カルネアデス・パラドックス (水上玲良)
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・前編

 

いつだったか、いつも昼寝ばかりしている黒髪の司令官が、指揮卓の上に行儀悪く両足を乗せながらこんなことを言った。

 

「カルネアデスの板って知っているかい?」

 

何気ない世間話と言った感じだった。

その場に居たのはいつもの司令部の面々で、司令官からの突然の問いの答えは当然みんなある程度知っていたが、さて誰が答えるべきだろうと軽く視線を巡らせた上で、一同の白羽の矢が立ったのは参謀長のムライだった。

無言の視線を受けて、ムライはコホンと咳払いしたのちに淡々と答える。

 

「緊急避難の考えのもとになった、哲学者カルネアデスの提唱した命題ですな。遭難した際にすがる板きれから人を突き飛ばして死に至らしめても罪とはならない、と」

 

ムライの型どおりの答えにヤンは鷹揚に頷き、そして自らも言葉を繋いでいく。

 

「うん、そうだね。でも私達軍人や、人命救助に当たる救急隊員とかはその限りじゃないんだよ」

「国民の命を守り預かる職務上、当然のことでしょうな」

「じゃあこれが軍人同士とかだったらどうなるんだろうねえ」

「は?」

 

急に妙なことを言い出した司令官に、その場の一同は顔を見合わせるが、その後、誰がどのような返答を返したのか、それとも答え自体出ず終いだったのか。

後日になって思いだそうとしても、どうしても思い出す事はできなかった。

 

 

 

そんな些細な出来事を気に掛ける余裕も無いほどに、宇宙暦797年初頭におけるイゼルローン要塞は多忙を極めていた。いや、事務部門に集中して多忙だった。帝国軍との捕虜交換が行われるせいである。

イゼルローンに帝国軍の捕虜200万人を収容し、それを帝国に引き渡して、代わりに同盟軍の帰還兵200万人を受け入れる。

 

言葉にすれば簡単だが、帝国軍捕虜を連れてくるための艦艇、収容した後の逗留場所、彼らに配布する食料と、それに付随して想定される事象は数限りなくあり、それらが全て事務部門、ひいてはそれを統括する要塞事務監アレックス・キャゼルヌにのしかかってくるのだ。

大変な重圧であり仕事量だが、それでも事務処理の達人を謳われるキャゼルヌに取ってはいつもより少しやっかいだなとうそぶける程度なのが恐ろしい。

 

粛々と、そしててきぱきと確実に仕事をこなし、キャゼルヌは遅滞なく業務を進めていった。他の部門の責任者はただそれを見守るばかりで、とても手を出したり貸せたりできるものではない名人芸ぶりである。

そんな作業工程をただひたすら見守っていたある日、要塞防御指揮官であるワルター・フォン・シェーンコップは、そのキャゼルヌからご指名を受け、中央指令室ではなく要塞事務監個人に割り当てられている執務室へと呼び出された。

 

「フォン・シェーンコップ参上いたしました」

 

常の通りの芝居かかった口調に不遜な表情をのぞかせて、シェーンコップが入室する。

キャゼルヌは彼のそんな態度をいつものことと流して、相手に席につくよう促し、早速用件に入った。

 

「要塞防御指揮官である貴官に、要塞内の警備のことで相談がある」

「帝国側の捕虜と、それを受け取りにくる帝国軍に対して何かご懸念でも?」

 

捕虜交換に関しては、帰ってくる同盟側の捕虜の中に工作員が紛れ込んでいる可能性をヤンから示唆されてもいたし、そもそも捕虜交換とはいえ敵戦艦がこの要塞内に堂々と入港できるのだ。万が一を考え、それに応じて様々な対策を考えておくのは当然のことだろう。

だからこの呼び出しも、そういった事に関する話だろうかと身構えたシェーンコップだったが、キャゼルヌはその問いに軽く首を振って否定した。

 

「そちらの方はあまり心配してはいない。帝国軍捕虜の方は一刻も早く故郷に帰りたかろうし、受け取りに来る方もトラブルはごめんだろう。細かなところはともかく、おおむね大人しく済むものと思っている。ヤンが言っていた工作員の件にしても、俺達如きが200万人の中に砂粒ほどに紛れ込んでいるそれを、事前に発見するなんて不可能だ。ヤンが言うように捕虜交換を隠れ蓑に別口で入り込まれる可能性の方が高いだろうし、そういうのを見つけ出すのは諜報部の仕事だ。辺境で国境を守る要塞勤務の俺達の仕事じゃない」

 

「それでは要塞事務監殿のご懸念は一体なんでしょう」

「そりゃもう、敵方の捕虜じゃないとしたら、もう一方の捕虜しかいないだろう?」

「敵よりも厄介なのは無能な味方、ということですか」

 

「俺は別に連中を、帝国軍の捕虜になったことを責めたり、捕まったことで無能だと言いたいわけじゃない。俺はそっちの方は全く問題にしていない。ただ、今回の捕虜の中には特大に厄い連中が混ざっているんだ。いや、普通なら同盟軍のほとんどの人間には無関係なんだが、我がイゼルローンの頂点たるたった一人にだけは強い因縁を持つ」

 

「なんです?」

「―――エル・ファシルで帝国軍に捕まった捕虜さ。今度の捕虜交換で大半が戻ってくる」

 

シェーンコップが眉をぴくりと動かしてわずかに緊張の色を見せた。

その特定の星系の名は、このイゼルローンのあるじたる黒髪の司令官が、この要塞を陥落せしめて魔術師の名を冠されるまで、その名を飾る形容詞として長らく使われ、魔術師の最初の武勲として華々しく喧伝され、知らぬものはほとんどとしていない固有名詞である。

ゆえに、ヤン・ウェンリー中尉によるエル・ファシル脱出行のおおよその経緯はシェーンコップも説明されずとも知っており、その奇跡の道程を脳裏に思い描いた後、ふんと鼻をならした。

 

「新米中尉に厄介事を押し付けて、民間人を見捨てて逃げた連中がドジを踏み、帝国に捕まって捕虜収容所で九年間辛酸を舐めた後、ようやく故国へ戻ってきて国境の巨大要塞で初めて見るものが、かの新米中尉が大将閣下にまで出世している姿だったからといって、それがなんだというのです? 全く同情できませんな。自業自得でしょうに」

 

