赭石のイアーティス  ───What a beautiful dawn─── (6mol)
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第1章 愛、揺るぎなきもの
《大洞窟》


少し改稿しました。ですが携帯での改稿ですので行始めが空いていなかったりと非常に読みにくくなってしまいました。申し訳ありません。

追記:改稿を開始しました。


 

 

 

 

 

 

 

 時計が回る。───チク・タク

 運命が回る。───チク・タク

 

『時間だよ。───物語を紡ぐ時間だよ』

 

 此処は誰も居ないはずの部屋。その部屋に響く、存在しない筈の声が、一つ。

 

 ───その声、およそ女ではない。……男でも、ない。

 それは人ですらない物から発せられた声。

 そう、無数の(パイプ)がまるで編み込まれているかの様に絡み合った、未だ稼働し続けているこの異形都市唯一の大機関(メガ・エンジン)。その機関から吹き出す蒸気に呼応するように、または溶け込むように異形の声は発せられていた。

 

 ─────この声が聞こえる者はここにはいない。……この都市にはどこにもいない。

 この声が聞こえるとするならば、かつて穴を掘り続けた狂人か、あるいは碩学詩人と称えられた無二の狂人か。

 どちらにせよこの声が聞き届けられたなら、それはまごう事なく気が狂っている証だろう。聞こえるはずのない声が聞こえるなど、道外れた狂人に他ならないのだから。

 

 だから─────どうか、誰にも聞こえないでいて。

 

 ───目を閉じて。

 

 ───耳を塞いで。

 

 この声を───できる限り遠ざけて。

 

 この、狂った幻聴(ファンタズマゴリア)を。大切なあなた達(・・・・)が狂っているなんて、狂人達に嗤わせないで。

 

「───わかっているとも。あぁ……あぁ、わかっているとも」

 

 そしてここにその声を聞くものが、1人。

 誰もいない筈の部屋に存在する、それは奇矯な男であった。

 

 ───いや、その男は真に奇人であり奇矯であり、そして奇怪ではあったがそれは自らが狂っている事を自覚していた。自らが取り返しのつかない所まで来ているという、漠然とした絶望をも携えて。

 

 《3月のウサギのように気の狂った》その男は、この都市にて物語を紡ぐもの。

 そしてこの都市の中枢機関室(セントラルエンジンルーム)のただ1人の主人。

 

「物語、それは人によって紡がれるもの。形なきもの。無形の愛。────そして、この都市を《》に染め上げるもの」

 

 低い低音が部屋の中に響く。

 それは男の声だった。

 静かな、けれど不気味な程に響く声。

 その身、すでに異形であるというのに、皮肉なまでにその声は人間味に溢れていて。

 

「─────物語は永遠だ。人の心の中にて顕現する永遠の幻想。────私は待とう。狂った王子が孤高の魔女(ラプンツェル)に物語を届けるその時を」

 

 語る、語る。

 聞くものなどいなくとも男は語る。

 なぜならば、そう……男はまさしく3月のウサギのように気が狂っているのだから。

 

  男は眠りついている姫……否、孤高の魔女に寝物語を歌い上げる。

 

『時間だよ……よいこの寝る時間だよ』

 

 男に呼応するかのように声が重なった。

 先程と同じ、奇怪の声。

 菅から漏れ出す蒸気の音。

 男の言霊をうけて、あるいはその気の狂いを見てか───機関は歓喜の声をあげるのだ。

 

 蒸気を吹き出す無数の管は、反響と相まってまるで美しい旋律のようで。

  響いてくる声は、無機質で心も凍る呪いのようで。

 

 ───ここで、この部屋で大機関は都市でただ一つの歓喜の歌を唄いあげる。

 

 だが……それは祝福ではない。

 

 ─────祝福はこの都市にはない。

 ならば、それは嘲弄の唄か。

 常人ならば、その唄を聞いただけで確実に発狂しただろう。

 

 ─────それほどまでに美しく、そして不快な唄声だった。

 

「そうとも。そしてそれが全て。……この都市の夜は明けない」

 

 

 ─────言葉を一つ、頷いて─────

 

 

『─────どうか誰も、気づきませんように……』

 

 

 

 

 * * * *

 

 

 

 ─────青い霧の漂う死んだ街。

 外界から遮断された(あか)い牢獄。

 かつては幾つもの大機関(メガ・エンジン)が列挙し、人間も種族も関係なしに蔓延る活気のある都市だったという。

 

 輝き溢れる工業地下都市。若い碩学の卵達の憧れ。蒸気文明の先端を担う科学実験都市。

 噂では気象式画像表示版(エア・モニター)初期段階(プロトタイプ)を開発したのはこの都市の研究機関だともいわれている。

 

 ……その都市に敵はいなかった。あるいはもしいたとしても、地下に掘られたこの都市に攻め込むのは決して容易ではないだろう。

 なぜならば、外界からその都市に至るためには5つしかない横穴(ビンガー)を通らなければならず、他の進入路は一切存在しないからだ。

 だが、それは同時に外との交流(アクセス)

 が困難である事を示している。

 研究の持ち出しを防ぐため、外に出るときは例え一般人だとしても2週間前から申請が必要であり、無論荷物検査どころか過去の履歴まで機関(エンジン)カードで覗かれる。

 

 交流がなかったため都市に敵こそいなかったが、それと同時に味方もいなかったのだ。

 

 ─────そして、それこそが目を覆いたくなる悲劇を招いてしまったと、都市の人間は誰も気付かない。

 

 ─────運命の都市の《崩落》の日。

 

 その日はこの灰色の時代において比較的雲の薄い快晴の日であったという。

 

 ─────詳しい日付は、わからない。崩落の起きた、その時刻も。

 誰も知らない。誰もが知り得ない。

 

 西亨にもカダスにもその詳細を知る者はいない。いるとするならば、それは彼の大碩学に他ならないが、彼の姿はもはやこの世のどこにもない。

 

 報道の規制すらない─────

 

 そう、文字通りその《崩落》には誰も気付かなかったのである。

 人の知らぬうちにこの工業地下都市は世界からその姿を消したのだ。

 

 インガノックを襲った《復活》のように。

 

 ニューヨークで起きた《大消失》のように。

 

 《崩落》は理不尽に人々に襲いかかった。

 

 それは人の理性を容易に砕き、たちまちにして都市を混沌に陥れた。

 故に、その《崩落》を《陥落》と揶揄する者もいる。

 

 最早、その都市の《真の名》を言葉にする者はいなくなった。いや、それは正しくない。

 正しくいうならば、その都市の名は誰も知らない……誰もが、その名を忘れてしまった。

 そう、人はその忘れられた都市を、ただこう呼ぶ─────

 

 

 

 ─────《大洞窟(クシニーア)》、と。

 

 

 

 はたして《崩落》からどれ程の年月が経ったのか。

 70万いた都市の住民は、いつの間にかその数を激減させていた。

 生存者、およそ1万7千人。

 いや、《青い霧》がなければその数は更に減っていただろう。

 停止した筈の機関から排出される《青い霧》……それは未知なるものにして異質なもの。

 

 奇妙にして奇怪なもの。

 機関の恩恵、その果て。

 

 その霧は────朽ちた人の身体の腐敗を防ぎ、蔓延するはずの疫病さえをも飲み込む奇跡の霧。

 

 時に人の脳さえをも麻痺させ、身体を制御しあらゆる欲求を抑制させる。

 

 その《青い霧》の奇跡があったからこそ、2万の人々はこの地獄でも生き残ることが出来たのだ。

 

 ─────だが、人はそれを祝福だとは思わない。

 倦んだ瞳は何をも映さない。

 目前に迫る絶望も。手が届く希望ですら。

 ただ、ただ誰かが口にした救済の幻想─────

 

 ─────《出口》のお伽話を夢に見て。

 

 

 都市の住民は、埋もれた街で静かに眠りについていた。

 

 




不定期更新シリーズ、はじめました。
オリジナルスチパンシリーズ。
一応完全オリジナルを目指していますが、少し……というよりかなりソナーニルの影響を受けています。
亀更新ですが、よろしくお願いします。


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《大洞窟》の少女 フィリア

 

 

 

 

 

 ────金の目をしたあの子はだぁれ?

 

 あの子あの子、あの子だよ。

 かわいいかわいいあの子だよ。

 愛らしいフィリア。

 笑顔の似合うかわいいフィリア。

 

 ─────けど、誰よりも不運だったね。

 

 愛らしいフィリア。

 笑顔の似合うかわいいフィリア。

 

 そのかわいいお顔を泥で汚して。

 いっつもおなかはペコペコで。

 おやつの時間もないんだよ。

 

 ─────誰よりも、不運だったね。

 もう、あの子を守ってくれたママもいないんだよ。大好きなママもいないんだよ。

 

 かわいそうにね、かわいいフィリア。

 笑顔の似合うかわいいフィリア。

 

 ───きっと、誰にも気付かれずに───

 

 あの子は終わってしまうんだよ。

 物語を紡ぐこともできずに。

 死ぬ事も出来ない。逃げる事も許されない。

 

 かわいそうにね、かわいいフィリア。

 それでも笑顔を絶やさない子。

 偉い子。

 我慢強い子。

 でも、だからかな。

 

 ───ほら、また来てしまうよ。

 きみが笑顔を絶やさないから。

 きみが夜明け(しあわせ)をあきらめないから。

 

 だから─────《霧》が。全てを壊しにやってくる。血の一滴、髪の毛一本に至る全てを奪いにやってくる。

 

 かわいそうにね、かわいいフィリア。

 

 

 ────あるいは。

 

 

 ────あきらめさえすればよかったのにね。

 

 

 おバカなフィリア。

 

 

 

 ざ ま あ み ろ 。

 

 

 

 

 

 * * * *

 

 

 

 

 

 瓦礫に埋もれた廃墟の中を、一歩一歩と踏みしめる音が辺りに響く。

 足音の後には常に石の崩れる音が付いて回り、いかにこの道が不安定なのかを物語っていた。

 しかし、足音の主はまるで家の庭を行くかのように瓦礫の上を渡って見せる。

 

 ────揺れる金髪。その隙間から覗く、褐色肌。

 

 顔に幼さを残していながらも、どこか妖艶さしえ讃えたその容姿は精巧に作られた機関人形めいていて。

 

 《フィリア》

 

 それが彼女の名前だった。それが彼女に与えられたこの都市での役名だった。

 

 瓦礫の中で1人、希望を唄う少女。

 ガシャリガシャリと鳴る音は、彼女の持っている小柄な彼女には不釣り合いな程に大きく無骨なバケツから。そのバケツには、目一杯まで注がれた水が入っている。

 

 ───青い霧漂う瓦礫の中でも、彼女の翠色の瞳は迷うことなく前を見据えており……

 

 ───その瞳の輝きこそがこの《大洞窟》の希望であることを、未だ誰も知らない。

 

 

 

 * * * *

 

 

 

 ─────トコトコ、と。

 毎日歩く道をゆっくりと歩む。時には瓦礫の橋を渡って。時には崩れた柱のアーチをくぐる様に。

 小石の位置一つとっても、昨日と何も変わらない。

 変わらない風景。変わるはずのない廃墟。

 その中を、今日も私は水汲み場から一杯に水の入ったバケツを下げて歩いて行く。

 

「今日は一段と人の気配がありませんね……っと」

 

 いけない、いけない。最近また独り言が多くなってきている。直そうと思っていても、どうしても直せない私の癖。

 

 ───《崩落》で全てを失ってしまった悲しさを紛らせるための、逃避。

 

 ガシャリという甲高い金属音で我に帰る。

 私の抱えている、水の入ったボロボロのバケツ。

 

 ───少し、私の力では重い。

 それでもできるだけギリギリまで水を汲んでくる。だって、これはこの《大洞窟》の生命線。

 

 私の住んでいる家から、遠く離れた場所にある水汲み場から

 1日に使える水はバケツ一杯だけ。飲み水とかも全部含めて。

 私は……毎日タオルを濡らして身体を拭くのが日課だから、この水の量じゃ少しだけ少ないけど。

 でも、この日課を止める気にはならない。例え『外』に比べてこの街は《青い霧》の影響であまり身体に汚れがつかないとしても。

 

 ───《青い霧》。

 奇跡と呼ばれる発光気体。埃を浄化し、疫病の蔓延を防ぐ神秘の力。

 《青い霧》がなければ、この《大洞窟》はさらなる地獄と化していたという確信が、ある。

 

 人の三大欲求をも抑制させる不思議な霧。食欲も、沸かない。睡眠欲も。……せ、性欲も。

 

 だから、この《大洞窟》では清潔をある程度保てる。……けれど。

 

 ……一応、私も女の子ですから。

 女の子として、身体を拭くくらいの事はしたい。

 淑女とか、そういう自覚は……ある。とある人に言われて、淑女の端くれだという意識だけは持つようにしている。

 

『女の子はね、どんな時でも美しく在ろうとしなければ駄目よ』

 

 ───そう、あの人に言われたから。

 周りには笑われてしまうかもしれないけれど、それでも。

 この日課を止める気にはならない。

 

 ─────この都市には雨も降る。地下なのに。

 かつては降らなかったけれど、《崩落》後の《大洞窟》には雨が降る様になった。

 それは、きっと《青い霧》の影響。天板からしたたる水滴が、稀にだけれど雨となって降り注ぐ。

 

 そういった日は、いつもよりももっと水を使えるからいい。毎日でも降ってほしい……けれど、それはあり得ないんだろうな、と少しだけ苦笑い。

 大洞窟で雨が降るのは本当にまれだから。だから、だからこそみんな有り難がる。

 そうして、私は必死に水を運びながら見慣れた街を観察する。

 うん、やっぱりいつも通り。

 今日もこの街、『ユノコス』はいつも通り。

 そう一つ頷いてから、トコトコと。

 私は。

 

 

 

 ─────また、踏みなれた瓦礫の道を歩いていく。

 

 

 

 

 * * * *

 

 

 

 《大洞窟》。

 

 《青い霧》が蔓延する、楽園の成れの果て。

 石の海。

 帰結する闇。

  発狂の劇場。

 この地下都市はいつの間にか《大洞窟》と呼ばれるようになっていた。

 誰が初めにその名前を口にしたのかはわからない。けれど、気付いたらみんながその名前で都市を呼ぶようになっていた。

 私は産まれも育ちもこの都市だった。

 私がもっと小さい時。そう、まだお母さんも生きていた時。

 私が住んでいる地区「ユノコス」はとても大きな地区だった。本当にとっても大きな。

 中央機関道(メインストリート)には目眩がするくらいの数の機関が立ち並んでいて、その高さといったら首が痛くなるくらい!

 

 そんな機関群からは地下内に立ち込めるほどの蒸気か休むことなく排出されていて。

 

「─────ふぅ」

 

 ガシャリ、と。水の入ったバケツを地面に置いた。

 水汲み場から自宅までは結構な距離がある、から……毎日やっていることでもやっぱり腕は少し疲れていて。

 特に、私は非力だから。

 

「重い……なぁ……」

 

 ─────この水は、重い。

 

 純粋な重量という意味でも。……それ以外の意味でも。生命線と呼ばれる貴重な水。

 

 昔は、お母さんが水を運んでいた。

 お母さんが私のために運んできてくれた水は、おそらくもっと重かったのだと思う。

 

 ───有難いと同時に、少し申し訳なく思って、心苦しい。思い出すだけでも胸がキュっとなる。

 そう思いながら、私は辛うじてまだ原型を留めている自宅の扉を開いた。

 

 自宅。そう、自宅だ。私の家。

 お母さんと2人だった家。今はもう、私1人の家。

 《崩落》の時に多くの建物は倒壊してしまったけれど、運良く私の家はかろうじて無事で。

 だから今でも私はこの家に帰ってくる。

 この、無人となってしまった瓦礫の家に。

 

「─────ただいま……」

 

 返事はない。当然だ。

 居間にある壊れた暖房機関(ヒート・エンジン)駆動鍵(キー)を回すけれど、これも当然つかない。

 そもそもこの《大洞窟》にはおよそ『気温』というものが無いから必要ないのだけど。

 昔の癖でつい回してしまう。私は寒がりだったから。

 

 ─────私の家は決して裕福ではなかった。機関の使用に制限のあったあの頃は、暖房機関の使用も当然できる限り控えるべきだった。けれど、子供だった私はそんな事も知らないで母に暖房をつけてとせがんだのを覚えている。

 そうすると母は、優しい笑顔で暖房をつけてくれて。

 

 ─────ああ、いけない。これ以上思い出してはダメだ。

 調度の良いソファに腰掛け、静かに息を吐く。

 

 ─────ダメ。

 暗くなっては、ダメ。

 笑顔でいなきゃ。

 笑顔でいるって、私は決めたんだから。

 そうでしょう?フィリア……

 

 水を運んで疲れた腕を軽く揉みながら、ふと窓の外を見る。

 窓の外。ユノコスの中心。

 かつてそこには大型の機関群が列挙し、このユノコスだけでなく《大洞窟》の実に70%ものエネルギーをシェアしていた。

 《中央機関街(エンジン・シティ)》と呼ばれたそこは活気に溢れ、若者の街としても有名で。

 

 ───そして、何より。

 その頃の中央機関街には『アレ』があった。

 

 ───バロック式大高楼「ツァト・ブグラ」。

 まるで塔そのものが彫刻であるかのように華美で、芸術的な建築物。この街の柱。この地区の象徴。

 

 噂では、あれは大洞窟の碩学様達のための大計算機だったという。

 学校で習った気もするけれど……その……私はあまり頭がいい方では無かったから……

 

 い、いいんです。そんなことは。

 

 ツァト・ブグラ。

 前は私の家からよく見えた。とても高い建物。それこそ、大洞窟の天井に着いてしまいそうな位。

 

 ───今はもうない、地区の象徴。

 《崩落》の時に、ツァト・ブグラを中心とした中央機関街一帯は消失してしまった。

 

 ───ううん、違う。

 あの一帯は《崩落》により『落下』した。

 この地下都市から更なる下へ。

 

