが逸れた、真芯を捉えるべきだった……。

 

 ──武王の首はまだ繋がってる! 仕留めそこなった! 出血は続いてるけど身体が動いてる、脊髄を断てなかった! 刃筋がよれた? 鎧の継ぎ目を外した? 【爆裂撃】のタイミングがズレた? 全部もしくは確実に二つ以上だ! 実力不足! 再生してる! 立ち上がろうとしている! 最後の最後でこの馬鹿め! 

 

 既に己が戦闘力をほぼ喪失している事を二人は承知していた。ならばこその乾坤一擲、ならばこその全てを賭けた一撃だったのだから。それ以前の段階でですら彼我の心身は限界の縁に立っていたのだ。

 

 武王の首は抉れ焼かれ弾けており何時までも傷が治らない。力を込めて僅かにでも動こうとした瞬間から出血量が増大して頭が霞む。トロールで無ければとうに死んでいる。治療を受けない限りこのまま延々と半死半生でまともに身動きできない。這って行ってイヨ・シノンを殺すまで一体どれだけ掛かる。そもそも半死に体の状態で超級武技の後先を考えない連続発動を行ったばかりだ。再生で回復できない負荷が大き過ぎる。

 相手が僅かでも戦闘力を残していたら成すすべなく首を刎ねられて終わる。

 だがそれが何だと言うのか。

 

 イヨの片手片足は何処かに吹っ飛んでいるし、右半身は殆ど潰れて役に立たない。大量の血液が流れ出ている。最早痛みは感じない。悪い兆候だ、感覚が失せ始めている。残った手足も所詮傷物だ。使い物にするのは難があり過ぎる。僅かに身動きすると中身が零れる空白感が体内に広がっていった。イヨ・シノンだからこそ未だ生きている。

 イヨは左腕の【火足炎拳】で傷口を焼いて出血を止めようと試みる。立ち上がる努力は無駄だ。命が尽きる前に武王を殺すには少しでも人体内容物の流出を抑えつつ竜尾と足で地面を這い、武王の首筋──露出した頸椎に再度【爆裂撃】を見舞うしかない。

 しかしそうして近寄った所で武王が腕一本でも動かせれば、否、前に倒れ込むだけでイヨは圧死だ。

 だがそれがどうしたと言うのだ。

 

 二人は必死で身体を動かす。動く相手が目の前に見えている、ただやられる訳にはいかない。相手より先に意識を失う事は死を意味する。あと一撃、ほんの僅かな距離を隔てた先に死にぞこないの相手がいる、其処には勝利が見えている。

 

「まだ、戦う気かよ……」

 

 勝利以外に目指すものなど無い。勝利以外の決着など認めない。死力の限りを尽くし戦う。相手より先に相手を殺す。類稀なる激戦の果てに死の淵に立ち、ナメクジの如く互いを求めて這いずりながら、二人は未だ戦いを続けていた──が。

 

 何処かで誰かが声を上げている。自分でも対戦相手でも無い者が走り寄る気配。

 

 ──ああ、クソ……観客も居ればスタッフもいる試合だったか、そう言えば。

 

 イヨと武王は閉じつつある脳で同時に同じ結論に達した。認めがたい苦い現実を認識し──無念を感じつつ今度こそ意識を放り投げた。

 




例え外野がどう言おうとイヨも武王もこの結末が気に食わないです。その辺りの事を明日投稿する話で書きます。
武王戦はこれで終わりですが武王さんとのやり取りは次の話まで続きます。


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:頂きとお喋りする

「起きたか」

 

 目を開けると其処には上から覗き込む巨大で醜悪な面──それでも瞳の輝きや表情に知性と品格が見て取れる──があった。人間のそれでは無い。トロールだ。

 

「……おはよう、ございます」

「ああ。無事で何よりだ」

 

 イヨがベッドから上体を起こすと、掛けられていた毛布が滑り落ちた。幸い衣服は簡素で清潔な物が着せられている。

 周囲の景色を見るにここは恐らく医務室に当たる場所らしかった。置いてある物は兎も角雰囲気は地球でのそれと大差ない。

 

「神官と施療師、互いの関係者には席を外してもらった──ああ、俺もお前も死んではいない。治癒が間に合ったそうだ。お前は正直あのまま死んだと思っていたが」

「……私は……前衛系職業のレベル合計が一定以上で自動習得する【タフネス】というスキルを持っていますし、ベアナックル・ファイターの時【頑強】も取っているので……素の私と比べてHPは三割増しで多いんです……怪我だって沢山怪我の練習もしたので慣れてますし……」

「……まだ混乱しているようだな」

 

 ベッドの脇に座り込んだトロール──ゴ・ギンは背を丸めてなるべくイヨと目線を合わせようとしていたが、それでも彼の方がずっと視線は高かった。

 流石帝国が誇る闘技場だけあって広々としており天井も高い。それでも武王は頭を気にしつつ移動しなければならないだろうが、逆に言うと彼ほどの巨躯でもその程度の苦労で動き回れる位には空間的に余裕がある。

 

 イヨの魔力の回復具合などからするに、試合が終わってからそれなりに時間が経っていそうである。向かい合って過ごすには長すぎる沈黙が流れたが、一度口火を切ると会話は不思議とスムーズにいった。

 

「すいません……もうちょっと気を失っていたい気分です」

「奇遇だな、俺も気分は最悪だ」

「でしょうね。勝敗はどうなったんでしょうか? 私たちは続行する気でしたが」

「両者同時に戦闘力を喪失していたという判定で、引き分けになる」

「ああ……興行的に引き分けってどうなんでしょう」

「さあな。大抵の奴は俺の勝利に賭けたと思うが。興味が無いから分からない」

 

 強くなる事以外殆ど関心が無い、と武王は言った。

 また少し沈黙が続いたが、不思議と不快では無かった。

 

「俺の方が先に意識を取り戻した訳だが、今すごく俺の中でホットな話題があってな」

「大抵想像が付きます」

 

 イヨはベッドの上で胡坐をかいた。

 

「散々策を弄して準備に準備を重ねた上で真っ当に実力不足で勝てなかったどっかの小さな国の一応最上位らしい冒険者の話なんだが」

「強過ぎて敵がいないとか言っときながら油断が理由で格下に勝てなかったなんちゃら王のガだかグだかギみたいな名前のトロールの話もでしょう?」

「他にもある。最後の最後で決めれば勝てた一撃を普通に失敗してただでさえ矮小な身体を地面にばらまく羽目になった貧弱なチビの話もだ」

「なんかすごいカッコいい名前の必殺技を複数回使った末殺し切れずあまつさえ空中の身動き取れない相手にジャストヒット逃して反撃で死に掛けた下手くそなデカブツの話も、と」

 

 二人は凪いだ表情のまま敵対的とも言える言葉を穏やかに交わし合う。誰よりも何よりも己こそがそれを痛感していた。

 

「不覚でした……まさか最後にやらかすとは。己の未熟を痛感します」

「俺が試合を通して何回お前をぶん殴ったと思っているんだ? 反撃の余力が残っていただけでも自信を無くしそうだ。しつこすぎるぞ」

「それはこっちの台詞です。武王さんの何倍も蹴って叩いて、命と動作に関わる場所ばかり散々斬って焼いたのに。しぶとすぎます」

「最後の最後で俺もやらかしたがな」

 

 クソみたいな気分だ。そこは一致していた。

 

 観客たちの評価は当人同士のそれとは正反対だったらしいが、二人にとって重きを置く部分は客受けとは別の所にある。

 殺し合いと言う綿密なコミュニケーションを経た二人は少なくとも戦闘に関するお互いの姿勢については理解していた。意図的に情報を遮断している武王と違ってイヨは事前の情報収集で武王の人となりまで知っていたのだ。

 

「俺の連勝記録は途絶えてしまった──のだろうな。記録上の扱いなど知らないが。負けてはいないから無敗記録として続く、のだろうか。分からん、どうでもいい」

「人類最強の看板にも傷がつきました。ついこの前なったばかりだと言うのに」

「トロールで武王の俺と引き分けておいてその言い方は無いだろう。むしろ生物界トップクラスとでも名乗れ。そう言えば、最初に司会がなにか言っていたな? 冥府の騎士? だとかを倒したのだったか。強かったか? どんな奴だ?」

「武王さんよりちょっと小さい位の大きさをした、タワーシールドとフランベルジュで武装したデスナイトというアンデッドですね。戦ったら多分──」

「ああそれと、いい加減迂遠な言葉遣いは寄せ。目上を敬うなら俺の文化に合わせろ。ゴ・ギンでいい」

 

 特にアダマンタイト級になってからはイヨの部活動の後輩的礼儀正しさが美徳では無く気弱や威厳の無さ、よそよそしさと解釈される事が多くなってきていた。なにせ単に敬語丁寧語と言うだけではなくぺこぺこ頭を下げる。

 イヨは自分が落ち着かない──長年の元居た世界における家庭・学校・部活・道場教育で培われた礼儀や常識が抜けない──ので周囲の意見に反して頑なに敬語や丁寧語を使っていたりする場合が多い訳だが、異種族の文化を持ち出されると流石に迷った。地球にトロールはいないので人間目線の文化云々は流石に的外れ感がある。

 

 迷った末、

 

「……じゃあ、ゴっさんで」

「……ああ。お前程の者にそういう呼ばれ方をする事は正に誉れだ」

「はい?」

 

 神妙な口ぶりに首を傾げると、武王は子供が泣き叫ぶだろう顔をした。多分ちょっと眉をしかめた位だと思うのだが骨格からして違うので相当威圧感がある。

 

「分かっていて言ってくれたのではないのか? 俺達トロールにとって短い名前は勇気と力強さを表すものなんだが」

 

 イヨはトロールの一般的な文化までは学習していなかった為、『名前を短く縮めて呼ぶ』という行為が親しみを示すだけではなく相手の力強さや勇敢さを称賛している事にもなっているとは思っていなかった。

 ちなみにゴ・ギンという名はこれで一つの名前である。よほど集落や社会集団として大規模にならない限りトロールに姓はない。その三文字の名前から二文字縮めて呼ぶのだからこれ以上無い位に褒めちぎっている感じである。

 

「全然知らなかった」

「因みにイヨ・シノンという名前はそこそこトロール受けする名前だな。相手によっては冗談だと思われて笑われるかもしれんが、まあ人間のセンスにしては悪くない方だ。で、デスナイトだが、どのくらい強い?」

「ゴッさんと近い実力はあるけど、能力値が防御寄りで特殊能力の相性が悪いし再生を突破できないから一対一なら文句なくゴッさんが勝つかな。長期戦にはなるかも知れないけど。伝説過ぎて知名度が無い位珍しいアンデッドだから戦うのは難しいと思うよ」

「そうか……あまり強いアンデッドとは戦った事は無いから出来れば戦ってみたかったが。まあお前と伍する程のアンデッドなど到底闘技場には連れてこれないだろうしな。特殊能力はどんなのだ?」

「敵を引き付けるのと殺した相手をアンデッドにする。そうして作るアンデッドはデスナイトよりずっと弱い。あと倒したのは僕だけじゃなくてみんなで。数十人でボコボコにして討伐したよ。僕一人だったら死んでたよ」

 

 ゴ・ギンはしばしの思索の末、デスナイトに興味を無くした様だった。雑魚に群がられるのは面倒かもしれないが、生半可なアンデッドがいくら束になろうと彼の鎧と皮膚を貫く事は不可能だろうし、特になんの特殊能力も無いのでは再生を無効化も出来ない。後は棍棒で薙ぎ払われて終わりだ。

