東亰ザナドゥ ―秋晴れの空へ向かって― (ゆーゆ)
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第1部
4月23日 新しい日々


 2015年、4月23日。午後16時過ぎの、夕刻の始まり。

 

「んん・・・・・・」

 

 プーパー、プーパー。

 窓越しに遠方から聞こえてくる、特徴的な二音階の繰り返し。思わず胸の内で「とーふー、とーふー」と口ずさんでしまう。

 こうして聞いてみれば、確かに『豆腐』と聞こえなくもない。誰が初めに考えたのだろう。

 少しずつラッパ音が近付いてくるに連れて眠気が晴れていき、私は大きな欠伸をしながら目元を擦り、半身を起こした。

 

「ふわあぁ」

 

 見慣れない部屋。新品の家具ならではの匂い。馴染みの無い空気。

 引っ越して来てからまだ三日目だからか、夢から覚めると不思議な感覚にとらわれる。それに私が本当の意味で一人暮らしを始めたのは、今日。何もかもが新鮮味に満ちている。

 あっという間の三日間だった。初日からお母さんと一緒に荷解きで汗を流し、必要最低限の生活用品を探して回った。引っ越しに関わる諸手続きは後々の為になるからと考え、一連の手順を頭に入れた。家庭ゴミの収集日一覧表は、真新しい冷蔵庫の扉へ貼り付けた。

 翌日には合間を縫って学園へ挨拶に出向き、夜はお母さんの実家へ。弱り切ったお母さんを置いて、私だけがこのアパートへ戻って来た。それが一人暮らしの始まり。

 いつの間にか転寝をしてしまっていたのは、一挙にして訪れた変化の始まりに、疲れがあったのかもしれない。明日からが本番だというのに、前途遼遠だ。

 

「あっ」

 

 窓を開けてこじんまりとしたベランダに立ち、僅かに夕映えが影を落とす裏庭を見下ろす。

 このアパートは南側が道路に面している。車の通りが多い分、少しだけ走行音が気になるけど、陽当たりや風通しは良い方なのだろう。これ以上を求めるのは贅沢というものだ。

 右隣に視線を移すと、朝方に干された洗濯物が、今も風に揺れていた。

 

「タマキさんは・・・・・・帰ってないか」

 

 一回り年の離れたお母さんの妹、叔母のタマキさん。

 最近は珍しく多忙な日々が続いていると言っていたか。絵描きを目指す身としては、嬉しい悲鳴なのかもしれない。

 考えてみれば、こっちに来てからは簡単な挨拶をしただけで、未だ真面に話すらできていなかった。早いところお礼も言いたいし、今夜ぐらいは頃合を見計らって、私から訪ねよう。

 室内に戻り、実家から持ってきたデジタル式の目覚まし時計を見ると、午後の16時20分を示していた。

 自由に使える時間はまだあるけど、生活に入り用な物は大体買い揃えたし、買い物へ出る必要は無い。明日に向けた用意も一通り済ませてあるから、夜にまた確認をしておけばいい。

 なら今日は、このまま部屋で―――いや、駄目だ。そうじゃない。

 

(・・・・・・いつから、かな)

 

 本当に、いつからだろう。人見知りなんて、少し前までは意味合いすら曖昧だったのに。

 独りでいる時の方が、ずっと楽に―――いやいや、だから違うってば。

 

「よしっ」

 

 最近はジッとしていると、良くないことばかり考えてしまう。

 心機一転の新生活らしく、とりあえず外へ出よう。自転車はあるし、遠出をしなければ日が暮れる前には帰って来れる。

 それに、訪ねたい『店』もある。バスの中から遠目に見えただけだけど、場所は覚えている。ほとんど一本道の筈だ。

 そうと決まれば善は急げ。私は洗面所の鏡と睨めっこをして、若干寝癖が付いたショートヘアを整えてから、綺麗に収納されたばかりのクローゼットを開けた。

 

「うーん」

 

 ・・・・・・どうせなら、少しでも着慣れておいた方がいいかもしれない。

 そう考え、私は森宮学園指定の制服へ手を伸ばした。

 

_____________________________________

 

 駐輪場はアパートの南側にある駐車場の隣。一旦『杜宮商店街』と呼ばれているらしい賑やかな通りに出てから、道路側へぐるりと回る必要がある。

 一階へ繋がる階段を下っていると、商店街の方角からこちらへ向かって歩いて来る、一人の女の子の姿が目に映った。

 そっと、後ろ歩きで階段を上り直す。うん、私は何をしているのだろう。馬鹿なのか。

 

(・・・・・・何年生かな)

 

 凛々しくも初々しい風貌で、髪は私よりも少し短め。可愛らしい女の子だった。あれは私と同じ、森宮学園の制服だ。外見から察するに、一年生か二年生だろうか。

 女の子は私が借りている部屋の真下、101号室の前で立ち止まり、「はぁ」と大きな溜め息を一つ。数秒間俯いてから扉を開けて、何処となく重い足取りで部屋に入っていった。

 どうしたのだろう。元気溌剌そうな外見とは裏腹に、あからさまに暗い影を落としていた。

 まあ考えても仕方ないし、一人かくれんぼは終わりにしよう。私は無駄に足音を潜めて、駐輪場へ向かった。

 

______________________________________

 

 大きな通り沿いに、北東へ自転車を走らせる。

 この街には本当に沢山の顔がある。自転車はまだしも、バスに乗っていると周囲の風景ががらりと変わる瞬間があった。

 私はまだ極一部のそれしか知らないけど、駅前の大広場一つとっても、近代的な街並みに圧倒された。故郷の伏島と比べれば、何もかもが大違いだ。

 厳密に言えば、この杜宮市こそが私の『生まれ故郷』。ではあるのだけど、小さい頃の記憶は少ない。物心が付く前の話だ。お母さんの実家も、多分二回しか訪ねたことがない。

 何よりあの『震災』が起こって以降、この街は大きく姿を変えた筈だ。たとえ記憶が残っていたとしても、きっと郷愁を感じるまでには至らない。

 でも、お母さんは違う。お母さんは人生の大半をここで過ごしている。どう感じているのだろう。実家に戻って来れて、少しは気が楽になったのだろうか。

 

(あった!)

 

 考え込みながら自転車のペダルを漕いでいると、約15分の道のりの先に、目的地はあった。

 ここから更に北へ向かい踏切を超えれば、確か『レンガ小路』と呼ばれる通りがある。もしかしたらタマキさんもいるかもしれないけど、今日はここまでだ。

 駐車場の隅に自転車を停めて、周囲を見渡してから頭上の看板を見上げる。

 

「『ブーランジェリー・モリミィ』・・・・・・」

 

 モリミィ。十中八九『杜宮市』から取った店名なのだろう。近付くに連れて、パンが焼ける匂いが鼻に入って来る。

 私にとっては、10年前から当たり前にあった物。両親の匂い。パンが焼き上がる匂いで、私達の朝は始まった。

 居心地の良さと―――胸を締め付けるような寂しさを、半分ずつ抱いた。

 恐る恐る店内を覗こうとすると、ガラス張りの扉に貼られたA4サイズの紙に目が止まった。

 アルバイト募集中。時間帯と時給は要相談。内容はレジ打ちや簡単なパンの製造作業。年齢や性別、経験の有無を問わない。大まかにはそのような内容だった。

 

「・・・・・・うーん」

 

 いずれにせよ、今は内容を覚えておくに留めよう。焦る必要は無い。

 私は少しだけ胸を弾ませて、店内へ続く扉を開けた。

 

「いらっしゃいませ」

 

 入るやいなや、レジカウンターに立つ男性の声が耳に入る。ちら見をすると、随分と若い男性だった。私と同年代か少し上ぐらいか。

 店内の広さは個人経営としては中の上程度、おそらくオールスクラッチだろう。カウンターの向こう側に映る工房も含めて、それなりの規模がある。

 品数が少ないのは時間帯の影響だ。ざっと見渡した限り、外観から想像していた通りの雰囲気や品揃えだった。うんうん、こういう明るくて気取らない売り場は私の好みでもある。

 客層も自然と理解できた。元々ベーカリーは女性客が主だけど、この店はきっとその傾向が顕著だ。整った顔立ちの男性がレジに立っているのも、それが理由に違いない。

 

(どれにしよっかなぁ)

 

 余りジロジロと見るのは不自然だし、生活費も極力抑えたいから、今日は一つだけ。・・・・・・というのは流石に気後れするので、ニつ。

 手作りならではの活きが良いクロワッサンと、ブルーベリーとクリームチーズが乗ったデニッシュを一つずつ。手早くトレーに取ってから、私はレジへ向かった。

 

「ありがとうございます」

 

 男性は慣れた手付きで打ち込みと袋詰めを始めた。

 若干声のトーンがあれだけど、これぐらい落ち着いていた方が女性ウケもいいのかもしれない。私にはよく分からない世界だ。

 

「クロワッサンが一点とブルーベリーデニッシュが一点で、計539円になります」

「あ、はい」

「それと、一つ聞いてもいいか」

「はい?」

「明日からB組に転入してくる女子生徒って、君だよな?」

 

 暫しの静寂。そんな物に収まる筈もなく。

 私の全てが、止まった。

 

「・・・・・・っ」

「・・・・・・」

「ぇ・・・・・・・」

「・・・・・・」

「・・・・・・ぁぅ」

 

 うん、落ち着こう。まずは落ち着いて呼吸を再開しよう。死ぬ。

 制服を着ているのだから、私が杜宮学園の生徒だというのは見れば分かる。多分彼もそうなのだろう。思っていた通りに同年代、杜宮学園の男子生徒だった。よし、ここまではいい。

 でも『転入生』って何。何で分かるの。色々とおかしいでしょ。今の私から転入生というキーワードを捻り出す要素が何処にあるの。

 ワケが分からない。この人は何だ。少なくとも私は知らない。超能力者か何かか。

 

「あー、悪い。流石にいきなり過ぎたか。実は―――って、ちょ、おい?」

 

 キッチリ539円をカウンターに置き、パンを受け取ってから、私は早足に店内を後にした。

 自転車に駆け寄ってパンが入った袋をカゴに放り、呼吸を整えていると、後方から再び声を掛けられる。

 

「なあ、ちょっと待ってくれ!」

 

 取り乱した様子の男子が、エプロン姿のまま後を追うように店外へ飛び出していた。

 思わず「ひっ」と小さな悲鳴を上げて後ずさりをしてしまったが、思うように身体が動いてくれなかった。

 

「な、なな、何ですかっ」

「驚かせちまって悪かったって。その、昨日の午後だったか。親御さんと一緒に、杜宮学園へ来てただろ?」

「え?」

 

 男子が言ったように、私は何度か杜宮学園へ足を運んだことがある。

 転入試験は勿論、学園側に案内されて見学にも来たし、昨日にはお母さんと一緒に訪ねている。その際には教頭先生と、クラス担任となる先生に立ち会って貰った。

 

「遠目にだけど、そん時に顔をちらっと見てんだ。それに転入生が来るって話は、トワ姉から聞かされてたからな」

「・・・・・・とわねえ?」

「あっ。いや違った、九重先生。担任の。B組に入るんだろ?」

「そう・・・・・・ですけど」

 

 意図せずして、声が尻すぼみになっていく。

 男子はそんな私の様子を見て、バツが悪そうに後ろ頭を掻きながら、困り顔を浮かべた。

 何となく事情は察したけど、やはり突然過ぎてどう振る舞えばいいかが分からない。結局私も、同じ表情を浮かべることしかできないでいた。

 

「えーとだな。自己紹介ぐらい、してもいいか」

「あっ・・・・・・ど、どうぞ」

 

 何とかそう返すと、男子はほっと胸を撫で下ろした様子で言った。

 

「同じクラスの時坂洸だ。あー、君は?」

「と、遠藤亜希、です。(とお)(ふじ)と書いて、トオドウ」

「トオドウ・・・・・・間違えてエンドウって呼ばれることないか?」

「トオドウですっ」

 

 もう何度目になるか分からない、私にとってお決まりのやり取り。その分、自然と語気が強まってしまう。

 すると男子―――時坂君は小さく笑ってから、踵を返してモリミィへと駆け出した。

 

「悪い、まだバイト中なんだ。また明日な」

 

 私は詰まってしまった声の代わりに、深々と頭を下げて時坂君に応えた。

 

_____________________________________

 

 午後19時過ぎ。自室の201号室。

 モリミィから買ってきたパンは明日の朝食へ回すことに決めた後、私は市役所で貰った杜宮市に関するパンフレットを読み耽っていた。

 杜宮市の人口は約40万人。駅近郊に代表される商業地区の他、昔ながらの商店街や明治以来のレンガ作りの通りもある。市の北西には国防軍の防災基地がある一方で、名湯として知られる温泉地や自然公園も存在する。

 街と自然、発展と伝統、喧騒と静けさ。様々な二面性を併せ持つ懐の深さが、杜宮市最大の特徴と言えるのかもしれない。そんな表現で、紹介文は締め括られていた。

 

「二面性かぁ・・・・・・わわっ」

 

 ピンポーン。

 初めて耳にしたドアチャイムで、身体がビクリと反応する。

 直後にコンコンと玄関のドアをノックする音。更に不安を駆り立てられたところで、ドアの向こう側から発せられた声に、深い安堵を覚えた。

 私は鍵を開錠してドアを開けてから、大きく溜め息を付いて言った。

 

「た、タマキさん・・・・・・驚かさないで下さい」

「え?いや、チャイムは鳴らしたでしょ。変ね、聞こえなかった?」

 

 声の正体は叔母。お洒落なベレー帽を被った、タマキさんの姿があった。

 勝手に驚いたのはこちらなのだから、責める気も起きない。モニター付きのインターホンなんかがあればいいのだろうけど、やはり贅沢は言っていられない。

 タマキさんは右手に買い物袋らしき物をぶら下げていて、既に玄関には食欲を誘う良い匂いが漂い始めていた。

 

「晩御飯、もう食べちゃった?」

「いえ、まだですよ。これから準備しようと思ってました」

「ならちょうどいいわね。色々貰ってきたから、今夜は一緒に食べよ。お邪魔してもいい?」

 

 帰って来てから直で訪ねてくれたのだろう。タマキさんは一旦私に袋を預けて、隣の自室へと向かった。中身を覗き込むとコロッケや肉団子、オニギリやパックに入ったサラダなどが入っていた。

 『貰ってきた』という言葉が気にはなったけど、私は適当な皿を二人分選んで盛り付けを始めた。それが終わった頃に、ラフな格好へ着替えたタマキさんを部屋へ招き入れた。

 

「あ、出してくれてたんだ。まだ温かいでしょ」

「はい。こんな感じでいいですか?」

「何だっていいわよ。ほら、座って座って」

 

 促されて椅子へ座ると、タマキさんは持ち込んだ茶色の小瓶の詮を開けて、テーブルへ置いた。瓶の側面に貼られたラベルには『ポーランドビール』と書いてあった。

 

「さてと。これはアタシからの転入と引っ越し祝いってことで。迷惑じゃなかった?」

「そ、そんな。勿体無いぐらいです」

「あはは。じゃあカンパーイ」

 

 ビール瓶とお茶が入ったグラスを鳴らして、ささやかな晩餐が始まった。

 何だか言われるがままに事が進んでしまっている気がする。今晩はこちらから訪ねてお礼を言おうと思っていたのに。手を付けるよりも前に、言うべきことは言っておきたかった。

 

「その、タマキさん。色々とありがとうございます。部屋を紹介してくれたり、相談に乗って貰ったり・・・・・・すごく助かりました」

「いいわよそんなの。アキはこれからが大変なんだから、多少甘えるぐらいでいいの。でも、そうね。商店街のみんなには、アキからもお礼を言っておきな」

「商店街の、みんな?」

「これ、表通りのお店から貰ってきたのよ。アキの話をしたら、半ば強引に色々持たせてくれてね。基本的に親切な人が多くってさ、あの商店街」

 

 まだ温かいコロッケを頬張りながら、タマキさんは教えてくれた。

 精肉店、惣菜店、蕎麦屋。蕎麦屋さんがオニギリを持たせてくれたという事実に首を傾げてしまったけど、この辺では良い意味で常識が通用しないことが多々あるそうだ。

 ポーランド産のビールは別として、初めは安っぽく映った品々が、豪勢なご馳走のように見えてくる。目頭が熱くなる想いだった。

 

「明日にでも、お礼を言いに行ってきます」

「ん」

 

 沢山の親切心を噛み締めながら、私とタマキさんは積りに積もった積もる話に興じ始めた。

 タマキさんとは昔から付き合いがある。私にとっては頼れるお姉さんといった感じだ。

 外見や振る舞いは勿論、我が道を行くというか、確固たる自分を持っているというか。以前から憧れのようなものを抱いていた。外国産のビールを嗜む姿も、何となく様になっている。カッコいい。

 

「今日も遅かったですね。似顔絵描きって、そんなに人気なんですか?」

「ああ、今日は違うの。コマキ姉の様子も気になったから、早めに切り上げて実家に顔を出してたのよ」

「え・・・・・・お母さん、ですか?」

「アキの前じゃ、話し辛いこともあると思って」

 

 タマキさんは少しだけ表情を強張らせて、言った。

 

「少し、時間が掛かりそうね」

「・・・・・・はい」

 

 時間が解決してくれるとは限らない。でも今は時間が必要だ。

 その為にも、私は今日から一人。何事も自分一人で―――

 

「こらこら」

「へ?」

 

 思考を遮るように、タマキさんの右手が私の頭に置かれた。

 

「辛いのは、アキだって同じでしょ。我慢なんてしなくていいの。コマキ姉の代わりに、アタシがいるんだから・・・・・・女子高生らしく、新生活を満喫すること。分かった?」

「タマキさん・・・・・・」

「とは言っても、少し頼りないかもしれないけどね。アタシはフラフラしてばかりだし」

「そんなこと、ないですよ。タマキさんは素敵な人です」

「やめてよ。もしアタシが母親だったら、アタシって絶対に娘にはしたくないタイプ」

 

 タマキさんが苦笑いをして、私は笑った。少しだけ大袈裟に笑った。

 今はただ、誰かに甘えたかった。

 

______________________________________

 

 食べ切れなかったご馳走を冷蔵庫へ入れた後、私は洗い物を、タマキさんは二本目のポーランドビールの詮を開けた。

 私は初めて知ったけど、ポーランドは世界的に見てもビール大国として有名で、タマキさんは最近ドハマりしたそうだ。

 その火付け役となったのが、三つ隣の部屋に住む留学生。アイリさんという女性と親しくなったことがキッカケらしい。

 

「前にも話したけど、このアパートの住民はほとんどが女性なのよ。OLとか学生とか。親しくしてる人も多いから、今度紹介してあげる・・・・・・そういえば、杜宮学園の子も今月の初めに入ったわね」

「あっ。私、夕方ぐらいに見ました。ちょうど下の部屋ですよね」

「そうそう。もう挨拶はした?」

「いえ、隠れ・・・・・・コホン。遠目に見掛けただけなので、まだ」

 

 誤魔化しながら洗い物で濡れた手を拭いて、テーブルの上にあるテレビのリモコンを取る。

 22インチのディスプレイには、明日の関東圏の天気予報図が映った。当たり前だけど、伏島は範囲外。こういった瞬間に、自分が今東亰にいるのだと思い知らされる。

 

「よかったわね。登校初日が晴れそうで」

「はい、幸先がいいです」

 

 何とはなしに部屋の南側へ向かい、カーテンを開けて窓の鍵を外した。

 まだ4月下旬。窓を開けると肌寒い外気が流れ込むと共に、新鮮な空気で肺が満たされていく。

 目に映るのは、車が行き来する道路、電柱の街灯、街路樹。何の変哲も無い夜景だけど、どういう訳か温かい。寒いのに、温かかった。

 

「いい街よ、杜宮は」

 

 振り返ると、瓶を右手に持ったタマキさんが立っていた。

 二本目も底が近い。顔が赤らんでいるのは、酔いが回ってきているから。普段とは違う少し緩んだその笑顔に釣られて、私も笑みを浮かべた。

 

「忘れられない二年間に、なるといいわね」

「・・・・・・フフ、ですね」

 

 私の小さな返事が、4月23日の夜に溶け込んでいった。

 

 



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4月24日 登校初日

 

 準備は万端。登校初日な分、持ち物は両手が塞がるぐらいに多い。でも何度も確認したのだから、忘れ物は無い筈。

 なんて、今更確認しても仕方ない。まあ早めに登校したし―――と言うより早過ぎた感が否めないけど、忘れ物を取りに戻るぐらいの余裕はある。

 

「よしっ」

 

 駐輪場に自転車を置いてから、正面の校門を目指して歩き始める。普通なら東側の駐輪場から直接本校舎へ向かうところだけど、今日は折角の登校初日。どうせならと思い、私は一旦駐輪場を出て校門を通ることにした。

 辺りを見渡しながら歩を進めていると、校門の傍らに立つジャージ姿の女性に、目が止まった。先生、だろうか。少なくとも生徒ではないだろう。

 

「おはようございます」

「声が小さぁい!!」

「ひっ!?」

 

 朝の杜宮学園に、豪快な叫び声が響き渡った。近所迷惑にも程がある。思わず耳を塞いだ。

 腹の底から声を捻り出した女性は、腕を組ながら険しい表情で続けた。

 

「朝の挨拶は元気良くっ。さあ、もう一度・・・・・・うん?アンタ何年だい?」

「え、えっと。2年生、です。今日から、転入することに」

「ああ、アンタがB組の。道理で見ない顔だと思ったよ」

 

 女性は合点がいった様子で頷いてから、私に右手を差し出してくる。

 

「アタシはサキ。体育や運動部の顧問を担当してるんだ。宜しくお願いするよ」

「と、遠藤アキです。宜しくお願いします」

 

 差し出された右手に応えようとすると、どういう訳か空振りに終わった。

 サキ先生の右手は、私の右腕へ。握手を求めた右手が私の二の腕を掴み、モミモミと文字通り揉み始める。

 

「え、ちょ、あの」

「へえ、見掛けによらず・・・・・・いや、これは相当」

 

 続いて脇腹、腰回り、太腿、ふくらはぎ、最後に両の頬。サキ先生は存分に私の身体を味わってから、目を輝かせて私の肩に両手を置いた。

 

「うん、かなり鍛えてるじゃんか。アンタ前の学校で運動部に入ってただろ?」

「えーと・・・・・・その」

「この学園は運動部が盛んなんだ。その身体なら何処に入ったって通用するよ。新戦力間違いなし、アタシも大歓迎さ」

 

 サキ先生は力強く私の背中を叩きながら言った。すごく痛い。 

 何だかこのままでは勝手に話が進みかねない。ここはしれっとやり過ごした方が良い。

 

「あの、私はこれで」

「ちょい待ち」

「はい?」

「挨拶」

「っ・・・・・・お、おはようございますっ!!」

「そうそう、やればできるじゃないか。それでこそアスリートってモンだ」

 

 私、この学園で上手くやっていけるのかな。

 漠然とした不安を胸に、私は足早に本校舎を目指して歩き始めた。

 

________________________________________

 

 下ろし立ての上履きに若干の違和感を抱きながら、職員室へ向かう。

 登校したらまずは職員室へ来て欲しいと、担任の九重先生から言われていた。それに今の私は自分の席どころか、教室が何処かさえ分からないのだ。

 

「し、失礼します」

 

 両手の荷物を一旦床へ置き、ノックをしてから職員室の扉を開ける。

 すると入り口から一番近い席に座る、初老の男性と目が合った。二日目にもここで顔を合わせた、教頭のシオカワ先生だった。

 

「君は・・・・・・えーと、遠藤君だったかな」

「は、はい。その、九重先生はどちらに?」

「あれ、遠藤さん?」

 

 声に振り返ると、私よりも一回り背の低い九重先生が、書類の束を抱えて立っていた。

 私は平均身長程度の筈なのに、本当に小さいのだ。しかも可愛い。この人の愛くるしさは小動物を連想させる。初めて会った時に思わず目を瞬いてしまったのをよく覚えている。

 九重先生はデスクに書類を置いてから、私と朝の挨拶を交わした。

 

「随分と早く来たんだね。まだ7時半だよ?」

「ご、ご迷惑でしたか?」

「あはは、そんなことないってば。うーん、でもどうしよっかなぁ」

 

 九重先生は今朝の予定を掻い摘んで説明してくれた。

 8時15分に、職員室では定例の朝礼が行われる。その後予鈴が鳴ったら先生と一緒に教室へ向かい、朝のSHRで皆に挨拶をする。要するに、あと1時間近くの余裕がある。やはり少し早過ぎたらしい。

 

「時間まで学園の中を見て回って来てもいいし、ここで待っててもいいよ。どうしよっか?」

「じゃあ、待たせて貰います」

 

 案内されたのは職員室の一画、お客さん用の応接スペースと思われる場所だった。

 ソファーに荷物を置いて腰を下ろすと、九重先生は小走りでデスクに向かい、パソコンのキーを叩き始めた。

 まだ始業時間前の筈なのに、やけに忙しそうに見える。まだ新任の身だと本人から聞いていたけど、背格好を除けばベテランの雰囲気すら感じられた。

 

(そ、それにしても)

 

 何というか、居心地が悪い。朝の職員室独特の空気と静けさが、形容し難い居辛さとなって圧し掛かってくる。こんなことならもっと遅く登校すれば良かった。

 後悔しながら肩を落としていると、私が通った入り口とは反対側の扉が開かる。その向こう側に立っていた女性に―――思わず、目を奪われてしまった。

 

「おはようございます、九重先生」

「おはよう柊さん。柊さんも早いね、どうしたの?」

「今日は私が日直なので。でも、私『も』とは?」

 

 柊さんと呼ばれた女子生徒は九重先生とやり取りをした後、視線を私へ向けた。

 私が勢いよく立ち上がると、柊さんは笑みを浮かべて声を掛けてくれた。

 

「貴女が遠藤さんね。初めまして、同じ2年B組の柊明日香です」

「こ、こちらこそ。遠藤アキです。宜しくお願いします」

 

 腰元まで届く細髪。透き通るような肌と、心地の良い透明な声。何て綺麗な人だろう。

 それに一見細身であるように映る一方で、よくよく見ると屈強な身体付きであることが窺えた。サキ先生じゃないけど、見れば分かる。相当に鍛え込んでいる筈だ。

 

「どうかした?」

「え?ああ、いえ。な、何でもないです」

 

 しどろもどろになりながら答えると、柊さんは私の隣、ソファーへ座った。私もそれに倣い腰を下ろす。

 

「一応B組のクラス委員長を務めさせて貰っているわ。初めは色々やり取りをすることがあると思うし、分からないことがあったら何でも聞いてね」

「は、はい」

「とは言っても、答えられるかどうか分からないけれど。私もこの4月に転入したばかりだから」

「え・・・・・・そうなんですか?」

「ええ。私、帰国子女なの」

 

 帰国子女。知ってはいたけど、聞きなれない言葉に理解が遅れてしまった。

 柊さんは杜宮市へ来る前は、米国で暮らしていた。家庭の事情で日本へ帰国する際に、転入先として候補に上がったのが、この杜宮学園だったそうだ。

 私も同じような身だったからこそ理解できる。転入生や帰国子女の受け入れ体制は、私立公立は勿論、都道府県や学校の方針によっても大きく異なっている。所謂ピンキリなのだ。

 この点で言うなら、杜宮学園は日本でも有数の高校。柊さん以外にも帰国子女が在校しており、外国からの留学生もいるらしい。

 

「あれ・・・・・・転入したばかりで、クラス委員長になったんですか?」

「フフ、何かしら得難い経験があると思って。みんなも推してくれたから、自然とね」

 

 サラリと言ったけど、転入して早々に委員長を任せられるなんて、それはもしかしなくとも凄いことだろうに。

 多分柊さんは周囲からの信頼が厚い、とても優秀な生徒なのだろう。初対面だというのに、こうして話していても不思議と緊張感が無い。私にとっては、これは信じられないことだ。

 ここへ来てくれたことだって、私を気遣ってくれたのかもしれない。確信は無いけど、良い人だ。眩しいくらいに。

 でも―――

 

「・・・・・・気のせい、かな」

「え?」

「いえ、何でもないです。えと、日直って言ってましたけど、そっちはいいんですか?」

「もう一通り済ませたから大丈夫よ。ちょうど時間を持て余していたところだから、話し相手になってくれると助かるわ」

 

 うん、気のせい。良い人だ、途方も無く。

 

_______________________________________

 

 チョークを使い、黒板へ『遠藤亜希』の名を綴る。緊張のせいかやや不格好になってしまったけど、今は読めればいい。

 最後の一文字を書き終え、手に付いた白い粉を払ってから振り返る。三十人超の視線を一手に注がれると、胸の鼓動が再び高鳴り、声が詰まってしまう。

 

「ふ、伏島から来た、遠藤アキです。宜しくお願いします」

「遠藤さんは以前杜宮に住んでいたけど、小さい頃の話だから色々と不慣れなことが多い筈です。みんな、仲良く親切にしてあげてね」

 

 九重先生が私に続くと、一斉にそこやかしこから潜め切れない声が溢れ出てくる。

 聞き耳を立てなくても、大体が耳に入ってくれた。

 

(地元の訛りとかは無いみたいね。伏島って言ったかしら)

(この時期に転入か。何か訳有りっぽくね?)

(おいおい、結構可愛いじゃん。俺タイプかも)

 

 大半が耳に入ってくれなくていいものだった。当たり前と言えば当たり前の印象なのだろう。一部を除いて。

 正面を見ることができず俯いていると、九重先生が再び皆へ声を掛ける。

 

「まだ時間があるね。遠藤さんに何か質問がある人はいるかな?」

 

 やはりそんな流れになるのか。予想はしていたけど、勘弁して欲しい。

 余り嬉しくない九重先生の言葉に、元気良く右手を掲げた生徒がいた。一番後ろの列に座る、短髪の男子生徒だった。

 

「はいはーい!遠藤さんって、付き合ってる人とかいますか?」

「い、いません」

「じゃあ募集とかしてますかー?」

「し、してませんっ」

 

 もしかしたら聞かれるかもと想定していた質問達の、最後尾。昨晩に身の程知らずな不安を抱いたおかげで、何とか即答することができた。

 すると今度は周囲の女子生徒が、冷ややかな声を浴びせ始める。その矛先は、今し方に声を張った男子生徒に向けられた。

 

「ちょっと伊吹。そういうのは止めなさいって言ったでしょ。遠藤さん困ってるじゃない」

「柊さんの時も同じ質問してたよね」

「デリカシー無さ過ぎ」

「最低」

 

 妙に息の合った鋭い非難轟々に、伊吹君は気まずそうに席へ着いた。

 そこまで言わなくてもいいと思うけど。何だかこちらが謝りたくなってくる。

 意気消沈した伊吹君を眺めていると、その前の席に座る男性生徒と視線が重なった。

 

「あっ・・・・・・」

 

 声を漏らすと、時坂君は左手を少し上げて応えてくれた。

 彼も同じB組だと言っていたことをすっかり忘れていた。たったの一度切り、偶然の出会いだったけど、見知った顔があったというだけで安心感がある。

 私達のそんなやり取りに目が止まったのか、九重先生が言った。

 

「あれ?コウ・・・・・・コホン。時坂君、遠藤さんと知り合いだったの?」

「いや。昨日バイト先で偶々会っただけッスよ」

「へえ、そうだったんだ。じゃあ時坂君、何か質問してちょうだい」

「は?俺?」

 

 何が『じゃあ』なんだよ、と言いたげな表情を浮かべる時坂君。

 そういえば昨日、時坂君は九重先生を「とわねえ」と呼んでいたか。何気ない会話の中にも、生徒と教師の関係とは異なる類の親密さがあった。どんな関係なのだろう。

 いやそれより、お願いだから当たり障りの無い物を。念を送っていると、時坂君は後ろ頭を掻きながら立ち上がる。

 

「あー、そうだな。なら杜宮の、どの辺に引っ越して来たんだ?」

 

 いい感じに無難な質問だった。

 ホッと胸を撫で下ろして答えようとしたところで―――戸惑いを覚える。

 一つ深呼吸を置いて頭の中を整理してから、用意していた返答を思い出しながら答えた。

 

「商店街の外れにある、『ガーデンハイツ杜宮』っていうアパートです。一人暮らしをしています」

「一人?あれ、そうなのか?」

「市内の東部にお母さんの実家があって、お母さ・・・・・・か、家族はそっちに。学校からは少し遠いし、勉強になると思って一人暮らしを始めました」

「ふーん。慣れない土地で一人暮らしって、何かと大変なんじゃねえか?」

「・・・・・・多少は」

「そっか。まあなんだ、何か困ったことがあったら言ってくれ。大体は答えられると思うぜ」

「は、はい。ありがとうございます」

 

 時坂君にお礼を言うと、再度女子生徒らが矢継ぎ早に声を揃えた。

 

「伊吹。ああいうのでいいのよ、ああいうので」

「時坂を見習いなさい」

「本当にスンマセンした!!」

 

 ごめんなさい、伊吹君。胸の内で謝っていると、SHR終了を報せるチャイムが鳴った。

 

______________________________________

 

 教室には最前列と最後列に二つの空席があり、どちらか好きな方を選んで構わないと、SHR終了後に九重先生から選択肢を渡された。

 私は迷わずに後ろの空席を選んだ。視力は両目共に1.2あるし、何より身を潜められるのだから即決だった。

 何はともあれ、一時限目は英語。得意な科目ではあるけど、転入した今となっては気合いを入れなければならない。以前にいた高校とは教科書もカリキュラムも違うのだ。あの難易度の転入試験を通過した自分を、今でも褒めてあげたい。

 

「遠藤さん、でよかったよね」

「え?」

 

 机上に教科書やノートを並べていると、右隣の席から声を掛けられる。

 あどけない顔立ちと整った髪型、男子らしからぬ美声が、中性的な魅力を惹き立てる。柊さんの時と同じくして、思わず目が釘付けになってしまう。

 男子ですよね、などという失礼極まりない言葉を飲み込んでいると、男子生徒は苦笑いを浮かべて言った。

 

「僕は小日向純。さっきはごめんね、リョウタ・・・・・・友達が変なこと聞いちゃって」

「い、いえ。き、気にしてませんから」

 

 小日向君の視線を追うと、時坂君と一緒に教室を出て行く伊吹君の姿があった。

 気の置けない間柄なのだろう。伊吹君が何かを言うやいなや、時坂君の右肘が伊吹君の脇腹へと突き刺さり、身体がくの字に折れ曲がった。何て容赦無い。

 

「フフ、でも気を悪くしないで欲しいかな」

 

 すると今度は、小日向君の前の席に座る女子生徒。倉敷栞と名乗った女子生徒の声は、他人に癒しを与えそうな程におっとりとしていた。「シオリでいいよ」という何の変哲も無い一言に、和んでしまいそうになる。

 

「あれもリョウタ君の良いところではあるんだよね。ちょっと伝わり辛いけど」

「・・・・・・大丈夫です。それぐらいは、私にも分かります」

「え?」

「おかげ様で、少し緊張も解れましたから」

 

 私が言うと、小日向君とシオリさんはキョトンとした表情で、お互いの顔を見つめ合った。

 何か変なことを言っただろうか。不安がっていると、二人は大きな笑い声を上げ始める。

 

「あはは。アキちゃんって、人を見る目があるって言われたことないかな?」

「え、えーと・・・・・・」

 

 よく分からないけど、私にとってはシオリさんに『アキちゃん』と呼ばれたことの方が大きかった。どうも彼女の声は良い意味で耳が痒くなる。こんな声は初めてだ。

 私も釣られて小さく笑うと、小日向君が教科書を捲りながら、私の席の方へ身体を寄せた。

 

「遠藤さん、授業の進み具合とかは聞いてる?」

「あ、はい。大まかにだけ、ですけど」

「なら僕が教えてあげるよ。コウも言ってたけど、分からないことがあったら何でも聞いてくれていいからね」

「は、はい」

 

 目を閉じて、覚え立ての名前を頭の中で反芻する。時坂コウ。柊アスカ。伊吹リョウタ。小日向ジュン。倉敷シオリ。

 分からないことだらけの登校初日。私なりに頑張ってみよう。まだ授業も始まっていないけど、少しだけ肩の力が抜けたような気がした。

 

_______________________________________

 

 午後12時50分、昼休み。

 

(つ、疲れた)

 

 本当に疲れた。午前最後の授業が終わった途端、そのまま机へ突っ伏してしまった。

 初日なだけあって先生に当てられることはなかったけど、それにしても疲れた。考えてみれば、学校の授業を受けるのは実に一ヶ月振り。終始緊張しっ放し、きりきり舞いだった。

 胃袋も空腹を訴えている。そろそろ何か食べないと、お腹と背中がくっ付いてしまいそうだ。

 

「わあ。それ遠藤さんが作ったの?」

「へ?」

 

 ランチボックスからサンドイッチを取り出していると、一人の女子生徒が声を掛けてくる。

 今日はチーズや野菜を使ったオーソドックスなサンドと、昨晩タマキさんが差し入れてくれたコロッケの残りを挟んだ物を持参していた。

 

「すごく綺麗にできてるわね。お店に並んでるサンドイッチみたい。もしかして料理が得意だったりする?」

「りょ、料理はそれ程。その・・・・・・両親が、ベーカリーをやっていたので。私も、手伝いとかは」

「ベーカリー?え、パン屋さんだったの?」

 

 驚きの声を皮切りに、周囲から女子生徒らが私の席へと集まってくる。わらわらと、続々と。

 あっという間に、複数の好奇の眼差しによって囲まれてしまった。

 

「そうだったんだ。じゃあ、遠藤さんもパン作れちゃうの?」

「え、えと。せ、設備があれば」

「うわー、本当に作れるんだ。食パンも焼けたりするの?あの四角いやつ」

「あの、は、はい・・・・・・っ」

「すごいすごい、本物の職人じゃん!」

 

 皆の声が弾むと共に、一気に胸が締め付けられ―――息が、止まった。

 名前も知らない同級生の、複数の視線。「大丈夫かも」と油断していたせいで、余計に深く突き刺さってくる。どうしようもなく、怖い。

 駄目、やっぱり無理だ、やめて。お願いだから、早く終わって。

 

「ほらほら、その辺にしてあげたら?遠藤さん、手が止まっているじゃない」

 

 柊さんの声が聞こえた瞬間、視線が四散して、消えた。

 強張っていた身体が緩み、手にしていたコロッケサンドを落としそうになる。

 

「お昼休みも残り少ないし、ランチの邪魔をしては悪いわよ」

「あれ、もうそんな時間?」

 

 時計を見ると、いつの間にか昼休みは残り10分を切っていた。授業の後に結構な時間机に突っ伏していたせいか、私も気付いていなかった。

 集まっていた女子生徒らは「また今度聞かせてね」と、それぞれの席へと戻っていく。柊さんだけが、苦笑をして残っていた。

 

「私、ランチは一人派なの。遠藤さんもそうなのかしら」

「あっ・・・・・・その」

「フフ、気にしないで」

 

 情けなさで胸が一杯になる。『ありがとう』が『ごめんなさい』で掻き消されてしまった。

 すると柊さんは、遠い何かを見詰めるような表情を浮かべて、言った。

 

「それに、何となく分かるわ。そういうの」

「・・・・・・柊さん?」

「ううん、何でもないの」

 

 何だろう。今日知り合ったばかりだけど、今の柊さんの表情に、妙な引っ掛かりを覚えた。

 柊さんはそんな私の胸中を知ってか知らずか、それ以上掘り下げようとせず、話題を変えた。

 

「食べながらで構わないから、今のうちに聞いておくわね。遠藤さん、部活動をどうするかは決めているの?」

「部活・・・・・・ですか」

「入部には申請書を書く必要があるから、もし入りたい部活があったら私に言ってね」

 

 部活動。考えはしたし、どんな部があるかは九重先生から聞いている。サキ先生も運動部が盛んだと教えてくれた。

 正直に言って、迷っている。どの部に入ろうかで迷っているのではなく―――分からないのだ。自分がどうしたいのかが、分からない。それに、アルバイトの件もある。

 

「・・・・・・柊さんは、何部なんですか?」

「私?私はクラス委員の仕事もあるから入っていないわ」

「あれ、そうなんですか?」

「ええ。無所属の生徒は結構多いのよ」

 

 これは意外だった。身体付きから考えて、運動部に所属しているとばかり思っていた。

 なら、部活動以外で何かやっているのだろうか。想像してコロッケサンドを頬張っていると、遠方から『パァン』と乾いた音が聞こえてくる。

 

(あっ)

 

 聞き間違える筈がない、この独特の打球音。硬式ではない、軟式のそれ。

 私はコロッケサンドを置いて、音の出所へ向かって歩を進めた。

 

「と、遠藤さん?」

 

 本校舎の南、広大なグラウンドの西側。教室の窓越しに、ラケットを振るう二人の女子生徒が映った。距離が離れているせいで、音は遅れて聞こえてくる。それでも、力強い打球音はしっかりと耳に入っていた。

 私は食事中であることも忘れて、コートを行き来するボールを見詰め続けていた。

 

 



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5月1日 ガーデンハイツ杜宮

 

 時が経つのは早いもので、今日は五つの休日が連なるゴールデンウィークを間近に控えた、5月1日。杜宮学園へ転入してから二回目の金曜日の放課後、私は第二校舎北側にある図書館に来ていた。

 想像していた通り、毎日の授業は付いて行くだけで精一杯。転入直後は苦労が多いそうだけど、今の環境に不慣れなことも相まってか、落ち着かない日々が続いていた。放課後はこうして図書館に通い、予習復習に時間を費やすのが常になっていた。

 

「ふう」

 

 ペンを置いて頭上を仰ぎ、小さく溜め息を付く。

 この図書館は敷地前の道路と面している一方で車の通りは少なく、心地良い静けさが保たれている。メイングラウンドからも離れているから、運動部の声や音も届かない。自主学習には打って付けの場所だ。

 今現在館内には私を含めて四人。うち一人は図書館の管理を担当する教職員、コマチさん。以前にいた高校にも当然図書館はあったけど、設備としての充実度は雲泥の差だ。少なくとも専属の司書なんていなかったと記憶している。品揃えの評判も良いそうで、常連のシオリさん曰く、宝の山だそうだ。

 

「ふあぁ・・・・・・」

「フフ、今日も頑張っていますね」

「は、はい?」

 

 欠伸を噛み殺していると、数冊の本を抱えたコマチさんの姿が背後にあった。

 初めて訪れた際に挨拶はしたし、本は借りないけど私も常連者になりつつある。コマチさんは度々声を潜めて労いの言葉を掛けてくれることがあった。

 

「でも少し疲れているんじゃないですか?自主学習は立派ですけど、根を詰め過ぎては駄目ですよ」

「いえ、大丈夫です。それに今日は早めに切り上げようと思っていたので―――」

 

 小声で返していると、鞄に入れていた携帯電話がチカチカと点滅しながら振動を始める。ディスプレイには『タマキさん』の名が表示されていた。

 私は「すいません」と一言置いてから、携帯を手に一旦図書館の外へ出て、通話ボタンを押した。

 

「はい、アキです」

『おっつー、タマキだけど。今何処にいるの?』

「学校の図書館ですよ。そろそろ下校しようと思ってました」

『そっか。急なんだけどさ、今夜は暇?』

「暇・・・・・・まあ、特に予定は無いです」

『うんうん、なら決まりね。今日はパーッとやりましょ、パッーと』

 

 首を傾げて聞き返すと、タマキさんは声を弾ませて詳細を教えてくれた。

 今晩は私、遠藤アキの『歓迎会』。ガーデンハイツ杜宮の住民数名が集まり、私の転入と入居を祝う催しが開かれるらしい。タマキさんが前々から段取りを組んでいて、周囲に声掛けをしていたそうだ。

 完全に初耳だった。確かに急だけど、余りに急すぎる。

 

「と、突然言われても」

『大丈夫大丈夫、みんな良い人だしね。数もそんな多くないし、たまには外で飲まないと溜まる一方よ』

「私は未成年です」

 

 私の声を意に介さず、タマキさんが強引に押し切ってくる。

 突然の誘いに戸惑いはあるけど、無下に断る訳にはいかない。当の私が不参加では決まりも悪過ぎる。わざわざ音頭を取ってくれたのだから、ここは有難く誘いに乗るとしよう。

 

「分かりました。それで、私はどうすればいいですか?」

『アキは一度帰って着替えるといいわ。参加者の一人に声を掛けてあって、場所もその子に伝えてあるの。アパートで落ち合える筈だから、一緒に来てよ』

 

 参加者の一人、か。誰のことだろう。住民のほとんどは女性と聞いているけど、見知らぬ人と一緒にというのは少し気が進まない。なんて言っても仕方ないか。

 私はタマキさんとの通話を切って、二つ折りの携帯を上着の中に入れた。

 

_______________________________________

 

 ドアを施錠してから、鍵を肩掛けの鞄の中に入れる。

 特に入り用の物は無いと思い、持ち物は必要最低限。服装は白のブラウスに七分丈のパンツ、夜はまだ冷えるから紺のジャケットを上に羽織っていた。少し地味だけど、これぐらいが私には合っている。

 

「・・・・・・どうしよ」

 

 階段を下りながら、タマキさんの言葉を思い出す。

 私はこれからどうすればいいのだろう。参加者の一人と落ち合える筈だそうだけど、少なくとも今は私一人だ。場所も分からないから動きようが無い。とりあえず、表で待っていればいいか。

 アパートの前で髪先を弄っていると、後ろからガチャリとドアが開く音が聞こえてくる。

 

「あっ」

「え?」

 

 声に振り返るやいなや―――ものすごい勢いで、走り寄られた。

 今の今まで、すっかり忘れていた。私が借りている部屋の真下には、4月から同じ杜宮学園の女子生徒が住んでいたっけ。一週間前に見掛けたばかりだというのに。

 

「あなたがアキ先輩ですねっ!」

「えと、はい。と、遠藤アキです」

「やっとお会いできました。私、101号室の郁島空です。宜しくお願いします、先輩!」

 

 郁島ソラと名乗った女の子は屈託の無い笑みを浮かべ、目を輝かせて言った。

 思わずたじろいで、視線を反らしてしまう。

 

「あれ、どうしたんですか?」

 

 落ち着け。私を先輩と呼ぶのだから、彼女は一年生なのだろう。同年代だけど、苦手とする同級生ではない。後輩だから大丈夫。うん、問題無い。

 胸中で言い聞かせてから、コホンと咳払いを置いて答える。

 

「えーと。タマキさんが言っていた『参加者』って、郁島さんのことかな?」

「はい。アキ先輩のことはタマキさんから聞いていましたし、先輩をお連れするようにとのことでしたので。早速向かいますか?」

「あ、うん。私は準備できてるよ。じゃあ行こっか」

 

 鞄の中から自転車の鍵を取り出す。一方の郁島さんは、道のど真ん中で屈伸運動を始めていた。

 訝しんでその様を見詰めていると、郁島さんはハッとした表情で言った。

 

「ああ、アキ先輩は自転車を使って下さい。私は走ります」

「走るって・・・・・・場所は何処なの?」

「お店は駅前のビルにありますよ。食前の軽い運動にちょうど良い距離なので」

 

 ここから駅前。学園程離れてはいないにせよ、結構な距離がある。少なくとも徒歩で行こうという発想には至らない。本当に走って向かうつもりだろうか。

 

「か、帰りはどうするの?」

「走りますよ?食後の運動ってやつです」

 

 当たり前のように答えながら、準備運動を続ける郁島さんがいた。よく分からないけど、要するにスポーティな外見そのままの女性なのだろう。

 猫のような小顔とは裏腹に、四肢は柊さん以上に鍛え抜かれている。日焼けとは程遠い透明感のある白い肌が、やや不釣り合いとさえ思えてしまう。何かしらスポーツをしているようだけど、屋内系だろうか。

 ともあれ、確かに軽い運動にはちょうど良い距離ではある。最近は日課のトレーニングに中々時間を割けていなかったし、郁島さんに付き合うというのも悪くない。

 

「じゃあ、私も走ろうかな」

「え?いえ、お気遣いなく。無理に付き合って頂かなくても」

「ううん、そうじゃなくって。最近は体育の授業ぐらいでしか身体を動かさなかったから、鈍りがちだったんだよね。付いて行けるかどうか分からないけど、いい?」

 

 私が問うと、郁島さんは「勿論です!」とやけに声を張って答えてくれた。

 私は一旦部屋へ戻り、動きやすいスニーカーに履き替えてから、郁島さんと一緒に駅前を目指して走り始めた。

 

________________________________________

 

 駅前へ向かう道すがら、私達は改めて自己紹介を交わした。

 郁島ソラさん、15歳。小学生の頃までこの杜宮に住んでいて、中学校に上がる前に家族で玖州へ引っ越した。今年の4月に入ってから杜宮学園へ進学すると共に、私と同じガーデンハイツ杜宮で一人暮らしを始めた。

 お父さんは古流空手とやらの師範をしていて、郁島さんも物心付いた頃から空手と共にある生活を続けてきた。杜宮学園でも空手部に所属、日々鍛錬を積んでいるらしい。今日まで顔を合わせたことが無かったのも、朝練や部活動の影響で登下校の時間がずれていたことが原因のようだ。

 

「杜宮学園へ入ったのも修行の一環なんです。『郁島流を極めんとするならば、若いうちに見分を広め、己が修行の場を見い出すべし』。そうお父さんに勧められたので」

「そ、そうなんだ」

 

 お互いに似た境遇にありながら、杜宮へやって来た経緯が私とはまるで異なっていた。

 というか修行の一環で上亰するって何。現実味が薄すぎて理解が追い付かない。どんな世界だ。

 半ば呆れていると、郁島さんの口からクラスメイトの名が飛び出てくる。 

 

「コウ先輩から聞きました。アキ先輩は、コウ先輩と同じクラスなんですよね」

「コウ・・・・・・ああ、時坂君?時坂君と知り合いなんだ」

「はい。杜宮にいた頃は、何度か一緒に稽古を付けて貰っていたんです。私にとっては兄弟子のような人でした」

「兄弟子?あれ、時坂君も空手をやってたの?」

「空手ではないですけど、九重流柔術っていう古武術を宗家のお祖父さんから教わっていましたよ。商店街の近くに神社がありますよね?敷地内に道場があって、私も最近通ってるんです」

 

 神社に併設されている道場。古武術。九重の姓。昔ながらの付き合い。・・・・・・うん、何だかこんがらがってきた。一度整理しよう。

 確か九重先生は、休日に九重神社の巫女をしているという話だった。時坂君とは従姉の関係なのだから、お祖父さんは両者にとっての祖父に当たる。時坂君と郁島さんは、そのお祖父さんに師事していた。こんな感じか。

 それにしても、時坂君が武術を習っていたというのが驚きだった。しかも郁島さんにとっては兄弟子。意外なところに繋がりがあるものだ。

 

「じゃあ完全に新生活って訳でもないんだね。中学に上がる前ってことは、杜宮は三年振りぐらい?」

「ですね。何人か知り合いはいますし、トワ先生や■■■先輩も私のことを覚えてくれていました」

 

_______________________________________

 

「ですね。何人か知り合いはいますし、トワ先生やシオリ先輩も私のことを覚えてくれていま・・・・・・ご、ごめんなさい、速かったですか?」

「っ・・・・・・ううん、そうじゃなくって」

 

 知らぬ間に、駆けていた筈の足が止まっていた。肩で息をしてはいるけど、余力は十二分に残っているというのに。

 今の違和感は何だろう。既視感に近いけど、違う。何かが違った。全身に浮かび始めていた汗が、一気に冷えたそれへと変わっていた。

 私は深呼吸をしてから、不安気な表情で私を見詰めていた郁島さんに言った。

 

「何でもないよ。郁島さん、少しペースを上げよっか」

「それは構いませんけど・・・・・・大丈夫ですか?な、何だか顔色が優れないような気が」

「逆に遅過ぎたのかも。郁島さんもかなり抑えて走ってるでしょ」

 

 考えるのは止そう。分からないけど、考えても仕方ないことだけは不思議と理解できた。

 郁島さんは多少怪訝そうな顔をしてから、首を縦に振った。

 

________________________________________

 

 向かった先は、杜宮駅前のビルにある居酒屋。入り口から程近いテーブル席に、タマキさんを含め四人の女性が座っていた。

 着いて早々「飲み物は何にする?」というタマキさんの問いに、私とソラちゃんは「水で」と答えた。

 

「じゃあ二人揃って全力疾走してきた訳?」

「はい・・・・・・つ、疲れました」

「わっかいねぇー。流石現役の女子高生は違うわ」

 

 ソラちゃんに釣られて本気で走ってしまっていた。一週間のお勤め最終日ということも相まってか、疲労が肩に重く圧し掛かってくる。明日は筋肉痛に悩まされるかもしれない。

 運ばれてきたグラスの水を一気飲みしていると、私の隣に座ったソラちゃんが髪を整えながら言った。

 

「でもすごいです。コウ先輩も言ってましたよ。体育の授業が持久走の時、アキ先輩は運動部の生徒よりも速かった、すごい奴だって」

「あ、あはは。時坂君、そんな話をしてたんだ」

 

 それを言うなら、二番手の私と大差を付けて断トツだった柊さんの方がすごい。

 ソラちゃんも柊さんのことは知っているらしい。容姿端麗に成績優秀、文武両道ともなれば、学年を問わず全生徒の注目の的になるのも当然だ。ああいう人は創作上にしか存在しないと思っていた。

 

「さてと。全員揃ったし、改めて乾杯するわよ。二人共、注いであげるからグラスを持って」

「タマキさん、ビールを注がれても困ります」

「形だけだってば。アタシらが飲むわよ」

 

 意気揚々と瓶ビールをグラスへ注ぐタマキさん。色々と問題がある光景だけど、私服だし見られても追及はされないだろう。

 テーブルには既に色取り取りの料理が並べられていて、文句無しのご馳走に思わず喉が鳴った。

 

「アキの転入とソラちゃん完全復活を祝して、カンパーイ!」

 

 六つのグラスがテーブルの中央で合わさると同時に、首を傾げてしまった。隣を見ると、ソラちゃんは「最近色々ありまして」と苦笑いをしながら答えた。

 言われてみれば、一週間前に彼女を見掛けた際、見るからに憂鬱そうな表情を浮かべていたか。気にはなったけど、まあ色々とあったのだろう。今は触れないであげた方が良い。

 視線を前に移すと、知らない顔ぶれがズラリ。タマキさんとソラちゃんを除いて、三人の女性がビールで喉を潤していた。とりわけ目を惹いたのは、一目で日本人ではないと分かる、ブロンドの女性だった。

 

「先に自己紹介を済ませた方がいいわね。アイリ、いい?」

 

 アイリと呼ばれた女性と視線が重なると―――紫色に光る瞳に、吸い込まれてしまいそうな感覚に陥る。

 以前テレビ番組で見たことがある。ヴァイオレットの瞳を持つ人間は、世界的に見て全人口の僅か2%、1000万人に一人。実際に見ることは叶わないと思っていた瞳が、眼前にあった。

 

「大学生のアイリです。ポーランドから東亰にある大学へ留学して、杜宮には今年に入ってから来ました。専攻は民俗学が中心ですね」

「東亰にある大学じゃなくて、東亰大学でしょ」

「と、東大生?」

 

 東亰大学。詳細を聞くまでもなく、日本を代表する国立大学だ。1000万人に一人の、東大留学生。あの柊さんをも上回る、超然としたオーラを感じた。

 それにポーランドからということは、タマキさんのポーランドビールブームの火付け役は彼女のことなのだろう。三つ隣と言っていたから、204号室の住民か。

 

「あれ・・・・・・でも東亰大学って、ここから結構離れていませんか?」

「そうですね。電車の移動だけでも一時間近くは掛かります」

「え、えーと」

「私は杜宮にずっと憧れていたんです。日本を知る為のフィールドワークには、打って付けの地ですから。移動も慣れてしまえば、それ程苦労しませんよ?」

 

 アイリさんはポーランドの大学で日本文化に触れ、日本語も母国で学んだそうだ。端々に独特のイントネーションはあるけど、相槌一つ取っても言葉選びに違和感が微塵も無い。堪能と言っていいレベルだろう。

 寧ろ杜宮に対する憧れとやらの方が気になる。様々な顔を持つ中核都市として有名ではあるし、最近はご当地キャラが全国区になりつつあるけど、言う程の魅力があるのだろうか。

 多少の疑問は残る一方、日本に関心を抱いてくれているという点で言えば、とても好意的に思えた。

 

「宜しくお願いしますね、アキさん」

「は、はい。宜しくお願いします」

 

 アイリさんと挨拶を交わし、彼女の隣に座るスーツ姿の女性へ視線を移す。

 女性はひどく不機嫌そうな顔で、ビールを呷っていた。アイリさんとは対照的に、負のオーラが全身から滲み出ていた。怖い。

 どういう訳か、代わってタマキさんが言った。

 

「こっちはシホ。アタシと同い年のOL。駅前の『さくらドラッグ』でサプリメントやらダイエットサポートやらを買い漁ってる女がいたら、大体コイツよ」

「は、はぁ」

 

 スーツ姿ということは、仕事帰りに直接来たのだろう。虫の居所が悪そうなのも、仕事で疲れているから―――ではなくて、そういう類の物ではないことだけはよく分かった。

 

「ちょっとシホ、今度は何なの?」

「べっつにー。職場の後輩が『結婚します』なんてクソどうでもいい妄想を垂れ流してきたから、どうやって呪ってやろうか考えてただけよ」

「どうでもいいけど釘を使う系はやめて。近隣住民を敵に回すから」

「フフ、シホさんのおかげで日本の呪術を沢山知ることができました。大学で提出したレポートも高評価でしたよ」

 

 底無しに恐ろしい会話だった。成り立ってはいけないやり取りが成り立ってしまっている。ソラちゃん曰く「いつもこんな感じです」らしい。何て広い心の持ち主だろう。

 逃げるように、三人目。シホさんの隣に座る女性を見ると、女性はテーブルの端に置かれていたお品書きを手に取って、私とソラちゃんへ差し出してくる。

 

「二人共、何か頼む?遠慮はしなくていいから、好きな物を言ってね」

「あ、どうも。じゃあ、ジンジャーエルを」

「私も同じのお願いします」

 

 私とソラちゃんが言うと、女性は呼び出し用のパネルを押してくれた。

 女性の名前はトモコさん。外見はおっとりとした雰囲気で、アイリさんが柊さんなら、トモコさんはシオリさんを連想させた。

 勤め先は杜宮市のランドマークとして有名な、あの『アクロスタワー』。様々な商業、文化施設で賑わう中、トモコさんは一階にある販売店の管理を担っているそうだ。

 

「私、モリマルが大好きでね。アキちゃんは知ってる?」

「あ、はい。ご当地ゆるキャラのあれですよね」

「そうそう!杜宮市広報大使兼三多摩ウド農家連合会顧問役のモリマル!」

 

 早口言葉的な何かが聞こえた気がするけど、多分気のせいだろう。

 モリマルは杜宮を代表するマスコットキャラクター。最近は色々なメディアで目にすることが多く、テレビCMにも出演したりと各所で引っ張りだこ。

 可愛らしいキャラではあるけど、私には今一人気の要因が分からない。が、トモコさんはモリマルに惹かれて杜宮へ引っ越してしまう程に、熱を入れているらしい。再び背筋へ悪寒が走った気がするけど、きっと気のせいだ。

 するとアイリさんが、トモコさんが手にしていたサイフォンを指差して言った。

 

「そういえばこの間、新作ができたって言っていましたよね」

「ええ、そうなの。今回も自信作よ」

「・・・・・・あの、新作って」

「モリマルが登場する短編小説を、web上で書いてるの。見てみる?」

 

_______________________________________

 

 

「んっ・・・・・・はぁ」

 

モリマルの愛くるしい指が、私の柔肌を―――

 

 

_______________________________________

 

「アキ先輩、この炒飯すっごく美味しいです!先輩も・・・・・・な、何ですか?」

 

 もぐもぐと炒飯を頬張るソラちゃんの肩に縋った。癒しを求めずにはいられなかった。

 このテーブルにはきっと悪い人はいないと思いたい。でも変人はいる。目が眩む程に。

 ソラちゃんが取り分けてくれた炒飯に手を付けていると、オーダー表を手にしたエプロン姿の店員さんが、テーブルへ歩み寄ってくる。私とソラちゃんは、驚きの声を上げた。

 

「大変お待たせしました。ご注文はっ・・・・・・あれ。ソラに、遠藤か?」

「あ、コウ先輩!」

「とと、時坂君?」

 

 もしかしなくとも、私のクラスメイト。時坂コウ君が、テーブルの脇に立ち尽くしていた。

 どうして彼がここにいる。今日もバイトとは言っていたけど、モリミィの販売員さんをしているとばかり思っていたのに。

 

「ああ、遠藤には言ってなかったっけ。俺って色々なバイトを転々としてんだ。モリミィもその一つで、今日はこの居酒屋のホール」

「そ、そうなんですか。で、でも高校生が居酒屋でアルバイトをしてもいいんですか?」

「問題はねえんだけど、イメージは悪いよな。できれば黙っといてくれると助かるっつーか。ソラも頼むわ、この通り」

 

 オーダー表を脇に抱え、両手を合わせて頼み込んでくる時坂君。

 別に言い触らそうなんてつもりは更々無いけど、こんな場所で彼と出くわすとは思ってもいなかった。高校生の身で様々なアルバイトに手を出しているというのも初耳だった。何か事情があるのだろうか。

 聞いてみたい衝動を抑えて、私はジンジャーエルを二つオーダーした。時坂君がテーブルを離れると、シホさんがワインをビールジョッキに注ぎながら言った。ワインってそういう飲み物だったっけ。

 

「バイト先を転々ねぇ。そういう男って大抵女癖が悪いのよ。あれも女子高生を取っ替え引っ替えしてるんじゃないの?いけ好かないわね」

「「それはないです」」

 

 私とソラちゃんの声が見事に重なった。

 時坂君とシオリさんの関係はクラスでも、と言うより学園内でも有名だ。家が隣同士で幼馴染、朝の登校は勿論のこと、何から何まで昔から一緒。何事も一緒。

 B組では完全に夫婦として扱われている一方で、当の時坂君は「別に普通だろ」の一点張り。シオリさんはあっけらかんと「コウちゃんは大好きだよ」と言ってのける。

 でも恋愛関係ではない。見ている側がもどかしさを覚えるぐらいなのに、恋愛関係ではない。

 大事なことを頭の中で反芻していると、タマキさんが私に言った。

 

「バイトっていえば、ねえアキ。結局どうするの?」

「・・・・・・その、やっぱりアルバイトを始めようと思ってます」

「え。アキ先輩、そうなんですか?」

「うん。この間申請書も提出したんだ」

 

 転入するよりも前から決めていたことだ。

 一人暮らしはタマキさんに勧められた結果とはいえ、私自身興味があったという経緯もある。生活費の全額は無理でも、ある程度は自分で自分の面倒を見たいと考えていた。

 ここ最近は放課後を自主学習に費やしていたから余裕が無かったけど、その甲斐もあって少しは落ち着きつつある。そろそろ頃合だろう。それに、身近に相談へ乗ってくれそうな人間もいる。

 

「お待たせしました、ジンジャーエルになります」

「あ・・・・・・と、時坂君っ」

 

 テーブルへジンジャーエルを下ろす時坂君に、改まった声で切り出す。

 いい機会だ。この場の勢いで、お願いしてしまえ。

 

「その、私、アルバイトを始めようと思っていて」

「バイト?もしかして、『モリミィ』のことか?」

「へ?」

 

 私に先んじて、時坂君が希望のアルバイト先を口にした。

 時坂君は空いたグラスや皿をトレーに移しながら続ける。

 

「以前店に来た時、募集のチラシを念入りに見てただろ。実家のパン屋を手伝っていたって話だし、そうなのかと思ってさ。違ったか?」

「っ・・・・・・い、いえ。違わないです」

「まだ募集はしてた筈だから、俺が取り次いでやるよ。少し待っといてくれ」

「えっ。い、今からですか?」

「こういうのは早い方がいいって」

 

 ポケットからサイフォンを取り出し、店の奥へ消えて行く時坂君。

 あれよあれよという間に、話が進んでしまった。勘が鋭い人だとは思っていたけど、まさかこんなことになるなんて。察しが良すぎではなかろうか。

 

「あはは、コウ先輩らしいですね。シホさん、見直してくれました?」

「フン。いい恰好してるだけじゃない」

「またそんなことを言う・・・・・・」

 

 シホさんの印象はともかく、これは期待していいかもしれない。

 意気揚々とフライドポテトを摘まんでいると、サイフォンを手にした時坂君がテーブル席へ戻ってくる。随分と早いお帰りだった。

 

「ワリィ。急だけど、明日って朝から空いてるか?」

「あ、明日ですか!?」

 

 時坂君が言うには、今現在モリミィは深刻な人手不足に陥っている。つい最近とある雑誌で取り上げられたことも相まって、嬉しい悲鳴が上がっているらしい。

 しかも明日から五連休、ゴールデンウィークに突入する。世間がお休みムードに包まれる一方で、サービス業を営む側からすれば一年の中でも随一の繁忙期。連休をどう過ごすかはお店によるけど、モリミィは稼ぎ時と見てフル稼働をするそうだ。

 

「経験者は大歓迎だってよ。まだ仮の採用だろうけど、どうする?」

「い、行きます。行かせて下さい」

「ならそう伝えとくぜ。朝の7時って言ってたから、店の前で集合でいいか?」

「は、はい。分かりました」

 

 パン屋の朝が早いのはいつの世も同じ。私にとっては慣れっこだ。

 そうと決まれば今日は早めに休んで―――え、集合?

 

「あの、時坂君も来るんですか?」

「初日だから、見知った顔があった方が遠藤も気が楽だろ。あれ、逆だったか?」

「い、いえ」

「っとと、そろそろ行かねーと。じゃあ明日な」

 

 厨房の中から呼ばれた時坂君は、足早にテーブル席を後にした。

 時間にして僅か五分にも満たない間に舞い込んだ、念願のアルバイト先。時坂君と同じクラスで本当に良かった。というか、良い人過ぎる。今は忙しそうだから、しっかりとお礼を言ってから帰らないと。

 

「日本の男子高校生はとっても紳士なんですね。素敵です」

「いい子じゃん。フリーなら今のうちに唾付けといたら?」

「だ、誰があんなお子様をっ」

「私にはモリマルがいます」

「アンタらには言ってない」

「アキ先輩、頑張って下さいね!」

 

 明日が待ち遠しいなんて、いつ以来だろう。

 それに、この賑わいも悪くない。そう思える私がいた。

 

 



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5月2日 ゴールデンウィーク①

 鞄から携帯電話を取り出し、時刻を確認する。今は6時半過ぎ、5月2日の早朝。時坂君との約束の時間よりも三十分近く早い。

 当たり前だけど、時坂君の姿は無い。パンの芳醇かつ香ばしい匂いが立ち込めるモリミィ前には、私だけが一人立ち尽くしていた。

 

(な、何で私ってこうなの)

 

 私がモリミィへ到着したのは、今から十五分程前。登校初日の失敗を省みようともせず、例によって早く来過ぎたことで、時間を持て余していた。まるで成長していない。

 遅刻してしまうぐらいなら、こうして無駄な時間を過ごした方が余程マシだとは思う。でも以前の私はこれ程極端ではなかった筈だ。自分でも気付かないうちに、今の私がいた。心配性、とは少し違う。自信が持てないと言えば近い気がするけど、やはりしっくりこない。

 あれやこれやと考えながらモリミィ周辺の風景を見渡していると、パンの匂いとは異なるそれが、後方から漂ってくる。

 

(・・・・・・煙草?)

 

 匂いは向かって左、建屋の西側からだった。恐る恐る顔を覗かせると、黒のベレー帽を被るコックコート姿の女性が立っていた。思っていた通り、右手には火を点けた煙草があった。背後には店員用と思われる扉があるし、十中八九モリミィの店員さんなのだろう。

 

「あら?」

「あっ」

 

 深々と煙りを吐いた女性が、こちらを振り向いて声を漏らす。思わずドキリとして、覗かせていた顔を戻した。いやいや、どうしてそこで隠れる、私。

 狼狽えていると、コツコツと足音が近付いてくる。まあ、そうなるよね。私は観念して、女性が歩み寄ってくる方へ向き直った。

 

「もしかして、遠藤アキさん?」

「えと、はい。そうです」

「あなたが時坂君が言っていた子ね。7時に来てって伝えた筈だけど、随分早かったじゃない?」

 

 完全に4月24日の再現だった。ごめんなさい、そういう性格なんです。

 声を掛けてくれた女性と簡単な挨拶を交わす。スラリとした長身の女性の名は清水サラさん。年齢はおそらく三十代半ばぐらい。夫の清水ハルトさんと一緒に、夫婦でこのモリミィを経営しているそうだ。

 昨晩に時坂君からもメールで話は聞いていた。ちなみに時坂君のメールは「バイト代が出たらサイフォン買えよ」という一文で締め括られていた。便利だとはよく聞くけど、私はそれ程必要性を感じたことがない。一応頭の片隅には留めておこう。

 

「少し早いけど、もう入れる?」

「あ、はい。大丈夫です」

「よし。今日は試用期間のつもりだけど、経験者って聞いてるからしっかり働いて貰うわよ」

「が、頑張ります」

 

 いずれにせよ、バイト代云々は本採用をして貰ってからの話だ。ブランクもあるし、そう簡単にはいかない。

 気を引き締め直して、私はサラさんの背中を追った。

 

_____________________________________

 

 手渡された服装に着替え工房内に入ると、窯前で手を動かすハルトさんに加えて、三人の作業員がいた。店内から覗いた際にも感じたけど、こうして実際に見てみるとやはり広い。成型台も大きいし、慣れ親しんだ作業場とは様々な点で勝手が異なっている。

 隣でエプロンの紐を結び直していたサラさんを見ると、先程とは打って変わって職人の顔付きへ変わっていた。

 

「それで、実家のベーカリーはどんなお店だったの?ベイクオフ?」

「個人経営のスクラッチでした。ここよりもずっと小さかったですけど」

「なら作業経験は?」

「一通りあります」

「一通りって・・・・・・仕込みから焼成まで?」

「は、はい。その、一応ですけど」

「うんうん、話が早くて助かるわ」

 

 満足気に頷くサラさん。何だか自分でハードルを上げてしまった気がする。

 今更になって緊張感を覚えていると、後方で生地を練っていたミキサーからブザーが鳴った。サラさんは素早い手付きで生地を取り上げて成型台へ運び、大まかに二等分した。

 

「これはノータイム。150グラム分割の後に軽丸め、強さはアタシのを見て」

「え。は、はいっ」

 

 目まぐるしい速度でサラさんが生地を分割していく。私はスケッパーを手に取り、一度だけ深呼吸をした。こういう時に焦っては駄目だ。扱いが難しそうな生地だし、手付きを思い出しながら慎重にいこう。

 

_________________________________________

 

 午後14時。書き入れ時を過ぎた、昼休み兼休憩時間。

 これまた登校初日と同じくして、私はこじんまりとした休憩室の机に突っ伏していた。

 

「遠藤ってやっぱりすげえよ。何つーか、見直しちまったぜ」

「・・・・・・どうも」

 

 カレードーナツを口に運ぶ時坂君へ、力無く答える。

 初日の試用期間だからと甘く見ていた。息を付く暇も無く、サラさんの一声で次々と並ぶ作業の大渋滞。休憩時間のタイミングが取れず、こんな時間まで終始動きっ放しだった。

 ただその甲斐もあってか、サラさんからは既に「採用!」の太鼓判を貰っていた。時坂君の存在すら忘れて、必死になって働いた自分を褒めてあげたい。

 

「実家の手伝いって言ってたけど、かなり本格的にやってたんだな。できないことの方が少ないんじゃねえか?」

「そんなことないですよ。コロネとか苦手です」

 

 答えてから、クロワッサンを一齧り。余り食欲が沸かないけど、今は少しでもお腹に入れておいた方が良い。

 紙パックの牛乳にストローを差していると、紙ナプキンで手を拭いていた時坂君が言った。

 

「ふーん。でも家業なら、卒業後はどうする気なんだ?兄弟とかいるのか?」

「・・・・・・いいえ」

「一人っ子か。遠藤は兄ちゃんか姉ちゃんがいそうなイメージだけどな」

「そうじゃなくって」

 

 ―――もう、お店が無いんです。

 小声で呟くと、時坂君の動きが止まり、紙ナプキンが床へひらひらと落下した。若干の間を置いてから、時坂君は紙ナプキンを拾い、足元のゴミ箱へと捨てた。

 

「ワリィ。変なこと聞いた」

「そんな、気にしないで下さい」

 

 将来のことなんて、考えたことがない。敢えて考えようとしなかった。もう二年生だというのに、私はずっと身の上を盾にしてきた。杜宮の卒業生の進路先が多岐に渡ることが、唯一の救いかもしれない。

 ここでアルバイトを始めようと決めたことだって、生活費云々は理由の半分。もう半分はひどく曖昧で、私自身よく分かっていない。分からないけど―――前を向いていないという自覚はある。単なる、逃避だ。

 

「あの、それより今日はありがとうございます。わざわざ付き合って貰って」

「いいって。バイト代も出してくれるってさ」

 

 結局昨晩はお礼を言いそびれていた。居酒屋を後にしたのは午後の22時近くだったけど、その時間になっても時坂君は忙しそうに店内を歩き回っていた。・・・・・・高校生のアルバイトは、午後22時までという法の縛りがある。守ってるよね、多分。

 

「つーか、まだ敬語なんだな」

「はい?」

「ソラと話してる時はタメ口だっただろ。昨日は雰囲気も少し違ってたし、無理にとは言わねえけど」

「そ、ソラちゃんは後輩ですし・・・・・・その」

 

 返答に詰まっていると、時坂君は後ろ頭を掻いて、椅子の背もたれに身体を預けた。

 

「あー、また変なこと言っちまった。忘れてくれ」

「ご、ごめんなさい」

「ハハ、何でお前が謝んだよ。遠藤っておもしれえのな」

 

 面白い、か。そんな言葉を掛けてくれるのは、時坂君ぐらいだろう。

 不思議な人だと思う。口数はクラスでも少ない方なのに、人当たりの良さは群を抜いている。こうして面と向かっていても緊張しないし、スラスラと受け答えができてしまう。

 今日だってわざわざ朝早くから付き合ってくれた。普通なら何かしらの魂胆が垣間見えるところだけど、それすら無い。柊さんとは別の意味で、本当にこんな人がいるんだと驚かされる。

 

「それで、休憩後は接客だっけか?」

「あ、はい。サラさんがそう言っていました」

 

 労働時間は残すところあと二時間。休憩が終わったら時坂君に代わって、店内を任されることになっていた。

 

「一応言っとくけど、ここって杜宮の生徒も結構来るんだぜ」

「え゛。そ、そうなんですか?」

「緊張して打ち間違えたりすんなよ」

「こ、怖いことを言わないで下さい・・・・・・」

 

 悪戯な笑みを浮かべる時坂君。

 お願いだから、クラスメイトが来たりしないように。割と真剣な願いだった。

 

______________________________________

 

 それから約二時間後。

 私の心配は杞憂に終わり、見知った人間や杜宮の生徒が訪れることはなかった。時間帯も既に夕刻前、店内には会計中の女性客が一人だけ。そろそろ切りの良い時間だし、このお客さんの会計が今日最後の労働だろう。

 

「ねえ。あなたもしかして、B組の転入生?」

「っ!?」

 

 思わぬ言葉に、トングで挟んでいたクルミパンがトレーへ落下する。一歩間違えば商品を駄目にしてしまう失態に、全身から冷や汗が浮かんだ。

 震える手でトングを使い、袋詰めを再開する。怖ず怖ずと視線を上げて、黒のキャップを深めに被った女の子をちらと見た。

 

「あれ、違った?」

「え、えと、その」

 

 落ち着こう。冷静になって考えよう。時坂君と初めて会った時も、確かこんな感じだった。何だか今日はここ数日の体験が再現されてばかりいる気がする。

 口振りから察するに、この人は私と同じ森宮学園に通う二年生。クラスを確認したということは、B組ではないのだろう。言われてみれば、何処かで顔を見たような気がしなくもない。

 

「・・・・・・何処かで、お会いしましたか?」

「学園で何度かすれ違った筈だけど。まあこの恰好じゃ無理もないわね」

 

 女子生徒はそう言ってキャップを脱ぎ、カジュアルなデザインの眼鏡を外した。 

 

「・・・・・・」

「・・・・・・?」

「コホン。D組の玖我山璃音よ。宜しくね」

「と、遠藤アキです。宜しくお願いします」

「・・・・・・」

「・・・・・・?」

「え、それだけ?本当にそれだけ?」

「き、綺麗な声ですね?」

「そこ!?そこなの!?いや嬉しいけど、おかしくない!?」

 

 玖我山さんはひどく納得のいかない面持ちで、カウンターに身を乗り出し顔を近付けてくる。

 何だ、私は何を咎められている。同窓であることは理解したけど、少なくともおかしな言動を取ったつもりはない。クルミパンを落とし掛けた以外は。

 対応に困っていると、玖我山さんは大きな大きな溜め息を付いてからパンを受け取り、踵を返した。一週間前のソラちゃんを思わせる、重々しい足取りだった。去り際に「時坂君以上だわ」と呟いていたけど、聞き間違いだと思いたい。きっとそうだ。

 

「アキちゃーん。そろそろいい時間だし、今日は―――」

「サラさん」

「え、何?」

「お願いですから、接客は勘弁して貰えませんか」

 

 切実な願いを最後に、私は無事アルバイト初日を乗り切った。

 

_______________________________________

 

 翌日の5月3日、日曜日。

 めでたく正式なアルバイト店員として採用された私は、休憩中に必要書類の空欄を埋めながら、改めて今後のシフトや仕事内容についてサラさんと話し合った。

 余程のことが無い限り、主な作業はパンの製造。元々製造担当が手薄だったし、私の技術を活かすとなれば当前の割り振りではある。言い換えれば接客には不向きと判断されたのだろう。ぐうの音も出ない。シフトに関しては当面週二日、最大で四時間。転入してまだ日が浅いということで、学業へ支障が出ないよう少なめのシフトからスタートすることになった。やはり反論の余地が無い。

 ただしこの連休中はその限りではなく、初日同様に最大限の尽力が求められた。私としては断る理由が見当たらなかったけど、一つだけ。全く予想もしていなかった業務を、唐突に突き付けられていた。

 

「で、デリバリー、ですか?」

「そう、商品の配達。今月から始めてみた試みなの」

 

 ベーカリー業におけるデリバリー。そういったサービス形態が存在することは知っていた。

 しかしとても一般的とは言えない。一部の人気店や大手の店舗でしか行っていない、マイナーなサービスの筈だ。少なくともこのモリミィに適したものとは思えなかった。

 

「あのー。それって採算取れてるんですか?」

「全っ然。配達に行く暇があったら洗い物してた方が百倍マシよ」

「・・・・・・ですよね」

「まあ駄目で元々、採算度外視で始めたことだし、宣伝料を払ってるようなものね」

 

 固定客を増やす為には、まずは商品を食べて貰わないと始まらない、ということだろう。

 キッカケになってくれれば万々歳、口コミで広がれば言うこと無し。寧ろ安い物と考えることもできる。人手に余力があれば、の話だけど。うん、嫌な予感しかしない。

 

「てな訳で。休憩が終わったら、お願いできるかしら」

「や、やっぱりそうなるんですね・・・・・・あの、私自転車しか乗れませんよ」

「近場だから充分よ。こう忙しいとアタシも店を離れられないし、一件だけだから。ね?」

「で、でも。どちらかといえば、私は製造の方が」

「代わりにレジ打ちをしてくれても構わないのよ」

「・・・・・・行ってきます」

 

 無慈悲な二択を前に、私は配達先の住所が書かれたメモ書きを受け取った。

 

______________________________________

 

 自転車のカゴに商品を入れ、ペダルを漕ぐこと約二十分。

 私はメモ書きを再確認する必要も、道に迷うことも無く、到着するよりも大分前から目的地を視認することができていた。

 

「大きいなぁ・・・・・・」

 

 杜宮記念公園の敷地内にそびえ立つ、『杜宮セントラルタワー』。公園には先週末に自転車で散策していた際に来たことがあったし、大きな建物があるなとは思っていたけど、マンションだったんだ、あれ。所謂タワーマンションというやつだろうか。

 それにしても本当に大きい。この周辺では一番高い建物かもしれない。ガーデンハイツ杜宮を引き合いに出せば、天と地程の差がある。比べる方がおかしいか。

 

(・・・・・・入り口、何処だろ)

 

 連休中頃の昼間なだけあって、記念公園内は先週末よりも沢山の利用客で溢れ返っていた。勝手が分からない私は道の端を走り、マンションへと向かった。

 やがてマンションの敷地の入り口とおぼしき場所へ辿り着くと、益々分からなくなってしまった。身の丈の倍以上もあるフェンスゲートと、その足元に備え付けられた機器。これは何をどうすればいいのだろう。テレビドラマや映画で目にしたことはあるけど、説明書きの類は見受けられない。もっと田舎者に優しくして欲しい。

 

「遠藤さん?」

 

 すると不意に、背後から名を呼ばれた。振り返ると、見知った顔があった。

 

「こ、小日向君?」

「あはは、やっぱり遠藤さんだ。どうしたのこんな所で。コウからアルバイトを始めたって聞いてたけど」

「え、えーと・・・・・・自転車って、何処に停めればいいですか?」

「駐輪場と駐車場は地下にあって、入り口は反対側だよ。こっちは裏門。短時間ならこの辺に停めてもいいと思うけど・・・・・・ここに用があるの?」

 

 私は泣きそうになるのを堪えて、事情を掻い摘んで説明した。

 驚いたことに、小日向君は杜宮セントラルタワーの住民だった。大層裕福な家庭なのかと思ったけど、それは小日向君が即座に否定した。

 

「タワーマンションって下層と上層じゃ別世界なんだ。家賃や間取りも全然違うしね。このマンションは特にそうで、小日向家は下層、至って普通の部屋だよ。それで、配達先は何階?」

「あ、それなら住所のメモ書きがあります」

 

 ポケットに入れていたメモ書きを取り出し、小日向君へ手渡す。番地や号目だと思っていた数字は、どうやら部屋番号を示した物だったらしい。

 

「2504号室かぁ。ねえ遠藤さん」

「は、はい?」

「これ、最上階だよ」

「・・・・・・ぉぇ」

「・・・・・・えーと。上まで一緒に行こうか?」

 

 小日向君の申し出に、涙目の私は無言で何度も首を縦に振った。救いの神がいた。

 小日向君が機器のパネルを操作すると、スピーカーからチャイムが鳴った。小型のディスプレイも設置してあり、マンションの住民はモニターを介して訪問者の姿を窺うことができる仕組みのようだ。私は小日向君の隣、機器の前に立ち、返答を待った。

 

『はいはーい』

「あっ。し、四宮さんのお宅で、お間違いないですか?」

『そうだけど。アンタら誰?』

「モリミィから配達に来ました。これ、ご注文の品です」

『あれ。前回は年配のオバサンが届けに来たのに、今日は違うんだ』

「えと、今日は私が代わりに来ました。アルバイト店員なんです」

『ふーん。そんな話は聞いてないけどなぁ。アンタ本物の店員?』

 

 スピーカーから聞こえてくる猜疑心溢れる指摘に、声が詰まってしまった。

 『四宮さん』がデリバリーを利用するのは、今日が二回目。前回はサラさんが配達に来たのだから、突然代理で来ましたと言われても「はいそうですか」とはいかない、そう言いたいのだろう。何て用心深い。

 しかし今の私が示せる物といえば、モリミィの制服と商品ぐらい。それは既にモニター越しで映っている筈だ。あとは四宮さんに信じて貰う他ないけど、それでは振り出しへ戻ってしまう。どうしたものか。

 

「あのー、僕はこのマンションの住民なんですけど」

「えっ・・・・・・」

 

 困り果てていると、隣にいた小日向君が代わって四宮さんへ言った。

 

『だから何?』

「彼女は杜宮学園の生徒です。アルバイトの件も含めて、直接問い合わせて頂いても結構ですよ。身分は確認できる筈です」

『ああそう。どうでもいいや、入りなよ』

 

 ブツッ、とインターホンが切れる音が聞こえると、フェンスゲートが音を立てて開いていく。

 僅かなやり取りを交わしただけで、本当に開いてしまった。散々疑っていたのに。

 訳が分からず立ち呆けていると、小日向君はやれやれといった表情を浮かべていた。

 

「遊んでいただけじゃないかな」

「え?」

「要するに、遠藤さんをわざと困らせていたんだよ。疑っていた訳じゃなくってさ。声も結構若く聞こえたし、もしかしたら悪戯好きの同年代が住んでいるのかもしれないね」

「・・・・・・」

 

 頭痛で意識が飛びそうだった。いるのかな、そんな人。

 

_____________________________________

 

 エレベーターで25階へ上がったところで小日向君と別れ、私は一人で2504号室へ向かった。正直に言えば心細かったけど、元々はマンションの勝手が分からなかっただけだし、これ以上小日向君へ迷惑を掛けたくはなかった。

 

「2504号室・・・・・・遠藤さん、ここだね」

「は、はい」

 

 などという虚勢をものの見事に見破られ、小日向君は進んで同行を願い出てくれた。今度お礼にモリミィのパンを届けに来てあげよう。

 私は案内された部屋の前に立ち、インターホンを鳴らした。先程の様子から考えて、居留守でも使われるのではと覚悟はしていたけど、四宮さんは意外にもすぐに返答をくれた。

 

『二人共、中まで持って来てよ。鍵は今開けるから』

「「・・・・・・」」

 

 予想の斜め上を行かれた。部屋に入って来いだなんて、それは普通親密な間柄の人間にしか言えない台詞だろうに。やはり疑り深いという訳ではなさそうだ。今もこちらをからかっているのだろうか。

 いずれにせよこうしていては始まらない。開錠の音が聞こえてから、私は意を決して扉を開き、室内へ足を踏み入れた。

 

(く、暗い?)

 

 部屋の中は真夜中かと勘違いしてしまいそうな程に、暗闇に包まれていた。扉が閉まった途端に視界が狭まり、一歩先すら満足に見えなくなってしまう。靴を脱ごうとした時、身体がよろけて小日向君の肩に頭をぶつけてしまった。

 

「遠藤さん、ほら」

「え、ちょ、あの」

 

 暗闇の中で、私の右手が何かに包まれる。途端に顔が熱くなり、胸の鼓動が高鳴った。右手から滲み出てくる汗が止まって欲しい。そんなどうでもいい想いを胸に、一歩ずつ室内を進んでいく。

 まるでお化け屋敷だった。窓という窓が全て厚手のカーテンで遮られており、一筋の光も届いていない。そんな中で男女が手を繋いで歩くだなんて、いや私には当然そんな経験は無いのだけど、お化け屋敷デートのように思えてしまい、妙に気分が高揚した。

 

「え、えへへ」

「遠藤さん?」

「・・・・・・何でもないです」

 

 やがて前方にあった扉の向こう側に、数少ない光源が見えてくる。小日向君は私の右手を離して、前進を促した。名残惜しさが残る右手で扉を開けると、そこには広大な一室があった。

 

「し、失礼しまっ・・・・・・?」

 

 コの字に置かれたデスク上に光る、十を超える大型の液晶ディスプレイ。デスク下部には重低音を漏らす巨大な機器の塊。その中央に置かれたデスク椅子に座る、ヘッドホンを付けた小柄の男性。

 洋画のワンシーンから飛び出てきたかのような光景に立ち尽くしていると、男性―――四宮さんは、私達に背を向け座ったままの状態で、口を開いた。

 

「配達お疲れさま、『遠藤アキ』先輩?」

「あっ・・・・・・え?」

 

 聞き間違いではない。空耳でもない。遠藤アキと、四宮さんは今私の名を呼んだ。

 私は先程のやり取りで一度も名乗っていない。そんな暇も必要も無かった。名札を付けている訳でもない。まさか本当に杜宮学園へ問い合わせて、私のことを―――いや、違う。それでは順番がおかしい。

 

「どうしたの、先輩」

「だ、だって・・・・・・え?あ、あれ?」

 

 私がモリミィでアルバイトを始めたことを知る人間は限られている。たとえ学園へ問い合わせても、私の名前には辿り着かない。名前なんて調べようがない。思わぬ第一声に戸惑ってはいるけど、間違ってはいない筈だ。

 

「疑って悪かったよ。アルバイトの調子はどう?昨日は初日から大活躍だったらしいじゃん。先輩は働き者だね」

「っ!?」

 

 信じ難い追撃に膝の力が抜けて、私はストンとその場に腰を落としてしまった。

 首が締まり声が出ず、身体が小刻みに震え、視界が狭まっていく。

 

「流石はパン屋の娘ってところかな。無能な奴らと違って、手に職がある人間は嫌いじゃないよ」

「そ、そんなっ・・・・・・どう、して」

「それにあの店のカレードーナツはお気に入りでね。こう見えて忙しい身だし、また配達をお願いするかもしれないから、その時は―――」

「そのぐらいにしておきなよ、『四宮祐騎』君」

 

 被せるように発せられた、中性的な声。

 小日向君は崩れ落ちた私の肩に左手を置き、一歩前に出てから小さな笑い声を上げた。

 

「あはは、なんちゃってね。玄関口に置いてあった郵便物を見ただけだよ」

「へえ。中々目聡いじゃん、『小日向ジュン』先輩。でもさ、何で二人一緒に来るわけ?」

「僕は単に案内をしてあげただけさ。君だって二人で入るよう言っていたよね?」

「無用心だなぁ。男女二人が部屋に入るところを見られたりしたら、変な誤解をされるかもよ。遠藤先輩はまだクラスに馴染めていないらしいけど、男子受けは割と良いっぽいし。気を付けた方がいいかもね」

「こんな上層に住んでいる学生なんて、君ぐらいだと思うよ。でもそうだね、遠藤さんもまだバイト中みたいだから、そろそろ失礼するよ。遠藤さん?」

「え・・・・・・あ、はい」

 

 差し出された右手を握り、どうにか立ち上がる。完全に置いてけぼりを食らい、というか少しも事情が飲み込めていないし、目が回る程に混乱してしまっているけど、一刻も早くこの場を離れたかった。

 言われるがままに手を引かれて部屋を後にしようとした時、突然小日向君の足が止まった。小日向君は先程の四宮さん同様、背を彼に向けたまま、呟くように言った。

 

「随分と面白い物を作ったね。何事も起きないことを、主に祈っているよ」

 

______________________________________

 

 それから約十分後。

 

「はあぁぁ・・・・・・」

 

 マンション前のベンチに座り、深々と溜め息を付きながら項垂れる小日向君。溜め息と一緒に生気まで漏れ出ているように見えてしまう。

 先程の物怖じしない態度は何処へ行ってしまったのやら。私が自動販売機で買ってきた飲み物を渡すと、小日向君はそれを額に当てて、頭を冷やし始める。

 

「ありがとう。これ、いくら?」

「あ、いいですよそんな。私からのお礼です」

「あはは、僕は何もしてないってば。寧ろカッコ悪いところを見られちゃったかな」

 

 小日向君の推測が多分に含まれてはいるけど、事の真相は大方理解できていた。

 私達を先輩と呼んでいたことから考えて、四宮君は杜宮学園に通う一年生。四宮君はインターホンのモニターに映った私達の顔と、杜宮学園の生徒という情報を基にして、学園のデーターベースへ侵入。私達の名前とクラスを調べ上げた。

 更にそれを取っ掛かりに、SNSサイトの書き込みに目を付ける。勿論通常では不可能な方法を駆使して2年B組、おそらくは時坂君や伊吹君らの書き込みに辿り着いた。小日向君も昨晩にやり取りをしていたそうで、四宮君は書き込みを覗き見ることで私に関する事柄を知った。男子受け云々は内容も含めて全く理解できないけど、私が考えるに四宮君の口から出任せだったのだろう。きっとそうだ。

 一方の小日向君は四宮君の言動に対し、無理をして強気な態度を取っていたらしい。部屋を出るやいなや今のような状態だった。私と同じで、少し腰が抜けてしまったのかもしれない。

 

「でも・・・・・・本当に、そんなことができるんですか?」

「どうだろう。でもそう考えないと、説明が付かないとは思うよ。あんな生徒がいたら僕らの耳にも届いていそうなものだけど、余り学園に顔を出していないのかもしれないね」

 

 ハッキリ言って、どれも到底信じられなかった。高校生があんな短時間で全てを調べ上げることができるものなのだろうか。所狭しと並んでいた大仰な機器も、あんな高そうな部屋で一人黙々とキーボードを叩いていたことも、何もかもが理解の範疇を超えている。

 それに僅かなやり取りから一つの可能性を導いた小日向君だってそう。勘の鋭さは時坂君を思わせたけど、彼とは異なる異質さを感じてしまった。正直に言って、感心を通り越して少し気味が悪かった。

 

「実は最近、そういう系のアニメを観たばかりでさ。四宮君が余りにもハマり役だったから、僕もついノリノリで応えちゃったよ。正直に言うと、少し楽しかったかな」

「アニメ、ですか?」

「うん。そういう経験は無い?アニメのキャラクターに成り切る、みたいな」

 

 何だ。急に話が変わった気がする。分かるような、分からないような。

 そういえば部屋を出る間際に、小日向君は何かを言っていたっけ。主に祈っているとか何とか。あれもそうだったのだろうか。

 

「えーと。その、例えば?」

「高速で出鱈目にキーボードを叩いてから『チェックメイト』って呟いたりとかさ」

「・・・・・・」

「湯船に浸かりながら回復ポッド気分を味わうとか、夜道で・・・・・・ごめん、何でもない」

 

 前言撤回。気味の悪さは感じない。その代わりに親近感があった。

 要するにあれだ。トモコさんがお近づきの印にと贈ってくれたモリマルぬいぐるみを男子に見立てて、夜に少女漫画ちっくな妄想をしたりするのと似たようなものだろう。

 何故か昨晩は相手が時坂君で、普通はそれが気になる男子だったりするところだけど、私の場合は一番話した回数が多いという情けないにも程がある理由で―――うん、止めよう。奇妙な体験をしたせいか、思考回路がおかしなことになっている。

 

「え、えっと。とりあえず、改めてお礼を言わせて下さい。ありがとうございました」

「気にしないでよ。僕は天才ハッカーのライバルっていう痛々しいキャラを演じただけだから」

「そ、そんなことないです。私にだって、似たような経験は沢山ありますっ」

「あれ、そうなの?」

 

 私が妄想を垂れ流すと、ドン引きして顔を引き攣らせる小日向君がいた。

 二人だけの秘密にしようと誓い合うことで、私と小日向君は少しだけ仲良しになった。ような気がした。

 

 



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5月4日 ゴールデンウィーク②

 玖我山璃音さん。何処かで顔を見たことがある気がする。同じ森宮学園に通っているのだから当然かもしれないけど、やはり思い出せない。一方で記憶が曖昧にも関わらず、不思議と学園以外の場所でという確信に近い物があった。考えても仕方ないのは百も承知でも、考え込んでしまう私がいた。

 

「うーん・・・・・・」

 

 頭の中で堂々巡りをしながら、キーマカレーを生地で包む作業を繰り返す。連休に入る前まで頭を使ってばかりだった反動なのか、単純な手作業が少しも苦にならない。

 モリミィは全ての生地が自家製。対して所謂ベーカリーの大部分は、冷凍生地と呼ばれる大変便利なパン生地を利用している。解凍して焼いてしまえば、超お手軽に焼き立てパンの出来上がり。主婦にとっての冷凍食品と同じで、冷凍生地はベーカリーの強い味方だ。現代では極一般的な物だけど、案外知らない人間も多い。それだけ技術が進歩しているという証でもある。

 どちらにもメリットがあるし、勿論デメリットもある。サラさんやハルトさんの手間を惜しまない姿勢は、それだけ従業員へ多忙を強いることに繋がる。でもそのおかげで、こんな私が人様の役に立てる。新しい居場所ができたように思えるからこそ、目が回る忙しさに心地良ささえ覚える―――唯一、『あれ』を除いて。

 

「アキちゃん、そろそろ時間よ」

「・・・・・・あの、イヤですって言ったら、どうなりますか?」

「あら、聞かなくても分かりそうなものだけど」

 

 有無を言わさぬ物言いで、サラさんが一枚の用紙を手渡してくる。

 右上に書かれた日付は今日と明後日、5月4日と5月6日。予想通り、配達指定日と商品のリストだった。配達先は例の杜宮セントラルタワー。もう住所を見ただけで嫌な気分になる。折角無心で作業していたのに。

 

(き、今日も・・・・・・しかも、明後日まで)

 

 ソラちゃんを思わせる昼下がりの快晴とは裏腹に、私は憂鬱な色を浮かべていた。

 

______________________________________

 

 昨日に比べて、杜宮記念公園の利用客はやや少なめ。ゴールデンウィークとはいえ、今日は月曜日なのだから当たり前だ。

 公園内では石造りのテラスが魅力的なオープンカフェやクレープ屋台が賑わいを見せ、遊歩道に囲まれた池では貸しボートに興じる親子やカップル客の笑顔で溢れている。杜宮市の特徴とされる街と自然の二面性を一望できる、本当に良い所だと思う。

 こんな光景を25階から見下ろすなんて、どんな気分なのだろう。いや、あの部屋の窓は全てカーテンで覆われていたか。何て勿体無い。

 

「よしっ」

 

 木陰に自転車を停めて、気合いを入れ直す。早いところ配達を済ませて、モリミィへ戻ろう。そう、単なる配達だ。お届けに来ましたはいどうぞ、でさっさと終わらせてしまえばいい。

 昨日に小日向君が教えてくれた通りにパネルを操作し、インターホンを鳴らす。意気込んで四宮君の返答を待ち構えていると―――

 

『はい、どちら様ですか?』

「へ?」

 

 ―――不意打ちを食らい、思わず間抜けな声を漏らしてしまった。

 四宮君、ではない。聞き間違いの筈も無く、どう聞いたって女性の声だった。焦る余り、部屋番号を押し間違えていたか。申し訳ないことをした。

 

「えと、あの、すみません、間違えましたっ」

『あら、そうでし―――』

『ちょっと!勝手に何やってんのさ!?』

 

 あれ。今のは四宮君の声だろうか。多少上擦ってはいたけど、今のも空耳ではない。昨日のやり取りと室内の様子から考えて、一人暮らしだとばかり思っていたのに。それはそれで予想外だ。

 ともあれ、部屋番号を間違えていた訳ではなかったようだ。気を取り直して配達に来た旨を伝えようとすると、私そっちのけの会話が続々と溢れてくる。

 

『ねえユウ君。もしかしてこの子』

『そんな訳ないだろ!?ただの配達だから!』

『まだ何も言ってないじゃない』

『いいからもう帰れよ!ほら、先輩も早く!』

「・・・・・・帰っていいの?」

『何でだよ!?アンタ何しに来たんだよ!さっさと部屋に来いって言ってるんだってば!』

『あらあら。ユウ君ったら、何処でそんな台詞を覚えて来るのかしら』

『だあああ!!』

 

 四宮君の叫び声で盛大に音割れをしたスピーカーが沈黙すると、風が木々を揺らす音が周囲から聞こえてくる。

 今のは何だろう。昨日とはまるで別人だ。双子や二重人格といったキーワードが脳裏をチラついて仕方ない。とりあえずフェンスゲートも開いてくれたし、パンを届けに行こう。

 

_______________________________________

 

 エレベーターで25階へ上がる最中、自分自身へ何度も言い聞かせる。

 昨日の一件は小日向君が言った通り。四宮君はただの後輩。ソラちゃんと同じで、後輩。何も怖くはない、敬語も必要ない。後輩、後輩、後輩―――よし。

 

「あっ」

 

 エレベーターの扉が開くと、正面に立っていた一人の女性と視線が重なった。

 ベージュ色のカーディガンと紺のスカートが清楚な雰囲気を、緩く巻かれたミディアムロングは女性としての可愛らしさを。手が届きそうで届かない魅力を身に纏う、爽やかな女性だった。

 

「フフ、こんにちは」

「こ、こんにちは」

 

 女性は口元を手で覆い笑ってから私と挨拶を交わし、入れ替わりでエレベーターに乗った。私は振り返り、女性の声を頭の中で反芻する。

 先程は機械越しだったから聞き取り辛かったけど、おそらく間違いではない。あの人がそうか。私は当たりを付けてから、2504号室へと向かった。

 

______________________________________

 

 昨日同様に四宮君は玄関へ出迎えようともせず、私は一人玄関の扉を開けた。室内は相も変わらず真っ暗で、陽の光の一切を遮断していた。上層から地上の光景を楽しもうなんて気は微塵も感じられなかった。

 

「お邪魔しまーす・・・・・・」

 

 奥の大部屋も同じで、椅子に座りパソコンを操作する四宮君は振り向こうともしない。代わりにぶっきら棒な声で、私に言った。

 

「そこのテーブルに置いといて」

 

 置いたらさっさと帰れと言わんばかりに、一言だけ。ちなみにパンの代金はまさかの前払い。初回の配達の際に「一ヶ月分」と、四宮君はサラさんへ万札を渡したらしい。サラさんも身勝手なその態度に困り果てており、配達を無下に断ることもできないようだ。突き返してやればいいのに。

 

「えーと。ここでいいの?」

「そう言ってるだろ。用が済んだら早く帰ってよ」

 

 ここまで可愛くない後輩もそういない。ソラちゃんとはまるで正反対だ。

 胸中で毒づいていると、テーブルの上に置かれた大きめの皿に目が止まった。

 

(・・・・・・蒸しパン?)

 

 如何せん室内の明かりが少なすぎて分かり辛かったけど、鼻は利く。この匂いはチョコレートのそれだ。カップ型のグラシン紙に収まった可愛らしいチョコ蒸しパン達が、大皿の約半分を占めていた。

 家庭でも気軽に作れる物ではある。でもこの数を作るとなると、結構な手間が掛かった筈だ。固形のチョコレートが絶妙な割合で練り込まれていることからも、それなりに拘った配合で作られた物かもしれない。

 

「ねえ、四宮君」

「聞こえなかった?さっさと帰って―――」

「あの女の人、もしかしてお姉さん?」

「ぶはっ!?」

 

 聞いた途端、げほげほと咽始める四宮君。はいそうですと言っているようなものだ。

 特徴的な目鼻立ちは勿論、同じ部屋に居たということから考えれば想像するに容易い。一緒に住んでいるという訳ではないようだけど、やはり血の繋がった姉弟なのだろう。

 

「は、話すなって言ったのにっ・・・・・・最悪だ」

「ううん、挨拶をしただけだよ。これもお姉さんが作ってくれたの?」

「食べたきゃどうぞ。どうせ食べないし」

「もうお腹一杯だから?そこ、口に付いてる」

「っ!?」

 

 ゴシゴシと口元を拭い出す四宮君は、何とも言えない表情を浮かべていた。

 昨日とは立場が完全に逆転している。四宮君の中でお姉さんがどういった存在なのかは分からない。でも彼の数少ない弱点だということはよく理解できた。これはこれで面白い。癖になりそうだ。

 笑いを堪えていると、今度は大皿の隣に置かれた袋が視界に入る。これは昨日配達した中にあった惣菜パンだ。まさか、あれからずっと置きっ放しだったのだろうか。

 

「ねえ。すぐに食べないなら常温は駄目だよ。悪くなっちゃう」

「なら今日の分もまとめて冷蔵庫に入れといて」

「冷蔵庫じゃなくて冷凍庫。冷蔵庫はパンが一番老化しやすい温度だから、冷蔵するぐらいなら冷凍で保管してから解凍した方がいいと思うよ」

「ああもう煩いな!勝手にしろよ!」

 

 堪えていた笑いが漏れ出てしまうと、四宮君は一層不機嫌な表情を浮かべた。

 きっとお姉さんに対しても、同じ態度を取っているのだろう。色々と口煩く言われては、多少の照れと一緒に反発する。他愛のない姉弟喧嘩を一方的に仕掛けているようなものだろうか。

 それにしても、喧嘩か。喧嘩らしい喧嘩なんて、一度もしたことがなかった。仲が良かったと言ってしまえばそれまでだけど、何だか変な感じだ。

 

「・・・・・・羨ましいな」

 

 ヘッドホンを付けた四宮君の耳に、私の声は届いていなかった。

 

_______________________________________

 

 それから二日後。連休最終日の午後、私は杜宮セントラルタワーへ三度目の配達に向かった。

 働いてばかりの五日間だっただけあって、それなりに疲労も溜まりつつあるせいか、自転車のペダルがいつもよりも重く感じられた。時坂君もこの連休はアルバイトに明け暮れていたらしい。お互いに疲れを持ち越さないようにしないと。

 

(もう15時か)

 

 明確な配達時間は指定されていないけど、前回前々回よりも大分遅い時間になってしまっていた。余り遅くなると、また嫌味の二つや三つを言われるかもしれない。私は自転車をいつもの場所へ停めてから小走りで入り口へ向かい、インターホンを鳴らした。

 

「・・・・・・?」

 

 ピンポーン。二度目のチャイムが聞こえた後、頭の中で秒針を刻む。

 たっぷり十を数えても返事は無かった。もう一度鳴らしても、結果は同じだった。この期に及んで居留守を決め込んでいるという訳でもないのだろう。なら本当に留守なのだろうか。配達を頼んでおきながら、それはものすごく釈然としない。宅配便と違って、再配達という便利なサービスをするつもりもない。

 

「あれ・・・・・・」

 

 すると返事よりも先に、フェンスゲートが左右へ開き始める。

 完全な無言だった。これもひどく納得がいかない。一応、同じ森宮学園の先輩だというのに。

 私は多少の怒気を燃やしながら、マンションの敷地内へ歩を進めた。

 

______________________________________

 

 無言の対応は続いた。入って来いの一言も無しに、玄関扉は開錠された。どうしてわざわざ他人の神経を逆撫でするような真似ばかりするのだろう。話したことはないけど、絶対にお姉さんとは真逆の性格だ。

 

「お邪魔します」

 

 一応の挨拶を置いてから、室内へ歩を進める。私が言っても仕方ないけど、少々無用心過ぎやしないだろうか。私に悪意があったら、何だって盗り放題のやりたい放題だ。玄関へ向かう手間と天秤に掛けた結論とは思えないし、他人の目から見ればどう考えてもおかしなこのやり取りに、慣れつつある自分が怖い。

 奥の扉を開けると、中央のデスク椅子は空。首を傾げて見渡すと、部屋の端に置かれたベッドの上に寝そべる、主の姿があった。

 

「・・・・・・はぁ」

 

 呆れて物が言えない。単に眠っていただけじゃないか。しかもこんな真昼間から。陽の光を拒絶しているからか、生活リズムが崩れてしまっているのかもしれない。本当にいい御身分だ。

 

「これ、テーブルに置いておくよ?」

「・・・・・・ん」

 

 やれやれと紙袋をテーブルへ置いたところで―――違和感に、気付く。

 一昨日と比べて、何かが違う。見れば、ベッドの傍らには複数のペットボトルが散乱していた。それにこの匂い。形容し辛いけど、生活臭が濃いというか、やはり室内の様子が前二回とは異なっている。

 

「・・・・・・四宮君?」

 

 そっとベッドへ近付くと、四宮君はもぞもぞと毛布に顔を埋めた。

 脇に置かれた小さな丸テーブルには、小瓶と空になったミネラルウォーターのペットボトルが置かれていた。その二つだけを見れば、大抵の人間は察しが付く。私は声を抑えて聞いた。

 

「もしかして、具合悪いの?」

「るさいな・・・・・・帰れよ」

 

 今の小声を煩いときたか。いつもの憎まれ口は鳴りを潜め、返答はひどく弱々しかった。

 一人暮らしを始めるに当たって、気を付けるべき注意事項の上位、その一つ。タマキさんは口を酸っぱくして言っていたけど、まさか自分が経験するよりも前に目にするなんて思ってもいなかった。確かにこれは相当に辛そうだ。

 

「熱とか、あるの?」

「そういうのいいって」

「病院は行った?」

「行く訳ないだろ。ただの風邪なんだから」

「それはまだ分からないと思うけど・・・・・・じゃあ、お姉さんには―――」

 

 言い終える直前に、四宮君は瞬時に半身を起こして、腰を下ろしていた私を睨み付けてくる。

 触れていないのに分かるぐらい顔は熱を帯び、目も充血し切っていた。

 

「言うなよ。姉さんには・・・・・・言わないで」

「その・・・・・・うん、分かった。分かったから、寝てた方がいいよ」

 

 そう言われても、お姉さんの連絡先なんて私には知る由も無い。「言うなよ、絶対言うなよ」という振りとも思えない。冷静さを欠くぐらい、追い込まれているのだろうか。

 どう見ても辛そうなのに、どうしてそこまで。意地を張っているだけかもしれないけど―――違うか。答えはもっと単純で、身近にある感情だ。先程の不安気な表情は、要するにそういうことだ。

 

「心配、掛けたくないんだね」

「煩い」

「でもさ、たまには素直になった方がいいよ。急にいなくなっちゃうことだってあるんだから」

「はぁ?」

「もしそうなったら、絶対に後悔する。後悔してからじゃ・・・・・・もう、遅いんだよ」

 

 四宮君は一度、毛布から顔を覗かせて、私と視線を重ねた。

 するとすぐに寝返りを打って、普段通りの素っ気無い声で、呟くように言った。

 

「不幸自慢か何か?嫌いだな、そういうの」

「あはは、ごめん。それで、ここに四宮君のサイフォンがあるんだけど。お姉さんの番号、入ってるよね?」

「っ・・・・・・!」 

「ほら、どうするか決めてよ。お姉さんに報せないなら、それでもいいから」

「ああもう。何なんだよ、クラスの評判と全然キャラ違うじゃん。挙動不審でどもりがちじゃなかったのかよ。訳分かんない」

「あーあー聞こえない」

 

 我ながらひどい印象だ。まあ今は置いておこう。大体合ってるし。

 ガラケーユーザーの私には、勿論サイフォンの操作方法なんて分からない。タッチパネルも満足に使えない。しかし今の四宮君はそこまで頭が回らないのか、観念した様子で私の問い掛けに答え始めてくれた。

 体調を崩したのは一昨日の夕刻頃、私が部屋を去った直後のこと。ただの風邪だろうと思いきや、吐き気がひどく嘔吐を相当な回数繰り返した。直接の表現は控えながらも、お腹の方も同様だったらしい。失った水分を取っても、結局は上と下から出してしまうばかり。もう丸二日間もこんな有り様が続いているようだ。

 

「カレードーナツが原因だったら、訴えてやるからな」

「そう決め付けないでよ。胃腸炎とかかもしれないし」

 

 それにしても、随分と熱がこもっている。軽い脱水症状を引き起こしているのかもしれない。

 幸い冷凍庫にはクラッシュアイスが入っており、私は幼い頃の記憶を頼りに、少量を四宮君の口に含ませた。焼石に水でも、何もしないよりかは幾分マシな筈だ。

 ともあれ素人判断は禁物、一度病院で診て貰わないと駄目だ。私が頼れる人間は少ないけど、今は四の五の言っていられない。ここは素直に、助けを求めよう。

 

_________________________________________

 

「ふう」

 

 多忙の日々を過ごしていた北都ミツキは、肩の凝りを解しながら重い足取りで自室へと向かっていた。

 五日間の連休へ入った途端、隙を見計らったかのように舞い込んできた業務の数々。学生という本分が休業へ入ったおかげで、スケジュールはギリギリ秒から分単位へ繰り上がる程の余裕はあったものの、それは彼女が北都ミツキだからこその話だ。常人なら一日で枯れ果ててしまうところを、良き理解者の助けもあり、何とか繋ぎ止めることができていた。

 そんな中で手にした、久方振りの自由。自分だけの時間。世間はUターンラッシュを迎え、ブルーマンデー症候群に近い憂鬱に苛まれ始めている一方で、ミツキにとってはこれからが本番。まだ日も暮れていない休日の午後に解放されること自体が、実に一ヶ月振りだった。だからこそミツキは、戸惑いを覚えていた。

 

(何だか、不思議な感じですね)

 

 文字通りの自由。明日の早朝まで、何だってできる。ミツキを咎める人間は一人もいない。

 しかしこんな時に、自分はいつも何をしていたのか。それがすぐには思い出せなかった。移動や登下校の僅かな間にすることと言えば、ニュースサイトの速報に目を通す、持ち歩いている本を読む、等々。最近は『ナノナップ』と呼ばれる十数秒の仮眠を試みていたのだが、当然こんな時に睡眠を優先する訳にはいかない。外へ出るなら、近場のオープンカフェを訪ねることぐらい。悪くはないが、何処か物足りなさがあった。

 自分の境遇を疎ましく感じたことはない。でも時折、主観ではなく客観的に、己を俯瞰して見てしまう瞬間がある。北都ミツキはここに居るにも関わらず、もう一人の私が私を見ている、ひどく浮付いた感覚。

 玄関扉の前で呆然と立ったままでいると、背後から扉を開く音が聞こえてくる。何とはなしに、通路の角から音がした方へ顔を覗かせると、そこには一人の後輩の姿があった。

 

(あれは・・・・・・遠藤、さん?)

 

 これまでに三度、ミツキはアキと対面したことがあった。

 一度目は、アキが転入試験で学園を訪れた際。敷地内を簡単に案内して回ったのが、杜宮学園生徒会の現会長であるミツキだった。二度目は約二週間前、アキが住まいを杜宮へ移した後、母親と学園へ挨拶に訪れた時にも、ミツキは一時相席をしていた。

 そして―――三度目は、ちょうど二日前。厳密に言えば、アキはミツキに気付いてはいなかった。それもその筈、三度目はアキがつい今し方開かれた部屋へ入っていく瞬間を、所用の為に一時帰宅をしていたミツキが、目撃したに過ぎなかったのだから。

 

「・・・・・・コホン」

 

 生徒会長という立場上、ミツキは生徒らの様々な情報へ触れる。もう一つの立ち位置を駆使すれば、公には語れないルートで知り得ることができてしまう。

 だからミツキは敢えて目を逸らし、時には見て見ぬ振りをしてきた。必要以上の個人情報は、極力遠ざけようと心掛けてきた。同じマンションで『彼』が暮らしていることも知っていた一方で、何故アキがあの部屋を出入りしているのか。どうして今もあんな表情を浮かべているのか。そればっかりは、想像を働かせるしかなかった。

 

_____________________________________

 

 後ろ手にそっと扉を閉めて、ポケットから携帯電話を取り出す。

 見たところ大事無いみたいだし、救急車を呼ぶ訳にはいかない。柊さんや小日向君の顔が浮かんだけど、余り知人に迷惑は掛けたくない。タマキさんらも同じだ。やはりここはタクシーを呼んで、病院まで付き添ってあげるのが無難か。

 

「こんにちは、遠藤さん」

「え・・・・・・あっ。ほ、北都先輩?」

 

 携帯でタクシー会社の連絡先を調べようとした矢先に、声を掛けられる。

 杜宮学園の生徒会長を務める、北都ミツキ先輩。転入試験で学園を訪れた際、案内をしてくれたのが北都先輩だった。転入前に挨拶をして以降は会えずじまいだったけど、北都先輩は私のことを覚えてくれていたようだ。私も初対面の印象が色濃く残っていたから、一目で北都先輩だと認識することができていた。

 

「私も四宮君と同じ階に部屋を借りていまして。ちょうど今帰路に就いたところなんです」

「そ、そうだったんですか・・・・・・四宮君?四宮君を、知ってるんですか?」

「はい。一応生徒会長ですから、生徒の名前と顔は一通り覚えていますよ」

 

 さらりと簡単に言ってのけたけど、確か杜宮学園には三百を軽く超える生徒が在校している筈だ。まさか本当に記憶しているのだろうか。それに平日でもないのに、何故制服姿なのだろう。色々と聞いてみたいとは思いつつ、こんな上層で暮らしているという事実一つ取っても、同じ高校生の身でありながら、先輩は何処か遠い世界を生きているように思えてしまう。奇妙な距離を感じた。

 

「それにしても意外でした。遠藤さんは、四宮君とお知り合いだったのですね」

「いえ、その・・・・・・知り合い、という訳では」

「立場上不用意な言動は控えますが、貴重な三年間を無駄にはできませんよね。どうか大切になさって下さい。でも最低限の節度は、しっかりと守って下さいよ?」

 

 目を瞬いて、考えを巡らせること数秒間。

 どうやら北都先輩は大変な誤解をしているらしい。いや、本当に勘弁して欲しい。どうしたらそんな結論に至るのだろう。突っ込みどころが多過ぎる。

 

「あの、違います。私はただ、アルバイトで来ただけです」

「アルバイト、ですか?」

「この連休から始めたばかりなんです。最近デリバリーのサービスをやっていて、今日もそれで」

「デリバリーサービス・・・・・・ふむ」

 

 北都先輩は顎に手をやり、思案顔を浮かべて一歩後退する。

 先輩は私の身体を足元から頭部まで食い入るように見詰めると、表情の雲行きが益々怪しくなっていく。おかしい。誤解は晴れた筈なのに、何故そんな顔をするのだろう。

 

「成程。その服装も、アルバイトの一環という訳ですね」

「あ、はい。仕事中はお店の制服なので・・・・・・あ゛。そ、そうだ。四宮君が―――」

「アルバイトは順調ですか?」

「え?えーと。それがもう、初日から容赦が無いといいますか。四宮君なんてひどいんですよ。初めてのデリバリーであんな・・・・・・じゃなくって!あの、実は四宮君が大変―――」

「ウフフ、遠藤さん」

 

 北都先輩は私の左肩にポンと右手を置いて、笑った。笑っているのに、背後からドス黒い何かが滲み出てきて、全てを飲み込んでしまいそうなその圧力に、目が眩んだ。右の腕力や握力に自信がある私でも、先輩の右手は微動だにしなかった。誰か嘘だと言って欲しい。

 

「少し、私の部屋でお話をしましょう。勿論、選択肢はありませんよ」

 

_____________________________________

 

 北都先輩の一声で駆け付けてくれた女性によって、四宮君はすぐさま市内にある総合病院へ送られた。診断結果によると、症状はウィルス性の胃腸炎によるもの。発症から大分時間が経っており、既にピークは過ぎて治り掛けの段階に入っていたものの、やはり軽度の脱水症状を起こしていたそうだ。安静にしていれば明日にでも快復する見立てで、今日は念の為に病棟で夜を過ごす手筈となった。

 私が一通りの経緯をサラさんへ伝えると、事情が事情なだけに今日の労働は終了。後で荷物を取りにだけ戻ってくればいいとのことだった。一方の北都先輩は、公園内にあるオープンカフェで一息付こうと私を誘い、二人一緒に遅めのアフタヌーンティを楽しむ流れになっていた。

 

「ここは度々利用させて頂いているんです。天気が良い日は、とりわけ格別ですから」

「こんな時間でも、結構お客さんが多いんですね」

 

 時刻は午後の17時前。そろそろ快晴の空が夕焼け色に染まる時間帯だ。公園内には元気に走り回っていた子供達の姿も既に無く、大型連休終了間際独特の情緒が、そこやかしこに見受けられた。

 

「・・・・・・フフ」

 

 ストローでアイスコーヒーを啜っていると、北都先輩は手にしていたティーカップをソーサー上に戻し、小さな声を漏らし始める。

 

「北都先輩?」

「フフ、あははっ。あは、あははははっ!」

 

 北都先輩の声は次第に大きくなり、遂には腹を抱えて笑い始めてしまった。

 一体どうしたのかと狼狽えてしまったのも束の間のこと。結局は私も一緒になって、周囲の目を憚らず、笑った。笑い声は一つとなり、広大な公園の空へ溶け込んでいった。

 先輩は目元に薄らと溜まった涙を拭って、途切れ途切れに言った。

 

「ごめんなさい、私が笑ってはいけませんね。今日という日ほど、自分の愚かさと思慮の浅さを痛感したことはありませんでした。フフ、どうか存分になじって下さい。罵詈雑言は大歓迎です」

「え、えーと」

 

 目茶苦茶気不味い。なじれと言われても困る。北都先輩の大変な疑いは晴れてくれたけど、思い出すだけで笑ってしまう。うん、やはり笑い話ということにしよう。底抜けの恐怖なんて無かった。

 記憶の改竄は別として、私が北都先輩について知っていることは少ない。でも心なしか、マンションで出くわした時よりも、表情が晴れているような気がする。制服姿ということは、おそらく今日も学園に顔を出していたようだし、疲れがあったのかもしれない。少なくともドス黒いオーラは感じない。表情は一つだ。

 

「でも遠藤さん。私が言えた立場ではありませんが、アルバイトは程々にしておいて下さいね。学業へ支障が出ては、元も子もありませんよ」

「はい。重々理解しています。それに・・・・・・」

「それに?」

「いえ、その。自分でもよく分かっていないんですけど。多分、大丈夫です」

 

 杜宮学園へ転入してから早二週間。余裕が持てないうちに一週間が終わり、気付けばゴールデンウィークも閉幕。沢山の出会いに戸惑っては、我を見失った自分と時折向き合って、己の行く末に不安を抱く。一日がとても濃厚で、あっという間に全てが過去の出来事へと変わっていく。

 

「私、この杜宮を好きになれそうです」

 

 悪くない、と思える。まだまだ手探りだけど、毎日が満ち足りていた。楽しくて辛い、笑ったり沈んだりを繰り返す日々は、何かに溢れていた。空っぽで虚無しか無かったこの『半年間』を、この杜宮でなら取り戻せると、そう思うことができる。少しずつだけど一歩ずつ、着実に。

 

「アルバイトも、その一つで。私にとっては・・・・・・わ、わた、し」

「遠藤さん・・・・・・」

「あ、あれ。あはは。どう、して」

 

 一度緩んでしまえば、後は止めどが無かった。

 北都先輩は私の気が済むまで、日が暮れるまで、私の手を握り続けてくれた。

 

________________________________________

 

 別れ際に北都先輩とメールアドレスを交換した私は、一度モリミィへ荷物を取りに戻ってから帰宅した。どういう訳か昼間よりも更にペダルが重く感じられ、たったの十数分で息切れ直前まで追い込まれてしまった。

 思っていた以上に疲れが溜まっていると考えた私は、早めに就寝しようと夜の21時にベッドに入り、北都先輩から送信されてきたメールを改めて読み直した。

 

『おかげ様で、私というちっぽけな人間と、改めて向き合うことができました。私も遠藤さんに負けないぐらい、杜宮を好きになって見せますね。お互いに頑張りましょう』

 

 メールの真意はよく分からなかったけど、今日の一件が先輩にとって良い方向へ働いてくれたことは間違いないようだ。私はお礼の返信メールを送り、明日を想いながら瞼を閉じ、夢の中へと沈んでいった。

 

________________________________________

 

 そして―――翌朝。

 目覚めと共に途方も無い気怠さに襲われた私は、取り急ぎソラちゃんへ一報を入れた。

 

「という訳だから、ごめんね。朝のロードワーク、付き合えそうにないんだ」

『だ、大丈夫ですか?私、今からそちらに向かいますっ』

「駄目、来ない方がいいよ。移っちゃう」

『移る?』

「うん。私も、移されたみたい・・・・・・うぷっ」

 

 四宮君を蝕んでいたウィルスの僅かな生き残りは、私の身体を宿主として、急速に増殖を始めていた。結果として私は木曜日以降も自宅療養を余儀なくされ、5月10日の日曜日まで、ぶっ続けに九日間の超大型連休を取る羽目になった。

 今後一切、四宮君のことは『ユウ君』と呼んでやる。人知れず、私はそう心に決めた。

 

________________________________________

 

 

 

○おまけ

 

「遠藤さんが昨日から休んでいることも、あのアプリが関わっている可能性があるわ」

「それは違うと思うぜ」

「私もコウ先輩と同意見です」

「決め付けは感心しないわね。どうしてそう断言できるのかしら?」

「ガラケーじゃダウンロードすらできねえよ」

「今のはあなた達を試したのよ」

 

 

 

○おまけ②

 

「あら、今日はガールフレンドは来ていないの?折角ご挨拶ができると思ったのに」

「だああああっ!!?」

(おい、こんな奴のガールフレンドってどんなだよ)

(相当な変人ね)

(顔を見てみたいです)

 

 

 

 



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5月10日 予兆

 

 5月10日、日曜日。大型連休が過ぎ去り、木々の緑が深さを増し始める季節。

 残春の陽気に溢れる昼下がりに、私は部屋の窓を開けて、新鮮な外気を胸一杯に吸い込んだ。

 

「んんっ・・・・・・はぁ」

 

 体温は平熱、気分は上々。寝たきりの生活が続いたせいで若干の気怠さは残っているけど、健康体と言っていい。身体はすっかり元通りになってくれていた。

 元々昨日の時点でほぼほぼ快復はしていたし、市内の総合病院が休日も受診可能だったおかげで、既に登校の許可も貰っている。そろそろ学園へ顔を出さないと、私という存在を忘れられそうで怖い。

 

(もう5月の10日、かぁ)

 

 しかし今日で九日目の休日か。曜日の並びも相まって、転入してひと月も経たないうちに随分と多くの休日を過ごしてしまった気がする。早々にモリミィにも迷惑を掛けてしまったし、何より二日間の授業の遅れは私にとってかなりの痛手だ。明日はみんなのノートを写す作業だけで休憩時間が終わってしまうかもしれない。

 それもこれも、全部ユウ君のせいだ。今度会ったら思い付く限りの文句を吐いてやろう。

 

「・・・・・・あはは」

 

 振り返り、室内を見渡す。この四日間で、私は沢山の親切心に触れた。

 病にふせっている間の食事はお世話になりっ放しで、アイリさんはよく『カーシャ』というお粥に似た郷土料理を作ってくれた。タマキさんやシホさんも度々様子を見に来てくれたけど、その場の勢いで酒盛りを始めたこともあった。部屋にGが現れた時にはソラちゃんが颯爽と登場し、「これを使って!」と私が手渡した殺虫スプレーを握り、「助かります!」と言いながらスプレー缶の底面でGを叩き潰してくれたおかげで、私は即座にお手洗いへと駆け込み吐いた。添い寝をするモリマルぬいぐるみも二体に増えて、妄想の幅が広がった。色々と間違っている気がするけど、まあよしとしよう。

 商店街のみんなも同じで、寧ろ手厚過ぎる看病と心遣いに戸惑いを覚えた。というのも、伊吹君から聞いた話では、私はウィルス性の奇病に倒れたということになっていたようだ。一応否定はしたけど、心温まる思いやりの数々が、素直に嬉しかった。おかげ様で完治したことだし、今日はお礼もかねて食器やらタッパーやらを返しに回ろう。こういうことは早い方が良い。

 ―――ピンポーン。

 

「えっ」

 

 上着を脱ごうとスウェットに手を掛けたところで、呼び鈴が鳴る。

 困った。今日は大事を取って朝から眠っていたせいで髪型が崩れている上に、少し汗臭いからシャワーを浴びようと思っていたところなのに。こんな時にお客さんか。

 

(ま、まずい)

 

 急いで乱れた髪を直し、消臭スプレーを首元にひと吹き。ついでに深呼吸。一人暮らしには慣れてきたけど、来客時はどうにも落ち着かない。呼び鈴が鳴る度に緊張してしまう。しかも玄関扉のドアスコープは故障中で、扉の向こう側を視認できないのだから尚更。この部屋唯一と言っていい欠陥部分だ。

 そうこうしているうちに二回目の呼び鈴が鳴り、私は急ぎ足で玄関へ向かった。

 

「は、はい」

 

 サンダルを履いて、ゆっくりと扉を開ける。その向こう側に立っていた男性は長身で、自然と見上げる形になり―――私は一瞬、目を疑った。

 

「・・・・・・お兄、ちゃん?」

「あん?」

 

 男性が目を細めて疑問符を浮かべると、たちまちに幻覚は立ち消えた。

 在ったのは現実。屈強な身体付きと分厚い胸板、紺色の腰エプロン。後頭部でまとめられた金髪が眩しく、顔立ちは整っている一方で凄味に満ちている。見ず知らずの男性が、眼前で仁王立ちをしていた。

 

「あっ・・・・・・え、えと、その」

「人違いみてえだな。まあいい、お前さんが遠藤―――」

「ご、ごめんなさい!」

 

 瞬く間に混乱の極みに陥った私は、勢いを付けて外開きの扉を閉めた。

 すると男性の右手が扉へ引っ掛かり、手首から先が隙間に挟まれて、男性は痛々しい声を上げた。

 

「ぐあぁ!?」

「えっ」

 

 慌てて再度扉を開くと、右手首を押さえて蹲る男性の姿があった。私は明確な『死』を覚悟した。

 

________________________________________

 

 男性は高幡シオと名乗った。

 驚いたことに、高幡先輩は私と同じ杜宮学園に通う三年生、私と同年代だった。住まいは商店街の外れにひっそりと佇む蕎麦処『玄』。下宿をしながら出前や雑務をこなす見習いのようなもの、だそうだ。

 言われてみれば、連休中にタマキさんとシホさんの誘いで玄を訪ねた際、厨房の奥にそれらしき人影を見たことがあった。あの時は蕎麦焼酎と天ぷらの盛り合わせで長居をしていた―――のは私以外の二人だったけど、見事に巻き込まれたこともあり、高幡先輩は私の顔を覚えていたらしい。完全な初対面という訳でもなかった。

 

「ほ、本当にごめんなさいっ」

「気にすんなや。俺の方こそ、驚かせちまって悪かったな」

 

 一時は生きた心地がしなかったけど、高幡先輩の右腕は無事だった。「そんなヤワな鍛え方をしちゃいねえ」と、高幡先輩は袖を捲って丸太のような右腕を見せてくれた。多分高幡先輩は素手でリンゴを握り潰せる系の男子なのだろう。

 

「それで、身体の方はどうなんだ」

「は、はい?」

「オヤッさんと奥さんから、1000万人に一人の奇病だって聞かされてたんだが」

「・・・・・・あの、胃腸炎です。ただの」

 

 また随分と誇張して話が伝わっていたようだ。そんな重病の患者が自宅療養をする訳がないだろうに。もしかしたら、1000万人に一人の瞳を持つアイリさんの話と混ざってしまったのかもしれない。

 苦笑いを浮かべていると、高幡先輩が左手にぶら下げていた袋を差し出してくる。

 

「差し入れの配達をオヤッさんから頼まれてな。出前ついでに立ち寄ったって訳だ」

「さ、差し入れ、ですか」

 

 袋の中には、小ぶりの布に包まれた小さな土鍋やレンゲが入っていた。土鍋はまだ温かく、主張し過ぎない和風の香りが空っぽの胃袋を刺激した。

 

「卵粥だそうだ。ウチは月見物や丼物に新鮮な鶏卵を使ってる。味は保証するぜ」

「で、でも。私、もう体調は良いですし」

「なら尚更食っとけ。病み上がりの身体には栄養が必要だ」

 

 高幡先輩が小さな笑みを浮かべた途端、再び過去の記憶が呼び起こされた。

 気のせいじゃない、やはり似ている。体格や顔のパーツは勿論、何より口角を僅かに上げて笑うこの表情。若干の不器用さが垣間見える笑顔を見る為に、私は必死になって背中を追い続けた。あれからまだ一年も経っていないというのに、遠い昔のことのように思えてしまう。

 

「どうかしたのか?」

「え?あっ、えと。何でもないです。その、今日はわざわざありがとうございます」

「礼ならオヤッさんに言え。器は今度取りに来る」

 

 高幡先輩は言い終えてから踵を返し、一階へ繋がる階段の前で立ち止まった。すると背中をこちらへ向けたまま、聞き慣れない単語を口にした。

 

「こいつは別件なんだが、お前さん『BLAZE』を知ってるか」

「ぶれ・・・・・・いえ、聞いたことがないです」

「知らねえならいい。邪魔したな」

 

 高幡先輩は階段を下り、出前用と思われる古びたオートバイを走らせてアパートを後にした。私はその大きな背中を見送りながら、思い出の中にある背中と重ねていた。

 それにしても、また貰い物が増えてしまった。小日向君との一件もあるし、お返しのパンは今度まとめて焼いてしまおう。そう心に決めて、私は美味しそうな昼食に喉を鳴らした。

 

_______________________________________

 

 出来立ての卵粥に舌鼓を鳴らした後、私は溜まりに溜まった洗濯物を済ませてから商店街に出て、お礼を言いながら回った。

 既に時刻は午後の15時を過ぎており、商店街には部活帰りと思われる杜宮の学生の姿が散見された。そんな中で一際目立っていたのは、高幡先輩のように腰エプロンを付けて声を張る、私のクラスメイトだった。

 

「あの、伊吹君。こんにちは」

「ん・・・・・・うお、遠藤さんじゃん。あれ、もう外に出て大丈夫なのか?」

「はい、おかげ様で。今日はお皿をお返しに来ました。ありがとうございます、すごく美味しかったです」

「いいっていいって。俺は届けただけだしな」

 

 伊吹君の実家は青果店を営んでいる。卵粥も絶品だったけど、色取り取りの野菜を使ったお粥も栄養満点で、衰弱し切っていた私にとっては貴重な食事だった。届けてくれた時には、伊吹君の幼馴染らしいチズルさんも同行していた。チズルさん曰く「見張り」だったそうだけど、気に掛けてくれていただけでも大変に有難かった。今日は不在みたいだから、また今度お礼を言っておこう。

 

「今日はお店のお手伝いですか?」

「この腕じゃ遊び歩く訳にもいかねえしなぁ。今のうちにポイントを稼いどこうと思ってさ」

 

 伊吹君が腕を負傷したのは、連休が明けてすぐのこと。伊吹君はスイカ―――少し違う気がするけど、確かそんな名前のアイドルグループのライブ帰りに、交通事故に巻き込まれて右腕の手首を挫傷してしまったと、シオリさんからメールで聞かされていた。大事に至らずに済んで良かったと思いたい一方で、利き腕が全治二週間では伊吹君も何かと不便に違いない。・・・・・・高幡先輩の手首も、大丈夫だよね。

 

「無理だけはしないで下さいね」

「おう、あんがとよ。そうそう、コウも今隣で働いてるみたいだぜ」

「時坂君、ですか?」

 

 私は向かって青果店の左隣にある『ヤナギスポーツ』を見てから聞き直した。

 

「店主のヤナギさんが午後から用事があるとかで、コウが店番を任されたんだってよ」

 

 色々なアルバイトに手を出していることは本人からも聞かされていたけど、スポーツ用品店もその一つだったのか。想像以上に手広くやっているようだ。

 ヤナギスポーツには何度か足を運んだことがあるし、時坂君にも色々と心配を掛けてしまった。ちょうどいい機会だから、少し顔を出して一言声を掛けておこう。私は伊吹君にもう一度お礼を言ってから、ヤナギスポーツへ向かった。

 

_______________________________________

 

「いらっしゃいま・・・・・・って、遠藤?」

「こんにちは、時坂君」

 

 自動ドアを潜ると、黒のエプロン姿の時坂君がレジカウンターの向こう側に立っていた。何というか、一見しただけで様になっているように思える。流石は時坂君。こんな風にアルバイト中の彼と出くわすのも、これが三回目か。

 私が挨拶をして明日から登校できる旨を伝えると、時坂君は安堵の色を浮かべた。伊吹君とも話したことだし、今日のうちに見知った面々には話が伝わることだろう。

 

「授業のノートを借りるならジュンのをお薦めするぜ。あいつはいつも綺麗にまとめてるからな。シオリのはやめとけ、イラスト付きで本人にしか理解できねえから」

「あはは、分かりました。時坂君は、この土日もアルバイトですか?」

「いや・・・・・・昨日まで、色々あってな」

 

 大きく伸びをしてから溜め息を付く時坂君。色々が何を差しているかは分からないけど、かなり疲労が溜まっているようだ。こんな様子ではまた明日にでも、九重先生やシオリさんに小言を並べられてしまうかもしれない。

 

「そういや、ヤナギさんが言ってたけど。遠藤はちょいちょいここに来るんだってな」

「それは・・・・・・はい」

 

 時坂君も知っていたか。ここで否定しても仕方ない。

 私は振り返り、店の奥に設置されていたディスプレイの方へ歩を進めて、陳列されていた品々を見上げた。店内には来客が私一人だったこともあり、時坂君も私の隣に立ちながら言った。

 

「遠藤って、テニスをやってたのか?」

「・・・・・・軟式を、以前に」

「でも部活動はやってなかったって言ってたよな。地元のスポーツクラブに入ってたとかか?」

「いえ、そういう訳では」

 

 私の曖昧な返答を訝しむ様子を見せながらも、時坂君はそれ以上を聞こうとはしなかった。相変わらず察しが良い人だ。私の答えは半分が事実で、もう半分は嘘と言っていい。

 私はディスプレイのラケットの一本を取り、グリップを握った。杜宮に来て以降、私は思い出すようにヤナギスポーツを訪れては、自分自身でもよく分からない衝動に駆られて、こうして新品のグリップを握ることがあった。店主のヤナギさんも時坂君同様に深く問い質そうとはせず、テニスに関する取り留めのない話題で花を咲かせることが常だった。

 私は何をしたいのだろう。何を思い出しているのだろう。高幡先輩に肉親を重ねてしまったことも相まってか、益々自分が分からなくなる。

 

「軟式テニス、か。俺はよく知らねえけど、老若男女を問わない大会って、やっぱり珍しい物なのか?」

「え?」

「ほら、あれだよ」

 

 時坂君が指差したのは、レジカウンターの奥。非常口の隣にある掲示板には、スポーツクラブの勧誘チラシや各種競技用品の広告等が貼られており、中央のポスターにはラケットをフォアハンドに構える、テニス選手の姿が写っていた。言われてみれば結構目立つポスターではあるけど、普段はレジにヤナギさんが立っていることが多かったせいか、全く気付いていなかった。

 

「杜宮杯テニス大会ってのが、年に一度開催されてるらしいんだ。今日がその開催日で、ヤナギさんも大会の運営に一枚噛んでんだよ。俺が店番やってんのも、それが理由でさ」

「杜宮杯・・・・・・珍しい、とは思いますよ」

 

 スポーツ競技のほとんどは、当然ながら男女間での区別がなされる。軟式テニスも例外ではなく、男子テニスと女子テニスに二分するのが基本だ。ジュニアとベテランがやり合うことはあるし、混合ダブルスなんかも存在はするけど、一切の区別が無い大会はそうそう無い。

 杜宮杯という大会名から察するに、市が主催しているからこその試合形式なのだろう。イベント的な要素を含んでいる物なのかもしれない。

 

「ヤナギさんの話じゃ、杜宮の学生も出てるらしいぜ」

「っ・・・・・・!」

 

 吸い寄せられるように自然と足が動き、私はポスターに記載されていた内容の詳細に目を通した。開催日は確かに今日で、形式は予選無しのトーナメント制。場所は市内の北端にある市民体育館だった。

 大会の規模やコート数は分からないけど、場所が一般的な体育館で出場枠一杯のエントリーがあったと仮定すると、開催時刻から考えれば今現在は準々決勝辺りだろう。少なくとも、まだ終わってはいない筈だ。

 

「もしかして、今から向かうつもりなのか?」

「えと、はい。時坂君、この市民体育館の場所って分かりますか?」

「結構遠いぜ。駅から離れてるし、自転車じゃ・・・・・・いや。確か休日は市営のバスが通ったっけ。上手いこと時間が合えば、バスが最短だな」

 

 市営バスなら何度か利用したことがある。停留所も商店街を出てすぐだ。

 私は時坂君に一言だけを置いてから、急ぎ足で店内を後にした。胸の奥底から込み上げてくる衝動の正体は、やはり私にも分からなかった。

 

______________________________________

 

 停留所へ着いた頃には、若干息が切れ始めていた。身体が鈍っているせいか全身が重く感じられ、私は深呼吸をして冷静さを取り戻した後、バスの時刻表と睨めっこをした。

 

「・・・・・・あれ?」

 

 携帯電話に表示された現時刻と、バスの発着時間を見比べる。ちょうどピッタリの時間、15時23分が両者に表示されていた。幸運にも絶妙のタイミング―――ではなく、待てども待てどもバスは現れず、既に停留所を発車した後だと悟ったのは、それから数分間が経った後のことだった。

 参った。市民体育館の大まかな場所は時坂君から教わったけど、やはり自転車では時間が掛かり過ぎる。しかし次のバスを待つぐらいなら、自転車を使った方が幾分かは早く到着できる筈だ。

 

「よしっ」

「おう、また会ったな」

「へ?」

 

 声に振り返ると、昼時にアパートを訪ねてくれた、高幡先輩が立っていた。

 バスの停留所は商店街の端、蕎麦処『玄』の裏側近くにあり、上背の高幡先輩は石造りの塀から頭だけを覗かせていた。高幡先輩が言うには、今はお店の裏庭で出前用のオートバイの水洗いをしていたそうだ。

 

「随分と息が荒いな。病み上がりの身で無理はするもんじゃねえぜ」

「え、えーと。でも今は、そうも言っていられないみたいでして」

「何だ、急ぎの用でもできたのか?」

 

 高幡先輩の問いに私は首を縦に振って、簡単に事情を説明した。

 似ている、からかもしれない。高幡先輩の前では不思議とリラックスできるし、もうずっと前からの知り合いかのような安心感がある。

 何より嘘が付けない。過去の反動からか、この人には―――なんて、そんな感情を抱いてしまうのは、嘘を付いていたという自覚がある証拠だ。我ながら呆れてしまう。

 

「行きだけでも構わねえか」

「は、はい?」

 

 物思いに耽っていたせいか、高幡先輩の声を聞きそびれた私は慌てて聞き直す。

 

「こう見えて暇を持て余してるって訳でもねえからな。帰りまで面倒は見てやれねえが、それでいいってんなら後ろに乗せてやる」

「あっ・・・・・・は、はい。あの、お願いできますか?」

「ならそこで待ってろ。すぐに出す」

「あ、ありがとうございますっ」

 

 頭を下げてお礼を言ってから、今し方の会話を頭の中で繰り返す。

 よくよく考えなくてもおかしい。ほぼ初対面同士の男女に許されるやり取りとは到底思えない。「後ろに乗れ」と言われて「はい」と即答するなんて、私は勿論のこと高幡先輩もどうかしている。先輩に限って如何わしい魂胆は無いと思いたいけど、でも顔や体格が似ているからってそれはそれでどうなんだろう。

 あれやこれやと思い悩みながら、待つこと約一分間。てっきり車を出してくれると思い込んでいた私は、黒光りをする大型のオートバイに跨り登場した高幡先輩の姿に、唖然として立ち尽くしていた。

 

「え、えーと」

「おら、急いでんだろ。さっさと乗れや」

 

 もうどうにでもなれ。半ば自棄になった私はヘルメットを被り、高幡先輩の腰に腕を回した。

 

_________________________________________

 

 オートバイに乗った経験が無かった私は、二輪車で車道を走り抜ける爽快感に魅了され、先程の躊躇いは跡形も無く綺麗サッパリ消え去っていた。自動車と大差無い速度でも、体感するそれはまるで別物。何だかんだで、楽しんでいる私がいた。一方のハンドルを握る高幡先輩は私を気遣ってか、信号待ちの間に度々会話を振ってくれていた。 

 

「知り合いにアキヒロって野郎がいてな。俺達は『アキ』って呼んでいたせいか、お前さんを見るとあいつの顔を思い出しちまう。複雑な気分だ」

「わ、私の方が複雑なんですけど・・・・・・」

 

 アキヒロという人物を野郎と呼ぶからには当然男性なのだろう。そんな人を連想されては少々どころか複雑極まりない。とはいえ、私も人のことを言えない気がする。

 背後で苦笑いを浮かべていると、高幡先輩はアパートでの会話について言及した。

 

「それで、昼間のあれは何だったんだ。俺を兄貴か誰かと見間違えていたようだったが」

「あ、あれは・・・・・・その。少し、似てるんです。高幡先輩と、お兄ちゃんが」

「成程な。兄貴は高校生か大学生ぐらいか?」

「・・・・・・高幡先輩と同じ、高校三年生でした」

 

 過去形で終えると、信号の色が赤から青へ変わった。

 自然と高幡先輩の腰に回していた腕に力が入り、私はそれ以上何も言わなかった。市民体育館へ着くまで高幡先輩も口を閉ざしていたけど、背中から伝わってくる体温が、少しだけ下がったような気がしていた。

 

______________________________________ 

 

 バスとは違い最短距離を辿ることができたおかげで、市民体育館には思いの外早く到着することができた。館内からは独特の声援が僅かに漏れており、今も試合の真っ最中であることが窺えた。

 

「すまなかったな。無神経なことを聞いちまって」

「いえ、そんな。私の方こそ・・・・・・その」

 

 私の方こそ―――何だ。自分から言っておいて、その先が続かなかった。

 もう何度目になるか分からない。以前に北都先輩へ語った想いに、嘘偽りは無い。少しずつだけど、空白の半年間を取り戻せている手応えがある一方で、足踏みをしている自分もいる。過去と今を行ったり来たりして、頭を抱えてしまう私は、一体何処へ向かっているのか。答えなんて、ある筈もなかった。

 

「『割り切る』や『受け入れる』は、裏を返せば『逃げる』『目を逸らす』ってことと同じなんだろうよ」

「え・・・・・・?」

「俺も人様のことを言えたモンじゃねえが・・・・・・いや、忘れてくれ。ただの戯れ言だ」

 

 高幡先輩は表情を隠すようにヘルメットを被り直して、私の背中をポンと叩いた。

 

「急いでんじゃなかったのか」

「あっ・・・・・・あ、ありがとうございました」

 

 私が頭を下げると、オートバイのエンジンが唸り声を上げた。

 急速に遠のいて行く高幡先輩を見送った私は、先輩の言葉を胸に刻んで、体育館を目指して走り出した。

 

______________________________________

 

 市民体育館内には六面のコートが設置されており、二階の観覧席からコート全面を見下ろすことができた。私が到着した時間帯はちょうど試合の合間だったようで、コートには関係者と思われる人間の姿しか見受けられなかった。

 

「あれ、アキちゃんじゃないか」

 

 館内を見渡していると、緑色のジャージを上下に着たヤナギさんが声を掛けてくれた。

 時坂君からも聞いていたけど、ヤナギさんは毎年開かれる杜宮杯の運営に一役買っており、今年も例年通りにいくつかの業務を担当していたそうだ。ついでに会場でテニス用品の販売もしているのだから抜け目がない。

 

「全然気付かなかったよ。いつ来たんだい?」

「ついさっきです。それで、試合はどれぐらい進んでいるんですか?」

「そろそろ準決勝が始まるところさ。ハハ、良いタイミングで来たね」

 

 ヤナギさんが手渡してくれたトーナメント表には、各試合の勝敗が分かるよう赤のマジックで線が書き込んであり、準決勝へ進んだペアの名前と所属を知ることができた。その線を指でなぞり逆向きに辿ると、出場選手でもない私でも、興奮冷めやらぬ思いだった。

 

「や、ヤナギさん。これって」

「去年もそうだったけど、今年はまた大変なことになったよ」

 

 年齢を問わない大会では、多くの場合実業団所属の社会人や、インカレで活躍する大学生らが上位を占める。杜宮杯も同様の傾向が見られるものの、準決勝へ駒を進めたペアのうち、社会人と大学生のペアが一組ずつ。そして残る二組は―――高校生。しかも共に女子高生のペアという、番狂わせと言っていい状況にあった。

 

「ん。ちょうど今から始まるみたいだ」

「あれが・・・・・・」

「そう、アキちゃんと同じ杜宮学園の生徒だよ。都内でもトップクラスの高校三年生さ」

 

 男子大学生ペアとの試合に臨むのは、新井リサさんとエリス・フロラルドさんペア。詳細はヤナギさんが教えてくれた。

 二人が出会ったのはジュニア時代。両親の仕事の関係でイギリスから日本へやって来たエリスさんは、軟式テニスという日本発祥の競技に関心を示し、とあるジュニアクラブへ所属した。リサさんとはそれ以来の付き合いで、もう何年もペアを組み続けている。中学時代は勿論、高校でも頭一つ秀でた実力を発揮し、様々な大会で実績を残しているそうだ。

 

「な、何だか妙に詳しいですね」

「変な勘繰りは止してくれないかな・・・・・・彼女らはウチのお得意様でもあるからね」

 

 それはさて置いて。もう一方のコートで某有名メーカー所属の男性ペアと対峙する女子高生ペアも、関係者の間では名の知れた存在だった。

 

「岬エミリさんと、テレジア・キルヒナーさん。聖アストライア女学院は、アキちゃんも知ってるよね」

「勿論ですよ、テニス以外でも有名ですから」

 

 聖アストライア女学院は、様々な部活動で好成績を収める私立校として知られている。軟式テニスも同様で、インターハイでは毎年上位に食い込む程の強豪校だ。エミリさんとテレジアさんはその女学院のエース。今大会でも男子顔負けの技術を以って、順調に勝ち進んでいた。

 

「でもアラ女って、市外にありますよね?」

「アラ女自体はね。でも二人は市内に在住しているから、参加が認められたのさ。来月には夏の大会に向けた地区予選が始まるから、その調整を兼ねてるんだろうね。杜宮の二人も同じなんじゃないかな・・・・・・っと、始まったね」

 

 主審のコールを合図にして、両試合が開始された。二つの試合を同時に把握することは困難なため、私は一先ずリサさんとエリスさんの試合内容を観戦することにした。

 数あるスポーツ競技の中でも、テニスは男女間の差が明確に現れる方かもしれない。何よりスピード感が違うし、真正面からやり合えば力負けしてしまう。しかも相手は男子大学生、体格や身体能力の差は火を見るよりも明らかだった。

 そんなハンデを背負いながらもリサさんらは奮闘を見せ、ポイントを奪う度に館内には大きな声援が沸いた。第一セットは惜しくも落としてしまったけど、その堂々とした戦いぶりには心打たれる物があった。

 

「どうだい、同じ杜宮の女子高生として」

「正直、驚いてます。一セット見ただけで、二人の実力は理解しましたけど・・・・・・この試合は、難しそうですね」

 

 よく食らい付いている一方で、やはり相手が相手なだけに競り負けている感が否めない。一セットを奪うことさえできないかもしれないけど、恥じる必要は何処にも無い。ここまで勝ち進んだだけでも大健闘だ。

 反対側のコートに視線を移すと、まだ第一セットは終わっていなかった。エミリさんとテレジアさんの動きに注視し始めるやいなや、私は不思議な感覚にとらわれていた。

 

(・・・・・・んん?)

 

 リサさんらと同様に、二人が大変な実力者であることはすぐに理解できた。しかしそれ以上の違和感が、女子高生らしからぬ俊敏な動作を見る度に、膨らんでいった。男女間の違いとは別の何かが、頭の中に引っ掛かっていた。

 

「流石アキちゃん、もう気付いたみたいだね」

「いえ、よく分からないんですけど・・・・・・独特、としか」

「ラクロスさ」

「ら、ラクロス?」

「あの二人がテニスを始めたのは高校からで、以前はラクロスの選手として活躍していたんだ」

 

 前衛を務めるテレジアさんは、かつて自軍ゴールを守る鉄壁の守護神として。後衛のエミリさんは、ジャンプショットを武器とする超攻撃的なフォワードとして、元々はラクロス界に身を置いていた。

 転機となったのは、聖アストライア女学院への入学とテニスへの転向。ラクロスで培った攻撃力と守備力は、そのままテニスに活かされ、実力ある経験者らを追い抜いてエースの座を勝ち取った。それが二人の強さの秘訣なのだそうだ。

 

「そっか・・・・・・そうなんですね」

 

 一度だけ耳にしたことがある。ラクロスは別名『地上最速の格闘球技』。ゴールキーパーはあらゆる角度から襲い掛かるシュートを身を挺して防がなければならない。テレジアさんの守備範囲の広さとその頑強さは、正にラクロスの経験を活かした強みなのだろう。

 エミリさんもそうだ。長身から放たれるストロークの打点は常に高さが意識されていて、あんな風に上から叩かれたら、並大抵の女子高生では返すことすら儘ならない。ジャンプショットが得意だったというのも頷ける。

 

「どちらも海外出身者とのダブルスってだけで目を惹くし、都内じゃ有名だけど、地力ならアラ女ペアの方が一枚上かな。アキちゃんはどう思う・・・・・・アキちゃん?」

 

 同じ女子高生がこんなハイレベルの攻防を見せるだなんて、想像もしていなかった。webの動画サイトにも有名な試合は多数アップされているけど、やはり実際に見るのとでは大違いだ。

 私ならどうする。仮にあのエミリさんと打ち合うとするなら、どう切り崩す。私は食い入るように、二人の一挙手一投足を見詰めていた。

 

_______________________________________

 

 結果だけを見れば、二組の女子高生ペアは共に一セットも奪えずのストレート負け。しかし内容は館内に熱気が漂う程に濃厚で、手に汗握る展開の連続。来て良かったと心の底から思える試合だった。

 

「決勝は見ていかないのかい?」

「はい。もう充分に楽しめたので、今日はもう帰ります」

 

 決勝戦の結果は大方予想が付くし、元々勢いで観戦に来た経緯がある。帰りのバスの時間さえ調べていなかった私は、一足先にアパートへ戻ることにした。

 ヤナギさんに挨拶をしてから観覧席の通路を進んでいると、私よりも遥か前方を歩く、見慣れた杜宮の制服を着た女子に目が止まった。

 

「あれは・・・・・・・」

 

 長髪は強めにカールされていて、その特徴的な髪型は、校内でも何度か目にしたことがあった。記憶が確かなら、移動教室や全校集会の時だ。少なくとも、同学年ではない。

 

「・・・・・・誰だろう?」

「あの人は高松エリカさん。三年生ね」

「えっ。ひ、柊さんっ?」

 

 背後から掛けられた声に、一瞬耳を疑った。居る筈がないと思いきや、そこにはしっかりとクラスメイトの柊さんが私服姿で立っていた。

 こんな場所で知り合いに会うとは思っていなかった上に、それが柊さんともなれば尚更だ。私が面食らっていると、柊さんは左手に握っていたサイフォンをショルダーバッグに収めながら言った。

 

「私は近くで用事があって、その帰り道に立ち寄っただけなの。体育館で何かイベントをやっていると思ったのだけど、テニスの大会だったのね。フフ、私も見入ってしまったわ」

「そ、そうだったんですか。でもこの辺で用事って・・・・・・買い物か何かですか?」

「ええ、まあそんなところね」

 

 休日のショッピングか。でも周辺には目立った商業施設は無かったし、一人で出歩くにしては街外れ過ぎて面白みに欠けるような気がする。まあこの辺りには私も来たことがなかったのだから、きっと私が知らない何かしらがあるのだろう。

 

「もしかして、遠藤さんも出場していたのかしら?」

「あ、いえ。私は単に観戦をしに来ただけで―――」

 

 ―――パリンッ。

 突然遠方から乾いた音が鳴り響くと、頭上から降り注いでいた光が減った。

 

「な、何?」

「っ・・・・・・!」

 

 体育館の天井を仰ぐと、先程まで館内を照らしていた照明の一つが消えており、その破片がパラパラと体育館の床面へと降り注いだ。

 パリン、パリン、パリン。続けざまに三回の破裂音。光源が減る度に暗闇が増していき、私達を嘲笑うかのように照明達が次々と爆ぜていく。テニスどころではなく、瞬く間にして館内は阿鼻叫喚の渦へと叩き落されていた。

 

「きゃあっ!?」

「落ち着いて遠藤さん。これで頭部を保護しながら、係員の指示に従って避難して」

 

 館内へ響き渡る悲鳴を物ともせず、柊さんの透き通るような声が耳に入って来る。言われるがままに手渡されたショルダーバッグで頭上を覆うと、柊さんはそっと私の背中を押した。

 

「ほら、早く行きなさい。取り乱しては駄目よ、冷静にね」

「で、でも柊さんは」

「大丈夫。私も他の人達を誘導してからすぐに避難するわ」

 

 今度は多少強引に後押しをされて、私は出入り口に向かって歩を進めた。

 既に観覧席のほとんどは空で、後方からは今も照明が割れる音がハッキリと耳に入っていた。出入り口を潜り通路に出ると、息を荒げたヤナギさんの姿が視界に入った。

 

「アキちゃん!良かった、怪我は無い?」

「は、はい。でも、知り合いがまだ中にい、てっ・・・・・・!」

 

 ドクンと、急に鼓動音の一つが高鳴り、息が止まる。胸の中を直に締め付けられるような苦しさを覚え、瞼の裏に映る光景が目まぐるしく変化をする。そのどれもが見覚えのある物で、埋もれていた筈の一枚一枚が、おぼろげに脳裏をよぎっていく。

 

「あ、アキちゃん?まさか、何処か痛めたのかい?」

 

 初めてじゃない。場所も時間も、何が起きたのかさえ思い出せないけど、これが初めてじゃない。私は知っている。私は以前にも―――やめろ、思い出すな。呼び起こしては、駄目だ。

 

「ぐぅっ・・・・・・ひ、柊さん」

 

 柊さんが危ない。直感的にそう考えた私は、ヤナギさんの制止を振り切って、再度館内へと足を踏み入れた。既に内部には人気が無く、何処にも柊さんの姿は無かった。

 

「っ!?」

 

 すると今までで一番巨大な衝撃が全身を襲い、反対側の観覧席の後部に張られていた窓ガラス達が、一斉に音を立てて崩壊した。身体中を切り裂かれたかのような錯覚に陥った私は、頭を抱えてその場に蹲ってしまった。

 

(・・・・・・終わった、の?)

 

 それが最後だった。何かが壊れる音は止み、悲鳴は消えた。足音も話し声も無い。前方の窓が無いにも関わらず、一切の音が聞こえない。不気味な静寂に包まれた館内に、柊さんの声だけが、僅かに反響した。

 

「遠藤さん。まだこんな所にいたの?」

「柊・・・・・・さん?」

 

 視線を上げると、いつの間にか前方には柊さんが素知らぬ顔で立っていた。

 何かが変だと、すぐに気付いた。柊さんは全身が大粒の汗だらけで、肩で呼吸をしていた。異常な現象に見舞われたという自覚はあるけど、たったの一分にも満たない間に、まるで長距離を走り終えた直後を思わせる変貌振りだった。

 

「すぐに避難しなさいと言ったでしょう。どうして戻って来たりしたの」

「ご、ごめんなさい。でも・・・・・・何が、あったんですか?」

 

 戸惑う私を怪訝な表情で見詰めていた柊さんは、左手のサイフォンに視線を落とすと、呟くように言った。

 

「そう。ズレていたのね」

「ズレた?」

「独り言よ、気にしないで。でも遠藤さん、一つ聞いておきたいのだけれど」

「は、はい」

「貴女、何かを見た?」

 

 凍てつくようなその視線に、声が出なかった。辛うじて首を小さく横に振ると、柊さんは普段通りの笑みを浮かべてから、私の手を引いて出入り口へと向かった。

 異常な程に冷たかった。柊さんの右手も、声も視線も。どれもが氷のように冷ややかで、寒気がした。ヤナギさんに笑顔を向けるその表情も、私には取って付けた仮面のようにしか、映らなかった。

 

______________________________________

 

 

 

おまけ

 

 

「お嬢様、本日はこのままご自宅に?」

「いえ、商店街へ向かって下さい。最近高幡君の様子がおかしいという噂を耳にしまして」

 

 シオ+アキ < ブロロロロロロ.......

 

「どうなさいますか?」

「逃がしません」

「はっ」

 

 

 



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5月11日 異界化

 

 長期の連休明けの影響か、本校舎へ足を踏み入れた時から、学校独特の匂いに改めて気付かされた。上履きやチョーク、クラブハウスに科学実験室。階層や場所によってもそれぞれ異なっている。動物の嗅覚は人間の何倍、なんてフレーズはよく耳にする表現ではあるけど、人間の鼻だってそれなりに敏感だ。そして勿論、聴覚も。

 

(なぁ、本当にあんな子がそうだってのか?)

(俺も聞いた話だけど、何人か見たって奴がいるらしいぜ)

(人は見掛けによらねえってか)

 

 周囲から向けられる複数の視線が痛い。痛過ぎる。身から出た錆だということは重々理解しているけど、何もそんな小声でチクチクと突かなくたっていいだろうに。

 

「気にしなくていいと思うよ、アキちゃん。悪いことをした訳じゃないんだから」

「・・・・・・はぁ」

 

 朝から妙な視線を感じると思っていたら、蓋を開けてみれば単純な話だった。

 先日市民体育館へ向かう際、高幡先輩のオートバイで道路を走っていた私達の姿は、複数の生徒によって目撃されていた。伊吹君らの話では、高幡先輩は『学園最凶の不良』という大仰な名で称されていて、そんな先輩とオートバイで二人乗りをしていた私は、「あいつも相当ヤバい」「高幡にはアキって名前の舎弟がいた筈だ」「え、女だったの?」「杜宮を潰す為に転入してきたに違いない」といった感じで、非常にややこしい誤解を受けていた。奇異と畏怖が一対二ぐらいの割合で混ざり合った視線をどうにかして欲しい。

 一方で事情を察したシオリさんらは涙目になっていた私を気遣い、昼食へ誘ってくれていた。下手をすれば巻き込みかねないと思いつつも、今回ばかりは素直に甘えることにした。それぐらい辛かった。

 

「しっかし、遠藤さんから聞いた話と噂とじゃ、全然印象が違うよなぁ。同姓同名の別人って訳でもなさそうだし、一体どうなってんだ?」

「噂ばっかが先行しちまったってだけの話じゃねえのか。確かに髪も染めてるから外見はアレだし、無理もねえさ。よくあることだろ」

「僕もそう思うよ。遠藤さんの件だって二、三日経てば、みんな忘れちゃうんじゃないかな」

「み、皆さん・・・・・・」

「あ、アキちゃん、泣かないでね」

「リョウタの言い方が悪い」

「リョウタのせいだね」

「そういう心にくる理不尽はやめてくれ」

 

 男子三人組の漫才は別として、たったの四人の言葉だけでも感極まるには充分過ぎる。ここは小日向君の言うように、じっと我慢して鎮火するのを待つとしよう。

 それにしても、高幡先輩は凶悪な不良だとする学内の評判は何なのだろう。私だって高幡先輩との付き合いはあの一日だけだし、時坂君が言うことは尤もだけど、外見だけでそこまで悪い流言が広まるものだろうか。流石に疑問が残ってしまう。

 首を傾げていると、シオリさんが気遣わしげな表情で言った。

 

「でもアキちゃん、昨日から災難続きだね。柊さんもそうだけど、市民体育館のニュースを見た時は驚いちゃったよ」

「あれは・・・・・・はい」

「怪我人が出なかったってのが、せめてもの救いだよな」

「そういえば、ウチの女子テニス部の人達も現地にいたんだよね」

 

 昨日に発生した杜宮市民体育館の騒動は全国区で報道され、一晩で様々な考察がなされていた。

 現時点で有力、暫定的な原因とされているのは、地盤沈下現象と体育館自体の強度。私を含めた当事者の証言から考えて、大規模な地盤沈下が発生した可能性があるそうだ。それにより体育館に大きな歪みや捻れが生じて、窓ガラスが割れる事態にまで至ってしまった。

 そしてもう一つの要因が後者。あの体育館は東亰震災以降に建てられた比較的真新しい建屋の筈なのだけど、何らかの欠陥があった可能性が高いとして、都市整備局が現在調査を進めているらしい。

 

「遠藤も無事で何よりだぜ。相当な枚数のガラスが割れたりしたんだろ」

「はい。それは、そうなんですけど」

「・・・・・・何だよ。何か気になることでもあんのか?」

 

 思い出すだけでも鳥肌が立つ。そう、窓ガラスは私の目の前で一挙にして崩壊した。

 私は事情聴取の際、目の当たりにした全てを包み隠さずに並べた。私以外の人達もその筈だ。だというのに―――各メディアの報道内容には、一つだけ。欠けてしまっている事実があった。

 

「天井の照明が、割れたんです」

「照明?」

 

 異変は大きく分けて二段階。まずは天井に備え付けられていた照明器具が次々に割れ始め、窓ガラスが割れたのはその後のことだ。鮮明に覚えているし、私はそう説明した。にも関わらず、新聞には『照明が割れた』という事実が何処にも記載されていない。報道番組だって一度も触れようとはしなかった。

 

「ねえアキちゃん、それって本当?」

「見間違いではないと思うんですけど・・・・・・」

「どういう訳か、その事実がごっそり抜け落ちてるって訳か。確かに少し妙だわな」

「でもそれって変じゃない?建屋が歪んで窓ガラスが割れた、は何となく分かるけどさ。どうして天井の照明が壊れるの?」

「「・・・・・・」」

 

 小日向君の疑問に対する答えなんて、当然ある筈もなく。全員が沈黙してしまった。

 そんな中でただ一人、時坂君だけが、異なる表情を浮かべていた。真っ先にその意味を聞いたのは、シオリさんだった。

 

「コウちゃん、何か心当たりがあるの?」

「え?ああいや、俺も変だなって思ってさ。確かにおかしな話だよな」

「早速面白そうな話をしてるじゃない、先輩方」

 

 すると聞き覚えのある声に、耳がピクリと動く。

 頭に残る特徴的なキーと、心中を直に覗き込まれるようなこの感覚。声の方に振り返ると、両手を上着のポケットに入れて目を輝かせる、四宮ユウキ君の姿があった。

 不登校を決め込んでいるという話だったのに、どうして学生食堂なんかに。考えるよりも前に、私は全く別の所へ頭を働かせていた。

 

「ユウ君、こんな所で何してるの?」

「学生が昼時に学食に来て何がっておい。何それ」

豚丼(ぶたどん)大盛り」

「食い過ぎでしょ。いやそうじゃなくてさ。今の呼び名は何なの」

「・・・・・・豚丼(とんどん)?」

「そこじゃないから!アンタわざとやってるだろ!?」

 

 顔を真っ赤に染めて猛抗議をするユウ君。

 ああ、何て気持ちのいい。初対面の時はいい様に転がされてしまったけど、何のことはない。ツボを押さえさえすればこの通り、天才ハッカーとしての頭脳は鳴りを潜めて、掌で踊ってくれる。うん、癖になる。

 その後ユウ君はそっぽを向いて、呆け顔を浮かべていた時坂君と一言二言の会話を交わし、学食の奥へと去って行った。そんな二人のやり取りを見て、今度は私が不思議がる番だった。

 

「コウ、誰だよあいつ?」

「一年の四宮ユウキ。確かC組だっけな。週末にバイト先でトラブった時に、少し世話になったんだ。サボり癖はあるし小生意気な後輩だけど、最近心を入れ替えたらしいぜ。まあ悪い奴じゃねえよ」

 

 週末ということは、連休中にユウ君が体調を崩した後の出来事か。時坂君との接点がどのようにして生まれたのかは分からないけど、時坂君はユウ君を割と好意的に捉えているようだ。私も概ね同じ印象を抱いていた。

 

「ふうん。そんで、遠藤さんも知り合いっぽかったけど」

 

 今度は四人の視線が私へと向いた。返答に困り対面に座っていた小日向君をちらと見ると、小日向君は悪戯そうに笑いながら、人差し指を唇に当てた。

 配達初日のお礼にと小日向君へサンドイッチを差し入れた際、私はユウ君とのその後の出来事や胃腸炎の感染経路について、大まかな事情を明かしていた。小日向君もユウ君の異様な頭脳と態度が引っ掛かっていたそうで、ユウ君が学校を休みがちなことや、クラスでの評判なんかを教えてくれていた。

 ともあれ、ユウ君との馴れ初めを隠す必要はないように思えるけど、説明しようとすると意外に難しい。ここは小日向君の仕草に従って、有耶無耶にしておこう。そう考えていると、伊吹君が不機嫌そうに言った。

 

「おいジュン。どうしてお前が意味深な顔してんだ?」

「あはは、別に何でもないよ」

「何でもなくはねえだろ。つーか敢えて聞かないようにしてたけどな、何でお前の昼飯だけ遠藤さん手作りのサンドイッチなんだよ。色々納得がいかねえ」

「あげないよ?」

「そうじゃねえよ!いやぶっちゃけ欲しいけど俺が言いたいのは痛だだだだっ!?」

 

 遮るように、伊吹君の耳たぶを引きちぎらんばかりにつまみ上げる、チズルさんの姿があった。眼鏡の向こう側には、ひどく冷ややかな目が映っていた。

 

「悪かったわね。私が『ついつい』作り過ぎたおかずを無理矢理押し付けちゃって。今度から余らないように気を付けるから安心しなさい」

 

 ドスが利いた声と態度を前に、伊吹君は為す術も無く涙目で耳を擦っていた。

 似たようなやり取りを、既に何度か目の当たりにしたことがあった。普段のチズルさんが温厚で柔らかな物腰な分、初めは面食らってしまったけど、私にとってもお馴染みの光景になりつつある。お互いにもう少し素直になってもいいと思うのにな。

 

「ったく、お前らも飽きないよな。よくやるよ」

「でもチズルちゃんのああいう所は好きかな。だって可愛いもん」

 

 そんな二人の様子を温かな目で見守る、時坂君とシオリさん。

 私は堪らずに小声で小日向君へ呟いた。

 

(あの、これ突っ込んだ方がいいんですか?)