「ああ、確かに貴官の言う通りだよ。全くの正論であり、真実だ。それが当の本人の心にもちゃんと響いていればどれだけいいことか。だが人間なんてそんなもんだ。人が他人に抱くイメージの八割はほとんど第一印象で決まっちまうんだ。今や同盟の大半の人間がヤン・ウェンリーを初めて知る時は『エル・ファシルの英雄』『アスターテの英雄』『魔術師ヤン』『ミラクル・ヤン』という二つ名ともれなく二人連れだ。まずそれで刷り込みされる。だからその後で万が一、司令官室で昼寝ばかりしている奴を見てしまったとしても、驚きはするし幻滅はしても、それでもヤンの華々しい業績の印象はやっぱり薄れないだろう。でもな、当時のエル・ファシル駐在部隊の連中だけは数少ない例外だ。あいつらが知っているヤンは、無為徒食に堂々と甘んじて、仕事がないのをいい事にぼけっとしているだけの『ごくつぶしのヤン』なのさ。その第一印象はよほどのことがなきゃ抜けやしない。そのごくつぶしが大将閣下として目の前に現れて、自分達は捕虜生活で昇進も昇給も停止されて九年前のままの位階だ。これで心にドス黒いものがちらとでも湧かない人間はそうはいないだろうな」

 

キャゼルヌの口から吐き出される辛辣な事実の羅列を聞いても、シェーンコップの冷笑は塵ほども変わらない。軽く肩を竦めると、キャゼルヌ以上に辛辣な言葉のつぶてを、この場に居ない連中に向けて吐き捨てる。

 

「は! ちょっとでも想像力があれば、本当のごくつぶしが九年間何もせずに大将閣下になれるほど、我が軍が甘いはずはないと思い至りそうなものですがね。大将になれたのはなるに相応しい功績をあげたからであって、そいつらとヤン提督の立場がエル・ファシルの時点で逆だったとしても、そいつらにアスターテの劣勢を挽回できたり、イゼルローン要塞を攻略できたとはとても思えませんな」

 

「ああ、実に正しい。ぜひエル・ファシル帰りの連中に、貴官の口からそれを言い聞かせてやって貰いたいものだよ」

「なるほど、その言い聞かせが小官の任務でしょうか?」

 

「半分当たりで半分外れだ。おかしなことをしでかさないよう見張っていて欲しいのは確かなんだが、なにせ人数が多すぎる。部外秘になっている当時の軍籍名簿を掘り出してきて、今回の帰還者リストと照らし合わせてピックアップしたものの、名前しか手がかりがなくてな。悪いが同姓同名の無関係者もかなり混ざっていると思ってくれ。で、そいつらを一か所にまとめすぎるのも怖いから、要塞内で寝泊りする場所を三か所に分けて、その上で固めておいた。あとでその区域図とリストを渡すから目を通しておいてくれ。そいつらをお前さんと薔薇の騎士連隊でそれとなく注意して見張っていて欲しい。だが問題はこれが我が軍の人間だってことだ。帝国軍側の捕虜と違って、要塞内における行動の自由の制限はできん。食事時間や門限や消灯時間などを設けて、ある程度のパターンに押し込める努力はしてみるが、それでも基本は野放しだ。長い捕虜生活で鬱屈していた連中は、解放された喜びから要塞内の盛り場に繰り出すだろうな。いつもの商売にプラス200万人の特需で、商業エリアの店主達も手ぐすねひいて待っているだろうから、それを禁じて連中と折り合いを悪くするわけにもいかん。悩ましいところだ」

 

「小官としても、後日改めて飲みに行った時に、それに関して苦情や八つ当たりを受けるのはご免こうむりたいですな。アフターファイブくらいは仕事を忘れたいものです」

 

「そうなると、問題の帰還兵達全ての行動のチェックや監視はほぼ不可能と考え、この方法で事前に事が起きるのを防ぐのは無理と判断したほうがいい。それよりかはもっと効率的な警備方法を考えるべきだ」

 

「つまり、襲撃対象であるヤン司令官一人の行動監視をした方が手っ取り早いと。具体的な方策としてはまず何から始めます?」

 

「うむ。まずはヤンの行動をそれとなく制限する。具体的には奴に上げる書類で、至急の決裁が必要無いものを、今からちまちま溜めているところだ。これを捕虜交換が始まったら一気に放出して奴を司令官室に職務的に拘束する。帰還兵の行動の制限はできないが、それでもここの中央指令室や司令官室に彼らが気軽に入り込めるほど、うちの警備はザルじゃない。この二つの空間に籠っている限りはヤンと例の連中を鉢合わせさせずにすむ。あとはグリーンヒル大尉やユリアンに協力してもらって、仕事が終わったら家に直帰させるように仕向ける。基本は中央指令室と司令官室と自宅の往復しかさせんつもりだ。実際、ヤンの日常は大抵がそんな感じだから、そうなってもあいつは気がつかないだろうし、特に不満もないだろうよ。それでもたまに外に飲みに行きたがるようなら、そこでお前さんの出番だ。ヤンに張り付いて妙な所には行かせないようにしろ。さっきも言ったように盛り場は帰還兵がうろうろしているだろうから、基本的に近寄らせるな。秘蔵の酒があるとでも言って宅飲みに誘え。なんなら、ボトル2、3本くらいなら経費で落としてもいいぞ。俺の権限で領収書を通してやる。人手が足りなきゃアッテンボローを巻き込んでもいい。とにかくヤンを一人にしないでくれ。この方法なら、かなりの高確率であいつの安全を確保できるだろう。頼んだぞ、要塞防御指揮官殿」

 

「拝命しました、要塞事務監殿。しかしそういう方針で行くのなら、そんな迂遠な事までしなくとも、当の本人に司令官室から一歩も出るなと一言釘を刺すだけでもよいのでは?」

 

「それは俺も考えた。だがな、あいつの天の邪鬼な一面を考えると、そう言うことでかえって意地にさせてしまい、逆にやたらと出歩きたがるようになるかもしれん。さっきも言ったように、この警備方針は、お前さんがいつもよりヤンに張りつくくらいで、それ以外はヤンの日常からそう外れたものでもないんだ。だったらあいつを下手に刺激せずにうまく乗せた方が、成功の確率は上がると俺は踏んでいる」

 

「なるほど。そういう事なら致し方ありませんな、了解です。…そう言えば、そもそもの発端であるエル・ファシル駐在部隊の司令官、アーサー・リンチとか言いましたか。その男は今回の捕虜交換には?」

 

ヤンへの逆恨みが一番強いだろうことが想定できるだけに、ことさらにシェーンコップの警戒心を引いたが、キャゼルヌの返事はあっさりしたものだった。

 