 

 イヨはその後も幾体か例を挙げて武王たる彼をして戦い甲斐があるだろう敵の情報を語った。此方の世界で見聞きしたものではなく多くはユグドラシルの話だ。そうでなくてはそう幾つも武王以上の相手の事など出てこない。

 

「イヨは博識だな……どれくらい実際に戦った事がある? というか何処に生息してる連中なんだ、公国か?」

「殆どは戦ったね。生息地は……僕の故郷かな。こっちだと幸いまだ見た事無い」

「殆どだと!? クソ、羨ましい奴だ。お前の故郷は大魔境か。俺も行ってみたいものだ」

 

 武王はジロジロとイヨの身体を眺めた。正直人間から向けられる視線だったとしたらロリコン──イヨは男だがそれ看破できる者は多くない──を疑う位執拗な物だったがまあ言いたい事は分かる。試合中の言動と言い、イヨの故郷がどこかの秘境の得体の知れない湿地か何かで変身を解くと不定形のどろりとした生き物になるとでも思っているに違いなかった。

 

「言っておくけど僕は人間だからね」

「嘘をつけ、お前みたいな人間がいるか。内実不一致も甚だしい」

「故郷は海の向こうだけど普通に人間の街だし両親も人間だから」

「尻尾をどう説明する気だ? 鎧側の機能じゃなさそうだったし動きが生身だったぞ。俺と殴り合える奴が魔法詠唱者な訳も無いし」

 

 イヨは無言で練技を使用し、ズボンとシャツの間から一瞬で生やした竜の尻尾を武王の眼前でぶらつかせた。トロールの巨大な目の奥で白金の鱗がキラキラと揺れている。

 

「練技っていう技術だよ。呼吸で空気中の魔力を取り込んで使う技なんだ。魔法とも違う技能であって種族とは関係ないものだよ」

「……技術だと? その気になれば翼も生やせそうだな? 身体を元の形に戻したりは幸い出来なかったようだが……」

 

 疑わし気な目でイヨの顔と尻尾の間で視線を往復させながら武王が呟く。

 

「ちゃんとそういう技を取得すれば翼も生やせるし傷も治せるし、極めれば竜に変化できるよ。僕の一生を練技の修行に捧げても竜変化の秘奥に至れるかは微妙だけどね」

 

 言葉を尽くして説明はしたが、武王は胡散臭そうな顔だった。謎の種族と謎の技術で怪しさはどっこいだと思ったのだろうし、なんらかの技術だとしてもおよそ尋常の術法では無さそうなものだというのが彼の感想だった。

 

「技術という事は習えば俺も使えるのか? 俺の身体から尻尾や翼が生えるって? 嘘だろう?」

「教えられるのが現状僕しかいないから習得は難しいだろうけど理屈としては可能だと思うよ。戦士の技能とは違うからちょっと寄り道になるけど間違いなく戦術の幅は広がるし……びっくりしたでしょ?」

「何をやってくるか分からない怖さは確かにあったがな……興味自体はあるが……」

 

 他にもイヨの見知った故郷のトロールは多くが神官戦士で戦神を崇め自己の研鑽を是とする種族だとか、次元を断ち切る武技に至った九つの世界を代表する九人の戦士の話など、二人は短い時間なりに多くの言葉を交わした。

 

 武王は概ね、イヨがしてきた冒険──と言うよりその途上であった多くの強者たちとの出会いを羨ましがったようだ。ワールドチャンピオンのあれこれなどは規格外過ぎて異郷の神話の類と思われた様だが。

 

「こんな気持ちになれたのは久し振りだ。惜しい気持ちもあるが、お前と戦えた事は俺にとって幸いだった」

 

 背筋を丸めたままポツリと武王が零した。姿勢のせいで凹んでいる様にも見えかねなかったが、声には喜色がある。

 文句なく友好的と言って良い武王の態度が、ある種の浮かれや軽度の躁に近い状態から来ていたのを、イヨはとうに察していた。

 

「無聊を慰めるには適ったかな」

「大いに」

 

 静かで、しかし力強い即答だった。

 

 巨大な、それこそ身体の比率が人間とは異なるので相対的にも絶対的にも巨大な顔には当座の所、満足の気が濃い。

 

「勝利を切望した。戦っている最中に、この俺がだ。何時振りだと思う? 下手をしなくともクレルヴォとの戦いにまで遡りかねないほど前の事だ。久しく味わっていなかった臨死の心境を、緊張を、痛みを、流れる血の脱力を存分に……」

 

 まるで理解の出来ない未知の技や動きに遭遇し、苦しめられ、己の限界に踏み込む事が出来たと。イヨはざわつく心を撫で付けるのに苦労した。

 

「勝てなかった事が悔しい気持ちだ。今となっては負けられなかった事が少しだけ惜しくもある。その可能性もあったものな。引き分けにまで持ち込まれたのは初めてだ、イヨ・シノン」

 

 賛辞と言って良かろう。割とべた褒めである。

 

「お褒めの言葉をどうも」

「本当に感謝している。今だから、お前だからはっきりと言うが正直退屈だった。鍛錬は好きだがやはり一番の糧は実戦だからな。張り合いが無かった」

 

 モチベーション維持に苦労しているのだろう、というのは戦闘記録を漁っただけのイヨでも想像できた事だが、この様子では結構根が深かったらしい。なにせ彼の様な生き物の口から負けられなかったのが惜しい等と言う発言まで飛び出てくるほどだ。

 戦っている最中もなにやらごちゃごちゃ考えていた様子なのでイヨは『自分に』腹が立った位である。

 

「お前は何歳になるんだ? まだ若い──いや、幼いな?」

「まだ十六歳……ですね。故郷とは暦や季節感が違うからちょっと混乱するけど、多分あと数か月で十七歳でしょうか」

「これからが伸び盛り……で間違いないな。先が楽しみだ。良ければ五年後か十年後、もう一度」

「武王ゴ・ギンさん」

 

 イヨはしかと口を挟んだ。

 

「今からもう一度私と戦って頂けませんか?」

「……なに?」

 

 ポカンとした顔。慮外の提案だったようだ。常識的に言ってもあり得ないものではあるだろう。

 治癒魔法を受けて身体は回復したがそれは文字通り身体が元の状態に戻っているだけだ。あれ程の激戦を戦い抜き身体を虐め抜いた負荷は重いと言わざるを得ないし、精神的にベストな状態とは言えない以上身体の方も高度な領域での動作においては精彩を欠くだろう。武具やマジックアイテムの損耗を考えても正気の沙汰ではない。

 なにより、

 

「ありがたい提案ではあるが、俺はもうお前を知ったぞ?」

 

 先の戦いは退屈に飽いた武王は自らに進んで不利を課し、相手の力を見て確かめながら戦って、それでもイヨの側が基本的に不利の戦いになっていた。単純に、武王がイヨの事を知っていたら全く話は違っていただろう場面が幾つもある。特にイヨが一時の優勢を勝ち取るのに役立った奇襲の類、同じ手はもう使えないのだ。

 

 所詮武具の損耗や心身の負荷、疲れはお互い様のものであり、総合的に見ると元から不利だったイヨが更に不利になっているだけだ。

 

「もう一度血沸き肉躍る戦いをしたいとは思いませんか? 私を逃して、次に戦うまでの数年間果たして歯応えのある対戦相手に巡り合えるでしょうか……?」

 

 ここで初めて武王はイヨの言葉遣いが戻っている──いや、イヨが戻している意味を悟りつつあった。自身の言動を思い返してみれば当たり前かもしれないが、怒っているのだ。拗ねているとも言えるかもしれない。

 どうもこの小さい生き物の根っからの気性であるのか圧が足りない為少し分かりづらいが、多分きっと間違いなく。

 

 素直に新鮮だった。武王にとって、この人間の都市での生活で友と呼べる者は唯一オスクだけだ。顔見知りにまで範囲を広げてもオスクの護衛を務めている首狩り兎や他の闘士が僅かにいるだけ、数えるのには両手足の指で足りる。それを悲しいとか辛いと感じる精神性が種族的個人的に微塵もない為適切な表現では無いが、周辺関係においては寂しい限りである。

 武王のファンを自称する観客は数としては多いかも知れないが彼はそんな連中の事は眼中にないし、何故か存在する武王を性愛的な対象として見ているド変態の存在等間違ってもカウントしたくない。

 

 武王の周囲に、戦闘面において武王と張り合おうとする者など久しくいなかった。

 

 武王の顔が笑みを形作る。ただしそれは友好的な物では無い。顔の構造が人間と異なる事など差し引いても、それは自身が相手より格上の存在である事を確信し、また誇示する偉大なる強者、戦士の獰猛な笑顔だ。

 ただそういう顔をすると、イヨが急激に機嫌を直してニコニコとして──トロール的に見るとキモい──笑顔を浮かべるのであった。

 

「随分な言い方だな、タネの割れたお前が俺を楽しませる事など出来るのか? ちっぽけなチビめが」

「たった一回戦っただけで僕の全てを知ったつもり? 随分向上心が無いね。例え格下からだって学べるものは学べるだけ絞り取っておく気概が無いと、この機会を逃して何年か後に戦う時、良い勝負どころか心折れる位あっと言う間に僕の足元に這い蹲る羽目になるかもよ?」

「自分からペラペラと色んな事お喋りしてくれたような気もするが?」

「本当の事なんか一っつも言ってないからお気になさらず。全部ブラフだよ、分からなかった? 僕実は今年で千歳になるドラゴンで本当は魔法も使えるし空に浮かぶ大陸から地上に遊びに来てるんだよ」

 

 どう見たって本当のことを喋ってただろうが設定が適当過ぎるぞ、と武王ですら思った。が、嘘を暴いて得になる事も無いし、ドラゴン云々はアホとしても実際にまだ手を隠している可能性自体は普通にある。

 練技なる変態的な技と言い、疑い出したらキリがない位には目の前の存在は武王の過去生で類例を見ない未知の輩だ。唯一知るのは己と一度は比肩したほど強く、そしてなりふり構わず強さを求めているらしいという事だけ。

 

 それこそ自分がそうであるように、先の一戦からイヨも武王の事をより詳しく知り、その情報を下にまだ見ぬ新手を繰り出してくる可能性は高いだろう。この小さな暫定人間と思しきちっちゃいのは、試合歴や戦歴においては武王より経験を積んでいるやも知れない者だ。

 

 何より、武王が再度の対戦に少し前向きになった瞬間のこの笑顔。のっぺりした人間面である事を考慮しても分かりやすい喜色が溢れ出している。

 

 ──人生において戦う事以外に何か楽しみはないのだろうか、これも一種の変態だろう。武王は竜尾をふりふりと左右に揺らしているチビを見ながらそう思う。

 

 ──まあ、何度でも命ある限り再戦できる、幾度でもお互いから学べるのが試合の良い所か。

 

「──良いだろう。ただし試合形式だ。お前が他の連中よりは殴り甲斐のあるサンドバッグである事は俺も認める。例え調子に乗った弱者の狂態だとしても、俺は戦わずして挑戦者を退けるほど狭量ではない。望んで負け犬になりたいというならその通りにしてやろう……!」

