カンピオーネ!~智慧の王~ (土ノ子)
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太陽英雄 前篇

初投稿です。ほぼ処女作? 
至らぬ点もあるかもしれませんがよろしくお願いします。


 

 

 

 

 

―――乾坤一擲。

 

自らの魂もなにもかも全部乗せて愚直に突きだした短剣は、確かに目の前に屹立する神の胸部を刺し貫いていた。

 

手応えあった、と脳が知覚すると途端に身体に限界が来た。

 

右手に握っていた儀式用の鉄剣――神具『アキナケスの祭壇』――に宿っていた《鋼》の神霊が霧散していく。贄に捧げた心臓の代わりに自分の体を動かしていた神霊が消えれば、後に残るのは襤褸切れのように無残な肉体だけだ。

 

たちまち膝をつき、地面へと力無く身を投げ出すしかない。

 

血液があらかた流れ出してしまった以上、生命維持のレッドゾーンなどとっくの昔に振り切っており、あとはこの世から旅立つのが早いか遅いかの違いでしかない。

 

それでも神に一矢報いてやった爽快感が残っており、悪い気分ではない。

 

「く、はは…。まさかあの鍛冶神奴ではなく、定命の宿命背負う人の子に私が討たれるとは、な」

 

心底から愉しそうに笑う神。田舎に豪農である祖父に呼び出された、一介の中学生だった自分が出会った強壮な神。鳥頭人身の異形、只人を平伏させる威厳を持って俺に供物を要求した智慧の神。

 

始めは要求を拒絶したことから祖父に渡された異国風の鉄剣を巡る騒動が始まり、幽世に潜む鍛冶神から忌々しい軛を刺され、遂に出遭った女神からは加護を受け取った。幾つもの幸運に助けられ、遂に鉄剣を用いて《鋼》の神霊を召喚し、激戦の果てに神との一騎打ちに至った。

 

人生で最も濃厚な、この先どれだけ長生きしても決して忘れられないだろう日々。

それもいま終わり―――否、始まろうとしているのだ。簒奪の宴が。

 

「なんとも天晴れな愚か者よ。汝の蛮勇と幸運、なによりその狡猾な智慧に敬意を表そうではないか!」

「ふふっ、■■■様ったら討たれたというのに嬉しそうでいらっしゃるわね」

「おお、汝が噂に聞く全てを与える女神か。貴女が此処に居るということは、愚者と魔女の落とし子を産む暗黒の聖誕祭が始まるのだな!」

「ええ、あたしは神と人の狭間に立つ者。あらゆる災厄と一掴みの希望を与える女なのですから!

新たな息子を迎えにいく労を惜しむことはありませんわ」

 

新たに現れた女は一度言葉を切り、愛おし気な声を無残に横たわる人の子へと向ける。

 

「貴方が私の七番目の義息ね。ふふ、■■■様の神力は貴方の心身に流れ込んでいるわ。今貴方が感じている熱と苦痛は貴方を魔王の高みへと到達させるための代償よ。甘んじてお受けなさい」

 

甘く可憐な美声が耳朶を打つ。激痛と灼熱感で意識は切れ切れとなっていても分かる誰よりも『女』を感じさせる声。誰だ、と疑問が浮かんで答えを結ばずに消えていく。

 

「さあ皆様、この子に祝福と憎悪を与えて頂戴! 東の最果てで魔王となり地上に君臨する運命を得たこの子に、聖なる言霊を捧げて頂戴!!」

「はは、良かろう! ヘファイストスよ! 己も道具越しに眺めるだけでなく、この愚者の申し子に祝福と呪いを与えてやれっ!!」

 

虚空へと声を張り上げると、どこからともなく青銅造りの鷲が生き物のように翼を羽ばたかせて降りてくる。幽世に座す鍛冶神が送り込んだ使い魔だった。

 

「……黙れ、魔術師の守護者よ。元よりこやつに一杯食わされた借り、忘れておらぬ。小僧、我が神格を取り戻し、完全となった暁には真っ先に地上に降りて貴様を討つと誓約しよう! 忘れるな、貴様を討つはこのわしよ!」

「貴様が憎悪を与えるならば私は祝福を与えよう―――新たなる神殺しよ、赤坂将悟よ! 汝は我が智慧と魔術の権能を簒奪し、神殺しとなる。誰よりも賢く、狡猾であれ。それさえ出来れば汝は常に勝者となるだろう。これから先、汝の生涯は否応なく波乱に満ちたものとなるであろうが―――壮健であれ! 二度と会わぬことを願っておるぞ!!」

 

二柱の神による祝福と憎悪を受けとるのを最後に、その意識はぶつりと途切れた。

 

―――これは一つの節目。

赤坂将悟の日常が平穏から騒乱へ、平凡から特異へと切り替わる記念日である。

 

そして彼が齎す波紋は後に世界を大きく揺さぶることになるが―――その未来は、いまだ定かではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――――――――――――――――という夢を見たんだよっ!!」

 

「妄想乙、とか言えないのがアレですねー」

 

妄想ではなく実際にあった過去が今朝の夢に出てきたので、何となく話してみた。状況説明乙。

 

やれやれとくたびれたため息を吐くくたびれた背広を着たくたびれた男性。日本の呪術業界を統括する正史編纂委員会のエージェント、甘粕冬馬。

 

神様をぶっ殺して“神殺し爆☆誕!”なノリでパンドラさんに養子として迎え入れられた一年前。当初は魔術の存在すら知らずに平穏な生活を送っていた俺だが、やがて偶然の巡り合わせで得た海外旅行プランで何故か魔王と神と神祖が絡む事件に巻き込まれて介入(物理)し、七人目の魔王として認知され始めた。

 

騒動の幕引きの時にヴォバンの爺さんに付けられた『智慧の王』の異名もそれを後押ししたらしい。

 

なお魔王としての活動は国籍の関係から当然日本を中心に動き、正史編纂委員会とも結びつくようになる。甘粕さんはほぼ最初期に真偽の調査のため俺に接触してきて、それからの付き合いである。何気にこのおっさんとは気が合うし、無茶振りしても大抵なんとかなるし、無理なことは本当に無理とこちらに伝え、しかも飄々として弱みを見せないから使い倒しても心が痛まないという本当に有り難い人材なのである。

 

「かの神殺しを産み出す生誕の秘儀、当事者から聞けるとはなかなかレアな体験ですな。これは報告をまとめて売り出せば儲かりますかね?」

 

「さあ? 沙耶ノ宮が許せば売れるんじゃね。儲かるかは知らんけど」

 

「馨さんが副業を許してくれそうにないですから却下ですねー」

 

と、委員会専用の小型ジェットに乗りながら無駄話をしている。人に聞かれたらイタイ病気をこじらせたダメな二人組(片割れは人でなしとも付け加えるべきだろう)に見えるだろうが、幸いなことに他に人はいない。

 

今朝方、休日に遠出をしようと家を出た瞬間に甘粕さんにとっつかまってあっという間に空の上である。何故こうなった?

 

「―――――で、話題がそれたけどなんの話だったっけ?」

 

「相変わらず話が飛ぶ時も唐突なら戻す時も唐突ですよね、良いですけど」

 

ため息を一つ。

 

「急を要する話です。昨夜、某県の山村にて莫大な呪力が膨れ上がって弾けるのが観測されました」

 

「また神様がらみの厄介事かァ…」

 

「ええまあ。最低でも対象は神獣以上の存在だと馨さんは判断しています。現地からの報告だと、二つ目の太陽が里の上空に現れて、夜になっても沈まないそうです」

 

「まーた傍迷惑な。北極や南極でもない日本で白夜になるとか一体何なんだ。しまいにはオーロラでも降り注ぐんじゃないか」

 

「太陽が中天に居座った白夜なんて世界中のどこにもありませんって。仮にオーロラまで出現したら下手すれば半年は隠蔽作業にかかりきりになりそうですから、犯人には自重してほしいところですが」

 

望み薄でしょうねー、と甘粕さん。

流石にオーロラは出ないよと慰めにならない慰めを送る。神獣だろうと神様だろうとこれから派手にやらかすのはほぼ決定事項である。後は隠蔽作業の量が多いか少ないかの違いくらいだ。

 

「続けますよ。幸い件の山村は山間にある集落で他の集落とは距離があり、太陽がある高度も低いため余所の集落からは空が常に白んで見えている程度。住人は異常気象の名目で全員避難済みで、死者は出ていません。ただ、太陽の影響で旱魃の類は起きているようです」

 

一日中太陽が居座ってれば、旱魃の一つや二つ起きるだろう。まつろわぬ神が関わっているとなればなおさらだ。

 

「死者が出てないなら被害は軽い方だな」

 

「同感です。人命がかかると隠蔽作業が大変なんですよ」

 

そこかよ、と突っ込みたくなるが。

俺や神様が引き起こす事件の後始末に従事する委員会の仕事はたまに殺人的な量になることを考えると何も言えないのだ。反省も後悔もする予定はないが。

 

「他にはなにか?」

 

「いえ、今の段階では―――現場からの連絡です、少々お待ちください」

 

懐から携帯を取り出し、通話を始めた。

連絡はそれほど長く続かず、通話を終えると改めてこちらに向き直る。

 

「まつろわぬ神らしき人影とその居場所が判明しました」

 

さりげなく重要情報である。俺の扱う権能の性質上、神の来歴・性質に関する情報は多ければ多いほどいいのだから。

 

「遠見の術で偵察に出していた人員が村の公民館近くで黄金の鎧を身に付けた壮年の男性を視認。詳細を探るため、さらに近づけようとしたところこのまつろわぬ神らしき人物と“目が合った”そうです」

 

「…目が合った?」

 

「ええ、はっきり認識されたと本人は証言してます」

 

「目が良いんだな、そいつ」

 

いや、冗談ではなく。神話における太陽神は陽光が照らしている範囲の出来事を見逃さないとかいった伝承を持つのが結構多いのだ。

 

「ま、古来太陽と言えば天上にある神の目、監視者としばしば看做されますからね。ほら、日本でも“お天道様が見ている”とか言いますし」

 

「ギリシャ神話の太陽神ヘリオスもやたらと目が届く上にチクリ屋だよなー。アフロディーテの浮気とかハデスのぺルセポネ誘拐を当事者に伝えることで一役買ってるし」

 

「人の目は誤魔化せても神様の目は誤魔化せないぞ、という一つの寓話と言えます」

 

「実際にまつろわぬ神として顕現されると洒落にならんけどな。もし司法神の相も持ってたらやましいところがあるやつ全部地獄行きにできるぞ。昔話よろしく口先八丁で誤魔化すこともできないだろうし」

 

「ほんと笑えませんよ、それ。いまは気紛れで司法神の権能を振るってないだけって可能性もあるんですからね」

 

人影が消えた集落に飽きて別の場所に移動し始めたら悪夢ですよ。

人を食った性格が売りの甘粕さんも流石に憂鬱そうにため息をつく。

 

「あとは黄金の鎧か……俺のオタク思考が某英雄王を激しく有罪判決しているんだが」

 

「同感ですが……ええ、錯覚でしょう。それは流石に、ねぇ?」

 

互いに生温かい視線を交わしながら、何となく頷き合う。もし“実物”が現れたら、遂に日本のオタク文化が神話の領域を侵食し出したという証拠になるだろう。もしそんなことになったら全ての神話学・比較宗教学の学者が泣くだろう、割とガチで。

 

まあこの話はわきに置いといて話を戻そう。いい加減進まん。

 

「現場まであとどれくらいで着く?」

 

「近場の飛行場まで一時間。現地まで車で更に一時間ほどでしょう。現地に本部代わりに借り切った民宿がありますので一先ずはそちらに…」

 

「着き次第、案内してくれ」

 

「―――承知しました。王の仰せのとおりに」

 

と、うやうやしく頭を下げるエージェント。

ある程度の情報交換を済ませてしまえば特にやることも無い俺はさっさとシートを傾け寝入る体勢に入る。神さまの類が出てきて穏当に終わったことなど一度もない。今回もどうせ厄介事になるのだから体力を温存しておこうそうしよう。

 

グダグダの理論武装を済ませた将悟は四肢を思い切り伸ばし、さっさと睡魔に身をゆだねるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

…………。

 

あれから幾つかの交通手段を経て件の山村に到着した頃にはそろそろ日が傾いて沈もうかという時間帯だった。だが話に聞いていた通りに山村の中心部の上空に居座っている小型の太陽によって未だに集落は昼の明るさを保っていた。

 

そして到着後、短く現地の人間と打ち合わせをした後俺は早速行動に移していた。打ち合わせと言っても、神様との戦いで甘粕さんや他の委員会の人間にしてもらうことなどほとんど無い。もっぱら情報交換と後始末についてだ。

 

甘粕さんからの報告だとまつろわぬ神らしき人影は近隣で最も大きな建物である公民館隣に敷設されたグラウンドで動くことも無く佇んでいるのだという。

 

公民館はどうせ近隣で一番大きい建物だからという理由で選んだのだろう、神様は基本的に見栄っ張りなのが多いのだ。

 

神様がいるところまで車を出すと言われたが丁重に断る。なにせこの上なく目立つ“目印”がここからでも見えるので迷うことなど無いし、移動に関しても自力で向かった方がよほど早い。

 

誰憚ることなく堂々と呪力を解放する。相手が太陽神ならとうの昔にこちらの存在は知られているだろうから隠行など考えるだけ無駄だ。

 

ただし行使するのは権能ではなく、ヒトが振るう神秘の業、魔術だ。この一年の経験で身に付いた『転移』の魔術。自身を数キロ以内の距離を超え、瞬時に移動する術である。

 

とりあえず魔術の存在を知って一年の素人が使っていい術ではない。無論よほど上級の魔術師でもなければ自転車に乗る感覚で『転移』など使えない。だが俺に関しては突っ込むだけ無駄である。最初に殺した神様の影響か魔術適性がデタラメなことになってるし。

 

集落の上空に堂々と居座る太陽を目印に『転移』を何度も使って小刻みに移動していく内に、村落で最も大きい建造物である件の公民館、そしてその隣に敷設されているグラウンドが見えてきた。

 

もう一息、とグランドの入り口近くに転移。

 

いた…。

 

報告で聞いた通りに、黄金の鎧を身につけ頭上に二個目の太陽を戴いた輝ける英雄。グラウンドの中心で目を瞑って腕を組んで立っているだけだというのに、悟りを拓いた高僧を思わせる静謐な威厳を湛えている。

 

その姿を視認した瞬間から空の旅でボーっとしていた頭が途端に明晰になり、四肢に力が満ちていく。微かに感じていた疲労など一瞬で溶け、たちまちのうちに戦闘態勢が整った。

 

神殺しの肉体が疑問の余地なく奴は神だと教えてくれる。

 

再び転移を発動、まつろわぬ神と相対する位置に出現する。奴は驚いたようもなく、瞑っていた瞼を、組んでいた腕を開き、将悟を視線で捉えた。涼やかな笑みを浮かべ、口を開く神。

 

「我が招待に応え、よくぞ参った。当代の神殺しよ。そなたこそ余が討つに値する大敵。まずは名乗りを上げ、しかる後に刃の下で血潮を交わそうぞ!」

 

「こっちを無視してテンション上げてるところ悪いが、お前の招待を受けた覚えなんてこれっぽっちも無いぞ」

 

物騒な後半部分は丁重にスルーして聞き逃せない部分のみを尋ねる。言うまでも無く招待状どころか言葉を交わすのもこれが最初である。

 

「何を言う。余が顕した狼煙に気付き、この地へとやって来たのであろう?」

 

「いやちょっと待て」

 

一瞬意味不明な文句を頭の中で整理し、頭上で嫌味なくらい輝いている小規模な太陽を見上げる。

 

(もしかして上のアレはそういうことなのか……?)

 

神々の思考や行動は人間どころか魔王ですら意味不明な時があるがこれ“も”また極め付けである。

 

「余がこの地に顕現したのも何らかの理由があろう。そして余が顕すべき神威など英雄の武技を振るうことに他なるまい。されど軽々に動き回るのも王者の度量が疑われよう」

 

さも深刻そうに話す英雄になんとなくオチが見え、白けた笑みを送る。

重々しく語っているくせにやっていることは恐ろしく身勝手であり、王様家業をやっている身ながら流石に呆れざるを得ない。

 

「故に我が神力を持って太陽を創り出し、大妖を呼び寄せる灯火としたのよ」

 

「やっぱりそんなオチか! 大した目的があるわけでもない癖にやっていることが傍迷惑すぎるぞお前!」

 

つまり頭上の太陽は“俺、参上!”とばかりに神や神殺しを引き寄せるための打ち上げたメッセージだったわけだ。求めた役割から考えると狼煙というより誘蛾灯と表現した方が適切な気もするが。

 

将悟自身神殺しの魔王として活動している中で建造物や関係者に被害を与えてしまったことはそれなりにある。だがそのほとんどは不可効力なものであり、大抵は周囲への被害を考えてやっていた(逆に言うと考えた上で被害を出していた訳だが)。

 

「……OK、とりあえず上のピカピカ鬱陶しい代物は脇に置いといて、だ。要するにあんたは戦いたいんだったな?」

 

「しかり。狼煙を上げても中々難敵がやって来ぬ故あるいは余自ら動くべきかと思い悩んでいたが、そなたが余の目の前に現れた以上無用な心配となった。あとは余とそなたが死力を振り絞る血戦を演じれば善い」

 

「ああうん。念のため聞いておくけど大陸の方にもう一人俺の御同輩がいるからどうせならそっちを狙ったらどうだ。正直あんたがこの国から消えてくれるなら俺自身は別にあんたと戦いたいわけでも無理に戦う理由があるわけでもないし」

 

「それは良いことを聞いた。君の首を獲った後は君の言う神殺しを訪ねるとしよう」

 

「ですよねー」

 

後半の台詞はガン無視で都合のいいところだけ聞きとる神様マジデビルイヤーである。神様なのに。まあ最初からこいつら相手に交渉とか夢物語だと思っているので、特に落胆とかはしていない。

 

神と神殺しが出会えば、結局やることは一つに行き着くのだ。

 

「改めて名乗ろう。余はカルナの名を所有する神である」

 

静かに、おごそかな口調で名乗りを上げる英雄神―――まつろわぬカルナ。

虚空から呼び寄せた黄金に輝く装飾が施された剣の切っ先を向け、高々と大音声を上げる。

 

「名乗れ、若きラークシャサよ! その名を余は胸に刻み、戦士(クシャトリヤ)の名誉に恥じぬ振る舞いでいくさに臨むことをここに誓約する!!」

 

どこまでも華々しく、誇りを胸に振る舞わんとする英雄カルナ。

 

確か古代インドにおけるクル族の大戦争を描いた世界三大叙事詩のひとつ『マハーバーラタ』に登場する大英雄。

太陽神スーリヤと当時未婚だったパーンドゥ王妃クンティーの間に生まれながらも、未婚の出産が発覚するのを恐れた王妃によって生後すぐに川へ流された神の子。『マハーバーラタ』の主人公、パーンダヴァ兄弟の隠された長子であり同時に最大の仇敵。英雄豪傑が綺羅星のごとく揃った神代のインドにおいてなお屈指の武勇を誇ったとんでもないビッグネームである。

 

歯応えのあり過ぎる強敵を前に頬が吊り上がるのを自覚する。まったく、何故自分は好き好んでこんな連中を相手にしているのか。我ながら正気を疑うというものだ! こんな化け物と鍔迫り合う戦いに胸を躍らせるなどとは!?

 

「赤坂将悟。王様家業やるにはお前は邪魔だ。だから潰す。以上」

 

「単純で善いな! では参るぞ、神殺しよ!!」

 

どこがつぼに触れたのか不明だが痛快に笑うカルナ。陽光に照らされて輝く剣を頭上に掲げる―――すると忽ちのうちに上空に居座っていた太陽が消え、代わってカルナの剣と鎧が内側から輝き始めた。

 

第二の太陽に押しのけられていた闇が戻ってくる。時間的には日が沈んでいてもおかしくないし、周りが山に囲まれた集落であればなおさら夜は早く忍び寄ってくる。

 

集落の大部分は闇が戻りつつあったが、グラウンドとその周囲だけはカルナから発される光輝によって昼間の明るさを保っていた。

 

太陽を創り、維持していた神力を回収したのだ、と神殺しの勘が見抜く。これでカルナは太陽神の権能と英雄神の武勇を存分に振るえるだろう。

 

なによりカルナから放射される莫大な神力はこの一年で積み上げたキャリアを思い返しても五指に余る強壮さだ。

 

「まずは剣の腕を比べ合おうぞ!」

 

と、剣を掲げ叫ぶが早いか金色に輝く閃光となって間合いを詰めてくる。とんでもないスピード、既に臨戦態勢に入り一挙一動を注視していたにもかかわらず、満足な反応を許さない俊足だ!

 

チリチリと脳裏を焼く直観に従い、見栄えもなにもかもを捨てて地面へ身を投げ出して回避する。コンマ一秒遅れて丁度先ほど首があった位置をカルナの握る剣が通過する。

 

将悟が所有する権能はやれることがとにかく幅広いが、その中に白兵戦の補正はほぼない。このように接近されてしまえば、とにかく紙一重で回避するくらいしかやれることが無いのだ。

 

続いて地面にうつ伏せになった将悟を狙って二の太刀、三の太刀が繰り出されるが魔王特有の危機生存本能と生き汚さでグラウンドを転がりまわって紙一重ながらも回避に成功する。戦場が地面むき出しのグラウンドで善かったというものだ、これがコンクリか石畳なら今頃全身打ち身だらけである。

 

「ふむ…。もしや君は武術の心得を持たないのかね?」

 

首を傾げ、何故向かって来ないのかとばかりに不思議そうに見やる太陽の英雄。

 

「当然のように格闘術の心得を求めんな! もとは現代日本のパンピーだぞ、俺は!?」

 

「嘆かわしい、と余は思うが? 神殺したるもの、武芸の一つや二つ。身につけて置いて損はなかろう?」

 

「あいにく古代の野蛮人よろしく肉弾戦に付き合う気はねーよ」

 

露悪的に言ってみれば、

 

「よろしい。魔術師の妖しき業を振るうも、賢者の智略を駆使するのも君の自由だ。敵の流儀に口出しする無粋はせぬよ」

 

と、王者のごとき器で許容されるがそれが逆に権能を振るうひと押しとなる。

 

…虚仮にされた挙句ここまで余裕を見せつけられて、黙ったままでいられるものか!

 

「―――我は聖なる言ノ葉の主。石から生まれたる智慧の守護者!」

 

身の内から呪力を昂らせ、言霊と共に体外へ吐き出す。

 

「我は呪言を持って世界を形作る者! 我創造するは『雷』なり―――!!」

 

体外へと組み上げられた呪力は言霊によって編みあげられ、権能の主の意のままに創造される。

造り出されたのは将悟の掌に収まるほどの小さく放電するプラズマ球―――されどその威力侮りがたし!

 

「とりあえず初手だ。喰らっとけ!」

 

突き出した掌から球体の形へぎゅうぎゅうに押し固めていたエネルギー塊が解放される。たちまちのうちに近距離で対峙していた両者の視界を埋め尽くす規模の雷撃が幾束も蛇のごとくのたうちながらカルナへと襲いかかった!

 

「ハハハッ! 神殺しよ、なかなか見事な手妻だぞ!」

 

英雄を飲みこまんと迫る雷撃の波濤を再びあの黄金の閃光の如きスピードで咄嗟に身をかわし、距離を取って離脱するカルナ。流石は英雄と云うべきかその体に傷一つ見受けられない。

 

「ただ稲妻を手懐ける類の権能ではなさそうだな…。いずれにしろ楽しめそうではある」

 

改めて品定めをする視線を向けてくるカルナを余所に、将悟は敵の戦力評価を行う。

未だ見せていない太陽神の権能は除外し、白兵戦能力を見るならばとにかく閃光の如きスピードが厄介だ。攻めるも躱すも自由自在。手持ちの攻撃手段の中で一番出の早い『雷』を近距離から撃ち込んで躱された以上、正攻法で当てるのは困難である。

 

(とりあえずは、近づかせないのが先決だな)

 

再びプラズマ球を生みだし、今度は片手ではなく両の掌に保持する。真正面から『雷』を放ってもまともに当たりはしないだろうが牽制になれば十分だ。とにかくその隙に対策を考えるしかない。

 

「稲妻よ、我が意に従い顕れよ!」

 

更に次々と虚空からプラズマ球を産み出し、自身の周囲に滞空させておく。数をそろえると先程の稲妻ほど威力はでないが、牽制目的ならばこれで十分だ。

 

「ほう、弓比べかね! 余が天下に名を知られた弓達者であることを知らぬと見える。その試みは無謀であると忠告しておこう」

 

余計な御世話だと自信過剰な発言に呆れかえるも、そういえばこいつは天下の名人と讃えられた大英雄アルジェナに弓比べで勝っていたことを思い出す。己の技量、強壮さについて不遜とすら取れる言動を繰り返すカルナだが一つの時代を代表するに足る武芸の持ち主であることは間違いが無い。

 

となると確かにこの撃ち合いはこちらに不利かもしれない。

 

―――だが最後に勝つのは俺だ。

 

強いものが勝つのではない、勝った者が強いのだ。例えこの弓比べに負けようが、最後に奴の首を噛み切れればそれでいい。将悟の闘志を感じ取ったのかカルナもまた燃え立つような喜悦を頬に浮かべる。

互いに浮かべた獰猛な笑みが合図となった。

 

将悟は滞空するプラズマ球を開放し、幾条もの天翔ける紫電をけしかける。

カルナもまた虚空から随所に飾りが付いた強弓を取り出し、先端に炎を灯した矢をつがえて放つ。

 

熱と閃光、光輝の箭が交わされる戦場の火ぶたが切って落とされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《甘粕冬馬》

 

遥か遠方より王と神のいくさを密かに監視する一人の忍びがいた。

言うまでも無く上司から戦況を逐一報告することを命令された甘粕冬馬である。

 

視認できるギリギリの距離から何かあれば即座に離脱できる体勢だった。カンピオーネや神が暴れまわる戦場では、見える範囲は残らず流れ弾が飛んでくる可能性があるのだから当然の判断である。できればこの位置にすらいたくはなかったのだが上司の命令に逆らえない公務員の悲しさか。

 

「形勢は6:4で不利ですかね…」

 

この一年、常に将悟のそばで補佐し続けてきた経験から甘粕はなんとなく戦況の不味さを悟っていた。

 

将悟が放つ雷撃は間断なく弾幕となってカルナへと撃ち込まれる。神獣クラスの敵なら大ダメージは免れない火力と密度だが、カルナが放つ弓箭の見事さは将悟の弾幕を上回っていた。

 

自然体で弓に箭をつがえ、無造作にひょうと射る。炎が灯されたその一矢は無数に分裂し、さながら光の雨となって紫電の弾幕と相殺し合う。それを一息に4本は射るのだ。

 

一矢でならなんとか上回っていた稲妻も二の矢、三の矢と続くと流石に物量で押し切られ、太陽に照らされた霧のように消え去っていく。

 

弾幕合戦に打ち負けて届く矢は呪力を高めることで何とか凌いでいるようだが…。

 

今は何とか互角に見える撃ち合いだがおそらくそう遠くないうちに形勢はカルナに傾く。

だがそれも当然だ。赤坂将悟という『王』の本領はこんな力比べでは発揮されることはない。

 

将悟の権能の強みは対応力の高さだ。とにかく使える攻撃の種類、行使できる現象の多彩さが広い。その代償に最大威力、決定力が他の『王』と比べて低い水準にあるのだが…。

ともかく変幻自在の権能で攻め、あるいは凌ぎながら隙を作り出し、有効打を打ち込む。これが将悟の戦闘における基本戦術だ。

 

故にまともに撃ち合い、力比べに付き合っている現状ははっきり将悟に不利である。そして本人もそれを分かっている。その上で付き合っているのだ。

 

ではその理由はというと…、

 

「攻めあぐねて策を練りながら弓合戦に応じている、といったところですか」

 

無理もないでしょうが、と呟く甘粕。

甘粕が予測するカルナの最も厄介なアドバンテージは、武勇ではなく太陽神が有する不死性だと考えていた。

 

諸国の神話伝承に詳しい甘粕はカルナの身に付けた具足、黄金の鎧こそ不死性の源だと当たりを付けた。あの鎧こそ父なる太陽神から授けられた不死不滅の黄金。鎧を身につけている限りカルナは不死であり不敗、なればこそ『マハーバーラタ』では鎧を失ったカルナは敗北したのだが…。

 

将悟も鎧の逸話を知らずとも不死性に関しては予測しているだろうから今頃幾つもの策がその頭の中で検討されているだろう。

 

特に高火力の決定打を持たない将悟から見れば不死性を突破しないと勝ち目が薄い。有効な手立てはあるがアレは使えない時は本当に使えないのだ…。

 

そのまましばし考え込むが…。

 

「流石にちょっと思いつきませんね」

 

と、あっさり考えるのをやめる。

真剣さが足りない訳ではないが考えるだけ無駄だと割り切ったのだ。

 

「まあ、なんとかなるでしょう」

 

この一年、誰よりも近くで将悟の活躍を見せつけられてきた(・・・・・・・・・)甘粕はそう呟いた。

 

力比べで負けているからといってそれが敗北に直結する“はずがない”。

 

正面からと見せて背後から、防御と見せかけて反撃を、隙がなければ手を変え品を変え作り出す。千変万化の権能で以て敵の意表を突き勝利をもぎ取る。それこそ甘粕が見てきた赤坂将悟という『王』のスタイルなのだから!!

 

「頼みますよ、将悟さん…」

 

世界に神は居ても応えてくれることはない…。

それが分かっていても甘粕は王の勝利を祈らずにいられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そろそろ十分にも届こうかという派手な割に不毛な飛び道具比べはカルナ有利なものの、なんとか形勢を維持したまま推移していた。

 

とにかく数を作って撃ち込んでもそれ以上の密度で太陽の矢を撃ち込まれ、呑みこまれてしまう。

運よく相殺されず直撃コースにある紫電も悠々と剣で切り裂いている…神様は大概そうだが、こいつもやはりデタラメである

 

灼熱と閃光の塊を次々と撃ち放ちながら、減った分はどんどん呪力を汲み上げて補充する。要諦は速度よりも密度だ、とにかくこの弾幕を維持している間は奴も早々近づけないはず。幾らか被弾しかけたがカンピオーネの魔術耐性でなんとか耐えている。

 

対してカルナはまだまだ余裕だと言わんばかり。

それどころか、

 

「そろそろ弓比べにも飽きたのでな。今度は余が腕比べに誘うとしよう!」

 

などとのたまう。

 

「偉そうな口はこっちの弾幕を潰してから叩け、この英雄野郎!」

 

「ふふん。ではそうさせてもらおう―――かっ!」

 

悪口か迷う罵声を浴びせると稚気に覗かせる笑顔を浮かべ、弓から剣に持ち替えたその姿が前触れなく“霞む”。

神速で一気にトップギアへシフトしたためだと気付いたのは、黄金の軌跡がジグザグの軌道を描き、瞬く間に懐へ踏み込まれたその時だ。

 

弓箭の速さに目が慣れてしまったため、それ以上に速い閃光のごとき俊足を捉えられなかったのだろう。しかもご丁寧に進路上で直撃コースになった稲妻はその手の剣でことごとく切り裂いて!

 

これは将吾の油断というよりもカルナの武力がデタラメすぎるからこそ起こった事態。物量に押し切られ、最初の頃より弾幕の密度が薄まっていたこともあるだろうが…。

 

「これで終わりだ、赤坂将悟よ!」

 

剣の間合いに飛び込み、脳天から一気に両断する必殺の一刀が振り下ろされる。当たれば即死確定の一振りに必死で呪言を紡ぐ。間に合え―――!!

 

「ッ!? 『楯』よ、在れ!」

 

「ぬぅっ!?」

 

外れるべくもない剣閃が神殺しの頭蓋を両断する感触ではなく、固いものに当たって弾かれる衝撃を手に帰してくる。防がれたのだ。

 

みると剣閃と将悟の頭部の間を遮るように、月の意匠が描かれた円形の楯が出現していた。

間一髪で『創造』が間にあったと将悟は冷や汗を感じる余裕も無く、続いて首を刈らんと横薙ぎに振るわれる剛剣。

 

「時を刻む呪歌を我は唱せん!」

 

今度こそ、との思いで振り切られた英雄の太刀は―――空を切る!? しかも今度は神殺しの姿まで消え失せた。

 

すぐ傍にある気配、これはまさか。

紡がれるは権能を増幅する聖句、膨れ上がる呪力に英雄は刹那を惜しんで跳び退る。

カルナの闘争本能が警鐘を鳴らす、安全地帯だと踏み込んだ魔王の懐は実は虎口だった。そんな直感だ。

 

「雷よ、稲妻よ、雷霆よ…」

 

逃げろ逃げろとささやく直観任せに全力で離脱。わき目もふらず退け―――!!

 

「灼熱の鉾となれ―――仇を喰らい蹂躙せよ!!」

 

膨れ上がる呪力は無双の英雄をして怯ませる大規模な雷撃の波濤へと変貌する。

そして至近から放たれる紫電の濁流は遂に輝ける英雄を捉え、そのあぎとの内へ一瞬で飲み込んだ!

 

「ぐ、が、ああああああああああああああああぁぁッ!!」

 

雄叫びと苦悶を等量に混ぜた怒声が英雄の喉から絞り出される。英雄を飲みこんだ雷光のアギトの内側から強い光が一点放射されている。太陽の神力を最大に行使し、なんとか踏みとどまっているのだ。

 

神殺しは笑う。

このまま黙って凌がせてやるものか。徹底的に叩いてやる。

 

「百の呪言、千の聖句を以て我は大いなる蛇を打ちのめさん、災厄を退けるは賢者が振るう剣の賜物なれば!」

 

新たに聖句を紡ぎ出し、捻りだせるありったけの呪力をくみ出して激烈な雷霆に上乗せる。たちまち倍する勢いで紫電の奔流が膨れ上がり、飲み込まれた太陽をかき消す絶大な熱量と閃光をまき散らした。

 

それは射線上にあった鉄筋造りの公民館に大穴を開け、解き放たれたエネルギーで豪快に火災が発生するほど強烈な一撃であった。

 

 

 

 

 

 

…………………。

………………。

……………。

横薙ぎに振るわれるカルナの剛剣を『神速』でかわして背後に回り込み、最大威力の『雷』を捻り出し思う存分叩きつけた。今の攻防を解説すると実はそれだけだ。

 

だが実際はかなり際どいやり取りだった…特に神速の行使が間に合ったのは本当に幸運だった。転んでもタダでは起きず、窮地に陥ったことを逆用してなんとかやり返したが紙一重だった。一手間違えれば立場は逆になっていただろう。

 

おまけに使える回数が少ない『神速』も使ってしまった。黒王子アレクなどと比べると体感時間で十数秒しか維持できず、負担もけた外れに大きい『神速』を。余裕でやり過ごしたように見えて既に心臓がキリキリと痛んでいる。少し経てばこの痛みも収まるだろうが…。

 

グラウンドに立ちこめている激しい土埃を一筋の光線が切り裂いて、主の無事を告げた。まああの程度でくたばってくれるなら神様がらみの厄介事で被る苦労も半分になっているだろうしなァ。

 

強烈な熱風が全方位に吹き出され、土埃はたちまち消え失せた。

立ち上る陽炎が視界に立ちふさがりながら熱気の中心には満身創痍の英雄が屹立する。

 

豪華絢爛な黄金の鎧に至るところに亀裂が入り、全身焼けただれた跡が刻まれている。驚くほど血が流れていないのは雷撃によって蒸発したからか。鎧が衝撃と熱量の大半を引き受けたとはいえ、相当なダメージが入ったようだ。

 

「……悔しいがしてやられたわ! されど余が倒れ伏すにはほど遠いぞ!!」

 

なんとか天秤が傾いたかと密かに安堵したのもつかの間。

カルナがなにがしかの聖句を呟くと鎧からひときわ強い光輝と炎が立ち上り、カルナを包み込む。

 

輝ける太陽の神力が傷ついた黄金の鎧を瞬く間に修復し、堅牢な鎧を突破して入れた負傷も急速に癒されていく。代償に神力をかなり消費したようだが、戦闘力の衰えは一切見られない。

 

これは太陽の不死性…毎日地平線に沈んでは再び上り、日差しが弱まりながら冬至を境にまた強まる不滅の生命力の恩恵か。

 

生半可な攻撃ではダメージが通らず、少々の負傷では即座に癒してしまう。実のところこういったひたすらタフで地力が強いタイプは将悟が一番苦手とする手合いだった。正面衝突を繰り返していてはいずれこちらの首が飛ぶ。

 

「あーくそ、だから地母神と太陽神は相手にしたくないんだ!! しぶとすぎるんだよ!」

 

「父なる太陽から与えられた神威の鎧よ。これがある限り余は不死身なれば、鎧を完膚なきまで砕かぬ限り勝利は訪れぬと心得るがいい」

 

莞爾と笑う英雄に舌打ちする。腹が立つほど正論だ。噛み砕きたくなる。

局地的な攻防で勝ってもまだまだ不利だという状況に、逆に闘志が湧きあがってくる。絶対に勝つ!

 

「そして直に君の権能に触れ、詳らかに識ることも出来た。思った通りただ稲妻を操るような底の浅い権能ではなかったようだな」

 

対してカルナは滾る闘志を頬に乗せながら、まだまだ意気軒昂だ。どうだとばかりに推理、否、直感で得た事実を突き付けてくる。

 

「余が見受けたのは『稲妻』に『楯』、時を歪める『神速』。中々行き届いた権能だが、これだけで君が弑した神を見抜くのは智慧の神でも無ければ容易ではあるまい…。

されど遍く照らし見透かす霊眼の所有者でもある余は見抜いたぞ! 君が奪い取った権能の源、殺害した神の名を!!

 

カルナは太陽神スーリヤと同体とされた英雄。そして太陽神の霊眼から逃れ得るものなどない。

なるほど、奴もまた理屈を抜きに神や魔王の権能の素性を見抜く霊眼を持っていても不思議ではない。

 

尊ぶように、弄ぶようにカルナは聖なる神の御名を言の葉に乗せる。

 

その神の名は――――――、

 

 

 

 

 

「トートだ、そうだろう? 旧き魔導の都(エジプト)で広く崇められた智慧の神。偉大なる魔術の祖! かの大神を殺め、君は智慧と魔術の権能を簒奪したのだな!」

 

御名答。

やはりと言うべきかこの雄敵は一筋縄ではいかない厄介な手合いだったようだ。こちらの手の内を暴かれた影響はかなり大きい。

 

対してこちらにはあの太陽の不死性への切り札はない、先ほどのように強烈な一撃を何度も入れさせてくれるとも思えない。

ちょっと手詰まりである。どうしたものか…。

 

 

 

 

己の権能の源を見破られ、戦況に思考をめぐらす神殺し。

 

加えて太陽が英雄に与える不死不滅の恩恵。

 

これを破る手立ては未だ神殺しの手にはなく、神話を再現する戦場は混迷の度合いをますます深めていく……。

 

 

 




20160701 若干修正しました。


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太陽英雄 後篇

【二十一世紀初頭、新たにカンピオーネと確認された日本人についての報告書より抜粋】

 

エジプト神話に登場するトート、かつてはジェフティと呼ばれた神はかの地で広く信仰された古い神です。壁画には黒朱鷺(イビス)の頭部を持った男性、もしくは頭上に月を戴いた狒狒の姿であらわされます。

彼の職掌は広く、言葉と文字の発明者であり真理の探究者、音芸の守護者。時と暦を司ることから月とも結びつきます。

しかし最大の特徴はなにより言葉によって世界を形作ったという偉大な智慧の神、魔術神の権能でしょう。力ある言葉、即ち言霊はただ唱えられることで霊威を表します。これは最源流の魔術であり、トートはこの言霊を司る魔術神の最高峰であるのです。

赤坂将悟という少年はこの智慧の神を殺害し、カンピオーネに至ったのです。

 

 

 

 

 

 

グリニッジ賢人議会によって【始原の言霊(Chaos Words)】と命名された赤坂将悟が所有する第一の権能。

 

その本質を一言でまとめると言霊による神話伝承の再現である。

要するにトートが関わる神話伝承、あるいは所有する権能で可能なあらゆる神威を顕せる魔術の権能。

 

例えば先ほど『雷』『楯』を創造したのは言葉で万物を生み出した『創造神』の属性から、『神速』は時間、暦を司る『時間神』の属性に由来する。元々トートの職掌が広範に渡ることも相まって一つの権能で引き起こせる事象の多彩さは数多ある権能の中で間違いなく随一だ。

 

ただしやれることが多いものの、個々の事象を引き起こすのに特化した権能に比べてどうしても効率が落ちる。

 

例えば先ほどの『神速』、この雷霆の俊足の持ち主と名高い黒王子アレクと将悟を比べると制限事項がかなり多い。アレクが限界で20分近く神速を維持できるのに対し、将悟は体感時間で十数秒程度、連続で使えばたちまち心臓が痛み身体が麻痺する。間をはさんでも一日に5回以上使用するとコンディションが最悪になり、自滅する可能性すらある。

 

まあ『神速』はとびきり強力な分縛りが厳しい能力なので、他のものがここまで制限事項を伴う訳ではない。

 

手札の数では現存する魔王の中でも屈指。

しかしその代償に決定打の低さと燃費の悪さが付きまとう。

 

考えなしのパワープレイを許さず、如何に手札を切るかによって戦況・勝敗はガラリと変わる。ある意味で智慧の神から奪った権能に相応しいと言える。

 

そんな万能ではあっても優秀とは言えない権能だが力押しより駆け引き、策を巡らせるのが好きな将悟は自分向きなのだろうと達観している。まあカルナのような輩を相手にするには不向きだが…。

 

「察するに我が洞察は外れていないらしい。余の眼力も捨てたものではないようだ」

 

さてどうしたものかと不利な戦況に内心でしかめっ面を作る将悟に声をかけるカルナ。美声に籠るのは英雄の威厳、戦士の喜悦。ここで一気に勝利を決せんと尋常ではなくモチベーションを高めている!

 

「赤坂将悟よ、君の奪いし魔術の権能は確かに行き届き、多彩であろう。多くの戦場で役立てられよう。

されどその類の権能は多くの場合一撃で雌雄を決する威力はなく、消耗も激しかろう?」

 

その通り。

先ほどの飛び道具合戦や神速で将悟も呪力をかなり消費している。消耗の度合いだけ見るなら実はカルナと極端に大きな差があるわけではないのだ。カルナも余力をまだまだ残している、むしろ手の内をかなり悟られた将悟の方が不利なくらいだ。

 

「即ち激烈なる蹂躙の前には強風に晒された霧の如くむなしく消え去るのみ。覚悟を決めるが善い」

 

虚空へと剣を収め、無手になったカルナが一言ごとに神力を滾らせ、まるで噴火寸前の火山のように噴出し始める。これもまた聖句、神々の振るう神威を増幅させる言霊に他ならない。

 

何かとんでもないことをやる気だ、だが一体なにを?

 

幸いと云っていいのかその自問の答えはすぐ目の前に現物となって現れた。

 

「暁に昇り、黄昏に降る太陽が命ずる。不滅の陽光よ、我が元へ輝ける戦車を遣わしたまえ! 汝の主たる日輪を乗せ、疾く翔けよ!」

 

太陽の神力が一点に凝縮し、爆発するかのように激しい光が噴き出し始める。思わず手を顔の前でかざし眼を瞑る。やがて数秒が経ってまぶたの裏から照らす光が弱まったのを感じ、まぶたを上げたそこにはそれ自体が光輪を背負う一台の豪華絢爛な戦車(チャリオット)

 

鬣が途中から炎に転じ、ひづめを一足かくごとに火の粉が噴き出す七頭の駿馬。力強い騎獣が牽く戦車は随所に金銀宝玉で飾られているが見るべきところはそこではない。戦車全てが材質不明の黄金に光り輝く金属で作られているのだ。

 

注目すべきは壮麗な外観ではなく金属の強度と重量に戦車の大質量と速度が合わさった時に繰り出される強大無比な破壊力!!

 

あの戦車の前に立ったものは何であれ馬上からの攻撃が降り注がれ、馬蹄に踏み砕かれる未来が待っているに違いない。

 

「太陽の戦車か…。またストレートな力押しで来やがったな」

 

印欧語族系民族の神話では空を大地に見立てた「太陽の戦車」が存在する。例えばローマ神話のソル、ギリシャ神話のヘリオス。もちろんカルナと同体であるスーリヤもまたその系譜に連なる太陽神。またカルナは『マハーバーラタ』で戦車を駆って名のある戦士を幾人も討ち果たして縦横無尽の活躍をしている。となればカルナが戦車を駆るのも全く道理だというものだ。

 

そして戦車(チャリオット)

 

即ち古代世界において最強を誇った兵器である。騎兵が現れるまで最速を誇った機動力と高速で移動しながら弓矢が放てること、さらに加速を付けてふるわれるポールウェポンの破壊力も相まって驚異的な戦力として扱われた。

 

歴史では戦力維持に割くコストや構造上の脆さから戦車はやがて重騎兵などに取って代わられていったが無論目の前の英雄が駆る代物にそんなことはなんの関係もあるまい。

 

カルナの狙いは明白だ、馬鹿馬鹿しいまでに圧倒的な力押しで攻めきってしまう。そして将悟にとってそれこそがやられて最も苦しい戦術なのだ。

 

「今こそ我らの雌雄を決さん…覚悟せよ!」

 

トン、とカルナが軽やかな仕草で飛び乗るとそれを合図に七頭の駿馬が御者も鞭も無しに駆け始める。両者の間にあった距離が瞬く間に詰められていく。そして将悟の背筋も一歩距離が詰まるごとに冷や汗が流れていく。まだ対抗できそうな手段が思いつかないのだ。

 

「徒歩の戦士を馬蹄にかけるのも戦場の習い。許せよ!」

 

「どうせ許されなくても踏みつぶす気だろうが!」

 

悪態をつきながら相対する戦車との距離を測る。

踏み潰されるがどうかギリギリの距離を見定めて、横っ跳びに躱す。上策とはとても言えないが、これしか思いつかない以上やるしかないのだ。

大切なのはタイミングだ。速すぎれば車上のカルナに貫かれ、遅すぎれば駿馬達に蹂躙される。

 

もう少し、もう少し、もう少し………いまっ!

 

カンピオーネ特有の勝負勘で当たりを付け、まさに馬群の突進に押しつぶされようとした刹那に身体全体のばねを使って思い切りよく跳躍する。

無意識の見えない手で強引に幸運を手繰り寄せる神殺しの恩恵か馬蹄の蹂躙にかけられることは避けられた。しかし…、

 

「ぐ、ぎぎっ…!」

 

致命傷を避けた代償に、跳躍したそのときにカルナから射られた一筋の流星が右の肩口に突き刺さっていた。しかも肩を貫通した箭が焼けた鉄のように高熱を発して嫌な音を立てて肉を焼く。その苦痛に思わず苦悶の表情を浮かべつつ、呪力を高めて矢の高熱を沈下させた。

 

肉を貫かれしかも内側から灼熱で焙られており、正直半端じゃなく痛い…だが負傷としては軽い部類だ。

 

貫通した矢と吹き込まれた灼熱に筋肉をやられたのか右腕は動かせないが、走り回る足と聖句を唱える口が使える分状況は随分と良い。これから加速度的に悪くなっていく予感がするがそれは考えない方が吉である。

 

一方見事に将悟の肩口を射抜いたカルナが駆る戦車はそのまま直進し、即時の追撃に移れないでいた。戦車という兵器は構造上旋回性が低く、再び将悟を叩くには大きな距離を使ってUターンするしかない。カルナが駆る神造の戦車も流石にその欠点までは克服できなかったらしい。

 

だがその程度では英雄が乗り物とするそれにとって弱点とはなりえない。

 

「仔らよ、翔けあがれ! 益荒男の騎獣に相応しき汝らの力を示してみよ!」

 

戦車を引く駿馬に叱咤の言葉をかけるとそれに呼応するように馬達の身体から一層炎が噴き出し、飛び散る汗のように火の粉を振りまく。そしてそのまままるで空中に確固とした地面があるかのように踏み締め、あっという間に天を駆けあがってしまった。機動力と高度、この二つがカルナに利する以上旋回性の低さは決定的な弱点にはならないのだ。

空を踏み締めて走る駿馬達とそれに牽かれる戦車が見事に天を駆ける。どこか猛禽の羽ばたきを思わせる力強い疾走だ。

 

緩やかにU字を描いて旋回し、再び向かってくる戦車。今度は速度を緩めて駆け下ってくる、直接踏みつぶすのではない。ならば飛び道具か。

 

見ると戦車に屹立したカルナは右腕に握った長大な投げ槍による投躑の構えを入っている。

 

鎧の上からでも分かるほどの筋肉の緊張。距離があるはずの英雄の体躯がまるで二倍、三倍に膨れ上がったかのようなプレッシャー。見ただけでその危険性を伝えてくる、投げ槍に込められた絶大な神力!

 

アレが放たれればグラウンドどころか一部崩壊しつつ原型を残していた公民館まで綺麗さっぱり消滅する!

 

「マジで自重しねえなド畜生!?」

 

自分一人を殺すには明らかなオーバーキル気味な神力の行使。それだけ高く買われているということなのか、もちろん全く嬉しくないが。

 

結論からいえばアレから逃げるのは不可能、全力で護れ。

 

「我は大いなる銀を戴くもの。時と星の理を識る賢者」

 

しかしただ護っても直接アレを受け止めるのは不可能、ワンクッションを置くための一工夫が要る。

そのためには―――、

 

今にも導火線が尽きそうなダイナマイトに備える心境で、自身を中心に半円を描く形で淡く煌めく銀の光で出来た言霊による城壁を生み出す。ただの『創造』とは一味違う特別製だ。

 

そしてもう一つ。

 

「果てなき漠砂を渡る風よ、いまひととき汝が孕む落とし子を顕したまえ」

 

目前に迫るカルナの戦車。

 

投げ槍は限界まで込められた神力によって灼けた鉄のように赤熱し、そのデタラメな高熱で周囲の空気はひどく揺らめいている。

 

これならイケる(・・・)か―――?