「最初から帰還者リストに名前が無かった。さすがにおめおめと帰っちゃこれんだろう。お前さんも知っているくらい悪名が轟いているからな。…逆に言えば、軍はあの当時からエル・ファシルの不都合は全部、アーサー・リンチ一人に集中させるよう報道から何から誘導していたんだ。あの時のヤンに対する過剰な英雄扱いもその裏返しでな。だからエル・ファシルに関してはこの二人以外の名前は強調されない。それ以外は逆に隠されているくらいさ。さっきも言っただろう? 当時の軍籍名簿は部外秘だって。軍関係者以外は閲覧できないんだ。だから一般にエル・ファシル駐在部隊の構成は分からないようになっている」

 

「なぜと聞いてよろしいですかな?」

 

「そりゃあ、そいつらの家族にまで非難が及ばないようにさ。実際、アーサー・リンチの家族には当時ひどいバッシングが浴びせられたそうだ。夫人や子供たちは到底それに耐えきれず、離婚して名前を変えて引っ越して、なんとかそれから逃れられたようだが、今もばれないようにと息を潜めながら生きていることだろう。どうしようもできないとはいえ、気の毒なことさ。そういう関係者はこれ以上増えない方が良いに決まっている。だから軍はエル・ファシル駐在部隊の詳細を非公開にしている。軍の、身内を庇う体質と言ってしまえばそれまでだが、これくらいの庇い合いは許して欲しいもんだ。今回お前さんにはエル・ファシル駐在部隊の帰還兵とおぼしき人間のリストを渡しはしたが、取り扱いにはくれぐれも気をつけてくれよ。向こうの方だって、好き好んでエル・ファシル帰りを公言したりはしないだろうし、ばれないよう気を使ってもいるだろう。だから大半は大人しくしているはずだ。そうやっている限りは、それとなく見張るだけにしておいてやってくれ」

 

「重ね重ね了解しました。…あ、あとそれからもう一つ」

「何だ?」

 

問いを重ねて投げかけてくるシェーンコップに、キャゼルヌが怪訝そうな眼を向けるが、質問に応える気持ちは失っておらず、さあなんだと目で問いかける。

 

「人が他人に抱くイメージの八割はほとんど第一印象で決まるそうですが、あなたのヤン・ウェンリーに対する第一印象を伺いたいですな」

 

なんだそんなことかとキャゼルヌは肩を竦め、面倒臭そうに答えを返す。

 

「俺が覚えているヤン・ウェンリーの最初の姿は、下校時刻になっても寮に帰らずぐだぐだと図書室に居残り続けて、職員の手を煩わせる困った生徒ってところかね」

 

返された答えにシェーンコップは口角を上げ、くすりと笑った。

 

「なるほど、確かに第一印象というやつはのちのち尾を引くようですな」

 

手のかかる生徒と、世話焼きの学校職員。

立場も変わり、階級が逆転しても、その姿勢が現在も全く変わっていない。今もこうやってキャゼルヌは粗忽な後輩の身を案じてあれこれと画策し、世話を焼き続けている。

 

ま、これはこれでうまくいっているので変える必要も変わる必要もないのだが、変えてもらわないと困る一団がイゼルローンに迫りつつある。さて、そいつらは現在のヤン・ウェンリーをどのように捉え、そしてどのような態度を取るのだろう。

 

答えはいまだ未知数だが、どんな事態になったとしてもあの黒髪の司令官を守り抜く事を密かに心に誓い、シェーンコップはあらためてキャゼルヌに向けて敬礼をすると、執務室を後にした。

 

 

 

―――夢を見ていた。

 

嵐の海。逆巻く波濤。荒々しい波に揉まれ、一人の男が水底に沈むまいと必死にもがき泳いでいた。藁をも掴む思いで、板きれの端に手を掛ける。

男がわずかに安堵したのもつかの間、自分は男のその手を板きれから引きはがし、その身を再度水の上に放り出す。

わずかな希望を打ち砕かれ、その表情に絶望を張りつけて、男は信じられないという目を最期の瞬間まで自分に向け続けたまま、波の下に沈んでいった。

男が沈んでいった波間を見つめ、そして自分の両手へと視線を落とすと、その手はべっとりと血で濡れていた―――。

 

 

 

「――――!」

 

不快な夢から一瞬で現実に引き戻される。

耳元では時計のアラームが鳴り響き、部屋の外では養い子が朝食の支度ができたと呼びかけている。

明るく邪気のないその声を耳にして、わずかに救われるような思いと、その無垢な魂に到底釣り合わない自分を引き比べ落ち込む自分が交差する。

ヤンは頭を一つ振り、暗い思いを一旦振り払うと、ベッドから降りて朝食の席に向かった。

 

 

 

捕虜交換は、事前の準備も大変だったが(主にキャゼルヌが)実際に実施されても慌ただしい日々が続いていた。

帝国軍の艦艇の取り扱いでああでもないこうでもないと揉めたり、政治家達が人気取りのために1カ月近い旅程をものともせずに要塞に押し掛けてきたり、あげくに受け入れた同盟軍の帰還兵は、引き替えに去っていった帝国軍の捕虜よりお行儀が悪いときている。

 

キャゼルヌが懸念したように、帰還兵達は捕虜生活の鬱屈から盛り場に繰り出し、そして酒が入ったことでより気が大きくなって、あちらこちらで乱闘騒ぎを起こしている。

これには憲兵だけでは要塞内の治安維持の手が足らず、薔薇の騎士連隊まで借り出される始末だ。

元々、キャゼルヌから帰還兵の、特にエル・ファシル関係者の動向をそれとなく見張るように頼まれていただけに、帰還兵の行動範囲近辺にたむろせざるを得ない以上、手伝いも仕方ないと、薔薇の騎士たちは連日彼らが起こす喧嘩の仲裁に走り回っていた。

 

要塞防御指揮官としてその連隊を統括するシェーンコップはというと、ヤンの身辺警護が念頭にあったため、最初のうちは中央指令室を空ける事は無かったが、それでもキャゼルヌが宣言したように、捕虜交換が始まった途端、ヤンのデスクはあっという間に書類で埋め尽くされ、中央指令室にいなければ司令官室に籠り切りになっており、グリーンヒル大尉の手を借りながら書類の決裁に四苦八苦させられていた。

司令官のこの様子を見たシェーンコップは、所在確認だけで大丈夫だろうと判断し、朝夕に中央指令室に顔を出してヤンの姿を確認するにとどめて、主なお目付役をグリーンヒル大尉に任せることにし、自身は騒がしくなった要塞内の騒乱を鎮めることに専念するようになっていった。