「負けるのはどっちかなぁ? 折角油断で招いた危機を必死こいて挽回してどうにか引き分けに持ち込んだのにもう思い上がりが復活してるぅ、流石身長は人間の二倍、頭蓋骨の厚みは千倍と言われるトロールの王様だなぁ」

「口だけは良く回る虚弱な人間が! 今度こそ勝つのは俺だ、イヨ!」

「今度こそ僕が勝つ! こと此処に至って勝つまで、そっちの全てを引き出し尽くして糧にし尽くすまで、ゴッさんがギブアップするまで幾度でも挑む!」

「口先と度胸だけは一人前だな! オスクの家に俺用の練習場がある、そこなら──」

 

 めっちゃテンションの上がった笑みで楽しそうに言葉を交わす二人が勢いよく立ち上がろうとしたその瞬間である。

 

「話はすべて聞かせて貰った!」

 

 二人が一瞬当惑する程の大声と共に部屋に侵入してきたのは髪を短く刈り込んだ恰幅の良い壮年男性──まさに二人が次の戦場として狙いを定めた家の持ち主、オスクその人であった。

 

「まずは二人に喝采を! 我が友に祝福を! イヨさん、あなたに謝罪と感謝を! あなたは私の予想を遥かに超える戦いを見せてくれた!」

 

 ずんずんと距離を詰めてくるその男の瞳孔は拡大し切っており極度の興奮状態にある事が理解できた。戦力的意味においては二人の何百分の一だろう彼の発する異様な雰囲気は奇妙な威圧感を纏っている。

 

「はっはぁ! これほどの、これほどの戦いになるとは予想もしていなかった! 吹き荒ぶ死の嵐! 舞い散る鮮血! それらをしてなお前に踏み込む猛々しい戦意! 命や平穏などでは到底及ばない臨死の高揚、戦士の魂が其処にあった! 分かるか、俺の気持ちが!」

「オスクさんはどうしたの?」

「こいつは戦士と戦いが好きなんだ」

 

 答えになっていなかったが、淡々とした礼儀作法で事を進める人物であるというイヨが以前会った時に感じた印象は完全に覆っていた。今目の間に居るのはどう見てもハイが極まったファンでマニアでオタクだ。

 

「今日は記念すべき日だ……! 我が友は情熱を取り戻し、好敵手を得た! あはは、イヨさん、あなたはたったの一戦で闘技場に日参する流血大好きなろくでなし共のスターだ! あなたがどんな種族で本当は何なのか知らないがそんな事はどうでもいい! その戦闘力! 尽きぬ戦意! 最高だ! もう一度戦いたいって!? 全く見上げた馬鹿野郎め!」

 

 握りしめた拳をぶんぶん振りながら熱狂的に語る友を見て、武王の口から『俺と初めて出会った時に次ぐ興奮度合いだな……』と呟きが漏れた。

 

「巡り合い、そして今一度ぶつかり合う二人に最高の舞台を用意しよう!」

「あ、はい。ちょっとどころでは無くうるさいと思いますけどお家の練習場にお邪魔させて頂けると──」

「今すぐ闘技場を明日まで借り受ける! 一時間くれ、それで十分だ!」

「ええ?」

 

 別に広い場所があれば良いのだけど、というかこれだけデカい箱なのだから幾らなんでも急に『今から明日まで借りる』なんて無理だろう。公民館や学校の教室だって日を跨ぐ位長く使うならそんな急には無理だ。その後の出し物やそれに関係する人々の都合もある筈だ。

 

「金とコネというものはこういう時の為にあるんだ。関係各所の担当者を金貨の詰まった袋で撲殺してでも最高の舞台を用意してやるさ! 今のうちに装備の代替品や諸々の用意をしていてくれ、誓って一時間だ!」

 

 脳の血管が心配になるほど赤い顔を満面の笑顔で彩って、嵐の様にやってきた男は嵐の様に去って行った。あとに残ったのはやや気勢をそがれた戦士二人だ。

 

「設備が整ってるに越した事は無いけど……」

 

 オスクの家は非常に広い。公都でもあれ程の広大な個人の邸宅は見た事が無いくらいだ。練習場の広さも相当な物だろう。だが流石に闘技場には及ばない筈だ。場所だって帝都の一等地である。

 共に近中距離以上の射程を持たないとは言え、生身から攻城兵器級の破壊力を繰り出す者同士の戦いを都市内で行うならば、闘技場以上に適した場所は無いだろう。しかも武王は無論の事今やイヨも非人間疑惑──妖精の血統等と言うファンシー風味なアレではなく血に飢えた獣系の──が濃厚を通り越して確実視されているだろう身の上だ。

 

「もしかしてオスクさん、観客まで入れるつもりじゃないよね? 万人単位の人なんか事前準備と計画無しに動かしてたらそれだけで死人が出るよ」

「あいつは其処らのどうでもいい人間が多少死んでも気にしないと思うがな。まあ冷静に考えて、俺達の為の舞台を整える訳だから観客自体は要らないだろう」

 

 勿論最も高名で有力な興行師たるオスクの力を以てしてもスケジュールを無視して闘技場を貸し切りにするのは非常に難しい。物理的経済的に難しい。だがあの様子では絶対にやり遂げるに違いない。

 武王もその辺りの事情に詳しい訳では無いが、恐らくオスクは各所に居る同好の士などの人脈を使う筈だ。闘技場は庶民から王侯貴族まで幅広く楽しまれる娯楽であり、流血愛好家や惨劇嗜好症者、バトルマニアは社会の上から下までどの階級にも存在する上、横のつながりが強い。

 

 武王を筆頭に幾人もの人気闘士を抱える興行師たるオスクは立場上そうした同類たちの中で一際強い影響力を持つはずだ。オスクの同類ならば今日の試合を見に来ていない筈は無いし、武王とイヨがたった一回の引き分けでは満足できず即日の再試合を行う等と言うイベントに喰い付かない訳もない。

 

 共に死闘の行く末を見守る権利を分ち合おうとでも言えば帝都中の地位と権力を持ち合わせた変態が生唾を堪えながら力の限りを尽くしてイヨと武王の万全な戦いを実現させるだろう。オスク主導の下でこの一戦を実現し観戦させる事は使った分以上に利益を生み、彼の人脈と影響力をより強固なものする事だろう。

 

 武王が推測を述べるとイヨはちょっと気持ち悪そうな顔をした。特に生唾を堪えるとかその辺りだ。要するに格闘技観戦が趣味なのだろうがなんだかちょっと変態チックである。

 

「実際に変態は多いからな。俺に抱かれたいという変態趣味の人間の女が確実に存在を知る限りでも三人いる。オスクが俺の嫁候補として名を挙げたからな。人間と俺の間に子が出来る訳が無いだろうに。そうと口に出して言われた訳では無いが視線が気持ち悪い奴は老若男女問わずもっといる」

「……武王って大変なんだね」

 

 強さに対する憧憬や好意が高じて性的興奮になっているのか単に趣味が特殊なのか知らないが、語り口調からしてもゴ・ギンがそういう異種族からの感情を心底気持ち悪がっている事は明らかだ。イヨは本当に同情した。

 別にお互いを尊重し、理解し合えるのなら異種族間の恋愛とて変わらず尊いと思うが一方通行かつ性欲が先走ったものはイヨ的に本当に無理だ。

 

「他人事の様に言っている場合か? あいつらは俺の顔が好きなんじゃない──と思いたい──俺の強さが好きなんだ。その俺と渡り合ったお前がそういうのと無縁でいられる訳は無いだろう。ましてやお前は同じ種族、少なくともそう見える外見を持つ存在だ。俺の百倍は変態に群がられるんじゃないか? 仮に同じ種族なら子供も期待できるしな」

「彼我の命を賭けてもそういう人にはお引き取り願うよ。でも、僕は既婚者だしアダマンタイト級っていう階級に囚われない地位があるからね。公国から感謝状とか勲章とかも貰ってるし、何より人間として法で守られてるから、社会的障壁という意味でゴッさんとはそれこそ立場が……」

「──クソっ! 卑怯者め! というか既婚者だと? お前にそんな真っ当な神経があったのか!?」

「ゴッさんもちょっとは恋に生きたら? 隣で支え合える人が出来ると練習にも張り合いが出るし、結婚は良いよ。生きる意味なんか多ければ多いほど良いんだから」

 

 ──友情と称するには血生臭すぎるものがあったし、実際イヨもゴ・ギンも生涯相手の事を友人などとは称さなかった。二人の口を通じて世間に伝えられるのは戦士としての互いの姿のみであり、親交を窺わせる物言いは基本的に無かったという。互いが互いに見出した最も大きな同調点、それは戦闘力であり戦意であり戦闘姿勢であったのだ。

 

 イヨはこの後幾度も武王の下へ出向いたが、ついぞ戦いに関する事以外で武王に会う事は無かったし、武王もまたそれ以外の用事でイヨの来訪を求めなかった。しかし、イヨは武王以外に好んで相手を罵倒する様な言葉を口にする事は無く、武王が武力ならぬ言葉で相手を打ち据える事もイヨに対して以外は無かったと周囲の人々は語っている。

 

 たった一つの共通点、たった一つの接点が二人を朗らかに笑いながら殺意を語り互いを貶め合い人生に口を挟む好き放題な会話を交わす間柄にした。二人は断じて互いを友人などとは認めなかった。

 

 同じパーティのメンバーである三人すらもがイヨの戦闘面に関しては『理解は出来ないが理解してあげたいし尊重したい、そして実際に容認し手助けする』という姿勢だったが、武王だけは、他の全てが違っていても戦闘面において完全に一致していた。

 イヨが武王に対して他の誰にもしない対応を自然とする様になったのは、本人にも自覚が無いがそういう理由だった。

 

 武王とイヨの間には互いを理解する手間など最初期を除いて殆ど無かった。そもそも二人はただ一点において同じだからだ。

 相手が何者なのか確認を済ませてしまえば後は思うままに交じり合うだけで良かった。殴り合い血を浴びる事が最上の交流であり、手段だったのだから。目的はただ一つ、更なる強さだ。言葉はついでであり、次の殴り合いの為の余興、手続きに過ぎなかった。

 

 強くなりたい。イヨと武王が身の内に易々と囲い込む巨大な欲求を遠慮なく解放し叩きつけ合えるという点で、彼らは少なくともこの時点では唯一無二だった

 

 二者の戦士が織り成す戦いは最終的に数千人に膨れ上がった目撃者、飛び切りの好事家たちと各所のお偉方及びその護衛によって広く口伝され、時間とともに国境をも越えて人々を震え上がらせたという伝説の一日。

 引き分けに終わった公式試合の後の準公式の死闘、度重なる事六回。『鮮血に染まる闘技場事件』、『大戦鬼と小戦鬼相喰らい合う』、『一昼夜に七度の死闘』として語り継がれる更なる戦いの幕開け、そのほんの僅か前の飾らぬ交流だった。

 

 なお、イヨの対武王における最終成績は一勝四敗二分けであったという。

 




一勝はイヨが奇跡を起こした訳では無く、前の一戦で武器が壊れていたので素手かつ殆ど裸の殴り合いになって拳士が勝っただけです。

HPが増える系のパッシブスキルはイヨが特別に持ってる訳では無くユグドラシル現地両方で前衛系の職業レベルを伸ばしてる人は大抵持ってます。現地勢は選択的に取った訳では無いかも知れませんが。