 

「弱者の道具たる言葉を武器とする汝では力に依りて権威を打ち立てる我に敵うはずも無し! 往生せよ!」

 

遂に互いの顔と顔がはっきりと見て取れる距離に至るとカルナは絶好の位置と見たか溜めに溜めていた渾身の力を持って赤熱する投げ槍を投じた。

 

投じられた長槍は夜空を引き裂く巨大な流星となって天下る、さながら降り注ぐ太陽の欠片のように!!

 

無論狙いは小癪な防壁を築いた神殺しの元へ。

 

刹那の間に投げ槍は両者を隔てる距離を踏破しつくし、隕石の墜落に等しい衝撃で銀に輝く防御など問題にせず神殺しへ深々と突き刺さった!

 

これで死んだとは思わない、だが次の本命で討てればそれで良いのだ。とはいえ少しでも痛手をくれてやりたいものだが…。カルナは戦車を停止させ、眼を細めた。

 

弓に優れた彼は当然ながら眼も良い、この程度の距離なら太陽の霊眼を用いずとも見渡せた。しかし眼を凝らしても槍から噴き出す熱気によって空気が揺らめき、酷く見え辛い…。

 

だがその瞬間、カルナは自身の慧眼を疑うような光景を目にした。

 

投げ槍に身体の中心を貫かれたはずの神殺しの姿がゆらゆらと輪郭が崩れ、ついには消滅してしまったのだ! 謀られたのだ、手段は分からぬが幻影を操る妖しの術によって!

 

そして幻影が消え去るのと同時に、大地に突き立った長槍から離れた場所に再び神殺しが顕れた、無論無傷で。

 

見事なり…。

カルナは思わず微笑する。ここまで見事に騙されればいっそ爽快感すら覚える。

無論最後に勝つのは己だが…。

 

「いかなる手管を用いた、神殺しよ!」

 

「教えるわけねーだろ! 味噌汁で顔洗って出直しやがれ!!」

 

…………。

 

うむ、やばかった。

 

なんとかやり過ごしたが直撃していれば防壁など無視して上半身と下半身に分かれていただろう強烈な槍だった。

 

投躑の前に創造したのは『蜃気楼』、砂漠の気温差が生み出す幻を権能で再現したのだ。

 

破壊の神力に全力を傾けている今なら霊視を働かせている余裕はないと踏んでの賭けだったが、なんとかなったようだ。

 

「やるな、だがまだ終わっておらんぞ!」

 

本命の前段階として投げ槍に込められた神力が一点に向かって収縮し、やがて内から噴き出す圧力に耐えかねたかのように罅が入り始める。

 

次の瞬間、着弾の衝撃でクレーターを抉った投げ槍から超大規模の劫火が爆発するかのような勢いで全方位に噴出していく!!

 

例えるならアクション映画の爆発シーン、悪の親玉の根城が強力な爆発によって崩壊していくあの光景が将悟を当事者として巻き込んで展開される。

 

あとは展開した『鏡』にこれを凌ぎ切るポテンシャルがあるか…これも賭けだ。

 

そして摂氏6000℃、太陽の表面温度に匹敵する熱量を秘めた焰の津波が波打ち際に造られた砂の城のようにあっさりと呑みこんでいった。

 

 

 

 

 

 

…………………。

………………。

……………。

津波のように全てを呑みこんだ焰が過ぎ去ると、そこはさながら煉獄の様相を呈していた。

地面はまき散らされた莫大な熱量によって灼け溶けており、大気はことごとく酸素を奪いつくされ肺を焼く熱気が充満している。

 

そんな光景が周辺数百メートルにわたって続いている…咄嗟に『神速』を使っても逃げ切れないほど広範囲の殲滅・蹂躙する焔。カルナにとっても全力の全力を振り絞った一撃だった。

 

生き残っているはずがない…カルナの眼に、微かな銀の輝きが差しこんだのはそう判断したのと同時だった。

 

どうやらまだまだいくさを楽しむことは出来るらしい。いやさ、英雄が生きるは王宮にあらず、女人の元でもあらず。英雄が生き、死すは死闘のただなかと相場が決まっている!

 

あるいはカルナはいままで己は死んでいたのではないかと思った。そう、己は神殺しとの死闘の中で生き返りつつあるのだ…。

 

もっともっと戦いたい、剣を、魔術を交わしたい! 

 

カルナは将悟を最大の雄敵と認めつつあった。

 

 

 

 

 

 

…………。

 

一方、この煉獄の如き様相を創造した紅蓮の濁流を生き残った将悟と言えば。

 

「~~~~~~ッ!!」

 

一息吸い込めばたちまち肺が焼かれる灼熱の空気の中、酸欠でヤバい感じになっていた。

 

「ッ、がゼよッ!」

 

『風』を生み出して、生物にとって毒となった空気を上空へと吹き飛ばし、清浄な空気と入れ替える。

本命を切り抜けた先に酸欠で死ぬとか間抜けすぎて泣ける死に様になりそうだった…。いろんな意味でピンチだった。命と尊厳、どちらの意味でも。

 

なんとか一息吐くと自身を中心に半円を描く形で配置・維持していた銀の『鏡』がその役割を果たし終え、儚くも砕けて消え去っていく。以前にヴォバンの爺さんと戦った時の経験が役に立ったか…。

 

凌ぎ切った代償に全身に細かい火傷が山ほど。肩で息をするほど莫大な呪力を消費してしまった、しかも限界を超えた権能の行使のせいか全身の血管が千切れズキズキと痛み始めている。

 

そのくせまだまだ敵は上空で高みの見物をしながら意気健昂なのだから笑えない。

 

「無傷とは行かなかったようだがアレを切り抜けるか!? 侮っていたつもりはなかったがつくづくデタラメな生き物よな、神殺しとは!!」

 

「…よりにもよって神さまに言われたくないぞ…この万国びっくり傍迷惑グランプリ優勝者どもめ…」

 

ぼそぼそと訳のわからない悪態を吐くぐらいの元気しかない。

 

顔を挙げるのも億劫だが、見上げればカルナはきっとあの猛々しくも喜悦を浮かべたあの笑顔を浮かべているのだろうと思う。

 

嗚呼、だがなんと強壮で輝かしい英雄なのだろうか。

今まではただの敵としてしか認識していなかったカルナに対し、将悟は微かに感嘆の念を抱く。

 

宣言の通り激烈たる一撃、勝敗を決するに相応しい大技。徹頭徹尾全力全開、一撃一撃が必殺の域に達するほど念の込められた攻勢。

 

“それ”こそがカルナという英雄なのだと言葉に出さず叩きつけてくる。

 

相性の不利を差し引いても洒落にならないほど強い。力が、技がではなくそのどこまでも愚直に全力をぶつけてくる心根こそが!

 

だというのに傷を負えば負うほど、不利になればなるほど腹の底から熱の塊が噴きでてくる。逆境にこそ反逆しろと、絶対の存在を否定しろと神殺しの本能が吼え猛る。

 

闘争の熱が脳を焼き、しばし忘我の境地に入ったその時―――、

 

不意に、来た(・・)。最も欲しかった情報(モノ)。『剣』を研ぎ上げるために必要な砥石になる知識が。

 

 

 

 

―――生まれながらに鎧を与えられた輝く太陽の英雄。奸智によって鎧を奪われたカルナ。それは不滅不敗の英雄に刻まれた唯一の欠損。不死性の剥奪。即ち鎧こそが太陽の象徴。ならばその鎧の正体とは―――?

 

 

 

 

生と不死のはざまから零れ落ちた幾つかの脈絡のない知識を霊視によって受け取り、ジグソーパズルのように次々と一つの構図に嵌まっていく。

 

なるほど、という理解と共に不意に胸中で強い確信が宿る。言霊の権能で振るう最強の手札、『剣』の言霊が使用可能になっている!

 

最も欲しかったあの『鎧』を破る手立てが掌中にある。ならば今こそ『剣』を振るい反撃の狼煙を挙げ、さんざん痛めつけてくれたお返しをしてやらねば!!

 

例えるなら九回裏、ツーアウト満塁。サヨナラホームランを出せば最後の大逆転。最後の一球、されど打ちとるチャンスが転がり込んできた。そんなところか。

 

そして切り札は『剣』の言霊。

 

『創造』、『神速』など戦闘に転用できる(・・・・・・・・)他の言霊に比べ『剣』の言霊は唯一純然たる敵と戦って討つための(・・・・・・・・・・)言霊である。

 

 

―――エジプトの神トートは智慧、魔術の神だ。ほかの権能も直接的に戦いとは結びつかず、神話において果たす役割も宰相や裁判官、弁護人など文官・官僚的なものが多い。

 

だが決してトートは無力でも、争いを恐れる存在でもなかった。

 

トートは時にラーに反逆し、逃亡した虐殺の戦女神セクメトを連れ戻し、強大な嵐の神セトの代理としてラーの御座舟『太陽の舟』の護衛を務め、対峙する敵を魔法の言霊で斬り裂いた(・・・・・・・・・・・)という。

 

文化的・政治的な領分をホームグラウンドとしながら闘神の相もまた有する。

その象徴こそが『剣』の言霊、智慧で鍛えし神殺しの刃なのである。

 

その『剣』をここが勝負どころと腹を決め、一気に引き抜く!

 

「―――俺は知っているぞ、カルナ。あんたの鎧、父なる太陽が授けた不死の恩恵の源を!」

 

「むぅっ、次は如何なる手妻を使うつもりだ!?」

 

喜々として叫び、弓と矢筒を呼び出す。しかしすぐに射るのではなく様子を見ている。その余裕面をすぐに焦りと怒りに変えてやる!

 

「あんたが言った弱者の武器、智慧で鍛えた言霊の『剣』だよ。

―――カルナ、あんたが持つ太陽神の相はあんたの出生と深くかかわっている」

 

降り注ぐ月光に似た銀色に瞬く光球が数十、数百と恐ろしい速度で生み出されていく。銀の光球は将悟を中心に瞬く間に一群を為し、闇を押しのけず、さりとて同化もせず調和していく。

 

「あんたを産んだ母親、クル王パーンドゥの王妃クンティーは若い頃仕えた聖仙ドゥルヴァーサから五度だけ、任意の神を父親とした子供を産む真言(マントラ)を教えられていた」

 

「ほう、我が出自について語るか」

 

それはさながら夜空にばらまかれた月の欠片。

カルナから放たれる暴力的な光輝にも不思議と負けない、儚くも揺らがない輝きだ。

 

「何をするつもりかは知らぬが、余が黙って見ていると思ったか!」

 

上空で停止した戦車に立ち、見事な構えで弓弦を引く。しかも指と指の間に矢を一本ずつ挟み、計四本を一息に撃ち出していく。射られた矢弾は幾重にも分裂し、激しい弾雨となって月光のごとき儚き輝きをかき消さんと迫る。

 

しかし光り輝く弾雨は儚げに見える『剣』の光球で以て無造作に切り裂かれていく! さながら実体のない霞みを払うように。

 

結果一矢足りとも将悟へと届くことはなく、光輝を散らして空しく消え去っていく。

 

「一息に我が神力がかき消されただと? 赤坂将悟よ、貴様まさか…」

 

混乱し、忌々しげに口走る英雄。将悟が操る『剣』の正体を悟ったようだ。

それを無視して言霊を紡ぎ出し、更に『剣』を補充する。

 

「パーンドゥと結婚する前に一度、好奇心でスーリヤを呼んだクンティーは処女性を失わず、一人の赤子を産んだ。スーリヤに、生まれてくる赤子へ父親と同じ黄金に輝く鎧を与えることを要求して―――この生まれながらに黄金の鎧を身に付けた赤子が後にカルナと呼ばれる大英雄、つまりあんただ!」

 

遂に将悟の方から積極的に攻勢を仕掛ける。一部の『剣』を上空のカルナに向けて動かし、その神力の源を斬り破らんとあっという間に距離を詰めていく。

 

だが今度はカルナが魅せる番だった。

 

再び弓に矢を番える。先程のような小手調べではない、念を込めて打ち放つ渾身の一矢!

鮮やかに闇を切り裂く矢は空中で身を捩る燃える大蛇へと変じ、振るわれた『剣』を飲みこみながら切り裂かれ、しかし完全に消え去ることなく『剣』を飲み尽くしていく

 

消耗してもまだまだ力は残っているらしい。

 

攻勢を凌いだカルナはうっすらと戦慄を覗かせながら得心が行ったと頷く。

 

「知識を刃に変え、神をまつろわす言霊の剣。それが貴様の切り札か!?」

 

「その通りだよ。どうだ? あんたが笑った弱者の武器は、確かにあんたを追い詰めているぞ!」

 

「笑止! この程度で余を討ち果たそうなど片腹痛い!」

 

カルナを乗せた戦車は将悟の目の前へと降り立つ。

そしてカルナの頭上に新たに、火を吹きながら緩やかに回る巨大な車輪が出現する。

 

あの車輪に蓄えられている尋常ならざる神力! 流石は古代インドの一時代に最強の一人として名を連ねた英傑ということか。

 

あの車輪が輝く時、再びあの大質量の焰が将悟を蹂躙せんと迫るのに違いない!

 

「よかろう、汝が余の威光を掻き消す『剣』を繰るならば余はそれを真正面から打ち破るのみ! 水をかければ火を消えよう、されど椀一杯の水で燎原の大火を沈められはしないのだから!!」

 

小手先で勝てぬなら乾坤一擲の全力で、物量で以て押しつぶすと宣言する。正面突破、全力全開を信条とするカルナらしい選択だった。

 

カルナの猛烈な反撃に備え、将悟は言霊を紡ぐのを再開する。

 

「未婚の出産が発覚することを恐れ、クンティーは赤子を川へ流してしまう。そしてパーンドゥと結婚した後聖仙の呪いによって性交できなくなったパーンドゥに願われ、ダルマ、ヴァーユ、そしてインドラと交わり子供を生んだ。この時インドラとの交わりによって生まれた赤子がアルジェナ―――のちにあんたと何度も死闘を交え、憎み合い、遂にはあんたを討ちとる大英雄。叙事詩『マハーバーラタ』の主人公たちの一人だ!」

 

「然り! 彼奴等、特にアルジュナとは幾度となく弓と剣を交わし合ったものよ」

 

「ここで問題になるのは、あんたの鎧が何故太陽神の象徴となるのかだ。

 と言っても別に難しい理屈があるわけじゃない。古代に用いられた金属は金、銀、銅。これらにやがて青銅が加わる。

主に用いられた銅や青銅は錆びやすく、その輝きをくすませやすい……けれど錆びる前の銅は赤金色、青銅は金色に輝く。その輝きから金属はやがて太陽や月と結び付けられていった! 『金属で武装した戦神・太陽神』は世界中の広い範囲で見られる神話的なモチーフの一つだ!」

 

ペルシアのミスラは銅の槌矛を、ギリシアのアポロンは銀の弓を持つ。遠く離れたメソアメリカの軍神ウィツィロポチトリはカルナと同じく黄金で武装した姿で生まれてくる。

無論カルナ、スーリヤと同じ系譜に連なるヘリオス、ソールも同様の伝承を所有する。

 

「流石智慧の神より権能を奪いし神殺しよ。よく我が出自を学んでいるな」

 

いっそ懐かしげな雰囲気さえ漂うカルナの相槌を合図に、巨大な車輪が猛烈な勢いで回転し始め、それに呼応するかのように車輪から白き槍の穂先のように噴き出していく大質量の焰! 神殺しを灰すら残さず焼き尽くすために迫るそれはまさに太陽のフレアの再現。

 

だがその莫大な質量の焰は一片たりとも将悟に届くことはない、幾百あるいは千に届こうとする数の『剣』が焔の神力を切り裂き、分断し、柔らかな朝日よりも穏やかな熱へと落としていく。

 

長く、長く。巨大な車輪から吐き出されていく莫大な量の焰もやがては途切れ、火焰の槍を生み出した車輪もまた消滅していく。

 

代償に無数にあった銀の光球も随分と数を減らしてしまったが、まだ言霊は尽きていない。

 

「金属器と太陽神はしばしば結び付けて信仰される。あんたの鎧はその典型だ―――そして鎧がある限り不死不滅の天運が輝くあんたは、だからこそ鎧を失ったとき太陽神の加護もまた同時に失い、定命を定められた一人の英雄に過ぎなくなってしまった」

 

ここだ。将悟は密かに集中力を高めた。

ここからこそがカルナの弱点、凋落の歴史なのだから!

 

高らかに語らっていた声の調子を落とし、

カルナにも届くよう静かだがハッキリと問いかける。

 

「カルナ、あんたは覚えているか? その鎧を失うことになった謀略を。その首謀者を」

 

「…黙るがよい、神殺し。そこを囀るは我が逆鱗に触れると知れ」

 

行き過ぎた怒りが一瞬回ってカルナを鎮めていく。

触れれば斬れる、氷のように冷たい声音。激怒している、あの闊達な英雄が!

 

そう、まずは怒らせ、冷静さを奪う。怒りに身を任せ不用意に突っ込んできたなら逆襲してやればよい!

 

「息子アルジェナに加護を与えるインドラはバラモンに扮し、あんたに鎧の寄進を求めた。あんたがバラモンからの要求を断れないのを知っていて!」

 

ちなみに神話でのカルナは最期にはこの要求を飲み、短剣で鎧と一体となっていた肉体の部分を切り離して血塗れとなって手渡した。インドラは恥じ入り、一度のみ使える輝ける勝利の槍を与えたというが到底釣り合うものではなかった。

 

「インドラとスーリヤはアルジュナとカルナのように時に対立する。両者は互いに互角の力を有し、争い、そして最後にはスーリヤが敗れてしまう」

 

「忌わしや! 我が過去を暴くものはことごとく呪われるがいい、この神殺しめが!」

 

心底腹立たしげに睨みつける形相にあの闊達な英雄の面影はない。だが無理もない、これは要するにカルナの過去を暴き古傷を抉り出しているのと同じことなのだから。

 

「カルナもまたインドラの息子アルジュナに討たれる。しかもカルナとスーリヤ、両者の最期は酷似している。ともに戦車に乗って戦い、片方の車輪になんらかの不調が起こって敗北する。神話上の対立構造が叙事詩でも再現されているんだ!」

 

「その良く回る舌を切り取ってくれるわ、青二才めが!!」

 

遂に怒りからなりふり構わなくなったカルナは、自身が駆る戦車に己に残った神力を注ぎこんでいく。

太陽の神力を与えられた神造の戦車は半ば太陽そのものと化して輝きながら光線と高熱を発し、それを引く駿馬達も半ば生物のかたちを失った焰の狂獣となって猛り狂う。

 

「仔らよ、我が半生を共に駆けた戦友達よ! 日輪を汚し、父なる太陽を貶めんと企む輩に馬蹄の洗礼をくれてやろうぞ。昂ぶれ、駆けよ、蹂躙せよ!!」

 

絶大な破壊力を秘めた突撃蹂躙が開始される。

この蹂躙にかけられた海は割れ、山は砕かれ、例え神だろうと無事には済むまい。

 

だが将悟はどこか遠く離れた場所から俯瞰する心持で口元を動かす。

カルナの神格を限界まで深く斬り裂くための、最期の言霊を紡ぐために。

 

「カルナ、あんたはスーリヤから太陽神の権能と同時にインドラに与えられる敗北の運命もまた引き継いでしまった……そしてそれこそがあんたの運命を決定づけた―――つまり、如何に奮闘しようと最終的には必ず討たれてしまう、仇役の運命を!!」

 

カルナが敗者たる運命にあることを曝け出した言霊は、なればこそカルナの命脈を絶つ必殺の刃となりうる。

無数に瞬く銀の光球を全て集め、カルナの戦車も両断できる巨大な『剣』として一つにする。

 

瞬く間に迫り、馬蹄にかけて焼き尽くせと猛り疾走する戦車に向けて渾身の力を込めて振るった。

 

カルナの最も厄介なチカラ、太陽の権能の源を斬り破るために!!

 

そして両者の影が交差するその瞬間―――、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《赤坂将悟》

 

燃え盛る戦車と神殺しの言霊が激突した。

すると将悟は正体不明の爆発と衝撃に晒され、全身に更なる負傷を刻みながら何十メートルも吹っ飛ばされたのだ。

 

焼けた大地を豪快に転がりながら十数秒後ようやく停止したその場所でなんとか半身を起しながら、将悟は激突の瞬間を思い出していた。

 

あの瞬間、銀の輝きが戦車を真っ二つに両断し、騎乗者たるカルナの本体をも捉えたその刹那。

 

カルナは『剣』に神格を切り裂かれながらも戦車を自ら爆散させ、その余波によって将悟へのカウンターとしたのだ。

 

怒り狂っているようで最後の冷静さは忘れない、流石は英雄神。してやられたと言うしかない、尋常ならざるしぶとさだ。

 

コンディションは互いに満身創痍もいいところ。

 

だが流れはまだ将悟にある、消耗もカルナに比べれば軽い。あくまで比較的だが。

なので将悟は全身の打撲、裂傷、内出血、火傷喀血骨折トドメに内臓破裂の齎す痛みをこらえながら、ギリギリ余裕を持って立ち上がった。

 

死闘の終わりを予感しながら。

 

ここでカルナが逃げるのなら追わない…というか追うような余裕はない。

ついでにここまで派手にやらかしておいてなんだか、決着にこだわる気はない。いや、それどころかこの死闘を繰り広げた相手との別れに対して微かな寂寥感すら感じていた。

 

ここで終わりなら、それはそれで構わない。だが立ち上がり、まだ向かってこようと言うのならば……望み通り全力で相手をするだろう、命を以て。

 

その覚悟を込めて将悟と同じくらいの距離を吹き飛ばされ、かなり遠くで立ち上がろうともがく英雄を睨みつける―――その視線を感じたのかカルナもまた将悟を静かな瞳で見据える。

 

自慢の鎧は最早跡形も無く、無数に傷の付いた逞しい上半身を晒している。カルナもまた尋常ならざる消耗。しかし英雄はゆっくりと立ち上がり、剣を呼び出して構えた。

 

…良いだろう、そっちがその気なら最後の最期まで付き合ってやる。

 

 

 

 

 

 

《カルナ》

 

たび重なる神力の消耗、乾坤一擲の自爆攻撃による負傷を抱えながらカルナはやけに明瞭な思考で己の状態を観察し、思考していた。

 

今のカルナは言霊の剣によって太陽神の権能の源、神格を切り裂かれた状態である。とはいえその一言で済んでしまうほど軽い事態ではない。

 

英雄神と太陽神、二つの相を持つ神がカルナ。その一方を言霊の『剣』で斬り破られるということは半身を引き裂かれ、捥ぎ取られたのに等しい。低く見積もっても戦闘能力は半減した。使い果たした神力も最初の強壮さと比べ見る影が無いほど目減りしている。

 

なにより神話に沿った殺し方を―――鎧を喪失させ、殺害する流れを作り出されたのは痛恨の極みと言うほかはない。

 

神話に抗う『まつろわぬ神』は一見自由な様に見えてその実何よりも肉体を構成する神話に縛られる。

 

鎧を失った今のカルナはかの大戦争に参加した時のように“殺せばそのまま死ぬ”ただの英雄(・・・・・)だ。英雄の武勇は残っているが生死の扱いは最早常人と変わらない。

 

(ふふん。なんだ、考えてみればあの大戦と変わらぬではないか)

 

なればこそ、一気呵成に残る力のすべてを振り絞って攻めねばならない。

逃走の道など無い、さきほどその道は自ら閉じた。

 

一瞬の火花のように短き生を駆け抜ける。それこそが英雄の在り方なのだから!!

 

あの大戦争でも鎧を失って英雄として参戦し、数多のもののふどもを討ちとった己ならばちょうどいい足枷だろうさ!!

 

そう、後ろに道がないのだからどこまでも勇壮に前へ進むのみ。カルナは澄み渡った頭脳でそう結論を下した。

 

「悪いが、まだもうひと勝負付き合ってもらおうか」

 

「…フン、あんたがギブアップを言えなくなるくらいぶちのめしてやるさ」

 

両者は残る力を振り絞って構えをとった。

 

―――そして最後の血戦が幕を開く。

 

深手を負ったカルナの猛攻を、将悟があらゆる手練手管を用いて凌ぎ続ける。

 

勝負の天秤ははっきりと将悟の方へ傾いた。これを再び己に傾けるのは半身をもがれたカルナにとって容易ではない。だからこその乾坤一擲の猛攻だ、肉体を維持する神力までも湯水のごとく消費しながら。

 

押し切れればカルナの勝ち、凌がれれば将悟の勝ち。

 

これはそういう勝負だ。

 

そして果たしてどれだけの時間が経ったか、永遠に続くとすら思えた死闘は唐突に幕を下ろす。

 

「―――なんだ、凌ぎ切られたか」

 

限界だ。カルナは静かに自覚した。

最早動かそうとしても肉体は応えてくれない。対して神殺しはまだ余力を残している。

 

そして具現する太陽神たる己のお株を奪う、バカげた熱量を圧縮した紅蓮の太陽。劫火で飲み込み、喰らいつくさんと迫る炎。『剣』で斬り裂かれる前の己ならまだしも今の自分では抗えまい。

 

「最初で最期なれど善きいくさであった…うむ、あの大戦に負けぬ絢爛たる闘争。そして善き敗北であった」

 

どこか満足げに笑みを浮かべながら、最期の土産とばかりに祝福と呪詛を神殺しへ送る。

 

「余を喰らえ、赤坂将悟よ! 不滅の生命たる余を。そして何度でも敗北するがよい。昇りて沈む太陽のように、何度でも立ち上がれ。数多の敗北とそれ以上の勝利を奪い取れ! どこまでも駆け上がるがよい、いずれ余が再臨しまた汝と立ち会う日まで!!」

 

そしてカルナは紅蓮に焼かれながら静かに肉体を消滅させていくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一方で見事死闘の勝者となった将悟だが、こちらも負傷がレッドゾーンを通り越してデッドゾーンに入りかけていた。

 

洒落も冗談も抜きにいまの将悟は半ば死に、半ば生きている棺桶に片足を突っ込んだ状態なのだ。神殺しの理不尽な生命力をもってして危険と言わざるを得ない負傷である。

 

「…ったく、死ぬ寸、前でリベンジの申し込みかよ…バトルジャンキーめ」

 

死闘を演じた敵手へと罵倒していると、一瞬だけ背中に重みを感じる。カルナから権能を奪ったのだ、と悟ったその時に半ば意識が飛び掛ける。流れ出した血で出来た水たまりが急速に広がっていく。本格的に危険な兆候だった。

 

甘粕も遠方から監視しているかもしれないが、こちらに向かうまでまだあと数分は要るだろう。

 

死を覚悟した将悟に、しかし奇跡は舞い降りた。

 

死に際に瀕して霊的感性が研ぎ澄まされ、さらに神殺しの有する類稀な生存本能が合わさって化学反応を起こし、将悟は薄れ行く意識の中で甘美な全能感を堪能する。

 

たったいまカルナから奪い取った権能を掌握したのだ。

 

その使用法が脳裏に浮かび、僅かに残った搾りかすの様な呪力をカルナの権能を動かすために注ぎこむ。陽だまりの様な暖かさが身体を包むが、依然として予断を許さない状態だ。

 

だがまあ、なんとか死ぬことはなさそうだと意識が闇の中に沈み込みながらも将悟は睡魔に似たその感覚に進んで身を委ねた。五分後、権能と神力のぶつかり合いが収まった様子を感知し、カルナによる全方位殲滅攻撃から一時避難していた甘粕は現場へと到着。

 

瀕死の将悟を発見し、直ちに近場の病院への搬送手続きを開始した。

 

 

 

 

 

 

以上が赤坂将悟による三度目(・・・)の神殺しの顛末である。

 

この戦いで将悟が得た太陽の権能はこれ以後東欧の老侯爵との再戦を始めとした数多の強敵と戦い抜くための一翼となるのだがそれはまた別のお話―――。

 

 

 




とりあえずバトルが書きたいから執筆してみた感じです。
お次はたぶん過去編、将悟の魔王デビュー。イギリスで魔王どもがヒャッハーかます英国争乱篇の予定。
ストックとか一切ないので、この小説を気に入られた奇特な方は気長にお待ちください。


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幕間 清秋院恵那

そのときふしぎな事が起こった!
ゴルゴムの仕業だ!
あ、ありのまま(ry

どう考えても恵那さんメイン。キャラ崩壊注意?



 

眼が覚めたら見知らぬ場所でベッドに横になっていた。

 

柔らかな色調の白い壁紙、窓からは朝日が差し込む。個人用の病室、それも居心地がよさそうな。唯一ベッドの横に取り付けられたゴツいモニター器具の機器が調和を損なっているが、気絶する前に負った負傷を考えればむしろ当然の処置である。

 

というかまだ身体の節々がズキズキと痛む、カンピオーネになってから一晩寝ていれば大概の怪我は全快してしまうのだが。

 

「様式美的に知らない天井だ、とかアンニュイに呟いた方が良いんだろうか」

 

「キャラ的に合わないなんてものじゃないから止めていた方が無難ですよ」

 

「おはよ、王様。大変だったねー。日天の系譜に連なる神さまと戦ったって聞いたよ」

 

眼が覚めて開口一番漏れだすボケに律義に突っ込む国家公務員。いうまでもなく正史編纂委員会の甘粕冬馬であり、続いてマイペースに挨拶したのは太刀の媛巫女たる清秋院恵那だ。

 

気付かなかったが眼が覚める前から病室にいたらしい。壁にかかった時計を見ると少し朝寝坊が過ぎるかな、といった時間帯だった。たっぷり半日以上は眠っていたらしい。いや、負傷の程度から考えると昏睡と言うべきだろうが。

 

「お、甘粕さんか。あと清秋院よ、何故お前がここにいる?」

 

「ヒドイよ王様! 山籠りしてた霊場から王様に助太刀しようと飛んできたのに」

 

「…そーなの?」

 

甘粕に尋ねるとすぐさま頷かれる。

 

「予備戦力として馨さんが呼びました。丁度将悟さんがカルナを撃破したのとほぼ同時刻に現地入りしました…結果的に病院に搬送された将悟さんと入れ違いになってしまいましたけどね」

 

「あー…相変わらず変なところで噛みあわないなァ」

 

「そうなんだよねェ。王様ってば年がら年中ドンパチしてる割に恵那と一緒に戦ったのって数えられるくらいだしー」

 

「いっつも山籠ってるからなー清秋院は」

 

「王様が外国に遠征してる間に神獣が攻めてきたの忘れてないよね? 王様が来るまで死ぬ気で凌いでたんだから」

 

あの時はすまなかったって謝ったじゃないですかーダメです許しませんー、などと完全に友人同士のだべり合いになりつつあるのを遮って甘粕は話を軌道修正する。普段なら乗っかって茶々の一つも入れるのだがガラにもなく真面目にせざるを得ないほど事後処理が切羽詰まっているのだ。

 

「つい三時間前まで緊急治療室で生死の境を彷徨っていた割にお元気そうでなによりです。自覚症状があるならこの後医師の先生が来ますので仰ってください。その際に色々痛くない腹を探られるかもしれませんが」

 

「…あ、やっぱヤバかったんだ」

 

「カンピオーネの生命力をもってして綱渡りの連続だったそうですよ。立ち会った病院の先生方は人類の奇跡だと興奮しておられました。是非身体を調べさせてほしいと言ってましたよ」

 

「ノ-センキューで」

 

「そういうと思って『名伏せ』の媛巫女に連絡してあります。退院したら彼女たちが先生方の記憶に念入りに処置を施しますのでご安心を」

 

うやうやしく一礼するエージェントに頷きながらも一言付け加える。

 

「頼む…あ、でも死にかけたときのバイタルデータとかは破棄せず、直接俺のところに送ってくれ。ある意味滅多に取れないデータだし」

 

「…死にかけてすぐにその発言が出るあたり将悟さんもまともそうに見えてやはりカンピオーネですなァ。ご命令とあらば否やはありませんが」

 

今度は呆れたようにため息を吐く苦労人。

いや実際神さまやカンピオーネと殺し合った時くらいしかこんな負傷はしないわけで。ある意味カンピオーネの秘密を解き明かしたい魔術師連中にとっては垂涎の的のデータじゃないだろうか。そんな命知らずがいるのかは知らないが。

 

「差し当たって他にはなにかご要望はありますか?」

 

「とりあえず退院したいんだが」

 

「…不遜ながら半日はベッドに縛り付けさせていただきますので悪しからず。我らの王が死に瀕していることを報告したら『絶対死なせるな』とのご命令が届きまして。少しでも破ったら今月のお給料がピンチなんです―――それ差し引いても自重してくださいよホント」

 

「あ、恵那も同感。駆けつけた時には小康状態だったけど思わず治癒の術かけようか迷ったくらい酷い傷だったんだよ」

 

魔王の持つ影響力をいい加減自覚しろ、少しは自分の体調を慮れと苦言を呈する忍者。あと媛巫女。

なんだかなァ…元々遊び人精神と苦労人精神が同居したような飄々としたおっさんだったがここのところ苦労人成分が増加しつつあるのはやはり自分のせいなのだろうか。

 

「他にはないですね」

 

「他にはないですね(断定)。面倒臭くなってるのがモロに副音声で聞こえたからな」

 

「…それは申し訳ございませんでした。昨晩から病院の手配に事後処理の手続き、人員の差配と現地の統括を押し付けられてましてね」

 

かなり荒んだ目を向けてくる甘粕さん。忙しく立ち回っていたというのは真実らしい。

正直かなり派手な戦いだったと思う。だが俺が壊したのは公民館くらいでなおかつそれを巻き込んで完全にぶっ壊したのはカルナだ。だから俺は悪くない。

 

「…いいですよ。最早諦めの境地に達してますしねー。将悟さんの出陣を願った時点で織り込み済みです」

 

やれやれと頭を掻く苦労人。

頑張ってとエールを送る巫女にやる気なさげに礼を言っている。

 

「ま、本来ならここで偉い人からまつろわぬカルナの撃破に『王』へ最大限の感謝と寿ぎが奏上されてしかるべきなんですがね。現在東京分室の人員はほぼデスマーチに参加しておりまして。正式な挨拶はまた後ほど―――」

 

「面倒なのでパス。気持ちだけ受け取っとく」

 

「ですよねー。お偉方に伝えておきます。

あ、それではそろそろ事後処理に戻りますので失礼します」

 

「いやちょっと待ってくれ。四つばかし頼みごとがある」

 

一礼とともに退出しようとした甘粕さんを呼び止め、話をしている最中に思いついた案件を依頼する。事後処理で大変そうだが、一応最大の功労者なのだからこれくらいの我儘を言っても良いだろう。

 

「内容次第では後回しにしますがそれでよろしければ」

 

当然のごとくぶった切る甘粕にやはり慣れた様子で承諾する将悟。なんだかんだ四六時中トラブルに見舞われた一年をともに過ごしたのだ、既に気心は知れている。

 

「たぶんそこまで手間じゃないだろうから安心してくれ。一つ、広い土地の用意。俺が暴れて被害が出ない場所で」

 

「…承知しました。馨さんに連絡しておきます」

 

甘粕曰く事後処理があっても三日ほどで、都内から数時間の距離にある委員会の土地を提供できるという。一体何をやらかすつもりだと盛大な疑惑の目を向けられたが華麗にスルー。

 

「二つ目は清秋院をその場に呼んでくれ」

 

「恵那を? 一体なにをすればいいの、王様?」

 

「そりゃ清秋院にしか出来ないことを」

 

などと疑問の声をはぐらかして続ける将悟。はぐらかされた恵那だが将悟がまた何かやらかすことを期待しているのかやたらとキラキラした目で見つめていた。

 

「三つ目は姫さんにアポ取っといて。あ、次の休みにイギリス行くから」

 

「…プリンセス・アリスと会談を? それはまた急な話ですな」

 

「ま、いろいろなー」

 

恵那も行きたーいと挙手する媛巫女及びよーしお兄さん頑張っちゃうぞーと懲りずに寸劇を繰り返す魔王陛下を丁重にスルー。ニヤーッと悪戯を企む悪童めいた笑みにロクでもない予感を盛大に抱きながら予防線を張る甘粕。経験上ここで押さえておかないとなにか一波乱起こすのは確実である。

 

「あとで絶対に(・・・)私か馨さんに企んでることを吐いてください。でなければそのご命令は承諾しかねます」

 

「なんでだよ!? ミス・エリクソンを説得するの凄い面倒なんだぞ!!」

 

「普段の行いを顧みてそれを言えますかアナタは!? こっちだって無駄に振り回されるのはもうコリゴリなんですよ! いい加減私に有給休暇を使わせてくれたっていいじゃないですか!?」

 

休みを取ろうとするたびに仕事が出来るんですよ、あなたのお陰で…。

などと半ば本気でやるせなさを込めた絶叫を向けられると流石に気まずげに眼を逸らすしかない将悟。ちなみに媛巫女は可哀そうだけど王様のやることだし仕方ないよねと競りに連れられて行く子牛を見る目で忍者を眺めていた。

 

少しして正気に戻り恨み言を中断。長々とため息を付きながら最後の案件を促す。

 

「それで最後の四つ目は?」

 

「退院する。手続きよろしく」

 

ビシッと無駄に鋭く敬礼を決める馬鹿。

天を仰ぎ馬鹿に付ける薬って無かったかなと思案し始める甘粕。王様…、と悲しげに上目遣いで将悟を見る恵那。それを見て慌てて弁解を始める将悟。

 

「いや、本当に大丈夫なんだって」

 

と言ってホラ、と包帯やらなにやらを無造作に剥がし出す。それを慌てて止めようとする。甘粕の見立てでは魔王カンピオーネと言えども回復するまでもう一日はかかるだろう負傷だ。持ち直した以上そうそう容体が急変、などということは考えづらいがせめて全快するまで静養してもらいたいのが公人・個人どちらにおいても本音である。恵那は言うまでもない。

 

だが、

 

「ほらな?」

 

「…あれ?」

 

見ると既に包帯が取り除かれた場所からのぞく素肌には傷一つ残っていなかった。

ちなみについ三時間前まで全身に火傷や切り傷が残っているのを確認したばかりである。この一年、将悟の死闘による負傷と回復の経過を見てきたのは伊達ではない。明らかに今までとは怪我が治る速度が違っていた。

 

疑問を顔に浮かべる甘粕と恵那に向かって、

 

「種明かしはコレだよ」

 

と右腕を差しだす。よく見ると手の甲の当たりに走る傷が奇妙な光に覆われ、たちまちの内に傷跡が治癒していく。柔らかな温もりを放射する、よく晴れた日の陽光を思わせる光だった。

 

そうか。

太陽を思わせる陽光を見て甘粕は悟った。

 

「カルナから奪った権能ですか」

 

「ご名答」

 

やがて柔らかな光は将悟の全身を覆い、時間経過に伴ってどこかぎこちなかった全身のこわばりが融けるように消え去っていく。将悟は一つ頷くと軽やかな動作で身を起こし、ベッドから下りると全身を動かして不具合をチェックしていく。一通り身体を動かすと満足が行ったのか無駄に朗らかな笑顔を向ける。

 

「これで文句ないだろ?」

 

「…念のため検査を受けてください。それが済めば退院してくださって結構ですから」

 

「やっりー。王様、退院したら恵那と一緒に遊ぼうよ」

 

病院の関係者をどうやって言いくるめるか考え込んでいる表情で甘粕は仕方なく答えた。将悟としてもそこまで逆らうつもりはなく、素直に承諾する。恵那に至っては諸手を挙げて喜び、午後の予定を立て始めていた。

 

「それにしても回復の権能ですか…なるほど、だから病院に着くまで持ちこたえられた訳ですね」

 

病院へ搬送する途中で何度も心停止したがその度に奇跡的なリカバリーが起こっては再び心停止するという関係者としては胃が締め付けられる事態になっていたのだが、それを思い出した甘粕だった。

 

「一部当たりだが大部分ハズレだよ。回復“にも”使える権能だ」

 

「ははァ…言霊の権能に続いてまた汎用性のある代物を手に入れたと。一体いかほど手札が増えたのやら」

 

そこできょとん、と首を傾げる将悟。

まるで何言ってるんだこの人は、と疑問がありありと浮かぶ表情で。

 

「何言ってんだ甘粕さん?」

 

当たり前のことをわざわざ伝えなければならないことを、心底不思議そうに思っている様子で続けた。

 

「―――だからそれを清秋院相手に試すんだろ」

 

「おおっ、流石王様。ホント楽しそうなこと思いつくよねェ」

 

「…なるほど、委細承知しました」

 

無邪気に笑う魔王と媛巫女に頭痛を覚えながらも甘粕は思い出す。

赤坂将悟は『智慧の王』などという賢しげな称号を得ながらも普段は知性よりも動物的な感性の鋭さが目立つ『王』だ。だが同時に権能や魔術に関する研究と実験は赤坂将悟のライフワークでもある。そして彼の『実験』はしばしば騒動を引き起こし、世間を賑わせる騒ぎになることも珍しくはない。

 

今回も新たに得た権能の性能実験と称して神がかりの遣い手、清秋院恵那相手にまた一暴れするつもりなのだろう。

 

なんでこうカンピオーネという生き物は…、と彼らに関わった人間が一度は必ず思う慨嘆を甘粕もまた共有するのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして甘粕が立ち去り恵那と午後のプランを立てながら数時間経つと各種検査がとり行われ、結果は当然の如く体調不良の影すら見えなかった。

 

これで義理は果たしたとばかりに軽い足取りで恵那を伴って退院し(検査に立ち会った医師は怪物を見る目を向けていたが最低限の言葉しか交わさなかった。十中八九委員会から警告かなにかを告げられたのだろう)、午後は地元の名産品をふんだんに使った料理店で大量の料理を貪り喰らった。回復にエネルギーを使い果たしたせいか凄まじい空腹感に襲われた将悟が注文したのだ。ちなみに恵那は文句一つ言わず楽しそうに暴食の欲望を満たす将悟の横顔を見詰めていた。

 

あげく翌日には休み明けの憂鬱な気分を引きずりつつも在籍している私立城楠学院にもキチンと登校したあたり流石はカンピオーネ、デタラメな生命力とバイタリティである。

 

土日の休みに生きるか死ぬかの殺し合いをして生死の境を彷徨ってきたことなど欠片も思わせない自然体で過ごし、約束の三日後になると躊躇わず授業をサボった。しかも遠慮なく王様権限を濫用し、公欠扱いになるよう取り払わせてである。学業の成績は良い(無論卓越した霊視能力とマークシート方式テストの因果関係に由来する)ため一日二日くらいなら問題にならないとはいえ、大して後ろめたさを感じてないあたり倫理的な道徳観が薄い男なのだ。

 

ちなみに恵那の方は万里谷祐理の実家に泊まり込みつつ放課後になると帰宅路に待ち伏せて帰り道を共にしていた。遊びに誘われて承諾することもあった。といっても奔放な性格に反して散歩や剣術談義など割合大人しめなものばかりだったが。

 

将悟としても一年近い付き合いの中で恵那に対して持った認識は気の合う友人だ、まれにその一線を踏み越えて“女”を感じさせる言動を繰り返すが幸い“お妾さん”だの“都合のいい女”などとカルチャーギャップを感じさせる恋愛観の差が将悟の理性を保っている。

 

神殺しだの非常識な天災だの色々言われるが所詮は奥ゆかしい一夫一妻制に慣れ親しんだ島国の住人である。魔王と言えどその男女観、女性関係まで破天荒ではないのだ…。“後輩”が出来るまで将悟は素直にそう思っていた。

 

閑話休題。

 

約束していた三日目の朝には恵那と家の前で待ち合わせ、委員会の車に乗り込んだ。

 

道中は委員会のスタッフ(甘粕は今もデスマーチ中である)に乗用車の運転を任せながら爆睡。いつでもどこでもどんな状況でも三分以内に熟睡できるのは将悟の密かな特技であったりする。

 

そして乗用車が進む道はどんどん人気が少なくなり、道幅が狭くなっていき、ついには無舗装の山道に突入した。出発から三時間以上経過したあたりで、ついに目的地へと到着した。

 

外観は山間に建てられたやや老朽化した感のある旅館というのが近いか。スタッフ曰く、私有地に建てられた委員会に所属する人員のリラクゼーション施設なのだと言う。温泉も湧いているとか。

 

ここから10分ほど歩いた場所に人払いの結界が敷かれただだっ広くなにもない広場があり、そこは普段魔術や体術の訓練ができるよう開放されているのだと言う。今日は安全のため貸し切られており、思う存分暴れても良いらしい。

 

施設を一通り案内し、食糧の在処などを告げたスタッフは三時間後に迎えに来る旨を伝えると乗用車に乗り込み速やかに去って行った。巻き添えを喰らうのを避けたのだろう、賢明な判断である。

 

関わりたくないと露骨に態度で示された二人は思わず顔を見合わせて苦笑した。

 

「うーん…腹ごしらえをしてから始めても良いんだけど、実は三日前からこの手合わせ楽しみにしててさ。王様さえよければもう始めない?」

 

「おお、珍しく血の気が多いな。なにがあった?」

 

天叢雲劍を取り出して好戦的な笑みを無邪気に浮かべながら将棋に誘うくらいの軽さで太刀合わせに誘う太刀の巫女。さながら大型の猛獣が仲間同士で遊ぼうと誘っているような邪気のない笑顔だった。

 

「や、ちょっと前におじいちゃまと話してさ。男と女ってどんな時に仲が深まるのかなーって」

 

「…あのジジイそろそろ始末した方が後腐れないか?」

 

予想外の返答に嫌な予感をそこはかとなく感じながら、ある意味純真無垢な太刀の媛巫女に性質の悪い考えを吹き込む幽世の守護神の排除を検討する。些かならず魅惑的に思えてしまったのはやはり普段の人徳の無さからか。あの神様が口を出すと大抵ろくなことにならないのだ。

 

「おじいちゃま曰く分かり合うにはやっぱり身体を重ねるか生死を共にするか―――または互いに殺し合うのが一番手っ取り早いんだって!」

 

すごいでしょ、とばかりに須佐の老神から吹き込まれた現代の価値観にそぐわない知識を披露する媛巫女。もう突っ込みどころがありすぎて逆にどこから突っ込めばいいのか分からない台詞である。が、さしあたって問題が生じそうな部分をまず問いただすことにする。

 

「ちょっと待て。一番目と二番目は―――倫理上の問題はさておいてまあ分からんでもない。だが最後の三番目は明らかにおかしいだろ! 少しは疑問に思わないのか、殺し合いの部分とか!?」

 

「え、でもおじいちゃまは現世をほっつき歩いてたときにギリギリまで殺し合った相手がどんな奴か理解出来たって体験談を語ってくれたよ。王様も覚えがない?」

 

「あるか!? 俺も大概非常識だと自覚はしているがそこまで一線を越えて向こうにイッっちゃった奴じゃないぞ!」

 

何故か己を引き合いに出され全力で不本意だと訴える将悟。だが恵那は否定されることこそ不本意だと言わんばかりに、過去の事例を持ち出して持論を主張する。

 

「えー、でも前に東欧の侯爵様について恵那が意見を言ったら王様ってばやけに断定的に否定したじゃん。すっごい自信ありげだったよ。確か会ったのって一回だけだよね。しかも全力で殺し合った時の!」

 

「いや、それは、だな…」

 

…確かに、ヴォバン侯爵と邂逅したのはわずか一度、しかも話などロクに交わさずほぼ権能のぶつけ合いに終始したが関わり合った時間の短さの割にその人柄は嫌と言うほど理解できた。しかしそれはあの戦闘狂の強烈な個性を戦闘という密度の濃い時間の中でぶつけられたからであって…アレ、論破されてないか。

 

「なん…だと…」

 

まさか俺が一線を越えて向こうにイッっちゃった奴として自分で認めてしまった!?

 

「ほら、やっぱり王様も覚えがあるでしょ!」

 

どや、と鬼の首を取ったように勝ち誇って胸を張る清秋院。

思い返せばカルナとも和解とか話し合いだとかヌルイ妥協案は全く思い浮かばなかったが、その“英雄”たらんとする人格・こだわり・誇りを理解できたし今でもはっきりと思いだせる。

 

これは…つまり、認めざるを得ないのか…俺がキチ○イだと…!?

 

―――馬鹿なっ!?