 ───地の底、 へ。

 そして、ツァト・ブグラが地の底へ落ちてから……

 

 この都市は地獄に変わってしまった。

 荘厳ささえ讃えていた機関群はその機能を停止してしまい、なまじその機関の恩恵で生活を成り立たせていたユノコスは一転してパニックに陥ってしまった。

 そう、電気も……水道も。ガスも。

 全てがその機能を停止させて。

 ツァト・ブグラの消滅は、まるで機関の恩恵を受けていた私達人類が怪現象に敗北したのを示唆しているようだった。

 それと同時に他地区に行くための通路も閉ざされてしまい、外に通じていた《横穴》も同様に閉ざされてしまったのだ。

 

 ───そうしてこの街に逃げ場はなくなった。

 

 私は当時、お母さんに縋り付くばかりだった。怖くて、怖くて。

 

 ───何もかもが怖かったのを覚えている。

 抑制された食欲に耐えきれず、食料を求めて、殺人まで犯してしまう住民たちだとか。

 性欲を抑えられず、婦女子に暴行を加える暴徒達だとか。

 いつの間にか排出されていた不気味に漂う《青い霧》だとか。

 

 怖くて─────

 怖くて─────

 ただお母さんに守られていた私は、震えているだけで。

 

 

 ─────何も、できずに─────

 

 

 

 

 

 * * * *

 

 

 

 

 

 ───霧の都に、白が舞う。

 あるいは、それは機関道(エンジン・ロード)に舞い上がる雪のように。

 崩れた街の瓦礫の中に、一つの淡い人影があった。

 

 ───女だ。

 それは、白い女だった。

 肌は灰色の雪よりも白く、ただただ白い。

 髪も、白だ。白髪。

 ただ、《青い霧》により淡く発光する瓦礫の中で、彼女の瞳だけが燃えるように赫かった。

 

 ───赫く、赫く。

 地面に届かんばかりの長い白髪は、見る者によっては淡く発光しているようにも見えるだろう。この、崩れた楽園に漂う霧のように。

 やや小柄な体躯をしているが、それを感じさせないような雰囲気を彼女は持っていた。その、凍えるような美貌も。

 

 ───遠きカダスの地では《禁忌の魔女》とも呼ばれる女だった。

 いわく、主に西亨の合衆国でその名を轟かせる大碩学であるとか。

 いわく、《発明王》を冠する大碩学に敵対して見せた反骨の鬼女であるとか。

 

 ───真実は誰も知らない。誰も彼女を語りはしない。

 

 語るとするならば、それは───

 

「─────ああ、やっと始まるのね」

 

 彼女自身、のみ───

 

「あの子の、あの子だけの旅路。ようやく機関が動き始める」

 

 瓦礫に腰掛けた彼女は、硝子細工のような喉を震わせて。

 

「かわいい子。かわいいフィリア。あなたはきっと出会うでしょう」

 

「─────あの、愛に絡め取られた囚人に」

 

「─────あの、牙の欠けた赫い軍服に」

 

 軽やかに笑う彼女。

 その、赫い瞳を輝かせて。

 

 

 

「愛しいあなたに『霧』の祝福があらんことを」

 

 

 

 

 




おまけ


コツコツ、と。
1人の『人間』が無人の廊下を歩いていた。

─────それは、奇妙な廊下だった。

多くの管が廊下の隅、あるいは壁、あるいは天井を走り、奇怪なことにその管からは蒸気の伝達する気配が一切しなかった。
かの大碩学チャールズ・バベッジと、その他の多くの碩学達の手によって蒸気機関文明が発達の一途を辿る今、その廊下は極めて異質と言えただろう。
なにやらその管には、蒸気とは別のエネルギーが伝っているようだった。

─────三世の果ての者ならば、あるいはそれの正体が分かったかもしれない。
だが、この蒸気吹き出せし世界では、そのエネルギーは異質だった。

廊下を歩く人物は、その光景に別段驚きはしない。
既に見慣れた光景だった。
そう、この廊下の奥にある部屋の主がどのような人物なのかなど、その人間は誰よりも理解していた。

だから、迷わずに廊下を歩く。

─────すこしだけ、心を踊らせて。

暫く歩き、それはようやく廊下の奥、すなわち『秘密の部屋』に辿り着いた。
限られた人間しか立ち入ることのできない部屋。
ある男の実験室。

『人間』は扉の前で僅かばかり息を吐くと、力任せに重厚な扉を開け放つ。
その瞬間─────

目を焼くような輝きが─────



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霧と雨

すごい難産でした


 

 

 

 

 

『───たすけて』

 

 誰かの声がする。

 私の耳元で。あるいは、とても遠くから。

 近いようで遠いその声は、私に向かって必死に手を伸ばしているようだった。

 

 ───苦しいくらい、懇請に。

 ───悲しいくらい、冷酷に。

 

 私に伸ばされたそれはきっと、異形達の右腕で。その腕たちは、暗闇でもがく私に向かって闇の底からまるで引き摺り込むかのように手を伸ばしていた。

 

 恐ろしい程に、静寂な闇。

 音、何も聞こえない。

 光、何も見えない。

 

 ───くらい。ここはどうしてこんなにくらいの。

 心の、根源的な恐怖を呼び起こす暗闇。その中で私は自らの手をかざす。

 自らの手。あるはずの腕。それが、暗闇に紛れてしまって見えなくて。まるで、闇の中に溶けてしまったよう。

 

 ───どこからどこまでが、暗闇なの?

 

 ───どこからどこまでが、私?

 もう既に。私の思考さえ暗闇に包まれてしまっていて。

 その声たちは私に向かって、まだ手を伸ばしていた。

 

 ───ちがうよ。

 

 ───やめて?

 私は、あなた達を助けられない。だからやめて。私に助けを、求めないで下さい。

 そんな哀しそうな声、私は聞きたくないよ。聞きたくなんてない。

 

 ───そう叫んでも、その声たちは私を恨めし気に見つめてきて。

 

『ずるい』

 

『ひどい』

 

『なんで、貴女のためなんかに』

 

 そして。そうして、その声は。

 私の腕を、脚を、首を───

 

 

 ────苦しいくらいに締め上げて────

 

『時間だよ。……もう目覚めの時間だよ』

 

 

 

 * * * *

 

 

 

 

「……また、この夢?」

 

 ───呆然と、目がさめる。まるで機械(マシン)めいた動作で、ゆっくりと。まさしく機械的に。

 この《大洞窟》に朝はない。それは昔から決められたこと。この人工的な極夜の都市では、朝なんてものはない。昼もない。あるのは、永遠に続く夜だけ。人為的であり、作為的であり、そして自然的な夜だけがこの街にはある。

 特に《崩落》の起きた後は、もう時間という概念さえなくなった。

 各々が勝手に寝て、各々が勝手に起きる。起きてすることといえば、水を汲んできてそれを啜ることだけ。

 

 ───《青い霧》があったとしても、人の飢餓にはやはり限界がある。まるで、満腹中枢ならぬ空腹中枢を忘れてしまったかのように、人はただ気付かぬうちに己を衰弱させてしまう。

 ……まるで、拷問。

 

 でも、それも日常。驚くことはない。

 

 ───壊れた神経も。

 

 ───朽ち、腐敗する前に霧散する遺体も。

 全てが日常の一部なのだから。

 

「─────嫌な、夢」

 

 そう、夢。今回も見た。忘れずに覚えている。無数の腕と、取り巻く暗闇。届かない私の声と、届いてしまう彼らの声。

 目が覚めた時は、いつもそう。自らの身体をかき抱くように腕を回して。

 震えが止まるのをじっと待つ。ただ、その寒さを堪えるように。

 

「大丈夫です、お母さん。……私は、まだ、大丈夫ですから」

 

 

 ───寒い。

 

 寒い。寒い。寒い。体が寒い。心が寒い。

 

 あぁ───お願い。誰か……暖房機関の駆動鍵を回して下さい。

 

 

 

 

 * * * *

 

 

 

 

 トコトコ、と。毎日歩く道を辿っていく。

 変わらない道。変わるはずのない道。

 

 ───だって、この道を歩くのは私だけ。

 小石の位置一つとっても、昨日と何も変わらない。

 変わらない風景。変わるはずのない廃墟。

 今日も、私は水汲み場から一杯に水の入ったバケツを下げて街を歩いている。

 いつもと一緒。いつもと同じ。

 

 ───けれど。

 

 ───けれど。

 

 この日はいつもとは少しだけ違った。

 この日はいつもと異なることがあった。

 

 ───なぜなら。

 

「───あ」

 

 ポツリ、と。

 私の前髪に落ちてきた水滴。

 黒くは、無い。

 排煙に犯されているという、外の『それ』とは違う。この都市のそれは、とても綺麗なもの。

 

 ───この都市の、奇跡の一つ。人の望みがかたちを成したもの。

 

 それは、すなわち─────

 

「……雨だ」

 

 私と周りの瓦礫を濡らしていく、それは雨。

 大洞窟で稀に降るもの。

 

 ─────かつては、降らなかった。大洞窟は科学技術の最先端を行く工学都市ではあったけれど、その位置は地中にあったから。どんな機関機械(エンジン・マシン)でも、自然を操り雨を降らすことはできない。

 作物を育てるための人工降雨機関(レイニー・エンジン)はあっても、それは真の雨を降らすことはない。

 ……だから、洞窟内で雨の降ることなんてなかった。

 

 ───あの日、あの時までは。

 

 すなわち、あの《大洞窟》の《崩落》の日。

 すなわち、機関から《青い霧》が排出された時。

 幼い時の私の記憶が正しければ、《崩落》のその日は雨が降っていたように思う。

 

 雨。

 天から降る水の恩恵。

 ここでは、そう。天盤から滴る無数の雫。けれど、それは真に雨であって。

 瓦礫と、赭石の岩盤。

 それしかないこの街を濡らしていく。

 ずっとこの雨にうたれていたいけれど、それは良くない。いくら《青い霧》の恩恵があったとしたって、代謝そのものが良くなるわけではないから。長時間濡れていたら風邪を引いてしまう。

 風邪をひいてしまったら大変。だって、《大洞窟》には薬がないから。─────違法のドラッグならあるようだけれど。

 ドラッグの名前。違法ドラッグの名前はなんだったか。確か……レ……レミ……?

 

 

 ───まあ。

 それは、そんなことはどうでもいいこと。なんでもないこと。些細なこと。

 違法のドラックでも、なんでもいい。何に頼っても誰も責めない。

 大切なのは、そう────

 

 ───今日をまた、生き抜いていくこと。

 この、地獄と呼ばれる袋小路で。

 

 

「───フィリア」

 

「え?」

 

 フィリア、と。雨音に紛れるように、声、確かに聞こえた。

 私を呼ぶ声。私の名前を呼ぶ優しい声。

 視線、くるりと周囲に回す。するとそこにいたのは……

 

「いけない子、フィリア。まだ貴女は幼いのだから。幼い女の子が身体を冷やしてはいけないわ」

 

「……アーテル姉さん!」

 

 そこにいたのは、傘を持った綺麗な女の人。

 

 ─────アーテル・カストロフ。

 昔から、私を気にかけてくれる人。《崩落》よりももっと前から。

 アーテル姉さんは、私のお母さんととっても仲が良かったから。よく私もかわいがってもらっていたのを覚えている。

 倦んだ《大洞窟》の中でも、優しさを持っている美しい人。私の憧れ。

 

 だって、ほら。今日もアーテル姉さんは綺麗。

 腰まで届く黒髪も。

 

 ───煌めくような、金色の左目も。

 

「ほら、傘に入りなさいな」

 

 そう言って、私をぐっと傘の中に引き入れる。

 

「……もう少しだけ、雨にあたっていたかったです」

 

「いけません」

 

「あぅ……」

 

 ピシャリ、と。そう叱られてしまった。

 ぐうと私は項垂れてしまう。幼い私、こんなんじゃアーテル姉さんみたいな淑女になれるのはまだまだ先。

 

「気持ちは、わかるけれどね。自分の身体をないがしろにするのは感心しないわ」

 

 全くの、正論。

 私に反論する隙さえ与えてくれず、アーテル姉さんはまたしてもピシャリと私に言い放った。

 

「《青い霧》は決して祝福じゃない。もちろん、それに連なるこの雨も……わかるでしょう?フィリア」

 

「───はい」

 

『祝福ではない』

 

 そう、いくら奇跡が起きようと《青い霧》は祝福などではない。そんなことは、この都市に住まうもの全員が知っていること。

 

「いい子ね、フィリア」

 

 そう言って、私の頭を撫でるアーテル姉さん。昔から、よくこうしてもらっていて。幼いときはアーテル姉さんに撫でられるのがとても好きだった……けど。

 

「うぅ……私、もう子供じゃありません」

 

 そう言って、ジロッと睨んでみたりして。

 でも、そんなことしたって……

 

「あら、あら」

 

 ほら、やっぱり。

 アーテル姉さんはクスリと笑うだけ。

 まるで、手のかかる幼子を嗜めるよう。

 

「─────今日はとくに《青い霧》が濃いわ。早く、家に帰りなさいな」

 

「……はい」

 

 叱られて、少し落ち込んだ私はうなだれながら返事をする。

 いつもなら、それもまた叱られる。『淑女を目指すものの仕草ではない』と。

 でも、今回はそれがなかった。その、代わりに……

 

「これで、良かったのでしょう?ねえ…………《 》」

 

 その、アーテル姉さんの呟きは───

 

 強くなる雨音に掻き消されるように消えてしまって、私の耳に届くことはなかった。

 

 ───あるいは。

 

 

 

 

 ───それが、悲劇の始まりだった。

 

 

 

 

 

 * * * *

 

 

 

 

 

 ───トン・テン・カン

 

 ───トン・テン・カン

 

 ───規則の良いリズムを鳴らして。

 

 機関(エンジン)を叩く音がする。

 硬い、硬い機関の鋼の表面を。木槌で叩く音がする。

 

 ───トン・テン・カン

 

 一寸の狂いもなく。一拍の狂いもなく。

 一定のリズムで奏で続ける、それは男。

 

 ───偉大なる三角、ではない。彼はそれを名乗るに値しなかった。

 

 ───だが、彼は三角を持つ男だった。

 《三角卿》と称えられる男だった。彼を、三角卿と言わずなんというのだろう。

 狂ってなどいない。例え木槌を片手に持っていたとしても、彼の瞳は狂ってなどいなかった。

 

 そして、彼の奏で続けるこのリズムも───

 狂ってなどいない。狂ってなどいるものか。

 この男こそ《大洞窟》で唯一正気を持つ男なのだから。

 鋼の機関が、その導管(パイプ)から蒸気(スチーム)を排出することはない。

 なぜか。それはこの機関が未だ目覚めていないからだ。未だ、唄うことを知らないからだ。

 

 ───ここに祝福はない。で、あればこそ、彼は木槌を叩き続ける。祝福を産み出すために。

 

 ───トン・テン・カン

 

 リズムを一切狂わせることなく。その手を休めることさえなく。されど、口さえあれば、人は言葉を、物語を紡ぐことが出来る。

 自ずとが望むままに。絡み合う無数の機関をかき鳴らして。

 

「───おや。これはとんだお客さんだ」

 

 手を休めずに、彼は言う。視線、正面を向けたままに。

 

「ああ、ああ……もちろん、君が来ることなんて想像だにしていなかった。まさしく『想定外』というやつだ」

 

 快活に笑う、男。頰にできた深いシワをくしゃりと歪めて。

 それが、全てを知った男の顔なのだろうか。

 

 ───否、そんなはずはない。全てを知っているのなら、彼が笑うことなどあり得ない。

 では、なぜ彼は笑うのか。

 嗤わずに、笑うのか。

 

「ん?そうだとも。『想定内』のことなどあるものか。この《大洞窟》内……いや、それ以前に、あらゆることは『想定外』のことだ」

 

 正常なる意志を持って、彼は言葉を紡ぐ。到底、彼は魔女などには及ばないけれど。

 だが、その言葉はあるいは───かのドルイド以上に他人への操作を強いる。他人の心に、魂に響く。

 

「私もこうして木槌を叩き続けている。……《無限力機関(イアーティス・エンジン)》など完成する筈がないというのに」

 

 だが、その願いはあるいは───

 

「そう。これ(完成)すらも、すなわち《想定外》というやつだ」

 

 ───トン・テン・カン

 

 ───トン・テン・カン

 

 一切の躊躇いなく。一切の慈悲もなく。

 木槌は奏でる。それは待望の旋律であり、また不可思議な旋律でもある。

 

 だが、その旋律はあるいは。

 

 

「───そうか。彼は動くのか……はは、それは『想定外』だった」

 

 

 

 

 

 * * * *

 

 

 

 

 

「この傘、持って行きなさいな」

 

 後でまた会いに来るわ───

 そう言って。アーテル姉さんは何処かに行ってしまった。

 傘一つ、私は押し付けられて。

 

 こんなの貰えません─────私がそう言った頃には、もう、どこにもアーテル姉さんの姿は見当たらなかった。

 

 ───傘。それは外、あるいは既知世界、あるいは未知世界では煤よけとして多く使われるという。かつての《大洞窟》でもそうだった。煤よけとして使われる事が多かった。

 

 ───けれど、今は違う。この煤よけ用の傘は違う用途で使われるようになった。

 すなわち、雨よけ。身体を濡らさずに済ますもの。この《大洞窟》では煤よけ用の傘はあっても雨よけ用のそれは無かったから。だから、本来は煤よけ用のものでさえ、雨よけに使う。

 

 ユノコスの機関は動かないから。もう、動いてくれないから。その導管から蒸気を排出することはないから。だから、この傘が花を咲かせるのは雨の時だけ。

 

 ───頭上で水を弾く音。

 

 ───ポツ、ポツと。

 

「……ふふ」

 

 無意識のうちに笑いが漏れる。いけない、これではただの変質者。

 