自動習得のものを除けば習得枠が限られた中から選択する訳ですが、前衛系としてHPが増えるスキルは持っていて基本的に得しかしないのでやりたい事が決まっていて枠を他の事に使いたくない人以外はほぼみんな持ってます。

割合で増えるので前衛系として特化していて元々HPが多い人は恩恵も大きいです。魔法戦士ビルドを目指していて習得したい必須スキルが多い人はそちらを、戦士系と暗殺者系を伸ばして至る上位職を目指してる人とかはより攻撃的なスキルだったり気付かれず近付く為の隠密系スキルを優先するイメージです。イヨは主な職業が前衛系肉体派職なのでHPに限らず身体能力に関するステータスは低レベル人間種なりに秀でている方です。当たり前ですが職業レベルを取得していない物事に関しては素人で、レベルとステータスが高い分同じく技能の無い一般人よりは優れている事もある程度です。

本編の最後の方に何か書き加えたい事があった気がしたのですが忘れてしまったので思い出したら加筆修正するかもしれません。書き溜めが尽きたので次の更新は少し先になります。帝国編はもう一つ二つイベントを片付けてから終了し、次は王国編になります。ナザリックも結構近づいてきました。


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ご近所付き合いと吹き抜ける疾風

 イヨが実は酒に強いという事実が発覚したのはごく最近の話である。というのも、そもそもアルコールによる酩酊や泥酔はユグドラシルに数ある状態異常の一種として存在し、毒や病気に対するそれと同じく肉体の抵抗力で跳ね除ける事が出来るものであった筈だ、という事に少年は遅まきながら気づいたのだ。

 

 三十レベルを超える戦士系、主に肉体能力を伸ばすクラス構成のプレイヤーであるイヨが少々の酒で酔っ払うというのは現実の生身を持つというゲームとは異なる事情、小柄な体格などの個人差を考慮してもおかしいのである。

 

 思い至ったイヨがリウルの日課である晩酌に付き合い、あえて己の度量を超えて飲酒してみると結果は──全然酔わなかった。酒精を摂取した事によるほわほわ感などはあったのだが、意識をしかと固めて酔いを振り払うとそれらは思考や行動に支障のない心地良い範囲に留まった。

 

 己の薫陶がようやく実を結んだかと嬉しそうな様子を見せるリウルと心地好い一時を過ごしながら考えるに、おそらく今までのイヨの下戸同然の弱さは『お酒は酔うもの』として最初から抵抗を放棄した状態で飲酒をした結果、摂取したアルコールの影響を素直に受け入れて酔い潰れていたものと考えられた。

 最初から酔うつもりで飲みさえしなければ、イヨの身体はレベルの高さ、肉体の強さに相応しい病毒耐性──アルコール耐性を発揮する。外見に見合わない酒の強さを発揮できる訳である。

 

「私今からお昼食べに行くけど、一緒に行く人―?」

 

 しんと静まり返った帝都冒険者組合の中で、イヨの言葉が空虚に響いた。

 

 イヨはたった今午前の練習を切り上げた所であり、口に出した様に昼食を取りに行くのに同行する人はいないかと不特定多数に声を掛けた訳だが、返事をする者は一切いなかった。

 下は銅級から上はミスリル級までのたまたまそこに居合わせた冒険者たちは視線をあらぬ方向に固定したまま彫像の如く固まっている。

 

 武王との一戦以来、イヨに向けられる視線──引いては社会の見方というものはがらっと変わってしまった。

 

 それまでは何と言ってもアダマンタイト級冒険者、押しも押されもせぬ英雄であり、またその見目は非常に美しく可憐で、それでいて飾らない善良な人柄──英雄補正とでも言うべきもの込みで見慣れぬ人物なりに非常に高い評価を受けていて、街を歩けば人だかりが出来、冒険者組合や魔術師組合、神殿に顔を出せば顔を覚えてもらおう名を売っておこう一目お目に掛かりたいあわよくば言葉を交わしたいと大人気だったのだが。

 

 ──『殺戮人形』『血濡れの白金』『美貌の人外』『鮮血の幼戦姫』『妖魔令嬢』『小武公』『人の如き何か』『公国冒険者組合がテイムに成功した新種の妖怪』

 

 いずれも新たにイヨに関せられた綽名、異名、噂である。

 

 まあぶっちゃけ化け物みたいに強いどころか化け物そのものなのではないか、という噂が当然の如く、そして雨後の筍の如く巷間に流布しているのである。

 最大最強の武王と引き分けた、までなら単に評判が上がるだけで済んだだろうが『その叫びには人間の精神を脅かす力がある』『尻尾を生やした』『壁を四つ足で這い回った』『半身を潰されて尚息があり、内臓を零しながら武王を殺す為に這いずった』という事実が物凄く悪かった。

 

 まあ常識的に言えばそんなイヨの姿が人目に良かろう筈も無い、そんな所を実際に見た人々の話す事実が人聞き良かろう筈も無かったのだ。

 

 無邪気にイヨを見上げて『お姉ちゃん化け物なのー?』という疑問を呈した幼子をその母親が短距離走者もかくやという疾走で掻っ攫って逃げていく等という出来事はまだ微笑ましい方であった。

 

 今のイヨが街を歩いても人だかりは出来ない。怖いもの見たさであろうか人自体は集まるのだが、勇気ある少数以外は決して近寄っては来ないのである。イヨを中心に人並みが割れる程だ。

 

 どうも闘技場における興行的に、イヨはややヒール的なイメージを持たれてしまったようであった。

 

 反面、一部の人種からの人気は寒気がするほど高まった。多分武王に性的な目線を向ける人々の同族だと思うのだが、時たま老若男女問わず妙に粘り気のある視線でイヨを見つめる人がいるのである。恐ろしいのはそうした特殊性癖者の中に少なくない割合で社会的な成功者や高位の貴族が混じっている点だ。

 

 闘技場は高い人気があるもののどちらかと言えば庶民の娯楽であり、富裕層においては演劇などを好む者が多いと小耳に挟んだが、むしろ注ぎ込める金とコネの桁が違う分熱狂的な──行き過ぎなほどの──ファンというものは富裕層にこそ生まれるのかも知れない。

 

 推定オスクの同好の士と思しきそれらの人々の援助の申し出や個人的な親交を持ちたいとのお話はガッツリ増えた。それらの内節度がある常識的なものは受けたりもしたのだが、私を食べて下さい的なアレもあったのでそっちは懇切丁寧にイヨが人間であると言う事実を説いて最終的には逃げた。

 

 所詮英雄も本物の怪物には勝てないのだとかアダマンタイトと言えど公国冒険者ではこんなものかという方面での悪評が立たなかったのはまあ良かったのだが、どうも方向性こそ違うがこれはかなり不味いのではないかと思わざるを得なかった。

 

 それでもイヨにとって幸いだったのは少なくない数の理解者の存在である。

 まずは勿論の事【スパエラ】の三人だ。やれ可愛い美しいなんて評判が立つよりよっぽど箔が付くってもんだぜ、という開き直った様な励ましはそれでも嬉しいものだった。どんな評判でもこれからの活躍で塗り替えていけばいいさ、とも。

 

 次に、他ならぬバハルス帝国皇帝ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクス陛下である。目の前である種怪物的な暴れっぷりを披露したにも関わらず、皇帝の態度は一切変わらなかった。本人曰くその人格を既に見知っている以上今更態度を変える必要もない、とのお言葉であった。中身が何であろうと交渉可能な知性と理性があってその力の矛先が人間に害を成す存在に向いているのなら構わないという考えも内心あるのかも知れないが、イヨが人間だという事も信じてくれているらしい。

 【スパエラ】のメンバーと帝国関係者との交流も以前と変わらず進んでいる。イヨも何度も帝城や魔法省に足を運んでおり、最高位冒険者としてお上の信認を受けているとの評判はイヨの人間としての評価を上げる数少ない一因となっていた。

 

 そして最後になるのが、一般人と比して魔法・モンスター・戦闘というものに高い見識があり、それ故か否か度胸のある変人の割合が高い──

 

「勿論の事私のおごりだしみんなが行きたい所に行くよー? 誰か私に帝都の美味しいお店を教えてくれる人ー?」

「ぅははぁーい!」

 

 さっきまでシカトぶっこいていた筈の冒険者の一部が勢い良く振り返って奇声と共に手を上げた。なんとも調子のよい連中である、冒険者という生き物は。

 

 ちなみに冒険者の頂点である【銀糸鳥】の皆様にはファン・ロングーを筆頭に『やっぱ人間じゃないね』と軽く笑われた。

 

 

 

 

 

 

「ちょっと奥まった方にある店なんスけど、超美味い豚の内臓料理出すんスよ。そこどうっスか?」

「ホルモンかぁ、私は良いよ。あんまり食べた事無いし挑戦してみたいな。みんなはどう?」

「内臓ぉ? ちゃんとした店なんだろうなおい、つーか臓物って食えんの? 腹壊したりしねぇ?」

「え、食った事無いッスか? うちの村とか普通に食うっスよ、ちゃんと処理して下拵え手抜かりなけりゃマジ美味いッス!」

「俺も結構好き。酒が進むし。でも当たり外れ結構デカいよね。外れは文字通りゲテモノって感じ」

「結構メジャーだと思うけどなぁ。全然食べた事無い? ビーさん育ち良いから」

「帝都生まれなだけで別に育ちは良くねーけど……つかみんな食った事あんの? え? 俺だけ?」

「俺も無いけど興味はある」

「育ち良ければ逆に食った事あるもんじゃね? 俺ぁ一回依頼の関係でお貴族様の晩餐に招かれたけどそこにもあったぜ、臓物料理。見慣れた臓物の原型は全く無かったけどな」

 

 イヨを筆頭にわいわいガヤガヤと雑談しつつ店に向かって歩いていく。今連れ立っている二、三十人ばかりの面子は当然ながら帝都に来てから知り合った者たちである。チーム全員で来ている者もいるが、関係無く友人関係で集っている者も居る。

 

 冒険者らしく格好も年齢もバラバラ、イヨの提案に最も勢いよく乗った『ぅははぁーい!!』の少女とその仲間たちが鉄プレートでランク的には最も格下だが、イヨを筆頭に高位冒険者も混じる集団の中で全く物怖じした感じが無い。スッススッスと非常に元気だ。中々いい度胸をした有望な人物である。

 

 表通りから裏路地の方に寄って行き、やがて辿り着いた店は積み重ねた歴史の風格がちょっと悪い意味で人目を引く、うち寂れた風情であった。立地と店構えを見て、高位の冒険者たちはちょっとばかり眉根を寄せる。

 

「俄然不安になってきたんだが。本当に美味いのか?」

「あのお店? この人数で入れるかな」

「大丈夫だと思うッスよ、まだちょっと時間早いッスから」

 

店の前を小さな子供が掃き清めている。如何にも生意気盛りといった面構えの少年は店に近付いてくる冒険者の集団に気付くと、

 

「あー? 父ちゃん、なんだか一杯お客だよ! 冒険者共だ!」

 

 店の中に向かって思い切り叫んだ。無論のことその声は冒険者『共』にも丸聞こえである。すると中から、

 

「馬鹿野郎ベッシ! どんなろくでもねぇ連中だろうと金さえ払えば客だぞ! 共だなんて言い方をするんじゃあねぇ! 丁重にお出迎えしやがれ!」

 

 子供のそれに数倍する、それこそ三軒隣の家まで響き渡りそうな馬鹿でかい怒鳴り声が届く。分かったよ父ちゃんと元気に返事をしたベッシ少年は真ん前まで来ていた『ろくでもねぇ連中』に向き直り、