 

ヤンの方はと言うと、書類の山に埋め尽くされてはいても、それでも断固として残業はしたくないらしく、定時になった途端に席を立ち、残りの書類はまた明日と言う事でそそくさと帰りだす。

しかしこれはこれでシェーンコップに取ってはありがたかった。定時になる数刻前に中央指令室か司令官室に戻ってくるだけで、ヤンの行動を容易く補足できるのだから。

定時になったら帰ろうとするヤンにさりげなく声をかけて行き先を確認し、お供しますよと言い添えてごく自然に移動中の警護をこなす。

今日も、ユリアンが夕食の腕を振るって待っているからと言われたとの理由から、ヤンは素直に自宅に直行するようで、中央指令室から自宅フラットまでの短い経路ではあったが、シェーンコップと同道する事になった。

 

「悪いね、准将」

 

2、3日続けて同じ人物が同じような行動を取れば、私生活では鈍感極まりないヤンでもさすがに気付いたようだったが、既に要塞内で帰還兵達が何かと騒ぎを起こしていることは知っていたため、エル・ファシル絡みとまでは思い至らずとも、身辺を心配されているのだと理解し、シェーンコップのさりげない警護にも特に異を唱える事は無く、黙ってそれを受け入れているようだ。

今日のところも、何の差し障りも無く自宅の玄関前までヤンを送り届け終わり、彼がただいまの声と共に扉の向こうに吸い込まれたことを確認すると、シェーンコップはアフターファイブの飲み食いも兼ねて商業エリアに足を向けた。

 

今の商業エリアは乱痴気騒ぎに明け暮れる帰還兵達でごった返し、日中も酔っ払いが横行してそれはもうひどいものだったが、夕刻は夕刻でそれに輪を掛けてひどくなるのだ。

今も酔漢達の取り締まりに四苦八苦しているだろう薔薇の騎士連隊の仲間達の苦労を思い、それに手を貸すべく、シェーンコップはさながら戦場に向かう時と同じ足取りで、目当ての場所へと歩を進めるのだった。

 

キャゼルヌは、帰還兵達の行動を食事時間や門限や消灯時間である程度コントロールしたいようなことを言っていたが、長い捕虜生活で鬱屈し荒んでいる彼らには無駄、無縁のものだったようで、日付も変わるような深夜になったというのに、無軌道な馬鹿騒ぎは一向に終息する気配を見せない。

酒を飲んで暴れる者、そこいらに嘔吐する者、女性と見れば玄人だろうが素人だろうが相手構わず絡んで横暴な振る舞いに及ぼうとする者、些細な事で激昂し兵士同士で乱闘を始める者…枚挙にいとまがない。

 

憲兵も薔薇の騎士連隊も、最近ではもう面倒臭くなってきて、暴れる酔漢達を片っ端から制圧して捕まえると、流れ作業の如くそのまま捕虜用の収容施設に次から次へと放りこんでいた。この方が手っ取り早いのである。

けばけばしいネオンの灯りの下、今夜のシェーンコップの酔漢撃破の戦果もそろそろ二桁に届こうかという頃合いに、視界の端に見慣れた黒髪の後ろ姿を捉えたような気がした。

 

「――――!?」

 

こんな場所に居るはずの無い人の存在を見咎めて、シェーンコップは慌てて視線をそれと思しきところへと向けたのだが、そこには既に人影も何も無く、盛り場にありがちな雑然としてゴミっぽい路地が広がるだけだった。

気のせいだと思う事は簡単だった。しかしあまたの戦場を駆け抜けてきたシェーンコップの勘が、けたたましく警鐘を鳴らし見過ごす事を許さなかった。

 

懐から携帯端末を取りだすと、慣れた手つきで要塞司令官宅に呼び出しをかける。

出てきたのはいつも通りのユリアン・ミンツで、彼の口からヤン提督の在宅を保証してもらえばシェーンコップの些細な不安も即座に解決しただろうに、やはりというか事態はそんな簡単にはいかなかった。

 

『――――ヤン提督ですか? 一旦家に戻られた後、グリーンヒル大尉から連絡があったとかで、また出て行かれました。家電? いえ、連絡は提督の端末に直接でしたので、そのまま提督が通話に出られて、内容も何も僕は直接は聞いていないんです』

 

不在ではあっても、理由は一応穏当なものではあったが、シェーンコップは少しも安心することができなかった。それどころか、ますますもって胸中がざわつくのを抑えられない。

シェーンコップは気もそぞろに、ユリアンに礼を言って端末を切ると、今度はグリーンヒル大尉の端末にかけてみるが、呼び出し音が空虚に響くばかりで、一向に相手が出てこない。

彼女の性格からしても、所在確認や緊急呼び出しが常に伴う軍人という職務上からも、これは有り得ない状況だった。やはり何かがおかしい。

 

次にシェーンコップは中央指令室に連絡を取り、グリーンヒル大尉の所在確認を依頼した。

ヤン提督はグリーンヒル大尉からの呼び出しで出かけていったということなのだから、普通なら仕事上のことだと考えていい。そうであれば彼女もそれに呼び出されたヤン提督も中央指令室か司令官室にいるということになる。

だが、そうであってくれと願うシェーンコップの焦燥とは裏腹に、期待通りの答えが返されることはなかった。

 

『グリーンヒル大尉はヤン提督が帰宅された30分後に、ご自身も自宅に戻られました』

 

オペレーターから告げられたその言葉に、シェーンコップは一瞬思案する。

アフターファイブに一旦帰宅した後、フレデリカ嬢がかねてよりの意中の人を呼び出し、プライベートで逢引きしているという可能性も1ミクロンほどはあるかもしれないと考えて、すぐさま、今この時期にそれはないなと一瞬で却下した。

 

グリーンヒル大尉も、エル・ファシルの帰還兵からの逆恨みの可能性を聞かされているし、ヤン提督の行動をそれとなく制限する計画にも協力している。そんな中でわざわざ提督をふらふら歩きまわらせるようなことをあえてするわけがない。

 

シェーンコップはほとんど直感的に、今度はグリーンヒル大尉の自宅に掛けてみた。これも繋がらなければ正直お手上げだったが、今度は素直に繋がり、拍子抜けするほど穏やかなグリーンヒル大尉の声が端末を通して聞こえてくる。

 

『はい、グリーンヒルですが』

「大尉、今、ご自宅なんですな?」

『はい』

「ヤン提督はそちらに?」

『え? いえ…』

 