 

「ええい、ナシだナシ。いまのはノーカン! 清秋院に言い負かされたと思ったけどそんなのは全部錯覚だったんだよ!!」

 

「ええっ、なにそれズルイ!?」

 

ひとしきり子供の悪口合戦にも劣る低レベルな水掛け論を繰り返したあと、腕に覚えがある者同士自然と話が一つの方向へ向かっていく。すなわち、

 

「勝った方が強くて正しい、これで文句ないな!?」

 

「乗った! 一太刀入れたら恵那の勝ちだからね!! あと言霊の権能もナシ!」

 

「ははは、魔王(オレ)に挑むか清秋院(ヒーロー)! 粉々に打ち砕いてくれるわ!」

 

なんとも笑えない将悟の悪乗りが過ぎる台詞。本来の趣旨を忘れつつも予定通りに進んでいく今日の目的だったはずの新しい権能の実戦試験。最早子供同士の意地の張り合いの道具と化した感があるが、対戦に臨む双方は神殺しと神がかりの巫女。

 

周囲に与える影響は割と洒落にならないのだがそれを自覚していない、あるいは自覚していてもブレーキを踏まず逆にアクセルベタ踏みかます連中なのだ。正史編纂委員会の苦労が偲ばれる光景だった。

 

額がぶつかり合いそうな距離で舌戦を演じていた両者は話がまとまった途端に俊敏な身のこなしで距離を取る。そしてそのままゆっくりと、かといって油断の欠片もなく例の決闘場へと歩調を合わせて歩いていく。

 

なにはともあれ、実戦試験を兼ねた意地の張り合いが始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《清秋院恵那》

 

“相棒”を手に決闘場へと足を向けながら、神がかりの遣い手は考えていた。此度の勝負、あるいは己の存在意義を問い直すいい機会かもしれない、と。

 

―――清秋院恵那は赤坂将悟にとって果たして如何なる存在であるだろうか。王の剣? 傍に侍る女? 気の合う友人? 恵那としてはその全てでありたいと思う。

 

では逆に清秋院恵那にとって赤坂将悟とはいかなる存在だろうか。決まっている―――全てだ。赤坂将悟はその存在だけで清秋院恵那が命を懸けて仕えるに足る王なのだ。

 

何故そこまでかの王に肩入れするのかと問われれば、恵那は答えに窮するだろう。根本的な原因は清秋院恵那という人間の特性と人格を形成する過程にまで遡れるからだ。

 

己がズレている、と恵那は昔から言われることがあった。恵那は子供のころから五感が人並み外れて鋭い上に理屈を抜きに最善手を選び取る第六感の持ち主だった。

 

人間が進化の過程で捨て去ったであろう獣の感性、それを恵那は先祖返りかはたまた媛巫女の血か生まれながらに強く獲得していた。その野生じみた感性がズレを生む要因だった。

 

見ている世界が同じでも、そこから生まれる感覚が異なるのだ。例えば肉食獣が獲物のはらわたを食い破る光景を見れば普通の人間なら嫌悪感を持つなり怯えるなりするが、恵那はその光景をあるがままに受け入れる。脅威として捉えても過剰に怯えることや嫌悪することは無い。

 

感覚のズレは認識のズレを生み、神がかりの修行のために深山に籠もるようになってから修正する機会も無く、いつの間にか普通の人間と恵那を隔てる深い溝が出来ていた。

 

恵那としてはそれを不満に思ったことは一度も無い。自由に、自分らしく振る舞えないなど馬鹿らしいにもほどがあったし、そもそも神がかりの基本は己を空とすること。普通の人間とズレているからどうこう、などと思うのは修行不足に他ならない。

 

そうした事情を差し引いても際立って優れているものは往々にしてどこかズレている部分があるのが普通だ。そういった意味では恵那はスサノオの巫女に選ばれた上に四家の一たる清秋院家の跡取りである。むしろズレていて当然と周囲からも看做された。

 

そんな経緯から赤坂将悟と出会うまで恵那は己と同じ感性を持った人間に出会ったことはなかった。

 

まっとうな人間から外れた、ヒトと同じ形をした一匹だけの“獣”。己はそういうモノなのだと恵那は諦観も高揚も浮かべることなくあっけらかんと認識した。

 

不満も、寂しさも感じなかった。万里谷祐理という友人もいたし、スサノオも庇護者として不足ない振る舞いをしてくれた。理解し合うことはできずとも楽しく交じりあうことは出来るのだ。

 

そして一年前日本に『王』が誕生し、スサノオの命により恵那は端女として『王』の傍に侍ることになった。

 

最初はどんな王さまであってもお仕えしよう、胤をもらいたいけど楽しければなおよし。そのくらいの気持ちだった。例え神さまとの戦いだろうと剣として役に立つ自信はあったし、実績も積み上げていた。

 

しかしその期待とも言えない無邪気な思いは良い意味で裏切られる。

 

初めてあった時にはなんとなく気になり、やがて共有する時間が増えるにつれて恵那は確信を深めた。すなわち赤坂将悟は己と同じ種類の“獣”。理性ではなく感性で、知識ではなく直感で真理を掴み取る智慧の持ち主であるのだと。

 

己の赴くままに行動しては騒動を巻き起こして暴れまわる、恵那以上の問題児。恵那に追随するどころか唖然とさせ、胸を高まらせる破天荒な振る舞いが恵那の中で眠っていた“女”に火を灯した。

 

深山のなか一匹で暮らしていた“獣”は遂に自らと同種の“獣”、比翼連理の一対、あるいは魂の“つがい”を見つけ出したのだ。一般的な“恋情”とはかなりかけ離れたその感情に、恵那は一瞬たりとも迷わず自ら進んで身を委ねた。

 

“女”として傍に侍りたいし、“剣”として戦場で彼の役に立ちたい、理解しあえる“友達”として遊びまわりたいとも思った。そのどれもが恵那にとって新鮮で、彼と会って話をするだけでドキドキした。

 

彼ともっと近しくなりたいと欲した。そしてその目論見は三分の一だけ成功した。

 

“女”として侍るのは認めてくれないし、なんの因果か“剣”としてはそれ程役に立てていない。唯一友人としての距離は縮まったといえるが…。生憎と清秋院恵那は自己の欲求に忠実な少女なのだ、だからもっと距離を縮めたいし、役に立って「よくやった」と褒められたい。

 

そう考えると今回の勝負、密かな好機ではあるまいか。

 

“女”としての魅力は一先ず脇において、“剣”としての恵那の力を認めさせる。いや、認めてはいるのだろう。だがともに戦うに値しないと思われているのではないか? 恵那が抱いていた密かな疑惑だった。

 

彼らが共通する戦場で戦うことが少なかった理由には巡り合わせが悪かったというのもあるが将悟が恵那を戦場に伴うのに消極的だったというのもあるからだ。今回の実戦試験という名の模擬戦に向けてやけに発奮していたのはそういう事情もあってのことだった。

 

故に清秋院恵那は考える。

 

天上の覇者たる神殺しに挑む不遜を承知の上で、必ずや勝ってみせん。そして我が魔王が戦場へ伴うに足る一振りの“剣”であることを認めさせるのだ、と。

 

己のアイデンティティに揺れる少女は上辺からは想像もつかないほどこの勝負に入れ込んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《赤坂将悟》

 

委員会のスタッフが伝えたとおり、10分ほどで例の広場に到着した。鬱蒼と生い茂った森の中に突然切り開かれただだっぴろい空間だった。

 

向かい合って程々に距離を取ると、無駄な口上を述べる気などない二人は早々に臨戦態勢に入った。

 

肩に背負っていた三尺を超える規格外の神刀、天叢雲劍を恵那が構える。彼女に加護を与える老神スサノオの佩刀であり、剣の形をした神。神に属する剣と魔王ということで嫌われている間柄だ。まあそもそもろくに話したことが無い訳だが。

 

「八雲立つ出雲八重垣、妻籠みに…八重垣作る、その八重垣を! 天叢雲劍よ、我が祈りに応え給え!」

 

神力をその身に降ろす言霊を唱えると、たちまちの内に恵那から《鋼》にして暴風の神たるスサノオの力が充溢していく。神力の高まりに応じて魔王の肉体もまた臨戦態勢に入る。

 

やはり初っ端から最大の切り札を切って来たか。

 

まあ確かに魔王相手では神がかりを使わねば対抗すらできないだろう。最も使いなれた言霊の権能を使えないが将悟は神殺し。互角の条件で戦えば百戦して百勝できる。

 

とはいえこの勝負は一太刀でも入れられれば敗北、しかも使えるのは掌握したばかりの新しい権能。もちろん殺さないように手加減は必須。これだけ縛りが入って神獣と同格の達人が相手では手こずることは間違いない。“殺し合い”なら神がかりの遣い手と言えども相手にならないがこうした“試し合い”ならば彼女は油断できない強敵と化すのだ。

 

清秋院恵那。

 

日本呪術界トップの四家の一、清秋院家の跡取りであり日本最高の霊能者集団、媛巫女の筆頭。神と交信し神力をその身に降ろす荒業、神がかりの遣い手でもある。

 

対外的には古老と清秋院家から差しだされた愛人、供物、または戦力として認識されているが将悟から見ればやたらと馬の合う友人以外の何物でもない。とにかく呼吸が合う、意見が合う、たまに行動を先読みされることすらある。割とその場のノリと欲求に従うまま生きている自覚がある将悟としてはここまで相性のいい人間と会ったのは初めてのことだった。

 

そして実はそこらへんに恵那との共闘する回数が少ない理由の一端があったりする。

 

山籠りやら海外遠征やらでタイミングが合わないのが半分、神さまとの相性を考え一人で戦った方が効率がいいと判断したのが更にその半分、最後に神さまと戦う“程度”の出来事で馬の合う友人を失うリスクを背負い込むのは割に合わないという露骨な個人的感情その他諸々が重なって低い共闘率となっていたのだ。無論神殺しの業として、己一人では荷が重いと判断した時は躊躇なく戦場へ伴っていったが…。

 

男女、互いの心知らず。

相性が良いくせにおかしなところで噛みあわない二人だが、いままさにその擦れ違いと意地の張り合いによって全力でぶつかりあおうとしていた。

 

実戦試験の名目で始まった模擬戦、まず仕掛けたのは先手必勝を好む太刀の媛巫女だった。

 

「行くよっ、王様!」

 

心に秘めた思いを外に出さず、快活に笑いながら風の速さと獣の身ごなしで瞬く間に間合いを詰める少女。十メートルはあった間合いがたった三歩で踏破され、駆ける勢いのまま上段からけれんのない唐竹割りをくりだす。この程度の斬撃で死ぬはずがないと思っているのか躊躇わず脳天の急所を狙ってきている。

 

凡百の達人なら反応叶わず頭頂から断ち切られる技量。

 

しかしいざ臨戦態勢に入ると薄気味悪いほど集中力が高まるカンピオーネの動体視力と反応速度ならなんとか避けられる速度にすぎない。

 

だが将悟は避けなかった。元を糾せばこれは掌握した権能がどれくらい使えるかを確認するテスト。何よりバカげた運動能力に任せて白兵戦を挑んでくる相手に一度くらいは思い切り殴り返してやりたいと常々思っていたのだ!

 

「不滅の生命たる我が命ずる。生を享け、生を謡い、生を寿げ。されば我は汝らに授けよう、遍く照らす太陽の恩恵を!」

 

掌握したばかりの太陽の権能を引き出し、制御するための聖句が自然と口から零れ落ちる。身の内から汲みだす呪力は権能によって変質・加工され、眼に入れてもまぶしくない、柔らかな燐光となって将悟の全身を覆っていく。

 

恵那もまた何らかの対策が取られることを予想していたため容易く鉄を断ち、神獣すらも傷つける神刀を一分の躊躇いもなく振り下ろす。

 

将悟は心なしか権能を使う前よりもゆっくりと感じられる恵那の唐竹割りを交差した両腕で真正面から受け止めた!

 

拮抗は一瞬にも満たなかった。

 

恵那が感じた手応えは骨が折れる固い感触ではなく、分厚いゴムを叩いたような天叢雲劍が弾かれる感触だった。まるで竹刀で防具越しに打ったかのような感触に一瞬だけ混乱し、その隙に神刀を受け止めた将悟が強烈なミドルキックを恵那に向けて繰り出した!

 

それをとっさに獣のような動作で後ろに飛び、四つ足で着地する。幸い当たっていない。しかし体重が存分に乗ったそれは直撃すれば神がかりした恵那と言えども軽く十数メートルは吹っ飛ばされていただろうと恵那の勘が伝えていた。

 

将悟は権能の性質上完全な中後衛型だが運動神経が悪いわけではない、ただ神さま相手に権能の補正なしで白兵戦を挑める技量には全く足りなかっただけだ。恵那もその技量をよく知らないが護身術レベルくらいなら修めていてもおかしくはない。

 

無論その程度では恵那が脅威と思うレベルには到底達しないが、カルナから簒奪した権能が将悟の身体能力に下駄を履かせ、恵那をして咄嗟の回避行動を取らせる威力に引き上げたのだろう。

 

権能の具現たる陽光を身に纏い対峙する将悟を見やる。手に握る天叢雲が緊張と警戒を伝えてくる。おそらく身体能力が段違いに向上している。それも神がかりを行った恵那に対抗できるほどに!

 

そしてかの権能の性質、おそらくかなり単純な理屈で動いていると直感する恵那。

 

「肉体を強化する権能かな? 病院では傷を治す力を、今の蹴りは身体能力を権能で強化した」

 

「…ま、外れてはいないと言っておこう」

 

蹴りを放った体勢のまま器用に肩を竦めて韜晦する将悟。だが生憎と恵那はそんな韜晦に付き合えるほど頭が良くないのだ。太刀の媛巫女が得意とするのは何時だって勘と野生に頼った遊撃戦なのだから!

 

「どうでもいいや! 次々行くよ!」

 

分析だとか戦略だとか出来なくはないが面倒くさい! それよりも神がかりで引き上げられた身体能力と野生的な危機察知能力で対処したほうがよっぽど早いし分かりやすい。いっそすがすがしいほどに単純思考。だがそれゆえに強く、速い。

 

再び俊足で間合いを潰し、真っ向から太刀合わせを挑む恵那。

 

なるほど、確かに将悟の身体能力は恵那に脅威を抱かせるほど高まっているだろう。だがそれは恵那もまた将悟に対して脅威であるのだとも言える。恵那の嗅覚は、あの太陽の権能は汎用性が高い故に個々の強化にそこまで劇的な効果が望めないだろうと嗅ぎとっていた。そもそも神獣すら圧倒できるほど強力なら恵那があのミドルキックを避けられたはずがない。

 

見せ付けられた運動能力に一切ひるむことなく、真っ向から振り下ろす。あっさりと避けられた。が、迷いを見せず次々と連続して斬撃を繰り出していく。

 

袈裟がけに斬り下ろし、斬り上げる。翻って太刀を振るう。

 

天衣無縫の闊達さで次々と繰り出される太刀の乱舞はそのどれもが予測不能。だが将悟の動きはそれ以上にメチャクチャだ、不可能と判断した体勢から光を纏った拳で迎撃し、時には目で見てから防御に移るなどという人間の反射神経に喧嘩を売る動きを披露している。

 

一見良く似ている風に思える両者の動きだが、達人が見れば一目瞭然な差があった。

それは技量、あるいは修練の量。

 

恵那の太刀が己をいじめ抜いて基本を収めたうえで敢えて型を崩した動きだとすれば、将悟の体術は最早習った型など何もない素人同然の動き、しかし引き上げられた運動能力が予測不可能な軌道を生み出すのだ。

 

似ているだけで、技量の差は明白だった。

だというのに近接戦は互角の戦況となっている。

 

恵那の振るう天叢雲劍はことごとくが回避されるか、四肢で防御される。時折権能の具現たる不滅の陽光を天叢雲で吸い取るが、元々神殺しの権能に通じるほどの威力はない。防御の上からでもそれなりに痛手は与えているようだが嫌がらせ以上のダメージにはなるまい。

 

デタラメな身体能力が恵那の神がかりと技量を帳消しにする働きをしているのだ。

 

嗚呼、と恵那は思う。

 

たった一つの権能を得ただけだと言うのに昨日まで武術のぶの字も知らなかった少年が、恵那が半生をかけて積み上げた修練をことごとく無に帰してしまう。なんという理不尽、なんというデタラメか―――それでこそ我が背の君(・・・・・・・・・・)

 

そうだ。

 

恵那が恋した少年は、デタラメで理不尽でハチャメチャで非常識で人外でなくてはならない―――そうでなくてはこの恋情が生まれることもなかったのだから!

 

むしろ喜びさえ感じながら喜々として太刀を合わせる恵那。まだだ、まだまだ。恵那はまだ半分も自分の力を見せられていない。

 

「倭は国のまほろば―――たたなづく青垣山ごもれる、倭しうるわし!」

 

一息に距離を取り、スサノオから賜った神力を行使する。将悟も受けて立つという姿勢なのか邪魔はしない、やや後退し素早く周囲の様子を確認するだけだ。

 

ありがたい、ただでさえ格上の相手になりふり構わずかかってこられたら付け入る隙さえなくなってしまう。

 

神力を行使して産み出すは暴風の権能、たちまちのうちに上空には濃い雨雲が立ち込め、ざあざあと雨粒交じりの強風が吹き始める。そう、恵那の武器は天叢雲と武芸だけではない。

 

スサノオの巫女たる恵那は暴風の神力をその身に降ろし、自在に操ることができるのだ。人間の術者が使う術などとは比較にならない、一風吹かせれば巨木をもなぎ倒す颶風を!

 

「いざ、尋常に勝負―――!」

 

とはいえこのまま暴風を叩きつけても桁外れの魔術耐性を誇るカンピオーネには通用しまい。将悟の虚を突くにはもう一工夫加える必要がある。

 

「我、いまこそちはやぶる御剣を振りかざさん! 一太刀馳走仕る!!」

 

そう、将悟へ使えないのならば―――己に向けて使えばよい。

 

渦巻く烈風を身に纏い、その背に吹き付ける追い風に助けられ、今までよりも明らかに速い身のこなしで斬りかかってくる恵那。今までも風のような俊足であったが、追い風に助けられる今は疾風の速度すら瞬間的に上回る。

 

流石にこの戦法は予想がつかなかったのか、見事に虚を突かれた表情。このテの奇襲は初見でこそ最大の効果を発揮する。叶うならばこのまま懐に入り太刀を衝き込む―――!!

 

恵那が魅せた決死の突撃戦法に見事、とばかりに獰猛な闘争心溢れる笑みを見せる将悟。ドンッ、と将悟を中心にほとばしった呪力の波が恵那の全身を叩いた。

 

その総身から活火山の爆発に例えるべき呪力が放出され、比例するかのようにひと際強烈な光輝があふれ出す! 神をも殺すほどの負けず嫌いが遂に自重をやめ、カルナから簒奪した太陽の権能を全開にしたのだ!

 

だからといって今更止まれるはずもない、恵那は乾坤一擲の心意気で更に暴風を強力に吹かせた。突撃の軌道が恵那自身細かく制御できないほどに!

 

―――両者の影が交差する時間は刹那に満たなかった。

 

両者の位置は間合いを詰め合い、激突したことでそっくりそのまま入れ替わっていた。両者は微動だにせず沈黙している…その光景は例えるなら西部劇のウェスタンガンマンの決闘、互いの銃声が一発ずつ鳴り響き、ギャラリーは息を飲んで勝負の結末を見守る―――。

 

張りつめた糸のような均衡が崩れ、ドサリと倒れ伏したのは……当然と言うべきか、清秋院恵那だった。今までの戦いは将悟が恵那を殺さぬよう力を抑えていたからこそ成り立っていたのだ。本気ではあっても全力ではなかったというべきか…。

 

故に抑制を開放し、最低限の理性を残して全てを刹那の交差に注ぎ込んだ魔王の前では神がかりの巫女とはいえ荷が重かった。紙一重の回避はカンピオーネの勝負勘に全てを任せ、交差する刹那に打撃を入れるのに全神経を集中。そしてそれは辛うじて成功した。

 

将悟の拳は恵那のわき腹にかすっていた。恵那が崩れ落ちたのはそのダメージによってだ。カンピオーネの振るう全力とはそういうものなのである。

 

逆に言えばそれほどギリギリの攻防だった。権能を全開にするタイミングが一瞬でも遅れていれば逆に恵那が見事に天叢雲劍を突き入れていてもおかしくはなかった…。いや、この勝負強さこそがカンピオーネである証なのかもしれないが。

 

ツツツ…と将悟の頬に一筋赤い線が入り、鮮血が流れ出す。唇の端にたどり着いた生温かい血液をぺロリと舐めとる。なんとも鉄臭い味だった。恵那の太刀もまた将悟にカスっていたのだ。

 

将悟は思った―――見事、と。

そして感じた、強烈な自己嫌悪を。

 

いまの心情を率直に表現するならその二つで十分であっただろう。格で言えば神がかりの巫女より神殺しの魔王たる己の方が遥かに上なのだ。本気を出さなくても勝てると思っていた己を恥じる……真剣勝負に手を抜くなど、何時からこんなにも己は腑抜けたのだと。

 

神、魔獣、同格の魔王。言葉で表現できない正真正銘の化け物たち―――奴らを相手に戦い抜くことが出来たのは、何時だって己の命すら躊躇わずチップに差し出し、運を天に任せずその剛腕で勝利の糸を手繰り寄せてきたからではないか!!

 

対して大事なことを忘れた己の隙を突き、全力を引き出した清秋院はなんと賞賛すればいいのかすらわからない。ただただ見事とか言えまい…。

 

 

 

……最早この試合が“試し合い”であったことすら忘却し、真剣勝負で青天井に上がったテンションに脳味噌をやられた馬鹿一匹。異常なまでに勝負事にこだわる傾向にある神殺しが陥りがちなある種の視野狭窄であった。

 

とはいえ勝負事にこだわるが故に馬鹿はプライドが高かった。そう、将悟は“一太刀入れられたら負け”なのである。そして頬には一筋の太刀傷…負けを認めるのに寸毫の不足もない。

 

ゆえにこの勝負。

 

「お前の勝ちだ、清秋院」

 

将悟は静かに負けを認め、勝者を称えた。

だがそれを認める者は誰もおらず、ここにいるのは『王』の裁定に反抗する剣客が一人。

 

「まだ…だよ」

 

「? 清秋院?」

 

「まだ恵那はなにも見せてない!」

 

ふらふらとした頼りない足取りで天叢雲を支えになんとか立ち上がる恵那。

わき腹にかすった程度とはいえ余波によるダメージもあり、負傷は決して軽くない。まともにヒットしていれば神がかりの巫女が即座に病院行き間違いなしの一撃である。その威力は推して知るべし。

 

「天叢雲劍に願い奉る! 今ひと度我に須佐之大神の御霊を降ろし給え!」

 

『応! 是所謂(これいわゆる)天叢雲劍也! ちはやぶる千釼破の鋼也!!』

 

ただ“剣”たることを望む巫女が願い、最源流の《鋼》である神刀が応えた。心身に流れ込むスサノオの神力が一時的に増大し、巫女の肉体が悲鳴を上げる。ただ一撃、いま振るう最後の一太刀を放てることさえできればいい。だからそれまででいい、保って―――!!

 

意識が届く限り轟々と暴れ回る風を統御し、一か所に集めて圧縮していく。圧し固めて、圧し固めて、圧し固めて、圧し固める。圧縮されつくした大質量の空気が光すら歪ませ、うっすらとその巨大な輪郭を形作る。

 

―――それはまさしく暴風からなる破城鎚。

―――抗う愚者を余さず打ち砕き、蹂躙し尽くす神威の鉄槌であった。

 

恵那は最早言葉を発することさえ辛そうな様子で今にも弾け飛びそうな破城鎚の維持に全精神力を注いでいた。この大技、神獣にすらノックアウトするであろう強烈な一撃だが制御をしくじればたちまち超圧縮された大気が荒れ狂い、さながら大量の爆薬による爆発と等しい衝撃をまき散らすだろう。

 

無論至近距離に位置する恵那の肉体は無残に引き裂かれ、あっという間にボロボロになるのは間違いない。

 

将悟としては可及的速やかに止めたい、カンピオーネだろうと無傷で助け出すにはかなり厳しいからだ。が、どうも下手に手を出せばそれをきっかけに暴発しそうなギリギリ感が濃厚に漂っている。爆発物処理班の気分が嫌と言うほど味わえる状況だった。

 

加えて圧縮に次ぐ圧縮を施した莫大な質量の大気の処理にかなり手間がかかるだろうが恵那の体調を考えると悠長にやっている時間はない。

 

―――わざと撃たせて真っ向から潰す

 

それが一番手っ取り早くしかも比較的安全であると将悟は一瞬で決断した。両者の命にも関わる決断を一瞬で為すことができる、これもまたカンピオーネの資質なのかもしれない。

 

間違いなくこれが今採りうる最適解だと判断した。

 

「来い、清秋院! 撃ってこい!!」

 

「あっ…」

 

だがなにより受け止めてやらねばと思ったのだ。悲壮ささえ感じさせる泣き顔で満身創痍に鞭を打ってなんとか立っている恵那の思い、そして全てを振り絞った一撃に!

 

「あ、あ…うああああああああああぁっ!!」

 

駄々をこねるように、積りに積もった感情をぶちまけるように喉も裂けよと絶叫を挙げる恵那。普段なら飄々とした立ち居振る舞いで隠し、決して表に出さないだろう激情を今この時ばかりは思う存分に吐き出す。

 

―――轟、と。

 

放たれるは人の身で望みうる最強の奇跡、かつてランカスター城を一撃で粉砕した聖騎士パオロ・ブランデッリの突撃に比すべき暴風の鉄槌だった。

 

迎え撃つは眩いほどに輝く黄金の剣。言霊の権能で『創造』した剣に不滅の陽光を宿した神獣すら一振りで斬り伏せる太陽の太刀。

 

刹那の間を置いて鉄槌と剣はぶつかり合った。

 

驚くべきことに暴風の鉄槌は魔王の全力が込められた剣と数秒間とはいえ拮抗したが、やがて暴風の神力は太陽の剣に屈した。ものの見事に真っ二つに断ち切られ、解放された大気が颶風となって荒れ狂った。余波が木々を揺らしたがカンピオーネの魔術体勢の前には微風と同じだ。

 

(負けちゃったなァ…)

 

元々勝てるはずもない力比べだった、だが今はなんとも言えぬ爽快感が残っていた。溜まっていたものを思い切りぶつけ、そして正面から受け止められたからかもしれない。

 

(あー…なんか気が、遠く…)

 

満足感と爽快感を抱きながら目の前がどんどん暗くなっていく。そして今度こそ精魂尽き果てた恵那は意識を薄れさせながら静かに気を失ったのだった。

 

 

 

ちなみに。

最後に見せた暴風の破城鎚で全精力を使い果たし、直前の負傷も相まって倒れ込んだ恵那に焦った将悟が委員会に連絡するも携帯の電波が届かないことに遅れて気付き、施設へ大急ぎで取って返し固定電話を探し回ったのは完全な余談である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《赤坂将悟》

 

恵那との模擬戦が行われた同日の夜半、将悟の自宅にて―――。

 

己以外の家人がいないだけでやけに広く感じる自宅で将悟はパソコンと向き合っていた。脇に置いたメモに目を走らせながら、調子よくキーボードに打ち込んでは見直し、なにがしかの文書を作成しているようだった。

 

メモに書かれているのは昼間の模擬戦の経過。どうもカルナから奪った権能についてのレポートを纏めているようだ。やがてキーボードを打ち込むのをやめ、独り言を呟く。

 

「…予想はしていたが掌握は進まなかったな。流石に荷が勝ちすぎたか」

 

模擬戦で披露したのは既に何となく“できるだろう”と思っていた権能の使用法ばかりで、あわよくば更に深い部分まで掌握したかったのだがどうにもムシのいい期待は叶わなかった。

 

まあ権能の掌握というのは把握している部分の権能を用いてもどうにもならない状況で起こることが多い。“今のままではどうにもならない”から“どうにかしよう”と新たなステージに駆け上がるのだ。『電光石火』の攻撃形態『黒き雷霆』然り、『死せる従僕の檻』を応用した復活劇然り。

 

そんな状況、言うまでもなく神様相手との殺し合いくらいしかありえない。太刀の姫巫女と言えどもそれを望むのは酷すぎるだろう。

 

と、一人ぼんやりと考え込む将悟の背後からするすると影が忍び寄っていく。抜き足、差し足、忍び足。足音一つ立てない、それどころか空気の揺れさえ最小限に抑える手練れの隠行。

 

優秀なスキルを活用し、パソコンに向かう将悟の真後ろに立った。そして音もなく両手が手刀の形で将悟へと向けられ―――、

 

「だ~れだ?」

 

目隠し。

突然目の前が真っ暗になった状態の将悟だが慌てることなく口を開く。家族はいないが、今日のお礼に夕食に誘ったのが一人いるのだ。奮発して外食にしたのだがお嬢様らしい上品さをいかんなく発揮しつつもかなりの量を平らげ、満腹になって家まで付いてきた挙句ソファーでゴロゴロしていたはずなのだが…。

 

「…消去法で考えると該当者は一人なんだが? というかいきなりなんだ? 清秋院」

 

「えー、恋仲の二人がよくやる遊びだって雑誌に書いてあったよ」

 

だからいいよね? と邪気のない笑みで既成事実を成立させようとする恵那。どんな雑誌だ、と突っ込み、はぐらかす将悟。どちらも慣れたものだった。

 

「ちなみに冷たくあしらってきたら恥ずかしがってる証拠だからどんどん積極的にアタックすべしだって!」

 

「清秋院、賭けてもいいがその雑誌はいわゆる三流ゴシップ誌とかいう当てにならないデマ情報を山ほど乗せた紙くずだ。というか嫌よ嫌よも好きのうち、というのは大抵の場合ストーカーや性犯罪者がよく使ういい訳だからな?」

 

言うまでもなく将悟の知り合いにここまでゴーイングマイウェイな真似をしてくるのは一人しかいない、度胸的にも技術的にも。本来ならば神がかりの後遺症と模擬戦のダメージのダブルパンチで静養していなければならないはずの清秋院恵那だった。どんな手品を使ったのかやけに元気溌剌としている。

 

そりゃ野生の獣並みに隠行が上手い恵那がその無駄に優れたスキルを存分に活用すれば、元が一般人である将悟が気づけるはずがない。もとは気配だとか武術だと無縁に育ったパンピーなのだ。

 

恵那のペースに付き合っていては話がちっとも進まない。レポートを纏めている最中ではあったが将悟はしばらく彼女との雑談に付き合うことにした。

 

「そういえばそろそろ山に籠るんだったか?」

 

「あー、うん。あんまり俗世の気が溜まると神がかりが上手く使えなくなっちゃうから」

 

普段から五穀を断ち、己を苛め抜かなければたちまちスサノオの巫女たる資質が薄れてしまうのだとか。故に彼女はあまり長い間人里に下りていることが出来ないのだ。

 

特に今回は色々遊んだり美味しいもの食べたりしたから俗気が溜まるの早かったしねー、と恵那。

 

本来なら高校に通って友人と楽しい時間を過ごしているべき少女が身を置くには過酷すぎる環境。だが恵那は骨身に染みた苦労も血の滲むような努力もまるで無かったことのように見せることなく飄々と笑う。

 

「赤坂さんも何時か一緒に行こう、恵那しか知らない本物の秘湯があるんだよっ」

 

資質があり、それを育てる環境に生まれたというのが間違いなく一番大きな要因だ。媛巫女として神話の災害たる『まつろわぬ神』撃退を義務付けられているというのもあろう。

 

だが自惚れでなければ恵那が自らに一層苛烈な修行を課しているのは、少なからず己の存在が関わっているのだろう。恵那が向けてくる好意が本物であることは…というかそんな裏表のある真似ができる性格ではないのは分かりすぎるほど分かっている。

 

将悟はいままで己一人で十分だと判断した相手には恵那を敢えて伴わず戦場へ向かっていった。無用な危険に晒させないためである。そのくせ神殺しの業として一人では厳しいと感じた強敵には躊躇わず恵那を使った。

 

(我ながら業の深い…いや、とんでもないロクデナシだよなァ)

 

危険から遠ざけながら、己の都合で危険に晒す。ダブルスタンダードもいい所だ。己の矛盾を自覚していたからこそ一層恵那と顔を合わせづらかったのではないか。カルナの一件、確かに緊急性の高い問題だったが到着して時間を置く素振りすら見せずすぐに挑んだのはそうした心理も関係していなかったか?

 

自問する。

 

今回の恵那の暴走ともいえる感情の発露だが、己の持つ矛盾に目を向け恵那との関係を見直すキッカケにすべきではないか? 

 

自問する。

 

少なくとも本当に危険な局面で巻き込まないという選択肢を持たない以上、恵那の立ち位置を今の友人とも共闘者ともいえる曖昧なものから“命を預け合う仲間”へと改めるべきなのだ…。

 

「どうしたの? なにか悩みごと?」

 

下から上目遣いにのぞき込むように見つめてくる恵那。合わせる顔がなく思わず目を逸らしてしまう、それがますます疑念を呼んだのかジーっと強い視線を向けてくる。

 

「…いや」

 

清秋院恵那は将悟が思っているよりも強く、将悟は自分が思っているより未熟な魔王だった。成り上がってから一年の新米だから未熟なのは当たり前だが、ともに戦う仲間に対してはどうだっただろうか?

 

そろそろ巡り合わせが悪いという言い訳を止め、腹を決めるべきではないか?

 

神さまとの戦いは過酷と言う言葉では追いつかない。死ぬかもしれない、守りきれないかもしれない。それでも俺に付いてこい(・・・・・・・・・・・)―――きっとそう言葉に出して求めるべきなのだろう。

 

「これからもよろしく頼む。そう言いたかっただけだ」

 

今はこれで精一杯。

だが次こそは絶対に―――。

 

「変な王さまー。そんなの恵那ならこう返すに決まってるじゃん」

 

カラカラと快活に、しっとりと淑やかに。

相反する要素を渾然一体に溶け込ませて笑みを浮かべながら恵那は誓うように、当然のように告げる。

 

「幾久しく御傍に。例え御身の往く王道が血に濡れ、死で塗れていようと」

 

将悟は二人の距離を隔てる己の心の重石が一つ、崩れる音が聞こえた気がした。

 

 

 

 

 




ヒロイン不在と言ったな。あれは嘘だ…

うん、甘粕さんと野郎二人で枯れた会話を書くつもりだったのに恵那を絡ませると筆が進むこと進むこと。書き出す前は予定しなかったヒロインの位置すら獲得しやがったでござる。ポルナレフさんの出動を要請するレベル。

本来なら恵那の登場はササッと済ませてアリスとの交渉に移り、過去語りへとシフトする予定だったんです。この話は『英国争乱 前編』だったはずなのに恵那に関する分量が増えまくり遂に幕間として一話ぶんどりました。約二万字ワロス

どうしてこうなった…書いてて一番思った感想はほんとコレです。正直思いつくままに筆を滑らせたので楽しかったけどなんか矛盾、キャラ崩壊が出てるかもと危惧しています。なにか発見したら感想の際に一言付け加えていただければ出来る限り修正したいと思います。

まだまだ後書きを連ねたい気もしますが既に蛇足な気もしますのでここらでシメます。

感想くださった方、お気に入り登録していただいた方にこの場を借りてお礼を申し上げます。
次回もよろしければ読んでやってください。

P.S.
仲間に対しては護堂さんよりダメダメなうちの王様ェ…。


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英国会談 ①

今回は短いです。


 

 

英国、ヒースロー空港。

多くの人が行きかう空港のロビーの一角で十数時間前に日本を発った飛行機に乗ってきた二人が顔を挙げるのも億劫だと言う風にぐったりしていた。控え目に言っても大変見苦しい風情である。

 

言うまでもなく賢人議会前議長との会談のために渡英した赤坂将悟と正史編纂委員会の代表として来た甘粕冬馬の二人だ。魔王に忍者と言うどちらも異色のプロフィールの持ち主のため体力は人並み以上にあるのだが、流石にこの類の体調不良は避けられなかった。

 

両者とも時差ボケに苦しみながらなんとか移動しようと動き出す。この避けようのない苦しみを治すにはさっさとホテルに行って寝てしまうのが一番早いのだ。全身にわだかまる倦怠感をなんとか振り払い、予約していたホテルへ向かう足を確保するためにタクシー乗り場へと歩いていく。その際、国際色豊かな人種がたむろするロビーを一瞬だけ振り返った。

 

懐かしいものだな、と胸中で一人ごちる。

 

よくよく思い返してみれば“あの男”と初めて遭ったのもこの場所だったか。赤坂将悟がカンピオーネとして新生してから最初に戦った超の付く強敵。エメラルドの邪眼、獰猛に笑う巨狼、生気を失くした死者の軍勢。少し意識を過去に向ければ今も鮮やかに思い出せる激闘。三〇〇を超える齢を重ねながら老人のひ弱さとは無縁の戦うために生きている男。戦を愛する古き王。

 

約一年前、イギリスの何処かに今も封印されているまつろわぬ神を巡って生じた一連の争乱。一柱の神が災いの種となり、偶然と必然も相まって三人の魔王が英国を舞台に暴れ回った。

 

『英国魔王争乱』の名で欧州魔術界に若き魔王、赤坂将悟の存在を強烈に刻みこんだ事件だった。

 

あの時結んだ縁の多くは今も続いている、順縁・逆縁いずれにしても。

これから会談に臨む女性もあの時の一件で縁を結んだ一人だ。

 

ゴドディン公爵家令嬢、プリンセス・アリス。欧州最高の貴婦人、類稀な美貌と霊能力を併せ持つ最も高貴な女性などと称されるやんごとなき方―――。

 

というのが一般的な見方で別に間違ってはいないのだが、実物は上の文句から想像出来るおしとやかなお嬢様像とはかなり対極に位置する人柄である。上辺からは想像できない曲者で、神や神殺しが起こす騒動を楽しんでいるそぶりすらある奔放な性格。ちなみにこれでもかなり控えめな表現だ。

 

彼女が所属する賢人議会とはそれなりに繋がりがあるが、ヴォバン侯爵などカンピオーネの脅威からイギリスを守護するため発展してきた経緯があるためやはり組織全体に神殺しに対して忌避感が根強い。なのでこれまでも揉め事が起これば必要に応じて賢人議会が将悟に出動を要請し、代わりに協力者を提供すると言う限定的な協力関係に留まっていた。

 

協力するが過度に馴れ合わない、要するにそんな関係だったわけだが今回の会談が成功すれば両者の距離は一気に縮まり、あるいは同盟関係に発展するかもしれない。少なくともまた欧州魔術界をお騒がせすることは間違いないだろう…。

 

が、そうした周囲の騒ぎは将悟にとってどうでもいい話だ。知ったことではない。

 

赤坂将悟も他のカンピオーネの例にもれず体育会系・右脳人間・根は野蛮人・肉食・大雑把という特徴を持つ。身も蓋も無く言えばこいつに政治的な影響を考えて行動しろと言うのは樹上の猿に地上で走れと言うのに等しく、加えて本人にまるでその気がない。

 

そうした将悟の性格と適性に対し、ある意味本人より把握しているのが正史編纂委員、甘粕冬馬だろう。

 

普段はまともでございと何食わぬ顔をしている癖に自分の興味やこだわり、命の危機などである一線を越えると途端に自重という言葉を忘れて暴れ出す傍迷惑な『王』。その前科は数知れず。少し遠出をすれば必ずと言っていいほどトラブルに巻き込まれ、彼自身がトラブルの種を作るのも珍しくない。神様関連のトラブルバスターでありながら彼自身がトラブルメイカー。

 

恐ろしく傍迷惑で、彼の齎す騒動の後始末に奔走したことは数知れず。その癖本人はケロッとした顔をしているのだから始末が悪い。だが自分の身内と判断したカテゴリには割と露骨に甘い。そして幸か不幸かかの王は己を引いた線の内側に置いてくれているらしい。

 

王の信頼を勝ち取り、比較的その操縦法を心得ている甘粕はきっとこれからも彼の上司とお付きの魔王に容赦なくこき使われていくのだろう。だが不思議と原因である彼から遠ざかろうと思わないのは、カンピオーネが有する奇妙なカリスマ性に色々麻痺してしまっているからか。

 

己の心境を顧みた忍者はやれやれと困ったように被りを振るしかない。総合的に判断するとどうも甘粕は赤坂将悟という少年王が嫌いになれないようだった。

 

……が、それはそれ、これはこれ。仕事は仕事である。

 

今回の件を企てた本人からあらかた会談で持ちかける内容について聞いていたが、一手間違えればかなり荒れることになるのは間違いない。今回の会談に関して己はあくまでも正史編纂委員会の代表なので普段のようにはフォローし辛い。決して交渉が上手いとは言えない王の性格を思うと、なんとかつつがなくいって欲しいのだが…。

 

(フラグ乙…ですかねェ)

 

会談を持ちかけた当人のトラブルメーカーっぷりを思い出すとどうにも儚く思えて仕方がない。とはいえ今の時点では心配してもどうにもならない問題である。甘粕はこれ以上考えるのはやめ、一時棚上げすることにした。将悟のお付きとなって以来、仕事量が格段に増えたためか自分では処理できない案件に対しては無駄に気に掛けない癖が付いていた。

 

故に今ここで甘粕に出来ることなどさっさとタクシーでも捕まえて予約していたホテルへと向かうことくらいだ。一足先に出口へ足を向けていた将悟を追って甘粕もまた早足で歩きだす。

 

ここ数日労働基準法に真っ向から喧嘩を売るデスマーチ中だった上に時差ボケのせいもあって空の上でたっぷりと睡眠をとったのだがまだ寝足りない。さっさとホテルへ行ってチェックインすることにしよう…。

 

もちろんこの夜は数ヵ月後、同伴する仲間(全員美少女)と同じ部屋に宿泊する後輩魔王と違い、野郎二人が特にトラブルも華もない一泊を過ごすだけで終わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ホテルで一泊し、体調も何とか平常に戻った二人。帰国する時にもう一度同じ苦しみを味わわなければならないことを考えると憂鬱な気分にならざるを得ないが、なにはともあれ今は会談に集中するべきだ。

 

これから会談に臨む相手であるプリンセス・アリスの病弱な体調は有名な話だ、特に六年前から一層顕著になり賢人議会議長の座も退いたという。まあ退屈に死ぬほど飽いているあの姫君のことだから、久しぶりに暇つぶしの種が出来たと内心で大喜びしているだろう。そう考えるとむしろいいことしたなと思えるから不思議だ。

 

時間に余裕を持ってホテルを出て適当に走っているタクシーを捕まえ、行き先を告げると運転手には不思議そうな顔をされた。まあ見かけはごく普通の日本人二人(片方は未成年)がロンドン屈指の高級住宅街ハムステッド、それも観光名所ではなく個人宅の名を出せば不思議に思われるだろう。到底あの界隈の住人と釣り合うようには見えない。

 

疑問は持っただろうが教える義務も無いので黙殺、運転手もマナーは心得ているのか多少雑談に興じたがプライベートに関わる話題を出すことはなかった。

 

しかし目的地に到着すると運転手はますます不思議そうな顔をした、古城じみた邸宅に広い敷地と庭、四階建ての建物、しかも四つの尖塔付きと周囲の住宅と比べて全く見劣りしない立派な外観だったからだ。本格的にこいつらは一体何者だと言う視線が向けられたがその程度で貫けるほど二人の面の皮は薄くない。

 

外国人と思えない流暢な英語で料金を丁重に支払うと、タクシーがそれ以上そこに留まっている理由も無くなり、速やかに去って行った。あるいは関わるべきでないという勘が働いたのかもしれない。

 

到着を知らせる呼び鈴を鳴らすべく広い門に近付いた二人だが、こっそり見張っていたんじゃないかと言いたくなる絶妙なタイミングでミス・エリクソンが現れ、邸宅内へ招き入れた。

 

ミス・エリクソン。容姿は30代の白人女性、きつい顔立ちに細身のフレームをかけた厳格な女教師といった風情。この邸宅で女官長を務めているお目付け役であり、アリスの腹心である。

 

「お久しぶりです、赤坂様。本日は魔王であらせられる御身にわざわざロンドンまで出向いて頂き…」

 

そのままミス・エリクソンの堅苦しい挨拶を聞き流しながら、アリスの元まで案内を頼む。明確な敵意すら浮かべている相手の挨拶など聞いていてちっとも楽しくないのだ。何度かアリスが外出するための“説得”に協力したのを根に持っているのかもしれない。

 

隔意を示しながらあくまで丁重な物腰でミス・エリクソンは歩いていく。そのまま邸宅に入るのかと思ったがどうやら見事に手入れされた庭園へ向かっているようだった。今回の会談はどうも外で行うつもりのようだ。

 

見目が美しく、過ごしやすいよう丁寧に管理された庭園に用意されたテーブルと四脚のチェア。その一つに優美な外見の、正に貴婦人と表現するべき若い女性が座っていた。

 

この時点で将悟は彼女がアストラル体であることを悟る。まず間違いなく彼女の本体はいまも邸宅の一室で眠りに就いているだろう。

 

面倒だな、と内心で一人ごちる将悟。

 

例えばアリスの幽体分離、あるいは太刀の媛巫女とその佩刀。

賢人議会、正史編纂委員会。双方と繋がりのある将悟はどちらの機密もかなり知っているが、それらを両者に晒すことなくこの会談を終えなければならない。今回はそうした部分に多少なりとも踏み込むので正直言葉を選ばなくてはいけない現状が面倒くさくてたまらない。

 

が、多少面倒でもなんでもやらねばならない。将悟の目的を考えれば打てる手は打てるだけ打つべきで、賢人議会が長年にわたって蓄積してきた知識を得られれば間違いなくプラスに働くはずなのだから。

 

そんなことを考えながらアリスへ向けて歩いていく。こちらに気付いた玲瓏な美女が立ち上がり、素晴らしく優雅な仕草で将悟に向けて一礼する。欧州最高の貴婦人、その称号に偽りなしと誰もが納得する立ち居振る舞いだった。

 

「こうしてお会いするのは久しぶりですね、赤坂様。先日、二柱目の神を弑し奉ったと仄聞致しました。神殺しの王道を順調に歩まれているようですねっ」

 

鈴が転がるような透き通った美声。微かに楽しげな気配を漂わせた悪戯っぽい笑顔。いや、おそらく真実楽しんでいるのだろう。彼らカンピオーネが引き起こす騒動はほぼ軟禁状態に等しいプリンセスにとって良い暇つぶしの種なのだ。

 

それにしても相変わらず耳が早い。遠く離れた極東の出来事すらも把握しているとは。流石に詳細までは掴んでいないようだが…。

 

「久しぶり。まあ、姫さんも“相変わらず”なようで」

「赤坂様こそレディの扱いがぞんざいなのはお変わりないようですね」

 

互いに一刺し、からかうように言葉を交わし合う。二人の顔に浮かぶのは稚気の笑み。これで意外とこの二人の相性は悪くないのだ。いつもならもう少しこのやり取りは続くのだが、普段と違って今回は会談の場である。普段より真面目に構えているのか、初対面の甘粕に視線を向ける。

 

「そちらの方は日本の正史編纂委員会の方ですね。初めまして、ミスター。アリス・ルイーズ・オブ・ナヴァールです」

「お初お目にかかります、プリンセス。ご丁寧なあいさつ痛み入ります。正史編纂委員会、東京分室室長補佐の甘粕冬馬と申します」

 

淑やかに挨拶を交わすアリス。普段の飄々とした軽薄さは為りを潜め、背筋をピンと伸ばして受け答えをする甘粕。二人が被っている猫の大きさを知っている将悟としては違和感が凄いのだが、礼儀は社会の潤滑剤である。別に害も無いのだし構うまい…。流石にここで突っ込みを入れるほど空気が読めないわけではなかった。

 

ミス・エリクソンも交えてひとしきり挨拶が済むと四人はそのままチェアに腰かけ、しばし他愛のない世間話をする。まあもっぱら喋っているのはアリスと将悟だったが。当たり障りのない話が大半だが、そんなものでもアリスの関心を引くには十分らしい。興味深そうに耳を傾け、時折質問をしている。

 

「…それで、今日のご用件はなんでしょうか?」

 

しばし和やかな雰囲気で時間は流れるが、頃合いと見たかアリスは遂に話を切り出した。将悟も心得たように真剣な眼差しに切り替え、対面の姫君を見据える。左右に座った甘粕とミス・エリクソンもまた気を引き締める。ここから会談が本格的に始まるのだ。

 

「ん、本題の前に聞きたいんだが『投函』で送ったものはもう読んだ?」

「ええ、カンピオーネ直筆のレポートが読めるだなんて前代未聞でした! しかも自分の権能について、一部とはいえ晒してしまうのですから」

「考察の部分を全部抜いて引き起こした現象を箇条書きに記述しただけのレポートとも言えない代物だけどなー。それに知られて困る類のものでもない」

 

先日清秋院恵那との模擬戦を経て将悟が自分なりにまとめた太陽の権能のレポート。その極一部分を『投函』の魔術でアリスの元へ送りつけていたのだ。

 

「姫さんは、この権能をどう見た?」

 

ゆっくりと、試すように一言一言慎重に発言する。目の高さに上げた手に宿るのは穏やかな光、遍く照らす太陽の慈愛。そんなイメージを抱かせる柔らかくも力強い輝きだった。

 

「なにか意味があるようですね。分かりました、お付き合いしましょう」

 

遠回りに話を進める将悟になにか思惑があると感じたのか、素直に口を開くアリス。彼女は若いながら賢人議会議長も務めた才媛、すなわち神秘学における知の権威でもあるのだ。元々こうした謎かけや問答めいた会話が好きなのかもしれない。

 

「起こした現象だけを見て共通点を見出すならばやはり“強化”する権能に思えます…運動能力、自己治癒能力、剣の切れ味と威力……でも本質は違う。権能を使用することで結果的に威力・効果を強めている、そんな気がするわ」

 

気がする、という曖昧な言葉でしめている割に確かな自信が言葉の端々に漏れている。ぼんやりとした視線はどこにも焦点があっておらず、何処か浮世離れした表情。霊視が来たか、と慌てず観察する。

 

プリンセス・アリスは世界最高峰の霊力の所有者であり、霊視の資質も一級品だという。そして手元には魔王直筆のレポート、目の前には権能の所有者である魔王本人。既にここはかなり霊視が降りやすい場となっているのだ。元々こうなることを期待して敢えて最低限の情報に絞ったのだが、実際に霊視が降りるかどうかは運否天賦。幸運だったと言える。

 

「…レポートの末尾には、言霊の権能で『創造』した円環(サークル)に太陽の権能を込め、その内部で休息させることで赤坂さまとの模擬戦に付き合った術者の極度の疲労を回復させたとある……これはただ自己治癒能力を強化するだけでは出来ない芸当です。ただ強めるだけでは失った体力を取り戻すことは出来ないのだから」

 

その通り。本来なら模擬戦の後に病院へ直行していなければならないはずの清秋院恵那が元気一杯で動き回ることが出来たのもこのお陰だった。

 

「故にこの権能は“強化する”のではなく“与える”類の権能だと推測します。そして“太陽”と“与える”…この二つのキーワードを組み合わせるとなんとなく思い浮かんでくるものがあります」

