夢現 (T・M)
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#1.砂の惑星から水の惑星へ

「……これで、少しは食料の足しになるだろう」

 自身に残された搾り滓のような僅かな力を振り絞って、彼は、不毛の大地に1本の木を出現させた。

 大地に根を張り、瑞々しい赤い果実を実らせているその木に、傍らの少年は目を点にして驚いた。

「うわ、リンゴだ! こんなふうに生えるの!?」

 初めて見るリンゴの木に、少年は心底から驚いている様子だ。

 そんな少年の様子を無視して、彼は言葉を紡ぐ。

「…………あいつを……頼む」

 自分でも、驚いている。

 こんな子供に。あんなにも憎悪していた人間に。かけがえの無い、この世でたった1人の兄弟を託すなど。

「え? あの……どこか、行くの?」

 少年は彼の言葉からその意図を察し、率直に訊ねてきた。しかし彼は何も答えず、自らが生み出した赤い果実をじっと見つめた。

 何故、俺は食料の足しにと、この樹木を、この果実を“持って来た”?

 ……考えるまでも無い。答えは、単純で明快だ。

 この果実が、赤いからだ。まるで、あいつのように。

「えっと……あの……それ、ヴァッシュにはちゃんと言った?」

 少年の重ねての問いにも、彼は何も答えない。

 すると、少年はどうやらそれを無言の肯定と判じたらしく、慌てて家へと駆け出した。

「駄目だよ、そんなん! ヴァッシュ! ヴァーッシュ!!」

 察しのいい少年だと、彼はそう思った。それでも、ヴァッシュに別れを告げようとは思わない。

 何も言うべき言葉は無い。語るべきことも無い。合わせる顔も無い。もう、充分過ぎるのだ。

 150年もの間争ってきた俺を、あいつは、最後の最後まで殺そうとせず……あまつさえ庇い、命を救ってくれた。

 もう二度と、共に行くことはできぬと諦めていたのに、一緒に羽ばたく事さえできた。

 それだけで、俺は……。

 そして、彼――ミリオンズ・ナイブズは目を瞑った。

 

 次の瞬間、ナイブズは纏っていたボロボロの外套を残して、ノーマンズランドから、ヴァッシュ・ザ・スタンピードの前から消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは、突然の覚醒だった。

 どうやら、気付かない内に眠っていたらしい。だが、眠りに落ちた覚えも、眠りに落ちる直前の記憶も無い。

 周囲を見回し――驚いた。何時の間にか、荒野の一軒家から何かの部屋の中に移動していたのだ。何の部屋だろうかと考えながら、ナイブズは冷静に周囲を観察する。

 座っている椅子は大人2人が座れる横に広いもので、隣は空いている。対面にも同じ椅子があり、都合4人が向かい合って座れるようになっている。それは他の場所も同じで、合わせて12個ほど、そのようなスペースがある。窓もあるので外の様子を覗ってみるが、真っ暗で何も見えないし、何かがあるようにも見えない。

 分かる事は、ガタン、ゴトン、という音と共に伝わってくる振動から、この部屋が動いている――つまり、砂蒸気(サンドスチーム)のような何らかの乗り物の中の一室であることぐらいだ。

 そう考えてみれば、成る程、この部屋には砂蒸気(サンドスチーム)の高級客室に通じるものがある。前後に1つずつ見える扉は、外ではなく乗り物の内部に通じるものだろう。

 ……さて、どうするか。

 何故、自分がこのような場所に座って眠っていたのかは、この際どうでもいいとしよう。今は、このまま座っているか、状況確認のためにここから出るか、如何にすべきか。

 ナイブズがそのような思案に耽っていると、音を立てて後ろ側の扉が開いた。つまり、何者かが現れた、ということだ。

 扉が閉まると、そこから出て来た足音が真っ直ぐこちらに向かってくる。ならば、振り向くまでもなく近くに来るのを待てばいい。扉から椅子まで然程の距離がなかったこともあり、新たに入ってきた者はすぐにナイブズの視界へと入ってきた。

 それは、濃紺の制服に身を包み、帽子を目深に被った大柄な人間――のような、ナニカだった。

 ヴァッシュと方向性は違えども、150年もの間、人間を、同胞たるプラントを見続けてきたナイブズには、制服を着ているものが人間ではないことを一目で看破することは造作もないことだった。だが、だからと言ってどうすることもない。今のナイブズには、何かをする理由も想いも、何も無いのだから。

 人間でもプラントでもない、恐らく砂蟲(ワムズ)とも無関係の存在だろうが、どうでもいい。好奇心も恐怖も、微塵も湧かない。こちらに干渉するつもりが無いのなら、捨て置くだけだ。

 ナイブズがそのように思い決めると、それを見計らったかのように、制服を着たものは帽子を僅かに浮かせて会釈すると、右手を差し出してきた。

 

――切符を拝見します――

 

 何故か、その動作の意味がすぐに理解できた。まるで、意味が自分の脳に直接伝わってきたかのように。

 しかし、ナイブズにはこの乗り物に乗り込んだ記憶が無い。当然、切符を買った覚えも無い。つまり、正当な乗車手続きを踏んだ証明たる切符を持っていない。

 無視して無賃乗車でも決め込もうかと考えていると、不意に、頭上で何かが動く気配がした。

「にゃ」

 妙に顔が横に長い、黒猫だ。どうやら頭上の網棚の上に最初から乗っていたらしい。今まで眠っていたから、ナイブズも気配に気付かなかったのだろう。

 黒猫は網棚から飛び降り、ナイブズの座っている椅子の通路側に着地した。その口には、何処からか取り出した切符が咥えられていた。制服を着たものはそれを受け取ると、左手に握っていた道具を宛がい、パチン、という音を響かせた。どうやら、切符を切った音のようだ。

 黒猫は切符を受け取ってすぐにどこかへと仕舞うと、ナイブズを、じっ、と見つめてきた。制服を着ているものも、同様にナイブズを見ている。

 どうやら無賃乗車は罷り通らないようだ。それに、猫でさえも切符を見せたというのに、自分は見せないというのは収まりが悪い。

 どうしたものかと考えて、ふと、握っていた右手の中に妙な感触があることに気付いた。右手を顔の前まで持ってきて、開く。

 そこには、切符があった。

 行き先の書かれていない、白紙の切符が。

「――……あ」

 自然と、声が漏れる。

 プラント融合体を通じて直接心に響いて来た、ヴァッシュの言葉。

 ヴァッシュと共にレムから聞かされた昔話。

 それらが、瞬時に脳裏に甦る。

 半ば呆然とし、戸惑いながら、制服を着ているもの――車掌に、白紙の切符を見せる。

 車掌は、当然のように白紙の切符を受け取り、黒猫の時と同じように切符を切って、ナイブズに白紙の切符を返した。

 

――佳い旅を――

 

 車掌は会釈をして、そのまま去っていく。黒猫は、ナイブズから視線を外して猫らしく座っている。

 ナイブズは、白紙の切符を見つめながら、思い出す。星と人類とプラントの未来を懸けた最後の戦い。その佳境で、ヴァッシュが融合体へと飛び込んできたあの瞬間のことを。

 

――まだ、間に合うはずだ。きっと、やり直せる。だから、諦めないで。だって……未来への切符は、白紙なんだから――

 

 何千何万というプラントの集合意識の中、その一つ一つに伝わっていた、ヴァッシュの言葉。

 それに応えて、彼女達は真っ白な羽根を散らばせて、ナイブズの画策した人類のいない未来を否定して、人と共に歩む何も描かれていない未来を選んだ。

 ならば、この状況は――この白紙の切符は、ヴァッシュと、彼女達からの餞別なのだろうか。新たな未来を、何も描かれていない場所を歩んで行け、と。

「ぷいにゅ」

 珍妙な鳴き声に目を遣ると、そこには小さな旅行鞄を持ち、人間のような服を着た、見たことの無い珍妙な白い生物がいた。

 どうやら相乗りを希望しているらしく、隣の黒猫と共にナイブズの返事を待っている。

「……好きにしろ」

 言うと、白い生物は、ぺこり、と頭を下げて黒猫の対面の座席に座った。

 乗り合わせた乗客が人間でもプラントでもないのは、ヴァッシュや彼女達のはからい……のはずが無いか。単なる偶然だろう。

 …………気が向いたら、どこかの駅で降りるか。

 そう決めて、ヴァッシュと共に聴いたレムの昔話を思い出しながら、ナイブズはまどろみの中へと、150年ぶりに穏やかな気持ちで沈んでいった。

 

 

 

 

――次はー、AQUA。水の惑星、アクアで御座います――

 

 

 

 

 水の惑星という言葉に惹かれて、ナイブズはそこで降りることにした。同じ座席に乗り合わせた黒猫と白い生物も、同じ所で降りるようだ。

 そして、ナイブズ達と入れ違いに乗り込む乗客は全てが猫。奇妙なものに乗ってしまったものだと、しみじみと、しかしどこか他人事のようにそう思った。

 車両から降りる際、ナイブズは先程の車掌に、惜しみながらも白紙の切符を渡す。車掌は切符を受け取ると、判を押してそのまま返して来た。

「なに……?」

 返された切符を受け取りながら、ナイブズはつい声を漏らして、車掌を見る。車掌は黙って頷いて、外へ降りるように丁寧な物腰で促した。

 折角の白紙の切符、失わずに済んだのは幸いだが、何故、この車掌は受け取ろうとしない? 切符という物は、降りる時に回収する物のはずだ。

 そんな疑問を抱きながらも、ナイブズは車両の乗降口を潜った。

 

――またの御乗車を、お待ちしております――

 

 そういうことか。

 またも頭に響いた、車掌の会釈の意味に納得する。

 白紙の切符は、どこへでも、どこにでも行ける。何時でも、何時までも使える。そうでなければ、白紙の意味が無い、か。

 納得し、白紙の切符を懐に仕舞う。そして悠然とした足取りで、ナイブズは未知の大地への第一歩を踏みしめた。

 まず、空気が違った。ノーマンズランドの乾いた埃っぽい空気でも、血と硝煙と人の臭いが混ざった空気でもない。瑞々しく、穏やかで、ただ呼吸をするだけで安心できてしまうような、不思議な空気。

 そして、風の音も違う。ただ吹き抜け、鼓膜を振動させるだけではない。砂埃が舞い上がる音とは全く違う、ざぁ、ざぁ、と、何かが波打つような奇妙な自然音まで聞こえるのだ。

「ぷいにゅ!」

 白い生物の大きめの声を聞いて、振り返る。どうやら、車両が出発するらしい。見ると、それは――汽車だった。地球でもとうの昔に廃れてしまったという、石炭の燃焼と水の蒸気を利用して走る、極めて原始的な機械。

 それを見て、ナイブズはレムの昔話との一致に驚く。ただの偶然とは思えないが、ならばこれは何を意味するというのだろうか。

 暗い闇の中へと進んで行く汽車を、姿が消え音が聞こえなくなるまで、ナイブズは黙って見送った。その時に気付いたが、ここは夜だ。ノーマンズランドにいた時は太陽が2つとも上っていたが、ここでは月と星が夜空で輝いている。

 汽車を見送ると、ナイブズは星空を見上げ、風の音を聞きながら、これからどうするかを考えた。足元で黒猫と白い生物が「にゃあ、にゃあ」「にゅっ、にゅっ」と鳴いているが、歯牙にもかけない。

 考えて、取り敢えず今は、最も気になるもの――風の音が聞こえてくる方に歩いて行くことにした。

 黒猫と白い生物は、それをどこか寂しそうに見送った。

 

 

 

 

 暫く歩き続けて、ナイブズは周囲の街並みを具に観察していた。どの家屋もノーマンズランドの物とはやはり違う。どちらかというと、荒野や砂漠に沈みながらも機能を保っている移民船(シップ)に近い印象を受ける。

 外観や作りではなく、その纏う空気や存在感とでも言うべきだろうか。永く、変わらずに在り続けている。そのように思えるのだ。

 ノーマンズランドでは、そういう物は不時着に成功した移民船(シップ)を除けば少ない。稀に築半世紀を超える希少な物もあるが、ナイブズ自身が引き起こした『方舟事件』によってそれらも更に少なくなり、その数は片手の指で数えられる程度ではないだろうか。

 だからこそ、周囲の建物――或いは、この街全体が持つ独特の雰囲気に、ナイブズは興味を持っていた。試しに手近な壁に触れてみたが、やはり手触りが違う。ノーマンズランドの建物に比べて、弾力があるというか、瑞々しいというか、そのように思える。

 汽車の中で聞いた『水の惑星』という呼び名に違わず、この星は水が豊富で、大気中の水分も濃いのだろう。だから、壁も空気も乾いていないと考えれば自然だ。

 そんなことを考えながら、道なりに歩き続け――注意を他に向けていた為に、踏み出した右足の先に地面が無いことに気付かなかった。しかし、その程度で無様に転倒することは無く、バランスを崩すよりも先に右足を引っ込めた。

 急に道が途絶えたことを怪訝に思い、ナイブズは足元を見遣った。そこには、水があった。しかも、ただあるのではない。大量の水が、絶えず流れ続けているのだ。

「なに……!?」

 驚き、思わず声を漏らす。こんなにも大量の水が流れているのを見るのは、ナイブズも初めてだったのだ。

 元から水が一滴たりとも地表に存在していないノーマンズランドは当然として、幼少期を過ごした移民船(シップ)の中でも、こんな状態の水を見たことは無かった。だが、その頃に学んだ知識を、ナイブズは思い出した。

「確か、これは川……いや、水路、か?」

 この状況と合致する単語を思い出し、半信半疑で呟く。

 恐る恐る、身をかがめ、水に触れる。肌の感触から、目の錯覚や幻覚の類ではないと悟る。流石に、触覚や聴覚まで含めた幻覚ということはあるまい。

 周囲を窺うが、警報装置や守衛の姿は見当たらない。まさか、これだけの量の水を無造作に放置しているのだろうか。辺りにナイブズが思ったような物は影も形も見られない。代わりに、気付いた。この水の流れて行く先から、この星に来てからずっと聞こえていた、風の音が聞こえてくる。

 水路の終着点と、風の音が聞こえてくる先。

 その両方に気を惹かれ、ナイブズは再び歩き出した。その姿を、何時の間にか数匹の猫が見守っていた。

 途中から空気に妙な香りが強くなって来たのを不思議に思いながら、水路に沿って歩き続け、数分後には、ナイブズは水路の終着点に辿り着き、そこで足を止めた。

 目の前に広がる光景に、息を呑む。あまりにも衝撃的な光景に、ナイブズの思考は停止してしまった。

 まるで、ナイブズの周りの時間だけ止まってしまったかのような錯覚を感じるが、実際にそうでないことは、今も聞こえている風の……否、波の音が証明している。

 やがて、空が白み、太陽の光が差し込んで来て、その刺激でナイブズは漸く我に返った。

 そして、再び目に映った光景に、言葉を失った。

 

 太陽の光を浴びて、キラキラと光る水面。その輝きは、如何なる宝石も霞んで見えてしまう程、鮮烈で、眩い。まるで、水の底にもう一つの太陽が沈んでいるようだ。

 水面の光り方は、常に波打っている為に一定ではなく、1秒毎に変わり続けている。きっと、この先ずっと、同じ光り方はありえない。その瞬間だけの輝きを、今もこうして放っている。

 そんな光景が、見える限り。地平線ではなく、水平線の彼方まで、ずっと、ずっと、続いていた。

 

 今、ナイブズの目の前には、彼が今までの人生で想像したことも無かったほどの莫大な量の水が存在していた。見渡す限り、水平線の果てまでも。

 実を言えば、ナイブズはこの地形の事を全く知らないわけではない。まだ幼い頃、ヴァッシュと共に地球や人類の事を学んでいく過程で、ナイブズはそれを幾つかの映像資料で見て、知っていた。

 それでも。実際に目の当たりにするそれは、想像を絶するほどの存在感と、圧倒的なリアリティを持って存在していた。

「……海、なのか?」

 理屈と知識で目の前の物を理解すると、次いでナイブズは五感全てで目の前の風景を感じ取った。

 この匂い……これが、潮の香りか。

 独特のじめっとした感触……これが、海の風か。

 空気に混ざる、不可思議な塩辛さ……これが、海の空気か。

 この星に来てから、ずっと聞こえていた風の音……これが、波の音か。

 これが、海か。

 こんなものが、本当にあったのか。

 移民船の中で生まれ、砂の星で生き続け、150年。それなり以上に長い人生を歩んで来て、こんなにも驚くことがまだあったとは。

 感慨に耽りながらも海を眺めていて、ふと、海の上を何かが動いていることに気付き、それを見る。

 人間の老人が、木製の細長い物――原始的な船に乗っていた。この星に来て初めて目撃した人間の姿に、ナイブズは、ここは猫の国ではなかったかと妙なことを考えた。あまりにもナイブズにとっての現実や常識から乖離したこの星は、今まで見たのが猫ばかりだったこともあり、それくらい突飛な場所ではないかと思ったのだ。

 老人は『〒』のマークが入った帽子を被り、鞄を持っている。恐らく、何らかの仕事のシンボルマークなのだろう。ナイブズからの視線に気付かず、そのまま老人は船を漕いで別の水路へと入って行った。

 それで気付いたが、この街には至る所に水路があるようだ。これだけの数の水路があり、途方も無いほどの量の水があるのならば、その管理が杜撰なのも当然か。誰かが独占しようとしても出来ないほど、この星には水がありふれている。ノーマンズランドには、砂塵の荒野がありふれていたように。

 ナイブズの人生からすればあまりにも奇跡的な光景も、この星では当たり前の事なのかもしれないと思うと、なんだか間抜けに思えてくる。

 だが、間抜けでもいい。今は、もう暫く、海を眺め、波の音を聞いていよう。

 

 

 

 

「おい、貴様。五月蠅いぞ、黙っていろ」

 

 

 

 

 海を眺め、波の音を聞き続けて、どれだけの時間が経っただろうか。

 途中、船に乗って唄を歌っている女性が近くを通り、その歌声が波の音を遮ってしまうので耳障りに思ったナイブズがその女性を咎めた、ということがあったぐらいで、それ以外は何事も無かった。

 そう、何事も無かったのだ。

 この星、この街にも確実に人間がいる。だのに、唯の一度も銃声は聞こえず、誰も悲鳴を上げなかった。

 何の喧騒も無く、しかしゴースト・タウンのように静まり返っているわけでもなく、この街の人間達はあまりにも穏やかだったのだ。

「……人間、か」

 ノーマンズランドは『誰もいない大地』と名付けられたように、何も無かった。プラントを用いて物資を得ようとも、そのプラント自身が無くなってしまえばどうなるか、ナイブズは良く知っている。

 150年前も、つい数ヶ月前も、何も無い大地で人間がやっていたことは同じだ。狂奔、狂乱、暴走、暴動、略奪、強奪、逃避、逃走、闘争、争乱……色々とあるが、結論は一つ。誰もが死の恐怖に怯えるあまり、自らの保身ばかりを考え、普段は上っ面に被せた偽善じみた理性の仮面を取り落とし、人間自身が悪徳と定めているもの――人間の動物としての野蛮で凶暴な本性を曝け出していた。

 中には、そうでない者もいたのだろうが、圧倒的多数がそうだった。少なくとも、ナイブズにはそうとしか見えなかった。その最たる例こそ、ナイブズが人間を間引く為に集めた人間達。『人間を殺す』ということに一点特化した技能を磨き続けたことによって『人間』とは言い難い魔の領域に在った、13本の良く切れるタフなナイフ。

 彼らを見る度、ナイブズは、人間とはつくづく救いようの無い屑だと、こんな害獣どもは殺し合わせるか、さっさと駆除するのが一番だと考えていた。

 だが、彼らは違った。ヴァッシュと、ヴァッシュの言葉に動かされた彼女達は。ナイブズと同じ150年間、人間と共に在り続けた彼らは。

 ナイブズ以上に、人間の愚かさやおぞましさを目の当たりにして来たはずなのに、人間達にもっと別なものを見ていた。そして、それを信じていた。

 ヴァッシュ達が信じた人間の側面は、ヴァッシュと繋がり、彼女達がナイブズから離れて行く直前の瞬間に、少なからずナイブズにも伝わっていた。それに、半世紀以上もヴァッシュとは対決していたのだから、彼が何を想い、何を信じていたのかはナイブズにも手に取るように分かった。

 それでも未だにナイブズは、ヴァッシュや彼女達が人間に見出していたものを、信じる以前に理解できていなかった。ナイブズが信じたのはヴァッシュの言葉で、理解していたのは同胞たるプラント達の心だけだった。

 だが。もしかしたら、ここならば。ノーマンズランドとは全く違う、水という生命の源に溢れたこの星ならば。乾いた殺伐とした空気ではなく、潤った穏やかな空気が包むこの街ならば。

 ヴァッシュが人間達に見出していたものを、俺にも理解できるのではないか?

 彼女達が見ていた人間の可能性を、俺も見ることができるのではないか?

 まだ、この星に来てから人間は2人見ただけ。それだけで、こんなことを決めるのは早計で滑稽かもしれない。だが、それこそが、ヴァッシュの願いではなかったか?

 殺しても誰も文句を言わないどころか、殺せば大勢から称賛されるようなことをした俺に、手を差し伸べて、共に羽ばたいてくれた、あいつの。この世でたった1人の弟の、たった一つの祈り。

 懐から白紙の切符を取り出し、それを見つめる。

 これが本当に、あいつや、彼女達からの餞別なら、迷うことは無いはずだ。

「……もう一度、向き合おう。人間と」

 人間を恐れず、憎まず、見下さず。対等な位置から向き合い、理解しようと努力する。

 今までを白紙に戻そうなどとは思わない。テスラの姿を忘れることなどできない。だが、これからは。この切符と同じように、まっさらな所から、また始めよう。

「まさか……こうする日が来るとはな」

 移民船の中で暮らしていた幼い頃の記憶とノーマンズランドでの150年間を振り返り、万感の思いを込めて呟く。

 ナイブズは踵を返して、街中へと向かった。気付いてみれば、街は祭りか何かのような、活気に満ちた空気だった。



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#2.招く猫

 昨日一日中、街の中を歩き回って分かったことは少ない。

 この街の名前がネオ・ヴェネツィアであること。目の前の海の名前がネオ・アドリア海で、そこには様々な地球の国の文化を再現した島が点在していること。ウンディーネ、シルフ、ノーム、サラマンダーという、地球のヨーロッパ圏を起源とする精霊の名を冠した、この街の象徴的な職業があること。この星には地球と同じ四季が存在し、今は冬だということ。そして、もうじきカーニヴァル――祭りが始まるということだ。

 『お祭り騒ぎ』ならば知っているが、本物の『祭り』を実際に見るのは初めてだ。レムから教えられたこともあるが、彼女の体験談で、抽象的なことばかり言われてあまりピンと来なかったのを覚えている。ヴァッシュは興味津々だったが。

「……あの猫達も祭りに来たのか?」

 ふと、ナイブズは自分と共に汽車から降りた黒猫と白い生物を思い出した。自分が乗ったのは偶然だが、あの猫達は自ら汽車に乗っていたのだろう。ならば、この時期にこの星にやって来たのは、カーニヴァルに参加するためだったのではないか。

 普通ならば、ありえない、下らない、馬鹿馬鹿しい、等と言って一笑に付されるような考えだ。だが、今のナイブズの境遇は普通ではないし、ナイブズにとってこの街も普通ではない。ならば、普通ではありえないようなこともありえるのではないかと思えるのだ。

 態々猫までがやって来るような祭りとは、どのようなものだろうか。そして、その中で人間は、どのような姿を見せるのか。カーニヴァルの開催は明日からのはず。ならば、もう一日費やして、もっと詳しく調べておくか。

 考えを纏めると、眺めていた海に背を向け、再びネオ・ヴェネツィアの市街へと足を向けた。途中、猫のグループを幾つか見かける。その中には、猫とは掛け離れた姿の生物も混じっていた。鳴き声まで違う所から考えるに、この星の独自の生物だろうか。だとするならば、よくも違う生物と共存できているものだ。

 そんなことを考えている内に、路地裏を抜けて表通りに出た。街には仮面を被り、中世風の衣装に仮装した人間達の姿が昨日よりも多く見られる。こうして街を歩いて、人間達の姿を見ているだけでは、カーニヴァルとやらについては何も分からない。さて、何からどう調べるべきか。

 

「カーニヴァルかぁ。こんな素敵なお祭り、誰が考えたんだろー」

「カーニヴァルはイタリア語でCarnevaleと言って、『お肉よサラバ!』という意味なの。元々は、四旬節を迎えるためのお祭りだったのよ」

「しじゅんせつ?」

「キリスト教徒がイエス様の復活までの40日間、お肉やお酒を断って慎ましく過ごして、精進する期間のことよ。その長くて辛い四旬節に入る前に、思う存分、飲んで食べて陽気に騒ごう、っていう習慣からカーニヴァルは生まれたの」

「ほへー」

「もちろん今ではキリスト教徒に限らない、この街独自の仮装のお祭りになっているけどね。それにカーニヴァルは、長かった冬に終わりを告げて、やがて来る春を祝うお祭りでもあるのよ」

 

 思わぬところで解説が聞けた。

 たまたま近くを通りがかった家――ではなく、出ている表札から水先案内業の小さな会社らしい。そこのテラスで話している2人の水先案内人の会話の内容が、偶然にもナイブズが求めていたカーニヴァルの基礎知識だった。

 なるほど、そういう祭りだったのか。仮装をしている人間が多いのも、祭りだからではなく、この街のカーニヴァルがそういうものだからなのか。

 思いの他早くカーニヴァルの知識が得られたが、これ以上はカーニヴァルの何を調べたらいいかも思いつかない。ならば、他のことをするとして、どうするか。

「にゅ!?」

 聞き覚えのある、珍妙な鳴き声が聞こえた。見ると、そこにはあの汽車から一緒に降りた白い生物がいた。唐草模様の風呂敷包みを背負って、どこかに行く途中だったようだ。

 奇遇な再会だが、特に興味は無い。この後は、この街をもっと歩いて回るか。

 そう決めると、ナイブズは足元から聞こえる「にゅっ、にゅっ」という鳴き声を無視して、ネオ・ヴェネツィアの探索へと向かった。

 

 

「あの男の人、アリア社長のお知り合いでしょうか?」

「さあ、どうかしら」

 

 

 街には、活気が溢れていた。祭りの時期だから、というのもあるのだろうが、それでも大したものだ。

 仮装の衣装に身を包んだ者、路上のみならず水上でも露店を開いている者、それを珍しそうに見ている者と、当然のように接して商品を買う者、空中をエアバイクで疾走する者、水上で船を漕ぐ者。様々な人間達がいて、それぞれ誰もが活力に溢れ、そして期待と楽しみに心を躍らせているようだった。

 頭上を飛んで行くエアバイクを見る。あれは間違いなく、ロストテクノロジー――ノーマンズランドでは廃れてしまった、地球の高度技術だ。安定したこの星ならば、高度技術が失われることなく発達しているのも当然か。

 ノーマンズランドでは見られなかった、頭上を人が乗ったバイクが飛び、遠くには浮島という人工物が宙に浮いているという光景。ナイブズからすれば異様だが、この街の人間にとってはそうでもないらしい。一部、ナイブズのように物珍しそうに見ていたり、写真を撮ったりしている者達は、恐らくは外部――別の星の人間か。

 驚いたことに、この星の周辺では星間旅行というものが定着しているらしい。その証拠が、サン・マルコという国際宇宙港だ。

 ノーマンズランドでは、表面上はどれだけ安定して豊かに見える街でも、その実は日々を生きるので精一杯だ。ヴァッシュが身を寄せていた隠れ里の者以外で、他の惑星に意識を向けていた者などいなかっただろう。まして星間旅行など、妄想や空想にすらあったかどうか。

 ナイブズも外の惑星に行こうと思ったことはあったにはあったが、それも人類を根絶やしにして生まれながらに隷属を強いられた同胞達を解放しよう、という考えからだ。他の星へ旅行をしようなどとは、一度も考えたことも無かった。

 そんな俺が、ある意味旅行同然で別の星にいるとは、皮肉というものか。

 物思いに耽りながら、歩を進める。そして、大きな川に出た。こういうものを大運河、というのだろうか。こんな大きな川に街を寸断されていては交通が不便だろうと考えて辺りを見てみると、黒い舟に10人前後の人間が乗って移動しているのが見えた。成る程、どうやらここはあの舟で横断するようだ。

 対岸で調度舟に乗り込んでいる様子が見えたのでその様子を覗う。やはり、金が必要なのは当然か。高いか安いかまでは分からないが、老若男女を問わず大勢が乗っているからには、高くは無いのだろう。

 水先案内人の服を着た3人の少女が、乗客を黒い舟へと誘導している。歳の頃は、15から17といったところか。そういえば、チャペルとGUNG-HO-GUNS唯一のダブルナンバー――ミカエルの眼から派遣されて来たあの2人も、それぐらいの歳だったか。外見の違いは、細胞レベルまで改造されているミカエルの眼と比較すれば当然か。

 ふと、気付いた。何時の間にか、舟の中にあの時の黒猫が紛れている。白い生物に続いてあの黒猫にもまた会うとは、奇遇というよりも奇縁というやつか。

 何となく、その舟がこちら側にやって来る様子を眺める。途中で黒猫の存在に他の乗客や舟を漕いでいる水先案内人も気付いたようだが、放り出すようなことはせず、そのまま来るようだ。舟が桟橋に着くと、黒猫は人間の合間を掻い潜って素早く降りると、ナイブズの足元で、ぴたり、と止まった。

「……俺に用か?」

「にゃぁ」

 どうやら、そのようだ。もしかしたら、先刻の白い生物もナイブズに用があったのかもしれない。暫し黙考し、ナイブズは黒猫に付いて行くことにした。

 その背中を、1人の『オレンジぷらねっと』所属の水先案内人が見ていた。

 

 

「190cmぐらいの長身、ワイシャツに黒いズボン、逆立った黒髪、右目の下の泣き黒子……全部、合ってる」

「どうしたんだ、杏?」

「え、う、うん。ちょっと、あの男の人が会社で探している人かもしれなくて」

「へぇ……って、その人、どこにいるんだ?」

「……あれ?」

 

 

 ネオ・ヴェネツィアには、この時期に起こる不可思議な現象がある。それは、普段は街に多くいる猫達の姿が、カーニヴァルの期間だけ殆ど見られなくなることだ。特にそれは火星猫に顕著となっている。

 カーニヴァルの活気に紛れて忘れられがちなこの現象に、ある人はこんな仮説を立てていた。この時期には猫達も猫妖精(ケット・シー)の下で『猫の集会』を開き、共にカーニヴァルを楽しんでいるのではないか、と。

 無論、そんなことはナイブズの知るところではない。だが、彼は当然のように猫達の姿を今日も見ていた。そして今も、黒猫に導かれて、路地裏を歩いていた。

 途中、ナイブズは周囲の異常に気付いたが、敢えて騒ぐようなことはせず、黒猫の後を追って歩き続けた。

 周囲が静か過ぎる。幾ら人気の無い路地裏とはいえ、祭りの活気に湧いている人間達の喧騒が聞こえて来ないはずがない。加えて、空間そのものにも違和感を覚えていた。ノーマンズランドとアクアの空気の違いは多大なものだが、それでも、空間に違いがあるなどと感じる程ではなかった。途中、どこかの角を曲がった時に、まるで目に見えない何かを『通り抜ける』ような感覚がしたが、それは勘違いではなかったようだ。

 30分ほど歩き続けて、広い空間に出た。公園のような造成された場所ではなく、人間が街を作り建物を建てて行く中で、自然と出来た空白の場所のようだ。

 人間の気配は無い。だが、人間でないものの気配ならそこら中からする。気配の正体は、猫だ。気配などを感付けない人間でも、一つの場所に大量に集まった猫達の臭いと呼吸音で分かるだろう。

 周囲を見回して、自分に向けられているのが敵意ではなく奇異の目の類であると判断すると、ナイブズはこの場所の中心部へと進んだ。黒猫は咎めるでもなく、道を開けて静かにしている。

 すると、どこからか音楽が聞こえてきた。

 

 ズンタカ ポコン  ポンココ ポコン  ズンタカ ポコテン  ズン タカタ

 

 軽妙な音楽を鳴らしながら現れたのは、黒い套に全身を包み、顔を白い仮面で隠した小人の楽団。そして、それらを率いる、豪奢な鬘と仮面とマントで仮装した“ナニカ”だった。

 その気配には、覚えがあった。この星に来るよりも前、あの星を発った後に出会った、人外の存在。

「車掌……では、ないか」

 似て非なるこの気配は、恐らく同族なのだろう。

「お前が、俺を呼んだのか?」

 問うと、仮面のものは恭しく頷いた。芝居がかった動作に見えるのは、その風体のためか。

 あの時の車掌とは違い、動作の意味が直接伝わって来ないことからも、ナイブズは目の前のものと車掌が別の存在であることを改めて確認した。

「それで、何の用だ。まさか、呼び寄せるだけが目的というわけではないだろう」

 重ねて問うと、仮面のものはどこからか黒い套と、白い仮面を取り出し、それらをナイブズへと差し出した。

 それを受け取るよりも先に、ナイブズは仮面のものの後ろに控え、軽快に音を鳴らし続けている小人たちを見た。あの体格は、明らかに人間ではない。加えて、臭いは上手く誤魔化しているようだが、この場に溶け込んでいる気配で、正体を察せる。

 なるほど、この星には本当に猫の国があったのか。昨日、海を眺めている時に何となく思いついたことが真実だったとは、なんと愉快な。ということは、目の前にいる仮面のものの正体は……猫の国の王、といったところだろうか。そして、差し出された套と仮面の意味は、誘い。

「人間に混じって、祭りをするのか?」

 ナイブズは、人間と向き合い、その在り様を理解しようと決めた。だから、人外の者だけの集いならば、参加しようという意欲は皆無だった。

 仮面のものは大きく頷いた。当然だ、と言わんばかりに。

「……そうか。ならば、いいだろう」

 頷いて、ナイブズは差し出された衣装を手に取った。



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#3.違う謳声、同じ歌

 猫の国の王から手渡されたマスクと套を身に付けて、ナイブズは王とその従者と思しきもの達と共に、猫の集会所から出発した。

 人語を解する人形のような猫曰く、『今の彼は“カサノヴァ”です』ということだった。

『今日から始まるカーニヴァルは、カサノヴァと共に歩くだけで存分に楽しめます。無論、人間達と共に』

 その言葉を取り敢えずの当てとして、ナイブズはカサノヴァの後に付いて歩いていた。途中、仮面を外してそれを見る。偶然か、その仮面はナイブズが一時期付けていた仮面と似たデザインだった。あの仮面を被っていたのは、ジュネオラ・ロック・クライシスからの約2年間――ヴァッシュが失踪していた頃だったか。

 あの頃のナイブズは、ヴァッシュに人間を見限らせる為に、人間を使ってヴァッシュに最高の苦しみを与えようとしていた。何者よりも人間らしく、誰よりも人間を愛しているヴァッシュにとって、人間に命を脅かされること、人間の醜悪さを見せつけられることは、どれ程の苦痛だったのだろうか。人間を害虫同然に思っていたナイブズには、全く分からなかった。だからこそ、知らなければならない。

 自分と同じ絶望を味わった弟が、気が遠くなるほど――人間によって幾度となく傷付けられ、踏み躙られ、騙され、裏切られて、その印を全身に刻み込まれて、それでも、人間を愛せた理由を。すぐには全部を知れずとも、今日この先から、少しずつでも。

 ある路地を曲がると、辺りの空気が一変した。先日までとは比べ物にならないほど騒がしく、賑やかな人間達の気配を感じる。もうそろそろか。

 仮面を被り、カサノヴァの後に付いて歩き続ける。そして表通りに出た途端、今まで聞いたことの無いような大きな歓声がナイブズ達に向けられた。

 

「カサノヴァだ!」

「すっげぇ、本物だー!」

「でっけぇー!」

「お、今年は大きいのが1人混ざってるな」

「小人の楽団もいるぞー!」

 

 人間達から向けられる歓声に呆然として、思わず立ち止まってしまった。

 今まで、大勢の人間達から歓声で迎えられたことなど一度も無かった。寧ろ、人間から向けられる感情で馴染みがあるのは怒りや憎しみ、恐怖や畏れの類で、こんなにも明るい感情を向けられたことは無かった。稀に、畏敬や崇敬の念を向けて来る者もいたが、あれらは好意ではなく狂信。今聞こえてくる歓声と同じに出来るものではない。

 実際は、歓声の大半はナイブズの前に立つカサノヴァに向けてのもので、残りはその従者たちへのもの。ナイブズに向けられているのは物珍しそうな視線ぐらいのものだ。どうやらカサノヴァは、この街の猫達だけでなく、人間達にも知られた存在らしい。

 従者たちが楽器を鳴らし始めると、カサノヴァはナイブズに振り返り、付いて来るようにと身振りで促して、悠々と歩き出した。その後に、ナイブズも続く。

 人間達はカサノヴァを見ては親しげに声を掛けたり、物珍しそうに眺めていたり、写真を撮ったり、様々だ。この様子を見るだけで、カサノヴァがこのカーニヴァルの中で特別な立場であるということが分かる。しかし、厳密にどんな立場なのかまでは、流石に分からない。

「カサノヴァは18世紀の地球のヴェネツィアに実在した人物なの。時に脱獄者であり、稀代の女ったらしであり、文学者でもあり、冒険家でもあった。とにかく、スキャンダラスで有名な人物だったんですって。今では、カーニヴァルの時だけ復活する伝説のアイドルね」

「ほへー」

 また都合よく解説が聞けたものだ。

 後ろから聞こえてきたカサノヴァを解説する声は、昨日、カーニヴァルの解説をしていた人間と同じものだ。2度も続けて、都合よく解説を聴けるとは。偶然か、ある種の奇縁か。

 それにしても、と、ナイブズは目の前を歩くカサノヴァを見る。特別な存在だろうと思ってはいたが、まさかカーニヴァルの主役だったとは。人間ではないものが、人間の祭りの主役の位置にいる。このことを、この街の人間達は知っているのだろうか。

「ちなみに、カサノヴァ役は毎年一人にしか許されていなくて、演じるのは大変名誉なことなんだけど……それについては、すんごい噂があるのよっ」

 すると、後ろからまたもカサノヴァについて話す声が聞こえてきた。凄い噂というものが気になり、歩を休めずに耳だけを澄ます。

「なんでも、あのカサノヴァはこの街のカーニヴァルが始まって以来――何百年も、ずっと同じ人がやってるんだって」

 仮面の下で、思わず目を瞠った。一瞬、足を止めてしまったが、誰かに気取られるよりも先に再び前へと動かす。

「ええー、嘘ぉっ? 何百年も?」

「中身は不老不死の妖精だって話よ」

 次第に周囲の喧騒が大きくなり、少女達の噂話は聞こえなくなってしまった。一度、首だけを動かして後ろを見遣る。既に話していた当人達らしき姿は見当たらない。見つけたからとて、どうしようというわけでもなかったが。

 視線を前へと戻し、目の前を歩くカサノヴァ――猫の国の王を見る。

 何百年もの間、人間の傍に寄り添い続けているという、人知を超越した存在。その中で、猫の国の王は何を見て、何を感じ、何を想っているのだろうか。少なくとも、こうして人間達の祭りの主役となっているのだから、かつてのナイブズのように人間を憎悪しているということはないだろう。

「…………お前は」

 話し掛けようと声をかけて、やめた。今は猫の国の王のことよりも、このカーニヴァルを、そして人間達を見ることを優先しよう。別に、この後に何かをしなければならないわけでも、したいわけでもない。時間はいくらでもあるのだから、何時でも、次に気が向いた時にでも話をすればいいだろう。

 ナイブズは歩く速度を上げて、カサノヴァの隣に並んだ。カサノヴァはナイブズの行動を咎めることもなく、寧ろ気にした風も見せず、堂々とした足取りを乱さない。カサノヴァの従者たちもナイブズの行動を歓迎しているのか、先程よりも明るく派手に楽器を奏でている。しかし、それらには目もくれず、ナイブズが見ているのは、この街の人々のみ。

 

 

 

「カサノヴァの隣を歩いている人、誰だろうね?」

「そういえば、去年まではいませんでしたね、あんな人」

「そんなことはどーでもいいー!!」

「晃ちゃん、急に大声を出さないで。周りの人とかアリスちゃんがビックリしちゃってるよ」

「お前の為だろうが! さっさとお前の歌を貶した大バカ野郎を見つけ出すぞっ」

「でも……カーニヴァルの人混みの中で人探しをするなんて、でっかい無理です」

「無理を押し通して、そのまま道理を押し出してしまえ!」

「晃ちゃん、アリスちゃん、あそこのバウータの屋台に行ってみましょう」

「ア~テ~ナ~!!」

「……でっかい不安です。ついでに、ちょっと怖いです」

 

 

 

「今日からは俺一人でいい」

 カーニヴァルが始まって1週間。カーニヴァルの日程の半分以上が過ぎた所で、ナイブズはカサノヴァ達にそのように告げた。

 カサノヴァ達と共に行動するのが不快になったとか、そういうわけではない。もっと違った視点で、カーニヴァルの中の人間達を見てみたいと思ったのだ。華やかな主役側の視点から見られるものも多かったが、一参加者としてもカーニヴァルに加わらなければ、まだまだ見えないものがある。そう考えたのだ。

 カサノヴァは黙って頷くと、従者たちを連れて、今日もカーニヴァルの中心へと踏み出していった。

 仮面と套を返そうとしたが、その必要は無いと手振りで伝えられた。だが、今日からはカサノヴァの連れとしてではなく、ナイブズ個人としてカーニヴァルに参加するのだから、そのままの格好では締まらない。套は脱いで畳んで適当な長さにしてから腰に巻きつけ、仮面は折角だからそのまま被ることにした。

 この1週間はカサノヴァと共に歩き回っていたため、街を歩いている時は常に周りに大勢の人間がいたが、こうして1人で歩けば、人通りがまばらな所にも行き当たるようになった。

 1人1人、人間の様子を窺う。ある者は恋人と共に、ある者は友人と共に、ある者は家族と共に、ある者は1人で、皆がそれぞれカーニヴァルで楽しんでいるようだ。そう、誰もが楽しんでいるのだ。それ以外の感情を有しているように見える者は、ナイブズ自身を除いて誰一人としていなかった。

 十人十色という言葉があるように、人間は1人1人がそれぞれに別個の人生を歩み、その中で独自の感性や個性ができていく。これだけ多くの人間が集まれば、それぞれの違いは数え切れないぐらいあるだろう。なのに、こんなにも多くの人間が、同じ感情を共有している。それが殺意や敵意ならば珍しくも無いが、喜びや楽しさなのだ。カーニヴァルという特別な行事の最中とはいえ、ナイブズには驚くべき事実だった。

 人通りの極端に少ない場所に出ても、表の空気に馴染まないゴロツキを見かけることもない。見る人間、誰もが笑顔だった。仮面を被っていても、口元が見えていればそれだけで分かった。まるで、この中にヴァッシュが混じっているような、そんな錯覚さえも覚えてしまう。いるはずが無いと、分かっているのに。少しだけ感傷に浸って、再び歩き出す。

 やがて少し大きな通りに出ると、街の地図が書かれた看板を見つけた。この街の地理に明るくないらしい人間達も、地図の前に集まっている。それだけならばどうということも無かったが、ナイブズはその中に、奇妙なものを2人見つけた。

 1人は、狐の面を被った少年の姿をした、人ならぬ気配を漂わせるもの。もう1人は、困ったような表情で地図を見ている水先案内人の女性だ。

 狐の面の少年はともかくとして、何故、この街の地理に詳しいはずの水先案内人が地図を見ているのだろうか。そんなことを考えて女性に視線を向けていた内に、狐の面の少年の姿は消えていた。どうやら人間や猫以外にも、この祭りを楽しんでいるものがいるようだ。

「あの……」

 すると、水先案内人の女性がナイブズに話しかけてきた。この街に来てから、人間に話しかけられるのも、人間と話すのも初めてだ。

「なんだ?」

 仮面を付けたまま、ナイブズは振り返った。

「どこかで、会ったことがありますか?」

「この街の人間に知り合いはいない」

 褐色の肌の水先案内人からの問いに、ナイブズは即座に返した。

 知り合いがいないどころか、この星で人間と言葉を交わす事自体が初めてなのだ。よもや、人間の方から話しかけてくるとは思わなかった。

「そうですか……」

 水先案内人の女性は少し首を傾げたが、ナイブズからの返事に頷いた。

 それを見て、ナイブズは女性から視線を外した。既に地図の内容は暗記した。取り敢えずの目的地へと向かおうとして、また、先程の女性に話しかけられた。

「あの、もう1つ、いいでしょうか?」

「なんだ」

「晃ちゃんとアリスちゃん……あ、私の友達と後輩なんですけど、2人とはぐれてしまったんです。どこかで見ませんでしたか?」

「さっきも言ったが、この街の人間に知り合いはいない。仮に見ていたとしても、分かるはずが無いだろう」

「ああ、そうでしたね。失礼しました」

 再び、この星に知己のいないナイブズに分かるはずの無い質問をされ、簡明に答えた。女性は、今度は大して落胆もせず、寧ろ自分のミスに気付いてかやや慌てているようだ。

 踵を返そうとした所で、女性のある行動が気になり、ナイブズは足を止めて女性の様子を覗った。

「おい。どうして地図を見ている」

 彼女は、この星で初めて言葉を交わした相手。それ故か、普段ならば無視するところを、ナイブズは自分から声を掛けていた。

「晃ちゃんとアリスちゃんがどこにいるか、探しているんです」

 女性は、極めて真剣な顔でそのように答えた。

 答えの内容に、ナイブズは暫し呆然とし、やがて、女性が何をしていたかを理解した。

「……地図にそんなことが書いてあるはずが無いだろう」

「………………ああっ」

 ナイブズからの指摘に、女性は自身の行いが無意味だったことに気付いたらしく、はっ、としたように声を出した。

 大丈夫か、この女。うっかりしている、間が抜けているにしても限度があるだろう。

 そんなことを考えて、ナイブズは、彼女が水先案内人の服を着ていることを思い出した。そこであることを思い付き、ナイブズはそのまま女性へと声を掛けた。

「特徴は?」

「はい?」

「お前が探している2人の特徴を教えろ」

 ナイブズが言うと、少しの間を挟んでから女性は聞き返した。

「一緒に探してくれるんですか?」

 頷いて、ナイブズは更に言葉を続けた。

「その代わり、それが終わったらお前は俺にこの街を案内しろ」

 仮にも水先案内人ならば、この街の地理や歴史、そしてカーニヴァルにも詳しいはず。そうすれば、これから人間を知るのもより容易くなるはず。そのように考えて、ナイブズは女性に対してそのように申し出た。

 女性は、微笑みながら頷いた。

「いいですよ。こう見えても私、水先案内人(ウンディーネ)ですから」

「その服装を見れば分かる」

 またもナイブズが即座に返すと、女性は自分の服を見て、そして頭の上の帽子を触った。

「そうでした。制服でした」

 本当に大丈夫か、この女。

 そのようなことを思いながら、ナイブズは女性から連れの2人の特徴を教えられた。

 アキラは長い黒髪で、声が大きい。アリスは緑色の長髪で、声が小さい。最大の特徴はその2人も水先案内人の制服を着ていること。しかし、水先案内人の制服を着てカーニヴァルに興じている者達の姿はチラホラと見える。すぐに見つけるのは難しいだろう。

 歩きながら、ナイブズは女性の連れの2人を探しつつ、人間達の様子も見ていた。やはり、見る人間の殆どが楽しそうだ。そうは見えない者は、恐らく遊び疲れているからだろう。

 だが、相変わらず。楽しんでいる、ということは推測出来ても。何が楽しいのか、分からない。

「あの……」

「なんだ」

 女性に声を掛けられ、視線は向けずに声だけで聞き返す。

「貴方は、どうしてこの街に来たんですか?」

 その言葉に、ナイブズは足を止め、女性の顔を覗き込む。女性は、とても不思議そうな顔をしていた。

 今、この街で仮面を被って練り歩いている者がこの街にいる理由は、普通であれば一つだ。この女性は抜けているところがあるとはいえ、水先案内人。それが分からないはずが無いだろう。なのに、こんなことを訊いて来たということは、ナイブズの感情をこの僅かの間に読み取ったということか。

 驚きつつも、ナイブズは思考を巡らす。この事を、他者に教える義理は無い。自分だけの真実として、胸に仕舞っておくという選択もある。だが、問い掛けてきた相手はこの星で初めて出会い、言葉を交わし、奇しくも共に行動している人間。ならば、大まかに教えてもいいかもしれない。

「……切符を、弟達から餞別に貰った。それで、気が向いたからこの星で降りた。それだけだ」

 懐に、大切に仕舞っている白紙の切符に手を当てながら答える。

「やっぱり、カーニヴァルを観に来たわけではないんですね」

 すると、女性は納得したように頷いた。それに、ナイブズも頷き返す。

「ああ。事のついで、だな」

 辺りを見回しながら、答える。

 それにしても、と、ナイブズは女性に視線を戻す。やはり、女性はナイブズの感情の機微を読み取っていた。そのことを認めて、ナイブズは女性の評価を改めた。

「それじゃあ、私がカーニヴァルを案内しますから、一緒に楽しみましょう」

 すると、女性はナイブズにそのようなことを提案して来た。

「お前の連れを探さないのか」

 唐突な提案に、ナイブズは思わず聞き返していた。

 それは確かに先んじて提案はしていたが、彼女の探している2人を見つけてからのはずだ。まさか、目的を忘れたわけではあるまい。

「晃ちゃんとアリスちゃんなら、きっと大丈夫ですから」

 言って、女性は微笑んだ。大丈夫か心配されているのはお前ではないか、と思いつつも、ナイブズはその提案を受け入れることにした。

「そうか。なら……頼む」

「はい。では、まずは近くの大運河に行きましょう」

 ナイブズからの返事を聞くと、女性は歩き出した。その姿は、先程までのどこかボケた様子からは想像もできないほど凛としていた。伊達に水先案内人ではないということか。

 そうして、ナイブズは女性に案内されながら、改めて、カーニヴァルを見て回った。驚いたことに、全てが違って見えた。漠然と、ただ見て歩いているのと、そこがどういう場所で、今何をやっているのか、隣で解説されながら見るのとでは、まるで別の風景を見ているようだった。

 ナイブズは女性の観光案内に耳を傾け、カーニヴァルの様子に目を凝らしながら、ネオ・ヴェネツィアの街を見て回った。

 1人でいた時よりも彩鮮やかに見えるのは、気のせいではあるまい。

 

 

 ノーマンズランドとは違い1つだけの小さな太陽が沈み始め、街並みが夕焼けに染まり始めた頃。マルコ・ポーロ国際宇宙港の前に来た所で、水先案内人の2人組を見つけた。

「いたぞ」

「え?」

「あの2人だろう」

 言って指し示すが、常人の視力では判別が付かないか。先に立って歩き、付いて来るように促す。やがて、距離が100mを切ったぐらいのところで、黒髪の女性がナイブズの方に顔を向け、その後ろの女性の姿を認識して、顔色を変えた。

「アテナ!」

「アテナ先輩」

 黒髪の女性が叫ぶと、少しの間を挟んで緑色の髪の少女もそれに続いた。

「晃ちゃん、アリスちゃん」

 女性も2人の名を呼び、彼女達に駆け寄った。

「まったく、心配させやがって」

「会えて良かったです。アテナ先輩だけじゃ、会社の寮に帰れるかも心配でしたから」

「ごめんね、心配かけちゃって」

 3人が再会を喜び合っているのを見届けて、ナイブズは踵を返した。既に見返りは貰っている。なら、約束を果たした時点で別れるのが当然だ。

「あ、待って下さい」

 呼び止められ、ナイブズは足を止めた。もう、彼女と自分を繋ぐものは何もない。無視してしまっても良かったはずだが、何故か出来なかった。

「今日は、ありがとうございました」

 背を向けたままのナイブズに、彼女――アテナは感謝の言葉を送って来た。

 仮面の下で目を瞑り、回想する。

 人間に、感謝の言葉を送られたのは、これが初めてでは……無かったか。俺に初めて感謝の言葉を送ったあの男は、俺が気まぐれで助け、そして気まぐれで名を与えたら、泣きじゃくって喜び、感謝の言葉を口にしていた。

 あの時は、鬱陶しくて汚らしいと、嫌悪の感情しか湧かなかった。だが、今は。不思議と、心地よく感じる。

 ヴァッシュ。ほんの少しだが、俺は変わったようだ。あの頃のように、お前が願っていたように。これまでの150年に比べれば足取りは遅すぎるかもしれないが、俺は、お前や同胞達が見ていた方向に進めているか?

「おい、返事ぐらいしたらどうだ」

 感慨に耽っていたところに、後ろから苛立ちを含んだ声が聞こえてきた。確か、アキラという女だったか。肩越しにアキラを一瞥してから、アテナと目を合わせる。

「世話になった」

 一言だけ、ぶっきらぼうに礼の言葉を言って、再び歩き出した。

「明日も、ご案内しましょうか?」

 不意に告げられた意外な言葉に、再び、足が止まる。

 ヴァッシュやレムのような、とまでは言わない。だが、どうやらあの女も随分とお人好しらしい。

「…………ああ」

 小さく頷いて、ナイブズは人混みの中へと進んで行った。

 その仮面の下の表情は、誰にも、ナイブズ自身にも見えなかった。

 

 

 

 

 カーニヴァルの最後の2日間を、ナイブズはアテナに案内されながら見て回った。

 待ち合わせ場所の指定をしていなかったが、最初に出会った場所に行ったらアテナはまた地図看板を見ていた。その姿に再び呆れたが、案内を始めれば、彼女はすぐにその姿が嘘のように凛々しい表情へと切り替わる。伊達に観光案内のプロではないということか、とナイブズも感心する。

 途中でカサノヴァ達と鉢合わせる機会があり、その折に、ナイブズはアテナからカサノヴァについての噂を改めて聞いた。

 いつの頃からか、まことしやかに流れている噂。毎年変わらぬ姿を見せるカサノヴァの正体は、不老不死の妖精である。

 どうやらこの噂は地元民の間では知らぬ者が殆どいないほど有名な話らしい。実際に正体を確かめられた者はいないらしいが。

 そんな話をしていると、カサノヴァがナイブズ達の方へと顔を向けた。見つめること暫し、カサノヴァは何かを言うでもなく、従者たちを連れて再び歩き出した。ナイブズの目には、何かに納得して、或いは何かを確認してから立ち去ったように見えたが、真偽のほどは定かではない。ただ、見送るその姿が、それを取り巻く人々の様子が、先日までとは違って見えた。

 そして、カーニヴァル最終日の夜。人気の無い水路の脇で、ナイブズはアテナと共に歩いていた。やがて、道が途切れて、海に出た。夜空の闇色と溶け合い、一体となっている海を眺めながら、ナイブズは口を開いた。

「お前のお陰で有意義に過ごせた。礼を言う」

 背を向けたまま、すぐ後ろにいるアテナへ、ぎこちないながらも礼を言う。

「これくらい、お安いご用です」

 アテナはナイブズの高圧的な言葉を聞いても、柔和な態度を崩さず、微笑みを浮かべて小さく頷いた。

 

 ズンタカ ズンタカ ポコポン

 

 すると、後ろから聞き覚えのある音楽が聞こえてきた。ナイブズとアテナは振り返り、そちらの方向を見る。カサノヴァの一行が近くの路地を通っていたが、1人、水先案内人の少女が加わっていた。何かの気紛れか、それともナイブズと同様にカサノヴァが自ら招き入れたのか。

 カサノヴァの一行を最後尾の少女が見えなくなるまで見送ってから、ナイブズは音楽からあることを連想し、なんとなく呟いた。

「水先案内人は、歌も唄うらしいな」

 このネオ・ヴェネツィアを象徴する水先案内人の仕事内容は3つに大別できる。舟の操舵、観光案内、そして舟謳。実際に自分で見聞きして得た知識ではないので、確認がてら、水先案内人の本人に聞いてみただけだった。だが、どうしたことか。アテナはナイブズの言葉を聞いた途端、小さく震えて俯いた。

「……はい」

 声も小さく消え入りそうなもので、明らかに普通ではなかった。

「どうした」

「え?」

「急に暗い顔をしたのはどうしてだ」

 声を掛けたことに自分自身でも驚きながら、ナイブズはアテナの返事を待った。

 やがて、アテナは少しずつ、事情を話し始めた。

「私、歌うのが大好きで、ちょっとは自信もあったんです。会社のみんなや、お客様も、私の歌を聴いて喜んでくれていました」

 そう言うアテナの顔は、とても楽しそうだった。自己陶酔の類ではなく、その自分の歌に纏わる楽しい思い出によるものだろう。だが、その表情はすぐに、再び翳った。

「けど、少し前に……会社への帰り道に歌っていたら、水路の脇に立っていた人に……煩いから黙れって……とても冷たい顔で、言われたんです」

 それを聞いて、ナイブズは波の音を聴いている時に、近くを通った水先案内人にそう言ったのを思い出した。しかし、今すぐにこのことを口に出すべきではないと考え、何も言わず、アテナの話が終わるのを待つ。

「それが……凄く、苦しくて……歌え、ないんです」

 震えながら、アテナはそこで言葉を切った。

 それが、ただの人間による罵倒だったならば、アテナがここまで傷つき、落ち込むようなことは無かっただろう。だが、それを言った時、ナイブズの肉体は以前までの習慣から、彼が以前、人間に相対した時に使っていた表情と声色になっていたのだ。

 人間を害虫同然に思い、悪意を以って見下していた絶対零度の眼光と、嫌悪だけが込められた声。かつて、想像を絶するほどの憎悪を内包していたそれらを向けられて、そのような感情に耐性や馴染みが全く無いアテナは、その残滓だけでここまで苦しんでしまっているのだ。

 そのことを理解し、自分のしたことを承知の上で、ナイブズは考えた。自分はどうすべきか、どうしたいか。

 思考の奥底に浮かび上がって来た、昔日の言葉。

 

 ――少しくらいの違いは、なんとかなるよ。沢山話して、理解し合う。僕達のこころと、ヒトのこころに、差なんてないんだから。そうだろう?――

 

「それは、俺だ」

 言いながら、ナイブズはカーニヴァルの間、アテナと出会ってからずっと被っていた仮面を取った。ナイブズの素顔を見た瞬間、アテナの表情が凍った。やはり、勘違いではなかった。

 一度、アテナから視線を外し、ナイブズは視線を海へと向けた。

「俺は、この星に来て、初めて海を見た」

「そう、なんですか?」

 不安が6割、驚きが4割という具合の声で、アテナは聞き返して来た。ナイブズは頷き、言葉を続ける。

「波の音を聴くのも初めてで……俺は、夢中だった。それ以外の音は邪魔だった。だからあの時、お前の歌をまともに聴かずに、ああ言った」

 そこで一度言葉を切り、アテナの様子を覗う。その顔には怒りは見えず、代わりに見えるのは戸惑いだった。ナイブズがあのように言った理由がこのようなことだったとは、思っていなかったのだろう。歌が雑音にしか聞こえないほど、波の音に聞き入るということは、どうやらこの星では珍しいことのようだ。しかしナイブズにとって、波の音は未だに新鮮で、いくら聞いても飽きないと思えるものなのだ。

 暫く待つが、アテナは考えあぐねているらしく、ナイブズを直視せず視線を彷徨わせて、何かを言おうとする気配は無い。

 ならば、このまま立ち去ってしまおうか――とは、思わなかった。

「……頼みがある」

 ナイブズが声を掛けると、アテナは怯え戸惑いながらも俯けていた顔を上げた。

 目を合わせたまま、言葉を伝える。

「唄ってくれないか?」

 傲慢、無神経、厚かましい等々と思われ、相手の反感を買ってしまうかもしれないことを、ナイブズは平然と言った。しかしその表情は、以前のような無表情や、無表情を装った憎悪を隠す仮面ではなく、真摯なものだった。

 言われたアテナは余程意外だったのか、暫く呆然としていた。やがて、数度深呼吸をして、何かを決めたような仕草を見せてから、口を開いた。

「……舟謳(カンツォーネ)ではなくて、私が好きな歌でもいいですか?」

「ああ」

 ナイブズが頷くと、アテナは一拍の間を置いて、唄い始めた。その歌を聴いてすぐ、ナイブズは驚愕に目を瞠った。

 曲調はアテナによってアレンジされているようだが、この歌を、ナイブズが聞き間違えるはずがない。しかし敢えて何も言わず、ナイブズは目を閉じ、耳を澄ました。

 波の音は、殆ど耳に入らなかった。

 耳に、心に響いてくるのは、謳声だけ。

 

 その歌を初めて聞いたのは、子守唄としてだった。

 まだ赤ん坊だった頃、ナイブズとヴァッシュが眠る時に、彼らの親代わりだったレム・セイブレムはいつもその歌を唄ってくれた。

 ヴァッシュは、その歌が大好きだった。ナイブズも、その歌は嫌いではなかった。

 そして、今聞こえている歌と、その謳声も。

 不思議と、心がほぐれて、安らいでいく。

 

「…………いい、歌だな」

 歌が終わって、ナイブズは少しの間を置いてからそう言った。それを聞いたアテナは先程までの暗い表情が嘘のように、嬉しそうに微笑んだ。

「お婆ちゃんから教わった、大好きな歌なんです」

「そうか」

 まさか150年振りに、あの歌を聴くことになるとは、思ってもみなかった。

 アテナとレムの謳声は全く別物で、曲調も違っていた。時も場所も人も、全てが違う。だが、紛れもなく同じ歌だ。

 しかし、と、ナイブズは回想する。

 最後にレムの歌を聴いたのは、テスラのことをレムから聞かされた日の就寝時間前だった。あの時、言動こそ冷静を装っていたが、ナイブズの心は荒れ狂っていた。久し振りに唄ってくれたレムの歌が、少しも響かないほど。だが、今聞いたアテナの歌は、歌が終わった今でも、心に響いている。

 同じものでも、こうも感じ方が変わるものなのか。俺の心は、こんなにも変わっていたのか。

「ありがとう」

 気が付けば、自然とそんな言葉が口から出ていた。誰にも言うことは無いと思っていた、感謝の言葉が。

「はい。私こそ、ありがとうございます」

 アテナからも感謝の言葉が返って来る。感謝したのは自分なのに、それをまた感謝で返されるとはどういうことかと思ったが、なんとなく、そういうものなのだろうと思えた。

 ヴァッシュとも長らく、お前が間違っている、考え直せと言い合って来た。それと、本質的には似たようなものだろう。

「俺は、ナイブズだ」

「私はアテナ・グローリィです」

 別れ際、ナイブズはこの星で初めて誰かに自分の名を伝え、誰かの名を聴いた。

 ほんの少しだが、前に進めた気がした。ヴァッシュがどれだけ傷ついても諦めなかった――かつて、自分自身も望んでいた道を。

 

 

 

「少しくらいの違いは、なんとかなるよ。沢山話して、理解し合う。僕達のこころと、ヒトのこころに、差なんてないんだから。そうだろう? ヴァッシュ」

 



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#4.夢への道

 カーニヴァルが終わってから数日、ナイブズは昼夜を問わずネオ・ヴェネツィアを歩き回っていた。

 アテナに観光名所などは案内されたが、入り組んだ街の構造の細部は大まかな説明をされただけでまだ網羅していなかった。当面のやることが特に定まっていなかったナイブズは、取り敢えずこの街を隅々まで見て回ろうと決めた。

 そうして数日間、街を歩き回ったナイブズは、朝焼けとその光が照り返す海を眺めながらあることを悩んでいた。

 人と話し、多くの言葉を交わして、互いを理解する。アテナのお陰で思い出せた、幼い頃、ヴァッシュに語ったナイブズ自身の言葉だ。しかし、今ナイブズはその前の段階、どうやって人に話し掛けるかで悩んでいた。

 広場や公園、市場など多数の人間がいる場所に行き着くこともあったのだが、そこでどのようにして人間に話し掛ければいいのか、さっぱり分からなかった。市場ならば店の商品を買うついでに、何か言葉を交わすということも容易くできそうだったが、今のナイブズは一文無しだ。他にも色々と考えたのだが、人に話しかける切っ掛けというものが、どうしても思いつかず、分からなかった。150年以上も人間とまともなコミュニケーションをしていなかったのだから、当然と言えば当然のことなのだが。

 ナイブズがここ10年程でそれなりの付き合いのあった人間はたったの3人。コンラッド、エレンディラ、レガートだけだ。その3人に対しても常に威圧的且つ高圧的に接し、それ以外の人間は、配下のGUNG-HO-GUNSやミカエルの眼の者達は使い捨ての道具として扱い、人類全般は憎悪の対象として抹殺することしか考えていなかった。そんな男が、思い立ったからといってすぐに人と親しく話そうなどと、無理な話だ。

 事実を再認識して、ナイブズはちょっと途方に暮れた。同時に、150年もの間、何時でも何処でも人の輪の中で生き続けて来たヴァッシュの順応力や適応力の高さに感心する。

 そこまで考えて、ふと、ナイブズはあることに気付いた。そうだ、見習うべき、手本とすべき最も身近な例があったではないか。ヴァッシュを参考にすれば、少しは今の状況を改善できるかもしれない。尤も、全てを真似られるとは思えない。特にあの笑顔と底無しのお人好しさは、ナイブズがどれだけ変わろうと、決して真似できないだろう。

 そんなことを思いながらも、ナイブズは海を眺め、波の音に耳を傾けながら、ヴァッシュの事を思い出していった。

 

 

 

 

「もしもーし、そこの人」

 ヴァッシュのどの辺りを見習うべきか悩んでいると、不意に水路の方から声を掛けられた。声色から察するに、10代半ばの少女と言ったところか。声のした方に顔を向けると、そこには黒い舟に乗った水先案内人の少女がいた。

 あの制服のデザインはアテナの会社とは違うものだが、見覚えはある。確か、アテナの友人のアキラが着ていた物と同じだったか。

「水先案内人が、俺に何の用だ?」

 ナイブズの傍に舟を寄せて停めると、水先案内人の少女は物怖じせずにナイブズに話し掛けて来た。

「つかぬことを聞きますけど、もしかして、貴方が『天上の謳声(セイレーン)』を歌えなくしたっていう噂の人ですか?」

 唐突な質問にもナイブズは動じず、何の事を訊かれているかをすぐに察した。しかし、聞いた事の無い単語が気に掛かり、それを聞き返す。

「心当たりはあるが、そのセイレーンとはなんだ?」

 誰かを歌えなくした覚えならあるが、セイレーンが何を指すのか分からなかった。地球の古い伝承や伝説の類で聞いたことがあるような気がするが、ナイブズもそれほどそういった方面に造詣が深いわけではない。聖書関連の事柄なら、かつて膝下に集った人間の大半が武闘派聖職者の結社だったこともあり、それなり以上に詳しいのだが。

 すると、少女は意外そうな顔をして、ナイブズの顔を見返した。

「本当に知らないんですか?」

「ああ。知らん」

 どうやら、セイレーンとは少女からすれば知っていて当然とも言うべき単語のようだ。しかし、ナイブズはそれが何を意味するのか知らないし、思い当らない。

「『天上の謳声(セイレーン)』は水の3大妖精の1人、アテナ・グローリィさんのことですよ」

 少女は単純明瞭に、セイレーンの意味を教えてくれた。だが、ナイブズはそのこと以上にある事実を知って驚いた。

「……水の3大妖精だったのか」

 水の3大妖精とは、ネオ・ヴェネツィアの観光の中心を担う水先案内業のトップに立つ3人の女性への愛称であり、敬称であり、尊称であるらしい。水先案内業の歴史の中でも史上稀に見る存在であると同時に、この街、この星を代表するアイドル的な存在でもあるという。

 その1人が、観光案内と歌の最中を除いて平素はボケまくっているアテナだとは、ナイブズの目を以ってしても見抜けなかった。しかし改めて考えてみれば、短時間で仮面越しにナイブズの感情の機微を読み取った慧眼にも納得がいく。水先案内人のトップとしての名は、伊達でも飾りでもなかったというわけだ。

「それまで知らなかったんですか?」

 少女はセイレーンを知らないと言った時以上に、驚き、呆れを混じらせた声でそう言った。これにナイブズは、当然だろうと頷いた。

「この星には、気が向いたから立ち寄っただけだからな」

「へぇ、観光で来たんじゃないんですか」

 ナイブズの言葉に少女は興味を引かれたようで、無邪気な表情で聞き返して来た。何がそれまで気に掛かるのか分からないが、そのことは置いておいて、先程の質問に答える。

「さっきの質問の答えだが、その通りだ。あの時、俺は碌に歌を聞かずに罵声を浴びせてしまった」

 アテナの歌声は素晴らしいものだった。

 過去にナイブズが聞き惚れ、絶賛した音楽と言えば、GUNG-HO-GUNSの中でも『音界の覇者』の異名を取ったミッドバレイ・ザ・ホーンフリークが奏でた殺人音楽だ。共鳴と固有振動、演奏と人間の断末魔が組み合わさったハーモニーに、当時のナイブズは柄にも無く昂ったものだ。

 だが、アテナの歌はそれとは全く異なるものだった。

 歌声は優しく、穏やかで、聴いているだけで安らぎ、落ち着いて行くのに、心の震えは止まらない。それが、音楽という芸術に対する純粋な感動だと気付いたのは翌日の事だった。

 あんなにも素晴らしい歌声を痛罵したことは、ナイブズ自身も悔いていた。

「本当に『天上の謳声』に難癖をつけたんだ……」

 少女は驚き呆れつつ、ある種の感心を懐いたような声でそう言った。確かに、彼女の歌声を聴いて難癖を付けた人間など、あの時のナイブズの他にはいるまい。しかし、今更この事を聞かれるのはどうしたことかと気になり、今度はナイブズから少女に質問をする。

「だが、今ではあいつも歌えているはずだが?」

「ええ、それも聞いていますよ。どうやって謝ったんです?」

 どうやら、単なる好奇心のようだ。水の三大妖精を一時的にでも歌えなくした男となれば、他の会社とはいえ、同じ水先案内人が興味や関心を持つのは、ごく自然なことなのだろう。

「謝ったわけではない。あいつも、謝罪や詫びの言葉が欲しかったわけでもなかったようだしな」

「それじゃあ、どうやって?」

 ここまで話して、ナイブズは暫時の思考を挟み、少女にある提案をした。

「……そうだな。ここからは交換条件だ」

「交換条件?」

「お前の質問には何でも答えるし、どんな話にも付き合ってやる。その代わり、俺を舟に乗せろ」

 厚かましい提案だが、実は、ナイブズは舟に対して興味津々で、機会があれば一度乗ってみたいと思っていたのだ。

 少女の方もアテナの話にかなりの興味があるようなので、ナイブズはこんな交換条件を提示したのだが、少女は途端に難しい表情になった。

「えーっと……水先案内人(ウンディーネ)の手袋と、(ゴンドラ)の色の意味って知ってます?」

「いや、知らんな」

 少女からの唐突な質問に、ナイブズはきっぱりと返す。それを聞いて、少女は右手にだけ嵌めている手袋と黒い舟について、簡単な説明を始めた。

「黒い(ゴンドラ)に乗って、手の片方にだけ手袋を嵌めている水先案内人(ウンディーネ)はまだシングル、つまり半人前で、お客様を乗せられないんですよ。今も操舵の個人練習中で」

 少女は申し訳なさそうに、遠回しではあるがナイブズを舟には乗せられないと言った。しかし、それは言い訳などの類ではなく状況説明であって、ナイブズを乗せる事自体を嫌がっているわけではないようだ。表情と口調から読み取った、ただの憶測だが。

 そこでナイブズはある妙案を思い付き、重ねて少女に提案した。

「……そうか。なら、俺がその練習に付き合ってやる」

「はい?」

 ナイブズの言葉に、少女は素っ頓狂な声を上げた。それにも構わず、ナイブズは続ける。

「客ではなく、俺を練習台として乗せろ。そうすれば問題なかろう」

 半人前は客として人を乗せることができないのなら、練習台として合意の上で人を乗せてしまえばいい。ちょっとした屁理屈だが、ルール違反にはなるまい。

 少女は暫く呆気にとられていたが、やがて、小さく体を震わせて、大声を上げた。

「っかー! その発想は無かった!」

 今までの何処か取り繕った言葉遣いとは違う、さっぱりとした快活な口調。思わず口を突いて出た、少女の普段の口調なのだろう。

「どうだ?」

 相手の意志を問うのではなく、確認の意味で問い掛ける。少女は、明朗な笑みを浮かべて答えた。

「練習台ですから、帰りには適当な所で捨てて行きますよ?」

「構わん」

「それじゃあ、交渉成立です。どうぞ、噂の人」

 言って、少女は舟を岸に寄せて、ナイブズをエスコートすべく手を差し伸べて来た。

 他人、しかも人間から手を差し伸べられるなど、150年振りか。感慨に耽りつつ、その手を取り、舟へと乗る。

 舟の上は、水の上に浮いているだけあって地面よりもずっと不安定だ。だが、少女の倍以上の体重のナイブズが乗っても、沈むような気配が無いことに感心する。確か、水などの液体に物が浮く力、浮力だったか。計算式などは知っていたが、実際に体験するのは初めてだ。

 少女に促されてナイブズが座ると、舟は路地を離れて水路を進み出した。

「俺はナイブズだ。お前の名前は?」

「ウチは姫屋のあゆみです。今日は練習台、宜しくお願いします、ナイブズさん」

 

 

 

 

「へぇー。海も川も無い星から来たんですか」

「ああ。ここに来て半月近く経つが、未だに大量の水が普遍的にある、というのは慣れんな」

「それなら『天上の謳声』が耳に入らなかったのも仕方なかった……の、かな?」

「そういうことだ」

 水路を進む舟の上で、ナイブズはアテナの歌声に文句を付けた事の顛末をあゆみに教えた。波の音に聞き入っていて『天上の謳声』が耳に入らなかった、と言った時には嘘や冗談と疑われたが、ナイブズが事情と理由を説明すると一先ずあゆみも納得した。半信半疑という感じではあるが、半分は信じられている様子だから良しとしよう。

 やはり、星間旅行が盛んなこの星でも水が無い星の存在は珍しいようだ。当然か。生物が生きる上で必要な大前提の1つが存在しない星に、好んで入植しようという物好きなどいないだろう。

 ちなみに、『姫屋』のあゆみがライバル企業の『オレンジぷらねっと』の内部事情、しかもトッププリマの急なスランプという極秘情報を知っていたのは、オレンジぷらねっとの友人から聞いたからだという。その話を聞くに、どうやらアテナが復調するまでナイブズはオレンジぷらねっとから指名手配犯のような扱いを受けていたらしい。まさかお尋ね者にされていたとは思ってもみなかったので、つい苦笑した。

 こんな星でもお尋ね者になっていたとはな。懸賞金は、600$$(ダブドル)が精々か?

 あゆみが聞きたがっていた話を終えると、ナイブズは(ゴンドラ)というものを心おきなく体験した。車やバイク、砂蒸気(サンドスチーム)や飛行船など、ナイブズの知るどの乗り物とも全く違う乗り心地だ。基本は水の流れに沿っているようだが、方向転換や減速の時には櫂を操り水の流れを利用し、時には水の流れとは逆行することもあった。エンジンを積んでいる船ならばいざ知らず、手漕ぎの舟でここまで自在に動けるものなのかと感心する。

 舟の構造自体の工夫もあるだろうが、操舵手の腕もいいのだろう。幾度か他の舟とすれ違うこともあったが、その度にあゆみは上手くかわしていた。

 時折、あゆみは観光名所の近くを通るとそれについてざっくばらんに説明をした。本に書いてあることをただ読むような案内ではなく、地元の人間であるが故の親しみを込めたものだった。しかし、アテナとは口調が随分と違う。そのことを問うと、あゆみは苦笑しながら、観光案内の口上は得意ではない、と答えた。観光案内業の人間がそれでいいのかとも思ったが、問題があれば本職である本人や周囲の人間が是正するだろうから、素人以前に観光について無知同然のナイブズが口を挟むことではあるまい。

 それにしても、と、ナイブズは周囲の街並みを見回した。この辺りは昨日通ったばかりの場所だが、水路から、舟の上から見るのとでは全く違う景色に見える。視点が変われば視界も変わるのは当然だと理解をしているが、それでも、ナイブズにとって新鮮な体験だった。

「俺からも聞きたい」

 街の中の狭い水路を抜けて、広い水路に出た所で、ナイブズはあゆみに声を掛けた。

「いいですよ。なんです?」

「この街は宇宙港を除いて随分と古めかしい造りだが、何故だ?」

 この街を見て回ってから、ずっと気に掛かっていたことだ。

 この星には浮島やエアバイク、惑星間を往来する宇宙船など、数々の高度技術が存在している。それにも拘らず、ネオ・ヴェネツィアの街並みや住民の暮らしは、ノーマンズランドの町々のそれよりも古めかしいものに映った。

 この奇妙とも言える街の構造はどういうことかと、ナイブズは問う。それに対して、あゆみはさらりと答えた。

「それはですね、このネオ・ヴェネツィアを始め、アクアの各都市が『地球(マンホーム)の古き良き時代の街並みを再現する』という思想で作られているからなんですよ」

地球(ホーム)の、古き良き時代?」

「はい。と言っても、ウチも詳しいことは良く分からないんで、殆ど受け売りですけど」

「構わん。続けろ」

 地球という意外な単語を聞いて、そのことへの探求心と好奇心から、ついナイブズの口調と語気がきつくなる。あゆみは少し気圧された様子を見せたが、すぐに説明を続けた。

「一番大きいのは、人類の宇宙進出直前の時代、地球環境の激変によるものだったらしいです」

 それを聞いて、ナイブズは凡その事情を察した。

「海水面の上昇と各種異常気象、加えて各地で頻発した火山活動や地殻変動。それらで失われた、若しくは崩壊の危機に瀕した文化を移植した、ということか?」

 プロジェクト・シーズ――地球人類という種を外宇宙にまで拡散させる大規模な移民計画の始まりには、幾つかの逼迫した事情があった。地球人口の増加と、人類の産業活動や戦争などによる急速な地球環境の悪化だ。ナイブズが移民船で閲覧した人類史にも、そのことに付記される形で、急速に人類の伝統や文化が失われていったことが記されていた。

 この街が作られた経緯に『地球環境の激変』が関わるのならば、これで間違いあるまい。

「その通りです。そういった事情で、アクアには地球で色々な事情で失われつつあった文化を再現した都市が幾つもあるんです。その一つが、このネオ・ヴェネツィアというわけです」

 やはりそうだったか、と頷く。しかしそうなると、この星はプロジェクト・シーズでもかなり早期の移民惑星ということになる。或いは最初期――太陽系の惑星か?

 ありえない、ということもあるまい。こうしてナイブズが人間と穏やかに語らっているという状況こそ、ありえなかったはずの状況なのだから。

 そこまで考えて、また新たに疑問が浮かんだ。

「しかし、態々文明の利器を排してまで、その“古き良き時代”とやらを再現する必要性はあったのか?」

 この街には先程挙げた要素を除けば高度技術を有する文明の面影は殆ど見えず、その上プラントまでも無いのだ。ナイブズが気配を察せていないのだから、浮島やエアバイクなどの動力源さえもプラントとは別物だろう。

 プラントが人間に酷使されていないということは、ナイブズにとって僥倖だ。しかし、同時に人類がどれ程プラントに依存しているかを知っているだけに、そのことを疑問に思ったのだ。

 再度のナイブズからの問いに、あゆみは首を傾げて唸る。

「うーん、どうでしょうね。確かに、地球とかに比べたら不便かもしれませんけど、ウチは生まれ育ったこの街が大好きですから、それでいいんです」

 朗らかで、どこか誇らしげな笑みを浮かべて、あゆみはそう言った。

「……そうか」

 そんなふうに笑われてしまっては、ナイブズも納得するしかない。

 問答を終えた、調度その時、前方に白い舟が現れた。漕いでいるのは、両手共に手袋を嵌めていない水先案内人だ。同乗しているのは、普通に考えて客だろう。白い舟が通り過ぎて行くのを、ナイブズとあゆみは見送った。

 舟に乗る前に、あゆみは黒い舟に片手袋の水先案内人は半人前だと言っていた。ならば、あの白い舟を操り手袋を嵌めていない水先案内人が一人前なのだろうか。

「ナイブズさん、夢ってありますか?」

 唐突に、あゆみがそんなことを訊ねて来た。いや、唐突ではない。先程の白い舟を見たからだ。

「夢、か……。夢と言う程ではないが、目標ならある」

 ナイブズは安易にはぐらかしたりせず、偽らざる本心を伝えた。

 今も昔も、ナイブズには夢と呼べるような高潔なものは持っていなかった。

 人類殲滅の志は、野望や復讐の類だ。決して夢と呼べるようなものではない。ならば、今懐いている、目指しているものを夢と呼べるかと言えば、分からない。人間と向き合い、理解しようということは、夢と呼ぶには何かが決定的に違うように思えた。

「そうですか……」

 ナイブズからの返事を聞いて、あゆみは小さく溜息を吐いた。

「悩んでいるのか?」

 見るからに悩みを抱えている態度を見せるのは、見知らぬ誰かにでも――或いは、見知らぬ誰かにこそ、悩みを聞いて欲しいのではないか。そう考えてナイブズが問い掛けると、あゆみはすぐに頷いた。

「ええ、まぁ。ウチ、水先案内人(ウンディーネ)ですけど、観光案内よりもトラゲット志望なんですよ」

 また聞き慣れない言葉が出て来たが、ふと、ナイブズはあることを思い出した。この星に来たその日、大運河で黒猫を見た時のことだ。あの時、この舟よりも大きな黒い舟を操舵していた水先案内人は2人。その1人があゆみだったのだ。今まで思い出そうとしなかったからさっぱり気付かなかったが、それは置いておこう。

「トラゲットとは、2人1組で大勢の人間を乗せて大運河を渡っていた、アレか?」

「はい。……って、あれ? ナイブズさん、ウチらの舟に乗った事あるんですか?」

「いや。一度、お前達が大運河で舟を漕いでいるのを見かけたことを思い出しただけだ」

「へぇ、そうだったんですか。けど、一度遠目に見ただけでよく思い出せましたね」

「それで、そのトラゲットの何が問題なんだ」

 ナイブズが重ねて問うと、あゆみは僅かに表情を翳らせて語り始めた。

「ウチは元々この街の出身で、昔から地元密着型の仕事のトラゲットに憧れてたんですよ。けど……トラゲットをやっている水先案内人(ウンディーネ)には、一人前(プリマ)になれなかった半人前(シングル)が多いんです」

「落ち零れの吹きだまり、ということか」

 すぐにあゆみの言葉の裏を理解し、口に出す。トラゲットを貶すような言い方に、あゆみは首を横に振って、しかし怒りなどは見せず、先程と変わらない表情のままで話し続ける。

「勿論、ウチみたいに最初からトラゲットをやりたくてやっている水先案内人(ウンディーネ)もいるんです。けど……周りからは、いつまでもトラゲットをやってないで一人前(プリマ)を目指せとか、言われちゃうんですよね」

 言い終えて、あゆみは大きく溜息を吐いた。

 話を聞いて、ナイブズはあゆみの心中を凡そ察しがついた。

 彼女の心中を占めるのは、幼少の頃から変わらない夢と憧れ、実際にその夢に近付いたが為に生じた迷いと躊躇い、といったところだろう。それはナイブズからすればそれ程大それた悩みには思えなかった。何かの切っ掛けがあれば、迷いを振り払うにせよ、夢を諦めるにせよ、すぐに心は決まるだろう。

 そこで、ナイブズは少し思考を切り替える。こんな時、ヴァッシュならどうするだろうか。こういう時こそ、ヴァッシュに倣って行動してみる場面ではないだろうか。

 そう考えて、更に考えようとして、ナイブズは自らの愚考の滑稽さに気付いて、つい笑いそうになった。

 こういう時、ヴァッシュは誰かを真似て、誰かを模倣して行動したか? それは違う。ヴァッシュと別れるまでの70年間でもそんなことはなかったし、それからもそんなことは無かったはずだ。

 あるとすれば、レムへの想いと、レムからの教え。それらを胸に、ヴァッシュは常に自分の心の感ずるままに動いていた。ならば、今ナイブズが何かをするのならば、ヴァッシュならばどうするかではなく、自分はどうしたいか――そうあるべきだ。

 誰かを模倣するだけで、肝心の自分の心が空っぽでは、何も意味が無い。それで、一体何が得られるというのだ。自らの愚考を恥じると同時、ナイブズはそれに気付く切っ掛けをくれる形になったあゆみに、何らかの形で報いようかと考えた。

 彼女は今、夢への道の半ばで迷いそうになっている。夢への一本道に急に分岐が現れ、そちらへ誘導する人間の声を聞いて、どちらを行くべきか考えあぐねて、足元が定まらずにふらふらしている。

 それならば、話してみよう。何よりも困難な道を、最後まで走り抜けたあいつのことを。

「話をしよう。途方もない夢を追い続けた、馬鹿な男の話だ」

 あゆみからの返事を待たず、ナイブズは静かに語り始めた。

 

 一滴の水も存在しない乾いた砂塵の荒野で、其処彼処から血と硝煙の臭いが燻ぶる世界で、ラブ&ピースという夢を掲げて駆け抜けた馬鹿で頑固な大馬鹿者がいた。

 この話のさわりの部分だけを聞けば、きっと誰もが綺麗事の予定調和の三文芝居と決めて掛かるだろう。しかし、実際は違う。その男が夢を叶えようとした場所は、人の心すらも渇いた暴力の世界だったのだ。

 男は貴く気高い理想を持ったが故に、常に立ちはだかるのは難題と難敵ばかりだ。

 男は暴力の世界で暴力を否定した。故に、誰よりも大きな力を持ちながらも、それを決して振り翳さず、振り上げることすらなく、自らを強者と定義する世界の摂理に挑み続けた。

 どれ程の苦杯を舐めただろう。

 どれ程の辛酸を味わっただろう。

 どれだけの血と涙を流しただろう。

 男は幾度、この世を地獄と思ったことだろう。

 しかし男は、一時は歩みを止めてしまうこともあったが、決して膝を折らず――

 

「――最後まで諦めず、何度打ちのめされても、その度に立ち上がって前へと進み続けて、遂には不可能と思えた夢を叶えた。……いや、違うか。あいつの夢は、まだ終わっていない」

 そこで、ナイブズは言葉を切った。つい、自分を変容させ、人類とプラントの関係に大いなる第一歩を踏みこませたことでヴァッシュの夢が叶ったと勘違いしてしまったが、そうではない。

 きっと、ヴァッシュ・ザ・スタンピードの夢は終わらない。終わらずに続いて行く。彼が愛した、タフで優しい人々と共に生きる限り。

「っかー! ありがとうございます、ナイブズさん。ウチもその人みたいに、夢に向かって突っ走ります!」

 話に聞き入っていたあゆみも、話が終わるや何かを吹き飛ばすように大声を出して、ナイブズに感謝と決意の言葉を述べた。それを聞いて、ナイブズは静かに頷いた。

「そうか。……過去と未来の自分自身に誇れるならば、誰に何を言われようと最後まで貫き通せ」

「はい!」

 あゆみの返事に迷いは無く、表情にも翳りは見えなくなっていた。今日出会ったばかりのナイブズも、その表情が最も彼女らしいと感じた。

 

 

 

 

「今日一日、有意義に過ごせた。礼を言う」

 日が傾き始めた頃に、ナイブズは適当な場所で舟から降りて、不器用ながらもあゆみへ感謝の言葉を告げると、足早に歩き出した。行く先も目的地もない。ただ、気の向くまま、足の向く方へと進むだけだ。

「ナイブズさん! 今度会ったら、さっきの人の話、もっと聞かせて下さいね~!」

 後ろから聞こえて来た意外な言葉に、足が止まる。どう返すべきかと思い、少し考える――までもない。断る理由など、無い。

「ああ。次に会った時に、な」

 振り返って告げて、すぐに踵を返して歩き出した。

 遠回しな言い回しだし、はっきりと口に出してそう言ったわけでもない。それでも、ナイブズが誰かと再会の約束をしたのは、初めてのことだった。

 ほんの少し感慨に耽りながら、ナイブズは昨日までに通ったことの無い小道へ足を踏み出した。



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#5.雨の日に

 ネオ・ヴェネツィア。水の惑星の中でも取り分け水の都として名高いこの街は、普段は多くの人々が街を歩いている。だが、今日だけは別だ。人影は疎らで、猫や鳥の姿も見当たらない。空と海の色も、今日はいつもとは違い照り返す青ではなく、濁ってしまったような暗い色になっている。そして、波の音が聞こえなくなってしまう程、街中から音が響いている。途切れることなく、これから永遠に続いていくのではないかとさえ思えるほど、音は響き続け、その源は天空から降り注ぎ続ける。

 誰もいない小道で、ナイブズは1人だけ音の中に取り残されたように立ちつくし、呆然と空を、空から降り注ぐ水滴を見ていた。既に全身ずぶ濡れだが、そんなことにも気付いていないかのようだ。

 この現象の名を、ナイブズは知っている。どういう原理で発生するのかも、知識として全て有している。しかし、海を初めて見た時とほぼ同等の衝撃に、ナイブズの思考は停止していた。

 空から降り注ぐ水滴が、他の物体と分け隔てなく平等に、ナイブズの体を濡らす。そうして、どれ程の時間が過ぎただろうか。1分か、1時間か、時間の感覚さえも曖昧になっている。

「貴方、どうしたの? こんな雨の中、傘も差さないで」

 すると、誰かがナイブズに声を掛けて来た。空へと向けていた顔を下ろし、すぐに声の主を視認する。人間の老婆だ。ひどく心配そうにナイブズを見ているが、そんなことよりも、ナイブズは老婆が発した言葉に反応を示した。

「あめ……やはり、これが雨か」

 言って、再びナイブズは空を見上げた。

 空から水が降る自然現象、雨。知ってはいたが、やはり、実際に体験するとまるで違う。

 雨が降る理屈や理論だけでは分からなかった、雨が肌を打つ感触、雨の温度、建物や地面から響く雨の音、それらの刺激がナイブズの五感を刺激し、脳を揺さぶる。

 そこで、ふと、ナイブズは老婆の出で立ちを改めて見た。何故か、老婆は傘を差し、雨を遮っていた。そのことを怪訝に思ったナイブズは、老婆に問う。

「どうしてそんな物を持っている? 折角の雨だぞ。浴びなくてどうする」

「あら、面白いことを言う人ね。だから傘も差さずにいたのかしら」

 ナイブズからの問いに、老婆はにこやかに笑いながら返した。何故かナイブズの疑問が冗談と誤認されてしまったようだが、ナイブズはここがノーマンズランドではないことを思い出し、その上で重ねて問うた。

「傘は日差しを防ぐために使うものではないのか?」

「それは日傘ね。傘は元々、雨の日に、雨で体が濡れないようにするための物なのよ」

「……そうか。体温の低下による代謝と免疫機能の低下を防ぐためか」

 認識の齟齬と、水が普遍的に存在する星での一般的な傘の利用方法を理解する。

 ノーマンズランドで雨が降れば、誰もが歓喜の声を上げ、雨を全身で浴び、踊り出す者も出て来るだろう。特にヴァッシュなどは、その姿がありありと思い浮かぶ。だが、ここはアクア。膨大な量の水が存在している星だ。ならば、水の循環現象の構造から考えて、雨も日常の1つなのだろう。だから、雨が降ることのメリットよりもデメリットを強く認識し、それに対応する。

 ナイブズが改めてノーマンズランドとアクアの違いを知ると、老婆は小さく笑った。

「難しい言葉がするりと出て来るのね。学者さんなのかしら」

「いや、風来坊だ」

「そうなの。じゃあ、風来坊さん。雨に濡れて体が冷えてしまったでしょう? 私と一緒にお茶でもどうかしら」

 あまりにも唐突な誘いに、さしものナイブズも驚き、思考に一瞬の空白が生じた。目の前の老婆は、一体、如何なる思考で初対面の風来坊を自称するような男を茶に誘ったのだろう。まさか、所謂ナンパではあるまい。

 あれこれと思考を重ねて、取り敢えず、ナイブズは老婆にまず伝えておくべきことを言うことにした。

「先に言っておくが、俺は一文無しだ」

「あらあら、大変ね」

「そうでもない」

「それじゃあ、行きましょう。私の行きつけのお店なの。店員さんも店長さんもみんないい人達だから、貴方もきっと気に入るわ」

 柔らかな物腰と丁寧な物言いでありながら、有無を言わせぬような勢いを感ずる。それでいて、強引さは感じられない。きっぱりと断れば、老婆はそのまま引き下がるだろう。だが、敢えて断る理由も無い。

「…………いいだろう」

 老婆からの提案に頷き、ナイブズは老婆と共に小道を進んだ。

 

 

 

 

 老婆に連れられて、ナイブズはどこか厳かな雰囲気の喫茶店へと着いた。看板に記されている名前はカフェ・フロリアン。ここが老婆の行きつけの店で、特にカフェラテが絶品らしい。

「いらっしゃいませ」

 老婆の説明に頷き店へ入ると、すぐに1人の店員が出迎えた。その後ろで、老婆の姿を認めた他の店員が店の奥へと下がった。

 すると、すぐにその店員は黒いスーツを着た、やや猫背で太り気味、特徴的な髭を蓄えた男を連れて来た。店員の緊張具合と、その男の落ち着き方や堂の入った佇まいから店長かと推測する。

「これはグランマ。お連れ様がご一緒とはお珍しい」

「お久し振りです。温かいカフェラテ、お願いできるかしら」

「畏まりました。どうぞ、こちらのお席へ」

 男は老婆を親しげに『グランマ』と呼び、老婆も男の挨拶に朗らかに応じた。男が老婆を席へと案内するのと同時に、ナイブズには店員からタオルが差し出された。どうやら、ずぶ濡れのまま席に着くのは不味いらしい。

「お客様、タオルをどうぞ。それと、当店の制服の予備で宜しければ代えの服もご用意できますが、如何なさいますか?」

「いらん。これだけでいい」

 短く答えて、店員からの返事を聞くより先に、ナイブズはタオルを受け取ると全身を素早く拭い、すぐさま店員に返した。まだ濡れている個所はあるが、どうせタオルだけでは乾かないのだから、この程度でいいだろう。

 老婆が案内されたテーブルに向かうと、老婆に促され、ナイブズは彼女の対面の椅子に座った。位置は外の広場が見える窓際だ。ガラス一枚を隔てた向こうで降っている雨の音が、先程までとは違う響きで鼓膜を震わす。雨に濡れたガラス越しの景色も幻想的で、そのままぼんやりと眺めているのも良かったが、今はそれよりもと、ナイブズは老婆を問い質す。

「どうして俺を連れて来た」

「そうね、どうしてかしら」

「……特に理由は無いのか?」

「いえ、そういうわけではないの。ただね、貴方を見たら、思い出したの」

「何をだ」

「お待たせしました」

 老婆が答えを言おうとした、まさにその瞬間、店員が老婆の注文したカフェラテを2つ持って現れた。話の腰を絶妙のタイミングで折られてしまったが、さして重要な案件というわけでもなし、人との交わりの中ではこういうこともあるのだと学んでおこう。

 店員は片手に持ったトレーから湯気の立ち上るカップを二つ、中のカフェラテを殆ど揺らさず丁寧にテーブルへ置くと、恭しくお辞儀をした。

「ありがとう」

 老婆は穏やかな笑みと共に店員にそう言った。店員も丁寧な言葉遣いで同じ言葉を返し、テーブルから離れた。取り敢えず、冷めない内に一口だけでも飲んでおこうと、ナイブズはカップを手に取り、カフェラテを口に含んだ。

「……美味いな」

 久し振りに、そんな言葉を呟いた。飲み物とはいえ、なにかを美味しいと感じたことすらも、果たして何年振りだっただろうか。今までの自分の人生が、ノーマンズランドさながらの無味乾燥だったと思い知る。

「良かったわ」

 ナイブズが漏らした一言に、老婆は柔らかく微笑んだ。ヴァッシュとはまた違った、笑顔を絶やさない人間だ。そして、浮かべる笑みはどれもが似合っていて、様になっている。どのような心と生き方が、彼女が重ね刻んだ皺の中に含まれているのだろうか。

「貴方は、どうして雨の中、傘も差さずに空を見上げていたの?」

 カフェラテを味わっていると、老婆がナイブズにそのように問い掛けて来た。やはり、この星の人間からすれば、雨の中で立ち尽くすというのは珍奇なことらしい。

「雨を見るのも、雨に打たれるのも、生まれて初めてだったからだ」

「まぁ、そうだったの。遠い所から来たのね」

 ナイブズが答えると、老婆は驚き、感心したような声でそう言った。そんなにも自分の境遇は珍しいのかと思い、なんとなく、ナイブズは聞き返してみた。

「この星では、雨は当たり前なのか?」

「ええ。今ではそうね」

「……今では?」

 老婆からの何げない返答に、ナイブズは引っ掛かるものを感じ取って重ねて聞き返した。こんなにも水が豊かな星で、雨が“今では”当たり前とはどういうことだ。そんなのは“最初から”ではないのか?

 そんなナイブズの疑問に、老婆はとても分かり易く、簡単に答えてくれた。

「このアクアは地球環境化(テラ・フォーミング)が行われる前は、水も空気も無い星だったそうよ」

「なんだと? この星が?」

「ええ。それが今では、こうして当たり前のように、水に囲まれて、息をして暮らしている。考えてみれば、とても不思議なことね」

 教えられたあまりにも意外な事実に、ナイブズは半ば呆然としながら、窓の外を見た。

 今こうして雨が降り、息をしているこの星が、かつては水どころか、ノーマンズランドにさえもあった大気すらも存在しない荒蕪の星だったなどと、とてもではないが信じ難い。しかし、こんなことで嘘を言う理由が老婆には無いし、嘘を言っているようにも見えない。ならばこの星の住人から語られたこの星の歴史だ、事実なのだろう。

 そして、それとは別に、テラ・フォーミングという単語から導き出される驚くべき事実がもう1つある。生命が根付き得ない星を、生命が息づく大地へと改造するには途方もない量の資金と物資と時間と技術と人員を必要とする。それらのものを安定して供給できる環境は太陽系内が限界とされ、ナイブズの知る限りテラ・フォーミングは太陽系の惑星でしか行われていない。つまり、このアクアは間違いなく太陽系の惑星なのだ。ナイブズの知らない150年の間に、銀河の何処かの移民惑星が周辺惑星のテラ・フォーミングを行えるほどに安定し発達した、という可能性もありえなくはないが、その可能性は限りなくゼロに等しい。

 雨に濡れたガラスの向こう、厚い雲に覆い隠された空、更にその先にあるものを凝視する。

 この星の星空には、地球があるかもしれないのか。それに、大気すらなかった星ですら、今はこうして“水の惑星”と呼ばれるほどになっているのなら。

 あの星にもいつか、雨が降ることがあるのだろうか。

「初めての雨は、どうだったかしら?」

 すると、老婆は子供のように無邪気な笑みを浮かべて、そのように問うてきた。目だけを老婆に向けた後、再び視線を窓ガラスの外へと戻す。

「意外と、心地のいいものだったな」

 今聞こえる、雨音も含めて。

 

 

 

 

「そういえば、俺に声を掛けた理由をまだ聞いていなかったな」

 3杯目のカフェラテを飲み干して、ナイブズは自分が最初にした質問がそのまま流れていたことに気付いた。ナイブズの言葉に応じて、老婆はカップをテーブルに置いて、静かに話し始めた。

「貴方の姿が、何となく、初めて会った頃のあの人に似ていたからかしら」

「あの人?」

「ああ、失礼。人ではなくて、猫だったわ」

 言われて、ナイブズはカーニヴァルで出会ったカサノヴァを思い出した。人と間違えるような猫となると、ああいうものになるのではないか、などと考える。無論、実際にそんなことはなく、人間同様に深く関わり思い入れのある猫、ということなのだろう。

「俺とその猫の、何が似ていた」

 ナイブズも、よもや自分と猫が似ているなどと言われるとは思っていなかった。それだけに、どこが似ていたのか興味を持った。まさか、顔つきや背恰好が似ていた、などということはあるまい。

「独りぼっちで、ずっと何かを待ち焦がれているような、そんな気がしたの」

 老婆は昔を懐かしむような、どこか寂しげな表情でそう言った。それを、ナイブズは即座に否定した。

「勘違いだ。俺は、孤独(ひとり)ではない」

 この星では天涯孤独の風来坊が言うことではないだろう。だが、ナイブズの体には、あの時の感触が残っている。

 共に人類との決戦に臨んだ同胞達に最終局面で拒絶され、たった1人で人類の対極に取り残され、ヴァッシュと対峙した直後。ヴァッシュはナイブズを殺すどころか、自分の心臓が貫かれても尚、その身を呈して第三者の攻撃からナイブズを庇い、ほんの僅かに残された力を使ってでもナイブズを抱えて羽ばたいた。だが、途中でヴァッシュの力と意識が限界を迎えて途切れてしまった――あの時。ナイブズは、無我夢中で羽ばたいた。自分とヴァッシュの残された力、それらを1つにして、共に羽ばたいた。

 この世でたった1人の兄弟を、救いたい一心で。

 あの時の感触が、温もりが、ナイブズの心と記憶に残っている限り、ナイブズは孤独にはなりえない。実際、遠く離れた水の星に来ても、事ある毎にヴァッシュの姿が過り、ナイブズの心と共に在る。

 それに、だ。それに加えて、何故か、アテナとあゆみを思い出した。アテナとあゆみは、この星に来てからほんの短い時間を過ごしただけ。共に過ごした時間で言えば、ブルーサマーズやエレンディラ、そしてレムの方がずっと長かった。しかし、ナイブズは先程の老婆の言葉に、ヴァッシュに次いで彼女達の事をも連想したのだ。

 この星で確たる繋がりを持った数少ない人間だから、だろうか。ナイブズ自身も判然としていないが、少なくとも、レム以外で初めてナイブズにとって特別な人間ができた、ということだろう。

「そうなの。良かったわ」

 ナイブズの否定の言葉を聞いて、老婆は安堵したような笑みを浮かべた。

 初対面で、しかも怪しい風体の厳つい男に対して心配までしていたとは、随分とお人好しなことだと、改めて思う。ヴァッシュという極端な例を知っているナイブズでも、老婆の心遣いには感心を覚えた。

「雨も上がったわね」

 老婆の言葉に頷いて、窓の外を見る。ガラスはまだ濡れているが、雨音は途絶え、黒雲の切れ間から空の色が見え始めていた。広場に視線を下ろせば、幾つかの水溜まりが出来ている。

「美味いカフェラテを馳走になった。礼を言う」

「どういたしまして」

 店を出て、ナイブズが礼の言葉を告げると、老婆は優しく微笑んだ。

「俺はナイブズだ。お前の名は?」

「私は天地秋乃。それでは、御機嫌よう。風来坊のナイブズさん」

 別れ際に互いの名を告げて、2人はそれぞれ別の道へと歩き出した。



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#6.宝探し

 仮の住まいとしている寝床から抜け出て、ナイブズは今日もまたネオ・ヴェネツィアの街に現れた。

 季節は巡り、肌寒い冬から、暖かな春へと変わっていた。ノーマンズランドには無かった四季という事象も、ナイブズはつい先日まで気付かず自然と受け入れていた。それ程に、季節の変動は劇的なものではなく、少しずつ、少しずつ、日々と共に緩やかに移ろっていたのだ。かつて、ヴァッシュと共に学んだ四季や季節、冬と春の違いなどを思い出しながら、ナイブズは歩き出した。

 何度か通った通りでも、周りに目を向けてみれば今までと違う点も見えて来る。

 民家を見れば、育てられている花の種類や数が変化している。

 広場で遊んでいる子供達や談笑している大人達の着ている服も、厚手の物から薄手の物に変わっている。

 食べ物屋や雑貨屋等の店のお勧めの商品までも、春に合わせた物に変わっている。

 本来なら季節の変化に然程の影響を受けない人間が、態々自分達から季節に合わせて変化を作っている。人間の文明や科学と言えば、自分達の都合や利便性のみを追求して周囲の環境を破壊し改造するものだと、そういう風にナイブズは考えていた。だが、それだけではないらしい。少なくとも、この街では。

 元々この星が水も大気も存在しない荒蕪の星だったのなら、この星は人間によって徹底的に改造された後だろう。しかし、それは破壊的なものではない。そして、この街の人間達を見る限りだが、この星の人類が星の資源(いのち)を餓鬼の如く貪り尽くし、破滅へと追いやるようには思えない。

 過去の教訓――地球の歴史の負の側面から学び、人類も変わったということなのだろうか。それこそ、気付いたのは地球の環境が激変し、生命の息吹かない大地を改造するまでに状況が逼迫して漸くだったとしても。人は学び、手遅れになる前に変わっていたのではないか。

「……人間は、俺が思っていたほど愚かではなかったのかもしれんな」

 だが、未だ確信には至らない。あくまでこの街が、若しくはこの星だけが特別だという可能性も大きい。古き良き時代を再現したのが、街並みだけとは限らないのだ。しかし同時に、それが真実であると信じてもよいのではないかと考えているのも、また事実。

 結論を急ぐ理由はない。今しばらく、この街の人間達の営みに寄り添い、考え続けるとしよう。

 思案を終え、靴の看板が飾られている小道の出口に出る。正面に続く道はない。右へ行くか、左へ行くか。視線を巡らせて、ふと、壁の窪みが目に入った。

 壁の窪みには鳥の巣があり、名前は分からないが主らしき鳥もいる。ノーマンズランドならば巣が作られるよりも早く鳥料理が出来上がっているだろうが、この街ではそういうこともないようだ。

 なんとはなしに近付き、巣穴を覗き込む。人を恐れていないのか、或いは人に慣れているのか、ナイブズが近付いても鳥は慌てた様子も見せず、ナイブズに顔を向けたままじっとしている。

 ノーマンズランドで野生化した鳥は、大半がボロボロだ。餌を得る為に街や集落の近辺に巣を作り、その代償として日常的に人に狙われ続け、熱砂の中を飛び回れば、そうなるのも必然だ。しかし、この鳥にはそういった様子は一切見られない。羽に乱れや汚れは目立たず、随分と健康的だ。星が違えば人以外の生き物の在り様が違うのも当然か、などと考えた所で、巣の後ろに不可解な物が目に付いた。

 大きさは鳥とほぼ同じ、鳥がどこからか引っ張って来たということはあるまい。ナイブズはそれを掴み、手に取った。見覚えのあるそれは、童話や冒険譚の御約束とも言うべきものの一つ、宝箱だ。大きさはナイブズの手のひらに収まるほど、小さな物だが。

「あー!!」

 急に、少女の悲鳴が聞こえた。声の向きから察するに、ナイブズへと向けられたものか。宝箱の持ち主でも現れたのかと振り返ると、そこには、それぞれ別々の制服を来た3人の水先案内人の少女達がいた。ナイブズを指してわなわなと震えている桃色の髪の少女が、恐らくは悲鳴の主か。

「あー! あー! あー!」

 桃色の髪の少女は尚も叫びながら、ナイブズへと歩み寄って来る。いや、視線は宝箱に釘付けだから、宝箱に迫っている、と表現する方が正確か。

「ちょ、ちょっと灯里! なにしてるのよ!?」

 黒髪を細く2つに結っている少女が、桃色の髪の少女の名を呼びながら制止する。途中、ナイブズの顔を見ると、途端に苦笑いを浮かべて、桃色の髪の少女の肩を掴んで無理矢理引き摺って行った。

 3人目の長い若葉色の髪の少女は、2人の少女の行動に溜息を吐きながらも見守っている。ナイブズは、その3人目の少女に見覚えがあった。カーニヴァルの時にアテナと探した、アテナの後輩の水先案内人だ。

「お前は、アリスだったか」

 名前を呼ばれた少女は、びくりと体を震わせて、数度目を(しばた)かせた。そして、ナイブズの顔をじっと見返す。

「えっと……もしや、ナイブズさん、ですか?」

 半信半疑、真偽を確かめる口調で、アリスはナイブズの名を呼んだ。それに、ナイブズは無言で頷く。この少女との接点は、カーニヴァルの際にアテナを送り届けた時にナイブズが顔を見ただけと、あまりにも希薄だ。アリスの方がナイブズの事を分からずとも無理はあるまい。寧ろ、ナイブズの名前が出て来ただけでも上等か。

「え? なに? 後輩ちゃんの知り合いの人?」

「顔見知りだ」

「正確には、私の先輩の知り合いです。私は顔を見たのも遠目に一度だけで、殆ど覚えていませんでした」

 黒髪の少女の慌てたような、驚いたような言葉にナイブズが簡潔に答え、それを即座にアリスが補足した。

 やはり覚えられてはいなかったか、などと考えたが、桃色の髪の少女がナイブズを見て何やら感心したように声を漏らしているのに気付き、そちらへ目を向ける。桃色の髪の少女は少々慌てたような仕種を見せながらも、自己紹介をしてきた。

「こんにちは、ナイブズさん。私は水無灯里です」

「私は姫屋の藍華・S・グランチェスタです。ナイブズさんは後輩ちゃん……アリスちゃんの先輩とは、どういう関係なんですか?」

 桃色の髪の少女――灯里に続く形で、黒髪の少女――藍華も自己紹介をし、そのまま質問して来た。この街の華である水先案内人と、厳つい外見の風来坊が知り合いであると聞いたら、どういう関係なのか不思議に思うのは自然なことだろう。

「アテナとは、互いに世話になったような関係だ」

 ナイブズは簡明に、アテナと自分との関係性を教えた。歌声を痛罵して色々あったということまでは、話さない方が良いだろう。すると、アテナの名を聞いた途端、藍華の顔色が変わった。

「オレンジぷらねっとのアテナって……もしかして、アテナ・グローリィさんですか!?」

「そうだ」

 頷きつつ、藍華の驚きようから改めて、アテナの知名度や立場というものを知る。流石は水の3大妖精と呼ばれる業界の頂点ということか。

 一方で、藍華の驚きようを見て灯里は不思議そうに首を傾げた。

「え? アリスちゃんの先輩のアテナさんって、有名な人なの?」

 思いがけない言葉に驚き、アリスは耳を疑かったかのような様子で灯里を凝視した。一方で藍華は、やれやれ、と溜息を吐き、呆れながらも「もう慣れた」と言わんばかりの表情であった。

「あんた、相変わらずこの手の話に疎いわね~。まぁ、機会があったら教えてあげるわよ」

「えぇー。教えてよぉ、気になるよぉ」

 藍華の言葉に反応して、灯里は教えて教えてと、駄々をこねる子供のように藍華にひっついた。藍華はそれを表面上は鬱陶しがっているが、それでも楽しそうにしている所を見るに、余程仲が良いのだろう。

「水先案内人が水の3大妖精を知らないというのは、どうなのだ?」

 素朴な疑問をアリスに訊ねる。実はナイブズが思っているほど『水の3大妖精』は有名ではない、ということはあるまい。

「でっかいビックリです。最近の水先案内人(ウンディーネ)の半分以上は、あの人達に憧れてこの業界に入ったと言っても過言ではないほどですから」

「そうなのか」

 驚き半分呆れ半分といった表情で、アリスは答えた。やはり、先程藍華が言っていたように灯里が特別そういう情報に疎いようだ。

「……アテナ先輩がお世話になりました」

 じゃれ合う2人の先輩を見ながら、アリスは小さな声でそのように言って来た。

 さて、より相手に世話になったのは、果たしてどちらの方だったか。

「あれから、アテナの歌の調子はどうだ?」

 ナイブズは敢えてアリスの言葉に直接の返事はせず、アテナの近況を聞き返した。

「ええ。カーニヴァルが終わってからはずっと快調です」

「そうか」

 ナイブズが頷くと、アリスの表情が僅かに和らいだ。それを何故かと訝しむと、アリスが何かに気付いたように声を発した。

「私も自己紹介がまだでしたね。改めまして、オレンジぷらねっとのアリス・キャロルです」

 そういえば、本人から名前を聞いたことはなかったことに言われてから気付いた。アリスの自己紹介が終わると、程なくして藍華と灯里の方も話が纏まった。それを確認してから、ナイブズは左手に持った小さな宝箱を差し出した。

「それで、この宝箱に用があるんじゃないのか」

 ナイブズが問うと、3人は宝箱をじっと見つめて、それから灯里が思い出したように大声を出した。

「ああー、そうでした! ナイブズさん、それ、下さい!」

 灯里のあまりにも率直な要求の仕方に藍華がツッコミを入れるよりも早く、ナイブズは灯里へと宝箱をひょいと投げ渡す。灯里は慌ててそれを受け取ると、宝箱をじっと見つめて、ゴクリと生唾を飲み込んだ。

「ほら、灯里。開けて開けてっ」

「うん」

 3人が宝箱の周りに集まると、それを見計らったようなタイミングで、何かがナイブズの足に触れた。

「にゅっ、にゅ!」

 視線を下ろすと、そこにはこの星へと来る汽車に同乗していた、白い猫のような生き物がいた。先程から視界の端に白い団子のようなものがちらちらと映ると思っていたが、その正体はこれだったようだ。何故じゃれついて来るのかは知らないが、取り敢えず白い生き物の好きにさせて放っておくことにした。

「な~んだ、また紙切れか」

 白い生物が何かに疲れて打ちひしがれたような様子になるのとほぼ同時に、藍華が宝箱に背を向けて大きく溜息を吐いた。

 宝箱の中身を確かめるべく、それを持っている灯里の背後に歩み寄り、頭の上から覗き込む。

「これは、地図か」

「はいっ。どうやら、また宝の地図みたいです」

 ナイブズが呟くと、灯里はすぐに、とても楽しそうな声で頷いた。

「また?」

「えっと、ここへも宝の地図を見て来たんです」

 言って、灯里は別の地図を取り出し、ナイブズに見せる。具に見比べるまでも無く、新たに入手した地図とは形式も書式も、文章の癖も同じだ。同一人物が用意したものと考えていいだろう。

「宝の地図が示した先は、また別の宝の地図か」

「でっかいミステリーです」

 ナイブズが言い、それに続くようにアリスも呟く。

 少女達は互いに顔を見合わせて、とても楽しそうな表情を浮かべている。見覚えのある顔だ。きっと、知的好奇心を刺激されて、未知への探求にわくわくとしていた幼少の頃のナイブズも、こんな顔をしたことがあっただろう。ヴァッシュがそうだったのだから、まず間違いあるまい。

 少女達は程なくして、新たな地図の示す先へと向かうことに決めた。

「そうだ! ナイブズさんもご一緒しませんか?」

 ナイブズも灯里に誘われ、それに同行することにした。

 

 

 薄暗い小道を抜けて、淡く陽の射す広場へ。

 広場から通りを抜けて橋を渡り、運河へ至る。

 運河からまた橋を渡り、広場へと行き小道に入る。

 迷路のように入り組んだ街の中を、一定の法則性や規則性を持って巡って行く。恐らくはこの道順も、あの地図を描いた当人が意図したものなのだろう。

 この街に来て既に半年以上。ある種見慣れた光景であると同時、今まで感じたことのないものを見出せて新鮮さを覚える。

 今までは漠然と1人で歩き回っていた。だが、今は3人の人間と共に街の中を見て、探して、注意深く歩いている。ただそれだけの意識の仕方だけで、こんなにも景色は違うものか。

 アテナにカーニヴァルを案内された時のことを思い出しながら、ナイブズは少女達を見守るように少し下がって歩き続ける。

「ふい~。宝箱の中身は地図ばっかり、肝心の宝にはなかなか辿り着けないわねー。地図、これで何個目だっけ?」

「10個目ですね」

「あと100個くらいあるかな~」

 10個目の宝箱を開けたが、入っていたのはまたもや地図。無論、その途中の物も全て同様だ。宝の地図を書いた本人は何を考えているのだろうか、などという疑問や疑念は少しも持たず、灯里はげんなりとしている藍華とは対照的に、この道中を楽しんでいた。

「随分と楽しそうだな」

 何となく、本人に直接、それを訊いてみる。灯里はにっこりと笑って、ナイブズの問いに答えた。

「はい。なんだか、歩けば歩くほど、この街が大好きになる魔法にかかっちゃうみたいで、とっても楽しいんです」

 灯里の言葉を聞いて、藍華とアリスは照れたような表情で顔を見合わせる。一方で、ナイブズには街を好きになるという感覚がさっぱり分からなかった。

 砂の星に落ちてからの150年は、行動拠点を構えることはあっても、基本は旅から旅の根無し草。家や集落への愛着を感じたことは、一度も無かった。

「恥ずかしいセリフ禁止!」

「えーっ」

 藍華がツッコミを入れ、灯里が抗議の声を上げる。しかし険悪なものではなく、寧ろ楽しげに見える。それらの言行を見守りながら、ナイブズは灯里の言葉を自分の中で反芻していた。

「……成る程な」

 灯里の言葉を実感できないが、宝の地図を描いた人間の意図はおぼろげながら見えて来た。しかし、それを口に出すのは恐らく野暮や無粋というものだろう。

「どうかしましたか?」

「いや。それで、次の場所は?」

 ナイブズの呟き声が微かに聞こえたらしい藍華からの問い掛けに軽く返し、ナイブズは地図を持って先導しているアリスに呼び掛ける。アリスはこの街で生まれ育ったことに加えて、散歩が趣味でこの街の造りに特に詳しかったので、自然と案内役となっていた。正しく水先案内人というわけだ。

 ナイブズが声を掛けると、アリスはぴたりと足を止めた。

「あ、ここです。『喜劇小道(カッレ)を下ってみれば、そこはお空の別世界』とのことです」

 言われて、周囲を見渡す。ナイブズはすぐに、ここを3度通ったことがあることを思い出した。

「あれ? この道、私よく通るよ」

「私も」

 それは他の3人も同様のようで、だからこそ、宝の地図が示すものに見当がつかず、首を捻っている。

「下る……階段の事でしょうか?」

 アリスの閃きに、ナイブズはすぐに応じた。

「それならこっちだ」

「え? あ、本当だ」

 踵を返し、3人を小道の端へと誘導する。すぐに藍華も気付き、壁と壁の隙間に出来た狭く小さな階段の前に立つ。

「よくご存じでしたね」

 アリスもこの道の事は知らなかったらしく、感心したようにナイブズに言った。ナイブズ自身も、よくもこんな道を見つけて通ったものだと、今更ながらに思う。

「一度、この階段を上ったことがあった。下るのは初めてだ」

 そうなると、気になるのはあの壁の落書きだ。以前に通った時は意味もない落書きだろうと一瞥しただけだったが、今はあの文言が意味のあるものだったのだと分かる。問題はその中身だ。

 地図から地図への誘導と移動、壁の落書き。そして先程の灯里の言葉。これらが全て結ばれた今、何かが生まれるとでもいうのか?

 そのようなことを考えながらも、口は真一文字に結んだまま、ナイブズは少女達に続いて階段を下りる。すると、前を歩いていたアリスと藍華が何も言わずに急に立ち止まり、空を見上げながら歩いていた灯里が藍華にぶつかった。今までの態度からすれば藍華が文句の一つでも言いそうなものなのだが、何も言わず、アリスと共に眼下の景色に目を奪われていた。

 灯里は抱えていた白い猫のような生き物を下ろし、数歩下がった所、調度ナイブズの目の前でアリスと藍華が見つめているのと同じ景色に目を遣った。ナイブズも同様に、壁の落書きを一瞥してから、眼下の景色に目を落とす。

 眼下に広がっているのは、ネオ・ヴェネツィアの街。此処からは、ネオ・ヴェネツィアの街が一望できるのだ。しかも、それだけではない。見下ろす景色は、今日、ナイブズが少女たちと共に宝の地図に従って通って来た場所なのだ。整った街並みと空と海とのコントラストが織りなす景観美の中に、あそこはこうだった、あそこはああだったという記憶までもが刺激されて、感情を大きく揺さぶる。

 ああ、そういうことかと、ナイブズは全てに合点がいった。

 まったく、宝の地図を作ったやつも味な真似をしてくれる。

「まるで、宝物みたいな、素敵な景色」

 灯里が先程と同じ、素直な言葉を紡ぎ出す。それを否定する者は、誰もいない。

「そういうことだな」

「はい。冴えてます、灯里先輩」

 ナイブズが頷くと、アリスも壁を見ながら同様に首肯した。

「へ? どゆこと?」

 藍華と灯里はアリスの視線を追って、壁に活き活きと、力強く書かれた落書き――否、メッセージを読んだ。

 

  GOAL!

  Now you got a treasure in your heart.

 

「何の事かと思えば、こういうことだったか」

 メッセージを見ながら、ナイブズは呟く。最初に見た時はさっぱり意味が分からなかったが、今ならばよく分かる。今感ずる、心に生じたものこそがそうなのだと、はっきりと分かる。

「ナイブズさん、知ってたんですか?」

「此処にコレが書かれていることは、な。意味は今知った」

 灯里からの問いに答えて、もう一度、眼下の景色を見下ろす。昨日までとはまるで違う景色が、そこにはあった。

 知れば知るほどに、世界は変わり続け、彩りを増していく。



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#7.揺れる心

 建物の屋上で、ナイブズは潮風を浴び、波の音に耳を澄ましながら、ネオ・アドリア海を眺めていた。普段は間近で見てばかりだったが、こうして少し距離を置いた高い所から眺めるだけで景色は一変し、見飽きないだけでなく、新しい世界までも開かれていく。

 すると、不意に太陽の光が遮られた。同時に響いてくる独特の機械音。見上げれば、やはりそこには宇宙船の姿が見えた。また今日も、マルコポーロ国際宇宙港に大勢の人間がやって来て、または出掛けて行くのだろう。

 時間が緩やかに流れるように感じるこの街も、日々確実な変化を遂げている。街全体から見ればほんの微細な変化も、10年後、20年後にどうなっているかは未知数だ。少なくとも、何から何まで完全に今のまま、ということはありえまい。

 宇宙船の動きを暫く追い、やがて目を逸らし、再びネオ・アドリア海へと視線を移す。先程までとは微妙に視界が変わり、ナイブズは先程までは映っていなかった景色の中、目の端に妙なものを捉えた。今までの経験や人生を踏まえても、あまりにも不自然で異質なそれを、ナイブズは見間違いかとそちらを見遣り、具に観察し確認する。

 ネオ・アドリア海に浮かぶ無数の島々の中の一つ。そこに、異様なそれはあった。

「白……いや、淡い桃色の……木、か?」

 ナイブズの知る限り、樹木の色は基本的に葉の緑と幹の茶色の2色構成。種類や個体による濃淡の違いはあるだろうし、又は花が咲くことによってそこにもう1色加わることもあるだろう。だが、淡い桃色の木とはどういうことだ。動物のアルビノのようなものか? それとも、ナイブズが知りえない樹木なのか?