 ───雨は好き。

 勿論、水が供給できるからという理由もある。

 けれど……雨の日の《大洞窟》は違うから。

 いつもは人の気配なんて全くない。のに、雨の日になるとみんな水に誘われて生気を取り戻す。活気とは到底言えない活気が辺りに満ちる。

 だから、好き。自分はこの街で一人じゃない。

 確かに周りには人がいて、私と同じ様に生きているのだということを教えてくれる。

 

 ───だけど、一番の理由は、私がこの音が好きだから。水の弾けるポツポツという音が大好きだから。

 だから意味もなく、傘、クルクルと回して。

 

 ───跳ねる水滴が辺りに舞う。

 

 ───垂直に降る雨とは違う、真横に広がる軌道に乗って。

 

「……ふふっ」

 

 それを眺めて、私は歩く。再び自然と笑みを浮かべてしまう。

 

 ───あぁ、いけない。側から見たら、今の私はきっと変な子だ。

 いつもと同じ道を。いつもと違う雨の中。いつもは持っていない傘を片手に。

 

 ───歩く、歩く、歩く。

 

 

 

 * * * *

 

 

 

 帰路の途中。《抜け穴》を眺めながら沿うように歩いていた最中だった。

 

 ───《抜け穴(サルース)》。

 

 この《大洞窟》唯一の縦穴。元々は中央機関街(セントラル・エンジンシティ)があったところ。大穴、底が見えないほどの。

 ツァト・ブグラが『落下』をした場所。……そして、多くの命が消えていった場所。

 

 給水所から自宅までは、どうしてもこの《抜け穴》の横を通る必要がある。どうしても。

 まるで人を誘うかのように口を開けるそれ。私はそれが嫌いだった。苦手だった。……怖かった。

 

 ───誰も《抜け穴》には近づかない。

 

 ───生を諦めたもの、以外には。

 

 生を諦めた者は、自らを終わらせるために《抜け穴》へと身を投じる。

 かつて、この《大洞窟》という現実に絶望し身を投げた人の数は、数十万にも及ぶ。

 だから、抜け穴。

 

 死をもってこの《大洞窟》を抜け出す場所。

 

 ───だから、生を諦めない者は決して近づく事はない。《抜け穴》へ行くという事は、すなわち身投げということだから。

 

 ───だから、まただと私は思ったんだ。

 その帰路の途中で見かけた、一つの人影。

 《抜け穴》の淵に立つ、男の人。背の高い人。

 

 きっと、この男の人も身を投げるために訪れたのだろう。

 それを見つけて、私は。

 

 ───また、どうしようもなく悲しくなってしまって。

 

 比較的、見慣れた光景だったのに。多くの人が救済を求めて飛び降りるのを見たのに。

 《大洞窟》で生きるのが辛くて命を散らす、その瞬間を見てきたのに。

 いつもなら、心を痛めるだけで見ないふりをしていたのに。

 

 ───その人を。雨に打たれて佇むその人を。飛び降りようとするその人を、見て。

 

 私は───

 

 

 

「……風邪、ひいてしまいますよ?」

 

 

 

 

 

 ───傘、慣れない手つきで差し出して。

 

 

 

 

 

 

 



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唄う導管

 

 

 

「───なぜ、君は僕を助けた」

 

 降りしきる雨の中。《大洞窟》の《抜け穴(サルース)》の淵で、私は出会った。

 

 彼と。かそけしなる揺らぐ意思の塊(グレートヒェン)と。

 そう。……これが彼と私の出会い。彼との長い長い旅の始まり。

 辛く、苦しく、余りにも悲しく。

 

 ───それでも、とても美しい《夜明け》への旅の始まり。

 彼。不器用な彼。自分の価値を否定する彼。

 

 ああ……今だから言える。

 私の大切な、人。優しい、私の『エド』。

 そう、たとえあなたが呪われた身だとしても。

 そう、たとえあなたが怨みの末だとしても。

 

 そして、たとえ私が怨嗟の塊だとしても

 

 私が、あなたを忘れることはない。

 私が、あなたを否定することはない。

 だから……

 

 

 

 

 ─────だから、一緒に、いつまでも。

 

 

 

 

 

 * * * *

 

 

 

 

 雨の中で、私は男の人と見つめ合う。

 不躾にも、マジマジと。

 

 ───うん、この辺りでは見たことのない顔……ですね、やっぱり。

 背の低い私では、見上げるほどに背の高い男の人。肌も心無し青白く、目深に被ったフードから覗く髪の毛も、瞳さえも薄い青色。まるで《大洞窟》に漂う霧の如く。

 

 ───青い、青い男の人。目の覚めるような青い、一眼で上等だとわかるフード付きのコートを着ていて。

 

 ───でも、それ以上に目につくのは。

 

 ───彼の右腕に嵌められている、千切れた鎖の枷(二グラス)───

 

 彼のその身は、既に雨に濡れていた。

 けれど、せめてそれ以上濡れないように私は必死に傘を持った手を伸ばす。そして、再び。

 

 ───彼と視線、交わって。

 

「なぜ、君は僕を助けたんだ」

 

 もう、一度。私の瞳を見ながら、反芻するように彼はそう言う。

 

 ───最初は、とても驚いた。そして、それと同時に怖くもなった。だって、彼は恐ろしいくらいに眉根を寄せていたから。とっても不機嫌そうに、まるでうっかり害虫を見かけてしまったかの様な瞳。

 

 ───怒っていると、思った。

 

 余計なことをしてしまったかもしれないって。そんなことを思った。彼の、不機嫌そうな顔を見て。

 

 ───うん、だって本当に不機嫌そうなんです!

 まるで、今この瞬間が人生において最低の瞬間であったかのように。

 まるで、私に出会ったことが生涯最悪の出来事であったかのように!

 それくらい、不機嫌そうに眉さえ寄せて。

 

「えっと……た、助けてなんていません……」

 

 だから、僅かに怯えを滲ませて。彼から目をそらすようにそう答える。だって本当に助けてなんていないもの。

 

 ───そんな大仰なことしていない。

 私にそんなこと、できるはずがないんだから。

 この《大洞窟》には、人を救けるお伽話なんてないから。そんなもの何処にも無いから。

 

 ───地獄(ンカイ)それ(救済)は、必要ないから。

 

「───いや、君がどう思おうと関係はない。そうとも、関係ないんだ。君は紛れもなく僕を助けた。たった今」

 

 そして、彼はもう一度私に問う。どうして、と。

 

 ───どうして?

 

死の淵(ゲル=ホー)に立つ僕を助けた。本来ならば、そんなことあり得ないはずなんだよ」

 

「あり得……ない?」

 

「そう、そうだとも。きれいなお嬢さん(マイフェア・レディ)

 

 ───あり得ない。

 彼を助けた、なんて私は思っていないけれど。

 ……それでも、やっぱり不思議には思う。思うよ。だって、あり得ないなんて言われたんだもの。

 

『君が人を助けるなんてあり得ない。君はそんなに優しい人間ではない』

 

 そう、言われているようで。

 だから、私は───

 

 

 

「そんなことは、ないと思います」

 

 

 

 そう、言い切る。

 

「───なに」

 

 確かに、私は人を助けられる様な立派な人間じゃない。

 1人じゃなにもできない子供かもしれない。

 

 ───けど。

 

 ───けれど。

 

「あり得ないことなんて、ない」

 

 確かに《大洞窟》の生活は苦しくて。心にも余裕がないのかもしれない。

 

 けれど、けれど。

 

 ───この《大洞窟》にだって、優しさはある。

 私に傘を渡してくれたアーテル姉さんの様な、暖かな人は確かにいる。

 

 だから、あり得ないなんてない。誰だって、どんな時だって、心に余裕がなくたって。

 

 ───小さな優しさは、誰だって持ってるのだから。

 

「───そう、か」

 

 そう言って、彼は黙り込む。

 ふと我に帰り、私はもしかしてすごく不躾な発言をしてしまったのではないかと慌ててしまった。

 

「す、すみません!私ったら失礼な事を───」

 

「謝らなくていい。謝る必要など、ない」

 

 そう言った彼は、少しだけ顔を緩めた。相変わらず、眉間のシワは寄ったままだけれど。

 

 

 

「───君は、そのままでいい」

 

 

 

 * * * *

 

 

 

「……《大洞窟》内の恐慌麻痺(サプレス)が効いていないだけじゃない」

 

 ─────《青い霧の男》が。

 青い彼が、誰にも聞こえないような声音でそっと囁く。

 それは、感嘆。驚嘆。

 まさか、自分という『存在』を感知した訳でもあるまい。それなのに、彼女は自分を助けた……

 あり得ない事だ。まさしく『想定外』の事だった。

 彼女……フィリアは今頃、この《大洞窟》の絶望に絡み取られて絶望してなくてはならないのに。

 なのに、彼女の瞳は真っ直ぐだった。微かに陰りを見せてはいたが、それでも。

 それでも彼女は希望を持っていた。

 なにより、彼女は───優しさを持っていた。

 暖かさを持っていた。

 

 ───まるで……『あの子』の様な暖かさを。

 

「─────あり得ない」

 

 そんなことはあり得ない筈だ、と。

 目の前の彼女に聞こえぬよう、青い彼は再びふとそう溢した。

 

 

 

 

 

 * * * *

 

 

 

 

 

 

 暗がりが満ちる、部屋の中。

 それは《大洞窟》、いや、『崩落地区』ユノコスにおいては珍しく過去の原型を完璧に留めた空間だった。

 壁面にはバロック式の彫刻模様が施され、その部屋の主の性格をそのまま表している。

 

 ───どこまでも、華美で。

 光ることを忘れた燃料切れの機関灯(エンジン・ランプ)が天井から吊り下げられてはいるが、その部屋はいささか光量が足らずに暗がりが深まっていくばかりであり、《青い霧》の光芒がこの締め切られた部屋に入ることもない。

 

 その暗い、暗い部屋の中に。

 うごめく2つの人影があった。

 1人は女。1人は男。

 ベッドに横たわる男に、女は寄り添うように身を委ねている。

 先程までの宴の余韻を感じるが如く。……恋人のように、2つの影が重なって。

 2人とも衣服などは一切身につけていない……女の肢体を隠すのは申し訳程度のベッドシーツのみだった。

 

「───人生、何が起こるかわからない」

 

 ───男の声は、隣にいる女に向けて発せられた訳ではない。それは、そう、世間では独り言と言えるだろう。その証拠に男の目は上の天井を見つめたままだ。

 

「昔、あれだけ焦がれた女が今は娼婦(ラピュータ)の真似事か……虚しいな」

 

「あら、言うじゃない」

 

 女……いや、アーテル・カストロフは朗らかに笑いながら男の苦言を受け流す。そう、 こういったものは彼女にとって慣れたことだった。

 もう、何度も繰り返したことだった。故に、彼女にはもう何も思うことなどない。

 

 アーテル。輝きを有した少女の、大切な姉のような存在。だが、そんな少女に憧れられる様な人間ではないと、彼女は自身で哀しいほどに理解していた。

 

「────その割には、貴方はこうしてきてくれるのね」

 

「来るさ。あぁ、来るとも。お前を抱けるならば、例え《青い霧》に砕かれても悔いはない」

 

 今現在、《青い霧》の影響であらゆる生物は『欲求』が麻痺していた。……当然、人としてあるべき3つの欲求ですら。

 

 ───それでも男はこうして女の部屋を訪れる。何度も。何度も。忘れ去られた欲求を噛みしめるかのように。

 

「───まぁ、ね。私も貰えるものが貰えるなら細かいことは言わないわ」

 

 まるで逆撫でするように女は語る。纏う雰囲気、口調、その全ては少女(フィリア)と話す時と余りにもかけ離れていた。……当然のことではあるが。

 

「ふん……貰えるもの……か。それはこの紅茶パック3袋のことを言ってるのか?」

 

 そう言い、男は女の前にまるで見せつけるように茶葉を見せつける……

 

 そう、そうだとも。

 女の貰える報酬は、それだけだ。

 たった、3袋の紅茶のパック。

 

 ───それが、それこそが今現在の彼女の『価値』。

 たったのこれだけで、彼女は男にその美しい肢体を委ねていた。

 あまりにも、それはあまりにも滑稽であり悲壮なことではあったがそれを彼女が気にしたことはない……これが、彼女の《存在意義》。

 

 それはこの《大洞窟》に生きるものにとってなくてはならないものだ。それを失くしたものから、無慈悲に死にゆくという呪われた運命を背負っている。

 

「……」

 

 無言。男の嘲笑に対し、女は無言でそれに応えた。おそらく男の中では100万の女への失望の言葉が渦巻いているのだろう……それに気づかない女ではない。

 これでおしまい、とばかりに女は男から紅茶のパックを受け取り衣服を着る。

 そうとも、これでおしまいだ。女の価値はこれで終わり。

 素早い動きで支度を済ませる。その最中は男と視線、合わせない。もちろんそれに文句を言うほど男も初心ではないのだが。

 

 ───しかし、男は口を開いた。それもこの場で最も言ってはいけない『名前』を。

 

「……あの子、お前の大切な『フィリア』は元気か……っ!!」

 

 ─────っ!!

 

 男が少女の名前を口にした瞬間、女の雰囲気が豹変する。今までのどこかゆるりとした雰囲気さえかなぐり捨て、今その瞳に宿るのは──

 

「フィリアに手を出したら、ユルサナイ」

 

 ─────狂気の─────

 

 躱す隙を与えず、アーテルは男の首を絞め付ける。一切の躊躇なく。

 男は苦悩の声を上げるが、それすら気にする風もなく首を絞める……まさしく《機械》的に。

 女にとって、フィリアは……それほどの存在だった。

 おそらく、女の全てであった。

 だから、女は……アーテルは許さない。

 フィリアに余計な事を吹き込もうとするものを。あの子を不幸にするものを。

 

 ─────少女に。

 

 ────決して知られてはいけないことがあるから。

 

 

「あなた……あなた……危険だわ。そう、とっても、危険……だって、あなたは全て《知っている》ものね?」

 

 ────少女だけには、知られてはいけない。

 

 

 

 

 * * * *

 

 

 

 

 あの後、私は家に帰った。勿論名前も知らない彼を連れて。だって放って置くわけにもいかなかったから、取り敢えずの雨宿りのために。

 

 ……不思議と危機感なんて全くなくて。

 なんて、アーテル姉さんが知ったら怒られてしまうかも。

 途上は、2人とも無言だった。私はなにを喋ればいいのかわからなかったし、彼は……なにを考えているのか、よくわからない。青い瞳はなにを見ているのかわからないし、彼の表情からも何かを読み取ることはできなかった。

 そうして私の家に着いて、ひとまず彼を居間に通す。なんとなく、気恥ずかしい気分になったのはなんでだろうか。

 

「───すみません。これ位しか出せませんが……」

 

 ことり、と。

 テーブルに紅茶を置く。

 少し、ひび割れているティーカップしかなくて申し訳ないけれど。

 

「これは、紅茶か」

 

 それを見て驚くように彼が目を見開く。まるで、世にも珍しいものでも見たかのように。

 

 ───あぁ、そうだ。この《大洞窟》では。

 ただの紅茶でさえ、真に珍しいものだった。湯気はない。お湯なんてものは《大洞窟》では作りづらいから。……作れない訳では、ないですけど。

 汲んできた水で淹れた紅茶だとしても。冷たい紅茶だとしても。それはやっぱり珍しくて。

 

「そうですよ。紅茶です」

 

「よく、ティーパックなど持っていたね」

 

「───ええ」

 

 そう、私は持っている。冷たいけれど、確かな温もりを感じることのできる紅茶を。持っている。あの人に、貰ったから。

 

「────ある人に、貰ったんです。……とても大切な人から」

 

 大切な人。アーテル姉さん。いつも私を子供扱いする女の人。お母さんと仲の良かった姉のような人。

 アーテル姉さんが家に来る時は、いつも私にお土産をくれる。そのどれもが《大洞窟》では珍しいもので。

 

 ───こうして、特別な時しか使わない。

 

「───そうか」

 

 そう言って、彼はティーカップを傾けて紅茶を一口飲む。その仕草は、とても優雅で。

 とても育ちのいい人なのかもしれない、と思った。相変わらずに眉根は寄せたままだけど。

 

 ───紅茶、好きなのかな。だって、なんとなくだけど表情が緩んだもの。

 そう思うとこの人もなんだか子供っぽく思えて。思わずクスリと───

 

「不味い」

 

 クスリ、と───

 

「……」

 

「……」

 

 お互い、無言になる。音がないせいで、さらにこの静寂が突き刺さるように痛い、気がして。

 

 ───確かに。

 美味しくないかもしれません。だって冷たいですし、きっと茶葉も開ききってない。でも、ね?こんなにね?はっきり言わなくてもね?いいと思うんです。

 

「……すみません。こんなものしか出せず」

 

 といっても、やっぱり謝るのが礼儀で。ペコリ、と一回頭を下げる。彼の物言い、失礼だとは思わない。だってあまり美味しくないのは事実だから……けれど、紳士としてはちょっとどうかと思う。

 

 昔、友人に読ませてもらった本には、紳士は淑女に出されたものは褒めるべきだと書いてあった気がする。

 いいえ、いいえ、それでもやっぱり。

 おもてなしできないこちらが悪いのは明白、ですね。

 

「いや、フィリアの気にする事ではない」

 

「ありがとうございます……ぇ?」

 

 え?

 今……彼、私の名前を言った?あれ、私達って自己紹介しましたっけ……?