 

ここで初めてアリスは将悟の方を見る。射抜くような視線だった。

 

「“生命(・・)”。神話世界において太陽とは生命の象徴。暖かな光は生命を生み出し、育み、栄えるための源となる。太陽が与える恩恵がなければ生命は存在することができません。多くの文明で冥府が地下にあると考えられたのは生命の象徴たる太陽の光が決して地下に差さないことと無関係ではないでしょう」

 

アリスの口調は最早託宣じみており、神々しささえ感じられた。普段の姿がいかに親しみやすく奔放で、お転婆であろうとやはり彼女は“姫”なのだ。

 

すなわち、と巫女姫は続ける。

 

「貴方が得たのは生命力とでもいうべき未分化のエネルギーを与える権能ですね」

 

そうアリスは告げて授かった霊視を終えた。

全て聞き終えた将悟は降参だ、とばかりに両手を挙げる。

 

「まったく、何から何まで見抜かれるとは思わなかった。流石だ」

「偶然ですよ。霊視とは気紛れに降りてくる天の囁き。聞き取れたのは幸運でした」

 

フゥー、とため息を吐くアリス。アストラル体なのだから肉体的に疲れることはないはずだが精神的な疲労を表現したかったのかもしれない。しかし権能の本質はおおむねアリスが霊視した通りだった。

 

カルナから簒奪した太陽の権能。

アリスが霊視した通り、その本質は生命力とでも言うべきエネルギーの付与である。

 

アリスは未分化と表現したが……未分化とはつまり何にでもなれるということ。何にでもなれるが故に与えられたものと容易く同化し、その働きを飛躍的に強めたり、失った体力を補填することができる権能なのだ。その応用範囲はほぼ無限、自己や他者の肉体のみならず剣の切れ味のような非生物的な対象にも手が届く。

 

この権能は単独でははっきりいって何の役にも立たない代物である。しかし他の手札と組み合わせればその応用範囲は規格外と言えるほどに広い上に、神との戦闘に通用するほどに性能を引き上げる。神殺しとは言え平凡の枠を出ない将悟の運動能力を神がかりの巫女と鍔迫り合うまでに引き上げたように。

 

とはいえ現時点では今まで使えなかった札が神との実戦に耐えるようになった、というだけである。手札の数が増えたからと言って切る場面を間違えれば何の役にも立たないのは変わりがない。

 

そういう意味では言霊の権能に引き続きとても“らしい”権能だと言える。

 

閑話休題。

 

将悟は今回の会談においては太陽の権能、その本質を賢人議会側に理解してもらうのが最も難しい部分だろうと予測していた。そのため霊視によって一足飛びにその段階を飛び越すことが出来たのは将悟にとっても僥倖だ。

 

此処を納得させなければ次に話す内容に信憑性が生まれず、会談はこの段階で終わるか下手に進めて破談していた可能性がかなり高い。この場にいる全員に理解が行きとどいたのを目で確認すると、将悟はゆっくりと彼女たちにとって最重要な情報を切り出した。

 

「生命力を与える権能…こいつの本質は姫さんが言った通り。だからこいつを使えばたぶん極度の虚弱体質を改善することも可能だ(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 

虚弱体質の改善、眼前のプリンセス・アリス。両者を組み合わせればその言葉の意味するところはあまりに明白だった。不治とされ、長らく手が出しようのなかったアリスの病状を、自分の有する権能ならばなんとかなると言っているのだ。

 

「…お、お待ちください。本当にそんなことが―――」

「可能です。いえ、現段階ではあくまで“可能性”ですが…私が受けた霊視を思い出すと、決して不可能ではないでしょう」

 

目を見開き、信じられないとありありに顔に書いてあるミス・エリクソンが強い不安とその裏返しである期待を込めて問いかけるのを、アリスが硬質な響きを持った言葉で遮った。霊視によって直接太陽の権能の本質と言える部分に触れたアリスには、将悟が偽りを言っていないことが実感として理解出来ていた。

 

対してアリス本人に肯定されたミス・エリクソンは一層気を入れて目の前の会話に耳を傾ける。アリスに忠実なこの女官長にとって、いや賢人議会にとって崇敬を一身に集める“姫”の恢復は悲願なのだ。そのためのヒントが目の前に差し出された、これで気を引き締めずして何が側近だというのか。

 

「かの権能が与えるエネルギー、なんにでも応用可能なその適合力は無類です。弱った体にも容易く同化して、負担をかけることなく内側から活力を与えてくれるでしょう…」

 

静かに語るアリスにはそれが分かった。

“だからこそ”表情と声音が如実に硬くなってしまっているのだ。

 

「理解してもらったように、俺も十分可能性はあると感じている」

 

将悟もそれを茶化すことなく真剣な顔で頷き、冷静に自らの権能が齎す可能性について言及する。ただしアリス達にとってあまり好ましくない話を。

 

「とはいえ体質改善のレベルになると必要な時間は相当長期間に渡るだろうし、その間俺がずっと付いているのは無理だ。俺なしで維持できるのは精々一日くらいだしな」

「そ…!」

 

それでは絵に描いた餅ではないか。おそらくミス・エリクソンはそう怒鳴ろうとしたのだろう。希望を見せつけた挙句奪い取るような所業である。敵意の一つや二つこもって当然と言えた。アリスの声音が固くなったのはこのせいだったのだ。

 

「―――そこで今日の本題に繋がるわけだな」

 

…が、そこで終わるのなら“前置き”があるわけもない。そう、今までの話は全てこれからの“本題”のための前振りなのである。アリスは思わず落としていた視線を上げた。

 

「俺から賢人議会へ、共同研究の提案だ。テーマは『魔術を応用した権能の制御・維持』。当座の目標は被検体の体質改善の達成。俺からの条件は賢人議会が本腰入れて協力すること。以上」

 

色々な意味でありえない提案に絶句する賢人議会の二人。

その驚愕を余所に爆弾を投下した本人は元々研究趣味の連中が作ったサークルなんだから趣旨には外れてないだろ、などとのたまっていた。

 

 

 

 




ここで露骨にヒキ。
次話こそ過去語りに。やるやる詐欺ですいません…。

内容的にはカルナから奪った権能の詳細を言及。幕間では近接戦の補強用と思わせつつ、その実完全な補助特化の権能です。応用範囲は基本なんにでも。

単体でいろいろやれる言霊の権能とは対照的に単体では何の役にも立ちませんが方向性的には同一です。権能コンセプト的な意味で。というか第二の権能除きこれから得る予定の四つ目も似たような方向性にします、たぶん。まあ予定は未定という言葉もありますし…

あとアリスの虚弱体質を改善云々。原作見るにたぶん行けるよな、でもタグ追加するかと半信半疑で書いてました。なお異なる意見のある方もおられるでしょうが、本作独自の設定ですので、仕方のない奴だと笑っていただけたら幸いです。

なお次話はある程度できているので今回よりもう少し早く上げられるはずです。よろしければ次も読んでやってください。

追記
タグ、あらすじなど一部追加・変更しました。


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英国会談 ②

念のため注意。
本作品は原作とは異なる平行世界的な歴史を辿っています。したがって原作で起きなかったはずのことが起こり、起きたはずのことが起こっていないかもしれません。英国争乱編は前者です。



 

 

《アリス・ルイーズ・オブ・ナヴァール》

 

最大級の誘惑と警戒。

この二つが聡明で知られるアリスの頭脳をフリーズさせた原因だった。

 

誘惑とは言うまでも無くいましがた『王』から切り出された共同研究の提案。正直、今すぐうんと頷いてしまいたい。元々アリスはどちらかというと平穏よりも刺激を求める性質である。ゆえに現状の、己の健康上の問題から来る骨を腐らせるような退屈を激しく厭うていた。

 

とにかくもっと自由に動き回りたい、というのがアリスの偽らざる本音だ。だからアリスの体調を心配して(あるいは不行状を咎めて)、幽体分離での行動を制限するミス・エリクソンらの存在はありがたくも鬱陶しかった。

 

そんな現状を変えうる提案を持ちかけられた。己の健康問題が解決すれば少なくとも今よりはずっと自由に出歩けるようになるはずだ。なにも神やカンピオーネの巻き起こす騒動に首を突っ込むだけではなく、ショッピングやデートなどごく普通の女性が経験する諸々を楽しんでもいいだろう(デートについて思い浮かべた時隣にいたのは何故か仏頂面の王子サマだったが)。

 

「…確認ですが、具体的にはどのような研究を?」

「バッテリー代わりの太陽の神力を貯め込む“器”の研究、出力調整による効率化を狙った術式の開発。その他面白そうなアイディア募集中」

 

とにかくこの提案にはアリス・ルイーズ・オブ・ナヴァールという一人の人間の可能性、羞恥心を捨てて言えば“未来の希望”とでもいうべきものが詰まっているのだ。アリス個人のことだけを考えるなら、断ることなどあり得ない。

 

「思ったよりまともそうな内容ですね…しかし権能に魔術を組み込むなど、可能なのですか?」

「別に深い部分で融合させる訳じゃない。“器”から供給する量の調整や魔法陣を彫ってその内部だけに効率よく供給するとか、上辺の部分に利用するんだ」

 

加えて賢人議会としてもかなりうま味がある。赤坂将悟という『王』と“傘下に入ることなく”更に親密な縁を繋ぐことが出来るというのは大きなメリットだ。『王』との対等な立場での同盟に加え、アリスが議長に返り咲けるほどに体調が改善したとすれば、巫女姫への崇敬は一層高まり、賢人議会の有する影響力はかつてないものになるだろう。

 

少々都合の良すぎる未来だが、決してありえないとは言い切れない。まとめて言うならばこの提案には賢人議会へのデメリットはほぼ見られず、逆にメリットは大きい。思わず飛び付きたくなるような美味い話だった。

 

「…正直、魅力的な提案ですね。魅力的過ぎるくらいに」

「その割に含みがありそうだなァ…それと正史編纂委員会とは既に協力してくれるってことで話が付いている。もし賢人議会が了承すれば甘粕さんを交えて大まかな条件交渉に移る予定だから」

 

しかし、とアリスの理性は最大級の誘惑と綱引きできるだけの警戒警報を鳴らしていた。即ちこの提案には間違いなくおかしいと。

 

アリスが知る赤坂将悟というカンピオーネは、良くも悪くも考え過ぎることが無い。そこそこ頭は回るから戦略戦術は立てて動くし、交渉や談合を持ちかければ一先ず応じる程度には理性的だ。しかし最後に頼るのは己の内なる智慧、野生の感性がもたらす直感。脈絡を無視して真実を射抜く理不尽な能力の持ち主だが一方でかなり大雑把で詰めが甘く、最終的には力技で帳尻を合わせることも多い。

 

だからアレクサンドル・ガスコインを相手にする時の様に、協定の隙を突かれて足元をひっくり返されるような真似はひとまず警戒しなくても良い。

 

「断っておきますが、私は役職の一切から身を引いた立場です。今の指導部に諮ることは出来ても、賢人議会の意思決定に関わることはありませんよ」

「姫さんの了承を得ておいた方が色々早いだろ。大雑把な方向性だけでも示しておいた方が後で細かい点を詰めるのもやりやすい」

 

が、それは赤坂将悟を無条件に信用していいという訳では絶対にない。

 

基本的に話は通じるし、こちらの要望もよほどのことがなければ受け入れてくれる度量も持つ。だが自分の興味や命の危機などの要素がある一線を超えると途端に自重と言う言葉を捨てて好き勝手に動き出すのだ。その際の傍迷惑っぷりは他のカンピオーネと比べて全く遜色がない。

 

そうした人物が切り出した提案は、あまりに美味過ぎた。アリスと賢人議会にとって都合がよすぎる、と言い換えてもいいほどに。

 

…そもそも何故目標が“アリスの恢復”なのだろう?

 

かの王の性格上まず“自分がやりたい”研究をやりたいように行うはずだ、賢人議会側にはアリスの恢復のヒントがあると伝えて参加するならどうぞご自由に、と突き放すだろう。そもそもただ『研究』が目的なら日本の正史編纂委員会を使えばいいではないか。

 

仮にこの提案を受け入れ、共同研究が始まったとしよう。カンピオーネの権能の研究など未知の分野である、したがって期間はかなり長期間に渡る。少なくとも完了の目処がつくまで年単位でかかるだろう。それだけの時間を使っても成果はアリスの恢復だけ? 研究・実験に興味を持ち、好んでいるにしても明らかに度が過ぎている。費用対効果が釣り合っているように思えない。

 

一方で正史編纂委員会が参加するのは分かるのだ。単純に赤坂将悟との繋がりをアピールする、これ自体が大きなメリットだしそもそも参加しない選択肢がない。最も距離が近いと目されている委員会を無視して賢人議会と組まれては周囲に与える影響力の低下は避けられない。

 

やはり読めないのは赤坂将悟の思惑だ。はたしてここまで譲歩する意味があるというのか…? 

 

目の前で能天気そうに笑う王からは正直如何なる意図があるのかさっぱり読み取れない。陰に籠った企みはまずない、だがなにか話していないことがある。これもまず間違いない。

 

腑に落ちない違和感、アリスを押し留めているのはそれだ。

 

しかしそれがなにか、となると聡明なアリスの頭脳を以てしても掴めない。流石カンピオーネ、意図してないだろうにこちらを振り回してくれる。少しの間、思考に没頭するがやはり手掛かりの切れ端も掴めなかった。

 

(…と、なれば。直接聞くほかありませんか)

 

これでアレクサンドル・ガスコインが相手なら腹の探り合いを続けるところだが、赤坂将悟ならばストレートに問い質した方がよほど早い。良くも悪くも腹芸が出来ない少年なのだ。

 

「―――少し、お伺いしたいことがあります」

「どうぞ。知らないことと教えられないこと以外なら答えるぞ」

 

力を込めて眼光を向けても、ごく自然体で受け流されてしまう。なんというかやりづらい。噛みあわないとでも言うのか。交渉に臨む真剣味が二人の間で乖離しているような…。

 

「そもそもこの共同研究、これによって貴方が受け取る利益は何ですか?」

 

何とも言えない違和感を振り払って切り込むアリス。仮にも魔王との取り決めだ、不鮮明な点は出来るだけ質しておかねばならない。

 

「私たち賢人議会にとって都合が良すぎる提案です。正直に言って、少々疑心暗鬼になっています」

「…利益、ねぇ」

 

困ったように頬を書く。図星を突かれた、というよりどう答えれば相手が満足するのか分からない、といった風情だ。やはりアリスが期待していた反応ではない。

 

「賢人議会の蓄えた知識、秘術。こいつらが喉から手が出るほど欲しい。俺個人の考えとしては本当に、それだけだ」

「いえ、ですから―――」

 

重ねて問いを続けようとして違う、と何となく感じた。

この問いかけでは適切ではない。問いただすべきは彼の思惑ではない。そんな思いつきを。

 

「…質問の仕方を変えます。何故ここまで譲歩して、賢人議会を引き込もうとするのですか?」 

 

そう、問いただすべきは何がここまで譲歩するほどに彼を追い詰めたのか…だ。

 

「喉から手が出るほど、と言いましたね。一体何が貴方をそこまで譲歩させたのですか? 貴方は……一体何をそんなに焦っている(・・・・・)のですか?」

 

霊視に似た直感の導きに助けられたアリスからの鋭い質問に、自然体に座っていた将悟の雰囲気に初めて揺らぐ。聞かれたくないところを突かれた、そんな気配だ。相変わらずポーカーフェイスが苦手なご仁だった。

 

「……もう一つ、なんとなく気になることがあります。貴方が今まで積み重ねてきた一連の研究、もしやこれも繋がっているのではありませんか?」

 

そして巫女の直感に助けられてさらに深く、間合いを詰めるように切り込んだ。

姫から詰め寄られ、困ったように顔を顰める王様が一人。周りを見渡しても当然の如く味方などいないわけで…。あー、と気が抜けたような声をもらしながら天を仰ぐ将悟。やがて別に隠していたわけじゃないし、と負け惜しみを漏らしながら口を開く。

 

ポツリ、と。

 

「―――“鋼殺し”」

 

こいつを創り上げるためだ……そう、告げた。

しかしその場にいた者たちはその不吉な響きを耳にして嫌な予感を覚えながらも、即座に意味はつかめず、問いかけるような視線を向けるしかない。

 

将悟も腹をくくったか自棄になったか、それとも本当に隠していた訳ではなかったのかさきほどの一言を皮切りに今回の提案の裏に潜んだ己が目的について順を追って語り始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そういうことでしたか…」

 

一連の話を聞き終え、得心したようにアリスはそう漏らした。

 

「研究目的に私の健康を据えたのは賢人議会を引き込むため。研究成果は貴方の目的に十分に応用可能と見込めた上に早急に成果を求めたからこそあそこまで譲歩した案でも構わなかった」

 

確かに私の健康に繋がると知らされれば現場の方たちも奮起されるかもしれませんし、とさらに続ける。将悟が暴露した、ある意味世界で最も“事情通”な巫女姫さえ驚愕させた思惑の詳細を一通り問い質し、納得がいきましたと頷くアリス。全ての違和感がほどけ、理解となって胸中に宿る。

 

「つまり今まで貴方が重ねた研究の全てが制御不可能な第二の権能を掌握―――いえ、利用するための下積みだったというわけですね」

 

破滅へ至る災厄(カタストロフ・イン・ザ・ディザスタ)】の名でレポートを纏めたアレを。そう、強い畏怖を瞳に浮かべたアリスが確認するように問いかける。

 

「かつて一度だけ使用した挙句の大惨事。まともにON/OFFの切り替えができないばかりか権能の所有者である貴方にすら牙を剥いた諸刃の剣。火山神スルトから簒奪したけして飼い馴らせぬ荒ぶる自然の猛威、制御不可能な世界を滅ぼす権能(・・・・・・・・)

 

謡うように韻を踏みながら流暢に語るアリス。やはりその響きには強い畏怖、そして呆れの成分も混じっていた。無理もないと思う、将悟とて馬鹿なことをしているという自覚があるのだ。

 

「まだ諦めていなかったとは驚きです。使い道など自爆して相打ちに持ち込むのが精々でしょう、アレは?」

「ああ。しかもタチが悪いのは“既に掌握済み”だってところだ。現状じゃアレをいま以上に上手く制御する余地がない」

 

だから外部から制御装置を作って取り付けることにした、と後を続ける巫女姫。まさしくその通り、今回持ちかけた魔術と権能の研究もその一環だ。

 

「まったく。既に神殺しの位を得たというのに更に“力”を得て貴方は一体何を為すつもりなんですか」

 

これだからカンピオーネと言う愚者は手に負えない、とばかりに手を額に当ててぼやく姫。淑女らしからぬ仕草だが、お目付け役のミス・エリクソンもそれを咎める余裕はない。短時間で機密事項にあたる情報に多く触れたせいか若干顔が青くなってすらいる。甘粕に至っては聞かなければよかったと内心で絶賛後悔中だった。これで巻き込まれることは確実だ。

 

「俺と姫さん、アレク全員の懸念事項だよ。むしろそれ以外で誰が使うか、こんな物騒な権能」

 

アリスのぼやきに当然とばかりに答える。将悟にとってこれは“生存競争”の一環なのだ、その過程で多少の被害が出ようと自重するほど命を捨てていない。一方でこんな緊急事態でもなければいつ爆発するかわからない時限爆弾じみた代物を使おうとは思わない。

 

「仕方がありませんね…正直世界の平和をつつがなく守るためには断った方がいいような気もしますが、賢人議会があなたの提案を受け入れるように私が諮ってみましょう。構いませんね、ミス・エリクソン?」

「……姫様の仰るとおりに致しましょう。どの道上の方々に報告する必要があります」

 

問われたミス・エリクソンも彼女個人がどうこうできるレベルの問題ではないと考えているようだ。より上位の地位にある者たちへ判断を投げたらしい。

 

「OK、共同研究の提携成立だな」

「ええ、正式な取り決めはしばらく先になるでしょうが…。パートナーとしてこれからも共に手を携えていきましょう」

 

今回の会談で合意を取り付けたといってもそれはあくまで将悟とアリスの口約束に過ぎない。とはいえアリスは議長の地位を退いた今も賢人議会に強い影響力を持っているし、将悟も十分なメリットを提示して見せた。

 

おそらくそう遠くないうちに世界中の魔術結社に向けて赤坂将悟と賢人議会、正史編纂委員会の共同研究の声明が発信されるだろう。

 

しかし、一つの山場を越えたとはいえまだまだ会談は終わっていない。むしろこれからが本番である。共同研究にあたって取り決めるべき事柄はそれこそ山のようにあるのだ。その叩き台を今から協議していくのである。

 

とはいえかなりハードな交渉の連続で全員が多かれ少なかれ疲労している。一息つくために誰からともなく休憩が提案され、しばし弛緩した空気が流れる。そこから時計で測ったように正確に15分後、ミス・エリクソンが再開を促し、会談は今後の予定や細かな条件の協議を含めた第二段階に移った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、いくらか波乱はあったもののひとまず大まかな方向性の部分で一致し、全員が満足する内容の会談になった。特に甘粕とミス・エリクソンは共同研究の締結までほとんど口を出す暇がなかったのが嘘のように積極的に発言し、ほとんど二人でもって草案をまとめた。将悟もアリスもこうした実務的な話し合いはそれほど向いていないのだから無理もないが。

 

今日の会談はまだ序の口、これからさらに忙しくなってくるはずだがひと段落ついたせいか交渉を終えた四人の顔は明るかった。特にアリスとミス・エリクソンは新しい可能性が開けたせいだろう、二人とも滅多にないほど頻繁に笑顔を見せている。特にアリスは開き始めた大輪の薔薇のような……なんとも言えぬ華やかさがあった。

 

詰められる部分は大体詰め終わったものの、時間も余っているし特に予定もない。そのまま自然と他愛のないお喋りへと移っていく。とはいえ元々共通点などさしてない集団だから良い意味でも悪い意味で最も話題に困らない人物についての話にシフトしていく。

 

「しかし懐かしいものですね、もう少しであの事件から一年になるんですから」

「つまりは俺が姫さんやアレクと出会ってから一年ってことだからなー」

 

最も盛り上がったのは赤坂将悟が英国において巻き込まれた―――あるいは首を突っ込んだ、有名な事件。

 

「噂に聞く英国魔王争乱、ですか。当時からほとんど情報が漏れなかったせいで、今もなお詳細は謎のままの…」

「要するに暇を持て余した爺さんが暇つぶしの種を探しにこの国に来たってだけの話なんだがな?」

「大筋では間違っていませんが絶対に字面ほどのんびりした話ではありませんでしたからね?」

 

能天気と言っていいほど気楽に事件を評する王に突っ込みを入れるアリス。将悟との邂逅はただでさえ厄介事が舞い込んできた時分にピンポイントで新たな爆弾が降ってきたに等しい衝撃だったのだ。

 

「ははァ…是非差し支えのない範囲で拝聴したいものです」

「……まぁ、一年も前のことですし。赤坂さまのお付きともなれば、いずれこちらの事情に関わってくることもあるやもしれませんからね。構わないでしょう」

 

ほんの好奇心で聴いたのだが、なにか不吉なことを言われ密かに冷や汗を流す甘粕。つつく必要のない藪をつついてしまったのかもしれない、と早くも後悔しつつあった。

 

「アレは、そう……一年前の、日本で言うゴールデンウィークと呼ばれる週のことでしたね―――」

 

そんな甘粕をよそに、アリスは滑らかな口調で昔語りを始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《サーシャ・デヤンスタール・ヴォバン》

 

『王』と『姫』の会談からおよそ11ヶ月ほど時は遡る。

 

とある古都の一画に建てられた由緒あるホテルの一室にて、のちに大きな騒乱を英国にもたらす原因となる謁見が行われていた。

 

謁見が行われた最高級のスイートルームは居心地の良い、快適な空間ではあるが王の住居と言うには品格も威厳も足りていない。だがこの場は紛れも無く『王』と謁見するための空間だった。サーシャ・デヤンスタール、またの名をヴォバン侯爵という怪物じみた『王』との。

 

「この度はご尊顔を拝する栄誉を与えて頂き…」

「生憎だが私は君の素性、動機、目的に一切興味はない」

 

悠々と椅子に腰かけるヴォバン侯爵は謁見が始まって早々に断じた。目の前には直接床にひざまずく黒いローブを被った小柄な人影。華奢な体つきからはおそらく、女。それもかなり小柄だ。

 

「が、君が私を満足させる“格”を有する神の居所を知っていると言うなら話は別だ」

 

黙っていれば知的な穏やかささえ漂わせる横顔を傲慢に歪めながら、抑えきれない戦いに狂った笑みを浮かべている。痩身から滲み出る不吉な迫力に黒ローブを被った小柄な人影は意識せず背筋が震えるのを感じた。猛っているのだ、古き狼王が。

 

「可及的速やかに知っている限りのことを私に伝えたまえ。功を挙げた者に褒美を授けるのはやぶさかではないが、私はせっかちでね。鈍重な輩と言えど我が従僕に加われば少しはマシになるだろうと考えることもあるのだ」

 

彼独特の笑えないユーモアを交え、いっそ穏やかといっていい平静な口調で恫喝する王。やるといえばこの老王は必ずやるだろう、少なくとも横暴に振る舞うのを自重する性格ではない。

 

「既にまとめた資料がございます。こちらをどうぞ」

 

黒ローブの人影が懐から取り出した数枚の紙束。それを素早く歩み寄り、ひったくるような強さで取りあげて素早く視線を走らせていく。やがて読み終えた老王はくっくっ、とこらえきれない笑いをかみ殺しながら獰猛に頬を釣り上げる。

 

「…なるほど、私が足を運ぶ価値がある神のようだな。が、肝心の封印された神の居場所は不明な様だが?」

「それは私も存じてはおりません。賢人議会とアレクサンドル・ガスコインが協力して幾重にも偽装を施したものを探るとなると少々…」

「荷が重い、か。まあいい、手間をかけさせられるのは不愉快だがこの知らせを届けたことを考えれば功を立てたと認めるに足りる。褒美をくれてやろう、貴様は何を望む?」

 

ヴォバンからすれば、眼前の人影とは次の一言で興味を失う程度の存在だった。有用な情報をもたらしたことは評価に値するが、小物は所詮小物。神に比べれば一欠けらも興味を覚えない。

 

「では伏してお願いいたします―――私めをどうぞ、侯の伴に御命じくださいませ」

「……ふん?」

 

ここで初めて眼前に額ずく影個人に興味を向けるヴォバン。こんな提案をしてくる者などヴォバンの長い生の中でもほとんどいなかった。己の熱狂的な心棒者、という風でもない。何が目的か、と僅かだが好奇心が刺激される。そしてもちろんこの老人は根掘り葉掘り問いただすことを躊躇う性格ではない。

 

「貴様の目的はなんだ? ヴォバンに何を求めている? 虚偽は許さぬ、今すぐに答えろ!」

 

ヴォバンの上げた怒号に応じてビリビリと衝撃が駆け抜けていく。ただ声を張り上げただけだというのに凄まじい迫力だ、伊達に300を超える齢を生きていない。だが、古き王の怒号にも女はピクリとも揺るがない。それは大地に深く根が張った大樹の安定感というよりも、実体のない幽霊を怒号が素通りしていく類の手ごたえのなさだ。

 

「『主』を復活させ、間近でその雄姿を拝見したいのです。ただそれだけが我が望みでございます」

 

少女の声には何処か夢見るような響きがあった。

ヴォバンはその答えに呵呵大笑する、己が目的のためヴォバンを利用する。そう言い切ったのだ、目の前の小娘は! こうした気概を持った者がヴォバンは嫌いではない。久方ぶりに上機嫌だったこともそれを後押しした。

 

「くはッ、私を利用するとのたまうか! 良いだろう、気に入った。私が英国へ滞在する間、貴様に伴を命じよう。だが出発は一時間後だ、遅れれば置いていく。忘れるな」

「感謝いたします、侯」

 

再び額を床にこすり付けて感謝の意を示す娘。だがその時にはすでにヴォバンの意識は来る騒乱と、それを潜り抜けた先に待つ極上の強敵に向けられていた。

 

「待っているがいい、まつろわぬアーサー。ヴォバンの名に懸けて狩り出してくれよう」

 

戦を愛する古き王、サーシャ・デヤンスタール・ヴォバン侯爵―――出陣。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《アリス・ルイーズ・オブ・ナヴァール》

 

数時間後、ハムステッドの宅にて。

 

欧州でもっとも高貴な姫君。

その尊称で欧州正派の魔術師達から敬われる才女は、手に持った一通の報告書を前に微かに眉を寄せて考え込んでいた。報告書というにはあまりに短く、乱暴に書きなぐられた文にはこう書かれている。

 

“ヴォバン侯爵、渡英の兆しあり”

 

おそらくこの文を寄こした賢人議会所属の魔術師は半ば恐慌寸前だったのだろう、筆跡は酷く乱れている。気をつけられたしの一文すら付け加える暇すら惜しんだ様子がありありと想像できる。

 

それもヴォバン侯爵にまつわる血なまぐさい逸話の数々を思えば無理もない話だ。彼の気紛れから滅んだ街すらある。ヴォバン侯爵の遠征とは下手なまつろわぬ神が襲来するよりよほど大きな災厄なのだ。

 

アリスの秀麗な美貌が憂いに染まり、まさしく病弱で可憐な姫君といった風情。だが彼女は儚げな見た目とは裏腹にとんでもなく精神的にタフで、行動力に溢れた姫君なのだ。故に彼女がこうして手紙とにらめっこをしているのは手紙の内容に衝撃を受けて呆然としているわけでは決してない。

 

待っているのだ、彼女自身は動けないが故に事態を動かせる人物を。自分が手紙を受け取ってから一時間も経っていないが勘が良く目端の聞く彼ならばそろそろ……。

 

噂をすれば影、とあるがほどなくして密室だったはずの室内に忽然と長身痩躯の人影が出現した。整った怜悧な要望に固く引き締められた口元、美男子なくせに見事なまでに愛想がない青年だった。

 

コーンウォールに拠点を構える結社『王立工廠』の総帥であり、『黒王子』の異名を持つカンピオーネ、アレクサンドル・ガスコインである。

 

両者はお互いの姿を確認すると前置きも無しにいきなり会話に入る。それは正しく阿吽の呼吸、敵としてであれ味方としてであれ長年に渡って付き合いがあった両者のみがなせる業だった。

 

「貴様の顔を見ればどうやら最初から説明する手間は省けるようだな」

「ええ、時間がありません。手早く情報を共有することにしましょう」

 

同感だ、とうなずくアレク。

 

「まず私から。ヴォバン侯爵が飛行機をチャーターしました。目的地は我らがロンドン。まだ出発していませんが一両日中には到着するでしょう」

「なるほどな…こちらに来る準備をしているのは知っていたが、時節までは読めなかったからな。これだけでもまあこちらに来た甲斐はあったか」

「アレクサンドル、人を褒める時はもっと素直に感謝を示しても罰は当たらないと思うのですが」

「抜かせ、貴様がそんなタマか」

 

あらひどい、と心外そうにつぶやくアリスだが心なしか口元はほころんでいる。いつも通りのやり取りに多少なりとも緊張は緩和したようだ。アレクはぶっきらぼうに口元をきつく結ぶ、己がいつも通りにすぎるやり取りで張りつめた気が緩んだなどというデタラメはわずかなりとも存在しないのだ!

 

「問題はあの時代遅れの愚物の目的だ」

「ええ、しかし何故英国に足を運ぼうというのか。推測はいくつか立てられますが、どれも良い予感はしませんね」

「ならもっと最悪な気分を味わわせてやろう。数時間前に部下たちから上がってきたばかりの情報だ―――グィネヴィアがあの戦狂いと接触した」

「それは…確かに最悪ですね」

「ああ、あの蛇が持つ情報の中であの知的ぶった野蛮人を英国に招き寄せるものなどそうはない」

 

まず間違いなく、

 

『まつろわぬアーサー王』

 

だな/でしょう、と二人の声が綺麗に重なる。長い付き合いの割に決して友人ではない二人だが、共有した時間の量のせいか呼吸はぴったりと合っていた。

 

五年ほど前にかの魔女王が招来した欧州で最も権威ある英雄であり、1500年の長きにわたって追い求める『最後の王』の系譜に連なる神。招来されたかの神をアレクとアリスはいくつもの犠牲を払いながらようやく封印することに成功した。以来、封印が解けないように細心の注意を払って取り扱っていたのだが流石にこの展開は予想外だった。

 

「が、あの蛇は肝心要のアーサーが封印された場所を知らん。そう考えていいだろう」

「前世から営々積み重ねてきた己の企図が失敗に終わり、半狂乱となった状態でしたからね。あの状態で冷静に事態を見詰められたと思えません。私たちも偽装工作を山ほど積み重ねたことですし」

「長く生きている割に精神的に未成熟なところがあるからな。まあ奴の話はどうでもいい、重要なのは老害がどうやって情報を引き出す腹積もりでいるかだ」

「侯爵ならば……まあ、直接ここに来る公算が高いでしょうね」

「頼んでもいないのにわざわざ旗下に迎えにな。まったく悪趣味な権能だ!」

 

悪名高き『死せる従僕の檻』。こうして敵対することになるとなお更腹立たしくなってくるらしい。黒王子はただでさえ無愛想な眉をことさら不快そうにしかめていた。

 

さておき、ひとまず意見の一致を見たところでふとアレクは訝しげな表情を浮かべる。

 

「それにしても読めんのはあの魔女の目的だ。今更暴君気取りの戦闘狂を利用してまであの王を叩き起こして奴に何の得がある?」

「そうですね…『最後の王』探索のなんらかの手がかりを得た、その確信を得るためにかの英雄神の御姿を垣間見て霊視を得ようとしているのか」

「俺もその程度しか思い浮かばんが……現段階では検証不可能な疑問だな」

「ですね。頭の片隅に留めておくことにしましょう」

 

時間は限られている、答えの出しようのない疑問に頭を働かせ続ける愚を二人は犯さなかった。

 

「今回の件、俺たちの利害は重なるはずだ」

「ええ、同感です」

「同盟を組むぞ。渋る老害どもがいるようなら説得しろ」

「我々にとってかの老王はトラウマに等しいですからね。まあなんとかなるでしょう」

 

若き日のヴォバン侯爵が大英帝国に一時居を構えており、その暴虐に対抗する形で賢人議会が発展していき今に続いている逸話はあまりにも有名な話だ。

 

「時間がないな。急げよ」

「貴方に言われるまでもありませんよ、アレクサンドル」

 

その後も手早く打ち合わせを終えるとそれ以上長居する状況でも間柄でもない。アレクは速やかに立ち去ろうと神速の権能をオンにし、バチバチと火花を弾かせる。

 

「では行く―――ああ待て、もう一つやることがあった。あの男に連絡を…」

「心配ご無用。既に『投函』の魔術を使って要請を出してあります。問題は救援に駆けつけてくれるかですね、彼は既に結社の重鎮。そう簡単には…」

 

難しいだろうと悲観的な予測を語るアリスに対して馬鹿馬鹿しいとアレクは一蹴した。

 

「ふん、何を心配していると思えばそんなことか。来るだろうさ、必ず。何故なら―――」

 

奴は“騎士”だからな、と呟き今度こそ神速の権能で稲妻となって消え去った。残されたアリスは珍しく非論理的な確信を持って断言したアレクと“彼”の間柄を思い、不思議な心地になる。

 

「時に刃を交え、時に刃の向きを合わせる。殿方の結びつきというのはどうも分かりませんね」

 

やれやれ、と頭を振るがアレクサンドル・ガスコインの人を見る目はなかなか確かだ。特に“女”が絡まない時は。アリスもまた“彼”が来ることを前提に予定を立て、一刻も早く準備を済ませなければならない。さしあたってはミス・エリクソンを呼び出さなければ…。

 

やるべきことは山ほどもある、一刻も無駄に出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《???》

 

“彼”はつい先ほど『投函』の魔術で己に宛てて送られた一通の救援要請を手に、それはそれは深いため息を吐いていた。まったく、あの自分勝手な男と食わせ物の姫君はとことんこちらを振り回してくれる!

 

今から十年ほど前、己の技量への自負と向う見ずな蛮勇を胸に英国に渡り巻き込まれた数々の災厄に等しい災難。時にあの男の腹心と剣を合わせ、時に神に付け狙われるあの男の身代わりとなって紙一重で死線を潜り抜けてきた。

 

彼が優れた騎士であったことはもちろんだが幸運にもかなり助けられてその全てをなんとか切り抜け、その功績を持って彼は『紅き悪魔』の称号を得た。その後もかなりの頻度で起きた騒動に自ら赴き、あるいは巻き込まれて武勲を立て続けてきた。

 

とはいえ最近は結社の重鎮として最前線で剣を振るうことも少なくなり、願わくばこのままあの傍迷惑な『王子』や『姫』との付き合いはフェードアウトしてしまいたいとすら思っていたのだが…。

 

ここに来て、数年来起こらなかった大騒動の火種となる知らせがあの姫君から送り届けられた。ヴォバン侯爵、渡英の兆しあり。そしてコーンウォールに拠点を持つ黒王子の存在。挙句の果てに詳細は伏せてあるが英国に封印された神の存在を示唆した一文。これで争いが起きないわけも無い。

 

正直に言ってしまえば無視を決め込みたい。そしてその決断を為したとしても彼を責めるものは誰もいないだろう―――されど彼は行かねばならない。

 

何故、と問いかければ返す答えは一つしかない。

 

―――“騎士”であるが故に。

 

義を貫くために、彼は往かねばならないのだ。彼が若き頃胸に抱いた騎士道は己の義務から背を向けることを決して許しはしないのだから!!

 

「やれやれ、まずは総帥に許可を取らねばならないか」

 

これが紅き悪魔(ディアヴォロ・ロッソ)として最後の仕事になればいいのだがな、と難儀な性格をした彼は密かに呟いた。それくらいぼやいても神は許されるだろう。

 

ダヴィデ像のごとき雄偉な体躯に彫りの深い整った面立ちを乗せ、磨き抜かれた武勇を振るう。欧州でも数少ない『聖騎士』の位にある“彼”は久方ぶりに愛用の騎士剣を取り出した。

 

無造作に一太刀剣を振るう、されど何も起こらない。空気すら一分子も揺らがない、極限まで無駄をなくし絞り込まれた奇跡の剣技。鈍っていないことを確認し、愛剣を腰に佩いた。

 

向かうは英国、食い止めるは老王の暴虐。

 

“イタリア最高の騎士”パオロ・ブランデッリ、参戦。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《赤坂将悟》

 

そして、舞台で踊る役者の最後の一人。

備え付けの電話を片手に、何者かと通話をしている一人の少年。それ自体は全く問題ではない、問題なのは彼の素性と通話の内容だった。

 

「母さんか、久しぶり。四月に海外に転勤して以来だからひと月くらいか…ああ、大丈夫。こっちは何とかやってる、父さんにも言っておいて。それでわざわざ何の用……は?」

 

「イギリスの観光ツアー、四泊五日でゴールデンウィークぴったりの日程? いま海外だろ、どうやって手に入れたんだそんなの?」

 

「…偶然? どんどけ無駄な幸運だよ……なに? 一人分だから父さんの分も買って二人で行くつもりだったけど急に予定が入ったから、俺にくれると。いや、暇だけどさ」

 

「ああ、はいはい。ありがたく頂きマス。ぼっちで観光ってのも結構クるんだけどなァ…」

 

まああっちでツレを作ればいいか、と一人ごちる少年の名前は赤坂将悟。

未だ世に知られぬ神殺しの一人であり、後に『智慧の王』の称号であらゆる魔術師から畏怖を向けられることになる若き魔導の王であった。

 

 

 

 




交渉ってむつかしい……。明らかにバトルより筆の進みが遅かったです。
なにか違和感がありましたら是非教えてください。出来る限り修正します。

それと後書きを書いていたのですが冗長なので活動報告の方へ上げることにしました。これからはそちらの方に上げることにします。よろしければご覧ください。

最後にアンケートですが黒王子と狼王のバトル、これ需要あるでしょうか?
正直キンクリさんに出動していただいた方が展開速いんです。書かなくても展開上それほど問題ないんですが、需要あるなら書こうと思います。感想の際に一言付け加えてくれるとありがたいです。

それでは次もよろしければ読んでやってください


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英国会談 ③

英国争乱編なんて……無かったんだ!

スイマセン。真面目に英国争乱編は考えてて展開に無理が生じたのでお蔵入りとなりました。スルーして原作第一巻の時間軸に向けて進みます。

皆様、大変お待たせいたしました。以前と比べて文章の量が落ちてなおかつ亀更新となりますが皆様の暇つぶしの種になれれば幸いです。



麗らかな日差しの下で始まった姫君の昔語り。自重の言葉を辞書に持たない三人の魔王が好き勝手に英国を引っ掻き廻した一連の争乱について語ったアリスは次のように結び、昔語りを終えた。

 

「―――とまあ件の騒動、英国魔王争乱は以上のような結末と相成ったわけです」

 

めでたしめでたし、では終わりませんでしたが―――とアリス。

心なしかジト目で対面に座る人物を見詰めていたが。

 

「…んー。改めて人から聞いてみると酷い話だな。何時の間にか俺がジジイ相手に互角に戦った恐怖の大魔王と化している。謝罪と賠償を要求する」

 

視線の先ではちっとも反省の色を見せない若者がのんびりと紅茶を啜りながら妄言を吐いている。そこに不審そうな顔で疑問を挟むのは彼とも親交深い正史編纂委員会のエージェントだ。

 

「話を聞いていた限りきっちりあのヴォバン侯爵と相討ちとなったように聞こえますが?」

「俺がやったのはあのジジイの隙を突いて足払い食わせただけだ。互角じゃないし間違っても勝ってない」

 

心なしか憮然とした表情で答える将悟。微妙な顔をする女性二人と対照的になるほどと甘粕はうなずく。万事鷹揚な態度を崩さないように思われている赤坂将悟だが一方でこだわっている部分だととことんこだわる面をもつ。今回の場合将悟の認識ではヴォバン侯爵に対し騙し打ちを喰らわせただけで、勝っていない。将悟が侯爵から完膚なきまでに勝利を奪い取ったと将悟が思えなければそれは勝利ではない。逆に言えばヴォバン侯爵との対決は赤坂将悟にとって半端に済ませることが出来ないほど重いものなのである。

 

そして甘粕がアリスから聞いた英国魔王争乱の顛末をプリンセス・アリスの詩情を交えた表現に従って語るのなら。

 

今も英国の地で眠る『まつろわぬアーサー』を巡って生じたヴォバン侯爵と黒王子の抗争。

そこに世に知られぬ最も若き七人目の王が好奇心から首を突っ込み。

嵐の目となる三人の王の傍では賢人議会、聖騎士、悪名高きアーサリアンらが奮闘と策謀の限りを尽くし。

敵も味方も入り乱れた争乱は最終的に黒王子が迷宮の権能で鍵をかけた『アーサー』の眠る封印の地にて狼王と若き王が総力を尽くし互いに相討つ仕儀となった。

その際に若き王・赤坂将悟は最古参の魔王より最大の雄敵たる可能性を認められ、若き日の狼王の宿敵であった今は亡き老カンピオーネ『智慧の王』の称号を贈られたのである。ヴォバンを討つ意志があるならばいずれその称号に見合う力量を身に付け我が前に立つべし、と。

古く力ある王に立ち向かう若き王、その構図に狼王が回想したのはかつての宿敵か、はたまたその前に立つ若く未熟だった己自身か…それはヴォバン侯爵にしか分からないがともあれその一幕を目撃していたアリスが提出した一連の騒動を巡る報告書の末尾はこうしめくくられていた。

 

『我ら賢人議会はここに新たなる脅威、七人目のカンピオーネが誕生したことを認めなければならない。そしてかのヴォバン侯爵自らが思い入れ深き『智慧の王』の称号を贈った若き王、赤坂将悟の真価を見誤ってはならない。未だ赤坂将悟は世に出たばかりの『王』である。権能を一つしか持たず、自らと結びつく結社もなく、先達の『王』らに並ぶ絶対的権威を持たない。されどかの王もまた猛き愚者の申し子、世界の騒擾を齎す災厄の一柱なのだ。

故に我らは強く警告する。かの王に偏見、侮り、敵意、企みそのいずれも持ったまま対峙する状況に陥ってはならない。彼は『智慧の王』に相応しき条理を無視した眼力を以て全てを見抜き、相応しい末路を授けるだろうから』

 

この報告書により赤坂将悟の名は『智慧の王』という称号と共に欧州全土に知れ渡った。そしてヴォバン侯爵と相討った事実と報告書の最後の一文によって欧州在住の魔術師達に魔王の中でも一際アンタッチャブルな存在として認知されることになる。

 

故に将悟の漏らしたぼやきも(本人の所業によるところが非常に大きいとは言え)的外れとは言えない。尤も甘粕に言わせれば、

 

「火の無い所に煙は立たないということわざをご存知で?」

 

自業自得である、ということになるのだが。

味方からの容赦のないツッコミにきっついな、とぼやく将悟。元よりただの冗談、笑って流してしまえる程度のささやかな不平不満だ。赤坂将悟は後に出会う“後輩”、草薙護堂と異なり世間の風評には無頓着、というより関心を持たない人間だったのである。

 

そんな苦笑し合う二人を余所に自らが使える姫君に目配せを送ったのはミス・エリクソンであった。その意味するところはこのお茶会もそろそろお開きです、である。話し合うべき点は十分に話し合われていた、だからこそ姫君の昔語りが許されたのだから。

 

アリスもまた微かに頷き、賛意を示す。退屈を厭う彼女には珍しいことに交渉ののっけから始まった将悟の衝撃発言の数々に驚き、やや精神的な疲労を感じていた。

 

アリスはそのまま大したもてなしもできず申し訳ありませんでしたが、と断りを入れながら将悟へこのお茶会のお開きを告げた。将悟もまた頷き、承諾の意を告げる。それじゃまた来る、とさながら友人の家を訪ねるレベルの気安さで再度の訪問を予告しながら。

 

将悟と甘粕の両者が椅子から立ち上がり、暇を告げようとするのを遮りアリスは悪戯っぽい表情で口元に指を当ててさも内緒話ですという風な仕草をした。

 

「最後に一つ情報提供を。これは私に未来を示してくださった赤坂様へのささやかなお礼。間違っても近い未来御身の周囲に起こる大騒動を期待しているわけではありませんよ?」

 

中々不穏な発言に甘粕はもうお腹いっぱいという顔をしたがアリスは止まらない。にこやかな笑顔のままで本日一番の爆弾を投下してみせる。

 

「御身の後進たる八人目のカンピオーネがイタリア、サルデーニャ島にて誕生しました。これはかなり確度の高い情報です」

 

なにせパオロに直接確認を取りましたから、と悪戯っぽく笑う姫君。甘粕が額に手を当てて自分の耳か正気を疑う顔つきをしているが将悟としてはパオロからの情報であると聞けただけで十分だった、天地がひっくり返ってもあの男がこんな嘘を吐くはずが無い。

 

ほんの少し動かされた好奇心のまま八人目について尋ねる。

 

「そいつの名前は?」

「草薙護堂。御身が版図とする日本に誕生した二人目の『王』です」

 

姫君の発言に今度こそ甘粕の顔面筋が崩壊した。直截極まりない擬音語で表現すれば将来直面する厄介事を憂える『うへー…』が直近かつ解決が容易ならざる大問題が発生した時の『うげぇっ…』に変化したのだ。

 

そんな憐れな国家公務員の心痛を余所に将悟は一言、

 

「へえ」

 

と相槌を打つのにとどめた。それ以上付け加えることも減らすことも無く、その日の内に二人は再び空の上へと旅立ち、英国を後にした。

 

そして東京に戻った甘粕の報告により正史編纂委員会は新たに誕生したカンピオーネと目される少年、草薙護堂の身辺調査を密かに開始する。

 

すぐに赤坂将悟と同じ高校、同じ学年の生徒であることが判明し、魔王同士の抗争による東京壊滅を予感した関係者一同の胃を痛めつけながらも件の草薙護堂はイタリアを中心に度々渡欧を繰り返すものの(日本では)大した騒動も起こさず、奇跡的なまでに平穏な一カ月が過ぎていった。

 

その間にも草薙護堂がカンピオーネである状況証拠が着々と積み上がっていくが平和なままに過ぎていく日々にこのまま何事も無くあってくれるのではないかという願望が関係者一同の間で醸成されていく。

 

そのささやかな願いはもちろん成就することなく、ある日赤坂将悟の元へかかってきたイタリアからの一本の電話が二人の王と二柱の神が関与する騒動の始まりを告げるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

五月も終りに近くなった週末のある日、将悟からの電話が甘粕の元に届いた。

 

これは何気に珍しいことだった。気心の知れた間柄の割に基本的に両者の間で電話が使われるのは事務的な要件に限られる。事務的な要件―――要するに神さま絡みのアレコレであり、つい先ほど届いた草薙護堂に関する報告も相まって嫌な予感をダース単位で覚えつつ電話に出た甘粕に将悟は開口一番こう言い放った。

 

「昨日、噂の後輩がローマから帰国した」

「ええ、確かですよ」

「何か怪しげな代物を持ち歩いていたらしいな」

 

一体何処で聞きつけたんです? 