 ここから見ているだけでは分からない。事実を確かめたい気持ちはあるが、確かめようにもナイブズには海を渡る術がない――こともなかった。

 ズボンのポケットから、この星の通貨を取り出す。最近は仮の住まいの家主の仕事を多少手伝い、その労働の対価として金銭を得ている。金額の多寡は知りえないが、あの程度の些事で得られる報酬だ、高くはあるまい。しかし、二束三文のはした金であろうと金であることに違いは無い。ならば、この金を使ってあの島に行く手立てもあるはずだ。

「街へ行ってみるか」

 決めると、ナイブズは建物の屋上からそのままひょいと、まるで階段を下りるような気軽さで飛び降りた。常人ならばかなり危険な行動だが、ナイブズにとってはほんの些細なことだ。着地し、そのまま何事も無かったように歩き出す。

 

 

 

 

「あー……えっと、ナイブズさん。こんにちは」

 目的の島まで行く手段を探して道を歩いていると、水路の方から声を掛けられた。声を聞いてすぐに声の主が何者かを察し、そちらへ振り返る。

「藍華か、久しいな」

「はい、お久し振りです」

 少し前に共に宝探しをした1人、藍華だ。黒い舟に乗り、オールを握りながらぎこちない笑みを浮かべている。前に会った時と比べて、妙に固い表情だ。

 藍華が舟をナイブズの傍に着けると、同乗しているもう1人の水先案内人がナイブズの顔を下から覗き込んできた。

「ほっほ~う。そうか、お前がナイブズか」

 この声と姿には覚えがある。カーニヴァルの時にアテナが探していた、彼女の友人だ。

「お前は、アキラか。カーニヴァル以来だな」

 ナイブズが名を呼ぶと、アキラは鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。言ってから、アキラに素顔を見せるのは今が初めてだったことに気付く。

「え? カーニヴァルって……お前、あの時の仮面を被ってた奴だったのか!?」

「そうだ。それで、俺に何か用か?」

 向こうからすれば初対面だと思い込んでいた相手に面識があると言われたのだ、驚くのは当然だろう。アキラの反応を冷静に分析しつつも、敢えて触れようとはせずナイブズは話を先に進める。第一印象から、アキラは迂遠な礼儀や気遣い等を嫌う性質ではないかと推察したのだ。

「ふん。お前がアテナのみならず、可愛い後輩にまで手を出して来たって聞いたからな。ちょっと顔を見るついでに、釘の一つも刺してやろうと思ったのさ」

 驚きからすぐに抜け出し、ナイブズを睨みつけながら、アキラはそのように言って来た。普通の人間ならば思わず尻ごみしてしまいそうな、鋭く強い視線だ。それを平然と受け止め、ナイブズはアキラの眼を見返した。ナイブズは漠然と、彼女に共感めいたものを覚えていた。

「晃さん、別に私は何もされてませんよ」

「お前が良くても、私が良くないんだ!」

「そんな横暴な!」

 アキラがナイブズに絡んで来た理由の一つに挙げられた藍華は抗議したが、アキラは独自の論理で藍華の意見を却下した。

 確かに、藍華の言うとおりアキラの態度は横暴とも言える。だが、ナイブズにはそれが理解できるような気がした。

「アテナのことが、そんなに心配だったか」

 藍華の事は一先ず置いておき、ナイブズはアキラにそのように問うた。

 人間にとって数ヵ月の時の経過は決して短いものではない。悪い出来事や嫌な出来事があっても、その時の感情を忘却してしまうには十分な時間だ。他人事となれば、それは尚更だろう。しかしそれも、強い想いがあれば別だ。

 自分自身にとって大切なもの、譲れないものに関わる事象を、人間は易々とは忘れない。普段思い出すことが無くとも、何かの切っ掛けさえあれば、その時のことが鮮明に思い出されるのだ。中には、常軌を逸した強烈な感情――憎悪や復讐の念を四六時中持ち続ける者もいたが、今はそれを引き合いに出す必要はあるまい。

「ああ、心配だったさ。あいつは、少なくとも私と会ってから一度も、自分の歌を疑ったり、後悔したりしたことなんてなかったんだ。それを、あんな風に追い詰めて……」

 ナイブズを睨む眼に、更に強い感情を込めて、アキラは立ち上がりナイブズへと詰め寄った。それを、ナイブズは黙って見返し、正面から受け止める。

「けど、アテナさんのスランプ解決も、ナイブズさんのお陰、なんですよね?」

 しかし、ここで思わぬ横槍が入り、アキラは出鼻を挫かれた。

「ぐっ……って、藍華、何でお前がそのことを!?」

「後輩ちゃんから聞きました」

「後輩ちゃん……? ああ、アテナの後輩のアリスって子か」

 直接の後輩のアリスまで口外しているとなると、アテナの件は意外と水先案内人の間で広まっているようだ。完全に復調した現在ならば、単なる話の種で済むのだろう。ナイブズも、当時の事を振り返る。

「アテナの歌に罵声を浴びせたことは、間違いだった」

 率直な気持ちを、そのまま口にする。それを聞いて、アキラは先程までとは異なる感情を秘めた眼で、ナイブズを見る。

「……どうだった? 天上の謳声を聴いた感想は」

「良い歌だった。今まで聞いた、どの音楽よりも」

 嘘偽りの入る余地がないほど簡潔に、本心のまま答える。暫くアキラは何も言わず、真っ直ぐな眼でナイブズの眼を見つめ、やがて、何かに納得したように小さく頷き、目を逸らした。

「分かったんなら、それでいいさ。呼び止めて悪かったな」

 強張らせていた表情を緩めながら溜息混じりに言って、アキラは再び舟に腰を下ろした。急に腰を下ろされたので、立ったまま状況を見守っていた藍華は多少バランスを崩してしまったが、すぐに持ち直した。

 そこで、ふと、ナイブズは以前舟に乗せてもらった水先案内人の少女、あゆみに教えられたことを思い出した。曰く、片手だけの手袋と黒い舟は半人前の印で、1人では客を乗せることもできない。だが、それには例外もある。

「確か、半人前でも一人前の水先案内人が同乗していれば、客を乗せられるらしいな」

「え? はい、そうですけど……」

 ナイブズが問うと、自分に声を掛けられるとは思っていなかったのか、藍華は若干の戸惑いを見せながらも首肯した。確認し、海の方に視線を遣りながら、口を開く。

「ネオ・アドリア海の島まで運んでくれ。金はある」

 乗船料の価格相場は知らないが、手持ちの金では足りないということはあるまい。いざ足りなかったら、その場で交渉して何とかするとしよう。

「へぇ~……態々、シングルの(ゴンドラ)に乗るとは、物好きだね。しかも、目の前には『真紅の薔薇(クリムゾンローズ)』もいるってのに」

 すると、藍華ではなく、アキラがそのようなことを言った。彼女が今口にした『クリムゾンローズ』という言葉には、ナイブズも覚えがある。

「お前は、水の3大妖精の晃・E・フェラーリだったのか」

 アテナと同じ水の3大妖精の1人は、艶やかな黒い長髪と優雅さを兼ね備えた大胆な立ち居振る舞いが特徴的という。水先案内業の老舗『姫屋』の不動のトッププリマであり、水先案内人としての通り名は『真紅の薔薇(クリムゾンローズ)』。名を晃・E・フェラーリ。

 仮の寝床の家主から聞かされた水の3大妖精の解説の一部を思い出す。確かに黒髪等の特徴は一致している。今までの挙動から優雅さを見出すことは難しいが、彼女自身が殆ど動いていないのだから当然か。

「そうさ、やっぱり知らなかったみたいだな。で、藍華、どうする? お前を選んだ客だが、今は水上実習中だ。それを理由に断ってもいいんだぞ?」

 ナイブズの言葉に頷くと、晃はすぐに藍華へと問う。選択肢を提示しながらも、答えは分かっていると言わんばかりに自信に溢れた表情だ。

「いえ、やります。私を選んでくれた初めてのお客様を、お断りしたくありません。今日までの練習の成果、お見せします!」

 藍華が声に力を込めて答えると、晃も頷いた。

「よし、いいだろ。そういうわけだ、ナイブズ。折角の所悪いが、今日はうちの半人前の実践にも付きあって貰う」

「構わん。だが、お前はいいのか?」

 つい先程までナイブズへと嫌悪を露わにしていたにも拘らず、今の晃からはそういった感情は一切感じられない。仕事に私事を持ちこまないとか、頭の切り替えが早いとか、そういうのとは違う。どうやら、もうナイブズへの蟠りを自分の中で解決しているようだった。

「アテナの事か? そりゃ、詫びの言葉も無しに解決したって聞かされた時は呆れたし、お前に会うことがあったら一発ぶん殴ってやろうかとも思っていたさ。けど、アテナが納得していて、お前もあいつの歌の良さをちゃんと分かったみたいだ。なら、私がこれ以上口を挟むことは何も無いさ」

 さっぱりとした調子で、晃はそのように言い切った。それを聞いて、ナイブズは晃に共感めいたものを感じた理由を理解した。

「そうか」

 何の事は無い。アテナを心配する晃の姿に、出来の悪い弟の心配をする性質の悪い兄の姿を重ねていたのだ。

「納得できるんですか」

 晃の言葉を自分勝手な言い分と感じたのか、半ば呆れたような様子で藍華はそのように言った。

「……俺にも、そういう感情には覚えがある」

 かつて、ジュライでヴァッシュと再会した時を思い出す。ナイブズは、ヴァッシュがそれまでどのようなことをしていたか知っていた。ラブ&ピースを唱える平和主義者でありながら、死者こそ出さないようにしていたものの、様々な事件や騒ぎに首を突っ込んでは物的被害を拡大させる“暴走野郎(スタンピード)”と呼ばれ、付いた仇名は『人間台風(ヒューマノイド・タイフーン)』。

 生来持ち合わせている絶大な力を一切使わず、日常的に、風が吹くように銃火が飛び交う場所でそのような生き方をしていれば、どうなるかは分かっているつもりだった。だが、ナイブズは実際にヴァッシュの身体を見て、自分がどれ程考え足らずだったか――ヴァッシュが、自分の想像を遥かに超えた大馬鹿だったのだと思い知った。

 ナイブズは絶句した。ヴァッシュの体に無謀の代価として刻まれた、無数の傷を見て。無傷の皮膚よりも傷痕の方が多い、その体を見て。

 その時真っ先に想ったのは、たった1人の弟を傷付けた人間への憎悪や憤怒ではなく、お人好しが過ぎる大馬鹿者の弟への心配だった。アテナのことを聞いた時、晃が持った感情もこのようなものだったのではないだろうか。

「それでは! お客様、お手をどうぞ」

 緊張の為か、先程よりも堅く大きくなっている藍華の声を聞き、一旦思考を打ちきる。自分に差し出された手を見ると、一拍の間を置いて、ナイブズは藍華の手を取った。

「急ぎではないが、頼むぞ」

「はい、お任せ下さい」

 路上から舟上へと丁寧に誘導され、晃の前の席に腰を下ろす。

「それでは出発します。……えっと、ネオ・アドリア海のどの島でしょうか?」

「名前は知らないが、位置は把握している。海に出たら指示を出す」

「畏まりました。それでは、出発します」

 舟は、ゆっくりとネオ・ヴェネツィアの街を進み出し、そのままネオ・アドリア海へと向かう。海へと出る途中、藍華から観光案内を聞かされる。流石に本格的に観光案内での一人前を目指しているだけあり、以前に聞いたあゆみのものとは全く違う。あちらは、殆ど世間話のような感覚だったのだから違いが出るのは当然だが。

 モデルとなった地球のヴェネツィアでの歴史とこの街でのエピソードを織り交ぜた観光案内に、ナイブズも素直に聞き入る。他の舟に比べてやや速度が出ているようだが、個人差の範囲内だろう。

 やがて街の水路を抜け、海へと出た。それを境にしてか、舟が出てから今までずっと黙っていた晃がナイブズに話し掛けて来た。何故、アテナの謳声を聞いて罵るようなことをしたのか、と。これには藍華も興味があるようで、舟を漕ぐ手を休めずとも、ナイブズに先程までより気を向けている。

 ナイブズはこれまで通り、包み隠さず全ての事実を話した。反応は、あゆみの時と同様。案の定、とでも言うべきか。

「波の音に聞き入って、アテナの歌が耳に入らないで、耳障りだった……ねぇ」

「本当の事だ」

「冗談だったら(ゴンドラ)から蹴落としてやるとこだけど……本気みたいだな」

 信じられない、と言わんばかりの調子で出て来た晃の言葉に、即座に返す。晃もそれ以上は異論を唱えず、しかし納得できていない――というよりも、理解が追いついていないようだ。この星で生まれ育ったのならば、それで当然だろう。

「海も川も無い星……想像もできませんね。けど、そんな所で、よく暮らせてましたね」

 藍華の感心したような言葉に、ナイブズは一瞬、顔を顰める。すぐに、平素の表情を取り繕い、平静を装う。

「……あの星に墜ちてしまった以上、あの星で生きて行く以外に無かった」

 厳密には違う。ノーマンズランドに生きる人間とプラントは、人間を始め地球の生物が生存するのに著しく適さない環境である熱砂の星に墜ちてしまい、そこで生き抜くことを強いられた者達の生き残りであり、末裔である。だが、それもただ1人の例外を除いてだ。

 その例外とは、ナイブズ自身だ。ナイブズにとっては、あの星に移民船団を“墜とした”のだ。

 ノーマンズランドの人類とプラントの苦難の歴史、その元凶はミリオンズ・ナイブズの他にいない。そのことを早計と思うことはあったが、悔いることはなかった。この星に来て、再び人と向き合おうと決めた時も、過去の事は修正できない。ならばそれを受け入れて、突き進む以外に無いと、そう考えていた。

 だが、今、ナイブズは言い澱んだ。言葉を濁した。誤魔化した。

 それは、真実を話したくないと思ったから、後ろめたさを感じたから。

 ならば、そうさせた感情は――。

「……見えた。前方のあの島だ」

 思考とは無関係な言葉を口走る。単なる反射か、或いは、恐れからの逃避か。

「あちら、ですね。畏まりました。それでは、着くまでの間、ネオ・アドリア海の風景をご堪能下さい」

「そうするか」

 藍華の返事にそっけなく頷き、視線を周囲の海と空へと移す。

 海の色は、空の色だという。空が曇れば海の色も濁り、陽が落ちれば海も暗黒に沈む。つまり、海は空を映す巨大な鏡だ。

 ならば、自らの心を映す鏡とは、なんだ?

 

 

「海と水路とでは水の流れが違ったようだな」

「はい。場所もそうですけど、潮の満ち引きや時間帯が違うだけで同じ場所でも潮の流れは変化します。ですから、視界もスペースも広いですけど、単純な操船では街の水路よりも難しいですね」

 小島に上陸し、舟の上で感じたことを何となく口走ると、それに藍華が的確に答える。なるほどそういうものなのかと、ナイブズも頷く。

「帰りも頼む。他に当てがないのでな」

「分かっているさ。こういうのは往復で請け負うのが原則だからな。それにしても、どうしてこの島に来たんだ?」

 帰りの分の依頼に、晃がすぐに答えた。そして、この島に来た理由を聞き返される。ナイブズは迷いなく、簡明に答える。

「気になる物が見えたから、確かめに来た」

 あの淡い桃色の樹木と思しきものの正体、如何なるものであろうか。実際に樹木であるとしてどのような姿形で、どのような生態なのか、興味深い。

「なんだ、花見に来たんじゃないのか」

「ハナミ?」

 晃が何気なく零した一言を、今度はナイブズが聞き返した。完全に未知の単語だが、それが此処に来た理由と何らかの結びつきがあるのではないかと考えたのだ。

「あ、そうか。ナイブズさんは知りませんよね。花見って言うのは地球(マンホーム)の日本という国が発祥の春の行事で、この時期に綺麗に咲く“桜”という花を見ながら宴会をする、という風習です」

 藍華の解説に頷く。恐らく、それで間違いあるまい。

「花……それかもしれんな。そのサクラの場所は分かるか?」

「はい。それでは、ご案内します」

 藍華と晃に先導され、ナイブズは島の奥へと進む。途中、日本特有の建築様式の建物に出くわす。ナイブズの知識にある通り、これが神社であることを藍華から説明される。ただ、藍華も晃も日本文化にはあまり詳しくないらしく、この神社の歴史は勿論、神社そのものの意味や成り立ちも知らなかった。逆にナイブズが日本の土着信仰である神道由来のものであることを解説して感心された。

 何故、イタリアの街並みを再現したネオ・ヴェネツィアのすぐ近くに日本文化の宗教建築があるのかと問う。藍華によると、地球からこの星への入植が始まった当時、出身国別に島が割り振られ、それぞれの文化村を作ったのだという。この島も、そうして作られた日本村の一つなのだ。他にも同じ日本村はあり、近くには秋の紅葉で有名な日本村もあるらしい。紅葉というものも知らないが、それを直に見られるのは秋、2つ先の季節だ。

 そうして藍華の観光案内を聞きながら進んでいると、人の喧騒が聞こえて来ると同時に、ひらひら、と何かが風に舞って来た。顔に張り付くよりも先にそれを掴み、何かと検める。

「それが、さっき言った桜の花びらだ」

 晃に言われ、それを具に観察する。花弁の大きさから察するに、あまり大きくない花のようだ。色も、桃色よりも白に近い、それ程に淡い色彩だ。

「もう、すぐ近くですよ」

 藍華に手招きされ、神社の脇道を進む。

 脇道は短く、すぐに開けた場所に出た。

 

 はらはら、はらはら、はらはら、と。無数の花びらが、微かな風に誘われて舞っている。

 少し強い風が吹くと、ざぁっ、と波打つような音を立てて、枝が揺れ、多くの花びらが駆け出すように宙を舞う。

 小さな広場を埋め尽くす華の舞。周囲を囲うのは、同じ色で飾られた木々。

 手近な木の一つに近寄り、見上げる。予想していた通りの木であり、想像もしていなかった木だ。

 幾重にも別れた枝の一つ一つから、たくさんの花が咲き、木を淡くも鮮やかな色で彩っている、かと思いきや、よく見てみれば幹や地面近くの根から顔を出している花もちらほらとある。基本的に枝と同じつくりだから、こういう気まぐれもあるか。

 再び、頭上に咲く花を眺める。

「これが……サクラ」

 花は咲いている内が良いものとばかり思っていたが、散る様がこんなにも幻想的な花があるとは知らなかった。

 自分でも気付かぬ内に、ナイブズは桜に見惚れていた。藍華と晃も同様に、桜を眺めて楽しんでいる。

「よっ。あんた、こんな所でなにをぼさっと突っ立ってるんだい?」

 すると、聞き覚えの無い声に呼び掛けられた。そちらへ顔を向けると、いかにも日本人らしい顔立ちの中年の男がいた。引き締まり、鍛えられた肉体と佇まいは戦士――などこの星にいるはずがないから、単なる格闘技経験者か何かだろう。

「サクラを見ている」

「へぇ、桜そのものをじっくり見てるってのも珍しいな。けどよ、折角この時期にこの場所だ、あんたも一緒に花見をどうだい?」

 ナイブズの返事を聞くや愉快そうに笑うと、男は後ろを指した。そちらを見ると、10人ばかりの人間達が集まって、桜の木の下にビニールシートを広げて宴会をしている。成る程、あれが花見か。だが、誘われるのは解せない。

「……何故、俺を誘う」

「こういうのは、見ず知らずの他人を引っ張り込んででも大人数の方が楽しいのさ。それに、そうしたらここの大神様も喜びそうだし、な」

 見ればこの男、僅かに顔が赤い。恐らく酒が入っている。だが、酔っているようには見えない。酔った勢いではなく、平素からの気性でナイブズを花見に誘っているのだろう。

 こういうノリや勢いは分からないでもない。だが、それに応じるのは僅かに躊躇われる。

「父様、いつまで初対面の方にからんでいるのですか。早くおもどりください」

「ああ、悪いな。で、どうだい?」

 娘らしい少女が呼び戻しに来ると、男は重ねて問うて来た。

 ……あいつは、こういう気持ちをずっと抱えながら、人に寄り添い、人と共にい続けたのか。

 人間への後ろめたさを抱えたまま人と接するというのは、想像以上に難しい。

「そっちのお嬢さん達も、どうだい?」

 ナイブズが黙っていると、男が離れた場所で桜を眺めている2人にも声を掛ける。

「え? 私達も、ですか?」

「くるみパンもあるぞ」

 藍華の戸惑ったような声を聞いて、男が晃の方を見てそのように言った。すると、晃の眼が、すわっ、と見開かれた。

「よし、行くぞ藍華。私が特別に許可する」

「ちょっと、晃さん! 仕事中の買い食いとかは禁止されてませんけど、流石にこれはアウトですよ!」

「なぁに、お客様たってのご要望とあってはしょうがないさ。な?」

 言って、晃はナイブズを見遣る。どうやら、晃はくるみパンにご執心のようだ。水の3大妖精のような有名人ならば、好物が一般にも知れ渡っているのも頷ける。そして、男の狙いはこれだったかと、ナイブズも気付く。

「……そういうことにしておこう」

 晃に押され、男に誘われるまま、頷き、ナイブズ達は花見の席に加わる。突然の乱入者にも男の家族達は戸惑うことはなく、寧ろ大歓迎だった。来る者は拒まずが、彼ら一族が酒食を酌み交わす時の決まりらしい。

 勧められるままに飯を食い、酒を飲む。重箱という日本独特の弁当箱に収められた日本料理を中心とした料理の数々は、味だけでなく見た目も良いもので、自然とナイブズの箸も進む。初めて目にする水のように透明な酒――日本酒の清酒を珍しがっていると、その成り立ちやらを実際に飲みながら教えられる。

 晃は自然と賑わいの中心になり、藍華も最初は戸惑っていたが同年代の者もいたことからすっかり馴染んでいる。その様子を、ナイブズは一歩下がった所で眺めていた。

 いなり寿司を食べようと箸を伸ばすと、最後の一つを隣席の少年に先に取れてしまった。なんとなく隣を見ると、そこにいたのは見覚えのある、狐の面を被った少年の姿をしたものだった。暫し何も言わずに顔を見合わせ、やがて、どちらからともなく視線を外す。

 今は人と交わる場所だ。同席した同類にちょっかいを出すような野暮はするまい。

 

 初めて加わる人間の宴会は、なかなか楽しいものだったと言えるだろう。

 美味い料理を食べ、美味い酒を酌み交わし、時に舞い散る桜を愛でる。花見が日本の伝統文化として今も継がれている理由も、理解できるというものだ。

 だが、心に僅かに射した影、自覚した己の闇が、どうしてもナイブズの頭から離れなかった。

 

 

 

 

 宴会に付き合ったお陰で、思いの外時間を取られた。ネオ・ヴェネツィアの船着き場に戻った時には、太陽は大分傾き、空と海を茜に染めていた。

 舟を降り、藍華に今回の分の料金を支払う。思いの外安値だったが、これも半人前の料金だからだろう。

「本日のご利用、ありがとうございました。また(ゴンドラ)に乗る機会があれば、今後も姫屋を御贔屓にお願いします」

「考えておこう」

 藍華からの挨拶に短く返事をする。そういえば、ナイブズが2度乗った舟はどちらも姫屋の半人前の水先案内人のものだった。こういうものも縁と云うのだろうか。

「どうだった? 人生初の花見の感想は」

 藍華に続いて舟を降りた晃は、そのようなことを問うて来た。今来たばかりの方角を振り返り、つい先程までの光景を思い出しながら、口を動かす。

「いい体験だった。……お前達のお陰だ、礼を言う」

「どういたしまして」

 ナイブズの言葉に、藍華は少し照れたように笑いながら言葉を返す。だが、晃は何やら怪訝な表情でナイブズの顔を覗いていた。

「本当か?」

 流石は、アテナと同じ水の3大妖精か。アテナに仮面越しの表情を見通されたことを思い出しながら、ナイブズは内心で晃の洞察力を高く評価した。

「本当だ。ただ、別のことを思い出した」

「そう、か。心から楽しめなかったのは残念だったな」

「いや。それで良かったのかもしれん」

 晃の言葉に短く答え、それへの反応を確認することもせず、ナイブズは素早く踵を返し、小道を抜けて路地裏へと消えて行った。

 

 これから暫くは、自分を見つめ直さねばなるまい。

 人間を憎悪した過去、人類を根絶やしにしようとしていた事実。どちらも真実であり、ナイブズ自身、それらを否定するつもりも忘れるつもりも無い。

 過去の自分はその時の自分が信じる道を、最良と思える方法で突き進んでいたのだ。それを否定する理由はない。だが、今日、ナイブズは初めて、過去の自らの所業に対して後悔に近い感情を覚えた。人間に対して後ろめたさを感じたのだ。

 それが何故なのかは、分からない。だから、その答えを己の(うち)から見つけ出すまでの間。

 それまでは――。



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#8.共に在る心

 ネオ・ヴェネツィアのどこか。ナイブズは仮の住まいの自室で目を瞑り、ずっと1つのことを考え続けていた。昨日、一昨日、一昨昨日、先週、先々週、先月――それよりも前から、ずっと。

 どうして自分は、今になって人間に対して後ろめたさを覚えたのか。それはつまり、形の変わった自分の過去の所業に対する悔いではないのか、と。

 目を瞑って擬似的に生じた暗闇の中に、己が心の裡が見えて来るものではないことは疾うに承知している。それでも、ナイブズは目を伏せて考えずにはいられなかったのだ。しかし、考えても、考えても、結論は出ない。思考を重ねるほどそれはぐるぐると螺旋を描き、生じた渦に呑まれてもがくこともできずに溺れてしまう。

 不意に、ドアの開く音が聞こえた。古びたドアノブと蝶番の鳴くような軋む音に目を開けると、調度、ナイブズの仮の住まいの家主が部屋に入って来たところだった。

「近頃、ずっと難しい顔をしているね」

「……ああ」

 家主の言葉に、ぶっきらぼうに応じる。それを聞くと、家主は何かに納得したように小さく頷いた。

「そろそろ、1人で考えるのは限界ではないかな?」

「どういう意味だ?」

 確かに、最近になってナイブズは心のどこかで自分だけでの思考に限界を感じていた。一瞬、内心を透かして見られたかのような錯覚を感じ、そのまま家主へと聞き返す。

「君のような聡明な男が、一月以上も思い悩んで出せない難問だ。これ以上1人で考え続けても、きっと答えは出せないだろう。それに、君は感情的でありながら、直感ではなく論理的に結論を出すタイプだ。ある日突然に答えが閃くことも無いだろう」

 一分の隙も無い極めて合理的且つ的を射た言葉に、ナイブズに反論の余地は無かった。恐らくは今のナイブズのような状態を指して、下手の考え休むに似たりと言うのだろう。

 ナイブズは頷くでもなく、ただ無言で家主を見返す。すると、家主は口元に笑みを浮かべて、ナイブズに話し続ける。

「如何でしょう? 気分転換に、久し振りに外に出てみるのは。もうじきアクア・アルタです。熱砂の惑星から参られた客人には、さぞや珍しい風景が見られることでしょう」

 芝居がかったような仰々しい仕草と恭しい言葉遣いで、家主はそのようなことを提案して来た。

「アクア・アルタ? なんだ、それは」

「百聞は一見に如かず。実際に見てのお楽しみ、だよ」

 未知の単語の意味を聞き返すが、定型句ではぐらかされる。見ることを強調した言い方と風景という言葉から察するに、何らかの現象か催しだろうか。

 それはさておき、確かに家主の言うとおり、今のままでは到底答えを導き出せそうにない。ならば、外部からの刺激を求めるのも一興か。思い悩むのは一度中断して、ナイブズは数日後のアクア・アルタを待つことにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 街へと出たナイブズは、すぐに昼間にもかかわらず人の気配が以前よりもずっと少ないことに気付いた。しかし、全く人の気配が無いわけではない。いつもの賑わった穏やかさに対して、今は静かなのんびりとした空気とでも例えるべきだろうか。

 どうしたことかと考えていると、耳に入る音の中に聞き慣れないものが混ざっていることに気付いた。耳を澄まし、その音に意識を向ける。ざぶざぶ、じゃぶじゃぶ、と人が液体を踏んで進む音が聞こえる。だが水溜まりのような少量の液体ではなく、もっと深い液体の中を歩いているようだ。しかも、それは1人や2人ではない。

 ナイブズは取り敢えず、その音が聞こえてくる方に足を向けた。やがて、大きな通りに出た所でナイブズの疑問は氷解した。

「……これが、アクア・アルタか」

 アクアとはこの星の名を冠したものではなく、単語として『水』を指したものだったのかと納得する。ナイブズの目の前には、水没した街と、そこをいつもと変わらぬ表情で歩いている街の人々の姿があった。微かに香る潮の匂いから、ナイブズはアクア・アルタの正体をおぼろげながら察した。

「どうやら、自然現象のようだな」

 海には元々潮位の変動がある。恐らくはこのアクア・アルタもその延長線上の自然現象なのだろう。そうであれば、街の水没というナイブズから見れば異常事態でしかない状況でも、平素と何ら変わらない様子で過ごしている市民の姿にも納得できる。

 行き交う人々を暫し観察してから、ナイブズも靴を脱いで水に浸かった道に足を踏み入れる。匂いだけでなく肌の感触からも、やはりこれは海水なのだと実感する。海に手や足を入れたことは何度かあったが、こうして海の中に入ったまま歩くのは初めてだ。水の底の石畳の道を踏み締め、自分自身も音を立てながら当て所なく道を歩く。

 そういえば、なんとなく歩き出してしまったが、行く当ても目的も何も無い。どうしたものかと歩きながら考える。

「にゅっ!」

「ん?」

 長靴広場の近くの小道で、聞き覚えのある生物の鳴き声が聞こえた。そちらを振り向くと、灯里が連れていた、あの汽車で乗り合わせた白い生物がいた。黒い小舟に乗っているが、ここまで地力で漕いで来たのだろうか。

「ぷいにゅっ! にゅっ!」

 ナイブズが顔を向けると、白い生物は頻りに鳴き始めた。威嚇しているのではなく、何かを呼び掛けているようだった。しかしナイブズは興味が無いので無視しようかと思ったが、調度、ばしゃばしゃと大きな音を立てて走って来る足音が聞こえてきた。

「アリア社長、こんな所にいたんですか。やっと見つけましたよ~」

 現れたのは灯里だった。白い生物の名を呼んで安堵の溜息を吐き、いそいそと手に持っていたロープを白い生物の乗っている小舟の舳先に結ぶ。それが終わるのを見届けてから、声をかける

「灯里か」

 ナイブズが名前を呼ぶと、灯里は驚いたように体を震わせ、慌ててナイブズの方へと振り返った。どうやらナイブズがいること以前に、この場に白い生物以外のものがいることに気が付いていなかったようだ。

「あ、ナイブズさん。お久し振りです。今日はどうされたんですか? 私はアリア社長とお出掛けです」

 灯里からの問いにナイブズは小さく頷くのみで、明白には答えない。強いて言えば気分転換だが、果たしてそれが出来ているのかも疑わしいのだ。そこで、ふと、灯里が連れている白い生物の事が気になり、そのことを訊ねてみることにした。

「……そういえば、それは何の生き物だ? 犬か?」

 何とはなしに言うと、白い生物は酷くショックを受けていた。人語を解し人間的な感情表現をするとは珍妙な動物だ。どうやら少なくとも犬ではないようだが、一体何の生き物なのか、よりいっそう興味が増す。

「いやだなぁ~、アリア社長はれっきとした猫、火星猫ですよ。ほら、肉球も」

 灯里はあっけらかんと笑いながら、そのように答えた。白い生物――アリアを両手で抱えて、右前脚を掲げてナイブズに肉球を見せる。犬にも肉球はあるとは敢えて言うまい。それよりも気になったのは、“火星”猫という名前だ。

「火星猫……火星に特有の猫、か?」

「はい。私も火星(アクア)に来てから初めて見ましたけど、火星猫って、みんな色んな姿をしてるんですよね~」

 何でも無いように――彼女にとっては本当に何でもないことなのだろう――言って、灯里はアリアを抱え直して子供をあやすように高く持ち上げる。涙目になっていたアリアも、それですぐに無邪気に笑い始めた。

 此処が何処なのか、思わぬ所で確証が得られたものだ。今まで得た情報からもしやとは思っていたが、まさか、本当にここが太陽系第四惑星――火星だったとは。随分と遠くに来てしまったものだと思うのと同時、皮肉なものだと笑う。

 人類を生きるに適さない惑星へと落とした自分が、人類の英知によって生きるに適した惑星となった、最も地球に近い惑星へと迷い込んだ。とんだ運命の皮肉があったものだと、つくづく思う。

「にゅ~、にゅ~」

 すると、灯里にあやされてご満悦だったアリアが、急にナイブズに向かって鳴き始めた。先程と同じく、ナイブズに呼び掛けているようだ。

「それは、どうして俺に反応している?」

「さぁ? ナイブズさんが好きなんでしょうか」

 思えばアリアと遭遇する度に纏わりつかれていたことを思い出し、そのことを飼い主らしき灯里に訊ねるが心当たりは無いようだ。ならば、何を理由にアリアはナイブズに呼び掛けているのか。ナイブズは一度情報を整理し、すぐに一つの推論を導き出した。

「……カサノヴァか?」

「へ?」

「にゅっ!」

 ナイブズが口にした名前に灯里は素っ頓狂な声を漏らし、アリアはその通りとばかりに頷いた。

 この星に来る前、ナイブズは汽車の中で2匹の猫と相乗りした。そして、その片割れの黒猫に導かれたナイブズはカサノヴァ――猫の国の王に出会った。ならば、こちらの白い方も同じような使命を帯びているのではないかと思ったのだが、その通りだったようだ。

「奴になら、会う気は無い」

「にゅっ!?」

「奴が俺に会いたいのなら、貴様の方から出向いて来いと伝えろ。俺は“境の店”にいる」

 ナイブズは自らの意志を明白かつ簡潔に伝える。アリアは最初戸惑っていたようだが、やがて思案する様子を見せてから「ぷいにゅ」と頷き、ナイブズの意志を了承した。

 すると、ナイブズとアリアのやり取りを呆然と傍観していた灯里が、はっとしたような様子でナイブズに歩み寄って来た。

「ナイブズさん、カサノヴァとお知り合いなんですか!?」

 カサノヴァと知り合いということで、灯里は大層驚いているようだ。それにしても驚き過ぎではないかと思った所で、ナイブズはカーニヴァルの最後の夜を思い出した。あの時に見かけたカサノヴァの一行には、灯里の姿もあったのだ。

「一度、会ったことがある。……そういえば、カーニヴァルでお前もカサノヴァの一行に加わっていたな」

「はひっ、そうです。見てたんですか」

「遠目にな」

 この場にいないカサノヴァの話題はこれぐらいにしておいて、ナイブズは灯里にアクア・アルタについて訊ねることにした。

「ところで、アクア・アルタだったか、これは自然現象なのか? それに、街が水没している割に誰も随分とのんびりしているが」

「はい。アクア・アルタはネオ・ヴェネツィアに特有の自然現象で、毎年この時期になると起きるんですよ。一種の風物詩みたいなものです」

 灯里も調度何かを言おうとしていたようだが、その言葉を飲み込んでナイブズからの問いに答えた。ナイブズは敢えて問い直すこともせず灯里の説明に納得して頷き、改めて足元を――海に浸かった街の路面を見る。

 毎年この時期に必ず起こるものだから、それに慣れている住人は驚くことも無く、既に身に付けたアクア・アルタの過ごし方を実践するだけでいい。いつもと変わらぬ穏やかさと、いつも以上の静けさに納得する。大筋で自分の予想通りだったのは、少々拍子抜けではあったが。

「……あの、ナイブズさん。もし宜しければ、これからご一緒しませんか?」

「なに?」

「実は、暁さんに呼び出されていまして、1人ではなんとなく不安なんです」

「誰だ、そのアカツキとは」

 灯里からの返事に当然のように含まれていた知らない人間の名前について、すぐに聞き返す。灯里はうっかりしていたと謝ってから、アカツキについて説明した。

「暁さんは火炎之番人(サラマンダー)の見習いの方で、アリシアさんの大ファンで……私をヘンな仇名で呼んで髪を引っ張る男の人です」

 灯里の明るい表情が、アカツキについて説明すると、僅かだが徐々に影が差していった。苦手な相手ということなのだろうが、そこはナイブズにとって重要なことではない。暫し思案し、特に断る理由や気持ちは思い浮かばない。

「……いいだろう」

「ありがとうございます!」

 ナイブズの返事を聞いて灯里は嬉しそうに笑うと、アリアを小舟に下ろして、ナイブズの先に立って歩き出した。行き先は目と鼻の先、長靴広場だ。

 

 

「おう、よく来たなもみ子……と、そっちの野郎はどこのどいつだ?」

 広場に着くと早速、黒い長髪を後ろで1つに纏めて結わっている男が現れた。一瞥して、薔薇が山ほど入った籠を背負っている以外は灯里から聞いた特徴と一致していることを確認して、簡潔に自己紹介をする。

「ナイブズだ」

 ナイブズが名乗ると、アカツキは籠を下ろしてアリアの乗っている小舟に乗せながら、じろじろと頭から爪先まで値踏みするように睨んで来た。

「まさか、貴様もアリシアさんのファンではあるまいな?」

「特定の水先案内人に入れ込む趣味も、水の3大妖精に対する特別な興味も全く無い」

 アカツキの疑念をばっさりと切って捨てる。特に水の3大妖精の中でもアリシア・フローレンスとは面識は元より顔すらも知らないのだ、それで好くのは無理がある。

 ナイブズのきっぱりとした言いに、アカツキは少々気圧されながらも頷く。

「む、そうか? それはそれで稀有なやつ。それでもみ子よ、どうしてこいつを連れて来たんだ?」

「ここに来る途中でたまたま会って、そこで一緒に来ませんかとお誘いしたんです」

 灯里からの返事を聞いて、すぐにアカツキは「そうか」と頷く。竹を割ったような性格なのか、それとも単に大雑把なだけなのか。

「まぁいい、旅は道連れ世は情け、袖すり合うも多生の縁だ。ナイブズ、あんたにもオレの用事に付き合って貰うぜ」

「何の用事だ」

 勝手に1人で納得していることはこの際置いておいて、勝手に話を進められる前に肝心の部分を訊ねる。すると、アカツキは妙に誇らしげに頷いて答えた。

「薔薇だ。薔薇を買いに行くのだ!」

「1人で行け」

「そうですよねぇ。暁さんも浮島の人ですけど、流石に買い物ぐらいは1人で出来ますよね?」

 あまりにも下らない用事に、ナイブズは即座に突き放し、灯里も邪険にあしらっているわけではないがナイブズに同調する。

 この男は、子供のお使い程度の事すらも1人では出来ないというのだろうか。

「違う! とにかく付いて来い!」

 顔を真っ赤にして否定して、アカツキは水に浸かった街をアリアが乗った小舟を曳きながらずんずんと突き進んでいく。何がどう違うのかさっぱり分からないが、灯里がアリアの名を呼んで慌てて付いて行ったので、ナイブズも取り敢えず付いて行くことにした。

 道すがら、灯里がアカツキに薔薇を買う理由を訊ねるが、臍を曲げたのかアカツキは答えずに灯里の右頬の側の髪を引っ張った。

「もみあげがスキだらけだぞ、もみ子よ」

「髪ひっぱるのも、もみ子と呼ぶのも禁止ですっ」

 2人のやり取りを、ナイブズとアリアは黙って見守っている。いや、アリアはアカツキの薔薇を一つ拝借して自分の耳元に差している。そして、なにか言って欲しそうなそわそわとした様子でナイブズを見ていたが、ナイブズは完全に無視して灯里とアカツキの2人だけを見ていた。

 アカツキは灯里に対して鬱陶しそうな、灯里はアカツキに対して迷惑そうな態度を互いに取っているが、しかしそれが本心からのものとは思えず、また嘘や偽りや芝居のようにも思えない。本当に鬱陶しく、迷惑に思っているのならさっさとこの場で別れてしまえばいい。同行しなければならない必要性など何もないのだ。なのに、2人ともそんな素振りは少しも見せず、一緒に進んでいく。

 この2人は分かり合えていない。それなのに、通じ合っているとでも言うのだろうか。ありえない。人間にはプラントの精神感応能力などの言語以外の意思疎通の手段は無い。人間は中途半端なコミュニケーション能力のせいで騙し、間違え、誤解し、疑い、争いの種を自ら撒き散らすことが多々あることは歴史が証明している。ならば、この2人はどうして……。

 思考がぐるぐると回りだし、螺旋を描きだす。しかし体は、ガボガボ、ザブザブ、という音に引かれるように、ジャブジャブと歩を進める。

 別の広場に着き、アカツキは薔薇が山ほど入った籠を幾つも水面に浮かべて青空市を開いている花屋へと行き、すぐには買わず店主と値切り交渉を始めた。ナイブズは特に興味や関心を抱くことも無く、店主の後ろの噴水の方をぼんやりと見ていた。

「こんなに買って、どうするんでしょうね?」

 すると、灯里が急にそんなことを言い出した。アカツキはまた薔薇を籠ごと買おうとしている。既に籠一杯にあるにも拘わらずだ。確かに、理解し難い状況だ。その答えはナイブズにも分からないが、思い当たることはある。

「分からんが、今日は街の女が随分と薔薇を身に付けている。それと関係があるのだろう」

 ここに来るまでの道中、胸に薔薇を飾った女を何人も見た。加えて、アカツキは初対面の際にナイブズに対して女性絡みの事で因縁を付けて来た。そこに因果関係が無いということはないだろう。

 灯里が、ほへー、と感心したような声を漏らした直後、思わぬ所から声が掛けられた。

「おやおや、あんた達、理由も知らずに買い物に付き合ってたのかい?」

 花屋の店主とよく似た背恰好の、褐色の肌の太り気味の女性だ。目を閉じているようにしか見えない細目まで同じだ。夫婦は似るということをどこかで聞いたことがあるが、ここまで似るものなのだろうか。

「流れでな。それで、お前はその理由が分かるのか?」

「分かるよ。今日が何の日か知ってるからね」

「どういう日なんですか?」

 女性の言葉を聞いて、灯里が好奇心で瞳を輝かせながら聞き返した。水先案内人がそういうことを知らないのはどうなのかと思うが、敢えて言うまい。

「今日はボッコロの日。ボッコロは花の蕾って意味で、その名の通り、花にまつわる伝承に由来する日なのさ。もっと詳しく聞きたいかい?」

「はいっ」

 灯里の返事に楽しげな表情で頷いて、女性は灯里を手招きして共に獅子の彫像に座ってボッコロの日について話し始めた。

「ボッコロの日はサン・マルコの祝日に行われる、この街の市民の行事でね。この日の男連中は老いも若きも愛する女性に一輪の紅い薔薇を贈るのが慣わしになっているんだよ」

「成る程。薔薇を飾っている女が目立っていたのは、そういうことか」

「どうして、そんな慣わしができたんですか?」

 

 『ボッコロの日』の由来は中世にまで遡る。

 地球はおろか、欧州の平定・統一さえも夢物語の戦乱の時代、とある高貴な娘と下級貴族の青年が恋に落ちた。しかし当時は身分差別の激しい時代、同じ貴族といえども娘と青年の間に隔たる身分の差は大きく、到底叶わぬ恋だった。

 だが幸か不幸か、当時は戦乱の時代。武功を上げれば王族諸侯からの覚えもめでたく、立身出世も夢ではない。青年は娘に相応しい身分を得る為、そして彼女の父親に自分の愛の誠意を示そうと、自ら望んで戦争に参加した。

 結果、青年は戦いで傷つき、呆気なく倒れてしまった。そこは偶然にも純白の薔薇の茂みだった。青年は最後の力を振り絞って一輪の薔薇を手折り、戦友に託した。あの人に届けてくれと。

 貴族の娘は青年の戦友から、彼の血で紅く染まった薔薇の花を受け取り、愛する者の死を知った。

 

「悲しいお話だけど、ちょいとロマンチックでしょ? これがボッコロの日の由来だよ」

「何故、その死んでくたばった男の話が今のボッコロの日に繋がる?」

 話を聞き終わったが、ナイブズにはさっぱり理解できなかった。ナイブズにとって人間の死、そして殺し合いは酷く身近なものだが、それに対して特別な感慨を懐いたことは1度としてない。同胞たるプラントが人間に酷使され、無残に黒く染められて死に追いやられた時には激しい怒りと悲しみを覚えたが、それをロマンチックなどと錯覚することは絶対にあり得ない。

 そんなナイブズに人間の命の儚さ、悲恋に終わった純愛、残された娘の悲しみ――それらから人間が感じる感動と、その不謹慎とも取れる感情への背徳感から来る悲劇的なロマンティズムを理解するのは難しいのかもしれない。

「分からないのかい? 顔が良くても、ロマンの分からない男はモテないよ」

 花屋の女性はそう言うが、ナイブズは自分にロマンとやらが理解できるとは思えなかった。ついでに、人間の女にモテたいとは寸毫も思わなかった。

「死に瀕しても尚、一途に女への愛を貫いた男の姿に感動して、世の男どもはそれにあやかろうと思ったんだろうさ。哀れなもんだがな」

 何時の間にか灯里の側にいたアカツキがそのように言った。言葉や文章の意味は分かるが、そこに込められた感情までは理解できない。自分の感情すら理解できていない男が、他人の感情の機微を理解しようということが間違っているのだろう。ナイブズは自分自身で、そう結論付けた。

「値切り交渉はもう終わりかい?」

「おうよ、オレ様の大勝利だ」

 アカツキがなにやら言っているが、もうどうでもいい。

 アクア・アルタの街を歩くのは新鮮な刺激だったが、そこから得られるものは無かった。これ以上ここにいても無意味だと、ナイブズが立ち去ろうとした時、灯里がポツリと言葉を零した。

「なんだか、とっても摩訶不思議。何百年も前のずーっと昔のことなのに、その彼の想いだけは紅い薔薇となって、こうして今でも残っているんですね」

 そんなものはただの幻想だ。例え発端が史実だったとしても、先程の話には元々は無かった脚色や虚構も織り交ぜられているはず。ならばそれはもはや、その男の想いだとは到底言えまい。

 冷え切ったナイブズの内心を露とも知らず、灯里は自分自身の言葉を反芻し、自分で頷きながら、自分自身にも言って聞かせるように言葉を紡ぐ。

「想いは触れると移るから、それが長い時間をかけてゆっくり広がって、みんなの心の像に映って残っているんですね」

 その言葉を聞いた瞬間、脳裏に紅い影が過った。150年、多くのものに触れ、多くのものと出会い、ナイブズとは全く違う観点で人間について語りかけて来た男の姿が。

 最終決戦の折、プラント結晶体から零れ落ちた羽根。それに触れた人間達やプラント達、そしてナイブズがあの時に見たものは人の記憶、プラントの記憶、そして――多くの者の中に刻まれていた、赤い衣を纏った稀代の大馬鹿者の姿。

 その瞬間、ナイブズは灯里やアカツキ、花屋の女性が言っていたことが、ほんの少しだが分かったような気がした。

 直接は伝わらずとも、人から人へ、長い時を経ても尚色褪せず語り継がれていく物語。その時に自分が見る物語の人物達の姿は、語り継がれて来たものに当て嵌めた己の心が映し出された像。それと同じなのだ。己の心を移す鏡とは、それまでに出会った、今こうして共にいる人々。その中にこそ、人は己を見出せる。

 思いがけず得られた答えへの足掛かりに、ナイブズは半ば呆然とした。まさか、こんな些細なことにも思い至れなかったとは。気持ちの整理はつかぬまま、しかし、この状況で言いたい言葉を紡ぎ出す。

「もみ子よ、恥ずかしいセリフ禁止っ!」

「とんだロマンチストだな」

「ええーっ!? ナイブズさんまでっ」

「ほっほっほっ」

 アカツキとほぼ同時となった駄目出しに、灯里は抗議の声を上げ、花屋の女性は愉快そうに笑った。

 その後、アカツキの準備は整ったということで、そこで別れることにした。最後は1人で最終的な結論を導き出そうと思ったのだ。

「ご苦労だったな、ナイブズ」

「俺にも思いの外収穫があった。気にするな」

「そうか? だが、タダで帰したんじゃオレの男が廃る。というわけだ、ほれ」

 労いの言葉に軽く返すと、アカツキは籠から薔薇を1つ取ってナイブズに投げ渡して来た。それを受け取り、一瞥してからアカツキに視線を向ける。

「俺は女ではないぞ」

「違ぇよ! お前も世話になってる女の1人ぐらいはいるだろ? そういうやつに薔薇の1つでも贈ってやれっ!」

 冗談で言ったのだが、通じなかったのかアカツキは激しい剣幕で薔薇を渡した理由を言って来た。別段、身近にそういう女性は誰もいないのだが、折角なので持って行くことにした。

「それじゃあ、私もこれで……」

「いいや、お前はまだだ、もみ子よ! お前にはこれから、アリシアさんに薔薇を渡す予行演習に付き合ってもらう!」

「えーっ」

 賑やかなやり取りを背に、ナイブズはどこへともなく歩き出した。

 

 

 

 

 人気の無い小さな水路の側を歩き、薔薇を見つめながら、ナイブズは自問自答する。自分が感じた、後悔に似た感情へのケリを付ける為に。

「俺の心に映ったお前と……人間達。それが、俺にあの感情を……?」

 俄かには信じ難いが、そうとしか思えない。ヴァッシュや同胞以外の存在――人間に影響されて、ナイブズはあの感情を懐いたのだ。

 だが、何故だ。あの瞬間まで、俺は過去を悔いる気など無かった。それは今でも変わらないはずだ。なのに、何故、あの時はああ思ったのだ?

 あの時と、今の違い。それは、ナイブズの目の前にも周りにも人間がいないということだ。あの時は人間と言葉を交わし、意識を向けていた。そして、すっかり忘れていたがその少し前に晃に共感めいたものを感じていたことを思い出した。

 

“アテナを心配する晃の姿に、出来の悪い弟の心配をする性質(たち)の悪い兄の姿を重ねていたのだ。”

 

 ……そうだ。あの時にナイブズは、なんということだろう、人間の中に自分自身を見ていたではないか!

 あれほど憎悪し、憤怒し、見下し、毛嫌い、理解しようとしていなかった人間の裡に、ミリオンズ・ナイブズを見ていたのだ! 悩むまでも無く、既に他者の中に己を見ていたではないか!

「まさか、この俺が……人間に共感しただけでなく、人間に自分を見ていたとは、な! くく……ははははははっ!!」

 初歩的で単純な思い込みによる見落としと勘違い。しかしそれが示すことの意味を理解し、ナイブズは声を上げて笑った。

 人間に共感したことで、人間が過去のナイブズの所業を知ればどう思うかが分かっていたから、あの時、咄嗟に言葉を濁したのだ。

 こんな風に思う日が来たとあっては、笑うしかない。しかも、同時にそれは『人間に嫌われたくない』と思っていたということでさえもあるのだ。ヴァッシュが人を好いていられた理由が未だ分からずとも、自分でも気付かぬ内にそれが通じていたから、彼女らに嫌われたくないと思ったのだ。

 その意味するところは理屈では分かっているが、今はまだはっきりとした言葉にはできない。だが、いつかきっと、何か些細な切っ掛けで自然と零れ落ちて来るのだろう。

 過去の自分が今の自分を見たら、滑稽では済まずに無様と見下し不快感を露わにするだろう。だが、ナイブズは今の自分を滑稽とは思うが、無様とも不快とも思わない。未来の自分が見たら、さて、何と言われるのか想像も出来ない。それがまた滑稽で、ナイブズは更に笑い続けた。

 ずっと昔――人と共に生きることを夢見ていた頃の自分は、笑って喜んでいる。

 

 一頻り笑い続けた後、ナイブズは暫し薔薇を見つめて思案し、水路に流すことにした。

「誰かが拾うか……それとも、誰にも拾われずに朽ち果てるか。どちらかな」

 薔薇が視界から消えるのを見届けて、ナイブズは踵を返して一歩を踏み出した。



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#9.水の迷宮

「……おや、珍しいな」

 木製の机の上に乗せた情報端末のキーボードを叩く手を止めて、この店の店主は急に何事かを呟いた。普段は情報端末に記録を入力している時には、それを終えるまで決して言葉を発さない程それに没頭しているのだが、どうやら気を割くほどの何かが起きたようだ。

「どうした?」

 確認の為、ナイブズは店の商品棚の整理の手を止めて店主に声を掛ける。場合によっては、それがナイブズの仕事ということになりえるからだ。

 店主はナイブズへと振り返り、いつもと変わらぬ調子で話し出した。

「水先案内人の少女達が……3人、迷い込んで来てしまったようだ。場所は無限回廊の水路。君ならすぐだろう」

「これも仕事の内か?」

「そうだよ。それに、私が行くよりも君が行ったほうがずっといいだろう」

 妙に含みのある、しかし穏やかな口調で店主は告げる。遠回しな物言いを好む男だということを理解しているナイブズは、特に追及はせず仕事を請け負う。

「いいだろう」

「頼んだよ。くれぐれも、君まで迷ってしまわないように」

 目的地は無限回廊の水路。ナイブズも一度散歩がてら、その迷宮に踏み込んだことがあるが、別段迷うことも無く通り抜けられた。ただ、人間が抜け出すには決して容易な場所ではないということは漠然と感じていた。

 出発する前に、一つ、気になったことを問い質す。

「何が珍しい? この“境”とかいう空間に人間が迷い込むことは、然程珍しいことではないと言ったのはお前だぞ」

 店主が“境”と呼ぶこの一帯は、人と人ならぬ者達がそれぞれ暮らす世界の境界。普通は道も閉ざされ入れないのだが、たまに道が開いて人が迷い込んで帰れなくなってしまうことがあるらしい。ナイブズ自身がその事例に直面したのは今回が初めてだが、以前店主は過去にも何度もそういうことがあり、決して珍しいことではないのだと言っていた。ならば、今回は何が珍しいというのだろうか。

「少し前に、2人の水先案内人(ウンディーネ)の少女達が同じ場所に迷い込んだんだ。短期間に同じ場所に同じ職業の少女達が迷い込んで来るのは、とても珍しい」

「そうか」

 店主からの返事に納得し、踵を返して出入り口へと向かい、古びた木の扉を開けて店の外に出る。目的地までは、最短距離を行けば3分も掛からないか。急ぎの用事ではないが手早く済ませることに決めて、ナイブズは人気のない街を跳んだ。

 

 

 

 

 どこまでも続く一本道の水路。どこかに通じているわけでもなく、普段は入り口も閉ざされ誰も気に止めない無人の空間。そこに今だけは、3人の少女の姿があった。

 3人は1艘の舟に乗り、2人は不安な表情できょろきょろと忙しなく辺りを見回し、残る1人も強張った表情で非常にゆっくりとした速度で舟を漕いでいた。

「ねぇ、やっぱり……ここ、変だよ」

 オレンジぷらねっとの制服を着た水先案内人の少女、杏は不安と恐怖で声を震わせていた。普段は快活で一本芯の通った意志の強さを持っているのだが、今は気弱な一面ばかりが出てしまっていた。

「確かに……同じような景色が続いてるんじゃなくて、同じ場所をぐるぐると回っている……。そうとしか思えないわ」

 杏の言葉に、同じくオレンジぷらねっとのアトラは努めて平静を装って頷いた。本当は杏と同様にアトラも今の状況に不安と恐怖を感じていたが、これ以上杏を怖がらせてはいけないと、気丈に振る舞っていた。

「こ、怖いこと言うなよ。杏、アトラ」

 舟を漕いでいる姫屋の水先案内人のあゆみは苦笑を浮かべながらも、できるだけ明るく軽い調子で答えた。だが、どれだけ明るく振る舞っても、行く先には一筋の光明も見出せそうになかった。

「け、けど……あゆみちゃんは、さっきからずっと、(ゴンドラ)を真っ直ぐ漕いでるよね?」

「うん。途中で曲がったりしてないし、円を描くような動きでもないはずだよ」

「なのに、同じ場所をぐるぐると回ってしまっている……」

 3人は顔を突き合わせて、押し黙る。そこから先を言ってしまったら、きっともっと駄目になってしまうと思ったからだ。

 アクア・アルタも収まり舟の運航許可が出て早速、いつもの合同練習を始めた。だが、今日に限って、何故か普段は門扉によって閉ざされていた水路の入り口が開いているのが目に入ってしまい、ちょっとした好奇心からその水路を通ってみようと思った。事の始まりは、たったそれだけのことだったのだ。

「……あ、もしかして」

「どうしたの? あゆみ」

 アトラの声に頷き、あゆみはたった今思い出した、この場所についての話を2人に聞かせることにした。

「多分……ここ、藍華お嬢が前に迷い込んだっていう、無限回廊の水路だ」

「無限回廊の水路って、あの七不思議の?」

 ネオ・ヴェネツィアの七不思議。何時の頃から囁かれているのかは定かではなく、そもそも七つあるのかさえも判然としない、一種の都市伝説。その中の一つに覚えがあった杏がそのまま聞き返すと、あゆみも頷き返した。

「そう。藍華お嬢も他の会社の子と合同練習中に、アリア・カンパニーの社長を追い掛けて迷い込んじゃったんだって」

 姫屋の跡取り娘が他の会社の水先案内人と合同練習をしているという事実は本来ならばそれだけで驚くようなことなのだが、今はそれ以上に気掛かりなことがある為、杏もアトラも聞き流した。

「けど、藍華さんは無事に帰れたんでしょ? だったら……」

「その帰り道はさ、追い掛けてたアリア・カンパニーの社長に教えてもらったんだって。気が付いたら、何時の間にか新しい水路が脇にあって、そこから帰れたって言ってたんだけど……」

 アトラは藍華の体験談に現状打破の術があるのではないかと期待したが、その答えはあまりにも漠然としていた。

「……じゃあ、あたし達は?」

 杏の言葉に、3人は一度顔を見合わせてから周囲をぐるりと見回した。

 残念ながらアリア社長の姿は見えないし、地球猫や火星猫の姿も気配もない。3人の少女達を除いて何者の気配も無く、水の流れる音と舟が水を切って進む音が微かに聞こえるだけ。空気はしんと静まり返り、もうじき夏だというのに寒気すら覚えてしまう。

「どう見ても一本道、だよなぁ」

 改めて、具に前を見ても後ろを見ても、水路はずっと一本道。どこかに脇道があるようには見えない。あゆみは途方に暮れて、つい溜息を吐いてしまった。

「なんだ、迷い込んだのはお前だったのか」

「ひゃっ!?」

 急に、頭上から人の声が降って来た。3人はビックリして素っ頓狂な声を出してしまったが、すぐに声が聞こえた上を見る。いよいよ幻聴までも聞こえ始めたのかという不安も僅かにあったが、実際に先程までは無かった人影を見つけて、誰ともなく安堵の息を吐く。

 あゆみは声の主の正体にすぐ気付いた。

「あ、ナイブズさん!」

「久し振りだな」

 ナイブズは廃墟となった構造物の上に立っていた。物音も立てずに、何時の間にそんな所にいたのだろうかと思わないでもないが、それ以上に自分達以外の人間に出会えたのが嬉しかった。

 世界から忘れ去られてこのまま消え去ってしまうのではないか、という不安は、一瞬で掻き消えて行った。

 

 

「あゆみちゃんの、知り合いの人?」

「そう。ほら、あの話を教えてくれた人だよ」

「ああ、あのナイブズさん」

 つい先程までは怯えた様子だったというのに、すっかり緊張のほぐれた様子で少女達はナイブズについて何やら話している。あゆみと他の2人は制服が違う、つまり別の会社の水先案内人のようだが、こうしてこの場に一緒にいることと、以前ナイブズがあゆみに話したことを共有していることから、どうやら親しい間柄のようだ。

「こんな所に迷い込むとは、器用な奴らだ」

 3人が話しているのを黙って見ながら、何とは無しに呟く。すると、3人は急に話をやめてナイブズに視線を集めた。

「器用、ですか?」

 眼鏡を掛けた少女が、そのように問い掛けて来る。成る程、確かにこの空間について何も知らなければ器用と言われてもどういう事かは理解できまい。

「普通ならここには入れない。ただの水路を通って行き止まりに出るだけらしい」

「ここのこと、知ってるんですか?」

 ナイブズが必要最低限の返事をすると、矢継ぎ早にあゆみが問いを重ねて来る。先程までの様子といい、女三人姦しいとは言ったものだ。

「寝泊まりしている店の店主に聞いた程度だ。それで、帰るのか?」

 これ以上話が必要以上に長引くのは面倒だと思い、また短く答えて本題を切りだす。

「は、はい! 勿論ですっ」

「なら、もう少し進め。今なら帰り道が見えるはずだ」

 言って、舟の先が向いている方を示す。薄暗く、その奥に何があるのかは判然としない。だが、先程までとは違う景色になっているのは確かだ。

「今なら、見える?」

 心底不思議そうな表情で黒髪の少女が鸚鵡返しに呟く。それを聞いて、ナイブズも少しだけ自分の知識を口に出す。

「俺も理屈は分からんが、此処はそういう場所だ。此処では人間の常識の半分近くが通用しない」

 それが、お節介な猫人形に案内されたあの店で寝泊まりし、そして仕事をこなすようになって得た実感だ。ネオ・ヴェネツィアの街もナイブズにとっては未知の世界であることは間違いない。だが、此処は“未知”の指す意味がまるで違うのだ。

 とにかく、これで外への案内の仕事は終了だ。態々外まで付き添う必要もあるまいとナイブズが立ち去ろうとした時、あゆみから声を掛けられた。

「あ、そうだ。ナイブズさん、一緒に乗って行きません?」

「なに?」

「道すがら、あの話の続き、聞かせて下さいよ」

 何を突然言い出すのかと思ったが、すぐに思い出した。そういえば、そんな約束をしていた。次に会った時に話の続きをすると。

「あんな大馬鹿の話を気に入るとは、物好きだな」

「そうですか? あたしも好きですよ、あのお話」

 黒髪の少女はそう言って、眼鏡の少女と共に首肯し、さりげなく舟の中を移動して大人の男1人分のスペースを作った。そのスペースを一瞥して、ナイブズも頷いた。

「……いいだろう。続きというよりは、話さなかった間の部分になるが」

 ナイブズからの返事を聞いて、少女達は、わぁ、と嬉しそうに笑った。その表情を、ナイブズは彼女達に気取られないようにしつつ、繁々と見つめた。

 人間に明るい笑顔で迎え入れられるなど初めてのことのはずだ。しかし、ナイブズはどこか今の状況にデジャヴュのようなものを感じていた。この星に来るよりもずっと前に、こんな笑顔を見たことがあるような気がした。

「あ、その前に一つ」

「なんだ?」

 考え事をしていたことはおくびにも出さず、ナイブズはすぐに眼鏡の少女からの呼び掛けに応じた。

「ここのことに詳しいっていう、その店主さんって、何者なんですか?」

 この問いに、ナイブズは暫し考え込む。正直なところ、ナイブズもあの店主については知らないことの方が多いのだ。具体的にこういう男だ、と言い表せる決定的なものをナイブズはまるで知らなかった。知ろうとも思わないが。

 ふと、店主が以前言っていたあることを思い出し、それを質問への返答として伝える。

「ネオ・ヴェネツィアの路地裏を探してみるといい。たまにどこかで、その男が占い師の真似事をしている」

「へぇ……。あ、自己紹介がまだでしたね。あたしはオレンジぷらねっとの杏です」

「同じくオレンジぷらねっと所属のアトラです。宜しくお願いします」

「ナイブズだ」

 2人の少女達の自己紹介に頷き、自分も簡単に名乗ってから、ナイブズは約束通り、話の続きを語り始めた。夢見る聖者の物語を。

 話の間に、舟は無限回廊の水路に忽然と現れた脇道へ入り、程なくして外のネオ・ヴェネツィアへと帰還した。

 3人が安堵の溜息を吐いている横で、ナイブズは上を、一面の青空を見つめていた。

 レガート・ブルーサマーズ。ふと、この名前を思い出した。

 今にして思えば、あの男こそが、ミリオンズ・ナイブズに対して心を開き、笑顔を見せた最初の人間だったのかもしれない。

 もうじき、あの男が自らに名付けた――あの男と初めて出会った景色が、このアクアにも現れる。

 瑞々しき水の惑星に、命が溢れ躍動する夏が訪れる。



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#10.夜光鈴

 店の隅に掛けられているカレンダーを見ると、そこには14月と書かれていた。ノーマンズランドでは地球歴をそのまま転用していたので1年は365日で12ヶ月となっていたが、どうやらアクアは違うらしい。

 店主にそのことを訊ねると、火星の公転周期が地球のおよそ倍で、ネオ・ヴェネツィアで言えば季節の移ろう早さはほぼ地球の半分だ。その為、アクアでは地球歴2年分に及ぶ火星歴1年分の24ヶ月カレンダーが存在しており、その普及率は地球歴のものよりも高いらしい。ただ、やはり地球が政治や経済の中心ということもあり、火星歴のカレンダーにも小さく地球歴の何年何月かが記載されているものも少なくない。

「ちなみに、火星歴だと1年が地球歴の倍もあるので、季節行事はともかく誕生日がややこしいことになってしまいます。そこで、誕生日の12ヶ月後を裏誕生日というもう1つの誕生日とする風習も生まれています。つまり、アクアの人々は火星歴の1年でもちゃんと2つ歳をとる、ということです」

「そんなことは聞いていない」

「これは失礼を。では、お詫びにネオ・ヴェネツィアの夏の風物詩の一つを御紹介しましょう」

 店主の言葉を半ば聞き流しながら、ナイブズはこの星に来てから既に1年以上が経っていたことを初めて実感した。

 もう1年でも、まだ1年でもない。1年が経ったのだ、という実感だけだった。そんな感覚にすら、今までの人生にない穏やかさを覚えていた。少なくとも、1年経ってもまだ慣れない事だらけだということは間違いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ナイブズはいつものようにネオ・ヴェネツィアの街を散策していたが、いつもと違って目的地は決まっている。夜光鈴(やこうりん)という物が売られているマーケットだ。店主曰く、それがネオ・ヴェネツィアの夏の風物詩の一つであり、元を辿ればそれは日本の『風鈴』と呼ばれる物が原点であるということだった。その風鈴の由来や歴史についても蘊蓄を長々と語っていたようだが、ナイブズは全く聞かなかった。

 ナイブズにとって、日本や日本の文化というものは少々特別なものなのだ。ナイブズとヴァッシュの育ての親とも言うべき女性――レム・セイブレムから、地球で暮らしていた頃の思い出話として何度もそれらを聞かされていたから。

「ナイブズさん、こんにちは」

 考え事をしながら歩いていると、不意に声を掛けられた。聞き覚えのある声に足を止め、そちらに振り向く。

「アテナか、久し振りだな」

 気付けば、アテナと最後に会ってから既に1年以上が経過していた。あちらは水の3大妖精と呼ばれる人気者であり実力者だ、街で見かけるような暇がそもそも無かったとも考えられるだろう。実際、同じ3大妖精の晃と会ったのは仕事中、もう1人に至っては名前を聞いただけで見たことすら無いのだ。

「あらあら。アテナちゃん、この人がナイブズさん?」

 すると、アテナの後ろにいた金髪の女性が口を開いた。落ち着いた口調とごく自然に浮かんでいる微笑みが調和した、見るからに穏やかな人物だ。どこと無く、雨の日に出会った秋乃を連想させる。

 連想して、見覚えがあることに気付いた。あれは、この星に着いた翌日のことだ。よく覚えている。

「お前は、灯里の先輩の水先案内人か」

「まぁ……何処かでお会いしたことがありましたか?」

「いや。お前が灯里にカーニヴァルの解説をしていたのを、遠目に見ていたのを思い出した」

「あら、そうだったんですか」

 女性は驚いているようだが、あまりそうは見えない。表情はともかく、声色の変化が非常に小さい為だろうか。すると、女性は一呼吸置いてから居住まいを正してナイブズに会釈した。

「申し遅れました。私、アテナちゃんの友達のアリシア・フローレンスです。普段はARIAカンパニーで水先案内人(ウンディーネ)をしています」

 名を聞いて、すぐに聞き覚えがあることに気付いた。通り名は『白き妖精(スノーホワイト)』。数多の水先案内人の中でもトッププリマと呼ばれるほどの実力と人気を兼ね備えるとされる水先案内人の名前だ。

「お前も水の3大妖精か。晃とも共通の友人か?」

「はい。晃ちゃんとアテナちゃんは、両手袋(ペア)の頃からの友達なんです」

 ナイブズは、そうか、と小さく頷いた。灯里、藍華、アリスの3人組の内2人の先輩が水の3大妖精で友人関係だったから、灯里の先輩もそうではないかと考えたこともあったのだ。冗談半分にとはいえ予想していた事態だけに、ナイブズはアリシアの素性にさして驚きもせずに納得していた。普通に考えれば、空恐ろしいほどの偶然の一致のようにも思えるが。

「ナイブズさんは、これからどこに行くんですか?」

「夜光鈴を買いに行くところだ」

「それなら、私達と一緒ですね。折角ですから、一緒に行きませんか?」

 問いに答えるやすぐに返って来たアテナからの誘いに、ナイブズはすぐには答えず彼女の顔を見返した。どうやら、自分に対する苦手意識などは完全に払拭されているらしい。

 そのことを確認すると、ナイブズは踵を返してアテナとアリシアに背を向けた。

「……好きにしろ」

 後ろを付いて来る気配は、振り返って確かめるまでもない。

 

 

 

 

「わぁ。今年もたくさん屋台が出てるね」

 店主に教えられたマーケットに来たが、アテナの言うとおり、たくさんの夜光鈴の屋台が軒を連ねていた。小さな飾り物だけを取り扱うマーケットということでもっと小規模なものを想像していたが、まさかサン・マルコ広場を丸ごと貸し切っているとは思わなかった。

 これだけの規模のマーケットで、武装した警備員がいないのも驚きだ。売上金を狙うような輩もここにはいない、ということなのだろう。

 夜光鈴の屋台の前を歩きながら、どのような物があるのかと流し見る。形状は全てほぼ同一、個々の違いは大きさと絵柄ぐらいか。後ろでアテナとアリシアが夜光鈴を見ながら色々と言っているのを聞き流しながら、歩を進める。

「久し振りだな、兄さん」

 通りかかった屋台の男に呼び止められた。屋台に吊るされた夜光鈴の向こうを見ると、そこには見覚えのある男がいた。

「お前は、花見の時の」

 ネオ・アドリア海に浮かぶ桜の島で、ナイブズを花見に誘った男だった。まさかこんな所で再会するとは思っておらず、ナイブズは少し間の抜けた声を出してしまった。だが、男の方は気にした素振りも見せず夜光鈴の一つを指す。

「どうだい? ウチの特製の夜光鈴」

「この模様は……白い犬ですか?」

 横からアテナがその夜光鈴の模様を見て、モチーフの動物について訊ねた。何となくナイブズには狼のように見えるが、デザインモチーフとしては犬の方がポピュラーだろう。

「いや、狼だ。似たようなもんだがな」

「狼もいいけど、こっちの猫柄の夜光鈴もいかがですか?」

 男が答えると、それに続くように隣の屋台から声が掛かった。屋台にいるのは男女の2人組だが顔立ちが似ている、恐らく姉弟なのだろう。売られている夜光鈴はガラスは透明さを残したまま濃い目の黄色で着色され、猫の顔があしらわれている。他と比べて随分と思い切ったデザインだ。

「あらあら。とてもかわいらしいですね」

「工芸体験で作ったもんが、どうして商品レベルになりますかねぇ……」

 アリシアが言うと、弟の方が溜息混じりにそのような言葉を吐き出した。素人の作として見ると、他の屋台の夜光鈴と見劣りせず遜色も無いことを考えるとかなり良い出来なのだろう。ナイブズは買おうとは思わないが。

「だ、だって……凄くポヨいじゃない!?」

「ポヨイ?」

「お客さんに通じる言葉喋ろうぜ、姉ちゃん」

 姉の方が発した『ポヨイ』なる謎の言語にアテナが首を傾げた。それを見て、弟の方が咎めたのを見るに、どうやら姉の造語のようだ。

 すると、小さく「ヒァー」という何かの鳴き声が聞こえた。周りの喧騒と会話で聞き取れなかったのかアテナとアリシア、姉弟も何の反応も示していなかったが、聞き間違いではない。

 声の聞こえた屋台の奥の方を見ると、置物かぬいぐるみと見紛うような丸い生物がいた。丸いというより、球形の生物だった。丸まっているのではなく体形そのものが球形とは、非常に珍しいのではないだろうか。

 姉弟の発言と顔のパーツから推測するに、この生物を基に夜光鈴を作ったのだろう。ならば、アレは火星猫ということになるか。まさかあの形状で地球猫ということはあるまい。

「これ、あなたの手作りなんですか?」

「はい。父の知り合いに夜光鈴を作っている人がいて、そこでちょっと作らせてもらったら、随分とウケが良かったみたいで」

 アリシアが問い掛けると、姉の方は気恥しそうに、簡単に事情を説明した。すると、それを聞いた男も横から口を挟む。

「あいつは大の猫好きだからな。それに、この街は猫妖精(ケット・シー)が守り神の猫の聖地みたいな土地だ。この街にはぴったりだと思うぜ」

「ありがとうございます」

 男の遠回しな褒め言葉に、姉の方は恐縮したように小さく頭を下げた。どうやら男と姉弟は知り合いのようだ。或いはその縁で隣同士で屋台を開いているのだろう。

「ついでに馬鹿な猫バカの貰い手もいりゃあな……」

「失礼な! 私にだって結婚を約束した相手ぐらいいたよ!?」

「ポヨの為にその縁談蹴っといて何言ってやがる」

「あらあら」

「お姉さんにそんなことを言ったら駄目だよ」

 姉弟との会話に混ざりつつ、アテナとアリシアはその夜光鈴を気に入ったらしくどれを買おうかと選び始めた。ナイブズにはどれも同じに見えるが、どうやら表情差分も混ざっているようだ。

 ナイブズは男の屋台に視線を戻し、並んでいる夜光鈴を改めて見た。

「……狼以外にも柄があるな」

 狼の他は、鼠、牛、虎、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、猪、猫。何の統一性も見出せない選出だが、絵柄は全て白い体に赤の模様で統一されている。模様の書き込みは細かく、特に狼の物は精緻という言葉以外に表現できないほどだ。

「狼を戌に見立てりゃ、十二支の揃い踏みさ。オマケで、日本の御伽噺じゃ十二支になり損ねた猫柄もある」

「十二支?」

 何の統一性も無いと思っていた絵柄の動物達に共通項があると聞き、すぐに聞き返す。これらがどのような共通項を持つのか、興味を引かれた。

「日本とかのアジア地域には干支っていう文化があるのさ。それで十二支という12種の動物がいて、それぞれが1年ごとにその年の象徴となる」

「時計の数時を動物に変え、単位を年にしたような物か」

「それが近いな。他にも色々とあるんだが……まぁ小難しい話は置いとくとして、何か買ってくかい?」

 簡単な説明を聞き、仔細については自分で調べるかと考える。恐らくは最初に言った御伽噺が原典なのだろう。

 それはそれとして、ナイブズもここで夜光鈴を買うことにした。

「この、狼を貰おう」

「毎度」

 少々高値だったが、金は殆ど使わず余らせている。多少の出費は問題無い。横を見ると、調度アテナとアリシアも夜光鈴を買っているところだった。

「ポヨ風鈴、お買い上げありがとうございまーす!」

「あ、あとサインいいっすか? 知り合いが大ファンなもんで」

「いいですよ」

「サイン? どうして?」

「姉ちゃん、よく見ろよ。アリシア・フローレンスとアテナ・グローリィ。姉ちゃんも一度会いたいって言ってた水の3大妖精だよ」

「……え、マジで?」

「うふふ。もう1枚、書きましょうか?」

「是非! あ、折角ですからもう1個でも10個でも持って行っちゃって下さい!」

「あらあら」

「えっと……それじゃあ、お言葉に甘えてもう1つ」

 アテナとアリシアと姉弟のやり取りを見て、水の3大妖精の知名度と人気を実感する。その割に普段の様子からそういうものが感じられないのは、本人達の人格によるものか。そんなことを考えながら、ナイブズはなんとなく、2人がサインを書き終えるのを待った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 アテナ達と別れ、逗留先の部屋に戻ると、ナイブズは早速夜光鈴を窓辺に飾った。

 吹き抜ける風に揺られて、夜光鈴が、チリン、チリン、と涼やかな音を鳴らす。音で涼を取るとはどういうことかと当初は懐疑的だったが、実際に試してみればなるほどと納得できるものだった。

 吹き抜ける風の音、川や水路を流れる水のせせらぎ、打ち寄せる波の音。それらに通じるものを感ずる透き通った音色は、肉体的にではなく精神的に涼しさを感じられるのだ。

 同時に、夜光鈴が夜になると淡い冷光を発するのも興味深かった。暗闇で光る苔や藻類や菌類、冷光を発する蛍という昆虫についてはある程度の知識を有していたが、実際にそうした光を目にするのは初めてであり、新鮮な体験だった。

 1つのもので2つを楽しむ。一石二鳥……ではなく、一挙両得というものだろう。

 店主曰く、この夜光鈴の寿命は一夏の間が限界だという。普通ならば1ヶ月で寿命が尽きるのだからかなり長めということらしいが、1年にも満たない寿命とはナイブズにとってはあまりにも短いものに見えた。

 ならばそれまでの間、せいぜい楽しませてもらおう。

 

 その日の夜はふと思い立って、夜光鈴の光を頼りに、店主から借りた干支や火星歴、風鈴についての書物を読み耽った。

 暗くも無く、眩し過ぎもせず、本を読むには十分な光だった。



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#11.花火

 いつものようにネオ・ヴェネツィアの街を縫うように歩き、人々を観察していると、ふと彩鮮やかなポスターが目に入った。近々催される催事についての告知のようだ。

 ポスターの全体にざっと目を通して内容を把握すると、なんとなく、その主体となっている物の名を呟く。

「花火、か」

 よく知っているとも言えるし、全く知らないとも言えるものだ。尤も、よく知っているのは比喩としてであり、全く知らないのは実物だが。

 そのままポスターを眺めていると、急に威勢のいい声がナイブズの名を呼んだ。

「よう、ナイブズじゃねーか。暫くぶりだな」

「暁か」

 振り返ってすぐ、相手の名を呼んで応じ、以前会った時のことを思い出す。

 アクア・アルタの時、薔薇の買い物にナイブズと灯里を付き合わせた男だ。正直、その後に貰った薔薇の方が印象に残っており、本人のことは顔を見るまで忘れていた。そんなことは露知らず、暁は鷹揚に応じる。

「俺様は普段、浮島で日夜ネオ・ヴェネツィアの、ひいては火星(アクア)の平和を守っているからな。で、何見てんだ」

「このポスターだ」

 問われて、つい先程まで見ていたポスターを指し示す。暁はそうじゃないとばかりに呆れた表情になったが、ポスターを見てすぐに得心した様子だった。

「それは見りゃ分かる……っと、花火大会のか。興味あるのか?」

「ある。資料では知っているが、本物を見たことは無いからな」

 何ら他意なく、半ば事務的に答える。有無を問われて有無を答え、最低限の補足をしただけ。実に味気なく素っ気ない応答にも、しかし暁は露ほども気にした様子を見せなかった。

「よし。それなら俺様が、お前を特等席に招待してやる」

「なんだと?」

 予期せぬ唐突な誘いに、ナイブズは思わず聞き返した。

「気にするな。あの時付き合ってくれた礼……は、もう済ませたからな! まぁ、縁があったってことだっ」

 あの時の礼のつもりだったか。『礼』という言葉を漏らした途端にうろたえた暁の態度を見て、すぐに察しがついた。しかし本人が隠そうとしていることを追及するのは面倒なことになると考えて、敢えてそのことには触れず、暫しの思考を挟んでからナイブズは暁の誘いを了承した。

 それから特等席のことや花火大会のことについての簡単な説明を一通り受けて、ナイブズは暁に案内されて浮島への唯一の交通手段であるロープウェイの駅へと来た。

 ロープウェイ駅は2つの巨大な歯車が重なったような外観が目を引くが、それ以上にナイブズの興味を引いたのは天空に張り巡らせられたロープだ。1つの駅から幾つもの浮島へとロープが伸びている様は壮観だ。隣接する浮島の間にもロープが張られており、まるで空中に迷路が描かれているようにも、万華鏡が映し出されているようにも見える。

 浮島の一つ一つに火星の生命線とも言える重要施設があるのだが、特に人の出入りに制約は課されていない。ネオ・ヴェネツィアの街が太陽系でも屈指の観光名所であるのに対し、浮島は観光地ではなく所謂下町のような場所であり、態々訪れようという観光客はごく稀らしい。

 確かに、ナイブズもこの街に留まって1年以上が経過しているが今まで浮島まで足を伸ばしてみようと考えたことが無かった。ネオ・ヴェネツィアの街は広大な上に狭い路地の他に水路まで混ざって入り組んだ迷路のような構造になっている。この街の裏と表を隅々まで廻ろうとしたら、もしかしたら人間の一生では足りないのではないかとすら思えて来る。

 今から浮島に上がってみるかと暁に誘われたが、この場は断った。そろそろ宿に戻ろうと思ったのだ。しかし、そこで暁が火炎之番人(サラマンダー)だということを思い出し、予てから気になっていたことと合わせて、暁の名乗り文句について問い質してみることにした。

「一つ、聞きたいことがある」

「む。なんだ? 藪から棒に」

「火炎之番人の仕事についてだ。それとこの星の平和を守るのと、何の関わりがある?」

「ほう。いい質問ではないか、ナイブズよ」

「答える気があるならさっさと答えろ」

 何やら得意げな表情で頷いたのが何となく癇に障り、少々ドスを利かせた声で威圧する。アテナの時の反省を活かして眼光も努めて抑えるようにしているが十分な効果はあったようで、暁は一瞬ビクリと体を震わせて、大人しくナイブズの言葉に従った。

「お、おう。火炎之番人(サラマンダー)がそもそもどういう仕事かは知ってるよな?」

「浮島の炉を燃やし、安定しない火星の気候や気温の調整を行っているのだろう。まさかそんなアナログな手段で、そこまで高度なことを行っているとはな」

「馬鹿にしてんのか?」

 ナイブズが付け加えた感想に、暁が敏感に反応した。余程、火炎之番人の仕事に誇りを持っているのだろう。だから、小馬鹿にしているとも取れるナイブズの言葉に怒りを露わにしている。

 灯里以上に感情の読みやすい男だと思いながら、ナイブズもその実直さに引っ張られるように素直な言葉を吐き出した。

「いや、感心している。なにより……プラントに頼っていない点は評価に値する」

 気候制御装置は全ての移民船団に存在している。無論、ナイブズが生まれた船団にもあった。宇宙船の内部に擬似的で豊かな自然環境を再現できていたのも、その気候装置の恩恵である部分が大きい。

 言うまでも無く、その制御装置の中枢部分と動力はプラントだった。幼少期の擬似的な自然体験が全て、同胞の力と命を削る犠牲の上に成り立っていたことを想うと、思い出すだけでも気が滅入り、胸糞が悪くなる。

 しかし、この星は違う。人間の知識と技術だけで、人間の為の環境を維持しているのだ。

「プラント? ああ、あの電球に入ってる天使みたいなやつか。教科書とかでしか見たことねーな」

「らしいな」

 ナイブズが調べた限りでは、火星開拓の最初期にこそプラントは導入されていたが、次第に使われなくなっていった。その理由は判然としておらず、推測や憶測が飛び交い、様々な意見が今でも稀に紙面や電子ネット上で示されているのが目に入る。

 最初の惑星開発という人類史に残る一大事業の歴史の一部が改竄され判然とせず、それでいて黙殺も抹消もされていない。この事実からだけでも、当時にそれなりの事があったのだということは分かるが、それまでだ。

 この星でこそ人とプラントの関わり方がどのようなものであるかを知りたかったと、ナイブズは自らの落胆を自覚していた。

 自分が変われた場所ならば、人とプラントの関係も――

「ともかくだ。そういうわけで、俺様達の日々の活躍があってこそ、火星(アクア)は人が生きられる星だってことだ」

 ナイブズが思索に耽っていると、暁が話を先に進め出した。今は考える機会ではなかったと思い直し、暁に言葉を返す。

「それを言ったら、地重管理人も同じではないのか」

 気候を管理する火炎之番人の仕事は、確かに火星の環境を維持するために必要不可欠な重要なものだ。しかし、それは重力を管理する地重管理人(ノーム)の仕事も同様と言えるはずだ。

 すると、暁はそんなことは当たり前だと、すぐに快活な様子で返事を呉れた。

「その通り。だから、ってわけでもないが、俺のダチが1人地重管理人(ノーム)をやってるぜ。共に火星(アクア)の平和を守るため、日夜戦っているのだ」

 暁はそこで言葉を一度切って、照れくさそうに笑みを浮かべて続けた。

「知ってるか? ヒーローってのは、一人きりで戦うものばかりじゃないし、殴り合うだけでも無いんだぜ?」

 そうか、そういうことか。確かにその通りだと、ナイブズは心の底からそう思って、納得した。同時に、今この時になって漸く理解した。ヴァッシュ・ザ・スタンピードの戦いとは、どういうものだったか。

 敵対する者を倒す為でなく、殺す為でなく、傷付ける為でなく、まして打ち克つためですらなく。命を守り続ける戦いとは、どういうことであったか。やっと、分かることができた。

 命を一方的に刈り取って駆除する――虐殺以外の戦いを考えなかったナイブズには、恐らく、この時が来なければ永劫に理解できなかっただろう。

「……そうだな。そういう戦いこそ、平和を守るということに最も相応しいのだろうな」

 ヴァッシュを、唯一人の弟の姿を思い出しながら、しみじみと呟く。

「そ、そのまま返すなよ」

 ナイブズの言葉がよっぽど意外だったのか、暁は随分と戸惑っていた。大方、自分の信条を語る度に聞き流されるか笑われるかというのが多かったのだろう。あいつも、ヴァッシュもそうだった。想像に難くない。

「ついでだ、仕事内容も詳しく話せ」

「命令口調かよ。……まぁいい、態度も口調も気に入らねぇけど聞いてやる。俺様の寛大な心をありがたく思うがいい!」

「そうか。さっさと話せ」

「こんにゃろっ」

 そのようなやり取りをしばしば間に挟みながらも、暁はナイブズの問いに意気揚々と答えた。それだけ、自らの仕事と火炎之番人そのものに対して誇りや敬意を持っているのだと聴いているだけでも分かった。

 やがて日が傾き始めると、用事と買い物をまだ済ませていなかったと言って、暁は足早に去って行った。ナイブズはすぐさま踵を返して、路地裏へと入ってネオ・ヴェネツィアの表通りから姿を消した。

 

 

 

 

 

 

 花火大会当日。約束の時間に暁がやや遅れたものの、致命的な遅れと言う程でも無く、ナイブズは暁と共にロープウェイに乗り込んだ。ノーマンズランドの公共交通機関は巨大な砂蒸気(サンドスチーム)のみだったので、こうした小型の物に乗るのはこの星に来る時に乗っていた汽車以来だ。

 ロープウェイの壁面に設置されているシートに腰掛ける。壁際には窓もあり、そこから外の景色が見渡せる作りになっている。出発のアナウンスが流れると、僅かな振動と共にロープウェイが出発し、ゆっくりと上昇を始めた。速度はさほど速くなく、恐らくはナイブズがロープの上を走って行く方が遥かに速い。悪目立ちするので実行する気は毛頭ないが。

 宙に吊るされた2本のロープを伝って、ロープウェイはゆっくりと移動する。見た目の割に振動は殆ど無く、用いられている技術の高さを伺わせる。時折窓の外に見えるロープを吊るしているらしい中継点さえも、自律型の浮遊ユニットなのだ。

 進行方向の側の窓、その向こうの景色を見る。行き先の浮島の姿が、側面の座席からも見える位置に来ていた。何とも形容しがたい物体だ。逆さにしたマツボックリに家屋や道をくっつけたような、とでも言えばいいのか。地上から見上げていた時も思っていたが、下から上までびっしりと家屋が並び小さな町になっている様子は、ネオ・ヴェネツィアの街と比べたら異様であり、それでいてこれはこれで様になっている。

「浮島に来るのも初めてか?」

 ナイブズが窓の外の浮島を凝視しているのに気付いたらしい暁が、そのようなことを訊いて来た。どことなく親しみのこめられた口調であるが、ナイブズに対してではなく、自分の地元に対してだろう。

 郷里への愛着とはどのような感情だろうかと何となく考えながら、答えを返す。

「ああ。常時滞空している人工物に乗り込むのは初めてだ」

「随分と小難しい言い方しやがるな」

「悪いか?」

「いや、悪くはねぇけどよ。なんか気に入らん」

「そうか」

 暁からの問われては素っ気なく答える、というやり取りを幾度か繰り返して、調子が狂ったらしい暁が黙り込んでから少し経って、ロープウェイは浮島の駅に到着した。

 駅を出てすぐの広場から、ネオ・アドリア海を一望できた。こんなにも高い場所から海を見下ろすのは初めてだ。飛行船から広漠とした砂漠を見下ろすのとは全く違う。形容しがたい情感が、ナイブズの胸の奥底から込み上げる。

 意外だったのは、こんな高さの場所でも、潮風が吹き、海の香りがすることだった。

「どうだい、この景色は。いいもんだろ?」

「……そうだな」

 暁の誇らしげな言葉にナイブズが頷いた調度その時、街の方から2人の男がやって来た。

「暁ん! 久し振りなのだー!」

「おー、ウッディにアルじゃねぇか。なんだ、お前らも帰ってたのか」

「やっぱり、最初の花火は浮島で見たいからね」

 海から視線を外し、親しげに話し始めた3人を見た。やって来た2人はどうやら暁の旧知であり、同郷の人間のようだ。

 1人は丸渕のゴーグルを掛けた箒のような髪型の大柄な男。口癖なのか、語尾に「なのだ」と付けている。パペットマスターの奇怪な口調に比べれば自然なものだ。

 もう1人はサングラスを掛けて黒い套を羽織った子供のように小柄な男。会話の内容からして他の2人と同年代らしい。ナインライブズの中身に比べればまだ大きい方か。

「暁ん、そっちの人は誰なのだ?」

「こいつはナイブズ、ちょっとした知り合いだ。で、こいつらは俺の幼馴染のウッディとアルだ」

「ナイブズだ」

「綾小路宇土51世ことウッディなのだ。よろしくなのだ、ナイブズさん」

「僕はアルバート・ピットです。アルと呼んで下さい。よろしくお願いします、ナイブズさん」

 暁からの紹介に応じて互いに相手を見ながら自己紹介をして、更に具に観察してナイブズはアルの服装が見覚えのあるものだと気付いた。

「その衣装、地重管理人か?」

「その通りです。よくご存知ですね」

 地重管理人(ノーム)火炎之番人(サラマンダー)と同じく精霊の名を戴いたネオ・ヴェネツィアの象徴的な職業であると同時に、火星環境の維持に決して欠かせない重要な職業でもある。

 その職務内容は重力操作。地球人類にとって標準となる1Gに満たない火星の重力を、特殊な技術を用いて1Gに保っている。その職務故にノームは基本的に地下に潜っており、外で見かけることは滅多にない。精々日用品の買い出し等に出て来る程度だろう。しかし全員の背が子供のように低いという特徴と、サングラスを含めて黒い衣装は夜中でも無ければネオ・ヴェネツィアの鮮やかな街並みの中ではよく目立ち、一度見れば大抵の人間は忘れないだろう。

「僕も風追配達人(シルフ)なのだ」

「そうか」

 ナイブズがこの星に来てから毎日のように街を飛び交っている姿を見ているシルフはあまり珍しくもなく、その職務内容も宅配とナイブズの興味を惹くものではなく、短く答えただけで終わらせる。代わりに、集まった3人を見遣る。

「ウンディーネ以外が勢ぞろいか」

 サラマンダー、ノーム、シルフ。精霊の名を与えられたネオ・ヴェネツィアを象徴する4つの職業のうち3つが揃った。しかもそれが全員幼馴染なのだから出来過ぎたものだ。

「いえ、もうじき水先案内人(ウンディーネ)もいらっしゃいますよ」

「む、そうなのか?」

「僕達の友達の水先案内人(ウンディーネ)を呼んだのだ」

 本当に出来過ぎた展開だ。ウンディーネも来るというアルの言葉を聞いて、ついそんなことを思ってしまった。

 4大精霊の名を持ち並べて呼ばれる存在とはいえ、4つの職業の業務内容は全く違っていて相互の関連性は殆ど無いはず。それが一堂に会すのだから、珍しいことは間違いあるまい。

「ああ!?」

 ナイブズの背後、駅の入り口から聞き覚えのある声が聞こえた。振り返れば、やはりそこには藍華が、そして灯里とアリスの姿があった。

 この状況も、合縁奇縁かと言うべきだろうか。

 すっかり見慣れた3人のウンディーネを見てナイブズが驚いていると、暁が何も言わずに歩み寄って行き、灯里の髪を掴もうとして、直前でかわされた。

「……お前たちのことだったか、もみ子とガチャペンよ」

「髪を引っ張ろうとするのも、もみ子と呼ぶのも禁止です!」

「あ! 灯里は人のセリフ取るの、そっちのポニ男は私をガチャペンと呼ぶの禁止!」

 互いに慣れたものとばかりのやり取りをして、暁と藍華が睨み合う。

 ポニ男というのは暁の髪型をポニーテールに見立てた呼び名だろうが、ガチャペンとはなんだろうか。ナイブズの知識に無いということは、この150年の間に生まれた何らかの新概念か、或いはナイブズが触れる機会の無かった分野にあやかったものだろうか。

 ナイブズがどうでもいいことを考えていると、アルが3人の間に割って入って行った。

「ご近所に迷惑ですので、大声は禁止、ということで」

 口の前に人差指を立ててアルが穏やかな口調で告げると、今にも口喧嘩を始めそうだった暁と藍華は互いに相手を睨みながらも引き下がり、灯里だけはばつが悪そうに笑っていた。すると、ナイブズと目が合い、小走りで近付いて来た。

「こんばんは、ナイブズさん。お久し振りです」

「久し振りだな」

 灯里からの挨拶に素っ気なく、しかし顔をちゃんと見ながら応じる。

 いつに無く……いや、いつにも増してそわそわしている様子を見て、相も変わらず分かり易い人間だと思う。大方、花火が楽しみで仕方ないのだろう。

「ナイブズさんも花火を見に来たんですよね? 初めてですか?」

 気持ちが昂っている影響か、いつもより口早で言葉足らずになっている。灯里の感受性の豊かさもあるだろうが、花火とはここまで人の興奮を煽るものなのか。

「浮島に来るのも花火を観るのも初めてだが、それがどうかしたか」

「私も、花火は火星(アクア)に来てから初めて見たんです。きっと、ナイブズさんも驚くと思いますよ」

 それから、暁とナイブズも灯里達に加わって花火の見物場所に向かう。

 暁は道中も藍華をガチャペンと呼び、隙あらば灯里の“もみあげ”を引っ張りながら何やら文句を言っていたが、別に誰かを追い返そうともせず、寧ろ灯里と藍華の反応や時折入るアルの注意の言葉を楽しんでいるように見える。

 世の中には好意を抱く異性に対して攻撃的に接してしまう不器用な人間がいるとレムから聞いたことがあるが、これがそうなのだろうかと真剣に検討するが、答えは導き出せそうにない。

 一方、ウッディとアリスは他の面々とは全く異なる調子の会話をしていた。ウッディの独特で遠回しな言葉を、幼いアリスが理解できずに突っかかっているという具合だ。一見すると噛み合っていないような会話だが、全体の流れをしっかりと聞いていれば、意外な噛み合い方をしているのが分かる。

 ナイブズは双方に挟まれて、偶に受け答えをしつつ、浮島からの景色を眺めながらゆっくりと歩を進めて行く。

「アル。地重管理人の重力制御業務には以前から興味があった、仕事場を見たい。できるか?」

「いいですよ。いつにしますか?」

「お前の都合のいい日で構わん」

「シルフはどうなのだ?」

「普段から見ているから興味は無い」

「ヒドイのだ……」

「げ、元気を出して下さいっ、ウッディさん」

 目的地への道中、電車へと乗り込む。浮島の周囲を螺旋状に線路が巡らされ、幾つかに区分けされた階層ごとに駅があり乗降する仕組みだ。

 ナイブズは電車に乗るのは初めてだったが、その内装は見覚えのあるものだった。あの時に乗っていた、汽車と似た構造だったのだ。違いがあるとすれば、この電車は客車が一つだけでそのサイズも小さいということと、座席の配置ぐらいのものだ。浮島には滅多に観光客が来ないことに加えて、住民が電車を一斉に使うようなことはまずないのでこの大きさに落ち着いた、とはアルの解説によるところだ。

 ウンディーネの3人が電車後部のデッキへ出て外の眺めを楽しんでいる間、浮島の幼馴染3人は何やら話し合いを始めた。ナイブズはそのどちらにも干渉せず、電車の窓から外の景色――浮島の中心であり象徴とも言うべき炉を眺める。

 人が住むには適さぬ酷寒の星を、炉から大気に膨大な熱量を放射し続けることで人が住むに適した気候へと保つ生命線。地球との交流が始まり、地球の高度技術の流入も始まれば、いつかノーマンズランドにもこのような気候制御ユニットが導入されることだろう。

 そこまで考えて、すぐに、武装した荒れくれ者が気候制御ユニットを襲撃する光景が目に浮かんだ。対して、今いるこの場所でそんなことが起きるとは到底思えなかった。

 あまりにも違う、2つの星の住人の在り様。しかし、そのどちらもが同じ人間なのだから、同じように変わることもできるはずだ。問題は、それまでの間に取り返しのつかないことが起こるかどうかだ。何かが切っ掛けで何者かが変化するとして、必ずしもよりよく変わるとは限らない。人の在り様に限らず、あらゆる物事に於いてだ。ナイブズはそうあって欲しいと願うには至らず、ただ今までの事からどうなり得るかを考え、それに対する自らの感情を問い質すのみ。

 炉の煙突から吐き出される白煙を見詰めている内に、次第に視界から離れていき、やがて見えなくなった。それから暫くして、ウンディーネの3人が中に戻って来て、すぐに降車駅に着いた。

 

 

 

 

 電車を降りて、浮島の町を歩く。限られた空間に押し込めるように家が立ち並んでいる為に、道幅は狭く入り組んでいる。土地勘の無い人間が下手に歩けば忽ち道に迷ってしまうだろう。地元の人間である暁達3人に先導されて、辿り着いたのは古びた木造の橋の先端だ。

 曰く、地元の人間でも滅多に知らない穴場ということだったが、成る程確かに、好き好んでこんな場所に来る人間は少ないだろう。実際、ナイブズ達以外に人の姿は無く、誰かが新たに現れる気配も全く無い。

「どうしてこんな場所を知っている?」

「ガキの頃は3人であちこち走り回ったからな~。その時にたまたまここを見つけたんだよ」

「なるほどな」

 ナイブズもヴァッシュと一緒に、レムの目を盗んで移民船の中を探検したこともあった。それと同じようなものだろう。それに、何気ない散策で意外な発見をすることがあるのはこの街で経験済みだ。

「花火まで、後30分ぐらいありますね」

 時計で時刻を確認して、アリスが呟くように言った。本人は普通に言ったつもりのようだが、元から声が小さいから呟きのように聞こえがちなのだ。

「お菓子を持って来たんですけど、皆さん食べますか?」

「調度小腹が空いていたのだ~!」

「いただきますね」

 灯里が手に持っていたバスケットを掲げて言うと、ウッディとアルは即座に応じ、暁はそれに乗じて灯里の“もみあげ”を引っ張った。

「ふはは、油断大敵だぞもみ子よ!」

「だから、もみ子じゃありませんっ」

 2人のやり取りを黙って見ていると、藍華が近寄って来た。彼女の手にもバスケットがある。

「ナイブズさんも、どうですか?」

「……貰おう」

 思えば、菓子を食べるのも移民船以来だ。

 ノーマンズランドに降りてからは、同胞の力を費やして作られたものを食べることへの嫌悪感から、自身の肉体の維持は必要な栄養素等を自分の力で直接補給することで行っていた。プラントの力は有限であり、力を使うことが文字通り身を削り、命を費やすことだと知ってからは尚更だった。

 今手に取ったこれは、人間若しくは機械によって栽培された穀物を加工して調理して作られたものだ。移民船の主食だった合成食品とも違う。

 手に取った菓子がクッキーかビスケットかもよく分からないが、1つをそのまま口に入れ、咀嚼する。想像以上に粉っぽくて口の中が渇いたが、ほのかな甘みが味覚を刺激する。もう1つ、色違いの物を手に取る。

 小腹を満たした後は取りとめも無い話が始まり、あっという間に時間が過ぎた。

「そろそろ時間だな。見て驚けよ、ナイブズ」

 遠くから微かに聞こえて来る喧騒を聞き取って、花火大会の開始時刻が近付いていることを察した暁は、そう言いながらナイブズを特に見晴らしのいいという先端の中央部へと促した。

「さてな。見るまでは分からん」

 眼下は浮島の町ではなく、ネオ・アドリア海。高所恐怖症の人間でなくとも思わず足が竦んでしまいそうな光景だが、これより高い場所から自由落下して着地した経験のあるナイブズはそんなことにはならず、余裕を持って海上に浮かぶ船の動きなどを具に観察した。

 すると、ナイブズの隣に腰を下ろした灯里が端末を取り出し、操作を始めた。ちらりと構造と操作性を覗き見て、個人用の端末の性能も上がったものだと判断する。

「こんな所で何をしてるんですか? 灯里先輩」

「去年もやってたわね。メールだっけ?」

「うん。ちょっとね」

 3人のやり取りが始まった、調度その時。花火大会が始まった。

 砲弾の発射音に似た音が聞こえて、数秒後。目の前に、光の花が咲き乱れた。それを皮切りに、ネオ・ヴェネツィアの夜空に花火が次々と打ち上げられ始めた。

 目の前で爆ぜるのは最初を含めてごく一部で、殆どの花火は見下ろす形になった。大小だけでなく、形状や爆ぜ方まで、正しく花のような多種多様さで花火が夜空に輝く。

「こうやって花火を上から見るの、初めてです」

「普通は、高くても屋根の上からだからね。ここ、本当に特等席だわ」

 アリスの感動したような声に応える形で、藍華も感嘆の混じった言葉を紡ぐ。

 言われてみれば、確かに花火を見下ろすのは浮島ならではの光景と言える。しかしこれが初めてのナイブズは、下からも見てみたいものだと、素直に思った。

「きれい……まるで、光のお花畑みたい」

「去年も言ってたよな、確か」

「去年に続いて恥ずかしいセリフ禁止!」

「えーっ」

 灯里の言葉に、暁が溜息混じりに言って、藍華はいつもの調子で禁止する。しかし、ナイブズは敢えて灯里のそのセリフを肯定する。

「……確かに。美しいではなく、綺麗と言うべきだな」

 聴衆を鏖殺する殺人音楽を芸術として絶賛していた頃のナイブズならば、決して言わなかっただろうセリフ。灯里が先んじて恥ずかしいことを言ってくれたおかげで、それに乗っかって何ら恥じること無く口に出せた。

 ナイブズ以外の全員がナイブズのセリフに呆気に取られていたが、そんなことは知ったことではないと、ナイブズは一心に花火を見続ける。灯里達もそれに倣うように、ナイブズの発言をすぐに忘れて花火に見入る。

「どうだい? 初めての花火の感想は」

 “デンジャラスボゥイ”なる特大の花火が輝いた直後、暁が話しかけて来た。邪険にあしらうことはせず、率直な感想を伝える。

「物騒なものなら随分と見て来たが……あれらを花火に例えるのは間違いだったと、今分かった」

「物騒ぅ? よく分からんが、まぁ、本物が見られてよかったじゃねぇか」

「……そうだな。見られてよかった」

 何百発も打ち上げられた花火から煙と共に微かに漂って来る、火薬の匂い。しかし、あの星に蔓延っていた銃火や硝煙の匂いとは全く違う。

 同じ火薬でも、人を楽しませる為の花火にもなれば、人を殺す為の武器にもなる。同じ物でも、使い道を変えればこうも違う。

 こういうものが、もっと広まればいい。

 宇宙の果てまで、全ての同胞の許まで、あの星までも。

 そして、いつかは、銃火を掻い潜り硝煙を掻き分けて、火薬の匂いをその身に染み込ませて生きて来た弟が、火薬のこういう使い道を、綺麗さを知る日が来ることを――。

 夜空に瞬き煌めく彩鮮やかな火炎の花々に、ナイブズは想いを馳せた。



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#12.小さな不幸、小さな出会い

 朝目覚めてすぐに、ナイブズは驚愕に目を瞠った。僅かな眠気も一瞬で無となり、自らを驚愕させたそれを再び知覚することに努めた。

 この星に来てから一度として感じることは無かった、しかし、決して忘れ得ぬ同胞の気配。しかも、この気配の主は人が歩くような速さで動き回っている。それの意味するところに、たちどころに気付いた。もうそれだけで、居ても立ってもいられなくなった。店主からの挨拶を無視して、ナイブズは一目散に外へと向かった。

 この時、店主と落ち着いて話をしておけばよかったのだということは、この時もこの後も、ナイブズは知る由も無かった。

 裏側から表側へと今繋がっている路地をすぐに見つけ出し、一直線に駆け抜ける。ネオ・ヴェネツィアの街は狭くて細い路地が無数にあり、視覚に頼って人を探すのは難しい。だが、この感覚を頼りに近付いていけばいい。ただ、それだけのことで確実に会えるのだ。

 表側の路地へ出てすぐ、ナイブズは逸る気持ちを自覚して移動を走行から歩行に切り替えながら呼吸を整える。この時、ある特殊な石を踏んでいたのだが、他に意識が集中していたナイブズは気が付かなかった。

 その石を踏んだ途端に“彼女”の気配が忽然と消えてしまった。

「……どういうことだ」

 思わず声に出して呟き、足を止める。彼女の気配は決して強いものではなかったが、今にも消えてしまいそうなほど弱いものでも無かった。或いは、ナイブズ自身の感応力の方に異常が出ているのかもしれない。

 ナイブズの力は、最早絞り粕程度。力の行使にも限度があり、今や肉体の維持で精一杯。エンジェルアームや尖翼の発動はおろか、肉体の変形でさえもままならないほどに弱体化している。その悪影響が今、この時に同胞同士の感応力にも現れてしまったのではないか。あり得ないことではない。

「とにかく、行くか」

 現状把握がままならないのは歯痒いが、彼女のいた凡その場所は判明している。取り敢えずはそちらへ向かい、後は地道に探すしかない。

 なんとか気を取り直して、ナイブズは足早に彼女の気配を最後に感じた場所へと向かった。

 その場所に近付いてから気付いたが、そこは一度通りがかったことのある場所だった。この星に来たばかりの頃、カーニヴァルの解説を聞いた場所。灯里が所属する水先案内業の会社、ARIAカンパニーだ。会社とは言っても非常に小規模で、社屋も一軒家とさして変わらない。従業員の人数も猫を含めたとて5人もいるまい。

 彼女は舟に乗ったのではないだろうかと思いARIAカンパニーの前まで来たが、彼女の気配はおろか、人の気配も無い。これでは尋ねることもできない。そこまで考えて、そもそも相手の特徴すら分からないのに何をどう尋ねればよいのかと気付く。

 どうしたものかと再び考え、足を使う以外に無いと踵を返し街へと戻る。闇雲に探し続け、しかし微かな情報の糸を手繰り寄せるのはやはり不可能であり、どうしたものかと途方に暮れる。

 一先ず腰を落ち着けて、焦りを鎮めて考えを練り直そうと、行き着いた広場の隅に腰を下ろした。確かこの広場は、以前『宝探し』の折に通りかかった広場の一つだ。

 何となく宝箱があった場所に目を向けると、子供達がしきりに何かを探している様子だった。果たしてあの宝が、子供の目にはどのように映るのだろうかと何とは無しに思った時、不意に、何かが近付いて来るのを感じた。気配とも違う、普通には感じ取れない存在のオーラとでも言うべきか。

 殺気や敵意を振りまいている訳ではなく、ただそこにいるだけで、他を圧倒する程の存在感を放っている。それでいて、近くにあるのがごく当り前であるかのように、錯覚ではなく自然とそう感じてしまう、不可思議な感覚。

 そちらを見ると、そこには白い犬……いや、狼がいた。しかし、ただの狼ではない。全身に施されている鮮やかな朱色の化粧紋様は豪快にして精緻、神を信ぜぬナイブズに神々しさというものを覚えさせるほどだった。

「あ、ワンワンだ~」

「ワンちゃん、一緒に遊ぶ?」

 いや、神々しさ云々は単なる気のせいだったのかもしれない。

 近寄って来た子供達に、口々に犬を意味する呼び名で呼ばれて嬉しそうに尾を振り、ボールを使って一緒に遊ぶ様子は、そもそも狼なのかも疑わしくなって来る。

 暫く白い狼が広場の中心で子供達と戯れるのを、気を落ち着けるついでになんとなく見続けた。その内、ふと気付いた。あの狼に施された化粧紋様には見覚えがある。ナイブズが買った夜光鈴に描かれた狼のものと殆ど同じなのだ。そして、アクアの長い夏の間ずっと灯り続ける特別な夜光鈴が、幻の名物だとされていることも思い出した。花火大会の帰りに夜光鈴の話になり、その時に藍華とアリスとアルから教えられたのだ。

 曰く、神の姿を描いた特別な夜光鈴は、神の御加護によって特別に美しく明るい光を灯し、一夏もの間明かりを灯し続けるのだと。

 それほど特別な物ならば大層人気がありそうなものだが、不思議なことに、市場で他の屋台と軒を連ねて一緒に売っているというのに、その夜光鈴を買える人間は殆どいないという。普通の人間では知ってはいてもその店に気付けない、気付けたとしても買おうと思えない、選ばれし者のみが手にすることを許される幻の逸品、などと噂されているらしい。

 ナイブズからすれば、隣の屋台にいた球状の生物の方がよっぽど不思議な存在だったのだが、やはりそれはナイブズが『不思議な存在』の側に近い立ち位置だからだろう。

 それでも、ナイブズは神というものを信じていない。自分が宗教組織の武闘派秘密結社によって現人神のように崇められていたことも一因だが、最大の要因は、ナイブズは今まで現実の中で醜さと厳しさに直面し過ぎたのだ。だから現実さえも嫌悪して、自らが掲げた理想を実現させようとした。

 この世に神がいるのならば、世界はもっとまともであるべきなのだ。ナイブズの狂気が、ヴァッシュの苦悩が、テスラの悲劇が、そもそも存在しえないような世界であるべきなのだ。

 神への不信を、誰に聞かせるでもなく内心で唱え続ける。すると、急に狼と目が合った。

 憐れみではない、哀れんでいるわけでもない。それでもどこか悲しげな、優しい目だった。

 子供達から離れ、狼がナイブズの傍に歩み寄って来て、目前の位置でちょこんと座った。

「……同胞を探している。構っている暇は無い」

 何となく居心地の悪さや気まずさのようなものを感じ、一言告げてその場を離れようとして、今度は幼い少女と目が合った。他の子供達と違い、その少女は狼ではなくナイブズを見ている。

「もしかして、ナイブズさんですか?」

「そうだが、どうして俺を知っている」

 ナイブズが問いに即座に応じると、少女は楽しげな笑顔を見せながらナイブズに歩み寄って来た。

「私、アイって言います。灯里さんからメールで聞いてたんです。見た目はちょっと怖いけど、実は素敵なおじさんだって」

 子供らしい、自分の主観情報を一切補足しない、ある意味で分かりにくく、ある意味では分かり易い回答だった。しかしナイブズにそういう言い回しに対する感想は無く、ある一言が引っ掛かり、つい聞き返した。

「俺が、素敵だと……?」

 今まで他人からそのような評価を受けたことが無いナイブズは困惑し、混乱した。自分のような存在のどこに“素敵”と見られる点があるというのか、皆目見当がつかないのだ。

「はい。大人になっても、なんだか子供みたいにとっても純粋な人だって書いてありました」

 アイからの返事――間接的に聞かされた灯里の言葉――に、ナイブズは一瞬の間を置いてから、つい吹き出してしまった。

「くっ……ははは」

 まさか。まさかもまさか。この俺が、ヴァッシュと同じようなものだと言われることになるとは、思いもしなかった。

 悪い気はしない。だが見当違いもいいところだと、笑いが堪えられない。

「あの、なにかおかしかなこと言いましたか?」

「可笑しい、と言うよりも、愉快だったな。それで、話は終わりか?」

 気の済むほど笑って、すぐにいつもの仏頂面に戻る。これで終わりならば、そろそろ気を取り直して彼女を探すのを再開しなければならない。

「あの、実は……わたし、迷子になっちゃって……」

「そうか」

 これ以上話すべきことは無いと知ると、ナイブズはすぐさま顔を逸らして歩き出そうとしたが、アイに呼び止められる。

「助けてくれないんですか?」

「そうする理由が無い」

「……叫びますよ?」

「好きなだけ叫んでいろ。俺には関係無い」

 顔も見ないまま一方的に告げて、微かに聞こえる泣き声を無視して一歩を踏み出した。更に一歩を踏み出そうとした時、白い狼が前に回り込んで来た。そのままそこで立ち止まると、何かを訴えかけるような視線をナイブズに送り、一度だけナイブズの後ろを見てから、ワンっ、と小さく吠えた。

「……手伝え、というのか?」

 ナイブズが訊くと、狼は頷くようなしぐさを見せた。人語を解する獣は、火星猫という前例もある。この狼が人間と同等の知性と感情を持っていても、何らおかしいことはあるまい。

 暫し狼と視線を交わして、やがて根負けした。

「まさか、狼に諭されるとはな……」

 自分が会ったばかりの狼に殆ど無言で諭され、不承不承ながらも承諾したと知ったら、ヴァッシュはどう思うだろうか。悔しがるか、呆れるか、喜ぶか、案外馬鹿にしたように笑われるということもありえるかもしれない。

 しかしそれを言えば、この街に来たナイブズを導いたのも、街の裏側に招いたのも、カーニヴァルに誘ったのも、全ては猫だった。今、狼に諭されたのも、笑い話ではなくある意味道理に適ったことなのかもしれない、などと考える。

 振り返り、アイに手伝うことを伝えると、アイは泣き顔から一変してすぐにお礼を言って来た。だが心変わりの要因は狼だと伝えると、

「ありがとう、シロちゃん!」

 勝手に名前を付けて満面の笑みでお礼を言った。狼も不平は無いのか、アイの顔に残っていた涙を拭うように、彼女の頬を優しく舐める。それが終わると、アイの襟を咥えるや宙に放り投げて自分の背に乗せた。

 その様子を見た子供達が一様に羨ましがり、自分もやってみたいと口にし出し、このままでは囲まれて面倒なことになると察し、ナイブズは狼を連れて広場を後にした。

 この時、一つだけ気になる言葉が聞こえた。狼を見た1人の婦人が「雪みたいに真っ白な毛並み」と口にして、誰もそれに異を唱えなかったことだ。

「シロちゃん、赤いお化粧きれいだね」

 ナイブズだけでなくアイにも、狼は真っ白ではなく、赤い化粧を全身に施した姿で見えている。このことが少々気にかかったが、深くは考えず、アイを早急に目的地に送ることに頭を切り替える。そうしなければ、彼女を探すこともままならない。

 無論、彼女の存在を再び知覚できたら捨て置いてそちらに行くつもりだったが、残念ながらその機会は訪れない。

 

 

 

 

「それで、お前をどこに連れて行けばいい」

 当て所なく歩きながら、狼の背に乗って御機嫌の様子のアイに尋ねる。聞かされたのは迷子になったという事実だけで、肝心の行く先については何も聞いていない。これでは探しようがない。

「灯里さんに会いに来たんですけど、ARIAカンパニーには誰もいなくて。それで、藍華さんの姫屋に行こうと思ったら、何時の間にか道に迷っちゃって。あっ、灯里さんに会いに来たのは……」

「つまり、灯里に会えればいいんだな?」

「はい」

 御丁寧にこの街に来た理由から迷子になった理由まで仔細に話し始めたのを、必要最低限の情報を得られた時点でナイブズは素早く遮り、話を先に進める。

「まずは……水路か。狼、心当たりはあるか?」

 水先案内人の外出先ということで水路が真っ先に思い浮かび、それを当面の指針として定めると、ナイブズは白い狼に試しに尋ねたが、狼は首を傾げた。狼は灯里も藍華も知らないのだから当然か。

 成り立ちようの無い問答を早々に切り捨て、ナイブズは灯里の行き先についての推測とそれに基づいて水路に沿って歩き回ることを伝える。アイも狼も異論を唱えず、元気の良い返事で応えた。

 歩き始めてから瞬く間に1時間以上が経過したが、狭い路地と水路が無数に走る複雑な構造の街で、碌な手がかりも無しに人を一人そう容易く見つけられるはずも無い。同時に彼女の気配も探り続けたが、一向に知覚できる兆しが見られない。

 途中、渡し船の船着き場にあゆみ達の姿を見かけて声を掛け、灯里の居場所を訊ねる。結果、少なくともあゆみたち3人はARIAカンパニーの半人前の姿を見ていないと判明する。少なくともこの運河を通過する経路を除外していいだろうと判断し、この後のルートを選別する。

 ナイブズが思案を巡らせている傍らで、あゆみ達はアイと共に狼をシロと呼んで戯れている。ナイブズには今まで狼としか見えなかったが、本当は犬なのではないかと思えて来た。それでも、やはり狼にしか見えなかった。

 一頻り遊び終わってから、あゆみ達に別れを告げてナイブズが絞り込んだルートへと移動する。宝探し以来、久し振りにこの街の大きさを、広さと複雑さを実感する。

 この時、もう少し話をしていたらあゆみが藍華の行き先についての心当たりを思い出し、それを聞くことが出来たのだが、ナイブズには知る由も無かった。

 正午の鐘が鳴ってから数十分経つと、アイが「お腹が空いた」と言い出した。これを受けて、ナイブズも偶には外食するのも良いかと気紛れを起こし、手近な所に店がないかと探し始めると、狼が先導するように歩き出し、やがて『海猫亭』という料理屋を見つけ、そこに入った。

 ウミネコは本来ネコのような鳴き声の鳥の事を指すのだが、この街らしいと言うべきか、看板猫のいる店だった。気のせいか、従業員と店主の顔も猫に似ている。

「……ここは境の店か?」

「密に願います」

 もしやと思って問うと、配膳係の女性はアイをちらりと横目で見てから、短く答えた。ナイブズはその返答を理解すると同時に納得し、無言で頷く。アイは狼と一緒にお品書きを睨み、読めない漢字をどうにか読もうと悪戦苦闘している。

 別の従業員がやって来て、アイに漢字の読み方とどういう料理かを丁寧に教える。アイはその説明を聞いて、本日のオススメとなる料理を注文する。ナイブズは天丼を注文する。何故か狼も一声吠えて、従業員はその注文も承って奥の厨房に伝える。

 厨房がまるで竜巻でも起きているのかという程騒がしくなり、それが収まって間もなく、注文した料理が3つ同時に配膳される。アイと狼の料理は海鮮丼という、生魚の切り身がご飯の上に乗っている料理だ。ナイブズが字面の面白さから注文した天丼は、魚や海老などの魚介類を、衣を付けて揚げた天麩羅というものがこれまたご飯の上に乗っている物だった。

 箸を使って食事をするのも久し振りだと思い返しながら、無言で箸とどんぶりに手を伸ばすと、横から制止の声が飛んで来た。

「ナイブズさん、ダメですよ。ちゃんと手を合わせて『いただきます』しなきゃ」

「………………そうだったな」

 かつて、レムから日本式の食事の作法を教えられたことを思い出し、子供からの指摘にも腹を立てることは無く、寧ろ素直に頷いて、アイと一緒に手を合わせる。

「いただきます」

 食前の挨拶を唱えるナイブズやアイと一緒に、狼も小さく吠えた。

 途中で海老の天麩羅をおねだりという形で半分奪われるという事態もあったが、無事に食べ終える。

 天丼というものは初めて食べたが、美味という称賛に十二分に値する味だった。

「ナイブズさん、食べ終わったら」

「そうだったな」

 アイに促されて、食後の挨拶もあったことを思い出し、再び食膳の前に手を合わせる。

「ごちそうさまでした」

 再び、狼も小さく吠える。

 従業員は皆アイの礼儀正しさに感心しており、アイを褒めるために態々料理人を兼任する店主も現れる程だった。この後、直接に「おいしかったです」とアイが伝えると、これが余程嬉しかったのか、今日のお代は特別割引ということになった。

 素材は鮮度が命、料理は速度が要、とは店主の言葉だ。素材を母なる海から釣り上げてから仕入れるまで、仕入れてから調理するまで、全ては速さこそが要であり、食材の命である鮮度を十全に活かす為には不可欠なのだと言う。

 ノーマンズランドは、食材から食器に至るまで、殆ど全てをプラントが生産していた。鮮度という概念や釣り上げるという行為は、ナイブズからはとても新鮮なものに映った。

 食後の雑談を終えて、ナイブズが3人分の食事代を支払う。アイは自分の分ぐらい自分で払うと言ったが、こういう場合は年長者が纏めて払うべきだろうと漠然と感じていた。

 海猫亭を出て、灯里探しを再開する。灯里が会社に戻っている可能性も考えて、一旦ARIAカンパニーを訪ねるコースを選択する。彼女の気配は、やはり感じられない。狼は歩き始めるとすぐに、再びアイを背に乗せた。アイも余程乗り心地を気に入ったのか、今度は自分から狼に跨った。

 

 

 

 

 再びARIAカンパニーを訪ねたが、誰かが戻って来た形跡も無く、再び街を探し回ることになった。この時、桟橋に黒い舟が繋がれているのを確認し、アイからARIAカンパニーに半人前は灯里しかいないことを確認し、水路沿いのコース選びは早合点だったと気付く。

 今度は人通りの多い場所や灯里が好みそうな不思議な場所を中心に2時間ほど歩き回ったが、やはり見つからない。ここでナイブズは灯里がネオ・ヴェネツィアの外に出かけている可能性に思い至った。もし本当にそうであれば、この探索も徒労でしかない。

 そのことをアイに伝えると、途端に残念そうな表情になった。どうしても灯里に会いたいと。それでも会えないものはしょうが無いのだから後日出直せとナイブズが言っても、用事や理由は無くとも今日会いたいのだと駄々をこねる。

 ふと、ヴァッシュと一緒に移民船の中を勝手に探検してレムに叱られた、幼き日のことを思い出す。あの頃は、まだ生まれて半年を過ぎたぐらいだっただろうか。今自分で振り返っても、童子の探求心や好奇心ほど抑えが利かず屁理屈で押し通したがるものは無いと呆れるばかりだ。きっと、今のアイの心境も似たようなものなのだろう。

 そうなると、どうしたものか。アイに然程の落ち度がない以上は叱るのも怒るのもお門違い、しかしやんちゃ盛りの頃のナイブズとヴァッシュはしでかす度に叱られて怒られた。こういう場合にどうすればよいのか見当もつかない。

 すると、狼が急に走り出した。一瞬、理解と認識が追いつかず呆然としてしまったが、すぐに後を追う。

「シロちゃん、どうしたのっ?」

 背に乗ったアイが呼びかけても、応じることも立ち止まることもせず、狼は狭く入り組んだ街の中を軽快に駆け抜ける。ナイブズもその後を追うが、引き離されないようにするだけで精一杯だった。

 狼は人を避けるのも障害物をかわすのも角を曲がるのも巧みだったが、ナイブズはそうもいかない。ナイブズがもしも力加減を誤って人間を突き飛ばしてしまえば、下手をすれば死傷事件になりかねない。街中では気を配る点が多過ぎるのだ。

 それにしても、狼は何処へ向かっているのだろう。無我夢中で走り回っているのではなく、一心不乱に目指す場所へ向かっているように見えるが、果たしてそれは真実か、それともナイブズの勝手な思い込みか。

 途中、狼の姿を見て仰天した2人連れの少年少女とすれ違ったが、構っている余裕はなかった。この時に少年少女と合流していれば、ナイブズにとって貴重な情報を得られたのだが、今回はその機会を逸してしまうこととなった。

 やがて人の数が減り、視界も開けた。この機にナイブズは一息で狼に追い付き、並走する。

「わぁ……!」

 アイは怯えた様子もナイブズに気付いた様子も無く、辺りの景色を見て嘆息を漏らしている。ナイブズも辺りを見渡して、走り続けている内に街を抜け、街の外を水路に沿って走っていることに気付いた。人通りが少なくなったのも、見通しが良くなったのも合点がいく。

 なだらかな丘に畑と草原が広がり、家の数も人影もまばらだ。舗装されているのは水路ぐらいのもので、道は草の生えていない地面がそのまま剥き出しになっている。

 荒野や砂漠ばかりを見慣れたナイブズは、海を初めて見た時と極めて似た高揚感を覚えた。その心持ちのまま狼を見た、この時、初めて気付いた。

 狼が駆け抜ける後に、黄金色に輝く花々が咲き乱れていることに。

「なっ……!?」

 思わず声を漏らし、絶句のあまり呼吸が乱れペースが落ち、狼の後ろへと下がる。

 黄金色の花々は、風に吹かれたわけでも無く、狼から一定の距離が離れると幻のように散って後には何も残っていない。それでも確かに、今この時も、白い脚が駆け抜けた跡には、黄金の花々が咲き乱れて行くのだ。

 これは、どういうことなのだろうか。夢か、幻か、それとも、まさかこの狼はプラントと同じ“持って来る力”を持っていて、それを走りながら発散させているとでもいうのか。

 答えは出ない。理解もできない。しかしそれでも、目の前で起きていることを現実として受け止める。

 乱れた呼吸を整え、ペースを戻して再び狼に並走する。途中で追い越した舟の乗客や水先案内人に目を剥かれたような気もしたが、気にも留まらない。先程まではただ何となく追いかけているだけだったが、今はこの狼が何処へ向かい、其処で何をする気なのか、俄然興味が湧いていた。

 狼はまるで野を縫う白い糸のように、緩やかな曲線を描く水路に沿って野原を駆け抜ける。

 途中で大きな段差に出くわしたが、備え付けの階段をナイブズも狼も用いずに一足で跳び越す。狼はアイを乗せたまま、まるで空中で見えない地面を蹴ったように身を翻してクルクルと回転する。その時には、ナイブズが見たことも無い紅い木の葉がはらはらと舞い散り、思わずナイブズも見惚れてしまった。

 狼の背のアイは、乱暴に振り回されて怯えることも無く、無邪気に笑いながら乗り心地を楽しんでいる。存外肝が据わっているのか、それとも子供ゆえの無知から来る向う見ずの怖いもの知らずか。この際はどちらであれ、楽しんでいるのだからそれで良いのだろう。

 走っては跳び、走って走ってまた跳び、走って走って走り続けて――遂に、狼の足が止まった。

 辿り着いたのは、風力発電の為の風車が林立する場所だった。

 風車など、今の時代ではナイブズでなくとも博物資料でしか見たことが無いというのが一般的だ。しかし、古き良き時代の地球を再現するという志の下に街作りのみならず“星作り”が行われている火星(アクア)では、立派な現役の発電機械なのだ。

 どうやら此処が、狼が2人を連れて来たかった場所らしく、アイを背から下ろしてちょこんと行儀よく座る。アイは初めて見る風車に目を輝かせて駆け寄り、前から後ろから、横から下から具に風車を観察し始めた。ナイブズは風車の群れをざっと見回し、風車が回る微かな音に耳を傾ける。

 羽根車が風を受けて回る。たったそれだけのことでエネルギーが生じ、電力に変換されて供給される。エネルギーを別次元から“持って来る”ことのできるナイブズには、単純な理屈で行われているそれらのことが、この時ばかりは不思議でたまらなかった。実際に風車の前に立っているからこそ、風車の果たしている役割が不思議に思えてしまうのだ。

 本来ならば食料や資材はおろか、エネルギーを生み出すことにすら、プラントは必須の存在ではない。そのことを、今までネオ・ヴェネツィアの人々の暮らしを見て来て、今こうして風車の前に立っていることで実感できる。

 プラントがいなくとも、人は生きて行くことができる。この星にプラントが存在しないことを知った日から、漠然と心の奥底で考えていた疑惑が、今や確信となっていた。

 ノーマンズランドでは人間の生活はプラントに完全に依存し、一部の者は神格化し信仰の対象とまでしていた。プラントなくして原住生物以外の生存はあり得ない環境で生き続けて来たナイブズにとって、その事実は驚くべきことだった。

 ならば、何故プラントは生まれたのだ?

 人とプラントが共に在ることに意味はあるのか?