噛み合わない会話に、シェーンコップの勘という名の警報が更にけたたましく鳴り響く。

 

「ユリアンが、提督はあなたからの呼び出しを受けて自宅を出たとの話なのですが、お心当たりは?」

『え!? いえ…! 私は中央指令室で提督の帰宅を見送った後は、特に何も…。ええ、呼び出しなどしておりません…!』

 

由々しき事態が、具体的な輪郭を帯びてその形を浮かびあがらせようとしている。

今すぐ飛び出して、闇雲にでもヤンの姿を探しまわりたいと逸る心を抑え、シェーンコップは質問を続けた。

 

「小官は先ほどそちらの端末に掛けたのですが、応答がありませんでした。グリーンヒル大尉、端末はちゃんと携帯しておいでですか?」

『え、ええ…もちろん、ジャケットのポケットに…あら…?』

「どうなさいました!?」

 

逸る心を抑えきれず、大尉に問いかけるシェーンコップの語尾は自然と跳ね上がってしまう。

 

『これ…機種も、見かけも同じですが…違います…私の端末ではありません…いつの間に…?』

「――――!! 失礼する! 大尉!」

 

辞去の言葉もそこそこに、シェーンコップは慌ただしくグリーンヒル大尉との通話を切ると、今度は要塞事務監の直通番号に急いで掛け直す。

 

『はい、こちらキャゼルヌ…』

 

通話に出たキャゼルヌが名乗り終えぬうちから、シェーンコップは息せき切って用件を告げた。

 

「少将! 今すぐあなたの権限でグリーンヒル大尉の端末の所在特定をして下さい!」

『お、おい、どうした…』

「グリーンヒル大尉の端末が盗まれて、それを使ってヤン提督が呼び出された可能性があります!」

 

盗難という穏やかならぬ手段を使っている以上、その呼び出しの目的が全うなものであるとは考え難い。キャゼルヌもすぐにその可能性に気付き、通話の向こうで表情を強張らせる。

 

『―――! 分かった、すぐに調べさせる。特定出来たら折り返しそちらに連絡するから、今のうちに薔薇の騎士連隊を招集しておいてくれ』

 

「言われずとも、承知の上です」

 

キャゼルヌとの通話を終わらせるやいなや、シェーンコップは今まで立っていた盛り場の片隅から脱兎のごとく走り出し、近くで酔漢達の制圧を続けているだろう部下たちを可能な限り呼び集めた。

 

 



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・後編

 

集められる限りの部下たちをまとめ上げたところに、仕事の早いキャゼルヌから端末の電波の発信元を特定できたという連絡が入った。

場所はシェーンコップがもしやと予想していた通り、今彼らがいる盛り場の近くの雑居ビルの一角だという。やはりあの時見たヤンらしき人影は気のせいではなかったようだ。

 

一糸乱れぬ動きと無言の連携で、薔薇の騎士たちはくだんの雑居ビルを即座に取り囲み、静かにしかし着実に一室一室調べつくしていく。

やがてビルの五階の一角から、ただならぬ声がするとの報告が上げられた。報告を受けた隊長のリンツは、シェーンコップに視線を移すと互いに無言でうなずき合う。

手短に伝えられた指示を受け、薔薇の騎士たちは音も無く階段を駆け上がると、即座に問題の部屋の前を静かに取り囲む。

 

いつでも突入できる体勢は整っていたが、チップとして掛けられているのがこの要塞の司令官の安全である以上、軽々に行動には移れない。

まずは少しでも室内の様子を探るべく、ドア越しに中の様子を伺った。

 

「――――……が、大将閣下とはな。一体どんな汚い手を使ってのし上がった? ええ!? エル・ファシルの英雄さんよぉ!」

 

ドアの向こうからは、荒んだ雰囲気の罵声が聞こえてくる。呼びかけた階級からして、相手は確実にヤン・ウェンリーだと分かった。なにしろこの要塞に、大将閣下は彼しか存在しないのだ。

しかも罵声の内容からして、明らかに逆恨みの輩が今回の下手人のようである。前々からのキャゼルヌの懸念は大当たりだったというわけだ。

 

しばらく中の様子を伺ったが、他に仲間がいる様子は感じられない。下手人が一人だけならば、一騎当千の薔薇の騎士連隊が数人いれば容易に制圧も可能だろう。

それにあまりに手をこまねいていると、このまま犯人が激昂するに任せるうちに罵声では収まらず、ヤン本人に直接危害が加えられる恐れがある。ここが決断の潮時だ。

 

シェーンコップはリンツに向かって無言のまま視線だけでGOサインを出すと、己もまた戦闘態勢を整え、ドアのノブに手を掛けると、一気呵成に部屋の中へなだれ込んだ。

 

「閣下!」

 

シェーンコップは部屋に踏み込むと同時に素早く周囲の状況を確認し、まずはヤンの安全確保が第一と、視線を巡らせ彼の姿を探し求めた。

瞬時にして探し求める黒髪を視認し、そちらへと手を伸ばしたのだが、紙一重の差でその身を捉えそこねてしまう。

官憲の突入を素早く察知した犯人が、その場で生き残るための最善を即座にはじき出した上で、ヤン・ウェンリーの身柄を盾にするために咄嗟にその腕に確保したのだ。

 

「う、動くな貴様ら! こいつがどうなってもいいのか!?」

 

犯人は左手でヤンを抱き込むように捉え、右手に銃を持ってそれをヤンに突きつける事で、その場の薔薇の騎士達を威嚇した。

途端に彼らの動きがぴたりと止まる。止まらざるを得ない。彼らがこの場に乗りこんで来たのは、この要塞の唯一無二の存在を守るためだった。その身の安全を盾に取られては、手も足も出ないというものだ。

 

「よし…そのまま動くなよ…」

 

犯人の男はにじり足で少しずつ後ろに下がり、非常口だろうか、背後のドアを器用に開けた。そこから逃げようとしたのだろうが、外を一瞥して愕然となる。

なんとドア一枚隔てた向こうは階段など付いておらず、絶壁の壁面が真下まで続いていたのだ。適当な雑居ビルの哀しさで、非常階段をつける予定だったのだろうが施工されないまま放置されていたらしい。

 

「くそっ! なんだこりゃあ!」

 

男は焦るが、どうすることもできず、悔し紛れの罵声を吐き散らすのが関の山だった。

 

「諦めるんだな。お前に逃げ場はない。大人しく投降しろ」

 