(放っておきなよ。突っ込んだら負けだから)

 

 喉から出かかっていた声を飲み込む。自覚が有るのやら無いのやら、伊吹君も時坂君にだけは言われたくないに違いない。

 

「でもすごいや。遠藤さん、四宮君を随分と上手くあしらえるようになったんだね」

「そ、それ程でも」

「フフ。さっきのアキちゃん、すごく生き生きしてたよ。もう一度見てみたいな」

「・・・・・・忘れて下さい」

「あいつ姉ちゃん以外にも弱点があったのか・・・・・・」

「えーと。とりあえず、そろそろ話を戻さない?」

 

 小日向君の声にハッとした。ユウ君やチズルさんに気を取られていたけど、言われてみれば私達は昨日の市民体育館の一件について話をしていたのだった。

 とは言っても、結局は何故照明の破損が報じられなかったのかという一点の謎が残っただけで、それ以上は考えたところで結論の出しようがない。素人の私達には知り得ない現象が起きていたという可能性だってある。

 

「気になるんだったら、柊にでも聞いてみるか?」

「柊さんですか?」

「遠藤の勘違いじゃねえってことだけでも、確認できた方がいいだろ。放課後に野暮用があるし、俺がそれとなく聞いといてやるよ」

「俺はその野望用とやらの方が気になる」

「お前は最近神経質過ぎる」

 

 伊吹君と時坂君がじゃれ合っていると、昼休みの予鈴が鳴った。

 私は明確に耳へ残っている破裂音を思い出しながら、事の真相について考えを巡らせていた。

 

_______________________________________

 

 無事に九日振りの授業を乗り切った、その日の放課後。アルバイトや自主学習の予定が無く、時間を持て余していた私は、何とはなしに学園の敷地内を改めて散策して歩いていた―――というのは、胸の内の建前。

 私の足は、自然と本校舎の南西側へ向いていた。歩を進めるに連れて、乾いた打球音が近付いて行く。やがて辿り着いた先には、同窓の先輩らの姿があった。

 

(リサ先輩と、エリス先輩)

 

 学園の敷地内にある、二面のテニスコート。その片方でラリーを続ける三年生、リサ先輩とエリス先輩。コートが二面あっても、たったの二人しかコート上にはいなかった。

 調べた限り、杜宮学園には今現在女子テニス部しか存在していない。過去には男女の部がそれぞれ一面ずつを使用していたらしいけど、部員の減少に伴い男子テニス部は一時休部。運動部が盛んと言われる杜宮でも、テニスは話が違うようだ。指導者や経験者の数の影響なんかがあるのだろう。

 

「・・・・・・少ないなぁ」

 

 距離を置いて壁に背を預けながら、二人だけのラリーを見詰める。

 女子テニス部と言っても、他の運動部のような活気は感じられない。二人しかいないのだから当たり前だけど、他に部員はいないのだろうか。普通は部員数が一定を下回ると部として認められず、男子テニス部のように一時活動停止になってもおかしくはない。その辺りの校則はどうなっているのだろう。

 

「あれ・・・・・・えっ」

 

 生徒手帳のページを捲っていると、先程まで続いていた打球音がピタリと止まった。顔を上げると―――二人の先輩が何かを喋りながら、こちらに向かって歩き始めていた。周囲を見渡しても、誰の姿もない。どう考えても、足と視線は私へと向いていた。動揺している間に距離は縮んでいき、左手にラケットを握っていたリサ先輩が切り出してくる。

 

「もしかして、貴女が遠藤アキさん?」

「あ、あの。はい。遠藤アキ、です」

「やっぱりそうだったの。フフ、突然声を掛けてしまってごめんなさい」

 

 どうしてこの人が、私の名前を知っているのか。そう尋ねようとした矢先に、隣に立っていたエリス先輩が声を張った。

 

「おもしれえ。少しツラを貸しな」

 

 初めて会話をしたイギリス人は、目茶苦茶怖かった。

 

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 事の経緯はリサ先輩が親切丁寧に教えてくれた。

 私の素性はヤナギスポーツの店主、ヤナギさんを介して二人に伝わっていた。ヤナギさんから「腕が立ちそうな経験者が杜宮へ転入した」と聞いていた先輩らは、昨日に市民体育館の観覧席でヤナギさんと話していた私を見て、あの子がそうかもしれないと当たりを付けていたらしい。

 

「見覚えのある顔だなって、昨日も思ったの。学園の何処かで会っていたのかもしれないわね」

 

 反対にリサ先輩も、ヤナギさんから聞いていた通りの先輩だった。

 三人しかいない女子テニス部の部長、新井リサ先輩。第一印象としてはとても人当たりが良くて、笑顔溢れる美人さん。運動部らしい健康的な身体と女性としての魅力を併せ持つ、素敵な先輩。北都先輩を運動部寄りにしたら、こんな人になるのかもしれない。

 ついでに言うと、リサ先輩は姓の頭文字と合わせて『アリサ』と周囲から呼ばれている。某アニメ主人公と容姿が似ていることから、最近になって付けられたあだ名のような物らしい。

 

「なあアリサ。まどろっこしい話は後にして、さっさと本題に移ろうぜ」

「駄目よ。しっかり説明しないと、遠藤さんも困るでしょう」

 

 アリサ先輩とは色々と対称的な、エリス・フロラルド先輩。

 それなりに名のある家柄の人で、品行方正かつ可憐なお嬢様―――という話だった筈なのだけど、外見や声とは裏腹に言葉遣いが荒々しくて、エリス先輩が喋る度にビクついてしまう。サキ先生をより攻撃的にした人格が柊さんに乗り移った感じだろうか。

 

「ごめんなさい。エリスって家族やクラスメイトの前では見た通りのお嬢様なのだけど、私みたいに気心が知れた相手にはこうなっちゃうのよ。ちなみにこっちが素」

「は、はぁ」

 

 随分と極端な先輩だ。確かに試合中も猛々しい声を張っていたっけ。お嬢様バージョンのエリス先輩を見てみたい気もするけど、今は置いておこう。それに先程の様子だと、二人は私に対して何か要件があるのだろう。

 

「あのー。話って、何ですか?」

「率直に言うぜ。アンタ部活動には入ってないんだろ?」

「・・・・・・勧誘、ですか」

「まあそういうこった。話が早くて助かるじゃん」

 

 何かしら特別な事情があるという訳でもなく、話の内容は分かり易い物だった。

 女子テニス部の部員数は必要最低数の三名のみ。うち一名は昨年の初めから休部中で、実質的にはアリサ先輩とエリス先輩しか活動していない。ここ数年はずっと減少の一途を辿っていて、二年間新入部員が入らなかったこともあり、見ての通りの有り様だそうだ。

 

「大学に知り合いがいて、月に何度かは練習へ参加させて貰っているのだけど、それ以外の日はエリスと二人だけでしか練習ができなくてね」

「練習って言ったって、二人でできんのは基礎の基礎ぐらいしかないからなぁ。大事な時期だってのにこんなじゃ、寧ろ苛々して仕方ないっつーか」

「大事な時期?」

 

 私が聞くと二人の表情が変わり、ピンと張り詰めた空気が流れ始める。

 懐かしいと感じる、私がいた。大切な試合を控えている時は、いつもこんな緊張感があった。

 

「昨日の準決勝。貴女も観ていたのよね」

「・・・・・・はい」

 

 聖アストライア女学院。エミリさん、テレジアさんペア。

 彼女らが台頭し始めたのは、昨年頃から。元々強豪校として有名だった女学院に、突如して君臨したエースに対する戦績は、全敗。五度に渡る対戦を通して奪えたセット数すら少なく、雪辱を果たす機会を得ては敗戦を繰り返す。昨年はそんな悔しさに満ちた一年間だったらしい。

 昨日の試合を見れば分かる。アリサ先輩らの実力だって、高校では頭一つ飛び抜けている程だ。でも女学院のあの二人なら―――今すぐに、大学で頂点を取れる。

 

「アタシらにとって、今年の夏が最後だ。地区予選も都予選も、もう一度だってあいつらに負けたくない。真っ平御免さ」

「だからこそ実りのある練習をしたいの。たった一人でも部員が増えてくれるのなら、今よりずっと充実した練習ができる。都合の良い誘いだっていうのは重々理解しているけど・・・・・・ねえ遠藤さん。少し考えてみてくれないかしら」

 

 二人の真っ直ぐな目に、息が詰まりそうになる。

 理解できない筈がない。目標を達成する為に、日々努力を積み重ねる。部活動として当たり前の大前提が、この二人には叶わない。積み重ねたい物が、手が届かない場所にあるのだ。

 身勝手なんかじゃない。勧誘の切実さは、痛い程分かる。でも―――

 

「入部は、ちょっと。アルバイトも、していますし」

「え・・・・・・そうだったの?」

「はい。部活動とアルバイトを両立するのは、難しいと思います」

 

 言いながら、胸の中に黒い靄が広がっていく。

 嘘は言っていない。でもこれは裏切りだ。真正面から向き合って頭を下げてくれた二人の先輩に対して、私は今本音を語ってはいない。自覚がある分、余計に自分が嫌になってしまう。

 

「そう。それなら仕方ないわね」

「え?」

 

 目を逸らしていると、アリサ先輩が言った。喉から手が出る程欲しいであろう経験者を前にして、簡単に勧誘を引き下げてしまった。

 一方のエリス先輩はひどく納得がいかない様子で、アリサ先輩へ詰め寄っていく。

 

「ちょ、ちょっと待てよ。バイトって言ったって、毎日やってる訳じゃないんだろ?」

「やめましょうエリス。遠藤さんに迷惑を掛けないようにって、約束したじゃない」

「でもだからって、そんな簡単に―――」

 

 声を荒げ始めたエリス先輩に対し、アリサ先輩は頑として首を縦に振らなかった。両者の間に挟まれてしまった私は何も言えずに、一歩後ろへと下がって二人の表情を見詰めていた。

 するとエリス先輩は決まりが悪そうに溜め息を一つ付いた後、握っていたラケットを私の前へと差し出してくる。私がラケットのグリップとエリス先輩の顔を見比べていると、先輩は思いもよらない提案をした。

 

「一度ぐらいならいいだろ。折角の機会だ、付き合えよ」

「え・・・・・・い、今からですか?」

「少し打ち合うだけだって。いい気分転換になると思うけど」

「で、でもこんな恰好ですし、ラケットだって」

「アタシは予備がある。恰好は・・・・・・まあ、周りに人もいないし大丈夫じゃん?」

 

 スカートの裾を摘まんでヒラヒラと揺するエリス先輩。

 制服姿ではラケットを振っただけで、女性として大変な事態になる気がする。人の目が無いから大丈夫という訳にはいかない。靴だってローファーだし、コートに立つこと自体が問題だ。

 助けを乞うようにアリサ先輩を見ると、先輩はやれやれといった表情で言った。

 

「仕方ないわね。少しだけでいいから、付き合って貰ってもいい?」

「っ・・・・・・と、止めないんですね」

「フフ、ごめんなさい。でも貴女だって、割と乗り気のように見えるわよ」

「え?」

「女子にしては、かなり薄く握るのね」

 

 気付いた時には、慣れ親しんだ形でラケットを握っていた。ヤナギスポーツで展示品を取っては握るを繰り返していたせいか、当たり前のように握ってしまっていた。

 結局私はスカートの下からジャージを履いて袖を捲り上げ、多少の躊躇いはありつつもシューズはアリサ先輩の物に履き替えた。何ともちぐはぐな出で立ちではあるけど、制服にローファーよりは遥かにマシだ。

 

「ラケットだけはどうにもならないわね。エリスのだと、少し重いかしら」

「いえ。軽過ぎるぐらいですけど、多分大丈夫です」

「・・・・・・軽い?重いじゃなくて?」

 

 感覚を思い出しながら、少しだけ腰を入れて一振り。ブランクのせいで慣れるまで時間は掛かるだろうけど、なんだかんだ言って、アリサ先輩が言った通りなのだろう。

 今だけはこの高揚感と、胸の奥底から込み上げてくる衝動に身を任せよう。そう思い、私はコート上でラケットを構えた。

 

_______________________________________

 

 屋上スペースが全生徒へ開放されているという点は、杜宮学園の数ある特徴の一つ。高所の危険性を考慮して立ち入りを禁止する学校がほとんどの中、杜宮は厳重な管理の下、放課後までその利用が許されている。昼時は青空の下で昼食を取る生徒で賑わい、放課後には度々応援団の熱烈なエールが夕焼けに溶け込んでいく。

 そして5月11日の16時過ぎ。応援団の活動が無く、珍しく人気の少ない屋上の一画に、声を潜めて話し合いをする四人の生徒らの姿があった。

 

「じゃあ遠藤の言っていたことは、間違いじゃなかったんだな」

「ええ。あれは地盤沈下ではなく、異界化による二次的な被害ね」

 

 アキの記憶は正しく、異変は照明器具のガラス部位の破裂から始まった。窓ガラスの崩壊も含めて、その全てが異界化による影響。あの場にアスカが居たことも偶然ではなく、異界化を察知した結果だった。

 

「でもアスカ先輩。異界化を分かっていたなら、どうして声を掛けてくれなかったんですか?」

「それ程の脅威性を感じなかったからよ。忘れて欲しくないのだけれど、私は今までずっと一人で事態の解決に当たってきたの。あなた達は一時的な協力者に過ぎないわ」

「分かってるっての。でも報道の規制もそうだけど、よくあの場に居合わせた全員を対処できたな。相当な人数だったんじゃねえのか?」

「事情聴取で集められた際に、集団でね。それ程手間も掛からなかったわ」

 

 騒ぎを荒立てない為に、アスカが取った対応は二つ。

 一つ目は報道通り地盤沈下が原因とされるよう、影から圧力を掛けたこと。そして二つ目が、念を押して当事者の記憶の一部を消去したことだった。コウが言うように異界化が発生した時間には、四十名超の人間が異変を目の当たりにしていた。その一人一人へ術式を掛けていては大変な時間を要するのだが、事情聴取で一つの場所へ集められた機会を利用して、アスカは集団に対して記憶の消去を試みていた。

 消された記憶は、異界化が関わる部分のみ。被害に遭った者達は、屋内で異音がしたから避難した、程度にしか覚えていない。ガラスが割れたという点も、建屋を外から見て知り得た情報だった。

 

「それで、遠藤先輩の記憶が消されていないことについては、どう説明する訳?プロにしては少し詰めが甘いんじゃない?」

「・・・・・・術式にミスは無かった。もしかしたら遠藤さんは、霊的な資質が高いのかもしれないわね。そういった事例は過去にも報告されているわ」

「遠藤の件はともかく、柊の見解を聞かせてくれ。あれが異界化の影響ってんなら、かなり大きな被害が出ちまってる。再発する可能性はあんのか?」

 

 コウの問いに、アスカはゆっくりと首を縦に振った。肯定を意味するアスカの仕草に対し、三人の表情が険しさを増していく。

 

「昨日の異界化は副次的な物と見て、まず間違いないでしょう。元凶は他にいると考えた方がいいわ」

「・・・・・・アオイさんの時と、同じですね」

「あの被害の規模で、本命じゃねえってのかよっ・・・・・・」

 

 アスカが異界の主を仕留めた際に、頭上へぼんやりと浮かんだ『別世界』。神様アプリ絡みの事件と同じで、真の元凶は別に存在するというアスカの考察に、間違いは無かった。そのエルダーグリードを倒さなければ、再び同様の被害が出る可能性は極めて高い。状況は既に、予断を許さない所まで押し迫っていた。

 

「とりあえず、一旦整理した方がいいんじゃない。物が勝手に壊れるっていう現象は、初めて聞く話でもないよね。所謂ポルターガイスト現象って、実は異界化が原因だったりするの?」

 

 ポルターガイスト現象を引き合いに出したユウキに、アスカは再び首を縦に振った。

 物体の移動、発光現象、ラップ音。現代科学では説明が付かない超常現象とされる物は、報道にあるよう見えない要素が複雑に絡み合って生まれた、当たり前の自然現象であることが多い。騒音や振動等は、原因の大部分を占めている。

 一方で異界化が関わっているケースも決して少なくはない。1900年代からポルターガイストの事例が急増したのも、分析科学の発達だけが要因ではないのだ。

 

「そう考えると、今度は何が起こるのか予測が付かないですね」

「まずは情報を集めましょう。あの場所、あの時間に、異界化を引き起こしたキッカケがあった筈よ。それさえ見い出せば、被害を未然に防ぐことができるわ」

 

 アスカがサイフォンを操作し、異界化発生の状況についてまとめていく。

 場所は杜宮市民体育館。日時は5月10日、16時52分。杜宮杯テニス大会の準決勝が終わった後の出来事。居合わせた人間はスポーツ大会なだけあって若い世代が多かったものの、高齢の参加者や関係者もいた。

 

「準決勝の直後ってのが気になるな。なあ柊、準決勝に残った選手が何らかの形で関わっていた、って可能性はあると思うか?」

「何とも言えないけど・・・・・・取っ掛かりとしては悪くないわね。現時点では情報が少なすぎるし、二手に分かれて該当者の聞き込みから始めましょう」

「なら全員市内在住だね。実業団所属の社会人と大学生、聖アストライア女学院の女子生徒に、それとあそこの二人」

 

 ユウキが屋上からグラウンドを見下ろして、当の二人を指で差し示す。幸運にも該当者のうち二名は、今日もテニスコートで部活動に励んでいる。一方でコートの脇には、もう一人の女子生徒の姿もあった。

 

「あれって・・・・・・遠藤先輩、ですか?」

「だな。ちょうどいい、遠藤からも改めて話を聞いておくとしようぜ。ユウキ、一緒に来い」

「嫌だ。あいつは嫌だ」

「じゃあユウキ君は私と一緒に女学院へ行く?相当浮いちゃうと思うけど」

「・・・・・・ああもう分かったよっ。それと郁島、名前で呼ばないでくんない」

「そう言われてもなぁ。なら、ユウ君とか?」

「何でそうなるんだよ!?どいつもこいつも!」

 

 メンバー編成は自然と決まった。聖アストライア女学院には女子組、校内の二人には男子組。会社員と大学生については時間の都合上、日を改めて後日尋ねるという形に収まった。

 

「別行動を取る前に、一つだけ言っておくわ」

 

 コウとユウキ、ソラが校内に繋がる扉へ向かおうとしたところで、アスカが呼び止める。三人が振り返ると、アスカは腕を組みながら、神妙な面持ちで静かに言った。

 

「今回の事件だけど、おそらく異界化が発生する瞬間に、周囲の気温が一気に低下すると思うの」

「気温が、ですか?」

「ええ。先日に異界化が発生した際にも、館内の温度が急激に下がったのよ。おそらく氷点下を下回っていたでしょう。もし同様の現象が起きたら、異界化の前触れと考えていいわ」

「・・・・・・成程ね。異界化の予測にも、その辺りが関わっているって感じかな」

「流石は四宮君。理解が早くて助かるわ」

「ま、待ってくれ。分かるように説明してくれよ」

 

 異界化予測の仕組みは単純ではなく、様々な情報を元にして可能性を割り出す予測プログラムとして活用されている。異界化に関わるとされる膨大な情報が蓄積された今だからこそ可能な、言わば結社の集大成。気温変動はその一因として知られていた。

 異界化が発生する際に、何が起きるのか。気温が上がることもあればその逆もあり、変わらないこともある。気温一つ取っても一定の傾向は見られないのだが、データは残っている。そういった情報を総合的に処理をした結果が、異界化予測だった。

 但し例外があった。異界化を一括りにするのではなく、元凶へと的を絞れば話は変わる。

 

「傾向は掴み辛いのだけど、特定の種のグリードが関わっている場合には、似たような変化が起きることが多いのよ。気温低下と昨日に仕留めたグリードから考えて、元凶の主も予測が付いているの」

「種って言うと妖精型とか、そんなだったか。なら今回のはどんなグリードなんだ?」

「・・・・・・『死人憑き』。そう呼ばれているわ」

 

 死人憑き。穏やかではないその名に、三人の背筋に悪寒が走る。アスカは構わずに続けた。

 

「ポルターガイストが心霊現象の一種として扱われているのは、根底に理由がある。幽霊屋敷とか、そういった話は聞いたことがあるでしょう」

「あ、あるにはあるけどよ。お前、何が言いたいんだ?」

「心を強く持ちなさい。あなた達の前に、たとえ何が顕れたとしても・・・・・・決して動じては駄目。今回の事件に協力してくれるのなら、絶対に忘れないで」

 

 ―――経験者からの、忠告よ。

 言い終えたアスカの表情は何処か物悲しく、寒々しかった。彼女の本意を汲み取れないでいた三人は、無言で歩を進めるアスカの背中を見詰めながら、何かを想わずにはいられなかった。

 

_________________________________________

 

 一旦女子組と分かれたコウとユウキらは、目的の人物がいるテニスコートへと向かいながら、先程のアスカの台詞と態度について触れていた。

 

「柊先輩っていつもあんな感じなの?」

「肝心な部分を喋ってくれねえところは相変わらずっつーか。でもまあ、今回は特別なんじゃねえのかな」

 

 死人憑き。経験者の忠告。そしてあの態度。

 多くを語ってくれなかった一方で、黒々とした予感めいた物はあった。どうやっても負の方向にしか行きようのないキーワードから考えれば、普段と変わらない思わせ振りな言動の中に、何かしらの事情があるであろうことは容易に想像することができていた。

 

「とりあえず、今はテニス部の二人に・・・・・・って。あれ、遠藤か?」

「へえ、中々様になってるじゃん。そんじゃ先輩、後は任せた」

「馬鹿。お前も来るんだよ」

 

 やがて辿り着いたテニスコート上でラケットを振るうアキの姿に、二人の目が釘付けとなる。制服にジャージという服装を訝しみつつ、器用にエリスの打球を返すアキの立ち振る舞いに、彼女がテニス経験者であることはすぐに理解できていた。

 

「あら、見学者?珍しいわね」

「どうもコンチハッス。えーと、少し話を聞いてもいいッスか?」

 

 アキの後ろ、コートからやや離れた場所に立っていたリサに、コウが声を掛ける。

 話の取っ掛かりとして、コウは自分達がアキの知り合いであること、そして偶然通り掛かったところでテニスに興じるアキを見つけたことをリサへと語った。リサも女子テニス部の現状や、アキが何故ラケットを握っているのかを説明すると、ユウキが言った。

 

「テニスは知らないけど、遠藤先輩の腕前はどうなの?パッと見は結構上手いっぽいけど」

「ブランクの影響でしょうね。初めは足取りも覚束なかったけど、段々と思い出してきたみたい。かなりやっていたんじゃないかしら。でも・・・・・・何か変ね」

「変?」

 

 ユウキが聞き返すと、リサは首を傾げてしまう。リサも明確な答えを持ってはいなかった。その違和感は、アキがエミリとテレジアへ抱いたそれによく似ていた。

 ラケットの扱いは見事なものだし、身体もよく動いている。借り物のラケットとブランクを考慮しても、過去に相当な練習を積んでいたと見ていい。しかし何かが引っ掛かるのだが、その正体が分からない。未経験者のコウとユウキにとっては、おかしいと感じることすらできないでいた。

 

「あの、エリス先輩。そろそろ強打してもいいですか?」

「ドンドン来ーい。全部返してやるから」

 

 次第に感覚を取り戻しつつあったアキが声を張って言った。エリスが山なりの緩いボールを上げると、着地点で身構えていたアキがラケットを大きく掲げ、打球は放たれた。

 ―――その姿を、コウとユウキは口を半開きにして見詰めていた。

 

「おおおぉぉるああぁあっ!!!」

 

________________________________________

 

「・・・・・・なあユウキ」

「何さ」

「あいつ女だよな」

「多分。でも流石にガチムチ過ぎるでしょ、色々と」

 

 二人があらぬ疑いを抱きたくなるのも無理はなかった。打球の速度、スウィングスピード、そして何より声。打球の瞬間に大声を漏らすテニス選手はそう珍しくはなかったのだが、アキの場合は余りにも極端だった。

 

「そうか・・・・・・そうだったのね」

 

 一方のリサは、呆れ顔を浮かべるコウとユウキとは真逆の表情を浮かべていた。

 ある程度統一されたフォームが目立つ女子とは違い、男子は選手によって異なるスウィングを見せることが多い。多少の粗さや癖は個性として見なされ、男女間には必ずある程度の違いが生じる。

 それは身体の作りが異なっているからだ。骨格が違えば、筋肉の付き方も違う。近付きはすれど性別の差があって当然の世界で、アキのフォームは余りにも男性的過ぎた。リサの目には、不自然を貫き通して身体を無理強いする姿としか、映っていなかった。

 

―――軽過ぎるぐらいですけど、多分大丈夫です。

 

「ま、まさかあの子っ・・・・・・!」

 

 導き出された、一つの可能性。リサはコートへ割って入り、アキの右腕を強引に押さえた。

 

________________________________________

 

 不意に右腕を取られてしまい、思わず前のめりの姿勢になる。振り返ると、険しい顔付きで私の右腕を凝視する、アリサ先輩が立っていた。

 

「おいアリサ、何で止めるんだよ。折角良い感じだったってのに。すげえよ、遠藤は本物だ」

 

 不満を溢すエリス先輩の声が耳に届いていないのか、アリサ先輩は答えない。代わりに言葉ではなく、視線で私に問い質してくる。その態度を見て、私も察した。

 気付かれてしまったか。もし気付くとするなら、この人が先だと思ってはいた。思いの外早くて驚いてしまったけど、流石はアリサ先輩といったところだろう。

 

「ねえ遠藤さん。貴女、もしかして」

 

 私は苦笑いをして、右肘を擦った。その仕草を見たエリス先輩も、事情へ行き着いた様子だった。

 

「と、遠藤、アンタ・・・・・・肘が、悪いのか?」

「大丈夫です。お医者さんは、もう完治してるって言ってました。痛みもありません」

 

 それが答えだった。私の右肘は、確かに一度壊れている。リハビリの甲斐もあって既に治ってはいるし、ラケットを握ってもいいと医師から許可を貰ってはいた。もう半年以上も前の話だ。

 

「一つ質問だけど、貴女は誰にテニスを教わったの?部活動?」

「部活動ではなくて・・・・・・私のテニスは、お兄ちゃんの物です」

「兄貴譲りか。通りで男子みたいなフォームな訳だ。兄貴は現役なのか?」

「いえ。もういません」

「は?」

「亡くなりました。半年前に」

 

 ―――ピシッ。

 言うやいなや、何かが割れたような音が聞こえた。同時に妙な肌寒さを感じて、捲っていた袖を直すと―――眩暈がした。5月11日の記憶は、そこで途絶えてしまっていた。

 

 



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5月12日 死人憑き

 

 私の朝は早い。ソラちゃんに付き合う時は勿論、いつだって三番目か四番目に教室の扉を開けて、まだ人がまばらな室内に、私の小さな挨拶が溶け込んでいく。

 朝の静寂に包まれた教室で椅子を引く音が、私は好きだった。人の目を気にしなくてもいいし、朝特有の穏やかな空気も好き。一方で5月12日の今日に限って少しばかり勝手が違うのは、仕方のないことなのだろう。

 机に鞄を下ろしていると、私よりも前に登校していた柊さんが声を掛けてくる。

 

「おはよう遠藤さん。体調の方はどう?」

「おはようございます、柊さん。えっと、はい。もう大丈夫だと思います」

 

 体調はどうかと問われても、多少曖昧にそう返すしかなかった。正直なところ、よく分からないというのが本音だ。

 事が起きたのは、昨日の5月11日。携帯で時坂君から聞いた話では、私は昨日テニスコート上で突然倒れてしまったらしい。ケイコ先生の診断によれば、病み上がりの身体で激しい運動―――要するに全力の打球を繰り返したことで、軽い貧血を起こしてしまったそうだ。そんな私を保健室へ運んでくれたのが、偶然近くを通り掛かった時坂君とユウ君だった。

 気付いた時には保健室のベッドの上で、その後は保護者代わりのタマキさんによって自宅へ送り届けられた。倒れた際の記憶があやふやな上に、自覚症状らしいものが微塵も感じられなかったけど、沢山の人に心配を掛けてしまったのは事実の筈だ。アリサ先輩らの所にも後で顔を見せに行こう。

 

「確かに顔色は良いみたいね」

「はい。でも念の為に、体育の授業は見学にしようと思います」

 

 元々先週末の欠席の影響で授業に遅れがちになっていたし、無理をしてまた倒れてしまっては本格的に不味いことになる。明日と週末のアルバイトのことを考えても、今日のところは大人しくしていた方が安牌だろう。

 

「大事なさそうで安心したわ。でも記憶があやふやって言っていたけど、本当にそうなの?」

「はい、全然覚えていないんです。寒気がしたと思ったら、もう倒れて・・・っ・・・・・・?」

 

 答えながら視線を上げると、随分と近い位置に柊さんの顔があり、思わず後ずさってしまった。

 本当に覚えていないのだ。小さい頃に一度だけ似たような経験をしたことがあったけど、あの時と比べてもやはり感覚が異なっている。少なくとも『倒れた』という自覚はあっていい筈なのに、昨日はそれすら無かった。少しばかり気味の悪さが残ってしまう。

 

「そう。また体調が悪くなったら、我慢だけはしないでね。日直も今日は私が引き受けるわ」

「はい、そうしま・・・・・・あっ!?」

 

 何気ない柊さんの申し出に慌てて腰を上げて見ると、既に配布物の類や日誌が教壇の上に置かれていた。黒板の隅に掛かれていた筈の私の名前も『柊明日香』に書き換えられていた。

 柊さんってすごい。そう感じつつも申し訳ない気持ちと情けなさで一杯になった私は、朝から大きな大きな溜め息を付いていた。

 

________________________________________

 

 その日の放課後。私は昨日と同じ足取りを辿って、敷地内の南西へと向かった。南側へ出たところで、遠目にはアリサ先輩の背中が映り、エリス先輩の姿は何処にも無く―――寧ろ昨日とは異なる一つの変化に、私は大いに首を傾げてしまった。

 

「あら、遠藤さん。今日も来てくれたのね。身体はもう大丈夫なの?」

「はい、もう平気ですけど・・・・・・あ、あの。フェンスは、どうしたんですか?」

 

 一般的にテニスコートはボールが外へ出ないよう、フェンスの類で囲まれる。杜宮学園のテニスコートも例外に漏れず、コートの南と西側に緑色のネットフェンスが設置されていた。されていた筈だ。なのにそれが『無い』。昨日には在った西側のフェンスが、綺麗サッパリ消えてしまっていた。

 

「私も聞いた話だけど、昨日貴女がフェンスへもたれ掛かった際に、根元から倒れてしまったそうなの。そのままにしては危険だから、昨日のうちにゴロウ先生が撤去してくれたみたいね」

「あ・・・・・・す、すみませんっ。えと、本当にすみません!」

「フフ、気にしないで。ゴロウ先生も倒れる瞬間を見ていたらしくって、元々施工が悪かったのかもって言っていたわ。遠藤さんに怪我が無かっただけでもよしとしましょう?」

 

 何て真似をしでかしたんだ、私は。施工に不備があったにせよ、相当な破壊力のタックルをフェンスへ見舞ったのだろう。新しく設置するにもそれなりの費用が掛かってしまう。これは教職員の方々にも謝罪をしないといけない。

 それにしても、「聞いた話」というアリサ先輩の言い回しには引っ掛かる。私が倒れた時には、先輩もコート上に立っていた筈なのに。

 

「実は私もエリスも、よく覚えていなくって。遠藤さんが倒れて、気が動転していたのかもしれないわね。それに貴女には悪いことをしてしまったから、謝らなきゃいけないのは私達の方よ。ごめんなさい、遠藤さん」

「いえ、そんな。気にしないで下さい」

 

 私とアリサ先輩は頭を下げながらの「すみません」「ごめんなさい」を二、三度繰り返した後、二人揃って笑みを浮かべた。どう考えても私の方に責があるような気がするけど、今回はお互い様ということにして水に流して貰おう。

 私がアリサ先輩の相方について聞くと、エリス先輩はクラス委員同士が集うミーティングに参加中とのことだった。普段のお嬢様面をするエリス先輩はクラスでも評判の良いクラス委員長だそうで、本人もそんな自分を割と気に入っているらしい。

 

「じゃあ、エリス先輩が来るまで練習できないんですね」

「いつものことよ。でも、そうね。遠藤さん、少し相手をして貰えるかしら」

「え、ええ?」

「大丈夫、軽くボレーボレーをするだけよ。グリップテープを新調したから、感触を確かめておきたいの」

 

 アリサ先輩はそう言って、予備のラケットを貸してくれた。昨日の一件があるしコートに立つ訳にはいかないけど、近距離でボールを当てるぐらいならほとんど動かずに済む。アリサ先輩の役に立てるのなら、喜んで付き合おう。

 私達は三メートル程度の間隔を空けてコートの脇に向かい合い、静かにボールを打ち合った。アリサ先輩はグリップの握り具合を確かめながら、私は手元に戻ってくるボールをそっと叩くを繰り返す。

 ボールは正確に、そのほとんどが正面からやや右側の前方、私の打ちやすい場所へ返って来た。一見地味に映るやり取りかもしれないけど、この域の正確性とコントロールは易々とは身に付かない。やはりとんでもない人だ。

 感心していると、アリサ先輩が唐突に切り出してくる。

 

「私達は、少し似ているのかもしれないわね」

「似ている、ですか?」

「私もテニスは家族に教わったの。私のお母さんも、ソフトテニスのトップ選手だったのよ。一時期はナショナルチームに選手として所属していたわ」

「に、日本代表?」

 

 アリサ先輩は手を止めずに語ってくれた。

 アリサ先輩のお母さんは二十歳にしてナショナルチーム選手として選抜され、四大国際大会でも実績を残したトップレベルの実力者。そんな女性を母親に持つアリサ先輩も、幼少時から当たり前のようにラケットを握っていた。物心付いた時にはコート上にいて、小学生に上がると同時にジュニアチームへ所属。エリス先輩との出会いも、その頃の話らしい。

 現役を退いた後は、選手ではなく指導者としてナショナルチームに残留。アリサ先輩のテニスも、母親譲りの面が多々残っているそうだ。

 

「すごく不器用な母親だったと思うわ。テニスで叱られたことは少なかったけど、褒められたことも数えるぐらい。いつも仕事みたいに淡々と指導するだけで、周囲からも変な目で見られていたわね」

「・・・・・・その、何て言ったらいいか」

「フフ、ごめんなさい。でも子供の頃って、幼いなりに色々考えたり感じたりするものでしょう?不器用で偏屈な愛情はしっかり受け取っていたし、私はそんなお母さんが大好きだったわ」

 

 そう言って笑うアリサ先輩の表情を見れば、すぐに理解できる。多少私とは経緯や事情が違っているけど、確かに通じる部分はあるかもしれない。

 それに―――先輩は今、「だった」を三度言った。己の肉親を語る上で使われた過去形。聞かなくたって分かってしまう。それも含めて、私とアリサ先輩は似ている。そういうことなのだろう。

 

「だから私は、テニスで負けては駄目なのよ」

「え?」

「おーっす。悪い、遅くなった」

 

 僅かに乱れたアリサ先輩のボールを返したところで、背後からエリス先輩の声が聞こえた。振り返った先には、小走りで駆けて来る運動着姿のエリス先輩がいた。

 私が昨日の件について謝罪すると、エリス先輩はひどくつまらなそうな表情を浮かべたと思いきや、悪戯に笑った。

 

「別にいいって。でもその代わりに入部してくれるんなら話は別だけどな」

「そ、それは違う話で・・・・・・あ。クラス委員のミーティングに、二年生の柊さんって出ていましたか?」

「柊?ああ、二年B組のあいつか」

 

 放課後に日直を代わってくれたお礼を言おうと思っていたのだけど、柊さんはSHRが終わった後すぐに教室を出て行ったことで、声を掛け損なってしまっていた。エリス先輩が来たということはミーティングも終わっている筈だし、今からならまだ間に合うかもしれない。そう考えていると、エリス先輩が言った。

 

「ミーティングが終わった後、屋上に行ったと思うぞ」

「屋上?」

 

 エリス先輩の話では、ミーティングは生徒会室の一画で行われていた。ミーティング終了後に中央階段を下ろうとしたエリス先輩は、屋上へ繋がる階段を上る柊さんの背中を目撃したらしい。

 柊さんは特徴的な容姿をしているし、エリス先輩の見間違いという訳でもないのだろう。何かしら用事があったもかもしれない。

 

「すみません、今日はこれで失礼します」

「いつでも来いよ。大歓迎だから」

「で、ですからそれは話が違います」

「フフ。またね、遠藤さん」

 

 私は困り顔で先輩らに挨拶をしてから、屋上へ向かった。

 

_______________________________________

 

「ごめんなさい。待たせてしまって」

「いいって。俺達もさっき来たばっかだしな」

 

 5月11日の放課後に続いて、屋上の隅に集う四人の適格者達。コウ、ユウキ、ソラ、そして今し方合流したアスカ。その目的は言わずもがな、昨日に発生した異界化の真意を探ることにあった。

 

「三人共昨日の記憶は無いみたいだし、今回は被害が小さくて何よりだったな」

「結果的にはでしょ。コンクリートで固定されたフェンスを薙ぎ倒すって、相当な衝撃だよ。それに『元凶』はまだ何処かに潜んでいるみたいだしね」

 

 昨日に異界化の影響を受けたのは、テニスコート西側のフェンスのみ。あの場に居合わせた人間が少なかったこともあり、結果として怪我人を出さずに済んだものの、現象自体はユウキが言うように決して穏やかではない。先回りをして再発を防ぐ為にも、早急に事態の解明に当たる必要があった。

 

「でもこれで、元凶には大きく近付くことができましたよ」

「ええ。市民体育館の事件と照らし合わせれば、共通点はかなり絞り込めるわ」

 

 現時点の共通事項は、異界化が発生した際に三人の女子がいたということ。発生場所にテニスコートがあったことと、テニスというキーワード。手探り感が否めなかった昨日と比較すれば、異界化と引き換えに大きく前進することができていた。

 

「特に気になるのは、どちらも同じ三人が居合わせていたっていう点ですよね」

「そうね。三人のうちの誰かに共鳴した可能性が、最も高いのだけど・・・・・・」

「なら相沢の時みたいに、サーチアプリを使えばいいんじゃねえか?」

 

 コウの案に、アスカは首を横に振った。

 

「『死人憑き』が異界の主の場合、異界化が読み辛いのよ。サーチアプリが算出した数値の信憑性は低い。寧ろ惑わされてしまうケースが多いの。市民体育館の時のような先回りは、期待しない方がいいわ」

「そうなのか・・・・・・随分と厄介な相手なんだな」

「以前にも話したけど、異界化について分かっていることは少ない。私達が把握している情報の多くは、副次的な現象や人間の証言、目撃談に過ぎない。そこから可能性を探し出すしかないのよ」

 

 今回の件を例にすれば、異界化の際に周辺の気温が下がるという現象は、過去の事例から導き出された言わば経験則。『何故気温が下がるのか』という仕組み自体は明らかではなく、単に可能性を割り出しているに過ぎない。

 同時に結社へ蓄積された情報の半分以上が、執行者をはじめとする者達の経験でしかない。人間の感覚という不確かなフィルターを通している限り、そこには錯覚という誤差が生じる。曲解や想像が入り混じった情報は誤った可能性を生み、攪乱する。今回の事件に関わっているとされる死人憑きも、アスカの憶測である以上、元凶の正体とするには確実性に欠ける結論だった。

 

「とりあえず、もう一度話を整理した方がいいと思います。あの三人にもいくつか共通点がありますよね?」

 

 ソラの声に、アスカが昨日同様サイフォンを用いて現状の整理を始める。

 まずはテニス。女子テニス部の二人は共卓越した実力者で、数ある大会で実績を残しているという点は、杜宮学園でも知れ渡っている事実。そしてアキについても、コウとユウキは直に目の当たりにしていた。

 

「俺はテニスをよく知らねえけど、あれはもう女子高生の域じゃねえと思うぜ。色々な意味で」

「一子相伝の暗殺拳の使い手か何かでしょ。ジョインジョインアキィって感じ」

「ユウキ君、何言っているのか全然分かんない」

「まあ今のは置いといて。そろそろ話してもいいんじゃない、コウ先輩」

 

 思わせ振りなユウキの台詞に、ソラとアスカがコウの様子を窺う。

 三人の共通点の他に、見逃せない一つの事実。そしてコウとユウキの予感。簡単に触れてはいけないと思う一方で、異界化の瞬間に耳にしてしまった以上、やはりソラとアスカにも伝えておかなければならない。

 

「あいつには、兄ちゃんがいたらしい。半年前に、亡くなっちまったそうだ」

「・・・・・・そう。お兄さんが」

「なあ柊。お前が言うように、本当に死人憑きってのが元凶だとして・・・・・・もしかして、その呼び名に何か関係があるのか?」

 

 死人憑き。アキが抱える過去。両者を結び付ける、故人という概念。言葉以上の繋がりはあるのかというコウの問いに対し、アスカは頷いて同意を示す。

 ほとんどの場合、死人憑きは特定の故人に対する強い感情を敏感に嗅ぎ付け、その持ち主と共鳴する。その名から連想される、特有の性質と傾向があった。

 

「やっぱりそうなのか。ならどうして昨日のうちに話してくれなかったんだよ」

「故人に対する想いと一言で言っても、それは人として当たり前の感情でしょう。私達ぐらいの年代なら、親しい肉親や知人を亡くした過去を持つ人間は大勢いるわ」

「・・・・・・まあ、それには同意だ」

「感情が無形である以上、人の数だけ想いは存在する。愛情のように言葉で簡単に表現できる感情もあれば、そうでない複雑な物もある。真っ直ぐと、歪。死人憑きはとりわけ後者に憑り付くのよ」

「遠藤先輩もそうとは限らないって訳ね。でも昨日の様子だと、結構ヘビーな感じがしたよ」

「ちょっとユウキ君、そういう言い方は」

「待って」

 

 ソラが言い掛けたところで、アスカが手を前に出して制止する。三人がその意味を理解しかねていると、アスカの視線は後方。屋上と屋内を繋ぐ扉のある方角へと向いた。アスカは表情を曇らせて言った。

 

「私としたことが・・・・・・お願い。逃げないで、出てきて貰えるかしら」

 

 声を掛けてから、十数秒後。その先には、当の本人が立っていた。

 

__________________________________________

 

 誰もが唖然とした。他人に聞かれてはならない以上、異界に関わる事柄は人前で絶対に話さない。そう決めていた筈なのに、最も聞かれては困る人物が、四人の視線の先に立っていた。アキは今にも泣き出してしまいそうな表情で床面を見詰めながら、ゆっくりと四人の下へ歩み寄った。

 

「遠藤さん、正直に答えて。いつからそこにいたの?」

 

 アキは俯いたまま、声を出せずにいた。その様子から、四人は最悪の返答を受け取ったのだと理解した。

 事実アキはアスカから一歩遅れて屋上に辿り着き、話の冒頭こそ聞き逃していたものの、大半を立ち尽くして聞いていた。その大部分へ理解が追い付かない一方で、聞いてしまっていたのだ。フェンスが壊れた原因、異界化をはじめとするキーワード、そして四人が己の過去に触れようとしたことも。

 困惑するコウら三人とは裏腹に、アスカはやれやれと肩を落とした後、静かに口を開く。

 

「仕方ないわね。遠藤さん、先に謝っておくわ」

「え・・・・・・な、何ですか?」

「大丈夫、動かないで。すぐに終わるから」

 

 アスカが取った方法は、執行者として当然の判断。民間人を巻き込んではいけない、一歩たりともこちら側へ踏み入らせてはならないという理念に基づく、当たり前の選択だった。

 

「待てよ、柊」

 

 アキの記憶を操作すべく掲げられたアスカの右腕を握り、コウが両者の間に割って入る。アスカは訳が分からないといった様子で、目を細めてコウの右手を睨みながら言った。

 

「何の真似かしら、時坂君」

「それはこっちの台詞だろ。遠藤には記憶操作が効かねえって言ってなかったか」

「前回よりも強力な術式を使うわ。少し消去の幅が広がってしまうけど、目を瞑るしかないでしょう」

「だったら尚更だ。今回は話が違うと思うぜ」

 

 アスカが記憶操作の術式を使用する姿を、コウは何度か目の当たりにしている。4月17日には、不運にも異界に関わってしまったシオリの記憶をアスカが消去することで、当人を平穏な現実世界へと送り帰していた。

 しかし今回に限って言えば、アキは耳にしただけ。偶然立ち聞きをしてしまったに過ぎない。そんなアキの記憶までもを、しかも通常とは異なる術式で大部分を消し去ってしまうのは、道理に外れている。そもそも他者の記憶は簡単に操っていいものではない。それがコウの言い分だった。

 

「感情論と正論を振りかざしてしまうのは、あなたの悪い癖だと受け取っておくわ。それで、この状況はどう対処すべきなのかしら。『今のは全部妄想です』で済まそうとでも?」

「いや、最終的にはお前に従うべきなのかもしれねえけど・・・・・・どっちにしろさっきの話だと、俺達は遠藤のかなり深い部分に触れないといけねえ。違うか?」

「それは・・・・・・」

「なら俺達も、腹を割って話すべきだろ。たとえ消えちまう記憶だとしてもだ」

「聞きたい過去を聞き出してから、記憶を消せと言いたい訳?」

「違う、そうじゃねえよ。聞き出すんじゃなくて、筋を通して今の遠藤と正面から向き合うべきだって言ってんだ。同じB組のクラスメイトとして、一人の友人としてな」

「まあ、僕もコウ先輩に賛成かな」

 

 ―――たまには素直になった方がいいよ。急にいなくなっちゃうことだってあるんだから。

 

 アキの何気ない一言が現実の一歩手前まで迫った時、そして掛け替えの無い姉を取り戻した瞬間に、ユウキはアキの言葉を胸に刻んだ。そんな彼にとって、アキの過去は決して他人事ではなく、そこに触れるということの重みを誰よりも理解していた。

 そして勿論、アスカにとっても。分からない筈がなかったのだ。

 

「・・・・・・いいわ。この場はあなたに任せましょう」

「ワリィ。損な役回りをさせちまって」

 

 それまで背を向けていたアキへと振り返り、コウは改まった声で言った。

 

「遠藤・・・・・・いや、アキ。何が何だか分からねえってのが、正直なところだと思う。でも頼む、聞いてくれ」

 

 市民体育館の事件は、地盤沈下が原因ではない。昨日も普通では起こり得ない『何か』が起きた。異界という単語を使わずに、コウはアキに語り始める。余りにも突拍子が無い非現実に、しかしコウの只事ではない表情に、アキは自然と聞き入ってしまっていた。

 

「普通じゃない、何か?」

「ああ。お前は勿論、もしかしたらテニス部のあの二人だって、またあんな事件に巻き込まれちまうかもしれねえんだ。だからその、上手く説明できねえけど。お前の兄ちゃんの話を、聞かせてくれねえか?」

「・・・・・・それが今の話に、関係あるんですか?」

 

 関係あるかもしれないし、ないかもしれない。そんな半ばいい加減とも取れるコウの返答に、アキは周囲を見渡した。目を閉じて普段とは違う顔を見せるアスカ。様々な感情を浮かべて自身を見詰めるソラ。珍しく真剣で神妙な面持ちのユウキ。頭を下げて頼み込むコウ。

 興味本位や気紛れなんて物は、何処にも無かった。あるのは切実な想いと、友と呼んでくれたクラスメイトの姿。そして得体の知れない『危険』。自分自身はともかく、テニス部の二人も巻き込まれかねないというコウの言葉に、分からないことだらけの中で、アキは静かに口を開いた。

 

「私は・・・・・・お兄ちゃんを知って貰うには、私のことから話さないといけませんね」

 

_________________________________________

 

 二つ年上の、唯一の兄がいた。体格に恵まれていて、小さい頃から運動系の催しがある度に活躍しては、周囲を驚かせる。運動会ではいつも英雄扱いされていた。口数は少なくて寡黙な方だったと思うけど、所謂人当たりは良い人だったし、お兄ちゃんを慕う友人は大勢いた。

 両親が朝から晩まで働き詰めのパン職人だったこともあり、私とお兄ちゃんはいつも二人。二人一緒が当たり前で、兄妹喧嘩らしい喧嘩なんて一度も無かった。好きとか嫌いとか、そういう概念もなかった。お兄ちゃんが中学一年に上がるまで、お風呂さえ一緒だった。

 田園風景が広がる田舎町に遊び道具は少なく、学校が終わった後は決まって町民体育館へ走った。とりわけ敷地内にあった一つのテニスコートは、私達の遊び場。日が暮れるまで、ボールを打ち合った。年頃の男の子がサッカーや野球に入れ込む中、お兄ちゃんはいつだって私とのテニスを選んだ。両親も日頃の忙しさを申し訳なく思ったのか、年齢に見合ったラケットやボールを買い与えてくれた。

 

『なあアキ。俺さ、テニス部に入ったんだ』

 

 事情が変わったのは、お兄ちゃんが中学で部活動を始めた時。才能もあったのだろう。未経験者がほとんどの中、新入部員である筈のお兄ちゃんにとってテニスは日常の一部。本格的な指導者と練習の場を手にしたお兄ちゃんは一気に急成長を遂げ、一年生の身でレギュラーの座を勝ち取った。

 あの頃から、私も変わった。ラケットは遊具用から競技用のそれに代わり、お兄ちゃんとの遊びは競技としての練習に代わった。お兄ちゃんを介して知識を身に付け、ラケットを振るう毎日。変わらなかったのは、時間を見つけては二人でコート上を走り回るという日常だけだった。

 一方の私は、中学では部活動に入らなかった。お店の手伝いにもそれなりに時間を割くようになっていた時期だったし、何よりお兄ちゃん以外の誰かとのテニスには、少しも魅力を感じなかった。

 高校生になったお兄ちゃんは、活躍の場を広げた。元々最寄りの進学校は強豪校として知られていて、体格を活かしたお兄ちゃんのテニスは、全国区で通用するレベルにまで達していた。県内に留まらず、その名は高校のテニス界に知れ渡った。そんなお兄ちゃんが、私の自慢だった。

 

『ありがとな。いつも付き合ってくれて』

 

 その一言が、堪らなく嬉しかった。私はテニスの教養本を買い漁り、より本格的なテニスを勉強した。戦術や練習方法を研究し、遠出をして大きな大会に出向き見学することもあった。

 何よりお兄ちゃんの練習相手として役立つ為に、己の鍛錬を怠らなかった。お兄ちゃんのフォームを真似して、男子に負けない打球を求め始めた。お兄ちゃんと同じ重量級のラケットを、来る日も来る日も振るった。それが引き金になったのだと思う。私の右肘が壊れたのは―――お兄ちゃんと同じ高校に入ってからのことだった。

 

『ごめんなさい、お兄ちゃん』

 

 ずっと続くと思っていた日常は、跡形も無く崩れ去った。右肘を痛めた私はお店の手伝いすらままならず、専門医の指導でリハビリを始めた。逸る気持ちとは裏腹に治癒には時間が掛かり、夏のインターハイに向けて練習に励むお兄ちゃんの姿を、私は見守ることしかできなかった。ひどく歯痒くて、リハビリを焦っては専門医に怒られるを繰り返した。

 その頃になって漸く、自分が『普通ではない』ことに気付かされた。テニスやパン作りの時間を失った私には、何処にも居場所が見付からなかった。親しい友人がいなかった訳ではないけど、少なくとも教室では、独りぼっちだった。

 

『聞いた?あの子の話。近付かない方がいいよ』

 

 知らぬ間に、私を見る奇異の目だけが増えていった。必死になって兄を支えようとする私の姿は、他人からすれば常軌を逸しているとしか映っていなかった。近親相姦願望を持つ妹という噂を耳にしたのは、一度や二度ではなかった。

 周囲の目を気にするようになったのは、あの時期からかもしれない。同年代、特にクラスメイトの視線は、私にとっては侮蔑や拒絶以外の何物でもなかった。誰かが私を見る度に息が詰まり、声が出なくなってしまう。知り合い以外とは、まともに会話すらできなくなっていた。

 お兄ちゃんは私を気遣いながらも、変わらずにテニスへ打ち込んだ。だから私は、分からなくなってしまった。何故自分がラケットを振るっていたのか。私にとってのテニスは、一体何だったのか。時間を持て余しては考えて、答えが出ずに塞ぎ込む。それまで続いていた日常が当たり前過ぎて、私は段々と自分を見失っていった。

 そしてリハビリの効果が出始めた、夏のインターハイ当日―――別れもまた、突然だった。

 

_________________________________________

 

「お店を閉めて、両親と一緒にお兄ちゃんの応援に駆け付けたんです。その時の事故で、お兄ちゃんとお父さんを亡くしました。その後は・・・・・・お店については、時坂君にも以前話したことがありましたね」

「・・・・・・そうだったっけな」

 

 大切な肉親を亡くしたのは、アキだけではない。伴侶を失ったアキの母親コマキに、自営のベーカリーを守る気力は残されていなかった。アキの手助けの甲斐あって、暫くの間は続けることができたものの、本来の店主が不在では人手不足は勿論、商品の質に関わってしまう。次第に客足も離れ、遂には店その物を手放すしかなかった。

 すっかり意気消沈した二人に手を差し伸べたのが、コマキの妹のタマキだった。タマキの勧めでアキは杜宮学園の転入試験を受け、精神を病んだコマキは東端にある実家で療養生活を始めた。アキには心機一転して貰おうと、自身が借りているアパートでの一人暮らしを提案した。

 

「それが私とお兄ちゃんの、っとと」

「あ、アキ先輩、大丈夫ですか!?」

 

 話しながら突然ふら付いたアキの身体を、ソラが支える。アキは憂い顔のソラに力無く笑った。

 

「すみません。流石にあんな話を聞かされた後、昔を思い出したら・・・・・・少し、一人にして貰えませんか」

「で、でも」

「大丈夫。もう立てるから」

 

 アキはしっかりと両の足で立ち直した後、「失礼します」と一言を置いて、踵を返して歩き始める。コウは一瞬躊躇いつつも、その場を去ろうとするアキへ言った。

 

「話してくれて、ありがとな」

「いえ。参考になりましたか?」

「ワリィ、それはまだ何とも・・・・・・でもさっき言ったことは本音だぜ。付き合いは短いけど、俺はお前をすげえ奴だって思ってる。一人の友人としてだ」

「・・・・・・ありがとう、ございます」

 

 それがコウの精一杯だった。何かを想わずにはいられないユウキもソラも、押し黙ってアキの背中を見詰めることしかできなかった。一方のアスカは顎に手をやりながら、考え込むような仕草を取っていた。

 

「柊、どうかしたのか?」

「少し、気になることがあって・・・・・・」

 

 小声でそう返したアスカは、何かに思い至った様子でアキの後に続いた。急ぎ足で階段を下ると、ちょうど三階へ下りたアキの背中が視界に入る。アスカはアキを呼び止めた後、先程の話の中にあった一点について触れた。

 

「ごめんなさい遠藤さん、気を悪くしないで欲しいのだけど。さっき貴女が言っていた『事故』って、交通事故か何かかしら」

「あれは・・・・・・正確に言えば、自然災害です。柊さんは知らないかもしれませんね」

 

 アキは半年前の『事故』の原因について、簡潔に説明した。全てを聞き終えた後、アスカは努めて表情を変えようとせず、平然と立ち振る舞って階段を下るアキを見送った。

 自身の予想が当たっていたのか早合点なのか、現時点では判断が付かない。まずは確かめることが先決だ。そうアスカが考えた矢先に、背後から彼女へ声を掛ける女子生徒の姿があった。

 

「記憶操作の術式、使わなくて宜しかったのですか?」

「・・・・・・精神状態が不安定な今の彼女に、強力な術式は危険過ぎる。そう判断したまでです」

 

 アスカは振り返らずに、声の主へと問い掛ける。

 

「一つお尋ねします。と、わざわざ前置かなくてもいいのかしら」

「はい。あの災害の対処に当たったのはこちら側ですから、私も存じています」

 

 半年前の夏、7月31日。関東某所で発生した竜巻は、観測史上二番目に強力とされるF3クラス。家屋の全半壊は三百を超え、およそ千台以上の自動車が被害に遭い、死者十数名と四百名の負傷者を生み出した。自然災害としては小規模であっても、日本では珍しく被害の大きい竜巻災害として、そして数名の『行方不明者』が発生した事例として、大々的に報道された。そして『裏の世界』では単なる自然災害ではなく、一つの小さな災厄として知られていた。

 

「彼女もまた、異界との因縁を持つ人間なのかもしれませんね。現時点では、何とも言えませんが」

「やはり・・・・・・そうだったのね」

「今回の事件との関連性は無いと考えます。ですがあの災害の裏には、S級グリムグリードがいた。それが真実です」

「一度繋がりを持った人間の中から、連鎖的にグリードと共鳴してしまう者が現れるケースがある。その可能性についてはどうお考えですか?」

「可能性はあるとだけ。いずれにせよ助力は惜しみません。いつでもお声掛け下さいね」

「・・・・・・お気持ちだけ頂いておきます。ご協力、感謝します」

 

 



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5月14日 止まない雨はない

 

 一部の人間がアキの過去へ触れてから二日間が経った、5月14日の昼休み。同じ轍を踏まないよう、話し合いの場はミツキの厚意で貸し出された生徒会室へと代わり、四人の適格者らは今日も事件の真相究明に当たっていた。

 

「アキ先輩が・・・・・・以前にも、異界に?」

「ええ。詳細は伏せるけど、遠藤さんは以前にも異界絡みの事件に巻き込まれていたみたい。実際のところは調べようがなくても、見過ごせない情報よ」

 

 異界化に見舞われた人間は、関わり方によって大別することができる。異界へ飲み込まれた者、特定の異界由来物への接触、『神様アプリ』のような副次的被害、そして直接介入という異例。中でも異界に踏み入った経験のある人間は、他者と比較して再び異界化の被害者として巻き込まれる傾向が強いとされている。仮定に仮定を重ねた話ではあるが、今現在目を付けている中で該当しそうな人間は、アキ一人。死人憑きという厄介なグリードを相手にする以上、貴重な手掛かりとして考慮すべき点だった。

 そしてもう一つが、死人憑き自体に見られる性質だ。その名の通り、死人憑きは特定の個人に対する想い入れが強い人間を巻き込むという特徴がある。これについてはコウとユウキの予感通り、過去に最愛の兄を失くしたというアキの過去と結び付く。

 

「現時点では、遠藤先輩が黒に近い灰色って感じだね。肉親や知人を亡くした経験は他の二人にもあるっぽいけど、今の話を聞くと益々黒に近付いたよ」

「まだ断定はできないけど、だからこそ遠藤さんの『監視体制』は今後も続けるべきね。常に最悪を想定しましょう」

「異界化を事前に察知できれば、もう少し上手く立ち回れるのにな。厄介な相手だぜ」

「ここまで絞り込めただけでも充分よ。それに念の為、テニス部の二人についても手を打ってあるの」

「あれ、そうなのか?」

「と言っても、単純な予防策に過ぎないわ。遠藤さんを介して、普通ではない『何か』が起きたら一報を入れるようお願いしてある。有事の際には遠藤さんのサイフォ・・・・・・携帯電話が鳴る筈よ」

 

(また間違えたな)

(私も中学まではガラケーでしたけど・・・・・・米国は違うんでしょうか)

(凝り固まった固定観念ってやつじゃない。いるよねー、そういうの)

 

 アスカは三人を一睨みをした後、コホンと咳払いをしてから振り返る。視線の先には、生徒会室と廊下を遮る一枚の扉。その向こう側に立つ人間に、アスカは声を掛けた。

 

「もう入っていいわよ、遠藤さん」

 

_______________________________________

 

「し、失礼します」

 

 そっと両手で扉を開け、室内へ歩を進める。時坂君に柊さん、ソラちゃんとユウ君。学園内でも比較的親しい四人の視線が一手に集まってくる。

 

「ごめんなさい、締め出すような真似をしてしまって。貴女には聞いて欲しくない話をしていたから・・・・・・気を悪くしないで貰えると助かるわ」

「気にすんなよアキ、主にサイフォンの話だから・・・・・・ちょ、ば、やめ―――」

 

 何だろう。生徒会室へ入っていった四人は、もう少し強張った顔をしていたのに、随分と空気が変わった気がする。何より無言と無表情で壁際に時坂君を追い詰める柊さんが可愛い、じゃなくて怖い。とりあえず時坂君が言ったように、気にしないでおこう。

 

「でも流石はアキ先輩ですね、あんな話を信用してくれるなんて。おかげで私達も動きやすいです」

「あ、ありがとう。で、いいのかな」

 

 全ては5月12日から始まった。異界化、死人憑き、記憶操作、結社。日常では到底使用しない単語を交えた四人の会話を、私は二日前の屋上で立ち聞きしてしまった。漫画やゲームの話かと考えた矢先に、時坂君は唐突に私の過去へと触れた。非現実とばかり思っていた物は現実だと、時坂君らは私に言ったのだ。そして市民体育館の騒動は自然災害ではなく、もっと超常的な何かだとも。

 まるで理解が追い付かない数々は別としても、四人は至って真剣な面持ちで私に語りかけた。本気で私を助けようとしてくれていた。人を見る目が無い私でもそれぐらいは分かるし、無下に否定するなんて、できる筈がなかった。

 結局私は沢山の『分からない』から目を背けて、友人と呼べる数少ない存在を全面的に信用することにした。そう四人へ伝えた際に、ソラちゃんはとんでもない提案をみんなへ持ち掛けた。

 

―――こうなったら伝えるべきことは伝えて、アキ先輩に四六時中張り付いちゃうのが、一番安全じゃないですか?

 

「そういえば、今日の下校当番は誰だったかしら」

「確か俺だ。アキ、宜しくな」

「はい。お世話になります」

 

 『事件』とやらに関わっているとされる人間が、アリサ先輩とエリス先輩、そして私。中でも私は特に可能性が高いそうで、すぐさま時坂君らによる『監視体制』が敷かれた。その徹底ぶりは、想像を遥かに上回る物だった。

 基本的に私の単独行動は許されない。私生活やプライベートに関わる部分は尊重しつつ、常に私の傍には誰かがいる。登校は同じアパートのソラちゃんと一緒で、休憩時間は時坂君、お手洗いも柊さん、昼休憩はみんなで仲良くランチタイム。下校時は当番制になっていて、アルバイト中だって時坂君がレジに立つ。夜はソラちゃんが私の部屋に来て、二人仲良く就寝。起床してソラちゃんにおはようを言ってから、再び一緒に登校する。

 ここまで何一つ誇張が無い。今日を含めて三日間、私は一人になった覚えが無いのだ。常人なら怒りを覚えて当たり前の綿密さかもしれないけど、その全てが私の為なのだと考えれば、感謝こそすれど怒ることなんてできる筈もなかった。それに、悪くないと感じている私もいた。

 

「そっか。アキはソラと一緒に寝てんだっけ」

「はい。ソラちゃんが色々な話を聞かせてくれるので、楽しいですよ」

 

 話題はやはり部活動が中心だ。良くも悪くもお互いに流行の類に疎いせいか、自然と自分や身の回りの話が主になる。それと不思議なことに、ユウ君も話題に上がりやすかった。

 

「昨日も確か、ソラちゃんが休憩時間にユウ君のクラスへ行った時、ユウ君が珍しくイヤホンで音楽を聴いてて、どんな曲を聴いてるのかなって片方のイヤホンを自分の耳に付けたら、ユウ君が顔を真っ赤にしてすごく怒ったっていう話を」

「ねえ郁島、お前何でそんなに頭悪いの?馬鹿なの?」

「ああもう、ユウキ君が怒るポイントが分からないよ。どうしてそんなにぷりぷりするの?」

「安心しろよユウキ、二人聴きなら俺もよくシオリとやるぜ」

「時坂君は優しさを履き違えてると思うわ」

 

 閑話休題。

 ともあれ現状では様々な部分で『決め手』に欠けているらしく、少しでも多くの判断材料や情報を集める必要があるそうだ。この昼休憩の時間も有効に使うべく、訪ねたい人物がいると柊さんは言った。

 

「ねえ遠藤さん。私はこれから三年生の教室を訪ねようと思っているのだけど、貴女も同行して貰えないかしら」

「三年生、ですか?」

「貴女がいた方が、多分話しやすいと思うのよ」

「よ、よく分かりませんけど・・・・・・分かりました、私も行きます」

 

 事情を飲み込めない私は一旦時坂君らと別れ、私と柊さんは三年生の教室へ向かった。

 

_______________________________________

 

 柊さんと訪れた先は、三年D組の教室。柊さんが用のある生徒は、D組に所属する三年の女子生徒だった。

 

「一応聞いておくけど、遠藤さんは三年生に知り合いはいる?」

「いるには、いますけど。数は少ないです」

 

 知り合いらしい知り合いと言えば、テニス部の二人と北都先輩、最近図書館で話すようになったシズネ先輩に高幡先輩ぐらい。考えてみれば、何組なのかは一人も把握していない。D組に誰かいるのだろうか。

 開いていた扉からそっと顔を覗かせると、入り口から程近い席に座っていた男子生徒と視線が重なった。

 

「あっ・・・・・・高幡、先輩?」

「遠藤か。学園内で会うのは初めてだな」

 

 扉の枠に届きそうな程に上背の高幡先輩が、椅子から腰を上げてこちらに歩み寄ってくる。私に関する高幡先輩との噂話が蔓延した当時なら、会話を交わすだけでも考え物だったけど、たったの三日間ですっかり鎮火してくれていた。今なら誰かに見られても問題は無いだろう。

 

「それで、こんな所で何してんだ。何か用か?」

「えーと。柊さん?」

「高松エリカ先輩に、部活動の件で用事がありまして。お手数ですが、声を掛けて頂けますか?」

「ああ、あいつか。少し待ってろ」

 

 高幡先輩は教室をざっと見渡した後、入り口とは反対側の窓際へと歩を進め始める。

 高松エリカ先輩。初めて聞いた名前じゃない。以前にも何処かで耳にしたことがあるし、それもつい最近のことだ。あれはいつのことだったか。

 

「もう忘れたの?市民体育館で、遠藤さんも遠目に見ていたでしょう」

「体育館・・・・・・あっ」

「テニス部には部員が三名。現在休部中の三人目が、高松エリカ先輩だそうよ」

「そ、そうだったんですか。だから会場にいたんですね」

 

 思い出すのと目的の人物が視界に入ったのは同時。柊さんが言ったように、杜宮杯テニス大会の会場で私はその女性を見ている上に、名前を教えてくれたのだって隣にいる柊さんだった。騒動にばかり気が向いていて、それ以外の出来事に関する記憶が薄れていたのかもしれない。

 やがて今し方高幡先輩がいた位置に、エリカ先輩が代わって立つ。腰まで届く長髪は強めにカールされていて、何というか攻め感がすごい。良くも悪くも極端にご令嬢チックな容姿は、自然と周囲の視線を集めてしまいそうだ。

 

(・・・・・・お〇夫人?)

 

 エリカ先輩とテニスを結び付ければ、一昔前にテニスブームを起こした少女漫画の主要キャラを連想してしまう。というかもう完全に夫人にしか見えない。なら私は主人公の―――うん、やめよう。絶対笑う。

 

「私に用があるというのは貴女達?」

「突然お呼び立てしてしまい申し訳ありません。少しお時間を頂けませんか?」

 

 柊さんは愛想良く照れ笑いを浮かべながら、すらすらと事情を並べていく。

 この二日間で分かったことがある。柊さんは表と裏、『二つ』の顔を使い分けている。一つは転入して以降ずっと見続けてきた、クラス委員としての日常的な顔。もう一つは二日前の屋上、そして市民体育館で目の当たりにしたそれ。前者の時は、声のトーンが僅かに高くなる。これに関して言えば、何かしらの秘密を抱え同じ立場にいる筈の時坂君らとは、明確な違いがある。

 どちらかが本物で偽物という訳ではなく、どちらも柊さんなのだと思う。意識して二分している、という表現が一番しっくりくる。誰にも話したことがないけど、もしかしたら時坂君らも気付いているのかもしれない。

 私は胸中を表に出さないよう、表の顔で話をする柊さんに声に耳を傾ける。

 

「実は遠藤さんが、最近テニス部の先輩から勧誘を受けているそうでして。事情は私達も把握していますけど、突然の誘いに本人も戸惑っているみたいなんです」

「・・・・・・成程。そこで私に、リサとエリスについて話を聞いてみたいと。そういうことですわね」

「はい。何でも結構ですので、ご協力願えますか」

 

 柊さんは言いながら、私の方をちらと見て視線で合図を送ってくる。

 私がいた方が都合が良いというのは、今柊さんが話した通り。アリサ先輩らの話を聞き出すには自然なやり取りだし、杜宮杯の会場にエリカ先輩がいたという事実にも、何か関係があるのかもしれないと踏んだのだろう。

 

「リサとエリスとは中学以来の付き合いですわね。私も相当な実力者という自負はありますが、あの二人は更にその上をいっていた。当時は悔しさを通り越して、呆れてしまいましたわ」

「あのー。エリカ先輩も、以前からテニスを?」

「自宅の敷地にテニスコートがありますの。今も練習は怠っておりませんのよ」

「じ、自宅に!?」

 

 思わず声が裏返ってしまった。テニス経験者なら一度は夢に見る、自分だけのマイコート。もしかしなくても、この人は見た目通りのご令嬢に違いない。呆れてしまうはこちらの台詞だ。

 口をパクつかせていると、柊さんが多少大袈裟に首を傾げながら言った。

 

「テニスは続けているんですね。でも部活動は休部している・・・・・・何か事情がおありですか?」

 

 柊さんの単刀直入な問いに対し、エリカ先輩の表情が変わった。気分を害したといった様子ではなく、思案顔を浮かべたエリカ先輩は、私へと視線を移して再び口を開いた。

 

「遠藤アキさん、でしたわね。貴女、リサとエリスの試合を観たことは?」

「一応、あります。この間の杜宮杯の準決勝だけ、ですけど」

「それなら話が早いですわ。率直に聞きましょう。あの負け試合を観た感想は如何でしたの?」

 

 実力差、男女間の違い。すぐに思い浮かんだそれらの答えを、エリカ先輩は求めていない。対戦相手を引き合いに出さない、もっと根本的な部分で―――思い当たる物が、私の中にある。おそらくそれこそが、エリカ先輩がテニス部を、アリサ先輩とエリス先輩から離れてしまった理由。そういうことなのだろう。

 

「その様子では、貴女も察しが付いているようですわね」

「・・・・・・はい。見れば、分かります」

「ともあれ、私は納得がいきませんの。ですがリサもエリスも、悪い人間という訳ではない・・・・・・あの二人は私にとっても、友人と呼べる同窓です。勧誘を受けるかどうかは、貴女次第でしょう」

 

 話に区切りが付いたところで、昼休憩の終了を報せる予鈴が鳴った。私達はエリカ先輩にお礼を言った後、早歩きで階段を下り、二年B組の教室へと向かった。

 

「遠藤さん。今の話はどういう意味なの?」

「ダブルスって本当に難しいんです。高いレベルになればなる程、二人の連携が勝敗を決しますから。噛み合わないと、ダブルスの意味がありません」

「・・・・・・関連性は分からないけど、新しい情報ではあるわね。覚えておきましょう」

 

 ―――だから私は、テニスで負けては駄目なのよ。

 

 自然と足が止まり、頭の中でアリサ先輩の声が反芻する。

 『だから私は』。前後を結び付けて帰結させる接続詞に、私は繋がりを見い出すことができなかった。

 

________________________________________

 

 放課後の午後16時過ぎ。私は『下校当番』の時坂君と一緒に校門を抜けて、通学路を逆向きに辿っていた。私は自転車を押して、徒歩の時坂君は私の歩調に合わせて、他愛のない会話で花を咲かせながらの下校時間を楽しんでいた。

 時坂君も休み無しで働いている訳ではないそうで、当番日である今日の放課後アルバイトは休業。と本人は言っていたけど、おそらくは違う。私に合わせて予定を調整してくれたとか、そんなところなのだろう。

 

「そういやアキって、最近よくジュンから漫画とか借りてるよな」

「ですね。昔からよくお兄ちゃんのを借りて読んでいましたから、結構好きなんです。小日向君は色々なジャンルの本を教えてくれるので、正直助かってます」

「ふーん。アキと言えばテニスとパン作りだけだと思ってた」

「・・・・・・否定はしませんけど。でも時坂君だって、私はアルバイトしか思い付きません」

「否定はしねえよ。でもこう見えて、昔は色々やってたんだぜ。若かりし頃はな」

「あはは」

 

 私と違って、時坂君とシオリさんは普段自転車を使わない。伊吹君や小日向君もそうで、みんな自分の足で登下校をする。のんびりと欠伸をして、お喋りに興じながらの何気ない時間が、四人にとっては大切な日常の一つ。なんて、誰もそんな恥ずかしい台詞は吐かないけど、この三日間だけでも、私は身を以って理解しつつある。

 一人でいた方が、気を遣わずに済む。一人なら誰にも見られない。知られたくないから、知ろうとしない。ずっとそうやって周囲から距離を置いてきた。その反動があるのかもしれない。

 

「しかしお前も変わってるよ。疑いもしないで俺達を信用するなんて、普通できねえだろ」

「なら普通じゃないんだと思います。自覚ぐらいありますよ」

「・・・・・・お前さ。最近少し、雰囲気変わったか?」

「そう見えますか?」

「ああ。勿論良い意味でな」

 

 学園を出てから、私達は離れたり近付いたりを繰り返している。知らぬ間に時坂君は私よりも一歩前を歩いていて、それに気付いた時坂君が歩みを緩めて、私の隣に戻る。

 歩幅の違いだけではないのだろう。私が無意識に求めているからだ。こんな時間がもっともっと続けばいい。心の何処かでそう感じている私は、時坂君が言ったように、少し前までの私とは違うように思える。でも何が違うのかと問われると、上手く表現できない。不思議な感覚だ。

 

「そんで、テニス部の件はどうするつもりなんだ。熱烈に誘われてんだろ?」

「・・・・・・アルバイトもありますから、まだ決めてません」

「ああ、それもそうか。でもテニスが好きなら、たまに顔を出すってのもアリだと思うけどな」

 

 私の足が止まり、私に続いた時坂君が、後ろ歩きで戻ってくる。

 

「テニスが・・・・・・好き?」

「何だよ、俺変なこと言ったか?」

「い、いえ。言ってないと、思いますけど。でもそんなこと、考えたことがなくって」

 

 時坂君は心底驚いた面持ちで私の顔を覗き込んだ後、すぐに気まずそうな様子で一歩距離を置いた。

 至極単純な考え方だ。テニスが好きだから、コートに立つ。好きだからヤナギスポーツ店に通い、新品のラケットを握る。杜宮杯に二人乗りで向かう。

 でもよくよく考えれば、そんな風に考えたことが一度も無い。お兄ちゃんと一緒だったからだ。お兄ちゃんがいたから、私は―――いや。本当にそうだろうか。だって私はお兄ちゃん以外の誰かと、ボールを打ち合ったことだって無かった。エリス先輩とのラリーが初めてで、あの時の私は無我夢中で―――

 

「なあアキ。お前さ、複雑に考え過ぎなんだと思うぜ」

「・・・・・・そうでしょうか」

「モリミィでのバイトだってそうだろ。もう少し簡単にっつーか・・・・・・色々抱えてんのは分かるけどさ。アキと言ったらテニスとパン。今はそれだけで、いいんじゃねえのか」

「時坂君・・・・・・」

 

 背中を押された気がして、私は再度自転車を押して足を動かす。一歩ずつ歩を進める度に、先程までとは打って変わって時坂君は後方へ遅れ気味になり、慌てて私の隣に追い付いてくる。どういう訳かそれが可笑しくて、私は笑った。ガーデンハイツ杜宮に辿り着いた頃には、夕陽が私達の影を落としていた。

 

「ありがとうございました。今日は、これで」

「ああ。また明日な」

「はい。また、明日」

 

 軽く頭を下げてから振り返り、夕焼けを全身で受け止める。

 分からないことばかりが増え続けていく。でも心は晴れやかで、大きく吸い込んだ空気が生気となって、全身に充たされる。ややこしいことは後回しにして、明日考えよう。今は彼の言葉を胸に刻み―――また、明日。

 

_________________________________________

 

 翌日の5月15日。第三週目の最終日となる金曜日の放課後に、例によって私は時坂君と柊さんの三人で、本校舎三階の生徒会室へと向かった。

 

「事情が事情だし部屋を貸してくれんのは有難いけど、流石に連日となると気が引けるな」

「校内で自由に使える部屋が欲しいところね。すぐには難しいし、今後の課題として考えておきましょう」

 

 柊さんが扉を開くと、木製のテーブル上でノート型の端末を叩くユウ君、その背後からディスプレイを覗くソラちゃんの姿があった。

 

「おいユウキ、何勝手に使ってんだよ。それ生徒会の備品だろ」

「許可は貰ってるってば。それにほら、今なら面白い動画が見れるよ」

「動画?」

 

 ユウ君が椅子を引いて、空いたスペースに私達が立つ。画面上部に動画サイトのロゴマークと、中央には見覚えのある光景が映っていた。思わず目を見開いて、見入ってしまった。

 

「こ、これって。杜宮杯の、準決勝?」

「そう、例の二人の試合さ。準決勝が丸々と、一つ目の照明が割れた瞬間までは映ってるよ。会場で撮影していた動画を、誰かがアップしたんだろうね。今は消されちゃってるけど」

 

 消されているにも関わらず、動画は私達の目の前で再生されていた。ユウ君の話では、動画はすぐに削除要請を受けた管理者側が削除したものの、一部のユーザーが動画を保存していて、複数の共有サイトへ流れ出てしまった。ユウ君にとっては、動画を拾い出すことぐらい朝飯前だったそうだ。

 

「ちょうどいいわ。細かい話は抜きにして、念の為確認しておきましょう。四宮君、動画を最初から再生して貰える?」

「了解っと」

 

 ユウ君がマウスを操作して、動画の冒頭から再生が始まる。映像の角度から考えて、私とヤナギさんからそう遠くない席から撮影された物だろう。天井や反対側のガラス窓は映っていないけど、試合だけならかなり見やすい位置だ。

 五人で画面上を凝視していると、動画はあっという間に最終セットまで進んだ。元々試合内容は濃かったものの、セットカウント自体は一セットも取れずのストレート負け。硬式に比べて軟式はポイント数が少ない上に、多少編集されていたことから、動画の再生時間も十五分に満たない長さだった。

 やがて試合が終わり、決勝戦の直前まで動画が飛んだところで、ソラちゃんが感想を述べる。

 

「うーん。試合自体はすごかったと思いますけど、特に変わった様子は無かったですね。ユウキ君、何か気付いたことはある?」

「なーんにも。そんじゃ遠藤先輩、ご解説をどうぞ。敗因はズバリ何だと思いますか?」

「ん・・・・・・言い辛いけど、エリス先輩かな。九割方ぐらいは」

 

________________________________________

 

 敗因はエリスにある。そう言い切ったアキの言葉に、四人は怪訝そうな表情を浮かべた。それもその筈、アキを除いた人間の目には、そうは映っていなかった。

 

「そ、そうなんですか?でも私には、そうは思えませんでしたよ?」

「僕も同意見かな。寧ろ息の合った良いコンビに見えたけど。違うの?」

「・・・・・・そっか。みんなには、そう見えちゃうんだ」

 

 試合の流れを作るのは、ベースラインプレイヤーである後衛の務めだ。そして良くも悪くも得失点に絡むのが前衛で、オーソドックスなスタイルでは、両者の役割は明確に二分される。どちらか一方が不調な時や、二人の息が重ならない場合は、ダブルスとしての本領を発揮できない。テニスに限らず、ペア競技の世界では当たり前の考え方だった。

 

「エリカ先輩とそんな話をしていたわね。息が合っているように見えて、実は噛み合っていない。そういうことかしら?」

「いえ、そうじゃありません。確かに二人共、相当な実力者ですけど・・・・・・アリサ先輩はこんなレベルに留まりません。エリス先輩がどうこうではなくて、アリサ先輩が別格過ぎるんです。本来の全力を出し切れていないとしか思えません」

 

 格下や同格が相手なら、その差は明確に現れない。だが今回のような格上の場合は話が違う。

 エリスは全ての動作に置いて、僅かに遅れていた。そのワンテンポの遅れが試合の流れを乱し、相手ペースに飲み込まれてしまう。結果としてリサの技の冴えは鳴りを潜め、一見すれば負けるべくして負けたと受け取られる。しかしエリカやアキのような域にいる者の目にはそうは映らない。リサという決定打の鞘は抜かれず、不発に終わったとしか思えないのだ。

 

「成程な。確かに日本代表の母親が指導者なら、それぐらいの力があってもおかしくはねえか」

「はい。だからこそ、テニスでは負けたくないとも。相当な想い入れがあるんだと思います」

「でも長年連れ添った相棒のせいで全力を出し切れずに、ライバルには全敗って訳?」

「立場は違いますけど・・・・・・チアキ先輩と同じで、葛藤を抱き続けてきたのかもしれませんね」

 

 四人の表情が次第に曇っていく。事情を上手く飲み込めていないアキも、周囲の空気が張り詰めたことを、肌で感じ取っていた。

 するとアスカのサイフォンから着信音が鳴り、再生し続けていた動画からは一度切りの破裂音が聞こえ、再生が終了する。アスカは端末の画面を凝視しながら、通話を繋げた。

 

「はい、柊です。できるだけ手短に・・・・・・はい。ええ、その筈ですけどっ・・・・・・はい、分かりました。ありがとうございます」

 

 通話はたったの十数秒。アスカは眉間に皺を寄せて通話を切り、考え込むような素振りを取りながら切り出した。

 

「遅くなってしまったけど、裏が取れたわ。リサ先輩の母親は、まだ亡くなっていない。存命よ」

「えっ・・・・・・そ、そうなんですか?」

「ええ。貴女から話は聞かされていたけど、気になって調べていたのよ」

 

 死人憑きは特定の『故人』に対する想い入れが強い者を巻き込むという性質がある。たった今アスカに知らされた事実は、死人憑きの共鳴者としての特徴と一致しない。そこから導き出される可能性を、ユウキが口にした。

 

「随分と時間が掛かったね。でもそれってつまり、リサ先輩は白ってこと?」

「まだ分からないけど、可能性が変化したのは確かだわ」

「ええっと、要するに・・・・・・」

 

 その先を言い淀んだソラがそっとアキへ視線を移し、他の三人がそれに続く。

 

「な、何ですか?」

「いや、別にお前がどうっ・・・・・・ち、ちょっと待て」

 

 四人の背筋に悪寒が走り、アキは立ち込める不穏な空気に身体を震わせた。

 感情から来る生理現象だと、誰もが考えた。しかし身震いは収まらず、肌寒さは一気に厳しさを増していく。余りにも急激なその変化を合図にして、緊張感に満ちた声が飛び交った。

 

「アキ先輩、落ち着いて聞いて下さい。そのまま動ないで、ジッとしてて貰えますか」

「え、ええっと」

「口も開かない方がいいと思うよ。舌を噛んじゃうかも」

 

 アキを中心にして、四人が身構えて取り囲む。アスカは念の為にとサイフォンでサーチアプリを起動し、眼前に対する局地的な異界化予測を始めた。監視体制が功を奏し、今まさに起きようとしている異界化の瞬間に立ち会うことができていた―――かのように、思えた。

 

「・・・・・・何も、起きませんね」

「で、でもこの冷えは異常だろ。一体何度まで下がるってんだ?」

 

 全員の吐息が白に染まり、とても五月中旬とは思えない冷え込みが全員の身体を小刻みに揺らす。

 すると室内の上部に設置されていた校内放送用のスピーカーから、英語担当の教職員の声が響き渡った。

 

『全校生徒へお知らせします。現在空調機の不調により、校舎内の温度が極端に低下しています。繰り返します。現在空調機の不調により―――』

 

 空調機なんかじゃない、脅威は眼前にまで迫っている。アキを含めた全員が理解した。

 しかし肝心の『それ』が来ない。体温の急激な低下で思考が鈍り始めていても、何かがおかしいという一点だけは、何も起きないという眼前の状況から察していた。

 

「おい柊、校舎全体って相当な規模だぞ。これでもサーチアプリは使えねえってのか?」

「そんな筈はないわ。これ程の影響度なら、いくら死人憑きでも特異点を介している以上、反応があって当然よ」

「じゃあどうなってるのさ!僕達にも見えない異界化なんてある訳!?」

「そんな話は聞いたことが・・・・・・ま、まさかっ」

 

 アスカが一つの可能性に辿り着いた時、今度はアキの上着から着信音が流れ始める。アスカは無言で首を縦に振り、通話に応じるよう促す。アキは低温に震える両手を一度擦り合わせた後、上着の中にあった携帯電話を取り出すと、画面に映っていた名前を見て、息を飲んだ。

 

「は、はい、遠藤です。アリサ先輩ですか?」

『ええ、リサよ。突然ごめんなさい』

「いえ、今何処にいますか?」

『エリスとテニスコートにいるわ。ほら、前に貴女言っていたでしょう。変なことが起きたら連絡をって・・・・・・よ、よく分からないけど、急に寒――しっ―――ま―――』

「も、もしもし?アリサ先輩っ!?」

 

 ツー、ツー、ツー。

 通話が途切れると同時に、弾かれたようにアキが室外へと飛び出し、廊下の窓へと張り付く。三階の南側からなら、遠目で南西にあるテニスコートを見下ろすことができる。僅かなやり取りではあったものの、リサとエリスはコート上にいた筈だった。

 

「・・・っ・・・・・・そ、そんな」

 

 誰も、いなかった。テニスコートには誰の姿も無く、無人のコート上にはネットを支えていた筈の支柱が倒れ込み、見るも無残に荒れ果ててしまっていた。何かが起きたであろうことは、誰の目にも明らかだった。

 立て続けに二転三転する事態に、コウが声を張った。

 

「ど、どうなってんだ。おい柊、何か知ってんのか?」

「確かにリサ先輩の母親は存命よ。でも・・・・・・脳挫傷による、遷延性の意識障害らしいの」

「分かるように言えっての!」

「もう二年以上も眠り続けている。植物人間なのよ」

 

 アスカの言葉に、彼女の中にあった可能性が、その場の四人にも少しずつ広がっていく。

 

「何度も言ったでしょう。私達が掴んでいる物の多くは、可能性と傾向に過ぎない。これも憶測でしかないけど、たとえ存命であったとしても・・・・・・リサ先輩にとって死別と同義なら、死人憑きに目を付けられても不思議じゃないわ」

「アリサ先輩・・・・・・そっか。だから、だから先輩は」

 

 ―――だから私は、テニスで負けては駄目なのよ。

 

 そこには切実な願いが込められていた。死者へ対する想いではなく、生への願望だった。

 リサにとっては、テニスしかなかった。母親から受け継いだ物の強さと正しさを証明すれば、きっと帰って来る。まるで根拠の無い枷で己を縛り、信じて願い、ずっと勝利だけを追い続けてきた。エリスも表には出さずとも、彼女の想いを理解していた。リサもエリスも、お互いにお互いを分かり合っていた。

 だが二人の自覚も無いままに亀裂は少しずつ広がりを見せ、リサの想いは負の方向へ肥大化し、願望は別の何かと置き換わる。何故勝てない、何で負ける、誰のせいで―――お母さんは、目を覚まさない。様々な感情が入り乱れたそれは、故人への想いという一線すらを超えて、死人憑きにとっての恰好の餌食となっていた。

 

「真相はともかく、元凶を何とかするのが先じゃないの?」

「ああ。四の五のは後だ、急ぐぞ!」

「了解です!」

「遠藤さん、貴女は生徒会室にいて。いいわね?」

「は、はい」

 

 四人が一斉に駆け出し、その背中をアキが見送る。未だ迷いを捨てかねているとはいえ、アキにとってリサとエリスは再びラケットを握るキッカケを与えてくれた大切な同窓の先輩だ。何もできないでいる己の無力さに苛まれながらも、アキは悴んだ手指を吐息で温めつつ、生徒会室へと歩を進め、扉を開く。

 

「・・・・・・え?」

 

 ―――眼前が、裂けた。アキの目の前で、漆黒と朱に染まった裂け目が、大きく口を開いた。

 二転三転に続く、四転目。コウ、ソラ、ユウキ、そしてアスカやミツキでさえ辿り着くことができなかった『真相』。異界化の『回数』だけ、元凶は存在していた。

 アキは全身が闇へ溶け込んでいくような感覚に包まれた後、どういう訳か彼女は、懐かしさを覚えていた。

 

_____________________________________

 

「ここは・・・・・・」

 

 目を見開いた先に映る、闇の空間。一瞬瞼を閉じたままなのかと錯覚してしまった程に、何も無い。上下左右に漆黒の闇だけが広がっていて、静寂の中には水が滴るような音だけが遠方から耳に入ってくる。

 恐る恐る歩を進めると、足はしっかりと地面を踏んでくれた。感触は泥と言った方がいいかもしれない。ジッとしていると地の底に落ちてしまいそうで、自然と足は動き続けた。

 

―――アキ。

 

 声が、聞こえた。耳の奥底に響く、感情を直接震わせてくる、懐かしい声。

 

「・・・・・・ナツお兄、ちゃん?」

 

 思わず呟くと、声はもう一度私の名を呼んだ。

 

「お兄ちゃんっ・・・・・・お兄ちゃん!?お兄ちゃんなの!?」

 

 焦燥に駆られて、何度も亡き肉親を想った。私の声が木霊するように、呼びかける度に、声は私の名を繰り返す。

 

―――ごめんな。

 

 すると唐突に声色が変わり、私は戸惑いを覚えた。声はひどく弱々しくて、今にも立ち消えてしまいそうな程にか細かった。

 

「どうして、謝るの。何を謝っているの?」

 

―――全部、俺のせいだ。

 

「そんな・・・・・・やだ、やめてよ」

 

 どれのことを言っているのだろう。お兄ちゃんは何を謝っているのだろう。

 私の肘が壊れてしまったから?知らないうちに独りぼっちになったから?上手く喋れなくなってしまったから?私がお兄ちゃんの真似をして、テニスを始めたから?私がお兄ちゃんを大好きだったから?お兄ちゃんがいなくなってしまったことを、謝っているの?それとも、全部?

 

「そんな、こと・・・・・・言わないで、よ」

 

 考えれば考える程、根元へと掘り下げられていく。一度逆を辿ってしまえば、もう止めどが無かった。何が悪かったのか。誰が悪かったのか。お兄ちゃんが悪かったとして、なら私はどうすれば良かったのか。

 分からない。どうして私は、今の私になってしまったのだろう。私は私が嫌いだ。いつも人の目ばかりを気にする私が嫌い。ハッキリ物を言えない私が嫌い。他人任せの私が嫌いだ。その全ての原因がお兄ちゃんだったとして、それなら私はこれからどうすればいい。どうやって生きていけばいい。誰か―――教えて。

 

―――アキ。

 

「え・・・・・・あ、あれ?」

 

 声が、また変わった。それだけではなく、声の出処が変わった。今の声は私の『中』から聞こえた。胸の奥底から頭へと、直接響いてきた。

 見れば、胸の辺りが僅かに光を放っていた。真っ暗闇の中に突如として現れた光はとても温かくて、そっと右手を当てると光は移動し、今度は右手が輝き始める。

 

「あ、あはは。どうして・・・・・・私、馬鹿だよ」

 

 何故気付かなかったのだろう。お兄ちゃんじゃない、全然違う声だ。先程から聞こえていた声は、全部偽物じゃないか。そう、違うんだ。悪いのは―――私だ。

 私は逃げていただけだ。いつも人のせいにして、自分で決めたことを他の誰かのせいにして、勝手に自分を嫌っていた。テニスを始めたのは私で、お兄ちゃんの背中を追い求めたのも私。行き過ぎて肘を壊したのも私。勝手に独りぼっちになったのも私だし、そんな私を嫌いになったのも私。

 思い出そう、初めてラケットを握った日のことを。キッカケはお兄ちゃんの真似事だったけど、本当は楽しかった。テニスが楽しくて仕方なかった。知らぬ間にお兄ちゃんに対する想いと、入り混じっていたのかもしれない。でも私はテニスが好きだったから、お兄ちゃんと二人三脚で一緒に戦い続けた。純粋に好きだったからだ。

 

「そうだよね。時坂君、みんな」

 

 それに私は以前と比べて、自分が嫌いじゃない。一人でいる時よりも、みんなと一緒にいる時の方が良い。誰かと一緒に登下校をして、ご飯を食べてお喋りをして、他愛無い何かで盛り上がって。そんな日々が続けばいいって、想い願う私がいた。エリス先輩とのラリーだって、我を忘れてしまうぐらい楽しかった。モリミィでのアルバイトだってそう。分かっていた筈じゃないか。

 私は変わりつつある。もう今までの私じゃない、もっと変わりたい。一歩ずつだけど、私はこの空白の半年間を取り戻し始めている。だったら迷う必要なんて、何処にも無い。

 

「ごめんね、お兄ちゃん。私はみんなの所へ帰りたい。だから、使うよ」

 

 どうして『それ』が私の中にあるのか、それは分からない。でもお兄ちゃんが託してくれた物の全てが、私の中に光として宿っている。

 光から伝わってくる願い。本当は使って欲しくないのかもしれない。踏み入って欲しくないのかもしれないけど、私は決めた。もう迷わない。だってこれは、私がお兄ちゃんと一緒になって磨き上げてきた物だ。使い方は分かるし、構えも分かる。打ち方も、ストリングスの強度も、グリップも重さも全てが同じ。初めて二人でコートの上に立ったあの日からの、集大成。私は―――遠藤ナツの妹、遠藤アキだ。

 

「疾れ―――ライジング・クロス!!」

 

 



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第1部エピローグ

 

「ん・・・・・・」

 

 微睡みの世界と現実を行ったり来たりしながら、重い瞼をそっと開く。初めに在ったのは、浮遊感。長い長い夢から覚めたかのような現実感の無さ。一方では帰宅時に扉を閉めた時に抱く、帰ってきたという実感と安堵。

 

「お目覚めのようですね」

「へ?」

 

 そして『柔らかい』何か。無意識のうちに枕だと思っていたそれは妙に温かく、視界の上端から何者かの顔が覗き込んでくる。

 

「ほ、北都先輩?」

「フフ。おはようございます、遠藤さん」

 

 慌てて半身を起こすと、私が置かれていた状況がすぐに理解できた。どうやら私は生徒会室の床に大の字で寝そべりながら、北都先輩の足の上に頭を置いていたらしい。生徒会長様の膝枕なんて畏れ多いにも程がある。というより、一体何がどうなっている。事態が上手く飲み込まない。

 

「ど、どうして北都先輩が、ここに?」

「私は生徒会長ですから、生徒会室にいるのは当然だと思いますが」

「あ、そっか・・・・・・じゃなくって!あの、その」

「それより遠藤さん、気分は如何ですか?中々目を覚まさないので、心配していたんですよ」

「・・・・・・ええっと」

 

 北都先輩は事の経緯を簡単に教えてくれた。と言っても、小難しい話は一切無い。

 空調機の異常が収まり、校内の温度も外気温と同程度にまで上昇したのがつい先程のこと。生じかけた混乱も鎮火し、漸く一息付けると生徒会室へ足を運んだ北都先輩は、豪快に寝そべる私を発見した。体温の低下により体調を崩したのかと思い、膝枕をして私の様子を窺っていたところ、何事も無かったように私が目を覚ました。ということだそうだ。

 

「最近は柊さん達と何かをされていたようですから、疲れがあったのかもしれませんね」

「え・・・・・・し、知っていたんですか?」

「詳細は存じていませんが、一応は。先日も貧血で倒れたと聞いていますし、余り無理をなさらない方がよいかと思いますよ」

 

 何を聞いても生徒会長ですから、の一言で全てを済ませてしまう北都先輩。今日の騒ぎの真相に踏み入ろうとしないところを見ると、時坂君達のように異界云々の話に通じている訳ではないようだ。だが生徒会の長だからといって、一介の生徒である私の事情を把握しているのはどういうカラクリがあるのだろう。

 

「それにしても遠藤さん。随分と晴れやかな顔をされていますね」

「・・・・・・そう見えますか?」

「フフ、はい。以前に記念公園で聞かせて頂いたお話に、何か関係がおありですか?」

「それは・・・・・・あはは、そうですね。あるかもしれません」

 

 勿論、記憶はある。北都先輩とどんな話をしたのか。そしてつい今し方、何が起きたのかも。随分と昔のように思えてしまう原因は定かでないにせよ、私は確かに帰って来た。もう寒気は無いし、私を取り囲んでいた漆黒の世界も消えた。

 時坂君ら四人が言っていた『異界』とは一体何なのか、私は身を以って知った。それに今なら、『死人憑き』の名の真意を理解できる。死人憑きは死者ではなく、残された者の闇を見い出して憑り付く。あの声は私の心を投影し、私自身が生み出していた幻聴と幻影だったのだろう。だから、もう終わりだ。偽りは消えて、全てが終わって―――いや、待て待て。少し落ち着こう。何か大事なことを忘れているような気がする。

 

「あ゛。え、エリス先輩、アリサ先輩!?」

 

 肝心なことに思い至ったところで、後方の廊下側からドタバタと喧騒が聞こえ、扉が勢いを付けて開かれる。

 

「アキ先輩!?」

 

 全力で走って来たのだろう。ソラちゃんの額には大粒の汗が浮かんでおり、ヘアピンで留めていた筈の前髪が乱れ、肌に張り付いてしまっていた。

 

「そ、ソラちゃん?」

「アキせんぱあぁいっ!!」

「わわっ」

 

 文字通りの弾丸タックル。北都先輩に倣いお嬢様座りをしていた私の腰元に、ソラちゃんが飛び込んでくる。手痛い攻撃に呻き声を上げてしまい、ソラちゃんは先輩らについて問い質す隙を中々見せてくれなかった。まるで子供のように泣きじゃくりながら私を抱くその姿に、私の目元にも薄らと、温かな感情を起因とする涙が浮かんだ。私は両目を拭って、静かに問い掛ける。

 

「ソラちゃん。テニス部の二人は、エリス先輩とアリサ先輩は?」

「安心して下さい、二人共ご無事です」

 

 ソラちゃんの声に、漸く深い安堵を覚えた。深々と息を吐いた私とは裏腹に、今度はソラちゃんが私の身体をべたべたと触りながら聞いてくる。

 

「それより、アキ先輩はどうなんですか?怪我とか、痛い所とかありませんか?」

「うん、大丈夫。私は大丈夫だから」

「よかったっ・・・・・・本当に、よかった。わ、私、本当に」

「まったく、人騒がせにも程があるでしょ。おかげで寿命が縮んだ気がするよ。どうしてくれる訳、先輩」

「ユウ君もほら、ソラちゃんと一緒に」

「アンタはもう一回異界に行け」

 

 白い目をしながら口を閉ざしたユウ君の隣には、疲れ果てた表情の時坂君と柊さんの姿もあった。気兼ねなく話ができる数少ない友人に対し、私は感情を上手く言葉にできず、口をパクつかせてしまっていた。

 

「時坂君と、柊さんも。その、何て言ったらいいか」

「まあなんだ、詳しい話は後にしようぜ。それより、お前にお客さんだ」

「お客さん?」

 

 お客さんも、時坂君らの向こう側に立っていた。二人の先輩はゆっくりとした足取りで私の前方に歩み出て、無言で私の顔を見詰めた。

 

「・・・・・・あはは」

 

 何て顔だろう。思わず笑ってしまった。

 腫れぼったい目元は、積りに積もった物を涙に変えて出し尽くしたことを。真っ赤に染まった頬は、お互いに想いの内をぶつけ合ったことを。影や曇りの無い爽快な表情は私と同じで、前に進むことができたということを。二人の間に何があったのかは、その全てが物語っていた。

 

「アリサ先輩、エリス先輩。お二人にお願いがあります」

 

 だから私も一緒だ。いや、私にとってはここからがスタート。後ろではなく、前を向いたというだけの話だ。前進するには、足を動かさなくてはならない。おそらく今日がその一歩目。私が杜宮に来てから、本当の意味での一歩目を私は踏み出す。それにはまず、進むべき道を決める必要がある。

 分からないことは依然として山積みで、手探りをしながら私は探し求める。一人では自信がないから、存分にお世話になろう。時間は掛かるかもしれないけど、いつの日か、きっと。

 

「決心が付きました。私をテニス部に入れて貰えませんか」

 

________________________________________

 

 アキが入部の決意を示した頃、皆の輪から一歩下がり、アスカとミツキはやれやれといった表情で事の成り行きを見守っていた。

 

「お疲れさまでした、柊さん。そのご様子では、彼女のことを含め、全て把握されているようですね」

「大方は。この場で何が起こったのかも、察しがついています」

 

 二つの異界は同種族の主によって高次元に繋がっていた。とりわけ最奥部はそれが顕著で、無事にリサとエリスを解放したアスカらが目の当たりにしたのは、別世界に潜んでいたもう一体の元凶に対し、たった一人で立ち向かうアキの姿だった。

 

「遠藤さんについても、術式が効かなかったことから予想はしていましたけど・・・・・・まさか一人で異界化を治めるなんて」

「死人憑き自体の脅威度は高くありませんから。遠藤さんの心と光が、死人憑きの幻影を打ち破った。そういうことでしょう」

 

 グリードとしての単純な脅威度で言えば、死人憑きは精々C級上位。エルダーグリードの中でも底辺に分類される。最も厄介とされる『幻影』を打破しさえすれば、アスカは勿論他の三人の手にも負える低級グリードだった。

 

「でも今回ばかりは、失態が続きました。何を言われても返す言葉が見つかりません」

「そう気に病む必要はないと思いますよ。複数体の同種族が、全く同じ場所、同じタイミングで異界化を引き起こす・・・・・・そんな異例が起きるとすれば、国内でもこの杜宮ぐらいだと考えます」

「・・・・・・慰めになっていませんが」

「フフ。言っている私も、背筋が凍る思いです」

 

 苦笑いを浮かべるミツキの表情とは裏腹に、事態の深刻さは異例の一言では済まされない。異界化の頻度一つ取っても只事ではない上に、過去に例を見ない特異な現象が生じ始めている。アスカが後手に回ってしまったのも無理はなく、犠牲者が出なかっただけでも幸いと言うべき結果だった。

 しかしそれすらもが、これから杜宮を襲うであろう異変の一端。氷山の一角にすらなり得ないという事実に、誰一人として辿り着くことはできなかった。誰もが眼前の日常、杜宮学園女子テニス部の新たな一歩を、温かな目で見守っていた。

 

「今は素直に、一先ずの解決を喜んでもよいかと。エリカさんも入って来られては如何ですか?」

「わ、私は別に。余計なお世話というものですわ」

 

 5月15日、金曜日。十年前に端を発した運命の歯車は、少しずつ加速し始めていた。

 

____________________________________

 

 同時刻、屋上。

 喫煙率の低下、分煙や禁煙化の進行に伴い、喫煙者の居場所は減る。ひどく肩身が狭い思いで居場所を探し、探せど探せど見付からないケースも珍しくはない。それが学び舎ともなれば尚更で、下手な真似をすれば煙草一本で立場を危ぶまれてしまう。

 

「やれやれ。これでも一応、真っ直ぐに生きてきたつもりだったんだがな」

 

 男性は不良生徒の如く、屋上の隅で紫煙を吐き散らす。着任以降、学園の敷地内で煙草に火を点けたことは数回あった。度々ストレスに苛まれては、普段の温厚な立ち振る舞いや仮面を捨て去り、己の欲求に逆らわずに煙草を咥える。原因は週初めに見舞われた一件にあった。

 

「仕方ない。フェンス代ぐらいは、『自腹』を切っておくか。テニス部の人数も増えそうだしな」

 

 アスカらにとっての幸運は、知らぬ間に元凶の数が減っていたこと。複数体存在していたという真相に行き着いておきながらも、その実誰もが誤っている。現時点での正解者は、たったの二人しかいなかった。

 

____________________________________

 

 一連の事件が解決に至ってから、約二時間後。時刻が午後の19時を回った頃、事後処理を済ませたアスカとコウはお互いを労いながら帰路に着き、アスカの下宿先であるカフェに向かっていた。

 

「報告書、か。もうこんな時間だし、明日に回しちゃ駄目なのかよ」

「報告は即日が基本なの。幸い明日は休日だから、少し休んでからゆっくりまとめるわ」

「負担が大き過ぎる気もするけどな。結社ってのは人手不足っつーか、ブラックな組織なのか?」

「私が執行者だからよ。総合職って言った方が理解し易いかもしれないわね」

 

 死人憑きが関わっていたとされる事件は無事に収束へ向かい、残すところは一連の取りまとめと資料作成、報告。定期的な報告は勿論、今回のような案件については詳細な資料作成が義務付けられていた。

 執行者にとっての最優先は異界化を未然に防ぎ、或いは収拾すること。それに続く形で、間接的な『調査』や『研究』があった。組織である以上、本質的にそれらを行う研究開発部門は別に設けられており、末端で動く調査員も存在している。一方でアスカをはじめとした執行者は、その全てが求められる。今回の事件を含め、グリードの討伐は執行者としての務めの一つに過ぎないのだ。

 

「送ってくれてありがとう、時坂君。何ならコーヒーの一杯ぐらいご馳走するわよ」

「いや、また今度にしておくわ・・・・・・なあ、柊」

 

 カフェ店内に続く扉の前で向き合う形で、コウが後ろ頭を掻きながら視線を泳がせる。その姿を見て、アスカは察した。

 

「駄目よ。聞かないようにしようって、みんなで約束したばかりでしょう」

「まあ、そうなんだけどよ」

 

 死人憑きの幻影。それは当事者にしか幻影として映らない。より正確に言えば、死人憑きに『誰』の姿を重ねているのかは、本人しか分からない。対峙した人間の数だけ、死人憑きは偽りの仮面を被る。

 死人憑きは、最も想い入れのある故人へと変貌する。将来を約束し合った恋人を亡くした者には、恋人の姿に。最愛の肉親を失った者には、肉親の声を。人として生きていく以上、別れは常に付き纏う。死人憑きと呼ばれる由来は一つではなく、寧ろ二つ目こそが、アスカらにとっては厄介極まりないものだった。

 

「柊は・・・・・・その、視えたんだよな」

「ええ、ハッキリとね。二回目になると、大して動じないものよ」

 

 アスカも例外ではなく、その目に映っていた。かつての最愛を、アスカは躊躇うことなくエクセリオン・ハーツで斬り払った。誰よりも先んじて死人憑きをその手にかけ、息の根を止めたのもアスカ。無表情で剣を振るうアスカの胸中を、コウは窺い知ることができなかった。

 そしてその逆も然り。アスカにとっても、コウが浮かべる表情の意味が、理解できないでいた。

 

「そうか。ならやっぱり、俺がおかしいんだよな」

「おかしい?」

「視えなかったんだ」

「・・・・・・時坂君、それは」

「俺には、誰も視えなかった。骨と薄皮の怪異にしか、俺には視えなかったんだ」

 

 コウも覚悟は決めていた。幼い頃に亡くなった親戚、交通事故で失った同窓、友人の肉親。思い当たる人間は複数人いた。だから目の前に誰が顕れても、絶対に取り乱さないようにと、固い意志を貫こうとしていた。

 だが異界の最奥部には、誰もいなかった。事前に同じ話を聞かされていたソラもユウキも、感情を押し殺して表に出さないよう努めていたものの、完全に隠し通せる程人間ができてはいない。アスカだってそう。自分だけが、『視えていない』という事態に戸惑ってしまっていた。

 

「報告書に書いといてくれ。死人憑きの討伐には、薄情者が適任らしいぜ」

「・・・・・・あなたは、違う」

「ハハ、ありがとよ。じゃあ、また来週な」

 

 アスカが一言だけ捻り出した声に、コウが決まりの悪そうな顔で返す。重い足取りでその場を去って行くコウの背中を見詰めていたアスカは思わず駆け出し、彼の右腕を後ろから掴んだ。

 

「な、何だよ?」

「手伝って」

「は?」

「報告書。コーヒーと言わずに、ポークカレーを奢るわ」

 

 余りにも意外なアスカの提案に、コウは一時躊躇いつつも承諾した。5月中旬の夜空に浮かぶ満月だけが、店内へ向かう二人の背中を見詰めていた。

 

 





~店内にて~

「なあ柊。よく自分でプロって言うけどさ、給料って貰えてるんだよな」
「当たり前でしょう」
「ぶっちゃけどれぐらい?」
「これぐらいかしら」
「一万円?」
「あなた私を馬鹿にしているの?」
「なら十万円?」
「ゼロが足りてないわ」
「・・・・・・年間でか」
「月間よ」
「お代わり食っていい?」
「どうぞ」



とりあえず第1部完とします。他作品についてもそろそろ区切りを付けたいですね。複数を手掛けている作者様って本当にすごいと思います。


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第2部
5月17日 とある日曜日の昼下がり


 タマキさんは週に二、三回ぐらいの頻度で私の部屋を訪ね、私と日常を共にする。合い鍵を渡してあるから、私の帰りが遅い日には度々「おかえり」を言ってくれる。一緒に食事を取るのは勿論、寝具を持ち込んで夜を過ごしたり、特に目的も無くテレビを観ながら談笑したりと、既に私の生活の一部になりつつあった。

 

「ふう。アキ、タオル借りたから」

「それはいいですけど、服を着て下さいよ」

「履いてるじゃん」

 

 5月17日の午後13時。日曜日の昼下がりにシャワーを浴びた後、下着一枚で歩き回るタマキさん。みっともない振る舞いではあっても、どういう訳かタマキさんだと洗練されているというか、様になって映ってしまうから困る。この人は色々な意味で反則だ。

 

「それで、いつ出掛けるんだっけ?」

「もうそろそろですよ。ソラちゃんと一緒に出ます」

 

 昨日に駅前のオリオン書房で購入した、薄めのスケジュール手帳を開く。社会人用のそれとは違い、中高校生向けに発売された今年の新商品だそうだ。店主の一人娘であるシオリさんの勧めで購入した手帳に、私は手書きで今後の予定なんかを書き込むようにしていた。

 理由は勿論、これまで以上のスケジュール管理が求められるからに他ならない。一人暮らしとアルバイトで精一杯な現状に、明日からは新たに『部活動』が加わる。明確な目標に向けて、多くを積み重ねる日々が始まる。想像しただけで眩暈がしてしまう思いだけど、私自身が選んだ道だ。沢山の苦労が待ち構えているとしても、悔いだけは残したくなかった。

 そして今日は『もう一つ』。先週末に直面した、日常から掛け離れた所にある『異常』。私はその真相を知る為に、四人の同窓と約束を交わしていた。

 

「時間なので、もう行きますね」

「はいはーい。鍵はアタシが掛けておくから」

 

 約束場所は杜宮市で最も大きいとされる歓楽街、蓬莱町。私は鏡で身なりを確認してから、玄関扉に向かった。

 

______________________________________

 

 アパートから蓬莱町へ向かうには、市営のバスを利用するのが最も早い。徒歩では一時間以上掛かってしまう。普通なら自転車を使うところなのだろうけど、ソラちゃんは例に漏れず徒歩を選び、私も彼女に付き合う形で、二人仲良く長い道のりを歩いていた。

 

「じゃあ明日から本格的に、テニス部員として活動するんですね」

「うん。でも私はミーティングに参加するだけなんだ。明日はアルバイトもあるから」

 

 テニス部の一員になりたいという私の申し出を、アリサ先輩とエリス先輩は快く承諾してくれた。そして驚いたことに、休部をしていた筈のエリカ先輩が姿を見せたと思いきや、私達の目の前で休部を『撤回』した。

 エリカ先輩が何を想ったのかは分からないけど、先輩が以前口にした『納得がいかない』は、アリサ先輩とエリス先輩の煮え切らない関係にあったのだろう。長年相棒として同じコート上に立ってきたというのに、心の奥底にある感情を押し殺して、本音をしまい込む。コートには二人しかいないのに、本当の二人が何処にもいない。

 でも二人は乗り越えた。一昨日の一件を機に、アリサ先輩とエリス先輩は自分自身と向き合い、お互いの相棒を見詰め直してくれた。だからこそエリカ先輩も戻って来てくれたのだろう。中学以来の付き合いだそうだし、元鞘に納まるべくして納まってくれていた。

 

「頑張って下さいね、アキ先輩。私も応援しています!」

「あはは。やるからには本気でやらないとね」

 

 ソラちゃんと会話を交わしながら、歩き続けること約一時間。蓬莱町の玄関口と思しき区画にはビジネスホテルが建っていて、更に歩を進めるに連れて、賑やかな声や音楽が耳に入ってくる。広々とした道路を挟んで建ち並んでいる大部分は飲食店。他にはパチンコ店やゲームセンター等の娯楽施設や、如何にも夜に繁盛しそうな大人向けのお店も散見された。商店街とは異なる類のざわめきがあった。

 

「そういえば私、詳しい場所を聞いてなかったっけ。ソラちゃんは知ってる?」

「はい。一度空手部の先輩と一緒に行ったことがあるので、道も分かりますよ」

 

 確かA組の相沢さん、だったか。ともあれ約束の時間までそれ程余裕も無いし、三人を待たせてしまっては悪い。私はソラちゃんの背中を追って、蓬莱町の中央通り方面に向かった。

 よくよく周囲を見渡してみるとアパートや個人住宅もゼロではなく、僅かな生活感が垣間見えてくる。こういった歓楽街は日が暮れてから賑わいを見せる筈だし、私には到底合いそうにない。住民は落ち着いて眠れているのだろうか。

 

「アキ先輩、ここです」

「え。や、焼肉屋?」

「そっちじゃなくてこっちですよ」

 

 やがて辿り着いた先は焼肉屋、の隣にある二階建ての施設。店頭には『お一人様30分130円』と書かれたボードがあり、店内からは軽快なテンポの曲が流れ出ていた。

 

「あ、あはは・・・・・・私、初めてかも」

 

 カラオケボックス『J-STAND』。私は今日の集いの目的が分からなくなってしまっていた。

 

__________________________________________

 

 時坂君と柊さん、四宮君の三人と合流した私達は店内に入り、奥側にあった部屋を借りた。室内の中央には大きめのテーブルが一つと、それを取り囲むようにソファー椅子が並んでいて、妙に薄暗く感じた。私が「暗いね」と呟くと、ソラちゃんが「これぐらいが普通ですよ」と教えてくれた。初めてのカラオケで勝手が分からず、どうにも落ち着かなかった。

 

「あ、あのー。どうしてカラオケなんですか?」

「それはここを選んだ時坂君へ聞いて貰えるかしら」

 

 私が問うと、柊さんが場決めを担当した時坂君へと振った。

 

「別に深い意味はねえって。ここなら誰にも聞かれたりしねえし、ゆっくり話ができるだろ。それに折角の休日だ、何か飲み食いしながら話すとしようぜ」

「メロンソーダ」

「お前は後輩らしいところを見せろ」

 

 サイフォンを弄るユウ君を時坂君が睨む。

 要するに誰の耳にも入らないよう話をするなら、ここは打って付けの場所なのだろう。カラオケボックスなら当たり前かもしれないけど、確かに防音は行き届いているようで、他の部屋から聞こえてくる声は虫の鳴き声のようにか細い。アルバイト経験のある時坂君の話では、ミーティングや打ち合わせにカラオケを利用する客層も少なくはないらしい。

 

「ウーロン茶をお願いするわ」

「私はカルピスがいいです」

「時坂君、この山盛りポテトフライってどれぐらい山盛りなんですか?」

「変だな。俺今日バイト休みだと思ってた」

 

 時坂君の提案に従い、私達は取り急ぎの注文を店員へ伝えた。数分後に一通りの品が揃い、飲み物で喉を潤したところで、時坂君が改まった声で切り出してくる。

 

「さてと。アキ、俺達に聞きたいことがあるんだろ」

「それは・・・・・・その。あるには、ありますけど」

 

 聞きたいことならポテトフライ以上に山積みだ。既にある程度の話を聞き及んでいるとはいえ、それでも上手く飲み込めないでいる私がいた。頭では分かっていても理解はできていないし、身を以って知ってしまった今でも信じられない。私が前を向くキッカケになってくれたのは確かだけど、全て夢だったのではという思いさえある。

 

「聞き方を変えるか。俺達もどこまで話したのか整理しときたいからな。アキはどこまで知ってんだ?」

「私は・・・・・・」

 

 ざわついた感情を落ち着かせて、私は記憶を一から並べ直した。

 異界。それはもう何十年も前からこの世界と関わり続けてきた、現実とは次元そのものが異なる別世界。特異点となった人や物を起点として顕れる『門』を介し、異界と現実世界が交わってしまうと、様々な形で浸食が始まる。先週の事件を例にすれば、ガラス窓やフェンスが破壊されるといった被害に加え、特異点となった私とアリサ先輩らを異界へ引き摺り込んだ。現実世界をあらゆる方向から乱し、怪現象を引き起こしてしまう。それが異界化だ。

 

「通常の人間は異界化を認識できなくて、存在も公にはされていないけど・・・・・・異界化を監視して管理する組織が裏の世界に在る、でしたよね」

「それが結社『ネメシス』。私が所属している組織よ」

 

 柊さんが杜宮学園へ転入した目的は、その結社の存在意義と同列に並ぶ。この杜宮で発生する異界化の監視と収拾が、『執行者』である柊さんの任務。

 ここまでは以前にも聞かされていた。私やアリサ先輩が異界に住む怪異『グリード』に目を付けられていると考えた柊さんらは、私達を常に監視下におくことで、異界という魔の手から守ろうと動いてくれた。結果として私達は異界に飲み込まれてしまったけど、元凶とされたグリードは消滅して、事件はひと段落。それが先週の出来事だ。

 

「その、改めてお礼を言わせて下さい。助けてくれて、ありがとうございました」

「お礼なんていいですよ。当たり前のことをしたまでです」

「でも今回ばかりは、素直に受け取れないね。一時は裏をかかれた上に、エルダーグリードの片割れを倒したのだって、遠藤先輩本人じゃん」

 

 ユウ君の声に、二日前の光景が脳裏をよぎる。

 分からないことの大部分を占める、私の中に宿っていた光。どうしてあの光にお兄ちゃんを想ったのか、何故私はあんな真似をできたのか。あの時は無我夢中だったから仕方ないとして、あれは本当に私だったのだろうか。考えるだけで頭痛に苛まれてしまう。

 

「『適格者』って・・・・・・何ですか。私は、何をしたんですか?」

「戸惑っちまうのも無理はねえさ。俺もそうだったし、今でもよく分かっちゃいないんだ」

 

 時坂君に代わって、柊さんが教えてくれた。

 ソウルデヴァイス。それが私の手に握られていたライジング・クロスの総称。異界化に耐性を持つ人間の中でも極一部、適格者と呼ばれる者だけが顕現可能な、唯一無二の具現化された魂。グリードを打破し得るたった一つの刃だった。 

 

「じゃあ、私もそうだっていうことですか?」

「ええ。時坂君やソラちゃん、四宮君もそう。異界化を認識し、グリードへ立ち向かうことのできる数少ない人間よ。遠藤さん、貴女もね」

 

 記憶はあるし、今でも手に感触が残っている。確かに私は死人憑きと対峙した。最愛の幻影を打ち払い、死人憑きを葬り去ったのはこの私だ。

 自分が特別な人間だなんて、一度も考えたことがなかった。引っ込み思案で良くも悪くも目立たない、一介の女子高生に過ぎない。その筈なのに、柊さんの口振りだと、まるで私が選ばれた人間かのように聞こえてしまう。

 

「よ、よく理解できませんけど・・・・・・何となくは、分かりました」

「そう。他に聞きたいことはあるかしら」

「時坂君達は、柊さんとは違うんですよね?」

「適格者ではあるけれど、貴女と同じ民間人に過ぎない。何度か手を貸して貰ったことはあっても、私とは明確な違いがあるわ。他には?」

 

 そう言って促してくる柊さんを見て、声が詰まる。これ以上の詳細を語りたくはない、とでも言いたげな表情を柊さんは浮かべていた。まだまだ釈然としない部分はあるけど、もしかしたら柊さんにも私へ話しておきたいことがあるのかもしれない。

 

「ええっと。今は、これぐらいです」

「なら私からも貴女に言っておくわ。遠藤さん、よく聞いて」

「は、はい」

 

 まず一つ目は、今回の事件に関する一切合切を、絶対に表には出さないこと。誰にも話してはいけないのは勿論、書いたり打ち込んだりといった行為も禁物だと、柊さんは私に釘を刺した。

 この点については言われずともそうするつもりだった。到底信じて貰えるとは思えないし、変な目で見られてしまうだけだ。テニス部の先輩も異界関連の記憶は消えていて、全てを把握しているのは私一人。私が黙っていればいいだけの話だ。

 

「結社には『民間人を巻き込んではならない』という基本理念がある。遠藤さんを疑うつもりはないのだけど、くれぐれも注意して」

「分かりました。肝に銘じておきます」

「ありがとう。それと二つ目は、一つ目と少し被るかもしれないのだけど・・・・・・ねえ遠藤さん。これまで見聞きしてきた全てを、忘れて貰えないかしら」

「え・・・・・・わ、忘れる?」

「異界なんて物は存在しなくて、適格者もいない。私達はただの高校生で、貴女もそう。何も見ていないし、聞いてもいない。貴女はこれまで通りの生活を送るの」

 

 何だろう。確かに柊さんは一つ目と同じようなことを言っている。異界化などという非現実は起きていない。全てを無かったことにして、胸の中にしまい込む。私は今まで通りの、寧ろ心機一転してテニス部員としての新たな日常生活を始める。

 でも違う。似ているようでいて、全然違う。私一人の扱いだけが違っている。

 

「考えてもみて。一歩間違えれば貴女は異界に飲まれたまま、行方不明になっていたかもしれない。そんな恐ろしい過去は忘れて、日常を取り戻して欲しいのよ」

「そ、それは分かりますけど・・・・・・私だけなんですか」

「え?」

「時坂君達も、そんな危険と隣り合わせになりながら、私を助けてくれたんですよね。何故私だけが都合良く、何も知らない振りをしていいんですか」

「言ったでしょう。彼らだって一時的な協力者に過ぎない。本来なら関わってはいけないのよ」

「ならどうして私だけが、違うんですか?」

 

 最初の引っ掛かりはおそらく、『何故私だけ』という下らない寂しさに過ぎないのだろう。でも柊さんはともかく、話を聞いた限りでは、時坂君達だって私と同じ筈だ。偶然知ってしまい、己の意志とは無関係なところで『適格者』という希少を与えられて、それでも非日常に身を置いている。私だけが知らぬ振りを決め込んで、日常へ帰っていい道理がない。

 それに私は、忘れたくない。想いを声にするよりも前に、柊さんが言った。

 

「貴女も協力者として加わりたい。そう言いたいのかしら」

「私に何ができるのかは分からないですけど、みんなの力になれるのなら、手助けがしたいんです」

「手助けって、そんな軽い気持ちで―――」

「軽くありませんっ!」

 

 柊さんが言うように、少しでも歯車が狂っていれば助からなかったかもしれない。あのまま真っ暗闇の中で幻影に惑わされ、果てていたのかもしれない。思い出すだけで悪寒が走る。

 でも私は変われた。ここからが本番だけど、自分自身と向き合ったことで、明日から新しい日々が始める。みんなが居たからだ。元凶を倒したのが私でも、アリサ先輩とエリス先輩を連れ帰ってくれたのは私じゃない。

 それに私は―――忘れたくない。どうしようもない私の過去に触れても、誰一人として離れずにいてくれた。いつも誰かと一緒だったこの数日間は、私にとって満ち足りた日々だった。全てを無かったことにして捨て去るなんて、できる訳がないじゃないか。

 

「それに私、お兄ちゃんを感じたんです」

「お兄さん?」

「上手く説明できませんけど、私のソウルデヴァイスには、お兄ちゃんの想いが込められている。確かに声が聞こえたんです」

 

 死人憑きの幻聴の中にあった、本物。どうしてかは分からないけど、私を呼ぶ声がハッキリと聞こえた。声のおかげで私は幻影を打ち破ることができた。私は一人ではなく、二人で戦っていた。

 私はこれからテニス部で、埃を被っていたお兄ちゃんのラケット振るう。もう一つのそれだって手放したくはない。何より私は『真実』を知りたい。その答えはきっと、みんなと一緒に進んだ先にある。不思議とそう信じることができた。

 

「だからお願いです。私にできることがあるなら、協力させて下さい」

「遠藤さん・・・・・・」

「別にいいんじゃない。柊先輩も以前言ってたじゃん、今更二人も三人も変わらないってね」

「俺も覚えてるぜ。なら四人だって同じだろ」

「ですね。アキ先輩ならきっと力になってくれますよ!」

 

 私が頭を下げると、時坂君らは私の申し出を受け入れてくれた。一方の柊さんは、瞼を閉じて考え込むような素振りを見せた後、小さな溜め息を付きながら左足に手を伸ばす。その先にあったのは、普段から柊さんが左の太腿に付けている、革製のベルトケースだった。

 

「貴女に渡しておくわ。受け取って」

「これって・・・・・・サイフォン、ですか?」

「ええ。予備の端末として持ち歩いている物よ」

 

 ケースの中から取り出されたのは、私にとっては馴染みの薄い次世代型の携帯電話。正確には電話を兼ねたネットワーク端末とやらで、十年程前から普及し始めた物だそうだ。私が携帯を持つようになった頃には既に出回り始めていたけど、お兄ちゃんや両親もガラケーだったし―――って、今はどうでもいいか。

 

「詳細は後々説明するとして、今後私に協力してくれるというのなら、それを肌身離さず持ち歩いて欲しいの」

「で、でもどうして。それに予備と言っても、他人の私が持つ訳には」

「滅多に使わないから勿体無いとは思っていたのよ。貴女が持っていた方が寧ろ有意義だわ」

「はぁ・・・・・・」

 

 意味が分からず三人の反応を窺うと、全員が首を縦に振っていた。どうやら私がサイフォンを持ち歩くことには、何かしらの意味があるようだ。まるで想像が付かないけど、ここは柊さんに従って携帯するようにしよう。紛失してしまわないよう注意しないといけない。

 それにしても、この気持ちは何だろう。柊さんがケースからサイフォンを取り出した時、思わずドキリとして目を逸らしてしまっていた。それは私だけではなかったようで、三人が声を潜めてぼそぼそと呟き始める。

 

(前々から気になってたけど、サイフォンケースだったのか。すげえ際どい所に付けてんのな)

(サイフォンから柊さんの体温が・・・・・・な、何だか変な感じです)

(取り出す仕草が、とても艶めかしかったですね)

(郁島、素直にエロいって言えば?)

 

「コホン。あー、うう゛んっ」

 

 柊さんの大きな咳払いを合図にして私達は散らばり、ソラちゃんが何食わぬ顔で言った。

 

「アキ先輩、先輩のソウルデヴァイスはどういった物なんですか?」

「私の?」

「そういやちゃんと聞いてなかったな。俺達もお前が死人憑きとやり合うところは見てたけど、何かすげえ数の霊子弾を打ちまくってなかったか」

「それに異常な速度で走り回ってたよ。あれもソウルデヴァイスの力って訳?」

「え、えーと。一言で言えば、ラケットとシューズです」

「「・・・・・・?」」

 

 私もあの時は思い浮かぶままにライジング・クロスを振るっていたから上手く言えないけど、そうとしか形容のしようがない。私以外の四人が使うというソウルデヴァイスだってロクに知らないし、「お前何言ってんの」みたいな顔をされても私が困ってしまう。

 確かなことは、ライジング・クロスは時坂君が言う『霊子弾』の起点だということ。そして両足の側面に装着する歯車のような形状をしたデヴァイスは、一種の加速装置のような物なのだろう。こうして喋っていると恥ずかしくて仕方ないけど、多分合っている筈だ。

 

「おそらくだけど、遠藤さんのソウルデヴァイスはかなり特殊ね。常時発動型のスキルが備わっているのだと思うわ」

「常時・・・・・・発動型?」

 

 聞き慣れない表現に首を傾げてしまう。時坂君やソラちゃんも同じ色を浮かべる一方で、何故かユウ君だけは成程といった様子で頷いていた。当の私が全く分からないというのに。

 

「調べてみれば分かることよ。でも特色が強いソウルデヴァイスは、それだけ調整が必要とされる場合が多い・・・・・・遠藤さん。ソウルデヴァイスを使っていて、やり辛さのような物は感じなかった?」

「やり辛さ・・・・・・うーん」

「何でもいいわ、気になったことを言ってみて?」

「グリップはもっと強く巻きたいです。ストリングスもあと5ポンドは上げたいですね」

「成程。覚えておくわ」

「おい柊、素直に分からねえって言えよ」

「完全にテニスですね・・・・・・」

 

 どんな意味があるのかは別として、私は二日前に抱いた違和感を並べた。柊さんはそれらをサイフォンに書き込み、聞いては書くを繰り返していく。

 すると室内に備え付けられていたインターホンが鳴り、時坂君が受話器を取って応じた。ソラちゃんの話では、カラオケでは終了予定時刻が近付くと、店員さんからインターホンで連絡が入るようになっているらしい。そろそろ一連の話にも区切りが付いた頃だし、今日はこの辺でお開きといったところか。時坂君は手短にやり取りを済ませてから、私達へ告げた。

 

「延長しといたぜ」

「延長?」

「カラオケに来て歌わねえで帰るってのも損だろ。キリの良いところで話は終わりにして、日曜日らしく楽しむってのもアリじゃねえか?」

 

 時坂君の提案に対し、ソラちゃんがすぐに「賛成です!」と賛同すると、柊さんは「どちらでも構わないわ」というどうとでも取れる反応を示し、ユウ君は「どうだっていい」とでも言いたげにサイフォンを弄り始める。先程までとは打って変わって、お気楽な雰囲気に一転していた。

 

「アキはどうすんだ?この後用事とかあんのか?」

「い、いえ。でも、その。私、カラオケって初めてで・・・・・・歌うとかも、苦手ですし」

「別に歌わなくたって構わねえさ。皿も空いたし、また何か頼むか?」

「あ、それなら山盛りポテトフライのチキン付きが食べたいです」

「メロンソーダお代わり」

「私もユウキ君と同じのにしようかな」

「時坂君、ホットコーヒーはサイズを選べるのかしら」

「だから俺は店員じゃねえって!」

 

 言いつつも律儀に注文を入れる時坂君。きっと時坂君は良いお父さんになるんだろうな、などという意味不明な感想を抱いてしまう。柊さんも何だかんだで面倒見が良さそうだし、ソラちゃんは見た目通り。ユウ君はこっそり子供の日記を覗いたりしそう、なんて失礼極まりない妄想を膨らませていると、今度は時坂君のサイフォンが着信音が奏で始めた。

 

「もしもし。なんだ、シオリか・・・・・・ああ、前に言っただろ。柊やアキと・・・・・・そうなのか?いや、聞いてみねえと分かんねえけど・・・・・・ああ、少し待ってろ」

 

 電話の相手はシオリさんのようで、時坂君は一度サイフォンを耳元から離してから、私達に聞いた。

 

「シオリからだけど、リョウタやジュンと近くに来てるって。折角だから一緒に歌おうぜって言ってるけど、どうするよ」

「あー、用事を思い出したー。そんじゃばいばーい」

「ユウキ君、一旦座ろう?」

「痛だだだだだ!極まってる、極まってるって!!」

 

 ユウ君の悲痛な叫び声を聞いた時坂君は「なら決まりだな」と言って、シオリさんらを誘った。私の理解を超えたやり取りに何も言えずにいる一方で、私は運ばれてくるであろうポテトフライとチキンを今か今かと待ち侘びていた。

 

________________________________________

 

 シオリさんらは本当に近くにいたらしく、時坂君との電話を終えてから五分と経たないうちに、私達が借りていた部屋へとやって来た。話を聞いた限りでは三人だけだった筈が、どういう訳か伊吹君の隣には、見知った女性が一人立っていて―――私は、声を失った。

 

「あれ、玖我山じゃねえか。どうしてお前がいるんだ?」

「あはは。実はさっきお店の前でバッタリ出くわしてね。伊吹君が是非にって言うから、一緒に・・・・・・って、ああ!?」

「な、何だよ?」

 

 玖我山さんは明後日の方向に視線を泳がせていた私を見るやいなや、即座に私の眼前へと歩み出る。途方も無い圧力と目力で私は強引に前を向かされ、玖我山さんと視線が重なった。

 

「え、えーと。その、こんにちは」

「アルファベットの『S』『P』『i』『K』『A』。ほら、言ってみて」

「・・・・・・鹿?」

「誰がいつ奈良県の話をしたのよぉ!?」

「アキ先輩、『P』が抜けてます」

「おいおい遠藤さん、まさかとは思うけど・・・・・・マジで、知らねえのか?」

 

 伊吹君のみならず、その場にいた全員が呆気に取られた様子で、私を見詰めてくる。思わぬ視線攻撃に涙目になっていると、見るに見かねたのか、シオリさんがそっと優しい声を掛けてくれた。

 

「ほら、テレビとかで一度は観たことがある筈だよ。アイドルグループの『SPiKA』。聞き覚えはない?」

「あ、それなら私も知って・・・・・・あれ?」

 

 流行の類に疎い私でもSPiKAぐらいは知っているし、音楽番組や報道で何度か目にしたことがある。確か私と同年代ぐらいの女の子で編成されたグループで、中には玖我山さんみたいな―――ん?あれ?

 

________________________________________

 

「うおおぉ!!リオンうおおおぉぉお!!」

「うるせぇよこの馬鹿!」

 

 華麗に踊りながら美声を響かせる玖我山さん、そして歓喜の声を隠そうともしない伊吹君。涙を流す理由は少しも理解できないけど、それぐらい玖我山さんのファンなのだろう。そういう世界もある。うん、引いちゃ駄目だ。

 寧ろそれ程熱烈なファンがいる超有名アイドルグループの一人を前にして、失礼千万な態度を取り続けてきた私の方が異常だ。玖我山さんには何度も頭を下げて謝罪したけど、謝り足りていない感が残り過ぎている。今度モリミィでこっそりサービスして差し上げよう。

 

「相変わらずだなぁリョウタは。気持ちは分からなくもないけどね」

「ほ、本当に好きなんですね・・・・・・その、小日向君は、よくカラオケに来たりするんですか?」

「誘われたら、かな。でも人前で歌うのは苦手だから、大抵ポテトをつまみながらの聴く側に徹するよ。リョウタって結構歌が上手くてさ、聴いてるだけでも結構楽しめるんだ」

 

 すると話題に上った伊吹君が玖我山さんからマイクを受け取り、準備運動のつもりなのか屈伸を始める。曲は少し前によく耳にした邦楽曲で、素人が歌うには難しそうな選曲だった。この曲を上手く歌えるなら、確かに相当な歌唱力の持ち主と言えるかもしれない。

 

「そういえば遠藤さん、この間貸してあげた漫画はどう?面白い?」

「あ、はい。すごく面白くて、一気に読んじゃいました」

「え・・・・・・も、もう全部読んだの?」

「一度読むと続きが気になって、止まらなくなるんです」

 

 私はどちらかと言えば、熱し易い性分なのだろう。何かに没頭すると時が経つのも忘れるぐらいで、それが本なら寝る間も惜しんで読み耽ってしまう。小日向君が貸してくれたシリーズも二十冊以上あったけど、ちょうど昨日の晩に最終巻まで読み終えたところだった。

 

「へえ。それなら小説とかの方が文章の量があっていいかもしれないね。ライトノベルとかは読む?」

「特に好き嫌いのあるジャンルはないですね。線引き自体よく分かっていないですし」

「じゃあ僕のお薦めを貸してあげるよ。今度っとと」

 

 皿に盛られたポテトフライを取ろうとしていると、同じタイミングで出された小日向君の手と重なり、小日向君はポテトフライではなく、私の指を掴んでしまっていた。

 

「あはは、ごめんごめん」

「い、いえ。こちらこそ」

「おいそこの二人!イチャついてねえで少しは俺の歌を聴けっての!!」

 

 曲の合間に伊吹君が的外れな指摘を入れてくる。的外れ過ぎるから聞こえなかったことにしよう。顔が熱いのは室内に熱気が籠っているからだ。落ち着いて平然と振る舞おう。

 氷とジンジャーエルが入ったグラスを空にしてテーブルへ置くと、テーブルを挟んで反対側に座っていた柊さんに目が止まる。どういう訳か柊さんは、向かって右側の壁を見詰めていた。

 

「あの、どうかしましたか?」

「隣の部屋が少し気になって。壁が薄いのかしら、少し声が漏れてきているみたいなの」

 

 柊さんの声に反応した時坂君が、リモコンを操作して強引に曲を停止する。理不尽で容赦無い一旦停止の後、私達は壁の向こう側にある隣部屋に向けて聞き耳を立て始めた。すると確かに壁の向こう側から、女性の叫び声のような何かが聞こえてくる。

 

『人類史上初めて独身の二十代後半に四捨五入しやがったクソ野郎出てこいやああぁあぁ!!!』

『ちょっとシホ!曲を無視してシャウトするのやめなさいって!』

『これが日本のカラオケなんですね、とてもクールです!』

 

「よく分からないけど、切実な叫び声が聞こえるわね」

「ねえコウちゃん、これってやっぱり壁のせいかな?」

「約一名は違うと思うぜ。酔ってんじゃねえのか、ここ酒も出すし」

 

 うん、ピンポイントで思い当たる女性がいる。午後からみんなで出掛けるとは聞いていたけど、まさか同じ場所に来ているとは思ってもいなかった。私の左隣に座っていたソラちゃんも察しが付いたようで、私の耳元に顔を寄せて小声で言った。

 

(あの、アキ先輩)

(間違ってないと思うよ。ねえソラちゃん、言わなくても分かるよね)

 

 私は人差し指を口元に当てて、『黙っていよう』の仕草を取った。するとソラちゃんは何をどうひん曲げて受け取ったのか、満面の笑みを浮かべながら立ち上がった。

 

「分かりました、私が声を掛けてきます!」

「へ」

 

 ソラちゃんは颯爽と駆け出し、隣の部屋へと向かった。

 

________________________________________

 

「どうもー。アキと同じアパートに住んでる、叔母のタマキです。宜しくね」

「初めまして、同じく大学生のアイリです」

「おうバイト君、カシオレ一つ」

 

 自己紹介をすっ飛ばして、時坂君にお酒のお代わりをオーダーするシホさん。おそらく以前に居酒屋でアルバイトをしていた時坂君を見て、記憶がごちゃ混ぜになっているのだろう。すごい酔ってるし。

 

「どうしてこうなっちゃうの・・・・・・」

 

 ガーデンハイツ杜宮の住民三名を加えた、総勢十二名。ソファーには少しも余裕がなく、室内には先程以上の熱気プラス酒の匂いが立ち込めていた。トモコさんは職種柄今日もアクロスタワーで働いているそうだけど、あと一名でも多かったら座る場所さえない。本当にどうしてこうなった。

 

「フフ。アキちゃん、タマキさんってすっごく美人さんだね」

 

 それは否定しないけど、どう見たってアイリさんの方が視線を集めている。とりわけ男性陣は完全に見惚れてしまっていて、あの柊さんや玖我山さんですらが霞んで映ってしまう。やはり1000万人に一人の東大留学生ともなれば格が違うらしい。

 

「ねえねえ、アキって学校じゃどんな感じなの?」

「ち、ちょっとタマキさん」

「少しぐらいいいじゃん。みんな、聞かせて貰えない?」

 

 タマキさんの恐ろしい質問に対し、みんなは少しの間を置いた後、私に対して抱いている印象を口々に一言ずつ並べていった。

 

「えーと、大人しくて可愛い?」

「意外に頑な一面がある」

「割とよく食べる」

「思いやりがある」

「パン作りが得意」

「尊敬する先輩の一人です」

「アイドル道の壁」

「うっとおしい」

 

 後半にやや気になる声があったような気がするけど、大半が当たり障りの無いどうでもいい情報だった。聞いたタマキさんもどう返したらいいのものか困ったようで、微妙な表情を浮かべていた。

 すると時坂君とシオリさんがうんうんと頷きながら、これまたとんでもない思い付きを私達に告げた。

 

「結構おもしれえな、今の。他の奴でもやってみるか?」

「それいいかも。コウちゃん、誰にする?」

 

 時坂君はテーブルを取り囲む面々を見渡すと、その視線が柊さんに向いた。柊さんが異を唱えるよりも前に、シオリさんが先陣を切って第一声を張った。

 

「容姿端麗!」

「成績優秀」

「女性から見てもカッコいいわね」

「そんな柊さんが大好きだぜ!」

「サイフォン」

「左足にサイフォン」

米国(ステイツ)にいた頃は」

「続・米国(ステイツ)にいた頃は」

「時坂君と四宮君には後で大切な話があるから逃げないように」

「どうして僕らだけなのさ!?前の二人だって大概でしょ!?」

「アキなんてお前、エロくないのにエロく聞こえる新しい表現方法をって、冗談だぞ柊、冗談だ冗談だからやめ―――」

 

 完全に罰ゲームと化した戯れは、ガーデンハイツ杜宮の住民そっちのけで盛り上がりを見せ、カラオケどころの話ではなくなってしまった。一方タマキさんは「元気でやっているみたいで安心したわ」と温かな声を掛けてくれて、シホさんは変わらずに魂の叫び声を発し、アイリさんはカラオケの何たるかを完全に誤解したまま、5月17日はあっという間に過ぎ去っていった。

 

 



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5月18日 目まぐるしい日々

 

 毎朝恒例のSHRは九重先生の「おはよう」で始まる。出席確認の他には連絡書の配布や伝達事項の説明の後、キリの良いところで柊さんの「起立、礼」と予鈴が重なるのが常だ。配布物や伝達事項が多い日は早めに教室に来てくれるし、逆に少ない時は小話なんかを挟んで時間を調節する辺り、流石は九重先生といったところだろう。5月18日の月曜日の朝は、どちらかと言えば前者だった。

 

「提出期限は来週末の金曜日になります。各自しっかりと内容を確認して、私に提出してね。分からないことは聞いてくれて構わないから、早めに質問すること。みんな、いい?」

 

 手元の配布物に視線を落としながら、私を含めたみんなが答える。用紙の上部冒頭には『進路希望調査』の六文字が太字で記されていた。周囲を見渡すと、誰もが新鮮な反応を示しており、転入生である私だけが初めてという訳ではないことが窺い知れた。とりわけ伊吹君は困り顔を浮かべていて、唇と鼻の間にシャープペンを挟みながら言った。

 

「進路調査ねえ。まだ二年になったばっかだってのに、少し気が早過ぎじゃねえか?」

「そうでもねえだろ。去年も面談で色々聞かれたし、先生達も生徒の志望先を把握しときたいんだろうぜ。って、この間トワ姉が言ってた」

「そのノリで定期テストの問題も聞いといてくれると助かるんだけどな」

「おう。チズルちゃんにそう言っとくわ」

「おい」

 

 調査票と言っても内容はざっくりしていて、まずは進学と就職のどちらを希望なのか。より具体的な進学先や希望職種がある生徒はそれを記入するよう欄が設けられているものの、始めの二択を選ぶだけでもよいと記されている。時坂君が言うように、大まかに把握しておきたいということなのだろう。

 とはいえ適当に空欄を埋めればいいという物でもない。夏が終わり二学期が始まれば選択科目も増えるし、私達はあっという間に三年間の高校生活を折り返す。調査票からは『もう二年生になったのだから真剣に考えるように』という教員側からのメッセージを読み取ることができた。

 

(ら、来週までに書かないといけないんだ)

 

 さてどうしたものかと眉間に皺を寄せていると、九重先生は私達を見渡してから一旦話を区切り、名指しをして言った。

 

「それと、柊さんと遠藤さん。昼休みに時間があったら、私の所に来て貰えないかな」

 

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 昼食を取った後、私と柊さんは一緒に職員室を訪ね、九重先生のデスクへと向かった。九重先生は普段からお弁当を持参しているらしく、整理整頓された机の上でお弁当を食べ終えたところだった。

 

「三者面談・・・・・・ですか?」

「うん。実は先週末の会議で、私も初めて聞かされたんだ」

 

 九重先生によれば、杜宮学園では年に一度だけ、クラス担任と生徒、そして保護者を交えた三者面談が行われている。時期は夏休みに入る直前で、面談の内容は成績や普段の生活態度、進路や就職先の相談といったように、一般的な三者面談に準じる物だった。

 但し、私や柊さんのような生徒に限って、例外と言える取り決めがあった。

 

「それとは別で、転入生や編入生とは面談を実施する決まりがあってね。杜宮学園に移ってから支障無く学生生活を送れているかどうかとか、その辺りの確認も含めての面談なんだ」

 

 成程。今の話だと、二年B組の該当者は帰国子女である柊さん、4月の下旬に転入した私の二名。日頃から九重先生は気さくに話し掛けてくれているけど、決まり事となると改めて面談の場を設ける必要があるのだろう。

 でも三者面談の面子は九重先生と私達、そしてそれぞれの保護者。私にとっては当然お母さんになるけど―――今のお母さんにお願いするのは、正直に言って心苦しい。そんな私の心境が伝わったのか、九重先生は先回りをして言った。

 

「二人の事情は私も把握してるよ。保護者って言っても、ご両親じゃなくてもいいみたい」

「あれ、そうなんですか?」

 

 お母さんは今月の初旬から心療内科に通っている。杜宮に来た頃のお母さんは引っ越しを手伝ってくれたり、一緒に学園へ挨拶に来たりしていたけど、最近は心の病が重くなっていた。平穏な日常ではあっても、多くを失ってしまったお母さんにとっては違う。症状が悪い時は家から一歩も出られないこともあると、祖父母から聞いている。時間が必要だし、少なくとも今のお母さんに三者面談をお願いするなんて真似は、私にはできそうにない。

 

「えーと。なら、誰にお願いすればいいんですか?」

「他のご家族や親戚とか、親しい間柄の社会人とかかなぁ。二人はどう?思い当たる人はいそう?」

 

 どうだろう。正直なところ祖父母とは接点が少ないし、真っ先に思い浮かんだのはタマキさんぐらいか。あの人ならノリノリで引き受けてくれそうだけど、こればっかりは聞いてみないと何とも言えない。

 私の隣では柊さんも同じような表情を浮かべていて、柊さんは私が聞き忘れていた肝心な点を九重先生に投げ掛けた。

 

「現段階では、何とも。ちなみに面談はいつ行うんですか?」

「それなんだけど・・・・・・来週の平日で、お願いできないかな」

「ら、来週ですか?」

 

 思いの外早かった。というか、早過ぎる。九重先生はひどく申し訳なさそうな様子で続けた。

 

「さっきも言ったけど、私も先週末に初めて聞いたことでね。本来なら転入して一ヶ月以内に行わなきゃいけないんだ。柊さんはもう一ヶ月以上経ってるし、遠藤さんもそろそろだから・・・・・・ほ、本当にごめんね」

 

 頭を深々と下げて謝意を示す九重先生。いくら優秀とは言っても、着任して早々では学園の規則の全てを把握できる筈も無い。寧ろ今回の場合は九重先生も被害者の一人なのかもしれない。確かに急な話ではあるけど、文句は言えないか。こうも頭を下げられてはこちらが申し訳ない。

 ともあれ規則なら仕方ない。九重先生の面目を保つ為にも、すぐに動いてみよう。柊さんも同様の想いを抱いていたようで、私達は快く三者面談を受け入れ、職員室を後にした。

 

______________________________________

 

 職員室から教室に戻る道すがら、私と柊さんはお互いの心当たりに触れながら歩を進めていた。

 

「昨日カラオケに来ていた女性よね。確かに叔母なら適任じゃないかしら」

「はい。というより、他に頼めそうな人がいないので。柊さんはどうですか?」

「まあ、何人かいるわ。今日のうちにお願いするつもりよ」

 

 複数人いるというだけでも羨ましい。保護者代わりに選ぶぐらいだから、それなりに交流がある人間に違いない。どんな人なのだろう。

 

(そういえば、柊さんも一人暮らしなんだ)

 

 今更になって、柊さんと私の共通点を比較する。

 柊さんは杜宮学園へ転入すると同時に、レンガ小路にあるカフェの二階で下宿を始めた。杜宮には単身越してきたから、私と同じで三者面談に立ち会って貰う人間を探している。ちなみに帰国前はご家族の都合とかで数年間米国で暮らしていて、その影響で日本での生活には馴染みが薄い。

 

(あとは・・・・・・あれ、それだけ?)