―――そう問い質したくなるのを堪えてそのようですと相槌を打つ。赤坂将悟が関わる事件は最初の内は小規模に見えても何故か大騒動に発展することが多い。揉め事の火種を見つけるのが病的なまでに上手い、他のカンピオーネと比較しても尚特筆すべき赤坂将悟の特技である。将悟自ら首を突っ込んでくるということは甘粕の苦労が増えるフラグが立つこととほぼイコールだ。

 

「ゴルゴネイオンというらしい。最古の地母神にまつわる神具、既に呼応して女神が動き出しているとさ」

「……イタリア、赤銅黒十字から何か連絡でも?」

 

将悟の伝聞調の発言に誰かから情報提供があったのだと察しを付ける。この場合最も怪しいのは個人的な親交を持つ赤銅黒十字の総帥、パオロ・ブランデッリだった。

 

「パオロから事前に話を通さなかったことの詫びと警告をもらった。女神については向こうも寝耳に水だったらしくてな。ローマで草薙護堂とどこぞの女神が遭遇したんだと、んで最早一刻の猶予も無いということでゴルゴネイオンを草薙に押し付けた。首謀者は姪のエリカ・ブランデッリ。乗っかったのはローマに根を張る名門結社《赤銅黒十字》に《雌狼》、《老貴婦人》と《百合の都》」

「エリカ・ブランデッリ……赤銅黒十字が草薙護堂の元へ送り込んだ愛人、ですか」

「本人は本気で草薙後輩に入れ込んでいるらしいがね。まあ話には聞いてるが会ったことも無い奴だ、面倒事を寄こしたことには腹が立つがそいつ個人は別にどうでもいい。草薙とやらには少し話をしなければならんが」

 

将悟も厄介事の火種を持ち込んだことには思うところがあるらしい。甘粕達正史編纂委員会としても自分たちの縄張りに爆弾を持ち込まれて黙っている訳にはいかない。向こうにカンピオーネが付いているのは確かに怖いが、こちらにも対抗できるカンピオーネはいる。面子と実利の面からこの問題についてなあなあで済ますことは出来なかった。

 

「私ども日本の呪術界からすれば傍迷惑なんてもんじゃないですねぇ」

 

とりあえず色々と思うところはあるものの甘粕は芸の無い感想を一言告げるだけにとどめた。

 

「ケジメについては全部片付いたら向こうと話し合ってくれ。俺の名前を使っていい」

「ご配慮感謝します」

 

ローマの魔術結社からどれくらい毟り取れるかは交渉次第だが、今回の一件における被害者は間違いなく甘粕達正史編纂委員会だ。よほどのことがなければタダで済ます気は無い。

 

問題は草薙護堂という“よほどのこと”がどう動くか分からない、そして正史編纂委員会がかの王に対してどういうスタンスで接するか決めかねているということだが……それは後に回しておこう。いまは目の前の問題こそが急務である。

 

「ところで将悟さんは今回の一件、どう動かれるおつもりで?」

 

通話口の先には騒動のカギを握るキーパーソンがいる。結局のところ彼がどう対応するのか聞いてからでないと始まらないこともある。カンピオーネが関わる事件において唯人が動かせるものなど、ほんのちっぽけな物に過ぎないのだと言うことを甘粕はこれまでの経験から良く学んでいた。

 

甘粕の直截な質問に対し将悟もまた端的に一言。

 

「直談判」

 

出たとこ勝負ということですね分かります。

 

短い平穏だったと甘粕はあらためて宝石の如き貴重な時間に思いを馳せつつ将悟にはこちらで段取りを付けると念押した後、電話を切った。そしてすぐに二人のカンピオーネに対してストッパーの役割を辛うじて期待できる人材に連絡を取るべく七雄神社へと足を向けたのである。

 




お久しぶりです。今後の展開に詰まった上に就活が中々決まらず今まで放置しっぱなしだった小説ですが多少余裕が出来たので投稿を再開しようと思います。ただし新卒の割に仕事が糞忙しいので月一更新出来れば御の字という情けなさですが。

今回から始まる《蛇と鋼》では日本では誰でも知っているほど有名な《鋼》の英雄が登場します。もう2、3話護堂と主人公のグダグダ交渉が続きますが、元々バトルが書きたくて始めた小説。出来るだけ早くそこまで行けるよう鞭を入れて頑張ります。


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幕間 草薙護堂

書きあがってすぐだけど投稿。

最近新人だからとかいう容赦が無くなってきた職場がキツイ。のは許容できるけれど休みが不定期すぎ+モヤシが肉体労働というダブルパンチで執筆意欲が消火されかかっています。

自分に喝を入れる意味で投稿しますが改めて本気で亀更新になると宣言させていただきます。


ローマ古来の闘技場コロッセオが魔王、草薙護堂の手によって豪快に粉砕されたある日の夜。

とあるホテルの一室にて草薙護堂は相棒たるエリカ・ブランデッリからある人物にまつわる話を聞かされていた。

 

「赤坂将悟?」

 

目の前に佇む少女が口にした、聞き覚えのない名前を護堂は鸚鵡返しに問い返した。

この人物には気をつけろと静かに畏怖と警戒を覗かせる少女の口調に僅かに驚く。この誰よりも才気と美貌に溢れ、自信に満ちた態度を取り続ける少女には甚だ似合わない感情の動きだったからだ。

 

「どんな奴なんだ?」

 

気をつけろなどと言われてもどうすればいいのだ、というのが正直な気分だったのだがあまりにも彼女らしくない口調に思わず問いかけてしまった。

 

「カンピオーネよ。それもあなたと同じ日本に住んでいる、ね」

 

さらりと言い放たれた台詞に一瞬思考を停止させ、次の一瞬で湧き上がった疑問が爆発する。

 

「ちょっと待て、日本にもカンピオーネがいるのかよ! 世界中でもそんなに多くいないんじゃなかったのか!?」

「付け加えると住んでいる家はあなたの実家のごく近く、あなたと同じハイスクールに在籍しているらしいわ。ちなみに二人以上カンピオーネが住んでいる国なんて日本以外に存在しないから。多分歴史上で考えてもなお希少でしょうね」

 

あまりに信じ難い情報の数々に頭痛を覚える。護堂は自分以外のカンピオーネをサルバトーレ・ドニ以外知らないが、エリカから伝え聞いた他のカンピオーネにまつわる逸話の大半は護堂が“カンピオーネには関わりたくない”と思うには十分すぎるほどろくでもない話が大半だった。

 

尤も魔術業界からは護堂もまたそんな生きた災厄達の一員であると認識されているのだが……彼の心にある棚はとても広くて出し入れが容易な逸品なのだ。ごく自然にカンピオーネの中でも自分だけは例外であると信じ込む。

 

「というかなんで今まで教えてくれなかったんだよ。知ってたらその人と喧嘩にならないよう気を付けられたのに」

「護堂が彼のことを下手に警戒したらそれをキッカケに何がしか騒動が起こるかもしれなかったもの。基本的に放っておけば無害な人らしいわ、揉め事の種があったら自然とそっちの方に向かって行くらしいけど」

 

一部実にカンピオーネらしい評価にやはり同国在住の神殺しもアレな性格なのか、と護堂は自分を棚に上げた思考を胸の内に漏らした。またエリカの意図的な情報封鎖も自身を気遣った結果であるというのは理解できたのでそれ以上追及はしない。

 

ともあれそんな危険人物の一人が自身のごく近くで生活している、というのは護堂にとっても衝撃だった。自然と警戒心が湧きあがり出来るだけ関わらないために、または万が一遭遇しても穏便に済ませるためと自分の心を納得させ、エリカから情報を引き出し始める。

 

「一体どんな奴なんだ?」

「名前はさっきも言ったけど赤坂将悟。あなたと同じ年齢だけど一年前に日本のどこかでエジプトの月神トートを殺め、カンピオーネになったらしいわ」

「トート? 聞き覚えのない神様だな」

「古代エジプトで広く信仰されたビッグネームよ。太陽神ラーを頂点とし、編纂された神話においても宰相の地位を用意し迎え入れざるを得なかったほどに強大な智慧の神―――万が一お互いの権能をぶつけ合うことになった時に備えて、もっと聞いておく?」

 

クスリ、と妖艶な笑みを浮かべ、顔を近づけてくるエリカに急速に顔が熱くなるのを自覚しながらも護堂は頬に宿る恥ずかしくも心地よい熱に没頭しきれなかった。

 

智慧の神、というフレーズを聞いて微かに警戒心が湧きあがる。無視してはいけないという直感が心を不安にさせる。なんとなく己の裡に宿る黄金の剣がまぶたの裏にちらついてしまう。しかし神様絡みの騒動に巻き込まれないため、神話関連のうんちくにはできるだけ耳にしたくない護堂は話を打ち切ってしまった。

 

「…いや、別にいきなりケンカすると決まったわけじゃないんだ。俺はおかしな力をもってるだけの一般人。荒事を前提に行動するのは平和的じゃない」

「いま半呼吸くらい迷ってから言葉を出したわよね? やっぱりあなたも五割五分くらいは彼と戦うことになるって感じてたんじゃない?」

 

どうやら自分の主張を全く聞いてくれない相棒の言葉に憤りを感じる護堂。いや、胸の奥底では既に荒事になった状況に備えて件の人物の人柄について分析が始まろうとしていたのだが…。

 

「ともかく! 赤坂将悟だっけ? そいつについてもうちょっと知りたい。性格とか行動とか」

「来たるべき魔王同士の闘争に備えて?」

「ケンカになるのを防ぐために、だ。エリカ、いい加減にしないと怒るぞ」

 

護堂の剣幕にクスリと笑って答えた後に仰せのままに致します、ととびきり優雅な仕草で騎士の礼をとるエリカ。すべてお見通しよと言わんばかりの仕草が腹立たしくも思え、愛らしくも思える。

 

「実を言うと私もかのカンピオーネに関する情報は大半が伝聞なのだけれど……でも、情報ソースは彼と交流を持ち、共闘したこともある人よ。信頼性で言えば7割くらいは保証出来ると思うわ」

「そんな人が知り合いにいるのか?」

「隠す必要もないから言ってしまうけど別に私の手柄じゃないわ。だって叔父様のことだもの」

 

さすがは社交術の達人エリカ・ブランデッリ。築いた人脈もさぞ凄まじかろう、と感心していた護堂だがエリカの口から飛び出してきたのは全く予想外の人物の名前だった。

 

パオロ・ブランデッリ。

 

護堂も何度か会ったことがあるがまさに“騎士”を体現したかのような威風を身に纏うエリカの叔父。イタリアに住む彼と日本在住らしいカンピオーネとの間に一体どのような縁があって交流が生まれたのだろうか?

 

「英国魔王争乱、昨年にイギリスで起こった三人のカンピオーネによる抗争。その争いに叔父様も参戦していたのよ。その過程で当時無名だった赤坂将悟と共闘するに至ったらしいわ。経緯についてはあまり語ってくださらないのだけど…」

 

首を傾げる護堂の内心を察し、テンポよく説明を加えるエリカ。ちなみにエリカに対し経緯について語らなかったのは可愛い姪にカンピオーネと言う埒外の生命体と関わる可能性を僅かでも減らすためだったのだが、結果として姪っ子はパオロの親心を見事に裏切っている。

 

ともあれ話を本筋に戻し、エリカは赤坂将悟の人品について語りだす。

 

「性格は一言で言うと護堂以上に適当で、後先考えない人らしいわ。その場の気分で行動を決める上に良くも悪くも誰も予想の出来ない結果を叩きだす現代のトリックスター。加えて異常なまでの的中率を誇る勘の持ち主で、騒動の種を見つけ出すのが大得意。そう叔父様がため息交じりにこぼしていたわ」

「別に俺は適当でも後先考えない人間でもない、一言余計だ…。それにしてもなんでそんな奴がカンピオーネになったんだ、一番こんなデタラメな力を持たせちゃダメな人間じゃないか!」

 

そんな護堂の呟きに対するエリカの返答は若干以上の間を空けて行われた。

 

「…………そうね、きっとカンピオーネを知る誰もが同じことを考えてると思うわ」

 

答えるまで二呼吸ほどおいてどこか生温かい目で自身を見詰めるエリカに言い知れない居心地の悪さを覚えながら護堂は話の軌道を修正する。

 

「気まぐれな人っていうのは分かったけどもっと他に何かないのか? 趣味とか」

「趣味…ええ、あるわよ。カンピオーネらしいエピソード付きのものが山ほどね」

 

人の不幸は蜜の味、という言葉を何故か(・・・)思い起こさせるエリカの妖艶でありながら毒花のような笑顔に戦慄する護堂。

 

「好奇心がとても強い方なのよ。そして権能と魔術に強い関心を以て研究を進めている…でも室内に籠もってデスクに向かうよりもフィールドワークを好む性分ね。世界各地の魔術体系を学んだり、未発掘の古代の神殿を探索に行ったりと言う風に」

「それだけ聞くと別に問題ないように聞こえるけどな」

 

首をひねる護堂。

 

「その過程で好奇心の赴くままに行動したせいで幾つもの貴重な遺跡が破壊されたり力ある魔術結社が壊滅したりするのよね」

 

さらりと言い放たれたエリカの不穏すぎる発言に一瞬思考が停止する。

 

「ちょっと待ってくれ、好奇心の赴くままってなにがどうなったらそんなことになるんだよ!?」

「知らないわ。あくまで叔父様の評価だけど目の前にボタンがあったらつい誘惑に負けて押してしまうタイプだそうよ」

 

遺跡を破壊したというのは要するに件の遺跡に眠っていた禁断の上位魔術とやらを後先考えず起動した結果らしい。あくまで噂なのだが。

 

「魔術結社に関してはどうにも怪しい点が多いのよね。カンピオーネの力を利用しようとして彼を侮った報いを受けた、なんて顛末でも驚かないわ」

 

カンピオーネを“殺す”のはともかく“利用”するだけならたぶんなんとかなりそうだし、と呟くエリカ。かの王の方が一枚上手だったようだけど、と付け加えもしたが。

 

「でも同時に遺跡に眠ってた危険極まりない太古の秘術とか封印された神獣とか時限爆弾じみた代物を解決したりしてもいるから一慨に否定し辛いのよね…」

「……なあ、それってそいつが下手に掘り起こしたりしなかったら何も起こらなかったんじゃないか?」

「そうね、私も同意見。でも彼がいなければ誰も知らないまま将来に不発弾を残すような事態になってた可能性が高いわよ?」

 

要するに元々存在した厄介事に“たまたま”赤坂将悟が突き当たった、ということだろう。もっともその“たまたま”が何度となく連続で続く辺りが成功率1%以下のハードルを易々と潜り抜けるカンピオーネの真骨頂だったが。

 

「もう一つ付け加えておくと魔術に関する天賦の才の持ち主でもあるわ。多分100年後に21世紀最高の魔術師は誰か、なんて質問がされたら確実に候補の筆頭に挙げられるでしょうね」

 

ご本人もなかなか探究心旺盛であらせられるしね、と皮肉と諧謔を乗せた口調で付け加えるエリカ。

 

「へえ…。正直俺は魔術に関してはさっぱり分からないけど凄いんだな」

「あなたが想像しているよりもずっと、ね。エリカ・ブランデッリは天に愛された才能の持ち主だけどそれでもまるで対抗できる気がしないもの」

「そんなにかよ!?」

 

このプライドが人の三倍は高い少女が悔しげな様子もなく兜を脱ぐ。つまりそれほどの、比べるのが馬鹿らしくなるほどの才能の差があるということだ。

 

「カンピオーネになるまで魔術のいろはも知らなかった少年が一年間で『転移』の魔術を自由自在に操る……少しでも魔術をかじった人間なら発狂する話よ。さもなければ悪い冗談だと一蹴するか」

「……すまん。俺にはそれがどれくらい凄いことなのかわからないんだが」

「音楽でも舞踏でも何でもいいけれど感性と才能が幅を利かせる世界で一年間片手間に学んだだけで最高峰《ハイエンド》の麓に足を踏み入れている、と言えば分かりやすいかしらね。今はまだ探せばそれなりに見つかる上級魔術師に過ぎないけれど、きっともう一年後には世界でも屈指の術者に成長していても驚かないわ」

 

と、さらに説明してもピンと来ていない様子の護堂に苦笑しながら付け加える。とはいえ些かならず理解しがたい、難解な話であったのだが。

 

「魔術を行使する際に“理解”は要諦の一つよ。でも魔術とは深遠で理解しがたい学問……知性と論理はこの道を歩む上で重要な武器だけど必須ではないし、それだけあれば極められるというものではないわ。どんなに優れた頭脳の持ち主でも言語化できない魔術的センスが無ければ高等魔術の習得は不可能よ」

「そうなのか?」

「あのね、護堂。そもそも魔術なんて非科学的(・・・・)な技術体系をまっとうな(・・・・・)理屈だけで説明できると思う? そうした説明できないギャップを埋めるのが私の言うセンスなの」

 

そう言われてしまうと大して魔術に対して造詣の深くない護堂としてはそんなものかと納得するしかないのだが。

 

「そしてかの王が優れているのはそのセンス、アナログで野性的な霊的感性なの。通常魔術を理解するにはその土台となる予備知識が必要になるのだけれど、そんな常識を直感一つで無視して見ただけで習得してしまうらしいのだからもう呆れる言葉も出ないわ」

「予備知識…?」

「そうね。例えば私たち騎士が扱う騎士魔術の根幹は騎士道の教えと深く関わり合っているわ。だから高位の騎士魔術を読み解くには騎士道の理解は必須よ。そのために私たちテンプル騎士の末裔は幼い頃から騎士道を学び、体現することを求められるの」

 

ある種の隠喩、暗号として騎士道が機能しているのよとエリカ。

正直なところ半分以上がチンプンカンプンな護堂であったが、なんとなく直感的にある種神の来歴を学ぶ作業と似ているのかもしれないと悟る。神格が成立し、発展していった歴史的背景を知らなければ真にその神格を理解したとは言えない。魔術の理解にはそれと似たステップが必要ということなのだろう。

 

しかしどこにでも例外と言うのはあるもので、ある種の天才たちにはそうした予備知識は必ずしも必須ではないという。魔術を目にし、触れるだけで特有の超感覚によってその本質をたちまち理解する、そんな常識を覆す天才と言うのは極めて稀少だが前例がないわけではないらしい。

 

「赤坂さまは多分そうした魔術に対する感性が頭抜けているのでしょうね。霊的な第六感で魔術の正体を把握したら天性の魔導力で再現する。智慧の神から魔術の権能を奪った方だもの。先天的か後天的かはともかく魔術的なセンスは正しく怪物(フェノメノ)の域に達しているはずよ」

 

怪物(フェノメノ)

エリカがそう評した人物のことを護堂はこれまでに一人しか知らない。

 

「それってつまり、才能の絶対量ならサルバトーレ・ドニの野郎と張り合えるってことか!?」

「正直あの方たちのレベルになると私程度じゃ量りきれないわ、悔しいけど。ただあの方に比肩する才能の持ち主、現れるなら百年に一度かはたまた千年に一度か。そういうレベルよ」

 

その断言に込められた感情は畏怖、己程度ではけして届かぬ高みへ散歩をするような気軽さで無造作に至ろうとする理解不可能な怪物を仰ぎ見る一介の人間が発露する畏れと敬意の表れだ。

 

「いずれ地上に生きるあらゆる魔術師を凌駕することが約束された魔道の怪物―――『智慧の王』。あなたがこれから否応なく隣り合い、関わり合っていかざるを得ないカンピオーネよ」

 

力を込めて不穏ならざる未来を宣告された護堂は思わずやれやれと肩を落としたくなった。

どうにもこれから自分が相対するであろうカンピオーネは一筋縄ではいかないようだ。だが思い返してみればサルバトーレ・ドニも超弩級の大馬鹿でありながら油断のならない曲者だった。であればまあ成るようにしか成らないだろうし、多分何とかなるだろうと行き当たりばったりな結論に達するあたりやはり草薙護堂は正しくカンピオーネだった。

 

ともかくここまで怒涛のように流し込まれた情報の渦に溺れそうになった護堂は頭の中で一度ゆっくりと聞いた情報を整理する。

 

説明不可能な直感でイレギュラーな結末に導く智慧の神の弑逆者。騒動を起こしながら揉め事も解決しているトリックスター。考えるな、感じろを地で行く魔術の天才。

 

そして赤坂将悟をしみじみとした口調でこう評した。

 

「……何ていうか、天才と何とかは紙一重って言葉を思い出したよ。行き当たりばったりに動いているはずなのに良いことも悪いことも凄い規模で同じくらい起こっているっていうか」

 

護堂の発言にエリカがまさしくと相槌を打つ。

 

「叔父様が彼をトリックスターと評した所以よ。同時にゴルゴネイオンを託さなかった理由でもあるわ。護堂に任しても最悪でも都市一つが壊滅するくらいかと予想できるけど」

「―――おい」

 

失礼な評価に護堂は抗議の意を込めて低い声を出すが、

 

「赤坂さまに渡せば、それこそ護堂以上に予想がつかない(・・・・・・・)。無難なところに落ち着けばいいけど私達の想定する“最悪”を更に下回る事態になってしまう可能性……そこそこ低くはないと思うのよね」

 

エリカに華麗にスルーされた。

 

「だからって俺に怪しげな代物を持たせても結局同じ日本にいるんだから結果は変わらない気がするんだけど…」

「主導権を護堂が持つのが大事なのよ。貴方、居丈高にゴルゴネイオンの譲渡を迫られてはいどうぞと渡せる?」

「渡せるわけないだろ、こんな危ないモノ。第一預かり物ってことになってるんだからエリカ達の了承も得ずに俺の好きにしていいものじゃない」

「護堂、あなたって本当に変なところだけ常識的だわ。そこは世のため人のためにもっと融通を利かせた方が良い場面よ。まあそんなところに期待している私が言っていいセリフじゃないけれど」

 

呆れるような、愛おしむようなニュアンスを込めたエリカのコメントであった。

 

「赤坂様も女神との連戦を避けて護堂との激突は出来るだけ避けるよう動くと思うわ。最悪でもこの問題が収束したタイミングで仕掛けてくる筈…それまでの猶予期間中に交渉で済ませられれば最良ね」

 

平穏無事に済む可能性もあると説くエリカ。だが護堂としてはその意見に懐疑的にならざるを得ない。カンピオーネと言う生き物がどれだけデタラメで計算通りに動かず、好戦的であるかを肌で知っているが故に。

 

「……なあ、エリカ。一度頷いておいて悪いけどやっぱりゴルゴネイオンを日本に持ち帰るのは止めにしないか。どう考えてもこいつを日本に持ち込む方が迷惑を被る人が増える気がするぞ」

「護堂、それで苦しむのは庇護する王が不在のこの国に住む無辜の民草よ。もちろんあなたの国に棲む人たちに迷惑をかけてしまう可能性が高いけど……言葉を濁さずはっきり言うわ、たぶん私が推す護堂に解決を任せる案が一番マシよ」

 

微かに苦々しげなものを表情の隅に覗かせるエリカ。

 

「どの王にゴルゴネイオンを託しても多かれ少なかれ絶対に問題が生じるわ。でも護堂に頼めばかなり融通が利くし、少なくともサルバトーレ卿が不在のイタリアよりも効果的に対処できる」

 

サルバトーレ卿がサボタージュを決め込むのは予想外だったわ、と酷く不可解で理解できないものを見た表情を浮かべるエリカ。同意する護堂だがひとまず目の問題に対するエリカの考えを聞いておきたかったため視線で促す。

 

「もちろんかの王はお怒りになるでしょうね。最悪の事態にならないと踏んではいるけどなにもかもを度外視して私やローマの結社を罰しに来る可能性も無いではないわ」

 

察したエリカが何事もなかったように続けた。

 

「―――その可能性を呑んだ上で私達イタリアの魔術師は護堂に託すことを選んだの。もちろん打算と自己保身なんかも大いに含まれているけれどもね」

 

どういうことだ、と問いかける護堂に簡単なことだと返す。

 

「ローマの結社は問い詰められれば私が主導したと弁解できる。そして私は護堂の庇護を当てに出来るってこと」

 

……は? と考えてもいなかったという風な呆然とした表情で聞き返す護堂。

 

「既に叔父様の口から赤坂様には今回の顛末について包み隠さず伝えてもらっているわ。噂に聞くかの王の性格なら結社というグループではなく個人と言う明快に問いただせる目標に目を向けるでしょう。私が日本に赴けばまず間違いなくこちらにやってくる……と、思うわ」

「言いきらないのかよ…っていうかお前日本に来るつもりか!」

「あら? 私以外に貴方をサポートできる人材に心当たりがあるなんて……護堂、貴方ったら何時の間にそんな人脈を築いたのかしら。油断ならない人ね」

 

もちろんエリカの言う人材など心当たりはない。どちらにせよ問題が間近に迫っているならエリカの助力は必須だ。交渉という未知の分野ならなおのことである。つまるところエリカの申し出を拒否する理由などどこにもないのである。

そんな護堂の諦めの悪さをクスリと笑って流し、

 

「真面目な話をすると赤坂様と交渉するためにはやはり私が日本に赴くのが手っ取り早いし、厄介事を押し付けた当人が無視を決め込むなんて私の趣味じゃないわ。私は私の責任と裁量を持ってこの一件を上手く収める義務がある」

 

珍しく悪魔的かつ優美な微笑ではなく義務感と怜悧さを表情に込めた真剣なエリカ。普段から気易く口を交わしていてもやはりエリカは超一級品の美少女。普段目にしない一面を前に思わず赤面してしまう。

 

「だから例の王様や女神様と事を構えることになった時はお願いね、護堂。頼りにしているわ♪」

 

だがそれも一瞬で崩れ茶目っけに溢れた笑顔を浮かべる。可愛らしく片目を瞑り、立てた人差し指を口元に持っていくポーズのおまけつきで。

 

「お前な……分かったよ。ヤバくなったら俺が何とかする。でも頼むから上手くやってくれ。これからお隣さんになる相手と最初から喧嘩なんてしたくない」

「ええ、分かっているわ。この状況で衝突を前提に動くのは下策よ。その程度の事実を私が心得ていないと思う?」

 

やっとエリカらしさが出てきたか、と高慢さと自信を等量で漲らせた女獅子の微笑に護堂は苦笑してまさかと返す。エリカ・ブランデッリは騎士道に殉じる騎士の高潔さと子悪魔じみた頭の回転の速さに加え、意外なほど抜け目のなさも併せ持つ。

 

今回の一件に関するエリカのアクションにむしろこうでなくてはとすら思う。

 

「それと貴方が不心得な勘違いをしていたらいけないから宣言しておくけれど私の命を懸けるのだから相応のリターンも当然狙っているわ。なにせ私はエリカ・ブランデッリなのだから! 護堂、貴方はそんなことも忘れてしまったのかしら?」

 

だとしたら貴方は本当にお馬鹿さんね、と舌を出した悪戯っぽく小憎らしい笑顔。その様はいっそ見事と言えるほど図々しくも愛らしい。クソっ、この流れでこの笑顔は反則だろうと胸の中で呟く護堂。

 

こんなことを言っているがエリカはエリカなりに最善を求め、行動していることに護堂は一片の疑問を抱いていない。その過程で己の身を危険に晒すことにいささかの躊躇も覚えないだろうこともだ

 

なんだかんだいいながらもエリカが持ち込んでくる厄介事に否と言えない護堂の思考はどこまでも単純であった。

 

―――友達が困っているのなら助けたい。

 

カンピオーネだろうがなんだろうが結局のところ草薙護堂はお人好しである。性格的、行動的問題は多々抱えているがその一点に関しては恐らく否定しきれる人間はいないだろう。

 

そしてその後もぽつぽつと話し合いが続いたが重要性が薄れていくにつれ目に見えてエリカの誘惑が強まっていく。そこから逃げようと悪戦苦闘する護堂と全て把握したうえで手玉に取るエリカという本人達以外の誰も関与したくないラブコメ時空(ほのぼの要素薄め)が展開される。

 

多大な代償を払った上でベッドの上で一人で寝る権利を譲渡された護堂はそれにしても、とこの数時間で怒涛のように脳裏に刻み込まれた情報の奔流を反芻して思わずため息を吐く。

 

エリカ達から曲者の評を受けるカンピオーネ。そんな人物が待つ日本へこれから自分はゴルゴネイオンなる怪しげな器物を持って帰国せねばならないのだ。

 

エリカと出会ってから自分の人生は狂いっぱなしだと自身の言動を棚に上げて護堂はため息をつきながらも不思議と後悔の無い胸中を心地よく思うのだった。

 

こうした一幕を挟みながらも概ね平穏にローマの夜は更けていったのだった…。

 

 




第一巻と第二巻を読み直してアテナ事件の諸悪の根源はサルバトーレ・ドニであると思う今日この頃。こいつさえ真面目に仕事してればこんなややこしくならなかった気がします。普段は頼まれなくても首を突っ込んでくる癖に。それに乗っかって日本に厄介事持ち込んだ共犯はエリカですが。

基本的にローマの結社は詰んでます。ドニが不在で他の王も頼れないので。

だからこの件に関してはたった一つの冴えたやり方とかマジで思いつきません。ローマの魔術師たちを責めるより彼らにとって優先するべきものを考えこんなリスキーな対処法になった、という風に理解していただけると幸いです。

だから筆者の描写不足を責めないでください(本音)


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蛇と鋼 ①

イタリアからゴルゴネイオンなる曰くありげな神具を携え帰国した草薙護堂への対応を甘粕と話し合った翌日。

 

その日の授業が全て終了し、帰宅する時刻となっても将悟は一切の具体的な行動に出ていなかった。彼を良く知る人間に言わせればこれは中々珍しい事態である。

 

本来赤坂将悟は決断を迷わない、何一つ行動の指針となるものが無い混沌とした状況でも勘に任せた即断即決を身上として幾度となく容易ならざる状況を乗り越えてきた。

 

甘粕が少々強い口調で軽挙を諌めようと関係ない。将悟は己の勘働きを信頼していたし、言って聞くような殊勝な性格でもない。本来なら朝一番に草薙護堂が在籍するクラスに足を運んでいるはずだった。

 

ならば何故彼は動かないのか? 答えはシンプルだ。

それは自らが動くことなく状況を動くのを待っているからである。

 

「失礼いたします」

 

(シン)、とそこそこ賑やかな教室の空気に染みいるような穏やかで気品のある声音。けして大きくないはずなのに不思議と耳を奪われた者達が教室の入り口に視線を向けるとそこにはひっそりと咲く華の風情を身に纏う少女。

 

「赤坂さんはいらっしゃるでしょうか? 少々お話があるのですが」

 

酷くこわばった、しかし鈴が鳴るような凛とした声。聞き覚えのある、しかし聞き慣れないこの声の持ち主にもちろん心当たりがあった。同じ学校に通う同業者であり将悟も認める巫力の所有者、ついでに言えば清秋院恵那の親友でもある。

 

「万里谷か。珍しいな、そっちから話しかけてくるのは」

 

万里谷祐理。

関東の要地の一つ、武蔵野の霊地を預かる当代屈指の霊力を誇る媛巫女である。

 

だがそんな表に出せないプロフィールの方は教室の居残っていた面々にはあまり関係が無い。普段目立つことが無い将悟を学園一の高嶺の花が名指しで呼びだした、という事実こそが最も重要だった。

 

何故あいつがと驚愕を視線に込める者もいればごく少数だが苦々しげな表情で将悟を睨む者もいる。尤も二人ともそんな視線を一顧だにせず、お互いのみを視線に捉えていた。

 

祐理は世間慣れしていないが故に空気を読むのが苦手であるために。

逆に将悟は場の空気を読んだ上で完璧に無視していた。

 

「甘粕さんから伺った委員会の仕事に関して少々お話が……。ここではなんなので場所を変えてもよろしいでしょうか?」

「分かった」

 

このタイミングで仕事に関する話とくれば該当するのは一つしかあるまい。ノータイムで頷くと祐理は礼を失しない程度に安堵の表情を浮かべた。

 

「ありがとうございます。ご足労かけて申し訳ありませんがこの後何時でも良いので七雄神社においでください。お待ち申しあげております」

 

そして貴人に対するかのように深々と一礼するとそのまま去っていく。その際目敏い者は教室に入ってくる時よりもほんの僅かだが足早だったことに気付いただろう。

 

最期に皆様ご機嫌よう、などとカルチャーギャップを刺激する台詞を口にして教室を去った。

 

祐理の口調は丁寧過ぎるほどに丁寧なのだが目敏い者なら会話の裏にあるぎこちなさや距離感を感じ取れるだろう。どうにも避けられているようだと将悟も感じている。

 

将悟自身は何かした覚えは無い、初めて会った時からこんな風なのだ。いままで何度も言葉を交わしたが改善される見通しは立っていなかった。おかげで彼女の友人知人からの評判は頗る悪い。特に静花という名の気の強そうな中等部の女生徒からは会うたびに鋭い視線を向けられていた。

 

将悟自身は祐理自身に対して正負の感情どちらも抱いていなかったが、彼女は清秋院恵那の親友なのだという。

 

もうちょっとどうにかならんものか、と主に親しい少女のために関係改善の糸口を探るがどうにも手応えが悪かった。もっと根本的な対策を取らねばと思うがそのキッカケすらつかめていない。

 

頭を振って思考を打ち切り、顔を上げるとそこには嫉妬と困惑とほのかな狂気を浮かべた男子生徒の面々が一様に将悟へ視線を向けていた。率直に言って相当怖い。

 

その後、祐理のファンを自称するクラスメイト達から降り注ぐ手荒い尋問(ハードネゴシエーション)に将悟が無駄なノリの良さを発揮して応戦。カンピオーネの理不尽なタフネスを以て十数人を地に沈めたあと悠々と七雄神社に下校の足を向けた。

 

以後、将悟は普段は目立たない癖におかしな場面でおかしな存在感を示す人物として学院内外に静かに認知されていくこととなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

七雄神社で巫女服に着替え待っていた祐理の言う用件と言うのはシンプルだった。

 

甘粕から草薙護堂と己の会談を取り持つ仲介人となるよう依頼された旨を告げ、既に草薙護堂とは連絡済みであり、明日七雄神社にて会談が行えることを伝える。

 

そしてその上で彼女にとって本命であろう、将悟に軽挙妄動を慎むよう切々と説いて来たのである。

 

「委員会の方々からも出来る限りの準備を約束していただきましたがここは無辜の民草が住み暮らす都の中心なのです。御身ら羅刹王が周囲への配慮を忘れて荒れ狂えばたちまち阿鼻叫喚の巷となりましょう。なにとぞ民のことを心の隅に御留め下さいますよう―――」

 

この後も長々と続きそうな気配だったが無論将悟はそのまま大人しく説教を聞くような殊勝さの持ち合わせはない。半ば額ずくように深々と頭を下げ諫言を上奏する祐理からの視線が切れた瞬間を狙い、音もなく瞬時に『転移』の魔術を行使すると見事なサイレントエスケープをかましたのであった。

 

「…赤坂様? 一体何処に―――!?」

 

逃げられた事を悟った祐理はしばしの間絶句し、思考を停止させた。なまじ育ちが良いだけに将悟の悪餓鬼じみた行動に対処できるほどの経験がないのだ。

 

「あははっ、惚れ惚れするくらいの逃げっぷりだねー。流石は王様」

 

そうしておろおろと戸惑う祐理の背中にケラケラと嫌みのない笑いの含まれた声がかけられる。もちろん良心の呵責を感じた将悟が戻ってきたわけではない。

 

「恵那さんっ!? 何時お戻りになったのですか?」

「甘粕さんから清秋院の本家に連絡が来た時たまたま恵那がいたんだよね。新しく王様になったっていう草薙さんと戦うかもしれないって言うから慌てて飛んで来たんだ」

 

等と言う割に恵那はのんびりとしていた。一部始終を見ていたようだが今もこの場から離脱した将悟を追う様子もない。ここ最近の恵那は常に将悟の後を追っている印象があったから祐理はやや違和感を覚える。

 

「赤坂様は既に去られてしまいましたが…」

「良いんだよ、今はちょっと祐理と話したかったからね」

「私と…ですか? 何でしょう」

「うん。祐理と王様のことでちょっとさ」

 

恵那の重々しさの無い、世間話のように振られた一言にたちまち祐理の表情が暗くなる。それははっきりとした心当たりのある顔だった。

 

「…赤坂様には申し訳なく思っています」

「やっぱり自分でも分かってたんだねぇ。王様と話す時だけ露骨に怖がってたからねー」

「王の不興を買ったこの身を惜しもうとは思いません。ただ何卒無辜の民にそのお怒りが降り注がないよう恵那さんからお口添えを―――」

 

軽いままの恵那とは不釣り合いな悲壮なまでの決意を固めた祐理が口にする悲観的な内容を恵那は手を振って遮る。

 

「いやいや、恵那は祐理を責めるつもりなんて無いよ? だって王様ってさ、はっきり言って人でなしだからね。恵那が言うんだから間違いないない!」

「そのようなことは…」

「割と聞き訳が良い方だから目立たないけどね。なんだかんだ王様は自分のわがままで降りかかる周りの迷惑なんて知ったこっちゃないって人だよ」

 

困ったような顔で言葉に詰まる祐理。育ちのいいお嬢様は例え魔王の忌名で恐れられる人物に対しても“人でなし”という表現は使いたくないのだ。客観的に見ても主観的に見ても割と否定できない事実なのだが。

 

「王様ほど豪快じゃないけど恵那も似たようなところがあるからね。そういうのは分かるんだ」

「恵那さん、媛巫女の筆頭たる貴女がそのような不心得を口にするのは…」

「んー。でも祐理には嘘を吐いても意味がないし、自分に嘘を吐くのはもっと嫌だしね」

 

あっけらかんと自らの不道徳を告白する恵那を祐理は諌めるが彼女はどこ吹く風と飄々とした笑顔のままだ。そしてその風の如き掴めない笑顔のままズバリと懐に踏みこんでくる。

 

「王様のそういうところが祐理は怖いんでしょ? あの東欧の侯爵様と似ているから」

「!?」

 

恵那の確信の籠った断言に対し声に出せぬ驚愕を表す祐理。隠し事が出来ない性格の祐理らしい、親しい人間で無くてもはっきりと分かるほど図星を突かれた様子だった。

 

幼いころから親友として付き合ってきたのは伊達ではない。将悟と相対した時に見せる祐理の怯えは4年前東欧から帰国した当時ふとした拍子に表に出ていたソレとよく似ていた。

 

「隠し事は無しだよ? 祐理程じゃないけど恵那も鋭い方だからさ。嘘を吐かれたら分かっちゃうんだ」

 

しばしどう答えるか逡巡した風だったがやがて諦めたように言葉を飾るのを止めて直接的な、不敬ともとれる自身の心情を吐露して行く。

 

「赤坂様の傍で御助力し続けてきた恵那さんにはあの方の危険性が分かるはずです…。あの方の本質は侯爵様と同じ。ただ己が求めるまま他者を顧みず手を伸ばす―――“暴君”です」

 

祐理が霊視に由来する直感で受け取った赤坂将悟の本質。それは確かに一面の真実を突いていた。

 

「んー、うん。そうだね、王様はきっと民とか国とかそんなものは何とも思ってない。目に入っても意識しないカカシと同じだよ。今はまだカンピオーネになる前の常識が多少なりとも残ってるけど一度タガが外れたら行きつくところまで行くだろうね。こういった時に止まるためのブレーキが最初から壊れてる人だしー」

 

その権能をヴォバン侯爵のように積極的に民衆を虐げる方向に向けることはないだろうが一方で将悟は周囲の被害に対して大分無関心な男である。最近の出来事で言えばカルナとの闘争により面影を失う規模で破壊し尽くされた山村に対してコトが終わってから言及したことが一切ない。

 

これまでは不思議と人命が失われるようなことにはならなかったが、今後将悟が魔王として活動していく中で無辜の民衆が犠牲になる可能性はかなり高い。必要とあらば自身の手を血に染めるくらいはやりかねなかった。

 

「恵那さん…私はこれが私個人の我儘だと分かっていても―――貴女にそんな魔王(ヒト)の傍にいて欲しくないんです。貴女のことを、親友だと思っていますから」

 

飾りのない真っ直ぐな祐理の思いが込められた言葉に恵那もまた真正面から視線を合わせて答える。

 

「ありがとね。心配してくれて嬉しい、ホントだよ?」

 

でも違うんだ、と恵那は困ったように笑う。

赤坂将悟は疑う余地無き暴君だが決してそれだけの王ではない、そう恵那は思うのだ。

 

「確かに王様は人でなしで正真正銘の魔王様だよ」

 

赤坂将悟は自身の興味が向かない範囲には冷酷でさえある、この祐理の見立てはおおむね正しい。

 

「でも王様は恵那を大切にしてくれてる……そこは侯爵様とは違うよ」

 

だが恵那は祐理の知らない赤坂将悟を知っている。

 

「王様が委員会の要請に応えて神様と戦うのも恵那とか甘粕さんのためってのも少なからずあると思うし」

 

赤坂将悟は“人”が大好きだ。

それも尖った個性、癖のある性格の持ち主たちを好む。清秋院恵那然り、甘粕冬馬然り。

 

将悟は一度神様との戦闘が勃発すれば高揚するテンションに任せて行きつくところまで行ってしまうが、逆に言うと始まるまではそれほど熱心ではない。揉め事を見つけるのは得意だが必ずしも揉め事に首を突っ込むのが好きなわけではないのだ(ちなみにこの場合における将悟の判断基準は“面白い”かどうかであり、この基準外の揉め事に対しては明らかに不熱心な態度を示す)

 

でありながら何故そうした気が乗らないはずの神様絡みの厄介事に対しても厭いはすれど逃げることなく向き合い続けるのか?

 

この疑問の鍵を握るのは将悟が仲間と認め、時に戦場にすら伴う恵那と甘粕の存在である。

 

彼が親しい者に与える庇護は周囲が思う以上に広く、深い。単に贔屓する個人だけではなくその人物が所属する集団、社会、共同体もまた庇護の対象に含まれるのだ。人は一人では生きられない、社会と言う群れの中に生きる生き物であるが故に。

 

例えば清秋院恵那が適度に刺激的な生を謳歌するためにスサノオや万里谷祐理がいなくてはならないように。あるいは甘粕冬馬が日々平穏に暮らしていくために日本国と正史編纂委員会の存続が必須であるように。

 

彼ら彼女らの所属する世界を乱す可能性がある者を将悟は排除するだろう。特に周囲にもたらす影響が極めて大きいまつろわぬ神などは最優先で排除すべき対象であり、それに準ずる全てもまた潜在的な排除対象である。

 

凄まじく遠回りで分かり難く、本人も一切口にすることが無いためこれまで恵那を除いて誰一人として気付くことが無かったが―――これが赤坂将悟の与える庇護なのだ。本人が自覚しているかもかなり怪しいのだが(これだけ聞くと美談で済ませられないこともない話だがその過程で周囲が多大な迷惑を被ってしまうあたりがカンピオーネクオリティである)。

 

さておきこうした将悟の人となりについて恵那もまた感覚的に把握しているものの明確に思考として言語化出来ているわけではない。したがって祐理に伝える言葉もどうしても抽象的な物になってしまう。

 

そんな有様だから説かれた祐理も腑に落ちない表情を浮かべている。一体何が言いたいのか、何故そのようなことを言うのか。二重の意味で疑問を浮かべる祐理にどう言い聞かせたものかなと首をひねる。

 

(今のままだと祐理って結構危ないんだけどなー。その癖本人全然気付いていないしー)

 

世間知らずの祐理には知る由もなかったが現在彼女の将来に様々な影を落としかねない危機が迫っていた、それも割と洒落にならないレベルの。

 

実のところここ一年で祐理の立場は微妙なものになってきている。以前まではその傑出した霊視の力量によって下にも置かぬ扱いをされていたが、最近では委員会の中から彼女を持て余している気配があった。

 

原因を挙げるならやはりカンピオーネ赤坂将悟との微妙な関係だろう。将悟の周囲には彼の気に障らない程度に人の目が入っており、祐理と将悟のぎこちない距離感は多少だが学内の噂にもなっている。委員会の耳に入らないはずが無かった。

 

彼の逆鱗に触れる前に両者の距離を置いてはどうか、という意見は一定数存在した。その裏にはやはり魔王の逆鱗に触れることへの恐怖があったし、恐れられるだけの所業を将悟は何度も過去にやらかしている。

 

何を言っても悪口にしかならない人物の話はさておき。

 

二人の距離を置く、と言うと穏健な風に聞こえるが下手をすれば祐理に人里離れた学校の寮に放り込み、隔離された生活を送らせるくらいのことは起こりうる。おっとりした祐理のことだから深く気にせず適当な理由を付けて諭せば粛々と受け入れるだろう。そしてそのまま日の目を見ない左遷のごとき人生が決定しかねない。

 

また媛巫女は類稀な血脈の持ち主として正史編纂委員会から婚姻に関して干渉される可能性がかなり高い。自由な恋愛結婚など夢のまた夢だ。

 

祐理は掛け値なしに美しい少女であり、その霊視力は世界全体で見渡してもなお稀少なレベルだ。そんな彼女ならば”傷モノ”となってもその血を取りこみたがる家は多いはずだった。ただしその中に魔王の怒りを買う危険を冒してまで引き入れたいと思うまっとうな家柄はそうないだろう。脛に傷を持つ、または衰退しつつある家が割合としては大きくなると予測出来た。

 

そんな家に嫁いで果たして祐理は幸せになれるのか。結婚してから愛を育むことは出来る、金銭の多寡が必ずしも幸福に結びつくわけではない。だが金銭的、立場的な余裕はあるに越したことはないし、稀少な媛巫女である祐理は選ぶ側だ。いずれ政略結婚を受け入れざるを得ないにしてもその際の選択肢が広いに越したことはない。

 

奔放な野性児である恵那だが名門武家の子女として教育を受けただけあってその辺りの機微は下手な政治家よりもよほど分かっている。彼女の親友を自任する恵那としては現状を放置し、不幸な境遇に陥ってしまうことは色々な意味で避けたかった。

 

避けたいのだが、この状況を言葉一つで覆せる自信など欠片もない。直感と行動力は抜群に優れているがややこしい状況を快刀乱麻に断つ頭の回転と弁舌にはとことん適性が無い少女なのだ。

 

「仲良くなってとか無理は言わないからさ…一度王様を見てあげてくれないかな、霊視じゃなくて祐理の目で」

 

憂鬱な心境を飄々とした笑顔に隠しながら、結局そう伝えるのが精一杯な恵那であった。

 

 

 

 




恵那さんてばマジ苦労人でイイ女。
にしても俺ってなんでこの話書いたんだっけと書き終えてから困惑。

別になくてもよかったような…でも書いたからとりあえず上げます。



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蛇と鋼 ②

あーさっさとバトルいきたい。
以前他の作者さんの作品読んでて細かいところはいいから早く戦闘に入ってくれないかなとか
思ってましたが書く側になってみると面倒な段取りが要りますね。

まだ1話バトルまでに入りますがそこで恵那さんとのイチャイチャ(殺伐)が入ります。なんとか頑張りますので応援よろしくお願いします。


恵那と祐理がある問題人物の人品に関して話し合った翌日の放課後。祐理と将悟はつれ立って七雄神社まで足を運んでいた。

 

もちろん草薙護堂との会談に赴くためであるが難攻不落の大和撫子が異性と共に帰路につくという稀少を通り越し絶無であったその光景に周囲の男子達は驚愕と悲憤のあまり血涙を流し見送っていた。

 

いうまでもなく彼らが邪推した艶っぽい雰囲気など二人の間には微塵も見受けられず、逆に居た堪れないような緊張と沈黙が二人の立つ神社の空間に満ちていた。

 

「お、来たか」

 

目の前の少年の存在とこれから始まる二王の会談がもたらす緊張に深呼吸を繰り返していた祐理に相変わらず気負いの感じられない声が届く。これから東京の命運を左右する会談を前にしているとは思えないほど緊張の無い自然体だ。

 

その姿を見て祐理はこっそりとため息を吐く。

 

何度となく軽率な行動を避けるよう嘆願したがいずれも聞き流された。本当に直接的な行為に及ぶつもりが無いからか、それとも単に馬耳東風なだけか。例え将悟がどんな邪智暴虐を行っても残念ながら祐理にはそれを止める手立てが無い。

 

昨日恵那に諭されたものの祐理は神すら殺める力を持ちながら自重する気配が無く、しかも気紛れな将悟を一人の人間としてどうしても信用しきれない。こればかりは一朝一夕でどうにかなるものではなかった。

 

とはいえ恵那の言葉が祐理に何ももたらさなかったわけではない。霊視の力に優れるが故に己の直感に信頼を寄せている祐理だが、だからこそある種の第一印象に左右され、将悟に偏見を持っていたことは否定できない。

 

赤坂将悟は決して善人ではない。日本に新たな王が誕生してから一年、彼の行状を耳にするたびにその印象は強まっても弱まることはなかった。

 

だけどそれだけではないと恵那は力を込めて語った。親友の言葉を否定できるほど祐理は将悟のことを知らない。だから見てみようと思う。怖くとも、恐ろしくとも赤坂将悟のありのままを自分の目で見てその上で誤っているのなら自身の不心得を正し、誤りがなければ命を懸けて暴君を諌めよう。

 

密かな決意を込めて将悟に視線を送るもやはり柳に風と受け流されてしまう。祐理を無視しているというよりこちらに歩み寄ってくる少年に注目しているのだと気付く。その証拠に微かに頬が歪み、闘争の場にある時の喜悦の表情に近いソレを浮かべている。

 

下手な話の切り出し方をしては最悪この場で二人のカンピオーネが激突しかねない。祐理は緊張を使命感と意志の強さで追い出し、改めて東京の命運を握る会談に向けて気合を入れる。できるだけ不敬にならないよう表情に気をつけながら、改めて赴いてくる少年の方を見遣る。

 

欧州各地で破壊活動に関わっていたという前情報の割にごく普通のどこにでもいそうな見た目の少年だ。甘粕から聞かされていた評判から作り上げていたマイナスイメージとの落差からか、こちらに足取りを向けてくる精悍な容貌の少年は朴訥で温厚そうな印象を受けた。

 

二人の目の前まで護堂はどちらに声をかけるか迷うそぶりを見せた後、連絡を寄こした相手である祐理に視線を固定した。祐理もまた最前まで緊張した様子を見せていたのが嘘のように落ち着いた様子で対応した。

 

「よくいらして下さいました、草薙護堂さま。カンピオーネである御身をお呼び立てした無礼、お許しくださいませ」

 