相手の意図がくじかれた隙を見逃さず、シェーンコップが相手に降伏を勧告した。

実際のところはヤン・ウェンリーを人質に取っている現在、犯人の優位は揺らいでいないのだが、相手の心理を揺さぶる効果を考えての勧告だった。

だが男はその意図通りに心理的に追い詰められても、いや追い詰められたからこそ、その感情を爆発させた。

 

「お前ら、そんなにこの司令官様が大事なのかよ…! こいつはな! エル・ファシルで俺達軍人を囮にしてそれでうまいこと逃げやがったんだ! 何がエル・ファシルの英雄だ! お前達だって、いずれこいつの踏み台にされて野垂れ死にするはめになるだろうよ!」

「戯言を!」

 

シェーンコップはその身勝手な言い分を一言で切って捨て、耳を傾ける価値すら認めなかった。民間人を見捨てて逃げた軍人が今さら何を言って己を正当化しようともむなしいだけである。

だのに、苦し紛れの男の言い分を全面的に認めた者がいた。男に拘束され人質にされている当の司令官からだった。

 

「――――その通りだよ。私は君を含めたエル・ファシルの軍人たちを、見殺しにした。私は早い段階から、リンチ司令官が民間人を見捨てて逃げることが分かっていた。分かっていて、司令官を咎めることも、思い直すよう進言することもしなかった。…だって、進言してどうなるっていうんだい? 万が一司令官が正道に戻って、民間人の乗る輸送船を護衛しようと考え直してくれても、たった二百隻ぽっちの戦艦だけで、その三倍もいた帝国軍相手にどうやって抗戦できる? 結局、五万人の軍人も三百万人の民間人も一緒に捕まって捕虜になっておしまいさ。だから、司令官が逃げようとしていると気が付いた時、私は司令官とそれに付き従う軍人たち皆を囮にしようと決めた。―――――他の誰でも無い、この私が、君たちエル・ファシルの軍人を捕虜生活の地獄に落とした。…それで間違ってはいないさ」

 

淡々とそう述べるヤンの表情は凍りついたように静かで、その瞳は深淵の宇宙の如き虚無に彩られていた。全ての事象を呑みこんだ上で、冷徹な決断を下したのだと怯む事なく言い切り、そしてそんな自分を欠片も誇ってはいないことは明白だった。

その言い分をすぐ横で聞かされたエル・ファシル帰りの男は、ヤンに突きつけた銃を持つ手を震わせて叫んだ。

 

「だから、呼び出しに応じたのか? 俺を憐れんだのか! ヤン!」

 

「私もそこまでお人よしじゃないよ。着信はグリーンヒル大尉の端末のものなのに、通話の相手はあなたとなれば、大尉の身に何かあったんじゃないかと思ったんだ。単に端末が盗まれただけで、大尉に何事も無いようなのは良かったよ」

 

そんなヤンの台詞を聞かされたシェーンコップは、不審な呼び出しの時点で小官に相談して下さい! と内心で叫んでいた。声に出さないのは、今はそういう場面ではないと判断していたまでで、無事に救出できた暁には、キャゼルヌ辺りと一緒になってみっちりヤンを説教してやらねばなるまいと心に決めていた。

そのためにも絶対にヤンは無傷で解放してみせると、シェーンコップは人知れずやる気をみなぎらせる。

 

「もう一度言う。銃を捨てて投降しろ。お前に逃げ場はない。エル・ファシルだって、リンチ司令官やお前達は、別にヤン提督にそそのかされたわけではなく、自分の意志で逃げたんだろうが。それが何かに利用されようがどうしようが、結局はお前自身の決断だったんだ。ヤン提督を恨むのは筋違いだろう」

 

シェーンコップは男に向けて、最後通牒とも言うべき説得の言葉を投げかけたが、それは思わぬ激昂を呼んだ。

 

「違う!!」

 

余計な事まで言って、下手に男を刺激してしまったかと臍を噛んだが、男の激情は思わぬ方向へと向かった。

 

「ヤン…お前…なぜあの時、俺に声をかけた! 『良かったらあなたも脱出計画の方を手伝ってくれませんか』と! 俺は断った。リンチ司令官の幕僚だったから…。でも、帝国軍に捕まって…その後、何度も何度も夢に見た。あの時、お前の要請を受けていたら、俺は捕虜収容所なんかにいなかったかもしれない。そう思うたびに、俺は運命を、お前を、呪った…! なぜだ! なぜなんだ、ヤン!」

 

エル・ファシルの脱出劇の影でそんな一幕があったとは意外に思ったが、それでもあってもおかしくない一幕ではある。

300万人の民間人と5万人の軍人がいれば、その人数分だけの悲喜劇もあろうというものだ。

 

しかしその男に取っては、単なる悲喜劇で済ませられない運命の岐路だった。何度も何度も夢に見、その選択をしていればと悔やみ続けたことだろう。

いっそそんな提案など最初からされていなければ、共に捕虜として捕まった他の軍人達と一緒になって自らの境遇だけを嘆くことができただろうに、棘のように引っかかったヤンの一言がいつまでも彼を縛り続けた。

 

「――――その事は、本当にすまないと思っているよ」

 

今も男から銃を突きつけられているというのに、神経が太いのか何も感じていないのか、相変わらずヤンはひょうひょうとした態度のまま言葉を綴る。

 

「自分一人で決めて…自分一人で背負おうと思っていたのに…あの時は私もまだひよっ子だった。心のどこかで覚悟しきれず、せめて誰かあともう一人くらい…そう思って、通りがかったあなたについ声をかけてしまった。でも結局私のした事は、あなたを余計に苦しめただけだったんだね…」

 

ヤンは淡々とした口調で語り続けていたが、その言葉に潜む温度は深淵の宇宙のように静かで、そして底の見えない暗さに塗りつぶされていた。

ヤンに取ってエル・ファシルの脱出劇は、当時称賛されたような美談でも英雄譚などでもなく、300万人の民間人と5万人の僚友達を天秤にかけ、片方だけを選択し、もう片方を捨て去る決断を迫られた苦い記憶でしかなかったというのか。

 

 

―――― カルネアデスの板

 

 

唐突に、その言葉がシェーンコップの脳裏をよぎった。

溺れそうになり、わずかな希望を求めて板きれに縋った手を、無理矢理引きはがされ再び荒波の中に放り出される男。

その男の姿が、目の前でヤンに銃を突きつけるエル・ファシル帰りの男に重なった。

 

 

―――― カルネアデスの板って知っているかい?