 

 一人暮らしという共通点は浮かんでも、それだけ。比較する材料が見当たらなかった。

 よくよく考えてみれば、私が柊さんについて知っていることは余り多くない。ご両親がどこで暮らしているのか、何故日本へ帰国することになったのかも詳しく把握していない。こうして会話を交わすことは日常の一つになりつつある一方で、柊さんは自分自身のことを積極的に語ろうとしないし、私達も聞かないからだ。

 原因の大半はおそらく、『執行者』としての立場。私達の想像を遥かに超えた別世界に住む柊さんと、柊さん個人としての柊アスカ。その線引きが明確でない以上、何気ない一つの問いが、柊さんが抱える何かに触れるかもしれない。そんな躊躇いがあるせいで、変に気を遣ってしまう。

 

「何か聞いてみたい、そんな顔をしているわね」

「え。あ、あの、その」

 

 私の胸中を表情から察した柊さんは、少し困ったような様子で苦笑いをしながら言った。

 

「こういうのはお国柄が出るのかしら。個人差はあると思うけれど、日本人は他人の事情へ踏み入ろうとしない傾向があるのね。日本に帰国して感じたことの一つよ」

「・・・・・・じゃあ、聞いてもいいですか?」

「ごめんなさい。今はできそうにないわ」

 

 私の疑問の内容に触れようともせず、柊さんはできないと言った。その表情は一抹の寂しさと物悲しさを抱かせ、同時に確固たる意志と決意を想わせた。

 とても同年代には映らない。同じ年数を積み上げてきた筈の女子高生が、一体どれ程の物を背負っているというのだろう。やっぱり柊さんは、私の知らない所に立っている。

 

「どうかしたの?」

「いえ、でも・・・・・・そうですよね」

「何のことかしら」

「フフ、何でもありません」

 

 でもそれは、私だって同じだった筈だ。あんな事件が無かったら、私はこの半年間の過去を他人へ語るなんて真似はできなかった。異界化というキッカケを通して私は胸の内を明かし、偶然時坂君らと同じ立ち位置になり、柊さんの協力者という繋がりを持つことができた。何がキッカケになるかなんて、誰にも分からない。

 一つ確かなことは、柊さんは私と同じクラスの委員長で、とっても良い人だということ。裏の世界に住む柊さんがいれば、表の彼女もいる。柊さんの本質に異界化は関係無い。私が柊さんを知りたいと感じている事実の前では、執行者としての立場なんて些末な情報の一つに過ぎないのだと、私は思う。

 

「柊さんは何年か米国で暮らしていたんですよね。日本に帰国してから、何か不便なこととかありましたか?」

「カードが使えるお店が少な過ぎるわね」

「それは一般論ですか?」

「体験談よ。モリミィでも使えないでしょう」

「・・・・・・あの、はい。ごめんなさい」

 

 一つずつ、少しずつ知っていこう。数少ない大切な友人の一人が今、隣にいる。

 

_________________________________________

 

 午後19時半。あっという間に高校生としての一日が過ぎ去り、モリミィのアルバイト店員として働き抜いた私は、休憩室の中でぼんやりと虚空を見詰めながら、明日以降の予定について考えを巡らせていた。

 今日はアパートに戻ったら洗濯物を回収して、明日のゴミ出し予定を確認後、他にも手を付けていない小さなあれやこれやを済ませる。次のバイトは週末だから平日は部活動に集中できるけど、柊さん曰く異界化はいつ何処で発生するか分からない。協力させて欲しいと自分から申し出た以上、常に身構えておく必要がある。それと来週には三者面談があるし、進路希望調査票も提出しないといけない。

 

(い、忙しい)

 

 如何せん放課後は部活動とアルバイトで埋まってしまうのだから、週末にある程度リセットしておかないと後々苦労してしまいそうだ。一人暮らしや杜宮での生活には慣れてきたけど、これから始まるであろう目まぐるしい日々を思うと、意気込む一方で溜め息を付きたくなってしまう。「頑張れ私」としか言いようがない。

 

「わわっ」

 

 携帯の着信音で思考が中断され、現実に引き戻される。ディスプレイに浮かんだタマキさんの名前を見て、要件は察しが付いた。放課後にメールで相談してあった、三者面談のお願いに関することだろう。

 

「はい、アキです」

『おっつー。もうバイト終わった?』

「少し前に。今は休憩中です。あの、メールは見て貰えましたか?」

『そうそう、それ。早い方がいいと思って電話したのよ。ごめん、来週はちょっと無理かも』

「え゛」

 

 予期しない返答の後、タマキさんは来週の予定について教えてくれた。

 来週の頭には関西に住む友人の結婚式に出席することになっていて、月曜日の午前中には移動する必要がある。それだけで関西に向かうのは勿体無いと考えたタマキさんは、割の良い泊まり込みの短期バイトを見つけてあり、既に申し込みを済ませてしまっていた。要するに来週は週末まで関西にいるから、三者面談には出れそうにない。私にとっての唯一の心当たりが消えてしまった瞬間だった。

 

『お父さんとお母さんにも話はしてあるから、他に見つかりそうになかったら二人にお願いすればいいと思うわ。本当にごめんね』

「うぅ・・・・・・わ、分かりました」

 

 肩を落として何とか現実を受け入れ、通話を切る。

 誰が悪いという話ではないけど、どうしてこうなった。噛み合わないにも程がある。祖父母とは付き合いも薄いし頼み辛いものの、いよいよとなったらお願いするしかないか。見つかりませんでした、で九重先生に迷惑を掛ける訳にもいかない。

 ―――ガチャリ。顔をしかめていると後方の扉が開き、その先にはモリミィの店主の姿があった。

 

「ん・・・・・・まだ帰っていなかったのか」

「は、はい。えっと、ハルトさんは休憩ですか?」

「ああ。一服してから種を練る」

 

 清水ハルトさん、年齢はおそらくサラさんと同じ三十代。背丈はあの高幡先輩よりも僅かに上で、体格だって負けてはいない。顔立ちも凄味に満ちていて、良くも悪くもパン屋の主としてはちょっとだけ損をしている気がする。というのが第一印象だったけど、利用客の目には寧ろ好意的に映っていた。

 最近小耳に挟んだ話では、サラさんとハルトさんは好ましくない稼業から足を洗った夫婦として噂されているようだ。当然そんなことはないのだけど、サラさんのバレッタで豪快に逆立てられた髪型やハルトさんの容姿も相まって、変な誤解を生んでしまっていた。その外見とパン屋というギャップが、モリミィが盛況する要因の一つらしい。当の本人達も、敢えて否定せずに放置しているのかもしれない。

 両手に持ったスケジュール手帳越しにちらちらとハルトさんの顔を覗いていると、ハルトさんは私を見ながら口を開いた。

 

「何か厄介事を抱えているのか」

「え・・・・・・わ、分かりますか?」

「まあな。お前は表情に出やすい人間のようだ」

「うっ」

「素直だと言っている。褒め言葉として受け取ればいい」

 

 裏を返せばどうとでも取れてしまう気がするけど、今は置いておこう。

 私は三者面談に関する一通りの経緯について、要約して語った。ハルトさんは腕を組んで座りながら、目を凝らさないと気付かない程度の相槌を打って聞き耳を立てていた。

 

「三者面談もそうですし、進路希望調査票の提出期限も来週なんです。面談の時には、そのことも聞かれると思うんですけど・・・・・・まだ卒業後のこととか、考えたことがなくて」

「まだ二年生に上がったばかりだろう。先のことはこれからゆっくり考えればいい」

「ハルトさんが学生の頃も、こういうのってあったんですよね?」

「ああ。俺は決まって『国防軍入り』と書いていた。今となっては元職場になってしまったがな」

「あ、成程。だからそんなに・・・・・・こ、国防軍!?軍人さんだったんですか!?」

 

 不意に切り出された過去に驚き、咳込んでしまった。

 日本国国防軍。国土防衛を最優先とする一方で、戦略級の反応兵器や軍事衛星、機動艦体を保持する大規模な軍隊。世界的に見ても有数の戦力を備えていると、子供の頃から教わってきた。ハルトさんも一時は軍人として身を置いていた、ということだろうか。

 

「そうか。お前にはまだ言っていなかったな。ついでに言えば、サラも『元教員』だ。あいつは昔から子供が好きでな。俺と会う以前は、中学で教鞭を執っていたらしい」

「せ、先生だったんですか、サラさん・・・・・・驚きました」

 

 元教職員と、元軍人。確かに好ましくない稼業云々は噂に過ぎなかったようだけど、これはこれで意外過ぎる過去だ。でもハルトさんの鍛え抜かれた体格は元軍人と言われれば納得がいくし、サラさんの面倒見の良さもその辺りが関係しているのかもしれない。

 しかしそんな二人が、どういった経緯でパン職人になったのだろう。しかも自営ともなれば事は単純ではない。相当な時間と投資、何より苦労を要した筈だ。私なんかが聞いていいものだろうか。聞き倦ねていると、ハルトさんは天井を仰ぎながら語ってくれた。

 

「質実剛健を地でいくとされる日本国国防軍にも、様々なしがらみがある。中には威張り散らすだけのいけ好かない輩もいる」

「・・・・・・それはどういう意味ですか?」

「上官の理不尽な言動に我慢できなくてな。殴り飛ばした翌日には、防災基地から追い出されていた。あの頃の俺は若過ぎたんだろう」

「は、はぁ」

 

 事情はどうあれ自業自得といったところだろう。居場所と職を失ったハルトさんは半ば自暴自棄になり、流れ着いた先が繁華街にあった一軒の居酒屋。酒で全てを忘れようと足を運んだ居酒屋にいたのが、独特過ぎるヘアースタイルで周囲の目を集めるサラさん。それが二人の出会いだったらしい。

 

「ちょうど生徒に対する体罰問題が取沙汰されていた時期だった。時代にそぐわないサラの振る舞いは、保護者の目には単なる暴力としか映らなかった。あいつも俺と同じだったという訳だ」

「そんなことが・・・・・・でもその後、どうしてベーカリーを選んだんですか?」

「俺達は知らない世界に飛び込みたかったんだ。アキは交鐘区にあるベーカリーカフェ『モルジュ』を知っているか?」

「勿論ですよ。人気店ランキングじゃ殿堂入りするぐらいの有名店ですよね」

 

 ベーカリーの世界に身を置く人間なら、モルジュを知らない訳がない。世界でもトップレベルの腕前を持つ店主オスカーさんと、独特の発想で新鮮味溢れるサンドを生み出すベネットさん。米国からやって来た夫婦が二人三脚で営む超人気店モルジュ。お母さんもよくベネットさんについて語っていたのを覚えている。

 

「サラと恋仲になってまだ間もない頃の話だ。あの店の『ベネットスペシャル』という商品の味に感動を覚えてな。その場の勢いで店名も決めた。『モルジュ』と『杜宮』を捩って『モリミィ』にしようと」

「・・・・・・嘘ですよね?」

「全て事実だが」

 

 結果として誕生したのが、杜宮市の人気ベーカリー店モリミィ。何を隠そう私がお世話になっているここだった。頼むから嘘だと言って欲しかったけど、ハルトさんからは微塵も冗談の程が窺えなかった。

 まるでドラマや小説のような人生だ。波乱万丈は大袈裟にしても、一歩間違えば二人共路頭に迷っていた筈―――なんて言い方は、二人に失礼か。

 それ程の努力を積んできたということなのだろう。パン作りについて素人同然の夫婦が成功を収めた事実を、結果論で語ってはいけない。両親の苦労を幼少の頃から見てきた私だからこそ、ハルトさんとサラさんが歩んできたであろう道のりを理解しなくてはならない。このモリミィには二人の想いが込められている。棚に並ぶ商品達が全てを物語っている。こんなお店でアルバイトができるだなんて、私は幸せ者に違いない。

 

「人生はどう転ぶか分からんということだ。お前も深く考え過ぎない方がいい。俺達を参考にして欲しくはないがな」

「あはは、ですね。ありがとうございます」

「ハル、交替よ」

 

 ハルトさんに頭を下げていると、サラさんが休憩交替を告げながら休憩室へ入って来る。ハルトさんはサラさんと入れ替わりで工房へ向かい、ハルトさんが座っていた椅子にサラさんが腰を下ろした。

 

「随分と盛り上がっていたわね。何を話していたの?」

「お二人の昔話について、少しだけ。サラさんは以前先生をしていたんですね」

「・・・・・・ああもう。レディーの過去を勝手に喋るなっていつも言ってるのに」

 

 サラさんは不機嫌そうに言いながらコック帽を脱ぎ、扉の先に消えたハルトさんを一睨みする。こんな表情のサラさんを見るのも初めてかもしれない。何だか新鮮だ。

 

「あの、お二人はいつ一緒になったのか、聞いてもいいですか?」

「八年前の冬だったかしら。モリミィを立ち上げたのがその四年後よ」

「プロポーズの台詞とかも聞いてみたいです」

「・・・・・・何よ。今日はやけに踏み込んで来るわね」

 

 当時のことを思い出してしまったのか、顔を紅潮させて明後日の方角を見やるサラさん。可愛い。サラさんも満更ではないようで、多少躊躇いながらも、唐突に打ち明けた。

 

「アタシね、子供が産めないの」

「え・・・・・・」

 

 右手で下腹部の辺りを擦りながら、サラさんは言った。

 不妊症。詳しくは知らないけど、先天的な物もあれば、後天的に子を宿せない身体になってしまう女性もいる。女性として、夫婦にとっての一つの幸せが叶わない。頭では分かっていても、理解なんてできない。まだ何も知らない高校生の私には、こんな時に掛けるべき言葉が見つからなかった。

 

「それって、ハルトさんも知ってるんですよね」

「アタシから言ったのよ、プロポーズされた時にね。あいつ何て言ったと思う?」

「・・・・・・何て言ったんですか?」

「何も言わなかったの。代わりに私を抱いてくれたわ。ぎゅーって・・・・・・こら、何笑ってるのよ」

 

 流石はハルトさん。言葉よりも行動で、考えずに感情の赴くまま抱きしめたに違いない。

 微笑ましくて仕方ない。こんな幸せな気持ちになれたのはいつ以来だろう。胸の中が一杯で息苦しさすら覚えてしまう。それに、素直に羨ましいと思える。私もサラさんのように昔話に興じて、顔を赤らめる日が来るのだろうか。来て欲しい、願わくば。

 

「でも流石にね、こうしてお店が繁盛してくれると、考える時があるの」

「考えるって・・・・・・その、先々のこと、ですか?」

「ええ。アキも大体の従業員とは、もう顔を合わせたことがあるでしょう?」

 

 言われてから、モリミィで働く従業員の顔を思い浮かべる。最近になって漸く顔と名前が一致してくれたし、大体の年代も外見から想像できる。サラさんが言いたいのは、このモリミィの将来のことだ。

 三十代のサラさんとハルトさんが切り盛りするモリミィの従業員は、私を除けば全員が二人よりも年代が上。ほぼ全員が家庭を持つ女性で、私なんかは二回りも年下だ。高校生どころか、二十代すら皆無。私一人が浮いてしまっている。今は順調に回せているけど、そろそろ新しい人材を確保しないといけないし、今のうちからもっと先を見据えておかないとやっていけなくなる。何より―――モリミィを継ぐ人間が、何処にもいない。

 

「本当はこの身体が憎い。ハルの前では口が裂けても言えないけど、正直に言うと、辛いのよ」

「・・・・・・何となく、分かります」

 

 モリミィの将来に必須となる、後継者の不在。必ずしも血縁者に限らないとはいえ、サラさんにとっての理想はきっと、愛する我が子にモリミィを託すこと。古臭い考えだと言う人間がいるかもしれないけど、私には分かる。

 お母さんとお父さんはたったの一度だけ、私とお兄ちゃんの将来について触れたことがある。ベーカリーという家業にとらわれず、将来のことは自分自身で決めればいい。両親はそう私達に言い聞かせた。あれが心の底からの本音であったかどうかは別として、『継いで欲しい』という想いは少なからずあった筈だ。私にとっても大切な居場所だった。もう叶わない選択肢だけど、もし存続していたら、私は真剣に考えていたに違いない。

 

「私は・・・・・・す、すみません。何て言ったらいいか」

「どうしてアキがそんな顔をするのよ。アタシの方こそごめん、変な話をしたわ」

「そ、そんな。話してくれてありがとうございます。私、モリミィがもっと好きになれました」

「店名は他店のパクリよ?」

「それでも好きですっ」

 

 店名の由来がどうあれ、その大雑把さも含めてのモリミィだ。見通しも立てずにデリバリーを始めるところも、二人の過去と想いも全部ひっくるめてのモリミィ。アルバイトを始めてまだ一ヶ月と経っていない私にとっても、テニス部と並ぶ大切な居場所の一つ。一切の嘘偽り無く、言い切れる。

 

「だから私は・・・・・・な、何ですか?」

 

 唐突にサラさんの右手が、私の頭部に置かれた。僅かに煙草の匂いがしみ込んだ手はパン職人としては考え物だけど、とても温かく感じられた。

 

「ありがとうを言うのもアタシの方よ。何だか娘ができたみたいだわ」

「っ・・・・・・あの、すごく恥ずかしいんですけど」

「お礼に新商品のサンド案を一つ任せてあげる。『アキスペシャル』で売り出そうかしら」

「え、いいんですか?」

「あら、意外に乗り気なのね。そこまでして貰ったらありがとうじゃ済まないわ」

 

 給料を上げるや報酬といった発想は出てこないようだ。その抜け目の無さもモリミィ成功の一因といったところか。

 しかし商品の開発は一度手掛けてみたいと感じていた。色々な食材を合わせてあれこれ考えたりするのは私にとって日常の一つだし、モリミィは扱う生地の種類が多い分、サンドの可能性はかなり広い。本当に任せてくれるというのなら、元パン屋の娘として腕が鳴る。試作品を自由に食べることができるし―――いや、待て。これはひょっとすると、ひょっとするかもしれない。

 

「うんうん。素人って訳でもないし、一つ任せてみようかしら」

「あ、ありがとうございます。えと、サラさん?代わりにお願いがあるんですけど」

「お願い?」

「はい。来週の平日に、少し付き合って欲しいんです」

 

__________________________________________

 

「・・・・・・困ったわ」

 

 柊アスカは呟き通り、困っていた。困り果てていた。

 面談に立ち会って貰う保護者の代理として、最初に頼ったのが下宿先の主。予てより付き合いのある、父親の元上司にして数少ない民間の協力者の一人。総合的に判断して適任と考えていたのだが、定休日らしい定休日を設けない喫茶店のマスターを担うヤマオカにとって、平日の午後は大切な客人を持て成す書き入れ時。ヤマオカ自身は「店を閉めてでも」と言ってくれたものの、それを心苦しいと感じたアスカは、自ら依頼を引き下げていた。

 その後も空振りは続いた。比較的年代が近い知人である、電気店の窓口兼協力者、ジャンク屋兼天才技師、ドラッグストア販売員兼調合士、以上全員が空振り。一社会人として生活する者からすれば、そもそもが『来週の平日』という条件が急過ぎるのだ。実施日をずらして貰えないかという手段も残ってはいたが、常日頃から多忙を極める担任にも頼み辛い。今日中に目途を付けておきたいと考えていたにも関わらず、とうの昔に陽は暮れて、アスカが歩くレンガ小路では閑古鳥が鳴いていた。

 

「仕方ないわね。明日にでもまた考えればいいわ」

 

 悪いことは続く物だとアスカは考え、向かった先はアンティーク店『ルクルト』。今日のところは保護者代わり探しを切り上げて、残っている要件を済ませてしまおうと、アスカは小洒落た扉を開けた。

 

「あらいらっしゃい。随分と遅いご来店ね」

「こんな時間になってしまい申し訳ありません。依頼の品は入っていますか?」

 

 アスカの言う『依頼の品』は、とある異界由来の素材。ルクルトの主であるユキノは、客が求める物であれば、あらゆるルートを駆使して手に入れる。その大部分は無形の情報ではあるのだが、たとえそれが有形で、異界絡みの物品であっても、ユキノは大抵仕入れてしまう。

 

「ありがとうございます。料金はいつも通り―――」

「それはそうと、随分と困っているようね。若きエースさん?」

 

 しまうのだが、一癖も二癖も三癖もある。それがユキノという女性だった。

 ユキノの企みを察したアスカは努めて平然と振る舞い、腕を組んで答える。

 

「何のことでしょうか。身に覚えがありません」

「そうかしら。とーっても困っているように見えるのだけれど」

「勘違いでしょう。私は何も」

「そう?空振り三振どころか四振目に突入したとばかり」

「全く以って意味が分かりません」

「お姉さんは来週暇になる予感がするのよねえ」

「それが何か?」

「お得意様が困っているならやぶさかではないのよ」

「困っていません」

「本当に?」

「困っていません」

「本当、に?」

「・・・・・・困ってない」

「柊アスカちゃん?」

「ちゃんはやめて」

 

 アスカの幸いは、空振りが四振でストップしたこと。不幸は何かにつけて料金を割り増そうとするユキノが、一枚も二枚も三枚も上をいくということ。ユキノにとってはそのどれもが詮無いことで、単純に「ぐぬぬ」と悔しがるアスカを見て遊んでいただけなのか、素直に折れようとしないアスカへ姉心のような何かを抱いていたのかは、本人のみぞ知るところだった。

 

「当日は『ユキノ姉』と呼べばいいわ」

「変な設定を作らないで下さい」

 

 



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5月20日 BLAZE

 

 クラブハウス二階。部活動に関わりが薄い生徒にとっては一度も足を踏み入れること無く、三年間の高校生活を終えてしまっても不思議ではない未知の領域。私も以前はそちら側の人間だったし、テニス部へ入部したその日に初めて階段を上った。

 二階には各部に一室ずつ部室が割り当てられていて、扉の上部に部名のプレートが掲げられ、向かって右側には管理責任者、つまり部長の名が手書きで記されたプレートが掛かっている―――筈なのだけど、プレートは各部バリエーションに富んでいる。富みまくっている。例を挙げれば『入室中/退室中』を示すシンプルな物もあれば、『睡眠中、起こすな』『着替え中、開けたら抉る』『ノックぐらいして下さいサキ先生』『郁島禁止』といったように、各部が様々なプレートを使い分けているようだ。

 

(またソラちゃんが出禁されてる・・・・・・)

 

 ソラちゃんの名誉の為に言っておくけど、ソラちゃんは女子空手部の部室と勘違いをして、着替え中の男子が密集する『男子』空手部の部室を開けてしまっただけであって、寧ろソラちゃんにとってはトラウマ的な何かと化したらしい。サキ先生は知らない。

 細かいことはさて置き、先週末からテニス部員として活動を始めた私も、テニス部の部室を使用する許可を得ている。階段側から数えて二つ目、女子空手部の部室の隣に位置するそれは、二年B組の教室に続く二つ目のホーム。掛け替えの無い帰るべき場所の扉を、私は勢いよく開いた。

 

「お疲れさまですっ」

「おーっす、やっと来たな」

「遅いですわよ、遠藤さん」

「す、すみません。今日は掃除当番だったので」

「構わないわよ。私達もついさっき着替え終えたところだから」

 

 荒井リサ先輩、エリス・フロラルド先輩に、高松エリカ先輩、そして私。たったの四人だけだけど、私が加わった新生テニス部は昨日から本格的に始動した。

 私にとってのキッカケは何だったのか。今となっては曖昧だけど、時坂君が言っていたように、私は複雑に考え過ぎていたのだと思う。だから私は単純に、思うが儘にテニス部に飛び込んだ。お兄ちゃんも私の過去も関係無い。ラケットを握った際に沸き上がってくる感情だけは、嘘偽りの無い確かな物だ。

 でもコートに立つ以上、生半可な気持ちではいられない。それにアリサ先輩とエリス先輩には、明確な目標と信念がある。打倒聖アストライア女学院、エミリ・テレジアペアに向けて、私だって一緒に戦って見せる。できることがある筈だ。その為に先輩らは、私に全てを一任してくれていた。

 

「あのー。今日の練習内容も、私が決めてしまっていいんですか?」

「ええ、勿論。貴女にはお兄さんを全国に導いたっていう実績があるじゃない」

「そ、それは別に私の力って訳では・・・・・・でも、はい。分かりました」

 

 自分でも自覚はしている。選手としての総合力で言えば、私は先輩らに遠く及ばない。お兄ちゃん譲りのストロークだけなら自信があるけど、何せ試合経験すらロクにないのだから当然だ。

 でもトータルを管理する側に立てば話は変わる。隅々まで読破したテニス関連の教養本は一冊や二冊ではないし、お兄ちゃんが試合で勝つ為にできることは何だってやった。対戦相手を想定した練習方法なんかは得意分野と言っていい。二人の癖や傾向も、大方掴んでいる。

 

「アラ女の二人の試合を、ユウく・・・・・・後輩が動画サイトで見つけてくれたので、各場面を想定した練習方法をいくつか考えてきました。エリカ先輩も入れば四人で試合形式の練習ができます。対策も兼ねて徹底的にやりましょう」

「大まかな方針は決まりですわね。残すところあと一ヶ月、気合いを入れますわよ」

 

 目指すは来月に控えている、全日本高等学校ソフトテニス選手権大会東京都予選、個人戦。多摩地区の個人予選を昨年同様『準優勝』で勝ち抜いたアリサ先輩とエリス先輩は、順当に進めば都予選の決勝でライバルと当たる。一ヶ月という準備期間は長いようでいて短く、その上私は毎日活動に参加できる訳ではないのだ。

 

「気にしないで。アルバイトだって貴女にとっては大切な物の一つの筈よ」

「そう言って貰えると助かるんですけど・・・・・・えーと。部室について、聞いてもいいですか?」

 

 運動用のシャツに袖を通してから、室内を見渡す。昨日は敢えて触れなかったけど、どうしたって気になってしまう。

 先週末と比較して、明らかに物が増えている。元々やけに充実しているとは感じていたけど、部員が増えた以上に様々な物が棚に並び、生活感さえ滲み出ている。しかも優雅というか、エレガントというか。色鮮やかな装飾や小物は別として、あの見るからに高級そうなティーセットは一体何処から沸いて出てきた。小型のポータブルバッテリーと電気ケトルがどうして部室に備え付けられているのだろう。

 

「それは私が取り寄せた物ですわ。少しは部室らしくなりましたでしょう」

「ぶ、部室らしい部室を知りませんけど・・・・・・校則的に、駄目ですよね?」

「何処の部室も似たり寄ったりだろ。バレー部の部室にだって雑誌とか漫画が積んであるし」

「女子空手部も制汗スプレーや汗拭きシートをフレグランスの数だけ常備しているわね。他にも色々揃えてるから、私達も度々お世話になっているの。部長のマイが大らかなのよ」

「そもそも生徒会室が充実し過ぎているからこそです。ミツキさんに許されて、私が不自由をしなくてはならない道理があって?大体ミツキさんはいつも―――」

 

 私に言われても困る。それにエリカ先輩は度々北都先輩を引き合いに出しては話が逸れていくけど、何か理由があるのだろうか。嫌っているという訳ではないにせよ、会話をしていると必ずと言っていい程に北都先輩の名前が混ざり込んでくる。大抵の場合不機嫌そうなエリカ先輩とセットだから聞くに聞けない。今度北都先輩の方にそれとなく聞いてみよう。

 

「それはそうと遠藤さん。貴女は高幡君のご友人でしたわね」

「い、いえ。少しだけ話をしたことがあるだけです」

 

 以前柊さんと一緒にエリカ先輩の教室を訪ねた時のことを言っているのだろう。面識はあっても多少会話をしたことがあるぐらいで、とても友人とは言えない。ただの先輩と後輩だ。まあ妙な噂が蔓延したことはあったけど。

 

「でも高幡先輩が、どうかしたんですか?」

「先週の金曜日から無断欠席が続いているようですの。余計な詮索をするつもりはありませんが、こうも連日になると流石に気になりますわ。クラスでも変な噂が立ち始めていますのよ」

 

 先週の金曜日。土日を含めれば、もう六日間も学園に顔を出していないということになる。病欠ならまだしも、連日の無断欠席ともなれば確かに引っ掛かる。何かあったのだろうか。

 

「さてと。お喋りはこれぐらいにして、そろそろ行きましょう?」

「あ、はい」

 

 いずれにせよ今は目の前の部活動に集中すべきだ。私は引っ掛かりを頭の片隅へ追いやって、ラケットを握った。

 

_______________________________________

 

 コート上で存分に汗を流した私は、アリサ先輩に倣い女子空手部の部室で汗臭さを上書きしてから、そのまま空手部員であるソラちゃんと共に帰路に着いた。

 女子空手部は毎日活動している訳ではなく、剣道部や男子空手部と入れ替わりで道場を使用していて、道場を使えない日は走り込みのような軽いトレーニングに励むか、或いは休止日を設けて疲れを取るようにしているらしい。今日の放課後は道場をフルに使えたようで、ソラちゃんは心地良い疲労感に身を委ね、空腹感を満たしながら私の隣を歩いていた。

 

「あひへんはい、ほえほんろういおいひいえふ」

「何となく分かるけど、食べてから話そう?」

 

 ソラちゃんが頬張っているのは、今朝方に作ったサンド。サラさんから任された新メニューの試作品として仕上げた後、小さめのクーラーバッグで保存していた物だった。具材はバジル入りのポテトサラダとハニーマスタードチキンが主軸で、女性が好みそうな食べ応えのある組み合わせを選んでみた―――のだけど、如何せん在り来たりというか、特色が薄い。プロが手掛けた商品と比べる訳にはいかないにしても、もっとこう、何かあるだろう。それにソラちゃんには失礼かもしれないけど、部活帰りの彼女に感想を求めるのは少し反則気味だ。美味しさ補正が五割増しと言っても過言ではない。

 

「す、すごいです。お店に並んでいる商品みたいで、とにかく美味しくって」

「まあ使ってる具材も分けて貰ってるからね。美味しくない筈がないよ」

「・・・・・・これでも駄目なんですか?」

「駄目って訳じゃないんだけど、他にも色々試してはみたいかな」

「お任せ下さい。私、何だって食べちゃいます」

「あはは、食べるだけじゃなくて感想も・・・・・・あれ?」

 

 視線の先には、見知った男性の横顔。日が暮れ掛かっている夕空に照らされた時坂君が北側の歩道から右折して、私達と同じ方向へ歩を進めようとしていた。

 

「コウせんぱーい!」

「ん・・・・・・お、ソラにアキか」

 

 ソラちゃんの声に気付いた時坂君が立ち止まり、足早に駆け寄った私達と合流する。

 制服姿の時坂君は、例によって今日も放課後アルバイト。レンガ小路のフラワーショップで雑務を任されていた。一方で頼まれた仕事自体は大した量ではなく、日没前に一通りを済ませた時坂君は、ちょうどこれから帰宅するところだった。

 

「二人は部活動の帰りか?」

「はい。えっと、今はアキ先輩が作ったハニルバスタードとマジポテサンドが美味しいっていうお話を」

「聞いたことがねえ異界食材だな」

「私は何を作ったの・・・・・・」

 

 混ざり過ぎである。もしかして私は人選を誤ったのではないだろうか、という失礼極まりないけど無理もない感想を抱きつつ、表に出さないよう再び歩き始める。三人の歩調が合わさった頃に、私は時坂君の自宅が学園から見て南東の住宅街にあるという話を思い出した。

 

「あれ?時坂君のお家って、こっちじゃないですよね?」

「ジッちゃんと一緒に飯でもどうかって、トワ姉から誘われてな」

「あ、成程。九重神社って、商店街の先にありましたっけ」

「フフ、少し羨ましいです。コウ先輩って普段は自炊してるんですか?」

「気が向いた時ぐらいだなー。シオリに甘え過ぎてるって自覚はあんだけど、バイト帰りじゃ作る気も起きねえし。一人暮らしは気が楽つっても、何かと面倒で困るぜ」

 

 一人暮らしをするようになって、食事の用意にどれ程の労力を要するのか、私は身を以って知った。昔からお母さんの代わりに台所へ立つことはあったけど、それは私に余裕がある時に限っていたからだ。今だってタマキさんと半ば分担制で回しているようなものだし、完全に一人だったらと想像するだけで嫌になる。

 

「そういえば、アスカ先輩も一人暮らしなんですよね」

「うん、そうだね。柊さん・・・・・・柊さんはどうなんでしょう。そういう話、聞かないですけど」

「執行者ってのも相当忙しいって話だし、苦労も多いんじゃねえのか。それにあいつ、昨日からまた色々と調べて回ってるようだぜ」

 

 時坂君が口にした予期せぬ情報に、足が止まる。私とソラちゃんは顔を見合わせてから時坂君の方を向いて、詳細について耳を傾けた。

 柊さん自身がどうこう言った訳ではない。私を含めたクラスメイトの目にも、普段通りに振る舞う柊さんとしか映っていなかった一方で、時坂君は僅かな違和感を抱いていた。誰にも気付かない程度の変化を、時坂君だけが見抜いていたらしい。

 

「俺の勘違いかもしれねえけど、二人も気に留めといてくれ」

「了解です。アスカ先輩の為にも、必ず協力しますよ」

「わ、私もです。役に立てるかどうか、分からないですけど」

 

 私がソラちゃんに続いた後、今度は時坂君が神妙な面持ちで一歩前、私達の眼前に歩み寄った。その行動の意味が分からずにいると、時坂君が言った。

 

「なあソラ、アキ。お前らさ、柊から『生存率』に関する話、聞かされたことあるか?」

「生存率?・・・・・・いえ。多分、聞いてないと思います」

 

 思い当たる物が無く、隣のソラちゃんも同じ反応を示す。一体何の話だろう。それに言葉の意味は理解できるけど、肝心の『指標』が無いと明確な意味を成さないのだから、質問の仕方に変な引っ掛かりを抱いてしまう。

 

「コウ先輩、それ何の話ですか?」

「いや、別に大したことじゃねえさ。二人共、また明日な」

 

 商店街の外れまで来たところで、横断歩道を渡る時坂君の背中を見送った。

 別れ際に随分と思わせ振りな置き土産を残してくれる。あんな聞き方をした後に『大したことじゃない』と言われたってまるで説得力が無い。何となくだけど、時坂君の態度は柊さんを連想させた。

 

「何だったんでしょうね、今の。アスカ先輩に影響されちゃったんでしょうか?」

「あ、ソラちゃんもそう思う?」

「思いますよ。アスカ先輩ってよくああいう言い回しをするんです。物真似もできますよ」

「へえ。やって見せてよ」

「・・・・・・そう。やはりそうだったのね」

「あー。すごく言いそう」

 

 とはいえ考えても仕方ない。私達は本人に見られたら大変なことになりかねない戯れに興じながら、すっかり日の暮れた夜道の中を歩き始めた。

 

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 食事に入浴、明日の準備を一通り済ませた後、私はベッドの上にうつ伏せで寝転がって、柊さんが貸してくれたサイフォンを手に悪戦苦闘をしていた。

 

(な、慣れないなぁ)

 

 覚束ない手付きでタッチパネルを操作する。何だか初めて携帯電話を手にした時のことを思い出してしまう。今後はこのサイフォンを使用する機会も増えていきそうだし、時間を見つけて少しでも操作に慣れておいた方が良いだろう。

 

「これは・・・・・・Echo(エコー)、でいいのかな」

 

 柊さんのサイフォンには様々なアプリがインストールされているらしく、その大部分が英語表記。見慣れない単語が羅列されていて、高校二年生レベルの英語力では到底読めた物ではなかった。中には英語以外の外国語仕様の物まであり、何の為のアプリなのかがさっぱり分からない。柊さんからは不用意に起動しないようにと言われていた。

 そんな中で、私が利用できる唯一のアプリ。以前柊さんから使用方法を教わったこともあり、操作法の練習も兼ねて度々使用するアプリがあった。

 

「えーと。確かここをこうして、と」

 

 アプリを起動すると、異界化に関わるキーワードの索引が表示される。調べたい情報をタッチすれば、画面下部に簡易に纏められた説明文が表示される。至って単純なアプリだった。

 例えば『適格者』。異界への耐性が強い人間の中でも極一部、己の魂をソウルデヴァイスとして顕現することができる者達の総称。ソウルデヴァイスを使用している間は、身体能力や五感の飛躍的な向上の他、治癒力の促進、特定の分野における能力上昇といった効果が持続する―――こんな感じだ。

 単語の意味以外にも、私のような素人向けの情報もある。『異界探索時の必須事項』なんかはまさにそれだ。現実世界と比較して、異界では身体に掛かる負担が増大し、ソウルデヴァイスの使用にも膨大な霊力を消費する。ただ異界にいるというだけで消耗してしまうことから、長時間の行動自体が危険。迅速かつ効率的に異界化を沈める為にも、まずは異界深度や広域度の測定、属性の探知を何より優先する。異界から帰還後は早急に補給を行う。補給は市販品ではなく、専用の補給食が望ましい。

 

(あれはすごかったな・・・・・・)

 

 柊さんから手渡されていた、数個の専用補給食。見た目や飲んだ感じは所謂『ゼリー飲料』で、内容量は200ミリリットル程度。『一度飲んでみるといいわ』と言われるがままに口にしたけど、あんな物があるなんて今でも信じられない。何せ二時間半の部活動で走りっ放しだったのに、夕食まで一滴の水も飲む必要すらなかったのだ。某有名漫画に似たような効果を持つ豆があった気がする。一パックで万札が飛ぶのも頷けるけど、それは要するにそれだけのコストが掛かっているということになる。でも柊さん曰く、誰一人として金策には困っていないらしい。この点も異界が関わっているとのことだった。もう何が何だか分からない。

 

「あっ。そうだ」

 

 頭を抱えてしまったところで、時坂君の意味深な発言を思い出す。五十音順に並べられた索引をスクロールさせて、『さ行』の中にあるキーワードと睨めっこをする。すると三文字の単語に目が止まった。

 ―――異界からの『生存率』。異界化に関する充分な知識を有し、三年以上の規定訓練を積んだ適格者。結社ネメシスにおいて異界化の収拾の際に動く実動員、その最低限度の条件を満たす者。仮にその人間が単身で異界へと踏み込んだ場合、無事に現実世界へ帰還できる確率。2015年3月時点で、『82.2%』。

 

「約五分の一・・・・・・か」

 

 それが高いのか低いのか、私には判断し兼ねる。でも単純計算で言ってしまえば、五人に一人は現実世界へ帰ることができない。それが意味するところは―――『死』。知識も経験もあるプロフェッショナルでも、五回に一回。条件を満たしていない人間ならどうなのだろう。私みたいな素人の適格者が、前回のように異界へ入ってしまったとして、また無事に帰って来れるのだろうか。

 

「ひっ!?」

 

 突然の着信音に不意を突かれ、一瞬身体を震わせた。サイフォンとは別、枕元に置いていたガラケーに表示されていた名前を見て、再度驚く。私は喉を数回鳴らして、ベッドの上で正座をしながら、通話ボタンを押した。

 

「はい、遠藤です」

『あ、もしもし、ジュンだけど。突然電話しちゃってごめんね』

「いえ、わ、私は大丈夫です」

 

 何が大丈夫なのかと自分に突っ込みを入れて、小日向君の声に耳を傾ける。声に混じって聞こえてくる街特有の喧騒から、小日向君が今外にいることはすぐに窺えた。もう夜の20時前だというのに、まだ帰っていなかったのだろうか。

 

『さっきまで買い物をしてたから、少し遅くなっちゃってさ』

「買い物ですか。何か入り用の物があったんですか?」

『そうそう。ねえ遠藤さん、この間貸した小説って、どこまで読んであるの?』

「ああ、あれならもう終盤まで・・・・・・読んだところで、止めてます」

『止めてる?』

 

 これはどう説明すればいいのだろう。読んだ感想としては、時が経つのを忘れてしまうぐらいドハマりしてしまったのだけど、終わりが近付くに連れて読む速度が落ちてしまっていた。面白過ぎて勿体無いというか、読み終えてしまうのが寂しいのだ。シリーズ物だから続きがあると言っても、現時点では続巻が出ていない。こんな感覚初めてかもしれない。

 

『ハハ、分かる気がするな。でも良い報せがあってね、今日が二巻目の発売日だったんだ』

「えっ。そ、そうだったんですか?」

『さっきオリオン書房で買ってきたところさ。明日持って行くから、遠藤さんが先に読みなよ』

「わわ、私が?でもそんな、悪いです」

『実は一巻目の内容がうろ覚えでさ。僕は読み直した後でいっ・・・・・・す、すみません』

「・・・・・・小日向君?」

 

 直後に聞こえてきた乾いた音と、怒鳴り声。前者は小日向君のサイフォンの落下音、そして後者は腹の底から絞り出された怒声だった。思わぬ事態に私は息を飲んで、繰り返し呼び掛けた。

 

「こ、小日向君?どうしたんですか?小日向―――」

 

 ―――ツー、ツー、ツー。呼び掛けも空しく、無機質な音が耳に入って来る。急いでこちらから掛け直しても、一向に繋がらない。先程まで通話ができていたのにも関わらず、電源が入っていないか電波が届いていない旨を報せる音声しか聞こえない。

 

「小日向君っ・・・・・・!」

 

 先程までオリオン書房にいて、その帰り道。街の喧騒。居場所は限られる。

 考えるよりも前に身体が動いた。私は上着を羽織り、自転車の鍵を手に握って玄関を飛び出していた。

 

______________________________________

 

「本当にごめんね、心配掛けちゃって」

「気にしないで下さい。大事無くてよかったです」

 

 数冊の本が入った紙袋を片手に、肩を落として私の隣を歩く小日向君。大事無いと言っても無傷ではなく、右頬に浅い切り傷を負ってしまっている。既に血は止まっているし心配は無用だけど、暫くは傷痕が残ってしまうかもしれない。

 無我夢中でペダルを漕ぎ続けた私は、思いの外早く小日向君を見つけることができた。真っ直ぐに駅前へ向かう道すがら、夜道を歩く小日向君と擦れ違った。頬の傷を目の当たりにした時は気が気でなかったけど、傷が浅いと知って大きく安堵の溜め息を付いていた。

 

「でも自業自得かな。夜遅くに出歩いて、よそ見をしていたのは僕だしね」

「そ、そんな。悪いのは絡んできた男の人達です」

 

 突然通話が切れてしまった原因は、ありがちというか古典的な物だった。通話をしながら歩を進めていた小日向君は、反対側から歩いて来た二人組の男性のうち一人と肩が軽く接触した。すると男性らは大仰に痛みを訴え、治療費払うよう小日向君に迫った。戸惑いつつも理不尽な要求を飲む訳にもいかず狼狽えていると、業を煮やした男性らは驚いたことに、小日向君のサイフォンを足で踏み壊して脅し掛けたのだ。

 

「高い授業料を払ったって考えるよ。事を荒立てたくもないからさ」

「た、高過ぎる気もしますけど・・・・・・それで、どうしますか?高幡先輩って、商店街の蕎麦屋で見習いのようなことをしてるそうですよ。私が借りているアパートの近くです」

「へえ、そうなんだ。でも今日はもう遅いし、明日お礼を言いに訪ねようかな」

 

 もう一つ驚かされたのが、窮地に立たされた小日向君に助け船を出した高幡先輩の存在だ。偶然その場に居合わせた高幡先輩は、二人組を一睨みして凄味を利かせたただけで追い払ってしまったらしい。確かにあの外見と体格で睨まれたら、腰が抜けてしまいそうだ。

 高幡先輩、か。同じD組のエリカ先輩の話では、先週末から無断欠席が続いているそうだけど、今の話を聞く限り病欠という訳ではないようだ。なら、他に何かしらの事情があるのだろうか。私も私で気になってしまう。

 

「遠藤さんは高幡先輩といつ知り合ったの?」

「その、以前少しお世話に。明日学園に来てくれるといいですね。私も一緒に行きます」

「いいよいいよ、僕一人で行くから」

「いえいえ、私にも責任があるようなものですから」

「それは違うと思うけど・・・・・・そっか。じゃあお願いしようかな」

 

 申し訳なさそうに笑う小日向君と一緒に、自転車を押しながら歩を進める。最近は物騒な事件が立て続けに発生していることもあり、小日向君はアパートまで送ると言って遠回りをしてくれていた。寧ろ自転車という足がある私の方が安全な気もしたけど、小日向君も男性として譲れない物があるようで、私自身悪い気はしなかった。

 

「あはは。こうして暗い所を歩いてると、四宮君の家を訪ねた時のことを思い出さない?」

「ユウ君の・・・・・・ああ、真っ暗でしたもんね」

 

 つい最近なのに、随分と前の出来事のように思えてしまう。確かにあの時は足元が見えないぐらい光が行き届いていなかったから、小日向君の手を握って―――やめよう。思い出すだけで顔が熱くなる。

 

「あの頃と比べて、遠藤さんはよく笑うようになったね」

「え・・・・・・そう、ですか?」

「うん。堂々としてるっていうか、みんなもそう感じてるみたいだよ。ここだけの話だけど、モリミィで働く遠藤さんが女子の間で噂になってるらしくってさ」

「・・・・・・聞きたくなかったです」

 

 途轍もなく嫌な予感がする。最近は店内の接客も引き受けるよう心掛けていたけど、暫くの間は製造に専念しよう。また騒ぎ立てられるのだけはご勘弁願いたい。

 

「まあ、キッカケはあったと思います。時坂君にも一度、変わったって言われました」

 

 良くも悪くも、死人憑きは幻影以外の何かを残していった。大変な被害が生じ掛けた事件ではあった一方で、私には大きな転機になってくれたのだと思う。女子テニス部にとっても同じことが言える筈だ。胸中で独りごちていると、小日向君は静かに言った。

 

「どうだろ。変わったっていうのは、少し違うと思う」

「え?」

「人の本質はそう変わらない。一時的な変化をそう捉えてしまっているだけで、根底にある物は変わったりしない。表面上そう見えているだけさ。何も変わりはしない。君は君で、僕は僕だ」

 

 何だろう。小日向君の言わんとしていることが上手く飲み込めない。それに、声が変わった。表情も消えて、小日向君がひどく遠い所に立っているように映ってしまう。隣を歩いているのに、遠い。

 

「ああ、ごめん。変なことを言っちゃったかな」

 

 小日向君はハッとした様子で笑みを浮かべてから、再度言い直した。

 

「遠藤さんの場合は、元に戻ったって言った方がいいんじゃないかな」

「元に戻った・・・・・・」 

「今の遠藤さんの方が、きっと本来の遠藤さんなんだよ。毎日直向きに何かに打ち込んでいる遠藤さんを見てると、すごいなって思う。僕は色々と中途半端だから」

「そ、そんなことないですよ」

 

 私は直向きにと言うより、単に忙しさに見舞われて日々きりきり舞いなだけだろうに。買い被り過ぎにも程があるし、何ともむず痒い。それに小日向君の『中途半端』もよく分からない。私とは違って部活動をしていない、という意味合いではないのだろう。何を指して自分を卑下しているのか、私には思い当たる節が無い。

 

「っと。このアパートだっけ?」

 

 言われて見上げると、知らぬ間にガーデンハイツ杜宮に辿り着いていた。会話に気を取られいる間、既に結構な距離を歩いていたようだ。

 

「送ってくれてありがとうございました。小日向君も帰り道、気を付けて下さいね」

「どういたしまして。できるだけ明るくて人通りの多い道を行くよ。じゃあ、またね」

 

 右手を振って見送り、小日向君の小柄な体が夜の闇に溶け込んでいく。先程のやり取りが胸の奥に引っ掛かっているせいなのか、私は寂しさのような感情を抱いていた。

 

_________________________________________

 

 翌日の午前8時15分。私と小日向君は駐輪場で落ち合った後に三年D組の教室を訪ね、エリカ先輩に声を掛けていた。

 

「彼ならまだ来ていませんわよ。この時間に姿を見せないなら、今日も欠席なのでしょうね」

「そうですか・・・・・・今日も」

 

 高幡先輩の無断欠席は先週末からだから、今日で丸一週間も休んでいることになる。夜道に出歩くぐらいだし、病欠ではない。一体どうしたというのだろう。気心知れた仲ではないにせよ、流石に心配になる。

 

「休みなら仕方ないね。遠藤さん、戻ろうか」

「あ、はい。エリカ先輩、今日の部活動はどうしますか?」

「雨が止みそうにありませんし、今日は休みにしようと先程話していたところですわ」

 

 今日の天候は生憎の雨模様。テニスコートも水溜りだらけで使えそうにないし、複数の部が今日は休みを選択するしかなさそうだ。今日はアルバイトもないから、久し振りの羽休めに専念しよう。

 

_______________________________________

 

「きゃああ、ジュン君!?」

「いやあ!大丈夫!?」 

「あたし達の天使が傷物に・・・・・・!」

 

 うん、想像はしていたよね。整った顔立ちと中性的な容姿から絶大な女子の人気を得ている小日向君の顔に絆創膏が貼ってあったら、瞬く間に囲まれてしまうのは簡単に予想できた。伊吹君が怪我をした時と余りに異なる反応が少し気の毒だけど、だからかな。その態度はどうかと思う。私は違うと思う。

 

「おはようアキちゃん。今日はジュン君も随分と遅・・・・・・な、何だか顔が怖いよアキちゃん」

「アレか、寝坊でもして朝飯を食いそびれちまったのか」

「伊吹君、手首の具合はどうですか?治り掛けが一番危ないですから、注意して下さいね」

「ちょっと左手首も怪我して来る」

「ついでに頭も打って来い」

 

 私は机の上に鞄を置いてから、今日に限って登校時間が遅かった原因、事の経緯について説明した。小日向君が二人組の不良に絡まれてしまったこと。その際に頬を怪我してしまったこと。高幡先輩が助けてくれて、先程二人でお礼を言いに教室を訪ねたこと。一連の話に耳を傾けていた三人は、口々に意外そうな反応を示し始める。

 

「あの高幡シオがねえ。以前遠藤さんから聞いた話でもそうだったけど、なーんかイメージと違うよなぁ」

「やっぱ単なる不良って訳でもないんだろうぜ・・・・・・にしても最近、物騒な話ばっか聞くようになったな。まさか同じ奴らが関わってんのか?」

「どうでしょう・・・・・・そういえば小日向君が、エンブレムを見たって言ってました」

「「エンブレム?」」

 

 小日向君の話では、二人組は背中に焔を思わせるエンブレムが描かれたお揃いの上着を着ていたそうだ。私がそう伝えると、三人は心当たりがあるのか、一様にして同じ表情を浮かべた。

 

「おいおい。それってもしかして、『BLAZE』じゃねえか?」

「グレーズ?」

「アキちゃん、それはドーナツに付ける白いやつだよ。そうじゃなくて『ブレイズ』」

「ブレイズ・・・・・・あれ、それって」

 

 ―――こいつは別件なんだが、お前さん『BLAZE』を知ってるか。

 私は高幡先輩がアパートを卵粥を届けてくれた、5月10日の出会いを思い出していた。

 

 



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5月21日 ファースト・ミッション

 小日向君が高幡先輩へお礼を言いそびれた5月21日の放課後。私は昨日に続いて新作サンドのネタを考える為、久方振りに日が暮れる前にアパートへ帰宅した―――と思いきや、玄関の鍵を開けたところで携帯が鳴った。着信は時坂君からで、相談があるから来て欲しいと頼まれた場所が、あのヤナギスポーツ店。向かった先の店内には時坂君と店主のヤナギさんの他、私と同じで部活動が休みとなったソラちゃんの姿もあった。

 相談主は時坂君ではなくヤナギさんで、時坂君は仲介役として私に声を掛けてくれていた。どういう訳か時坂君の左肩は気の毒になるぐらいびしょ濡れで、本人も「あれ?」と首を傾げてしまっていた。傘の掛け方に変な癖でもあるのだろうか。

 

「試作品のモニター、ですか」

「うん。アキちゃんもラケットとシューズはイズノ社製の物を使ってるよね」

 

 ヤナギさんはカウンターに真新しいシューズを置いて、相談内容を丁寧に説明してくれた。

 テニス界のトップメーカーと言えば当然オネックス社で、同社に続く形でイズノスポーツ社が名を馳せている。オネックス製のラケットと比べると、イズノ製は扱いが難しい玄人向けが多いというイメージが一般的だ。テニス部の先輩らも例に漏れず前者を使っている一方、私はまるで正反対の印象を抱いていた。お兄ちゃんはイズノのラケットを愛用していたし、私もお兄ちゃんが残してくれたラケットを今も使用している。テニスシューズには特にこだわりが無いけど、ラケットとメーカーを合わせる意味合いでイズノ製を履いていた。

 

「それでアキ先輩がテニスシューズの、私がランニングシューズのモニターを?」

「そうなんだ。暫くの間、試してみてくれないかな。後々感想は聞かせて貰うけど、耐久性のテストが主目的だからね。普段通り運動に使ってくれるだけでいいからさ。どうかな?」

 

 成程。試作品のシューズは女性用だし、運動部に所属する私とソラちゃんが適任と考えて選ばれたという訳か。勿論断る理由は見当たらないけど、私はイズノとヤナギさんの繋がりの方が気になってしまう。世界屈指の総合スポーツ用品メーカーとして、国内外を問わずにその名を轟かせるイズノスポーツ社と商店街の個人店が、一体どんな関係にあるというのだろう。もしかしてヤナギさん、その世界では凄い人なのだろうか。

 

「ソラ、アキ、頼まれてくれるか?」

「あ、はい。勿論いいですよ」

「私もです。まだ発売もされていないシューズを使える機会なんて、すごく貴重ですから」

 

 それぞれピッタリのサイズが一双ずつということは、元から私達に依頼するよう考えていたに違いないし、こんな機会は滅多に無い。後にも先にも今回ぐらいのものだ。有り難く使わせて貰うとしよう。

 試作シューズを受け取った私とソラちゃんは店内の一画にある長椅子へ腰を下ろして、サイズの確認を兼ねて試し履きをした。感触は若干硬めだけど、使っているうちにすぐ馴染むだろう。耐久性が高い割には軽量だし、確かにこれは新しい感覚だ。

 

「引き受けてくれてありがとな、二人共」

「こちらこそ。時坂君の今日のアルバイト先は、ヤナギスポーツだったんですね」

「いや。これはバイトっつーか、単にヤナギさんから頼まれただけなんだ」

「あはは、コウ先輩らしいですね」

「何だそりゃ?」

 

 ソラちゃんの言葉に疑問符を浮かべる時坂君。私もソラちゃんと同意見だ。時坂君が沢山の人から慕われている理由がよく分かる。本人にその自覚が無くても、一ヶ月も同じ時を過ごせば自然と理解できるというものだ。

 小さな笑みを溢してテニスシューズを脱ごうと手を伸ばすと、時坂君は私の肩をポンと叩き、声を潜めて言った。

 

「アキ、シューズを脱ぐのは少し待ってくれねえか」

「え・・・・・・でもテニスシューズは、極力コート上で使いたいんですけど」

「そうじゃなくってだな。っと、来たみたいだ」

 

 時坂君の視線の先は、店内の入り口。たった今扉を開けた意外過ぎる来客の方に向いていて、今度は私が大きな疑問符を頭上へと浮かべた。

 

(柊さん・・・・・・?)

 

 運動部に所属しているソラちゃんや私はともかく、柊さんがヤナギスポーツを訪ねる理由らしい理由が思い浮かばない。それに時坂君の口振りだと、柊さんがここへやって来ることを事前に把握していたようだ。隣に座っているソラちゃんまでもが成程といった様子で頷いていて、私だけが事情を察していないように思える。たちまちに置いてけぼりを食らった気分だった。

 

「柊、そっちはどうだ」

「『フェイズ1』の深度三十五といったところよ。この面子なら充分過ぎるぐらいだわ」

「そうか。ならユウキに声を掛ける必要もなさそうだな」

「あ、あのー。何の話をしているんですか?」

 

 私が横槍を入れると、柊さんは上着からサイフォンを取り出して言った。

 

「遠藤さん。貴女に預けたサイフォンと補給食、今は何処に?」

「鞄の中にありますよ。補給食は二つ入ってます」

 

 柊さんの予備サイフォンと、二パックの補給食。柊さんから手渡される際、「常々持ち歩くように」と言われていたから、財布やアパートの鍵よりも意識して確認するよう心掛けていた。サイフォンのバッテリーも昨晩にしっかりと充電してあるし、言い付け通りいつだって―――

 

「も、もしかして」

「ああ。お前の場合、シューズは履いたままの方がいいだろ。力を貸してくれるか、アキ」

 

_______________________________________

 

 案内された先は、ヤナギスポーツの南側と面している裏路地。近所では野良猫の溜まり場として知られ、衛生面を問題視されている一方、猫好きのソラちゃんにとっては憩と安らぎの場所でもある。そんな裏路地の突き当たりに、『それ』は大きな口を開けて待ち構えていた。

 

「ほ、他の人には、見えていないんですよね」

「ええ。少なくとも一般人の目には映っていない筈よ」

 

 異界化の特異点であり異界に繋がるとされる、『ゲート』。私が死人憑きに取り込まれた際にも目の当たりにした、両開きの門を模した別世界との境目。ゲートの前方では円状の紋様がゆっくりとした速度で回っていて、ゆらゆらと揺れる様は蜃気楼を連想させる。溜まり場に一匹の猫も見当たらないのは、柊さんが口にした『一般人』に属さないからだろうか。

 

「でもこの間見たゲートとは、少し様子が違うような・・・・・・?」

「いいところに気付いたわね。この状態は『フェイズ1』。ゲートの色合いで大別することができるのよ」

 

 眼前にあるゲートは、全体的に黄色掛かっている。柊さんによれば、これは『フェイズ1』。異界としての脅威度は低く、現実世界への干渉は発生しない。対して死人憑きが関わっていた異界化は『フェイズ2』。ゲートが朱色に染まっている場合、高確率で特異点を介した超常現象が発生する。死人憑きが引き起こしていたポルターガイスト現象もその一つだ。

 しかし『フェイズ1』だからと言って油断はならない。『フェイズ1』は『フェイズ2』の前兆でもあり、いつ後者に変貌するか分からない。ある程度予測は可能なものの、最悪を想定して異界は治めておいた方が良い。異界の最奥部にあるグリードさえ倒してしまえば、ゲートはその口を閉ざして『フェイズ0』に落ち着く。執行者である柊さんは常日頃から異界化を未然に防ぐよう、こういったゲートを閉じ続けているそうだ。

 

「そして協力者である俺達の役目でもあるって訳だ。アキ、手を貸してくれるか?」

 

 身を屈めてテニスシューズの紐をきつめに結び直す。もしかしなくたって責任は重大だ。あんな事件が再発する可能性が猫の溜まり場に転がっているだなんて、今でも受け入れ難い。でもだからと言って、私だけが知らない振りを決め込む訳にはいかない。これまでの常識が通用しない現実と非現実が横並びをして、目の前にあるのだ。

 

「分かりました。一緒に行かせて下さい」

「おう。頼りにしてるぜ」

「宜しくお願いします、アキ先輩!」

 

 私の不安が伝わったのか、柊さんは私の左手をそっと握った。私は一度大きく深呼吸をして、柊さんと一緒に歩を進めた。

 

______________________________________

 

 まず感じたのは、息苦しさ。次に重力が強まったかのような重々しさと、夢見の真っ只中に抱く浮遊感。感覚が薄らいでいるのにも関わらず、身体に圧し掛かってくる負荷だけが明確。前回と違って冷静さを保てている一方で、アプリに記されていた通りの苦しみに苛まれてしまう。

 視界が明瞭なのも前回との違いの一つ。光源は見当たらないのに周囲は明るく、上下左右の広さはトンネルぐらいだろうか。コンクリートと金属の中間のような材質の通路が、視線の先へと続いていた。奥では通路が三叉路になっていて、その先の様子はここからでは窺えなかった。

 

「落ち着いて遠藤さん。以前教えたように、まずはソウルデヴァイスを顕現させましょう。それだけでも大分楽になる筈よ」

「わ、分かりました」

 

 私以外の三人の手には、既にソウルデヴァイスがあった。時坂君は広範囲に届くレンジングギア、ソラちゃんが手甲型のヴァリアントアーム、柊さんの両刃剣エクセリオンハーツ。特徴も以前に聞かされていた。

 サイフォンとソウルデヴァイスにどんな関係があるのかは、この際どうでもいい。どうせ聞かされても理解できないに決まっている。私は三人に続いて専用のアプリを起動し、見よう見真似で液晶をなぞった。

 

「わわっ」

 

 心臓の辺りに熱を感じた直後、気付いた時にはライジングクロスが右手に握られていた。テニスシューズの側面では、前回同様に歯車のようなデヴァイスがくるくると回っていて、先程まであった筈の重苦しさは綺麗サッパリ消えていた。私のソウルデヴァイスを確認した三人は、手早くサイフォンを操作しながら異界の情報を整えていく。

 

「異界深度三十二、広域度二十一です。行動目安時間は二十分程度でしょうか。限界時間は考えなくてもよさそうですね」

「濁度はちょい高めだが、前回と比べれば大した値じゃねえな。属性値は霊、鋼、焔が二対一対一ってところだ。柊、今回はどうする?」

「私とソラちゃんが前衛、時坂君と遠藤さんは後方からの支援をお願いするわ。時坂君は遠藤さんのソウルデヴァイスの特徴を考慮して、しっかりとリードしてあげなさい」

「了解だ。アキ、宜しくな」

「は、はい」

 

 使い方は分かる。異界での動き方は教わっているし、部活動のおかげでスウィングスピードも取り戻せた。何より、みんながいる。私と時坂君はお互いのソウルデヴァイスを重ねて軽く音を鳴らしてから、異界の最奥部を目指して歩き始めた。

 

_______________________________________

 

 柊さんとソラちゃんがジェル状のグリードを動きで攪乱しながら、後方に陣取っていた時坂君が長距離から牽制する。一方の私は外側から円を描くようにして高速移動でグリードの背後へ回り込み、フォアハンド・ジャックナイフの形でライジングクロスを振るった。振り切った直後、イメージ通りの打点から三つの赤色の光弾が放たれ、グリードへと襲い掛かる。着弾してすぐに、グリードは一度眩い光をまき散らしてから消滅し、オパール色に輝く宝石のような小石が地面へと転がった。

 

「一丁上がりだな。柊、まだ反応はあるか?」

「最奥部の反応が最後ね。一息付いた後に進みましょう」

「あ、あの。私、上手くやれてますか?」

「充分過ぎますよ。流石はアキ先輩です!」

 

 小石をせっせと拾い集めるソラちゃんが、満面の笑みを浮かべて答える。勝手が分からない上に終始一杯一杯だったからピンと来ないけど、素直に受け取れば順調に前進できているようだ。

 柊さんから教わったグリードとの戦闘時における定石は三つ、『後の先』『守より攻』『避から攻』。今一イメージがし難いそれらを、私は理解に近付けつつあった。グリードは例外無く問答無用に牙を向いてくるけど、言ってしまえば当たらなければ問題にならない。というより、現時点では当たる気がしない。自分でも信じられない程に身体が動くし、何より感覚が冴えてあらゆる物が止まって見えてしまう。スポーツの世界で言う『ゾーンに入る』という表現が一番しっくり来る。

 

「でもテニスと違って、声は出さねえんだな。『どりゃああ!』とか」

「む、無茶言わないで下さい。そんな余裕無いです」

「まあ出せとは言わねえけど、やっと分かってきたぜ。柊が言ってた常時発動型のスキルの一つが、その移動速度ってことか」

「・・・・・・『ギアドライブ』のことですか?」

「ああ、そんな名前なんだな」

 

 私自身まだ完全には理解できていないけど、私の脚力がライジングクロスがもたらしてくれる力だということは間違いない。身体能力の向上と相乗して、私の両足は意のままにどこまでも動く。翼と言ってもいい。多分本気を出せば、垂直跳びで天井に手が付いてしまうだろう。でも怖いから絶対にやりたくない。

 

「お互いのソウルデヴァイスを知ることは重要よ。遠藤さんはまず自分自身で理解を深めることから始めましょう。貴女のソウルデヴァイスにはまだ可能性がある筈だわ」

「が、頑張ります」

 

 不思議と感覚で分かる。ギアドライブの名称も自然と思い浮かんだ物だし、ギアドライブはライジングクロスが持つ力の一端に過ぎない。数で言うなら、もう二つ。私が掴み切れていない何かが眠っている。それだけは確かな筈だ。

 

「あの、私からも聞いていいですか?」

 

 私はソラちゃんが手にしていた袋を指差して言った。息絶えたグリードの亡骸は、その全てが先程の様に小石へと姿を変えて散らばっていた。ソラちゃんはそれらを一つも見逃さずに拾い、袋に収集し続けている。その目的が分からないのだ。少なくとも単に綺麗な石を集めているという訳ではないのだろう。

 

「あれは『ジェム』といって、貴重な異界素材の一つなの。生物学における『培地』の原料のような物かしら。異界に関する研究開発には必須と言っていい素材だから、現実世界では高値で取引きされているのよ」

「あんな石が・・・・・・ちなみにですけど、あれでどれぐらいの価値があるんですか?」

「そうね。約一ポンドと見て、ざっと七千ドルってところね」

「ええええっ!!?」

 

 ドルで言われても即座に驚愕してしまう、想像を遥かに超えた価値があった。たったの十五分程度で拾い集めた石が、七千ドル。柊さんからは冗談の程が微塵も窺えない。時坂君やソラちゃんまでもが平然としていた。柊さんが言っていた異界での金策とは、ジェムのことを指していたようだ。

 モリミィにおける給料日は25日。まだ手にしたことはないけど、初となる賃金に対する感動が急速に薄れていた。絶対に慣れたくないけど、私も感覚が麻痺してしまうのだろうか。それだけは絶対に嫌だ。

 

「俺達も最初聞いた時は驚いちまったけど、結構真剣な問題なんだぜ」

「補給食を補充したりソウルデヴァイスを調整するだけでも、数十万円飛びますから。今でも収支プラマイゼロですし、これからもっと必要になるかもしれません」

「異界と関わる者にとっては大切な使命の一つね。無事に異界から生き延びることができるよう、異界技術の恩恵に与る一方で、私達は研究開発の素材を提供する・・・・・・1950年代には平衡状態に達した、特有の社会構造が存在しているのよ」

 

 柊さんの言い回しはひどく難解に聞こえてしまうけど、端的に言えばこうして異界の素材を持ち帰ることは重要な意味を含んでいるようだ。高校生の私にとっては目が眩むような価値があっても、現実世界でも一日にして兆単位のドルが動くと考えれば、異界が関わっているから特別という話でもないのだろう。

 

「これ以上の長居は無用ね。そろそろ前進するわよ」

「アキ先輩、もう一踏ん張りです」

 

 サイフォンで残りの行動目安時間を確認する。残り時間はあと三分間半。深度や広域度によっては行動限界時間を設けることがあるらしいけど、この異界ではその必要が無く、あくまで目安だ。ゴールはもう目と鼻の先、みんなに従って最奥部を目指せば、無事に帰還できる。

 一本道となった迷宮の奥へと歩を進めると、やがて前方に広く開けた空間が見えてくる。前後に気を払いながらゆっくりと前進し、後衛を務める私と時坂君が空間に立ち入った途端、突如として乾いた破裂音が周囲に響き渡る。後方へ振り返ると、ゲートにも浮かんでいた朱い円状の紋様が揺らめいていて、来た道を完全に塞いでしまっていた。

 

「こ、これって」

「アキ、前だ。今度の相手は少しばかり厄介だぜ」

 

 足元から伝わってくる振動、発生源は十メートル程前方。見れば、古代文明の遺跡から飛び出してきたかのような巨像が一歩ずつ、私達を見下ろしながら足を動かしていた。数は左右に二体、サイズも威圧感もこれまで相手取ってきたグリードとはまるで別物だ。

 

「それぞれ二対一で当たりましょう。時坂君と遠藤さんは左をお願い。グリード戦の基本に立ち返って、確実に仕留めるわよ」

 

 ソラちゃんと柊さんが先陣を切って駆け出し、横薙ぎに振るわれた巨像の腕を掻い潜って奥側へと滑り込み、二体のうち一体の注意を引いた。まるでお手本のような二人の動きは実際に私の為、こう立ち回れという無言のメッセージを兼ねていたのだろう。今に始まった話ではないし、異界に入った時から様々な場面で三人の心遣いを垣間見ることができていた。

 

「時坂君、さっきと同じ流れでいきますか」

「ああ、初撃は任せてくれっ・・・・・・!」

 

 伸縮自在のレイジングギアの切っ先が、巨像の頭部へと真っ直ぐに襲い掛かる。巨像の注意が時坂君へ向いた隙を見計らってギアドライブを加速させて壁際に走り、跳躍からの三画飛びで巨像の背後へと回り込む。着地と同時に撃ち込んだ光弾が巨像の背で爆ぜ、頭上からパラパラと破片が降り注ぐ。

 決定打には程遠いものの、手応えはある。見た目通りに頑丈なグリードのようだけど、今の要領で叩き続ければいい。巨像の視線がこちらへ向いたら時坂君が、合わせて私、その繰り返しだ。

 

「時坂君、私がっ、か、くぁ・・・・・・!?」

 

 姿勢を屈めて駆け出そうとした、その時。突然地面が揺れて、声が詰まった。水中で目を開けているかのように視界がぼやけ、鋭い耳鳴りと込み上げてくる吐き気のせいで、立っていられなくなる。

 

「アキ!?」

 

 時坂君の声に返したいのに、声が出ない。四つん這いの状態から何とか視線を上げると、巨像は頭上に掲げた右腕を、今にも振り落とそうとしていた。

 もう間に合わない。そう考えた矢先に、間に割って入るように飛び込んだ時坂君の身体が遥か遠方へと飛ばされ、背中から叩き付けられてしまう。ソラちゃんの悲鳴が聞こえたのは、その直後のことだった。

 

_______________________________________

 

 終始意識は繋ぎ止めていた。ソラちゃんと柊さんによって巨像がジェムと化してすぐ、ソラちゃんが私に、柊さんが時坂君に肩を貸しながら、私達はガーデンハイツ杜宮の101号室、ソラちゃんの部屋へと向かった。

 

「そう。少量だけ口に含んでから、ゆっくり飲み込んで・・・・・・気分はどう?」

「大分、楽になりました。少し、気分が悪いですけど」

「無理をしては駄目よ。少しずつでいいわ、次第に良くなる筈だから」

 

 ベッドの上に寝かされた私は、柊さんの静かな声に従って、赤子のように補給食を与えられた。情けなさで涙が零れてしまいそうだったけど、泣いたら泣いたでより惨めな思いをしてしまう。

 

「コウ先輩はどうですか?」

「大丈夫だって、柊の術式のおかげで痛みもねえさ。それより柊、アキはどうしちまったんだ?」

 

 三人の視線が私へと向いた。柊さんは顎に手をやりながら、一つの可能性について語り始める。

 

「おそらくだけど、常時発動型のスキルが関係しているのだと思うわ。そういったソウルデヴァイスを使う適格者は、他者に比べて消耗が激しい傾向にある。彼女の場合は、それが顕著なのよ」

「でも気付かねえうちに倒れるぐらいだぜ。いくらなんでも激し過ぎねえか?」

「適格者として覚醒してからまだ間もないことも、一因なのかもしれないわね。時坂君やソラちゃんにも覚えはあるでしょう」

 

 消耗が激しい、か。言われてみれば、確かに極度の疲労が原因のように思えてくる。吐き気や眩暈なんかは典型的な症状だろう。補給食には即効性もあるおかげか、先程よりもかなり身体が楽になってきている。このまま休んでいれば、直に自分の足で歩けるようになるに違いない。

 

「ごめんなさい、遠藤さん。貴女のソウルデヴァイスの特性を見抜けなかった私の落ち度だわ」

「そ、そんなこと、言わないで下さい。私の注意が足りなかったんです」

「とりあえず事後処理を済ませちまおうぜ。アキは俺が看とくから、二人に頼めるか」

 

 異界攻略後の必須事項。その一つにフェイズ0となったゲートの監視がある。異界の主を討伐したことで脅威度もゼロになったのかと言えば、実のところそうでもない。極僅かな確率で、間を置かずにフェイズ1へと戻ってしまうケースがあるそうで、フェイズ0へ移行してから向こう三十分近くは油断してはならない。逆に言えば三十分が経過して以降の変化は前例が無く、可能性はゼロと判断してもよいとされていた。

 

「分かりました。アキ先輩、冷蔵庫の飲み物とか、自由に飲んで頂いて構いませんからね」

「ありがとう、ソラちゃん」

 

 私と時坂君を残して、柊さんとソラちゃんはゲートがあった裏路地へと向かった。時坂君は私に代わって台所に立ち、コップを探し始める。他人の部屋の冷蔵庫を開けるのは誰だって気が引けるものだけど、それが他者の為なら迷わずに行動する辺り、時坂君らしいと思う。

 ソラちゃんの部屋は思いの外可愛らしい小物の類で溢れていて、室内に干されている空手着や専門誌を除けば、私なんかよりもずっと女子高生らしさが感じられた。

 

「アキ、何が飲みたい?」

「すみません、お水をお願いします」

「水でいいのか?俺が言うのもなんだけど、色々入ってるぜ。スポーツ飲料とか」

 

 正直なところ、今は水しか喉を通りそうにない。この調子なら明日には全快してくれるだろうけど、やはり今は大人しくしていた方が良さそうだ。

 私は上半身を起こして、時坂君が注いでくれた冷水を一口飲み込んだ。ただの水を存分に味わった私は、テーブルの上にコップを置いてから、時坂君に頭を下げて言った。

 

「その。私のせいで、あんな目に遭わせてしまって。何て言ったらいいか」

「聞いてなかったのかよ。もう痛みもねえし、そもそもアキが謝ることじゃねえだろ」

「でも私、自分のことばかり考えていて。覚悟はしていたのに、私のせいで他の誰かが、なんて。考えていませんでした。軽かったんです」

 

 私の言わんとしていることを察したのか、時坂君は私から視線を逸らし、口を開こうとはしなかった。かと思いきや、突然上着を脱ぎ始め、左腕の袖を捲り上げながら、まるで予想だにしない返答を並べた。

 

「どうしても謝りたいってんなら、俺じゃなくて柊に言ってくれ」

「え・・・・・・柊、さん?」

 

 謝るべき相手は時坂君ではなく、柊さん。その意味を問う時間すら無く、私は時坂君の左腕、上腕部に薄らと刻まれた『傷痕』に目が止まった。

 

「4月に柊と異界へ飛び込んだ時の傷だ。左程痛みも感じねえ切り傷だったけど、まだ傷痕が消えなくてな」

「・・・・・・軽傷、だったんですよね?」

「まあそうなんだけどよ。なあアキ、この間俺が言った『生存率』の話を覚えてるか?」

「あ、はい。あの後に私もサイフォンで調べたんです。確か82・2%でしたよね」

 

 ―――貴女は異界に飲まれたまま、行方不明になっていたかもしれない。カラオケボックスで突き付けられた可能性が、生存率という数値を伴うことで、一気に現実味を帯び始める。今回の異界探索だって同じだ。もしあの場に私しかいなかったら、私はあのまま果ててしまっていたに違いない。

 

「俺達は知識も経験もゼロに近い。柊が言うように素人も同然だ。そんな奴らがプロでも生存率八割強の世界に飛び込んでいいのかって、今でも考える時がある。柊が俺達の協力を快く思わねえのも、当たり前だと思わねえか」

「時坂君・・・・・・」

「俺達は自分で覚悟を決めちまえばそれで終いだ。でも柊は、全員分の覚悟を背負ってる。普段は表に出さねえだけで、柊が一番恐れてるのは俺達のことだ。俺達の傷はあいつの傷でもあるんだ。そんな馬鹿な話があっていい訳ねえだろ?」

 

 だから、か。だから時坂君は柊さんの知らないところで、左腕の傷を心に刻んでいる。時坂君が傷を負った時、柊さんはどんな顔をしたのだろう。私が倒れてしまった時は、どれ程の葛藤に苛まれたのだろう。少なくとも私達の比ではない。巻き込んではならないという理念と、私達の意志の板挟みになりながら、それでも柊さんは私を受け入れてくれた。異界に踏み込もうとした時、そっと手を握ってくれた。それが柊アスカという人間で、だからこそ時坂君も同じように苦しんでいる。全く逆の立ち位置にありながらも、二人共似た者同士。本質的には同じだ。

 

「だからアキ、改めて言っておくぜ。お前の力を貸してくれねえか」

「え?」

「全員で力を合わせれば、一人分ぐらいには手が届く筈だろ。俺達は柊の協力者だ。あいつの足枷にだけはなりたくねえし、成り下がる訳にはいかねえんだ。それだけは分かってくれ」

 

 きっと時坂君は、今回の一件で私が臆してしまうと考えたのだろう。改めて言われなくたって、そんなつもりは毛頭無いというのに。

 時坂君らがどういった経緯で柊さんの下に集ったのか、話は聞き及んでいる。柊さんがいなかったら、時坂君はこの場に立っていなかったかもしれない。ソラちゃんもユウ君も、私だってそう。何より誰もが柊さんを慕っている。救われた云々は、建前上の動機に過ぎないのだろう。

 私達には充分な知識も訓練経験も無い。でも『単身』は当て嵌まらない。私達の生存率は私達次第だ。適格者の数だけソウルデヴァイスが存在するように、可能性だって統計では語れない。

 

「勿論です。私なんかでよければ、今後も協力させて下さい」

 

 私が差し出した右手を、時坂君は握って応えてくれた。

 

「ああ、こちらこそだ・・・・・・ワリィ、暑苦しく語っちまった」

「あはは。何だか話が置き代わっちゃった気がしますね。時坂君は良い意味で口が上手いです」

「柊には負けるっての。先週だったか、口論になった時も惨敗したしな」

「そうなんですか。ちなみに、どんな話を?」

「満面の笑みで『もしあなたが一流の消防士だとして、水が入ったバケツを持った素人集団を連れて、火災現場に踏み込む勇気があると言いたいのね』だぜ。怖過ぎだっての。エルダーグリードもフェイズ0を決め込むレベルだろ」

「そうして貰えると私も楽ができるわね」

 

 私が初めて目の当たりにした壁ドンは、私が知る壁ドンではなかった。

 

_______________________________________

 

 時坂君が放課後アルバイトへ向かった後、私は自室のベッドに移り、柊さんと二人で今後の方針について話し合った。

 まずは私のソウルデヴァイスについて。覚醒してからまだ間もないとはいえ、今日の一件とライジングクロスの長短所を鑑みて、私が異界化に関わる際には必ず『事前』に補給食を摂取するという取り決めが為された。相場を聞いてしまった以上心苦しいというのが本音だけど、また異界で力尽きて倒れるよりかは遥かにマシだ。

 二つ目が自己管理とソウルデヴァイスの調整。補給食は勿論、異界探索に必要となる物資は自前で用意し、更にサイフォンを介したライジングクロスの改良を重ねることで、より効率的な立ち回りを身に付ける。要するに柊さんや時坂君らが当たり前に行っていることを、今後は私にも求められるということだった。

 

「サイフォンを介した改良と言われても分かり辛いかもしれないけど、実際に触ってみれば自ずと理解できる筈よ。今後もそのサイフォンは貴女に預けておくわ」

「あ、ありがとうございます」

「異界関連の技術者には私の方から話を通しておくから、遠藤さんは・・・・・・ねえ遠藤さん。さっきから何を笑っているの?」

 

 目を細めて私を見下ろしてくる柊さん。口元をタオルケットで隠していたつもりだったけど、バレバレだったようだ。

 二人っきりで話をするぐらいだから、もっと酷な言い方をされるとばかり思っていた。客観的に見て今日の私は『強引に足を突っ込んできた素人が急にぶっ倒れた』状態だった訳で、何を言われたって文句は言えないというのに。私自身は退くつもりがなかったけど、それとこれとは話が別だ。

 でも柊さんは当然のように、私の居場所が在り続ける可能性を示してくれた。ついこの間は「全て忘れろ」と言っていたにも関わらず、柊さん自身が私の意志を汲んでくれている。時坂君の熱烈な弁舌は一体何だったのかとさえ感じてしまう。噛み合っていないような、その実噛み合っているような。

 

「まあいいわ。異界探索に関わる支出管理は、全て時坂君に任せてある。入り用の時は時坂君にお願いすればいいし、彼と一緒に関係者を回れば顔も覚えて貰えるでしょう」

「時坂君が・・・・・・柊さんは、時坂君を信用しているんですね」

「どちらかと言えば信頼かしら。人間性まで認めた覚えはないわ」

「でもすごく仲が良いように見えますよ」

「遠藤さんよく聞いて。貴重な良識人枠を自ら捨て去るような言動は慎みなさい。この先やっていけるかどうか不安になるの。お願いよ」

 

 私はいつの間にそんな立ち位置にいたのだろう。柊さんから頼りにされているような気がして胸が熱くなる想いな一方で、柊さんが頼るべきはどう考えたって私ではなく時坂君ではなかろうか。

 

「貴女は随分と彼のことを買っているのね」

「男性じゃなくて、人として好きです。柊さんも、同じですよね?」

「・・・・・・だから、余計に困るのよ」

 

 柊さんは指で摘むように眉間を押さえた後、そっと小声で呟きながら立ち上がり、玄関口へと歩を進めた。

 

「まだ調べたいことがあるの。今日はこれで失礼するわ」

「はい。今日はありがとうございました」

「それは・・・・・・フフ、こちらこそ。これからも宜しくお願いするわね、遠藤さん」

 

 私は上半身を起こして柊さんの背中を見送り、一瞬だけ聞こえた雨音の後、一人暮らしの静寂が訪れた。

 

_______________________________________

 

 

 

~異界あるある① 装備品確認~

 

「遠藤さん、装備品の最終チェックをするわよ。サイフォンは所持している?」

「はい、あります」

「補給食は?」

「二つ用意しています」

「各種アプリのバージョン確認」

「最新の物に更新済みです」

「スパッツ」

「この通り、予備も含め三着分」

「完璧ね。さあ、行くわよ!」

「コウ先輩、どうかしましたか?」

「うるせえこっち見んな」

 

 

 

~異界あるある② 顕現~

 

『疾れ、ライジングクロス!・・・・・・あれ?疾れ、ライジングクロス!・・・・・・んん?何でだろ。疾れ、ライジングクロス!・・・・・・おっかしいなー、アプリは起動してるのに。疾れ、ライジングクロス!』

「アンタの姪っ子は部屋で何やってんの?」

「流行ってんじゃない?この間ソラちゃんもやってたし」

 

 



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5月22日 五月雨の水溜り

 物心が付いたばかりの、子供の頃。水溜りの中を往くことが多かった。

 敢えて水溜りの中に足を入れて、水飛沫を散らした。

 

『おいこら。学園内じゃ知らねえ振りを決め込むんじゃなかったのか』

『いつの話をされているんですか。あれからもう一年以上も経っているんですよ。食事へ向かう道中に、同級生と会話を交わすぐらいなら、何の問題も無いかと思いますが』

 

 皆が往く道を避け、皆が避ける水溜りの中を歩いた。

 泥水に塗れて真っ黒になっていると、集まってくる人間達も泥に塗れていて、真っ黒だった。

 彼女はそんな自分が本当は嫌いで、彼はそんな自分が心底好きだった。

 

『期末考査の成績、また伸びていましたね。この一年間で、本当に見違えました』

『何で知ってんのかは聞かねえでおくぜ。ま、誰かさんの教え方が良いからな』

 

 でもあの頃は、毎日が目まぐるしく。

 頭上を仰ぐと風花が舞い、知らぬ間に過ぎ去っていた四季の先に、今日が在る。

 

『何でしたら、来月から同じクラスというのは如何でしょう。手間も省けて言うこと無しです』

『どうしてお前にそんな権限が・・・・・・やれやれ。相変わらずお前は、底が知れねえな』

 

 足元の水溜りに、気付く暇も無く。沢山の理不尽や矛盾に、腹を立てる暇さえも無く。

 一日一日が安寧と平穏に充ちていて、ただただ世界が回っていく。

 

『話は変わるが、女ってのは冬でもあんみつを食うもんなのか』

『あんみつ、ですか?まあ、そうですね。冬でも冷製のデザートはそれなりの需要が・・・・・・ああ成程。フフ、高幡君らしくて良いと思いますよ?きっと喜んでくれます』

『ったく、笑いながら言ってんじゃねえよ。おら、ダチが呼んでんぞ』

『はい、今日はこれで。今度、お店に顔を出しても?』

『言っとくが、俺はまだあんみつしか出せねえぜ』

『充分です。大好きですから』

 

 一瞬だけど永遠に思えるそれらのことが、彼女は大好きだった。

 永遠のように思えるけど一瞬に過ぎないのだから、彼は大嫌いだった。

 二人を置いてけぼりにして、それでも世界は、回っていた。

 

_______________________________________

 

 5月22日、金曜日。昼休みに部室を使わせて欲しいという私の願い入れを、部長であるアリサ先輩は快く承諾してくれた。私は最近知ったけど、休憩時間や昼休みを部室で過ごす生徒は割かし多いようで、部員以外が利用していることさえ伏せておけば、別段変な目で見られることもないだろう。

 外では一時間程前に昨日から続いていた五月雨が止み、敷地内の至る場所で大きな水溜りが斑点模様を描いている。テニスコートも例外ではなく、お世辞にも整った環境とは言い難い分、すぐには使用できそうになかった。

 

「こういう日って、テニス部はどうしてんだ?」

「場合によりますけど、コートの水捌けが良くなるように、大きめのスポンジを使って水溜りを除去したりしますね。何処も一緒だと思いますよ」

「うわ、僕には理解できない世界かな。外で掃除機をかけるようなものでしょ」

「ユウキ君ってよく極端な表現をするよね・・・・・っと、アスカ先輩、紅茶のお代わり要りますか?」

「ええ、頂くわ・・・・・ではなくて。そろそろ雑談は止めにして欲しいのだけど」

 

 柊さんの声に棘が生えたところで、四方山話に区切りが付けられる。当然この場に五人の適格者が勢揃いした目的は、食後のお茶会に興じる為ではなく、テニス部の日常を共有する為でもない。ここ数日の杜宮市内における動向と時坂君の証言、そして柊さんが収集した情報の接点を見い出すことにあった。

 

「時系列に沿って整理していきましょう。ソラちゃん、お願いできるかしら」

「分かりました。ユウキ君も手伝ってよ」

「はいはい」

 

 ペンと紙というシンプルな道具を使い、二人が事の経緯を纏めていく。昼休みが終われば、この紙は柊さんによって職員室のシュレッダー行きになるに違いない。そういった面に柊さんは特に気を遣う。だからこそアナログな道具を使用するのだろう。

 

「ねえユウキ君、『みすい』ってどういう字だっけ」

「『未遂』。嫌だねー、現代っ子は変換に頼り過ぎてロクに漢字も書けないんだから」

「ソラもお前にだけは言われたくねえだろうよ」

「かわいくないなぁ。ユウキ君って苦手な科目とか無いの?」

「無いけど。でも今の時代に『調理実習』なんてアナクロ過ぎでしょ」

「いや普通だろ。そういや、一年の時にあったっけな。もう終わったのか?」

「まだですよ。確か来月って聞いてます。C組も同じ時期だよね?」

「風邪をひく予定入れてるからどうでもいい」

「そうなんだ。じゃあ当日は迎えに行くね」

「あ、あのー」

 

 私の控え目な声を聞いて、三人が漸く柊さんの視線に気付く。笑ってはいるけど、目が笑っていない。目力だけでみんなを黙らせてしまう辺り流石は柊さんだ。先日に時坂君が使った「エルダーグリードもフェイズ0を決め込むレベル」という表現も言い得て妙、なんて本人に聞かれたら即座に異界へ飲み込まれてしまいそうだ。

 柊さん曰くクラス委員長に立候補したのは、日常に溶け込んで裏の顔を隠すことが目的だったそうだけど、本質的な部分で適役のように思える。いや、どちらかと言えばしっかり者の副委員長タイプだろうか。

 

「どうしたの?」

「え?ああいや、何でもないです」

 

 両手を振って柊さんから視線を外し、現時点でB4サイズの紙に記された項目に目を通す。

 

 

・一年半前(?):不良チーム『BLAZE』が解散、以降は噂話も聞かなくなる。

・4月上旬(3月かも?):『BLAZE』が復活したという噂が流れる。目撃証言も多数ある(一部偽物説もあり)。

・同時期:暴行や恐喝未遂といった事件が立て続けに市内で発生し始める。人間離れをした力を目撃したという被害者の証言が複数ある。

・5月20日:小日向先輩がBLAZEメンバーによる恐喝未遂に遭い、その際に高幡先輩が偶然(?)その場に居合わせる。

 

 

 中でもとりわけ目を引くのは、不良チーム『BLAZE』の存在と、文字通り人間離れでは済まされない『力』についてだろう。

 

「時坂君達は、前々からBLAZEを知ってるんですよね」

「中学の頃は色々聞いたぜ。親父狩りの犯人を探し出してシメちまったとか、ヤンキーに絡まれてたところを助けられたって奴もいたっけな」

「・・・・・・悪行が美化されていたって話でもなさそうですね。少し釈然としませんけど」

「そりゃ不良呼ばわりされるぐらいだから、良くねえ話もちらほら聞いたぜ。でも大体はそんなだったし、義理堅くて男気のあるチームとして知られてたんだよ」

 

 伏島に住んでいた頃も、不良チーム云々の噂ぐらいは耳にしたことがある。内容といえば暴力的で物騒というか、飲酒や喫煙が他愛無い悪事に思えてしまうような物だけ。当たり前だけど、良い話なんて一つも無かった。だからこそ『不良』と総称される一方で、ここ杜宮におけるBLAZEは事情がかなり異なっているようだ。うん、ここまではいい。

 

「そんで去年の年明け頃だったな。BLAZEが解散したって噂が流れ始めて、実際にここ一年半ぐらいは全然話を聞かなかったんだ」

「でも最近になって、そのBLAZEが復活した・・・・・・そして柊さんが集めてくれた情報ですね」

「ええ。突拍子が無さ過ぎたせいか、表沙汰にはなっていなかったけど、複数の証言を聞けたわ」

 

 不良チームの復活だけなら、取るに足らない些細な話題に過ぎない。かつては義理堅く美談ばかりが目立っていたチームが、暴行や恐喝を繰り返す集団に変貌したとしても、私達にとっては遠い話としてしか聞こえない。

 でも柊さんの話と合わせてしまえば、事情は一変する。紙に記されているように、被害に遭った人間達の多くは揃って『あり得ない力』の存在を匂わせた。『コンクリートを素手で砕いた』『街路樹を薙ぎ倒した』『自動販売機を持ち上げた』といったように、到底同じ人間とは思えない力を振るった。そんな証言を、柊さんは被害者達から複数聞いたというのだ。

 

「素手で壁壊すぐらいは郁島だっていつもやってるけどね、異界で」

「いつもじゃないもん」

 

 膨れっ面のソラちゃんが最後の項目を書き終えてから、ペンを置いた。

 

 

・5月21日:BLAZEメンバーと一般人のいざこざにコウ先輩が居合わせ、この時も人間離れをした力が使われる(紅い瞳?)。更に小日向先輩の一件と同じで、高幡先輩がタイミングよく駆け付ける。『BLAZE』と何らかの因縁がある模様。

 

 

 内容を照らし合わせれば、小日向君が恐喝に遭った時とほぼほぼ似たような物だろう。でも今回は被害者の証言という間接的な情報ではなく、時坂君の実体験。事態の深刻さに対する認識もまるで異なってくる。時坂君は身を以って『力』の程に触れたのだ。

 

「確かにあれは異常だった。それにあの『紅い瞳』・・・・・・柊、今回も『異界化』が絡んでるとして、一体何が起きてるってんだ?」

 

 時坂君の問い掛けに、部室内に今日一番の緊張感が漂い始める。

 4月に時坂君が見舞われた異界化に始まり、一連の事件の真相は私も聞かされている。でも今回の一件は、そのどれとも違う。もし本当に異界が関わっているとするなら、余りに異質だ。何せ間接的に巻き込むのではなく、現実世界の人間に『直接』何かしらの影響を及ぼしていることになる。

 しかも話を聞く限り、BLAZEメンバーはそれを意識的に力に変え、振るっている。BLAZEを介して、もう何人もの被害者が続出しているのだ。異界を知る人間として、指を咥えて黙っている訳にはいかない。

 

「まだ兆候しか掴んではいないけど、詳細を調べてみる必要があるわね。まずは私達で・・・・・・コホン。時坂君、今回も協力を仰いでも構わないかしら」

「一々聞くなっての。つーか何で俺だけなんだよ」

 

 不満そうな時坂君に構わず、柊さんが一人一人に確認を取っていく。このやり取りはなんだろう。随分と形式的だし、必要性を余り感じない。答えも決まっているというのに。

 

「実際に動くのは放課後以降として、今のうちに動き方を決めておいた方がいいわね。被害者の証言は既に集まっているから、あとは被害現場の洗い直しと、聞き込みによる情報収集をして回りましょう」

「でも被害現場って結構な数があるだろ。二手に分かれた方が良くないか?」

「ええ。今回は二人ずつ、二手に分かれて調べましょうか」

「了解だ・・・・・・って、それだと一人余るだろ」

 

 五から四を引くところは一。当たり前の指摘を受けた柊さんの視線が、私へと向いた。

 

「遠藤さん。申し訳ないけど、貴女には一人で調べて貰いたいことがあるの」

「あ、はい。いいですけど・・・・・・何をすればいいんですか?」

「水溜り掃除じゃない?」

「ユウキ君は黙ってようね」

 

 ソラちゃんがユウ君の耳を摘まみ上げていると、柊さんは苦笑いをしてから続けた。

 

「まあ当たらずとも遠からずね。遠藤さんには高幡先輩の話を聞き出してきて欲しいのよ」

「高幡先輩、ですか」

 

 一昨日と昨日。BLAZEメンバーによる二つの騒動の現場に、タイミング良く姿を現した高幡先輩。小日向君と時坂君の話では、どうも高幡先輩はBLAZEと何かしらの関係があるようで、二件とも単なる偶然が重なったとは思えないとのことだった。確かに私が初めて会った際にも高幡先輩はBLAZEの名を口にしたし、よくよく考えればあれが一番最初の手掛かりでもある。

 

「そっか。エリカ先輩は高幡先輩と同じクラスですし、部活動をしながら話を聞いてきて欲しいってことですか?」

「そう。察しが早くて助かるわ」

 

 エリカ先輩に限らず、もしかしたら他の二人の先輩からも話が聞けるかもしれない。何より部活動に支障が出ないように、という柊さんの心遣いを感じ取ることができる。今日はコートの整備だけで終わってしまいそうだけど、大変に有難い限りだ。何とかして情報を手に入れて見せよう。

 

______________________________________

 

 ―――放課後。私達女子テニス部員はジャージ姿に着替えた後、開始約五分でジャージの上下共々を泥だらけにして、地道に作業を続けていた。

 テニスコートの質は学校によってピンキリで、杜宮学園はどう考えたって下から数えた方が早い。水捌けは悪いし、二面のうち一面は死人憑きのせいでポールが破壊され使用できない上に、整備に使用する道具も満足に揃っていない。名門校ならいざ知らず、廃部寸前だった杜宮学園女子テニス部には僅かな部費しか回って来ないのだから当然である。

 結局水気を除去するには、水溜りに縦横一メートル程度のスポンジを置いて水を吸わせて、適当な場所で絞る。これを繰り返すしかない。贅沢を言うつもりはないけど、もっと人手は欲しいというのが正直なところだ。

 

「ああもう、マジでキリがねえな」

「ですね・・・・・・以前は二人でやっていたんですか?」

「ええ、そうね。部員が倍になっただけでも助かるわ」

 

 この広さをたった二人で、か。想像するだけで気が遠くなる。ともあれ不満を吐いても仕方ない。新しいシューズを試す為にも、しっかりと働こう。

 

「あら。遠藤さん、貴女シューズを買い換えましたの?」

「買い換えたというか、新しいモデルを試して欲しいと昨日頼まれまして」

「初日から泥だらけになってるぞ・・・・・・」

 

 泥だらけならまだいい。異界ではギアドライブを使うせいで、相当な負荷が掛かっている筈だ。テニスに使用する前提で設計された試作品を、異界で酷使してもいいのだろうか。私としては動き易くて大助かりだけど、凄まじく嫌な予感がする。

 

「あ、そうだ。エリカ先輩、高幡先輩は今日も欠席でしたよね?」

「これで八日目ですわ。担任教師も頭を抱えているようですわね」

 

 無理もないか。変な噂が立ち始めているという話だったし、クラスメイトの間でも色々な憶測が飛び交っているのだろう。事情はどうあれ担任泣かせ、困った先輩だ。

 コートの端でスポンジを絞っていると、隣に立っていたアリサ先輩が頭上を仰ぎながら言った。

 

「高幡君かぁ。彼が転入してきたのは、一年生の時の冬休み明けだったかしら」

「え・・・・・・転入、だったんですか?」

「ええ、そうよ。私とエリスは一年生と二年生の時、彼と同じクラスだったの」

 

 これは初耳だ。てっきり三人の先輩らと一緒に入学して、同じ時間を共有してきたとばかり考えていた。私や柊さんと一緒で、高幡先輩は年度の途中から杜宮学園生となった転入生だったようだ。

 

「ねえエリス、覚えてる?高幡君が転入してきた時の話。確か年明けよね?」

「おう。あの頃から金髪だったから、女子はみーんなビビッて話し掛けようとしなかったっけな」

「そうそう。成績も悪かったから、私達は典型的な不良生徒だなって思っていたの」

「・・・・・・思って『いた』?」

 

 過去形で言い終えたアリサ先輩の表現に引っ掛かり、私は少しだけ大袈裟に首を傾げた。

 

「確か二年生に上がって、二学期が始まった頃からよ。いつの間にか成績が良くなってて、驚かされたのを覚えているわ」

「科目によっては上位に入ってたし、裏で相当勉強してたんじゃねえかな」

 

 高幡先輩を見る周囲の目が変わり始めたのも、同じ時期。口数が少なく取っ付き辛さは相変わらずだったものの、不良生徒らしい噂の類も無く、少しずつではあるけれど、高幡先輩に対する印象が変化していった。そもそも学園内で問題を起こしたことも無いのだから、外見や性格だけで勝手な誤解を抱き、色眼鏡で見てしまっていたことに気付かされたのだそうだ。

 それにしても、二年生の間で広まっていた噂とは随分と差がある。伊吹君なんかは本気で『学園最凶の不良生徒』だと信じていたし、一年生でも同様だとソラちゃんが言っていた。

 

「無理もありませんわ。部活動にも参加していませんし、接点が無い以上外見だけで判断されても自業自得というものでしょう。校則に反して髪を染めていることだって原因の一つですわ」

「それもそうか・・・・・・でも確かに、悪い人ではないですよね」

「フフ、変わったところもあるわね。彼には失礼だけど、去年のホワイトデーは笑わせて貰ったわ」

「ホワイトデー?」

 

 事の始まりは去年の2月14日、バレンタインデー。折角の機会だからと、アリサ先輩は小振りのチョコレートを量産し、クラスの男子全員に配って回ったらしい。市販の物をテンパリングしただけのやっつけチョコレートな分、アリサ先輩は見返りなんて求めていなかった一方で、たった一人だけ律儀に手作りで返した男子生徒、それが高幡先輩だった。

 

「驚いちゃったわ。だってタッパーに入った『白玉あんみつ』を渡されたのよ」

「あ、あんみつ?」

「訳を聞いたら、『手作りには手作りで返すのがスジだろ。女が好きそうなもんで俺が作れんのはこれしかねえからな』だって。真顔で言うのよ、笑うしかないじゃない」

 

 成程。そういえば蕎麦処『玄』では、あんみつ系のデザートも出していたか。その辺りが関係していそうだけど、確かにタッパーで手作りあんみつを渡されたら私だって笑う。

 

「でも悪い気はしなかったわ。素直に良い人だなって思えたし、きっとそういう人なのよ」

「数は少なそうだけど友人っぽい奴もいるし、結構モテるしな。何人か告ってなかったか?」

「三年に上がってからも一度ありましたわね。私には全く理解できませんわ」

 

 先輩らが口々に恋愛話に興じ始めた頃、コート脇のベンチに置いていた私の携帯電話から着信音が鳴った。私は先輩に一声掛けた後、ベンチにあったタオルで手早く泥を拭き取り、急いで着信の主を確認する。電話は時坂君からだった。

 

「はい、遠藤です」

『時坂だ。今話せるか?』

 

 時坂君が手短に状況説明を始める。時坂君はユウ君と一緒に情報収取をして回っていて、現段階で掴んでいる有力な手掛かりは、BLAZEが溜まり場として利用しているダンスクラブが蓬莱町のあるという情報。今はユウ君と二人で蓬莱町へ移動をしている最中だそうだ。

 

『ダンスクラブなら日が暮れた頃から人が集まり出す筈だ。頃合を見計らって入り込めば、何か聞き出せるかもしれねえからな。そっちはどうだ?』

「え?」

『高幡先輩の話だよ。何か聞けたか?』

 

 言われてからハッとする。私の目的はあくまで高幡先輩に纏わる情報を聞き出すことであって、決して水取りと雑談ではなかった―――筈なのだけど、白玉あんみつのインパクトが大き過ぎて、すぐには浮かんで来ない。というより、有力そうな情報があっただろうか。不味い、転入生だったという情報以外、何も出てこない。

 

「えーとですね。高幡先輩も私と同じで、一年半前に杜宮学園へ転入してきたそうなんです」

『一年半前に・・・・・・ん?そういや、BLAZEも同じ時期に解散したって話だったな』

「そ、そうそう!そうなんです。何か関係があると思いませんか?」

 

 今気付きました、という本音を丸飲みにしてから、私は上擦った声で通話を続けた。

 

『詳しい話は後にするか。柊とソラにも話はしてあるから、時間があったら合流してくれ』

「分かりました。後で向かいます」

 

 通話を終えてから、大きな溜め息を付く。

 もっと集中しよう。異界化が関わっている可能性がある以上、注意を怠っては駄目だ。死人憑きの一件を鑑みても、どんな些細な情報が取っ掛かりになるか分からないのだ。

 

「おーい。サボってないで手伝えっての」

「す、すみません。今行きますっ」

 

 エリス先輩に促され、携帯を置いてから駆け出す。今度は足元の注意を怠ってしまったせいか、大きな水溜りに右足を突っ込み、新品のシューズが本格的に泥まみれになってしまった。

 

________________________________________

 

 時坂君と会話をしてから約一時間後。大きな水溜りが大方消えた頃、これぐらい水を取ればもう充分だろうということで、今日の部活動は早めに切り上げとなった。私は部室に戻り急いでジャージから制服に着替え、念の為にスパッツを履いてから駐輪場へ向かった。

 そして現時刻は18時。息が切れる程に自転車を飛ばしたおかげで、日が暮れるよりも前に蓬莱町の玄関口に辿り着くことができていた。私は自転車を道端に停めて、呼吸を落ち着かせてから時坂君のサイフォンを鳴らした。

 

(・・・・・・出ない?)

 

 一度目の通話は失敗に終わり、留守番電話サービスの音声が流れてしまう。もう一度掛け直そうとした矢先に、今度は私の携帯が鳴り、ディスプレイ上には柊さんの名が浮かんでいた。

 

『遠藤さん、もう部活動は終わったの?』

「はい。えと、時坂君から話を聞いて、蓬莱町に来たところです」

『あら、私達もちょうど着いたところよ。玄関口のバス停にいるわ』

「バス停?バス停ならさっき通り過ぎて・・・・・・あっ」

 

 対面から発車したバスが巻き上げた風を手で遮り、前方を見やる。こちらに向かって歩いて来る柊さんと、右腕を頭上で大きく振るソラちゃんの姿に目が止まった。偶然にも全く同じタイミングで到着したようだ。

 

「お疲れさまです、アキ先輩。コウ先輩から話は聞いていたんですか?」

「うん。ダンスクラブに向かうって話だったよね」

「私達も被害現場を回り終えたから、バスで駆け付けたところだったの」

 

 同時だったの着時間だけではなく、柊さんも時坂君と連絡を取る為にサイフォンを鳴らした直後だったようで、これも同じく空振りに終わっていた。

 

「んー・・・・・・ユウキ君も出ませんね。どうしますか?」

「もうダンスクラブへ入っているのかもしれないわね。私達も行きましょう」

「場所は分かるんですか?」

「バスの中で調べてあるから、このまま・・・・・・待って」

 

 すると突然、柊さんの表情が変わった。柊さんがサイフォンを素早い手付きで操作すると、サイフォンが振動を始める。ディスプレイ上にはパーセンテージが表示されていて、数値は真っ赤に染まっていた。見覚えのある画面に、全身から汗が噴き出していく。

 

「い、異界化!?」

「この強度はっ・・・・・・『フェイズ2』ね。二人共、ついて来て!」

「了解です!」

 

 柊さんが先んじて駆け出し、私とソラちゃんがその背中を追った。繁華街の玄関口から真っ直ぐ道沿いを走り、三叉路を向かって左側へ。更に奥へと進んでいくと、一画の空間だけが歪んでいて、ゲートはフェイズ2を示す朱と黒に染め上っていた。ゲートの隣には、時坂君とユウ君の姿もあった。

 

「時坂君っ!」

「柊っ・・・・・・ナイスタイミングだ!詳しい話は後でいいか!?」

「そうしましょう。その様子だと、人が取り込まれたのね?」

「ああ。高幡先輩が飲まれちまったんだ」

「そ、そんなっ・・・・・・!」

 

 高幡先輩が巻き込まれた。その事実だけで充分だ。私は上着に入れておいた補給食の蓋を開けて、中身を一気に胃の中へと流し込んだ。周囲にゴミ箱は見当たらず、私は強引に容器を丸め、再度上着の中へ捻じ込むと、それが合図となってみんなが身構える。柊さんの一声で、私達はゲートの向こう側目掛けて走り出した。

 

_______________________________________

 

 昨日の異界とは打って変わって、異界の内部は視界が不明瞭。灰色の霧のようなものが立ち込めていて、ソウルデヴァイスを顕現させてからも息苦しさを覚えた。周囲を見渡した限りでは、迷宮というよりも『洞窟』。歪な岩肌に絡み付いた木の根のような植物は、ここが現実世界の地下深くであるという錯覚を抱かせた。

 

「濁度が百を超えちまってる。視界も悪いし、かなり厄介そうだな」

「時間を掛ける訳にはいかないわ。高幡先輩は最奥部まで飲み込まれてしまった可能性がある。すぐにでも出発しましょう」

 

 霧を吸い込んでしまわないよう、大きくゆっくりと息を吸い込んでから、吐き出す。繰り返し、もう一度。

 

「遠藤先輩、どうかした?」

「・・・・・・ううん、何でもない」

 

 一歩目が、出ない。足が一歩目を踏み出そうとしてくれなかった。

 いい加減にしろ、私。ここに来て臆する人間が何処にいる。前回は初めての探索だっただけで、誰にでも失敗は付き物だ。不慣れで何も分かっていなかったから、みんなに心配を掛けてしまっただけだろう。足りない物は補えばいい。過ちは改めればいい。

 

「あの、一つお願いがあります。少しの間、耳を塞いで貰えませんか?」

「耳をって、別に構わねえけど。何かあんのか」

 

 聞きながら時坂君が両手で耳を覆い、戸惑いつつも三人がそれに続く。全員の聴覚が大まかに遮断されたところで、私は胸一杯に淀んだ異界の大気を吸い込んだ。

 

 

「おおおぉぉるああぁあっ!!!!」

 

 

 私らしくいこう。縮こまっていては満足にスウィングが乗らないし、ヘッドも走らない。声と一緒に振り切って、思う存分走り回ろう。そうすればきっと、ライジングクロスも応えてくれる筈だ。私なら、きっとできる。

 心機一転、ギアドライブを加速させて前方を見ると、頭を抱えて蹲る四人の姿があった。

 

「あれ。耳を塞いでってお願いしたと思ったんですけど」

「塞いでたさ!?塞いでたけど鼓膜を直に触られた気分だよ!!アンタ馬鹿だろ!?」

「で、でもアキ先輩とはいえ、今の声は流石に凄過ぎませんか?」

「成程ね。これも異界における適格者としての力の一つなのよ。遠藤さんの場合は、特に『発声』や『肺活量』が向上しているのだと思うわ」

「でけえ声が更にでかくなっただけだろ・・・・・・」

 

 貶されているのやら、褒められているのやら。判断に困っていると、前方から見覚えのある集団が前進して来る。グリードの中でも様々な亜種が存在すると聞かされた、ゴブリン族のグリード。ざっと見ただけでも十体近い集団が、足並みを揃えて歩み寄って来ていた。

 

「・・・・・・もしかして、私のせいですか?」

「手間が省けて良かったんじゃねえか。どうせ相手をしなきゃなんねえ奴らだ」

「ま、強制エンカウント技も、レベル上げには割と便利な物だからね。クソうるさいけど」

「アキ先輩に負けないよう、私達も気合いを入れて行きましょう!」

「属性を考慮して私がストライカーを担うわ。四人は二人ずつ両翼に展開して陣形を崩さないように。さあ、行くわよ!」

「「おうっ!!」」

 

 私は声のトーンを抑えて、みんなと掛け声を重ねた。

 

 



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5月22日 二人の先輩

 

 5月22日、午後19時半。すっかり人気が無くなった杜宮記念公園の一画、遊歩道に囲まれた池のほとりに、僅かな歪みが生じる。直後に地上へと降り立った者達の姿は、幸い誰の目にも止まることは無く、辺りには夜の静寂だけが闇に溶け込んでいた。

 

「戻って来たか・・・・・・って、ちょっと待て。何処だよ、ここ?」

「あ、あれってユウキ君が住んでるマンション、だよね」

「待って待って、訳分かんないよ。どうして蓬莱町からこんな所まで移動してるのさ?」

「どうやら『地脈の揺らぎ』の影響を受けたみたいね。出現座標の変化・・・・・・そう珍しいことじゃないわ」

 

 アスカが言ったように、異界から現実世界へ帰還する際、様々な『変化』を伴う事例は多数報告されていた。所持品の消失や体調の変化、秒単位の時計のズレといった稀な現象の他、膨大なデータが蓄積した昨今においても、新たな事例が各地から集められている。出現座標の変化それ自体は大して珍しくも無く、アスカにとっては何度も経験したことがある一方、場合によっては『深刻な問題』になり兼ねないことから、最も研究が進められている分野でもあった。

 

「それにしても、あんな方法でグリードにとどめを刺すなんて、流石はアキ先輩ですね」

「まあカウンター技ってのは大体強力な設定で・・・・・・あれ。ねえ、遠藤先輩は?」

 

 ―――ザッパーン。

 たった一人、その被害に遭った不幸な人間がいた。『深刻な問題』の典型的な一例だった。

 

「ぷはっ!え、なに、ちょ、え?ふわ、なな、何で、ぷふ、ぺぺっ」

「何してんのーセンパーイ。まだ水泳には早いと思うけどー」

「あ、アキ先輩!?だ、大丈夫ですかー!?」

「だ、だいじょふ、自分で、およ、およよ、つ、冷たっ、冷たひぃ」

「なあ柊。お前の貸したサイフォンって防水?」

「当然でしょう。異界探索用に設計された最新機種よ」

 

 アキの旧モデルガラケーの行方を思いつつ、コウが無事に泳ぎ着いたアキへ手を差し伸べる。両腕を引かれて地上へ這い上がったアキは、身体を小刻みに震わせながら、大粒の水をぼたぼたと地面に落とし始めた。もう5月の下旬とはいえ、すっかり日の暮れた夜間に水浸しになってしまえば、一気に体温は奪い去られてしまう。

 この状況はどうしたものか。何が起こったのか理解し切れていないアキ本人を含め全員が途方に暮れていると、五人の輪から外れていた男子が一人、静かに口を開いた。

 

「さてと。洗いざらい説明して貰おうか・・・・・・と、言いたいところだが。そうもいかねえな」

 

 理由は勿論、皆の中央で鼻水を啜りながら凍えるアキ。一通りの事情を把握しているであろう人間が眼前に五人、すぐにでも問い質したいところではあったのだが、シオは優先順位を考慮し、一刻も早くアキを連れ出すよう視線で促してくる。

 

「仕方ねえ。おいユウキ、お前の部屋に行くぞ。ここから一番近いしな」

「ち、ちょっと待ってよ。駄目、今晩は絶対駄目だから」

「何でだよ。アオイさんでも来てんのか?」

 

 返答に詰まったユウキの様子から、シオを除いた全員が「図星か」と納得する。アキにとっては強引にでも押し入りたいというのが本音ではあるのだが、一陣の風が一層の寒気を引き起こし、震えによる体温の確保にしか気を向けることができなかった。

 

「時坂君、小日向君もあのマンションに住んでいると言っていたわよね」

「さっきから電話してんだけど、タイミングが合わねえのか繋がらねえんだよ」

「・・・・・・やれやれ。ちっと待ってろ」

 

 アスカに返しながらコウが上着を脱いでアキの背中に被せていると、シオが無言でサイフォンを取り出し、大きな右手一つで操作を始める。音量が大きめに設定してあったこともあり、シオのサイフォンから漏れ出てきた声に、全員の目が大きく見開かれた。

 

『はい、北都です』

 

______________________________________

 

「はぁあぁぁ・・・・・・へぁぁ」

 

 首から下の全てを絶妙な湯加減に委ね、体温と一緒に生きた心地を取り戻していく。こうして湯船に浸かるなんていつ以来だろう。アパートではシャワーで済ませるのが常だった影響か、身体が冷えに冷え切っていたことも相まって、もの凄く気持ちいい。気持ち良過ぎて変な笑いが込み上げてくる。

 

「へへ、うへへっ」

『遠藤さん。着替えとタオルを置いておきましたので、どうぞ使って下さい』

「は、はひっ!」

 

 おかげで返事までおかしなことになってしまった。完全に変質者だ。他人のマンション部屋で贅沢をするのも悪いし、あの北都先輩が日々使っているバスルームだと考えると畏れ多いこと極まりない。少し落ち着こう。

 

「はー・・・・・・」

 

 一旦肩から上をお湯から出して、頭上を仰ぐ。柊さんによれば、出現座標の変化自体はそう珍しくもないらしい。夜中に水泳をする羽目になった不運は仕方ないとして、今考えるべきは他にある。少し現状を整理しておくとしよう。

 まずは時坂君とユウ君側から。噂に聞いていた通り、不良チームBLAZEは一年半前に一度解散していた。当時は『カズマ』という男性と高幡先輩がリーダーを務めていた一方で、最近になって復活した新生BLAZEに高幡先輩は関与しておらず、現在は『アキヒロ』という男性が先頭に立って活動している。活動と言っても、既に聞き及んでいるように大半が恐喝や暴力沙汰の類だ。物騒だけど、それだけなら何処にでもありそうな話だろう。

 でも時坂君らの証言と、柊さんとソラちゃんが事件現場で見つけたという『タブレット』を合わせて考えれば、事の真相は異界化という真っ黒な色に染まる。私達の推察が正しいとして、こうしている間にも新たな被害者が出てしまう恐れがある。もしアキヒロさんが本当に『異界化を自在に操れる』というのなら、何が起こっても不思議ではない。私達の想像を遥かに超えた異質な力が、無法者の手中にあるのだ。

 

「・・・・・・出よう」

 

 これ以上は私が考えても無駄か。身体も充分温まってくれたし、そろそろ頃合だ。

 脱衣所へ戻り、木製のバスケットに入っていたふわふわのタオルで水気を取りながら、用意されていた着替えを見詰める。下着はすぐに必要になるから、手早く洗浄して乾かしてくれたのだろう。他には紺色のルームウェアらしき着替えが上下と、薄手のタオルが一枚。女性の部屋着としては一般的でも、北都先輩も普段はこういった地味な物を着るのかと思うと少しばかり意外だ。全く別の世界に住んでいる人間だと感じていたけど、よくよく考えれば同じ学園に通う女子高生の一人。特別視が過ぎる態度は控えた方がいいかもしれない。

 

『もう上がられましたか?』

「あ、はい。おかげ様で温まりました。色々とありがとうございます」

 

 扉の向こう側に立っているであろう北都先輩に返すと、北都先輩は洗面所においてある品々は自由に使っていいと声を掛けてくれた。そう言われても、私に必要そうな物は一つしか見受けられなかった。

 

「えーと。ドライヤーだけ、お借りしますね」

『それと、遠藤さんの所持品をお預かりしています。後で脱衣所を出て右側の部屋に来て下さい』

「・・・・・・わ、分かりました」

 

 途端に気が重くなってしまう。私の携帯電話は無事なのだろうか。多分駄目だろう。だって非防水だし。

 

_____________________________________

 

 廊下に出て右側にあった扉を開けると、一目でそこが寝室だと理解できた。家具や寝具はほとんどが昼白色を基調とした物で統一されていて、ほのかに香るラベンダーの匂いが穏やかな感情を抱かせてくれる。掃除や収納が行き渡っている中に垣間見られる僅かな散らばりが、整っていながらも生活感溢れる空間を形成していた。

 

「夜はまだ冷えますから、どうぞお好きな上着を羽織って下さい」

「え。で、でも」

「後日返して頂ければ結構です。その服装で出歩いては、湯冷めしてしまいますよ?」

 

 段々と北都先輩色に染まっている気がする。変に意識するとまた「うへへ」と妙な笑い声を漏らしてしまいそうだから、心を無にするよう努めよう。

 私はクローゼットの中から無地のパーカーを選び取り、北都先輩へお礼を言ってから袖を通した。夜と言ってももう五月の下旬、薄手のパーカー一枚で事足りるだろう。何より気になるのは、テーブルの上に並べられた所持品の数々だ。

 

「財布と、アパートの鍵と・・・・・・」

 

 紙製のカードや紙幣は後で乾かすとして、アパートの鍵が池の底という最悪は免れたようだ。柊さんから借りているサイフォンも防水性だから支障無く動いているし、他の所持品も全て揃っている。問題の私の携帯は―――うん、やっぱり駄目そうだ。

 

「電池パックとカードは外してあります。完全に乾燥させてからでないと、何とも言えませんが・・・・・・少し難しそうですね」

「仕方ないです。五年ぐらい使い続けた物なので、これを機に買い直しますよ」

 

 床に落としたり何だりを繰り返してきた携帯が五年も持てば充分な方だろう。良い機会と割り切って、新しい物に買い替えるしかない。折角節約して生活費を切り詰めていたのに、手痛い出費になりそうだ。

 

「制服はクリーニングに出しておきました。最寄りの店舗で受け取れるよう手配していますから、明日にでも取りにいらして下さい」

「な、何から何まで・・・・・・本当にすみません」

 

 北都先輩に深々と頭を下げてから視線を戻し、北都先輩の背後にあったカーテンの隙間に目が止まる。そういえば、この部屋はユウ君と同じマンションの最上階だったか。二十五階の部屋から眺める杜宮市の風景は、どんな形で映るのだろう。

 想像に気を巡らせていると、北都先輩が笑みを浮かべながら「ご覧になりますか?」と言って窓際へ歩み寄る。気恥ずかしさを抱きつつ、私は北都先輩に続いてそっとカーテンを開け、ガラス窓に手を掛ける。すると高層マンション特有の風が火照った肌をなぞり、眼前へ広がった一枚の絵に、私は感嘆の声を上げた。

 

「うわー・・・・・・」

 

 二階のアパートからでは望めない、日没後の夜景に浮かぶ光点達。ちょうど市の中央部を見下ろせる方角を向いていて、ビル群の隙間では道路を走る車両の列がゆっくりと動いている。遥か遠方にはトモコさんが勤めるアクロスタワーを見やることができた。

 

「今となっては見慣れた夜景ではありますが、新鮮な目で眺めてみると、やはり言葉になりませんね」

「綺麗・・・・・・本当に、綺麗です」

 

 人工的で無機質な風景でも、杜宮市が持つ複数の顔の一つであることは確かだ。良い街だなと、素直に受け取ることができる。

 でもそんな街中で―――最近は、立て続けに穏やかではない騒動が発生している。既に複数人の市民が、病院のベッドで入院生活を余儀なくされている。そんな理不尽が許されていい道理が無いし、許す訳にはいかない。

 

「あの、北都先輩。柊さん達から、何か聞きましたか」

「何か、と言いますと?」

「えーと。その、私が池に落っこちた原因、とかです」

「足を踏み外して、と聞いていますよ。そこへ偶然高幡君が通り掛かったそうですね。皆さんが夜の公園で何をされていたのか、気にならないと言えば嘘になりますが、詮索は無粋という物でしょう」

 

 当たり前だけど、異界化絡みの話は伏せてあったか。何かしらの事情を抱えていることは察しが付いているようだけど、流石は北都先輩、理解が早くて助かる。私としても、北都先輩と高幡先輩の間柄が気になるというのが本音ではある一方で、立ち入った話ができないでいた。要はお互い様というやつだ。

 杜宮市の夜景を存分に堪能し、窓とカーテンを閉めたところで、扉をノックする音と共に、時坂君の声が聞こえてきた。

 

『北都先輩、居ますか?』

「はい、遠藤さんもここに。高幡君とのお話は、もう終わりましたか?」

『おかげ様で。長居するのも悪いんで、そろそろお暇するッス。アキ、もう出られるか?』

「大丈夫ですよ。今行きます」

 

 私が身体を温めている間に、時坂君らは高幡先輩へ一連の事件の真相について、必要最低限の話を聞かせていた。柊さんの記憶操作が効かなかったことは別としても、騒動の中心にいるBLAZEを過去に束ねていた高幡先輩にだけは打ち明けるのが筋だろうと、ここを訪ねる前にみんなで決めていたことだった。どういった話になったのかは後々みんなから聞くとして、もう夜の21時を回ってしまっている。今日はこの辺にして、北都先輩には後日改めてお礼を言いに行こう。

 

________________________________________

 

 律儀に一階のエントランススペースまで見送りに下りたミツキは、シオと共に五人分の後輩の背中を見詰めていた。エントランスにはソファーやテーブルが設置されており、昼間は読書や散歩後の小休憩に利用する住民が多いものの、すっかり日の暮れた今の時間帯になれば、広さばかりが目立つ静かな空間と化すのが常。今エントランスに立っている人間も、ミツキとシオの二人だけだった。

 

「いきなり無理を言っちまって悪かったな」

「フフ。面倒見がいいところは、相変わらずですね」

 

 そんなんじゃねえと返しながら、シオが首を鳴らして数歩前に出る。シオにとってもこれ以上の長居は無用。寧ろ大方の真相を把握した今だからこそ、すぐにでも動き始めたいと考えていた。

 

「世話んなった借りはいずれ返す。また―――」

「最近は帰りも遅いそうですね。お二人共心配されていましたよ」

 

 ミツキの声にシオの足がぴたりと止まり、大きな溜め息が一つ続く。ミツキが言った『二人』が誰を指しているのか、遠回しに何を言わんとしているのか。敢えて明確にせずとも、シオには正確に伝わっていた。

 

「毎日帰るようにはしてる。最低限の義理は果たしてるつもりだ」

「学園の皆さんも同じではないのですか。あなたを慕う人間は沢山います。生徒会長としても、一週間以上欠席を続ける生徒を見逃すわけにはいきません」

「・・・・・・知ったような口を利いてんじゃねえよ。もう時間がねえんだ」

「そうやってお一人で抱え込むことが正しいだなんて、私には到底思えませんが」

 

 途端にシオが踵を返し、頭一つ分以上背丈の低いミツキを見下ろしながら詰め寄る。常人なら思わず悲鳴を上げてしまいそうなシオの形相に、ミツキは眉一つ動かさずに視線を重ねていた。

 

「何が言いてえ。こいつは俺とBLAZEの問題だ。お前には何の関係もねえだろうが」

「言いたいことは山ほどありますが、これ以上は嫌味っぽくなってしまうと思いますので・・・・・・そうですね。後でこっそり、独り言を呟くとしましょうか」

「だったら最初からそうしろ。じゃあな、もう行くぜ」

「バカっ」

「・・・・・・どこがこっそりだよ」

 

 吐き捨てるように言いながら、再度振り返り歩き出したところで、シオが気付く。僅かに遅れて、ミツキもその人影に目が止まる。会話に意識が向いていたことで、この場を去った筈の五人のうち一人が、声を聞きとれる程の距離に立っていたことに、二人共気付くことができなかった。

 

「えっと・・・・・・」

 

 気まずそうに俯いていたアキに対し、シオが無言で擦れ違い、ミツキは変わらずに笑みを浮かべて声を掛ける。

 

「遠藤さん、お忘れ物ですか?」

「いえ、その。テニス部の先輩と、明日の予定について連絡を取りたかったんですけど・・・・・・携帯が使えないから、連絡先が分からなくて。北都先輩ならご存知かなと」

「ああ、それならエリカさんのご連絡先をお伝えしますね」

 

 ミツキが上着からサイフォンを取り出し、操作を始める。一連のやり取りを耳にしてしまっていたアキは、やはり触れることができなかった。気安く触れてはいけないと、感じていた。

 

__________________________________________

 

 エリカ先輩の連絡先を教わった後、私は公園内で待っていた四人と合流してから、ゆっくりと南側の方角に歩を進めた。今後の方針を簡単に話し合うということで、マンションの住民であるユウ君も、入り口まで付き合ってくれるようだ。

 

「じゃあ、高幡先輩はたった一人で動くつもりなんですね」

「色々と拘ってる物があるみたいだからな。俺達は俺達で動くしかないだろ」

「でもこれ以上、一般人である高幡先輩の勝手を許す訳にはいかないわ。彼を異界化から遠ざける為にも、早急に私達の手で解決に当たりましょう」

 

 異界化とBLAZEの繋がりに関する真相を聞き終えた高幡先輩は、その危険性を考えようともせず、これまで通りに単独で動くつもりだそうだ。かつての仲間が得体の知れないドラッグに手を出してしまっているともなれば、高幡先輩の心境は理解できなくもない。

 でも柊さんが言ったように、高幡先輩の心意気に関わらず、一般人にどうこうできる世界ではない。高幡先輩は異界に突き落とされ、一度死にかけているのだ。柊さんの推察では、アキヒロさんは異界に魅入られてしまったことで正気を失っているらしいけど、事実だけを受け取れば殺人未遂者と被害者に他ならない。余りに危険過ぎる。適格者である私達にしかできないことがある筈だ。

 

「でもさ、実際にどうする訳?人間関係はこの際置いといていいと思うけど、『異界ドラッグ』の出処をどうにかしないと、解決にはならないんじゃないの?」

「そうね。まずはドラッグの原料の入手先である異界を突き止めてから、その異界化を食い止める。それしか方法は無いわ」

 

 騒動の根本は異界ドラッグであり、原料とされる異界物質の在り処。それらを根絶やしにしない限り完全な解決には至らないし、異界ドラッグが第三者の手に渡る可能性だってある。今はBLAZE内に収まってくれているようだけど、外部へ漏れ出してしまったら何が起きるのか、想像もしたくない。

 

「今日はもう遅いし、明日から動くとするか・・・・・・にしても、高幡先輩って北都先輩とも知り合いだったんだな。意外っつーか、驚いちまったぜ」

「アキ先輩のこともありましたけど、『後輩が池に落ちたから風呂沸かしといてくれ』で通じちゃう辺り、結構親しい間柄のようですね・・・・・・アキ先輩?どうかしました?」

「う、ううん。な、何でもないよ?」

 

 北都先輩と高幡先輩の意味深な会話については、胸の中にしまい込んで話さないようにしていた。今回の一件と何か関係がある気もするけど、偶然立ち聞きしてしまっただけだし、少なくとも根本の解決には無関係だ。みんなの「お前何か知ってるだろ」と言いたげな視線も気のせいということにして、今は知らぬ振りを決め込もう。

 

「そういやアキ。お前が風呂に入ってる間に、俺達で話し合って決めたんだけどよ。携帯、明日にでも買い直すんだろ?」

「あ、はい。十中八九使えそうにないので、これを機に新しい物へ買い替えようかと」

 

 一人暮らしの身にとって、携帯電話は唯一の連絡手段。このままでは身内に不幸があっても知る術がないのだから、一刻も早い復旧が必要だ。異界の件もあるし、先輩方には申し訳ないけど明日は部活動を休みにして、新しい携帯を買いに行くつもりだった。わざわざ北都先輩からエリカ先輩の連絡先を聞きに戻ったのも、その旨を伝える為だった。

 

「ならお前もサイフォンにしろよ。ずっと借り物を使い続けるってのも落ち着かねえだろ」

「・・・・・・そうしたいのは、山々なんですけど。何を基準に選んでいいのか、分からなくて」

「安心して。駅前の家電量販店に異界関係の協力者がいるから、彼女に一任すればいいわ。それに前にも言ったけど、貴女のソウルデヴァイスの特性を考えても、一度調整が必要だと思うのよ」

「で、でもそれって、すっごい額の費用が掛かるんですよね?」

「だからさっき言っただろ、話し合ったってな。んなことは気にしねえで、色々弄っちまえって」

 

 以前に話を聞いた限りでは、恐らく気が遠くなる程の金額を費やしてしまうことになる。一方でライジングクロスの燃費の悪さを解消する為には、確かに『調整』とやらが必要なのだろう。その世界に住む柊さんが言うのだから間違いないのだろうし、また異界で気を失ってしまう失態だけは回避したい。ここはみんなの総意に従った方がいいのかもしれない。

 

「それともう一つ。遠藤先輩、自転車に鍵掛けた?」

「自転車?」

 

 言われてみれば、私は自転車で蓬莱町に向かったのだったか。確か一度道端に停めてから柊さん達と合流して、すぐに異界化を察知して時坂君らの下に駆け付けて、それから―――

 

「あっ」

「繁華街のど真ん中に自転車を放置ですか・・・・・・」

「結構真新しいやつだったっけな」

「盗難被害は米国よりも少ないと聞いているわよ」

「何処の国にもいるでしょ、自転車泥棒ぐらい」

 

 購入してからまだ一ヶ月しか経っていない、六段変速ギア付きのマイバイク。お願いだから、無事でいて。そんな私の願いは、翌朝に砕け散る羽目になる。私は杜宮が少しだけ嫌いになった。

 

_________________________________________

 

 5月23日の土曜日。商店街のサイクルショップで最安値の自転車を購入した私は、その足でクリーニング店へと走り、制服を受け取った。次に向かった先が、駅前で最も大きい家電量販店『スターカメラ』。カウンターに立っていたアカネさんという女性に声を掛けると、柊さんが事前に話を通してくれていたようで、「詳細は後程」と連れて行かれた先が、どういう訳か従業員専用と思しき奥まった所にあった一室。一旦部屋を出たアカネさんは、二、三分後にスターカメラの店名が記された紙袋を持って、私の対面に座った。

 

「柊さんからもお話は伺っております。こちらが遠藤さんにご用意させて頂いた、異界探索用のサイフォンになります」

「異界探索用・・・・・・」

 

 紙袋の中から取り出された箱に入っていた、一台のサイフォン。一見した印象では、多くのユーザーが使用している通常型との違いは見受けられない。何か特別な機能でもあるのだろうか。

 

「外見は市販されている『6S』モデルと同一ですね。ですが防水性や耐久性は勿論、あらゆる外的要因の影響を遮断する設計の最新型です。エルダーグリードが踏んでも壊れません」

「す、すごいってことはよく分かりました。でもこれって・・・・・・その、費用的なところは」

「その点につきましてはご安心を。遠藤さんは柊さんの協力者という立場にありますので、一般品と同価格帯でお出しできます。こういった物の開発技術の根底にも、貴女達が持ち帰って下さる異界素材が使われていますから、その見返りと受け取って下さい」

 

 ほっと胸を撫で下ろして、サイフォンを受け取る。ガラケーに慣れ親しんだ私にとってはまだしっくりこないけど、時間の問題だろう。最近は少しずつ操作方法も身に付いてきているし、確かに借り物と比べて私物と考えると愛着が沸いてくる。これから長い付き合いになりそうだ。

 

「必要となるアプリもインストール済みですので、後程ご確認下さい。それと今現在使用しているサイフォンをお借りしても宜しいですか?」

 

 一度新しいサイフォンを返してから、柊さんの予備サイフォンをアカネさんに手渡す。アカネさんはテーブルに置かれていた端末と二台のサイフォンをケーブルで繋ぎ、キーボードを器用に操作しながら続けた。

 

「今から遠藤さんのソウルデヴァイスの最適化を行います。場合によっては少々お時間を頂くかもしれませんが、今日のご予定は?」

「特にありませんので大丈夫です。宜しくお願いします」

「畏まりました」

 

 最適化、か。それが柊さんが言っていた『調整』を意味しているのだろう。詳しいことは分からないけど、ここは専門家であるアカネさんに任せるしかない。

 端末を操作するアカネさんを見守っていると、時間が経過するに連れて、アカネさんの表情に変化が表れ始める。初めは目を細めて首を傾げ、続いて食い入るようにディスプレイ上を見詰め、次第にキーを叩く速度が上がると共に、段々と眼光が鋭さを増していく。

 

「成程。これがライジングクロス・・・・・・ああ、面白いですね。ふむ・・・・・・っと、このパターンは・・・・・・赤の方ですか。むむ・・・・・・成程成程、相当なじゃじゃ馬で・・・・・・むむ、むむむ。これは調教のし甲斐があります」

 

 聞き間違いだろうか。今調整ではなくて『調教』と聞こえた気がする。そして私のライジングクロスはかなりのじゃじゃ馬だそうだ。四つの属性のうち焔属性の力を宿しているのも、その辺りが原因な気がしなくもない。何だか私の内面を覗かれているようでひどく落ち着かない気分だ。

 

「形状はテニスのラケットと、ラクロスのクロスを合わせたような感じでしょうか」

「えーと、私のイメージでは前者です。小さい頃からテニスを続けていたので」

「ふむふむ。遠藤さんが普段使用しているテニスラケットは、どういった物なんですか?」

「・・・・・・じ、じゃじゃ馬です」

 

 テニスラケットは科学技術の進歩と共に、より軽量でより強靭な物へと進化の一途を辿ってきた。毎年新しいシリーズが発売されては旧シリーズが廃番となる、世代交代が激しい世界だ。

 一方で私、そしてお兄ちゃんが使っていたラケットは『VARON300』という旧世代の中の旧世代。一部では『生きた化石』呼ばわりをされる、もう十五年以上も前に発売された物だった。特徴としてはストライクゾーンが極端に狭く、重い。私の肘が壊れた原因の一つと言っていい程に、重い。何故そんな物を使うのかと聞かれたら、「何となく」としか言い様がない。長年に渡り唯一生き残り続けていることから考えても、私のような固定ファンがいるのだろう。まあ、女子高生にはいないかもしれないけど。エリス先輩からは「お前馬鹿だろ」と貶されていた。

 

「という感じなんですけど・・・・・・あの、これって何か関係があるんですか?」

「大変参考になりますよ。ソウルデヴァイスには先天的、後天的性質の両面が影響しているんです。遠藤さんの場合は・・・・・・ふむ」

「わ、私の場合は?」

「どちらでしょう。よく分かりません」

 

 思わず転びそうになってしまった。今の話だと後者のように思えるけど、違うのだろうか。

 

「申し訳ありません、大分時間が掛かってしまいそうですね。この際ですから、何かお聞きしたいことがあれば遠慮なく仰って下さい。答えられる範囲内の物でしたら、私が伺います」

「聞きたいこと、ですか」

 

 端末を操作しながら質問を促す辺り、この人は大変に優秀な技術者なのだろう。しかし答えられる範囲内という前置きから考えて、余り踏み入った質問をするとアカネさんを困らせてしまいそうだ。真っ先に「あなたは何者ですか」という疑問が浮かんだけど、今は別の何かを聞いてみた方がいい気がする。

 

「えーとですね。サイフォン使えばソウルデヴァイスを顕現させたり、不思議な術式を使うことができますよね。どうしてサイフォンでそんなことが可能なんですか?」

「サイフォンだから、という訳ではありません。携帯機器を利用した異界技術や術式は、1970年代には存在していましたから」

「そんな前から・・・・・・」

「詳細はお教えできませんが、持ち運びに不便な機材を使用していた時代もあれば、一種の占いを使った異界化予測が主流だった時代だってあります。そして創作上の存在とされていた術理が、歴史の水面下で確かに実在していた・・・・・・サイフォンは様々な研究成果と技術の集大成であり、同時に利便性を追求した結果だとお考え下さい」

「な、成程。サイフォンが無いと何もできない、という話ではないんですね」

「完全な顕現には届かないとは思いますが、柊さんクラスの適格者なら、媒体を介さずにソウルデヴァイスを呼び起こすことも可能な筈ですよ。手順と負荷を無くす為に、普段はサイフォンを使用しているんです。私達のような人間は・・・・・・あっ」

「え?」

 

 アカネさんが口を閉ざすと同時に手が止まり、意気揚々としていた表情が一変して、呆け顔と入れ替わる。恐る恐る端末のディスプレイを覗き込むと、何を映っていなかった。バッテリー切れ、という訳ではなさそうだ。

 

「コホン。大変申し上げにくいのですが、端末の復旧に手間取りそうです。暫くの間、休憩にしましょう。貴女のソウルデヴァイスは思っていた以上にじゃじゃ馬です」

「・・・・・・お昼、食べてきます」

 

 私はあと何回『じゃじゃ馬』という単語を聞かされることになるのだろう。気が重い。

 

_______________________________________

 

 私は駅前のノスバーガーで腹ごしらえをした後、公衆電話を使って時坂君と連絡を取り、近況を確かめ合った。何かしら進展があったのではという私の淡い期待は、予期せぬ一報によって上書きされてしまっていた。

 

「や、ヤクザと揉め事、ですか!?」

 

 事が起きたのは一昨晩、場所は蓬莱町。BLAZEメンバーの一部が『鷹羽組』と呼ばれる組織の構成員と言い争いになり、暴力沙汰に発展してしまったことで、鷹羽組の一人が全治一ヶ月の重体。蓬莱町は既に緊迫した空気に満ちていて、各所で警戒に当たる警察官の姿が散見されている。警察側が本格的に動き出すのも時間の問題という有り様に陥っていた。

 

『幸い死人は出なかったようだが、このままじゃ血が流れる事態になってもおかしくはねえ。抗争どころの話じゃ収まらねえ状況だ。随分と厄介なことになっちまった』

「時坂君達は、今蓬莱町にいるんですよね?」

『ああ。これから柊と一緒に、もう一度ダンスクラブを訪ねてみるつもりだ。アキの方はどうだ?』

「も、もう少し時間が掛かりそうです」

『そうか。終わったら連絡をくれ、一度合流するとしようぜ』

「分かりました。くれぐれも気を付けて下さいね」

 

 受話器を置き、電話ボックスから出て溜め息を付く。異界化という裏の世界に加えて、表の世界では暴力団を巻き込んだ騒動。たとえ異界化を食い止めたとしても、もう手遅れの領域に入ってしまっている。救える人間がいても、取り返しの付かない物がある。高幡先輩も当然耳にしているに違いない。

 どの道今は万全を期して、事に備えるしかない。私にできることが残されている限り、私はライジングクロスを振るう。それだけだ。

 

_________________________________________

 

 それから約二時間後。アカネさんの手によってライジングクロスの最適化は無事に終了し、私は最新型の異界探索向けサイフォンを手にすることができた。今回掛かった費用の約一割が機種代で、残りの九割が調整代。予想はしていたけど、一年分以上のアルバイト代に相当する額だった。

 

「ソウルデヴァイスの特性自体に変化はありませんが、効率や使い勝手は格段に向上している筈ですよ」

「ありがとうござました。その、じゃじゃ馬が色々とご迷惑を」

 

 自らじゃじゃ馬という表現を用いると、アカネさんは神妙な面持ちで私を見詰めながら、そっと端末を閉じて言った。

 

「貴女のソウルデヴァイスの本質が、理解できました。ライジングクロスは先天的と後天的、その両面が大部分を占めています。消耗が激しかった原因の一つは、おそらくそれでしょう」

「両面が大部分を・・・・・・あの、それはどういう意味ですか?」

「私の口から申し上げるべきではありません。ですが遅かれ早かれ、知る時が来る、とだけ。頭の片隅に留めておいて頂ければ幸いです」

 

 二つの側面が大部分を占めてしまったら、十割を超えるという矛盾が発生する。にも関わらず、アカネさんの表情は確信めいた物を抱いている人間のそれだった。思わせ振りな言い回しが引っ掛かるけど、今は『知る時』ではないということだろうか。どうもハッキリしない。

 ともあれこれで要件は済んだ。すぐにでもみんなと合流して、行動を共にした方がいい。私はサイフォンの画面上に貼られていた保護フィルムを剥がし、初となる通話の相手として時坂君を選んだ。時坂君の応答を待っていると、耳元で直に叫ばれたような錯覚に陥ってしまう。

 

『アキか!?』

「わわっ・・・・・・はい、私です。ど、どうしたんですか?」

『不味いことになっちまった。今何処にいる?』

「ま、まだスターカメラの店内です。あの、時坂君?」

『詳しい話は後だ。すぐに九重神社の道場に来てくれ、いいな!』

 

 言い終えるやいなや、通話は私の返事を待たずに途絶えてしまった。込み上げてくる悪寒に身を委ね、私はサイフォンを手に駆け出した。

 

 



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5月23日 焔の追憶①

 

 私が最新型のサイフォンを受け取っていた頃、杜宮通り沿いにある中央線のガード下で、高幡先輩はアキヒロさんと再び対峙していた。幸い前回のように異界へ落とされるような最悪の事態には至らなかったものの、異界ドラッグによる常軌を逸した力の前では、高幡先輩と言えど赤子も同然。喧嘩沙汰では済まされない程の重傷を負った高幡先輩は、その場に駆け付けた時坂君らの介入により、紙一重のところで一命を取り留めた。その後は柊さんの術式や治療薬で応急処置が施され、運び込まれた先が九重道場。外傷は目立たない程度にまで治癒が進んでいたおかげで、九重先生やソウスケさんから根掘り葉掘り問い質されることも無かった。高幡先輩はすやすやと、静かな寝息を立て続けていた。

 

__________________________________________

 

 5月23日、午後18時半。ユウ君と二人で再度九重神社の鳥居を潜り、足元に注意を払いながら薄暗い境内に歩を進める。辺りに人気は無く、東側に佇んでいる二階建ての道場の光が境内をぼんやりと照らしていた。こういった場所は日が暮れると薄気味悪いという印象を抱いていたけど、九重神社に限って言えば、不思議と不快感が無い。独特の雰囲気と夜の静寂が重なり合い、幻想的な空間が形成されていた。

 

「何してんの、先輩。早いところ戻ろうよ」

「うん。今行くよ」

 

 道場の入り口前で立ち止まっていたユウ君に追い付き、軽く扉を叩いてから場内へ入る。玄関口から向かって右側、広大な一室の片隅にある畳敷きのスペースには、時坂君ら三人の姿があった。

 

「お帰りなさいアキ先輩、ユウキ君」

「お疲れさま、二人共・・・・・・その様子だと、有力そうな手掛かりは得られなかったみたいね」

「だから言ったでしょ。素人が聞き込みの真似事をするだけで済む話なら、とっくの昔に警察側が辿り着いてるって。まだ誰も足取りを追えていないってことだけは分かったよ。鷹羽組も含めてね」

 

 BLAZEの行方を突き止めるべく、私とユウ君は約一時間半前から市内を巡回し続けていた。暴力団組員が病院送りにされたという経緯もあり、至る所で張り詰めた空気が流れていたけど、目ぼしい情報や目撃証言は得られず、収穫は無し。ユウ君が言うように、素人二人では追いようが無かった。

 

「お疲れだったな。こんな時間だし、そろそろお前らも腹が減ってきた頃だろ。トワ姉が用意してくれたんだ、よかったら食ってくれ」

 

 そう言って時坂君が差し出した大皿には、海苔に巻かれたおにぎりや卵焼き、お新香などが乗っていて、ソラちゃんがおしぼりを手渡してくれた。何を隠そう自転車で街中を走り回ったことで、先程から腹の虫が鳴き始めていたところだった。ここは変に遠慮せずご馳走になろう。

 

「余所で出される手作り感アリアリの料理って、食べるのに割と勇気が要るよね」

「またそういうこと言って。なら私が全部食べちゃうよ」

「誰も食べないとは言ってないだろ・・・・・・ちょ、一口がデカ過ぎでしょ。うっわ、女子力ゼロ」

 

 失礼極まりないユウ君の発言を聞き流し、時坂君の背後に寝そべる男性の寝顔を見詰める。時坂君らが駆け付けた時には、高幡先輩の顔面は両目が塞がる程に腫れ上がり、上着は鮮血に染まっていたそうだ。大きな外傷は既に癒えたとはいえ、顔にはあちこちにガーゼや傷テープが貼られていて、そのどれもが血に滲んでいた。余りに痛々しい外傷とは裏腹に、高幡先輩が立てる寝息は大変に穏やかで、朝の起床の如く今にも目を覚ましてくれそうな気配すら感じた。

 

「高幡先輩は、まだ時間が掛かりそうですね」

「経過は順調よ。でも強力な術式や治療薬の副作用は、体質によってブレ幅が大きいの。最長で三日間以上の時間を要したという報告もある。今日は眠ったままかもしれないわね」

「そうなんですか・・・・・・場合によってはご家族、と言いますか。下宿先の蕎麦屋に連絡を入れておいた方がいいかもしれません」

 

 もし長時間目を覚まさなかったら、高幡先輩をずっとここに置いておく訳にはいかない。病院へ運ぶ必要が出てくるかもしれないし、沢山の人間に心配を掛けてしまうことになる。とりわけ下宿先である蕎麦屋には、一番に話を通しておいた方がいいだろう。

 

「私もこの間アユミちゃ・・・・・・クラスの子と一緒にお店へ行きましたよ。若い従業員がいるって話は聞いてましたけど、高幡先輩のことだったんですね」

「何か意外。この人が蕎麦屋で働いてる姿なんて、僕には想像できないかな」

「筋は通す人みたいだし、真面目にやってんじゃねえのか。あそこは確か、夫婦二人で切り盛りしてる老舗って話だったっけな。本当に、間に合ってよかったぜ」

 

 不意に思い出された、マンションのエントランスでの会話。北都先輩が言った「お二人」は、あの蕎麦屋の老夫婦を指していたのかもしれない。少なくとも悪い間柄ではなさそうだと思える一方、ここ最近は相当な気苦労を掛けていたのではないかと心配になってしまう。

 そしてもう一つ。現時点で最も悩ましい問題は、残された時間があと僅かという現実だ。

 

「高幡先輩は別としても、異界ドラッグとBLAZEについては、今日中に何とかしないと・・・・・・高幡先輩に、何か心当たりがあるといいんですけど」

 

 不良チーム『ケイオス』。都内でも随一の規模を誇り、名立たる他チームとの激突と吸収を繰り返してきた、単純な人数で言えばBLAZEとは桁が異なる集団。そんな大所帯を相手に、BLAZEは全面抗争を仕掛けるつもりだそうだ。真面にやり合えば単なる数の暴力と化すだけの筈だけど、BLAZE側にはあの異界ドラッグ、『HEAT』がある。BLAZEは既に鷹羽組との一件で歯止めが利かなくなり、一線を越えることに躊躇いが無い。もしそんな真似を許してしまえば、今度こそ死人が出るかもしれないし、HEATが外部へ出回る引き金になりかねない。

 

「最悪の場合、私達の手で強引にBLAZEを取り押さえるしかないわね。あのアキヒロという男性がHEATを使えば、おそらくソウルデヴァイスを顕現させられる状況下になると思うわ」

「へ・・・・・・先輩、それマジで言ってんの?」

「己の意思で異界化を引き起こす程の力なら、相当なレベルで現実世界への浸食が進行する筈よ。ガード下へ駆け付けた際にも手応えはあったの。一時的になら可能でしょう」

 

 柊さんが言うのなら、可能性は高い。不意にアパートの部屋で『疾れ、ライジングクロス!』を連呼しては首を傾げた痛々しい経験を思い出してしまったけど、忘れよう。ああいう大事なことは早く言って欲しい。

 

(異界じゃなくても・・・・・・使えちゃうんだ)

 

 現実世界で、ソウルデヴァイスの力を使う。それは人間に対してライジングクロスを振るうということになる。相手がただの人間ではないとはいえ、流石に気が引ける。私にできるのだろうか。いずれにせよ、BLAZEの居場所を特定しなければならない状況に変わりはない。

 

「ねえユウ君、ネット上に新しい情報はないのかな?」

「目ぼしいのは見当たらないね。でも新種のドラッグが関わってるって噂は、もうあちこちに飛び火してるみたいだよ」

「広まるのが早いですね・・・・・・コウ先輩、これからどうすればいいのでしょうか」

「柊、もう時間がねえ。何か手はないのか?この際何だって構わねえんだ」

「気が進まないけど、手段を選んでいる余裕はないわね。情報筋をもう一、度・・・・・・っ!?」

 

 大きく見開かれた柊さんの両目の先を追って、振り返る。思いも寄らない光景に、私は声を失った。最長で三日間という柊さんの言葉を振り払うかのように、高幡先輩はゆっくりと起き上がっていた。たったの四時間足らずで半身を起こし、虚ろな目を私達に向けていた。

 

「み、ず・・・・・・みず、を・・・・・・くれ」

 

 掠れ声の訴えに柊さんがいち早く反応し、補給食のキャップを開けながらそっと高幡先輩の下へ歩み寄る。術式や治療薬はあくまで本来の治癒力を促す物だと、柊さんは言っていた。見るからに弱り切っている高幡先輩の身体は、治癒に要した代償を欲しているのだろう。

 

「落ち着いて聞いて下さい。ゆっくりで構いません、これを飲めばすぐに楽になります」

「クソ、目が眩み、やがる・・・・・・何だってん、だ」

「それも副作用の一つでしょう。直に意識も鮮明になっていく筈です」

 

 柊さんに促され、高幡先輩は再び布団上に身体を寝かせた。高幡先輩が再度意識を取り戻すまで、更に三十分の時間を要することになった。

 

_______________________________________

 

「・・・・・・そうか。俺は助けられたんだな」

 

 高幡先輩が左手を握ったり開いたりを繰り返しながら、全身に刻まれた傷の具合を確認していく。次第に頭も冴えてきているらしく、意識を失う直前までの一連の出来事は、鮮明に思い出すことができたようだ。

 

「肘を外された感触も残ってるってのに、お前らは一体どんな魔法を使ったんだ」

「そういった術理が存在している、とだけ言っておきます。こちらから言わせて貰えば、あなたはそれ程危険で無謀な道に走った、ということです」

「よく分からんが・・・・・・お前さんも、底が知れねえな。まるで北都と話している気分だぜ」

「話を逸らさないで下さい。一歩間違えていたら、命を落としていたんですよ」

「ああ。それぐらいは理解してるさ」

 

 アキヒロさんは今回、異界へ突き落すという手段を選ばなかった。代わりに敢えて直接その手に掛けることで、高幡先輩を完膚無きまでに打ちのめした。話を聞いた限りでは、明確な殺意が込められていたのだろう。異界に魅入られた人間の狂気と、アキヒロさん自身の意思との間にあった境界線は、最早用を成さない段階にまで来ているのかもしれない。

 

「BLAZEですが、後は私達に任せて下さい。一連の事件を根本から解決する為には、私達の力が必要になる筈です」

「あの奇妙な武器のことか・・・・・・」

「でも俺達には、肝心のBLAZEの居場所が分からないんだ。高幡先輩、もう時間がねえ。何か心当たりはないッスか?」

 

 時坂君の問いに対し、高幡先輩が険しい面持ちを浮かべながら俯く。思い当たる場所があるであろうことは誰の目にも明らかだったけど、高幡先輩は進んで口を開こうとはしなかった。代わりに並べられた言葉は、拒絶を意味する物だった。

 

「状況は理解できたし、お前らを疑うつもりもねえ。だがそれでも俺は、その役目を他人に譲る訳にはいかねえんだよ」

「・・・・・・カズマって人の為か?」

「ああ。BLAZEは俺とカズマが立ち上げた、居場所その物だったからな」

 

 高幡先輩は天井を仰ぎながら、遠い目をして語り始めた。

 かつて日常を共にしてきた相棒と、孤児院の子供達。とある騒動をキッカケにして孤児院を飛び出し、右も左も分からない世界の中を、必死になって生き延びてきた日々。知らぬ間に寄り添い、志を共有する仲間達に恵まれ、掛け替えの無い帰るべき居場所に生まれ始めた、小さな幸せ。

 そして―――唐突に訪れた、別れ。たった一つの死別によって何もかもが狂い始め、消え去ってしまった全て。後に残されたのは、抜け殻のように空っぽになった自分と、虚無感。そして狂気の沙汰に身を委ね、復讐心という焔で身を焦がす人間が一人。

 時計の針は、あの日から止まったまま。高幡先輩もアキヒロさんも向いている方角は違えど、過去という一点においては、同じだった。

 

「これで分かっただろう。カズマの代わりにあの馬鹿野郎の目を醒まさせるのも、元リーダーとしてヤクザに手を出しちまった落とし前を付けるのも・・・・・・全て俺の役目だ。どんな力を持ってようがお呼びじゃねえんだよ、お前達は」

 

 怒気を孕んだ高幡先輩の声に、私が思わず一歩後ずさると、板張りの床がギイと鳴った。それを境にして訪れた、長い長い沈黙。

 

(高幡先輩・・・・・・)

 

 余りに一方的過ぎる高幡先輩の拒絶には、説得力も無ければ現状を打開する要素が何一つ無い。在るのは頑として退こうとしない、有無を言わさぬ重々しい覚悟だけだ。そしてその先には―――明日が、無い。覚悟の果てに、何も見当たらない。私は何かを言いたいのに声が出ず、先んじて時坂君が、閉ざしていた口を開いた。

 

「高幡・・・・・・いや、シオ先輩。それでも俺達は、アンタを行かせる訳にはいかねえ」

 

 時坂君は座ったままの姿勢で、苛立ちを含んだ尖り声を隠そうともせずに続けた。

 

「シオ先輩がやらなきゃならねえ理由はよく分かったよ。だがアンタ一人でBLAZEを止められるとは到底思えねえぜ。少し頭を冷やしたらどうなんだ」

「何だ時坂、説教でも始めるつもりか」

「アンタは暴力団の手に余るような連中を、たった一人で相手取ろうとしてんだぜ。過去に執着して、勝手に自暴自棄になりやがって。アンタもアキヒロも、何で『今』に目を向けねえんだ」

「何を言いてえのか知らねえが、何度も言わせるな。今回の一件は俺達BLAZEの問題だ。元リーダーとして、俺がケリを付ける。それだけだ」

「カズマさんの為に、かよ?その人はただの動機ってだけだろ。いなくなっちまった人間が、アンタを見逃す理由にはならねえよな」

「・・・・・・その辺にしておけ。こんな身体でも、その面をぶん殴るぐらいの力は残ってんだぜ」

「いいから答えてくれ。今を蔑ろにして、あんな大怪我を負うことに、何の意味があるんだよ」

 

 受け取りようによっては挑発的に聞こえる時坂君の言い回しに、高幡先輩は憤然とした面持ちで時坂君を睨み付け、視線を重ねた。何に対して怒りを覚えているのかが分からないといった様子で、高幡先輩が行き場の無い荒々しい感情を垂れ流し始める。

 

「お前も北都みてえな口を利きやがって・・・・・・話は終いだ。世話んなった礼は言っておく」

 

 高幡先輩は腰を上げて、布団の傍らに畳まれていた上着に袖を通しながら、玄関へ向かって歩き出す。全快とまではいかないまでも、普段通りに動ける程度には治癒が進んでいるようだ。一方で、高幡先輩に先んじて駆け出し、先輩の行く先を遮るように立ち塞がる人影があった。

 

「何の真似だ。退け」

「退きません。行き先を私達に教えてくれるなら、話は別です」

 

 ソラちゃんは仁王立ちをして、その場を離れようとはしなかった。唯一の出口を阻まれた高幡先輩は、それでもソラちゃんを押し退けて歩を進めるべく、右手をソラちゃんの左肩へと伸ばす。すると背後側からユウ君がその手首を掴み、強引に右腕を下ろそうと力を込めてくる。それが癇に障ったのか、高幡先輩は無造作に右腕を振るい、ユウ君はたたらを踏んで床面へ尻餅をついてしまった。

 

「ユウキ君!?」

「痛ぅ・・・・・・こ、こういうのは僕の役目じゃないってのに」

「も、もう。急に無茶しないでよ」

 

 ユウ君は私の手を借りて、尻を擦りながら立ち上がり、眼鏡の位置を直して続けた。

 

「ねえ先輩。物は試しに、下らない拘りやプライドをぜーんぶ捨てて、自分を見詰め直してみなよ。びっくりするぐらい滑稽だから。経験者は語るってね」

「お前・・・・・・」

「それについ最近、似たような境遇を乗り越えた先輩がいたっけ。いい機会だから言っておくけど、アキヒロって人のことを『アキ』って呼ぶの止めてくれない。何かムカつくんだよね」

 

 ユウ君の思わせ振りな言動に、今度は高幡先輩の視線が私へと向いた。

 似たような境遇、か。過去に囚われていたという点で言えばそうかもしれない。でも私には、似ているとは思えない。死人憑きが私に憑り付いたのは、私が歪んでいたからだ。高幡先輩は私とは違う。歪んではいないけど、きっと真っ直ぐ過ぎて、周りが見えなくなっているだけなのだろう。

 

「何なんだ、お前らは・・・・・・何が言いてえ。いなくなっちまった奴のことなんざ、綺麗サッパリ忘れちまえとでも言いてえのか」

「そうじゃありません。時坂君もユウ君も、今と向き合って下さいって言ってるんです」

 

 私はお兄ちゃんを忘れない。一緒に過ごしてきた日々を忘れようとは思わない。でも私が再びラケットを握ったのは、私とテニス部の為であって、お兄ちゃんの為ではない。思い出に浸っている時間があったら、一球でも多くのボールを打ちたい。過去を想う暇があるなら、今を見詰めていたいって、私は思う。今に勝る過去は無いということを、新しい居場所達が教えてくれた。

 

「昨日テニス部の先輩達が、高幡先輩の話を聞かせてくれました。少し怖いけど、面白くて良い人だなって。最近顔を見せないなって、みんな心配していましたよ」

「テニス部・・・・・・ああ、あいつらか」

 

 高幡先輩は小さな笑みを浮かべて、何かを思い出すように頭上を仰いだ。

 この一年半、過去の全てを捨てて生きてきたと、高幡先輩は言った。でも新しい居場所を見付けるのに、一年半は充分な時間だ。私なんて、たったの一ヶ月で見付かった。私には想像することしかできないけど、この一年半は高幡先輩にとって、空っぽなんかじゃない。

 

「カズマさんにシオ先輩やアキヒロがいたように、アンタにだって待っている人達がいる筈だ。もし一生モノの怪我でも背負っちまったら、苦しむのはアンタだけじゃねえ。最初から分かってたんだろ、先輩」

 

 高幡先輩は時坂君に答えず、一度私達に背中を向けて、立ち尽くす。静まり返った道場内に私達の息遣いだけが流れ、大きな背中へ視線が一手に注がれる。やがて高幡先輩は振り返らずに、私達に告げた。

 

「それでも俺は、アキヒロと決着を付けに行く。こいつだけは譲れねえ」

「別に異論は無いぜ。一人じゃ行かせねえけどな」

「・・・・・・やれやれ。時が経つのも早いもんだ。お前達のような後輩が、あの学園にいたとはな」

 

 言いながらこちらを向いた高幡先輩の表情は、初めて目の当たりにする物だった。澄み切った眼には一片の陰りも無く、優しさと頼もしさに充ちていて、温かい。容姿がお兄ちゃんに似ていることも相まって、思わず胸がドキリとする。きっとこれが、高幡先輩本来の顔なのだろう。高幡先輩の下に集った人間らが慕い、カズマさんと共に逆境を生き延びてきた、先輩の素顔。高幡先輩は今、しっかりと前を向いている。

 

「俺達からも改めてお願いするぜ。これ以上この杜宮で、連中に好き勝手やらせる訳にはいかねえんだ。力を貸してくれ、シオ先輩」

「ああ。俺とアキヒロの決着に、お前達も付き合って貰うぞ」

 

 高幡先輩と時坂君は右拳を前方に出して、こつんと叩き合った。その様を眺めていた柊さんの表情が曇っていた理由が、今の私には理解できなかった。

 

 



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5月23日 焔の追憶②

 

 高幡先輩が私達を導いた先は、杜宮市の外れ。アクロスタワーから真東に位置する、十年前に無人となった工場跡地だった。跡地の建屋には東京震災の爪痕が未だに残っており、壁面やシャッター口には大きな錆が浮かんでいた。本来は立ち入りが禁止されている区画だそうだけど、一つの古ぼけた建屋にだけ、小さな明かりが灯っていた。その建屋こそが目的地であり、過去にBLAZEが本拠地として使用していた廃工場。入り口前には複数台のオートバイが停まっていて、屋内からは男性らの話し声が漏れ出ていた。

 

(どうやらビンゴみたいだね。先輩方、これからどうするのさ?)

 

 入り口のシャッター扉の前で、ユウ君が声を潜めて問い掛けてくる。すると柊さんが高幡先輩の腕にそっと触れてから言った。

 

(こちらはこちらのやり方で行かせて貰います。いいですね)

(ああ、好きにしろ)

 

 高幡先輩は首を縦に振ると、まるで歩道を往くような堂々とした様子で屋内へ踏み込んで行く。私達は一度顔を見合わせてから、高幡先輩の後に続いた。

 目に映る男性の数を大雑把に数えて、約十数名。人数分の視線がこちらへ向くやいなや、前方からはたちまちのうちに驚きと戸惑いの声が上がり始めた。

 

「し、シオさん!?」

「う、嘘だろ。アキヒロさんが、半殺しにしたって話じゃ・・・・・・!?」

 

 当然の反応だ。死に掛ける寸前にまで追い込まれた人間が、軽い掠り傷だけを残して立っているのだから驚くのも無理はない。でも私の視界には、それ以上の『不自然』が映っていた。

 

(あれが・・・・・・アキヒロ、さん?)

 

 集団の中心に立つ、ピンクレッドの短髪を逆立てた男性。筋肉質の体格をしている一方で首が異常に細く、頬がこけている。焦点が合っていない目は大きく見開かれていて、絶え間なく揺れ動く。肌は浅黒くて見るからに乾燥しており、所々に爪で引っ掻いたような傷跡が浮かんでいた。

 同じ人間とは到底思えない。眼光は猛禽類を連想させる。過去に薬物中毒者の特徴を報道番組で目にしたことがあるけど、決定的に何かが違う。あの異常な外見も、HEATの影響なのだろうか。

 

「おいおいおい、シオさん。こいつは一体何の真似だよ。後輩とやらを引き連れて、こんな場所まで―――」

「こうするまでです」

 

 アキヒロさんが言い終えるのを待たずに、柊さんがサイフォンを素早い手付きで操作しながら歩み出る。手にしていたサイフォンが一瞬だけ輝きを放った後、すぐに異様な光景が広がった。

 

「ああ?」

 

 アキヒロさんを取り囲んでいた、十数名の男性ら。両脇の二名を除いて、全員が瞼を閉じて沈黙していた。見たままに表現するなら、『立ったまま寝ている』。私にも何度か経験があるけど、倒れたり膝を折ることもなく、全員が全員器用に立ち尽くしたまま寝息を漏らしていた。

 道中に柊さんが提案した、一網打尽。死人憑きの一件で市民体育館の被害者にも使用した、複数人を対象とする集団術式。アキヒロさんを含め三名以外の人間は既に夢の中。柊さんが暗示を解かない限り、目を覚ますことはない。正に一網打尽だ。

 

「悪く思うなよ、アキヒロ。これで薬と人数のハンデは無しだ」

「シオさん、アンタ・・・・・・」

「だがお前と闘るのはこの俺だ。一応言っとくが、後輩共に手出しは無用だぜ」

 

 高幡先輩が左手に右拳を叩き付け、アキヒロさんを睨み付ける。両脇で狼狽える二名の男性とは裏腹に、アキヒロさんは呆け顔を浮かべて、生気が感じられない眼を揺らしていた。

 

「クククッ・・・・・・アーハッハッハッハ!!!」

 

 すると突然、高らかな笑い声を腹の底から上げて、屋内にアキヒロさんの声が木霊する。腹を抱えて笑い続けた後、アキヒロさんは両隣に立っていた男性らに両手を差し出し、冷徹な声を放った。

 

「てめえらの分を出しな」

「え?で、でも」

「出せ。死にてえのか」

 

 言われるがままに、男性らが慌てた様子で何かを取り出す。両手に手渡されたのは、カードケースのような形をした銀色の入れ物。アキヒロさんがそれぞれのケースの上蓋をスライドさせると、中にはオレンジ色のタブレットがぎっしりと詰まっていた。

 

(あ、あれって)

 

 不味い。最悪が脳裏を過ぎり身構えた頃には、アキヒロさんは無造作にケースの中身を口内へと流し込んでいた。口元からぼろぼろと数粒の『HEAT』が零れていくのを意に介さず、口一杯にドラッグを詰め込んだアキヒロさんは、音を立てて咀嚼を始めた。全てが一瞬の出来事で、最悪が現実になった瞬間だった。

 

「アキヒロ、お前―――」

「動かないで!」

 

 そしてアキヒロさんが地面を蹴ったのも、ソラちゃんが高幡先輩の前方に躍り出たのも、一瞬。右腕を腰溜めに構え、重心は低め。前に出されていた左手と入れ替わりで、ソウルデヴァイスによって加速したソラちゃんの打拳が、突進してきたアキヒロさんの腹部へと突き刺さる。

 

「轟雷撃っ!!」

 

 正面からの剛撃によって弾き飛ばされたアキヒロさんの身体が、後方に積み重なっていた金属製のコンテナ達を巻き添えにして、屋内の奥部へと叩き付けられる。頭上から降り注いできた鉄パイプがけたたましい音を響かせ、追い打ちを立てていく。

 

「あ、アキヒロ!?」

「駄目です、効いていません。直前で外されました」

「彼女の言う通りです、高幡先輩。あれはもう人間じゃない」

 

 エクセリオンハーツを手にしていた柊さんに続いて、時坂君にユウ君、そして私もライジングクロスを手早く顕現させた。

 瞬時に理解できていた。HEATを噛み砕いた刹那に発せられた、あの波動。血飛沫のような朱色の瘴気は、異界で目にするそれと同じ。この屋内に限って、ソウルデヴァイスを振るえる程の浸食が、既に始まっている。エルダーグリードに匹敵する威圧感が、私達の肌を焼いていた。

 

「今の彼は危険過ぎます。暗示は解きました、BLAZEのメンバーを連れて避難して下さい!」

 

 立ち寝をしていた男性らが瞼を開くと同時に、コンテナの山が爆ぜる。ソラちゃんの一撃が通じた様子は見受けられず、アキヒロさんは全身から発せられる瘴気を焔のように揺らしながら、一歩ずつ前進していた。BLAZEの男性らは変貌したアキヒロさんを目の当たりにした途端に踵を返して逃げ出し、屋内に残されたのは、私達だけ。

 

(来るっ・・・・・・!)

 

 ギアドライブを加速させて、先程の攻防を振り返る。速さも耐久力も人間のそれじゃない。少しでも躊躇いを覚えたら、こちらが命を落としかねない。私も覚悟を決めて、やるしかない。

 

「柊、どうすんだ!?」

「強引に拘束して、術式で意識を遮断するわ。後衛は支援に徹して、私達で押さえるわよ!」

「了解です!」

 

 陣形は自然と定まった。柊さんを中心に、時坂君とソラちゃんが両翼。私とユウ君は後方。ユウ君のカルバリーメイスはともかく、私のライジングクロスでは接近戦で応じる術が無い。私の武器は速度と飛び道具、そして昨日に見い出した『カウンター』。私にできることをやるまでだ。

 

「ガァッ・・・・・・ガアァアアア!!!」

 

 一際鋭い咆哮を上げたアキヒロさんが、低い姿勢から再度突進してくる。合わせて襲い掛かってくる剣撃、打撃、鎖撃の隙間を縫うようにして、アキヒロさんが周囲を走り回り、三人を翻弄していく。

 移動や切り返しが速過ぎて、援護のしようがなかった。それに三人の動きが、目に見えてぎこちない。脅威は肌で感じているけど、相手が同じ人間であることには変わりない。柊さんも含めて、やはり多少の躊躇いがあるのだろうか。

 

「来るよ!」

「え―――」

 

 ユウ君の声と同時に、アキヒロさんが描いていた軌道が変わった。三人の包囲網から飛び出したアキヒロさんは、後方で隙を見計らっていた私とユウ君の下へ真っ直ぐに駆けて来る。隙を突かれたのは、私の方だった。

 

「先輩、伏せて!!」

 

 ユウ君が振るったメイスの横薙ぎを、アキヒロさんが軽々と右手で受け止める。アキヒロさんは勢いをそのままにメイスを振りかざし、メイスを握っていたユウ君の身体が地面へと叩き付けられてしまう。

 息を付く暇も無く、次にアキヒロさんの殺気が向いた先は、私。アキヒロさんはゼロ距離にまで接近を許した私の頭を右手で鷲掴みにして、私の両足が地面から離れると、途方も無い激痛で頭を割られたかのような錯覚に陥る。

 

「うあ、ああ!?あああぁあっ!!」

「アキ!?」

 

 時坂君の叫び声が耳に入ると、より一層の力が五指の先端に込められ、頭部へと突き刺さっていく。両手で抗おうにも、アキヒロさんの肌は熱せられた金属のように熱く、触れることすらままならない。

 

「アキ・・・・・・アキ?アキ、だぁ?」

 

 ライジングクロスを手放した筈なのに、落下音が聞こえない。そればかりか、周囲の声さえもが急速に遠のいていく。聞こえてくるのは、頭蓋がぎしぎしと歪む音だけ。痛みで意識を失った経験はないけど、その域の一歩手前まで来てしまっている。もう、何も考えられない。

 

「―――その手を離しやがれ、アキヒロ」

 

 唐突に、痛みが和らいだ。依然として右手で吊り下げられている状況は変わらない一方で、とても温かな声が聞こえた。涙のせいで不明瞭な視界には、アキヒロさんの右手首を掴む、大きな左手が映っていた。

 

「ガァアアアッ!!!」

 

 反対側の左手から放たれた打拳も、轟音と共に右手で阻まれる。すると重なり合った両者の手の隙間から、溢れんばかりの光が放たれ、目が眩むような金色の輝きで、眼前が満ちていく。

 私はこの光を知っている。死人憑きの異界に飲み込まれ、偽りの幻想に我を見失っていた時。本物の声と同時に胸の奥底から生まれた、希望の光。あの光と、同じ色だ。

 

「か、はた、先輩・・・・・・?」

「言っただろうが。後輩共にっ・・・・・・こいつらにだけは、手を出すんじゃねえ!!!」

 

________________________________________

 

 前方で生じた衝撃で、身体が後方へと吹き飛ばされる。私を受け止めたのは、先程手痛い反撃を食らったユウ君だった。私はユウ君に背中を預けながら、今も鈍い痛みと熱が残る頭を確かめるように、両手で触れた。危険なところまで追い込まれたけど、頭は割れていない。

 

「ね、ねえユウ君。私の頭、変じゃない?」

「焦げ臭いし中身はお気の毒だけど、まあ大丈夫でしょ。でもさ・・・・・・アリなの、こんな超展開」

「あはは。アリ、じゃないかな」

 

 私達に背を向ける高幡先輩の右手には、巨大な一振りの剣。身の丈を超える程の刀身を持つ重剣が握られていた。印象は柊さんのエクセリオンハーツと正反対で、重々しい存在感と重厚な輝きを放っていた。

 漸く合点がいった。柊さんの記憶操作の効果が高幡先輩に見られなかったのは、私達と同じだったからだ。話が出来過ぎているような気もするけど、柊さんの話では、適格者としての素質を持つ人間は全人口の約0.004%。十八万人の住民がひしめくこの杜宮市の外れに、こうして一手に集う偶然があってもいい。そもそも私達だって同じような立場にあったのだから、人のことは言えない筈だ。

 

「何が何だかサッパリだが・・・・・・どうやら同じ土俵には立てたみてえだな。立て、アキヒロ。仕切り直しだ」

 

 高幡先輩の重剣の切っ先を向けられていたアキヒロさんが、ゆっくりとした動作で立ち上がる。するとアキヒロさんは上着の中へ手を伸ばし、取り出されたのは―――銀色のケース。先程二人の男性らから受け取ったHEATが入っていた物と、同じだった。

 

「アキヒロ、てめえっ・・・・・・!」

「駄目よ、やめなさい!これ以上摂取してしまったら、何が起きるか分からないのよ!?」

 

 柊さんの忠告を知ってか知らずか、アキヒロさんは迷わずにケースの中身を貪り、噛み砕いた。直後に発せられた朱色の瘴気が私達に牙を向き、火を当てられているかのような鋭い痛みに苛まれていく。

 

―――ピシッ。

 

 そして『裂け目』は、唐突に浮かんだ。アキヒロさんの背後に漆黒と朱に染まった裂け目が生じた途端、周囲の空間が歪み、揺らいだ。頭を直に揺らされているような感覚に吐き気をもよおし、私は思わず瞼を閉じた。

 

「ぐっ・・・・・・ぐああああっ!?」

 

 次第にアキヒロさんの悲鳴が尻すぼみになっていき、吐き気が治まった頃には、声も姿も無かった。代わりに在ったのは、ゲート。両開きの門を模した別世界との境目が、私達の眼前でフェイズ1を示す色に染まっていた。

 

「アキヒロ!?」

「人を起点とした異界化っ・・・・・・異界ドラッグの過剰摂取で、特異点と化したんだわ」

 

 過去にばかり囚われていた私やアリサ先輩を介して、異界化が生じた時と同じ。死人憑きではない今回の事件の元凶が、このゲートの先にいる。それなら、私達が取るべき選択肢は一つだ。

 私は地面に落ちていたライジングクロスを拾い上げ、ゲートの前で立ち尽くしていた高幡先輩に歩み寄り、そっと声を掛けた。

 

「高幡先輩。助けてくれて、ありがとうございました」

「礼なんざいい。アキヒロは、この門の先にいるのか」

「はい、その筈です」

「あいつを薬漬けにしやがったクソ野郎も、そこにいるんだなっ・・・・・・!」

 

 私は振り返り、後方に立っていた柊さんの反応を窺った。首を縦に振ったということは、同行を認めてくれたということだろう。この期に及んで拒まれたら、私だって文句の一つや二つ並べる。

 

「シオ先輩、ここからが本番だ。最後まで付き合って貰うぜ」

「当たり前のことを抜かしてんじゃねえよ」

 

 高幡先輩を先頭に、私達は異界へと飛び込んだ。時刻は既に、夜の20時を回っていた。

 

_______________________________________

 

 内部の様子は、昨日に高幡先輩が落とされた異界といくつかの共通点が見られた。一つ目は、濁度が百を超えているという点。濁度が一定の基準値を超える異界では、長居をするだけで身体の内部から蝕まれてしまう。行動限界時間を設定する上で重要な指標となる。

 そして二つ目は、現実世界を思わせる不思議な植物達。昨日は木の根のような地面より下の組織が目立ったけど、この異界では青々とした葉を揺らす見たこともない植物で溢れ、至る所にツタ属に酷似した緑が生茂っている。見ようによっては植物園と言っていい様相を呈していた。

 

「どうやらアキヒロは、奥部まで連れて行かれちまったようだな」

「ええ。そして恐らくですが、この異界を覆っている植物達が、異界ドラッグの原材料となっていたのでしょう。こういった類の異界は、私にも経験があります」

 

 ここに来て漸く全てが繋がった。アキヒロさんは自分でも気付かぬうちに異界に魅入られ、ここで密かにHEATの素材を調達し、BLAZE内に広めていた、ということになる。

 

「でもさ、ただの不良が何であんなドラッグの作り方を知ってた訳?」

「それも元凶が撒いた餌の一つだったのよ。アキヒロさんの意識下に潜り込ん・・・・・・ま、待って」

「え?」

 

 柊さんが声を切ると同時に、足元が揺れた。気のせいかと思いきや、もう一度。二度目の揺れは治まりを見せず、微弱な振動として両足から伝わってくる。

 

「じ、地震?」

 

 振動は時間を追うごとに強まっていき、地鳴りのような重低音と共に、何かが近付いてくる。頭上からぱらぱらと迷宮の破片が降り注ぎ、上部へ気を取られていると―――私達の前方、何も無かった筈の床面から、突如として『それ』は現れた。

 

「「っ!?」」

 

 緑と紫色に染まった、不気味な触手。大木のように太い二本の触手が、地上から突き出していた。触手は先端を小刻みにしならせながら、呆気に取られていた私達へと襲い掛かる。その標的となったのは、二人の後輩だった。

 

「うわあぁ!?」

「きゃああ!!」

 

 ユウ君とソラちゃんの足に先端を巻き付かせた触手達は、二人を引き摺り込みながら、地の底へと消え去っていった。すぐに振動は止み、後に残されたのは、地面にぽっかりと開いた二つの穴。呆然と立ち尽くす私達と、理解が追い付かないこの現状。しんと静まり返った異界の入り口で、一体今何が起こったのか。じわじわと少しずつ理解へ近付くに連れて、絶望感と喪失感が込み上げてくる。

 

「ユウキ・・・・・・ユウキ、ソラ!?」

 

 弾かれるように、私と時坂君は二つの穴に向かって駆け出した。穴の先は既に埋まっていて、その先が窺えない。この穴が何処に繋がっているのか、今さっきの触手が何なのかも、分からない。

 

「そ、そんなっ・・・・・・今のは、二人は何処に行っちゃったんですか!?」

「落ち着いて、遠藤さん」

 

 私達が狼狽する一方、柊さんは静かに言った。冷静さに満ちた声と柊さんの落ち着き払った態度に、より一層の混乱が生じて、頭がおかしくなりそうだった。

 

「おい柊、今のは何だ。あれもグリードなのか!?」

「時坂君もよ。取り乱しても二人は帰って来ないわ」

「じゃあどうすればいいんだよ!!」

「だから落ち着いてと言っているでしょう!!」

 

 悲鳴に近い叫び声が、周囲に響き渡る。直後に耳に入ったのは、何かが滴る音。見れば、柊さんの両手からぽたぽたと、真っ赤な液体が一滴ずつ落下していた。固く固く握られた両拳は、先端の爪が掌に食い込んでしまっているのか、指の隙間に血が浮かんでいた。

 

「柊、お前・・・・・・」

「お願い、私の言うことを聞いて。こうなった以上、もう時間が無いの」

 

 冷水を頭から浴びせられたかのように、一気に理性を取り戻していく。柊さんは血に染まった手でサイフォンを操作しながら、私達に言い聞かせた。

 

「取り込まれた二人は勿論、アキヒロさんも同様の状況にある筈よ。詳細は前進しながら説明するわ。高幡先輩も、それでいいですか」

「構わねえが、お前さんは元凶とやらに心当たりがあるみたいだな」

「あの触手は異界の奥に潜むグリードの一部です。サイズはもっと小型でしたが、私は同種族と過去に対峙したことがあります。執行者を志願していた私に課せられた、最後の試しでした」

 

 柊さんは顕現させたエクセリオンハーツを一度振るい、地面に浮かんだ二つの穴を見下ろしながら、続けた。

 

「エルダーグリード『ダークデルフィニウム』。脅威度はAランクに匹敵するわ。あと三十分以内に奥部へ辿り着けなかったら、三人の命は枯れ果てる・・・・・・さあ、進みましょう」

 

 



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5月23日 追憶の果てに見い出した物

 

「おおぉらああっ!!」

 

 焔を纏った高幡先輩の斬撃が、眼前の通路を塞いでいた蔓状の植物達を斬り上げる。時坂君の鎖撃や私の霊子弾ではビクともしなかった異界植物は一気に枯れ果て、その大部分が燃やし尽くされていく。

 

「こんなもんでどうだ」

「ええ、助かります」

 

 異界の最奥部を目指していた私達は、思いの外に順調な足取りで迷宮内を突き進んでいた。要因の一つは、柊さんを除いた私達三人のソウルデヴァイスに、焔属性の霊力が宿っていたことにある。植物は火に弱いというイメージに反せず、異界の内部にひしめくグリードのほとんどは風属性。グリード戦においては終始優勢に立ち回ることができ、とりわけ覚醒したばかりの高幡先輩の剣技は、大半のグリードを一撃で仕留めていた。

 と言っても、これにはしっかりと理由があるらしい。単にこの異界の主も焔属性を嫌っていたから、自然と触手は私達三人を避けて、ユウ君とソラちゃんに襲い掛かったというのが柊さんの考察だ。柊さんが狙われなかったのも、私達の後方に立って『しまっていたから』。柊さんは重々しい声で、そう言った。

 

(柊さん・・・・・・)

 

 私の視線に気付いたのか、柊さんは立ち止まって振り返り、私達を見回した。

 

「もうかなり奥まで来ている筈よ。グリードの反応も近い。作戦を整えて戦闘に備える為にも、一分間だけ小休憩を取りましょう」

 

 本来ならたとえ一分間と言えど、立ち止まっている暇は無い。柊さんが過去に対峙したとされるダークデルフィニウムの特徴の一つが、霊力吸収。触手や蔓の先端部で捕えた獲物から霊力を吸い出し、糧とする。一方の獲物は吸い尽くされ、果ててしまう。柊さんが言った「時間が無い」は、そういった意味合いが込められていた。

 でも今回の相手は脅威度『Aクラス』のエルダーグリード。指標が今一分かり辛いけど、あの死人憑きでも精々『Cクラス』がいいところだそうだ。これまで対峙してきたグリードとは次元が異なる、かつて柊さんに与えられた最終試練でもあった難敵。ここは素直に従って、体制を立て直した方がいいに違いない。

 

「遠藤さん。少しいいかしら」

「え?あ、はい」

 

 柊さんは私の隣に立ち、左手で私の右手を握った。お互いの指と指を絡ませるように握り合う、所謂『恋人つなぎ』。手から伝わってくる柊さんの体温がとても心地良くてドキドキ、って違う違う。

 

「ほう。お前さん達はそういう仲だったのか」

「ち、違います!こんな状況で変なこと言わないで下さい!」

 

 こんな状況で仲良く手と手を繋ぎ合っている私も私だけど、何だこれは。柊さんは一体何をしようとしている。気恥ずかしさで一気に手汗が吹き出し、変に思われていないか気になって仕方ない。

 

「おい柊、マジで何のつもりだよ。時間が無いんだろ」

「後々説明するわ。でもその前に、元凶の情報を共有しておきましょう」 

 

 努めて冷静さを保ちながら、柊さんの声に耳を傾ける。

 ダークデルフィニウムは植物型のエルダーグリード。脅威度は個体差によるけど、触手が入り口付近まで届いたことから考えて、サイズは規格外と言っていい。対峙する際に最も気を払わなければならない部位が、霊力吸収の起点となる触手と蔓。一度でも捕まったら即座に霊力を吸われ、眩暈や吐き気といった症状を引き起こす。その先に待っているのは、死。獲物が干乾びるまで、ダークデルフィニウムは霊力を吸い続ける。

 

「弱点は本体の頭部、体内が剥き出しになっている部位よ。幸いこちらには高幡先輩がいるわ。時間が限られている以上、隙を突いた一撃で短期決戦に臨みましょう」

「好いとこ取りをしちまっていいのかよ?」

「勿論です。機は私達で作ります。さあ、行きましょう」

「ああ。早いところ三人を取り戻すとしようぜ」

 

 柊さんの手に引っ張られる形で、私達は歩調を合わせた。本当に、どういうつもりなのだろう。柊さんはいつも説明を後回しにして行動することが多い。何か理由があるのだろうか。

 

(あ・・・・・・)

 

 前方から僅かに差し込んだ光に照らされて、初めて気付く。私達の手の間には、真っ赤な液体が浮かんでいた。手汗だと思っていた体液は、入り口で柊さんが爪を突き立てたことで掌から流れ出た、柊さんの血だった。

 手を介して伝わってくるのは体温だけじゃない。明確な自責の念に苛まれる、柊さんの冷たくも熱い感情があった。もし異界化が発生する前に事態を収拾していたら、アキヒロさんを無事解放できていたのに。あの時すぐ動いていれば、二人をこんな目に遭わせずに済んだのに。取り込まれたのが、自分だったらよかったのに。

 

「・・・・・・あの、柊さん」

「何かしら」

「いえ、その。絶対に、助け出しましょうね」

「ええ。その為にも、もっとしっかり握って貰える?」

「な、何でそうなるんですか」

 

 戸惑いつつ、柊さんと強く指を絡め合う。何も彼女だけが苛まれる必要は何処にも無い。時坂君も言っていた。柊さんの協力者である私達の傷は、柊さんの傷だと。ならその逆も然りだろう。この血は私の物でもある。胸に刻んで、必ず助け出す。

 覚悟を決めて通路を進んでいると、やがて開けた広大な空間が現れる。足場は極端に少なく、前方に広がる大穴は海面にぽっかりと口を開くブルーホールを思わせた。壁面や天井には一層の緑が生茂っていて―――天井から蔓で吊るされた人影に、目が止まった。全身を巻かれて力無く項垂れる、アキヒロさんとユウ君、ソラちゃんの三人だった。

 

「アキヒロと後輩共かっ・・・・・・!」

「迂闊に手を出しては駄目です。あの状態で蔓を斬れば、切断面から霊力が漏れ出て一気に果ててしまうかもしれません。元凶を滅ぼすのが最優先です」

 

 死人憑きとはまた違った意味で随分と厄介な相手だ。幸いまだ命は繋ぎ止めているようで、三人共僅かに頭を動かし、私達に視線を向けた。間に合ってくれたのはいいものの、まるで生気が感じられない。残された時間も、あと僅かな筈だ。

 

「来るぞっ!」

 

 時坂君が叫ぶと同時に、大穴の中から無数の蔓がうねうねと奇妙に動きながら立ちはだかる。続いてユウ君とソラちゃんを引き摺り込んだ、二本の巨大な触手、そして頭部。徐々に露わになっていくエルダーグリードの全貌に、私は尻餅を付きそうになる程の威圧感と恐怖を覚えた。

 

「な、なんて大きさ・・・・・・!?」

 

 規格外という表現にも、視界にさえも収まり切らない。食虫型植物のような外見とは裏腹に、これまで相手取ってきたグリードの十数倍はある巨体が、眼前に広がった。私が身体を小刻みに震わせる一方で、柊さんは声を張って言った。

 

「作戦通り、私と遠藤さんが注意を引き付けるわ。その隙に時坂君が動きを封じて、高幡先輩が仕留めて下さい。あと数分以内に決着を付けないと、捕われた三人の命に関わります」

「ああ、やるしかねえみたいだな!」

「お膳立ては頼んだぜ、後輩共!」

 

 注意を引くと言っても、動ける足場が余りに少ない。既に無数の蔓が、私達に牙を向こうとしている。ギアドライブを使った俊足には自信があるけど、あらゆる条件が悪い方向に働いていた。あの全てを掻い潜るなんて真似が、私にできるのだろうか。

 

「クロスドライブ第二段階、同期開始」

「え・・・・・・こ、これって」

 

 不意に温度を感じた途端、負の感情が立ち消え、身体の震えが治まる。柊さんの手から伝わってくるのは、絶対に助け出すという断固たる意志。おかげで視界が開け、先程よりもダークデルフィニウムの巨体が一回り小さく映った。

 

「遠藤さん、私を信じて。全力の私に付いて来れるのは、貴女しかいない」

「柊さん・・・・・・」

「絶対に立ち止まらないと約束して。遠藤さん、できるわね」

 

 刹那。十数本の蔓が一斉に動き出し、私達を襲った。私と柊さんは地面を蹴り、左方向に身を躱した。先程まで立っていた足場には束状になった蔓達が突き刺さり、間髪入れずに次の攻撃が始まる。あれに捕まったら、私達も三人の二の舞だ。

 

「止まらないで!」

「はい!」

 

 殺気は全方向から発せられていた。後方からは石造りの足場に蔓が刺さる音が鳴り、一歩の遅れが致命的と言わんばかりの連撃が続く。立ち止まったらそれまで、私達も捕われてしまう。

 

(足場が―――)

 

 弧を描くように限られた足場を走り抜く私達の視線の先には、何も無かった。このまま行けば、底が見えない巨大な穴の中へ真っ逆さま。でも私の隣を行く柊さんは、立ち止まらない。私も止まらないと約束した。だったら、このまま駆け抜けるまでだ。

 

「ギアドライブ、全開っ・・・・・・!!」

 

 走り幅跳びの要領で跳躍し、眼前の壁面に垂直で着地する。勢いを殺さずに一歩踏み出し、もう一歩、更に一歩。ギアドライブの限界値を振り切り、壁面を破壊しながら足を動かし、重力を無視した歩法で前進を維持する。無数の蔓はお構い無しに私達を追跡して、壁面に刻まれた足跡に突き刺さるを繰り返していく。止まるな、走れ。走れ、走れ。

 

(は、速い)

 

 上下を左右に置き換えて、柊さんと一緒にジグザグの軌道を描き、ダークデルフィニウムを翻弄する。こちらは既に限界速度まで達しているのに、柊さんは私の俊足に遅れる気配が無い。そればかりか、敢えて私に合わせているかのような足取りで僅かに私の前を行き、軌道のイメージが明確に伝わってくる。これが執行者としての柊さんの、全力なのだろうか。

 

「っ!?」

 

 柊さんに気を取られていると、壁面を三分の二周したところで、今度は前方から殺気を感じた。蔓は私達よりも先回りをして、機関銃のように前方から続々と襲い掛かっていた。

 

「はああぁっ!」

 

 すると柊さんは更にギアを上げて加速し、目にも止まらない無数の斬撃で、蔓を斬り刻んでいく。感心している暇も無く、私は柊さんから距離を取る方向にハンドルを切って、できる限りの注意を引き付けながら壁面を走る。続いて目に止まったは、二人の後輩を捕えた巨大な触手。対のうちの一本がしなり、私達を待ち構えていた。

 

「させるかってんだ!!」

 

 一周して戻って来た私達が足場へ着地すると同時に、レイジングギアの先端が触手に巻き付き、鎖の伸縮を利用した力で、時坂君が触手を拘束する。しならせていた反動と相まって触手は引っ張られ、ダークデルフィニウムの巨体が大きく揺らいだ。蔓や触手と違い、本体部の動きはひどく鈍重で、けたたましい音を轟かせて頭部が足場へと倒れ込む。

 

「シオ先輩、出番だぜ!」

「おうっ!!」

 

 後方で身構えていた高幡先輩が跳躍し、焔を纏ったヴォーパルウェポンを頭上に振りかざす。落下の勢いを味方に付けて、振り落とされた斬撃は―――その刃が届く前に、触手は先端部を放棄してしまった。

 

「「っ!?」」

 

 突然拘束していた部位が切り捨てられ、勢い余って時坂君は後方に倒れ込み、一方のダークデルフィニウムはたちまちに体勢を立て直してしまう。続けざまに襲い掛かった蔓達の攻撃で、時坂君と高幡先輩は後方へと吹き飛ばされ、次々に追撃を叩き込まれていく。

 

「時坂君、高幡先輩!?」

 

 思わず振り返ってしまったのが仇となった。視線をダークデルフィニウムから切った途端、蔓が私の四肢に絡み付き、私の身体は一気にダークデルフィニウムの上部へと舞い上がった。ライジングクロスも蔓に奪い取られ、視界の端には私と同様に捕われた柊さんと、エクセリオンハーツが映っていた。

 

「か、はっ・・・・・・ゲホッ、かはっ」

 

 即座に始まった、霊力吸収。一気に視界が歪み、込み上げた吐き気のせいで、九重道場で口にした夜食が胃液と共に流れ出てしまう。口内に不快感が広がり、今自分がどんな体勢で捕えられているのかが、分からなくなっていく。

 霊力吸収の速度は、私の予想を遥かに上回っていた。たったの十数秒で重々しい脱力感に苛まれ、蔓を振り払おうにもまるで力が入らない。こんな蔓に捕われては、柊さんでも手の出しようが無いに決まっている。

 

「応えて、エクセリオンハーツ!!」

「うぅ・・・・・・え?」

 

 閉じかけていた重い瞼を見開く。視線の先には、柊さんの声に応えるかのように、独りでに動き出した刃があった。エクセリオンハーツは柄を握っていた蔓を刀身で切り刻むと、真っ直ぐに私の下へと飛来した。

 

(柊さん・・・・・・!)