 今までは考えたことも無かった疑問が、誰に問い掛けるでもなく、己の裡に沸々と湧き上がり響き渡る。その間も、ただ風車は泰然とし、悠然と回り続ける。

 急に、狼が大きな声で吠えた。ナイブズは思考の渦から抜け出し、アイも風車から視線を外して狼を見る。狼は顔を振って、来た道の方を見ろと示している。促されるまま、そちらを見る。

 丘の上からは、ネオ・ヴェネツィアの街が一望できた。

 小さい。あれほど広大に感じた街が、少し離れて見てみれば、こんなにも小さく見える。

 視点が変われば、物の見え方も変わる。天に輝く星々さえも、観測場所が変われば星図は変動する。そんなのは当たり前のことだ。そして、それは絶対不変の真実だ。

 ナイブズ自身も、星という大きな視点が変わったからこそ、世界の見え方が大きく変わったのだ。150年間もの間凝り固まった視点が変わって、まだ1年。浮かび上がり続ける疑問の数々に、焦る必要など無い。答えはいつか必ず導き出せる。

「あ!」

 綺麗な風景に満足げだったアイの表情が、傾き出した太陽を見て一変する。何か用事を思い出したのだろう。

「どうしよう……。早く帰らないと、お姉ちゃんが心配しちゃう……!」

 それを聞くや、狼が再びアイの襟首を咥えて投げて背中に乗せる。ナイブズはそれを見て、準備を整える。

 ナイブズと狼は、同時に来た道を再び走り出した。途中、すれ違った舟に乗っていた少年少女が狼を見て悲鳴のような声を上げた。どうやら狼の知り合いらしい。

 狼は聞こえないふりをして、足を緩めず風のような速さで駆け抜ける。それに少しも遅れず、ナイブズもぴたりと並走する。

 30分と経たないうちにネオ・ヴェネツィアへと戻ると、すぐに狼の足が止まり、背に乗るアイを振り返る。

「行き先を聞いているようだな」

「あ、そっか。えっとね……」

 アイはポケットから携帯端末を取り出して地図アプリケーションを開き、ネオ・ヴェネツィアを指定して予め登録されている場所へのナビゲーション機能を起動させる。ノーマンズランドならばロストテクノロジーだと騒がれる代物も、火星では子供も持てる通信端末でしかないようだ。

 便利な地図を持っていながらどうして迷子になっていたのか聞くと、一度曲がる路地を間違えたら、あっという間に自分がどこにいるのか、自分がいる場所が地図上のどこに当たるのか分からなくなってしまったのだという。子供の空間認識能力と構造把握能力は未発達な部分も多い。そういうこともあるのだろう。

 狼はアイの指示――正確にはアイが伝える地図アプリのナビゲート――に従って、正確に道順を辿って行く。程なくして、目的地のホテルに到着した。

「ナイブズさん、今日はありがとうございました」

 狼から降りると、アイはナイブズに対して深々と頭を下げた。ナイブズはいつもと変わらぬ仏頂面で、肯定も否定もしなかった。

「礼なら、こっちの狼に言え」

 ナイブズが言うと、アイはすぐに狼へと歩み寄って体いっぱいに抱きしめた。

「ありがとう、シロちゃん。とっても楽しかったよ!」

 満面の笑みを浮かべているアイの頬を、返事代わりとばかりに狼は尾を振りながら舐めた。

 別れの挨拶を済ませると、一度だけ振り返って手を振って、アイは足早にホテルに入って行った。

 

 

 

 

 アイを見送ると、ナイブズと狼はどちらからともなく歩き出した。やがてネオ・アドリア海を望む場所へと至り、共に暫く佇んだ。

 ナイブズと狼は互いに何も言わず、相手も見ず、海を眺めていた。しかしナイブズは考えていた。この不思議な白い狼は何者なのか、今日出会ったのは単なる偶然だったのだろうかと。

 そのまま時が過ぎ、太陽が水平線に触れた。ナイブズが問いかけようとしたその瞬間、狼は海へと飛び出した。急にどうしたのかと狼の動きを視線で追い、瞠目した。

 狼が着水する直前、水面に大きな蓮の葉が現れたのだ。狼はその上に降りると、すぐに跳躍し、再び蓮の葉が着水の直前に現れる。

 同じことを二度三度と繰り返しながら、狼の姿は次第にネオ・アドリア海の島の中へと消えて行った。

 神秘という言葉が、自然と頭の中に浮かび上がって来た。

 

 

 

 

「お帰りなさい。遅かったね」

「遅かった? 俺が何に遅れた」

 店に戻るや否や、店主はそのように出迎えた。得難い体験を出来たとはいえ、結局彼女を見つけられなかったナイブズは、やや不機嫌に聞き返す。

「君は調度、遠縁の娘さんと入れ違いになってしまった……と言えば、分かるかな?」

 店主からの信じ難い言葉を聞いて、ナイブズは理解に数秒を費やし、理解するや店主を押し出さんばかりの勢いで詰め寄る。

「彼女がここに来ていたのか!?」

「うん。どうやら、彼女がこちら側に来ると同時に道が全て閉じてしまったようでね。境の一部が表に露出するなど、ちょっとした事件になって大変だったよ。天の慈母ともお目通りが叶わず、彼女も非常に残念がっていた」

 あの時、唐突に彼女の気配が消えたのは、表側から裏側へ行き、表と裏とが完全に遮断されていたからだったのか。

 予想はおろか想像さえしていなかった理由に、頭が痛くなる。訳も無く怒りさえ込み上げて来る。だが、今はそんなことはどうでもいい。この程度の激情など瑣末なものと、早々に割り切る。

「彼女は今、何処にいる」

「彼女に会うのなら、後日、街の外がいい」

「街の外?」

 ナイブズが逸る気持ちを抑えきれずに詰問するように問い掛け続けても、店主はいつもと変わらぬ穏やかさで頷き、答えを返す。

「彼女は明日、グランドマザーに会う為に城ヶ崎村へ行く。そこで会うことをお奨めするよ」

 今日、ナイブズに重なり続けた幾つかの不幸。それは、これから始まる出会いへの、些細な代償。ささやかな御膳立てであったことを、ナイブズは明日、知ることになる。



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#13.アイーダ

 ナイブズは目的地へと向かう電車の中、静かに瞑目していた。

 昨日起きたこと、告げられたこと。今朝問い質したことと教えられたこと、そしてこれから会いに行く相手の事について、思案に耽る。

 この星に来て、初めて出会う同胞。どうしてこの星に来たのか、何故あの店と店主を訪ねて来たのか、何という名前なのか、どういう生い立ちなのか。興味は尽きない、訊きたいことはそれこそ無尽蔵に湧き上がって来る。

 逸る心を落ち着けようと、ナイブズは自分一人だけの電車内で、座席に座って腕を組んだまま微動だにしない。体を動かさなければ心が不必要に揺れることも無いというわけではないのだが、そうでもしなければ落ち着けない、居ても立っても居られないのだ。

 彼女の気配は、今はほんの僅かだが感覚できる。店主曰く「自分の入れ知恵の仕業」だということだが、一体彼女に何を教えたというのだろうか。気になるが、感じる気配は微弱ではあるが弱々しいというわけでも無い。今は彼女の身を案じることまではせずともいいだろう。何を教わったのかも、彼女自身に尋ねればいい。

 ナイブズは外の景色に目もくれず、これから会う彼女について考えることに没頭していた。さりとて周囲の変化に気付かないということでもなく、電車が途中の駅で停まり、人が乗り込んで来るのを感じた。

「お隣、よろしいでしょうか」

 電車に乗った男は、そのまま真っ直ぐナイブズの前に来た。車内にはナイブズの他には誰もおらず空席ばかりだというのに、どうして態々ナイブズの隣を選んだのだ。

 答えるより先に、瞼を開けて目前に佇む男を睨むように見る。ノーマンズランドでもアクアでも極めて珍しい和装に身を包んだ青年だ。

 ふと、この青年をどこかで見た覚えがあることに気付いた。

「……花見の時にいたか?」

「はい。まさか、あなたが猫妖精(ケット・シー)慈母(グランドマザー)が招いた賓客とは露知らず、あの折は碌なおもてなしもできず、あまつさえ挨拶まで欠いてしまい、失礼いたしました。伏してお詫び申し上げます」

 言いながら、澱みなく自然な動きで青年はナイブズの前に平伏した。いや、日本の礼儀作法で最大の敬意を表す時や謝罪の際に深い自責の念を表す時に用いられる土下座というものか。

 かつてナイブズの膝下に集い、ナイブズの力に威光を見出し平伏した者達とは、見た目は似ていても感じる印象は全く違う。

「座りたければ座れ」

 男の土下座を見ながら声を掛ける。それに応えて、男は恭しい態度を崩さないまま立ち上がった。

「ありがとうございます。それから、できれば目的地に着くまで話し相手を務めさせて頂けますか? ナイブズさん」

「取り敢えず、不必要に意識した敬語はやめておけ。耳障りだ」

「そうですか? それじゃあ、お言葉に甘えて」

 ナイブズの唐突な指摘にも動じず、男は態度を一変させてそのままナイブズの隣に腰を下ろした。しかし、この方が違和感は無い。この星に来た当初のナイブズと同じか、それ以上に風来坊という言葉が似合うような身形なのだから、この印象も当然だろう。

 それでも完全に砕けた調子ではなく、最低限の礼節は弁えているような態度だった。店主やお節介焼きの猫人形と話す時にも感じたが、この星でナイブズを『賓客』と呼ぶ者が少なからず存在するのは、一体どういうことなのだろうか。

「申し遅れました。俺の名前は天道丈です。目的地に着くまで、宜しくお願いします」

「一応、名乗っておこう。ナイブズだ」

 互いに名乗り合ってからは、丈が話してナイブズが聞くと言う形で時間が過ぎて行った。

 ナイブズが聞き流して思案に没頭しようと思わない程度には、丈の火星全土を巡る旅の話は面白く興味の惹かれるものだった。火星に来たその日から、ネオ・ヴェネツィアから殆ど外に出ていないナイブズにとって、別の街々の生きた情報が得られるのは貴重なことだった。

 丈の話を聞く限り、アクアにはネオ・ヴェネツィアのような場所が多いらしい。何度か仔細を問い質したが、その都度「百聞は一見に如かず」と、自分の目で確かめろと返された。しかし全部がそうだったわけではなく、時にはナイブズが無理矢理割り込んで止めに入るほどあれこれと話すこともあった。

 そうしている内に、目的地の城ヶ崎村駅に着いた。丈によれば、この辺りは地球の日本の伊豆半島という地域の面影がある場所だと言う。

 電車から降りて、ナイブズは懐から切符を取り出す。まるで宝物のように丁寧に、大切に。

 白紙の切符を受け取った車掌は、何も言わずに恭しく一礼をする。

 

――佳い旅を――

 

 声には聞こえない言葉が、会釈と共に直接頭の中に響く。

 この星に来たあの時以来のやり取りを、あの時を再現するかのように執り行う。

 違いがあるとすれば、今回一緒に降りるのが猫ではなく人間だということぐらいだ。

「よいものをお持ちですね」

「弟と同胞から貰った、(はなむけ)だ」

 丈からの賛辞に、一切の迷い無く即答する。

 何も記されていない白紙の切符。ナイブズを未知の星へ、新たな可能性へと導いてくれた、大切な道標。

 ナイブズは返された切符を、再び懐へと仕舞った。

 

 

 

 

「それでは、また」

 電車から降りると丈は短く挨拶をして、返事も待たずにナイブズが目指す方角とは別の方向へと歩いて行った。ただの別れの挨拶ではなく再会を予期したような言葉が少々気にかかったが、すぐに忘れた。

 この先に、彼女がいる。

 周囲の風景に目もくれず、一心に続く道を足早に進む。本当なら最短距離を突き進みたいところだが、なんとかそうしない自制心は残っていた。

 やがて一軒の家が目に映り、そこが目的地だと確信すると、不意に横合いから声を掛けられた。

「あら、お久し振りね。風来坊のナイブズさん」

 何故か、あれほど急いていた足がピタリと止まった。単に聞き覚えのある声だったというだけではなく、声の主自身が持っている不可思議な魅力によるものだろうか。

「天地秋乃か。あの日以来だな」

 ナイブズが生まれて初めて体験した雨の日に出会った老婆の姿が、そこにはあった。晴れた日に傘を差しているが、日傘として使っているのだろう。

 普通ならこんな時に話しかけられても一瞥だけで済ませてしまうだろうに、何故か彼女と話をしようと立ち止まっていた。

「今日は、こんな所へどうしたの?」

「俺にとって、遠縁の娘に当たる少女がこの辺りに来ていると聞いた。それで、様子を見に来た」

 適当にはぐらかすこともできたのに、すらすらと正直に目的を教えてしまう。

 隠す必要の無いことではあるが、明らかにする必要のないことでもある。だのに自然と答えてしまうのは、秋乃の笑顔と声を含めた言葉遣いによるものだろうか。

「それじゃあ、きっとあの子のことね」

 思いもよらぬ言葉に、一瞬、思考が止まる。

 一瞬後、頭脳はフル回転を始めた。

「心当たりがあるのか?」

「ええ。さぁ、立ち話もなんですし、いらっしゃいな」

 逸る気持ちがそのまま出ているナイブズの態度にも、秋乃は柔和で穏やかな態度を崩さず、ゆったりとした所作でナイブズを促した。

 ナイブズは小さく息を吐いて心を落ち着かせ、秋乃と歩調を合わせて足を踏み出した。

 どうやら目的地と定めた一軒家は秋乃の家だったらしく、秋乃が彼女の存在に心当たりがあったのも合点が行った。ということは、彼女が会いに行った“グランドマザー”なる存在は秋乃のことなのだろうか。

 思い返せば、秋乃はあの日にカフェ・フロリアンの店長からも『グランマ』と呼ばれていた。しかし、店主はナイブズが“グランドマザー”に会うことにも大きな意味があると言っていた。あの店主がナイブズと秋乃が既知の間柄であることを知らないとは考えにくく、秋乃と再会したことに彼女と会うこと以上の意味があるとは思えなかった。

 そんなささやかな疑問は、次第に消えて行った。

 秋乃の家の門の前に、1人の少女が立っていた。

 褐色の肌、金色の髪、紺碧の瞳、それらが個々に特徴的で、それでいて一つに調和した顔立ちも目を引く。しかし、重要なのは顔貌や身形ではなく、その存在。

 この気配を、同胞の存在を、間違えるはずがない。

 少女の姿を認めるや、先を歩いていた秋乃を追い抜かし、少女の前に立つ。

「君は……」

 声を掛けようとして、それ以上声が出なかった。

 頭に、胸に、心に、言葉では表し切れない無数の感情が湧き出て来て、何と言ったらいいのか分からず、何も言えずに立ち尽くしてしまう。

 この状態を感無量と表すのだとは、この時のナイブズには思い至らなかった。

「あなたは、ミリオンズ・ナイブズ? どうして、こんな所に……」

 ナイブズが言葉を発するよりも速く、少女が口を開いた。ナイブズが名を知らぬ少女が、ナイブズの名を知っていることは驚くに値しない。ナイブズは過去に、それだけのことをしでかしたのだ。

 少女に名を呼ばれて、ナイブズの心は水を打ったように静まり返り、口は伝えるべき言葉を紡ぎ出す。

「君に会いに来た。君は、どうやら俺のことを知っているようだな」

「ええ。名前だけでなく、あなたが遠い砂の星でしたことも」

「……そうか」

 警戒心も露わに告げられて、ナイブズは寂しげに、小さな声で頷いた。

 この時のナイブズは、彼を知る人間の殆ど全員が驚くほどに感情を露わにしていた。

 誰も自分を知らないまっさらな場所で初めて出会った、自分の過去を知る存在。しかも、ナイブズにとっては何よりも大切な同胞だ。

 そんな相手だからこそ、ナイブズは自分の感情を声に、顔に、態度に、素直に表していた。

「あなたは、どうして私に会いに来たんですか?」

 警戒心を隠さぬ少女からの問いに、ナイブズはすぐに答えられなかった。

 同胞の少女の存在を知って、居ても立ってもいられなくなって、街中を探し回り、今こうして会いに来た。それだけのことだ、それだけのことだったはずなのだ。

 しかし、答えられない。それは違うと、ナイブズ自身の無意識が囁いた。ただの衝動じゃない、この衝動には明白な理由や意味があるのだと。

 ナイブズが、彼女に、今目の前にいる少女に、どうしても会いたかった理由。

「それは……」

 自分自身の心を整理し、確かめながら、少しずつ口を動かす。

「ナイブズさん、アイーダちゃん、スイカが切れたわよ。お茶もあるわ」

 すると、少女の後ろから秋乃の声が聞こえて、思わずそちらに視線を向ける。

 言葉の内容ではなく、たったの一言、ナイブズの他に呼ばれた1つの名前に反応したのだ。が、傍から見ると、スイカとお茶に敏感に反応した食いしん坊のように見えなくも無かった。実際少女にそう思われてしまったのだが、ナイブズには知る由も無い。

 ナイブズが少女と会話している間に秋乃は家の中に入っており、縁側から声を掛けていた。盆の上には、見たことも無い赤い果肉の大きな果実が切り分けられて2切れ乗っている。

「あっ、ナイブズさん。こんにちはー」

「ホントだ。どうしてグランマの家にナイブズさんまで?」

「でっかい偶然です」

 その後ろから、ぞろぞろと見知った顔が現れる。灯里、藍華、アリスの3人組だ。

 秋乃が当然のこととしてグランマと呼ばれていることを確認しながら、ナイブズは藍華からの問いに答える。

「秋乃とは以前、会った縁がある」

「アキノ?」

 ナイブズの返事を聞いて、灯里が妙な所で首を傾げた。少女に会いに来たことも続けて告げようとして、ナイブズは口を閉じた。

 まさか自分が記憶違いをしていたのかと考えると、その思考が纏まるよりも速く藍華からのツッコミが飛んで来た。

「グランマのお名前よ! あんた、ほんとに何も知らないのねー……」

「灯里先輩。会社の創業者であり大先輩でもある人の名前を知らないのは、流石にマズイと思いますよ」

 藍華だけでなく、アリスも呆れ顔で灯里の無知を追及する。さりげなく少女の隣に立ち、その顔を横目に覗くと、少女も驚きに目を瞠っていた。

 薄々感じていたが、どうやら秋乃はナイブズが思っている以上の有名人だったようだ。少なくとも、水先案内業の人間ならば知っていて当然というレベルの。

「そ、そうかな? じゃあ、今ちゃんと覚えないとっ。グランマ、お名前を教えて下さいっ!」

 素直に自分の非を認めて、灯里は即座に秋乃に頭を下げて頼み込んだ。その様子が可笑しかったのか、ナイブズ以外のこの場にいる全員がそれぞれに笑みを浮かべた。

 秋乃はお盆を置くと、ナイブズと少女を手招きする。折角だから一緒に、ということだろう。少女が歩き出したのを見計らって、ナイブズも歩調を合わせて秋乃の下へと向かう。

 2人が来たのを見て、秋乃は紙と鉛筆を取り出して自分の名前を記した。

「私の名前は、天地秋乃。漢字で書くと、こうなるわね」

 ナイブズも字で見るのは初めてとなる“あめつちあきの”という名前を再確認する。

「ほへー」

「天地と書いて“あめつち”ですか。珍しい苗字ですね」

「とても素敵なお名前です」

 灯里と藍華とアリスは三者三様の反応を見せる。少女は何も言わず、神妙な顔で字を見詰めて何度か頷いている。どうも、ナイブズの存在が忘れ去られているようだ。

 すると、アリスの言葉を聞いて、秋乃はにっこりと笑った。今まで見せた中で最も柔和で、嬉しそうな笑顔だった。

「ありがとう。グランマと呼ばれるようになってから、名前で呼ばれることも殆ど無くなってしまって。みんなに愛称で呼ばれるのもいいけど、やっぱり名前で呼ばれるのは嬉しいわ」

 あまりにも嬉しそうに言うものだから、言葉の内容にあるような悲壮感とかは全く感じられない。恐らく本人も、グランマと呼ばれる事自体に不満は無いのだろう。

「正直、私は畏れ多すぎて名前でお呼びするのが憚れると申しますか……」

「名前があるなら、名前で呼ぶべきだろう」

 謙遜したような藍華の言葉を、最後まで終わるのを待たずにナイブズが否定した。

 人間が当たり前のように持っている名前が、通常、プラントには無い。

 プラントは深層意識で思考を共有しているゲシュタルト生命のような性質があり、プラント間に於いて自他の区別というものは必要がない以前に存在しない。よって、固有の名称という概念はプラント内では生まれえず、精々人間が管理する為に付与する管理番号があるぐらいだ。

 例外として固有の名前と自我を持つプラントも存在しているが、敢えて例には挙げまい。

 自分は名前を持って名前で呼ばれているのに、同胞達は名前を持たずに番号や記号で呼ばれている。ある時にそんな場面に直面したナイブズの胸中には、筆舌に尽くせぬような不快感を覚えた。

 その時以来、ナイブズは名前というものは単なる区別の為の記号以上の価値があるものだと考えていた。

 そうでなければ、名前を得た時のあの男の喜びようにも説明がつかない。

「それでは、これから改めてよろしくお願いします、秋乃さん」

「こちらこそ、よろしくね。灯里ちゃん」

 ナイブズの言葉を切っ掛けにしてか、灯里が朗らかに挨拶しながら秋乃の名を呼び、名を呼ばれた秋乃は嬉しそうに頷いて灯里の名を呼び返した。

 それから、縁側に座るように促されて、ナイブズは少女と一緒にスイカというものを生まれて初めて食べた。かなり水分の多い果物だがそれでいて水っぽくも薄味でも無く、独特の甘みがある珍味だった。

 

 

 

 

 昼食を終えて一服してから、灯里達はネオ・ヴェネツィアへの帰り仕度を整えた。

 どうやら予定よりも遅い帰りであるらしく、晃からの叱責を想像して藍華の表情はやや硬い。一方、灯里は秋乃と楽しげに別れの挨拶を交わし、アリスはまた会うことを約束して、とても満足げだった。

 3人を見送ると、秋乃はナイブズと少女を手招きして、再び家へと迎え入れた。

 今度は居間で茶を飲み、誰が何を言うでもなく、静かに時が過ぎて行く。

 小一時間ほど経った頃に、秋乃が少女に話し掛けた。

「アイーダちゃんも、そろそろ行く?」

「はい。秋乃さん、本当にありがとうございました」

「いいのよ。私も、灯里ちゃんも、藍華ちゃんも、アリスちゃんも、楽しかったから」

 少女は恭しく頭を下げて礼を述べ、秋乃は嫌味の無い笑みでにこやかに受け取った。

 話を聞くに、少女はこれから出かけるらしい。自分も付いて行ってよいものかと考えた所へ、少女が声を掛けて来た。

「ナイブズさんも、一緒に来ますか?」

「それはいいわ。あの人も、きっと喜んでくれるわ」

「あの人?」

 少女からの誘いに応じるよりも先に、秋乃が気になることを言った。

 どうやら秋乃は少女の行く先――これから会いに行く相手のことを知っているようだ。それはいい、なんらおかしなことは無い。引っ掛かったのは、ナイブズが会いに行けばその相手が喜ぶということを、秋乃が半ば確信している様子なことだ。

 少女も秋乃の言を否定せず、静かに首肯した。

火星(アクア)の……そして、私たちにとってのお婆様(グランドマザー)です」

火星(アクア)と、俺たちにとっての、グランドマザー……?」

 鸚鵡のように、少女が口にしたのと殆ど同じ言葉を繰り返す。少女の言葉の意味するところが、まったく理解できなかった。

 関係無いとは分かっていながらも、灯里達にグランマ――つまりグランドマザーと呼ばれていた秋乃を、つい見遣る。すると、秋乃は微笑みながら静かに口を動かした。

「私は、水先案内人(ウンディーネ)のみんなにとってのグランマ。あの人は、火星(アクア)に住むみんなにとってのグランマなの」

 秋乃から改めて告げられたグランドマザーの意味を、よく考える。

 火星にとってのグランドマザーであり、ナイブズ達にとってのグランドマザーでもある。

 

火星の慈母(グランドマザー)と会うことは、君にとっても、とても大きな意味がある」

 

 店主の言葉が、不意に脳裏をよぎる。

 瞬間、ナイブズの脳裏に火星開拓史という単語が閃き、一つの驚くべき仮説が導き出された。

 あまりにも荒唐無稽な、しかしそれ以外には考えられない。

「まさか、君が会いに来たグランドマザーというのは――」

 ナイブズが最後まで言い切る前に、少女が立ち上がった。

「行きましょう。行けば分かります。あなたとも、お婆様と一緒にお話したいんです。そうでなければ……上手く、話せないと思いますから」

 まじまじと、少女の顔を見上げる。今まで気付かなかったが、不安と混乱がありありと浮かんでいた。それだけ、少女にとってナイブズは心の平穏を掻き乱す存在なのだろう。

 さもありなんと、自らの過去を顧みて少女の心を慮って受け止める。

 平和に生きようとする者達にとって、ナイブズは存在そのものが脅威に見えるだろうし、恐怖を感じるのもごく当然だ。

 けど、それでも。今は、歩み寄ることをやめたくない。

「分かった。……その前に、君の名前を教えてくれるか?」

 立つよりも座っている方が互いの目線が近いこともあり、ナイブズは座ったまま少女にそのようにお願いをした。それを聞いた少女は、怪訝というよりも、不思議そうな顔して聞き返した。

「秋乃さんが呼んだのを、聞いていましたよね?」

「君から教えてもらいたい」

 即答。

 ただの我が儘であることを自覚しているからこそ、強引なぐらい力強く求める。

 少女は不思議そうな顔をしたまま、ナイブズの願いに応えた。

「私の名前は、アイーダです」

「俺も改めて名乗ろう。俺は、ミリオンズ・ナイブズだ」



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#14.グランドマザー

 グランドマザーへ会う為の道程を秋乃から教えられ、ナイブズはアイーダに誘われるまま出発した。

 目的地は城ヶ崎村駅から2つ先、みかんの丘駅。そこから歩いて真っ直ぐ進むとすぐに海岸線に出る。そこから左手に歩いて行くと漁港があり、そこを超えて更に進むと浜辺の岩場に海の家という建物が見えて来る。

 浜辺に建っている建物はそれだけだからすぐに見つかるだろう、と秋乃は簡単な説明で済ませていた。具体的に示された目印は漁港だけだったが、確かにそれで十分だと現地に立って納得する。

 城ヶ崎村同様、この一帯も日本の古き良き時代とやらを再現しているらしく、家屋は疎らで、海岸線沿いには田畑さえもなく砂浜が数kmにも渡って広がっている。その東端にあるのが漁港だが、そこに至るまで目立つ物が他に何も無いのだ。

 だからと言って、興味を惹かれる物が無いわけではない。

「わぁ……」

 砂浜を見て、アイーダは感嘆の声を漏らした。ナイブズも声に出さなくとも、同じように心を揺さぶられていた。

 砂など飽きるほど見ていたはずだが、海辺にあるだけでこうも違うものなのか。

「行ってみるか?」

「はいっ」

 目的があってここまで来たが、急を要するわけでも時間に追われているわけでもない。目を輝かせているアイーダを誘い、砂浜へと降りる。

 足を踏み出してすぐ、砂漠の砂とは感触がまるで違うことに気付いた。まず間違い無く、水分を多く含んでいるためだろう。

 初めての砂浜の感触を靴を挟んで感じながら、アイーダと共に歩く。アイーダなどはくっきりと足跡が残ることもよほど珍しいらしく、先客や自分達の足跡をしげしげと眺めている。

「地球では、砂地は無いのか?」

「人間の生活環境にはまずありません。全て整備されていますから」

 精々が公園の地面ぐらいのもの、ということだった。地面さえも珍しいとなると、地球の地表は今、ナイブズが生まれた移民船のようになっているのかもしれない。

 地表の殆どが機械化された星の姿を想像して、あまり実感が湧かず、現実味というものが無いように思えた。150年以上、剥き出しの荒野で生き続けて来たからだろうか。

 無邪気に砂浜を歩くアイーダの後ろを黙って歩き続けていると、不意にアイーダの足が止まり、浅瀬の方へと視線を向けていた。

「どうした?」

「海の中の砂に、模様があるんです」

 返事をしつつも、アイーダの視線は海へと向けられたまま。その先をナイブズも見ると、確かに、海の中の砂には独特の模様があった。露出している砂浜部分にはそれらしいものは一切無いのに、どうしてだろうか。

 ナイブズも素朴な疑問を抱き、海の中を注視する。

 あの形はどこかで見たことがあるような気もするが、海の中の砂を見ることなど初めてのこと。既視感の正体が掴めない以前に、勘違いではないかと勘繰ってしまう。

「それは、謂わば波の模様です」

 不意に、後ろから声が掛けられた。しっかりとした口調だが、声色はまだ幼い。

 振り返ると、紅白の和装に身を包んだ少女が立っていた。その傍らには、先日の白い狼の姿もあった。

「波の?」

「はい。寄せては引き、引いては寄せる、波の動きが織りなす形です。ほら、波形や波線の形にそっくりでしょう?」

「本当だ」

 少女はアイーダの問いにすらすらと答え、隣に並んでにこやかに解説する。同様に、ナイブズの隣にも狼が歩み寄る。

 今日のこの遭遇は、決して偶然などではあるまい。

「お前は何者だ?」

 狼と少女、双方に問い掛ける。狼はとぼけた顔でそっぽを向いたが、少女は姿勢を正して恭しく礼を取った。

「天道紅祢(あかね)と申します。こちらの白縫糸(しらぬい)様と共に、貴方がたを火星の慈母の御許へと案内する為に参上しました」

 少女――紅祢は名乗ると同時に狼の名を告げた。

 火星の慈母とはグランドマザーと同義であろう。そうでなければ、あの時とこの時に、シラヌイがナイブズの前に現れる理由が無い。

「シラヌイ……? この狼が?」

「詳しい事情は、また後ほど。さぁ、ゆるりと参りましょう」

 アイーダはシラヌイの名を聞いて半信半疑という様子だが、紅祢は敢えて答えようとはせず、少女らしからぬ厳かな口調でナイブズとアイーダを目的地へと促した。

 

 

 

 

 砂浜の東端を抜けて、そのまま漁港を通り過ぎた。それだけで海岸線から砂浜が忽然と消え、大小無数の岩が転がる岩場へと変貌していた。

 最初の目的地である海の家“海女人屋”は、その岩場の中にあった。秋乃によれば、これで“あまんちゅや”と読むらしい。岩場の中に人が通り易いように整備された道があり、それに沿って歩けば入口まで辿り着けるようになっていた。

 屋号を名乗っているが凡そ店らしからぬ簡素な造りで、小屋と表現した方が正確だ。隙間だらけどころか前後が完全に開いているのだから、空調設備さえあるまい。

 そういえば、目的地は何かの店なのかと問うたナイブズに、秋乃は「お店じゃなくて、海の家よ」と返していた。その時は意味がまったく分からなかったが、今なら半分程度は理解できる。

 海の家の前には、のんびりとした様子で煙草を咥えた1人の老婆が立っていた。

「おや、アマ公じゃないか。久し振りだね」

 老婆はシラヌイを見ると親しげに呼び掛け、煙草を携帯灰皿に捨てる。

 アマ公と呼ばれたシラヌイは一声鳴くと老婆に駆け寄り、彼女の前でちょこんと座った。

 何故シラヌイという名前でアマ公と呼ばれるのか気になったが、敢えて追及せずナイブズ達もシラヌイに続く形で老婆に歩み寄った。

 老婆はシラヌイの頭を撫で、何かを懐かしむような笑みを浮かべた。紅祢は老婆に頭を下げて挨拶し、1人で店の奥へと入って行った。

「あんたたちが、秋乃が言ってたグランマに会いたいっていう2人連れかい?」

 シラヌイの頭から手を放して、老婆はナイブズとアイーダに話し掛けて来た。

 行く先々で自分のことを待ち受けている人間に次々会うというのは、不思議な気分だ。

「はい。天地秋乃さんからの御紹介で、こちらに伺いました。私はアイーダです」

「ナイブズだ」

 アイーダとナイブズがそれぞれ自己紹介すると、老婆が返事をするより先に、店の奥から黄緑色の髪の少女が現れた。

「ばーちゃん、お客様?」

「客は客でも、店の客じゃないよ。あんたは天道さんとこの兄妹の相手をしといてくれ」

「は~い」

 老婆と少女の慣れ親しんだやり取りを見るに、祖母と孫の関係らしい。

 少女はアイーダと目を合わせると、にかっと笑ってお辞儀して、ばたばたと奥へと戻って行った。

 天道の兄妹というのは、恐らく丈と紅祢のことだろう。まさか、同じ姓で同じ系統の衣服を着て似通った顔貌をして、赤の他人ということはあるまい。

 ナイブズとアイーダも老婆に促されて海女人屋の中に入り、畳の敷かれた簡素な床に座る。

 開口一番、率直に問い質す。

「お前は何を知っている?」

「そうだねぇ。それじゃあ、ちょっと昔話でもしようか」

 その昔話の中に答えがある、ということだろう。店主のお陰で、遠回しな言い方や答え方をされるのには慣れたものだ。

 頓珍漢な返事にアイーダは目を瞬かせたが、ナイブズは問題無いと小さく言って、老婆の昔話に耳を傾けた。

 その内容は、凡そ信じ難いものだった。

 

 老婆が若かりし日に体験した、とても不思議な出来事。

 いつものように海に潜っていたある日、海の中で出会った龍神。

 龍神から友情の証として受け取った、龍神の鱗のホイッスル。

 後日、幼馴染と共に招かれた龍神の國。

 そして、龍神の國の民達の聖域に祀られているもの。

 

 あまりにも話の内容が突飛で、話の大筋と要点しか把握できない。細かい部分がどうだったか、思い出す余裕もない。

 いきなり大前提が『神の実在』などという悪い冗談としか思えないものでは、信じる信じない以前の問題なのだ。しかし、共にその昔話へ真摯に耳を傾けていたアイーダやシラヌイの姿が、老婆の話を妄言として斬って捨てることを躊躇わせた。

「けど、今はもう、そこへ行く道が閉じちまってねぇ。私が生きてる内には、もう開かないと思ってたが……」

 途中で言葉を切り、老婆はシラヌイを見詰め、続けてアイーダ、ナイブズの順で視線を移す。

 値踏みするようなものではなく、羨んでいるような、喜んでいるような、様々な感情がないまぜになった視線と微笑みだった。

「あの、貴女はグランマ……あっ、秋乃さんではなく、私達がこれから会いに行くグランマとは、どういう関係なんですか?」

 すると、アイーダは老婆にそんなことを訊ねた。言われてみれば、龍神だけでなくグランドマザーに対しても、老婆は特別な感情を込めて語っていた。

 老婆はすぐには答えず、視線を海の家のすぐ前の海へ向け、遠く深い場所を見つめた。

「話し友達かねぇ。あの人、世間話とかそういう他愛無い話が好きでね。秋乃と一緒に、何度も会いに行ったもんさ」

 その返事は、ナイブズにとって全く予期していないものだった。

 

 

 

 

 目的地に行く為には夜まで待たなければならないらしく、海女人屋で日が暮れるまで時間を潰すことになった。

 アイーダは紅祢やぴかりと自称する老婆の孫娘と過ごし、ナイブズはシラヌイと共に海を眺め、波の音に耳を済ませて時が過ぎるのを待った。恐らくシラヌイの方は、単なる日向ぼっこなのだろうが。

 店の奥にいた丈はナイブズに挨拶をしてから老婆となにやら話し合っているが、敢えて聞き流した。

 暫くして、海の中から人間達がぞろぞろと上がって来て、そのまま海の家へと向かった。海水浴ではなく、装備と海の中から出て来たのを見る限りダイビングというものの帰りだろう。

 ふと、最後尾の少女と目が合った。少女は蛇に睨まれた蛙、という諺を体現するように固まってしまった。

 威圧や威嚇をしているつもりは無いのだが、それでもナイブズの存在は弱者からは恐るべきものとして映るのだろう。

 すると、寝ていたシラヌイがあくびを一つして起き上がり、固まっている少女を見て静かに歩み寄り、手を舐めた。少女はそれで我に返り、ナイブズにごめんなさいと必要も脈絡も無い謝罪の言葉を述べて、狼に見送られて足早に海の家へと向かって行った。途中、足を縺れさせて転んだが、すぐにぴかりという少女が助け起こした。

 その後は豚汁というものを食べた以外には特に何事も無く、日が沈み、夜空に星が瞬いた。

 街灯も疎らで月も見えないが、星明かりだけでも十分に周囲を見渡せる。他に光源が殆ど無いことを差し引いても、今夜は一際星の輝きが強いように感ぜられる。

 時が満ちたことを丈と紅祢に告げられ、老婆に見送られてナイブズはアイーダやシラヌイと共にグランドマザーのいる場所へ向かう為の中継点へと向かった。しかし、老婆の昔話によれば海の國への道は途絶えてしまい、地上と断絶されて久しいということではなかったか。

 あの昔話が全て事実であるということが大前提として成り立っているのなら、どうやって道の途絶えた場所へ向かうのだろう。

 そんな疑念を抱きながら歩き続け、古びた鳥居をくぐって辿り着いたのは海辺ではなく、海と星空を望む小高い岬だった。

「こんな所に来て、一体何をする気ですか?」

 不安になったのか、アイーダが怪訝な表情で丈と紅祢を問い質す。

 確かに、海が目の前ではあるが、とても海底へ行く順路とは思えない。そもそも、本当に海底に国があるのかも疑わしいのだ。

「今から、夜空に星を描いて、神風で廻します」

「……え?」

「……なんだと?」

 唐突な、あまりにも突拍子の無い言葉に、アイーダ共々碌に思考も回さずにただ聞き返してしまう。しかし丈は答えようとせず、紅祢の前に跪いて優しく頭を撫でる。

「紅祢、お前なら必ずできる。大神様と共に御役目を果たしなさい」

「はい、兄様」

 オオカミ様と呼ばれたシラヌイも一声吠えて応えると、岬の先に立つ。丈から一枚の紙と筆を受け取って紅祢も隣に並び、共に夜空を見上げる。

 これから何が起こるのか、何をしようとしているのか、そもそも海の底の國に行くという話はどうなっているのか。

 さしものナイブズも状況が全く呑み込めず、アイーダと共に立ち尽くすばかりだった。

「天なる慈母よ、海なる慈母よ。今こそ天道の筆業、奏上つかまつります」

 何らかの口上を述べて、紅祢は大きな紙を地面に置いて筆を構え、シラヌイは尾を天へと立てて、その先で描いた。紙に、宙に。

「天に煌めけ天鳴門、海に逆巻け海鳴門」

 丈が呪文を唱えるように、祈りの言葉を何ものかに捧げる。

 暫くして、僅かに周囲が明るくなり始めた。しかし近辺に街灯等の照明の類は無く、光源は天から降り注いでいる星明かりだけだ。

 夜空を見上げると、星が瞬いていた。気のせいか、ネオ・ヴェネツィアで見た時よりも星の絶対数が増えているような気がする。

 ……いや、気のせいなどではない。

 今も実際に、ナイブズの目の前で星の輝きが増えている。まるで、誰かが夜空に絵筆の先をつけるように。

 星の数が増えなくなると、次第に描かれた星々の輝きが増し、夜空に昨日までは無かった巨大な銀河が現れた。

 それを見たシラヌイは大きな遠吠えを上げて、尾の先で輪を描くように翻した。それに倣うように、紅祢も筆を大きな紙の上に走らす。

 すると、どうしたことだろうか、それに呼応するように突風が吹き始めた。咄嗟にアイーダを庇い、直接風を受けないようにする。

 再びシラヌイの尾と紅祢の筆が翻ると、再び突風が吹く。シラヌイと紅祢の動きと突風との因果関係を疑ったが、そんな些細なものはすぐに思考の片隅からも吹き飛ばされた。

 空に煌く星々が、ごうごうと唸るように回っている。

 まるで風を受けた風車のように、星々が、銀河が回っているのだ。

「どういう……ことだ……!?」

 驚愕のあまり、声が自然と漏れ出る。しかし、これだけでは終わらなかった。

 星を映す海面にも、俄かに波が立ち始めた。それは浜辺に打ち寄せる波ではなく、逆巻く流れ。海面に映された星の風車の回転が、そのまま海にまで反映されたかのようだ。

 星の風車が生み出した海の逆巻く流れは、遂には大渦となって海に大穴を開けた。

 驚こうにも、言葉が見つからない。驚きのあまり声すら失ってしまったような気分だ。

「やった……やったぞ、紅祢! ああ、やっぱりだ。お前だ! お前こそが、浮世に遍く神様への感謝を伝える、お天道様の使者だ!」

「に、兄様!? 落ち着いて下さい! 龍神様へ、御挨拶へ向かわなくては……」

 丈は感極まって紅祢に駆け寄るや高々と持ち上げて、そのまま一人で胴上げまで始めた。その様を、ナイブズは瞠目しながらも見つめていた。

 こいつらは、こんなことをやろうとしてやったというのか? プラントでさえできないようなことを、ただの人間が?

 プラントとは人間を超越した力の持ち主であると、当然の常識としてナイブズは考えていた。

 その常識が、渦の中に呑まれて消えた。

「いまのは……いったい……?」

「詳しくは後日、是非とも天道神社へ。じゃあ、アイーダちゃんは紅祢と一緒に白縫糸(しらぬい)様の背へ。ナイブズさんは、白縫糸様と互角以上の速さだそうで」

「そうだが、今はそれよりも説明をしろ」

「火星の慈母の御許への道は開かれました。すぐに閉じてしまうことは無いでしょうが、善は急げです」

 アイーダからの問い掛けもナイブズからの詰問も聞き流して、丈は居ても立っても居られない様子で急き立てた。

 それに応えるようにシラヌイは紅祢を背に乗せると、すぐさまアイーダの襟首を咥えて放り投げて自分の背に乗せた。

「ひゃあ!?」

 アイーダが小さく悲鳴を上げたが、意にも介さず、シラヌイは丈を伴って岬から海へと飛び降りた。慌てて岬の突端から身を乗り出して、下を窺う。

 静まり返った海面の上に揺らめく巨大な蓮の葉の上に、シラヌイと丈が立っていた。

 あの日の別れ際の光景が夢や幻の類ではなかったのだと思い知らされると同時に、神秘という言葉が否応も無く湧き上がって来る。

 舌打ちをして、ナイブズも飛び降りる。やはり、シラヌイはナイブズが来るのを待っていたらしく、ナイブズが海面に近付くと蓮の葉が現れ、その上に降り立つ。

 海面に揺らめいているとは思えないほど、蓮の葉にはしっかりとした踏み応えがある。蓮の葉には人一人が乗れる種類もあると、幼い日にレムから聞かされた覚えがある。しかし、これはそういったものとは違うと、漠然とした確信があった。

 顔を上げ、シラヌイと視線が交錯するが、それも一瞬。

 シラヌイはすぐにナイブズに背を向け、沖に現れた大渦を目指して跳んで行った。一跳びでは到底届かない距離だが、降着の度に蓮の葉を作り出し、先へと向かっている。丈は少しずつ遅れながらも、その背を追っている。

 問い質すことは適わず。ならば、彼らの行く先に辿り着き、確かめるしかない。

 意を決して、蓮の葉を蹴って跳ぶ。シラヌイとの距離は開いていたが、3度跳んで追い付いた。恐らく、シラヌイもナイブズが追い付くのを待っていたのだ。

 大渦が目の前という所まで来ると、大渦の中から何かが飛び出して来た。

 巨大な魚、ではない。水棲哺乳類のクジラだ。

 クジラは海面を跳ねることがあると聞いたことがあるが、その巨躯を一目で見渡せるほどに跳ぶものなのだろうか。10mを超える大きさの生物なら見慣れていたが、水棲生物に特有の流線形の体は新鮮で、暫し目を奪われた。

 クジラはシラヌイの目の前に着水し、派手に水飛沫が飛び海面も衝撃で激しく波打つ。それでもこゆるぎもしないこの蓮の葉は、やはり普通ではない。そして、このクジラも。

『おお……天照らしみそなわす我らが慈母よ、お待ち申しておりました。幾星霜振りかに天鳴門が廻り海鳴門が開く目出度き日に、御許を迎えられることは至上の栄誉で御座います』

 シラヌイの前にまるで跪くようにかしずき、クジラは人の言葉と異なる言語を紡ぐ。しかしその未知の言語は、頭の中で自然と翻訳され意味を理解出来た。あの車掌と似たような現象だ。

 クジラはシラヌイへの挨拶を終えると、視線をナイブズとアイーダへと向けた。

『さぁ、客人達よ、我が背に乗られよ。龍王様の待つ、そして海の慈母を祀る我らが國へとご案内します』

 言われてクジラの背の上を見てみれば、座席――と言うよりも輿のような物――が据え付けられていた。あそこに乗れ、ということだろう。

 ふと、この状況を当然のように受け入れて、今にもクジラの背に飛び移ろうとしていた自分に気が付く。

 こんな御伽噺のような状況を怪訝にも思わず疑問にも思わない自分自身が、なんだか滑稽なように思える。しかし思い返してみれば、この星に来たその日からそうだった。

 気付かぬ内に白紙の切符を持って銀河鉄道に乗り、猫達に迎えられて不死身の精霊カサノヴァと共にカーニバルを練り歩いた。

 あの星を離れて、この星に来てからずっと、夢と現の狭間を彷徨っていたようなものだ。

 そして、今も。

 

 

 

 

 クジラの背に乗って大渦に飛び込み、心の準備をする間もなくナイブズたちは海の底の國にやって来た。こうして今、実際に海の底の宮殿――龍宮城の中にいても、その事実が信じられない。

 不可思議な事象にはネオ・ヴェネツィアで慣れたつもりだったが、そんなことはなかった。ここまで理解が追いつかない事態に直面するとは、思ってもみなかった。

 そんな混乱が波打ち渦を巻くナイブズの内心など露知らず、出迎えに現れた海の國の住人達は口々に祝福の言葉を紡ぎ、シラヌイを“天の慈母”と呼び称して畏れ敬った。ナイブズとアイーダも、当然のことのように“海の慈母”の賓客として最上級の礼を以って迎えられた。

 かつてない状況での歓待を半ば呆然としたまま受け入れ続け、今は案内役に導かれてアイーダと共に龍宮城の中を歩いている。

 歩きながら、少しずつ状況を把握し、理解が及ばないものはそういうものとして受け入れて頭の中を整理し、頭の中の混乱を収め落ち着けることに努める。

 やがて“火星の慈母”と“海の慈母”と“グランドマザー”がイコールであることを理解し、周囲を観察して思考する余裕が出来ると、ナイブズはまず案内役の姿を改めて見た。

 海の國の住民たちは、確かに人間とは異なる存在だと気配からも分かる。だが、外見は人間とあまり変わらず、体の一部に他の海の生物の特徴――魚の鰭や、蟹や海老の甲殻など――が見られる程度だ。

 何故彼らも、人ではないのに人と近しい姿をしているのだろうか。元々は、或いは真の姿はそうではないと、アイーダとの会話でさらりと告げているというのに。

 そんなことを考えながら歩いている内に、気付けばもう目的地の目の前まで来ていた。

 見るからに他とは違う造りの扉。その向こうにあるものへの畏敬や感謝の念を形にしたかのような、厳かで落ち着いた装飾が為されている。

 門衛がなにやらアイーダと話しているが、殆ど頭に入らない。

 この扉の向こうに、グランドマザーがいる。そして、ナイブズの予想が正しければ、グランドマザーとは――

「この先に、お婆様(グランドマザー)がいるんですね」

 アイーダは緊張した面持ちで扉の前へと進んだ。ナイブズは止めていた足を進めてアイーダを追い越し、自らの手で扉を開けた。

 

 

 

 

 龍宮城の中心部をくりぬいたように、それは鎮座していた。

 いや、きっとそれを取り囲むように、龍宮城は建てられたのだろう。

 ナイブズには見慣れた、それでももう懐かしいとさえ思える“それ”――いや、“彼女”は、ナイブズが予期していた通りの存在。

 グランドマザーと呼ばれる彼女は、紛れも無いナイブズの同胞。

「超巨大プラント……それも、最初期型の」

 ゆうに100mを超える、見上げるばかりに巨大な彼女の姿を見詰めながら、言葉が口を衝いて出る。

 電球を思わせる形状の機器。透明な特殊素材のケースの内側には、電球ではフィラメントに当たる部分に球状の物体が、待機状態の彼女がいる。

 ノーマンズランドでは町ならばどこでも見かけた、火星ではどこにも見掛けなかった。

 少し前まではどこかにいるのが当然だった、最近ではどこにもいないのが自然だった。

 そういえば、プラントの姿とはこうだった。確かに、この姿はプラントだ。

 取り留めも無い思考が、同胞との出会いによって湧き上がって来る。

 ふと傍らのアイーダを見ると、昂揚と緊張が綯い交ぜになったような表情で、頬を紅潮させて嬉しげに笑みを浮かべている。

「すごい……! 本当にいたんだ!」

 火星では既に忘れられた昔話や物語の存在。それが地球のプラント達の間では、細々と語り継がれていたのだろう。

 その意気に中てられたのか、それともずっと前から目覚めていたのか。

 待機状態からゆっくりと羽根を広げ、翼を広げ、球の内側から人間の女性によく似たプラントの本体が現れた。

 すると、彼女の――プラントの口がゆっくりと動いた。

「いらっしゃい。待っていたわ、アイーダ、ナイブズ」

 肉声と精神感応が混じった独特の声で名を呼ばれ、アイーダが緊張し体を強張らせるのとは対照的に、ナイブズはむしろ今までになくリラックスして、それに応えた。

「……本当に、喋れるのか」

「あら、自律種(インディペンデンツ)以外のプラントが話してはいけない?」

「いや、そんなことはない。少し、驚いただけだ」

 ナイブズがしみじみと言うと、彼女は――グランドマザーはからかうような調子で答えた。

 海女人屋の老婆が話好きだと言っていたから予想はしていたが、実際に対面して驚いた。しかし同時にそれは、ナイブズにとって喜ばしいことでもあった。

「考えてみれば、当然のことだったな。俺たち自律種(インディペンデンツ)の一つ前の段階で、君のような『自我を確立したプラント』が誕生していたことは」

 人間と同じ姿をして似通った自我を持つ自律種の前に、プラントの姿のまま人間と似通った思考と自我を持つプラントが誕生していたのではないか。

 これは以前からナイブズが考えていた仮説だったが、ノーマンズランドではついに確認できなかった。それを、同胞の種としての新たなる可能性を、遠く離れたアクアで見ることが叶うとは、なんという僥倖か。

 だが今は、新たなる同胞との出会いの喜びのすぐあとに、黒々とした疑問が吹き出て来る。

 また『人間と同じ』だ。

 何故『人間と同じ』なのだ。

 どうして、人間ではないものから『人間と同じもの』を持ったものが生まれるのだ?

 どうして、俺たちプラントは……。

「随分難しいことを言うのね。学者さん?」

「いいや。今の俺は、ただの風来坊だ」

 グランドマザーからの茶化すような言葉に、疑問をすぐさま脇に追いやり反射的に答える。

 そういえば、何時か何処かで似たようなやり取りをしたような気がするが、今はそんなことはどうでもいい。

 ナイブズが口を開こうとして、アイーダがグランドマザーの下へと駆け寄った。

「お婆様。私、あなたに聞いてほしいこと、聞きたいこと、たくさんあるんです! けど、今日はその前に……」

 走りながらグランドマザーへと話し掛けて、途中で言葉を切ると同時に、アイーダは息を切らせながらナイブズへと振り返った。

 目が合って、息を呑んだ。

 彼女の瞳の中に、ほんの僅かに今まで気付けなかった感情が垣間見えた。

 今までは押し隠していた、或いは他の事に気を取られていて一時的に忘れていたものが、その時が来て姿を現したのだ。

 アイーダが露わした感情の名は、疑念と恐怖。

「私と一緒に、ミリオンズ・ナイブズと話して下さい」

 未来への切符は、白紙かもしれない。

 だが、今までの道程を記した地図は、白紙ではない。白紙に出来るはずが無い。

 今までがあるから、今からがある。

 これまでがあるから、これからがある。

 だから、今、これと向き合うことになるのは、必然なのだ。

 

 これを初めて実感したのは、藍華の舟に乗って晃と話していた時だった。

 なぁ、ヴァッシュよ。

 自分の“罪”と向き合うことというのは、こんなにも苦しいものだったんだな。



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#15.物語り

「あなたは……どうして、あんな酷いことをしたの?」

 アクアに来てから初めて出会った同胞――アイーダに詰問され、ナイブズは自らの“罪”の中で最たるものを2つ、口に出す。

「ノーマンズランドの、大墜落(ビッグ・フォール)と方舟事件か?」

 ――大墜落(ビッグ・フォール)

 外宇宙の居住可能惑星を求めて航行していたPROJECT SEEDSの宇宙移民船団の1つを、航行システムに細工をして船団丸ごと手近な惑星に墜落させた。

 直前で当直オペレーターのレム・セイブレムがプログラムに修正を施したことにより奇跡的に全滅を免れたが、人類史上最大規模の惨事であることには変わらないだろう。

 推定死傷者・行方不明者数合計約8千万人。1000隻の移民船の内802隻が全壊、行方不明が124隻。不時着に成功したのは、僅か74隻。

 150年の時を経て、今やこの事件の首謀者がナイブズであることを第三者が立証することは不可能だが、唯一真実を知るヴァッシュと、ヴァッシュがナイブズとの因縁を打ち明けた隠れ里の人間達を中心とした一握りの人間には事実を知られている。

 ――方舟事件。

 先の大墜落(ビッグ・フォール)を生き延びたノーマンズランドの人類を襲った最悪の災厄。

 方舟と呼称された大型の飛行ユニットに乗り込んだミリオンズ・ナイブズ率いる一団は、砂の惑星において人類の唯一の生命線であるプラントを融合という形で略取。生きる術を失った人類は、あらゆる秩序と理性を失った。砂の惑星に落下した直後の再現のような狂気と暴虐の中、次々に渇き飢えて死んでいった。

 方舟の往く後に広がっていたのは、その星の原初の光景である『誰もいない大地(ノーマンズ・ランド)』。

 ナイブズが特に自らが咎められるだろうと思った2つのことを、自ら口に出す。

 これを聞いて、アイーダは顔を真っ赤にした。

「それだけじゃない! 調べられるだけ調べた、色んな人から聞いた! 数え切れないぐらいの大量失踪と無差別殺人……それに、ドミナ姉さんのこと!」

 怒鳴り散らすようにして、アイーダは矢継ぎ早にナイブズに罪を突き付ける。

 そういえば、そんなこともあったな。

 ナイブズからすれば、人間の大量失踪も無差別殺人も、未だに不快な害虫を駆除した程度の認識でしかない。この星に来てから人間への認識を幾度も改めたが、その当時の感情だけは変わりそうにない。

 だが、告げられたもう一つ。覚えのある名前には、特別な感慨があった。

「ドミナ……。地球からの船団に乗っていた自律種(インディペンデンツ)だったか」

 地球からノーマンズランドへと派遣された船団にいた、2人の自律種の1人。活発で快活な、まだ少女の面影が残るプラントだった。

 彼女から直接名前を聞いたことは無い。だが、彼女と融合したことによって、彼女の記憶は情報としてあの時に必要な分だけナイブズも共有した。

 本来ならあの時、ドミナの名前を知る必要などなかった。だが、初めて邂逅したヴァッシュ以外の、そしてこれから犠牲にしてしまう自律種の同胞の名前すら知らないことを、ナイブズの理性は許さなかった。

 そんな、どこか昔を懐かしむ風に、ナイブズはドミナという名前を口にした。途端、アイーダの褐色の肌が、烈火の如く変色したように錯覚した。

 それほどまでに、アイーダは激怒した。

「私が生まれてから、あの日まで……ずっと一緒にいてくれた!」

「………………そうか」

 アイーダの炎のような怒りに、ナイブズは瞑目して己の心や魂が焼かれるのを受け入れるしかなかった。

 全ては同胞の為にと、始めたことだった。

 他のプラントとの融合も、人間の駆除も、地球からの船団との対決も――彼女の自我が崩壊することを承知の上で、ドミナと融合したことも。

 だが、その結果は、こうだ。

 同胞に畏れられ、怒りを向けられ、その根源となる悲しみを生み出してしまった。アイーダがナイブズへ憎しみを懐いていないことは、僥倖と言う他ない。

 恐らく、ナイブズの行動に感謝の念を懐いている者は、人類は元よりプラントにさえも誰一人としているまい。

 全ては無意味だったのか? 同胞を、生まれながらの隷属から解き放とうとしたことは、全てが間違っていたのか?

 この俺の、怒り、悲しみ、憎しみ……何もかもが、過ちだったというのか?

 揺るぎなかった筈の、過去の自分自身。それが、今、何の力も加えられずに崩れ落ちて――

「私も知りたいわ、ナイブズ。どうして貴方は、そうしたの?」

 穏やかで優しげな声が、ナイブズを内面から現実へと引き戻した。この場にいるのは、ナイブズとアイーダの二者だけではない。

 傍らの超巨大プラント――グランドマザーは柔らかく微笑みながら、ナイブズを見詰めていた。見返して、怪訝に思うよりも先に安心を感じていたことに、ナイブズは気付かず、疑問を懐く。

 アイーダとの話を聞いていたのに、何故、グランドマザーは微笑んでいるのだろう。考えた所で分かるはずもない。或いはもっと共鳴すれば分かるかもしれないが、それは手段として間違っていると、そんな気がする。

 グランドマザーも、そしてアイーダも、ナイブズが話し出すのを待っている。

 ノーマンズランドの歴史の真実とも言える、ミリオンズ・ナイブズの全ての始まりを。

 ナイブズは瞼を閉じ、一つ一つのことを思い出しながら、ゆっくりと語り始めた。

「今から150年ほど前、俺とヴァッシュはPROJECT SEEDSの船団の一つで生まれた。それを当直の乗組員が見つけて、育ててくれた。レム・セイブレム、俺とヴァッシュの名付け親であり、育ての親であり……俺達を初めて愛してくれた、俺達が初めて愛した人間だった」

 人間に対して愛を口にすることに、些かの躊躇いも無い。その相手がレム・セイブレムならば。

「嘘……人間に育てられて、愛されて、愛してたって……」

「これでも君ぐらいの頃は、人間と一緒に生きていく未来を純粋に夢見て、新天地で冷凍睡眠から覚めた人々との生活を楽しみにしていた。弟と、同じように」

 ナイブズが人間への愛を口にしたことに、アイーダは瞠目し狼狽さえしていた。ナイブズの過去を調べていれば、当然の反応だろう。そのことを承知した上で、更に幼少期の自分の想いを付け加えた。これにはいよいよアイーダも絶句してしまい、ぽかん、と口を開けて呆然とした様子だった。

 対照的に、ナイブズは表情どころか顔色を一つも変えていない。努めて冷静であろうとすることで、無表情になっていたのだ。

 それ程、これからナイブズが話そうとしていることは重大だった。しかも、ヴァッシュ以外を相手に話題に出すのも初めてなら、仔細を語って聞かせることさえ初めてなのだ。

 ミリオンズ・ナイブズの人間への憎悪の根源。それは、1人の少女が発端だった。

「………………テスラのことを、知るまでは」

「テスラ?」

 ナイブズがテスラの名を口にすると、アイーダが不思議そうに首を傾げた。グランドマザーは何も言わず、ただ静かに見守っている。

「俺たち兄弟よりも先に生まれていた自律種(インディペンデンツ)だ。もしも会えていたら、俺達にとって姉のような存在になっていたのかもしれない……。アイーダ、君にとってのドミナのように」

 アイーダがドミナのことを『ドミナ姉さん』と呼んでいたことを指して、テスラについて簡単に教える。

 正直な所、ナイブズがテスラ自身について知っていることはこの程度だ。もしかしたら、非常に強い感応能力を持っていたのではないかと思うこともあるのだが、もう確かめようの無いことだ。

「その人が、どうしたの?」

 テスラがどうなったのか。聞き返されて、ナイブズはすぐに答えようと思った。テスラの“あの姿”を忘れる事などあり得ない。そこに至る過程も含めて。だが、どうしたことか。うまく、言葉が見つからない。

 事細かに伝えることは簡単だ。テスラの研究レポートの内容を暗誦し、最後にテスラのあの姿を補足する、それだけのことだ。

 しかし、言えなかった。

 テスラの最期をアイーダに教えることが、どうしてもできない。

「………………………………君に言えるような、最期ではなかった」

 漸く絞り出せたのは、何かが伝わるとは到底思えない、陳腐な誤魔化しだった。

 きっと、一言でも口に出したら止まらなくなる。

 あの時の感情が――人間への果てしない憎悪と憤怒、テスラへの悲しみ、そしてナイブズの狂気が、一息に溢れだす。

 そんなものを、未だ幼い同胞が受け止めることができるとは思えない。なにより、人間の狂気と外道を知らない同胞に、敢えてそのことを伝えるのも憚られた。

 アイーダはどういうことなのと言いたげな表情で首を傾げている。それを分かっていても、ナイブズにはこれ以上は何も言えそうになかった。

「……人間に殺されてしまったの?」

 澄んだ声が、頭上から響く。

 ナイブズはただ、無言で首肯した。

 アイーダの表情が、呆然から愕然へと変わるのに時間を要したのは、それだけ、彼女にとっては思いもよらないことだったのだろう。しかし、人間によって意図的にプラントの命が絶たれることは、決して珍しいことではない。その事実を知ったのは、ナイブズもごく最近のことだ。

 ラスト・ラン。生産能力の限界に近付いた末期のプラントを意図的に暴走させ、最期の大生産を行わせる。それが終われば、プラントは一気に肉体が崩壊し、死に至る。これほど残虐な行いを、自分達の生存のためであれば日常的に行える人間達が、ひとたび狂気に奔ればどうなるか。

 言うまでも無く、テスラの死は酸鼻を極めた。

 人間と変わらない姿のはずなのに、テスラは生まれた直後から実験動物として扱われた。

 檻のような狭い部屋に押し込められ、観察され、解析され、接続され、投与され、切開され、切除され、殺された。

「それが、貴方が人間を憎んだ理由なのね」

 グランドマザーの声には、憐みとは違う、深い悲しみが宿っていた。それがテスラへと向けられたものならば、彼女も少しは救われるだろうか。

 テスラの姿を――解剖され、実験標本のホルマリン漬けにされた亡骸を思い出す。

 あの悲劇こそが、全ての始まりだった。

「そうだ。あの日から、俺は……俺達は狂った」

 ――あの日から俺達は狂った……!!――

 ヴァッシュと対面し、テスラのことを口に出した時の、ヴァッシュの言葉が蘇る。

 今更ながら、本当に今更になって、正しく、あの時のヴァッシュの言葉は真理だったのだと痛感し、理解した。

 暴力の連鎖の無意味さ、虚しさ。

 人間と共に生きる中で理不尽な暴力に晒され続けて尚、ヴァッシュがあの言葉を紡いだことの意味に、何故気付けなかった。

 容易に暴力を撥ね退ける力を持ちながら、弱者(にんげん)を庇い守る為に暴力に耐え続けて来たあいつの心を、どうして察してやれなかった。

 今ならば分かる。本当の意味でテスラの悲劇を終わらせることのできる唯一の道は、ヴァッシュが選び、信じ続けた道だったのだと。

 アイーダはナイブズに何かを言おうとしているが、言葉が見つからないのか金魚のように口をパクパクとさせるだけだ。顔色も、怒り以外の様々な感情が綯い交ぜになってしまって、困惑と戸惑いばかりが見える。

 ナイブズは口を一文字結び、動かそうとしない。これ以上、自分に何かを語る資格があるとは思えなかった。

 このまま沈黙が続くかと思ったが、グランドマザーは違った。

「今度は、私にも話をさせてくれるかしら?」

「お婆様? 急にどうしたの?」

「アイーダこそ、どうしたの? ここに来た時の元気が無いようだけど」

 グランドマザーは変わらぬ態度のまま、アイーダに質問を返して答えに窮させた。ある程度はナイブズもアイーダの内心を察せているつもりだが、それをナイブズが言語化して明文化することは許されないような気がした。

 アイーダは何事かを言おうとしていたが、ナイブズの方をチラチラと見て口ごもり、ナイブズが視線を向けると顔を背けてしまった。

 随分と嫌われたものだが、これも自業自得か。

「それでしたら、我らが“火星の慈母(グランドマザー)”の物語を、(わたくし)に語らせて頂けないでしょうか?」

 出入り口から聞き覚えのある声が聞こえて振り返る。

 ナイブズさえも気付かない内に、店主がいた。それだけではない、その後ろにはシラヌイと、“車掌”と同じ制服を着こんだ二本足で立つ巨大な黒猫――この気配はカサノヴァだ――までいて、それぞれ人を連れていたのだ。

「灯里さん! アイちゃんまで!?」

 アイーダが驚き、その2人の名を呼ぶ。灯里の腕の中で「にゅっ!」と抗議するような声が聞こえたが、今はどうでもいい。灯里は当然として、アイーダとアイが知り合いだったことに驚く。一体どのような接点があったというのだ。

 当の灯里とアイは、アイーダに名を呼ばれても呆然とした様子で、グランドマザーを見ている。

「久し振りね、アマテラス、猫妖精(ケット・シー)。また会えただけでも嬉しいのに、こんなに可愛らしいお客さんまで連れて来てくれるなんて」

 シラヌイとカサノヴァを見て、グランドマザーはそれぞれを別の名で呼んだ。

 ケット・シーは分かる。猫の国の王とも呼ばれる、ネオ・ヴェネツィアの守り神とされている猫の妖精のことだ。ケット・シーの昔話を聞いて以来、カサノヴァの正体の有力候補として記憶に留めていたが、どうやらその推理は正鵠を射ていたようだ。

 一方、アマテラスとはなんだろうか。海女人屋の老婆がアマ公と呼んでいたということは、それがシラヌイの本名ということなのか。

 少なくとも2人とも、グランドマザーとは旧知であるようだ。名を呼ばれると、ケット・シーは恭しくお辞儀して、アマテラスはアイを背に乗せたまま大きく吠えた。

 色々と考えていると、店主がナイブズ達の近くまで来て、グランドマザーに対して深々と頭を下げた。

「火星の慈母におかれましては、ご機嫌麗しく」

「あなたも、久し振りね。お父さんは元気?」

「父は既に逝きました。代わって私が跡を継ぐべく、精進しております」

 やはり知り合いだったかと思うと同時、店主が亡父から何を継ごうとしているのかと首を傾げる。ナイブズが知る限り、店主は情報端末に文字や画像の記録をしてばかりで、特に何かをしているようには思えなかったのだ。

「にゅっ」

「ええ、こんばんは」

 何時の間にか灯里の腕から降りて来たアリアが一声鳴くと、グランドマザーは挨拶を返した。火星猫には人並みの知能と感情があるらしいから、鳴き声が言語である可能性もあるのか、などと取りとめもない考えが浮かぶ。

 そんなことを考えている内に、まだ呆然としている2人にアイーダが近付いて話し掛けた。

「灯里さん、アイちゃん、どうしてここに?」

「私たち、アリア社長のお誘いで、銀河鉄道に乗せてもらったの……」

「そうしたら、龍宮城に来ちゃったの……」

 灯里とアイは夢心地といった様子で、返事の調子までぼんやりしている。

 その後も問答は続いたが、2人の調子は変わらず。アイーダは心配してしまって、オロオロし始めた。

 見かねて、ナイブズは黙って2人に近寄った。

「ぴかりちゃんは、龍神様に呼ばれて……」

「しゃんとしろ」

 言うと同時、2人の目の前で手を叩き、破裂音で聴覚を刺激した。

「はひっ!?」

「び、びっくりしたぁ……」

 まるで眠りから目覚めたように、漸く2人の意識は明確に覚醒した。そうしたら2人揃って今更周囲の状況を正確に認識して騒ぎ始めたが、こっちの方がらしいだろうと納得する。

 それを見計らって、静粛を求めて小さく咳払いをしてから、普段とは異なる仰々しい語り口で、店主が昔語りを始めた。

「さて皆様方、これよりお話し致しますは、こちらにおわす我らが『火星の慈母』と呼び称せし御方の物語に御座います。宜しければ、ご静聴を願います」

 請われるまでも無く、ナイブズはグランドマザーの物語を傾聴する。

 遥か彼方の水の星で出会えた、先達と呼ぶべき同胞の半生が、今語られる。

 

 

 むかしむかし、今からずっと昔。

 水の惑星アクアは、今よりずっと寒く、空気も無く、水さえも一滴も無い、生き物はコケぐらいの、火星と呼ばれるとてもとても寂しい赤い惑星でした。

 ある時、英知の結晶を携えた人類が降り立ち、火星の極点の氷を融解させて沢山の水を作ったり、星を温めたりして、少しずつ、少しずつ、火星をたくさんの生き物が生きられる地球のような星にしようとしました。

 しかし、空気を作った後の段階で大きな壁にぶつかりました。

 どうしても、どうやっても、火星の大地に生命が根付かない、息づかない。

 火星の大地に植えた植物は実を結べず、花も咲かさず枯れてしまう。大地を耕すミミズ達も月が巡るよりも早く死んでしまいます。

 何故? どうして? なんで?

 世界中の学識者達が色んな場所で毎日議論を重ねても答えは導き出されず、火星を第二の地球にするという彼らの夢は、儚く潰えるものと思われました。

 そんなある時、1人の科学者があることを提言しました。

 最初は荒唐無稽な机上の空論と誰もが鼻で笑いましたが、彼の熱意に次第に多くの人が心を動かされ、それが実行に移されました。

 その結果が、命溢れる水の惑星、アクアなのです。

 では、アクアの礎となった、科学者たちのしたこととは何か?

 それこそが、火星の慈母と呼ばれる“彼女”の物語なのです。

 

 

「さて、ここで一つ質問しましょう。灯里さん、彼女がどういう存在かは御存知ですか?」

「はひ!?」

 店主は昔語りを中断すると、唐突にグランドマザーを指して灯里へと質問した。灯里は暫しの黙考を挟んでから、躊躇いがちに口を開いた。

「えっと……プラント、ですよね? こんなに大きいプラントを見たのは、生まれて初めて……」

 答えながらグランドマザーを見て、その大きさと姿に圧倒されたのか、言葉が途絶えた。

 店主は頷いて、今度はアイに質問をする。

「では、アイさん。そのプラントの持つ能力はご存知ですか?」

「えっと……ごはんとか、着る物とか、電気とか、色んな物を作ってくれてます」

「両者正解です」

 2人の答えを聞いた店主は大げさなぐらい満足げに頷いて、「しかし」と翻す。

「それ以外の能力を有する、特別なプラントも存在します」

「ジオ・プラント」

「ご明察。流石はミリオンズ・ナイブズ」

 謎掛けにもならない愚問を、問われる前に即答する。

 店主は不快そうな表情など寸毫も見せず、むしろ嬉しげにナイブズの答えを歓迎していた。相変わらずの調子だが、それがどうにも気に食わない。

 苛立ちや嫌悪とは違う苦手意識というものを、ナイブズはこの時になって漸く実感した。

「ジオ・プラント?」

 すると、ナイブズの答えを聞いてアイが不思議そうに首を傾げて、同じ言葉を繰り返した。

 ジオ・プラントは一般的なプラントとは一線を画す特殊な存在だ。一般市民の少女が知らなくとも不思議ではない。隣の灯里は、聞き覚えはあるが説明できるほど詳しく知らない、といった様子だ。

「アイーダさん、説明できますか?」

 店主に振られて、アイーダは一瞬、ビクリと体を震わせた。すっかり聞き手に回っていて、自分に説明役が回って来るとは思っていなかったのだろう。

 アイーダは目を閉じて数度深呼吸をしてから、アイと灯里にジオ・プラントについて簡単な説明を始めた。

「ジオ・プラントは、土地に生命力を与える特殊なプラントなの。例えば、砂漠のような不毛の土地にも、草木が生い茂ることが出来るようにするの」

「ほへ~……プラントって凄いんだぁ」

「アイーダちゃんって、物知りなんだ」

「ううん。今のは、お姉ちゃんに教えてもらったことだから」

 言い終えて、感心しきりの灯里とアイとは対照的に、アイーダの表情が僅かに曇り、ナイブズはかける言葉が見つからず、ただ目を伏せるしかできない。

 自分が彼女にとってどれだけ酷いことをしたのか、悔やんでも悔やみきれない。

 そんなナイブズとアイーダの内心を知ってか知らずか――十中八九、気付いているだろうが――店主は先程までと変わらぬ調子で、昔語りを再開した。

「さぁ、お分かりいただけましたか? 火星の慈母が何者なのか」

「……火星を、生き物が住めるようにしてくれた人?」

 灯里の返事に、店主のみならず、アマテラスとケット・シーも然りとばかりに頷く。いずれも、まるで昔を懐かしむような表情だった。

「その通り。火星の慈母の御力によって、火星の海と大地に生命の力が宿り、火星は今日のアクアとなったのです。とはいえ、火星の慈母の他にもジオ・プラントは多数配置されましたが」

 そう言われて、ふと思い付き、膝を着いて地面に触れる。そして、何故ここに彼女が配置されたかを理解した。

 ここは、火星のほぼ全域に影響を波及させる龍脈の起点の一つなのだ。

 ジオ・プラントといっても万能ではなく、限られた閉鎖空間ならともかく、広大な土地、それも惑星全体に力を注ぐとなれば、どこに配置してもいいというものではない。力の流れを伝えるのに最適のポイントを吟味する必要がある。それがここだったのだ。

 龍脈に沿えば、ジオ・プラントの“持って来た”生命エネルギーを最小限のロスで長距離に及んで発散させることができる。それがこれほど大規模なものであれば、たとえ不便な海の底であろうと超大型ジオ・プラントを配置したことも頷ける。

「誰も、おばあさんを迎えに来なかったんですか?」

 唐突に、アイが核心となることを、とても不思議そうな顔をして無邪気に訊ねた。

 グランドマザーは、少し寂しそうに首肯した。誰も来なかったよ、と。

 何故、どうして迎えに来なかったのだと言い掛けて、ナイブズはあることに気付いた。自分が彼女と直に対面するまで、その気配も力も感じられなかったという事実に。

「そのことと、火星開拓史からプラントに関する記述が一部抹消されていることは関係があるのか?」

 今、彼女は力を使っていないし、火星には他にプラントが存在していない。まるで不要になったプラントを切り捨てたようにも思えるが、それは違うだろうという思いもあった。

 プラントの存在が完全に記録から抹消されている訳ではないし、何より、ナイブズにはグランドマザーが置き去りにされてしまった理由に僅かながら心当たりがあったのだ。

 ナイブズからの問いを受けて、店主は大きく頷いた。

「ご存知の通り、火星には2つの世界が御座います。人々の暮らす表側と、摩訶不思議なものたちが暮らす裏側と。彼女は、その裏側の世界の、最初の住人になってしまったのです」

「きっと、みんなから見たら、私が急にいなくなったみたいに見えたでしょうね」

 アイーダや灯里とアイが驚いているのとは対照的に、ナイブズはその答えに納得した。

 表側と裏側では、プラントの感応能力さえも断絶してしまう。そのことはつい先日、ナイブズ自身が体験している。

 身動きのできないグランドマザーが、何故、どうして、裏側の世界に迷い込んでしまったのかは分からないが、それは今重要なことではない。

「超大型プラントの原因不明の消失事件。これに大きく混乱した火星開拓団は、火星環境が既に安定の兆候を見せていたことから、連続発生を恐れ、逐次プラントを回収し引き揚げてしまいました。また、これだけの不祥事を世間に公表することもできず、苦肉の策としてその辺りのデータを紛失したことにして、事実から目を背けることにしたのでした。世の人々も火星開拓の黎明期、そういう混乱や不手際もあるだろうと渋々ながらも納得しました」

 プラントに関する開拓期のデータが隠蔽されている理由も明かされたが、なんともはや、急に俗っぽい現実らしい話になったものだ。彼女が裏側の世界の住人になったことについて、あれこれと空想めいた思考を繰り広げていた自分が、馬鹿馬鹿しく思えた。

 それだけ、自分でも気付かない内にこの星らしい考え方が染みついていたのだろうと、店主の解説を聞いてがっかりしたような表情を浮かべている灯里を見て思った。

「けど、私たち……地球のプラントの間では、お婆様のお話が、今でも語り継がれてる」

「海の慈母がこちらにいらしてから暫くは、同胞の方々によって捜索されていたからでしょうな」

 アイーダがぽつりと呟いた疑問に、別の誰かが答えた。

 ナイブズ達が入って来た所とは別の入り口から、人間の少女を連れた男が入って来ていた。いかにも偉そうな出で立ちの、高貴な雰囲気を纏った男だ。頭から髪と一緒に魚の背鰭のようなものが生えているから、海の國の住人であることは間違いあるまい。

「龍王様。お懐かしゅう御座います」

 そう言って、店主は恭しく頭を下げた。続いて、ケット・シーが親しく礼をして、アマテラスが一声吠えると、今度は龍王の方が畏まった。

「おお、我らが天と海の慈母よ、親愛なる猫の國の王よ。御許らが揃うこの日この場所に共に居られること、光栄に存じます」

 龍王は最上の敬意を、言葉と動作で表した。この城の主であろう男でさえも、平身低頭で以って接するだけの大物たちということなのだろう。

「おじさん、だぁれ?」

 物怖じせず、アイが龍王に尋ねた。相手が王ともなれば一般庶民はそれだけで畏まりそうなものだが、子供には通用しない理屈らしい。

「申し遅れました。私はこの龍宮城の主、龍王のスミノエと申します。そしてこちらは、私の旧友の孫娘です」

 龍王スミノエは懇切丁寧に、自分だけでなく連れている少女についても紹介した。紹介されて、ナイブズは漸く少女に見覚えがあることに気付いた。海女人屋にいた、ぴかりと呼ばれていた少女だ。

 少女はグランドマザーの姿を見上げて、ぽかん、と口を開けている。驚きのあまり、言葉も何も出て来ないとばかりだ。

 すると、スミノエからの紹介を聞いて、グランドマザーは少女に話し掛けた。

「あなた、きのちゃんのお孫さんなの?」

「はひっ!? 私は、ばーちゃんの孫です!」

 話し掛けられて余ほど驚いているのか、少女は素っ頓狂な声で返事をして、少し変な言い方で答えてしまった。言ってすぐに気恥しそうにしている辺り、灯里と違って自覚もあるしそういうことへの羞恥心もあるようだ。

 そんなことを考えている内に、ナイブズは少女“ぴかり”の祖母“きのちゃん”が、グランドマザーと知己の間柄であると語っていたことを思い出した。老婆が海の中で出会った龍神というのも、スミノエのことだったのだろう。

 到底信じられないと思っていた昔話の中に自分が放り込まれていると、今の今まで気付かなかった。

 ナイブズが衝撃を受けている間に少女が落ち着き、店主は昔話の続きをまた語り始めた。

「行方不明となり、資料が紛失され、時の経過と共に彼女のことを忘れたものが多かったのも事実です。しかし、彼女のことを忘れず、感謝の念を懐く者も少なからずいました。何故かと言えば、それこそ我が父の仕業で御座います」

「貴様の父だと?」

 唐突に現れた新たな登場人物に、つい聞き返してしまう。

 そういうことならば、店主が色々と詳しいことにも、境に住んでいることにも納得がいく。だが、どう考えても年代がおかしい。

 マーズ・テラ・フォーミングが完了し火星がアクアとなったのは、いまから350年以上も昔の話だ。祖先ならともかく、店主の父がそんな時代にいるはずがない。

 しかし店主は、さも当然のように首肯する。

「私の父は、彼女の存在を決して忘れさせまいと、彼女の物語を作ったのです。不毛の大地に最初に降り立った、新たな世界を拓いてくれた、一番大きな人造の天使(プラント)の物語を、御伽噺のように仕立てて」

「その御方は火星中を練り歩きながら、百年以上の間、火星の慈母の物語を火星の人々に伝えて歩いたと言います」

「うちの一族の大師、先の天道太子様も旅路を共にしていたらしいです」

 店主が言葉を切ってすぐ、その続きが付け加えられた。スミノエの後からやって来た紅祢と丈だ。

 付け加えられた内容のある一言に、ナイブズは自分の耳を疑った。

「……あれ? お爺さんのお父さんは、百年も生きてたんですか?」

 同様の疑問を持った灯里が、屈託なく店主へと問う。

「うん。長生きの秘密は、内緒だ」

「え~」

 店主はあっさりと肯定したが、詳細は伏せた。質問には遠回りでも全て答えていたこの男にしては珍しい。少女達は不満げな声を漏らしていたが、ナイブズはそれどころではなく、衝撃に打ちのめされていた。

 ただの人間としか思っていなかった、人間としか思えなかったこの男も、百年を超えて生きる人に似た何者かだったというのか? 砂の星で聞き慣れた金属音が一度も聞こえなかったのだから、サイボーグということもあるまい。いや、或いはミカエルの眼の改造手術のように、細胞レベルに至る生体手術での延命が可能になったということも――?

 ナイブズは珍しく混乱し纏まらない思考を繰り返したが、そんなことはお構いなしに、店主は話を続ける。

「その物語によって、人々は人間以外の“なにものか”へと感謝する、ということを思い出しました。火星が地球の文化の保存の為に、古き良き時代を模そうとしていたことも幸いしたのでしょう」

「そのお陰で、地球で滅びようとしていた我々も、今こうして火星で暮らせております。海の慈母への感謝の念は、絶えることはありません」

 店主の言に、スミノエがそのような言葉を付け加え、ケット・シーも、こくり、と頷いた。

 どういう事情があるのかは分からないが、どうやらスミノエ達はグランドマザーのお陰で火星に移り住み、滅亡を回避できたらしい。

「……だからか。お前達が、俺を賓客扱いしていたのは」

 答えの分からない難問よりも、答えの見えた予てからの疑問に思考を優先して、ナイブズはスミノエとケット・シーを問い質した。2人は何も言わず、ただ小さく頷いた。

 質問の意図が分からない少女達は顔に疑問符を浮かべている。アイーダもナイブズがここに来た当初のことを知らなければ、この質問の意図するところは読み取れないだろう。

 これで漸く合点が行ったと、ナイブズは大きく溜息を吐いた。

 着の身着のままの得体の知れない風来坊を、猫の國と海の國が賓客として迎え入れた理由。それは、ナイブズがグランドマザーの眷属だったからに他ならない。

 まさか自分が、同胞の威光に守られていたとはと一瞬考えたが、ふと、懐にある切符のことを思い出した。

 自分は最初から、同胞達に守られていたのかもしれない。

 そのことに今まで思い至ることが出来なかったのは、己のみが超越者であるという自覚……否、驕りゆえか。

「とはいえ、先の天道太子と我が父が逝去してからは、彼女の物語を知る者は次第に減って行きました」

「おじいさんは継げなかったんですか?」

「これは手厳しい。しかし、私だけでは無理だったのです」

「天道太子の筆業……“筆しらべ”なくして、物語を伝えることはできなかったのです。先代の絵が悉く行方不明となってしまった上に、天道太子の後継者も途絶えてしまっていましたから」

 ナイブズが物思いに耽っている間も、灯里を中心に少女達が店主や天道兄妹に色々と問い掛けている。

 子供の好奇心には底が無く、留まる所さえ知らず、矢継ぎ早に質問を投げかけ。それが一度収まれば、目をキラキラと輝かせながら店主とグランドマザー自身が語る物語に耳を傾けている。そして、また新たな質問を投げかけてを繰り返していく。

 そんな様子を、アマテラスとケット・シーとスミノエは、慈しみ愛おしむように見守っている。

 ナイブズよりも長く、ひっそりと人に寄り添い、共に生きて来た人外のもの達。彼らはその歳月で何を想い、何を見て来たのだろう。そんなことを考えている内に、あることを閃いた。

 もしかしたら、彼らなら分かるのではないだろうか。

 人と人ではないものが、共に生きることの意味を。

「えっと……いいですか?」

 ナイブズがケット・シーたちの方へと移動を始めた、調度その時に、ぴかりという少女がおずおずと手を挙げた。グランドマザーの物語も一通り語り終わって、質疑応答を始めたようだ。

「いいわよ」

「どうぞ」

 グランドマザーと店主に促され、少女は緊張しているのか数度の深呼吸をしてから、グランドマザーへと問い掛けた。

「あなたが、ばーちゃんの言ってたグランマさんですか?」

「ええ、そうよ。きののお孫さん、あなたのお名前は?」

「小日向光です! みんなからは、ぴかりって呼ばれています!」

「私は水無灯里! ネオ・ヴェネツィアのARIAカンパニーで水先案内人をしています!」

「ぷいにゅ!」

「アイです! 地球から遊びに来ました!」

 ぴかりと呼ばれていた少女――光の自己紹介に、何故か灯里とアイまで便乗した。アリアも一声鳴いていたが、些細なことだろう。

「どうしてお前達まで名乗った?」

「えっと、私達も自己紹介がまだだったな~って」

「にゅ」

 何とはなしに灯里に尋ねたが、深い意味は無かったようだ。そして一緒に返事をしたことから察するに、どうやらアリアが先程鳴いたのは、自己紹介のつもりだったらしい。

 一方、グランドマザーは灯里の自己紹介を聴いて、何か気になる所があるようだ。

「ARIAカンパニーって、もしかして秋乃の会社の子かしら?」

「ええ!? グランマを知ってるんですか?!」

「灯里さん、この人、ぴかりさんにもグランマって呼ばれてたよ」

 そういえば、海女人屋の老婆――小日向きのという名なのだろう――は、秋乃とは幼馴染だと言っていたし、グランドマザーについても知己の間柄であることを伺わせることを言っていた。

 そのことを思い出すと同時、あの場で灯里が天地秋乃の名を覚えておいたのは都合が良かったな、などと考える。

「あなたは、秋乃とはどういう関係なの?」

「グランマ……秋乃さんの教え子の、アリシアさんの弟子です」

「じゃあ、秋乃の孫弟子ということね」

 灯里からの返事を聞いて、グランドマザーは一度言葉を切り、光と灯里を交互に見比べた。

 光はともかく、灯里に在りし日の秋乃の面影などあるはずもない。それでも、想い起させるには充分なのだろう。

「懐かしいわぁ。あの子達とは、こっちとあっちの繋がりが途切れてしまう少し前に会ったの。私ってば、こんな所にいるから世間知らずでね。きのと秋乃には、色んな事をいっぱい教えてもらったわ」

「ふわぁー……!」

 異口同音とは、まさにこの事。

 灯里と光は、言葉にならない感嘆の声を、全く同時に、全く同じ声色で、全く同じ長さで口から漏らしたのだ。眼に宿る輝きも、いずれ劣らず遜色無しだ。

 どうやらこの2人、名前だけでなく感性など色々と似通っているらしい。

 そんな2人の様子を見て、当人達とナイブズ以外の全員が微笑みを浮かべて、それに気付いて本人達は顔を真っ赤にして恥ずかしがった。今度の仕草は違ったが、やはりタイミングだけは一緒で、皆は更に笑顔になった。人とは顔の作りが違うケット・シーとアマテラスも同様で、仏頂面をしているのはナイブズぐらいのものだ。

「お婆様、とっても楽しそう」

 アイーダの言葉を、ナイブズも無言で力強く首肯する。今日一番、グランドマザーが楽しんでいるということが、プラントの感応力に頼らずとも良く分かった。

「うん、楽しいわ。こうしてお喋りするの、とっても久し振りだから。……ああ、そうだわ」

 すると、何かを思い出したのか、グランドマザーは右手を開いて差し出して来た。

 グランドマザーの巨躯だから、手の大きさは人間が容易に乗れるほどだ。そんな大きな掌の上に、小さな赤い花が、ぽつん、と置かれていた。

「ナイブズ。この薔薇、覚えている?」

 その花は、赤い薔薇だった。別段小さな花ではないのだが、掌との対比で実際よりも遥かに小さく見えてしまっていた。それはそれとして、問われてナイブズは首を傾げた。自分に花との接点などあっただろうかと。

 すると、別の所から声が上がった。

「もしかして、ボッコロの日の薔薇ですか!?」

 灯里に言われて、ナイブズはその日のことを思い出した。そして、驚愕に目を瞠った。

 あの時の薔薇が、何故、どうしてここに。

 今までの話を聞く限り、彼女の下にあの薔薇が届くことなどあり得ないはずなのに。

「あなたのプラントの力……ううん。あなたの想いが宿っていたからかしら? ネオ・ヴェネツィアのボッコロの日の夜、ここに流れ着いて来たの」

「……そんな、大したものじゃない。ただ、気紛れで捨てたも同然だ」

 グランドマザーに言われて、ナイブズは何故か委縮するような気持ちで答えていた。そんな大層な気持ちなど、込めていたとはとても思えない。

「本当に?」

「えー……ナイブズさん、捨てちゃったんですか?」

「綺麗なお花なのに……」

 捨てたという言い方が拙かったのか、グランドマザーに強めの口調で問い詰められ、灯里とアイにも抗議の声を上げられた。

 何故だかとても気まずくて、ナイブズはあの時のことを克明に思い出し、適当な言葉を繕おうと、非常にゆっくりとした調子で口を動かす。

「………………誰かに届くか、誰にも拾われず朽ち果てるか、どうなるかとは思っていた」

「なぁんだ。それじゃあ、誰かに届くといいなあって思ってたってことじゃないですか」

 言うや否や、思わぬ所から意外な解釈が飛び出て来た。

 その声の主は、小日向光。

 思いがけない言葉に、つい聞き返してしまう。

「そう、なのか?」

「そうですよっ。ほら、こうやって、誰かに届いたんですから」

 光の意見に賛同した灯里が、現在の状況で以って光の理論を後押しした。

 あの時、俺は心のどこかで、誰かに花を届けたいと、誰かと繋がりたいと、そんなことを思っていたというのか?

 あの時は、自分が人に共感していたという事実だけが頭の中を占めていて、それ以外の些細な感情の機微など覚えていない。だが、今こうして、ボッコロの日の薔薇がグランドマザーの元に届いている。そして少女達もグランドマザーから薔薇を受け取って、手に取ってそれを見ている。

 そのことを拒む感情は、今の自分にはない。

「……そうか」

 ならばきっと、そういうことだったのだろう。仮に違ったとしても、それでいい。

 過去があやふやなら、今決めつけてしまえばいい。

 少なくとも今は、これでいいのだ。

「アイーダ。今のナイブズをどう思う?」

 薔薇を繁々と眺めていたアイーダに、グランドマザーが静かに呼び掛ける。アイーダは薔薇とナイブズを何度も見比べて、何かを考えているのか、うんうん、と頻りに頷いて、遂に答えを出した。

「…………やっぱり、全然違う。私が聞いて、調べた、ミリオンズ・ナイブズと、全然違う!」

 あまりにも予想外の言葉に、ナイブズは今まで誰も見たことが無いような、素っ頓狂な顔になっていた。それだけ、アイーダに拒絶されなかったことが意外だったのだ。

「ほへ? どういうことですか?」

 ナイブズとアイーダの因縁や事情を一切知らない灯里が、気の抜ける声と表情とで訊ねて来たので、ナイブズも釣られて脱力した。これからアイーダと話して、詳細を確かめればいい。

 それに、今の自分が昔と違う理由については、分かり切っていることだ。

「昔と比べて、俺は随分と変わったらしい。お人好しで大馬鹿の、弟のお陰で」

「ナイブズさん、弟がいたんだ」

「ちなみに、今、水先案内人の間で流行している『平和主義者のガンマン』のお話の主人公が、その弟さんですよ」

 ナイブズの答えが余程意外だったのか、大袈裟なぐらい驚いたような反応を見せたアイに、店主がさらりと付け加えた。

 店主にも弟がいることはおろか、ヴァッシュのことを話したことは無い。だというのに、この男は然も当たり前のようにヴァッシュのことを言ってみせた。

 いつ、どこで、どうやってヴァッシュのことを知りえたというのか。幾つか予測はつくが、正直それ程興味は無い。寧ろ、知っていてもおかしくは無いだろうと思えた。

 それよりも、今気になったのはある単語だ。

「…………流行だと?」

 ナイブズがあの話をしたのは、あゆみとその友人の杏とアトラの3人だけだ。流行と呼ばれるほど、あの話を吹聴して回った覚えは無い。何をどうしたらあの話が流行するというのだ。

「女三人姦しく、女性は噂好きで、少年少女はこの手の伝説や物語に惹かれるものだよ」

 言われて、すぐに納得した。発信源はナイブズ以外にいたのだ。

 思い返してみれば、あゆみは迷宮で再会した日の時点で既に杏とアトラに話していた。ならば、彼女達が他の水先案内人に話して、話を聞いた水先案内人がまた別の水先案内人へと話して、そういうことを繰り返して広まっていったことは、容易に想像できる。

 あいつは、こんな所でも、話の中だけでさえも。気付かない内に、いつの間にか人々の輪の中に溶け込んでいく。ヴァッシュ・ザ・スタンピードらしいと、それでこそヴァッシュ・ザ・スタンピードだと、妙に納得してしまう。

 ふと、自分に向けられる好奇の視線に気付いた。視線の主は、4人の少女達。

「……何だ、その目は」

「聞かせて下さい!」

 何を、とは、言うまでも、聞くまでもない。どうやら、灯里達の好奇心の琴線に触れてしまったらしい。

 しかし今は、ナイブズの方がこの場にいるものたちに訊きたいことが山のようにある。さて、どうやってやり過ごそうかと思案する。

「話が長くなりそうですな。では、食事などを準備させましょう」

「紅祢、お前はこれから語られる物語を絵にしてみなさい」

「ええ!? わ、私はその人の名も顔も知らないのですが……」

「これも修行と思いなさい」

 思案する暇さえ与えられず、ナイブズが平和主義者のガンマンの話をする方向で、事が進んでしまっている。

「俺の方こそ、聞きたいことは山ほどあると言うのに……」

 有無を言わさぬ状況につい毒づくが、不思議と、文面そのままのような不快感は無かった。

 これを文字通りに受け取ったのか、灯里と光は苦笑いを浮かべている。アイは気にした様子など微塵も見せずアマテラスと戯れている。アイーダは、ナイブズに歩み寄って、他の誰にも聞こえないような小さな声で囁いた。

「聞かせてくれますか? ヴァッシュ・ザ・スタンピードの……人間台風(ヒューマノイド・タイフーン)と呼ばれている、あの人の話を」

 アイーダからのお願いを聞いて、アイーダはナイブズのことだけでなくノーマンズランドのことを知りたがっているのだと気付いた。ナイブズに対する態度の変化も、それに関係があるのかもしれない。

 こうなっては、ナイブズには断るという選択肢は無い。溜息を一つ吐いて、周りを見渡す。

 店主はこうなることを予期していたような、そんな含みを窺わせる顔をしていた。店主の狙い通りに、少女達に振り回されているのだ。

 目的は分からないし、この状況もそれほど不快ではないが、いつも以上の見透かしたような態度に少しの腹立たしさも無いわけではない。

「終わったら、今度は俺の方から根掘り葉掘り問い詰めさせてもらうぞ」

 承諾すると同時に、代わりとしてグランドマザー達との話の続きを約束させる。少女達は大喜びしているのだ、店主もナイブズの要請を断ることは出来ない。

 店主は意外そうな表情を見せたが、すぐにケット・シーやグランドマザーと同じく何事かを喜んでいるような表情へと変わった。

 悠久の歳月を過ごしたつもりでいたが、この星では、まだまだ自分も若輩者なのだと痛感した。

 そんな感傷も、すぐに消え去る。

 今胸中を占めるのは、赤いコートを身に纏って『誰もいない大地(ノーマンズランド)』の荒野に立つ、ラブ&ピースを唱え続けた稀代の大馬鹿の姿のみ。

 ヴァッシュ・ザ・スタンピードの物語を、ミリオンズ・ナイブズは水の惑星の住人達に三度語る。



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#16.寄り添うものたち

 深紅の外套を翻し、砂塵の荒野のみが広がる大地を、彼は駆け続けた。

 彼は、血と怨嗟が渦巻き、硝煙が燻ぶる、人の心すらも乾いた暴力の世界で、ラブ&ピースを唱え続けた。

 彼は、暴力を振るう誰をも凌駕する力を持ちながら、その力を決して是とせず、己を強者と定義する世界の理に抗い続けた。

 彼は、どれだけ己の肉体に傷跡が刻まれ血を流そうとも、誰かの涙を止めることだけを只管に願い、実行し続けた。

 そんな彼の正体は、ただ一心に人を信じることのできる、底抜けにお人好しで呆れるぐらいに心優しい、稀代の大馬鹿者。

 彼の名は、ヴァッシュ・ザ・スタンピード。

 

 

「眠ってしまったね」

 店主が口にした通り、ナイブズが語り終わると同時に、少女達はまるで糸が切れたように眠りに落ちた。

 余程話がつまらなくて退屈だったのかと思ったが、先程までの昂揚した表情を思い返すに、そういうことではなさそうだ。

「物語を聞き終わって緊張の糸が切れて、眠くなっちゃったのかな」

 ナイブズの疑問を見透かしたように、丈は少女達の寝顔を指してそう言った。そして言い終えるや、寝ている紅祢を起こさないように、そっと彼女が持っていた紙を手の内から引き抜き、ナイブズに差し出した。

「どうぞ、ナイブズさん。妹の筆使い、御覧下さい」

 そういえば、話を始める前に『話を聞いてヴァッシュを書いてみろ』と無茶な課題を出していた。果たしてどんな人物が描き出されているのやらと、一切の期待を持たずに紙に目を落として、思わず言葉が漏れ出た。

「本当に、お前の妹はあいつを知らなかったのか?」

「そんなに似ていますか?」

「細かい所は違うが、似ている」

 深紅のコートに箒のようなトンガリ頭。単純な単語の羅列から、よくもここまで似せたものだと感心する。拳銃の形状、義手や泣き黒子の有無、ピースサインが指を交差させていないなどの誤謬は、ナイブズが語りから省いた部分なので仕方あるまい。

 なによりも一見すると能天気そうな満面の笑顔が、何とも言えずヴァッシュらしかった。顔貌が多少違っても、これだけでヴァッシュだと分かるほどに。

「ありがとうございます。妹の励みになります」

 言って、丈は眠っている紅祢の髪を優しく撫でた。それに倣うように、アマテラスも紅祢の頬を舐めて、布団に寝かし付けるように背に乗せた。

 丈に絵を返し、ぐるり、と自分を囲んだもの達を見渡す。

 アマテラスは紅祢を背に乗せ、ケット・シーは灯里とアイを包み込むように抱き、スミノエは光に肩を貸し、各々が眠る少女達に寄り添っている。当たり前のように人と共に在る彼らの姿に、不自然さや不気味さの類は微塵も感じられない。寧ろ、調和していると表現すべきだろう。

 アイーダがグランドマザーに見守られて店主の膝を枕に寝息を立てているのを見てから、ナイブズは自分を囲う者達に問いを投げ掛ける。

「今度は俺が聞かせてもらおう。我が弟の先達と呼ぶべき、悠久の歳月を人に寄り添い生きて来た人外の者たちよ」

 そこで一度言葉を切り、各々と顔を突き合わせる。誰も何も言わず、ただ、どんな問いも受けようという意気だけは無言の内に伝わった。

 しんと張りつめた空気を、ナイブズの鋭い声が切り裂く。

「お前達は、何故、人間と共に生きている? 何故、人間ではないのに、人間に似ている?」

 ナイブズの質問、特に後半の内容が余程意外だったのか、全員が揃って鳩が豆鉄砲を喰らったような、特にアマテラスはぽあっとした表情になっている。

 驚愕ではなく、呆気。皆一様に、何故そんなことを聞いて来るのかと、問いの答えよりも問いの内容に気を取られている。

「ナイブズ。あなたは、どうしてそんな疑問を持ったの?」

 グランドマザーが、戸惑いながらナイブズの質問に疑問を投げかける。年長者として悠然としていた彼らが、初めてナイブズに見せた感情の揺らぎ。恐らく、ここまで全ては予定通り、想定の範囲内の事柄だったのだろう。

 だが、ナイブズが彼らの内面を図りかねていたように、彼らもまたナイブズのうちに堆積し巨大な一つとなったものを看破できていなかったのだ。

 それも必然。ナイブズ自身とて、それを明確な言語として形を認めたのが、たった今なのだから。

「プラントは……人と共に生きることに、意味や価値があるのか?」

 現代文明の価値観を揺るがす爆弾発言。なにより、ナイブズの過去を知悉している店主とグランドマザーは、正しく瞠目していた。

 もしもこの場にノーマンズランドの住人がいて、今のナイブズの言葉を聞いていたら、まず自分の正気を疑い、次に耳の不調を疑い、次に聴覚の狂いを疑い、次に脳の言語野の異常を疑い、次々と溢れ出る疑いの連鎖で気が狂ってしまうだろう。

「俺は、人間はプラントに依存しきった寄生虫にも等しい生物だと思っていた。だが、そうではないのだと、プラントの無いあの街で過ごして思い知らされた」

 自分が口に出した言葉を自分で聞いて、一瞬、ナイブズは自分が狂ったのだと思ったが、すぐにそうではないと思い直す。

 テスラを知ったあの日――150年前のあの日から、既にナイブズはどうしようもないほどに狂っているのだ。今更、狂いようが無いほどに。

「所詮、プラントも元を糺せば人の手によって作られた道具の一種だ。道具が一つ欠けたくらいで、人間社会の生活が不便になろうと、人間という種族の生存は脅かされない。俺が特別な存在だと思っていたプラントは、所詮その程度の存在でしかなかった」

 自らの狂気を支えていた土台、ナイブズ独自の信仰とも呼ぶべき『プラントは優れた存在であり、人間はそれに依存し寄生している害獣』という思想。プラント崇拝派と呼ばれるそれを肯定する人間も少なからず存在した。ナイブズもそれに間違いは無いと信じていた。この星に来て、あの街で過ごすまでは。

 ナイブズは自らの狂気の唯一の拠り所を、自らの思考で破却した。

 ネオ・ヴェネツィアの街に、プラントは必要不可欠の存在ではなかった。ただ、よそにはこういう便利なものもあると、知識に留まる程度の存在なのだ。

 では、その便利なプラントが存在しないことで、ネオ・ヴェネツィアは社会システムや人間の生存に著しい欠陥を抱えているか?

 答えはノーだ。ネオ・ヴェネツィアの街は極めて穏やかで緩やかな時が流れ、文化的な生活が営まれている。

 プラントが無くても社会は成立し人間は生存できる。ネオ・ヴェネツィアの歴史と存在はその何よりの証左だ。

 ノーマンズランドでプラントが必要不可欠だったのは、単にあの星の環境が生物の生存にとって苛烈であったから。プラントに頼り縋らねば、原住生物の砂蟲以外のあらゆる生物の生存が不可能なほどに。

 あの星への不時着が意図的ではなかったにせよ、ナイブズが導いた環境、ナイブズが強いた状況でプラントに縋って生き足掻く人間の姿に、ナイブズはこれこそ己の思想の正しさの証明と酔い痴れていたのだ。

 それ見たことか、人間はプラントに群がり貪る醜悪な種族なのだ。自らの思想は正しかったのだと、誰よりもナイブズこそが陶酔していた。だからこそ俺は大墜落を実行したのだ、だからこそ俺は人を滅ぼすのだと、同胞にではなく自分にだけ誇っていた。

 顧みれば自己陶酔と呼ぶことすらおこがましい、自己中心思想による陳腐な思い込みと思考の停止。過去の自分の根幹を成していたアイデンティティをそのように切って捨ててでも、今のナイブズは尚深く思い悩んでいた。

 プラントは人間に作られた道具存在。だったら、どうして――

「どうして俺達は生まれた? どうして自律種(おれたち)は人間に瓜二つで……人間ではなくて、プラント自身の手で産み落とされたんだ? 自律種(おれたち)はなんなんだ? 何者なんだ?」

 ミリオンズ・ナイブズのアイデンティティではなく、プラント自律種 そのものの存在理由、或いは存在価値。

 移民船団にいた頃は、思い悩むどころかそんな事を考えつくことすら無かった。

 ノーマンズランドにいた頃は、この力を揮って人間を鏖殺し同胞を解き放つことこそが、自らの信仰にも見合った自律種の存在意義と信じて疑わなかった。

 だが今は、全く分からない。何の見当もつかない。

 プラントの機能や性質や用途など、様々な要素を突き合わせても、自律種が誕生する――或いは生産される――理由が何も見出せない。寧ろ人間はおろかプラントにとっても自律種の存在は不必要であり、生み出す必然性など無かったはずなのだ。

 しかし現実には、ナイブズの他にもヴァッシュやテスラなど、何人もの自律種が生まれている。地球連邦全体では何百、もしかしたら何千何万と存在しているのかもしれない。

 あれだけ確かだった自分の存在が、まるで不定形のアメーバにでもなってしまったよう。

 それでも知りたかった、確かめたかった。自分達が生まれた意味を。その有無を。

 ヴァッシュよりも長き時を人に寄り添い生き続けて来た、自律種とは異なる人外の者達。彼らならばこの疑問に答えをくれるのではないかと、ナイブズは期待した。

 本当は誰かに打ち明けるつもりなどなかった。遠回しな質問をして自分自身でいつかケリを付ければいいと思っていた。だが、自我を持つ同胞と未だ幼き同胞。彼女達との出会いが、ナイブズを揺るがした。

 プラントとして非常に稀有な存在――同胞にして先達たるグランドマザー。彼女とその理解者たちならば、答えをくれる可能性は大きいという期待。愚かな己を、昔とは違っていると受け入れてくれた幼き同胞の未来の為になればという淡い希望。それらの感情が、ナイブズを突き動かした。

 問われたグランドマザー達は暫く思案気だったが、ふと何かに気付いたようだ。

「あなたはどう思う? アイーダ」

 グランドマザーが呼びかけると、何時の間にか寝たふりをしていたアイーダがむくりと起き上った。

「起きていたのか」

「うん。プラントが人と一緒にいる意味は~ってところから」

 悪戯っぽく笑いながら、悪びれた様子は一切無い。しかし、困惑も戸惑いも見られない。ナイブズの問いを聞き、理解した上で、この少女の瞳は迷いを映さない。

「私は、プラントが人間と仲良くなりたかったんだと思う。だって、人間と同じ姿なら人間と一緒にいやすいし、普通のプラントのみんなより、もっと仲良くなれると思うの」

 揺らぎも迷いもない、真っ直ぐな声が、目が、言葉が、ナイブズを貫いた。

 生態系や環境の連鎖が必然的に導く共生とは違う。理性と知性によって導き出される協調とも違う。

 仲良くなりたい。一見単純なようで、理性や野生を超越した、両者の間の積み重ねがあって初めて誕生する、好意という感情の発露、その発展。

 理屈でばかり考えて、プラントの感情を一切考慮していなかったナイブズは、アイーダの言葉に唖然とした。同時に、そうなのかもしれないと納得した。

 プラントが自らの意志で自律種を生み出した。そこに合理性は無かったが、プラントが人間と仲良くなりたいという一心で生み出したのなら、なるほど、説明がつく。

 理や利を一切伴わない行動の根源は感情にある。自分達兄弟を愛し育ててくれたレム。ラブ・アンド・ピースを唱え続けるヴァッシュの生き様。コンラッドが受け入れてくれた時に涙を流した幼き日のナイブズ。

 ナイブズの脳裏をかすめる彼らの姿が、アイーダの考えを肯定する。

「私もそう思うよ。でなければ……いや、だからこそ、アイーダという特別な存在は生まれたのだから」

 店主がアイーダの言葉を肯定すると同時に、そのようなことを言った。遠回しな表現で話し相手の興味を惹き、話に引き込む常套手段。

「どういうことだ?」

 この場にいるのは自我を持ったプラント、プラント自律種、ケット・シー、海の國の王、天の慈母とも呼ばれる摩訶不思議な狼。誰も彼もが特殊で特異な存在だというのに、その中で尚、アイーダの何が特に別だというのか。

 問いを返されて店主はいつものように何も言わずに頷いてから、アイーダに答えるよう促した。

 アイーダも自覚している、彼女の特別さとは何なのか。

「私のお母さんは自律種(インディペンデンツ)で、お父さんは人間なの」

 ホワイトアウト。頭の中が真っ白になり、視界まで白く染まったような錯覚に陥る。

 それほどの驚愕、それほどの衝撃。

 アイーダがさらりと口に出した言葉は、ナイブズにとって予想も予測も予期も及ばないものだった。

「人間とプラントの、ハーフだと……!?」

「うん」

 あっさりとした肯定。ナイブズの驚きようが余程おかしいのか、アイーダは笑みを浮かべている。それとも、自分の出自がそれ程誇らしいのか。

「人類とプラントの種族を超えた愛の結晶、相互理解の掛け橋、未来への希望。まだ公にはされていないが、知る人が皆そんな風に言うぐらい、アイーダは特別な子だ」

 店主の澱みない補足。列挙される言葉からも推し測れる、人々とプラント達の期待、幼き同胞に託された未来への希望。数多の願いと祈り。

「………………………………そうか」

 人とプラントの共存。人がプラントに依存する、プラントが人に酷使される、そんな光景ばかりを見て来たナイブズにとって、それは途方もない夢物語だと思っていた。だが、そうではなかった。人とプラントが本当の意味で共に生きていく未来への道筋は既に存在していたのだ。今、目の前に、夢と希望は確かに息づいているのだ。

「ありがとう」

 唐突に、アイーダがナイブズにお礼を言って来た。なんら心当たりの無いナイブズは、ただ戸惑うばかり。

「なにがだ?」

 あまりにも分からないものだから、眉を潜めて聞き返す。一体何に対して礼を言ったというのか。

「笑ってたから。私の事を喜んでくれたってことでしょ?」

 微笑みを浮かべて告げられた言葉に、ナイブズはとっさに自分の口角に手を当てた。今更確かめても、驚いた拍子に下がっているのに決まっている。

 笑っていた。その事自体は別段驚くことではない。ナイブズだって笑うことぐらいはある。但し、この150年、狂気以外の感情を発端に笑った覚えがない。

 先程のナイブズの裡に有った感情は、狂気ではない。

「礼を言われるような事ではない。ただ……」

 未来への希望。ヴァッシュが今も、かつては自分自身も願った夢の実在が――

「嬉しくて……笑っただけだ」



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#17.夢か現か幻か

今回ナイブズは登場しません。


「夢を……見てたのかなぁ」

 朝目が覚めて、真っ先に思い浮かんだ言葉が、そのまま口から出た。

 今いるのはARIAカンパニー2階の下宿部屋のベッドの上で、服は寝間着。けれど昨夜は、深夜に洋服に着替えて出かけてそのままだった。寝間着に着替えた覚えはおろか、下宿先であるこの部屋に戻った記憶すら無かった。出掛けた先で眠ってしまった覚えならある。寧ろ、昨夜の出来事は鮮明に覚えている。

 アリア社長に誘われて、アイちゃんと一緒に真夜中の街を走る銀河鉄道に乗った。海上を走っている時は、真っ暗な海に星空が溶け込んで、まるで本当に銀河を旅しているようだった。

 そして、銀河鉄道が辿り着いたその先は――海の底の龍宮城。

 そこで出会ったのは、新しい友達のぴかりちゃん、赤い化粧で彩られた綺麗な白い犬のシロちゃん、龍宮城の龍神様、グランマの家で出会ったアイーダちゃん、いつも唐突に会うナイブズさん、昔話をしてくれたお爺さん、体が丈夫な丈さんと絵が上手な紅祢ちゃん、そして、とっても大きな“人造の天使(プラント)”。

 服を着替えて、朝食を済ませて、身支度を整えて、アリシアさんに挨拶をしてから出掛けるまで、昨夜の龍宮城で出会った人々を思い出して、そのまま出来事を思い返す。

「そういえば、私、ほとんど何もしてなかった」

 今更ながらに気付いて、がっくりと項垂れる。

 新しい友達が出来た事は、それだけでも喜ばしい事だ。ただ、折角素敵で不思議なことに出会えたのに、それをちゃんと味わえなかったのが勿体なく思えてしまうのだ。

 あの日したことは、2つの物語に耳を傾けたこと。たったのそれだけ。それだけなのに、身動きを忘れてしまう程、大きな体験だった。

 だが、ネオ・ヴェネツィアの街を歩いていると、その実感が徐々に褪せていく。

 命の根付かぬ星だった火星を、命を育めるアクアへとしてくれた火星の慈母(グランドマザー)と呼ばれる人造の天使(プラント)

 水の一滴も無く、渇き切った暴力の星でラブ・アンド・ピースを唱えて駆け続けた、お騒がせな心優しいガンマン(ヴァッシュ・ザ・スタンピード)

 彼らの物語と、今のネオ・ヴェネツィアの街には、結びつくものが見出せない。同じ世界で実際に存在する人々の話だったのに、自分が今いるこの場所は、この街は、彼らの生きる場所とはまるで別世界のよう。

 あの物語は、語り部たちの空想か、それとも、自分自身の妄想だったのではないか。聞き入っていたあの時の昂揚が、そんな風に思えてしまう程。

 夢だったとは思えない。幻だなんて思いたくも無い。けど、本当にあったことだったのか、だんだん分からなくなってきた。

 あんなに鮮明だった昨夜の出来事が、今はもう遠い日の思い出のよう――……

「こんにちは」

「はひっ!? こ、こんにちはっ」

 突然、挨拶をされて、驚きながらも反射的に返事をした。

「こんな所にお客さんとは珍しい。あまり珍しいので、声をかけてしまったよ」

 こんな所。珍しい。それらの言葉が気になって辺りを見回すと、全く見覚えの無い場所にいた。

 考え事をしながらぼーっと歩いていたのがいけなかったのか、目的地とは全く違う場所に着いてしまっていた。

 ネオ・ヴェネツィアは迷路のように入り組んでいるとはいえ、もう1年以上も住んですっかり馴染んで、自分も今や立派な街の住人だと思っていただけに、迷子になってしまった事は少しショックだった。

「ひどく汗をかいているね。冷たい飲み物でも出そう」

 言われて、汗が顔中をだらだらと伝っているのに気付いた。体も汗びっしょりで、背中にシャツがくっついてしまっている。

 ぼーっとしてしまったのは、この暑さのせいだ。寧ろ、炎天下に考え事をすればぼーっとしてしまうのは当たり前。

 そんなことを考えながら、慌ててハンカチを取り出して顔の汗を拭う。すると、水の入ったコップとタオルが差し出された。

「店で、休んでいくかい?」

 声の主は、老人だ。あの日、いや昨夜に龍宮城で出会った、昔話のおじいさんだ。

「あなたは、昔話のおじいさん!?」

「まさか昨日の今日で会うとは思わなかったよ、水無灯里さん」

 灯里の素っ頓狂な呼び方にも一切動じず、おじいさんは柔らかな笑みを湛えていた。

 後ろにあるのは店らしいが、看板はボロボロで、何が書かれているのか所々掠れてしまって殆ど読めない。辛うじて『雑貨』の文字だけが判別できるぐらいだ。

「お店屋さん……ですか?」

「うん。この“境”で店を営んでいるから、皆からは『店主』と呼ばれている。目当ての店とは違うだろうけど、目当ての物があればお出しするよ」

 すらすらと述べながら、店主はごく自然に灯里を店の中へと誘う。その言動にあまりにも澱みや躊躇いが無いものだから、逆に灯里の方が躊躇してしまう。

「えっ……と、あの、どうして私が買い物に来たって、分かったんですか?」

「今日は私服だし、小物が入れやすそうなバッグも持っているから、なんとなくね」

 さらりと答えて、店主は扉を開けて店の中に入る。灯里は店の外から、恐る恐る、店主に答える。

「新しい風鈴を、買いに行くところだったんですけど……」

「それは良かった。調度今朝、新しい物を仕入れたところだよ。どうぞ」

 おずおずとした言葉に、滔々とした言葉が返る。何故だか申し訳なさを感じてしまうほど、灯里は店主に対してびくびくしていた。

 怯えや恐怖ではない。ただ、店主が本当に現実の人なのか、本当は夢の中の住人ではないか――などと疑ってしまう性質の悪い妄想が、今日に限っては灯里の中で燻っていた。

 まずは、受け取ったタオルで汗を拭ってさっぱりして、貰った冷たい水を飲んで一息吐いて、そのまま大きく深呼吸。新鮮な空気を胸一杯に吸って、自分の中に溜まっていた悪い考えを吐息と一緒に外へと吐き出す。

「お邪魔しますっ」

 コップを両手で持ったまま、大仰なぐらいに一礼してから、店へと足を踏み出した。

 店は古びた木造建築。灯里が足を踏み出すだけで、キシ、キシ、と、靴音とは異なる、木の軋む独特な音が鳴る。コンクリート等とは異なる木製の床に独特の弾力を、靴を挟んだ足の裏に微かに感じる。

「ようこそ、いらっしゃいませ。久方振りのお客様」

 店主にコップとタオルを返して店の中へ入ると、目に飛び込んできたのは所狭しと並べられた古今東西の様々な品物。商品棚からはみ出して、床に直接置いてある商品の上に、また別の商品まで置いてある。

 どれもこれも、灯里では何に使うのか一目ではわからないものばかり。いや、ちゃんと目を凝らして探してみれば分かる物もあるのだろうけど、如何せん、あまりに雑多だ。

 見ようによっては、雑然とした粗末な店舗。見ようによっては、まだ見ぬ財宝で溢れた宝物庫。

「わぁ~……」

「すまないね、散らかっていて」

「いえ! 見たこともない、色んな物がいっぱいあって、すごいですっ」

 嘆息を漏らして店の中を見渡し、店主の申し訳なさそうな言葉を聞こえていないとばかりに、興奮気味に口走る。

 見知らぬ物事への好奇心に溢れている灯里にとって、それだけこの店は魅力的に映ったのだ。実際、この店に置いてある品は、灯里でなくともこの星の住人の大半が知らないであろう物ばかりだ。

「骨董屋ではないのだが、自然と、昔から置いてある物はそんな風になってしまった。なにしろ、ここには殆ど買い物客が来ない」

「そうなんですか?」

「何分、人が来づらい場所だからね。それでも、こうして時偶、お客様はいらして下さる」

 言いながら、店主は棚からある物を取り出し、灯里の前に一つ一つ、丁寧に並べた。

 並べられたのは、13個の風鈴――いや、夜光鈴だ。こんな時期にも取り扱っているお店があるのかと驚きつつも、商品をじっくり見つめる。

 基本の作りは同一、装飾も殆ど施されておらず極めてシンプル。ガラス部分に白地の体に赤い模様だけで描かれた、動物たちの姿だけが彩りだった。

「きれい……」

 灯里はそれらの夜光鈴を見て、自分でも気付かぬ内に呟いていた。

 球形のガラスに描かれた動物たちには、不可思議な魅力があった。今にも動き出しそうな躍動感とは違う、見惚れるような美しさや目を瞠るような細工も無い。ただ、一つ一つの絵、白地の体の鼻先から紅の化粧の末端まで丁寧に書き込まれたそれらには、見る者の心を掴み、動かす、何かがあった。

 見た目だけでなく、見るだけで伝わるその何かこそが綺麗だと思えた。

 灯里の口から零れ出た言の葉を耳にして、店主は嬉しげに口元を綻ばせた。

「私の旧知の家で作っているものだ。巷では、幻の逸品扱いされているらしい」

 そういえば、つい最近、どこかでそんな話をした気がするが、今は些細なことだった。

 灯里の瞳は夜光鈴の淡い灯りに照らされて、きらきらと輝いていた。その輝きを見詰め返していた。

「おすすめってありますか?」

水先案内人(ウンディーネ)には、この蛇の濡神が良いかな。水を司る神様だからね」

「ほへ~、蛇が神様なんだ」

「昔々の日本では蛇を水の神の使い、或いは水神そのものとして扱っていたんだよ。今ではそういう風習も廃れているがね」

「そうなんですか」

「そうだよ。他にも、例えばこの狼などは、農耕の守護神とも、森の神ともされ――」

 夜光鈴に描かれた13種の動物たち――正しくは、動物の姿をした神様たち――の話を、蛇に始まりすべてを、店主は語ってくれた。

 まるで昔を懐かしむような、何かを噛み締めるような、落ち着いた柔らかな言葉。その一つ一つが心に響き、染み入っていくようだった。

 地球で忘れ去られ、アクアにもしっかりと伝えられず、今にも途絶えてしまいそうな昔話に御伽噺。それらを聞いているうちに、何故か、灯里の胸中に不安が膨らんできた。

 とても摩訶不思議な、本当にこの世界にあったとは思えない物語。もしかしたら本当に、この世界にあったわけではない作り話。

 もしかしたら誰かが、夢と現の境を忘れ、口走っている絵空事……?

「あのっ」

 堪らず、店主の話しを途中で遮ってしまう。自分で声を出しておきながら、灯里は自分で自分の行いに驚いてしまった。

 他方、店主は驚いた素振りも見せず、話の最中に強引に割り込まれたことへの不快感もなく、涼しげな佇まいを崩さない。

「なにかな?」

「私達……昨日、会いましたよね!?」

 突飛な質問に、店主も今度は驚いた。しかし一瞬で思案を終えたか、すぐに頷いた。

「ああ。私も龍宮城に行ったのは久しぶりだったから、よく覚えているよ」

「よかった……」

 期待通りの答えを聞けて、堪らず安どの溜め息が出る。

 あの日あの時あの場所で、出会った人々、耳を傾けた物語は、夢や幻では……――

「けれど、あれは本当にあった事なのだろうか?」

「え?」

 唐突に、店主は自らの言葉に疑問を投げかける。まるで、灯里の内心の不安を見抜いているかのように。

 本当に、あの日あの時あの場所で、自分たちは出会っていたのだろうか?