―――― じゃあ、これが軍人同士とかだったらどうなるんだろうねえ

 

 

戯言のように、軽口で問うてきたヤンの姿が、幻のように浮かんでは消えていく。カルネアデスの板から、その男を突き落した者の姿がヤンに重なっていく。

その事をずっと、ヤンは心の奥底に抱えて生きてきたのだろうか。民間人を救おうとも、艦隊戦で勝利しようとも、ただ陣営が違うのみで、結局は屍の山の重さをその身に背負いこむ事に違いはなかったというのか。

 

「違うでしょう? あなたのした事は、300万人の民間人を救うために必要なことだった。言わば、300万人の人間に代わってあなたが代行しただけだ。そのことでどうしてあなただけが責められ、思い煩わなければならないんです!?」

 

どこまでも自虐的に自分を責め苛むヤンの有り様に、シェーンコップはいっそ怒りさえ覚えて、場所柄もわきまえずに思わず反論してしまった。

 

「いいや、違う。私一人が決めて、私一人で行動して、私一人が背負うべきものだ。民間人は関係ない。彼らに返り血の一つもつけさせない。軍人というものはそういうものだろう? 国民が生きるために、敵に殺されないために、我々が前線に出て敵を屠る。その代価として、我々は国民の血税から給料を貰っているんだ。だからこれは完全に対等な契約であり、我々が血に汚れることは当然のことなんだ」

 

ヤンは屍の重さを、誰かに転嫁して逃げることすら良しとせず、頑なに民間人をそこから除外しようとする。

日頃、彼が軽口としてその口に乗せる『給料分』『軍人しか能がないからさ』という言葉が痛烈な重さを持ってのしかかってきた。

 

何気なく同盟政府から支給される金銭は、それほどの強制力と重みを持って彼を縛っていたのか。軍人以外に生活の糧を持たない彼が、その金銭を得るために、屍の山の重さに向き合い続けることを課せられてきたというのか。

 

そして、唐突にシェーンコップは気が付いた。

そうまでして返り血に濡れることから防いできた当の民間人の中に、かつてのフレデリカ・グリーンヒルがいたことを。そしてエル・ファシルの英雄の名声を聞かされて育った幼子のユリアン・ミンツがいたことを。

 

二人とも、英雄の輝きに魅せられ、その眩さを心に刻みつけて、軍人になることを志してしまった。

血に汚れることから必死に守ろうとした子供らが、己の存在ゆえに最前線で血を被らねばならない軍人になってしまった皮肉。

ひょうひょうとした態度の裏側で、その事にヤンがどれほど苦悩したか想像に難くない。

 

英雄である事を、戦争を厭いながら、それを辞めることも止めることもできず、彼ら自身の職業選択の意志を無視する事も出来ず、その矛盾を受け止め続けてきた。

淡々とした表情の裏に、どれだけの苦悩を押し殺してきたのだろう。それなのに、その苦悩を理解しようとしない世間は彼を英雄として持て囃し、あるいは目の前のエル・ファシル帰りの男のように嫉妬にまみれて彼を糾弾する。

 

世界は、どうして彼に取って苦痛をもたらすものでしかないのだろう。

シェーンコップのそんな思索は一瞬のことだったが、その間に現実は大きく動き出した。ヤンの冷厳な言葉を受けて、今までヤンに銃を突きつけていた男が狂ったように笑い出した。

 

「クックックッ…アッハッハッハ…! …契約! そうか、契約か! さすがはヤン、商人の息子らしい言い草だな。俺達軍人は政府や国民と契約し、給料を代価に彼らを守る責務を負う、か。だったら確かに俺やリンチ司令官は契約違反もいいとこだ。そりゃあ契約不履行で見捨てられもするか…。だったら、ここで野たれ死ぬのも当然なんだろうな…」

 

最後は消え入るような勢いで呟いたかと思うと、右手の銃をゴトリと地面に落とし、同時に拘束していたヤンを対峙していた薔薇の騎士連隊の方に向かって突き飛ばすと、己自身は床を蹴りつけるようにして背後に身を躍らせた。

 

――――非常階段の付いていない、虚空が広がる非常口へと。

 

「…っ! 大尉!!」

 

ヤンが、かつてのエル・ファシルでの男の階級を、いや昇進が停止された現在もそうであろう男の階級を叫び、反射的に手を伸ばしたが届くわけも無い。

男の身体は虚空の暗闇へと消え、ほどなくして地面に激突した鈍い音が辺りに響いた。それが事件の終わりを告げる音となった。

ヤンが虚空に伸ばした手は空しく空を切り、ただ所在なさげに指が虚空を泳いでいた。ヤンはそのまま視線を床に落とし、一人の男の死を悼むかのように唇を噛みしめていた。

 

「…あの男は、死に場所を求めていたのでしょう」

 

だからあなたのせいではない、という意味を言外に含ませて、シェーンコップがヤンに声を掛けた。だがヤンはそれに応えず、何とも言い難い雰囲気が辺りを覆う。

その空気を察したのか、もう危険は去ったと判断したこともあり、薔薇の騎士連隊はシェーンコップとヤンを残してその場から退出する。

パタンと扉が閉まった音が合図だったかのように、再度シェーンコップが口を開いた。

 

「あなたも…死ぬつもりだったのではないでしょうね?」

「…何を馬鹿なことを」

 

「そうですか? いかに因縁有る相手とは言え、不審な呼び出しを受けて誰にも相談することなく、うかうかと誘いに乗って、不用心過ぎるにもほどがあります。あなたにもしものことがあったら、この艦隊は、要塞は、いえ、自由惑星同盟はどうなると思っているのですか? あなたはもう少し、自分の重要性を自覚された方がいい」

 

「そんなことはないさ、私一人いなくなったところで何も変わりやしない」

「そんなことはあります! どうしてあなたはそう自己評価が低いのです!」

 

どうしても自分を低く見積り、軽く扱おうとするヤンに苛立ちを感じて、シェーンコップが思わず激昂したが、それでもヤンはびくともしない。

 

「私がいなくなれば、誰かが代わりにそれを補うだろう。民主主義と言うのはそういうものだ。不可欠で代替のきかない個人の存在なんてものは認められない。衆知を集め、一人一人の力を結集して全員で事を為していく。たった一人いなくなるだけでガタガタになるような社会なんて不健全だよ。宇宙は広いんだ。現在世に出ていないだけで、空席が出来れば、必要とされれば、私の代わりを務める者は絶対に世に出てくるだろう。エル・ファシル以前にヤン・ウェンリーを知る者が誰もいなかったようにね。知られていないだけで、潜在的には存在するんだよ、必ず」