 

「いらっしゃい冒険者の皆さん! うちは団体様大歓迎だよ、特に割引とかは無いけどってうわ、冒険者らしからぬすっげえ美人の姉ちゃん! もしかして噂の化け物? うちは人間の生き血なんかは出してないけど肉が美味いよ、あんたら酒飲むだろ? うちの黒エールは絶品だよ! 是非ともご賞味あれ!」

「……将来有望なガキだな」

 

 ミスリル級冒険者の男性が代表して感想を述べると、彼は傍らのイヨに『マジでここで食うのか?』と視線で問うた。のでイヨはうんうんと頷く。

 

 中々楽しいお店らしい。イヨは気に入った。

 

 

 

 

 

 

 冒険者たちが幾つものテーブルに分かれて座ると店はほとんど満員になった。

 

 てっきり臓物料理と聞いて、漫画やアニメで見る様なおフランスとかヨーロッパな感じの料理かと思っていたが実際に出てきたそれはモツ煮に近い代物だった。臓物特有の臭みを消す為か香辛料が効いてきて歯応えはありつつも柔らかい。ゴロゴロとした根菜の存在感が嬉しい具沢山の汁気たっぷりで汁物としてもおかずとしても美味しい。

 

 使い込まれた木の器にどっさりと出てきたそれと、他にもお任せで色々頼みつつみんなで掻っ込む。ちなみにパン──風味からして雑穀を混ぜ込んでいる様だが工夫によるものか普通においしい──は一人一籠ずつ山盛りで頼んだ。

 

 テーブルに所狭しと並んだそれら相手に、冒険者たちは勇敢に戦いを挑む。

 

「店員の態度からは想像も付かない程真っ当にうめぇな……なんか悔しい」

「立地と店構えの割に一丁前の値段取りやがると思ったらな。そうでなきゃ潰れちまうか」

「私これ好き。すいませんお代わりくださーい」

「美味いって言ったじゃないスかー。自分も食うのに不味いとこなんか推さないッスよ!」

「シノンさんめっちゃ食べますね!」

「お腹減ってるし、食べるのも練習だからね」

 

 イヨは冒険者としては際立って小柄で線も細いにも関わらず毎食大の大人三人前は食べる。本人の言う通り食べるのも練習、身体を作る為だ。そうでなくとも練習量とその強度が常軌を逸している為、それだけ食べないとただでさえ恵まれない身体が更に細ってしまう。

 イヨも体重、体型の維持向上に苦労しているのである。

 

 実際、大食できる体質、内臓の処理能力というのは才能だ。大量に食べそして消化する事が出来るという事は、大量に栄養を摂取して吸収できるという事だ。身体に取り込めるエネルギーの総量が多いという事である。それはより長く過酷な運動に耐え、また其処から来る消耗にも強く、そして回復が早いという余人より密度の高い生命サイクルを実現するのだから。

 

「みんなも遠慮せず食べなね。冒険者は身体が資本だよ」

「あざーっス!」

「ゴチんなりやす!」

「すんませんお代わり! 全部! あと酒下さい!」

「俺も! あと何か鳥系のやつ追加で!」

「あいよー!」

 

 冒険者は肉体労働者なので基本的に大食漢揃いだが、低ランクの若手たちはそれにしても必死こいてかっ喰らっている。ぶっちゃけて言うとこれは彼ら彼女らが貧乏だからである。どの国でも最下級層の冒険者の懐事情など辺境の農村に毛が生えた様なモノだ。

 

 飢え死に寸前という訳では無いけども、収入が収入なのでまともな飯屋で懐事情を気にせず好き放題飲み食いできる機会など早々なく、タダ酒タダ飯という機会を逃さずこれでもかと食いまくる。あわよくば今日一食で済ませて食費を浮かそうという魂胆であった。

 彼ら彼女らは一回の依頼で自分たちの月収や年収より稼ぐ輩相手に遠慮なぞしてやるものかと言わんばかりに食って食って食いまくっている。

 

 イヨと同じく十代、成長期真っ盛りの若者たちである。腹など何時でも空いているしどれだけでも食える。

 

「あーうめえッス! ここの飯久し振りッスよ!」

「なんか行きつけみてぇな雰囲気出してたけど久し振りなのか」

「アタシらの稼ぎでこんなまともな飯出すとこ行きつけられる訳ないじゃないスか!」

 

 悲しい事を大音声で開けっ広げにする少女であった。先達の冒険者たちも──イヨ以外──駆け出し時代の自らの食生活を思い出してか、だろうなぁと言わんばかりに頷いている。

 

ピンピンとした癖の強い金髪を短く乱雑に切り詰めている彼女はデカい口を開けてパンを噛み裂き、荒く噛み砕くやスープを含んで一緒くたに飲み下すと、

 

「前の依頼でちょっと危うい目に合っちゃったもんで、無理してでも治癒のポーションの一本や二本位保険として余計に持ってた方が良いよなってアタシら決めてて。それで最近色々切り詰めてたんスよね」

 

 そうそう、と食材に対して飽くなき戦いを挑んでいた彼女の仲間たちが顔を上げる。

 

「そうなんすよ。だから余計に、二重の意味でまともな飯久し振りで」

「タダ飯食わせてくれる人は神様です。ほんと、神様四大神様シノン様です」

「シノンさんが中身妖精だろうとドラゴンだろうと俺らマジ尊敬してるっす」

「いや私は人間だからね……すいませーん、この子たちに何か、少し時間経っても美味しく食べられるようなものでお弁当包んであげてください。他にも欲しい人いたら手ぇ上げて──」

 

 ばばっと、そこかしこで勢いよく複数の手が上がる。

 

「──五、六、七、八──八人前大盛りで」

 

 若者たちの盛り上がりは大変なものであった。

 

「マジあざーッス!」

「いよっ、大英雄!」

「神様―!」

「結婚してください!」

「ついでに娼館も奢って下さい!」

「それはお金に余裕が出来た時に自分で行きなさい。あと私は男だし既婚者だからね」

 

 一通り歓声を上げると、後顧の憂いを無くした少年少女たちは一層苛烈な戦いに身を投じていった。この分だと、この店の食材か若者たち、どちらかが全滅するまでこの戦は終わらないであろう。

 

『下の連中と飯食いに行ったとき財布出させるようなみっともない真似はすんなよ』とはリウルの言である。彼女はそこら辺の面子とか対面にかなり拘る。舐めた真似かましてくる奴をボコるのと同じ位、下の者の面倒を見るのは彼女の冒険者としての基本原則の一つだ。

 初対面のイヨと食事に行ったのも基本的にはその一環であり、終生の伴侶との出会いのきっかけにもなったその妻のポリシーをイヨも踏襲していた。

 

 とは言えその余りに気安い振る舞いはアダマンタイト級冒険者としての威厳に欠けると、イヨの外見と相まって裏で密やかに軽んじられる原因ともなっていたのだが、帝都においては【銀糸鳥】と武王とのそれぞれの一件以降そうした風潮は激減した。

 

 現在ひそひそと陰口を叩いていた者たちの間で『あの風貌相応の態度が今や逆に怖い』ともっぱらの評判である。

 

 

 

 

 

 

 冒険者らしくない冒険者という月並みな感想をイヨに抱いている人は多い。金級冒険者として活動しているボーデンもその一人である。

 

 まず真っ当な、それどころかかなり良い所の出だと思われる彼の出生。これだけでも冒険者の王道を外れる。自身もまたそうした経緯を持つ冒険者だからこその決め付け、経験則から言えば冒険者等という道を選ぶ奴は、選ばざるを得なかった奴は大抵が無学無教養な貧乏人だ。

 

 生まれた家が貧しく、その上長男次男といった未だしも先のある生まれ順で無かったから家を出ざるを得ず、コネも無ければ学も無く、不遇なりに地道に生きていくだけの勤勉さや自分は所詮大勢の中の一人だと言う少年少女が大人になっていく過程で悟っていく当然の自覚すらも無く。

 

 社会の中では耕す者が一番多い。そしてその耕す者の中ですら持たざる者は存在する。無い無い尽くしの者たちだ。

 

 展望も頼りも計画も無く自分一人の食い扶持くらいどうとでもなるだろうと手近な都会に出て、何の能も無いが故に当然の如く職にあぶれ、食うに困り、流される様にまたは無鉄砲無軌道な自信過剰の果てに冒険者となる。首に鈍い輝きを放つ銅のプレートを下げる事になる面々というのは大体がそうした経緯を持つ。

 

 大抵の冒険者とはたまたま死なずに済んだ奴らだとボーデンは思っている。それは金級という一端と言えるクラスに安住して長い自分自身ですら例外ではない。弱くて馬鹿だった若年時代にたまたま生き延び、そして偶然にもそこそこ素養があったからなんとなく長じた、ただそれだけと彼は思っている。

 

 無論その場その場において精一杯懸命に手を尽くし頭を使ったのは確かだが、死んでいった連中と自分を比べて何か明らかに違う特異性、先行きが明るく感じる様な目立った長所があったかと言うとそれは否だと言うのが彼の自己評価だった。

 

 なけなしの銭を叩いて冒険者となり、貧困農夫の普段着としか表現のしようが無い着た切りのボロと手入れの怪しい粗末な剣、そして空きっ腹を抱えてケチな依頼を受け、そして案の定二度と戻らない輩と言うのは非常に多い。ボーデンはたまたま生き残り、腹を満たし、偶然にも気の合う仲間を見つける事が出来た。

 

 生き延びている冒険者は幸運な者。より上に行く冒険者は幸運な上に才があった者。頂点まで駆け上がる冒険者は──生まれつき何処か余人とは違う、そうなるべき運命に生まれついた者。

 

 貧しい農民と言う括りの中で生まれた者達の中でも、三男四男といった言わば家督継承順位下位に生まれた者達には本当になんの先行きも無い。それ故に今日明日の飯に繋がる行為以外をした事が無い。だから当然知恵や知識を蓄える勉強も身体を鍛える練習もした事が無い。当然強いて努力する習慣など無く当たり前の様に計画性も無い。自覚のあるなしは兎も角今が良ければそれでいいという考えで行動している。

 

 酷く聞こえるかもしれないが大抵の場合はこれが事実である。何故ならただでさえ貧しい上に期待されていないからだ。今日明日の腹を満たすのが最重要事項である環境の中にあって、特に農地や家業を受け継ぐべき存在では無いとなれば輪を掛けて教育を受けていない。五年後十年後の栄達に繋がるかもしれない努力に注力できるだけの余裕も自由もそもそもないのだ。

 

 努力というものは努力できる程度に余裕のある、そして理解のある恵まれた場所に生まれた者の特権なのだ。

 

 『夢物語を追うより地に足の着いた行動をしろ』という周囲から掛けられる至極真っ当かつ常識的なお言葉もそれに拍車を掛ける。父も祖父も曾祖父も畑を耕して実直に真面目に生きてきたんだぞ、とかそういう奴だ。

 どうせ長じれば家から追い出されるか、それとも死なない分だけの飯を食わせてもらいながら嫁の当てもなく牛馬の如く働く以外に道の無いごく一般的な四男坊だったボーデンだってそう言い聞かせられて育った。朝から晩までさして広くも無い農地で父と兄の指図通りに働く汗と泥にまみれた日常における思い出は、ひたすらに空腹だったという漠然としたもの以外無い。