「もしかしたら、君と私が同じ夢や幻を見ていたのかもしれないし、大がかりな舞台装置を本物と勘違いしたのかもしれない。……いや、本当にあったことだとしても、だ」

 店主は一度言葉を切り、灯里の目をまっすぐに見詰めた。

「私達しか知らない事は、私達が忘れてしまえば、私達がいなくなってしまえば、他の誰にも知られることなく……何も無かったものと同じになる。それは、この(うつつ)にはじめから無かったことと――夢や幻だったのと同じではないだろうか?」

 昨日の出来事だけではない。それまでの日々も、今この時さえも、夢や幻と変わらない。

 考えたこともなかった言葉を聞かされて、灯里は心臓を鷲掴みにされたような錯覚に陥った。

 言い当てられた不安と得体の知れない恐怖が、心臓の鼓動を不自然に加速させて、まるで胸が締め付けられているように苦しい。

 自分がいなくなってしまえば、自分が忘れてしまえば。今まで出会った全てが、何も無いのと同じになってしまう、無かったことと変わらなくなってしまう。

 昨日の出来事に限らず、今、この瞬間さえも。

「……違うと、思います。そんなこと、ありません」

 今の戸惑いと不安も、あの胸の高鳴りも、火星(アクア)に初めて来た時の高揚も、アリシアさん、アリア社長、藍華ちゃん、アリスちゃん、アイちゃん――みんなと出会えた喜びは、共に過ごした日々のあの一瞬一瞬の輝きは、絶対に夢や幻なんかじゃない。

 けど、これらの想いは全部、私一人だけのもの。私がいなくなったら、私が忘れてしまったら、誰にも知られず、本当にあったのかなんて分からなくなってしもうもの。

 それでも、私は知っている。人が、人の想いを知るための方法を。人が、人に想いを伝えるための方法を。

「私、昨日のことをみんなに話しますっ。藍華ちゃんやアリスちゃんには、信じてもらえなくて、呆れられちゃうかもしれないけどっ。きっと、少しずつでもそうやって伝えていけば……ゆっくりでも広がって、みんなの心にも残ると思いますっ」

 知らなければ、それはこの世に存在しないのと同じになってしまうのかもしれない。しかし、それは裏を返せば、一度知ってしまえばそれは確かにそこにあるのだと確信できるということだ。

 なら、みんなに話せばいい、伝えていけばいい。たとえ信じてもらえなくとも、そのことはその人の心の中に残る。もしかしたら、その人がまた別の人に話してくれることもあるかもしれない。

 きっと、そうやって水先案内人の間に広まったのだ。荒野の星で愛と平和を謳い続ける心優しいガンマンの物語は。

 きっと、そうして今も残っているのだ。ボッコロの日の伝承のような、今も伝わる数々の御伽噺は。

 だから、自分もそうすればいい。昨日だけじゃない、今までが無かったことになんてならない。無かったことになんてしたくないから。

 自分でも驚くほどの、感情と言葉の奔流。店主の言葉に刺激されて、気づかぬうちに不安で蓋をされていた奥底の感情が、溢れ出して止まらない。

「……ありがとう」

 言葉の洪水が途切れたのを見計らってか、店主は微笑みを浮かべて言った。

「はひ?」

 突然お礼を言われて、灯里は素っ頓狂に聞き返してしまった。何に対してお礼を言われたのか前後の脈絡がまるで分からず、また、感情の昂るあまり上昇した体温に脳がオーバーヒートでも起こしたのか、今は自分で考える余裕があまりないのだ。

 それを察してか、店主はゆっくりと、丁寧に、穏やかに言葉を紡ぐ。

「知るということは、世界が広がるということ。知られるということは、世界に踏み出すということ。どうか、多くの人々に出会い、多くの物事を知り、その感動を忘れぬ裡に誰かに伝えて欲しい。昨夜の龍宮城の出来事然り、火星の慈母の御伽噺然り、人間台風の冒険譚然り。……そして、これから君が出会うであろう、とても素敵な日々のことも」

 店主の言っていることはよく分からない。けど、なんとなくわかるような気もした。

 この後、また水を出してもらい、一服してから夜光鈴の支払いを済ませた。選んだのはお勧めの通り、水の神様の白い蛇が描かれた物だ。

 すると、店主の態度が急に変わった。

「さて。十分に休めて、目的の品も手に入った。君はそろそろ帰るべきだ。つい長話をしてしまったが、ここは本来、君達人間が長居をしていい場所ではない」

「それって……」

 どういう意味ですか、と続く言葉を出す前に、店主が店の扉を開け放ち、何も言わずに手振りだけで灯里を外へと促す。

 無言の圧力とも言うべきものを、灯里は生まれて初めて経験しているような気がした。このお爺さんとはもっとお話がしたいのに、そういう本心を少しも表に出せない。先程までの親しげな態度との落差から、殊更にそう思ってしまう。

 店主に(いざな)われるまま、灯里は店の扉を潜って外へと出た。

 そして、店の敷地から出たところで、店主が一枚のメモを差し出してきた。

「これは?」

小日向(こひなた)(ひかり)の、連絡先だ」

 お別れの挨拶も言えないままだった、最も新しい友人。

 灯里はメモを受け取ってすぐにその連絡先を凝視して、店主にお礼を言おうと顔を上げた。

 

 其処は、影に覆われた路地裏にひっそりと佇む廃屋。

 壁は所々がひび割れて崩れ、ドアの外れた屋内には打ち捨てられた家具以外には何もなく。人影など、どこにあるはずもなく。

 名前の分からない雑貨店と店主は、忽然と姿を消していた。

 まるで、最初からそこにいなかった――夢か幻だったかのように。

 灯里は、受け取ったメモ紙を持つ手に、ぎゅっと力を込めた。

 

 

 

 

 寄り道せず真っ直ぐにARIAカンパニーへ帰ると、灯里は自分の部屋に入り、ベッドに倒れ込むように寝転がった。

 頭の中がぐるぐるとして落ち着かない。どうにか頭の中を整理しようと、目を瞑って落ち着こうとしているうちに、いつの間にか眠ってしまっていた。体ではなく頭が、いつにないオーバーワークで想像以上に疲れていたらしい。

 一休みしてからお昼ご飯を食べようと思っていたが、開け放たれた窓から見える空は茜色。お昼には遅すぎるし、少ししてから夕ご飯にしよう。

 寝ぼけ眼をこすりながら、まずは服を着替える。寝汗で濡れてしまっていて、このまま着ていたら風邪をひいてしまいそうだ。

 着替えを済ませてから、ベッドの脇に置きっ放しにしていた買い物鞄を手に取り、恐る恐る、中身を確認する。

 中には、ちゃんと夜光鈴とメモ紙が入っていて、自然と安堵の溜め息が出る。

 改めてメモの内容を具に確認する。書かれているのは『小日向光』の名前と住所と携帯端末のメールアドレス、そして携帯電話の番号だ。

 少し考えて、一階に移動し、新しい夜光鈴を飾ってから、固定電話の前に立ち、数度深呼吸。数順の躊躇いの後、意を決して電話番号を入力する。

 十秒ほどの呼び出し音の後、回線が繋がる。映像が出ないのは、どうやら相手がテレビ電話機能の無い携帯電話だからのようだ。

「もしもし?」

 スピーカーから聞こえてきたのは、赤の他人のものではなく、間違いなく昨日出会ったばかりの新しい友人の声。

「えっと……ぴかりちゃん?」

 半ば勢いに駆られて電話をかけてしまったものだから、なんと言っていいか分からず、まずはと彼女の愛称を呼ぶ。

 数秒の間。もしかして、声がよく似ていただけの勘違いかと一瞬不安になったが、それは杞憂。

「もしかして、灯里ちゃん!?」

 耳鳴りがするのはないか、というほどの大きな声が電話の向こうから飛んでくる。声だけでも分かってしまう元気さがなんだか嬉しくて、自然と笑みが浮かんでくる。

「うん、そうだよ。昨日会ったおじいさんに今日も会って、ぴかりちゃんの連絡先を教えてもらったの」

「調度、今ね! みんなに昨日の事を話してたの!」

 灯里の説明が聞こえてないのか、矢継ぎ早に、興奮気味に光が捲し立ててくる。昨日会った時との印象の違いに、ちょっと驚いてしまう。

「昨日の事を?」

「うん。私ね、なんだか、昨日の事が夢みたいだなーって。明日になったら、いつもの夢みたいに忘れちゃうんじゃないかって、思っちゃって……。そこでですね、夢のプロフェッショナルのてこに教えてもらったんですよ! 夢を絶対に忘れない方法を!」

「夢の、プロ?」

「うん! てこは……あれ? どうしたの、てこ?」

「きゃっ、却下ー!! 却下っ! 却下ぁ!!」

 電話の向こうから、光以外の賑やかな声が聞こえてくる。どうやら、夢のプロフェッショナルご本人がそこにいて、本人からNGが入ったようだ。

 友達ならともかく、見知らぬ他人に知られては恥ずかしいこともあるだろう。電話の向こうの騒ぎに苦笑しつつ、落ち着くのを待つ。

「それで、夢を忘れない方法って?」

 向こうの話が纏まったのを察して、元の話の続きを尋ねる。夢のプロフェッショナルについても興味津々だが、本人が恥ずかしがっているのではしょうがない。

 光はすぐに頷いて、夢を忘れないための方法を教えてくれた。

「自分が見た夢を、他の人に話すの。整理して、順序立てて」

「……まるで、物語の語り部みたい」

「あの人たちほど、うまくないけどね」

「私も、そうする。私の友達に、みんなに、昨日の事を話すよ。起きながら寝言言うの禁止!って、言われちゃいそうだけど」

 光と話している内に自然と、今日、店主と話したことが思い出される。

 意地の悪いお爺さん、というわけではなかったのだろうけど、今はそう言ってしまいたい。

 意地悪なおじいさん。夢のプロさんと同じアドバイスをしたかったのなら、私に自分で考えさせるんじゃなくて、直接教えてくれればよかったのに。

「……あの、灯里ちゃん」

 先程までとは打って変わって、恐る恐る、躊躇いがちに光が問いかけてくる。

「なに? ぴかりちゃん」

 その気持ちがなんとなく分かって、灯里は努めて穏やかに応じて先を促す。

「夢じゃ、ないんだよね?」

「……うん」

 きっと、光も不安だったのだろう。昨日の出来事が夢か幻だったんじゃないかって。

「夢みたいだったけど、夢じゃなかったんだよね?」

「うん!」

 だから、嬉しいんだ。昨日の素敵な出来事が、本当だよって言ってくれる人がいることが。

 今日は早速、アリシアさんとアリア社長に話そう。明日は合同練習だから、藍華ちゃんとアリスちゃんにも。

 龍宮城での出来事や、忘れられてしまった火星の慈母の物語、そして人間台風の冒険譚の新しい一節、それから、不思議なお店とその店主さんのことを。

 みんなに話そう。伝えていこう。

 それが、確かにあったのだと。彼らは本当にいるのだと。

 彼らの存在が、みんなの心に残っていくように。

 

「あらあら、どうしたの? 灯里ちゃん。なんだか、とっても嬉しそうね」

「ぷいにゅ~」

「アリシアさん、アリア社長、お帰りなさい! 今日は私、話したいことがたくさんあるんです!」



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#18.夏の青空

今回は暴力描写があります。
そういうものが苦手な方、ARIAとのクロスでそういうことは許せないという方などは、お気を付けください。
とは言っても、誰かが傷ついたりということはありません。


 夏の太陽に照らされ、降り注ぐ光を照り返す水面の煌めきが他の季節に無い華やかさを彩るネオ・ヴェネツィア。そんな表通りから離れた、薄暗く湿った路地の裏を進んだ奥の奥。

 光明と宵闇の境界線を引くような陰影の中に建つ、殆ど読めない看板を掲げた一軒の店舗。その屋根の上に、黒髪の男と金髪の少女が隣り合って座っていた。

 少し離れた家屋の窓や屋根、軒下、路上、等々、所々から猫や火星猫たちがその様子を覗き見て、2人の――ナイブズとアイーダの訓練模様を見守っていた。

「俺の教えられることは、これで最後だ。後は慣れ次第だ」

 アイーダと出会ってから、早10日。竜宮城から戻って間もなく、ナイブズは彼女にプラントの“力”の制御法をレクチャーしていた。というのも、本来彼女が火星を訪れた理由がそのことに起因するというからだ。

 詳しい事情は敢えて聞いていない。関わり過ぎることで、アイーダに悪影響を必要以上に及ぼさないようにという配慮だった。ただ、アイーダから感じる“力”が不安定だということは気付いていたので、それを解決するためだということは察していた。

 どうやら最初の予定ではグランドマザーやアマテラスから教えを受ける予定だったらしい。だが、ナイブズがプラントの“力”の制御に精通していることを知っていた店主からの推薦と、アイーダとグランドマザーからも直に頼まれ、ナイブズが代わりに“力”の制御方法を教えることになった。他ならぬ同胞の頼みとあっては、ナイブズに断る理由は無い。

 研究による知識と研鑽による経験値。それらを惜し気なく注ぎ込み、ナイブズはアイーダに“力”の制御方法を基礎から丁寧に教え込んだ。

 その甲斐あって、アイーダの滞在スケジュールの都合上存在した半月の期限が過ぎるよりも早く、アイーダはプラントの“力”の制御の基礎をマスターした。呑み込みが早いから、ひと月も経たない内に完璧に制御できるようになるだろうと、ナイブズは見立てていた。

「うん。ちゃんと毎日、練習するね」

「そうするといい。ただ、間違っても“力”は全開で開放するな。理性まで吹き飛ぶ可能性がある」

「時々、変なジョークを言うよね、ナイブズって」

「……そうか?」

 出会った頃のぎこちなさも少なくなり、アイーダも今では多少は冗談を口にして笑顔を見せるようになってくれた。尤も、ナイブズには冗談を言っているつもりは無いので、時折感性の噛み合わなさに戸惑うこともあるのだが。

 それでも、ヴァッシュと袂を別って以来、初めて経験する同胞との語らい、穏やかに過ごす時間。同胞の自由を願っていたナイブズにとって、それは夢のような時間でもあった。

 同時に、胸に去来する想いもある。プラントの“力”の研究と研鑽の土台は、夥しい量の人間の死によって成り立っている。そんな血塗られたものを用いて、半分はその人間の血肉を有す無垢な同胞に、何かを教えてよいものなのか。

 ――だが、これ以外に自分がしてやれることは何も無い。

 どれほど考えても、行き詰まる結論は結局同じ。そして、今、自分にできることをしてやりたいという思いが、後ろめたさを凌駕する。これもまた同じことだ。

「火星の空も、地球の空も蒼いけど、ノーマンズランドの空はどうだったの?」

 言われて、ナイブズは空を見上げた。

 水の惑星と砂の惑星。穏やかで静かな街と銃声と喧騒が響き渡る街々。

 違いは数え切れないほどあれど、今目の前には、同じものが一面に広がっていた。

「同じ、だな。同じ青空だ」

 違うものばかりだと思い込んでいたが、いつも目の前に、同じものはあったのだな。

 ふと、青空の中に、より深い蒼の面影が見えた。忘れようもない、あの男。どれだけナイブズがぞんざいに扱おうとも忠義を尽くし続けた、奇妙な人間。

「やぁ、こんな所にいたのか」

「店主さん」

 下から声が掛かり、見下ろすと外出していた店主が戻って来たようだった。以前は月に一度程度の頻度だったのだが、ここ最近は数日に一度の頻度でネオ・ヴェネツィアの街へと赴いている。

「アイーダ、そろそろ帰った方がいい。君のお目付け役がまた痺れを切らせそうだ」

「うん。それじゃあ、ナイブズ、またね」

「ああ。また」

 店主の言葉に素直に頷いて、アイーダは屋根から飛び降りて足早に去って行った。順路は以前に教えてあるし、もう何度も通っているから、今更見送りは必要あるまい。

 去り際、アイーダは一度振り返って、ナイブズに手を振った。こういう時どうしていいか分からず、ナイブズは微動だにしない。その様子が可笑しかったのか、微かに笑みを浮かべて、真っ直ぐに帰って行った。

 少女の姿が影の向こうへと消えていき、気配も感じられなくなったのを確認してから、ナイブズはあることを呟く。

「……やはり、地球でもプラント自身による能力制御は未発達らしいな」

「意図的にリミッターを掛けるという発想しか、地球政府と地球の技術者にはないからね。外的な働きかけで不安定な能力を安定させようと必死だったんだよ。それに、君と弟さんが見せた自律種の可能性は、人間が恐怖と脅威を覚えるのに十分だろう」

 敢えて聞こえるように呟いた、敢えて聞かせた。そうしたら案の定、店主は問い質してもいないのにすらすらと地球側の事情を解説した。ノーマンズランドでの事件も含めて。

 ナイブズも図書館などで情報端末を利用して、地球連邦政府の開示している情報や民間企業のニュースサイトなどを不定期にチェックしている。その中に、プラント自律種と人間とのハーフの存在や、ノーマンズランドでナイブズが起こした人類との決戦に纏わる情報は一切開示されていない。

 ノーマンズランドについても、1世紀半以上も連絡が途絶していた船団の末裔達と奇跡的に邂逅を果たした――といった旨の報道にのみ限定されていて、それ以上の情報はネットワーク上に転がっていない。ナイブズの行動が情報統制を徹底させるほどだったということもあるだろう。

 なのに。目の前のこの男は、さも当然のように語ってみせた。ナイブズのみならず、ヴァッシュの“力”の使い方についてさえも。

「お前は何者だ?」

「この店の店主だよ。探し物と調べ物が得意なのは、取り柄だと自負している」

 猜疑の瞳で睨んでも、店主は平素と何ら変わらない。取り柄の詳細を詰問しても、はぐらかされて終わりだろう。

 少し前までは気にも留めていなかった。しかし今は、この男の正体が気になっている。

 ナイブズよりも永い時を生きる人外の存在でありながら、人と何ら変わらない気配を持つこの男は、いったい何者だというのか。今までどのような意図で、ナイブズを居候させ、また仕事をさせていたのか。

 それを知る日は――きっと、いつか来るのだろう。少なくとも、ナイブズがこの店に逗留している限りは。

「君に仕事を頼みたい。この時期に街に流れている、ある“噂”。その怪異が人々に手出しをしないよう、君にも見張ってほしい」

 唐突に、店主が仕事を放り投げてきた。いつものことではあるのだが、今回ばかりは眉を顰めた。噂に怪異など、こんなにも要領を得ない仕事内容は初めてだったのだ。

「怪異?」

「いわゆる、おばけだよ」

 

 

 

 

 ネオ・ヴェネツィアの七不思議、その内の一つは夏の時期に限定されるものであり、いわゆる怪談である。

 遡ること中世は地球のヴェネツィア共和国。サン・マルコ広場は当時から街の表玄関として扱われ親しまれていたが、罪人の公開処刑場としても使われていた。これは、娯楽に乏しい当時、公開処刑が大衆娯楽としての側面を有していたことにも起因するという。

 ギロチンが罪人の首を落とし、観衆が異様な熱気に包まれる。そんな夏のある日、一人の女性が刑を執行された。罪状は詳しくないのだが、こんなエピソードだけは今も残されている。

 女性は処刑後に自分の遺体をサン・ミケーレ島に埋葬してほしいと願い出た。だが、当時の墓所は過密状態、何より極刑に処されるような罪人の願いが聞き入れられるはずもなく。刑の執行後、女性の遺体はその他の罪人たちと同様に処理された。

 しかし、それを無念に想ったのか。以来、夏になるとサン・マルコ広場の巨大な支柱に黒い喪服の女性の姿が見られるようになった。その女性は夜、一人で舟を漕ぐゴンドリエーレに声をかけ、サン・ミケーレ島に連れて行ってほしいと頼むという。

 その願いを聞き入れなければ、それでお終い。だが、万が一聞き入れてしまえば

 

 神隠しに遭い、そのゴンドリエーレは二度と戻って来られない。

 

「……というのが、黒衣の君という、ネオ・ヴェネツィアにも伝わっている怪談です」

「そうか、参考になった」

 道すがら、アテナからネオ・ヴェネツィアの夏の怪談――店主の言っていた噂話ついて聞き出し、その内容を把握する。都市伝説や民間伝承の類のようだ。

 態々街に出てアテナに訊く羽目になったのは、店主が頑なに噂話の詳細を説明することを拒否したからだ。「ここ最近はアイーダのために籠り切りだったから、気分転換も兼ねて、偶には私以外から話を聞いてみてはどうかな?」と。

 普段は頼まなくても勝手に喋るような男だというのに。竜宮城での一件で、余計な気回しでも始めたようだ。

 そんな次第で街に出て、誰に話を聞こうかと思案しながら歩き回っていると、偶々アテナの姿を見つけた。

「いえ。私こそ、助けてもらいましたから」

「知っている店に行くのになぜ迷う?」

「さあ……? どうしてでしょう?」

「俺に分かるか」

 案の定と言うべきか、アテナはまたも道に迷っていた。うっかり別の店と間違えてしまい、待ち合わせの喫茶店がどこにあったか分からなくなってしまったのだという。

 この街に来たばかりの頃――カーニヴァルの時と同じように、道案内の交換条件に噂話の内容を聞くということになった。アテナならばこのような交換条件が無くとも話してくれただろうが、この方がナイブズも気楽だった。

 目的地の喫茶店の中に入ると、見知った顔が出迎えた。

「よ~やくお出ましか、アテナ」

「ナイブズさん、ありがとうございます」

「すでに案内の対価は得ている」

 暑さにうだれたのか、覇気のないけだるげな声で晃が呼びかけ、アリシアは席を立って丁寧に頭を下げた。見事なまでに対照的だ。

「なんだ、アリシアもこいつと知り合いだったのか?」

「前に、アテナちゃんと一緒に夜光鈴を買いに行った時に、偶然ね」

「ではな」

 ナイブズは用が済むと、短く告げて踵を返して店を出た。向かう先はサン・マルコ広場だ。ここからは少々距離があるが、そう急ぐ必要はあるまい。

 アテナは席に着く前にナイブズへお礼を言って、すぐに話の輪に加わった。ナイブズの話題はすぐに逸れて、外へ出る頃にはレデントーレという祭りと3人の後輩たちへの指導についての話に変わっていた。

 ここからサン・マルコ広場へ行くには大運河を渡る必要があり、渡し舟――トラゲットを利用することにした。漕ぎ手の2人はあゆみとアトラ、見知った2人だった。あゆみに手を引かれて、他の乗客と共に黒い渡し舟へと乗り込む。

 昔は、人混みを汚物に群がる蛆虫の大群のように感じていたが、今はそう思うことも無い。人の呼吸が、生きているという息吹が、今まで聞こえなかったものも聞こえてくる。

 対岸へ渡ると、あゆみとアトラ、そして杏とも短く言葉を交わす。アイや白い犬――アマテラスのことだろう――と共に灯里を探していたことを覚えていて、無事に会えたのかと心配そうにしていた。結局はその日は会えなかったが、アマテラスが気を利かせたこと、後日に会っていたことを伝えると、安堵の溜め息を吐いた。顔見知り程度の相手にも親切なことだ。

 去り際、あの日のナイブズのことが妙な噂になっていることを教えられた。「俊足の犬と同じ速さで走る黒髪の超人現る!」とごく一部で話題になっているらしい。というのも、杏とアトラの指導官にあたるプリマが、舟を追い越して水路の段差を跳び越えるナイブズを目撃していて、そこから話が広まったのだという。そういえば、あの時に白い舟を追い越した覚えがある。こんな風に変に噂が立っては動き辛くなる。これからは自重すべきことだろう。

 杏の交代の時間が来たということで、3人は小走りで持ち場へ向かい、ナイブズもサン・マルコ広場へと向かう。

 道中、灯里たちと出くわした。雑貨屋から出てきて、3人とも両手で買い物袋を抱えている。アリシアと晃からレデントーレという催し物を行うよう指図され、その準備のために奔走しているところだという。喫茶店で話していたのはこのことだったのだろう。

 レデントーレとは屋形船という特殊な船を用いて行われる祭りらしく、ネオ・ヴェネツィアの夏を代表する祭事の一つらしい。招待制ということで、ナイブズには縁の無い祭りだろう。

 話が落ち着いてナイブズが立ち去ろうとすると、灯里が叫ぶような声で呼び止めて来た。灯里のらしからぬ大声に思わず足が止まり、振り返る。

「あ、えっと、その……ナイブズさんっ。竜宮城のこと、覚えてますか?」

「忘れられるはずがない」

 問われ、即座に返す。愚問とまでは言わずとも、何を言い出すのかと思えばこんなことか。

 ナイブズは平素と変わらず、しかし今の返事を聞いた藍華とアリスは目を点にしている。今にも脱力して、買い物袋を落としてしまいそうなほどだ。続けて言葉の来る気配も無いことから問答を打ち切り、サン・マルコ広場へと向かう。

 去った後、灯里が質問攻めにされたことは知る由もない。

 その後も、今日は妙に見知ったものたちに出会った。

 買い出し途中のアルと出くわし、地下の見学は夏が終わったころにと約束を取り付けた。今日はアイーダの火星体験プログラムがノームの職場見学ということもあってそれとなく聞いてみたが、末端にまで話は行っていないようだ。だからこそ、アルたちは今日に限って買い出しの量が多くて苦労しているのだろう。

 サン・マルコ広場の手前では待ちぼうけを喰らっている暁に絡まれ、サン・マルコ広場に入る時には上空をウッディの乗ったエアバイクが駆けて行った。

 本当に、今日はよく人と出会う日だ。お蔭で、ここまで来るのに随分と時間が掛かってしまった。

「やあ、遅かったね。話は聞けたかな?」

 遅かったせいか、店主に待ち伏せをされていた。態々折り畳みのイスまで用意して、腰掛けて本を読んでいた。

「……俺が来る必要はあったのか?」

「私にも、この時期は用事がある。見えるかい?」

 ナイブズのやっかみもさらりと受け流して、店主は本を閉じてサン・マルコ広場を指した。言われるまでも無く、既に見当はついている。

 サン・マルコ広場にある石柱の内、頂上に有翼の獅子を頂く柱の根元にある段差に腰掛けている、真夏の日差しを意に介さない全身を黒で覆った――顔も黒いヴェールで覆っている――白い、血流の止まった死人のように青白い肌の喪服の女。

「確かに、人間ではないようだな」

 猫の國の住人達を始めとしたナイブズが今まで見て来た人外のものたちとは、全く異なる異質な気配、存在感。感知することは容易かった。

 噂の通りならば、大昔の地球で死んだ罪人が態々火星にまで引っ越してきたということになるが、建物の移築の際に、ゴキブリなどの虫のように一緒に紛れ込んできたのだろうか。

「そして、噂そのままの存在ではあるのだが、霊魂では無い」

「矛盾しているな。あれは、大昔の地球で処刑された女の怨霊ではないのか?」

「そう。だからこそ、彼女は噂話そのままの怪異なんだ。噂話のオチとあれの正体については、私から話しておこう。尤も、正体に関しては私の推測だけどね」

 店主の相も変わらぬ迂遠な物言い、自分でやれば済むことを敢えてやらない遠回しなやり方。これは相手に思考や行動を促すものだと気付いたのは、竜宮城での灯里たちとのやり取りを見てからだ。

 何故こんな不確かなやり方をするのかと訝しみ、怪異の噂のオチ、そしてそこから推測される正体についての話を聞き終えてから、ナイブズの裡にある疑問が生じた。

「………………霊魂が実在するのか?」

 最初、怪談や噂話は『あるはずの無いものを、さも実在にするように囃し立てたもの』と認識していたがために、悪霊だの怨霊だのという言葉にもさして疑問も持たず、そういう設定なのだと軽く流していた。

 だが、今の話を聞く限り、店主は霊魂の存在を前提としている。霊魂の実在を確信しているのだ。

「うん。弱々しくて君でも気付けていないようだけど、今も君の傍に1人いるよ。この街に来てから……いや、きっと、この星に来るよりも前から」

 返って来た答えは、あまりにも意外なもの。今もすぐ近くに霊魂がいるのだという。曰く、噂の怪異はそういう類のものとして非常に力の強い存在で、ごく僅かでも霊感などの特別な感受性を持っていれば見えてしまう。一方、普通の霊魂は余程強い霊感などを有していなければ目に見えず触れることも感じることもできない。

 だが、確かにそこにいる。ここにいるのだと、店主は断言する。

「……そうか」

 小さく頷き、監視の仕事を引き継ぐ。店主は椅子を片付け本を仕舞って、人混みの中に紛れて消えた。

 自分に纏わりついているという1人の霊魂。それが本当だとして、一体誰だろうか。少なくともレムやコンラッドではあるまい。なんとなく、そういう確信がある。ナイブズに殺された人間の怨霊ならば納得できるが、果たしていったいどの人間やら。

 それに、テスラ。生前の、元気だった頃の姿で俺の前に現れ、あそこまで導いた君は……俺に何を伝えたかったんだろうな。

 日向に座る怪異を視界に収めつつも、ナイブズの意識は暫く、己の影の中にあった。

 

 

 

 

 ナイブズがサン・マルコ広場を訪れたその日から、噂話の怪異(おばけ)“黒衣の君”の姿は毎日見られた。

 日が暮れて、日が落ちて、夜が更けて、夜が明けて、日が昇っても変わらない。かと思えば、瞬きの間に姿を消して、辺りを見回す内にいつの間にか元の場所で座っている。

 幽霊とは薄暗い時間帯から真っ暗な真夜中のものだというイメージが漠然とあったが、どうやらそういうものでは無いらしい。件の怪異も、姿がよく見たら透けているとか、影が無いとか、そういうことも無く、一見するとただの人間と変わらない。

 ただ、大勢の人間の中、ポツンと空いた昏い洞のような黒い穴。その存在感は異様であった。尤も、まっさらな土地の中に湧き出た赤黒い血の沼のような自分が言えた義理ではない、と内心で自嘲する。

 様子を観察すること2日目にして、怪異への人間の反応が2種類に大別できた。

 怪異の存在に気付いているものと、怪異が存在していることに気付いていないもの。これは人間だけでなく、火星猫等の動物にも当て嵌められた。

 怪異の存在に気付いた動物たちは一目散に逃げ出し、或いは威嚇してから去っていく。人間もごく稀に気付くものがいるが、遠目に眺めるだけで、やがて視線を外していた。

 一方の怪異の方は、何か品定めをしているようにも、ただぼんやりと存在しているだけにも見えた。

 ナイブズが見張っているからか、それとも何か別の要因でもあるのか、怪異は何の動きも見せないまま、光陰が矢の如く過ぎ去っていく。

 特に危ないのは人気の少なくなる夕方以降だということで、夜を中心に見張りを続けているが別段変化は起こらず、このまま何も起きないのではないかとナイブズが思い始めた、あくる日の夜。

 人影が疎らになってきたサン・マルコ広場の柱の傍に、怪異はひっそりと佇んでいる。その前を、一艘の白い舟が通りかかった。操り手は、白地に黄色いラインのあしらわれた制服の水先案内人。褐色の肌に銀の短髪。見間違えようもなく、アテナ・グローリィに相違なかった。

 視線を戻すと、怪異の姿が無い。しかし気配は消えていない。もしやと思い、視線を再びアテナの方へ向けると、岸辺に寄っていたアテナの舟に怪異が声を掛けて呼び寄せて、そのまま乗り込んだ。

 水先案内人を、宵闇の彼方へと連れ去るものが、アテナ・グローリィに狙いを定めた。ナイブズの知る人間に。ナイブズに、あの歌を再び聴かせてくれた天上の謳声(セイレーン)に。

 その認識を得たのと同時、ナイブズは行動に出た。

 大地を蹴って、跳躍。走るのではなく、跳ぶ。

 一跳びで、怪異を手の届く範囲に捉える。

「俺が連れて行ってやる」

 返事はおろか反応すら待たず、ナイブズは怪異の首を鷲掴みにして、再び跳んだ。

 取り残されたアテナは、いきなり消えてしまった乗客のことでおろおろしていた。

 まだこの程度は動けるか、と確認し、肉体の衰えを痛感する。

 黒髪化が極限まで進行する前ならこの程度の距離の移動にさして時間は掛からなかっただろうに、今は数分の時間を費やして目的地――“墓地の島”サン・ミケーレ島へと迫っていた。

 一際強く大地を蹴って、対岸から一息に跳躍。着地点は、墓標の立ち並ぶ、その中央。墓地の島という通称そのままに、辺りは一面が墓石と白い花で埋め尽くされている。

 生命に溢れるネオ・ヴェネツィアの街、その死を一点に集約したかのようなこの場所に、ナイブズはある種の懐かしさを感じていた。

 懐かしき死の気配、死の臭い。かつて身の回りに溢れていた、自らが齎していた、人の死、生命の終末。

 そんな感慨に耽った僅かの間に、手の中から掴んでいた感触が喪失され、代わりに、ナイブズの目の前で怪異が身に着けた黒衣を整え、居住まいを正していた。

「私を連れて、自分からここまで来てくれたのは、貴方が初めてよ。男性なのも、人間じゃないのも初めて。こんなに強引だったのも」

 なにが可笑しいのか、けらけらとした笑いを含んだ声で、怪異が告げて来る。

 その時、急に風が吹き、ヴェールがめくれた。

 そこには、何も無かった。ヴェール越しに見えた輪郭や面影、横顔で捉えていたはずの顔が、頭部が、面貌が、何も無いのだ。

 すべては見せかけ。中身も実体も無い、人の形を借りた怪異。店主の言っていたこれの正体に合点がいった。

「私たち、きっとお友達になれると思うわ。だって、貴方……私とおなじだもの」

 おなじ。何がどう同じだというのか。予想も予測もできないが、面と向かってこれにそう言われることは、許しがたいほどに腹立たしい。

「失せろ。でなければ――」

「そんなこと言わないで。私と一緒に行きましょう……?」

 警告を遮って、怪異は、ずい、と詰め寄って、ナイブズの頬へ手を伸ばしてくる。

 この手が触れたら消すか。

 殺せずとも“持って行く”ことはできるだろう、という推測から対応を決めた、正しくその瞬間であった。

「黙りたまえ」

 ナイブズと怪異以外の、第三者の声が響く。同時、怪異の体が頭から縦に押し潰された。その光景に、ナイブズは既視感を覚えた。

 あの時もナイブズは、言うことを聞かず言い付けを守らなかった子供に拳骨を落とすようにして、これをやっていた。あの男に対して。

「愚かしい、上に度し難い。その存在の生死の有無に関わらず、絶殺されて然るべきだ」

 突如として現れた第三の男は、状況を全く呑み込めていない、辛うじて人の形を保っている怪異を見下して、冷淡に告げた。

 その言葉に宿るのは純粋な殺意。その瞳に宿るのは純粋な狂気。この星に、この街に、決してありえないもの。邪悪とは異なる負の感情。

「気が遠くなりそうだよ。この僕の前で、ナイブズ様にお声を掛けて頂きながら、それを無視して詰め寄り、あまつさえナイブズ様を煩わせようなどと」

 膝を折り、押し潰された怪異の上に跨って、後ろから、頭の上から顔を覗き込み重ねて告げる。

 ナイブズの位置からは見えないが、整った端麗な顔貌が――この星の人間にとって――悍ましいほどに狂気で歪んでいるのは想像に難くない。

「ひっ……ひぃぃぃ!?」

 恐怖に慄き、潰れた体で、手だけを必死に動かして這いずる。無様という言葉そのままの姿で、怪異は夜の闇へと消えていった。

「追いますか?」

「構わん」

「は」

 男は指示を仰ぎ、返答を貰えば即座に応じ、すぐさまナイブズの前に跪いた。そうすることが当たり前であるように、ナイブズの従者として、下僕として振る舞う。

 どうやら、幻の類ではないらしい。

「何故、お前がここにいる? ブルーサマーズ」

 レガート・ブルーサマーズ。ナイブズに他の何者よりも心酔し、狂信し、忠誠を誓った人間。

 ナイブズが人減らしのために集めた“よく切れるタフなナイフ”――異常殺人者集団GUNG HO GUNSのメンバーの選定する役目を任せ、特別枠の13(ロストナンバー)12(ラストナンバー)を除いたメンバーへの指揮権と粛清権を与えていた、いわば腹心とも言える存在。

 無論、火星の住人ではないし、ノーマンズランドから来る手立てなどある筈も無い。ここにいるはずの無い人間が、どうしてここにいるのか。

「あの戦いで、私は死にました。ただ……ナイブズ様のお傍にお仕えしたい。その一心で、魂だけと成り果てたこの身ではありますが、この地まで憑いて参りました」

 返ってきた答えは、あらゆる想定を超えたものでもあり、却ってそれしかないだろうなと納得できるものでもあった。

 店主がナイブズの傍に魂がいると言っていたが、それこそがブルーサマーズだったのだ。あの時は人の形を成していないと言っていたが、今はこうしてはっきりと、生前の姿そのままだ。違いがあるとすれば、目を凝らせば向こうの景色が透けて見えることぐらいか。

「今まで意識はあったのか?」

「いえ。朦朧としたまま、漠然と、茫洋と漂っていただけ。つい先程まで、私に“自分自身”という認識さえありませんでした。恐らく、今の時期とこの場所が、私が自分自身を取り戻すきっかけになったのだと愚考します」

「そうか」

 なんとなく、気になったことを訊いてみると、ブルーサマーズは律儀に答える。その答えを聞いて、ナイブズはすぐに興味を無くして素っ気なく返した。

 顔を地面に向けて跪くブルーサマーズと、それを見下ろすナイブズ。両者共に動かず、語らずのまま静止し、刻々と時が過ぎる。

「……ブルーサマーズ。お前はどうやって死んだ?」

 何とはなしに、そういえばこの男は死んでいたのだなと、その死に方が多少気になった。

 かつて人間を徹底して見下し毛嫌いしていたナイブズではあったが、ブルーサマーズの能力については高く評価していた。

 恐らく、GUNG HO GUNSのどのメンバーでも、エレンディラでさえも、この男は殺せない。人間では、この男を殺すことはできない。たとえ軍隊であったとしても、サイボーグであったとしても、改造人間であったとしても、それが脳髄や神経を持つ生物の範疇の存在である限り。

 考えられる死因は地球の宇宙戦艦とナイブズとの砲撃戦の余波、戦艦落下の際の衝撃など、要するに事故死の類だろうと、ぼんやりと予想を立てる。

「は。ヴァッシュ・ザ・スタンピードに、私を殺させました」

 何の確定情報も無しに、勝手に死因を決めつけていた。

 それだけに、ブルーサマーズの口から告げられた予想外の言葉を、すぐに理解することができなかった。

 

 

「なんだと?………………なんだとっ」

 思考が上手く纏まらず、何度も同じ言葉を繰り返しながら、ブルーサマーズへと詰め寄る。だが、今度は即答せず、ブルーサマーズは跪いたまま微動だにしない。

 この男は、ある意味ナイブズ自身よりもミリオンズ・ナイブズという存在を知悉している。

 今、ナイブズが興奮状態であり、何を言っても正常な思考の下に理解をすることができないと見抜いて、押し黙ったまま、一言も発さずに自制を促している。

 そのことに気付き、一度大きく深呼吸。以前――ヴァッシュを方舟に幽閉することになったあの時にも、ブルーサマーズはナイブズの判断ミスによる自滅を未然に防いだことがあった。まさか、こんなことがまた起きてしまうとは。

 呼吸を整え、心の動揺を鎮める。再び、ナイブズはブルーサマーズを問い質す。

「本当か」

「はい」

「どうやったら、あいつが人間を……」

「GUNG HO GUNSを離反し、ヴァッシュ・ザ・スタンピードと行動を共にしていたダブルファングを、クリムゾンネイルの死体を操ってあの男の前で首を絞め、選択を迫りました。ダブルファングを見殺しにするか、僕を殺すか」

 すらすらと、打てば響き呼べば答える調子で、ブルーサマーズは淡々と語った。ヴァッシュ・ザ・スタンピードの信念が折れたその瞬間を、簡潔に、明瞭に。

「……選んだのか、あいつが。自らの手で、人を殺すことを……」

 ありえない。

 信じられない。

 そんなはずがない。

 あってはならいことだ。

 様々な否定の言葉が、次々と思考の奥底から浮かび上がってくる。

 自分が殺されそうになっても絶対に人を殺そうとしなかったあいつが、ミリオンズ・ナイブズさえも赦し救った弟が、150年をかけてラブ&ピースを唱え続け人とプラントの懸け橋となったヴァッシュ・ザ・スタンピードが……人を、殺したなどと。

「はい。かの聖者は、自ら選び、自ら折れました。あの男の心、我が命で以て、確と折りましてございます」

 ブルーサマーズの言葉や態度に嘘は見えない。

 それに、この男はそれぐらいのことはやる。

『ヴァッシュ・ザ・スタンピードに最高の苦痛を与えろ』

 ナイブズが下したこの命令を遂行するためならば、自分の命を使うぐらいはやってのける。ブルーサマーズとはそういう男だと、ナイブズは知っている。

 ならば、ヴァッシュが人を――レガート・ブルーサマーズを殺したということは、事実なのだろう。

 それはつまり、ヴァッシュはあの時、想像を絶する挫折と絶望を乗り越えて、立ち上がって来たということだ。

 そう考えたら、不思議と笑えてきた。天を仰ぎ、笑い声を漏らす。

 ヴァッシュよ、お前は本当に凄い奴だよ。俺は一度折れただけで、このザマだと言うのに。

「まさか、お前がそこまでやっていたとはな」

 ナイブズでも遂に成し得なかった、ヴァッシュの心を折るというある種の偉業。それを成し遂げていたとあっては、この男の評価を改める必要がある。

「ナイブズ様……?」

 隠しようの無い困惑を顔と声に表わして、ブルーサマーズが顔を上げる。ナイブズも上に向けていた顔を下ろす。いつ以来か、2人の視線が交錯した。

「よくやった。俺の想像以上の働きだ」

 この男には、何一つ期待したことが無かった。こと、最終決戦におけるヴァッシュとの戦いにおいては、地球からの艦隊を殲滅するまでの時間稼ぎになればいい、という程度の認識だった。

 それが、足止めも果たしたうえで、ある意味では勝利以上の成果を上げていたのだ。一言、褒めるぐらいはしても良かろう。

 そんな軽い気持ちで発した言葉だったのだが。

 数秒の間を置いて、その言葉を受け取ったブルーサマーズはボロボロと泣き始めた。

「……何故、泣く」

「も、もうし……申し訳、御座いませんっ。た、ただ……褒めて、頂けるとは……っ……夢にもっ、想わず……っ。申し訳っ、ございませんっ……! ナイブズ様の……っ、御前でっ、このような……醜態っ、をっ」

 滂沱の涙を流しながら、嗚咽交じりに返って来た言葉に、つい溜め息が出る。

 忠誠を誓うのは勝手だが、こうやって一々大仰で大袈裟な反応があるから、この男は鬱陶しいのだ。

「泣くな。話ができん」

「はっ……はいっ」

 ナイブズが一言命じても、完全に泣き止むまでに1分ほどかかった。

「そういえば、お前と会った時にもこんなことがあったな」

「はい、覚えております。ナイブズ様にお仕えすることを許して頂いた時に。それから……私が、名前を賜った折に」

 ああ、そうだった。この男のレガートという名前は、自分が名付けたのだった。

 ナイブズの持つプラントの“力”による人類の駆除。その肩慣らしとして街を一つ切り刻んだことがある。その時に、ナイブズは名無しの少年と出会った。

 本当なら、首を刎ねるつもりだった。未知の生物と言っても過言ではないプラント自律種の肉体を操り、一度ならず二度までも絶対的な死を免れて生き延びた、その特殊な技術と技量と才能は、育てばあらゆるプラントの脅威になる恐れがあった。

 だが、あの時ナイブズは気まぐれを起こした。目に涙を湛えながら浮かべた、絶望と安堵の入り混じった微笑みがそうさせた。

「名無しのまま呼び名が無いのは不便だと、適当に名付けた。それだけなのに……何故、お前は泣いた?」

「うれしくて、うれしくて……溢れ出す感情が止められず、そうしましたら、涙まで溢れて来てしまい……。申し訳御座いません、幾度もナイブズ様の御前で汚物を垂れ流すような行為を」

「構わん。今は、そう思うことはない」

 先程のやり取りと似たようなことを、昔もしていた。すぐに気付かなかったのは、あまりにも状況が、ナイブズの心情が違っていたから。

 あの時は、人間の流す涙など垂れ流す糞尿と等しい汚物の如く嫌悪していた。

 今は、人間の流す涙からその感情を慮るようになっていた。

 ナイブズの心証に、これほど大きな変化が生じたその原因は、言うまでもなく。

「俺は、ヴァッシュに負けた」

 告げられた言葉に、ブルーサマーズはぎょっと目を瞠ったが、やがて、寂しげに、悔しげに、すっと細めた。

「……やはり、そうでしたか」

「気付いていたのか?」

「はい、感じていました。ここに来てから、ずっと……ナイブズ様の周囲に、ひとの息吹を。そして、ナイブズ様が、私を含む人類へと常に向けていた、殺意や憎悪が……消えて、いることも」

 ミリオンズ・ナイブズがそれほど変節した原因は、ヴァッシュ・ザ・スタンピードに敗北した以外にありえない。

 この男は、やはりナイブズ以上にナイブズのことをよく分かっている。そんな男からこう言われて、改めて、ナイブズは自分自身が大きく変容したのだと気付いた。もう人類を憎悪していないと、当の人間から言われても、何ら込み上げて来るものが無いほどに。

 ナイブズは表情を変えず、ブルーサマーズは悔しげに顔を俯け、2人は無言のまま動きもせず、暫く時が過ぎた。

 突然、火薬の炸裂音が響いた。

 ナイブズとブルーサマーズは同時にその方向を注視し、どこからの砲撃かと目を凝らす。

 砲弾の風切り音が微かに聞こえるが、とても武器としては使い物にならないほど遅い。なにより、何時まで経っても着弾しないと思ったら、上空めがけて発射されていたのだ。

 下手糞の暴発かと思った、その瞬間、夜空に光の花が咲いた。数秒の間を置いて響く爆発音。これには覚えがある。

「花火か」

 そういえば、レデントーレで花火がどうのという話を、灯里たちや暁が話していた。今日がその日だったのだと気付いたのは、2発目の花火が打ち上げられてからだ。

「ハナビ……? 特殊な照明弾では、ないのですか?」

「観賞用だ」

「観賞……の、火器……ですか」

「火薬には、こういう使い道もあったらしい」

 次々と打ち上げられる花火に、ブルーサマーズは困惑しながらも見入っていた。ナイブズもまた、瞬く間に散ってしまう光の花を観賞する。

 色鮮やかな、様々な形状の花火が次々と打ち上げられる。遠くで見るのも、花火の全容を把握できて悪くないものだ。

「……なぜ」

 花火の切れ間に、ブルーサマーズが、ぽつり、と言葉を漏らした。

 一度途切れたその言葉の先をナイブズが促すと、ぽつり、ぽつりと、ブルーサマーズは胸の裡に沸いた疑問を紡いでいく。

「あの男の心は、僕を殺したあの時、あの瞬間に、間違いなく折れたはず。なのに、何故……ヴァッシュ・ザ・スタンピードは、再び立ち上がることができたのでしょうか」

 何故、ヴァッシュ・ザ・スタンピードは『人を殺した』という最大最悪の挫折と絶望を超えることができたのか。

 同じくあの決戦で『完膚なきまでの敗北』という大きな挫折を味わったナイブズは、ヴァッシュに撃たれて最期を迎えることを望むまでになり、再起する気力など無くなったというのに。

 どうしてヴァッシュ・ザ・スタンピードは、身を挺してナイブズを救うという、今までと変わらぬ選択をあの時も行うことができたのか。

 その答えはすでに、この星で過ごした日々に得ていた。

 人を殺さぬ火薬の光から視線を外して夜空を見れば、星々の他に、浮島が其処彼処に点在しているのが此処からでも見える。

「ある人間が言っていた。ヒーローとは、一人だけで戦うばかりのものではないし、殴り合うだけのものでもないと。きっと、あいつの戦いはそういうものだったんだろう。だから……一人では無かったから、一度折れても立ち上がることができた。俺の前に立ち……俺を、打ち負かすことができた」

「ナイブズ様……」

 ブルーサマーズが絶句しているのは、ナイブズが自らの敗因を語るのに清々しさすら感じていることを見抜いたからか、それとも、人間の言葉を引用したことに驚愕したからか。よくよく考えてみれば、ナイブズ自身も驚くべきことだ。

 ナイブズはずっと、独りで戦っているつもりだった。膝下の人間はすべて駒か道具、同胞たるプラント達でさえも、自らよりも劣る救済の対象として、本当の意味で対等に見ていなかった節もあった。

 ヴァッシュはずっと、誰かのために戦っていた。時には何者かの力を借りて、助けられ、肩を並べて戦うことすらもあったようだ。惑星に生きる全ての人類とプラントを同胞として――いや、家族のように思いやり、対等な同じ生命として愛していた。

 そんな男だからこそ、また立ち上がれた。立ち上がる力を与えてくれるものがいた。支えてくれる仲間たちがいたのだと、今ならば分かる。

 独りでは倒れて起き上がれなくなったらそれまでだが、周りに他の誰かがいて、その誰かが手を差し伸べてくれれば、支えてくれれば、立ち上がることも歩き出すこともできる。考えてみれば、簡単な理屈だ。

 こんな簡単なことにさえ、かつてナイブズは気付かなかった。だが、今ならば分かる。

 ヴァッシュだけではない。本当は自分もまた、人間に助けられていたのだと。

「ここに来てから色々とあった……。状況整理だ、俺の話に付き合え」

「はっ……はい!」

 ナイブズは語る。砂の惑星から水の惑星に来るまでに乗っていた不思議な汽車に始まり、ネオ・ヴェネツィアで過ごした日々、出会った物事を、同じ砂の惑星からやってきた男へと。そして、己自身で振り返る。これまでの日々を。

 途中、最後の大輪が咲いた音が、少しだけ時を置いて響いた。

 

 

 

 

 ふと気付くと、空が白み始めていた。黒い夜空に少しずつ青が混ざり、濃い青はやがて空色とも呼ばれる淡い青へと変わっていく。変わりゆく空の色を、ナイブズは、その傍に控えるブルーサマーズは、何も言わずに眺めていた。

 空の色だけは、この星もあの星も、何ら変わらない。その空の色とブルーサマーズの髪の色が、同じ青に重なって見えた。

 こういうことは、やはり、言って伝えなければ意味が無い。

 店主の言行が反りに合わないことを思い返しつつ、ナイブズはブルーサマーズへと視線を向ける。

「ご苦労だった、レガート・ブルーサマーズ。お前は、よく働いた。もう休め」

 ナイブズのためならば我が身を省みず己の身体も魂も苛め抜き、その生涯を賭して尽くし続けた男へと言葉を贈る。死して尚、付き合う必要はないのだと。

 配下の人間はすべて手駒であり、自分の所有物であり、自分の力の末端だと思い込んでいたために、今まで気付かなかった。だが、ナイブズもレガートには、幾度か助けられていた。同程度に私情で暴走していたが、些細なことだ。

 面倒な雑務を押し付けても嫌な顔一つせず、能力の増大から暴走とも取れる判断ミスを犯したナイブズを引き留め、重要な局面で半年以上もの間ヴァッシュの動きを不休で封じ続けた。最終決戦で地球の艦隊との戦闘に集中し勝利できたのも、あと一手で完全勝利というところまで漕ぎ着けたのも、レガートがヴァッシュを抑えていたお蔭だ。

 思い返すほどに、自分も人間に助けられていたのかと思い知る。それを気にもかけずに無視し続けていたのだから、最後の最後にヴァッシュに負けたのも当然だ。

 レガートは、また涙を流した。しかし、嗚咽などは混じらず、瞳から零れた涙が、静かに頬を伝う。顔には、生前に見た覚えのない、狂気が抜け落ちたような、穏やかな笑みを浮かべていた。

「ありがとうございます、ナイブズ様。僕は……ナイブズ様のお蔭で生まれ直せただけでなく、死に直すことまでできました。これほど、幸せなことはありません」

 生まれ直し、死に直す。

 その言葉が、不思議と耳朶を打ち、己の内に深く沁み入る。

「ナイブズ様。新たなる旅路、お疲れの出ませんように……どうか、お気を付けて」

 涙を拭おうともせず流れるまま、微笑みを浮かべたままそう告げて、レガートは深く頭を下げた。直後、朝日が墓地の島へと差し込み、強く風が吹く。

 舞い散る花びらと共に、レガートの魂は光に解けるように消えて逝った。

「さらばだ、レガート・ブルーサマーズ」

 ナイブズもまた、夏の青空へと別れを告げる。

 

 

 

 

「おはようございます、ナイブズさん」

「アテナか」

 サン・ミケーレ島の墓所で寝ていると、不意に声を掛けられた。予想外の珍客に驚きつつもゆっくりと立ち上がる。

「こんな所で何をしている?」

「昨夜のことをアリスちゃんに話したら、『それって七不思議の黒衣の君ですよ!』って、でっかい声で言われちゃって。そうしたら、幽霊が消える前にナイブズさんの声が聞こえたのを思い出したので、早朝練習がてら、様子を見に来たんです」

「そうか」

 そういえば、あの怪異をアテナの目の前で連れ去ったのだった。そんなこともすっかり忘れるほど、その後の出来事は印象的だった。

「舟に乗れるか?」

「はい。大丈夫ですよ」

 ナイブズがここで寝ていたのは、明るいと対岸までの移動が目立ち過ぎるからだ。夜暗くなったのを見計らって街に戻るつもりだったが、日中でも穏便に戻れる手段があるなら、それを使うに越したことはない。

 起き上がり、アテナに先導されて船着き場まで向かう。道中、何か気がかりなのか、アテナがチラチラと視線を向けて来る。

「あの……あそこで、なにかあったんですか?」

「旧い知り合いと会って、話していたら夜が明けていた。それだけだ」

 それだけのこと。本当に、たったそれだけのことだった。だと言うのに、舟に乗るまでの間、やけにアテナはその内容を問い質してくる。

 理由を聞くと、ナイブズが懐かしそうな顔をしているのを初めて見た、ということだった。

 どんな表情をしていたのか、自分では想像もつかないが、確かに懐かしくはあった。

 遠き水の惑星で思わぬ再会を果たした、砂の惑星で力尽きた部下。

 何者かへの敵意、悪意、害意。それによる暴力の行使。

 何よりも懐かしきは、あの死の気配。

 忘れ難く、忘れているつもりも無かった過去。血に塗れたまま突き進んでいたミリオンズ・ナイブズの道。それらを、懐かしいと感じた。

 あの星の日常が遠くに感じるほど、俺はこの街に馴染んでいたのだな。

 舟に乗り、砂の惑星と変わらぬ青空と、砂の惑星には無い青き大海が同時に目に入る。両者の交わる水平線は、境界は見定められても、輪郭は見極められない。それを眺めながら、ナイブズは無言を通し、アテナもやがて追及をやめた。

 岸に上がって海が途絶えても、夏の青空は、ナイブズの行く先にまで広がっている。



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#19.会者定離

 レデントーレの準備に向けて、時間が慌ただしく過ぎていく日々が終わり、灯里と藍華とアリスは、簡素な『準備お疲れ会兼当日も頑張ろう会』を開いていた。

 会場は姫屋の藍華の部屋。持ち寄ったケーキ類や秘蔵の紅茶も堪能して、今はまったりムードを堪能している。無論、晃にはくるみパンを献上して了承を得ている。

 やがて、あることに話題が移り、灯里は鞄の中からある物を取り出した。

「これが、幻の夜光鈴……」

「こんな時期でも手に入るなんて、でっかいビックリです」

 季節外れのこの時期に、偶然手に入れた夜光鈴の正体が、巷で噂の『幻の夜光鈴』だったと灯里が気付いたのは、アリシアとアリア社長にそれを見せた時だった。正確には、アリシアに指摘されてやっと気付いたのだが。

 事実を知った今でも、灯里はこの夜光鈴に『幻の夜光鈴』としての価値を見ていない。あの日の体験を経たという確かな証拠の一つとしての印象の方が、より鮮烈なのだ。

「このヘビさんの絵もかわいいよねー。ぬれがみ様って言って、水の神様なんだって」

「へ~、そうなんだ」

「蛇が水の神様、ですか」

 店主の受け売りの知識を披露して、素直に感心される。少しだけ気恥ずかしくなりながらも、日本に住んでいた灯里ですら知らなかった遠い昔の日本の物語の断片を、拙いながらも伝えていく。

「これ、例の不思議なお店で手に入れたんだっけ?」

「うん。竜宮城で素敵な昔話をしてくれたお爺さんのお店だったんだ」

「けど、その後何度行っても、そのお店は見つけられないと」

 灯里はあの後、何度かあの店のあった場所まで行ったのだが、やはり廃屋しか見当たらず。レデントーレに使えそうな物が見つけられないかと探した時には、その廃屋すら見つからないようになってしまった。

 そっと、夜光鈴を指先で撫でる。

「どうしてだろうね。ちゃんと、あそこに行ったよってしるしは、ここにあるのに」

 確かにあったことなのに、ちゃんと覚えているのに、何故かひどくあやふやに思えてしまう、不思議な体験。猫妖精(ケット・シー)と出会った時とも異なる、不可思議な感覚。

「ナイブズさんも持ってるんですよね。この夜光鈴」

「……あ、そうか。花火を観に行った時に言ってたよね」

 アリスに言われて、灯里も思い出した。一緒に花火を見たあの日の夜、幻の夜光鈴の話題が上がっていたことを。その持ち主であり、話の中心にいたのはナイブズ。

 レデントーレの準備を始めた初日に偶然出会い、灯里の竜宮城での体験を迷いなく肯定してくれた人。そして、海底の巨大プラント、竜宮城の王、不思議な店の老店主、赤い化粧の白い狼、猫妖精たちと共に立ち、同じ側にいた人。

「思えば、ナイブズさんも不思議な人よね。灯里と同じかそれ以上に不思議体験に遭遇していて、しかもそこに馴染んでるみたいだし……」

 一度言葉を切って、僅かに思案する素振りを見せたのち、うむと頷いて、藍華は続く言葉を紡ぎだした。

「よしっ。レデントーレが無事に終わったら、ナイブズさんを探して色々聞いてみましょうか」

「ほへ?」

「急にどうしたんですか、藍華先輩」

 手をポンと叩いて、藍華が宣言した。灯里もアリスも、この提案には驚いた。

 ナイブズはたまにばったり出会う人で、自分たちから会いに行くというイメージが全く無かったのだ。

「だって、ナイブズさんからもちゃんと聞いてみたいじゃない。竜宮城のこととか、不思議なお店のこととか」

 確かに、聞いてみたい。

 自分が体験したあの不思議な瞬間を、他の人がどのように感じどのように想ったのか。

 あの人がそれを、どんな風に語るのか。

「あと、平和主義者のガンマンの冒険譚ですねっ」

 ぐいっと前のめりに、アリスも藍華の提案に加わった。

「アリスちゃん、ヴァッシュさんのお話、好きなの?」

「はい。赤くてムッくんみたいなところが、特に」

「ムッくん似かどうかは分かんないでしょっ」

 話はやがてまとまって、レデントーレ本番を頑張ろうと約束して、会はお開きとなった。幻の夜光鈴も、折角ということで船の飾りに使うことになった。

「それじゃあ、当日もこの調子で頑張るわよっ」

「おーっ!」

 

 

 

 

 レデントーレ本番から数日後。初めて催したレデントーレを事後処理も含めて無事に成功させた3人は、ゆっくり休んで疲れを取った後、約束通り、ナイブズを探しながら街中を散歩していた。の、だが。

「こういう時に限って、会えないものなのねー」

 街を歩き回っている内にお昼の鐘が鳴り、3人は近くにあった料理店で昼食をとっていた。

 いつもは何でもない時に不意に出会えるのだが、いざ探してみると、これがなかなか見つからない。

 よく考えてみれば、寝泊まりしている場所も、火星に滞在している目的も、普段どんな仕事をしているのかも分からない相手なのだから、そう簡単に見つけられるはずがないのだった。

 そんなことに考えが及んで、ふと、ある疑問が湧いて出た。

「そういえば、ナイブズさんって、どうしてこの星(アクア)にいるんだろう? 観光でも、お仕事でもないんだよね」

「ナイブズさんも大人だし、色々と事情があるんじゃないの?」

 大人の抱える事情というものは、子供には分からなくて当然と、なんだか疲れたように藍華は言う。多分、姫屋を経営している両親との間で色々とあるのだろう。

 それでも、分からないものなのだとしても――だからこそ、尚更気になってしまう。何の目的も無く訪れたのに、どうして今もこの星に、この街にいるのだろうと。

 すると、ジュースを飲み終わったアリスが、やけに神妙な表情で口を開いた。

「『どうして』ではなく、『どうやって』の話になるんですが……調べてみたら、ナイブズさんのいたであろう星って、一つしか該当するものがないんです」

「おお、分かったも同然じゃん」

「その星がどうしたの?」

 灯里だけでなく藍華も食いつき、続きを話してくれるよう、視線を送ってせがんだ。しかしアリスは、自分から口にしたことだというのに、何故だか困惑しているような難しい表情で、躊躇いがちに口を開いた。

「それが……その星は150年ほど前に移民船団が墜落して、生き残った人たちの子孫が暮らしていたそうです。墜落の影響で高度技術の大半が失われて、昨年に連邦政府が接触するまで、自力で宇宙に上がる術も無かったそうです」

「……つまり?」

「どゆこと?」

「ナイブズさんは、その星……ノーマンズランドから、このアクアまで、来られるはずがないってことです」

 

 

 

 

「ナイブズは、火星(アクア)まで汽車に乗って来たの?」

「正確には、蒸気機関車のような何か、だ」

「それで、最初に着いたのがこの場所なんだ」

「ああ」

 ネオ・ヴェネツィアの路地裏の奥の奥。

 多くの建物がひしめき合い、古い路地と水路が入り組んだ道々の奥にあるこの場所は、昼間に来ても薄暗い。着いた時は夜だったから、全く気にもしなかったのだが。

 ナイブズがこの場所を改めて訪れるのは、今日が初めて。汽車を降りて以来となる。

 火星開拓期に使われていたと思われる、旧い鉄道駅の跡地。廃墟と言っても差し支えあるまい。

 ネオ・ヴェネツィアの街は、地球のヴェネツィアで現存していた建築物を優先的に移築して街造りが行われたらしいが、移築できないもの、度重なる災害で壊れてしまったものも多くあった。なので、再現したもの、全く新しい建物なども、当時多く建てられた。

 その結果、街は旧来のものと新規のものとが混在する摩訶不思議な構造となり、人の立ち入らない奥の奥ともなれば、こうして唐突に古いものが顔を出してくることもままある。

 線路は、暗い、トンネルのようになっている建物の狭間へと続いている。どこに繋がっているのかは、誰にもわかるまい。

「いいのか? 最後の自由時間が、こんな街の裏側の案内などで」

 ナイブズは、アイーダに改めて尋ねた。彼女に請われてここまで案内してきたが、こんなものばかりを見続けるのは、幼い同胞には退屈ではないだろうかと慮ったのだ。

 しかし、アイーダは首を横に振った。

「地球圏のプラントの中で、お婆様(グランドマザー)の存在は御伽噺として語り継がれていたけど、私はそんなの作り話だって、ほとんど信じてなかったの」

「だが、御伽噺の通り、彼女はあそこにいた。今までも、今この時も」

「だから、ちゃんと見たいの。お婆様が育んだ大地に生まれた、この世界を」

「……そうか」

 ならば、否があるはずもなし。

 ナイブズはアイーダを連れて、次の場所へと向かった。その姿を、一匹の黒猫が無人駅の線路上から見守っていた。

「ナイブズはどうして、私たちが裏側とか境とかに入れると思う? 私は、きっとこの世界のみんなが、お婆様の同族の私たちを歓迎してくれているからだと思うんだけど、どうかな?」

「実際、賓客扱いではあるが、それとは別のような気もするな。俺は、プラントの“力”が理由ではないかと思う」

「時空間に干渉してどうのうこうの……っていう、あれ?」

「あれだ」

 道中に色々と話しながら、歩き続ける。

 次に向かう先は、予てからの約束の場所。

 以前は会いに来いと言い放っておきながら、今自ら足を踏み入れる。

「待たせたな」

 猫の國の王、カサノヴァ――猫妖精の元に様々な猫たちが集まる、猫の集会場、その一つ。

 ナイブズからの挨拶を聞き、その傍らのアイーダを見て、猫妖精は目を細めて、そのまま閉じて、穏やかにほほ笑んだ。

 

 

 

 

 空が茜色に染まる頃。3人は灯里の(ゴンドラ)の上にいた。

「結局、見つからなかったね」

「会える時はふらっと会えるのに、いざ探すと見つからないものねー」

「でっかいがっかりです……」

「会えるのは今日だけじゃないから、また今度、会えた時に聞いてみようよ」

 あれから街中を歩き回り、自主練習名目で舟も使って水路からも探したのだが、結局見つけられないまま日が暮れてしまった。

 夏も終わりが近く、日が落ちるのも早くなってきた。まだ肌寒いとまではいかないが、日が沈んでしまうより前に帰るに越したことは無い。

 灯里がオールに手を掛けると、アリスが声を上げた。

「あ、灯里先輩。夜光鈴が」

 見ると、舟の舳先に付けた夜光鈴が明滅している。夜光石の寿命が来てしまったようだ。

「噂の夜光鈴も、夏も終わりの頃に買ったんじゃ、そりゃ寿命も早いわよね」

「そうだね」

 噂によれば、夏の始まりから終わりまで輝き続けるという、特別な夜光鈴。もっと早く逢えていれば、もっと長い間この光を見ていられのに――と、口惜しい気持ちもある。

 けど、それ以上に、あの時に出会えたから、今この瞬間があるのだと思うと、堪らなく愛おしい。

「……折角だから、このまま一緒に見てくれる?」

「いいわよ」

「はい」

 舟を出し、水路を進む。水路で夜光石が落ちるのを持っていたのでは危ないから、海まで行く必要がある。帰り道には遠回りになってしまうが、こういう寄り道もいいものだ。

 3人で色々なことに話を弾ませていると、それを遮るかのように、急に風が吹いた。

 夜光鈴が揺れ、風鈴独特の透き通った音が響き――どこかから、同じ音が聞こえてきた。そちらに目を向けると、水路の分岐があった。その先にある薄暗い空間に、微かに明滅する光が見えた。

「……あの光」

 もしかしてと、思うが先か、感じるが先か、灯里は舟を急旋回させた。

「灯里先輩?!」

「ちょっと、どこ行くのよっ」

「ご、ごめん」

 客席からの文句に詫びつつも、灯里は舟を操り、薄暗い水路の奥へと向かう。

 進んだ先は開けた空間だった。まるで湖のような空間の岸辺に、夜光鈴を持った男性と少女の2人連れの姿があった。

「灯里さん、藍華さん、アリスさんっ」

「お前達か」

 アイーダは嬉しそうに3人の名を呼び、ナイブズはいつもと変わらない調子だ。

 岸辺に舟を付けると、ナイブズも灯里の夜光鈴に気が付いた。

「お前も買っていたのか、その夜光鈴」

「あ、はひ。ナイブズさんは……」

「アイーダに、街の案内をしていた」

「みんなは何をしてたの?」

 ここでなにをしていたか、ではなく、どこで買ったのかを聞きたかったのだが、今日この時まで街中を歩き回った理由を思い出す。

「私たち、ナイブズさんを探してたんです」

「けど、今日はもう遅いし……」

 帰りますね、と藍華が口にするより先に、ナイブズはその場に座り込んだ。

「これが落ちるまでなら、付き合ってやる」

 夜光石を指してぶっきらぼうに告げられて、3人は俄かに笑みを浮かべた。

 3人は舟に乗ったまま、ナイブズとアイーダは地べたに座って、明滅する夜光鈴を見守った。

 夜光鈴に描かれた蛇と狼の姿が淡く照らされる様子は、どこか幻想的だった。

「ナイブズさんは、ノーマンズランドという星から来たんですか?」

 早速、アリスが質問をした。これに、ナイブズは少し意外そうな様子を見せた。

「もうそこまで情報公開が進んだか。そうだ、俺はあの星から……ノーマンズランドから来た」

 アリスが予想していた通り、ナイブズが来たのはノーマンズランドという星で間違っていなかった。そうなれば、気になることはもう一つ。

「どうやって来たんです? なんか、100年以上前に色々あって、ずっと宇宙にも上がれないぐらいだったって聞いたんですけど」

 来られるはずがない星から、火星へとやって来た。解き明かされた謎によってさらに判明した謎について、藍華が早口気味になりながら質問する。

 すると、ナイブズは珍しく即答せず暫く黙り込み、考え込んだ。

「……俺にも、よく分からん。気付いたら、汽車の客席で寝ていたからな」

「汽車?」

 思いもよらない答えに、3人は揃って聞き返してしまった。

 何をどうしたら、汽車で星から星へ渡って来られるというのだろうか。

 予想外で奇想天外な答えに、藍華とアリスは拍子抜けして、放心したようになっている。

 他方、灯里は驚きに胸を高鳴らせていた。

 それって、まるで、本当に。御伽噺にもある、夜空を走る銀河鉄道なのでは、と。

 夜の闇に海と星空が融け合って、まるで銀河を走っているように思えた、あの日の光景を思い出す。

 もしかしたら、本当に星の海を走るものもあるのかもしれないと、そう思えただけで胸がいっぱいになる。

「そんなことを聞きたかったのか?」

 ナイブズはそれ以上何も説明せず――もしかしたら説明できないのか――話題を別のことへと移した。

 そんなこと、と本人から言われて、ナイブズが火星に来たことがほんの些細なことなのだと感じられた。

 そして言われた通り、聞きたかったことはそれだけではない。

「はいっ! ナイブズさんも、あのお店に行ったことがあるんですか?」

「平和主義者のガンマンについて、色々聞かせてくださいっ」

「あっ、あの、えーっと……そうだ、竜宮城について、詳しく!」

 矢継ぎ早に放たれた3人からの質問に、ナイブズは面食らったようになり、それを見たアイーダは小さく笑っていた。

 

 

 

 

「……俺が先に訊いてもいいか」

 まさか3人から一辺に別々の質問をされるとは思わず、ナイブズは先んじて、予てから水先案内人たちに聞きたかったことを尋ねることにした。

「何故、お前たちはあいつの……ヴァッシュの話が好きなんだ?」

 今の質問の中にもあった、平和主義者のガンマン――ヴァッシュ・ザ・スタンピードの物語。それがナイブズの知らないところで広まっていったことは別にいいのだが、何がそこまで受けたのか、よく分からない。

 この星とは何もかもがまるで逆の、人の心すら乾いた暴力の星で、ラブ・アンド・ピースを唱える聖者が現実に打ちのめされ続ける話の、何が面白いというのか。

 最初に答えたのは、灯里だった。

「とっても、不思議なんです。星空に見えないぐらい、遠い彼方の星の出来事を、物語を……今こうして、私が知っていることが」

 言われて、つられるように空を見上げる。

 茜色だった空も少しずつ蒼褪め、徐々に黒が濃くなっている。空にはちらほらと、星の瞬きが見えるようになっていた。

「仮に星が見えたとしても、見えるのはその時ではないだろうしな」

「その時じゃ、ない?」

 何の気なしに呟いた言葉に、アイーダが首を傾げた。他3人も同様で、少々分かり辛い言い方だったか、と補足する。

「今見える星の光は、すべて過去の光だ。何百年も、何千年も前の」

「……光の速さは有限で、宇宙はとっても広いから、星の光が届くのにもでっかい時間が掛かるって、少し前に講義でやりました」

「今見えているのに、昔の光なんだ……」

 ナイブズの言葉を更にアリスが補足する形になり、藍華は惚けたように小さな声で呟いた。

 全員が、空を見上げ、星を見る。上がちょうど空洞になっているのも幸いだった。

「遥かな、時の彼方。まだ見えない、遠い星。けど、今こうして語り継がれている、同じ人間(ひと)の物語……まるで、奇跡みたい」

「恥ずかしいセリフ禁止!」

「ええーっ」

 いつものやり取りを聞いて、今回は何が恥ずかしかったのかと首を傾げつつ、残る2人にも話を聞く。

「お前たちはどうだ?」

「私は……ヴァッシュさん、でしたっけ? その人の、何度挫けても諦めないで立ち上がって、挑み続ける姿が……憧れるというか、励まされてるみたいに感じて」

 藍華は、何やら照れ気味に、恥ずかしそうにしながら答えた。何がそんなに気恥ずかしいのだろうかと思ったが、些細なことなので気にしないことにした。

 実際のところは、自分の好きな話の作り手を目の前にして、いざ感想を言う段階になって急に羞恥心が襲ってきたのだが、ナイブズにはそういう感情の機微を察することはできなかった。

「お答えする前に、ナイブズさんにでっかい質問です」

 ピンと手をまっすぐに伸ばして、アリスは真剣な表情でナイブズに質問してきた。お手本になるぐらい、綺麗な質問の姿勢だと、レムから色々教えられた幼少期を思い出した。

「ガンマンさんは、ムッくんに似ていますか?」

「……なんだ? それは」

「これです」

 突如として謎の単語を言われて聞き返すと、アリスはポシェットから手の平サイズの小さな人形を取り出した。どうやら、これが『むっくん』らしい。

「地球発祥のテレビ番組のマスコットキャラクターだよ」

 アイーダから最低限の説明を受け、しげしげと眺める。

 赤い、もこもことした謎の球状の物体――毛玉?――に、目と口だけを貼り付けたような奇怪なキャラクター。人型でない時点でヴァッシュに似ているとは言い難い、の、だが。

「………………この間抜け面、なんとなく似ている」

「なんですとぉ!?」

「そうなの!?」

「なんとなくだ」

 ナイブズの回答に、藍華とアイーダは仰天し、アリスは目を輝かせて喜んでいる。灯里は、どうやら『ムッくん』を使ってヴァッシュのイメージをしているらしく、目を瞑って難しい顔をしている。これがヴァッシュと同じことをしている図はナイブズには到底想像できないので、中々の苦行だろう。

「私は、理想主義者で聖人みたいな行動原理の割に、感情的で喜怒哀楽が豊かなところが、親しみを持てて好きですね」

 アリスはムッくんの人形を手に持ち、ほくほくとした様子ではきはきと答えた。

 レガートはヴァッシュを指して『聖者』と評した。アリスによる『聖人』という人物評も言い得て妙だ。

 ふむ、と頷き、灯里を見遣る。

「お前は物語を知っていること自体に感動していたようだが、内容はどうでもいいのか?」

「ええー!? そんなことないですよーっ」

 投げ掛けられた疑問に、灯里は大声を出して狼狽えた。余程、ナイブズの言葉が思いもよらぬものだったらしい。

「教えて、灯里さん。人間台風(ヴァッシュ・ザ・スタンピード)の物語の、どこが素敵なの?」

 アイーダにせがまれて、深呼吸をして落ち着いてから、灯里は静かに語り始めた。

「私、前にこんなお話を聞いたことがあるんです。求めるものを探して旅をしていた旅人が、途中で道を見失ってしまって、求めるものを手に入れられなくなってしまった。旅人はとても悲しんで……けど、俯いていた顔を上げたその人は、求めていた物以上の素晴らしい世界に出会えた――という、お話。私、今でもこのお話が好きです」

 そこで一度言葉を切り、目を瞑り、深呼吸をするように胸を膨らませる。

 息を吐き出すように、言葉を想いのまま連ねる。

「ヴァッシュさんのお話は、まるで逆。旅の最中に色んな困難に遭って、時には倒れて、道に迷ってしまっても……自分の目的地を見失わず、最初に夢見た理想を忘れず、大切な想いをずっと貫き通して、夢にまで見た景色に辿り着いた。そういうところが、大好きなんです」

 灯里の言葉が終わって、数瞬、静寂が辺りを包む。

 藍華とアリスとアイーダは顔を赤くして、ナイブズは真っ直ぐに灯里を見つめたまま。

「恥ずかしいセリフ、禁し……」

「さっき、お前が言っていたのと中身は同じだろう」

「ぬなっ!?」

 我に返った藍華が発した決まり文句に、ちょっとした気紛れから茶々を入れる。藍華も自分では気付いていなかったらしく、奇声を発して固まってしまった。

「確かに。言い方が違うだけで、言っていることはほぼ同じです」

「藍華ちゃん……」

「や、やめれー! そんな目で見るの禁止ッ!」

 アリスに追い打ちをかけられ、灯里にきらきらとした喜びの眼差しで見つめられて、羞恥心が許容量をオーバーした藍華は「ぎゃーす!」と叫んで今にも舟から飛び降りそうな勢いだった。実際には舟の上で、アイーダも巻き込んで4人で騒いでいる程度だが。

 目の前の光景を――その中心にいる少女を見て、ナイブズはあることに気付いた。

 自然と人を巻き込んで、輪を作り、輪の中心にいる。灯里とあいつは、どこか似ている。だからこそ、通じるものがあり、感じられるところも多いのだろう。

 尤も、今目の前にいるのがあいつだったら、勢い余って舟を転覆させて自分だけ溺れる、ぐらいのことは間違いなくしでかすだろうが。

 そして、ヴァッシュの話が好評を博した理由もなんとなく分かった。

 彼女たちにとって、あれはあくまで物語。ナイブズにとっては過去の事実だとしても、彼女たちにとっては現実ではない。だからこそ、綺麗なところだけでなく、辛い部分もひっくるめて受け入れることができたのだろう。

 目を向けると、調度、夜光鈴から夜光石が落ち、暗い水面に飲み込まれた。

「ここまでだな」

 ナイブズが告げると、少女たちはまずナイブズの夜光鈴を見て、慌てて灯里の夜光鈴を見た。そちらはまだ残っており、安堵の溜め息を吐く。

 少女たちは改めて、数分後に訪れる夜光鈴の最後を見届けた。

 夜光石の結晶が残ったとかで何やら盛り上がっているが、懐から時計を取り出して、アイーダに見せて呼び寄せる。

「俺とアイーダはもう行く、お前たちもそろそろ帰れ」

 言うや否や、3人はナイブズの持っている懐中時計を覗き込んで来た。時計の針の配置を見て、二度三度と見直して時刻を確認して、2人の顔色が変わる。

「ぎゃーす! 門限過ぎてるー!?」

「私もです」

「晃さんに怒られる……っ」

「私も寮長に叱られます……」

「頼むわよ、灯里っ」

「でっかい急ぎでお願いしますっ」

 驚き慄き、2人揃って慌てて灯里に頼み込む。忙しないことだ。

 アイーダに小さく声を掛け、踵を返す。向かう先は、灯里達とは正反対。街の表通りから近くて遠い、街の裏側。

「あのっ、ナイブズさん!」

 後ろから声が掛かる。足を止め、振り向くことはせず肩越しに声の主を見遣る。

「ナイブズさんはっ……不思議の側の人、なんですか?」

 その問いの意味は、自分でも意外なほどすんなりと理解できた。

 調べたところ、プラントの“力”とは『神秘』であると過去に学会でも発表されたことがあるらしい。ならばプラントは、本当にそちら側の存在なのかもしれない。

 猫妖精やアマテラスたちと同じ。人に寄り添い生きる、人外の存在達。

 だが、ナイブズが最も不思議だと思っている存在は、彼らではない。

「不思議の定義による」

「定義?」

「俺からすれば、お前たちの方がよっぽど不思議だ」

 猫の國や海の國のように、グランドマザーの眷属として賓客の待遇を以て迎えているならばいざ知らず。

 素性の知れない怪しげな風来坊に好んで関わって来るこの星の人間たちは、不思議でしょうがない。

 言い終えて、反応を確かめもせずに歩き出す。時間に遅れるわけにはいかない。

「ばいばい、灯里さん、藍華さん、アリスさん」

 アイーダは3人に手を振って、別れの挨拶を済ませると、ナイブズの隣に並んだ。

 

 

 

 

「すまない。君も、もっと話したかっただろう」

 3人の気配が完全に消えてから、傍らの少女に詫びる。ナイブズがあの話を振らなければ、アイーダはもっとあの3人と親交を深められたはずだ。

 しかし、アイーダは笑みを浮かべて、首を横に振った。

「いいよ。ナイブズが人間と仲良くしようとしているところ、ちゃんと見れたから」

 そう言われても、遠慮して帰ろうとした少女たちを呼び止めた程度しかしていない。それでも十分な進歩だと、ナイブズの過去を知る少女は言いたいのだろう。

 話している内に、目的地へと辿り着いた。

 ここは、ナイブズがカサノヴァと最初に出会った場所であり、今はアイーダを送り返すための待ち合わせ場所。猫の集会所の一つでもある。

 後数分もすれば、店主が引き継ぎに現れるだろう。流石にナイブズが、アイーダを直接送り返しに行くわけにはいかない。

 ナイブズの存在は太陽系内では殆ど知られておらず、指名手配もまだノーマンズランド内に留まっているが、流石に連邦政府のお膝元で政府関係者に顔を合わせるのはまずい。

 ふと、手に何かが触れた。暖かな温度を持つそれは、自分のものよりずっと小さな、幼い手。アイーダの両手が、ナイブズの右手を包むように添えられていた。

「ありがとう、ナイブズ。色んなことを聞かせてくれて、たくさんのことを教えてくれて」

 告げられたのは、まっすぐな感謝の言葉。

 姉代わりであった自律種――ドミナの自我を崩壊させ、事実上殺したも同然の自分に向けられた、友好のしるし。

 手を解かぬよう慎重に動いて、片膝をつき、目線の高さを合わせる。この程度しか、彼女に誠意を示せる方法が浮かばない。

 空いた左手を、自らの右手に添えられているアイーダの手に添える。両の手で感じるぬくもりは、あたたかかった。

 こうして、誰かの温度を肌で感じることなど、果たしていつ以来だったか。

「ありがとう、アイーダ。俺を……受け入れてくれて」

 自分自身も未だ戸惑う、己自身の変化の道のり。それを、ナイブズの過去を知り、その所業に怒りながらもこの少女は認め、受け入れてくれた。これほどに、心強いことは無い。

「人間のみんなにも、これぐらい素直になれたらいいのにね」

「努力しよう」

 やがて、時間通りに店主がやって来た。

 予定に変更なく、明日の朝にアイーダは地球へと再び旅立つ。専用機で、秘密裏に。当然、周辺の警護も厳しく、ナイブズが見送りなどできるはずもない。

 どれほどの騒動を起こしても良いというのなら話は別だが、生憎、ナイブズはヴァッシュから人間台風(ヒューマノイド・タイフーン)の異名を引き継ぐつもりは微塵も無い。

「ナイブズ。いつか、また会おうね」

「ああ。いつか……星霜の彼方だろうとも」

 短く、別れの言葉を交わす。小さく手を振るアイーダに、ナイブズもぎこちなく応じる。

 人間とプラントのハーフの少女が生まれたこと。その少女と火星で出会い、怒りを向けられながらも紆余曲折を経て同じ時間を過ごしたこと。ナイブズがノーマンズランドから火星に来たこと、人間と再び向き合おうと決心したこと。

 これらの全てが奇跡的な出来事だ。ならばもう一度くらい、奇跡があってもいいと――(こいねが)うほどではないが――思うくらいはいいだろう。

 例えこれが、今生の別れだとしても。

 

 

「次に会えた時は、ゆっくり落ち着いて話したいわね」

「そうですね。あの人と会うのは、いつも突然ですから」

「うん。また、会えた時に……」



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#20.うつろい

 ARIAカンパニーのカウンター上に吊るされた風鈴――元は夜光鈴だった――が、風に揺られ、微かに音を鳴らしている。それを、じっと見つめる2匹の猫の姿があった。

「にゅ」

「にゃ」

「ぷいにゅ~……」

「にゃ……」

「ぷいにゅ!」

「にゃっ」

 猫たちが風鈴へと飛び掛かった、そのタイミングを見計らったように、風鈴がさっと取り払わられた。調度片付けの最中だったので間に合ったようだ。

「も~、駄目ですよ、アリア社長。また風鈴を壊しちゃいますよ?」

「ぷいにゅ……」

 明日から秋季営業の開始ということで、簡単な模様替えを兼ねて掃除中だった灯里がアリアに注意をする。普段叱られ慣れていないアリアは大袈裟に落ち込んでいる様子だが、ご飯を食べればすぐに元気になるだろう。

「あら。そちらの黒猫さんは、アリア社長の新しいお友達かしら?」

「にゃ」

 アリシアはもう一匹の、見慣れない黒猫に声を掛けた。真っ黒な黒猫は、明確に返事をした様子だった。地球猫のような外見だが、こういう火星猫なのかもしれない。

「あなたは……前の夜光鈴が壊れちゃった時に、尻尾だけ見えていた猫さん?」

「にゃ」

 灯里からの問いに、黒猫はすぐ頷いた。以前、同じ場所に飾っていた夜光鈴が壊されてしまったことがあった。その時、灯里はおろおろするアリアとは別に、そそくさと立ち去る黒い尻尾を見ていたのだ。

「堂々としても、悪戯はだめですよ」

「灯里ちゃん、きっと2人は一緒に遊んでいたのよ。悪戯じゃないわ」

「ぷいにゅ」

「にゃ」

 灯里が咎めてもすぐにアリシアが庇ってくれて、アリアも黒猫も胸を張っているぐらいだ。それでも、多少の居た堪れなさを感じたのか、黒猫は一度お辞儀のようなしぐさをして、ARIAカンパニーから去っていった。

「ばいにゅ~」

「にゃぁ」

 アリアがお別れの挨拶をすると、黒猫は一度立ち止まって返事をしてから、走り去っていった。

「行っちゃいましたね」

「ええ。また、遊びに来てくれるかしら?」

「にゅ!」

 黒猫の見送りを終えて、灯里とアリシアは夏物の片付けを再開し、アリアは応援を始めた。

「もう風鈴は片付けましょうか」

「夏も終わりで、もう秋ですね」

「明日からは、また冬服ね」

「はひ。寒いのは苦手ですけど、衣替え、楽しみです」

 

 

 

 

 また、季節が巡る。

 夏の暑さも少しずつ薄らぎ、温度と湿度も下がり、空気が乾き、夜に見える星の数も次第に増えていく。

 気温は徐々に涼しくなっていくかと思えば、唐突に暑さが戻ってきて、曰くこの気候のむらっけも、太陽系では火星でしか味わえない名物らしい。

「まぁ」

 伝え聞いた話によれば、地球は気象制御の完全掌握と完全自動化に成功しており、天気予報は天気予告となり、降水確率も降水予定になっているらしい。

 元より旱魃以外の気候が無い星で過ごしたナイブズには、どちらをとっても馴染の無いことなのだが。

「まぁ」

 店ではテレビはおろか新聞すらも取っておらず、世情を知るためには街の図書館まで出向き、無料貸し出しの情報端末を用いる他なかった。

 お蔭というわけでもないが、今では図書館の常連の一人となってしまった。司書ともすっかり顔馴染みだ。その司書曰く、21世紀ごろまで日本には『読書の秋』という「秋の夜長は本を読んでゆったりと過ごす」風習があったらしい。

 秋でなくとも、退屈な夜は読書に耽っていたナイブズには、ある意味縁遠いものだろう――と思ったが、夜光鈴が寿命を迎えてからは、夜の読書時間が短くなってしまった。

 ナイブズにとっては、あの夜光鈴のある季節の方が読書に適していたらしい。

「まぁ」

 思考がずれた。

 ノーマンズランドには無かった、地球でもほぼ失われたに等しいという、火星での季節の移ろい。4つ目を迎えようとする今、これまでを思い返す。

 来たばかりの冬。

 餞別だと信じた白紙の切符を手に歩いた街は、昼間でも砂漠の夜を思わせる寒い季節だった。しかしそれが気にならなくなるほど、新鮮な体験の連続だった。

 風の音と勘違いした本物の波の音、普遍的に存在する水路、街の全てと繋がる海。聞き惚れ、見惚れるほどの、圧倒的で絶対的な存在感だった。だから、人の声を人間の発する雑音程度に考えていた過去があったから、偶々通りがかったアテナの謳に罵声を浴びせたのだったか。そのお蔭で、もう一度あの歌を聴けたのだから、分からないものだ。

 あゆみや秋乃にも出会い、つくづく、この星の人間はお人好しが多いのだなと溜め息を吐く。いや、人間に限らず、お節介焼きは多いか。

 次に迎えた春。

 季節の移ろいと共に変化する人の営みを目にし、人間の行いが一方的に周囲の環境を改造し破壊するものばかりではないと気付いた。とはいえ、春は花見の後、殆ど外を出歩かなかったから季節としての印象は薄い。

 人間との交流の中、人間に対して自らの過去を語ることへの後ろめたさを自覚し、その答えは如何なるか、考え込んだのは何か月だったか。

 答えの見つけられぬまま気晴らしの散策に出て、思いもよらぬところから解答への糸口を見出したのは、今でも印象深い。

 あの店に住み込み、仕事を始めたのも、この季節からだった。

 過ぎ去った夏。

 砂漠とは異なる多湿な環境ゆえの蒸し暑さも忘れるほど、色々な出来事や多くの出会いと別れがあった。

 忘れ得ぬ出会いの数々、深く刻まれた思い出、見下ろし見上げた二度の花火、いつの間にか広まっていたヴァッシュの話、思わぬ再会を果たしたあの男。

 1年以上をネオ・ヴェネツィアで過ごす内に気付かされ、考えさせられたプラント自律種(インディペンデンツ)の存在意義。その回答を与えてくれた2人の同胞、見守ってくれた人ならぬ者たち、居合わせた少女たち。

 人とプラントが共に生きる道は、机上の空論でも、夢物語でも無かった。むしろ、自律種(インディペンデンツ)の誕生こそが、その始まりだったのかもしれないという考え方に触れられたことは、大きな意味があった。

「まぁ」

 これから訪れる秋は、どのような季節なのだろうか。どのようなことが起き、どのような出会いがあるのだろうか。

 今までのように、思いもよらないことばかりが起こるのだろう。そんな予感だけは、ある。

「……こんにちは、ナイブズさん」

 声を掛けられ、手は止めず、顔だけ向けて応える。

「アリスか。こんな所で何をしている」

「まぁ」

「でっかいお世話と言いますか、そっくりそのままお返しします」

 呆れたような困惑したような、そんな態度と表情だが、アリスのこの反応も当然だろう。大の男が海沿いの小さな広場で、1人で丸い頭の小動物をお手玉にしているのだから。

 手を止め、小動物を地面に放す。小動物は頭をくらくらと数度回した後、コテン、と仰向けに倒れた。目が回ったらしい。

「少し、思索に耽っていた」

「詩作っ!?」

「考えを巡らせていた。こいつは知らん、ここにいた」

 小動物は鳴き声一つ漏らさず、起き上がらずにぼーっと上を眺めている。自由気儘な性分らしい。

「……なんで、お手玉を?」

「何故か、こいつが上から俺の頭の上に落ちて来た」

「はぁ」

「どけようと手に取って、なんとなく放り投げてみた。それだけだ」

「はぁ……」

 一通り説明したが、納得していない様子だ。当然だろう。先程までのナイブズの様子は、自分自身で振り返っても奇怪そのものだった。

「あ、えっと。ここ、今日、私たちも待ち合わせしてる場所、なんです」

「そうだったか。邪魔をしたな」

 調度、こちらの待ち人も来た様子だ。ここに留まる理由は無い。立ち上がり、向き直る。

 海沿いの道の端にある、この小さな広場に通じる道はL字になっている。アリスが来たのとは別の方向、ナイブズから見て後ろ側の道から、アリスよりも小柄だが年上の少年、アルバート・ピットがやって来た。

 白を基調とし街の風景に溶け込むかのような水先案内人の制服と、サングラスに黒いマントの地重管理人の仕事着は街から浮き上がるようであり、調度対のようになって見える。

「すいません、ナイブズさん。遅れてしまいました」

「問題無い」

「アリスさんも、こんにちは」

「こ、こんにちはっ」

 アルは丁寧に居合わせたアリスにも挨拶して、アリスはやや緊張したように返した。

 2人が軽く言葉を交わすのを待ってから、ナイブズはアルに先導されて目的地へと進んだ。

 

 

「どーしてもーちょっと引き止めなかったのよっ」

「いや、あれは誰でも呆気に取られます。でっかい言いがかりです」

「まぁまぁ、藍華ちゃん。一緒に横になろうよ」

 

 

「そういえば、ナイブズさんはどうして地重管理人(ノーム)の仕事に興味を持たれたんですか?」

「人が住むには適さない環境を、今も人が住めるように調整していること……だな。火炎之番人の仕事場も見てみたかったが」

「あちらは炉を大火力で燃やし続けていて危険ということで、関係者以外は立ち入り禁止ですからね」

「そうらしいな」

 他愛のない話を続けている内に、目的地に着いた。水路を舟で進んだ先にある、人だかりや人混みとは無縁な静かな一角に用意された、一つのドア。それこそが、広大な地下空間への出入り口の一つ。

 ドアを開け、少し進んだ先にあるのは郵便局の出張所。買い出しなどの時はここに荷物を預けることで、指定した場所へと運んでくれるのだという。それはつまり、地下空間の広さを暗に示すものでもあった。

 更に進んだ先にある扉を開けた向こうにあるのは、開放的な地上とはまるで逆の閉ざされた空間だった――が、息苦しさや閉塞感はまるでない。ナイブズ自身、幼少期をもっと閉鎖的で狭く入り組んだ空間で過ごしていたということもあるが、この地下空間は想像以上に広大だった。

 直径100mは悠にあろう、大地に穿たれた巨大な穴の壁面に、貼り付けるように作られた地下街。地重管理人たちの仕事場であり、生活の場でもあるには、十分な広さだった。

 恐らく、火星地球環境化(マーズ・テラ・フォーミング)最初期、最下層にあるという重力増幅装置を建設する物資搬入のために穿たれた空洞であり、地下街の前身は作業場兼宿舎と言ったところだろうか。

 その予想をアルに確認すると、大筋で正解という返答だった。曖昧な答えだったが、どうやらアルも『これだけ巨大な穴を採掘した直接的な理由』までは知らないらしい。

 十中八九、プラントの搬入の為だろう。この大きさなら、大型プラントの移動にも支障がない。或いは、この縦穴を採掘したのもプラントによるものかもしれない。

 人間の都合と不始末の為に、隠されてしまった同胞たちの痕跡。明確に辿ることができず、予測を立てるしかないことが歯痒い。

「それでは、そろそろ行きましょうか。目的地は最下層です」

「ああ」

 アルに先導され、地下の奥底へと続く階段を進んでいく――ことはせず、エレベーターを見つけてそちらに乗り込む。光が届かず底が見通せないほどに深く、大型プラントの搬入すら容易な直径の巨大な穴を、螺旋階段で壁面を伝って降りて行ったらどれだけの時間が掛かるか分かったものではない。

 不満げな表情のアルにそのことを指摘すると「若い僕らは、常日頃から歩くよう心がけるべきだと思うんですっ」と持論を力説した。「そうか」の一言で片づけて、最下層へ行くためのボタンを押した。

 古めかしい外観のエレベーターだったが、性能は高く、さしたる時間を要せずに最下層に到達した。

「ようこそ、こちらが火星(アクア)の最深部。僕ら、地重管理人(ノーム)の仕事場です」

「これが……」

 思わず、声が漏れる。想像していたのとは全く異なる光景が、辺りを覆っていたからだった。

 壁は一面剥き出しのパイプが張り巡らされ、その隙間から、淡い光を帯びた色とりどりの小さな球状の物体が精製される様子が見られる箇所もある。

 あの球状の物体は、資料で見た覚えがある。重力石だ。小さいながらも途轍もなく大きな質量を持つ特殊な人工石。人類の宇宙進出の黎明期に考案された、低重力惑星――火星の場合は約3分の1Gだ――を1G環境に改変し、それを保つための『ある手法』の要とされたもの。

 こんな物が使われている、ということは。

「……遠心重力増幅型。当時の技術で惑星の重力を常に増幅するのなら、確かにこれが最も現実的か。惑星地表の地下にパイプが張り巡らされている……なら、パイプのメンテナンスも含めて、地下に籠り切りにもなるか」

「凄いですね、一目で分かるんですか」

「この手のデータは一通り頭に入れてあるだけだ」

 つい、言葉が口をついて出た。それほどに、想像以上のローテクだったのだ。

 火星地球環境化の最初期――今から3世紀以上前ともなれば、擬似重力発生装置や重力制御装置の性能も低く、惑星全体をカバーできるようなものは無かったのだろう。そうなれば重力増幅以外に方法は無いわけだが、まさか惑星の地下深くに全体を覆うようにパイプを張り巡らせ重力石を流す、ある種の力業とも言える方法を目の当たりにするとは思わなかった。

 惑星全体を覆うように、地下深くに張り巡らされた重力増幅の為のパイプ。その埋設の為に要された労力は、果たしてどれだけのものだったか。

「これだけの大規模工事、どれだけのプラントの力が費やされた……」

「プラント?」

 つい零れ落ちた呟きに、アルは不思議そうに首を傾げた。プラントの存在しない日常生活を送り、歴史の授業などでも火星地球環境化におけるプラントの功労を教えられず個人でも調べられないのなら、この場所とプラントとの因果関係が思い当たらないのは自然か。

 仕方のないことだと納得できる反面、知られないまま忘れ去られてしまった同胞たちの存在を口惜しく思う。彼女たちは、確かにここにいたはずなのに。グランドマザーは、今もあそこにいるというのに。

「博識なお客人の相手は、半人前にはまだまだ早いようだな、アルよ」

 通路の奥から、声が掛けられた。見ると、小柄なアルよりもなお小さい、髪の毛と一体化しているほどたっぷりとひげを蓄えた地重管理人の老爺がおり、狭い歩幅でちょこちょことこちらへ歩いてきていた。

「アパじいさん」

 名を呼ばれ、老爺は「うむうっ」と短く返事をする。

 見れば見るほど小さい。1mは辛うじてあるだろうが、成長期前の幼児のようだ。ナインライブズの中身を彷彿とさせるほどだ。地下の街で生まれ、育ち、暮らしていく生粋の地重管理人は極端に体が小さい、という話は小耳に挟んでいたが、これが実例ということなのだろうか。

 いや、そんなことよりも確認すべきことがある。この老爺はナイブズを指して『博識な客』と言った。直前の発言と照らし合わせるに、その博識の意味するところとは、もしや。

「お前は知っているのか」

「うむうっ、知っとるよ。昔の、火星地球環境化の最初の頃の史料が、こっそり残されとるからな」

 思いがけない返答。胸の内に沸き起こる騒めきは、驚きではなく、喜び。全て無かったことにされてしまったのではないという、安堵でもあった。

「初耳です」

「当然じゃ、一人前にならなきゃ見せてやらんよ。本当はその時まで教えんもんじゃ」

「……部外者に聞かれてもいいのか、その話は」

「うむうっ、構わんよ。秘密にはしとるが、別に隠しているわけではないからな。ちょっと前に、地球から来た子にも見せたしの」

 老爺の言葉に、過日、この地を訪れていた少女を思い出す。単なる表向きのプログラムの一環だと思っていたが、そういう事情もあったのか。大方、入れ知恵をしたのは店主だろうが。こういうことをあの男が知らぬはずがないという、妙な信頼感があった。

「じゃあ、僕が見ても……」

「いや、半人前は駄目じゃ」

 アルは好奇心に目を輝かせて、アパに史料の閲覧をせがんだが、にべもなく断られていた。消し方が雑で抹消の痕跡も明らかとはいえ、火星地球環境化におけるプラントの活動は公式には無かったことにされた事柄だ。軽々に教えることはできないのだろう。

 これに残念がる様子も見せず、アルは却ってやる気が出たようで、目に強い光が宿った。

「なら、一日も早く一人前にならないとっ」

「それじゃ、一人前への第一歩じゃ。行って来なさい」

「はい!」

 アパに促され、アルは通路の奥へと走っていった。その先にあるのは、壁面のパイプが集まっている――或いは、そこから全てのパイプが始まっている――制御装置らしきものだった。断言できないのは、その装置の外観によるところが大きい。

「あれは、パイプの制御装置のようだが……何故鍵盤が付いている?」

「ちょっとした遊び心じゃ」

 どこからか取り出したスナック菓子をパクパクと食しながら、アパは軽く答えた。これに、ナイブズは眉間に皺を寄せた。

 遊び心によるという制御装置の外観は、パイプオルガンを模ったようなものなのだ。まさかパイプを制御するからパイプオルガンに似せたとでもいうのかと、人間の発想の突飛さに頭を悩ませている内に、アルが仕事を始めた。パイプの弁の開閉と、重力石の射出。それらを、鍵盤を操って制御しているらしい。

 パイプの中を、重力石が高速で射出される。それによって生じる独特な甲高い振動音と弁の開閉音が、一定の法則性と規則性をもって、幾度も鳴り響く。まるで音楽のように。

 どうやら、制御装置がパイプオルガンを模しているのは間違いないらしい。

「重要な仕事だろうに、こんな要素を何故態々……」

「言ったろ、遊び心じゃよ」

「そういうもの、なのか……」

 人間の遊び心とは、どうにも理解が難しいものらしい。呆れ驚きつつも、その音楽に耳を傾ける。

「音色はどうじゃ?」

「まずまずだな」

 音楽として聞けば、悪くはないが、良いものだと賞賛するほどでもない。音界の覇者の異名をとった男の演奏や、天上の謳声とは比べるべくもない。

 ただの音として聞けば、新鮮で、中々に面白い。何かひかれるものがある、澄んだ不思議な音色。腕を上げ、もっと音楽性が伴えば、聴きごたえのあるものになるのだろう。果たしてそれが地重管理人の仕事に関係があるのか、役立つものなのかは知らないが。

 暫くするとアパは史料を閲覧するか尋ねて来た。どうやら、アイーダがここを訪れた際に、ナイブズの名は告げずに「プラントを知る男が来たら見せてあげてほしい」と頼んでいたらしい。

 幼い同胞の気遣いに感謝しつつ、その提案に応じた。そのことを聞いてもアルは不平や不満を一切現さず、笑顔で送り出し、一人仕事場に残った。その場を立ち去っても、壁面に張り巡らされたパイプから、コン、キン、カン、という音が追いかけて来るように響く。

 案内された資料室の中、300年以上前からこっそりと隠されていたデータを今に伝える1つの記録媒体。その中に収められていたのは、火星をアクアへと変える一助を担った同胞たちの足跡。

 澄んだ音色を聴きながら読み進めている内に、地上では日が沈んでいた。

 

 

 

 

 地上に出ると、日はとっくに沈んで、夜空には星が輝いている。今になって、汽車から降りて見上げた時とは、星の配置が随分と変わっていることに気が付いた。惑星の公転運動により夜の星空は日を追う毎に刻々と変化するのだから、当然だ。

 地球に倣って火星でも星座は作られているらしいが、ノーマンズランドではそんなものは無かった。これから作られることもありうるのだろうかと、ぼんやりと考えたが、すぐに切り替える。

「今日は世話になった、礼を言う」

「いえいえ。僕の方こそ、新しい発見がありました。ありがとうございます」

 ナイブズが短く例の言葉を述べると、アルは丁寧に深々と頭を下げた。

 礼を言ったのに礼で返される。アテナともこんなやり取りをしたが、火星には妙な文化もあったものだと溜め息を吐く。

 アルが頭を上げてから、踵を返し、その場を立ち去る。すると、背にアルの声が響いた。

「また来て下さい。美味しいきのこ鍋の店とか、今日は案内できなかった場所もありますから」

「……気が向いたらな」

 歩いて行くのを提案したのは、そういう気遣いもあってのことだったか。

 少しも思い至らなかったなと自嘲しつつ、ナイブズは家々の合間を縫って、路地裏へと姿を消した。

 



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#21.随神(かむながら)

今回はオリジナルキャラクターの出番が多く、また設定や世界観の独自解釈などもありますので、苦手な方はご注意ください。


 朝の陽射しが差し込むネオ・ヴェネツィアの街を、ナイブズは一人で歩いていた。まず向かうはゴンドラ乗り場、そこを経由して目指すはネオ・アドリア海に浮かぶ島の一つ。かつて訪れた桜の名所がある天道(てんとう)神社だ。

 本来ならもっと早くに乗り込むつもりだったのだが、あちらにも準備があると待たされ、今日に至った。曰く、季節の変わり目や季節の始まりは行事や祭事が多く執り行われるのだとか。それらが落ち着くまでは待ってほしいのだと、店主を通じて伝えられた。

 待たされる間に興味や関心が潰えることは無かった。ナイブズをして瞠目せしめた、神秘以外に形容の仕様が無い仕業――『ふでわざ』と言っていたか――、天に星を描き銀河と成し、風を吹かせてそれを回すという、物理法則も何もかも超越した、言葉にすれば馬鹿馬鹿しくなるほど荒唐無稽な超常現象。その正体が如何なるか、気にならないはずがない。

 プラントこそは絶対的なる優越者という認識を破却した今だからこそ、あれを成した力の正体を、その仔細を知りたいのだ。

「ナイブズさん、おはようございまーすっ」

 水路の側から聞き覚えのある声で呼ばれ、足を止めてそちらへ振り向く。舟の上で、あゆみが元気に手を振っていた。

「あゆみか。久しいな」

 ナイブズの返事を聞くと、あゆみはオールを操り舟を寄せて来た。

「今日はお互いに一人ですね」

「俺は基本的に一人だ。それに、最初に会った時はお前も一人だっただろう」

「あ、そういえばそうでしたね」

「今の口振りだと、杏やアトラとは普段から一緒なのか」

「はい。トラゲットで知り合って、仲良くなって以来、ちょくちょく合同練習やってます」

「違う会社でも、一緒に練習することに問題は無いのか?」

「会社の垣根を超えた合同練習は、昔からある慣習なんですよ。あの水の三大妖精も、半人前(シングル)の頃から合同練習をやっていた仲良しトリオだって話もありますからね」

「そして、その三人の弟子も、か」

 何とはなしに、とりとめもない会話をしていると、あゆみは急に、きょとん、とした表情になった。

「え? ナイブズさん、藍華お嬢たちとも知り合いだったんですか?」

「偶に会う」

 藍華と面識があることに、それ程驚かれるような要素があるのだろうかと首を傾げる。他方、あゆみも少し思案していて、すぐに何かに納得したようだった。

「っかー! そうか、ウチの知らない話が広まってたのはそういうことかーっ!」

「なんだ、急に」

「いや、ナイブズさんに直接あの話を聞いたのはウチらだけだと思ってたから、聞いた覚えの無い話が増えてたのが不思議だったんですよ。そうか、藍華お嬢が……」

 あゆみは興奮気味で、肝心の情報を断片的にしか伝えてこない。だが、既にある知識と照らし合わせれば、意味するところを察するのは容易だった。

 やはりというべきか、ヴァッシュの話を最初に広めたのはあゆみだったらしい。周囲が話しているのを聞いても自分が広めたものばかりだったのが、ある日急に自分が知らない内容が増えていて、それが不思議だったのだろう。

「藍華には話していない。灯里から聞いたのだろう」

 ナイブズがヴァッシュの話を、あゆみよりも詳しく聞かせた人間は灯里、アイ、光、この3人だけ。そして、3人の中で藍華と接点があるネオ・ヴェネツィアの住人は1人だけ。世間話のついでや話の種にと、話を広めるぐらいのことはしていてもおかしくはあるまい。

「灯里……っていうと、あのARIAカンパニーの?」

「有名なのか?」

「ARIAカンパニーは姫屋不動のトッププリマだったグランマが、ある日突然に退職して立ち上げた会社ですからね。そこに同年代の新人がいるとなったら、ウチじゃなくても気になって調べちゃいますよ」

 グランマ――天地秋乃の意外な経歴に驚くと同時に、それならばと納得する。

 そのままARIAカンパニーの話題に移ったのだが、その運営方針にまたも驚かされた。創業以来、小規模経営を旨としており、最大で社員は2人(実質マスコットである火星猫の社長は含まない)、設立直後に至っては10年以上もの間1人だけだったのだとか。

 そんな秋乃が育て上げた後継者は、水の三大妖精の一人に数えられ、誰もが認める業界トッププリマのアリシア・フローレンス。そのアリシアも秋乃の引退後から数年は1人で会社の運営をしていたというのだから、ある種徹底したものだ。

 このような先達がいるとなれば、灯里がそこに所属しているというだけで注目されるのも納得できた。尤も、灯里の特異性ともいうべき特徴は、水先案内人とは異なる方面で発揮されているような気もするが。

「ナイブズさん、また、あの話をしてくれませんか? ほら、調度練習台が乗れそうなスペースも」

 自分はARIAカンパニーの話をしたのだから、ということだろうか。それとも、あゆみに話していなかった部分で、何か気になるところでもあったのか。どちらにせよ、答えは決まっている。

「今日は用事がある」

「あ~……そうですか。それじゃあ、しょうがないですよね。それじゃあ、また今度、お願いします」

 残念そうな様子を臆面もなく見せながらも、食い下がることもせず、あゆみはあっさりと引き下がった。

 そこで短く別れを告げようとした時、こちらに向かってくる気配を感じた。そちらを振り向くと、見覚えのある白い狼が走って来るのが見えた。

「あれは、シラヌイ」

 ナイブズが名を唱えると、シラヌイは元気に一声鳴いた。大きく跳んで着地し、ナイブズの前にちょこんと座るが、向いているのは水路の側――あゆみに顔を合わせていた。

「アイちゃんと一緒にいたシロちゃんじゃん。元気にしてた?」

 舟から身を乗り出し、あゆみは優しくシラヌイの頭を撫でた。シラヌイは目を細め、嬉しげに喉を鳴らした。

「お前が迎えに来たのか?」

 ナイブズが声を掛けると、シラヌイは一度だけ小さく吠え、頷くようなしぐさを見せた。どうやら、そういうことらしい。

 これを聞いて、あゆみは「へ~」と声を漏らし、意外そうで、それでいて好奇心を刺激された様子だ。

「ナイブズさん、シロちゃんの家に行くんですか」

「ああ。ネオ・アドリア海の島にある神社だ」

「そこって、千本鳥居のある所ですか?」

「いや、桜ならあった」

「ああ、そっちですか」

 春に見た桜を思い出し、ふと気付く。あの時は、この狼の気配は微塵も感じなかった。狐の仮面を被ったものならいたが、あれは全く違う存在だ。しかし、この狼の纏う雰囲気は、どこか桜の舞い散るあの時あの場所を思わせる。

 龍宮城では天の慈母とも呼ばれ、海の慈母とも呼ばれたグランドマザーと並んで称されていた。白い体毛に紅い化粧を施したこの狼は、何者なのだろうか。

 そんなナイブズの疑問など露知らず、シラヌイはあゆみをじっと見ている。

「ウチの顔がどうかした? シロちゃん」

 見られていることに気付いて、あゆみが声を掛けると、シラヌイはあゆみとその背後の海へと視線を交互させた。

「もしかして、誘ってくれてるの?」

 ワン、と元気な返事。これに、あゆみは笑顔で答えた。

「よっし、一緒に行きましょう、ナイブズさんっ」

「練習があるんじゃないのか?」

「ええ。ですから、ウチの練習相手を大柄な男性と大型犬に頼んで、ネオ・アドリア海まで行って、途中立ち寄った島で休憩しようと思います」

「物は言いようか」

 初めて会った時に自分が半ば以上も押し付けた屁理屈を、まさか一年以上を経た今になって返されるとは。これにはナイブズも堪らず、僅かに苦笑を漏らす。

「ウチが一緒だと、迷惑ですか?」

 漏れ出た苦笑いを拒絶的な感情の表れと思ったのか、あゆみは不安げな表情で尋ねて来た。

 ポン、とシラヌイの頭を叩き、答える。

「こいつが連れて行こうとしているのなら、問題あるまい」

「ありがとうございます!」

 何故、事実を伝えただけで礼を言われるのか。ノーマンズランドではまるきし無縁だった無邪気な感謝の言葉が、火星では当たり前のように向けられてくるのだから、未だに慣れない。

 これも社交辞令というものの一つなのだろうかと、今更ながらに思い悩む。

「それでは、ナイブズさん、お手をどうぞ」

 気を取り直して、一つ咳払いをしてから、あゆみは水先案内人としてナイブズへと手を差し伸べた。その手にナイブズが触れるよりも先に、白い前足が置かれた。

「……そのお手じゃないよ、シロちゃん」

 ぽあっとした表情でシラヌイは首を傾げて、ナイブズは一つ溜め息を吐いた。

 その後、島までの移動の間、あゆみの質問への答え合わせのような形で、ヴァッシュの話を新たに伝えることになった。

 

 

 

 

 目的地となる島に到着すると、嗅覚を刺激する不思議な匂いに気を取られた。春に来た時はこんな匂いはしなかったはずだ。

 花は花粉を飛ばすと同時に匂いも拡散させるという知識に基づき辺りを見回すが、それらしいものは見当たらない。何かしらの香料を使っているのだろうかと推測しつつ、シラヌイに続く形で舟を下りる。

 あゆみが舟を係留するのを待ち、春に訪れた時には素通りした神社へと向かう。

 神社に特有の赤い門のような構造物――鳥居――の前に、和装の男が立っていた。あの日、シラヌイと共にナイブズを龍宮城へと誘った人間の一人、天道(てんとう)(じょう)だ。

「お待ちしていました、ナイブズさん。そちらの水先案内人(ウンディーネ)さんは、お連れの方ということで?」

「そうなる」

「姫屋のあゆみ・K・ジャスミンです。シロちゃんの招待で一緒に来ました」

 あゆみの自己紹介を聴いて、歓迎の言葉を伝えると、丈はシラヌイへと向き直り、大きく溜め息を吐いた。

白縫糸(しらぬい)様、また勝手に抜け出して……。世話をしている秋穂と秋生の身にもなってやってください」

 やはり、ナイブズを迎えに来たことはシラヌイの独断だったらしい。咎められると、シラヌイはそっぽを向いて知らんぷりを決め込んでいた。なかなかになめた態度だ。

「シラヌイ……様?」

 あゆみは、丈が狼――彼女の認識では犬だろう――に対して敬称を用い、畏まった態度で接していることに首を傾げている。一切の事情を知らなければ、これが普通の反応だろう。ナイブズとて、この狼が普通でないことを知らなければ、同様の反応を示したことだろう。

「色々と事情があるんだ。それじゃあ、ご案内します」

 丈はシラヌイに関する説明を省き、ナイブズたちを奥へと案内する。

 ちらりと、少々困惑した様子のあゆみを一瞥してから確認する。

「一緒で構わないのか?」

「ええ。白縫糸様がお連れしたということは、そういうことでしょうから」

 短く、最低限の内容での返事だったので、当のあゆみは余計に困惑した。ナイブズも、シラヌイはこの神社において大きな権限や決定権を持つのだということは理解できたが、「そういうこと」の指す意味は分からなかった。

 ナイブズやあゆみが問いを重ねる間も無く、丈は石畳の道の左側を、シラヌイもその右隣、即ち中央を歩き出した。小さく溜め息を吐いてからナイブズは先導に従って歩き、あゆみもそれに続いた。

 鳥居を潜った参道の先にある社殿の脇を通り抜け、『社務所』と書かれた看板の掲げられた、小さな和風建築の建物の中へと入る。

「どうぞ」

 丈に促され、中に入る。靴のまま入ろうとして、足元に靴が脱ぎ揃えられているのを見つける。これにあゆみも不思議がっていると、日本家屋では玄関で靴を脱いでから入るのが礼法なのだという。ナイブズもあゆみも、慣れない慣習に戸惑いつつ、靴を脱いで社務所に上がる。

 シラヌイはそのまま上がろうとしたのだが、後からやって来た少年少女――双子の弟妹らしい――に捕まって、専用の足拭きマットで足裏の汚れを落としていた。

 便宜上『社務所』と書いてあるが、実際は自分たちの家なのだとか、季節の行事が終わると途端に暇になるとか、丈が説明するのを聴きながら、奥へと入る。

 廊下を進んだ奥の部屋、客間まで案内される。紙の張られた珍しいドア――障子――を、丈が一度廊下に座して、横から引くようにして開ける。

 日本の旧い文化は西洋文化を基盤とした現代とは異なる部分が多いと、多少は知識で有していたが、実際に直面すると日常の些事でさえもここまで違うものかと、驚嘆の念すら覚える。

「では、ごゆっくりと」

 ナイブズとあゆみ、そしてシラヌイが中へ入ると、障子が閉じられた

「よっ。待ってたぜ、お客人」

 植物を織り込んだ網目状の床――畳――に座してナイブズを待ち受けていたのは、見覚えのある男。今日は正装を着込み、身形も整えているようだが、見間違うほどでもない。

「久しいな。夜光鈴の時以来か」

「久々に、あれの買い手がついて嬉しかったよ。もう十年以上、売れ残っていたからなぁ」

 ナイブズを花見に誘い、夜光鈴を手に取らせた、奇縁の男。こうして三度(まみ)えることになろうとは、思ってもみなかったが、同時に納得できる部分もあった。

「改めて、挨拶しないとな。天道神社の神主、天道秋雨(あきさめ)だ。そっちのお嬢さんは、姫屋の水先案内人(ウンディーネ)さんか。こんにちは」

「こんにちは、姫屋のあゆみです」

 簡単にあいさつを済ませて、秋雨の前に用意されたクッション――座布団――を勧められ、その上に座る。あゆみと、何故かシラヌイも、それぞれナイブズの隣に座る。

「これからちょいっと長話をするんでね、退屈になったら寝るなり帰るなりしてくれ」

 今日の予定を何も知らないあゆみに向けて、秋雨は前置きをしたのだが、退屈になるのが前提とばかりの言い方が少々気に掛かった。あゆみもそこを察してか、苦笑を漏らす。

「何の話ですか?」

「今じゃすっかり忘れ去られた、火星の御伽噺さ。まずは、そうだな……昔々、神出鬼没の紙芝居屋ってのがいてな。百年程の間、火星全土で目撃証言が相次いだ、謎の紙芝居屋だ」

「紙芝居……?」

「絵本の読み聞かせみたいなもんだな。使うのは絵本じゃなくて大きな紙で、仕事だけあって語り方も大仰だったらしい」

「100年もいたって、まるでカサノヴァみたいですね、その人たち」

「ん?……ああ、そうだな。で、その紙芝居屋が語って聞かせていた御伽噺を、今日は俺が披露しようってわけだ」

 一通りの事前説明が終わり、あゆみは隣のナイブズに顔を向けた。

「……これ聴きに来たんですか? ナイブズさん」

「気になることがある。その確認のついでだ」

 ナイブズと紙芝居屋の御伽噺に接点が見出せないのか、あゆみは難しい顔をしている。

 正直、今のところナイブズもこの話を聞くことにさして興味が無い。本題に入るためにはどうしても必要だからと言われたから、ある意味仕方なしに聞くに過ぎない。

「さて、今より遡ること三百年以上前。火星入植黎明の時代、火星がアクアと呼ばれる少し前のことで御座います……っと。あんたが前に聴いた話の、ちょいと後のことさ」

 最初だけ仰々しい語り口だったが、すぐにそれも崩れた。

 前に聞いた話の続き。つまり、龍宮城で聴いた、グランドマザーがこの火星に生命力を宿し、生き物が生きられるようにした、あの後のこと。

 先程話に出た『紙芝居屋』というのが店主の父親のことだとすると、グランドマザーに関わりがあることだということになる。

 ナイブズが思考を整理したのを見計らってか、秋雨はゆっくりと語り始めた。

「今じゃあ信じられないことなんだが、当時の火星は嵐やら旱魃やら洪水やら暴風やら豪雪やら、自然災害が至る所で起こってたそうだ。今じゃ完全掌握している地球でも、災害が頻発していた時代なんだから、当たり前と言えば当たり前だよな」

「どうしてです?」

「地球での気象制御技術を使おうにも、火星の環境は地球と全然違うからな。はっきり言って殆ど当てにならなかったそうだ。火炎之番人(サラマンダー)の前身となる先達も、生き物が最低限生存できる条件を満たすので精一杯だったんだとさ」

「へー……」

「大地を削り取るのではないかというほどの豪雨、大地を埋め尽くし凍て尽くすほどの豪雪、地表から全てを吹き飛ばすほどの暴風・竜巻・旋風、湖沼が干上がり地面がひび割れるほどの旱魃……いやほんと、想像が追い付かないほど酷いもんだったらしい」

「この星で旱魃、か」

「ホントに想像できないですねー……」

「だろ? だから、忘れられちまったんだろうなぁ……。肝心の絵も無くなっちまって……っと、失礼」

 絵が無くなったことを口にした途端、秋雨は見るからに気落ちして、悔しそうにした。龍宮城でも「絵が無くなったから語り継げなくなった」という旨の発言があり、天道の兄妹も絵についてやけに執心していた。そのことに由来するのだろう。

 果たすべき役目を果たせず、挽回することさえできない苦しさと悔しさ、と言ったところか。

 秋雨は一つ咳払いをして、気を取り直してから話を続ける。

「人々は新天地でも直面した災害……自然の猛威を畏れた。同時に、祈りを捧げた。助けて下さいとか救ってくださいとか、そういうのじゃなく、一日も早く、より良い日が来ますようにと。その祈りが、海の底に眠る御方へと届き、その御方が、天の慈母を招き寄せた」

「海と天の、慈母」

 遂に出てきた、グランドマザーを意味する単語。そして、それに並べられた単語が指す存在は、今、隣で……――丸くなって寝ている。

「天の慈母は白い狼の姿に化身して、或いは狼の石像に降臨して、火星全土を駆け巡ったそうだ。災いあるところに颯爽と現れ、その尾を音楽を奏でるかのように翻した。さすれば忽ち風も雨も止み、雪と寒さも緩み、日差しも穏やかになり、駆け抜けた後には草花が咲き乱れたという。凄いところじゃ、夜が朝になったなんて話もある」

 白い狼――赤い化粧を施したシラヌイ。

 尾を翻す――筆業、筆しらべ。

 それによって起きた、災害を鎮めるという超常現象――天に星々が描かれ、風が吹いたあの瞬間。

 駆け抜けた後に咲き乱れる草花――あの日、図らずも共に駆けて目にした光景。

 少しずつ、何かが符合し始めた。

「火星の大地を駆けるその様子は、さながら野を縫う白い糸のようであったとか。以来、それを見た者たちは、そしてうちの先祖たちは、畏敬の念を込めてその狼を『白い縫い糸』と書いてシラヌイと呼び称し、感謝と共に崇め奉った」

「シラヌイ……」

 シラヌイの字と意味、由来が語られ、確信に至る。

 隣で寝こけているこの狼の正体は――ナイブズがその存在を否定し、その不在を確信していたもの。

「その狼が、神様だったんですか?」

 あゆみも同様の結論に至ったらしく、半ば呆れたような調子で疑問をぶつけた。無理もあるまい、近代に起こった実話として捉えるには、あまりにも荒唐無稽なことなのだ。

 こんな話をすんなりと信じられるとすれば、灯里や光やアイのような者たちぐらいだろう。

 否定にも等しい疑問を投げ掛けられて、秋雨は苦笑した。だが、怯んだような様子は寸毫も無い。

「動物が神様なんて、今の時代じゃあ笑い話にもならないよな。当時だってそうだったろう。けど、みんな大真面目にそう思ったんだと。神様が、命を懸けて自分たちを救ってくださったと」

「……命を懸けた?」

 意外な言葉に、思わず聞き返す。ナイブズの考えている通りならば、その白縫糸が死んでいるはずがないのだ。

 しかし、秋雨は悲しげな表情で小さく頷いた。いつの間にかシラヌイも起きて、秋雨の話に耳を澄ませている様子だった。

「白縫糸様はその時、力を使い果たし、命を落とした。神とて生きとし生けるもの。限界を超えた力を揮い続ければ、命を削っちまうのも道理さ」

「何故、そこまでして……」

「慈悲深き神の御心は……――あ~いや、違うな。きっと、白縫糸様は人間を、この星で必死に生きようとしていた生命を、愛していらしたんだ。自らの命を費やし、使い果たすのも、惜しくは無いほど。その最期は、弱り切った自らを抱き、涙を流す者の頬を舐め、泣き止んだのを見て優しげに一声鳴いてから力尽きた、というものだったらしいからな」

 生きるには辛く苦しい星で、必死に生きようと足掻く者達への、自らの命すら顧みぬほどの愛と慈しみ。

 どれほど超越的な力を持とうとも、自らも同じ、この世界に生きるもの。それを自覚し、静かに人に寄り添い生きる。

 その身に赤を纏い、星中を駆け回り、弱きものを自らの手で守るため、この世の摂理とも云うべき現象に挑み続け、力尽きた。

 どの星にも似たようなもの(バカ)がいたものだ。それに、その白縫糸が死んだのも当然だろう。ヴァッシュが150年続けて来たようなことを、恐らくは数年にも満たない期間に圧縮して行ったのだから。

 そう、白縫糸は死んだ。ならば――

「なら、こいつはいったい……」

「そうだ。さっき、シロちゃんもシラヌイって名前で呼ばれてた」

 ナイブズの呟きが聞こえたようで、あゆみもシラヌイを見る。シラヌイは、ぽあっとした表情で首を傾げた。惚けているのか、なめられているのか、それとも何も考えていないのか、判別がつかない。

「生まれ変わりみたいなもんさ」

 さらりと、秋雨が答えを告げた。思いもよらぬ言葉に、あゆみは身を乗り出しそうなぐらいの勢いで向き直った。

「本当ですか?!」

「信じるかは君次第だ」

 そこで、ナイブズに目配せがあった。一般人には聞かせられないような事情がある、と言ったところだろう。

 その後、この神社が信仰する神と現在一般に普及している宗教における神との定義や信仰自体の違い、白縫糸には実は神としての本当の名前がある(アマテラスでまず間違いあるまい)が恐れ多いので普段は通称で呼んでいること、自然への畏怖と感謝などについて補足され、話が終わる頃には、あゆみは今にも目を回して倒れそうな様子だった。

「……っかー。なんか、一辺に色々聞いて、頭がくらくらしてきた」

 話が終わり、あゆみは体勢を崩して左手を床に付き、右手を額に当てた。

 頭を随分使ったから、冷えやすい体の末端部分を当てて冷まそうとしているのだろう。

「退屈はしなかったかい?」

「はいっ。面白かったです」

 疲れていても、返事は元気に快活に。あゆみらしい一面を見たものだ。

 秋雨は一瞬、意外そうな表情を見せて、すぐに口元を綻ばせた。

「そうか、そいつは良かった。折角だ、昼飯も食べて行ってくれ。調度、昨日の風で一気に金木犀の花が落ちたんだ、見ながら食べるのにちょうどいい」

 余程あゆみの言葉が嬉しかったのか、予定にはない昼食に誘われた。ただ、途中で出て来た植物の名に、あゆみも「キンモクセイ?」と鸚鵡返しに同じ名前を唱えて首を傾げていた。

 ふと、今まで話に集中していて気にならなかった匂いが、嗅覚を刺激した。海辺の時と同じものだが、今度はより匂いが強い。

「……ここに来てから何か甘い匂いがしているが、それか?」

「ああ。香りが強すぎるってことで、ネオ・ヴェツィアの街中じゃまず見かけない」

 離れていても香料を使っているのではないかというほどに香る、天然の花の匂い。そして、花が落ちたから見るにはいい、という言葉も気になり、ナイブズは昼食の誘いを了承し、あゆみも快諾した。

 金木犀のある庭までの移動がてら、金木犀についての説明を受けた。

 曰く、地球にかつて実在した樹齢千年を超える金木犀の芳香は、2里――メートル法に換算して約8km――の遠方にまで届いたという伝承があるほどに、香りが強いことで有名だという。

 樹齢千年という途方もない数字に、ナイブズも驚きを露わにしたが、これから見る金木犀も樹齢百年余り、御神木の桜の大樹に至っては樹齢三百年をゆうに超えるという。

 かつて地球の神社では樹齢千年の御神木はさして珍しくもなかったとも付け加えられ、ナイブズは自分の150年が、生物としては取るに足らない些末なことなのだと気付かされた。

 ノーマンズランドでは樹齢50年の樹木ですら希少だったのだから、植物が長命の生物だという知識に、実感と認識が伴っていなかったのだ。

 隣では、あゆみが植物も動物と同じ生物だということに少々驚いている様子だった。

 自然への畏怖と感謝が薄れると同時に、最も身近でありその象徴的存在である植物への意識も低下するのは、人間の歴史に鑑みて当然のことなのだろう。

「さて、話している内に着いたぜ」

 言って、秋雨は道を開けて、ナイブズとあゆみを促した。

 微かに向かい風が吹き、一際強い甘い香りが鼻腔をくすぐる。

「わぁ……」

「一面のオレンジ色……すべて、花か?」

 庭の中央に聳え立つ大樹には、一つも花が付いていなかった。代わりに、地面が一面、オレンジ色で染まっていた。身をかがめてオレンジ色に触れ、それを纏めて掴み取り、観察すると、それは指の先にも満たないほど小さな花だった。その小さな花が、決して狭くない庭を覆い尽くしていたのだ。

「綺麗……お花の絨毯だ」

 あゆみは花で埋め尽くされた庭へと入っていき、その感触や香りを楽しみ始めた。

 秋雨は食事の手配と準備のためにと一度戻り、ナイブズはその場に立って、暫く辺りを眺めていた。シラヌイは、気付いたらあゆみと遊んでいた。

 本当に、先程語られたような存在なのだろうかという疑問が湧いてきたが、そんな所もヴァッシュに似ているのではないかと思ったら、何故だか納得できてしまった。

 暫くして食事が届き、天道の一家と共にその場で昼食を摂った。

 甘い香りに包まれての食事というのは妙な気分だったが、悪くないものだった。

 出された茶に金木犀が香り付けに使われていると聞いて驚いた隙に、シラヌイにおにぎりを一つ奪われ、奪い返し、涎がべっとりと付着していたので押し付けるような珍事はあったが、些末なことだった。

 美味い料理を食べ、美味い酒を飲み、地に落ちた花々を時に愛で、その合間に人と言葉を交わす。

 “楽しい”気分とはこういうものだっただろうかと、僅かながらに思う。もし本当にそうだとしたら、楽しいのは凡そ150年ぶりになるだろうか。

 

 

 

 

「っかー! 面白い話を聞いて、綺麗な花を見て、美味しいお茶とご飯も御馳走になって、今日はいい日だったー!!」

「態々口に出して言うことか」

「いいじゃないですか、言いたくなったんですから」

 他愛のない言葉を交わして、鳥居を潜る。余程楽しかったのか、あゆみは満面の笑みを浮かべていた。

「お気に召したなら、光栄至極だ」

 見送りに来た秋雨が言うと、くるりと回って、丁寧に頭を下げた。

「今日はありがとうございましたっ。また、来てもいいですか? 今度は友達と一緒に」

「ああ、いつでも来てくれ。今日のようなもてなしはできんが、歓迎するよ」

 別れの挨拶を交わすと、あゆみはナイブズへと向き直った。

「ウチはもう帰りますけど、ナイブズさんはどうします?」

「まだ、確かめることがある」

「そうですか。じゃ、また会いましょうね」

「機会があればな」

「その時はヴァッシュさんの話、お願いしますね」

 あゆみは一人で舟に乗り、ネオ・ヴェネツィアの街へと戻っていった。途中までは時折振り返っていたが、潮の匂いが花の香りを遮るほどの距離になると、振り返らずに舟を漕いで行った。

 それを見送ると、ナイブズは踵を返し、秋雨を伴って天道神社へと戻った。

 

 結論を言うと、筆業や筆しらべについて実演と共に仔細を教えられても、ナイブズは理解することができなかった。そもそも、その担い手である当人たちですら、それがどういう原理で起こる現象なのか、その全容を全く把握していなかったのだ。シラヌイに関しては知っていて惚けている可能性もあるが、確認のしようも無い。

 だが、ナイブズは今日の結果に不満は無かった。寧ろ、満足していると言ってもいい。

 理解には至らずとも、多くを知ることができ、新たな発見もあった。

「この星の人間たちの、心の奥底での“感謝”が今もあるから……彼女は、今もあそこにいるのだな」

「そういうことになります」

 それだけで、十分だった。

「つまり、貴方が今ここにいるのも……」

「それは無い。俺が本来、人間から向けられるべき感情は、憎悪、憤怒、怨恨、狂気、恐怖……そんなものだ」

 だから、それ以上など、望むべくも無かった。

 

 俺が変わったとて、俺を知る者すべてが変わるわけでは無い。俺の変化が必ずしも受け入れられるものでもない。ロスト・ジュライを経たお前でさえ、そうだったのだから。それでもお前は、俺に仕切り直せと言うのか? ヴァッシュ……。

 そしてグランドマザー、アマテラス、ケット・シーよ。

「俺をこの星に誘い、迎え入れた者達よ。お前達は俺の変化に、何を見ている? 何を願っているのだ?」



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#22.過去と現在

今回もまた設定等の独自解釈が多く、加えて主人公ナイブズの出番が少な目ですので、苦手な方はご注意ください。


 ネオ・ヴェネツィアの街の中心からも大通りからも大運河からも外れた、ネオ・アドリア海を臨む、ある種寂れた雰囲気の一画に建つ、一軒家のように小さな水先案内業の会社。

 歴史も浅く、見た目相応に弱小零細なれども、創立から現在に至るまで、常に水先案内業界で存在感を放ち続ける名店。

 初代の大妖精が退いた後も、直々に薫陶を授かった白き妖精が後を継ぎ、まだ見ぬ未来へと向けて伝説を紡ぎ続けている――

 

 そんな風に謳っていた記事の内容を、何とはなしに思い出す。

 今こうして、実際にその場所に立っていると思うと、不思議な緊張感を覚えてしまう。予定を立てて、予約も済ませて、約束もして来ているのに。

 自分は今、特別な場所にいるんだという、高揚と不安が入り混じった、そんな気持ち。

 そんな風に物思いに耽る1人がいる一方で、もう1人は大きく息を吸って、大きな声で呼びかけた。

「あーかーりーちゃんっ」

 周囲に他の家や建物が無いからいいようなものの、隣に立っていて耳が少しキーンとなるような大声。今日も変わらず、小日向光は元気だ。

「ぴかりちゃんっ」

 光に呼ばれて、いそいそと現れたのはARIAカンパニーの水先案内人(ウンディーネ)

 夏のある日、摩訶不思議な体験をし、そこで出会い、仲良くなったという、光の新しい友人。

「久し振り~」

「会いたかったよ~」

 彼女の名前は水無灯里。桃色の髪が目を引く、素敵な水先案内人。

 自分たちと年齢はさして変わらないのに、もう社会に出て働いて、一人前を目指している。今の時代ではさして珍しくないことだが、学生の自分たちと比べると、ただそれだけで立派に思えて、ちょっと気後れしてしまう。

 光と灯里が話しているのを、なんとく、ぼんやりと見ている……ことになるかと思いきや、2人とも急にこっちを見た。

「あなたが、夢のプロフェッショナルのてこちゃん?」

「おっ、大木双葉ですっ」

 そうだった。あの日、ぴかりが電話であのことを口走ってたんだ!