 名乗った記憶もないし名乗られた記憶もない。それなのに、どうして彼は私の名を知っているの。

 

「私の名前、ご存知なのですか?」

 

「……あ」

 

 ……あ、って言った。

 今、この人『あ』って言いましたよ。

 え、どういうことですかそれ。

 問いかけるように目を向けても、彼、フイッと顔を横に背ける。こう、プイっと。

 なんですかそれ。なんなんですかそれ、ちゃんとこっち見てください。

 

「あの……?」

 

「……」

 

 また、プイッと顔を背ける。まるで、悪戯の見つかった子供のように。

 彼は一拍置いた後、不機嫌そうにジロリと私を睨みつけてきた。これ以上は聞くな、と言うように。

 いえ、この人は何時も不機嫌そうなんですけどね。

 

「えっと……では。改めまして、私はフィリアといいます。あなたの名前を聞いてもいいですか?」

 

 そう言うと、やっと満足そうに彼は私の方を見た。心なしかホッとしてるように見えて、それも私の微笑を誘う。

 本当に子共のような仕草で、思わず昔近所に住んでいた年下の子達を思い出す。

 彼らも悪戯をしては怒られ、許されればこんな風にほっとしていたっけ……

 

「……エド」

 

「え」

 

「……名前だ。僕の」

 

 ───ポツリ、と。呟くようにそう言った。

 エド……エド……

 忘れないよう、声に出さずに反芻する。

 なんとなく覚えやすい、聞きなれた名前のような気がする。

 

「エドさん?……は、泊まるところとかは……」

 

「───ない」

 

「あぁ、そうなんですか!では、是非この家にお泊りください。といっても、おもてなしは何も出来ませんが……」

 

 えぇ、本当に。申し訳ないくらいに、何も出来ないけれど。瓦礫まみれで、絨毯もボロボロ。機関灯も満足につかない。

 

 ───本当に、申し訳ない。

 

「いいのかい」

 

「え?」

 

「僕は男だ」

 

「?……はい」

 

 そんなこと、見ればわかりますけど……

 

 一体、エドさんは何を言ってるんでしょう。

 この場合むしろ「実は僕は女なんだ」と言われた方が驚く気がします。というより驚きます。

 そういえば遠い国で活躍しているという男性役をこなす女性の俳優さんが話題になっていたような……?

 いえ、今その話は関係ありませんね。

 

「そして、君は年端もいかない少女だ。淑女としては若過ぎるけれど、見ず知らずの男を不用心に泊まらせるのはいけない」

 

「え」

 

「君のような可憐な少女が。少しは危機感を知った方がいい」

 

「え」

 

 ───え、えっと……?

 彼は男性で……私は女で……家に泊まらせる……二人きりで……

 

 ────っ!!!

 

「……っ!あっ……いや……あの……っ!!」

 

 二人きり。つまり、そういうこと!?

 彼の言わんとすることをようやく理解し、カァーッと顔が熱くなっていく。

 

「……えっと……だって……私、背も小さいですし……子供っぽいですし」

 

 ……うぅ……だって……こういったことに、私は全然慣れてなくて!

 こっちが焦っているのに、肝心の彼はどこ吹く風といったように紅茶を啜っている。

 

「……胸も小さいですし」

 

 私、何言ってるの!?

 幾ら何でも、テンパり過ぎかな……

 少し、落ち着かなきゃ。

 さっきから、とんでもない事を口走っている気がする。

 

「───いや、君のは十分魅力的だ」

 

 ───落ち着かなきゃいけないのに。エドさんは、またそんなこといって!

 

 あぁ、熱い。顔が、身体が赤くなっていくのを感じる。目の前の彼は相変わらず不機嫌そうに見てくるし……

 

「……ちょっと、こっち見ないでください……」

 

「いや、それはできない」

 

 なんでですか。やめてください。淑女を不躾に眺めるなんて、紳士失格ですよ。

 

「……うぅ……」

 

 結局、その問答は彼が紅茶を飲み終えるまで続きました。

 

 その頃にはもう、2人とも……というか、私はすっかり落ち着いていて。

 外を見れば青い霧が大分濃くなってきて、外に出るには少し危険な位だった。

 

「───顔、まだ赤いが」

 

「言わなくていいですっ」

 

 折角!折角!人が落ち着こうとしていたのに!

 

「……僕は何処で眠ればいいんだろう」

 

 そんな私を完璧に無視して彼は呟く。

 

 ……結局、彼は泊まることになりました。

 元々此方もそのつもりでしたからいいんですけどね。

 

「ああ、エドさんの寝床なら───」

 

 と、その時。

 

 

 

 

 

『────フィリア』

 

 

 

 

「─────っ!!」

 

 突然聞こえる、異形の声。私を呼ぶ声。

 

 ……聞こえた。聞いてしまった。

 

 どうして、どうして!?

 

 あれは夢の中の声の筈。現実で聴こえてきたことなんて、今までで一度もなかったのに!

 また、あの声。また、あの歌。

 何処からか聞こえてくる、嘲笑の旋律。

 耳を塞いでも無駄なのに、私は夢と同じようにぐっと耳を塞ぐ。

 何処にいても関係がない。それは、不規則に私に囁きかけてくる。

 

『────フィリア』

 

 やめて、お願い……聞きたくない!

 そんな歌、聞きたくないよ。だって……この歌が聞こえるっていうことは。

 

 また、誰かが───

 

 視界が、どんどんと狭くなっていく。

 あぁ、私は気絶するんだ、と漠然と感じる。

 夢でも現実でも付いて回る、不快な声。

 

 ────視界、どんどん暗くなって────

 

 私はそうして仰向けに倒れ、来るであろう衝撃に覚悟を決める。

 

「……大丈夫か」

 

 ───衝撃が、こない。

 倒れた私が、地面に打ち付けられることはなかった。というのも。

 

 ……あぁ……そうか。

 

 ───彼が、エドさんが私を受け止めてくれたんだ。

 

 

「《唄う導管(イステ)》か。なるほど……聞きしに勝る旋律のようだ」

 

 そう、誰にでもなく呟いて─────

 

「───暖かい」

 

 気を失う直前、私は。久方振りに感じる他人の温もりを感じた。

 

 

 

 

 * * * *

 

 

 

 

 時計が回る。─────チク・タク

 運命が回る。─────チク・タク

 

『時間だよ。……物語を紡ぐ時間だよ』

 

 誰も居ないはずの部屋で、あり得ない筈の声が、一つ。

 

 ────その声、およそ女ではない。……男でもない。

 

 それは、人ですらない物から発せられた声。

 そう、無数の(パイプ)がまるで編み込まれているかの様に絡み合った、未だ稼働し続けているこの異形都市唯一の大機関(メガ・エンジン)。その、機関から吹き出す蒸気に呼応するように、または溶け込むように異形の声は発せられていた。

 まるで、誰かに囁きかけるが如く。

 まるで、誰かを嘲笑するかの如く。

 

 ───この声が聞こえる者はここにはいない。この都市には、どこにもいない。

 

 この声が聞こえるとするなら、あるいはかつて穴を掘り続けた狂人か。または、碩学詩人と称えられた無二の狂人か。

 

 ───否、かの狂人でさえ聞き届けられないだろう。

 

 ───赫い男と、白い女以外には。

 

 どちらにせよこの声が聞き届けられたなら、それはまごう事なく気が狂っている証だろう。聞こえるはずのない声が聞こえるなど、道外れた狂人に他ならないのだから。

 だから─────どうか、誰も聞かないで。

 この声を。

 この、狂った幻聴を。

 

 ───いや、あるいは。この声を聞き届ける者もいるのかもしれない。

 

 あらゆることが想定の外に位置するこの《大洞窟》では。……あり得ないことも、起こり得る。

 

 だから、そう。この声を聞き届ける者。

 聴くもの。

 見つめるもの。

 

 それは───

 

 ─────塔の遥か頂にいる─────

 

 

「────わかっているとも。あぁ……あぁ、わかっているとも」

 

 そして、ここにもその声を聞くものが、1人。

 誰もいない筈の部屋に存在する、それは奇矯な男であった。

 ……いや、その男は真に奇人であり、奇矯であり、そして奇怪ではあったが、それは自らが狂っている事を自覚していた。自らが取り返しのつかない所まで来ているという、漠然とした絶望も。

 《3月のウサギのように気の狂った》その男は、この都市にて物語を紡ぐもの。そして、この都市の中枢機関室(セントラルエンジンルーム)のただ1人の主人。

 

「物語、それは人によって紡がれるもの。形なきもの。無形の愛。────そして、この都市を《 愛の怒り 》に染め上げるもの」

 

 低い低音が部屋の中に響く。

 それは男の声だ。

 不気味な程に響く声だ。

 その身、すでに異形であるというのに、皮肉なまでにその声は人間味に溢れていた。

 人を惑わせる、それは真なる魔女の言霊───

 

「───物語は永遠だ。人の心の中にて顕現する永遠の幻想。

 ──私は、待とう。狂った王子が孤高の魔女(ラプンツェル)に物語を届けるその時を」

 

 語る、語る。

 

「そうとも。例えそれが《這い寄る混沌》であろうとも。例えそれが《発狂する時空》であろうとも。例えそれが《世界の果てにて猛る雷電》であろうとも。……物語を終わらせることなどできはしないのだから」

 

 聞くものなどいなくとも、男は語る。

 なぜならば、そう……男はまさしく3月のウサギのように気が狂っているのだから。

 

『時間だよ……よいこの寝る時間だよ』

 

 男に呼応するかのように声が聞こえた。

 先程と同じ、奇怪の声。

 菅から漏れ出す蒸気の音。

 男の言霊をうけて、あるいはその気の狂いを見てか───機関は歓喜の声をあげるのだ。

 

 蒸気を吹き出す無数の管。反響するそれはまるで美しい旋律のようで。

 事実、それは大機関の唄声であるのだろう。

 ここで、この部屋で大機関は、都市でただ一つの歓喜の歌を唄うのだ。だが……

 

 ───祝福ではない。

 

 ───祝福はここにはない。

 

 ならば、それは嘲弄の唄か。

 常人ならば、その唄を聞いただけで確実に発狂しただろう。

 

 ───それほどまでに美しく、そして不快な唄声だった。

 

 その唄は、まさに塔の上……黄金色の螺旋階段の果てに眠る少女に向けて捧げられた。

 

 たった、今。

 そうだ、今だ。今、その唄声を少女は聞いた。

 

「そうとも。そしてそれが全て。……この都市の夜は明けない」

 

 ……男は、語る。

 少女は唄を聞き届けた。だというのに、それを理解しているというのに、男は表情を変えずに頷くのみ。

 

 ───そうとも、この《大洞窟》に夜明けは来ない。その真実に────

 

「─────どうか誰も、気づきませんように……」

 

 ───少女の存在を感知した異形が、塔に向けて侵攻を開始した。

 

 

 

 

 * * * *

 

 

 

 

 

 

 ──導管(パイプ)は唄う。

 

 高らかに、まるで《大洞窟》中を祝福するが如く。

 まるで、人々の不幸を嘲笑するかの如く。

 その唄に呼応するかのように、周囲の《青い霧》が蠢き始めた。

 

 ───全てを抑制する軌跡の顕現である《青い霧》。その実、それは祝福に足るものであるのだろう。

 

 ───だが、《大洞窟(クシニーア)》にすまうものでそれを祝福と呼ぶものは、いない。……一部の、かの《狂気なる黒の山羊》を崇拝する者たち以外には。

 

 蠢く《青い霧》に触発され、血のごとき(あか)の岩肌が脈動を始める。まるで、それそのものが一つの生物であるかのように。

 

『時間だよ……よい子の眠る時間だよ』

 

 ───唄う、唄う、導管は唄う。

 

 それは狂気の囁き声であり、それは歓喜の歌であり、それは喜劇のホルンであった。

 そして、それこそが《青い霧》が祝福ではないすべての理由。

 

 ───それは、人を殺す《災害》をよぶ唄声であるからだ。

 

 そして、それは霧の中より応えて出でる。

 そして、それは霧の彼方よりやってくる。

 

 ───それは、裁定するもの。

 

 ───それは、間引くもの。

 

 価値を失ったものを完膚無きまでに破壊する。……それはティンダロスの猟犬の如く。

 無慈悲なまでに、冷徹に。

 残酷なまでに、冷酷に。

 

 人々の《死》の象徴。

 囁きかける《大洞窟(クン・ヤン)》の悪夢。

 

 

 

 

 

 

 

 ────《霧の災厄(マリ・クリッター)》。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ─────今、この《大洞窟》で。

 

 ─────また誰かが死んだ(諦めた)

 

 

 

 

 

 

 




おまけ
第2話の続き



─────それは、雷電の部屋だった。

機関灯(エンジン・ランプ)の類が、天井にも壁にも一切付いていないという実に奇妙な部屋だった。その代わりに、西亨でもカダスでも見慣れない《白い光》を灯す不思議な装置が取り付けてある。

─────その部屋の主は、その装置を《蛍光灯》と呼んだ。

誰もが知らないものを当然の如く扱う彼は、はたから見れば奇怪にも奇矯にも映ったことだろう。
けれど、彼を知る者で彼を悪く言うものは、それこそいない。
弱冠18歳、若くして碩学としての名を欲しいままにした彼は若人の畏敬の念を絶えず受け続けていた。
だが、その驚異的な頭脳を持ってしても、彼は『ただの人間』である。よって、疲弊することもあれば休息を取ることも必要だ。

─────そんな時、彼はこの部屋に閉じこもり読書に勤しむことを楽しみとしていた。



* * * *




扉を開く。やたらに重厚で、開くことなど到底出来ないようなその扉を。

─────その扉を開くのに力はいらない。なぜなら、それは触れずとも自動(オート)で開くためだ。それも、機関の力ではなく馴染みのない《電気》の力を借りて。

よって、その部屋を訪れたのが例え小柄な淑女であったとしても、その扉を開くのになんら躊躇いもなかった……それこそ、一切も。
その部屋を訪れた女……《白い彼女》は開いた扉を感心したように眺めた後、その後に続いている広大な部屋に、これまた躊躇なく足を踏み入れた。

─────そう、こここそが《雷電の部屋》だ。

蛍光灯と名付けられたランプが壁にはめ込まれた不思議な大部屋。……いや、その白い光だけでは些か光量が足りないのは明白だ。だが、この部屋は余りにも《明る過ぎた》。
眩いほどに光り輝く部屋だった。なぜならば─────

─────部屋の中央に位置する─────

─────大型の電気機関(エレクトロ・エンジン)─────

そこから、眩いほどの光が発せられていたからである。
……いや、光などというものじゃない。

……例えるならば、まさしく雷電。それは幾筋もの稲光であった。

それは部屋の主の行き着いた、強大なエネルギーを生み出す《回転磁界》の着想が形を成した大型機関である。そこから放たれる雷電は、容易にこの部屋を白く染め上げていた。

─────当然の如く、それは危険だ。いや、危険なんてものではない。その雷電に人間が触れてしまえば、たちまちの内に感電し、その身を焦がして瞬時に絶命してしまうだろう。

女はため息を一つ吐いた後、この部屋にいるであろう男を探すために首を巡らせる。

─────といっても、彼女には彼のいる場所が容易に把握できたのだが。

2人は長い付き合いだ。お互いの癖など知り尽くしている……よって、彼が腰を落ち着かせているであろう場所もたやすく想像できた。
目星をつけた彼女は再び息を吐いた後、男がいるであろう場所に向かって足を動かす……すなわち、部屋の中央に位置する大型機関の元へと。
無論その間にも雷電は奔る。奔る。奔る……
ひときわ激しい雷電がその輝きを散らした後、女はまるで幼子を叱りつけるように声をあげた。

「発雷中の読書はやめなさいって言ったわよね?」

雷電の音にかき消されることなく、女の言葉は男に確実に届いく……けれど、彼は持っている本を手放さず、女の方に視線すら向けない。
それも、いつもの事だ。
女に気づいているくせに反応を返さないのも。
大型機関の横で深く椅子に腰掛け読書をしていることも。
いつもの事だ。彼の、何時もの行動だ。

─────痺れを切らした女は大股で男に近付くと、問答無用といった風に本を勢いよく取り上げる。

そうまでして、ようやく男は女の方に視線を向けた。

「────本を返せ。まだ読みかけだ」

「────私の用事が先よ。それが終わったらさっさと返してあげるわ」

男はしばらく女を見つめていたが、やがて諦めたように息を吐く。

─────勿論、女の用事を聞くわけではない。

彼は素早く脇から新しい本を取り出すと、女の目の前で堂々とページをめくり始める。実に、太々しい態度であった……

「─────読むのをやめなさいっていってるでしょう?…」




「─────テスラ!!」



これは、彼がまだ《雷電》成らぬ身の頃の一幕である。




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白い女

携帯での投稿ですので、行間などめちゃくちゃです。
ハーメルン復帰のためのリハビリ作です。


《崩落地区ユノコス》は─────

 

延々とした瓦礫が積み重なった地区だ。地獄と呼ばれる《大洞窟(クシニーア)》の中でも最も建築物が崩落した街であり、以前の姿をそのまま残した建物など数えるほどしかないだろう。最早、その街の本当の名を口にするものはいない。そう、人の耳に静かに「囁くもの」でさえ。

……しかし、ユノコスはなるべくして崩壊をしたのではない。

《崩落》が崩したのは僅かな建物と命、流通口である横穴と人々の希望、そして《中央機関街》と螺旋階段塔(ツァト・ブグラ)のみであり、大規模の街単位の崩壊など何処にも起きていなかった。そう、ユノコスでさえ。

 

─────しかし、事実としてそれはある。

瓦礫の街とかしているユノコスが、地の底に。

なぜか。それは、なぜか。

跡形もなく崩れ去った、大機関都市の成れの果て。

それは……実に作為的な意思によるものであった。本能的であった。衝動的であった。

破壊。

自壊。

どちらとて同じことだろう。その《大いなる霧の意思》は容易く人々の生活をその巨躯と腕で打ち砕いたのだ。残酷なまでに、冷酷に。

 

─────ある日、突如としてその姿を現した大型の異形。

ユノコスを瓦礫とした霧の意思は、破壊の限りを尽くした後にその姿を抜け穴(サルース)へと消した……誰もが災害は去ったと思った。思わざるを得なかっただろう。

 

─────だが、現実は無情であった。

霧の災害は度々その姿を現し確実に人々を殺戮の夜へ誘っていったのだ。……その夜の悲劇は唄う導管(イステ)によって紡がれるという。

そしてやがて人はやってくる霧の災厄(マリ・クリッター)に怯え、バケツの水を必死に抱えて生きていくこととなった。

 

─────ユノコスに生きる人々に出来ることは、それだけだったのである。

そして、それがこの街(ユノコス)の全てでもあった。そう、この街は……

 

……諦めたものから、死にゆく都市。

 

 

 

 

 

* * * *

 

 

 

 

 

 

『───フィリア』

 

────お母さん。

優しい声……私の大好きだった声。今はもう、聴くことのできない声。

その声が私を呼ぶ。それは、絶対にあり得ないこと。

死者は蘇らない……それを事実として私は知っていた。だから、わかる。

これは明晰夢だと。悪夢の一種であると。……わかっているのに、私の瞳からは涙が流れ落ちて。それは決して止まってはくれず、いつまでも流れ落ちていく。私をたやすく押しつぶす、苦しい位の感情の波濤。

そしてその暗闇から聞こえる声は徐々に遠くなり、代わりに聞こえてくるのは……いつも通りの怨嗟の音。

 

『ひどい……どうして、あなたなんかが……』

 

ほら。……こうして、声、耳まで届く。

その声に脳が、心が支配されていく。脊髄反射のように耳を塞ごうとするけれど、その声は一切も途絶えてはくれなくて。

いつまでも耳に残る。いつまでも聞こえてくる。

───いや、いや、いや!