 

 不思議な力による繋がりは、まだ生きていた。エクセリオンハーツが的確に絡み付いた部位を斬り裂きながら、柊さんの感情と考えが流れ込んでくる。諦めては駄目だ。今動けるのは私しかいない。柊さんは己の身よりも私を案じて、反撃の機を私に託してくれた。応えられるのも、私だけだ。

 エクセリオンハーツが最後の蔓を斬り捨て、一時的に空中で拘束が解かれる。エクセリオンハーツは私のイメージ通りの位置で動きを止め、私は刀身を足場にして、残された力を振り絞り跳躍した。

 

「だああぁっ!!」

 

 私を追い越したエクセリオンハーツがライジングクロスに巻き付いていた蔓を斬り、私はグリップを握ると同時に、ダークデルフィニウムを見下ろした。真上となるこの位置からなら、剥き出しになった頭部を狙える。

 でも私の霊子弾だけでは威力不足は目に見えている。高幡先輩の斬撃に遠く及ばない。既に蔓は私に照準を合わせているし、一か八かで撃つしかないけど、この弾撃が届くのだろうか。

 

(え―――) 

 

 躊躇いながら宙で構えていると、右方向から何かが近付いていた。私はこの力を知っている。鋼属性と風属性、二つの霊子弾。私達の中で両属性を扱える人間は、二人しかいない。

 

「や、やられっ放しじゃ、カッコ悪過ぎでしょ」

「アキ先輩っ・・・・・・!」

 

 あんな状態で、何て無茶を。色々と言ってやりたいけど、全部後回しだ。

 私は体勢を立て直し、ストロークからオーバーヘッドサーブの構えに切り替える。ギアドライブに続く、ライジングクロスに秘められた二つ目の力、『ギアバスター』。打点とタイミングさえ噛み合えば、何だって撃ち返せる。本来はカウンター技だけど、やれと言われたからには、応えて見せる。

 

「おおおぉりゃああああっ!!!」

 

 三人分の力を込めた特大の霊子弾を、ダークデルフィニウムの頭部へと撃ち下ろす。光弾が弱点とされた剥き出しの部位に着弾すると、耳をつんざくような鋭い悲鳴が周囲へ響き渡り、全ての蔓がピンと真っ直ぐに伸びて、確かな手応えを感じさせた。

 お願いだから、そのまま倒れて。落下しながらダークデルフィニウムの様子を窺っていると、無数の蔓は息を吹き返し、本来の動きを取り戻していく。私を嘲笑うかのように、再び私の身体に絡み付いていた。

 

「そ、そんなっ・・・・・・!」

 

 襲い掛かった勢いで私を壁に張り付けて、今度は四肢に加えて首や腹部にまで巻き付き、残り僅かな力を奪い始めてしまう。蔓の締め付けは先程よりも弱く、万全の状態なら抗いようがあったけど、もう力が入らない。あと一歩のところまで、来ているというのに。

 

「―――エクステンド、ギア!!」

 

 ああ、そうだった。ごめんなさい時坂君、高幡先輩。すっかり忘れていた。

 胸中で二人に謝りながら、前方を見やる。巨大化した鎖がダークデルフィニウムの頭部を捕え、弱り切った本体を力任せに引き摺り倒す。鎖で繋がれた先には、ボロボロになった時坂君と、重剣を構える高幡先輩の姿があった。

 

「シオ先輩、次に外したらぶん殴るからな!?」

「てめえこそ、また放したら張り倒すぞ!!」

 

 きっとどちらも放さないし、外さない。二人のやり取りに安心し切った私は、瞼を閉じて脱力感に身を委ね、微睡みの世界へと身を投じた。

 

_______________________________________

 

「んん・・・・・・え?」

 

 目を覚ました先には、暗闇だけが広がっていた。背中はごつごつとした硬い何かに当たっていて、ひどく寝心地が悪い。少なくともベッドの上ではない。

 

「え、えーと」

 

 落ち着こう。冷静になって考えよう。記憶はしっかりとある。私はみんなと一緒に異界に飛び込んで、一緒にエルダーグリードと戦って、無事に現実世界へと帰って来れた。最後の方の記憶は曖昧だけど、この感覚は現実世界のそれだ。ここは異界じゃないし、きっと疲労のせいで眠りこけていたのだろう。

 次第に暗闇に目が慣れ、周囲の様子が僅かに窺えるようになっていく。私は思い出したようにサイフォンを取り出し、現時刻を確認する。午後の21時半過ぎ、そして音声通話着信が十二件―――え、十二件?

 

「アキ先輩、何処ですか!?アキ先輩!」

「クソ、どうなってやがんだ。一体何処に行っちまったんだよ!」

 

 着信件数に驚いていると、みんなの声が足元から聞こえてくる。よくよく見ると、私が眠っていた場所はひどく狭い。一辺が二メートル程度の正方形で、その先には何も無かった。これはどういう状況だろう。恐る恐る顔を覗かせようと身体を動かすと、途端にグラグラと正方形が揺れた。

 

「わわっ!?」

「い、今の声はっ・・・・・・遠藤さん、遠藤さんなの!?」

 

 再び聞こえてきた、柊さんの声。縋るような思いでそーっと下方を覗き込むと、みんなの姿が小さく映った。深い安堵と共に、途方も無く嫌な予感がした。

 

「・・・・・・嘘」

 

 単純な話だった。きっとまた、私だけが『ずれた』のだろう。異界に繋がるゲートが在ったのは、今の私の位置から見て十数メートル下。出現座標が変化してしまった私は、四角形のコンテナが数個積まれた上に帰って来た。最上段のコンテナの上部、異界最奥部と同じくして僅かな足場の上に、今の今まで私は眠っていた。要はそういうことだ。

 

「お、驚かせやがって。返事ぐらいしろってんだ。もう一時間近く探してたんだぜ」

「ご、ごめんなさい。じゃなくって!わ、私、どうやって下りればいいんですか?」

「なーんで遠藤先輩だけ出現座標がコロコロ変わるのさ。あの人馬鹿なの?」

「きっとそういった体質なのよ。興味深い点だわ、報告書にも記載しておかないと」

「あの、聞いてますかー?」

「アキ先輩、気合いです!」

「無茶を言わないで!?」

 

 私の悲痛な叫び声だけが、廃工場の上部へ木霊していた。

 

_________________________________________

 

 元凶は消え、掛け替えの無い弟分を蝕んでいたドラッグも消えた。伝えたかった想いは拳と共に、全てを叩き込んだ。一連の事件は収束に向かえど、シオとアキヒロにとっては終わりではなく始まり。あとは時間だけが解決してくれると信じて、シオは弟分の明日を願っていた。

 そしてもう一つの心配事。異界から帰還してすぐ、アキの姿が見当たらないという受け入れ難い現実に直面したシオは、簡単な事情聴取から解放された後、その足で廃工場へと戻っていた。辿り着くまでは気が気でなかったものの、コンテナの上部で狼狽えるアキを目の当たりにして、ほっと胸を撫で下ろしたのが、つい今し方の出来事だった。

 

「お疲れさまでした、高幡君。どうやら収拾は付いたようですね」

「・・・・・・いつからそこにいた」

「つい先程。騒ぎを耳にして駆け付けた次第です。ただの野次馬ですよ」

「やれやれ。底知れない上に、神出鬼没か。お前、どこまで知ってんだ?」

「質問の意図が分かりかねますが」

「フン、よく言うぜ」

 

 シオは隣に立った同窓と共に、前方から聞こえてくる会話に耳を傾ける。出遅れてしまったこともあったが、先程の死闘が夢であったかのように、五人の後輩が見せる下らないやり取りを、遠目から見守っていた。

 

「ねえ時坂君。表にクレーン車が停まっていたわ」

「お前は俺のアルバイト経験を勘違いし過ぎてる」

「提案提案。ダルマ落とし形式で、郁島がコンテナを一個ずつぶっ飛ばすってのはどう?」

「こんな超難易度のダルマ落とし聞いたことねえよ」

「コウ先輩、突っ込みどころはそこじゃないです」

「ど、どうやって下りれば・・・・・・う、うぅ?」

「え、遠藤さん?どうしたの、何処か痛むの?」

「い、いえ。そうじゃなくって・・・・・・ぐうぅ」

「お、おいおい。まさか、怪我でもしてんのか!?」

「その、お腹が空いて。思った以上に消耗してるみたいで」

「お前ふざけんなよ!?」

「ふざけてないです!みんなこそ真面目に考えて下さいよ!?」

「ほら郁島、一発やってみ」

「・・・・・・いける気がしてきた」

「えー?」

「もう119番しようぜ。これ俺達の手に負えねえって。言い訳は俺が適当に考えるからよ」

「仕方ないわね。ソラちゃんと四宮君の疲労も相当な物だし、みんなで考えましょう」

「あ、あの。できるだけ、急いで貰えませんか。も、もうそろそろ限界がっ」

「少しは我慢してくんない。僕らだって空腹と眠気が半端無いんだからさ」

「そそ、そうじゃなくって。その・・・・・・お手洗いに、行きたくて」

「柊、任せた」

「郁島、任せた」

「待ちなさい二人共」

「義を見てせざるは勇無きなりだよ。ユウキ君なだけに」

「いや無理無理!マジ無理だろ!?」

「僕らにどうしろって言うのさ!?」

「いいから早く119番して下さいよぉ!?」

 

 ミツキが笑い、シオも釣られて笑みを浮かべる。シオはやれやれといった様子で歩き出し、この一年半の道のりと、ここ数日間の出会いを思い返す。

 どうして気付かなかったのだろう。自分は多分、恵まれ過ぎている。帰るべき居場所には、こんな自分を家族と呼ぶ老夫婦がいる。口煩い風紀委員、泰然自若な剣道部の長、不思議と話が通じる空手部主将、隣で含み笑いをする腐れ縁と、彼女にいつも突っ掛かるクラスメイト。数え出せば切りが無い。そして―――こんな夜中に茶番劇を繰り広げる、五人のお人好しがいる。

 

「なあ北都」

「何ですか」

「学校の先輩ってのも、悪くねえもんだな」

「気付くのが遅過ぎです。高幡君は本当にバカですね」

「お前は何で俺にだけ容赦ねえんだ・・・・・・」

 

 5月23日の、この日。追憶の焔が落としていた影は消え去り、代わりにまだ見ぬ明日を、照らしていた。

 

 



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第2.5部
5月25日 白の巫女と、黒の夢


 

 両親を亡くして二年の月日が過ぎ去った頃から、不思議な夢を見るようになった。

 私は真っ白な一枚の塗り絵を机に広げて、どの色を選ぼうか悩んでいる。赤にしようか、それとも青にしようか。複数本の色鉛筆と睨めっこをして、幼いながらも真剣に考える。しかし決心が付き色鉛筆を手に取った私は、「あれ?」と首を傾げてしまう。赤を取ろうと思っていたのに、手にしていたのは青。青を取ろうと思ったのに、緑。どういう訳か、私は己の意思に反して別の色を選び、塗り絵に色を与えていく。そうして完成した塗り絵を、私を取り巻く大人達は一様にして賛美してくれる。私の目には大して綺麗に映らないけど、皆が言うのだからそうなのだろうと、疑いもせずに受け取り、自室の壁に飾った頃になって、漸く夢から醒める。

 年齢を重ねるに連れて、夢もそれに伴う形で世界を変えていく。中学生になって、私服の色に考えを巡らせる夢が多くなった。高校へ入学した頃には、催しの際に身に着ける衣装へ。夢によって様々だけど、一番多いのはやはりパーティードレスだ。

 私は何時だって悩み、考える。考えはするけど、ふとした瞬間に悟ってしまう。ああ、今日はこの色だと。そして私は衣装に手を伸ばしながら、最近は考える時間が段々と短くなっていることに気付く。だって私は、決して『それ』を選ばない。選択肢なんて、初めから無いのだから。

 

_______________________________________

 

 ―――5月25日の早朝、午前6時半。

 夢から覚めると、私は決まって汗だくで、喉が渇き切っている。今日も例外ではなく、寧ろ目覚めがいつもよりも数段悪い。貴重な睡眠時間を満喫した直後だというのに身体が重く感じられ、まるで眠った気がしなかった。

 

「・・・・・・また、ですか」

 

 正直なところ、そろそろ例の夢を見ることになるだろうと考えてはいた。あの夢は忘れた頃にやって来る。そして最近になって漸く、傾向が掴めてきた。大抵の場合、私が「ああ、この人は裏表の無い人間なんだな」と思えることができる人間と出会った後に、私はあの夢を見る。今回に関して言えば、一昨日の一件がそうなのだろう。

 あの六人の誰に対してそう感じたのかは分からない。そして何故あんな夢を見るのか、どうして法則性があるのかも。分からないというより、分かりたくない。

 

「やれやれ、ですね」

 

 私は重い足取りで窓際へ向かい、カーテンを開けた。窓枠の向こう側から差し込んでくる陽の光が眩し過ぎて、私は朝空を直視することができなかった。

 

_______________________________________

 

「あら、四宮君」

「ん・・・・・・」

 

 部屋を施錠してエレベーターへ向かっていると、私と同じタイミングで部屋を出た四宮ユウキ君の背中が映る。私は小走りで四宮君に追い付き、彼と歩調を合わせ始めた。

 

「おはようございます、四宮君。今日は随分と早いのですね」

「どーも。別に理由はないけど。早く目が覚めただけだから」

 

 素っ気無く返す四宮君の出で立ちをちらと見る。制服の上から緑色のパーカーを羽織り、両耳にはヘッドホンと、肩掛けの鞄。杜宮学園は服装については寛容で、好き好きの上着を身に付けて登校する生徒が多い。この点に関して言えば、私や風紀委員も余計な手間が掛からずに助かっている。四宮君も普段通りの服装だった一方、今日に限って顔の下半分がマスクで覆われていた。

 

「風邪、ですか?」

「多分ね。熱は無いから平気だけど、咳が鬱陶しくて喉が痛い。変な夢も見た」

「そうでしたか。余り無理をなさらないで下さいね」

「平気だって言ってるだろ」

 

 良い傾向だと思う。少し前の四宮君なら、こうして私と一緒に登校を共にすることは無かったし、体調が悪いのなら尚更だ。彼にどういった心境の変化が訪れたのかは、大方想像が付く。憎まれ口や後輩らしからぬ態度ばかりが目立つけど、悪い人間ではない。少なくとも、裏表が無い。

 

「何でしたら、学園までご一緒しますか?」

「冗談でしょ。あんな車で登校する先輩の気が知れないよ。どういう目で周りから見られてるのか分からない程、先輩も鈍くはないんじゃないの」

「フフ、耳が痛いです」

 

 ハイグレード車での登校を指して言っているのではないのだろう。侮言の類なら、度々私の耳にも届いていた。

 私を支えてくれる生徒会の人間がいれば、学園内で際立ち過ぎている私を良く思わない者もいる。誰からも好かれる人間はいないし、そんな幻想を抱く程、私は愚かではない。

 

「まあどうでもいいけどね。先に行くよ」

「はい、お気を付けて」

 

 エレベーターで一階に下り、裏口から出て行く四宮君の背中を見送る。彼のように自由奔放な人生を歩んでいたとしたら、私はどんな人間になっていたのだろう。そんな取り留めのない想いに浸りながら、私は踵を返し、彼とは反対方向に歩き始めた。何かを象徴しているようで、苦笑いをする私がいた。

 

________________________________________

 

 学園へ向かう道すがら、私は後部座席で革製のスケジュール手帳を広げ、ハンドルを握るキョウカさんと今週の予定を確かめ合っていた。

 

「本日は関東マネジメント社の常務取締役、金田様とアクロスタワーにてアポを取ってあります。月例会議の後に来られるそうですので、少々お待ち頂くかもしません」

「仕方ありませんね。あの方が会議に出られると、決まって長引くというお話ですから。良い話題になりそうな動きはありますか?」

「アクロスタウン五階に新しい商業施設を開く計画が進んでおります。それとマスコットキャラクターのモリマルですが、アイドルとのタイアップ企画案の決裁が先週末に下りました」

「ああ、そうでしたか。漸く具体的な話に進めそうですね」

 

 決裁待ちの案件が多過ぎて、定期的に確認しないと忘れてしまいそうになる。上層部の一声を貰う為に時間を浪費してしまうところは、堅実な日本企業の特徴でもある。もっとどうにかならないものかと考えはするものの、女子高生に過ぎない私には動きようがない。

 

「週末には同社の創立記念パーティーが開かれ、れれれれれれれれれれれれれれれ」

 

________________________________________

 

「週末には同社の創立記念パーティーが開かれます。お手数ですがお嬢様には、会長の代理としてご出席して頂きます」

「今年はちょうど二十周年に当たりますから、盛大な物になりそうですね。ドレスはキョウカさんにお任せしても宜しいですか?」

「畏まりました。何かご希望がありましたら仰って下さい。ご用意致します」

「あ・・・・・・」

 

 不意に今朝方の夢が過ぎり、声が出なくなる。バックミラー越しに私の戸惑いが伝わったのか、キョウカさんは一度ミラーに視線を移してから言った。

 

「どうなさいました?」

「いえ、何でもありません」

「・・・・・・そうでしたか。私はてっきり、また悪い夢でも見たのかと」

 

 再び声が詰まってしまう。口に出さずとも、どうやらお見通しのようだ。この人の前では、隠し事なんてできそうにない。

 夢の内容に触れたことは一度も無かった。でも時折奇妙な夢を見ると、以前に弱音を吐いたことがあった。キョウカさんと私の間には、何の隔たりやしがらみも無い。あんなあやふやな悩みを聞いてくれる知人も、祖父を除いてキョウカさんしかいない。両親を亡くしてから私を見守り続けてくれた、信頼できる数少ない人間の一人だ。

 

(数少ない・・・・・・か)

 

 いつからだろう。周囲の人間を、斜に構えて見るようになったのは。私は自身の境遇に何の不満も無い。誇りに思える両親に育てられ、孫想いの祖父と姉代わりに愛され、支えられながら生きてきた。でもその結果が今の北都ミツキという人間だと考えると、不義理が過ぎる。どうしてこうなってしまったのだろうと考えて、真っ先に思い浮かぶのは、強引に色鉛筆を握らせてきた人間達。そうやって責任転嫁をする私を天国の両親が見たら、何を言われるか分かったものじゃない。

 

「悩み事でしたら、抱え込まずに仰って下さい。話すだけでも楽になると思いますよ」

「・・・・・・ありがとうございます。お気持ちだけ、受け取っておきます」

 

 私は手帳を閉じて、流れ行く風景に目を向けた。早朝の陽の光と同じで、木々の新緑の眩しさに、私は息苦しさを覚えていた。

 

_______________________________________

 

 午前の授業が終わり昼休憩に入った後、私は単身生徒会室へと向かった。溜まりに溜まった雑務をこなしながら昼時を過ごしていると、一学年のノドカさんが書類の束を抱えて私を訪ねて来た。受け取った書類達は、先週末に全学年の生徒へ配布した、学園祭に関するアンケート用紙だった。

 

「クラス委員でもないのに、いつもありがとうございます。C組が一番に提出して下さいましたね」

「こ、こちらこそ。ミツキお姉さまの為なら、ノドカは何だってやりますから!」

 

 ノドカさんが目を輝かせて頭を下げ、鼻歌交じりに生徒会室を後にする。すると彼女と入れ違いで、同学年D組のエリカさんが生徒会室の扉を開けた。エリカさんの手には書類ではなく、学園から程近いベーカリー『モリミィ』の店名が書かれた紙袋があった

 

「あら、エリカさん。どうされました?」

「コホン。ミツキさん、貴女昼食はもう取りましたの?」

「いえ、まだですが」

「なら結構。味見に付き合って頂きますわよ」

 

 そう言って差し出された紙袋の中身に視線を落とす。中にはラップに包まれたサンドイッチが数切れと保冷剤が入っており、食欲を誘う良い匂いに思わず喉が鳴った。

 

「アキがアルバイト先で新しいレシピを任されたみたいで、私に出来栄えを見て欲しいと頼んできましたの。ですから、その。別に差し入れとか、そういった物ではないですわよ」

「フフ、そうでしたか。ちょうど区切りも付いたところですから、今お茶を入れますね」

 

 三年D組、高松エリカさん。部活動はテニス部に所属。北都グループと規模は違えど、エリカさんも大手企業グループを統括する取締役代表のご令嬢。私と似通った立場にあり、この学園へ入学して以来の付き合いだ。何かに付けて競争事を申し込んでくる一面は別として、私にとっては気兼ねなく話せる女子生徒の一人でもある。

 私はアールグレイのミルクティーを入れて、エリカさんからサンドイッチを一切れ受け取った。包んであったラップを取り、パン生地を捲って恐る恐る具材を確認すると、『チーズ』は挟まっていなかった。

 

「大丈夫、チーズは入っていませんわ」

「・・・・・・助かります」

 

 私が唯一苦手とする食材、チーズ。キッカケは十年前の失態にある。

 事が起きたのは、北都グループが主催となって開かれた記念式典パーティー。両親に連れられて向かった会場には、見たこともない豪勢な料理がテーブルの上にずらりと並べられていた。まだ幼かった私は無邪気にはしゃぎ、彩り豊かな料理をつまみながら回った。その中にあったのが、ゴルゴンゾーラ。ブルーチーズの強烈なクセなど私には知る由も無く、私は慣れ親しんだプロセスチーズの味を期待して頬張り、そして嘔吐した。パーティー会場のど真ん中での嘔吐に、周囲の参加者の悲鳴が連鎖し、一時は混乱さえ生じ掛けてしまったのだ。

 

「今思い出しても、顔から火が出そうになります」

「無理もありませんわ。貴女にとってはトラウマと言っていいものでしょう」

 

 考えてみれば、東京震災はあれから三日後の出来事だった。会場内で謝罪して回る両親の背中を見詰めながら、私は自分がひどく情けなく思え、涙が止まらなかった。これからは絶対に両親へ迷惑を掛けない、幼少の身でそう決心した矢先に―――その両親が、何処にもいなくなってしまった。それからというもの、私は二つの意味合いで、心身ともにチーズを拒絶するようになっていった。忘れたい過去の一つだ。

 物思いに耽っていると、エリカさんは今し方ノドカさんと擦れ違った部屋の入り口を見てから言った。

 

「先程の女子生徒は、頻繁に貴女を訪ねているようですが。随分と慕われていますのね」

「慕うと言うより、あれは崇拝に迫る物がありますね」

「それを口に出す貴女も相当ですわよ・・・・・・」

 

 ノドカさんの目に、私はどういった人間として映っているのだろう。きっとそれは、表面上の北都ミツキ。本当の私ではない。ノドカさんには申し訳ないけど、彼女は私を知らなさ過ぎる。彼女の期待に応えられる程、私は清廉潔白な人間ではないというのに。

 

「エリカさん。エリカさんは、私をどういった人間だとお考えですか」

「何ですの、藪から棒に」

「私は自分のことを、打算的で利己的な人間だと思っているのですが」

「・・・・・・まあ、敢えて否定はしません。ですがそれを言うなら、私も似たようなものですわ」

「そんなことはありません。エリカさんは素敵な人です」

「ち、調子が狂いますわね。何か変な物でも食べましたの?」

「変な夢なら見ましたけど・・・・・・すみません、忘れて下さい」

 

 私が言うと、エリカさんは怪訝そうな面持ちで手にしていたサンドイッチを一口齧った。私もそれに続いた途端、口の中一杯に濃厚な味わいが広がっていく。パストラミポークとツナサラダ、粒入りマスタードにガーリックバター、スライスされたトマト。全てが主張し過ぎず、絶妙なバランスで噛み合っている。これならすぐにでも商品化されそうだ。

 

「それにしても、あの本は貴女が借りた物で?」

「え?」

 

 遠藤さんの腕前に感心していると、エリカさんの視線は先程まで座っていたデスク上へと向いていた。その先にあったのは、先週末に図書館で借りた一冊の本だった。

 

「はい、そうですよ。最近は児童図書を借りることが多くって。気楽に読めますし、息抜きにちょうどいいんです」

「『星の王子さま』が児童向けの図書だとは思えませんわよ」

「その辺りの線引きは曖昧ですから。エリカさんも読んだことが?」

「以前に一度だけ。捉えどころがないと言いますか、私には合いませんでしたわ」

 

 それは大半の読者が抱く感想と同じだろう。作者があの本を通じて何を伝えたかったのかは諸説あるようだし、長年に渡り様々な観点から研究がなされている一方で、結論は出しようが無い。明確な答えが無い以上、読者の数だけ受け取り方がある。

 私はあの掴みどころの無いふわふわとした世界観が好きだった。答えが無くていいという事実に、どういう訳か安心感を覚えることができる。

 

「エリカさんは、何か好きな児童図書はありますか?」

「そうですね。『走れメロス』の分かり易さは好きですわよ」

「・・・・・・意外な答えが返ってきましたね」

「むっ。それはどういう意味ですの?」

 

 目を細めて睨み付けてくる鋭い視線を躱して、それとなく理由を聞いてみる。

 テニスに代表されるペア競技は、パートナーとの信頼関係が何より重要。試合が長期戦となり白熱していくと、己のミスによる失点が何より許せず、狂おしい程の悔しさを抱く。それこそパートナーに頬を殴って貰わないと気が済まないぐらいに、申し訳が立たなくなる瞬間があるそうだ。

 

「劇中の二人の男性らも、『一度だけ君を疑ってしまう悪夢を見てしまった、自分を殴ってくれ』と言って、本当にお互いを殴り合うでしょう。行動の是非はともかく、二人の心境は理解できますわ」

「成程。エリカさんは最近、遠藤さんとペアを組むことが多いと言っていましたね」

「試合形式の練習では自然とそうなりますわね」

「フフ。遠藤さんと上手くやれているようで良かったです」

「まあ、いい後輩だとは思いますわ。引っ込み思案ではありますが、アキは裏表が無い分、付き合い易いですわね。根が良い子なのでしょう」

 

 遠藤さんはテニス部で唯一の二年生であり、後輩。彼女の性格も相まって多少気に掛けてはいたけど、無用な心配だったようだ。呼び方も知らぬ間に「遠藤さん」から「アキ」に変化していることから考えても、理想的な関係を築けているに違いない。

 

「・・・・・・そうですか」

 

 そして私はまた、妙な後ろめたさを感じている。エリカさんと遠藤さんにも、きっと裏が無い。だからこそこのサンドイッチの具材のように、上手く噛み合っている。走れメロスの二人のように、信じ合うことができている。

 でも正直なところ、私は走れメロスが嫌いだ。一度友人を疑っただけで許しを請わなければいけないのなら、私は何度頭を下げればいいのだろう。悪い夢として忘れ去り、それでも殴られなければならないと言うのなら、人間社会は成り立たない。彼女らのような人種は極一部に過ぎないというのに。なんて、そんな歪んだ感想を抱いてしまう私も私だ。本当に、今の私はどうかしている。

 

「ミツキさん、出なくて宜しいのですか?」

「え・・・・・・あっ」

 

 言われてから漸く、デスク上に置いてあったサイフォンの着信音に気付く。私は手にしていたティーカップを戻し、サイフォンを取って通話着信先を確認すると、画面上には高幡君の名が浮かんでいた。こんな時間に電話だなんて、何かあったのだろうか。

 

「はい、北都です」

『高幡だ。今話せるか?』

「ええ、構いませんよ。どうされたのですか」

『急に変なことを聞いちまうが、頼むから正直に答えてくれ』

 

 ―――お前も柊と同じで、裏の世界を知っている人間なのか。

 高幡君の声は焦燥感に満ちていて、彼が言わんとしていることはすぐに察することができた。私はエリカさんから距離を取り、声を潜めて返す。

 

「・・・・・・立場上多くは語れませんが。ある程度は通じているとだけ、言っておきます」

『そうか。やっぱり、お前もそうだったんだな』

「何かお困りのようですね。異界絡みですか?」

『ああ、おそらくな。BLAZEの一件で世話になった後輩共の様子がおかしいんだ。時坂がミズハラって人を呼びに行ってるんだが、お前にも診て欲しい。頼まれてくれねえか?』

 

 世話になった後輩達。様子がおかしい。風邪気味の四宮君。異界絡み。頭に浮かんだキーワードを繋ぎ合わせれば、状況はある程度想像が付く。異界が関係しているともなれば、一時の猶予も許されない。

 

「分かりました。何処へ向かえばいいですか?」

『レンガ小路にある喫茶店だ。こんな時間に悪いが、すぐに来てくれ。表で待ってる』

 

 こうしてはいられない。私は高幡君との通話を切り、アドレス帳からキョウカさんの連絡先を選んだ。

 

_________________________________________

 

 私が案内された先は、レンガ小路外れの喫茶店『壱七珈琲店』の二階にある一室。柊さんの下宿先には、ベッドの上で額に大粒の汗を浮かべながら、力無く寝そべる柊さんがいた。柊さんの他には高幡君と、柊さんを無言で見守る時坂君、そして私よりも一足早く駆け付けたミズハラさんの姿があった。

 

「一年の郁島と四宮にも、同じ症状が見られるそうだ。郁島は遠藤が、四宮にはあいつの姉が付いてくれてる」

「そうでしたか・・・・・・でも、どうして異界が関係していると?」

「サーチアプリ、だったか。時坂のサイフォンに、微弱な反応があったらしい」

 

 典型的な異界症例の特徴の一つだ。異界物質が原因となって発症する異界病を患った人間は、異界化の際に生じる二次的な変化と同じ類のそれを引き起こす。つまりサーチアプリが示す僅かな誤作動は、柊さんの身体を異界病が蝕んでいるという可能性を示唆している。一昨日の異界化と発症した人間、状況から考えて、十中八九異界病が原因と当たりを付けていい。

 

「ミズハラさん、どうッスか?」

「フム・・・・・・症状自体は、肺炎と似ているね」

 

 柊さんの具合を窺っていたミズハラさんが、顎に手をやりながら立ち上がる。

 

「おそらく異界の瘴気が原因だろう。近年では『腐海病』とも呼ばれているよ。一昨日に君達が踏み入ったっていう異界には、沢山の異界植物が生茂っていたと言っていたよね?その中に強力な瘴気を吐き出す種が生えていたのかもしれない」

 

 ミズハラさんと私の見解は大方一致していた。二日前に柊さんらが治めた異界は、異界ドラッグの原材料の出処でもあった場所だ。どんな異界植物が存在していてもおかしくはない。あの異界で瘴気にあてられた三人は、二日間が経過した今になって発症してしまったのだろう。一方の高幡君と時坂君、遠藤さんらは焔属性の霊力を宿しているそうだ。風属性への耐性が強い三人に症状が見られないことも、異界植物が原因であることと繋がっている。アキヒロさんもドラッグを多用していたことで、知らぬ間に抵抗力が付いていたのかもしれない。

 

「強力な瘴気か・・・・・・シオ先輩。心当たり、あるよな」

「ああ。異界の一画に、黒い霧みてえなモンが立ち込めている場所があった。どうやらあの辺りに、その植物とやらが生えていたみてえだな」

 

 近寄らなくて正解だ。私の『ハーミットシェル』なら瘴気を防げるだろうけど、たとえ適格者と言えど生身で触れてしまえば、まず無事では済まない。それに直接その瘴気に触れずとも、異界に入ってしまった時点で手遅れだったのだろう。流石の柊さんでも、その存在を事前に察知するなんてできる筈がない。

 ともあれ状況は理解できた。重要なのは、これからどう動くべきかという一点にある。私は視線を柊さんからミズハラさんへ向けて、可能性の程を聞いた。

 

「ミズハラさん。自然治癒の可能性はありそうですか?」

「幸い現時点で命に別状は無いよ。でも症状が重いから、何とも言えないかな」

「異界植物の瘴気が原因の場合、治療法は二つしかないと聞いておりますが」

「・・・・・・うん。一般的には、そうだね」

 

 ミズハラさんが時坂君と高幡君にも理解できるよう、掻い摘んで二つの方法について話し聞かせ始めた。

 異界の瘴気に毒された患者への対処法は二択に限られる。一つ目は現実世界の医学を駆使して症状を軽減しながら、当人の生命力に期待する方法だ。病状や容体に左右されるけど、異界病を自力で克服した事例ならいくらでもある。しかしミズハラさんの口振りでは、自然治癒を望める程に症状は軽くないのだろう。

 そして二つ目が、特効薬を調合して処方すること。異界植物の瘴気が原因なら、その植物を入手して分析すれば、病状を的確に治める特効薬を生み出せる可能性が極めて高い。ミズハラさん程の専門家がいれば、きっとそれが可能な筈だ。元凶の植物さえ、手に入れば。

 

「その植物が手元にあったら、すぐにでも分析を始めたいところだけど・・・・・・君達の話では、もう異界は消滅してしまったんだよね」

「ま、待ってくれ。あの異界以外にも、その植物ってのが生えてるかもしれないッスよね」

「話を聞いた限りでは、かなり希少な種だよ。そんな植物が存在する異界との特異点を、都合良く探し出せると思うかい?」

「それは・・・・・・」

 

 ミズハラさんの指摘で、一気に重々しい空気が漂い始める。ミズハラさんもその可能性が絶望的だからこそ、敢えて現実を突き付けているのだろう。原因となった植物が存在していた異界が、もう無い。それが意味するところは、一つしかない。

 

「いや。まだ可能性はある筈だぜ」

「・・・・・・時坂君?」

「以前に柊から聞いたことがある。異界化が発生した場所との繋がりが強い場合、異界は無害な『フェイズ0』の状態で、現実世界との接点を保ち続けるってな。もしあの異界も同じだったら、やりようがあるかもしれねえ。北都先輩、何か知らないッスか?」

 

 時坂君と高幡君が、縋るような目付き私の反応を窺ってくる。

 時坂君の推察通り、確かに方法は残されている。フェイズ0となった異界は、極稀にフェイズ1へと変貌し、現実世界へ再び牙を向くケースがある。そしてその逆も然り。現実世界側から、閉ざされたゲートを強引に抉じ開ける術式が存在する。ここにいる人間の中でそれが可能なのは、私しかいない。

 

「ですが、私にはできません」

「できないって・・・・・・おい北都、お前何を言って」

「駄目です。文字通り、できないんです」

 

 もう何十年も前に、異界を知る人間達の間で交わされた、裏の世界においてのみ適用される暗黙の国際条約。その中の一つに、フェイズ0の異界に関する縛りがある。異界の主を失ったフェイズ0と言えど、一度フェイズ2に陥った危険極まりない異界のゲートには、干渉の一切が禁じられている。目的がどうあれ、絶対に犯してはならない禁忌が存在しているのだ。実際に過去、無法者による逸脱行為によって犠牲者が生じた事例だってある。だからこその縛りであり、時坂君らも例外ではない。たとえそれが病に侵された三人の為と言えど、私は術式を行使する訳にはいかない。

 

「私も手は尽くします。今は柊さん達の生命力を信じて、見守るしかありません」

「待てよ、北都先輩」

 

 私が言い終えるやいなや、時坂君がベッドの傍らから離れ、私の眼前へと詰め寄ってくる。想像していた通りの反応に、私は努めて冷静に応じた。

 

「俺は北都先輩が何者なのか知らねえし、聞くつもりもねえ。アンタが今どんな立ち位置で喋ってんのかも知らねえよ。だが先輩、アンタ本気で言ってんのか」

「お気持ちは分かりますが、こればっかりはどうにもなりませんから」

「もう一度聞くぜ。頼むから、本音で語ってくれよ」

「仰っている意味が分かりません。初めから嘘偽りはありませんよ」

「ざけんなっ・・・・・・ふっざけんじゃねえぞ!!」

 

 時坂君が声を荒げると、ミズハラさんの肩がびくんと反応する。一方の高幡君は、押し黙った様子で私達のやり取りを見詰めていた。

 

「柊が見えねえのか。あんな苦しそうにうなされてる柊が、アンタには見えねえってのかよ!?」

「そんなことは言っていません」

「同じだろうが!人の気も知らねえでっ・・・・・・あいつが意識を失う前、俺に何て言ったと思ってんだ!?禁忌だか何だか知らねえが、ソラもユウキも今この瞬間に苦しんでんだよ!アンタは生徒会長だろ、もっと何か言うことはねえのか!?」

「落ち着いて下さい、時坂君。柊さんの容体に障ります」

「っ・・・・・・!」

 

 時坂君は私を一睨みした後、部屋の出口へ向かって歩を進めた。

 

「時坂君、何処へ行かれるのですか」

「アンタには関係ねえよ」

 

 それを最後にして、時坂君は部屋を去って行った。教えてくれずとも、行先は分かってしまう。そんなことに意味は無いと言い聞かせても、今の彼は私の声に耳を傾けようとはしないだろう。

 

「ミズハラさん。何か動きがありましたら、私にもご一報願えますか」

「あ、ああ。分かったよ」

 

 時坂君に続いて部屋を後にしようとすると、行く手を遮るように、腕を組んだ高幡君が私の前方に立った。長身の彼を見上げる形で視線が重なり、沈黙を続けていた高幡君がゆっくりと口を開く。

 

「随分とらしくねえ真似をするんだな。お前、本当に北都なのか」

「・・・・・・私らしいとは、どういう意味ですか」

「あん?」

 

 人の気も知らないで、は私の台詞だ。あんな風に取り乱すことに、何の意味がある。それにちょうどいい、私も自分を見失い掛けていたところだ。いい機会だから、彼に聞いてみよう。何かしらの答えを与えてくれるかもしれない。

 

「私も知りたいんです。私らしさって、何ですか。答えて下さい」

「何を言いてえのか分からんが・・・・・・俺の知る北都ミツキは、そんな冷めた目をするような女じゃなかった筈だぜ」

 

 やっぱり駄目か。私は胸中で失望して、目を伏せて肩を落としながら、高幡君と出口の隙間を押し通って歩を進めた。自暴自棄になり掛けている自分が情けなく、滑稽で仕方なかった。照明で床面に映る私の影が、底無しの落とし穴のように、『裏の自分』が薄ら笑いを浮かべているようにも思えた。表と裏の境界線までもが、曖昧になっていた。一体私は何処へ向かっているのだろう。

 呼吸が苦しい。深呼吸をしても、肺が充たされない。誰でもいいから、このどうしようもない息苦しさを、代わっては貰えないだろうか。

 

________________________________________

 

 午後20時過ぎ。祖父の孫娘としての業務を済ませた私は、キョウカさんの運転でマンションへ戻り、普段通りの挨拶を交わしてから、エントランスホールに立ち尽くした。たっぷり十分間の虚無を過ごした後、私は自分の足で、市内の北東部へと向かった。

 一人になりたかった。悪い夢を見ているのではないかと思い、瞼を閉じても何も変わらない。夜の暗闇に身を投じて、全てが溶け込んで一緒くたになってくれないかと願っても、変わらなかった。私は北都ミツキで、皆が知る北都ミツキは何処か遠い所を歩いている。なら本当の私はここにいるのかと思いきや、私は私ではない。息苦しさは相変わらずで、どす黒い何かが込み上げては意識が遠のいて、肺がチリチリと痛む。まるで訳が分からない事態に対して論理的思考を働かせても、答えなど見い出せる筈も無く。気付いた時には、私は廃工場の入り口に立っていた。

 

「よお。一昨日の晩とは、逆の立場になっちまったな」

「・・・・・・いつから、そこにいたのですか」

「あれからずっとだ。時坂の野郎も同じだぜ」

 

 物音を立てないようにそっと顔を覗かせて、異界化の発生場所となった建屋の中を窺う。視線の先には、胡坐をかきながら微動だにしない時坂君の姿があった。

 

「それで、どうなんだ。接点とやらは残ってんのか」

 

 私は首を横に振って応える。あの異界はもう、何処にも存在しない。時坂君が見詰めている空間には、何も残っていない。フェイズ0という希望は無く、万に一つの可能性すら無かった。

 私はどちらを期待していたのだろう。無慈悲な現実を目の当たりにして心を痛めている私がいれば、これで禁を犯すような真似をせずに済んだと感じる私もいる。客観的に見て、酷く歪んでいる。歪み過ぎていて気味が悪い。馬鹿げている。

 

「高幡君。私はもう、駄目かもしれません」

「北都・・・・・・」

 

 貴女は誰で、お前は誰だ。本当の私は、何処にいる。私はいつから北都ミツキだった。私はいつから北都ミツキではなくなっていた。そもそも北都ミツキは、存在していたのだろうか。考えても考えても、一向に答えは見付からない。探せど探せど、益々深みに嵌まっていく。もう―――息ができない。胸の内が燃えるように、肺が熱い。

 

「・・・・・・ああ、成程。そういうことでしたか」

 

 漸く全てが繋がった。随分と遠回りをしてしまった。答えなら、初めから私の中に在ったじゃないか。こんなことに気付かないなんて、やはり私はどうかしていた。

 私は一度深呼吸をした後、高幡君に身体を預け、厚い胸板に顔を埋めた。高幡君も応えるように、逞しい両腕を私の背中に回し、私を抱いた。

 

「ねえ高幡君。私の好きな色が、何色か分かりますか?」

「色?」

「はい、色です」

 

 上着越しに、彼の胸の鼓動音が伝わってくる。一定のリズムに耳を傾けていると、高幡君は躊躇いがちな声で、言った。

 

「そうだな。青色、か?」

「ぶっぶー。残念、不正解です」

 

 私が口を尖らせて言うと、辺りは私の大好きな色に染まっていった。

 

___________________________________________

 

(―――来た)

 

 立ち寝から意識を取り戻した時のように、私は姿勢をピンと伸ばした後、ミスティックノードを握り直して『ハーミットシェル』に残り僅かな全霊力を集中させた。この結界を通り抜けて来る程の瘴気は初めてだ。あの柊さんさえもが蝕まれてしまったのも頷ける。相当な量を吸い込んでしまっていたようで、肺が熱く呼吸が儘ならない。

 息を止めて泥沼の中を泳ぐが如く、一歩ずつ足を動かして着実に前進していく。次第に視界が明瞭になっていき、私の帰りを待ち望んでいた三人の表情が目に入る。大きくガッツポーズをする時坂君。今にも泣き出しそうな遠藤さん。そしてやれやれと胸を撫で下ろす、高幡君。さあ、もう一息だ。

 

「ぷはっ!」

 

 やがて瘴気の塊から抜け出した私は、膝が折れてしまいその場にしゃがみ込んでしまった。こうして異界でソウルデヴァイスの力を使うのも久方振りだったことが、結界が完全ではなかった原因かもしれない。今度ゾディアックの技術部門で見てもらうとしよう。

 

「ほ、北都先輩!大丈夫ッスか!?」

「ええ、大事ありません。少し肺に入りましたが、想定の範囲内です。元凶の異界植物もほら、この通り」

 

 私は上着の中に入れておいた例の植物を取り出し、時坂君に差し出す。見た目はただの道草と言っていいぐらいに特徴が無いけど、現実世界にも美しい外見とは裏腹に、毒性を持つ植物や菌類は数多く存在している。これさえあれば、あとはミズハラさんが万事解決してくれる筈だ。

 

「よ、良かった・・・・・・北都先輩、ありがとうございます。これで三人共、治るんですね」

「はい。この瘴気には幻覚作用もあるようですので、今も悪い夢にうなされているのかもしれません。すぐにでもミズハラさんに託して、分析して貰いましょう」

 

 私は高幡君の手を借りてよろよろと立ち上がり、背後に漂う黒色の霧へと振り返る。本当に厄介で恐ろしい瘴気だった。ある意味で死人憑き以上に質が悪い。たったの数分間が一日に感じられる程に深い幻覚症状なんて聞いたことがない。ハーミットシェルが解けていたら、私も帰っては来れなかっただろう。

 

「北都、無理すんなよ。顔色が悪いぞ」

「平気です。でも、そうですね。あんな自分が私の中に居たなんて、思ってもいませんでした」

「何だって?」

「毒を以って毒を制す、といったところでしょうか。憑き物が落ちた気分ですよ」

「・・・・・・お前、本当に大丈夫なのか?」

 

 あれは私ではなくて、私でもあった。奇妙な夢を見続けてきた過去は現実だし、黒々しい裏の自分が存在していたことも事実。チーズと走れメロスが大嫌いな私も、時折取り留めのない物想いに耽っては我を見失う私も私。全部、私の現身だ。でもおかげ様で、私は真正面から私と向き合うことができた。真っ黒な殻を破り、全てを瘴気の中へ置いてきた。私はもう目を逸らさない。皆が慕い皆が支え、形作ってくれた北都ミツキは、ここにいる。

 

「高幡君、一つ聞いてもいいですか」

「何だよ、改まって」

「私の好きな色が何色か、分かりますか?」

「好きな色・・・・・・『白』、か?」

「ピンポーン。フフ、大正解です」

 

 誰にも色鉛筆は選ばせないし、私は色鉛筆を握らない。真っ白な塗り絵は、大好きな白のままでいい。白という可能性を捨ててしまう必要は何処にも無い。明日の私は今日の私と違うのだから、その日の気分で色を選び想像を働かせれば、塗り絵は何枚でも塗れる。答えが無いなら、答案用紙も白でいい。自由気ままに流れ行く雲のように、真っ白でいい。私が好きな衣装は純白のドレスで、白は私が私の意思で選び取った色だから、白の巫女たる私が歩んできた道のりは、全て私が背負うべき物。ただ、それだけの話だ。

 

「おいこら、何だってんだ。柄にも無く甘えてんじゃねえよ」

「足がふら付いているだけです。でも白を言い当てるだなんて、流石は高幡君ですね」

「言っておくが適当だぜ。お前は白玉あんみつが好きだからな」

「聞きたくありませんでした。流石は高幡君ですね。女心が何一つ分かっていません」

「もう何とでも言え・・・・・・」

「バカっ」

「そういう心にくるのはやめてくれ」

 

 一昨日の晩に柊さんらが繰り広げた下らないやり取りをなぞっていると、その当事者の二人が目を細めて私達を見詰めていた。そろそろ頃合か。

 

「あのー。取り込み中に申し訳ないんスけど、もういいッスか」

「そ、そうですよ。早くミズハラさんに所へ行きましょう」

「だそうだ。北都、歩けるか」

「はい、何とか」

 

 私は自分の足で立ち、再度背後へ振り返る。さようなら、もう一人の私。もう会うことはないし、夢を見ることもないだろう。貴女が居てくれたから、私は前を向くことができた。裏があるから表が存在するように、闇が光を引き立たせ、漆黒が純白を際立たせてくれる。私はこれから白の巫女として、堂々と胸を張って歩いて行く。だから、これでお別れだ。

 

「・・・・・・ごめんなさい。やっぱり、まだ歩けません」

「ったく。おら、掴まれ」

 

 さようなら。そして、ありがとう。貴女のおかげで、今夜は良い夢が見れそうです。

 

 



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第2部エピローグ

 

 5月25日、午後21時。

 

「時坂君っ!?」

 

 悲鳴に近い声を響かせながら、無我夢中で飛び起きる。止まりっ放しだった呼吸を再開し、温度を帯びた呼気を吐き出して、冷たい空気を吸い込んでを何度も何度も繰り返す。後悔、自責、悲哀、憤激。複雑に絡み合った感情達と一緒に、目元からは大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちる。

 

「はぁ、は・・・っ・・・・・・はぁ。・・・・・・え?」

 

 やがて籠り切っていた熱も吐息と共に流れ出て、急速に体温が冷めていくのを感じた。全身から噴き出していた汗が不快感を助長し、呼吸が落ち着いた頃には肌寒さを覚えて、身体を震わせた。次第に頭も冴え、思考が正常稼働を始めてくれたおかげで、私が置かれた状況に理解が追い付いていく。

 

「夢・・・・・・?」

 

 断片的な皆の声は、記憶として残っていた。移動教室の合間に倒れてしまったこと、異界病という一般的ではない単語と、二人の後輩が私と同じ病に蝕まれてしまったことも覚えている。でも瘴気の毒は消えていた。重々しい疲労感と途方も無い気怠さはあれど、息をする度に身体が軽くなっていた。

 

「・・・・・・時坂君」

 

 そして私の右手を包み込む、たった一つの温もり。ベッドの傍らに座って、異性の手を握りながら寝入るだなんて、彼は男性として決定的な何かが欠如してしまっているのではなかろうか。恥じらいを通り越して呆れてしまう。でも先程の声で目を覚まさなかったことから考えても、彼の疲労も相当だろう。私は苦笑いをしながら、起こしていた半身を物音を立てないようにそっと寝かせた。今は少しでも長い時間を、夢の中で過ごして欲しかった。

 温かな右手と反対側の手で枕元のサイフォンを取ると、数件のEメールの中に、ミツキ先輩が差出人の一通があった。文面は長過ぎず短過ぎず、私が把握しておきたかった一連の経緯が纏められていて、たったの十数秒で私は全てを理解した。私が迷い込んだ夢の世界も、瘴気による幻覚に過ぎなかったようだ。途切れ途切れの記憶に間違いは見当たらず、私の目元からは―――再び、数粒が頬を伝っていた。

 

「うっ・・・・・・うぅ。ひ、ぐ」

 

 悪夢から覚めた直後は、人は得てしてこんな風に、感情が不安定になる物だ。たとえ夢の内容が理不尽極まりなくとも、数時間後の私の眼には、今の私が滑稽に映る。心身が震えて嗚咽を繰り返すのも今だけで、あとは時間だけが全てを洗い流してくれる。そう思いたいのに、そうならないであろうことも、目に見えていた。

 

―――時坂君っ!?

 

 どうしてあの時、私は手を『離さなかった』のだろう。離さなかったのは彼じゃない、私だ。4月16日を境にして芽生えた繋がりには、惰性しかなかった。彼らの身に危険が及んだその瞬間に、見限ろうと思っていた。「足手纏い」の一言で、切り捨てるつもりだったのに。どうしても、離せなかった。

 

―――いや、いやあ!?あああぁぁああっ!!?

 

 その結果、何が起きた?私の右手には、彼の残骸しか残されていなかったじゃないか。全部私が招いたことだというのに、一本の肉塊に縋り付いて、彼の右腕に頬擦りをして。ただただ泣き喚いて、目を腫らして血涙を流すだけの私はもう、人ではなかった。

 それに現実だって同じだ。一昨日の異界では後輩達を危険に晒して、今日は二人と共に病に倒れ、あまつさえ禁を犯す罪を一般人に強いるような事態を、私自身が引き起こしてしまった。

 私は何をしているのだろう。私は皆とは違う世界に生きる人間だった筈だ。ソラちゃん、四宮君、アキさん、高幡先輩に、ミツキ先輩も。超えてはならない一線がある。あの夢は私の弱さが生み出した幻覚であり、現実の一歩手前だ。

 

「んん・・・・・・ユウキ、ソラ・・・・・・ひいら、ぎ」

 

 もう同じ過ちは二度と繰り返さない。守る側に立つべき私が、彼らを巻き込む訳にはいかない。でも彼だけはきっと、手を離そうとはしないだろう。なら私は断罪の刃を以って、己の右手を斬る。腕を斬り落としてでも引き離す。それが執行者としての、私の使命だ。

 

「時坂、君」

 

 だから、どうか今だけは。その時が来るまでの間だけは、こんな私を許して欲しい。私の両手と頬から伝わってくる彼と、抑えようのない淡い感情に身を委ねて。この安らぎと穏やかな寝息と一緒に、夜明けまで。

 

________________________________________

 

「はい、大分落ち着きました。まだ眠ったままですけど、熱も引いたみたいですし、明日の朝には元気になると思いますよ」

『そっか。ならアタシは予定通り、今週はこっちで過ごすから。留守の間、お願いね』

 

 ミズハラさんが調合してくれた特効薬によって事態が収束へ向かった後、私は私室ですやすやと眠り続けるソラちゃんの容体を、サイフォン越しにタマキさんへ伝えていた。一方のタマキさんは当初の予定に沿って、関西に住む知人の結婚式に参加する為に、新幹線で現地のに前乗り済み。そろそろ宿泊先に到着する頃だろう。

 今週一杯は関西で過ごすと言っていたから、週末まで晩御飯は一人きり。少し寂しいけど、一人暮らしなのだから仕方ない。九重先生との三者面談についても、以前お願いしていたように、アルバイト先のサラさんに同席して貰うつもりだった。

 

「あっ。それと今週末ですけど、一度伏島へ帰ろうと思ってます」

『伏島に?随分と急ね。何かあったの?』

「貸し倉庫に保管していたお店の設備に、やっと買い手が付きそうなんです」

 

 ベーカリー特有の設備や備品には、中古であってもそれなりの価値がある。実家で使用していたデッキオーブンやリターダーも年季が入ってはいたけど、状態が良いこともあって、両親の仕事上の知人から買い取りの申し出が入っていた。細かい事務的な手続きは後回しにして、前向きに検討しているから一度現物を見せて欲しいという相談が届いたのが、日曜日の晩の出来事。本来はお母さんが立ち会うべきところだけど、私が進んで代理人を買って出ていた。

 

『ふーん。まあそれなら心配無いか・・・・・・ん?伏島って言えば、SPiKAのミニライブも今週末じゃなかったっけ』

「へえ、そうなんですか?」

『ニュースサイトに記事が載ってたの。それにほら、同じ学年にメンバーの子が一人がいたじゃん。一緒にカラオケに行くぐらいだし、仲良いんでしょ。どうせなら向こうで遊んできなよ』

「べ、別に仲が良い訳では・・・・・・」

 

 寧ろ睨まれていると言っていい関係だ。友人からは程遠い。でもこの間は伊吹君が『布教用』とやらのCDアルバムを貸してくれて、入っていた曲は一通り聴いていた。お気に入りの一曲だってある。メンバーの名前と顔、声も頭に入っているし、今度こそは共通の話題で話せそうだ。

 

『アパートのみんなにも宜しく言っておいてね、お土産買って帰るから。アキの友達にも・・・・・・まあ、同じクラスの友達に配る分ぐらいなら、買ってあげてもいいかな。何人分ぐらい欲しい?』

「えーと。柊さんと時坂君と、シオリさんに―――」

『シオリ?そんな友達いたっけ?』

「あれ、もう忘れたんですか。この間のカラオケにも来てたじゃないですか」

『・・・・・・んん?』

 

 本気で思い出せないのだろうか。あの時のタマキさんはスケッチブックでみんなの似顔絵を描いて回っていたし、タマキさんは一度描いた対象を絶対に忘れない。名前と顔は全て頭に入っていて、それがタマキさんの特技でもあるというのに。

 

「珍しいですね。本当に、思い出せないんですか?」

『で――あ――――』

「もしもし、タマキさん?」

 

 電波が届かない場所へ入ったのか、通話は切れてしまっていた。私は別段気にも止めず、記憶の中からタマキさんが描いたシオリさんの似顔絵を探し出そうと試みたものの、どういう訳か、似顔絵は見付からなかった。

 

 

 



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第3部
5月27日 柊さんスイッチ


 

 蕎麦処『玄』に定休日は存在しない。勿論休業日はあるけど不定期で、開店時間は決まっていても、閉店時間は日によってバラつきがある。週末は焼酎を嗜む常連客で賑わうから夜遅くまで営業しているし、週の半ばである水曜日には早々と店仕舞いをする。5月27日の今日も例外ではなく、寧ろ普段よりも早い時間帯に暖簾は片されていた。何を隠そう、私達の為の閉店だった。

 事の発端は昨日、高幡先輩の「世話になった礼に飯でも作ってやる」という律儀な申し出にあった。蕎麦打ちは無理だけど丼物なら出してやれるということで、一連の事件に関わった私達は高幡先輩からお呼ばれをされていた。明日の5月28日は杜宮学園の開校記念日、つまり休日という幸運も相まって、私達は少々遅めの夕飯をご馳走になる為に、続々と店内に集ったのだった。

 

「すっかり遅くなってしまいましたね」

「みんなは先に入っているみたいですよ」

 

 そんな中で、私と北都先輩はみんなから一歩遅れて、店先に立っていた。私はアルバイトが、北都先輩は生徒会の業務が長引いてしまい、約束の時間から十五分が過ぎた頃に、バッタリ出くわしていた。事前にソラちゃんから「先に入ってます」とメールが来ていたし、既に私と北都先輩以外は揃っているのだろう。

 

「ごめんください」

 

 北都先輩が小声で言いながら、丁寧な手付きで純和風の引き戸を開ける。店内には最奥の長テーブルの席に柊さん、ソラちゃんにユウ君。厨房に続く通路付近に時坂君と、店主カンジさんの奥さん、マナミさんが立っていた。

 

「あらやだ、ミツキちゃんじゃない?」

「どうもお久し振りです。お元気そうで何よりですね」

 

 マナミさんが私達の来店に気付くと、パタパタと小走りで北都先輩の下に歩み寄ってくる。

 

「いいのよそんな畏まらなくたって。こちらこそシオがいつも面倒を掛けてしまって悪いわね」

「いえいえ、おかげ様で毎日が有意義ですよ。お互い様です」

「また今度色々教えてちょうだいな。あの子ったらいちいち聞かないと何も話してくれなくって」

「相変わらずですね。でも心配は要りません、学校でも変わりありませんから」

「ミツキちゃんが送ってくれるメールが何よりの・・・・・・そうそう、携帯電話で分からないことがあるの。一度見て貰えないかしら」

「ええ、いいですよ」

 

 この感覚は何だろう。何の変哲も無い会話のようでいて、孫と祖母程に年齢が離れている女性同士のそれにしては自然過ぎるというか。そもそもの立ち位置がよく分からないし、高幡先輩の保護者が並んで立っているようにも映ってしまう。北都先輩の底知れなさが三割ぐらい増した瞬間だった。

 とりあえず邪魔をしては悪いと思い、私はそそくさとみんなが座っていた席に向かった。

 

「お疲れさまです、アキ先輩」

「お疲れさま。待たせちゃってごめんね」

「別に待ってはないよ。僕らもさっき入ったところだし」

 

 柊さんの隣へ座り、ソラちゃんから受け取ったお絞りで両手を拭きながら、みんなの視線の先を追う。やはり三人も気になって仕方ないようだ。やり取りから察するに親しい間柄のようだし、付き合いもそれなりに長いのだろう。

 

「あれだね。実は三十代でしたって言われても僕は驚かない自信がある」

「も、もうユウキ君。北都先輩に詮索はしないって決めたでしょ」

「それとこれとは話が別だろ。まあどうだっていいけど・・・・・・柊先輩、どうかしたの?」

「いえ、何でもないわ」

 

 私の隣で視線を落としていた柊さんは、ハッとした表情でお冷を一口飲み込み、小さな溜め息を付く。私が首を傾げていると、先程まで北都先輩らの傍らに立っていた時坂君が、お品書きを私の前に置きながら言った。

 

「お疲れ、アキ。随分と遅かったな」

「少しアルバイトが長引いちゃって。定時上がりって、結構難しいものですね」

「残業ってやつか。でも労働の後なら、上手い飯を食えるってもんだろ。注文はどうするよ?」

 

 店主一押しのお蕎麦、という訳にはいかない。丼物に限られるという話だったから、選択肢は親子丼かカツ丼の二品に限られる。一応お品書きには天丼も記されているけど、高幡先輩は丼物の作り方を教わり始めたばかり。天丼はまだ不慣れだそうで、極力前述の二択から選んで欲しいとのことだった。

 

「ちなみに柊とユウキが親子丼、俺とソラがカツ丼、北都先輩が『天丼の特上』だぜ」

「・・・・・・カツ丼でお願いします」

 

 流石は北都先輩。特上を選ぶ辺り一片の容赦も無い。どうも北都先輩は相手が高幡先輩の時に限って手加減無しというか、新鮮な一面を垣間見ることができる。仲が良いのやら悪いのやら。

 

「シオせんぱーい。上カツ一丁と特上天一丁入りやしたー」

「おう、少し待っ・・・・・・おいこら。誰だ特上天頼んだの」

「北都先輩っすよー」

「ぐぬぬ」

 

 厨房から高幡先輩の珍しい声が耳に届いたところで、漸く気付く。極々自然に溶け込み過ぎていて、間違いが無い間違い探しのように振る舞う時坂君がいた。よくよく考えなくてもおかしいだろう。

 

「私とユウキ君が来た時にはゴミ出しをしていましたよ。その後は床掃除」

「新人類か何かでしょ、あの人。それかただの阿呆」

 

 根っからのアルバイト体質にも程がある。意気揚々と頼まれてもいないタダ働きを買って出て、額に汗を浮かべる男子高校生が、この国にあと何人いるのだろう。私もモリミィでのアルバイトは楽しいけど、無給なんて絶対に嫌だ。

 結局時坂君は全員分のオーダーを厨房へ伝えた後、私達と同じテーブルに座り、「俺は今まで何してたんだ?」と後ろ頭を掻きながら戸惑っていた。もう彼については触れない方が良い。突っ込んでいたらキリが無いし、そろそろ話題を変えておこう。

 

「柊さん。今週の三者面談ですけど、日程はもう決まってますか?」

「ええ。休み明けの金曜日でお願いしてあるわ」

「じゃあ私と同じ日にやるんですね」

 

 編入生にのみ求められる、編入して一ヶ月後の三者面談。私は5月29日の金曜日、放課後の午後16時からで、柊さんは午後16時半。私の面談が終わってすぐに、続けて実施される予定のようだ。お互いに家庭の事情で保護者同伴が叶わない立場にあり、私の場合はアルバイト先のサラさんに相席して貰う手筈となっていた。

 

「私は下宿先の近所に住んでいる女性にお願いしてあるの。杜宮に来て以降、よく面倒を見て貰っているのよ」

「ふーん。先輩にもそんな人がいるんだ」

「素敵な人よ。時坂君も・・・・・・ゆ、『ユキノ姉』は知っているでしょう」

 

 ユキノ姉。随分と親しみが込められた呼び名だった。どういう訳か、時坂君の顔から表情が消えていた。

 

「あ、私も知ってますよ。コウ先輩も度々お世話になってるっていう、レンガ小路にあるアンティークショップの店主さんですよね?」

「ええ、そうね。慣れない土地での新生活に困っていた時、色々なことを教えてくれたわ。とても優しくて、頼り甲斐があって。私にとってユキノ姉は、憧れのような存在なの」

「柊、お前・・・・・・」

「お願いよ時坂君。今は何も言わないで」

「分かったから涙拭けよ」

 

 きっと涙が出るぐらい、心温まる美談があるのだろう。少し意外な話だったけど、そんなに素敵な女性なら私も会ってみたい。レンガ小路はタマキさんがよく仕事場にしているし、今度聞いてみよう。

 

「あら、柊さん。どうされたのですか」

「何でもありません。聞かないで下さい」

 

 柊さんが目元をハンカチで拭っていると、北都先輩が時坂君の隣へと座る。厨房で忙しなく手を動かす高幡先輩を除けば、これで全員。後は注文の品が出来上がるのを待つのみとなった時、ユウ君が北都先輩に視線を向け、唐突に切り出した。

 

「それで、僕らとしては色々と聞いてみたいんだけどさ。聞ける立場にあるのかな」

「聞いてみたい、と言いますと?」

「勿論、『そっち』関係のこと」

 

 北都先輩は僅かに表情を変えて、後方に立っていたマナミさんをちらと見る。敢えて口に出さずとも、『そっち』が異界を表していることはすぐに理解できた。

 北都先輩に対する私達の認識は、柊さんを除いて『ある程度異界絡みの知識を有している適格者』といったところで留まっている。初めは柊さんと同じ、『結社』とやらに属する人間かと思ったけど、そういう訳でもないらしい。一つ確かなことは、北都先輩が私達の味方だということだ。異界病の一件で私達は助けられた身だし、とりわけユウ君らは病に倒れた当事者であり、北都先輩は命の恩人と言ってもいい。北都先輩も進んで語ろうとはしなかったことから、北都先輩に事の真相を問い質すような真似は控えようと、私達は昨日のうちに取り決めを交わしていた。

 しかし一方で、根掘り葉掘りを聞いてみたいという思いだって勿論ある。現時点で知りたいことは山積りだ。それらを問う立場に私達はあるのか、ユウ君はそう言いたいのだろう。

 

「すみません。私から言えることは、今は何も」

「やっぱりね。まあ無理強いをするつもりは無いし、頭を下げられても困るんだけど」

「フフ、助かります。ですが一つだけ、知っておいて頂きたい事例があります」

「事例?」

 

 北都先輩の含みのある表現に、今度は柊さんの表情が変わる。二人は幾何かの間を置いた後、私の顔を見詰めながら、初めに柊さんが予想だにしない事実を教えてくれた。

 

「アキさん。貴女が度々見舞われている『出現座標の変化』だけど、過去の事例を調べてみて分かったの。私が知る限り、座標の変化による死亡例が六件ほど報告されているわ」

「へ」

「私の方では四件、合計で十件ということになりますね」

「え・・・・・・え?ちょ、え?」

 

 一件目。海上で発生した異界化を治めた後、座標の変化を受けた当事者が夜の大海へ落下してしまい、溺死。二件目は線路上。帰還直後に走行中の列車と遭遇し、轢死。三件目が同じく道路上を走る自動車と正面衝突して死亡。四件目が高所からの落下で全身を強く打ち死亡。そして五件目に北都先輩が触れ掛けたところで、何故か私の身体は完全に拘束されていた。

 

「あ、あの。今掴まれても、困るんですけど」

「ワリィ。何つーか、思わず身体が動いた」

 

 時坂君が私の左腕、ユウ君が右腕、ソラちゃんが腰回りを両手で押さえることで、私は椅子にがっちりと固定されていた。気持ちは分からなくもないしどちらかと言えば嬉しいのだけど、今取り押さえられたってどうにもならない。とりわけソラちゃんの締め付けが強過ぎて呼吸が儘ならないから勘弁して欲しい。寧ろこれで死ぬ。

 直情的な三人の奇行に、柊さんがやれやれといった様子で再度言った。

 

「ともかく。アキさんの座標だけが変化し易い原因は分からないにしても、放置はできない問題だわ。そこで提案だけど、アキさんのサイフォンに追跡アプリを入れようと思うの」

「追跡アプリ?」

 

 柊さんによると、一般的に追跡アプリと称されるツールは盗難防止用。事前にインストールしておけば、他者のサイフォンやパソコンを使うことで、GPSによる追跡が可能だそうだ。問題の根本解決にはならないけど、この間のように思わぬ地点へ帰還してしまった時、私の居場所をすぐに調べることができるようになる、ということらしい。

 

「成程な。確かにそれだけでも、先週末みたいに探し回るような事態は防げるって訳か」

「僕も大賛成。なら早速入れようっと」

「あれ?でもそれって・・・・・・」

 

 話に上がったアプリを入れるべく、私が手にしていたサイフォンをユウ君が操作する。

 みんなに迷惑を掛けたくはないし、有効なアプリではあると思う。でも追跡アプリを入れてしまうと、みんなは私が何処にいるのかを逐一把握できるようになる。サイフォンを使えば私の居場所は筒抜け。プライベートなんて皆無である。うん、やめよう。

 

「アキ先輩、諦めて下さい。これは先輩の為なんですからね」

「ま、待って下さい!私にだって私生活という権利が!」

「安心しろよ、普段は使わねえって。それにお前が行く場所なんて限られてるだろ」

「ぐぬぬ」

 

 もの凄く失礼なことを言われている気がする。確かに買い出しを除けばアパートか学園かモリミィぐらいのものだけど―――ああ、何だか情けなくなってくる。私が生きる世界って、本当に狭いなぁ。

 

「はい完了。先輩、ほら」

「うぅ・・・・・・ほ、本当に使わないで下さいよ」

「そういえばアキ先輩、今週末に伏島へ行くんでしたっけ」

「そうなのか?ちょうどいい、みんなで追ってみようぜ」

 

 この有り様である。もう忘れよう、いちいち気にしていたら胃に穴が空きそうだ。私はサイフォンを上着のポケットに入れて、厨房から聞こえてくる二人の男性らの声に耳を傾けた。

 

「馬鹿野郎!もっと手早く仕上げねえと折角の素材が駄目になっちまうだろうが!」

「り、了解ッス」

 

 流石はカンジさん。職人気質な性格や言動は商店街でも有名で、それがこの老舗の味を支えている。蕎麦粉の配合もカンジさんが手掛けていて、蕎麦打ちに使う水も天然の湧水を使っているそうだ。その徹底したこだわりに魅せられ、都内は勿論、神那川や犀玉といった県外からの常連客さえいると聞いている。見習いが友人に振る舞う丼物と言えど、一切の甘えを許さないのだろう。

 

「もう暫く、掛かりそうですね」

「この人数だからな。気長に待つとしようぜ。ユウキ、この後はどうする?」

「コンビニへ買い出しに行って、そのまま先輩の家に直行でいいんじゃない」

「え・・・・・・ユウキ君、コウ先輩のお家に行くの?」

「ユウキから昔に流行ったRPGのソフトを借りたんだよ。折角だから、ノーセーブで一気にクリアしようぜって話をしてたんだ。明日は開校記念日で休みだしな」

 

 そう言って取り出されたのは、某有名タイトルのゲームソフト。家庭用ゲームに縁の無い私でも知っているぐらい知名度のあるゲームだった。ノーセーブで一気にクリア、はよく分からないけど、一晩で小説を読み切るような感覚だろうか。

 

「そういやソラも、ガキの頃に一度だけ来たことがあったよな。何なら、ソラも来るか?」

「えっ」

「こういうのは大人数の方が楽しいだろ。今は俺一人だし・・・・・・な、何だよ?」

 

 私を含めた女性陣から白い目で見られ、戸惑いの表情を浮かべる時坂君がいた。同年代の異性に対して夜遅くに「俺の家に来るか?」なんて、余りにも不味過ぎる発言だろう。わざわざ指摘する前に察して欲しい。時坂君の長所が悪い方向に働く典型例だった。

 

「うーん。でも、確かに楽しそうですね・・・・・・じゃあ、先輩方も一緒に来ませんか?」

「わわ、私達も?」

「急にそう言われても・・・・・・」

「フフ。それなら、こういうのは如何でしょう」

 

 すると北都先輩が、店内に貼ってあった一枚のビラを指差す。目を凝らして文面を見ると、そこには『出前承ります』の一文が記されていた。

 

_________________________________________

 

 休日前夜独特の雰囲気がそうさせたのかもしれない。一度決まれば、後はあれよあれよと言う間に事は進んだ。一旦玄を出た私達は、道中のコンビニで好き好きに食料を買い漁り、『時坂』のネームプレートが掲げられた一軒家に足を運んだ。ちょうど到着した頃になって、出前用のオートバイでやって来た高幡先輩と合流し、リビングのテーブルには人数分の丼物が並べられた。それが今から約二十分程前のことだった。

 

「はー。大っ満足です!」

 

 口元に米粒を付けたソラちゃんが、満足気に「ご馳走様です」を言いながら箸を置く。

 全く以って同感だ。蕎麦と一緒で素材をこだわり抜いたカツ丼は頬が落ちそうになる程に美味しく、食べ応えのある匠の逸品だった。カンジさんが作った丼物は食べたことがないけど、これならもうお店に出せる水準に違いない。高幡先輩は孤児院を出て以降、自分で自分の面倒を見ていたと言っていたから、元々達者な腕前があったのだろう。

 

「お粗末さん。天ぷらは少し揚げ過ぎちまったがな」

「あら、充分美味しかったですよ?私はあれぐらいが好みです」

「そいつはどうも。時坂、洗い場を借りるぜ」

「あ、いいッスよ。俺がやっとくんで」

「いいから甘えとけよ。今日はお前らが客なんだからな」

「でしたら私も手伝います。特上分だけ働かせて下さい」

 

 二人の先輩らが手際良く器を片し、洗い場へと運んでいく。少し気が引けるけど、今はお言葉に甘えるべきなのだろう。私が湯呑のお茶を口にしていると、隣に座っていた柊さんが私の顔を覗き込んでくる。

 

「アキさん、どうかしたの?」

「え?あ、いえ。その・・・・・・何というか、落ち着かなくって」

「・・・・・・まあ、分かる気がするわ」

 

 時坂家の外観は所謂シンプルモダン。三つの小さな庭に囲まれていて、屋内はおそらく一般的な間取りだ。先月から一人暮らしと聞いていたけど、几帳面な時坂君らしく室内はしっかりと掃除や整理整頓が行き届いている。温かみのある住宅ではある一方で、少々の緊張感が付き纏っていた。

 理由はただ単純に、こういったことに慣れていないから。クラスメイトの自宅を訪ねるなんて、私の記憶が正しければ中学一年生以来のことだ。時坂君の家だからという訳ではなく、特に意味も無くそわそわしてしまう私がいた。

 

「そんじゃ先輩、早速プレイ開始だね」

「だな。柊達も少し遊んでいけよ。トランプやボードゲームならいくつかあるぜ」

 

 時坂君はそう言って、二階にあるという私室へと向かった。壁に掛けられていた時計を見ると、既に時刻は午後21時半を回っていた。こんな時間に友人の家で戯れに興じるなんて体験も勿論初めてのことで、緊張感と共に、不思議な高揚感を抱いていた。

 

「やれやれ、今日は帰りが遅くなりそうね。マスターに連絡をしておかないと」

「こういう時に一人暮らしって得ですよね。アキ先輩は明日部活動ですか?」

「ううん、明日はアルバイトも無いから、久しぶりに暇な休日かな」

「私もです。それなら沢山遊べますね!」

 

 ソラちゃんが目を輝かせて声を弾ませる。一体何時まで遊ぶつもりでいるのだろう。ユウ君は元々泊まり込みでノーセーブクリアとやらに時間を費やす予定だったそうだけど、確かに今日は私達も遅くなりそうだ。

 やがて時坂君はトランプをはじめとした遊び道具を持って来てくれた。トランプの他にはオセロ、将棋やジェンガ。柊さんが興味津々に広げたツイスターゲームは絶対に遠慮しておこう。何をさせる気だ、時坂君は。

 

「おし。ユウキ、サポートは頼んだぜ」

「主人公と仲間の性別は女性に設定した方が良いよ。強力な女性用装備が終盤に揃うから」

「そうなのか。なら主人公は女にして、名前は・・・・・・『ヒイラギ』と」

「待ちなさい時坂君」

 

 人知れず、勇者『ヒイラギ』が誕生した瞬間だった。テレビ画面には16歳の誕生日を迎え、地上を支配する魔物を一緒に討伐してくれる仲間を見付ける為に、冒険者が集う酒場へ向かう柊さんの背中が映っていた。

 

_________________________________________

 

 ―――それから約二時間後。

 

「ミツキ先輩、そのカードから手を離して貰えませんか?」

「フフ、どうぞお好きに。私は構いませんよ?」

 

 残り二枚となったミツキ先輩の手札から、一枚のトランプを引き抜こうと試みる柊さん。お互いの腕はプルプルと震えていて、渾身の力が込められているであろうことは目に見えて明らかだった。この人達は一体何をしているのだろう。

 

「おいお前ら。ババ抜きはそういうゲームじゃねえ」

「鬼気迫る攻防ですね・・・・・・」

 

 どちらもババ抜きは得意とするゲームの筈だ。北都先輩のポーカーフェイスは見事な物だし、柊さんも負けてはいない。でも引きの悪さだけはどうにもならない。私と高幡先輩、ソラちゃんは未だ無敗にも関わらず、何故か決まってこの二人にだけジョーカーが回ってしまう。結果として腕力に頼るという、ババ抜きの新しい境地を開拓していた。

 

「あっ」

「ふう。これで私の勝ちで・・・す・・・・・・そ、そんな!?」

「あら、どうされましたか柊さん」

「くっ・・・・・・私の、負けです」

「いや終わってねえだろ」

 

 柊さんが二枚の手札をオープンにして投了していた。だからババ抜きはそういうゲームじゃないというのに。これで北都先輩が五敗、柊さんが六敗の超負け越し。きっと今日は運勢に見放された日なのだろう。

 肩の凝りを解しながら後方のテレビ画面に目を向けると、時坂君とユウ君が声を荒げて狼狽えていた。あちらでも何か動きがあったようだ。

 

「クソっ、まわりこまれちまった!ユウキ、どうすりゃいい!?」

「どうして退却用の翼を取っておかなかったのさ!?あれ程言ったのに!」

「ねえソラちゃん、私の名前だけ赤くなってるけど、あれはどうしたのかな」

「あれは死んでるんですよ。要するに大ピンチです」

 

 四人パーティーのうち僧侶『アキ』の体力はゼロ。回復役を失った御一行は、巨大な猿の化物の群れに囲まれて窮地に立たされているようだ。通常は全滅してしまってもやり直しが利くらしいけど、ノーセーブでの全滅は文字通りの全滅。そこで旅路は途絶えてしまう。あ、武闘家『ソラ』も死んだ。

 結局勇者『ヒイラギ』と魔法使い『ホクト』の体力もゼロになり、悲哀に満ちたBGMが流れ始める。魔物討伐の旅は開始二時間で早々に終わりを告げ、落胆した時坂君とユウ君はつまらなそうな表情でソファーへと座り込んだ。

 

「あーあ。先輩って絶対RPGに向いてないね。無鉄砲過ぎるでしょ」

「もう少し行けると思ったんだがな・・・・・・仕方ねえ、別のゲームでもやるか」

「あ、今度は私もやりたいです!皆さんもどうですか?」

 

 ソラちゃんが右手を大きく掲げて、私達を誘ってくる。私はああいったゲームの類にほとんど触れたことが無い。柊さんや北都先輩も同様のようだ。そもそもこんな大人数で遊べるようなゲームなんてあるのだろうか。

 

「そうだな。四人プレイなら・・・・・・これなんてどうだ?爆弾で相手を倒すゲーム」

「時坂君。そんな残虐的な真似を強いるなんて、あなたどういうつもり?」

「お前が思ってるようなゲームじゃねえからなこれ。いいから一度やってみろよ」

 

 時坂君とソラちゃんに勧められて、私達はゲーム機のコントローラーを握った。時計の短針と長針は真上を向いて、既に日付は5月28日となっていた。

 

_________________________________________

 

 ―――それから更に二時間後。

 

「アキ先輩、右です!」

「了解!」

 

 対戦形式は二対二のタッグ戦。北都先輩と柊さんが操るキャラは、離れた所から爆弾を飛ばしてくる遠距離型。一方の私は移動速度に長けるキャラを駆使し、ギアドライブさながらの俊足を活かして二人を翻弄する。

 もうコツは掴んでいる。要は『当たらなければどうということはない』。先回りをして爆風を躱しさえすればいい。回避に専念していれば、ソラちゃんが隙を突いて爆弾を拳で打ち返してくれる。

 

「「あっ」」

 

 ほらこの通り。声と同時に二人が爆風に飲み込まれ、対戦終了。文面にすると生徒会長とクラスメイトを爆殺するという物騒極まりない所業だけど、これが堪らなく気持ちいい。よく分からない不思議な感情に酔い痴れてしまう。私は案外、こういったゲームに向いているのかもしれない。うん、気持ちいい。

 

「クソっ、ジッちゃん自慢の陣形が崩されるなんて」

「オヤッさん譲りの囲いの前じゃ、少しばかり無謀な攻めだったようだな、時坂」

「はさみ将棋の泥仕合で何言ってんのさ・・・・・・」

 

 一方の時坂君らは、将棋盤の上で火花を散らしていた。あちらもあちらで盛り上がっていたようだ。将棋は駒の動かし方も分からないけど、きっと熾烈な攻防があったのだろう。

 

「やれやれ、何か小腹が空いちまったな。ユウキ、まだ食い物は残ってるか?」

「いくつかあるよ。焼きそばパン買ってたの先輩でしょ」

「炭水化物に炭水化物・・・・・・あり得ないわね」

 

 ユウ君の声に、柊さんが顔をしかめて反応する。カチンと来た私は柊さんの肩に手を置いて、焼きそばパンの何たるかを言い聞かせた。

 

「柊さん。調理パンという分類における焼きそばパンは立派な日本食である、というのが個人的な見解です。本格的な有名店でさえ焼きそばパンが並ぶことからも、その存在感は理解できると思います。そもそもお好み焼きやたこ焼きといったように『ウスターソース系と小麦粉』という組み合わせが一般的なこの日本において、麺を介した濃厚なソースとパンのマリアージュは生まれるべくして生まれたと言えますね。食文化の数だけパンが在り、素材との出会いが在るんです」

「あ、アキさん?」

「例えば『ライ麦粉』は『小麦粉』と違って本来パン作りに向かないとされる素材ですけど、ライ麦を使った所謂ロッゲンブロートはドイツパンの代名詞とも呼べる存在であり、独特の風味が味わい深い食事パンです。ドイツならではの土壌と気候があったからこそライ麦という食文化が生まれ、ドイツパンが生まれたんです。先程の柊さんの言動は、ドイツの方々へ向かって『パンにライ麦?あり得ないわね』と吐き捨てながらフランクフルトソーセージで頬をぺしぺしと叩くかの如き差別的発言であり、そのような他国の食文化に対する侮辱と冒涜を見逃す訳にはいきません。私は・・・・・・あっ」

 

 気付いた時には、ひどく申し訳なさそうな面持ちの柊さんが肩を震わせていた。

 我を忘れてついつい語ってしまっていた。もっと他に言い方があっただろうに。でも焼きそばパンはこの国が誇る素晴らしい調理パンだという思いは譲れない。私だって大好きなパンの一つでもある。食べれば柊さんも分かってくれる筈だ。

 

「とりあえず一口食ってみろよ。絶対美味いから」

「・・・・・・一口だけなら」

 

 時坂君から受け取った焼きそばパンを、柊さんが恐る恐る口元へ運ぶ。控え目に開いた口で、一齧り。予想はしていたけど、パンに挟まっていた焼きそばがポロポロとテーブルに落ちていた。

 

「どうだ?」

「Holy shit......」

「何で英語なんだよ・・・・・・ちょ、こら。一口って言っただろ。待てって!おい柊!?」

 

 時坂君と柊さんがお互いの口を近付け合いながら、焼きそばパンを両端から食べ始める。確かポッキーゲームという卑猥なパーティーゲームがあったと思うけど、あれを焼きそばパンで代用したのはこの二人が国内初だろう。行儀が悪いとか、そういう次元の話ではなかった。

 

「アキ先輩、そろそろ別のゲームにしませんか?」

「あ、うん。私は構わないけど」

「そうしましょう。どうやら私と柊さんは、このゲームと相性が悪いようです」

 

 ソラちゃんの提案に、焼きそばパンを食べ終えた時坂君が複数のゲームソフトの中から一つを選び取る。パッケージとタイトル名を一目見て、それがどういったゲームなのかはすぐに察した。北都先輩と柊さんは不安気な表情を浮かべ、対する私は込み上げてくる期待感に身を任せて、ゲームソフトを受け取った。

 

「アキ先輩、頼りにしてますよ」

「任せて。これなら絶対に負けないと思う」

 

 ゲーム名は『スマッシュシスターズ』。テニスコートに立つ以上、ゲームと言えど負ける訳にはいかない。たとえ相手が誰であろうと、有無を言わさず打ち負かす。

 

_______________________________________

 

 ―――三時間後。

 遊戯の限りを堪能した私達は、午前5時を過ぎた頃になって漸くお暇をした。ユウ君は当初の予定通り単身時坂家に残り、時坂君と二人で例のゲームにリベンジをすると意気込んでいた。高幡先輩は一足先にオートバイで帰路に着き、私達四人の女性陣は薄明るい道路を並んで歩いていた。

 

「ふわぁ・・・・・・はぁ。あはは、とっても楽しかったですね!」

「今日だけで肌年齢が一ヶ月は進んだ気がするわ」

「生徒会長としては、こういった夜更かしは戒めるべき立場なのでしょうけど・・・・・・まあ、たまには良いかもしれませんね」

 

 東の空では朝陽が僅かに顔を覗かせていて、道端の街路灯のスイッチが次々とオフになっていく。新聞配達員と思しき男性が漕ぐ自転車と擦れ違い、北都先輩と柊さんの長髪を揺らした。住宅街を形成する家々からは朝食の匂いが流れ出ていて、今日が平日の朝だということを思い出させてくれる。

 

「・・・・・・あはは」

 

 不意に目頭が熱くなるのも、無理はないと思う。沢山の初めてを味わって、みんなと一緒に笑い合い、こうして朝の路上を歩く。一ヶ月前の私には、こんな日常が来るなんて想像も付かなかった。不慣れな地での新生活に脅えていた私に、満面の笑みで「心配無い」と声を掛けてあげたいところだ。

 笑いながら朝空を仰いでいると、隣を歩いていた柊さんの歩調が変わった。知らぬ間に私よりも一歩遅れていて、視線は足元に落ちている。浮かない表情で、口を閉ざしていた。玄でも目にした、柊さんの顔があった。

 

「柊さん。流石に疲れましたか?」

「いいえ、そういう訳じゃ・・・・・・でも」

 

 でも。その先を言うよりも前に、柊さんは足を止めた。私達三人は顔を見合わせ、柊さんの声に耳を傾ける。

 

「上手く言えないのだけど・・・・・・時折、自分が分からなくなる時があるの」

「自分が、分からない?」

「最近は特に、そういった瞬間が多くって。こんなこと、今まで無かったのに」

 

 どうも要領を得ない言い回しだ。我を見失っているという訳ではないようだけど、柊さんの言葉をそのまま受け取るなら、そういうことになる。一時的な感情に戸惑っているのではなく、真剣に悩んでいるようにも見受けられた。普段は決して弱気な顔を見せようとしない柊さんが、とても小さく映ってしまう。

 掛けるべき言葉が見付からずに困っていると、ソラちゃんが真っ直ぐな声で言った。

 

「よく分かりませんけど、楽しめる時に楽しまないと損ですよ。今日みたいな日は異界のことなんて忘れて、一学生として楽しむべきだと思います。スイッチの切り替えが大切です」

「スイッチ?」

「休める時はスイッチをオフにして、心身を休めて楽しいことをするんです。『下手の考え休むに似たり』と言いますから、あれこれ悩むよりもよっぽどマシだと思いますよ」

 

 ソラちゃんは別段難解な言い回しはしていない。ことわざの意味はともかく、単に休日にはスイッチを切り替えて休むべきだと言っているだけだ。当たり前の考えだし、異論を挟む余地も無い。

 でも柊さんは、本気で『分からない』と言いたげな顔で、私達を見ていた。立ち尽くして、私達の顔を代わる代わる見詰めていた。その姿を見て―――私は初めて、柊さんという人間を理解した。

 

(そっか。柊さんは、そうなんだ)

 

 きっと柊さんの中には、スイッチが存在していない。常時オンのままで、切り替える術が無いのだろう。何時だって一介の学生という仮面を被り、裏の世界で生きる自分を押し隠して生きている。異界化という最悪を想定して終始張り詰め、その為に己の全てを費やしているのだ。そこにはオンとオフの概念は無いのだから、少なくとも心は休まりようが無い。

 だから、だ。だから柊さんは、知らぬ間にスイッチがオフになっていた自分を理解できない。オンの自分しか知らないから、まるでもう一人の自分が独り歩きをしているかのような錯覚に陥ってしまう。ババ抜きで意地を張る柊さんも、ゲームに熱中する柊さんも、焼きそばパンを頬張る柊さんだって、全部柊さんだというのに。

 何て不器用な人間だろう。人のことは言えないかもしれないけど、それにしたって不器用過ぎるし、微笑ましくもある。私にできることも、ある。

 

「柊さん。今度私のアルバイト先に来て下さい。焼きそばパン、作ってあげます」

「あ・・・・・・コホン。まあ、考えておくわ」

「だから考えなくていいんですって。でも焼きそばパンって案外難しいんですよ。ソースの味や濃さに応じてパンの砂糖と塩の量を調整しないと、味のバランスが取れないんです。トッピングも色々ありますから」

「・・・・・・中々に奥が深いようね」

 

 私達は再び歩を進め出した。いつの間にか朝陽が昇り、私達の行く先を照らしていた。

 

「うーん。アキ先輩が焼きそばパンのお話をしたからか、お腹が空いてきました。先輩方、折角ですからこのまま朝食でも食べに行きませんか?」

「えっ。でもこんな朝早くにやってるお店なんてあるかな?」

「駅前の吉松家なら24時間営業です!」

「却下よ。昨晩に似た物を食べたばかりだし、朝から重過ぎるでしょう。それに食事よりも先に、まずはシャワーを浴びたいわ」

「同感です。流石に今日は疲れを隠せません」

「むー。ならアキ先輩だけでも付き合って下さいよぅ」

「ええー・・・・・・」

 

 ともあれ、私は今日という日を忘れない。幸せとは何かと問われたら、私は胸を張って今日と答える。柊さんも同じだと思いたい。何の隔たりや気兼ねも無く、心の底から笑い合える日が続いていくって、そう信じたい。まだ見ぬ明日を、想いながら。

 

_______________________________________

 

 

~その頃の時坂家~

 

「何つーか、グリードってゲームに出てくるモンスターとそっくりだよな」

「元ネタが同じっぽいんだよね。実在する生物を模したのもいれば、ゴブリンやスケルトンみたいな伝承上の怪異にしか見えないのだっているし。現実世界と繋がりがあるのは確かでしょ」

「恐竜っぽいのもいたっけ。柊達は何か知ってると思うか?」

「さあね。気にはなるけど、知ってたってどうせ教えてくれないよ。あ、そこ右」

「っと。分かんねえことばっかだよな。北都先輩も一体何者なんだっての」

「コウちゃん、朝ご飯作りに来たよ」

「サンキュ。ユウキ、あの変な床は何だ?」

「回転床。一歩毎に方向が変わるから」

「まさか異界にも出てきたりしねえだろうな」

「ん?」

 

 幼馴染ってすごい。そう思うユウキだった。

 



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5月29日 伏島巡りの旅①

 

 放課後に三者面談を控えた5月29日の朝、私は登校したその足で本校舎三階に向かい、二人の先輩が待つ生徒会室を訪ねた。エリカ先輩とミツキ先輩は、私が知る同窓の中で最も舌が肥えている。勿論良い意味で、の話だ。試作品の味を見て貰うには正に打って付けの先輩であり、例によって今朝早くに仕上げたサンドを食べて欲しいと、メールで依頼したのが昨晩のことだった。

 

「ど、どうですか?」

「・・・・・・どう、と言われましても。もう在り来たりな表現しか思い浮かびませんわ」

「ええ、とっても美味しいですよ。今回の物が一番バランス良く仕上がっていると思います」

「強いて言うなら、顔が少々地味ですわね。メインの具材が隠れてしまっていて、見た目にシズル感が欠けていますわ」

 

 サンドを一齧りした後、先輩らは言葉少なに高評価を与えてくれた。この二人の「美味しい」はシンプルでありながらも最上級の褒め言葉。嬉々として飛び上がりたい一方で、エリカ先輩の指摘は尤もなポイントでもある。いくら味が良くても、それが視覚として映らない限り、手に取っては貰えない。商品としての魅力に乏しくなってしまう。

 

「やっぱりそうですか・・・・・・もう少し考えてみます。流石はエリカ先輩ですね」

「当然でしょう。この私を誰だと思っていますの?」

「後輩の為に駅前の書店でベーカリーブックを購入したエリカさんですよね」

「ミツキさん、妄言を吐くのも大概にしなさい」

 

 何はともあれ、これでサンドの基本設計は定まった。具材のバランスはそのままに、もっと彩りの良い顔作りを目指して改良すればいい。後は詳細な原価を割り出して、レシピと一緒に必要な一式を揃える。購買層やコンセプト、販売価格といった全てを詰めておかないと、サラさんには伝わらない。もうひと踏ん張りだ。

 

「それにしても商品の立案だなんて、アルバイト業務の域を超えていると思いますわよ。試作をするだけでも大変でしょうに。今朝も早かったのではなくて?」

「私から願い出たようなものですから。忙しいですけど、新鮮で楽しいですよ」

「面倒見の良いエリカさんも新鮮で楽しいですね」

「貴女はさっきから何を笑っていますの」

「フフ」

「フフじゃありませんわよ。そもそもミツキさんはアキとどういう間柄で―――」

 

 含み笑いをするミツキ先輩にエリカ先輩が突っ掛かると同時に、予鈴が鳴った。私は二人にお礼を言った後、生徒会室を後にした。

 

_______________________________________

 

 ―――午後12時半。

 

「司書、ですか?」

「うん。私ね、進学して司書資格を取ろうと思ってるんだ」

 

 私はシオリさんと伊吹君の二人と一緒に学生食堂で昼食を取った後、一息付きながら今週末が締切、つまり今日中に提出しなければならない『進路希望調査表』を取り上げ、お互いの胸の内を明かしていた。ちなみに時坂君と小日向君は、伊吹君曰く「コウは柊さんがジュンは女子共が強引に連れて行ったからちくしょう!!」だそうだけど、よく分からなかったので聞き流していた。

 今目を向けるべきは、シオリさんの進路についてだ。今になって初めて聞いたけど、シオリさんは既に進学先をある程度明確にしつつある様子だった。

 

「司書っつーと、図書館のコマチさんみたいなやつか?」

「似てるけど、少し違うかな。コマチさんは学校司書さん。学校司書は司書教諭と一緒に学校図書館を運営する人なの」

「成程な。全っ然分かんねえ」

 

 伊吹君に同じく。たった今の会話だけでも三種類ぐらいの単語が出てきた気がする。詳細な違いはピンと来ないけど、図書館を運営するという部分は共通していると考えてよさそうだ。

 シオリさんのお父さんは駅前で書店を経営していて、親子揃って本が大好きな読書家だ。休日は開店時間よりも前に店先に並ぶこともあるし、新刊発売日は尚更。それに杜宮市には複数の図書館があって、目的に応じて使い分ける。純文学、洋書、児童書、ライトノベル、どれも分け隔てなく読み漁る。感想を聞くだけでも、聞いている側が楽しめてしまう。シオリさんはお父さんの背中を追うように、行く行くは同じ本の世界に飛び込む覚悟でいるのだろう。

 

「将来のことは、まだよく分からないけど・・・・・・最近コマチさんが色々教えてくれるんだ。だから進学して、司書資格だけは取っておこうって、前々から考えていたの」

「そうだったんですか。じゃあ、その資格が取れる大学に進学するんですね」

「うん。実は杜宮学院大学に、一昨年前から司書養成課程が設置されてね」

「えっ。お、一昨年?」

「そうなの!自宅から通える距離にあるし、ラッキー♪ってね。今年の夏に早速、オープンキャンパスに行く予定なんだよ」

「「・・・・・・」」

 

 一言で表せばラッキーなんだろうけど、それにしても一昨年前って。強運というか、剛運の持ち主というか。まるでシオリさんの為に新課程が設置されたようなものだ。しかしある意味で私も似たような立場にあるし、人のことは言えないか。

 

「でもよー、折角の進学だぜ。他の大学も視野に入れといた方がいいんじゃねえの?」

「そのつもりだよ。まだ時間は沢山あるしね。リョウタ君は、調査表に何て書いたの?」

「俺は一応就職って書いたけど、正直に言って悩んでんだよな」

「あれ、そうなの?」

 

 私はシオリさんと同様の反応を示し、伊吹君の声に耳を傾ける。

 勿論、家業の青果店を継ごうという意思はある。でもお店をこの先も存続させていく為には、サービスや流通、経営学といった専門知識が求められる。それに生活環境が常に変化し続ける以上、数年先を見据えてお店も変わらなければならない。伊吹青果店に限らず、商店街自体を見直していかなければならないと、伊吹君は考えていた。

 

「俺はあの商店街が好きだからな。変えちゃいけないものはあるけど、『へいらっしゃい』だけで物が売れる程、甘くはねえさ。ほら、来週に商店街へテレビ局の取材が来るだろ?」

「ああ、前に言ってましたよね。確か、木曜日でしたっけ」

「そういうのも必要なんだと思うぜ。俺は頭が悪いから、理屈では話せねえけど・・・・・・今のうちに色々勉強しておいて、先々に活かすってのもアリじゃん?」

 

 だから進学も視野に入れている、という訳か。きっと伊吹君なりに真剣に、真摯に自営店の未来と向き合っているのだろう。意外と言ってしまったら失礼に当たるけど、私は「へいらっしゃい」と声を張る伊吹君しか知らなかった。こうして眉間に皺を寄せてうんうんと考えを巡らせる伊吹君も、伊吹君。そしてシオリさんもシオリさんだ。

 

(・・・・・・別々、か)

 

 二人共進学が希望でも、進学先はそれぞれ異なっている。成績は勿論、大学で学びたい分野が違えば当然のことだ。この杜宮学園を卒業すれば、誰しもが新たなステージへと歩を進めていく。少なくともシオリさんと伊吹君は、二年後の自分を明確にしつつある。

 私の場合はどうなのだろう。先は見えているけど、寧ろ足元がぼんやりとしている。私の将来についてサラさんに相談するようになってから、そんな感覚を抱くことが多くなっていた。

 

「遠藤さんは何て書いたんだ?」

「え?いえ、私はまだ提出してませんよ。三者面談の時に見て貰おう思っていたので」

「でも面談って放課後だよな。もう書いてはいるんだろ?」

「ひ、秘密です」

「秘密って・・・・・・まあ、聞かなくても大方想像は付くけどな」

「フフ、そうだね。アキちゃんはアキちゃんだもん」

「ええ?」

 

 二人の想像は、きっと当たらずとも遠からず。でも決して正解には届かない。だって私の調査表には、答えが無いのだから。

 

_________________________________________

 

 放課後。サラさんは面談予定時刻のちょうど十分前に来客用の玄関を訪ね、私のサイフォンを鳴らした。サラさんは普段とは異なるフォーマルな服装をしており、しかしトレードマークである奇抜な髪型は変わらず。バレッタで豪快に逆立てられた髪はどうやったって周囲の目を引き、控えめなヒソヒソ声は私の耳にも届いていた。

 

「ふふん、いい女は罪ね。視線を沢山感じるわ」

「絶対に違うと思います」

「うっさいわね」

 

 やがて案内した先の教室には、中央に机が向い合せで並べられていて、一方の席にクラス担任の九重先生が座っていた。私達に気付いた九重先生はすぐに立ち上がり、サラさんと簡単な挨拶を交わした後、用意されていた椅子にそれぞれ座った。

 

「改めまして、遠藤さんのクラス担任をさせて頂いている九重と申します。本日は御足労頂きありがとうございます」

「いいえ、こちらこそ。アキがいつも大変お世話に」

「お話は伺っていますよ。遠藤さんのアルバイト先を、御主人と営んでいらっしゃるそうですね」

「拙いお店ですが、おかげ様で何とかやれています。学生の利用客も多いですから。先生も今度いらして下さい、サービスして差し上げますよ」

「あはは。機会があれば、立ち寄らせて頂きますね」

 

 お願いした私が言うのもあれだけど、この奇妙な感覚が何ともむず痒いというか、照れ臭い。保護者の代理、というのは形式上の話ではあるにしても、薄らとメイクされたサラさんのこんな顔は初めて見るし、やはり気恥ずかしい。

 それに一時期は教鞭を執っていた経験があるからか、随分と場馴れしているようにも映る。以前にハルトさんが聞かせてくれた話では、八年前までサラさんは中学校の教師だった。年齢から逆算すれば、それなりの年数を教師として生きてきた筈だから、立場が逆とはいえこういった面談はお手の物なのかもしれない。

 

「・・・・・・変ですね。九重先生とは別の場所で、全く逆の立場でお会いしたことがあるような」

「・・・・・・奇遇ですね。私もそこはかとなく、そんな気がします」

「あのー。何の話ですか?」

 

 まるで意味不明なやり取りを挟んだ後、九重先生が漸く本題へと移る。内容は面談と聞いて思い浮かぶ話題に沿うように、普段の授業態度や成績、部活動にアルバイト、私生活。私の想像を超えるような話題は無く、特に当たり障りの無いそれがほとんどだった。

 

「アルバイトと部活動の両立が少々心配でしたけど、上手くやれているようですよ。勉学の面でも悪い話は聞きませんから。遠藤さん、何か困っていることはある?」

 

 そこに異界探索が加わるからとても忙しい、なんてことは口が裂けたって言えないから、胸の中にしまっておこう。私が薄ら笑いを浮かべて「特にありません」と答えると、九重先生は一枚のプリントを机から取り出し、私達の目の前に置いた。放課後のSHRの後、私が提出した進路希望調査表だった。

 

「本題に入ろっか。ねえ遠藤さん。私はこれを、どう受け取ればいいのかな」

「それは・・・・・・」

 

 九重先生が言うと、隣にいたサラさんも表情を変えた。

 調査表に記された『進学』と『就職』の、二項目。具体的な進路希望先が無い場合は、何れかを選ぶだけでいいと事前に説明を受けていたし、用紙の下部にもそう記載されている。でも私は考えに考え抜いた末に、進学と就職の両方を、丸印で囲った。九重先生が戸惑うのも、無理はなかった。

 

「私は・・・・・・その、九重先生。もう少し、時間を下さい」

「それもしっかりと説明して貰える?」

「考え無しに、こんな真似をしたつもりはありません。可能性を調べる時間が欲しいんです」

「アキ」

 

 私のしどろもどろな受け答えに、サラさんが私の肩に右手を置いた。

 

「九重先生。この子抜きで、貴女とお二人で話せませんか」

 

________________________________________

 

 私が一旦教室を出ると、廊下に置かれていた二つの椅子のうち片方に、私の次に面談を予定している柊さんが座っていた。柊さんは予定よりもかなり早い退室を訝しむような表情を浮かべて、私の下へ歩み寄ってくる。

 

「アキさん、もう終わったの?随分と早かったのね」

「え、えーと。まだ終わってはないんです」

 

 私が事情を説明している最中、視界の端にもう一人の顔が映る。柊さんの隣に腰を下ろしていた女性はゆっくりと立ち上がり、艶やかな笑みを浮かべながら歩を進めたと思いきや、私の顔をまじまじと覗き込んでくる。というか、近い。顔が近過ぎる。

 

「あ、あの?」

「ふうん?貴女がそうなの。話は聞いているわよ、色々とね」

 

 女性が私から一歩距離を置いて「ユキノ」と名乗ると、すぐに一昨日の晩に交わした会話が思い出された。柊さんが言っていた『憧れの女性』がこの人で、サラさんと同様に柊さんの保護者代理として来訪してくれたのだろう。話に聞いていた通り、ユキノさんはとても整った顔立ちをしている一方で、ミステリアスな微笑は妖艶さに満ちていて、不思議な魅力を全身から発する様は、あのミツキ先輩を連想させた。

 

「コホン。ユキノさん、余計な真似は謹んで―――」

「何か言ったかしら」

「・・・・・・ゆ、ユキノ姉。彼女がクラスメイトのアキさんよ」

 

 どういう訳か、柊さんは頬を引き攣らせていた。

 

_______________________________________

 

「では遠藤さんは、パン職人を志していると?」

「ええ。ここ最近は主人と一緒に、相談に乗ることも多いんです」

 

 アキが退室した後、トワは真剣な面持ちでアキの将来に関する話に耳を傾けていた。そしてアキの生い立ちや家庭内事情を知っているトワにとっては、想像するに難くない内容だった。

 

「お恥ずかしい話ですが、私はまだ教師になって日が浅くって。パン職人を目指す生徒も、遠藤さんしか知りません。そういった業界について、聞かせて頂けませんか」

「ブランジェになるだけならそう難しいことではありません。道のりも様々ありますから、アキもこんな書き方をしたのだと思いますよ」

 

 取っ掛かりは複数存在する。大手パンメーカーに就職する者もいれば、専門学校や大学で知識と技能を身に付けるという方法もある。修行先となる店舗を探し出して飛び込み、下働きを積む人間もいる。目的に応じて向き不向きはあれど、順序も到達地点もこれといって決まった物がない。だからアキは二択から選ぶことができず、考える時間が欲しいと申し出たことには、しっかりと理由があった。

 

「実際のところどうなんでしょう。彼女の夢は、叶うと思いますか?」

「技術は勿論、製パン理論や業界の動向、経営に求められる知識にも精通しています。家業の手伝いだけではあの域に達しません。それ程の学びを積んできたという証です」

「そうですか。誇張している、という訳ではないみたいですね」

「ええ。ですが先程も言いましたように、あくまでブランジェになるだけなら、の話です」

 

 サラが表情を変えずに言うと、トワは瞬く間にサラの言わんとしていることを察した。一連の話を聞く限り、アキがブランジェという道で成功を収める可能性は十二分に感じられた。だがそれでは、二人っきりになった意味が無い。アキを抜きにして彼女の将来を語り合う理由がある筈だと、トワは受け取っていた。

 

「もしかして遠藤さんは・・・・・・その先を、目指しているんですか?」

「話が早くて助かります。あの子の願いは、新店を開業すること。つまり独立です」

 

 自営のベーカリーを開業する。それはブランジェとして生計を立てるという枠に収まらず、ゼロからの起業に等しい。当然だが、起業には様々なリスクが伴う。膨大な資金調達は勿論、開業後も常に長期的な経営をシュミレーションしなければならない。その上ベーカリー業界自体が今の日本では頭打ち状態で、そもそも開業まで漕ぎ着けることが困難極まりないとされていた。

 

「『神がパンを創造し、悪魔が作り手を創造した』という格言がヨーロッパにあります。それぐらい過酷な世界だということですね。私と主人は、運が良かったんです」

「き、急にスケールが大きくなりましたね」

「十年先か、二十年先になるか分かりませんが・・・・・・だからこそ若いうちから、真剣に考えたいのでしょう。きっとアキは、失った物を取り戻したいんです」

 

 そして茨の道を往こうとするアキの意志の根底には、確かな土台があった。

 

「・・・・・・病んでしまったお母さんと、お店ですか。彼女の生い立ちも、知っているんですね」

「勿論、動機は一つではないと思いますよ。でも少なからず、そういった願望はある筈です」

 

 トワは一度呼吸を落ち着かせて、手元の調査表に視線を落とす。こんな書き方を選ぶぐらいだから、抱えている物があるとは考えていた。突拍子も無い進路を選ぶ生徒は沢山いるし、無計画で向こう見ずな生徒を諭す覚悟もあった。

 でもアキは既に、十数年先を見据えた道のりを歩もうとしている。高校二年生という青春を謳歌すべき立場にありながら、明確な行く末を見失わないように、足元を固め始めている。新米の自分には荷が重い案件だと思う一方で、それがとても誇らしくもあり支えてあげたいと、トワは素直に感じていた。

 

「アキは最近、変わったと思いませんか。初めは接客すら嫌っていたのに、今は自分で焼いたパンを積極的に薦めたり、新しい商品を考えたりしているんですよ」

「あはは、同感です。それによく笑うようになりましたね。何かキッカケがあったんだと思います」

「それも同感です・・・・・・九重先生。私はアキを、全面的に支援します。独立に必要な物は、理解のある個人店での修行と経験ですから。アキの意思を尊重して、私はあの子を受け入れるつもりです」

「・・・・・・そう言って頂けると、返す言葉もありません」

「そのままあの子にお店を継いで貰うという方法もありますけどね」

「ケホッ、ごほっ!?」

 

 予想だにしないサラの案に、トワが思わず喉を詰まらせ、ごほんごほんと咳を繰り返す。アキが杜宮学園に編入したのは約一ヶ月前。そしてアルバイトを始めたのも今月に入ってからのことだ。そんな付き合いの短いアルバイト店員に「店を継がせる」と言われては、懐の深いトワでも理解の範疇を超えてしまい、ただただ咳込むことしかできないでいた。

 

「あ、あのー。それ、どこまで本気で言ってますか?」

「単なる思い付きですよ。主人にだって話していません」

「はぁ・・・・・・フフ、あはは!サラ先生は、少しも変わっていませんね」

「は?」

「遠藤さんから聞いてますよ。ご結婚される前は、中学で教師をされていたそうで」

「え、ええ。そうですけど」

「まだ思い出せませんか。私の目標は、サラ先生。いつだって貴女でした」

 

 トワは掛けていた眼鏡を外し、髪を結っていたリボンの結び目を直して、再度視線を上げた。トワは初めから気付いていた。だから「初めまして」を敢えて言わずに、少々の悪戯心を以って接していた。「別の場所で、全く逆の立場で」というサラの言葉に、間違いは何一つ無かった。

 

「杜宮北中学三年Ⅳ組、生徒会長の九重トワです。遅くなりましたけど、ご結婚おめでとうございます」

 

_______________________________________

 

 翌日の5月30日、土曜日。午後13時。

 

「―――という訳なんです」

『教師と生徒が八年振りに、かぁ。でも先生にとってはどうなのかしら。その先生、体罰問題を追及されて辞めちゃったんでしょ?』

「体罰って言っても、男子の頭を軽く小突いただけだって聞きました」

『ふーん。確かに一時期は、そういう問題がやたらと取沙汰されていたっけ』

「昨晩は二人でお酒を飲みに行ったそうですよ。ほら、以前歓迎会をしてくれた居酒屋です」

『いい話じゃない。それでアキ、今どの辺にいるの?』

「えーと。さっき上野駅を出たところですね」

 

 私はサイフォンでタマキさんと通話をしながら、東京駅から高速鉄道路線沿いに北へ向かっていた。車両は各駅停車の新幹線『やまびこ』で、今現在は犀玉と東京の県境周辺を走行している。目的地は伏島駅から程近い場所にある、街中の貸倉庫。当初の予定通り、実家で使っていた製パン用の備品に関する商談をする為に、東京駅発の新幹線を使って移動中の身だった。

 

『でも本当に大丈夫?泊まりなら事前にそう言ってよね。てっきり日帰りだと思ってたのに』

「す、すみません」

 

 肝心なことを伝えていなかった私の落ち度は明らかで、言い訳のしようがない。叔母のタマキさんが私を見る目は、お母さんの代わり。家族として私を守ろうと接してくれている。余計な負担は掛けたくないと宿泊の手配も自分で済ませていたけど、今回ばかりはそれが裏目に出てしまったようだ。

 

『とにかく、逐一連絡は入れなさい。駅を降りた後、要件を済ませた後と、それに宿泊先へ着いた後には必ず一報を入れること。いいわね?』

「は、はい。必ずそうします」

『まあ折角の休みだし、ゆっくりしてきなよ。久し振りに伏島の空気を吸うのもいいかもね』

「・・・・・・あの、タマキさん」

『何?』

「いつもありがとうございます。全部、タマキさんのおかげです」

『急にどうしたの、改まっちゃって。っとと、ごめん、そろそろ切るわ』

「あ、はい。また後で」

 

 通話を切ってサイフォンを上着にしまい、デッキの窓から流れ行く風景を見やる。自分は本当に恵まれていると思う。サラさんもタマキさんも、私と正面から向き合って応えてくれている。一般的な高校生とは少し外れた道を歩いている自覚はあるけど、確かな幸せがある。そしていつの日かきっと、お母さんも一緒に。今はそう信じて、前に進むだけだ。

 

「さてと」

 

 荷物を持ち直して、再度今後の予定を確認する。伏島駅から普通列車に乗り換えて、約束の場所で今回の依頼人と落ち合う。先方は備品の買い取りを希望しているけど、実のところ売却するつもりは毛頭無い。実家で使用していた備品達は、私の夢を叶える為に先々必要となる。事前にそう伝えてはあるし、事情を説明すれば納得してくれるだろう。今回は直接私が出向いて、説得をすることが目的だった。

 商談の後は予約しておいたビジネスホテルで一泊をして、明日は丸一日が白紙。具体的な予定も行先も無く、敢えて言うなら生まれ育った土地の空気を吸うことぐらいだ。タマキさんが勧めてくれた通り、この二日間は余計なことを考えず、羽を伸ばしてゆっくりするとしよう。

 

_______________________________________

 

 同日、午後21時。

 

(つ、疲れた)

 

 私は肩に圧し掛かる重々しい疲労感を引き摺りながら、ビジネスホテルの通路を歩いていた。このままベッドに倒れ込んでしまいたいけど、空腹感も相当な物で腹の虫が鳴き止まない。終始ボストンバッグを手に提げていたこともあって、腕が変な疲れ方をしていた。

 まさかあそこまで粘られるとは思ってもいなかった。私としては頑なな態度を取り続けたつもりだったけど、相手が女子高生ということで、妙な期待感を与えていたのかもしれない。結局は予想を遥かに上回る時間を費やしてしまい、そこに重なったのがホテルまでの道のり。すっごく迷った。サイフォンでweb上の地図と睨めっこをしながらホテルの近辺をぐるぐると回り、小一時間夜の街中を彷徨い歩いた。タマキさんからは呆れられ、情けなさで胸が一杯になり、今に至る。とりあえず部屋に荷物を置いた後、すぐにでも何か口にしよう。これ以上は体力の限界だ。

 

「えーと。502、502・・・・・・あ、あった」

 

 割り当てられた部屋の鍵を開けて、室内に入る。真っ暗な中を恐る恐る歩き、キーを机に置いて明かりのスイッチを探す。うん、見当たらない。何処だ、スイッチは。これじゃ何も見えない。

 

「あっ」

 

 扉が閉まったところで、鍵を開ける際に荷物を通路に置き忘れていたことに気付く。どうも思考が上手く働かない。思っていた以上に疲れが溜まっているようだ。

 私は一旦部屋を出て、背伸びをしてからボストンバッグを持ち上げる。そして再びバタンと扉がしまり、思い出してしまう。オートロック、だったか。扉が閉まれば自動的に施錠され、開錠に必要なキーは部屋の中。そんな馬鹿な真似はしないようにとエレベーターの中で自分に言い聞かせた結果がこれである。私はもう、駄目かもしれない。

 

「あ、あはは・・・・・・はぁ。ぐすっ」

 

 視線を落としてとぼとぼとエレベーターに引き返していると、前方から足音が聞こえてくる。ちらと視線を上げてその姿を確認し、邪魔にならないように通路の端に移動して、思わず立ち止まる。

 

「あら?」

「あれ?」

 

 以前にも見たことがある服装だった。服装どころか、帽子のつばで隠れていた顔を、私は何度も見たことがある。一度目はモリミィで、学園では複数回、カラオケボックスではその私服と一緒に。

 

「あ、貴女どうして!?」

「く、くく、玖我山リオンさん!?」

「ばっ・・・・・・シー!こ、こっちに来て!」

 

 驚愕の声を上げた途端、玖我山さんは私の左手を強引に引っ張り、私が借りた部屋の向かい側にあった扉を手早く開錠し、私は室内へ問答無用に連れ込まれてしまった。

 

______________________________________

 

 ―――それから十分後。

 

「こうやってここにキーを差し込めば、自動的に部屋の明かりが点くの。部屋を出る時は必ずキーを抜いて持ち歩く。何も難しいことはないじゃない」

「・・・・・・すみません」

「どうして謝るのよ・・・・・・」

 

 私はロビーでスペアキーを受け取った後、玖我山さんの部屋で肩を落としながら、室内の使用法についてレクチャーを受けていた。勿論チェックインの際にも説明は聞かされていたのだけど、疲労のせいで少しも頭に入っていなかった。穴があったら入りたい。

 

「それにしても驚いたわ。こんな場所で貴女に出くわすなんて、何の偶然かしら」

「わ、私もですよ。伏島でライブイベントがあるって聞いてましたけど、それ関係ですか?」

「あら、よく知ってるわね。SPiKAと書いて『鹿』と読んだ癖に」

「・・・・・・本当にすみませんでした」

 

 そんな失礼な人間は後にも先にも私ぐらいのものだろう。それは別として、ライブイベントについてはタマキさんから週の頭に聞かされていたし、新幹線にもそれらしい話題で盛り上がる男性の利用客が複数人いた。伏島に着いて以降も街中で宣伝ポスターの類を何度か目にしていたことから、度々頭の中には玖我山さんの顔が浮かんでいた。帽子を深く被っていた玖我山さんに気付くことができたのも、その辺りが理由だったに違いない。

 

「それより、どうして貴女が伏島のホテルに居るのよ?」

「そ、それはその。話すと、結構長くなるんですけど」

「ふーん・・・・・・まあいいわ。ねえ、貴女さっきホテルに着いたのよね。夕食は?」

「え?あ、まだです。これから食べようと思ってました」

「ならちょうどいいわ。近くにファミレスがあったから、一緒に食べに行かない?」

「ええ!?」

「一人より複数人の方が何かと目立たなくていいしね。そうと決まればほら、すぐに用意するっ」

 

 言われるがままに背中を押されて、私達は夜の街中に逆戻りをするのだった。

 

________________________________________

 

 玖我山さんに連れられて向かった先は、ホテルから程近い場所にあったファミリーレストラン。玖我山さんは店内で帽子を脱ぐと、代わりに伊達眼鏡を掛けて私と同じテーブルに座った。有名なアイドルグループの一人ということで、外を出歩く際には簡単に顔を隠さないとたちまちに囲まれてしまうからだそうだ。

 

「ライブは今日の夕方で、イベント関係はもう終わったの。だから今は完全なオフって訳」

「オフ・・・・・・そうだったんですか。でも、少し意外です」

「意外って、何が?」

「いえ、その。玖我山さんみたいな人なら、もっと立派なホテルに泊まりそうなイメージが」

「それはアキの勝手なイメージでしょ・・・・・・っと。名前で呼んでもいい?」

「あ、はい。どうぞお好きなように」

「でもそうね。現地で宿泊しようって決めたのはあたしだから、ホテルも空いている所を適当に選んだのよ」

 

 話を要約すると、玖我山さんのSPiKAとしての仕事は既に終了済み。久我山さんは久し振りの休日となる明日を謳歌する為に、自分自身の意思で伏島に居残り、宿泊先も決めた。つまり私と似た者同士、という話だった。

 

「じゃあ、他の四人の方々は?」

「ワカバとアキラは試験が近いとかで、すぐに新幹線で帰ったわ。ハルナとレイナも別の仕事が入ってるから同じ・・・・・・て言っても、アキには誰のことか分かんないか」

「分かりますよ。ハルナさんとレイナさんが玖我山さんの同期で、ワカバちゃんとアキラちゃんは二期のメンバーですよね」

「ちょっと待って。あたしにはあんな態度だった癖に、どうして四人は知ってるのよ。何かムカつくんだけど」

 

 玖我山さんがひどく納得がいかない様子で、私を睨み付けてくる。そう言われても、SPiKAについて詳しくなったのはつい最近のことだ。その全てが伊吹君の布教とやらの賜物ではあるけど、ここは敢えて言わない方が良い気がする。怒らせてしまうのは不本意だ。

 

「それで、アキはどうして伏島に?」

 

 私は一連の事情を掻い摘んで説明した。生まれ故郷は杜宮だけど、私は以前伏島に住んでいて、両親がベーカリーを営んでいたこと。今はお店を畳んで杜宮に移り住み、今回はお店の備品に関する用事で伏島を訪れたこと。そして明日は特に予定も無く、気の赴くままにかつての生活地を散策しようと考えていることを語った。

 

「なーんだ。あたしと似たようなものじゃない」

「あはは。そうかもしれませんね」

 

 大まかに話し終えた頃、注文の品々がテーブルに届く。玖我山さんはカルボナーラとサラダ、私はピザとドリアに山盛りのサラダ。お互いにフォークを手にすると、玖我山さんは何かを思い付いたような表情で言った。

 

「ねえアキ、明日一緒に行ってもいい?」

「えっ・・・・・・わ、私と、ですか?」

「観光地巡りでもしようかと思ってたけど、何の下調べもしてないしね。元現地民である貴女に任せて一緒に回った方が、色々と楽しめそうだわ」

「でも私だって、ノープランですし・・・・・・知っている場所を歩くだけですから、面白くないと思いますよ?」

「それは行ってみないと分からないじゃない。それとも何、リオンちゃんと一緒じゃイヤな訳?」

「ち、違いますよ」

「なら決まりね。それと、貴女もリオンでいいわよ。同い年なんだから」

 

 あっという間に玖我山さん―――リオンさんの同行が決まってしまった瞬間だった。思いも寄らない強引な提案に呆れつつも、私は心の何処かで、笑っていた。

 

 

 



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5月31日 伏島巡りの旅② 『Seize the day』

 私達の宿泊先は、駅から徒歩約五分のビジネスホテル。距離と宿泊費は勿論、このホテルを選んだ理由はささやかな朝のサービスにもある。早朝のエントランスホールには複数の丸テーブルが置かれていて、最奥に数種類の朝食が入ったバスケットやディッシュ並んでいた。品揃えは業務用のウインナーやスクランブルエッグ、レタスサラダといった軽食に限られるけど、自由に選び取れる様はホテルバイキングさながら。外泊という非日常も相まって胸が躍り、私が取り皿を一杯にしてテーブルへ戻ると、リオンさんは苦笑いを浮かべてホットコーヒーを啜っていた。

 

「朝からよく食べるわね。太らない?」

「いつもこんなに、という訳ではないですよ。体重を気にしたこともありません」

「・・・・・・羨ましい限りだわ」

 

 一方のリオンさんは小振りのクロワッサンとヨーグルト、飲み物だけで済ませていた。体型を大して気に掛けない私は別としても、アイドルという職業柄、自己管理には人一倍気を遣わなければならないのだろう。同じ女子高生ではあっても、住んでいる世界が違うのだから当たり前か。

 

「それで、今日はどうするの?食べたらすぐに出る?」

「そうですね。一息付いたら駅に行きます。でも荷物が大きくて、持ち運ぶのが大変で・・・・・・まずは駅でコインロッカーを探そうかと」

「フロントに預けていけばいいじゃない。私もそのつもりよ」

「え。できるんですか?」

「チェックインの時に聞いておいたの。何処もやってるサービスだし、こういうことには慣れっこね。アイドルは世間知らずっていう古臭い考えを持ってる人は沢山いるけど、私から言わせれば真逆だわ」

 

 リオンさんは得意げに言うと、多くの人間が抱いている固定観念に対して文句を並べ始める。私はそんな色眼鏡を掛けていたつもりは無いけど、事実リオンさんは学生であると同時にプロフェッショナルでもある。私達のような人間よりも一足先を歩き、社会に飛び込んで様々な経験を積んでいるに違いない。イベント先での外泊も、リオンさんにとっては日常の一部に過ぎないのだろう。

 

「あっ」

「え?」

 

 胸中で感心している最中にリオンさんの視線が外れ、私の後方へと向いた。振り返ると、背後には大型テレビの液晶画面。朝の情報番組ではローカル枠として県内に関する報道が流れていて、画面上にもう一人のリオンさんが映っていた。

 

「昨日のライブイベント、ですね」

 

 ステージではリオンさんを含む五人の同年代がマイクを握り、華やかな衣装を揺らしながら熱唱していた。あんな風に報道で取沙汰されるアイドルと、こうして面と向かって朝食を取っているだなんて、今更だけど変な感覚だ。控え目に変装していることもあって、とても同じ人間とは思えなかった。

 

「本当に、ひどい声」

「え・・・・・・リオン、さん?」

 

 思わず名を呼ぶと、リオンさんはハッとした表情で右手をひらひらと振った。

 

「ううん、気にしないで。最近少しスランプ気味でね。昨日も納得がいかない出来だったの」

「スランプ・・・・・・そうなんですか」

「だから、かな。来月にはSPiKAの結成記念ライブもあるし、今日は知らない場所を歩いて気分転換でもしようかなって、そう考えたって訳」

 

 スランプ気味。その言葉を聞いて、私は再度画面上で舞うリオンさんを見詰めた。一見するだけでは、額に大粒の汗を浮かべて声を張るリオンさんの姿にはとても当て嵌まりそうになく、首を傾げてしまう。でも本人が言うのだから、何かしらの引っ掛かりがあるのかもしれない。少なくとも現実のリオンさんの表情には、暗い影が落ちていた。

 

「でも良かったですね。雲一つない晴天ですし、散歩には打って付けの日曜日です」

「ええ、そうね」

 

 いずれにせよ、私にできることは一つしか無い。杜宮と並ぶ故郷の風景が、リオンさんのスランプとやらを和らげてくれる。そう信じて、彼女と歩こう。今はそれだけだ。

 

_________________________________________

 

 フロントへ荷物を預け身軽になった私達は、伏島駅からローカル線を使って北上し、一度乗り換えてから更に北へと向かった。私が高校一年生まで身を置いていた町は、県境にある小さな田舎町。自宅の最寄駅は当然のように無人で、伏島駅からでも数十分の時間を要する辺境にあった。私とリオンさんはボックス席で向かい合いながら、段々と街並みが田舎のそれへ変わる様を見詰めていた。

 

「都心とは別世界ね。扉が手動のローカル線なんて初めてだわ」

「あはは」

 

 乗り換えの際に扉の前で疑問符を浮かべるリオンさんを思い出し、私の笑い声が走行音に溶け込んでいく。二両編成の車両に、乗客は私達を含めてたったの六人。慣れ親しんだ光景は、ずっと杜宮で暮らしてきたリオンさんの目に大変珍しく映っているようだ。

 

「こんな場所に住んでいたら、SPiKAを知らなくても無理ないって感じね」

「そ、それは、その」

「意地悪を言ってる訳じゃないの。最近はそれなりに知名度も上がってきたけど、元々はロコドルだしね。今回のライブだって、東北で名前を広める狙いがあったのよ」

 

 リオンさん曰く、ロコドルとはローカルアイドルの総称。今でこそ全国区と呼べる程に名が知れているものの、SPiKA結成当初は大した盛り上がりも見られず、苦労を重ねた時期があったらしい。そんな逆境にめげず、地道に活動を続けてきた結果、歌唱力の高さや楽曲の完成度が着実に評価されていき、ミュージックシーンでも注目されるレベルにまで至った。それがリオンさんが歩んできた、三年間の道のりだった。

 

「じゃあリオンさんは、中学生の頃からアイドルとして活動していたんですか?」

「下積みの期間も含めれば、もっと前からになるわ」

「すごいです。リオンさんは私なんかよりもずっと大人ですね」

「ふふん、精々敬いなさい・・・・・・そうそう。ねえアキ、貴女はあたし達の曲の中で、どれが一番好き?」

「はい?」

「ほらほら、五秒以内に答えるっ」

 

 五、四、三。唐突な質問を投げ掛けられたと思いきや、容赦の無いカウントダウンが告げられる。私が咄嗟に頭に浮かんだ曲名を口にすると、リオンさんは訝しむような表情を浮かべて、私を見詰めた。

 

「ねえ、今『Seize the day』って言った?」

「はい、そう言いましたけど。あれ、曲名は合ってますよね?」

「合ってはいるけど・・・・・・意外な選曲ね。あれってゲームの主題歌として作られた曲なのよ」

「そ、そうなんですか?初めて聞きました」

 

 私が取り上げた『Seize the day』は、今年になって発売された家庭用ゲームソフトの主題歌としてタイアップされた曲。近年では著名人がゲーム性に沿ったテーマソングを提供することも珍しくなく、『Seize the day』はSPiKAが初めて手掛けたゲーム音楽だったそうだ。

 

「ゲーマーの間ではまあまあの評価だったけど、楽曲としては大した人気も無かったの。だから意外だなって思って」

「私は・・・・・・素直に良い曲だと思いましたよ。不思議と自信が沸いてくるんです」

 

 どうしてそう感じたのかは分からない。でもこういったことは感覚で語る世界だろう。今時の音楽に疎い私の選曲だから、少しばかり外れた感性があるのかもしれないけど、嘘偽りは無い。自信を持って好きだと言える一曲がそうだった、それだけの話だ。

 

「そう。あたしもあの曲は好きよ。個人的な想い入れがあるの」

「想い入れ?」

「ひーみーつ。アキは『Seize the day』の意味、分かる?」

「今を生きる、今を楽しむっていう意味ですよね。知ってからはもっと好きになりっ・・・・・・な、何ですか?」

「フフ、いいからいいから」

 

 リオンさんは突然私の右隣に座り、縋り付くように私の右腕を握った。その行動の意図が分からず、私は照れ笑いを浮かべることしかできなかった。

 

_______________________________________

 

 目的の駅で降りた後、私達は無人の改札を通り外へ出て、眼前に広がる風景を見渡した。杜宮での新生活はまだ二ヶ月間にも満たないというのに、とても懐かしく感慨深い物があった。

 

「うっわー。田んぼしか視界に入らない、なんて体験も初めてよ。自販機が浮いちゃってるじゃない」

「この辺はそうですね。少し歩けば商店街とか、コンビニもありますよ」

「少しってどれぐらい?」

「ここからだと一時間ってところです。ちなみに電車の本数もそれぐらいですね」

「・・・・・・覚悟はしてたけど、正直に言ってそれ以上だわ」

 

 リオンさんは多少呆れつつ、小走りで私の前を走り、両腕を一杯に広げて深呼吸をした。私もそれに倣い、深々と息を吸い込んでから、目を閉じてゆっくりと吐き出す。身体中が新鮮な何かで充たされていき、胸の奥底から高揚感が込み上げてくる。きっとリオンさんも同じ想いを抱いている筈だ。

 

「あはは。ねえアキ、これから何処に行くの?」

「特に予定はありませんよ。小さな町なので、とりあえず歩いて考えますか?」

「うんうん、そのノープランな感じもいいわね」

 

 私達は車の通らないだだっ広い道路を、並んで歩き始める。周囲には鳥のさえずりと木々のざわめき、穏やかな風しかない。道の先はきらきらとした光と期待感に溢れていて、午前の木漏れ日が路面を照らしていた。

 

_______________________________________

 

 小腹が空いたということで、私達はまずこじんまりとした商店街を訪ねた。私はそれらを形成する一つ一つを簡単にリオンさんへ説明すると同時に、幼少の頃の思い出に浸り、自然と笑みが浮かんでいた。

 

「懐かしいですね。小さい頃は友達と、よくこの辺で買い食いをしていましたっけ」

「小さい頃って・・・・・・アキは先月までこの町に住んでいたのよね。少し大袈裟じゃない?」

「そ、それは、その」

「・・・・・・」

「えーと、ですね。だから、あの」

「・・・・・・ごめん。何となく分かったわ」

 

 友達と一緒に、が叶ったのが幼少期に限られる。などというひどく情けないことを言うよりも前に、リオンさんは何かを察した様子だった。一時から私には家業の手伝いとテニスしかなかったのだから仕方ない、なんて言い訳を並べたところでもっと惨めになるだけだ。私は薄ら笑いをしながら誤魔化し、近くにあった一軒のお店にリオンさんを誘った。

 

「ここは軽食屋さんです。タコ焼きがおススメですよ」

「一個二十円のタコ焼きも初めてね・・・・・・」

 

 私達はそれぞれタコ焼きを四つずつ頼み、店内に二つしかないテーブル席へと座った。店主であるおばあさんが出してくれた水は当然のように水道水で、私達は喉を潤しながらこれからのことについて話し合い始めた。

 

「アキは帰りの新幹線の切符、取ってあるの?」

「いえ、自由席で帰るつもりだったのでまだです」

 

 その辺りの予定も曖昧だった。でも明日は月曜日だから、長居をして羽目を外し過ぎる訳にもいかない。帰りに要する時間を考えると、午後の16時には伏島駅を出ておきたい。私がそう伝えると、リオンさんは折角だから同じ新幹線で帰ろうと言ってくれた。一人旅はほとんど初めてと言っていい私にとっては、帰りが一緒なだけでも大変有難いことだった。

 

「そう考えると、時間も結構限られてくるわね。次は何処に連れてってくれるの?」

「うーん・・・・・・昨日も言いましたけど、特に見所も無いので迷いますね」

 

 一瞬元遠藤家が思い浮かび、考え直す。売却した建屋をリオンさんに見せたところで面白みに欠けるし、私も物寂しさを覚えるだけだ。

 

「天気も良いですから、河辺を歩きましょうか。町の外れに大きな河川があるんです」

「なーるほど。この際だから、全部アキに任せちゃうわ」

 

 次なる目的地が決まった頃に、注文しておいた品物がテーブルに届けられる。丸々とした大きめのタコ焼きはソース漬けになっていて、普段見慣れているたこ焼きとは異なっている。この濃厚なソースの香りも懐かしい限りだ。

 

「な、何かあたしが知ってるタコ焼きとは、少し違うわね」

「美味しいですよ。タコは入っていませんけど」

「どうしてよ!?それタコ焼きじゃないでしょ!?」

「駄菓子みたいな物です。中に紅ショウガと青のりは入ってますから」

 

 リオンさんはひどく納得がいかない様子で、ノンタコのタコ焼きを一齧りする。一方の私は丸ごとを口の中に頬張り、口内に若干の火傷を負ってしまうのだった。

 

_______________________________________

 

 午前11時半。商店街を後にした私達は再び歩き始め、先程話題に上げた河川へと向かった。リオンさんは先日のライブイベントの疲れを見せずに、軽やかな足取りで私の隣を歩いていた。SPiKAは歌唱力のみならず、ハイレベルなダンスパフォーマンスでも有名だ。リオンさんも細身のように見えて、その実しっかりと鍛え込んでいるのだろう。

 

「本当にのどかな所ねー。さっきのおばあさんもそうだったけど、方言もあるみたいだし。アキはそうでもないのね?」

「一応現代っ子ですから。でもこの辺は県境なので、伏島弁じゃなくて宮城県の訛りが残ってるそうですよ」

 

 その線引きは難しいと聞いているけど、この町が形成された経緯と土地柄の影響で、年配の住民らの方言は仙台弁の影響を多々受けているそうだ。私自身に訛りは無くても、聞く側としてはそれなりに理解できる。

 

「あ、見えてきましたね」

「わお、結構大きな河じゃない。河川敷も多摩川の運動公園並に広いのね」

 

 やがて前方に、伏島でも有名な一級河川が視界一杯に広がる。河辺には数名の若者らが釣竿を握っており、反対側の河川敷に設けられたサッカー場では子供達が元気に走り回っていた。私達は階段を下って河川敷に下り立ち、胸を弾ませて周辺を散策することにした。

 

「あれは何を釣ってるの?」

「バス釣りでしょうか。一時期から男子の間で流行ってましたっけ」

「ふーん。じゃあ、あれは?」

「え?」

 

 リオンさんの視線の先を追うと、そこにはざっと見て四十名超の団体があった。その半数は幼稚園児ぐらいの年端もいかない子供達で、もう半分がエプロンを付けた女性達。集団の中央には大きな寸胴鍋が二つ置かれていて、鍋からは湯気が立ち上がっていた。あれはおそらく、東北では極々一般的な催しだろう。

 

「『芋煮会』だと思いますよ」

「いもにかい?」

「芋を煮る会合で芋煮会です。里芋が入った豚汁みたいな物ですね。東北では一般的な野外イベントで、ああやってみんなで芋煮を作って食べるんですよ」

 

 時期としては本格的に冷え込んでくる秋や、桜が咲き乱れる春先に開かれることが多い。学校の運動会で作った記憶もあるし、町内会の催事で振る舞われたこともある。バーベキューのような感覚だろうか。野外で食べる芋煮が格別に美味しいのだ。

 

「きっとあれは、近所の幼稚園が河川敷で芋煮会をしているんですよ」

「言われてみれば、豚汁みたいな香りがするわね」

 

 風と一緒に流れてくる芋煮の匂い。これも私にとっては慣れ親しんだ香りだ。芋煮会の賑やかな声に安らいでいると、リオンさんは何かを思い付いた面持ちで、掌を拳でポンと叩いた。

 

「急にアイドル魂がざわついてきたわ」

「はい?」

「こういうのって本当は駄目なんだけど、たまにはいいかもね」

「あのー、リオンさん?何を・・・・・・り、リオンさん!?」

 

 するとリオンさんは私の手を取り、集団目掛けて唐突に駆け出し始める。一気に距離が縮まって行き、遠方から走り寄ってくる二人の女子に対し、数え切れない怪訝な視線が注がれていく。途轍もなく目立っているし、客観的に見ればどうやったって不審者である。

 戸惑いを隠せないでいると、リオンさんは呼吸を落ち着かせた後、口元に両手を添えて大声を上げた。

 

「みんなー!こーんにーちはー!!」

「なになにー?」

「おねーちゃんだれー?」

「SPiKAのぉー!玖我山リオンちゃんでーす!!」

「ぴかぴか?」

「ぴかぴかじゃないよー!すーぴーかぁー!!」

 

 子供らは一様にしてリオンさんに関心を示し出し、一方の保護者と職員と思しき女性らは驚愕の表情を浮かべて立ち尽くしていた。芋煮会の真っ只中に、全国区へその名を轟かせるアイドルグループの一人が登場したのだから、当たり前か。リオンさんはどうするつもりなのだろう。最早収拾が付きそうになかった。

 

_______________________________________

 

 最終的にリオンさんは子供達が手を繋いで形成した輪の中心で高らかに歌い、即興のダンスと一緒にその場を大いに盛り上げてしまった。子供らは「ぴかぴかー!」と声を上げてはしゃぎ回り、大人組からは「素敵な思い出をありがとう」といった感じで拍手喝采と感謝の雨が降り注いで、『リオンさん単独ライブ in 河川敷』はめでたく大成功を収める結果となった。

 

「はぁー、楽しかった!」

「あ、あんなことをして本当によかったんですか?」

「いいのいいの。アキだって芋煮を食べまくってたじゃない」

「・・・・・・まあ、美味しかったです」

 

 私も私で、昼食にどうぞと差し出された思い出の味を二杯頂いていたけど、それは今どうだっていい。私は振り返って後方の団体を見やりながら、先程の盛り上がりを思い出していた。

 

「でも本当にすごいですね。子供が相手でも、あんな風に歌って踊れるなんて。流石はプロのアイドルです」

「言う程のレベルじゃないわよ。まだまだって感じだし、それに・・・・・・」

「それに?」

「ううん、何でもないの。ねえアキ、貴女は将来の夢とか、ある?」

 

 リオンさんは何の前触れも無く、私の将来について触れた。思わずリオンさんの顔を見ると、そこには汗と一緒に、真剣な眼差しと顔があった。私はすぐにここ最近の決心と昨日の三者面談を思い起こし、間を置かずに自然とリオンさんの問いへ答えることができていた。

 

「ありますよ。最近になって、やっと決心が付きました」

「もしかして、プロのテニス選手とか?」

「ち、違います。軟式テニスにプロリーグはありませんから」

「じゃあ、パン屋さん?」

 

 私は無言で頷き、僅かに西へ傾いた太陽を仰いだ。私の夢は、一人前のブランジェになること。そしてお母さんと一緒に、新店を開業することにある。お店の規模は小さくて構わない。大きな成功を収めなくてもいい。この願いが叶うなら、私はどんな努力も苦労も惜しまない。そしてこの夢を知る人間は四人しかいない。タマキさんとアルバイト先の二人に、九重先生。そして今になって、リオンさんが五人目になる。

 

「そうだったんだ・・・・・・なら、お母さんの為に?」

「それもありますけど、キッカケは一つじゃないと思いますね。寧ろ沢山あります」

 

 リオンさんに触発されたのか、私は包み隠さずに想いの内を語り始めた。この町にあった筈の、かつての生活と家族。失ってしまった日常と、杜宮という新天地での日々。それらは私の夢と直接結び付かないけど、私の中では全てが繋がっている。

 モリミィでのアルバイトは勿論、サラさんらの存在もその一つ。当たり前から一旦離れて、改めて感じたことがある。それにみんなとの出会いだってそう。杜宮での新生活と、テニス部も同じだ。流石に異界関連は口に出せないけど、死人憑きに魅入られたあの瞬間も、私にとっては大きな転機だった。夢を追うキッカケは何かと問われれば、私はこの一ヶ月半だと答える。今の私には、その全てが夢に繋がる道のりだったと、自信を持って言える。

 

「杜宮で過ごした一ヶ月半の全部が、前を向けって言っているような気がして・・・・・・私の背中を押してくれた気がするんです。どれか一つでも欠けていたら、今の私は無かったと思いますから」

「恥ずかしい台詞を平気で言うのね」

「うっ。ち、茶化さないで下さいよ」

「あはは、冗談よ冗談。それに・・・・・・あたしにも、叶えたい夢があるんだ」

 

 リオンさんは足を止めて、広大な河川を見渡しながら言った。

 

「知ってる?アイドル業界って、最近は戦国時代に入ったって言われているのよ」

「せ、戦国、ですか。物騒な表現ですね」

 

 戦国時代と形容される背景には、近年になってアイドルグループが急増している傾向が関係していた。2010年代に入って以降は多くのグループが目覚ましい活躍を見せ、国境を越えて海外へ進出するケースも多数ある。所謂アイドルを名乗る人間は史上最多となり、音楽業界も似通った様相を呈している。それだけ熾烈な競争が伴う時代に入った、ということだそうだ。

 

「でもあたし達にとっては、何も変わらないわ。そもそもアイドルの定義が曖昧だし、その数だけアイドルは存在するから。あたしはね、あたしが考えるアイドルになりたいの」

「・・・・・・それを、聞いてもいいですか?」

「勿論。あたしは、みんなを照らしたいのよ。あんな風に」

 

 リオンさんが手を掲げた先には、先程私が見やった陽の光があった。まるで次元の異なる存在を引き合いに出したリオンさんは、それでも平然とした物言いで続けた。

 

「あたし達の歌と踊りで、みんなを照らすの。性別も年齢も関係無く、みんなをね。それがあたしの夢。あの四人とならきっとできるって、そう信じてる。そういう想いを、あたしは『あの歌』に込めたって訳」

「あの歌?・・・・・・あっ」

 

 ―――『Seize the day』。私が自然と思い浮かんだ曲名を口にすると、リオンさんは満面の笑みで首を縦に振った。今を生きて、今を楽しむ。曲名の意味合いをそのままに、夢に向かって今この瞬間を精一杯生きて、楽しさをみんなに振り撒く。リオンさんは人知れず、確固たる揺るぎない信念を胸に秘めながら、『Seize the day』を歌っていた。そう語ったリオンさんは、その事実を知る人間が私一人だということも教えてくれた。

 

「あの歌を一番好きだって言ってくれたのは、貴女が初めてよ。アキっていうファンが増えたことも、あたしにとっては夢に一歩近付けたってことになるわね」

「リオンさん・・・・・・」

「ねえアキ。あたしはあたしのやり方で、世界中を照らして見せるって約束するわ。だからアキは、アキが作ったパンでこの世界を照らすの。お互いの流儀で、あたしと一緒に。どう?」

「そんな簡単に言わないで下さい。パン作りの道は奥が深いんです。ブランジェを何だと思ってるんですか」

「ちょっとぉ!?そこは素直に『はい!』って返すところでしょ!?」

 

 リオンさんの悲痛な叫び声が響き渡る。そう言われても、ことパン作りにおいては不用意で無責任な言動を取りたくない。それに大き過ぎる目標は、時に自分を見失う引き金になりかねない。私が掲げた目標だって十二分に困難な道のりだ。

 私が至って冷静な態度を取っていると、リオンさんは急速に熱が冷めてしまったのか、肩を落としてとぼとぼと歩き始めた。

 

「あーあ、何だか急に恥ずかしくなってきたわ。ていうか超恥ずかしい。どうしてこんな田舎町で熱く語ってるのかしら。へーんなかーんじー」

「でも本心ではあるんですよね?」

「まあね。こんなことはSPiKAの四人にしか・・・・・・あら?」

 

 リオンさんが再び足を止めて、私の肩をとんとんと叩く。何事かと思えば、視界の端にもう一つの集団が映った。途轍もなく、嫌な予感がした。

 

「さあ、行くわよ!」

「ま、待って下さい!どうして私まで!?」

 

 リオンさんに引っ張られて、強引に脚力が唸りを上げる。ついさっきの単独ライブが老若男女の『若』なら、今度は『老』。私達よりも三回りは年上の男性女性らによる芋煮会の開催地に、リオンさんは躊躇なく真っ直ぐに駆けて行った。

 

「みなさーん!こーんにーちはー!!」

「あや。ばんつぁんばんつぁん、若ぇすたずが来ったど」

「あいやー、めんこい娘だごだぁ」

「おらもう腹くっついがらこっつさ来て芋煮ばけえけえ」

「あはは!よく分からないのでー!リオンちゃん演歌いっちゃいまーす!!」

 

 『リオンさん単独ライブ in 河川敷』第二幕が始まりを告げた瞬間だった。リオンさんは某有名な演歌に若々しい振り付けを交える独自のパフォーマンスを披露し、その場に居合わせた全員の心を鷲掴みにして、見事に魅了してしまった。一方の私は例によって芋煮に舌鼓を打ち、ご満悦だった。

 結局私達はそのまま午後を河川敷で過ごし、頂いた沢山のお土産を両手一杯に抱えながらホテルへと戻り、フロントで受け取った荷物をどう運べばいいものかと途方に暮れたのが、午後15時半の出来事だった。

 

_______________________________________

 

 ―――午後17時過ぎ。

 私達は予定通りに新幹線の自由席に座り、私は小日向君からライトノベルを読み、リオンさんはサイフォンでニュースサイトの記事に目を通しながら、それぞれ旅の疲れを癒していた。

 

「ねえねえ。都内で昨日から薄霧が続いてるんだって」

「霧・・・・・・東京って、霧が多いんですか?」

「そんなことない筈だけど。でも明日も霧が続く模様って書いてあるわね」

 

 気象関連について詳しくはないけど、少なくとも杜宮に霧が発生し易い要素は見当たらない。記事にも過去に例を見ない大変珍しい現象だと記されていて、専門家らは頭を抱えてしまっているそうだ。

 

「まあどうでもいっか。アキ、それって小説?」

「あ、はい。同じクラスの小日向君から借りたんです」

「ふーん。付き合ってるの?」

「ぶはっ!?」

 

 タイミング良く飲んでいたペットボトルのお茶を盛大に吹き出してしまい、口元が汚れてしまった。まるで訳の分からない探りにどう返せばいいのかが分からず、上着の胸元を拭き取っていると、リオンさんは含みのある笑みを浮かべて身体を寄せてくる。

 

「実は最近、同じクラスの子から聞いたのよね。先週の水曜日だったかしら。夜遅くに二人で一緒にいるところを見たって言ってたわよ」

「す、水曜日?・・・・・・あっ」

 

 先週の水曜日。小日向君がBLAZEのメンバーによる恐喝未遂で怪我を負った日のことだ。確かにあの夜は咄嗟に駆け付けた私をアパートまで送ってくれたのが小日向君だったけど、あれを同学年の生徒に目撃されてしまっていたらしい。一緒に歩いていたのは事実でも、完全な思い込みだ。小日向君もいい迷惑だろうに。

 

「誤解ですよ。小日向君はただの友達です」

「それにしては随分と面白い反応を見せるのね。実は好きだったりする?」

「違います」

「じゃあ嫌い?」

「嫌いっていう訳では・・・・・・」

「イエス、恋のシューティングスター!」

 

 うん、切りが無い。私が口を尖らせて無言で応じていると、リオンさんは面白おかしく笑い声を上げてから、打って変わって穏やかに笑いながら、呟くように言った。

 

「ありがと。今日はアキのおかげで、少し気が晴れたわ」

「私は何も・・・・・・それに私の方こそ、勇気付けられましたから」

「フフ、ならお互い様ってところね」

 

 差し出された右手を、私はそっと握った。今し方の言葉に嘘は無い。夢に向かって真っ直ぐに歩を進めるリオンさんはとても素敵だし、彼女が主旋律を歌う『Seize the day』も、私の背中を押してくれる物の一つだ。リオンさんの声を胸に刻んで、胸を張って前に進もう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう。忘れないって、決めたのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 絶対に忘れないって。信じてたのにな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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6月3日 迷霧の果てに

 

 6月に入り、関東地方に梅雨前線が接近し梅雨入りが近付く頃、都内では先週末から断続的な霧模様に見舞われ、各種メディアが取沙汰する日々が続いていた。霧が晴れてくれたのは6月3日の今日になってからのことで、私は小日向君と一緒に放課後の廊下を歩きながら、久方振りとなる外景色を眺めていた。

 

「本当に、何が原因だったんだろうね。部活動に影響は無かった?」

「は、はい。雨が降らなければ、特に問題は」

「そっか。今月末には都大会があるって言っていたよね」

「そそ、そうですね。でも今月は、団体戦なので、せ、先輩が出場する個人戦はその翌週です」

 

 今月の末から開催される都大会は、夏のインターハイに向けた都内予選。杜宮学園女子テニス部からは、地区予選個人の部を勝ち上がったアリサ先輩とエリス先輩らの二人が出場する。団体戦への出場資格に条件は無く、どの高校もエントリーすることができる一方で、テニス部には二人の他に私とエリカ先輩しかいない。三組のペアが競い合う三本勝負にすら届かないのだから、団体戦は叶わない。今回は個人戦のサポートに徹するしかなかった。

 

「そういえば、SPiKAの記念ライブも今月末だったかな」

「で、ですね。い、伊吹君もライブに行くって、言ってましたっけ」

「うん・・・・・・ねえ遠藤さん」

「は、はい?」

「最近、何かあった?」

 

 そんな聞き方をされて、ありましたと答える訳にはいかないし、できる筈もない。それもこれも全部、リオンさんの当てずっぽうでいい加減な発言が原因だ。日曜日の帰りの新幹線であんなことを言われたせいか、小日向君と話をしていると、どうも変に意識してしまう。折角気軽に話せるようになった数少ないクラスメイトだというのに、これではまるで逆戻りだ。

 

「そういうのじゃないのに」

「え?」

「い、いえ。何でもないです・・・・・・あっ」

 

 両手を振って誤魔化していると、私達の前方にある人だかりに目が留まった。その中心には諸悪の根源、という表現は流石に言い過ぎではあるにせよ、私が頭を抱える種を撒いた張本人が立っていた。

 私が小日向君と一緒に輪を通り過ぎようとした矢先、不意に右手を掴まれる。当然だけどリオンさんは私の悩みを知る由も無く、声を潜めて話し掛けてきた。

 

「アキ、この間はありがと。改めてお礼を言っておくわ」

「いえ、私も楽しかったです。悩みが一つ増えましたけど」

「何のことよ・・・・・・あ、それでさ。貴女、忘れ物をしてたみたいよ」

「忘れ物?」

「一緒にホテルへ泊まった翌朝、外へ出る前に荷物を持ってあたしの部屋へ来たでしょ?」

 

 リオンさんの言葉に、時が止まった。そう形容するのが一番しっくりくる。リオンさんを囲んでいた生徒らは声を失い、凍り付いたように固まった。小日向君も呆け顔で私達を見詰め、異様な空気がたちまちのうちに漂い始める。私の背筋にも、悪寒が走っていた。

 

「歯ブラシとかが入ったポーチが、あたしの家に届いたのよ。ホテル側はあたしの忘れ物だと考えたのね。見覚えが無かったから、アキのかなって思って。違った?」

「た、多分、私の物、だと思います。はい」

「そっか。じゃあ今度持ってくるわ」

 

 リオンさんだけが、普段通りに振る舞っていた。取り巻きの男子は目を見開いて、女子はぎらぎらとした怪しげな眼光を放ち、小日向君は一歩後ずさって明後日の方向を見ていた。私が素知らぬ顔をして足早にその場を去ると、後方からは大人数の追手が続き、私は悲鳴を上げながら逃げ回る羽目になった。リオンさんが少しだけ嫌いになった、6月3日の放課後だった。

 

_______________________________________

 

「やあアキちゃん。夜遅くに悪いね」

「いえいえ、部活動の帰りなので気にしないで下さい」

 

 その日の夜、私はアパートへ帰宅する前に、閉店間際のヤナギスポーツに顔を出していた。目的は先々週に依頼された、『試作品テニスシューズ』の使い心地についての報告―――ではあるのだけど。正直に言って、気が引けた。それはもう、いっそのこと逃げ出してしまいたいぐらいに。

 

「それで、どんな感じかな。ちなみにソラちゃんの方は上々の評価だったよ」

「・・・・・・えーと。それが、ですね」

 

 私は恐る恐る二足のテニスシューズを取り出し、ヤナギさんの前に差し出した。するとヤナギさんは表情を変えずに、頷きながら言った。

 

「成程ね。アキちゃん、一つ聞いてもいいかい」

「な、何ですか?」

「君は精神と時の部屋で部活動をしているのかな」

 

 ヤナギさんの苦言は尤もで、新品だった筈の試作品シューズは、見るも無残な姿に変貌していた。というのも、私は異界探索の際に決まってテニスシューズを履いている。しかも対ダークデルフィニウム戦に至っては、ギアドライブのスキルを駆使して『石製の壁を破壊しながら垂直に壁走りをする』などという人間離れをした芸当をしでかしてしまったのだ。間を置かずに年中使用したってこんな有り様にはならない。現実逃避をしたくなるのも当たり前である。

 

「うん、これはきっと何かの間違いだね。実は君に試用して貰っている間に、また新しい試作品が届いたんだ」

「あれ、そうだったんですか?」

「だから今度は、こっちを試してくれないかな。精神と時の部屋以外の場所でね」

「・・・・・・わ、分かりました」

 

 新たに開発されたという新試作品シューズを受け取り、頭を悩ませる。取り急ぎこれを異界で使用するのは控えるとして、やはりギアドライブを使うならテニスシューズを履きたい。とはいえ高価なシューズをいちいち駄目にしていては出費が嵩む一方だし、自腹では生活費に影響が出てしまう。一度みんなへ相談しておいた方がいいかもしれない。

 

「ん・・・・・・あれれ?」

「え?」

 

 ヤナギさんの抜けた声に俯いていた顔を上げると、ヤナギさんは私の後方、外を一点に見詰めて歩き始めていた。ヤナギさんの後を追って一旦店の外に出ると、周囲には目を疑う光景が広がっていた。数メートル先でさえもが窺えない濃霧が立ち込め、私は息苦しさを覚えると同時に、脳裏には『異界』の二文字がチラついていた。

 

________________________________________

 

 翌日の昼休み。時坂君の音頭で屋上へ集った私達の目に、グラウンドは映らない。駐輪場や正門も見当たらず、在るのは『白』一色だけ。霧の世界だけが、本校舎と私達を取り囲んでいた。

 