 自分と灯里にも接点があったことを思い出し、慌てて訂正する。焦りと緊張で、途中で声が裏返ってしまう。

 ぴかりが付けてくれた“てこ”という愛称は嫌いじゃない。寧ろ、今では好きなくらい。……けど、初対面の人にまで呼ばれてしまうのは、やっぱり恥ずかしい。

「アダ名はてこ、自称夢の……」

「却下!」

「いや~ん♪」

 更なる爆薬の投下を未然に阻止。光は止められることが分かっていたのか、いつもの調子で「うぴょっ」と笑って軽く流している。

 溜め息を吐いて、その間にも、次の話題が灯里の口から出る。

「……どうして“てこ”なの?」

「それはね、おでこ――」

「却下! 却下ぁ!!」

 次から次へと出て来る恥ずかし禁止ワードの数々に、つい気付かない内に、制止の声も動きも大きなってしまっていた。それを咎める声は、当然飛んで来た。

「こらっ! いくら他に人がいないとはいえ、静かにする!」

 灯里と話している内に、一緒に来ていた火鳥真斗――担任教師であり部活の顧問でもある――はARIAカンパニーの事務所の方に移動していて、そこのカウンターの所から怒鳴られてしまった。

「す、すいませんっ」

 光と、何故か灯里も一緒になって頭を下げる。それがなんだかおかしくって、3人とも、互いの顔を見合わせて、自然と頬が緩み、目を細めた。

 

 一方、ARIAカンパニーでは真斗が教え子2人に代わって手続きを済ませていた。

 今日は、遥々大陸の田舎から修学旅行にやって来た、夢ヶ丘高校の生徒たちの自由行動の日。

 本来ならば引率の教師がここまでする必要はなく、こういう部分も含めて社会体験させるべきとは思ったが、あまりにも楽しそうにしているものだから、つい手を出してしまった。

「今日は態々、ありがとうございます」

「いえいえ。調度、今日は私の予定も空いてましたから」

 カウンターの向こうで、アリシア・フローレンスは柔らかに微笑んだ。

水の三大妖精と謳われ、当代随一のトッププリマと噂される人気者の予約が、そう簡単に丸一日も空くものではないということは、素人でも分かる。色々と気を使ってくれたことは想像に難くないが、その佇まいからはそういったことを一切感じさせない。

 優雅に泳ぐ白鳥は、水面の下の激しい動きを決して他者に見せない。このうら若き白き妖精にこそ、白鳥の例えは相応しいと思えた。

 そんなことを考えていると、はたと互いに目が合った――いや、お互いに相手を見ながら何か考え込んでいたようで、今になって相手も自分を見ていることに気付いた。

「あの、火鳥先生、失礼ですが……どこかで、お会いしたことはありませんか?」

 急な質問に、少し首を捻る。

「私は、ネオ・ヴェネツィアに来たのは今日が初めてなので、多分会ったことは無いかと……」

「そうですか。すいません、変なことを訊いてしまって」

「いえいえ、構いませんよ。……プライベートで来た時は、私もお願いできますか?」

「ええ、是非」

 照れ笑いを浮かべる乙女の姿を見て、まるで夢でも見ているように思えてしまったのは、どのような気の迷いか。同じ女性から見ても美しく綺麗な女性だとは思うが、見惚れるほどのことでもないはずなのに。

 初めてのネオ・ヴェネツィアで浮かれているのは、どうやら生徒たちだけではないようだ。浮つく心に喝を入れつつ、アリシアと挨拶を交わしたところへ、調度生徒たちがやって来た。

「それじゃあ、私はもう行くぞ。帰りは迷子にならないように」

「はーい!」

 光の元気な返事を聞いて、却って不安になる。ネオ・ヴェネツィアの街は広くて複雑で入り組んでいるから、迷わないよう移動の際は細目に地図を確認するよう言い付けておいたのに、開始30分と経たない内に迷子の2人組を発見してしまったのだ。

 しかし、今はこの街を案内するプロがいるから大丈夫だろうと、自分自身で結論を出し、その場を立ち去る。生徒たちは自由行動だが、教員はそうも行かないのだ。

 橋を渡ったところで、猫を連れた水先案内人の2人連れと擦れ違った。

 1人は生徒たちと同年代、もう1人は更に若くミドルスクールぐらいの背格好に見えた。

 

「灯里、来たわよ」

「お邪魔します」

「藍華ちゃん、アリスちゃん、ヒメ社長、まぁ社長、いらっしゃい」

 藍華とアリスが挨拶をすると、それに灯里が応じた――その脇を駆け抜ける、小さな影が一つ。お昼寝から戻って来た、アリア社長へと飛び掛かった。

「まぁー!」

「ぷいにゅー!?」

 とても小さなパンダのような姿をした、火星猫の仔猫。つい先日、ちょっとした騒動を経てオレンジぷらねっとの新社長に就任したばかりのまぁ社長が、アリア社長のお腹に噛みついたのだ。

 これを初めて見る光と双葉は慌てたが、他の面々はいつものことだと焦りも見せない。

「今日もでっかいもちもちぽんぽん大ピンチです」

「アリア社長、大丈夫ですか~」

「ぷ、ぷいにゅ~……」

「まぁ~」

 慣れた手つきでアリスがまぁ社長を回収し、噛み跡がくっきりつくほど噛まれて涙目になっているアリア社長を、灯里は優しく抱き上げた。噛まれた拍子に落ちてしまった帽子を頭に乗せてもらって、高い高い数回で泣き止み、無邪気に笑うアリア社長を見て、ヒメ社長はどこか冷たい視線を送っている。

 そんな猫たちの織り成すドラマに、光の胸に去来する想いがあった。

「ちゃ顧問とお姫……連れてくればよかったね」

「うん、駄目だから」

 2人の入学と同じくして部室に居つくようになった猫と、2人が拾った仔猫。連れて来たかった気持ちは分かるが、修学旅行に連れて来るのは駄目なことだ。旅のしおりにもそう書いてある。

「あらあら。それではお客様、灯里ちゃんがもう連絡してありますけど、改めてお伝えしますね。今日は灯里ちゃんの練習も兼ねて、指導員の私の他に姫屋の藍華ちゃんと、オレンジぷらねっとのアリスちゃんも同行させていただきます」

 猫たちを中心に賑やかにしていて、5人ともすっかり本来の目的を忘れていた。

 アリシアに声を掛けられて、やっとお互いにちゃんと自己紹介すらしていないことに気付いた。

「夢ヶ丘高校から来ました、小日向光です。みんなからは“ぴかり”って呼ばれてます。今日はよろしくね!」

「えっと、大木双葉、です。今日は、よろしくお願いします」

「水無灯里です。ぴかりちゃんは久し振りだけど、双葉ちゃんははじめましてだね」

「姫屋の藍華・S・グランチェスタです。こちらは、当社の社長のヒメ社長」

「オレンジぷらねっとのアリス・キャロルです。まぁ社長と一緒に、今日はでっかいお世話になります」

「まぁ!」

 改めて自己紹介する少女たちの姿を、アリシアは微笑みながら、アリア社長と共に見守っていた。

 色々あって、すっかり出発の予定時間を過ぎていたので、すぐに社屋のすぐ下に造られている(ゴンドラ)乗り場へと移動する。

 その移動中、双葉は今日、ここに来ることになった理由を思い返す。

 火星の長い夏も終わりが近かったある日。ダイビング部のメンバーが揃った時に、光がみんなに披露した御伽噺。

 海の底で起きたという、摩訶不思議な体験。

「……龍宮城とか、神様とか、本当にあるのかな」

 誰に問うでもなく、ぽつりと呟く。

 意外にも、その声は波の音に呑まれることなく、すぐ後ろを歩いている2人の少女に届いた。

「今日はそのことを確かめるためもあって、私たちも同行させていただきます」

「そうなの?」

「ごめんなさいねー。後輩ちゃんがどうしてもって聞かなくて」

「藍華先輩、自分もでっかい乗り気でしたよね?」

「うっ」

 更に意外なことに、この2人は同じ御伽噺を知っていて、それを半信半疑の様子なのだ。半分程度しか疑っていなくて、半分ぐらいは信じているようなのだ。

「信じてるんですか? その……龍宮城の話」

「灯里だけだったら寝言で済ませられたんだけど……」

「別の方も同じ証言をしていましたので、もしかしたら、と」

「別の方?」

「ナイブズさんって言うんだけど、この人も中々不思議な人でね」

「言葉に説得力……いえ、重みがあって、なにか普通とは違う雰囲気の人ですね」

「いつも仏頂面だから威圧感があるわよね」

「今にして思えば、あのアテナ先輩を一度本気で落ち込ませてもいるんですよね……」

 厳つく、威圧感があって、どうやら怖い人らしいのだが、話している藍華とアリスからは敬遠するような態度は無く、寧ろ親しみに近い感情を持っているようだった。

 それに、自分と同じように思っていた2人を、信じさせる方へと向けさせたというそのナイブズという人に、ちょっと興味が湧いてきた。

「おーい、こっちこっちー」

 つい立ち止まって話している内に、光は既に灯里とアリシアと一緒に(ゴンドラ)の前まで着いていて、大きく元気な声で3人を呼んだ。居ても立っても居られないとばかりに。

「藍華ちゃん、アリスちゃん、双葉ちゃん……」

「“てこ”です」

 なのに、こういうところは頑として譲らないのは何故なのか。何故わくわくで忘れ去ってくれないのか。

「はひ?」

「てこ?」

「却下!」

「てこはてこです!」

「却下ぁー!」

 光はいくら却下しても聞く耳を持たない。

 他方、藍華とアリスは何か納得したようで、うむと一つ頷くと、親しげに双葉の肩を叩き、親しみを込めて彼女の名を呼んだ。

「よしっ。今日はよろしくね、てこちゃん」

「宜しくお願いします、てこさん」

「ええーっ!?」

 遠きネオ・ヴェネツィアの街でも、大木双葉の愛称が『てこ』で確定した瞬間であった。光はうぴょぴょとご満悦、双葉はあわあわと慌てるばかり。

 そんな少女たちの織りなす輪を見て、アリシアは、あらあら、うふふ、と微笑んでいた。

 

 

 

 

「はひー。5人もお客様が乗ってると、やっぱり大変だねー」

 街の水路を抜け、ネオ・アドリア海へと出て暫くすると、灯里はつい、そんな弱音を口にしてしまった。「お客様の前でこんなことを口にしてしまうのは言語道断! 弛んでるからそうなるのだ!」という、晃のお叱りの言葉が聞こえてくるようだった。

「団体客を乗せるのも珍しくないんだから、慣れなきゃダメダメよ」

 しかし、出てきた注意は藍華からの気さくなもの。こちらも、晃さんがいたら……などと考えてしまうのは、それだけ先日の晃の指導が骨身に沁みていればこそ。正しい教訓を常に思い出せるのは、決して悪いことではない。

 ただ、今日はその正しさの出番はなさそうだ。今日は実践教習というよりも、アリシア付き添いの下で、友達同士でのお出掛けに近い。

 普段はこういう時にも張り切って真面目に頑張る藍華も、出発前に双葉と会話して打ち解けたこともあってか、その雰囲気を受け入れているようだ。

「そうねぇ……それじゃあ今度、トラゲットに行ってみるといいかもしれないわね」

「トラゲット、ですか」

 藍華の言葉を聞いて、アリシアはすぐさま灯里に提案してきた。

 トラゲット――2人一組で運行する大運河の渡し舟なら、灯里も何度か乗ったことがある。水先案内業界で、半人前(シングル)同士でもお客様を乗せられる唯一の仕事。違う会社の半人前(シングル)とも組むことがあり、水先案内人(ウンディーネ)ファンの間でも密かな人気を持つ、ちょっとしたネオ・ヴェネツィアの名物の一つ。

 色んな会社の半人前(シングル)水先案内人(ウンディーネ)たちが、一緒になって頑張っている場所。そこに自分も参加できると思うと、なんだかワクワクしてくる。

「そうだ、トラゲットなら姫屋で面白い人がいるから紹介しておくわよ」

「オレンジぷらねっとの、その……と、友達の片手袋(シングル)の人にも話しておきましょうか……?」

 灯里が乗り気なのを見て、藍華とアリスも続けて声を掛けて来たが、アリスがちょっと気恥ずかしそうに口にしたある言葉に、灯里も藍華も食いついた。

「後輩ちゃんに友達が!?」

「どんな子なの?」

「藍華先輩、でっかい失礼です。灯里先輩は、会ってからのお楽しみです」

 そうやって、いつもの合同練習の時のような調子で会話が弾み、その間、光と双葉の相手はアリシアと社長たちがしていた。

 光はアリア社長と意気投合し、ヒメ社長とまぁ社長は双葉に懐いている様子だった。

 それらを見計らって、アリシアは3人に声を掛ける。

「みんな、楽しいのは分かるけど、お客様のことも忘れちゃだめよ」

 乗せているのが友人でも、お客様には変わりない。

 アリシアにも指摘されるほど気が緩んでしまっていたと気付いた3人は、ピン、と背筋を伸ばした。

「は、はひっ」

「失礼しましたっ」

「でっかい申し訳ありません」

 三者三様に、お客様である光と双葉に謝る。だが、2人は少しも気にした様子を見せない。

「大丈夫ですよ。賑やかなのって、一緒にいるだけで楽しいですしっ」

「ぷいー!」

 アリア社長をあやし、うぴょぴょと朗らかに屈託なく笑いながら、光は言う。まぁ社長を肩に乗せ、ヒメ社長の顎の下を撫でて、双葉も静かに頷いた。

「それに……こうして、(ゴンドラ)に乗って、海の上にいて、波に揺られて、潮風とお日様を浴びていると、まるで、星に抱かれてみたいで……それだけで、胸が一杯になっちゃうんです」

「それ、分かります。まるで、星のゆりかごに、揺られているような」

 双葉の言葉に、灯里は即座に頷く。

 自然と互いの視線が交錯し、灯里は満面の笑みで、双葉は気恥ずかしくなったのかちょっと頬が紅潮して、顔を俯けた。

「いやいやいやーん!」

「恥ずかしい台詞、きっ……」

 他方、2人の言葉を聞いて、光は大仰な身振りで悶絶。藍華は決まり文句を言おうとしたが、今回は灯里と一緒にお客様もそれの対象ということで、流石に不謹慎且つ失礼に当たると思い、言い切る前に踏みとどまった。

「……禁止?」

 が、当のお客様、双葉本人に最後の一言を言われてしまった。

 藍華は自己嫌悪で頭を抱えたが、言った双葉は小首を傾げて軽い調子で、まるでそれに親しみがあるかのようだった。

「よく分かりましたね、てこさん」

地球(マンホーム)の友達に、同じこと、言われたことがあったから」

 そう言って、双葉は空を見上げた。その見つめる先は、鳥よりも、雲よりも、高く遠い。蒼穹の深くにある、遥かなる蒼を探すかのようで。その姿を見ていると、なんだか、堪らない気持ちになった。

「てこちゃんも、地球(マンホーム)から来たんだね。私も、地球(マンホーム)から来たんだよ」

「そうなんですか」

 共に、年若くして地球から移り住んで来た同年代の少女。

 片や親の仕事の事情で、片や直感的な就職でと、成り行きこそは違うが、一緒な部分の方が多いのだから、打ち解けるにも、話が弾むにも容易かった。

 2人の地球での思い出話や火星での体験談を聞く内に、舟は目的地の島まで辿り着いた。

 

 

 

 

 舟を船着き場に係留すると、早速お出迎えが現れた。灯里と光が見知った相手のようだ。

「あっ、シロちゃん」

「お迎えに来てくれたんだ」

 尾を振りながら勢いよく駆け寄って来た白い大型犬――と、一同が思い込んでいるが実際は狼である――は、シロちゃんと呼ばれると嬉しげに一声鳴いて立ち止まった。

 双葉はアリスや藍華と一緒に、驚いて少し後ずさりしてしまったが、すぐに自分も見覚えがあることを思い出した。

 夏のある日、ダイビングを終えて戻って来た時、怖い男の人と目が合ってしまって、動けなくなった時。助けてくれたのが、この白い犬だった。

 改めて、具に全身を見る。文化教育の講義で見た資料映像、日本の伝統文化『歌舞伎』の役者のような、紅い隈取が目を引く全身の紅化粧が、とても綺麗だ。

 アリア社長たちが挨拶を交わすころには、皆すっかり白い犬の存在に慣れていた。それを待っていたのか、白い犬は先に立って歩き出した。

 灯里曰く、火星猫と同じかそれ以上に賢いそうなので、自分たちを案内してくれているのに間違いないということだった。

「それじゃあ、シロちゃんに案内してもらいましょうか」

 アリシアの号令に従って、全員が白い犬の後をついて行く。やがて鳥居が見え、その前に4人の和装の人達が待ち構えていた。その中央に白い犬は悠々と進み、堂々と座す。

「本日はようこそ御出で下さいました。天道神社一同、歓迎いたします」

 白い犬の右隣に控える青年が歓迎の言葉を述べ、4人ともが深々と頭を垂れたのだから、双葉たちは皆一様に戸惑ってしまった。

 光の祖母から「面白い話が聴けるから行ってみな」と言われたから、自由行動の日程に加えただけだったのに、こんなことになってしまうなんて。

 双葉が混乱していると、藍華とアリスが大袈裟過ぎるのではと指摘した。それには、両端の少年少女が答えてくれた。

「お花見の時期と行事の時以外、殆ど参拝者が来ないのです……」

「今の時期ともなれば、閑古鳥が鳴くのが通例となっています……」

 だからこそ、こういう時の参拝者は大事にしたいのだと、割と切実な理由だった。

 面白くも無い話は終わりにしまして、と青年が話題を強引に元の方向に戻す。

 何やら準備に手間取っているらしく、神主にはまだ会えないらしい。そこで提案されたのは、神社の周りの庭の散策だった。

 敷地内の随所に四季折々の花が植えてあり、今は勿論秋の花が見頃を迎えているとのこと。金木犀という木が秋の一番の名物らしいが、今年はもう散ってしまったらしい。

 準備にはそれほど時間もかからないということで、アリシアが光と双葉にどうするかを確認してきた。あくまで今日の主役は、お客様の光と双葉なのだから、と。

 光は即座に了承し、双葉もそれに追従する形で頷いた。

 青年は自分の弟妹たちに、白い犬――シラヌイ様と呼んでいる――の世話と客人の案内を任せ、自分は準備の手伝いがあると、一礼してから神社へと急ぎ足で戻って行った。

 自分よりも年上の人ばかりの団体の相手を任された少年少女たち――双子の兄妹の秋生と秋穂、末妹の紅祢は、しっかりしたもので、自身の役目をしっかりとこなしていた。秋生と秋穂は元々植物が好きで、案内の役は以前から務めているのだという。

 皆が一様に感心するが、それを言えば学業と仕事を両立させているアリスの方がもっとすごい、と本人たちは返す。不意に褒められて、アリスは赤くなった。そんな微笑ましい姿に、アリア社長たちやシラヌイも笑っているようだった。この時気付いたが、いつの間にか、アリア社長はシラヌイの背の上に乗っていた。

 途中、桜の広場の前を通りがかる。春であればきっと綺麗だったことだろうが、残念ながら、今は秋。桜の見頃は疾うに終わっている。

「桜の木も、今の時期は枯葉かぁ」

 何の気なしに呟いた、見たままを捉えた当たり前の言葉。けれど、それにも彼らは答えてくれる。

「冬を迎えるころには枯れ葉もすべて落ちて、枯れ枝となります」

「けど、冬の終わりには芽を吹いて、蕾が出でて、春にまた花が咲きます」

「咲いた花はすぐ散って、夏を迎える頃には青葉を茂らせます」

「そうやって、桜は四季それぞれで違う姿を見せてくれます」

「今、秋の見所は、秋にしか見られない枯葉」

「これから訪れる冬の見所は、花にも葉にも隠されない木々の枝振り」

「一番の見頃の春は過ぎていますけど」

「見所は、秋にも、いつの季節にもあるんです」

 秋生と秋穂の息の合った解説に、嘆息が僅かに漏れた。

 桜という木は、花見の時期にだけ価値があって、それ以外には意味が無いのだと心のどこかで思っていた。けど、そんなことはなかったのだ。

 人が季節によって装いを変えるように、木々もまた、季節に合わせて居住まいを正している。だからこそ、春にあの綺麗な、美しい花が咲くんだ。

「2人とも、恥ずかしい台詞禁止!!」

「いやいやいや~ん!」

「あらあら、うふふ」

 自分でも気づかない内に、灯里と一緒に心の声を口にしていたらしい。これに気付いて、双葉は恥ずかしさのあまり真っ赤になって、光と同じことを口走った。これに、そこまで恥ずかしかったの、と灯里は軽いショックを受けていた。

 他方、アリスはツッコミと見守り役を他に任せ、まぁ社長やヒメ社長と一緒に、マイペースに見学を続けていた。

「奥にあるでっかい木はなんですか?」

「当社の御神木です。樹齢は三百年を超えているのですが、実は、あちらは二代目で……」

 紅祢による御神木の解説が終わる頃には全員落ち着いて、次の見学場所に移動することになった。そこから逸れて、広場の奥へと向かっていく姿が一つ。

「あっ、シロちゃん、アリア社長、どこに行くんですか~」

 アリア社長を背に乗せたまま、シラヌイは早足で去っていく。それに気付いた灯里も、ふらふらとそれに付いて行ってしまった。他のみんなは、誰も気付いていない。

「灯里さん、みんな行っちゃいますよっ」

 なんだか不安になって、双葉は光に声を掛けるよりも先に灯里の後を追った。きっとみんなもすぐに気付いて追ってくると思ったのだが、誰も気付かず、先に進んでいく。

 そんなことは露知らず、灯里はシラヌイを追って、双葉は灯里を追って、奥へ奥へと進んでいく。

 桜の広場の奥に、小さな鳥居がひっそりと建っていた。その向こうには、ネオ・ヴェネツィアの街ではまず見かけない、とても大きな木が佇んでいた。

 桜の木のようだが、他の木より倍以上も大きい。見上げるばかりの壮観にも、灯里と双葉はこの時ばかりは見惚れなかった。

 目の前に、もっと気を惹かれる、不思議なものが見えたからだ。

「なんだろう……?」

「光ってる……」

 鳥居を潜った調度真正面にある、幹にできた窪みが、中から光を放っていた。

 あまりにも異様で、しかし不気味さは無く、敢えて言えば神々しさのようなものが感じられる、何かの扉のようにも見える、摩訶不思議な光。

 シラヌイはその前で立ち止まったのだが、アリア社長はシラヌイの背から降りて、光の中へと入って行ってしまった。

「ぷいぷい」

「あ、アリア社長。待ってくださ~い」

「灯里さん!? あ、危ないですよっ」

 光の中へと、灯里が釣られるように入って行き、双葉は一瞬躊躇ったが、急に吹いた強い風に背を押された勢いを借りて、慌ててその後を追った。

 2人が入って行ったのを見届けたシラヌイは、御神木に寄り添うように座り込んだ。その様子を、木の枝の上から黒猫たちも見守っていた。

 調度その頃、光たちは灯里と双葉、そしてアリア社長とシラヌイの不在に気が付いていた。

「……あれ? てこと灯里ちゃんは?」

「灯里ってば、ま~たどっかにふらふら行っちゃったわね」

「てこさんは、灯里先輩について行ったんだと思います」

「アリア社長も一緒みたいだし、きっと大丈夫よ」

「それに、白縫糸(しらぬい)様が見そなわされていらっしゃいますから、後程、ご一緒に戻られるでしょう」

 アリシアの言葉を紅祢が肯定すると、光たちも一先ず納得して、そのまま見学を続けることになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「何かあったのか?」

「採掘基地でまた事故だってよ。これで何回目だよ……」

「何人かは奇跡的に助かったらしいけど、なんだろうな、白い狼に蓮の葉って」

「さあ? どうせ気が動転してたんだろ。そんなことより、地下の重力パイプは無事だったんだろうな。一つでも壊れてたら厄介だぞ」

「もうプラントは、全部地球に引き上げちまったからなぁ……」

「急に決まったよなぁ。なんかやったらばたばた慌ててよぉ」

「噂じゃ、ジオ・プラントが一つ丸ごと行方不明になっちまったとか」

「アホか。設置されてたジオ・プラントの大きさを考えてから言えっての」

「あーあ……やっと嵐が終わって、やっと一息つけたっつーのに……」

「そういや、聞いたか? あの神社の木、この前の嵐で死んじまったんだってよ」

「気の毒になぁ……文化移築の先駆けにって、自分たちから名乗り出て来たんだろ?」

「計算ミスがありゃあ沈むかもしれない場所に、態々来てたんだ。こういう覚悟もあったんじゃねーか?」

「けどよぉ、綺麗な桜だったのにさぁ……勿体ないよ」

「それは、まぁ……そうだよな」

「神社の桜、白い狼に蓮の葉か」

「どうやら結局、目的地は同じみたいだな」

「……そのようだな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 光の扉を潜った先は、光の回廊だった。

 どれだけの時間、そこを歩いていたのか、よく分からない。長かったのか、短かったのかさえ判然とせず、全部の感覚が曖昧だ。

 光の中から出た先は、どうやら先程と同じ神社のある島らしい。だが、明らかに違う点が一つ。

「さっ、寒い……っ」

「はひーっ。アリア社長、寒いですっ、コガラシ一号ですっ」

「ぷぷぷいにゅぅぅぅ」

 まるで真冬のような、突き刺さるように冷たい空気が強い風に乗って襲ってきた。

 夏が終わり秋になって少しずつ“涼しい”から“寒い”になって来ていたものの、先程までは風もなく穏やかな小春日和で、暖かいぐらいだった。

 自分たちが光の中に入ってから出るまでの間に、一体何が起こったのだろうか。

 そんな疑問を抱く暇すらなく、次の事態が双葉に襲い掛かる。

「ぴゃっ!?」

 突然、足に何かが触れた。驚いて、短い悲鳴を上げ、思わず灯里に駆け寄る。

 2人一緒に、足元に視線を落とすと、そこには、丸くなって地面に伏している、白い犬の姿があった。どうやらこの犬の尻尾が触れて、驚いてしまったようだが、2人の意識に、もうそのことは無かった。

「シロちゃん……?」

「けど、お化粧が……」

 その白い犬は、どうやらシラヌイのようだったが、様子がおかしい。

 雪や雲のように白く整っていた毛並みは乱れてぼさぼさで、土や砂が付着し、所々黄ばみのようになっている箇所もあり、薄汚れていた。

 全身に施されていた紅い化粧も少なくなっているし、残っている部分も色が褪せてしまったように薄くなっている。

 何より、体から肉が落ちてやせ細り、酷い疲れで草臥れてしまっていることが、寝ている状態でも分かった。

「にゅ~……」

 その姿を心配したのか、アリア社長は悲しげな鳴き声を漏らしながら歩み寄り、前足でシラヌイの頭をポンポンと叩いた。

 シラヌイは耳をぴくっと動かし、尻尾を持ち上げて暫く動かしたが、すぐに下ろして、また寝てしまった。それと同時に、風が止み、陽射しが少しだけ強くなった。

「あ、風が止んで、ちょっと温かくなりましたね」

 双葉は、何かほっとしたように呟いた。灯里も「そうだね」と頷きつつ、シラヌイの変化を心配する。

 龍宮城で会った時も、つい先程も、あんなに元気だったのに、まるで一息に百年分も年老いてしまったようなこの変わりようは、どういうことだろうか。

 アリア社長に倣い、その場に屈んでシラヌイの頭を毛並みに沿って優しく撫でる。シラヌイは何も抵抗せず、反応さえ見せず、されるがまま、ただ静かに眠っている。

 ふと、思い出した。そういえば、シラヌイにはもう一つ、別の呼び名があったはずだ。

 海底の龍宮城で出会った、火星の慈母(グランドマザー)と呼ばれるプラントが口にしていた呼び名は、確か――

「大神様! 如何なさいましたか!?」

「はひっ!?」

「ぴゃっ!?」

 突然飛び込んで来た男性の叫び声に、灯里は手を放してその場で硬直し、双葉もまた同様だった。

 立ち上がり、振り返ると、そこには神社の制服――神主の装束を着た男性が、息を切らせてこちらを見ていた。どうやら、彼にとっても驚くべき状況が目の前にあるらしい。

「……えーっと、参拝の方かな?」

「わ、私、本日お邪魔させてもらっています、水先案内人(ウンディーネ)の水無灯里ですっ」

「お、大木双葉、ですっ」

「ぷいにゅっ」

「あ、こちらはアリア社長です」

「これはどうも、ご丁寧に。この神社の神主の、天道(てんとう)秋人(あきと)です」

 お互いにぺこぺこと頭を下げ、簡単な自己紹介を済ませるが、神主はひどく怪訝な表情をして、灯里とアリア社長を見ている。

「……ええっと、ウンディーネと? それに、そちらは社長と?」

「あ、はい。そうです」

「……ウンディーネとは、欧州文化圏に由来する、水の妖精の?」

「はひ。そうです」

「で、そちらの犬が、社長?」

「にゅ!?」

「アリア社長は猫さんです、火星猫。ほら、肉球も」

「火星、猫?」

 説明すればするほど、神主の困惑は深まっていくばかりで、灯里もだんだんと不安がこみあげて来た。そこへ、助け船を出してくれる人物が新たに現れた。

「ウンディーネはある職業の通称だ、そのままの意味ではない。そっちの猫の社長というのも、マスコットのようなものだ」

「ああ、そういう意味でしたか。ありがとうございます、ナイブズさん。何分、世情の移ろいには疎いもので……」

「疎いのは俺も同じだ。俺も、この星に来てから学んだ」

 神主の後から、ナイブズが顔を出した。見知った人物の登場に、少しだけ安心した。

 ナイブズの方は2人を見て驚いていたが、同時に何かに納得しているようだった。

「ナイブズさん、こんにちは。ナイブズさんも来てたんですか」

「……どうにも、この星にはお人好しとお節介焼が多いらしい」

「はひ?」

 返事になっていない返事に、つい聞き返してしまうが、ナイブズの方には答える気が無いらしく、双葉の方へと顔を向けた。

「お前は一度、海女人(あまんちゅ)屋の前で見たな」

「は、はいっ。おっ、お久し振り、ですっ」

 ナイブズは双葉とも短く言葉を交わすと、すぐに視線を2人の背後へと向けた。

「ぷいっ、ぷいにゅ!」

 アリア社長もアピールしているのだが、まるで相手にされていない。

 一度、ちらと目を向けられただけで、アリア社長も落ち込んでしまった。涙目になってしまったアリア社長を慰めるため、抱っこしてあやす。

「もしや、君達も御神木を見に来てくれたのかな?」

 ナイブズとの挨拶が終わったのを見計らってか、神主がそんなことを訊いてきて、灯里は小首を傾げた。

 息子さんたちにも話がちゃんと伝わっていて、今日の為の準備中とも言っていたのに、どうして神主さんは、今日、双葉ちゃん達が来ることを知らないみたいに言ってるんだろう?

「御神木って、この……」

 疑問を懐きつつも、背後に聳え立つ御神木の方へと振り返って、2人は異変に目を瞠った。

 つい先程まで悠然と佇んでいた御神木が、根っこが地面から抜け出て、倒れてしまっていたのだ。

「アリア社長、大変です! 倒れちゃってます!」

「ぷいにゅ~!?」

 見るも無残な光景に、灯里もアリア社長も堪らず叫んだ。双葉は青褪めて、暫く言葉を失っていたが、ふと、何かに気付いた。

「…………あれ? こんなに、大きかったでしたっけ?」

「ほへ?」

 言われて、改めて倒れている御神木を見る。幹の太さだけで、灯里はおろか、ナイブズの背よりも大きい。先程見た時は、こんなに太かっただろうか?

「針小棒大、その逆もまた然り、ということかな?」

「噂は必ずしも、正鵠を射ない」

 神主とナイブズは、どうやら情報の錯誤として受け取っているようだが、そんなことは無いはずだ。

 光の回廊を抜けてから、次々と直面する『違い』の連続に、灯里と双葉は、なんだか混乱してきた。

 そんな2人の心の内は露知らず、神主は倒れた御神木へと歩み寄り、倒れた経緯について説明を始める。

「元々、この土地にあったわけじゃないからね。地球から植え替えた後、しっかりと根付く前に、度重なる嵐で地盤が脆くなったところへ、最後の大嵐で……」

「……あらし?」

 聞き慣れない単語に、灯里と双葉は口を揃えて、一緒に聞き返す。

 比喩表現などでよく見聞きする単語ではあるが、神主は名詞として用いていた。そういえば、元々は気象現象の名前だったと習ったような気もする。

「そんなに酷かったのか? その嵐は」

「一週間ほど強風が続き、最後の三日間は豪雨までも伴いました。特に最後の日は、酷いものでした……」

 ナイブズに問われると、神主は幹に手を触れ、遠くを見つめるようにして語った。

 それを聴き、思い出した。嵐は、かつて地球で存在した気象現象だ。

 暴風と豪雨を伴う悪天候。気象制御技術が発達した現代では発生しなくなり、今では名前としての意味は殆ど失われて『嵐のような騒ぎ』など、修飾語や形容詞としてしか使われなくなった言葉。

 現在では、地球は勿論、火星でもまず発生しない気象現象。アナログ操作で地球より気象制御にムラがある火星でも、被害が出るほどの大雨や強風が発生するのはまずありえない。無論、それらが同時発生する嵐など以ての外だ。

 それを、神主はつい最近、この星で、この街で起こったのだと語った。少し前まで『秋の長雨』が続いていたけれども、それは嵐どころか、大雨ですらなかった。

 灯里だけでなく双葉も、そのことを気にかけている。ナイブズは気付いていたが、神主は気付いた様子もなく、御神木から手を放し、シラヌイの前に跪く。

「申し訳ございません、大神様。貴方がお帰りになられるまで、朋友たる御神木を御守りすることができませんでした」

 神主はシラヌイをオオカミ様と呼び、礼を以て接し、深く詫びた。

 飼い犬を甘やかしているとか、大事にしているとか、そういうものではない。まるで物語の登場人物が王侯貴族に対するように敬意を払い、丁重に扱っている。

 そんな風に扱われても、シラヌイはむずかることはおろか何の反応も示さず、目を開けただけで、丸まったまま眠るように動かない。その様子は、まるで疲れ切った老人のようだった。

「シロちゃん、凄く疲れてるみたい……」

「それに、お化粧も落ちちゃって、なんだか可哀想……」

 灯里と双葉が、それぞれに呟く。すると、神主はひどく驚いた様子を見せた。

「君たち、大神様の化粧が見えるのかい?」

「え? はい。綺麗な紅で、白い毛並みによく映えてます」

「歌舞伎の役者さんみたいな……えっと、隈取って言うんでしたっけ?」

 灯里と双葉の答えを聞いて、それだけで、神主は妙に嬉しそうにしていた。ただ見たままを口にしただけで、なぜこんな反応をされるのか分からなかったが、つい、自分もつられて笑ってしまう。

「立ち話もなんだし、これも何かの縁。お茶菓子もあるし、灯里ちゃん、双葉ちゃん、アリアくん。少し休んでいくかい?」

「ぷいにゅ~!」

 神主の提案に、アリア社長は真っ先に賛成した。十中八九、お茶菓子が目当てだろう。

「あ、ナイブズさん、宜しかったですか?」

「構わん」

 頭の上で跳ねていた虫を手で払い落しながらナイブズも了承し、灯里と双葉も一言二言相談して、その誘いを受けた。

 神主に先導されて、ぞろぞろと社務所へと向かう。ただ、アリア社長が置き去りにされてしまうシラヌイを心配しているようだった。

「あの、シロちゃんは?」

 連れて行けないんですか、という意味で聞いただけだった。

 だが、神主は深い悲しみと諦めの混ざった複雑な表情に、作り笑いを貼り付けて返した。

「……もう、食事も摂れないんだ」

 

 

 

 

 社務所に入り、客間へ案内されて、出されたのは御饅頭と緑茶。神社という場所も含めて、日本の良き伝統“和”のイメージそのままだ。

 お茶を飲み、お饅頭を食べて、暫しまったりと時を過ごす。アリア社長も、特製の猫まんまにご満悦だ。

「いや、それにしても驚きました。神空間に平然と出入りできるお客さんが2人……いや、3人もいらっしゃるなんて」

 人数分のお茶のお代わりを淹れながら、神主はそんなことを口にした。聞き慣れない単語に、全員が首を傾げる。

「神空間?」

「神様の御坐(おわ)す空間のことです。今では殆ど普通の空間と同じですけども、御神木があった場所に、ああして大神様がいらっしゃったのですから、自然と神空間も顕れましょう」

 ナイブズが聞き返すと、今度は不思議な返事が。

「ええっと、つまり……」

「シロちゃんが、神様……?」

 双葉と灯里、2人で言葉を区切って連ねるようにして、一緒に荒唐無稽な予想を口にする。

 もしかしたら、もっと深遠な、子供には分からないような含蓄のある言い回しだったのかもしれないが、言葉通りに受け取ると、それ以外の意味があるようには思えなかった。

「うん、そうだよ」

 あっさりとした肯定。まず間違いだろうと思って、否定されたうえで答えを教えてもらおうと口にしただけに、双葉も灯里も、まさかの解答に驚いた。

「え、けど……犬、ですよね?」

「狼だ」

「オオカミ!?」

 これまでシロのことを犬とばかり思って接していたが、ナイブズから訂正され、双葉は堪らず大声を出した。

 ナイブズに声を掛けられて驚いたというのもあるが、それ以上に、オオカミは獰猛な肉食獣で危険な動物というイメージがあり、今までそんな危険な生き物に無防備に接していたと思うと、怖くなってしまったのだ。

 そこへ、神主が新しいお茶を差し出した。

「良き獣と書いて、狼。そんな字を当てるほど、当時の人々にとって狼は特別な存在だったんだ。高い知能を持ち、やたらに人里に立ち入らない理性を持ち、領域を犯すものを決して許さない誇りを持つ。故に神聖視され、神の化身、或いは山の神、森の神そのものとして、時には害獣を狩る農耕の守護神として崇められた」

「ふわぁー……」

 自然と、感嘆の吐息が漏れる。

 知らなかっただけでなく、自分では思いつきもしなかった、古い時代の人々の考え方。その断片に触れただけで、まるで過去と触れ合っているような気がした。

 この時、灯里も同様の反応とほとんど同じ思考をしていたことを、双葉は知る由も無い。

「あと、狼に限ったものではなく、動物や植物への信仰は珍しくないよ。例えば、当社の御神木、桜の……」

 2人の反応に気を良くしたのか、神主は更に話を続けようとして、そこで言葉に詰まった。

 今まで通りだったなら、すらすらと湧水のように言葉が出ただろう。だが、今は言えなかった。

 それがもう、失われてしまったから。

 そんなことは、来たばかりの双葉にも分かった。

「……うん。当社の御神木もね、そういうものだったんだ」

「地球から持って来たのか?」

 気まずい空気になる間すら与えず、ナイブズが矢継ぎ早に質問を投げ掛けた。双葉は、この配慮の無い言動に呆れてしまった。しかし、だからと言って自分に何か掛けられる言葉があるわけでもなく、黙って見守るしかできなかった。

「ええ。地球で、地表面の機械化管理計画が実行され、その区画整備で神社が山ごと削られることになってしまいまして。座して滅びるよりも、新天地へと挑むのが良いと、そう思い決め、共に参った次第なのですが……先達に申し訳が立ちません。樹齢二千年を超える御神木を守ることができず……あまつさえ、最期に守られたのですから」

 地球の地表面の機械化整備。それは双葉もよく知ることだが、とてもおかしなことが聞こえた。神主はそれを現在進行形のこととして語ったが、それは歴史の授業で習うことなのだ。

 嵐のことと言い、もしかして、ここは――

「木に、守られた?」

 ナイブズが問いを重ねて、それが耳に入り、はたと我に返る。ナイブズの低く重い声は、何故だか耳の奥底に直接響いて来るような感じがして、少し苦手だ。

「御神木が倒れたことで、風が遮られて……そのお蔭で、あの日の大嵐で、この神社が倒壊することを免れたのです」

 神主の声は震えていた。悲しみか、悔しさか、苦しみか。言葉はいくつか出て来ても、守りたかったものに守られた事実がどれほど辛いものなのか、想像もつかなかった。

「きっと、あの桜の木は、この神社が大好きだったんですね」

 不意に、灯里がそんなことを呟いた。

 神主とナイブズは呆気に取られているが、双葉は少しの間を置いて、灯里が言っていることを理解できた。

「そっか。だから、最後に……潰さないように、守れるように、そういう風に倒れたんだ」

「うん。きっと、そうだよ」

 神主自身もそう言ったように、御神木は神社の側面を遮るように倒れていた。ただ、それで神社が暴風雨から守られたのなら、倒れた方向がおかしい。本来なら、風に押されて別の方向に倒れているはずだ。

 嵐について詳しくないし、その時だけ風の吹く向きが違っていたのかもしれない。

 それでも、先程、御神木について語ろうとしていた時の神主の誇らしげな表情に、直後の悲しげな眼差しに、そうあってほしいと願わずにはいられなかった。

 神主は、呆気に取られた表情で、灯里と双葉を交互に見て、次いで、壁の向こう――御神木の方を向いて、ボロボロと泣きだした。

「…………ありがとう……」

 その言葉は、なにものに向けられた言葉なのか。推し測ることは、難しかった。

「私、変なこと言っちゃいましたか?」

「だ、大丈夫ですか?」

「ぷいぷいぷい~」

 大人が人前で泣くなど、滅多にあることではない。灯里も双葉もアリア社長も、おろおろと狼狽えてしまう。

 それを察してか、神主は袖口で涙を拭って、無理矢理に笑顔を装った。

「ありがとう、大丈夫だよ。感極まったというか、なんというか。すまないね、いい大人が泣き虫で」

 神主は、自分はとても涙もろい性質で、こういうことも昔からよくあることだから、心配しなくて大丈夫だと言った。

 そう言われると、尚更、胸が締め付けられるように痛い。

「シラ……いや、あの狼は随分弱っているようだが、何があった?」

 またも、ナイブズは神主が弱っている時に、無神経に質問をぶつけた。

 ……ううん、無神経じゃない。神主さんが気を紛らわせるようなことを、丁度いいタイミングで訊いてるんだ。

 本人に聞かれたら即座に否定されそうな思考だが、双葉がそれを知る由も無い。

「大神様が弱っている理由ですが、一つは単純な衰え。もう一つは、その衰えた体に鞭打って、度々遠出をしていました。先日の遠出から戻られてから、遂にこれまでの無理が祟り、そこへ旧友たる御神木の件も重なって、相当参ってしまっているようで」

「採掘基地の事故で、助かった人間が蓮の葉や白い狼がどうのと証言しているという話を聞いたが」

「ええ。大神様の御力です」

 ナイブズの問いと、神主の答え。2人はある程度の共通認識を前提とした上で話しているためか、真面目な会話の中に突然出て来た『蓮の葉』という単語が、一見するとまるで無関係にしか思えず、妙に浮いているように感じてしまう。

「シロちゃんって、そんなにすごい力を持ってるんですか?」

 灯里は、何か思い当たることがあったのか、ナイブズと神主の会話に割って入った。そういえば確かに、今の会話だと『シラヌイは蓮の葉を使って人を助ける力がある』ということになるから、とてもおかしな話だ。

「さっき、君たちの前でも一度使っていたよ」

「え?」

「にゅ?」

 神主の言葉があまりにも予想外なものだったから、口から声が漏れ出てしまった。多分、灯里も一緒だろう。

「君たちが寒がっていたから、風を止めて、陽射しを強めて下さったんだ」

 蓮の葉が、などというものとは全然違う、気象を、天候を操ったのだという言葉に、唖然呆然となり、言葉が出ない。

「たった、それだけの為に……?」

 店主の言葉の意味を理解し、是とした上で、ナイブズは眉を顰めて聞き返した。それを聞いて、双葉は漸く気付いた。

 力を使い果たして、大切な友達だったという御神木が倒れたというショックで寝込んで、ご飯を食べられないぐらい弱っているのに。

 ただ、目の前で寒がっている2人と1匹の為だけに、その力を使ってくれた……?

「今までも、同じようなことをずっと続けてきました。なにしろ、あの御方は……ぽかぽか陽気が御信条の、お天道様ですから」

 誇らしげに、寂しげに、泣きたいのを笑って誤魔化しながら、神主は言った。

 自分も泣き虫だから、泣きたいけど泣いちゃいけないと強がる辛さは、身に沁みて分かった。

 

 

 

 

 シラヌイの力に話が及んだことで、再び倒れた御神木の前へと戻って来た。

 相変わらず、シラヌイは御神木に寄り添うように眠ったまま、動こうとしなかった。

「……いっそ、我々は潔く滅びを受け入れるべきだったのかもしれません。そうすれば、少なくとも大神様を、こんなにも苦しめることは無かった」

 ぽつりと、神主はそんなことを言い出した。

 声色から滲み出ているのは、後悔と悲しみ。

 今まで見たことも、聞いたことも無い、深く、昏い、洞のような感情――言うなれば、絶望。

火星(かせい)になど、来なければよかった。こんな、何も無い星(ノーワンズランド)になど。あるのは、苦しみと痛みばかりだ」

「そんな……っ」

 今まで誰からも聞いたことが無かった、火星に来なければよかったという言葉に、灯里は打ちのめされるような思いだった。

 自分はこの星に来て、たくさんの、かけがえないものと出会えて、本当に嬉しくて、火星(アクア)に来てよかったと今この瞬間も思っている。だから、そんな後悔だけは誰にもしてほしくない。

 けれど、もしもここが自分が思っている通りの場所なら、自分には何かを言える資格が無い。こんな苦しみの上に自分たちの世界があったことを知らず、ただ平穏な日々を享受していた自分には、何かを言っていいと、神主の言葉を否定していいと、思えなかった。

「旧世紀の土木や採掘の工事のように、日々事故が起こり犠牲者も日常茶飯事。そうしてでも半端に地球に近づけた結果が、制御できず予測も難しい自然災害の頻発。そんなことをしているのも、人類文明発展の題目で行われ続けた後先を考えない乱開発の悪影響。全ては人間の自業自得だな」

「返す言葉もありません」

 ナイブズは容赦なく、現実を突きつける。しかしその声色は詰問するようなものではなく世間話をするような平坦なもので、あくまで確認しているという風だった。

 それは、灯里でも、誰でも、知っていることだった。そういうことがあったのだと、誰もが子供の頃に習うことだった。

 やがて誰しもが、当たり前の日常を過ごす中で、忘れていくことだった。

 ごう、と風が強く吹く。気付けば陽射しも、来た時のように弱まっていて、寒さが体の芯まで突き刺さる。

 

――私達しか知らない事は、私達が忘れてしまえば、私達がいなくなってしまえば、他の誰にも知られることなく……何も無かったものと同じになる――

 

 夏のある日、訪れた不思議な店の店主の言葉が脳裏に蘇る。そして、この言葉の本当の意味を、今、やっと理解できた。

 人々から忘れ去られ、知られることすらなくなってしまった、過去の現実。それを知る人にとって、その事実はどれほど辛いことか。

 忘れ去られようと、知られなくなろうとも、その時の人々は、確かにそこにいたのに。その人たちがいたからこそ、今の自分たちがいるのに。

 シラヌイの傍に跪いたまま動かない神主に、掛ける言葉が見つからない。本当ならいないはずの自分が、何も知らなかった自分が、何かを言っていいのかさえ分からない。

「あのっ。実は、私も地球(マンホーム)から来たばかりなんですっ」

「……そう、なのかい?」

 ただ居るだけで息が詰まりそうな、重く、苦しい空気の中、それでも、少女は――大木双葉は、勇気を振り絞って、声を張り上げた。

 ずいっと迫るような勢いで言われて、神主は落ち込むことも忘れてビックリしている。それは灯里も同様だ。

 双葉は、引っ込み思案で恥ずかしがり屋の少女という印象を持っていたから、この時に前へと出て来たことは驚きだった。

「最初、火星(アクア)に来た時は、不便で、色々自分でしなくちゃいけないことが沢山で、大変で、ちょっと嫌だなぁって思ってました。けどっ、海が、とても綺麗でした。海がこんなに綺麗なんだって、私、火星(アクア)に来て初めて思ったんです。それが、とてもうれしくて、だから、えっと……」

 話している内に、段々と早口になり、徐々に言葉に詰まっていく。勢いだけで言い始めて、実は言いたいことが纏まってないことに気付いてしまって、焦ってしまっているのだろう。それがなんだか可笑しくて、不思議と、灯里の心が解れた。

 そうだ。良いか悪いかなんて、気にしなくていい。伝えたいことがあるなら、ちゃんと言葉にして伝えなくちゃ。あの時、店主さんに言ったように。

「私も、去年に地球(マンホーム)から来たばかりなんです。あ、火星(アクア)暦で、ですけど」

「アクア……」

 アクアという言葉を、神主は鸚鵡返しに呟いた。

 何か珍しがっているようでもあり、感慨深げでもあった。

 もしも、自分の思っている通りなら……――という思考は、今は必要ない。今は、想いを言葉に変えて、紡ぎ出すだけ。

地球(マンホーム)と比べて、火星(アクア)は不便だと言う人は多いです。歩くのも、食事を作るのも、仕事をするのも、自分でやらないといけないことばかりだって。けど、そうやって、火星(アクア)の街々は、ネオ・ヴェネツィアは、たくさんの人たちが手作りしてくれました」

 顔も、名前も、年齢も、国籍も、性別さえも知らない、たくさんの人達。

 彼らが作り上げ、譲ってくれたもの。遺してくれたもの。伝えてくれたもの。

 目を瞑り、それらの姿を思い出す。少しでもはっきりと、鮮明に。

 今この時に、この人に、伝えられるように。

「何も無い大地に作られた、手作りの楽園。そこで出会えたのは、地球(マンホーム)では見られなかった……なくなってしまった、素敵な、手作りのものばかりでした。街も、家も、料理も、品物も、お店も、お仕事も……出会いも。そんな奇跡すら、誰かの手作りみたいで」

 ここまで言って、はっきりわかった。

 この人に一番伝えたい言葉は、とても簡単な、たった一言。

「だから、私、この星に来られて良かったです。そんな火星(アクア)という星があること、それは、とっても素敵な奇跡だなって……そう思うんです」

「私もっ。火星(アクア)に来てから色んな事があって、新しい友達ができて、自分で嫌だなって思ってたところも、ちょっとずつ変えられてて……この星に来て、良かったですっ」

 1人は穏やかな微笑みを浮かべ、1人はやや興奮気味に頬を紅潮させながら、少女たちは自らの想いを伝えた。

 地球から火星に来てよかったと。故郷を追いやられ、別天地で苦境に嘆く男へと。

 その様子を、ナイブズとアリア社長、そしてシラヌイは静かに見守っていた。

 神主は暫く惚けたような表情で固まっていたが、やがて一つ溜め息を吐いて、何かに納得したように頷き、立ち上がった。

「……情けないなぁ。弱音を吐いて、その上、女の子に励まされてしまうなんて」

「ご迷惑でしたか?」

「ううん、ありがとう。お蔭で思い出したよ。死に場所を探しに来たつもりが、いつからかこの星で生きたい、生きて行きたいと、願っていたことを」

 『死に場所』という不穏な言葉に、どきりとする。

 今この星は、そんな言葉が当たり前に出て来るほど過酷な環境なのだと、思い知らされる。

 そこへ、今までシラヌイの傍にいたアリア社長が半ベソを掻きながら、灯里の許へ歩いてきた。

「アリア社長、どうしました?」

「帽子が飛んでいっちゃったの?」

「にゅ~……」

 双葉が逸早く、アリア社長が被っていたお気に入りの――灯里やアリシアとお揃いの、ARIAカンパニーの制帽が無くなっていることに気付いた。先程、強い風が吹いた時に飛ばされてしまったのだろうか。

 辺りを見回したが、帽子はどこにも見当たらない。ナイブズが何故かシラヌイを注視しているのでそちらを見ると、シラヌイは目を開けてアリア社長を見遣り、そちらへ尻尾の先を向けて、ふわりと翻した。

 一瞬、指揮者の(タクト)に応えたかのように、音楽のような何かが視えたのは、気のせいだろうか。

「にゅっ!?」

 急に、アリア社長がビックリして素っ頓狂な声を出した。見ると、アリア社長の頭に、いつの間にか帽子が乗っかっていた。

「ほへ? アリア社長の帽子が……?」

「あれ? あれれ?」

 誰かが見つけたわけでもなく、届けてくれたわけでもない。一体、何が起こったのか。

 灯里と双葉が不思議そうにしていると、神主はゆっくりと口を動かした。

「失せ物、忽ち蘇る。大神様の筆しらべ、蘇神(よみがみ)の業」

「ぷいにゅっ! ぷい! ぷい!」

 神主の言葉を聞くや、アリア社長は大喜びでシラヌイへと駆け寄り、何度もお礼をして、抱き付いて頬擦りまでしている。これには流石に、寝たまま動かないシラヌイにも困った様子が見えた。

「目の前で困っていれば、事の大小どころか、人畜の別すら無いのか、こいつは」

 ナイブズは今何が起きたのか理解しているようで、シラヌイに対して呆れていた。

 未だ理解の追い付かない灯里と双葉に、神主が教えてくれた。

 シラヌイは“筆しらべ”という摩訶不思議な力を持っており、それによって色々なことができるのだという。

 水面に蓮の葉を浮かべたり、水の流れを操ったり、風を止めたり逆に吹かせたり、陽射しを強めたり、無くなってしまった物を蘇らせたり。今、アリア社長の失くしてしまった帽子を作り出したのも、シラヌイの仕業なのだと。

 ささやかなことではあるが、なけなしの力を使うことには変わらず、今の状態では命を削るのにも等しい。それでも、シラヌイは一切の躊躇なく、大事な物を失くして悲しむアリア社長の為に力を揮った。

「そういう方なんです、昔から……。きっと、もっと、ずっと、昔から」

「まるで、『幸福の王子』みたいですね」

 神主の話を聞いて、灯里は現代にも伝わる有名な童話を思い出した。

 両の目を失い、美しい体が汚れてみすぼらしくなることも厭わず、ただ純粋に、懸命に、命尽き果てる瞬間まで、人々の幸福を祈り続けた、石像に宿った高貴な魂と、その従者。

 灯里は自然と、シラヌイに歩み寄っていた。双葉も同じだ。どちらからともなく、その場にしゃがみ込み、シラヌイの身体に触れた。

 寒い空気に晒され続けて、体はとても冷たかった。ボロボロになった体毛は手触りも悪い。けれど、その奥には、お日様のような優しい温かさがあった。

「ありがとう、シロちゃん。今まで、ずっと、ずっと、みんなのために頑張ってくれて」

「ありがとう……」

 2人の少女は心からの感謝の言葉を、大神へと贈った。

 次の瞬間、周囲の空間に異変が起こった。

 急に辺りが夜のように暗くなり、自分たち以外のものが一切無くなったのだ。

 

 

 

 

「なんだ?」

「神空間の顕現……? これは、一体……」

 ナイブズと神主は努めて冷静に振る舞っているが、それでも困惑の色は隠せない。灯里と双葉、アリア社長も同様だったが、不思議と怖くはなかった。寧ろ、夜に星空に包まれ、見守られているような、不思議な安心感があった。

 続けて、周囲に小さな光の珠が現れた。雪のようにも見えたそれの正体は――

「この、はね、は」

 ――羽根だった。ナイブズはそれが何かを知っているが故に、瞠目し、言葉を失った。

 残る3人と1匹はそれぞれ、地から湧き天から降り注ぐ、雪と見紛う純白の羽根に手を伸ばす。

「不思議……とっても、あたたかい」

「まるで、天使の羽根みたい」

 それぞれが羽根を手に取り、まじまじと見つめる。

 鳥類のものとは異なる、どこからともなく現れた、摩訶不思議な羽根。双葉が天使と表現したのも頷けるし、ある意味で適確な表現でもあった。

 ナイブズが手に持った羽根を額に当てると、突如、羽根が光となって爆ぜた。その反応は、全員が持つ羽根に連鎖した。

「うおっ!?」

「ぴゃっ!?」

「はひっ!?」

「にゅっ!?」

 目の前で弾けた光が、一瞬、視界を白く染め上げる。その瞬間に、頭の中に直接、イメージが伝わった。目で見るのでもなく、耳で聞くのでもなく、肌で感じるのでもなく、頭に、心に、直接響いたそれらは、様々なかたちをしていた。

「今のは……記憶、とは、違う……?」

 ナイブズは戸惑いを露わに呟く。

 その羽根の本質を、誰よりも身を以て知っていればこそ。

「……祈りは力なり、力は祈りなり」

 一族に代々伝わる言葉を、神主は呟いた。

 其れは、遠い先祖が弟子入りした、神仰伝導師・天道太子一寸が、自ら記した妖怪絵巻物の最後に書き添えた一節。

 羽根から伝わった、暗き冷えた心を癒す温かき温もりが、それを思い出させた。

「お祈り……うん、そうですよ」

「ありがとう、という感謝。きっといい星になりますように、という願い。必ずいい星にしてみせる、という誓い……」

「色々な人たちの、色々な祈り」

 2人の少女は、神主の言葉を力強く肯定し、自らもまた祈った。

「明確な誰かではなく、漠然とした、なにものかへの祈り……。それが、この羽根に……」

 ナイブズは、胸元に仕舞っている白紙の切符に手を当て、降り注ぐ羽根を見上げていた。かつて、ノーマンズランドで奇跡が起きた、あの時の人々のように。アリアもまた、空を見上げていた。

 徐に、シラヌイが立ち上がった。尾を揮い、その先を暗い空へと向ける。すると、暗くなった空に次々と星が現れ、見たことも無い星座を次々に描いていく。

 鼠、牛、虎、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、猿、猿、鶏、ペンギン、鯨、猪、猫。

 一見して統一性の見られない星座たち。だが、星々には強い結びつきがあるようにも見えた。

 次第に星座を成す星々の輝きが増し、それぞれの星座が一つの光となって、次々にシラヌイの身体へと宿っていく。

 それに呼応するように、シラヌイの身体に幾つもの変化が現れる。

 疲れ果て草臥れた顔と体に、活力が戻った。

 泥と砂で薄汚れた体は、光と見紛う純白となった。

 背には太陽を模った、日輪の如き炎を宿した鏡が現れた。

 全身の化粧は、灯里達のよく知るものから、更に細部にまで行き渡るものへと変化した。

 ボサボサになっていた体毛は美しく靡き、一部が馬の鬣のように伸び、たなびいている。

 誰もが見惚れ、言葉を失う中、感極まった神主は滂沱の涙を流し、歓喜に叫んだ。

「野に降り立ちし白き威容……! 紛れも無く、大神アマテラス様!」

 その声に応えて、シラヌイ――アマテラスは勝鬨を上げるかのように遠吠えした。世界の隅々にまで響き渡るように。

 そこへ、ぴょんぴょんと跳ね回る小虫のようなものがアマテラスの足元から現れて、そのまま頭の上へと乗っかった。

「へっへェ! 遂に来たなァ、この時がよォ! 待ち侘びたぜ、アマ公!」

「その声は、お師匠様!?」

 姿が見えず声だけが聞こえる新しい人物の乱入に、その人物をよく知る神主が反応した。

 辛うじてナイブズにのみ、テントウムシのような装束を纏った小人の旅絵師の姿が見えた。

「秋人ォ! お前、今この瞬間をしっかり見たかァ!!」

「……はいっ。この目の奥、瞼の裏、脳の髄、魂の奥底までも、確と刻み込みました!」

「だったら、お前が描くんだ。新天地へと降臨された、大神アマテラス様の御尊容をォ!」

「わ、私がですか!?」

「こいつは宿題だ。オイラとアマ公が戻ってくるまでに、必ず描き上げておけよォ! お前もまた、天道太子の一門、オイラの弟子なんだからなァ!」

 突然言い付けられた宿題に、神主は泣くのも忘れて慌てている。

 一方、神主の師匠――当代の天道太子は虚空に筆を走らせ、灯里と双葉に一輪の花を贈った。

「お嬢ちゃんたち。いつか、こいつの絵を見てやってくれよ」

「はいっ」

 花をしっかりと手に持って、一緒に返事をする。

 それを見届けたアマテラスは一度ナイブズを見て、続けてアリアを見て、神主たち3人を見た。神空間が解かれ通常空間へ戻ると、アマテラスは御神木に向けて一つ吠えてから、火星の大地へと旅立って行った。

「……行っちゃったね」

「行っちゃいましたね……」

 まるで、神話の一場面に居合わせたかのようで、2人はちょっと放心気味だった。

 ナイブズは御神木を見遣り、アリアは灯里の足元へと移動した。

 神主はアマテラスが旅立って行った方を向いたまま、ぽつり、ぽつりと語り出した。

何も無い星(ノーワンズランド)というのは、この星の元々の姿から取った皮肉であり、蔑称に近い。対して、アクアという名前はね、火星開拓が計画通りに進めば、惑星地表の9割近くが水で覆われることになるという指標から、誰からともなく呼び始めたものなんだ。いつかこの星は、水の惑星(アクア)と呼ばれるに相応しい、素晴らしい星になる、美しい星になってくれる、そんな星にしてみせると、そういう祈りを込めて」

「そうだったんですか……」

 知られざる火星の名前の変遷、“今”では当たり前に呼んでいるアクアという言葉の意味。これらもすべて、忘れ去られてしまったもの。

「私も頑張るよ。君達が“アクア”と呼ぶ星に、ちゃんと繋げられるように」

 だが、その祈りだけは、世代を経て、由来が喪失されて尚も、確と受け継がれていた。

「にゅ」

 アリアに呼ばれて、皆がその指す先を見る。御神木の前に、再び光の門が現れていた。

 神主もそれを知っているらしく、一つ頷いて、穏やかな笑みを浮かべた。

「ありがとう、水の惑星(アクア)からの御客人方。どうぞ、お元気で」

 神主――天道秋人は目を伏せ、深々と頭を下げた。

「行くぞ」

 ナイブズに促され、灯里と双葉は何も言えないまま、そこから立ち去った。手に持った花を、優しくも強く握りしめて。

 彼らが潜ると、光の門――幽門は忽ち閉ざされた。

 

 

 

 

 光を潜った先は、いつもの火星だった。

 小春日和の温かさが、体を優しく包む。

「……帰って、来たんだ」

「……はい」

 振り返ると、そこには天道神社の御神木が立っていた。幹の太さは、やはりナイブズの背を超すほどではない。手の中にあった花――コスモスも、いつの間にか消えてしまっていた。

 ワン、と小さいなき声が聞こえる。ここでずっと待っていたらしいシラヌイが、2人を出迎えてくれた。

 2人はお礼を言いながら、シラヌイの身体を撫でる。そこで、ふと気付く。先程のアマテラスと、このシラヌイ。同じ犬……改め、狼で間違いないのだろうが、いったいどうして今も生きているのだろうか。

 そんな疑問を懐いていると、後ろから元気な声が飛んできた。

「あ、灯里ちゃんとてこ、見ぃ~っけ!」

 続けて、大きなホイッスルの音。2人を見つけた合図のようだが、先程の大きな声だけで十分だった気がしなくも無い。

 真っ先に来たのは、アリシアと紅祢だった。

白縫糸(しらぬい)様、一体どちらへお連れしていたのですか。姿が見当たらずに心配しましたよ」

 紅祢が抗議すると、シラヌイは、ぷい、とそっぽを向いて知らんぷり、聞こえないふりをしていた。

 そんな微笑ましい光景を見ていると、先程までのことが嘘のように思えてしまう。

「……この桜の木、他のより大きいんですね」

 それを確かめるためか、双葉は御神木の桜の木へと振り向いた。その時気付いたが、2匹の黒猫が灯里達を見下ろしていた。

「この神社が地球から移築されて来た時に、一緒に樹齢二千年を超える御神木の桜の木も移植されたらしいわ。けど、その木は不慮の事故で倒れてしまったの。それでもね、不思議なことに、その倒れた木を片付けた後、同じ場所に新しい芽が生えて来たんですって」

「ネオ・アドリア海に水が入ったのと同じ頃だと伝わっています。その芽が育った姿こそが、この御神木で御座います」

 アリシアと紅祢が、丁寧に説明してくれた。あの後のことを知り、それが確かに今に繋がっていると分かり、2人は顔を見合わせて、一緒に安堵し、喜んだ。勿論、アリア社長も一緒だ。

 やがて他のみんなも集まって来て、まぁ社長にアリア社長が噛みつかれる一幕を経てから、準備も整ったということで当初の目的を果たすべく、神社の境内へと向かうことになった。

 この時判明したことだが、2人がいなくなってから、こちらでは20分程度しか経っていなかった。白昼夢を見ていたと言われても、信じてしまいそうだった。

 神社で一番大きな建物――拝殿の中に案内され、用意された座布団の上に座る。ちゃっかり、アリア社長たちに混じってシラヌイも入って来ていた。

 やって来た神主が思いのほか気さくな人物で、つい先程出会った神主とは全く違った。挨拶を軽く済ませると、本題に入る前にどうしても見てもらいたいものがあると言われた。

「ごめんなさいね、随分待たせちゃって。御先祖様の絵を引っ張り出すのに、時間が掛かっちゃって」

 巫女装束ではなく、質素な和服を着た女性――神主の妻だという――が、簡素な装飾の施された漆塗りの箱を持って来た。

 その中から現れた絵を見て、言葉を失った。

「先の天道太子様の絵は悉く失われちまったけど、その弟子だった御先祖様、この神社を火星(アクア)に移した当時の神主、天道秋人が描いた、この一枚だけは遺されていた。今日の話は、これを見てからが話し易い。大神アマテラス様、火星の地への御光臨の絵だ」

 珠のようにくるまっている純白の羽根が降りしきる中、天に向かって吠える、全身に紅の化粧を施した白い大神の姿。

 つい先程目にした光景が、まざまざと蘇る。

 紙は、経年劣化で一部は褪せ、黄ばみ、端々に切れ目もあった。

 それでも、その絵に籠められた想いと祈りは、微塵も色褪せてはいなかった。

「人の想いは、祈りは、こうやって……」

「時間さえ超えて、届いて、繋がるんですね」

 灯里と双葉は、目の端に涙を湛えた。その涙を、シラヌイの見えざる筆が優しく拭った。それが変にくすぐったくて、一緒になって笑った。

 そんな2人の様子を、他の皆は怪訝に窺っていた。どうやら、今日の話は、予定よりも長くなってしまいそうだ。

 

 

 

 

 

「……あれ? そういえば、ナイブズさんは?」

「一緒に帰って来ましたよね……?」

 



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#23.過去が繋いだ未来

 光の回廊の中、気付けば自分1人になっていた。2人の少女と火星猫の姿は、いつの間にか消えていた。恐らく、先に通常空間へと復帰したのだろう。

 それにしても、過去へと頭突きと風で押し込まれた時は一瞬だったのに、何故、今はこうも時間をかけているのか。そもそも、シラヌイはどうして、ナイブズを過去のあの瞬間へと導いたのか。

 ナイブズがいなくとも、あの虫のような出で立ちの小人――コロポックルと名乗っていたか――は、猫又の棟梁と共に無事にあの神社に辿り着いていただろう。にも拘らず、アマテラスはナイブズをコロポックルの旅絵師と出会わせ、あまつさえ水無灯里と大木双葉の2人まで導いていた。

 何のために、そのようなことをしたのか。ナイブズの問いへの答えが、これだとでも言うつもりか。

 考えながら歩いている間、ちらちらと目の端に入る光景の意味は、容易に推し測れた。

 

 大神は人造の天使(プラント)によって託された人々の祈りを力と化し、火星全土を駆け巡った。

 自らの“力”――筆しらべで以て時に災いを鎮め、時に窮地の人々を救い、時に人間たちと力を合わせて困難に立ち向かった。

 その姿を、付き纏う神仰伝道師が絵に収め、もう一人の付き従う男が文字に書き留めていた。最後の瞬間が訪れた、その時までも。

 やがて、昔話の通り、力を使い果たした大神は命を落とした。

 昔話は終わったが、人々の歩みは止まらない。歩みを止めず、前を向いて歩いて行く。

 そうやって日々を積み重ね、繋いでいく。ナイブズにとっての現在、彼らにとっての未来へと。

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………神社、だが……違う神社か?」

 光の回廊を抜けた先は、最初に入った場所とも、先程入った場所とも違っていた。ただ、通常の空間とは違う異質な空気から、ここも境だということは分かった。

 周囲を見回すが、誰の気配も無い。背後にあるのは、何かの社――神殿の一種だろうか、それがあった。

 暫く神殿と、安置されている狐の像、絵や願い事などが書いてある五角形の木の板などを見て回った後、幾つもの鳥居が連なった赤い回廊のような参道へと足を踏み出した。

 参道を取り囲むように立つ鳥居の隙間からは、紅い木の葉が見られた。

 血の赤とも、炎の赤とも、リンゴの赤とも違う、真っ赤な木の葉。さながら、紅い雲海ともいうべき壮観であった。数ある中の濃いと薄いの違いは、海面の揺らめきにも似ている。

 同時に、秋の紅葉と千本鳥居の情報から、ここがネオ・アドリア海に存在するもう一つの神社だと断定した。初めて見たはずなのにデジャビュを覚えたが、すぐに見覚えの正体を思い出した。シラヌイが跳んだ時に舞い散っていた、紅い木の葉とそっくりだったのだ。

 不意に風が吹き、枝葉が揺れて、木の葉が擦れる。波とは異なる風の音が、辺りに響く。暫し足を止め、余分な考えも捨て、それに聞き入る。

 ふと、傍らを見ると、いつのまにか狐の面を被った少年がいた。少年も視線に気付いたらしく、ナイブズを見上げる。こうして顔を合わせるのは、春の花見の時以来か。

「……美しい景色だな」

 火よりも穏やかに、血よりも鮮やかに生い茂る紅を見て、自然と口から言葉が零れた。ノーワンズランドと呼ばれていた時代を見て来たからこそ、より一層、そう感じられた。

 少年は何も言わず、一つだけ頷いて、共に紅葉に見入った。

 そうしている内に、どれだけの時間が過ぎただろうか。下から歌が聞こえて来た。歌とは言っても鼻歌のようなもので、2人の女性が「ズンタカポコテン、ズンタカポ~ン」と、気の抜けるような歌を口ずさんで、参道を上って来ている。

 2人の声には、それぞれ聞き覚えがあった。

「ん? なんだ、ナイブズじゃないか」

「ナイブズさん、こんにちは」

 参道の先から現れたのは、晃とアテナだった。

「お前達か」

 水先案内人の制服を着ているが、客を連れている様子は無い。休日の散歩のようなものなのだろう。

「なんだ、お前も紅葉狩りに来てたのか?」

「モミジガリ……?」

「紅葉を見ながら、お散歩することですよ」

 どうやら本当に散歩だったようだ。

 詳しく訊くと、モミジとは紅葉の別名であり、狩りは狩猟のそれと同じ字を当てているようだが、その理由と由来は喪失されて久しく、『紅葉狩り』という言葉だけが残っているのだという。ともあれ、この時期の行楽の定番として、昔から人気があるらしい。

 ナイブズがここにいる理由については、仔細を話したところで余計な混乱を呼ぶ以前に理解を得られないことが明白なので、適当に相槌を打っておく。時間を見て来ようとは思っていたのだから、まるきし嘘でもない。

「そっちの子は?」

「ここで、偶々顔を合わせた」

 晃が指したのは、ナイブズの背に隠れる形となっている狐面の少年だ。

何故か、ナイブズの背面から出ようとせず、さりとて完全に隠れようとも、身を隠そうともしない。

「どうしたの?」

 アテナが声を掛けると、途端におどおどし始めた。これはどういう反応か、判断がつかない。

 すると、晃が狐面の少年に歩み寄り、屈んで目線の高さを合わせた。

「君、アテナの歌を聴きたいの?」

 幼い相手に対する、ごく自然な優しさと気遣い。平素の毅然とした態度と落差があるように思うが、藍華やアテナへの心配ようから考えれば、普段は隠れがちなものが出て来たというところだろうか。

 晃の態度について考えを巡らしつつ、狐面の少年を見遣る。少年は晃の問いかけに小さく、こくり、と頷いた。

 どうやら、照れて、恥ずかしがっていたらしい。ほんの数年前までそういう感情を有する生物と殆ど接触していなかったので、すっかり忘れていた。

 少年は頷くと、黙ってアテナを見上げ、見詰めた。

 アテナと晃は、その仮面の下の表情を、眼差しを読み取って、穏やかに微笑んだ。

「それじゃあ――」

 ちらり、と、アテナはナイブズを一瞥してから、瞼を閉じ、息を吸って、唄い始めた。

 あの時と同じ歌。

 150年前、双子のプラントが最初に愛した、母と呼ぶべき女性が唄ってくれた子守歌。

 この星に来て間もない頃、アテナが聞かせてくれた、あの歌だ。

 聞きながら、あの頃から今までの時間に、思いを馳せる。

 俺の戦いは、砂の惑星で疾うに終わった。敗北という決定的な形で。

 だが、日々は終わっていない。この水の惑星で、俺はまだ歩き続けている。

「良い歌だな」

 歌が終わり、自然と、言葉が口から零れた。

「それだけか?」

「他に言葉が出ない」

 晃に指摘されたが、我ながら、芸術を賞賛し感動を表現する自らの語彙力の乏しさに呆れてしまう。ホーンフリークの殺人音楽を褒め称えた時は次々に言葉が出て来たが、あれは『殺し方』の“滑稽さと痛快さ”を言い表しただけで、やはりそういうものとは違う。

「そうか。それじゃあ、しょうがないな」

 ナイブズの答えが気に入ったのか、晃は朗らかに笑って言った。

 一方、狐面の少年は目一杯の拍手をして、天上の謳声を言葉に依らず賞賛した。

「良かったぁ。紅葉を見るのに邪魔だ、って言われるんじゃないかって、ちょっと心配だったんです」

 まさか、このタイミングで、アテナから意趣返しをされるとは思いもよらず。狐面の少年に倣って動かそうとしていた手が止まり、体が固まる。

 だが、アテナの表情からはそういった意地悪さのようなものが見られない。どうやら、皮肉も何もなく、本心からそう思い、本気で言ったらしい。

 つい、溜め息が出る。ある意味、ヴァッシュ以上のお人好しだ、こいつは。

「安心しろ。もう二度と、そういうことは言わん」

「当り前だ! 無駄に偉そうにしおって!」

 ナイブズの返事に、晃が今度は噛みついて来る。

 その剣幕はものともせず、ただ、その内容に思うところがあり、晃の顔を見遣る。

「鏡を見ろ、とはこういうことか……」

「どういう意味だ?」

「お前も、随分と偉ぶっているな」

「よくもはっきり言ってくれたな!」

 すわっ、と晃は威嚇するが、ナイブズは気にも留めない。アテナは喧嘩が始まってしまうのではとおろおろしていたが、その心配は無用だった。

 狐面の少年が空を見上げると、空から、ぽつり、ぽつり、と水滴が降って来た。

「あ、雨」

「天気雨か。参ったなぁ」

 アテナと晃は何でもない様子で状況を受け入れていたが、ナイブズは酷く困惑した。

「雲が無いのに、雨が……?」

 陽射しが遮られていないことを怪訝に思って空を見上げると、どこにも雲が、雨雲はおろか白い雲さえもないのだ。

 これは火星でもごく稀に起こる非常に珍しい気象現象で、天気雨と呼ばれているとは、晃の解説によるところだ。

 もう少し行った先に神社の建物があるから、そこで雨宿りしようと決めて、晃とアテナは早足で参道を進んだ。ナイブズも話の流れで何故か同行することになり、来た道を逆戻りすることになった。

 狐面の少年は、千本鳥居の隙間から脇道に出て行った。アテナと晃が呼び止めたのだが、手を振った後、どこかへと去って行った。

 それからの道中、シャン、シャン、という鈴の音が響き、人魂のような動く火のような光が見えた。それらを目撃して間もなく、晃はアテナの手を引いて、雨に濡れて風邪をひいてはいけないし、アテナがドジして転ばないか心配だからと、大きな声で誰にともなく言い聞かせて、一目散に走って行った。十中八九、途中で一度は転ぶことだろう。

 ナイブズは歩を早めることはせず、寧ろ天気雨を満喫するためにゆったりとした歩調を保った。

 不気味で堪らないという旨を小声で言っていたから、どうやらあの2人には、隣に現れた別の参道を通っている、狐面の一団の姿が見えなかったらしい。

 古来より、日本所縁の地では、狐に化かされたような天気の日には狐たちが祝い事をしているのだと、今も細々と伝えられている。

 天気雨に『狐の嫁入り』という別名があるとナイブズが知るのは、晃とアテナに追いついてからだった。

 

 

 

 

 神社の麓の出店で買った稲荷寿司を、店先の長椅子に腰掛けて黙々と頬張る。甘く味付けされた油揚げに包まれた、程よく酸味の効いた酢飯の塩梅が調度良く、混ぜられた胡麻の触感と風味も舌を飽きさせない。

 何故か他2人の分まで買うことになったが、持ち合わせの金銭には余裕があったので、あまり気にしないことにした。

「舟には乗れるか?」

 稲荷寿司を食べ終えて、アテナと晃に問う。2人はまだ食べている途中で、それぞれ、今食べている分を飲み込んでから返事をした。

「真っ直ぐ帰らずに寄り道するんですけど、それでもいいですか?」

「寄り道?」

「何とか神社っていう……あれだ、春に藍華がお前を乗せて行った場所だ」

 渡りに船とは、正しくこの事。偶然にしては出来過ぎだし、お膳立てとしてもやりすぎなぐらいだ。

「俺も、そこに用がある」

「そうなんですか。それじゃあ、一緒に行きましょう」

「ああ。頼む」

 了承を取り付け船着き場へと向かうと、係留されている舟に晃が真っ先に乗り込んで行く。

「よし、アテナ。今度は私が漕いで行こう」

「晃ちゃん?」

 不思議そうに首を傾げるアテナに、晃は朗らかな笑みを返す。ナイブズの方へ振り向いた時にはそれは消え、毅然とした凛々しい微笑みを浮かべていた。

「あの時は、私の腕前を見せられなかったからな」

 藍華の舟に乗った時、ナイブズは同乗していた水の三大妖精たる晃の水先案内を受けられないことを口惜しがるどころか、真紅の薔薇(クリムゾンローズ)の異名を知りながらにして、一切の興味と関心を向けていなかった。そのことを、意外なほど深く根に持たれていたらしい。

「好きにしろ」

 静かに漲る気迫に気圧されることなく、ナイブズは舟に乗り込もうとして、ごく自然に差し出された手によって制止されてしまった。

「さぁ、お客様。どうぞこちらへ」

 強引ではない、きつくもない、寧ろ穏やかさすら感じる声色でありながら、決してこちらが押し切れない強さがある。なにより、タイミングが絶妙で無視することさえできない。

 これが本職(プロ)の、その最上位に君臨する者の(わざ)か。水の上、舟の上では一目置かねばなるまい。

 などと感心し評価を改める一方で、この星で初めて体験した雨の日に出会った老婆――天地秋乃を思い出した。高名な水先案内人ともなると、話術も巧みとなり人を誘導することに自然と長けるらしい。

 そんなことに思考を巡らせつつ、晃の手を取り、ナイブズは舟に乗り込んだ。

 この島から目的地となる天道神社のある島までは近いこともあり、さしたる時間を掛けずに到着した。その僅かの間の舟の乗り心地は、今までで一番良かった。その評価を直接伝えると、晃は「当然だ」と胸を張ることもせず、さらりと受け流した。

 船着き場の黒い舟を見て、晃は良からぬことを思い浮かべているような、あからさまな笑い方をした。

「よぉし、灯里ちゃんの舟もあるな」

「晃ちゃん、お仕事の邪魔はしちゃだめだよ?」

「何を言うかっ。私の指導する後輩の様子を、休日を使ってまで見に来ているのだ。誰に咎められることも無い。うむっ、何の問題も無い!」

「ええーっ」

 アテナが先んじて注意すると、晃は予め覚えていたセリフを読み上げるようにすらすらと答えた。恐らく、実際には問題があるからこそ、そういう名目や題目を事前に決める必要があったのだろう。

 後ろめたさを微塵も感じさせないのは、些末な問題だからか、完全に開き直っているのか、それとも後先を考えずに勢いでやっているのか。少なくとも、3つ目の可能性はまずあるまい。

「行くぞ」

 2人のやり取りに割って入ることはせず、最低限のことだけを告げてナイブズは歩き出した。

 神社の正面、鳥居の手前まで来て、ふと、気配に気づき、鳥居の上を見る。

 鳥居の、調度窓のようになっている部分に、見覚えのある猫たちの姿があった。

「あの時の黒猫に、ジッキンゲン卿……ケット・シーもか」

 汽車で乗り合わせた黒猫、お節介焼の猫人形、そして小さな猫の姿に変わっている――胸元のリボンと気配は変わっていないが――猫妖精。他にも、シラヌイと似た化粧の白猫など、普通でない猫が集まっている。

 あの面子が一つ所に集まって、ただの物見遊山ということはあるまい。

 全体を代表してか、猫人形が会釈して、ある方向を指した。喋らないのは、後から来る2人に気取られないようにするためか。

 指された方向に何があるかは分かる。春に一度訪れた場所だ。少し気を向ければ、そこに人が集まっていて、その中にシラヌイがいることも分かった。

 追いついてきた晃とアテナに、顔を向けず声だけ掛けて、桜の広場へと向かう。

 広場の前まで来て、足が止まる。驚きのあまり、声も出ず、ただ口が開いてしまう。少し遅れてやって来た晃とアテナも同様だ。

 目の前にある光景に、ただただ驚くしかない。

「サクラは、秋にも咲くのか?」

「いや、桜が咲くのは春だけだ……」

「春の少し前、冬の終わりに咲く桜もあるらしいですけど……」

 先日訪れた時にも、咲いていなかった。しかし今は、満開の桜が咲き誇っている。目の前で、現実に。風に流されて来た一片(ひとひら)の桜の花弁も、間違いなく本物だ。

「天気雨といい、変な鈴の音に狐火といい……なんだか、狐に化かされてるみたいだな」

 中世の頃の東洋では、狐狸の類は人を化かすと信じられていた。晃が口にしたのはそれに由来する慣用句なのだが、それを知らないナイブズは、言葉をそのまま受け取って頷いた。

「これは狐ではなく、狼だろうがな」

「オオカミ?」

 ナイブズが提示した仮説に、アテナは首を傾げる。あの大神のことを知らねば無理からぬことだが、ナイブズも、直前に見たあの光景が強く印象に残っているからこそ、即座に結び付けただけで、明確な根拠は無かった。

「おい、さらっと狐部分を肯定するなよ。……おいっ」

 明確な根拠は無いので、晃が何やら不安がっているのか声を掛けて来ても迂闊に答えることはせず、広場を見回し、人集りを見つける。

「ほっ、ほっ……本当に、紅い化粧が見えるようになったー!?」

「でっかい怪奇現象です……」

「裸の王様みたいだねっ」

「うん、どっちかって言うと逆だから」

 素っ頓狂な藍華の驚愕の叫び、アリスの惚けたような呟き。光は目の前の光景を見て何かに例えたが、すぐに双葉にツッコミを入れられた。

 藍華の叫びが聞こえた時点で晃とアテナは何事かと駆け寄っていった。それと入れ違う形で、ナイブズの隣に一人の老人がやって来た。

「まさか、こんな何でもない日に大神降ろしが成されるとはね……長生きするものだよ」

「貴様、来ていたのか」

 ナイブズの隣に立ったのは店主だった。この男には珍しく慌てている様子が見られ、眼前の事態にも驚きを露わにしていた。

「幽門が開かれて、君に続いて2人も過去に迷い込んだのだから、慌てて現場を見にも来るさ。そうしたら、大神降ろしが成されていて、桜花爛漫だものなぁ……」

 説明もそこそこに、季節外れに咲き乱れ咲き誇る桜花を見て、店主は嬉しそうに、懐かしそうに呟いた。

 簡単に事情を聞くと、シラヌイは植物を操る力を持ち合わせており、それを筆しらべの桜花と呼ぶのだという。水面に蓮の葉を浮かべる、枯れ木に花を咲かせる以外にも、枯れた土地に生命力を与えて賦活させる、短時間木や花を生やすなど、ジオ・プラントの能力に極めて近似したものだ。

 シラヌイの走る後に黄金の草花が咲き、宙を舞えば紅葉が散るのもその力かと思い問い質したが、全く違うものらしい。計り知れないと云うべきか、考えるだけ無駄だと思い知らされると云うべきか。

 次いで、今度は逆にナイブズが店主から問い質された。どうして過去に行くような目に遭ったのか、その原因を。

 シラヌイの仕業ということは、店主も承知のことだった。驚くことに、それすらも筆しらべの一つだというのだ。時空間を操る幽神の筆しらべ、その極限である幽門と言うらしい。

 分かっていたつもりだったが、はっきりと第三者から明言されると、その衝撃は大きなものだった。

 ナイブズがかつて融合体の同胞たちと共に行った短距離の精密な空間跳躍は、ほんの一瞬の間で膨大な仕事量と精緻な演算を必要とし、莫大なエネルギーを消費した。同胞たちと一体とならねば挑めないほどの難行だった。

 それを遥かに上回る行いを、あのシラヌイはささっと紙に筆を走らせるような気軽さで行っていたのだから、呆れるしかない。

「それで、何を言ったら天の慈母が幽門を開いたんだい?」

 珍しく、店主が急かしてくる。それだけの異常事態だったということだろう。いや、3人も時間移動したのだから当たり前なのだが。

 シラヌイの思考はナイブズの頭脳を以てしても全く読めないが、直接の原因と思われるものは一つしかなかった。

「俺の変化に、何を見て、何を願っているのだと、そう問いかけた。……半分以上は独り言だったのだがな」

 シラヌイだけでなく、グランドマザーや猫妖精にも向けて投げ掛けた問。ナイブズの正体を知りながら、それでもなお――だからこそ――受け入れ、賓客として遇した、人に寄り添う神々へと向けた問い掛け。

 あの時、シラヌイに付き従って御神木の中の神空間まで同行していた紅祢は、グランドマザーに捧げられている感謝が今も、この星に息付いていると言った。だからこそ、ナイブズがここにいるのは――この星の人間たちに受け入れられている証拠だと、そう言おうとしたのを、ナイブズは止めた。

 そんなことはあり得ない、あってはならないと――ヴァッシュが阻んでくれた、ナイブズを狙った同胞の一撃が脳裏を掠めたから。

 会ったことも顔を合わせたことも無いが、名も顔も、凡その人柄も知っている。ドミナの同僚であり、親友のプラント自律種、クロニカ。無二の親友を奪われた怒りと悲しみがどれほどのものか、共感はできても、きっと理解には程遠い。

 いや、彼女だけではない。ナイブズの存在を許さないものなど、数え切れないぐらいいる。ノーマンズランドの生存者の9割9分9厘がそうだと断言して間違いあるまい。あの教会の親子は、ナイブズの脅威を奇跡的に免れていたからこその、特例的な存在だろう。

 変化し、人の心を慮るようになり、自らの行動を省み、人の視点に置き換えた思考ができるようになったからこそ、分かることができた。

 ミリオンズ・ナイブズが、今更仕切り直せるはずがない。だからこそ、問わずにはいられなかった。人間の守護者たるお前たちは、どうして、人類を根絶やしにしようとした俺に何もしないでいられるのだと。

 これを聞いた店主は、ふふ、と何やら小さく笑った。何が可笑しいというのか。

 店主は何か理解した素振りを見せ、いつも通りに勿体ぶる。ナイブズは先を急かしたのだが、調度そこへ、遠くから呼び声が届いた。

「あっ! ナイブズさーん!」

「よかった……。ちゃんと、戻ってたんだ」

「ナイブズさんて、やっぱりあの人か!」

 灯里と双葉、それに光が、ナイブズに気付いたのだ。恐らく、アテナか晃から聞いたのだろう。

「私も呼ばれているようだし、失礼するよ」

 短く告げて、店主は少女たちと入れ替わるように立ち去っていた。

 ナイブズの許まで来たのは先程の3人だけで、他はシラヌイを中心にまだ騒いでいる。

 この3人の共通項は、既にシラヌイと出会っていたということ。そして、神域での出来事の目撃者だったということか。

「灯里と、双葉だったな。お前たちは直接こっちに戻っていたか」

「はひ。気付いたらナイブズさんがいなくて、ビックリしちゃいました」

「一本道だと思いましたけど、どうして前を歩いていたナイブズさんだけはぐれちゃったんでしょう……?」

「あの狼の考えは、俺には読めん。そっちの、光は久し振りだな」

「はいっ。龍宮城以来、お久し振りですっ。ナイブズさんって名前だったんですね」

「そういえば、お前には名乗っていなかったな」

 挨拶代わりに軽く言葉を交わす。4人を結ぶシラヌイは、御神木の前で賑わいの中心にいる。なんとなく得意げに見えるのは気のせいではあるまい。

 その後ろでは、よく見たら天道の兄妹が末妹以外3人とも、羞恥心で悶絶している。椿神楽がどうのと言っているのが微かに聞こえるが、何があったのだろうか。

「シロちゃんは、どうして私たちを昔の火星に行かせたんでしょうか……」

 シラヌイたちを見ながら、双葉は誰に問うとでもなく呟いた。

 同じ方へ視線をやると、店主と、そして見覚えのある狐面の少年までもが、いつの間にか賑わいの中に交じっていた。もしや、ナイブズ達に付いて来たのだろうか。

「えーと、ナイブズさんも火星の人じゃないんですよね?」

 ふと、何かを思い付いたらしく、光がそんなことを訊いてきた。光にそのことを教えていないが、恐らく灯里たちから聞かされたのだろう。

「ああ、別の惑星から来たが……そうか、お前たち2人も地球の出身だったな」

「そこに、ヒントがあるのかも?」

 答えてすぐ、光の言わんとしたことを察した。あの時、あの場所に集まったこの時代の者は皆、他の星の出身者ばかりだったのだ。唯一の例外である火星猫のアリアは、猫妖精かシラヌイの使わせた案内役か、お目付け役と言ったところか。

 気付いた光自身はその先に思い至らなかったようだが、考察の起点とするには十分なヒントだった。

 他に共通点があるとすれば、全員が最初からシラヌイの化粧が見えていたことだ。あの化粧は何らかの特別な素養の持ち主にしか見えないことは確認済み。そのこととも関わりがあるのではないだろうか。

「忘れられてしまった、大事な出来事、みんなの祈りを……あの頃の火星にいた人たちと同じ、地球から来た私たちに、見せたかったのかな……?」

 理屈を辿り理論立てて考察をしているナイブズをよそに、灯里は自分の心の思うままを素直に形にして、一気に核心へと迫った。

 見せたかったものがあるから、あの時あの場所へと送り出した。

 地球から来た2人に託したことがそれならば、砂の惑星から来たナイブズに……否、プラント自律種のナイブズに見せたかったものとは――。

「俺に、あの羽根を見せる為に……?」

 ナイブズがノーマンズランドの人類へと決戦を挑み、地球連邦軍の最新鋭戦闘艦隊を返り討ちにした、王手も間近の局面。その少し前。人間たちの有線ケーブルを介した語りかけに反応して、プラントの一部がざわめき、震え、羽根を散らした。純白の、小さな羽根を。

 その事実と意味、そして羽根の特性にナイブズが気付いたのは、ヴァッシュが150年分の想いを直接ぶつけて来た、その直後。分解しかかった融合体を繋ぎ止めた時だった。

 プラントの記憶を、直接人間の脳髄に伝える。人間の思考や記憶や感情を、他の人間やプラントにも伝える。言うなれば、心と心を繋げる接続器(ケーブル)だ。

「ナイブズさん、あの羽根のこと、何か知ってるんですか?」

 灯里に問われて、すぐには答えず、回想を深める。

 ナイブズにも、また伝わっていた。

 全てのプラントの記憶は当然として、それを知った人間たちの反応――怯え、悲しみ、苦しみ、痛み、懺悔、後悔、絶望。知ろうともせずに強いていた犠牲の意味と実在という、自らの原罪への嫌悪。

 両者の間に横たわる、越えることのできない深い溝。

 それを超えて、プラントと人類の心を繋げ、ほんの一瞬でも一つにしたものがあった。それは、150年を懸けて、プラントと人類の間を駆け続けた、ヴァッシュ・ザ・スタンピードの唱え続けた、あの言葉。

 それと同じ祈りが、あの時のグランドマザーの羽根には宿っていた。

 

――地には平和を、そして慈しみを(ラブ・アンド・ピース)――

 

「あれは……切符だ」

「切符?」

 ナイブズの答えがよほど予想外だったのか、3人は一緒になって首を傾げて、全く同時に聞き返してきた。龍宮城でも、過去の火星でも思ったが、よくよく似ているものだ。

 一つ間を置いて、胸に手を当てる。大事に仕舞っている切符の感触を確かめながら、足りない言葉を付け加える。

「行き先の書かれていない……未来への、白紙の切符だ」

 全てを白紙には戻せない。あの頃には戻れない。

 それでも、なにも描かれてない未来へは行ける。

 あの時、ノーマンズランドの全てのプラントと人間が、それを選んだように。

「何も書かれてない、何も決まってない……けど、たくさんの祈りが目一杯に籠められた、真っ白な切符」

 灯里は、白紙の切符に自分なりの解釈を加えていた。

 一から十まで全てを決めて差し出すばかりが、優しさや思い遣りのすべてではないと。

「私、真っ白って、いつか消えてなくなっちゃうんじゃないかと思ってました。けど……違ったんですね。星に、心に、すぅっと溶け込んで、一緒にいてくれてたんだ……」

 双葉は、目の前で爆ぜた羽根を思い出してか、ナイブズのように胸に手を当て、愛おしげに囁いた。

 目に見えるもの、形あるものばかりが、存在の全てではないと。

「その羽根のことはよく分からないですけどっ、いいですね、真っ白な切符! 何も書かれていないなら、何も決まってない、何をしたっていい、その気になればどこにだって、どこまでだって行けそうで」

 光は、本当に何も知らないだろうに、思うままを口にして、見事にナイブズの解釈を言い当てた。それがあまりに意外なことで、ナイブズは光の言葉に続いた。

「そして、一度使おうとその手に残る限り、何時でも、何処でも、何度でも、その切符は使える」

「おおっ、なんということでしょう! それってつまり、どんな未来へも自由に行ける、どうにだって、何にだってなることができるってことですよっ!」

 更に飛躍されるとは、思いもよらず。ナイブズは、暫く言葉を失った。

 やがて、胸の奥底から滲み出た言葉が、勝手に口から漏れ出る。

「……そう上手くいくものか。過去の積み重ねによって今の自分は成り立っている。未来図もその延長だ。過去に業を積み重ね、手を汚し、恨み憎しみ怒りを集めたものの行く末は、分かり切っている。決まっているも同然だ」

 突然の暴露に、光と双葉は、ぎょっ、となって、ナイブズの顔を覗き込んですぐ、顔が青褪めた。

 ナイブズは気付いていない。自分が何を口走ったのかも、これから更に何を言おうとしているのかも、今の自分の表情がアテナを恐怖させたものに近づいていることも。

「いえっ。きっと、そんなことはありませんっ」

 そこへ、果敢に割って入ったのは、咲き誇る桜と同じ色の髪の水先案内人。

 地球から火星へと渡って来た少女は、ナイブズに異なる行き先を指し示す。

「何時でも何処でも何度でも、チャレンジしたいと思った時が……変わりたいと思ったその瞬間が、真っ白なスタートラインです。自分で自分をおしまいにしない限り、きっと、本当に遅いことなんてないんですっ」

 言葉はおろか、声すら出ない。呼吸すら忘れてしまったかのよう。

 瞠目し、少女を直視する。灯里は、少し強張った表情で、それでも、ぎこちないながらも笑みを湛えたまま、ナイブズを見つめ返していた。

 目の前の少女は、ヴァッシュに似ているとは思っていた。人と人との関わりの中で果たす役割と、その占める位置が。

 それが、まさか、こうも似ていたとは。ここまで似ているとは。

「く……くくく……はははは……あっ――はははははははは!!」

 可笑しくて、可笑しくて、自然と笑いがこみあげて来た。あまりに愉快で、痛快で、笑いたくて堪らない。

「まさかっ、ヴァッシュ以外に……俺にっ、そんなことを言うやつがいるとはな!」

「え? え?」

 ヴァッシュがナイブズへと伝えた、人間への祈り。

 それが今、全く思いもよらぬ形で、人間の少女からナイブズへの祈りとして伝えられた。

 これこそが、あの大神のはかりごとだったのだ。シラヌイの――大神アマテラスの思惑通りに事が運んだのだ。

 あの店主も相当なものだと思っていたが、上には上がいるものだ。神ともなると、遠回しなやり方もスケールが桁外れだ。

 一頻り笑い終わると、少女たちから奇異の目で見られていた。シラヌイの周囲にいる面々も同様だ。得体の知れない風来坊が――いや、普段は寡黙な印象のあるナイブズが、唐突に大笑いをしたのだから、そういう目で見たくもなるだろう。

 すると、アテナが唄い始めた。舟謳ではなく、あの時の歌でもなく、初めて聞く歌だった。

 

 昨日までの自分との決別、未来への祈り、大切な願い、様々な想いが込められた歌。

 ミリオンズ・ナイブズの犯した罪はResetすることはできない。だが、過去を振り返り迷ってばかりではなく、もっと今に目を向け、先へと進もう。

 過去を忘れず背負ったまま、今に目を向け、その先にある、なにも描かれてない未来へと進む。それが、ナイブズなりの仕切り直しだ。

 そこに、きっとあるはずだ。

 探していた答えが、きっと。

 

 アテナの歌を聴いている内に、様々な思いが去来した。

 歌に聞き入っていてすぐに気付かなかったが、いつの間にか、アテナを囲むように3匹の白い猿が現れて楽器を演奏していた。シンバルがうるさいが、それさえ忘れてしまうほど、桜花の捧げる花香に乗り、万里の波濤をも越えて、枯れたる苦界を潤すかのように、天上の謳声が舞い散る桜花と共に鮮烈に響き渡る。

 歌が終わると、ナイブズを含めた全員が惜しみない、万雷の拍手を贈った。

 最後にシラヌイが遠吠えを上げると、強烈な風が吹き始めた。これは、神空間でナイブズを吹き飛ばしたものと同じだ。何人かが倒れそうになったが、何処からか伸びた蔦が支えて守っていた。

 風は地表のものを巻き上げはしなかったが、咲いていた桜花を全て散らせて、元の枯葉に戻してしまった。季節外れの桜花はすべて、花の一片も残さず消えてしまった。三匹の猿も、同様に姿を消していた。

「夢か幻みたいでしたね」

 風で乱れた髪を整えることも忘れて、灯里が、ぽつり、と呟いた。

 確かに、現実に起きたこととは到底思えないような出来事の連続だった。

 しかしそれらは、間違いなく、現実に起きたことだった。今この時に、そして過去のあの時にも。

「それが現実に起きた場合を、奇跡と呼ぶのだろうな」

「……はいっ。素敵な奇跡でした」

「きっと、この火星(ほし)も、素敵な奇跡で出来てるんですね」

 ナイブズの答えに、双葉と灯里は頷いて、それぞれに奇跡へ想いを馳せた。

 そこに調度、藍華とアリスが来ていたのだから、この後の展開が目に見えるようだった。

「恥ずかしい台詞、禁止ぃっ!!」

「ナイブズさんまででっかい恥ずかしいです……」

「いやっいやっいや~んっ!」

「ええーっ」

 ナイブズも巻き込まれた以外は、完全に思った通りだった。

 このやり取りもナイブズの中で定番となりつつあるが、ふと、灯里の口にした星という言葉が気に掛かった。

 今まで、ナイブズは人の輪の外で、人の在り様を観察しているつもりだった。時に外縁部と接する程度で、輪の中に加わっているとは思っていなかった。

 だが、そうでは無かった。いくつもの輪が重なり合った球の中に、その上に、自分もいたのだ。

 違う時に違う場所で過ごしていても、同じ星の上で、同じ空の下で、同じ海の傍で生きていたのだ。

 大地を踏みしめ、微かに聞こえる波のさざめきに耳を澄ませ、遠く深い空を見上げる。

 生まれ直し、死に直す。

 ブルーサマーズの最期の言葉が、脳裏を掠めた。

 



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#24.ナイブズ

「いーわよねー。アリシアさんとアテナさんは、晃さんみたいにガミガミ怒らないで」

「けど、アテナ先輩のどじっ娘はそれを補って余りあります」

「それは……あるかも」

 藍華の操舵する(ゴンドラ)はアリスとまぁ社長とヒメ社長を乗せ、今日も合同練習をするべくARIAカンパニーへと向かっていた。

 少し前までは灯里を通じて知り合った新しい友人や、神社で起こった摩訶不思議な現象の話題で持ちきりだったが、2人とも、ここ数日はすっかりいつもの調子に戻っていた。

「その点、やっぱりアリシアさんは完璧だわっ。怒らない、ドジもしない、それどころか寛容で優しくてしっかり者で、とっても素敵」

「今日も藍華先輩、絶好調ですね」

 晃への愚痴からのアリシアへの憧憬と賛美、まさしくいつもの調子の藍華であり、いつも通り、アリスとヒメ社長はジト目で見返して溜め息混じりになっていた。

 そんなこんなでARIAカンパニーの近くまで来たのだが、屋根の上にアリア社長を見つけて、藍華とアリスは自分たちのうっかりミスに気付いた。

「あ、いつもの癖でつい来ちゃったけど……」

「今日は灯里先輩、トラゲットでしたね」

 アリア社長が暢気に日向ぼっこしているのを見て、今日は灯里が合同練習に参加しないことを思い出した。

 2人とも、つい先日にトラゲットをしている会社の友人に灯里のことを話していたのに、昨夜まではちゃんと覚えていたのに、いつもの習慣で、体と頭が勝手に動いていたようだ。それほどに、藍華とアリスにとって、灯里と一緒に3人で過ごすことが当たり前のことになっていた。

 気恥ずかしくなりながら、藍華は気を取り直すように、アリシアの白い舟もないことを指摘して、がっくりと、大仰に項垂れた。がっかりしすぎて力が入らないので、漕ぎ手を交代とすることとなった。

 本当にがっかりしたのはどちらにでしょうね、とは内心で思っても、表には出さず、アリスはゆっくりと舟を漕ぎ出した。その際に、まぁ社長がアリア社長に会いたいのか、大きな声で鳴いたのだが、それに気付いたアリア社長は、驚いて屋根から落ちてしまった。

 申し訳なく思いつつも、これで近くまで行ったらまぁ社長がアリア社長のもちもちぽんぽんに突撃するのは目に見えているので、舟はそのまま進んで行った。

「そういえば、後輩ちゃんのトラゲットやってる友達って、どんな子?」

 アリスの観光案内の練習を聴いている内に落ち着いて、藍華はそんなことを尋ねた。

 藍華の印象では、アリスは口下手で不器用で、友達作りが苦手に思えたからだ。寧ろ、灯里がいなければ今頃、こうして一緒にいることも無かっただろうとさえ思えてしまう。それぐらい、小生意気で最悪に近い第一印象だったのだ。

 そんな藍華の心配をよそに、アリスは操舵の手を休めずに答えた。

「アトラさんと杏さんですね。アトラさんは眼鏡が、杏さんはムッくんが好きですっ」

 意想外の答えに、藍華の表情が僅かに引き攣る。

 どんな人かと問われて、人となりではなく何が好きかを答えてしまうとは、やっぱりこの子はどこかずれてる。上手に友達付き合いができているのか、心配になってしまう。

「眼鏡が好き? 眼鏡を掛けてるんじゃなくて?」

「視力矯正用の眼鏡を掛けていますし、眼鏡の収集自体が趣味だとも言っていました」

「へぇ、今時眼鏡で視力矯正なんて珍しいわね」

「アトラさんはでっかいオシャレさんで、10個以上も眼鏡を持ってるんですよっ」

「なんとっ!? それはすごいわねっ」

 どうやら、好きなものの部分が印象的だから、真っ先にそこを答えたようだ。ムッくんの方に関しては、アリスが大好きなキャラクターなのだから、同好の士が見つかってよほど嬉しかったのだろう。

「藍華先輩の言っていた方は、どんな人なんですか?」

 アトラと杏の説明を簡単に済ませて、今度はアリスが藍華に尋ねた。

 ヒメ社長を撫でながら、藍華は彼女を知る切っ掛けになった出来事を思い出した。

「あゆみさんって言うんだけど、変わった人でね、最初からトラゲット専属志望で、ずっと片手袋(シングル)のままでいるって宣言までしたのよ。春頃だったかしら? あゆみさんの指導官の人が、一人前を十分に目指せる腕前だって説得してたんだけど……」

 

「ウチがやりたいのはトラゲットなんですっ。ウチにとって、ウチがなりたい水先案内人(ウンディーネ)は、トラゲットの片手袋(シングル)なんです!」

 

「って、凄かったのよ。たまたま居合わせた私もたじろくぐらい」

「凄い方なんですね……。その時のことがご縁で?」

「そ。話してみたら、結構気が合ってね。私を面と向かって『お嬢』なんて呼んでくるけど、そういうところも全部ひっくるめて、私とちゃんと向き合ってくれる人でさ……今まで、晃さんぐらいしかそういう人がいなかったから、嬉しかったなぁ」

あゆみとの出会いや人柄を語ると同時、水先案内業の老舗『姫屋』の御令嬢という立場ゆえの悩みが、気付かぬ内に零れ出た。

 これを聞いて、アリスは藍華の知らなかった一面を知ると同時、自分の言葉が足らな過ぎたと気付いた。自分はあゆみという人がどういう人か知れたけれども、藍華にはアトラや杏がどういう人か、ちゃんと伝えられていないと。

「……アトラさんと杏さんとは、まぁくんを切っ掛けに仲良くなったんです」

「まぁ」

 だから、ちゃんと伝えたいと、そう思った。2人は、大事な友人なんだと。あの時のことも簡単にしか話していなかったから、今一緒に伝えよう。

「なぬっ。てっきり、ムッくんが切っ掛けだとばかり」

「それは、その後です。前にお話ししましたよね、まぁくんがオレンジぷらねっとの社長になる前、夜に探したこと」

「後輩ちゃんが不安になって、まぁくんを元いた所に置いて来て、また戻ったらアテナさんと入れ違いになってたんだっけ」

「そうです。藍華先輩の余計なお言葉のせいで、でっかい不安に苛まれました」

 ナイブズとお手玉のように遊んでいたまぁくんが、ぐったりしたわけでもなく、そのままのんびりのびのびと寝転がっているを見て、一緒に寝転がったのが、事の始まり。

 まぁくんを鳴き声からそのまま名付けて、誰にも内緒で自社寮の部屋にこっそり連れ込んだ。当時、アリスは誰にも、同室のアテナにも気付かれずに上手くやれている根拠の無い自信があった。だが、合同練習中に藍華に「とっくに気付かれていて、実は猫嫌いのアテナ先輩が始末しようとしている」と冗談交じりに指摘されてしまった。

 そんなことある筈がないと言い返したのだが、調度その日、寮に帰ると実際に他の水先案内人たちにバレていて、アテナにもとうに気付かれていた。そして、まぁ社長について話し始めたアテナの手には、間の悪いことに果物ナイフが。

 悪い妄想を断ち切れず、アリスはまぁくんを元いた場所に置いて来てしまったのだ。それでも、結局5分と経たない内にまた戻ったのだが、その僅かの間に、まぁくんの姿は忽然と消えてしまっていた。

「ぐぬっ。そ、そのことは本当にごめん……」

「いえ、お気になさらず。もう過ぎたことですし」

「まぁ!」

 まぁ社長が一声鳴いて、ヒメ社長は優しく撫でるように藍華へと体をすり寄せた。2匹とも気にしなくていいよと伝えようとしているのは、言葉が通じずとも分かった。

 アリスもちょっとした意地悪で掘り返しただけで、今はもうまったく気にしていなかった。寧ろ、何度でも真剣に謝ってくれる藍華の真摯さ、真面目さがとてもうれしかった。

 藍華が気を取り直したのを確認してから、アリスは話を続ける。

「あの時、一緒にまぁくんを探してくれた人がいたって話はしましたよね?」

「同じ会社の……あー、そっか! それが……眼鏡とムッくんの」

「アトラさんと杏さんです」

「後輩ちゃんが余計なこと言うから、そっちが印象に残っちゃったのよっ」

 びしっと指摘され、今度はアリスが何も言い返せなかった。

 言い返せなかったので、強引に話を先に進める。

「そういうわけで、まだ短いですけど、まぁくんを一緒に探して以来、アトラさんと杏さんとはお友達として付き合わせてもらってます」

 勢い任せで言い終わってから、友達という言葉を自分で口にしたことに妙な気恥しさを覚えた。

 そんなかわいい後輩の様子を見て、藍華は優しく微笑んだ。

「良かったわね、同じ会社の子とも友達になれて」

「……はいっ」

 言われて、気付けて、嬉しくて、アリスも笑顔で応えた。

 会社で出来た、初めての友達。それを祝福してくれたのは、会社の外で出来た、初めての友達。藍華の方から、自らもまたアリスの友人であると、ごく自然に言われたのが、何より嬉しかった。

 気持ちが落ち着いてから、気を取り直して話を更に先に進める。ある意味、ここからが本題なのだ。

「それで、実はですね。アトラさんと杏さん、姫屋にも友達がいるらしいんですよ」

「あら、奇遇ね。私の知っている子かしら」

「……あゆみという名前で、トラゲットに情熱を注いでいる、竹を割ったような性格の人らしいです」

「……どう聞いても、さっき私が話したあゆみさんよね、それ」

「はい、でっかい偶然です」

 藍華もあゆみからトラゲットを通じて他の会社に友達がいるとは聞いていたが、名前までは聞いていなかったのだ。

 驚くべき偶然の一致。だが、この偶然はそれだけに留まらない。

「で、その3人は今日きっと……」

「灯里先輩にも会っているでしょうね」

 言って、互いの視線が交錯し、特に意味も無く頷き合う。

「ホント、凄い偶然ね」

「はい、でっかい偶然ですっ」

 この場に灯里がいたら、きっと「素敵な奇跡(みらくる)だね」と恥ずかしい台詞を言っていたであろうと、2人ともが思っていた。

 同じ頃、実際に灯里があゆみ、アトラ、杏の3人に、2人が直感したのと全く同じことを言っていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 灯里が初のトラゲットを終えてから数日後のある日。ARIAカンパニー2階の従業員用スペースに、6人の水先案内人と3匹の猫が集まっていた。

 彼女たちが今日集まったのは偶然ではなく、あることを話し合うため。彼女たちを繋げる、ある謎を少しずつ紐解くため。

「というわけで、第一回、ナイブズさんを語ろうの会、始まり始まりー!」

「わーい」

「ぷーい」

「まぁー」

 姫屋のあゆみが音頭を取り、灯里を始め集まった面々は一斉に拍手する。詳しい事情を聞かされていなかった2人を除いて。

「なにがどうしたらこうなるのよっ!?」

「藍華お嬢、興奮しすぎですよ。ほら」

 吠えるような勢いで藍華が渾身のツッコミを入れるが、あゆみによってさらっと流されてしまう。

 淹れたばかりのホットミルクを差し出され、大人しく受け取って、カップを通じてじんわりと伝わる熱を掌に感じながら、ゆっくりと、一口ずつ飲んでいって心を落ち着かせる。

 藍華が落ち着き始めたのを見て、アトラと杏が、詳しい事情を知らない藍華とアリスに向けて簡単に経緯の説明をする。

「灯里ちゃんと話してたら、私達の共通の話題でナイブズさんが出て来て……」

「それで、みんなで集まって、ナイブズさんについて話し合ってみようってなったの」

「はぁ……どういう話の流れがあったのか、でっかい気になります」

 納得しつつも、少し呆れつつ、アリスが呟くと、今回の集まりの発起人であるあゆみが苦笑した。

「ナイブズさんって、色々謎だらけだからさ。折角ナイブズさんと直接会ったことのある者同士で仲良くなったんだから、ちょっとそういうことを話してみたくないですか? 藍華お嬢」

 あゆみから話を振られて、ホットミルクを飲みつつ、藍華は落ち着いて夏の終わりの頃の出来事を思い出していた。

「確かに……夏の時も、結局詳しく訊けなかったのよね」

「そういえば、あの時は結局、私たちがお話の感想を言っただけで終わってしまっていましたね」

 藍華の言葉に、アリスもはっとなって同意する。

 レデントーレを無事に終えて、灯里とナイブズを探し歩いて、夜になって漸く出会えた時の事。

 ノーマンズランドという星から来たことを確かめた後、3人はそれぞれにナイブズへ質問したのだが、先にナイブズの質問に答えている内に時間切れになってしまっていたのだ。

 そのことは、今でもちょっと引っかかっている。あの時聞きたかったことへの答えや色々な謎を解き明かすことはできなくても、知っていることを出し合って、新しい発見はあるかもしれない。

 そう考えると、ちょっと面白いかもと思い至り、藍華とアリスも、この会への参加に乗り気となった。

 一方、まぁ社長によってアリア社長のもちもちぽんぽんが大ピンチになろうとしていたのだが、ヒメ社長以外誰も気付いていなかった。

 

 

 まずはそれぞれのナイブズへの印象や知っていることを言っていこうということになり、一番手として話し始めたのは、あゆみ。

 今回の発起人ということもあるが、それ以外の理由もある。

「多分、この中でナイブズさんと最初に会ったのはウチだと思う。天上の謳声(セイレーン)が復活してすぐのころ」

 あゆみの言ったとおり、この中でナイブズと出会ったのはあゆみが最初。言葉を交わした人間としても2人目である。

 全員が異論無しと頷く中、ただ一人、灯里だけが「天上の謳声(セイレーン)の復活」の部分で首を傾げていた。それに気付かず、あゆみは当時の――火星に来たばかりの頃のナイブズとの出会いを思い出した。

「あの時は……なんだか、高圧的というか、威圧感ていうか、そういうのがあったなぁ。態度とか喋り方とか、どこか上から目線て感じで。話の交換条件で舟に乗せろって言われた時は、急に言われて驚いたのもあったけど、緊張して、ちょっと身構えちゃったな」

 あゆみは苦笑を交えながら、当時のことを振り返る。今にして思えば、天上の謳声(セイレーン)を歌えなくするような難癖をつけた相手に、好奇心だけでよくも声を掛けられたものだと思う。けど、不思議とあの時は、そういうことを思わなかった。

 話しかけやすかったというか、ナイブズも話しかけられるのを待っていたような、そんな気がしたのだ。

 そんなことを思っていると、あの時のことを思い出して、つい笑いが漏れる。

「けどさ、ウチが半人前(シングル)だから(ゴンドラ)には乗せられないって言ったら、練習台として乗せろなんて言って来てさっ。目的地に行きたいとか、目当ての水先案内人(ウンディーネ)とかでも何でもなく、ただ(ゴンドラ)に乗りたいなんて、面白い人だって思ったよ」

 その上、適当なところで捨てていくと言っても、それで構わないと返して来たのだから、愉快痛快極まりない。

 その話を聞いて、灯里と藍華が口元を綻ばせた。どうしたのかと思えば、アイという少女を無賃で乗せた時のことを思い出したのだという。

 アリスやアトラや杏も交えて、そのアイという少女の話題で暫し盛り上がるが、あゆみはある疑問を懐いた。不自然な点に気付いたという方が、より正確か。

 藍華が他社の半人前と一緒になって、少女を乗せて観光案内紛いのことをしていたことは、姫屋でも噂になっていた。その件は晃の指導と、藍華の両親である姫屋の経営トップ直々の叱責と厳重注意によって幕を閉じた。これは当然のことだろう。やや厳しいとも思えるが、藍華の『跡取り娘』という立場上、止むを得ない側面もある。

 一方で、あゆみがナイブズを乗せたことを咎められたことは一度も無い。3度も乗せたことがあるというのに、ただの一度も。

 偶然、3度とも会社の誰にも気付かれなかったのだろうか?