───やめて、やめて、やめて!

そう叫んでも、その声は私を止むことなく責め立てる。ごめんなさい、そう、謝罪をしても。

 

『ゆるさない。ゆるさない。ゆるさない』

 

次に私を襲うのは、暗闇から伸びる無数の腕。

人ならざる異形の腕。揺らめく赫い炎の腕。その伸ばされる右腕は一つとして同じものはなく、ただ、私だけに伸ばされる。

請うように。

責め立てるように。

けれど、私には耐えることしかできなくて。

助けを呼んだって……誰も。

 

─────誰も─────

 

 

 

 

 

 

─────その、途端。

 

私を責め立てる声が止む。私に伸ばされる腕が見えなくなる。代わりに見えるのは、私の前に広がった深い青色……ううん、違う。その青色は、誰かの後ろ姿だった。

この青に、私は見覚えがある。

沈むような深い青、瞬く間に広がって。

私の前に庇うように立ったこの青色は……そう。

 

「エドさん……?」

 

そう、そうだ。

エドさん。

知り合ったばかりの、不思議な人。青色をした男の人。

その彼が前に立っている。私を背に庇うようにして、伸ばされた腕から遠ざける。

 

─────守って、くれてるの?

 

─────私、を?

こんなこと、今までにはなかった。この夢に、この悪夢に誰かが出てくるなんて。

 

─────守って、くれるなんて。

 

「どう…して……?」

 

震える声で、そう、私は尋ねる。すると彼は、出会った時からずっと変わらない不機嫌そうな声で。

 

『呼ばれたから』

 

そう、言って。

 

「呼ばれた……?」

 

『君が呼んだんだよ……君が、救いの言葉を言ったから』

 

振り向きもせずに彼は言う。視線、異形の腕に向けたままで。

 

『助けて、それを言うことは難しい……それは、弱さを見せることであるから。けれど、君はそれを口にした。だから』

 

助けに来た、と彼はいう。いつも通りの、不機嫌そうな声で。

だというのに、その声に私は……どうしようもなく優しさを感じて。また、瞳から────

 

─────涙が─────

 

─────溢れて─────

 

『君はそう……こうして彼らの声を夢として聞いてしまう』

 

 

 

 

 

『発狂せずにはいられないんだ。この《大洞窟》にただ一人……《夢幻》の瞳を持つ君は』

 

その呟きを最後に、私はふと身体が浮くのを感じた。……そう、ふわりとした感じの。

夢の最後で見たのは……彼の、あの────

 

─────寂しそうな、背中─────

 

 

 

 

 

 

* * * *

 

 

 

 

「ん……」

 

深い眠りから、目を覚ます。

部屋に入る、朝日の日差し……それは、ない。この《大洞窟》にそれはない。雲もなく、太陽もなく、灰色の空もない。この蒸気に満たされた時代にあるはずの、当然のものがここにはない。ここにあるのは停止した機関群と、無限に漂う《青い霧》、それだけ。

この《大洞窟》には朝もない……その代わりに、永遠に明けない夜がある。だから、目を覚ましても外の景色は何一つ変わりはしない。そう、何も。

青色の霧、いつも通り。

つかない機関灯(エンジン・ランプ)、いつも通り。

それでも、私は半ば癖のように窓の外を見ようとして────

 

「おはよう、フィリア」

 

─────目が、合った。彼の、エドさんの、不機嫌そうな青い瞳と。出会った時と、そっくり同じに。

……ただ、問題が一つだけ。

 

「─────え?」

 

─────そこが、彼のいる場所が、私と同じベッドの上だったということ。

 

「─────え?」

 

呆然とした声を、もう一度。

混乱する頭をなんとか整理しようとしても、当然のような顔をしてこっちを見つめてくるエドさんの視線のせいでそれもままならない。

─────待って。待ってください。

なんで、私はエドさんと同じベッドで寝ているんですか。

頭、凄いこんがらがってる。スーッと考えていたこと、感じたこと、私の中から消えていく。

 

「なんで……」

 

「─────魘されているようだったから」

 

平然と彼は言う。それと同時に私は気付いた。

しかも……私の服装……?

 

「あれ……服が……」

 

「あぁ……君の服は濡れたままだったからね。そのままでは《大洞窟》といえどまずかった」

 

だから、着替えさせた。と。

彼は言う。いかにも「面倒なことさせやがって」といったような顔をして。

 

「……誰が、ですか?」

 

「僕が」

 

───────────────……

 

頭、今度こそ真っ白になる。

何も、考えられなくなって。手足の先がすっと冷えていくのに対し、どういうわけか顔に血液が溜まり始めてしまう。多分だけれど、今の私の顔は、真っ赤。

 

「え……あっ……ぅ……」

 

うまく言葉も出てこない。焦る私に対し、彼は本当にいつも通りの、素知らぬ顔。……とりあえずベッドから出て行って下さい。

 

「どうした」

 

どうしたもこうしたもありません。

本当に、信じられない!淑女であったなら、もうお嫁にいけないところでした。……あれ、一応私も……淑女?

 

「どうしたって……だって……あの……私の体……みて……?」

 

「ん。あぁ……それを心配していたのか」

 

今更気付いたと言わんばかりに彼は呟く。

 

「安心していい。君の肢体は理想的な健康体だった」

 

世界一嫌なものを見た、と叫び出すのではないかと言うほどに不機嫌そうな声でそう言う、彼。当然、そんなこと言われたって安心できるわけがありません。

でも、確かに濡れたままの服では《青い霧》の恩恵があっても体調を崩してしまったかもしれない。そう考えると怒るに怒れないのが現状で。

─────ただ一つ、私に致命的な失点があるとするならば。

 

 

「─────フィリア、新しい紅茶を持ってきたわ……よ……?」

 

 

入ってきたアーテル姉さんに見られる前に、エドさんをベッドから下ろすべきでした。

 

 

 

 

 

* * * *

 

 

 

 

「─────話はわかったわ」

 

目の前に立つアーテル姉さんにひとしきりの説明をすると、ため息を吐いて呆れたように首を振る。

悪癖の治らない仔犬に呆れるように。

悪戯をした子供を諌めるように。

 

「わかった。わかりましたとも。貴女が優しい子だってことくらい……でもね?フィリア……」

 

ブツブツと続く姉さんのお小言。こういう時の姉さんのお説教は、長い。とっても。

そう、最後の方なんて全く関係のない話にまでなるんです。紅茶カップの持ち方がどう、とか。服がどう、とか。そしてその話がこれまた長いのだ。

私のことをとても気にかけてくれるのはとても嬉しいのですけれど……もう子供という歳でもないんだから、少しだけ程々にして欲しいとも思う。

 

「嫁入り前に殿方と眠るだなんて─────聞いてる?フィリア」

 

「───!聞いてます!聞いてます!」

 

ジトリとした目を私に向ける姉さん。しまった、こういう時の姉さんはいつもよりもお説教が長い。機嫌を損ねるとなおさらに。

自分の話を聞いてくれなくて拗ねるアーテル姉さんは年不相応に可愛らしいけれど、その可愛さに比例してお説教はネチネチと長引いてしまう。

なんとか話を逸らそうと私は今姿の見えないエドさんの話をすることにした。

 

「あ、そういえばエドさんは───」

 

「あの人なら、出掛けるといって先程出て行ったわ」

 

─────なんて、逃げ足の速い人でしょう。

少しだけの、憤慨。私をおいて逃げるなんて……確かにエドさんはお客様だけれど。

けれど、その直ぐ後にふと思い立つ。

……出かける?

出かけると言っていたと、アーテル姉さんはいう。それはつまり……またこの家にエドさんは戻ってくるということ?

それは……まぁ、良かったです。あの人とは、まだ話すことが沢山あるから。

 

「フィリア、あの人会ったのはつい昨日なのでしょう?」

 

そんなことを考えていると、姉さんが少しだけじとりとした目でそう言ってきた。

……ううん、違います。この姉さんの目はそう、少しだけ拗ねてるときの顔。昔、お母さんが生きていた時にたまに見せていた顔。

昨日、という概念があっているかどうかはわからないけれど、感覚的にはあっているので私は頷く。けど、それがどうしたのだろうか。

 

「……妬けるわね」

 

「え?」

 

そうして、姉さんはまた表情を変える。そう、その顔は────

 

「ミスター・エドのことを考えているあなた─────」

 

私が、お母さんに頭を撫でてもらった時に姉さんが見せていた────

 

「─────少しだけ、うれしそう」

 

羨望の─────

 

 

 

 

 

 

* * * *

 

 

 

 

 

 

─────霧の都に、白が舞う。

 

あるいは、それは機関道(エンジン・ロード)に舞い上がる白い雪のように。

崩れた街の瓦礫の中に、一つの淡い人影があった。

─────女だ。

それは、白い女だった。

肌は灰色の雪よりも白く、ただただ白い。

髪も、白だ。白髪。

ただ、《青い霧》により淡く発光する瓦礫の中で、彼女の瞳だけが燃えるように赫かった。

─────赫く、赫く。

地面に届かんばかりの長い白髪は、見る者によっては淡く発光しているようにも見えるだろう。この、崩れた楽園に漂う霧のように。

やや小柄な体躯をしているが、それを感じさせないような雰囲気を彼女は持っていた。その、凍えるような美貌も。

だが、その白い彼女は見方によってその姿を変える。彼女のことを黒と言うものもいれば、彼女の事を白と言うものもいる。

瓦礫に腰掛けているというのに、彼女はまるで1枚の芸術のように様になっていた。

 

─────遠きカダスの地では《禁忌の魔女》とも呼ばれる女だった。

いわく、地下深くで人の命を作り変える狂気の医者であるとか。

いわく、かの結社の幹部でありながらそれと反する思想をもった奇矯な女であるとか。

いわく、雷電に無償の心を捧げた愛の女であるとか。

─────真実は誰も知らない。誰も彼女を語りはしない。誰も彼女について知りはしない。誰も彼女のことを理解できないからだ。

─────かの、雷電の男にでさえ。

あるいは彼女を語るとするならば、それは──

 

「─────初めまして、というべきかしら」

 

彼女自身、のみ─────

 

「《永劫石》、《半永久の囚人》……そして、この《大洞窟》の人々を《》するもの」

 

唄うように、彼女の唇からは滑らかに言葉が紡がれる。ただ、目の前に立つその男に向けて。

 

「お目覚めの気分は如何かしら、エド」

 

「────悪くはないね」

 

彼女の目の前に立つ男は、彼女の軽口にも凛として応えた。彼もまた、彼女がなんであるかを知るが故に。

そう、男だ。それは背の高い男だった。

失われた青色を持つ男だった。とあるカダス辺境の一帯では彼のことを《青空の如き男(マン・オブ・セレナリア)》と呼ぶ者もいる。西亨の極東にある帝国にて残滓を観測されたもの。

……その、彼は知っていた。

誰も知り得ぬことを知っていた。

この白い女が、かのチクタクマンと明確に敵対しているということを。

そして、彼と幾度となく相対しているという事実を。

それでいてなお健在であるだけで、彼女が既に超越的な存在であることが彼にはわかっていた。禍々しきロード・アヴァン・エジソンを相手に、生き残ったものなど数えるほどしかいないというのに。

なればこそ、彼は毅然として応える。友好的などではない……厳格なる敵意を以って。

 

────なぜならば、彼は《夢幻》を見定めなければならないからだ。故に、彼女に与することは、しない。

 

「─────この街で、何をするつもりだ」

 

あるいは、彼女に敵意を以て接すること自体が狂気に近い事象であるかもしれないが、それでも男は言葉を放つ。彼女の言葉に、脳が痺れるような感覚さえ覚えながら。

そうとも。……同じく『人ではない』エドでさえ……彼女の前では遠き感覚を思い起こさざるを得ない。それは────恐怖。

 

「そう睨まないで頂戴……復讐の王を刺激するようなことはしないつもりよ?」

 

─────その言葉を素直に受け取る程、エド自身も稚拙でないつもりだった。例え、それが暗示迷彩の類であったとしても、その魔女の言葉にエドは耳を貸さない。彼の心は小揺るぎもしない。

恐るべき女だ。真なる魔女だ。黒の王の祭祀、ではない……ドルイドの類でもない。しかし、人を弄ぶ魔女である。

彼女ともし一戦交えるとするならば、おそらくエドでさえ消滅は免れないだろう。それだけ危険な存在だ、彼女は。

 

「……もう一度言おう。《蘇生者》ウェスト……狂気の数式医(クラッキング・ドク)。貴女はここに何をしに来た」

 

─────ウェスト。それが異形たる彼女の名だ。本名をもじった異名ではあるが、およそその名前で間違いない筈だった。

 

「よもや─────今更に救済の情に拐かされたわけでもないだろう。混沌に連なるものよ」

 

エドの放つ言葉、それは厳格なる裁定の言葉だ。

目の前のものを闇であると断じ、それと同時に厳粛なる意志をも伴って放つ、粛清に似たもの。

……ただ、そのエドの言葉にも彼女は少し微笑むのみで。

意味をなさない。力が、足りない。彼女の『敵』に足るには、エド『ごとき』の存在では。

 

「もちろん、私は私の成すべきことを果たすだけ……それだけよ?」

 

「なるほど、貴女らしい物言いだ……(ことわり)なきクン・ヤンに願いを成すのか」

 

もちろん、エドは彼女が何を望んでいるか理解している。正確、とまでは言わないまでも。同時に、彼女にもまた、エドの成すべきことが見えていた。

────だからこそ、エドは憤怒する。その、彼女の有り様に。そして、自らの存在意義に。

 

「願いを成す……ね。それは、あなたも同じでしょう?エド……いえ、《紅き空に微睡むもの》。私達の道は概ね重なっている筈だけれど」

 

「……」

 

無言。無言。無言。

エドは言葉を返さない。……否、必要はない。静寂は既に明確な言葉となって彼女に届いているが故に。

 

「─────彼女が発狂していないのは、貴女の影響か」

 

彼女とは誰か─────などと間抜けな返答をウェストはしなかった。

彼女……それがさす人物は『フィリア』以外にあり得ない。

 

「あの子が黄金瞳を持っているのはわかっている……どういう事か瞳の色に変化はないが。だがそんな事程度では力が弱まるはずはない」

 

「……」

 

「現に、彼女は怨嗟の声を『夢』として聞いていた……力が働いている何よりの証拠だろう」

 

故に。

故に、とエドは言う。

彼女が発狂していないのはおかしい、と。

 

「なるほど。なるほど……流石に貴方は感知できるのね」

 

「濁すのは、やめてほしいな」

 

「そんなつもりはないけれど……あぁ、答えだったわね。私は何もしていないわ」

 

世間話の様に彼女は言い放つ。自分は潔白であると。

それを鵜呑みにはしないが……虚言ではない事はエドにもわかった。

ならば大きな疑問は依然残ったままになる……彼女の精神が壊れぬ様、何らかの力を誰かが行使しているという事実が。

 

「……さて、そろそろ始まるかしら……ね」

 

「……?」

 

唐突な彼女の言葉。当然エドも聞き逃しはしない……いい予感は、しなかったが。

 

「白い蝶が『あの子』と接触するわ」

 

「……なんだと」

 

クスリ、と彼女は再び笑う。まるで、この瞬間のために長い時を待っていたかのように。

喜びの、笑み。嗤い、ではなく。

 

嘲笑、でも、なく─────

 

 

 

 

 

 

 

 

* * * *

 

 

 

 

 

 

ひらり、ひらりと視界の端を踊るもの。それに気づいたのは数秒前で。意識し始めると、それは明確に私の前に姿を現した。

白い、白い純白の蝶。《大洞窟》には似つかわしくないもの。いるはずのないもの。

だって、《大洞窟》にいるのは人と僅かな数の蛇、そして《霧の災厄(マリ・クリッター)》だけだから。

……だけど、私の眼前に舞うこの蝶は。そのどれでもない……はじめて見る、眩い程の純白で。

私はおもわず、手を伸ばす。それはまるで、緋星に右手を伸ばす幼子のようで。

その蝶は、けれど私の腕をスルリとすり抜けて飛び去っていく。

飛び去っていくけれど……その蝶から、私は視線、逸らせなくて。

目で追ってしまう……無意識の内に。

 

 

ふらり、ふらりとその蝶の後をついて行く。その先に何があるかは、わからなかったけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

↑1年半前に描いていたタイトルイラストです。こんな感じのイメージでした

 




バルトゥーム……


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《鋭角時間世界 ティンダロス》

短い。


 

 

 

ふらり、ふらりと。

白い蝶を追いかけて、私は瓦礫の道を歩いていた。

アーテル姉さんのお小言が終わり、軒先きで雨を眺めていた時に見つけた白い蝶。

それを追いかけ、崩れた家の柱を橋のように渡り、転々とある瓦礫を河中の岩の様に飛び移る。

 