深々と頭を垂れる。

流石媛と讃えられる身分に就いているせいか何気ない挙措が一つ一つ洗練されていた。

 

「万里谷祐理と申します。昨日はいきなりお電話をおかけして、失礼いたしました」

 

そしてそのまま頭を下げたままでいる。

どうやら自分の返答を待っているようだと数秒かけて察した護堂が慌てて声をかける。

 

「いや、全然迷惑とかじゃないから頭を上げてくれないか。どう考えても君にそんなに気を遣われるほど大した人間じゃないぞ、俺は」

 

日本に現れた新たなカンピオーネの第一声はなんとも掲げた看板らしからぬものだった。端的に行って魔王という単語から連想されるドスの利いた雰囲気が感じられない。むしろ朴訥で誠実そうな人柄に見える。

 

やっていることはともかく言動と外面は俺より大分まともそうだ、と身も蓋も無い感想を抱く将悟。

 

「そっちの人も初めまして。城楠学院一年の草薙護堂です」

 

将悟に対してもそう言って軽く頭を下げる。体育会系らしい、キビキビとした動きだった。

 

「赤坂将悟。同じく一年だ。ところで全員同じ歳なんだし、敬語は無しにしないか」

 

万里谷もな、と付け加えると大げさに慌てる祐理。それを横目に将悟の名乗りに驚きと困惑が顔に出る護堂だが素直に分かったと返す。当初はどんな展開になるか予想の付かなかった会談だったが一先ず順調な滑り出しを見せていた。

 

「えーと、勘違いだったら悪いんだけど。そっちの赤坂…さんは知り合いから色々、その…」

 

言い辛そうな様子の護堂に将悟の方から言葉を継ぐ。

 

「カンピオーネだって聞かされていた、か? あとさん付けは要らないから」

「……そう返すってことは確定でいいのか?」

「少なくとも日本の呪術師達に王様扱いされてる赤坂将悟は俺しかいないな」

 

少なくとももう暫くは神様やカンピオーネと無縁な平和な生活を過ごしておきたかったのだがイタリアから帰国数日で既にその願いは叶わぬものとなってしまったらしい。護堂は深い溜息をついたが一先ず棚上げしたようだった。

 

「……それじゃ万里谷の方は魔術師の仲間ってことでいいのか? 日本の連中に合うのは初めてだ」

「十把一絡げにされては困りますが、その御認識で概ね誤りはございません。私は日本の呪術界を統括する正史編纂委員会に巫女として協力している身です」

 

はあ、と分かったような分からないような相槌を打つ護堂。元々は魔術やら武術やらと縁遠い世界に生きていた一般人ならば無理も無い反応だろう。事実将悟も成り立ての頃はそこらへんのことはさっぱりだったから良く分かる。

 

「ところで俺がカンピオーネだってなんで分かったんだ? イタリアだと結構信じられるまで時間がかかったんだけど」

「パオロから直接お前の話を聞いてたからな。それに“同類”を見間違えたりはしないさ」

 

俺がカンピオーネだと知って、その上で何の反応も見せない奴はあんまりいないからな、と将悟。

 

「私の眼はこの世の神秘を読み解く霊眼ですから。それに既に二人の羅刹王とお会いしたことがある身です。草薙さまの素性を見誤ることはありません」

 

祐理もまた目を伏せながら静かに確信を込めた言葉を紡ぐ。

 

「前置きはこれくらいにして本題に入ろう。お前がイタリアから持ち帰った代物を見せてくれ」

 

ゴルゴネイオンとかいう神具のことだ、と将悟。

 

「ちょっと待ってくれ……あった、これだ」

 

そう言って学生鞄の中をかき回して無造作に取りだしたのは妖しい呪力を放つ黒曜石のメダル。一目見て内包された叡智と力に身振いする祐理。将悟もまた一見何ということのないメダルに潜む妖しくも力強い、大地そのものを思わせる呪力を感じ取った。神を招来するという特性を差し引いても間違いなく危険な物品である。

 

「これがゴルゴネイオンか…」

 

ひょいと護堂の手から黒曜石のメダルをさらうとその視線が茫洋と、意識が身体から離れているような不思議な表情となる。ゴルゴネイオンが発するなにかしらのサインを読み取ったようだ。

 

「間違いないな。女神がこいつ目指して向かってきてる。思ったより近い、猶予はあまりないな」

「…待ってくれ。それ、ホントか? そもそもなんで赤坂にそんなことが分かるんだ?」

「普通なら分からん。ただこいつを狙ってる女神様はどうやら俺が最初に殺した神様の遠い親戚筋くらいに当たる神格だ……“視えた”のはそのせいだろうな」

 

突然奪われたことに抗議の声を上げようとした護堂だが唐突に齎された不吉な情報に思わず問いただすと返ってきたのは予想以上に確信が込められた言葉。いまだ半信半疑だが先日エリカから将悟にまつわる妖しげなエピソードの数々を思い出すと途端に説得力が感じられてくる。

 

それでも信じたくない護堂は反射的に気になった点を問いかける。

 

「待ってくれ。あいつら日本の位置どころか国名も知らないはずだぞ!」

「これだけ強い《蛇》の気配が漏れ出てれば神様どころか俺でもかなり遠くまで探れる。アジア圏くらいなら余裕だな」

 

ましてや神具の対になる女神様なら地球の裏側からでも分かるんじゃないか、と。

他人事ライクに言い放つ割に内容はかなり不穏かつデタラメだ。

 

「イタリアから追っかけてくるなんてどれだけ目茶苦茶な連中なんだ…」

「デタラメじゃない神様なんて俺は遭ったことが無いな」

 

突っ込みを入れつつ、これ以上不毛な話題を続ける気はないらしい。

 

「とはいえ俺じゃこれ以上視えないし、視たらこっちの正確な位置がバレそうだな…」

 

視ると言うことは視られる可能性がある、と分かるような分からないようなことを呟く将悟。事実魔術に造詣の深いまつろわぬ神なら己が霊視されたことに気付き、逆に霊視した者の位置を探知するくらいのことをやりかねない。

 

「万里谷、パス」

 

無造作に祐理に向けてひょいと放る。慌ててキャッチするがその適当な扱いに祐理が眉を吊り上げる。

 

「赤坂さま! 仮にも神具に対してこのようないい加減な扱いはおやめ下さい!」

「火山に放り込もうが権能使おうが傷一つ付かない代物に丁寧もクソもないだろ。それよりソレ何か視えないか?」

 

もう、と憤慨する少女を適当に宥めすかして、というより宥める気すらない言葉で霊視を促す。話に聞いていた以上のアバウトっぷりに苦労してるんだなァ…と同情の視線を向ける護堂だった。

 

「エジプト、アルジェリア…古き太母と大地を巡る螺旋…最古の《蛇》…。なんとなくそんな言葉が思い浮かびます」

「最古の《蛇》……ふん、幾つか予想はつくがよしておくか」

 

どれが当たっててもロクなことにならないし、と将悟。

 

「こんな危険物よく自分の住む国に持ち込もうと思ったな。逆に感心したぞ」

「ああ…やっぱりこいつってヤバイ代物なんだよなァ。いや、俺も正直断りたかったんだけどいまイタリアにはドニの野郎がサボってるせいでカンピオーネがいないんだ。お陰で俺にお鉢が回ってきて…」

 

今更ながらにやっちゃったかーという表情を浮かべている護堂に生温かい視線を向ける。その感想はどう考えても遅すぎる。だが言っては何だがこれがカンピオーネの平常運転である。後から考える愚者、エピメテウスの申し子という異名は伊達ではない。

 

何事もなかったのようにスルーして話を進めようとする将悟だがそれに待ったをかけた者がいた。

 

「―――お待ちください」

 

そこにいたのは目が据わった般若……もとい祐理だった。

 

「先程からお話を伺っておりましたが……草薙さんには少々申し上げたき儀がございます」

 

この一言からは唐突に始まった祐理のお説教。曰く周囲への配慮が足りなさすぎる、愛人の女性にせがまれるままこのような危険物を故国に持ち替えるなど言語道断、己が所有する大いなる力への責任を自覚し云々……。

 

会談前に『王』と相対する緊張で体を強張らせていた少女とは別人のような苛烈さ、さながら静かな怒りを内に秘めた夜叉女の迫力で護堂に迫っている。良かれ悪しかれ礼儀正しい対応がデフォルトな祐理がこれほど己の地を晒すのは珍しい……と思わず止めるのを忘れ観戦モードに入る将悟。

 

ひょっとすると万里谷祐理と草薙護堂の相性は極めて悪い、あるいは極めて良いのかもしれない。この一幕を見て何となく感じる将悟。なんというか初めてこの二人の掛け合いを初めて見たはずなのに妙にしっくり来るのだ。

 

そう考えつつ止める気のない将悟を余所に二人の王の前でヒートアップしつつあった祐理を制止したのは本来この場にいないはずの人間であった。

 

「―――そこまでにしてもらおうかしら。草薙護堂は仮にも王の位に在るモノ、如何に優れていようとただの人が掣肘していい存在ではないわ」

 

静かな怒りを湛える祐理、拙いながら弁解しようとする護堂、他人事ライクな視線で両者を観察する将悟と中々混沌として来た七雄神社に乱入者が現れる。

 

日に照らされ王冠のように輝く豪奢な金髪、いまだ成人年齢になっていないものの十二分に“女”として成熟した肢体。人体の黄金比を体現した芸術品の如き美貌。

 

「何より草薙護堂を虐めるのも愛でるのもこの私、エリカ・ブランデッリにのみ許された特権よ! それを蔑ろにされては愛人の面目に関わるというものだわ!」

 

数々の外見的長所とそれ以上の内面的長所。及び一般人からかなり逸脱した感性の持ち主。言うまでも無く草薙護堂の第一の騎士、エリカ・ブランデッリであった。

 

出待ちしていたんじゃないだろうな、と思わず将悟が邪推してしまうほど絶妙かつ鮮やかなタイミングで登場したエリカ・ブランデッリ。ここにようやく会談を纏めるために必要な全てのピースがそろった。

 

あまりに唐突な、それでいて舞台女優のように鮮烈な登場に唖然とした顔をした護堂を余所にエリカはあくまで優雅な物腰で祐理に語りかける。

 

「ごめんなさいね、私から声をかけたあなたの相手をしたいところなのだけれど騎士として礼を払わねばならない方がいらっしゃるの。そこをどいてもらえるかしら」

 

笑顔の裏に込められた不思議な迫力に祐理が一歩退くと将悟の目の前へ進み出ると身を屈め、初めて遭遇する“王”に騎士の礼を示した。

 

「僭越ながら名乗りを上げさせて頂きます、王よ。私はエリカ・ブランデッリ、《赤銅黒十字》の大騎士。叔父パオロから『紅き悪魔(ディアヴォロ・ロッソ)』の地位を継承した草薙護堂の第一の騎士です」

 

どこまでも華麗で、さながら宮廷絵巻の一幕の如き鮮やかな口上。あのパオロの姪なだけはあると感心する将悟。あの男、イタリア最高の騎士と謳われるに相応しい人格と力量の持ち主であるが意外と見栄っ張りで目立ちたがりなのだ。

 

「初対面のはずだがよく俺のことが分かったな?」

「叔父様から赤坂さまの人となりは良く伺っていますわ」

「警告の意味を込めて、だろ? まあいいさ、話を進めよう」

 

ふんと鼻息一つ鳴らすとエリカの乱入を認める将悟。派手で目を惹き、能力もある。だが結局将悟が相対するべきは草薙護堂のみなのだ。王に対抗できるのはただ王のみであるが故に。

 

「草薙の、率直に聞くが今回の一件どう始末をつけるつもりだよ?」

「どうって言われても…」

「お前の起こした一件でこれから東京都民一〇〇〇万が迷惑を被るんだ。既に女神が目覚めている以上遅かれ早かれここに来る。そうなった時、お前はどうする?」

 

指摘する人物の普段の行状が非常に気になるものの指摘自体は実にまっとうである。護堂としても非難するようなもの言いに反発する気持ちはあったが理性でこらえ、“常識的な”対応を口にする。

 

「どうって……そりゃまずは話し合って―――」

「すまん。なんだって?」

 

カンピオーネの発言とは思えない常識的に思えて実は非常識な言葉に耳を疑う将悟。存在そのものが非常識的かつぶっ飛んだ思考の持ち主である神様相手にも自分のペースを貫けるのはある意味カンピオーネらしいと言えるのかもしれない。ただし将悟の伝えたいことを十分に理解した風には思えなかったが。

 

将悟と同じものを感じ、呆れた様子のエリカが横から護堂の発言をアシストする。

 

「護堂、ここは私に任せて―――恐れながら王よ、我が主は未だカンピオーネとなって年月の浅い若輩。彼の騎士として御身に直答する僭越をお許しください」

「許すから手早く頼む」

 

仰々しい言葉に背中が痒くなりつつも端的にエリカの会話への参加を認める。多分彼女に任せた方が色々と話が早い。

 

「は…。此度の一件、基を糾せば我らローマの結社が持て余したゴルゴネイオンを我が主の義侠心を恃み預かって頂いたもの。無論事前に御身に話が行き届かなかった非礼、深く承知しております。ですが草薙護堂を招聘した時点でゴルゴネイオンを求める女神がローマに足を踏み入れていたことを鑑み、何卒裁定に慈悲をお加え下さるよう騎士エリカ・ブランデッリが(こいねが)います」

 

面倒くさそうに頷く将悟。彼の中でローマの結社への処遇は既に決めていた。わざわざ彼女から願われなくても似たような対応になっていただろうから彼女の懇願は将悟にとって終わった話である。

 

「そっちの主張は分かった。とりあえずお前個人に対して何か干渉するつもりは俺にも正史編纂委員会にも無い」

「感謝致します」

 

予定調和的に頭を下げるエリカ。

儀礼的なやり取りに内心面倒くさいと愚痴を吐く将悟だった。

 

「とはいえ思うところはある。次はもうちょっと上手くやれ、パオロの抜け毛の種を増やさないようにな」

「…ええ、今後は留意致しますわ。叔父様のためにも」

 

甚だしく優雅さに欠ける王の発言にさりとて抗弁も出来ずひくりと目元を引き攣らせたエリカの表情になにを見たのか将悟の頬が悪戯の種を見つけた子供のように釣り上がった。

 

「適当に言ってみただけだったが…なんだ、もしかして当たってたのか? 抜け毛」

 

親しい身内しか知らない話だが伝説的な聖騎士パオロ・ブランデッリも最近では加齢に伴って生じる不可避のアレコレを密かに気にしているのは事実だった。

 

いまの発言にはそういったニュアンスを含ませたつもりは微塵もなかったにも拘わらずあっさりと真実を見抜き、しかも確信した様子ですらある。思わず虚を突かれ、なにも言えないエリカを放ってそのまま一人納得したように頷く将悟。

 

くつくつと底意地の悪い笑みを浮かべる将悟に意図せずとはいえ弱みを漏らしてしまったことを内心で叔父に詫びたエリカであった。

 

同時に敬愛する叔父から将悟に向けられた『曲者』との評を思い出す。何気ない雑談からでも的確に知られたくない隠し事や真実を突いてくる、曲者揃いの王の中でも特に“関わりたくない”のだと。

話を聞いただけではいまいち理解しづらかったのだがアレはこういう意味だったのか、と思わず腑に落ちる。

 

そんなおかしな処でカンピオーネの不条理さを体験したエリカを置いて話の筋を基に戻す将悟。

 

「それとローマの連中も俺がわざわざ潰しに行くほどの興味はない。もちろんタダで済ませる気はないがな」

 

交渉の余地ありと見たエリカがさらに言葉を継ごうとしたが手を振って遮る。そういう話は正史編纂委員会とやれ、と言い捨てて。

 

「俺が聞きたいのはこの騒動の始末の付け方だ。まさか俺の街に爆弾投げ込んで後は放りっぱなしにするわけじゃないだろ?」

 

笑顔で問いかける将悟からそこはかとなく放たれる重圧に気圧されたのか視界の端で祐理が後退り、エリカの肩に一瞬震えが走る。それを押し殺し、敢然と視線を上げたエリカは堂々と魔王との交渉を再開する。

 

「御身が静観していただけるのであれば来襲した女神は我が主が総力を以て討ちましょう。その後ゴルゴネイオンは御身に献上致します」

「献上? 押しつけるの間違いだろ」

「否定はしません。しかしアレは旧き女の英知を秘めた魔道書でもあります。御身が進める事業の一助となりましょう」

 

要するに寄ってくる女神と言う面倒を始末すればゴルゴネイオンはいい研究材料になるということか。確かに神具は時にまつろわぬ神を招来する危険な代物だが資料として、儀式魔術の祭具として見ると極めて大きな価値を持つ。静観していれば美味しいところだけ持っていけると主張したいのだろう。

 

「もちろん今後このような事態に陥ることは避けるよう努めること、騎士の誇りにかけて誓約いたしますわ! 我が主は決して御身との争いを望んではいませんもの。でしょう、護堂?」

 

最後の一言だけはフランクに。エリカの確認に黙って話を聞いていた護堂は黙然と頷く。エリカの言う通り護堂は目の前のカンピオーネと争うつもりはない、これから嫌でも顔を合わせていく可能性が高い以上出来れば仲良くしたいとすら思っている。

 

同時に背筋を走るチリチリとした感覚が目の前の少年と何時か激突することもまた予感していたが。

 

「なるほど、まあそれでいくか。今回、俺は草薙が死にでもしない限り直接手は出さないし、草薙は女神ときっちりケリを付ける。少なくとも当分日本に来る気が失せるほどボコり倒してもらう」

「感謝致します」

「ただしペナルティも付ける。もし草薙がこの一件の後始末にしくじったらこの国から出ていってもらう」

 

突如振られた己へ発言に護堂の理解が及ぶまで半瞬、咄嗟に言葉が吐いて出るまでもう半瞬だった。

 

「…待ってくれ。それはちょっと重すぎるんじゃないか。いや、今回は俺が全面的に悪いのは分かってる。だけど俺にも家族や友達がいるわけで―――」

「ってもなー。自分の尻も拭けないカンピオーネなんざいるだけでどうしようもない産廃だろ。日本の平和を守るため、俺の面倒を減らすためにもお前には出てってもらった方が正直楽っぽいんだよ」

 

せっかくだから愛人と一緒にイタリアに移ったらどうだと他人事ライクに移住を勧める将悟に対し遂に護堂がなけなしの丁重さをかなぐり捨てて叫んだ。

 

「あんた絶対最後の辺りが本音だろう!? それと俺は平和主義者なんだ、市民の敵みたいな言い方は止めてくれ!」

「流石に世界中の観光名所を破壊して回ってきてその発言は説得力が感じられないぞ、市民の敵(パブリックエネミー)? 幾らハッチャけるにも限度があるだろ」

「いや、そんなつもりは…」

 

なかったんだ、抗弁する護堂の声にも流石に力が無い。己の所業を思い出し、良心の呵責を感じていれば無理もない話ではあるが。

 

「隠蔽工作でテロリストの声明が出されてる辺りで自分のやって来たことがそういうもんだと認識しておくと良いんじゃないか」

 

早く開き直れば楽だろうにと同じ穴の狢めいた思考がよぎる辺り将悟も糾弾する権利など持ち合わせていない。将悟自身は理解していても順守する気のない常識というルールにこだわる後輩を単にからかっているだけだ。ある意味護堂以上に性質が悪い男であった。

 

視界の端でちょいちょいと手招きしたエリカはこっそり護堂の耳に顔を近づけると、

 

「護堂、良い機会だからあなたの掲げる平和主義者の看板を外してみてはどうかしら? 正直そこにこだわっているのは貴方だけの気がするのだけれど」

「そんなことできるか! ただでさえカンピオーネの持つ能力は無茶苦茶なんだから平和的な話し合いで済むならそっちのほうが良いだろ」

「問題はまつろわぬ神と遭遇して話し合いで済んだ例が一度もなかったことじゃないかしらね」

 

一部エリカに突っ込みを入れられつつも、護堂の熱弁はこくこくと祐理を頷かせた。同時に非難の視線を将悟に向けるキッカケにもなったが将悟の鋼鉄並みに分厚い面の皮に弾かれ、その場の誰にも気づかれることはなかった。

 

エリカの巧みな弁舌に形勢不利と悟った護堂はその矛先を将悟に向ける。

 

「大体俺のことばかり言いたてるけどあんたも世界中でメチャクチャな被害出してるって聞いたぞ! あんたこそ平和の敵じゃないか!?」

「仕方ないだろ、だってカンピオーネなんだから」

 

護堂の糾弾に反論もせず全くもってその通りだと将悟は深々と頷いた。その上で平然と居直る辺り彼の面の皮の厚さは他のカンピオーネにも全く引けを取らないことは明白であった。誰かに知られればそんなところで張り合ってどうするんだというツッコミが入れられるのもまた必然だったが。

 

「良い訳あるか! 俺達の力はただでさえデタラメなんだからもっと周囲に気を遣えよ!」

 

言っていることは極めて正論かつ人道的な護堂であった。何故彼は全力で自分にブーメランを投げているんだろうという周囲の疑問を抜きにすれば。

 

「阿呆、正義の味方(ウルトラマン)だって宇宙怪獣と戦う時は馬鹿みたいな被害出すんだぞ? 魔王(カンピオーネ)に被害出さないよう戦えってのは物理的に不可能な(・・・・・・・・)要求なんだよ」

 

光の国の宇宙警備隊が登場する特撮作品まで持ち出して悪びれもせず言い放つ辺り一欠けらの反省も感じられない。だが本物のカンピオーネが言うだけあって発言自体には問答無用の説得力が宿っていた。

 

クソ、なんて適当な奴なんだと内心毒づく護堂だが非常時におけるアバウトな状況判断と傍迷惑っぷりは彼も負けていない。あるいは普段の行状がまともなだけに鉄火場における爆発力で言えば上かもしれない。

 

ともあれ目の前のカンピオーネに常識を説く無為を悟った護堂は疲れたような溜息とともに自身の願望を吐露する。

 

「そもそも俺はこんな物騒な事件に関わるのはもうコリゴリなんだよ…。俺は神様も魔術もない、平穏無事な生活を送りたいだけで」

 

その余りに魔王らしくない小市民的な願望を聞いた祐理は驚き、エリカは往生際が悪いと嘆く。そして同じカンピオーネである将悟はというと―――憐れみと嘲笑を同居させたなんとも筆舌しがたい表情を浮かべていた。

 

「馬鹿かお前は。そんなまっとうな人生を俺達が送れるわけないだろ」

 

そのささやかな願いをばっさりと切り捨てられ、ムッとした護堂にも構わず滔々と言葉を紡ぎだす。

 

身の程を知れ(・・・・・・)、後輩。俺たちは魔王(カンピオーネ)だ。言って見れば人間大の怪獣さ。そんなのが歩き回れば善かれ悪しかれ、意識無意識に関わらずデカイ影響が出てしまう。変に自分を過小評価して周りに意識を向けずに動くと気付かない内に何かを踏み潰してるなんてことも起きるだろうさ」

 

踏み潰した何かが自分にとって大切な物じゃなければいいがね、と皮肉を交えたそれは紛れもなく忠告だった。先達から後進への贈り物だった。あるいは将悟自身の経験から紡ぎだされた言葉かもしれない。

 

それを聞いても護堂は己の意志も、行動も変える気は無かった。何時だって己が赴くままに選択肢を、勝利を掴み取るための選択肢を掴んできた。100%正しいと思ったことは無いし後悔したことも多いが間違ったと思ったこともない。

 

ただ忘れまいとは思う。まがりなりにも将悟が伝えようとしたものを受け止めようと。

 

「……覚えておくよ。ただ、俺は俺のやり方でいく。誰にも文句は言わせない」

「カンピオーネなんてそんなもんだ。好きにしろよ、誰も期待してねぇ」

 

眼光を鋭くした両者の視線がぶつかり、空気が震えたと錯覚するほどの呪力が瞬間的に放射される。まともにそれを身に受けた祐理とエリカは根源的な死への恐怖から等しく顔色を青褪めさせた。そんな彼女たちを余所に二人の少年王はどちらからでもなく同時に視線を外す。

 

いまの一幕を見ても二人がただ安穏とした関係に終始するはずが無いことは明らかであった。エリカははっきりとした警戒を浮かべ、祐理は不穏な未来の光景を幻視し危機感を抱いた。

 

視線を外した二人がお互いにそっぽを向いたまま数秒の時間が流れる。そして将悟が話は終わりだとばかりに護堂とエリカに対し手を振った。

 

「ああ……最後になったが正史編纂委員会は女神と後輩が出した被害の補償はローマの連中に出してもらうつもりらしいぞ。多分無理だろうが周りには気を遣えよ」

 

と、思い出したようにさらりと重要な一言を追加する。

 

「ま、事後承諾で揉め事持ち込んで東京で怪獣大決戦やろうってんだからしょうがないよな? 別に草薙とドニの野郎を楯に断ってもいいぞ。思い出した時に報復するだけだ」

 

朗らかに笑いながらの脅迫であった。そして彼らにそれを拒否できるようなカードは無い。究極的に人類はカンピオーネに対して無力であるからだ。護堂やサルバトーレ・ドニ個人を狙ってくるのならともかくローマの結社を何時までも守りきれるわけがないのだから。

 

ぎしりと固まる二人を余所に話は終わりだとばかりに背を向け、歩き去ろうとする―――直前。

ふと歩みを止めると思い出したように、

 

「万里谷はどうする?」

 

とまったく唐突に祐理に向けて疑問を投げかけた。

返答には一瞬以上の間が空いた。

 

「…私は」

 

不意に投げかけられた問いに祐理は決意の表情を浮かべ、己の裡から湧いてくる強い思いを言葉という形で表明する。

 

「許していただけるのならば草薙さんのお手伝いをしたいと思います」

 

それが彼女の本心であった。

神に抗うのは恐ろしい、死を賜わるかもしれない。それでも祐理は自分が生まれ育った街を守りたかった。僅かだが草薙護堂という無鉄砲ながら不思議と憎めない少年を手伝ってやりたいと思う気持ちもある。

 

そんな彼女の胸中を全て見抜いたかのような超然とした気配が一瞬だけ将悟の顔に浮かぶと同じくらいの速さで消え去り、いつもの掴みどころのない表情に戻る。

 

「好きに動けばいいんじゃね? まあ委員会も今回は文句を付けないだろう」

 

後半の台詞に疑問を抱きつつ、より優先すべき事柄を確認する。

 

「赤坂……さんはどうなさるおつもりですか?」

「静観しつつ草薙のフォロー、だな。この辺りには知り合いも多いんだ。俺の街で好き勝手させるつもりはない。神様でも魔王でもな」

 

―――俺の街(・・・)

なるほどと、恵那が言っていたのはこういうことかと不意に祐理は得心する。

 

将悟は己の欲求に忠実だからこそ偽ることが無い。興味の外にある事物に無関心だからこそ思い入れのあるモノは力を尽くして守ろうとする。

 

自身と身内を最優先、その癖他人には呆れるほどに無関心。

 

馬鹿馬鹿しいほどに単純な将悟のルールを理解すれば、昨日まで抱いていた酷薄で気紛れな印象も無視できる程度のものになる。もう一歩踏み込んで将悟の身内として認められれば……恐らく本当の意味で恵那の気持ちも理解できるのかもしれない。

 

一度懐に踏み込んで接してみれば思わず助力し、手を差し伸べたくなるような魅力がこの魔王にはある。横暴ではあっても屈折した所の無い素直な性格がそう思わせるのかもしれない、分かりやすい人格的欠点と少々の物言いでは気にも留めない鈍感さ、意外なほど忠言を受け入れる素直さを持つからこそ安心して足りないところを補ってやりたくなるのだ。

 

「私も赤坂…さんと同じ気持ちです。この街は、私にとっても大事な場所ですから」

 

儚げな声音に確固とした決意を乗せた祐理に驚きの表情を浮かべると苦笑を頬に刻み、そうだなと相槌を打つ。適当に言っている風ではなく、将悟の真情が籠っているように思えた。きっと彼と自分は今同じ感覚を共有している…抱いていた蟠りが溶け、等身大の赤坂将悟を見ることが出来たと思えた。

 

確かに彼は人でなしかもしれないが、だからこそ恵那の気持ちを裏切ることは決してないだろう。多くの点で信用に値しない行状を現在進行形で重ねている魔王様だがその一点だけは確かに信頼していいはずだ。霊視ではない、祐理自身の思いだった。

 

「それではここで失礼致します」

「ああ…。言っても無駄かもしれんが、気をつけてな」

「はい。御心配ありがとうございます」

 

そして綺麗なお辞儀で一礼するとエリカと密着しながら話し合っている護堂に向けて協力を表明すべく歩みを進めた。男女が神聖な場でみだりに触れ合うのはお止め下さい、という般若のオーラ付きで。

 

将悟は二人の美少女に挟まれ、あたふたする後輩をゲラゲラと笑いながら今度こそ七雄神社の長い階段を下りていく。

 

ともかくこれが長くに渡って日本を舞台に時に味方、時に敵として否応なく長い付き合いを続けていく赤坂将悟と草薙護堂の初の会談を締めくくる一幕であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてそれからすぐ。

 

世間話と言うには重大で、会談と言うには当事者たちに重みの無い会話を終えた将悟は七雄神社から去ると適当に駅のある方向へブラブラと足を向けていた。魔術を使えばそれこそ瞬きの間に移動できたが日常生活であまりその類の妖しい技術を使う気はなかった。意味も理由もないが、強いて言うならなんとなくだ。

 

ただ今日に限っては別の理由がある。一瞬たりとも気配を感じさせることなくふと横を見るとそこには風に揺れる長い黒髪、微かに神力の漏れ出る竹刀袋を背負う快活な笑顔を浮かべた少女。

 

「やほ」

「おー」

 

言葉短く適当なあいさつを交わすのはもちろん清秋院恵那。先程の交渉でドンパチになった時に備え、恵那を近くに伏せていたのである。それにしても天災規模の荒事に踏み込む心構えをしていたとは思えないほど彼女は自然体だった。

 

「もうちょっと揉めると思ったけど意外とあっさりとまとまったねー。草薙の王様も聞いてたよりだいぶまともっぽいし」

「少なくとも表層意識の上っ面のあたりじゃ自分は平和主義者という認識らしいな。本性はともかく」

「ああうん、なんだかんだいって本物の魔王様だもんねェ…」

 

彼女独特の感覚が一見温厚な護堂の気配に潜む不穏な“力”を感じ取ったらしい。

 

本人が好むと好まざるにかかわらず、騒動を起こし災厄を撒き散らすのはカンピオーネのお家芸である。幾ら護堂が戦いを厭おうとも、その闘争こそが彼を逃がさない。そして一度戦端が切り開かれれば途端に自重と言う言葉を投げ捨てるに違いない。そういう意味でこの二人は護堂の良識的な発言の全てを一瞬たりとも信じていなかった。

 

「祐理は大丈夫かな? あの子の性格だと危険を承知で荒事のど真ん中に突っ込んで行きかねないだよねェ」

 

慨嘆風の恵那に将悟が不吉な者を見た表情で答える。

 

「んー。ヤバイ、かもしれん。一瞬だけだが死相が見えた気がする。勘だが」

「それ、ホント?」

 

普通なら戯言で片付ける話だが発言者の勘の鋭さを考えると中々無視もできない。鋭い目で問いただすが、不穏な発言をした本人はというと困惑した表情で後頭部を掻いている。

 

「けどなーんかあのまま放っておいた方が良い目が出る気がするんだよな」

「良い目っていうのは誰にとって?」

「さて? 俺か後輩か、さもなきゃ東京都民かはたまたその全てか」

「無視は出来ないけど当てにも出来ないんだからホント王様の勘っていい加減だよねー」

「言うなよ。これでも結構な回数助けられてきたんだ。荒事を避けるのに役立ったことはあんまりないけどな」

 

肩を竦める将悟にひとまず強張っていた全身の力を抜く。将悟の勘が全て当たるわけではないし、そもそもこれから神様が襲来する東京に安全地帯など無い。気になるのは確かだが動きようが無かった。

 

祐理の話題は一先ず棚に上げ、話を変える。

 

「ところで王様はさっきの話し合いで出た条件で本当に満足なの?」

「面倒事は後輩に丸投げ、美味しい研究材料はタダ取り。後始末で苦労するのは甘粕さんだ。クレームは付けたから大分気が済んだ。だから感情的になっているかと言われると微妙だな。後はこっちに被害が来なければどうでもいいよ」

「あはは、王様らしいね! 恵那もこういう話はさっぱりだからさ。知ってる人が怪我したりしなかったらそれで十分だよね」

 

ちなみに“こっち”とは将悟の知人友人も含まれるため魔王同士の決闘による東京消滅の危機が完全に回避された訳ではない。

 

政治のことなどさっぱりな将悟だが交渉事で一度譲歩すればナメられるだけという真理は野生の直感で理解している。とはいえここから先ローマの結社とのやり取りは委員会に放り投げる形になるだろう、ひょっとすれば三日後には忘却の彼方となっているかもしれない。将悟は興味のないことには本当に興味が持てない性格だった。

 

「でも珍しいよねェ…神様まで動きだしてるのに王様が働かずに済むなんて」

「おい馬鹿やめろそれはフラグだ」

 

なんていうことのない馬鹿話。フラグも建て過ぎれば自重で折れるのである。そんなノリでグダグダと話を続けながら二人並んでブラブラと歩く。特に意味はないが悪い気分ではなかった。だから珍しくこのまま恵那を伴ってどこかに足を向けようか、と思いついたのも束の間。

 

―――ふと恵那が見えない誰かに呼びかけられたかのように視線を天に向ける。

 

そこには先程まで晴れ模様だったにもかかわらず急速に黒雲が湧いてくる。たちまちの内に空を覆い尽くし、ざあざあと強い風と共に横殴りの雨まで吹き付けてきた。

 

「ありゃ、珍しい。おじいちゃまからだ」

 

さっきのフラグが早速仕事をしやがったか、と本気で毒を吐きながら恵那を引っ張って近くの軒下に避難する。魔術を使って雨避けしてもいいが下手にやれば目立つこの上ない。この程度のことで委員会の人間を記憶改竄作業に従事させるのも気分が良くなかった。

 

「うん、聞こえてるよ―――それで用件は? わざわざそっちから繋げてくるんだから普通の話じゃないんでしょ?」

 

電源の切れた携帯電話を片手に会話を続ける恵那。元より世間話なんぞとはこの世で一番縁遠い存在との会話である。ズバズバと本題に切りこんでいく。

 

「―――はァ!? なにそれ! もうちょっと詳しく聞かせて……ああもう、切られちゃった」

 

将悟には聞こえない声の主から伝えられる情報に恵那の声に憤りと混乱、焦りがそれぞれ等分に混ざる……加速度的にきな臭い予感が増していく。得意の直感に頼らずともこの時点で将悟は確信していた、絶対にロクな事態ではあるまい。

 

そしてその予感を裏付けるように恵那が混乱を鎮める余裕もなく将悟に向けて叫ぶ。

 

「来るよ、王様―――まつろわぬ神が来る。これから出雲の地に《鋼》が顕現する!」

 

彼女は守護神たるスサノオから渡された爆弾をそのまま将悟に投げ渡したのであった。

そしてその神の名は―――、

 

「武蔵坊弁慶が《蛇》を討ちに東京(ココ)に来る!」

 

 




弁慶と鋼の関連についてはWikipediaの『武蔵坊弁慶生誕伝説』にて! 
や、煽っといてなんですが弁慶と鋼の関わりについてはあまり深く掘り下げる気は無いので。

それと活動報告にカンピオーネ最新刊の感想及び思い切り外れた作者なりの最後の王考察を置いておきました。恥をさらして悔しさを晴らし、心機一転執筆に向かいたいと思います。

暇な人は読んで構っていただけるとしっぽを振って喜びます。


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蛇と鋼 ③

たぶんもう二度とない短い間隔で投稿。
イチャイチャってなんだったっけ? 書いててそんな風に思ったお話です。




神います地、出雲。

 

神話において幾つもの伝説の舞台となった現代でも日本屈指の霊地である。その清浄なる大気と肥沃な大地の精気が常ならぬほど満ち満ちている。例えるなら台風が来る前、重く力ある風がうねるさまに似ていた。

 

ただそこに在るだけ、それだけで莫大なまでに溜めこまれた天と地に満ちる呪力は天変地異に等しい災厄の到来を告げていた。呪力はゆるりとその場に揺蕩(たゆた)い、循環していくが決して散ることは無い。

 

水が高きから低きへ流れるように、あるいは熱が拡散し最終的に平均化されるように。

 

本来なら一時的に呪力が(こご)ってもそれを纏める核が無ければ霧散していくだけのはず。明らかな異常、自然現象ではありえない人為を感じさせた。

 

あるいは呪力を読み取る目、それと天空から俯瞰する視点を持つものがいれば気付いたかもしれない。遠い昔この地に敷かれた、常人には視認不可能な淡い光を発する大規模な魔法陣の存在に。

 

それはまつろわぬ神、それもこの出雲に伝わる伝説にまつわる《鋼》を限定して招来する儀式の術式が超の付くほど精密に書き込まれた方陣―――その失敗作であった。人の身で為したとするなら規格外と言っていいほどの完成度を誇るが、必要な要素を決定的なまでに欠いている。神の招来を狂的なまでに強く願う巫女の不在。加えてクリアすべき幾つもの技術的欠陥。これではどれだけ莫大な呪力が流れ込もうと成功どころか発動することすらありえない。

 

その確信があったからこそ陣は解体されることなく放置されたのだ。

 

だがまつろわぬ《鋼》の英雄が生まれる呼び水としては及第点を超えていた。加えて相次いで日本国に誕生した二人の魔王の存在が劇的なまでに霊脈の流れを乱し、加えて不倶戴天の仇敵たる《蛇》の最高峰までがこの島国にやって来た。

 

《鋼》が―――まつろわす剣神が生まれるのにこれ以上の環境は無い。

 

故に《蛇》が気まぐれに神力を振るい、東京を闇夜に落としたその瞬間をきっかけに結界寸前のダムのように溜めこまれた呪力は渦巻く螺旋となり、魔法陣を中心に怒涛のように流れ込み始める。

 

轟、と不気味な唸りを上げ一点に収縮していく呪力の渦。

 

呪力は渦巻き、凝縮し、遂には出雲の地に語り継がれる神話を中心に一個の《神》の形に押し込められる。そして誕生の余波とでも言うべき呪力の波が風を起こして木々を揺らし、微かにだが確かに大地を鳴動させた。

 

―――出雲の地に満ちる精気を糧に、ここに武蔵坊弁慶が顕現した。

 

僧服の上から重厚な鎧を着込み、服から覗く肌はどこも浅黒い。体躯は七尺を超えて肩幅は広く、見ているだけで内に秘められた圧力を想像できるほどに逞しい。巌から削り出したようないかめしい顔つきで親の仇のように虚空を睨みつけ、自身の身長を優に超える大薙刀―――其の名も高き岩融(いわとおし)―――を握り締めている。その立ち姿はまさしく伝説に伝わる怪力無双の荒法師そのままであった。

 

神話の頸木から外れ、地上を彷徨い歩く肉体を得た英雄は一先ずゆらりと視線を周囲に巡らせた。山深き霊峰、弁慶が生誕したこの山は時の流れにその痕跡のほとんどを呑みこまれながら、かつて盛んに製鉄が行われた地であった。

 

《鋼》たる己が生まれるには十分な土地だ。一つ頷いて納得すると、視線を東の方角へ向ける。神としての超感覚が距離を隔てた其処に残響のように伝わってくる力がぶつかり合った余波、そこから察せられる己の天敵の存在を感じ取っていた。

 

弁慶は自問する。己がなすべき事はなにか? と。

 

自答するまでもなく決まっていた。今すぐにでも東に向かい、人間達の都で狼藉を振るう《蛇》を討つ。その後はこの国に蔓延る魔王に取り組むとしよう。それも終わったのならば……戯れに各地を漂泊し、当代の腕自慢どもと武勇を競うのも良いだろう。

 

かつては場所も人数も構わず帯刀する武者に単身襲いかかり、刀を強奪して回った彼だ。荒武者、智慧者、霊能者、時に産婆の役を務めたことすらある。数多の逸話、数多の相を持つ神であるがやはり《鋼》としての役割を期待され誕生した以上己の武勇を示すことが本懐であろう。

 

現状把握に満足すると彼は目的を果たすべく東の方向へ足を向けようと”した”。

 

足を踏み出そうとする前に歩み寄ってくる気配を感じた。東の地にある二つの力と同格のソレ。ピリピリと粟立つ肌と否応なく湧きあがってくる敵愾心。頬が吊り上がり、獰猛な形の笑みが浮かんでくる。

 

なんとまあ、腕の振るい甲斐のある舞台に呼ばれたものだ。《蛇》と魔王、それこそ己が誕生するはるか前より逆縁で繋がれた旧敵が三人も! なんという戦場、なんという至福か!

 

背負っていた大薙刀を引き抜くと豪と振るい、敵のいる方向へと切っ先を向けたのである。疑う余地などなかった、神と神殺しの両者にのみ感じられる敵意と高揚感の交錯であった。

 

来た、己が武勇を示すべき敵が―――神殺しが来た。

 

本来ならば真っ先に《蛇》を討つところだが神殺しもまた特別な仇敵である。向こうからやってきたというのなら是非も無し、死力を尽くし戦うのみである。

 

傍らに女を一人伴い、悠然と進む姿が目に入ると溢れでる高揚のまま口上を述べた。

 

「―――遠くば音に聞き給え! 今は近し、眼に御覧ぜよ! われ天児屋根(あまのこやね)御苗裔(ごびょうえい)…熊野別当弁正が嫡子、西塔武蔵坊弁慶なり!」

 

型稽古でもこなすようにその手に握った大薙刀を軽々と振り回し、切っ先を仇敵へと向ける。

 

さながら檜舞台に立った大役者のように大仰かつ大胆不敵な名乗り。一合も交わさぬままこいつは絶対に派手好きだと将悟に確信させるに十分なほど天地に朗々と響く鮮やかな口上であった。

 

「天地よ、御照覧あれ! 末法の世に君臨する悪鬼羅刹を、この弁慶が見事討ち取って見せようぞ!」

 

その手に握った岩融しの石突きを大地に突き立て、歓喜と高揚に武者震いに震わせる。しかし戦意に満ち満ちた弁慶の気迫に対し、将悟の視線は冷めたものだった。

 

「生憎だがこっちにも都合があってな、付き合ってられん。実は大馬鹿と疫病神が俺の懐で喧嘩の真っ最中なんだ」

 

深々とため息を吐く。

 

「この上《鋼》まで来られたら厄介なんてもんじゃない。ここでお前をボコリ倒しても東京に帰ってからは馬鹿二人の後始末をするお仕事まで残っているときた」

 

うんざりだな、と言葉でもジェスチャーでも遺憾の意を表す将悟。

 

スサノオの神託から半時間も経っていないというのに将悟は出雲の地にしっかりと立っている。噂に聞く羅濠教主と同等の腕前を持たない限り『縮地法』や『転移』、『神速通』と呼ばれる魔術でも不可能なはずの業だ。そして将悟の魔術師としての腕前はまだその域に達していない。

 

「要するに、だ。可及的速やかにくたばってくれると嬉しいぞ?」

 

浮かべている表情は笑顔だが目が一切笑っていない、そして敵意だけは吹き付ける焰のように熱い。天敵からの飄然たる殺害宣言であった。

 

ぶるり、と弁慶の背に震えが走る。無論怯えではなくこの上ない強敵を前にしたが故の武者震いであった。この後繰り広げられる激烈たる死闘をむしろ歓迎する心持ちで弁慶は得物を構え直した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スサノオの大蛇退治、因幡の白兎、大国主の国造り。

 

日本に伝わる数多の神話の舞台となった地、出雲。神秘と魔術の地位が低下した現代においても些かもその価値は衰えない、日本屈指の霊的要地である。

 

そしてかの地には極めて高い知名度を誇るある英雄の出生譚、”その一つ”が存在する。

 

容貌の醜さゆえに縁談に恵まれなかった女が出雲の神の縁結びにより引き合わされた山伏とほんのひと時情を交わし、とある赤子を身籠る。

 

女はつわりのため鉄が食いたくなり、村人の鍬を盗んで食べ続ける。食べた鍬の数が十本を数えようとした時村の子供に見つかり、半分ほど食べ残してしまった。

 

その後誕生した赤子は生まれながらに髪と歯が生え揃った全身が鉄のように黒い異形の姿であったという。母となった女は自らの手で井戸を掘って水を汲み、それを産湯に使った。

 

英雄に付き物の異常出生譚を経て生まれた赤子はすくすくと成長し、各地を流浪する内に力を付け、やがて西塔武蔵坊弁慶を名乗りかの九郎判官義経…その一の家来として名を馳せていく―――。

 

「分かりやすいくらいに明白な鉄との関わり、産湯のくだりは多くの《鋼》に見られる女神から与えられる恩寵の隠喩。この逸話こそが武蔵坊弁慶に《鋼》の英雄神たる相を与える最大の要因なんだ」

 

とは弁慶と《鋼》の結びつきを知らない将悟に対し、説明を試みた恵那の言である。

思わず呈した疑問に答えた短くも適切な解説も聞き、そんなものかと納得すると己の腹心の電話番号をコールした。恵那が授かった神託によると武蔵坊弁慶の顕現までの時間的余裕はほとんど無い。

 

デマだと無視するには情報源が大物すぎる。下手に放置して最悪のタイミングで東京の決戦に横殴りを入れられてはたまったものではない。可能であれば顕現した直後に叩きたい。

 

が、大前提として将悟が出雲の地に赴くのは愚策である。

 

神託で伝えたスサノオの口ぶりでは武蔵坊弁慶が顕現するまでの猶予はどんなに長く見積もっても数時間。まず将悟が出雲に赴くだけで少なからぬ時間を消費する。加えて一口に出雲と言っても広い、まつろわぬ神の顕現ともなれば遠方からでもはっきりと観測できる規模の現象だが、厳密にどこに顕現するかまで特定するには人員も時間も足りなさすぎる。仮に東京に向かう弁慶が将悟と入れ違いにでもなれば事実上フリーハンドを弁慶に与えることになる。

 

その点については甘粕にしっかりと指摘された。その上で東京にて迎え撃つのが次善の策であるとうんざりした声で語った。特大規模の厄介事が降ってきた東京に更なる爆弾が投下されると聞かされれば当然の反応だろう。連鎖反応で何が起こるか分かったものではない。

 

一々甘粕の指摘に頷きつつ話を最後まで聞いた将悟はそれでも、と続けた。

 

「出雲に向かう。まあ、なんとかするさ」

 

その王命で千言万語の反論をすべて捨て去り、深々と溜息を吐きながら了承の意を伝える。将悟がなんとかすると言ったのなら大抵のことはなんとかなるのだ、神さま関連を除けばだが。

 

「……お帰りは出来るだけ早めにお願いします。正直に申し上げて私どもには打てる手がほとんどありませんから」

 

最早甘粕にできるのは疲れた声で王に尽力を願うことだけだった。最後に御武運をとかなり投げ遣りな雰囲気で甘粕は電話を切った。

 

草薙が暴れ始めてから甘粕さんの苦労も倍ドンだな、と他人事のように考えながらも隣で黙って会話を聞いていた恵那と何を言うでもなく視線を交わす。

 

その瞳には疑惑の光、互いの脳裏に共通の知り合い(ただし人間ではない)が浮かんでいると無言のままに悟り合う。

 

「それにしても…」

「うん、引っかかるね」

 

声を合わせることでより一層疑惑を深める。

 

「「絶対にあのジジイ/おじいちゃまが怪しい」」

 

相性は良いのだが時たまズレのある二人の心が絶妙なまでにシンクロした瞬間であった。

 

「まず第一に親切心からの忠告とかは絶対に無い」

「あり得ないね。結局地上で起きる騒動の大半はおじいちゃま達にとって他所事だし」

 

気心の知れた者同士テンポよく会話を進めていく。

 

「間違いなくどこかで一枚噛んでるな」

「うん、怪しいね。李の木の下で冠を正してるくらいには怪しい」

 

ちなみに本来のことわざは(すもも)の木の下で冠を被り直そうとするのは実を盗もうとしているのではないかと疑われるから、そのような疑わしい行動は避けるべきという意味である。

 

まつろわぬ神顕現の予知、という露骨な干渉は基本スタンスとして不干渉を貫いているはずのスサノオ達を疑わしく思うには十分だ。

 

とはいえこれ以上は思考を進めるのは推測ではなく憶測の類になるし建設的でもない。あとで直接会いに行ってでも問い詰めてやろう、と意見を一致させた後は問題を棚上げする。

 

そしてひょいと腰を浮かせた将悟へ同じく立ち上がりながら微かに堅い表情を浮かべた恵那が相対する。その気配を感じてああ、と頷き。

 

「―――じゃ、行くか」

 

そう言って無造作に恵那に向かって手を差し伸べた。

 

てっきり今回も置いていかれると思い、どう説得したものか頭を悩ませていた恵那は目を白黒とさせる。まあ、当然の反応だよなァと頬を掻く将悟。恵那の反応が己の自業自得だという自覚くらいはある。

 

ここは弁解の一つもするべきだろう、と恵那に向き合う。

 

「分かってるだろうけど今の状況、かなりヤバい。神さまとカンピオーネが合計四人。何が起こってもおかしくない」

 

これで戦場が余所様の庭なら将悟も適度に力を抜いて臨んだのだろうが生憎と戦場は“将悟の街”だ。そして生憎弁慶の顕現までに出雲に間に合わせることが出来るのは将悟のみ。放っておいてもやがてはこちらにやってくる。苦い二択だがそれでもマシな方を選ぶしかない。

 

「困ったことに勝てばいい、なんて甘いことは言ってられない。勝たなきゃならない。最速で、余力を残して」

 