「どうやら只事じゃない何かが、この杜宮で起きているみたいだな」

「はい・・・・・・まさか『杜宮市だけ』に、また霧が発生したなんて。俄かには信じられませんね」

「この間の薄霧も真っ青な異常気象だってことで、各方面が騒ぎ始めてるっぽいよ」

 

 ある意味で杜宮市は、今現在国内で最も注目を集めていると言っていい状況下に置かれている。ソラちゃんが言った通り、昨晩になって再び姿を現した霧は、この杜宮市近郊においてのみ発生している。まるで何者かの意志によって狙いを定められたかの如く、杜宮だけが濃霧に覆われてしまっていた。そんな異常事態と異界化を結び付けたのは私だけではなく、時坂君に高幡先輩、ソラちゃんとユウ君も同様の可能性に行き着いていた。

 

「それで、どうなんだ柊。こいつに異界が関わっている可能性はあるのか」

「・・・・・・可能性は、否定できません」

 

 高幡先輩が切り出すと、柊さんは平坦な声で静かに答え始める。

 

「ですが現時点では、異界を原因とするには判断材料が少な過ぎます。私の見解では、単なる異常気象の類ではないかと」

「え・・・・・・そ、そうなんですか?」

「ええ。ミツキ先輩も同意見だと聞いているわ」

 

 最悪を想定して身構えていたというのに、強張っていた身体が解れ、思わず脱力してしまった。こうも簡単に否定されるとは思ってもいなかった。とは言え柊さんも断定はしていないようだけど、決め付けは感心しないと普段から口にしている柊さんにしては、少々引っ掛かる言い回しだ。専門家の見解を疑うような真似をするつもりは無いにしても、この違和感は何だろう。

 

「念の為に、私の方で調査はしておきます。何かあったら私から皆に連絡する。それでどうですか?」

「一人ってお前・・・・・・だったら俺も連れていけよ。一人よりはマシだろ」

「時坂君、あなたはまたそうやって」

「調べ物をするだけなら問題ねえ筈だぜ。何だよ、変なこと言ってるか?」

「・・・・・・それは、そうだけど」

 

 柊さんは多少躊躇いを見せつつも、結局は時坂君の申し出を受け入れ、方針は決まった。可能性を完全に否定できない以上、今回の異常事態を放置はできない。当面は柊さんと時坂君が調査を続けて、進展があり次第私達へ報告する。無難な落としどころに収まり、調査は今日の放課後から開始することが決まった。

 

「あっ・・・・・・あの、柊さん。実は相談がありまして」

「相談?」

 

 一時解散となる前に、私は昨晩に抱いた悩みの旨を柊さんに語った。そして話を聞き終えた柊さんが勧めてくれた解決策は、放課後に商店街を訪ねるという、至って単純なものだった。

 

_______________________________________

 

 高幡先輩が下宿している玄と並び、商店街の一角に佇む老舗、金物屋『倶々楽屋』を訪ねたのは、今回が初ではない。柊さんの協力者の一員となって以降、何かとお世話になるかもしれないからという時坂君の誘いで、挨拶に出向いたことがあった。店主であるジヘイさんはアカネさんやミズハラさんと同様、異界に通じる技術者であり、ジヘイさんの孫娘のマユちゃんもその一人。今年から中学生になったばかりのマユちゃんは単身で店番を担っていて、「異界におけるテニスシューズの耐久度向上」という私の無理難題に対し、「それぐらいならお手の物です」と目を輝かせて応えてくれていた。

 

「えーと。マユちゃん、聞いてもいいかな」

「駄目です。少しの間、静かにして貰えませんか」

「・・・・・・ごめんなさい」

 

 中学生らしからぬ威厳に満ちた声で拒まれ、椅子に座ってマユちゃんの手元を見守る。マユちゃんが握るピンセットのような器具の先では、私のサイフォンに内蔵されていたSDカードが文字通り分解されていて、その右横にテニスシューズの靴紐と金属粉。左隣にはノート型パソコンと、マユちゃんの視野を広げる光学顕微鏡。眼前に映る一枚は奇妙極まりなく、それでいて外科手術さながらの様相を呈していた。

 

「簡単に説明しますと、サイフォンのグリッドとテニスシューズを、この金属粉を媒介として連動させるんです。あ、この金属は異界由来の物なんですよ」

 

 幾何の余裕が生まれたのか、マユちゃんは顕微鏡を覗きながら要約してくれた。とても理解が追い付かないけど、この状況で「何を言っているのか分からない」とも言えず、私は乾いた声で相槌を打ちながらマユちゃんの説明に耳を傾けた。

 

「そうすることで、アキさんのソウルデヴァイスの霊力をこのシューズに分け与えて、強化を図るということですね。でも・・・・・・うーん」

「でも?」

「ライジングクロスちゃん、でしたっけ。これ程の利かん坊は初めてです。エクセリオンハーツちゃんよりも我が儘さんですね。苦労も多いんじゃありませんか?」

「・・・・・・ご迷惑を、お掛けします」

 

 アカネさんの『じゃじゃ馬』に加えてマユちゃんの『利かん坊』、ひどい言われ様だった。どうも私のソウルデヴァイスは一癖も二癖もあるようだ。その扱い辛さから来る激しい消耗で一度は倒れてしまったこともあるし、常時発動型という特殊なスキルも原因の一つなのかもしれない。

 

(エクセリオンハーツ、かぁ)

 

 でも柊さんのエクセリオンハーツを引き合いに出したのは、マユちゃんただ一人だ。アカネさんの思わせ振りな言動には考えさせられたけど、マユちゃんの何気ない一言も別の意味合いで引っ掛かる。形状もスキルも全く異なる二つのソウルデヴァイスに、何か共通点があるのだろうか。

 

「ごめんください」

「はーい。あ、ミツキさん!」

「え・・・・・・み、ミツキ先輩?」

 

 考え込んでいると、思わぬ来客の姿があった。北都先輩は小さく一礼をした後、立ち上がった私とマユちゃんの作業台を交互に見ながら、合点がいった表情で透明な声で言った。

 

「ご先客、のようですね。もう暫く掛かりそうですか?」

「そろそろ仕上がりますよ。あと数分ぐらいで終わります」

「それでしたら、中で待たせて頂きますね」

 

 ミツキ先輩は再度頭を下げ、私が座っていた隣の椅子へと腰を下ろした。私はミツキ先輩の来訪に驚きを隠せず、当のミツキ先輩はそんな私の心境を察したのか、先回りをして事の経緯を教えてくれた。

 

「私も倶々楽屋には度々お世話になっているんです。ジヘイさんは名の知れた霊具職人ですし、マユさんの腕前も上達の一途を辿っていますから」

「そ、そうだったんですか」

「遠藤さんも、装備品の調整ですか?」

「はい。私は今回が初めてです」

 

 私はライジングクロスのスキルと、履き物の急激な消耗に関する悩みを打ち明けた。ミツキ先輩によると、異界における装備品の劣化は適格者にとって重要な課題であり、ミツキ先輩も例外ではなかった。

 

「先日お見せした『ハーミットシェル』も、強度によっては術者自身に大きな負荷が掛かるんです。一度だけ、衣服が全て焼け落ちてしまったことがありますね。素っ裸です」

「・・・・・・笑えない話ですね」

「フフ、ですね。この『腕章』は、その負荷を軽くしてくれる必需品なんですよ」

 

 そう言ってミツキ先輩が指でなぞったのは、生徒会メンバーであることを示す赤色の腕章。外見は他の生徒会員が身に付けている腕章と違いはないものの、異界由来の特殊な素材で編み込まれた専用の腕章には、結界の負荷を軽減してくれる効果を秘めている。一方で腕章自体の劣化も完全に防ぐことができず、時折こうして倶々楽屋を訪ねることがあるそうだ。

 

「こんな状況ですから、万全の態勢で構えておいた方がよいかと考えた次第です」

「でも、異界が関わっている可能性は低いんですよね?」

「何とも言えませんが、最悪を想定して予断を許さないことに、越したことはありません」

「あっ・・・・・・」

 

 ミツキ先輩の声は、張り詰めた緊張感を帯びていた。念の為に調査を、と言った柊さんとは違う、押し迫った何かを見据えているかのような、そんな表情を浮かべていた。柊さんとミツキ先輩は同じ見解だと柊さんが言っていたけど、私の目にそうは映らない。漠然とした不安が、胸に広がり始めていた。

 

「本当に・・・・・・この異常気象に、異界が関わっていたとして。それって、想像が付きません」

 

 ソラちゃんは同じ空手部の先輩との間に生じた軋轢が、ユウ君は神様アプリという特異点を広めてしまったことが原因と聞いている。私とアキヒロさんは、過去への執着と喪失感。引き金は様々あれど、言ってしまえば被害は小規模で、だからこそ柊さんと時坂君らは、寸でのところで未然に防ぐことができていた。

 しかし昨晩から続く異常気象は、この杜宮市の全土を包囲している。あの死人憑きが二体揃っても、学園の敷地内における気温低下にしか届かなかった。現実世界に及ぼす干渉の域が、まるで異なっている。桁が違っていると言っていい。

 

「柊さんは大丈夫だって言うから、聞けませんでしたけど。そもそも、あり得るんですか。こんな大規模な干渉って。正直に言って、怖いです」

「お気持ちは察します。ですが今は、先程も言ったよう・・・・・・遠藤さん」

「はい?」

「私が気付かなかっただけかもしれませんが。マユさんは、どちらへ行かれましたか」

「マユちゃん?マユちゃんなら・・・・・・え?」

 

 作業台には、誰の姿も無かった。つい今し方まで居たマユちゃんが、忽然と消えてしまっていた。愕然とする私に先んじて、ミツキ先輩は足早に店内を探し始める。私も慌てて駆け出し、作業台を見詰めると、サイフォンは元通りの状態に戻っていた。靴紐もシューズに結び直してある。マユちゃんの姿だけが無い。黙って外へ出るだなんて、そんな筈はない。

 

「ま、マユちゃん?マユちゃん!?」

「落ち着いて下さい遠藤さん。本当に気付かなかっただけかもしません。念の為にサーチアプリを起動して、一旦外へ出ましょう」

「は、はい」

 

 私は急いでテニスシューズに履き替え、ミツキ先輩の指示に従ってサーチアプリを立ち上げ、店外へと走り出た。すると二つのサイフォンは途端にアラート音を鳴らし始め、そう遠くない座標で異界化が発生している可能性を突き付けてくる。しかも、四方八方に。サーチアプリは肝心の『方角』を捨て去り、90%を超える数値だけを示していた。

 

「な、何なんですか、これ。一体、何が起きて」

「まさか、これはっ・・・・・・遠藤さん、私から絶対に離れないで下さい。いいですね」

 

 私は溢れ出てくる恐怖を強引に抑え込み、縋る思いでミツキ先輩の背中を追った。商店街は知らぬ間に濃霧―――と呼ぶには、余りにも濃過ぎる何かに覆われていて、水の中を両足で歩いているような錯覚を抱いた。それにこの息苦しさと、五感が不具合を起こす独特の現象。どう考えても、異界で感じるそれだった。

 やがて辿り着いた先は、商店街の裏路地。以前にもフェイズ1の異界化が発生した座標で、前回と異なっているのは、眼前のゲートがフェイズ2の色に染まっていること。そしてゲートの前には、時坂君をはじめとする適格者の顔ぶれが揃っていた。

 

「驚きました。高幡君達も駆け付けていましたか。随分と早かったですね」

「ちょうど後輩共に飯を奢ってたんだ。状況も今、時坂から聞いた」

「あ、アスカ先輩が一人で、この異界に入ってしまったそうなんです」

「ひ、柊さんが!?」

 

 昼休みに抱いた違和感と引っ掛かりは、要するにそういうことだったのだろう。柊さんとミツキ先輩の見解は、確かに同じだった。肝心のその内容が歪められていたことに、私達は気付くことができなかった。柊さんは何らかの理由で、意図的に私達を遠ざけていたに違いない。

 

「わ、訳分かんないよ。どうしてそんなことになってるのさ?」

「いいから話は後だ、とにかく追いかけるぞ!」

「待って下さい」

 

 いち早くゲートへ飛び込もうとした時坂君の肩をミツキ先輩が掴み、後に続こうとしていた私は思わず急停止をして体勢を崩してしまった。

 

「見たところ、この異界は限りなく『フェイズ3』に近いようです」

「関係ねえ。危険は承知の上ッスよ」

「端的に言えばエルダーグリードの最上級、或いはそれ以上の脅威が待ち構えて―――」

「異界病の一件でも似たようなことを言ってたよな、ミツキ先輩」

 

 時坂君はミツキ先輩の腕をそっと振り払い、ミツキ先輩を真っ直ぐに見据えて言った。

 

「危険だってんなら尚更だ。あいつの勝手を放っておく訳にはいかねえよ」

「・・・・・・あなたも、同じことを言うのですね」

 

 ミツキ先輩は私達を見渡し、瞼を閉じて数秒の間を置いた。すると振り返りながら手にしていたサイフォンを操り、右手には顕現させたミスティックノードが握られていた。

 

「私が先導します。傲りや慢心の一切を捨てると、そう約束して下さい」

 

_________________________________________

 

 例によって異界の内部は古代ヨーロッパの建築物を思わせる構造をしていて、現実世界の杜宮を覆っていた霧が立ち込めていた。『フェイズ3』という初めて耳にした脅威度とミツキ先輩の忠告に従い、私達はミツキ先輩を先頭にして慎重に最奥を目指し前進した。

 しかし進めど進めど、脅威は一向に現れなかった。私達は地面に転がっていたグリードの成れの果て、ジェムが形成する一本道を沿って、歩を進めるだけ。パンを目印にしたヘンゼルとグレーテルのようにジェムを追い、入り組んだ構造に惑わされる要素は何一つ無かった。

 

「さながら鬼が歩いた道の跡ってところか。柊ってのは、とんでもねえ奴だったんだな」

「執行者クラスの使い手は、必要に迫られない限り意識して力を制限すると言われています。逆に言えば、全力は身体を酷使することに繋がるということですね」

「だから、その執行者ってのは一体何者なんだよ?」

「それは追々。さあ、先を急ぎましょう」

 

 ミツキ先輩と高幡先輩のやり取りに聞き耳を立てながら、アキヒロさんに取り憑いたエルダーグリード、ダークデルフィニウムとの一戦を連想する。私のギアドライブを凌駕する速度と、重力を無視した体捌き。もしかしたら、あれだって柊さんの力の一部に過ぎないのかもしれない。力を抜いていたという話ではないようだけど、これが専門家と素人の差だと言われれば、返す言葉が見付からない。

 

(柊さん・・・・・・)

 

 柊さんは、どんな想いで私達を突き放したのだろう。柊さんが背負っていた覚悟は理解していたつもりだったけど、結局はつもりに過ぎなかった。ここまでの差があったなら、私達なんて―――違う、そうじゃない。

 みんなは、そんな弱音を吐いたりしない。時坂君が以前語ったように、全員で一人分でいい。弱さと向き合う強い心は、しっかりと私の中にもある。何より私は、リオンさんに言ったじゃないか。この一ヶ月半があったからこそ、今の私があると。柊さんも掛け替えの無いその一つだ。大切な仲間の力になる為に、今はそれだけを考えればいい。

 

「ん。お、おい!」

 

 時坂君の声に応じて前方を見やると、そこには見覚えのある商店街の住民らが、力無く横たわっていた。中心には消えてしまっていたマユちゃんの姿もあり、私達は急いで駆け寄り容体を窺った。外傷は見当たらないし、呼吸も落ち着いている。意識は失っているものの、ミツキ先輩の見立てでは大事無く、全員の安否を確認することができていた。

 

「で、でもどうして。こんな大勢が異界に飲まれるなんて、今まで一度も―――」

 

 ―――遥か遠方から届いた悲鳴が、私の疑念を上書きする。

 声の主は、すぐに理解した。それに私達にとって、最早時間は不要だった。

 

「先行します、後に続いて下さい!」

「わ、私も一緒に行きます!」

 

 ミツキ先輩は宙に浮遊したミスティックノードに飛び乗り、最奥に向かって飛行した。私もギアドライブのアクセルを一気に加速させて二番手に躍り出て、移動速度に優れる二人が並んで先行した。

 

「「っ!?」」

 

 直後に後方から発せられた鋭い殺気が、背中に突き刺さる。私とミツキ先輩が一旦前進を止めて踵を返すと、眼前には毒々しい紫色に染まった巨大な左手が、瘴気を吐き出しながらゆらゆらと揺れていた。あのダークデルフィニウムと同等かそれ以上の脅威を、肌で感じた。

 後方の柊さんと、前方の新手。両者の間で板挟みにされていると、高幡先輩と時坂君が声を荒げて言った。

 

「北都!この化物は俺達に任せて先に行け!!」

「アキ、お前もだ!」

「で、でも」

「いいから行ってくれ!!」

「っ・・・・・・遠藤さん」

「は、はい」

 

 ごちゃ混ぜになった感情を押し殺し、私は全速力を以って地面を蹴り、ミツキ先輩が宙を駆ける。倒れ込む寸前まで身体を前傾させ、脚力だけを頼りにして風を切り、左腕で風圧を遮って最低限の視界を確保する。柊さんが、この先で窮地に立たされている。それだけを考えながら、私は無我夢中で走り抜いた。

 やがて霧の先に何者かの影が映り、今度は身体を逆方向に傾けて急ブレーキを掛けながら、床面を破壊して速度を殺す。マユちゃんが仕上げてくれたシューズの耐久性は見事な物で、傷一つ見当たらない。ミツキ先輩もスピードを緩めた直後に私の隣へと着地して、私達は前方の影を睨み付けた。

 

「・・・・・・え?」

 

 大きな大きな、背中があった。赤と黒の衣装で身を包んだ、女性の背中。そう、女性だ。いや、魔女と呼ぶべきか。余りにも人間的な外見がそうさせたのか、私は場違いに冷静な目で背中を見詰め、ひどくゆっくりとした動作で振り返った魔女の瞳に、吸い込まれていく。右手に握っていたライジングクロスは、自然と手離してしまっていた。

 

「まさか、こんなっ・・・・・・遠藤さん、退いて下さい!」

「あ・・・・・・かっ・・・」

「お願い、逃げて!!」

 

 全身を射抜かれたかのように、身体が微動だにしなかった。腕も足も、瞬きや呼吸すら儘ならない。一体何が起きて、私はどうしてしまったのか。訳が分からず立ち尽くしていると、ミツキ先輩は力任せにミスティックノードを地へ突き立て、球状の防御結界を展開した。

 

「ミツキ・・・・・・先輩?」

「気をしっかり持って下さい!今は一旦退くしかっ・・・・・・きゃあぁ!?」

 

 結界は渇いた音を立てて一瞬のうちに消滅し、前方に立っていた筈のミツキ先輩の身体は、後方へと弾き飛ばされていた。そして私は、漸く気付く。魔女の左手には、鳥籠のような形状をした檻が提がっていて、中には柊さんの身体があった。それとは反対側の右手が私の頭上へ被さると、私は深い深い暗闇の底に、飲み込まれていった。

 

 

 



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6月5日 終焉

 

 五感の中で、視覚だけを奪われていた。遥か遠方でグリードが蠢く音は聞こえるし、柊さんと同じで檻に閉じ込められてしまった状況も理解していた。嗅覚も味覚も残っている。与えられたのは、『見えない』という恐怖だけだった。

 駄目で元々、手探りでサイフォンを操作してみたはいいものの、まるで使い物にならなかった。意識を取り戻したのが何時で、今日が何日なのかさえ分からない。喉の渇きと空腹感から、おそらく四、五時間は経っているだろう。ただでさえ消費が激しい異界の内部に捕われた事実に、底無しの恐怖が込み上げてくる一方で、上着に入れておいた補給食がそのまま残されていたことが唯一の救いだった。しかし生理現象は当然のように発生し、どうせなら嗅覚も奪って欲しいのにと苦笑いをしながら、私は夢の世界を求めて瞼を閉じた。

 

________________________________________

 

 ずっと眠ったままでいられたら。願いは叶わず、私は途方も無い気怠さと共に瞼を開けた。見えないのは相変わらずで、寧ろ睡眠から覚めたことで現実感が増し、わんわんと泣き腫らしてしまった。一度流せば止め処が無く、様々な感情が入り混じり、嗚咽を繰り返す。嗚咽は吐き気を促し、一度嘔吐してしまった。

 漸く涙が収まった頃に、閉鎖空間の中で五日間を生き延びた女性に焦点を当てた、ドキュメンタリー番組を思い出した。女性は雨水を啜りながら、好きな楽曲を口ずさむことで己を励まし、生還を信じて耐え忍んだそうだ。物は試しにと、私は『Seize the day』に没頭した。歌詞は頭に入っていなかったから、ラ行の五文字を使って代用した。主旋律を奏で、何度も何度も歌った。そうしているうちに、河川敷でパフォーマンスを披露するリオンさんを想い起こし、私は初めて自然に笑った。

 すると不思議なことが起こった。サイフォンを操作していないにも関わらず、私の右手にはライジングクロスが握られていた。これがあれば、ここから出られるかもしれない。そう思いきや、ライジングクロスのスキルは発動せず、小さな希望はすぐに消え去ってしまった。でも、とても温かかった。ライジングクロスを抱きかかえると懐かしさを覚え、確かな温もりが胸の中にあった。

 

________________________________________

 

 更に一時間が経過した頃。不思議なことは続くもので、柊さんの声が聞こえた気がした。或いは幻聴に苛まれるぐらい、精神的に参ってきているということか。そろそろ限界が近付いてきているのかもしれない。

 

―――アキさん。

 

 ほら、まただ。柊さんはここには居ない。本当に、どうかしている。また『Seize the day』でも歌って、気を紛らわしてしまおうか。

 

―――違う、そうじゃないわ。

 

「・・・・・・柊、さん?」

『アキさん、聞こえる?アキさん?』

 

 思わず身体を起こして、耳を澄ませる。幻聴にしては、しっかりと耳に残っている。確かに聞こえた。今の声は間違いなく、柊さんの声だ。

 

「ひ、柊さん、なんですか?」

『ええ、そうよ。やっと繋がったわ』

「そんな、ど、どうして。ど、何処にいるんですか?」

『落ち着いて聞いて。まずはアキさん、貴女が置かれている状況を教えて貰えるかしら』

「う・・・・・・うぅ」

『アキさん?』

「ひ、ぐっ。う、ううぅ」

『・・・・・・ごめんなさい。少し、時間を置きましょうか』

 

 収まった筈の涙が、せきを切ったように溢れ出る。情けなさや不甲斐無さといった惨めな感情は、もう歯止めにならない。それらを遥かに上回る何かが、雪崩のように押し寄せて来る。私はライジングクロスを抱きながら、むせび泣くことしかできなかった。

 

_______________________________________

 

「じゃあ柊さんは、別の異界に捕われているんですね」

『そうみたい。でも術式が成功したということは、何らかの接点で繋がっているのだと思うわ』

 

 涙の限りを流し尽くし、ある程度の思考を取り戻した私は、柊さんの声に耳を傾けていた。

 私と柊さんは、お互いに別々の異界へ閉じ込められている。私は視覚を奪われてしまったけど、柊さんは五感の全てを保っていて、異なる点はソウルデヴァイスを手離してしまっていたという不運。あらゆる手段を以って脱出を試みたものの、檻の中からでは打つ手が無い。そこで柊さんは、私との意思の疎通を図ることにした。

 決め手になったのは、出現座標の変化対策として、私のサイフォンにインストールされていた『追跡アプリ』。何を隠そうあのアプリは異界探索用に開発された代物で、現実世界は元より、同一の異界においてのみ、座標の特定が可能だった。元凶が共通しているのなら、異界同士の繋がりを介して追跡できるかもしれないと考え、柊さんは目論み通りに私の座標を突き止めた後、とある術式を利用した。それが音声通話さながらの、遠距離間での会話。一種のテレパシーのような物だそうだ。

 

『この術式自体、成功するのは稀なの。でも私とアキさんは、相性が良いようね』

「相性、ですか」

『一度だけ、クロスドライブで繋がったことがあったでしょう。あれが何よりの証よ』

「・・・・・・あれって、一体何だったんですか?」

『言葉では説明し辛いけど、高度な連携術、とだけ言っておくわ』

 

 確かにそういった表現が一番適しているように思える。お互いの感覚や思考を共有し合えたからこそ、私達はダークデルフィニウムを足で翻弄することができた。理屈はまるで分からないけど、今は深く考えないでおこう。

 

『話を戻しましょう。あのアプリは現実世界への浸食が深い場合にも有効よ。つまり現実世界側から、アキさんが捕われている異界の在り処を特定できるかもしれない、ということね』

「でもそんな話、私は初めて聞きましたよ。時坂君達も同じだと思いますけど」

『それは私の落ち度だわ。でもミツキさんなら、きっと気付いてくれる筈よ。そう信じて助けを待ちましょう。その為にも、サイフォンの電源は絶対に切らないこと。いいわね?』

 

 追跡アプリはされる側の電源が入っていて、初めて利用できる。いずれにせよ今の私は目が利かないのだから、サイフォンを使えない。柊さんのサイフォンにも追跡アプリは入っているようだし、手立てが無い以上お互いに時坂君らの救援を待つしか助かる術は無さそうだ。

 

「柊さん。あの魔女は・・・・・・あれも、グリードなんですか」

『・・・・・・グリムグリード。そう呼ばれているわ』

 

 グリム童話の名を借りてそう称される異質な存在は、通常のグリードとは根本から異なる災厄の主。特異点すら介さずに現実世界を浸食し、街一つを滅ぼす程の脅威性を孕んでいる。マユちゃんが一瞬のうちに異界へ飲まれてしまったのも、起点を要さないという信じ難い浸食度によるものだった。

 

「私は何も、分かっていなかったんですね。柊さんや、ミツキ先輩の気持ちも知らずに」

『駄目よ、アキさん。今はそこから脱出することだけを考えて』

「・・・・・・柊さんは、優し過ぎます」

『違う、そんなことない。私だって・・・・・・私、は』

 

 その先が、続かなかった。柊さんに言いたいことは山積りだけど、きっと柊さんも同じだ。お互い様のように思える。目一杯の怒気を込めて吐き出したい気持ちもあれば、泣きながら抱き締めたい衝動もある。現時点では前者しか叶わないけど、前者と後者はセットでないと話にならない。それなら、全部後回しだ。

 

「柊さん。何でもいいので、話をしませんか。気分転換をしたいんです」

『ええ、いいわよ。アキさんは放課後に、倶々楽屋を訪ねると言っていたわね』

「はい、行きました。マユちゃん曰く、ライジングクロスは『利かん坊』だそうですよ」

『奇遇ね。私も以前に似たようなことを言われたわ』

「やっぱり、そうなんですね。柊さん、知っていたら答えて下さい」

『え?』

「私のお兄ちゃんは、適格者だったんですか?」

 

 唐突な私の問いに、案の定『無言』という応えが返ってくる。肯定も否定もしないということは、前者だと受け取っていい。異界と関わりを持つようになってから、積り続けてきた数々の疑問達。そこから逆を行けば、私だって辿り着けてしまう。

 

『アキさん。それを聞いて、貴女はどうするつもりなの?』

「知りたいだけです。その権利が、私にはある筈です」

『・・・・・・そう』

 

 柊さんは少々の間を置いて、静かに語り始める。

 始まりはあの日。7月31日に、全てが始まった。

 

_______________________________________

 

 ―――2014年、夏。関東某所で発生した異界化は、現実世界に大規模な竜巻災害を生み出した。百単位の家屋全半壊に千台を超える自動車被害、数百名の負傷者。国内観測史上二番目に強力なF3クラスとされ、日本国民に竜巻災害の脅威を知らしめる悲劇となった。

 その根底となった異界化をいち早く察知したゾディアックの現地民は、即座に対異界部隊の派遣を要請。被災地周辺ではソフトテニス競技のインターハイも開催されており、国の未来を担う若者らを救命すべく、迅速な対応が求められた。

 被害規模から考えて殲滅対象をS級グリムグリードと暫定、異界化が発生して約一時間後に、先行部隊が異界へ踏み込む。約二十分後に中間地点へ到達した隊員らは、目を疑うような光景を見せつけられた。見覚えの無い一人の少年がソウルデヴァイスを握り、異界に飲まれた被害者らを護る為、交戦の真っ只中にあったのだ。部隊はすぐに少年を援護するも、負傷した少年は意識不明の重体。治癒薬や術式の効果も見られず、早急な治療が必要とされた。

 しかし異界化が収束した後、隊員らは少年の姿を見失っていた。少年の出現座標だけが被災地を外れ、遠地に帰還してしまっていた。これが原因となり処置が遅れ、少年は搬送先の病院で、親族の立ち合いの下、死亡が確認された。呆然と立ち尽くす母親と妹に対し、真相を知る者は声を掛けることができなかった。

 後の調査で、少年はインターハイの出場者であったことが判明。少年は異界化に巻き込まれた際に、初めて適格者として覚醒したと考えられた。対応に当たった部隊は、身を挺して同窓生を護り抜いた勇敢な少年に敬意を表し、人知れず『遠藤ナツ』の名は、隊員らの間で語り継がれていくことになる。出現座標の大幅な変化による、『十件目』の死亡例であった。

 それから約十ヶ月後。東亰都杜宮市近郊を担当する北都ミツキより、『遠藤アキ』という名の適格者の存在が報告される。ソウルデヴァイスの特徴と出現座標の変化という共通点から、遠藤ナツが息を引き取った際、その場に居合わせていた実妹である遠藤アキが、無意識のうちにソウルデヴァイスを継いでいたと推察されていた。

 

________________________________________

 

『私がミツキさんから聞かされたのは、これで全部。全て事実よ』

「柊さんも、同じだったっていうことですよね。そう考えると、辻褄が合います」

『・・・・・・そうよ。私のエクセリオンハーツは、適格者だった母の形見。貴女と同じで、肉親から継いだ物だわ』

 

 繋がった。今になって漸く、全部が繋がった。

 私の中にライジングクロスが眠っていたこと。覚醒した時、お兄ちゃんの声が聞こえたこと。お兄ちゃんがラケットを握った本当の意味。アカネさんが言った先天的と後天的、二つの性質を併せ持つ理由。ライジングクロスの扱いに苦労した原因。ライジングクロスとエクセリオンハーツの共通点。柊さんとのクロスドライブに、相性の良さ。出現座標の変化と、二人が敢えて聞かせてくれた十件の死亡例。

 何より―――この温もり。サイフォンを操作していないにも関わらず、独りでに顕現したソウルデヴァイスが与えてくれる、家族の温かさ。繋がったのはいいものの、私はどう受け止めればいいのだろう。散々泣き喚いたせいか涙は出ないけど、吐息が熱を帯びていた。

 

『大丈夫。焦る必要は、何処にも無い』

「柊さん・・・・・・」

『全ては貴女次第よ、アキさん。時間を掛けて、ゆっくり考えてみて』

 

 グリップを握り、瞼を閉じて耳を澄ませる。声は聞こえないし、柊さんが言ったように、おそらく答えは無い。お兄ちゃんが何を想ってライジングクロスを振るったのか、どうして私はこれを継いだのか。こんな状況では、見い出せそうにない。

 

『アキさん、聞こえる?』

「はい、聞こえますよ。どうかしましたか?」

『ごめんなさい。そろそろ、会話は終わりみたい』

「えっ。ひ、柊さん?」

 

 今度は私が、柊さんが口にした言葉に唖然とした。

 

『この術式を使うと、サイフォンのバッテリーを急激に消費するのよ。異界探索用の設計ではあるけど、もう電源が切れる寸前まで来てるの』

「そ、そんな・・・・・・電源?電源って、ま、待って下さい!」

 

 どうして気付かなかったのだろう。サイフォンの術式には膨大な電力を要すると聞かされたことがあった。電源が切れてしまったら、追跡アプリは用を成さない。柊さんの座標を追えなくなってしまう。

 

『好都合よ。電源を切っておいた方が、先に貴女が救い出される確率が上がるわ』

「なっ・・・・・・馬鹿なことを言わないで!!」

 

 それに柊さんが捕われている異界の深度は、濁度はどうなんだ。私は補給食を摂取できたけど、柊さんもそうとは限らない。そもそもソウルデヴァイスによる保護が無いと、生身の身体は異界によって蝕まれてしまう。何故今になって、こんな肝心なことを思い出す。今の今まで私は何をしていた。何度同じ轍を踏めば気が済むんだ。

 

『安心して。私は自分で何とか脱出して見せるから』

「それができないから困ってるんでしょ!?駄目、すぐに術式をやめて!!」

『大丈夫、すぐ楽になるわ。できることなら、良い夢を』

「だからな・・・にっ・・・・・・?」

 

 柊さんが何かを囁いた途端、真っ暗な筈の視界が歪み、身体の自由が利かなくなり、急速に意識が遠のいていく。

 二つの術式による、テレパシーと強制睡眠の合わせ技といったところだろうか。この期に及んで、何て馬鹿げた真似を。こんなのは優しさじゃない。本当に―――馬鹿だよ、アスカさん。

 

______________________________________

 

 夢を見ていた。私は普通の女子高校生で、柊さんもそう。みんながそう。異界は存在せず、裏も表も無い。私は時坂君とシオリさん、小日向君に伊吹君らといつも登下校を共にする。時折二人組の後輩や先輩らと一緒に集まり、夜更かしをして朝寝坊を繰り返す。放課後は部活動とアルバイトで忙しく、でも決定的な何かが欠けている。何か一つが足りないけど、思い出せない。何の不満も無い、平穏な毎日なのに。

 

「ん・・・・・・」

「あ、起きた?」

「・・・・・・シオリ、さん?」

 

 失っていた筈の視界の端に、クラスメイトの不安気な表情が映る。恐る恐る上半身を起こし、布団を捲って身体を確認すると、身なりは整っていた。制服や下着は汚れていないし、不快感の一切が無い。外傷は見当たらず、休日の朝のような爽快感すら覚える。

 

「あの。ここ、何処ですか?」

「保健室だよ。保健室のベッド」

「今日って、何日ですか?」

「6月5日の金曜日。ねえ、アキちゃん」

「じゃあ、今何時ですか?」

「午後の16時半。って、アキちゃん?私だって、聞きたいことは沢山あるんだからね!」

「は、はい?」

 

 乱れに乱れた記憶と状況を整理しながら、シオリさんの問い質しをやり過ごすと同時に、必要な情報を聞き出していく。

 今は6月5日の夕刻、つまり私が檻の中へ閉じ込められてから丸一日間が経過している。クラスでは病欠という扱いになっていて、シオリさんらクラスメイトもそう受け取っていた。そして放課後になり、図書館に向かっていたシオリさんの下へ、昼休みに早退していた時坂君から連絡が入る。「体調が悪い癖に外を出歩いたせいでぶっ倒れたアキを拾ったから面倒見といてくれ」という意味不明なお願いに戸惑っていると、ミツキ先輩の秘書を名乗る女性が、私を背負って現れた。という経緯があったそうだ。

 

「コウちゃんはいつの間にか早退しちゃうし、アキちゃんを拾っちゃうし、知らない女の人が運んで来ちゃうし。もう訳が分からないよ」

「あ、あはは。その、ごめんなさい」

「私に謝られても困るんだけど・・・・・・あ、ちょっと待って」

 

 時坂君、か。きっとみんなと一緒に力を合わせて、助け出してくれたに違いない。異界化も収束して、私と同様に捕われていたアスカさんも無事に―――アスカ、さん?

 

「コウちゃん?うん、アキちゃんなら今さっき起きっ・・・・・・あ、アキちゃん?」

 

 胸中で謝りながら、シオリさんのサイフォンを強引に奪い、耳元に当てる。

 

「と、時坂君ですか?」

『ようアキ。やっと目を覚ま―――』

「アスカさんは!アスカさんは、一緒ですか!?」

『つぁ・・・・・・耳が痛えよこの馬鹿!ったく、ほら』

 

 急速に胸を打つ鼓動音が煩くて仕方なく、一気に口内が渇いていき、私は喉を鳴らした。

 

『もしもし、アキさん?』

「あ、アスカさん!?」

『少し声を抑えて貰えないかしら』

 

 人の気も知らないで、よくもまあそんな台詞を言えたものだ。他人の頬を叩きたいと本気で感じたのは、今日が初めてのことかもしれない。馬鹿呼ばわりをするのも、初体験だ。

 

「アスカさんの馬鹿!本当に、馬鹿だよ・・・・・・っ!」

『・・・・・・ええ、そうだったみたい。ごめんね、アキさん』

「あのー、アキちゃん?おーい」

 

 この一日間で流した涙も、相当な量に違いない。私は目元を拭いながらシオリさんにサイフォンを返し、箱ティッシュで一頻り鼻をかんでから、ベッドの脇に置かれていた自前のサイフォンを手に取った。複数件のEメールと二桁の着信履歴、そのほとんどがタマキさん。考えてみれば昨晩はアパートへ帰らなかったのだから、大変な心配を掛けてしまっていたのだろう。きっとソラちゃん辺りが適当に誤魔化してくれたとは思うけど、私も私で今回のような真似は今日が最後だ。

 

「え?」

 

 サイフォンを上着にしまいスリッパを履き、両足で立った時になって、初めて夕陽が無いことに気付く。窓の向こう側は、昨日と何も変わってはいない。濃い霧が陽の光を遮っていて、地面には薄らとしか影が落ちていなかった。

 

「何だか不思議よね、コウちゃん・・・・・・もしもし、コウちゃん?」

「どうして、まだ霧が・・・・・・え、地震!?」

「わ、うわわっ?」 

 

 訝しんでいると、突然校舎が揺れた。一度大きく縦に揺れた後、ガタガタと横に揺れて、再び縦揺れへ。

 直後、高らかな嘲笑いが聞こえた。束の間の平穏は瞬く間に奪われ、私はシオリさんの腕を掴みながら、覚悟を決めた。まだ何も、終わってはいなかった。

 

_________________________________________

 

 振動と異音が収まった頃、私はそっと閉じていた瞼を開く。

 

「・・・・・・来ちゃった、か」

 

 アスカさんから何度も教わった手順を踏んで、異界の情報をすぐに調べ上げる。濁度は低い一方で、深度は見たこともない深さを示していた。それにゲートを介さず飲まれてしまった影響か、私が立っていた場所は異界の始点ではない。おそらく中腹か、やや始点寄り。体育館のように開けた一室で、壁には紫色の太い茨のような異界植物が生い茂っていた。

 

「う、うぅ・・・・・・」

「これって・・・・・・」 

 

 一室を見渡すと、そこやかしこに横たわる人間がいた。学年や性別はばらばらで、中にはクラスメイトの伊吹君やテニス部のエリカ先輩、教職員のサキ先生の姿もある。手を離した覚えはなかったのに、どういう訳かシオリさんは見当たらなかった。

 

「伊吹君、エリカ先輩。聞こえますか?」

 

 全員に見られる共通点は、意識を失い苦悶の表情を浮かべていること。身体には茨と同じ色の瘴気が纏わり付いていて、それが悪さをしていることは分かっても、手の施しようが思い付かない。ミツキ先輩の結界やアスカさんの術式ならともかく、私では無理だ。いずれにせよ、みんな異界化に巻き込まれてしまったのだろう。一辺に大人数を異界へ引き摺り込む、悪魔の所業。いや、魔女だったか。アスカさんが言ったグリムグリードが、この異界にいる。

 さあどうする。こんな状況下で、私はどう行動すればいい。絶対に仲間が駆け付けてくれる、そう信じるのはいい。でも私にできることが、きっとある筈だ。

 

「・・・・・・疾れ、ライジングクロス」

 

 足りない頭で考えても結論が出ず、代わりに遠方から複数の足音が聞こえてくる。この独特の歩調は、私が苦手とするスケルトン系グリード。よりによってと毒づきたくなると同時に、グリードの軍勢が姿を現し、ライジングクロスが焔を纏う。

 私がこの魂の色を継いだことに、意味は無い。でも私自身が見い出すことはできる。お兄ちゃんが何を想ってこれを振るったのかも、今の私なら理解できる。

 

「絶対に、通さない・・・・・・!」

 

 7月31日の、あの日。お兄ちゃんが所属していたテニス部に、死傷者は一人も出なかった。お兄ちゃんが身を挺して護り抜いたからだ。だったら、私も護って見せる。護りたい物が沢山ある。この一ヶ月半を失う訳にはいかない。絶対にここを、通しはしない。

 

「だああぁっ!」

 

 私が放った霊子弾が着弾すると同時に、スケルトンの軍勢は一気に加速し、剣を振り上げて高速移動で私を取り囲んでくる。遠距離からの攻撃は効果が薄い上に、ダメージが通ればこの変貌。接近戦を不得手とする私にとっては天敵と言っていい。でも私には、ギアドライブが―――

 

(―――足、が?)

 

 駆け出してすぐに、足の裏に痛みが走る。今さっきまで眠っていた私は素足で、頼みの綱のシューズが無い。ギアドライブの俊足を引き出した途端、足を焼かれたかのような感覚に陥ってしまっていた。

 

「ぐうぅっ・・・・・・!?」

 

 だからと言って、立ち止まったら終わりだ。それにこちらへ注意を引かなければ、みんなが攻撃の的になってしまう。私は痛みを耐えて目元を拭い、限られた領域で急激な方向転換を交えながら、着実に攻撃を重ねた。

 やがて最後の一体が光となって消滅し、ジェムが辺りに散らばっていく。今更になって仲間という存在の有難みを痛感させられる。たったの一人というだけで、こうも違う物か。既に両足は、鮮血に染まっていた。

 

「っ!?」

 

 そして一室の反対側に感じ取った気配に、背筋が凍った。今し方の軍勢を上回る、スケルトンの大集団。既にすぐそこまで来ている。もう、時間が無い。

 私は目一杯歯を食いしばり、ギアドライブの限界値を振り切った。みんなの隙間を縫うようにして駆け抜けると、足の爪が割れて皮が剥がれ、肉が裂け石の欠片が深々と突き刺さった。痛みで我を失う前に、有りっ丈を捻り出して、叩き込め。

 

「ヴォルカニック、クロス!!」

 

 自然と浮かんだ名を口にして、ライジングクロスを振るった。巨大な火球は壁面を焼きながら軍勢の中心で破裂し、焔の竜巻が巻き上がる。技を放った私自身の前髪が燃えていた。

 それが最後だった。もう足の感覚が無く、膝から下が動かない。うつ伏せの姿勢から微動だにできず、顔を上げることすら叶わない。今の一撃で、本当に仕留めたのだろうか。グリードの気配はほとんど消えたけど、もし一体でも残っていたら。

 

(嘘・・・・・・でしょ)

 

 思わず額を地に打ち付けた。一体どころか、三つ目の軍勢の足音が、再度反対側にあった。最早何も残っていないというのに。絶望感に打ちひしがれていると、グリードとは全く異なる足音が、一つだけ聞こえた。

 

「ごめんよ。僕は、馬鹿だ」

「うっ・・・・・・だ、れ?」

 

 聞き覚えのある、異性の声だった。しかし頭が働かず、声の主が分からない。その代わりに両足へ何かが触れると、足の痺れが和らぐように、失っていた感覚が元通りになっていく。痛みや熱も、引いていた。

 いつの間にかグリードの気配も消えていて、私は声を掛けてくれた人間の顔を窺う為に、遠方に映る背中を見詰めながら、ひどくゆっくりとした動作で立ち上がった。すると男性は振り返り、目を大きく見開いて、叫び声を上げていた。

 

「こ、小日向、くん」

「遠藤さん!?」

「え?」

 

 首を傾げて後ろを見ると、薄皮を纏った骸骨が、剣を横薙ぎに振るっていた。首が熱くて、身体の中から何かが漏れ出ているような気がして、視界が暗転する。

 首元が熱かった。熱過ぎて、もう何も見えなかった。

 

 

 



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すべてを、零へ

 

 

『ねえアキちゃん。どうしたの?』

 

 

「シオリさん、ですか?」

 

 

『どうして、泣いてるの?』

 

 

「な、泣いてるって。私、泣いてなんかないですよ」

 

 

『だって、ほら』

 

 

「あれ・・・・・・ど、どうして、私」

 

 

『とっても悲しいことがあったんだね』

 

 

「・・・・・・そうかも、しれません」

 

 

『じゃあ、嘘を付こっか』

 

 

「嘘?」

 

 

『うん。悲しいことは嘘にしちゃって、楽しいを本当にするの』

 

 

「い、嫌ですよ。私は嘘を付きたくないです」

 

 

『安心して。ここには私達しかいないよ?だから絶対にバレないんだ』

 

 

「そういう問題じゃないですって」

 

 

『んー。じゃあさ、一つだけ嘘を付いて、あとは無かったことにするっていうのはどう?』

 

 

「それって同じことだと思いますけど・・・・・・」

 

 

『だって、私も嫌だもん』

 

 

「シオリさーん」

 

 

『うん、それがいいよ。アキちゃん、そうしよ?』

 

 

「・・・・・シオリ、さん?」

 

 

『大丈夫、全部私に任せて。ジュン君にも絶対にバレないよ』

 

 

「ま、待って下さい。無かったって、それどういう意味ですか?」

 

 

『そのままの意味だよ?』

 

 

「何を・・・・・・何を、するつもりなんですか」

 

 

『もう、何度も言わせないで欲しいな』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ぜーんぶ、無かったんだよ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

_______________________________________

 

 6月5日、午後19時。

 

「アキ。おい、アキ!」

「ん・・・・・・うん?」

 

 コウが繰り返しアキの名を呼んでいると、重い瞼がゆっくりと開かれる。

 

「あれ、私・・・・・・と、とと、時坂君!?」

「ったく。またこんな場所に帰って来やがって」

「でもアプリのおかげで簡単に探せましたし、これで漸く一件落着って感じですね!」

 

 保健室で異界化に飲まれた筈のアキの出現座標は例によって変化し、今回の居場所は本校舎屋上の、更に上。壁面に設置された梯子を上った先、時計台の真上に、アキは大の字で眠っていた。

 

「本来は立ち入りが禁止されている場所なのですが・・・・・・致し方ありませんね」

「遠藤のおかげで、貴重な体験ができたって訳だ」

「ちょ、郁島。押すなって、狭いんだから」

 

 既に異界化に巻き込まれたとされる生徒、教職員一同はその安否の確認が取れている。唯一発見が遅れていた生徒が、アキ。グリムグリードの脅威も去り、事態は収束の一手に向かっていた。

 

「あー、何だ。その、アキ。近い近い」

「あ、あの。その、ええ?」

 

 そして誰もが安堵の表情を浮かべる中、アスカだけがコウの腕に縋り付くアキの姿を見て、違和感を抱いていた。アスカはコウから離れようとしないアキの眼前に屈み、柔らかな物腰で問い始める。

 

「ねえアキさん。貴女の名前、フルネームで言える?」

「と、と・・・・・・遠藤、アキです」

「なら、貴女の故郷は何県?」

「東亰都、ですけど。育ちは、伏島で」

「そう。それと今日は、何月何日だったかしら」

「え、えーと。4月の、23日?」

 

 賑やかな喧騒が消え、表情が消える。

 

「・・・・・・もう一度聞くわ。今日の日付は、何月何日?」

「あ、あの。ここは、何処で・・・・・・ど、どちら様、ですか?」

 

 少しずつ、少しずつだけど、一歩ずつ。

 全ての歩みが、まるで夢であったかのように―――嘘のように、消えていた。

 

 

 



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幕間
6月8日 思い出は、優しい振りをする


 

 ―――6月8日。杜宮学園で発生したガス漏れ事故の報道を受け、全国の学校園施設が同事故を未然に防ぐべく、対応に追われ始めていた週明けの月曜日、夕刻。杜宮セントラルタワーの北東に位置する杜宮総合病院、その三階にある一室に向かう集団の先頭に立っていたコウが、スライド式のドアをノックする。

 

「時坂だ。遠藤、いるか?」

「あ・・・・・・は、はい。ど、どうぞ」

 

 多少の戸惑いを含んだアキの声に促され、コウが扉を開く。病室のベッドに座っていたアキは、コウの背後にあった複数の顔ぶれを見るやいなや、途端に身体をびくつかせて、小さな悲鳴を辛うじて飲み込んだ。

 

「っ・・・・・・!」

「っと。悪い、驚かせちまったな」

 

 今日も、駄目か。コウがそう胸の内で呟き、後ろに立っていたアスカら四人と目配せを交わす。コウはアスカが手に提げていた紙袋を受け取ると、「また後でな」と小声で言ってから、扉を閉めて向き直る。アキに割り当てられた病室は完全な個室で、コウの視界にはアキ一人の姿しか映っていなかった。

 

「具合はどう・・・・・・つっても、別に体調が悪い訳じゃねえか」

「は、はい。少し、時間を持て余してる、と言いますか」

「そりゃそうだよな。タマキさんは今日どうしてんだ?来てないのか?」

「えーと。午前中は一緒に、精密検査の結果をお医者さんから聞いて、午後になってからは、高次脳機能障害・・・・・・支援センター?という施設に行くって言ってました」

 

 コウはアキの話に耳を傾けながら、ベッドの傍らに置かれていた丸椅子に腰を下ろし、右手に持っていた紙袋の中身を取り出す。袋には一冊のカタログと、二つの『眼鏡ケース』が入っていた。

 

「昨日お前がカタログから選んだフレーム、サンプルを借りて来たぜ」

「え・・・・・・わ、わざわざ、ですか?」

「メガネストアが近くにあったから、来る途中ついでに寄って、事情を話したんだ。こういうのって実物を掛けてみないと分かんねえし、早い方がいいだろ」

 

 『因果の書き換え』が及んだのはアキの一部に過ぎず、全てを無に変えた訳ではない。6月5日を境にして、アキは視力の大部分を失った。丸一日間、異界の最奥で視覚を奪われ続けた後遺症として、『1.5』以上の視力を具えていた筈の両目には、歪んだ視界しか映らなくなっていた。とは言っても、日常生活に支障をきたす程ではない。学校検診における分類に準じれば、Cクラスの『0.3』。幸い大事には至らなかったものの、急激な視力の低下に見舞われたアキは、医師から眼鏡の着用を勧められていた。

 

「あ、ありがとう、ございます」

「いいって。ほら、早速掛けてみろよ」

 

 コウが差し出した二つのケースには、それぞれシルバーとレッドブラウン色の、落ち着いたデザインのフレームが入っていた。アキは恐る恐るシルバーのフレームを取り出すと、不慣れな手付きで着用し、ベッド脇のテーブルにあった小型のスタンドミラーを覗き込む。

 

「・・・・・・に、似合わない、ですね」

「そうか?言うほど悪くないと思うけどな」

 

 コウが自然と口にした感想に気恥ずかしさを覚えたアキは、いそいそともう一方のフレームに掛け直す。昨日の時点ではシルバーが最有力だと感じていたのだが、レッドブラウン色のそれに掛け直すと同時に、まるで正反対の印象を抱いていた。

 

「あれ・・・・・・」

「へえ、似合ってんじゃん。こっちの方が遠藤っぽくていいんじゃねえか?」

「あ、あの。それってどういう意味ですか?」

「何つーか、その・・・・・・あれ、だよ」

 

 魂の色。アキのソウルデヴァイス、ライジングクロスが纏う、焔の色。その一言を飲み込み、コウは不意に熱くなった目頭を押さえて、視線を落とす。この三日間で突然襲い掛かってくる沢山の思い出は、情け容赦無く彼らを揺さ振り、非情な現実を眼前に突き付け続けていた。

 

「とと、時坂君?あの、えと、どうしたんですか?」

「いや・・・・・・秋の、紅葉だ。だから、お前に似合うと―――」

 

 ―――ガラガラ、バタン。コウが偽りの言葉で取り繕っていると、勢いよく扉が開かれた音で、二人の視線が自然に部屋の入口へと向いた。扉の先には、肩を上下させて荒々しい呼吸を繰り返す、リオンが立っていた。

 

「く、玖我山、お前」

「あ、あたし・・・・・・クラスの、子から、今日聞いて」

 

 途切れ途切れに声を捻り出すリオンが袖口で額の汗を拭きながら、ベッドに座るアキの下に一歩ずつ歩み寄っていく。リオンは咄嗟に立ち上がったコウの制止を振り払い、アキの両肩に手を置くと同時に、捲し立てるように言った。

 

「ねえアキ。本当に、覚えてないの?」

「あ、あの。わた、私、は」

「あたしの歌が好きだって。『Seize the day』が一番好きだって、言ってくれたわよね?」

「あ、ぐっ・・・・・・うぅ、う」

「アキが育った町を一緒に歩いて、一緒に夢を叶えようって、あの日にそう約束―――」

「玖我山っ!!」

 

 コウはリオンの肩を掴み、強引に彼女をベッドから引き剥がす。失くした筈の『思い出』に触れてしまったアキは、底無しの頭痛に苛まれ、ベッドの上で苦悶の表情を浮かべながら蹲っていた。

 コウは無言でアキの背中を擦り、時間が苦痛を取り除いてくれるのを待つことしかできなかった。その場に立って二人の様を見下ろすリオンも、無慈悲な現実を受け止められず、涙を流すことすらできずに、ただただ呆然と立ち尽くしていた。

 

_______________________________________

 

 アキが落ち着きを取り戻してから、約三十分後。病室を後にしたコウは病棟の屋上に向かい、彼を待っていた四人―――アスカにソラ、シオとユウキへ事の経緯を話し聞かせていた。

 

「玖我山ってのは、確かお前らのタメだったか。それで、そいつは今どうしてるんだ?」

「詳しい話はまた明日話すって言って、今日のところは一旦帰って貰ったッス」

「ふーん。遠藤先輩って、あの人とそんなに仲良かったっけ?」

「さあな。それで、診断結果は聞けたのか?」

「はい。タマキさんが話を通してくれていたので、私達も詳しい話を聞けました」

 

 アキに下された診断結果と詳細な症状については、アキの祖父と叔母のタマキ、学園側からはクラス担任のトワと教頭のシオカワら四人が立ち会い、医師から説明がなされていた。そしてとりわけアキと親交が深い学生にも包み隠さず伝えて欲しい、というタマキの願いと計らいにより、アスカ達も現状を把握することができていた。

 

「私から話すわ。視力については原因が分からないと聞かされたけど、知っての通りよ」

「ああ。俺が知りてえのは、記憶喪失の方だ」

「正式に言えば健忘。中でも解離性の逆行性健忘による、宣言的記憶障害ね」

「・・・・・・分かるように言ってくれ」

 

 健忘と呼ばれる所謂記憶喪失には、原因や症状によって様々ある。一つは頭部を強く打つなどして引き起こされる外傷性健忘、そして心因的ストレスにより陥る解離性健忘の二種類に大別される。アキが記憶障害を患った時期は、杜宮学園で発生したとされるガス漏れ事故のそれと重なる。アキの担当となった医師は当たり前のように、ガス漏れにより意識を失ったアキが転倒の際に頭部を強打したと見て、精密検査を行った。

 しかしアキの頭部に外傷は見られず、脳に損傷を負った形跡が何一つ見当たらない。そもそも『ガス漏れ事故』自体が異界化を表沙汰にしない為の偽装に過ぎないのだから、医師の診立ては的外れだった。そうなれば、残された可能性は一つ。解離性健忘を起こす程の『何か』がアキを襲ったとしか、考えられなかった。

 

「次々に生徒が意識を失っていく光景を目の当たりにして、極度のストレスに襲われた、というのが医師の見解だそうよ」

「そうか・・・・・・なら、症状の方はどうなんだ。何か新しいことは分かったのか?」

「私達が把握している通りね。こればっかりは、医師も首を傾げていたわ」

 

 時間軸を中心にすれば、健忘は更に二種類へ分類される。発症後以降の記憶が抜け落ち、新たな物事を覚えることができなくなるのが前向性健忘。発症以前の記憶が欠落してしまうのが逆行性健忘であり、アキの症状は後者に一致する。いずれにも共通するのが、『発症した時点』から見て以後なのか、以降なのか。アキの健忘は、どちらにも当て嵌まらなかった。

 

「アキさんは4月23日以降の記憶を失ってしまっている。原因は分からないけど・・・・・・彼女の言動から考えて、間違いないでしょう」

「・・・・・・なあ、柊。お前はどう考えてんだ」

「どう、と言うと?」

「原因だよ。今の話だと、可能性を排除した結果として、そう診断されたってことだろ」

 

 コウの引っ掛かりは尤もだった。6月5日にガス漏れ事故は発生しておらず、真実はグリムグリードが引き起こした異界化にある。異界に飲み込まれた先で、想像もできない恐怖をアキが味わったことで、健忘に陥ったという可能性は残っているものの、やはり釈然としない物がある。ならば『異界化』自体が原因だったのではないかという疑念に辿り着いたのは、コウだけではなかった。

 

「分からない、としか言えないわね。そんな前例は聞いたことがないけど、私達も異界について知っていることは余りに少ない。アキさんの健忘が世界初の症例だという可能性だってあるのよ」

「分からねえことだらけってことか・・・・・・」

「ねえ、僕からもいいかな」

 

 コウが夕焼けに染まった杜宮の上空を仰いでいると、ユウキが二人のやり取りに横槍を入れる。

 

「編入前にコウ先輩と会っていたから、先輩のことは覚えてるってのは分かるけどさ。それにしたってあの感じは、少し異常じゃない?執着と言ってもいいレベルだと思うけど」

 

 ユウキが指摘したのは、コウに対するアキの態度にあった。現時点でのアキの記憶には、学園関係者は数名しか残っていない。編入試験や挨拶の際に顔を合わせた教職員、クラス担任のトワと生徒会長のミツキ。そして4月23日に出くわした、コウだけ。とりわけアキは親族を除いて、コウに対してのみ心を許していた。

 原因の一つは、度々アキを蝕む頭痛にあった。頭痛は記憶障害と密接な関係にあるとされている。アキ自身は記憶を取り戻すことに前向きである一方で、記憶を失う以前に親交が深かった人物と対面したり、思い出深い物事に触れた途端、頭部に痛みを覚えるという症状が見られていた。クラスメイトのシオリらが同行を控えた理由でもある。だがそれを考慮しても、コウに縋り付くようなアキの態度は説明が付かないのでは、とユウキは感じていた。

 

「私は、分かる気がするな」

「へ?」

「コウ先輩は、初めて会話を交わしたクラスメイトで・・・・・・一緒に戦った、仲間だから。アキ先輩にとっては、唯一残された繋がりみたいな物なんだと思うよ」

 

 いずれにせよ、真実はアキの中にしかない。しかし当の本人にはその自覚が無く、肝心の記憶も無い。今のアキを理解するには、想像を働かせるしかなかった。

 

「俺からも、一つ聞いておきたいんだが」

 

 するとユウキに続いて、シオが口を開く。シオが触れたのは、アキの言動そのもの。健忘の全てを度外視して客観的に映る、アキの姿についてだった。

 

「馬鹿に丁寧な口調は北都と同じで元々だと思うが、まるで別人じゃねえか。常に緊張してるっつーか・・・・・・一言で言えば、性格が変わっちまったように見えるぜ」

「いや。編入直後のアキは、あんな感じだったッスよ」

「・・・・・・そうなのか?」

「極度の人見知りって言えばいいんスかね。誰かと話す度におっかなびっくりで、クラスの女子共に囲まれただけでビビっちまうし。あんなアキを見たのも、一ヶ月半振りだ」

 

 その根底にあるのは、アキが過ごしてきた空白の半年間。肘を壊したことで見失った、兄とテニスに対する想い。情熱を注ぎ続けたことで無意識に集めてしまった奇異の視線、近親相姦願望持ちの妹というレッテルとトラウマ。多くの傷を抱えたアキにとって、不慣れな地での新生活には不安しかなく、他者との何気ない会話ですらが、苦痛でしかなかった。

 

「でもあいつは変わった。この一ヶ月半のおかげで、アキは変わったんだ」

 

 大部分のクラスメイトの目には、初対面の緊張が解れて新生活にも慣れてきた、程度にしか映っていなかった。だがアキの中には、それ以上の変化があった。過去を受け入れ己と向き合い、再びテニスコート上でラケットを振るい、ブランジェという確かな『夢』も見付けた。その過程の全てを見てきたコウは、4月23日から始まった一ヶ月半がどれ程の光に溢れていたのかを理解していた。理解していた、筈だった。

 

「なのに、どうしてなんだよ。どうして、あいつなんだ。訳分かんねえ」

「時坂君・・・・・・」

「何なんだよ。俺には・・・・・・分かんねえ、よ」

 

 コウの嘆きと涙には、誰も応えることができなかった。

 

________________________________________

 

 同時刻、杜宮学園のクラブハウス二階。女子テニス部に当てられてた、専用の部室。

 

「以上が、遠藤さんが置かれている状況です」

「・・・・・・事情は分かったわ」

 

 アキが所属するテニス部の部員ら三名、リサ、エリス、エリカ。三人は部室を訪ねてきた同学年のミツキから一連の経緯を聞かされた後、部長を担うリサが重い口を開き、可能性の程を切り出した。

 

「ミツキさん。アキの記憶が戻る可能性は、残されているのかしら」

「何とも言えませんが、決してゼロではありません」

 

 症状を解離性健忘とした場合、失ってしまった記憶が戻ったというケースは過去に多数報告されている。そもそも解離性健忘は、心理的な規制によって無意識のうちに記憶を封じ込めてしまうことが真因であり、記憶が完全に消えてしまった訳ではない。何かが引き金となり快復する可能性もあれば、一晩眠っただけで知らぬ間に思い出していたという例もあった。

 

「な、ならアタシ達とテニスでもしてるうちに、思い出すってこともあるのか?」

「そういうことになりますね。ですが、お勧めはできません」

「え・・・・・・ど、どうしてだよ?」

「先程も言いましたように、無理に思い出そうとすると、悪い方向へ働く場合が多いとのことです。最悪の場合、錯乱してしまう可能性もあると聞いています」

 

 記憶障害において最も危険視されるのが、思い出すという行為そのもの。下手に過去を探ろうとすると、断片的な記憶同士が入り混じり、当人の中で記憶が崩壊してしまう可能性を孕んでいる。強い頭痛を伴うことでパニックを引き起こし、意識を失う事例さえある。アキにとってテニスという存在は掛け替えの無い宝物であり、テニス部は大切な居場所の一つ。ラケットを握ること自体が、最悪に繋がる危険性があった。

 

「アキは本当に、忘れてしまったのですか」

「エリカさん・・・・・・」

「この一ヶ月が、全て無駄だったと。そんなことっ・・・・・・あっていい筈が、ありませんわ」

「・・・・・・ご安心を。遠藤さんの中に、残されているものはあります」

「え?」

 

 手続き記憶、と称される記憶がある。例を挙げれば、記憶障害に陥っても自転車の運転方法は覚えている。携帯電話の使い方は忘れておらず、通学路を迷わずに辿ることができるといったように、長期記憶の一種が残されているというケースも多い。アキも例外ではなく、日常的に繰り返す作業や技能の手順はアキの中に存在していた。しっかりとアキの身体に刻まれている物が在った。

 

「つまり『身体は覚えている』ということです。遠藤さんにとって、テニスは日常の一つでしたから。エリカさん達と一緒に培ってきた物は確かに在ると、そう信じて下さい」

「アキ・・・・・・私、は」

「それと、もう一つ。どうか無理はなさらずに、吐き出したい物は全て吐き出してしまってよいと思いますよ、エリカさん。私もそうします」

「う・・・・・・ぐ、うぅ」

 

 ミツキは身体を震わせるエリカの手を握り、肩を抱いた。たったの一ヶ月と言えど、全てを無かったことにして割り切れる筈も無く。試作品のサンドイッチの味見を繰り返し、体重を気にするという些細な思い出さえもが、エリカにとっては愛おしく。手離すことのできない、日常だった。

 

_______________________________________

 

 アキに関する臨時の職員会議を終えた後、トワが向かった先は『モリミィ』。かつての恩師が営むベーカリー店を訪ね、アキの記憶障害に関する全てを、有りのままに打ち明けていた。

 

「・・・・・・そう。就任して三ヶ月足らずの新米には、荷が重すぎる案件ね」

「荷が重い、とは思いません。でも、私に何ができるのか、分からなくって」

「同じことじゃない。今にも泣き出しそうな顔しちゃって」

 

 図星を指されてしまい、トワが苦笑いを浮かべる。勿論、アキのアルバイト先に事情を伝えるという目的はあった。一方で唐突に背負ってしまった生徒の一大事に重々しい息苦しさを覚え、逃げるように飛び込んだ先がモリミィだったというのも、否定できない正直な想いだった。

 

「お店の方は大丈夫ですか?遠藤さんが抜けて、大変そうですけど」

「大丈夫に決まってるでしょ。それで、学園側はどうするつもりなのよ。今のアキをそのまま受け入れる訳にもいかないわよね」

「はい。医師の勧めもあるので、遠藤さんにはまず日常生活を送って貰います」

 

 アキの親族と協議し、取り急ぎの方針は既に定まっている。目先の課題は、アキが通常の生活を滞り無く送ることができるか否か、という一点にある。外傷が原因の話ではあるが、高次の脳機能障害には様々な症状を併発するケースが多い。物忘れが激しくなる、注意力が散漫になるといったように、場合によっては日常生活に影響が出てしまうこともある。現時点ではそういった言動は見受けられないのだが、最悪を想定するに越したことはなかった。

 それに記憶を失ったとなれば、アキがこの一ヶ月半で学んだ教えも欠落したということであり、登校したところで授業には到底追い付けない。学園との繋がりは保ちつつ、暫くの間は様子見という微妙な距離感を維持する。それが職員会議で確認し合った方向性だった。

 

「アタシも登校拒否に陥った生徒に、悩まされた経験はあるわ・・・・・・ねえトワ。分かってはいると思うけど、絶対に一人で抱え込んでは駄目よ」

「そ、そんなつもりはないです」

「それでも敢えて言ってるの。今回の一件は精神疾患と同じよ。当事者の関係者が釣られて病んでしまうことだって、往々にしてあるわ。病院側と、家族と協力して総出で当たりなさい。頼れる物は全部頼って、泣きたければ素直に泣く。いいわね?」

「心得ておきます。でも・・・・・・サラ先生も、同じじゃないですか」

「アタシが?」

「今夜はお酒、飲まないで下さいね。絶対に」

「・・・・・・飲む訳ないでしょ、そんな不味い酒」

 

 サラは煙草の煙を頭上へ吐き出し、この一ヶ月間とアキが志した『夢』を想う。我が子を宿せないその身を憎んだ過去を持つサラにとって、アキは一人の愛娘と呼べる域に達していた。受け止めるには、重過ぎる現実だった。

 

_______________________________________

 

 トワがモリミィに足を運んでいた頃、杜宮に戻ったタマキは駅からスクーターで帰路に着いていた。駐輪場に愛機を停めてアパートの表に向かっていると、商店街の外れには豆腐店『鈴木屋』を経営する祖父を持つ、一人の青年が経っていた。

 

「よ、タマキ。随分と帰りが遅かったな」

「ん・・・・・・タカヒロ?アンタこそどうしたのよ、こんな遅くに」

「差し入れだよ。ハナエさんやシンスケさんから色々預かってんだ。アキちゃん、明日帰って来るんだろ?」

 

 タカヒロが差し出したビニール袋には、専門店ならではの新鮮な野菜の他、コロッケやハンバーグといった惣菜品の類がこれでもかと詰められていた。「これは残り」と言って加えられた木綿豆腐も勿論売れ残りなどではなく、商店街で暮らすアキとタマキを想って作られた、大切な贈り物だった。

 

「リョウタから聞いたぜ。何で黙ってたんだよ、水臭いな」

「別に隠してた訳じゃ・・・・・・ドタバタしてて、言いそびれただけよ」

「そっか。コマキさん、だっけ。アキちゃんのお母さんは、どうしてんだ?」

 

 タカヒロの問いに、タマキは首を横に振って答える。アキの実母であるコマキは、元々精神を病んでいた身。一人娘のアキが記憶障害を患った旨を聞かされたコマキは益々気が動転し、一時は意識不明にまで陥っていた。両親は施設へ運び込まれたコマキに付きっ切りとなり、アキに関する全てを背負ったのは叔母であるタマキ。言いそびれたというのも事実であり、商店街の住民に周知する暇も無く、今日も支援センターのカウンセラーを訪ね、今後の対応について相談を持ち掛けていた。

 

「こういう時に一番頼れるのって、やっぱり家族だから。今のアキには、アタシしかいないの」

「らしくないこと言うなよ。そんなんじゃ似顔絵の一つも満足に描けないぜ」

「でもアキは―――」

「タマキ」

 

 タカヒロは左手でタマキのトレードマークでもあるベレー帽を取り、右手を彼女の左肩に置いた。

 

「先月に俺の祖父さんが腰を痛めて、入院したことがあっただろ」

「・・・・・・覚えてるけど」

「あの時は沢山の人が声を掛けてくれて、応援してくれてさ。実感したよ、俺は一人じゃないんだって。タマキ、お前も同じだ。勿論アキちゃんもな」

 

 言い終えた後、タカヒロは一度タマキの頭をぽんと優しく叩き、ベレー帽で蓋をした。タマキは帽子を深く被り直して目元を隠し、小さく頷いて応えることしかできなかった。

 

「タマキはタマキらしく、今度祖父さんの似顔絵でも描いてくれよ。祖父さんも喜ぶ」

「料金は取るわよ」

「豆腐払いでいいか?」

「バカっ」

 

 小さな小さなバカを言ってから、振り返る。直近の課題は、アキの帰宅を明日に控えた今日、この現状をガーデンハイツ杜宮の住民らにどう切り出せばいいものか。考えたところで、答えは見付からなかった。

 

_______________________________________

 

 6月9日、朝の午前10時半。私はタマキさんと一緒に杜宮総合病院を出て、病棟前の広場に停まっていたタクシーを使い、ガーデンハイツ杜宮に向かった。部屋の前で一旦タマキさんと別れた私は、特に意味も無く深呼吸をしてから、玄関扉を開けた。その先には、眼鏡越しに別世界が広がっていた。

 

「テニス、シューズ?」

 

 まず目に飛び込んできたのが、見慣れないテニスシューズ。イズノ社のロゴマークが側面に刻まれたシューズが、玄関口に置かれていた。訝しみながら靴を脱いで恐る恐る歩を進めると、今が6月であることを示すカレンダーがあり、思わずサイフォンを取り出して日付を確認する。未だに操作方法に戸惑ってしまうサイフォンの画面上には、6月9日の四文字が浮かんでいた。

 何とはなしに冷蔵庫を開けると、パストラミポークや業務用のマーガリン、萎びた野菜といったサンドイッチの具材らしき物が纏めて保管されていた。室内をざっと見渡して感じたのは、引っ越したばかりの筈なのに、やけに物が充実しているということ。その気も無く持ち込んだテニスウェアが室内干しにされていて、分からない、知らない、覚えていないがそこやかしこに溢れていた。

 

(本当に・・・・・・忘れちゃったんだ)

 

 お母さんと一緒に杜宮に来て、新生活の段取りを組んで。モリミィで時坂君と出くわして、慌てふためいて逃げるように帰った、あの日。あれが一ヶ月半前の出来事だったなんて、私は悪い夢でも見ているのだろうか。でも言われてみれば、数日前の記憶の割には不鮮明な部分があるのも確かだった。

 

「痛ぅ・・・・・・痛たたた」

 

 止めよう。また頭痛に悩まされるだけだ。私は荷物を乱雑に放り、一度部屋を出ることにした。

 

________________________________________

 

「コマキ姉の状態は分かるけど、アキの気持ちも考えてよ。あの子がどれだけ苦しんでるのか分かってるの?」

『父さんも重々理解しているよ。だが心の病だけはどうにもならん。今の二人を会わせたところで何になる?コマキにとっては辛い現実に苛まれて、症状を重くするだけだろう』

「それは、そうかもしれないけど。で、でも」

『焦っては駄目だよ、タマキ。今の私達にできることは、見守ってやることだけだ。コマキが落ち着いたら、私もそちらへ顔を出す。お前も無理はしないで、何かあったら必ず私達を頼りなさい。いいね?』

「・・・・・・ん。父さんもね」

 

 通話を切ってから、大きな溜め息を吐く。ここ最近は気が休まらず、アキと同じで頭が痛い日が続いている。何だかんだ言って、アキにとっての心の拠り所は家族しかないというのに。記憶を失っておきながら母親の顔も見れないなんて、一体何の冗談だ。

 

「タマキ、さん?」

「えっ。あ、アキ?」

 

 不意に掛けられた声に驚いて振り返ると、気遣わしげな表情を浮かべるアキが立っていた。

 

「あれ。玄関、開いてた?」

「はい。一応、呼び鈴は鳴らしたんですけど・・・・・・今の、お祖父ちゃんですか?」

「う、うん。今帰ったって連絡してたとこ」

 

 電話中だったとはいえ呼び鈴に気付かなかったばかりか、玄関の施錠を怠ってしまっていたようだ。私も私で、疲労が溜まっているのだろうか。カウンセラーから繰り返し聞かされた言い付けを翌日に破る訳にもいかないし、今日ぐらいは気を緩めた方がいいかもしれない。

 

「少し早いけど、お昼にしよっか。何か食べたい物はある?」

「え、えーと。できれば、軽い物を」

「そう。野菜を沢山貰ったから、雑炊でも作るわ」

 

 アキは女子高校生の割に食が太い。ナツの背中を追い求めて鍛え抜いた身体がそうさせているのか、人一倍食べる傾向がある。そんなアキの食欲は見る影も無く薄くなっていて、今朝も食堂で少量を口にしただけで済ませてしまっていた。ハナエさんには悪いけど、今のアキに油っこい惣菜を食べさせる訳にもいかないし、昨晩の貰い物は私とシホの酒のツマミにでも回すしか無さそうだ。

 白菜をまな板に置いて包丁を握っていると、アキは壁に立て掛けてあった一冊のスケッチブックを手に取り、そっと捲っていた。仕事道具とは別に普段から持ち歩いている小型の物で、気が向いた際にペンを走らせる私物だった。

 

「タマキさんは、似顔絵書きが盛況して忙しいって言ってましたよね。今もそうなんですか?」

「まあね。最近はブログやSNSで取り上げられることも多くて、この辺じゃ割と有名人よ」

 

 対象の表情に、私が考える当人の魅力を上乗せして描く。それが人気の秘訣だと私は受け取っていた。有りのままを描くだけなら、腕さえあれば叶う話だ。似顔絵代を求める以上、私は常にプロフェッショナルとしての信念を

胸に、本気で向き合う。物書きしか取り柄が無い私にとっては、ペンと筆を握っている時間が一番充実していた。

 

「改めて見ると、本当に凄いですね」

「ふふん。そうでしょそうでしょ」

「この似顔絵は、いつ描いた物ですか?」

「ん?」

 

 振り返り、思わず声を失った。似顔絵を描き終えた際には、必ず対象の名前を入れるようにしている。アキが見詰めていた紙面上には、『柊明日香』の四文字が記されていた。

 

「あ、アキ。それは」

「お願いします、教えて下さい。これはいつの物なんですか」

「・・・・・・先月の、中旬。カラオケボックスで、偶然居合わせたことがあってね」

 

 思い出すのに時間は要らなかった。5月17日の日曜日に、私とシホ、アイリの三人でカラオケに興じていた最中、アキは私達と同じ場所にいた。どうしてそうなったのかはよく覚えていないけど、結果として私達はアキと合流し、アキの友人らを交え、日曜日の午後を満喫した。

 何より嬉しかったのは、アキが友人と共に休日を過ごしていたという事実。元々引っ込み思案な性格に加え、重々しい過去を背負ってしまったアキは、新天地でしっかりと新たな居場所を見い出していた。それが堪らなく嬉しくて、私はその場に集っていた全員分の似顔絵を一気に仕上げ、大切に保管していた。

 

「みんな、楽しそうですね」

「かなり盛り上がってたから。日が暮れるまで歌ってたっけ」

「私も、本当に楽しそう」

「・・・・・・そうね」

 

 心底楽しげなアキの顔も、スケッチブックには在った。一瞬止めようか迷ったけど、私にはできなかった。アキは微笑みを浮かべながら、忘れてしまった自分自身を見詰めて―――紙面とはまるで正反対の顔をして、言った。

 

「何で忘れちゃったのかな。こんなに、楽しそうなのに」

「アキ・・・・・・」

「不思議と分かるんです。分かるから、思い出したいのに。どうして、私・・・あ・・・・・・ああぁ?」

「あ、アキ?」

 

 唐突に『それ』はやって来る。思い出は優しい振りをして、大切なこの子に牙を向く。

 

「アキ、駄目よ。アタシを見て、何も考えちゃ駄目」

「痛い、痛い、たあぁ!!ああああぁぁあっ!?」

「アキ!」

「どうしてっ・・・・・・どうして!どうして!?私、どうして私なの!?」

 

 私の腕の中で泣きじゃくるアキには、変わらずに私しかいない。アキには私しか残されていない。なら私がこの子を守り抜いて見せる。思い出がアキを蝕むと言うのなら―――思い出なんて、もう要らない。

 

 



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6月12日 「ライジングクロス」

 
~今更なテニス部キャラ設定まとめ~

○荒井リサ
ネットプレイヤー。モデルは勿論あの人。三年生のテニス部長。その容姿と姓名から、同学年の間では「アリサ」と呼ばれることが多い。人当たりが良くて周囲からは信頼されている。テニスの実力は全国でもトップクラス。植物人間状態の母親の意志を継いで、卒業後は全日本メンバー入りを目指している。既にスカウトは来ている模様。

○エリス・フロラルド
ベースラインプレイヤー。モデルは(ry。三年生のクラス委員長。イギリス出身で来日後にテニスを始める。リサとは十年間近い付き合い。普段はお嬢様チックな言動や振る舞いが目立つが、気心知れた人間の前では気性が荒くなる。ナルシスト気味な兄を「クソ兄貴」呼ばわりするものの、割と家族想い。進学を希望。

○高松エリカ
ネットプレイヤー。勝手にテニス部員化された原作キャラのエリカ様。というか三年生にはこの人しか適役がいなかった。でもミツキをライバル視する高飛車なところは変わらず。髪型と口調はさながらお蝶夫人。リサとエリスが本音で語り合わなかったことが原因で一時期は休部していたが、今では立派な練習相手。部活動ではアキとペアを組む後輩想いな先輩。最近の悩みはアキのサンドイッチのせいで体重が増えたこと。ミツキと同じ進学先を希望。



 

 私は私が嫌い。自己嫌悪のキッカケは、やっぱり肘を壊してしまったことにあると思う。いつも周りの目ばかりを気にするようになった私が嫌い。ハッキリ物を言えない私が嫌い。他人任せの私が嫌い。いつも人のせいにして、自分で決めたことを他の誰かのせいにして、勝手に自分を嫌う。そんな私が大嫌い。こんな風に駄文をルーズリーフ用紙に書き連ねる私も、どう考えたっておかしい。うん、おかしい。少し落ち着こう。

 

「んー」

 

 この部屋は、『もう一人の私』で溢れている。冷蔵庫にはアルバイトのシフト表が貼られていて、デスクにはテニス用品のカタログが積んである。長年愛用していたガラケーは見当たらず、充電器だけが引き出しのラックに残っていた。下ろし立てだった筈の布巾には染みが浮かび、洗い場の前に置かれた見覚えの無いゴキブリホイホイが、凄まじく怖い。これは少し違うか。

 無理に思い出さなくてもいいって、みんなが言う。思い出せなくなってしまった私を遠くから気遣い、誰もが案じてくれている。それぐらいの自覚はある。杜宮学園に通う必要は無くて、新生活に戦々恐々とする私はもういない。タマキさんは「何も考えなくていい」と言って、私を抱き締めてくれる。時坂君とも他愛無い会話しか交わさない。

 慣れない一人暮らしを満喫するもよし。失った記憶から距離を置いて、夏を待つもよし。何も悩まなくていい。不安の種は、全部捨てればいい。

 

「・・・・・・うん」

 

 そんな真似ができるのなら、最初からそうしてる。思い出さないと、私には何も無い。ずっと空っぽのまま。思考を止めてしまうと、漠然とした恐怖に駆り立てられる。あのスケッチブックのページを捲ったことには、きっと無自覚な理由がある。無理を言って私の部屋に持ち込んで、目の届く場所に置いたことにも。言葉にできない、何かがある。

 本当は怖い。怖くて堪らない。無駄にペンを走らせてしまうぐらい怖い。眠りに付くのが、怖い。一晩のうちに全てを思い出したという事例があるって、そう何度か聞かされたけど、そんな希望を抱きながら目を閉じたら、きっと落胆するだけ。発狂して自我が崩壊し、自ら命を絶ったケースだってある。だからこの頭痛はタマキさんと同じで、私を守ろうとしてくれている。思い出すなって言っている。

 でも、ごめんなさい。私にはできない。無かったことには、できそうにないよ。

 

_________________________________________

 

 予想通り、目が覚めても相変わらずの4月23日。気を取り直して、私が置かれた状況を一度整理してみる。

 一時的に休学扱いになった私には、あらゆる行動が許されている。アパートで自由気ままに過ごしたり、贅沢に昼寝をしたり、外を出歩いてもいい。でも外出の際には、必ず誰かに行き先を告げておくのがルール。タマキさんに直接伝えるか、アパートの住民に伝言をお願いしなければならない。そもそも私に与えられた時間は、私生活を問題無く送れるかどうかを試す期間でもある。何か少しでも異常を感じたら、これも絶対に隠しては駄目。

 そしてもう一つの禁止事項が、無理に思い出そうとすること、それ自体。強引に記憶を探ろうとすると、すぐに耐え難い頭痛に繋がるのだから、当たり前か。でもその線引きが案外難しい。どこまでがオーケーでどこからが駄目なのか、今一分からない。

 

「これは、どっちだろ」

 

 この一ヶ月半を理解する上で、有力な手掛かりとなるのが、デスクに置かれていた二冊のノート。一冊目は、杜宮学園女子テニス部の活動に関して綴られた『テニスノート』。もう一方があの『モリミィ』について作られた、レシピや配合なんかが記されている『モリミィノート』。どちらも一目で、私の直筆だと分かった。さてどうしよう。読むべきか、それとも見なかったことにすべきか。なんて書きながら、既に左手は表紙を捲っていた。

 少しずつでいい。もう一人の私と、ちょっとだけ向き合おう。アパートでジッとしていても、生憎の空模様から降り注ぐ雨の足音に、悩まされるだけだから。でも、参ったなぁ。頭が痛い。。。

 

________________________________________

 

 痛みを通り越して吐き気に行き着き、二回吐いた。あんな姿をタマキさんに見られていたら、何を言われるか分かった物じゃない。でも覚悟はしていたから、それ程驚きもしなかった。おかげで分かったことも、沢山ある。

 今から一ヶ月前に、私はテニス部へ入部していた。部員数は私を含めてたったの四人。団体戦にすら出られない少人数ではあるけど、三人の先輩は都内でも屈指の実力者。中でもアリサ先輩とエリス先輩は全国でも充分に通用する域にいて、私が入部した目的の一つは、二人の先輩を勝利へと導く為。因縁のライバルを打倒することにあった。

 タマキさんから借りたノートパソコンで、『聖アストライア女学院 エミリ テレジア』をキーワードにweb検索をしてみると、動画サイトから多数の試合が見付かった。それはもう、出るわ出るわ。昨年度のインターハイ、関東インドア大会、高校選抜選手権、極め付けは皇后杯。そしてその大半の相手が杜宮学園の先輩らで、全敗を喫していた。二年生の時点でこれだけの実績があるのなら、今年度はまず間違いなく高校日本一の候補筆頭。団体戦も同じで、三年前に同女学院はインターハイの頂点に輝いていた。

 

「・・・・・・よく調べたなぁ」

 

 どうやら私は、本気で取り組んでいたらしい。その証が『テニスノート』にある。先輩らの長所と短所、得手不得手を理解した上で、エリカ先輩を交えた練習方法を考え、活動スケジュールを作成。女学院の二人を徹底的に分析し、ありとあらゆる戦術を以って勝利を掴む。ナツお兄ちゃんの為に培ってきた私のテニス、知識と戦術の全てがノートに込められている。我ながら感心してしまう。

 

「本当に、何でだろ」

 

 私は何を想って、テニス部に入ったのだろう。テニスに対するこの曖昧な感情だけでは、ここまで仕上がらない。室内に見当たらない私のラケットは、きっと学園内にあると思うけど、どうして私は再びラケットを握ったのか。肝心な部分は、まだ真っ白のまま。本当に、分かんないなぁ。

 

「あっ・・・・・・ぐぅ」

 

 今日のところはもう止そう。そろそろ本格的な苦痛がやって来る。こんなことに、意味があるのかな。少し分からなくなってきた。誰か、教えて欲しい。

 

_________________________________________

 

 別に悪いことをしている訳じゃないけど、危ない橋を渡っていると言われれば返す言葉が無い。二冊のノートとこの日記もどきのことは、タマキさんには黙っておこう。ごめんなさい、タマキさん。

 私がモリミィでアルバイトを始めたのは、5月の連休から。二冊目の『モリミィノート』には、沢山のレシピ集や生地配合、工程が例によって直筆で収められていた。一見しただけで「うわぁ」と声を漏らしてしまいそうなぐらい、取扱いが凄まじく難しそうな生地のオンパレード。相当なこだわりを持っているようだけど、要は従業員にもそれ相応の技術が求められる。もう一人の私は、随分と厄介なアルバイト先を選んでしまっていたらしい。

 サラさんとハルトさんの二人は、おそらくモリミィを二人三脚で営む夫婦。人となりは想像するしかないけど、こんな私を受け入れてくれたのだから、きっと良い人に違いない。冷蔵庫の扉に貼られていたシフト表によれば、私は今日の夕方から接客を担当する筈だった。人手不足に陥っていたらと考えると、少し胸が痛い。

 

「7、8、9、10」

 

 ノートの後半部分は、ハード系の生地を使ったサンドイッチのレシピと、それに対する改善案で占められていた。日付から考えて、私がレシピ考案に着手したのは、記憶を失う約二週間前。実際に作らずとも、思わず空っぽの胃が反応してしまう程に完成されたレシピは、確かに私が生み出したオリジナル。商品コンセプトは勿論、売価や原価といった価格設計に購買層、材料の期限から何から何まで、全てが私の字で記されていた。

 これもテニス部と一緒だった。もう一人の私が注いだ情熱は、今の私には無い。冷めた目で客観視をして、別の誰かを見詰めている。遠藤アキが歩んできた道のりの根本が、まるで見えてこない。もう一人の私が、独り歩きをしている。

 

「・・・・・・ううぅ」

 

 生理痛が可愛く思えてくる。思い出すよりも前に、頭が変になりそう。でもそれはそれで、楽になれるのかもしれない。いやいや、何を書いているんだろう。本当に。

 

________________________________________

 

 6月11日、木曜日の午後20時過ぎ。タマキは自室で声を潜め、姪のクラスメイトの一人とサイフォン越しに会話をしながら、すっかり日の暮れた商店街の外れを見下ろしていた。

 

「ごめんね時坂君。色々考えたけど、やっぱり今回は遠慮しておくわ。今のアキを連れ出すのは、流石にリスクが高過ぎるから」

『そうッスか・・・・・・いや、気にしないで下さい。正直に言って、俺も迷ってたんで』

 

 昨日にコウがタマキに持ち掛けていたのは、杜宮市山奥部にある温泉宿への小旅行。発起人はアスカとミツキの二人であり、癒し旅の目的は労いの他にもあったのだが、アキ一人を放っておける筈も無く、代表してコウがタマキへ参加の是非を求めていた。勿論タマキの付き添いに加え、宿泊部屋や食事は別。宿泊先を共有するだけでいいという配慮もなされていた。

 タマキも無下に断ろうとはせず、アキの精神状態を考慮しての不参加を決めていた。コウの心遣いは素直に受け取りつつ、お互いに良い方向には働かないだろうと考えた末での結論だった。

 

「君達は君達で楽しんで来なよ。アキのことで、かなり気苦労を掛けちゃってるしね。気を張り過ぎないようにって、担任の先生からも言われてるでしょ?」

『それはもう毎日のように、口を酸っぱくして。つーかうるせえ』

「あはは・・・・・・ありがとう、時坂君」

『はい?』

「君がいてくれたおかげで、本当に助かってる。今度、何か奢るわ」

『いえ、こっちこそ。お土産買って帰るんで、アキにも渡してくれると助かるッス』

 

 それから一言二言を交わした後、タマキは通話を切って窓を開けた。段々と夏めいてきた夜の囁きに耳を傾けながら、タマキはアキの行く末と『選択肢』を交互に想う。

 このまま成り行きに任せて、待つべきか。それとも全てをリセットして、全く別の地で別の道を歩ませるべきなのか。自分なりに調べ尽くした事例と、専門家らの見解を総合して考えたところで、答えは存在しない。時間が解決してくれるのか、それとも手遅れに繋がるのか。選択の良し悪しは、結果論でしか語ることができない。

 

「・・・・・・はぁ」

「アンタ高校生を口説いてどうすんのよ」

「うわあ!?」

 

 突然耳にした声にタマキが振り返ると、視線の先には同い年のOLが座っており、やれやれといった様子でポーランドビールの栓を開けていた。驚くのも当然の光景だった。

 

「ち、ちょっとシホ。何でアタシの部屋にいるのよ」

「鍵ぐらい掛けたらどうなの。無用心過ぎるって」

「え・・・・・・あちゃ、またか」

 

 今度はタマキが肩を落とし、深々と溜め息を吐きながら、シホの反対側の席へと座る。シホは二本目の小瓶の詮を開けており、タマキは自然と一本目の小瓶を手に取って、知らぬ間に渇いていた喉を潤した。

 

「それで、誰が誰を口説いてたって?」

「時坂きゅーん、ありがとー」

「はいはい・・・・・・ねえ、シホ。あのさ」

「こらこら、アタシに聞いたところでどうにもならないわよ。分かってるくせに」

「・・・・・・だよね」

 

 拒絶と受け取ってしまいそうになるシホの言葉が、現実感を駆り立てると同時に、タマキは不思議な居心地の良さを抱いていた。情け容赦の無い真っ直ぐな答えを返してくれる人間は、数少ない。真っ先に思い浮かぶ同性が、眼前に座っていた。優しさが無いという優しさに充ちていた。

 

「それに悩んでも仕方ないじゃない。どうせあの子、杜宮から『離れられない』んでしょ?」

 

 シホが言うと、タマキは一度酔いを頭の片隅へと追いやり、ハッとした表情をして答える。

 

「ああ、そっか・・・・・・でもどうして出られないんだっけ。なんか思い出せない」

「さあね。ていうか、距離的にどこまでがオーケーな訳?」

「分かんないわよ。でも神山温泉辺りまでならギリ行けるみたい」

「出てる出てる、それ完全に杜宮を出ちゃってるから。あそこ県境じゃん」

「その辺は適当なんじゃないの。あー、ヤバい。訳分かんないわ」

 

 身体的、精神的疲労が酔いの速度を助長して、普段は決して触れようとはしない無意識が、突如として意識の下に晒される。選択肢など初めから無かったという大前提を、タマキは初めて頭で理解した。

 

「あれ。アタシ達、マジで何の話してたんだっけ?」

 

 それらはすぐに無意識下に戻り、『杜宮を離れられない』という禁忌だけが、アキを縛り続けていた。

 

_________________________________________

 

 関東地方の梅雨入りが報じられたのは今週の初めで、火曜日の夜から陽の光はずっと隠れたまま。金曜日になって漸く晴れ間が訪れた早朝に私は目を覚まし、カーペット上に敷かれた布団の中で眠るタマキさんを見下ろした。

 

(無理、させてるよね)

 

 タマキさんはいつもこうして、私の部屋で一緒に眠ってくれる。夜中に魘される私の手を握り、朝までずっと傍にいてくれる。頼もしい限りだけど、タマキさんが払っている数々の犠牲を考えると、やっぱり胸が痛い。私は物音を立てないようベッドから出て、そっとカーテンと窓を開けた。

 

「時坂君」

 

 何とはなしに、時坂君の名を口にする。記憶を失う前の私は、彼のことを異性として意識していたのかもしれない。でもあの安心感は、恋愛感情とは異なる類のようにも思える。それに私は、誰かを好きになった経験らしい経験が無い。寧ろお兄ちゃんに抱くそれに近い。

 

「・・・・・・そっか。そうだったんだ」

 

 つまりはそういうことだ。私はまた同じ轍を踏もうとしている。要は依存だ。同年のクラスメイトを兄身代りにするだなんて、やはり今の私はどうかしている。

 ずっと部屋に籠りっ切りだったせいか、身体が重い。私はあれやこれやと考えを巡らせるよりも、身体を動かして行動する人間だった筈だ。それにジッとしていると、悪い考えばかりが浮かんでくる。外に出て新鮮な空気を入れておいた方がいい。

 

__________________________________________

 

 私はタマキさんの枕元にメモを残し、動きやすいウィンドブレーカーに着替えた後、ロードワークに没頭した。梅雨の晴れ間は湿気が高く、走り始めてすぐに全身から汗が噴き出したものの、不思議と疲労感は無かった。身体が思い通りに動いてくれた。これもきっと、部活動の賜物なのだろう。記憶は無くても、身体は元のままのようだ。

 商店街から北に向かって裏通りを走り、ぐるりと折り返して再びアパート方面へ。誰にも会わないよう、記憶に新しい道から一本外れた通りを走った。するとアパートが視界に入った頃になって、道路を挟んで駐輪場の反対側にあった、石造りの階段に目が留まった。

 

「はぁ、はっ、ふぅ・・・・・・九重、神社?」

 

 木製の古びた看板に記された名称を見て、真っ先に思い浮かんだのはクラス担任の九重先生。階段はざっと見て百段に満たない程度の長さで、最後の一押しには打って付けのように思えた。先が見えない階段を上るという行為に、無性に惹かれた。

 

「よしっ」

 

 私は呼吸を整えてから靴紐を縛り直し、一段ずつ階段を駆け上った。心地良い疲労が、全てを忘れさせてくれるような気がして、夢中になって足を動かした。

 案の定上り切った頃には息が切れていて、やがて階段の先に佇んでいたのは、周囲を木々に囲まれた古めかしい神社。境内はそれなりに広く、まだ朝早いせいか人気は無い。恐る恐る鳥居を潜ると、左手にはこじんまりとした手水舎が設けられていた。

 

(・・・・・・飲んで、いいんだっけ)

 

 汗を拭いながら、手水舎の前に立つ。とりあえずの一礼をして柄杓で水を掬い、両手を清める。私の記憶が正しければ、口に水を含んですすぐというのが一般的な手順だったと思う。思うけど、ひどく喉が渇いている。ずっと走りっ放しだったのだから当たり前だ。何の変哲も無い水が、とても美味しそうに映った。

 

「儂が言うのもなんじゃが、お勧めはせんぞ。不衛生じゃからな」

「ぶはっ!?」

 

 口内の水を手水舎に噴き掛けるという罰当たりな真似をしでかした私は、身体を震わせながらゆっくりと振り返る。神主さんと思しき初老の男性は高らかな笑い声を上げていて、境内には私と男性しかいなかった。

 

__________________________________________

 

 ソウスケと名乗った神主さんは、一旦境内の離れに戻った後、ご丁寧に冷えた麦茶とコップを持って来てしまった。私が勧められるがままに喉を潤すと、ソウスケさんは「ここで会うたのも何かの縁じゃろう」と言って、今度は九重神社の歴史を要約して語り聞かせてくれた。

 

「時が経てば人の在り方が変わり、習慣や文化も変わる。以前にも手水舎で水を飲んだ若者が、後日怒り顔で訪ねて来たことがあっての。訳を聞くと、『水を飲んだせいで腹を壊した』じゃと」

「は、はぁ」

 

 と思いきや、たったの一年前の些細な騒動についてだった。ソウスケさんは如何にも厳格そうな雰囲気を漂わせる一方で、茶目っ気があるというか、年齢差を感じさせない親近感があった。それにおそらく、もう一人の私とは面識が無いか、付き合いが短いのいずれか。頭痛に悩まされる心配も無いせいか、初対面特有の緊張も感じなかった。

 

「おぬしは以前・・・・・・コホン、見ない顔じゃな。この界隈に住んでおるのかね?」

「は、はい。その、4月の下旬に、杜宮に引っ越して。市内の杜宮学園に、編入しました」

「そうかそうか。儂にも、孫が二人おってな。下の困りん坊と、同年代程度だと見受けしたが・・・・・・定時制、じゃったか。おぬしもその類かの」

「あっ・・・・・・い、いえ。その」

 

 突然踏み込まれてしまい、喉が詰まる。アパートを出た時間から考えて、そろそろ朝の8時半を回る頃。現役の高校生が神社で涼む姿が、不自然に映る時間帯だ。体調不良という言い訳を、朝っぱらから汗を流す人間が使っていい筈がない。定時制の生徒だという嘘を付くのも気が引ける。そもそもすぐに答えることができなかった時点で、訳アリだと言っているような物だ。

 

「休学中、でして。わ、私・・・・・・私は、自分が分からないんです」

「ほう。己が分からんとな」

「杜宮に来てからの記憶が、無いんです。一週間前に、全部忘れてしまって」

 

 一度吐き出してしまうと、歯止めが利かなかった。見ず知らずの人間に縋っても、何も変わらないというのに。いや、だからこそ洗いざらい話したかったのかもしれない。

 

「ふむ。随分と難儀な物を、抱えてしまったようじゃな」

「私・・・・・・本当に、分からなくって。私は・・・・・・私はどうして、私なんですか」

 

 己の不幸を嘆いても、何も生まれない。理不尽と不条理を呪ったところで、何も始まらない。誰かを頼ることはできても、誰かが応えてくれる訳じゃない。思い出そうとしても苦痛に苛まれて、僅かな希望を抱いて微睡んでは、悪夢のような現実に帰って来る。先が見えない泥沼の中で、私はいつまでもがき苦しめばいい。どうしてなんだろう。どうして―――私は、忘れてしまったんだ。

 

「分かりません。もう・・・・・・疲れちゃいました。私は、誰なんですか」

 

 鳥居の下、石階段の最上段に座りながら、膝を抱いて眼下を見下ろす。階段の左右にそびえる木々が揺れて、新緑の葉が一枚、私の膝の上に落ちて来る。ソウスケさんはその葉を拾い上げて、静かに口を開いた。

 

「おぬしをして、おぬしたらしめている物が在るとするならば、それは『魂の色』じゃろうな」

「・・・・・・魂?」

「左様。一つとして同じ物など在りはせぬ。人が持つ本質、全ての根源たる魂。その色じゃ」

 

 魂の色。初めて耳にする形容だった。初めての筈なのに、頭の中に直接響いて来るかのような、不思議な感覚を抱いた。もう一人の私は、知っているのだろうか。

 

「で、でも。私、思い出せないんです。思い出そうとしても、全然駄目で」

「なに、思い出せずともよいのじゃ。己の魂を信じ、また新たに歩み始めればよかろう。人はその気になれば、幾らでも誇り高く在れる。おぬしの行く末も、変わりはせぬよ」

「新たに・・・・・・歩く」

「迷わずに往きなさい。前を向いて歩めばよい。やがて辿り着いた先に、見失ってしまった全てがある。おぬしの魂は、情熱の光で溢れておるよ。それを信じ、歩みなさい」

 

 差し出された皺だらけの左手に、そっと右手を重ねる。ソウスケさんの手は、引っ張り上げてはくれなかった。自分で立てと言われている気がして、私は右手と両足に力を込めて、ゆっくりと立ち上がった。

 ソウスケさんが言わんとしていることに、理解は追い付かない。ひどく抽象的で曖昧な言葉の数々に、意味は無いのかもしれない。でも、違った。「思い出さなくていい」は、もう何度も言われた。なのに私の耳には、まるで異なる言葉に聞こえていた。

 

「深く考えずともよい、老いぼれジジイの戯言じゃ。どれ、そろそろお暇しようかの」

「あっ・・・・・・あ、あの!」

 

 私に向けられた大きな背中を呼び止めて、考える。外の誰かと会話を交わすのが久し振り過ぎて、上手く感情を言葉にできない。代わりに私は、不意に浮かんだ一つの疑問を、投げ掛けることにした。

 

「私の魂が、情熱に溢れてるって。あの、それはどういう意味ですか?」

「儂の眼には、そのように映ったのでな。そう表したまでじゃ」

「っ・・・・・・見えるん、ですか?」

「無論、見えるとも。おぬしのように、稀におるのじゃよ。『二つ』を併せ持つ者がな」

「ふたつ?」

「『秋』の紅葉と『夏』の日差しを想わせる、見事な色の魂じゃ・・・・・・誇りなさい、若人よ」

 

 ドクンと、胸が激しく波立つのを感じた。猛火で焙りたてるような激情は穏やかでもあり、興奮と冷静さ、二つの温度、異なる季節が交互にやって来る。次第に両者は入り混じり、やがて一つとなって、私の中に収まっていく。

 アキとナツ。私とお兄ちゃん。私は知りたい。思い出すのではなく、私はこの感情の正体を知りたい。それにはまず、前を向く必要がある。できることが残されていると、そう信じて。

 

________________________________________

 

 その日の夕刻。頃合を見計らって、私は杜宮学園の駐輪場に飛び込んだ。人目を避けて端の通路を進み、本校舎の裏手側へ。場所が分からないから、打球音を頼りにして足を動かす。道中に何人かの生徒と擦れ違ったけど、誰も私を私だと認識してはいない筈だ。見付かったらタマキさんから大目玉を食らってしまう。

 

(あった)

 

 漸く行き着いた先には、テニスコート上を走る三人の女性、先輩らの姿があった。丸二日間の雨の影響か、コートのコンディションは遠目から見ても悪く、とても良好とは言えない。テニスウェアの下半身部には泥土が跳ね上がった跡が浮かんでいて、テニスシューズも泥に塗れてしまっていた。

 

「・・・・・・ん?ちょ、おい!?」

「どうしたのよ、エリ・・・ス・・・・・・っ!」

 

 事前に動画サイトで試合を観戦していたこともあり、先輩らの顔は見たことがある。三名の内いち早く私に気付いたのは、その外見と名前から海外出身者と思しきベースラインプレイヤー、エリス先輩。続いてエリス先輩のパートナー、部長のリサ先輩。テニスノートでは『アリサ』という三文字で書かれていたけど、ニックネームのような物だろう。

 

「アキ、貴女・・・・・・」

 

 消去法で三人目。試合形式の練習では私とペアを組んでいた、ネットプレイヤーのエリカ先輩。エリカ先輩は一旦練習を切り上げ、急ぎ足で私の下に駆け寄り、周囲を見渡してから戸惑いの声を上げた。

 

「アキ、どうして貴女がここにいますの?」

「え、えと。は、初めましてっ・・・・・・じゃ、ないかもしれませんけど」

「まあ、そうですわね。ではなくて!貴女は一時的に休学中の筈でしょう」

「そ、そうなんですけど。で、でも、私・・・・・・お、お願いしますっ!!」

 

 頭を下げてから、肝心な部分が抜け落ちていることに気付く。これでは何を願い出ているのかさっぱり分からない。焦り過ぎにも程がある。しかし慌てて視線を戻すと、三人の先輩らは一様にして、神妙な面持ちを浮かべていた。お願いしますの一言で、私の意思はしっかりと伝わっていたようだ。

 

「少しだけで、いいんです。だ、駄目、ですか?」

 

 今の私には、ラケットを握る理由が無い。私の中には見当たらないけど、きっとその答えは、このテニスコート上にある。そう信じて打ちたい。一ヶ月前の私のように打ってみたい。返答を待ち望んでいると、リサ先輩が開口一番に言った。

 

「エリス。アキさんのラケットを部室から持ってきてあげて」

「え。アリサ、いいのかよ?」

「責任は部長の私が背負うわ。それとエリカ、貴女がアキさんの相手をするの。構わない?」

「私は・・・・・・ええ、勿論ですわ」

「アキさんも、それでいいかしら」

「は、はい。わたっ・・・・・・!?」

 

 気を緩めたせいか、不意に前頭部へ鈍い痛みが走る。頭痛を悟られないよう、一度俯いて顔を隠す。感極まっているように振る舞えば、気付かれはしない。痛みは抑えればいい。少しの間だけ、耐えればいい。

 

「あ、ありがとう、ございます」

「フフ、気にしないで。でも危険だと感じたら、すぐに止めるわよ。いいわね?」

「はいっ」

 

 駆け足で戻って来たエリス先輩から『VARON300』を受け取り、グリップに右手を当てる。長らくの間握っていなかった筈なのに、吸い付くように手に馴染む。グリップテープの巻き具合にストリングスの強度、独特の重量感。これは確かに私だけの物だ。当たり前だけど、完治した肘にも痛みは無い。

 

「アキ―、いきますわよー」

「あ、はい!」

 

 エリカ先輩の声を合図にして、水分過多のコート上で守備重視のロブを数球打ち合う。思いの外に肩の温まりが早く、続いて攻撃的なロビングに切り替える。更に数打を重ねて、ある程度の力を込めた強打に。

 あった筈のブランクは無く、予想に反せず身体は覚えてくれていた。打球は自分でも驚く程に鋭くて、ラケットヘッドが走る。渾身の力を込めた強打が深めに刺さると、エリカ先輩のカウンターは下方へ逸れて、一度ネットに掛かってしまった。

 

「ちょっとエリカ。後輩に競り負けてどうするのよ」

「アタシと代わるかー。ネットプレイヤーにアキの打球は荷が重いぞー」

「う、うるさいですわよっ」

 

 エリカ先輩が二人を黙らせ、再度ラリーを再開する。

 楽しいと思えた。一打一打を重ねる度に、私は笑った。単にラケットでボールを打ち合うという行為が、堪らなく楽しかった。無心になってボールを追い掛け、泥塗れになってコート上を走った。楽し過ぎて目元が緩み、視界は段々と歪んでいた。

 

「あ、アキ?」

「だ、大丈夫です。気にしないで、下さい」

 

 涙を流すのは後回しだ。そう言い聞かせて目元を拭うと、エリカ先輩は一度ラリーを止めて言った。

 

「アキ。そろそろ貴女のウイニングショットを打ってみなさい」

「・・・・・・はいっ」

 

 ウイニングショット。ポイントを決定付ける取って置き。私にそんな打球があったとするなら、一つしかない。再度エリカ先輩とのラリーを繰り返していき、ギアを徐々に上げていく。

 

(私は―――)

 

 頭痛は治まらない一方で、痛みは和らぎ始めていた。だって私は、思い出そうとはしていない。見詰め直しているだけだ。かつての私が見い出した答えを、もう一度新たに拾い上げる。それでいいんだって思える。あの日からずっと目を逸らし続けてきた『今』の一つが、段々と定まってきている。身体の奥底から湧き上がる衝動に逆らわず、ラケットを振るえばいい。

 やがてエリカ先輩の打球はサイドラインの瀬戸際、浅めの地点にバウンドし、私は自然と構えを取った。

 

「さあ、来なさい!」

 

 踏み込みはクローズドスタンス。肩を思い切って入れて相手前衛に偽りの軌道を読ませ、同時に身体を一気に捻り、ラケットのヘッドを走らせる。打点が上がり切るよりも前にボールを叩き、鋭角から鋭角一杯に放つ、お兄ちゃん譲りの―――『ライジングクロス』ストローク。

 

 

「おおおぉぉるああぁあっ!!!」

 

 

 ストロークは対面のサイドライン上に刺さり、エリカ先輩の背後にあったフェンスを揺らした。打球を見届けた後、私はラケットを手離し、込み上げてくる感情に身を委ねた。頭痛はもう治まっていて、その場に座り込んで俯いてしまった私を、不安気な表情を浮かべる先輩らが囲んでいた。

 

「アキさん、大丈夫?頭が、痛むの?」

「違う、違うん、です。わた、わた、し」

「アキ・・・・・・」

「う、うぅ。ひっ、ぐううぅっ」

 

 記憶は今も眠ったまま。何も思い出せないし、何も変わってはいない。私はこの先もずっと、忘れたままなのかもしれない。でもこれで終わりじゃない。終わりになんてしたくない、諦めたくない。4月23日から、少しでもいいから進みたい。

 それに、分かったことがある。私が再びラケットを握った、お兄ちゃんの背中を追い求めた、ただ一つの理由。私は―――テニスが、大好きだ。

 

「わた、じ・・・先輩と、もっと・・・っ・・・・・・テニスを、したいです」

 

 一歩ずつで構わないから、歩き出そう。今日がその、一歩目だ。

 

_________________________________________

 

 テニスコートで蹲るという異様な光景は周囲の視線を集め、アキの姿に目が留まる同学年の生徒が、続々と集まり始めていた。アキがすぐに三人の先輩へ事情を伝えると、エリカらは逃げるように部室へ戻り、駆け足で杜宮学園を飛び出した。向かった先は、駅前のファミリーレストラン。人目が付かないよう店内の最奥のテーブル席に座り、アキは今更になって自覚した空腹感を、これも駆け足で充たしていた。

 

「アンタどんだけ食うんだよ。もう三人分は食ってるぞ」

「んぐ・・・・・・す、すみません。朝から、ほとんど食べてなくって」

「ふーん、アキにしては珍しいな。まあエリカの奢りだし遠慮は要らねえぜ」

「払うのはアキの分だけですわよ」

 

 週末の食事時ということもあって客足は多く、店内ではホールスタッフが忙しく歩き回っている。制服を着た学生は四人だけで、アキは頭痛に悩まされることなく、三皿目のパスタを頬張っていた。

 

「それで、どうするよアリサ。今日のこと、黙ってる訳にもいかないよな」

「そうね。週明けに一度、先生に相談してみましょう」

 

 アキの意思を汲んであげたいという想いを、三人はしっかりと共有していた。とはいえ事情が事情なだけに、手離しでアキを歓迎する訳にはいかない。休学中のアキに部活動が許されるのか。そもそも今のアキにテニスは許されるのか。一学生に過ぎない三人には、判断し兼ねる問題だった。

 

「っ!?」

「いずれにせよ、私達には・・・・・・アキさん?」

 

 リサが今後のことについて触れようとした矢先に、アキの手が止まる。握っていたフォークが皿の上に置かれ、顔は見る見るうちに青褪めていき、視線が落ちる。喉を詰まらせたのかと思えば、そうでもない。不審に思ったエリカが立ち上がり周囲を見渡すと、店内の入り口付近に、見覚えのある男子が二人、立っていた。

 

「あれは・・・・・・」

『やれやれ。おいジュン、喫煙席しか空いてねえってさ。別の店に行くか?』

『うん・・・・・・リョウタに、任せるよ』

『ったく。飯の時ぐらい気を楽にしろっての。胃に穴が空いちまうぜ』

 

 学園でも何度か目にした、度々アキと食事を共にする男子達。エリカは合点がいった様子でそっと座り直し、アキの表情を窺う。耐え難い苦痛に苛まれてしまっていることは誰の目にも明らかで、エリカは小声でアキに呼びかけながら、事の成り行きを見守った。

 結局ジュンとリョウタは店内での食事を諦め、アキら四人に気付かないまま、踵を返して店を出て行った。するとアキはコップの水を一口だけ含み、か細い声で言った。

 

「・・・・・・お手洗いに、行ってきます」

 

 三人がアキの背中を見送り、皿に残されたパスタを見る。これ以上喉を通らないであろうこと、そしてアキが未だ重々しい何かに囚われていることを受け止め、暗雲とした空気が漂い始める。

 

「辛いな。ダチの声が苦痛って、何の冗談だよ。そんな馬鹿な話があっていいのか」

「私達にも、できることがあればいいけど・・・・・・本当に、無力よね。私達」

 

 アキの歩みは、まだ一歩目に過ぎない。僅かな光を見い出したところで、苦痛が全てを上書きしてしまう。失った物は余りにも多く、些細な思い出がアキの表情を歪ませる。大切な後輩が暗闇の中で苦しんでいるという現実は、何も変わってはいなかった。

 

「リサ。連盟の連絡先を教えなさい」

 

 だからエリカは迷いを捨てて、代わりに『決意』を固めた。

 

「連盟?ソフトテニス連盟のこと?」

「まだ二週間ありますわ。準備期間としては充分です」

「二週間って・・・・・・あ、貴女まさかっ!?」

 

 二週間の準備期間という言葉に、リサはすぐに察した。エリスもリサに続き、リサは驚愕の声を上げた。

 

「ま、待ちなさいよ。エントリーの締切はもう一ヶ月も前なのよ。それに部員はたったの四人しかいないじゃない。二人も不足していて、どうやって『団体戦』に出るって言うの?」

「前例はあります。一戦を捨てて、残り二戦を勝てばいいだけの話ですわ」

「で、でも締切が」

「直談判しますわ。ミツキさんに教職員、東亰都の連盟・・・・・・いいえ。日本ソフトテニス連盟に、明日にでも直接出向きます。私は本気ですわよ」

 

 インターハイ都予選に向けて杜宮学園に認められた出場枠は、地区予選を勝ち抜いたリサとエリスの個人戦のみ。団体戦に条件は無いものの、応募期間は一ヶ月前に締め切られている。アキのような編入生には特別な制限もある。たとえ出場が認められても、団体戦は三組同士が競い合う三本勝負。トーナメント戦を勝ち抜くには、一つの黒星も許されない。

 

「お、おいおい。エリカ、マジで言ってんのか?」

「モチのロンです。それに出場するからには全勝が大前提ですわ」

「・・・・・・女王にも、か」

「当たり前でしょう。何度も言わせないで下さいます?」

 

 更に都内にはインターハイ王者、リサとエリスのライバルらが率いる強豪校、『聖アストライア女学院』が君臨している。勝利の二文字がどれだけ無謀で困難な挑戦かは、実力者だからこそ理解できてしまう。しかしエリカは微塵の躊躇いも見せずに、真剣な面持ちで続けた。

 

「勝利の先に何を見い出すのかは、アキ次第でしょう。ですがそれには、私達が必要な筈です」

「エリカ、貴女・・・・・・」

「アキの先輩として、同じテニス部員として、仲間として今のあの子を支えることが、できなかったらっ・・・・・・私達は、私はただの大馬鹿者ですわ」

 

 エリカの信念の根底には、部活動が秘める稀有な力があった。プロスポーツ競技には無い、社会には存在しない競争。何のしがらみや隔たりも無く、ただただ純粋に優劣を決める、青春を謳歌する若者にだけ許される戦い。敗北から学び取れることだってある。しかし二週間後のアキには、勝利しか許されない。その為に―――できることがある。

 

「私達にも・・・・・・できることが、あるのね」

「・・・・・・考えたこと、なかったな。誰かの為の、テニスなんて」

 

 自分にもできることがあるという可能性は、彼女らを突き動かすには、充分過ぎる光だった。

 

「ハッ!面白え、やってやろうじゃんか」

「ええ、そうね。私達も覚悟を決めましょう」

 

 三人の利き手が重なり、想いが重なる。誰もが腹を括っていた。

 

「因縁のライバルだのなんだのはこの際どうだっていい。勝とうぜ、アキの為に」

「絶対に負けられない戦いっていうのは、きっとこういうことを言うのね」

「照らしましょう、アキの明日を。あの子の背中を、私達の手で押しますわよ」

 

 団体戦開催日は、6月最終週の休日。奇しくも初日には、某アイドルグループの三周年記念ライブが予定されていた。

 

 

 



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6月28日 Pure Resolution

東亰ザナドゥのBGMの中では、表題が一番好きです。


 

 6月の3週目。本格的な梅雨空の下で、日ごとに増していく暑さに気怠さを抱き始める、初夏の季節に差し掛かった頃。空っぽだったアキの日常に、少しずつ変化が訪れていた。

 一つ目は復学に向けた、自宅での自主学習。教職員が総出となって組まれたスケジュールに沿い、アキには各科目の自主的な学びが課せられた。単身でも支障無く理解できるよう細心の配慮がなされ、場合によっては教員がアパートへ出向き、直接指導を行う。携帯電話を介した質疑にも常時応えるといったように、教員側の全面的な協力の下、アキは日中に学生としての本業を果たすことができていた。全てはアキの「復学したい」という意思の為に、誰もが助力を惜しまなかった。

 そして二つ目は、放課後の部活動。エリカら先輩を交えた切実な嘆願の末に、アキはラケットを握ることが許されていた。とはいえ学園側も、大きな事情を抱えたアキの自由を手離しに認める訳にはいかず、形ばかりのテニス部顧問であったゴロウの監視下においてのみ、という条件付きでの部活動だった。

 記憶を失った生徒という噂は既に全校へ広まっており、興味本位でアキの姿を覗く為、遠巻きにテニスコートを見詰める生徒も多数いた。そういった野次馬をアキから遠ざけていたのは、かつてアキと親交が深かった生徒達。「せめて今だけは、大好きなテニスに没頭して欲しい」という願いを胸に秘めつつ、「こんな近くにいるのに、手が届かない」という葛藤に苛まれながら、誰もが遠くから見守っていた。多くの人間に支えられ、想われながらの二週間は、あっという間に過ぎ去っていった。

 

_________________________________________

 

 6月28日、午前3時。一時はトラブルに見舞われたSPiKA結成三周年記念ライブも滞りなく閉幕を迎え、多くの者が冷めやらない興奮を抑えながら眠りに付いた、杜宮のひと夜。不意に目を覚ましたタマキは、寝返りを打ってアキが眠っているベッドの方を見やる。

 

「んん・・・・・・?」

 

 オレンジ色の常夜灯が僅かに照らすベッドには、誰もいない。シーツ上には薄手の毛布と枕だけが置かれていて、アキの姿が無い。物音や明かりも無い室内には、手洗いに起きた様子も見受けられなかった。

 

(・・・・・・アキ?)

 

 不審に思ったタマキがそっと布団の中から出て、立ち上がりながら周囲を見渡す。足音を立てないよう静かに歩を進め、リビングに繋がる扉を開ける。すると壁際に置かれていたステンレスラックの隣に、膝を抱えて小さく蹲る人影があった。そして胸の中には、あのスケッチブック。大切な思い出が詰まった一冊を抱きながら、アキは身動き一つ取らずに、暗闇の中に佇んでいた。

 

「あ、アキ?い、いつから」

「いえ、違います。ついさっきお手洗いに起きただけです」

「・・・・・・本当に?」

「本当ですよ。心配しないで下さい」

 

 まさか一睡もせずに、今の今まで。心配が杞憂に終わる一方で、タマキの表情は当然晴れない。アキが手にしているのは、苦痛の種。思い出でもあり、今のアキを苦しめる根源。取り戻すことが叶わない、失ってしまった大切な物を、アキは縋るように抱いていた。

 

「以前にも言いましたけど。何となく、分かるんです。もう一人の私のことが」

「アキ・・・・・・」

「時坂君も教えてくれました。友達の家で夜更かしなんて、自分でも信じられません」

 

 タマキは一度寝床へ戻ってタオルケットを拾い上げ、アキの隣へと座り、自分とアキの背中を覆った。

 アキが抱いている感覚は、創作上の物語に登場する主人公へ、過度に感情移入をするそれとよく似ていた。テニスを通して自覚した熱い想い。アルバイト先で見い出した夢。コウとの会話から垣間見えるかつての自分。掛け替えの無い、思い出達。それが本当に私だったらいいのに。思い出すことができたら、どれ程の幸せが待っているのか。そもそも私は、私だった筈なのに。

 

「本音を言うと、明日が・・・・・・もう今日ですね。今日が、怖いです。こんなことに意味は無いのかもって、そればっかり考えちゃって。事実、そうだから」

「それは分からないわよ。だからアキは、部活動を再開したんでしょ?」

「逃げていただけかもしれません。テニスをしている間は、何も考えずに済むんです」

 

 インターハイ予選の団体戦へ出場する。先輩らの熱烈な誘いを、アキは躊躇いつつも受け入れた。周囲から注がれる奇異の視線に耐えながら、無我夢中になってラケットを振るった。その先に何かが在ると信じて、この二週間を過ごしてきた。復学したい想いは確かで、「前に進め」というソウスケの言葉に支えられる形で、今日を迎えていた。

 しかし日を追うごとに膨れ上がっていく、得体の知れない不安。失う前の自分を知るに連れて、希望と絶望、光と闇の両者が交互にやって来る。今更になって深夜に足踏みをしてしまうのも、無理はなかった。

 

「大丈夫。きっと意味はあるわよ。テニスを抜きにして、アキは語れないしね」

「タマキさん・・・・・・」

「そろそろ寝よっか。今日が決勝戦なんだから、悔いの無いように万全の体調で臨まないと。何なら、一緒の布団で眠る?」

「・・・・・・そうします」

 

 いずれにせよ、今日が最後。団体戦初日は当初の予定を遥かに上回る速度で進行し、今日に持ち越された一戦は最後の決勝戦のみ。想いは様々あれど、やるべきことは一つしかない。数刻後に控えている決戦を前に、アキはタマキの腕の中で人知れず決意を固めた。

 

______________________________________

 

 有明テニスの森駅は、東亰臨海新交通臨海線、所謂ゆりかもめ線の高架駅。東亰港埠頭の『有明テニスの森公園』までは徒歩で約十分間程度の距離にあり、同公園の利用者にとってはお馴染みの駅でもあった。

 

「少し遅くなっちまったな。一時間以上掛かったか?」

「充分間に合うでしょ。試合の予定時間まで三十分近くはあるし」

 

 当日は有明テニスの森駅で集合しようと皆に声を掛けておいたコウは、ユウキと二人で先んじて当駅に到着していた。現時刻は午前8時半前。決勝戦の開始予定時刻は午前9時以降であり、道に迷ったりさえしなければ時間に余裕はある。コウは初夏の日差しを右手で遮りながら、一度背伸びをしてユウキに言った。

 

「柊達はまだみたいだな。ユウキ、向こうにコンビニがあるみたいだぜ」

「メロンソーダ」

「自分で買って来い馬鹿」

 

 冗談交じりの会話をしながら、コウが他メンバーの予定を確認する。アスカとソラ、リオンは同じくゆりかもめを使ってコウと合流する。ミツキは三年生の友人らを拾い、キョウカの運転で応援に駆け付ける。倉敷家の自家用車にはシオリ、ジュン、リョウタ。シオは単身オートバイで。出場選手のテニス部員らは、顧問のゴロウが引率をして早朝に会場入りをする手筈となっていた。

 

「トワ姉も遅れて来るっつってたっけ。応援団も大人数を引き連れて来るって話だし、結構な人数が集まりそうだな」

「話題性は抜群だからね。たったの四人で決勝まで勝ち上がったってだけでも、過去に例が無い快挙らしいよ。でもさ、本当に僕らも行っていいの?」

「アキがそう言ってんだから、遠慮は要らねえだろ。遠くから応援するぐらいならあいつも・・・・・・ん、来た来た」

 

 コウの視線の先には、一本遅れて駅に降車したアスカらの姿があった。三人がコウとユウキに気付くと、リオンは大きく右手を振りながら快活な声を上げた。

 

「おっはー、二人共!先に来てたんだ」

「おう。朝っぱらから元気だな、玖我山」

「当ったり前でしょ。今日は喉が潰れるまで応援するわよっ」

「潰しちゃ駄目だろ・・・・・・やれやれ。お前も相当タフだよな、感心するぜ」

 

 天使憑きの発現による衰弱と、グリムグリードとの死闘。間を置かずに飛び込んだ三周年記念ライブ。終了後は関係者への挨拶回りに打ち上げ。想像するだけでも肩が懲りそうな一連の全てを、リオンは苦も言わずにこなし、そして乗り越えた。『想いを込めてはいけない』という呪縛から解放されたリオンは、ただ一人の友人の為に声を捻り出してみせると、並々ならない決意を以って応援に駆け付けていた。

 

「っと、シオリからだ。ワリィ、少し待ってくれ」

 

 コウが四人から距離を取り、サイフォンを鳴らす着信に応じる。残すところはシオ一人。予定時間から考えて、直に到着する頃合だった。

 

「アスカ先輩、会場までの道は分かりますか?」

「移動中にサイフォンで調べておいたわ。でも・・・・・・随分と人通りが少ないわね」

「少ない?」

「ええ。もっと賑わっていてもよさそうなものだけど」

 

 駅の周辺を見渡しながら、アスカは一抹の疑念に触れた。こういったイベントが開催される日には、決まって最寄駅が盛況する。駅員もそれを考慮して対応するのが常で、コンビニのような施設も仕入れ量を増やし、売り上げを伸ばす絶好の機会でもある。一方で今の有明テニスの森駅は、思いの外に閑散としていた。残すところが決勝戦だけとはいえ、ユウキが言ったように盛り上がりは大会史上最高と言ってもいいレベルであり、アスカの引っ掛かりは尤もだった。

 皆が首を傾げていると、シオリと通話中だったコウが四人の下へ近寄り、神妙な面持ちで言った。

 

「なあ柊。会場って、確かお前が調べてくれたんだよな」

「ええ、そうよ。webサイトを見て調べたけど、それがどうかしたの?」

「もう一回、調べてくれ」

 

 コウの声に怪訝そうな表銃を浮かべながら、アスカがサイフォンを操作する。素早い手付きでキーワードを打ち込み検索ボタンを押すと、すぐに東京都高体連の公式サイトが表示された。

 

「平成26年度、全国総体女子ソフトテニス団体・・・・・・あら、平成26年?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あらじゃねえよお前ふざけんな!!いやマジでふっざけんなよ!!?」

「嫌がらせですか!?アキ先輩への嫌がらせなんですか!?」

「どうしてくれるのさ!っていうかそれマジボケ!?」

「『多摩東公園』って思いっ切り遠ざかってるじゃない!ああもうどうするのよ!!」

「なーにやってんだお前ら。ぎゃあぎゃあと騒ぎやがって」

 

 アスカが途方も無い罪悪感で頭を白くしている最中、同じく誤情報に惑わされたシオがオートバイを道端に停め、慌てふためく五人に声を掛けていた。

 

「とと、とりあえず、状況を整理しましょう。私達以外は、正しい会場に向かっているのよね」

 

 平成27年度の団体戦予選開催地は多摩地区スポーツ施設の一つ、多摩東公園庭球場。陸上競技場に隣接した、杜宮市から程近い場所にあるテニスコートだった。対して今現在の居場所は、東亰港埠頭の駅近辺。鉄道を使っても相当な時間が掛かる、遠地に来てしまっていた。

 

「四の五の言っても始まらねえ。どうだユウキ、間に合いそうか?」

「で、電車の移動だけでも一時間半近くは掛かるって。試合開始には、とても」

「やれやれ。まさかとんぼ返りをする羽目になるとはな」

 

 五人の視線が交差し、想いが重なる。せめて一目だけでも、一声だけでもいい。それだけを願いながら四人が駆け出し、オートバイのエンジンが唸り声を上げる。アスカだけが、胃に鈍い痛みを覚えていた。

 

_________________________________________

 

 杜宮学園女子テニス部に与えられた出場権は、インターハイ都予選のみ。出場自体は認められたのだが、正規の手続きを踏まない特別枠での参加という事情により、制限が設けられていた。たとえ今日、聖アストライア女学院から白星を勝ち取っても、インターハイ本戦の全国大会は叶わない。既にその権利は女学院側にあり、公式記録に杜宮学園の名を残すことはできない。杜宮学園の四人にとっては、充分過ぎる条件だった。

 

「見ろよアリサ。予選だってのに、すげえ数のギャラリーだな」

「ええ、本当に。アキさん目当ての観客が多そうね」

 

 杜宮学園の生徒は勿論、アキを知る人間はそのほとんどが集っていた。ガーデンハイツ杜宮、商店街の住民ら、アルバイト先の関係者、裏の世界を知る者達。そして観客達は、コートに立つ四人が発する並々ならない闘志を、肌で感じていた。試合開始と同時に一敗が確定しているというハンデを背負いながらも、見事決勝戦まで勝ち抜いた姿に、何かを想わずにはいられなかった。絶対に負けられないという一点においては、最早言葉は不要だった。

 

「さてと。一応の顧問として、アドバイスの一言二言ぐらいは、しておきたいところなんだが・・・・・・参ったな。掛ける言葉が見当たらない」

 

 杜宮学園側のベンチに立つジャージ姿のゴロウも、それを理解していた。勝ちたいという過度の気負いはかえって身体を強張らせ、時に悪影響を及ぼす。しかしその一線を超える世界は確かに存在している。尋常ではない意志を力へと変える領域に、四人は達していた。

 

「それで、向こうさんはどれぐらいの強敵なんだ?」

 

 テニスの知識に乏しいゴロウが問うと、アキが反対側のコートで準備を進める女学院の選手らを見ながら答える。

 

「昨年と一昨年は、インターハイで準優勝。その前の年では優勝を果たしています」

「成程な。掛け値なしの強豪校か。お前達も、思い切った挑戦をしたもんだ」

「はい。でも・・・・・・私は、勝ちたいです」

「当然ですわ。負けるつもりは更々ありませんわよ」

「ああ。滾るなって言う方が無理ってもんだぜ」

「佐伯先生は後ろでどっしりと構えていて下さい。割と名将に見えますよ?」

 

 随分と場違いな所へ来てしまった。ゴロウはそう感じると共に、死人憑きによる一件を想い起こす。あの亡霊が彼女らに取り憑いたとは、到底信じられない。歪んだ感情の一切が無く、在るのはひたすらに真っ直ぐな決意。その青臭さが、素直に悪くないと思えた。

 

「お前達の全てをコート上に置いて来い。俺から言えるのは、それだけだな。さあ、整列だ」

「「はいっ!」」

 

 横一列にコートへ並び、主審の声を合図にして前に進む。ネット越しに立つ層々たる顔ぶれは、乗り越えるには余りにも高い壁。思わず目を逸らしてしまいそうになる圧力を、アキはパートナーの手を握ることで跳ね除ける。今日の先に在る明日を信じ、梅雨間の夏空を仰ぎながら、エリカの手を握っていた。

 やがて四人はペア同士に別れ、それぞれに当てられたコート上に再度立った。リサとエリスは敗北を喫し続けてきた因縁のライバルと、そしてエリカと共にアキが対峙するは、驚いたことにアキと同学年。二年生でありながら二番手の座を勝ち取った、二人の実力者。地力の差は当人らが最も理解していた。

 

「アキ。先手必勝でいきますわよ」

「分かってます。長引いたらこちらが不利ですから」

「結構。存分に声を張りなさい」

「はいっ」

「サービスサイド杜宮学園、遠藤・高松ペア!レシーブサイド聖アストライア女学院、志波・レインハイムペア!7ゲームマッチ、プレイボール!!」

 

 利き手同士でハイタッチをすると、主審が試合開始のコールを高らかに宣言する。それを皮切りにして、両サイドから発せられる声援の数々が、一斉に二面のコートを包み込む。杜宮学園側からは、サキとアヤトの二人によって形成された大応援。高校の部活動ならではの熱気が、アキの背中を押していた。

 

「痛ぅ・・・・・・!」

 

 そして声援に混じるほんの一握りの友人の声が、小さな頭痛を引き起こす。研ぎ澄まされた集中力が、無意識のうちに聞き分けてしまう。エリカに悟られないよう、アキは一度深呼吸を置いて、前を見据えた。

 

(痛みなんて、知らない・・・・・・!!) 

 

 全てを奥底に抑え込み、アキは高めに上げたトスへ渾身の力を込めて、オーバーヘッドサーブを叩いた。サーブは狙い澄ましたセンターラインギリギリの地点に着弾し、一歩反応が遅れた志波のレシーブが浅めに返ってくる。アキはコートを駆り、身体を捻りながらの僅かなステップだけで、完璧な打点からの一撃を放った。

 

 

 

「だああるぁああああっ!!!」

 

 

 

 続けざまの強打により生み出された絶好の機を、エリカのスマッシュボレーが得点へと変える。ファーストポイントとしては理想と呼べる形で、戦いの火蓋が切って落とされた瞬間だった。

 

________________________________________

 

 ファーストセットを先取し、セカンドセットを落とす。強力なサーブを得意とするペア同士、お互いに度重なるデュースの末にセットを勝ち取っては、続くセット取り戻されて追い付かれる。他のスポーツ競技と同様で、追い付かれてしまえばポイントに際限は無い。既にセットカウントは3-3、その全てがフルカウントを超えており、大会史上最多記録に迫る長期戦の様相を呈していた。

 

「かなり足に来ているな。遠藤、失礼するぞ?」

「は、はい」

 

 ベンチ上に座ったアキの右足にゴロウが触れると、慣れた手付きで脹脛にマッサージを施す。何処でそんな技術を覚えたのか、それを問う余裕はエリカにも残されていなかった。

 短期決戦を望んだ理由は、何より身体の鍛え方と地力の差にあった。常日頃からテニスに全てを注ぐ対戦相手とは違い、アキにはブランクもある。長丁場になればその差が如実に表れ、体力と共にあった筈の戦意までもが削がれていく。その上相手はダブルフォワードとスピンサーブを駆使する、トリッキーな戦術を以ってこちらを攪乱してくる。オーソドックスなスタイルだけが武器のアキとエリカには、荷が重過ぎる強敵だった。

 

「アキ。足の具合は如何ですの?」

「だ、大丈夫です。まだ、やれます」

 

 言葉は強くとも、残されている物は自分にも数少ない。ここからどうやってファイナルゲームを勝ち取ればいいものか。エリカが考え倦ねていると、観客席から小さなどよめきが生まれ始める。

 

(何ですの・・・・・・?)

 

 声援とは異なる類の、ざわめき。見れば、先程まで応援団の生徒がいた筈の席に、鉢巻きを額に巻いた女子生徒が一人、立っていた。学園内では何度も、そして今朝方の情報番組の中ではステージ上で歌い踊っていた、アイドルグループの一員。周囲の目を引くには、充分過ぎる顔だった。リオンは周囲から向けられる視線など気にも留めようとせずに、確かな『想い』を込めた声を以って、喉を振るわせた。

 

「フレー!!フレーッ!!もぉりーみーやああぁっ!!!せぇーのお!!」

 

 たちまちの内に、大声援は最高潮に達した。リオンの歌声に、誰もが応えずにはいられなかった。コウ、アスカ、ユウキ、ソラ。リョウタ、ジュン、シオリもリオンに並んで、声の限りを尽くしていた。その熱烈な大合唱とは裏腹に、エリカは二週間前のアキを思い出し、ハッとした表情でアキの様子を窺う。

 

「あ、アキ?」

「ぐっ・・・・・・う、ぅ」

 

 会場に皆を呼び寄せたのは、アキ自身。唯一会話を交わせるコウを介して、アキが望んだことだった。結果として唐突に降り掛かる、苦痛。仲間の声は、苦しみしか生み出さない。その現実は、今も変わらずに―――

 

 

 

「―――うわああああああぁぁああああ!!!!」

 

 

 

________________________________________

 

 絶叫に近いアキの雄叫びは、観客席の声を一瞬だけ掻き消す。しかし声援は鳴り止まず、同窓の声はエリカにも降り注ぐ。エリカは荒々しい呼吸で肩を揺らすアキの背中を見詰めながら、声援の全てに耳を傾けた。エリカの心にも、しっかりと響いていた。

 

「エリカさん、ファイトです!あと少しですよ!」

 

 言われずとも分かっている。生徒会長は生徒会長らしく、堂々と構えていて欲しい。

 

「おら高松!男なら根性見せやがれってんだ!!」

 

 誰が男だ。不良生徒は黙って見ていろ。

 

「燃えるのよエリカ、ここで燃えなきゃ女じゃないわ!!」

 

 空手部主将はいちいち暑苦しい。男だの女だの、一体何を語っているのだろう。

 

「ここが踏ん張りどころだ。集中を切らさないよう、落ち着いて冷静にね」

 

 剣道部主将が一番まともなことを言う。ここで一旦、仕切り直しといこうか。

 

「エリカ君、全てこのビデオカメラに収めているよ。君がこの物語の主人公さ!」

 

 映画研究部の長は、少々勘違いをしている。もしこの場に主人公がいるとするなら、それは私ではない。私は脇役として、助役として支えてあげればいい。以前に気紛れで主演を引き受けたことがあったけど、それとは別問題だ。そう、今日の私は主人公じゃない。

 

「アキ」

 

 エリカが身体を震わせるアキの肩に手を置くと、一際強い声援が、隣のコート上で沸き上がる。エリカらと同様にフルセットまでもつれ込んでいた死闘は、彼女らの白星。勝利への一歩は今、二人へと託されていた。

 

「ど、どうだ。お膳立てには、充分だろ!!」

「エリカ、あとはお願いっ・・・・・・アキさんを、勝たせてあげて!」

 

 これも的外れな物言いだと、エリカは笑いながら独りごちた。勝たせてあげるではない。アキと一緒に勝利を掴み取る、だ。幼少の頃より続けてきたテニスは今日の為にあったのだと、今なら胸を張って言える。いずれにせよ団体戦しかない自分にとって、高校での部活動は今日が最後。一足先に、夏が終わる。なら己の全てを今日に注いで、この子の明日を照らして見せる。

 

「アキ。物思いに耽るのは勝った後にしなさい。まだ終わってはいませんわ」

「ぐすっ・・・・・・はい」

「泣くのも後です。さあ、いきますわよ」

「はい!」

 

 二人が遅れて定位置に付くと、主審がファイナルゲーム開始のコールを告げる。試合展開は変わらずに、ワンポイントを取っては取られるを積み重ねる、接戦に次ぐ接戦。複数回のデュースの果てにポイント数が13-12となり、大会史上最多ポイント数の記録を塗り替えた頃には、コート上に立つ四人全員の限界が近付いていた。

 

「あ―――」

 

 打った瞬間に悟ってしまう、サービスミス。アキのファーストサーブは大きく下方へと逸れて、ネット前のコート面を叩いてしまった。ここまで大幅なズレは今日が初。集中力を保たないと、セカンドサーブまで外しかねない。アキは一旦眼鏡を掛け直し、全神経を研ぎ澄ませた。

 身体が重い。呼吸が苦しい。額の汗が眼鏡に張り付くせいで視界も悪い。右の脹脛がぴくぴくと痙攣していて、これ以上無理をすると本当に右足が攣ってしまうかもしれない。相棒の先輩も限界が近い。このアドヴァンテージを取らないと、追い込まれるのはこちら側。だったら、声を聞けばいい。

 

「もう、迷わない・・・・・・!!」

 

 アキは溢れ出てくる感情に身を委ね、セカンドレシーブを強打で返して先手に打って出る。ストロークの打ち合いで優位に立ったアキは、躊躇いの一切を捨ててラケットを振り切り、相手のバックハンドを突いてマッチポイントを奪いにいく。

 

(読まれて―――?)

 

 しかし相手後衛は先読みをしてフォアハンド側へと回り込み、肩を入れて待ち構えていた。強引な攻めは相手側のチャンスボールへと変貌し、カウンターが前衛のエリカとサイドラインの間へと襲い掛かる―――筈だった。

 

「っ!!」

 

 更に先を読んでいたエリカのボレーが、寸分狂わぬ形で相手コートのライン上へと吸い込まれていく。勝敗を決する一打の軌道が、全員の目にひどくゆっくりと映り、一瞬の静寂が会場全体へと訪れる。直後にアキの背後から生まれた大歓声は、アキの耳に届いてはいなかった。

 

「う・・・・・・うぅ」

 

 その目には、エリカの背中がとても頼もしく映り。 

 待ち望んでいた瞬間も、突然やって来る。

 頭痛は疾うの昔に治まっていて、しかし思い出は依然として眠ったまま。

 思い出せはしないけど、枷は外れた。

 何も変わらない一方で、変わった物がある。

 この想いを一番最初に伝えなければならない、誰かがいる。

 

「ひ、ぐっ。う、ううぅ」

 

 止め処が無いアキの感情と涙を、エリカは受け止めようとしなかった。

 その役目は自分ではない。分かっていたからこそ遠慮をして、身を引いた。

 

「アキ!?」

「遠藤さんっ・・・・・・」

「アキちゃーん!」

「アキさん・・・・・・アキさん!!」

 

 テニスコートへ雪崩れ込んで来る面々を見て、エリカは笑った。リサとエリスもエリカに倣い、泣きながら笑った。たった一人の後輩が見い出した光、紡がれし想いは明日へ繋がり、新しい夏へと続く。止まない雨は無く、梅雨の明け時はすぐそこにまで、迫っていた。

 

 



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最終話
7月6日 微睡んで


 

 チョークを使い、黒板へ『遠藤亜希』の名を綴る。緊張のせいかやや不格好になってしまったけど、今は読めればいい。最後の一文字を書き終え、手に付いた白い粉を払ってから振り返る。三十人超の視線を一手に注がれると、胸の鼓動が再び高鳴り、声が詰まってしまう。

 

「ふ、伏島から来た、遠藤アキです。宜しくお願いします」

「「・・・・・・」」

「こらこらみんなー。そこは黙るところじゃないでしょー?」

 

 九重先生の声に対し、クラスメイト全員が一様にして困り顔を浮かべた。想像はしていたけど、色々な意味で気まずい。最前列の席にいた女子生徒らは、躊躇いがちに九重先生に返し始める。

 

「うーん・・・・・・改めて自己紹介されても。何ていうか、その」

「二ヶ月前にも同じやり取りがありましたよね。既視感がすごいですよ」

 

 週明けの7月6日、月曜日。念願の復学を果たした私は、九重先生に連れられて二年B組の教室を訪れ、黒板の前に立った。私にとっては見慣れない光景しか無く、新鮮味と緊張感が溢れる早朝のSHR。こうして教壇側から見下ろす顔ぶれも、一部を除いて見覚えの欠片も無かった。

 しかし緊張の余り胃が痛くなりそうな私とは裏腹に、みんなにとってはまるで正反対。一ヶ月振りとはいえ、「初めまして」と言われても今更感が満載のようだ。この異様な雰囲気も、生涯一度切りに違いない。胃が痛い、本当に。

 

「そう言わないの。遠藤さんにとっては登校初日みたいなものなんだから。という訳で、遠藤さんに何か質問がある人はいるかな?」

「「・・・・・・」」

 

 再び訪れる静寂。ちらと壁の時計を見ると、現時刻は朝の8時10分。授業の開始時間は前に在学していた高校と同じ筈だから、時間にはかなり余裕がある。私の為にと早い時間帯からSHRを始めてくれたのはいいとして、既にこの有り様である。もう終わりにしてもいいんじゃないかな。

 

「遠藤、一ついいか?」

「え・・・・・・あ。は、はい?」

 

 不意に切り出したのは、後方の席に座っていた時坂君。時坂君は目元を指でトントンと叩きながら、二ヶ月前とは異なる一点について触れた。

 

「眼鏡、掛けるようになったんだな。視力が落ちたって聞いてたけど、やっぱ部活動の為か?」

「は、はい。言うほど、悪くなった訳ではないんですけど。ボールがぼやけて見えちゃうので・・・・・・や、やっぱり変ですか?」

「言ってねえだろそんなこと。ったく、そういうところは相っ変わらずだよな」

 

 「相変わらず」が何を指しての言葉なのか分からないでいると、うんうんと頷きながら同意を示す生徒が複数人、視界に映る。私が知らない誰かが私を知っているという現実が、未だに慣れない。もう少し、時間が掛かりそうだ。

 

「九重先生。こういった場合は、逆の方がいいのではないですか?」

 

 時坂君に続いたのは、私から見て右前方。クラス委員長を務める、帰国子女の柊さんだった。

 

「逆?」

「はい。遠藤さんについて私達が知っていることを、彼女に教えてあげた方がいいと思うんです」

「・・・・・・そっか。それもそうだね」

 

 九重先生の声を合図にして、全員の表情が変わった。心なしか嫌な予感がすると思いきや、みんなが知る遠藤アキが口々に飛び出してくる。

 

「良くも悪くも大人しい性格ね」

「成績は中の上ぐらいじゃねえかな」

「結構漫画とか読む方。ジュンから色々借りてなかったっけ」

「遠藤さんと言ったらパン屋よ、パン。パン抜きには語れないわ」

「遠藤さんのサンドイッチ超美味しいよね。また食べたい」

「予約待ちが発生するレベルで大人気だったわ」

「でも学食じゃ丼物ばっか食ってたよな?」

「豚マヨ丼を食う女子なんて相沢と遠藤ぐらいだろ」

「そんな遠藤さんも大好きだぜ!!」

「節操無し」

「クズ」

「腐れ外道」

「みんなー、伊吹君じゃなくて遠藤さんだよー」

 

 後半部分は別として、気恥ずかしいにも程がある。突然丸裸にされた気分だった。

 でも不思議と、悪い気はしない。少なくとも半年前の私とは違う。歪んだ視線を向けられたり、身に覚えの無い侮蔑や拒絶も無い。有りのままの私を、この教室で共に過ごした私を、みんなが受け止めてくれている。失ってしまった物の重みを改めて認識させられる一方で、『帰って来た』という安堵が胸の中に充ちていく。私はしっかりと、そして今も二年B組の一員だった。それだけで、充分だ。

 

「テニスもすごいよね、遠藤さん。この間の試合さ、あたし泣いちゃったよ」

「え・・・・・・み、観ていたんですか?」

「なーに言ってんの。ここにいる全員が観てたわよ。会場も近かったしね」

「みんなで応援してたんだから。柊さんと時坂は超遅刻してたけど」

「試合会場を間違えるなんて、時坂も間抜けよね。巻き込まれた柊さんがかわいそう」

「おい柊ぃ!!お前ふざけんなよ!?」

「な、何のことかしら」

 

 ソウスケさんの言葉を信じて、歩いて行こう。やがて辿り着いた先に、見失ってしまった全てがあると、そう信じて。遠藤アキの新しい日々は、まだまだ始まったばかりなのだから。

 

________________________________________

 

 覚悟はしていたけど、授業には付いていくだけで精一杯。自宅学習の甲斐あって、ある程度の理解には達していたものの、復学初日という緊張感も相まってか終始張り詰めっ放しだった。午前中の授業を終えた頃には、物の見事に疲弊し切っていた。

 

「アキちゃん、大丈夫?」

「は、はい。どうにか、こうにか」

 

 私は今、私と席が近い四人のクラスメイトと一緒に、クラブハウス一階にある学生食堂へと向かっていた。以前の私と親交が深かった友人については、人となりを時坂君から事細かに聞かされていたせいか、初対面という感覚が薄く、変に気を遣わずに会話を交わすことができていた。

 

「でも大変だね。来月には期末考査もあるから、人一倍頑張らなきゃいけないし」

 

 一人目は倉敷シオリさん。時坂君の幼馴染で、幼少の頃からの付き合い。おっとりとしていて控え目な性格だけど、芯が強くて言いたいことはしっかりと口に出す。お父さんは駅前の書店を経営していて、シオリさんも将来は司書の道を目指している。親子揃って筋金入りの読書家さんだ。

 

「困ったことがあったら、何でも言ってよ。僕らも力になれると思うからさ」

 

 小日向ジュン君。体格は私と同程度で、その中性的な顔立ちから、一見すると大変失礼な感情を抱いてしまう。シオリさんと同じで部活動はしておらず、漫画やアニメが趣味なインドア派。私も度々小日向君から漫画やライトノベルを借りて読んでいたそうだ。借りたままの物があったら、今度しっかりと返しておこう。

 

「さーて、飯だ飯。今日は何を食おっかなー」

 

 伊吹リョウタ君。ただの馬鹿。

 

「ぶふっ!」

「うん?何だよ遠藤さん、思い出し笑いか?」

「い、いえ。その」

 

 余りにもあんまりな時坂君による伊吹君の紹介を思い出し、唐突に笑いが込み上げてくる。きっと良い人に違いないし、SHRの際にも敢えて場を盛り上げる為にあんなことを言ったのだろう。伊吹君は時坂君とシオリさんとも付き合いが長いそうで、商店街にある青果店の一人息子。店先で度々顔を合わせたこともあった。

 ともあれ、時坂君を含めた四人は初登校も同然の私の立場を配慮し、今もこうして食堂へ案内をしてくれていた。その心遣いが、今の私にとっては何より頼もしく、嬉しい限りだ。

 

「あのー。遠藤先輩、ですよね?」

「え?」

 

 階段を下りて食堂の入り口に差し掛かった頃、後方から聞き覚えの無い声を掛けられる。振り返ると、肩にピンク色の鞄を提げた、セミロングの髪型をした女子生徒が一人立っていた。

 

「え、えーと、はい。遠藤、です」

「私はバレー部に所属する一年生です。あ、今日が初対面ですよ」

「バレー部の・・・・・・わ、私に、何か用ですか?」

「感動しました」

「へ?」

 

 訳が分からず素っ頓狂な声を漏らしていると、一年生のバレー部員は両手で私の右手を取り、目を輝かせて続けた。

 

「先輩の事情を知っていて、こんなことを言うのは失礼かもしれませんけど・・・・・・先月末の試合、大変感動しました。バレー以外であんな風に心を動かされたのは、初めてです」

「そ、そんな。私は、別に」

「先輩の勇姿から、沢山の勇気を貰いました。影ながら応援させて下さい、遠藤先輩」

 

 後輩さんは私に頭を下げ、応援の二文字を置いて去って行った。その背中と握られた右手を交互に見詰めていると、時坂君が笑いながら言った。

 

「今日で何人目だよ。移動教室の時も、似たようなのが訪ねて来てたよな」

「・・・・・・多分、四人目です」

 

 細かな違いはあれど、大まかには今のやり取りと同じ。私を訪ねて来た同窓は、彼女が初めてじゃない。先輩らと共に戦った団体戦はクラスメイトのみならず、多くの杜宮学園生の知るところとなっていた。直接会場に出向いて観戦していた生徒もいれば、動画サイトを利用して知った生徒もいるようだ。

 そう。あの決勝戦は映画研究部の先輩により某動画サイトに投稿され、サイトユーザーなら誰もが視聴できるようになっていた。勿論私達女子テニス部員の了承を得ての投稿ではあったのだけど、まさかこれ程の反響を生むことになるとは思ってもいなかった。動画の視聴回数は既に五万を超えていて、コメント数も日に日に増加の一途を辿っている。良くも悪くも、大いに目立ってしまっていた。

 

「話は後にして、先に食券を買おうぜ。あれが券売機で、麺類はトレーを持って左の列、それ以外は右の列に並ぶんだ。ソースやマヨネーズなんかは常識の範囲内で使えよ」

「は、はい」

 

 時坂君が教えてくれた手順を踏むと共に、SHRの際に耳にした品名を思い起こし、小銭を入れて『豚丼(大)』のパネルを押す。豚マヨ丼の名はメニューに見当たらないから、以前の私は豚丼の上にマヨネーズをトッピングしていたのだろう。確かにそんな丼物を好んで食べる女子高生はそういない。

 先んじて席に着いていたみんなと同じテーブルに座ると、時坂君は私のトレーを見て「お前の常識の範囲は広過ぎる」と言って薄ら笑いを浮かべた。シオリさんは「アキちゃんらしい」、伊吹君は「相沢を超えた」、そして小日向君は皺が寄った額に手を当てながら、どういう訳か視線を落としていた。

 

「あ、あの。小日向、君?どうかしましたか?」

「うん・・・・・・少し、頭痛がね。最近よくあるんだ」

「この間も言ってたよな。おいジュン、一度病院で診てもらった方がいいんじゃねえのか?」

「そうするよ。リョウタも一緒に行こうか?」

「そいつはあれか。頭の中身を診て貰った方がいい的なあれなんだな」

 

 下らないやり取りに笑いながら、丼を持って箸を動かす。小日向君は別として、頭痛に悩まされる私の日常は終わりを告げた。私を縛っていた枷は外れ、こうして平穏な時を過ごすことができる。失くした物を望んでも何も生まれはしないんだって、今なら割り切って言える。心機一転の再スタートだ。

 

「そうそう。さっきの話だけど、アキちゃんすっかり有名人になっちゃったね」

「ゆ、有名人という訳では」

「でも取材のオファーも来てるんでしょ。何ていう雑誌だっけ?」

「・・・・・・ソフトテニスマガジン、です」

 

 シオリさんが触れたように、私が愛読するテニス雑誌の記事を担当する記者から、取材の打診が来ていた。記憶を失った少女が明日を掴む為、たったの四人でインターハイ優勝候補を打ち破ったという話題性溢れる快挙は、ソフトテニス界へ一気に広まった。動画投稿もその火付け役となり、関心を示した記者が杜宮学園に取材を要請した、というのが先週末の経緯。有名人と評されても、否定できない状況にあった。

 取材を受けるか否か。迷いはしたけど、私は思い切って受け入れた。三人の先輩と共に戦ったあの二日間を、思い出として残したかった。こんな体験も、きっと人生最初で最後のことだ。

 

「遠藤さんが雑誌に載るのかぁ。取材はいつなの?」

「えーと。今週末に、記者さんが学園まで―――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『もう少しだよ。アキちゃん』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「明後日の水曜日に、アクロスタワーのレストランへお呼ばれされてるんです」

「明後日っつーと、7月8日か。随分と急だな」

「それにレストランって、上層のあの高級レストランか?マジかよ、超ハイグレードじゃん」

「食事でもしながら、気軽に話そうって・・・・・・あの。ち、違いますよ?」

「まだ何も言ってねえ」

「あはは、アキちゃんらしいや」

 

 決して食事付きという条件に惹かれた訳ではない。まあ本音を言えば少しは、って違う違う。取材には、タマキさんと九重先生にも同行して貰う予定だ。テニス用品メーカーの宣伝も兼ねて、ラケットとシューズを持参して欲しいという申し出も、断る理由は見当たらない。とりわけ秋口に発売予定の試作品シューズとやらは、大きな宣伝効果を生んでくれるだろう。

 

「痛ぅっ」

「え。じ、ジュン君?また頭痛?」

「う、うん。大丈夫、少し痛んだだけだから」

 

 小日向君が握っていたスプーンがトレー上に置かれ、気遣わしげなシオリさんが小日向君の顔を覗き込む。結局小日向君は昼休みが終わるまで、皿に盛られたカレーライスを半分程度しか口にしなかった。その理由が、私には分からなかった。

 

________________________________________

 

 午後の授業を何とか乗り切り、一息を付いた放課後。クラブハウス二階にある部室の扉を開けると、そこには生活感溢れる一室があった。色鮮やかな装飾や小物、雑誌に電気ケトル、ティーセット。やけに充実した物品を片していたのは、共に戦った三人の先輩ら。いち早く私に気付いたアリサ先輩が、パンパンと両の掌を叩いて声を掛けてくる。

 

「やっと来たわね、アキさん。久し振りの学園生活はどう?」

「大変でしたけど、楽しかったですよ。みんな気を遣ってくれて・・・・・・本当に、楽しかったです」

「そう。少し心配だったけど、杞憂だったみたいね」

 

 アリサ先輩に続いて、エリス先輩とエリカ先輩も手を止めると、三人が横一列に並び始める。改まった先輩の態度に、私は放課後の部室へ呼び出された理由を察した。新たに始まった日常があれば、終わる物もある。

 

「アキ。私達が言わずとも、もう分かっていますわね」

「・・・・・・はい」

 

 先週末に行われたインターハイ都予選個人の部。見事決勝まで勝ち抜いたアリサ先輩とエリス先輩らは、再び聖アストライア女学院のエースと対峙し、そして接戦の末に、惜敗した。女王としての矜持を守り抜いたエミリ・テレジアペアは全国大会へと駒を進め、団体戦の出場権も同女学院にある。本戦に向けた予選の全てが終わり―――三人の部活動生活も、終わる。進学や就職といった新たな目標に向かって、三年生の先輩らは歩を進めていく。

 

「アタシらの部活動は、昨日で終わりだ。悔いは無いし、有終の美を飾れたと思ってる。だから女子テニス部の今後を、アキ。アンタに託したい」

「アキさん。もし貴女が今後もテニス部に在籍してくれるのなら、これを預かって欲しいの」

 

 アリサ先輩が差し出してきたのは、女子テニス部の活動日誌と、部室の鍵。たった一人の管理者に手渡される、部長の証。部室前に掲げられていたプレートも既に空白で、アリサ先輩の名は消されていた。

 

「私達が抜ければ、貴女一人。暫くは活動のしようが無いけど、きっと来年にはたくさんの後輩が集まってくれる筈だわ。実を言うと、何人かの中学生から問い合わせが来ているのよ」

「え・・・・・・そうなん、ですか?」

「是非アキさんと一緒に、インターハイを目指して頑張りたいってね。部員がアキさん一人しかいないって言ったら、尚更力になりたいって言ってくれているの」

「私達としても、このまま部が廃れるのは本意ではありませんわ」

「スカウト無しに、有望な後輩が都内から集まってくるんだぜ。全部アキの力さ」

 

 アリサ先輩から活動日誌と鍵を受け取り、この三週間を想う。テニスをしたいという私の願いを受け止め、何も言わずにラケットを握らせてくれた。団体戦に出場して、一緒になって戦って、勝利の先に手に入れた掛け替えの無い今日。まるで先が見えない迷い子の私を導いてくれたのは、三人の先輩に他ならない。この居場所を守り続けたいと、素直に思える。言葉では表し尽くせない、想いがある。

 

「わ、私・・・・・・う、うぅ」

「まーた泣くのか。ま、アキらしいよ」

「頑張りなさい、アキ。私達もたまには顔を出しますわ」

 

 目元に溜まった涙で視界が歪み、段々と意識が遠のいていく。立っていられなくなり、身体がゆらりと大きく傾いてしまう。

 

(え―――)

 

 私の身体を受け止めてくれたのは、エリカ先輩だった。エリカ先輩は突然倒れ込みそうになった私の肩を支えながら、焦りに満ちた表情で私の様子を窺ってくる。

 

「ど、どうしましたの、アキ?」

「あれ・・・・・・いえ、その。私、どうして」

「復学初日だし、きっと疲れているのよ。今日は早めに帰って、休んだ方がいいわ」

 

 疲れている。本当にそうなのだろうか。登校してから終始張り詰めていたのは確かだけど、自覚らしい自覚が無い。でも、どうしてだろう。首元がむず痒くて仕方なかった。

 

_________________________________________

 

 先輩らとの別れを惜しんで下校した後、私は一度アパートへ戻ってから、かつてのアルバイト先であるモリミィに向かった。復学と共に職場へ復帰すべく、先週末にサイフォンへ登録されていた番号に連絡をして、一度挨拶に伺わせて欲しいとお願いをしていたのが今日。私は駐輪場に自転車を停めて、店内の様子を覗き込んだ。

 

「・・・・・・閉まってる?」

 

 店内に続く自動扉には『CLOSED』のプレートが掛かっていて、私は首を傾げてしまった。月曜日は定休日ではないし、今日だって時間があれば、少し作業をさせてくれるという話だった筈だ。訝しみながら歩を進めて自動扉が開くと、店内には女性と男性、二人の姿があった。

 

「ん・・・・・・アキ?そうか、今日だったな」

「あら、もうそんな時間?」

「え、えーと」

 

 夫婦二人でモリミィを切り盛りする、ハルトさんとサラさん。面と向かって話すのは今日が初めてであり、本来なら改めて挨拶をしておきたい場面だ。しかし挨拶を交わすよりも前に、私は声を失った。一度訪ねたことがあるモリミィの店内は、余りにも変わり果てていた。

 

「何が・・・・・・起きたんですか。何ですか、これ」

 

 商品を並べる陳列棚、冷蔵ケース、壁面、レジカウンター。その全てが『泥』に塗れてしまっていた。まるで台風や洪水の足跡の如く、そこやかしこが汚泥を被っていた。ハルトさんとサラさんはモップを使い、泥を洗い流す作業の最中だった。何が起きたらこんな有り様になるんだ。

 

「それが分からないのよ。今朝起きたら、こんな状態で。アタシ達が聞きたいぐらいだわ」

「一応警察にも届け出てはあるが、如何せんこれでは営業できんからな。おそらく悪質な嫌がらせの類だろうが、迷惑な話だ。まるで切りが無い」

「そ、そんな・・・・・・」

 

 嫌がらせどころの騒ぎではない。私の大切な居場所が一夜にして泥だらけだなんて、何の冗談だ。しかし原因はどうあれ、まずは店内から泥を除去しなければ何も始まらない。掃除だけなら、今の私だって力になれる。

 

「私にも手伝わせて下さい。私も・・・わ、たっ・・・・・・?」

「あ、アキ!?」

 

 まただ。また唐突に視界が暗転して、平衡感覚が乱れていく。身体に冷やりとした何かが触れて、漸くその場に倒れてしまったことに気付かされる。部室での立ち眩みといい、私も私でどうかしている。それに、どうしてなんだろう。首が、とても痒かった。

 

_________________________________________

 

 翌日の7月7日、夕刻。昨晩から熱に魘されていた私は登校を諦め、自室のベッドの中で平日の火曜日を過ごしていた。医者の見立てでは精神的な疲労とストレスが原因らしく、微熱とはいえ大事を取って寝込む羽目になっていた。そんな私の看病に努めていたのは、例によって叔母のタマキさんだった。

 

「はい、明日の取材は・・・・・・はい。いえ、そんな。こちらこそ申し訳ありません」

 

 サイフォン越しにやり取りをするタマキさんの声から察するに、明日の取材を延期して貰うよう頼み込んでくれているのだろう。折角復学できたと思いきや、当日に体調を崩してしまうなんて情けない限りだ。タマキさんにも気苦労を掛けっ放しだし、自分で自分が嫌になる。

 

「た、タマキさん。今のって」

「ほらほら、いいから眠ってなよ。取材は延期して貰ったから、気にしないで」

「・・・・・・ごめんなさい」

「謝らないの。あ、そうそう。さっきアキのサイフォンにメールが来てたわよ」

 

 テーブルに置いてあったサイフォンをタマキさんから受け取り、横になりながら液晶を見る。メールの差出人は時坂君で、内容は昨日にモリミィが被った大迷惑について。昼間にも同じやり取りをしていた。

 聞いた話では、時坂君は『不思議探究部』という謎めいた部に所属しているらしい。以前は私も時折活動に参加していたそうで、クラスメイトの柊さんや同じアパートのソラちゃんも正式なメンバーだった。記憶を失う前の私が、クラスや学年が異なる生徒と親交があった理由は、同活動にあったという訳だ。モリミィの一件についても、時坂君らは単なる嫌がらせではなく、異常な怪現象と見て調べて回っている最中だった。

 

「メール、時坂君から?」

「はい。モリミィのことで、聞きたいことがあったみたいで」

「そっか。そろそろ遅いし、何か作ろうと思うけっ・・・・・・あら、地震?」

「え?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『安心して、アキちゃん。もう少しだから』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・・・・収まったか」

「結構、長かったですね」

 

 震度2か3程度だろうか。規模は小さかったものの、随分と長い時間揺れていた気がする。まるで身体と空間を同時に揺らされていたかのような、気味の悪さも感じた。

 気を取り直して時坂君に返信メールを送ると、時坂君とのやり取りはそれが最後だった。メールが返ってきたのは、翌日の昼間になってからのことだった。

 

_________________________________________

 

 微睡から覚めた私は、時間軸が曖昧で、世界の境界線も曖昧だった。壁の時計を見ると、時計は18時半過ぎを示していて、7月7日の夕刻と思えば、違った。サイフォンの日付は7月8日、時刻は18時36分。日付を見てから漸く、今日一日間のことを思い出す。

 眠りっ放しの一日だった。軽い朝食を取ってからベッドに入り、昼食に作り置きのお粥を食べて再び寝床へ着く。夢の先に何かがあるような気がして、ただひたすらに眠り続けた。随分と無益で空っぽな一日を過ごしてしまっていた。でも一日中眠っていたにしては、ひどく頭が冴えない。身体が重く浮付いていて、気を抜くとまた微睡んでしまいそうになる。もしかして私は、未だ夢の中にいるのだろうか。

 

「私・・・・・・そっか。今日は、取材が」

 

 真っ先に思い浮かんだ二文字に、身体が自然と動いた。今日はテニス雑誌の記者さんから取材を受ける、約束の日。時刻も既に、アクロスタワーで落ち合わなければならない時間帯だった。

 こうしてはいられないと、手早く寝間着から制服姿に着替え、身支度を整える。サイフォンを上着にしまって、ラケットケースを取り出す。玄関口にテニスシューズを置き、手荷物の一式を確認する。サイフォンと財布さえあれば、どうとでもなる。

 

―――ピンポーン。

 

 すると呼び鈴の音が鳴り、私はそのままテニスシューズを履いて、扉の鍵を開錠した。開かれた扉の先には、見知ったクラスメイトの姿があった。

 

「あれ・・・・・・シオリ、さん?」

「アキちゃん、準備はできた?聞いてないよ、取材を延期なんて。一人じゃ寂しいもん」

「え、と。シオリさん、どうして」

「ほらアキちゃん。私の手を握ってよ」

「手を?」

「うん。それから、目を瞑ってみて?」

「はぁ・・・・・・」

 

 働かない頭を強引に働かせて、手を握る。言われるがままに目を瞑り、一呼吸を置く。次第に浮遊感が増していき、何かが加速する。私を取り巻く全てに身体が溶け込んで一緒くたになり、上下左右の感覚が消えていく。

 

「アキちゃん、もういいよ」

「はい・・・・・・え?」

 

 瞼を開けると、そこには杜宮の街並みがあった。遥か上空から見下ろす杜宮は、夕焼けではない色に染まっていた。幻想的な夕空も同じで、燃えるようなオレンジ色の中に白は無く、雲一つ見当たらない。

 

「・・・・・・待って下さい」

 

 眼下に広がる初めて目の当たりにした光景に、段々と頭が冷静さを取り戻していく。頭上から冷水を浴びせられたかのように、全身に悪寒が走る。沢山の『あり得ない』を突き付けられて、混乱の余り私は握っていた左手を離し、一歩距離を取った。何だ、これは。私は今、何処にいる。

 

「ここ、何処で・・・・・・何ですか、これ。シオリさん、一体何をしたんですか」

「アキちゃん。これはアキちゃんが望んだことだよ」

「こ、答えて下さい。分かりません、分かりませんよ」

「だって『私達』は、もう駄目なんだよ。だから、変えるの」

「いいから答えて下さい」

「アキちゃん?」

「早く答えて!何が起きて、これは何なんですか!?」

「ああもう、仕方ないなぁ。ほら、アキちゃん」

「だから―――ぱあぅがっ」

 