 

 例えば自分が何時かそれなりの財を築いて引退して所帯を持ち、子供が生まれたとして──子供は一人か二人が良い、多くても三人──息子が冒険者になりたいと言ったらボーデンはぶん殴ってでも止める。娘が冒険者と結婚したいと言ったら断固として認めない。

 そしてボーデンは声を大にして言うであろう、『わざわざ進んでろくでなしの仲間入りをして、一山幾らの無頼漢として死にたいのか』『明日をも知れぬ荒れくれ者と一緒になる気か、結婚したその次の日には未亡人になるかもしれないのに』と。

 

 魔法金属の名を冠するプレートを持つ上位冒険者たちの様な煌びやかな生活では無いにしろ、今や高望みさえしなければ余裕を持って食っていけるだけの稼ぎを得ているボーデンだが、それでも尚断言する。冒険者などまともな人間の就く職業では無い。社会的に言えばはっきりと賤業である。

 

 何の比喩表現でも無く賭けだ。その賭けに乗ってしまった時点で相当追い詰められ、煮立っている賭け。周辺の村落から毎年毎年都に集ってくる若さ以外にとりえのない能無し共が貧民街にたむろし、やがて裏社会の体のいい使い走りとなって治安を悪化させるより野で人知れず朽ち果てさせた方が世の中平和であるという人口調整装置だとすら思う。運のいい奴らは生き残って日銭を稼ぐ為に日夜モンスターを狩る様にもなるので、常に禄を食み任務中に死んだり怪我をすれば補償の必要がある騎士よりずっとお上の懐にも優しい。

 

 成る程確かにアダマンタイト級冒険者を筆頭に上位冒険者の暮らしぶりは、喝采を浴びる様は輝いて見えるだろう。何も持たずに生まれた者が自分の腕一つで世間に認められる、実に夢のあるいい話だ。しかしそれは一部の例外である。農民の中にだって大きな土地を持って多数の人を使い下手な貴族顔負けの悠々自適な生活をする豪農がいるのと同じだ。

 

 大抵の奴は死ぬし、生き残った奴も多くはあぶく銭で安酒をかっ喰らうその日暮らし。たまたま才能が有り運も良かったごく少数だけが人並み以上の生活を手に入れる。もう一度人生をやり直せたなら、ボーデンは冒険者では無くもっと他の道を選ぶ。二度も分の悪い賭けに勝てると思える程自分を信じられないからだ。

 

 ボーデンは正直に言えばイヨ・シノンが苦手だった。彼のコンプレックスをこれでもかと刺激する存在だからだ。妥協と打算で如何にか命を繋いできた彼の冒険者観にとことん見合わない存在だからである。

 特殊な出生の傑物が数奇な運命の果てに冒険に出て、若くして英雄として喝采を浴びるという、世間好みの英雄譚をそのまま歩んでいるその姿が眩し過ぎて嫌なのだ。

 

「まあ、俺達は何だかんだ今までで築いてきた知縁つーか、コネみたいなもんが多少なりともありますから。騎士の人らより組合にって話も多いっす。それに騎士の人たちってのは俺らで言う銀級位の実力があるらしいすけど、冒険者みたいに死んでも何の補償も無しって訳には行かない訳ですから、手に負えない得体が知れない費用が安く上がるっつって普通に俺らに回ってくる仕事ってのも相応にあるっすよ」

「ただあいつらはキツイと思いますね。あいつらで如何にかなる程度の仕事なんか普通に騎士の人らがやっちゃう訳で、自然と仕事は少なくキツくなりますし、その上で奪い合いみたいになるんすよ」

「成る程……」

 

 こうして付き合いで一緒に食卓を囲っていてもその存在に嫌な眩しさを感じる。

 

 丁寧な喋り方が、落ち着いた所作が苦手だ。王侯貴族では無いにしろ自分より遥かに恵まれた生まれである事が分かってしまう。四六時中訓練ばかりしている所も苦手だし女遊びをしない所も苦手だし贅沢をしない所も下の立場の者にも分け隔て無い所も苦手だ。それら全てが高潔さや度量の広さなどでは無く幼さから来ているのだから少し怖気がする。

 

 同じ種族の同性とは思えない様な外見も苦手だ。特別である事が一目瞭然に分かってしまう。

 気前の良さが、親しみやすさが、勤勉さが、強さが若さが身目麗しさが優しさが──輝いている。自分とは違って。だから苦手だ。

 

 髭が生えて、肌に染みがあって、傷だらけで──人として当たり前である筈の自分がなんだか殊更に見すぼらしく思えてしまう。

 

 ボロ剣を振り回していた若造の頃だったら素直にこの輝きに憧れる事が出来ただろう。ごっこ遊びで木の棒を振り回す、ただそれだけで自分は未来の大英雄だと信じられたガキの頃なら彼に惚れ込んだかもしれない。ボーデンは嫌な気持ちを抱く。アダマンタイト級冒険者に優しくしてもらった飯を食わせてもらったと無邪気にはしゃいでいる若者たちの様に、この『英雄』を好きになれただろう。

 

 同じ英雄であっても【漣八連】や【銀糸鳥】にはこんな気持ちを抱いた事は無い。彼らは自分より年上だし、一方的にではあるがずっと昔から見知っている。イヨ・シノンほどの嫌悪感は無い。

 

 この人は本当に人間なんだろうか。というか、生身なんだろうか。

 ボーデンは熱い汁物を啜りながら疑問を抱く。混血だか何だか知らないが肉の身体を持つ両親から生まれてきたのだろうか。赤ん坊として生まれ徐々に大きくなってきたのだろうか。この人が生まれた海の向こうの大陸とやらでは草木や獣が存在したのだろうか。

 

 実際に喋ってみると巷で語られるような残虐性や神秘性などは全く無い。それでも何処か、唐突にその辺からぽっと湧き出てきたのではないかと言う非現実、悪い意味で物語の中から出てきた様な印象が拭えない。これ程人間味のある、強さと立場以外年相応の少年であるのに。

 

 仲間たちからは全く理解してもらえなかったこの感想を、ボーデンは以降胸の中に引っ込めていた。それでも尚強固に、イヨ・シノンを気味悪く思う感情は彼の胸の中に巣食っている。

 

「そういう意味では公国が羨ましいっすね。帝国も景気は今までにない位上り調子なんですけど、どうも冒険者の肩身は狭くなってきてます。特に下の連中ですね。俺はもう今更ですけど、公国に活動の場を移した連中も多い。実際行けるかは兎も角、若いのも出来る事ならそっちに行きたいって思ってる奴は多いんじゃないですかね」

 

 最近の帝国の冒険者事情という当たり障りない話題を交わしながら、ボーデンは愛想笑いを浮かべる。と言っても口にする言葉は大部分が本心である。

 

 帝国では冒険者の斜陽が続いている。騎士が治安維持の一環としてモンスターを狩ってしまうからだ。討伐以外の仕事が無いでは無いが、やはり冒険者と言う職業の大本は対モンスターの傭兵、これに尽きる。

 

 モンスターを倒し結果として人の世の安全を高めているからこそ、冒険者は破落戸や無頼漢ではなく冒険者でいられる。まあ昔から冒険者をそれらの同類と目して疑わない人々は決して少なくないが。

 モンスターを倒さない冒険者は極論、武装してうろついている分だけただの喰い詰めた無職よりずっと外聞が悪い。一般市民の徴兵が無くなり、戦場が専業軍人だけの物となって世の人々の大半が生き死にの戦いを別の世界の景色と感じているのもあって、好き好んで戦う冒険者は一度悪く見られるとそれこそ、血に酔った危ない人種とすら思われかねない。

 

 騎士がモンスターを駆除する。殆どの人々にとってそれは安心安全な通行や生活を叶えてくれる非常に良い事である。実際騎士や皇帝に対する人々のイメージは大変良い。騎士が専業軍人では無く文字通りの騎士爵を意味した一昔前よりも、人々が口にする『騎士様』という呼称に込められた敬意は嘘偽りのないものだ。

都市の警邏にしろ都市間村落間を結ぶ街道の巡回にしろ、常日頃自分たちの生活を守ってくれているという実感がこれ以上無い形で得られるのだから当然だ。

 

 直接的に食い扶持が減る冒険者は例外的存在であろう。ボーデンは改めて実感した。国家がモンスターを倒し人々の安全を守る事が出来るならば、冒険者は必要ないのだ。勿論騎士が多種多様なモンスターの全てを倒せる訳でも無い以上、冒険者はまだ必要とされている。特に高位の冒険者はそうだ。

 

 だがやはり、世の中が乱れる様な事でも無ければ冒険者隆盛の時などはもう来ない気はした。そう遠くない未来、スレイン法国の様に帝国からも冒険者が消えるのではないか、そう考える者は多い。

 

「公国ッスかー。行きたいッスねーアタシらも。仕事一杯あるって聞くッス」

「んー……いやでも流石に他の国まではちょっと……」

「薬草の取れる場所とかモンスターの癖とか、やっと少しは分かってきた所だしなぁ」

「良くしてくれる依頼主さんとかいるし、やっぱこっちで頑張りたいよね」

「全く別の国って訳でも無いし同じ冒険者だろ? こっちでの経験やノウハウだって向こうでも通じるんじゃね? 俺は興味あんなぁ」

「人脈築き直し仕事覚え直し名前上げ直し。あと単純に遠いから金。その日暮らしもひーひーな俺らにゃキツいって」

「護衛依頼受けたり街ごとに仕事して稼げば何とか──」

「それにぃ、なんか公国ってシノンさんみたいなの沢山いそうじゃない……?」

「──うわあー…………」

「いや私みたいなのが沢山でうわあーって三重にどういう意味?」

 

 公国の冒険者は他国では『英雄の卵たち』『英雄の後継者たち』とも呼ばれる。勿論揶揄が十割のあだ名である。公国の冒険者は他国より知的で礼儀正しく上品で義に厚く(小賢しくて媚び諂いが上手でお高く留まっていて損得勘定が下手くそ)──でも弱っちい(しかも弱い)、というオチが付く所までがワンセットだ。

 二十年の最強不在の時代が落とした影は色濃い。一命を賭して国難を払った英雄たちは後進と公国社会に良い気風を残したとは言われるものの、弱けりゃ何の意味も無し。それが他国における評価だった。お上品にお高く留まってんじゃねーよ、弱い癖に、と。

 

 だが、今後は違った目線を向ける者も多くなっていくのではないだろうか。悍ましいアンデッドを退け、新たなアダマンタイト級が登場し、その腕前は一度は武王と引き分けるほど。最後が特に重要だ。この上ない実力の証明となるのだから。

 

 肩身が狭くなっていく帝国に対して、公国は帝国とのお手伝い戦で必要とされる戦力を手早く確保する為に、実力は兎も角気質においては他国のそれより良質と呼ばれる冒険者を重用し始めた。

 

 王国でも全く違った事情から冒険者の需要が増しているとされはするが、どちらかを選ぶなら公国と考える者は多いだろう。元より文化的地理的に近しい国だ。

 

 まあ、今目の前でわいわいやっている新人たちやボーデンが実際公国に活動拠点を移して上手くやっていけるかどうかは別の話だ。仕事が多いと言っても所詮自分たちは鉄から金級でしかない。何処の国においても貴重とは言えない存在だ。歓迎してもらえるだろう同席している高位冒険者たちとは違う。