「それで、あの話を聞かせてもらったのも、あゆみさんが最初なのよね」

 藍華に再び話を振られて、あゆみは懐いた疑問をすぐに手放した。この場で考える必要もないし、多分気にする必要も無いと思えたからだ。

「うん。ウチが、トラゲット専属の水先案内人(ウンディーネ)を目指してるけど、周りからはみんなと同じように一人前(プリマ)を目指せって言われてるって……ちょっと、愚痴っちゃったんだ」

「あら、そうだったの」

「それ、初めて聞いたよ」

 それなりに付き合いの長いアトラと杏は、あゆみの告白に驚いている。

 2人にはバレないように特に気を遣っていたから当然だけども、ちょっと寂しくもある。

一人前(プリマ)を目指してる2人には言い辛いよ。結局、誰にも相談もできてなかったし。けど、知らないおっちゃんになら、ちょっと愚痴ってもいいかなって思ったんだ。……そしたら、話してくれたんだ。遠い砂の星で頑張ってる、優しいガンマンのことを」

 通りすがりの、これから会うことも無いだろう、見ず知らずの赤の他人だからこそ、零れ落ちた不安と不満。

 適当に聞き流されるか、曖昧な返事を貰えるか、どうなってもそれでいい、という程度の考えだった。それらしい励ましの言葉が聴けるかという期待さえなかった。

 けど、ナイブズは話してくれた。途方もない夢を追い続けた、馬鹿な男の話を。

 一度ならず、二度、三度と、会う度に続きをせがむ、あゆみの大好きな物語。つい近しい水先案内人たちに話していたら、いつの間にかネオ・ヴェネツィアの水先案内人全体にまで広まっていた、赤い衣を纏った、平和主義者の心優しきガンマン――ヴァッシュ・ザ・スタンピードの戦いの日々の記録。

「それで、ヴァッシュさんの話の後にさ、『過去と未来の自分に誇れるなら、最後まで貫き通せ』って、そう言ってくれて……凄く嬉しくて、心強くて、励まされたよ」

 思い掛けない、掛け替えのない言葉を貰ったあゆみは、この日以来、トラゲット専属の水先案内人を目指すことを迷うことは無くなった。それどころか、一人前を目指すことへの指導や誘いをはっきり断り、トラゲットの片手袋で居続けるのだと宣言もできた。

 あゆみにとって、ナイブズはいくら感謝しても足りないぐらいの大恩人になっていた。

 

 

 あゆみの話が終わると、次は誰かとなる前に、アリスが静かに手を挙げた。

「次、いいでしょうか?」

「後輩ちゃん、なにかあるの?」

 藍華が聞き返す形で先を促すと、アリスは手を下ろし、一度深呼吸してから、静かに口を開いた。

「ナイブズさんがアテナ先輩を歌えなくしたことは、皆さんご存知ですよね?」

「えっ、そんなことがあったの!?」

「え」

「ま」

「にゅ」

「にゃ」

 灯里の思わぬ反応に、彼女以外の全員が呆気に取られ、視線を集中させる。

 ナイブズがアテナを、の部分は百歩譲っていいとして、灯里は火星暦で今年の始めにあった『天上の謳声(セイレーン)が歌えなくなった』という大事件を知りもしないというのだ。カーニヴァルが終わるまでの間はオレンジぷらねっと内で箝口令も敷かれていたが、事態が解決した後は自然と噂話が広まっていたというのに。

「あー……そういや、あんた、あの時点でアテナさんのこと知らなかったわね」

 藍華が思い出したのは、ナイブズと初めて会った宝探しをしていた時のことだ。あの時灯里は、水の3大妖精のアテナ・グローリィを全く知らなかったのだ。

 これを聞いて、あゆみ、アトラ、杏は絶句し、アリスはわざとらしく、でっかい溜め息を吐いた。

「仕方ありませんね。灯里先輩がでっかいにぶちんなのは、今に始まったことじゃありませんし」

「ええーっ」

 冗談めかして茶化すアリスに、灯里は真剣に大仰な反応を示すのだから、驚いていた3人もいつの間にか口の端に笑みを浮かべて、アトラと杏が簡単に当時のことを説明した。

「アテナさんが急に歌えなくなって、あの時のオレンジぷらねっとは凄い騒ぎだったの」

「姫屋の晃さんに詳しく事情を聞いてもらって、所属社員全員に、アテナさんに暴言を吐いた男を見つけろ、って命令が出たぐらい」

「そ、そんな事件があったんだ……」

「私もそのことは後日知ったんだけどね」

「ウチも。聞いた時は、まさかその当人と仲良くなれるとは思ってなかったよ」

 灯里の想像を超える深刻な大事件だったが、藍華とあゆみが軽妙に鷹揚に続いてくれたお蔭で、場の空気が不必要に重苦しくなることは無かった。

「どうしてナイブズさんは、アテナさんの歌に文句を言っちゃったんだろうね?」

 灯里がふと口にした、素朴な疑問。その答えを知る皆は、誰が音頭を取ったわけでもなく、口を揃えて同時に答えた。

『波の音を聴くのに邪魔だったから』

「……ほへ?」

 意想外の答えに、灯里は惚けたような表情で素っ頓狂な声を漏らした。

 誰だってそうなる。自分だってそうだった。皆の心は一つだった。

「本人から聞いた時は呆れたわよ。けど、すごく真面目な顔で言ってて、本当なんだっていうのは伝わったわ」

「けど、水が一滴も無い砂の惑星から来てたって言いますし、仕方ないんじゃないですかね?」

 ナイブズから直接に理由を聞いていた藍華とあゆみは、何とはなしに取り繕うように補足する。灯里はそれに納得したように頷く。アトラと杏も同様だ。

 けど、アリスだけは眉間に皺を寄せて、険しい表情だ。

 今なら分かるし、納得もできる。でも、あの時はそうでは無かったから。

「それでも、私……アテナ先輩をあんな風に追い詰めたナイブズさんが、正直、でっかい嫌いでした。カーニヴァルが終わって、また歌えるようになって、アテナ先輩はもう済んだことだからって言ってましたけど、もし会うことがあったら、でっかい文句を言ってやろうって決めてました」

 アリスはオレンジぷらねっとに入社して以来、社員寮でアテナと相部屋で過ごしている。不安な夜も、眩しい朝も、忙しい日も、そして仕事の時も、いつも一緒だ。

 だからこそ、必死で平静を取り繕っていたアテナが、歌以外にも如何に追い詰められていたか、誰よりもよく知っていた。晃が調度良く訪ねて来てくれていなかったら、あのまま潰れてしまっていたかもしれない。

 なのに、アテナはアリスの知らぬ間に謳声を取り戻し、完全に復調していた。その経緯が、原因の男に請われて歌ったから、だというのだから、呆れるしかなかった。同時に、そんなことをさせた厚顔無恥な男への激しい憤りも懐いた。

 もしも会ったら、文句や嫌味を思いつく限り言って困らせ弱らせ、アテナにちゃんと謝らせてやろう、なんてことも考えていた。自分はその男の顔も声も知らなかったのに。それに気付いて、色々馬鹿らしくなるまでには、然程時間は掛からなかった。

 どうせ、会うことも顔を合わせる機会も無い。もし万が一街で出くわしたとしても、自分が分からないように、相手の男――ナイブズも、自分のことなど分からないだろうと、そう思い込んでいた。

 実際は、違った。カーニヴァルの日、仮面を着けていたナイブズと、アリスは会っていたのだ。

「でも……私はナイブズさんが全然分からなかったのに、ナイブズさんは私のこと、一目で分かったんです。私は声も何も覚えていなかったのに、ナイブズさんは私の顔も名前も憶えていて……。それに、ちゃんとアテナ先輩が歌えているか心配してくれて、それで、嫌いな感情はほとんど無くなりました」

 時が経ち、間が空いて、不意打ち気味に遭遇したナイブズは、一目でアリスの名を言い当てた。そして、相手がナイブズと知ったアリスが、嫌味を隠さぬ声色で皮肉交じりにアテナの快調を伝えると、ほんの少し、表情と声音を和らげた。

 たった、それだけのことだった。それだけで、大切な先輩を追い詰めた男を許してしまったのは、今でも単純だと思う。けど、実際に会ったナイブズは、イメージしていた酷い男と違っていて、アテナを励まし、復活へと導いたのが、不思議と納得できたのだ。

 あと、灯里に誘われてごく普通に宝探しに参加した、意外過ぎるフットワークの軽さとノリの良さも好意的なポイントだった。

「宝探しの時だね。ナイブズさんって、どんな些細なことも覚えててすごいよね。アリスちゃんのことと、あと、あの階段も」

「実はウチも。たまたま大運河の近くを通りがかって、渡し舟に乗っているのを遠目に見たのを覚えてたって言われて、びっくりしたよ」

「凄い記憶力ですねっ」

 灯里とあゆみがナイブズの記憶力にまつわるエピソードを補足し、それに素直に感心する。

 出会った一瞬一瞬を決して忘れずにいる、そのことには素直に尊敬の念が湧いてきた。

 

 

「アテナさんのことだけど、晃さんが実際に会って文句言ってたわよ。凄い剣幕だったから……今でも覚えてるわ」

 アリスの話を引き継ぐ形で、今度は藍華が話し始めた。彼女にとって忘れ難い、春の日の出来事だ。

「あの真紅の薔薇(クリムゾンローズ)に詰め寄られるなんて……ちょっと、ドキドキしちゃいそう」

「うん」

「いやいやいや、あの人、怒るとめっちゃ怖いからな?」

 アトラと杏が変な方向に盛り上がりそうになったところへ、あゆみがすかさずツッコミを入れる。藍華と一緒にいれば、自然と晃と接する時間も増えて来る。あゆみも晃の素の部分や厳しさを知る1人なのだ。

 確かに、あゆみも言う通り、晃は怒るととても怖い。親よりも怖い。けれど、世の中、上には上がいる。

「その怒ると怖い晃さんが本気で怒って詰め寄っても、全く動揺しないどころか、逆に威圧してたのよ、ナイブズさん。傍から見てて冷や汗ものだったわ……」

 半人前(シングル)時代からの親友であるアテナを再起不能寸前まで追い詰めたというナイブズに対して、晃は激しい怒りを燃やし、それを肚の内に溜め込んでいた。

 実際に相対したあの時、まるで少しずつマグマが噴出し、大噴火を起こしそうだったのを、隣にいた藍華はひしひしと肌で感じていた。

 あの時、冷静にツッコミを入れることができたのは、藍華自身がナイブズの人となりを知って悪い人ではないと分かっていたのと、ナイブズ自身が微塵も動揺していなかったからだ。

 無視するのではなく、聞き流すのでも受け流すのでもなく、正面から全部を受け止めていた。あの晃の怒りを全て受け止めた上で、少しも揺らぎもせず、傍にいるだけの藍華が威圧されてしまうほどに堂々としていた。あまりに堂々としていたものだから、少し見惚れてしまった。

「その時、ナイブズさんはどう答えたんですか?」

 アリスがやや緊張気味に、身を乗り出すように訊いて来る。晃への答えが、即ちアテナに纏わるものだと分かるからだろう。

 この時の問答をよく覚えているから、すぐに返事をできた。

「アテナさんの歌は、今まで聞いたどの音楽よりも、いい歌だった。文句言ったのは間違いだったって」

 ナイブズがそうしていたように、恥ずかしげもなく、さらりと答える。

 言ってみて思ったが、詩的でも感情的でもない、実直で飾り気のない言葉だが、恥じらいなく素直な言葉を口にするのは、やっぱり十分に恥ずかしい。

 いつもいつも、よく平然とこういう風に言えるものだと、変なところに感心してしまう。

「はっきりと、そこまで言えるものなんですね」

「晃さんも、それですっかり毒気が抜かれちゃったのよね」

 ナイブズとは対照的に、普段からはっきりとした物言いだが、ここぞという時に素直な言葉を口にできないアリスは、ナイブズの言葉に神妙な様子で感心していて、それがどことなくあの時の晃と似ていたものだから、藍華も茶化す気が失せてしまった。

「藍華ちゃん、その時の事、よく覚えてるんだね」

 灯里にそう言われて、藍華もまた、素直に自分の胸の内を明かす。

「実はその後、ナイブズさんをちゃんと仕事として、お客様として(ゴンドラ)に乗せたのよ。ナイブズさんから御指名でね。だから、よく覚えてる。たとえ気紛れでも、その時の都合でも、初めてお客様に選んでもらえて、嬉しかったから」

 普通、水先案内人が客からの指名を受けて事前に予約が入る、ということはまずない。

 水の3大妖精などの並外れた人気者以外は、指定の待機場所で客を待つのが普通であり、指導官同伴の半人前に指名が入ることなどまずありえない。特に、姫屋のような大きくて歴史のある会社では。

 それでも、藍華は選ばれた。調度目の前にいたから、程度の理由であったとしても。隣にいるのが水の3大妖精“真紅の薔薇(クリムゾンローズ)”晃・E・フェラーリだと知っても、微塵も惜しむ様子も見せずに、ナイブズは藍華を選んでくれた。

 

「いい体験だった。……お前達のお陰だ、礼を言う」

 

 何より、仕事を終えた後にナイブズが言ってくれた、素っ気ない、何気ない、このお礼の言葉が、何より嬉しかった。

 あゆみとは逆に、藍華はナイブズのお蔭で、一人前を目指すことをより強く心に誓えたのだ。

 

 

 次に話すのは、アトラと杏の2人。ナイブズを舟に乗せたという話題から、合同練習中にあゆみの漕ぐ舟に一緒に乗ったことがあるのだと、そこから話は始まった。

「私たちが会ったのは、ある場所に迷い込んでしまった時」

「先にも進めなくて、後にも戻れなくて、怖くて不安だった時に、ナイブズさんが助けに来てくれたの」

 今思い出しても、空恐ろしい、夏も間近に控えた暑い日に、背筋の冷えたこわい出来事。

 このまま誰からも忘れられて、消えて無くなってしまうんじゃないかと不安になった時に掛けられた声は、不愛想でぶっきらぼうだったけど、とても心強かった。

「その場所って、どこですか?」

 この話をまだ2人から聞いたことの無かったアリスは、興味深そうに尋ねた。アトラと杏は、一度お互いの目を見て頷き合い、タイミングを合わせて一緒に答えた。

「ネオ・ヴェネツィアの七不思議の一つ、無限回廊の水路」

 意外な答えにアリスはきょとんとしてしまうが、他の面々はそうでは無かった。

「あそこに、アトラちゃんと杏ちゃんも……」

「あの時は本当に怖かったなー……」

「なぬっ、あゆみさんも行ってたとは初耳よっ」

 意外や意外、なんとアリス以外の5人全員が、その無限回廊の水路に迷い込んだことがあったのだ。

 彼女らの人となりからして、グルになってアリスを騙そうとしていることはまずありえないし、寧ろこういう冗談は決して言わないと分かっているから、アリスには信じるより他なかった。

「本当にあるんですね、ネオ・ヴェネツィアの七不思議」

「私たちも、実際に迷い込むまで全然信じてなかったわ」

「ナイブズさんも『人間の常識が半分以上通用しない場所だ』って言ってたし、本当に不思議な場所だったよ」

 アリスが感心したように言うと、アトラは溜め息混じりに頷いて、杏は当時の様子を簡単に教えてくれた。

「そっか、杏ちゃんたちはナイブズさんに助けられたんだ」

 自分たちが迷い込んだ時には、追いかけていたアリア社長に助け舟を出してもらった灯里は、自分たちとは異なる境遇のアトラたちを助けた相手に興味を示した。

「ええ。あゆみの話で、いい人なのかな、とは思っていたけど」

「ぶっきらぼうで、ちょっと顔が怖かったけど、私たちの質問にもちゃんと答えてくれて、すごくいい人だったよ」

「その後も、色々質問攻めにしちゃったけどね」

 あゆみも加わって、3人で当時のことを詳しく語る。

 アクア・アルタが収まり、3人揃っての自主練習を再開したあの日、杏が偶然にも、いつもは門扉によって閉ざされていた水路が開かれているのを発見した。

 ちょっとした好奇心から、あゆみがそちらへ舵を切り……気が付けば、行けど進めど、同じ場所を延々と彷徨うこととなってしまった。

 最初は冗談を飛ばしたりもしていたが、次第に口数も少なくなり、やがて七不思議の『無限回廊の水路』であると気付いたはいいが、藍華の時のような脱出方法が何もない。

 その時に覚えた恐怖は、筆舌に尽くしがたいものだった。実際に、声を漏らすことさえできなかった。

 そんなどうしようもないところへ、突然降って来た声、現れた人影によって齎された安心感もまた、大きなものだった。その人物があゆみに“あの話”を教えてくれた“ナイブズさん”だと分かった時には、歓声を上げたいぐらいだった。

 ナイブズは脱出方法を教えてすぐ戻ろうとしていたが、あゆみが引き留め、杏とアトラも賛成して、帰り道を一緒に舟に乗り、新しい話を聞かせてもらった。それを聞いている内に、あれよあれよと外へと至り、無事に青空の下へと戻って来られた時の、喜び、嬉しさは、今でも忘れられない。勿論、ナイブズへの感謝も。

 その感謝の形として、その日は3人で代わる代わる、ナイブズを舟に乗せ、街を案内して回った。本人の提案もあり、あくまで練習台名義だったが。

 

 

「不思議な場所でナイブズさんに会ってたのが、まさか灯里以外にもいるとは思わなかったわ」

 あゆみたちの話を聞いて、藍華がそんなことをこぼした。

 先日の神社での一件で藍華とアリスは共に十分過ぎる程に不思議体験を満喫し、その直後にナイブズと会ったが、場所はごく普通の現実世界。別世界のような摩訶不思議の空間ではなかった。

 これを聞いて、灯里は今まで不思議な場所で出会ったナイブズの姿を思い出していた。龍宮城で、そして過去の火星での、彼の立ち振る舞いを。

「ナイブズさんは、不思議な場所にいる時、いつも自然体だった。私は、周りの不思議に驚いてばかりで、ちゃんと見るのもままならなかったのに。まるで、そっち側にいることの方が、当たり前みたいで」

 龍宮城で出会った時、あまりの事態に呆然とする灯里とアイを醒ませてくれたのはナイブズだった。

 猫妖精(ケット・シー)を始め、火星の慈母(グランドマザー)と呼ばれる巨大プラント、シラヌイ改め大神アマテラス、龍宮城の主である龍王、そして不思議な店の店主。灯里達を見守り、寄り添い、昔話をしてくれた彼らの側に、アイーダを連れてナイブズも立っていた。アマテラスたちを敬い付き従っていた天道兄妹とも、明らかに様子が違っていた。

 過去の火星に迷い込んだ時も、ナイブズは明らかに、あそこが過去だと分かった上で行動していたのだと、今なら分かる。アマテラスの力や正体だって、予め知っていたようだった。それでも平然と、冷静に、何事かを見て、確かめているように思えた。

 火星に奇跡が起きたあの瞬間は、一緒に驚いていたけれど。

「そっか。それであの時、あんなことを聞いたのね」

「不思議の側の人ですか、でしたか。返事は、私たちの方が余程不思議だ、なんて言われましたけど」

 藍華とアリスが思い出したのは、夏の終わりの日。ナイブズから話を聞こうと、探し回った日のこと。幻の夜光鈴の光に導かれて、ナイブズの遠縁の親戚というアイーダも交えて、3人は色々質問をした。

 結局、ちゃんと返事を得られたのはノーマンズランドという星の出身ということと、別れ際の灯里の質問だけ。それ以外の質問の答えは、ナイブズからの質問に先に答えている内に時間切れとなってしまって、結局聞けず仕舞い。神社で会った時も、それどころではなかったから、すっかり忘れていた。

 一方、アリスが口にしたナイブズの返事の内容に、あゆみたちは、「へぇ」と声を出して驚いた。

「砂の星の出身だと、水の星は色々珍しいってことなのかな?」

「それもあると思うけど、それだけじゃない気もするわね」

「……まるで、ナイブズさん自身、人間じゃないような口ぶりだよね」

 杏とアトラの無難な推測に続いて、あゆみがとんでもない仮説を打ち立てた。

 一瞬、全員の目が点になり、アリア社長とヒメ社長が少女たちを見守る目を変える。

「まっさかー」

 直後、笑い声混じりに全員が否定し、言った当人さえも「っかー! 無いかーっ」と笑っている。その様子を見て、アリア社長とヒメ社長は、一つ溜め息を吐いた。まぁ社長は、遊び疲れてしまったのか、いつの間にか寝ている。

「そういえば、ナイブズさんって、どうしてまだ火星(アクア)にいるんだろ? ふらっと立ち寄っただけで、仕事とか観光とか、何の目的も無いらしいのに」

 ふと、あゆみはそんな疑問を口にした。ナイブズは居候先の店で日銭を稼いでいるらしいが、その仕事をしに来たわけではなく、目当ての場所や明確な目的があるわけでもないと言っていた。

 ならば、ナイブズがこの街に留まっているのは、如何なる理由によるものなのか。単なる気紛れや、無意味な道楽のようなものでないということは、ここにいる全員が感じていた。ただ、それを明確な言葉にできない。ナイブズが内に秘めたものまで踏み込んだことが無いのだ。

 唯一人、水無灯里を除いて。

「……ナイブズさんは、変わろうとしてるんだと思う」

 ぽつり、と呟くように、囁くように、小さな声で、灯里は話し始めた。

「変わる?」

「うん。この前会った時、ナイブズさん……自分は変われるはずがない、変わっちゃいけないんだって、そういうことを言ってて……とても辛そうだった」

「あのナイブズさんが……」

 灯里の言葉に、あゆみは酷く驚いた。揺るぎ無く、恥じ入らず、堂々として――そういう力強いイメージばかりを、ナイブズに持っていた。弱音同然の言葉を吐き出すとは、考えたことすらなかった。それは、藍華も、アリスも、アトラも、杏も同様だった。

 信じられない気持ちが強い。けれど、それ以上に、今の灯里が嘘を言っているとは、とても思えなかった。あの時のことを思い出し、語るだけで、灯里はわけも分からない恐怖に、自分でも気づかぬ内に、微かに震えていた。

 

「……そう上手くいくものか。過去の積み重ねによって今の自分は成り立っている。未来図もその延長だ。過去に業を積み重ね、手を汚し、恨み憎しみ怒りを集めたものの行く末は、分かり切っている。決まっているも同然だ」

 

 灯里は思い出す、あの時のナイブズの言葉を、一字一句違えることなく。それほど鮮烈に、あの時の言葉は焼き付いていた。それだけ強烈に、心に打ち付けられていた。

 あの日まで見たことの無かった、人間の表情。天道秋人の絶望と並ぶ、負の感情の極限。文字に表わすならば、虚無。

 かつて、遥か遠き砂の惑星で、天を照らす2つの太陽よりも、尚激しく、尚強く、人の世の全てを灰燼に帰すべく赤黒く燃え滾り猛り狂った、憎悪と憤怒の炎。それが燃え尽きて残された、ナイブズの心に空いている昏い、暗い、闇のような無、空虚な暗黒。

 灯里が、双葉が、光が、あの日ナイブズに垣間見た理解の及ばぬ恐怖。ナイブズの虚無の奥底で、未だ微かに燻る怒りの火。それこそが、あの恐怖の根源。

 誰もそれは知らない。当人たちも、ナイブズ自身もだ。

 なぜならその直後に、ナイブズの虚無は、異なるもので満たされたから。

「けど、そんなことないですよって、私が言ったら……ナイブズさん、大笑いして」

 少なくとも、灯里はそう感じていた。自分で信じることもできないほどに、あやふやで、曖昧な直感だが、そう思えるほどに、直後のナイブズのあの笑い方は、笑い声は、笑い顔は、無邪気で、満足げだったのだ。

「寡黙なイメージのナイブズさんが突然大笑いして、でっかいビックリでした」

「というか、悪役みたいな高笑いがミョーに様になってたわね」

「ええーっ」

 全く異なるアリスと藍華の見解に、思わず灯里は声を上げた。まさか傍から見たら、あの瞬間がそんな風に見えてしまっていたとは。

「そんなことがあったんだ。見たかったなぁ」

「ナイブズさんが笑うところって、ちょっとイメージできないかも」

「そうね。……けど、悪役の高笑いのイメージなら、なんとなく似合いそう?」

 あゆみも杏もアトラも、そちらの方へと話が逸れてしまった。あの時の緊張感を伝えきれない、自分が恨めしい――などと、灯里はちょっといじけているのだが、本当の所は、あまりにも灯里らしくない緊張の仕方を心配したアリスと藍華が場を和ませて、あゆみたちもそれを察して乗じたのだった。

 一頻り、ナイブズの笑い方で盛り上がって、何故かヴァッシュの笑顔とはどんなものだろうかという議論を経てから、本題へと戻る。

 たまたま立ち寄っただけの火星に、ネオ・ヴェネツィアに、ナイブズが1年以上の月日を経ても留まっている理由。それは、この星でなら、この街でなら、自分を変えられるかもしれないと、そう思ったからではないだろうか、と。

 そうなると、気になるのはナイブズが自分を変えたいと思った理由、動機、経緯だが、こればかりは本人に聞かなければ分からない。

 ただ、双子の弟が物語になるような人生を送っているのだから、ナイブズもきっと、同じぐらい波乱万丈に満ちた人生を送って来たのだろう。

「もしかして、ナイブズさんにそんなことないよって伝えたのが、あの『白紙の切符』なの?」

 話している内に、アトラはつい先日、自分に贈られた灯里の言葉を思い出し、もしやと思って尋ねた。しかし、灯里は首を横に振って、意外過ぎる答えを口にした。

「ううん。それは、元々はナイブズさんの言葉。けど、他の部分は、ぴかりちゃんとてこちゃん――私の友達と一緒に、ナイブズさんに伝えたことなの」

 これを聞いて、あゆみも、アトラも、杏も、感心して声だけを漏らす。最も印象的だった『白紙の切符』の一節が、まさかナイブズの言葉だったとは思いもよらなかったのだ。

 それが、双子の弟から、そして育ての親からナイブズへと託された言葉でもあることは、少女たちは知る由も無い。

「なによなによ?」

「何の話ですか?」

 話について行けず、藍華とアリスは詳細の説明をせがんだ。

 あゆみはいたずらっぽく笑うと、アトラを指して口を開いた。

「ウチは愚痴を言わないけど、アトラは愚痴を言っちゃったって話」

「あゆみったら、もう」

 事実だけに否定はできず、それでもあの日の自分を思い出して、恥じ入る気持ちが湧いて出て、アトラは赤面して俯いてしまった。

 当人が話せなくなったので、代わりに杏とあゆみ、そして灯里も教えてくれた。

 4人のチームでトラゲットを共にした日、その日の営業が終わると、アトラは一人前(プリマ)になることを諦めて、半人前(シングル)のままトラゲットを生業にしようと口にした。半年ほど前に一人前への昇格試験に落ちたことへのショックが未だに拭えず、無理に笑顔を貼り付けて過ごしていたが、その裏ですっかり気落ちしてしまい、自信を喪失してしまっていたのだ。

 気に入っているとか、トラゲットが好きだからとか、アトラは転向の理由や動機を上辺は上手に取り繕おうとしていたが、それは要するにただの脱落宣言だと、あゆみが鋭く指摘した。

 たった一度の失敗で臆病風に吹かれて、杏のように諦めずに挑戦し続けることはおろか、もう一度再挑戦することさえしない。

「そんなことで、今までの自分と、これからの自分に、今のアトラは誇れるの?」と、自分に勇気を与えてくれた言葉を、今度はあゆみがアトラへと贈った。

 それを聞いて、同じ苦しみを何度も味わっている杏が、そして、何も無い星(ノーワンズランド)水の惑星(アクア)へと変えてくれた先人たちの祈りを知る灯里が、それぞれ、励ましの言葉を贈った。

 その時に、灯里が贈った言葉とは――

「……私たちの心には、行き先の書かれていない、未来への白紙の切符がある」

「真っ白で、何も無いみたいで、触れることもできなくて……でも、心に溶け込んでいて、いつでも、どこでも、傍にある」

「それさえあれば、どんな未来にも自由に行ける。きっと、なりたい自分にだってなれる」

「そんな祈りが、この星には、目一杯に籠められてるから」

 ――アトラが、杏が、あゆみが、灯里が、それぞれに区切って、あの時の言葉をもう一度紡ぎ出す。

 今より先へ、一歩でも前へと踏み出す勇気を与えてくれる、祈りの言葉を。

「は……恥ずかしい台詞っ、禁止ィィィー!!」

「でっかい恥ずかしいですっ!!」

 思わぬ4人の連係プレーに、藍華とアリスは恥ずかしさのあまり一緒に叫ぶ。この大声に驚いたまぁ社長が跳ね起きて、ビックリしすぎて反射的にアリア社長のもちもちぽんぽんに噛みついた。

 アリア社長とヒメ社長の悲鳴が届いて、アリア社長を助けに灯里とアリスがあわあわと向かった。

 残ったあゆみは、にかっ、と藍華へと笑い掛けた。

「いいじゃんか、お嬢。ウチは好きだよ、このセリフ」

「あたしも。スポンジが水を吸い込むように、すぅっとしみ込んで、ずっと胸の中に息づいているみたいで」

「この後の灯里ちゃんのセリフも、言ってあげましょうか?」

「いい! 恥ずか死ぬ!」

 杏とアトラも一緒になって、藍華へと追い打ちをかける。

 

 いつもと変わらぬ水の惑星の少女たちの日常が、今もこうして続いている。

 砂の惑星からの来訪者の存在は、もう異物でも珍客でもなく、すっかり彼女たちの日常の一部となっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ナイブズは先日の一件――過去の火星へと導かれた一件が片付いてすぐ、店主を使って神社からそのまま龍宮城へと訪れていた。

 あの時、ナイブズの目の前で起きたことについて、当事者から――あの時代の生き証人である火星の慈母(グランドマザー)と、そして店主からも、深く詳しく話を聞くために。

 もう何日も、龍宮城の聖域で話は続いている。

 あの時にアマテラスを復活させた奇跡と火星の慈母との関係。

 その後の火星開拓の真実におけるアマテラスや火星の慈母の、当時の人間たちや人外の者達との関わり方。

 それら、過去の話は既に終わり。昨日からは、今の話が続いていた。

 今、彼らが話しているのは――ナイブズがこの星で出会った人々について。

 アテナ・グローリィ、あゆみ・K・ジャスミン、天地秋乃、水無灯里、藍華・S・グランチェスタ、アリス・キャロル、晃・E・フェラーリ、出雲暁、夢野杏、アトラ・モンテヴェルディ、アリシア・フローレンス、綾小路宇土51世、アルバート・ピット、アイ、天道の一家、アパ老人、小日向きの、小日向光、大木双葉……そして、レガート・ブルーサマーズ。

 火星に来てからの2年に満たない間で、出会った人々。顔を合わせ、言葉を交わし、僅からながらも同じ時を過ごした者たち。火星で出会った彼らこそが、ナイブズを変えていた。

 いつしか、人間を値踏みすることも忘れて、向き合うどころか、隣で息をして存在していることが当たり前なのだと、感じさせてくれていたほどに。

「そう、この星に来て、色んな人たちに会ったのね。ナイブズ」

「ああ。どいつもこいつも、得体の知れない風来坊に好んで関わる……不思議なぐらい、お人好しなやつらだ」

 あの日、ナイブズは声を上げて笑った。人間に共感していたと自覚して。人間に変わってもいいのだと励まされて。

 そうさせた感情は、分からないものではない、理解できないものではない、身に覚えの無いものではない。

 まだ幼い頃、育ての親であるレム以外の人間――コンラッドに出会って、共に歩んで行こうと、受け入れられた時に懐いた、ナイブズに涙を流させた、あの想い。

 果てしない怒り。尽き果てぬ哀しみ。歪み狂った楽しみ。

 テスラを知り、狂ってしまったあの日から、自分でも気づかぬ内に欠けてしまっていた、大切な感情。

 ナイブズの虚無を満たした、温かな熱。

「お蔭で、思い出せたよ。喜びが、どういうものだったか」

 人間と分かり合えた喜び。ミリオンズ・ナイブズの感情から欠落してしまった、大切なこころ。

 今更気付いた、自分の変化。誰が許さなくとも、誰の許しが無くとも、自らが気付く必要さえなく、ミリオンズ・ナイブズは変わっていた。

 この、水の惑星で。

「喜怒哀楽は、感情の基盤。欠けていた喜びを取り戻した君は、この星で何を想う?」

「……さあな。気が向いたら答えてやる」

 答えは、既に得ている。

 ただ、許されるのならば、今少し、この時、この場所に――

 この、奇跡の星に、今暫く――

 



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#25.ヴォガ・ロンガ

 秋も深まり、空気は徐々に肌寒さを増していき、いよいよ秋の終わりを感じさせるほどになっていた。

 この頃になると、ネオ・ヴェネツィアの街、特に水路が俄かに活気付く。間近に迫った秋の祭典『ヴォガ・ロンガ』へと向けた特訓の為に、アマチュアや愛好家も、時間を縫い、暇を見つけては、舟に乗って水路へと繰り出す。

 観光客向けの宣伝ポスターや無料配布のチラシでそれらの情報は得ていたが、実際にそれがどれほどのものなのか、よく分からなかった。静かで穏やかなこの街で、何事かを大仰に喧伝するのは極めて珍しいから、それだけのことなのだろうとは思っていた。

「さあ、今年もやってまいりました『ヴォガ・ロンガ』! ネオ・ヴェネツィアの晩秋を飾る一大イベント、間も無くスタートです!」

 空中の飛行船から、行事用の街頭のスピーカーから、テレビから、至る所から発せられるアナウンスが、ネオ・ヴェネツィアの全域に響き渡り、ナイブズの耳にも届く。

「これだけの舟が集まるのか……」

 ぐるりと周囲を見回す。360度全方位、見渡す限りの舟の群れ。海面を覆い尽くそうかというほどの舟の密度。

 この街に逗留して既に1年半以上。舟などはすっかり見慣れたものだと思っていたが、一帯の海面を埋め尽くそうかというほどの集合は、圧巻であり、壮観でもあった。

「毎年、ゆうに千を超える舟が一堂に会するこの様子は、何度見ても壮観だ。荘厳な観艦式にも見劣りしない、活気と活力に満ち溢れている」

「観客も多いようだな」

「ヴォガ・ロンガは秋の締め括りを象徴する、この街の一大行事だからね。観光客も自然と集まる」

 立って半ば見惚れているナイブズに対して、店主は座って、舟の群れを眺めながらゆったりとしている。こうして舟を用意していたことと、ここまで来るまでの手際の良さからして、この状況にも慣れている、つまり過去に参加経験があるのだろう。

 そう、ナイブズは今、ヴォガ・ロンガのスタート地点にいる。舟に乗って、ヴォガ・ロンガの会場たる海上にいる。店主の提案に乗って、祭りの場へと集う一人として、この場に列しているのだ。

「元々の地球でのヴォガ・ロンガは5月、春の終わりごろの行事だったのだけれど、面白いことに、火星では晩秋の風物詩として定着している。地球ではカヌーのような大人数が座って一緒に漕ぐ船も多かったけど、今や火星では立ち漕ぎの舟だけで、複数乗っていても、それは漕ぎ手の交代要員で一緒に漕ぐことはしない。まぁ、地球での時に大型の手漕ぎ船が水路を塞いだり沈没したりと事故を幾度も起こしていたというのもあるが……最たる因は明快明瞭明白明解、水先案内人(ウンディーネ)の人気があればこそ。みんなが、かの水の妖精たちに肖っている。その水先案内人(ウンディーネ)たちの間でも、過去に一度だけあったある逸話が形を変えて噂話として広まっていて――……」

 聞いてもいないのに、勝手に長々と解説を始めるのにも、もう慣れた。最初は鬱陶しかったが、今では情報を得るための手段の一つとして割り切れるようになっていた。

「まるで、地球でのことも見て来たかのような口ぶりだな」

「うん、実際に何度も観に行ったし、参加したこともあるからね」

 店主はさらりと言っているが、チラシの年表に誤謬が無ければ、地球でのヴォガ・ロンガの最後の開催は400年以上昔のこと。店主の言が真実であれば、少なく見積もってもナイブズの3倍以上の歳月を生きていることになる。

 人間ではないことは間違いないだろうが、店主の気配や存在感は人間と殆ど変わらない。猫妖精や大神のような人外というよりも、人間が何かしらの方法で長命化し、元々の人間とは少し違った存在になった……というところか。それが具体的に何を指すかは分からないが。

「舟の漕ぎ方の知識は有しているね?」

「実践は初めてだが、然して問題あるまい」

「そういえば、夏祭りには行ったかい?」

「夏は花火を見たぐらいだが」

「こういったレースのような催しへの、忌憚無き意見を」

「定められた順路を行くだけのことで優劣や順列を競うことは、漕ぐのも見るのも退屈としか思えんな」

 等々、考え事をしている間に、基本的過ぎて意図が全く読めない質問を繰り返され、すべてに即答する。

 全ての返答を聞いた店主は、一つ頷いて、何やら笑みを浮かべた。

「では君に、父が私に言ったのと同じ言葉を贈ろう。真理を得たくば、まず何事も己の体で経験せよ」

 確かに、ヴォガ・ロンガのことを知って「意義や意味が全く分からない」と零しはしたが、それを知る為に実際に参加する必要性はあるのだろうか。開催までの経緯や、これまでのレースの歴史などを調べれば、それで良いような気もする――というのが、昔日の店主と、今のナイブズに共通すること。そして、実際の体験を経て真理を得たのが、今目の前にいる男、というわけか。

 こんな些末な事柄に真理など存在するのかは疑問だが。

「まぁ、いいだろう。貴様の企みに乗ってやる。祭りに参加することにも、興味はあったしな」

 オールを肩に担ぎ、数度手で回し、感触や重量を確かめる。

 旧世紀の物から材質に画期的な技術革新があり、少女であろうとも振り回せる程度に軽量化されているのだ。ナイブズにとっては木の枝とも大差無い。

 舟の前進、後退、方向転換の理論も数式まで頭に入っている。頭で意図した動きと、実際の身体運動との誤差も極めて微細。素人のぶっつけ本番だが、ただ順路を進みゴールにまで辿り着くことに、さしたる問題はあるまい。

 寧ろ興味は、祭りの当事者、参加者の雰囲気とはどういうものかということにある。カーニヴァルの時は、ただの傍観者でしかなかっただけに。

「それは良かった。では、私はここらで失礼するよ。ゴールまで、頑張って」

 まるでゴールまで辿り着くことが難業であるかのような言葉が耳に届き、視線を向けるまでの数瞬の間に、店主の姿は舟の上から消えていた。周囲の人間の誰も反応を示していないのは、如何なる魔術(マジック)によるものか。

「さあ、いよいよ、レーススタートです!」

 各所のスピーカーから、ヴォガ・ロンガのスタートを予告する声が響く。それを合図に、参加者たちは思い思いの表情で、所作で、掛け声で、それぞれにオールを構える。ナイブズもそれに倣う。

 10からのカウントダウンが始まり、0を告げる代わりに火薬の炸裂音が鳴る。聞き慣れない鳴り方は、ただ音を鳴らすだけの炸裂だからか。

 一斉に漕ぎ出される舟の流れに押されるように、ナイブズもまた舟を走らせる。

 

 

 

 

 舟を漕ぎ出して、早一時間。先頭グループは全行程の四分の一をクリアしている頃。

「……っ。これは……」

 ナイブズは下位グループで、自らの見通しの甘さを思い知らされていた。今もまた、ごく一般的な男性、そして小柄な女性に追い抜かれた。

「ロスが大き過ぎる。上手く力が伝わっていないのか……?」

 単純な筋力ならば、間違いなくナイブズが全参加者で最も優れているが、必要とされる力の上限はごく小規模なもの――ナイブズにとっては極めて微小なほど――なので活かしようが無い。加えて、力任せにオールを漕いでも消費したエネルギーと発生するエネルギーの齟齬が大きくなり、体力の消耗度が増すばかりで、さしたるスピードが出ない。

 単純に腕力=推進力とはならないことは先刻承知ではあったが、これ程とは。

 そして、オールという使い慣れない道具を介することと、水の抵抗力。これらを考慮から外してしまっていたのも大きい。正確には、さしたる問題ではないと思い込んでしまっていた。

 まずオールの動かし方がどうやら間違っているらしいが、他の参加者と見比べた限りではそれほど間違っていないように見える。やはり、オールにかかる水の抵抗を考慮できていない、慣れていないことが大きいらしい。

 緩やかなカーブや僅かな横移動にさえも手間取り、想定以上の時間が掛かる。

「まったく……あいつのことを、下手糞とは……もう言えんな」

 思い出すのは70年ほど前。ヴァッシュと遂に袂を別ち、離れて生きて行くことになったあの時。

 ヴァッシュを卑劣な手段で騙し、身ぐるみを剥いでのち炎天下に放置して殺そうとした村の連中を、“力”によって攻撃的に変形させた肉体の練習がてらに皆殺しにしたことがあった。

 あの時、それを目の当たりにしたヴァッシュは激怒し、混乱し、拾った拳銃をナイブズに突き付け、撃った。命中したのは左肩。明らかに狙いを外したこれに、ナイブズは「もっとよく狙えよ、下手糞が」と言い放ち、返す刀で銃を持っていたヴァッシュの左腕を狙い、狙い通りに肘から切り落とした。

 後の決戦の時にも「あの下手糞が、よくもここまで」などと上から目線でいたが、初めて触ったものを初めて使うのなら、それは誰であろうと――人だろうとプラントだろうと、ヴァッシュだろうとナイブズだろうと、下手糞なのは当たり前だ。

 当時の自分に今の自分のこのザマを見られたら、同じように失笑されるか? それとも、何を阿呆なことをしているのかと呆れられるか?

 そんなことを考えつつ、えっちらおっちらと舟を漕ぐ。基本は単純作業の連続だから、不意に思考があらぬ方向に飛んでいく。

 改めて、これを優雅に華麗にこなしていたアテナと晃、彼女らを筆頭とした水先案内人(ウンディーネ)たちの技量に感嘆する。同時、旧世紀の地球では男の仕事だったというのにも納得する。ほんの数kmでナイブズの呼吸が僅かにでも乱れるほどだ、旧世紀の重いオールではかなりの重労働だっただろう。

 更に時が経ち、幾つ目かの曲がり角を抜けて大きな水路へと出る。まだ全行程の三分の一にも満たない、先が思いやられる。

「おっ、ナイブズさん!」

「あー、ナイブズさんだ~」

「ぷいにゅ~」

 ふと、斜め前方から声が掛けられた。よく見ると、そこにいたのはあゆみと灯里だった。あの2人も参加していたのか。いや、それにしては、なぜこんな下位に? あの2人の力量ならばナイブズが追い付けることなど無いはず。

 ナイブズが怪訝に思っている内に、灯里とあゆみは減速して、ナイブズが追い付くのを待ち受ける。ナイブズが並走する2艘の舟のすぐ後ろにまで来ると、今度は僅かに速度を上げてナイブズの舟の速さに合わせた。

 半人前でもこれほどかと内心で舌を巻きつつ、口からは言葉を放つ。

「あゆみに、灯里。こんな所で何をしている?」

「いやー、困ってる人を助けてたらすっかり遅れちゃって」

「それで、折角だから一緒に、のんびりゆっくり、漕いでいきましょうってなったんです」

 詳しく聞けば、オール操作を誤って逆走して混乱している参加者がいて、それを2人一緒に助けて落ち着かせ、ちゃんと漕げるようになるまで付き添っていたのだという。その後も、落ちた荷物を拾ったり、知り合いに挨拶をしたりと、そんなこんなですっかり遅れたらしい。

「ぷいにゅっ」

「そうそう。アリア社長がナイブズさんを見つけて、知らせてくれたんですよ」

 アリアが胸を張って自慢げだったが、一瞥しただけで済ませ、頷きもしない。そんなことよりも、気になることがある。

「レースは優劣を競い、より高い順位を目指すものだろう。それでいいのか?」

 それこそがレースの基本構造であり、参加意義の前提である筈。しかしこの2人からは、そういう意気が全く感じられない。いや、当人たちが既にその気が無い旨は言っていたか。

「えへへ。なんだか、とっても楽しくて……早くゴールするのが勿体ないんです」

「ウチも。アトラと杏、藍華お嬢とアリスちゃんは、一番目指して競争してますけどね」

 朗らかに笑いながら、2人は本当に楽しげに言う。水先案内人なら舟などいつも漕いでいるのに、何が楽しいのだろうか。

「ヴォガ・ロンガの楽しみ方は、人それぞれです。ナイブズさんは楽しめてますか?」

「楽しむ……?」

 灯里に問われて、ナイブズは考える――までも無く、あっさりと答えた。

「店主……この舟の持ち主に嵌められて、ぶっつけ本番で放り出されたからな。漕ぐだけで精一杯だ。楽しむような余裕はない」

「初挑戦のヴォガ・ロンガにぶっつけ本番で!? 酷いことするなー、その人」

 あゆみのこの反応から察するに、やはり相当無茶なことを振られたらしい。半分以上はナイブズの認識不足による自業自得なのだから仕方がないのだが、それでもあの店主を多少は恨む。何よりも、今完全にあの男の術中にあるのだと気付いて、無性に腹立たしい。

「初めてで、ちゃんとここまで漕げてるんですから、凄いですよっ」

「知識と実践の齟齬に、驚くばかりだ」

「いやいや、本当ですって。初心者がぶっつけ本番でここまで出来てるんですら、すごいことですよ」

 灯里とあゆみが励まして……いや、違う。迂遠な店主などと違って、この少女たちは心を言葉に乗せて、真っ直ぐにぶつけて来る。考えすぎる自分には、これぐらい素直で単純な相手の方が、きっと相性がいい。

 お前みたいにな、ヴァッシュ。

「それじゃあ、ナイブズさん。私達と一緒にゴールを目指して頑張りましょうっ」

「何故そうなる」

 突然の灯里からの提案に、即座にツッコミを返す。だがこれもまた、即座に返されることになる。

「っかー! ノリ悪いなぁ。だって、そっちの方が楽しくなりそうじゃないですかっ」

「………………否定はできんな」

 快活な笑顔であゆみに言われ、その通りだと頷く。

 現在位置は、先頭争いはおろか、単純な順位を競うことすら億劫になるほどの下位グループ。それならば、後はただゴールを目指して舟を漕ぐだけ。この状況でナイブズが一人で漕いで行ったのでは、本当にただ“ゴール地点へ行く”だけ。今と変わらず、味気ないことこの上ない。確証はないが、確信がある。

 ではそこへ、この2人(と1匹のオマケ)が加わったらどうなるか。

「それじゃあ、決まりですねっ」

「ゴールまでの水先案内、ウチらがさせてもらいますっ」

「ぷいぷいにゅ~!」

「ああ、頼む」

 この2人と一緒なら、自分だけの時とは違ったものが見えるだろう。アテナにカーニヴァルを案内された、この2人と初めて出会い言葉を交わし行動を共にした、あの時のように。

 事実、灯里とあゆみに先導されてから、ナイブズの道行きは大きく変わった。

 コース上しか見ていなかった視界が開けて、水路沿いや橋の上で観覧する人々の存在に気付き、目が行くようになった。これにも気付けないほど自分は余裕が無かったのかと、自分で驚くほどの人の数、遠くからも響く人々の声。

 水路を行く誰しもへと向けられる、沿道に立つ、水路沿いの家に住む、橋や屋上から見下ろす人々からの歓声、声援。舟には乗らずとも、彼らもまたこの祭り(ヴォガ・ロンガ)の参加者。

 熱気。熱を持った気の奔流。それを感じて、僅かに気圧される。カーニヴァルではカサノヴァのオマケであり、ついでであったから、直接にこれらを向けられ、また受け止めることも無かった。

 今、受け止めて分かる。ヴォガ・ロンガという催し、ネオ・ヴェネツィアという場、今この時に集った人々の感情。それらが一体となって作られた、目に見えぬ流れのようなものに呑まれ、抗うことなく身を委ねているような感覚。

 今を楽しみ、共に楽しむ。

 自分自身や身近な知己だけに留まらず、ただ居合わせただけの誰かとも共有し、増幅し、分かち合う。同じものを楽しむという前提が、それを可能とする。

 これが祭り。これが、ヴォガ・ロンガ。ただ気紛れで居合わせただけでも、幼き日のような昂揚を感じる。

「ずっと、漕いでいたいですね……」

「ぷい~……」

「そうだね……」

 これが本来あるべき、楽しむという感情。ナイブズが破壊や殺戮に見出していたものとは、全く異なるもの。

「じきに終わる。……だからこそ、楽しまねばな」

「はひっ」

「はいっ」

「ぷいっ」

 今は、楽しもう。楽しんで良い、楽しむべき時なのだから、楽しもう。

 いや、こう思えているのなら、既に楽しいのか。

 2人の水先案内人(ウンディーネ)に先導され、時にアドバイスを受けつつ、ナイブズは彼女たちと共に水路を往く。

 

 

 

 

 さらに時間が経ち、先頭集団がゴールに迫っているというスピーカーから流れる実況解説を聞きつつ、漕ぎながら食事を済ませる。店主が置いて行った何かの樹皮に包まれていたのは、おにぎりと漬け物。よく見れば中が空洞になっている植物――竹だったか――をそのまま用いた水筒もある。

 他方、アリアのつまみ食いによって食料を失った灯里は涙目になって途方に暮れ、あゆみは財布も弁当も忘れたと絶叫している。

 早くて4時間、のんびり漕げば丸一日かかるというヴォガ・ロンガで、無補給は辛いのだろう。再び手元を見ると、そこには4つのおにぎりが。

「食うか?」

 1つは自分で食べつつ、灯里とあゆみに差し出す。アリアにはやらない。

 2人は大袈裟なぐらい喜びながら、ナイブズにお礼を言っておにぎりを頬張る。自分以外のみんなが食べているからか、おにぎりを欲しがるアリアを睨みながら2つ目を平らげたところで、声が掛けられた。

「あっ、ナイブズさ~ん。灯里ちゃんと、それから……?」

 前方の橋の上から、姿も既に見えていた。褐色の肌に銀の短髪の水先案内人(ウンディーネ)、なによりこの声を聞き間違えることは無い。

「姫屋のあゆみ・K・ジャスミンです、天上の謳声(セイレーン)!」

「ああ、あなたがアリスちゃんの言ってた……」

 橋からナイブズ達に声を掛けて来たのは、ナイブズの見た通り、アテナだった。こういう時は晃やアリシアと一緒にいるものかと思ったが、1人だけのようだ。また迷ってはぐれたのだろうか。

 アテナが灯里とも話をしている内に、舟はどんどん進んでいき、橋の下へと差しかかかる。それに合わせて、アテナは少しずつ橋から身を乗り出してくる。

「おい、落ちるぞ」

 ナイブズがそれを言った直後、アテナはうっかり足を滑らせてバランスを崩し、人体で最も重い頭部が重力のベクトルに逆らえずに下を向き、そのまま橋から落ちた。それを見るや、ナイブズは咄嗟に舟から跳躍し、右手で橋を掴んでぶら下がり、左手でアテナを脇に抱えるように掴んだ。

 周囲は一時、アテナの落下に息を呑み、先程までの賑わいが嘘のように静まり返った。

 やがて、ナイブズが舟へと戻り、アテナを下ろして橋を潜って現れると、堰を切ったように大歓声が沸いた。

 この街の至宝とも呼ぶべき水の三大妖精の一角、何よりかの天上の謳声の無事とあれば、ここまで沸き立つのも当然か……と、理解は追い付いたのだが、その歓声がすべて自分へと向けられているということへの実感が、全く追い付いていなかった。

「ありがとうございます」

 アテナが深々と頭を下げて礼を言う。すると、それに合わせてか、歓声の中に称賛や感謝の声も混ざり出した。

「いいぞー、兄ちゃん!」

「おっちゃん、ありがとうなー!」

 思わぬ反応に呆気に取られていると、あゆみと灯里、それからアリアもナイブズへ惜しみない賞賛と拍手を送って来た。

 自らの行動に、他者が純粋な善意から褒め称える声と拍手を送って来る。今までの150年の人生で一度として経験したことの無い事態に、呆然としてしまう。「落とし物ですよ」とあゆみから取り落としていたオールを渡されて、漸く我に返る。

「どうする、戻るか?」

「えっと……折角ですし、ご迷惑じゃなければ、このまま一緒にいてもいいですか……?」

「そうか。危ういようなら言え、あゆみか灯里に任せる」

「はい。よろしくお願いしますね、ナイブズさん」

 未だ茫然としていたのか、流されるままとんでもないことを了承してしまった。何故ずぶの素人が、一人前の水先案内人(プリマ・ウンディーネ)を、水の三大妖精の一角を舟に乗せることになったのか。

 今更取り消すこともできない雰囲気で、やむを得ず、また舟を漕ぎ出す。

「いや~、それにしても本当に変わりましたよね、ナイブズさん」

「うん。多分、会ったばかりの頃だったら助けてくれなかったと思う」

「そんなこと無いと思いますけど……アリア社長はどう思います?」

「ぷい、ぷぷいぷいぷい……ぷぷいにゅー……」

「……俺の目の前で、俺の話で盛り上がるな」

 女三人寄れば姦しいとは言ったもので、先程までの道中とは比べ物にならないほどに賑やかになり、言葉が飛び交う。しかもその内容がナイブズに纏わるものなのだから、堪ったものではない。最初はアリスについての話題だったはずなのだが、どうしてこうなるのやら。

「あわわ、ごめんなさいっ」

「っかー、すいません。つい夢中になっちゃって」

 ナイブズに言われて、灯里とあゆみは素直に謝罪してきたが、何故かアテナだけは微笑みを浮かべていた。

「なんだ」

「いえ。なんでもありません」

 何でもないことはないだろうとは思いつつ、下手なりに、不器用なりに、ぎこちなく舟を漕ぎ、水路を進んでいく。

 その後も灯里の寄り道、アリアの落水、あゆみの世間話、アテナの鼻唄、ナイブズの操舵ミスなど、様々あり。

 観覧する人々の視線、歓声、声援、応援、歓喜、興奮、全てが混ざり合った熱気。それらを頭の天辺から足の爪先まで浴び、全身の肌で感じる。

 舟はゆっくりと進んでいる。不慣れなナイブズでも苦にならないぐらいの、歩くような速さで。

 

 

 

 

 夕暮れが海を茜に染める頃、3人の舟は無事にゴールへと辿り着いた。

「やっと、ゴールか……」

「っかー! ナイブズさん、灯里ちゃん、アテナさん、お疲れ様でしたっ!」

「大変だったけど、楽しかったです。ね、アリア社長」

「ぷーいにゅ~!」

 肉体的な疲労は然程ではないが、精神的な疲労感からナイブズが溜め息混じりなのに対し、あゆみと灯里は元気溌剌、満面の笑みを浮かべている。疲労の色は見て取れるが、それを上回るものがあるからこそ、この笑顔なのだろう。正直、自分にはできそうにない。

「ナイブズさん、今日はありがとうございました」

 ふと、舟の座席部分から声が掛かる。アテナは柔らかな笑みを浮かべて、ナイブズを見ていた。乗り心地の悪い舟に何時間も乗っていて不快だったろうに、何故、こんな笑みができるのか。……考えるまでも無いか

「楽しかったか? アテナ」

「はい。ナイブズさんも、楽しかったですか?」

「ああ。こんな風に楽しかったのは……初めて、だな」

 このすぐ後、藍華とアリス、杏とアトラ、晃とアリシアたちがやって来て、ヴォガ・ロンガの内容――特にアテナの川への転落未遂事件で大いに盛り上がった。

 ナイブズはすぐにアテナを晃とアリシアに預けて、さっさとその場を立ち去った。さっきまでずっと姦しかったのが、一気に3倍にもなるのなら気疲れだけで退散したくもなるものだ。

 舟を置いて足早に立ち去って、路地には入らず、水路を遡りながら今日の出来事を思い返す。

 自分独りだけでは、到底楽しめなかった。楽しもうという発想すらなかった。ヴォガ・ロンガを楽しめたのは、今日が楽しかったのは、お前たちのお蔭だ、3人の水先案内人(ウンディーネ)たち。

 一緒に舟に乗らずとも、お前たちは立派な水先案内人だ。

「やぁ、ナイブズ。楽しかったかい?」

 脇の路地から声を掛けられる。そちらへ顔を向けると、影の中から店主の姿が現れた。

 相変わらず、全てを見透かしたような物言い。それが不可解で、この男に対する不快感にも繋がっていた。

 だが、今日のことで一つ、分かったことがある。

「少なくとも、昔のお前よりは楽しめただろうな」

 恐らく昔の店主は、火星に来たばかりの頃のナイブズに似ていたのだろう。力や性質ではなく、感情面が。だから、分かったような口を利いて、本当に理解した上で助言を与えて来る。全てを見透かしたような物言いも、過去の自己体験に基づいた、似た者同士への助言(お節介)だったのだ。

 その仮定を肯定するように、店主はナイブズの返答を聞いて嬉しげに笑った。

「そうか、それは良かった。……ところで、(ゴンドラ)は?」

 言われて、舟を乗り捨てて来たことに気付いた。たった今、この瞬間に。

 一度、来た道を振り返り、また店主へと向き直る。

「…………お前が取って来い」

「酷いな君」



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登場人物紹介

超今更ですが、登場人物も多くなり、クロス作品も途中で増えていることもあり、簡単にですが紹介をしておこうと思います。
何か問題点、改善点などありましたら、教えて頂ければ助かります。


トライガン

 

ミリオンズ・ナイブズ

トライガンのラスボスであり、すべての元凶とも言える人物。幼少期のある体験から、人類を憎悪し、絶滅せんと目論んだが、主人公であり双子の弟のヴァッシュにより、その野望は阻まれた。

夢現ではラスボスから一転して主人公。原作終了後なので、原作で見せて来た人類への果てしない憎悪と嫌悪は抜け落ちている。それもひとえにヴァッシュの頑張りがあればこそ。

悪役人生が長すぎたせいか、声を出して笑う時は三段笑いの高笑いになりがち。とはいえ、レガートを拾った時のような微笑みを忘れているわけでもない。が、多分本人はあの時に微笑んでいた自覚が無いと思う。

 

 

レガート・ブルーサマーズ

ナイブズの忠臣にして狂信者であり、ヴァッシュとは宿命のライバルとも言える関係。容姿端麗な、見た者が見惚れて息を呑むほどの美青年なのだが、顔芸が凄い。

ナイブズに認められたい一心で頑張り続けた、健気とも言える一面を持つ。だが、その頑張りの中身は人類の殺戮、ヴァッシュに最高の苦しみを与えることである。

夢現では、トライガンは原作終了後なので故人。ナイブズの回想でヴァッシュに次いでよく出て来る。

 

 

ヴァッシュ・ザ・スタンピード

トライガンの主人公にしてナイブズの双子の弟。史上最高額600億$$の賞金首、局地災害指定『人間台風』。時には死神とも呼ばれるその正体は、ラブ&ピースを唱える稀代のトラブルメーカーにして、誰よりも心優しきガンマン。砂の惑星で共に生きる人々を家族のように想い、愛し、守り、寄り添い生き続けている。

夢現では本人の登場は無いが、ナイブズの回想や世間話などで度々名前が出る。ある事情から水先案内人の間でちょっとした有名人となり、下手な登場人物よりよっぽど存在感があるような気がしなくも無い。

 

 

黒猫様(くろねこ さま)

トライガンに限らず内藤泰弘先生の作品の、主に後書きのおまけ漫画で登場するマスコット的存在。後書きではツッコミ役として人語を介するが、作中への登場の際は普通の猫として描かれている。

夢現ではナイブズがいつの間にか乗っていた汽車に同乗、共に水の惑星へと降り立つ。アリア社長と遊び友達のようで、ちょくちょく一緒に遊んでいる。

名前など色々と正体不明。もしかしたらどこかの並行世界の元ニューヨークから来たのかもしれないし、ノーマンズランドの猫妖精なのかもしれないし、やっぱりただの猫なのかもしれない。

 

 

テスラ

トライガン原作時点で故人。ナイブズとヴァッシュより先に生まれていた自律種の少女。

ナイブズとヴァッシュが狂った原因となる、悲痛な最期を遂げている。

夢現でもごくたまに、ナイブズの回想でその名前が登場する。

 

 

 

 

ARIA

 

水無灯里(みずなし あかり)

ARIAカンパニー所属の半人前の水先案内人。AQUA、そしてARIAの主人公。センス・オブ・ワンダーに恵まれた地球出身の少女。

自分の感情を素直に言葉で表現できる純粋無垢な心の持ち主であり、人生を楽しむ達人。そんな彼女の姿に引っ張られて、関わる人々もまた、気付かなかった日常の楽しみを見出し、忘れていた純粋さを思い出していく。それは色々複雑に捻くれているナイブズも例外ではない。

 

 

藍華・S・グランチェスタ(あいか―)

アリシアを慕う姫屋のご令嬢。当初はアリシアの直弟子となった灯里に嫉妬していたが、今では無二の親友。長い黒髪はアリシアに憧れているが故のもの……だが、普段は髪を細く結わっているので意外と気付きにくい。

しっかり者のツッコミ役ではあるが、同時に恥ずかしがり屋の照れ屋さんで、照れ隠しにきつめの口調になることもあるが、バレバレなので誰かに悪印象を持たれることはまずない。

自分のことよりも、誰かのために心を痛め、涙を流す心優しい少女。

 

 

アリス・キャロル

人付き合いが苦手で、気負いやすく緊張しやすい、オレンジぷらねっと所属の若き天才水先案内人。声が小さく思い込みの強い傾向が玉に瑕。

抜きんでた才覚を持ち、少女らしからぬ言動も目立つが、歳相応に好奇心旺盛で背伸びをしたがるお年頃。灯里とは異なるベクトルで特殊で独特な感性を持っている天然少女。

現在、彼女の中でヴァッシュの外見イメージはムッくんになっている。

 

 

アテナ・グローリィ

水の三大妖精の一人、天上の謳声。その名の通り、比類なき謳声の持ち主。うっかり屋というか、日常的に大ボケの日々。その一方で細かい心配りをさりげなくこなす、気遣いと気配りの達人でもある。

ナイブズが最初に出会い、言葉を交わした火星の住人であり、レムの歌をもう一度聞かせてくれた歌い手であり、ナイブズにとって特別な人間の一人となっている。

その謳声は摩訶不思議な存在達すらも魅了してやまず、天使の歌声とも称される。

 

 

晃・E・フェラーリ(あきら―)

水の三大妖精の一人、真紅の薔薇。その名に恥じず、誇り高く情熱的な水先案内人。

一見すると平素は勢いで押しまくり我が道を突き進むように見えるが、その実は深慮の中に相手への思いやりが隠されている。照れ屋さん。

同期の親友2人が比類なき天才であるのに対し、彼女は凡才であった。だが、それに腐らず屈せず、弛まぬ努力で老舗大手の頂点にまで上り詰めた努力家。

ナイブズと(一方的に)和解して以降、気さくに友人感覚で接している。

 

 

アリシア・フローレンス

水の三大妖精の一人、白き妖精。ミス・パーフェクトとも言われる才媛であり、当代随一のトップ・プリマ。常に微笑みを絶やさず、灯里を始め後輩たちを優しく温かく見守っている。

ナイブズとの交流は現状殆ど無いが、まず間違いなくナイブズと反りが合わない。

 

 

あゆみ・K・ジャスミン

姫屋所属の半人前の水先案内人。トラゲット三人娘の一人。原作で唯一登場した『プリマを目指していない水先案内人』。

ナイブズを最初に舟に乗せた少女であり、ナイブズから最初にヴァッシュの話を聞かされた人物であり、ナイブズが最初に境で不可思議な事象の仕事を請け負うきっかけを作った1人でもあり、何かとナイブズとは縁がある。

 

 

夢野杏(ゆめの あんず)、アトラ・モンテヴェルディ

共にオレンジぷらねっとの半人前の水先案内人。トラゲットで日銭を稼ぎつつ、プリマを目指して修行の日々。杏はムッくんグッズ、アトラは眼鏡の収集という趣味を持つ。

あゆみを通じて割と早期からナイブズの人柄について知っている。また、アテナが歌えなくなった際にはナイブズの捜索もしていた(実際に杏が見つけていた)。

ナイブズについては、あゆみから話を聞いて、漠然といい人だろうと思っていた。実際に無限回廊の水路から助けてもらい、本当にいい人だと確信するに至る。

現在、彼女たちのヴァッシュの外見イメージはムッくんになっている。

 

 

出雲暁(いずも あかつき)

火炎之番人見習いの青年。アリシア・フローレンスの大ファンで、度々ARIAカンパニーを訪れるのだが、結果として灯里とばかり交流している。

自らを「火星の平和を守る正義の味方」と自称し、自分の生き方と仕事に誇りを持っている。調子に乗り易いおっちょこちょいなのが玉に瑕。

いつものノリで語ったヒーロー感は、ナイブズに少なからぬ影響を与えた。

ナイブズに対しては、完全に友人感覚で接している。

 

 

アルバート・ピット、綾小路宇土53世(あやのこうじ うど 53せい)

地重管理人見習いの青年と風追配達人の青年。アルはチビでウッディはノッポ。

共に暁の幼馴染、灯里達とも縁がある。

出番が少なくて本当に申し訳ない。

 

 

アリア・ポコテン

ARIAカンパニー創業以来の社長(看板猫)。火星猫のオス。オシャレさん。もちもちぽんぽん。結構トラブルメーカー。

カーニヴァルで猫妖精の従者を務めるなど、謎多き猫。年齢も軽く数十年生きているが、見た目はあまり変わっていない。火星猫全般の特徴なのだろうか。

#1では旅装束で銀河鉄道に乗っていたが、詳細は不明。この時一緒になった黒猫様とは友達らしい。当初はナイブズを猫妖精の元へと案内しようと躍起になっていた。

 

 

天地秋乃(あめつち あきの)

かつて水先案内業で数々の伝説を打ち立てた大妖精。その偉業と人柄を称え、そして親愛を込めて、人々からはグランマと呼ばれている。グランドマザーと呼ばれると「グランマでいいのよ」とやんわりと訂正する。

元々は姫屋に在籍していたが、あることを切っ掛けに退職し、ARIAカンパニーを創設する。現在は城ヶ崎村で、のんびりと隠居生活を送っている。

寛容、寛大、柔和、温和……等々の言葉がよく似合う、素敵なお婆さん。夢現では小日向きのと昔からの友人となっている。

 

 

猫妖精(ケット・シー)

ネオ・ヴェネツィアの七不思議の最初に語られる、開闢以来の街の守り神。猫の國の王。

伝説や噂話、御伽噺として、今もネオ・ヴェネツィアの人々の傍らに寄り添い生き続けるもの。灯里とはちょっと特別な関係にあるようだ。

夢現では、ある事情からナイブズを賓客として歓迎し、右も左も分からなかった彼をカーニヴァルへと誘った。アリアを通じて猫の集会にも誘っていたのだが、中々来てくれず、すっかり諦めていた頃にお連れさんと一緒に来てくれたので、たいそう喜んだそうな(アリア社長がナイブズからの伝言を忘れていた)。

天の慈母、海の慈母に並ぶ、地に在りし人の守護神。

 

 

 

 

大神

 

アマテラス

一見すると白い犬(狼)、見られる者には朱の隈取の化粧を見せる大神。その正体は、天照らしみそなわす我らが慈母――即ち、天に輝く日輪の化身、天照大神。性別不詳のわんこ。

夢現では白縫糸という独自の通称を用いていますが、原作でのかつての呼び名『白野威』をリスペクトしたものです(共に読みはシラヌイ)。他にも街の人々からシロとかポチとかワンコとか白毛布とか白狼斎とか、色々名付けられている。

筆業(筆しらべ)という摩訶不思議な力を持ち、天地自然の理をある程度操る。基本的に人助けに用いるのだが、時にはいたずらや遊びにも使う。

 

 

 

 

あまんちゅ!

本来は21世紀初頭の世界観だが気にしてはいけない。

 

小日向光(こひなた ひかり)

夢ヶ丘高校一年生。愛称は『ぴかり』。高校生になってダイビング部に入る前から、日常的にダイビングとか素潜りとかしていた。海の家『海女人屋』の看板娘でもある。

明朗快活、天真爛漫を絵に書いたような性格だが、これは恥ずかしがってちゃいけないと、本人も意図してやっている部分もある。照れる時は照れる。うぴょーと叫んで笛も鳴らす。

親愛と友好の表現として、親しい相手に独創的な愛称を付ける……のですが、思い付かず、灯里たちやナイブズの愛称呼びを断念しました。

 

 

大木双葉(おおき ふたば)

夢ヶ丘高校一年生、ダイビング部所属。光が命名した愛称は「てこ」、自称『夢のプロフェッショナル』。原作では東京から伊東に、夢現では地球から火星に引っ越して来た。

ある意味、灯里に匹敵する、もしかしたら彼女以上の不思議&素敵センスの持ち主。内向的な性格の為か、灯里とは違い、自分自身に問い掛ける、言い聞かせるような形の恥ずかしい台詞が多い。ポエット。

初対面からナイブズに怯えていたが、再会した時にはナイブズから普通に話し掛けられ、その後の体験も共有したことから苦手意識は払拭された模様。

 

 

小日向きの(こひなた―)

光の祖母。昔は海女をしていた。今は海の家『海女人屋』を営んでいる。

昔、海で龍神に出会ったことがある。この折に貰った鱗が変じたホイッスルは、ダイバーになった孫娘に譲っている。なおここまで原作。

夢現では、クロスオーバーによって交友関係が凄いことになっている。

 

 

火鳥真斗(かとり まと)

夢ヶ丘高校の教師。光と双葉のクラスの担任であり、ダイビング部の顧問でもある。教師であることを抜きにしても、面倒見の良い姐御肌。

代々霊感の強い霊能者の家系で、摩訶不思議な事態に遭遇することが多かったらしい。特に学生時代はある現象に深く関わっていたのだが、今では記憶も薄れてただの夢だったのではないかと思っている。

初対面のはずのアリシアに、何故か見覚えがあるという奇妙な体験をしている。

 

 

 

 

オリジナル

 

店主

境と呼ばれる場所で雑貨店を営んでいる老人。人より長い年月を生きているらしく、猫妖精や大神アマテラス、火星の慈母、龍王らとは旧くからの知り合い。

ナイブズに火星での生活基盤を提供する為に登場。物知りでもあり、理解力もあり、謎や問いも与える、いわゆる便利キャラ。

 

 

天道神社の皆さん

最初はたまに出て来る名無しモブの予定が、大神とあまんちゅ!とのクロスオーバーの兼ね合いで名有りモブ一家にランクアップ。先祖まで出るとは思わなかった。

一族の成り立ちには、天道太子一寸の絵に感動した先祖が弟子入りを懇願し、イッスンがとうとう折れた、という経緯がある。天道の名字もそれに肖って名乗ったもの。――という設定です。

 

 

先代天道太子

カムイコタンに住まうコロポックルの一族から輩出された、最後の天道太子。

地球で死にかけていたところを天道秋人に助けられ、以来師弟関係となって絵の指導をしていた。同じくしてアマテラスとも出会っている。

過去編に登場。火星への移住以来、久々に再会したアマテラスと弟子に声をかけようとしたら、飛び跳ねるのを鬱陶しがったナイブズにぶっ叩かれて気絶するという酷い目に遭っている。頭の上で寝こけていた方も悪い(ナイブズ談)。

 

 

龍王スミノエ

龍宮城の主。大神に登場したワダツミと乙姫の子孫。外見は殆どワダツミそのままと思っていただければ。

小日向きのと、あらゆるものを超えた友情を育んだ。自分の鱗の一つを友情の証として渡しており、それは今もホイッスルという形で彼女の孫に継承されている。天地秋乃とも知り合い。

海の慈母がいなければ龍神族は地球で滅んでいたらしく、窮地を救い、新天地を拓いてくれた海の慈母と天の慈母に心から感謝している。

 

 

火星の慈母

マルチプルバレットの影響が見え見えですね。

自律種とは違う、自我を持つに至ったプラント。

世界観そのものを一つにまとめ上げたことで必要になった、扇の要のような存在。

 

 

アイーダ

マルチプルバレットの影響が見え見えですね。

ナイブズにとっての同胞だが、ナイブズの過去(トライガン原作での顛末)を知り、それを罪とし、怒りを露わにし、弾劾する。ARIAのキャラではできないことをやってもらうために登場。

折角の重要キャラということで色々と設定を盛った結果、なんかもう特盛になってしまって、退場させるにも苦労しました。その点反省しています。

名前の由来はオペラの方であり、アテナ・グローリィの憧れの歌手の方ではありません。

 

 

車掌

銀河鉄道の車掌。一体何者なんだ……。

 

 

 

 

その他の作品

 

ポヨ、佐藤萌(さとう もえ)、佐藤英(さとう ひで)

ポヨポヨ観察日記よりゲスト出演。奇跡の球形日本丸猫とそれを溺愛するあまり様々な(丸いもの限定で)スキルを高めた姉と、切れ味鋭いツッコミが持ち味の弟。

ポヨい夜光鈴を売っていたのは彼ら。当時はアニメが放映終了した頃だったんですよ……。原作完結おめでとうございます。

勿論、ポヨは火星猫ではなく地球猫です。

 

 

フンベルト・フォン・ジッキンゲン男爵

バロン~猫の男爵~よりゲスト出演。時々出て来る「お節介焼の猫人形」とは彼のこと。ナイブズからは「ジッキンゲン卿」と呼ばれている。

普段は別の街にいるが、カーニヴァルなど特別な行事の時や、猫に纏わる何らかの依頼があった時はネオ・ヴェネツィアへやって来る。

構想当初は彼の猫の事務所にナイブズが転がり込む予定だったが、猫の事務所の原作サイズが大好きなので、間取りの問題で断念。

 



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#26.雪の日に

設定の独自解釈などありますので、苦手な方はご注意ください


 ネオ・ヴェネツィアの冬の到来は、屡、雪虫の来訪と初雪の観測によって告げられる。昨日は雪虫の到来と初雪の観測が、ほぼ例年通りに行われた。

 雪。雨と同じく、気象現象の一つ。空から降り注ぐ、氷の結晶。気温が低くなければ融け消えるばかりだが、気温が氷点下ともなれば降り積もる。

 そう、調度今日のように。

 彩り鮮やかなネオ・ヴェネツィアの街は、この日ばかりは白く雪化粧が施され、誰の目にも明らかに、冬が訪れていた。

 この光景に、ナイブズは暫し見惚れていた。いや、ずっとだ。夜が明けて街に出てからずっと、一夜にして現れた白銀の世界に目を奪われていた。

 初めて海を見たあの時。初めての雨の日。久方振りの未体験の現象との遭遇。知識はあっても、認識も理解も追い付かない、この衝撃。

 吐息も白い。砂の惑星でも、夜間には放射冷却による急激な温度低下によって防寒具が必要になるほど冷え込み、氷点下になることも珍しくなかった。移民船団でも、冷凍睡眠区画では常に氷点下で、ヴァッシュと一緒に防寒具を着込んで足を運んだものだ。そのいずれの時も吐息が白くなっていたが、砂漠の深夜に冷凍睡眠区画と一定の特殊な状況下であって、今のように、平日の昼間のような環境化ではなかった。

 ナイブズがこの星に、この街に訪れたのは、寒さも緩み始めた冬の終わり。本格的な冬の寒さ、冬の景色を体感するのは、今この時が初めてだった。

 呆然と景色を見つめている内に、鼻先に止まった雪の感触で我に返り、新雪を踏みしめ、足跡を刻み込みながら歩き出す。

 踏みなれた砂とも石畳とも違う雪の感触を確かめながら、一歩一歩、静かに、確かめるように、ゆっくりとした歩調で進んでいく。

 街の表通りに出ても、一面の銀世界は変わらず。雨の日とは違い、人々は傘を差さずに厚着をして出歩いて、時折肩や帽子に積もった雪を手で払っている。中には傘を差している人間もいるが、少数派には違いない。

 ふと我に返って、自分の肩や頭にも、雪が積もっていることに気付く。手で雪を払う。一瞬、前方から意識が外れた、その隙に、大きな球体が横道から現れた。

 反射的に蹴り砕こうとしたのを止めて、後ろへ軽く飛び退く。雪玉を押し出して現れたのは、雪よりなお真白き体毛の狼、アマテラスだった。

「……何をやっているんだ、お前」

 ナイブズが話し掛けると、アマテラスは一声鳴いて雪玉を体で押して転がして、少し歩いたところで立ち止まって、ナイブズの方へ振り返った。ナイブズは無言のまま凝視する。アマテラスはまた雪玉を転がして、またナイブズに振り返る。

「………………一緒に来い、と?」

 大きく元気な鳴き声一つ。正解らしい。

 いったい、こんなことが何になるというのか。そもそも、本当に何をしているのだこの大神は。今日も従者を撒いての散策か。

 色々と考えを巡らせていると、アマテラスが出て来た横道から人の気配が近付いてきた。

「おいこらポチ、待たんか。まったく、俺様を置いて行きやがって……ん? ナイブズじゃねーか」

「暁。何をしている」

 アマテラスを追ってやって来たのは、ナイブズの見知った人間ではあるが、アマテラスとは接点の無いはずの暁だった。

「散歩ではないぞ、これも火炎之番人(サラマンダー)の仕事の一環だ。毎年雪が降り積もったら、半人前は街に降りて、街にどんな影響が出ているか、雪質や積もり具合は予定通りか、調べて回るのさ」

 ナイブズはアマテラスを追って来たことについて尋ねたつもりだったが、暁は浮島から降りていることについての説明をして来た。しかし、それはそれで興味を惹かれる内容だったので、話の内容をそちらへ合わせる。

「都市機能が麻痺する自然現象ともなれば、そういうこともするか。そこまで再現する必要があるかは疑問だが」

「まぁな。俺様だって、一々こんなことをするのは面倒さ。寒いし冷たいし。それでも、雪も雨も、地球文化の継承で欠かせないものだから、きっちり管理して降らせてるんだと」

「文化継承に気象が……? 雨は植物の生育にも役立つが、雪にはどのような機能的側面がある?」

 一人前の火炎之番人たちからの受け売りという、暁からの思わぬ返答に、ナイブズは思わず喰いついた。気象と文化に密接な関わりがあるという発想が、微塵も無かったのだ。

 暁は暫し考え込む様子を見せると、妙案が思い付いたとばかりの表情で手を叩いた。

「よしっ。では、この俺様が、ポチを追いかけがてら、教えてやろうではないか」

「ポチ……アマテラスのことか」

 暁の指した先にいる、雪よりも真っ白な毛並みの大神は、雪玉の前でちょこんと座っていた。ナイブズ達の話が終わるのを待っているらしい。

「お前はそう呼んでんのか。火炎之番人(サラマンダー)の親方衆は白狼斎(はくろうさい)とかシラヌイとかって呼んでるぜ」

「俺も以前はシラヌイと呼んでいたな。お前はどうしてポチなんだ」

 言うと、暁はアマテラスへと歩み寄り、横へ並ぶと頭を、ぽんぽん、と軽く叩いた。

「見ろ、このぽあっとした顔を。どこからどう見てもポチだろう?」

 アマテラスはされるがまま、ぽあっとした表情でナイブズを見ている。本当にこれがあの大神なのかと、何度見ても未だに信じられない。

 それはそれとして、シロなどと比べると外見からはポチという名前は連想しにくい。或いは、ナイブズの知らない民間的な文化や伝統によるイメージなのかもしれない。

「……それで、お前はどうしてアマテラスを追いかけている?」

 暁は先程、火炎之番人の仕事で降りて来たのだと言っていたのに、今はアマテラスを追いかけているのだと言う。話に関連性が見えず、何がどうしたらそうなるというのか。

 すると、暁はがっくりと肩を落とし、溜め息混じりに答えた。

「親方が知り合いの家の長男坊に、今日だけは様子を見てくれと頼まれたんだとよ。なんでも、雪で夜中にはしゃいだ兄妹3人と親父が風邪で寝込んでて、ポチの相手までしてられないんだと」

「それで、半人前のお前まで回されて来たと」

「そうなんだよ……。仕事のついでにできるだの、なんか、俺の名前にも縁があるだのなんだの言われてよ……」

 合点がいった。所謂、子請け孫請けの構造で、盥回しというやつだ。上司が請け負った厄介ごとを、下っ端の半人前に、仕事のついでにと押し付けられたのだと、それならば話も分かる。仕事との両立も不可能ではあるまいが、兼ねるのが奔放なアマテラスの世話ともなれば、手間や労力は徒に増すことだろう。

 それにしても、あの神社の連中だ。話を聞く限り、寝込んだのは秋雨、秋生、秋穂、紅祢の4人のようだが、親子揃って、低温度化で体調を崩すほど何をやっていたのやら。

「というわけだ、ナイブズ。色々教えてやるから、お前も付き合え。……なんだったら、事が済んだら、美味い飯屋にも連れて行ってやろう」

 恐らくは、ここに来るまでアマテラスの奔放さに散々翻弄されたのだろう。無駄に強気で勝気なこの男が、ナイブズが何か言うより先に、見返りについて口にして来たのだから。

 数秒、アマテラスの思惑に流されることへの抵抗感と、雪に纏わる文化的知識への好奇心を秤にかける。(まさ)ったのは、後者。

「まぁ、いいだろう」

 ナイブズの答えを聞いて、暁は大仰なぐらいに機嫌よく笑って、アマテラスも一声鳴いた。そして、雪玉を転がすアマテラスを暁と共に時々手伝いながら、ナイブズは雪道を歩き出した。

 

 

 

 

「それで、文化継承と雪にどんな関わりがある?」

「見ての通り、雪は雨以上に環境を変えちまう。アクア・アルタ程じゃあないが、雪が積もっている間は、観光客も減ってネオ・ヴェネツィアも静かなもんさ」

「商店は開いているが、確かに、人や舟の往来が少ないな」

「水先案内業も、開店休業だからな」

「何故だ?」

「乗り降りの時に、地面が凍ったり雪が半端に溶けたりしてると、滑って危ないんだとよ。この寒い時期に、転んで水に落ちたら大変だぜ」

 それを聞いて、ナイブズは調度すぐ脇に水路があったので足を止めて、膝をついて水に手を触れた。

 触れている間も、手を抜いて外気に触れている間も、とても冷たく、体温が奪われていくのを感じる。もしもこれが、全身に及んだとしたら。

「……なるほど。下手をすれば、低体温症で死ぬだろうな」

「何でお前はそう物騒な考えがすぐに思いつくんだよっ」

 そうは言っても、真っ先に生死のリスクが思い付いたのだから仕方あるまい。

 立ち上がり、勝手に先に進んでいるアマテラスを追いかけつつ、話を続ける。

「こんなデメリットだらけの気象を、態々再現しているのは何故だ? それに勝る文化的価値とはなんだ?」

「まず第一に、綺麗だろ?」

「否定はせんが……それだけか?」

「雪景色を題材にした芸術作品が沢山あるんだから、実際の雪景色だって残しとかなきゃならん……ってのが、親方衆の答えだ。実は、俺もよく分からん。綺麗だってのは分かるけどよ」

 前半部分はらしくない物言いだと思ったが、何のことは無くただの受け売り。後半部分については、ナイブズもほぼ同様だ。付け加えるとすれば、寒気がするほどの美しさだということか。

「そして第二に、雪があってこその色んな遊びがあるんだよ。ポチがやってる雪玉転がしとか、雪合戦とか。ここらじゃ縁が無いが、山肌でスキーとかスノーボードとかもあるな。そういう雪遊びの他にも、雪像造りとか、かまくらとか、雪と氷で出来た家で有名な街もあるぜ」

 すらすらと列挙していくのは、遊びという自身に親しみがあるもの故か。これには、ナイブズも素直に感心する。雪によって環境が大きく変われば、それだけ雪を使った遊びも生まれるものか。

「雪だけで、それだけの文化的側面があるのか……。それならば、多少のデメリットに目を瞑ってでも、再現するのは妥当か」

 火星開拓と移民の最大の目的は、喪失されていく地球の人類文化の継承と保全。それを鑑みれば妥当な判断であり、適切な行動であろう。

 それに、雪を踏みしめて歩く、この独特の感触も悪くないものだ。喪失させるのを惜しむ気持ちも、分からなくも無い。

「む、どうしたのだ、ポチ」

 ナイブズが足元に気を向けた数秒の間に何かあったらしく、暁がアマテラスに声を掛けていた。視線を上げると、アマテラスが狭い路地の曲がり角で立ち往生していたのだが、その奥にある雪玉を見て、ぎょっとした。

「……いつの間にあんなに大きくなったんだ、あれは」

 最初はアマテラスの頭と同じぐらいの高さだったはずが、いつの間にか、ナイブズの首元ほどの高さにまでなっていて、明らかに肥大化していた。暁との会話に集中し、前を行くアマテラスにはあまり視線を向けていなかったから、その奥にある雪玉の変化に気付けなかったのだ。

 途中で入れ替えたのか、それとも、またアマテラスの神秘の業か。太陽神ではあるが、風や草木、果ては時空間まで操ってみせたのだ。今更、雪を操る程度では驚くにも値しない。

 すると、隣から笑い声。暁が、ナイブズの反応に声を上げて笑っていた。

「雪玉ってのは、転がすだけで地面の雪が少しずつくっついて、どんどん大きくなるんだよ」

 この解説に、ナイブズは驚き、同時に納得した。

「そうか、だから“遊び”なのか」

 雪の玉を転がすだけで、果たして遊びと言えるのか。微かに懐いていた疑問が払拭される。

 雪の性質を利用して、そのまま遊びにしてしまうとは。一口に遊びと言っても、中々に奥が深い。文化の代表例として挙げられるのも納得というものだ。

「はひー。おっきな雪玉ですー」

「ぷいにゅー!」

「あらあら、大変ね」

 すると、雪玉に遮られた向こうから、聞き覚えのある声が3つ聞こえた。内2つは、聞き慣れたと言ってもいいぐらいだ。気配からして間違いあるまい。

「そのお声は……!? あ、あ、ああ……アアア、ア、アリシアさん?!」

 暁が素っ頓狂な声を出すと、その声の主を確かめようと、雪玉の両脇からARIAカンパニーの水先案内人の2人――灯里とアリシアが、ひょっこりと顔を出した。社長は、アマテラスの雪玉に乗っている。長靴に手袋にマフラー、帽子に耳当てと重装備だ。そこまで寒いのに、何故出歩いて、雪玉に乗っているのやら。

「暁さんと、ナイブズさん、それにシロちゃんも。こんにちは」

「今日は一緒にお散歩ですか?」

「そんな所だ」

 灯里の挨拶に手振りだけで返し、アリシアからの問いに適当に頷く。散歩の途中で出くわしてこうなったのだから、間違いではない。

「何を言う。無知な貴様に乞われるまま、寛容にして寛大なる俺様が、この火星の雪とは如何なるかを教えてやっていたのではないか」

 すると、暁が興奮気味に割って入って来た。先程のアリシアへの反応と、それからボッコロの日にアリシアに薔薇の花を渡そうと躍起になっていたことを思い出した。

 どうやら少しでもアリシアにいいところを見せようと、ナイブズをダシにしようという魂胆らしい。健気なことだが、どうにも癇に障る物言いだ。

「一人ではアマテラスの相手をするのは大変だと言って、同行を頼んで来たのはお前だったはずだが?」

 ナイブズが言うと、アリシアの前で得意げな表情をしていた暁の表情が崩れ、ぎぎぎ、と首を軋ませ、歯軋りしながら振り向いてきた。そこまでのことか。

「……細かいやつめ、忘れていればいいものをっ」

「お前の都合のいい記憶の改竄能力と忘却能力は、ある意味羨ましいな」

「どういう意味だ、貴様っ」

 売り言葉に買い言葉、ナイブズにしては珍しく、相手の程度に合わせた口論を展開する。

 揚げ足取りが面白いとか、そういうことではなく。なんとはなしに、自然とそういう言葉が口をついて出て来るのだ。

「あらあら、仲が良いんですね」

「そうか?」

「いや、そんな、滅相もありません! ところで、アリシアさんたちも、こちらまで雪玉を転がして来たんですか?」

 アリシアに割って入られて、ナイブズは気の抜けた返事をして、暁は即座にそちらへの反応に全力を費やしたから、すぐに口喧嘩は終わった。喧嘩、というほどのものでもなかったが。

 そして暁が言うのでよく見れば、アマテラスの雪玉の向かい側には1回り小さな――それでも十分に大きい――雪玉があった。

「うふふ。ちょっと、灯里ちゃんとお散歩してたら、やりたくなっちゃって」

 アリシアは無垢な少女のような微笑みを浮かべて答えた。あの秋乃の直弟子というだけあって、雰囲気や話し方に似通った部分がある。灯里も含め、よく笑うことだ。

 それにしても、散歩の最中に何があったら雪玉転がしをやりたくなるというのか。アマテラスに関しては、まず間違いなくただ遊びたかっただけだろう。

 ふと、アマテラスの雪玉を見ると、その大きさに興奮しているのか、上に乗ったアリアがジャンプするなどしてはしゃいでいる。それを見守るアマテラスも得意げだ。すると、アリアが飛び跳ねて、着地に失敗して転んだ拍子に、雪玉が転がり出した。

「あ」

 降り落とされたアリアはアマテラスが助けて大事には至らなかったが、雪玉は転がっていき、少し離れた所で民家の壁にぶつかった。

「あ~」

 アマテラスがせっせと転がして大きくした雪玉は、罅が入り、そのまま割れた。

 これを目の当たりにしたアマテラスは、大口を開けて呆然としている。

「ポチよ、気を落とすな」

 暁がポンと頭を軽く叩いて、慰めるように声を掛ける。

 アマテラスは割れた雪玉の所まで歩いて行って、前足で、ちょんちょん、と触る。そして、その場に座り込み、がっくりと項垂れた。

「そこまで気落ちする程のことか、ポチ!」

 更に暁が声を掛けるが、アマテラスはその場で丸くなって不貞寝をしてしまった。

 こいつはやっぱり、知能が高いだけのただの犬ではないだろうか。幾度となく超常の力を見せつけられたという事実が信じられなくなる光景だ。

「ぷいにゅ~……」

「アリア社長、ついはしゃいじゃったのね。シロちゃん、ごめんなさいね」」

 アリアは涙目になって落ち込み、アマテラスに対して何度も詫びている。その様子を見かねてか、アリシアは身を屈めてアリアの頭を撫でて慰めている。アリシアも謝罪しているが、アマテラスは尻尾を動かすだけで他に反応を示さない。

 その様子を、ナイブズは黙って見守り、暁は何やら腕を組んでなにやら思案している様子だ。

「……うむ。もみ子よ、ちょっとこっちに来い」

「えーっ。どうして私だけ……?」

「アリシアさんのお手を煩わせるわけにはいかんし、ナイブズは恐らく使い物にならん」

「ぷい! ぷぷぷい!」

「おっ、手伝ってくれるのか、アリア社長」

 暁は何かを決めると、灯里とアリアを連れて砕けた雪玉の所にしゃがみ込んで、なにやら作業を始めた。

「あらあら。何ができるんでしょうね」

「さぁな」

 恐らく、雪の塊を流用して何かを作ろうとしているのだろうが、雪に疎いナイブズでは見当もつかない。

「アリア社長、調子はどうですかー?」

「ぷいきゅっ」

「うふふ。頑張ってくださいね」

「ぷーい!」

「暁くんと、灯里ちゃんもね」

「はひっ」

「はいっ、もう少々お待ちくださいっ!」

 アリシアは不貞寝するアマテラスの傍に座って、慰めるように毛並みに沿って体毛を撫でながら、アリアにエールを送る。残る2人への気遣いも怠らないが、主たる目的はアリアへの激励であろう。

「……叱って躾けるぐらいは必要ではないのか?」

「いえいえ。アリア社長なら大丈夫です」

 そういうものであろうかと、ナイブズは訝しんだ。

 教育のための叱責は重要であると、ナイブズは考えている。実際、レムに育てられていた頃は、ナイブズも勝手な行動を起こしては叱られたものだ。

 レムに最後に叱られたのは、移民船団のエンジントラブルに際して、自分なりに解決策を探ろうと航行システムを覗き見して、結果としてシステム復旧に数秒のタイムラグを作ってしまった時だったか。もしもこの遅れが致命的な事態を引き起こしていたらどうなっていたことかと、幼いナイブズが泣いて謝るほどに怒られたものだ。

 今となっては、こんなことさえも懐かしい。ヴァッシュは、テスラの件の直後、慰められたり、叱られたり、泣かれたりと、色々あったらしいが……――。

 少々思考が逸れた。

 叱られることによって、自らの行動が誤りであること、何らかの危険性を有していたこと、他に迷惑をかけるなど悪影響を及ぼすことなどを自覚し、自認し、反省する。幼く未熟な存在は、そうやって成長していくものだ。

 アリアは、少なくとも幼くはないようだが、今までを鑑みるに拙く未熟な存在だ。叱責の機会は多かっただろうに、この寛容さはどういうことだ。もう諦めた、とは違うようだが。

「アリシアさーん! ナイブズさーん! できましたー、完成です~」

「うむ、我ながら見事な出来栄えだ」

「ぷいぷーい!」

 改めて問い質そうかと考えていると、2人と一匹から声が掛けられる。見ると、そこには大小2つの雪玉を積み重ねた、奇妙な物体があった。上の方の小さい雪玉には、目と口を模ったらしきものが埋め込まれている。デフォルメされた、ガチャペンやムッくんのような、何らかのキャラクターであろうか。

「あらあら。とっても立派な雪だるまだわ。凄いわね、灯里ちゃん、アリア社長。暁くんも、ありがとうね」

「いっ、いえ! アリシアさんの御為ならば、なんのこれしき、ですよっ」

「……雪、だるま?」

 どうやらナイブズの予想は外れていたらしく、雪像を指すらしい単語を鸚鵡返しに呟く。

 雪は分かるが、何故だるまなのか。店主の店で幾つかだるまの実物を見たことがあるが、雪だるまとは似ても似つかない。共通点は、精々、手足が無いことぐらいか。

「なんだ、雪だるまも知らないのか」

地球(マンホーム)の日本で昔からある、伝統的な雪像です。他にも、枯れ枝を差して手を付けたり、バケツを被せて帽子にしたり、色々あるんですよ」

「単純ゆえの多様性か」

 暁が呆れ、灯里が雪だるまについて説明をする。これを聞く限り、赤いダルマは名の由来程度で、直接的な因果関係は無いのだろう。そういうこととして結論付ける。

「お、ポチも元気になったな」

 暁の言う通り、アマテラスは雪だるまを見ると機嫌を直して、尻尾を振って一声吠えた。

 それからは、なし崩し的にARIAカンパニーの面々と共に、アマテラスに付き合うことになった。

 ある広場ではアマテラスが子供と遊んでいる内に、雪合戦という、手の平程度の大きさの雪玉を作って投げてぶつけ合う遊びに参加することになった。雪で作った玉ならば、当たってもすぐに崩れてそちらにエネルギーが分散して、さしたるダメージにはならず、玉の材料も地面に無数にある。実に理に適った遊びだ。

 しかし、ナイブズの超人的な身体能力で投げてぶつけたらただでは済まず、力加減も面倒なので避けることにのみ専念していた。そうしたら、いつの間にか誰が最初にナイブズに雪玉を当てられるかで競争、という風に遊びが変わっていた。いや、暁が言い出したのだったか。

 30分ほど避け続けていたのだが、アマテラスの仕業か、突如視界を黒い液体のようなもので塞がれ、その直前に少女が投げた雪玉が当たってしまった。

 狙ってくる全員が飽きるまで逃げ遂せるつもりが、まさか人間の少女相手に不覚を取ることになり、少女当人も意味の分かっていない「シベリア送りですっ」を言い渡され、ナイブズは言い知れぬ屈辱感を味わい、暁には大笑いされた。むかついたので、手近なところにあった雪玉――ではなく、アリアを放り投げて黙らせた。

 以後もそのようにして、道行く人々をも巻き込みながらアマテラスの遊びと気紛れに付き合い、街中を巡った。

 気が付いた頃には、既に街を夕焼けが染めていた。

 秋の日は釣瓶落とし、という諺があるが、冬の日が沈むのは更に早い。冬至と呼ばれる、一年で最も早く陽が沈み、一年で最も日照時間の短い日も、冬にある――とは、アリシアの解説によるところだ。

 ARIAカンパニーへの道程で天道神社の長男坊・丈と出くわし、アマテラスを引き渡すこととなった。

 丈は元から頼んでいた火炎之番人である暁の他にも、手伝ってくれたナイブズやARIAカンパニーの面々に深々と頭を下げて感謝の意を示し、アマテラスを連れて去って行った。

「シロちゃ~ん、ばいば~い」

「ポチよ、あまり人様に迷惑をかけるんじゃないぞ」

「ぷいぷ~い」

「御家族の皆さん、早くよくなるといいですね」

「これからは自重しろと伝えておけ」

「面目次第も御座いません。……それでは」

 アマテラスたちと別れてからほどなくして、ARIAカンパニーにも無事に到着した。

「すいません、アリシアさん。せっかくの休日をポチの世話なんぞに付き合わせてしまって」

「いいのよ、私も灯里ちゃんも楽しかったから」

「はひっ。とっても楽しかったです」

「ぷい~」

 暁たちは穏やかに挨拶を交わし、談笑している。暁の表情が、アリシアと話している間はだらしなく弛緩しているのだが、灯里と話す時だけは元に戻っている。これが見ていてなかなか面白い。

 話もある程度落ち着いたのを見計らって、ナイブズはアリシアへと問いかける。

「アリシア、一つ訊きたい」

「はい、なんでしょう?」

「お前は何故、そこの猫を怒りもせず叱りもせず、野放しにしている。こういう手合いは、懲らしめるなりしなければ、懲りずに同じ失敗を繰り返すぞ」

 純粋な疑問への答えは、純真な笑みだった。

「私は『駄目ですよ』と叱ったり、『どうしてですか』と怒ったりするよりも、『こうですよ』と教えて、『頑張って』と応援したいんです。そうじゃないと、叱られて怒られてばかりいたら、きっとアリア社長は、怖くなって何も身動きできなくなっちゃうと思うんです。だから、怒ったりとか、叱ったりとか、しないようにしています。アリア社長なら、ちゃんと分かってくれますし」

 それはつまり、アリアは一般的に怒られたり叱られたりするようなことを頻繁に仕出かしているという意味ではないだろうか。それならば尚更、怒って叱って躾けることの重要性は高いもののはずだ。なのに、どうしてアリシアはそれに対して否定的なのか。

 数秒考えて、ナイブズはアリシアの言葉の後半部分に違和感を覚え、聞き返した。

「……お前、まさか、今までただの一度も怒りを覚えたことや、憤りを感じたことも無いのか?」

 この問いは、余程意外だったのだろう、アリシアは呆気に取られて、きょとん、とした表情になった。灯里や暁も同様だ。

「あ……はい。覚えている限りでは、ありませんね。怒っているよりも、笑っている方がいいと思いますし」

「おお、流石はアリシアさん! まるで御仏、慈母、女神の如き寛容さ、寛大さ!」

「そういえば、私も怒られたこと、叱られたことが無いです」

 アリシアの言葉を聞いて、暁は感極まったように絶賛し、灯里は自らの体験を以て真実であると言った。

「……そうか」

 それならば、怒りがどういうものか分からず、叱ったらどうなるかの実感が伴っていないのも当然か。

 砂の惑星ならばいざ知らず、この水の惑星ならば、怒りを覚えるほどに己の大切なものが脅かされ、誇りや信念が侵されるような事態が起こりえない、ということも、あり得るのだろう。

 そうやって結論付けたが、釈然とはせず、納得もできない。

 どうやらこの女とは、反りが合わない。

 

 

 

 

 陽が沈み、空の色が次第に黒く染まる頃。ARIAカンパニーから離れてやって来たのは、暁の地元の浮島ではなく、ナイブズも一度訪れた地下だった。

 曰く、雪の実態調査は数日に亘って行われるもので、普段浮島に籠りがちな火炎之番人の半人前たちにネオ・ヴェネツィアの街で息抜きをさせる側面もあるのだという。尤も、町が静まり返っている時に下ろされても何も面白くない、とは当人の弁だ。

 地重管理人の住まう地下街へ、入場手続きを済ませて入る。場所が場所だけに、明白な理由か地重管理人の同行か紹介が無ければ立ち入ることのできない閉鎖的な空間だが、今回は半人前からの紹介を暁が口頭で伝えるだけで許可が下りた。前回もそうだったが、随分と緩いことだ。悪意を持った侵入者が長く現れていないことが、容易に推測できる。

 地下街へと至り、今回はエレベーターを使わず、巨大な縦穴の壁面に造られた、長い長い階段を降りていく。

 先導する暁が、歩き疲れたと愚痴を言い始めた所で、目的地に着いた。

 店の入口に掲げられた垂れ幕のような布――暖簾――には、でかでかと『きのこなべ』と書かれ、右脇に『名物』と小さく書き添えられている。

 もしや、と思って暖簾を潜る。まず、店員が「いらっしゃいませ」と来店を歓迎し、暁が何事かを伝えようとしたところへ、横合いから聞き覚えのある声が掛けられた。

「暁くん、こっちだよ」

「ナイブズさんも、いらっしゃいなのだ~」

 そちらを見ると、店の一角でアルとウッディが手招きしていた。「おう、そこにいたか」と暁は鷹揚に答えてそちらへ向かい、ナイブズもそれに続く。

 座席は和風の作りになっていて、靴を脱いで畳を敷かれた空間へ上がるようになっている。暁はウッディの隣に、ナイブズはアルの隣に座る。

「ここが、あの時言っていた店か?」

「はい。覚えていて下さったんですね」

 アルに確認すると、どうやら間違いなかったようで笑顔で答えが返ってきた。アルが案内するはずだったキノコ鍋の店、それに今日来ることになるとは思わなかった。

「なんだ、来たことあったのか?」

「いや。以前ここに来た時、アルは回り道をして途中で立ち寄る予定だったのを、俺が最短経路で進んだから通ることも無かった、という話だ」

 暁に訊かれて、秋の始まりの頃に訪れたことを思い出す。

 思いがけず、火星開拓史におけるプラントの活躍の一端を知れたのは僥倖だった。そういえば、他にも極神(きょくがみ)とかいう、アマテラスの眷属と思しき存在についての記述もあったか。

「そうか。ならば、俺様に感謝することだな。この店の鍋は、五臓六腑に染み入るほどの絶品だからな」

 そう言われてみれば、確かに、今日暁と出くわさなければ、ここに訪れる機会はまずなかっただろう。だが、感謝するという気持ちは全く湧いてこない。まだここのキノコ鍋を食べていないこともあるのだが、ただの偶然の連鎖の結果でしかないのだから、暁の功績とは言い難い。

「こんな寒い雪の日は、鍋を食べて体の芯から温まるのが一番です」

「これで炬燵もあったら、言うことなしなのだ」

「うむ、全くだな」

「こたつ……?」

 そんな話をしている内に、鍋が食べごろまで火が通った。鉄製の黒い丸鍋から、取っ手の付いた木の蓋が外される。白い湯気が立ち、熱気が顔まで伝わって来る。

 具材は店名の通り豊富な種類のキノコが中心で、他にも鍋に欠かせない野菜や豆腐も――などとナイブズが観察している暇も無く、3人がお玉や箸を使って次々に鍋から具を取っていく。

「ふはははは! 油断大敵だぞ、ナイブズよ!」

「鍋と言えば早い者勝ちだからね。恨みっこ無しなのだ」

「そういうわけです」

 鍋の彩を楽しむ余裕は無いようだ。……そういえば、料理を作った時に、ヴァッシュとおかずを取り合って、レムに行儀が悪いと叱られたこともあったか。

 微かに過去を想いながら、ナイブズも鍋から適当な具材を、手元の取り皿に取り分ける。

 手始めに、屋号にも謳っているキノコから食べる。この黒いのはシイタケという名前だったか。動物や魚の肉とは違う、独特の噛み応えと食感。キノコ自体の味は淡白だが、纏っている出汁の味が利いて中々の美味。一口では満足しないが、幾つ食べても飽きが来ない味だ。

 次は白くて細長いキノコを、次はこのキノコをと、無心に食べ進めていく。

「ところで、どうだったナイブズよ。アリシアさんを間近で見た感想は」

 暁に問われて、ふと我に返る。スープ代わりに鍋の(つゆ)を飲みながら、アリシア・フローレンスへの最終的な印象を分析する。

 飲み干す頃には結論が出て、食器から口を離すと同時に答える。

「……気に食わん女だ、なんとなくな」

「何故だ!?」

「なんとなくと言った」

 言って、鍋から次の具材を取る。ナイブズにとっては事のついでに収まる、些細な問題だ。だが、一般的なネオ・ヴェネツィア市民にとっては重大事であるらしく、3人の手は止まっている。

「驚きましたね。あのアリシアさんを気に入らない方がいるなんて」

「けど、誰しも合う合わないというものがあるからね。きっと、ナイブズさんとアリシアさんが、たまたまそうだったのだ」

 アルとウッディはそれぞれに感想を言って、驚きを露わにしているが、ナイブズには知ったことではない。

 なんとなくとは言ったが、実際には明確に気に入らない理由がある。口にしなかったのは、対面に座っている、今肩をわなわなと震わせている男を必要以上に刺激しないためだ……ったのだが、どうやら十二分な刺激を与えてしまったらしい。

「……よし! ナイブズよ、今日はアリシアさんの一番のファンであるこの俺様が、かのトップ・プリマ! 火星(アクア)の至宝! 我らがアイドル白き妖精(スノーホワイト)の素晴らしさというものをっ、徹底的に教えてやろうではないかっ!!」

 酒でも入っているのかというほど顔を赤くして、暁は早口で捲し立てて来る。これは面倒な事態になったようだ。

「俺があの女を気に食わんのは水先案内人としてではなく、人間として、一個人としてだが?」

「それを聞いては尚更だ!!」

 事実を伝えて宥めようとしたら、迂闊にも火に油を注いでしまったようだ。心の底から面倒くさい。

「うわー……これは、想像以上に反りが合わなかったみたいなのだ」

「暁くん、頑張ってね」

 ウッディとアルは暁を応援する姿勢を見せ、同じくアリシアファンの店員や他の客まで寄って来たが、ナイブズは彼らの言い分を適当に聞き流して、曖昧に頷いて、キノコ鍋をもくもくと食べ続けた。五臓六腑に染み入る美味に、偽りは無かった。

 

 ナイブズがアリシア・フローレンスを気に食わない理由は、単純明白。

 怒りを覚えたこともない人間風情が、さも全てを知悉したような物言いで、怒りを悪しきものとして断じて、忌避していたからだ。

 かつて、その身を、魂さえも怒りの炎で燃やし続けたナイブズには、到底容認できるものではなかった。

 怒りに狂うあまり我を忘れて、怒りの矛先を向けた先へと異常な暴力を揮っていたことは、ヴァッシュに指摘された通り、誤りだったのだと今は思う。だが、あの怒りそのものが過ちだったと思うことは決してない。今までも、この時も、これからも。

 テスラの姿に、最期の大生産(ラスト・ラン)に、怒りを覚えずに何故いられよう。この怒りすらも否定してなるものか。

 あの女が怒りを覚えるような出来事は、この水の惑星でこれから起こる筈もあるまい。

 だから、ミリオンズ・ナイブズがアリシア・フローレンスを理解し、許容する時は訪れない。アリシア本人は無自覚だろうが、その逆もまた然りだ。

 それこそ、都合のいい夢の中か、余程の奇跡でも起きない限りは。

 



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#27.裏誕生日

 23月24日。

 今日もナイブズは街を歩く。しかし今日はいつものような散策ではなく、店主から依頼された仕事へ赴くためだ。

 先日、天道(てんとう)神社の一家を風邪で寝込ませた原因――アマテラスを夜な夜なはしゃがせた要因たる、冬の来訪者。極北の地に住まう神々(カムイたち)。彼らを猫妖精の許まで案内する役目が、今回のナイブズの仕事だ。

 引き受けた時も、そして向かっている今も、ファンタジックな説明にいよいよ一切の疑問を懐かなくなった自分に、つい苦笑してしまう。

 店主にはナイブズを彼らに面通しさせようという思惑もあるようだが、忙殺されているあの様子を見るに、今年中に片付けなければならないという仕事とやらがよほど逼迫しているらしい。それがナイブズ自身に纏わる何事かであることだと分からないほど、ナイブズも愚かではない。ヴォガ・ロンガの日を境に、次第に慌ただしくなって行ったのだから、嫌でも分かる。

 ヴォガ・ロンガの後日、いつものように街を散策していると普段に無い事態が連続した。街の住人から好奇の目を向けられ関心を示され、時にはアテナのファンから挨拶され、声を掛けられ、礼を言われた。中には嫉妬もあったか。

 冬を迎えてからは、時を経て街の住人たちの興味も薄れたのか、今ではナイブズへの反応もすっかり落ち着いた。だが、ナイブズが『街中の人々の注目を浴びていた』という点が問題なのだ。

 確認したら、案の定、ヴォガ・ロンガで水の三大妖精の“天上の謳声”アテナ・グローリィを助けた顛末が新聞やテレビやラジオ、その他ネットワーク上の様々な形式の情報配信などによって、報道され、広く知れ渡っていた。ナイブズの名前は伏せられていたが、顔だけは広く出回った。。

 ミリオンズ・ナイブズの顔をした男が、火星のネオ・ヴェネツィアにいるのだと、少なくとも、太陽系の全域に知れ渡ったのだ。

 完全に進行した黒髪化によって人相は多少変わっているが、ヴァッシュ諸共にナイブズを狙った砲撃の張本人――クロニカによって、ナイブズの黒髪化は報告されているはず。その点で別人と言い張るのも難しいだろう。そもそも、髪は染められるものでもある。

 地球連邦政府の中でも少なからず存在するであろう、人類史上最悪の虐殺者=ミリオンズ・ナイブズの名と顔を知る者達。彼らにナイブズの存在が認知され、捕捉された。現時点ではただの推測だが、間違いなく事実であろうという確信が強くあった。

 このような事態は予測していなかったわけではない。ただ、深くは考えていなかった。あまり、気にも留めていなかった。些末な事柄であるし、いざとなればどのように対処するかを決めてもいる。

 ただ、この街が、あまりに静かで、穏やかで、居心地が良かったのだ。だから、あまり考えたくなかった――。

 目的地へと歩を進めながら、思考する。去来するものは、焦燥や困惑ではなく、ある種の諦観。そして、弟への懺悔。

 ヴァッシュ。お前はこんなことを幾度も繰り返しながら、あの言葉を紡いだのだな。無知のまま引く引き鉄の傲慢、正しくその通りだったよ。

 自嘲気味に笑みを浮かべ、歩を早める。急ぐ必要など無いことだが、今は手早く片付けてしまいたい気分だ。

 裏側から出て、表側へと出る。暫く歩いていると、ふと、聞き覚えのある声が聞こえた。

「裏誕生日おめでとう、アトラちゃん」

「裏誕生日おめでとうございます、アトラさん」

「ありがとう。杏、アリスちゃん」

「まぁ!」

「はい。まぁ社長も、ありがとうございます」

 最早聞き慣れた3人と1匹の声、対照的に聞き覚えの無い単語。この奇妙な取り合わせに、一瞬、思考が若干の混線を来たす。

「……裏、誕生日?」

 言うつもりの無かった単語が、気付けば口から零れていた。

 声のした先に目をやらずとも、視線がこちらへ向くのは容易に分かった。

「あ、ナイブズさん」

「こんにちは」

「まぁ」

 名を呼ばれ、挨拶もされ、一声鳴かれて、ナイブズはそちらを振り返った。

 ネオ・ヴェネツィアの街に幾つか点在する舟乗り場の一つに、オレンジぷらねっとの一人前未満の3人、半人前のアトラと杏、見習いのアリス――まぁ社長を大事そうに抱えている――が集まっていた。状況を見るに、杏とアリスをアトラが迎えに来たところなのだろう。

 ふと、アトラを見ると、アリスがまぁ社長を抱いているように、小奇麗な包装を施された小物を2つ抱えていた。そのナイブズの視線に気付いて、アトラは慌てて小物を舟に置いてある鞄に仕舞った。

「お騒がせしちゃいましたか?」

 どうやら、ナイブズからの視線を無言の叱責や批難の類と勘違いしたようだ。無論、ただの通りすがりでそんなことを思うことなど無い。

「いや、構わん」訂正してすぐ、どうせだから確認もしてみるかと思い至る。「……裏の、誕生日とは何だ?」

 誕生日自体は知っている。生物が誕生した日付を『誕生日』という特別な日として定め、1年毎に同じ日付で誕生と成長を祝う、地球でも古くから伝わる風習だ。ナイブズとヴァッシュも一度だけ、レムによって祝われたことがある。しかし、その“裏”と銘打つものとは何なのか、ナイブズでは想像もつかないことだった。レムも、誕生日に裏があるとは言っていなかった。

 一方、アトラと杏はナイブズの問いが余程意外だったのか、ぽかん、とした表情でナイブズを見ている。どうやら、火星及び地球圏では常識の範疇の知識らしい。

 すると、アリスが一つ咳払いをした。

「それでは、ご説明しましょう。……今日の主役のアトラさんが」

「わ、私っ!?」

 アリスから振られたアトラは大いに慌てていたが、これも観光案内の練習の一環、ある種のプレゼントだと言い包められて、戸惑いながらも、ナイブズへ説明を始めた。

「え、えーとですね……地球(マンホーム)の暦は1年が12ヶ月で……あっ! ナイブズさんは、地球(マンホーム)とも違う星からいらしてたんでしたっけ……!?」

「あの星でも、地球の暦をそのまま流用して1年を12ヶ月で運用していた。問題無い」

「そうでしたか……」安堵の溜め息を混じらせながら呟き、一つ咳払い。気を改めて、アトラは解説を続ける。「地球(マンホーム)暦の1年は12ヶ月ですが、火星(アクア)暦では1年が倍の24ヶ月もあるんです。つまり、火星(アクア)暦の1年は、地球(マンホーム)暦で2年分にもなるんです。ですから、地球(マンホーム)暦の1年に合わせて、火星(アクア)暦での12ヶ月後の日にもう一度、誕生日を祝う風習がずっと昔から、ネオ・ヴェネツィアだけじゃなくて、火星(アクア)全土であるんです。その日を、私達は裏誕生日と呼んでいるんです」

「なるほど、裏とは言い得て妙だな」

 言われてみれば、解説されれば、実に単純明快、すぐに納得できるものだった。

 誕生日の調度裏側、もう一つの誕生日。だから、裏誕生日。簡単な言葉遊びだ。

「それで、11月24日生まれのアトラさんは、本日23月24日が裏誕生日になるんです」

「ナイブズさんは、お誕生日はいつなんですか?」

 アリスが最後に付け足して、杏が言葉を翻す。

 誕生日、この世に生を受けた日。月日を経て年を一周した証――

 ――2405年5月3日02時06分  発見 保護

 ――229日目  投薬中に突如痙攣  14時間後『機能停止』

 ――テスラは、1年はおろか、その年を越すことすら、出来ていなかった……

 突然のフラッシュバック、一歳を迎えたばかりの頃に閲覧したデータの羅列が、イメージとなって脳裏を過る。自身の誕生日への頓着が極端に薄いからか、何故か、テスラのことを思い出してしまった。

 性質の悪い考えを断ち切るため、知識に則って最小限度の返答を奥から絞り出す。

「……もう過ぎたな」

 少女たちは、残念だとか、年末だししょうがないとか、色々に言っている。その間に、ナイブズは思考を整える。テスラのことは、裏誕生日ならぬ、裏命日にでもゆっくり考えることとする。

「ナイブズさんは、どんな風に誕生日をお祝いされたことがあるんですか?」

 すると、アリスがそんなことを尋ねて来た。予想外の質問に、つい聞き返す。

「……なんでそんなことを訊く?」

「でっかい興味がありますっ」

 何故そんなにも興味があるのか知らないが、問われて自然と思い出す。

 移民船団の中でヴァッシュと共に迎えた、レムが祝ってくれた、1歳の誕生日。最初で最後の誕生日の祝い。その日、その時のことを。

 プラント自律種の成長は著しく早く、ヴァッシュもナイブズも、3ヶ月程度で言語を解し、1歳になる頃には人間における10歳児程度の体格まで成長していた。知能や記憶力は相応以上で、その時のことは今でも具に思い出せる。

「祝いの言葉、それとほぼ同時にクラッカーを鳴らしていた。平時よりも豪華……いや、ケーキなど、特別な食事。そして――」

 移民船内部、当直船員1名を除いた全員が冷凍睡眠中、等々、極めて制約の多い限定的な状況下。レムは1人で、ナイブズとヴァッシュのために、誕生日の準備をしてくれた。

 

「こういう時は、とことん楽しむものよ。宇宙生活では、特にね!!」

 

 そう言って、はにかんで、微笑んだ、彼女の顔にあったもの。

 あれは確か……そう、わざわざ作ったという――

「――鼻眼鏡」

「ぶっ」

 ナイブズがあれの名称を口にした途端、3人が同時に吹き出した。何か、おかしなことを言っただろうか。まぁ社長も首を傾げている。

 すると、3人は口元を手で隠し、或いはお腹を押さえて、小刻みに震え出した。呼吸も乱れている。恐怖とは違うようだが、どうしたことか。

「も、申し訳っ、ありません……っ。まさかっ、ナイブズさんの口から、は、はな……鼻っメガネっ! なんて単語がっ、出るとはっ、思って……いませんでしたっ、のでっ」

 ああ、笑いを堪えていたのか。

 アリスは笑うまいと必死に堪えていたが、自分で『鼻眼鏡』を言うのと同時に吹き出していた。何がそんなに可笑しいのかはよく分からないが、彼女らにとっては余程可笑しいことらしい。

 ナイブズは一つ溜め息を吐いて、許しを出すことにした。

「構わん、笑いたいだけ笑え」

 ナイブズ本人からの許しが出るや、3人は声を上げて大笑いした。自分が笑われている構図になるのだが、然して不快感は無い。嘲笑とは違う、無邪気で無垢で純粋な笑いだからだろう。

 多分、レムもあの時は、こういう反応を期待していたのだろう。それに気付いて、当時の自分とヴァッシュの淡白な反応が、途端に申し訳なくなった。少しでも賑やかにして、楽しくしようと、レムも精一杯気を遣ってくれていたのだろうに。

 それでも、やはりあれは、あの鼻眼鏡はどうかと思う。少なくとも、ナイブズの感性では笑いが込み上げて来ないのだ。

「邪魔をしたな」

 3人の笑いが治まったのを見届けて、ナイブズはその場を立ち去ることにした。

「……あの、ナイブズさんっ。もう少しだけ、お時間宜しいでしょうか?」

「杏さん?」

「杏?」

 背に届いた声の主は夢野杏。アリスもアトラも、ナイブズを引き留めることに怪訝そうだ。

 ナイブズは振り返り、杏の目を見た。思い付きなどではなく、何らかの明白な意思があるようだ。

 数瞬の思案。

「………………昼までなら」

 急ぎの仕事ではないということだし、遅れたら神社の連中が大変になるだけらしいし、その程度なら付き合ってもよかろう。

 ナイブズの返事を聞いて、杏は、ぱぁっ、と笑顔になってアトラへ振り返った。

「アトラちゃん、ナイブズさんとお話したいって、言ってたよね?」

「そのために……? ありがとう、杏」

 アトラにナイブズと話す機会を作るために引き留めたようだが、何故アトラがナイブズと話す機会を求めていたのか、それが分からない。実際に話せば分かることだろうが。

 そんなことを考えている内に、アリスと杏はまぁ社長を連れてそそくさと立ち去ろうとしていた。

「……えっと、2人きりは変に緊張しちゃうから、みんなも一緒にいてくれる?」

 アトラに呼び戻されて、2人はすぐに踵を返した。下手に気を遣おうとしただけで、離れたくて離れたわけでは無いようだ。

 2人が戻ってくると、アトラはナイブズの隣に立ち、乗って来た黒い舟を眼鏡越しに見つめながら、静かに語り始めた。

「実は、私……一人前(プリマ)になるのを、諦めようかと思っていたんです」アトラは一度、半年ほど前に、一人前への昇格試験に落ちたのだという。「たった一度の失敗でしたけど……今まで積み重ねてきた努力も、私という人間自体も、私の全部を否定されたような、そんな絶望感があって……」

 挫折の直後、絶望感でおかしくなるのは、誰しも同じか。

 アトラの言葉を聞いて、ナイブズは、昔日の自分自身を思い出した。

 ブルーサマーズの報告により、GUNG-HO-GUNSを差し向ける直前のヴァッシュは、ナイブズへの殺意を明白に口にしていたことは知っている。だからこそ、ジェネオラ・ロックでブルーサマーズは独断専行でヴァッシュを殺そうとしたらしいが、そこは些細なことだ。

 ヴァッシュと別れてからの80年、ナイブズは“力”の研鑽も兼ねて人間を殺して回った。村ごと、町ごと、都市ごと、人間を間断なく駆除し続けていた。

 レムが決死の覚悟で――文字通りに命を懸けて救った人々を、その末裔を殺し続けるナイブズへの怒りが、対峙できないまま過ぎ去る日々の中で業と煮え滾り、いつしか殺意にまでなっていたのだろう。ブルーサマーズが差し向けた一人目は、あのヴァッシュがあわや殺すところだったというのだから、驚くべきことだ。結局あいつは、引き鉄を引かなかったが。

 それでも、ナイブズはそのことを知っていたのだ。ヴァッシュの心の奥底には、確かにナイブズへの怒りが、憎悪が、怨恨が、それらが渾然一体となった殺意が秘められているのだと、そう確信していた。

 だから、あの時。人類との決戦に敗れ、全ての同胞からも見放されて、対極に独り立ち尽くした時に、ナイブズは願ったのだ。自らの死を、ヴァッシュに殺されることを。

 まったく、やはりあの時の俺はどうかしていたから、あんなバカげたことを考えたのだ。ヴァッシュに人殺しの業を背負わせようなどと。既にヴァッシュがその業を背負い、それでも立ち上がって来たのだとも知らずに。

 或いは、その業があればこそ、人を殺してしまったからこそ、ヴァッシュはナイブズを殺さなかったのかもしれない。自ら選んで、レガート・ブルーサマーズを殺してしまっていたからこそ。命を奪うことの重みを、辛さを、苦しさを、知ってしまったからこそ。

 ナイブズが思考をまとめた頃には、口籠っていたアトラも、大きく深呼吸をして、続く言葉を紡ぎ出す準備を終えていた。きっと彼女も、ナイブズのように、その時の自分のことを思い出していたのだろう。

「灯里ちゃんと一緒にトラゲットをした日に、杏やあゆみにも同じようなことを言っちゃったんです。一人前(プリマ)になれないのはしょうがないから、半人前(シングル)のままトラゲットを続けていこうかなって。そしたら、あゆみがナイブズさんの言葉を教えてくれたんです。そんなことで、過去と未来の自分に誇れるのかって」

 一瞬、いつそんなことを言っただろうかと考えて、思い出した。初めてあゆみと会い、舟に乗せてもらったあの日、去り際に告げた、かつて自分で口にした言葉からの流用だ。

 敗北を認めた自分が、ヴァッシュに対して発した偽らざる本心であり、敵意を誘う挑発であり、精一杯の強がりでもあった。そんな言葉を、精一杯に強がっている少女を見て、つい口に出していたのだ。

「……よく覚えていたな」

 あれから話題に上るのはヴァッシュの話ばかりで、言われた本人もついでの言葉として忘れているか、聞き流して覚えていなかったのだろうと、ナイブズもいつしか意識から外していたのだが。

「ナイブズさんにとっては何気ない言葉だったかもしれないですけど、あゆみちゃん、一番勇気を貰えた言葉だって言ってましたよ」

 杏が補足して、その通りですとアリスも頷く。そして、アトラは続ける。

「私も、あゆみと同じです。それで、目が覚めたような気がして……みんなにも励まされて、今もこうして、一人前(プリマ)を目指せてます」

 敗北を認めた狂人のただの強がりが、夢を追う無垢な少女たちに勇気を与える激励になるとは、分からないものだ。

 この時、つい、ナイブズの口の端が緩んだ。自分でも気付かぬ内に。

 これを見たアトラは、笑顔を浮かべて、ナイブズに最も伝えたい言葉を贈る。

「ありがとうございます、ナイブズさん。あなたの言葉のお蔭です」

「お前が立ち直れたのは、俺ではなく、お前の友人たちのお蔭だろう」

「みんなにはもう、お礼を言いました。だから、後はナイブズさんに言うだけだったんです」

「そういうものか」

「はい、そういうものです」

 ただ、言葉が人伝に伝わっただけで、笑顔を向けられ、礼を言われる。やはり、何時まで経っても、こういうところはよく分からない。慣れはしたが、理解には遠い。

「よかったね、アトラちゃん」

「みんなのおかげよ。もう、ネバーランドを夢に見ることもきっと無いわ」

「ピーターパンやティンカーベルに会えないのは、寂しいんじゃないですか?」

「正直、もうそんな歳でもないしね」

 ピーターパンの御伽噺を引き合いに出して、少女たちは盛り上がっている。

 子供が成長しない不可思議な世界での冒険譚、だっただろうか。文学方面には疎いので、ピーターパンほどの高名な作品でなければ、題名と粗筋さえ分からない。

 ネバーランド。いつまでも子供が子供のままでいられる、大人にならない、ある種の理想郷。

 少女たちは、そんなネバーランドを否定し、変わらぬまま今に停滞することを良しとせず、未来へと変わりいく現実こそを是としている。

 安息の地、安住の地を見つけても、それでも旅を続けた、あいつのように。未確定の、如何様にも変わり得る未来にこそ、夢も希望もあるのだと信じて。

「変わりたいと思うのは、人も同じか……」

 呟きにも満たない囁き。しかしそれを、アリス・キャロルは耳聡く聴きつけた。

「ナイブズさんも、自分を変えたいと思っているというのは本当でしょうか?」

「誰から聞いた?」

「灯里先輩が、そうなんじゃないかと」

「まぁ」

 思いもよらぬ問いかけに訊き返せば、出て来た名前は水無灯里。アテナや晃のような洞察力ではなく、直感でそこまで言い当てられるものかと、驚きを通り越してやや呆れてから、過去の火星から帰還した後に、口を滑らせていたことを思い出した。あの時の内容から推察すれば、そういう結論も導き出せるか。

 そこまで考えて、「自分を変えたい」という一言への否定が全く浮かばないことに気付く。

 最初はただ、人間を見つめ直し、向き合おうと思っていた。それだけでも十二分な変化だと思っていた。だが、それで終わりではなかったのだ。

 そこから更に、緩やかに、季節が移ろうよりも遅々として、それでも、確かにナイブズは自分でも気付かぬ内に、少しずつ変わっていたのだ。

 知らぬ間に、願っていたのだ。変わりたい、変わっていこうと。今、この時も。

「……もう、随分と変わった。あまり意固地になっていたから、変わるまでに、途方もない時間が過ぎてしまったが……」

 150年、かかってしまった。

 ただ一心に、人類を全宇宙から滅ぼし、同胞を人類への隷属から解放せんがためにと。全ては罪無くして、搾取され続ける同胞の為にと。その為に、150年を費やした。

 しかしその野望も、他ならぬ同胞たちに拒絶され、否定された。全てが無駄になり、自分に残されたものは無く――ただ、空虚だった。あの瞬間には、そう思っていた。

「無駄じゃないですよ、きっと。その過ごした時間でナイブズさんの心が感じた全部が、今のナイブズさんに繋がっているんじゃないかな……って、あたしが、その、思いまして……」

 途切れたナイブズの言葉に返事をしたのは、杏だった。最初は滑らかだった語りが、後になるにつれて詰まって、どもって歯切れが悪くなる。緊張か、或いはつい口出ししてしまったが、目上に対して口にすることではないと恐縮したのか。

 どちらにせよ、ナイブズにとって興味深い言葉だったことに変わりは無い。

「お前の持論からの推論か?」

 問いかけることでナイブズが続きを促すと、杏は、ぱぁ、と喜びの表情を浮かべて元気に返事して、話を続けた。

「はいっ。あたしに他人を変えることはできなくても、自分で自分を変えることはできる。そのために、あたしはやわっこく、やわっこくなろうって思ってるんです」

「やわっこく……柔らかく?」

「はい。やわらかければ、どんな形にだってなることができる、どんなものだって吸収することができる、色々足りないものをいっぱい足すこともできるって、そう思うんです」

「なら、がちがちに硬かったら、どうなる?」

「委縮して、硬くなっちゃったら……自分の形を変えられなくて、何も吸収することも、足すこともできなくなっちゃう」

「だから……やわっこく、か」

「はいっ。やわっこく、ですっ。もし最初は硬くっても、毎日の中で、色んな人と出会って、色んなことをして、やわっこくなるんです。そうしたら、きっと、なんにだってなれる。憧れの一人前(プリマ)にだって……」

 最後に杏は、自らの夢へと思いを馳せていた。知らぬ内に、自分自身にも語り掛けていたのだろう。

 夢を見て、夢を追い、夢を叶えようとする少女の言葉は、ナイブズにも響いた。

 150年かけて、ヴァッシュは、ガッチガチに凝り固まった分からず屋の頭を、柔らかくしてくれたということか。そうやって柔らかくなれたからこそ、この星で、この街で、ナイブズは多くの体験を経て変わることができた。

 なるほど、分かり易いし、納得もできる。他人を変えることができるやつもいる、という一点だけは食い違っているが、些細なことだ。

 灯里と言い、光と言い、双葉と言い、そして今の杏と言い、ナイブズが複雑難解な長考をするところを、直感的で素直な言葉で一足飛びに形にしてしまう。

 まったく、不思議なやつらだ。猫妖精や大神たちなどよりも、よほど。

「そろそろいいか?」

 猫妖精と大神を連想して、仕事へ向かう途中だったことを思い出した。

 アトラとの話も終わり、杏からの話も終わった。留まる理由も無くなったのだからもういいだろうと、短く告げて立ち去ろうとしたが、アリスに呼び止められた。

「ナイブズさん、一つ忘れてます」

「なに?」

「誕生日にすること、さっき御自分で仰いましたよ」

「まぁ」

 誕生日にすること=裏誕生日にすることであろうから、ナイブズの発言した中に、今すべきことがあるということだろう。

「……鼻眼鏡の持ち合わせは無いぞ」

「そっ、それではありませんっ」

 一番反応があったことを取り敢えず言ってみたが、どうやら違うらしい。そうであっても困るが。

 他は、クラッカーは手元に無いし、ケーキなど以ての外だ。

 そうなると、今すぐにできることは一つだけ。

「……誕生日、おめでとう(ハッピー、バースデイ)

「ありがとうございます、ナイブズさん」

 ナイブズの祝いの言葉に、アトラは照れ臭そうに笑った。

 正解だったようで、アリスはなぜだか得意げにしている。これで先に進めるかと思ったが、またもアリスに呼び止められる。

「それでは、いつも教えて貰っているナイブズさんへのお礼に、私からも一つ、お教えします」

「なんだ?」

「今からちょうど一ヶ月後、アテナ先輩の裏誕生日なんです」

「まぁ」

「それが?」

「それだけです」

「そうか」

 それだけを聞いて、ナイブズは今度こそ仕事へと向かった。

 去り際に、ふとこの取り合わせにあゆみがいないことが気になって尋ねると、藍華共々後輩たちの指導を任されていて、今日会えるのは夕方なのだとか。

 最後にそれだけ聞いて、ナイブズは足早に立ち去った。目指す先は雀の宿屋。天道神社の一同は、とうに着いていることだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 24月24日。

 この日は火星におけるクリスマス・イブであり、ネオ・ヴェネツィアでも1月6日のエピファニアを迎えるまでのクリスマスの祝祭の始まりの日であり、街は祭り(フェスタ)で盛り上がり、活気付いている。

 そして、水先案内業界ではもう一つ、この日には特別な意味がある。それは、水の三大妖精の一人、“天上の謳声(セイレーン)”アテナ・グローリィの裏誕生日であることだ。

 毎年この日は業界の関係者や知人、熱心なファン、そして親しい友人や後輩たちから、12月の誕生日よりも多くの祝福のメッセージとプレゼントが贈られてくる。クリスマスのお祝いも兼ねてという名目で、贈り物もしやすいのだろう。

 一方、今日は祝祭の日と裏誕生日が重なっていることもあり、アテナにとっては特に忙しい日でもある。クリスマス・イブに通り名そのものの天上の謳声を、家族や恋人と一緒に聴きたいという旅行客の他、熱心なファンが直接裏誕生日のお祝いの言葉を述べたいと、こぞって予約してくるのだ。

 そして今年のこの日は特に別で、オレンジぷらねっとの会長の知人が最終便に予約を入れているのだ。とても大事な客人であるらしく、アテナはこの日の出勤前、会長直々に「くれぐれもよろしく」と頼まれていた。「くれぐれもうっかりしないように」とも心配された。

 最終便前の小休止にと、温かいコーヒーを飲みながら、アテナはこれから会うお客様はどんな人だろう、とぼんやりのんびり考えていた。

 かなり高齢の男性らしいが、こわい人でなければいいな、自分よりしっかりしている人だといいな、優しい人だろうか、気難しい人だろうか……等々、色々考えている内に、アテナの前に一人の男が現れた。予約の10分前、約束を守る真面目な人物であるらしい。

 いや、よく見るまでもなく、その人物は老人でないし、それどころか、顔見知りの男性だ。

「ナイブズさん」

 驚くあまり、紙コップを落としてしまった。幸いほとんど飲み終えていたから、中身がこぼれて制服を汚すことは無かった。

 紙コップを拾ってゴミ入れに、あ、いや、それより先に挨拶を、その前に本当にお客様なのか確認を――などと勝手にあわあわして、うっかり壁にぶつかってしまう。

 ぶつけてしまって痛むおでこと鼻の頭を抑えて蹲ること1分。アテナがひとまず落ち着いたのを見計らってか、ナイブズは溜め息交じりに口を開いた。

「予約していた知り合いから譲られた」

「あ、そうなんですか」

 実に単純な答えだった。そういえば、ヴォガ・ロンガでゴールした後、ナイブズが使っていた舟を取りに来た老人がいた。灯里は店主さんと呼び、アリスたちは占い師のおじいさんと呼んでいた。当人は前者で呼んでほしいと言っていた。

 きっと、あの店主なる占い師の老人こそが、本来予約を入れていた会長の知り合いなのだと思った。ナイブズとも接点があると話していたけれど、アテナが深く話しを訊く間も無く、店主はぶらりと舟を漕いで去ってしまったから、詳しいところは分からずじまいだった。

 ともかく、気を取り直して、ナイブズを伴って舟乗り場まで移動する。移動しながら、他愛の無い話をする。年末は仕事で忙しい人も多いが、ナイブズもその例に漏れず、つい先週に大きな仕事を終えたものの、その疲れなど色々なものが抜けきっていないらしい。本来ここへ来るはずだった店主と言う人も、年内に片付けないといけない大仕事の仕上げに追われ、今日は来られなくなったのだとか。

 そんな話をしている内に、アテナの舟の前まで着いた。片足だけを舟に乗せ、ナイブズへ振り返り、右手を差し出す。

「お客様、どうぞこちらへ」

 ナイブズは手を取り、舟へと乗り込む。客席に座ったところで、はたと、ナイブズは何かに気付いた様子だ。

「そういえば、何度か水先案内人の舟には乗ったが、一人前の舟に乗って、観光案内を受けるのは初めてだな……」

 普通ならちょっとありえないことだが、ナイブズならそうであってもなにもおかしくないから、アテナはつい笑みを浮かべた。

「ナイブズさん、水先案内人のお友達が多いですもんね。晃ちゃんとか、灯里ちゃんとか、あゆみちゃんとか」

「友達……なのか?」

「私はそう思いますけど」

 友達と言う単語に、ナイブズは心底意外そうに聞き返してきた。アテナが(うべな)っても、中々納得できない様子だった。

 ナイブズでもこんな些細なことで悩むのかと少々驚き意外に思いつつも、オールを手に取り、気持ちを切り替える。さっきまでは友達同士でも、今からは水先案内人とお客様なのだから。

「コースはどうしますか? 予約していたお客様から、コース指定がありましたけど……」

「予定通りに」

 ナイブズも切り替えたのか、返事を即座に返す。いつもの調子が出て来たようだ。

 それを聴くのとほぼ同時に、舟を漕ぎ出す。

「かしこまりました。それでは、本日は私、アテナ・グローリィがご案内させていただきます。冬の街を、そして火星(アクア)では24ヶ月に一度のクリスマスに彩られたネオ・ヴェネツィアを、どうぞお楽しみください」

 アテナの操るオールに応えて、舟は水路を往く。

 事前に指定されたコースは奇妙なもので、観光名所は殆ど通らず、街中の水路を通るものばかり。まるで、見習いや半人前の自主練習や実践練習のようなコースで、アテナにはそれが懐かしくさえ感じられた。

 通りがかるのは、どこも平凡な街角に代わり映えの無い街並み。普通の水先案内人ならば何を話したらよいものか、分からぬままに世間話で茶を濁して、時を稼いでそのまま終わらせてしまうのが精々であろう。しかし、ここにいるのは水先案内人の頂点の一角、三大妖精のアテナ・グローリィ。観光案内や接客対応が――素がうっかり故に――白き妖精や真紅の薔薇に一歩劣ろうとも、そのセンスはやはり非凡。

 今日がクリマス・イブであるということも取り合わせて、(ささ)やかな街角の景色から、ネオ・ヴェネツィアの全容をなぞるように、端の端まで丁寧に、ナイブズに街の姿を見せていく。

 民家の飾りつけ、育てている花、すれ違う舟、行き交う人々、街の歴史、建物の謂れ、装飾や紋様の伝統、クリスマス・イルミネーションの解説、等々、色々に、様々に。

 クリスマスということでキリスト教の話題に触れると、意外なことに、ナイブズはその知識がとても豊富だということが明らかになった。アテナの説明で足りないところを僅かに捕捉されて、そのことを尋ねると、すらすらと聞き取れないほどの量の専門用語の数々が、ナイブズの口から次々に飛び出て来たのだ。

 つい、元はその方面の博士だったのかとアテナが問うと、キリスト教を源流とする宗教結社と長く付き合いがあったので、その兼ね合いで自然と覚えていったのだという。

 ナイブズの知識に感心して、気が緩んだのか、つい、そのまま世間話を始めてしまった。

「お客様……ナイブズさんがこちらにいらして、もうどれぐらいになりますか?」

「……20ヶ月ほどになるか」

「それなら、いつも街を歩いて回ってるナイブズさんなら、見慣れて、見飽きた景色ばかりだったんじゃないですか?」

「そうでもない。同じ場所でも、日々、刻々と変わり続けている。今日のように、季節や行事に合わせて装いを変えることも多い。初見の新鮮さが失われても、見飽きたと感じることは無い」

「そうなんですか。なんだか、素敵ですね」

「それに、お前の観光案内が上手いからな、楽しいものだ」

「ありがとうございます」

 受け答えをしつつ、アテナは今のナイブズの様子に微かな違和感を覚えた。そう何度も会っているわけではないが、いつになく多弁で、言葉や存在感に大きさや圧力が無い。

 まるで、憑き物が落ちて、一緒に気力も抜け落ちたような。肩の力が抜け過ぎて、体や心まで脱力しているような。もしかしたら、こっちが素のナイブズなのだろうか。それとも、大仕事を終えたばかりで、疲れているだけなのだろうか。

 そんな疑問は胸に仕舞って、世間話もお終いにして、仕事に戻る。ちょうどその時、扉が開かれた水路の前を通り過ぎた。舟を止めて、後ろを振り返る。

「あ、今の水路……」

 指定にあった『普段は扉が閉じている水路』ではないか。

「どうした」

「えっと……事前のコースのリクエストで、もしもあの水路の扉が開いていたら、入ってほしいってなってて……」

 曖昧なコース指定で、乗っているのは要望を出した当人ではない。どうしたものかと判断に迷う。

 他方、ナイブズは溜め息を漏らしていた。なんだか、呆れているような、観念したような。不快にさせてしまっただろうかと、アテナがおろおろするより先に、ナイブズが口を動かした。

「入ってやれ」

「いいんですか?」

「思惑は読めた。問題無い」

「はい……かしこまりました。それでは、戻りますね」

 ナイブズの指示に従って、その思惑というものが自分では分からないまま、門を潜って水路を進む。

 水路の先にあったのは、半ば朽ちた、火星開拓時代の遺構・廃墟だった。

 クリスマスで華やいでいる街の喧騒さえ届かない、静かで、寂しげな場所。まるで、世界から切り離され、忘れ去られてしまったような場所。

 静かすぎて、落ち着けない。心を揺らがす、こわい静けさ。

 一方、ナイブズはなんら気にした様子も無く、悠然として前を見ている。それを見て勇気づけられて、恐怖を呑み込んでアテナは舟を漕ぎ続ける。漕ぎ続けて、ふと気付いた。ここは、さっきも通った場所だ。

「あれ? あれ? なんだか、さっきも同じ場所を通っているような……」

「そこの、左前方の脇道に入って、行き止まりで一旦停止だ」

「え……? あ、はい」

 ナイブズからの指示を聞いた途端、先程までそこにあると気付かなかった分岐を見つけることができた。単に、いつもの自分のうっかりで見落としていただけかと納得して、舵を切る。

 曲がった先は、確かに行き止まりが奥に見えた。

「ナイブズさん、ここのこと、御存知なんですか?」

「何度か来たことがある」

「こんな所にまでお散歩に来てるんですね」

 アテナは素直に感心して、その様子を見たナイブズは呆れたような――それでいて可笑しそうな――溜め息を一つ。

 指示通り、行き止まりの場所で舟を止める。上陸するわけでは無いようで、その場で待機する。

 ナイブズはぐるりと周囲を見回して、一つ頷く。

「舟謳を頼む」

「ここで、ですか?」

「どうやらお前の歌のファンは、人間に限らないらしい。――さっさと出て来い」

 ナイブズが呼びかけると、暗闇から、物陰から、猫たちが次々に現れた。

「わぁ……猫が、こんなにたくさん」

 地球猫、火星猫問わず、多種多様な猫たちが興味津々の様子で、アテナを見つめている。暗闇に光る数多の双眸は不気味さもあったが、それ以上に、瞳に満ちる輝きがそれを消し去って余りあった。