 突如として、視界が真っ赤に染まった。首が焼けるように熱く、溢れ出る何かを抑えようにも、収まらない。両手で覆っても焼け石に水で、止め処が無い。喉から込み上げてくる液体は止まるところを知らず、首と口の両方から頭上へと噴き上がる。無数の雫を思わず両手で受け止めようとすると、手を離したせいで勢いは増し、大粒の雨の如くぼたぼたと降り注いでくる。雨脚が一際強まった頃に、私は理解した。全てを理解していた。

 

 

『ほらねアキちゃん。こんなの、アキちゃんも嫌でしょ?だから変えるんだよ』

「ひゅ・・・かっ・・・・・・」

 

 

 ああ、そうだ。私は、そうだった。

 全部、嘘だったんだ。私は、嘘に塗れていた。

 

 

『安心して。アキちゃんはみんなと一緒に、見守っててよ。私が変えちゃうから』

「はっ・・・・・・ごぼ」

 

 

 全部、思い出した。どうして忘れていたのだろう。

 思い出したけど、困った。私はこれから、どうすればいい。

 

 

『大丈夫。アキちゃんは一人じゃない。だって私がいるもん』

「ひ、はっ・・・・・・え、あぁ、あああ」

 

 

 誰か、何か言って欲しい。

 お願いだから。誰か―――誰か。誰か。だれか。ダレカ。

 

 

 

『偽りの中で、永遠に閉じ込めてあげるから。ずっとずっと一緒だよ。アキちゃん』

「あああああああ!!!ああああ、うああああぁぁあああ゛あ゛あ゛!!!!!」

 

 

 

 

 



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倉敷栞

 

 誰でも構わないから、私の問いに答えて欲しい。海を見たいと、不意に感じたことはないだろうか。白銀の雪山、紅葉の名所、満開の夜桜を一目見たい衝動に駆られて、外へ飛び出す。飛行機で暁を駆け抜け、新幹線で風を切り、船旅に揺れながら青空を仰ぐ。そんな願望は、人として極自然な感情だと思う。

 もっと些細なことでもいい。欲しい物を買う為に、電車に乗って遠出をする。友人と一緒に街へ繰り出し、見知らぬ地で食事をする。外の世界に触れるだけで心が躍り、好奇心がくすぐられる。まだ見ぬ世界は、可能性に充ちている。

 その全てが―――倉敷シオリには、叶わない。

 

 シオリさんが読書を好むのは、外を知らないからに他ならない。十年前から始まった嘘に本当は無く、偽りのシオリさんは外を知らない。本物の世界を知らない。外の世界を垣間見るには、想像を働かせて微睡むしか、術が無い。だからシオリさんは、本を読む。繰り返し読んで、文明を超えた夢の世界を創造する。

 

『コウちゃーん。こっちこっち!』

『待てよシオリ、走るなっての。転んでも知らねえぞ』

 

 夢はひたすらに続いていく。でも所詮は、夢に過ぎない。陽の光が照らす海面は、その目に映らない。潮風の匂いは無くて、波の音も聞こえない。唇に纏わり付く海水の塩辛さも味わえない。だってそうだろう。杜宮には海が無い。望んでも、海は生まれない。

 

『あっ。さ、サイフォンの充電器を忘れてきちゃった』

『大丈夫ですよシオリさん。私のを貸して・・・・・・ああ!?』

『やれやれ、仕方ないわね二人共。私の・・・・・・あら?』

 

 これもシオリさんが想い描いた、夢の世界。高校生活における修学旅行は、高校生なら誰もが待ち望む大催事。自主性を育むと同時に、友人らと自由気儘に過ごす掛け替えの無い数日間が、シオリさんにはやって来ない。故郷を離れることができないから、「仕方ない」のたった一言で、数多の夢が潰えていく。

 

 求めずとも叶う筈の日々が、当然の如く叶わない。沢山の当たり前に手が届かない。常人は気にも留めないちっぽけな幸せが、遠い何処かにある。

 シオリさんにとっては、この杜宮が全て。それが何を意味しているのか、分かる人はいるだろうか。誰でもいいから、答えて欲しい。それが、何を意味しているのかを。

 

『これ以上この杜宮で、連中に好き勝手やらせる訳にはいかねえんだ!』

 

 私は常々感じていた。誰も触れようとはしなかったけど、おかしいじゃないか。杜宮に対する時坂君らの想い入れは、度が過ぎている。執着と言っていい。常軌を逸していると感じたことは、一度や二度ではない。

 

 何故か。考えずとも分かるだろう。シオリさんがそうさせているからだ。

 

 大切な人が離れないという、ただ一つの願いは叶う。しかしそれは、大切な人の生き方を捻じ曲げるという、業に繋がる。修学旅行が良い例だ。時坂君らはこの十年間で、杜宮を離れたことがあったのだろうか。最愛の家族は、どれ程の犠牲を払ってきたというのか。嘘に塗れた空っぽの人生の為に、他の誰かの人生が歪む。望めば望む程、願えば願う度に誰かの明日が変わり、真っ黒な何かを背負わされる。

 

 もしこのままシオリさんが、杜宮で嘘を付き続けたとして。一体彼女に何が残る。もし彼女が想い人と結ばれ、赤子をその手で抱く未来が在ったとして。最愛の我が子に、嘘を付けと言うのか。閉ざされた世界で、病んでいけと言わせるのか。お前は偽物だと言わせるのか。

 

『安心して、アキちゃん。もう少しだから』

 

 シオリさんは、もう無理だった。心が限界を迎えようとしていた。これ以上の嘘と罪に耐え切れず、自我の崩壊寸前まで追い込まれていた。だからシオリさんは嘘を止めて、願った。

 特別な何かを望んだ訳じゃない。シオリさんは願っただけだ。皆が息を吐くようにして掴む、小さな小さな幸せへ、手を伸ばしただけに過ぎない。空腹感を覚えたら物を食べるだろう。夜が来れば誰だって眠るだろう。当たり前じゃないか。その当たり前に、どうして彼女の手が届かない。

 

 もっと不幸な人間もいると主張する者は、一度他の誰かの人生を踏み躙りながら、何の意味も無い数十年の果てに、枯れてみればいい。シオリさんに理解を示す有象無象がいたとして、全員死ね。死を以って詫びろ。己の手で臓物を切り刻んで、未来永劫償い尽くせ。お前にシオリさんの、貴様に私の何が判る。私が背負う業の深さは、貴様らには理解できまい。

 

(私は―――)

 

 答えて欲しい。全てが嘘に為り変わる前に。

 誰でもいいから、早く。私は一体、誰なんだ。

 

 

 



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7月8日 嘘

※原作よりも7月8日の回数が多いです。


 

 ―――永遠に、閉じ込めてあげるから。

 

「コウちゃんっ!?」

 

 悲鳴と共に飛び起きて、咄嗟に両手で首元を押さえる。滑りとした感触は無く、衣服にも鮮血は無い。呼吸は乱れているけど、重ねるに連れて肺が充たされ、少しずつ冷静さを取り戻していく。

 

「私、どうして・・・・・・い、今のって」

 

 悪い夢を見ていた訳じゃない。鮮明な記憶が、全て現実だと言っている。しかし何故私は今、時坂君の名を呼んだのだろう。彼を「コウちゃん」と呼ぶ人間は、一人しかいないというのに。それは決して私ではない。

 分からない。今自分が立っている場所が何処かさえ分からない。けれど、まるで理解に及ばないこの状況下でも、確かなことがある。必死になって手を伸ばし求めていた記憶達が、声を揃えて一斉に囁いてくる。全部、現実なんだ。

 

「そっか。私は・・・・・・」

 

 シオリさんの意識に触れた影響か、彼女が見聞きしてきた物が、私の中にある。私の与り知らないところで、一体何が起きていたのか、その全てが記憶として残されていた。『X.R.C』の結成、リオンさんの天使憑き、虚空震の正体に、杜宮市が見舞われたこの現状。災厄の匣『パンドラ』と、四本の柱。

 そして十年前の真実と―――6月5日。あの日を境にして、シオリさんと私が吐き続けてきた嘘。私は倉敷シオリでも、遠藤アキでもない。遠藤アキの姿をした、ただの偽者だ。

 

「・・・・・・私、は」

 

 私は一体何をしていたのだろう。失った物を求めても、その先には何も無い。本物ではないのだから、前を向いたところで何も生まれはしない。虚無しか存在しない嘘偽りに充ちた世界の中で、私はこれからどうすればいい。嘆いても、誰も答えてはくれない。もう立っていることさえ儘ならず、シオリさんが私に残した言葉だけが、頭の中で繰り返される。

 

 ―――安心して。アキちゃんはみんなと一緒に、見守っててよ。

 

 絶望が深過ぎて、涙は出なかった。代わりに私の小さな薄ら笑い声が、夜の闇に溶け込んでいく。閉ざされた世界の淵で、私はただただ、笑っていた。

 

_________________________________________

 

 地べたに寝転がりながら果ててしまおうかと思いきや、自然と身体が動いてしまった。サイフォンを片手に歩き回ると、周囲に人気は無く、誰とも出くわさなかった。釈然としないけど、それでも一通りの状況は把握できた。そもそも私には、シオリさんが振り撒いた災厄が分かってしまうのだから、時間は然程掛からなかった。

 現時刻は夜の22時半過ぎ、超規模の異界化が発生してから約四時間後。私が転移したのは杜宮市の外れ、工場跡地の北部にある閑静な住宅街。杜宮上空に匣が綴った紋様は、そのまま地上に刻み照らされ、杜宮市全体を覆う巨大な結界を形成していた。それらを支えているのが、匣を囲むようにして聳える『四本の柱』。柱は杜宮の地下深くを流れる地脈と一体化することで、今も無限の霊力を匣に送り込んでいた。

 

(瘴気が、濃い)

 

 異界化の浸食は杜宮全土に及んでおり、辺りには紫色の瘴気が漂っていた。出処はそこやかしこに散見される、異界植物達。アキヒロさんが飲み込まれた異界に生茂っていた種とそっくりな蔦が電柱に巻き付き、毒々しい花弁が瘴気を撒き散らしていた。こんな状況下では、耐性の低い人間は瘴気の毒に蝕まれてしまうに違いない。

 一方で驚いたことに、電気の供給は続いていた。街路灯はしっかりと生きているし、公園に設置されていた水道の蛇口を捻ると、渇いた喉を潤すこともできた。外界から隔絶されたとはいえ、最低限度のライフラインが保たれていることから考えても、まだ大きな被害は出ていないのかもしれない。おそらく住民は瘴気から逃げる為に、何処か遠くへ―――

 

「・・・・・・悲鳴?」

 

 微かに耳へ入った、女性の声。念の為にと起動していた異界探索用のアプリは、複数体の脅威の存在を示していた。住民らを追いやったのは、瘴気だけではなかった。私はすぐにライジングクロスを顕現させ、声が聞こえた方向へと足を動かした。マユちゃんが手掛けたテニスシューズを履いていたのが功を奏し、ギアドライブのスキルを抑える必要も無かった。

 やがて突き当りのT字路を右に曲がり、道幅の狭い通りへ。視線の先には、三体の巨大なグリード。そしてその中央に蹲る一人の女性。ちかちかと点滅する街路灯のおかげで、一目でガーデンハイツ杜宮の住民だと分かった。

 

「トモコさん、伏せて!」

「え・・・・・・あ、アキちゃん!?」

 

 一振りで複数の霊子弾を放ち、グリードらをトモコさんから引き剥がす。その隙にトモコさんの震える身体を両腕で抱き上げ、横抱きの体勢のままグリードの危険度を推し量る。A級に迫るエルダーグリードが、三体。トモコさんを守りながら、たったの一人で対峙できる相手じゃない。

 

「ギアドライブ、全開!!」

「わわ、うわわっ!?」

 

 アクセルを振り切り、トモコさんを抱えて地を駆ける。グリードから逃れながら、私は結局適格者としての力を揮うことになるのかと、胸中で独りごちていた。寧ろそれに縋ることでしか、足は動いてくれなかった。

 

_________________________________________

 

 トモコさんと共に逃げ切った先は、古びた木造の一軒家。おそらく老夫婦が暮らしていたであろう民家に、私達は「お邪魔します」と「ごめんなさい」を言ってから飛び込んだ。屋内はやはり無人で、テーブルには箸を付けたばかりの冷えた食事が残されていた。状況から察するに、夕食の合間に異界化が発生し、住民は外の何処かへ避難をした、といったところだろう。

 私は動揺するトモコさんを落ち着かせて、薬箱に入っていた市販のマスクを取り急ぎ付けて貰った。屋内と言えど、瘴気は少しでも肺に入れない方がいい。どれ程の効果があるかは分からないけど、無いよりは幾分か良いに違いない。

 

「とりあえず、お礼を言うわね。ありがとうアキちゃん、おかげで助かったわ」

「いえ、気にしないで下さい。間に合って良かったです」

 

 トモコさんは畳敷きの和室に腰を下ろし、テーブルを挟んで反対側に座った私は、トモコさんが教えてくれた一連の経緯に耳を傾けた。あの虚空震が発生した時、トモコさんは勤め先であるアクロスタワー一階の販売店にいた。一向に収まろうとしない地震に対し、通常ではない『何か』を肌で感じ取ったトモコさんら従業員は、総出となって訪問客の避難誘導を開始した。すると突然、視界一杯の怪しげな光に包まれ、気付いた時には外に立っていた。要は私と同じで、アクロスタワーが匣へと変貌した瞬間に、屋外へ強引に転移をさせられてしまったようだ。

 

「初めは何人かの同僚と、一緒に行動していたのよ。でもあの化物に襲われて、逃げ回っている間に一人になっちゃって・・・・・・」

「その人達が何処にいるのか、分かりますか?」

「ううん。携帯電話が繋がらないから、連絡の取りようも無いの」

「そうでしたか。私は―――」

 

 一旦言葉を切り、咄嗟に右手を膝元へ隠す。恐る恐る視線を落とすと、見間違いではなかった。考えずとも、私は異変の意味を理解した。思いの外に、『事』は進んでいた。

 

「アキちゃん、どうしたの?」

「いえ・・・・・・その」

 

 室内を見渡すと、裏玄関の戸棚に置かれていた軍手に目が留まった。私は足早に裏玄関へ向かい、トモコさんに背を見せながら軍手を着け、ほっと一息を付く。私の行動を訝しむように見詰めていたトモコさんには、その場凌ぎの言い訳で取り繕うことにした。

 

「ライジング・・・・・・さっき見せた武器を使うと、右手を痛めてしまうことがあるので。こうして軍手を着けるだけでも、大分負担が減るんです」

「そ、そう。それで・・・・・・あの、アキちゃん。私も何から聞けばいいのか、分からないのだけど」

「分かってます。私が話せることは、全部話します」

 

 先程からずっと考えてはいた。こんな現状では、話さない訳にはいかない。

 私は明かせる限りの全てを、トモコさんに語った。異界というもう一つの異世界と、異界で生きるグリードの存在、適格者が持つ稀有な力。人知れず発生していた大規模な異界化、そして現実世界への浸食。既に異界と現実の境目は曖昧で、今し方トモコさんが襲われたように、いつ何処で脅威に曝されるのか分からない状況になりつつある。トモコさんは戸惑いながらも、私の話を何とか受け入れてくれた様子だった。

 

「わ、私達はこれから、どうすればいいのかしら」

「安全な場所を見付けて避難しましょう。多分、ある筈なんです」

 

 ここへ来るまでの間、私はトモコさんの姿しか見ていない。人気は皆無と言っていい。しかしグリードが住民らを食い尽くしたという最悪は、その形跡が見当たらない。住宅ではない何処かへ避難をしたと考えるのが妥当だ。いずれにせよそう信じないと次の行動が取れないし、長居をしては始まらない。本来は仲間を頼りたい場面だけど、トモコさんが言ったようにサイフォンの通話機能は使い物にならず、追跡アプリも駄目。当面は私一人で動くしかない。

 

「それにしても・・・・・・ねえアキちゃん。もしかして貴女、記憶が?」

「はい。原因は分からないですけど、おかげ様で全部思い出しました。記憶は戻ってます」

「そうだったの!良かった、本当に良かったわ。不幸中の幸いね」

 

 不幸中の幸い。その有り難味が、現時点では余りにも薄い。再びソウルデヴァイスを揮ったおかげでトモコさんを窮地から救い出せたのはいいものの、私が行き着く先はもう、変わらないのだと思う。いや、シオリさん次第か。それとも私達次第か。想いが、定まらない。

 皮肉の笑みを浮かべていると、突然私のサイフォンが鳴った。脅威の存在を報せる、断続的なアラート音。予断を許さない状況であるにも関わらず、完全に気を緩めてしまっていた。

 

「な、何の音?着信音じゃ、ないわよね」

「すぐに外へ出ます。トモコさん、急いで下さい」

 

 裏手の方角から三体、いや四体。もうすぐそこまで来ている。先程と同様で、トモコさんがいる以上戦闘は回避するに越したことはない。表口から出て、ギアドライブで一気に振り切る。

 私はトモコさんを再度両腕で抱き上げ、グリードの位置を確認できるよう、トモコさんに私のサイフォンを預けた。画面上には既に、五体目の光点が映っていた。もう時間が無い。

 

「しっかり掴まっていて下さいね」

「え、ええ」

 

 一歩目から全速力を引き出し、襲来するグリードと反対方向に走り出す。トモコさんに縮尺を変えて貰い画面を広域表示にすると、更に複数体のグリードが西側から接近していた。グリード探知用のサーチアプリから脅威度までは読み取れないけど、今はギアドライブの俊足で逃げの一手に回るしかない。

 

「飛びます!」

「と、飛ぶ!?」

 

 勢いを殺さないよう石製の壁に飛び移り、限られた足場を使って更にその上へ。二階建ての民家の屋根を伝って、もう一段階上空に舞い上がる。悲鳴を押し殺すトモコさんを抱きながら住宅街を見下ろすと、ある一箇所だけが、ぼんやりと光に包まれていた。深夜の暗闇の中に、人工的な光とは違う輝きがあった。

 

(あれは―――)

 

 僅かに感じた、力の波動。考えるよりも前に、私の足は光があった方角へと向いた。しかしその近辺には、例によってグリードの集団が蠢いていることを、サーチアプリが教えてくれていた。トモコさんの身を守りながら、強引に突破できるだろうか。

 やがて辿り着いた先には、九重神社を連想させる石造りの長階段と、その足元には『十五所神社』の名が記された木製の板が立っていた。三体のグリードは階段を遮るようにして、私達の前に立ち塞がっていた。

 

「トモコさんは後ろに。離れ過ぎないで下さい」

 

 トモコさんを一旦降ろし、グリードを睨み付ける。外見から類推するに、妖精型のエルダーグリードが三体。私一人では手に余る相手だけど、注意を引いてトモコさんだけでも、この先に導ければいい。私にその覚悟さえあれば、きっと道は拓ける筈だ。

 

「おおぉるらあっ!!」

「えっ・・・・・・」

 

 駆け出そうとした、その刹那。グリードの後方から響き渡った声と共に、一振りの斬撃がグリードを襲った。虚を突かれ両断されたエルダーグリードは光へと変わり、残りの二体が私達を通そうとするかのように、階段から距離を取り始める。やがて消え去った光の中に立っていたのは、予想だにしない男性だった。

 

「あ、あなたは、アキヒロさん!?」

「馬鹿野郎、早くしやがれ!」

「で、でも」

「いいから急げ、こっちだ!!」

 

 アキヒロさんの声に何とか反応した私は、後方に避難していたトモコさんの手を取り、真っ直ぐに走り抜いた。階段を上り始めると、私に続いたのはアキヒロさんだけ。エルダーグリードは見を決め込んで、私達の背中を追おうとはしなかった。

 

__________________________________________

 

 十五所神社は住宅街の外れに建つ小さな神社で、境内の広さは九重神社の半分以下。社務所を兼ねた集会所は近隣住民に開放されていて、市内でも田舎町のような風景が広がる神社界隈では、それなりに重宝されている憩いの場でもあるらしい。案内された屋内には、年配の男性が三人と、同じく高齢の女性が二人。小学生低学年と思われる少年少女らが三人。アキヒロさんを含めて計九人の人間が、集会所の中に避難をしていた。

 

「理由は知らねえが、神社の敷地内にグリードは入って来れねえクサいんだ。ここにいる間は、襲われる心配がねえんだよ。安心していいぜ」

「そっか・・・・・・そうだったんですね」

 

 憶測の域を出ないけど、おそらくこういった神社は霊的な何かを秘めているのだろう。それが結界として働き、グリードを足止めする。結界の存在に気付いた住民らは、最寄りの祭祀施設へ続々と逃げ込んだ。その一つがこの十五所神社で、だから住宅街には人気が無かった。そう考えれば説明が付く。

 

「初めにここへ来たのは俺なんだ。テメエらみてえに逃げて来た奴らを連れ込む為に、木刀担いで構えていたんだよ。クク、俺様のおかげで助かっただろ」

「あ、ありがとうございます。でも、その木刀って・・・・・・」

「コイツは本殿の奥に祀ってあったんだよ。どういう訳かグリードには効果テキメンでな」

「祀り物でグリードを斬ったんですか!?」

「どうだっていいだろうが。細けえことを気にしてんじゃねえよ」

 

 事の是非はどうあれ、アキヒロさんに助け出されたことは事実。それにこの人が初めに辿り着いたということは、他の八人も私達と同様にして導かれたのだろう。信用に値する人間だと考え、異界ドラッグに関する過去は一旦忘れた方がいい。あの一件だって、グリードに魅入られてしまった不運が根底にある。

 しかし腑に落ちない点も多々ある。アキヒロさんには記憶消去の措置が取られたと聞いていたけど、アキヒロさんは今「グリード」という呼称を口にした。それに先程見せた斬撃が、木刀だけの力とは到底思えない。適格者ではない人間に、エルダーグリードを叩き斬るなんて真似ができる筈がない。そもそも鑑別所に入っていたアキヒロさんが、何故こんな街外れに居るのか。それらを問い質そうとすると、アキヒロさんは先んじて言った。

 

「聞きてえのはこっちだ。テメエは確か、シオさんと一緒に戦ってた後輩だったな」

「やっぱり、覚えているんですね」

「ああ。訳分かんねえ術を俺に使おうとした奴も、首を傾げてたぜ。俺には効かねえんだろうよ」

「耐性が付いたんだと思います。『腐海病』にならなかったのも・・・・・・これは、別の話ですね」

「いいからさっさと教えろ。俺だけでいい。この杜宮で、一体何が起きてんだ?」

 

 催促をするアキヒロさんの後方をちらと見やる。トモコさんは柔らかな物腰で、高齢のお爺さんとお婆さんらに声を掛けていた。ある程度はトモコさんの口から語られるかもしれないけど、必要以上を知らせても仕方ない。年端もいかない子供達も同じで、単に怖がらせてしまうだけだ。

 

「・・・・・・分かりました」

 

 根底にある真相は伏せながら、私は全てをアキヒロさんに語った。知って貰うことで、楽になりたかった。

 

__________________________________________

 

 日付が変わり7月9日を迎えた筈が、サイフォンの画面上には7月8日の四文字が浮かんでいた。二回目となる午前零時に大した驚きも無く、私がアキヒロさんに語り尽くした頃には、私達二人を除く九人は夢の中。集会場にはいくつかの寝具が置かれていて、束の間の平穏と静寂が訪れていた。

 

「成程な。その匣とやらの中に、異界化の元凶がいやがるって訳か。とんでもねえ化物だな」

「・・・・・・そう、ですね」

「それで、シオさん達と連絡は取れねえのかよ?」

「サイフォンが使えないので。今何処にいるのかも、分かりません」

「やれやれ。暫くは身動きが取れそうにねえな」

 

 家族や杜宮学園のみんな、ガーデンハイツ杜宮の住民とアルバイト先。大切な人の居場所が、私には分からない。探す手立ても無い。無い無い尽くしの中で、会いたいという想いは勿論ある。しかし自分でも怖いぐらいに、その衝動が薄い。あれだけ望んでいた思い出を取り戻したにも関わらず、感情は淡々としていて起伏が無かった。

 

「・・・・・・アキヒロさんは、どうやってこの神社に行き着いたんですか」

「近くに家庭裁判所があんだよ。その帰りに異界化が起きやがったんだ」

 

 何とはなしに振った話題に、アキヒロさんは手元を動かしながら答えてくれた。異界ドラッグの一件で鑑別所に送られたアキヒロさんは、今月に入り試験観察という観護措置が下された。保護観察と似たような物らしいけど、厳密に言えば異なるらしい。アキヒロさんは調査官によって状態を逐一観察され、試験観察中に一度でも問題を起こせば、すぐに鑑別所へ戻される。加えて定期的に家庭裁判所へ出向く義務があり、昨日もその一日。異界化が発生したのが、帰路に着いていた最中のことだった。

 

「でもアキヒロさん、以前と比べて印象が変わりましたね。服装や髪型も、全然違います」

「まあな。こんな俺でも、背負っちまったモンの重さぐらいは理解できんだよ」

「あれは・・・・・・別に、アキヒロさんが悪かった訳では」

「馬鹿かテメエは。この手で何人を病院送りにしたと思ってんだ」

「それは、そうですけど」

「一度堕ちた野郎は、それ以上堕ちねえように踏ん張るしかねえ。俺はテメエらとは違えんだよ」

「・・・・・・だから、木刀を握ったんですか?」

「それとこれとは話が別だろうが。理由なんざ知らねえな」

 

 話は別、か。私はアキヒロさん本来の人となりを知らない。でも罪を償う為なのかと聞いたら、きっとアキヒロさんは否定をして「馬鹿」と言うに違いない。物事を深く考えずに行動する性分だけは、他人事とは思えなかった。

 それにしても、アキヒロさんはさっきから一体何をしているのだろう。そっと手元を覗き込むと、そこには神社へ来る道中にも散見された、数種類の異界植物と思われる―――異界、植物?

 

「あのー。それ、何ですか?」

「紫と緑色の蔦と葉っぱを乾燥させて、紙で包んで煙草っぽく吸うんだよ。一発キメれば、グリードを叩き斬っちまうようなすっげえ力が使えんだ。あのHEATには及ばねえがな」

「何てことをしてるんですか!?いや本当に何をやってるんですか!?」

「落ち着けってんだこの馬鹿!用法容量を守れば害はねえんだよ。おら、テメエにはコイツだ」

 

 声を荒げて驚愕していると、アキヒロさんは黄緑色の葉を一枚、私の前に差し出してくる。一見すると何の変哲も無い葉だけど、これも異界植物の一部なのだろうか。

 

「足の傷に当てろ。痛みが引くし、治りも早まるぜ」

「こ、これを?」

 

 傷と言っても掠り傷。民家の屋根を走り抜いた際に、瓦の破片で切った軽傷だ。確かに痛みが無いと言えば嘘になるけど、凄まじく嫌な予感がする。というか嫌な予感しか無い。でもアキヒロさんを信頼できる人間だと感じたこともまた事実。悩んで悩み抜いた末に、私は思い切って葉の表面を脹脛の傷に当てた。

 すると程無くして、痛みは嘘のように消えた。傷口付近に温度が広がると、葉は見る見るうちに枯れていき、傷は薄らと塞がっていた。信じ難い光景を目の当たりにした私が声を失う一方で、アキヒロさんは然も当たり前のように言った。

 

「あのモルボルみてえなグリードに憑り付かれた影響だろうよ。HEATの調合法だって、自然と頭ん中にあったんだ。使い方を間違いさえしなけりゃ、コイツらは幾らでも利用できる」

「す、すごい・・・・・・他に、どんなことができるんですか?」

「その葉を湯引きさせて飲めば、寝心地は快適だぜ。アイツらみてえにな」

 

 振り返り、壁にもたれ掛かりながら寝入る避難者の様子を窺う。二、三人で一枚の毛布を共有しながらの睡眠は、とても寝心地が良さそうだとは思えない。しかし誰もが快眠の表情を浮かべながら、静かな寝息を立てていた。リラクゼーションのような効能があるのだろうか。

 

「コイツも煙草みてえに吸えば、効果が上がんだ。テメエも一発キメとけ、良く眠れるぜ」

「キメるって言い方は止めて下さい・・・・・・」

 

 結局私は手製の葉巻もどきを受け取り、慣れない手付きで火を点して、煙を吸った。全てを忘れさせてくれる安らぎが、今の私にとっては何よりの救いだった。

 

__________________________________________

 

 翌朝になっても陽は昇らず、夜の帳は下りたまま。早朝らしからぬ暗闇に包まれた杜宮の上空には、変わらずに紋様が浮かんでいた。みんなから一歩遅れて起床した私は顔と手を洗った後、右手に軍手を着け直し、アキヒロさんとトモコさんの三人で状況を確認し合った。

 

「水と火が使えるから、当面は大丈夫だと思うわ。でも肝心の食料が、これだけなの」

 

 トモコさんが洗い場と冷蔵庫から見付けてくれたのは、一袋の小麦粉と開封済みのケチャップ、食塩に醤油の四点のみ。神社の周辺をグリードが取り囲んでいる以上、敷地外へ出ることは叶わず、これ以上の食料は確保できそうにない。しかし私達若者はともかく、五人の年配者と三人の子供らの体力を考えると、少しでも口に入れた方が良い。

 

「アキちゃん、何を作ろっか。流石に小麦粉だけじゃパンは無理よね?」

「ケチャップがあるので、簡単なブリトーならできそうですね」

「馬鹿野郎。ハムとチーズ無しでどうやってブリトー作んだよ」

「アキヒロさんはブリトーを間違い過ぎです」

「め、メインは小麦粉を使った練り物で、あとは適当に味付けをしながら塩分を取りましょうか」

 

 取り急ぎの朝食は、醤油と塩で薄く味付けをした『すいとん汁~異界植物を添えて~』に決まった。台所をトモコさんに任せている間に、私とアキヒロさんは他の八名の避難者へ、一通りの状況説明をすることにした。無用な不安を煽らないよう、言葉を選んで慎重に並べていると、年長組の五人はひどく申し訳なさげな顔をして、次々と頭を下げてしまった。

 

「本当にすまないねぇ。儂らは何もしてやれずに」

「ったく、面倒くせえな。いいんだよそういうのは。爺と婆は大人しくしていやがれ」

「あ、アキヒロさん。もう少し言葉遣いをですね」

「るせえ。テメエの相手はそっちだ」

「え?」

 

 視線を落とした先には、三人の少年少女。子供達が私を囲んで立ち、興味津々な表情で見上げていた。私は一旦目を逸らして、アキヒロさんへ縋るように小声で助けを求めることにした。

 

(ま、待って下さい。自慢じゃないですけど、私って子供が苦手でして)

(本っ当に何の自慢にもならねえな・・・・・・)

 

 昔からそうなのだ。子供の目線に立つことができないというか、同年代以上に何を話していいのかがまるで分からなくなってしまう。そんな私の思いを余所に、三人の中で唯一の女の子が、私の袖を引っ張りながら声を掛けてくる。

 

「ねえお姉ちゃん。お名前は何ていうのー?」

「え、えーと。遠藤アキ、だよ」

「ドードー?」

「トオドウ。ドードーはもう絶滅してると思う」

「ぜつめつってなーに?」

 

 既にこの有り様である。ここにきて再び頭痛に悩まされるとは思ってもいなかった。少し落ち着こう。小学生に変な話題を振っては駄目だ。私の方から歩み寄らないと、会話になりそうにない。

 

「コホン。みんなの名前も、聞かせてくれるかな」

「私はチヒロだよ」

「オレはフウタ!」

「ボクはショウゴです。もしよければ、ボク達がここへ来た経緯をお話ししましょうか?」

 

 年不相応な大人びた口調のショウゴ君が、ここへ流れ着いた道のりを聞かせてくれた。チヒロちゃんが杜宮に引っ越してきたのは、私と同じで今年の春先。チヒロちゃんにとって、フウタ君とショウゴ君の二人は初めてできた大切な友達。男手一つでチヒロちゃんを育ててきたお父さんの誘いで、昨晩もチヒロちゃんの自宅に夕食のお呼ばれをしていた。しかし夕食に手を付けるよりも前に、異界化が起きてしまった。グリードから逃げ惑い、お父さんと逸れてしまった三人が辿り着いた先が、この十五所神社。私とトモコさんがやって来る、約二時間前のことだった。

 

「そっか。お腹が空いてると思うけど、すぐにご飯ができるから。もう少し我慢してね」

「ヘッチャラさ。なあ姉ちゃん、姉ちゃんもあのバケモノと戦えるの?」

「うん、戦えるよ。私だってヘッチャラなんだから」

「マジか!兄ちゃんみたいに剣で戦うのか?」

「剣じゃないけど・・・・・・まあ、少しぐらいならいっか」

 

 この際ソウルデヴァイスによる消耗は無視だ。子供達に安心感を与えることができれば、それでいい。私はサイフォンのアプリを起動し、画面上を指で勢いよくなぞり、ライジングクロスを顕現させた。多少大袈裟にライジングクロスを振るって見せると、三人の輝いた目が釘付けになる。

 

「わわ、すごい!お姉ちゃん、魔法が使えるの?」

「マジですげえ!アニメに出てくる武器みたい!」

「これは驚きました・・・・・・驚天動地です」

「あはは。ショウゴ君って、本当に小学生?」

 

 子供達に釣られて、私も笑った。数日間振りに、何の憂いも無く笑えた気がした。

 

__________________________________________

 

 お婆さんらがチヒロちゃん達の相手を買って出てくれたおかげで、私達はある程度自由に行動することができた。結界と外の境目には異界植物が生い茂っていて、私とトモコさんはアキヒロさんの知識を頼りに、有用そうな植物を採取して回った。当のアキヒロさんは万が一に備えて木刀を携え、結界に阻まれるグリードへ睨みを利かせ続けた。

 陽の光が無いせいか時間の感覚が狂ってしまい、妙な時間帯に眠気に悩まされ、大きな欠伸をする回数も増えた。トモコさんの勧めで仮眠を取った私は、午後の19時頃に目を覚まし、長階段の頂上で見張りをするアキヒロさんの下へ向かった。アキヒロさんに声を掛けると返事は重々しく、その理由はすぐに察することができた。

 

「グリードの数、増えてますね」

「クソッタレが。一歩も外に出さねえつもりかよ」

 

 神社の敷地を取り囲むグリードの数が、明らかに増えている。結界の内側へ立ち入ってくる様子は見受けられないものの、状況は悪化の一途を辿っていた。

 仲間が駆け付けてくれる希望は、やはり可能性に過ぎない。それに籠城にも限りがある。食料が底を打ってしまえば、私達は果てるしかない。思い切って外へ飛び出しても、たったの二人では全員を守り切れる筈がない。しかし時間が経てば経つ程に、私達の戦う力も失われていく。私達には近いうちに、決断を迫られる瞬間が来る。

 

「おい。敵の親玉をぶっ倒すにはどうすりゃいい。テメエは知ってんのか」

「・・・・・・四本の柱を、壊す必要があります」

 

 この状況を打開する術があるとして、兎にも角にも匣が纏っている結界をどうにかしない限り、私達は近付くことさえ儘ならない。柱の詳細な居場所も、私には分かる。駅前広場、蓬莱町、杜宮記念公園、そして工場跡地。ここから最も近い柱は、工場跡地の一画にある。しかし縦しんば結界を攻略したところで、グリードの軍勢は総出となって私達に牙を向いてくる。その全てを相手取る光景が、私には想像できなかった。

 

「にしても、テメエは何も言わねえんだな」

「はい?」

「俺に何をされたのか忘れたのかよ。一歩間違えりゃ、首を折られていたんだぜ」

「あれは・・・・・・あの、今更それを言うんですか?」

「テメエが何も言わねえからわざわざ言ってんだ。気味が悪いったらありゃしねえ」

 

 別に忘れていた訳ではないし、意図的に触れなかったつもりもない。今になって言及されても、こちらが困ってしまう。気味が悪いはこちらの台詞だ。

 

「もう終わった話です。それにこう見えて、私はアキヒロさんを頼りにしているんですよ」

「だーから。気持ちワリィこと言ってんじゃねえよ、クソが」

 

 素直にそう思えた。乱暴な言葉遣いや悪態はご愛嬌だ。唐突に訪れた脅威に翻弄されつつも、『自分にできることをやる』という芯の強さは、共に戦ってきた仲間を彷彿とさせる。過去はどうあれ、向き合うべきは今。そして私にとっても―――大切なのは、今。今と、明日。もう分かり切っていたことだ。

 

「アキヒロさん。私から、も・・・・・・っ!」

「んだよ、いい加減に・・・・・・な、何だ?」

 

 不意に背筋へ悪寒が走り、境内に立ち込める不穏な空気に、身体が震えた。身震いは収まらず、肌寒さが一気に厳しさを増して、木々がざわめき始める。余りにも急激なその変化に、私は二ヶ月前を思い起こした。全てがあの時と同じだった。皮肉が利き過ぎていて、また頭が痛くなってくる。

 

「アキヒロさん、下がって。グリードが来ます」

「ま、待ちやがれ。結界があるってのに、どうして中に入って来れんだよ?」

「グリードには特殊な種族もいるんです。何が起きても不思議じゃありません」

「特殊って・・・・・・テメエは、知ってんのか?」

「『死人憑き』。そう呼ばれています」

 

 ライジングクロスを顕現させて、身構える。脅威度自体はC級の下位と、アスカさんが教えてくれた。だから二ヶ月前の私でも、たった一人で抗うことができた。今の私なら言わずもがな。集会所にいるトモコさん達に悟られないよう、一撃で葬り去って見せる。

 次第に境内の中央付近の空間が歪んでいき、骨と薄皮の怪異が音も無く舞い降りる。すると死人憑きは、たちまちのうちに変貌した。憑り付いた者の心に取り入って、姿を変えた。

 

「なっ・・・・・・な、何だよ。どうして、テメエが―――」

「ヴォルカニック、クロス!!」

 

 一切の感情を投げ捨て、私は巨大な火球を放った。地面で炸裂した火球は焔の渦となり、死人憑きの皮と骨を燃やし尽くしていく。焔の中には、『私』がいた。悶え苦しみながらその身を焦がすもう一人の私は、燃え盛る焔と共に、消え去っていった。あとに残されたのは、地面に転がった数粒のジェムだけ。私は振り返り、後方に立っていたアキヒロさんに聞いた。

 

「アキヒロさん。アキヒロさんには、死人憑きがどう見えましたか」

「どうもこうもねえだろ、俺にはテメエが・・・・・・今のは幻影か、何かなのか?」

「・・・・・・やっぱり、そうなんですね」

 

 死人憑きは、故人に対する歪んだ想い入れに憑り付き、死者の仮面を被る。今回の場合、憑り付かれたのは私で、故人も私。どちらも遠藤アキ。きっと間近にいた影響で、アキヒロさんの目にもそう映ったのだろう。私が私を燃やしたようにしか、見えなかった筈だ。

 

「だから死人憑きは、私の仮面を被ったんです。そう考えれば、説明が付きますよね」

「馬鹿言ってんじゃねえ。お前は、遠藤はここに居るだろうが」

「違います。私は、違うんです」

「ふざけんじゃねえぞ!!何が違えんだ、何・・・でっ・・・・・・!?」

 

 私は右手に着けていた軍手を外し袖を捲り上げて、紋様が放つ僅かな光の下に、右腕を晒した。そうすることでしか、アキヒロさんには伝わらない。『肘から先が見えない』という、どうしようもない現実を突き付ける方法しか、私には思い浮かばなかった。初めは右手だけだった『見えない』は、時間と共に広がっていた。

 

「何、だよ。何なんだよ、それ」

 

 シオリさんが付いた嘘は、もう嘘とは呼べない域に達している。杜宮に留まっている限り通用した嘘は、多くの矛盾を孕んでしまったことで、シオリさんよりも一足先に、限界を迎えようとしていた。

 その一因は、動画サイトに投稿された先月末の試合にある。あの動画には、遠藤アキがラケットを振るう姿が映っている。そして導力ネットワークという近代の技術によって、動画の視聴者は国内全土に存在している。仮に視聴者の全てが杜宮の『外』に居たとして、その回数分だけ齟齬が生じる。既に五万回を超える矛盾を、あの動画は生んでしまっていた。遠藤アキが生きているという大き過ぎる嘘は、たった一つの動画により綻びを見せ、説明の付かない矛盾を増大させていた。

 

「もう、駄目なんですよ。私に与えられた時間は、残り僅かなんです」

 

 端から分かり切っていた。シオリさんが目論んでいる改変には、許されていい道理が無い。だから私達は、シオリさんを止める。そして私も消える。単純な話で、当然の報い。選択肢は無くて、やるべきことは一つしかない。たとえ如何なる脅威が立ち塞がろうとも、みんなは絶対に成し遂げてくれる。その先に私は立っていない。ただ、それだけのことだ。

 

「だから、何か言って下さい。少しぐらい甘えても、いいですよね」

「遠藤・・・・・・お、俺は」

「冗談です。今は、何も言わないで」

 

 目には映らない右腕を胸に抱きながら、私は私に残された時間を、ゆっくりと数え上げる。私に、明日は来るのだろうか。時計の針は着実に、時を刻み続けていた。

 

 

 



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7月8日 For My Precious Friend

 

 私が寝床に着いたのは、杜宮が三回目の7月8日を迎えた後だった。本音を言えば、午後21時を回った頃から、鉛のように重い眠気に襲われてはいた。でも私は、瞼を擦って意識を保ち続けた。だって、眠りたくはなかったから。

 明日が怖い訳ではなかった。私はただ、残された時間が惜しかっただけだ。閉ざされた世界の淵で、私はあとどれぐらいの時を過ごせるのか。分からなかったから、一分一秒でも無駄にはしたくなかった。けれど、結局私は子供達の寝顔に促されて、瞼を閉じた。抗おうにも、明けない夜はないように、夢の世界がやって来る。

 

 ―――アキちゃん。

 

 微睡みの中で、私は再びシオリさんの声を聞いた。匣の中に居座っている筈のシオリさんに、私はもう一度触れた。夢かと思えば、違った。剥き身になった私とシオリさんは、肌を重ねて指を絡め合い、ふわふわとした世界の中でお互いを抱いて、体温を分け合った。

 

(シオリ、さん)

 

 シオリさんは繰り返し、私の名を呼んだ。私もシオリさんの胸の中で、何度も彼女の名を口ずさんだ。その回数分だけ私達は一つになり、二つの意識が溶け込んでいく。そうして漸く、私は理解した。シオリさんが歩んできた、十年間の旅路。その果てに願った未来と―――私。遠藤アキの、行く末。

 目を覚ました頃には、想いは定まってくれていた。端から私には、一つしか道は無かった。

 

_________________________________________

 

 朝と言うには、少々遅めの7月8日。私は十五所神社本殿の屋根上へ飛び移り、鰹木の間に跨りながら、遠くを見据えた。どれぐらいそうしていただろうか。惜しんでいた筈の時の流れを忘れる程、私は遠方の一点をじっと見詰めていた。

 

「なーにやってんだよ。罰当たり野郎が」

 

 不意に届いた声に見下ろすと、アキヒロさんが大きな欠伸をしながら本殿へ歩を進めていた。私は朝の挨拶を言った後、視線を災厄の匣に戻してから答える。

 

「遠くにいる友達と、話をしていました」

「ああ?携帯も使えねえのにか?」

「共鳴のようなものなんだと思います。よいしょっと」

 

 立ち上がり、ひどく納得がいっていない様子のアキヒロさんの下へ飛び降りる。私よりも二十センチ近く上背のアキヒロさんを見上げると、アキヒロさんは益々怪訝そうな表情を深めていく。

 

「んだよ、やけにすっきりとした顔をしてやがんな。昨日とは全然違えじゃねえか」

「そう見えますか?」

「見えるから言ってんだ。お前は二重人格者か何かかっての」

 

 妙に強調された『見える』には、アキヒロさんなりの優しさが込められているのだろう。その不器用さが、今の私にとっては何よりの救いだ。それにアキヒロさんが言ったように、私の胸中は昨晩とは打って変わって、自分でも不思議なぐらい穏やかだった。足取りが軽くて、身体も羽根のように軽かった。

 

「アキヒロさんはこの間、『一度堕ちたらそれ以上堕ちないよう踏ん張るしかない』って、そう言いましたよね。私は少し、違うと思います。諦めさえしなければ、人は這い上がれますよ」

 

 物の捉え方や場合によると言ってしまえばそれまでだけど、少なくとも今の私は、投げ出さない限り這い上がれる。もう右腕の大部分は消えて、左手も消えた。そろそろいずれかの足も、末端から見えなくなっていく。でも動く。こんな私にも、まだできることがある。

 

「利いた風な口をきくじゃねえか。お前は堕ちたことがあんのかよ」

「ありますよ、一ヶ月前に」

 

 一度全てを失ってしまった私だから分かる。這い上がり方は、三人の先輩らが示してくれた。這い上がる勇気も、大切な仲間が与えてくれた。そして私の行き着く先は、遠い何処かで待っている友達が教えてくれた。もう己の運命を嘆く必要も、暇も無い。

 

「アキヒロさん。私に明日は来ません。今日が、最期です」

「・・・・・・フン」

 

 私に残された、たった一つの今日。その事実を告げると、アキヒロさんは一度俯き、踵を返して私に背を向けながら、つまらなそうに言った。

 

「なら行けよ。もう時間がねえんだろ」

「・・・・・・ごめんなさい。私には、やらなきゃいけないことがあるんです」

「謝んな馬鹿。どの道俺達も、それしか助かる術が見当たんねえ。それだけのことだろうが」

 

 遠藤アキという嘘が消えつつある現実は、誰よりも私が理解している。しかしその前に、伝えなければならないことがある。時坂君とアスカさん、みんなに知って欲しい『想い』がある。そして、小日向君にも。それは決して淡く瑞々しい感情なんかではない。何よりシオリさんの為に、私はもう一度みんなの下へ集いたい。

 この神社に避難している住民も同じだ。余りにも現実離れをした状況がそうさせているのか、避難者の衰弱が思いの外に早い。このままでは体力はおろか、心が限界を迎えてしまう。時間が無いのは、私だけではない。一刻も早い救援が必要だ。

 

「必ず助けを呼んできます。もう柱だって、四本のうち三本が光を失いました」

「あん?マジかよ、聞いてねえぞそんなこと」

「私も昨晩知りましたから。きっとみんなのおかげです」

 

 シオリさんが教えてくれたことだ。既に杜宮駅前と記念公園、蓬莱町に聳えていた柱達は、地脈から遮断されている。霊力の供給が揺らいだことで、匣を囲っている結界にも歪みが生じ始めている。残すは工場跡地の一本のみ。X.R.Cのみんなもこの状況下で、諦めずに動き続けてくれていた。

 

「アキヒロさん、ありがとうございました。ここで会えて、良かったです」

「だから気色ワリィんだよ、クソが。それと発つ前にさっさと朝飯を作りやがれ。腹が減って仕方ねえ」

 

 最後の朝食が、ケチャップソースだけのブリトー。少々物寂しいけど、今は贅沢を言っていられない。子供達もお腹を空かせている頃だろうし、しっかりと食事当番の務めは果たさせて貰おう。

 

「あはは、分かりました。すぐに―――え?」

 

 唐突に刻が止まり、全身が震えた。直後に到来した、微弱な虚空震。アキヒロさんと顔を見合わせていると、集会所の方角から複数の悲鳴が次々と上がった。全てが一瞬の出来事だった。

 

「なっ・・・・・・クソッタレが!!」

 

 私達はすぐさま駆け出し、外履きのまま集会所の中に飛び込んだ。慌てて障子戸を横に滑らせると、そこには『誰もいなかった』。束の間の平穏な朝を迎えた、先程まであった筈の十名の姿が、忽然と消えてしまっていた。

 

「ふざけやがって!おい、一体何が起きた!?」

「待って下さい」

 

 アキヒロさんを落ち着かせながら、室内の様子を窺う。状況から察するに、魔女がマユちゃんを攫った時と同じだ。今は何が起きても不思議ではないし、特異点を介さずに直接異界へ飲み込まれたと考えていい。まだ救い出せる可能性はある。

 それに私なら、きっと追える。シオリさんと運命を共にし、彼女と混ざりつつある今の私なら、この閉鎖された世界の全てが、見える筈だ。

 

_________________________________________

 

 同時刻、杜宮学園屋上。シオや鷹羽組、BLAZEのメンバーを引き連れて無事にX.R.Cと合流した佐伯ゴロウは、杜宮市北西部にある防災基地に待機していた部下と、サイフォンの特殊モードを介して状況確認を行っていた。

 

『稼動が確認できた機動殻は四機、うち一機は右腕部を損傷しています』

「稼働時間はどうなんだ。基地の補給設備は破壊されてしまったのだろう?」

『どの機体も三十分間程度が限界のようです』

 

 7月8日の討伐決戦に投じられた機動殻は、駿河重工製の最新鋭機『10式』。夕闇との戦闘でその大部分が半壊してしまったものの、杜宮基地には通常稼動が可能な機体が今も残されていた。とは言っても、機動殻は局地戦に特化した有人兵器。火力は戦車に劣り、機動力も発展型攻撃ヘリの類に及ばない。当然対グリード戦を想定した設計でもなく、高ランクのグリードが相手では、その真価を満足に発揮することはできなかった。

 一方で貴重な戦力であることに変わりはない。結社としての戦力はアスカ一人で、ゾディアック側も手薄。対零号特戦部隊『イージス』の悲願を果たすべく、両者を出し抜く形で夕闇の討伐に踏み切ったことが裏目に出た影響で、今は少しでも多くの戦力を集結させる必要があった。

 

「四機にありったけの兵装を集めてくれ。補給設備が使えない以上、稼動も最小限に留めるんだ。いいな」

『了解です。それと、もう一点報告が』

「何だ?」

『北東部を巡回する部隊から・・・・・・その』

「要約して簡潔に述べろ」

『は、はい』

 

 杜宮市の北東部を巡回する部隊の遥か頭上を、男性を背負った少女が駆けて行った。その方角には、残り一本の柱。部下の報告を耳にしたゴロウは小さな笑みを浮かべた後、煙草の先端に火を点して答える。

 

「安心していい、良い報告を聞いた。彼女も適格者の一人さ」

『適格者・・・・・・あの少年達と同じ、オリジナルの使い手ですか』

「ああ。お前達のソウルデヴァイスを凌駕する火力を有しているぞ。漸くお目覚めのようだな」

 

 オリジナルという総称と概念は国防軍のみならず、ネメシスやゾディアック側にも存在していた。水面下で築かれてきた異界技術は、誘導によるソウルデヴァイスの規格化を実現した。イージスの部隊もその恩恵に与り、突撃銃を模した形状に一律することで、多対一を前提とした集団での作戦行動を可能にしていた。

 しかし見方を変えれば、それは独自性が失われることに繋がる。ゴロウ程の使い手になれば本来の形状、『ハルバード形態』としてのソウルデヴァイスを振るうこともできるのだが、隊員の多くはその域にいない。そしてオリジナルは唯一無二の可能性を秘めているという考えが、近代になって提唱され始めている。X.R.Cが時折見せるクロスドライブの異常な深度も、各勢力の目に留まる程のレベルに達していた。

 

「座標を教えてくれ。あいつらを連れてすぐに出発する」

 

 紫煙を頭上に吐き出し、元凶が潜む災厄の匣を見やる。間近に迫った決戦を前に、ゴロウはかつての最愛を想っていた。

 

_________________________________________

 

 《業》の柱。私とアキヒロさんが踏み入った異界は、底無し地獄と言っていい様相を呈していた。頭上では黒々しい焔が蠢いていて、薄暗い迷宮の内部には生物の骨のような成れの果てばかり。気温は氷点下に近く、絶望や諦めといった感情が込み上げてきてしまう。余りにも極端な内部の環境に、一刻も早い避難者の救出が求められた。

 グリードはスケルトン系や精霊の種族が大部分を占めていた。霊子弾の効果が薄いグリードを相手に、霊力が込められたアキヒロさんの木刀は次々とその身を斬り裂き、私はサポートに徹した。異界植物の吸引によって引き出された力も、高幡先輩に迫る勢いがあった。

 

「クソが、まだ辿り着かねえのかよ。何処まで進めばいいんだ」

「もうひと踏ん張りの筈ですよ」

 

 異界探索用のアプリが、直に最奥部へ到達することを示してくれている。捕われてしまった避難者も、この通路の奥にいる筈だ。そして異界の主も、そこに。過酷な戦いになるであろうことは、目に見えて明らかだった。

 

「なら最後にもう一本キメとくか」

「だからキメるって言わないで下さい・・・・・・」

 

 アキヒロさんが異界植物性の葉巻を咥え、私の焔属性の霊力で火を点ける。この葉巻もどきが無害なのは承知だけど、アキヒロさんの体力自体は有限。力を揮えば揮う程、アキヒロさんも消耗していくことに変わりはない。度重なる戦闘と酷使のせいで、既に限界が近い筈だ。

 

「無茶はしないで下さい。適格者と違って、耐久力は一般人と同じなんですよ」

「るせえ。お前も同じだろうが」

「私は適格者ですって」

「そうじゃねえよ。いいか、これだけは言っとくぜ」

 

 アキヒロさんは器用に葉巻を咥えながら、明後日の方角を見て言った。

 

「ダチに会うんだろ。お前の行く末がどうだろうが、お前は今ここに居るんだ。特攻しやがったらぶっ殺すぞ。そいつは特攻隊長の俺様の役目だからな」

「・・・・・・言っていることが目茶苦茶です」

 

 まるで破綻した理屈に、それでも勇気付けられる。一人じゃないという一点だけで、私の足は動いてくれる。既に爪先付近は透明掛かっていても、しっかりと地面を踏み締めることができる。前を向いて、歩いて行こう。

 やがて私達は開けた広大な空間に辿り着き、そこが異界の最深部であることを理解した。周囲を見渡しながら恐る恐る歩を進めると、視線の先に複数の人影が映る。

 

「あ、アキちゃん?」

「兄ちゃん達・・・・・・来てくれたのか!」

 

 安堵が胸の中に広がるよりも前に、前方の空間に亀裂が走る。真っ黒に染まった裂け目の中から、巨大な右腕が。続いて左腕と両足、そして途方も無く巨大な胸板。全貌を露わにした漆黒の魔人の名が、自然と頭の中に浮かんでいく。

 

「ふざけやがって。とんでもねえ化物がお出でなすったな」

「でも、やるしかありませんっ・・・・・・!」

 

 業ノ守護者『ノスフェラトゥ』。たったの二人で立ち向かうには無謀が過ぎると、身体の震えが教えてくれる。だからと言って目を背ける訳にはいかない。捕われたみんなを救い出して、私はもう一度仲間に会う。今までずっとそうしてきたように、絶対に逃げない。逃げてなんかいられない。

 

「私が注意を逸らします、その隙に叩いて下さい!」

「クク、任せとけってんだ!」

 

 ギアドライブを加速させて、向かって右方から弧を描いて魔人の背後へ回り込む。釣られて振り返った魔人の後頭部を、脚力の限界を引き出して飛び上がったアキヒロさんが、力任せに叩き斬る。すると魔人はぐらりと揺らいで、地に膝を付く形で体勢が崩れていく。

 直後。魔人は口を大きく開けながら、着地したアキヒロさんの方へ振り向き、睨み付ける。私は足を止めずにそのまま走り回り、アキヒロさんの眼前でブレーキを掛けて、ライジングクロスを構えた。

 

「だああぁぁあああっ!!」

 

 魔人の口内から放たれた漆黒の火球を、ギアバスターのスキルで強引に弾き返す。撃ち返した火球は魔人の頭部へ着弾して、その衝撃で魔人は後方に倒れ込んでしまった。攻撃は通ったし、確実に魔人へ響いた手応えがある。やりようによっては、二人でも戦える筈だ。

 

「おうおう、お前も化物みてえに強えじゃねえか。強い女は好きだぜ」

「変なことを言ってないで、早くっ・・・・・・な、何?」

 

 二人掛かりで追撃の一手に走った途端、突然地面が真っ黒に染まった。思わず足を止めて見上げると、魔人は頭上に掲げた右腕を振り下ろして、地面に右拳を叩き付けた。すると突如として漆黒の焔が顕現され、私達を焼いた。

 

「きゃああぁ!!」

「がああぁあ!?」

 

 無を示す黒とは裏腹に、赤を超えた焔は留まるところを知らず、巨大な竜巻状に巻き上がった。その中心で私とアキヒロさんは、踊り狂いながら身体を焦がし、私達の悲鳴が周囲で木霊をする。目を開けられず呼吸もできず、耐え難い苦痛だけが全身を蝕んでいく。

 

「お兄ちゃん、お姉ちゃん!?」

 

 やがて黒色の焔は収まっていき、立っていたのは私一人。無意識のうちに全身へ漲らせた焔属性の霊力が功を奏し、幾何かを防いだことで、辛うじて立つことができていた。一方のアキヒロさんは、虫の息。うつ伏せに倒れたアキヒロさんの身体は微動だにせず、肉や頭髪を燃やした不快極まりない臭いが鼻に入り、最悪の可能性が脳裏を過ぎった。

 

「あっ・・・き、ろ・・・・・・」

 

 当の私も、身動き一つ取れなかった。少しでも動いた途端に焼け爛れた皮が引き攣り、痛みが身体を拘束してしまう。動きたいのに、動けない。しかし私達を余所に魔人は立ち上がり、一歩ずつ歩み寄ってくる。頬を伝う涙が沁みて、苦痛が更に涙を生む。一瞬のうちに全てを奪い去った魔人が、地面を踏んで地響きを鳴らす度に、身体が揺らいでまた痛みが走る。

 

「動い、て」

 

 まだだ。私はまだ、何も為していない。こんな場所で果てる訳にはいかない。でも動かない。身体が言うことを聞いてはくれない。抗いたいのに、どうして動かない。立ち尽くしていないで、動け。動け、動け。

 

「動、いてっ・・・・・・動いてえぇ!!」

「エクステンド、ギア!!!」

 

 後方から放たれた刃が風を生んで、私の髪を揺らした。張り詰めた何かが弾けた私は、アスカさんの腕に抱かれながら意識を失っていった。アスカさんの肌がとても柔らかくて、安らぎの中で私は、みんなの声を聞いた。

 

_________________________________________

 

 アキとアキヒロを含めた十二名が救出されてから、約二時間後。重傷を負った二人はX.R.C一先ずの拠点、杜宮学園へと運び込まれ、保健室で手厚い治療を受けることになった。異界の焔に焼かれた身体には、アスカとミツキによる術式、専用の治癒薬を活用した措置が施され、大事に至ることはなかった。とりわけ容体が重かったアキヒロも、身動きが取れる程度には快復していた。

 それから更に二十分後。治療に当たっていたアスカとミツキは、ベッドに横たわる二人の寝息を確認してから、保健室を後にした。出入り口の周辺では、共に戦ってきた面々が心配げな表情で出迎えていた。

 

「あ、アスカ。アキの容体は?アキは、アキは無事なの?」

「ええ。手当てが早かったおかげで、術式と治癒薬がよく効いているわ。アキヒロさん共々、すぐに起きて動けるようになる筈よ」

「そうか・・・・・・なら、もう大丈夫なんだな。ソウルデヴァイスを使ってたってことは、記憶も戻ってるんだろ。アキは、元通りのアキなんだよな。そうだよな?」

 

 コウの問いに対し、アスカはゆっくりと首を縦に振った。待ち望んでいた喜びの余り、コウをはじめとした誰もが、僅かに揺らいだアスカの感情に気付くことができなかった。唯一それを察したミツキが、口元に人差し指を当てながら静かに口を開く。

 

「お静かに。お二人共、安静にして身体を休める必要があります。積もるお話はありますが、今はゆっくりと眠らせてあげましょう」

「ま、仕方ないか。あの先輩には苦労させられるよ、本当に」

「あはは。ユウキ君、こういう時ぐらい素直になろうよ」

「おら、騒いでんじゃねえよ。さっさと行くぞ、そろそろ打ち合わせの時間だ」

 

 シオが促し、安堵の表情を浮かべる皆を先導する。四本の柱はその全てが沈黙し、パンドラの匣を覆っていた結界は消滅した。同時に出現した熾天使の大集団は厄介極まりないものの、この杜宮で散り散りになっていた物の全てが、今集結しつつある。最後の決戦を明日に控え、主要な面々が集う会合が約十分後に予定されていた。

 保健室を離れていく複数の背中を、アスカとミツキは無言で見送った。どうしても、言えなかった。言える筈がなかった。

 

「どうされますか、柊さん」

「皆には、私から言います」

 

 気付かない訳がなかった。手当てを施した二人の目には、消え掛かったアキの肢体が映っていた。時間の経過と共に、彼女達の目の前で、アキの肉体は消滅の一途を辿っていた。アキの口は閉ざされたままだったものの、その異様な光景から、少なからずアキの運命を悟った。倉敷シオリという存在と結び付けて考えれば、想像するに容易い。最期が眼前に迫っているという無慈悲な現実は、もう変えようがなかったのだ。

 

「それでしたら、私はここで見守ります。もし彼女の身に、その時が来たら・・・・・・どうかその役目を、白の巫女として務めさせて下さい」

「・・・・・・お願い、しま、す」

 

 アスカは敢えて、涙を堪えなかった。最後の最後で躊躇ってしまわないように、迷いと一緒に流し出したかった。

 

________________________________________

 

 目を覚ますと、時計の長針が時を刻む音だけが耳に入った。6月5日にも聞いた音のおかげで、私はまた杜宮学園に運び込まれた経緯を察した。結局また私は、みんなから助け出された。ひどく情けないようでいて、私は本当に恵まれているのだと思える。これ以上を、私は望まない。

 

「アキヒロさん。起きてますか」

「ああ。ついさっきな」

「小日向君は、どうですか」

「うん。僕も起きてるよ」

 

 私が眠るベッドの隣には、同じくして手当て受けたであろうアキヒロさんが眠っていた。そして私を挟んで反対側のベッドには、小日向君の姿もあった。事情は今一分からないけど、彼も負傷をしてしまったのか、ベッドに横たわる小日向君の頭部には、包帯が巻かれていた。

 

「そう、ですか」

 

 ベッドから上半身を起こして、私が今着ている衣服を確認する。制服はあの焔で焼かれたからか、私は白色の病衣を纏っていた。微かにだけど、耳にアスカさんとミツキ先輩の声が残っている。私にこれを着せてくれた二人は、気付いてしまったに違いない。既に身体の大部分が、視界には映らない。大それた嘘は、もう消えつつある。

 透き通った両手を見詰めていると、アキヒロさんがゆっくりと身体を起こして、スリッパを履いて立ち上がった。私と同じ病衣を着たアキヒロさんは、そのまま扉の方へと歩を進めて、一度立ち止まってから言った。

 

「散歩だよ。前々からシオさんが通う学園ってのに興味があったんだ」

「でも、今は動かない方が」

「るせえ」

 

 開かれた扉がピシャリと音を立てて閉ざされ、再び静寂が訪れる。思わず笑ってしまった。アキヒロさんには、ユウ君とはまた異なる不器用さがある。その好意に甘んじて、今は二人っきりで話をしよう。そろそろ頃合だ。

 

「ねえ小日向君。小日向君は、適格者だったんですか」

「少し違うかな」

 

 私がベッドの上に座りながら問うと、小日向君も私と向かい合う形で起き上がり、私を見詰めた。見たこともない黒色の衣装を身に着けた小日向君の出で立ちに、違和感を抱いてしまう。

 

「12月24日に生を受けた人間の中には、特別な力を秘めた者が稀に現れる。その一人が僕さ。オルデンの騎士って呼ばれているよ」

「へえ。小日向君の誕生日、初めて聞きました」

「そうだっけ。コウの誕生日も、もうすぐだよ。7月20日だったかな」

 

 これも初耳だ。盛大に祝ってあげたいところだけど、私には叶わない。7月20日は、みんなに任せよう。

 

「じゃあみんなは、どこまで知ってるんですか。シオリさんと、この異変について」

「ある程度は察しが付いているみたいだよ。誰も口に出そうとはしないけどね」

「それもそうですよね。なら6月5日のことは、覚えていますか?」

「全部知ってるさ。あの瞬間に何が起きたのか。何故遠藤さんが、記憶を失ったのかも」

 

 突然、眩暈がした。思いの外に刻が近い。それにもっと話すべきことがある筈なのに、上手く言葉にならない。俯いていると、小日向君は見えない筈の私の右手を取って、気遣わしげな表情を浮かべた。

 

「遠藤さん、大丈夫?」

「何でもありません。あの、小日向君。何でもいいので、話をして下さい」

「改めてそう言われると・・・・・・うーん。そうだなぁ」

 

 私の曖昧な振りに対し、小日向君は両腕を組んで考え込むような素振りを見せる。どんな話題でも構わないから、彼と会話を交わしていたかった。

 

「なら遠藤さんは、僕をどういう人間だと思っているのか、聞かせて貰えないかな」

「小日向君が・・・・・・んー」

 

 今度は私が頭を抱える番だった。小日向ジュンという人間を、私がどう捉えているのか。そんなこと、考えたことがなかった。

 

「そうですねぇ。小日向君は、とても器用な人だと思いますよ」

 

 しかし一度口に出すと、次々と言葉が並んだ。小日向君はいつも周囲から一歩退いて、場の流れを上手く読んで、取りまとめる。とりわけ仲の良い四人組の中でも、一番冷静になって皆を見渡す視野の広さがある。それに何事も卒なく熟す様は、やはり器用という二文字が当て嵌まる。周りが見えなくていつも忙しない私とは、まるで正反対。時坂君とは違う意味合いで、輪の中心だ。常にまとめ役を買って出てくれるのが、私が知る小日向君だった。

 

「あはは、成程ね。でもさ、僕も遠藤さんのことを、すごいなって思うよ」

「私が、すごい?」

「テニスやパン作りがそうさ。何かと真っ直ぐに向き合って、熱中して追い求め続ける。遠藤さんのその直向きさが、僕はずっと羨ましかった。そういうの、僕には無いんだ」

「お、大袈裟ですよ」

「いや、そうなんだよ。君が言った僕の長所は、短所だ。僕は何時だって一歩退いて、足りない物にばかり目がいってしまう。何事も中途半端になって、何も手に入らない」

「・・・・・・小日向君?」

「騎士としての使命を忘れて、表と裏の境目を見失って。両者の間で揺れ動いて・・・・・・結局僕は、君に手を差し伸べなかった。だから救えなかった。だから手が届かなかった。全部、僕だ」

 

 身に余る言葉の数々は裏返しになり、小日向君を襲った。同時に私は、やっと理解した。ずっと私は、勘違いをしていた。この想いの正体は恋愛感情じゃない。私は単に、自分には無い魅力に惹かれていた。小日向君も同様で、足りない物を私に求めていた。お互いに埋め合っていただけだ。

 気付くことができて、本当に良かった。もう一片の迷いも無いし、小日向君も小日向君で、大変な思い違いをしている。背負うべきは彼ではなく、私なんだ。

 

「違います。小日向君のおかげで、私は学園のみんなを救えました。私も救われました。小日向君は、何も背負わなくていいんです」

「でも、僕は」

「手を握って下さい。言葉では、上手く言い表せないので。お願いします」

 

 残り僅かな霊力を駆使して、ライジングクロスを顕現させる。反対側の左手で、小日向君の右手を握る。重なり方は、アスカさんが示してくれた。小日向君との最初で最後の『クロスドライブ』が、私の意志と決意の全てを、彼に伝えてくれる。

 私が迷いを捨てたように、みんなも向き合う必要がある。今のままでは、シオリさんは止まらない。私には私の、みんなにはみんなの果たすべき役割がある。だから―――

 

「みんなに伝えて下さい。私のこの想いと、私のシオリさんへの想いを。そして約束して下さい。必ず来てくれるって、そう約束して下さい。一足先に、匣の中で待ってます」

「うっ・・・・・・うぅ、ぐっ。僕はっ・・・・・・僕、は」

「泣かないでよ。男の子でしょ」

 

 絡め合った手を指切りの形にして、約束の厳守を誓い合う。言葉はもう、要らなかった。

 

________________________________________

 

 保健室を出ると、扉の前にはアキヒロさんが立っていた。散歩をすると言っていた筈なのに、どうやら聞き耳を立てて待ち構えていたようだ。

 

「気は済んだのかよ」

「はい。そろそろ、お別れです」

 

 廊下の遠方には、私に背を向けながら立つミツキ先輩の姿もあった。先輩もきっと、理解してくれているのだろう。誰かの目に映る心配をする必要も無さそうだ。

 

「あの、アキヒロさん」

「馬鹿が、いちいち口に出すんじゃねえ。言われなくたってやってやる。特攻隊長だからな」

「・・・・・・ありがとう、ございます」

 

 次第に消えていた筈の四肢が光を放ち始め、暗い廊下の一画が照らされる。本当はもっと沢山の大切な人達と話をしたかったけど、贅沢は言っていられない。正真正銘、これが最期だ。

 

「アキヒロさん。本当にありがとうございました。これで、さようならです」

 

 アキヒロさんは答えない。何かを言ったような気がしたけど、私の耳には届かなかった。

 やがて私は魂と意識だけの存在となり、私を求めていた友達の下へ、光となって飛んで行った。

 

_________________________________________

 

 アキの肉体が消えてすぐに、ミツキはアキが着ていた衣服を拾い上げ、アキヒロへ丁寧に頭を下げてからその場を去って行った。アキヒロは十数分の間立ち尽くした後、背後にあった扉を開けて、ベッドに座り塞ぎ込んでいたジュンを見下ろしながら言った。

 

「おら、優男。腹は括ったか」

「・・・・・・分かっているよ。君も彼女に、導かれたんだね」

 

 アキの想いと願いは、しっかりとジュンへ届いていた。今の彼を突き動かすのは、人知れず契られた唯一の誓い。それを胸に秘めて、ジュンは己の足で立ち上がった。

 

「特攻宜しく先陣切って、テメエらを匣に届けてやる。あいつとそう約束したからな」

「僕も同じさ。もう迷いはしない。僕は、僕だ」

 

 そうして運命は、加速をする。十年間に渡って積み重なってきた物の全てが、終焉を迎えようとしていた。

 

 

 



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バイバイ、アキ

 

 私の魂が向かった先は、匣の最深部にある座。時間や距離といった概念が存在しない匣の中で、私はゆらゆらと吸い寄せられるようにして、『彼女』の下へ流れ着いた。

 禍々しい外観からは想像が付かない世界に、シオリさんは立っていた。緋色の蛍と、緋色の大地。円状に広がった滝は緋色の水流を生み出し、頭上には十年前の記憶を思い起こさせる、緋色の空。真っ赤な嘘という形容は、この世界の為にあったのではないかと思える程に、全てが緋に染まっていた。その空の下で、シオリさんは少しずつ、因果を紡ぎ続けていた。

 

 ―――おかえり、アキちゃん。

 

 私はシオリさんの中へと入り込み、彼女の魂と出会った。魂は具現化して、倉敷シオリの姿を形取り、私を出迎えてくれた。私も遠藤アキの姿となって、一糸纏わぬ私達は、お互いを抱いて柔肌に触れた。唇を重ねて吐息を交換し合い、体温を分け与えながら、何度も何度も交わった。

 偽りを、偽りで慰めて。嘘を嘘で、塗り変えて。快楽と戯れの果てには、やはり何も無かった。

 

___________________________________________

 

 シオリさんの魂が生み出した世界には、色が無かった。光が無いから、影も生まれない。私達は確かに人の姿をしているけど、真っ白なキャンバスに一本の鉛筆で描かれたかのような、点と線だけの無機質極まりない存在となっていた。こればっかりはどうにも慣れない。目が痛くなってくる。

 

「何だか、漫画の世界に入り込んじゃった、みたいな感覚ですね」

「どっちかって言うと、アニメのラフ画じゃないかな?この間テレビで見たことがあるよ」

「あー、成程。確かにそっちの方がしっくりきます」

 

 魂の色は唯一無二。ソウスケさんはそう言っていたけど、シオリさんの魂は白色だということだろうか。いや、違う。シオリさんの魂だって、本物じゃない。偽りの魂だから、私達の目には色が映らないのだろう。白というよりかは、無色だ。

 

「それにしても・・・・・・何というか、暇ですね。何も無さ過ぎて、欠伸が出ちゃいます」

「またエッチなことでもする?」

「こ、今度言ったら本気で怒ります」

「えへへ、冗談だよ」

 

 私が怒気を強めた声で返すと、シオリさんは照れ笑いを浮かべながら舌を少し出した後、大の字になって寝転がった。私もそれに倣って仰向けになり、真っ白な空を見上げる。何も無い以上、私達は会話をするしかないのだから、今更になって気怠さを嘆いても仕方ない。

 

「あの、シオリさん」

「なーに、アキちゃん」

「もしも、の話ですけど。もし本当に、杜宮の外へ出られるようになったとして、シオリさんは初めに何処へ行きたいですか?」

「海っ!海に行きたい!」

 

 シオリさんが声を張った途端、空に瑞々しい青が広がった。見慣れた筈の青空は、真夏を感じさせるオーシャンブルーに染まって、所々に浮かんだ雲が波飛沫のように映った。ここへ流れ着いてから初めて目の当たりにした色に、懐かしさを抱いてしまう。

 

「あはは、そうだと思いました。最後に海を見たのは、何時ですか?」

「幼稚園の年長組だった頃かなぁ。でもあれは本物のシオリだから、私自身は見たことがないの」

「でも記憶はあるんですよね?」

「あるにはあるけど、それは思い出じゃないよ。記憶と思い出ってね、全然違うんだ」

「よく分かります。一ヶ月前の私は、まさにそうでしたから」

 

 本当に全てを失っていたら、私は頭痛に苛まれずに済んだのだろう。記憶が消えても思い出があったから、私はその証である感情を信じて、手を伸ばし続けた。結局はこんな結末を迎えてしまったけど、思い出が残されていてよかったと、今なら思える。

 

「他には何かありますか?やってみたいこと、とか」

「雪山でスキーをしてみたいな。高い所から一気に滑り降りるの」

「スキーなら私も得意です。でもあれって、結構難しいですよ?」

「大丈夫だよ。こう見えて私、バランスは良いんだから」

「あはは。ば、バランスが良いって何ですか。初めて聞きましたよ」

 

 私が笑い声を漏らすと、シオリさんは目を細めながら頬を膨らませた。スキーキャンプなら小中学校で経験があるし、私にとって伏島の雪山は馴れ親しんだレジャースポットだ。ナツお兄ちゃんも名前とは裏腹に、とても器用に滑っていたのをよく覚えている。

 

「でもシオリさん。私も理解はしていますけど、少し無理がありませんか?」

「無理?」

「杜宮から出られないってことがですよ。普通に生活していたら、絶対にそういう瞬間が来ますよね。その度に、いちいち改変をしていたんですか?」

「上手く言えないけど、願えば叶っちゃうんだよ」

 

 シオリさんが一例として上げたのは、倉敷家一同による家族旅行。綿密に計画立てたスケジュールに沿って旅を満喫すべく、県外へ繰り出そうとするやいなや、決まって何かしらのトラブルに見舞われてしまう。気を取り直してまた今度にしようかと保留をすると、段々と全員の頭の中から旅行の二文字が消えていき、最後には全てが無かったことになる。シオリさんはこれまで、そんな経験を幾度も繰り返してきたそうだ。

 よくよく考えてみれば、杜宮学院大学に一昨年前から司書養成課程が設置されたことも、シオリさんがそう願ったことが根底にあるのかもしれない。司書資格を取得したいというシオリさんの願望は、この杜宮においては叶ってしまうのだ。倉敷シオリは生きているという嘘を、外界から守り切る為に。

 

「でもね。中学校の修学旅行の時は、流石に止めたよ。嘘は付かなかったんだ」

「え。どうしてですか?」

「だってみんなも巻き込んじゃうんだもん。私一人のせいで、コウちゃんやリョウタ君まで旅行に行けなくなるなんて、私はイヤだよ。だから代わりに、仮病っていう嘘を付いたの」

「・・・・・・旅行先は、何処だったんですか」

「京都っ。早く見てみたいな、清水寺とか」

 

 そう言いながら頭上を仰ぐシオリさんは、目を輝かせて笑っていた。

 七歳以前の記憶はあるけど、思い出が無いとシオリさんは言った。けれど、この十年間の思い出だって、きっと私達と比べれば極々僅か。嘘を付いて上書きをするか、嘘を付いて杜宮に引き籠るか。どちらも嘘が伴って、思い出作りが叶わない。

 

「シオリさんは、ずっとそうやって生きてきたんですね」

「うん。でも、もう疲れちゃった。アキちゃんが言ったように・・・・・・こんな空っぽの世界は、暇だよ。何も無さ過ぎて、頭がおかしくなりそう。だから、世界を変えるの」

 

 真っ白なこの世界は、倉敷シオリという存在を象徴している。沢山の当たり前に手が届かない、虚無に充ちた十年間の末に、シオリさんは自我を壊し掛けている。

 そんな彼女を、誰が責められる。シオリさんへどんな言葉を掛けて、彼女を止める。止められる訳がない。今のシオリさんに手を差し伸べることができる人間が、地上にはいない。だから―――私が、止める。

 

「ねえアキちゃん。アキちゃんは」

「駄目ですよ、シオリさん」

 

 表情を消して、一切の感情を投げ捨てて、私は拒絶をした。シオリさんは無言のまま視線を落とし、膝を抱きかかえるように蹲った。

 

「どうして、そういうことを言うのかな」

「駄目なんです。シオリさんがやろうとしていることは、間違っています」

「アキちゃん。自分が何を言っているのか、分かってる?」

「はい。シオリさんこそ、何か忘れていませんか?」

「答えてよ。アキちゃんは死ねって言ってるの?死んじゃえって、そう私に言っているの?」

「まあ、端的に言えばそうなりますね」

 

 世界が、変わった。つい今し方まで純白色だった世界が、真っ黒なそれへと変貌した。現実世界の事象や概念が存在しない筈の世界に、冷酷な何かが総出となって押し寄せる。やがて白と黒が入れ代わった私達の頭上には、ずっと待ち続けてきた仲間の姿があった。

 

「ほら、みんなも来てくれました。シオリさん、貴女の為にです」

 

 円状にゆらゆらと揺れる一面へ、映画館で使われる銀幕のように映し出された、もう一つの世界。異なっているのは、偽りの世界がこちら側で、向こうが現実。真逆だった。

 みんなが立っていた。時坂君、アスカさん、ソラちゃん、ユウ君、高幡先輩、ミツキ先輩、リオンさんと佐伯先生まで。そして、小日向君も。保健室で交わした約束を反故にせず、この因果紡がれし座の淵に、しっかりと辿り着いてくれていた。

 

「分からないなぁ。本当に、分かんないよ。どうして私は、生きちゃいけないの」

「シオリさん・・・・・・」

「ねえ答えてよ、アキちゃん。倉敷シオリは、どうして死んじゃったのかな」

「私は・・・・・・人の死に、答えなんてありません。私はそう思います」

 

 水面下で発生していた異界化によって、お父さんとお兄ちゃんは帰らぬ人となった。災厄と惨劇のせいで、私は益々塞ぎ込み我を忘れ、お母さんは絶望に絶望を重ねた末に、心を病んだ。お母さんは今も過去に縛られ、私の顔を見てもくれない。

 理由や答えなんてある筈がない。現実世界は沢山の理不尽や不条理で溢れ返っている。幸せや不幸は公平ではなく、私達は常に矛盾を抱えながら生きている。未熟で物を知らない私にだって、それぐらいは理解できる。どうしようもない現実なら、私なりに身を以って垣間見てきたつもりだ。

 

「でも私達は、意味を見い出すことはできます。お兄ちゃんから継いだソウルデヴァイスのおかげで、私は沢山の大切な人達を守ることができました」

「それは残された側の話だよ。そんなありきたりな言葉は、何度も見聞きしてきた。本も読んだよ。哲学や倫理に宗教とか、いっぱい本を読んだけど、全部出鱈目だった」

「でも、それでもっ・・・・・・一度変えてしまったら、それこそ人ではなくなってしまうじゃないですか。シオリさんは、それでもいいんですか?」

 

 杜宮でのみ通用した嘘を、この国の因果その物を歪めてしまえば、シオリさんは在り続ける。彼女を束縛する禁忌は消えて、これまでと同じ日常が再び訪れる。しかし一度手を染めてしまったら、もう人ではいられない。人の形を模した何かだ。今抱えている嘘とは比較にならない程の矛盾を、シオリさんは背負いながら生きていくことになる。

 

「人の死は絶対なんです。変えちゃ駄目なんです。両親を亡くしたアスカさんもミツキさんも、高幡先輩だって受け止めて、そうやって生きているじゃないですか」

「だーかーら。それは、残された側の話だよね。何度も言わせないで欲しいな」

「シオリさん!」

「もういいよ、アキちゃん」

 

 世界が、また変わった。黒は真っ赤に上塗りをされて、私の首には横穴が空いた。

 

「かはっ、あ、あぁああ!?」

 

 周囲の色が赤のせいで、鮮血は目に映らない。アクロスタワーの最上層でそうしたように、シオリさんが嘘を消してしまったせいで、首元から私の全てが流れ出ていく。

 幻覚に過ぎないのは理解していた。既に肉体を失った私は、血を流すことができない。しかし首を直に焼かれたかのような苦痛が、思考を奪い去ってしまう。

 

「アキちゃんはさっき、『何か忘れてないか』って言ったよね。こっちの台詞だよ。私がいなくなったら、アキちゃんも消えるんだよ。分かってるの?」

「ジオ、リ・・・・・・さっ」

「アキちゃん、イヤだって言って。そう願ってもいいんだよ。ほら、もう一度重なろう?」

 

 倒れ込み首を押さえる私を、シオリさんは寝転がって抱いた。両手を私の後ろ頭に回し、首元に口づけをして啜った。シオリさんの舌と唇が首に触れると、苦しみが和らいで快楽を覚えた。柔らかな手が私の身体を撫でる度に、微睡んでしまいそうになる。重なれば、楽になれる。

 

「さあ、アキちゃん」

「私、は・・・・・・一緒に、いきます。いきます、から」

「フフ、そっか。それでいいんだよ。ありがとうアキちゃん、ずっと一緒だよ」

「違います。一緒に、いくんですよ、シオリさん」

「・・・・・・アキちゃん?」

「シオリさんは、その為に、『私を杜宮に呼んだ』んです。やっぱり、忘れてる」

 

 お互いの顔が離れると、私の視界に疑問符を浮かべたシオリさんの顔が映る。

 

「ねえアキちゃん。何を言っているの?」

「思い出して下さい、シオリさん。私は貴女の為に、杜宮へ来たんですよ」

 

 シオリさんの様子から、薄々分かってはいたことだった。私が杜宮を新天地として選んだ理由。シオリさんの矛盾に齟齬が生じた、本当の理由。本来いる筈のない私が、何故みんなと共にあったのか。どうしてシオリさんと運命を共有してしまったのか。全ての真相は、シオリさんの中にあった。

 

__________________________________________

 

 倉敷シオリに纏わるこの十年間を、一つの物語として捉えた場合。そこに私は、遠藤アキという少女は登場しない。因果を改変しなかった物語に、本来私は存在していなかった。そればかりか、杜宮学園にはテニス部が無い。エリカ先輩はクラブ活動をしておらず、アリサ先輩とエリカ先輩も遠い何処かの高校にいた。当然アルバイト先であるモリミィも無くて、私とお母さんは伏島に留まっていた。その全てを変えたのは、シオリさんに他ならなかった。

 

「待って。そんなの知らない。私はそんなことしてない」

「忘れているだけです。どうして私だったのかは、分かりませんけど・・・・・・全部、事実です」

 

 シオリさんと交わった私には、全てが視える。倉敷シオリが生きているという矛盾は、杜宮の外にいた私を求めたことで、一気に膨大した。時間の問題だったとはいえ、引き金を絞ったのは、シオリさん自身だった。

 

「だ、だから待ってよ。私は」

「もう一つ、思い出して下さい。シオリさんは十年前に、何故嘘を付いたんですか」

「それは、生きたいって願ったから」

「生きたいと願った理由を聞いてるんです。私が『残された側』の話をしたのにも、ちゃんと理由があるんです。思い出して下さい、シオリさん」

「私は・・・・・・」

 

 生きていたいというシオリさんの想いは、あの東京冥災を引き起こした力ある怪異と同化をして、シオリさんは今日まで生き永らえてきた。でもそれは私欲ではなく、己の為じゃない。外の世界へ飛び出したいという願望は、全部が後付けだ。

 

『ウソだウソだウソだウソだウソダウソダウソダウソダウソダウソダ―――』

 

 シオリさんは、悟ってしまった。残された時坂君が、壊れてしまう未来が視えてしまった。『あの時、手を離さなければ』という鎖に縛られ、時坂君は幼馴染との死別を永遠に背負い続ける。だからこそシオリさんは、生きていたいと願った。残された者の、時坂君の為だけに付いた、優しさで溢れる嘘。そこには何の歪みや業も無く、純粋な想いしかなかった。

 

「私は・・・・・・そっか。私、そうだったんだ」

「でもほら、見て下さい。時坂君は、一人じゃありません」

 

 再び二人で寝そべりながら、頭上に映るみんなの姿を追う。全員が全員傷だらけで、鮮血に塗れていた。ユウ君は眼鏡が壊れてしまっているし、ソラちゃんもボロボロで素足。高幡先輩の結っていた長髪は解けて、ミツキ先輩は上半身が下着姿。リオンさんも佐伯先生も、小日向君も満身創痍だけど、誰一人として諦めていない。互いにクロスドライブで繋がり、時坂君が紡いできた絆同士で繋がり合って、約束を果たそうとしてくれている。

 

「時坂君とアスカさんも・・・・・・握り合ったあの手は、絶対に離れません。あの二人のクロスドライブは、きっと何よりも強固で強い。私には、そう見えますよ」

「・・・・・・本当だね。少し、妬けちゃうな」

 

 シオリさんは小声で呟いてから、私の左手を握った。私も指を絡めて、しっかりと握り返した。

 

「でも私は、どうしてアキちゃんを呼んだの?それが分からないよ」

「シオリさんが求めた、唯一の我がまま。それが私ですよ」

「我がまま?」

「はい。一人じゃイヤだって、シオリさんはそう願ったんです」

 

 願望の矛先が私だった理由は、全てを悟った今でも分からない。でもシオリさんは確かに、杜宮との縁を持つ私という存在に手を伸ばした。往く末を共有し、この世界で手を握り合って歩む運命共同体。それが私、遠藤アキ。生活地を移してみてはどうかというタマキさんの誘いにも、シオリさんの意思が介在していた。

 

「そ、そんな。じゃあ、アキちゃんは・・・・・・わ、私は」

 

 指でシオリさんの口元を押さえ、私はそれ以上を遮った。言葉にして欲しくはないし、絶対に彼女が口にしては駄目だ。

 

「いいんです。何も言わないで下さい。それに・・・・・・この二ヶ月半は、満ち足りた日々でした」

 

 そっと瞼を閉じれば、鮮明に思い出される。4月24日から始まった日常は、光に溢れていた。過去と向き合い殻を破って、幾多の困難をみんなと一緒に乗り越えて。私はずっと、笑っていた。こんな私でも笑っていいのかと戸惑い、それでも私は笑顔だった。

 私がいなくなれば、悲しみで涙を流す人間がいるかもしれない。心残りが無いと言えば嘘になるけど、この杜宮に来たことが誤りだとは思わない。シオリさんが私を見定めてくれて、本当に良かった。胸を張って、私はそう言える。

 

「齟齬が生まれて当然です。杜宮生まれとはいえ、伏島から私を呼び寄せたんですから」

「私が・・・・・・アキちゃんを」

「そんな顔をしないで下さいよ。それに私が言うのも変ですけど、私という存在は副次的に、様々な改変を生んだんです。知ってましたか?」

 

 遠藤アキの影響で、物語も変わった。お兄ちゃんを亡くした私に、ユウ君は己を重ねることで、肉親に対する愛情をより確かな物にしてくれた。ミツキ先輩は黒の夢を乗り越え、リオンさんとは私と互いに夢を分かち合い、例えばを言い出したら止め処が無い。私が考える一番は、時坂家でのお泊り会。夜通し遊び尽くして語り合ったあの一夜で、絆は益々深まってくれた。時坂君も決して一人じゃない。絆が彼を、支えてくれる。

 

「シオリさん。時坂君には、みんながいます。これ以上の嘘は、却って彼を縛っちゃいますよ」

「コウちゃん、みんな・・・・・・」

「シオリさんにも私がいます。私が一緒にいてあげます。怖がらなくても、いいから」

 

 立ち上がり、右手を差し出す。シオリさんはゆっくりと私の手を取り、私の隣に立ってくれた。

 これでいいんだって思える。シオリさんや時坂君を拘束してきた枷を消し去り、二人を解放するには、これしかないのだから。怖がる必要なんて、何処にも無い。

 

「そろそろ、来るみたいですよ」

 

 やがて世界が白色に戻ると、頭上から新しい二つの魂が現れ、私達を照らした。燃え上がるような赤と、純粋で凛とした青。男女二人の魂は、私達と同じように主の姿を顕現させて、思念体として両足で降り立った。

 

「来たぜ、シオリ。ったく、手間取らせやがって」

「アキさん・・・・・・やはり貴女も、ここに」

 

 時坂君と、アスカさん。二人がこの世界へ飛ばした思念体は、それぞれのソウルデヴァイスを握っていた。その反対側の手は、今も強くお互いを結んでいた。正真正銘、これが最期。この二人が全てを終わらせてくれるのなら、本望だ。

 

「来て、くれたんだね。コウちゃん」

 

 時坂君は答えない。思念体は涙を流せない。私だって、この期に及んで掛けるべき言葉は見当たらない。ひとたび口を開いてしまえば、すぐに未練へ繋がる気がして、何も言えなかった。やるべきことは、一つしかない。最後の心残りを追い出そうとしていると、シオリさんが静かに言った。

 

「柊さんも、ありがとう。温泉での約束、これからもお願いしていいかな」

「シオリさん・・・・・・ええ、勿論よ」

「アキちゃんも。ごめんね、アキちゃん」

「だから謝らないで下さい。私はそんなことっ・・・・・・?」

 

 私の声が、シオリさんの笑顔に阻まれる。私達が行き着く先は同じで、既に感情や意志を共有していた。その筈なのに、表情の意図が読めない。今この場で向けられた笑みの意味が、私には分からなかった。

 

「ううん、違うの。漸く思い出したよ。どうしてアキちゃんを選んだのか、やっと思い出せた」

「シオリ、さん?」

 

 突如として、辺りが光に照らされた。見れば、私の胸元が僅かに光を放っていた。唐突に現れた光はとても温かくて、そっと右手を当てると光は移動し、今度は右手が輝き始める。もう何度も何度も繰り返してきた、独特の感覚。念じてもいないのに、私の手にはライジングクロスが握られていた。

 

「ら、ライジングクロス?ど、どうして今これが」

「それがアキちゃんを選んだ、理由だよ。ごめんねアキちゃん。私達、一緒には行けないよ」

 

 ライジングクロスが再度光へと変わり、私を包み込んでいく。その光が、私に教えてくれた。

 

 ―――おぬしのように、稀におるのじゃよ。『二つ』を併せ持つ者がな。

 

 光が全てを教えてくれた。一年前に何が起こっていたのか。ライジングクロスが私の中に眠っていた理由。今まで見聞きしてきた、この二ヶ月間の根底にあった全てを、教えてくれた。ソウスケさんが私に伝えたかったことは、これだ。私は、違ったんだ。

 

「そういうことだったのね・・・・・・まさかこんなことが、起こり得るだなんて」

「な、何だよアスカ。一体何を言って」

「違ったのよ。彼女がソウルデヴァイスの扱いに苦労をした理由も、何もかもが・・・・・・アキさんは本来、適格者じゃない。彼女が継いだのは、ソウルデヴァイスではなかったのよ」

 

 光はここではない、別の魂の世界へと私をいざない、薄れ往く意識の中で―――穏やかに微笑むシオリさんが、何かを言ったような気がした。

 

___________________________________________

 

 不思議な世界だった。足元に生茂る草原は夏らしく青々しいのに、そこやかしこに聳える木々には紅葉。頭上から降り注ぐ夏の日差しが眩しいけど、心地良い肌寒さは初秋を思わせる。夏と秋の、二つの季節が入り混じった、ある筈のない光景が広がる世界。これを魂の色が描いた世界観と捉えるのなら、一つだけでは描けない。

 

「よお、アキ」

「ナツお兄ちゃん・・・・・・」

 

 草原を掻き分ける音と声に振り返ると、懐かしい顔があった。高幡先輩のように屈強で、胸板が厚く日焼けし切った肌色。遠藤ナツは生まれたままの姿で、無邪気な笑みを浮かべながら、当たり前のように立っていた。

 

「あはは。久し振りだね、お兄ちゃん」

「俺はそうでもないんだけどな。ずっと見てきた訳だし、全然そんな感覚が無いんだ。最近、髪伸ばしてるのか?」

「ううん、面倒だから切ってないだけだよ」

「バカ。少しは女子高生らしく気を遣え」

 

 私は別として、お兄ちゃんは何も変わってはいなかった。テニスウェアを着る部分は白肌のままで、陽に照らされ続けた手足や顔は褐色。2014年度のインターハイに出場した、あの時のお兄ちゃん。遠藤ナツその物だった。

 

「それで、だ。お前も分かってはいるんだよな」

「うん。アスカさん・・・・・・友達が教えてくれたから。ライジングクロスも、さっきね」

 

 7月31日の、あの日。グリムグリードが引き起こした竜巻災害に見舞われた私達は、混乱の果てに散り散りとなってしまった。そして災害の裏で、お兄ちゃんは部員の皆と共に、異界の内部へと飲み込まれていた。異界の中で適格者として覚醒したお兄ちゃんは、死闘の末に皆を守り抜いたと同時に、重傷を負って病院へと運び込まれた。私とお母さんが駆け付けたのは、お兄ちゃんが事切れる寸前のことだった。

 

「傷だらけになった俺の魂は、逃げ場を求めた。消えちまう前に、器を探していたんだよ」

「それが、私だったんだね」

「ああ。アキが継いだのは、ソウルデヴァイスじゃない。俺の魂、それ自体だったんだ」

 

 本来ならば、器である肉体と魂は唯一無二の一対一。お兄ちゃんの魂に、逃げ場なんてある筈がなかった。しかし幼少期から常に二人で過ごしてきた、同じ季節の名を与えられた肉親の身体は、お兄ちゃんの魂を受け入れた。夏色の魂は秋色のそれに寄り添いながら、時が経つに連れて同化していき、やがてライジングクロスとなって、ずっと私の中で眠り続けていた。それがこの一年間の、真実だった。

 

「お前がぶっ倒れた時は焦ったよ。適格者でもない身でソウルデヴァイスを使えば、倒れて当前だ。しかもライジングクロスは本来、俺の魂の形なんだぜ。本当に、無茶するよ」

「でも最近は普通に使えていたよ?」

「何だかんだ言っても、兄妹だからな。それにあのアカネって人が、色々と調整してくれてただろ。あの人の技術と腕前が異常なんだよ。もしかしたら、気付いていたのかもな」

 

 言われてみれば、アカネさんは意味深な言葉を私に残していた。お兄ちゃんの推測は、当たらずとも遠からずなのかもしれない。相当な苦労をしていたみたいだし、今度改めてお礼を言っておこう。

 

「そっか。お兄ちゃんは、ずっと見ていたんだね」

「そういうことだ。あの日からずっと、お前の中からな」

「・・・・・・そっか」

 

 常々感じていたことだ。この二ヶ月間で、私は確かに変わったという自覚がある。私を知る人間は、誰もが口を揃えてそう言ってくれた。

 

 ―――お前さ。最近少し、雰囲気変わったか?

 

 初めは時坂君。変わったけど、それは私一人の力じゃなかった。見守ってくれていたからだ。

 

 ―――お兄ちゃんが身を挺して護り抜いたからだ。だったら、私も護って見せる。

 

 見守りながら、ずっと一緒に戦っていた。私達は何時だって、二人で戦っていた。

 

 ―――昨日とは全然違えじゃねえか。お前は二重人格者か何かかっての。

 

 辛い時や悲しい時。何かに苛まれて、涙を流していた時。記憶を失い絶望に暮れていた時も、ずっとずっとお兄ちゃんが、影で私を見守っていた。だから私は前を向いて、私達は二人三脚で歩いて来た。遠藤ナツの魂が「頑張れ」「諦めるな」と言って支えてくれていたから、今の私が在るんだ。

 

「おいおい、勘違いするなよ。俺は見ていただけだ。アキ、お前の頑張りは全部知ってる」

「うん・・・・・・う、ん」

「やれやれ。涙脆いところも、変わらないな」

 

 目元を拭い、秋と夏の二つが織り成す青空を仰ぐ。涙脆い性分は、寧ろこの二ヶ月間でより深まっていた。涙を流すことが弱さだとは思わない。悲哀や苦痛で涙したことはあったけど、嬉しさや喜びの余りに泣いた数はそれ以上。右腕に薄らと残った涙も、今ここにいる遠藤アキの証だ。

 

「ねえお兄ちゃん。私ね、またテニスを始めたよ。今はテニス部の部長なんだから」

「ああ、知ってるよ」

「ベーカリーでアルバイトもしてるんだ。新商品のサンドだって、私が考案したんだよ」

「ああ、知ってる」

「友達も沢山できたし、将来の夢も見付けた。お母さんと一緒になって、お店を開くの」

「ああ。それも知ってる」

「毎日が本当に楽しい。伏島もいいけど、私はこの杜宮が好きだよ。みんなが大好きなんだ」

「知ってるよ。なあ、アキ」

「何かな、お兄ちゃん」

「逝くのは俺だけでいい。シオリって子も、それを望んでる」

「っ・・・・・・!」

 

 分かっていた。全部分かっていた。シオリさんが残した最後の笑みを、私は忘れない。

 死別に意味があるとすれば、やはりそれは残された者が見い出すしかない。いなくなった人間は、思い出の中に溶け込んでいく。出会いは別れを生んで、別れは残された私達の生き方を変える。育んできた絆を介して想いは伝わり、人はそうやって大切な何かを伝えながら、生き死にを繰り返す。だから私達は、人間なんだ。

 

「うん・・・・・・分かってる。ライジングクロスとも、お別れだね」

「すっかりアキの色に染まったな。あいつもアキに、『ありがとう』って言ってるよ」

 

 私は絶対に忘れない。お兄ちゃんを、シオリさんを忘れずに、二人の分まで明日を生きていく。二人がそれを望むと言うのなら、私には帰るべき場所がある。これで、最期だ。

 

「一足先に、あっちで父さんと宜しくやってるさ。母さんのこと、頼んだぜ。母さんと二人で店を開くっていう夢、頑張って叶えてくれよな」

「あはは、もう頑張ってるよ」

「じゃあもっと頑張れ」

「分かった。絶対に叶えて見せるから」

「ああ。さよならだ、アキ」

「うん。さよならだね、お兄ちゃん」

 

 次第に周囲の風景が変わり、夏の色が消え始める。一つだった魂は元々の二つとなって、夏色の魂が器である身体から旅立つ。遠藤アキ本来の魂が、勢いを増して世界を変え、私という存在を示す風景が広がっていく。

 

「じゃあな、アキ」

「バイバイ、お兄ちゃん!」

「バイバイ、アキ!」

「バイバイ!!バイバーイ!!」

 

 遠藤ナツの魂は、紅葉と共に頭上高くへ舞い上がった。すっかりと秋めいた世界の果てで、掛け替えの無い家族が思い出となって―――『秋晴れの空へ向かって』、飛んで行った。

 

 

 

 

 こうしてライジングクロスは、私の中から消えた。私は普通の女子高生に戻り、しかし記憶と思い出をしっかりと噛み締めながら、普段通りの日常生活へと戻っていった。

 そして夏が終われば、私の季節がやって来る。平穏を取り戻した杜宮が迎えた秋は、気象庁が予測していた暖冬を裏切る形で、寒波を伴って到来した。暦は11月の下旬に、差し掛かろうとしていた。

 

 

 

 



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最終話 想い、紡がれた明日へ

 

 2015年、11月21日。平年を遥かに下回る冷え込みに見舞われた杜宮市内では、上着に加えてマフラーを首に巻く市民が散見され、南西部にある繁華街、蓬莱町でも厚着をした通行人で溢れていた。アルバイト先から普段よりも早めに帰路へ着く時坂コウも、制服の上からピーコートを羽織り、頭上に広がる秋特有の高い空を見上げながら歩いていた。

 

「何だよ、コウじゃねえか」

「ん・・・・・・リョウタ?」

 

 掛けられた声に振り返り、昔ながらの顔馴染み、クラスメイトのリョウタと横並びになって、再度歩き出す。リョウタが肩に提げた鞄の中には、分厚い参考書の類が数冊収まっていた。

 

「バイト帰りか?」

「ああ。そっちは塾の帰りみたいだな」

 

 リョウタが塾通いを始めたのは、大学への進学を決心した直後のこと。商店街の往く末を支える人間の一人として、一層の教養と知識を身に付けるべく、リョウタは初秋に差し掛かった頃から受験勉強に取り組み始めていた。青果店を営む家族や剣道部の部員らも彼の意志に理解を示し、放課後の大半を通い先の塾で過ごすようになっていた。

 

「あー、頭が沸騰しちまいそうだ。この寒さがマジでありがてえ。雪とか降らねえかな」

「馬鹿。チズルちゃんも面倒見てくれてんだろ、言うこと無しじゃねえか」

「うるさいだけだっての。それに他人事みたいに言うなよな。特別優秀って訳でもないくせによ」

「・・・・・・お前よりはマシだ」

 

 あと四ヶ月も経てば、彼らは三年生へ進級する。部活動に励む部員は夏へ向けて、そして進学を希望する生徒には、一足先に受験勉強のシーズンが到来する。リョウタのように早い時期から動き出す生徒もいれば、そうでない者もいる。コウは自分が後者に属するという自覚はあれど、アルバイト先を転々とする日常は今も尚続いていた。

 

「不思議探究部、だっけか。最近は随分と大人しいよな。活動はしてんのか?」

「まあな。でも肝心の不思議が見付からねえと、活動のしようが無いんだよ」

「そりゃそうか。言われてみれば、余り聞かなくなったよな。怪現象がどうのこうのとか」

「何も起きないことに越したことはねえさ・・・・・っと。ワリィ、ジュンからだ」

 

 一旦話を区切り、コウがコートからサイフォンを取り出す。ディスプレイ上には小日向ジュンの名が表示されていた。

 

「おっす。久し振りだな、ジュン」

『何言ってるのさ。十日ぐらい前にも話したばかりでしょ』

「あれ、そうだったか?」

『リョウタじゃないんだからしっかりしなよ、コウ』

「そのリョウタも今隣にいるぜ」

 

 夏が終わり、国防軍との共同戦線を張っていたオルデンの騎士たるジュンには、新たな使命が下された。今回の任務先は国内の遥か北方、北海道の東端にある港街。建前上は両親の勤め先の移転に伴う転校とされていたのだが、ジュンを知る人間は彼自身の口からその旨を伝えられていた。

 

「転校してから三ヶ月も経つんだよな・・・・・・そういや、そっちでリオンと会ったんだろ?」

『ライブイベントが終わった後、少しね。ちょうど僕も市内に出る用件があったから。北海道初のSPiKAイベントってことで、すごく盛り上がってたよ』

「リオンからも聞いたよ。ジュンも元気そうだったって言ってたぜ」

『寒さだけはどうにも慣れないんだけどね。そっちも最近は冷え込んでるって聞いたけど』

「12月並に寒い日が続いてるよ。リョウタに代わるか?最近話してないんだろ?」

 

 コウが差し出したサイフォンを、リョウタが受け取る。リョウタは無邪気に笑いながら、開口一番に言った。

 

「よおジュン。そろそろそっちで彼女でも出来たか?」

『実はそうなんだ。最近付き合い始めてさ』

 

 リョウタは即座に通話を切った後、無造作にサイフォンを放り投げ、コウが慌てて回り込んでキャッチをする。寸でのところで落下を防いだコウは、リョウタの後頭部を叩いてから怒気を強めた声で突っ込みを入れた。

 

「おいこら、マジで切ってんじゃねえよ」

「だって!今!あいつが!!彼女!!彼女って!!!」

「うるせえっての。高校生やってりゃ恋仲の一人や二人ぐらいできるだろ普通」

「お前は自分が情けなくなったりしないのかよ・・・・・・クソ、あの裏切り者が」

 

 リョウタが辟易をして項垂れている最中、今度はEメールの着信音が鳴った。「また今度電話する」という短文を確認したコウがサイフォンをコートへ戻していると、前方から杜宮学園の制服を着た十名程度の集団が、ぞろぞろと歩いて来ていた。その中には、見知った顔ぶれがあった。

 

「あっ。コウせんぱーい!」

 

 大きく右腕を振りながら走り寄ってくる郁島ソラに、コウも右腕で返して立ち止まる。ソラは快活な声でお疲れさまですの挨拶をした後、隣にいたリョウタにも丁寧に頭を下げて声を掛けた。

 

「リョウタ先輩もお疲れさまです。受験勉強、大変そうですね」

「まあなー。しっかし、ソラちゃんも随分と見違えたよな。髪が伸びただけでも、前とは印象が全然違うぜ」

「フフ、似合ってますか?」

「おう。女の子っぽくていいんじゃねえか」

 

 リョウタが触れたのは、この四ヶ月の間伸ばし続けてきたソラの髪。部活動に入れ込む女子らしくショートを維持していたソラの髪型は、首筋に届くミディアムショートへと変わっていた。「尊敬する先輩に倣い、身嗜みに気を遣うのも修行の一環」とソラは豪語していたのだが、当の先輩であるアキは気紛れで髪型を変えただけであり、ある意味でソラは空回りをしていた。一方でより女性的な雰囲気を纏いつつあるソラの風貌は周囲へ好意的に映り、本人の与り知らないところで多くの視線を集めていた。

 

「ソラ、今日はどうしたんだよ。随分と大勢だな」

「みんなでお祝いをして遊んでいたんですよ。今日は11月21日ですから」

「お祝いって・・・・・・ああ、そっか。そうだよな」

 

 集団の中心に立って、『ゲームセンターオアシス』の店名とロゴが記された紙袋を二つ抱えていたのは、今日で十六歳となった四宮ユウキ。コウは悪戯な笑みを浮かべながら、ユウキの頭をぽんと叩いて言った。

 

「大人気だな、ユウキ。バースデープレゼントも沢山貰えたみたいじゃねえか」

「クレーンゲームの景品を全部押し付けられただけでしょ・・・・・・はぁ。重くて仕方ないよ」

 

 肩を落として溜め息を付きながらも、その全てをしっかりとユウキは受け取っていた。以前のユウキからは考えられない日常の一幕が、コウにとっては嬉しくもあり、それでいて一抹の寂しさを抱かせる。知らぬ間に手の掛かる弟のように接していた自分に気付き、自嘲をしてしまった。

 

「俺も今度祝ってやるよ。一緒に飯でも食いに行こうぜ」

「寧ろたった今連れ出して欲しいぐらいだよ」

「おい四宮ー。何やってんだよー」

「早く行こうぜ、バスが来ちまうって」

「ああもう分かったって!」

 

 沢山の背中を見送りながら、コウはこの四ヶ月間を想う。時の流れが余りにも早く、自分だけが遠い何処かに立っているような気がして、胸の奥が疼いていた。

 

__________________________________________

 

 レンガ小路の一画に佇む壱七珈琲店には、約二ヶ月程前から『特別営業日』が設けられた。これまでは定休日扱いとなっていた曜日においてのみ、夕刻時から店主に代わり、柊アスカによる営業がなされていた。あくまで臨時の開店に過ぎないため、オーダーできる品々は限られ、代名詞である珈琲も、店の味を守る意味合いで注文不可。客足は普段の半数以下に留まる一方で、彼女と縁を持つ杜宮学園の生徒にとっては、憩の場として定着しつつあった。

 

「ふむ。高幡君、ここの訳し方が少々違っていますね」

「な、何だとっ・・・・・・ぐぬぬ」

「まあこれだけできれば及第点ですわ。長文のコツは掴めてきているようですわね」

 

 とりわけ大学受験を次年度に控えた一部の三年生は、店の奥部にあるテーブル席を勉学の場として利用していた。リョウタと同様、より広い世界を知る為に進学を志願した高幡シオは、北都ミツキと高松エリカの二人による徹底的な追い込みで、元々人並み以上だった成績は上位に迫る成果を見せ始めていた。

 

「さてと。区切りもいいですから、今日はこの辺で切り上げましょうか」

「あら、もうそんな時間ですの?」

「また長居をしちまったか。柊、いつも悪いな」

「いえ。先輩方こそお疲れさまです」

 

 既に時刻は午後の19時半。明確な閉店時間は無いのだが、19時を目途にして閉店するのが常だった。三人が会計を済ませ、アスカが店頭に掲げられた『OPEN』のプレートを『CLOSED』に代える。するとミツキらと入れ代わる形で、ドアチャイムを鳴らすコウの姿があった。

 

「よう。お疲れさん、アスカ」

「・・・・・・来る頃だと思ってた。ほら、入って」

 

 これも日常風景の一枚。特別営業を終えた壱七珈琲店には、決まってコウが訪れる。そんな彼をアスカは拒まず、貸切に近い形でコウは暖を取り、夕食に舌鼓を打つ。たった二人だけの夜は、毎週のように繰り返されてきた。

 

「コート」

「ん」

 

 受け取ったコウの上着をアスカがコート掛けに吊るし、コウがカウンター席の中央に腰を下ろす。営業時にはヤマオカの趣味でもあるクラシック音楽が流されているのだが、閉店後の店内はシンと静まり返っていた。レンガ小路を形成する店舗達も店仕舞いを始めており、深まった秋が織り成す静寂には、特有の情緒があった。

 

「ポークカレーでいいわよね」

「ああ。つーかそれしか出せねえだろ」

「最近はサンドイッチも始めたのよ。アキさん直伝のね。具材が残っているから、オーダーして貰えると助かるのだけど」

「お、マジか。じゃあそれも頼むわ。明日の朝飯にするから包んでくれ」

「はいはい」

 

 カレールーを小分けしておいた小鍋に火を点けて、冷蔵庫からサンドの具材を取り出す。アスカの姿を見守りながら、コウは今し方届いたEメールの返信文を打っていた。

 

「誰?」

「トワ姉。週末に出かけるんだってさ。ゴロウ先生が都内に来る用事があるとかで、一緒に食事をする約束をしてるらしいぜ」

「あら、デート?知らない間に、良い仲になっていたのかしら」

「どうだろうな。元同僚と一緒に飯を食うだけじゃねえのか。でもまあ、そうなったらそうなったで祝福するだけさ。あの人だって―――」

 

 それ以上を、コウは口に出そうとしなかった。アスカは手を動かしながら首を傾げ、形容のしようがない表情を浮かべるコウを見詰めた。

 

「コウ?」

「いや、何でもねえよ。アスカ、お前のサイフォンも鳴ってるぞ」

「誰から?」

「・・・・・・アキからだ。出てもいいか?」

「ええ、お願い」

 

 カウンターに置かれていたサイフォンを取り、通話を繋げる。

 

「もしもし、アキか」

『あれ?時坂君、ですか?』

「今日は壱七珈琲店の特別営業日だろ。俺も今来てるんだ。アスカは調理中」

『あ、そっか。少し驚いちゃいました』

「それで、今日はどうだったんだよ。その件で電話してきたんだよな」

 

 平日の今日、アキは学園に顔を出していない。というのも、アキはカリフォルニアレーズン協会が主催するコンテストへ参加する為に、昨日は早くに杜宮を出て、同コンテストの会場がある犀玉に宿泊をしていた。レーズンコンテストには高校生の部があり、事前に全国から応募されたレシピ案の中から八名の応募者、ファイナリストが選出される。その一人として最終選考に進んだアキは、会場で実際にレーズンパンを作り、実技と試食審査を受けていた。

 

『頑張ったんですけど・・・・・・受賞は、できませんでした』

「そっか。でも最終選考まで進んだだけでも快挙だろ。ちなみに、どんなパンを作ったんだ?」

『えーと。《杜宮のハチミツ香るレザンデニッシュ》です』

「思いっ切り杜宮を売り込んでんじゃねえか・・・・・・名前の時点でアウトだろ。よく残ったな」

『ち、地産地消がコンセプトなんです。いいですか、まず商品というのは―――』

「分かった分かった、詳しくは帰って来てから聞くって」

 

 これは絶対に長くなる。そう察知したコウは強引に話を逸らして、早々と通話を終えた。ことパン作りに限って、ブランジェを志すアキの熱烈な語りは、聞き手がうんざりする程に長々と続く。カレーパン一つとっても軽く三十分は語り明かす。下手に触れたが最後だということは、二年B組の生徒全員の理解に及んでいた。

 

「アキさん、まだ犀玉にいるの?」

「これから新幹線に乗るってよ」

「これから・・・・・・帰り、遅くなりそうね。最近はまた、例の不良グループが杜宮に手を出していると聞くし、大丈夫かしら。帰り道が心配だわ」

「心配無いだろ。それにBLAZEも黙ってねえって。二代目のリーダーがしっかり守ってくれるさ」

「彼女の交友関係も奇妙よね・・・・・・」

 

 遠藤アキという少女に絡もうとした二人のケイオスメンバーが、突如として現れたBLAZEの現リーダーによって闇に葬られ、忽然と姿を消した。という都市伝説めいた流言が、ケイオスの間では実しやかに広まっていた。実際にはもう少々穏やかに事は収まったのだが、ケイオス側を圧倒する抑止力として働くには、充分過ぎる恐怖があった。

 アスカは苦笑いをしながら、温まったカレーを盛り付けた皿をカウンター席に置いた。

 

「お待たせ」 

「うん?おいアスカ、何で二皿もあるんだよ?」

「私も食べるからよ」

 

 よくよく見れば、二皿にそれぞれ盛られたカレールーとライスの量が異なっており、具材の豚肉も片方は多め。少ない側がアスカの分だと察したコウは、皿を隣の席に置いて、アスカもコウの傍らに座った。コウは熱々のカレーをスプーンで頬張り、一旦水を飲んで再度アスカに声を掛ける。

 

「そういや、今週末はどうしてんだ。また外に出るのか?」

「ええ。月曜日一杯まで留守にするわ。九重先生にも欠席届を出してあるの」

「三日間か・・・・・・今回は長いな」

 

 7月8日のあの日。杜宮で立て続けに発生していた異変は収束し、十年間に渡る全てに終止符が打たれた。一方で頻度や規模は以前の杜宮と比較にならずとも、異界化自体は国内全土で発生しており、脅威であることに変わりはない。杜宮を活動拠点とするアスカは、東亰都内は勿論、関東エリアにおける調査や研究を担い続けていた。有事の際には何よりも優先して駆け付け、異界化を治める。加えて週末のほとんどは執行者として活動しており、コウも度々協力者として、アスカに同行することがあった。

 

「一人で大丈夫かよ。手伝えることがあったら、俺も一緒に行った方がよくないか?」

「心配要らないわ。今回の事案は単なる調査だから、私一人で充分よ」

「でも三日も掛かるんだろ。俺も―――」

「少しは学生としての本分に時間を使いなさい。同じ大学、行ってくれるんでしょう?」

「・・・・・・あ、はい」

 

 有無を言わさぬ語気に、コウは素直に従うしかなかった。

 杜宮が異界関連の技術者や設備で充実しているように、日本の大学にも様々な裏の顔がある。アスカが現時点で進学先として選んでいる大学は、異界研究の権威が集う都内の私立校。コウも進学先候補の一つとして考えてはいるのだが、彼の学力は良くも悪くも全科目で平均的。勿論、進級してから本格的に受験勉強へ取り組んでも、充分に間に合う可能性がある一方で、アスカが敢えて言及したのには、しっかりと理由があった。

 

「それで、何を悩んでいるのかしら」

「は?」

「は?じゃないでしょう。そんな感傷的な顔をされて、黙っている訳にはいかないの。それに美味しいの一言ぐらい言って欲しいものだわ」

 

 アスカの指摘に、コウはゆっくりとスプーンを皿の端に置いた。アスカはコウの様子を気に留めようとせず、カレーを食べる手を止めずにコウの返答を待ち続ける。

 

「別に悩んでるって訳じゃねえよ。でも、なんつーか・・・・・・なあ、アスカ」

「何かしら」

「俺って、あれから何か変わったか」

「変わっていないと思うわ」

「・・・・・・そう、だよな」

 

 時の流れに伴いながら、自然と変わっていく物がある。

 変わろうと願えば、変えることができる物がある。

 変わるべき物もあり、変えてはならない物だってある。

 何をどうしたって、変わらない物がある。

 

 境い目を、コウは見失っていた。周囲の仲間達は、既に変わりつつある。将来を見据えて、志を新たにする。これまでとは異なる世界に飛び込む。夢に向かって直向きに歩を進める。気紛れで些細な変化を楽しむ。その全てが、自分には無い。

 得体の知れない何かが焦燥感を駆り立てて、強引に背中を押してくる。しかし11月21日の今日まで、この四ヶ月間を自分がどうやって過ごしてきたのか。何処へ向かうべきなのか、分からない。不安だけが、広がっていく。

 

「こんな言い方をしても、分かる筈がねえよな。ワリィ、忘れてくれ」

「馬鹿を言わないで。分かるわよ、それぐらい」

「え・・・・・・」

 

 スプーンを置いたアスカの右手が、コウの左手に重なる。四ヶ月前にもそうしたように、お互いを結ぶ絆を象徴する繋がり。

 

「全部、見てきたから。コウのことは、全部見てきた。家族や友人よりも、私は今ここに居る貴方を知っている」

「アスカ・・・・・・」

「焦らなくていいの。少しずつでいいから。これからもずっと、傍で見守らせて」

「・・・・・・カレー、美味いよ」

 

 人は恐ろしく不器用で、独りでは生きていけない。人一倍不器用な彼らは、別の誰かを求めて支えられることでしか、歩いてはいけない。不器用だから言葉にできず、気付きようもない「助けて」に手を差し伸べる者も、数少ない。

 けれど、ずっと温めてきた想いが定まった時、彼らはしっかりと歩く。積み重ねてきた日々が、明日へ直結する強さを胸に秘めながら、彼らは生き続ける。物語は、続いていく。

 

 ―――コウちゃん。

 

「「っ!?」」

 

 物語は、続いていく。

 

 




これにて一応の完結です。後日談とかを書くかもしれませんが。何気ない日常を書くのが、一番楽しいですね。
最後までお付き頂いた読者の皆様方、本当にありがとうございました。


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アフターストーリー
12月12日 襲来



 拙作のアフターストーリーは、「東亰ザナドゥeX+」本編のアフターストーリーとは異なる、オリジナル要素溢れるエピソードとなります。
 元々考えていた構想に基づいて執筆しており、各キャラの細かな設定や時間軸等も本編とは異なりますので、ご注意願います。
 また、私情により久方振りの執筆となります。次回更新がいつになるかも不透明ですが、お付き合い頂ければ幸いです。




 

 杜宮市中央図書館は、杜宮駅から徒歩で来れる距離にある。書店を営むお父さんの伝手を頼りに、私がここでアルバイトの真似事を始めたのは、先週末のことだ。

 賃金を貰ってはいないし、何の契約も交わしてはいない。週末に限り、簡単な本の整理作業を手伝うだけで、見返りは私の胸中にしかない。司書資格を取りたいという漠然とした願望が、少しだけ満たされてくれる。言わずもがな、幼馴染や友人から感化された結果でもあった。

 

「……コウちゃん達、楽しんでるかな」

 

 小声を漏らしながら、外を見やる。気象庁の見立て通り、寒冬が訪れようとしていた。館内は暖房が効いているけれど、窓枠に近付くと、冷やりとした空気が肌にしみる。窓越しに空を見上げれば、幻想的な赤みを帯びた冬の夕陽があった。吸い込まれてしまいそうな光景を前に、私は自然と微笑みを浮かべていた。

 ともあれ、もう夕刻だったか。本に囲まれていると、時間の感覚が狂ってしまう。私の悪い癖の一つだ。

 

「よう、お疲れさん」

「お疲れさま、シオリちゃん」

「え?」

 

 振り返ると、親しい二つの顔があった。リョウタ君と、チヅルちゃん。学生の利用客も勿論一定数いるけれど、この図書館で二人に会うのは今日が初のはずだ。

 

「フフ、少し驚いちゃった。二人共、今日は本を借りに?」

「まあな。学園の図書館でもよかったんだけど、折角だからシオリちゃんの働いてるところも見たかったしさ」

「べ、別に働いてるわけじゃないよ。ただのお手伝い」

 

 リョウタ君が悪戯に笑いながら、事の経緯を話し始める。

 彼が進学を決意し、周囲から先んじて受験勉強に取り組み始めたのは、秋口のこと。当時は誰もが驚愕し、クラスメイトは呆然自失として、友人らは戸惑いの余り発狂し始め―――は、言い過ぎだけれど。私も遅れて、大いに驚かされた。

 そんなこんなで、リョウタ君はチヅルちゃんと二人三脚で、少しずつ受験勉強を進めている。とはいえ、私達二学年生には、まだまだ時間がある。余り根を詰め過ぎないようにと、チヅルちゃんが気分転換に誘う形で、この図書館を訪ねたそうだ。

 

「こいつったら、本と言えば漫画しか読まないんだから」

「チヅルだってたまに俺から借りて読むじゃんかよ」

「私は漫画以外も読んでるわよ」

「俺だって雑誌とか買うっての」

「どうせロクでもない雑誌でしょ」

「お前今SPiKAを馬鹿にしただろ!?」

「どうしてそうなるのよ!?」

「ふ、二人共っ」

 

 私の声にハッとした二人が、周囲を見渡す。「うるさい」という怒声が込められた冷ややかな視線の数々。お互いにコホンと咳払いをした後、今度は声を潜めての小競り合い。

 

(変わらないな、みんな)

 

 何かが変わったわけじゃない。リョウタ君はリョウタ君。ジュン君も佐伯先生も、遠い地で新たな日々を過ごし始めているけれど、同じ空の下に立っている。思い出を大切に抱えながら、皆が前に進んでいる。ただ、それだけのことだ。

 やがて小声の応酬が一段落すると、チヅルちゃんが私の顔をまじまじと覗き込んでくる。思わず仰け反ってしまった。

 

「な、何かな?」

「いえ、さっきほら。外を見てボーっとしてたから、少し気になって。考え事か何か?」

「……そう、見えた?」

 

 見られていたことに気恥ずかしさを覚え、逃げるように顔を背ける。視線の先には、再び夕刻の冬空。

 考え事ではないけれど、空を仰ぎながら物思いに耽る回数が増えた。恐らく、さっきも同じだ。

 

「シオリちゃん?」

「えーと。今頃コウちゃん達、どうしてるのかなって思って」

「ああ、そういえば今日だったわね。日帰りの旅行って聞いてるけど?」

「さっきNiARの書き込み見たぜ。めっちゃ蟹食ってるってさ。羨ましいよなぁ。蟹だぜ、蟹」

 

 全てのキッカケは先月の下旬。私と柊さんの二人で、放課後に商店街を回っていた時の出来事。柊さんが商店街の福引で、一等の旅行券を当てたという小さな奇跡にある。

 旅行の行き先は都内でも有名な温泉テーマパークで、日帰り旅行が無料になるペアチケット。しかも蟹の食べ放題付き。贅沢極まりない、一等に相応しい内容だった。

 

『よかったね、柊さん!』

『……どうしようかしら、これ』

『えっ』

 

 しかし当の本人にその気は無く、受け取った時から他者へ譲るつもりだったようだ。柊さんらしいと言えばそれまでだけれど、問題は誰に譲るか。コウちゃんに相談を持ち掛けた柊さんは、最終的に二人の先輩へと進呈していた。勿論そこには、明確な理由があった。

 北都先輩と高幡先輩は、大学受験に向けた本格的な追い込みの影響で、相当な疲労が溜まっていたらしい。とりわけ北都先輩は、北都グループの一員としての業務に加え、高幡先輩へのサポート等も重なり、多忙を極めていたようだ。日帰り旅行ならちょうどいい骨休めになると考えての、後輩からの贈り物だった。

 

『お気持ちは大変有難いのですが……えー、コホン。高幡君、どうしましょう』

『そうだな。二人だけで贅沢ってのは、少しばかり寂しいもんがあるな』

『あれ、そこですか?』

『あん?』

 

 その後は紆余曲折あったそうで、結局は部員総出での日帰り旅という形に収まったと聞いている。交通費も含め、それなりの出費になるはずだけれど、たまの贅沢と考えれば安いものかもしれない。

 きっと今頃は、皆で和気あいあいと盛り上がっているに違いない。思い浮かぶ笑顔の数だけ、私も笑うことができる。

 

「さーて。余り邪魔しても悪いし、俺達そろそろ帰るわ」

「あれ?本、借りなくてもいいの?」

「あっ」

「どうしてアンタはそう……はぁ」

「フフ、あははっ」

 

 あの日。枷から解かれた私は、杜宮の外に触れた。七年振りに、本物の海を見た。紅葉の名所で、穏やかな紅色に身を投じた。長旅の疲れが心地良く、何度も何度も家族旅行を提案しては、遠出をした。交互にやって来る『初めて』と『久しぶり』が途方も無く新鮮で―――それでも私は、笑うことができないでいた。

 負い目が苦痛だった。後ろめたさを感じていた。罪悪感もあった。生きていいと言われても、黒々とした過去に蝕まれていく。その全てを受け入れてくれたのも、大切な幼馴染と、掛け替えの無い友人達に他ならなかった。笑い方を思い出した私は、目元を真っ赤に腫らしながら、笑っていた。

 

「あは、あはは!あはははっ!」

「「シーっ」」

「……ごめんなさい」

 

 笑いながら生きていこう。私は笑うことができる。だって私は、倉敷シオリなのだから。

 

___________________

 

 

「あー、もう無理。動けない。コウ先輩、お茶」

「何でいつも俺に言うんだよ。俺だって動けねえっての」

「私としたことが……たかが甲殻類に我を忘れるだなんて」

「あ、アスカさん、サイフォンが蟹の汁で濡れてま……ゲップっ」

「アキ先輩、女子高生として今のは駄目です」

 

 順を追って説明しようと思う。数ある温泉を堪能した私達を待っていたのは、大皿に盛られた大漁の蟹、蟹、蟹、そして蟹。だったのだけれど、ミツキ先輩と高幡先輩は少量を口にした後、心地良い睡魔に耐え切れず、休憩所で休んでしまっていた。余程疲れが溜まっていたのだろう。

 残された私達は、蟹の食べ放題という非日常に魅せられ、思う存分楽しんでいた。主役そっちのけで蟹を食べ漁り、卓上には殻の山々。満腹を通り越してしまったのは私だけではないようで、苦悶に満ちた表情が並んでいた。

 先輩方を放置して、何をしているのだろう。後悔をしても仕方ないけれど、旅の主旨を忘れてどうする。とりあえず、暫くは蟹が嫌いになりそうだ。カニカマは一生無理かもしれない。

 

「しっかし、ホントよく食ったよな。特にアキ、お前すげえよ」

「そ、それはその。リオンさんから『アタシの分まで食べてきて』って頼まれていたので」

「真面目かよ」

「真面目ですね」

「真面目ね」

 

 気にしないでおこう。どう返しても無駄な気がする。

 X.R.Cメンバーの中で、唯一都合が付かなかったのがリオンさん。学業とアイドル業とを両立させているリオンさんは、SPiKA人気の急上昇も相まって、益々多忙な日々を送っている。確か今日は、関西方面でイベントがあったはずだ。

 

(……最近、多いよね)

 

 誰かが欠けて、皆が揃わない。夏が終わった頃から段々と増えてきている。それ自体に問題は無くとも、今のままではいけない。旅行の日程を決めた際、ちょうどいい機会だから改めて話し合おうと、皆で決めていたことでもある。

 

「あの、時坂君。そろそろ」

「分かってるって。少し真面目な話をしようぜ」

「ええ、そうね」

 

 二人の口振りで、ソラちゃんとユウ君も察したようだ。私達はX.R.Cの今後について、真剣に考える必要がある。

 元々X.R.Cは、異界化事件への情報収集と迅速な対処を行うための、表向きの顔に過ぎなかった。日常を取り戻した私達に残されたのは、『不思議探究部』としてのX.R.C。新たに私が加わったのはいいものの、活動目的を失ったX.R.Cは、宙ぶらりんな存在になりつつあった。

 問題は他にもある。受験生であるミツキ先輩と高幡先輩は、クラブ活動から引退した身と言っていい。息抜きに部室を訪ねることはあっても、活動に参加する暇は無い。アスカさんは関東地方を中心に、日々執行者としての任務に当たっている。休日は勿論、平日に遠出をすることだってある。時坂君もそんなアスカさんのサポート役に徹し、二人一組で行動することが多い。リオンさんもリオンさんで、学生とアイドルの間を忙しなく行き来している。ソラちゃんには空手部、私にはアルバイト。クラブ活動らしい何かを求められると、どうしてもユウ君頼りになってしまう。

 部員が集まることすら難しく、クラブを存続する意義も曖昧。それがX.R.Cの現状だった。 

 

「顧問を買って出てくれたトワ姉の立場もあるし、誤魔化しながらやってきたわけだが……率直な意見を聞きたい。アキ、どう思う?」

「そうですね……えっ。わ、私?ケホ、コホッ」

 

 唐突に名指しをされて、思わず咳込んでしまう。口内に蟹の味が広がり、気分が悪い。少し落ち着こう。

 

「何つうか、一番悩ましげな顔をしてたからさ。思うところがあるんじゃねえのか」

「あるには、ありますけど……」

 

 ずっと考えていたことだ。私には、女子テニス部の部長としての立場もある。

 現状のままでは、中途半端な活動しかできないかもしれない。でもそれは、今に限った話だ。来年になって、新入生がX.R.Cに興味を示し、部員数が増えれば状況は変わる。テニス部だって同じだ。今は私一人だけれど、既に入部を希望している新入生候補は複数人いる。来年はきっと―――

 

「あれ?そうなると、アルバイトとクラブ活動が二つで三つに……う、うーん」

「何でそこで悩むのさ……台無しじゃん」

「まあまあ。ともかく、私もアキ先輩と同意見です。X.R.Cは大切な居場所ですし、途中で何かを投げ出すのは、性に合いませんから」

 

 ソラちゃんの真っ直ぐな声が、ストンと胸の奥に入って来る。異論の気配はどこにもない。結局のところ、皆が皆同じことを考えていたようだ。

 クラブを私物化するつもりはない。でもX.R.Cは、表も裏も全部をひっくるめて、私達がこれまで過ごしてきた、これから続いていく学園生活の証だ。当初の目的はどうあれ、大切にしていきたいと思う。それに時坂君が触れたように、九重先生の立場もある。たったの三ヶ月でクラブ活動が廃れてしまっては、自ら顧問を買って出てくれた九重先生の評価に関わる。体裁が悪過ぎだ。

 

「おし、決まりだな。取り急ぎ、年内の予定を確認させてくれ」

 

 部長を務める時坂君が、簡潔にまとめていく。クラブを存続させるには、最低限の活動が求められる。新聞部が学園新聞を作成し、映画研究部が映画撮影を行うように、私達は杜宮市の不思議を探求して、形として活動の成果を残す必要がある。

 前回はユウ君が主導となり、インターネット上から都市伝説やら何やらを拾い上げ、無理矢理杜宮市に結び付けるという手法を取ることで、事なきを得ていた。しかしそれにも限界があるし、余りいい気はしない。

 

「期限は学期末までだ。てなわけで、まずはネタが要る。一応今聞いとくけど、心当たりがある奴はいるか?」

 

 時坂君の問い掛けに、アスカさんが小さく右手を上げる。私達は意外そうな面持ちで、アスカさんに視線を向けた。

 

「BLAZEに『クイーン』の座が誕生した、という噂を聞いたわ」

「それ不思議とは違うだろ。そもそもクイーンって何だよ」

「二代目リーダーと唯一対等に話せる女子高生がいるとか、そんな話よ」

「ピンポイントで思い当たる女子が目の前にいるんだが」

「……こっちを見ないで下さい」

 

 どうしていつも、私は変な噂に巻き込まれてしまうのだろう。アキヒロさん、良い人なのに。

 

___________________

 

 

 充実した時間はあっという間に過ぎていくもので、特に大きなトラブルも無く、日帰り旅行は閉幕を迎えた。私達は杜宮駅前で解散し、ミツキ先輩は高幡先輩と一緒に。時坂君とユウ君は時坂家で『某RPGノーセーブクリア』に再チャレンジするらしく、意気揚々と自転車で帰路に着いていた。

 私とアスカさん、ソラちゃんはオリオン書房に立ち寄った後に、駅前を発った。最終のバスは既に出ているから、徒歩での帰宅。流石に旅疲れがあるのか、足取りが重い。時刻も既に午後の二十時を回っていた。これから徹夜でゲームに興じようという時坂君達の気が知れない。

 

「でも楽しかったですね!ミツキ先輩とシオ先輩も、満足して下さった様子でしたし」

「それもこれも、アスカさんが福引で一等を当ててくれたからですよ」

「くじ運には縁が無い人間だと、勝手に思い込んでいたけれど……案外、逆なのかもしれないわね」

 

 アスカさんが言い終えるのと同時に、上着に入れていた私のサイフォンが鳴った。Eメールの着信音。見れば、差出人は遠藤コマキ。思わず顔が緩み、笑みが浮かんだ。

 

「母親から?」

「……やっぱり、分かります?」

「顔を見ればね」

 

 心の病は、簡単には治らない。でも少しずつ、お母さんは前に進めている。調子が良い時は、こうしてメールを届けてくれる。浮き沈みはあるし、真面に電話で会話すらできないけれど、少しずつ。今はそれでいいと思える。

 鞄を背負って返信メールを打っていると、今度はアスカさんのサイフォンが鳴った。画面を確認してから、私達から僅かに距離を取り、「柊です」と一言。メールではなく、通話だった。

 

(こんな時間に……誰だろ?)

 

 三十秒にも満たない通話を終えたアスカさんは、訝しげな表情を浮かべていた。ソラちゃんが通話の相手を問うと、アスカさんはやはり釈然としない様子で答える。

 

「ユキノさんよ。何を聞きたかったのかしら。どうも要領を得なかったわね」

「と、言いますと?」

「結社の……いえ、何でもないわ。気にしないで」

 

 アスカさんの声が、夜の静寂に溶け込んでいく。肌寒さが増した気がして、身体が僅かに震えた。

 

___________________

 

 

 『帰るまでが遠足』という言い回しを始めて口にしたのは、誰なのだろう。意味合いは違えど、旅行も同じだ。旅先からの帰り道には、独特の興趣がある。一抹の寂しさと名残惜しさに、胸が締め付けられる。

 

「おい北都」

「何ですか、高幡君」

「このまま歩きで帰るのか?」

「いけませんか?」

「そうは言ってねえよ」

 

 敢えて徒歩を選び、一日を噛み締めながら、ゆっくりと帰路に着く。キョウカさんはいい顔をしないけれど、ここ最近は癖になりつつある。今日のような充実した一日を過ごした後は、無意識の内に歩調を緩めてしまう。忙しない日々が常態化している反動なのか、それとも別の何かなのか。

 でも彼は、私を止めようとしない。頼んでもいないのに、夜道の一人歩きは危険だと言って、私に合わせて隣を歩いてくれる。おかげ様で夜の散歩を満喫できるのはいいけれど、嬉しさが半分と、複数の感情がもう半分。信頼感や安心感、その他諸々。柊さんと時坂君の関係も、似たようなものなのかもしれない。

 

「そう思いませんか?」

「何だって?」

「何でもありません」

 

 意地悪な笑みをマフラーで隠しながら、首を傾げて見せる。今日のところはこれぐらいにしておこう。彼の困り顔を見るのは好きだけれど、本音では困らせたくはない。

 

「柊さん達には今度、何かお礼をしなければいけませんね」

「そうだな。また飯でも奢って―――」

 

 ―――突如として風が止み、音が消えた。違和感、寒気、眩暈。息苦しさと、五感が不具合を起こす独特の現象。慣れ親しんだ通学路の風景が、まるで別世界に映り始める。

 

「これはっ……高幡君」

「ああ、分かってる。忘れるわけねえだろ。この得体の知れねえ感覚をよ」

 

 荷物を置き、羽織っていたコートを手早く脱ぎ捨て、サイフォンのサーチアプリを起動させる。幸いにもこの通りは街路灯が少ない裏道で、周囲に人気は無い。私自身冷静さを保てているし、高幡君も動じてはいない。

 この三ヶ月間、杜宮市内で異界化は一件も発生していない。けれど異界化は、いつ何時だって起こり得る。この地上で生きている限り、特異点となる可能性から逃れる術は無い。事前に察知できた分、幸いと考えるべきだ。

 

「……え?」

 

 手元に視線を落とすと、不可解な数値があった。複数のゼロが並んでいた。サーチアプリが示す値は『0.00%』。異界化の反応が皆無。高幡君のサイフォンも同様で、私達はお互いに顔を見合わせた。

 

「どうなってやがる。こいつは、異界化じゃねえってのか?」

「待って下さい」

「まさか、グリムグリードか!?」

「落ち着いて、そんなはずはありません。でも、どうして……?」

 

 おかしい。適格者としての経験と勘が、この現象は異界化だと告げている。しかしサーチアプリがそれを否定していた。反応パターンは異界の数だけあれど、少なからず数値として表れるはずだというのに。

 

「っ……来ます!高幡君、下がって!」

 

 それに、来る。遥か遠方から、途方も無い速度で『脅威』が接近している。グリムグリードによる浸食とも違い、現実的な距離感がある。最早考えている余裕も、時間も無い。

 

「輝け、ミスティックノード!!」

 

 高幡君の前方に立ち、半ば駄目元でソウルデヴァイスを顕現させる。同時に霊子結界を展開させると、直後に前方から衝撃を感じ、巨大な殺気を叩き付けられる。ソウルデヴァイスを握る両手を伝って、全身に痺れが走った。

 

「ぐっ、ううぅ?」

 

 すぐに不可解な現象が起きた。結界を成していた無数の霊子が、霧散を始めていた。強靭な障壁が削がれていき、同時に霊力が体内から流れ出ていくかのような錯覚に陥る。

 やがて結界は消滅し、反動で崩れそうになった背中を、高幡君が受け止める。呼吸を整えながら目を凝らすと、前方にぼんやりとした影が映った。

 

「北都、無事か!?」

 

 僅かに届いた声に応えようにも言葉が出ず、首を数回縦に振って応える。

 ソウルデヴァイスを揮えたということは、疑う余地が無い。『あの影』はグリードで、ここは異界ではなく現実世界だという現実を、受け入れるしかない。抗うための力が、私達にはある。

 

「おおぉらああっ!!」

 

 預けていた背中を起こすと、高幡君のソウルデヴァイスが発する焔属性の霊力を感じた。続けざまに、地面が揺れる程の衝撃と轟音。重剣による連撃。

 後方から援護をしようにも視界が悪く、それよりも―――力が、入らない。

 

(どう、して?)

 

 死線を潜り抜けた直後のように、疲弊し切っていた。霊力の残量が明らかにおかしい。霊子結界を展開させただけで、何故こんな状態になる。

 不意に、斬撃の音が止んだ。顔を上げると、ヴォーパルウェポンを頭上に構えた高幡君の背中があった。伝わってくる感情は、迷い、躊躇い、疑い。高幡君の動きが止まり、重剣は振り下ろされない。代わりに風を斬る音が鳴り、血飛沫が舞った。

 

「高幡、君?」

 

 追撃を受けた高幡君の身体が、後方へと弾き飛ばされていく。街路樹に背中から叩き付けられ、大木がぐらぐらと揺れる。力無く地面へと崩れ落ちた四肢は、ピクリとも動かない。

 

「た、高幡君!?」

 

 彼に気を取られた一瞬を突いて、殺気の塊が動いた。私は振り向きざまに再び結界を展開し、背後から襲い掛かろうとしていたグリードを寸でのところで遮り、全霊力を以って拒絶した。

 先程と同様の現象が起きていた。霊力の結界が、見る見るうちに弱まっていく。グリードに吸い込まれるように霊力が四散していき、やがて音も無く、結界は消えた。

 

「あ―――」

 

 眼前に、グリードの全容があった。四肢がある。両足で立っている。頭部と思しき部位から垂れ下がる長髪。地面にまで届く両腕。月明かりに照らされた眼。外見はヒトに近い。いや、これではまるで―――

 

「ひっ!?」

 

 背中から地面に押し倒され、両肩を掴まれる。首筋にぬるりとした何かが触れると同時に、底無しの気怠さに襲われた。呼吸が止まり、全身が大きく痙攣を始めた。

 

「あ、あああぁあ、あああぁぁあ!!」

 

 間違いない。このグリードには、他者の霊力を吸い取る術がある。急速に生気を吸われ、視界が狭まっていく。このままでは、あと十数秒で全てを吸い尽くされてしまう。

 死の一歩手前に立たされて尚、思考は明確だった。余りに異質過ぎるからだ。何をされているのか。何が起きているのか。一体、何が。

 意識を失いかけた、その時。放たれていたはずの殺気が、明後日の方角を向いた。獲物に興味を失くしたかのように、グリードが立ち上がり、『言った』。

 

 

 

「ひ……ぃっ……ら、ぎ」

 

 

 

 



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12月13日 悪夢

 

 ブー、ブー、ブー。

 

「っ!?」

 

 呼吸を止めていた直後のような息苦しさ。全身に浮かぶ冷や汗。見慣れた天井に、カーテンの隙間から漏れる陽の光。枕元で震動していたサイフォンを右手で起こすと、画面上には着信中の三文字と、アスカさんの名前があった。

 

(電話……アスカさん?)

 

 迷いつつ、私はそっとサイフォンを置いて、半身を起こした。掛け布団を半分に折り、再び仰向けに寝そべる。十二月中旬の冷え込みが、汗を介して火照った体を冷ましていく。現実感が、心地良かった。

 

「……また、か」

 

 悪夢は唐突にやって来る。乗り越えたはずの過去は、変わらずに記憶として残っているからだ。たとえ昨日が充実感で溢れていたとしても、時として夜な夜な囁いては、同じことを繰り返す。

 夢の中で、私は杜宮総合病院の病室にいた。記憶を失った私。大切な何かを失くした私。見知らぬ顔ぶれに怯える私。心の拠り所は家族と、時坂君だけ。あの時の私は、遠藤アキではない誰かだった。

 

―――シオリさん。その、変なことを聞いてもいいですか?

 

 以前に一度だけ、シオリさんに話したことがある。シオリさんも同じだった。忘れた頃に、嫌な夢を見る。夢の内容と心身の状態は密接に繋がってはいるけれど、本当に些細な要因一つだけで、人は悪夢にうなされることがあるらしい。要するに理由なんて、あってないようなものだ。

 

「よしっ」

 

 先程の夢にも、大した意味はない。そう自分に言い聞かせながら、サイフォンを手に起き上がる。時刻は朝の八時過ぎ。アルバイトや大した予定も入っていない日曜日な分、起床の時間が少々遅くなってしまった。

 ともあれ、まずは折り返しの電話だ。着信履歴を確認すると、およそ二十分前にも、アスカさんから着信が入っていた。

 何か急ぎの用件でもあるのだろうか。首を傾げながら発信を押す。待ち構えていたかのように、通話はすぐに繋がった。

 

『はい、柊です』

「あ、遠藤です。おはようございます」

『おはよう、アキさん。今話せるかしら』

「はい、大丈夫ですよ。すみません、電話に出れなくて。どうかし…………え?」

 

 思わず耳を疑った。奇しくもアスカさんは、夢と同じ舞台にいた。

 

___________________

 

 寝ぼけ眼のタマキさんに無理を言って車を出して貰い、杜宮総合病院に到着したのは午前九時前。急ぎ足で東館にある正面玄関を目指していると、見知った顔が二つ。ユウ君はやれやれといった様子で、ソラちゃんは右手を大きく振りながら出迎えてくれた。

 

「おはようございます、アキ先輩」

「おはよう二人共。ごめんね、遅くなって」

「寧ろ早いぐらいだと思うけど。バスで来たの?」

「ううん、タマキさんが送ってくれたんだ。それで……みんなは、何処に?」

「南館です。早速向かいましょう」

 

 二人が案内してくれたのは、敷地内南側にある南館。一階のエントランスホールを通り、エレベーターに入ると、ソラちゃんは四階のボタンを押した。閉ざされた狭い空間に、奇妙な息苦しさを覚えた。

 

(……落ち着かない)

 

 今朝方に見た夢のせいかもしれない。多くの人間にとってそうであるように、この病院にはあまりいい思い出がない。全てを割り切った今でも、あの悪夢のような数日間を思い起こしてしまう。四階に上がるまでの僅かな時間が、ひどく長々と感じられた。

 

「コホン。時坂君とアスカさん以外には、誰か来てる?」

「北都先輩の秘書さん。それと九重先生も一時間ぐらい前に来てるよ」

「九重先生が?」

 

 言うと同時に扉が開き、広々とした通路に出る。外来や入院患者の姿は見られず、リノリウムの床特有の足音が響き渡る。二人の背中を追って通路左側にあった扉を通ると、関係者用と思しき講堂のような一室があった。

 

「すみません、遅くなりました」

「寧ろ早いぐらいだって。車で来たのか?」

 

 先程と同じやり取りを交わす。右手を上げて応じる時坂君と、その隣に立つアスカさん。そして九重先生。少々離れた位置に、ミツキ先輩の秘書である雪村キョウカさん。私を含めて、計七人。分かってはいたけれど、やはり二人の先輩は何処にも見当たらない。

 この期に及んで、現実から目を逸らす訳にはいかない。私は真っ先に、先輩らの安否を問うた。

 

「あ、あの。ミツキ先輩と、高幡先輩は……一体、何があったんですか?」

 

 私が現時点で聞かされている事実は二つ。一つ目は、『ミツキ先輩と高幡先輩が負傷し、意識を失い倒れているところを、キョウカさんが発見した』こと。そして二つ目が、今回の件に『異界化が関わっている可能性がある』こと。アスカさんとのやり取りからは、それしか把握できていなかった。

 

「安心して。電話でも話したけど、二人共無事よ。別室で眠っているわ」

「け、怪我はひどくないんですか?」

「それは……ええ。一応は、ね」

 

 答えながらも、アスカさんの表情は硬い。時坂君に、九重先生も。後輩二人組も同じ色を浮かべていた。

 私以外の全員は、既に一通りの事情を知っているのだろう。しかしどうにも要領を得ない。歯切れの悪い返答は最悪の可能性を思わせたけれど、そうでないことは察せられた。

 皆の顔から窺えるのは、躊躇いではなく迷い。『何が起きたのか』という私の問いに対する答えも、重苦しい雰囲気の中には見付からなかった。

 

「私からご説明します」

「え?」

 

 ややあってから、雪村キョウカさんと視線が重なる。自然と声が強張った。

 

「状況を整理する必要もございますので。宜しいですか?」

「っ……は、はい。お願いします」

 

 丁寧で柔らかな物腰とは裏腹に、眼鏡越しに伝わってくる複数の感情。冷ややかで、熱い。私が恐る恐る頷いて応えると、一連の経緯を聞かせてくれた。

 第一発見者はキョウカさん自身。既に帰宅しているであろうミツキ先輩と一向に連絡が取れず、それを不審に思ったキョウカさんが、アスカさんに一報を入れた。その後間もなく、高幡先輩も同じ状況にあることが判明。念の為にと非常時用の追跡アプリを使用した結果、ミツキ先輩のサイフォンは自宅のタワーマンション付近から微動だにしていなかった。慌てて駆け付けると―――ミツキ先輩と高幡先輩は寄り添うように、路上で意識を失っていた。ちょうど日付が変わった頃のことだった。

 

「外傷と軽度の低体温症、加えて『霊力の著しい消耗』が見られたことから、すぐにこの総合病院に搬送致しました。医師陣も我々の方で手配を。玖我山さんの霊子検査にも当たった、優秀なスタッフ達です」

「霊力の、消耗?」

「遠藤さんも、同じような経験があるとお聞きしておりますが」

 

 すぐに思い当たるものがあった。私がソウルデヴァイス―――ライジングクロスの扱いにまだ不慣れだった頃の話だ。常時発動型のスキルの影響で、私はグリードとの戦闘の真っ只中に、意識を失ってしまったことがあった。極度の消耗は、それだけで生死に関わる。

 

「外傷の度合いで言えば、お嬢様の方が軽度ではありましたが……あれは異常と言わざるを得ません。霊薬と術式による処置で、大事は免れました。しかしお二人共々、未だ意識を取り戻せていない状況にあります」

「……容体は、何となく分かりました」

 

 本来なら、先輩らの顔だけでも見ておきたいところだけれど、許可は下りないのだろう。二人の容体はそれ程に重いということだ。

 一旦間を置いてから、私は改めて皆と向き合った。

 

「アスカさんからも聞いています。やっぱり、異界化が関係しているんですか?」

「ああ、恐らくな。昨晩のうちに、先輩達が倒れていた現場を調べてみたんだが……まずは謝らせてくれ。話すのが遅くなっちまった」

「気にしないで下さい。私の立場は、理解しています」

 

 皆から一歩遅れて、昨晩の経緯を聞かされたということ。それ自体が『異界化』の可能性を示していた。私には本来、適格者としての資質がない。八月のあの日、ソウルデヴァイスは遠藤ナツの魂と共に、この世を去った。異界化に通じる一般人という意味では、寧ろ九重先生やシオリさんと似たような立ち位置にいる。

 もし仮に、この杜宮で再び異界化が発生していたとして、私には脅威に抗う術がないのだ。巻き込みたくないという皆の思いは、多少複雑ではあれど理解できる。逆の立場だったら、私でもそうする。

 

「ちょっと先輩、早合点し過ぎ。言っておくけど、事はそう単純じゃないんだよね」

「え……えっと。それ、どういう意味?」

「そのまんまさ。一晩かけて色々調べたけど、正直に言って訳分かんないよ」

 

 思わず面食らうようなユウ君の指摘。今の話だけでも充分に複雑だろうに。

 訝しんでいると、アスカさんが長机の上に二つのサイフォンを置いた。見覚えのある機種とアクセサリー。ミツキ先輩と高幡先輩のサイフォンだった。

 

「まず第一に、どちらのサインフォンにもソウルデヴァイスを顕現させた履歴がある。異界に触れた何よりの証拠だわ。でも一方で、サーチアプリにはデータが残っていないのよ」

 

 アスカさんが実際にミツキ先輩のサイフォンを操作し、私に手渡してくる。私が使っていたアプリと若干の違いはあれど、記憶を頼りに調べることは容易かった。

 

「確かに、ないですね……あれ?でも、起動した履歴はありますよ?」

「履歴の時間は午後の二十時半。二人が発見される約三時間前ね」

 

 直近で起動した履歴はあるけれど、異界化を探知した形跡は見られない。サーチアプリには過去の数値が必ず記録されるはずだ。

 おかしな点はまだある。異界探索時に使用するアプリに至っては、起動した履歴すら無い。手ぶらで未開の極限環境を歩くようなものだ。二人が昨晩に発生したとされる異界に飲まれていたとするなら、あまりにも不自然過ぎる。高幡先輩のサイフォンも同様だった。

 

「そういうこと。想像だけど、二人は何らかの異常を感じて、サーチアプリを立ち上げた。でもアプリは異界化を感知しなかった。異界にも踏み入っていないから、探索用のアプリも使わなかった」

「で、でも。ソウルデヴァイスを顕現させたってことは、異界化は絶対に起きていたはずですよね」

 

 すぐに疑う余地がないことに気付く。適格者は異界化の影響下においてのみ、ソウルデヴァイスを揮うことが許される。ミツキ先輩のミスティックノードと、高幡先輩のヴォーパルウェポン。二人がその力を行使した以上、異界化は事実として受け止める他ない。

 なのに、誰も首を縦に振ろうとしない。代わりにソラちゃんが、重々しく口を開いた。

 

「私達もそう思って、現場を調べてみたんです。確かに現場には、戦闘の跡が残っていました」

「じゃあやっぱり……ま、待って。戦闘?」

 

 異界化ではなく、戦闘。薙ぎ倒された木々。抉れた路上。焼け焦げた雑草。閉ざされたゲートや異界化の痕跡はなく、あったのは荒れ果てた現実世界の惨状だけだったそうだ。

 まるで理解が追い付かない。今の話が事実だとして、私はどう捉えればいい。

 

「どうしてそんな……え?ま、まま、まさか、グリムグリード!?」

「落ち着けよ。それはそれで説明が付かねえことが多いだろ」

 

 特異点を介さない、現実世界への直接的な干渉と侵蝕、支配。その可能性は限りなく低いようだ。前兆らしい前兆はなかったし、異界関係者が多く在住するこの杜宮で、グリムグリードのような強大な脅威の前触れに誰も気付かないのはおかしい。それにサーチアプリにデータが残っていない点も、やはり引っ掛かる。

 アスカさんやキョウカさんを含め、皆の見解は一致していたけれど、そこから先の判断材料が、現時点では見当たらないらしい。漸く皆に追い付いたところで、サイフォンを操作していたキョウカさんが咳払いをしてから言った。

 

「会長は海外出張中ですので、私から一報を入れてあります。何れにせよ、事の真相はお二人の意識が戻れば明らかになりますが……我々は我々で先行して、調査に当たる段取りを組んでいます。柊さん、宜しいですか?」

 

 キョウカさんの問い掛けに、アスカさんは瞼を閉じて長い間を取った。

 言い回しから察するに、このやり取りは個人間ではなく、組織対組織。時に協力し、暗闘する間柄の集団を代表して、二人は会話を交わしていた。

 やがてアスカさんは、小さく頷きながら応える。

 

「了解です。私も本部には報告済みですが、具体的な指示は下りていません。私達も独自に動くつもりです」

「畏まりました。九重先生にも、お手数お掛けします」

「いえいえ。学園方面は、私にお任せ下さい」

「ありがとうございます。では、私はこれで。失礼させて頂きます」

 

 一足先に、キョウカさんが講堂を後にする。

 無駄のない動作と淡々とした口調。感情を隠し切れていない様は、まるで別人のように映った。ミツキ先輩にとってキョウカさんがどういった存在なのかは、私達の知るところでもある。その逆も然りなのだろう。

 閉ざされた扉を見詰めていると、キョウカさんの後を追うように、九重先生が立ち上がる。

 

「さてと。私も一度、学園に行ってくるね。高幡君の下宿先にも、改めて顔を出しておきたいから」

「大丈夫なのかよ。担任でもねえってのに」

「あはは。そこはほら、上手いことやってみせるよ」

 

 九重先生にも、色々と考えがあるようだ。

 異界化を抜きにしても、事態が生徒らの間で広まっては、要らぬ混乱を生んでしまう。とりわけ三年生は、受験を控えた大切な時期にいるのだから当然だ。かと言って、全てをひた隠しにはできない。高幡先輩の下宿先、カンジさんとマナミさんには『オートバイで転倒した挙句、勉強疲れもあり風邪を抉らせた』と伝わっているらしい。

 

「何か聞かれたら、口裏を合わせておいてね。それと……」

「それと?」

「状況がすごく複雑なのは分かるけど。お願いだから、無茶だけはしないように。約束だからね、みんな」

 

 去り際に浮かんだ、ひどく不安気な表情。九重先生の『無茶をしないで』は、これまでにも耳にしたことがある。でも今回に限って言えば、そのどれとも異なるように思えた。

 自然と私は、小声で呟きを漏らしていた。

 

「どうして……昨日まで、何もなかったのに」

 

 あれから。あの暑い夏の日から、私達はありふれた日常の中にいた。失ったと思っていた大切な友人は、取り戻した笑顔を私達に見せてくれる。変わるものと、変わらないものがある。穏やかで、満ち足りた昨日があった。何の前触れも無かったのだ。

 

「四の五の言っても始まらねえ。アキ、顔を上げてくれ」

 

 塞ぎ込んでいると、時坂君の声が耳に入る。不意に懐かしさを覚えた。

 

「昨日の今日で戸惑うのも無理はねえけど、俺達にできることは一つだけだ。やるべきこともな。俺達はずっとそうしてきたはずだぜ」

 

 言いながら立ち上がった時坂君の顔を、ブラインドから差し込んでいた陽の光が照らした。

 知らぬ間に微笑みながら、時坂君を見詰めていた。私達の中心に、時に先頭に立つ彼は、いつだってこんな表情を浮かべていた。勇気付けられ、奮い立たされる。

 

「……そう、ですね。そうですよね」

 

 懐かしさ半分、情けなさがもう半分。思い出そう。臆することはない。時坂君の言葉を借りれば、私達はずっと繰り返してきた。あの日々の延長線上に今日がある。何も変わってはいない。

 

「アキさんには、改めて言っておくわ。今回の件に―――」

「大丈夫です。私も、私にも何かさせて下さい」

 

 私にできることは限られている。だからこそ迷う必要はない。共に戦うことは叶わずとも、きっとある。九重先生のように、力を持たない者なりの立ち振る舞いがあるはずだ。

 

「あはは、アキ先輩らしいです。頼りにしてますよ」

「人手はあった方が調査も進むんじゃないの。それに一応、X.R.Cのマネージャーだしね」

「……いいわ。でも今回ばかりは、慎重さが求められる。アキさんに限らず、それを忘れないで」

 

 言われるまでもない。昨晩に事実として『何か』が起き、ミツキ先輩と高幡先輩は『何者か』に襲われた。二人は言わば、X.R.Cの矛と盾。アスカさんが認める程の強者がソウルデヴァイスを揮いながらも、敵わなかった。

 それに、異界関連で最も頼りになるのはアスカさんだけれど、二人は別の意味で私達の拠り所だった。先輩ならではの冷静さと余裕に、私達は支えられていた。お互いに支え合いながら苦難を乗り越えてきたのに、それが既に叶わない状況へと陥っているのだ。用心するに越したことはない。

 

「もう何度も言ったことだけど、異界化について分かっていることは少ない。前例が無いなんてケースは珍しくないの。グリムグリードの可能性も含め、最悪を想定しながら行動しましょう」

「ああ、だな。シオ先輩達を襲った得体の知れねえグリードが、どっかに潜んでいると考えた方がいい」

「再発する可能性はアリアリってことだね。ていうか、あの二人が襲われたこと自体に、何か意味があるのかもよ」

「霊力の異常な消耗という症状も無視できません。アキ先輩は、どう思われますか?」

 

 ソラちゃんの声で、四人の視線が一点に注がれる。真っ先に浮かんだのは、皆が求める言葉ではなかった。

 

「とりあえず、バイト先で朝食を買ってきます。その間に皆さんは、仮眠でも取っていて下さい」

 

 訪れる静寂。若干の気まずさは感じつつも、触れずにはいられなかった。

 昨晩から調査を進めていたということは、要するにそういうことなのだろう。思い出されるのは、時坂家でのお泊り会。まるで状況は違えど、徹夜をした直後の疲労感溢れる顔ぶれは、あの時と同じだ。目が充血しているし、何というか、全体的に重々しい。髪の毛が少しハネているアスカさんは大変に貴重だ。可愛い。

 ともあれ、束の間の休息が必要だ。

 

「あ、アキさん?」

「少しでもいいので睡眠を取らないと。無茶をしないでって言われたばかりじゃないですか。部員の健康管理もマネージャーの仕事です」

「……コウ。部長の意見を聞きたいわ」

「決まりが悪い時だけ部長扱いすんじゃねえ」

「私、お布団借りてきます!」

「おいソラ走るな、静かにしろ病院だぞ」

「僕は朝マックがいい」

「お前わざと言ってるだろ」

 

 空元気と下らないやり取りから垣間見える、沸々とした感情。何もキョウカさんだけじゃない。大切な先輩に牙を向いた敵を―――私達は、絶対に許さない。

 

___________________

 

 取り急ぎの方針として、二手に別れての調査が決まった。

 アスカさんと時坂君は再度現場を調べ直すと共に、異界関係者を中心に聞き込みをして回るの二点。異界化は『あった』ものとして調査を進める前提がある以上、現場検証が最も危険とされたため、アスカさんが買って出た形となった。彼女の補佐役にも、時坂君以外に適役はいない。

 一方のソラちゃんとユウ君は、インターネットを介した情報収集。異界が関わっていそうな怪奇現象や噂の類を洗い出す役目を任されていた。拠点はユウ君の自室。ハッキングもお手の物なユウ君の手により、今もグレーな調査が続いていた。 

 

『もしもーし、アッキー?』

「はい、遠藤です。今どの辺りですか?」

『ちょうど杜宮駅に着いたところよ。アッキーは?』

「まだユウ君のマンションにいますよ。引き続き情報収集中です」

 

 そして当の私は後輩組の手伝いと、各方面との連絡役だ。

 リオンさんは金曜の夜に東亰を出て、関西で開かれていたSPiKAのイベントに出演していた。昨晩の件についてはアスカさんから一報を聞かされていたようで、私が改めて一連の経緯を説明すると、思いの外に理解が早かった。と言っても、分からないことだらけという状況に変わりがないだけで、外を回っているアスカさんと時坂君も、現時点では同様だ。

 

『進展はナシ、か……その、ミツキ先輩と高幡先輩は、まだ眠ったままなの?』

「はい。でも容体は落ち着いていて、目が覚めるのは時間の問題みたいです」

『そっか。あたしもすぐに合流するから、っとと。ちょうどバスが来てたみたい。また連絡するね』

「分かりました。みんなにも伝えておきます」

 

 通話を終えて時刻を確認すると、午後の十四時。調査を始めてから約三時間が経過していた。

 ふうと溜め息を付いて、背伸びをしながら室内を見回す。コの字に置かれたデスク上の液晶ディスプレイ達。デスク下部には重低音を漏らす巨大な機器の塊。その中央に置かれたデスク椅子に座るユウ君。

 初めてこの部屋を訪れた日のことを思い出す。あの時と異なるのは、窓とカーテン越しに映る陽の光と、ユウ君の隣に座るソラちゃんの姿。生活感が薄い独特の様相は相変わらずだけれど、以前と比べればまるで別室だ。

 

「リオン先輩、もう戻られたんですか?」

「うん。さっきバスに乗ったって言ってたから、あと二十分ぐらいで着くんじゃないかな。そっちは?」

 

 首が左右に振られ、ミディアムショートの髪が揺れる。デスク上を覗くと、ほぼ真っ白なA4サイズのノート用紙があった。

 ユウ君がパソコンを使い目ぼしい情報を拾い上げ、ソラちゃんが記録をする。はずだったのだけれど、ペンを走らせる音は一向に聞こえてこない。収穫はなく、ユウ君がキーボードを叩く操作音、マウスをクリックする音だけが空しく鳴るだけだった。

 

「ユウキ君、どう?」

「どうって言われてもね……別に気になる情報はないし、気にし始めたら止め処がないって感じ」

「要するに、どういうこと?」

「先輩達が襲われた件を除けば、杜宮は平和だねってこと。何これ、間違いがない間違い探し?」

 

 そんな終わりのない戯れは御免だ。しかし現にユウ君がこれだけの時間を費やしても進展が見られないのなら、的を射た表現でもある。並外れた処理能力を備える機器が、無用の箱として鳴りを潜めていた。

 これはどうしたものだろう。困り果てていると、ユウ君が目頭を押さえながら漏らす。

 

「ああもう、少し休憩。先輩、何か食べるものない?」

「ユウ君はここで暮らしてるんじゃなかったの……」

「でも確かに、小腹が空きましたね」

 

 言われてみれば、二人が昼食のような朝食を取ってから、結構な時間が経った。このまま夕食まで何もなしでは、私達のような食べ盛りの高校生にとって、少し辛いものがある。手短な話し合いの結果、表にある記念公園のオープンカフェで一服をすることになった。

 

「ふぁあ……」

 

 エレベーターに向かう道すがら、ソラちゃんが大きな欠伸をこぼしていた。睡眠を取ったとはいえ小一時間程度の仮眠だ。何も知らずに熟睡していた私とは、疲労の度合いが違い過ぎるのだろう。

 

「郁島。無理しないで寝てれば?」

「平気だよ。ユウキ君だって……ねえ、ユウキ君。実際のところ、どう思ってるの?」

「何のこと言ってんのさ」

「ほら、病院でも『二人が襲われたこと自体に何か意味があるのかも』って、そう言ってたよね」

 

 ユウ君の言葉を思い出しながら、下降のホールボタンを押す。

 正直なところ、私も引っ掛かりを覚えていた。受け取り方も複数ある。二人が言わんとしていることは、真因。未だ謎に包まれた現象の根底にあるものだ。

 

「別に深い意味はないけど。でもさ、実際に異界化が起きていたとしてだよ。先輩達がたまたま巻き込まれたっていうよりかは、『狙われた』って考えた方が自然でしょ。過去の事例から類推するにね」

 

 私達を乗せた金属の籠が下降を始めると、浮遊感が漠然とした不安を助長していく。

 大まかに考えて二通り。ミツキ先輩と高幡先輩は、『偶発的に』発生した異界化に巻き込まれた。或いはユウ君が言ったように、二人が秘めていた何らかの要因が引き金となり、異界化が生じた。その何れかだ。

 

「でもそれだと、先輩方の一体何が―――」

「そこまでだよ、ソラちゃん」

 

 ソラちゃんの肩にそっと手を置いて、制止をする。こんな状況下で結論を急いては駄目だ。

 判断材料があまりに少ない。全てを偶然や悲運として片づけるにも、怪異に魅入られる程の何かが存在していたとするにも、憶測に憶測を重ねた可能性に過ぎない。私達にできることは、ひとつひとつを明確にすることだけだ。

 

「やっぱり、少し疲れてるんじゃないかな。今は冷静に状況を見極めないと」

「……すみません。焦りは禁物ですよね」

「ユウ君も不用意な言動は慎むこと。分かった?」

「はいはい申し訳ございませんでした……って。ちょっと先輩、何で地下なのさ」

「へ?」

 

 エレベーターから出ると、正面にコンクリート製の壁面が映る。周囲には太い石柱に、整然と並ぶ自動車の数々。踵を返して見上げれば、地下一階を示す『B1』のパネルが点灯していた。一階のエントランスホールではなく、地下駐車場に降りてしまっていた。

 

「あ、あれ?私、一階を押したはずだけど」

「言い訳乙」

「フフ、何だか締まりませんね」

 

 勘違いじゃない。私は確かに、一階のボタンを押した。

 感覚で、何かがおかしいと思った。奇妙な肌寒さを覚え、鳥肌が立ち始める。

 

「待って。何か……変だよ」

 

 直後、頭上にあった照明の一つが点滅した。連鎖的に数が増えていき、瞬く間に光源の半分が消え、闇が下りていく。灰色だった壁面が、漆黒に滲んでいた。

 

「っ……ユウ君、ソラちゃん」

 

 私の呼びかけを待たず、三人が同時にサイフォンを取り出し、アプリを起動する。異界化の反応を広範囲で感知するサーチアプリが弾き出した値は―――ゼロ。小数点第三位切り上げのゼロが三つ、並んでいた。

 見紛うことなき異変。知る者としての勘。昨晩との共通点。新たな可能性。血の気が引いた。私達はまるで見当違いだった。しかも近い。歩み寄る脅威は、もうすぐそこにまで迫っている。

 

「ブート、カルバリーメイス!」

「轟け、ヴァリアントアーム!!」

 

 私の前方で、二つの魂が具現化した。暗く冷たい空間を照らす力の耀き。ソラちゃんが前方を見据えたまま、左腕を私に向けて、私に言った。

 

「アキ先輩、回れ右です。すぐにこの場を離れて下さい」

「そ、そう言われても」

「いいから早く行けっての!」

 

 ユウ君が操る霊子殻が飛来し、上昇のホールボタンを押した。深呼吸を置いて、強引に思考を巡らせる。

 私にできること。力を持たない私がすべきこと。覚悟を決めろ。選択肢は一つだ。私は歯噛みをしながら、一歩後ずさった。

 

「す、すぐに助けを呼んで来るから!」

 

 声を捻り出すと同時に、背後からエレベーターの到着チャイムが鳴った。後方へ振り返るギリギリまで二人の背中を見詰めてから、意を決して駆け出す。しかし動き出した足は、すぐに止まってしまった。

 

(―――え?)