 

 ──お上品で教養がおありになられる英雄の卵たちと仲良くできる気がしない。

 

 ボーデンはイヨ・シノンを上から下まで眺めると心中で嘆息した。新人共の言う冗談では無いが、こんなのと指向を同じくする冒険者が真に公国においては多数派なのだとしたら、ボーデンには無理だ。

 

 ボーデンは理由を明言できない、漠然とした自己嫌悪めいたもので沈んだ。この賑やかな食事の場において、ボーデンだけが外面を取り繕いながらも物憂げだ。

 

「あと五年か十年、命大事に無理なく続けて小金を貯めて……」

 

 ──故郷でそれなりの広さの田畑でも買って嫁さん貰って、のんびり暮らしてぇなぁ。

 

 とっくの昔に分かり切っていた事だが、自分は英雄は勿論の事一流にもなれない。自分たちの遥か延長線上にいる英雄は好きだが、突然降って湧いた様な小奇麗な英雄は好きになれない。

 

 ──勿論シノンさんにだって俺には全く想像が付かないながらも今まで歩んできた道、生まれ故郷であるテラスティア大陸での実力相応の苦労があった筈で、突然降って湧いた様ななんてのは俺の勝手な妄想、難癖、嫉妬だ。

 

 自分より若く強くそれに生まれにも容姿にも恵まれているらしいという点で言えば王国の【蒼の薔薇】、そのリーダーである伝説の魔剣の担い手も同じ筈で、しかしボーデンは彼女の冒険譚を聞きかじって感嘆した事はあれど、嫉妬した事はない。強いて言えば貴族生まれのご令嬢という点には生理的拒否反応があるが、決して嫌いではない。会った事も無いなりに尊敬していると言える。

 

 でも矢張り、ボーデンは目の前の少女の如き少年を好きにはなれない。彼自身は多分、世の中の善良な大半の人々と同じ位には自分を好いてくれていると思うが、それでも。

 

 ボーデンは手近な酒瓶を取ると、飲むつもりの無かった酒をぐいと呷った。アダマンタイト級冒険者の奢りだけあって皆全く遠慮せずに食いたい物飲みたい物を頼んだのであろう、店の外観からは想像もできない程良い酒だ。

 

 他人から生真面目でやや自虐的と評価される男であるボーデンだが、それでも立派な冒険者だ。嫌な事や面倒な事に対処する方法はとくと弁えていた──酒を飲んでさっさと忘れるのだ。

 

 タダ酒ならば尚の事良い。自分の懐が痛まない酒の味わいはどんな時でも格別だ。

 

 

 

 

 

 

 警邏中の帝国騎士ルイス・メルクは和やかげな存在感を放つ美貌を遠方に捉え、歩調を正した。都合三度目の遭遇という幸運に恵まれている彼だが、徐々に近づいてくる人物の可憐さには未だ慣れる事が無い。

 

「お疲れ様ですー」

 

 人々のざわめきと共に現れ、会釈と共に労いの言葉を投げかけてくれる彼女──アダマンタイト級冒険者イヨ・シノンに直立不動となって返礼しながら、ルイスは過ぎ去っていく後ろ姿に眼を奪われそうになる己を努めて律する。

 

「……確かに綺麗だけど、お前がそういう対象として見るには幼くないか? てかあの人、同性愛者で既婚者だろ。お前じゃ無理無理無理無理だって」

 

 高嶺の花。年齢差。そういう対象とする性。既に特定の相手がいる。四つの理由を挙げて律儀に無理を諭す物言い。

 

「俺はシノン様の事をそういう風に見てるんじゃないって何度も言ってるじゃないですか!」

 

 定期巡回に戻りながら、ペアを組んでいる先輩の騎士の軽口にルイスは軽く憤慨しながら返した。無論道行く一般市民の目があるのであくまでも二人とも小声だ。

 

「同じ年頃のガキの時分に彼女を見てたらそりゃあ俺だって胸を熱くしただろうが、いくらなんでもなぁ」

「だから……」

「分かった、分かったよ。そういう気持ちは理屈で割り切れるもんじゃないもんな。うんうん、俺にもそういう時代があったよ。思い余って妙なこと考えんなよ?」

 

 全く分かっていない癖に訳知り顔で会話を一方的に打ち切った先輩に対しルイスはそれこそ言葉の限りを尽くして誤解を取っ払いたい衝動に駆られるが、そうした努力が裏目に出る事は経験済みだ。

 彼はふん、と抗議代わりの鼻息を鳴らすと黙り込んだ。なんでこう年寄りってのは人の言う事を聞かないのだか、と内心大いに憤る。因みにルイスの相方たる先輩騎士は彼より十と少しばかり年上なだけで到底老人とは言えなかったが、バリバリの若者であるルイスにとってそれ位の年齢の人々は十分におっさんであり、憤りも相まって老人呼ばわりするのに良心の呵責は無かった。

 

 ルイスは端的に言うとアダマンタイト級冒険者イヨ・シノンのファンだった。別に顔やスタイルが好みだからでは断じてない──彼女の容姿が稀に見る美しさである事を否定するつもりもまた無いが──その温厚で分け隔て無い人柄と潔白さ、なによりも強さに憧れているのである。

 

 貴族では無いながらも代々帝都の一等地に居を構える非常に裕福な家に生まれたルイスにとって冒険者等と言う連中は今の所捕まっていないというだけの犯罪者予備軍みたいなものであったが──彼の父親はワーカーも冒険者も一緒くたにしていたし、幼い頃から騎士に憧れていたルイスにとってもそれら二つは区別する必要が感じられない程度には似たような物だった──彼女は別だ。

 

 そもそもルイスからしてみれば皇帝陛下に忠誠も誓っていなければまともな教育など受けたことも無い連中が街中を武装して歩いているという時点で気に食わない。どう考えたって治安上の危険因子としか思えないのだ。質の悪い傭兵が平時に山賊働きをしでかす様に、連中とて何をするか分かったものでは無いではないか。

 

 『別に連中の肩を持つわけじゃないがそれは少しばかり極端だぞ』と諭された事もあるが、帝都の中で経済的に何不自由なく生まれ育ったルイスからしてみれば冒険者が実際に人の役に立っている所など見た事は無い訳で。

 

『美しい帝都の街並みをまともに字が書けるかも怪しい連中がこれ見よがしに凶器をぶら下げて歩いていやがる』というのが彼の冒険者観の揺るぎ無い根本だった。

 

 騎士の統一された煌びやかな装備、整然と規律を持って行動する様子は人々に安心感を与える。対して冒険者はどうだろうか。騎士は帝国とその支配者である皇帝陛下に忠誠を誓い、いざという時に備えて日々訓練を重ね己を鍛える。対して冒険者はどうだろうか。

 

 安酒をかっ喰らった連中がただでさえ乏しい理性の枷を振り切って殺人事件を起こさない保証が何処にあると言うのだろうか。

 

 未だに諸侯が好き放題民を搾取している様な王国の如き遅れた国ならまだしも、偉大なる皇帝陛下がおわし、護国の偉人であるパラダイン様もおられ、そして自分たち騎士が日々切磋琢磨するこの帝国で冒険者の如き連中はいらないだろう。それがルイスの考えだ。

 

 まあ、アダマンタイト級などの数少ない上位の者たちは彼とて認めないでは無い。彼らはそれこそ騎士の中の騎士である近衛よりもなお強いし、その武装や物腰は成る程世間的に重んじられるだけのものがある。

 卑賤な者たちの中でも上澄みの存在として、彼らならばルイスとて一応尊重できる。最もそういう少数の例外を持って冒険者全体を見直すなど土台無理な話だが。

 

 で、イヨ・シノンである。ルイスは彼女のあらゆる面において冒険者らしからぬ魅力──決して外見の話では無い──にすっかり参ってしまっていた。

 

 まず、彼女は可憐だ。最初にそこを上げるとまるでルイスが彼女の容姿に心を乱されている様で誤解を招きかねないが、人間が主に視覚で周囲を認識する以上これは仕方ない事だ。

 

『お仕事中すいません、ちょっと道をお聞きしたいのですが』

 

 男が少女という存在に抱く願望を詰め合わせた様な。

 つまり、清らかで、たおやかで、優し気で、控えめで、繊細で。しどろもどろになって返答したルイスが彼女の首に冒険者プレートが下がっていたことを追認識したのは少し後になってからだ。

 

 良家の人間として同じく裕福で教養のある人間と付き合っていたルイスだからこそ分かる、彼女は貴族でこそ無いだろうが見た目相応の教育を受けた人間だ。ただ容姿に恵まれただけの村娘にあの様な雰囲気は纏えない。何故あのような少女が冒険者なんかに、と一人正義感から思い悩んでいたルイスは割とすぐに少女の正体を知った。彼女はとんでもない有名人だったのだ。

 

 帝都においても多くの人々が耳にしただろうから今更長々とした説明は不要であろうが、端的に言って彼女は隣国の英雄、絵本の中から飛び出てきた様な本物の戦乙女だった。

 

 あのような可憐な少女が無辜なる人々を守るべく、自ら身を張っておぞましい怪物と対峙し、それを打ち破ったという英雄譚は富裕層における典型的冒険者嫌いで知られるルイス・メルクでさえ胸を熱くせざるを得ないものであった。

 

 嫌いな連中の話など聞きたくないし興味も無いので今まで耳にした事は無かったが、有名人だけあって知ろうとさえすれば実に様々な情報を容易に聞き知る事が出来た。

 

 その奇想天外な来歴は元より、冒険者組合なり宿なりで日頃熱心に訓練に励む様。足繁く神殿に通い、また各所に多くの寄付を行っている事。酒は強いが殆ど飲まない事。下位者にも分け隔てなく接する人柄。数度に渡って皇城にも上り、陛下の信認を受けているとか。

 

 その他大勢の者たちは勿論の事、人間ですらない者が混じっている自国の英雄たちと比べても、ルイスはすっかり彼女に魅了されていた。

 

 強いて言えば彼女が自身を男性と名乗っている事には大いに首を傾げたし、同性愛者で既婚者だと聞いた時には自分でさえ理由の分からない衝撃を受けたが、良く考えれば大した問題では無い。

 

 正直その詐称の有効性はまるで無いと思えたが、あのような少女が野獣の如き冒険者の一員としてやっていく上での自己防衛の術だったのだろう、自身を男であると偽る事は。

 同性愛者だろうと既婚者だろうとそれで彼女の魅力が変わる訳では無い。むしろ自分の憧れが男に媚びを売る姿など想像もしたくないので、そこに至っては同性同士の清らかな愛こそが彼女に相応しいとも考えられた。

 

 イヨ・シノンが人と交わった妖精の末裔であるらしいという噂をルイスは半ば信じかけていた。少なくともエルフの血が流れている等と言う失礼極まりない──帝国の法がそう定めているのと同様にルイスにとってもエルフは同胞でも無ければ隣人でも無い存在で、端的に言えばそのイメージは森の蛮人である──噂よりはずっと頷けるものだ。

 

 相応の教育を受けた者、つまりそれだけの富、格式を持った家に生まれた者の言動には相応の色が出る。立場がある人間特有のものだ。社会で生きる限り誰しもが自由なただ一人の個人ではいられない。富んだ者、地位の高い者ほど『自分』という言葉に付随するものが増えていく。