 見回す内に、ふと、燕尾服を着込んだ紳士的な出で立ちの猫の人形と目が合って、会釈をされて、お辞儀を返した。

「……あれ?」

 奇妙に思って顔を上げると、そこに猫人形はいなくて、豚のように丸く太っている猫と、円形クッションのようにまん丸な球形の猫がいるだけだった。何かの見間違いだったのだろうか。

 疑問はさておき、深呼吸。

 眼差しに籠められた期待に、ちゃんと応えなくちゃ。天上の謳声(セイレーン)の名に恥じないように。

「それでは……」

 謳声が、狭い水路に響き渡る。

 歌が、空間に、小さな世界に満ちるように。

 誰しもが耳を傾け、心を酔わせ、ただ聞き入った。

 猫も、猫妖精も、猫人形も、大神とその分神たちも、そしてナイブズも。

 天上の謳声が、心に澄み渡る。

 舟謳が終わると、猫たちは拍手の代わりにか、歓声を上げるように一斉に鳴き始め、猫妖精と猫人形は見えない場所から惜しみない拍手を贈り、大神は幾度も吠えて素早く尻尾を振っている。

 彼らとは対照的に、ナイブズは静かに話しかけて来た。

「あの時の謳、だな」

「はい。覚えていてくれたんですね」

 あの時とは、ナイブズとアテナが初めて遭遇した、あの時。

 波の音に聞き入っていたナイブズが、通りがかったアテナの謳声を騒音と切って捨て、短くも強烈な痛罵を浴びせた、あの時に他ならない。

「覚えていたというより、思い出した。この謳より波に聞き入っていたとは、あの時の俺はどうかしていたな」

 ナイブズは自嘲しながらも、アテナへ惜しみない賞賛を贈った。しかしアテナには、ナイブズの自嘲の方が気になってしまった。

「仕方ないですよ。きっと、私も……初めて見聞きする素敵な何かが目の前にあったら、誰の声よりも姿よりも、見入って、聞き入っちゃうと思いますから」

「この星で生まれ育ったなら、そういうものには慣れていそうだがな」

「分かりませんよ。私も砂漠を見たら、ナイブズさんみたいに感動しちゃうかも」

「……あれがそんなにいいものとは思えんがな」

「ええーっ」

 フォローしたつもりがバッサリと切って捨てられて、取り付く島もない。けど、あの時のように怖くないし、恐ろしくもない。寧ろ、ちょっと楽しいくらい。

 その後、3度のアンコールを受けて、ちょっとしたコンサートは終幕。一休みしてから出発となった。

「そろそろ行くか」

「かしこまりました」

 ナイブズの指示に従い、不可思議な水路を抜ける。出た後に「下手をすると出られなくなる場所だから、今後は立ち入るな」と言われて、同じ場所を回っていると気付いた時のことを思い出して、ぞっとする。

 アリスも話していた――自分だけ行ったことが無かったと悔しがっていた――ネオ・ヴェネツィアの七不思議の一つ、無限回廊の水路だったのだと気付くのに、然して時間は掛からなかった。

 そんな場所を案内できるナイブズは、一体何者なのだろうか。

 訊こうか、訊くまいか。悩むのは、仕事を終えた後にしよう。

 思いがけない舞台は終わったけど、予定のコースはまだ続きがあるのだから。

 

 夕焼けが沈み、茜の空に夜闇が混じり始める頃、舟は終着点へと着いた。

 場所はサン・マルコ広場近く。夏も終わりの頃、レデントーレの日に、黒衣の君から助けられた場所の近くだ。本人は知り合いと会っただけだと言っていたけれど、サン・ミケーレ島にいたのだから、きっと助けてくれたに違いないと、アテナは信じて疑わなかった。

「今日は充実した時間を過ごせた。礼を言う」

「ありがとうございます。宜しければまた次も、ご案内させてください」

 舟を停めると、ナイブズが立ち上がり、アテナもナイブズの動線に先んじて動き、ナイブズが舟から桟橋へと移る手伝いにと、行きと同じく手を差し出す。

 ナイブズはその手を取ると同時、アテナの目をまっすぐに見詰めて、言葉を紡いだ。

「それから――裏誕生日おめでとう、アテナ・グローリィ。……いい後輩たちを持ったな」

 桟橋に上がると同時に、ナイブズは斜め後ろを振り返る。アテナもそちらへ視線を向けると、そこには見慣れた一艘の黒い舟と、親しい3人の水先案内人の姿があった。

「あ。アリスちゃん、アトラちゃん、杏ちゃん。いつの間に……」

「最初からいたぞ」

 アテナは全く気付いていなかったのに、ナイブズは最初から気付いていたと言い切る。本人たちもバレているとは思ってもいなかったようで、ナイブズの言葉に動揺してる。

「大方、俺が何をしでかすか見張っていたのだろう」

「えっと……私たちは、練習中に偶然通りがかっただけで」

「アリスちゃんが、アテナさんがナイブズさんと2人きりは心配だから、どうしてもって」

「あ、アトラさんも杏さんも、ナイブズさんがいつ鼻眼鏡を取り出すか、でっかい気になっていたじゃないですかっ」

「まぁ!」

「はなめがね?」

「誰が取り出すかそんなもの」

 溜め息交じりにナイブズは強く否定したが、何がどうしたらナイブズとはなめがねが繋がるのか分からず、アテナは混乱している。

 そんなアテナをよそに、ナイブズはあるものを取り出して、アテナに差し出した。

「アテナ」

 名を呼ばれて、ナイブズを見る。右手に、何かを持って差し出している。

 その手にあるのは、赤い花。

「薔薇の、花……」

 まさか、ナイブズからプレゼントを貰うとは思ってもいなくて、はなめがねのことで混乱していることもあり、アテナは思考が纏まらずに固まってしまい、ただ花の名を口にして、花を見るしかできなかった。

「世話になった女には、花の一つも贈るものだと聞いたが……不適か?」

 アテナの様子から、自分に何かしらの落ち度や不手際があるのかと疑ったようで、ナイブズは薔薇を引っ込めるような仕種を見せた。

 そんなことはないと、頭で考えるよりも心で感じて、自然と手が動く。そっと、赤い薔薇の花を受け取った。

「ありがとうございます、ナイブズさん。とっても、嬉しいです」

 アテナの返事を聞いて、ナイブズは微笑みを浮かべていた。照れくさそうな、嬉しそうな、どこか子供のような――あの時と同じ、アテナを、わけもわからぬ恐怖から解き放ってくれた、ありがとうの言葉と一緒に見せてくれた、あの微笑みだ。

「………………では、さらばだ」

 短くそう告げて、アリスたちがやって来るのも待たず、ナイブズはアテナの前から去って行った。

 アリスたちが来ると、今度は晃と藍華とあゆみ、そしてアリシアと灯里も、アテナの裏誕生日を祝うためにやって来てくれた。どうやら、謎の占い師からこの時間にここに行くと良い、というメールがあったらしく、それでみんなが一度に集まれたようだった。

 ナイブズがアテナに薔薇を贈った話題で暫く持ちきりだったが、その間も、アテナは心此処に在らずという様子だった。

 自分が覚えている限り、ナイブズに別れの言葉を告げられたのは、初めてのはずだから。

 それが気になってしまって、しょうがなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 23月25日。

 出掛けた翌日の夕方になって、漸くナイブズは店へと戻ってきた。

 極北の地から来た神々(カムイたち)の内、武闘派の3人と何故か“遊び”として軽く手合わせすることになったり、少し話をするだけのつもりが宴会に引き摺り込まれたり、アマテラスとニャンコロカムイが一緒になってやんちゃをしたり、酔い潰れた神々が全員起きるまで待っていたら昼が過ぎていたりと、色々とあって、猫妖精の所へ連れて行くのが遅れに遅れたのだ。

 色々と貴重な体験をできたが、本当にあの神々(カムイたち)は神と呼ばれる存在だったのだろうかと、率直な感想がそれだった。仮にも太陽神の化身であるという大神アマテラスからしてああなのだから、当然と言えば当然ではあるのだが。何か釈然としない。

 店に入ると、奥のカウンターで店主が端末に向かって黙々と作業をしていた。今日も来店客はいなかったようで、店の棚に変化は見られない。

「やあ、ナイブズ。すまなかったね、初対面で彼らの相手は大変だったろう」

「些事だ。それで、お前の仕事は片付いたのか?」

 作業の手を止めて、店主は苦笑いを浮かべて首を横に振った。

「片方は見通しが立ったんだが、もう片方が、随分と厄介でね……やはり、君に頼る以外に無いようだ」

 2つの案件を抱えていたとは気づかなかったが、難題を理由に仕事を言い渡されるのは想定内だ。しかし、店主の様子はこれまでのものと違っていて、酷く深刻な面持ちで、真剣な表情だった。

「寝坊助のピーターパンの目を醒ますため、夢遊病のティンカーベルを静かに眠らすため、夢幻の世界(ネバーランド)を閉ざす。そのために、どうか、君の力を貸してほしい」

 何の因果か、偶然か、それとも仕組まれた意図の上か。つい昨日、少女たちが話していた童話と登場人物の名が、店主の口から語られた。

 ナイブズが夢現の境を越え、夢幻の世界へ行く日は、諸々の都合もあって24月17日の未明と決まった。

 これが、ナイブズが今年行う最後の仕事となり、火星で担う最後の仕事となる。

 



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#28.夢幻

皆様方のお目がもし お気に召さずばただ夢を 見たと思ってお許しを


 星暦0174年6月13日 ゴラン峡谷

 峡谷の深奥に、210年前の大墜落(ビッグ・フォール)によってノーマンズランドの地表に落下した移民船の残骸の一つが、墓標のようにひっそりと突き立てられている。

 普段は誰も訪れることはおろか近づくことの無いその場所に、眠っていた人造の天使(プラント)。その前に訪れたのは、彼女が呼び寄せた2人の男女の“VTS”。招いたのは本来男の方だけなのだが、彼女は惑星上の全VTSへ無作為に呼び声を届けてしまったため、本人以外のVTSが声に誘われて旅立ち、失踪し、峡谷近くまで大挙して現れる事態になっている。

 女のVTS――ヴェロニカ(Veronica)(TubaSa)は、ただ息を呑んで、男の名を呼び、状況を見守るしかできない。

 大墜落の影響からか、自我を有し人語を話すプラントから告げられた、プラントの“力”に纏わる理論・推論、それによって導き出された“子”の受胎のメカニズム、そして壮大なスケールの宇宙存亡の危機。何一つとして、翼の理解の及ぶものではない。

 男のVTSは、銃を構え、プラントへと銃口を向けて沈黙している。

 目の前の彼女が懇切丁寧に説明してくれた、この星の、この宇宙の消滅の危機。その理論づけとなるプラントの“力”に関する推論も、彼が感覚していたものの解説として極めて適確なものであり、否定できる要素が無かった。

 鈍色の光を帯びる銃――傷だらけの銃身、揺るがぬ銃口。その向く先にあるものは、2つの生命。プラントと、彼女が身に宿した子供。

 我が子を「産まれる前に殺して」と哀願する母と、生まれればそのまま宇宙を消してしまうという“まだ生まれてもいない”生命。

 引き金に掛けた人差し指は、構える腕は、支える足は、凝視する眼は、苦悩に満ちた表情は、いずれも、彫像のように動かない。

「新しい宇宙が生まれるのなら……どうだろうかと、考えたこともあります。新しい宇宙なら、より良いかもと……苦しみだけが溢れてる、この世界より……」

 プラントは静かに語り、言い終えることなく、ただ、最後に涙を流した。

 その想いは、言葉にならずとも、VTSには痛いほど伝わってきた。だからこそ、彼は思考を止めない。諦めない。目の前の命を、一つたりとも。

「さぁVTS、早く撃って。子供がもうすぐ産まれる……その前に、早く!」

 引き金は引かない。言葉も発さず、ただ凝視する。その瞬間を決して見逃さぬためにも。

 プラントとその子供、この星、この宇宙、新しい世界。

 全ての運命が、彼の銃に、装填された6発の弾丸に委ねられている。

 それでも、彼は、VTSは揺らがない。

 翼が彼の名を叫ぶ。直後、遂にその瞬間が訪れる。

「だめ! 産まれる! 世界が終わる!!」

 プラントの悲鳴のような叫び声。

 世界の終末を嘆くような。我が子の誕生を祝福できぬ、母親としての絶望が音になったような、悲痛な――文字通りに“悲しく”“痛ましい”――叫び声。

 それが合図となって、VTSは引き金を引いた。

 6発の弾丸が、プラントの胎へ。今まさに、この世に生を受けた子供へと放たれた。

 そして、“力”が爆ぜた――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふと気付くと、ナイブズは汽車の座席に乗っていた。

 眠りから覚めるような感覚。窓の外の暗黒。デジャビュ、見覚えがある光景、身に覚えのある体験。

 ネバーランドへの確実な行き方は汽車に乗っていくこと。汽車に乗るにはまず寝ること。

 店主から説明を受けた時は半信半疑だったが、まさか本当にこうなるとは。どういう理屈なのか、さっぱり分からない。この世の事象は須く理解しうるという考えは烏滸がましいのではないかと、そんな気さえしてくる。

 客席から立ち上がり、車内をぐるりと見回す。他の席にも、網棚の上にも、人の姿はおろか、猫の姿すらない。ここにいるのはナイブズ独り。

 先頭方向の客車の扉が開き、車掌が現れた。城ヶ崎村を訪れる際に乗って以来となる対面。

 

――切符を拝見します――

 

 懐から白紙の切符を取り出し、差し出す。車掌は受け取ると、一つ頷いてすぐにナイブズに返した。

 

――どうか、お気を付けて――

 

 会釈と同時、車掌の思念がナイブズに届く。そして、汽車が駅に着いた。

 車掌を一瞥し、降り口へと向かう。

 駅にも人の気配は無く、ナイブズの他に降りる客もいない。駅は中央を線路に寸断されて2分されている。こちら側には町が見えるが、反対側は真っ暗で何も見えない。

 無人駅の無人改札を通り、外へ出る。出た途端、足下で水が跳ねた。

 水浸しの町――アクア・アルタ、では、ない。目の前の景色はネオ・ヴェネツィアではない……いや、一部の建造物がネオ・ヴェネツィアのものだ。

「なんだ、この町は……?」

 奇妙な光景だった。ネオ・ヴェネツィア、城ヶ崎村、コンクリート造りの古い街並み、神々が写真で見せた極北の國――様々な街、町、村、集落が渾然一体となっている。共通点があるとすれば、それらが火星上のもの――或いは本来地球に在ったであろうもの――だということぐらいか。

 ミニチュアを継ぎ接ぎにしたような、奇怪な世界。振り返り、駅舎に掲げられている看板を見る。

 

 WELCOME TO NEVERLAND

――ネバーランドへようこそ――

 

 まるで子供の落書きのような字体で、そう書かれている。

 行く当てがないとはいえ、こんな所で立ち止まっているわけにもいかず、水浸しの町へと向かう。

 歩きながら、今回の仕事について情報を整理する。

 今回の目的は、ピーターパンの身柄の確保、行方不明のティンカーベルの捜索と保護。ネバーランドを閉ざす上で、この2人の存在は必要不可欠らしい。

 その為に必要な人手。ピーターパンと深い縁で結ばれている2人の少女と、ティンカーベルが慕っている少女、合計3人がナイブズに先んじてネバーランドを訪れているという。

 ナイブズが何をすべきか、為すべきかは、具体的な指示は何もされていない。ただ、ナイブズがそこへ行き、少女たちと出会い、彼女達から事情を聞いて、力を貸せばいいのだと。そして、ピーターパンを目覚めさせ、ティンカーベルを眠らせればよいのだと。

 いつものこととはいえ、この遠回しなやり口はやはり苛立つ。堪らず舌を打つ。小さな音のはずが、しん、と静まり返った都市空間においては、反響も相俟ってやけに大きく聞こえた。他に聞こえるのは水を踏みつける、ざぶざぶ、という音だけ。

 鳥獣や虫の存在はおろか、其処彼処に見える草木からも生命の気配が感じられない。試しに手近な街路樹を触ってみれば、その触感は明らかに異質であり異常。木を触ったことの無い者が、木の形だけ真似て作ったオブジェクト――そのように直感する。

 謂わばこの世界そのものが、夏に見た怪異“黒衣の君”と同じもの。

 上辺だけを真似た、空っぽな虚像。

「……あれが言っていたのは、そういうことか」

 夏のあの日に、黒衣の君はナイブズを指して『私たちは同じもの』だと言っていた。

 外見だけは整っている、中身が抜け落ちている、空虚とした存在。

 それを言い当てられ、図星を指されて、それで怒り心頭となったわけか。

 あの時は、直後にブルーサマーズが出て来たことで黒衣の君のことを失念してしまい、そのことを顧みることが無かった。

 虚構の町を、ナイブズは独り歩く。

 さて、3人の少女とピーターパンとティンカーベル。最初に遇うのは誰になるか。

 

 

 

 

 気が付くと、VTSは見覚えの無い街にいた。

 空気は埃っぽくないどころか綺麗なもので、足下は一面に水が張られている。

「って、ええ!? なにこれぇ!?」

 驚くまま素っ頓狂な声を上げると、近くを通りがかっていた2人の少女が顔を出してきた。

「あら、今日は迷い人の多い日ね」

「え? 僕、迷子確定なの? 迷子だけど」

 開口一番迷子を宣告されるも、この状況では抗弁のしようも無く受け入れるしかない。

 あまりにも、直前の状況と違い過ぎる。峡谷の底で朽ちた移民船から露出した、唯一の生き残りのプラントと対面して、銃を握っていたはずなのに。

 銃はホルスターに収められ、周囲にはプラントの気配すらない。それどころか、通常の空間とは異質な雰囲気だ。大気中の水分濃度が高くて空気の感触が違うとか、そういうことではない。

 一体、ここは何処なのだろうか。まさか失敗して、異世界か天国にでも迷い込んでしまったのだろうか。

 途方に暮れて、天を仰いでため息を漏らす。なんだか、空すら違って見える。というか、空も大分違う。奥行きが無くて平面的で、空っぽい天井って感じだ。本当にどこなんだここは。

「えっと、私も同じ迷い人ってやつみたいで、真斗ちゃんが詳しい事情を知ってるみたいなんですよ」

 見るからに困った様子の彼を心配してか、赤毛の髪を左右で結わっている、淡いピンクの衣装を身に纏った少女が、そんな風に声を掛けてくれた。同じ境遇の人間が他にもいて、この事態に詳しい人もいるから大丈夫だよと、見ず知らずの風来坊に。

 そのさりげない心遣いが、自然な優しさが、この状況では殊更に嬉しくて、彼の表情にも笑顔が戻った。

「ありがとう、気が楽なったよ。それで、マトちゃんって君の名前かい?」

 ピンクの少女にお礼を言ってから、彼女が指した黒髪の少女へと声を掛ける。

 腰のあたりまで伸びたさらさらの長髪にも目が行くが、強い意志を宿した、凛とした目と表情も印象的だ。彼女の肩に乗っている、首にブローチ付きのリボンを付けている黒猫の存在に、この時漸く気付いた。

「そうよ。その子とは初対面のはずなんだけど……そういえば、あなたの名前は?」

「えっ!? ええ、っとぉ~……愛、です」

 マトは彼の問いに頷いて、そのままの流れで赤毛の少女に名を問うた。赤毛の少女は親しげに違和感なくマトの名前を呼んでいたから、てっきり知り合いなのだと思ったが、違うようだ。

 赤毛の少女――アイは、マトに名を問われると何故かひどく動揺したが、数秒逡巡し、躊躇いがちに名乗った。何か、名前を知られたくない、教えたくない事情でもあったのだろうかと、経験者は思う。

 それは些細なこととして、大事なのは見知らぬ世界で2人の知り合いができたことだ。

「マトと、アイだね。僕は……ジョン・スミス。よろしくね」

 彼――VTSは、過去に名乗っていた偽名を使った。VTSではあまりに不自然だし、本名では万一という可能性もある。この偽名は長く愛用した愛着のあるものでもあるし、この場で名乗るにはぴったりだ。

「それじゃ、駅に行きましょう。待ち合わせもしているし、詳しい話はそこでしましょう」

 マトに促されて、ジョン達はひとまずこの街の駅へと向かうことになった。

 水没した都市の水面は、風も凪ぎ、3人以外に動くものも無いため、鏡のように澄んでいた。

 空の蒼を映した街に、真紅の外套が翻る。

 度々翻っているのは、ジョンには珍しいものばかりで、あれこれと目移りして近くで見て確かめたい衝動を抑えられないからだ。

 あれはなんだ、これはなんだ、と10度繰り返した結果、背中にアイのドロップキックが綺麗に直撃した。

 ジョンは虫の潰れたような呻き声を捻りだしてうつ伏せに倒れ、アイは蹴りの反動を利用して綺麗に着地、実に手慣れた――実際に蹴り慣れている――鮮やかな手際だった。

「ジョン! 子供じゃないんだから、勝手に動かないの!」

「あ……アイ、サー……アイ」

「何やってるんだか……」

 アイに怒られ、マトには呆れられてしまったが、このお蔭もあって少女2人と打ち解けることができた。正に怪我の功名というやつだ。

 水の中へ突っ伏したのに体も服も濡れてないことを怪訝に思っていると、ふと、黒猫と目が合った。

 黒猫はじっと、ジョンを見ていた。警戒しているのではなく、何かを確かめるように、真っ直ぐと。

 取り敢えず頭を撫でて顎を擽って、彼とも打ち解けることに成功した。ついでに、マトからケット・シーという名前だということも教えてもらった。

 濡れぬ水、ハリボテの空、生気の無い草木。

 はてさて、ここは夢か現か幻か。それとも霧の向こうの異界(ビヨンド)か。或いは古い世界を喰らって生まれた新世界か。

 知らぬものに囲まれて、分からないことばかりでも、蒼の世界を颯爽と、真紅の男は歩み往く。

 

 

 

 

 帆船――人類の宇宙進出が成された近現代においてはもはや実用されておらず、大半が歴史史料として保管され、美術品として展示されている。火星においても流石に帆船の実用化は成されず、何らかのイベントでごく短距離を航行する程度で留まっている。

 夢幻の世界(ネバーランド)にもただ一隻のみ存在する帆船。如何なる知識の齟齬が生じたかは不明だが、この帆船は本来の用途とはかけ離れた形で動いている。その甲板の上に、2人の少年の姿があった。

 1人は、上下ともに真っ黒な学生服――学ランと俗称される――を着込んだ、黒髪で細目の少年。この世界の最初の住人の1人であり、ある迷い人の少女から名付けられた名前はピーターパン、愛称はピーター。その傍らに、ティンカーベルの姿は無い。

 1人は、ボロの外套を纏った、金髪を総髪に纏めている少年。嘘か誠か、決して短くは無い夢幻の世界の歴史において初となる、太陽系外惑星からの迷い人だった。名前はトラン。

 奇しくも、産みの母の手から離れた経緯のある2人は、互いにそれを知らずとも意気投合し、トランはピーターによる夢幻の世界の解説について半信半疑ではあったが、喜んで自分の知る限りの、外の世界の――遠い外宇宙の砂の惑星の話をした。

 200年以上前に墜落した移民船団。その僅かな生き残りの末裔たち、彼らの苦難と試練の歴史――数多の失敗と挫折、死の上に成り立つ人の歴史。

 見渡す限りの砂漠、砂礫の荒野。2つの恒星が燦々と輝き、呼吸を繰り返すだけで喉が渇き、口内が焼けるような大旱の世界。

 自らが作り出した天使に縋りつき、搾取し、生命も力も搾り取る以外に生き残る術の無い、哀れな人間たち。凡そ地球種の生命体が著しく生存するに適さない環境下でも、知恵を絞り、手を取り合い、時には奪い合いながらも、逞しく生きる人間たち。

 そんな苛烈な世界に在って、生存競争に勝ち残り、砂の惑星における唯一の原生生物として、先住種族として人間たちを静かに観察し続けている砂虫(ワムズ)。実は、砂の惑星の大気の組成を、地球種の生物に適したものに調整しているのは砂虫である――という仮説を立てている研究者もいる。

 その双方とも異なる第三者として、人に寄り添い生きて行くことを選んだ、人造の天使たち。その力は砂虫たちにとっても羨望の的であり、60年前の大戦の折、その力を我がものにせんと暗躍していたそうだ。決して怒らせてはいけない相手を怒らせて、先代の砂虫の長は砂に呑まれて地に還ったらしい。

 トランは人、砂虫、プラントの三者全てを詳しく知る稀有な存在であった。

 今まで聞いたことも無いような、それこそ別世界の物語のような話を聞かされて、ピーターは久し振りに興奮気味だった。その勢いと流れのまま、ピーターも自身の生い立ち、この世界の成り立ち、そして母体となる水の惑星について、自分が知り得る全てを――夢幻の世界に訪れた全ての人々から聞かされた話を、自分の口で、自分の言葉で、トランに伝えた。

 トランにとって、それは荒唐無稽な御伽噺のようでもあったが、それが逆に新鮮で、面白く、熱心にピーターパンの話に耳を傾けていた。寧ろ、御伽噺など聴くのは初めてなのだ。

 誰かに夢幻の世界のことだけでなく、水の惑星について話すことはピーターにとって初めての体験であり、新鮮で、楽しくて――その中に自分自身の経験が何一つないことが、どうしようもなく口惜しかった。

「どうしたんだ? 急に黙っちゃって」

「…………会ったばかりの君に、話すようなことじゃないだけど……」

 ピーターは、自分でも気付かぬ内に、辛さ苦しさに耐えかねて、この世界が直面している問題についてトランに打ち明けた。

 

 

 

 

 歩いている内に、風景はネオ・ヴェネツィアとなった。

 裏側が無く、所々に歯抜けがあり、細かい配置の狂った紛い物の街並み。特に、サン・ミケーレ島が地続きになっているのは傑作だ。

 それも無理からぬか、この街に、或いは世界に海が無い。これでは、街に溢れる浸水現象をアクア・アルタの亜種と片付けることもできまい。

 地続きのサン・ミケーレへと向かうが、黒衣の君やそれに類する気配は無かった。代わりに、本来は墓所のある筈の花畑で、1人の少女と出会った。

「おじさん、こんにちは」

 その少女は、ナイブズを見つけて自分から声を掛けて来た。

 白地に青のライン――ARIAカンパニーの制服を着た、片手袋の水先案内人。しかし髪は金、腰より先まで伸びた長髪は2つに分けて編み束ねられている。

 ナイブズの知る人物と幾らかの差異が目立つし、何より灯里よりも幼いように見えるが、まず間違いなく。

「お前は……アリシア・フローレンス……?」

「あら? どこかで、お会いしたことがありましたか?」

 返って来た答えは肯定。どういうことかと一瞬混乱するが、店主が何気なく言っていた言葉を思い出す。

 曰く、夢幻の世界では時間が曖昧で、軸が混ざると。

 詳しくは行けば分かると言っていたが、こういうことだったか。

 恐らく、この世界は通常の時間運航から切り離されている。あらゆる時代から干渉可能な、切り離された異世界。時間静止に等しいほど極端に実時間経過の遅い神空間と同じだ。

 いや、寧ろ、この世界は神空間の亜種なのではないか。世界の根本の作りは神空間と同じで、世界を形作るのを人の意志に委ねているのではないか。

 そうなると、またしても神の掌にいることになり、もう何度目かと頭を痛めたくなるが、今は情報収集が先決か。

「…………大妖精、天地秋乃の弟子ということで、顔と名前だけは知っていた」

 過去への干渉による影響が未知数な以上、適当な言葉を繕って会話を続ける。半人前の時分では、さしもの未来の水の三大妖精も無名だったようだ。

「まぁ、そうなんですか。ありがとうございます。おじさんのお名前は?」

「………………ジョン・ドゥだ」

 ジョン・ドゥ。ありきたりで、ありふれた名前。そこから転じて、あからさまな偽名の意。同じ意味を有する名前としてジョン・スミスがある。スミスの方は一時期ヴァッシュが使用していた名前なので、選択肢から外す。加えて、ジョン・ドゥには身元不明の死体の意もあるので、ナイブズが名乗るにはよりふさわしいと思えた。

 それを知ってから知らずか、アリシアは「ジョンさん、ですね。よろしくお願いします」と朗らかな笑みを浮かべて頷いた。

「お前は、ここで何をしている?」

「人を探してるんです。ジョンさん、ピーターくんとベルちゃん、御存知ありませんか?」

「俺もその2人を探している」

「まぁ、そうなんですか。それじゃあ、一緒に探しませんか?」

「…………いいだろう」

 情報を聞き出す前に、話の流れで同行することになってしまった。協力する必要があるとはいえ、もう暫くは単独行動をするつもりだったのだが。

「ありがとうございます。大人の方と一緒なら、とっても心強いです」

 穏やかで、朗らかな、それでも有無を言わさぬ力を感じる笑みと言葉。

 雨の日に出会った秋乃といい、師弟揃ってよく似たものだ。

 不快には思わず、状況を受け入れる。この方が事態を解決するには効率はいいはずだ。

「他にもお前ぐらいの歳頃の少女が2人いるらしいが、心当たりはあるか?」

「真斗ちゃんと……誰かしら? 私と真斗ちゃんの他にも、ここに自分で来る子がいたのかしら?」

 店主は3人の少女を並べて語っていたが、どうやら1人はまた違うらしい。或いはアテナと晃かとも思っていたが、そんなことは無かったようだ。

 マトの名前には聞き覚えが無い。ナイブズにも分からない以上、やはり同行するのが上策か。

「取り敢えず、そのマトと合流する方がいいようだな」

「そうですね。それじゃあ、夢ヶ丘の方へ行きましょう」

 夢ヶ丘、初めて聴く街の名前。ナイブズも見たコンクリート造りの町の名前で、この世界の中心に位置するらしい。本来はそこにピーターパンとティンカーベルは普段からいて、マトも現実のその町の住人だという。

 明らかに事態の中心地、行くほかあるまい――と、ナイブズも決めた、丁度その時、一匹の猫が現れた。

「にゃ」

「お前は、あの時の」

 いつ以来か。ナイブズと共にこの星へ降り立った黒猫だ。普通でないこの世界にまで、何故現れたのだ。

「あらあら、珍しいわね。ネバーランドにあの子以外の猫さんが来るなんて」

 アリシアの発言からも、この世界に猫が現れるのは普通ではないと分かる。言葉からするに、今までの例外は一つだけだったのだろう。

 ナイブズがあれこれと思考を巡らせていると、黒猫はナイブズとアリシアの顔を順に覗き込んだ。

「付いて来るにゃ。アマテラスの分神、壁神がティンカーベルと一緒に待っているにゃ」

 黒猫が、喋った。

「あらあら、まあまあ! 猫さん、お喋りができるの!?」

「夢の中ならそういうこともあるにゃ。そう思っておけにゃ」

「そうなの。とっても不思議で、素敵ね」

「……そういうものなのか」

 今まで様々な不可思議な超常現象に直面してきたが、猫が人語を話すというのはあまりにも受け入れ難いことだった。

 しかしよくよく考えてみれば、砂虫とて人語を学習して話すようになったのだから、夢のような世界で猫が話すぐらいはあり得るか……?

猫妖精(ケット・シー)の頼みで、お前らをティンカーベルの所まで案内してやるにゃ」

「まぁ、あの子が。あの子もお話しできるのかしら?」

「あいつは恥ずかしがり屋だからにゃ、多分話せても話さんにゃ」

「そうなの、残念ね」

 やや混乱していたが、ケット・シーの名前が出たことで、自然と思考が切り替わる。アリシアの様子を見るに、先程言っていた『あの子』=ケット・シーで間違いない。黒猫も否定せず、言外に肯定している。

 普段、人と極力関わりを持たないようにしているケット・シーが人間と行動を共にしているという、その事実が気に掛かった。それほどまでに重篤で切迫した事態とも思えず、何らかの事情があるのではないかと推測する。

 アマテラスの分身については、もうその程度では驚かない。猫妖精とは対照的に、あの大神は人や俗世に関わりすぎなぐらいだ。

 ともかくとして、探し人の片割れの当てが付いた以上、優先すべきは合流よりもこちらだ。

「俺は行くが、お前はどうする?」

「私も行きます。ベルちゃん……もう、ずっと会えてなくて、心配なんです。真斗ちゃんはしっかりしてますから、きっと大丈夫ですし」

「それじゃ、行くにゃ」

 ナイブズとアリシアの返事を聞くと、黒猫はすたすたと歩き出した。行く先は、アリシアが案内しようとしていた夢ヶ丘とは別方向。アリシアとマトも未だ足を踏み入れたことの無いという、極北の國。

 道中、ナイブズはアリシアからネバーランド、そしてピーターパンとティンカーベルについて話を聴くことにした。黒猫は沈黙を貫き、真っ直ぐに歩き続ける。

 

 

 

 

 当面の目的地であった夢ヶ丘駅に着いて、真斗のこの世界での知り合いであり友人であるアリシアという少女を探したが、他に人の気配はない。予定ではここで落ち合うはずで、真斗は寧ろ遅れて来たぐらいだと云う。曰く、アリシアは真面目でしっかりしてはいるが、暢気でおっとりしている所もあるので、もう暫くここで待ってみよう、ということになった。

 ジョンは鉄道駅など生まれて初めて見るものだから、あっちへふらふら、こっちへふらふら。見かねた愛から「落ち着きなさいっ」と打ち込まれた蹴りを受けて、勢い余ってホームから線路へと落下する。真斗と愛が心配して駆け寄ると「ばあっ!」と脅かしてから、軽々とホームへ飛び上がった。

 真斗は少し後ずさりした程度だが、愛は驚いた拍子に尻餅をついてしまって、恥ずかしさから赤面してしまった。

「ごめんね、大丈夫?」

「……うん。私こそ、ごめんね」

 お互いにやり過ぎを謝って、ジョンが屈んで手を差し出して、愛が手を取って立ち上がろうとした、丁度その時。

「2人とも、気を付けて」

 言った真斗の視線の先は、2人ではなく駅の反対側。2人揃って何事かとそちらを見ると、波飛沫を上げて、巨大な帆船が現れた。

 呆気に取られて、呆然として、声すら出ない。

 帆船は水を掻き分け波を起こして、水飛沫を飛び散らせながら空へと昇る。

 真斗はホームの奥にいたから無事だったが、ジョンと愛は全身に水を被った。その衝撃で我に返った愛は、慌てて全身を確認して、不可解な事実に気付く。

「あ、あれ? 頭から水被ったのに、どこも濡れてない……?」

「水浸しの中を歩いてたのに、足も靴も濡れてないよね」

 言って、ジョンは右足を上げてぶらぶらと動かす。ブーツには濡れた痕跡すらないし、防水性と撥水性に優れたコートには水滴の一つも見当たらない。

 常識ではありえない現象に、ジョンも愛も困惑しながらも、取り敢えず立ち上がる。立ち上がっても、どこからも水が零れ落ちることは無い。

「ピーターは、水を見たことも触ったことも無い、又聞きの知識だけ。水に触れたらどうなるか、水を浴びたらどうなるか分からない……だから、水に濡れることが無いの」

 真斗が静かに解説するが、よく意味が分からない。そも、ジョンはピーターなる人物について知らないのだ。尤も、ピーターを知っているらしい愛も分かっていない様子だが。

 そういえば、先程の船はどうなったのだろうかと、空を見上げてみれば、巨大な帆船が悠々と空を走り回っていた。

「うわー。帆船って海を走るだけじゃなくて、空も飛べるんだなー。ビックリだなー」

 ショックのあまり、見たままの状況を棒読みで読み上げる。

 おかしいな、ああいう帆船は水上航行専用のもので、あんな風に航空力学に真っ向から喧嘩を売るようなものじゃないと思ったんだけどな。

「うぅ……荒唐無稽すぎてついていけない……! 一体何なのよ、ここ!」

 ジョンと同様に、愛も頭を抱えている。どうやら彼女の常識でも帆船は空を飛ばないようで、共通認識の存在になんだか安堵する。

 慌てふためく2人をよそに、真斗は冷静そのもの。駅のホームに置いてある金属の箱のボタンを押して、下に開いている穴から缶を取り出し、ジョンと愛にそれぞれ差し出して来た。取り敢えず、缶を受け取るが、なんだろうかこれは。

 真斗も自分の分を取り出して、上面にあるプルタブを上げて缶に穴を開けて、口を付けた。どうやら飲み物らしいが、ひょっとしてあれは飲料の自動販売機? ともかく、ジョンも見様見真似で缶の蓋を開ける。

「ここは、夢の中よ。冬の寒空の下……一人置き去りにされた赤子を哀れんだ猫妖精が見せている、泡沫の夢」

 口を付ける直前に、予想だにしない言葉を聞いて、動きが止まって、体が固まる。ジョンの隣で缶を持ったまま俯いていた愛も、顔を上げて、目を見開いて真斗を見る。ぎょっとする、とは正しくこの事だ。

 冗談なら性質が悪いし笑えないが、真斗は声も表情も真剣そのもの。とても笑えるものじゃない。

「とんだ御伽噺だけど……続きを聴きたい?」

  ジョンと愛はどちらともなく首だけ動かしてお互いを見て、何も言わずに頷き合う。

「はいっ」

「聴かせてくれるかい?」

 2人の返事を聴いて、真斗が語り出す――その前に、ちょっと気になったことを質問する。

「ところで、これ、夢の中で飲み食いして意味あるの?」

「気分よ、気分」

 

 

 事の始まりは、一人の女性が夜な夜な、ある神社に生後間もない赤子を置き去りして行ったことだった。

 女性が何故、そんなことをしたのかは分からない。ただ、事実として、雪の降る寒い寒い夜に、何もできない赤子が独りで取り残されていた。

 自らの置かれた境遇の分からない赤子は泣く事もせず、ぼーっとして、空を見上げていた。すると、どこからか黒猫が現れて、赤子に寄り添うように、赤子を懐くように丸まって、尻尾であやして眠りへと誘った。

 赤子が夢へと落ちると、そこには別世界が待っていた。同じ神社ではあるのだが、そこは現実と似て非なる夢幻の世界。

 その世界には先客がいて、1人の少女が赤子を発見した。赤子は当然何もできないし、少女は、おどおど、おろおろ、戸惑うばかりで何もできない。不意に赤子が泣き出すと、少女はいよいよ泣きそうなぐらいに困惑してしまったが、そこへ2人の老夫婦が現れて、少女に赤ん坊との接し方、世話の仕方を丁寧に教え始めた。

 少女が赤子と1人だけで接することができるようになったころ、老夫婦はどこかへ消えてしまい、少女と赤子の2人での奇妙な共同生活が始まった。ぎこちなく、手探りながらも、少女と赤子は少しずつ距離を縮め、分かり合っていった。

 そうして赤子が夢の中で少女と共に生き続けている内に、奇妙な現象が起こり始めた。現実で夢を見ている人たちが、その夢を通じてこちら側へと迷い込むようになったのだ。これを後々、同じく迷い込んだ1人である真斗が『迷い人』と命名することになる。恐らく、最初の老夫婦もそうだったのだろう。

 夢幻の世界と現実の世界――赤子と夢見る人々との時間はリンクしておらず、迷い人の年齢や性別はおろか、現実世界での時代さえバラバラだったのだ。

 やがて、赤子は迷い人にある共通点が存在することに気付いた。彼らは皆、何らかの想いや悩みを抱えていて、このまま時間を止めてしまいたい、ずっと今のままでいたい、今に留まりたい――そんな願いを懐いていたのだ。

 お気付きかもしれないが、迷い人と接している内に赤子にはある重大な変化が起きていた。

 赤子は迷い人から伝えられた情報や記憶、経験を見聞することで、自らの姿形や思考を成長させていった。

 それだけに留まらず、赤子が聴き得た知識を基にして、最初は赤子が捨てられていた神社だけだった夢幻の世界は、どんどん広がって行った。喋れるようになった本人曰く、自分の意志で広く大きくしたのだと。

 他方、赤子とずっと一緒にいる少女には、何故かそのような変化は見られなかった。

 

 

「じゃあ、この水も……ピーターだっけ? その子が出してるってこと?」

「いや……ピーターの話によれば、この世界が始まった時から空に浮いているあの船から、ずっと水が流れ続けてるらしいんだ」

 御伽噺が一段落したところで、ジョンは地面をたゆとう水面を指して素朴な疑問をぶつけたが、返って来たのは更なる謎。

「船なのに、水の上を行くんじゃなくて水を出すって……どうなってんのよ?」

「うーん……船も知らない赤ん坊の夢の中に、どうして船が最初からあったんだろうね? もう1人のベルって子と関係あるのかな?」

 愛はあまりの常識外れの状況に呆れ返って怒り気味だが、ジョンは冷静に更なる謎について問い掛けた。ここに来る直前まで宇宙消滅の危機に直面していてやや感覚がマヒしているのもあるが、この世界はジョンにとって知らないものばかりであまりにも現実感が無く、現実と切り離して冷静に客観視しやすいのだ。

「それも分からない。分かっているのは、あの水のせいで、今まさにこの世界が危機を迎えているってこと」

「……え?」

 重ねての問いに返ってきたのは、今度は世界存亡の危機。ついさっきまで直面していたやつだ。なにこの偶然とハプニングの連鎖、悲しいぐらいいつものことだ。

 平和に慣れている愛が聞き慣れない不穏な言葉に声を漏らしてしまったのとは対照的に、ジョンは何も言わずに天を仰ぐ。

 神様、一体僕はどういう星の下に生まれついたのでしょうか? 異世界っぽいところでぐらい勘弁してください。

 そんなジョンの内心は露知らず、真斗は水が齎す危機について語り始めた。

「この世界に私が来てから暫くして、船から流れ落ちる水の量が増え始めたらしい。水没が進むにつれて、迷い人の数も減っていって、このままじゃ誰もこの世界に来なくなってしまう……どうにかしないとって、ピーターは焦ってた」

 そこで真斗は一度、言葉を切った。肩に乗っているケット・シーも心配して顔を覗き込むほど、緊張して、強張っている。なにか、その先によくない思い出があるのだろうか。

「はい、真斗ちゃん質問」

 すると、愛が手をまっすぐ上げて質問を挟んだ。律儀な子だ。真斗が先程からずっと話して教えてくれていることも相俟って、2人はまるで教師と生徒のように見えた。

「なに? 愛」

「ここに人が来られなくなることの、何がそんなに困るの?」

 愛からの素朴な疑問に、真斗は答えに窮した。

 ただ、元に戻るだけ。言った方だけでなく、言われた方も、それを分かっている。だから、答えられない。客観的に見れば、第三者の視点で見れば、それですべてが収まって万事解決。それでも、と駄々を捏ねるのは我が儘でしかないから。

 子供なんだから、もっと駄々を捏ねていいのに。

「だって、誰にも会えなくなるなんて……寂しいじゃんか」

 代わりに、ジョンが答えた。とても簡単な真実を。

 仮に、ピーターが誰にも出会わずにもう1人の少女とだけ過ごしていたら、それでよかっただろう。だが、彼は出会ってしまった、触れ合ってしまった。真斗と愛に、そして多くの人々に。

 夢の中で幾つもの出会いを重ねて大きくなれた現実の赤子にとって、新たな出会いが絶たれること、そして再会すらもできなくなることは、存在否定にも等しいのではないだろうか。

 真斗は呆気に取られて、数秒してから吐息を一つ。

「……うん。きっと、ピーターもそうだと思う。ベルは、よく分からないけど」

「そっか……そう、だよね」

 愛も納得してくれた。それどころか、申し訳なさそうな表情で、ちょっと落ち込んでいる。

 2人とも、いい子なのだなと思う。こんないい子たちに大事に想われているピーターも。

「じゃあ、僕からも質問。ピーターとベルって言うのは、誰が名付けたの?」

 気分転換にと、ジョンも質問をする。なにしろジョンはピーターにもベルにも会ったことが無いのだ。寧ろ、御伽噺に出て来たもう一人の少女がベルという名前なのかも定かではない。

 真斗は、今度は微笑みを浮かべて答えてくれた。

「私だ。名前が無いのは不便だろうって、私が大好きな物語から拝借したんだ。ピーターパンとティンカーベル……あの2人にはぴったりだと思ったから」

「そっか……。2人とも、とっても嬉しかっただろうね」

「ああ。とても気に入ってくれたようだったよ。この世界にもネバーランドって名付けさせてくれた。それから少し経ってからだな、アリシアも来るようになったのは」

 その時のことを思い出してか、真斗はとても楽しそうだった。真斗にとっても、この世界は大事なのだ。だからこそ、この危機を何とかしたいと、そう思っているのだろう。

 ただ、それだけではないという予感がある。それを、確かめなければいけない。彼女たちの力になって、彼らを助けるためにも。

「それじゃあ、最後の質問。真斗は、どうしてピーターに会いたいんだい?」

「私も聴きたいっ。教えて、真斗ちゃん」

 ジョンが問うと、愛もそれに続く。ケット・シーも真斗の顔を見つめて、無言で回答を求めている。

 大きく息を吸って、深呼吸をしてから、真斗は静かに語り始めた。

「……ピーターが、流れ落ちる水の解決策として、受け皿であるこの世界を広げることを選んだんだ。問題はその方法で、いつ閉ざされるかもわからない夢の世界に、現実の人間を連れ込むことだったんだ」

「……あの時、私を連れて行こうとしたのも」

「そう、あなたも……。とにかく、関係の無い人を自分から巻き込むのは駄目だって言ったら……ピーターは、『関係の無い君はもう二度と、ここには来ないでくれ』って言って……その直後に私は目が覚めてしまって、その後も、何度も夢を通じてここに来ても……ピーターは、ベルは、私達の前に姿を現さなくなってしまったんだ。もう、2年も……」

 まず話してくれたのは、ピーターと会えなくなった事情だった。

 真斗は無神経な言葉で彼を傷つけてしまったと後悔している様子だったが、ジョンの見解は少々異なるものだった。

「あー、そっか。必死に頑張って考えた解決方法を伝えたら、褒められるどころか怒られて叱られちゃったもんだから、臍曲げてすねちゃったのか」

 考えを口に出すと、真斗と愛は、がくっ、と肩を落とした。そんなに驚くべき発言だっただろうか。

「そ、そうなの?」

「そうでしょ。だってピーターってさ、見た目はどんなに大きくなってても、赤ちゃんでしょ? それぐらい子供っぽくてもおかしくないと思うよ、僕は」

 愛に聞き返されて、素直に理由を伝える。2人の親しげな言動から察するに、今のピーターの姿は2人と同年代程度なのだろう。でも、彼が本当は赤ん坊だという事実に変わりはない。幼い部分が思春期の2人よりもあるはずだ。

 でなければ、危険な解決策を友達に伝えて、危険性を指摘されたらいなくなっちゃうなんてことはしないと思う。普通なら、一緒により良い方法を考えるなり、口喧嘩なりするはずだ。

 ジョンの考えに、愛は納得できていない様子だ。一方、真斗は――

「ぷっ……ふふっ、そうか。ヘソ曲げて、すねただけか……っ」

 ――お腹を押さえて、可笑しそうに笑っていた。彼のことを、ではなく、重く考えすぎていた自分自身を。

「ありがとう、ジョン。なんだか気が楽になったよ」

「いやいや。それで、肝心の君の答えは?」

 一頻り笑い終えて、真斗の顔色や声色からも陰が消えていた。

「ピーターに、あの時伝えられなかった……伝えなきゃいけない言葉があるんだ。それを伝えるまで、もう一度あいつに会うまで、私は絶対に諦めない!」

 凛とした表情で、力強い声で、真斗は断言した。聞き届けたジョンと愛も、大きく頷く。

 こういうことを伝えるなら、早ければ早い方がいい。なら、ここで待ってる理由は無い。

「よし! じゃあ、行こうか。ピーターの所へ!」

 それっぽいポーズをとって、空を指す。人差し指の示す先にあるのは、空飛ぶ降水船。

 ジョンの勢いに付いて行けないのか、2人は乗って来てはくれなかった。ちょっと寂しい。

「どうやって? 確かに、ピーターはあの船にいると思うけど……空を飛んでるのよ?」

「けどさ~、ここって夢の中でしょ? 海を走る船が空を飛べるんでしょ? だったら、僕だって、君たちだって、飛べてもおかしくないよ」

 真斗が苦言を呈したが、ジョンはこの世界が夢の中という点を強調する。

 そう、ここは夢の中だ。なら、人が空を飛べてもおかしくは無い。ジョン・スミスが空を飛んでも、おかしくは無いのだ。

 いざ、覚悟を決めて羽撃こうとした、その時。

「ああーっ! そうだ、思い出したっ!」

「ど、どうしたの?」

 愛が急に大声を出して、真斗が驚きも露わに聞き返す。

 それと同時。

 空飛ぶ船から、何かが飛来する。

「真斗ちゃん、ジョン。箒とかモップとかデッキブラシとか、そういうもの探して――」

「2人とも、下がって!」

 愛の言葉を遮り、ジョンは2人を庇うように前に出る。直後、飛来した何かは線路上に落下。巨大な水柱を作り、全方位に派手な水飛沫を上げて、線路と地面を粉々に砕き、小さなクレーターを作った。

 飛来した、それの外観は――

「は、羽根……の、塊?」

「でっかい、拳骨……?」

 真斗と愛の言った通り。巨大な、天使の羽根でできた拳だった。

 ジョンは瞠目し、声も出せない。まさか、そんな、と、心の中で困惑の言葉を幾つも呟く。

 一方、巨大な拳は一瞬で消えて、それに隠れていた少年の姿が露わになった。

「やあ、こんにちは。君たちが、ピーターの友達のマトとアイかな?」

 金髪を総髪に纏めている少年は、まるで散歩中の挨拶のような気軽さで声を掛け、近づいて来る。階段を一段上るような軽やかさで、線路からホームへと飛び上がる。

 少年が正面に来たことで、ジョンは強引に思考を切り替える。今は混乱している場合じゃない。

「彼女たちに何か用かい? 気になる女の子へのスキンシップかアプローチのつもりだったんなら、とんだハリキリボーイのお出ましだ」

「そんなんじゃないよ。ぼくはトラン、君たちと同じ迷い人。ピーターに頼まれたんだ。君たちをちょっと脅かして、帰してやってくれって」

「ピーターが!?」

 ジョンの詰問も軽く受け流して、少年――トランはピーターの名を出した。真斗と愛は声を揃えてピーターの名を叫んだ。こんな刺客を送り込んでまで、自分たちを拒絶しているのか――などと、この子たちには思わせない。そんな時間は作らない。

「嫌だと言ったら?」

「帰りたくなる程度には、怖がってもらうかな」

 言って、トランは再び右腕を変化させる。天使を思わせる羽根で構成された、腕。見間違えようも無い、天使の腕を変質させた、唯一無二の天使の武装――エンジェル・アーム。

 まさか、こんな所で会えるなんて。本来なら出会いを喜びたいところだけど、今はそれどころじゃない。

 トランと対峙したまま、肩越しに背後の2人を見遣る。直前に見せられた威力を連想させられて、息を呑み、恐怖で固まっている。

 極力、平静を装って、ジョンは2人に声を掛ける。

「愛、君は船まで行けるんだね? 真斗も一緒に行ける?」

「う、うん、多分……けど、今はそんなこと言ってる場合じゃっ」

「彼は、僕が引き受けた。君達は、ピーターの所に行ってあげて」

「……大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。これでも、こういう場面を切り抜けるのには慣れてるから」

 トランに敢えて背を見せて、真斗と愛には笑顔とピースサインを見せる。人差し指と中指を交差させる、独特のピースサイン。

「行きましょう」

「無理しないでよ、ジョン!」

 2人はジョンを信じて、先に行ってくれた。2人を帰しに来たと言ったトランは動かない。何故なら、2人の動線上にはジョンがいたから。そのジョンに、背を向けられたまま、威圧され、威嚇され、圧倒的なプレッシャーによってその場に縫い止められていたから。

 トランが少しでも追う素振りを見せたら、ジョンは振り向かぬまま、彼の両足を撃ち抜くつもりでいる。それはトランの如何なる行動よりも早く、如何なる行動をも許さない。

 この場に彼がいる限り、何者もあの2人の少女を追うことも、阻むこともできない。

 2人の見送りを終えて、ジョンが振り返る。それだけで、トランが揺らぐ。トランには力があっても、戦いの経験は無いのだと見抜く。そして、それは事実であった。

 対峙したまま、2人は動かない。睨み合ったのは数分か、それとも数十分か。主観時間すらあやふやになる緊張下で、先に変化を見せたのはトランだった。

「……ん? もしかして、あなたは――」

 何かに気付いたのか、トランの気が逸れて、戦意を霧散させた。

 何に気付いたのか。言うまでも無い。ジョン・スミスの正体だ。

 ちょうどその時、空を2つの影が飛んで行った。同時に聞こえるのは、素っ頓狂な、悲鳴のような叫び声。

 空を見上げて、その正体を確かめる。

「驚いたなぁ、箒で空を飛んでるよ……。御伽噺の魔女みたいだ……」

「まさか、あんな方法で……」

 ジョンもトランも、目の前の光景に唖然呆然。空飛ぶ箒に跨る2人の少女が、空飛ぶ船に乗り込むのを黙って見守るしかなかった。万一、落ちてしまった時に、助ける必要もあったから。

「どうする? 追いかけるなら止めるけど」

 2人が無事に船に辿り着いたのを見届けてから、ジョンからトランに声を掛ける。トランはとっくにエンジェル・アームを解除している。

「いえ。最初から、ぼくの目的は彼女たちの意志を確かめること。もう一回拳骨を落として、それでも行くなら、最初から止める気はありませんでした」

 微笑みまで浮かべて、トランはそう言った。

 あれで、あんなことして、エンジェル・アームまで使って、本当にただ脅かしに来ただけって。

「……いい性格してるね、君」

「この方が、あいつの為になりそうだったし」

 ジョンが呆れて皮肉を言っても、トランは笑顔だ。あんまりいい笑顔で、いい答えだったもんだから、ジョンも自然と笑顔になる。

 本当は、ここでトランと話していたい。気が済むまで、三日三晩でも十日十晩でも語り明かしたい。

 けど、今はそれよりも大事なことがある。

「それじゃ、僕らも飛ぼうか」

「はい」

 ジョンの言葉に、トランは即座に答える。どうやら、考えることは一緒らしい。

 2人の背に天使と見紛う翼が現れ、空へと羽撃いた

 

 

 

 

 道中で、凡その事情は把握できた。

 事態の中心人物はピーターパン、それを追うのは火鳥真斗。最初は前者と共にいながら、現在は後者に肩入れしている猫妖精。

 事態の陰に隠れてしまったティンカーベル、それを探すのはアリシア・フローレンス。前者の失踪理由は依然として不明だが、現在後者はナイブズと共に黒猫に導かれている。

 事態の実態はネバーランドの閉塞。世界の水嵩が増すごとに現実との繋がりが弱まっているらしく、いずれは完全に断絶するのではないかという。

 そうなる前に、火鳥真斗はピーターパンと、アリシアはティンカーベルとの再会を目指している。再会してどうするかは、敢えて聞いていない。本人たちの問題だ。

 気になるのは、閉塞していくネバーランドの方だ。閉ざすのが目的ならば、放っておけばいいだけのはず。ならば今回の仕事の真の目的は『ピーターパンを起こし、ティンカーベルを眠らせる』ことになる。少女たちと力を合わせる、という部分とも合致する。しかし、店主は『ネバーランドを閉ざすために』『ピーターパンを起こし、ティンカーベルを眠らせる』と言っていた。店主の性格からして嘘や方便とも思えない。或いは、水没が進むと現実と断絶されるだけで、ネバーランド自体は存続するのだろうか。

 考えている内に、地面の感触が変化した。土から雪へ。城ヶ崎村ののどかな田園風景から、雪景色へ。

「ここは、極北の國……オキクルミや、ポイニャウンペの故郷か」

 写真で見せられた景色と、幾らか一致する。雪国の民族文化を継承するために保存されている、極冠の酷寒地帯。ネオ・ヴェネツィアの雪化粧とは異なる、厚く積もった雪に覆われた銀世界。

 雪を砂に、寒さを暑さに変えれば、ノーマンズランドと大差ない。それほどに、厳しい土地だったと聴いている。

「火星にも、こんな場所があるんですね」

「雪の上に水が張っている場所は、流石に無いだろうがな」

 足元の水は、相変わらず存在している。普通なら雪に沁み込み溶かすか、寒さによって凍り付くかのはずだが、まるで水と油のように交わらずにいる。通常の物理法則から乖離した現象も、ここが夢の中の世界だということを思い出させる。

「あそこの森の奥にゃ」

 途中で水が深くなっている所があって溺れそうになってから、黒猫はアリシアの肩に乗って指示を出して道案内をしている。

 黒猫が指したのは、右前方に見える、見るからに怪しげな森だった。

 森に入ると、鬱蒼とした木々の中にも道や空間が確保されていて、道なき道を掻き分け進むことにはならなかった。

 似たような景色の連続や曲がりくねった高低差の激しい道で方向感覚が狂わされたが、道に迷うことは無かった。森の奥から聞こえてくる猫の鳴き声が、ナイブズとアリシアを導いていた。

 途中、中央に朽ちた切り株がある枯れ草の広場を通り抜けて、森の深奥へ。

 辿り着いた先は行き止まり。小さな空間の中央に、壁にはめ込まれてない謎の扉が鎮座し、その前に、1人の少女と紅い化粧を施した1匹の白猫が座っていた。

「ベルちゃん! こんな所にいたのねっ」

 アリシアは少女の名を呼び駆け寄って、抱きしめた。黒猫と白猫は2人から離れて、扉の上に移ってナイブズの様子を窺っている。

 少女の姿を見た瞬間、ナイブズの思考は停止していた。

 その姿に、顔貌に、見覚えがあったから。決して忘れ得ぬ彼女、見間違いようもない。だが、ありえない。彼女がナイブズの目の前に現れることなど、あるはずがない。

 目を閉じ、アリシアと抱きしめあっていた少女の目が開き、ナイブズと目が合った。途端、手をばたばたと動かして、アリシアに離れるよう求めていた。

 アリシア曰く、ティンカーベルは何があっても決して言葉を発さない――喋れないらしい。驚いても、笑っても、怒っても。調度今のように。

「どうしたの? ベルちゃん。あのおじさんが、どうかしたの?」

 アリシアは急に少女が暴れ出したので驚いている。後ろのナイブズに反応したということには気付いているようだが、理由までは分かっていない。

 ナイブズが一歩前へ出て、少女も一歩前へ。やがて、ナイブズの手が届く距離まで近づいて、2人は同時に立ち止まる。

 ナイブズは少女の口元の黒子を見て、少女はナイブズの泣き黒子を見て、目の前の相手が誰かを確信する。

「……テスラ。君、なのか」

 テスラ。

 西暦2405年05月03日02時06分に誕生した、ナイブズの知る限り最初のプラント自律種。

 229日間を掛けて人間たちの狂気によって嬲り殺しにされてしまった、出会うことさえできなかった同胞。

 少女は、首肯した。ティンカーベルではなく、テスラの名を。

「ジョンさん、ベルちゃんとお知り合いなんですか?」

「いや……俺が、一方的に知っているだけだ」

 驚きのあまり意識が途絶えるところだったが、アリシアに問い掛けられて返事をすることに意識を切り替え、何とか持ち堪える。

 ナイブズとテスラの間に面識は無い。彼女の死後、ナイブズがヴァッシュと共に医療ブロックで発見した研究レポートで、彼女の存在を知り、内部に保存されていた実験標本を目にしただけ。

 それだけの関係性のはずなのに、テスラは首を横に振った。自分も、ナイブズを知っているのだと。

 フラッシュバック。

 ビル・コンラッドと対面した後、幼き日のナイブズはヴァッシュと共に人工冬眠施設にいた。人口の莢で眠り続ける人々の顔を見て、彼らと共に過ごす日々に思いを馳せることが、兄弟の趣味であり、日課でもあったから。

 あの日、ナイブズはそこで見たのだ。少女の――テスラの幻影を。

 そして、テスラの幻影に導かれるように、ナイブズはテスラの眠るあの場所へと至ったのだ。

 考えられる可能性は、1つ。

「まさか、あの時見た君は……なら、君は、あの時、まだ……生きて……? 俺が、君に、最後の、トドメを……?!」

 テスラは標本の状態で、人間たちでは計り知れない領域で生存していたのではないか。そして類稀な感応力によって外部に存在する自律種の存在を知覚して、自分のヴィジョンを見せることによって誘導したのではないか。

 だとしたら、なんということだ。

 テスラを殺したのは、人間どもではなく、この、俺……!?

「ジョンさん!」

 突如として響く怒声。ナイブズの意識が引き戻される。黒猫と白猫も目を剥いて驚いている。テスラもだ。

 気付くと、ナイブズは自分の顔を自分の手で掴んでいた。いや、握り潰そうとしていた。ここは夢の中の精神世界だというのに、発作的に自傷行為を行っていたらしい。生身の肉体なら頭蓋に罅が入り、顔の肉と眼球を抉っていただろう。

「ベルちゃんが怖がってますっ。落ち着いて下さい!」

 声の主はアリシアだ。アリシアが怒っているという事実を理解して、急速に頭が冷えて行った。

「……お前も、怒れるんだな」

「――あっ。やだ、私ったら……すみませんっ、年上の方に失礼を……」

「構わん。お蔭で落ち着けた」

 ナイブズの言に、アリシアは顔を赤くして慌てた様子だ。咄嗟に、頭で考えるよりも先に言葉が出ていたのだろう。

 ナイブズの知る所の現代のアリシアは怒らないことを信条とし、怒ったことも無いと言っていた。だが、いざ大切なものが脅かされれば、正常に感情は機能する。怒りの沸点が、常人に比べて遥かに高いだけだったのだ。本人も、夢の中の出来事で忘れていたか、或いはこれが時間軸の分岐点となる事態かは知らないが。

 そんなことよりも、テスラの為に人間の少女が怒りを露わにした――狂乱状態へと陥ろうとしたナイブズを引き留め、怯えるテスラを助けてくれたことが、無性に嬉しかった。

 それは、テスラと人間の間に、実験者と被験者、加害者と被害者ではない、友達という対等の関係が結ばれているということなのだから。

「すまない、テスラ。怖がらせてしまったな。許してくれ」

 テスラの前に跪き、目線を合わせた上で詫びる。顔を俯け、許しを乞うた。10秒ほどは無反応で、大袈裟にやり過ぎたかと思ったが、やがて、頭に小さな感触。

 テスラの幼い手が、ナイブズの髪を梳くように、頭を撫でた。テスラは喋れないから、どのように行動すればナイブズを許したと伝えられるのか、考えてくれていたのだ。

 それは推測ではなく、確信。触れる手から伝わる、テスラの想い。

 直接触れ合って、漸く、同胞として存在を知覚できた。同胞としての力が及んだ。

「……そうか。だから、俺をここまで呼んだのか、黒猫よ」

「そうにゃ」

 テスラは喋れない。それでは、テスラの意思は他者にしっかりと伝わらない。代弁者が必要なのだ。テスラの、この世界の開闢からすでに存在していたティンカーベルの意思を伝える存在が。

 それができるのは、火星では唯一無二、ナイブズ以外にはありえない。

 顔を上げ、テスラへと手を差し出す。

「テスラ、俺に共鳴してくれ。肉体ではない、意識体だが……できるはずだ」

 ナイブズの言葉の意味が分からないのか、最初、テスラは戸惑っていた。無理も無い、テスラは229日間しか生存できず、ずっと外から断絶された被検体扱いを受けていたのだ。自分の“力”についてなど、知る由もあるまい。

 それでも、テスラはナイブズに応えてくれた。差し出した手に、小さく細い手が重なる。優しく包むように握って、テスラを誘導する。目の前まで来たところで手を放し、両手をテスラの頭に添えて、互いの額をくっつける。

 プラントも人間と同じく、あらゆる情報処理の中枢は頭の脳に当たる部分にある。融合せずとも接触、ないしは容器越しにでも近づけるだけで、極めて高い共鳴状態になる。

 下手をすれば意識が融け合い混ざり合う危険性もあるが、ナイブズはかつて数万のプラントを融合し統合した経験がある。その心配は皆無だった。

 テスラの情報を共有し、自分からは情報がいかないように調整する。テスラは幼い。与えられる情報量の大きさに混乱しオーバーロードを引き起こしてしまう危険があるからだ。

「ジョンさん? ベルちゃん?」

「大丈夫にゃ」

 事の成り行きを見守っているアリシアは、何が行われているのか不安げで、心配そうに2人の名を呼んだ。それを黒猫が言葉で励まし、白猫が彼女の肩に飛び移り、頬を舐めて慰める。

 数分後には、情報共有は完了した。

 突き付けられた事実の数々にナイブズは強い衝撃を受けていた。しかし、今はそれで立ち止まっているわけにはいかない。テスラの願いを叶えるためにも。

 そしてまずは、言うべきことがある。

「アリシア、礼を言うぞ。テスラが、随分と世話になったらしいな」

 テスラは長らく、この世界でも人に怯えて過ごしていた。あのような体験を経て、人間に恐怖しない方がおかしいのだ。例外は、赤子の頃から一緒にいたピーターと、赤子の育て方、赤子との接し方を教えた老夫婦だけだった。

 それを、アリシアが変えてくれたのだ。テスラが身を隠すのを“かくれんぼ”と誤認してのことだったが、結果的に、テスラの人間への恐怖を遊びに変えて、解きほぐしてくれたのだ。

 一方、アリシアはナイブズから突然お礼を言われて戸惑っている。

「ジョンさん、おでこを合わせただけで、ベルちゃんが何を言いたいか分かったんですか?」

「ああ。同胞だからな」

「それに、夢だからにゃ。不思議なことなんて幾らでも起こるにゃ」

 アリシアの素朴な疑問に、ナイブズは素っ気なく簡略に答え、黒猫が誤魔化すように被せる。アリシアも取り敢えず納得したようだから、それでいいとしよう。

 振り返り、扉を見る。どこにも繋がっていない、不自然な扉。だがこれは、ある場所へと繋がる秘密の扉。

 時空の狭間、はじまりの場所へと続く門。

「この門の向こうが、目的地だ。ピーターパンの居場所に通じているらしい」

 ナイブズが言い、テスラが頷く。テスラの主観時間に於いて、20ヶ月近い時間を費やして見つけた場所。ピーターパンがそこへ辿り着いたのも、ごく最近のことだ。

「私も行っていい? ベルちゃん。……あ、テスラちゃん、だっけ」

 アリシアがティンカーベルの名を呼んで、すぐにテスラと言い直した。

 すると、テスラはなんだか残念がっているような表情を浮かべて、アリシアが不思議そうな顔をしている。情報共有の恩恵もあり、ナイブズは即座に理解できた。

「ベルと呼んでやってくれ。テスラは、その愛称がとても好きらしい」

 火鳥真斗は赤子にピーターパンと名付け、テスラにティンカーベルと名付けた。そしてアリシアが、ベルという愛称で呼び始め、それで定着した。

 個体を識別する記号としての名称ではなく、個人への親愛が込められた呼称、愛称。それを人から与えられたことが、彼女にとってどれだけの救いであり、祝福であったことか。

「じゃあ、ベルちゃん。私も行くね」

 アリシアに改めてベルの名で呼ばれて、テスラは、ぱぁっ、と笑顔になり、頻りに頷いた。

 夢のような光景――実際に夢ではあるらしいが――を目の当たりにして、自分の中の何かが削げ落ちて行くような、そんな感覚を覚えた。満たされるのではなく、何かが落ちていく。心に、魂にこびりついていた、何かが。

 不快感は無い。寧ろ、軽くなった爽快感がある。

「行こう、テスラ。行くぞ、アリシア」

「はいっ」

 2人に声を掛け、テスラの手を引く役はアリシアに任せて、ナイブズは扉を開けた。

 扉の中にあるのは、見覚えのある光の回廊。白猫と黒猫が一声鳴いて先に入り、先導する。それに従って、ナイブズ達も光の回廊を進んだ。

 今度は途中ではぐれることが無ければいいのだが。前回はどうとでもなったが、今回ばかりはしゃれにならん。

 

 

 

 

 ジョン・スミスとトランが空飛ぶ船の甲板上に降り立った時、既にピーターたちの姿は無かった。舟の内部にいるのではないかというトランの発案により、2人は手始めにと船室に続いているであろう扉を開けた。

 扉を開けると、そこは薄暗い不可思議な空間だった。

 一度扉を閉める。ジョンとトランは顔を見合わせ、今度はそっと、扉を開けた。

「ここは、赤子の俺が、現実で捨てられて、眠っている場所を模して造られているらしい」

 不可思議な空間の奥から聞こえてくる、少年の声。トランがピーターの声だと断言して、ジョンも覚悟を決めて不可思議な空間へと突入する。

 太陽の沈んだ夜とも違う、光を遮断した暗所とも違う、不可思議な薄暗い空間。すぐ後ろには門のような赤い構造物があって、扉は風景に溶けるように消えていく。

「ここは時の流れから切り離された、時間の狭間。夢と現の境を越えた、夢と幻の狭間」

 普通じゃない場所、夢の中だとは聞いていたけど、ここまで不思議な場所だったのかと、ジョンもトランも面食らっている。しかし、聞こえてくるピーターの声に導かれるように歩き出す。

 声の主は、意外に近くにいた。真斗と愛もすぐ傍にいる。

 彼らが居るのは、神殿を思わせる木造の建築物。確か、日本の宗教建築の一種、神社というものだったはずだと、古い知識を引っ張り出して、状況の理解に努める。

「ここが、ネバーランドの全ての始まりの場所だよ」

 ピーターは神社の本殿の階段に立ち、本殿の屋根よりも上に見えるもの、神社の背後に佇むものを見た。それは、離れた場所にいるジョンとトランにも見えた。

 猫を模った、巨大な彫像。うっすらと開かれた目は画像や映像資料で見た仏像にも似ていて、見るだけで慈愛や慈悲を感じさせる。

 ここは、あの猫神を祀る社なのだろうか、などと考えている間にも、ピーターは話を続ける。

「俺も、ここを見つけたのはつい最近なんだ。正直、驚いたよ……世界の始まりから降り注ぐ水の発生源が、まさかもう一つの神社の、猫妖精(ケット・シー)の像だったなんてね」

 ケット・シー。真斗が連れていた猫と同じ名前だ。その猫も、今は真斗から離れてピーターの下にいる。

 真斗はピーターをまっすぐに見詰めて、微動だにしない。一方、愛はケット・シーの像を見て、何か気になったのか、ピーターの隣をするりと通り抜けて、像へと向かった。目指す先は、像の見つめる視線の先――何かを大事に包み込んでいるような、優しく添えられた両手の中。ピーターが言った、水の発生源だ。

 話すのに夢中なのか、それとも話すだけで精一杯なのか、ピーターが愛の行動に、そしてジョンとトランの存在に気付いている様子は無い。

「色んな方法を、必死に、何度も試してみたけど……この水を止めることができなかった。真斗ちゃんと別れた後、何度も現実世界に赴いて、見聞を広めて、この世界を広げていったけど……そんな俺の努力を嘲笑うように、世界に降り注ぐ水量もまた、さらに増えて行ったんだ。どれだけ世界を広げ続けても、それ以上の水が世界に降り注いでくる。ネバーランドの水没は止められない。結局、真斗ちゃんが正しくて、きっと姉さんも、それが分かっていたんだ。だから……どこかに隠れてしまったんだろうな」

 そこで言葉を切って、ピーターは寂しげに、自嘲気味に笑った。姉さんとは、きっと行方不明のティンカーベルのことなのだろう。

 真斗とトランは、黙ってピーターの様子を窺っている。ジョンは、愛が掌の中に何かを見つけて、悲しみと優しさが入り交じった表情を見せていることに気付いた。

「なあ、ピーター。君は、どうして水が溢れているか、考えたことがあるかい?」

 静寂を破り、赤い衣が薄暗い世界の中心へと一歩を踏み出す。

「ああ、確かに。今の話だと、ピーターは水への対策をしているだけで、原因を調べてないように聞こえたけど」

 ジョンの行動に応じて、トランも続いてくれた。

 少年少女たちは漸く、新たな乱入者の存在に気付いた。

「トラン。結局、全員連れて来ちゃったのか」

「君が本当に一人になりたがってたら、もっと本気でやったけど」

 溜め息混じりのピーターの言葉に、トランは微笑みを浮かべて答える。

トランは今日までずっと、人の在り方を見極める旅を続けて来たのだ。ピーターと出会って話した時間は決して長くはないが、トランが彼の内心を、隠していた本心を見極めるには十分な時間だったのだ。

 そしてそれは、ジョンも同じ。長い時間を人間に寄り添って生き続けた彼は、ほんの僅かな時間の付き合いだが、愛という少女を少なからず理解できているつもりだ。

 ジョンは、彼女に賭けたのだ。

「……考えたことも無かったよ。どうして世界に水が溢れてるのか、この水がどこから来ているのかなんて……」

 ピーターにとって、世界は最初からこうだった。水は最初からそうだった。だから、それらの在り方や理由が気にならなかったのだろう。砂の惑星で生まれ育った人々が、荒野だらけの砂塗れの大地に、双子の太陽に、砂虫の存在に、何の疑問も懐かないように。

 それは恐らく、真斗も同様。ここに何度も通う内に、ピーターやベルというこの世界の住人と交流するうちに、当たり前になって行ったのだろう

 けど、新参者はそうはいかない。僕らのような来たばかりの新入りには、色んな出来事への疑問が沸々と湧いて来てしまう。答えを得ようと悩んで、もがいてしまう。

「本当に分からないの? ピーター。ここはあなたの夢の中……あなたの心なんだよっ」

 だからこそ、答えに辿り着ける。この世界に来たばかりでも、以前からピーターを知っていた、覚えていた、愛ならば。

 ピーターは愛の言葉を聴いて、漸く彼女が猫妖精の像の許にいることに気付いた。振り返り、呆気に取られて目を瞬かせ、無言で聞き返している様子だ。

 今の愛の言葉の意味を理解できているものは、残念ながらこの場には誰もいない。或いは、あの像と同じ名前を持っているケット・シーならば何か知っているのかもしれないが、話せないのでは確かめようも無い。

 けど、理解しようとすることは、今からでもできる。この場にいる誰にでも。

「見て、ピーター。この像の、掌を」

 愛に誘われ、導かれ、ピーターは、真斗は、トランとジョンも、猫妖精の像の許へと集まる。ケット・シーもピーターの肩に乗って、静かに見守っている。

 猫妖精の像が両掌を合わせて、優しく抱いている、すくい上げているものがある。その両目から、水が溢れ出て、泡となって宙に漂い、いつしか弾けて滴となって降り注ぐ。

 泡沫(うたかた)の滴は、零れた涙。泣いているのは、赤子の像。

「これは……赤ん坊の、俺?」

 零れ落ちた、ピーターの言葉。赤子の像が返事をするはずも無く、涙を流し続けるだけ。しかし、答えてくれる人がいる。

「この水は、涙なんだよ。一人ぼっちにされて、置き去りにされて……声も上げられなくて、理由も分からなくて……静かに、静かに、あなたの心が泣いて流した、涙なんだよ」

 優しく諭すように、愛は自分の感じたままを言葉にして、ピーターに伝える。この解釈にジョンは異論を挟むつもりは無いし、他のみんなも同様だった。

「このままでは、お前の心は遠からず、悲しみに沈んで、死んでしまう。それを言葉も分からない赤ん坊のお前が、必死に伝えていた……と、そういうことらしい」

 新たに現れた、第三者の声。聞き覚えのある、聞き間違いようのない声。言葉の内容よりも、その声に驚き、思考が一瞬止まる。一瞬後、脳が正常な判断を下せるようになってすぐ、そちらへと振り返る。

「なっ……!?」

 そこにいたのは、1人の男と、1人の少女と、1人の幼女、そして白と黒の2匹の猫。

 少女にのみ、見覚えは無い。白猫は紅い化粧が珍しく、黒猫はなんだかどこかで見たようなことがある気もするが、些細なことだ。問題は残る2人だ。

 もう60年も前に行方を晦ませてしまった、この世でたった一人の兄弟。

 そして、もう1人の姿を見て――幽霊に出会ったのだと、ジョンは直感した。

 

 

 

 

「姉さん、とアリシア……貴方は?」

 黒服に身を包んだ少年が、テスラを姉と呼び、アリシアの名を唱え、ナイブズに誰何する。恐らくはこの少年がピーター。原本と配役がやや異なるが、この世界でずっと共にいるテスラを、ピーターが姉として慕っていることは、アリシアから確認済みだ。

「ジョン・ドゥとでも呼べ」

 アリシアの時と同様に偽名を告げて、猫妖精の像の許に集っている顔触れを確認する。

 長い黒髪の少女――アリシアの話していた火鳥真斗。

 赤毛で髪を2つに結わっている少女――店主の言っていた3人目。

 猫妖精の分身と思しき黒猫――こちらに同行していた黒猫と白猫と挨拶を交わして、今は少し離れた所で何やら話している様子。

 金髪を総髪で纏めている少年――情報に無い存在。確証は持てない。

 そして――

「ジョンが、2人」

 赤毛の少女が、ジョン・ドゥを名乗ったナイブズと、箒のようなトンガリ頭の、黒髪の、紅いコートを纏った男とを見比べる。

「ハロー。僕はスミスです」

 ジョン・スミス。あいつが一時期愛用していた、偽名の定番。

 それにこの声、喋り方、気の抜ける間抜けな笑顔。

 見間違えるはずが、分からないはずが無かった。

「………………こんなところで何やってるんだ、お前」

「それはこっちの台詞だよ。……久し振り」

「ああ、久し振りだな」

 あの決戦以来の、久しぶりの対面だというのに、お互い、酷い第一声が出てしまったものだ。

 それでも、こうして、また出会えたことが、ただ嬉しい。言葉が出ないほど、言葉に出来ないほど、嬉しい出来事だった。

 袂を別ってしまった、たった1人の兄弟と、こうして穏やかに言葉を交わせる日が来ることなど、夢にも思わなかった。

 ジョン・ドゥとジョン・スミス――ミリオンズ・ナイブズとヴァッシュ・ザ・スタンピードの再会が、遠い水の惑星で、夢幻の世界でなされるなどと、一体誰に思えたことか。

「その子は……テスラ、なのか?」

「……そうだ。テスラだ」

 ヴァッシュは、ナイブズの後ろでアリシアに手を引かれる少女を指して、テスラの名を出した。ナイブズはすぐに肯定し、身振りでアリシアとテスラを促し、先にピーター達の元へと向かわせた。入れ違う形で、ヴァッシュと金髪の少年がナイブズの下へ集まる。ナイブズも神社の階段を上り、猫妖精の像を正面に見据える。

 ピーターを中心に、少年少女たちは思い思いの言葉を交わす。ナイブズの仲介が無くとも、喋れないテスラの意図を、アリシアとピーターはよく汲み取ってくれた。

 アイという少女がアリシアに見覚えがあると言っているが、恐らくアリシアが水の三大妖精と呼ばれるようになって以後の時間軸から来ているのだろう。もしかしたら、ナイブズと同じ時期という可能性もある。

 少年少女たちがお互いに何処をどう探していたか、などを話している間に、ナイブズたちも少々言葉を交わす。

「ところでヴァッシュ、そいつは?」

「トラン。僕らと同じだよ」

「はじめまして、ナイブズさん。母さんから、あなたの話はよく聴かされていました」

 トランと握手を交わし、同胞であることを確かめる。母について、何か含みのある言い方をしたので確かめようとしたのだが、それより先に、少年少女たちから声が掛けられた。

「ジョンさん。そちらの、もう1人のジョンさんとはどういう御関係なんですか?」

 どうやら話題は2人のジョンに移っていたようで、その興味がそのままこちらへ向けられた。偽名の代名詞的な名前を名乗る2人が知り合い同士なのだから、変に勘繰られるのも当然か。

「俺達は双子の兄弟で、ジョン・ドゥもジョン・スミスも偽名だ」

「本名がバレちゃうと、ちょっとややこしくなっちゃうかもだから、秘密にさせてね」

「……うん。確かに、秘密にしておいた方がいいと思う」

 余計な誤解を生まぬよう、あっさりと事実を伝える。本名については、ナイブズもヴァッシュも、名の知れ方がアリシアとは別ベクトルの有名人だ。最悪、知人というだけで連邦当局に拘束される恐れもあるので、伏せておいた方がいいと判断した。

 トランが苦笑しながら賛同してくれたお蔭で、本名についての追及は無かった。代わりに、意外なところから追及が来た。

「あ~、そうなんだ。それでなんだか親近感があったのね。ジョンの方が弟でしょ」

「えっ、何で分かったの!?」

「私も双子なの。私の弟とジョンって、なんとなーく雰囲気が似てるから」

 なんという奇縁か。まさか双子の片割れがここにいて、ヴァッシュと行動を共にしていたとは。

「そっか……苦労してるんだね、弟くん」

「どういう意味よ!?」

 ヴァッシュがアイの弟への同情を口にした途端、綺麗な飛び蹴りが炸裂。この少しの間で何故、肉弾言語のコミュニケーションが行えるほどに打ち解けているのか。やはり、ヴァッシュの順応力は自分の比ではないと、何故か安心してしまう。

 相変わらずのこの調子なのだ。ナイブズと別れたあの日からも、今まで通りに過ごしていたことだろう。

 最低限の情報が全員に行き渡ったことを確認し、ヴァッシュが起き上がったのを合図に、話を本題へと戻す。

 3匹の猫たちは、いつの間にか猫妖精の像の頭の上に集まり、様子を見守っている。

「ピーター、お前はここを見つけた時のことを覚えているか?」

 ナイブズの問いに、場の空気が、しん、と張り詰め、静まり返る。

 ピーターパンは考え、思い出すようなしぐさを見せながら、少しずつ言葉を紡いでいく。

「……ケット・シーが、姉さんを見つけたと教えてくれて、姉さんを見つけて、追いかけていたら、見失って、その時にここに来て…………まさか、姉さんが案内してくれたの?」

 ピーターの推論を、ナイブズとテスラが首肯する。

「テスラはお前と違って、現実世界に干渉することができない。だから、お前が外に行っている間、この世界を隈なく探し回っていたんだ。この世界を水に沈める原因をな」

 テスラとの情報共有によって得た知識を、ナイブズの口から告げる。ピーターは数度頷いて納得し、テスラの前に膝をついて、目線の高さを合わせて、彼女に詫びた。

「……ごめん、姉さん。心配かけちゃって」

 テスラは首を横に振り、ピーターパンを優しく抱きしめた。

 この様子を見て、ヴァッシュもテスラが喋れないことに気付き、ナイブズが小声で答える。

 度重なる生体実験の中、如何なる言葉も人間へと届かなかった恐怖が、悲哀が、絶望が、彼女から言葉(こえ)を奪ったのだと。テスラの墓標に残されていたレポート――ナイブズもヴァッシュも一字一句正確に暗記している――から『発声』『発語』の記述が途中から消えていたこと、テスラの生体機能の解明にのみ終始して精神面を顧みなかった人間たちの姿勢が、それを裏付けるには十分な証拠であった。

 ナイブズとヴァッシュの内緒話が終わるのとほぼ同時に、ピーターは自らテスラの手を離して立ち上がった。

「つまり……ネバーランドはもうお終いってことだよね。他ならぬ、僕自身が原因で……」

 振り返り、ピーターは猫妖精の像を、その掌に在る赤子の像を、そこから溢れる泡沫を見遣る。

「夢は覚めるものだ。いい夢だろうと、悪夢だろうと」

 自然と、ナイブズの口が動いた。自身もまた、夢のような世界で、居心地の良すぎる世界で生きて来たのだという想いがあればこそ。

 それを聴いて、ピーターは寂しげな笑みを浮かべて頷いた。

「もう、誰かを呼び寄せたり、連れて来たりすることはしないよ。僕が現実の世界に行くことも。……もう、お終いにしよう……そういうことだよね、姉さん」

 テスラは静かに頷き、ピーターの手を取った。ピーターの笑みが、寂しさと共に深まる。テスラは、静かに頷くのみ。

「これから、僕と姉さんで君達を送り返す。一刻も早く、ここを立ち去るんだ。……いつ、悲しみで溢れて、満たされてしまうか、もう分からないから」

 唐突に告げられた退避と送還の通告に、この場にいる殆どの者が驚きを露わにする中で、ナイブズに先んじて一人の少女が即座に動いた。

「嫌だっ」

 ピーターの言に毅然と否を突き付けたのは、真斗。今この場にいる現世の者の中で、最もピーターと深い縁で結ばれている少女。これにはピーターも驚き、彼女の顔を見つめ返す。

「私は帰らないし……帰されたとしても、これから先、何度だって来てやる!」

 力強く言い切って、ずい、と詰め寄る。烈火の如き真斗の迫力にも、しかし、ピーターも譲らない。

「……君には、帰る場所があるんだよ? この世界に取り残されるかもしれないし……一緒に沈んでしまうかもしれないんだぞ!?」

「分かっている! だからずっと、私だけは……お前の傍にいてやるっ!」

 尚も言い募る、最後には語尾を荒げたピーターを押しのけて、真斗は自分の心をそのまま体ごとぶつけて、彼を抱きしめた。

 言葉と行動の意味するところを察したアリシアとテスラは共に驚きと喜びの入り交じった表情となる。アイは茫然、そして目を伏せ、静かに涙を流し、ヴァッシュが何も言わずとも、優しく励ました。トランは何が起きているのかよく分から無いようで、どういうことかと混乱している。

「……やっと、伝えられた」

 万感を込めた、少女の言葉が耳に届いて、ナイブズもまた動いた。

 テスラの前に跪き、彼女の手を取る。

「……俺もだ、テスラ。俺が、君と共に逝こう」

「ジョンさん?」

 ナイブズの言葉に、まず真っ先に反応したのは隣にいたアリシア。他の面々は何事かと顔を向ける程度。猫たちはぎょろりと目を剥いている。

「……何を言ってるんだよ? ナイブズ」

 ただ1人、ナイブズの言葉の意味を理解したヴァッシュだけが、問い質して来た。本名で呼ばれたが、構わない。どうせ今更だ。

「ヴァッシュ。俺は、お前に敗れて、死ぬはずだった。だが、お前に救われて……俺は、生まれ直せた。そして……あの、水の惑星(ほし)で……俺は生き直すことすらできた」

 ナイブズもまたヴァッシュの名を呼び、静かに言葉を紡ぐ。

 水の惑星で過ごした日々が、走馬灯のように脳裏を駆ける。過ごした日々が、矢の如く通り過ぎる。

 あの日々が、俺を変えてくれた。あの日々があるからこそ、今の俺はある。

 テスラの真実を知った今、人間への憤怒を滾らせ憎悪を募らせることなく、ただテスラを想って悲しむことができている。それ故に、導き出せた答えがある。

「分かったんだ、やっと……テスラに会えて。俺の命は、このために。この時の為に。こうして、死に直すために」

 あの日々の到達点は、此処だ。探していた答えは、これだったのだ。

 生まれ直し、死に直す。お前も、こんな気持ちだったのか? レガート。

「死……って、どういうことです?」

 火星での日常には似つかわしくない不穏な言葉に、アリシアが敏感に反応する。黎明の火星で、死に場所を求めていたと吐露した神主を見た時の灯里によく似ている。

 あの時、神主は生きる気力を取り戻していた。今、ナイブズは生き続けた実感があるからこそ、死を選んだ。

「……ピーターパンは成長している。なのに、ティンカーベルが成長しなかったのはなぜだ?」

 手に取ったテスラの小さな手を握り、そのような問いを返した。

 テスラの手は、何も変わらない。標本に残されていた手の大きさと、何も変わっていないのだ。

「妖精さん、だから?」

「ピーターの、夢の中の住人だから?」

「ネバーランドの中枢じゃないから?」

 アリシア、アイ、トランがそれぞれ三者三様に回答する。ピーターとマト、そしてヴァッシュは、状況を見守っているのか、答える気配はない。

 視線もくれず、ナイブズは解答を告げる。

「もう、変わり得ないから……死んでいるからだ」

 絶句。ヴァッシュ以外の、トランを含めた少年少女たちの驚愕が、目で見ずとも伝わってくる。それも、これが夢の中、意識と意識が直接対面している状況ゆえか。

 そんなことを思いつつ、昔日を――ナイブズとヴァッシュの運命を別ったあの日を回想し、告げる。テスラと出会った彼らにも、知る権利はある。

「テスラの死後に、俺達は生まれた。幼い日に、俺はテスラの幻影を見て、それに誘われて……彼女の墓標を見つけた」

 あそこは医療設備ではなく墓、保存されたままの標本は資料ではなく戒め。

 今なら、レムが伝えてくれた言葉の数々を、素直に受け入れられる。

 すまなかった、レム。あんたは、あんなにもテスラのことを想って……悔いて、悲しんでくれていたのに、狂った俺には、それすら受け止めることができなかった。……いや、それらの感情でさえも、憎悪と憤怒と怨嗟の炎を燃やす火種に変えてしまっていた。

 150年の時を経て、ナイブズはレムに懺悔する。テスラの悲劇を知ればこそ、ナイブズとヴァッシュを守り、育ててくれた、母代わりの恩人へと。恩に報いることはおろか、裏切ってしまったことへの後悔が、強く胸を締め付ける。

「まさか、あの時、テスラの霊魂か残留思念を知覚してたのか……!? だからお前は、あの時、知らなかったあの場所に……!」

 あの時、共にいたヴァッシュは、驚愕し、動揺している。

 思い返せば、ヴァッシュはテスラの幻影に気付いた素振りが無かったし、あの後も見えていなかった。双子だから、ついヴァッシュもそうだったと思い込み、多少記憶を改竄していたらしい。

「恐らくな。双子でも、そういう霊感のようなものには差があるんだろう。……それとも、俺とテスラの何かが近かったのか、呼び合ったのか……」

 真実は分からない。少なくとも、霊魂の実在と、霊感を有していることは火星に来てから確認済みだ。

 その切っ掛けとなった黒衣の君の件で、テスラを偲んだあの時は、こんな状況は考えてすらいなかったというのに。霊魂の実在自体、実物と対面するまで半信半疑だったというのに。変われば変わるものだ。

 変われたからこその、今。それを噛み締める。

「俺はテスラとここに残る。そして、共に――」

 改めて居合わせた者達へ、テスラへ、自らの死を告げようとして、言い終えるより先にテスラから引き剥がされ、乱暴に胸倉を捕まれる。

 およそ形容し難い形相で、ヴァッシュはナイブズを至近距離で睨みつけて来た。

 怒っているのか、悲しんでいるのか、苦しんでいるのか、それともその全部なのか、分からないほどに、ぐちゃぐちゃの表情で。

 やめてくれ、ヴァッシュ。俺が死ぬのを惜しまないでくれ。俺まで、惜しくなってしまう。

 ヴァッシュの手を、強引に振り払う――

「そんなのダメぇー!!」

 ――手が、止まる。

 制止の怒声の主は、少女。

 真斗ではない。寧ろナイブズと同様に向けられた側だ。声を聴いただけなのに、不思議とそんなことまで伝わっていた。

 アイではない。彼女も目を丸くして驚いている。

 無論、テスラであるはずも無く。

 残っているのは、1人。

「アリシア……?」

「アリシア・フローレンス」

 声の主の名を、真斗と共に呟く。

 ナイブズがアリシアから怒りの感情を向けられるのは二度目。先程の、テスラの前で取り乱した時は、叱咤。相手を正すためのものであり、怒りというよりも苛立ちであった。

 だが、今向けられたものは、叱責。相手の間違いを咎め、引き止めるもの。自分の中の正しさを信じればこその、純粋な怒り。

 2人に名を呼ばれたアリシアは、滂沱の涙を流していた。

「真斗ちゃんもっ……ジョンさんもっ……生きてるのに、帰るところがあるのに……そんなこと言っちゃ、ダメ……! ピーター君も、ベルちゃんも、そんなことっ、してほしくないよ……っ! 大切な人に、自分のせいで全部を捨てて欲しくなんて、無いよ……!」

 ヴァッシュの表情が、アリシアの言葉が重なって、ナイブズの心を貫いた。

 絶句した。ナイブズは、テスラのことを想うあまり、他者の心を、テスラ自身の想いすらも慮っていなかったのだ。

 ナイブズの様子を見て、ヴァッシュは手を放した。ナイブズはすぐ後ろを振り返り、テスラを見た。テスラは泣きじゃくるアリシアを心配しながらも、どこか嬉しそうだった。そして、ナイブズと目が合い――静かに、頷いた。

 自己満足と、自己陶酔。己を省み、あれほど自戒せんと誓ったはずが、この醜態か。

 ……だが、ならば、この感情はどうすればいい? どうすれば、俺は……――

 

 

 

 

 ナイブズは形容し難い表情で、わなわなと震えている。後悔、困惑、苦悩、苛立ち……悲しみを基にして、色々な感情がごちゃ混ぜになっている。どれを強く表せばいいのか、分からずに。

 少しずつでも言葉を交わして、そして人間の少女の言葉でこれほど動揺する姿を見て、本当に、ナイブズは変わったのだと実感する。

 ヴァッシュの意識が回復しないまま、リンゴの木を残して姿を消してからの60年の間に、ナイブズは変わっていたのだ。それも、ヴァッシュにとっていい方に。

 ただ、今のナイブズはあまりにも危うい。ヴァッシュの知るナイブズは、決して安易に死を選ぶような男ではなかった。それが、たとえテスラの為だったとしても。もしかしたら、ナイブズはヴァッシュも知らない、テスラに纏わる更なる真実を知ったのかもしれないが、今は確かめようも無い。

 今は、他にもできることがある、助けてあげたい子がいる。だから今は、ナイブズはそっとしておこう。

 未だに泣いているアリシアを心配そうに見て、その視線に僅かな敬意や羨望が混じっているのを確認してから、愛に声を掛ける。

「愛。君も、ピーターに言いたいことがあるだろ?」

「え? で、でも……」

 声を掛けられて、それも図星を突かれて、愛は動揺を見せている。

 真斗がピーターに想いを告げて、抱きしめたあの時の愛の表情は、涙は、そういうことなのだろう。その上で、こんなことを言うのは酷かも知れないし、世話を焼き過ぎ、お節介にも限度があるかもしれない。

 それでも、信じている。大事なのは、想いを伝えること、想いが伝わることだと。

「言っちゃいなよ。そういうのは、早ければ早いほどいいし……言えなくて悔やむより、言ってから恥ずかしがる方がいいって!」

「そう、かな……」

 出来る限りの明るい声と笑顔で、優しく、愛の背を押す。愛は恥じらい、まだ一歩を踏み出せないようだ。

「じゃ、ぼくが先に言うから、考えを纏めておいて」

 突然のトランの乱入。

 今の話の流れからすると……えっ、ピーターと親しげだったのは、そういうことだったの!? と、馬鹿馬鹿しい反応を愛と一緒にしてしまうが、当のトランからそんなこと無いよと否定され、一安心。ただの時間稼ぎという意味で言ってくれたようだ。

「ピーター。君のことを聴いてからぼくも色々考えてたんだけど、やっぱり、君の境遇には同情とか共感はできても、君が生きるのを諦めるのだけは理解できないかな。ぼくだって同じようなもんだったし」

「……え?」

 トランの告白に、ピーターは糸のように細い目をぱっちりと見開いて、素っ頓狂な声で聞き返した。そんな反応にも、トランは笑顔で応じた。

「ぼくを生んでくれたひとは、ぼくを産んだ後にすぐ死んでしまったんだ。普通ならぼくも死ぬところだったんだけど、ぼくは母さんに拾われて、育てられて、今こうしてここにいる」

 トランは母との死別という暗い過去を、何の後ろ暗さも無く語り、寧ろ『母さん』に拾われて育てられたことを明るく語ってみせた。

 予想外のトランの告白に、ヴァッシュは彼に釣られて笑顔になった。

 ああ、そうだ。僕らも生まれた後に、違う人に、レムに育ててもらったんだ。

「捨てられたぐらいで悲観することなんかないよ。君のお母さんがいなくても、きっと他の誰かが、君を拾って育ててくれるよ」

 どんな逆境も跳ね除ける、逞しく明るい笑顔。そんな表情で告げられては、誰も言い返すことはできない。僕らだってそうだったんだと、ヴァッシュは心の中で力強く肯定する。

 母との離別という悲劇すら、新しい母さんとの出会いという奇跡へと繋がるものだった。トランは現在の絶望を跳び越えて、未来にある希望を信じていた。

「……ここで、色んな人に会ったけど、みんなが色んな悩みや苦しみを抱えていた。僕もいずれそうなるって分かってるのに、生きていることに意味なんかあるのかな……?」

 ピーターの心は揺れている。生きることを選ぼうとしている。それでも、彼の原体験が、この世界での経験が、未来へ行くことを躊躇わせている。

 自然と、口が動いた。

「そんなことないよ。確かに、生きていれば苦しいこと、悲しいこと、辛いことは何処にでも、たくさん待ち受けてる。けど、それと同じぐらい楽しいこと、嬉しいことが待ってくれてる。生きていれば、きっと、何かいいことがあるからさ。生きられるなら、生きなきゃ損だよ」

 辛いことが沢山あった。レムを失い、友を失い、誰かを助けられず、誰かを守れず、誰かに裏切られ、誰かに騙され、誰かに奪われ、150年も兄弟と分かり合えず傷つけ合った。

 それでも、いいことだってたくさんあった。レムに出会えて、友達ができて、色んな人に助けられて、守られて、支えられて、笑い合って、一緒に酒を飲んで……最後の最後に、ナイブズとも分かり合うことができた。

 出会ったみんなとの思い出があるから、いつでも思い出せるから、きっと俺は、今でも、いつでも、笑えるんだ。

 生きることはいいことだよと、本当は赤子の少年へと手を差し伸べる。

 その手が、脇から飛び出た言葉で弾き飛ばされた。

「そうだとしても、テスラはどうなる! テスラは……テスラは! 生きること、死ぬことの意味すらも分からない内に死んだんだぞ!! 自分が死んだこと、生きていたということすら……っ、分かって、いなかったんだぞ!? そんなテスラに、何が残されている!?」

 理不尽への怒りと、悲しみ。ナイブズはテスラの真実を吐き出すと共に、感情をぶちまけた。その言葉が、ヴァッシュの胸に突き刺さる。

 テスラの誕生後の扱いは、徹頭徹尾、被検体だった。実験動物ですらなかった。

 知能と生体反応を有する器物として、扱われ、調べられ、検査され、繋がれ、投与され、切開され……およそ、生きているとは到底言えないものだった。

 言語を解しても、誰も双方向のコミュニケーションを行わず、実験として言語反応を見るだけで、誰も、何も、教えていなかった。

 テスラが、生と死を理解しないまま、生の実感を伴わないまま、死ぬことも分からないまま、命を終えてしまったと言われても、反論の余地は無く、受け入れる以外に無かった。

 ナイブズが共に逝こうとした気持ちも、今なら分かる。せめて今度は、寂しくないように、こんな場所にまた迷い込まないように、一緒にいてあげたい。

 けど、それでも。死が、全ての終わりということは、決して無い。

「僕らがいる」

「あなたたちがいます」

 ほぼ同時、ナイブズの嘆きに答えたのは、ヴァッシュとアリシアだった。

 ナイブズは返ってきた答えに呆然としている。意味がよく分かっていないのだろう。無理も無い、ナイブズにとって死とは、無残な終末というイメージが強すぎるのだ。彼自身が、それを数多く齎してしまったから。

 アリシアは、泣き止んだばかりで目尻が貼れているし、目も赤い。それでも、ナイブズに向かって穏やかな笑みを浮かべて、テスラへと歩み寄り、静かに抱きしめた。

「ベルちゃん、素敵な弟さんたちが生まれて、大きくなって……こんなに大切に想ってくれて……良かったね……」

 透き通る涙が、静かに頬を伝い落ちる。泣いているのは、アリシアとテスラだ。

 悲しみではなく、喜びの涙だ。テスラに何も残されてないなんて、そんなことは無いんだと確信させてくれる。

「僕とお前が、テスラがいたことの証だ。テスラがいたから、僕らは今、ここにいる。テスラが先に生まれてくれたから……僕らは、生きてっ、こんなに生きられたんじゃないか!」

 アリシアの言葉を借りて、ヴァッシュも自らの想いを言葉へ変えて、ナイブズへと伝える。当たり前すぎて、ナイブズが気付けていないことを。

「俺が……お前が、テスラの、証……? テスラが、遺してくれた……」

 鸚鵡返しに唱えられた言葉を、すぐに首肯する。

 もし、テスラが生まれていなかったら。ヴァッシュとナイブズが、あの船団内における最初のプラント自律種の誕生例だったとしたら。

 まず間違いなく、レムやコンラッドにも出会えず、どちらかが犠牲になっていた。いや、順番に2人とも犠牲になっていただろう。

 そんなことにならなかったのは、テスラが先に生まれてくれていたから。テスラの命が、後に生まれた2つの生命を救い、今日まで繋いでくれた。

 多くの人と出会い、多くの人と別れた。それらを数多く経験し、幾つもの生と死を垣間見たヴァッシュだからこそ、辿り着けた答え。

 死は、終わりではない、無に帰するのではない。残された者が受け入れて、受け止める、受け継いでいくべき命のバトン。

 全てを伝えずとも、ナイブズなら同じ答えに辿り着いてくれると信じている。

 150年もいがみ合って喧嘩別れもしたけれど、ちゃんと仲直りのできた、この世でたった1人の兄弟なら。

 ナイブズの表情から、次第に驚愕が抜け落ち、冷静さを取り戻していく。

「……そうか。…………そう、だな」

 そう言うナイブズの目からは、とめどなく涙が溢れていた。まるで、心を堰き止めていたものが取り払われ、洗い流されていくように。

 ヴァッシュもまた、泣いていた。貰い泣きなのか、今更悲しくなったのか、自分でもよくわからない。

 ただ、今は泣いていたい。

 泣きたいだけ泣いて、この後にまた、笑顔になるために。

 

 

 

 

「ピーター! 私は真斗ちゃんやそっちのおじさんみたいに、一緒にいるなんて、優しいことは言わないわよっ! 私は一味違うんだからっ」

 気付けば、この場に集まった者の半分以上が泣いていて、湿っぽくなってしまった空気を、目一杯の元気を込めた声が一新させた。

 声の主は、二宮愛。ヴァッシュに背中を押されて、トランに時間を稼いでもらって、心の準備は十分、覚悟も完了したのだが、間の悪いことにナイブズが割って入って、それ以前に話の内容があまりに真剣で深刻で、すっかり話を切り出すタイミングを見失ってしまったのだ。

 実際、トランは時間を作る保証をしただけで自分の言いたいことを言っただけで、ヴァッシュも感じるままを口にしていた。要するに2人とも深く考えず、最初から愛のことを念頭に置いていなかったのだ。なんという無責任。

 そんなこととは露知らず、愛は素直に他のみんなが話している内に考えをまとめたものの、その間になんだか結局自分だけ置いてけぼりにされたようで、ちょっとイライラし始めて、落ち着いたタイミングで爆発した。

 名指しされたピーターや真斗、そっちのおじさんことナイブズだけでなく全員が呆気に取られて、愛を注視している。

 ついさっきまで蚊帳の外だったのに、急にスポットライトを当てられたようで、一瞬、気恥ずかしさから気後れする。だが、すぐに知ったことかと思い切り、舞台の中心へ――ピーターの許へと向かう。寄り添っていた真斗は、何かを察して、ベルの方へと離れていく。

「一緒に目を醒まそうよ、ピーター! 一緒に起きて、現実の世界で逢おうよ!」

 ベルの話を聞いた後に、言っていいものかという迷いもあった。けど、どうしても言いたかった、伝えたかった。この想いを、この人に。

 ピーターは嬉しげに微笑んだが、それも一瞬、空ろな瞳が、虚しさを物語る。

「……俺の生まれた時代と君の生きている時代は、どれだけズレているかも分からないよ?」

 起きたところで、また会える保証はどこにもない。様々な時代に繋がる時空の狭間での出会いは、本来起こりえない奇跡の巡り合わせなのだ。そこへ更なる奇跡を望むなど、烏滸がましいというものだ。

 だが、愛は引かない。押し進み、突き進む。彼の心に届くまで。

「迷い込んできた人に、原始人はいた?  みんな火星の人ばかりだったんでしょ?」

「…………火星を、ノーワンズランドと呼んでいる奴はいたか?」

 正確な名も知らぬ少女の勢いに乗せられ、熱に中てられたか、ナイブズはちょっとした気紛れから、愛に続く形でピーターへと問いかけた。

「いや……みんな、アクアって呼んでたけど……?」

「火星開拓の頃には、あまりに過酷な火星環境を愚痴って、そう呼ぶ者もいたらしい」

 ネバーランドが子供たちの楽園ではなく、苦しみを抱えた者が迷い込む世界ならば、火星開拓の時代の者たちが最有力候補に挙がる。にも拘らず現れていないとなれば、少なくとも火星環境が完全に安定した時代以降としか繋がっていないことになる。

 その意図を受け取って、愛は更に押しを強くする。

「ほら、もう確定でしょ! 私たちの時代は、きっとそんなに離れてないよ! 私と真斗ちゃんだってそうなんだからっ! だから……絶対に逢えるっ。ううん、たとえ逢えなくも、私がピーターを探し出す! たとえ、お婆ちゃんになっても!」

 思わぬ援軍を得て、愛は早口でまくしたてる。

 仮にほぼ同じ時代の住人だとしても、再会するまでの時間は未知数だ。 10年かかるかもしれないし、60年かかるかもしれない。

 それでも、可能性がほんの僅かでもあるなら、諦めたくない。この想いを、この人を。

「愛……どうして君は、そこまで言ってくれるの?」

「どうしてですって!? んなのっ、あんたが好きだからに決まってるでしょ!!」

 ピーターが、半ば困惑し、半ば呆れて聞き返して来たものだから、愛はこれ以上ないぐらい、分かり易く答えてみせた。

 予想外の答えに、ピーターと猫たちは目を見開いて驚いて、何も言わずに愛を見つめる。

 他方、残った面々からは小さな歓声が上がり、それを聴いて、愛は我に返って色々と気付いて、爆ぜるように赤くなった。

 わたわたと、慌ててピーターに色々取り繕ったことを言っている。そんな青春の1ページを微笑ましく見守りながら、ヴァッシュは真斗に声を掛ける。

「どうするの? 真斗」

「どっ、どうするって!?」

「あらあら。真斗ちゃん、もっと、ちゃんと、はっきり言わないと、伝わっていないかもしれないわよ?」

「ぼくも、よく分かってないしなあ。ピーターも分かってないかもなあ」

「テスラも気になってる。言うことがあるなら早く言え」

 真斗がしらを切ろうとした途端、アリシア、トラン、テスラとナイブズによる流れるような連係プレー。いや、ナイブズはテスラの代弁をしているだけか。

 ともかく、5人から急かされて、背を押され。一度、二度、三度と深呼吸をして、真斗は再びピーターの許へと向かった。

「わっ、私も! お前が好きだ、ピーター! 一緒にいるうちに、少しずつ……一緒にいられなくなってから想いが強くなって、それで……そうでなきゃ、2年もずっと、お前を探しに来るものか!」

 まさか、2人の少女から同時に好意を寄せられ、同時に告白されるとは思ってもみなかったピーターは、混乱して、猫妖精の像の足元に座り込んでしまった。

 顔を伏せ、手を当て、沈黙すること暫し。顔を伏せたまま、肩を震わせ、ピーターは2人の想いに答える。

「……僕も、逢いたい。現実の世界で、ちゃんと大きくなって……自分の足で立って、両手を広げて……本物の空を見て、本物の海を見て……本当の自分で、本当の君に逢いたい……っ」

 本当の君。告げられたのは、2人ではなく1人。

 1人の足は止まり、1人はピーターの前まで歩いて行って、手を差し出した。

「私も。本当のお前に、ちゃんと逢いたい」

 優しい、穏やかな笑顔で、声で、言葉で、そう伝えたのは、真斗。

 ピーターは顔を上げ、彼女の手を取り立ち上がって、互いに相手を抱きしめた。

 伝えられた/伝わったこの想いがあれば、きっと大丈夫。

 胸に宿る温もりがある限り、また逢えるその日までの寂しさにも、もどかしさにも、苦しさにも、きっと耐えられる。どんな苦難も困難も超えられる。

 この人が、同じ星の上に、空の下に、海の傍にいてくれるから。

「……この水って、真斗ちゃんとピーターが出会った頃から、増え始めたんだよね……」

 2人を見ながら、2人に聞こえないように、愛が誰にともなく問いかける。それを拾ったのは、ヴァッシュ。

「きっと、いつか来る別れが惜しくなって、その寂しさも増えたんだろうね」

「水は増えたまま……想い、続けたまま……」

 ヴァッシュの推測に、愛も納得できて。言う前から分かっていたつもりだったけど、ずっと前から結果は出ていた、2人の心は決まっていた。そう思ってしまうと、お祝いしたいはずなのに、胸が痛くて、どうしてもできない。

 そんな愛の心を察して、ヴァッシュは彼女の肩にそっと手を添えた。

「今は泣いていいよ、愛。けど、さよならの時は、微笑んで。次にいつ会えるかわからないんだから、最後は笑顔を覚えてもらおうよ」

「……うんっ」

 ヴァッシュの言葉に甘えて、愛は泣いた。声は出さずとも、顔を真っ赤にしてボロボロ泣いた。

 その隣で、トランはピーターと真斗と愛の様子を、興味深げに観察し、真剣に見つめていた。

 人間同士で争うさま、支え合う様子は見て来たけど、こうして、絆が深く固く結ばれる場面を見るのは初めてで、叶わずとも報われずとも、誰を恨むわけでもなくただ悲しむ人を見るのも初めてだったから。

 星を巡り人間を見極める旅の中で、自分の出すべき答えが、決まっていた答えが、より明確になっていくのを感じる。

 やっぱり、人と仲良くなるというのは、いいことだと思う。種族丸ごとは無理でも、せめて、個人的にぐらいなら……。

 トランは、彼方の砂の星で待つ――というか寝てる――異種族の母と、人間の研究者へと思いを馳せる。

「よかったね、ベルちゃん」

 アリシアは、感極まって嬉し涙を流しているテスラの目元をハンカチで拭いながら、そのように声を掛けた。テスラは頻りに、何度も頷いた。

 それを見て、漸くナイブズにも分かった。テスラが今日まで、この世界に留まり続けた理由を。テスラが、何を待ち望んでいたのかを。

「……そうか。テスラ、君が待っていたのは、この時だったんだな」

 大切な弟の、旅立ちと幸せ。それを見届けること、たったそれだけが、彼女が最期に望んだことだったのだ。

 ナイブズもまた、猫たちと同様に、静かに、2人を見守った。

 

 

 

 

「じゃあ、みんなで起きようか。……また逢えるのが、いつになるのか、分からないけどね」

「そんなことを言うな。きっと、また逢えるさ」

「そうね。たとえ夢の中だったとしても、私達がこうして出会えたことは、幻なんかじゃないもの」

「夢だけど、幻じゃない……。うん、そうだよ。きっとじゃなくて、必ず逢えるよ」

 ピーターが、真斗が、アリシアが、愛が、再会を信じて、約束の言葉を交わす。誰も「さよなら」とは言わず、微笑みを浮かべていた。

 他方、プラント自律種の4人はそこに加わろうとしなかった。

 ヴァッシュとトランは、彼ら水の惑星の住人達とはもう会えない、という確信にも似た予感があったから。

 テスラは、言わずもがな。

 唯一水の惑星に居るナイブズは、テスラとの別れだけで頭がいっぱいだった。未だに、二宮愛が着ている服が、秋に会った時に小日向光と大木双葉が着ていた制服と同じであることにも気付いていない。

「今までありがとう、ケット・シー。……もう、大丈夫だよ」

 少女たちと再会の約束を交わして、ピーターは今までずっと傍で見守ってくれていたケット・シーに、別れを告げた。

 ケット・シーは満面の笑みで応えた。両隣の白猫と黒猫も満足げだ。

 ピーターが虚空へと手を翳す。すると、全員の体が、ふわりと宙に浮いた。同時に、水嵩が見る間に増して、世界を呑み込んでいく。ケット・シーが抑えてくれていたのか、それとも、心をふさいでいたものが取り払われたからかは、ピーター本人にも分からない。

「へぇ、不思議な力が使えるんだ」

「恐らく、ケット・シーとアマテラスの分神も力を貸しているんだろう」

「……やけに慣れてるな、ナイブズ」

「慣れもする」

 ピーターの力に感心するトランへ、ナイブズが冷静に補足する。その補足にも聞き慣れない不可思議な単語が混ざっているのだから、会わない間にナイブズがどんな環境で生きて来たのか、とても気になる。だが、それを問い質す暇も、もう無いようだ。

「……ベルちゃんは、どうなるんですか?」

 一人だけ、宙に浮かず、いつの間にか水面に現れた蓮の葉に乗っているテスラを見て、アリシアがナイブズへと問うた。色々詳しい様子のナイブズなら分かるのではないかと思ってのことで、それは正しかった。

 いや、アリシアも本当は分かっている。先程、他ならぬナイブズ自身が言っていたのだ。テスラ――ベルはもう、死んでいると。

「……この世界で、生きることを知って……死を理解して…………テスラは、やっと……眠れるんだ」

 敢えて直接的な表現を避けて、ナイブズは奥から絞り出すように答えを口にした。

 テスラは、共に行けない。共に逝くことを、テスラは望んでいない。

 だから、テスラだけは、本当にここでお別れなのだ。もう二度と、会うことは無い。

 それを本当は分かっているから、理解できてしまうから、アリシアは今また泣きそうで――だが、愛が、それを止めてくれた。

「さよならの時ぐらい、微笑んであげようよ。本当の、本当に……最期なんだから。ベルちゃんが、あなたたちのお姉ちゃんが、迷わないように……っ」

 アリシアだけでなく、テスラの弟分に当たる3人へも、先程自分が貰った言葉を送る。この言葉は、今この人たちにこそ必要だと、そう思ったから。

 いざ別れに直面して、惜別の念に強く囚われていたピーターとアリシアとは対照的に、ナイブズとヴァッシュはすでに心を決めていた。ヴァッシュに関しては、自分で言ったことが自分に返って来て、気恥ずかしいぐらいの余裕があった。

「心配するな。先に逝くだけだ。少しだけ……いつか、俺達の誰もが行き着く場所へ。それに……俺達に、テスラの存在は刻まれている。悲しむな」

 ピーターとアリシアへ、ナイブズが言う。この別れは誰もがいつかは経験し、直面するものなのだと。

 もう会えない。だからこそ、この別れを受け止めて、繋いでいかなければならない。それこそが、自分たちが受け継げる、彼女の存在の証なのだから。

 言葉足らずにもほどがある不器用具合だが、夢の中だからだろうか。不思議と、ナイブズの真意はアリシアとピーターに余すことなく伝えられた。

 真斗と愛、トランと猫たちが見守る中で、4人はテスラへ別れを告げる。

「ありがとう、姉さん。あなたがいてくれたから、僕はいつも、孤独(ひとり)じゃなかった」

「ありがとう、ベルちゃん。あなたと会えて、とても楽しかった……嬉しかった……っ」

 目に涙を湛えながら、それでも、ピーターとアリシアは微笑んで、別れの言葉ではなく、出会えた喜びと感謝を伝えた。

 それは、奇しくもヴァッシュとナイブズの想いと同じ。

「テスラ、ありがとう。君がいてくれたから、僕は210年、生きられました」

「テスラ、ありがとう。君のお蔭で、俺の150年はあった」

 それらの言葉を贈られて、テスラは、目一杯の笑顔を浮かべて――少しだけ先に、世界に差し込んだ光に溶け込むように消えて逝った。

 そして、4人の少年少女たちは、3人のプラント自律種たちは、それぞれの時へと還った。

 誰しもの涙を受け止める世界は、満たされ、役目を終え。閉じて、消えた。

 夢は醒め、幻は消える。

 そして彼らは、現へと還る。

 

 

 

 

 水の惑星の、各々の時代で、少女たちは目覚めていた。

 火鳥真斗とアリシア・フローレンスはもう夢を見ることも無くなったせいか、成長し、大人になり、社会に出て、忙しさが増す日々の中で、記憶は次第に薄れ思い出すことも殆ど無くなっていった。稀に思い出したとしても、色褪せた記憶に確信は薄れ、積み重なった常識の重みからあの出来事は、ただの夢だったのではないかと疑うようになってしまっていた。

 ただ、真斗は大好きなピーターパンの物語を読むたびに、アリシアは夢に肖ってネバーランドと名付けた秘密の島に来る度に、変わらず残り続ける、不思議な懐かしさと温かさを思い出していた。

 唯一、二宮愛だけは。目覚めた直後に成長し、教師となっていた真斗と再会を果たし、部活の後輩たちに夢のことを話した直後、猫妖精の分身に導かれ、真斗と共にあの神社のオリジナルへと来るのだが、これはまた、別のお話。

 付け加えるのなら、一つだけ。

 彼らの約束は、間違いなく果たされるということだけ。

 

 

 

 

 気付くと、彼らは乗り物の座席に座っていた。

 まるで、つい先程までその場で眠りこけていたように。

「……あれ? ここは……なんだろう?」

「まだ、夢の中……?」

「この汽車は……」

 三者三様の反応を示すと上の網棚から1匹の黒猫が降りて来た。

「お前たちに、せめてもの礼だにゃ。気が済むまで、ゆっくりしていくといいにゃ」

 それだけ告げて、黒猫は車両間の通路を通って、出て行った。

「猫が、喋った……」

「まぁ、夢の中だしな」

「ああ、そういえばこれって夢だっけ」

 またも三者三様の反応を示すが、ナイブズだけはこういう事態に慣れきってしまった自分自身に呆れ返っていて、ある種の諦めの境地に立っていた。

 そこへ、黒猫と入れ替わる形で車掌が入ってきた。ナイブズは懐から切符を取り出そうとしたのだが、車掌は手をかざして、それを制止した。

 

――どうぞ、ごゆるりと――

 

 恭しく礼をして、車掌はゆったりとした動作で立ち去った。

「えーっと……つまり……?」

「積もる話があるなら、ここで幾らでも話して行け、ということだろう」

「なるほど」

 黒猫と車掌の意図が読み切れない、というよりもこの状況に混乱しているヴァッシュに、ナイブズが分かり易く説明する。トランはすぐに納得して、ヴァッシュもそれに倣う形で納得した。

 2人とも、納得はしたが理解は放棄した様子だ。それで正しい、自分もそうだったと、妙なところで感慨に耽ってしまう。

誰ともなく、3人で溜め息。なんだか、どっと疲れが出た。

「それにしても、ナイブズ。お前、変わったなぁ」

「お前はちっとも変わらないな、ヴァッシュ。……いや、少し老けたか?」

「僕も色々あったからね。……なんだか、安心したよ」

「こっちこそ、安心するよ」

 ふと始めた会話は、この上なく穏やかで、すぐに終わってしまったが、言いようのない充足感があった。

 こうして2人で、また、他愛の無い話をすることができるようになるなど、2人とも思っていなかったから。

「ぼくも、話に混ぜてもらえますか? あなたたちに訊きたいこと、聴いてもらいたいことがあるんです。ヴァッシュ・ザ・スタンピード、ミリオンズ・ナイブズ」

「うん、話そうよ。僕らのこと、テスラのこと、あの子たちのこと……色んなことを」

「俺も、話したいことが山ほどある」

 そして、3人は話し続け、語り合った。

 まずナイブズは2人との60年の誤差に驚いて、次いでヴァッシュが2年足らずでのナイブズの変わりようと太陽系にいるという事実に驚いて、トランは半ば伝説と化している2人の巷間伝わるイメージとの落差に驚いた。

 その後は、それぞれが語り、それぞれが聴き、それぞれが話し、それぞれが耳を傾けた。そうやって、彼らの主観時間でどれだけの時が過ぎたのかもわからなくなっていた頃。

 車内に、次の停車駅を報せるアナウンスが流れた。

 

――次はー、AQUA。水の惑星、AQUAで御座います――

 

 

 

 

 24月17日 早朝 境の店

「おはよう」

 起きてすぐ居間へ向かうと、店主が茶を飲んで待っていた。朝の挨拶にも耳を貸さず、一つだけ問い質す。

「どこまで知っていて、俺に行かせた」

「ティンカーベルがプラント自律種の意識体ということまでは、火星の慈母から伺っていた。今回の仕事も、彼女から依頼されたものだったんだ」

 返ってきた答えは、予想通りのものだった。猫妖精と大神が関わっていたのだ、彼女も関わっていないはずがない。

 途中から、テスラと会った瞬間から完全に忘れていたが、結果として、ナイブズは仕事を果たした。ピーターパンを起こして、ティンカーベルを眠らせて。

 どうやら今回ばかりは、店主も全てを知ってはいない様子。これ以上の追及は無駄か。

 調度よく、当面の目標と目的ができた。今はそう思っておこう。

 一つ深呼吸して、心を落ち着かせる。肝心なのは、こちらの質問だ。

「……火星には、裏命日もあるのか?」

 この問いに、店主は予想だにしていなかったのか、寝耳に水を挿されたような表情になって、返答が遅れた。

「うん? あ、ああ……。確かに、そういう風習もあるが……どうかしたのかい?」

「今日は喪に服す。詳しいことは明日話す」

 裏命日の有無を確認できれば、それで十分。ナイブズは座ったままの店主の脇を通り抜け、外へ続く戸を開ける。

 祈る場所は、あそこしかない。ナイブズにとっての、新しい始まりの地へ。

 今日は5月3日から数えて229日目に12ヶ月を足した日。テスラの裏命日にあたる日なのだ。

「ああ、そうだ。今回の報酬だけど、アテナ・グローリィの観光案内でいいかな? 24月24日に予約を入れてもらったのだけど、この調子じゃ到底間に合いそうもないからね。君が代わりに行ってくれると助かる」

「いいだろう」

 一瞥し、適当に頷いて、足早に外へ出る。猫たちだけが暮らす街の裏側を、ナイブズは飛ぶように駆ける。

 目指し、辿り着いた場所は、ナイブズが初めてこの星に降り立った場所。火星開拓時代に使われていたと思しき、鉄道駅の跡地。ナイブズが生き直すための、最初の一歩を踏み出した場所。

 ナイブズは駅のホームに座り込み、この日一日を、すべてテスラへの哀悼のため、冥福を祈るために費やした。

 ネバーランドでの体験を共有した兄弟と同胞は60年先の未来にいて、火星の住人達は、アリシアの例を考えるに同一の時間軸に存在しない可能性や、忘れてしまっている可能性もある。

 だから、せめて自分だけは、記憶に留めていたい。テスラのことを、ネバーランドでの出来事を、思い返し、深く、深く、記憶に刻む。

 テスラを知る、テスラを覚えている、テスラが生かしてくれた命が、この世に存在し、生き続けていくことが、彼女の生きていた証になり、弔いになるのだと、そう信じて。

 また、涙が溢れる。魂の焦げ付きが、憎悪と憤怒と怨恨の炎で焼き焦げた跡が、気付かぬ内に癒されていて、瘡蓋が剥がされるように洗い落とされていく。

 そんな実感を懐きながら、少しだけ、テスラのことから思考を逸らし、いつの間にか星が瞬く空へと目を向ける。

 はるか時の彼方にいるお前たちは、覚えてくれているか? ヴァッシュ、トラン。

 

 

 

 

 

 

 

 

 星暦0174年6月14日 早朝 某所の野営地

 目が覚めて、一緒に寝ている2人を起こさないようにテントから出る。今の時間帯はまだ、双子の太陽は片方しか顔を出していない。もう一つの太陽が昇る頃には、2人も目覚めるだろう。そして、朝食を終えて一息ついた後にでも、結論を出す。

 とうとう、今日だ。今日、この星の命運を決めることになる。母さんは、今日、結論を出すのだと言っていた。

 つい昨日、この星の片隅で宇宙消滅の危機が起きていたのも知らないで。

「……ぷふっ」

 急に可笑しくなって、笑いが吹き出す。

 ああ、本当に、可笑しくって堪らない。

 自分たちはこの星の運命を握っている、この星の行く末を決めようとしている、などと思っていた癖に、同じ星の上で宇宙消滅の危機が起きていたことに気付きもしなかったのだから、笑うしかない。

 そんな重大事件の直後だと、なんだか自分たちのやろうとしていることが急に小さなことに思えてきた。星とか種族とか、よく分からないぐらい大きなことだと思っていたのに。

 母さんは、きっと人間を滅ぼそうと言うだろう。やっぱりこの星は、人間が生きて行くには辛すぎる。水の惑星を垣間見て、そして話に聴いた今では、殊更そう思える。

 レイメル先生は、それにどう答えるのだろう。トランに分かるのは、彼が真面目で、誠実で、そして砂虫を嫌悪せずに好意的に接してくれるということだけ。

 トランは、どうするのか。夢幻の世界に迷い込み、水の惑星の話を聴いて、人々の出会いと別れと絆を垣間見て、そしてヴァッシュとナイブズとたっぷり話して。

 疾うに出していた答えは、変わったのか? 揺らいだのか?