───何処に行くのだろう。

 

───一体私は何処に向かっているのだろう。

漠然とした疑問はあるけれど、私はその蝶に意識を絡め取られたかのように魅入られ、正常な思考ができなくなっていた。

 

呼んでいる。あの蝶は私を呼んでいるのだ。

 

───なら、行かなきゃ。

そんな理屈にもなっていない盲信を抱き、私は歩を止めずに進んで行く。

降りしきる雨の中、私は傘も差さずに白い蝶を追いかけていた。

 

「───え?」

 

そして白い蝶に追いつき、その蝶を捕まえた瞬間───

 

ぐにゃり、と。

 

視界が歪む。瓦礫が、闇が、世界が歪む。

 

「え───あ……───?」

 

三半規管が麻痺し、平衡感覚が消失する。立っていることもままならず、明滅する視界の中膝をついて俯いた。

たとえるなら、酷い立ち眩み。脳が縛り付けられる様な強烈な不快感。それは足が浮く様な浮遊感と胃を掻き毟る様な吐き気を伴っていて……一言で言って最悪だった。

 

「───っ!!」

 

それを蹲って必死に耐える……耐える。

耐える。耐える耐える耐える耐える耐える耐える耐える耐える耐える耐える。

 

───自慢ではないけれど、我慢は得意。

 

時間にして僅か数秒程だったけれど、私にとっては数十分にも感じる長い時間だった。

 

視界がだんだんと正常に戻っていき、不快感も消えて行く。

それに伴って、重くなっていた瞼が徐々に開くようになってきた。

 

顔を上げ、白い蝶がどうなったかを確認しようとして───

 

「──────!!」

 

───息を呑み、再び頭が真っ白になった。

 

「ここ……どこですか……?」

 

そう、そうなのだ。

私はユノコスの瓦礫と化した街……その中で蝶を追いかけていた筈なのだ。

周りは当然、瓦礫ばかりの……はず。少なくとも私が蹲った場所は確かに瓦礫の上だった。

けれど───

 

「建物が……街が……崩れていない?」

 

そう、私の視界に映っている景色は瓦礫の街などではない。

 

形は(いびつ)だけれど……建っている建物はどこも崩れていなくて。

舗装された道路もひび割れている訳でもなく……これも歪ではあるが崩れていない。

 

そこは、確かに『街』だった。

 

けれど、まともな『街』ではない事は歪な街並みを見ればすぐにわかる。まるで、抽象画の中にでも入り込んだかのような不思議な世界だった。

形容するなら……《尖っている》。並び立つ建物は稲光のようにギザギザに延びているし、道路も騙し絵のように角ばって歪んでいる。

 

「どこ……なの……」

 

もう一度、自分を落ち着けるように口の中で呟く。

けれど、バクバクと痛いくらいに騒ぐ心臓は全然落ち着いてくれない……落ち着いてくれる訳がない。

 

だって、いきなり、街が、世界が変わってしまうなんて。

 

───怖い。

ここはどうしてこんなに怖いの(・・・・・・・・・・・・・・)

 

わからない……ここが何処だかわからない、だから怖い……?

 

───違う。

本当は、ここが何処だかわかっている(・・・・・・)

 

確かに造形は邪神めいて歪んでいるけれど……その街並みを私が間違えるはずがない。

 

あそこの角は、そう、パン屋さんだった。

その隣は、花屋さん。そしてその次は、紅茶屋さん。

パン屋さんと花屋さんの店主2人はお互いに愛し合っていて……いつ結ばれるのかと女子学生たちの間では有名だった。

 

ああ───やっぱり、そうだ。

だって、私の立っている大通りの果てに大きな影が見えるもの。

あれは……

 

「─────《ツァト・ブグラ》」

 

バロック式大高楼。

まるでこの大洞窟を支えている柱のような大建築。三角卿の設計した碩学機関。

今のユノコスにはもう、無くなってしまった筈のそれ。《抜け穴(サルース)》へと落ちていった都市の象徴。

 

それが、ある。つまりこの街はやはり────

 

 

 

「《中央機関街(エンジン・シティ)》……?」

 

 

 

 

* * * *

 

 

 

「─────いない」

 

エドがフィリアの家に戻って来ても、そこには誰もいなかった。

まともに機能していない屋根の所為か、寝床、そしてテーブルのあるかつてリビングと呼ばれていた部屋以外は全て雨で濡れている。

 

ざわりとした悪寒が奔り、ひび割れた窓から意味もなく外を見た。

その悪寒は……焦燥の類か。

 

先程ウェストと相対した時から、彼の感情制御はどうにも不調だった。

だが彼女の言葉が真実ならば、止まっている場合ではない。

このままならば彼女は戻れなくなる(・・・・・・)

 

そうなれば─────

 

「─────そうなればなんだという」

 

たかだか幼気な少女が一人、大洞窟の霧に散るだけだ─────

 

自分が焦る様な事など何もないではないか、と、エドは我にかえった。それは、極めて自然な思考だろう。

いつも通りの光景だ。いつも通りの事象じゃないか。

 

なぜ焦る?たかだか他人、少女が一人消えるだけだ。

 

まとまり始めたその思考。大洞窟に生きるものならば至極当然の考えで。

そうだ……諦観しろ。

諦めなければならないんだ。希望など抱いてはいけないんだ。

 

しかし、その時雑音(ノイズ)が走った。

それは亀裂だ。思考を傷つける小さな亀裂。

 

なぜだ、どうして─────

 

 

 

─────おはよう、エドさん─────

 

 

 

─────なぜ。

 

 

出会ったばかりの少女の笑顔を思い出す───

 

 

 

 

 

 

* * * *

 

 

 

 

─────トコトコ、と。

踏みなれない道を歩いていく。

昔は歩いていた道、今はもう歩けないはずの道。とりあえず、あの大高楼を目指して。

 

不思議な世界だ、恐ろしい街だ。今もまだ身体が恐怖に震えてる。手だって小刻みに震えているし、動かしている足も竦んで今にも立ち止まってしまいそう。

 

人が1人もいないゴーストタウン。前なら絶対にあり得ない。だって、中央機関街はいつも喧騒湧き出す活気でいっぱい。

それが、さらに恐怖を思い起こさせる。

 

「誰かいませんか!」

 

そう叫んでも、かえってくる返事はない。

奇妙な街並みとユノコスとの共通点といえば、相も変わらずに漂っている《青い霧》のみ。

 

─────その時、私は失念していた。

 

《青い霧》が漂っているという事は『あれ』が来る可能性もあるという事を。

 

ユノコスを破壊した『あれ』が、《抜け穴》へ消えていったという話を。

 

『あれ』は《抜け穴》の中に消えていった……

そしてこの街は……かつて《抜け穴》へ落ちていった街。

 

それの意味する事はつまり─────

 

 

『Aaaaaaaaaaaaaaaaaaa─────』

 

「─────!!」

 

大きな破壊音、鼓膜を切り裂く叫び声は後方から。

振り返る、振り返る。

 

そして私が見たものは、その巨大な異形の怪物が先程のパン屋と花屋を破壊している所だった。

崩れる店先と、理不尽な暴力の園。

 

─────嘘だ……そんな。どうして……

 

「《霧の災厄(マリ・クリッター)》……!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

─────死の鬼ごっこが始まった。

 

 

 



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《霧の災厄》

見返してみると私の文章は酷く見難いですね……文章力が上がったらいずれ一気に改稿します。
ただ一章完結までは駆け足で。


 

 

─────走る。

 

─────走る。

 

─────走る。

 

歪んだストリートを、脇目も振らずに走り抜ける。自らの意思ではなく、背後の恐怖に追い立てられるように。魑魅魍魎さえ追い立てる、根源的な恐怖を呼び起こすあの叫びを前に、脆弱な私は逃げることしか赦されない。

ここが瓦礫の街じゃなくて良かったと、今だけは心から思う……だって、瓦礫の上では走る事さえ出来ないのだから。

 

───足元の石に足を取られて転倒なんて、そんなの全然笑えない。

石に躓く人生……冗談じゃない。

 

『─────!!!!!!』

 

「─────っ」

 

後ろから聞こえて来る、あの悪夢の声によく似た叫び。聞いているだけで、私の心臓が止まったかのように萎縮して、恐怖に足を取られそうになる。

 

─────振り向けない。怖くて、怖くて。

霧の災厄(マリ・クリッター)》、その姿を確認する勇気が私にはない。

《大洞窟》の人々に安寧という名の死を与える、この街に舞い降りた天使の1つ。

 

「どうして……っ!追いかけて来るのっ!」

 

返答はない……当然だ。聞こえてくるのは道路と建物を壊す破壊音のみ。ひどく暴力的な音だ……私の大嫌いな音だった。

《崩落》を思い出す恐ろしい音だった。

 

「……っ…ぅ…」

 

知らずの内に涙が溢れ、視界が滲む。恐怖と困惑からくるそれは、どんなに願っても止まってくれない。

怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い……

この街はなんなの。どうして私は追いかけられているの。

思考がごちゃごちゃになって、出てくるのは結局現状に対する嘆きだけ。

 

「どうすればいい?……考えて、考えるんです……絶対に何かあるはず」

 

そう、あるはずだ……この街に入る事が出来たのだから、出る事だって出来るはず。

 

「─────《出口》……《出口》を探さなきゃ」

 

私はどうやってここに来た?

私は何を追いかけてここに来た?

 

─────白い蝶。

 

あれが……あれが何か関係がある筈。

そう思わなければ……走れない。希望がなければ頑張れない。

だから、私にできる事はただひたすらに「希望」を信じる事だけ。

 

飛び込むように路地に入る。狭い路地だ、あの異形の巨大ならば入ってこられないはず。

当たり前の様に考えるが、そもそもを私は失念していた。

 

『──────────!!!!』

 

すぐ後ろで響く破壊音。振り向くと、異形がその腕で建物を破壊し、路地に無理やり入って来ようとしていた。

 

───あぁ、そうか。追いかけてくるのは、真なる異形だった。

路地に入り込んだくらいで撒けるはずがなかったのだ。少し考えればわかること。

恐怖で、正常な思考ができていなかった?

『ここにいれば大丈夫』という安心感を求めすぎて、路地を安全だと錯覚していたのか。

 

───この鬼ごっこに安全地帯などないのに。

 

「───離れなきゃ!」

 

真横の壁に亀裂が走る。このままでは建物の倒壊に巻き込まれてしまう!

 

「───っ!!」

 

小さな瓦礫が頭に当たる。

痛い。痛い。鈍い痛みが駆け抜ける。

流れてきた血が右眼に入る。

まずい、視界が狭まってしまった。立ち止まりたいけど、立ち止まったら終わってしまう。

足は止められない、走りながらでは拭えない。

流れる血をそのままに路地を駆け抜ける。路地に入ったのは致命的としか言い様がない。

 

走る。走る。路地の出口を目指して、一目散に駆け抜ける。

目の前にある壁を見て一瞬行き止まりかとヒヤリとしたが、死角である右に通路があった。

 

その角を曲がる。ここに出口が……と望みをかけたのが一瞬。

 

「───うそ」

 

前方に立ち塞る、壁。

正真正銘の袋小路。到底手が届かない位置にある窓があるのみで、行き着いた先は逃げ場などない死地だった。

 

「───いやだ」

 

知らずのうちに声が漏れる。赤子の様に涙が溢れる。

こんなの、こんなのってないよ。なんで行き止まりなの?

理不尽な思考が頭を巡り、弾ける。真っ白になって、考えが覚束なくなる。

 

「───あ……れ……?」

 

ストリ、とその場に膝をつく。

あれ?おかしい、足に力が入らない。逃げなきゃいけないのに、足は震えるばかりで動こうとしてくれない。

 

───そもそも、逃げることなどできないのだけれど。

 

『───』

 

気配を感じ、振り返る。すると……

 

「─────」

 

───異形の瞳と、目があった。

右目が血の様な赫。そして……

 

左目が猫の様な黄金の瞳(・・・・)だった。

 

血の様な涙を流し続ける、大型の異形が目の前に迫っている。

人型の様なシルエット、いいえ違う。

『必死に人型であろうとしている』様な歪な造形。目が付いている顔に当たるであろう部分は今にも泣き叫ぶかの如き形相をしている。

 

───ああ、この姿はあれに似ている。

 

かつて学院で読まされた医学読本。その中にあった『畸形』の写真に酷似しているのだ。

あの時は読んでいる時も……失礼だけど、怖いと思ってしまった。挿絵を直視できない位には。

 

けれど、今、眼前にはその畸形……いや、それを超える程に醜悪な存在が迫っている。

 

『AAAAAAAAAAAA───』

 

その声を聞くたびに、私の心は擦り切れていく。気が触れる直前、とは今の状態の事なのだろうか。

絶望しているはずなのに、無意識のうちに口角が上がっていく。乾いた笑いが口から漏れる。

 

異形がその口を開く。───食べる、のだろうか、私を。

死ぬ。死が明確に形になっていく。その開いていく顎は地獄への門めいて、喉奥の深淵が手招きを始める。

飲み込まれる。死ぬ。

 

─────────嫌だ。

 

嫌だ、お願い、やめて、まだ、死にたくない。

死にたくない。私は、まだ、何も成せていない。

 

───けれど。

 

「……?」

 

いつまでたっても、暗闇が訪れない。

恐る恐る目を開く。すると……

 

『──────────』

 

異形が、私の身体を、顔を、覗き込んでいた。

じっくりと、繊細で微細な生物を注視するかのように。

まるで───『そうであって欲しくない』と懇願するかのように。

 

「え───?」

 

ギロリ、と黄金色をした左目が私を睨め付ける。今度こそ、私は体を固まらせた。

ゆっくりと異形が私に向かって右手を伸ばして来る(・・・・・・・・・)

 

殺される──────

 

覚悟を決めたその時。

 

「上だっ!手を伸ばせ嬢ちゃん!」

 

言葉の通り、上からの大声。その声につられて私は上を見上げる。

するとそこには、此方に手を伸ばしている……男の人がいた。

その人は、高い位置についていた窓から身を乗り出して私に手を伸ばしてくれている。

 

誰───?

 

いや、誰でもいい。その手は、その腕は、窮地を救ってくれる釈迦の手から溢れた糸に他ならない。

無我夢中で手を伸ばし、その腕に掴まる。すると、物凄い力で上に引き上げられたかと思うと窓に引っ張り込まれた。

引っ張り込まれる直前、ちらりと下を覗く。

すると異形は……まるで、見送るかの様に私のことを見つめていた。

 

───ただ、ずっと、何もせずに。

 

 

 

* * * *

 

 

 

「茶でも飲むかい?」

 

そう言った男の人は、柔らかな椅子に私を座らせるとニコリともせずにお茶を淹れる。

見えなくなったとはいえ、すぐ外にはあの異形がいる。こんな所でのんびりとしていていいのでしょうか───

 

「安心しろ。やっこさんはここにゃ入ってこれねえよ」

 

逆に言えば、ここ以外に安全な所なんてないがな───

 

そう続けた男の人は私の対面に座ると、自分の淹れたお茶を飲んで落ち着いていた。私の目の前に置かれたお茶からは湯気が出ており、それが『暖かい飲み物』だとすぐにわかった。

 

「ここは中央機関街だぜ?全部じゃないにしても機関の1つや2つ稼働してらぁな」

 

吐き捨てる様にそう言うけれど、ユノコスに住んでいた自分からしてみればとんでも無い事だ。

 

「あの、助けて頂いて有難うございます」

 

「礼はいらん……貰う資格も俺にはない」

 

それはどういう───

聞き返そうとしたが、私の質問はそれを手で制した男の人に遮られる。

 

「そんなことより現状を知れよ。此処は安全だが、時間に余裕がある訳じゃない」

 

「現状?」

 

「そうだとも、綺麗なお嬢さん(マイ・フェア・レディ)。あんたは何故ティンダロスに来たんだ」

 

ティンダロス、というのはこの街の事だろうか。

それならば、私は白い蝶を追いかけていたら偶然(・・)此処に来てしまったとしか言いようがない。

その旨を彼に話すと───

 

「いや、それはない。それだけはない。偶然なんてあり得ない」

 

そう、断言する。

 

「えっと、何故ですか?」

 

「そうならない様に。嬢ちゃんがこちらに来れないように手を引いていた奴がいる……俺の知り合いだ」

 

そう答えた彼の目は、あらゆる感情がない混じりになっているように私には見えた。

 

「お前さん、あれを見ただろ。《霧の災厄》」

 

───《霧の災厄(マリ・クリッター)》。

 

見たなんてものではない。私はあれに追いかけられていたのだ。

 

「奴の目を見たか。奴の左目を」

 

───黄金の瞳の事を言っているのだろう、彼は。聞き返すまでもなくそうだとわかる。

だって、私もずっと気になっていたから。頭の片隅に引っかかって離れないから。

 

「お前さんにはわからんだろうな。『奴が既に黄金瞳を得ている意味』なんて」

 

「それは、どういう───」

 

「意味を知る必要は『まだ』無い。お前さんがやる事は1つ。たった1つだ」

 

彼は私の瞳を見据え、語る。私のやるべき事。私がこの世界で果たすべき事を。

 

「自分を知る事だよ。フィリア」

 

そう言って彼は笑う。けれど、違う。ええ、違う。確信できる、私には。

彼は笑っているのではなく。

 

───泣いている。

 

「外に出ろ。外に出て、あの異形と向き合ってこい」

 

「向き合うって───どうすればいいの?だって私は───」

 

あれがなんなのかも、わからないのに。どこから来たのかも、わからないのに。

 

「あれがなんなのかわからない? ───おいおい冗談言うな」

 

「え───」

 

「お前さんは、お前さんだけは知ってるだろうが。お前さんだけは知らないはず無いだろうが」

 

彼は断言する。彼は、私の瞳の奥をじっと見据えて私を責め立てる。

 

───知らない。私は、本当に知らないの。あの異形を、私は知らない。『知りたくない』の。

 