 ほんの若造であるルイス・メルクでさえ一個人である前に帝国騎士として、そうでない時でもメルク家次男として振舞わざるを得ない。地位と富のある家に生まれた男女は己の恋心では無く家の利益に基づいて政治的に結婚する。ルイスにだって五つ年上の男爵家の三女である許嫁がいる。それが世の理だ。

 

 ルイスがイヨ・シノンに惹かれる理由とは、詰まる所其処なのかもしれない。彼女の幼子の様な無邪気な笑顔に、己の一人の力でもって己の運命、行く先を切り拓く自由に憧れるのだ。

 

 極稀に、責任ある貴き生まれであってもその全てを放り投げて冒険者という無頼の世界に身を投げる者がいる。ルイスが最近知り得た限りおいては王国の【蒼薔薇】なる冒険者チームのリーダー等もそういう人物らしい。少し前のルイスならばそういう人物の事を嫌った、いや理解不能な動機で貴種たる責務の全てを放り投げて野に落ちた狂人と見下したかもしれない。

 

 しかしそうではない、そうではないのだ。本物に触れた今のルイスならば分かる。そういう家に生まれた者として務めを果たせば、彼女は人並みに山も谷もあるだろうが、総体として見れば安楽な人生を送れた事であろう。イヨ・シノンとて転移の悲劇で全てから切り離されてしまった後でも、手持ちの財貨でも何でも使って穏やかな第二の人生を送る事は容易だった筈だ。

 

 彼女らが自分で選び、掴み取った未来は人を助ける為に戦う事。そういう運命を自ら切り開き、己に課したのだ。その一事で以てして、彼女たちは例え冒険者という賤業に身をやつしていようとも、凡百の無頼漢とは一線を画するとルイスは確信する。

これを尊しとせずして何が尊貴であろうか。

お伽噺の理想像たる騎士に憧れて現実に帝国騎士となったルイスは、彼女たちこそ真に英雄と呼ぶにふさわしい人物だと思ったのである。

 

 無邪気そのものの笑みを浮かべ、幼子の様な善良さのままに人を救うイヨ・シノンの可憐さは、成る程妖精の裔と讃えられるに相応しい。

 

 と、脳内で其処まで思考して、ルイスは直近の不愉快な噂話の数々を思い出して身動ぎした。

 

「どうした? 何かいたか?」

「ああいえ、なんでもないです。すいません」

 

 言動が少しばかり軽いながらも仕事振り自体は尊敬に値する先輩騎士がルイスの挙動に反応してその視線の先を追う。手配書に酷似した人相の誰かとか、それに類する何かを後輩が発見したとでも思ったのだろう。

 素直に申し訳ないと感じたルイスは頭を下げて謝った。

 

 しっかりと姿勢を正して巡回を続ける。騎士は常に善良なる人々に頼られ、そして悪党に畏れられる存在でなければならない。職務中に騎士に相応しからざる姿を晒す事は許されないのだ、とルイスは己に言い聞かせた。

 

 思い出したのは過日の闘技場での一件以降、巷で囁かれている根も葉もない噂話の事だ。

 ルイスは庶民の娯楽としての闘技場の必要性、人気は理解するが、あの品性の欠片も無い騒々しさと血生臭さが好きになれず、友人関係の付き合いで一度足を運んで以降見向きもしなかったのでとんと疎いのだが、どうも闘技場で彼女は武王なる巨大なケダモノ相手に酷く暴れたらしい、というのが噂の骨子だった。

 

 その噂の中身と来たら酷いもので、明らかに真実などどうでも良く、とにかく面白おかしく突飛で人々の興味を引く内容でさえあれば良いと言わんばかりだった。

 四肢から炎を噴いて相手を焼いただの獣の如く四つ足で走り回ったのだの、怪物の本性を露にして尻尾を生やして暴れただの。彼女が人間であるという大前提すら忘れてしまったかの如き荒唐無稽な作り話の数々。

 

 真に恐るべきは、少なくない割合の人々がその噂話を真に受けて彼女を怖がっている事だ。いくら他大陸出身の異邦人とは言え、イヨ・シノンは縁深い隣国の大公殿下から勲章を受けるほどの人物なのだ。少しは敬意を払ってはどうなのかとルイスは思わずにはいられない。

 

 巷間に流布する所によるとイヨ・シノンは本格的な春の訪れより前に公国に帰ってしまうという事であったが、ルイスはそれを非常に惜しく思う。

 

 公国が悪いとは思わないが、帝国に、帝都に居残ってはくれないだろうか。そう思わずにはいられないルイスだった。

 

 

 

 

 

 

 

 イヨは一通り同業者との交流を楽しむと会計を済ませて先に宿への帰途についた。わざわざ冒険者組合で鍛錬をするのは他の冒険者との交流と、ある種示威行為の様な意味合いもあった。俺達は公国冒険者を代表して此処に来ているんだからな、とはガルデンバルドの言だ。

 

 周囲のざわめきを気にせぬよう努めながら道を歩み、顔見知りがいれば言葉を交わす。人懐こい性格故、知己はそれなりに多い。

 

 帝都の大通りは公都のそれより更に人通りが多く活気もある。イヨはそれを好む質であったが、どうにもこうにも向けられる視線や感情の多量さにやや気忙しい思いもあった。目立つのは好きな方なのだが、自分の存在が人々の生活を搔き乱している風にも感じられた。

 

 午後からも【スパエラ】としての予定があるのでさっさと帰りたいのだが、こうまで人通りが多いと走るのも気が引ける。ので、イヨは例によって表通りではなく脇道に入ってショートカットする事にした。

 

 生来の優れた方向感覚と、帝都の広大な街並みの中でも冒険者組合周辺と宿の周辺は地理を把握しているので迷う事は無い。何時かの路地裏と違ってそこそこの広さがあり人もいるが、表の大通りと比べたら天国であった。

 

 イヨ的なビッグイベントは既に消化したが、【スパエラ】としての人脈作りなどはまだ途上である。予定していた滞在期間としても半分近くが残っており、武王戦の疲労も抜けた今はまた少し忙しくなってきていた。個人的にも挑戦を受ける側として再度闘技場への出場を打診されていた。

 

 なにより折角遠方まで足を伸ばしたのだからこれを機に【スパエラ】の欠員、神官などの癒しを担当する人物を見つけられないかとイヨは【アーマー・オブ・ウォーモンガー】を展開しつつ後方を薙ぎ払った。

 

 

 

 

 

 一際強い寒風が人々の首筋を舐めていった。

 

 冬の平和な小道に突如として響き渡った空裂音。

 

 通行人が驚いて振り返ると、其処には全身を鈍色の鎧に包んだ小柄な人影が、振り向きざまに背後を手刀で打った姿のまま固まっている。

 

 なんだあいつは。今の音はあの鎧の人が? おい、もしかしてあの、人? って──。

 

 ざわめく諸人が俄かに小柄な鎧姿に注目しだした頃、イヨは戦慄していた。

 

 欠片も感じられなかった気配。それでも自分は思考を挟む事すらなく感覚に導かれて反射で動いた。空を切る手の感覚。吹き抜けた疾風。

 

 武王の一撃にさえ耐える堅牢なる鎧、超アダマンタイト級の装甲には傷一つなく──しかし、その下でイヨの首には一筋の擦過痕が残っていた。

 

 ──拳足の間合いはおろか五感の及ぶ遥か外から、この場にいる全員の目に留まる事無く飛び込んでくる鋭さと速さ。

 ──淀む事すら無く手刀をすり抜ける巧緻。

 

「【アーマー・オブ・ウォーモンガー】の展開速度を上回る、とは……」

 

 状況があまりに違う故、断言は出来ない。出来ないが──今の一撃は、ともすれば武王のそれより尚速く、比べようも無いほどに正確無比だ。

 

「……何者」

 

 見知らぬ、自分より遥か格上の強者。イヨの背筋をぞくぞくとした感覚が這いずっていた。

 

 

 

 

 

 

「一体どういう事ですか!」

「あのさー、君新人?」

 

 暮れなずむ街外れの一軒家で、一組の男女が揉めていた。

 

「かの冒険者については調査の結果、問題なしと判断されたはずです! 貴重な人類の戦力であるアダマンタイト級冒険者に対し、あんな形での接触など認められていな──」

「はー、ちょろ過ぎて騙すのも馬鹿らしくなってきちゃったなぁ」

 

 無造作に。

 それでいて精緻な技巧に裏付けされた素早い剣閃が、まくし立てる青年の肩口を貫いた。悲鳴が上がるその前に、伸びた腕が口を塞ぐ。

 

「む!? むぅうー!」

「まず君さぁ、ちょっとは疑う事を覚えなよー。同じ六色聖典とは言え所属も別、しかも特例案件だからって現場指揮官に連絡取る暇も与えられないとか少しはおかしいと思わなかったのー?」

 

 マジックアイテムによって本来の顔とは別の顔を纏った女は、口元に歪んだにやけ笑いを浮かべながら一つ一つ、幼児に諭す様に優しく囁いていく。

 

「曲がりなりにも六色聖典の末席にいる以上優秀なんだろうけど、真面目馬鹿過ぎ。ま、本当に短い間だったけど裏切り者の逃亡幇助ご苦労様~」

 

 ぬりゅん、と。

 

 耳の下から刺し込まれた刺突武器の切っ先が青年の脳組織を一瞬で掻き回し、破壊した。

 

「ここ最近ちょっとばかし死人が重なったからってこのレベルの予備を現場に出してるのヤバいよー、まあそんなんだから私も逃げてる最中にこんな遊びをする余裕があるんだけどー」

 

 気味の悪いほどに口の両端が吊り上がった笑みで女は死体を見下ろす。かと思えば、その表情は一瞬で静まり、冷徹なものとなる。

 

「しっかしあの女ぁ、耳でも目でも肌でも私の接近を感じ取れてなかった癖に直感だけで迎撃しやがった。あの幼さで英雄の領域に足を掛けるだけはあるってかぁ、鮮血だか鉄血のお姫様ぁ」

 

 天才がぁ、と吐き捨てる表情は、夕の射光に照らされて読み取れない。しかし声色には溢れんばかりの嫌悪があった。

 

 女は一撃必殺に特化した戦士だった。どの様な強者であっても生き物である以上、脳や心臓といった重要な部位さえ破壊すれば死に至る。女は戦士として生涯を掛けて致命の一撃を対手に与える能力を鍛え、育んできたのだ。

 

 そうして結実した今の彼女は人外の領域に踏み込んだ強力な戦士であり、その一撃を前にして命を守り得る実力者は世界を見渡してもそう多くない。一度技が決まれば格下は無論の事、同格や格上の者さえ一撃の下に屠り得るのが彼女、なのだが──

 

「……ま、流石に行き掛けの駄賃で取れるほど軽い首じゃなかったかー。いいやいいや、忘れよ。カジッちゃんのとこまでまだまだ遠いし、疲れちゃうよー」

 

 




お久しぶりです。


金級冒険者ボーデン:自ら世話をした牛馬が懐きやすくなるタレント持ち。剣より鍬や鋤を扱う方が才能がある。本人の自覚無し。
帝国騎士ルイス:恋愛対象が十代前半から半ばの少女のみ。好みのタイプの異性に対してやや夢見がち。本人の自覚無し。
チラ見せンティーヌ様:次の出番はもう少し先です。

あと少しで帝国編終了、そのあと王国編という名の最終章を……始めたいんですけど実際どうなるかは分からないです!
十五巻楽しみですね! アニメ四期もね!


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