「……」

 

ヤンの言い様に、シェーンコップは言葉を無くす。ここまで徹底的に自分というものを客観的に、悪く言えば機械的に、民主主義における一個の部品のように評価していたとは思いもよらなかった。

『不可欠で代替のきかない個人』とは、すなわち『英雄』のことだ。しかしヤンの思想では、それは衆知を集め全員で事を為す民主主義国家に置いては認められないのだと言う。

 

一人一人の力を出しつくさず、不可欠で代替のきかない個人一人に頼りきり、全てをその個人に任せ切る政体の行きついた先が、銀河帝国であり、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムの存在なのだ。

 

そこまで考えて、シェーンコップはぞっとなった。世間がヤンを英雄と褒め称えれば褒め称えるほど、彼の方にしてみれば、自身が民主主義国家におけるありえざる異物でしかないと認識させられることでしかないのではないだろうか。

だから彼は自分を英雄ではないと否定し、いくらでも代替の利く一個人であると思いたがろうとするのだろうか。

 

民主主義を信じているから。民主主義が人類の幸福に取って、よりましな政体だと考えているから。一人一人が平等で、公平で、一人の英雄に率いられる羊の群れではなく、人が人として生きられる社会を愛しているから。

それなのに、自分自身がその政体の全否定になりかねない存在であることの矛盾と絶望。そしてその政体に取っての異物であることの孤独。

 

どうして、なぜ、彼がそんな矛盾と理不尽に苦しまねばならないのだという思いがシェーンコップの中に渦巻いた。

そうしてシェーンコップは思い至る。自分や薔薇の騎士連隊がヤン個人によせる信頼や忠誠心すらも、民主主義国家の一軍人でいたいヤンに取っては、迷惑なものでしかないのだろうかと。

 

我知らず、シェーンコップの拳がぐっと握りしめられた。

 

一人一人が平等で、公平で、不可欠で代替の利かない特別な人間が存在しない世界。確かに理想的だろう。

でもそれは裏を返せば、誰も彼もが同じでいつでも替えの利く、大切な唯一が存在しない世界でもあるのではないだろうか。

そこまで考えて、自分のヤンに対する思いすらも否定された気がして、シェーンコップは思わずヤンに言い募る。

 

「でしたら、薔薇の騎士連隊はどうなるのです?」

「…シェーンコップ?」

 

静かな怒りを抑えたシェーンコップの常ならぬ様子に、ヤンが困ったように小首を傾げて問い返す。

 

「あなたは、自分一人いなくなっても何も変わらないと言う。あなたがいなくなってもその代わりが現れるからと。でも、それなら薔薇の騎士連隊はどうなるのです? 成立から数十年、あなたのような司令官はついぞ現れなかった。常に転向者、いつ裏切るかわからない不穏分子として疑われ、遠ざけられ、粗末な扱いしか受けてこなかった。今ここであなたがいなくなれば、また数十年、不遇に耐えることになる。もしかすれば永遠に」

 

「…シェーンコップ…」

 

思いもよらぬ視点を示されて、ヤンの瞳が意外性に丸く見開かれ、シェーンコップをじっと見つめ返す。そんなこと、考えてもみなかったと言いたげに。

 

「あなたの代わりなど、いないのです…!」

 

そう言って、シェーンコップはやるせない想いに突き動かされるようにして、ヤンを抱きしめた。

薔薇の騎士連隊に言寄せたが、シェーンコップはそうではないと内心で呟いた。

ワルター・フォン・シェーンコップ個人が、ヤン・ウェンリー個人を代え難いものに思っているのだ。

 

民主主義国家においては、一人一人は平等で、それぞれの価値は皆同じかもしれない。でも個人が個人に抱く思いは、不可欠で、代替の利かない特別なものなのだ。

その事を、目の前のこの黒髪の魔術師にどう理解してもらえばよいのだろう。ヤンをその腕に閉じ込めながら、シェーンコップは戸惑い、途方に暮れていた。

 

親を求める幼子のように目の前のヤンに縋るシェーンコップは、いつもの不遜な態度が嘘のように心細げで、その様子にヤンの顔は困惑を帯びつつも、包み込むような柔らかさが表情に浮かび、おずおずと口を開いた。

 

「うん、ごめん。シェーンコップ…。そうだね、君の薔薇の騎士連隊のためにも、少しは気をつけるようにするから、それで勘弁してもらえないだろうか…」

 

ヤンはヤンなりにシェーンコップの思いを理解しようと努力してくれたようで、いつもの困ったような笑みを口元に浮かべ、シェーンコップの腕の中に大人しく収まっていた。

 

 

 

これらの騒動は、ユリアンなどの周囲を心配させたくないというヤンの希望もあり、内々に処理されて終わった。

報告を受けたキャゼルヌなどは渋い顔をしたが、当の犯人が既に死亡している以上、追及しても意味がないことは分かっており、不承不承その処理に当たることになる。

その分、ヤンの軽率な行動に対しては、シェーンコップ以上の熱意で説教を食らわせてやったのだが。

 

そうやっていくつかの事件を内包しつつ、捕虜交換にまつわる騒動は終わりを告げたのだが、それは続く平安を約束するものではなかった。

時を置かずして、同盟領内で地方反乱が頻発し、とどめに首都星ハイネセンにおいて、救国軍事会議を標榜する軍部の一団が政権を強引に奪取し、クーデターを成立させる。

 

そのクーデター派を率いる一団の長の名は、ドワイト・グリーンヒル。ヤンの副官、フレデリカ・グリーンヒルの父親であった。

 

同盟全域に向け軍事会議の成立を宣言する映像の中で、中央に立つドワイト・グリーンヒルの後方の片隅に、その場に似つかわしくない酒びたりの雰囲気を漂わせた男の姿があった。

 

男の名はアーサー・リンチ。

 

ただ一度の逃走により、それまでの功績全てが否定され、人生の大半を失意と自棄で塗り固めた男。

ドワイト・グリーンヒルが、何を思ってこの男を重用しようと決めたのかは分からない。

アーサー・リンチの転落の出発点、エル・ファシル。そこにはドワイト・グリーンヒルの妻と娘が居合わせていた。

彼らを含む三百万人の民間人を救うために、カルネアデスの板から突き落された男。

 

 

―――― それは、ドワイト・グリーンヒルに取っても負い目であったのだろうか。

 

 

 

 




以上です

半年くらい前から急に銀英愛が再度沸騰して、つい書いてみたくなりました


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