「本当は……わかってるんだろう?」

 

やめて。やめて。やめて。やめて。

聞きたくない……聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない───

 

 

 

 

 

 

 

「行ってこい───行って終わらせてこい」

 

 

 

 

 

 

* * * *

 

 

 

 

 

フィリアが出て行ったのを見届け、男は胸ポケットから煙草を取り出すと一本口にくわえて火を灯す。

蒸すように煙を吐き、揺蕩う白い煙を眺めながら瞳を閉じ、今出て行った少女の事を思い出し唸るように囁いた。

 

「俺には───わかんねえよ。あんた母親じゃねえのかよ」

 

まるで、何処かにいる誰かに愚痴を垂れるかの様に。

 

「いい子じゃねえか。よくできた子じゃねえかよ───あの子を差し出してまで、そんなに愛した男に会いてえのかよ」

 

落とした煙草を靴裏で捻り消し、男は悼むかの様に瞑目した。

 

 

 

 

 

 

「俺には───わかんねえよ、マイさん」

 

 

 

 

 

 

 

* * * *

 

 

 

 

お茶を残したまま、私は外へと出る。気温も何も感じない、風も何もない歪んだ景色。

私は歪んだ街路に1人立って、ただただ彼方に見えるツァト・ブグラを見つめていた。

 

───変わらない。

 

街並みは歪んで変わっても、ツァト・ブグラだけは変わらない。私が、小さい頃に見上げていた頃のまま。

 

『ほら?フィリアちゃん、これで見えるでしょう?』

 

家の窓は小さい私には少し高かった。だから、いつも私はお母さんに抱き上げもらっていたのを思い出す。

優しいお母さん。大好きだったお母さん。

《崩落》で私を庇い───いなくなってしまったお母さん。

悲しくて、悲しくて。もう、大切な人の死を見たくなくて。だから、私は───

 

───必死に、知らないフリをして。

 

 

 

『AAAAAAAAAAAAA───』

 

 

異形が蠢く。街路の先に異形が顕現する。

……わかってる。わかってるよ。わかってるんだよ。

さっきの男の人は言っていた。私は知っているはずだと。あれがなんなのかわかっていると。

必死に見ない様にしていた。必死に聞こえない様にしていた。……一目で、わかったから。

あの異形が涙を流しながら街を壊している様をみて……私は知ってしまったから。

 

《霧の災厄》がなんなのかはわからない。けど、『貴女』のことなら私は知っている。

 

 

『───AA…あ……ィ…ア…………!』

 

どうしてこんな所にいるの。どうして、そんな姿なの。

わからない。わからないよ。でも、苦しんでる貴女を見て……もう見て見ぬ振りなんてできないの。

 

「どうして───?」

 

どうして、貴女が───

 

 

 

 

『──────フィリア……』

 

 

 

 

「──────アーテル姉さん」

 

 

 

 

 




影の薄いヒーローエドさんの活躍は次話です。多分


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名前

 

 

 

 

───その男は、青い姿をした男だった。

 

狂気に侵された男だった。奇妙な男だった。二足ではない、四足の異形の男だった。

《青い男》───エドは瓦礫に深く片膝をつき、手を地面につけて辺りを探る様な仕草を見せる。

 

「ここだ。ここで……フィリアの気配は途絶えている」

 

知覚深度を最大にまで上げ、超常たる知覚能力を得たエドはフィリアの動向を探り理解する。瓦礫と靴の擦れる香り。漂っている、どこか甘い少女の香り。それがこの場で不自然に途切れている。つまりは此処で少女は『あちらの世界』へ誘われたのだと確信した。

 

───しかし、此処までだ。

フィリアが引き摺り込まれた世界……《鋭角時間世界》にエドは自分の力で入る事はできない。

あの世界に彼の入り込む余地はない……入る方法はただ一つ、あの少女に『呼ばれること』だけ。

 

「───呼んでくれ」

 

───呼んでくれ。僕の名前を。

呼んでくれなければ、助けに行けない。

長らく感じた事のない感情───それは『焦り』と呼ばれるものだった。

青き空の様に、あるいは機関めいて己というものを持っていなかったエドにして久しい感情。

急速に、異常な速度でエドは『存在』を与えられていっている。『自分』というものを持ち始めている。

それは言うまでもなく───フィリアの影響なのだろう。

少女の笑顔を思い出す度に、エドは自分のどこか内側が掻き毟られるかのような錯覚さえ覚えている。

───諦めない少女。

───笑顔の似合う少女。

───いつも、どこか寂しそうな少女。

───どうして、出会ったばかりだというのに自分はフィリアの事となるとこうも不安定になるのか。……いや、わかっている。

理由など、当にはっきりしている。

 

───重なるからだ……少女が、『彼女』に。

 

『風邪、引いてしまいますよ?』

 

あの深淵(サルース)で、そう言って自分に傘を差し出したフィリア(少女)がどうしようもなく彼女に似ていたから。

あの帝国。あの暗がりの路地で。

 

『───うちに、おいで』

 

───手を差しのべてくれた、彼女に。

 

「呼んでくれ、僕の名前を」

 

きっと助ける。きっと君の力になる。───今度こそ僕は救ってみせる。

音のない瓦礫の山の中、静かにエドは呼ばれる時を待ち続ける。

 

 

 

 

* * * *

 

 

 

───目の前に立つ少女を見て、私は自分が今まで何をしていたのかを理解する。

『そうであって欲しくない』、そう願って目を向けた先は……やっぱり……

 

この時が、いつか来るとは思っていた。

私が1番恐れていたこと。私が1番忌避していたこと。

 

『───フィリア』

 

───来てしまったのね、フィリア。この街に。

 

こんな、こんな伽藍堂の街に。死の蔓延る時間世界に。

貴女だけには来て欲しくなかった。貴女だけには助かって欲しかった。知らないままでいて欲しかった。

 

───こんな私を、見て欲しくなかった。

 

ごめん、ごめんなさいね、フィリア。貴女には綺麗な、尊敬できるお姉さんでいたかったの。素敵なお姉さんでいたかったの。

例え……私がいなくとも、貴女が幸せならばそれが私の幸せなの。

 

「───アーテル姉さん」

 

───ああ、やっぱり。

 

貴女は気付いてしまったのね。こんな醜い姿の怪物が、私だという事を。

良い子。賢い子。本当なら、偉いねと褒めてあげたいくらい。

 

───けれど、私にはもう時間がない。

 

私は既に白痴に近づき過ぎている。脳髄に至るまでが既に侵されている。

狂っているのよ、もう。誰よりも大切な貴女を……喰らう直前まで貴女と気付かぬ位に。

この街を壊し過ぎた。そしてこの街を徘徊する者達を殺し過ぎた。

殺して殺して。殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して───

殺し過ぎて、もう自分がどこにいるのかわからない。

導管の唄(イステ)が脳に響き、無数の腕が私の身体に侵食する。捕らえて離さない狂気の詩。

 

───もう、私は私で無くなってしまう。

 

───ああ、そう考えれば……最後に貴女の顔を見れてよかったのかもしれない。

 

私の役目はもう終わる。『アーテル』という存在は溶けて消え、残るのは殺戮の災厄だけ。

ならば、最後に私ができる事は───

 

 

 

『───フィリア、聞いて』

 

 

 

あなたを、導いてあげることだけ───

 

 

 

 

 

* * * *

 

 

 

 

 

『───フィリア、聞いて』

 

目の前の異形から───アーテル姉さんの声が聞こえた。大好きな声。優しい声。

───わかる。

───それだけでわかってしまう。

この異形が、アーテル姉さんなんだという事。

どうして、そんな姿なの?アーテル姉さんに何があったの?……そう聞きたいのに、喉が萎縮して声を発することが出来ない。

先程追いかけられていた時のような恐怖は既にない。けれど……もっと別の恐怖が鎌首を擡げている。

 

「アーテル姉さん!……なんで……」

 

やっと絞り出せた声。けれど、聞きたい事は聞けないまま。

私は、臆病だ。本当に。嫌になってしまうくらいに、臆病だ。

 

───黄金の瞳が、私を見る。黄金の瞳。あの男の人が《黄金瞳》と呼んでいたそれ。それが、ギョロリと私を見ている。

 

『フィリア、お願い……聞いて』

 

「───聞こえてますっ!アーテル姉さんっ」

 

───何かを、伝えようとしている。アーテル姉さんが、私に何かを話そうとしている。

───直感でわかります。これは聞き逃してはならない事だと。

 

大丈夫なのかと聞きたい。元の姿に戻れるのかと聞きたい。けれど───それさえ赦されない。

 

『───フィリア、ごめんなさい、ね。情けない私で』

 

何を言ってるの。姉さんは情けなくなんてない。

 

『───どうしても、貴女のことを守りたかったの』

 

知ってます。そんなこと、私が1番知ってますよ……だって、アーテル姉さんはいつでも私を守ってくれていたもの。

 

『───だから、ね、聞いて……フィリア。貴女に返さなきゃいけないものがある』

 

そう言ったアーテル姉さんは、酷く辛そうで。私はまた泣きそうになる。泣かないってお母さんと約束したのに、泣きそうになる。だって、こんなの辛すぎる。

 

『本当は、返したくないの。ずっと持っていたいの』

 

なら、返さなくてもいい。返さなくていいから、そんな───

 

───お別れみたいな事、言わないで。

 

『そういうわけにはいかないのよ……返さなきゃ、貴女は前に進めない。私はずっと貴女の脚を引いていたの』

 

───引いたままでもいい。アーテル姉さんが辛そうな顔をする位なら、前になんて進めなくていい。脚だって引いていていい。

───引いていていいから、姉さんが触れていてくれるならどうだっていいんです。

 

『───優しい子。いい子ね、フィリア……貴女ならきっと《出口》へと辿り着けるわ』

 

《出口》───

この《大洞窟》で唯一囁かれる御伽噺。この大洞窟を抜けて《空》の下へと向かうための幻想。

 

『あなたなら、きっと大洞窟の出口へと行ける。そして、そこに辿り着くには私は邪魔なの』

 

邪魔だなんて、そんなわけない。そんなわけ、ないじゃないですか。

 

『───だから、あなたは行きなさい。だから、あなたが殺しなさい』

 

───出口へ行きなさい。

───私を殺しなさい。

───不思議と、アーテル姉さんの言いたい事、願っている事がわかる。そんなに、そんなに……

───そんなに死にたいんですか、アーテル姉さん。

 

「姉さん……」

 

『───いいえ、違うわフィリア。貴女が呼ぶのは……呼ぶべき人は私じゃない』

 

頭が、ぐるぐる、混乱していて。

一瞬、ほんの一瞬アーテル姉さんが何を言っているのかわからなかった。

 

『───貴女には、もう守ってくれる騎士がいるでしょう?……』

 

最後は、囁くような声色だった。きっと、その声は私にしか届いていない……私にしか聞こえない声だった。

 

 

『───マイさん……信じてるわ』

 

 

───聞いた。聞こえた。確かに。

名前。人の名前。大切な名前。もう、呼ぶことのできない大切な名前。

───お母さん。

最後にアーテル姉さんが囁いたのは、その名前。私の、大好きな『お母さん』の名前───

 

 

 

 

 

───《マイノグーラ》。

 

 

 

 

 

 

* * * *

 

 

 

 

 

ぞぶり、と鳴る歪な巨体。

かそけしな人の香りは消え失せ、その奇妙な姿は変容を果たす。アーテルという女は死に、其処に残るのは破壊者という名の災厄だけ。

 

───黄金瞳は既に得ている。

自我が今まで残っていたのが奇跡であり、その異形は最早白痴、ただ目の前の存在を殺す災害へと成り果てる。

───希望は潰えた。

───願いは潰えた。

───思いが潰えるのも、あと僅か。

 

『───AAAAAAAAAAAAAA……』

 

唸り声に似た、人間の根源的な恐怖を呼び起こす呪いが辺りを満たす。

右の赫瞳が全てを殺す。

左の黄金瞳が全てを視せる。

《拡大変容》を果たした《霧の災厄(マリ・クリッター)》、その強さは通常語り継がれるクリッターの数千倍にも達しよう。

その巨体は青く、漂う霧を想起させる。いや、事実その異形はこの《青い霧》によって形を与えられた存在だった。

異形は今や、目の前の少女───フィリアを殺すことしか考えが及ばない。

殺さなければ。殺さなければ。目の前のものは

、全く、全て、殺さなければならない。

 

───何故、殺さなければならないのか。その大切な思いを忘れたままに。

 

 

 

 

 

* * * *

 

 

 

 

───歪んだ都市に、白が舞う。

 

あるいは、それは機関道(エンジン・ロード)に舞い上がる雪のように。

歪み、曲がった街の塀に、一つの淡い人影があった。

───女だ。

それは、白い女だった。

肌は灰色の雪よりも白く、ただただ白い。

髪も、白だ。白髪。

ただ、《青い霧》が漂う鋭く尖った時間の中で、彼女の瞳だけが燃えるように赫かった。

───赫く、赫く。

地面に届かんばかりの長い白髪は、見る者によっては淡く発光しているようにも見えるだろう。この、死臭漂う霧のように。

やや小柄な体躯をしているが、それを感じさせないような雰囲気を彼女は持っていた。その、凍えるような美貌も。

 

───遠きカダスの地では《禁忌の魔女》とも呼ばれる女だった。

いわく、人類の禁忌を実現させた狂気の数式医(クラッキング・ドク)であるとか。

いわく、主に西亨の合衆国でその名を轟かせる大碩学であるとか。

いわく、《発明王》を冠する大碩学に敵対して見せた反骨の鬼女であるとか。

いわく、かの《結社》の裏切り者に心さえ捧げて見せた愛の女であるとか。

いわく、この《時間世界》に住まう諸悪の魔女であるとか。

 

───真実は誰も知らない。誰も彼女を語りはしない。

 

───誰も彼女を知らないからだ。その彼女は、今はもう消えてしまった面影を追いかけて此処にいる。

 

「───呼びなさい、フィリア。貴女を守ってくれる、騎士の名を」

 

 

 

 

 

* * * *

 

 

 

 

 

───トン・テン・カン

───トン・テン・カン

───規則の良いリズムを鳴らして。

 

機関(エンジン)を叩く音がする。

硬い、硬い機関の鋼の表面を。木槌で叩く音がする。

───トン・テン・カン

一寸の狂いもなく。一拍の狂いもなく。

一定のリズムで奏で続ける、それは男。

───偉大なる三角、ではない。彼はそれを名乗るに値しなかった。

───だが、彼は三角を持つ男だった。

《三角卿》と称えられる男だった。この《大洞窟》を、その手から生み出した大型機関で人の住める環境にまで発展させた張本人である。

狂ってなどいない。例え木槌を片手に持っていたとしても、彼の瞳は狂ってなどいなかった。

そして、彼の奏で続けるこのリズムも───狂ってなどいない。狂ってなどいるものか。

この男こそ《大洞窟》で唯一正気を持つ男なのだから。

鋼の機関が、その導管(パイプ)から蒸気(スチーム)を排出することはない。

なぜか。それはこの機関が未だ目覚めていないからだ。未だ、唄うことを知らないからだ。

 

───ここに祝福と言う名の怪異はない。で、あればこそ、彼は木槌を叩き続ける。

───トン・テン・カン

リズムを一切狂わせることなく。その手を休めることさえなく。されど、口さえあれば、彼は言葉を紡ぐことさえ……できる。

自ずとが望むままに。絡み合う無数の機関をかき鳴らして。

 

「───呼びなさい、綺麗なお嬢さん(マイ・フェア・レディ)……彼の名を」

 

手を休めずに、彼は言う。視線、正面を向けたままに。

 

「ああ、ああ……全くの想定外だ。願わくば、君に生き残って欲しい」

 

悲しそうに顔を歪める、男。頰にできた深いシワをくしゃりと歪めて。

それは、全てを知った男の顔なのだろう。

 

「そうだとも。『想定内』のことなどあるものか。この《大洞窟》内……いや、それ以前に、あらゆることは『想定外』のことだ」

 

正常なる意志を持って、彼は言葉を紡ぐ。到底、彼は魔女などには及ばないけれど。

だが、その思考はあるいは─────かのドルイド以上に他人への操作を強いる。

 

「私もこうして木槌を叩き続けている。……《無限力機関(イアーティス・エンジン)》など完成する筈がないというのに」

 

だが、その願いはあるいは─────

 

「そう。これ(完成)すらも、すなわち《想定外》というやつだ」

 

───トン・テン・カン

 

───トン・テン・カン

 

一切の躊躇いなく。一切の慈悲もなく。

木槌は奏でる。それは待望の旋律であり、また不可思議な旋律でもある。

 

「───想定外のままでいて欲しかったよ。……いや正直に言おう、この時を待っていた、と」

 

 

 

 

 

 

* * * *

 

 

 

 

───目の前に牙が迫り来る。

───目の前に爪が迫り来る。

それは、死。形のある死。

目の前の災厄は、その瞳に死しか映してはいなかった。すなわち───

───私を、殺すこと、だけ。

 

アーテル姉さんはいなくなってしまったのだろうか。もう、消えてしまったのだろうか。

 

───いいえ、いいえ、そんなことないです。

違う、違うと。目の前の怪異は───まだアーテル姉さんであるのだと、私の《瞳》が囁いている。

滲む視界はそのままに、私は迫り来る死を見つめる。

 

───呼ばなければ。死にたくなんて、ない。

 

アーテル姉さんが最後に私に残してくれた言葉。《出口》の御伽噺。

死んでしまったら、《出口》を探すことすらできなくなる。

 

───それはダメ。

───アーテル姉さんの言葉を無駄にすること、それだけは。

 

───だから、呼ぶ。

───名前を、呼ぶ。

 

私を死から遠ざけてくれる人。

姉さんが騎士だと言った人。

 

───だから、呼ぶ。

 

 

「───来て、エドさん」

 

 

雨に濡れていた、彼の名を。

 

 

 

 

 

 




次回、戦闘(ようやく)。


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《アーテル姉さん》






戦闘のショボさはお察し。……すみませんでした


 

 

 

 

 

───ズシリ、と。重厚な音が響く。何かを受け止めたかの様な重厚な音。

目の前に迫っていた死は消え去り、代わりに私の視界に映っているのは……青い、青い背中だけ。私を守るように《霧の災厄(マリ・クリッター)》と私の間を遮るように立っている。

 

───あぁ、来てくれた。本当に、呼べば来てくれた。

それが誰かなんて、すぐにわかる。だって呼んだのは私ですから。

 

「───エドさん」

 

もう一度、呼ぶ。彼の名前。

こうして守ってもらうのは、2回目。1回目は夢の中で。

あの時は不思議な夢だと思っていたけれど、今なら確信を持って言える。あれは普通の夢ではないと。

───守ってくれたんですよね?あの時も。今のように。

状況があまりにも似ていたから、思わず私は聞いてしまう。

───どうして助けてくれたんですか?