見通しが甘いにも程がある言葉を紡ぎ出す。神とカンピオーネは対等、互いが互いの死足りうる災害同士がぶつかり合おうというのだから余力を残して勝つというのは願望を通り越して妄言ですらある。

 

だが首尾よく行ってもまだ神が一柱、護堂が敵に回れば最悪三つ巴の戦いになるかもしれない。もちろん護堂が首尾よく女神を倒し、一件落着となる可能性も十分あるが将悟は基本的に神様絡みの事件で最悪の事態を想定することにしている。そしてその斜め上をぶっ飛んでいくのが神様とカンピオーネなのだ。

 

できるだけ余裕を以て勝ちたいというのは本心である、実現の見込みがとても低いと心底理解しているだけで。

 

「だからあるものは全部使うし、命も賭ける。たぶん、お前のことも守ってやれない」

 

端的に言えば余裕が無い―――だが絶対にそれだけではない。静かに瞑目し、神話的とすら言える闘争に明け暮れたこの一年が脳裏で鮮やかに思い返される。

 

数多の神を打ち倒した。

数多の魔獣を蹂躙した。

 

その過程で何度生死の境を彷徨ったことか。

 

全てとは言わない、だが恵那の(たす)けが無ければ将悟の首は今頃首と繋がっていない。そんな激戦、死闘が幾度となくあった。

 

嗚呼(ああ)、己一人で十分と(うそぶ)くなど何と甘ったれた未熟な自負であったことか。意地を支えに威勢よく吼えようと、現実としてどうしようもなく己は弱いのだ。幾ら常識外れの異能を有していようが、一人の少女に過ぎない恵那の助力が無ければ命も繋げないほどに。

 

だがせめてこれからは覚悟を決めようと。

そう、思ったのだ。

 

「―――それでも(・・・・)俺に付いてこい(・・・・・・・)

 

かつての誓いを今ここで。

呆然とした顔で自身に向けられた王の言葉を反芻する少女に恥ずかしげな、照れくさそうな笑みを向ける。

 

「頼りにしてるぜ、”相棒”」

 

さながら誓約のように、求愛のように恵那に向けて手を伸ばす。

 

将悟は認めた、清秋院恵那を。否、もうずっと前から認めていたけれど遂に覚悟を決めた。致命的なまでに恵那の人生を歪める覚悟を。

 

俺のために生き、俺のために死ね。只人ではいられない地獄のような生を歩み続けろ。

 

そんな呪いのような生を押し付ける。他の誰でも無い、赤坂将悟の意思によって。不思議と後ろめたさは感じない、代わりに腹の奥底に重く定まっていくものがあった。

 

それはなんら特別なものではない。全ての人がその人生の中で何度となく経験し、その度に強くなっていく―――責任と覚悟と呼ばれるものだ。

 

愛する人と結ばれ未来を築いていく始まりの時、あるいはその形として一つの小さな生命を授かった時。人生の転機に感じるそれを将悟もこの瞬間強く感じていた。

 

「うん…うん!」

 

一瞬茫然とし、数瞬かけて将悟の求めが腑に落ちた刹那一切躊躇を見せず頷き、差し伸べられた手に手を重ね合わせる。百万の言葉よりも雄弁に瞳の光が語っていた―――幾久しくあなたの傍に、と。

 

迷わずに己の全てを委ねてくれるこの少女がなんて愛おしいことか。今さらながら将悟は恵那がとんでもないレベルの美少女なのだと再認識する。いまこの瞬間清秋院恵那は将悟にとって誰よりも魅力的な少女であった。

 

「連れてって、ずっと一緒に……王様の傍で!!」

 

求められたことが嬉しくて、想いと願いが報われたような気がして。泣き笑いのような表情で短い言葉の中にありったけの思いを込めて告白する恵那。将悟はそれを受け止めて不意に胸中に湧き上がってきたモノをそのまま素直に言葉に変える。

 

「我ながらロクでもなさすぎる人生だけど、なんだ―――」

 

客観的に見て荒事続きで波乱万丈の人生。特に苦痛に思ったこともないが逆に言えば胸躍るような喜びも感じることは無かった。将悟にとって神殺しであることは少々特殊性こそあれ日常の延長線上に在り、ありがたみも忌々しさも感じない程度の出来事だ。

 

だが今日このとき、例外事項が一つ出来たようだった。

 

「”お前と出会えた”。そこだけは神様を殺して良かったと思えるよ」

 

神殺しにならなければ彼女と出会うことなど無かっただろう。ましてや生死を、人生を共にする相棒となることなど夢でも起きるはずのない出来事だ。一瞬も迷わず己の運命を預けてくれる女に出会える男がこの世に何人いる? “神を殺す程度”、その恩恵を考えれば安い代償だろう。

 

一欠けらの偽りも、羞恥心も感じることなく心底そんなことを思える辺り将悟も大概恵那にイカレていた。

 

何のことはない。とうの昔に互いの気持ちは通じ合っていて、当人たちだけが気づいていなかったという喜劇があっただけのことだ。

 

互いが互いの瞳を見つめるとその中にある感情が己のものと同じと悟る。ごく自然に笑みを浮かべ合い、握る手の力を強めた。

 

その瞬間あらゆる喜悦を凌駕する全能感が将悟の全身を包み込む。

 

何でも出来る、何だって乗り越えられる。己と―――恵那が揃っていれば。そんな幻想じみた余韻が胸中を満たす。

 

視認できないほど微かな黄金の燐光が漏れ出すと二人の間に光の橋を作り……消滅した。一切の余韻を残さず、誰にもその存在を認識されないまま。将悟すら知らぬ間に己の権能の掌握が進んだことに気付かなかった。

 

だがその代償とでも言うように魂と魂を繋ぎ合わせるような一体感があった。この時両者は文字通り死が二人を分かつまで断ちきれない絆を―――祝福であり、呪いでもある繋がりで以て結ばれたのである。

 

「行くぞ」

「うん!」

 

そんなことなど知らぬ、知っていたとしてきっと気にも留めないだろう二人は互いに手を握り締めたまま阿吽の呼吸で頷き合う。同時にカルナより簒奪した太陽の恩寵が二人の身体を包み、輝き始める。

 

将悟は人類史を通してもなお破格の魔術的才能の持ち主だが、所詮は魔術に触れて一年の若輩。幾ら全力で『転移』の魔術を行使しようと呪力ではなく技量的な限界が先に来る。今のままでは精々転移できる限界距離は十数キロメートルほどに過ぎない…。これは呪力の量の問題ではなく、規模が広がるにつれ煩雑化していく術式の処理が間に合わないのだ。

 

だが無類の応用性と破格の強化性能を誇る第二の権能を併せれば―――権能に準じる程に呪術の性能を引き上げることが出来るのだ、しかも煩雑化する術式の処理を無視して。呪術が効果を発揮するための最低限の術式に聖なる陽光を宿すと思考一つで効果、規模、速度など様々な要素に絡めて自由自在に極大化できる。

 

神より簒奪した権能に相応しい極めて柔軟(フレキシブル)な、あるいは適当(ファジー)なインチキ性能であった。

 

今回の例でいえば『転移』の魔術に聖なる陽光で以て移動距離の限界を底上げすることで一瞬もかからずに東京から出雲の地を踏むことすら可能とする。

 

出雲に到着してから武蔵坊弁慶が顕現する場所を探るのも同様の手段を用いればいい。太陽の権能を以て『霊脈探査』の魔術を極大化して出雲全域で生じている異変を探り、目星がつき次第そこへ『転移』で跳べばいい。この万能極まりない権能の存在こそが甘粕の諫言を退けた将悟の強気の源である。

 

首を洗って待っていろ、と、

 

将悟は待ち受ける闘争に揺り動かされた喜悦と狂気を笑みに覗かせ。

恵那はそうした将悟の人から逸脱した感性を見て一層恋慕を募らせた。

 

割れ鍋に綴じ蓋。

 

これほどこの二人に似つかわしい例えも無いとため息交じりに甘粕が愚痴るほど、このコンビは世界を舞台に長く、長く暴れ回ることになる。

 

いまこれより繰り広げられる闘争はその序幕である。

 

そして黄金の光輝の残滓を後に残し、将悟と恵那は東京から消えた。

 

 




弁慶を東京に殴りこませて地獄的な四つ巴戦やらせることも検討しましたがゴドーさんと裕理のフラグ立てとか再構成するのがキツイので東京と出雲で一対一×2やらせることに。まあアテナ戦は原作通りだから描写する予定はないですが。

よかったね、甘粕さん。知らないところで胃潰瘍必至の危機を免れたよ!
まあ現状でも十分彼の胃袋にダメージは来ていますが。

それにしても…。

〉「”お前と出会えた”。そこだけは神様を殺して良かったと思えるよ」

自分で書いておきながらなんて物騒な告白だろう。でもこれが筆者の書けるイチャイチャの限界です。

言い訳させてもらうならこの二人の恋愛描写書く過程で普通っぽいやり取りを試しに書いてみたらもう拒否反応が半端じゃない。あなた誰なのってレベルにまで変容したので、今日投降した文の言霊が降りるまで苦戦していました。

もし皆様の需要に沿っていたのなら幸いです。でも今度はもうちょっと普通のイチャコラっぷりを書きたいなぁ…。

ああ、自分で書いてて無理があるな、この二人じゃ。つまりこれ以降も二人のイチャイチャはずっとこんな調子になります。悪しからずご了承ください。

もしこういう恵那さんでもかわいいと思っていただければ感想に一言いただければ幸いです。



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蛇と鋼 ④

やっと書けた…。

執筆時間がマジでかっつかつです。
寝て起きたら休みが終わっていたでござる。


出雲の地、山深き霊峰の一角にて対峙する宿敵。神と神殺し。

闘争の火蓋が切られる前の舌戦が終わりを告げた。

 

「―――速やかにくたばってくれると嬉しいぞ?」

 

飄然とした気配から一転、吹き付ける熱風のような殺気が叩きつけられる。敵意と高揚感の交錯にこれこそ本望とばかりに武蔵坊弁慶もまた歓喜の笑みで頬を吊り上げる。一目で見て取れる燃え盛るような喜悦、だがそれも当然だ。戦場(いくさば)こそが英雄の生きる場所なのだから!

 

からからと笑い、刀身だけで三尺五寸を数える大薙刀を構えた。そのまま無造作に踏み込み、切っ先を将悟の心臓に向けて突き込む! 

 

決して速い訳ではない、むしろ緩慢とすら言える動作。だが気付いた時には切っ先と心の臓の距離は10cmにも満たないほど詰められている。神速すら破る武芸の極みをあっさりと体現して見せる。武芸に長けた英雄神の真骨頂だが、生憎と将悟には見えていた(・・・・・)

 

「我が身中に宿る太陽は全ての力と共に昇り、我が怨敵を屈服せしめん!」

 

淡くも力強い輝きが将悟の全身を包む。数多ある権能の中で随一の応用性を誇る太陽神の恩寵、その発露たる聖なる陽光であった。

 

今回陽光を宿すのは将悟の両足である。

 

第二の権能の恩恵により将悟の肉体は一足で瞬く間に視界から消え去る人外の脚力を宿す。だがその程度では神々との闘争の尺度では決して十分とは言えない。あくまで同じ土俵に立てる、喰らい付けるという程度のものでしかない。

 

だがそれで十分……そも太陽の権能で強化する本命は別にあるのだから。

 

―――などと思う間も虚しく感じられるほど迅速に切っ先が心臓との距離を縮めていく。

 

神殺し特有のデタラメな集中力と黄金の燐光に強化された脚力で辛うじて反応を間に合わせるとひらり、と突き込まれる切っ先を辛うじて躱す―――心臓との距離は小指の先に満たない―――そして即座に大地を蹴って後方に飛び、距離を確保した。

 

が、敵もさる者。突き込んだ大薙刀の勢いをそのままに手首を柔らかく扱うことで柄を撓らせ、毒蛇の如き鋭さで二撃目を足首に向けて斬り込もうとする……その刹那!

 

「石から生まれたる我、世界を生み出す我は『雷』を創造する!」

 

宙に閃光の軌跡を残し放たれた紫電の雷球が今まさに追撃に踏み込まんとした弁慶の額へ撃ち込まれ、機先を制する。雷球自体は振り上げた大薙刀で斬り落とすが、解放された紫電が四方八方へ暴れ回り、弁慶の視界を()いた。雷撃に籠められた熱と痺れ、衝撃以上に今の攻防から読み取れる疑惑が弁慶の足を止めた。

 

「ぬ…?」

 

あまりに的確に叩き込まれた牽制の一撃。武芸の心得はないだろう神殺しが弁慶の足を止めるのに最適な機を計り、迎え撃った一連の流れ。それが偶然によるものか確かめねば。

 

などと思考を巡らし弁慶が動き出そうとする、その直前に計ったようなタイミングで雷電の速さで箭が飛来する。

 

やはり偶然ではない、と確信を深めると両腕で急所だけを覆うと前かがみとなって力を溜め、イノシシの如き素早く重量級の突撃を敢行した!

 

迎撃のため次々と放たれる雷の箭など気に止めない泥臭い猪突猛進でたちまちのうちに彼我の相対距離を潰してしまう。

 

そして己の距離となった途端に無双の剛力で絶え間なく振るわれる長物。それらを将悟は二撃、三撃と躱すと同時に僅かな槍撃の合間を狙い、箭のように鋭い雷霆を抜き撃ちで叩きつける。

 

まともに受けた弁慶に目立ったダメージは無いが…一瞬でも動きが鈍れば距離を取る余裕が出来る。距離を詰められながらもなんとか凌ぎ、牽制することで隙を作り再度距離を取る。

 

あとはその攻防を大同小異でコピー&ペーストしたような繰り返しだった。

 

十数度目かの攻防の後、両者にさしたるダメージは見られない。将悟は振るわれる大薙刀を悉く回避したため、弁慶はシンプルに耐久力で押し切ったためである。都合十数度の雷撃に灼かれても意気軒昂な弁慶は追撃を取りやめ対峙する敵手へ話しかける。

 

「さして速くも無く、武芸の心得も見えぬ。で、ありながら拙僧の振るう得物を悉く凌ぐかよ。如何なる手妻に依るものか見当もつかぬ……ふふ、ほんの数合得物を交えた程度だがお主との戦、中々に興がある」

 

からからと笑い、声音に含まれる興味の成分を強めた弁慶。

 

「だがちとお主の妖術は物足りぬな。《鋼》たる我が肉体は剛強さにおいても比類なし。様子見などせず、全力を示すことを勧めよう」

「余計な御世話だ、クソ坊主」

 

対峙する神々から毎度の如く突きつけられる己の火力不足に苦々しげな将悟をここで初めて見遣り、にやりと弁慶は笑った。その奮戦を称えるように。

 

「そう言えば名を聞いておらなんだ。名乗りも無く刃を交わすなど無粋の極み、弁慶ともあろう者が失念しておった。

同国の神殺しよ、己に羞じるべきところなければ天地に潜む神々と拙僧に名乗りを上げ、己が武勇を示すがよかろう。仇敵たる我らの聖戦にもその程度の戯れは許されようさ」

 

その剛毅な呼びかけに対し、将悟のかける言葉はどこまでも冷ややかだ。

 

「上から目線な評価をどうも。赤坂将悟だ。別に覚えなくていいぞ」

 

さっさと障害物(おまえ)を始末する予定だから覚えていても意味が無い、と傲岸不遜に言い放つ将悟。両者が示す戦意の差異に弁慶も流石に不愉快な気配を浮かべる。

 

「お主の故郷が危難にあることは拙僧も聞いたが、それを理由に今一つ気合の入らぬ様でこの弁慶に挑むのは不快を通り越して不敬というもの。猛省し、心根を改めるべきと感ずるが?」

「よりにもよって神様に諭されて性根を正す魔王がいてたまるか。そもそもお前が言ってるのも我田引水な理屈だろうが!? そんな文句に従うなんて死んでも御免だね」

 

これはこれで手前勝手な弁慶の発言に即座に切り返す将悟。

 

「大物ぶってる暇があればかかってこい。なにより俺程度の武芸の素人におちょくられて黙っているほど慎み深い性格でもないだろ、弁慶?」

「ハ―――良く言った。その大言、高くつくと教授してやろう! 赤坂将悟、同国の神殺しよ!」

 

巨体に似合わぬ玄妙な歩法で“するり”と間合いを詰め、無造作に見えて何時の間にか皮一枚の距離に迫っている薙刀捌き。対して将悟の動きに弁慶のような武芸の気配は微塵も無く、速度も比較して緩慢だ。

 

で、ありながら何故か弁慶の振るう薙刀の閃きを悉く避け、反撃の一手を返して見せる。

 

先程と変わらない弁慶が得物を振るい、将悟が躱すコピー&ペースト。果たして幾数回同じやり取りが繰り返されたか、だが遂に均衡が破れ去る瞬間が来た。

 

「読めたっ!」

 

ある種一定のペースで振るわれ続けていた絶え間ない連続攻撃のリズムが一変する。技量と反射に任せて一太刀で切り捨てるのではなく、一振り目に続く追撃の太刀も併せて“流れ”を組み立てる怒涛の連撃。

 

さながら詰将棋のように敵手の挙動の自由を奪う薙刀捌きだった。

 

将悟の動きそれ自体は神々の尺度では早い方ではない。一手一手追い詰めていけばやがて限界は訪れることを見抜き、攻防のリズムをシフトしたのだ。

 

敵は据え物にして打つ、という言葉があるように武術の世界では達人がゆっくり攻撃しても未熟な武芸者は満足に反応できないという逸話に事欠かない。無論達人と呼ばれる一握りの者にしか出来ない妙技だ。だが義経一の家臣、武勇に優れたる武蔵坊弁慶ならば……出来ぬと考えることこそ夢想に等しい。

 

そしてとうとう弁慶が振るう岩融が将悟の肉体を捉える。頭部目がけて両断する勢いで振るわれる岩融に対し、咄嗟に前進して激突個所を即死必至な刃から柄にズラす。それとともに肩に陽光を集中してガード…将悟に許された時は刹那に等しかったが何とか対処は間に合い、接触の瞬間自ら跳んだことも合わさって派手に吹っ飛んだものの被害は軽微だ。

 

が、戦術的には小さくない意味合いを含んでいる。ここから先、同じ戦法で挑めば今度こそ回避が間に合わず脳天から一刀両断されても不思議でもなんでもない。

 

この短時間で薙刀捌きを剛から柔に、地力で叩き潰すのではなく相手に合わせ隙を突くスタイルにシフトしたあたり、これまでの紙一重の攻防を成立させてきた手品のタネは見抜かれたとみていいだろう。

 

将悟の予測を裏付けるように得意げな顔で胸を張り、朗々と良く通る声音で看破したタネを突き付ける弁慶。

 

「貴様の手の内、見抜いたぞ。お主が頼るのはその俊足に非ず、禽獣よりなお鋭きその眼力! 如何なる神を殺めたか知らぬが森羅万象を見抜く瞳を持つか…侮れぬな、神殺しよ!」 

 

斬撃から斬撃へ移行する継ぎ目、あるかなしかの刹那へ狙い澄ましたような牽制の一撃。如何なる神から奪ったか心眼の権能で眼前の神殺しは武芸を極めた己の動きをほとんど完璧に視て取っているのだろう。その上で適切な時機を見極め、小癪な魔術の雷霆と神に並ぶ俊足で弁慶の槍捌きをやり過ごしているのだ。

 

そしてこの弁慶の推測はほぼ七割方的中していた。無論将悟には戦を生業とする神々が振るう武勇を見切るための権能など持たない。

 

だが常識外れな的中率を誇る霊視力の持ち主であり、他の五感も現生人類を遥かに上回るレベルで備えている。そのふざけた性能の六感を太陽の権能で更に強化すれば、弁慶の動きを見破ることは決して不可能ではない。

 

こんなところにまで応用が利くのか、とあまりの適当さ加減に自身が所有する権能ながら呆れてしまったのは将悟だけが知る秘密である。

 

さておき、将悟が幾ら優れた感覚を装備したとしても間違っても剛力と鋼の肉体を有する弁慶と鍔競り合えるほどではない。両者を隔てる距離さえ潰してしまえば地力の差から弁慶が圧倒的に有利であることには動かしようのない事実。

 

現状無傷で凌いでいるもののそれは回避と離脱、牽制に全力を尽くしているからに過ぎない。弁慶もそれは承知しているだろう。種さえ分かれば対処は容易。元より己が繰り出す武芸の全てに対応しきれるとは神殺しも思っていない筈だ。

 

戦況の確認と分析を行う間も油断なく眼前の敵手を見詰める。

 

「うむ、ちと凝った手を使うか」

 

怪力無双の荒法師が渾身の膂力を込めて大薙刀を振り下ろす。将悟ではなく―――地面に、彼らが二の足で立つ大地に向けて。

 

大地に埋め込んだ刃を豆腐でも切るような勢いで振り抜くと一拍遅れて鈍い打撃音とともに爆発的な勢いで地面が弾け、土煙が周辺一帯を満たしていく。無論将悟もあっという間にその中に巻き込まれる、土煙がぶつかる勢いが激しすぎて目も開けられないありさまだ。

 

だがそんな状況でも聖なる陽光で底上げされた彼の感覚器官は正確な仕事をこなしていた。視覚が潰された程度では戦況に対して些かの不利も感じない。

 

「さて、何のつもりなのやら…」

 

弁慶もこの程度の土煙で本気で目晦ましになるとは考えてないだろう。無意味な陽導をしかけたふりで油断を誘っている、と考えた方がまだしっくり来る。

 

いずれにせよ今は待ちの一手。数瞬後、動き出す前に醸し出す微かな呪力の揺らめきを察知し来るか、と身構えた瞬間に脳裏に氷柱が突き刺さったような悪寒が走る。

 

眼前にあった弁慶の気配が“ブレた”。

 

見えずとも視える、五感に依らない超感覚が気配を捉える―――前方から半円で包むように迫り来る、幾つもの気配を!

 

勘違いなどではない、全てが弁慶と同質の神力を持って急速に距離を詰めてくる。いかなる手品を使ったか分からないがこれまで通りのやり方では絶対に凌ぎきれない!

 

咄嗟に『風』を創造し、眼前の土ぼこりを吹き飛ばす! そうして晴れた視界から現れたのは―――七人の弁慶! どういう理屈かは不明だが七人に分身するという器用な芸を見せてくれたようだ。

 

「ふざけた野郎だ…一応お前は伝承上人間だろうが! プラナリアよろしく分裂してんじゃねェ!」

「はッ! まつろわぬ身となった拙僧が人の限界に縛られると思うなど……愚考にも程があるぞ、赤坂将悟よ!」

 

言葉を交わす間も迅速に距離を詰め、全周囲から振るわれる七本の得物。一つを躱しても二撃、三撃が休む暇も無く突きだされる。流石全員が同一人物だけあってそのコンビネーションは絶妙にして精密だ。

 

まともに避けていてはどうあがいてもあと数手で詰むと直感的に悟る。

 

やむを得ない―――すこしでも勢いを殺すため腕を交差して楯とすると迫りくる一体の弁慶の得物に向かって咄嗟に“自ら”ぶつかりに行く。

 

神力が七分の一に減じたとはいえ元が剛力無双で知られた神格である。ゴキゴキと嫌な音を立ててブロックした腕の骨が粉砕し、会心のホームランよろしく70kg強の人体が勢い良く吹き飛んでいく。

 

「ぐ、おおお―――! ちくしょう、クソいてェ!」

 

受け身も取れず盛大に土と草の上をそのまま数十メートルは滑りつつ、巨木と衝突することでやっと勢いが止まる。死んだと認識されてもおかしくない不本意な空中飛行のひと時だったが、さして時間をかけることも無く元気一杯で立ち上がった。

 

常人なら腕どころか全身がグシャグシャになるだろう威力だったがカンピオーネの理不尽な耐久力、及び咄嗟に太陽の権能で底上げした護身の魔術で裂傷と粉砕骨折程度に収まっていた。

 

併せて聖なる陽光で両腕の治癒力を底上げする。普段なら完治に数時間はかかるがこの分なら一分あれば使い物になる程度には回復するだろう。

 

「流石、生き汚いことに定評のある神殺しよな。よもや我が刃の檻をそのような手段で斬り抜けるとは…」

「忍者よろしく分身の術かます坊主に人外認定される覚えはない。奇術団にでも行って見世物になってろ。最前列で指をさして大笑いしてやる」

 

口汚く罵りながらも分析は続ける。弁慶と縁の深い山伏は確か忍者の源流の一つではあるが……。恐らく、いやまずハズレだろう。将悟の人並み外れた直感が違うと告げている。

 

かといって他に心当たりも無い。そもそも一応は人間として伝承が伝わる弁慶には超常的な描写は少ないのだ。内心首を捻っていると

 

「府に落ちぬという顔だ。ふっふっ、我が分け身の秘密、開陳して進ぜよう」

 

と、一人の弁慶が余裕綽々で手品の種を語り始める。こいつ目立ちたがり屋にも程があるだろうと呆れ半分、興味半分で大人しく耳を傾ける将悟である。

 

「いまの拙僧は弁慶であり、俊章である」

「愚僧は千光房七郎」

「承意と申す。見知りおけ」

「名は仲教よ。その首、我が誉れとして貰いうける」

 

残る三人も次々と異なる名乗りを挙げていく。

 

よくよく見ればそれぞれの弁慶達の服装や武器は微妙に異なっている。鎧の意匠が違う、手に持つ得物が違う。そのくせどれもよく使い込まれている気配がある。ごくごく些細な違いではあるが…なるほど。

 

ここまで丁寧にヒントを出されれば将悟もそのカラクリが理解出来た。

これまでの戦歴の中で智慧の剣への応手として返されたこともある一手、神格の分裂だ。

 

「武蔵坊弁慶のモデル達か。そいつらを核に神格を分けたのか?」

 

当時の資料には義経を手助けした比叡山の悪僧達の記録が多数残っている。それらの悪僧達の事績を武蔵坊弁慶という神格は習合し、己の物としているのだ。そうした人物達の伝承を核に神力を七等分して分断すれば今のような芸当も可能だろう。

 

「おまけにまさかり、刺す股、袖搦め…ご丁寧に弁慶の七つ道具まで揃えてきたか」

 

日常会話でも使われる七つ道具の語源、実は弁慶にあるのだ。尤も弁慶の七つ道具に数えられる長柄物は少なからず彼の生きた時代には存在しないものがあったりするのだが。

 

閑話休題。

 

「然り然り。実を言えばもうちと数を増やすことも出来たのだがな。が、今より弱まっては非力なお主の妖術でも分け身の一つも討たれるやもしれぬでな」

 

直接的な言葉で火力不足を突き付けられた将悟の顔をはっきりとしかめっ面を作る。汎用性の代償に威力と燃費が犠牲になっていることは元より承知の上だが改めて敵から言われるとむかっ腹の一つも立つのが人情だろう。

 

というか幾らなんでも神力が七分の一に劣化した分身程度、火力を集中すれば問題なく倒せる。尤もその間他の六人が放っておいてくれるはずがないというオチがつくのだが。

 

「舐めんな、大道芸人! そんな手品まがいの術、通じるのは一度きりって相場が決まってんだよ!」

「言ったな、小童! ならばその良く回る舌ではなく己が武勇を持ってこの弁慶に力量を示して見せよ」

 

半円を描くように将悟を包囲する弁慶らを見据え、将悟は第一の権能の故郷たる漠々たる砂の大海に存在する自然現象を『創造』する!

 

ゴウン、ゴウンと将悟から呪力が吹きあがり、言霊の権能によってある現象へと変換されていく。

 

不吉なうねりを上げながら耳朶に鳴り響く風切り音! ただ豪風は烈しく吹き荒れるだけではない、さながら貪欲な魔獣が獲物を求め大口を開けて吸い込んでいるかのような強烈さで七人の弁慶を引き寄せていく。

 

更に吸い込むだけではない。弁慶の肌をザラザラと違和感を覚えさせる感触が撫でていく。風の中に砂が混じっているのだ、と一拍遅れて気付く。ただの砂粒ではない、触れれば人体程度おろしがねにかけたようにペーストになりかねない砂塵だ。それが濁流のごとき勢いで吹き荒れる風に乗って弁慶に襲いかかっている!

 

「ぬ、ぅん…!! これしきの術で拙僧を喰らえると思うたか! 侮ってくれたものだな!」

 

しかし弁慶は戦場の不死を体現する《鋼》の英雄、おまけにその最期は無数の矢に貫かれながら仁王立ちしたまま立ち往生するというタフネスの持ち主。身にまとう衣服が破れ、鎧に細かい傷がつくくらいでどうにも砂塵を風に乗せて叩きつける程度では有効打となっている気配が無い。

 

暴風の口で敵対者を呑みこみ、やすりのような砂塵によって肉片すら残らぬ規模で磨り潰す『砂塵の大竜巻』。赤坂将悟が『創造』出来る手札の中で最大の規模を誇る。とはいえ威力だけで見れば全力を込めても神獣を複数纏めて磨り潰せる程度に留まる。まつろわぬ神本体にぶつけるには些か物足りないのだ。故に将悟がこの手札を切る局面は専らヴォバン侯爵が従える軍勢や神々が使役する神使など多数の弱敵の掃討に限定される。

 

弁慶がその神力を七つに分け、一人当たりの神力が格段に弱まったとはいえまだまだ神獣などより格上である。これでは全魔導力を大竜巻に注ぎ込んだとしても足止めするのが精々だ。弁慶も将悟の火力不足を見切った上で弱体化を代償に手数を増やしたのだから、将悟もこの手でダメージを与えられるとは最初から考えていない。

 

だがそれでいいのだ。いま将悟が務めるのはアシストであり、アタッカーを務める者に別に当てがあるのだから!

 

「頼むぜ、相棒…!」

 

将悟の口からこぼれたこの戦場の何処かで潜んでいる相方への呼びかけは暴力的に荒れ狂う砂嵐によって吹き散らされ、将悟本人の耳にさえ届くことはない。

 

言うまでも無く恵那と打ち合わせたことなどロクにない。加勢のタイミングもその手段も恵那の判断に一任している。まつろわぬ神との戦いが予定通りに運ぶことなどまずありえないからだ。

 

だが清秋院恵那ならば……“俺の相棒ならば”と信じ全力を大竜巻の維持、弁慶の拘束に傾ける。

 

そしてその瞬間、将悟の脳裏に確かに届く。聞こえるか否か、ギリギリのラインだがしっかりと「任せて、王様!」と恵那の意思が伝わった。

 

知らぬ間に繋いだ輝ける黄金の絆が二人の意思を通じ合わせたのだ。

 

そしてその“声”が幻聴でなかったことを示すようにこれまでの攻防でも将悟に加勢することなく背後で待機していた清秋院恵那。太刀の媛巫女が遂に絶好のタイミングで佩刀を鞘から抜き放つ!

 

「起きて、天叢雲! 我が手に弓矢の冥加を取らせ給え!」

『元より承知! 同族よ、(オレ)の刃の錆となるがいい!』

 

神がかりの巫女に応えるのは当然まつろわぬ神の中でも特に好戦的な最源流の《鋼》である。同じ《鋼》だろうがまつろわぬ神だろうが一切怯まず、むしろ喜々とした声音で宣戦布告を弁慶に叩き付ける!

 

暴風の吸引から逃れることに全力を注ぐ弁慶が轟々と神力をその身に呼び込む恵那を見咎め、そして悟る。その身に呼び込むのが神と比べ物にならぬほど卑小な規模の神力だったとしても、その刃は確かに己を脅かしうるのだと。

 

「巫女か…! その神力、《鋼》の御霊を呼び込んだのかッ!?」

『応! 天叢雲劍、推参也! 我らが一太刀、浴びてみるか!? 後代の英雄よ!』

 

例え分身によって神力が七分の一に減少していたとしても人間風情が敵う相手ではない。真正面から恵那が斬りかかっては勢いのまま一刀両断されるだけである。

 

だが、全霊を賭して将悟の『大竜巻』に吸い込まれるのに抗っている今この時ならば話は違う!

 

渾身の威力を込めれば太刀の媛巫女の一太刀は神獣すら斬り伏せる。弱体化した弁慶の分け身一つならば十分に有効な威力を見込めるのだ。

 

「人間を舐めんな、阿呆が! 眼中にない人間如きに足元を引っかけられた気分はどうだ!?」

 

弁慶の目の前に現れた時も恵那を伴っていた。恵那の存在に気を払ってさえいれば、弁慶が今の苦境に陥ることはなかっただろう。尤もそうした神々の傲慢を見切った上で将悟は恵那を隠さずに連れていたのだが。

 

「戯言を…! この武蔵坊弁慶を侮るでないぞ、羅刹王! この程度の逆風、何度超えたか数えるのも忘れたわ!」

 

七人全員がじりじりと大竜巻に吸い寄せられながらも首からかけた大粒の数珠を揉み、早口で何事かの真言を紡いでいく。大竜巻の吸引力に抗うために使っている神力の一部を今行っている何がしかの行動にシフトしたようだ。

 

だがこれはこちらにとっても利がある。弁慶を拘束するための大竜巻の維持に必要な量を残し、浮いた呪力を輝ける陽光に変換して恵那に譲渡する。その絶対量は神と神殺しにとっては僅かでも恵那が伴う轟々と唸る暴風を倍以上に強大化する糧となった。

 

「我が背の君の為、御身に刃を向けさせて頂く―――御免!」

 

それはかつて将悟に向けて全霊を持って解き放った暴風の鉄槌の再現だ。

 

恵那だけは吸い込むな、と将悟が大竜巻に向けて強く念じると、恵那は木立を轟々と揺らす強風の影響から抜け出し、あの(ましら)の如き身軽さで最も近くにいた弁慶との距離を駆け抜けていく。

 

いまや恵那と天叢雲は眩いほどに黄金に輝き、弁慶が瞳目するほどの速度で瞬く間に詰めよって見せる。斬りかかられた弁慶も握っていた得物で防御を試みるが砂混じりの颶風がその動きを拘束し、その動きは鈍い。そして恵那は真正面から烈風の勢いで弁慶へ斬りかかって見せる!

 

辛うじて天叢雲劍の刀身を掲げた得物で防ぐが、続く第二撃―――城塞すら一撃で粉砕する暴風の鉄槌に対してそれ以上抗する術を持たなかった。

 

ドゴン、と明らかに人体と風が衝突したとは思えない重く鈍い音が響き渡る。

 

「―――クハッ…!」

 

ベキベキと鈍い音が鳴り響き、身体が“く”の字に折れる弁慶はそのまま解体現場のクレーンに付いた鉄球を打ち込まれたような勢いで真っ直ぐに大竜巻に向かって吹き飛んでいく。

 

「ぐ、お、おおおおおおおおおおおおおおおぉ―――!!」

 

ただでさえギリギリのところで抗っていた弁慶にそれ以上大竜巻の吸引から逃れる術はない。呆気なく超高速で渦巻く砂塵の幕にのみ込まれると超大型のミキサーにかけられたように“磨り潰されていく”。

 

砂塵の幕に押し隠されながらもやがて一つのシルエットが立ちあがった。

 

だが身にまとう鎧どころか全身の肉が砂塵に削がれ、血塗れとなった深手の中弁慶はギラリと野獣のようにその眼を輝かせる。全身から血のように神力が溢れだしていくが油断は出来ない。

 

まだ余力を残している、と直感的に断じた恵那は追撃の色気を見せず獣の身ごなしで素早く距離をとった。と、同時にぶつぶつと真言を呟いていた六人の弁慶が術の仕上げへと入る。

 

「「「「「「「東にある降三世明王。南にある軍茶利夜叉明王。西にある大威徳明王。北にある金剛夜叉明王。中央に御座す大聖不動明王よ。利剣で以て悪しき呪を斬り破り給え!」」」」」」」

 

一糸乱れぬ斉唱で顕す霊威は破魔の霊験、即ち魔術破りの言霊であった。目に見えぬ呪力で出来た『剣』が荒れ狂う砂塵交じりの豪風をズタズタに引き裂き、斬り破ってしまう。

 

戦術的目的は果たしたと将悟もまた大竜巻の維持を止め、代わりに拳大に圧縮したプラズマ球を数十個『創造』すると斬り破られた弁慶に向かって同時に一斉射撃を加えた。

 

プラズマ球の一つ一つが乗用車を跡形も無く吹き飛ばせる威力を誇る。

 

だが残る六人の弁慶の内、五人が素早く壁となって紫電の箭を防ぐ。その隙に残った一人が深手を負った個体に駆け寄ると、傷ついた身体をほどき精髄(エッセンス)となって駆け寄った弁慶に吸収された。

 

残る五人も次々とその肉体をほどき神力となって残る一人に帰還した。残るは再び神力が充溢した武蔵坊弁慶…とはいえ神力は目算で最初と比べ七分の一ほど減っている。恵那が与えた鉄槌による痛打、続く大竜巻(ハリケーンミキサー)は十分なダメージを与えていたのだ。

 

「清秋院、もういい。下がってろ」

「了解…。また派手にやったねー、王様。甘粕さんが泣くよ」

 

などと軽口を言い捨てながら再び距離を取って下がる恵那。周囲を見渡せばそれなりに密生していた樹木や大岩によって高低差のあった大地がだだっぴろく平らな荒野に変貌していた。良く見ればそこここに木屑や小石が転がっている。その原材料となったもの達は荒ぶる『大竜巻』によって大地ごと削り倒す勢いで磨り潰されてしまったのだ。

 

中々派手にやってしまったものだが行使した術の規模に見合うリターンは手に入れたと言えよう。

 

とはいえあの魔術破りの言霊は予想外だった。湧きあがってきた考察に思わず手を顎先にやり、考え込む将悟。

 

「船弁慶? いや、密教系統の禍祓いか?」

 

能『船弁慶』という黒雲のような平家の悪霊を調伏したという弁慶の霊能を示す逸話がある。更に元をたどれば弁慶が修行したという比叡山延暦寺は日本における密教の発展と深い関係を持つ聖地。密教を下地にした異能の心得があってもおかしくはないだろう。

 

しかしこの分だとまだまだ切っていない手札がありそうだ。

 

「意外と手札が多い上に予想もつかない戦法を取ってくる…。面倒臭い奴だな」

 

弁慶と言えばやはり怪力無双の悪僧という先入観があり、力押しのパワーファイターというスタイルを予想していたのだが思った以上に芸が多彩だ。実際にまつろわぬ神となった弁慶と戦ってみると意外なほど多彩な手札で機を計りつつ一気呵成に勝利へ向けて手を寄せてくる戦運びが印象に残る。先程の分身も結果として悪手となったもののもし恵那を伴わず一人で迎え撃っていたのなら深手を負っていたのは将悟だったかもしれない。

 

紙一重、だがはっきりと将悟が有利。

 

だが一方で、その紙一重こそが神と神殺しの闘争では大きな差となるのだろうと思う。そしてその紙一重を生み出すのは清秋院恵那―――“ではない”。

 

もっと別の要因だ、そして既に将悟はそれを見切っている。

 

「なんだ、もしかしてそれで本気か? おまえをボコリ倒したあとの連戦を気遣って手加減してくれる必要はないぞ? 見逃してやる気も無いし」

 

意識的に挑発を重ねながらも対する弁慶は無言のまま威圧感だけを高めていく。流石にこの程度の口舌に踊らされてくれるほど単純でも無いか。見た目ほど直情的な気性でないことはこれまでの戦運びからも予想がつく。

 

油断なく弁慶の動きに目配りしながら、それにしても―――とやや戦況から離れた事柄を思考する。

 

初めて恵那に向かって太陽の加護を与えた戦果を見て改めて思う。清秋院恵那と己―――というよりカルナの権能だろうか―――の相性は異常なほどに良好であると。

 

清秋院恵那は老神スサノオの神力をその身に降ろす神がかりの巫女、言いかえれば人の身に収まるほどに劣化しているとはいえスサノオのコピーだ。

 

そして恵那は一〇〇〇分の一にも満たない規模とはいえスサノオのコピーである以上スサノオに出来ることは恵那にも出来る。

 

本来ならば恵那の地力が低すぎるためよほどの機を狙わねば神々との戦いには有効打とならない。だが、それならば足りない地力を第二の権能で以て底上げすれば“どうなるだろうか”?

 

それはスサノオ本体に準じる規模の援護を適時受けられるという極めて大きな戦術的価値を意味する。鋼の神であり、嵐の神であり、支配の神である、多彩な権能を有する恵那(スサノオ)の援護を。

 

これは戦況を適切に見極め運用すれば天秤を一気にひっくり返しうる強力な切り札だ。この時赤坂将悟にとって清秋院恵那は最早新たなる権能を得たに等しい《剣》となったのである。

 

だがこの戦いに限ってはこれ以降あまり恵那の出番はないだろう。既に太陽の権能と恵那の合体技を見せた以上弁慶も警戒してしかるべきである。視界に映らない虫けらから宿敵の厄介な武器程度には認識を改めているはずだ。不用意に先程のような奇襲をしかけても返り討ちにあるのが落ちだ。

 

つらつらとそんなことを考えながら一層太陽の権能に呪力を注ぎ込み、眩いばかりの威光を示す陽光を全身に充溢させる。これから先、どう戦況が動くにせよこれまでほど容易く逃がしてくれまいと考えての備えだった。

 

そして遂に弁慶が動いた。

 

「今少し出方を見るつもりであったが……羅刹王めにこうまで言われてはこの弁慶の名折れ。良かろう。拙僧がこの地に喚び出された由縁、見せてやろうぞ!」

 

ぶわりと噴き出した濃密な神力が弁慶の姿を覆い隠すようにその周囲に揺らめく。神力の高まりとともに服から覗く手足が、顔がゆっくりと光沢のある漆黒に染まっていく。元から浅黒い色の肌であったが今では生きた鉄像さながらだ。いや、さながらではなくまさしく今の弁慶の肉体は鋼鉄そのものだ。

 

なるほど、そう来たか。

 

かつて見た同族も所有する肉体を鋼鉄と化す権能…。その頑丈さは折り紙つきだ。まともにやり合えば手持ちの手札で突破できる手段はごく一部に限られる。

 

まっとうかつ手堅い戦法だ。これまでの戦闘経過で将悟の有する権能が総じて火力が低いことは十分な程分かっているのだからそれ以上の防御力を備えさえすれば一方的なワンサイドゲームになる。なにしろ鋼の肉体には将悟がもつほとんどの手札が通用しないのだから。

 

「《鋼》の不死性…サルバトーレ・ドニと同じ権能か」

「ほう、当代には拙僧の同族を殺めた神殺しがいるのか」

 

興味を惹かれた風の弁慶であったが、直ぐに視線を将悟に戻す。

 

「いずれは其の者と矛を交えるのもよいが、まずはお主を打ち倒すことに全霊を注ぐとしようか!」

 

そして大薙刀を構えなおすと。

 

(フン)ッ!」

 

気合一喝、全身を鉄像の如き光沢のある漆黒に塗り替えた弁慶が威勢よく大地を踏み付ける!

 

弁慶を中心に放射状に震動が奔り抜け、一瞬遅れて地割れの如く大きな罅が地面に刻みつけられた。木立が根から倒れそうなほど激しく震え、常人ならば立っているのが難しいほど大地が揺れ動く。ばさばさっと微かな羽音が聞こえ、見ると遥か彼方には逃げるように飛び去っていく野鳥の一群があった。

 

体感的には震度4か5くらいの地震に匹敵しそうな揺れだ。

 

恐ろしいことにこの極めて局所的な地震は純然たるパワー、鋼の肉体の重量と無双の剛力の合わせ技によって引き起こされている。呆れたことにこれは弁慶にとってデモンストレーション、自身の力を見せて威圧しているに過ぎないのだ。なんと馬鹿げた力なのか…。

 

「見よ、赤坂将悟! 膂力無双、不撓不屈こそがやはり拙僧の最大の武器なれば!! ここから先、一筋縄ではいかぬと知るがよい!」

 

半ば呆れ、半ば感心しながら将悟はその余興を鼻で笑う。なんと無駄な力自慢かと、蟷螂の斧を掲げ誇るがごとき行いを嘲笑する。

 

既に将悟の手中にはその不死性を突破する“剣”が握られているのだから。

 

「そーだな。“様子見は終わりだ”」

 

その一言を皮切りに―――将悟の周囲に“銀”が溢れた。

 

 

 




PS
活動報告のほうで今後登場するかもしれない神様やらネタを中二的表題とともに上げておきました。

暇な方はご覧になって関連書籍など情報を提供していただけるとありがたいです。一応どれも神話解体の形は出来てますが資料が少なくて想像と推測で補っているネタも結構あるので。


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蛇と鋼 ⑤

智慧の剣による神話解説が来ると思ったか?
だが残念。まずは恵那さんとのいちゃいちゃ(?)だ!

や、ホント言うと長くなったのと燃えと萌えの落差があったので二話に分割して投稿した方がキリもいいかと思ったんで。

なおバトルの続きは明日の同じ時間に投稿予約しました。

最後にネタバレ。将悟と恵那はまだ恋仲ではない。


ーーー時刻は弁慶が出雲の地に顕現する少し前に遡る。

 

武蔵坊弁慶は日本の地に生まれた英雄である。

 

故に当然の如くその来歴を恵那は熟知していた。奔放な野性児に見えようとも生粋の良家の子女たる彼女の有する教養は深く、幅広い。自国で生まれた著名な英雄の成立過程などわざわざ調べ直さずとも把握していた。

 

また弁慶が顕現するであろうという位置も既に把握している。残念ながら大地の精気が凝りすぎ、無理に干渉すれば一気に事態が動きだしてしまう段階に来てしまっている。そのため顕現する前に対処という最善策は封じられたが、後手に回るという最悪の事態は避けられた。

 

あとはその知識を彼女の王様へ譲り渡すだけ……なのだが。

 

カンピオーネの魔術耐性は完璧に近いものがある。常人が魔王に魔術をかけるには経口摂取…要するにキスをする必要がある。

 

実は将悟はまつろわぬ神の神格を直接切り裂く『剣』の言霊を所有しながらこれまで『教授』の術を受けたことが無い。大概は自前の霊視力で天啓を享け、あるいは使えずとも別の方策で押し切った。

 

あなたはトート様を弑逆した神殺しなんだから余計な欲を出さずに戦っていれば霊視なんて必要な時に向こうから降りてくるわよ、といつかどこかでえらく軽い調子の忠告を聞いた気がするのだが……はて誰から聞いたのだったか?