 

 開かれた扉の先に、『誰か』が立っていた。床面に届く程の長髪が揺れていた。よくよく見れば、四肢があった。毛髪と共に垂れ下がる両腕は細く、立ち前屈のような姿勢を取っている。腐臭が吐き気を生み、両目が沁みて瞬きを強いられた。

 

「いぃ、らぎ」

「あっ……」

 

 擦れた声。何者かの右足が一歩前に進む。同時に向けられた混じりけのない憎悪に縛られて、呻きさえ出ない。支えを失っているのに、倒れることもできない。やがて右肩を掴まれると、途方もない膂力に引っ張られ、エレベーターの中へと放り投げられてしまう。

 

「きゃあぁ!?」

 

 後頭部と背中を強く打ち、耳鳴りがやって来る。ぐらぐらと揺れる籠の中で、視界も揺れていた。最後に映ったのは、二人が放った魂の耀き。扉が閉ざされると、耳をつんざくような轟音が鳴った。二度、三度、四度。何かが爆ぜる音が一層の震動を生み、男女の悲鳴が僅かに聞こえた。

 

「ユウ、く……そ、ら」

 

 幸運にも、エレベーターは一階で停止した。彷徨う亡者のように這い出ていると、マンションの住民と思しき数人が、取り乱した様子で近付いてくる。

 喧騒の中に、透き通った美声があった。思わず目頭が熱くなり、立ち上がる力が沸いた。

 

「アッキー!?」

「り、リオン、さん」

 

 お互いの声が、鳴り始めた火災報知器の非常ベルで掻き消される。

 お願い。お願いだから、無事でいて。

 

___________________

 

 時坂コウと柊アスカは、行き詰っていた。

 現場の再検証に始まり、異界を知る者達への聞き込みをして回ったはいいものの、誰もが似たり寄ったりな返答を口にした。特に変わりはない、奇妙な噂はない、異界化の前兆も痕跡もない。昨晩の一件は既に周知の事実ではあったのだが、有力な手掛かりは未だ掴めてはいなかった。

 やがて一周をしてから、三度目の現場検証。変わり果ててしまった裏道はゾディアック側による工作により『整備中』とされ、関係者以外の立ち入りを拒否されている。不満を漏らす住民はいても、不審に思う者は極々僅かだった。

 

「……駄目ね」

 

 耳元で繰り返される音信通話の呼び出し音。目的の人物とは繋がらず、諦めて発信を切る。

 こんな時に、今頃何処で何をしているのだろうか。アスカが小さな溜め息を付いていると、眼前に二つの缶コーヒーが現れる。好きな方を選べ、ということなのだろう。

 

「一服だ。温まるぜ」

「……ん。ありがとう」

 

 サイフォンを上着に入れ、購入したての缶コーヒーを握ると、冷え切った手指に感覚が戻り始める。続いて右頬へ。小さな気遣いが、身体の芯に沁み込んでいく。

 

「誰と電話してたんだ?」

「ユキノさんよ。また繋がらなかったわ」

 

 ユキノ個人が握る情報網は、アスカに限らず多くの人間にとって貴重な情報源となっている。その収集能力は常軌を逸しており、加えてタロットカードを利用した占術は、占術の域を超えた驚異の精度を誇る。思うように調査が進まない今、頼るべきはユキノのような存在だった。

 

(あれは……何だったのかしら)

 

 理由は他にもある。昨晩の通話だ。一分間にも満たないやり取りが、今となっては重要な意味を孕んでいたように思える。偶然では済まされない。だからこそアスカは、もどかしさで堪らなかった。

 アスカがユキノとの通話を試みたのは、これで四度目。早朝から掛け続けているのだが、一向に応える気配がない。ルクルトの玄関にも『CLOSED』のプレートが吊るされていて、行き先を知る者はいない。連絡の取りようがないのだ。

 

「マイペースな人だからな。俺もよく着信や書き込みを無視されるぜ。こっちには容赦なく掛けてくるってのによ」

「朝から掛け続けているのよ。折り返してくれるのが普通でしょう」

「普通じゃねえってことだろ?」

「あ、貴方ねえ……あ、待って」

 

 上着から流れ出るくぐもった着信音。アスカが素早い動作でサイフォンを取り出し、発信先を見る。

 

「ユキノさんか?」

「いえ……違うみたい。でも、これは……コウ、持ってて」

 

 飲み掛けの缶コーヒーをコウが受け取ると、アスカは咳払いをしてから着信に応じた。

 コウはすぐに察した。普段よりも丁寧な口調と声色、硬い表情。結社に属する人間とやり取りをする際には、決まってアスカは今のような言動と顔を見せる。共に行動することが多いコウに言わせれば、明け透けだった。

 

「ま、待って下さい。何故私が……っ……で、ですから!どうして私が知らされていないんですか!?」

「っ!?」

 

 唐突に、それらが一変した。アスカは溢れ出る感情を少しも隠すことなく、叫んでいた。詰め寄るような勢いで飛び出た言葉が、周囲に響き渡る。不意を突かれたコウは、左手で持っていた缶を落としてしまっていた。

 

「はい……はい、了解です。一時間後に、また連絡します」

 

 叫び声は収まりを見せつつも、焦燥感露わな様子は変わらない。アスカが通話を切ると、コウは地面に転がった缶を拾い上げ、恐る恐る彼女に触れた。

 

「おいおい、どうしたんだよ。結社方面で、何かあったのか?」

 

 アスカは思考した。最低限の冷静さは保てている。つい今し方聞かされた事実を明かすべきか。どう伝えるべきなのか。何から話せばいいのか。私はどの立ち位置で、言動を選べばいい。

 

「……私が米国で執行者となる訓練を受けていたことは、以前にも話したわね」

 

 瞑っていた目を開け、正面に立つコウを見据えた。強い男性だと思う。信頼に値する。紛れもなく彼には、知る資格がある。

 

「あ、ああ。確か米国には、第二本部があるんだよな」

「その訓練施設が、何者かの手により襲撃されたの。執行者候補生は皆殺しにされた」

「……おい待て。今何て言った?」

「殺されたのよ。今期の候補生十三名全員が、四日前にね」

 

 北風と共に、ベルが鳴る音が届く。アスカとコウは、音の出所を見やる。視線の先には、杜宮セントラルタワーが佇んでいた。

 

 

 

 

 



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12月13日 Jane Doe

 

 

 人類の立ち入りが許されない極限地帯では、異常な頻度で異界化が発生する事例がある。気温や酸性度が生命を拒絶するため、霊脈の流れがひどく不安定なのだ。米国の某湿地帯では、十三時間に一度のペースでフェイズ1の異界化が生じては、消滅するを繰り返している。けれど当然、表沙汰にはならない。多くの場合、結社の手により厳重な管理がなされると共に、『一度迷い込めば出られなくなる』といった都市伝説が形成されることで、真実は曖昧になっていく。

 しかし一方で、異界化を活用する者達がいた。適格者という稀有な存在から選抜され、才を見い出された『執行者候補』は、老若男女を問わず、数多の試練を乗り越えねばならない。異界化を治める術を知り、自らの手で門を閉じる経験が求められる。その際に利用されるのが、高頻度の異界化が観察される土地だった。

 

 

 十二月某日も、何ら変わりない実地訓練の一つに過ぎなかった。教官役に率いられた十三名の候補生達は、間もなく生じるであろう異界化に臨むため、所定の座標で待機を命じられていた。候補生と言えど、既に一年間以上の訓練を積んできた、力ある者の集団。何事もなく、一日を終えるはずだった。

 不意に、暗闇が降りた。身の毛がよだつような殺気。通常の異界化とは違う様相。一人が悲鳴を上げた。血飛沫が舞う向こう側に、何かが立っていた。教官役を筆頭に、誰もが己の魂の耀きを刃に変えた。

 

 

 第二本部に一報が届いたのは、襲撃から間もなくのことだった。特異点を介さない侵蝕。生存者は教官役の一名のみ。一方的な蹂躙と殺戮。絶望が、始まりを告げた。

 あまりの異常事態に、即座に箝口令が敷かれた。限られた者のみが知るところとなり、対象をSSS級グリムグリードに等しい脅威と想定し、排除が命じられた。

 従来の異界化予測プログラムはまるで使い物にならず、しかし追跡は容易かった。次なる犠牲者が報告されたからだ。突如として顕れたグリードにより闇討ちされ、霊力を消耗し切った適格者。グリードは嘲笑うかのように、『結社に属する適格者』のみを、立て続けに襲った。どういう訳か、その殆どが女性だった。

 グリードは明らかに米国西部を目指していた。先回りをすべく、上層部は人員を予測された地に配置した。しかしながら、一時を境にして足取りが途絶えてしまう。カリフォルニア州東部での目撃情報を最後に、行方を眩ませてしまっていた。

 一体何処へ消えたというのか。有力な手掛かりが見付からず、暗雲が立ち込め始めた中―――事の発端から、約七十時間後。オペレーターの一人が、不穏な表情を浮かべながら、上官に告げた。

 

「日本を活動拠点とする執行者、アスカ・ヒイラギより、気になる報告が入っています。それと……例の、分析結果ですが―――」

 

___________________

 

 十二月十三日、午後十七時を回った夕暮れ時。杜宮総合病院南館一階の正面玄関前で、私はサイフォンを片手に、薄暗い冬空を見上げながら、タマキさんと通話を繋げていた。

 

「だから今夜はソラちゃんと一緒に、アスカさんの下宿先に泊まろうかと思ってるんですけど……いいですか?」

『構わないわよ。でも羽目を外し過ぎないように、とだけ言っておくわ。明日は月曜日なんだし』

「それは、はい。節度は守ります」

『まあ、言うほど心配はしてないんだけどね』

 

 別段気にする必要もない、些細な嘘だった。ヤマオカさんにはアスカさんがある程度の事情を伝えてあるはずだし、誰の迷惑にもなりはしない。気持ちの問題だ。

 

『そういえば、聞いてる?マンションの事故の件』

「……知ってます。ニュースで見ました」

 

 振り返り、館内の様子を遠目から覗く。エントランスホールには大型の液晶テレビが設置されていて、今も報道番組の画面が映し出されている。事故発生当時の映像。タワーマンションの根元から漏れ出る黒煙。液化ガスの漏えいに起因するとされる爆発事故の報道は、全国各地に広まりつつあった。

 インターネット上では別の意味で、この杜宮市が注目の的になっているようだ。春の終わり、杜宮学園で発生したガス漏れ事故を連想させる、同種の騒動。真相を知らない一般人の目には、物騒な事故が多発する都市として映ってしまうのだろう。

 

『あれって……確か、アキの友達も住んでるマンションよね?』

「大丈夫です。ミツキ先輩やユウ君も、事故当時は外出していたみたいですから」

 

 ―――これも、嘘。

 幸いにも怪我人はなく、人的被害はゼロ。住民らは一時的に避難を強いられているけれど、富裕層が所持していたハイグレード車が数台犠牲になっただけだと報じられていた。

 でも真実は違う。昨晩の悲劇の繰り返しだ。二人の先輩が、二人の後輩が襲われ、今も尚意識を取り戻せていない。

 まるで悪夢だ。厭な夢だと思いたい。けれど、逃避をしている時間すら、私達には残されてはいなかった。

 

___________________

 

 東館に移り、四階に上がって西へ。朝方にも使った講堂に向かっていると、廊下の反対側から歩いて来る時坂君の姿が映る。お互いに扉の前で立ち止まり、声を潜めて会話を交わす。

 

「どうだった?」

「特に何も。変に思われたりはしませんでした」

「こっちもだ。アオイさんには、今晩ユウキは俺の家に泊まるって伝えたよ。また後で本人から連絡させるって言っといたけど……」

「……早く、目が覚めてくれるといいですね」

 

 時坂君が開けてくれた扉を通り、室内に入る。リオンさんはほっそりとした手をひらひらとさせて、一方のアスカさんは腕を組みながら硬い表情を崩さずに、視線で応じてくれた。

 私を含め四人。奇しくも同学年のみが残された。そこに意味はなくとも、徐々に追い詰められているかのような不安を抱いてしまう。

 

「状況を整理するまでもないわ。私が話せることは、貴方達に全て伝えてある」

 

 アスカさんが組んでいた腕を解き、剣呑な顔つきで言った。

 ソラちゃんとユウ君がここへ搬送された際に、明かしてくれた驚愕の事実。事の発端は昨晩ではなく、それより三日間も前の出来事だった。米国で発生した襲撃。増え続ける犠牲者。結社による追跡。西部での失踪。そしてその丸三日後に、ミツキ先輩と高幡先輩は襲われた。

 共通点しか見当たらないのだ。SSS級と想定されるグリードの外見、付随する現象、サーチアプリの不感知。狙いは適格者に限られており、とりわけ女性は霊力の異常な消耗が見られる。時系列も一致していた。

 唯一の相違は、『結社に属する適格者』という部分だ。襲われた四人全員が不一致。この点を考慮したとしても、導き出される答えは一つしかない。

 

「でも変ね。仮に一連の元凶が同じグリードだったとして、どうやって海を渡ったって言うのよ。グリードが密航でもしたって言うの?」

「グリードに距離や時間なんて概念は通用しないんじゃねえのか。あってないような物だろ」

「……それもそっか」

「それよりも、グリードの狙いだ。どうして―――」

 

 そこまで言って、時坂君は口を噤んだ。

 もし仮に、グリードの標的が適格者に限られるとして。四人が襲われたことそれ自体に、意味を見い出すか否か。どちらの可能性も否定したいけれど、最悪を想定するなら、前者を選ばざるを得ない。

 少なくともグリードは何らかの手段を以って、広大な太平洋を渡った。私達にとって最大の不運は、道すがらに私達がいたこと。それ以上は推測の域を出ないだろう。考えるべきは、今この瞬間だ。

 

「何れにせよ……みんなも、襲われるかもしれないってことですよね?」

 

 張り詰めていた緊張感が、更に鋭さを増す。

 不幸中の幸いと言うべきか。現時点では、異界と関わりを持たない人間に、直接的な被害は及んでいない。けれど、もしこの病棟が戦場と化したら。時坂君が、私に続いた。

 

「アスカ、結社としての意向はどうなんだ。増援が来るって話だったよな?」

「ええ。米国本部から、私以外の適格者が派遣されることになっているわ。それまでの間、私達は総出で事に当たりましょう。キョウカさんに事情を明かして、ゾディアックとの共同戦線を―――」

「その必要はない」

 

 すると突然、背後から横槍が入る。独特でちぐはぐなアクセント。C組のカレンさんを思わせる、日本語慣れをしていない発音。

 振り返るよりも前に、アスカさんが上擦った声を上げた。

 

「き、教官っ?」

 

___________________

 

 大柄で屈強な男性だった。肌は浅黒く、頭髪は全て剃り上がっている。黒色のサングラスで目元は隠され、同様に黒のロングコートを羽織り、インナーも黒。全身を黒で統一した異質な様は、まるで外国映画の世界から飛び出してきたかのよう。

 

(誰、この人……教官?)

 

 言葉に窮していると、男性がゆっくりとした足取りで室内に入って来る。背後には、もう二つの人影があった。一人は教官と呼ばれた人物と同様の出で立ちをした、ファッションモデルのようにスラリとした白人男性。そしてその傍らには、見知った女性が立っていた。

 

「ゆ、ユキノさんまで……あの、どういうことですか?ど、どうして」

「私はただの道案内役よ。話せることは何もないわ」

「はぁ」

 

 疑問符を浮かべるアスカさん。無理もないかもしれないけれど、それ以上に置いてけぼりを食らっている私達三人のことも考えて欲しい。正直に言って、全てが理解不能だ。

 

(勘弁してくれ。訳分からな過ぎて頭がいてぇ)

(アスカっていつも、説明を後回しにするわよね……さっき、教官って言った?)

(そう、聞こえましたけど……あれ?教官?)

 

 教官。極近い時間帯に、その単語を耳にした記憶がある。教官。教官役。執行者候補生。唯一の生き残り。

 漸く僅かな繋がりを垣間見ていると、アスカさんは先頭の男性と握手を交わしながら、声を弾ませていた。

 

「お久し振りです、教官。お元気そうで何よりです」

「お互いにな。第二本部から聞いてはいなかったのか?」

「私は増援が来るとしか。まさか教官自ら来て頂けるとは思ってもいませんでした。それに、副教官も。最終試験以来になりますね」

「……ああ。君は益々、母親に似てきた」

 

 やり取りを耳にしながら、アスカさんの過去を脳裏に想い描く。

 アスカさんが執行者として活動を始めたのは、三年前と聞いている。米国で執行者となるための訓練と試験を受けたと言っていたから、きっとその指導役を担っていたのが、眼前に立つ二人の男性なのだろう。

 今から三年前と言えば、日本で言えば中学校の二年生。訓練期間は想像するしかないけれど、膨大な知識と技能を身に付けるには、少なくとも年単位の時間を要する。逆算すると、執行者を志したのは小学生の時期だろうか。

 

「お前が作成した報告書には目を通してある。彼らが協力者か」

「はい。この地で起きていた異変の解決に貢献した、仲間達です」

「……仲間、か」

 

 コツコツと革靴特有の足音が鳴り、『教官』が時坂君の前で足を止めた。後方に私とリオンさん。教官は私達を一瞥すると、斜め下の方を向いて、背後のアスカさんに問い掛ける。

 

「対象を間近で目撃した者がいると聞いているが?」

「あっ……え、と」

 

 サングラスが、私を見下ろした。頭の頂上から足元に至るまで、威圧的な視線を這わされた。

 直接目にした人間は私だけだ。リオンさんと地下駐車場に飛び込んだ際、既にグリードの姿はなく、ソラちゃんとユウ君の二人だけが、力無く横たわっていた。あの異様な全貌は、今も目に焼き付いている。

 

「私、です。確かに見まし―――た、え?」

「強制走査だ。見せて貰おう」

 

 突然視界が暗転し、世界がぐにゃりと歪んだ。

 

___________________

 

 まるで糸の切れた操り人形だった。アキの膝が折れ、下半身が折り畳まれる。コウが慌ててその背中を受け止め、次いでリオンがアキの顔を覗き込む。

 

「な、何よ。どうしたの、ねえ、アッキー。き、聞こえてる?」

「走査の余波だ。直に動けるようになる」

 

 動揺する二人を意に介さず、教官は手にしていたサイフォンをロングコートの内ポケットに戻しながら、平坦な口調で静かに告げた。

 

「成程な。確かに同一の個体のようだ」

 

 記憶の強制走査。術式は一瞬だった。アキの記憶に刻まれた情報を脳波から直接読み取り、己の物とする。記憶は視覚に限らない。アキが見聞きした、肌で感じた物を部分的に吸い上げる。異なる記憶同士の照合を図った結果、一致の程度に疑いの余地はなかった。

 

「教官。今のは、何ですか」

 

 戸惑いと怒りをない交ぜにした、感情露わな声。アスカは両手を硬く握りながら、努めて丁寧な言葉を選んだ。

 

「確証を得るためだ。致し方あるまい」

「だ、だからと言って!告知もせずに記憶走査を強制する必要がっ……ああぁ!?」

 

 するとアスカが、濁った呻きを漏らした。コウとリオンがハッとして見上げると、目を疑うような光景が広がっていた。

 

「……は?」

「問い質すのはこちらだ、アスカ。何故彼女が『知っている』?」

 

 厚みのある逞しい五指が、アスカの首根っこをぎしぎしと締め上げていた。アスカの両足が宙に浮き、体重と握力が食い込んでいく。見ている側の息が詰まりそうになり、吐き気を催させた。

 コウとリオンは愕然として、目を瞠った。先程まで取り合っていた互いの手が、一方の首を拘束して、もう一方が弱々しく抵抗する。狂的な一枚絵。教官は言及した。

 

「米国における一連の事件は組織外秘。お前も当然把握しているはずだ。組織外秘の情報を、何故一般人に話した。執行者としての義務を忘れたのか?」

「ぞれ、は……な、がぁっ……っ」

 

 強制走査で得た記憶は、点ではなく線。アキの脳内にあった、存在しないはずの情報達。発信者は、アスカ本人だった。

 勿論、知らなかった訳ではない。そして今回が初という話でもない。明確な意思の下、そしてお互いの立場を理解した上での決断だった。

 

「それにお前は先程、ゾディアック側に事情を明かして共同戦線を、などと吐かしていたな。ふざけるのも大概にしろ。『今のお前』に執行者たる資格はない。いいか、次はないと思え」

 

 ―――ドサッ。

 アスカが解放されたのと、コウが教官の腕を掴み掛かったのは、ほぼ同時。厳密に言えば教官が一手早く、嘲笑に似た色を浮かべた。コウは教官を一睨みした後、咳込むアスカの肩を抱きながら、吐き捨てた。

 

「初対面で言っちゃなんだが。アンタ、第一印象最悪だぜ。SSS級に気に入らねえ」

 

 教官は視線を合わせようともせず、踵を返して出入り口に向かった。扉に寄り掛かっていたユキノは、臆することなく向かい合う。

 

「場所を移す。この近辺で人払いができ、結界を張るに適した場所を知りたい」

 

 すぐに思い至る場所があった。ユキノは敢えて熟考するような素振りを見せ、教官の背後を見やる。視線で会話を交わすと、苦笑混じりに答えた。

 

「了解が得られたわよ。少年に感謝することね、教官さん?」

「何を言っている」

「アンタらは表でタクシーでも拾っといてくれ。ジッちゃんには俺から頼んでおく」

 

 退室を促すようなコウの言い回しに逆らわず、教官らが無言で室外に出ると、ユキノもコウに向けて手を振りながら、後に続いた。

 途端に、凍て付いた静けさに包まれる。嵐が過ぎ去った後の静寂。ちょうどその頃になって、夢見から覚めるように、アキが顔を上げた。

 

「んん……ん。リオン、さん?」

「はああぁ。何なのよもう、あいつら。ほらアッキー、立てる?」

 

 そして、アスカも。呼吸が落ち着き、冷静さを取り戻すに連れて―――肥大化していく、漠然とした不安。根底を覆されてしまったかのような畏れ。

 初めてだった。私の過去を知る人間が、『今』の私を否定した。分からない、どうして。私は一体、何を間違えたのだろう。

 

「私、は……」

「気にすんな。お前は何も間違っちゃいねえよ」

 

 毅然とした声と一緒に、差し伸べられた手。まるで女性のような繊手は優しく、男性的で力強くもある。確かな感情が宿っていた。

 

「いつだったか、俺に言ったよな。アスカも同じだ。お前がこの杜宮で積み上げてきた物を、俺は全部見てきた。今のアスカを、俺達は誰よりも知ってる。だから、大丈夫だ」

 

 コウが小さく頷き、微笑む。釣られてアスカも笑った。時刻は既に、午後十八時を回っていた。

 

___________________

 

 総合病院前からタクシーに乗り、国道沿いに南へ。目的地の九重神社まで、二十分と掛からない道のりだ。

 

「アッキー、どう?」

「大丈夫です。もう何ともないですよ」

 

 席順は自然と男女で分かれた。助手席に時坂君、後部座席に女子が三人。

 中央に座るアスカさんは乗車して以降、一言も喋ろうとしない。重苦しい空気に耐え切れなかったのか、リオンさんが話題を振った。

 

「ねえアスカ。教官さん達の名前を聞きそびれちゃってたけど、何ていうの?あの人達」

「それは……知らない」

「は?」

 

 想定外の返答のせいで、車内に間抜けな声が広がった。

 

「私は教官、副教官って呼んでいたから。あの二人には、確かに『表の顔』もあるけど……年齢とか出身とか、私には分からないの」

「え、えーと」

「別に珍しいことじゃないわ。名前や国籍さえ持たない、表の顔を完全に捨てた者もいる。結社はそういう組織なのよ」

 

 相槌を打つことさえできなかった。自然と前方を走る同型の車両に目がいく。

 再会の喜びを分かち合う程の間柄で、名前を知ることすら許されない。ありふれた日常の中には存在しない関係を、どう言い表せばいいのだろう。それよりも気になるのは、病棟での一件だ。

 記憶を走査された後も、五感は生きていた。意識はあったし、やり取りは全部覚えている。組織外秘の情報だったなんて話を、私達は一度たりとも聞かされてはいなかった。「でも」と前置いてから、静かに告げた。

 

「どうして私達に黙っていたんですか。私だって、一連の真相を知りたいとは思いますけど、まさかあんな風に責められるだなんて」

「黙っていたつもりは……私はただ、話さなきゃって、思ったから」

「執行者としての義務があるって言われてましたけど」

「仲間への義理だってあるわよ。だから、だから私はっ……な、なに?」

 

 自然と穏やかな笑みが浮かび、私はアスカさんの首に刻まれた痣を見詰めた。

 アスカさんの深い部分、過去へ触れる度に、時折距離を感じてしまう私がいる。私達の知らない世界があり、未だ見えてこない何かがある。けれど、アスカさんはアスカさんだ。何も変わらない。私達が知るアスカさんが、今ここにいる。

 

「彼女達は演劇部の学生かい?」

「いや、ただの遊びッス。今のもラノベのワンシーンなんで。無視していいッスよ運転手さん」

 

___________________

 

 境内の東側に佇む二階建ての道場には、何度か足を運んだことがある。高幡先輩が大怪我をした時が初だ。廊下を更に東へ進むと、母家―――つまり九重先生の実家、九重家の一階と繋がっていた。

 私達が案内をされたのは、広々とした客間。室内は純和風といった感じで、築年数は古そうだけれど、生活感に溢れている。畳や座布団の匂いに居心地の良さを覚えた。

 

「えーと、日本のお茶です。お口に合うか、分かりませんけど」

 

 九重先生が、人数分の湯呑を丸テーブルに置いていく。アスカさん、リオンさん、時坂君、私。それに教官と副教官、ユキノさん。計七人分。ユキノさんは部屋の隅で傍観を決め込んでいるから、湯呑は妙な位置に置かれた。

 九重先生が退室すると、入れ違いでソウスケさんが襖を開けた。袴の側面からは、護符のような物が顔を覗かせていた。

 

「あり合わせじゃが、魔除けの霊具を設けておいた。結界の足しにはなるじゃろう」

「ワリィな、ジッちゃん。その、巻き込むような真似を、しちまって」

「構わんよ。何やら込み入った事情があるようじゃが……最早何も言うまい。皆の力になってやりなさい」

「ああ。詳しいことは、後で話すよ。話せる範囲で」

 

 ソウスケさんは朗らかな笑みを浮かべて、私達を見回した。会釈で返すと、ユキノさんも姿勢を正して、日本人らしい一礼を見せる。対する教官と副教官は、微動だにしなかった。

 文化の違いや無礼とは違うらしい。アスカさんがタクシーの車内で聞かせてくれた。機密な案件に関わっている以上、他者との関わりは必要最低限に留めなければならない。会話は勿論、名乗ることさえ許されないそうだ。私達はアスカさんに倣い、二人を『教官』『副教官』と呼称せざる得なかった。

 

「先に言っておこう。改めて状況の詳細を把握させて貰うが、本来お前達は知る立場にない。勘違いをしないことだ」

 

 何度目か分からない念押し。あからさまな悪態を見せるリオンさんと時坂君に肝を冷やしつつ、教官とアスカさんのやり取りに耳を傾け、頭の中で整理をする。

 大まかな部分は、アスカさんの話の通りだった。目立った食い違いは見当たらないし、未だ謎に包まれている点を除けば、既に私達が把握している事実が並んでいく。

 

「……一点、確認させて下さい」

 

 するとアスカさんが、躊躇いながら切り出す。

 

「この杜宮市の状況を、私は逐一本部へ報告していたはずです。それなのに何故、米国で発生していた異変が、私に伝わらなかったのですか」

「オペレーターが報告を入れただろう」

「では報告が遅れた原因を聞かせて下さい。一度目の襲撃の後、すぐに知らされていれば、少なくともソラちゃんに四宮君……二度目の襲撃には備えることができました」

「確証がなかったからだ。襲われた四人も結社とは無関係の者だ。だから我々が事実確認と対象の排除をかねて派遣された。何か不満があるのか?」

「答えになっていません。教官と副教官が米国を発ったのは半日も前のことです。その時点で報告がなかった、だから私達は後手を踏んでしまった。どうしてですか?」

「此度の件は組織外秘でもある。下手に広めては漏えいの恐れもあった。事実としてお前は一般人に明かしただろう?厳罰物の愚行だぞ」

「それはっ……そもそもの話が、そうまでして情報操作を徹底する理由は何ですか?状況から考えて、あまりに不自然では―――」

「決まっているじゃない。体裁と面子を保つためよ」

 

 全員の視線が、声の主に注がれる。ユキノさんは肩を竦めて、うっ憤を晴らすように言葉を並べた。

 

「結社の象徴でもある執行者候補が全滅した上に、次々と増える犠牲者達。結社に通じる適格者のみが狙われていることを掴んでおきながら、後手後手に回り一向に対象を捕えられない。一組織として、外部には知られたくない失態と体たらくだわ。とりわけ他の『二大勢力さん』には……はいはい」

 

 語り終えるやいなや、ユキノさんは降参とばかりに両手を上げる素振りを見せる。

 理由は明白だった。教官から放たれる殺気とも形容すべき威圧感。図星を突かれたのだろう。

 

(……何、それ)

 

 下らない。率直な感想だった。アスカさんの指摘には考えが及ばなかったけれど、「ああ成程」と同意をするよりも前に、愕然としてしまった。

 理路整然としているようで、前提がおかしい。こちらは実際に被害者が出ているのだし、その点においては組織としても同じはずだ。優先すべきは何か。その基準が私にはまるで理解できない。時坂君が後ろ頭を掻きながら言った。

 

「敢えて何も言わねえけど……でも、ユキノさん。もしかして、自分で調べたんスか?」

「さあ?でも身の危険を感じたから、私から歩み寄ったのよ。『協力するから見逃して』ってね。記憶を消されるぐらいなら、案内役を買って出る方がマシでしょう」

 

 組織がひた隠しにしていた情報を調べ上げた挙句、先回りをした、と言っているのだろうか。相変わらず得体が知れない。この人の異質さは、他の誰とも異なっているように思える。

 

「あれ、何処に行くんスか?」

「あとは貴方達に任せるわ。私も暇じゃないのよ。構わないわね、教官さん」

 

 無言の返答を肯定と受け取ったのか、ユキノさんが堂々と部屋を出ていく。

 

「ばいばーい、少年達♪」

 

 そして去り際に見せた目配せ、大仰な身振り、意味深な笑み。あからさまに何かを企んでいることが窺えたけれど、気に掛けるだけ無駄に違いない。

 ともあれ、過ぎたことに固執していては始まらない。ユキノさんの退室後、議論の焦点は最も重要な部分へと差し掛かる。

 

「状況はこちらも理解しました。ですがグリードに関する手掛かりは、私達も掴めていません。どうやって排除を?」

「決まっているだろう。追跡が困難であるならば、迎撃で仕留める。その為の面子だ」

 

 これまでグリードの手に掛かった者は、結社に属する適格者、そしてX.R.Cの先輩後輩ら四人に限られる。グリードが未だ杜宮に潜伏しているとして、標的に明らかな傾向が見られる以上、次に狙われるとすれば、この場に集う私を除いた五人。条件が合致する誰かである可能性が極めて高い。

 

「結界は用を成さないだろうが、接近の感知には役立つだろう。その時が来れば、我々二人で対象を無力化する。手出しは無用だ」

「お、お二人だけで、ですか?」

「我々のソウルデヴァイスはお前も知っているだろう?」

「それは、そうですが……」

 

 たったの二人だけで敵うとは思えない。言葉にはせずとも、アスカさんの言い分は尤もだ。何人もの適格者を強襲してきた相手に、無策が過ぎやしないだろうか。事実、教官は一度グリードを取り逃がしているはずだ。

 すると教官は大きく溜め息を付き、少々の間を置いてから言った。

 

「私のソウルデヴァイスは無形だ。名を『ドミネーター』という。例えるなら、念動力に近い」

 

 無形の念動力。二つの単語から、現実世界には存在しない力を思い描く。参考になりそうな創作物は多数浮かんだ。不可視の力を以って物体に干渉する。概ね間違ってはいないだろう。

 想像を働かせていると、そっと襖が開かれ、九重先生が顔を覗かせた。

 

「あのー。お茶を入れ直したいんですけど、いいですか?」

 

 手伝った方がいいだろうかと思い、私が腰を浮かせかけた、その時。予想外の人物が、先んじて立ち上がる。

 

「ちょうどいい。アスカ、手を貸してくれるか」

「……了解です」

 

 ずっと口を閉ざしてばかりいた副教官が、九重先生の下に歩み寄る。アスカさんもそれに続いて、先生の背後に回った。

 

「先生、身体を楽にして下さい。少しだけ、失礼します」

「え、え?」

「みんなも心配しないで。すぐに終わるわ」

 

 一体何をしようというのか。二人の身振りに注視していると―――眼前で起きた信じ難い現象に、私は言葉を発するのを、一時的に忘れていた。

 

「なっ……お、おい!?」

「待ってコウ、大丈夫だから」

 

 副教官の左手が、九重先生の胸の中央辺りに吸い込まれていく。液体の中に手を入れるかの如く、先生の胸部に光り輝く波紋が広がり、やがて胸の中から、何かが取り出される。

 

「……成程な。断固たる正義感の表れか」

 

 副教官の手に握られたそれは、私の目に『拳銃』として映った。曲線的な形状をしていて、神秘的な青々とした光を放っている。凛然さを感じさせる力の象徴。思わず見惚れていると、副教官が告げた。

 

「これが俺のソウルデヴァイス『ハンプティダンプティ』の力だ。他者の魂の耀きを、己の力として揮うことができる。無論、異界の支配下においてのみ有効だがな」

「ま、待ってくれよ。じゃあそれは……と、トワ姉のソウルデヴァイスなのか?」

「厳密には違う。彼女は『適格者ではない』からな。だがヒトは適格者か否かに限らず、固有の魂を所有している。俺は本人に代わり、その輝きを顕現させているに過ぎない」

 

 やがて副教官が握っていた手を離すと、拳銃は光の粒へと変貌し、持ち主の下へと戻っていく。最後の一粒が消えると同時に、アスカさんに背中を預けていた九重先生が飛び起きる。気を取られ見過ごしていたけれど、先生は意識を失っていたようだ。

 

「この通り、欠点もある。顕現させている間、魂の所有者は意識を失い無防備の状態になってしまう。だが今回は、それを逆手に取るつもりだ」

「逆手に……副教官、どういうことですか?」

「教官のドミネーターで対象を拘束している隙に、俺が強引にソウルデヴァイスを顕現させる。そうすれば対象は意識を失い、容易に無力化できる」

 

 単純でありながらも、確実な策であるように聞こえた。しかし思考が瞬時に一回りをして、何かにぶつかった。真っ先に触れたのは、リオンさんだった。

 

「ちょ、ちょっと待って。ソウルデヴァイスを、顕現させ……で、できる訳ないじゃない」

 

 駄目だ。あり得ない。あってはならない、だって。

 でも確かにあの瞬間、私は感じた。底なしの憎悪。煮えたぎるような恨み辛み。感情は、私達だけの―――人間の、証だ。

 

「数度の交戦で、手傷を負わせることには成功している。対象の体液の入手にもな。分析の結果、成分はヒトのそれと完全に一致していた。俺達が追っている対象は、グリードではなくヒト。『女性』だ」

 

 結社内での呼称は『ジェーン』。身元不明の女性に与えられる、名のない名だった。

 

___________________

 

 結界に異常が見られないか、一時間に一度の頻度で見回りをする。それが私達に課せられた全てだった。『ジェーン』との戦闘行為は教官と副教官、サポートとしてアスカさんの三人で当たる。適格者か否かに関わらず、リオンさんに時坂君、私は『その他』として扱われ、見回りをはじめとした雑用だけが許されていた。 

 そして―――三時間後。午後の二十二時過ぎ。

 

「リオンさん」

「なーに?」

「飽きませんか?」

「飽きないわよ。アキだけに」

「はぁ……痛たたた」

「あ、ごめんごめん」

 

 暖房の効いた道場内の片隅にある畳敷きのスペースで、その他三人組は思い思いの時を過ごしていた。リオンさんは私の髪型を弄っては解くの繰り返しに楽しみを見い出したようで、私は完全に遊び道具へ。時坂君も寝転がりながら小説を読み耽り、寛いでいた。

 初めのうちは客間で待機をしていたのだけれど、沈黙を続ける教官と副教官の異様さに耐えられず、逃げるように場所を移したのが二時間前。アスカさんだけが気を遣い、残留を表明していた。今も二人の傍にいるのだろう。

 

「コウ君、今何時?」

「二十二時……っと、キョウカさんからメールだ」

 

 時坂君がサイフォンで時刻を確認すると同時に、キョウカさんから届いたメールを開く。

 もしかして。期待を胸に見守っていると、時坂君は満面の笑みを浮かべた。

 

「吉報だ。シオ先輩とミツキ先輩が、目を覚ましたってよ」

「えっ。ほ、ホントに!?」

「またすぐに寝ちまったらしいけど、何の心配もないってさ。ユウキとソラも、状態は良いみたいだぜ」

 

 座りながら、三人で交互にハイタッチ。次いで天井を仰ぎ、深々と息を吐く。

 漸く心の底から安堵を覚えた。一時は生きた心地がしなかったけれど、天にも昇る思いだ。ソラちゃんとユウ君も、きっと。

 

「あークソ。安心したら眠くなってきた」

「いいんじゃないですか。時坂君、昨日から全然眠れていないですし」

 

 大きな欠伸を隠そうともせず、目元を擦る時坂君。昨日はほぼ徹夜だった上に、僅かな仮眠しか取れていないのだから無理もない。リオンさんも同じ考えのようで、突っ伏した時坂君の頭をぽんぽんと叩きながら声を掛ける。

 

「次の見回りはあたしとアッキーで行って来るわ。だからコウ君は……あら?」

「あん?」

 

 再び震動を始める時坂君のサイフォン。画面上には、シオリさんの名前が浮かんでいた。時坂君の表情が、見る見るうちに曇っていく。

 

「し、シオリ……マジかよ、もう誤魔化し切れねえっての。どう説明すりゃいいんだよ」

「あたしに聞かれてもねぇ」

「私に聞かれても……」

 

 一向に止む気配のない着信に観念したのか、恐る恐る時坂君が通話を繋げる。

 その後は想像通りの展開だった。平静を装っていたのは初めだけで、次第にしどろもどろな態度に変わり、最終的には正座をして敬語交じりの会話。母親に叱られる男子にしか映らなかった。

 

「シオリって妙に勘がいいわよね。流石に隠し切れないか」

「あはは、ですね。でも……実際に、説明のしようがないといいますか」

「……同感だわ」

 

 元凶が、グリードでいてくれたら。下らない冗談にしか聞こえない切実な願望は、きっと意味を成さないだろう。どれが核心で何が真相なのか。謎が謎を生んでは翻弄される。私達は今、どの辺りに立っているのだろうか。

 結局残された道は一つ。『考えない』こと。元凶の正体、力の根源、異界化の影響力を持つ理由も、皆を狙う動機も何もかもを考えない。思考を停止させて、為すべきを為す。それだけだ。

 

「アッキー、貴女のも鳴ってるわよ」

「え?……ああっ!?」

 

 思わず叫び、固まった。全身からだらだらと汗が噴出し、他人事ではなかったことを思い出す。

 アキヒロさんからの着信は何度もあった。その度に「後で連絡します」とメールを打って先延ばしにしていたけれど、それ自体を失念していた。高幡先輩の件を中心に、聞きたいことは山積りに違いない。

 

「ど、どうしましょう、リオンさん」

「だからあたしに聞いてどうするのよ。ていうか、貴女達の関係の方が気になるんだけど」

「ちょっと何言ってるか分かんないです」

「どこかで聞いたフレーズね……」

 

 それはさておき。

 第一声を決め倦ねていると、突然道場の出入り口が開かれる。見れば、客間で控えていたはずのアスカさん、そして副教官の姿があった。

 

「あら、アスカ。と……副教官さん。どうしたの?」

「調べたいことがあって。アキさん、少しいいかしら」

「私ですか?」

 

 名指しをされたのなら仕方ない。ごめんなさい、アキヒロさん。また掛け直します。言い訳がましい理由で着信を切り、立ち上がる。

 するとアスカさんではなく、副教官が私の下へと歩み寄り、サングラスが外される。整った顔立ちと真っ直ぐな目に、自然と胸が高鳴った。

 

「アスカから聞いている。肉親の魂その物を内包し、ソウルデヴァイスとして揮っていたそうだな」

「は、はい。今はもう、消えちゃいましたけど」

 

 ライジングクロス。それが遠藤ナツのソウルデヴァイスであり、私の中に宿っていた力。肉親から継いだという点はアスカさんと共通していたけれど、根本がまるで異なる。私に託されたのは、お兄ちゃんの魂その物だった。

 しかしそれも過去のこと。同化していた魂は再び二つに分かれ、私の下から旅立っていった。もう四ヶ月も前の出来事だ。

 

「一目見た時から、君のことがずっと気になっていた。その理由に気付いたのは、ついさっきだ」

「ふぁ!?」

「試させてくれないか。だが選ぶのは、あくまで『君自身』だ」

 

 強制走査とは真逆だった。突然視界が光に溢れ、真っ白な世界が広がった。

 同時に、私の中へ何かが入ってくる。胸の奥底が熱を帯びて、赤々と燃え盛る意志が視覚として脳裏に映り、熾烈な想いに包まれていく。私はこの感覚を、知っている。

 やがて眼前に、再会があった。違いはある。より丸みを帯びていて、レッドブラウンの色が濃い。秋の色。私だけの色。この混じりっ気のない焔の霊力は―――私の物だ。

 

「これは紛れもない君の魂の耀きだ。自在に操ることも可能だろう。だが一度選べば、もう後戻りはできない。力を欲するか否か。決めるのは、君だ」

「私……私は」

 

 思い出せ。それは恐らく、とてもちっぽけな力だ。救えるものも、極々僅か。

 でも、私にできることがあるなら。皆の力になれるのなら、私はこの耀きを信じて希望を託す。迷う必要なんか、何処にもない。

 

「疾れ―――ライジング、クロス!!」

 

 

 



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幕間 天使の微笑み

 

 ―――今は赦されなくてもいい。とにかく、BLAZEらしく。

 憎まれ口ばかりを叩く中、あの人は精悍さに満ちた面持ちで、静かに告げた。 

 閉ざされた世界で再会した時から、彼は罰を背負っていた。自らが犯した過ちを認め、罪を為した己の弱さを知り、ただひらすらに、正しく在ろうと志す。不器用ながらも真っ直ぐ、懸命に。その姿が、皆にはどのように映っているのだろう。

 私は受け入れる。無駄なことなんて一つもない。きっと全てに意味がある。

 けれど。それでも赦されてはいけないというのなら。私は、間違っているのだろうか。

 

___________________

 

 

「―――と、いうわけでして。大まかには、今話した通りです」

 

 深夜午前二時、九重神社入り口の鳥居下。肌寒さに身体を震わせながら、一区切りを付ける。一昨日の晩に始まりを告げた一連の真相を聞き終えた戌井アキヒロさんは、長い間を取ってから答えた。

 

『おい。率直な感想を言ってもいいか』

「な、何ですか?」

『何ですか?じゃねえ!!説明の「せ」の字にもなってねえだろうが!開始数秒で頭痛モンだぞ酔っ払ってんのかテメエは!?』

「……ですよね」

 

 サイフォンから溢れ出てくる怒声が、真夜中の境内へ静かに流れていく。予想通りの反応に平謝りをしながら、どうしたものかと溜め息を付いた。

 

「その、事情が複雑なんです。話しちゃ駄目だって言われてることが沢山あって……ごめんなさい」

 

 別に意図をして困らせたかった訳ではない。けれど、説明のしようがないのだ。現時点で明かせることは限られている上に、私達自身の理解に及んでいない謎があまりに多過ぎる。伏字だらけの難解な暗号を垂れ流されたようなものだろう。

 

『ったく。百歩譲って、シオ先輩をやりやがった元凶が、この杜宮に潜んでるとしてだ。お前はまた……』

「はい?」

『だからっ……いや。クソ、何でもねえよ』

 

 尻すぼみになっていく気遣わしげな声。私は苦笑いをしながら、胸の中央の辺りに掌を当てた。

 目を瞑れば、私だけの耀きが眼前に広がる。勢いよく燃え上がる真紅。力強い鼓動音。確かな力が、ここに在る。

 副教官の解釈では、後天的なものだそうだ。同化した二つの魂は互いに影響し合い、本質を共有しながら少しずつ同じ色に染まっていき、別れが訪れた後も、私には変わらずに耀きが残されていた。適格者としての素質を得た私の魂は、ハンプティダンプティの干渉により、やがてその殻を破った。

 取り戻した訳ではない。新たに得た力が今、私の中に宿りつつある。

 

「後悔はしていません。私にできることがあるなら、喜んで受け入れるまでです」

『相手は適格者を狙ってんだろ。分かって言ってんのか?』

「勿論です」

 

 相手が相手だ。この決断に、意味はないのかもしれない。それでも私は、私が考える正しい道を選びたい。皆のために、何より私自身のためにも。

 

『……このお人好しが』

「それはお互い様だと思いますけど」

『ああ!?』

「っ……き、急に怒鳴らないで下さいよ」

 

 不意を突かれ身体が跳ね上がる。以前にも同じようなことがあったけれど、幸いにも今は一人。周囲から冷ややかな視線を注がれずに済む。

 ともあれ、彼の人となりは熟知している。照れ混じりの悪態も慣れたものだ。

 

『まあいい。シオさんを闇討ちしやがったクソ野郎を、絶対に逃がすんじゃねえぞ。気合い入れろよ』

「分かってます。頼もしい味方もいますから」

『もう切るぜ。明日も朝早えんだよ』

「あ、待って下さい」

『あん?』

 

 その先が上手く続かず、何とはなしに立ち上がる。右手で持っていたサイフォンにそっと左手を添えて、声を潜めるように、私は思うが儘の言葉を告げた。

 

「ありがとうございました。それと、おやすみなさい」

『……ああ』

 

 呟きの後、通話を終えた。自然と口にした『ありがとう』が何を指しているのか、私自身よく分からないけれど、穏やかな感情がじんわりと胸に沁みこんでいく。

 しかし、それも一時。すぐに水の中へ落とされたかのような、息苦しさを覚える。まただ。どうして、私は―――

 

「あら、もう終わり?」

「っ!?」

 

 驚きのあまり、サイフォンが砂利の上に着地した。振り返ると、ひどく残念そうな表情を浮かべるリオンさんが中腰の姿勢で立っていた。

 勘弁して欲しい。無言の叫び声のせいで、喉を傷めてしまった気がする。というか、いつから背後にいたのだろう。足音すら聞こえなかった。

 

「結構前からいたわよ。気付いてなかったの?」

「き、気付きませんよ。電話中でしたし」

「ふーん」

「……あのー。何ですか、その顔」

「べっつにー。でもそろそろ、聞かせてくれてもいいじゃない。実際のところ、どうなのよ?」

 

 含み笑いを向けられ、真っ直ぐに問い質される。期待に胸を弾ませて返答を待ち侘びる様は、彼女が世間を賑わすアイドルの筆頭であると同時に、私と同じ一介の女子高生に過ぎないことを思い起こさせた。

 何を問われているのか、考えるまでもない。自覚もある。だから息が詰まり、言葉が発せなくなる。動揺している訳ではなく、分かっているからだ。

 

「私は、そんなんじゃ。私は、違うんです」

「大丈夫。アキがずっと悩んでいたこと、あたしは知ってるよ」

「え?」

 

 顔を上げると、視線が重なった。リオンさんは一歩私に近付いて、小さく首を傾げながら続けた。

 

「いつもさっきみたいに誤魔化すでしょ?アスカやシオリも、何となく気付いていたみたいだけど……あたしはね、興味本位で聞いてる訳じゃないの」

「リオンさん……」

「無理にとも言わないわ。でも、できることなら、吐き出して欲しい」

 

 全部、聞くから。リオンさんの声に、感情が一層の陰りを増した。

 不意を突かれ、言葉よりも先に涙が零れてしまいそうになり、思い止まる。じっと堪えた後、私は震える声で、思いの内を明かした。

 

「……『今は赦されなくてもいい』。アキヒロさんの、言葉です」

 

 全てはその覚悟に集約される。

 大切な者の尊厳を取り戻すためとはいえ、彼は多くの人間を踏み躙り、汚してきた。沢山の血がこの街で流れた。紛れもない罪だ。今も誰かに忌避され、拒絶の目を向けられている。与えられて然るべき罰に、怪異に魅入られた経緯なんて、関わりの余地がない。

 しかし、彼が為した善もある。救われた者がいる。過去が払拭される訳ではないけれど、否定できない事実だ。

 

「私は見てきました。見てきたから、分かるんです」

 

 かつて私の首を締め上げたその手に、私は救われた。七月八日のあの日から、ずっとそうだった。BLAZEとして、何よりヒトとして正しく在ろうとする彼を、私は幾度となく目の当たりにしてきた。

 そして、そんな彼の姿を否定する人間も―――この杜宮には、数え切れない程いる。無論の帰結だ。

 

「当たり前ですよね。間違ってるとか正しいとか、そんな問題じゃないことも理解してます。でも私は、あの蔑むような目が嫌なんです。そんな私も、嫌いです。すごく嫌い」

「自分が、嫌い?」

「色々考えちゃうんです。『何も知らないくせに』とか、『いつになったら』とか……。ただ、支えてあげたいだけなんです。笑っていて欲しいって思いますよ。なのに、傍にいるだけで、後ろめたさばかり感じる」

「……そっか」

 

 視界が滲む。情けなくて。悔しくて、悔しくて。

 私は見失っていない。感情は理解できている。何もかもから見ない振りをして、皆の前でも取り繕ってばかり。だから尚更、嫌になる。

 

「ねえアキ。一応聞いておくけど、貴女―――」

「言わないで。分かってます。きっと、そうなんですよね」

 

 それに。こんな時にこんな形で真情を吐露すれば、どうなるか。想像するに容易い。

 私に足りない物。私が望む言葉。触れて欲しい想い。彼女はきっと、叶えてしまうだろう。

 

「そう。じゃあ、あたしはどうすればいい訳?」

「……え、と」

「フフ、冗談よ」

 

 お見通しと言わんばかりに、そっと肩を抱かれた。思わず涙腺が緩み、耐えられなくなる。

 

「気休めは言わないわ。アキが言ったように、繊細で難しいことだと思う。でもね、アキは真面目過ぎるのよ。考えるよりも行動派のくせに、こういう時に限って不器用で弱気になるんだから。ソウルデヴァイスを手に取ったさっきの威勢は何処にいったのよ?」

「……ずみまぜん」

「あ、謝られても困るんだけど……まあいっか。ねえアキ、顔を上げて」

「無理です」

「いいからほら」

 

 柔らかな手に両頬を挟まれ、半ば無理矢理に視線が上がる。目の前が、光で溢れていた。

 誰よりも綺麗で、美しく、慈しみに満ちた天使の微笑み。私が知らない、未だかつて触れたことがなかった彼女の本質。繊手が、私の目元にそっと触れて、涙に濡れた。

 途端に洗い流されていく。収拾の付かない自己嫌悪、惨めで臆病だったはずの涙。凍てつく冬の空気がとても心地良く、残されたのは、リオンさんの体温と、彼女の口が紡ぐ透明な声。

 

「大丈夫。支えたいって思うアキを、あたしが、あたし達が支えてあげる。だから、頑張れ、アキ」

「……うん」

 

 目を瞑ればあの歌が、歌い声が思い出される。独りではないと思えるから、願いは翼に。私のちっぽけな想いは、希望の翼へと変わる。

 求めていた答え。前に進む勇気。もう充分だ。私はこれ以上を、望まない。

 

「でも、そうね。上手く言えないけど、アッキーって相当……いや、まあ、うん」

「はい?」

「ううん、違うのよ?一時はね、他の誰かと勘違いしてたの。あたしはただ、少しその……あたしとしてはね、本当は言いたくないのよ」

「何をですか?」

「オーケー落ち着いて。分かってるわ。分かってる。でも敢えて言わせて貰うわ。アッキーはね、多分そうなのよ。だから、つまり、そういうこと」

「……」

「……」

「……趣味が悪い?」

「絶望的に」

 

 世界で一番美しい天使の下腹部に、私は世界で一番優しい腹パンを見舞った。

 

 

 

 



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12月14日 『グリーディア』

あと1.5話程度でアフターストーリーも終了です。
終了後はソラとユウキに焦点を当てた、アフターストーリー2を考えています。


 

 野性味のある高鳴きが届いた。余韻が残っているうちに、もう一度。犬の遠吠えが、真夜中の住宅街から九重神社の境内に到来する。

 もう電車も走っていない時間帯だ。音源は限られている。時折眼下を横切る自動車の走行音に、動物の鳴き声。深夜特有の音色が、十二月中旬の乾いた大気を介して響いていた。

 

「こんな時にあれだけど、この季節の深夜帯って、あたし好きだな。雰囲気があるわよね」

「分かります。冬ならではって感じですよね」

 

 私の隣に立ち、微笑みながら遠くを見詰めるリオンさんに、頷きで返す。

 既に十二月の第三週に入っている。色彩豊かなイルミネーションはそこやかしこで見掛けるし、世間はすっかりクリスマスムードに染まりつつある。そして聖夜を過ぎればあっという間に年越し。この時期は時の流れを早く感じるのが常だ。

 けれど、この二日間はまるで逆だった。満ち足りた週末を過ごして、名残惜しさを抱きながら月曜日を迎えるはずだったというのに。私達の平穏は、何処へいってしまったのだろう。

 

「リオンさんは……今回の件、リオンさんはどう思いますか」

 

 何の意味も成さない質問。分かってはいても、会話が途絶えてしまうと考えてしまう。

 

「どうって。それ、ジェーンのことを言ってるの?」

「はい。一連の事件の、元凶の正体が……その」

 

 言葉にするのが躊躇われて、声が尻すぼみになっていく。リオンさんは両手を脇の下に入れて暖を取りながら、静かな声で言った。

 

「事実だって言われても、流石にね。多分アッキーと一緒よ。きっとコウ君も、同じなんじゃないかしら」

 

 期待していた曖昧な返答に、妙な安堵を覚えた。結局私達は、未だ受け入れることができていない。

 異界。隔絶された別世界に、私達は何度も足を踏み入れてきた。私自身、異界化に見舞われた回数を正確には記憶していない。それ程に異界化が引き起こす異常現象を経験して、目の当たりにしてきたということだ。

 しかし今回は、そのどれとも異なっている。杜宮の異変とも決定的に何かが違う。あの怪異が、本当に―――私達と同じ、人間なのだろうか。

 

「どっちにしたって、あたし達があれこれ考えても仕方ないわよ。頼もしい助っ人もいることだし、今は素直……にっ……」

「リオン、さん?」

 

 突然、声が途切れ途切れになる。顔を上げると、リオンさんの両目が見開かれて、私の後方へ釘付けになっていた。途端に背筋が凍り、言葉を忘れた。

 

「ひっ!?」

「うお!?」

 

 がたがたと身を震わせながら振り返ると、そこにはジェーン―――ではなく、驚きの表情を浮かべた時坂君が立っていた。思わず膝が折れそうになり、冷や汗が一気に体温を奪っていく。

 

「な、何だよおい。急に変な声出すなよな」

「っ……り、リオンさん!」

「あはは、冗談よ。アッキー驚き過ぎ。って、ちょっと、やめ、あひっ」

 

 それなりの力を込めてリオンさんの脇腹を小突く。こういった場面でやられっ放しにならない辺り、我ながら成長したなと思える。

 というか本当に止めて欲しい。現役アイドルの真に迫る演技に騙されたのは今日が初めてではない。普段なら笑い話で済ますところだけれど、もう一発入れておこう。

 

「ふう。時坂君、どうかしましたか?」 

「どうってお前、見回りから全然戻ってこないから心配になって見に来たんだよ。何かあったのか?」

 

 言われてから漸く気付く。色々と話し込んでいたせいで、見回りに出てから大分時間が過ぎていたらしい。知らぬ間に無用な心配を掛けてしまっていたようだ。

 

「恋バナよ、恋バナ。ただの女子トーク」

「こいば……何だって?」

「何でもありません気にしないで下さい」

 

 気恥ずかしさが込み上げ、右手を大きく振ってリオンさんの言葉を誤魔化す。少なくとも今この場で話すような内容ではない。

 

「とりあえず、一旦戻りましょう。何か温かい物を飲みたいです」

「あたしも賛成。すっかり冷えちゃっ……て?」

 

 瞬間。弛緩し切っていた空気が消え去り、辺りの木々がざわついた。リオンさんが浮かべた驚愕の表情には、先程とは打って変わって嘘偽りが微塵も見当たらない。

 足元が僅かに感じた初期微動で、直後に襲うであろう地震に身構えるように。取り戻した適格者としての感覚と勘が、激しく警鐘を打ち始めていた。

 

(き、来た?)

 

 それに私は、一度間近で体感している。ジェーンが発する殺気、吐息、足音、匂い。五感に刻まれた記憶が呼び覚まされて、身体が小刻みに震えた。

 間違いない。幾許もなく、『彼女』はこの場にやって来る。

 

「コウ、みんな!」

 

 悴んだ手でサイフォンを操作していると、アスカさんの緊迫した声が届いた。見れば、後方には教官と副教官の姿もあった。恐らくは私達よりもいち早く接近を察したのだろう。

 

「アスカ。ジッちゃんとトワ姉は?」

「母家の奥で待機して貰っているわ。下手に離れるよりも安全よ」

 

 手短なやり取りの後、私達の眼前に二つの背中が並んだ。教官らは利き手にサイフォンを構え、前方のやや上方を見やりながら仁王立ちしていた。アスカさんは二人の代弁をするように、場違いな程に冷静な声で言った。

 

「手筈通り、私達は下がりましょう。ここにいては巻き込まれてしまうわ」

 

 私とリオンさんは首を縦に振り、一方の時坂君は若干渋々といった様子で、アスカさんに続いて教官らから距離を取っていく。三メートル、五メートル、約十メートル。そろそろ充分かと思い振り向こうとすると、アスカさんが私の手を引いた。

 

「まだ、もっと離れないと」

 

 言われるがまま、足早に歩を進める。見る見るうちに教官ら二人の背中が小さくなっていき、結局私達は境内の隅にまで追いやられてしまった。離れ過ぎではないかと感じつつ、アスカさんの有無を言わさぬ態度に畏縮してしまい、口には出せなかった。

 

「あ……」

 

 声が漏れ出そうになり、慌てて両手で蓋をする。

 結界に歪みが生じていた。目には映らない。視認できずとも、九重神社の敷地を覆っていた結界の一部分が、ぐにゃりと捻れていく。

 

(あれが、ジェーンの力なの?)

 

 女性の被害者に共通する症状、霊力の異常な消耗。種明かしと言わんばかりに、結界を成していた霊子達が一点に吸い寄せられていき、消えていく。もし霊力の吸収がジェーン固有の能力だとするなら、結界なんて用を成さない。

 やがて歪みの中央から、何かがぽとりと音もなく落下した。水道の蛇口から一粒の雫が落ちるように―――ジェーンは静かに、私達の目の前に降り立った。

 衝撃もなく、ただただ静かで。胸の鼓動ばかりが、耳の奥に響いていた。

 

「為せ、ドミネーター」

 

 しかし静寂は、たちまちのうちに消え去ってしまう。

 

「始まるわ。みんな、私に掴まって」

「はい?」

 

 アスカさんの声を合図にして、途方もなく巨大な力が、私達を襲った。突然足元が揺れて、上下左右の感覚がなくなっていく。

 

「ぐああぁ!?」

「きゃああ!!」

 

 電流が引き起こす身体の痺れの最大級。嵐をこの場に凝縮したかのような圧力。刺すような痛みが全身に広がり、四方八方から押し潰されて呼吸が遮られる。意識が遠退きそうになり、しかし強引に覚醒させられ、込み上げた吐き気が見えない何かで圧せられる。

 

(な、に、これ―――)

 

 自分が今どんな体勢なのかが分からない。このままでは身体が千切れてしまう。四肢は繋がっているのだろうか。

 呼吸がしたい。せめて一息だけでも。もう限界だ。私は、まだ―――

 

「落ち着いて。大丈夫だから。口を開けて、ゆっくり吸うの」

「か、はっ……!」

「そう、もう一度よ」

 

 すると柔らかな声が、指先を温めてくれた。指から手に、腕を介して肩へ。段々と痺れが薄れ、圧力が緩んでいく。

 声に従い、恐る恐る息を吸い込んで、吐き出す。涙で視界が滲み、鼻と口から液体が垂れていたけれど、気に掛ける余裕はない。一旦唾を吐き捨てて、上着の袖で口元を拭ってからもう一度。大きく吸って、吐く。

 

「はぁ、は、ふうぅ。んん……え?」

 

 呼吸が落ち着きを見せ始めた頃になって、漸く自分の状態に気が回った。

 膝立ちの姿勢になり、アスカさんの右足の太腿を抱いていた。顔を上げると、時坂君は左肩へ。リオンさんは右腕に。三人の子供が母親へ甘えるように、我を忘れて縋り付いていた。

 

「気にしないで。リオンさんにコウも、そのままで構わないわ」

「わ、ワリィ」

「お、お言葉に甘えるわ」

 

 恥じらいを覚える暇もなかった。リオンさんと時坂君も形振り構わず、アスカさんを抱きながら肩を上下に揺らしていた。原理は分からないけれど、恐らくアスカさんに触れていなければ、先程の生き地獄をまた味わう羽目になるのだろう。それだけは勘弁願いたい。

 

「これが教官のソウルデヴァイスよ。ジェーンを対象に絞ってはいるけど、教官はドミネーターの拘束力を全力で展開しているの。これだけ離れていても、霊力を上手く流さないと巻き添えを食らうわ」

「い、今ので巻き添え程度かよ?とんでもねえ力だな」

 

 これだけ距離を取っていても、こちらに被害が及ぶ程に巨大の力。その全てが今、ジェーンに向いていた。

 想像を絶する世界だった。念動力という形容では済まされない。教官が両手を向ける前方の空間が、目に見えてねじ曲がっている。荒れ狂う雷雲が立ち込めているかのようで、重々しい轟音が鳴り響いていた。

 

「無形の、ソウルデヴァイス……」

 

 唯一無二の魂の耀き。無形。単純にして強大。私はアスカさんが語っていた、結社に属する一部の者の生き様を連想していた。

 名前や住所、国籍。家族や友人。平穏な日常。私達が当たり前に所有する物の全てを捨て去り、結社から与えられた使命を全うするためだけに生きる人間達。数多の代償を払ってこその、無が生み出す力。そういった強さも、あるのだろうか。

 

「ねえアッキー。あれが、ジェーンなの?」

「あ、はい。そのはず、ですけど……ち、小さいような気が」

「小さい?」

 

 無意味な想像を捨てて、目の前を注視する。半円状に展開した力場の中央で、ジェーンは教官と対峙していた。

 見間違いではないのだろう。辛うじて両足で立ってはいるものの、明らかに一回り以上体型が縮んでいた。途方もない力に圧せられ、身動きが取れないどころか、原型を保つだけでも精一杯といった様子だった。

 一方的とも言える攻勢が続く中、教官の隣で控えていた副教官が動いた。驚いたことに、副教官はドミネーターの支配下で、ゆっくりと歩を進め始めていた。

 

「あ、アスカさん?」

「言っていたでしょう。これからジェーンの魂を具現化して、ソウルデヴァイス化させるの。本来の用途とは違うけど、それでジェーンの意識を奪える」

「あ……そ、そうでしたっけ」

 

 ドミネーターと並ぶ無形のソウルデヴァイス『ハンプティダンプティ』。他者の魂の耀きを己の刃として揮う異質な力。その間に魂の所有者は意識を失うという欠点を逆手に取った奇策。既に副教官は、ジェーンの一歩手前まで迫っていた。

 

「す、すごい。アスカさんもそうですけど、どうしてあの中で動けるんですか?」

「霊力の流動性を……って、今説明しても仕方ないわ。さあ、始まるわよ」

 

 詳細は後回しにして、固唾を飲んで見守る。頭上に掲げた副教官の左手が光を放つと、その先端がゆっくりとジェーンの胸に向いた。副教官と言えど、ドミネーターの拘束力を完全に流すことは困難なのか、動きはひどくぎこちない。しかし左手は着実に、胸の中へと埋まっていく。

 制圧の瞬間。それは同時に、ジェーンが人間であることの証明。あと少しで全てが終わり、真相が明かされる。逸る気持ちを抑えていると―――光が、真っ赤に染まった。

 

「があああぁ!!」

「「っ!?」」

 

 突如として、副教官の左腕が炎上していた。焔属性の霊力。火の手は一気に勢いを増して、周囲を照らした。副教官は身の毛がよだつような悲鳴を上げながら、地面の上を転がり始める。

 

「ふ、副教官!?」

 

 異変は続けざまに生じた。愕然としていると、ぱきんという渇いた音が鳴り響いた。

 直後、ドミネーターによる支配が止んだ。ジェーンを縛り付けていた力が霧散し、風と化して砂埃を巻き上げる。思わず目を逸らしてしまい、暗転。両手で砂埃を遮り、どうにか瞼を開き掛けたところで、目を疑うような光景が飛び込んでくる。

 

「あ―――」

 

 地に這ったジェーンの右腕が、斜め上に振るわれる。手刀だった。途端に教官の身体から血飛沫が上がり、膝が地面に崩れ、糸が切れた人形のように前方へと倒れていく。声を発する間もなく、教官は動かなくなっていた。

 全てが一瞬だった。左腕が鎮火した副教官も、微動だにせず蹲っている。その場に立っていたのはジェーン一人。そして遠方に身を隠していた私達四人。思考が追い付かず、重い沈黙が淀み始めた中で―――ジェーンが、言った。

 

「ひぃ、ら、ぎ」

 

____________________________________

 

 

 立て続けの想定外に、また一つの驚愕が重なる。

 それはあまりに自然で、見過ごしてしまいそうな違和。

 

「……おい。今の、聞こえたか」

 

 コウの投げ掛けに、誰も応じようとしない。コウはそれを無言の肯定と受け取った。

 辛うじて耳に入った擦れ声。眼前のグリードが、言葉を―――いや。人間の女性が、声を発した。たったそれだけの事実が、遠くから彼女を見詰める四人にとって、受け入れ難い事態だった。

 

「い、らぎ。ひぃらぎ、ひいらぎ」

 

 疑惑が確信へと変わる。聞き間違いではない。ジェーンは取り憑かれたように、アスカの姓を繰り返し呼んでいた。当のアスカはジェーンと視線を重ねながら、思考を巡らせ始めていた。

 ひいらぎ。ジェーンが姿を見せて以降、私を姓で呼んだ者はいない。私を柊アスカと認識できるはずがない。

 なら、どうして?何故ジェーンは私を知っている。私を見詰める、その眼差しの意味は?

 考えろ。考えろ。考えろ。考えないと、正常な思考が泥濘に引き摺り込まれてしまう。 

 

「ひいらぎ、ひいらぎひいらぎひぃらぎらぎらぎらぎ、ぎいぃいい!ひいらぎ!ひいらぎひいらぎいぃ!!!」

 

 呟きが慟哭に、視線が殺意に変わる。得体の知れなかった脅威が、今にもアスカを手に掛けんとする狂気に満ちた女性へと変貌していた。

 考えるのは止めだ。優先すべきは他にある。たとえ理解に及ばずとも、抗うことはできる。

 アスカがエクセリオンハーツを顕現させ、三人が続く。レイジングギア、セラフィムレイヤー、ライジングクロス。四つの覚悟が集結し、再び境内が戦場と化す、その直前。ジェーンは動きを止め、身体を震わせた。

 

「がはぁっ!?」

「え……」

 

 血と胃液混じりの嘔吐。大きく咳込み、人間の証を口部から地面に垂れ流していく。膝が折れ、尋常ではない量を吐いては痙攣し、再度吐き出す。アスカ達は身を固めたまま、痛々しいその姿に手出しができないでいた。

 ドミネーターによる拘束は、ジェーンの身に深刻な損傷を与えていた。Sランクのグリムグリードを数秒で葬り去る程の力を、長時間単身で受け止めていたのだ。同時にハンプティダンプティによる強制を跳ね除け、直後の攻勢。怪異染みた再生力は、深手に追い付いていなかった。

 

「う、ううぅっ、うううぅぅうう!!」

 

 殺意よりも優先される生存本能。そして脳裏を過ぎる『記憶』。呼び起こされた感情に身を委ね、ジェーンは後方へと大きく跳躍して、アスカ達から更に距離を取った。

 

「ま、待ちなさい!」

 

 今なら勝機はある。アスカ達が駆け出そうとするやいなや、鈴の音が鳴った。思わぬ横槍に、ジェーンも頭上を仰いだ。

 ちりりんと、もう一鳴り。やがて暗闇から姿を見せたのは、蒼白い輝きを身に纏った少女。異界の子―――レムは光と共に顕れ、落葉のようにゆっくりとした速度で、ジェーンの眼前へと降り立った。

 何故彼女がこの場に。予想だにしない展開に戸惑うアスカらを余所に、レムは微笑みを浮かべながら言った。

 

『やあ。君は、何処から来たんだい?』

 

 レムがそっと差し伸べた手が、ジェーンの頬に触れた。すると一層の光が発せられ、レムとジェーンを包み込む。辺り一面が光で溢れ、まるで真夏に咲いた花火のように全てを照らしていく。

 やがて再び暗闇が降りると共に、レムは瞼を閉じながら告げた。

 

『……そう。君は、そうだったんだ』

 

 レムの笑みが深みを増した後、ジェーンが勢いを付けて飛び上がる。瞬時にその姿は夜に溶け込んでいき、風と共に忽然と姿を消した。彼女の襲来から僅か五分間にも満たない、あれよあれよという間の出来事だった。

 静寂が訪れる。この場で今、一体何が起きたのか。疑問は多々あれど、悠長に構えてはいられない。アスカはぱんぱんと両手を叩き、皆に切り替えを促す。

 

「教官と副教官の手当てが先よ。みんな、手を貸して」

「あ……え、ええ。そうよね」

「わ、分かりました」

 

 足早に教官らの下へと駆け寄り、アスカが容体を見て取る。

 どちらも意識はない。教官の出血がひどく、ドミネーターの全力展開も相まって消耗が激しい。副教官も左腕に重度の火傷を負っており、一刻も早い処置が求められる。時間との勝負だ。

 

「アキさん。キョウカさんと連絡を取って、二人をすぐに中央病院へ搬送するようお願いして。私は術式で応急処置をするから、コウは私と一緒に。リオンさんは母家に行ってソウスケさんに事情を話して、ありったけの聖水を持ってきて」

 

 自らを客観視しながら、淡々と指示を下していく。平静でない自覚があるからこそだった。

 私は今、別のところに気が向いている。ジェーンは何者だ。私の姓を何処で知った。そもそも本当に人間なのか。異界の浸食と同等の支配力を持つ人間なんて聞いたことがない。

 冷静に処置をこなす自分、ジェーンに没頭する自分。両者を俯瞰して見比べる自分。気を抜くと三者に分裂しそうで、動悸が収まらない。そんなアスカに対し、異界の子が言った。

 

『柊アスカ。君は彼女を知る必要がある』

 

 今その話に触れるな。毒づいてしまいそうになるのを堪え、アスカが応える。

 

「今はそれどころじゃないの。詳しい話は後で聞かせて貰うわ」

『それでも君は知るべきだ。ジェーンはヒトでもグリードでもない。両者の狭間に在る。でもね、元々は君達と同じだったんだ』

 

 アスカの呼吸が止まり、コウの手も止まった。キョウカと通話をしていたアキは、口を半開きにしてレムを見詰めていた。

 

『二十年ぐらい前の話だよ。ジェーンの母親は彼女を身籠った後、とある異界の中に迷い込んだんだ』

「っ……な、何を言ってるの」

『この世界と同様に、異界は変わる。同じではいられない。ジェーンの母親も少しずつ、異界と共に変わっていった。限りなくグリードに近い存在へと変貌した母親から生まれたのが、彼女さ』

 

 ―――『グリーディア』。ヒトとグリードの狭間で揺れる存在を、レムはそう呼称した。コウやアキは勿論、異界の多くを知るアスカでさえもが耳にしたことがなかった。話の行き先がまるで読めない三人を置いてけぼりにして、レムは続けた。

 

『やがてジェーンの母親は、一人の適格者の手によって討たれた。ジェーンの目の前で、母親は滅ぼされたんだ』

「お、おいレム。まさかそれが、アスカなのか?」

『違うよ。言っただろう、これは今から二十年近く前の話だってね』

 

 二十年前。ジェーンが顕れた地。米国。異界。適格者。柊の姓。点と点を繋いでいき、やがてアスカの脳裏に、一つの可能性が浮かび上がる。

 杜宮の異変は、十年前の東京冥災に起因していた。けれど、それよりも前。この二日間の全ての始まりは、二十年前。

 そんな。嘘だ。もしそれが真相だというのなら。私はずっと、彼女に―――

 

『その適格者が―――柊アスカ、君の母親だ。その頃には既に、君の生命は母親の身に宿っていたのさ。そしてジェーンは全部知っている。だから彼女はこの杜宮に来た。最愛を奪い去った者の、最愛を奪うためにね。ジェーンの目的は、君だ』

 

___________________

 

 

 幸せの絶頂にいたはずだった。想い人と結ばれ、程なくして宿した新たな生命。

 どんな言葉で彼に伝えようか。一番に吉報を伝えたかった男性は、しかし二度と帰っては来なかった。何処にでもある、誰にでも訪れ得る不幸の一例だった。

 これからどうやって生きていこう。私は何のために生きればいい。絶望の淵に立たされた女性は―――知らぬ間に、とある地に立たされていた。

 

(ここは……天国?)

 

 見渡す限りの緑。咲き乱れる色取り取りの花畑。鳥の歌声。空と湖の青。息を吸うだけで空腹が充たされ、風が負の感情を洗い流してくれる。微睡みが、生きようという希望を湧かせてくれた。

 誰一人として見当たらなかった。友人知人は勿論、家族すらいない別世界。しかし不幸とは感じなかった。孤独を不幸せとする観念さえもが存在しない世界の中心で、女性はいずれ生まれるであろう最愛に語り掛けていた。

 一人じゃない。

 私はこの子と共に生きていく。

 それ以上を、私は望まない。

 

 

 

 変化は徐々に訪れた。緑が減り、陽の光が減った。透き通っていたはずの水が濁りを見せ始め、段々と空が緋色に変わっていく。気付いた頃には、異形の化物が我が物顔で徘徊していた。

 変わらなかったのは、生きようとする意志。この世界で生きていこうという覚悟。そして我が子を護り抜くという断固たる決意が、彼女自身の在り方を変えた。

 

(絶対に、護って見せる)

 

 荒廃した世界の中で、女性は力を求め始めた。異界の実を食らい、肉を貪り、瘴気を吸い続けた女性は、少しずつ怪異に近付いていった。やがて人間の身を捨て、魔宮の主へと上り詰めたかつての女性は、孕んでいた我が子を産み落とした。母親とは異なり、赤子の姿形は人間のそれを保っていた。

 女性―――強大なグリーディアと化した女性は、赤子に全てを捧げた。人間のままでは、この世界で生きていけない。だから、この子にも力を。それが未来に繋がると頑なに信じ、赤子は異常な速度で成長した。一年が経つ頃には十歳児並の体格を手に入れ、徐々に怪異としての力を有し始めていた。

 

 

 

 

「第一拘束術式、完全解除」

 

 満ち足りた日々が続く中、『敵』は突然降り立った。単身で異界へと乗り込んできた敵は、怪異の群れを容易く斬り捨て、奥部で待ち構えていた主と対峙した。

 一方的とはいかないまでも、敵はあまりに強過ぎた。巧みな剣捌きを以って斬り刻まれ、ものの数分間で主は虫の息となっていた。

 

「あああ、あああぁぁあ!?」

 

 物陰に隠れて見守っていた少女は堪らずに飛び出し、母親の身体を揺すった。全身の傷から体液を流す母親は、少女の呼び掛けに応える力すら残されてはいなかった。

 

「……驚いたわ。こんなグリードもいるのね。まるで母娘じゃない」

 

 背後から放たれる殺気。少女は思わず振り返り、敵を見上げた。

 頭上に掲げられた断罪の刃。しかし剣は振り下ろされなかった。僅かな情けが生んだ躊躇い。代わりに敵が踵を返して剣を納めると、世界が歪んだ。主を失った魔宮は急速に崩壊していき、少女の意識も深い闇の中へと、落ちていった。

 

 

 

 覚醒と共に、喉が焼けるような苦しみに苛まれる。息を吸うだけで吐き気が込み上げ、真面に目も開けていられない。身動きを取ると全身が悲鳴を上げて、肌が爛れていくかのような錯覚を抱いてしまう。

 ここは何処だ。この苦痛は一体。息も絶え絶えな身で辺りを見渡すと、聞き覚えのある声が聞こえてくる。

 

「こちら柊です。ゲートのフェイズゼロ化を確認……ヒイラギ、です。いい加減慣れて貰えますか?籍を入れて、もう三ヶ月ですよ」

 

 敵。最愛の母親を斬り、居場所を奪い去った敵。

 己が置かれた立場を、少女は理解していた。相反する両者のいずれにも、自分は属さない。異界の門が閉ざされ、帰るべき道を絶たれた今、私は敵が生きる側の世界に締め出されてしまった。全身を襲う苦痛は、中途半端な存在である私を拒絶している。

 

「ええ、そうです。今日が最後。明日にでも日本に戻って、産休に入ります。旦那も心配していますから……フフ、分かってます。暫くは一児の母親に専念させて頂きますね」

 

 沸々と少女の胸に湧き上がる感情。流れ出る涙は、焔を思わせる緋色に染まっていた。

 どうして。

 おかしい。何が違う。

 私は、何が違うんだ。

 私達だって―――あの二人と、同じであったかもしれないのに。

 

「オ、カァ、サン」

 

 終わりが始まりを告げ、狭間に在った者が育んだ生命が、再び狭間で揺れる。

 柊アスカが生を受ける、九ヶ月前の出来事だった。

 

 

 

 



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12月14日 アスカとコウ

 

 月曜日の早朝、午前六時過ぎ。杜宮総合病院の一室。

 

「……以上が、異界の子が話してくれた内容です」

 

 私が話を区切ると、誰もが小さな溜め息を付いて、重苦しい空気が漂い始める。居心地の悪さを感じて、私はリオンさんに話を振った。

 

「えー、その。リオンさん、何か付け加えることはありますか?」

「ううん。あたしからは、何も」

 

 再びの静寂。壁に背中を預け、腕組みをして押し黙る高幡先輩。丸椅子に座り、神妙な面持ちを浮かべるミツキ先輩。ベッドの中で動揺を露わにするソラちゃん、その傍らで佇むユウ君。そして私の隣に立つリオンさんからも、普段の朗らかさが感じられなかった。

 

「ケホ、コホッ」

「郁島?」

「ん……大丈夫。ただの咳だから」

 

 ジェーンの手に掛かった四人は、容体の差はあれど、回復の兆しを見せつつあった。高幡先輩とユウ君は歩ける程度にまで持ち直しているし、霊力吸収を受けたミツキ先輩の顔色も良い。ソラちゃんはまだ安静が必要だけれど、意識はハッキリしている。後は時間の問題だろう。

 とはいえ―――起き掛けにこんな話をされては、動揺して当たり前だ。異界の子から直に聞かされた私達だって、未だに受け止め切れないでいる。

 異界に迷い込んだ一人の女性。愛娘。グリーディア。

 柊と呼ばれていた適格者。その身に宿っていた生命。

 言葉ではとても形容できない、複雑さを内包した因果。

 アスカさんは今、何を考えているのだろうか。意識が病室の外へ向いていると、高幡先輩が静かに口を開いた。

 

「時坂と柊は、今どうしてんだ?」

「副教官さんと話をすると言っていました。今後の行動についても、相談したいと」

 

 副教官の火傷も決して軽くはないけれど、意識は取り戻せていた。一方の教官は満身創痍の身で、今も尚、術式を併用した治療が施されている。最悪こそ回避はできたものの、副教官共々、ジェーンとの再戦は絶望的な身だ。

 強大な力を有する二人が倒れてしまった状況下で、私達が取るべき選択肢。判断を下すまでの猶予は、そう多くはない。当たり前の懸念に、ユウ君が触れた。

 

「ねえ。ジェーンの狙いが柊センパイだっていうなら、いつ襲われてもおかしくないんじゃないの。それこそ、今だって」

「ああ、それは大丈夫だと思うわよ。暫くは身を潜めているだろうって、アスカが言ってたわ」

 

 ジェーンの標的がアスカさんであることは明白だ。米国から遥々海を渡り、この杜宮で適格者ばかりを襲ったのも、アスカさんを追う過程での行為に過ぎない。そのジェーンが自ら一時撤退を選んだのは、先の交戦で相当なダメージを負った証拠だ。傷が癒えれば再びアスカさんをつけ狙うだろうけれど、それまでの間は一先ずの休戦と言っていい。

 しかし逆に言えば、今の内に策を練る必要がある。遅かれ早かれ、私達は彼女と対峙しなければならないのだ。結社の意向も踏まえ、時坂君とアスカさんが副教官と協議をしている頃だろう。

 

「それにしても、グリーディア、か。おい北都、お前は知ってたのか?」

 

 リオンさんが状況説明を終えると、高幡先輩が話の矛先を変えた。 

 

「いえ、私も初耳です。そんな存在は……。ですが、可能性を考えるとすれば、順応の結果なのかもしれませんね」

「順応?」

 

 ミツキ先輩は小さく頷き、「あくまで可能性」と前置いた上で、続けた。

 

「異界に呑まれた人間が、何かしらの異常をきたすというケースがあることは、皆さんもご存知のはずです。我々はそれを異界病と称していますが……その先にある、異界という環境への順応。いえ、適応でしょうか。そういった希有な個体が、前々から存在していたとしても、おかしくはありません」

「前々って、おい待て。ジェーン以外にもいるって言いてえのか?」

「可能性のお話ですよ。ですが伺った限りでは、少なくとも柊さんのお母様は……何も知らずに、斬ったということになります。ジェーンの、お母様を」

 

 激しい衝撃が頭を打ち、言葉を忘れた。ぐらぐらと足元が揺れて、思わず息を飲んだ。

 

(それって―――私達、も?)

 

 憶測に憶測を重ねた上での可能性。けれど、もしも仮に、私達には知る由もないグリーディアという存在が、今回の事件よりも以前からあったとして。やはり私達には、気付きようがない。

 絶対悪だと決め込んで、何の躊躇いや罪悪感もなく、葬ってきた怪異の中に。元は私達と同じ、単に巻き込まれてしまい、その身をグリードと同じ色に染めてしまった者がいたとするのなら。それは―――許されて、いいのだろうか。

 

「それに、柊さんは、何もかもを知った上で、決断しなくてはなりません。二十年前の真実と、ジェーンという存在を背負って……せめて、一緒に戦えればとは思うのですが。こんな状態では、難しいですね」

 

 ミツキ先輩は言いながら、利き手の拳を握った。その動作はひどくゆっくりとしていて、手は小刻みに震えていた。満足に力が入らないのだろう。やはり全快とは言い難い。

 

(アスカさん……)

 

 どんな心境なのだろう。己の与り知らないところで、底なしの憎悪を向けられて。誰が悪いという訳ではないのに、深い業のような何かを背負わされる。当人にしか理解し得ない重み。

 言葉が思い浮かばない。何を言ってあげればいい。私自身でさえ受け止め切れずにいるのに、気休めの言葉を並べたところで、それはアスカさんのためになるのだろうか。

 

「きっと、大丈夫だと思います」

 

 思考が堂々巡りを始めそうになった頃、弱々しい声が聞こえた。見れば、ソラちゃんがベッドの上で半身を起こし、ユウ君の手で身体を支えられていた。

 

「だから、無理すんなって言ってるだろ」

「平気。私は……アスカ先輩には、コウ先輩がいますから」

 

 思わず皆と顔を見合わせた。ソラちゃんは構うことなく、自信に満ちた笑みを浮かべて告げた。

 

「他人任せな言い方ですけど、コウ先輩がいれば、不思議と大丈夫だって思うんです。夏のあの日に、アスカ先輩がコウ先輩の背中を押してくれたように。アスカ先輩とコウ先輩なら、きっとって。私は、そう思います」

 

 再度見回して、皆の様子を窺う。呆れたような表情から、はにかんだような遠慮がちな笑みに。私も自然と顔が緩んで、沸々と湧き上がってくる感情が、憂いを飲み込んでいくような感覚を抱いた。

 

「言われてみれば、そうだね」

「まあ、確かにな」

「フフ、それもそうですね」

「うんうん。コウ君なら、きっと」

「どうせ今頃、恥ずかしい台詞でも吐いてんじゃないの」

 

 時坂君と、アスカさんなら。それは決して他人任せな考えではない。絶対的な信頼に裏打ちされた、確信に近い想い。これまでのように、今も、そしてこれからも。きっとあの二人は、ずっと変わらずにあの二人なのだろう。

 それに、私はまだ戦える。できることはある。掛けるべき言葉は後で考えればいい。

 

「とりあえず、俺達も二人の所に行くか。北都、立てるか?」

「ええ、大丈夫です。郁島さんはどうですか?」

「ユウキ君が運んでくれるみたいなので」

「ほう」

「まあ」

「わお」

「ひゅーひゅー」

「車椅子だよ!?これ!!分かるだろ普通!?」

 

 ガラガラ。

 久方振りの賑やかなやり取りに興じていると、病室の扉がゆっくりとスライドした。入り口に立っていたのは、九重先生と倉敷シオリさん。二人の顔を見て、大事なことを伝え忘れていたことに気付く。

 

「あら、九重先生に倉敷さん。お二人もいらしていたのですね」

「あれ?アキちゃんから聞いていませんでしたか?」

「す、すみません。すっかり忘れていました」

 

 シオリさんが諸々の異変に感付いたのは、時坂君をはじめとした面々の行動、加えてアスカさん曰く、異界に深く関わりを持った人間としての勘所による物だった。時坂君もシオリさんからの追及を誤魔化し切れず、結局はアスカさんから許可を貰った上で、大まかな事情を既に打ち明けていたようだ。

 そして昨晩の一件を聞かせたのは、何を隠そう私。時坂君に代わって、九重先生にも事のあらましは伝えていた。

 

「みんなのことも心配で、トワ先生にお願いして連れてきて貰ったんです」

「私も様子を見ておきたかったから。でも、思いの外に元気そうだね。まずは一安心って感じかな」

 

 そう言って胸を撫で下ろす二人からも、疲労感が垣間見られた。昨晩も満足に眠れていないのかもしれない。

 

「これから時坂君とアスカさんの所へ向かおうとしていたところです。シオリさんも行きますか?」

「うん。私もそのつもりで来たから。もしかしたら、力になれるかもしれないって思ってね」

「力に……何か、あるんですか?」

「んー。今は、内緒かな」

 

 微笑みながら、人差し指で口を押さえるシオリさん。随分と思わせ振りだけれど、一般人と言っていい身のシオリさんに、何か考えがあるのだろうか。皆目見当が付かなかった。

 

___________________

 

 

「報告は以上です。詳細については、後日書面でお渡しします」

 

 アキがいた病棟とは別館、東館の上層に設けられた大き目の病室で、副教官は簡単な処置を受けながら、アスカによる状況報告に耳を傾けていた。

 

「異界の子、か……。しかしいずれにせよ、二十年前の一件や、グリーディアといった存在に関する議論については、全て後回しでいい」

「同感です。今はジェーンへの対処が何よりも優先されます」

「アスカ、君はどう動くつもりだ?」

 

 アスカは隣に座るコウの顔をちらと見た後、淡々とした口調で告げた。

 

「ゾディアックとの共同戦線を張るべきかと考えます。充分な戦力が集まっているとは言い難いですが、我々と足並みを揃え、先手を取ることができれば、勝機は充分にあるはずです」

 

 アスカの見立て通り、ジェーンが姿を眩まして以降、目立った動きは見られない。寧ろ対象が手負いの今こそが、こちらから打って出る好機とも言える。既にゾディアック側ではキョウカが音頭を取り、実動隊員が集結しつつあった。

 その全てが揃うのを待たずして、ジェーンの足取りを追う。アスカが示した強行策に対し、副教官は首を縦に振った。

 

「いいだろう。上層部とゾディアック側には、俺が話を通しておく。雪村キョウカと連携を図りながら動くんだ。定期連絡は忘れずに入れてくれ」

「了解です……コウ、どうかしたの?」

「あ、いや。何つーか、その。意外な反応だなって思ってさ」

 

 コウは慎重に言葉を選びながら、控え目な態度で続けた。

 

「初めて会った時は、『ゾディアックとの共戦なんて以ての外だ』って感じだったからよ。正直に言って、断られたら無理やりにでもって、考えてはいたんだ」

 

 それはコウ一人の物ではない。あの場に居合わせていたアキやリオンも、同様の感想を抱いていたであろう引っ掛かり。コウの手厳しい指摘に対し、副教官は冷静な面持ちを崩さずに答える。

 

「我々が動けなくなった以上、組織内で事を穏便に済ますことは不可能だ。最早、総力で当たるしか選択肢がない。もし教官と逆の立場だったら、彼も俺と同じ判断を下すだろう」

「あの人がッスか?正直に言って、とてもそうは思えないッス」

「ねえコウ。貴方は少し、教官のことを誤解しているわ」

 

 アスカは書類の束を一旦デスクに置いて、コーヒーカップを手に取り、再度口を開いた。

 

「貴方も見たでしょう。教官は単独でも、ジェーンと立ち合える程の力を有していたの。でも事の発端となった一度目の襲撃では、執行者候補十三名、全員が犠牲になって……教官だけが生き延びた。何故だか、分かる?」

「何故って。何か、理由があったのか?」

「使えなかったのよ。ドミネーターの力を揮ってしまえば、候補生を巻き添えにしてしまうから」

「あ……」

 

 しかしその躊躇いが、悲劇に繋がった。全候補生の全滅。十三の死。

 正しかったのか。過ちだったのか。答える者はなく、残されたのは、何としてでも逃がさないという執念。

 ヒトしての尊厳を捨て去ったとはいえ、少なからずあったのだ。候補生への想い。護り切れなかった罪悪。取り逃がしてしまった責任と負い目は、増加の一途を辿る犠牲者の数だけ、その重みを増していく。

 

「だから私は、私のやり方で無念を晴らします。いいえ、私が終わらせるべきなんです。教官や副教官ではなく、私自身の、この手で」

「アスカ……」

 

 二十年以上も前に始まった因果。取るべき選択肢と、継ぐべき意志。アスカは揺るぎない信念を以って、告げた。

 

「副教官。第一拘束術式の完全解放、及び第二拘束術式の段階的解放の許可を願います。貴方には、その権限がある」

「第一はともかく、第二解放下における霊力制御には未だに難があるだろう」

「問題ありません。彼がいます」

 

 聞き慣れない単語の数々に戸惑うコウを余所に、アスカはコウの右腕の袖をそっと摘まんで、凛とした声を続けた。

 

「彼とのクロスドライブは、過去経験してきた物のどれよりも、私に安らぎを与えてくれます。第二拘束術式を完全解放したとしても、制御は可能です」

「お、おいアスカ。お前、何を」

「っ……く、ククク」

 

 途端に、副教官の肩が揺れた。冷静沈着を絵に描いたような彫りの深い顔が緩み、微笑みが身体を揺らして、重度の火傷で引き攣った腕に痛みが走る。それでも尚、副教官は笑わずにはいられなかった。

 

「時坂コウ。全属性のマスターコアに適性を持つ民間の協力者というのは、君のことだな」

「え……まあ、はい」

「いつからだ?」

「いつから、って言われても。気付いたら、そうなってたんス」

「そうか。すまないが、利き手を見せてくれないか」

 

 恐る恐る差し出されたコウの右手を、副教官がまじまじと食い入るように見つめ始める。その様は手相占いのようでいて、よくよく見れば副教官の両目は、焦点が合っていない。手の先にある、何かを見通すかの如く。

 

「こうして目の前にしても信じ難い。君のような適格者が存在していたとはな」

「あのー。それってどれぐらいすげえことなんスか?」

「以前貴方がプレイしていたゲームに例えると、初期レベルで全職業をマスターしているようなものかしら」

「マジかよ!すげえ、すげえけど初期レベルじゃ全っ然意味ねえな!」

 

 不満気な表情で騒ぎ立てるコウ。冷ややかな視線を送るアスカ。二人のやり取りを視界の端に映しながら、副教官は覚えのある一文を脳内で反芻していた。

 『クロスドライブを介して、特定の人物が安らぎを与えてくれる』。上司へ提出する規定の報告書内で用いるには、あまりに相応しくない漠然とした表現。以前のアスカを知る者達は、皆が皆一様に目を疑う程だった。

 何が彼女を変えたのか。

 彼女の何が変わったのか。

 言葉は不要だった。答えは、ここにある。

 

「アスカ、コウ。我々の目的は、ジェーンの捕獲でも追跡でもない。無力化と排除だ。その意味を、しっかりと受け止めて欲しい」

 

 笑い声が止んだ。未だ幼さが残る年相応の顔立ちに、陰りが浮かんだ。

 

「……私、は」

「それでいい。まだ時間はある」

 

 何の問題もないのだろう。たとえ逃避の末に直面した悲劇に叩き落されたとしても、手を差し伸べてくれる者達がいる。その役目は、自分ではない。だから、これでいい。

 

「時坂コウ。よく聞いてくれ。俺は今から、俺自身の手で、ハンプティダンプティを顕現させる」

「え?」

「一時的に、俺の力を君に託す。君ならきっと、俺以上に扱えるはずだ……時坂コウ。アスカの、力になってやってくれ」

 

 己の魂の耀きを以って、己の魂を力に変える。その光は、コウの胸の中へと、吸い込まれていった。

 

___________________

 

 

 杜宮総合病院の屋上は、日の出と共に開放される。午前六時半の冬空は薄暗く、朝陽が僅かに顔を覗かせているに留まっていた。

 

「まだ暗いのな」

「当たり前じゃない。もう十二月よ」

 

 夜明け前の寒々とした世界の中で、二人は杜宮の街並みを静かに見守っていた。早朝の幻想的な色合いが情緒を抱かせ、陽の光は生きようとする活力を与えてくれる。太古から現代、遠い未来の生命に光をもたらすであろう太陽が、今この瞬間を照らしていく。

 そして、彼女も。この街の何処かに潜む彼女にもまた、等しく光は当たる。

 

「なあアスカ。上手く言えねえけど……その」

「全部、母の失態から始まったのよ」

「……アスカ?」

 

 唐突に切り出されて、コウは面食らった。アスカは徐々に昇り始めた朝陽を細目で見やりながら、言葉を並べた。

 

「だってそうでしょう。情けを捨てて、ジェーンを手に掛けてさえいれば、こんな事態にはならなかった。執行者候補も、米国の適格者達も、X.R.Cのみんなだってそう。言い逃れはできないわ」

 

 犠牲者が複数に上ってしまった以上、結果論では済まされない。本能によってしか動かない、空っぽの化物を前にして、躊躇いは不要なのだ。たとえそれが、人の身の成れの果てだとしても。知らなかったでは、許されない。

 

「だから私が、私の手で終わらせる。そう、何の憂いもなく……言えたらいいのに。でも、そうはいかないみたい」

「……無理もねえさ」

「彼女は、恨んでいるのかしら」

「どうだろうな。そういう記憶や感情は、もう捨てちまってるように見えたぜ」

 

 ひいらぎ。ジェーンが発した声と、視線。まるで幾年にも渡り蓄積し、固化した油のように、脳裏にこびり付いて離れない。入念に洗ったばかりの両手が、何かで染まっている気がしてならなかった。

 彼女は望んだ訳ではない。異界化の闇は、等しく誰にだって降り注ぐ。

 平凡な幸せがあったのかもしれない。

 母娘としての愛情は、異界でも成り立っていたのだろうか。

 私は。彼女は。

 私は、彼女であったかもしれない。

 彼女は、私であったかもしれない。

 

「コウ。今更になって、貴方の強さを理解できた気がするわ」

「俺の?」

「だって貴方は、シオリさんから逃げなかった」

 

 まるで立場が逆転していると、アスカは感じていた。夏のあの日も、今日のように屋上で、お互いの心境を語り合っていた。 

 

「最愛の肉親と並ぶ程の、掛け替えのない大切なヒト。貴方はそんな女性に……全てを受け止めた上で、偽りの存在と化したシオリさんに、刃を向けた」

「俺だけじゃねえよ。あの時は、みんな同じだった。それに俺だって、アスカがいてくれたからだ」

「貴方の覚悟が、私達を動かしたの。それはきっと、誰よりも重かったはずだわ」

「アスカ」

「え―――」

 

 不意に握られた右手から伝わってくる体温。想い。気恥ずかしさを覚える暇もなく、素直に温かいと思える。

 

「よく覚えてるぜ。お前はあの時、全力で俺を支えるって、そう言ってくれただろ。だから俺は前に進めた。全部同じだ。今度は俺が、お前を支えてやる」

「コウ……」

「不満か?」

「……ううん。少し、このままでいさせて」

 

 二人の恩師の目に、私はどう映っていたのだろうか。あの頃の私には、もう戻れない。一度知ってしまえば―――いや、思い出してしまったら、手放すことなんてできやしない。

 母親の情けが、過ちだったとも思えない。それが惨劇の引き金を引いてしまっていたのなら、エクセリオンハーツに込められた両親の意志と共に、受け止めなければならない。そのための勇気は、彼が与えてくれる。

 

「コウちゃーん!」

「ん……シオリ?トワ姉に、みんなも」

 

 柔らかな声に二人が振り返ると、漸く顔を覗かせた朝陽が、大切な宝物を照らしてくれた。

 以前の自分なら、反射的に握っていた手を放していたのだろうに。照れ笑いを浮かべつつ、コウとアスカが互いの手をそっと解くと、アキが呼吸を整えながら言った。

 

「こんな所にいたんですね。結構探したんですよ、電話にも出ませんでしたし」

「ああ、ワリィ。一服しながら、アスカと作戦会議をしてたんだ」

「ええ、そうなの。キョウカさんと話をして、既に動き始めて貰っているわ」

 

 アスカの誤魔化しに嘘はなく、事実、関東圏に控えていたゾディアックの対異界部隊員らは、人知れずこの杜宮で行動を始めていた。個の力を重んじる結社とは対称的に、ゾディアック側は国軍を模した集団で編成されている。仮にジェーンが万全の状態であっても、数の利を活かした人海で臨む策が取られていた。

 

「そうか……遠藤と玖我山はともかく、俺達はこの有り様だ。本当なら、力になってやりてえんだが」

 

 シオの声が尻すぼみになっていく。ミツキにユウキ、車椅子に座っていたソラも、一様に同じ色を浮かべていた。単に歩いているだけでも疲労を感じる身では、足手纏いどころの話ではない。仕方ないと割り切るにしても、己の無力さを嘆かずにはいられないというのが、四人の本音だった。

 

「ああ、それは気にしなくてもいいッスよ。四人は眠ってるだけで構わないッス」

「あん?」

「まあ、詳しいことは後のお楽しみってことで」

 

 含みのあるコウの物言いに、怪訝そうな視線が集まり出す。唯一事情を察していたアスカだけが、同様に悪戯な笑みを浮かべていた。

 

「よく分かんないけど、でもセンパイ。どうやってジェーンを追うつもりなのさ。探しようがないって状況は、今も変わらないんじゃないの?」

「……ええ、そうね」

 

 ユウキの疑問は尤もだった。行方を眩ませたジェーンに対する有効な追跡手段は、今現在でも見付かっていない。狙いがアスカである以上、いずれは姿を見せるはずではあるのだが、ジェーンに回復の隙を与えることに繋がる。アスカ以外の適格者が襲われる可能性だってあるのだ。

 

「サーチアプリの感度を最大にして捜索を始めてはいるけど、感度を上げると誤作動の確率も上がってしまうのよ。いずれにせよ、人海戦術で炙り出すしか、今は方法が―――」

「あ、あのー」

 

 アスカの声が遮られる。声の主は身を縮ませながら、おっかなびっくりといった様子で、右手を小さく上げていた。

 

「シオリさん?」

「えーと、あのね。私に、心当たりがあるの。相談してみるのも、アリかなーって思って」

「相談?誰にだよ。異界関係者か?」

「ううん、そうじゃないの。実は今も、ちょっとだけ聞いてみたんだ」

「……はあ?」

 

 何時、誰に、どうやって、何を。無言の突っ込みが、容赦なくシオリに突き刺さる。

 病室で皆と合流して以降、誰かと連絡を取った様子がなければ、この屋上に着いてからも、一言二言しか話していないというのに。シオリの傍に立っていたリオンが、気遣わしげな表情でシオリに声を掛ける。

 

「ねえシオリ。頭でも打った?」

「もう、違うってばっ」

「じゃあ誰に何を相談してたのよ?」

 

 シオリは右手の人差し指を伸ばし、上空に掲げながら、快活な声で告げた。

 

「神様っ!」

 

 

 

 



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12月14日 夜明け

 

 月曜日の午前七時半。新たな一週間が始まりを告げた朝。普段なら若干の気怠さと期待感を抱きながら、学園を目指して自転車を漕いでいるであろう時間帯に、私達X.R.C二年生組は、市内の北東にある工場跡地の中心部に立っていた。

 当たり前のように人気はなく、一部の人間が好みそうな退廃的な様が、厳しい冷え込みを促してくる。悴んだ両手を吐息で温めていると、同じ仕草を取っていたリオンさんが静かに言った。

 

「七時半か。もうすぐ、よね」

 

 勿論、廃工場見学に興じている訳じゃない。杜宮市内でジェーンと対峙するとして、周囲への被害が最も少ないとされる場所を考えた場合、この工場跡地が最適だ。多少の損害が出ても、きっと結社やゾディアックの工作が入るに違いない。

 けれど、そう都合良くこの場にジェーンが現れるはずがない。アスカさんを囮にしている訳でもないし、それでは教官らが身を削って与えた傷が癒えてしまう。

 

「本当に、来るんでしょうか」

「シオリがそう言ったんだ。あいつを信じようぜ」

 

 ―――神様。シオリさんがそう称する存在が、何者を指していたのか。私を含め、あの場に集っていた全員にとって、すぐに察しは付いていた。

 境界の守護者。万物を超越した、この世から隔絶された霊域で、悠久の刻を過ごしてきた聖獣。正に神様と呼ぶに相応しい頂き。そんな神格と対話ができる人間なんて、シオリさんぐらいのものだろう。

 ともあれ私達にできることは、時坂君が言ったように、シオリさんを信じて待つ。それだけだ。

 

「にしても寒いわねぇ。今年は寒冬だって話だけど、まるで真冬じゃない」

「もう十二月だもんな。そういや、そろそろクリスマスか。みんな、何か予定とかあるのか?」

 

 急に踏み込んだ質問を振ってくる時坂君。彼らしいと言えば彼らしい。私は既に予定が入っていたので、先んじて時坂君に答えた。

 

「私は朝からバイトですよ。クリスマスシーズンはフランスパンやピザが飛ぶように売れるんです。予約も結構入ってますし、当日は大忙しだと思います」

「なら俺と同じだ。今年はケーキ売り切れっかな。去年は何個か残っちまったから、今年はリベンジしねえと」

「あ、それ分かります。何かこう、負けた気分になるんですよね」

「だよなぁ。声が枯れるまで売り込んでやるぜ」

「……ねえリオンさん。この二人の過ごし方は、日本の高校生として普通なのかしら」

「まあ、少数派ではあると思うわ……」

 

 少々呆れ気味のリオンさんは、意外にもアイドル業の予定はなし。プライベートは可能な限り尊重してくれる方針らしく、今のところフリーだそうだ。

 

「そう言うアスカはどうなんだよ」

「私は、別に。異界絡みの案件がなければ、特に予定はないけど」

「ふうん。ならバイト終わった後にでも、俺の家に来ないか?」

「え……え?」

「ああいや。みんなで集まらねえかって話だよ」

 

 変な誤解を生み掛けた時坂君の提案は、トントン拍子で話が進んだ。アルバイト終わりである以上、遅い時間にはなってしまうけれど、X.R.Cの面々に声を掛ける。予定が合えば、以前にもそうしたように、時坂家でのクリスマス会。アルバイト先からケーキやピザを持ち寄れば、料理も充分に確保できる。伊吹君やシオリさんも誘って楽しもうという話で纏まった。

 

(クリスマス会……!)

 

 家族以外の誰かと聖夜を過ごすなんて、何時以来だろう。家業の影響もあり、クリスマスは忙しいという習慣染みた感覚しかなかった。まだ十日も先のことなのに、胸が弾んだ。

 今回に限った話じゃない。友人との初めてのお泊り会に、日帰り旅行。他者との関わりが苦痛でしかなかった以前の自分が、別人のように思えた。胸の辺りが温かくて、寒さを忘れた。

 

「えー、コホン。申し訳ありませんが、皆様。その話はまた後日にでも」

 

 すると後方から、良く響く声が聞こえてくる。振り返ると、雪村キョウカさんが穏やかな眼差しで、私達を見詰めていた。水を差したくはないけれど、今は目の前に注意を向けて欲しい、そう言いたげな表情が、緊張感を思い出させてくれた。

 サイフォンを取り出し、時刻を確認する。約束の時間から約五分間が経過していた。どういった形で現れるのか、想像が付かないけれど、何時姿を見せてもおかしくはない。

 

「ん……お、おい」

 

 不意に、空気が変わった。重力が増したかのような息苦しさと、決定的な違和。異界化に似た変化が突如として到来し―――私達の前方、地面から五メートルばかり上の空間に、門が浮かんだ。

 見覚えがあった。異界に繋がる門とは違う、神々しく超絶とした紋様。適格者としての感覚が警告音を鳴らして、キョウカさんが無線機に呼び掛ける。

 

「総員、戦闘準備!」

『アルファ、了解』

『ブラボー了解』

『チャーリー、いつでも』

『デルタ、了解』

 

 エコー、フォクストロット、ゴルフ、ホテル、インディア、ジュリエット。事前に渡されていたイヤホン型の無線機を介して、所定の位置に待機していた対異界部隊の各班から応答が並んだ。

 その数―――五十名超。キョウカさんが先頭に立って率いる実動員が、後ろに付いてくれている。組織の垣根を越えた総力戦。私だって、その一員だ。

 

「疾れ、ライジングクロス」

 

 ソウルデヴァイスを顕現させて、グリップを握る。リオンさんは飛翔力を利用して上空へ。アスカさんもエクセリオンハーツを手に、私達のやや前方。その後ろに時坂君。

 

「ユウキ。力を貸してくれ」

 

 副教官が時坂君に託したという、ハンプティダンプティ。他者の魂を刃に変えるソウルデヴァイスの持ち主は、以前にも存在していたそうだ。しかし副教官はその誰よりも上をいく使い手で、一度に複数のソウルデヴァイスを操ることが可能。副教官は、その数を『スロット数』と呼んでいた。

 そして時坂君のスロット数は、副教官を超える『四』。それがどれ程の才なのかは知る由がないけれど、この場に立つことが叶わなかった仲間達の想いを、時坂君は一手に背負っていた。

 

「ブート、カルバリーメイス!」

 

 時坂君が選び取ったのは、ユウ君のソウルデヴァイス。遠距離からの先手には打って付け、当然の選択だった。

 

「……ふう」

 

 準備は万全。上着のコートを脱いで、一度深呼吸をしてから、目の前を見据える。

 徐々に門が開いていく。その中に吸い込まれてしまいそうな感覚がして、やがて門から現れたのは―――

 

「ふぎゃっ!?」

「「……」」

 

 ―――シオリさん。盛大に地面へ尻餅を付いたシオリさんは、小さな悲鳴を上げた後、涙目でお尻を擦っていた。

 予想外にも程がある。というか、スカートが捲れて思いっ切り下着が見えてしまっている。無線機から生唾を飲み込むような音や妙な吐息が聞こえるのは気のせいだろうか。

 

「ば、バカ。早く立て、つーか隠せっ」

「いったぁーい……コウちゃん、血出てない?」

「だから隠せっての!!」

 

 何を言えばいいか分からず立ち尽くしていると、時坂君がシオリさんの下に駆け寄り、腕を取って強引に立たせていた。無線機から残念そうな溜め息が聞こえたのは、やっぱり気のせいだ。

 気を取り直して時坂君に続き、シオリさんの様子を窺う。無防備で落下してしまった痛みは分かるけれど、今はそれどころじゃない。

 

「おいシオリ、どうなってんだよ。ジェーンはどうしたんだ?」

「ちょっと待って。今確認するから」

「確認って、どうやって―――」

「もう、静かにしてよ。声が聞き辛くなっちゃう」

 

 シオリさんに従い、口を閉じる。再び静寂が訪れ、空気が張り詰めていく。

 特別変わった様子は見られない。単に目を瞑って立っているだけだ。けれど、きっとシオリさんは今、私達の想像の範疇を遥かに超えた次元にいるのだろう。

 静かに見守っていると、やがてシオリさんは、静かに告げた。

 

「掴まえたって言ってる。今から、落とすって」

「落とす?」

「うん。さっきみたいに」

 

 弾かれたように、アスカさんが動いた。急いでシオリさんをその場から連れ出し、隊員の一人にシオリさんを任せる旨を伝えて、踵を返す。その視線を追うと、既に一度閉じていた門が、開き掛けていた。

 今度こそ、本当に来る。覚悟を決めて身構えていると、アスカさんは前を向いたまま、凛とした声で言った。

 

「私は躊躇わない。だから、みんなも迷わないで」

「アスカさん……」

「出生や過去は関係ない。『あれ』は殺戮の限りを尽くした怪異。だから、迷わない」

 

 それはまるで、自分自身に言い聞かせているようで。恐らく本人は気付いていないけれど、声が僅かに震えていた。

 みんな同じだ。私だって、雑念がゼロとは到底言えない。それでも私は、私達は戦わなければならない。心を一つにして、明日を掴み取るために。

 やがて決戦の時。音もなく門から降り立った敵に向けて、私達は容赦なく力を揮った。

 

「総員、撃てえ!!」

 

___________________

 

 

 ジェーンにとっては、青天の霹靂と言うべき事態だった。

 例えるなら、上空から巨大な腕が現れたかと思えば、その手で首根っこを掴まれて、強制的に何処へと落とされる。先の戦闘で刻まれた傷が塞がっていないにも関わらず、視界が暗転した直後に、複数の殺気を向けられていた。

 

「総員、撃てえ!!」

 

 誘導によって統一された、五十を超える小銃型のソウルデヴァイスから放たれる銃撃。加えてX.R.Cによる遠距離からの霊子弾。突如として耐え難い苦痛に苛まれ、ジェーンは咆哮を上げた。

 

「―――!?」

 

 一気に砂煙が舞い上がり、視界が遮られる。しかし銃声は絶え間なく鳴り響き、廃工場の敷地内に、けたたましい戦闘音が広がっていく。

 

「効いてるっ……みんな、手を休めないで!」

 

 最もジェーンに近いポジションに位置していたアスカは、確かな手応えを感じていた。教官のドミネーターに勝るとも劣らない一斉攻撃が、確実にジェーンを叩いている。反撃の隙を与えてはならない。一切の躊躇を捨てて、押し切れ。

 あまりにも一方的な攻勢が続く中、いち早く『異変』に気付いたのは、キョウカだった。

 

(何だ……これは?)

 

 次いでアスカ、そして上空から全体を見渡すことが可能なリオンは、奇妙な感覚に捉われ始めていた。

 ジェーンに動きは見られない。しかし一時を境に、何かが変わった。鳴らし続けていた鐘の音が、突然鈍いそれに置き換わったかのような変化。違和感は撃つ度に増していき、やがて最悪の可能性に辿り着く。

 霊力吸収。ジェーンが有する、異能の力。

 

「ま、まさかっ……みんな、駄目!」

「総員退避!!」

 

 その身に蓄えた膨大な量を、ジェーンは一瞬にして解放した。四方八方に拡散された霊力が、暴れ狂う嵐の如く、ジェーンを中心に牙を向いた。

 アスカとキョウカの警告に反応できた者は僅かだった。誰もが掴み掛けていた勝利に目が眩み、唐突に跳ね返された霊力の渦を前に為す術もなく、無防備を晒してしまっていた。たちまちの内に隊員らの悲鳴が上がり、元々草臥れていた廃工場が、支えを失い崩壊していく。

 

「は、ハーミットシェル!」

 

 間一髪のところで障壁を展開したのはコウ。瞬時の判断でカルバリーメイスを手放し、ミツキのミスティックノードを顕現させるのと同時に、堅牢な結界を張っていた。コウの傍にいたアスカとアキもハーミットシェルの内部に収まり、反撃の手から逃れることができていた。

 

「被害状況を報告しろ。各班、応答を!聞こえているか!?」

 

 キョウカの呼び掛けに応じることができた者も、極々僅か。無線機からは悲痛な応答ばかりが届き、キョウカは表情を歪めた。壊滅的な被害を受けた部隊の足並みは乱れ、阿鼻叫喚の渦中に立たされていた。

 

「ぶ、無事かアスカ、アキ」

「ええ、私は何とか」

「わ、私も大丈夫、だと思います。……リオンさん、は?」

「っ……り、リオン!?」

 

 そしてX.R.Cも。上空を舞っていたリオンにまで結界は及ばず、霊子弾の反射を真面に受けたリオンは、三人の後方で力なく横たわっていた。慌てて駆け寄ったコウがリオンの肩を揺らすと、痛みに苦悶の表情を浮かべたリオンは、微かな反応を見せるだけだった。

 

(―――落ち着け)

 

 我を見失い掛ける者が続出する中、アスカは懸命に思考を働かせていた。ここで取り乱してしまったら、更なる被害に繋がる。爪を立てて両拳を握り、下唇を噛みながら、アスカはジェーンの気配を追った。

 アスカがジェーンを視認したのと、ジェーンが跳躍をして飛び退いたのは、ほぼ同時。アスカと同様に努めて冷静さを保ち、状況を分析できていたのは、キョウカだった。

 

「柊さん、ジェーンを追跡して下さい」

「で、ですが」

「ジェーンの深手は明らかです、この機を逃してはなりません。それに追い詰められた彼女が、民間人に手を出さないとも限らない。上空で待機していたヘリがサポートします。お願い、行って!」

 

 リオンの額から流れ出る血が、アスカの胸を締め付ける。激しい葛藤。仲間を想う心と、赤々と燃え盛る正義の意志。しかし一刻の猶予もなく、迷いは全てを台無しにする。

 アスカは一層に力を込めて拳を握り、ジェーンが向かった方角を睨み付けた。

 

「第一拘束術式完全開放、第二拘束術式、狭域解放」

 

 アスカを縛る枷は、彼女の身を守るための制約でもある。母親譲りの適格者としての才と共に、アスカの身に宿る莫大な霊力。他の適格者と比較して、絶対量の桁が違うのだ。

 しかしそれは、自身を蝕みかねない諸刃の剣。溢れ出る霊力の制御が利かず、己を焦がしてしまうことに繋がる。だからこその三重の縛り、その半分近くを捨てた今、アスカの横に立てる人間は限られる。

 

「アキさん。私と貴女の二人でジェーンを追うわよ」

「わ、私と、ですか?」

「ダークデルフィニウムとの戦闘を思い出して。今の私に付いて来れるのは、脚力に秀でた貴女しかいない。それにこれ以上離されたら、ソウルデヴァイスを顕現できなくなってしまうわ」

 

 だから、お願い。アスカが差し伸べた手に、アキが恐る恐る応える。

 私にしかできないことがある。できることがあり、為すべきがある。アキは己を奮い立たせ、固有のスキル、ギアドライブのアクセルを全開にした。

 

「さあ、行くわよ!」

「は、はい!!」

 

 二人の少女が、杜宮の空を舞った。時刻は午前八時を回り、何事もなく登校や出社をする杜宮市民が暮らす上空で、前代未聞の追跡劇が、人知れず始まっていた。

 

___________________

 

 

「うぅ……」

「リオン?」

 

 アスカとアキが工場跡地から飛び立った頃、リオンは朦朧とする意識の中、段々と増していく身体の痛みで、自らが置かれた状況を把握し始めていた。

 

「リオン、大丈夫か?」

「うん……大丈夫、とは言えないかな。すごく、痛い」

「なら喋るな。そのままジッとしてろ。すぐに治癒薬が効いてくれるはずだ」

「ま、待って。アスカと、アッキーは?」

 

 コウは無線機から聞こえてくる声に耳を傾けながら、アスカとアキがジェーンを追っている旨を伝えた。部隊の上空班もヘリで追跡を続けており、異常な速度で駆けるアスカらと連携を取りながら、杜宮市内を西の方角に進んでいた。

 

「そっか。なら、コウ君も行って」

「俺が?馬鹿言え、あの二人に追い付けるかよ」

「じゃあ、私の翼、使ってよ」

「は?」

 

 リオンは自身の胸の辺りを指差しながら、声を振り絞って告げた。それが意味するところを、コウはすぐに察した。

 

「お願い。行ってあげて。きっとコウ君が、必要だから」

「リオン……」

 

 コウはリオンの痛々しい様を見詰めた。

 単に力を借りるというだけの話ではない。誰かの魂に触れれば、それに付随して様々な物が流れ込んでくる。共通するのは、自分への信頼と、アスカへの想い。彼女を支えて欲しいという願い。

 背負わずにはいられなかった。かつて自分が、そうやって救われたように。今度は、俺の番だ。コウは胸中で独りごちながら、リオンの胸に手を重ねた。

 

___________________

 

 

 脚力だけなら、誰よりも。ちっぽけな誇りでもあった。接近戦はソラちゃんや高槻先輩の専売特許だし、中遠距離での戦闘が比較的得意というだけで、皆の方が一枚も二枚も上手だ。

 だというのに、追い付けない。少しずつだけど、距離が開いていく。速さはともかく、足場の使い方が違い過ぎるのだ。こちらは通行人や自動車に気を配りながら慎重に着地点を選んでいるのに、アスカさんはあらゆる場を迷わずに駆けていく。

 そもそもの話、ここは異界ではなく現実世界だ。これだけ人目に付きながら全速力でジェーンを追うこと自体に、気が引ける自分がいた。恐らく後々になって隠蔽工作が入るだろうとは思うけれど、そんな些細なことに気を取られてしまう。

 

『アキさん、左から回り込んで。このままじゃ追い付けない』

「り、了解です!」

 

 アスカさんの指示に従い、舵を切る。どうにか視界にジェーンの姿を捉えてはいた。今は速度を上げることに集中して、それ以外は全て後回しでいい。

 民家の屋根を利用して、勢いを付けて飛翔する。アスカさんは私の右前方、ジェーンは正面。少しだけ背中が大きく映った。この調子で距離を縮めていけば、二方向から追い付けるはずだ。

 

「……え?」

 

 すると突然、ジェーンの背中が反転をした。跳躍と同時に振り向いたジェーンは、右腕を大きく振るって、何かを放り投げるような動作を取った。それが霊子弾による迎撃だと気付いたのは、空中で身動きが取れなくなった後のことだった。

 

(う、撃たないと)

 

 ジャンプショットの要領でライジングクロスを構え、無我夢中でこちらも霊子弾を放つ。寸でのところで相殺は成功したものの、反撃の手が遅過ぎた。霊子弾同士が目の前で衝突し合い、その衝撃が全身を襲って、私は空中で一気に失速した。

 

『あ、アキさん!?』

 

 加えて、炸裂の光で視界を失った。両目に眩しさを超えた痛みが走り、瞼を開けることすらままならず、上下左右の感覚が分からなくなる。重力に逆らえず、垂直の方向に落下を始めたことだけは、全身が受ける空気の抵抗で理解できていた。

 

(落ちる―――)

 

 背筋が凍り、文字通り高所から突き落とされた絶望感が、途方もない頭痛を引き起こす。

 諦めたくない。なのに、身体が強張って動かない。お願いだから、動いて。

 

「遠藤さん!」

 

 不意に耳に入った声。同時に、ふわりとした浮遊感がやってくる。全身が感じていた風が止んで、背中に体温を感じた。アスカさんじゃない。誰かが私を受け止めて、抱き上げてくれていた。

 未だに目の痛みが治まらず、周囲は夜のまま。でも私は、この声を知っている。あまりに知り過ぎている。

 

「久し振り。遅くなってゴメンよ」

「小日向君……どう、して?」

「某アンティークショップの女主人に誘われてね。昨晩の内に飛んで来たんだ」

「……あはは」

 

 あの人か。水面下で何かを企んでいるとは思っていたけれど、これは予想外だ。

 彼が来てくれるだなんて。数ヶ月振りに顔を見たいのに、目を開けられない。もどかしい限りだ。

 

「でも良かったよ。今回は、『間に合ってくれて』」

「あ……」

「……ゴメン。思い出させちゃったかな」

 

 あの日。もしもシオリさんが、嘘で塗り変えてくれていなかったら。お兄ちゃんの魂が、私の中に宿っていなかったら。彼はきっと生涯、私という罪を背負い続けていた。それは傲りでも自惚れでもなく、否定できない現実。

 でも私は、生きている。こうして生きている。小日向君の体温を感じることができる。目は視えずとも、感情が伝わってくる。

 

「伊吹君から聞きました。小日向君、彼女さんができたそうですね」

「うん。同業者なんだ。本当はご法度だから、周囲には隠してるんだけどね」

「そうでしたか。よかったですね。私も嬉しいです」

「遠藤さんは、どう?」

「相変わらずです。でも、そうですね。気になる人は、います」

「……そっか」

 

 とても言葉では形容できない淡い感情で、胸が一杯になる。

 これは多分、思い出だ。思い出があるから、ヒトは強くなれる。けれど、縛られてはいけない。思い出を糧に、今を大切に生きて、明日に向かって歩いていく。かつて見舞われた不幸が教えてくれた、教訓だ。

 小日向君の腕に身を委ねていると、遠方から接近してくる気配を感じた。この力は風属性の霊力。リオンさんのソウルデヴァイスだ。しかし耳に届いたのは、時坂君の声だった。

 

「アキ、無事だったか。って、ジュン!?はあ!?なな、何でお前がここに!?」

「詳しいことは後で説明するよ。それにコウ、今はそれどころじゃないだろう」

「あ、ああ。そうだったな」

「待って下さい、時坂君」

 

 私は声を頼りにして時坂君の腕を掴み、呼び止めた。

 リオンさんは、きっと選んだのだろう。なら私もこの想いと一緒に、時坂君に託そう。アスカさんの隣には、彼がいるべきだ。

 

「私の力も使って下さい。私の脚とリオンさんの翼があれば、きっと追い付けます」

 

 だから、頑張って。十日後のクリスマス会、楽しみにしてるから。

 

___________________

 

 

 イヤホン型の無線機を介して、状況は把握していた。しっかりとジェーンは視界に捉えているし、反撃を受けたアキさんも心配ない。それに後方から、彼が来てくれている。クロスドライブを介さずとも、前に進む勇気を与えてくれる。

 しかしジェーンの速度は落ちることなく、進行方向を変えながらこちらの追跡を巧みに振り切っている。単独では捕えようがない。しかもこのままでは人気の多い住宅街に入ってしまう。万が一戦闘が始めれば、犠牲者を生み出しかねない。

 もう一手、何か打てれば。歯軋りをしていると、希望の光は突然降り注いだ。

 

『柊、聞こえているか』

「え……こ、この声は」

『遅くなってすまない。突然のことで、段取りを組むのに手間取ってな』

 

 忘れるはずがない。かつて教鞭を執り、そして戦線を共にした、仲間の一人。頼もしい声が、道を指し示してくれていた。

 

『そのまま北西に誘導しろ。杜宮基地内に、三機のヴァリアントギアを待機させてある。数は少ないが、人員を割いて包囲網は構築済みだ。奴を追い込むには充分だろう』

 

 杜宮基地。どうして見過ごしていたのだろう。あそこならたとえ戦闘が始まっても、被害は最小限で済む。それに今の話が本当なら、上手く事が運べばジェーンは袋の鼠。退路を断つことができる。

 

「ありがとうございます。もしかして、ユキノさんが?」

『ああ、彼女に頼まれて……いや、脅されたというべきか』

 

 あの人にも感謝をしなくてはならない。何だかんだ言って、最後にはしっかりと力になってくれた。この地で紡いできた絆の力を、思い出させてくれた。後は―――私自身の、問題だ。

 

「コウ、聞こえた?」

『ああ、全部な。俺が南側から回り込むから、アスカはそのまま奴を追ってくれ!』

 

 終焉が近付いているのを感じた。

 二十年前に始まった因果。母が犯した過ちと、彼女が見舞われた悲劇も。全てをこの手で、終わらせて見せる。

 

___________________

 

 

 ジェーンは戸惑いを覚えていた。工場跡地へ落されたのと同様に、知らぬ間に複数の銃口を向けられていた。眼前には三つの巨体が仁王立ちをしていて、身動きが取れない。どう切り抜ければよいか決め倦ねていると、後方からは『あれ』が。忌むべき存在が刃を手に、睨みを利かせていた。

 

「第二拘束術式、完全開放」

「出番だぜ。ソラ、シオ先輩」

 

 アスカが二つ目の枷を外して、コウが二つのソウルデヴァイスを二重に顕現させる。迸る断罪の意志と、託された絆の力。クロスドライブの共鳴が互いを呼応させて、青と赤の眩い光が放たれる。

 アスカは無表情の裏で集中力を極限まで引き上げ、巨大な力を制御し切っていた。

 先手は私。多くの犠牲を払いながら、私達を導いてくれた者達のためにも。絶対にここで終わらせる。

 

「―――え?」

 

 右手突きの構えから地を駆ろうとした、その時。アスカの脚が止まり、身体が硬直した。後方で追撃の隙を窺っていたコウは、アスカの異変をすぐに察し、構えを解かずに小声で呼び掛ける。

 

「アスカ?」

「……もう、無理よ」

「お、おいアスカ?」

 

 アスカが剣の切っ先を下げると、彼女の身体から流れ出ていた霊力の波動が消えた。二つの枷は再びアスカを縛り、周囲を圧倒していた存在感が薄れていく。次第にジェーンを包囲していた国防軍の隊員らにも動揺が広がっていき、コウは語気を強めて言った。

 

「な、何やってんだよ。お前ここまで来て、どうして」

「違うの、そうじゃない。ジェーンは……もう」

 

 コウは戸惑いながらもアスカの隣に立ち、前方に目を凝らした。思わず息が止まり、絶句した。

 

「……何、だよ。あれ」

 

 腐敗。コウの脳裏には、二文字の表現が真っ先に浮かんだ。

 全身の肌が爛れ、頭部から垂れていた長髪が抜け落ちていく。左腕は既に原型を留めておらず、肘から先が骨と共に地面へ落ちて、ぐちゃりと不快な音が鳴った。腐臭が辺りに漂い始め、あまりに悍ましい光景に、吐き気が込み上げる。

 

「限界だったのよ。グリードは、この世界に存在できない。グリーディアも同じで……彼女はもう、人間じゃない」

 

 当たり前の帰結だった。出生はどうあれ、ジェーンは限りなく怪異と化した存在。S級グリムグリードでさえ、現実世界には瞬間的な干渉しか許されない。異界に呑まれた人間が瘴気に当てられ、異界病を発症するのと同様に、グリードは存在その物を否定されてしまう。

 当のジェーンが現実世界に降り立って以降、既に百時間以上が経過していた。その上、ドミネーターによる侵蝕と、先の戦闘における一斉射撃。致命的な損傷と、崩壊の始まり。他者の霊力を吸い集めることで繋ぎ止めていた生命力は、とうの昔に枯渇していたのだ。

 

「どうして……どうして、私は」

 

 皮肉にもアスカの言葉は、ジェーンの物でもあった。

 あの日。唯一の最愛を奪われた。憎悪と衝動に駆られ、異界の中で力を蓄え、力を欲した。やがて力を有する者を次々と葬り、ひいらぎと呼ばれていた人間の匂いを追って、海を渡った。

 しかしその記憶さえもが曖昧で、自分が何故苦しんでいるのか。

 分からない。私には、分からない。

 私は、寂しかっただけなのに。

 どうして、私は。

 

「オ、ガァ、ザン」

 

 横穴が空いた喉から捻り出された呼び声。アスカは胸の奥を直接鷲掴みにされるような感覚に陥り、エクセリオンハーツの柄を握り締めた。強く強く握って、必死になって耐えながら、崩れていくジェーンに再度、剣の切っ先を向けた。

 

「アスカ……」

 

 アスカの横顔を見詰めていたコウが、ハンプティダンプティの力を手放す。代わりに己の魂の輝きを顕現させると共に、硬く握られていたアスカの左拳を強引に解いて、指を絡めた。

 クロスドライブでは決して届かない、直の体温。コウはアスカに寄り添いながら、告げた。

 

「泣きてえなら泣けばいい。好きにしろよ。俺も我慢はしねえさ」

「っ……私、は」

「アスカのお袋が間違っていたとも思えねえ。ヒトとしての感情があったからだ。お前の涙も、俺の涙だって……ジェーンも、同じだ。同じなんだ」

 

 視界が歪む。アスカは総合病院の屋上で抱いた心境を、頭の中で反芻していた。

 与えられて然るべき愛情を、奪われて。ただただ理不尽な世界に、翻弄されて。

 私は。彼女は。

 私は、彼女であったかもしれない。

 彼女は、私であったかもしれない。

 

「「閃け、エクセリオンギア」」

 

 だからこの瞬間だけは、互いに人間として。

 この手で救える物が、何一つなかったとしても。

 私は彼と結んだ閃光の中に、希望を見い出すしかない。

 

 

 せめて苦しまずに。そしてどうか、安らかに。

 私は生きていく。貴女の分まで―――生きていくから。

 

 

 

 



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エピローグ

 

 三月下旬。日本の高等学校では終業式を終え、次年度に向けて一時の長期休暇に入った頃。

 米国の中心で、寒さに震えながら細道を歩く、二人の高校生の姿があった。

 

「さっみぃ。もっと厚手の上着を着て来ればよかったな」

「だから言ったでしょう。私の忠告を無視するからよ」

「無視はしてねえよ。予想以上に寒いだけだっての」

「同じじゃない」

 

 米国ペンシルバニア州西部に位置する大型都市、ピッツバーグ。冬休みを利用した旅先としては、とても一般的とは言えない。勿論、アスカとコウも観光目的で米国を訪ねた訳ではなく、曖昧且つ明確な想いを胸に秘めた上での、二人旅だった。

 

「ここ、だよな」

「ええ。そうみたい」

 

 二人が向かったのは、市内東部にひっそりと佇む霊園。事前に知らされていた情報を頼りに、両端に雪が残る坂道を上っていく。

 手掛かりは複数あった。二十年前に夫を亡くし、同時期に妊娠が発覚した後、行方不明となった米国人女性。それらのキーワードを基に、結社のネットワークを駆使して調査を始めた結果、ジェーンの両親の身元が判明した。約一ヶ月前の出来事だった。

 

「……ん。アスカ」

「分かってる」

 

 辿り着いた先には、ジェーンの父親。男性の名が記された墓標があった。

 父と娘。互いの顔を見ることすら叶わなかった。父親は、母親は子供の名前を考えていたのだろうか。『ジェーン』という呼び名は名無しと同義。組織が与えた呼称に過ぎない。もしあったとしても、それを知る者はもういない。全部、過去のことだ。

 

「ねえ、コウ」

「ん?」

「……ううん。何でもない」

「大丈夫か、アスカ」

「ええ。そろそろ行きましょう。もう、充分だから」

 

 想いを届けたかった。貴方が愛した女性は、人の身を捨てても尚、娘を愛していた。彼女も母を愛していた。その感情は、人間の証。最期まで、母娘の絆で結ばれていた。

 私が何かを言える立場にないことは理解している。彼女もまた、他者を傷付け、命を奪い過ぎた。それは決して赦されることのない、罪なのかもしれない。

 それでも私は、彼女の想いを胸に、これからも生きていく。

 母を愛する、愛していた感情だけは、お互いに同じだったのだから。

 

「ちょうど昼時ね。折角だから、何か食べていく?」

「あ、それならあれが食いたい。あの白い箱のやつ」

「白い箱?」

「ハリウッド映画とかでよく出てくるだろ。これぐらいの箱で、中に焼きそばっぽい中華が入ってたりするあれ」

「絶対にイヤ」

「何でだよ!?」

 

 そして私の隣には、彼。きっと私はこの先もずっと、こうやって歩いていくのだろう。

 胸の温かさの正体は分からないけど、今は分からなくていい。だから、ずっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そういや、ソラは今頃玖州にいんだよな」

「一人暮らしを始めてから初の帰郷だし、ゆっくり休めるといいわね」

「ユウキはどうだろうな。あいつも玖州は初めてって言ってたっけ」

「……待って。どうして四宮君が出てくるの?」

「あれ、聞いてなかったのか?」

 

―――アフターストーリーⅡに続く。

 

 

 



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アフターストーリーⅡ
3月11日 四宮ユウキの憂鬱


 

 冬が終わる。一層冷え込みが厳しかった寒冬を越えて、柔らかな風が日を追うごとに温さを帯びていく。気怠いような憂鬱の春。何かが終わり、一方では始まりを告げる節目の季節。

 リモコンを操作してテレビの電源を入れ、ソファーに腰を下ろす。時刻は午後の十七時半。夕暮れ時の報道番組では、大学入試に関する内容を報じていた。

 

(大学、か)

 

 今週に入って以降、全国各地の大学から、前期日程の合否が続々と発表されていた。比較的親しい二人の三年生、高槻先輩と北都先輩は志望校に見事合格し、X.R.Cメンバーで祝杯を挙げたのが二日前。祝いの場は例によって時坂家。あの人の家で夜を過ごすのも慣れたものだ。勝手に冷蔵庫を開けたって、誰も止めようとしない。

 大学入試。他人事のようでいて、身近な問題でもある。あっという間に一年が過ぎて、季節は再び春を迎えようとしている。あと二回繰り返せば、僕も同じ立場になる。そろそろ真剣に、今後の身の振り方を考えて然るべき時期なのかも―――

 

「ユウくーん。ちょっと手を貸してくれない?」

 

 ―――しれないけど。

 

「……ったく」

 

 深く溜め息を付きながら立ち上がり、台所を目指す。鼻歌混じりに包丁を握る姉さんは、まな板の上で鶏肉を切り分けていた。

 二週間に一度ぐらいだろうか。週末になると、姉さんはスーパーの袋を抱えて僕の部屋を訪ねる。いちいち構うなと何度言い聞かせても強引に押し切られ、ここ最近は諦めつつある。知らぬ間に台所回りは調理器具や調味料で溢れていて、部屋の一画だけが料理好きの主婦さながらの雰囲気を醸し出していた。

 まさかとは思うけど、一緒に住もうとか企んでいやしないだろうな。最悪な想像をしつつ、頼まれた大皿をまな板の隣に置いた。

 

「ほら」

「ありがと。もう少し待っててね、すぐ作るから」

「いいからその情熱をもっと別の何かに向けろよな」

「あれ?鶏のから揚げ、ユウ君の大好物よね?」

「そういう意味じゃない」

 

 リビングに戻ってソファーに寝転がり、テレビのチャンネルを換える。普段は電源すら滅多に入れないけど、姉さんの奇妙なオリジナル鼻歌を聞かされるよりかは、報道番組の音声に耳を傾ける方が余程マシだ。

 ザッピングを続けていると、聞き覚えのある単語が画面上に映る。先月ぐらいから様々なメディアがこぞって取沙汰する、とある小説のタイトルだった。

 

『若者の間で話題となり、驚異的なヒット作となった小説『あなたの名は』。その人気の要因は一体何処にあるのでしょうか?』

 

 物語の舞台は玖州の隈本県。主人公は同じ高校に通う二人の男女。片や陸上部に所属する女子高生で、全国に名を轟かす程の実力を持つ生粋の運動系。一方の男子は学業に優れ、父親は所謂大物政治家。女子とは別の意味で将来を有望視されている。

 まるで方向性が異なる二人の共通点は、己の立ち位置に対する不満と、将来への漠然とした不安。家族との擦れ違い。それ以上の詳細は読んだことがないから分からないし、興味がない。

 

「……何だかなぁ」

 

 しかしどういう訳か、気になってしまう。二人の主人公の設定だろうか。細かな点に目を瞑れば、似ていなくもない。僕と、あいつ。

 起き上がって下らない連想を振り払っていると、テーブルの上から着信音が聞こえた。華やかな専用ケースで装飾がなされた、姉さんのサイフォンだった。

 

「姉さん、電話鳴ってる」

「ごめーん。今揚げ物の最中だから、手が離せなくって。誰から?」

 

 画面上を見ると、番号しか表示されていない。アドレス帳に登録がないのだろう。

 

「096××××って番号だけど」

「ああ、それなら知り合いの勤め先ね。代わりに出て貰える?」

「はあ?僕が?」

 

 断ろうかと感じつつ、頼んでもいない夕食の準備に励む姉の後ろ姿に、躊躇いを覚えた。

 最低限の義理ぐらい立てておくか。単に電話を取るだけだ。

 

「やれやれ。はい、四宮です」

『え……あの、すみません』

「四宮アオイの携帯で合ってます。姉は今取り込み中なので」

 

 戸惑いを帯びた女性の声。掛け間違いではないことを取り急ぎ説明すると、女性は何かを思い付いたように言った。

 

『ああ、貴方が弟君の?確か、ユウ君だったかしら』

「ユウキ、です。ユウキ」

 

 見ず知らずの他人からその名で呼ばれるとは思ってもいなかった。というか姉さんは外でも使っているのか。後で文句を言っておこう。

 

『でも驚いたわ。男性の声がしたから、恋人が出たのかと思っちゃった』

「え……ちょ、え?嘘、いるの?」

『フフ、気になる?』

 

 思わせ振りで悪戯な言い回し。面白半分でからかっているのだろう。

 よくよく考えずとも、いる訳がない。時間を見付けてはこうして僕の部屋に足を運ぶぐらいだ。しかし何故僕は今、焦りを覚えたのだろう。馬鹿馬鹿しい。

 

『ユウキ君からも言っておいて。アオイったら仕事一辺倒で、そういう場に誘っても決まって断っているみたいなの。まるで興味がないって感じ』

「……はあ」

 

 当たらずとも遠からず。正確には仕事一辺倒プラス過保護だ。僕が知る四宮アオイは、外でも変わらずの四宮アオイらしい。

 

「それで、どうしますか。急用なら後で折り返させますけど」

『ううん、そこまで急ぎじゃないの。代わりに伝言をお願いできる?』

 

 念のために紙とペンを用意して、伝言を残しておく。

 来週末の出張に関するスケジュールをエクセルファイルで作成、メールで送信したから、後で確認しておいて欲しい。大まかにはそういった内容だった。

 

『じゃあお願いね、ユウ君』

「だからユウキだっての」

 

 言い逃げをして通話を切る。ほんの僅かなやり取りに疲れを感じた。『ユウ君』は姉さんと間抜けで物好きな先輩だけで勘弁して欲しい。そもそも後者は完全に認めた訳じゃない。

 胸中で愚痴を吐いていると、既にテーブルには夕食が運ばれ始めていた。伝言を記したメモ用紙を姉さんに手渡すと、姉さんも合点がいった様子だった。

 

「ありがと。助かったわ」

「別に」

 

 席に着いて、テーブル上を見渡す。ご飯と味噌汁、主菜に数点の副菜。姉さんは一度にまとまった量を作るから、明日も同様の夕食になるだろう。

 舌が慣れるのも困り物だ。お気に入りのシリアルバーに、味気なさを感じてしまう瞬間がある。

 

「さあ、温かいうちに食べちゃいましょ」

「……ます」

 

 小声の「いただきます」を置いて、箸を付ける。姉さんもエプロンを外してから、僕に続いた。

 最近の姉さんは、自分から話題を振ろうとしない。敢えてそうすることで、僕から身の上話を聞き出そうとしている節がある。別居しているとはいえ姉弟だ。魂胆は見え透いている。

 

「さっきの電話。何の仕事?」

「え?」

「出張がどうのこうの言ってたから。どっか遠出でもするの?」

 

 自ら誘いに乗ると、姉さんは案の定、箸を置いて身悶えするような素振りを見せた。

 反応が度を過ぎている。端から見ているとただの変人だ。はっきり言って気味が悪い。

 

「だってだって。私の仕事の話、聞いてくれたの初めてじゃない。だから嬉しくって、つい」

「何が『つい』だよ」

 

 姉さんはコップに冷えたお茶を注ぎながら、説明を始めた。

 

「大学時代の友達がね、玖州で同業に就いているの。久し振りに会って話を聞いてみたいし、仕事関係の知り合いも向こうに何人かいるから、いい機会かなって思ってね」

「玖州の何処?」

「隈本県よ。辛子れんこんで有名よね」

「何でそれが一番に出てきたのさ……もっと他にあるだろ」

 

 また隈本か。隈本と聞いて連想するのは、まるで理解不能なゆるキャラに、隈本城。食べ物なら姉さんも言った辛子レンコン、あと馬刺し。その程度だったのに、どうも最近は耳にする機会が多い。テレビの報道番組も、依然として『あなたの名は』の特集を続けていた。

 馬刺しはともかく、辛子れんこんはどんな味がするのだろうか。想像を働かせていると、姉さんは突拍子もない誘いを告げた。

 

「ねえねえ。ユウ君も一緒に来ない?」

「は?」

「実のところ仕事って言っても、半分は観光みたいなものだから。ユウ君も来週末から春休みに入るでしょう?たまには二人で旅行に出かけるのもいいじゃない?」

「パス」

 

 即答をして味噌汁を啜る。少し歩み寄るとこれだ。世間一般的に考えても、姉弟二人で旅行だなんて、相当に仲睦まじい間柄じゃないとあり得ないだろう。絶対に御免だ。

 

「ええー。少しくらい考えてくれたっていいのに」

「あのさぁ。僕を誘う暇があったら、自分の心配をした方がいいんじゃないの。さっきの人も気に掛けてたよ」

「……えっと、何の話?」

「さあ?」

 

 この様子から察するに、自覚は皆無のようだ。割と本音で語っているというのに。

 姉さんは僕に構い過ぎなのだ。根本的な原因が僕にあることも、重々理解している。そろそろ良い意味で、離れるべきなのだと思う。

 でもその距離感が未だ掴めないし、こんなことを考える自分自身にも、何というか、慣れない。不気味とさえ感じてしまう。

 

「そういえば今日、スーパーでソラちゃんに会ったわよ」

 

 悩みごとに思わぬ横槍が入る。『二つ』を同時並行で処理できる程、僕は器用じゃない。頭の回転の速さとは別問題だ。

 

「ねえユウ君。あの子最近、何かあった?」

「……どうしてそう思うのさ」

「見た目は普段通りに見えたけど……何かこう、空元気っていうのかしら。んー、上手く言えないわね」

 

 無理もない。寧ろスーパーで居合わせただけで見抜いてしまった、姉さんの目に驚かされた。

 上手く説明できないのは僕も同じだ。けど郁島が『何か』を抱えていることには、随分前から気付いていた。休憩時間や下校時、他愛もない会話を交わしている時。突如として郁島は、表情を消すことがある。僕の記憶では、年が変わった頃からだ。

 何かしらの悩みがあるのか、厄介ごとに首を突っ込んでいるのかは分からないけど、何かある。そんな確信めいた物が、僕の中にはあった。

 

(でも、何でだ?)