 

すると、彼。前を見たままムスリと答える。

 

「───呼ばれたから」

 

ほら、あの時と同じエドさんの答え。顔なんて見なくてもわかる。きっと、いつも通りのしかめっ面。

 

『───AAAAAAAAAA!!!』

 

怪異が彼に向かって咆哮をあげる。あの、お腹の底から凍えてしまいそうな怖い声。……けれど、先程よりも怖くない。

 

───きっと、エドさんがいてくれるから、ですね。

《霧の災厄》の《黄金瞳》が彼を捉える。

彼の視線と、交わって。

 

「───やはり、君だったのか。アーテル・カストロフ」

 

そう呟いた、エドさんの言葉。それはアーテル姉さんの名前で……

 

───やはり?やはりと言ったのでしょうか。それはつまり……

───何が起きたのか知っているということ。

この街がなんなのか。どうしてアーテル姉さんが《霧の災厄》となってしまったのか。

 

私の考えていることがわかったのか、エドさんはやはりこちらも向かずに答える。

 

「───ユノコスは諦めた者から死にゆく都市だ。ならば、諦めた者達は死んだらどうなる」

 

死んだら、どうなる……?そんなの、そんなの決まっている。何も、何も残らない。『生きていた』という過去だけを残して、明日を迎えることができなくなる。

 

「いや、違うな。諦め、死んでいった者達は……羨み、憎むんだよ」

 

───生きている、人達を?

 

「そう。いや、それは正確ではない……彼らが憎み恨むのは彼等が『耐えられなかった現在』を耐える者。この《大洞窟》で諦めず笑顔を絶やさない者」

 

───自分達は耐えることができなかった。

───だから、それに耐え生きている者達が許せない。

───それはつまり……

 

「君のことだよ、フィリア。彼等は君が羨ましく妬ましいんだ」

 

───私の、ことが?

 

「だから、彼等は君に向かって手を伸ばす。本来この時間世界でしか形を持てないそれ(怨み)は……君の瞳によって現実へと形を与えられる」

 

瞳?私の、目……

 

「それが君の瞳……《夢幻黄金瞳》の持つ、夢に過ぎないもの達を現にする力だ」

 

───《夢幻黄金瞳》。

 

そう言われたって、理解なんてできない。だって、私の目は皆と一緒。いたって普通の緑色をした瞳だから。

 

「そうだ、君の瞳は既にその権能のほとんどを奪われている。でなければ、君はとうに狂っているはずだ」

 

《夢幻黄金瞳》は夢を現実へと変えてしまうから。

───夢で見ていたあの無数の腕、怨嗟の声が現実へと侵食していってしまうから。

狂うしかない。

発狂しか待っていない。

起きていても寝ていても怨嗟の声を聞き続け、諦めという死に引きづりこもうとする無数の腕が絶え間なく責め立てる地獄。

 

「だから不思議だった。僕が初めて君を見た時、君は《狂っていなかった》から」

 

───狂っていなければならなかった。

───普通の少女、普通の感性を持った子がそんな力を持てば、破滅するのは自明の理。

───なのに、私はそうならない。

 

「君が狂わないように守っていた者がいる。君が鋭角時間世界(こちら)に来れないように手を引いていた者がいる」

 

そのエドさんの言葉に、私は先ほど言われた事を思い出す。

 

『そうならない様に。嬢ちゃんがこちらに来れないように手を引いていた奴がいる……俺の知り合いだ』

 

あの、暖かいお茶をくれた人。美味しいお茶をくれた人。

同じ事を、言っていた。

それは誰なんですか?───なんて、今更言わない。それが誰かなんてもうわかっている……ううん、わかっていたの、初めから。

 

「だから奪ったんだろう?……アーテル・カストロフ、彼女から、その左目の権能を」

 

───ああ、やはり。

アーテル姉さん……でも、どうして?どうしてアーテル姉さんは……

 

『どうして?お前さんは、お前さんだけは知ってるだろうが。お前さんだけは知らないはず無いだろうが』

 

───また、聞こえる。男の人の声。私の瞳を覗いていた男の人の声。

その男の人の言葉を、エドさんが引き継ぐ。

 

「───優しい人、なんだろう。彼女は……よほど君のことが大切で、愛おしい様だ」

 

正面の災厄を見つめながら、エドさんのつぶやく様な声。

 

「自らが身代わりになってまで君を救った」

 

───身代わり(・・・・)

ゾクリ、と背筋に氷柱が立った様な錯覚さえ覚える。身代わり?アーテル姉さんが……私の?

 

「言っただろう?夢幻を持つ君は狂わなければならない。決して完全ではないが、権能の大方をアーテルは君から取り上げた。つまり」

 

───君が堕ちる筈だった発狂の地獄に、アーテルは自ら身を投じた。

フィリアが水を汲む1分、眠っている1秒、正真正銘休むことなくアーテルは無数の腕と声を見聞きしていたのだ、と。

エドさんは言う。いつも通りの、しかめっ面。

 

「彼女は黄金瞳を得るためにクリッターになったんじゃない。『黄金瞳を得たから』クリッターになったんだろう」

 

本来フィリアに宿り、フィリアにしか扱えない夢幻黄金瞳の権能。その強大な力をアーテル・カストロフという普通の人間である彼女が制御できる筈はない。

だが、制御するしかなかった。でなければ、たちまちのうちにその権能はフィリアに還り、フィリアは発狂してしまう。

だから無理矢理に抑え込むしかなかった。無論、アーテルの精神とて無事な筈はない。

───フィリアのために。

───ただ、ただフィリアを守るために。

この鋭角時間世界(ティンダロス)で殺し続けるのもそうだ。時間世界に住まうものはまともな者では決してない。存在していれば必ず夢幻黄金瞳の大演算装置である《フィリア》を殺そうとするだろう。

───故に、殺す。

殺して殺して、殺し尽くす。フィリアに手を伸ばそうとする者たちをアーテルは赦しはしない。

例え人間性というものを削ぎ落としてでも、化け物に成ってフィリアを守る事を選んだ。

 

───例え、最後は完全な化け物となり、最愛のフィリアに殺される結末となってしまっても。

 

「───本当に、心から君の事を愛していなければ出来ない事だ。だからこそ、君は決断しなければならない」

 

───あの災厄を、姉を、フィリア……君が殺さなければならない。

エドさんの言葉が、再び重なる。男の人の声ではない、今度は……誰よりも優しい人の声。

 

『───だから、あなたが殺しなさい』

 

アーテル姉さんの声。アーテル姉さんの……最後の言葉。きっと、ううん、絶対に……私のことを誰よりも案じてくれていた姉さんの願い。

今なら、わかる。

 

『貴女に返さなければいけないものがある』

 

───黄金瞳のこと、だったんだよね?私の……私のために、持っていてくれたんでしょう?

 

『本当は返したくないの。本当はずっと持っていたいの』

 

───どこまで優しいの、アーテル姉さん。持っているだけで辛いものなんでしょう?どうしてそんなにまで……私の事を愛してくれたの?

うん、うん……わかってる。私も。

───貴女のことが大好きだから。

 

「私は、《出口》に行きます」

 

はっきりと、そう告げる。背中を見せたままのエドさんに。災厄となってしまった、アーテル姉さんに。

アーテル姉さんを殺したくない。そんなこと、当たり前。アーテル姉さんを殺すくらいならば私が死んだ方がマシ。

───けど、そうじゃない。死ぬ、それだけは許容できない。

他ならない、アーテル姉さんが繋いでくれた命だから。

だから───私に出来ること。私に出来ることをするの。

 

「───エドさん、私を守って」

 

「───御意、我が飼主(イエス・マイ・レディ)

 

「アーテル姉さん……貴女を」

 

殺します。

 

迷うことなく、再び告げる。

頬、流れていく涙に気付かないフリをして……

 

 

 

「示そう、揺るぎなき愛を謳うもの」

 

枷のはめらた腕を天に掲げ、エドさんは上を指し示す。

指し示したのは、大洞窟の赭き天板───

 

───いいえ、いいえ。違う。彼が示しているのは、もっと上。

岩盤の上。

地面の上。

街の上。

灰色をした、雲の上───

 

 

 

 

「───さあ、空を見よ」

 

 

 

 

 

* * * *

 

 

 

 

時計が回る。─────チク・タク

運命が回る。─────チク・タク

 

『時間だよ。……物語を紡ぐ時間だよ』

 

誰も居ないはずの部屋で、あり得ない筈の声が、一つ。

───その声、およそ女ではない。……男でもない。

それは、人ですらない物から発せられた声。

そう、無数の(パイプ)がまるで編み込まれているかの様に絡み合った、未だ稼働し続けているこの異形都市唯一の大機関(メガ・エンジン)。その、機関から吹き出す蒸気に呼応するように、または溶け込むように異形の声は発せられていた。

まるで、誰かに囁きかけるが如く。

まるで、誰かを嘲笑するかの如く。

 

───この声が聞こえる者はここにはいない。この都市には、どこにもいない。

この声が聞こえるとするなら、あるいはかつて穴を掘り続けた狂人か。または、碩学詩人と称えられた無二の狂人か。

 

───否、かの狂人でさえ聞き届けられないだろう。

───赫い男と、白い女以外には。

 

どちらにせよこの声が聞き届けられたなら、それはまごう事なく気が狂っている証だろう。聞こえるはずのない声が聞こえるなど、道外れた狂人に他ならないのだから。

だから─────どうか、誰も聞かないで。

この声を。

この、狂った幻聴を。

 

───いや、あるいは。この声を聞き届ける者もいるのかもしれない。

あらゆることが想定の外に位置するこの《大洞窟》では。……あり得ないことも、起こり得る。

 

だから、そう。この声を聞き届ける者。

聴くもの。

見つめるもの。

幻想に形を与える生贄。

それは─────

 

─────塔の遥か頂にいる《彼女》に他ならない。

 

「────わかっているとも。あぁ……あぁ、わかっているとも」

 

そして、ここにもその声を聞くものが、1人。

誰もいない筈の部屋に存在する、それは奇矯な男であった。

……いや、その男は真に奇人であり、奇矯であり、そして奇怪ではあったが、それは自らが狂っている事を自覚していた。自らが取り返しのつかない所まで来ているという、漠然とした絶望も。

《3月のウサギのように気の狂った》その男は、この都市にて物語を紡ぐもの。そして、この都市……中央機関街(ティンダロス)中枢機関室(セントラルエンジンルーム)、そのただ1人の主人。

 

「物語、それは人によって紡がれるもの。形なきもの。無形の愛。────そして、この都市を《 揺るがない愛》に染め上げるもの」

 

低い低音が部屋の中に響く。

それは男の声だ。

不気味な程に響く声だ。

その身、すでに異形であるというのに、皮肉なまでにその声は人間味に溢れていた。

 人を惑わせる、それは真なる魔女の言霊───

 

「─────物語は永遠だ。人の心の中にて顕現する永遠の幻想。───今、王子は遂に物語を手に入れた」

 

語る、語る。

 

「そうとも。例えそれが《這い寄る混沌》であろうとも。例えそれが《発狂する時空》であろうとも。例えそれが《世界の果てにて猛る雷電》であろうとも。……物語を終わらせることなどできはしないのだから」

 

聞くものなどいなくとも、男は語る。

なぜならば、そう……男はまさしく3月のウサギのように気が狂っているのだから。

 

『時間だよ……深い眠りにつく時間だよ』

 

男に呼応するかのように声が聞こえた。

先程と同じ、奇怪の声。

管から漏れ出す蒸気の音。

蒸気を吹き出す無数の管。反響するそれはまるで美しい旋律のようで。

事実、それは大機関の唄声である。

───唄う、唄う、唄う。

歓喜の歌声を高らかに。祝福するかのように、少女の物語、その序章を喝采する。

─────祝福ではない。

─────祝福はここにはない。

その唄は、まさに塔の上……黄金色の螺旋階段の果てに眠る少女に向けて捧げられた。

 

……男は、語る。

少女の夢は歩みを進めた。ならば、向かうのは《出口》のみ。

 

「───この瞬間を待っていた!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、木槌を叩く男は紡ぐ。

 

「───この瞬間を待っていたよ」

 

 

 

 

 

そして、白き女は果てにて囁く。

 

「───この瞬間を待っていたの」

 

 

 

 

 

『───時間だよ。深い眠りにつく時間だよ』

 

 

 

 

 

* * * *

 

 

 

 

『───AAAAAAAAAAAA!!!』

 

目の前の災厄が動き出す。

巨大な腕を打ち振るい、身を揺らすごとに大地をも揺らす。

眼光は鋭く、その赫い瞳は万象を射殺す呪いの瞳。

 

───けれど。

 

私には、届かない。

万象を殺す瞳も。

大地を揺るがす腕の一振りも。

恐怖を掻き立てる咆哮でさえ。

 

青い背中が守ってくれる。視線、私に向けていなくてもわかる。

 

───彼女(姉さん)の腕は届かない。いや、私の騎士が届かせない。

 

「教えて、エドさん───彼女の、名前」

 

震える声を抑えるのに、苦労した。だって、それを銃で例えるなら、姉さんに銃口を向けるのに等しく。

 

「─────《愛のマーズ》」

 

───聞いた。私は確かにそれを聞き届けた。

アーテル姉さんの成れの果て。アーテル姉さんの愛の証明。

 

「君が《出口》へと向かうのなら、僕は君の旅路を守ってみせよう」

 

災厄の咆哮が再び轟く。

形も違う。姿も違う。

けれど、それは間違いなくアーテル姉さんで。

こんなに、こんなに傷付いてまで私を守ってくれて。そんなことをされたら、私は……

私は。

───もう、引き返すことなんて、出来ない。見て見ぬ振りも、出来ない。《出口》を、諦められない。

 

─────だから、私は

─────彼を縛り付ける枷に

─────口付け、一つ。

 

それを、銃で言うならば……安全装置(セーフティ)を解除したのに等しく。

 

「赭の石戸よ、目を覚ませ。我が力を以て、この地を恐慌に染め上げよ」

 

───無骨な銃口を向けるのに等しく。

 

「破壊者を名乗る暴力の園。───静まれ、君の愛は美しい」

 

───引き金を引くのに等しい。

 

彼の言葉に呼応する様に、周りに濃霧が立ち込める。まるで、エドさんの腕に集まるがごとく。

 

───なぜ、彼の腕は暗いの?

枷を外した彼の腕。

暗い、暗いよ。とっても、暗い……

そう、それはこの《大洞窟》唯一の真なる黒。

 

───すなわち、《黒色腕(ターゲスアンブルフ)》の起動に他ならない……!

 

その腕を見て、《霧の災厄》は再び咆哮する。

───私にさえわかるほどに、それは今までと様相を代える。

黒色の腕に怯える様に、その巨大な腕を叩きつける!

 

───しかし。

 

「不可侵の障壁。その数は1万枚だ。その1枚の強度はヤディス=ゴの赭い岩盤に匹敵する。─────いくら君が焦がれようと、届かなければ意味はない」

 

彼の腕が受け止める!

正確には腕ではない……その周りの霧が、まるで実体を伴うかの様に異形の腕を絡めとって離しはしない。

 

「君の歓喜が、憤怒が、哀憐が、享楽が……君の全てが、僕に何者も砕き得ない力を与えてくれる」

 

腕を向ける、異形へと。

霧が異形の進撃を押しとどめ、力の奔流を押し返す。

 

『───AAAAAAAA!!フィリAAA!!』

 

───絶叫。

それは、アーテル姉さんの最後の声。

頬を伝う涙は止まってくれない。けれど、エドさんの腕は止めない。

 

「───全ての命は我が手中

───あらゆる思いは我が手中

───さあ。讃え、仰ぐがいい」

 

異形の叫びが搔き消える。───その、巨大な体躯と共に。

 

消える。消える。消える。

アーテル姉さんの、何もかもが消える。

エドさんの操る霧によって、消える。

 

───姉さんの笑顔も。

───優しかった声も。

 

───幸せだったあの日々も。

 

もう、止められない。アーテル姉さんの死を止めることは、できない。

───それでも、私は……

 

「───エドさん。私のお願い、一つだけ聞いてもらってもいいですか?」

 

───せめて。

───他の何を消したとしても。

 

「───楽しかった思い出だけは……」

 

───消さないで。

 

『───AAAAAAAAAAAAAAA……』

 

「───御意のままに。君の思うままに」

 

霧と共に、その声も遠くなっていく。

全てをかき消す、エドさんの霧。ううん、───私の霧。

今まで、アーテル姉さんは私の瞳を奪ってくれていた。

だから、今度は私が奪う。

───全部全部、私が奪う。

悲しみも。

苦しみも。

痛みも。

辛い記憶も。

もう取りこぼさない。全て持っていくの。

全て、私が《出口》へ持っていくの。

 

───今まで私に黙っていたお返しなんだから。

───許してなんて、あげない。

 

───アーテル姉さんが持っていていいのは…

 

 

 

───幸せだった思い出だけ。

 

 

 

『───おやすみなさい、フィリア』

 

 

 

───うん、おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

───大好きでした、アーテル姉さん。

 

 

 

 

 

 



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