「うん。やっぱり、ぼくはぼくのやりたいようにやろう。母さんとレイメル先生と、三人で一緒にいられれば……それでいい」

 ただ、それだけでいい。それだけで、ぼくは充分なんだ。

 ヴァッシュとナイブズと話せて、背中を押されたお蔭もあって、迷いは微塵も無い。後は、その時を待つだけだ。

 思ったよりも早く結論が出て、まだまだ時間には余裕があった。もう少し、思索に耽ることにした。

 夢の中でヴァッシュとナイブズと出会い、言葉を交わしたが、彼らよりも先に出会った少年――ピーターパン。

 赤ん坊として、元のその時に還った彼がどうなったのか。不思議と、心配はしていない。確信にも似た、希望があるから。

「こんな時の彼方の遠い星で、君を知っている奴がいるんだ。きっと君も、大丈夫だよ、ピーター」

 太陽の光に覆われて、星の見えなくなった空へと呟く。この方向に地球があるのかも知らないけど、それは些細なことだ。大事なことは、心の繋がりだから。

 さぁ、そろそろ2人を起こそう。朝食を済ませて、身支度を整えて、それから決めることになるだろう。ぼくらの生きて行く明日を。

 どうなるかは分からないけど、きっと悪いようにはならない。そう、信じている。信じられる。ねぇ、ナイブズさん、ヴァッシュさん。

 

 

 

 

 星暦0174年6月13日 ゴラン峡谷

 意識が還る。夢幻の世界から、現実のその時へと。

 それはあまりにも一瞬のことだった。即座に、瞬時に、世界が切り替わった。

 古びた汽車の客席から、朽ちた移民船の前へ。

 手には握り慣れた銃。背後にはヴェロニカ・翼。目の前には涙を流すプラント。今いるこの場所は、惑星ノーマンズランド。

 時空の狭間でも、来世でも、別世界でもなく、現実の今まで生きて来た世界。

 後ろから、翼の声が聞こえる。それに答えるプラントの声が聞こえる。

 どうやら、宇宙が消えて無くなってしまったわけではないらしい。そうなると、懸念はあと一つ。

「……その男は、私の計算と少し違えて撃ちました。そのお蔭で、子供は消滅しませんでした。自らの力によって亜空間に吸い込まれました」

 プラントの言葉が耳に届いて、漸くヴァッシュは銃を収めた。

「あの子は、新しい宇宙になったのです。彼は、私の子供を生かしたのです。この男は、何一つ諦めなかったのです」

 極限の緊張のせいか、強張った表情が中々元に戻らない。手の動きもぎこちなくて、銃に指が張り付いてしまったようで、剥がすようにゆっくりと手を動かす。もしかしたら、意識が体に戻ったばかりで、まだ馴染んでいないせいかもしれない。それとも、自分のことよりも、あの子が生きていたことが嬉しいからか。

 プラントの子に考えが及んで、ヴァッシュの中で全てが繋がった。

 ああ、そうか。君だったんだね。君が僕に、あんな夢みたいな時間をくれたんだね。

 仮にそうじゃなかったとしても、誰にも真実は分からない。だから、きっとそうだったと、僕は信じたい。

 ありがとう、名前のまだ無い、顔も見られなかった……ここではないどこかへと旅立った、人の形ではなく宇宙になったという同胞よ。

「銃を構えてから撃つ、僅かの間に、私以上の計算をするなんて……。200年間、考え続けた私より……!」

 そんな風に言われて、漸く体の感覚が戻って来た。

 銃をホルスターに収めて、表情を緩める。

 自然と浮かぶのは、ヴァッシュ・ザ・スタンピードの象徴。

「失礼だけど、ミセス・プラント。永劫の時間は、僕にもありました。僕も結構、長生きしたから」

 いつだって考えて来た。いつだって挑んで来た。いつだって立ち上がって来た。

 誰かを守りたくて。誰かを助けたくて。誰かを救いたくて。

 そんな今までの積み重ねが、この時に、いい結果として実ってくれた。ただ、それだけ。

 ヴァッシュ・ザ・スタンピードは今まで通り、何時もの通り、柔和な笑みを浮かべる。

 優しく、頼もしく、逞しい、そんな笑みを。

「あっ、そうだ」

 立ち去ろうとしたその瞬間に、ヴァッシュに妙案が閃いた。

「どうしたの? ヴァッシュ」

 プラントに聞き返されて、ヴァッシュは満面の笑みで応えた。

「あの子の名前、『ネバーランド』なんてどうかな?」

 この提案に、プラントは益々怪訝な表情となった。

 人名らしからぬ名称が気に入らなかったのだろうか? 宇宙に、世界になったらしいから、ある意味ぴったりだと思ったのだが。

「どうして、あの子に名前を? あの子はもうこの宇宙にいない。それどころか、別な、新しい宇宙になったんですよ?」

 確かに、プラントの言う通りだ。あの子はもうここにいない。この世界に存在していない。観測することも出来ない。

 そんな存在に、態々、後から、今更名前を付けるなど、奇妙なことだと思われたのだろう。

「でもさ。思い出した時にも名前を呼べないなんて、寂しいよ」

 それでも、あの子は確かにいたんだ。ついほんの一瞬でも、僕らと同じ世界に。その証拠ぐらい、残してあげたい。この世界からいなくなっても、僕らの記憶に、心に、残り続けてくれる限り。

 そうだよね、テスラ。

「ありがとう……VTS、ヴァッシュ(Vash)(The)スタンピード(Stampede)。あなたは何もかも、私の想像を、計算を、超えていくのですね」

 プラントは、また涙を流していた。

 先程の悲痛な涙とは違う、歓喜の涙を。

 それを見たヴァッシュの笑みが、気恥ずかしさと照れ臭さから苦笑いに変わる。

「そんなんじゃないよ。ネバーランドに、いい夢を見せてもらったお礼さ。ミセス・ウェンディ」

 一緒にプラントにも名前を贈って、後事を後ろで事態の推移を見守ってくれていた翼に半ば押し付ける形で託して、ヴァッシュはゴラン峡谷から立ち去った。

 真紅の外套を翻し、永遠の時間を歩く旅人は、旅を続ける。

 次の行く先は決まっている。ゴラン峡谷に来るまでの旅路で小耳に挟んでいた、砂虫を引き連れた奇妙な三人組の許へ。

 会いに行くよ、トラン。君と、君の家族に。僕の家族(きょうだい)は一緒に行けないけど、あいつの分も、会えないみんなの分も、たくさん話をしよう。

 ナイブズ。僕たちは僕たちで、この星で生きて行く。お前も、生きてくれ。それこそが、僕らを生かしてくれた、生きさせてくれている“すべて”の証になるんだから。

 お前が変わることができた、お前が生まれ直して、生き直すことのできる……まだ見ぬ(その)遠き場所(水の惑星)で。



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#29.アウグーリオ・ボナーノ

 今日も、ナイブズはネオ・ヴェネツィアの街を歩く。

 今までと変わらず、これまでと同じように。

 今日は24月31日。地球の倍、730日にも及ぶ火星の長い一年が終わる日であり、新しい一年を迎える日でもある。

 ネオ・ヴェネツィアではクリスマスの行事は家族で過ごし、年越しの時はみんなで過ごす、という風習が旧世紀の地球から受け継がれている。その行事やイベントを目当てに、朝から観光客も多く訪れている。

 そんな人混みの中で、ふと、一人の男性の姿が目に留まった。無精髭に、目が隠れる程前髪を伸ばしたままの、如何にもだらしない男。面識は無いが、見覚えのある男。

「ピーター」

 つい、名を呼ぶと、男は見るからに動揺した素振りを見せて、慌てて周囲を見回す。そしてナイブズの姿を見つけると、大層驚いた様子だった。

「あなたは……! えっと、ジョンさん、でしたっけ?」

 やはり、あのピーターに相違なく。

 ナイブズにとっては2週間と短期間での再会となったが、あの夢見る赤子にとっては30年近い時を経たらしかった。

「ジョン・ドゥは仮の名で、本名はナイブズだ。でかくなったな」

 もう偽名を名乗る意味も無いので、本名を名乗る。

 現在のピーターの外見はネバーランドでの少年の姿からの延長線であり、ナイブズも一目で気付けた。あの姿からも、赤子からも、大きく成長し、大人になっていた。

「お蔭様で。けど、よく気付きましたね。火鳥先生も二宮も、全然気付かなかったのに……」

「そうか? 然して変わっていないと思うが。火鳥と二宮というのは、真斗とアイのことか?」

「ええ。ボクと火鳥先生は、お互いに夢のことは忘れちゃってたんですけど、偶然、同じ学校の教師になれたんです。それから、二宮はボクが担任しているクラスの生徒で、あの日の夢は、つい先日見たばかりらしいんですよ」

 ネバーランドが閉ざされるまでの顛末を報告した時、店主は「彼らは必ず、また会えるよ」と断言していた。強い縁で結ばれた者同士は、不思議と引かれ合うものなのだと。

 ナイブズの目にも特に強い縁で結ばれていた3人が、偶然にも一つの場所に集まっていたとあっては、あの言も信じざるを得まい。

「アリシアへの反応からして近いとは思っていたが、アイは俺とほぼ同じ時間軸だったか。アリシアには会ったのか?」

「今日、みんなで会いに来たんです。それでさっき、火鳥先生と二宮と、それからダイビング部の子たちと一緒に会って来たんですが……」

 矢張りと云うべきか、ピーターがこの街にいたのはアリシアと会う為だったか。水の3大妖精と名を馳せているのだから、所在を知るのは容易だったことだろう。

 しかし、ピーターは途中で口籠り、何やら困ったような、疲れたような表情になり、溜め息を一つ吐いた。

「その場に集った恐るべき女子率に居た堪れなくて、俺と永遠野先生は戦略的撤退で、ここまで避難して来たんです」

 代わりとばかりに答えたのは、ピーターの背後で様子を窺っていた少年だ。完全な初対面だが、髪と顔立ちを見て、心当たりがあった。

 ネバーランドで見かけた、あの場所に居合わせた少女に、顔立ちや髪がよく似ている。加えて、本人の言も合わせれば、その正体は容易に推測できた。

「お前は……アイの、双子の弟か」

「はい。はじめまして、二宮誠です。(あね)さんがお世話になったようで」

 少年――マコトは丁寧に一度頭を下げて、自己紹介をする。

 マコトの名を聴き、2人の名前がアイとマコト=愛と誠であることに気付く。双子が生まれた際、一つの諺や熟語を2分割して名付ける風習もあると聞いたことがある。恐らく間違いあるまい。しかし、1つの言葉を分け合い、十月(とつき)十日(とおか)を同じ胎で過ごした片割れだというのに、どうやら誠と愛の性格面は対照的といえるぐらいに違うらしい。

 あと、目つきも違うか。愛はしっかり目を開いていたが、誠の方は目を閉じているのかと見紛うほどの細目だ。糸目というやつだ。

「気にするな、寧ろ俺の弟が世話になったぐらいだ」

 ナイブズと愛の間で交流は殆どなかったが、ヴァッシュを連れて不可思議な街中を進むことに苦労したであろうことは、想像に難くなかった。でなければ、あの時にあのタイミングで蹴りは出るまい。

「弟さん……2人のジョンさんの、スミスさんの方で?」

「そうだ。お前も知っているのか」

(あね)さんが起きてすぐ、今見た夢を忘れないためにって、話してくれましたから。正直、半信半疑だったんですけど……本当のこと、なんですね」

「ああ。本当にあったことだ」

 夢のような、ではなく、本当に夢の中で起こった出来事。

 摩訶不思議な事象にすっかり慣れたナイブズでさえも、目を疑うような事象の連続。平穏な日常を過ごす普通の人間が、俄かには信じられないのも無理はあるまい。

 それでも、誠の様子は信じる最後の一手が見つかったという具合で、双子の姉のことを信じたいという気持ちも強かったのだろう。ナイブズが断言すると、呆気に取られたような表情で、それでも、嬉しげに微笑んだのだから。

 ここで、ナイブズはふとあることに気付き、ピーターに声を掛けた。

「そういえば、ピーター。お前の名は?」

永遠野(とわの)(まもる)です、ジョンさん……いえ、ナイブズさん」

 ピーター――改め、守が名乗り、どういう字かも確認した後、誠が寒い中立っているのはしんどいと訴えてきた。話の続きは手近な喫茶店で温かい飲み物で体を温めながら、ということになった。

 ナイブズは、守には真斗や愛とどのように再会したのか詳しく聴き、誠には愛のことを訊ねつつ自分とヴァッシュ以外の双子とはどんなものであるか、それとなく探ってみた。

 逆に、守と誠からも色々と尋ねられた。どうして、どうやって、夢幻の世界へと現れたのか。喋れないはずのティンカーベル=テスラの意思をどうやって汲み取っていたのか。ジョン・スミス=ヴァッシュとトランはどういう存在だったのか、などなど。

 2人からの質問には伏せるべき所は伏せて、それ以外は真実を告げた。

「あの、トランは……? あいつも、ここに?」

「俺も、スミスさんに会ってみたいんですが」

 話が一段落して、空いた小腹に軽食を入れ始めた頃に、守と誠がそんなことを訊ねて来た。

 守はネバーランドの記憶の内、真斗や愛、テスラやアリシアとのことははっきり思い出せたらしいが、その他の部分は歯抜けや虫食いも多いらしい。トランのことも、完全に覚えていないのは無理もあるまい。ヴァッシュに関しては、恐らく名前以外の詳しい素性も伏せた上で愛や真斗と行動していたのだろう。

 この2人が、ナイブズと会えたなら、あの2人とも会えるはずだと思ってしまうのは、無理からぬことだろう。

「あいつらがいるのは、60年後の、遠い外宇宙の砂の惑星だ。すぐに会うのは無理だ」

「外宇宙……!?」

「ろっ、60年……!?」

 ナイブズから告げられた真実に、2人とも愕然している。

 誠は一度ナイブズの顔を覗き込んで、すぐに守へと首を向けた。守は暫し考え込む様子を見せてから「……そうだ。そうだった……」と、力なく呟いた。どうやらトランは、自分の出身がノーマンズランドであることを包み隠さず伝えていたようだ。

真斗や愛、アリシアのように、ネバーランドで出会った人間は、全て近い時代の火星の人間だと思い込んでいたのだろう。あの2人とテスラが、特例であるとも知らずに。

 友に会えないと知った守の落ち込みようは、ナイブズの想像以上だった。

「長生きできれば会えないことも無いだろう。頑張ることだ」

 気休めでもあり、同時に偽らざる本心でもあった。

 既にワープ航法が実用化され、民間人も利用できるほどに普及しているのだから、ノーマンズランドが正式に地球連邦政府の構成惑星の1つに組み込まれ、治安も安定すれば、守や誠が生きている内にノーマンランドへ渡航することも不可能ではないだろう。

 尤も、帰りの汽車で2人から話を聴いた限りでは、あれから半世紀以上を経てもなお『多少マシになった』程度らしいが。

 暫く2人は固まっていたが、何かの音が鳴ると、誠は慌ててポケットから携帯端末を取り出した。電子メールが届いたらしく、内容を目で追う毎に誠の顔が青くなっていく。

「永遠野先生、(あね)さんから、どこにいるのかと怒りのメールが届きました」

「なに? ……あっ、もうこんな時間か!」

 誠からの報せに、守は腕時計を見遣って慌てた様子で立ち上がった。どうやらナイブズにとっても予想外の長話になったようだ。

「ここまでだな」

 短く告げて、ナイブズもまた席を立つ。3人分の会計を手早く済ませて、店の外に出る。

「ナイブズさんも、どうですか? 良ければ、一緒に」

 店の入り口から数歩進んだところで、背中に誘いが届いた。なにを、と問い質すまでも無い。ネバーランドで出会った者たちでまた会おう、ということだろう。

「……いや。これから行く場所がある」

 生憎と、今日は先約がある。

 半歩だけ振り向いて断ると、守は心底残念そうな様子だったが、すぐに気を取り直して、笑みを浮かべ、手を差し出してきた。

「お会いできて良かったです、ナイブズさん。お元気で」

「達者でな、永遠野守」

 振り向いて、向き合って、握手を交わす。夢を見るだけしかできなかった非力な赤子は、がっちりとナイブズの手を掴める大人に成長していた。

 これならきっと、テスラが心配して迷うこともあるまい。そう思うと、ナイブズは自分でも気付かない内に、微かな笑みを浮かべていた。

 握手を解くと、ナイブズはすぐに踵を返して、ネオ・ヴェネツィアの小路に消えていった。微塵も振り向く様子も無い後姿には、ある種の潔さがあった。

 永遠野がナイブズの見送りを終えた、丁度そのタイミングで、誠も姉へ向けたメールの返信を終えていた。あと10分以内に来なければ、かの白き妖精の目前で恥をかかされると宣告されており、2人は慌てて指定された集合場所へと急いだ。

 

 

 

 

 すっかり歩き慣れた裏路地を、目的地へ向かってまっすぐ歩く。行く道は、あの日と同じ。黒猫に先導され、カサノヴァの許へと(いざな)われたあの時と。

 やがて広間に出て、数多の猫たちが見守る中、ナイブズは猫妖精と対面した。カサノヴァに仮面と套を差し出され、カーニヴァルに誘われた時と同じように。

 季節は冬、表は祭りの喧騒。しかし今日の猫妖精はカサノヴァの衣装ではないし、手には何も持っていない。

「久し振りだな、ケット・シー。お前にとっても、あの夢幻の世界での出来事はつい先日のことやもしれんがな」

 ナイブズが話し掛けると、猫妖精はただ笑みを浮かべて、ナイブズを手招きした。立ち話もなんだから広場の隅で適当に座ろう、ということだろうか。招かれるまま、ケット・シーの隣へと腰掛ける。

 周囲をぐるりと見回せば、目に入るのは猫、ネコ、ねこ。地球猫に火星猫、焼き物のような何かまで多種多様。この街にいる猫が全て集まったのではないか、という程の壮観。

 猫など普段は横目で流し見るか視界の端に捉える程度で、じっくり観察した覚えは殆どない。にも拘らず、見知った顔がちらほらといる。

「……見覚えのある顔が、近くに集まっているのは偶然か?」

「オレも猫神の端くれとして、ネオ・ヴェネツィアの猫の集会には顔を出したいと思ってたニョ。今日はポヨもいるしニャ」

「ヒアー」

「今日は特別な、目出度き日。私たちのような変わり者とて集まりますとも」

「にゃ」

「ぷいにゅー!」

 ナイブズからの問い掛けに、見覚えのある猫たちはそれぞれ短く答える。

 思い返せば、ナイブズがこの星に来た時に最初に見た生物も、ナイブズを最初に迎え入れたのも、そもそもナイブズと一緒にこの星へ降り立ったのも、全て猫だった。

 その猫たちの中でも少なからぬ縁のある猫たちと、今日という日に顔を合わせるのも合縁奇縁というやつか。

 ふと、ケット・シーを見ると、とても嬉しげな表情で、ナイブズを見ていた。

 空のように澄んだ、海のように深い、吸い込まれるような蒼い瞳。

 きっとこいつは、今までもこれからも、こうやって人間を見守っていくのだろう。この街で、この場所で、人の傍らで。

 それからは、誰が何を言うでもなく、眠ったように時が過ぎる。ネコは寝子とは言ったもので、大半の猫は実際に寝ている。起きている者同士は、一鳴きで、或いは無言でアイコンタクトのみでコミュニケーションを取っており、ナイブズには立ち入れない領域だった。夏の終わり、アイーダを連れて来て、どうしたものかと2人一緒に戸惑った時を思い出す。

 今は戸惑うことも無く、ただ同じ場所にいて、同じ時を過ごす。

 日が傾ぎ、空が茜色に染まり始めた頃に、新たな来訪者が現れた。気配は2つ。

猫妖精(ケット・シー)、お待たせ致しました。ナイブズも、待たせたね」

 まず現れたのは店主だった。10日間ほぼ不眠不休だったらしいが、老体に似合わず元気なものだ。尤も、彼が出席した会議の内容を考えれば、よくも半月と経たずに帰って来られたものだ、というのが率直な感想だ。

「例の物は?」

「ここに」

 店主が帰ったのは昨日の昼前。会議の内容と結果を纏めたデータを渡され、その閲覧を終えたのは陽が落ちた頃。

 データを吟味したナイブズは、予てからの案を実行すべく、店主にあることを依頼した。幸いにして、店主の仕事の手伝いで蓄えは十二分にあった。

 店主はナイブズの依頼を快諾し、しかも代金は不要とした。代わりに、彼の願いを1つだけ聞くことになったのだが。

 予定通りに、依頼していた物を受け取る。ザック一つに纏まったらしく、一度まとめて地面に下ろす。そうしている内に、もう一つの気配の主も現れた。

 ポイニャウンペの物と同じ系譜の民族衣装を身に纏い、腰には剣を帯び、青い狼を模った仮面を被り、頭頂部近くの髪だけが火の冠のように赤い、獣の毛並みを思わせる長く荒々しい黒髪の男。

 つい先月に会ったばかりの、極北の國に住まわる神々の中でも勇者と謳われる武神。

 その場で跳躍し、空中でくるりと一回転してその姿を四足獣――濃紺の体毛と赤い鬣を持つ狼へと変える。

「猫妖精、久し振りだな。招かれざる身でありながらこの場に来た非礼を、まず詫びておく」

 狼の姿で、人の言葉を用いて挨拶するのは不思議な光景だった。彼らオイナ族にとってはどちらの姿も真の姿であるらしいが、この場に合わせて獣の姿に変わったのだろうか。

 挨拶を受け取った猫妖精は一つ頷くと、手振りで気にしていないということを簡潔に伝える。

 ザックの中身の確認を終えて、ナイブズは狼へと声をかける。

「オキクルミ。お前もあの会議に参加していたのか」

 青い狼――オキクルミは再び跳躍して空中回転、人間の姿へと再変身した。

「会議に参加する火星の有識者の護衛役の名目でな」

 簡潔な答えに、ただ頷く。それ以上の意味や理由があるが、深く追及はするな、ということだろう。

 地球連邦政府と火星総督府の緊急会議に、火星に移り住んだ神々の中でも屈指の武神が参加した。緊急事態に異例の珍事を意図的に重ねることに、何らかの思惑が無いはずがない。

 すると、オキクルミの言葉を聞いた猫たちが、俄かに騒ぎ出し、大きなざわめきとなった。

「皆、会議の結果がどうなったか、気になって仕方がない様だ。店主、教えてもらえるかな?」

 ジッキンゲン卿が猫たちの鳴き声の意味を察し――いや、元から理解できるのか――彼らの要望を具体的な言葉へと変え、唯一の解答者である店主に伝える。

 猫たちのざわめきが収まるのを待たず、店主は嬉しげな笑みを浮かべて答えた。

「親愛なる猫の國の王たる猫妖精(ケット・シー)よ、そしてお集まりの皆様! ご報告いたします。過日行われました、ミリオンズ・ナイブズに関する緊急対策会議にて、現在のナイブズ氏における危険性の否定、並びに安全性の証明、どちらにも成功いたしました!」

 芝居がかった語り口での報告に、ざわめきは一層大きくなり、歓声へと変わった――

「いざという時は、俺達が命を懸けて止める、という条件でな」

 ――歓声が、ぴたりと止んだ。

 集った猫たちが一様に息を呑み、固唾を呑んだ。彼らにとっても、火星で命を懸けるという非日常は容易に受け止められるものではないらしい。

 例外は、猫妖精、ジッキンゲン卿、ポイニャウンペぐらいのもの。当事者である2人は、さもありなん、と納得している様子。

 ナイブズは、今の言葉で、漸くあの件に合点がいった。

「あの時の手合せは、俺の実力を図る為だったと?」

「そして、お前という存在の性格や性質を見極めるためだ」

 店主からの依頼による、大神アマテラスの面前での手合せ、その翌日の猫妖精との面会。全ては初めから画策されていたこと。偶然を装ったのは、自然体のナイブズを観察し、本質を推し測り見極める為か。

「へー、あの時のあれにそんな意味があったんだニャア」

 どうやらポイニャウンペは何も知らされていなかったようだが、それも恐らくはナイブズに気取らせないためだろう。実際、ポイニャウンペとその嫁がバカ騒ぎの中心で、それがオキクルミらの真意に気付けなかった要因でもあることは明らかであった。

「オキクルミ殿、あなたの見解をお聞かせ願えますか」

 店主が促すと、オキクルミはケット・シーに会釈してからその前を通り抜け、ナイブズの前に立つ。青鈍色の輝きを帯びる剣を音も無く鞘から抜き、切っ先をナイブズの眼前に突き付けた。

「お前が遠き砂の星で、どのような悪行を成したかは、店主や地球の役人たちから事細かに聞かされた。その罪状、100度死んでもなお足りぬほどの極悪人だ」

 ナイブズは動じず、突き付けられた青鈍色の刃には目もくれず、仮面越しにも伝わるオキクルミの鋭い眼光を睨み返す。

 今この場で討たれても悔いはない――などと、行儀のよいことは考えていない。ただ、いざそうなったらどうするか、決めてあるだけだ。

「迷いは無いようだな」

「歩き方は決めてある。それだけだ」

 仮面越しに視線を交錯させて数秒、オキクルミは剣を鞘へと納めた。

「……お前の戦いは、己の欲望を満たすためではなく、最初から同胞の為だったと聞いている。お前にとって、大切なものを人間の魔手から守るためにと」

 その事実は、何者によって齎されたものか。ヴァッシュか、ヴァッシュに近しい隠れ里の者達か、それとも店主か。

 なんにせよ、それに偽りはない。首肯し、オキクルミに続きを促す。

「絶滅の為の殺戮などと、方法は誤っていた。しかし、己の力を、自分のためでなく、誰かのため、仲間のために使い続けた。その心根は、決して邪悪ではない」

 力強い断言。人間をプラントの天敵である害獣として駆除しようとしたナイブズの思考を、思いもよらぬ見方で肯定され、唖然とする。

 決して言葉遊びや屁理屈の類ではない。オキクルミが直接にナイブズの本質を見計らい、最も近くで最も長くナイブズを見守り続けた仙人の意見も受け取った上での回答。

 人とて取り返しのつかない間違いを犯したことは幾度となくあった。地球の環境を破滅の寸前まで追いつめてしまったように、無理な惑星開拓や外宇宙移民計画で少なからぬ犠牲者を出してしまったように。

 それでも、人間は失敗を教訓とし、愚かさを省み、過ちを正し、前へと進み、今日にまで至ることができたのだ。それは神や精霊と呼ばれるものたちでさえ変わらない。

 ならば何故、この世に生きる同じ命であるプラント自律種に――ミリオンズ・ナイブズにはそれは起こりえない、それは出来ないことだと言えようものか。

「ナイブズ、お前はお前の心の思うまま、ただ只管、己の道を歩むがいい。その道を歩むことにこそ、掛け替えのない価値があるのだから」

「……それでは、今までと変わらんぞ?」

「その“今まで”の中で、君は変わったんじゃないかな?」

 オキクルミの言葉に、即座に疑問を返したが、すかさず店主から問い返された。

 これには、流石のナイブズも、ぐうの音も出ない。

「……否定はしない。…………いや、その通りだ」

 ナイブズのこの言葉に、広場は今日一番の歓声に包まれた。猫たちにとっても、ナイブズの存在はそれだけの懸念事項だったのか、それとも、ただ心配をしていただけか。

「ナイブズ。いつぞやの答え、聴かせてもらえるかな。君は、この星で何を想う?」

 過去の火星へ迷い込んだ後、店主を使って龍宮城の聖域へ行き、グランドマザーも交えて語らった日に、この問いを受け取っていた。あの時は答えをはぐらかしたが、今回はそうはいかない。依頼の対価の願いが、これなのだから。

 何を願われるのかと思えば、こんな些細なことか。つい、呆れと溜め息の混じった笑みを零して、簡潔に答える。

 答えを聞いた店主は、猫妖精は、この場に集ったもの達は、皆一様に満足げで、うれしげで、微笑んでいた。

「さらばだ」

 短く別れの言葉を告げて、踵を返す。

「もし機会があれば『猫の事務所』にも遊びに来てくれ。かま猫くんやムタと一緒に、歓迎するよ」

「カムイコタンの近くまで来たら寄っていけ。遭難したら拾ってやる」

「オレは嫁とまた旅に出るから、旅先で会ったらよろしくニャ」

 ネオ・ヴェネツィアの外から来た者達は、口々に歓迎の言葉を口にする。それは即ち、ナイブズの選択への祝福でもあった。

「元気でね、ナイブズ。君の旅路に幸の多からんことを」

 いつのまにか出口に先回りしていた店主はそう言って、目を伏せ、祈るようなしぐさを見せた。

 その横を通り過ぎようとして、ナイブズはほんの気紛れから立ち止まり、声を掛けた。

「お前には、随分世話になった。感謝している、我が先達たる仙人よ」

 言葉だけ伝えて、顔を合わせることもせず、反応を確かめることも無く、ナイブズは猫の集会所から立ち去った。

 

 

 

 

 時刻は黄昏、街をオレンジに染める夕焼けもいずれは沈み、闇が染み出す頃。逢魔ヶ時とも称される、人と魔、表と裏の世界が交わる、ほんのひと時。

 この時ばかりは、ナイブズのような特別な存在や、水無灯里のような稀有な素養の持ち主以外でも、人が裏側へと迷い込んでしまうことがあるのだという。だが、今日この日まで、ナイブズがその実例と出くわすことは無かった。

「あっ、ナイブズさんっ」

 あと一つ、最後の角を曲がれば表へ至る、というところで、ナイブズは水先案内人を発見し、名を呼ばれた。

 彼女の名は、ナイブズも知っていた。この星に来て、最初に教えられた名前だ。

「アテナ。こんな所で何をしている」

「えっと……ナイブズさんを探していたんです。それで、気が付いたら、よく分からないところに来ちゃってて……」

「要するに迷子か。水先案内人が」

「はい……」

 ナイブズを探していた、という文言が気にかかったが敢えて追究せず、要点を纏めて確認する。アテナは見るからに落ち込んだ様子を見せて、小さく頷いた。

 信じがたいことだった。迷子になった上で、表と裏の境へと迷い込み、そこで探し人のナイブズと鉢合わせるなど、天文学的な確率のはずだ。それをこうも容易く引き当てたのは、天性のものか、それとも、これも店主の言う“縁”というものか。

 真相はともかくとして、この状況はあまりよくないことは分かるので、場所を移す必要がある。話をするのはそれからでも遅くはあるまい。

「案内してやる。どこに行く?」

「えっと、サン・マルコ広場に」

「付いて来い。うっかりはぐれるなよ、最悪、帰れなくなる」

「はいっ」

 声を掛け、先導して歩き出す。すぐそこから表へ出てもいいのだが、境からサン・マルコ広場に近い場所まで移動するルートを選択した。

 外からはカーニヴァルやヴォガ・ロンガの時ほどではないにせよ、普段よりも多くの人の気配がした。アテナが人混みに紛れて、再び迷子になる可能性は高かった。実際、ただナイブズの後を追うだけの状況でも10分と経たずにはぐれそうになっているのだから、この懸念もあながち杞憂とは言い切れまい。

「それで、どうして俺を探していた?」

 後ろは向かず、前を見て歩き続けながら後ろのアテナへと問う。

 アテナは、足音と呼吸を僅かに乱れさせ、明らかに動揺と躊躇いを見せたのち、わざとらしいぐらいの明るい声で答えた。

「集まったみんなが、ナイブズさんの知り合いだったんです。それで、灯里ちゃんがナイブズさんも探して、一緒に過ごそうって言ったんです」

「過ごす? 何をだ?」

「ネオ・ヴェネツィアでは、年越しをみんなで一緒に過ごすんです。サン・マルコ広場では屋台も出て、ちょっとしたお祭りみたいになるんですよ」

「興味は無い。お前達だけで騒いでいろ」

 アテナから答えと同時に示された提案を、そっけなく切って捨てる。同時に、都合のいいタイミングであるとも気付いた。

 アテナとサン・マルコ広場近くで別れたら、そのまま離脱すればいい。ナイブズの顔見知りの人間はほぼ集まっているのなら、他の連中に捕まることもあるまい。

 沈黙を気まずいとも思わず、時折ザックを持ち直しながら、ナイブズは沈思黙考する。

 不意に、声も無くアテナの歩みが止まった。数歩進んでから、後ろを振り返る。出口はもう目の前だった。

「……ナイブズさん。あの時『さらば』って、言いましたけど……どういう意味で言ったんですか?」

 人の機微を見抜く慧眼は相変わらずか、と、ナイブズは仮面越しの感情を見抜かれた時のことを思い出した。あんな些細な一言から、ナイブズの内心を読み取った――などと言う程でもないだろう。

 アリスたちからアテナの裏誕生日を事前に教えられ、ボッコロの日に暁から『世話になっている女には花の一つも贈るものだ』と教えられていたからと言って、素っ気ない上にぶっきらぼうなナイブズが、裏誕生日を祝って贈り物まで渡したとなれば、その内心に尋常ならざる変化が起きていることは、彼を知る人なら誰しも容易に想像できるはずだ。

 事実、現場を見守っていたアリスや杏やアトラも、翌日に話を聞いたアリシアと晃、そしてあゆみや灯里や藍華も、皆一様に驚いていた。『なんだかナイブズらしくない』と口を揃えた。

 或いは恋の始まりではないか、などと少女たちは姦しく噂していたが、そんなことは無く。

「旅に出る。お前にだけは、別れは伝えておきたかった」

 ナイブズはただ、アテナに“感謝”を伝えたいだけだったのだ。

 だから今も、正直に事実を述べていた。

「どうして、急に……」

 アテナは余程ナイブズの答えが予想外だったのか、驚き戸惑っている。しかしナイブズからすれば急なことではない。アイーダと別れた頃から考えていたことだ。

 地球連邦政府がナイブズの存在を捕捉し、具体的な動きを見せたら、この街を出て行こうと。

「身の回りが騒がしくなって来た、というのもあるが……」

 だが、それだけではない。今やそれも切っ掛けの一つに過ぎず、ナイブズが旅立ちを決めた理由の最たるものは、他にある。

 それを口にして、伝えようとした、丁度その時。ナイブズが目指していた先から、新たな気配を感じた。猫が2匹と、人間が2人。

「アリア社長、待ってください」

「ちゃ顧問、待てってば」

 2匹の猫を追って現れたのは2人の女性。いずれにもナイブズは見覚えがあった。1人は見知った水先案内人で、もう1人は少女の時分の姿を見たきりだ。

 ナイブズの主観時間ではつい2週間前に会ったばかりだが、彼女たちにとっては、それぞれどれぐらいぶりか。……いや、アリシアとは互いにおよそ2カ月ぶりになるのは間違いないか。

「アリシア、真斗」

「アリシアちゃん、真斗ちゃん」

 アテナと一緒に、2人の名を呼ぶ。2人はそれぞれ追って来た猫を抱えてから、ナイブズ達の方を見た。アリシアは安堵したような微笑みを浮かべて、真斗は驚きを露わにして。

「ナイブズさん。こんな所にいらしたんですね」

「……お久し振りです、ジョンさん。弟さんには、お世話になりました」

「いや、多分、あいつの方が世話になっただろう」

「それは……意外と否定できませんね」

 アリシアには一つ頷いて応え、真斗とは短く言葉を交わす。この受け答えだけでも、必要十分量の情報を得られた。

 彼女たちは間違いなく、ネバーランドでの出来事を覚えていて、ナイブズもまた覚えていることを知っている。

「ネバーランドで出会ったジョン・ドゥさんは……本当に、ナイブズさんだったんですね」

 アリシアが確信となる言葉を口にする。

 ナイブズは首肯し、問いを返した。

「俺があそこに行ったのは2週間前だが、お前はもっと前だったのだろう。いつ思い出した?」

 ナイブズが覚えている限り、アリシアがナイブズに対して顔見知りのような素振りを見せたことは無い。あの出来事は完全に忘れていたと考えるのが妥当だろう。

 だが、記憶とは不思議なもので、欠落したかのようにどうしても思い出せない記憶も、ふとしたきっかけで思い出すことができる。ヴァッシュにとってのロスト・ジュライのように。

「秋に真斗ちゃんと偶然会えたんですけど、その時はお互い見覚えがあるなあって程度でした。全部思い出せたのは、本当につい最近なんです。初雪の日、ナイブズさんに『怒ったことがあるのか』って訊かれた時、何かが引っ掛かったんです。その引っ掛かりが、真斗ちゃんのことにも引っ掛かって、何なんだろうなぁって思ってたんです。そうしたら、クリスマスに灯里ちゃんがネバーランドの名前を出してくれて、それで思い出せたんです」

 アリシアの言葉に耳を澄まし、一つ一つの情報を整理していたが、予想だにしない単語の組み合わせの出現に、ナイブズは堪らず聞き返した。

「……灯里が、ネバーランド……?」

 ネバーランドとは『時間を止めてしまいたい』という苦悩を抱えた人間が迷い込む、時空の狭間にある夢幻の精神世界。そういった悩みとは凡そ無縁に思える灯里がネバーランドに迷い込むとは到底思えない。

 この疑問に答えたのは、アテナの方だった。ナイブズの驚き方が可笑しいのか、微かに笑みを浮かべて。

「アリシアちゃんがネバーランドって名付けた、私達の秘密の場所があるんです。そこに、アリシアちゃんと晃ちゃんが、灯里ちゃんたちを招待したことがあるんですよ」

 なるほど、そういうことだったか。それならば、なんらおかしいことは無い。

 直後にアテナが「その日は忙しくて、私だけ行けなかったんです……」と急に落ち込んだが、それはアリシアに任せて、ナイブズは真斗にも話すよう促した。

「私はアリシアより少し前に。うちの部の姉ちゃん……二宮愛が、2週間ぐらい前にネバーランドの話をしてくれて、その時、完全に思い出しました。それから、先週のクリスマスの夜、急にアリシアから連絡が来て……あの時は驚いたよ」

「ごめんなさい。でも、居ても立ってもいられなくって……」

 ナイブズからの問いに答えて、そのまま真斗はアリシアのその日のことを話しかけた。悪戯っぽく笑う真斗も、照れ笑いを浮かべるアリシアも、大人びた雰囲気は無く、まるで少女のような無邪気さで、夢の中で出会った彼女たちの姿が重なって見え。

 アテナは何も言わず、微笑みを浮かべてアリシアと真斗のやり取りを聴いていた。他方ナイブズは空を見上げ、時間経過がおかしくなっていることと、2匹の青い瞳の火星猫が2人を連れて来たことを考えた。

 あのお節介焼き達がお節介を焼いたのは、果たしてどちらの方か、それとも両方か。少なくとも、アリシアと真斗をナイブズに会わせるため、態々アリアたちを寄越したのは間違いあるまい。

「そうそう。こっちに来たら、もう1人別の知り合いに会えて、永遠野先生と一緒に驚きましたよ」

 不意に真斗がナイブズへと新たな話題を振って来た。言葉からすると、ナイブズとアリシア以外の誰かのようだが、思い当たる人間は――1人、いた。

「……もしや、アトラ・モンテヴェルディか?」

「まぁ、御存知だったんですか?」

「それらしいことを言っていたのを思い出した。そうか、あいつも……」

 肯定したアリシアの驚きようは、そのままナイブズの驚きでもあった。

 アトラの裏誕生日、彼女はアリスや杏と『ネバーランド』について話していたのだ。ピーターパンやティンカーベルともう会うことも無い、などと言っていたのは、比喩ではなく、そのままの意味だったのだ。

 あの時は、1人の少女が悩みから決別して一歩を踏み出したのだと、その程度の認識で聞き流していた。それが、まさか、そういうことだったとは。テスラを知る人間が、この世にもう1人いたとは。

 驚きつつも、不思議な感慨に耽る。すると、アテナがナイブズの隣へと来た。

「ナイブズさん。ネバーランドのお話、みんなとっても気になってるんです。よければ、お話してくれませんか?」

「何度も訪れていたこの2人と、愛、それにピーター本人がいるだろう」

 より詳しい人間を失念する、アテナのいつものうっかりだろうと即断し即答する。これでもう同行する理由も無くなるだろうと思いきや、ナイブズが指したその2人が、アテナの側に付いた。

「けど、私達はベルちゃんや、もう1人のジョンさん……ヴァッシュさんについて、ナイブズさん程詳しくありませんから」

「それに、水先案内人(ウンディーネ)の皆さんからジョンの――ヴァッシュさんの冒険譚を聴いて、(あね)ちゃんも弟くんも興味津々みたいで。是非、語り手当人に色々教えてもらえればと」

 アリシアと真斗から、ナイブズを呼び込むためにヴァッシュを引き合いに出されてしまって、つい苦笑してしまった。

 ああ、まったく。お前というやつは。ただ話の中だけでも、周囲を引っ掻き回して、巻き込んで行くのだな。時を越えて出会う奇跡を得て、十分に納得して満足して別れたというのに、お前がここでも俺の手を引くのか。

 しかし、それでは癪だと、ナイブズは口を開いた。

「トランを忘れるな。もう1人いただろう、俺の同胞(はらから)が」

 あの時、ネバーランドに集ったプラント自律種は4人、なのに今挙がった名前は3人だけ、これでは不公平だ。尤も、本人から聞いた分には、トランと少女たちとの交流は、覚悟の程を確かめるに脅かしたのと、多少言葉を交わした程度だったらしいので、忘れられてもしょうがないとは思うが。

「それじゃあ」

 ナイブズがトランの名を挙げた意味を察してか、アテナが小さく声を上げる。顔と声には、喜びの色がありありと現れていた。

 何がそんなに喜ばしいのかは分からないが、その期待に応える形で口を動かす。

「日が変わるまでは付き合ってやる」

 これに、3人と2匹は喜びを露わに歓迎した。

 ナイブズの先導によって表から出ると、時刻は黄昏過ぎて宵の頃となっていた。ナイブズの体感時間では疾うに夜の帳が落ちているはずだが、神空間と呼ばれる異空間では時間経過が歪むことは幾度となく体感済みだ。

 それが一定の法則によるものか、思惟的な制御が利くものかまでは知らないが。

 

 

 

 

 サン・マルコ広場は目と鼻の先という所で、アリシアとアテナが夏に夜光鈴を買った屋台の女性とその家族に鉢合わせ、暫く話し込むことになった。

 婚前旅行のはずが、婚約者の獣医が多忙のために家族旅行になったとか、溺愛している愛猫のこととか、色々と話している。

 その中で、女性が連れている球形の猫が、火星猫ではなく地球猫であることが判明し、ナイブズもまた強いショックを受けた。アリシアも驚いているのだから、きっと、かなり珍しい種類の猫なのだろう。しかし女性の家族からすればただの常識らしく、猫の話題で盛り上がる女性たちをよそに、父と弟は道案内をしてくれた地元の少女にお礼を言っていた。

 少女から「全然アリです!」という快活な返事を聴くと、父と弟はお駄賃と上手な案内の代金と称して少なからぬ額の金銭を渡した。水先案内人志望らしい少女は、何度も父と弟にお礼を言って去って行った。

 ナイブズも暇なのでこの2人と少し話してみたら、父の方が天地秋乃と農業を通じた知り合いであることが判明した。ナイブズのことも多少は話に聞いていたらしい。

「ぷいにゅっ」

「ちゃっ」

「ヒアー」

 結婚についての話題で大いに盛り上がっていた女性たちの会話が猫たちの横槍で強制中断されると、佐藤一家は友人夫婦――特徴を聴くにどうもポイニャウンペとその妻らしい――と合流するためにその場を離れ、ナイブズ達も指定の合流場所へと向かった。

 サン・マルコ広場の、有翼の獅子像を頂く柱の下。人混みを掻き分けて辿り着いたそこには、見覚えのある顔ばかりが集まっていた。

 アリシアたちから声を掛けるよりも先に、偶然こちらの方を向いていた1人が、ナイブズの顔を見てぱっと笑顔を見せた。

「あっ、ナイブズさん!」

 あゆみがナイブズの名を呼ぶと、全員が一斉にこちらを見た。

「アリシアさ~ん、アリア社長~。ナイブズさん、見つけられたんですねっ」

「真斗ちゃん先生とちゃ顧問、そしてナイブズさん、発見!」

 灯里の間延びした気の抜ける声に続いて、光の溌剌とした元気な声、そしてホイッスルの鳴る大きな音。すかさず入る「公共の場で急に笛吹くの禁止っ!」の声は、藍華と愛。それでも気にせず、うぴょぴょ、と笑いながら光は真斗の許へ真っ先に歩いて来て、アリシアの許には灯里と暁が、そしてアテナとナイブズの許にはアリスと晃がやって来た。

「……ナイブズさん、アテナ先輩がでっかいご迷惑をお掛けしました」

「まだ何も言ってないぞ」

 開口一番、真っ先に頭を下げられて、ナイブズは否定せずとも口走らざるを得なかった。しかしアリスは動じず、ジト目でアテナの方を見遣った。

「どうせ、アテナ先輩がナイブズさんを探している内にうっかり迷子になって、偶然会えたところを保護してもらったんでしょう?」

「すごいね、アリスちゃん。その通り」

「アテナ先輩のことはでっかいお見通しです」

 アテナはアリスの推理を無邪気に褒めているが、諦観と溜め息混じりのそれを褒めていいものなのだろうか。知らぬが仏ならぬ、気付かぬうちが花、といったところか。

「それにしても、見事に占いが当たったわけだな」

「占い?」

 アテナとアリスのやり取りを見守っていた晃からの発言に、ナイブズは思わず聞き返した。この状況における“占い”という言葉に、思い当たるものがあるからだ。

「ヴォガ・ロンガの日に、お前、舟をほったらかしてさっさと帰っただろ? あの後、取りに来た持ち主のお爺さんと、今日、たまたま会ったんだよ」

「本業は雑貨店の店主で、道楽で占い師の真似事をしている男か?」

「そう、その人。まぁ社長の件で、お爺さんの占いに助けられたってアリスちゃんたちが言うからさ、私達も占ってもらったんだよ。お前が見つけられるか」

 予想は的中。集会に来るのが遅れたのは片付けや準備、或いは疲れによるものと思っていたら、こんな根回しをしていたとは。

 詳しく話を聞くと、占いの内容は「探せば日が暮れるまでに見つかる。探さなければ決して見つからない」という曖昧模糊なものだった。

 晃や暁などは適当にそれらしいことを言っているだけではないかと疑ったが、灯里と光が『夕方まで探して回れば絶対に見つかるってこと』だと前向きに解釈し、アテナとあゆみとアリシアがすぐにそれに賛成して、老爺当人もその通りだと頷いた。

 結果、他に妙案も無く、夢ヶ丘高校ダイビング部と付き添いの教師への観光案内も兼ねて、浮島出の3人も巻き込んで6組に別れての大捜索を始めたとか。

「……あのお節介焼きめ」

 周到さに呆れつつも、今までと変わらぬやり口にある種の親しみを込めて呟いた直後、あゆみらが乱入してきて、ナイブズはあっという間に彼女たちの輪の中心に引き込まれた。

「聞かせて下さい。ネバーランドとか、龍宮城とか、ヴァッシュさんのこととか――色んなことを、たくさんっ」

「まさか、ナイブズさんがティンカーベルの弟だったなんて……!」

「ヴァッシュさんも弟で、兄弟が夢の中で揃ったなんて、不思議だよね」

「夢の中でのヴァッシュさんの活躍についての捕捉も、是非お聞きしたいですっ」

「後輩ちゃん、すっかりヴァッシュさんの大ファンね」

「僕も素敵で、凄い方だと思いますよ、ヴァッシュさんは」

「きっと、風のように自由で、優しい人なんだろうね。そんな気がするのだ」

「俺も興味あるんだよ、お前の弟の、平和主義者の正義の味方の話は。もみ子の話は要領を得なくていかん」

「ええーっ!?」

「龍宮城もね~、ばかりは“お話”を話すのが絶望的にへたっぴなのよね~」

「姉さん、それは言い過ぎ……でも、ないか?」

「確かに……ぴかりのお話、ちょっと分かり難かったかも」

「うぴょっ!?」

「ネバーランドのことも、ボクたちが忘れていることがあるかもしれませんし……トランや姉さんのこと、もっと詳しく知りたいんです」

「私も、お前がアリシアを怒らせたって話には興味がある。是非、詳しく聞かせろ」

 あゆみの言葉を皮切りに、次々に、口々に、アトラが、杏が、アリスが、藍華が、アルが、ウッディが、暁が、愛が、誠が、双葉が、守が、晃が求める。あの話の続きを、新しい物語の一節を、教えてくれ、話してくれと。灯里と光をからかっているだけの者もいたが、その視線も今はナイブズに向いている。

 アテナとアリシアと真斗は、今更言うに及ばず。何も言わず、期待を込めた視線をナイブズに向けている。いや、期待というよりも、確信か。きっと、自分たちとの約束を守ってくれるだろうと。

「……いいだろう。日が変わるまでは付き合ってやる」

 同じ言葉を、再び紡ぐ。わっ、と小さな歓声が湧き、つい苦笑する。

 俺の話の、何がそんなに楽しいんだか。

 

 

 

 

 ネオ・ヴェネツィアの伝統に倣い、お汁粉や煎り豆などの豆料理を夜食としてつまみつつ、ナイブズは3つの物語を語る。

 まずはネバーランドの出来事――テスラやヴァッシュやトランのことを、守と真斗とアリシアと共に。

 ヴァッシュの登場に最初は歓声が湧いたが、その珍道中ぶりにすぐ笑い声に変わった。予てからヴァッシュを話の中で知っていた水先案内人の少女たちは、実際の人柄を聞いて、ある者は戸惑い、ある者は笑い、ある者は目を輝かせていた。

 トランは、ピーターとすぐに意気投合し、友と呼べる間柄になっていたという。愛と真斗は、彼が上空から降って来て、巨大な拳骨で地面にクレーターを作ったことを証言したが、夢の中だからそういうこともあると誤魔化しておいた。

 ティンカーベル改めテスラについては、ピーターやナイブズとの関係性や、アリシアと最も仲が良かったことだけを伝えて、正体と最期を話すことは避けた。こういう時に話すようなことではないし、彼女を静かに眠らせていたかったから。

 ナイブズがアリシアを怒らせた一件については、その理由がどちらもテスラに纏わることだったため、詳細を伏せざるを得なかった。

 その結果、ナイブズがアリシアを怒らせた理由は――

『ナイブズがテスラとの思わぬ再会に動揺するあまり突然自傷行為を始めて、テスラを怯えさせたから』

『ピーターを想った真斗と同様に、テスラの孤独を偲ぶあまりネバーランドに留まろうとしたから』

 ――という内容になり、めでたくシスコン認定を受けることになった。アリシアらの必死の説得により、すぐに取り下げられて事なきを得たが。

 同じネバーランドを夢見た者の中で、唯一最後の時に居合わせなかった――真斗が出入りし始めた後、アリシアが出入りし始める前の時期のようだ――アトラは少々寂しそうだったが、アリシアと出会う前の真斗やテスラ、その頃のピーターの様子を話してくれた。ナイブズにとっては、ある意味こちらの方が貴重な情報だった。

 一通り話し終えると、ナイブズから守以外の4人に、どんな理由でネバーランドに迷い込んだのかを問うた。

 真斗は間近に迫った中学校の卒業を惜しんで、愛は年明けが迫り自分の卒業する年が来ることを儚んで――共に、学生特有のセンチメンタリズム。それを懐くのはむしろ健全なぐらいだと、学業を終えた者達は口にする。アリスや双葉ら在学生は、2人への共感を口にした。

 アトラは、一人前になる夢を殆ど諦め、未来への希望を見失い、もう明日なんか来なければいいと自暴自棄になった日に、ネバーランドへと迷い込んだ。奇しくもその翌日に、灯里、あゆみ、杏の激励によって、夢を取り戻し、二度と迷い込むことはなかったという。

 アリシアは、見習いから半人前へと昇格した数日後のある夜に、一人前になったら、自分1人になったら――と来るべき未来への漠然とした不安感から、明日を恐れ、その恐れがネバーランドへの道を開いた。本来なら一夜限りの夢のはずが、ベルや真斗と出会ったことで、彼女たちにまた会いたい一心で、同じ夢を見続けたのだという。

「ナイブズさんは……大切な時間を止めてしまいたいと、思ったことはありますか?」

 自分のことを話し終えて、アリシアはそんなことを訊ねて来た。考えるまでも無いことで、即座に答える。

「無いな。だが、過ぎ去ってしまった時間を取り戻そうと、必死に足掻いていたことはあった」

「そうなんですか」

 訊ねたアリシアのみならず、周囲の全員が意外だと声を漏らした。彼らの目にナイブズがどのような人間に映っていたのかは知らないが、ナイブズとて、人並みに後悔や迷いを抱えていたのだ。

 砂の惑星に居た頃、離れてしまった兄弟を偲んで。

「結局、それは適わなかったが……取り戻そうとした時間よりも、よっぽど充実した時間を過ごせた。夢の中で、だがな」

 ネバーランドは何も、悪いことばかりではなかった。それが、あの夢を見た者の総意だった。

 話が終わると、晃が何やら不機嫌そうにしているので「真斗かベルに嫉妬しているのか」と尋ねた。図星だったらしく、晃は赤面して、すわっ、とナイブズを威嚇し早口で尤もらしい否定の理屈を並び立てた。

この様子に、アリシアとアテナと藍華は、あらあら、うふふ、と微笑みを浮かべて、しっかり分かっている様子だった。

「お前ら! あらあら禁止! うふふも禁止! 藍華は禁止も禁止!」

「ぎゃーす! 台詞とられた!!」

「あらあら」

「うふふ」

 

 

 甘納豆と豆大福をつまんで、次に話すのは龍宮城。

 この当事者は水無灯里と小日向光、そしてもう1人大神アマテラスが気にかけていた地球からやって来た少女がいた……などと話していた丁度その時。

「灯里さーん!」

 天道丈と紅祢に連れられてアイがやって来た。

 どうやら龍宮城での件を通じて、アイと紅祢は友と呼べる仲になっていたようで、この時間まで共に過ごして、今は灯里達を探しに来たのだという。アイは灯里や藍華と、丈と紅祢は光と親しげに言葉を交わした。

 天道兄妹にもナイブズでは理解の及ばない神秘的な事情の話をさせようとしたのだが、今日と明日は彼らにとって特別な日で様々な準備や催しや儀式があるのだという。

「それでは皆さん、良いお年を」

「明日の初日の出は格別のものですので、是非御覧ください」

 大晦日にだけ使う挨拶を残して、丈と紅祢は足早に去って行った。

 アイが加わったことで、アイと愛と藍華で名前に「あい」を含む人間が3人揃ってややこしい、ということになったが、愛を『二宮姉』『(あね)ちゃん』と呼ぶことで事なきを得た。ついでにアイのフルネームを確認すると愛野アイ。これから話すアイーダも含めて、異様に名前の『あい』率が高まっていた。妙な偶然があったものだ。

 話を再開し、海底の聖域で一堂に会した人に寄り添い見守り続ける神々、神々との親交を持つ天地秋乃と小日向きの、神々への信仰を受け継ぐ天道一家、そしてナイブズの同胞であるアイーダについて、灯里やアイや光と共に語る。

 アイーダに関してはその存在の重要度から色々と説明が難しく、トランとはまた別な遠縁の親戚と誤魔化した。それどころか、アイが行きの船内での散歩中に抜け出していた彼女とばったり出会って仲良くなったこと、秋乃と彼女の母が旧友で、在りし日の話を聞くために秋乃の下を訪れていたことが少女たちによって判明し、逆にナイブズが衝撃の真実に驚かされることとなった。

 海底の聖域で一堂に会した神々については、古からの伝承以上のことはナイブズも知り得ているとは言い難かった。ただ、彼らがヴァッシュのように、人を愛し、見守り続けているということだけはよく分かった。

 海の慈母とも火星の慈母とも呼ばれる超大型プラントであるグランドマザーの存在は、火星の住人達に少なからぬ驚きを与えていた。同時に光や灯里やアイの証言から話好きの気さくな老婆のようなイメージも受けて、より混乱しているようだった。ナイブズも、神に類する存在からは威厳や威光よりも親しみを感じるのが当たり前になっていたことに、今になって気付いた。

 必然的に火星開拓史から抹消されていたプラントの活躍も話してしまったが、地重管理人の間でこっそり伝承されていることだし、当人たちにも言いふらすような素振りは見られないので、特に問題無いだろう。

 そして話がぽあっとした間抜け面の白狼――太陽神の化身ともされる、天の慈母、大神アマテラスに至ると、思わぬ方へと話が向いた。

 この場にいる殆どの人間がアマテラスと遭遇済みという事実には呆れる他無かった。しかも全員が最初は「ただの人懐こい犬だと思っていた」というのだから――何人かはその後改めているとはいえ――威厳も何もあったものではない。

 しかし、人によって見え方が異なる全身の紅化粧、秋の日に藍華やアリスに見せつけたという桜花の筆しらべ、そしてナイブズが灯里や双葉と共に体験した過去の出来事が、自然と大神アマテラスに一目置かせた。暁を始めとして、ただの白い犬にしか見えない数名は懐疑的だが、過去の出来事については興味があるようだった。

 過去で未来の話をするのではなく、現在で過去を振り返るなら何ら問題あるまいと判断して、ナイブズは灯里や双葉と共に、秋の日に体験した不可思議な出来事を話した。

 人類文明の発展と反比例して人々からの信仰心を失い、地球を追われて別天地へ――開拓黎明期への火星へと追いやられたアマテラスの姿は、見るも無残、哀れとしかいいようが無かった。

 それでも、残る力を振り絞り、何も無い星を水の惑星へと生まれ変わらせようと懸命な努力を続ける人々を陰に日向に支え続け、遂には力尽きた地球の大神。しかし、太陽は沈めどもまた昇るもの。悠久の月日を経たものの、40年ほど前に火星の大神としての転生と新生を果たし、今日も大神アマテラスは世を照らし、みそなわし、きこしめし、しろしめす――とは、天道神社の神主と店主の言だ。

 一度死んで生き返った辺りで皆がどよめいているが、そういうはったりの利いた誇張表現は神話や伝説では常套手段だと、自らの考えを述べた。一方で、過去に見たアマテラスは間違いなく、現代にいるアマテラスと同一の存在だという確信もあるのだが。

 信じる者と信じられない者との間で、喧々諤々の議論が始まりそうだったが、

「つまり、シロちゃんはとっても立派で素敵なワンコってことですねっ」

「うん、そうだよ。シロちゃんはとっても優しくて、あたたかい、お日様みたいなワンコさんなんだよ」

 アイと灯里のこの言葉で落着となった。結局犬扱いなのが、それを否定する気も起きないのが、何ともアマテラスらしい。

 天地秋乃や小日向きのが神々と知り合った経緯はナイブズも詳しく知らなかったが、そこは次に本人に会えた時に確認しよう、ということで皆納得した様子だった。

 アトラや杏やあゆみは「グランマはそんな気軽に会える存在じゃありません」と文句を言ったが、アリシアや灯里のとりなしによって近い内に会うことが決まったので、何も問題無い。

 

 

 夜食代わりに麻婆豆腐、湯豆腐、豆腐入りの豚汁を食べながら、話はいよいよ最後。

 銃火の飛び交う砂の惑星を旅する、平和主義者のガンマン――ヴァッシュ・ザ・スタンピードの物語。

 正直、もう何度話したかも分からない。ただ、夢ヶ丘高校の面々からの強い要望もあり、改めて、最初から語ることになった。

 

 一滴の水も存在しない乾いた砂塵の荒野で、其処彼処から血と硝煙の臭いが燻ぶる世界で、ラブ&ピースという夢を掲げて駆け抜けた馬鹿で頑固な大馬鹿者がいた。

 この話のさわりの部分だけを聞けば、きっと誰もが綺麗事の予定調和の三文芝居と決めて掛かるだろう。しかし、実際は違う。その男が夢を叶えようとした場所は、人の心すらも渇いた暴力の世界だったのだ。

 男は貴く気高い理想を持ったが故に、常に立ちはだかるのは難題と難敵ばかりだ。

 男は暴力の世界で暴力を否定した。故に、誰よりも大きな力を持ちながらも、それを決して振り翳さず、振り上げることすらなく、自らを強者と定義する世界の摂理に挑み続けた。

 どれ程の苦杯を舐めただろう。

 どれ程の辛酸を味わっただろう。

 どれだけの血と涙を流しただろう。

 男は幾度、この世を地獄と思ったことだろう。

 しかし男は、一時は歩みを止めてしまうこともあったが、決して膝を折らず、最後には立ち上がり、前へ前へと進み続けた。

 今までも、そしてこれからも。

 

 深紅の外套を翻し、砂塵の荒野のみが広がる大地を、彼は駆け続けた。

 彼は、血と怨嗟が渦巻き、硝煙が燻ぶる、人の心すらも乾いた暴力の世界で、ラブ&ピースを唱え続けた。

 彼は、暴力を振るう誰をも凌駕する力を持ちながら、その力を決して是とせず、己を強者と定義する世界の理に抗い続けた。

 彼は、どれだけ己の肉体に傷跡が刻まれ血を流そうとも、誰かの涙を止めることだけを只管に願い、実行し続けた。

 そんな彼の正体は、ただ一心に人を信じることのできる、底抜けのお人好しで呆れるぐらいに心優しい、稀代の大馬鹿者。

彼の名は、ヴァッシュ・ザ・スタンピード。

 

 彼の傍には、常に人の姿があった。戦いの時も、旅の時も、日々を過ごす如何なる時も。

 人々は彼と触れ合い、時には拒絶し、時には受け入れ、時には絆され、時には反発した。

 残念ながら、人々の反応に多かったのは負の側面。一体どれだけ裏切られ、傷つけられ、嘘をつかれ、屈辱を受けたことか。いわれなく疑われ、人間扱いされず、大切なものを奪われ、笑われながら踏み躙られ……そんなことが幾度となくあっただろう。

 きっといい人もいるから、きっとより良く変われるから、きっと、きっと……と、呪詛のように唱えながら、救いようのないクズまで含めて人を救おうなどと、正気の沙汰ではない。自分自身の傷と痛みを省みず、矛盾だらけの現実を凝視せず、綺麗事とやせ我慢の生き方が心を蝕んでいるのではないかと問い質したこともあった。

 それでも、彼は、ヴァッシュ・ザ・スタンピードは立ち止まることはしなかった。果てしない旅路の中で出会った人々が彼の中に灯した光が、温もりが、いつしか彼の理想を支える土台となり、彼が歩くための原動力となっていたから。

 そんなヴァッシュの生き方に、砂の惑星の人間たちは少しずつ影響を受けていった。それは少しずつ星中に伝播していって――あの時に、奇跡として結実した。神の見えざる手によるものではなく、機械仕掛けの神の降臨でもなく、この世に生きる1人の男の愚直なまでの信念と理想を、最後の最後まで貫き通したことで掴み取った、引き起こした奇跡。

 時間はかかるし、時には後戻りもするけれど、人は前に進めるのだと、信じ続けた故に。

 それは、ヴァッシュの対極に常に存在し続けていた宿敵にとっても、例外ではなかった。

 

 ここまで話して、そういえば果てしないトラブルメイカーであり、一時は人間たちによって『トラブルを無駄に肥大化させて災害レベルにする、ある種の災害』として認定され、局地災害指定“人間台風(ヒューマノイド・タイフーン)”となっていたことを話していなかったと気付き、改めて話すと、ジョークと誤認されて笑いが起きた。アイーダにも「時々変なジョークを言う」と誤解されていたな、などと思い出す。

 具体例を出しても到底信じそうにないと判断し、『人を死なせないためならば、事態を引っ掻き回して大騒ぎにすることも辞さない男だった』ということで納得させた。事実の一側面ではあるのだが、何故か嘘を吐いたような気分になった。

 また、アリスに乞われてヴァッシュの身体的特徴を列挙したら、何故かウッディに似ているのでは、という話題になった。

 箒のように尖った金髪、筋肉質の長身、平素は笑顔を絶やさぬ間抜け面、丸渕のサングラスと、確かに部分的なパーツに類似点があることは認められる。だが、ナイブズからすれば到底似ておらず、これならアリスの言っていたムッくんというキャラクターの間抜け面の方がよっぽど似ている。それを指摘したら、アリス曰く「ウッディさんはムッくんとでっかいそっくりですっ」ということで『ヴァッシュ≒ムッくん≒ウッディ』の公式が成立し、やはりウッディとヴァッシュは似ているのではないか、という話題でループした。もう好きにすればいいと、心の底から思った。

「うそ……あのジョンが、こんなに立派な人だったなんて……!?」

「人は見かけによらないな……あのジョンが……」

 愛と真斗は、実際に会ったジョン・スミスとナイブズが話したヴァッシュ・ザ・スタンピードとの落差に驚き、呆気に取られていた。確かに、普段と本気との落差が大きいのはナイブズも同感だ。この面子で例えるなら、灯里が晃に、普段のアテナが仕事中のアリシアになるようなものだろう。

(あね)さんよ、やっぱり雰囲気でも俺と似ていた、というのは気のせいだったんじゃないか?」

「いや、それは間違いないわよ。蹴り易かったし」

「そんな立派な御仁を蹴りまくったことを、懺悔する気はないのかよ……」

 誠はヴァッシュと似ていると言われて、最初は親しみを持っていたようだが、いざ話を聞くと恐縮してしまったようで、愛に訂正を求めた。しかし愛は独自の評価基準に基づいて評価を曲げなかった。

「……あいつは、初対面の子供にプロレス技を掛けられて、呻くような奴だ」

「あー……」

 愛の評価基準と、実際にネバーランドで見たやり取りから、何か思い当たるものがあると思ったら、それだった。誠も、これには納得したようだ。

「誰が子供と同レベルよ!?」

「言ってないっ!?」

 綺麗な飛び蹴りが炸裂。ああ、確かにヴァッシュのあれと同じだ。やはり何かしらの雰囲気が似ているのだろうかと、なんとなく思った。

 ナイブズとしては、この中でヴァッシュと最も似ているのはウッディでも誠でもなく、灯里だと思っているのだが、そのことは黙っておこう。気が付けば時刻は23時過ぎ、メインイベントまで1時間を切っている。余計な話をしていたら、時間が無くなってしまう。

 ナイブズがそれを告げると、全員が口を揃えてあっという間に時間が過ぎたと言った。4時間ほど話し続けていたナイブズからすれば、やっと終わった、というのが率直な感想だ。

 もうこんな時間になってしまった、という点については、同感だ。

 

 

 流石に話し疲れたと称して一時離脱すると、残った面々で幾つかのグループに別れ、また違った話題で話し出した。よくも飽きないものだと感心する。

 ふと、空を見上げ、吐息を一つ。

 ネオ・ヴェネツィアでは夜間の灯火が制限されていることもあって、星空は良く見える。昼間の青空はノーマンズランドとさほど変わらないが、やはり、星空となるとまるで違う。

「ナイブズさん、お疲れ様でしたっ。たくさんお話聞けて、すごく楽しかったです! ありがとうございます!」

 元気のいい、興奮気味の呼び声に視線を落とす。確認するまでも無く、聞き慣れたこの声はあゆみのものだ。

 寒空の下、首にはマフラーを巻き、片手だけでなく両手とも防寒用の手袋を付けているが、頬を熱に浮かされたように紅潮させていて、一目で興奮の度合いが見て取れた。

「そんな大層なことを話したつもりはないんだがな」

「少なくとも、ウチが楽しかったのは本当ですっ」

「そうか」

 当人がそれでいいのなら、それでいいだろう。

 問答を終えて、ふと気付く。水先案内人たちは全員、仕事でもないのに制服姿だ。カーニヴァルの時もそうだったが、水先案内人は制服で行事に参加する規則か伝統でもあるのだろうか。

「ナイブズさんは、ネオ・ヴェネツィアの年越しがどんなものか、知ってます?」

「そういえば、聞いてなかったな」

 ナイブズの視線を怪訝に思ってか、あゆみはそんなことを訊いてきた。アテナにはみんなで一緒に過ごす日だから来てほしいと言われただけで、詳しい内容は聴いていない。いつもなら勝手に説明する店主も、今日と明日は特別な日と言うだけで、詳細は口にしていなかった。

「ここに来るまでの間、家の窓とかから何か出てませんでした? 家具とか、そういうの」

「言われてみれば、ちらほらと見かけたな。あれをどうするんだ、捨てるのか?」

「正解です。窓から家具とかお皿とか、豪快に投げ捨てるんですよ!」

「……なんでだ?」

 適当に口に出した乱暴な思考が正答だったので、ナイブズは却って混乱した。いつもならそれは違うと、訂正の入る所だったのだが。

 文化財の保管・保全や街の美化に注力しているネオ・ヴェネツィアで、物を捨てる行事があるということが何より意外だった。

 ナイブズの困惑した様子が余程面白いのか、何やら得意げな表情で、あゆみは答えを教えてくれた。

「昔々の地球(マンホーム)のイタリアで、そういう風習があったらしいんですよ。新年を迎えると同時に、去年まで使ってたものを放り投げて、一緒に悪いことも忘れてしまおうって」

「変わった趣向だな」

「けど、新年を迎えるのと一緒に、みんなで一斉にやるんですよ? 楽しいんですよ、これが!」

 なるほど、旧世紀由来の伝統文化ならば、ネオ・ヴェネツィアでやらない理由は無い。納得すると同時に、ある疑問が生じた。

 ここサン・マルコ広場には、皆で年越しをするべく大勢の人間が集っている。この状態で各々が物を投げたら、ノーマンズランドならばちょうどいい具合の祭りになりそうだが、火星の基準では大変な惨事になるのではないだろうか。

「……ここでもやるのか?」

「はい。勿論、人が集まってる場所で人がケガするようなものを投げるのはご法度ですよ。投げるのはだいたい手袋とか、マフラーとか、上着とか、そういう小物です。で、ウチらは帽子です」

 流石にその辺りの分別はついているらしい。あゆみは制服の帽子を手に取って、両手で抱えた。手袋を選ばない辺り、彼女らしいと言えるだろう。同時、水先合案内人たちの服装にも納得する。

「それで、全員が制服姿か。……今年中に使ったものなら、なんでもいいのか?」

「はい。何か、投げたい物があるんですか?」

「ああ。調度いいものがある」

 言って、静かに懐に手を入れる。大事な、とても大事なものを仕舞ってあるその場所に、手を入れ、それを掴んだ。

 惜しむ気持ちはある。だが、これこそが相応しい。今の話を聞いて、これ以外に投げる物が思い浮かばなかった。

 この機を逃せば、きっと、もう二度と、これを手放すことができなくなる。又と無い機会を得られたのだと、自分に言い聞かせる。

 気楽なあゆみとは対照的に、ナイブズが重大な決意を固めていると、横合いから珍妙な叫び声が聞こえて来た。

「あうぐーりお!」

「ぼなーの!」

「アウグーリオ!」

「ボナーノ!」

「アウグーリオ!」

「ボナーノ!」

 何かの掛け声だろうか。灯里とアイ、光と愛、真斗と守が一緒になって叫んでいる。水先案内人等周囲のネオ・ヴェネツィアの住民に慌てた様子は見られないことから、薬物か何かで気が狂れたわけではなく、何らかの意味のある行動なのだろうと推察する。

「なんだ、あれは」

「新年の挨拶ですよ。アウグーリオが掛け声で、ボナーノが『あけましておめでとう!』って意味で、新年になるのと同時に叫びながら、みんな物を投げるんです」

 そういうことかと納得する。恐らく、間近に迫った本番に向けて、ネオ・ヴェネツィアの外から来た者達が練習しているのだろう。

 双葉と誠は遠巻きに見ていたのだが、やがてアリスと藍華に背を押され、光と愛に手を引かれ、一緒に叫び出した。ナイブズも手招きされた気がしたが無視して、あゆみと話を続ける。

「お前には最初に会った時も、こうして色々教えてもらったな」

「そういえばそうでしたね。いやー、あの時はこんなに仲良くなれると思いませんでしたよ」

 水の3大妖精、天上の謳声を歌えなくした、見るからに怪しい風来坊に、よくも声を掛け、舟にまで乗せてくれたものだ。

 あの時の自分はつくづく厚かましかったものだと、我が身を振り返る。

「……お前には今年、色々世話になったな。礼を言う」

「ウチの方こそ、色んなことを教えて貰いました。来年もよろしくお願いしますっ」

 そういえば、再会を約束したのも、あゆみが初めてだったか。そんなことを思い出して、微かに笑みを浮かべるが、少女の言葉を肯うことはせず。

 あゆみもナイブズの態度に何か違和感を覚えたようだが、そこへ丁度良く、灯里の元気な声が割って入った。

「ナイブズさーん! ネオ・ヴェネツィアの年越し、知ってますかー?」

「調度、あゆみに教えてもらったところだ」

「はひっ、そうでしたか」

 興奮して先走ってしまったと、羞恥から俄かに顔が赤くなる。初めて花火を見たあの時も、今のような調子で話しかけて来たのだったか。

 灯里からすれば間の悪いことだったが、ナイブズからすればいいタイミングだ。調度、灯里には確かめたいことがあったのだ。

「俺を探そうと言い出したのはお前らしいが、何故だ?」

 灯里こそが、ナイブズを探そうと言い出し、結果的にこの場にまで招き寄せた張本人。どうやらその意図は全員が把握していたわけでは無いようで、暁をはじめ、多くのものが灯里に注目した。

「ナイブズさんが、私達を繋いでくれたからです」

 柔らかな笑みと共に告げられた言葉。

 何の迷いも、躊躇いも無く伝えられた言葉の意味がまったく分からず、ナイブズは困惑し、鸚鵡返しに聞き返した。

「俺が……お前達を?」

「はい。見て下さい、今ここには、たくさんの人たちが集まっています。でも、私達みんなが知っていたのは、ナイブズさんだけなんです。こんなにもたくさんの人達の中で、私達はみんなが、ナイブズさんと出会えていたんです」

 言われるまま、周囲を見回す。サン・マルコ広場に集った人間の数は、正確な人数はわからないが、千人は軽く超えているだろう。それだけの人間がいても、灯里たち全員が共通して見知っている人間はナイブズしかいない、ということだろうが――そもそも二宮誠に至っては今日の昼前が初対面なのだが――それがどうしたというのか。

 灯里の真意を測りかね、続く言葉に耳を澄ます。

「それだけじゃありません。私は、ナイブズさんと会えていたから、ぴかりちゃんやてこちゃんと出会えて、あゆみちゃんやアトラちゃんや杏ちゃんとも会ってすぐに仲良くなれました。アリシアさんが昔のお友達とまた会えたのも、私がその人たちに会えたのも、ナイブズさんがいてくれたから」

 灯里は、そこで一度言葉を切って、目を閉じて深呼吸をする。

 今日までの一年間を振り返り、その中で、ナイブズが繋いでくれた幾つもの縁を思い返して。

 再び開いた瞳は、まるで灯りが点いたように輝いていた。

「きっと、みんなもそうなんです。今日初めてみんなで集まったのに、すぐにみんなで仲良くなれたのも、みんながナイブズさんを知っていたからなんです。ナイブズさんと出会えたから、みんながみんなと出会えていたんです。今年一年の出会いが、こんなにもたくさんあって、どれもが素敵な宝物になったのは、ナイブズさんが私たちを繋いでくれたからなんです。人と人が出会うのは、それだけでも素敵な奇跡。けど、それだけじゃない。出会いがまた、新しい出会いを、新しい奇跡を連れて来てくれていたんです。だから、私達を繋いでくれた、私達を出会わせてくれた、私達の真ん中にいるナイブズさんと、今日はどうしても一緒にいたかったんです」

 完全に予想外の言葉の数々に、開いた口が塞がらない。呆然として、ただ灯里の顔を見る。

 間抜けな、気の抜ける、毒まで抜けるような笑顔。人里を照らす灯りのイメージが、不意に浮かび上がった。意識が変なところと繋がったようだ、早く正気に戻らねば。

「恥ずかしい台詞禁止!」

「いやいやいやーん!!」

「ええーっ!?」

 藍華と暁と愛によるツッコミ、光と双葉の悶絶の叫び、それらにショックを受けた灯里の声。それらが鼓膜を刺激したことで、ナイブズは漸く我に返った。極めて静かに混乱するという、得難い体験をすることになるとは思わなかった。

 ナイブズの虐殺者としての前歴や素性を知らぬとはいえ、得体の知れない風来坊に対して、よくもこんな好意的評価が出せたものだと感心してしまう。同時に、今の言葉を聴いて自然と湧き上がる不思議な喜びが、不思議な嬉しさがあった。

 そして、漸く分かった。ナイブズが藍華たちのように、灯里の言葉を恥ずかしいと思わない理由が。

 恥じらいも躊躇いも無く、変な見栄を張ることも無く、自分の想いをそのまま言葉に変えて相手に伝えられる素直さ、純粋さ。それを心のどこかで羨ましく感じ、同時に共感できていたからだ。流石に、自分に向けられたものにまで羨ましさは感じなかったが、そのお蔭で気付けたのだ。

 灯里を中心に作られる輪から少し離れて、1人の女性に声を掛ける。

「アテナ」

「はい?」

 名を呼ばれて、アテナは不思議そうに小首を傾げてから、ナイブズの前まで歩み寄って来た。初めて素顔を見せた時、恐怖で凍り付いたのが嘘のようだ。

 そう。あれこそが、すべての始まりだった。

「俺の始まりはお前だ。お前と会えたお蔭で、俺はこうして、多くのものと繋がれた。改めて、礼を言う」

 灯里の言葉を借りる形で、アテナへと感謝を伝えた。

 碌に聞きもせず歌に罵声を浴びせるという、凡そ最悪とも言える出会い。それでも、あのアテナとの出会いこそが、水の惑星でナイブズが踏み出した、新たなる旅路の最初の一歩だったのだ。

 アテナと出会えたから、あゆみと出会い、灯里達と出会い、晃と出会い――灯里の言うように、出会いが出会いを呼び、生まれた縁が新たな縁を繋いで結んでくれたのだ。

 すると、アテナは笑みを浮かべて、意外な言葉を返した。

「私の方こそ、ありがとうございます。歌を咎められたのは、とても辛かったです……けど、歌ってほしいって言われて、歌を褒めてもらえて、嬉しかったです。それに、今はなんだか、前より歌うのが楽しいぐらいなんです」

 理不尽なあの体験ですら、糧として前に進む。見た目の儚さとは裏腹の逞しさ。

 この言葉を聴いて、感心するよりも先に自然と口が動いて、言葉を紡ぎ出した。

「……ありがとう、アテナ・グローリィ。俺を許してくれて……受け入れてくれて。お蔭で俺は、人と共に生きることが……生き直すことができた」

 口から滑り出た、素直な言葉。アイーダにも「人間にも素直になれれば」と心配されていたが、灯里に触発されたのか、今この時に、素直になれた。

 この星に来た当初は、人間に許しを求めていたわけではないし、人間に受け入れられずともいいと、心のどこかで思っていた。だが、アテナはナイブズの傲慢を許し、ナイブズの無知を受け入れてくれた。そのお蔭で、ナイブズは多くの人と出会い、言葉を交わし、行動を共にし、議論を交わし、共感を覚え、食卓を共にし、摩訶不思議な体験さえ共有し――今、皆とここにいる。

 すべての始まりはアテナ――今ここにいられるのは、すべてアテナのお蔭。

 そのことに対する心からの感謝を、やっと伝えられた。

 

 

 

 

「ナイブズさん……?」

 アテナはナイブズ様子に、平素と異なるただならぬものを感じ取り、ナイブズの名を呼び、心配そうに顔を覗き込んだ。

 丁度同じタイミングで、顔に何かが貼り付いた。手に取ったのは、四角い紙片――紙吹雪を撒き始めたのだ。もうじき日付が変わり、新年を迎えるという合図だ。

 広場に集まった人々は、それぞれ思い思いの物を手に取り、年越しの準備を整える。屋台も一時休止となり、その時を皆が今か今かと待ち受けている。アテナも晃やアリスに急かされて、一先ず帽子を手に取り、新年の瞬間を待つ。詳しいことは、この後すぐ、また明日に聴けばいいのだと。

 

 ナイブズも周囲の人間に倣い、投げる物を懐から取り出す。

 それは、同胞たちから受け取った(はなむけ)――行き先の書かれていない、白紙の切符。

 取り出して、暫し見つめる。いざその時が来ると、惜しむ気持ちが自然と湧いて来る。だが、もう決めたことだ。

 切符を、拳を作るように、きつく握りしめる。

 新年を迎えるカウントダウンが、いよいよ始まった。

 10(ディエチ)(ノーヴェ)(オット)(セッテ)(セイン)……

 

 未来への切符は、いつも白紙なんだ――ヴァッシュ・ザ・スタンピードは言った。

 ナイブズは確信した――ならば、未来に辿り着いた今、もう白紙の切符はいらない。

 

 ……(チンクェ)(クアットロ)(トレ)(ドゥーエ)(ウーノ)

『アウグーリオ! ボナーノ!』

 新しい時の始まりを祝う歓喜の叫びと共に、大鐘楼の鐘が打ち鳴らされ、様々なものが宙へ投げられる。

 多くの物は重力に従って、5秒と経たずに地面へ落ちた。人々はそれぞれ、自分が投げたものを拾い直したり、勢いよく投げすぎて遠くまで飛んで行った物を取りに走ったり、拾おうとして他の人とぶつかったり、頭同士をぶつけて痛がったり、様々な姿が見られる。

 そんな中、ナイブズは未だ宙を見上げていた。

 白紙の切符は、紙吹雪と共に宙を舞っていたが、やがて、微風(そよかぜ)に流されて、目の届かない何処かへと消えて行った。

 それを見届けて、ナイブズもまた、サン・マルコ広場から姿を消した。

 誰の目にも届かぬところで、白紙の切符は羽根のようにひらひらと宙を舞い続け、打ち上げられた花火と一緒に、光と爆ぜた。

 

――ありがとう。そして……さらばだ――

 

 ナイブズに近しい人間たちに届いた、心へと直接響いた不思議な囁き。

何も知らない者達は空耳かと思ったが、どうやらこの場にいる全員が聞いたらしいことに首を傾げた。

 その感覚を知る灯里と双葉は、大慌てで周囲を見回して、すぐにナイブズの姿が消えていることに気付いた。

 唯一、事前に別れを告げられていたアテナだけが、その言葉を事実として受け止めていた。

「……ほとぼりが冷めたら、また、会いましょうね。ナイブズさん」

 1月1日――新年を迎えると同時。

 この日この時を境に、ミリオンズ・ナイブズはネオ・ヴェネツィアから姿を消した。

 

 

 

 

 ネオ・ヴェネツィアの街を出てすぐ、ナイブズは走り出した。自分を追ってくる気配に気づき、それを引き離そうとしたのだ。

 地球連邦政府は、ナイブズを刺激せず、火星上にいる間は火星総督府による保護観察下で様子を見ることに表向きは同意した。だが、その本心ではナイブズを始末したくてしょうがないはずだ。特に、強硬派の筆頭格として店主と議論を戦わせたというクロニカは。

 アイーダの乱入と、彼女の両親の口添えもあって、クロニカら強硬派もその場は引き下がったようだが、秘密裏に刺客を送り込む可能性は非常に高かった。

 その懸念もまた、ナイブズがネオ・ヴェネツィアを離れることを決めた一因だ。

 では、実際に今ナイブズを追って来ているものが、刺客や暗殺者の類であるかと言えば、違っていた。走り出してすぐに分かった。

 ナイブズを追い抜かして駆けて行くのは、紅化粧を全身に施した、美しき白い狼。夜闇に包まれた野原でも尚燦然と輝く白き威容は、昨日までとは違って見えた。

 追手では無かったが、これは一体どうしたことか。人間好きで賑やかなことも好きなあの大神が、なぜ祭りの喧騒から離れていくのか。

 分からないが、大神が走り抜けた跡に咲き乱れる黄金の草花に導かれるように、今度はナイブズが後を追う。

 走って、跳んでを繰り返し、辿り着いたのは風力発電の風車が林立する丘。あの日も導かれた場所だ。

 あの時はアマテラスの背にアイがいたが、今はナイブズの他に誰もいない。

 それ以外にも、何かで見た覚えがあるような気がしていたが、思い出した。過去から帰る時に、長居させられた光の回廊の中で垣間見た、過去の火星の歴史の光景の一つ。大神アマテラスが一度命を終えた場所が、ここだったのだ。

 こんな場所へ連れて来て、何をしようというのか、何を見せようというのか。大神は黙して語らず、ただ、尾を翻し、尾の先で天を指し、丸を描いた。途端に発生した、強烈な力の波動、時空間の乱れ。

 一体何が起きたのかは、ネオ・アドリア海の方を見て分かった。

 水平線の向こうから太陽が顔を出し始め、空を、海を、街を、白く染めていた。

 慌てて、懐中時計を取り出して時刻を確認する。ナイブズの体感時間では日付が変わってから30分と経っていないはずだが、時計の針は予報通りの日の出の時刻を指していた。

 ふと思い出す。天道神社の神主・天道秋人が語った、大神アマテラスの伝説の一つを。夜を朝に変えたという、流石に作り話だろうと聞き流していた一節を。

「時間短縮……いや、時空間を跳躍させたとでも……?」

 考え込むが、答えは出そうにない。何故狼が尾の先で丸を描いただけで、夜が朝になるというのだ。少なくとも太陽を物理的に引き寄せたわけではなさそうだが。

 ふと、足に何かが当たった。見ると、アマテラスが前足で、ちょんちょん、とナイブズの足を叩いていた。目が合うと、今度はナイブズと太陽とを交互に見て、最後に一つ吠えた。太陽を、景色を見ろ、ということらしい。

 草原に腰を下ろして、太陽が昇る様を――降り注ぐ光が街を、海を、大地を遍く照らす様子を、静かに見守った。

 光を浴びる街を見ているだけで、様々な想いが胸に去来した。色んな思い出が、頭の奥から次々に湧いて出て来た。

 それらが、ナイブズの決心を新たにし、より強いものへと変えていく。

 やがて、ナイブズ自身も直に太陽の光を浴びて、太陽の全てが姿を現した頃に、再び立ち上がった。

「俺は、この星で生きていきたい。弟が生まれ直らせてくれたこの命で、生き直したい。あいつや、お前達のように、人に寄り添って」

 店主にも伝えた答えを、アマテラスにも伝えた。

 これこそが、ナイブズが旅立つ本当の理由。

 この星で生きて行こうと決めた時、この星のことを、この星で生きる人間たちのことをもっと知りたい、理解を深めたいと思った。現在の様子だけでなく、過去の姿も含めて。

 その為には、情報媒体で見聞を広めるだけでは足りない、一つの場所に留まっていてはいられない。実際に、自分自身の目で見て、耳で聴いて、肌で感じて、体験を経てこそ、真の理解を得られる。ヴォガ・ロンガの体験から学んだ、ある種の真理だ。

 だから、旅に出る。その他の事情は、今この時期に発つ理由付け程度のものでしかない。

 アマテラスは、ナイブズの言葉を聴いて満足げな表情を作ると、体を撓らす動作を見せ、勝ち鬨のように高らかに遠吠えを上げた。

 大神から祝砲代わりの号咆とは、景気づけにはこれ以上のものはあるまい。

 礼代わりにアマテラスの頭を撫でて、遠くに見えるネオ・ヴェネツィアへと目を向ける。

「ほとぼりが冷めたら、また会おう」

 誰にともなく告げて、ナイブズはザック一つだけの荷物を携えて、旅立った。一度も振り向かず、決して歩みを止めることなく。

 行く手に道が無くとも、歩き方は決めてある。それだけでもあとは何とかなるものだと、210年間、砂の惑星を歩き続けている男が教えてくれた。

 少なくとも、歩いて旅をするのに、切符が必要無いのは間違いあるまい。

 蒼い陽射しを浴びて、風を切って歩く。

 微かな笑みを浮かべる彼の行く手に待つものは、新しい出会いと奇跡(未来)

 




次回、最終回


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#30.続く旅、終わらない日々

 冬が過ぎ去り、春が訪れると、水先案内業界は怒濤の事態の連続であった。

 アリス・キャロルのミドルスクール卒業を待った昇格試験で、その類稀なる才能を見込まれて見習い(ペア)から一人前(プリマ)への飛び級昇格という史上初の快挙。これを始まりとして、多くの出来事が連鎖する。

 姫屋の新支店開設の決定と、一人前への昇格を果たした姫屋の姫こと藍華・S・グランチェスタの新支店長就任の同時発表。

 水無灯里の一人前昇格と、それを見届けたアリシア・フローレンスの年内での現役引退の発表。

 アリスの独り立ちを見届けたアテナ・グローリィのオペラ歌手としてのデビュー決定。

 そして4年に一度開催されるネオ・ヴェネツィア最大の行事である『海との結婚』がこの年に重なったのは、もはや運命的であり必然と言えよう。

 この年の『海との結婚』は水の3大妖精が集う最後の舞台となり、同時に、3妖精の後継者たちのお披露目の舞台ともなり、隠居の身である大妖精の登場も相俟って、今までに無い盛り上がりを見せることになった。

 式典の終了後、アリシアは引退理由の半分が寿引退であることを明かし、アテナは歌手活動を一度きりで終わらせず継続していくため、現役を退くことは無いが水先案内業を休みがちになることが伝えられ、この記事が掲載された月間ウンディーネを購読した彼女たちのファンは大いに落ち込むこととなった。

 しかし、晃・E・フェラーリは健在であり、3大妖精の薫陶を直々に授かった3人――黄昏の姫君、薔薇の女王、遥かなる蒼――もまた、いずれ劣らぬ新星たち。水先案内業界から活気が失われることは無く、寧ろ新たな時代の幕開けを予感させていた。

 そんな慌ただしい火星の一年間を過ごす中で、少女たちはふとした時、同じことを考えていた。

 あの男が帰って来ないか、見物に来ないか、また立ち寄ってくれないか……と。

 夏が来て、秋に成り、冬が再び訪れ――アテナが初めてオペラの舞台に立っても、アリシアの引退式が執り行われても、そんな兆しは無く。

 新時代の幕開けを告げるかのような激動の一年を終え、そのまま新年を迎えたのを境にして、少女たちが彼を思い出すことも次第に少なくなり、いつしか話題に上ることも殆ど無くなっていった。

 

 

 

 

 

緩やかに、しかし確実に時は流れ。

ネオ・ヴェネツィアでは、新しい物語が始まっていた。

 

 

 

 

 

 今年のアクア・アルタも無事終わり、水先案内業の小休止も終了。

 一人前(プリマ)たちには忙しい日々が、半人前(シングル)見習い(ペア)たちには練習に励む日々が戻って来た。

 半人前が稼げる唯一の仕事場である大運河の渡し舟――トラゲットも例外ではなく、今日も朝早くから大勢の水先案内人(ウンディーネ)たちが集っている。大手も零細も関係なく、集った水先案内人たちは全員が片手袋。そこに序列の上下は無く、皆が対等。その中で、全員から一目置かれている水先案内人が1人。

 ここ数年で先達が次々と抜けていき、気付けば現トラゲットの最古参。トラゲット専属を明るく謳い胸を張って誇る、片手袋でありながら姫屋支店の実質的No.2でもある特殊な存在。トラゲットに参加する片手袋たちから会社の別なく「先輩」「姐さん」「お姉さま」等々、色々に呼ばれ慕われている。

半人前(シングル)諸君、集合ー!」

 本日のトラゲットを行う水先案内人たちが集まって簡単な朝礼を行い、片手袋たちは4人1組に別れてそれぞれの持ち場に散っていく。

 彼女の下には、今日は3人の水先案内人がやって来た。会社はバラバラ――姫屋、オレンジぷらねっと、ARIAカンパニー。しかしその組み合わせは彼女にとって馴染があるものであって、3人を見るなりつい笑みが零れた。

「あゆみさん、おはようございます!」

「おはよう、あずさ。アーニャは久し振りだね」

「はい。お久し振りです、あゆみ先輩」

 あゆみ・K・ジャスミンは同じ姫屋支店の後輩であるあずさ・B・マクラーレンと、その友人であるオレンジぷらねっとのアーニャ・ドストエフスカヤに声を掛ける。あずさとは彼女の入社以来の、アーニャとはあずさと合同練習をしている所へばったり出くわしてからの付き合いとなる。

 2人が片手袋になってすぐ、トラゲットに誘ったのはあゆみで、トラゲットで2人の面倒を見ているのもあゆみだった。

 所属会社が異なることもあって、2人が一緒に来ることは極めて稀で、そこへ更にもう1人加わることになるのは初めてのことだった。

 ARIAカンパニーの制服に身を包んだ少女は、あゆみを見て、緊張しているだけではない、何か遠慮しているような、躊躇っているような様子を見せた。それを見抜いた上で、あゆみは少女と目を合わせて、にぃ、と笑った。

「アイちゃんは、もっと久し振りだね」

 誰何するまでも無く、少女の名を言い当てる。

 アイは驚きを露わにして聞き返して来た。

「お、覚えてて、くれたんですか……?」

「っかー! あったりまえじゃん! ウチら、友達だろ?」

 あゆみとアイの付き合いは、決して長くなければ多くもない。アイが灯里を探している時に少しだけ一緒になってシロと遊んだことと、あの時の年越しを一緒に過ごしたぐらいで、それももう何年も前のことだ。だが、仮にも友達になった相手のことを思い出せなくなってしまう程、時が過ぎたわけではない。

 それに、アイのことは灯里と会う度に色々と聴かされていて、忘れられるはずが無かった。

「……はいっ」

 あゆみの言葉に、アイは満面の笑みと元気な声で応えた。

 あずさとアーニャは、アイがあゆみと知り合いだったとは知らなかったようで、意外そうな顔をしていたが「流石は圧倒的素敵パワー……」「侮りがたし……」などと言葉を交わして、何やら当人たちで納得している様子だった。

「ARIAカンパニーの愛野アイですっ。今日はよろしくお願いします、あゆみさん」

 改めてアイは自己紹介をして、丁寧に頭を下げる。

最後に会った子供の時とは明らかに違う礼儀正しい態度を目の当たりにして、少しだけ感傷に浸る。

「そっか、あのアイちゃんがARIAカンパニーの水先案内人(ウンディーネ)で、もう片手袋(シングル)か……時間が経つのは早いなぁ」

 アイの入社の話は、あゆみも藍華から聞かされていた。その内、会えることもあるだろうと思っている間に時は流れて、アイは既に両手袋から片手袋になっていた。自分では、そんなに時間が経ったとは思っていなかったのに。

「あゆみさん、そんなしみじみするような歳でもないでしょ」

「それとこれとはまた違うよ。同じ所にずーっといると、尚更、周りの変化がよく見えるんだ」

 あずさに冗談交じりにからかわれたが、あゆみはつい真剣に答えてしまった。

 トラゲットは、片手袋の水先案内人だけが集まる場所。あゆみを始めとして望んでこの場に留まる者もいるが、それはごく少数。発展途上の彼女たちの向かう先は様々だ。成功か挫折か、理由の違いはあれど、多くの人が去って行き、また新しい人がやって来る。

 目まぐるしく変わり続ける日々と人々の中で、変わらずにいようと決めたあゆみは、時々、自分だけが取り残されているような錯覚を感じることがあった。

「ほほぅ……」

「へぇ~……」

 アーニャとアイは、あゆみの言葉に感心して頻りに頷いている――ように見せかけて、よく分かっていない様子だった。

 らしくないことを言ってしまったと苦笑しつつも、仕切り直して手を叩く。他の水先案内人たちは既に移動していて、この場に残っているのはあゆみ達4人だけだ。

「はい、話はお終い。ぼちぼちウチらも持ち場に就こうか。今日は初心者のアイちゃんを、ウチら経験者3人でフォローしていく感じでいくよ」

「はいっ」

「よ、よろしくお願いしますっ」

 あずさとアーニャの即答に一拍遅れて、アイは肩肘を張って返答する。

 あまりにも分かり易い緊張しているこの様子。見覚えがあると思ったら、初めて会った時の灯里だ。初めてのトラゲットの時は、灯里もガチガチに緊張していたのだ。果たして、この後も灯里の時と同じになるかどうか。

「うん、3人ともいい返事。それじゃあ最初は、あずさとアーニャの2人で行って、その間はウチがアイちゃんにレクチャーするよ。ローテーションで3人順番に教えていって、ウチが2回目のレクチャーをしたら、その次からウチとアイちゃんのコンビで漕ぐ、って流れでいこうか」

「了解です」

「異存はありません」

 あずさとアーニャはすぐに返事をしたが、アイは少し遅れて、俯き加減だ。

「お手数かけてすみません……」

 不慣れな自分が混ざったことで迷惑をかけてしまっている、とすっかり委縮してしまっている。あずさとアーニャは少々狼狽えているが、数多のトラゲット初心者を迎えて来たあゆみには見慣れたもので、どうすべきかもよく分かっている。

「大丈夫だよ、アイちゃん。ウチらでばっちりフォローするから!」

 快活に笑いながら、明るい元気な声でアイの不安をかき消して吹き飛ばす。そのままあゆみは3人の少女たちを引き連れて、今日の仕事場へと向かう。

 そういえば、あゆみがアイと初めて会ったのも、トラゲットの乗り場だった。その時一緒にいたのは大きな犬――じゃなくて、狼のシロ、だけではなかった。もう1人、あゆみの知り合いの男がいた。

 彼から聞かされた、砂の惑星を駆ける赤いコートのガンマンの冒険譚は、今でもネオ・ヴェネツィアの人々の間で語り継がれている。最初は水先案内人だけだったが、火炎之番人、地重管理人、風追配達人にも少しずつ広まって行き、今ではこの街の住人の4割ぐらいは知っているのではないかという程だ。

 アイは勿論、あずさも知っている。アーニャもきっと知っているだろう。けど、どういう風に知っているのか、どういう風に考えているのかまでは分からないし、休憩中か仕事の後にでもそのことで話してみるのもいいかもしれない。

 そんなことを考えていると、どんどん楽しくなってくる。それを実行するためにも、まずは仕事だ。

 さあ、今日も一日を始めましょう。

 

 

 

 

 姫屋とオレンジぷらねっとの水先案内人が漕ぎ手を担っていたトラゲットを利用して、大運河を渡る。去り際、2人の少女の会話から聞き覚えのある名前が出たが、立ち止まって聞き耳を立てるようなことはせず、聞き流して歩みを進める。

 舟から降り、道を歩き、小路に入り、路地の裏へ、奥深くへ。

 月日が経ち、人々の様相にも少なからぬ変化は見受けられたが、文化保全されているだけあってこの街は変わっていない。久方振りに訪れたが、全く迷わずに歩を進められた。

 街並みに大きな変化が無いのは、火星であればどこの文化保全都市であっても変わらない。しかし、それを実感できるのはこの街だけであり、今回が初めてでもある。この星に来る前を含めてだ。

 同じ場所、同じ街を訪れるのは、人生で初めての経験だった。

 覚えのある、見慣れてさえいる景色が、何故だか懐かしくも新鮮に見えるのだから、不思議なものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ARIAカンパニーのカウンターで、灯里は1人座って事務仕事をこなしていた。昔は端末で文字を入力するのはメールマガジンだけだったのに、今ではすっかり仕事の方が多くなっていた。

 今日は、アイは休みで姫屋のあずさやオレンジぷらねっとのアーニャと一緒に出掛けている。きっとまた、素敵な奇跡(みらくる)を起こそうと頑張ってくれているのだろう。そう思うと、自然と頬が緩んで、幸せな気持ちになれた。

 一通りの入力を終えて、小さく伸びをする。

 お昼前に、予定通りに事務仕事は完了。幸か不幸か、午後に入っていた一件の予約もキャンセルとなり、時間が空いている。

「お昼ご飯を食べに行くついでに、アイちゃんたちを探しに行ってみましょうか? アリア社長」

「ぷいきゅー!」

 アリア社長の快諾を得て、灯里は街へと歩き出した。アリア社長がアイに付き添うようになって久しく、アリア社長と一緒に散歩をするのも久し振りだ。

 かつて灯里にそうしてくれたように、アリア社長は今、アイを見守ってくれている。もしかしたらアリシアが一人前になる前も、同じようにしていたのかもしれない。

 そんなことを考えながら、ゆっくりと、ネオ・ヴェネツィアの街を歩く。気紛れに小路に入って道を曲がって、幾度か繰り返している内に井戸のある小さな広場に出て、そこで本格的にお腹が空いてしまったので、近くの料理店へと入る。

 パスタを注文して、アリア社長はとても楽しみそうに待っている。そんな様子を見て笑みを浮かべて、ふと、アリア社長の後ろ、壁際に、古くて大きな置時計があることに気付いた。

『小さな広場で待っている、古びたのっぽの大時計』

 思い出した一節が指し示すものは、正しくあの時計。宝の地図が収められた、宝探しの宝箱の隠し場所の一つ。かつて、灯里がアリア社長だけでなく、藍華やアリスと一緒に訪れた場所だ。

 あれ以来、全く訪れることが無かったのに、こんな偶然があるのだろうか。

 藍華とアリスがいないことに寂しさを感じつつ、お店の人に一言断ってから、時計を調べてみようと思い立った。

「あの、すみません。あの時計、ちょっと見させてもらっていいですか?」

「ええ、いいですよ。ただ、うっかり壊さないでくださいね」

 宝探しをしたあの日、ゴールに辿り着いたその後に、灯里達は道順を逆にたどって、手に入れた地図を全て宝箱へと返していた。

 この時計の宝箱は、振り子のスペースの端っこだ。時計の扉を開けて、中を検めると……空っぽだった。宝箱は、いくつかの置かれた跡だけを残して、消えてしまっていた。

「ほへ?」

「さっきね、水先案内人(ウンディーネ)の3人組が持って行ったんですよ」

 灯里が首を傾げるとすぐ、後ろから声が掛かった。店長兼料理人の男性が、注文した料理を持って来てくれたのだ。

「はひ、そうでしたか」

 まさか、丁度この日に先客がいるとは思わず、ちょっと残念に思う。

 店長はまずアリア社長の前にパスタの皿を置いて、次に対面の席にもう1つの皿を置いて、そして灯里に振り返った。

「まさか、また同じような3人組が来るとは思いませんでしたよ、ARIAカンパニーの水無灯里さん」

「私のこと、御存知なんですか?」

「そりゃあね。今じゃ有名人だし、もみあげで分かり易いし。あの時は、3人とも水の3大妖精の弟子だったとは思わなかったよ」

 店長は気さくに灯里の名を呼び、あの日の、何年も前の出来事についても軽く触れた。

 アリア社長以外にも、あの日のことを分かち合える相手が目の前にいる。素敵な偶然の巡り合わせに嬉しくなって、灯里の表情は自然と笑顔になっていた。

「覚えていてくれたんですね」

「覚えてたって言うか、思い出したんだよ。さっきの3人組が同じ会社の組み合わせだったからね」

「そうですか、アイちゃんたちが来てたんですね」

 あの日の灯里達と同じ組み合わせの3人組となると、アイとあずさとアーニャの3人以外にありえない。ARIAカンパニーの水先案内人は、現在、水無灯里と愛野アイしかいないから。

 自分たちがかつて訪れた場所に、アイたちもまた来ていた。それだけでも奇跡的なのに、それを同じ日に知って、こうして共有できるなんて。

 アイたちは素敵な奇跡(みらくる)を、一体どれだけ自分たちに運んできてくれるのだろうか。

 宝箱の跡を愛おしげにさすり、灯里は優しげに微笑んだ。

「さておき、冷めない内にどうぞお召し上がりください、お客様」

「はひっ、そうでした。いただきますっ」

 店長に促されるまで料理が来たことをすっかり忘れていた。アリア社長も待ちぼうけを喰らって、涎をだらだらと零しながら、灯里が席に着くのを待ち侘びている。

 慌てて席に着き、冷めない内にアリア社長と一緒にパスタを食べる。何年も前の味なんて覚えているはずが無いのに、懐かしく思えてしまうのは何故だろう。

 食後は、ソースで口の周りどころか顔中汚れてしまったアリア社長を綺麗に拭いて、サービスで提供されたお茶で一休みしてから席を立ち、支払いを済ませ、外へ出る。

「ごちそうさまでした」

「ぷいにゅっ」

「ありがとうございます。また、お越しください。遥かなる蒼(アクアマリン)

 あの時は、食べ終わったら3人一緒に外へ出て――食事は要らないと、井戸の傍で待っていた4人目もいたことを思い出した。

 2つ目の宝箱を手に持っていて、灯里がお願いしたら渡してくれて、灯里が誘ったら一緒に来てくれた、険しい顔をした男性。その後、何度も会うことになった、不思議な人。

 忘れていたわけじゃない。けれど、彼のことを思い出すのはとても久し振りのことだった。

 年が明けると同時に、みんなに囁き声だけ残して去ってしまったあの人は、今、どこで何をしているのだろう。

 思い出す毎に懐かしい気持ちが増していって、灯里の足は自然と動いていた。向かう先は、最後の宝の地図が指し示す“GOAL”。途中の順序はこの次の場所さえ、あの時と同じ場所にいても思い出せないほど忘れてしまったが、あのゴールのことだけは、鮮明に覚えていた。

「ちょっとズルイですけど……今から、あのゴールに行きましょうか、アリア社長」

「ぷいにゅっ」

 

 

 

 

 壁の落書きを横目に見て、野外の階段に腰掛けて、ネオ・ヴェネツィアの街を眺める。

 階段の近くを通り掛かって、この場所のことを思い出し、階段を上ってこの落書きを見つけてから、振り返って街を見た。本来ならこの場所へは階段を下って来るべきなのだが、そのルートのことは、同行者も含めてはっきりと覚えている。今更、同じ道をなぞる必要も無い。

 彩り鮮やかな風景に、昔日の記憶が蘇り、僅かばかり感慨に耽る。

 この街は変わらない。だが、人々は変わる。旅先でニュースなどを確認して分かっていたつもりだが、実際に目の当たりにすると違って思える。

 十年一昔という言葉はあるが、まだ十年も経っていないのに、かつていた頃と比べて随分と様変わりしていた。

 自分の時の流れは人間よりも緩やかだと、分かっているつもりだった。だが、人間の時の流れがこんなにも早いものだとは、気付かなかった。

 10年も経たずにこれだ。60年も80年も経てば、きっと、置き去りにされてしまうのだろう。

 あいつは、どうやって時の流れの違いに折り合いをつけていたのだろうか。出会いも別れも、自分とは比べ物にならないほど、それこそ数え切れぬほど味わっていただろうに。

 より深くへと至ろうとした思考を、強制的に中断する。背後から、微かな人の声と猫の声。完全には聞き取れないが、この場所を目指しているらしいことは分かった。

 先客がいては無粋の極みであろうと、腰を上げて、階段を下る。そのまま街へ入り、陰に消える。

 入れ替わるように、小路から光の指す場所へ女性と猫が現れて、同じ場所に腰掛けた。

 それから更に暫く後、青、赤、黄のラインがあしらわれた制服を着た3人組の少女たちが、その場所へと現れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 快晴の空、果てしない蒼穹。何の変哲もない水路の果て、海へと注ぐ場所。そこに立つ、歌姫1人。

 風に靡くようなウェーブした長い銀の髪に、褐色の肌――アテナ・グローリィ。

 半ば水先案内人を引退している現在でも『天上の謳声(セイレーン)』の通り名に翳りは無く、寧ろ歌手としての彼女を現す代名詞として定着している。

 今彼女がいるこの場所は、一見しただけでは、彼女が立つには似つかわしくない。

 ネオ・アドリア海を臨む以外にこれといった特徴も無い、平凡で地味な場所。しかしここは、彼女にとって思い出のある特別な場所。

 自分の歌に冷罵を浴びせられ、怒りと侮蔑の込められた絶対零度の眼光に震えあがり、怯えて、怖くて、歌えなくなってしまった場所。

 同じ人に頼まれて歌って、歌えて、褒められた場所。

 歌うことの意味を考えさせてくれた、気付かせてくれた、特別な場所。

 アテナの歌声はその通り名の示すように、天賦のもの。うっかりと大ボケの頻度が異様に高い未熟だった頃も、指導担当の先輩から「歌声だけなら史上最高」と皮肉抜きに称賛され、彼女が歌えば誰もが耳を澄まし、惜しみない賞賛の拍手を贈った。それが彼女の日常で、歌えば歌を聴いてもらえるのは当たり前のことだった。

 しかし、あの日、あの時、この場所ですれ違ったあの男だけは違った。偶然に通り掛かったアテナの歌声を聴いた彼は、憤怒の表情に嫌悪の声で「五月蠅いぞ、黙っていろ」と一刀両断し、氷のように冷たい視線でアテナの存在そのものさえも拒絶した。

 自分の歌で、どうしてあの人はあんなに怖い顔をしていたのか、どうしてあの人をあんなに怒らせてしまったのか。歌えば褒められてばかりだったアテナには分からず、恐怖と疑問が入り交じった混乱に恐慌、混沌とした感情の渦に呑まれ、遂には歌えなくなった。

 元凶の一つである歌を自ら封じてしまえば、少なくとも、もう怒られることも無い、拒絶されることも無い、恐怖することも無い――そんな思考が心の奥底にあったのだと、今振り返って気付く。

 後々、偶然に再会した男は、その理由を教えてくれた。

 波の音を聴くのに邪魔だったからだ、と。

 聞いた時は、驚き戸惑った。そんなことがあるのかと。

 その後すぐに「歌ってくれないか」と頼まれた時は、呆然としてしまった。本当にこの人は、あの時のあの人と一緒の人なのだろうか、と。

 歌を雑音と切って捨てたあの人と、歌を聴かせてくれと言ってくれるこの人。

 その違いが知りたくて、その理由が知りたくて、アテナは恐怖を振り払って歌った。

 歌ってみれば、いい歌だと褒められて、ありがとうと感謝された。呆気ないほど簡単に。とてもとても、優しい声で。

 その時、気付いた。歌とは、歌うだけでは成り立たない。誰かに聴いてもらえて、初めて歌になるのだと。歌は、聴いてくれる人がいるから、歌なのだと。

 今までは、歌えば聴いてもらえるのが当たり前だった。けれど、あの日、一度男に歌を拒絶されて、カーニヴァルの最後の夜に同じ男に歌を求められて――同じ人に真逆のことを言われて、初めてそう想った。同時に、歌えば誰もが耳を澄ませて聴いてくれていた自分は、なんて幸せ者だったのだろうと気付けた。

 だからあの時、アテナもまた、彼にありがとうの言葉を贈った。

 以来、アテナの中で『お客様や親しい友人や大切な後輩など、聴かせたい人、聴いてもらいたい人の為に歌う』のではなく、『自分の歌を聴きたい人に歌を届けたい、自分の歌を好きな人達の期待に応えたい』というように、歌への姿勢が少しずつ変化していった。

 その変化はアテナ自身も気付けないほど緩やかに進行して、自覚できたのは、オペラの舞台に歌手として誘われた時だった。

 水先案内人の業務の一環としてではなく、歌そのものを本業としてみる気はないか。

 オペラの公演後、舞台裏や控室で、共演した俳優たち、舞台を支えたスタッフ、フェニーチェ劇場のオーナー、高名な劇団の団長など、大勢の人達からそう誘われた。その時は、水先案内人の仕事を辞めることが考えられずに、やんわりと断った。

 だが、それから後、日毎にうっかりとドジが増していく様子から、その誘いに心惹かれていることをアリスにあっさりと見抜かれてしまい、彼女に背を押してもらう形で、水先案内人の世界から歌手の世界へと踏み出して――アテナ・グローリィは今、ここにいる。

 ここは、アテナにとっての分岐点。新しい礎。音楽祭を間近に控えた現在のように、大きな舞台、大事な仕事の前には、人目を盗んで、なるべくここを訪れるようにしている。

 あの時の想いを、歌い手としての新しい始まりを、思い出すために。

 そして、来る度に考えてしまう。

 あの人は今、どこで何をしているのだろうか、と――

「まさか、こんな所に先客がいるとはな」

 後ろから聞こえた声。男性のもの。聞き覚えがある。

 驚いて、体が固まってしまう。どうしたらいいのか分からない。どうすればいいのか考えられない。

 アテナが混乱している間にも、男は静かに歩みを進め、アテナの隣で立ち止まった。

 逆立った黒髪、泣き黒子、見上げた横顔は、紛れもなく。

「ナイブズさん……」

「久し振りだな、アテナ」

 自然と零れ落ちた彼の名に、彼は――ナイブズはアテナの名を返すことで是とし、肯定した。

 困惑するアテナとは対照的に、ナイブズは自然体で、再開の挨拶も一言だけ。アテナはオペラ歌手という仕事の兼ね合いもあって髪を腰よりも長く伸ばしているが、ナイブズはアテナの記憶に残る姿のまま。

 何も変わっていないナイブズの姿を見て、自然と懐かしさが湧いた。そして、聴きたいこと、確かめたいことも内から湧いて、口が動いた。

「どうして、ここに?」

 

 

 

 

 どうして此処にいるのか。

 問われて、ナイブズは回想する。

 何の当てもないからと、風の音――波の音に導かれるまま歩き続けて、この場所に来た。取り立てて見るべきものの無い、何の変哲もない場所だが、ここはナイブズにとって特別な場所だった。

「ここは、俺にとって始まりの場所だ。ここで初めて海を見て、人間とまた向き合おうと決めて、歩き出した。ここから、俺の火星での日々が始まり……人生がまた始まった。だから、また来たくなった」

 生まれて初めて見た、海の色、海面の煌き、波の形、潮の匂い――あの感動は、決して忘れることは無いだろう。その感動の醒めぬ内に人間を見かけられたことも、ナイブズの意識に好影響を与えたことは疑いようも無い。

 そう、この場所でナイブズは、人間と再び向き合おうと決意した――が、その前に、ここの近くを1人の水先案内人が通り掛かっていた。

 あの時のナイブズは波の音に聞き入っていたものだから、鼻唄程度の歌声すらも耳障りでしょうがなかった。相手からすれば見ず知らずの男に自慢の歌を罵倒されるという最悪の初対面で、忌まわしい記憶であろうことに疑いの余地は無い。

 あの後、まさかその当人と街中で遭遇し、人探しを手伝い、街を案内され、この場所で正体を明かし、あの歌を聴くことになろうとは。最初の時は、思いもしなかった。

「それから、お前と出会って、お前の歌を聴かせてもらった場所でもあるな」

 それもまた、ナイブズにとっての始まりの一つ。この星で得た、かけがえのない記憶。

 あの歌を、別天地でまた聞けたことにも大きな意味はあった。幼き日、人との共存と相互理解を夢見ていたことを思い出せた。自分の心の変化を理解し、受け入れる切っ掛けになった。だが、それ以上に。

 アテナ・グローリィに出会えた。彼女との出会いが縁となって、多くの人々と出会えた。多くの体験ができた。多くのものが得られた。得難い日々を過ごせた。

 ネオ・ヴェネツィアから離れ、火星中を旅して回ったことで、ナイブズは自分が如何に人に恵まれていたかを思い知ることになった。その体験が、より一層、ネオ・ヴェネツィアで過ごした日々の記憶に価値を持たせ、意味を深めさせた。

 

 

「また、会えましたね。ナイブズさん」

「また会えたな、アテナ・グローリィ」

 また会えて良かった。

 心から、そう想う。

 

 

 2人が再会の言葉を交わした、直後、猫の鳴き声が聞こえた。

「にゃー」

「ぷいにゅ~!」

 振り返ると、後ろから帽子を咥えた黒猫が走って来た。黒猫はアテナへと帽子を投げて、自身は素早くナイブズの体を駆け上り、肩でちょこんと座った。

「黒猫」

「にゃっ」

 呼びかけると、短くも明確な返事。特徴的な横に伸びた楕円形の顔、見間違えようも無い。ナイブズと共にこの星へ降り立った、そして夢の中でナイブズをテスラの許へと誘った、謎多き黒猫。猫妖精と知己の間柄であることを窺わせる言動を夢の中でしていたが、果たして今はどのような意図の下に動いているのか。

「あら? この帽子、アリア社長の……?」

 アテナが何かに気付いたらしく、ナイブズも視線をアテナが手に持つ帽子へと移す。

 白地に青いライン、そして『ARIA』の文字。ARIAカンパニーの制帽だ。そういえば、先程黒猫の他に、もう1匹の声が聞こえていた。

「ぷ、ぷいにゅ~……」

 ちょうどその時、疲れ果ててくたくたの様子のアリアが現れ、ナイブズの足元でばたりと倒れた。首根っこを掴んで持ち上げるも、息を乱して目を回している。

 どうやら、黒猫に帽子を奪われて、取り戻そうと追いかけて来たものの、力尽きたらしい。敗因は運動不足と肥満だろう。

 取り敢えず、アテナから受け取った帽子を被せたが、この後はどうしたものか。

 アリアは基本的にARIAカンパニーの社員と行動を共にしている印象だが、近くにそれらしい人影が――やって来た。

「アリア社長~! どこですかー?」

 アリアの名を呼ぶARIAカンパニーの水先案内人の少女。手に嵌めている手袋は片方だけだが、水無灯里ではない。彼女が既に一人前になっていることは、ナイブズも月間ウンディーネを不定期に購読して知っている。

 アリシアが引退してゴンドラ協会の職員になった後、新入社員が入ったようだ。不思議なことに、その新入社員の声にも姿にも見覚えがあった。

「アイちゃん、こっちだよ」

 アテナが少女の名を呼んだことで、ナイブズもその正体に気付いた。

 あれは愛野アイだ。3度出会い、少なからず言葉を交わし行動を共にした少女だ。地球で暮らしているというから、もう二度と会うことも無いと思っていたが、どうやら灯里と同じく、水先案内人になるべく地球から火星へとやって来たらしい。

 アテナに名を呼ばれると、アイはこちらを向いて、ぱぁ、と笑顔になって走って来た。アリアを見つけられたことがよほど嬉しいらしい。

 近くまで来たところでアイにアリアを手渡すと、ぐったりしているアリアにアイは色々と文句を言い始めた。どうやらアリアが黒猫と遊んでいる内に走り出してしまったので、慌てて追いかけたが途中で見失ってしまって大変だったらしい。

「もう。途中で占い師さんに会わなきゃ、ここまで来られなかったんですよ?」

「ぷ~い~……」

 アリアはまだぐったりしている。占い師については聴かなかったことにしよう。アリアを見かけずとも行き先を言い当ててそこにアテナもいると断言していたとか、本業は雑貨屋の店主と名乗っていたとか、聴こうとせずとも次から次に情報が聴覚を刺激してくる。

 黒猫が来た時点でもしやと思ったが、やはりあの男の手引きか。

「あのお節介焼きめ」

 溜め息混じりに、愚痴るように、懐かしむように呟くと、それが聞こえたのか、アイと目が合った。どうやら今までアリアに集中していて、ナイブズをはっきりと認識していなかったようだ。

 数度、目を瞬かせ、目をこすり、アリアの腹肉をつまむ。くすぐったかったのか、アリアの目も覚めて、アイと一緒になってナイブズの顔を見る。

「あれ……? もしかして、ナイブズさんですか!?」

「ぷいにゅ!?」

「久しいな、愛野アイ。水先案内人になっていたのか」

「はい! 灯里さんみたいな、素敵な人になりたくてっ、もっと火星(アクア)奇跡(みらくる)を見たくって! そしたら、今日も、今も、素敵な奇跡(みらくる)に巡り会っちゃいました~!」

 アリアの相手は黒猫とアテナに任せて、アイの言葉に耳を傾ける。最後に会った時よりも随分と背が伸びたが、内面の変化の方がより大きい。以前はこれ程の積極性や明るさは無かったはずだが、なりたいものの為に地球から火星までやって来たことで、何か吹っ切れたのだろうか。

 そんなことを考えていると、アイに続いて2人、片手袋の水先案内人がやって来た。姫屋とオレンジぷらねっとの半人前の水先案内人。奇しくも灯里たちやアリシアたちと同じ組み合わせなのは、偶然か、それとも縁というやつか。

「アイアイ~、待ってよ~」

「素敵に無敵に大元気……恐る、べし……」

 アイアイとは、まず間違いなく愛野アイの愛称であろう。やって来た2人は先程のアリア程ではないが、所作と声色からも『疲労困憊だ』と訴えかけている。だが、興奮気味のアイがそれに気付く様子は無い。

「あずさちゃん、アーニャちゃん、すごいよっ、奇跡(みらくる)だよ~!」

「あー、分かった。分かったから、落ち着いて、アイアイ……」

「休ませて……」

「あ、ごめん」

 ここで漸く小休止。2人の少女の息が整うのを十分に待ってから、アイが2人にナイブズを紹介した。

 赤毛の少女は「おお、この人が!」となにやら好奇の目で見ている。一方、銀髪の少女は「ほほぅ、この方が」と神妙な面持ちだ。刺さるような視線からは微弱ながらも敵意に近いものを感じる。

 いずれにせよ、ナイブズのことは未だに話が伝わっているらしい。話に残るのは、ヴァッシュだけで十分なのだが。

 そのまま2人の自己紹介となり、まず口を開いたのは赤毛の少女。

「はじめまして、ナイブズさん。あずさ・B・マクラーレンです。支店長……藍華さんと、それからあゆみさんから、お話は色々と聞いてます」

 はきはきとした、お手本のような自己紹介だ。優等生という第一印象と同時に、声色からは活発さを、初対面の強面の男に対して物怖じしない堂々とした態度と立ち姿からは自信や芯の強さを窺わせる。

 藍華とあゆみの名が出たので詳しく聴くと、どうやら藍華の指導を受けている後輩で、あゆみとは同じ片手袋同士で色々と世話を焼いてもらっているらしい。灯里の後輩と藍華の後輩と来たなら、残るはアリスの後輩か。

「私も、貴方のことはご指導いただいているアリス先輩や、あとアトラ先輩と杏先輩からも色々聞いています」

 ああ、やはりそうだったか、と妙なところに納得する。合縁奇縁、縁は異なもの味なもの、などと云うらしいが、ここまで来ると運命や因果律といった言葉の方が適確なのではないかと思えて来る。

 他方、アイとあずさはその少女の平素に非ざる様子に、「どうしたの?」と慌てて声を掛けているが、少女の耳には届いていない。アテナも黒猫もアリアも、首を傾げて不思議そうな顔で少女を見ている。

「一時なりとも、アテナ先輩から歌声を奪った極悪人……! シベリア送りですっ!!」

「極冠地方になら、つい先日までいたが?」

「…………はい?」

 思いがけない内容での即答に、銀髪の少女はなけなしの怒気も霧散させて首を傾げた。一方ナイブズは意味不明な宣告の内容を可能な限り汲み取って返答したつもりだったので、素っ頓狂に聞き返されたのは肩透かしを食らった気分だ。

 もしや、肝心の単語に対して認識の齟齬があるのではないかと思い、前提となる部分を確認する。

「シベリアとは、地球の旧ロシア領にある、死ぬほどの酷寒で有名な土地のことだろう?」

「そうなんですか。すいません、よく知らずに言っていたもので」

 ナイブズから確認されると、少女は感心した様子でそんなことを言った。

 どうやら、少女は意味を知らないまま、単語から受ける印象だけで言っていたらしい。一体どこでシベリアという単語を知ったのか、その経緯が少々気になる。そういえば、『シベリア送り』という文言、どこかで聞いた覚えがあるような気がするが、いつ、どこでのことだっただろうか。少なくとも熟語や故事成語ではない。

「ええっと、つまり……?」

 アテナはナイブズと少女のやり取りに困惑している。確かに、要領を得ない、よく分からない受け答えになってしまった。多少強引にでも纏めるか。

「既に俺の自業自得で、寒さで死ぬほどの目には遇っているから、態々シベリアに送って懲らしめる必要も無い……ということだ」

 そういうことでしたか、と少女は手を組んで、顎に右手を添えて、一つ、二つと、頷いている。どうやら納得したようだ。他の3人と2匹は「ナイブズが死にかけた」という言葉にまた別の動揺が生まれていたが、当の2人の耳には入っていない。

「……成る程。既にお天道様の裁きがあったのなら、それでよしということにいたしましょう。改めまして、アーニャ・ドストエフスカヤです。今後とも第三者としてのお付き合いをお願いします。それから、アテナ先輩とは常にもっと離れて下さいますと私の心が安らぎます」

 銀髪の少女――アーニャはナイブズの言い分にひとまず納得したようで、必要以上に丁寧な口調で、所々の単語の選択が口語らしからぬ独特の調子で、抑揚の少ない声と慇懃な態度で自己紹介を終えた。

 ここまで警戒心と敵対心を露わにされるのは、晃以来か。最初の宣告の時の勢いは、同じ3大妖精のアリシアのファンたちに詰め寄られた時に感じた熱量を思わせる。おそらく、熱心なアテナのファンなのだろう。

 要求通りにナイブズが動こうとすると、アテナがナイブズの隣まで、アーニャの前まで歩いて来て、優しく微笑みかけた。

「心配してくれてありがとう、アーニャちゃん。でも、大丈夫だよ。ナイブズさんは不器用なだけで、とってもいい人だから」

 何を言ってるんだこいつは。

 不器用である点は否定しないが、ナイブズのどこを取って『いい人』などと言っているのか、理解に苦しむ。困ったことに、ナイブズを以前から知っているアイもその通りだと言わんばかりの表情で、あずさも釣られて納得してしまっている。

 しかし、アーニャはアテナの言葉に目を丸くして、ナイブズとアテナを数度、交互に見た。更に首を傾げて沈思黙考。表情の変化は小さいが、挙動に感情がよく表れている。驚きと困惑が手に取るように分かった。

 やがて、アーニャは首をまっすぐにして、アテナに、そしてナイブズへと問いかけた。

「……御2人は、お互いをどう思ってるんですか?」

 どういう関係であるか、ではなく、どう思っているか。

 考えるまでも無く、自然と言葉が口を突いて出た。

「恩人だ」

「恩人よ」

 一拍の間を挟んで、アテナの方を見る。アテナも同じタイミングでナイブズの方を向いて、互いに相手の顔を見る。

 全く違う立場の相手が、自分に対して同じことを思っていたのが不思議だった。そしてナイブズは、あの時にも似たようなことがあったのを思い出した。

 ありがとうを言ったら、ありがとうで返された。

 あの時は、ただ何となくそういうものなのだろうと思うことにして、深く考えることもせず、そのまま流して理解を深めようともしなかった。

 だが、今ならば分かる。こういうことを、どのように言い表すのか。

「お互い様、ということか?」

「はい。きっと、繋がっている、誰も、みんなが……お互い様です」

 果たして、本当にそうなのだろうか、という疑問もある。

 アテナがそう言うのなら、そうなのだろうと、信じたい気持ちがある。

 優先すべきがどちらであるかは、考えるまでも無い。

 自分自身でも気付かぬ内に、ナイブズは微笑んでいた。しかし、それが保たれたのもほんの一瞬。

「そうだ!」

 元気のいい大きな声に、猫を含めた全員が声の主であるアイへと視線を集中させる。

 頬を紅潮させた得意げな表情。どうやら、余程の名案を閃いたようだ。

「ナイブズさんに、みんなと会ってもらおうよ! レデントーレで!」

「それ、あり! 大あり! だってだって、ナイブズさんって藍華さんたちとあゆみさんたちだけじゃなくて、晃さんもアリシアさんも知り合いなんでしょ!?」

「サプライズの出し物としては申し分ありませんねっ」

「暁さんと、アルさんと、ウッディさんと、それから……」

「そうだよ、あゆみさんもレデントーレなら協力してくれるって言ってたし!」

「乗るしかない大波到来の予感……!」

 あれよあれよと話は進み、3人は大いに盛り上がっている。

 火星の奇跡がナイブズを連れて来てくれた、寧ろナイブズが奇跡を運んで来た――などと意味不明な言葉まで飛び出しているが、落ち着くまで放っておくことにしよう。

 アリアと黒猫は、待ちくたびれたのか折り重なって寝ている。アリアにのしかかられている黒猫の寝顔が苦しそうに見えたが、見るだけで何もしない。本当に苦しいなら起きて自分で這い出るだろう。

「レデントーレ……そういえば私、アリスちゃんたちの時には行けなかったなぁ……」

 不意に、アテナはそんなことを呟いた。頭の中で思ったことが、つい口に出たようだ。

 そういえば、似たようなことを本人の口から聞いた覚えがある。

「たしかネバーランドのことでも、同じことを言っていたな」

「そうなんです。私、そういう時いつもタイミングが悪くて……この前も、お茶会に行けなくて……」

 珍しく溜め息まで吐いて、感情をありありと顔に出して悔しがっている。

 3度が多いのか少ないのかは分からないが、少なくとも、それを寂しがっていることぐらいは察せられた。

「今はマネージャーなり、お前のスケジュール管理をしている人間もいるんだろう? そういうやつらを上手く使って、今度は間に合うよう、今からでも調整をさせたらどうだ」

「……そっか。そうですね、今度はそうしてみます。今回こそ、私もっ」

 ナイブズの提案を聴いて、それは名案だと言わんばかりにアテナは手を叩いて目を輝かせた。水先案内人は基本的に全部を自己管理らしいので、その習慣が抜けていなかったのだろう。使える人間は使えるだけ使うのが当たり前だったナイブズには当然の発想だったが、今回はそれが上手く噛み合ったらしい。

 調度、アイ、あずさ、アーニャの話し合いも終わり、猫たちも起きた。

黒猫は一声小さく鳴いて、そそくさと立ち去った。ナイブズは視界の隅で認識するだけで、アリアだけが「ばいにゅ~」とその後ろ姿を見送っていた。

「それじゃあ、当日はよろしくお願いしますね! ナイブズさん!」

 唐突に告げられた言葉に、分かっていたはずだが、つい苦笑が漏れた。

「俺の参加は大前提なのか。……まぁ、別に構わんが」

 少女たちの勢いに乗せられて、ナイブズはレデントーレへの参加と協力を約束した。アーニャからはそれまでの期間、サプライズの為にも街を極力出歩くなと言われたが、現在逗留しているのはネオ・アドリア海の島にある神社で、ネオ・ヴェネツィアに来ても歩くのは裏側が主だ。これから暫くは島めぐりをする予定でもあったし、恐らく問題あるまい。

 アテナは今度こそみんなと一緒に参加しようと張り切っている。そのやる気に中てられ触発されたか、少女3人とアリアは「えい、えい、おー!(ぷい、ぷい、にゅー)」と気合を入れている。

 空はすっかり茜色。黄昏過ぎれば逢魔ヶ時。暗くならない内に帰るよう少女たちに告げて、ナイブズはいつもと変わらぬ足取りで、その場を後にした。

「ナイブズさん。また、会いましょうね」

「……ああ。また会おう」

 背に届いた声に一度歩を止めて、振り返らないまま再会の約束を交わして、また歩き出す。歩を止めず、進み続ける。

 

 

 

 

 

 また、新しい出会いから物語が始まる。

 旅は終わらず、日々は続く。

 彼の往く先に道は無くとも、歩いて行く限り、未来は在り、広がり続ける。



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