 

 一つ引っ掛かるのは、姉さんが気付いたこと、それ自体。郁島の変化には、今のところ僕しか勘付いていない。X.R.Cでも僕だけ。話を聞いた限り、親しい友人やクラスメイト、空手部員の誰もが、心当たりがないと口を揃えて言う。

 なのに、何故姉さんが。分からない。益々理解が遠退いてしまった。

 

「ユウ君?」

 

 姉さんの声で、箸が止まっていたことに気付く。釈然としないけど、考えるのは後回しだ。姉さんが気に留めることでもない。

 

「考え過ぎじゃないの。どうせクラブ活動で疲れてただけだって」

「そうかしら。まあユウ君が言うぐらいだから、きっと気のせいね。でもさっきの話、早めに決めておいてよ」

「何のことだよ?」

「旅行。一緒に行くなら、飛行機とか宿泊先の手配をしなきゃいけないでしょ?」

「行かないって言ってるだろ」

「もう一声!」

「い、か、な、い」

「ぐぬぬ」

 

 まだ諦めてなかったのか。貴重な長期の休みを二人旅に割く選択肢なんてない。絶対に嫌だ。

 

___________________

 

 

 休日を挟み、翌週。三月十四日の月曜日。四時限目を終えて、程良い空腹感がやって来る時間帯。

 

「ユウキくーん」

「……」

「ユウキくーんっ!」

「聞こえてる、聞こえてるから」

「じゃあ無視しないでよ」

 

 廊下側、右端の席の欠点は二つ。一つは秋から冬に掛けての寒さがある。窓の隙間から流れ込んでくる廊下の冷気が厄介で、暖房の恩恵が薄まってしまう。

 そして二つ目がこれ。日に一回以上は唐突に窓が開かれて、郁島が覗き込んでくる。学園生活の日常の一部と化してしまったけど、度々不意を突かれては驚かされるから困る。クラスメイトは気にする様子すら見せない。

 

「それで、何。義理チョコのお返しなら朝に渡しただろ」

「あ、うん。ご馳走様、休憩時間中に食べちゃった」

「おかわりか?」

「そうじゃなくて、放課後の話。今日は空手部が休みだから、また走りたいんだ。一緒に帰らない?」

 

 またか。これも僕にとってはお馴染みの誘いではある。

 空手部の活動がなく、放課後にこれといった予定もない場合、郁島は時折ジャージ姿で走りながら下校する。鍛錬の一環らしく、わざわざ遠回りをしてまでして走る。大抵は自転車を漕ぐ僕の隣を駆け、自然公園をぐるりと回り、そこからアパートへ向かう。僕には理解不能な習慣だ。

 

「わざわざ言わなくたって、どうせ勝手に付いて来るんだろ」

「それはそうだけどさ。帰りにでも、話しておきたいことがあったから」

「話?」

「しーのーみやー」

 

 話しておきたいこと。詳細に触れるよりも前に、反対側から声を掛けられる。振り返ると、男子空手部員の一人が立っていた。

 顔を見る度に思い出す。郁島にお節介を焼かれる僕へとんでもない誤解を抱き、胸倉を掴んできた彼。あれからは紆余曲折あり、たまに格ゲーの相手をする程度の付き合いには改善された。とはいえ僕から言わせれば、面倒なことこの上ない。だって弱いし。

 

「なあ、今日の放課後暇か?」

「前置きはいいから早く言えよ」

「またゲーセン行こうぜ。あれから特訓を積んだからな。今度は自信あるんだ」

「お断りだね」

「な、何でだよ。逃げる気か?」

「どうせまたガチャ押しだろ。少し練習しただけで、僕に勝てる訳ないっての」

「それはやってみなきゃ分かんないだろ」

 

 断わりを入れても、あれやこれや文句を垂れて強引に誘おうとしてくるところも相変わらずだ。先延ばしにして煙に巻くのが無難な落としどころだろう。

 

「ああもう分かったって。今度コツを教えてやるから、またにしろよ。それに今日は先約があるから無理」

「何だ。なら最初にそう言えよ。約束があんなら仕方ないな」

「変なところで聞き分けがいいのな……」

 

 やれやれと溜め息を付いた瞬間―――背後に、気配を感じた。

 この感覚。もしかして。慌てて踵を返すと、きょとんとした表情の郁島が窓枠に腕を置いていた。

 

「え、何?どうかしたの?」

「いや……何でもない」

 

 特に変わった様子は見受けられない。気のせいだろうか。

 まじまじと郁島を見詰める僕に、郁島は首を傾げるだけだった。

 

___________________

 

 

 六時限目の半分以上を仮眠を取って過ごし、漸く迎えた放課後。

 上着の袖に腕を通している最中、左隣では一人の女子生徒が両手を合わせながら、深々と頭を下げていた。全く意味が分からない。

 

「ゴメン、ユウキ君!このとーり!」

「……ねえ委員長。先に用件を言ってくんないかな」

 

 僕の席の欠点がもう一つあった。それはクラス委員を務める生真面目な彼女の席が、左隣だということだ。僕の安眠を高確率で妨げてくるから堪ったものじゃない。

 しかしこの図式は何だ。委員長に謝られる覚えがまるでない。説明を求めると、委員長は慌てた様子で口早に言った。

 

「私ね、今日掃除当番なんだけど、放課後にクラス委員の集まりがあるのをすっかり忘れちゃってて。ユウキ君、明日が当番でしょう?だからお願い、代わって貰えないかな?」

 

 教室の後方、掲示板に張られた掃除当番表に視線を向ける。確かに明日が僕だ。教室の掃除当番は複数人での持ち回り制だけど、明日の当番で教室に残っている生徒が僕しかいない。既に下校したか、クラブ活動へ向かったかのどちらかだろう。

 郁島との約束があるけど、大して時間は掛からない。ここは委員長に恩を売って、授業中に僕の眠りの邪魔をし辛くしてやろう。それに事情が事情だ。

 

「やれやれ。仕方ないか」

「ゴメンねー。今度何か奢るからさ」

「別にいいって。それより急いだ方がいいんじゃないの。そろそろ始まるんだろ」

「あ、いけない。じゃあお願いね、ユウキ君。本当にありがとう!」

 

 急ぎ足で教室を出ていく委員長と入れ代わりで、郁島が入って来る。表情から察するに、やり取りは聞こえていたのだろう。僕は一旦鞄を机に置いて、郁島に声を掛けた。

 

「悪いけど、そういう訳だから。すぐ終わるし、先に行って正門で待ってれば?」

「あ、じゃあ私も手伝うよ」

「いやいや。他のクラスの奴が教室を掃除してたら不自然でしょ、どう考えても」

「で、でも人が多い方が早く終わると思うし」

「そうじゃなくてさ。委員長が気にするだろ」

「え?」

 

 深く考えなくても想像が付く。掃除当番は僕以外にもいる。郁島がC組の教室掃除を手伝えば、その姿はどうしたって目立つし、他の当番者の目にも映る。もし委員長に伝わったら、郁島との先約があった僕に掃除を押し付けてしまった、と受け取りかねない。委員長はそういう人間だ。

 

「そっか……うん、そうだよね。ゴメンね、気が回らくって」

「謝ることでもないだろ。寧ろ逆だと思う、け……ど」

 

 思わず声を失った。まただ。表情が、一瞬消えた。きっと昼休みも同じで、僕が気付かなかっただけだ。

 僕の指摘に気を悪くしたからではなく、自己嫌悪を抱いた訳でもない。もっと異なる別の何かが今、郁島の表情を消した。根拠はなくても、僕には分かってしまう。

 

「じゃあ、先に行くね」

「あ、ああ」

 

 どうにか声を捻り出して答える。教室を去っていく郁島の背中を、僕は呆然と見詰めていた。

 

___________________

 

 

 春が一歩手前と言っても、まだ三月の中旬。自転車を漕いでいると肌寒さを強く感じる。マフラーや手袋を使う人間は減ったけど、厚手の上着は手放せない。

 ゆっくりと自転車を走らせる僕の隣で、ジャージ姿の郁島は一定のリズムで足を動かしていた。額には薄っすらと汗が浮かんでいて、すっかり伸びた髪が上下左右に揺れる。僕の視線に気付いたのか、郁島は足を止めずに言った。

 

「何?」

「いや。髪、伸びたなって思ってさ」

「前と比べたら、ね。似合ってる?」

「あーそうですね。にあってるにあってる」

「おっかしいなー。感情がこもってない気がするよ」

 

 郁島が髪を伸ばし始めたのは、遠藤先輩の影響だ。先輩に倣い、女性らしさを磨くのも修行の一環、という理解の範疇を越えた理由で、二人揃って夏からヘアスタイルを変えつつある。

 しかし現実は違う。遠藤先輩のは「切るのが面倒だから」という女性らしさどころじゃない横着によるものだ。郁島は美容院で毛先を揃えたりと手入れはしている一方、遠藤先輩はそれすら省き、見かねた玖我山先輩が鋏を取ることで事なきを得ている。あの先輩はパン作りの腕を磨く前に自分を磨け。

 

「まあ、似合ってるんじゃないの」

「え?」

「何でもない」

 

 何の意味もないただの独り言。呟くと同時に前方の青信号が赤へと変わり、ブレーキを掛ける。一方の郁島は、信号待ちの最中も足踏みをしていた。ご苦労なことだ。

 それにしても、中々切り出してこない。もうマンションは視界に入っているし、今のうちに僕から本題に触れておこう。

 

「郁島。話しておきたいことがあるって言ってただろ。あれ、何のこと?」

「ああそうそう。私ね、春休み中に玖州へ帰省しようと思うんだ」

「え、帰省?」

 

 無意識に聞き返してしまった。驚きを隠せない僕に、郁島は続けた。

 

「本当はもっと早く帰省したかったんだけど、クラブ活動とか色々あって、ずっと帰れずじまいだったから。年に一度は帰るっていう約束だったし、正直に言うと、やっぱり寂しいんだ」

「へえ。でもよく電話とかはしてるじゃん」

「わっかんないかなぁ。電話だけじゃ物足りないんだよ」

 

 そういうものだろうか。僕からすれば、海外の天気情報並に気にならない。まあ、姉さんは少し別か。

 

「ふうん。もう日程は決めてんの?」

「うん。今週の金曜日が修了式でしょ?翌日の土曜日に出発する予定だよ。飛行機の予約なんて初めてだったから、色々手間取っちゃった」

 

 週末。飛行機。玖州。

 何だろう。つい最近のことだ。似たような単語が並んだ瞬間があった気がする。

 

「……あー。今更だけどさ。玖州の何処だっけ?郁島の実家」

「隈本だよ。話したことなかったっけ?」

 

 信号が変わると共に、頭の中で全てが繋がった。何故忘れていたのだろう。

 自転車を停めたままでいると、先んじて交差点を渡り始めていた郁島が、後ろ走りで僕の下へ戻って来る。郁島は再度足踏みをしながら、首を傾げて言った。

 

「どうかしたの?」

「その……悪い。用事を思い出したから、先に行けよ」

 

 自然と声が出ていた。郁島は疑う様子もなく、腕を振りながら再度交差点を渡っていく。

 

「そっか。じゃあね、ユウキ君。また明日っ」

「はいはい」

 

 段々と小さくなっていく郁島の背中から、目を離すことができなかった。一抹の不安が脳裏を過ぎって、放課後の教室で目の当たりにした郁島の顔が、自然と思い出される。

 表情のない表情。感情がぽとりと落ちて、まるで蝋人形のような無機質さだけが、郁島の小顔に浮かぶ。一瞬だけど、それが却って異様さを思わせる。

 

「あいつ……何を抱えてんのさ」

 

 僕を一番理解しているのは、僕だ。己を客観的に見るぐらい造作もない。

 認めよう。僕は特別視をしている。感情の種類は、この際どうだっていい。

 年中振り回されて、弄ばれて、いい迷惑を押し付けられて―――だから。同学年の誰よりも、X.R.Cの中で最も、僕の意識は何時だって、あいつに向いていた。

 

「ああもう。何なんだよ」

 

 やがて視界から郁島が消えると、僕は自転車を降りて、歩道の端に寄せた。上着からサイフォンを取り出し、アドレス帳から目的の人物を選ぶ。

 画面をタッチした途端、呼び出し音が鳴る前に、サイフォンを耳に当てるよりも前に、声が聞こえた。

 

『もしもしユウ君?お姉ちゃんだけど』

「だから!毎度毎度何が起きてるんだよ!?おかしいだろ!?」

 

 お笑い芸人のコントか。何故電話を掛けた側が先手を取られる。コンマ秒単位で通話に応じる人間が身内だなんて、何の自慢にもなりはしない。寧ろ恐怖だ。

 

「今、話せる?」

『ええ、大丈夫よ。どうかしたの?』

 

 気を取り直して、一度咳払いをする。勢いでサイフォンを取ったせいか、言葉が続かない。

 

「その……あのさ」

 

 躊躇いや迷いよりも、苛立ちが段々と湧いてくる。姉さんは絶対に勘違いをする。まるで負けたような気分だ。

 それもこれも全部、お前のせいだからな。覚悟を決めて、僕は遠回しに告げた。

 

「辛子れんこん」

『から、え?』

「辛子れんこん、食べてみたいんだ」

『……ああ、隈本の話?フフ、安心して。お土産に買ってきてあげるから。他に欲しい物はある?』

「そうじゃなくって。僕も行くって言ってるんだよ、隈本に」

『え……えええ!?』

 

 サイフォンの向こう側から、狂喜乱舞の声が上がる。あまりの鬱陶しさに、僕は強引に通話を切った。

 そういえばコウ先輩と柊先輩も、今週末に米国を訪ねると言っていたか。奇妙な偶然もあるものだなと、僕は一人呟いていた。

 

 

 

 



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3月20日 郁島ソラの憂鬱

 

 離陸の瞬間。急激な加速、エンジンの轟音。全身に伝わってくる震動が段々と増していき、機首が上方に向いた頃、機内後方から子供の泣き声が聞こえた。

 別段驚きもしない。未だ経験したことのない浮遊感と速度に戸惑い、思わず泣きじゃくる子供は何処にでもいるだろう。あの時の、僕のように。

 

(……何年前だっけ、あれ)

 

 幼少時の思い出に耽っていると、頭上からポーンという音が鳴り、ベルト着用を指示するボタンが消灯した。既に震動はなく、機体は一定の高度を保ちながら、東京の頭上を飛行していた。子供の泣き声も、知らぬ間に治まっていた。

 

「フフ。ユウ君も小さい頃、あの子と同じように泣いてたっけ。確かみんなで海外に行った時よね。まだ覚えてる?」

「るさいな。大昔の話だろ」

 

 ベルトを外して、窓越しに広がる光景を見やる。天気と視界は良好。直接目の当たりにした数年振りの空、そして眼下の小さな東京。

 窓側の席を希望した覚えはないけど、きっと姉さんの配慮によるものだろう。空旅の退屈さを紛らわすにはちょうどいい。

 

「さてと、定刻通りね。昨日も話したけど、向こうのホテルに着いたら、私はすぐに出なきゃいけないの。帰りは夜遅くになると思うわ」

「分かってるよ。どうぞごゆっくり」

 

 二泊三日の隈本旅行。姉さんの誘いに応じる条件として、僕が提示した妥協案は大きく二つ。

 一つは僕の自由行動。勿論深夜に出歩くような真似をする気はないけど、日中は僕の意思で行き先を決めて、好きに動く。そもそもの話、姉さんのスケジュールはかなりタイトだ。半分観光目的と言いつつ、予定の大部分が仕事関係で埋まっている。姉さんに付き合っていたら、わざわざ隈本を訪ねる意味がない。

 二つ目は、僕への詮索を控えること。何故急に心変わりをして、同行を認めたのか。その一切に干渉しない。この点については既にクリアー済みと言える。

 

(別に……ただの、旅行だし)

 

 深い意味はない。最近は夢中になれるゲームが見当たらない上に、興味を惹かれる漫画やアニメもない。暇潰し相手のコウ先輩は米国だ。だからいっそのこと姉さんと一緒に玖州へ渡り、見知らぬ地で気ままに過ごすのも悪くはない。

 そしてちょうど帰省中のあいつに、現地の案内役を任せた。ただそれだけの話、気紛れだ。

 

「どうしたの?眉間に皺が寄ってるわよ」

「何でもないって」

 

 一方の姉さんからも、僕の自由を認める代わりにと、最低限の決めごとを交わされていた。

 行きと帰りの飛行機、宿泊先は一緒。朝昼晩に必ず連絡を入れる。日中はホテルに引き籠らずに外へ出て、夜は午後二十一時までにホテルへ戻る。大まかにはこんな内容だ。

 欲を言えば完全な別行動を取りたいけど、僕側の条件を守るためと考えれば、大して気にならない。無難な落としどころだろう。

 

「そっか。ねえねえ、今日は何処を観光するつもりなの?」

「さあね。干渉はしないっていう約束じゃなかったっけ」

「そうだけど、やっぱり気になるじゃない。でもそうね、ソラちゃんもいるし、あの子に任せておけば心配はないか」

「あー、うん。あのさ、え、あれ?」

 

 気のせいだろうか。一番触れて欲しくない存在の名を、たった今呼ばれた気がする。しかも直球で。

 突っ込みの機会を見失っていると、姉さんは悪びれる様子もなく言った。

 

「私からは何も聞いてないわよ。でも以前にも言ったでしょ、スーパーでソラちゃんに出くわしたって。その時に、翌週末に帰省するっていう話を聞いたの。ユウ君を誘う前のことよ」

「ああそう。で、何?どうして今あいつの話になるのさ」

「んもう、それを私から言わせるの?余計な詮索をするなって言ったのはユウ君じゃない。フフっ」

「遅いよ!?もう全部手遅れだよ!!」

 

 思わず立ち上がり、声を荒げていた。途端に感じる無数の視線。見渡すと、何ごとかと驚きの表情を浮かべる乗客らが、一様にして言葉を失っていた。離陸の際に泣いていた少年は、からからと笑い声を上げていた。

 最悪だ。どうしてこう、僕はあいつに振り回されるのだろう。

 

___________________

 

 

 羽田空港を発ってから約二時間後。隈本空港に降り立った僕と姉さんは、そのままバスで市街に入り、予約していたホテルでチェックインを済ませた。荷物を下ろすやいなや、急ぎ足でホテルを出た姉さんを見送った後、僕はホテル最寄りのバス停へと向かった。

 サイフォンを弄りながら待つこと十分間少々。郁島は満面の笑みを浮かべて、右腕を大きく振りながらバス停へとやって来た。何故か徒歩で。

 

「お待たせ、ユウキ君っ」

「……おっす」

「あれ、どうしたの?何か機嫌が悪そうって痛たたたた!?」

 

 とりあえず、郁島の右頬を抓った。別に郁島が悪い訳じゃなく、隈本で落ち合うことは姉さんに話すなという僕の言い付けを守ったことも理解している。

 しかし姉さんの誘いに乗った時点で遅かったのだ。それに帰省の件を既に話していたのなら、先に言っておいて欲しい。姉さんが浮かべた含み笑いが腹立たしくて仕方ない。ムカつく。

 

「いったいなぁ。もう、何なの?会って早々意地悪しないでよね」

「すみませんでしたー。ま、これでチャラかな。自業自得だよ」

「よく分かんないけど……まあいっか。ようこそ、隈本へ!玖州は初めてって言ってたよね。どう、感想は?」

「感想も何もないって。空港からバスに乗ってきただけだし」

「ええー。ほら、空気が美味しいとか、匂いが違う、とか」

 

 何を求められているのかがさっぱり分からない。強いて言うなら、東京よりも若干温かいぐらいだろうか。南に下ったのだから当たり前だ。

 

「それで、今日は何処へ行くのさ。まだ何も聞かされてないんだけど?」

「あ、うん。ちょうどバスが来たみたいだから、早速あれに乗ろうっ」

 

 今し方到着したバスの乗車口が開き、言われるがままにバスへ乗り込む。郁島は生真面目に、僕の後ろに並んでいた列の最後尾に回った。郁島らしい謙虚さだ。

 車内を見渡すと、既に座席は乗客で埋まっていて、仕方なく車内前方の吊り革を握った。最後に乗車した郁島が僕の隣に立つと、バスはゆっくりとした速度でホテル前のロータリーを走り始める。

 

「結構混んでるんだな」

「日曜日だし、観光目当ての乗客が多いんじゃないかな。それにほら、『あなたの名は』の影響で、最近はお城を訪ねる人が増えてるんだよ」

「……ごめん、話が全然見えないんだけど。今お城って言った?」

「え……分からないのに、このバスに乗ったの?」

「分かる訳ないだろ!?『分かって当然でしょ』みたいな地元民にありがちな態度はやめろよ!」

 

 言い聞かせながら、車内に掲示されていた運行ルートを確認する。自然と『隈本城・市役所前』という名のバス停に目が留まった。要するに、郁島が真っ先に選んだ行き先は、県内で最も有名と言っていい観光の名所だったのだろう。

 

「まずは隈本城に行かないと始まらないよ。全国的にも有数のお城だしね」

「まあ、想定の範囲内かな。でも隈本城と小説に何の関係があるのさ?」

「えーと。一通り説明するけど、ユウ君は『あなたの名は』、読んだことないのかな?」

「ないから聞いてるんだろ。これだけ騒がれてるから、大まかな内容ぐらいは知ってるけどね」

 

 僕が把握しているのは、物語の舞台がこの隈本であること。主人公は男女の高校生で、どちらも人並み外れた才能に恵まれつつも、将来への不安、両親との溝に悩みを抱えているという共通点がある。記録的ヒットの一因はSNS投稿にあるとされているし、未読の僕でも、ある程度の設定は頭に入っていた。

 僕が知っている内容を述べると、郁島は物語の流れを掻い摘んで教えてくれた。

 

「主人公の男女二人なんだけど、家族との仲違いがひどくなって、結局『家出』しちゃうんだ。二人共誰にも相談できなくて、ふらふら隈本市内をさまよい歩くんだけど……行き着いた先が、隈本城。お城の中で、二人は初めて出会うの」

「ふーん。それで?」

「お互いの身体が入れ替わっちゃう」

「いきなりの超展開だな。え、なに、そういう話なの?」

「実際に読んでみなよ、すっごく感動するから。私のを貸してあげてもいいよ」

 

 郁島には悪いけど、やはり興味が湧かない。頭の片隅に留めておく程度には覚えておこう。

 ともあれ、大体の察しは付いた。一言で表せば、『聖地巡礼』というやつだろう。ずっと以前から存在する概念だけど、最近は社会現象として取り上げられ、各メディアも引用する場面が増えてきている。大規模な集団での訪問も珍しくなく、その効果と経済的影響は単なるファン活動の域に留まらない。『あなたの名は』の劇中でも、隈本城が密接に関わるシーンが多いのだろう。

 

「そうそう。行ったことがある人には分かるんだけど、すごく細かく丁寧に描写されててね。名場面も多いから、聖地巡礼、だっけ?それ目的の観光客が増えてるんだよ。それにね、『アニメ映画化』が決定した影響もあるみたい。今週に入って、PVが公開され始めたから」

「映画化か……益々巡礼者が増える一方って訳ね」

「うん。私としては、隈本を知ってくれる人が増えるから、嬉しい限りだよ」

 

 とはいえ、聖地巡礼には欠点もある。マナーの悪いファンによる行動が問題視されたり、悪戯に注目を浴びること自体に、嫌悪感を抱く現地民も少なくはない。

 郁島はきっと、そういった一面を知らないのだろう。今は状況を素直に受け入れているようだけど、一抹の不安が残る。まあ、僕が悩んでも仕方ないか。

 

「分かるけどさ、僕は読んだことないし。小説は別としても、普通に見所はあるんだろ?」

「勿論だよ。私も色々調べてきたから、何でも答えてあげられると思うよ」

「あー、いいって。今ググるから」

「ええ、ち、ちょっと。私に案内役を任せるって言ったのはユウキ君でしょ。ああもう、駄目だってば!」

 

 隈本城のキーワードで検索結果が並んだ頃に、車内アナウンスが鳴った。既に視界には、頭上高くにそびえ立つ、天守閣が映っていた。

 

___________________

 

 

 隈本城の広大な城郭は、面積で表せば百万平方メートルに迫る。江戸時代初期に築城された、歴史の重みを感じさせる巨大な要塞だ。

 建造物として有名なのは、大天守閣と小天守閣、本丸御殿。他にも見所が多々あるとされる中、初めに郁島が僕を案内したのは、大天守閣。その道のりは、思いの外に険しい物だった。

 

「か、かなり登るんだな。ていうか、階段の傾斜おかしくない?普通に危ないでしょ」

「これぐらい平気だよ。ちなみに六階建てで、今五階に上がったところかな」

「僕が平気じゃないんだって……」

 

 郁島のペースが速過ぎるせいか、正直に言って息が切れる。城巡りというのは、もっとこう、情緒が溢れる戯れだと思っていたのに。隈本城を本来の意味で満喫するには時間を要するという言い分は分かるけど、一時間も経たないうちにこの有り様だ。先が思いやられる。

 

「到着っと。ほらユウキ君、見てみなよ」

「ん……」

 

 やがて辿り着いた先。大天守閣の最上層は展望台に近い構造になっていて、城下の周辺を全方位、見渡すことが可能だった。呼吸を整えながら郁島の背中を追うと、その光景に僕は、柄にもなく言葉を失った。

 

「これが隈本市。今日は天気が良いし、ここからなら阿蘇山も見えるね」

「……まあ、うん」

 

 特別には映らない。ある程度栄えた市の中心部一帯を、高所から見下ろせるというだけだ。それでも僕は、不思議な感覚を抱いていた。

 隈本。郁島が生まれ育った故郷。僕はその中央に立っている。だから何だと問われれば、やはり分からない。僕は今、何を考えているのだろう。

 

「なあ。郁島の実家ってどの辺?」

「結構遠いよ。隈本駅から電車で四十分ぐらい。ここよりずっと田舎かな」

「へえ……遠いんだ」

「行ってみる?」

「な、何で……あー。保留にしとく」

 

 咄嗟に置いた保留。無下に断るのは、何となく気が引けた。

 二泊三日の旅だ。帰りの飛行機は明後日の夕刻。今日は隈本城を回るだけで日が暮れるだろうから、残りは明日以降の一日と半分。郁島が僕を何処へ連れ出すのかは分からないけど、他に選択肢がなければ、遠い地の田舎で息抜きをするのも、一興と言えるのかもしれない。

 いや。それに加えて、僕には聞きたいことがある。けど焦らなくていい。まだ時間はある。

 

「あ、そうだ。ユウキ君、晩御飯は何が食べたい?」

「辛子れんこん」

「かっ……あは、あはは。ご、ごめん。すごく意外な答えが返って来たから、驚いちゃった」

「ファーストフードでいいって言ったって、どうせ止めるんだろ」

「当たり前だよ……あはは。お店、考えておくね」

 

 郁島は笑いながら、僕の手を取って踵を返した。

 上り道に苦労した分、きっと下りも骨が折れるに違いない。僕は大きく溜め息を付いて、覚悟を決めた。

 

___________________

 

 

 大天守閣の次に、小天守閣。本丸御殿。独特の造りの石垣、宇土櫓、闇り通路、時折擦れ違う侍。随所に散りばめられた魅力を堪能―――主に郁島が―――しながら、上空が夕焼けに染まり始めた頃、僕らは『飯田丸五階櫓』と呼ばれる建造物を訪れていた。

 

「何か……静かだな。人も全然いないみたいだし。ここって人気ないの?」

「うーん。私も何度か来たことがあるけど、ここはいつも人が少ないよ。『あなたの名は』にも出てこなかったからかな」

「ああ、成程ね」

 

 この建物以上の見所が余りある上に、聖地巡礼の範囲外。今の僕には却ってちょうどいい。人混みに当てられたのか、頭に熱が籠っている気がする。

 

「折角だから、上まで行こうよ」

「分かってるって」

 

 屋内は天守閣に比べればこじんまりとしていて、その名の通り五階建てではあるものの、訪問客に開放されているのは三階まで。特に苦労もなく、簡素な造りの三階に辿り着くことができた。

 

「やっぱり、誰もいないな」

「みたいだね……ふう。流石に疲れたね」

「僕はもっとだよ。初日から飛ばし過ぎだろ」

 

 見事に人の気配がない。木造特有の香りが濃く、疲弊しつつある身体に沁み込んでいく。壁際には小さな木椅子が設置されていて、僕が迷わずに腰を下ろすと、郁島も僕に続いた。

 

「なあ、郁島」

「ん?」

「……いや、その」

 

 何とはなしに声を掛けると、郁島はきょとんとした様子で、僕を見詰めた。

 どうしても思い出してしまう。この表情の裏に、一体何があるというのだろう。誰も気付いていない、あのコウ先輩でさえもが見落としている、郁島が抱えている何か。僕はそれに、触れてもいいのだろうか。

 

「お前さ、もしかして―――え?」

 

 瞬間。視界が僅かに、歪んだ。極々僅かな違和感を覚え、僕は開き掛けていた口を噤んで、周囲を見渡した。

 それはまるで、震度一未満の微弱な揺れを、両足が感知したかのよう。普段通りに暮らしていれば気付きようのない小さな変化を、僕は見過ごすことができなかった。

 当たり前だ。郁島も僕と同様に、不穏な表情を浮かべていたのだから。

 

「今の、気付いたか?」

「う、うん。気のせい、じゃないよね」

「多分だけど……念のために、確かめよう」

 

 サイフォンを取り出し、すぐにサーチアプリを起動させる。すると画面上には、ゼロの値が浮かんだ。郁島のサイフォンも同様で、異界化の可能性を否定する結果を示していた。

 

「ゼロ……ユウキ君、これって」

「まだ分からないさ。方角は……あっちで合ってるよな?」

 

 そのまま受け取るなら、僕らの杞憂。異界化を察知する適格者としての感覚の誤作動で済む話だ。

 しかし二人同時に、というのがどうしたって引っ掛かる。サーチの範囲外とも思えない。変化はここからそう遠くない、少なくとも隈本城の敷地内で起きたはずだ。

 

「ええっと。多分、闇り通路の辺りだと思うよ。行ってみる?」

「他に選択肢があるなら教えて欲しいぐらいだよ」

「それもそうだね。急ごう、ユウキ君っ」

 

 疲労溢れる足に鞭を打って階段を下り、屋外へ出る。闇り通路は本丸御殿の真下、トンネル状のほの暗い通路だ。何度か通った場所だし、道のりは覚えていた。

 やがて地下へ繋がる下り坂へ差し掛かり、歩調を緩める。入り口周辺に異変は見当たらない。あるとすれば、この先の何処かだ。

 

「先に言っておくけど、絶対に先走るなよ。僕ら二人しかいないんだからな」

「分かってるってば」

 

 郁島と横並びになり、少しずつ歩を進める。あまり目立った行動を取っては、他の訪問客の目に留まる。周囲へ気を払いながら、慎重に。

 

「……ん?」

 

 広大な通路の中央付近で、足が止まった。異界化特有の悍ましさや寒気は感じない。サーチアプリも反応していないし、門もない。

 しかし前方の空間に、『揺らぎ』が浮かんでいた。周囲の様子から考えて、僕と郁島以外の目には映っていない。目を凝らしてよくよく見ると、揺らぎの中央には、直径一センチ程の、黒い楕円があった。

 

「これって……『フェイズ0』、だよな」

「わ、私もそう思う」

 

 フェイズ0。異界化の可能性はゼロ、差し当たっての脅威がない一方で、現実世界との繋がりが僅かに保たれた均衡状態。決まった形はないものの、フェイズ1以上の異界化を治めた後、度々目にしてきた揺らぎだった。

 

「う、うーん。どうしようか、ユウキ君」

「どうもこうも……正直に言っていい?」

「どうぞ」

「何が何だか分からない」

「……同じく」

 

 この場で何が起きて、何故揺らぎが発生したのか。まるで見当が付かず、眼前の小さな異変に対し、僕らは呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 

___________________

 

 

 誰に相談を持ち掛けるべきか。

 コウ先輩と柊先輩は渡米中で、緊急の連絡先は控えていたものの、あの二人の心境を考えると、余計な心配は掛けたくない。三年生の二人組も、大学進学という新たな門出に向けて、色々と立て込んでいる真っ只中。玖我山先輩や遠藤先輩に聞いても有力な情報が得られるとは思えない。

 郁島と二人で悩んだ末に、僕らは比較的身近な異界関係者を頼り、連絡を取ることに成功していた。

 

『それは恐らく、自然発生した揺らぎと考えられます』

「自然発生?」

 

 表向きは家電量販店の店員。対する裏の世界では、ゾディアックに属する腕利きの技師。異界化という現象その物は専門外であっても、ある程度は精通しているはずだという僕の見立てに、間違いはなかったようだ。

 

『さして珍しい現象ではありません。些細な事象が引き金となり、異界との繋がりが顕れた、というだけの話ですね』

「だけの話って言われてもさ。それってつまり、異界化が起き掛けたってことじゃないの?」

『端的に言えばそうですが、実際問題としてフェイズ0の自然発生は、全国各地で起こり得る変化、言わば悪天候のような物です』

「天気……雨が降ったのと同レベルの扱いって訳?」

『そのご理解で宜しいかと。我々は勿論、ネメシスにおいても深追いはせず、放置をするというのが通例ですね』

 

 通話の音量を大きめに設定していたこともあり、話の内容は傍らの郁島にも伝わっている様子だった。

 不安を完全に拭えた訳じゃない。引き金となった些細な事象とやらが、あの場で起きていたことは確かだ。しかし裏の世界を牛耳る二大勢力が不干渉を決め込むなら、僕らがとやかく気に病む必要性はないのだろう。

 

「ご協力どうも。それで、情報料は必要?」

『お構いなく。それにしても、隈本城ですか。私も一度は訪ねてみたいものですね』

「まあ、止めはしないよ。それなりに楽しめたしね」

『フフ』

「……何笑ってんのさ」

『いえ。良い旅をと、郁島さんにも伝えておいて下さい。ウフフっ』

 

 妙に腹立たしい笑い声が漏れた後、通話が切られる。考えてみれば、フェイズ0の自然発生に関して問えばいいだけの話で、隈本や郁島といったキーワードは不要だった。どうも今回の旅は手遅れ感が付き纏う。

 

「今の話だと、心配はないみたいだね?」

「そうっぽいね。あーあ、何かドッと疲れた気がする。早くお店を見付けて休みたいよ」

 

 市内の繁華街を歩きながら、通りに並んだ飲食店を見渡す。

 時刻は夕方の十八時。昼食を早めに取っていたことに加え、午後は隈本城内を歩きっ放しだったのだ。疲労感と空腹は異界探索後のそれに匹敵する。少しでも早く座りたい。

 一方の郁島は、僕の隣で飲食店のガイドブックと睨めっこをしていた。表情から察するに、決めかねているのだろう。

 

「あのさ、そんなに悩まなくてもいいって。適当に選んじゃえよ」

「でも辛子れんこんなんて、大体のお店には置いてるし……どうしよっかな」

「あー。なら、あれは?」

「え?」

 

 偶然目に留まったのは、落ち着いた外装の一店。料亭と呼ぶには小洒落ているし、上品でグレードがそこそこの和風レストランといった表現がしっくりくる。僕が店頭の看板を指差すと、郁島は戸惑った様子で言った。

 

「ち、ちょっと高そうじゃない?私達には、少し不釣り合いな気が」

「旅先で贅沢するぐらいいいだろ。それにそっちの心配は不必要」

「あ、待ってよ」

 

 郁島には申し訳ないけど、悩んでいる時間があったら店の外観と感覚で即断したい。僕が支払えば済む話でもある。寧ろ気掛かりなのは、完全予約制とか、観光客増加の影響で席が埋まっていた場合だ。

 店内に入るやいなや、料理の香りに加え、酒の匂いが鼻に入った。利用客の客層に想像を働かせていると、店員と思しき女性と視線が重なった。

 

「二人だけど、空いてる?」

「二名様ですね。今でしたらテーブル席か、お座席にご案内できますが」

「……座席で構わないだろ?」

「う、うん」

 

 郁島の了承を得て、個室を選択する。ゆっくりと足を休ませるなら、後者一択だ。

 店員に案内されたのは、店内の奥に位置する一部屋。決して広くはないものの、二人で利用するなら十二分に寛げる空間があった。

 

「あー、疲れた。足が棒になった気分だよ」

「わわ、すごいすごいっ。美味しそうな料理が沢山ある!」

「注文は任せたから。飲み物だけ選ぼうかな」

「……本当にいいの?け、結構するよ?」

「いいって言ってるだろ」

 

 足を伸ばして天井を仰ぎながら答える。品書きを見ずとも、大方察しは付く。

 数分後に郁島がオーダーしたのは、僕のリクエストでもあった地産品の辛子れんこん、馬刺し。加えて天ぷらの盛り合わせと、ご飯物を一品ずつ。オーダー後すぐに運ばれてきた飲み物で喉を潤した僕らは、改めて一息付いて、思い思いの呟きを漏らし始めた。

 

「何か不思議。この隈本で、ユウキ君と二人でご飯を食べることになんて、考えたこともなかったよ」

「わざわざ口に出すなよな。変な風に聞こえるだろ」

 

 客観的に見て、異様な光景だとは思う。不気味と言ってもいい。一年前の僕がこの状況を目の当りにしたら、きっと絶句するに違いない。

 喉が渇いていたこともあり、烏龍茶が入っていたグラスが瞬く間に空になる。次は別の物を頼もうか。品書きのソフトドリンクの欄を眺めていると、郁島が唐突に切り出してくる。

 

「ねえユウキ君。変なこと聞いてもいい?」

「聞き流してもいいならね」

「女の子と付き合ったこと、ある?」

 

 オンナノコトツキアッタコト。日本語のはずが、全く異なる異国語のように聞こえてくる。脳内での変換がまるで追い付かない。こいつは何を言い出したんだ。

 

「あのさ。『突き合う』と『付き合う』、どっち?」

「付き合うに決まってるでしょ。どうしてそうやって茶々を入れるかなぁ」

「郁島の場合前者があり得るんだよ……ていうか何なの?何で急にそんな話になる訳?」

 

 努めて冷静に詳細を問うと、郁島が語り出す。

 よくある類の話ではあった。空手部に所属する同年の女子が、最近になって同じクラスの男子と付き合い始めた。それが後押しをしたのか、更に別の女子も。立て続けに二人の友人が異性との関係を深めたことで、郁島自身も意識せずにはいられない、らしい。そういうものだろうか。

 

「ふーん。でも僕にそんな話をされてもね。悪いけど、誰かと付き合った経験なんてないし」

「やっぱりそうなんだ。私はあるけどね」

「ふぁ!?」

 

 不意を突かれ、思わず素っ頓狂な声を上げていた。

 郁島に限って、そういった恋愛沙汰とは無関係、浮いた話は皆無だとばかり考えていた。というか郁島の言い回しがいちいち癇に障る。本人にその気はなくとも、見下された気分だ。

 

「あー、う゛うん。それって、中学の頃の話?」

「うん。中学二年生の時に、男子空手部の先輩から、急にその、告白、されて。私は断ろうと思ってたんだけど、一度付き合ってみればって、周りから勧められてね」

「気は確かかよ。勧められて決めることじゃないだろ」

「わ、私も初めはそう思ったの」

 

 しかし周囲からの熱烈な応援もあり、結局郁島は『まずは友達から』という条件の下で、先輩男子との交際をスタートした。学内では普段通りに接しながら、週末には二人で外出をするような日々が始まったとのことだった。

 

「それでね。何度かデート、みたいなことはしてみたんだ。一緒に映画を観たり、買い物に行ったりとか。でも……何て言うのかな。上手く、言えないんだけどさ」

「……楽しくなかった?」

 

 郁島は無言で首を縦に振った。表情が暗い時点で、あまり思い出したくはない過去だと言っているようなものだ。僕は郁島に合いの手を入れながら、柄にもない恥じらい声に耳を傾けた。

 

「色々とね、話はしてみたんだ。好きなこととか、趣味とか、そういうの。先輩は楽しそうに聞いてくれるんだけど……心の何処かで、分かっちゃうんだよ。本当は興味がないのに、話を合わせてくれてるんだなってことが」

「成程ね。郁島も同じで、相手に合わせちゃう自分が嫌になったとか、要はそういうことでしょ」

「えっ。ど、どうして分かったの?」

「何となく。郁島が考えそうなことぐらい、分かるって」

 

 想像に難くない。表面上は朗らかな笑みを浮かべつつ、会話が途切れると居た堪れなくなり、気のない話を振る。端から見れば仲睦まじい男女として映っても、心が笑っていない。郁島は何ごとも卒なく熟すくせに、自分自身に関してのみ不器用なのだ。

 それに話を聞いた限りでは、郁島との相性が悪過ぎる。郁島の良くも悪くも盲目的な一面は、年齢差のある関係に適していない。

 

「大体さ、郁島は無条件で先輩を敬い過ぎなんだよ。年上だから偉い、気を遣えって話でもないだろ」

「あー。似たようなことを、以前にも言われたことがある気がするよ。ユウキ君にも、そう見える?」

「年上と目上は別物だからな。それに誰かと付き合うってことは、対等に立つってことだと僕は思うけど」

「あはは。正論でもユウキ君が言うと説得力が全っ然ないね。あは、あはは!わ、笑わせないでよ」

「お前殴られても文句言えないからな」

 

 グラスの氷を口内に含んで苛立ちを抑えていると、背後の襖が開かれ、オーダーしていた料理の数々がテーブルへと運ばれてくる。

 馬刺しや天ぷらは想像通り、僕がよく知るそれと似たり寄ったり。小振りの丼物は魚介の炙りの香ばしさに食欲をそそられる中、見た目的にも一層際立つ存在が辛子れんこん。色彩が独特過ぎて浮いてしまっていた。

 

「何これ。れんこんの穴に入ってるの、全部辛子?やり過ぎじゃない?」

「これは辛子味噌。そこまで辛くないから大丈夫だよ」

 

 頼んだ僕が言いたくはないけど、箸が付け辛い。回避をするように箸は馬刺しへと向かい、一切れを口に入れる。霜降りならではの甘さと柔らかさに、舌が歓喜の声を上げた。

 自然と二切れ目に箸が伸びる一方、郁島は箸を置いたまま、正座の姿勢でテーブル上を見詰めていた。足ぐらい崩せばいいのに。

 

「うん、そうだよね。私もまだまだ未熟者ってことかな」

「それどの話の続き?」

「ううん、大丈夫。何かスッキリした」

「僕の質問何処いったんだよ」

「でもやっぱり不思議。ユウキ君って……うん。ユウキ君は、コウ先輩とも違うね」

「だから勝手に終わらすなって!」

 

 普段通りのやり取り。マイペースな郁島に翻弄されて、僕は何時だって振り回される。

 そう。郁島はいつもと変わらない。だからこそ僕は、見過ごせない。

 

(多分……違うんだよな)

 

 郁島が抱えるもの。今し方の話は氷山の一角、極々一部に過ぎない。恐らくその全貌は、漠然とした要領を得ない何かだろう。郁島に自覚があるのか、それすらもが不透明。僕自身、明確な目的があってこの隈本を訪ねた訳じゃない。

 それでも、僕は―――いや。『僕ら』には、先にやるべきことがある。

 他人にとやかく言われても、無視を決め込むなんて真似は、できそうにない。

 

「なあ郁島。話は変わるけど、明日なんだけどさ」

「隈本城、もう一度行ってみる?」

「へ」

 

 驚きのあまり、口が開いたままだった。先回りをされて面食らう僕を余所に、郁島は微笑みながら、告げた。

 

「顔にそう書いてあるもん。ユウキ君が考えそうなことぐらい、私にだって分かるんだから」

「……真似するなよな」

 

 危険性は低く、放置をするのが常。専門家の言葉に、嘘偽りはないのだろう。

 しかしそれは可能性の話で、現実問題として手が回らないという人間側の都合による結果だ。ただでさえ各地が異界化の脅威に曝される中、フェイズ0の自然発生にまで構っていては、人手が幾らあっても足りない。低気圧が発達する度に、洪水災害という最悪を想定するような愚行なのだろう。

 だけど僕らは、ここにいる。少なからずあの場には、フェイズ0の揺らぎを生じさせた何かがあった。それだけは確かな事実だ。

 

「ああもう。わざわざ隈本まで来て、異界化と関わりを持つなんてね」

「私だって同じだよ。でもユウキ君なら、きっとそう言ってくれるって思ってた」

「まだ何も言ってないけど」

「だーかーら。顔に書いてあるって言ってるでしょ」

 

 きっとこの二泊三日の旅は、僕にとって忘れられない物になる。願望に等しい曖昧とした想いが、胸の中に充たされていく。

 だからこそ余計な邪魔はさせない。不必要な道草は取り除いて、僕は郁島と正面から―――

 

「お待たせ致しました。追加の辛子れんこんになります」

 

 ―――向き合って。いやいや、向き合いたいのは辛子れんこん、お前じゃない。

 

「郁島。これ何皿頼んだのさ」

「二皿だよ。一人一皿。あれ、足りなかった?」

「要らないから!お前この大皿を見て言ってんの?馬鹿なの?」

「ええっ。ユウキ君が食べたいって言うから頼んだのに。美味しいよ?」

「量の問題だって言ってるんだよ!」

 

 結局僕らは全ての皿を綺麗に片付け、酷使した胃袋を気遣いながら、隈本の城下町を後にした。

 明日以降、事態が思いも寄らない方向へ急変するだなんて、僕らには知る由もなかった。

 

 

 

 



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3月21日 天才のひらめき

 

 翌朝。春が目前とはいえ外気は硝子のように冷たく、朝方は上着が手離せない。しかし普段よりも風が暖かく感じられ、自分が関東ではなく玖州にいる事実を思い出させてくれる。

 

(そろそろ、か)

 

 現時刻は午前九時前。隈本城の開園時間は八時半だから、いつでも入園が可能だ。

 バス停の時刻表をぼんやりと見詰めていると、昨日同様、朗らかな声が郁島の到着を知らせてくれた。

 

「おはよ、ユウキ君!」

「ふわぁ……」

「あ、欠伸で返さないでよ。随分と眠そうだね」

「頼んでもいない姉さんのモーニングコールのせいだよ。二度寝し損ねた」

 

 夜更かしはしていない。寧ろ昨日は朝が早かった上に、歩き疲れが重なったことで、昨晩の午後二十二時前にはベッドに入っていた。充分に睡眠は取れたはずなのに、心地の悪い寝起きのせいで頭がぼんやりとしている。どうもしゃっきりしない。

 ともあれ、次のバスは既に視界へ入っている。時間にして数分間の道のりだから、九時半前には城内を歩き始めている頃だろう。

 

「あのさ。今日は現地集合でもよかったんじゃないの?」

「そうなんだけど、ユウキ君が寝坊しないか心配だったからさ」

「お前もかよ……まあいいや」

 

 信用のなさに頭を痛めながらバスへ乗り、後方の座席に腰を下ろす。郁島が隣の席に座ったので、やや窓側寄りへ深めに。妙に落ち着かないのは単に狭いからに違いない。ただそれだけだ。

 

「ちゃんと聞いてなかったけど、今日も日中は暇な訳?」

「暇って言わないでよね……予定は何も入れてないから、夜まで一緒にいられるよ」

「ふうん。ちなみにさ、実家には何て言って来てんの?」

「そのまま言ってあるよ。友達が来てるから、案内をしてあげるって」

「……反応は?」

「別に普通だったけど……あ。でもお父さんは色々聞いてきたっけ。ユウキ君のこと」

「もういい。予想通り過ぎるからもういい」

 

 もしかしなくとも、要らぬ誤解を招いているのではなかろうか。容易に想像が付いてしまうのだから、事前に郁島へ言い含めておくべきだったのかもしれない。やはり頭が痛い。

 他愛もない会話を続けていると、バスはすぐに昨日と同じバス停に到着した。郁島と徒歩で隈本城入口に向かい、少しばかりの入園料を払って城内へ。入って間もなく、その賑やかさに引っ掛かりを覚えた。

 

「あれ。今日って月曜日だよな」

「曜日がどうかしたの?」

「平日の頭にしては、やけに人多くない?朝一だってのに、昨日よりも増えてるように見えるんだけど」

「冬休みだからじゃないかな?『あなたの名は』のファンって、高校生と大学生がほとんどみたいだよ」

「……相変わらず巡礼者ばっかってことね」

 

 こんな朝早くからご苦労なことで。聖地巡礼の醍醐味は理解できなくもないけど、全国各地から足を運んでいるのだろうか。この混み具合と小説の知名度から考えれば、遥か北方からの訪問客がいても不思議じゃない。途方もない影響力だ。

 若干呆れながら、真っ直ぐに闇り通路を目指す。訪問客と城内の様子から察するに、フェイズ1以上への侵蝕という最悪の可能性は免れているようだ。

 ほっと胸を撫で下ろしていると―――

 

「「え?」」

 

 ―――通路の手前で、自然と足が止まった。

 

「……き、記憶違い、じゃないよね?」

「当たり前でしょ。昨日の今日なんだから」

 

 目元を擦り、再度目の前を凝視する。フェイズ0の揺らぎ。昨日も目にした、現実と異界を繋げる僅かな兆し。

 その存在自体は別として、何故ここにある。僕らが発見した揺らぎは、闇り通路の『中央』にあったはずだ。それがどうして、通路『入口』に浮かんでいる。

 

「とにかく、昨日の場所に行こう」

 

 胸のざわつきを抑えながら、急ぎ足で闇り通路の中を進む。

 案の定、昨日と同じ光景があった。通路のど真ん中、僕らの目線と同程度の位置に、揺らぎが浮かんでいた。 

 

「間違いない。入口の揺らぎは、僕らが城を出た後に発生した物だ」

「そ、そんなっ……そんなこと、あり得るの?」

「分かんないよ。この現象の詳細だって知らないし……それに、こっちもおかしい」

「おかしい?」

「大きさだよ」

 

 サイフォンを取り出し、昨日も使用したアプリを起動させる。気紛れでサイズを測っておいて正解だった。よくよく見なくたって、目測で異常が分かってしまう。

 

「それって、定規?」

「そういうアプリがあるんだよ。結構便利だし、郁島も入れとけば」

 

 画像を撮影するような仕草で、画面上に表示された定規を揺らぎの中央に当てる。

 昨日の計測では、中央の黒色の楕円のサイズは、短径が二センチ、長径が三センチ程度。それが今朝になって、径は約一センチずつ拡大していた。

 

「やっぱりか。昨日よりも大きくなってる」

「……つまり?」

「だから聞くなっての。僕だって混乱してるんだからさ」

 

 現時点では、判断のしようがない。揺らぎの自然発生という現象について簡単な説明を受けただけだ。昨晩は悪天候に例えられたけど、あれはあくまで比喩。緊急性や危険度を推し量る材料にはならない。

 

「えーと。南門から入ったから、この辺りだよね?」

 

 冷静に思考を巡らせていると、郁島が城内のマップとボールペンを取り出す。ペンで丸印を付けたのは、闇り通路付近の二箇所。郁島の意図は、すぐに僕へ伝わった。

 

「えっ。ま、まさか」

「そのまさか。隈本城の内部を、隅々まで調べてみよう。もしかしたら、他の場所にも揺らぎが発生してるかもしれないしね」

「僕と二人でか?」

 

 聞くまでもないと理解していて、自然と漏らしていた。

 想像するだけで気が滅入る。どうやら今日も、筋肉痛に苛まれ気味の両足に、鞭を打つ必要があるようだ。

 

「訪問客に開放されてる、目と足が届く範囲……やれやれ、午前中一杯は掛かるな。無駄を省くためにも、ルートは今決めておこう」

「うん、そうだね……あ、私が決めるの?」

「当然。郁島の方が詳しいんだから」

 

 まるで理解に及ばない状況の中で、やるべきことはある。

 判断のしようがないのなら、その材料を手早く集める。見解は専門家に任せるしかないけど、事態が悪化の方向に向かっている気がしてならない。楽観視は捨てて、早めに動いた方がいい。

 

「念のために簡単な聞き込みもしておくとして、取り急ぎの報告も入れておいた方が賢明だ。複数の見解が欲しいから、二手で何人かに状況を説明して……え、何?」

 

 手短に今後の方針を述べていると、郁島が隣で意外そうな表情を浮かべていた。

 

「ううん、大したことじゃないんだけどさ。ユウキ君にしては謙虚っていうか、慎重だなって思って」

「あ、あのさぁ。もう一度言うけど、僕と郁島しかいないんだからな」

 

 頼るべき先輩らは、この隈本にいない。駆け付けてくれる可能性なんて皆無だ。得体の知れない何かが起きつつある中、幸か不幸か、僕と郁島だけが偶然居合わせたに過ぎない。

 だから僕は、冷静でいるべきだ。考えて考えて、考えてから行動するぐらいが望ましい。その役目は郁島ではなく、僕の物だ。

 

「以前にも二人で異界に踏み入ったことがあったけど、そう毎回上手くいくとは限らないってことさ。今回ばかりは行動よりも考えるを優先するよ。柊先輩から後々怒られるのも御免だしね」

「了解っ。頼りにしてるよ、ユウキ君」

「はいはい」

 

 覚悟を決めて、僕は先導する郁島の背中を追った。僕らを嘲笑うかのように、フェイズ0の繋がりはゆらゆらと揺れ動いていた。

 

___________________

 

 

 午後十三時過ぎ。

 可能な範囲で隈本城内を調べて回った僕らは、異界関係者に状況説明の連絡を入れた後、城のふもとに設けられた食事処で軽食を取りながら、テーブル上に広げた城内マップを眺めていた。

 

「昨日のを含めて、全部で五つかぁ……これって、多いのかな?」

 

 蕎麦を啜りつつ、首を傾げて無言で「聞くな」と応える。

 発見できた揺らぎ合計で五箇所。訪問客に開放されていない区画がある以上、最低でも五箇所だ。地図上の面積から単純計算すれば、二・三箇所の見落としがあっても不思議じゃない。

 

「どっちにしたって、僕らにできることはもうないさ。あとは……っと、きたきた」

 

 テーブルに置いていたサイフォンが鳴り、着信元を確認する。

 北都ミツキ先輩の専属秘書。最短でも昼食後だと思っていたのに、流石に手が早い。胸中で感心しながら通話を繋げると、向かい側に座っていた郁島が、隣の席へと移動した。

 

「もしもし」

『雪村です。お二人は今どちらに?』

「まだ城の中にいるよ。何か進展はあった?」

『はい。今後の方針が決まりましたので、ご連絡を入れた次第です』

「ご協力どうも。それで、先に見解を聞かせて欲しいんだけど」

『詳細は省きますが、お二人が仰るように、異常な現象のようです。隈本城のような限られた範囲で、フェイズ0の自然発生が連鎖をするといったケースは、前例がありません』

「だろうね。じゃあ、これから調査が入るってこと?」

『はい。既に指示は下りています』

 

 隈本城内の異変について伝えたのが、今から約一時間前。そんな短時間で上層部へ掛け合い、調査の段取りを組んだのだから、その手際の良さには感嘆してしまう。

 総合的な組織力で言えば、ゾディアックはネメシスに勝る。こういった場面で、全国各地に実動員がいる大規模な組織は強い。協力を仰いだ相手を間違ってはいなかったようだ。

 

『明後日以降、現地の人間が調査に当たります。結果はお二人にも後日―――』

「ちょ、ちょっと待ってよ。今、明後日って言った?」

 

 淡々とした説明が続く最中、思わず耳を疑った。聞き返さずにはいられなかった。

 明後日。二日後。どう考えたって、遅いにも程がある。

 

「一日も経たないうちに五回も起きてるんだよ。異常だって言ったのはそっちでしょ。すぐにでも調査を始めるのが当然の対応じゃないの?」

『状況は理解しています。ですがあくまで、フェイズ0の揺らぎが自然発生したに過ぎません。それ自体は無害な物です』

「言ってることが目茶苦茶だっ……それ、本気で言ってる?」

 

 苛立ちを露わに追求すると、後ろめたさのような感情がサイフォン越しに伝わってくる。

 本意ではないのだろう。僕らが知る雪村キョウカという女性は、もっと知的で用心深い人間だ。彼女自身の言葉とは、僕には到底思えなかった。

 

『申し訳ありません。こういった事情は、本来口外したくないのですが……私やお嬢様の権限では、限界が。玖州地方を統括する、管理責任者の判断なのです』

「……ふうん。日本の企業らしい体質だね」

 

 肩を落とさざるを得ない。メリットばかりに気を取られて、側面に考えが及んでいなかった。

 組織の規模が大きい程、構造によってはこういった事態を招く。素早い対応は、雪村キョウカ個人の力に過ぎなかった。これでは明後日以降、という言葉すら疑わしい。わざわざ以降と付けるぐらいだ、大きな期待しない方がいい。

 

『私も個人の伝手を頼りに、できる限り動きます。先程も申しましたように、お二人もどうか慎重に行動なさって下さい』

 

 言われずとも。下手に干渉すれば、何が起きるか分かった物じゃない。

 その後も手短にやり取りをしてから通話を切り、大きな溜め息を付く。食べ掛けの蕎麦はすっかり伸びていて、箸を付ける気が起きなかった。

 

「悪い。予定が狂ったかも」

「ユウキ君が謝ることじゃないよ。きっと誰も、悪くないんだと思う」

 

 嘆いても仕方ない。方向転換を余儀なくされただけだ。また考えを改めればいい。

 ゾディアックによる調査開始まであと二・三日は掛かると仮定して、それまで放置という訳にはいかない。専門家が異常だと判断した以上、できることが残されているのなら、僕らが事に当たるべきだ。

 

「郁島。揺らぎを除いて、城内に変わった様子はなかったよな」

「それは、うん。二人であれだけ調べたんだから、見て回った場所に見落としはないはずだよ」

 

 考えろ、四宮ユウキ。考えることを諦めたら、僕は終わりだ。考えて、考えて、選択肢を見つけ出せ。

 僕と郁島にできること。

 僕にできること。僕にしかない物。

 先輩らに、皆になくて―――僕だけが持つ武器。

 

「そうだ……考えるんだよ」

「え?」

 

 自然と選択肢が浮かび上がり、足が動いた。できることは、まだある。

 

「行こう、郁島」

「え、ち、ちょっとユウキ君?」

 

 出口に向かいながらサイフォンを取り出し、目当ての人物の番号に発信する。

 面識のある異界関係者の中で、僕が欲しい情報を握っている可能性が最も高い人物。薬学全般に精通し、成分分析の分野に長け、特有の疾患や症例にも詳しい男性。あの人しかいない。

 

『はい、ミズハラです』

「X.R.Cの四宮だけど。今話せる?」

『ああ、君か。大変そうだね、何か進展はあった?』

「微妙かな。でも調べたいことがあるから、少し協力してくれない?」

『急ぎかい?』

「割とね」

『そうか。今は業務中だから、十分後に折り返すよ』

 

 無意識で口早に話していたせいか、すぐにでも協力を仰ぎたい旨は語らずとも伝わった。

 通話を切り、最寄りの出口から城外へ出て、周辺を見渡す。バス停よりも『空席』の文字が点灯したタクシーに目が留まり、僕は右手を上げた。

 

「ま、待ってよユウキ君。何処に行くの?」

「ホテルに戻る」

「戻って、どうするの?」

「『科学』だよ。郁島にも手伝って貰うからな」

 

 思い立ったが吉日。しかしあくまで冷静に、迅速に。

 僕だけが持つ、僕だけの武器。ここからは、頭脳戦だ。

 

___________________

 

 

 宿泊先のホテル一階に設置されたコンビニへ立ち寄り、必要な物資を探す。A4サイズのノート、黒と赤のボールペンにホッチキス、新聞。新聞は隈本の情報が多い地方紙を選んだ。

 

「昨日から今日に掛けて、妙な事件や現象が起きてないかを調べて欲しい。サイフォンと新聞があれば事足りるし、こういうのは郁島も慣れっこだろ」

「う、うん。でも、ユウキ君は?」

 

 答えるよりも前に、折り返しの着信音が鳴った。手早く会計を済ませて、フロントに向かいながら通話を繋げる。

 

「ジャスト十分。益々好印象だよ」

『時間は厳守する性分でね。それで、用件は?』

「簡潔に話すよ。異界に関する知識や研究成果を一種の総合科学みたいな『学問』として捉えた場合、現実世界の学問と同じって考えていいのかな」

 

 僕だって今まで何もしてこなかった訳じゃない。僕なりに考え、独自に考察を重ねていった結果として、一つの結論に辿り着いた。絶対に、あるはずだ。

 暫しの沈黙。返答は、僕が望んでいた物だった。

 

『大まかに言えば、イエスだね。異界化に纏わるあらゆる情報は表舞台に上がらない。けれどそれ以外は共通点の方が多いよ。体系化された分野があり、学会があって、学者がいる。何を隠そう、僕もその端くれさ。立派な学問と言っていい』

「学名はあるの?」

『Eclipsology』

「そんな単語あったんだ」

 

 強引に和訳すれば、侵蝕学。いや、シンプルに異界学といったところか。

 名前は別としても、存在には前々から確信に近い物を抱いていた。僕が知りたいのは、その先だ。

 

「僕が考えるに、異界化っていう現象を理解するには、多岐に渡る分野から解析するしかない。恐らく僕が想像している以上に広い世界だ」

『その通り。異界化はあらゆる事象を因子にして生じる。そういった意味では、近年発達が目覚ましい『総合科学』という君の表現は正しいよ。細分化された複数の分野からアプローチする必要がある』

「僕個人の見解じゃ、『系統地理学』が一番近い概念だと思うんだけど」

『……うん。確かに異界化の研究者は、表舞台でその辺りを生業にしている人間が多いよ』

 

 柊先輩の話によれば、異界化が初めて観測されたのは一九四〇年代。今から七十年以上も前の戦時下だ。

 それだけの年月があれば、人類の叡智は真実に限りなく近付ける。錬金術や魔術といった異様な部分はともかく、現代の科学が通じる範囲内においては、僕らは無力じゃない。

 

「僕らは今までフィールドワークに頼り過ぎていた。勿論重要なことだけど、同時に科学の恩恵に与るべきだと思うんだ」

 

 系統地理学とフィールドワークは密接に関わっている。現場に赴き、現物を見て、現実を知る。三現主義を徹底しない限り、デスクに座っているだけでは見い出せない物があって当たり前だ。

 しかしその逆も然り。アプローチの仕方を変えるだけで、見えてくる何かがあるかもしれない。

 

『……成程。大方察しは付いたよ。でも正直に言って、無謀な試みだ』

「百も承知だよ。それで、どうなのさ。現実の学問と同じなら、文献のデータベースとか、解析ツールなんかもあるんじゃないの。勿論、世界各国からアクセスできる形でね」

 

 僕が欲しい物。それは先人が築き上げてきた知恵と、研究成果にある。

 隈本城は隅々まで調べた。これ以上歩き回ったところで、有力な手掛かりは期待できそうにない。なら、あの連鎖的な異変を現象として捉え、考察する。必要な知識はその過程で得ればいい。考える頭は、ここにある。

 

『参ったな。本当はご法度なんだけど……仕方ないか。パソコンは使える?』

「ちょっと待って」

 

 話し込んでいる間に部屋へ戻り、持参していたノートパソコンの電源は入れてあった。すぐにLANケーブルを繋いでウェブブラウザを立ち上げ、通話をスピーカーモードに切り替えて両手を自由にする。

 

『最も包括的な学術論文のデータベースを教えるよ。役に立つかどうかは分からないけれど、君が欲しい物の中では一番近いと思う』

「ご協力どうも。で、どうやってアクセスするの?どうせ正規の方法じゃ無理なんでしょ?」

『ソウルデヴァイスを顕現させるアプリを起動した状態で、サイフォンとパソコンを有線で繋いでくれ。それが手っ取り早い』

「何それ。どういう仕組みな訳?」

『僕も聞いた話でね。残念だけど専門外だ』

 

 疑問は残るけど、全部後回しで構わない。それがアカウント代わりになるのだろう。

 指示に従いサイフォンとパソコンをケーブルで繋ぎ、口頭で述べられたURLに接続すると、画面上に目当てのデータベースが表示された。

 印象としては、現実世界の学問におけるデータベースと似たような物だ。検索方法や情報収集のコツもきっと同じだろう。専門用語に苦戦するかもしれないけど、些細な付き物だ。

 

「あ、あのー。ユウキ、さん?」

 

 意気込んでいると、背後から郁島の声が聞こえて、はっとした。

 申し訳ないけど、存在をすっかり忘れていた。郁島はぽかんとした表情を浮かべながら、僕のパソコンを見詰めていた。今『さん』付けで呼ばれた気がするけど、うん、気のせいだ。

 

「ああ、ごめん。そっちの机を使っていいから」

「う、うん。じゃなくて、それって……何?え、英語?」

「そうだけど。学術論文は基本英語でしょ」

「ユウキ君、読めるの?」

「郁島も学校で習ってるじゃん」

「それは絶対に教わってないと思う」

 

 どうだっていい。今は思考を目の前に集中させたい。さあ、科学の始まりだ。

 

___________________

 

 

「―――キ君。ねえ、ユウキ君ってば」

「あっ。え、何?」

 

 郁島の呼び声で、現実へと連れ帰される。情報処理の速度を限界まで引き上げていたせいか、声にすら気付いていなかったようだ。

 まだ午後十五時を回ったばかり。開始から約二時間しか経っていない。感覚で言えば、倍の四時間以上は文字と数値の羅列を読み耽っていたような気分だった。

 

「一通りは調べてみたけど、目立った事件とかは見当たらないかな」

「ん。もう少し調べてくれない?方法は任せるよ」

「そのつもりだよ。ユウキ君の方はどう?」

「こっちも同じ……いや、もっと悪い」

 

 文献のデータはダウンロードせず、プリントも厳禁という言い付けは、開始十分後には破っていた。文献を読み込むにはやはり紙ベースに限ると考え、コンビニの複合機でプリントを繰り返すこと数回。重要と思われる部分へ赤線を引いた文献がそこやかしこに散乱して、僕の宿泊部屋はさながら研究室のような様相へと変貌していた。

 

「参ったね。これは確かに、無謀かもしれない」

 

 想像を絶する世界だった。異界化を引き起こすファクターの数だけ、論点がある。

 目の前の論文も同じだ。初めはヒトの感情、社会心理学の切り口から入ったかと思いきや、唐突に気象力学の話になり、結論に至っては分子遺伝学。まるで無数の学問による考察のごった煮だ。今のまま続けても、取っ掛かりすら得られる気配がない。

 浴室のシャワーと似たような物だ。床面に降り注ぐ水滴の位置から、ノズルの位置は高い精度で導き出せる。しかしノズルから落下する水滴の位置を予測するなんて、現実的じゃない。それに近しい試みだ。

 

「身の程を弁えろ、過信は禁物だってことは、以前にも学んだはずなんだけどな。正直に言って、頭が痛いよ」

「そんなことない。ユウキ君は、すごいよ」

「慰めはいいっての」

「ううん、そうじゃなくて。最近ね、ずっとそう感じてたの」

「……郁島?」

 

 不意に、語気が変わった。

 ペンを置いて振り返ると、郁島は遠い何かを見詰めるような表情で、窓際に立っていた。突然のことに戸惑う僕を余所に、郁島は続けた。

 

「多分、ユウキ君にはバレてるよね。ここ最近は、自分でも何を考えてるのか、よく分かってないんだ」

「郁島……」

「でも、諦めちゃ駄目だよ。ユウキ君ならきっとできる。私にない物を、ユウキ君は沢山持ってるんだから」

 

 郁島が微笑みを浮かべると、僕は自然と立ち上がっていた。胸が高鳴り、同時に痛みが走る。

 分からない。その笑顔の裏で、郁島が何を想っているのか。僕には分からない。分からないということ、それ自体に―――苛立ちを通り越して、怒りを覚えた。

 

「あのさ。諦めたなんて、僕言ったっけ」

「え?」

 

 まだたったの二時間、始まったばかりだ。進展はなくとも、得られた物はある。

 

「もっと視点を狭めたい。そっちはもういいから、手伝って欲しいことがある」

 

 過去に前例を見ない異変。杜宮と一緒だ。隈本城で起きた一連の現象は、この地で起こるべくして起こった。そう当たりを付けて、情報収集の方向も変えるべきだ。

 文献は日本国内に焦点を当てた物に限定、国内特有のデータのみに注視。極端に言えば、発生地点や日時とも関連付けて考察したい。何より必要なのは、この隈本に詳しい人間だ。

 

「場所は隈本県内、時期的な物事は今月っていう条件で、思い付いたことを紙に書いてくれない?何でもいいから」

「な、何でもって言われても……本当に、何でもいいの?」

「そう言ってるだろ」

「辛子れんこん、とか?」

「いいね。名産品じゃん」

「もうすぐ桜が咲く、とか」

「ん、その調子」

「……ちょっと楽しいかも」

 

 これでいい。地元民の郁島だからこその視点と考え方が、取っ掛かりになる可能性は充分にある。

 あとは僕の問題だ。柊先輩なんかとは比較にならないけど、それなりに場数を踏んできた。過去の経験と勘所を活かすためにも、主観を少々入れ込んだ方がいいかもしれない。

 考えろ。考えて、見付けるんだ。この隈本を―――郁島の故郷を、守るためにも。

 

___________________

 

 

「……ん?」

 

 気を取り直して、再び出口のない迷路に身を投じてから、更に二時間後。

 その論文に目が行ったのは、単純に興味を惹かれたからだった。

 

「身投げに伴う、異界化の発生……ピークは、三月」

 

 自殺。全てを諦め、投げ出した末の逃避と、異界化。

 国内における自殺の件数は、月別で見ると三月でピークに達する。その大きな要因とされているのが、三月を決算期とする企業が圧倒的に多いという点。つまり状況によっては倒産、失業に追い込まれた挙句、自殺という選択に思い至った社会人が急増する傾向にあった。

 論文のデータは、自殺と異界化件数の関連性を見い出した物だった。近年の国内において、三月は異界化の件数が僅かに増加する。多くの要因があると考えられる中、その一つが自殺という負の感情の極限。統計学的な優位性はあるし、実に興味深い。

 

「ユウキ君?」

「うわっ」

 

 何度目か分からない不意打ち。気付いた頃には、郁島の顔は目と鼻の先にあった。顔が近い、近過ぎる。

 

「何だよ。驚かすなよな」

「そ、そんなつもりじゃ。物騒なことを呟いていたから、気になって」

「……まあ、確かに」

 

 知らぬ間に口に出してしまっていたようだ。こんな状況で自殺云々を呟いていたら無理もない。

 簡単に論文の内容を説明すると、郁島は憂いに沈んだ顔で言った。

 

「さ、三月が……でもこれ、今回の件に関係あるの?」

「あるとは言い難いね」

 

 三月という時期に一致はあれど、手掛かりらしい物は見当たらない。

 そもそも自殺が引き起こす異界化は、全体に占める割合で言えば極々僅か。増加率は微々たる物だ。論文のデータの大部分も一九九九年と二〇〇三年、つまり失業率の高い年度がピックアップされているし、だから何だという話だ。

 

「このグラフは何?」

「異界化とは関係ないって。追い込まれた人間が取った、行動の一覧が……の……っ!?」

 

 膨れ上がった負の感情によって、精神的に追い詰められた者が取る行動。

 這い上がろうと、救いの手を望む人間がいれば、現実から逃げ出す者もいる。僕らのような学生なら、塞ぎ込んで不登校に。或いは現実から逃げ出して―――『家出』を。

 

「家出……家出?」

「え?」

 

 家出。論文の片隅に記載されていたグラフ中にあった単語。

 決して身近ではないそれを、僕は見た。最近どころか、つい今し方に見た覚えがある。

 

「い、郁島。お前紙に書いてたよな、家出って」

「家出……ああ、これのこと?」

 

 何だって構わないから、思い付いたことを書いて欲しい。二ページに渡る郁島の走り書きの中に、家出の二文字は確かに存在していた。

 

「これ何のことだよ。何で家出って書いたのさ?」

「それはほら、確か昨日バスで話したよね。『あなたの名は』の主人公達が、家出しちゃうってやつ。あれを思い出して、何となく書いただけだよ」

「あ……」

 

 そうだ。この隈本を舞台にしたヒット作に登場する、二人の主人公。将来への不安、そして両親との仲違いが深刻化した末に、二人が取った家出という逃避。

 

(関係……ある、のか?)

 

 真っ暗闇での手探りばかりが続いていた中、初めて見せた繋がり。いや、まだ繋がりと呼べるかすら疑わしい。偶然の一致と考える方が自然だ。

 しかし可能性はゼロじゃない。まるで根拠のない勘に等しい物かもしれないけど、今は客観的な意見が欲しい。冷静に考えて、考察しろ。

 

「郁島は、主人公に共感できた?」

「共感?」

 

 思い付いた単語を打ってブラウザ検索をしながら、郁島に問い掛ける。

 

「同じような感情っていうか……そもそも二人の主人公は、どうして家出したんだ?家族との溝が深まった原因は?」

「ま、待って。えーと……あっ。二人が家出したのも、ちょうど三月のこの時期だよ」

 

 まただ。三月。立て続けに繋がりが増えていく。逸る気持ちを抑え、郁島の声に耳を傾ける。

 

「二人は高校二年生でね。来月から三年生に進級するから、本格的に進路を考えなきゃいけなくなって、それで……うん。少しだけ、分かる気がするな。去年の私と、ちょっと似てるかも」

「え……そう、なの?」

「だって初めての一人暮らしだよ?杜宮に住んでたのは小さい頃で、知り合いもほとんどいなかったし。勿論、高校生活が待ち遠しいっていう想いはあったけど、不安もあったよ。家族と離れ離れになって、独りでやっていけるのかなって。そういう怖さは、あったと思う」

 

 郁島の意外な一面を垣間見た瞬間だった。

 考えてみれば、当たり前の感情だ。幼少の頃の記憶なんて曖昧なもので、杜宮は郁島にとって見知らぬ地と言っていい。高校生の一人暮らしも一般的とは言い難い。漠然とした不安を抱く方が自然だ。

 僕はどうだろう。一人暮らしを始めた時期は、僕も大体同じだ。あの頃の僕は―――僕は。

 

「……え?」

 

 どうして。

 どうして、忘れていたのだろう。

 僕も、同じだ。

 

「ユウキ君?」

 

 僕は捨てた。逃げたんだ。

 勝手に貯金をして、父親との付き合いを拒絶して。姉さんの想いから、目を逸らして。

 単なる我がまま、逃避だ。あれは独立なんかじゃなくて、『家出』だったんだ。

 全部同じじゃないか。だから僕は、あの小説を読もうという気が起きなかった。過去の負い目を突き付けられて、晒し者にされているような気分がして―――

 

「……ああもう。郁島、じっとしてて」

「へ」

 

 ―――だから、何だよ。自己嫌悪の堂々巡りは、もう懲り懲りだ。

 

「ゆゆ、ユウキ君?」

「いいから」

 

 郁島の両肩に手を置いて、正面から見据える。

 郁島の目には、今の僕が映っている。過去の僕じゃない、今の僕だ。足を引っ張るのも大概にしろ。お前はお呼びじゃない。お前が何を言ったって、僕はもう動じない。今の僕はここにいる。自分の意思で、この隈本にいる。

 

「……よし」

「よくない。何が『よし』なのか全然分かんない」

 

 仕切り直しだ。余計な物は全て削ぎ落とす。感情も要らない。必要な物は、頭の中に入っている。

 

「今から僕の考えを話すよ。郁島の意見も聞きたい」

 

 この二日間を振り返ってみれば、手掛かりは初めから揃っていた。それらを繋ぎ合わせていけばいいだけの話だ。その中心が、『あなたの名は』。

 

「単純な話さ。あの小説に陶酔するファンの中に、過度に感情移入をした人間がいたとしても不思議じゃない。主人公に共感して、小説に希望や救いを求めた人間が、何をすると思う?」

「何を……も、もしかして」

「そう。聖地巡礼という名の、逃避だよ」

 

 小説の内容を聞いた限り、結末はハッピーエンド。身体が入れ替わるという現実離れをした現象に見舞われ、結果として二人の主人公は淡い感情を胸に秘めながら、明日へ向かって歩いていく。

 しかし小説は小説。創作に過ぎない。たとえ物語の舞台である隈本城を訪ねたところで、何も始まらない。何も変わらないという現実に直面するだけだ。

 一方で小説の人気度は高まり続け、巡礼者も右肩上がりに増加の一途を辿る。その数だけ負の感情は蓄積していき、やがて共鳴したかのように、異界化という最悪が顔を覗かせた。

 

「じゃあその一端が、あの異変だってこと?」

「そういうことになるけど……まだ推測に過ぎないよ。暴論と言っていい」

「そ、そうかな。私はすごく説得力があると思うけど」

 

 現段階では推測の域を出ない。もっと判断材料が欲しい。こんなことになるなら、僕も毛嫌いをせずに読んでおけばよかった。

 

「あれ?でも……あっ」

「郁島?」

「ああああっ!!?」

「ひっ」

 

 未読を悔いるやいなや、郁島の叫び声が室内に響き渡る。

 両目を大きく見開いた郁島は、慌てた様子で鞄の中身を漁り出した。取り出されたのは、隈本城内のマップだった。

 

「い、郁島?」

「えと、待って。確か……ええっと」

「な、何だよ。いいから言えって」

「待ってよ。私もちゃんと、思い出せなくて……ユウキ君、パソコン借りてもいい?」

 

 郁島はパソコンの前に座ると、覚束ない手付きでキーボードを叩き始めた。

 ブラウザ検索に使用した単語は三つ。『あなたの名は』、『主人公』、『出会い』。ざっと検索結果を見渡した後に、二回目の検索。『あなたの名は』、『再会』、『二回目』。それで気付くなと言う方が、無理な話だ。

 

「やっぱりそうだ。フェイズ0の揺らぎが生じた場所は、全部そうだよ。小説に出てる。しかも物語の重要な場面。二人の主人公が本音を語り合って、入れ替わった所」

「成程ね……郁島、お手柄だよ」

 

 一気に可能性が高まり、思わず胸が躍った。

 それでも尚、確信は持てない。発生地点の次は、発生した日時。時期的な部分を固めたい。

 

「でも、どうして今なんだ?あの小説が発売されたのって、確か去年の話でしょ?」

「去年の暮れだよ。話題になり始めたのは、年が明けてからかな」

 

 劇中の時系列と合致はしているから、三月のこのタイミングで、と考えても辻褄は合う。

 しかしやはり妙な話だ。いくら冬休みだからと言って、あの混み具合は異様だ。訪問客の急激な増加が今回の異変に繋がったとしても、それ自体の説明が付かない。

 もう一歩。あと一つだけ、あるはずだ。その答えも、検索結果の中に存在していた。

 

「「映画化!」」

 

 郁島と交代してマウスをクリックし、お気に入りに登録していた動画サイトを開く。先週から公開され始めていた映画のPVはすぐに見付かり、華麗なアニメーション動画が流れ始める。

 

「すごく綺麗……今のアニメって、すごいね」

「そこじゃないっての。でもこれで、全部揃ったよ」

 

 最後の最後で異変の引き金となったのは、皮肉にもアニメーション技術の最高峰。視覚的にも『あなたの名は』に魅せられたことで、聖地巡礼者の急増、更なる想い入れに繋がった。

 動画をゆっくり眺めている暇はない。一刻も早く真実を伝え、早急に対応して貰う必要がある。

 

「今の話をデータと一緒に纏めるよ。郁島は隈本城に戻って、中の様子を見て来て欲しい。もしかしたら、また何かが起こっているかもしれないしね。まだ開いてる?」

「任せて。すぐに出ればギリギリ間に合うと思う」

「言っておくけど、見るだけだからな」

「わ、分かってるよ」

「ん……ああ、それともう一つ」

 

 部屋を出ようとしていた郁島を呼び止めて、僕は慎重に言葉を選んだ。

 

「その……話を、聞かせて欲しい。郁島が最近、考えてたこと」

 

 沈黙の後、郁島は無言で首を縦に振った。胸の痛みは、どうにもならなかった。

 

 

 

 



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エピローグ

 

 ゾディアックの対応は迅速だった。僕らが導き出した結論を知るやいなや、一時間後には閉園した隈本城に人員を配置。九箇所にも及んだフェイズ0の揺らぎには特殊な処置がなされ、それ以上の侵蝕に至る可能性は排除された。事後報告が僕らの下に届いたのは、午後八時過ぎのことだった。

 

「あっという間に終わったね」

「貴重な休日を無駄にしたけどね」

「あはは。無駄って言わないでよ」

 

 僕と郁島は今、隈本城のふもとに立っている。とっくに閉園時間は過ぎていたけど、事態の収束へ大いに貢献したこともあり、特別に立ち入りが許されていた。

 通常なら拝めない、夜の隈本城内。ある意味で貴重な体験だ。

 

「少し休んでいかない?流石に私も疲れたよ」

「同感」

「それに……話、したいから」

「……ん」

 

 休憩所のベンチに向かう道すがら、自動販売機に小銭を入れて、炭酸飲料のボタンを押した。郁島にも選ぶよう促すと、郁島は困ったような笑みを浮かべて、同じボタンに触れながら言った。

 

「ユウキ君は、覚えてるかな。私がユウキ君を、弟みたいに思ってるって言ったこと。六月頃だっけ?」

「ああ、それ?忘れるはずないでしょ」

 

 忘れて堪るか、と声を大にして言いたい。あれは五月末、放課後の話だ。

 缶の蓋を開けながらベンチに腰を下ろすと、やや離れた位置に座った郁島は、思いも寄らない告白を始めた。

 

「多分、私はね。ユウキ君のことを、下に見ていたんだと思う」

「はあ?」

「だってそうだよ。いつも独りでいるユウキ君を放っておけなかったっていう想いに、嘘はなかったけど……同い年を年下扱いするなんて、普通はしない。ユウキ君も、良くは思ってなかったみたいだし。そう、だよね?」

「それは……まあ。確かに、そうだけどさ」

 

 他人を見下すなんて、郁島に限ってあり得ない。素直にそう思える反面、居心地の悪さを感じていた自分を、否定はできない。郁島が焼いた世話の数々は別問題だ。集団を嫌って単独に走る僕を放っておけず、声を掛けたり、昼食を押し付けたりしたのは、郁島の良心による行動だ。

 一方で、男子としての自尊心や誇りは、少なからず僕にだってある。同い年の女子から唐突に弟扱いをされて、決していい気はしなかった。嫌で仕方なかったぐらいだ。僕のそんな感情を、郁島は敏感に受け取っていたのかもしれない。

 

「でもユウキ君は、変わったよ。私がいなくても、クラスに溶け込んで、みんなから頼りにされてる」

「眼科に行った方がいいんじゃないの?」

「またそうやって。それに昨日の夜は、すごく大人に見えた。正直に言うとね、ちょっと戸惑っちゃった」

 

 昨晩。食事に出掛けた時のことだろうか。僕が大人びていたというより、ああいった場に郁島が慣れていなかっただけの話だろうに。

 

「今日だってそう。天才だって持て囃されてたって、前に言ってたけど、私はその通りだと思う」

「視野が狭いよ。僕以上の天才は世界中にいるし、今回の決め手は郁島の物だろ」

「ううん、違わない。同じ高校生にあんなことできないよ。天才って本当にいるんだなって、思い知らされた」

 

 段々と話が見えなくなっていく。郁島の意図が掴めない。一体何を言おうとしているのか。

 視線を落としていた郁島は、大きく息を吸い込みながら頭上を仰いだ。夜空に一際明るく輝いた月の光が郁島を照らして、不明瞭だった視界に、郁島の表情が浮かんだ。

 

「だから私、お姉さん役を止めようって考えてた。今に始まった話じゃなくて、前々からずっとそうしたかった」

 

 思わず息を飲んで、飲み掛けの缶が足元に転がった。

 分からない。僕はまた、郁島が分からない。

 

「でも、できなかったよ。止めたかったのに、どうしても、できなかった」

 

 どうして。どうしてだ。

 どうしてお前は、深い憂いを帯びた表情で、泣いてるんだよ。

 

「だって、何も残らない、から。ユウキ君が、遠くに、行っちゃいそうで」

「い、行く訳ないだろ。何言ってんだよ、行かないって」

「わた、私はただ、特別で、いたかっただけ、で」

「まっ……駄目だ、やめろ。もういいって、言うな、言わなくていい」

 

 視界が歪んでいく。自分への憤りが一気に膨れ上がり、両拳を握ろうとして、思い留まる。代わりに僕は、郁島の手を取っていた。

 

「一番で、いたかったの。ユウキ君、の、一番に」

 

 何が天才だ。何が神童だ。僕は、馬鹿だ。

 そっと寄り添うだけでよかった。こんな小さな手を、握るだけでよかった。

 募る想いと向き合うだけで、よかったはずなのに。

 

「散々僕を振り回しておいて……何、言ってんのさ」

 

 郁島の手は僕よりずっと逞しくて、そして小さかった。

 自分以外の誰かの手が、とても温かく、儚くて―――愛おしかった。

 

___________________

 

 

 季節は春を迎えた。

 月が替わり、始業式を来週に控えた四月の初め。X.R.C全メンバーに集合を呼び掛けたのは、部長のコウ先輩。クラブの存続が確定したことだし、改めて今後一年間の活動方針について話し合おうという先輩の召集は、恐らく頓挫するに違いない。

 クラブの性質上、協議の内容が曖昧な上に、今日は青天にも恵まれ、外出には打って付け。どうせ玖我山先輩あたりが「折角だから遊びに行かない?」とか言い出して、カラオケに直行だ。

 想像を働かせながらクラブハウスに入り、二階へ上がる。部室の扉を開くと、既に僕以外の面子は揃っていた。

 

「オッス。相変わらず時間にルーズな奴だな」

「遅刻はしてないでしょ。効率がいいって言って欲しいよ」

 

 コウ先輩と柊先輩は相変わらず。玖我山先輩もいつも通りのハイテンション。郁島は右手を振って応え、遠藤先輩は―――誰だよ、この人。

 

「あはは。ユウ君は相変わらずだね」

「アンタ誰?」

「予想通りの反応をどうもありがとう」

 

 レッドブラウン色の眼鏡。そして初対面の時と同じショートヘア。似合っているかどうかはともかく、まるで別人のような変貌を遂げていた。

 

「四宮君。それを直接聞くのはどうかと思うわよ」

「色々あったのよねー、アッキーは。でもまあ、可愛らしくていいんじゃない?」

 

 詳細は追々聞くとしよう。僕と郁島が玖州で右往左往していた最中、先輩も先輩で、とある騒動に巻き込まれていたらしい。

 少なくともあの眼鏡は本来、遠藤先輩にとっては傷のような物。かつて記憶を失い、視力の低下に苛まれていた期間中に使っていた眼鏡だ。それを進んで掛けているということは、何かしら心変わりがあったのだろう。余計な詮索は不要だ。

 

「ワリィ。顧問のトワ姉も来る約束なんだけど、少し遅れてるみたいだな」

 

 時刻は午前十時ピッタリ。今日もあの人は多忙を極めているらしい。コウ先輩の血筋は、きっと働き者ばかりに違いない。

 ちょうどいい。喉も渇いていたし、少し席を外しても問題ないだろう。

 

「おいユウキ、何処行くんだよ」

「飲み物を買いに行くだけだって。すぐに戻るよ」

「あ、なら俺のも買ってきてくれ。コーラな」

「私もコーラが飲みたい」

「レモンティーをお願いするわ」

「あたしはあれ、さくらブロッサムクリームラテ」

 

 百歩譲って後輩としての務めを果たすとして、最後のは馬鹿なのか。駅前にしか売ってない。

 やれやれと溜め息を付いていると、郁島が椅子を引いて立ち上がる。

 

「私も行くよ。一人で持てる量じゃないしね」

「ああ、そう」

 

 扉の前で立ち止まっていると、郁島が鞄から財布を取り出した拍子に、一枚の硬貨が床へと落下した。硬貨はコロコロと縦に転がっていき、やがて戸棚と床の僅かな隙間に吸い込まれていった。

 

「んん……困ったなぁ。手が届かないよ」

「箒なら届くんじゃないの。用務員室の柄が長い奴」

「あ、そっか。じゃあ取って来るね」

「別に後でいいでしょ。先に行ってるよ、ソラ」

「ち、ちょっと待ってよユウキ」

 

 部室を出て、横並びになって廊下を歩く。部室の扉を閉め忘れたせいで、先輩らの好き勝手な会話が背後から聞こえてくる。

 

「何かしら。妙な違和感があったような気がするわ」

「うんうん、あった。ていうかすごくあった」

「まあ、何かはあったんだろうな」

「あはは。きっと良いことがあったんですよ」

 

 あの頃。一年前の僕は、桜が嫌いだった。

 春を報せる花びらが嫌いで、新たな高校生活を前に、何の希望も見い出すことができないでいた。

 でも今は、悪くないと思える。春爛漫の陽気で、胸が一杯になる。

 桜の香りが心地良くて―――僕の右手は、温かかった。

 

 

 

 



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ラストストーリー
3月19日 彼が彼女に惹かれた理由


後日談最終話は、再びアキが中心となります。
最後までお付き合い頂ければ幸いです。


 

 三月十九日、土曜日。アルバイト先のベーカリーショップ『モリミィ』店内。

 午後十四時を過ぎた時間帯に入ると客足は疎らになり、工房も一先ずの落ち着きを見せ始める。とはいえ業務はいつ何時にでもあるもので、来客がないからこそ済ませておくべき作業もある。

 先ずは上限一杯にまで積まれたベーカリートレーを片そうと、鼻歌混じりにトレーの拭き掃除を始めた頃、出入り口のドアチャイムが鳴った。

 

「いらっしゃいま……あれ、リオンさん?」

「おっつー、アッキー」

 

 玖我山リオンさん。亜麻色のパーカーを羽織り、目元には伊達眼鏡。少々地味目の出で立ちは、人目を忍んでの選択だろう。

 リオンさんは店内を見渡しながら歩を進め、レジカウンター越しに私と向かい合った。

 

「やっぱりバイト中だったのね。電話に出なかったから、多分ここかなって思って」

「あ、そうだったんですか?すみません、バイト中はロッカーに入れてるんです」

「ううん、気にしないで。お昼がまだだったし、アッキーがいなくてもついでに買って帰るつもりだったんだけど……ねえ、パンの種類減ってない?これじゃお客さんが来ないわよ」

「来ないから減らしてるんです……」

 

 考え方が逆だ。書き入れ時を過ぎた時間帯に量を焼いても、買ってくれるお客さんが来ないのだから仕方ない。商品の鮮度が落ちるか、閉店後の廃棄量増加に繋がるだけだ。

 こちらの都合だけで言えば、来店の時間はある程度統一してくれた方が大変ありがたい。その方が焼き立てを提供できるし、フランスパンやデニッシュは尚更だ。本物の焼き立ての美味しさを知っている人間が、この日本にどれだけいるのだろう。

 

「ふうん、まあいっか。さてさて、何にしよっかなぁ」

 

 苦笑をしてトレーを拭いていると、リオンさんがフラフラと店内を歩き始める。

 何だろう。何処となく暇そうというか、当てもない散歩をしているように見えてしまう。

 

「リオンさん、今日お仕事は入っていないんですか?」

「来週までフリーよ。今日から冬休みだし、ゆっくりしようかなって考えてたんだけど、みーんな出掛けちゃってるのよね。アスカとコウ君なんて海外じゃん」

「あー、確かに。ソラちゃんとユウ君も玖州でしたね」

 

 リオンさんが言うように、アスカさんと時坂君は今朝方に日本を発っていた。

 渡米の目的は昨年末の一件。ジェーンに纏わる、運命の悪戯とでも表すべき一連の事件。二十年前に始まった因果。それらと正面から向き合い、一歩前に進むための二人旅、と言ったところだろうか。アスカさんの心境は、きっと本人にしか―――アスカさんと時坂君だけが、理解し得る物だ。

 ともあれ現状の杜宮に、X.R.Cメンバーは私とリオンさんだけ。ソラちゃんは玖州へ帰省中だし、ユウ君はまだ杜宮にいるけれど、明日の朝には玖州に旅立つ。引退した先輩らも新生活に向けて忙しない日々が続いているらしい。

 ちなみにシオリさんも今日から都外へ家族旅行。連休中に遠出をする回数が増えたのは、杜宮の外へ出られなかった反動もあるのだろう。それはシオリさんだけではなく、きっと家族全員の想いに違いない。

 

「成程。要するに、時間を持て余しているんですね」

「そうなのよねー。アッキーもアッキーで冬休み初日からバイトって何よ。ちょっと働き過ぎじゃない?」

「絶対にリオンさんの方が働き者だと思いますけど……まあ、そうですね。私もそろそろ―――」

 

 ―――定時を迎える時間なので。私の声を遮ったのは、男女二人の来訪客。その珍しい組み合わせに、リオンさんも意外そうな表情を浮かべた。

 

「ミズハラさん……に、アカネさん?」

「やあ、こんにちは」

「お疲れさまです、遠藤さん。それに、玖我山さんも」

 

 客観的に見れば、驚くようなことではない。駅前のドラッグストアと家電量販店の店員らが偶然出くわして、少々遅めの昼食を買いに来た。或いは知らぬ間に、親密な仲になっていた、とでも受け取ればいい。

 けれど私達は、二人が持つ裏の顔を知っている。異界化という、現実且つ非現実的な世界を知る、極々限られた人間が二人。そしてこちら側も同様の二人。嫌な予感が脳裏を過ぎって当然だった。

 

「ど、どうも。えーと……」

「急にすまないね。X.R.Cの部員を探していたんだけど、ちょうどよかった。玖我山さん、君も来ていたんだね」

「まあ、はい。私とアッキーに、何か用ですか?」

 

 リオンさんが問い掛けると、ミズハラさんとアカネさんの視線が重なり、首が縦に振られた。

 無表情と無言の語り合い。その仕草が、予感を確信へと変えた。

 

「実は君達に、話しておきたいことがあってね。急ぎではないから、遠藤さんのアルバイトが終わった後で構わないんだけど……」

「あ、もうすぐ定時なんです。少しだけ待って貰えれば、すぐに時間は取れますけど、いいですか?」

 

 今日の定時は十四時半。あと十分もすれば上がりだ。リオンさんに言い損ねていたことを伝えると、二人は店内を見渡しながら言った。

 

「それなら、ここで待たせて貰おうかな。お腹も空いていたし、折角だから……あれ。明太フランスパンは売り切れか。残念だな、僕の好物なのに」

「ダークチェリーのデニッシュがない……ない」

「……誠に申し訳ございません」

 

 いやだから、この時間帯に来られても。そんな弁明は口が裂けたって言えるはずもなく。

 手痛いクレームとチャンスロスを前に、私は困り顔で謝るしかなかった。

 

___________________

 

 

 モリミィを後にした私達は、話の場を壱七珈琲店へと移した。ヤマオカさん自慢のコーヒーをご馳走になり、芳醇な香りが仕事の疲れを癒してくれる一方、アカネさんが切り出した話は、穏やかではない内容だった。 

 

「サイフォンの試作機が、消えた?」

 

 リオンさんと顔を見合わせ、首を傾げる。

 サイフォン。勿論、手元のコーヒーを淹れるのに使われたサイフォン式ではなく、単なるスマホの紛失でもない。それでは私達がわざわざ連れ出されたことに説明が付かない。

 

「発覚したのは昨日、紛失したとされるのが三日前。場所は都内の生産工場に設置されたラボになります。そこでは密かに、異界探索用サイフォンの研究と試作が進められていました」

「その一つが消えちゃったって訳?」

「はい。外部へ流出しないよう、研究データは勿論、現物の試作機も厳重に管理されていたはずですが……盗難の可能性も含め、捜査を開始しています」

 

 異界探索用のサイフォン。外見は市場に流通している一般品と同じで、見た目では判断が付かない。

 しかし耐久性だけで言っても、最先端の科学と異界物質の恩恵に与った代物だ。謳い文句の「エルダーグリードが踏んでも壊れない」に冗談は一切含まれていない。サイフォンに搭載された機能、異界探索に特化した専用のアプリは、異界へ踏み入った適格者にとっては命綱に等しい生命線。その異常な耐久性はあって然りではあるけれど、外部へ出回っていいはずがない。

 

「えーと。事の重大さは、理解したつもりです。でも、どうしてそれを私達に?」

「試作機にインストールされていたアプリが問題でして……お二人は『術式』をご存知ですね?」

 

 私とリオンさんが頷きで応える。

 知っているも何も、アスカさんやミツキ先輩の術式に助けられた場面は多々あった。強固な結界を展開したり、治癒術で外傷の治りを早めたり。時に、記憶を覗かれたり。あれはあまり思い出したくはない。

 

「術式の多くは、適格者や霊能者のみが扱える物です。ラボで行われていた研究は、その縛りを解消をすることが目的でした」

「縛りを、解消?」

「……成程。柊さんは敢えて、その辺りのことを話していなかったようですね」

 

 あまりピンと来ない私達に、アスカさんは要約して教えてくれた。

 術式と称される異能の力は、適格者をはじめとした異能の持ち主だけが揮うことができる。一方で、ある程度の知識や経験を有してさえいれば、簡単な結界を張るような術式なら、一般人でも充分に手が届く。術式を二つへ大別するなら、その可否がベースになるそうだ。

 アスカさんが多くを語らなかった理由には、大方察しが付く。ソウルデヴァイスと違って、術式の力は現実世界でも行使が可能だ。しかし人目に付けば一大事では済まされない。だからこそアスカさんやミツキ先輩は己が手に留め、秘匿性を重んじていたのだろう。

 

「紛失した試作機には、『記憶操作』の術式に関するアプリが入っていました。記憶の消去や介入といった高位の術式は、一般人には不可能な芸当です。ですが試作機があれば、それを覆せる」

 

 段々と話が見えてきた。もし事実なら、大変な事態に繋がる恐れがある。

 厳重に管理されていたのだから、単純にラボの研究員が紛失してしまったという可能性は、万が一にもない。だとすれば、第三者による盗難。もしもそこに、明確な意思があったら―――『記憶操作』という異能を欲する人間の手に、渡っていたら。

 

「き、急に物騒な話になったわね」

「ですね。悪用されたら、大変なことになりますよ」

「我々も最悪を想定して捜査を進めていますが、手掛かりを掴めていないのが現状でして……些細なことで結構です。今後気になる情報があれば、ご協力頂けると助かります」

「オッケー。記憶のスキャンなら、あたしも直に見たことがあるわ。アッキーも実際に使われた身だしね」

「あ、あまり思い出したくはないです」

 

 ジェーンの事件での一件か。あれが最初で最後であって欲しい。一瞬眩暈がしたかと思いきや、頭の中を直に掻き回されたかのような凄まじい不快感。思い出すだけで気分が悪くなる。

 ともあれ、全容は理解できた。私達が力になれる方法が思い浮かばないけれど、知っているとそうでないとでは大きく違ってくる。悪用されることを前提に、構えておいた方がいい。

 

「私からは以上です。ミズハラさん、お待たせしました」

「え?」

 

 すると突然、話の矛先が変わった。アカネさんの隣で聞き役に徹していたミズハラさんは、冷え気味のコーヒーを一口啜ると、表情を緩めて口を開いた。

 

「僕の話は大した内容じゃないよ。遠藤さん、君に折り入って相談があるんだ」

「わ、私にですか?」

「僕が大学時代にお世話になった助教……いや、今は教授か。その人が都内の大学に勤めていてね。専門は植物学なんだけど、僕と同じで異界化に通じている。異界植物の専門家さ」

 

 大学教授で、異界植物の専門家。まるで住んでいる世界が異なる人物だ。そんな人が、私への相談にどう繋がるのだろう。想像を働かせながら、耳を傾ける。

 

「今でも度々お世話になっていて、研究室の設備なんかを使わせて貰っていてね。その見返りとして、とある人を紹介して欲しいと頼まれていたんだ」

「……誰を、ですか?」

「君の知り合いさ。異界植物に詳しい青年だよ」

「えっ。ま、待って下さい。異界……植物?」

 

 まるで心当たりがない私に、ミズハラさんは続けた。

 

「一人いるだろう。怪異に魅入られ、強制的に異界植物の知識を植え付けられて、『HEAT』という画期的な霊薬の精製に成功した、彼のことだよ」

 

___________________

 

 

 同日の晩。杜宮商店街の西端にひっそりと佇む老舗、蕎麦処『玄』。休日の夜ということもあり、焼酎を嗜む常連客が足を運び出し、静かな賑わいを見せ始めた時間帯に、暖簾を潜る青年らの姿があった。

 

「いらっしゃい。何名様で……おう、アキヒロじゃねえか」

「こんばんはッス、シオさん。御無沙汰です」

 

 戌井アキヒロ。本人の与り知らないところで注目を浴びていることなど露知らず、アキヒロはシオへ大きく頭を下げて挨拶をした後、背後に立っていた二人の男子を隣に立たせた。シオには見覚えのない、一目で外国人と分かる出で立ちは、店内でも視線を集め始めていた。

 

「見ねえ顔だな。こいつらは?」

「最近BLAZEに入った新入りッス。留学生ってやつでしたっけ。シオさんにも紹介しておこうと思って、連れて来たんスよ」

「アントンっす!お会いできて光栄っす!」

「リックスです!よろしくおねがいしゃーす!」

 

 アントン、リックスと名乗った二人は、立ったままの姿勢で両膝に手を付き、お辞儀をした。任侠映画等で目にする独特の仕草。あまりに異様な光景は悪目立ちが過ぎて、アキヒロが二人の後頭部を小突きながら言い聞かせる。

 

「バカ野郎、大声出してんじゃねえよ。お客さんに迷惑だろうが」

「クク、おもしれえ奴らが入っじゃねえか。しかも妙に馴染んでるな。服装や髪形が、ちょいと気にはなるが」

「あー。こいつら日本の漫画が大好きで、その影響らしいッス。かなり昔の不良漫画が特に好きらしくて」

 

 二十年以上も前に流行した不良漫画がキッカケとなり、日本という島国に惹かれ、遂には留学に至る。その過程で費やした努力は、日常会話に支障を来さない程に膨大な物だった。一昔前の不良漫画特有の癖はあるのだが。

 

「まあいい、座れよ。カツ丼でいいか?」

 

 シオが三人をテーブル席に案内し、オーダーを確認する。

 玄を訪ねた目的は、蕎麦と並んで根強い人気を誇るカツ丼にもあった。来日してまだ日が浅い新入りに、絶品の日本食を味わわせてやりたいという、リーダーなりの気遣い。それを察していたシオは、小さく微笑みながら、厨房に立つ親代わりにオーダーを伝えた。

 

「シオさんは今日も忙しそうッスね。大学の方はどうなんスか?」

「入学式は四月の頭だが、来週に新入生向けのガイダンスってのがある。先輩らも歓迎会を開いてくれるって話だ。お前の方はどうなんだ、職場では上手くやれてんのか?」

「大変ッスよ。力仕事以外の作業が、ちょい苦手で。でも何とかやれてるッス」

「そうか。今日はゆっくりしていけ、疲れもあるだろうしな」

「……ありがとうございます」

 

 昨年末からアキヒロが始めた仕事内容は、所謂倉庫内作業。『鷹羽組』の若頭、梧桐エイジによる仲介もあり、商品の搬入や整理を担う準社員として、汗を流す日々が続いていた。

 その一方で―――上手くいかない部分も、当然ある。一人の従業員として働く以上、アキヒロの過去は職場内に知れ渡っている。彼を歓迎し、受け入れてくれる人間がいれば、快く思わない人間もいる。

 アキヒロは一瞬だけ憂鬱な表情を浮かべた後、頭を横に振って雑念を払い、対面のアントンに話を振った。

 

「そういやお前、惚れた女にフラれたって話を聞いたぜ」

「言わないで下さいよ……まだ立ち直れていないんすから」

「相手が悪過ぎなんだよ。ありゃ魔女か何かだ。お前よく無事だったな」

 

 アントンが来日早々、一目惚れをしてしまった女性。とあるアンティークショップの女主人の正体を、アキヒロは知っていた。

 異界化に纏わる記憶は全て残っていた。X.R.Cによる最終作戦の真っ只中、得体の知れない力でグリードを次々に葬り去る一人の女性。頭上を舞うタロットカードを刃に変え、嬉々として戦場を支配する様は、正に魔女。冗談ではなく、アキヒロは本気でアントンの身を案じていた。

 

「アキヒロさんは、どういう女性が好みなんすか?」

「あん?俺?」

「やっぱこう、気合いが入った女とかっすか?」

 

 リックスの突然の振りに、アキヒロが考え込むような素振りを見せる。

 好みの女性。自然と思い浮かんだ要素を、アキヒロは口にした。

 

「そうだな……眼鏡は、いいよな」

「め、眼鏡っすか?へえ、意外っすね」

 

 アントンとリックスが驚いた様子でアキヒロを見詰めていると、水が入った人数分のグラスがテーブルに置かれた。会話の内容はシオの耳にも入っており、性的嗜好を問うという他愛ないやり取りは、リックスからシオへと向いた。

 

「シオさんはどうっすかね。アキヒロさんと同じで、眼鏡の女に惹かれたりするんすか?」

「眼鏡?眼鏡か、俺の周りにはあまり……ああ、そういや後輩が一時期掛けてたっけな」

「一時期?」

「ああ。去年の夏の話なんだが、クラブの後輩に視力が一気に落ちちまった奴がいてな。そん時に眼鏡を掛け始めたんだよ」

「視力が一気にっすか。そりゃ難儀な話っすね」

「つっても一時的な症状で、ひと月ぐらいで治ったんだけどな。今じゃ眼鏡も掛けてねえし、元々視力はいい方で……どうしたアキヒロ。眉間に皺が寄ってるぜ」

「いや……その。何でもねえッス」

 

 視線を斜め上に向けて、何とも形容し難い表情を浮かべるアキヒロ。その戸惑いの正体に察しが付いたシオは、生温かい視線をアキヒロに向けながら、彼の肩へぽんと利き手を置いた。

 

「あの、シオさん。何すか?何で笑ってんスか」

「笑ってなんかいねえよ。俺はただ……フ、ヒッ」

「めっちゃ笑ってますよね。すっげえ笑ってるじゃないスか」

「ムキになるなってアキ、ヒロ」

「なってないッスよ。つーか俺まだ何も言ってないじゃないッスか。いやまだっつーか何も言う気ないッスけど。何なんスか一体」

 

 アキヒロの追及に、シオが肩を震わせながら笑いを耐え忍んでいる一方。アキヒロら三人に続いて、出入り口の扉を開ける、常連客の姿があった。

 

「こんばんはー」

「「!?」」

 

 近所のアパート『ガーデンハイツ杜宮』の住民ら、女性が五人。

 口コミで話題が広がり、プロのアーティストとして活動を始めつつあるタマキ。ヴァイオレット色の神秘的な瞳が魅力の、ポーランドからの留学生アイリ。流行物のダイエット食材に弱い、市内近郊の職場に勤めるOLシホ。杜宮のマスコットキャラクター『モリマル』へ異常なまでの愛情を注ぐ、アクロスタワーの従業員トモコ。

 そして―――

 

「いらっしゃいませ。何名様でぶふっ」

「……あの、高槻先輩。どうかしました?」

「いや…っ……五名で、いいか?」

 

 ―――遠藤アキ。口元を手で押さえ、必死になって耐えるシオの胸中など知る由もなく、アキは五人の先頭に立って、アキヒロらが座る席から離れたテーブルへと向かった。

 

「アキヒロさん、急にどうしたんすか?何を見てるんすか?」

「実は昨日の晩に寝違えちまってな。首を曲げられねえんだ」

「さっきまで普通に前向いてた気がするんすけど……」

 

 一方のアキヒロは、アキが座ったテーブル席とは反対の方角に顔を向けて、知らぬ存ぜぬを決め込んでいた。

 そして惚れっぽい性分のアントンは、瞬く間にアイリの人並み外れた美貌に魅せられ、口を半開きにして彼女を見詰めていた。相棒役のリックスは「またかよ」と言わんばかりに肩を落としていた。

 

「ま、マブい。ゲロマブ過ぎる。アキヒロさん、あれ見て下さいよ」

「お前それ死語ってレベルじゃねえからな……つーか興味ねえ。俺は髪が短え方が好みなんだよ」

 

 アキヒロが素っ気ない態度で答えると同時に、出来立てのカツ丼がテーブルへ運ばれてくる。先程と同様、三人の会話はシオも把握していた。未だ笑いの波が引き切っていないシオへ、リックスが気軽に話を振った。

 

「アキヒロさんはショート派なんすね。それは分かる気がするっす。シオさんはどうっすか?」

「髪型か。そういや向こうの席に……いや、さっき話した後輩なんだけどな。知り合った頃はショートだったんだが、去年の夏から髪を伸ばし始めたんだよな」

「へえ。それはまたどうして?」

「髪を切るのが面倒なんだとよ」

「うっわ。それ女として終わってるじゃないっすか」

「どうだろうな。でも確かに、昔の髪型の方がいいって奴がいるかもしれ……どうしたアキヒロ。出来立てだ、熱いうちに食っちまえ」

「まあ……はい。そうッスね」

 

 テーブル上のカツ丼には見向きもせず、精一杯首を明後日の方角へ向けるアキヒロ。ドツボに嵌まりつつあるシオは、平静を装おうともせず、小刻みに震えながら、アキヒロの肩へぽんと利き手を置いた。

 

「どうしたんだよアキ、ヒロ。様子がおかしいぞ」

「それシオさんッスよね。何でツボってるんスか」

「俺がか?妙なことを言うんだなアキ、ヒロ」

「さっきからすげえ気になってんスけど、何でちょいちょい刻むんスか。何で「アキ」と「ヒロ」の間に妙なスペース空けて「アキ」を強調するんスか。いやめっちゃ笑ってるじゃないッスか」

「おま……勘弁、してくれ。し、死ぬ」

 

 アキヒロは思う。かつては理不尽に立ち向かう男気溢れるチームのヘッドとして羨望を集めていた彼が、涙目になって腹筋を崩壊させる姿など、当時を知る人間は想像できただろうか。絶対にできねえ。

 頭が痛いどころではないアキヒロを余所に、アントンとリックスはシオの勧めで熱々のカツ丼に舌鼓を打っていた。

 

「あっ!」

 

 そして決して広いとは言えない店内で、シオと会話を交わすアキヒロの姿に、アキが気付かない訳がない。全ては時間の問題だった。

 

「おら、来たぞ。観念しろ」

「……はあ」

「こんばんは、アキヒロさん。アキヒロさんも来ていたんですね」

 

 アキヒロらのテーブル席にやって来たアキは、若干不服そうな表情で言った。

 

「もう、高槻先輩。どうして教えてくれなかったんですか?」

「できる訳ねえだろ。俺を殺す気か」

「全く意味が分かりません……」

 

 三人のやり取りを不思議そうに眺めるアントンとリックス。彼らの関係など当然知らされてはなく、二人の何かを言いたげな視線に気付いたシオが、アキヒロに代わって応える。

 

「聞いて驚け。こいつがBLAZEのヘッドと対等、クイーンの称号を持つ女だ」

「ええ!?マジっすか!?」

「や、やめて下さいよ。私はそんな称号を貰った記憶がないです」

「ちなみにさっき話した後輩ってのもこいつのことだ」

 

 称号はともかく、アキヒロと臆することなく話ができる女子高生はほんの一握り。そういった意味では、アキヒロと対等というシオの表現は的を得ていた。

 

「あれ?」

 

 そしてリックスは、先に思わず吐いてしまった自身の言葉を思い出す。

 「女として終わっている」。アキヒロと面識があり、彼と対等の位置に立つ女性に対する感想としては、最悪過ぎる十文字。底なしの絶望感に青褪めたリックスへ、アキヒロが耳打ちした。

 

「おい。後で面貸せや」

 

 理不尽と真っ向から戦う集団のリーダーによる、あまりに理不尽な照れ隠し。シオは再度噴き出して、遂には立っていられず、店内で大笑いをする彼の頭部へ、オヤッさんの鉄拳制裁が下った。

 

___________________

 

 

 人知れず玄で発生した珍事の後。

 一旦皆と別れたアキとアキヒロは、商店街の通り沿いを歩きながら、缶コーヒーを片手に食後の一服をしていた。会話の内容は勿論、壱七珈琲店における一件。事情が事情なだけに、直接話をしたいと考えていたアキにとって、玄でアキヒロと居合わせた偶然は好都合だった。

 

「大学の教授だぁ?」

「はい。直接ではないですけど、私も異界関係でお世話になっていたそうでして。その筋では有名な方だそうです」

 

 ミズハラがアスカをはじめとした関係者に提供する霊薬の類は、彼自身の手で調合される。その大部分はミズハラの勤め先が所有する設備によって精製されるのだが、物によっては大規模な専用機器が必要となる。高位の治癒薬等はとりわけ純度が求められ、そういった際にミズハラはかつての恩師を頼っていた。つまりアキが使用していた治癒薬は、当の教授による厚意があってこそのとっておきだったのだ。

 

「なので私としても、恩返しの意味を込めて挨拶をしておきたいんです。ミズハラさんの体裁もありますし……アキヒロさんは、どうですか。異界植物の件について」

「んなこと言われてもな。俺の知識なんざ超適当だぜ。こういう葉っぱはこうやって吸えばこうなる、みてえな」

「それがすごく貴重みたいですよ。学会の間でも、アキヒロさんの名前は知れ渡っているそうです」

「き、気持ちワリィな。勝手に注目してんじゃねえよ、クソが」

 

 アキヒロは一度立ち止まり、夜空を仰いだ。

 知らぬ間に、己の頭の中に存在していた数多の知識。その重要性は理解していた。だからこそ、即答は躊躇われる。

 

「アキヒロ、さん?」

 

 曖昧だからこそ、底が知れない。良くも悪くも、異界植物の効能は常軌を逸している。

 『HEAT』がいい例だ。ヒトが腕力だけで大木を薙ぎ倒せるはずがない。裂傷が一晩で完治する訳がない。数日間眠らずに身体を酷使できる人間が何処にいる。数々のあり得ないを現実に変えてしまう方法を―――自分は、知っている。

 

「あの、どうかしましたか?」

「いや……それで、いつなんだ」

「はい?」

「その教授ってのと、いつ会えばいいのか聞いてんだよ」

 

 遠回しの肯定。アキヒロはやれやれと溜め息を付いて、思考を後回しにした。

 小難しく考えるのは性に合っていない。どうするかは会ってから判断すればいい。そんなアキヒロの胸中に考えが及んでいなかったアキは、複雑な笑みを浮かべながら言った。

 

「そ、それがですね。明日の午後にでもどうか、という話でして」

「はああ?正気かよ、いくら何でも急過ぎんだろ」

「忙しい方なので、明日の日曜日を逃すと、月曜日には海外へ出張してしまうそうなんです」

「……ったく。特別だかんな、クソが」

「あ、ありがとうございます」

 

 アキヒロは毒づきながら、アキの横顔に視線を向けた。アキはその視線に気付くことなく、別の話題に触れ始めていた。

 

「そうそう。話は変わりますけど、チヒロちゃんって覚えてますか?七月のあの日に、私達と一緒に神社へ立て籠もっていた女の子」

「ん……」

 

 瞼を閉じれば、鮮明に思い出される。七月上旬、夏の始まりに杜宮が見舞われた異変。小規模の聖域と化した神社での籠城劇。そして―――出会いと別れ。あまりに衝撃的な出会いと、別れ。

 

(人の気も、知らねえで……クソが)

 

 この世の理不尽に負けない。決して屈せずに抗い続け、立ち向かう。BLAZEが掲げる信条は、アキヒロ個人としての意志でもあった。

 かつての自分は、現実から逃げるばかりだった。高槻シオへ吐き散らした言葉は、全て裏返しだった。その弱さに付け込まれ、弱さが火種となり、挙句の果てにはこの杜宮に、災厄をばら撒いてしまった。

 だからこそ、もう逃げないと誓った。どんな理不尽や不条理からも目を逸らさず、戦って見せる。ただがむしゃらに精一杯、ひたむきに。新たな決意を固めつつあった矢先に、杜宮は異変に襲われて―――アキという名の、自分と同じ季節の名を有する女性は、唐突に舞い降りた。

 

『私に明日は来ません。今日が、最期です』

 

 彼女が直面していた運命は、理解の範疇を越えていた。理不尽や不条理といった言葉がちっぽけに思える程、救いようのない、あまりに儚い三日間だった。

 約束された死。刻一刻と迫り来る最期。発狂して当たり前だ。我を見失い、己の運命を呪って然りの中、アキが見い出した光は、『戦う』という決断だった。

 

 死を目前に控えた、段々と身体が消えていく日々を、他人のために捧げる。

 自分以外の誰かを想い、誰かのために戦って、戦って、戦い続けて。

 彼女の手から放たれる火球は、まるで『BLAZE』を象徴する焔。赤々と燃え盛る正義の意志。

 極限の理想像。彼女から目が離せなかった。その姿に、惹かれていた。

 

 やがて訪れた別れ。最期を看取る役目を、彼女は自分に託してくれた。

 堪らなく嬉しくて。堪らなく、悲しくて。

 去り際に彼女が浮かべた笑顔を。その意志を証明するために―――俺は。

 

「―――という訳でして。アキヒロさんは、どうしますか?」

「あん?」

「あん、じゃないですよ。もしかして、聞いてなかったんですか?」

 

 不満気なアキの声で、現実へと連れ戻される。

 アキヒロはアキに構うことなく、腕組みをしてアキの頭部を見詰めながら言った。

 

「おい。お前何で髪を伸ばしてんだ」

「え?ああ、これは伸ばしているといいますか、切っていないというだけで、別に痛っ。え、どうして今叩いたんですか」

「るせえ。何となくだ」

「何となくで叩かないで下さいよ!?」

 

 別にそういった嗜好があるという訳ではない。

 アキヒロにとって想い入れのあるアキ。凛とした短髪と、地味な眼鏡の向こう側に映っていた、確固たる意志を感じさせる瞳。それこそが、彼が惹かれたアキ。ただそれだけの話だった。

 

 

 

 



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3月20日 拒絶

 

 最寄り駅から路線バスに乗り、国道沿いを順調に進むこと約十分。

 大学構内入口のロータリーに降り立った途端、新鮮味溢れる光景が視界一杯に広がって、思わず足が止まった。私の隣に立っていたアキヒロさんも同様で、感嘆の声を上げ始める。

 

「すっげえ広いのな。大学ってのは全部こうなのか?」

「全部って訳ではないと思いますけど、総合系の大学はこんな感じだと思いますよ」

「見たことあんのかよ」

「はい。一年生の頃、大学の見学会がありましたから」

 

 まだ伏島にいた頃の話だ。大型バスを使い、同学年の生徒全員で、地元の国公立大学を訪ねたことがある。あの時も高校とは比較にならない構内の広大さに驚かされた。まるで規模が異なる別世界だ。

 

(そういえばここって……アスカさんと、時坂君の)

 

 異界関係者が在籍しているからだろうか。私の記憶違いでなければ、この大学はアスカさんと時坂君の志望校でもある。第一志望ではなかったと思うけれど、来年の今頃はあの二人がこの道を歩いているかもしれないと考えると、不思議な感覚があった。

 

「おい。いつまでぼーっとしてんだよ」

「あ、すみません。そろそろ行きましょうか」

 

 入口付近に設置されていた案内板で、現在位置を確認する。念には念をと考え、公式ホームページから構内のマップをプリントしてあるから、迷うことはないだろう。学生の姿は散見されるし、分からなければ尋ねればいい。アイリさんが話していた通り、日曜日でもそれなりの人数がいるようだ。

 二人並んで中央の通りを歩いていると、アキヒロさんが首元に手をやり、息苦しそうな表情を浮かべた。杜宮駅で落ち合って以降、もう何度も目にした仕草。思わずクスリと笑うと、手の甲で頭を小突かれてしまった。

 

「痛っ。あの、アキヒロさん?いちいち叩かないで下さいよ。何回目ですか、このやり取り」

「るせえ。ったく、息苦しくて仕方ねえんだよ。オッサン共は何で平然としていられんだ?同じ人間とは思えねえぞ」

「ま、まあまあ。大学を出たら外していいと思いますよ」

 

 今日の私の服装は杜宮学園の制服姿。一方のアキヒロさんは、紺色のスーツとネクタイを着用した、畏まった出で立ちをしていた。

 アキヒロさん曰く、今の職場へ勤めるに当たって、梧桐さんが彼に贈った平服だそうだ。梧桐さんからは出世『三倍』払いと脅されているらしいけれど、就職祝いのような物なのだろう。見掛けによらず面倒見がいい一面は、高槻先輩を思わせる。

 

「それにしても、金を払ってまで勉強しようって奴の気がしれねえな。理解不能だ」

「そ、そこまで言わなくても……でもアキヒロさんだって、技能講習を受けるって言ってましたよね。何でしたっけ、あれ」

「フォークリフトのことだろ。資格取んのに必要なんだよ。今の職場じゃ必須だからな」

「へえ。フォークリフトって、何に使うんですか?」

「何ってお前、こうやって二本のツメをぶっ刺して荷物を運ぶんだよ」

「ツメを、刺す?」

「だからこういうツメをな、こうやって、こう」

「……キョンシーですか?」

「お前バカじゃねえの?」

 

 再び叩かれた頭部を擦っていると、目的地と思しき建屋が目に入る。地図と周囲の立地を照らし合わせて、再度確認。間違ってはいないはずだ。

 

「理学部棟三号館……ここですね」

「やっとかよ。さっさと入ろうぜ」

「あ、待って下さい。日曜日は開いていないそうなので、インターホンを使わないと」

 

 インターホンを鳴らすと、事務員と思しき女性が対応してくれた。

 指示に従い、入ってすぐのエレベーターに乗って五階へ。通路に出ると人気はなく、私達の足音だけが際立って聞こえた。各部屋の扉には研究室名の他、担当教員の氏名が記された札、在席と不在の何れかを示すプレートが掛けられていた。

 そして私達が辿り着いた先は、『植物生理学研究室』。主である大西教授は、私が扉をノックするよりも前に、部屋の中から告げた。

 

「どうぞ。開いているよ」

「し、失礼します」

 

 一声置いてからそっと扉を開けて、恐る恐る中へ入る。

 私達を迎えてくれた大西教授は小柄な初老の男性で、恐らく年齢は私の祖父母と同程度。白髪交じりの頭髪と柔らかな物腰が、緊張感を解してくれたような気がした。

 

「初めまして。杜宮学園の、遠藤アキです」

「戌井だ」

「アキヒロさんっ」

「……戌井アキヒロ、です」

「そう畏まらなくていいよ。普段通りで大いに結構」

 

 大西教授の勧めで丸椅子に座り、室内を見渡す。

 部屋の内部は整然としていて、研究室を思わせる要素は思いの他に少なかった。壁に貼られた見慣れない植物の写真を眺めていると、コーヒーカップを両手に持った大西教授が、テーブルを挟んで向かい合う形で座った。

 

「まずはお礼を言わせて欲しい。本来であれば私が出向くべきなのだろうが、生憎都合が付かなくてね。御足労に感謝するよ」

「こっちも先に言っとくが、会いてえっつーから来てやっただけだ。協力してやるなんて、誰も言ってねえからな」

「あ、アキヒロさん」

 

 アキヒロさんの物言いを改めようとするやいなや、大西教授は大仰に笑い声を上げた。

 

「少し誤解があるようだね。君の異界植物に関する知識が目当てだと、ミズハラ君が言っていたのかな」

「……違うのか?」

 

 アキヒロさんと視線が重なり、思わず首を傾げてしまった。

 私も同じ想像をしていた。「異界植物の研究者がアキヒロさんに関心を示している」と言われれば、その目的は彼の知識にあると考えるのが自然だ。だからこそアキヒロさんも今回の面会に前向きではなかった訳だけれど、どうも食い違いがあるようだ。

 

「勿論、君の知識を疑っている訳でもない。紛れもない本物だと確信しているよ。あの『HEAT』が何よりの証拠だ」

 

 HEAT。怪異に取り憑かれたアキヒロさんが生み出した、強壮剤とは名ばかりの霊薬。

 

「君達は知らされていないかもしれないが、戌井君がHEATの調合に使用した異界植物のサンプルは、ネメシスとゾディアック、二つの勢力によって分析された。両者合わせて、九つのラボの元に届けられたんだ。ここを含めてね」

「そ、そうだったんですか?」

「我々も早々に再現実験へ取り掛かったよ。サンプルを使い、HEATと同様の霊薬を精製すべくね。その結果、どうなったと思う?」

 

 大西教授は両手を上げて、降参を示すような手振りをしながら続けた。

 

「ゼロさ。誰一人として成功しなかったよ。二大勢力が有する、国内有数のラボが総出で取り組んだのにも関わらず、だ。後々になって、本部のラボが成果を出したと聞いているが……この日本では、戌井君。君だけだ」

 

 呼び起こされたのは、杜宮が見舞われた異変の記憶。何度も七月八日が繰り返される中、アキヒロさんは異界植物を駆使して、数々の妙薬をその手で精製した。現実世界の医薬品で例えるなら、安定剤や睡眠導入剤、鎮痛剤といった、市販品と大差ない些細な物ばかりだった。

 けれど、現実にはあり得ないのだ。異界植物とアキヒロさんの知識が揃えば、あらゆる可能性が生まれる。それこそ、HEATに並ぶ異界ドラッグでさえ。

 

「君はその知識に関する何らかを、他者に話したことがあるのかな?」

「ねえに決まってんだろ。ベラベラ喋っていい情報だとは到底思えねえからな。悪用でもされたら堪ったもんじゃねえしよ」

「しかし現実として、君の知識を欲する者はいる」

「だろうな。やっぱアンタもその口か?」

「いいや。私は知的好奇心よりも、秩序を重んじたい」

 

 大西教授は立ち上がって振り返り、腰の後ろで手を組みながら、頭上を仰いで言った。

 

「君が有する知識は、異界植物学の発展へ大いに貢献するだろう。しかし君という存在はあまりにイレギュラー過ぎる。私にはパンドラの箱のようにしか思えない」

 

 唐突な面会の目的が、私にも理解できた気がした。

 これは恐らく、勧告だ。怪異によって植え付けられたアキヒロさんの知識は、一歩間違えれば火種になり得る。パンドラの箱という大西教授の表現は言い得て妙だ。

 私も肝に銘じておこう。アキヒロさんのことだから心配は無用だろうし、言われずとも重々承知という思いもあるけれど、権威筋の言葉だ。用心に越したことはない。

 

「なあ、もっと分かり易く言ってくんねえか。俺はアンタみてえに頭よくねえんだよ」

「そう卑下する必要はない。君は考えていた以上に利口な青年のようだね。自らが置かれた立場を、よく理解しているよ……さてと。細かい話は後にして、よければ食事でもどうかな。この大学の食堂は結構有名でね」

「当然アンタの奢り―――」

「あーあーあー、何でもないです、何でもありませんから」

 

 声と同時に、ついつい手が出ていた。後で謝っておこう。絶対に仕返しされる。

 

___________________

 

 

 大西との面会と食事を終え、大学を後にしたアキとアキヒロは、その足でベーカリーの有名店を見て回った。「折角の機会だから市場調査をしたい」というアキの熱意は留まることを知らず、もう一店、あと一店だけといったように増えていき、結局二人が杜宮駅を出たのは午後二十時。遅くとも夕方には帰って来れるだろうというアキヒロの期待は、見事に裏切られる結果となっていた。

 

「やれやれ。もうこんな時間かよ」

「す、すみません。私のせいで」

 

 大量のパンが入った袋をスクーターのメットインに放り込み、アキの頭部を手の甲で小突く。

 癖になりつつある動作と、不満げなアキの表情。その一連に安らぎを覚え、アキヒロが苦笑していると、アキはぽんと手を叩いて言った。

 

「あっ、そうだ。来週の日曜日、空けておいて下さいね」

「来週?何かあんのか?」

「も、もう忘れたんですか?チヒロちゃんのお家でお楽しみ会をやるっていう話ですよ」

 

 先日の晩にアキの口から語られた、アキヒロにとっては驚愕の誘い。全ての始まりは、やはり七月八日にあった。

 小規模の聖域と化した神社へ逃げ込んだ住民は、アキとアキヒロを含め複数人。父親と逸れてしまった小学生のチヒロもその一人で、友人のフウタとショウゴと共に、境内へ逃げ込んだ少女だった。

 勿論、異界化に関わる記憶は一切なく、局所的な地震に襲われたという全く別のそれと置き換わってはいた。一方で、男女二人に救われたという事実はしっかりと覚えており、アキとの付き合いは今でも続いていた。アキヒロを招きたいというチヒロの誘いは、当たり前の感情に起因していた。

 

「おい待て。まだ行くって言ってなかっただろ」

「でもチヒロちゃん、絶対来てねって言ってましたよ。フウタ君とショウゴ君も、また会いたいって」

「……ああクソ、面倒事ばっか持ってきやがって」

 

 ここ最近は時間の経過がやけに早いと、アキヒロは感じていた。あっという間に一週間が過ぎて、また新たな一週間が始まる。

 だからきっと、次の日曜日もすぐに。アキヒロは不意に緩んだ表情を隠すようにヘルメットを被り、スクーターの座席に跨った。

 

「じゃあな」

「はい。今日はありがとうございました」

「お前が言うなバカ」

 

 アキは手を振りながら、段々と遠退いていくアキヒロの背中を見詰めていた。

 軽口や憎まれ口ばかりの中から時折見い出される、真っ直ぐな一面。一つ、また一つと増えていくに連れて胸が躍り、鼓動が高鳴る。日曜日が待ち遠しくて仕方なかった。

 

「あれ?」

 

 自転車を停めていた場所へ向かおうとすると、足元で何かが光る。屈んでまじまじと見詰めた先には、小さな鍵のような物が落ちていた。

 形状から察するに、二輪車の鍵ではない。寧ろ毎日のように使用しているアパートのそれと同じ類の物。

 

(もしかして、アキヒロさんが?)

 

 念のためにとアキはサイフォンを取り出し、今し方この場を去ったアキヒロの番号へ発信した。数回の呼び出し音の後、通話はすぐに繋がってくれた。

 

『んだよ。まだ何かあんのか』

「アキヒロさん、もしかして鍵を落としませんでしたか?」

『鍵?ちょい待て、何の―――』

 

 ―――突然の轟音に、声が掻き消される。驚きのあまり手を離してしまい、サイフォンが足元へ落下した。

 

「……アキヒロさん?」

 

 ゆっくりとした動作でサイフォンを拾い上げると、既に通話は切れた後だった。再び発信するも、聞こえてくるのは呼び出し音ばかり。一向に繋がる気配がなく、段々と重々しさが首を締め上げて、呼吸が乱れていく。

 

「アキヒロさんっ……!?」

 

 アキは弾かれたように駆け出し、大急ぎで自転車の鍵を開錠してペダルを漕ぎ始めた。

 駅からアキヒロの自宅への帰り道は覚えていた。駐輪場を出て人気の少ない裏道を通り、真っ直ぐに東へ。ほとんど一本道のような物だから、迷う要素はない。一心不乱に自転車を走らせるアキの脳裏には、最悪の可能性が見え隠れをしていた。

 やがて視界に入ってきたのは、道端に停められた一台の軽自動車。その手前には、横倒れになったスクーター、ヘルメット。アキは目元に涙を浮かべつつ、自動車の傍らに立っていた女性に早口で言った。

 

「す、すみません!アキヒロさん、アキヒロさんは!?」

「ま、待って。それって、このスクーターに乗っていた人?」

「そうです。もしかして、事故、ですか!?」

「分からないの。私も今通り掛かって、スクーターが倒れていたから、転倒したのかなって思ったのよ。でも、誰も見当たらないから、変だなって」

「見当たらないっ……?」

 

 大慌てで周囲を見渡すも、アキヒロの姿はない。事故ではないのなら、サイフォン越しに聞いた轟音は何だ。それにあれからたかだか数分間しか経っていないのだから、何処にも行きようがないというのに。この場で一体何が起きたというのか。

 

「え?」

 

 不意に遠方から、声が聞こえた気がした。

 道路を挟んで、住宅街とは反対側の雑木林。数メートル先すら窺えない真っ暗闇の中から、呻き声のような何かが聞こえた気がする。いや、確かに聞こえた。

 

「っ……!」

 

 意を決して、アキは暗闇に身を投じた。生い茂った草木を掻き分けて、一歩ずつ強引に押し進んでいく。徐々に声は鮮明になっていき、不明瞭極まりない視界に、何かが映った。

 複数人の気配。漸く思い出したサイフォンのライト機能を使って、アキは前方の空間を光で照らした。

 

「あ―――」

 

 あまりに悍ましい光景に、アキは呼吸を忘れた。

 両手に握った棒状の『何か』を振り下ろす、男性が四人。地面には、うつ伏せに倒れたアキヒロ。男性のうち一人と視線が重なって、一瞬の静寂が訪れる。

 膠着からいち早く脱したのは、棒を放り投げた男性だった。男性は身動きが取れないでいたアキの背後へと回り込み、片腕でアキの身体を拘束し、一方の腕を口元に当てて、声を封じた。

 

「ん、んんん!?」

「喋るんじゃねえ。何もしねえから大人しくしてろ」

 

 光が消えて、暗闇が目の前を真っ黒に染め上げる。

 しかし目と鼻の先で再開された悪夢は、意思に反して映ってしまう。理解できてしまう。棒が振り下ろされる度に、微かなアキヒロの声が漏れる。本来であれば絶叫してしまう程の苦痛に、声を捻り出すことすらできていない。

 渾身の力を込めて、アキは身を縛る腕を振り払った。解放された声を以って、アキは泣き喚くように叫び声を上げた。

 

「ぶはっ。あ、アキヒロさん!?駄目、やめて!」

「てめえっ……!」

 

 すると突然、右頬を途方もない衝撃が襲った。耳鳴りが響いて、口の中が鉛臭さで一杯になり、拳で殴り倒されたという事実に、後追いで気付かされる。

 

「うあ、あぁあ、あ?」

 

 じんわりと広がっていく苦痛のあまり、地面に蹲っていると、胸倉を掴まれて強制的に立たされてしまう。眼前には、いきり立った異性の顔があった。

 

「まわされてえのか、ああ?」

「えっ……え?」

 

 上着の間から手を入れられて、腹部を撫で回された。

 やがて乳房に届いた手は、ふくよかさを鷲掴みにした後、先端に触れた。

 てらてらとした舌が首筋を這って、音を立てて肌を吸われた。

 理解が追い付かず、それ以上の行いの意味が、分からない。

 

「や、だ。いい、い、やっ」

 

 底なしの不快感。現実が地獄と化して、愕然とした。

 アキヒロが何をされているのか。自分の身に何が起きているのか。分からない。もう、分からない。

 

「おい、何してんだ!?余計な真似してんじゃねえ!」

「ちっ……やってねえよ。剥いただけだって」

 

 終結も突然だった。狂気に及んでいた男性らは、特に急ぐ様子もなく、まるで何事もなかったかのように、その場を去っていった。

 拘束を解かれたアキは、がたがたと身体を震わせながらアキヒロの下へ歩み寄り、地面に膝を付いて、変わり果てた彼をぼんやりと見詰めていた。

 

「アキ、ヒロ……さん」

 

 声は返ってこない。それどころか、微動だにしない。いつもいつもアキの頭を叩いていた左手は、鮮血に染まっていた。

 

「どうして……どうして、こん、な」

 

 地面から世界が崩壊していくようで、アキは身体を揺らしながら座り込んだ。深くて深い絶望の底には、何も見当たらなかった。

 

___________________

 

 

 翌日の朝。

 アキヒロの搬送先である杜宮中央病院のフロントには、高槻シオの姿があった。一報を聞かされたシオは、朝一で病院を訪ねると共に、東京を離れていた北都ミツキと連絡を取り合っていた。

 

『……状況は、概ね理解しました』

「卒業旅行中にワリィな。後輩共はともかく、お前には言っとかねえとって思ってよ」

 

 ミツキは今現在、エリカをはじめとした同性の友人やクラスメイトと一緒に、『プチ卒業旅行』と称した旅路の真っ只中にいた。多少の迷いはあれど、シオは後輩が見舞われた凄惨な事件の一連を、既にミツキにも伝えていた。

 

『それで、その。ニュースサイトにも、複数の記事が掲載されていますが。これは、事実なのですか?』

「ああ。全員が同じ供述をしているそうだ。犯人は全員、『HEAT』に纏わる一件の被害者らしい」

『……胸が張り裂けてしまいそうです』

「俺もだよ。頭がどうにかなっちまいそうだ」

 

 暴行に及んだとされる容疑者、計四名。昨晩の内に自ら警察署へ出頭し、暴行の事実を認めた男性らの供述には、決定的な共通点が存在していた。

 曰く、戌井アキヒロから暴力行為を受け、病院送りにされた報復。

 曰く、戌井アキヒロから暴力行為を受け、人生を狂わされた報復。

 曰く、戌井アキヒロから暴力行為を受け、トラウマを背負わされた報復。

 曰く、戌井アキヒロから暴力行為を受け、転職を余儀なくされた報復。

 杜宮市在住の男性という点を除いて、繋がりらしい繋がりが見当たらない四人を繋ぐ過去。HEATを過剰に摂取するあまり、半ば錯乱状態にあったアキヒロによって刻まれた傷。その爪痕が引き金だと、各メディアはこぞって取沙汰していた。

 

『遠藤さんは、今どちらに?』

「午前中は警察署で事情聴取を受けるって聞いてる。どれぐらい掛かるか知らねえが、昼前には終わるんじゃねえのか」

 

 アキヒロが重傷を負った一方、アキの外傷自体は軽度。口内を二針縫うことにはなったものの、日常生活には支障を来さず、叔母のタマキと共に、警視庁が管轄する杜宮警察署に出頭していた。

 

『遠藤さんのことは、私から伝えておきます。エリカさん達に……黙っておく訳には、いきませんから』

「……ああ。宜しく頼む」

 

 一先ずの通話を終えて、深い溜め息を付く。随分と損な役回りをさせてしまったものだと、シオは頭を痛めた。

 そして、背後で目元を真っ赤に腫らしていた、こいつにも。シオは玖我山リオンの肩に手を置いて、優しげな声で言った。

 

「泣くなとは言わねえよ。今の内に、全部出しちまえ」

「っ……アキは、あんなに、頑張ってた。なのに、どうしてアキは、いつもこんな目に……わけ、わかんない」

「ああ。そうだな」

 

 それ以上の掛けるべき言葉が見付からず、シオは目頭を押さえて天井を見上げた。視線を戻すと、病棟の奥からやって来る二人の男性に目が留まった。

 シオやリオンに先んじて駆け付けていた、私服姿のミズハラ。そしてその隣には、疲労感溢れる表情の、白衣を着た男性の姿があった。

 

「今、話せるかい?」

「はい、大丈夫ッス。玖我山、いけるか?」

「ん……」

 

 シオとリオンが案内されたのは、別棟である南館の四階。関係者用の講堂は広々としていて、学園の教室二つ分以上のスペースがあった。

 何故こんな場所に。二人は引っ掛かりを抱きつつ、ミズハラの声に耳を傾ける。

 

「紹介するよ。彼はこの病院で外科医を担当しているヒノハラだ」

「初めまして。ミズハラは大学時代の後輩でね。学部は違ったけど妙に気が合って、今でも付き合いがあるんだ。『あっち』関係でも、度々ね」

 

 何気ない代名詞が『異界』を意味していることは、すぐに察することができていた。そもそも杜宮中央病院は、ゾディアックの息が掛かっている。シオは勿論、リオンは今でも『天使憑き』絡みで通院中の身。異界関係者が複数いたとしても、取り立てて驚きもしなかった。

 合点がいった様子の二人に対し、ヒノハラは重々しい声で告げた。

 

「申し訳ないけど、悪いことから話させて貰うよ。一番の重傷は、右脚大腿骨の骨折だ」

 

 アキヒロの容体。詳細を知りたいと思う反面、耳を塞ぎたくもある。ヒノハラは続けた。

 

「リハビリの期間を含めると、完治まで四ヶ月間は掛かる。暫くは寝たきりの入院生活が続くだろう」

「四ヶ月……そんなに、掛かるんスか」

 

 呟きに近い擦れ声。一方のヒノハラは、ぱんと両手を叩き合わせた後、微笑みを浮かべながら、明るい語気を帯びた声で言った。

 

「そう悲観しないでくれ。彼はまだ若いし、体力もある。僕の見立てが良い意味で外れる可能性だってあるさ」

「……本当ッスか?」

「ああ。それに君達は、この杜宮を救った英雄だ。特別扱いはできないけど、医師として出来る限りの協力はするよ。君達も気を落とさずに、戌井君を支えてあげてくれないか。それが何よりの癒しになる」

 

 ヒノハラの言葉に、シオとリオンは互いの顔を見合わせて、首を縦に振った。

 絶望感ばかりが付き纏う中、垣間見えた僅かな希望。二人は努めて表情から陰鬱さを追い出し、前を見据えた。

 

「アキヒロのこと、宜しくお願いします」

「あたしからも、どうか。お願いします」

 

 ミズハラと固い握手を交わしたシオとリオンが部屋を出て、スライド式の扉が閉まると、二人の同窓だけが残される。

 無言同士の探り合い。語らずとも伝わる意思。やがて口火を切ったのは、ヒノハラの方だった。

 

「なあミズハラ。俺が何を考えているのか、分かってるよな?」

「駄目だ。それだけは……絶対にできない。霊薬は、違うんだ」

 

 方法はあった。一介の薬剤師であると共に、もう一つの世界に生きるミズハラにとっては造作もない選択。適格者に提供している高位の霊薬を使えば、完治四ヶ月どころか、二週間と経たないうちに劇的な治癒をもたらす。異界耐性が強いアキヒロの身体なら、副作用の懸念もない。

 しかしそれは『裏』に限った話。現実世界という『表』においては、決して踏み入ってはならない領域であり、ミズハラ自身の理念に真っ向から反する所業でもある。

 全能の神のようでいて、この世の理を捻じ曲げる悪魔。ミズハラにはどうしても、選べなかった。

 

「それでいい。俺は勿論、お前が気に病む話でもない。そう思い詰めるなよ。顔色が悪いぞ」

「お前こそ、ひどい顔だ」

「夜間急患が入ると、大体こんな感じさ」

 

 かつての学友に背中を叩かれ、ミズハラは不器用に笑った。同時に彼は、奇妙な違和感を抱き始めていた。

 

___________________

 

 

 午後十一時過ぎ。杜宮警察署付近のコインパーキング敷地内で、タマキはアキの帰りを待ちながら、サイフォンの液晶と睨めっこをしていた。

 掛けるべきか。それとも待つべきか。そもそも知らされているのだろうか。最近は安定傾向にあり、着実に前進しつつあったというのに。

 

「コマキ姉……」

「タマキさん?」

「ひゃっ」

 

 不意を突かれ、サイフォンが掌の上で踊った。しっかりと両手で受け止め、ほっと息を付いてから振り返る。

 

「もう終わったの?」

「はい」

「じゃ、帰ろっか」

 

 敢えて多くは語らず、軽自動車のロックを解除して、二人同時に乗り込む。

 タマキの動作は、そこで止まった。エンジンは沈黙したままで、エンジンキーに手を伸ばす様子もない。暫しの間を置いた後、シートベルトを閉めながら、タマキは口を開いた。

 

「その、あのさ。変なこととか、聞かれなかった?」

「いえ、特には。ただ……襲った人達のことは、教えて貰いました」

「……そう」

 

 ハンドルを握っていた手に、過度の力が込められる。キーを回すと、沸々と湧き上がるタマキの感情に呼応するかのように、エンジンが唸り声を上げた。

 私は唯一、全てを知っている。アキの供述は、一部の事実が伏せられている。アキがそう望んだからだ。私は誰にも話さない。話してやるものか。アキを護る役目は私。ずっと傍にいてあげられるのは、私しかいないのだから。

 だから―――この子にとって、あの『男』は。

 

「ねえ、アキ。誤解しないで、聞いて欲しいんだけど。一度距離を取って―――」

「やめて下さい」

「聞いてアキ。彼は貴女とは違うの。違うヒトなのよ」

「やめて!!」

 

 車内に響き渡る怒声。驚きのあまり、タマキは言葉に窮した。アキは筆舌に尽くし難い面持ちで、深い憂いを帯びた小声で、縋り付くように言った。

 

「お願い、言わないで。私……タマキさんのこと、嫌いになりたくない」

「アキ……」

「ごめんなさい。でも、わた、し。ごめん、なさい」

 

 激情の末の無力感。二人分が交差をして、擦れ違う。

 彼を支えてあげたいだけなのに、どうして。

 この子を護ってあげたいだけなのに、何故。

 

「アキ、アタシ……ごめん。ごめんね」

 

 堪らずにタマキは、アキの小さな肩を抱いた。亀裂が入った硝子のような少女を、そっと優しく。それ以外の応えを、タマキは見付けることができなかった。

 

___________________

 

 

 一般病棟の四階には複数の特別個室があり、室内は落ち着いた木目調のデザインが施されている。内一室の扉の前で、アキは深呼吸を繰り返した後、控え目にノックをしてから、扉を引いた。

 

「失礼、します」

 

 音を立てないよう扉を閉めて、振り返る。

 大き目のベッドの上に、アキヒロの姿はあった。右脚は完全に固定されていて、満足に身動き一つ取れそうにない。目を逸らしたくなる痛々しい有り様とは裏腹に、アキヒロはすやすやと穏やかな寝息を立てていた。

 

(アキヒロさん……)

 

 ベッドの傍らに置かれていた丸椅子に座り、寝顔を見詰めた。

 不幸中の幸いと言うべきか、話に聞いていた通り、顔は無傷。頭部もガーゼに覆われた掠り傷程度で済み、こうして顔を向い合わせれば、普段通りの彼が映る。昨晩の事件が、悪い夢に過ぎなかったかの如く。

 

「おい。何か言えよ」

「っ!?」

 

 丸椅子が傾いて、反射的に前傾の姿勢を取り、どうにか踏み止まる。

 呼吸を整えてから、アキは不服そうに言った。

 

「お、起きてたんですか?驚かさないで下さいよ」

「お前が勘違いしただけだろうが。つーか勝手に入ってくんなバカ」

「ノックしたじゃないですか」

「今さっき起きたんだよ……ワリィ、水をくれ」

「あ、はい」

 

 ベッドサイドテーブルに置かれていた水差しを取り、透明なグラスに水を注ぐ。手渡すと、アキヒロは利き手で受け取り、一気に中身を飲み干した。

 利き腕にも目立った外傷は見られず、自由に動かすことができていた。そんな中、どうしても視線が向いてしまう先が、アキヒロの右脚。大腿骨骨折という重傷の苦しみは、本人にしか理解し得ない。

 

「右脚、痛みますか?」

「そりゃあな。お前の方はどうなんだ。口の中、切ったんだろ」

「平気ですよ。アキヒロさんに比べたら……」

 

 完治まで四ヶ月間。とっくに春が終わり、真夏の一歩手前頃。アキとアキヒロが本当の意味で出会ってから、約一年後の夏まで掛かってしまう。アキは肩を落としながら、週末の件について触れた。

 

「こんな怪我じゃ、お楽しみ会どころじゃないですよね。お仕事の方は、どうなるんですか?」

「……もう、無理だろうな」

「え……どういう、ことですか?」

 

 たったの一声で、不穏な空気が漂い始める。アキヒロは真っ白な天井を虚ろな目で見やりながら、告げた。

 

「梧桐さんから聞いた。面倒事に巻き込まれんのは御免だって、職場の奴らが騒ぎ立ててるらしくてな。俺みてえな厄介モンは、いらねえんだとよ」

「ま、待って下さいよ。だ、だってあれは」

「仕方ねえさ。自業自得だ。お前も……俺なんかに、もう構うな」

「……よく、聞こえませんでした。何ですか?」

「構うなって言ってんだよ。今日で、最後だ」

 

 アキの距離感が狂い出す。

 手を伸ばせば取れるはずの手が、届かない。目と鼻の先にある顔が、途轍もない速さで遠退いていく。

 手を差し伸べたいのに、動かない。動けない。喉がからからに乾いて、口内の縫い目が、熱を帯び始める。

 

「どうして、そんなこと、言うんですか」

「御免なんだよ。俺はどうだっていいが、俺以外の誰かが、なんてのは。もう、我慢ならねえんだ」

「嫌……いや、やだ。やだよ、そんなの」

 

 私が欲しかったのは、何をしてでも支えたいとする勇気だった。誰かが彼を拒絶しようと、侮蔑しようとも、彼が無言で発する声を拾い上げて、応えようとする意志だった。

 私も救われたからだ。刻々と迫りくる死に怯えて、絶望の淵に立たされていた私は、彼に救われた。不器用で直向きな、真っ直ぐな彼がいてくれたから、私は今ここにいる。

 だから私は、彼の贖罪に尽くしたかった。誰一人として彼を認めなくたって、社会には、この世界には手を差し伸べてくれる人間がいることを、私は証明したかった。

 何より―――私が、そうありたかったから。

 

「好き、です。好き、好きなんです。こんなに、好きなのに、どうしてっ……なん、で」

「……もう、いい。いいんだ」

「すっ……きぅ、う、うぅ。ひっ、ぐううぅっ」

 

 けれど何故。世界はこうも、寒いのだろう。

 私はただ―――私でありたかった、だけなのに。

 

 

 

 



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3月21日 これからも、きっと

もう少しだけ続きます。


 

 空は雲一つない青で澄み切っていた。病棟の屋上に立っているせいか、普段よりも空が近い気がする。全身が受けるそよ風が心地良くて、肺が爽やかさで満たされていく。

 けれど、想いが定まらない。心には空虚さばかりが渦巻いている。

 

「ん……」

 

 頭上を仰いで、陽の光へ手を掲げる。空の青に届きそうな感覚を抱くと同時に、決して届かないという当たり前の事実が、ひどく寂しく思えた。

 届かない。私の手は、結局何も触れてはいない。このちっぽけな手で掴み取ろうと願っていた物は、何処にいってしまったのだろう。

 

「……何してるんだろ、私」

 

 独り言を呟いていると、背後から視線を感じた。振り返った先には、小さな笑みを浮かべたリオンさんの姿があった。

 

「リオンさん……」

「こんな所にいた。あちこち探したのよ、電話にも出てくれないし」

「す、すみません」

「アッキーはあれね。何かあって落ち込んだりすると、携帯を遠ざけることが多いのよね。今だってサイレントにしてるでしょ」

「うっ」

 

 痛いところを突いてくる。今し方の指摘通り、私のサイフォンはサイレントマナーモードに設定してあるし、リオンさんからの着信にだって、気付いてはいた。

 けれど、どうしても出れなかった。何となく気が引けて、見ない振りをしていたのは事実で、自覚もしている。私の悪い癖だ。

 

「良い天気ね。もうすぐ春って感じ」

「……ですね」

 

 リオンさんは私の隣に立って、同じ視界を共有した。

 六階建ての高層から見下ろす杜宮の街並みは、自然と表情を緩ませてくれる。ミツキ先輩やユウ君はこんな風景を日常的に目にしているのだから、羨ましい限りだ。

 でも今の私の目には、特別に映らない。重い沈黙が淀んでいるようにしか、思えなかった。

 

「ねえ。手に持ってるその袋、何?」

「使用済みのティッシュです。泣き過ぎて、もう出ません。色々と」

「……成程ね」

 

 何やかんやあって、一時間以上は屋上にいた気がする。涙は大分前に枯れていた。ビニール袋とその中身は、一人で泣き喚く私を気遣ってくれた看護師さんが持たせてくれた物だ。

 手すりに乗せた腕に突っ伏していると、リオンさんの指が私の髪を弄り始める。これはリオンさん側の癖。リオンさんは指先をくるくると回しながら、小声で言った。

 

「ごめんね。何があったのか、大体想像は付くけど……力に、なれなくて」

「そんなことない。そんなことないです。前にもリオンさんは……九重神社で言ってくれたこと、私は今でも覚えてますよ」

「あー。何か色々喋った気がするわね」

 

 私は絶対に忘れない。十二月十四日にリオンさんが与えてくれた物は、前に進む勇気。彼女が背中を押してくれたから、私は感情と正面から向き合うことができた。

 今思えば、あの瞬間からだ。募るばかりだった淡い想いを自覚して以降、リオンさんにはよく相談に乗って貰っていた。大袈裟ではなく、リオンさんがいてくれなかったら、私は未だ足踏みをしていたのかもしれない。いや、きっとそうに違いない。

 

「私の方こそ、すみません。いつもリオンさんには、甘えてばかりで」

「……そうかな。あたしは寧ろ、逆なんだと思う」

「え?」

 

 俯いていた顔を上げると、笑みは消えていた。リオンさんはとても真剣そうな様子で、何かを決心したかのような表情を浮かべながら、私と向かい合った。

 

「あたしね。ううん、あたし達、アッキーに隠していたことがあるの」

「隠していた?」

「いつ話そうか迷ってたけど、そろそろいいかなって思ってたし……うん、決めた。今度話すって約束するわ」

 

 隠していたこと。何のことだろう、まるで心当たりがない。それに何故『今度』なんだ。

 

「こ、今度ですか。今じゃ駄目なんですか?」

「色々段取りがいるのよ。今は無理」

「そういう言い方をされると、すっごく気になりますね。すごーく気になる」

「だめなものはだーめっ」

 

 リオンさんは言いながら、私の頬をつねり始める。両手でぐいぐいと引っ張られ、強引に口尻を上げられた。

 

「い、いひゃい、いひゃいでふ」

 

 その痛みに、安堵を覚えた。痛みと相まって、出尽くしたとばかり思っていた大粒が、目元に浮かんだ。目の前で意地悪な笑みを浮かべるリオンさんがとても眩しく、愛おしくて。気付いた時には、優しく肩を抱かれていた。彼女の慈しみに、包み込まれていた。

 

「だからお願い。もう少しだけ、頑張ってみて。アッキーらしく頑張るの。何があっても、あたしはアッキーの味方よ」

「……リオンさぁん」

 

 私らしさ。私らしく頑張る。それが何を指しているのかは分からない。

 けれど、できることがあるのかもしれない。今の私にだって、きっと残っている物がある。いつも私を支えて、勇気付けてくれる親友がそう言っているのだ。重い腰を上げるには、それだけで充分。

 

「あ、ごめん。ちょっと待って」

 

 決意を新たにし始めていると、リオンさんの上着が着信音を鳴らした。リオンさんがサイフォンを取り出して確認すると、番号は高槻先輩の物だった。

 

「はい、リオンです。うん、まだ病院だけど。何か……え……なに、え?こ、今夜一緒に?そんな、だ、駄目よ。先輩には、ミツキ先輩がっ。あれ、違った?」

 

 まるで意味不明な受け応え。十中八九、リオンさんが早合点をしているだけなのだろう。

 想像を働かせていると、リオンさんの声色が次第に低くなっていく。表情にも険しさが増していき、やがて声は私が聞き取れない程に小さくなってしまう。

 

(リオンさん……?)

 

 通話を終えた後、リオンさんは会話の内容を教えてはくれなかった。隠し事が、二つに増えていた。

 

___________________

 

 

 ―――深夜一時。

 杜宮中央病院の一般病棟四階は、普段と変わらない静寂に包まれていた。特別個室は全て入院患者で埋まっており、ベッド上では誰もがすやすやと寝息を立てている。戌井アキヒロも同様だった。

 そんな中、薄暗い廊下を歩く、一人の男性の姿があった。男は白衣の中からサイフォンを取り出して、とある個室の前で立ち止まり、そっと扉に手を伸ばした。

 

(漸く、か)

 

 随分と遠回りをしてしまった。しかし目当ての物は、この扉の先。患者の頭の中に埋まっている。掘り出す術も手中にある。こうして夜な夜な忍び込んでは、少しずつゆっくりと手に入れればいい。

 逸る気持ちを抑えつつ、音を立てないよう扉を開けると―――突然、室内が明かりで照らされた。

 

「残念だったな。戌井君は別室だ」

「なっ……ミズ、ハラ?」

 

 光に目が慣れるやいなや、ヒノハラは愕然とした。室内には、あり得ない光景が広がっていた。

 ベッドで眠っているはずの戌井アキヒロの姿はなく、眼前にはかつての同窓。隣には己と同じ組織に属する女性技師。ミズハラと、アカネ。

 ヒノハラは口を半開きにしたまま、その場に立ち尽くしてしまっていた。

 

「どうした。驚き過ぎて、声も出ないのか?」

「っ……違う。い、一体何のことだ。俺はただ、彼の容体が気になって」

「ならそのサイフォンは何だ。何故紛失した試作機を、お前が持っている」

 

 ヒノハラの手に握られていたのは、数日前にラボから紛失したとされる試作機。異界探索用サイフォンとして進められていた研究の成果が、形としてヒノハラの右手にあった。その事実一つを取っても、最早手遅れ。言い逃れなど、できるはずもなかった。

 

「僕が言うのも何だが、粗だらけの計画だな。お前の最大の失態は、戌井君を暴行した四人の記憶消去を、後回しにしたことだ」

「ま、まさか、喋ったのか?」

「ああ。すんなりな。お前の目的は、戌井君が有する異界植物の知識なんだろ。新たな霊薬を生み出すためのな。一から丁寧に説明してやろうか?」

 

 狼狽するヒノハラを余所に、ミズハラは淡々とした口調で語り始める。

 計画段階その一。先ずはサイフォンの入手。記憶走査を可能とする最先端の試作機を入手すべく、ラボの関係者に取り入って、試作機を奪取する。記憶さえ消去してしまえば足はつかない。紛失したという事実が残るだけだ。

 計画段階その二。戌井アキヒロに私怨を持つ人物と接触して、多額の報酬と引き換えに、彼の暴行を依頼する。ある程度の前払いを渡しておき、事へ及んだ後に面会と称して記憶を消せば、自白の可能性もなくなる。

 計画段階その三。重傷を負った戌井アキヒロを己の管理下に置き、記憶走査で彼の知識を手に入れる。膨大な知識を一度に得ることは困難ではあるが、長期の入院中に少しずつ走査を続ければいい。

 順調に事は運んでいるはずだと、ヒノハラは決め込んでいた。しかし三つ目の蓋を開けてみれば、この体たらく。ミズハラが並べた内容も、事実と相違ない物だった。

 

「どうだ、大体合ってるだろ。反論はあるか?」

「お、俺は」

「言っておくが下手な真似はやめておけよ。アカネさんが手配してくれた実動員が待機している。もう手遅れだ」

 

 そして屋内は勿論、敷地内には既に十数名の隊員が配置されており、逃走の手段は皆無。あまりに非道且つ残虐な計画を実行した犯人を見逃せるはずもなく。疾うの昔に、ヒノハラは袋の鼠に陥っていた。

 

「馬鹿なっ……こんな早くに、何故なんだ」

「戌井君を見れば察しは付くさ。私怨による暴行にしては、外傷が下半身に集中し過ぎている。顔部や頭部に至ってはほぼ無傷だ。彼の脳内に眠っている情報に障りが出ないよう、お前がそう指示したんだよな」

「た、たったそれだけで、俺に辿り着いたのか?」

「言っただろ。粗だらけなんだよ。証拠は複数上がっている。僕らがいなくたって、遅かれ早かれお前は終わりだったんだ」

 

 ミズハラは拳を固く握り締め、わなわなと震わせながら、一歩前に出た。

 溢れんばかりの自責の念。引き金を引いてしまったのは、己の軽率な行動。ミズハラはやり場のない憤りを胸に、歩を進めた。

 

「後悔してるよ。教授と戌井君が接触したことで、教授が彼の協力を得たと勘違いしたんだろ。彼の知識を独り占めにしようとっ……そのためにお前は、彼を手に掛けたんだ」

「ち、違う。俺は、俺はただ、『科学』のために」

「……科学だと?」

 

 ミズハラの足が止まる。対してヒノハラは軽やかな口調で、言葉を並べた。

 

「お前だって分かってるはずだ!異界化は天災とは違う。地上に存在する全ての生命にとっての、秩序の何もかもを根底から踏み躙る非現実だ。だから俺達のような人間がいるんだろ」

「何が言いたい?」

「生命が抱える問題を解決に導き、幸福と健康を保障するために科学がある。そのための科学だ!独り占めじゃない、俺は異界学の発展のための犠牲を敢えて自ら―――」

 

 ―――ガタン。ヒノハラの声を遮るように、荒々しく病室の扉が開かれる。その先に立っていたのは、玖我山リオン。ヒノハラは彼女の形相に、思わず言葉を忘れた。

 

「アンタに何が分かるのよ」

 

 頂点に達した憤怒の極み。今にもヒノハラを手に掛けてしまいそうなリオンの眼に、ミズハラやアカネまでもが圧倒されて、たじろいでしまう。

 

「アンタにアキの何が分かるの。アキは必死になって頑張って、頑張って、ずっと頑張ってたのに!あんなに傷付いてっ……どうして平気でいられるの!?ふざけんじゃないわよ!!」

「ま、待ってくれ。何を言って」

「何が科学よ、何が異界学よ!返して、返せ!!アキの想いを返してよ!!」

「その辺にしとけ」

 

 思いの丈を叫びながら詰め寄るリオンの肩に、彼女の背後に立っていたシオの右手が置かれた。続いてその手は、リオンの頭へ。彼女を制止すると共に、憤激の全てを受け止めるかの如く、シオが静かに言った。

 

「静かにしようや。みんな、起きちまうだろ」

「あたしはっ……!」

「もういいんだ。帰って飯でも食おうぜ。何か作ってやるよ」

 

 言葉は穏やかで、一方の表情はリオンと同様、感情を隠そうともせず露わに。二人から向けられた視線に射抜かれたヒノハラは、立っていることすら儘ならず、その場に崩れ落ちていた。

 

「ヒノハラ。僕がお前だったら、こんな遠回しな真似はしない。戌井君を拉致監禁すれば済む話だ」

「……何だと?」

「だがお前にはできなかった。他者の手を汚しておいて、自分は平然と暮らす道を選んだんだ。お前は中途半端だよ、ヒノハラ。ヒトとしての尊厳を捨て切れず、科学のために悪魔へ身を捧げることもできずに……お前はもう、どちらでもない」

 

 人道を踏み外した末には、何もなかった。欲望と想いが交差をした果てに、残されていたのは、亡骸のように空っぽとなった男が一人。学生時代にはあったはずの純粋な知的好奇心は、目覚め前に見ていた夢のように、消え失せていた。

 

___________________

 

 

 事態が急展開を迎えた一方、大きく取沙汰はされなかった。重傷者を生み出した暴行事件と言えど、世間にとっては指して珍しくもない。当事者は心を乱しつつも、まるで何事もなかったかのように、また新たな一日が訪れる。そして―――

 

「よお。起きてたか」

「梧桐さん……チワッス」

 

 戌井アキヒロの病室を訪ねたのは、大きな紙袋を手に吊るした梧桐エイジだった。梧桐が病室の丸椅子に腰を下ろし、紙袋を足元に置くと、アキヒロは素っ気のない声で言った。

 

「わざわざいいッスよ、見舞いなんて。すぐに治るもんでもないですし」

「クク、ひでえ言われようだな。それはそうと、話は聞いたぜ。お前も厄介事に巻き込まれちまったもんだな」

「……自分も、聞きました」

 

 昨晩に発覚した一連の真実は、二人の知るところでもあった。主犯は暴行に及んだとされていた四人ではなく、彼らを操っていたヒノハラ。己の担当医師が計画的犯行の首謀者であり、私怨による報復ではなかったという事実に、安堵に似た感情を覚えつつも、しかし怪我の治りが早まる訳ではない。

 何より、取り戻すことが叶わない、現実がある。アキヒロが胸中で呟いていると、梧桐がしたり顔をして切り出す。

 

「まあいい。今日はこいつを渡したくてな」

「食い物なら間に合っ…て……?」

 

 梧桐が紙袋から取り出したのは、色取り取りの折り鶴。一目見て千羽鶴と分かるそれは、紙袋一杯にぎっしりと詰められており、アキヒロは呆け顔で無数の鶴を見詰めていた。

 

「な、なんスか、それ。そんな量、一体誰が」

「職場の野郎共だよ。早く帰ってきやがれってことだろうな」

「えっ……え?」

 

 アキヒロが戸惑うのも無理はなかった。気遣いはともかく、彼が勤めていた先は既に過去の居場所。今回の一件で信用を失い、御役御免となった身の自分に対して、「帰ってこい」。どうしたって、理解できない。

 昨日と話が違い過ぎだ。一体何がどうなっている。複雑そうな面持ちのアキヒロに、梧桐は続けた。

 

「あの嬢ちゃんだよ。俺も偶然居合わせたんだが、昨日の夕刻に倉庫を訪ねて来てな」

「嬢ちゃんって……アキが?」

「ああ。倉庫のど真ん中で、従業員全部を相手取って、頭を下げやがったんだ。何度も何度も、でっけえ声で喚きながら……仕舞いには、土下座までしてな。手足を汚して、顔をくしゃくしゃにして、何度も、何度も」

 

 アキの言葉を、梧桐は明確に覚えてはいなかった。

 初めは子供の戯言程度にしか聞こえなかった。あまりに身勝手で、激情的で、職場の都合や体裁に見向きもしない、目を背けたくなる程に痛々しい様に―――どうしようもなく、胸を打たれて。必死になってアキヒロの心意気と人格を説き続ける姿に、一人、また一人と心を動かされていき、それらが形を成した物が、千羽鶴だった。

 

「あんな女、見たことねえよ。青くせえガキに違いはねえが……おう、よく聞け」

 

 梧桐は大きな右手でアキヒロの頭を鷲掴みにして、凄みを利かせた面持ちで告げた。

 

「てめえも男なら、二度とあんな真似させんじゃねえ。くっだらねえもんぶら下げてねえで、正面から向き合えや」

「俺は……いて、いってえ!?うわマジいってえ!?」

 

 梧桐はパシンとアキヒロの右脚を叩くと、痛みに悲鳴を上げるアキヒロに構うことなく、立ち上がって踵を返した。アキヒロは涙目でギブスを擦りながら、梧桐の背中に声を掛ける。

 

「痛ぅ……もう、行くんスか?」

「後がつかえてるみてえだからな。気が向いたらまた来てやるよ」

「は?」

 

 ひらひらと手を振って病室を出ていく梧桐と入れ代わりで、入口には複数人の顔ぶれが並んだ。

 アキヒロは思わず目を疑った。年端もいかない少年少女らが、計三人。すぐには思い出せず、しかし覚えがあった。三人の内、アキヒロの視線に気付いた二人の男子が、アキヒロの下へと駆け寄って来る。

 

「兄ちゃん、久し振り!元気……じゃねーか。入院してんだもんな」

「お、お前ら。フウタに、ショウゴ?」

「お久し振りです、アキヒロさん。今日はみんなで、お見舞いに来させて頂きました」

 

 去年の夏。杜宮が異変に見舞われた際、アキヒロやアキと共に神社の聖域に立て籠もっていた小学生らが三人。最後の一人であるチヒロは、ゆっくりとした足取りでフウタとショウゴに続いて、やがてフウタの隣に並んだ。

 

「お兄ちゃん……あし、いたいの?」

「足?あ、ああ。少しな」

「う、うぅ。うええぇえ、えええ」

「ちょ、おいこら。何でお前が泣くんだよ?」

 

 唐突に声を上げて泣き始めてしまったチヒロは踵を返して、後方に立っていた男性の足に縋り付く。

 アキヒロは勿論、男性にとっても互いに初対面。しかしチヒロとその男性の様子から、アキヒロはすぐに察した。

 

「突然のことで申し訳ない。本来ならもっと早く、こうして君を訪ねるべきだった」

「アンタは……チヒロの?」

 

 男性が頷きで応える。チヒロの父親を名乗った男性は、足元で泣き散らすチヒロの頭を撫でながら、優しげに語った。

 

「あの大地震に襲われて、チヒロを見失ってしまった時は、生きた心地がしなかった。男手一つで育ててきたこの子を、君は……ありがとうアキヒロ君。君は一人娘の、命の恩人だ」

「お、俺は偶然、拾っただけッスから。別に、何も」

「ありがとうございます。ありがとう、本当にありがとう」

 

 自分の倍以上の年齢の男性が、大粒の涙を溢し始める。未だかつて経験したことのない、生まれて初めての感情を、アキヒロは抱きつつあった。

 彼の身を案じてくれる少年らがいる。

 彼と痛みを分かち合い、涙を流す少女がいる。

 心の底から感謝をされて、目頭が熱くなる。

 狭苦しい一室でのやり取り。小さな想いの重なり合いが、彼の世界を広げる。知らなかった世界に一歩足を踏み入れた途端、足の痛みが嘘のように和らいでいく。

 知らなかった。こんな世界は見たことがない。こんな自分を、自分は知らない―――

 

「ねえみんな。ちょっとの間、お姉ちゃんとお兄ちゃんの二人だけにして貰えないかな」

「えー。お楽しみ会、ここでやるんじゃねーの?」

「それはまた今度の話。ごめんね、ちょっとでいいから」

 

 ―――いや。知らない振りをしていただけだ。ずっと前から、知っていた。教えてくれたのは、紛れもない彼女。

 レッドブラウン色の、少々地味めな眼鏡。髪型は活発さを思わせるショート。伏し目がちな小顔と、馬鹿丁寧な口調。七月八日にアキヒロが出会った、あの時と同じ出で立ちの遠藤アキが、病室に一人、立っていた。

 

「えーと。あの、アキヒロさん?何か言ってくれないと、すごく困るんですけど」

「……何だそれ」

「何って、眼鏡です。それにほら、髪型も元通り。今朝切りました」

「そうじゃねえよ。つーかお前、眼鏡要らねえだろ。視力は戻ってんだから」

「寧ろ目が痛くて仕方ないです。レンズに度が入ったままなので、さっき階段で転んじゃいました」

「お前馬鹿だろ!?」

 

 馬鹿呼ばわりでは済まされないアキの愚行に、アキヒロは思わず半身を起こした。

 眼前には、やはり遠藤アキがいた。膝の擦り傷に絆創膏を貼った、照れ笑いを浮かべるアキの姿を、アキヒロは直視できなかった。代わりに俯いて、柄にもない声を漏らすことしか、できなかった。

 

「何なんだよ、クソ。どうして……どうして、俺なんか」

「……アキヒロさん」

 

 アキはそっと、アキヒロの頭を抱いた。

 生々しい身体の匂いが、アキヒロを包み込む。アキの息遣いと感触を全身で感じながら、アキヒロは全てを受け止めた。

 

「いい加減、分かって下さい。みんな貴方を必要としている。独りじゃないんです。何より私が、傍にいて欲しいから」

 

 和らいだはずの痛みがやって来る。右の太腿が熱を帯びて、じんわりと広がっていく痛みが、生きているという実感を与えてくれた。

 幸福な人間がいれば、不幸な者もいる。誰もが明日の可能性を広げようと必死になって、誰かを愛し、愛そうとしている。この世界の片隅で―――二人も。

 

___________________

 

 

 日付が変わって、終電が杜宮駅を発った頃の深夜帯。私は九重神社に繋がる石畳の階段を上りながら、目の前を行くリオンさんの背中を追っていた。

 

「り、リオンさん。こんな夜中に、いいんですか?」

「大丈夫よ。ソウスケさんにも許可は貰ってるしね」

 

 隠していたことを話したいから、今晩一緒に来て欲しい。そんなリオンさんの唐突な誘いに応じて向かった先が、九重神社。約束時間はまさかの午前零時で、初めは何の冗談かと思ったけれど、リオンさんは有無を言わさずに、私をアパートから引っ張り出してしまっていた。

 

「隠していたことって、九重神社に関係があるんですか?」

「んー。まあ、あるにはあるわね」

「……そろそろ話して貰えます?」

「そう急かさないの。あ、いたいた」

「えっ……た、タマキさん?」

 

 やがて見えてきた鳥居の傍らには、タマキさんの姿があった。既に就寝したとばかり思っていたタマキさんは、特に驚いたような様子もなく、リオンさんと視線で会話をしていた。

 この展開は何だ。私は何も聞かされていないというのに。

 

「え、ええっと。これ、何ですか?」

「シー、静かに。ほら、こっちに来て」

 

 タマキさんに腕を引かれて、言われるがままに声を潜める。鳥居の裏に隠れるような形となり、私達は小声で会話を交わした。

 

「タマキさん、何時からここに?」

「十分前ぐらいかしら。アキ、あれが見える?」

 

 そっと鳥居から顔を覗かせて、夜の暗闇に目を凝らす。

 僅かな月明かりが照らしていたのは、人影。拝殿の前に立っていた女性の背中は―――とても小さくて。私は一目で、理解した。視覚ではなく、本能的に理解していた。

 

「っ……お母、さん?」

 

 人違いかと思いきや、違った。錯覚や幻の類でもない。十数メートル先には、お母さんの背中があった。

 到底信じられなかった。それもそのはず、こんな可能性はゼロだったはずだ。それなのに、どうして。

 

「ゴメンね、アキ。コマキ姉に言われて、ずっと黙ってたんだけど……最近はいつもあんな風に、夜になってから出歩いていたの。夜の散歩、みたいな物かしらね」

 

 単なる夜の散歩、気紛れでは済まされない。常人ならともかく、お母さんでは話がまるで異なってくる。

 今年の春に入って以降、お母さんの心は常に不安定だった。お父さんとお兄ちゃんを亡くして、家族の居場所だったお店を手放してから、精神状態は悪化の一途を辿っていた。

 その苦しみは、本人にしか理解し得ない。両親との会話がやっとで、他人の視線に恐怖を抱く。実家から一歩も出られず、安定剤なしでは真面な生活を遅れない。睡眠導入剤抜きでは夜も眠れない。外の全てが苦痛で、私と電話で会話すらできない。時折送られてくる短文のEメールが精一杯。

 そんなお母さんが、外を出歩いている。人気のない深夜とはいえ、今でも眼前の光景が、夢の一幕のように映ってしまう。

 

「去年の暮れ頃から、回復の兆しはあったのよ。今じゃああやって、深夜なら外に出ることもできるしね」

「そう、だったんですか。でもどうして、私に隠していたんですか?」

「言ったでしょ。コマキ姉からそうしてくれって頼まれていたのよ。アキに心配を掛けたくなかったみたい。焦って無理をしてるって、そう思われたくなかったんだってさ。それに、『あれ』の件もあったから」

「はい?」

 

 首を傾げた私の肩を、リオンさんがぽんぽんと叩く。振り返ると、リオンさんの手には一冊のノートのような物があった。

 

「これって……リオンさん、これは?」

「そうね。交換日記、みたいな物かな」

「日記?誰と、誰のですか?」

「アキのお母さんと、あたし達の」

「え……えええ?」

 

 恐る恐るノートを開いて、ページを捲る。まじまじと見詰めると、そこには驚愕の内容が綴られていた。

 全部、私だった。私に関することが、直筆で書かれていた。日付の横を見れば、誰がペンを走らせたのかは分かる。X.R.Cメンバーをはじめに、クラスメイト、教職員。異界関係者、女子テニス部の先輩、アルバイト先、ガーデンハイツ杜宮の住民に、友人知人が勢揃い。そしてその全てに対する、お母さんの返信。

 訳が分からない。私の知らぬ間に、こんな日記が書かれていただなんて。

 

「タマキさんから相談されて、何かできないかなって思ってさ。黙っててごめんね、このとーり」

「あ、謝らないで下さい。でも……えっ。これ、リオンさんの案だったんですか?」

 

 私が問うと、リオンさんは遠慮がちに首を縦に振った。少しだけ寂しげなその表情の意味が、私には分からなかった。

 

「ずっと考えてたの。あたしはね、いつだって一生懸命なアッキーが好きよ。あたしも負けてられないって思えるし……でも時々、度が過ぎるっていうのかしら。どうしてそこまで頑張れるんだろうって、分からなくなる瞬間もあった」

「……初耳です」

「こんな話、あたしも初めてよ。でもね、最近は何となく分かってきたの。アッキーは多分、もっと甘えていいんだと思う」

「甘えて……いい?」

「ん。タマキさんは別として、家族に甘えたこと、最近あった?」

 

 返答に困ってしまい、声が出ない。返しようがない問いだった。

 少なくとも、杜宮に来て以降はない。祖父母とは付き合いが薄いし、親戚付き合いもない。伏島にいた頃も、毎日が一杯一杯だった。お兄ちゃんのためのテニスと、家業であるベーカリーの手伝いで一日が終わる。家族仲は良かったと思うけれど―――甘えるの定義が、そもそもよく分からない。

 

「ほら、やっぱり。たまには肩の力を抜いて、思い切って飛び込んでみたら?」

「まま、待って下さいよ。私には、何が何だか」

「お母さんなら、あそこに居るじゃない」

「っ……で、でも」

 

 できない。できる訳がない。だって私は、お母さんは。

 戸惑っていると、タマキさんが私の背中を優しく押した。タマキさんが流す涙の意味も、やはり私には分からない。

 

「大丈夫。コマキ姉だって、アキのために頑張ったのよ。コマキ姉はアキを想って、影でずっと頑張ってきたの。だからお願い、行ってあげて」

「私が……あそこ、に」

「もう我慢なんてしなくていいの。もうっ……大丈夫、だから」

 

 一歩だけ、歩を進めた。砂利が小さな音を立てて、真夜中の境内に溶け込んだ。

 もう一歩。一歩ずつ、一歩ずつ。胸を打つ鼓動と共に、自然と足が早まっていく。

 

「お母さん」

「……アキ?」

 

 耳に届いた声が、身体中を駆け巡る。

 ずっとずっと必死になって、懸命に抑えていた『何か』が、堰を切ったように溢れ出す。

 

「お母さんっ……お母さん、お母さん!」

「そんな……アキ。アキ、なの?」

 

 止め処がなかった。視界が歪んで、顔が見えない。もっと近くで、もっと、もっと。

 やがて手が届いた唯一の最愛を、私は抱いた。ひどく痩せ細っていて、割れ物のように頼りない身体は、光と希望で満ちていた。

 強く、強く抱き締めて。私は、私になっていた。

 

「お母さん。わたし、頑張った。頑張ったよ。すごく、頑張った」

「知ってるわ。全部知ってる。みんなが、教えてくれたから」

「わたし、も。わたし、私ね。もっと頑張る。二人で、いたいから」

「アキ……ごめん、ごめんね」

「いつでもいいの。時間が掛かってもいいからっ……一緒にいて。お店を、一緒に。私と一緒に。二人がいい。わたし、二人でいたい」

 

 先の人生のことなんて分からない。夢のように消えてしまう儚い望みだとしても、私は願い、想い続ける。

 世界に、私は独りじゃないから。皆が支えてくれるこの世界で―――これからも、生きていこう。一生懸命に、そして時折誰かに、寄り添いながら。

 

 

 

 

 



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最終話 そして日常へ

 

 快晴の三月末、午後三時。アルバイト先のベーカリー『モリミィ』を目指して自転車のペダルを漕いでいると、住宅街のそこやかしこに、春の象徴が散見された。

 

(綺麗……)

 

 杜宮で迎えた初めての春。気象庁によれば、東亰の満開日は明日。昨年引っ越してきたのは四月の下旬だったし、転入に向けて忙しない日々が続いていたから、こうして桜の花びらが舞う光景を目にしていると、新鮮味で胸が一杯になる。記念公園も名所の一つと聞いているし、今度足を運んでみるとしよう。

 

「あれ?」

 

 目的地の手前で速度を緩め、店内の様子を窺っていると、一人の男性店員に目が留まった。人違いかと思い、自転車を停めて表口から店内に入ると、やはりそこにはエプロンを着た時坂君の姿があった。

 

「よお。今日はアキが遅番か」

「やっぱり時坂君でしたか。今日はモリミィでバイトですか?」

「まあな。ユキノさん伝手で、助っ人を頼まれてたんだ」

「あー。話は聞いてましたけど、時坂君のことだったんですね」

 

 事前に知らされてはいた。卒業や就職のシーズンになると、従業員の入れ替わりが自然と増える。このモリミィも例外ではなく、今がまさにその過渡期。一方で募集に応じてくれる候補者が中々見付からず、それまでの繋ぎとして声が掛かったのが時坂君だったようだ。

 

「春って毎年こんな感じなんだよな。俺が言うのもなんだけど、すげえ貴重な人材なんだってよ」

「な、何でもできちゃいますもんね、時坂君って」

 

 今更言うまでもない。時坂君の万能さは常軌を逸している。商店街やレンガ小路に至っては『決して時坂コウを独占してはならない』という取り決めがあるぐらいだ。端から見れば好き勝手に使われているように映るけれど、本人が満足しているのだから気にしないでおこう。

 

「それで……その。口の中の傷、もう抜糸はしたのか?」

「あ、はい。元々大した傷じゃなかったので。痛みもありません。ほら」

「いやいいって見せなくて。つーか少しは躊躇え」

 

 あれから。アキヒロさんを中心に発生した一連の事件の顛末は、私から皆に話していた。

 反応は様々だった。時坂君とアスカさんは心を痛めつつ、最後は笑顔を以って嬉しげに受け止めてくれた。ソラちゃんも終始目元を腫らしながら、大仰に。ミツキ先輩とユウ君とはあれ以来会えずじまいだったけれど、誰かしらを介して話は伝わっているはずだ。

 ともあれ、全て過ぎたことだ。これ以上気苦労を掛ける訳にはいかないし、心機一転をして新年度を迎えたい。あと十日もすれば、私達は三年生。高校生活最後の一年間が始まるのだから。

 

「そういや聞いたぜ。店主のハルトさん、来年からフランスに行くんだって?」

「私も聞かされたのは、つい最近です。所謂パリ修行ですね」

 

 ハルトさんの決意は固い。パリ修行はよく耳にする一方、限られたブランジェのみに認められる大変貴重で過酷な物だ。

 キッカケは昨年に開催されたコンテストでの入賞だった。これまで全くの無名だったハルトさんの存在は、業界内でも一目置かれるようになり、今回の話に繋がったという背景がある。

 しかし言い換えれば、このモリミィの店主が長期に渡って不在になるということ。パートナーであり副店主のサラさんが、経営に関わる全てを一手に背負うことになる。勿論負担は一気に増えるし、二人分を一人でなんて現実的ではない。だからこそ―――私も腹を括り、覚悟を決めた。

 

「来年に向けてこれから一年間、少しでも多くの知識と技術を身に付けるつもりです。ずっと身近にあった家業ですけど、まだまだ至らない所はありますから」

 

 卒業と同時に私は、モリミィを支える柱の一本になる。アルバイト店員ではなく、ブランジェ見習いとして、そして一経営者として、だ。

 時間は幾らあっても足りない。お母さんも一役買うと言ってくれているけれど、本格的な社会復帰には程遠い。ブランクを埋めるだけでも一年以上は掛かる。高校生という甘えは捨てて、今のうちから自覚を持って日々を過ごす。リオンさんという先人も身近にいるし、いい影響を与えてくれそうだ。

 

「今まで以上にバイトに精を出して、女子テニス部の主将か……お前ぶっ倒れそうだな」

「言わないで下さい。既に戦々恐々です」

 

 考えても仕方ない。X.R.Cのマネージャー業務は少し遠退いてしまいそうだけれど、手放したくはない。それぐらい欲張りでいい。

 杜宮に来て早一年。振り返ってみれば、ずっとそんな毎日が続いていた気がする。希望を胸に起床して、昼間は疲れ果てるまで何かに打ち込んで、明日を想いながら夜を過ごす。今までにない私を見付けては、また新たな私と出会う。その繰り返しの先に、今日がある。

 

「まあ、なんだ。今更だけどよ。この一年間、色々あったよな」

「……ですね」

 

 満ち足りた日々。あっという間だったようでいて、とても一年間とは思えない時を過ごした気がしてならない。倍以上の月日が流れた感覚すらある。それ程充実していたということだろうか。

 

「それにこうしてると、去年の四月を思い出すよな」

「四月?」

「もう忘れたのかよ。俺とアキが初めて出会ったのも、ここだったろ。俺が店員で、お前がお客さん」

「あ……」

 

 四月の二十三日。忘れるはずのない偶然。いや、必然と呼ぶべきか。

 物思いに耽って苦笑いをしていると、時坂君は腰に手をやって、戯れに一年前の言葉を口にした。

 

「明日からB組に転入してくる女子生徒って、君だよな?」

 

 そう。あの出会いが、今の私に繋がった。全てはあの瞬間から始まったのだと、不思議と言い切ることができる。

 一時記憶を失っていた私の中に、唯一残されていた時坂コウという存在。友情や恋心とは異なる想いの拠り所。今の私には、分かる気がする。彼はずっと、これから先も彼らしく、時坂コウでいるのだろう。

 

「そう……ですけど」

「自己紹介ぐらい、してもいいか」

「ど、どうぞ」

「同じクラスの時坂コウだ。あー、君は?」

「と、遠藤アキ、です。とおいふじと書いて、トオドウ」

「トオドウ……間違えてエンドウって呼ばれることないか?」

「トオドウですっ」

「っ……ク、クク」

「あは、あははっ」

 

 季節は春。客足が途絶えているのをいいことに、私と時坂君は一旦店を出て、外の空気を吸った。

 平穏の日常に、緑色の風が吹き抜ける。流れゆくそよ風に身を委ねて、杜宮の街並みへ溶け込んでいく。

 

「これからも宜しくな。アキ」

「はい、こちらこそ」

 

 誰かに向けた訳ではない「ありがとう」を、私小声で口にした。言わずにはいられなかった。

 私は今日を、そして明日を一生懸命に生きていく。それが私。私は、遠藤アキだから。だから―――ありがとう。 

 

 

 

 

 




これにて全編終了、再度完結となります。最後までお付き合い頂いた読者の皆様方、本当にありがとうございました。
今後は更新が滞っていた「東亰ザナドゥ ―Episode Zero―」の方を細々と執筆したいと考えています。覚えている方がいるとは思えませんが……。やはり柊アスカというキャラは書いていて楽しいですね。


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