 

「えっと…さ。その…………きょ、『教授』の術をかけないとダメだよね。弁慶と、神様と戦うんだし」

「お、おう…」

 

実はこうした色事に耐性が全くない恵那が勇気を振り絞って話を切り出すが将悟の反応も鈍かった。こう見えて将悟も恵那に負けず劣らず恋愛事には弱い。数か月前までは中学生、しかも年中神様絡みの騒動に巻き込まれており、経験を積む暇が全くなかったと言えば言い訳になるだろうか。

 

さておきこれまで将悟が恵那を受け入れなかった理由はシンプルである。

 

それが男女のものかは別として少なからず好意を持つ相手に一緒に地獄へ落ちてくれ、と素面で言える男が何人いるだろうか? しかも笑えないことに冗談やかっこつけの要素は一切なしだ。

 

彼女を“剣”として受け入れると言うことは何時死んでもおかしくない神殺しの戦場に伴うということだ、人命が木の葉よりも容易く掃《はら》われる戦場へ。

 

幸か不幸か将悟はまだそうした感性はまだ常人から逸脱していなかった。汎用性の高い将悟の権能が大概の状況に対応できたというのも大きい。

 

だが将悟は既に決断した、恵那を仲間と認め助力を恃む“剣”として神々との戦いに巻き込むことを。

 

とはいえ……いきなり男女の関係になることまで決断できたわけではなくてなんというかですね、必要だからってキスとか不健全と言うか…ちょっと僕らの間では早いと思うんです。などと混乱しつつ辛うじて脳裏で妄言を吐くだけで留める将悟。

 

キャラが崩れるレベルで盛大にヘタレているが敢えて言わせてもらうのなら赤坂将悟、この時16歳。恋愛観“は”ごくまっとうな青少年である。ファーストキスも済ませていない少年が公共のために美少女の純潔を奪えと言うのは中々難易度が高い。

 

洒落抜きで言うがここで恵那と口付けを交わせば将悟との交際の有無に関わらず彼女は一生操を守り続けるだろう。もう諦めてゴールしても良いんじゃないかな、と思わせるくらい恵那は魅力的だし好感度が高いが将悟としてはもう少し段階を踏みたいのだ。

 

なんかこう、男と女のロマンというか甘酸っぱいモノが欲しい。イチャイチャしたいのだ。正直に言えば恵那とのキスは内心大歓迎くらいの気持ちなのだが神様との戦いで必要だから仕方なく、というシチュエーションが激しく余計なのである。

 

キスをするなら神様とかの要素は抜きに真っ当なシチュエーションで真っ当に遂行したい。この期に及んで往生際の悪いことこの上ないが紛うこと無き将悟の本心であった。

 

「…や、やっぱりダメ?」

 

ごめん、やっぱり女らしくない恵那なんかじゃ駄目だよね…と密かに隠していたと思われるコンプレックスを吐露しながら弱々しく下を向く恵那。

 

そのあまりにらしくない姿に密かに衝撃を受けつつ一方で得意の直感に頼らずともある未来を幻視するのは容易だった。つまり、ここで恵那との『教授』を断ったら理非善悪に関わらず問答無用で己が悪者になると。

 

そして今はヘタレているが元来将悟は果断な決断力が持ち味である。闘争心と少女を思う心で羞恥を塗りつぶし、腹を決める。恵那の顎に指を引っかけて顔を上げさせ、鼻先がくっつくほど近くで向き合う。

 

「『剣』が要る。弁慶を斬るための『剣』が」

 

あ…、とその瞳を直視した恵那が呆けた呟きを洩らしてしまうほどの真剣さを込めて『教授』を要請する。

 

「お前の知識を俺にくれ」

 

―――はい、とその勢いに押されたように珍しく従順でしおらしい様子で恵那が頷いたのはその直後だった。

 

そして間を空けることなく。

 

どこか初々しい雰囲気で相対する二人。

特に将悟の方は恰好つけすぎたさっきまでの己の発言に背中がかきむしられるような羞恥に襲われていた。

 

恵那が羞恥心を押し隠しつつ、精一杯真面目な顔で弁慶に関する知識を『教授』しようとしてくれているのが唯一の救いだろう。

 

だがいざ本番という段になって戸惑うように将悟を見遣る恵那。カンピオーネに魔術をかけるには経口摂取…つまりキスが必須。頭では分かっていてもなかなか自分から切り出す踏ん切りはつけにくいのだろう。

 

将悟もまた『教授』を強要している身で全てを初心な恵那に任せるという選択肢は取りたくなかった。恵那も将悟もこうしたやり取りは初体験だが少女に任せたままというのは男の沽券にかかわる。幾ら魔王でもロクデナシすぎだ。ダメ人間ですらないではないか。

 

「……」

 

その決意のまま腕を差し出すとぐいと無言のまま無造作に、だが力強く恵那を抱き寄せる。

 

「お、王様…?」

 

戸惑うな声が漏れる恵那。

 

「あったかいな…」

 

思わずもれた一言にカアァ、と恵那の怜悧な(かんばせ)がたちまちのうちに紅潮していく。この一言が恵那を戸惑いから動転に至らせ、なおかつ異性と肢体を密着させていることを強烈に意識させたらしい。

 

いきなりキスするのではなくひとまずハグを経由してリラックスさせよう、という目論見だったのだが見事なまでに逆効果となった。下手に雰囲気が“そちら”の方に傾いてしまい、ますます身を固くする恵那。

 

明らかな台詞と行動の選択ミスにヤバい、どうする…と胸中が焦りに満ちていく中次に訪れた感情は―――意外なことに明鏡止水、驚くほど素直に落ち着いた心境であった。

 

まずは己の失敗を潔く認めるとフ…、と吐息をもらし内心で浅はかな己を罵倒する。

 

なにせ己は恋愛経験ゼロの新兵なのだ。無駄にかっこうつけても仕方がないではないか。自分を大きく見せるために肩肘を張り、背伸びするのは己の流儀ではない。

 

あくまで自分らしく、思うがままに振る舞えばよいのだ…火事場の糞度胸だけは人の十倍以上持ち合わせる将悟である。開き直りは驚くほど早く済んだ。

 

「なあ、清秋……“恵那”」

「―――!? うんっ…!」

 

ゆっくりと抱きしめていた少女を解放する。

 

この期に及んで名字で呼び続けるのも無粋であろう、とほとんど初めて下の名前で呼びかけると見て分かるくらいに喜色を露わにする恵那。その程度のことでこれほどに喜んでくれるのならばもっと前にこうしておけばよかったな、と微かに後悔の念が浮かぶ。

 

先程は勢いで押し切ってしまった言葉を今度ははっきりと形にして恵那に伝えるのだ。

 

「弁慶の知識を『教授』してもらうのは別にお前じゃなくてもできる、よな?」

 

その言葉が終るや否やびしり、と恵那の強張った笑顔に罅が入り、絶望がしみだしてくる。今の発言をマイナスに取られた……いや、この言葉だけではどう取ってもネガティブな発想にしかつながらないのだからこれは己のミスである。

 

ああクソ、と言葉が足りない己を呪う。こんな顔をさせたいのではないのだ、どう考えても恵那には憂いより笑顔が似合うのだから。

 

「でも嫌だ」

 

せめて一秒でも早く、と取り繕うことも忘れ直截的に言葉を乗せる。

 

「お前じゃないと嫌だ」

 

子供の駄々のような、そのくせ熱烈に恵那を―――恵那だけを求める告白が紡がれる。

 

一拍遅れて自分が“求められている”のだと理解した恵那は咄嗟に羞恥から俯き、バッと両手で顔を見られないように覆ってしまう。

 

そのまま一秒、二秒、三秒…と。無言のまま流れていく時間に流石に外したかとひやりとしたものが将悟の腹を伝う。

 

「恵那ね…」

 

だが幸いにも将悟が焦りから次の行動に移る前に恵那から動いてくれた。ゆっくりと顔を覆っていた両手を後ろに回し、もじもじと恥ずかしそうに、それでもこれ以上なく幸福そうな笑顔で。

 

ほんの少し前、”剣”にして相棒たることを要請されることで人生でこれ以上はないと思われる幸福感を味わった恵那。だがたったいま”女”として求められたことはそれすら上回る喜びを彼女に与えた。

 

だからこそ次に続く言葉はただ告白への返答以上の真情を持って紡がれた。

 

「“もう死んでもいい”」

 

それは純粋培養の大和撫子として教育された少女らしい、奥ゆかしい返答だった。“身も心も貴方に捧げます”という、眩しいまでに純粋な少女が紡いだ“女”としてのありったけの想いだ。

 

教養豊かな少女はかつて明治の文豪がロシア文学の一節を日本語で表現した際の名訳に仮託して将悟へ応えたのである。また言葉そのものの決意も乗せて。

 

生憎とそれに応える教養を“男”の方が持ち合わせていなかった。だがその短い言葉に託された少女の想いを察せられないほど鈍くも無い。

 

故に、想いを確かめ合う言葉はそれ以上要らなかった。

 

“女”は自ら“男”に向かって歩み寄り…こつん、と額を将悟の胸に押し当てるほど密着する。二人は互いの体温を共有し合い―――そしてゆっくりと口付けを交わす。

 

拙く、不器用に唇を押し当ててくる恵那。その一生懸命に頑張る姿に愛おしさを覚えた将悟もまた積極的に恵那の唇に己のそれを重ね合わせる。

 

羞恥心などとうの昔に振り切れている。不器用で初心なはずの二人が交わす接吻は、淫靡ではないがひどく濃厚で激しいものになった。

 

気持ちを確かめあうと同時に神を殺すための準備…『教授』の儀式が始まった。

 

「武蔵坊弁慶は源義経の一の家来、史実に登場する人物だと思われている英雄…。でも実際には彼について記述された史料はほとんどない。なのにここまで弁慶が有名なのはその神格の成立過程で史実よりもむしろ創作が大きな働きをしたからなんだよ」

「創作で作られた英雄…アーサー王みたいだな」

「アーサー…英吉利(イギリス)国で一番権威のある英雄だっけ? 詳しくは知らないけど、どっちの神様も神格が成立、発展する過程で人為的な改変が生じたのは確かだよ」

 

睦言と言うには堅苦しすぎる話題…だが二人が交わす口付けはそれを補って余りあるほど積極的で、情熱的だ。額がくっつきあうほど顔を近づけ、体温を交わし合う。視線が交差し、奇妙に暖かい幸福感を共有する。

 

ただ抱き合い、相手を思うだけでも舌を絡め合い、唾液を交換する『教授』の儀式がオマケに思える快さだった。

 

「源平合戦を描いた初期の文学作品じゃ弁慶は義経の郎党、その末尾に名を連ねているだけで特に手柄話は見られない…。それがある史伝物語の登場で一気に変わるんだ。能や歌舞伎も含めた後世の文学作品に多大な影響を与え、現在に至る弁慶のイメージを作り上げた物語―――」

 

一拍置き、かの伝奇物語の名を口にする。

 

義経記(ぎけいき)

 

そう、この物語―――そして弁慶の主君である源義経こそがまつろわぬ弁慶を語る上で外せないキーワードなのだ。

 

「弁慶はね、怪力無双の荒法師っていうイメージで認知されているけど実際はものすごく職掌が広いんだ。ただの力自慢、武辺者ってだけじゃない。山伏に扮して道案内することもあれば悪霊に遭っては霊能で調伏したりね。時には祭司や産婆の役割を担うこともあった。最も目立つのは智慧者としての一面かな…。義経が頼朝に追われる逃避行の中、頭と舌を働かせて危機を逃れるのは常に弁慶の役割なんだよ」

 

微かに気だるげな気配で熱っぽく将悟を見詰め、その豊かに実った肢体を擦りつけてくる。恐らく無意識の行動なのだろうがどうしても意識がそちらの方へ行ってしまう。恵那もそうだが将悟も“若い”のだ。

 

「ん…。キモチイイ…王様、もっと、ちゃんと抱きしめて」

 

こんな時どう答えればいいのか分かるほど将悟は人生経験を積んでいない。ただ恵那の要求に応え、積極的に体を密着させ、恵那の唇を貪ることに没頭する。薄布越しに互いの肌を擦り合わせると堪らなく柔らかく、火を抱いているように熱い。五感で感じる恵那の全てが官能的で、思わず本来の目的を忘れてそちらの方にばかり意識が向きそうになってしまう。

 

「史書『吾妻鏡』に記されている以上弁慶が実在した可能性はかなり高い…。でもその原像は現代に広く認知されたイメージとは間違いなく乖離しているはずだよ」

 

だってどう考えても実在の人間に出来る所業じゃないから、と恵那は言う。

 

「弁慶は常に八面六臂の大活躍を見せる万能の超人…。はっきり言えば現実に生きている人間が出来る芸当じゃない。でもそれ自体は別に不思議でも何でも無いよ、弁慶の功績を辿ると多くが同じ時代…あるいは過去に生きた人たちの事績や当時の神話伝承に遡るんだ」

 

ハ…ァ…と一時的にキスを止め、恵那はゆっくりと息を継ぐ。

 

「抱きしめて…。ちょっと凄すぎて、立ってられない、かも」

 

宣言通り腰砕けとなった恵那をなんとか支える将悟。彼女ほどではないが将悟もまたいっぱいいっぱいだった。快いが強烈な熱が脳味噌をあぶり、ぼやけた心もちとなっている。

 

「武蔵坊弁慶と言う英雄を知る上で要訣となるのは弁慶が何故(・・)万能の超人となったのか、という点なんだ。畢竟、そこさえ掴んでしまえば……弁慶を斬るための『剣』を砥げるはず!」

 

よろよろと腰の定まらない動きで立ち上がり、強引に将悟の顔を胸元に埋めるように抱きしめる。将悟が咄嗟に膝を折ると恵那は両の掌を頬に当て上から口付けをねだってくる。

 

そして最後の仕上げと言うようにトロトロと甘い唾液とともに怒涛のように知識を流し込んでいく。

 

恵那の肢体から意識を逸らすため『教授』のキスに集中すると言うある種逆効果と言うか本末転倒な対処法を実行しながらも恵那から注がれる怒涛のような知識の奔流を一滴余さず受け入れる。

 

長く、永久に思えた最後の口付けもやがて潮が引くように唐突に『教授』の術が完了し、二人は唇を離した。

 

トロンとした蕩けた女の目でしなだれかかりながら将悟を上目遣いで見つめる恵那。ハァハァとキスに没頭しすぎたため頬を真っ赤に紅潮させ、呼吸を荒げる様子は例えようも無く女の色気を感じさせる。

 

とりあえず嫁入り前の生娘が男に見せていい姿ではない。

 

うん、まぁ…………責任取らなけりゃならんわなぁ、コレは。と、将悟が思ったかは定かではない。

 

ただこの一連の騒動が収束した数カ月後、清秋院家が正式に将悟と恵那の婚約が成立したことを大々的に発表したことは付け加えておくべきだろう。

 

唯我独尊、我が道を行く赤坂将悟だったが少なくともある点において潔い男であった。

 

 




“もう死んでもいい”云々の辺りでハテナが浮かんだ方はこの名訳と明治の文豪、二葉亭四迷などのキーワードを併せてグーグル先生に聞いてください。

調べてみたら二葉亭四迷氏がこう訳したか正確なところは疑問が残るようですが…。まあロマンティックな語句かつ以外とハイスペックな恵那さんなら知ってるだろうと思い、使ってみました。

割かし新鮮味は薄れたネタですが料理次第で意外といけるじゃないかと自画自賛。

あと書いてて思ったこと。

やはりこの二人にまともなラブコメをやらせるのは間違っている。書いてて捗らないこと甚だしい。ここが一番時間かかりました。

でも恵那さんは可愛い。
今までで一番まっとうに魅力を引き出せたのではないでしょうか。

同意される方は感想欄に恵那さん可愛いとお書き下さい。


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蛇と鋼 ⑥

前書き的なサムシング

敢えて言うと私の神話解体はエンターテインメントであって、歴史的な正確性を保証するものではありません。
もちろん出来る限り神様に付いて調べた上で書いていますがぶっちゃけ盛り上がるのならば多少の齟齬や矛盾、ミスはしゃーなしと考えています。そもそも歴史ってどうやっても異なる説とか不確かな推測とか混じりますし。

参考にした本もありますが今回の弁慶も多分に時代背景や物語から読み取れる、主観の入った“解釈”が入り混じります。
“そう言う風に言えなくもない”……私の神話解説はそういうものと理解したうえでお読みください。



恵那の献身によって弁慶を切り裂く『剣』の言霊を手に入れた将悟。だが思慮も無く無暗に手に入れた『剣』を振り回すことは選ばなかった。

 

弁慶の出方を伺いたかったというのが一つ。『剣』は攻防一体にして将悟が持つ最強の手札だったがそれだけに乱用は許されない。使えば使うほど切れ味が鈍るという面倒な制約があるのだから。機を見極め適切に運用せねば悪戯に己の首を絞めるだけだ。

 

そして恵那に教授された知識の中から建てた仮説……というよりも予感の成否を確認したかったというのがもう一つの理由だった。それはこれまでの攻防の中で将悟が確信するのに十分な材料が得られた。

 

確かに弁慶は弱くない、仕留めるのは簡単ではないだろう。手傷も負うかもしれない。されど目の前の英雄に対してどうにも負ける気がしなかった。そして恐らくその理由は…弁慶の主君たる神格と関連するのだろう。

 

その確信と弁慶が本腰を入れてかかってきたのを見て、将悟も遂に必殺の『剣』を抜いた。

 

「西塔の武蔵坊弁慶。源義経の一の臣。怪力無双の荒法師―――だが物語に語られるお前はそんな民衆に抱かれる典型的なイメージと違いすぎるほどに違う、数多の属性と役割を担う極めて複雑な神格を有する英雄だ!」

 

まつろわぬ弁慶の来歴を語る言霊を紡ぐのに合わせ、将悟の周囲に“銀”が溢れだす。目に入れても痛くない淡い銀色の輝き…だが見る者に不思議と三日月の鋭さを想起させる言霊の刃だ。

 

「平家物語や源平盛衰記といった初期の軍記物語ではあんたは義経の郎党の末尾に名前を連ねるだけの影の薄い存在だ。手柄らしい手柄、現在のあんたに繋がるような逸話はほとんど見当たらない」

 

史料に残る弁慶の記述は極めて少ない。その実在を疑問視する学者すらいる。あるいは弁慶は本来武芸者ではなく祐筆という義経の秘書官、または戦死者を供養する従軍僧のような文官的な存在だったという説もある。

 

「またけったいな武器を見せつけるものよ…。厄介な気配がぷんぷんするわい」

 

弁慶は一見儚げに見える月光の『剣』に秘められた脅威を一端とはいえ感じ取ったのか、にわかに警戒心を漲らせる。

 

おもむろに虚空より強弓と矢筒を取り出すと弓弦に矢をつがえた。無双の怪力で満月の如く弦を引くと将悟目がけて一息に射る!

 

銃弾よりも10倍は早く飛来する箭だが将悟は無造作に光球を一つ操り、正面からぶつけて対消滅させる。

 

今の一矢は所詮小手調べ、『剣』の正体を探る一手だったのだろう。箭を斬り破られたことに弁慶に驚いた様子はない。そもそも弁慶は弓達者で知られた英雄ではないのだから。

 

だが別種の驚愕が大胆不敵で知られる悪僧を襲っているのもまた確かであった。

 

「智慧の利剣か! 不動明王も持つ異邦の神をまつろわす剣! 呪術の手管を持つ魔王にふさわしき武器よ!」

「まあ見ての通り非力な権能しか持たんのでな。重宝しているよ」

 

先程の攻防の中で投げかけられた皮肉を揶揄して返すと恐れ知らずの僧兵の顔が忌々しげに歪む。酷く厄介な武器を抜かれたと英雄もまた気付いたのだ。

 

その悔しげな表情をどや顔で眺めつつ、内心では油断なく一挙一動を注視する。意識せずとも自然と舌が動き、言霊が再び紡がれていく。

 

「影の薄いあんたの扱いが最早進化と言っていいほどに一変するのが室町時代初期に成立したとされる―――義経紀(ぎけいき)だ。従来の軍記物語とは違い、華々しい合戦よりも源義経の生涯…特に奥州平泉に至るまでの幼少期と兄・頼朝と対立して没落し、各地を流亡する後半生に物語の焦点が置かれている。この物語でのあんたは現在にまで繋がる姿で描かれている―――どんな危機にも怯まず義経を助ける忠臣だ」

 

この物語の特に後半部分、頼朝から逃亡を続ける道行きで義経を差し置いて弁慶はほとんど主役と言っていいほどの活躍を見せる。この義経紀における姿が後世多くの文芸作品に影響を与え、現代に伝わる弁慶像を決定づけたと言っていい。

 

この物語において弁慶は武芸者としての力量はもちろん山中を踏破する道案内を苦も無く見つけ、口舌一つで頼朝方の追手を煙に巻く。山伏に扮して勧進帳をそらで読み、苦境を嘆く主君と同輩を慰め全員の絆を固める場を仕切る祭司の役割を果たす。義経の愛妾である静御前の出産が流亡の旅、それも山中で行われた際に産婆の役割を果たしたのも弁慶だ(ちなみに山、出産、産婆といったキーワードは製鉄技術=《鋼》と密接に関連する)。その他果たした役割を一々列挙していけばそれだけでページが一枚埋まるほどだ。

 

「それ以上我が来歴を囀るのは止めてもらおうか!」

 

薙刀・鉄熊手・大槌・大鋸・刺す股・つく棒・袖搦……薙刀『岩融』はその手に握り、その他の七つ道具を周囲に浮遊させて漆黒に光る巨躯で驀進する!

 

自ら攻勢に出て、それ以上言霊を紡がせるのを防ぐ…戦術論としては決して間違いではない。だがその難事を為すには少なからぬ神力を代償にするか、または神格を切り裂く『剣』を凌ぐ工夫が要る。

 

弁慶の神力はそう大したものではない、消耗もあるからなおさら脅威は小さい。となればなにかしらの策を(こしら)えてくるだろう。

 

今度はこちらが手の内を探る番だ。

 

銀の光球を一群統率し、突撃する弁慶を包囲するようにバラけさせると四方八方からけしかける! さながら光球一つ一つが獰猛な猟犬か―――縦横無尽の軌道で以て『剣』の檻を完成させ、全方位から襲いかかった!

 

絶体絶命、誰が見ても窮地の悪僧だったが覚悟を決めた静謐な表情だった。

 

宙に滞空する七つ道具達が一斉に弁慶を守るように動くと銀の光球と衝突し―――消滅しない! 弾き飛ばされながらも光球たちを弾き飛ばしていく。

 

だが襲いかかる光球の数は一〇〇を超え、少なからぬ『剣』が弁慶を斬り裂く! 流石にその分までは対応しきれないようで斬りつけた光球が一時的に鋼の権能を破り、肌が元の浅黒い色に戻る―――だが弁慶が神力を滾らせると再び元に戻ってしまった!

 

「ハ―――やるな、そう来たか!」

 

実のところ七つ道具の大半は弁慶と関わりが薄い武具なのだ。そもそも発明された時期が弁慶の没年よりだいぶ後の袖搦もある。弁慶“のみ”を斬る言霊では効果が薄いのも当然だろう。

 

七つ道具で大半を防ぎ、すり抜けてくる分は鋼の肉体でごり押ししてしまう腹積もりか。工夫と無理押し、双方の策を採ってきた。

 

弁慶が選択したのは犠牲必至の頭の悪い突撃戦法―――だがこの局面では唯一の選択だ。黙って立っていればそのまま防御が意味をなさない『剣』で斬り裂かれるのみなのだから!

 

「だが簡単に突破できると思うなよ」

 

如何なる不利な戦局だろうと迷わずに全力を尽くす―――それは将悟たち神殺しの生き汚さにも通じる戦の心得だ。

 

なればこそ将悟もまた手加減せず一気呵成に『剣』を生み出し、斬り倒す。不利な局面だからこそ凄まじい底力を発揮するのが神殺しであるのなら、英雄もまた“そう”であるのだから!

 

将悟もまた迷わずに全力を振るうため一気に言霊を紡ぎ、『剣』を生み出していく。

 

「判官贔屓の語源になるほど義経の悲劇的な最期は民衆の同情を引いた。それゆえに義経を慰める物語が求められた……その要求に応え、生み出されたのがおまえ、武蔵坊弁慶だ」

 

単なる憐れみ、同情と言う感情の問題だけではない。悲劇の結末を遂げ、“悪霊となった義経”を鎮めるための儀式が必要だったのだ。

 

頼朝の子孫である源氏将軍が僅か三代で絶えたことと義経の無念を結びつけるのは迷信が信じられた時代の人間にとってむしろ自然なことであっただろう。俗説だが頼朝が没する直前に怨霊となった義経やその一族が現れたというエピソードも伝えられている。ほとんど目立たないものの義経は怨霊神としての側面も持つ英雄なのである。

 

弁慶……死者を供養し、慰めるべき僧侶がその役に選ばれたのもある種必然だったのだ。義経を襲った悲劇的な結末は覆しようが無い。ならばせめてその結末に至る過程にこそ慰めを求め、それに応えた弁慶はひょうきんなほどの明るさを持って襲いかかってくる追手、危難を三面六歩の大活躍で潜り抜けていった。

 

またおりしも義経記が作り上げられた時代は鎌倉幕府が滅びる時期と重なる。タブーとされた薄幸の英雄を民衆が思い起こし、また自由に想像の翼を広げて語ることが許される時代だった。

 

「我が主君の闇を暴くか! 嗚呼忌まわしや、その穢らわしき舌を引っ込め口を閉じよ!」

「生憎だが神様相手に恐れ入るほど人間が練れてないんだよ、なにせ魔王だからな」

 

弁慶の怒りもさらりと受け流し、一顧だにせず言霊を紡ぎ続ける。月の刃はどんどんその密度を増し、さながら無数の白光煌めく銀河に将悟が立っているように見える。

 

絶え間なく三日月を思わせる刃に襲われる弁慶は亀の歩みとなり、防戦一方となっていた。だが下がらない、後退の螺子を外したと言い切っても過言ではないほど愚直に漸進していく! 肉を殺ぐように神格を少しずつ切り刻まれながら。

 

後背にて暴れる愚者と女神を控え、余裕のない将悟をして敵ながら天晴れ、と賞賛するほかない。避けようのない痛みと不利を伴うと分かっていてなお勝利のため突き進む決断、中々出来るものではない。

 

故にこそ手加減、様子見などしない。このまま一気に押し切って見せる―――!!

 

「義経の一の家臣であると同時に彼の庇護者。それがあんたの求められた役割だった。故に義経に降りかかるあらゆる苦難の悉くをあんたは鮮やかに解決してみせる。

そのために必要な要素をあらゆる伝承、あらゆる人物から節操なくとりこむことであんたは複雑な職掌と気質を有する混淆神(ハイブリッド)となったんだ!」

 

無数に輝く淡い銀の光球が群れを為して大振りな刃が七つ、形成される。一振り一振りが弁慶の命脈を絶つ力を有する必殺の刃だ。

 

「お前の七つ道具ほど多彩じゃないが…こいつはお前だけを切り裂く智慧の剣。それだけに、単純で強力だ」

 

敢えて防御を捨て去り、七つの大剣全てを弁慶の迎撃に回す。『剣』を慎重に操り、距離を取れば安全に弁慶を倒せるのかもしれない…だがその分呪力と時間の消耗は激しくなるはずだった。

 

将悟はただ勝てばいいのではない、勝たなければならないのだ。最速で、余力を持って!

 

既に彼我の間合いは一足一刀のソレと言っていいほどに近づかれた。ならばこそ将悟が繰り出す『剣』もまたこれまでより一瞬早く弁慶に届く。

 

けして侮ってなどいない、だから安全策など取らない。命もかけずに命を奪う、神殺しの戦場はそんな甘いものではないのだから!

 

弁慶もまた将悟の覚悟を見極め、フッと微笑する。この時、両者とも口にしないが微かな交感が生まれていた。敬すべき敵なればこそ、全力を尽くし打ち倒すことに躊躇はなかった。

 

微かに笑みを浮かべ合うと、両者は激烈な勢いで武器をぶつけ合った。

 

全方位から斬り込まれる銀光の刃、三日月の『剣』を弁慶は心眼で見切り、七つ道具で打ち落としていく。無数の光球を集結させた銀の『剣』は大幅に威力を高めた代償に手数を減らした。

 

結果、弁慶は余裕を持って見切りつつも迎撃に多くの力を割かざるを得ない状況に陥った。亀の歩みだった前進速度を更に落として。

 

その無限に思える回数を数えた武器の交錯は二人を隔てる空間に無数の銀の火花を散らせた。

 

僅かずつだが『剣』の切れ味は鈍っていき、両者を隔てる距離も短くなっていく。遂には将悟に向けて得物を振り下ろすまであと半歩、という距離まで肉薄する。

 

―――だがそこまでだ。

 

これが何度目か分からない賛辞を弁慶に贈る。だがやはり負ける気はしない、追い込まれながら『剣』で追い込み続けていた、その成果がようやく結実する。

 

弁慶が魅せた詰将棋の如き薙刀の繰り、あれをイメージして『剣』を振るう。弁慶を守護する七本の長得物を丁寧に一本ずつ弾き飛ばし、斬り落とし、叩き伏せていく。

 

遂に六本の『剣』で弁慶の防御をすべて取り去り、致命傷を与えられる一瞬を創り出すことに成功する。そうして死に体となったところに残る一振りの『剣』を最速で叩きつける!

 

獲った―――そう将悟が確信した瞬間 “銀”がその身に迫るギリギリのところで弁慶から神力が分かれ、もう一人の弁慶がまるで楯のように立ち塞がると銀の大剣から自らの肉体で庇う。

 

目標こそ変わったものの『剣』は分離した弁慶に蔵された神格、その奥深くまで(したた)かに斬り伏せる。斬り破られた弁慶から一気に神力が噴き出していく! そして生き残った弁慶に精髄と化して回収される暇も無くそのまま呆気なく消滅を遂げてしまった。

 

神格の分断による分け身…それを捨て身の防御として用いたのだ。だがその代償は大きい。その身に宿る神力は最早見る影もないほど衰えてしまった。

 

これで形勢は一気に将悟に傾いたと言える。

 

「こうなるのではないか、とは思っておった…」

 

万策尽きた、という風情で立ちつくしている“ように”見える弁慶。

 

「…はっはっ。我が一太刀、届かなんだか。これでわが身に残された手は一つになった」

 

からからと陽気に、しかしどこか諦めたように呟く弁慶。どちらが本体かと問われれば先程『剣』で斬られた方だと将悟が返すほどの神力を代償にさきほどの一太刀を防いだのだ。

 

だが呟く内容には底知れぬ不気味さ、勝負を投げていない意気が濃厚に感じられる。まだ手を残していると言うのだろうか?

 

「こいつで斬られた割に元気だな…お前に残った神格なんて微々たるもんだろうに」

「否定は…せぬよ。うむ、だがいまひとたび拙僧の(うち)に残された神格と権能を結集し、お主を打倒するため一死を懸けてみようと思う。神殺しよ、赤坂将悟よ。拙僧が全てを懸ける最期の一勝負、受けてくれるな?」

「誰が乗るか、この脳筋め。大人しく俺に斬られて権能になっちまえ」

「そうか? 存外お主は付き合いがよい輩だと思っておったのだがな。拙僧の見込み違いであったか」

 

む…、と口をへの字で結ぶ将悟。

相対する敵手に共感し、ついつい挑まれた勝負に乗ってしまう悪癖があるのはこれまでも指摘されていた。しかしよりにもよって大して付き合いも無い神様にすらつっこまれるとは。

 

そんなに分かりやすいかね、と自身の性格と行動を顧みる将悟だった。

 

「では、参るとするか」

 

将悟は弁慶がそれ以上の行動に移るまえに七本の『剣』をもとの無数の光球に戻す。そして支配する言霊の一群を動かし、殺到させた。極限まで衰弱した今の弁慶にとって『剣』一つ一つが致命傷であるはずだった。

 

今にもその身に刃が届こうかという瞬間、呪力が津波のように溢れだし将悟の全身を叩く。

 

弁慶の総身からさながら活火山の爆発のように溢れだしてくる呪力から感じ取れる“におい”はなんとも鉄臭い…思わず警戒し、攻撃のため周囲へ配していた『剣』を手元に集結させるほどに濃い《鋼》の気配であった。

 

将悟は鋭敏な霊的感性、幽世から気紛れに受け取る霊視によって弁慶がたったいま為した所業を悟った。

 

「メチャクチャやるな……敢えて鋼の英雄神たる神格“以外”を智慧の剣で斬らせることで、逆に《鋼》としての純度を最大限に高めたのか!」

 

混淆神である弁慶の神格に占める《鋼》のパーセンテージは少ない。ならばそれ以外の神格を敢えて先程の『剣』で斬らせることで相対的に純粋な《鋼》の神格を引きだしたのだ。

 

全ての《鋼》が持つという魔王殲滅の使命、その成就を唯一絶対のアイデンティティとして活用するために!

 

尋常ならざる覚悟ではない。ここから先弁慶が繰り出す一手は間違いなく乾坤一擲の心もちで来るはずだ。例え弱敵と言えどモチベーションを最大にまで高めれば己の命に届きうると将悟の直感は警告していた。

 

「然り、その通りだ! この期に及んで小技は要らぬ! 魔王を屠る使命を為すため―――拙僧は我が名を賭けよう!!」

 

名前はアイデンティティを構成する重要な要素だ。これを忘却すれば最早神を名乗ることが出来ないほどに衰えることは目に見えている。なるほど、代償としては決して小さくない。むしろ命に匹敵するほど大きいと言えよう。

 

「天地大海に潜む神仏よ、御照覧あれ! 拙僧がこれより繰り出す一太刀にて神殺しの命に届かぬ時拙僧は我が名を忘却し、大地を漂泊するであろう!!」

 

岩融しの柄を額に押し当て、敬虔とすら言える表情で魔王打倒の成就を一心に祈念する弁慶。その姿に下手な手出しは危険と感知し、防御のために全ての『剣』を集結させる。

 

銀の光球を周囲に配し、全力で弁慶の動きを注視する。100mの距離を空けてなおコンマ一ミリ動いただけで瞬時に察する精度の六感を駆使し、一瞬たりとも気を抜かない。

 

にも拘らず見えない、振り下ろされる刃の影すら捉えられなかった。ただ脳裏に氷柱が叩き込まれたような危機感に反応し、咄嗟に前面に『剣』を集中して繰りだす!

 

微かに白金(プラチナ)色の光を宿した大薙刀が何時の間にか眼前に現れた弁慶によって大上段から振り下ろされていた!

 

大薙刀が銀の輝きと激突するやいなや、凶悪なまでの衝撃が将悟の全身を走り抜ける。

 

「ぐ、お、お、おおおっ!?」

 

『剣』越しにでさえ万力を以て押しつぶされるような重圧!

 

今にも崩れ落ちそうな膝を必死で叱咤し、苦悶と雄叫びを混ぜた怒声を張り上げる。半ば虚勢、半ば鼓舞の意味を込めた大音声だ。

 

「墜ちろ、凶星の下に生まれた魔王…! 末世を平らぐ英雄。彼を守護する剣の宿星よ、今ひと時は弁慶の刃に宿れ―――!!」

 

神代に結ばれた盟約の批准を表明し、魔王殲滅の大業を為さんとする。弁慶は刻んだ歴史も浅く、まつろわぬ神の根源を為すアイデンティティも他の神と比べて脆弱。だが神殺しと相打つ覚悟で敢えて《鋼》を除く神格を斬らせ、人為的に純度を高めた《鋼》の性が一欠けらの奇跡を可能にした。

 

天地と星々から借り受けられた力は本来の使い手の一〇〇〇の一に満たない程度。だが決死の覚悟で引きずりだした神力に更なる上乗せするには十分な量だ。

 

―――これぞ神代から逆縁続く仇敵も抵抗叶わず倒しうる一振りと弁慶は確信する。

 

物量と言う単純極まりない有利、莫大な神力が込められた斬り下ろしによって将悟を守護する『剣』を次々と砕き、破壊していく。

 

だというのに…、

 

「何故、だ―――!」

 

弁慶は絶叫する。理解出来ぬと、何故だと理不尽を怒り、嘆く。

 

「何故斬れぬ。何故、お主は生きている―――!」

 

当初圧倒的有利であったはずの弁慶の斬撃、それがギリギリのところで『剣』を押しきれない。次々と周囲から押し寄せていく『剣』が薄くなる防壁を順次補充し、厚みを取り戻していく。

それどころか一個一個の『剣』が耐えている時間も少しずつ長くなっている気さえする。

 

英雄の生命(なまえ)を乗せた最強の一振りに、神殺しの『剣』は確かに拮抗していた。

 

ならば一層の神力を上乗せして力尽くで押しつぶさんと目論むが弁慶もとうの昔に限界を超えている。既に名前という巨大な代償を賭けた弁慶にこれ以上差し出せるものなどない。

 

今弁慶が行っているのは真実背水の陣。

 

己の名を代償とした必殺にして己自身も追い込む諸刃の剣。見事神殺しを討ち果たそうが逆に凌ぎ切られようが弁慶は自身のアイデンティティを構成する根源たる名前を失い、落魄する。英雄にとってはある意味“死”よりも厭わしい結末だ。戦場の死など英雄にとってはどこにでも転がっている終わりだが、名と力を失い、己が誰かも分からぬまま長き時を生きるなど忌まわしいにもほどがある。

 

それほどの覚悟をこの一撃に賭けた。だと言うのに何故押し切れない―――!?

 

「ああ…そりゃ、言っちゃなんだが、当然、さ」

 

疑問と憤慨が表情に隠しきれない弁慶。この疑問に答えを返したのは、赤坂将悟。智慧の利剣を操るが故に誰よりも敵手のことを理解する賢しき愚王だった。

 

『剣』の維持に全精力を傾けながらなんとか一言一言を区切るように喋る将悟。

 

「お前の異名、『膝元去らずの弁慶』…。ある意味お前を表す本質だよな? お前は義経と出会い、家臣となってから常にその傍にあり続ける。それこそ最後の最期、義経が自刃するその瞬間まで義経を守り、導く守護者としての役割を全うする」

 

ぽつり、ぽつりと。

 

「鋼の逸話も、山伏や天狗との関わりも何もかも“源義経の忠臣”であるお前を輝かせるためのメッキ…後付けの剽窃で得た属性に過ぎない」

 

さながら遅行性の毒を盛るように言葉によって弁慶の急所を抉っていく。

 

「義経がいなければあんたという英雄は生まれなかった……この事実こそがあんたが存在意義を他者に依存する神。“源義経に仕える従属神”としているんだ」

 

武蔵坊弁慶は源義経を守護する神格としてその神話を改変された。その時から自身の存在意義、アイデンティティを源義経に依存しているのだ。

 

逆説的にこうも言える、弁慶は義経を守るために生まれた。故に義経がいない状況ではまつろわぬ弁慶は存在意義を達成できないのだ。

 

「だっていうのにメッキに過ぎない《鋼》の属性に引きずられ、魔王殺しに勤しむなんて…」

 

畢竟まつろわぬ神々の底力、しぶとさを決めるのは持っている権能の種類でも数でも無い。己の目的のためなら他を顧みない強烈な自我、アイデンティティに他ならない。そしていまの弁慶にはそれが致命的なまでに欠けているのだ。

 

「―――向いてないにも、程がある」

 

それは《剣》の鋭さを取り戻すなけなしの言霊であった。そして揺れ動く弁慶の心に楔を打ち込む呪力を伴わない呪詛となった。

 

押し込んでいた大薙刀がじりじりと押し返されていき、ついに『剣』と薙刀は互角となった。押し押されしながら接触点から動きが無いまま数秒が過ぎる。

 

「まだぞ、まだ終わらぬ―――終わらせなど、せぬ!」

「いや、終わりだよ。今の一撃で圧しきれなかった時点でおまえは詰みだ」

 

なんとか持ち返したものの再度均衡が破れれば一瞬で将悟の肉体は両断されるだろう。『剣』は使えば使うほど切れ味の鈍る武器なのだから。現在進行形で削られ続ける『剣』が持つ猶予は多く見積もって十数秒。弁慶も弱っているがその程度の時間なら、十分に神力を維持できる。だというのに死の淵で綱渡りする怖れなど何処にもなく、あくまでも飄々と言葉を紡ぐ将悟。

 

「抜かせ、余力が無いのはお主も同じであろうが!」

「おうよ、あと一発お前に叩き込むくらいが精々だ。“俺はな”」

 

含みを持たせた将悟の発言になに、と疑問を挟んだ弁慶は一拍遅れて答えに至る。

 

「なあ、弁慶よ。やっぱりお前忘れてしまったたろ? 人間を。俺の、相棒を」

 

清秋院恵那を、と。誇るように、自慢するように将悟は言った。

虚を突かれた弁慶の顔は将悟の指摘が正鵠を射ていることを物語っていた。

 

これを弁慶の過ちと責めるのは酷だろう。そもそも将悟が決死の一撃を防ぎ、あまつさえ拮抗に持ち込むことが想定外。真っ向からの潰し合い、神と神殺しの総力戦となった状況で人間一人に拘泥する方がむしろ隙を生みかねない。

 

だがその当然の思考は結果的に最高の不意討ちとなって弁慶を襲った。

 

最後の一撃を凌ぐため『剣』に全ての呪力を注ぎ込み、拮抗させた将悟も大分きつい。だが忘れるなかれ、未だ将悟の手札には言霊とは別種の『剣』が残されているのだから!

 

「清秋院!」

 

声による(いら)えはない。だがその要請は確かに届いていた。なくとも彼女が背の君の危機を見過ごすことなどありえなかったろうが。

 

「この大一番で最後の見せ場だよ、天叢雲! ついてこないと放り捨てちゃうからね!!」

『巫女よ、誰に物を言っている。我が権能を行使するのは貴様ぞ? むしろ(オレ)が与える力に呑まれてくれるなよ!』

 

神がかりを解くことなく後方で待機していた清秋院恵那が最期の最期、決定的なひと押しを与えるため限界ぎりぎりまで天叢雲の神力をその身に呼び込み、滾らせていく。

 

『後代の英雄、《鋼》の同胞よ。己を…天叢劍とその巫女を敵に回した過ちを嘆くがいい!』

 

この時恵那達が行使したのは先程の暴風雨神の権能に非ず…敵を欺き、騙し、奪い取る偸盗の権能だった。

 

天叢雲が与える呪力の奪取は神々と神殺しの戦いに置いてかなり些細な効果しか発揮しない。純粋に神がかりの巫女たる恵那の地力が足りていないが故に。

 

加えて剣神としての性を最大限発揮しているいまの弁慶の肉体は自然と鋼鉄の硬度を有している。例え恵那が少しばかりの呪力を奪い取ったところでその理不尽なまでの耐久力に大差は無い―――“はずだった”。

 

しかしこの出雲の地に伝わる弁慶誕生の伝承が恵那に味方をした。この地に伝わる弁慶に《鋼》の英雄たる相を与える逸話には少し続きがあるのだ。

 

弁慶の母が10本目の鍬を食べているとき子供に目撃されたため、全ての鍬を食べきれなかった。それゆえに弁慶の体には一部だけ黒く変色しなかった部分がある。

 

そう、弁慶の四寸四方の喉だけが鋼鉄の加護に守られない生身なのである。

 

本来ならばそれは隙とも呼べない僅かな間隙、特に《鋼》の性を全開にしたいまは溢れださんばかりの神力がその程度の瑕疵などものともせずに全身を覆い尽くしている。

 

だが将悟の『剣』との拮抗が一筋の欠損をこじ開け、そして恵那と天叢雲による偸盗(ちゅうとう)の秘術が最期の後押しにして蟻の一穴となった。

 

鉄像さながらの黒光りする弁慶の肉体で、喉の周囲だけが人肌の色合いを取り戻す!

 

「ケリだ―――我は太陽(ラー)の心臓。太陽(ラー)の宰相なれば。その威光を(あず)かる呪言を紡ぐ」

 

エジプトにて最も崇拝された神は太陽神である。ピラミッド、オベリスク、死者の書。全てが太陽と密接に結びつく。故に言霊の権能が創造するカードの中で《太陽》は最強の火力を誇る。

 

『剣』の言霊を維持したまま『創造』の言霊も同時に行使したため、内側から破裂するかと言わんばかりの頭痛が将悟を襲うが、気合と根性で乗り切り一層の呪力を《太陽》の創造に注ぎ込む。

 

一瞬だけ爆発的な光輝が溢れだし、その場の全員の視界を瞼の上から焼いた。そして鍔競り合う二人の眼前に顕現するは紅蓮を迸らせる極小規模の太陽。至近距離から打ち込めば神ですらタダではすまない強烈な熱量が圧縮されている。

 

其れは漠砂の天空に君臨し、大地を灼熱で焼く太陽を宿した言霊の一矢。小なりとはいえ《鋼》の弱点である強烈な高熱を与える灼熱の箭を至近距離から弱点の喉目がけて解き放つ!

 

カルナを葬るトドメの一撃にも使われた赤坂将悟の最大火力が弁慶に迫る。

 

そしてあらゆる全てを懸けて臨んだ一合を拮抗に持ち込まれ、均衡を破るひと押しまで加えられた弁慶に最早この一矢を防ぐ余力はない。

 

「ああ…」

 

出来たのは、ただ万感を込めた呻きを漏らすだけであった。

 

「主上、拙僧は―――」

 

今際の際、弁慶は己を討たんとする神殺しに憎悪を向けるでも、激戦を称えるでもなく…。

ただこの世の何処にもいない主に声を遺すことを選択した。だがその声を聞き届ける者は最早どこにもおらず。

 

そして弁慶は紅蓮に喉を貫かれ、一瞬の後間欠泉の如き勢いで溢れだす焰に内側から呑まれた。

 

 




書いてて反省点が多い回でした。
同じくらいどや顔で神話解体を語るのは凄い楽しかったですがさておき。

神話解体が解説と戦闘描写の分離が難しい。ちょっと話の流れが悪くて読みにくい気が…。

まあ満点ではなく七割の出来で満足するのが長続きするコツらしいので投稿します。感想や指摘などありましたらどんどんお願いします。何時か加筆修正するかも。

次の話で弁慶編はひと段落。何話か挟んだ後に侯爵来襲編が始まります。

最後に次話に向けて一言。

―――これで八方丸く収まると何時から錯覚していた?

まだ一波乱あります。
原作知ってる方なら、まあ予想は出来るかと。



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蛇と鋼 ⑦

たいへんお待たせ致しました。
原作第一巻、これにて終幕です。


 

『死』の呪詛を吹き込まれた護堂の敗走、アテナによって星明かりさえ皆無の『夜』に落とされた東京、ゴルゴネイオンを保持する万理谷裕理の前に現れた(アテナ)、そして神と神殺しによる再戦と決着…。

 

その他、一夜の内に起こった数々の出来事。それぞれ関わった者たちに少なからず影響を与えたが、いま重要なのは次の一事だけだ。

 

―――旧き地中海の女王、強壮極まりない難敵を相手取り、草薙護堂は仲間の助力と愚者の狡猾さを恃みに勝利したのだ。

 

傷つき、倒れたアテナとボロボロだがしっかりと地に立つ護堂。誰が見ても勝者と敗者の差は明らかだった。あとは疲弊したアテナを討つだけ…そんな場面で護堂の悪い癖が顔を出す。

 

「もう気が済んだだろ。早くこの国から出て行ってくれ、アテナ」

「なにを…。このまま妾の首をとればよかろう。新たに権能も手に入れられようが」

 

訝しげな様子のアテナに溜息をつきながら言葉を継ぐ。軽く数千年は生きる時代が隔絶し、活動した地域すら全く違う。埋めがたいほどのカルチャーギャップ、この分では一生己とアテナの間にある溝は埋まるまい。

 

まあいい、この場だけこちらのいうことを聞いてくれればあとは望むまい。

 

「そんな怪しげな力、こっちからお断りだ。それに俺は現代に生きる文明人なんだよ。命の取り合いが日常茶飯事だった古代の女神さまと一緒にするな。もう決着がついてるのにわざわざとどめを刺す気はない」

 

間違いなく己の言い分など理解されないだろう。だが相手の流儀に合わせてやる義理は護堂に無い。

 

「これが俺のやり方だ。敗者に命じられるのが勝者の特権、勝者に従うのが敗者の義務だろ?」

 

などとのたまう護堂の前でアテナは俯き、考え込んでいる風だ。恐らく自分のプライドと折り合いがつけられるか整理しているのだろう。非人間的なまでの誇り高さ、神話的とも言い換えてもいい自尊心は概ねまつろわぬ神に共通する気質である。

 

しかしここで待ったをかけたのがエリカである。

 

「護堂、悪いことは言わないからここで権能を奪っておくべきよ」

「…………」

 

エリカの提案に一瞬考え込むがすぐに首を振る。それは己の、草薙護堂が選ぶ流儀ではないと。

 

「護堂…お願いだから」

 

懇願するような調子のエリカに首を傾げながらもやはり自身の流儀を曲げる気にはなれなかった。

 

「……悪いけど、俺は喧嘩で命の取り合いなんかしたくない。そういうことだ、アテナ。とっととこの国から出て行ってくれ」

「勝者に従うのが敗者のさだめか…。良いだろう、今は貴方の言う通り大人しく去るとしよう」

 

傷ついた体を腕で庇いながらも誇りを失わず、女王の威風を滾らせてアテナは宣言する。

 

「草薙護堂よ、妾を倒した神殺しよ。再会の時まで壮健であれ。これから貴方を襲う災厄を切り抜けることを妾は心から祈る。貴方を倒すのは、このアテナなのだから!」

 

と言い捨て、まったく突然にその幼い姿が掻き消える。

 

去り際に遺された不吉な宣言に護堂は首をかしげ、エリカは顔色を変える。聡明な彼女には察しがついてしまったのだろう。これから彼らを襲う“災厄”の正体を。

 

首を傾げる護堂に対し、速やかに注意を喚起しようとするエリカだが後方からほんの数秒早く彼らに向かってかけられた言葉によりその思惑は無に帰したのだった。

 

「なるほど…それがお前の流儀か? 草薙の」

 

音もなく、気配もなく。

一切の兆候を感じさせないまま何時の間にか一〇メートルも離れていない距離に少年が立っている。

 

声の主はその少年―――日本に住むもう一人の王、赤坂将悟だった。傍らに肩に竹刀袋を下げた初対面の少女を従え、薄暗い闇の中に佇んでいる。

護堂は彼とはただ一度会っただけ。だが奇妙なほど印象深く、なんとなく無視出来ない存在感の持ち主だった。サルバトーレ・ドニに感じる、敵愾心を否応なく刺激されるものとは違う。だが良かれ悪しかれ無関心でいられないとでも言えばいいのか…。

 

「そんな……早すぎる!?」

 

後方で密かに狼狽するエリカ。その顕著な動揺に密かに首を傾げつつ、なんとなく不穏な雰囲気を感じる。その気配の発生源である少年へ向けてなんということもなく声をかけた。

 

「万理谷からそっちは出雲で別の神様と戦ってるって聞いたぞ」

「ああ…。こっちはきっちりトドメを差しておいた…権能は増えなかったがな(・・・・・・・・・・・)。時間は大してかけなかったから、すぐ東京にトンボ帰りだ。だから一部始終は見ていたよ。助太刀は要らなかったらしいな」

 

発言の一部に疑問符が付いている風ながらとにかく向こうは無事に決着がついたらしい。

 

実はアテナによって東京が闇に落とされる前後、裕理は携帯電話越しに甘粕から聞かされていた《鋼》の顕現及び将悟がその迎撃にむかったことを護堂に伝えていたのだ(なおこの際エリカは『この先全く予測のつかない事態になったわね…流石赤坂様だわ』と関わっただけで事態を複雑化させる呪いとでも言うべき将悟のトリックスターぶりを評している)。

 

護堂は次々と降りかかってくる厄介ごとに頭を痛めつつ、すぐにきっぱりと割り切りアテナとの対決に集中していたのだが…。この分では無事に将悟の勝利に終わったようだと安堵の溜息をつく。ただでさえ強敵であるアテナの次に二連戦など御免こうむる。

 

それにしてもどうやってこの短時間で東京・島根間を往復したのか…密かに気になった護堂だったが、すぐに疑問を棚上げする。どうせ権能というデタラメ神様パワーに決まっている。

 

「いや、しかし驚いたぞ」

「…なにがだよ?」

 

返答が一拍遅れたのは偶然ではない。当初から赤坂将悟が纏う不穏な雰囲気、それがいまの一言を皮切りに僅かだが強まった気がしたからだ。

 

「あの女神だよ。まさか見逃すとはなァ。最悪の予想の斜め上を行くのが神様やらカンピオーネだが……流石に予想外にも程があった」

 

朗らかなようでかなり乾いた笑い声をあげる。その声音の裏に潜む同量の呆れと怒気―――ただしその絶対量は決して小さくない―――を、徐々にさらけ出していく。剣呑な気配を隠す気がない笑い声にエリカや祐理はもちろん、護堂の背も危機感が走り抜ける。

 

「…何の用だよ。あんたに言った通りアテナは追っ払ったぞ」

「逃がした、だろ。何故殺さなかった?」

「ふざけんな! たかだか喧嘩で命のやり取りなんてやってたまるか!」

 

完璧に本気の護堂の返答を聞いた将悟の目付きが珍獣を見るものに変わる。気配に交じる呆れの割合がはっきりと増した。

 

「……うん、そんな理由で命狙ってきた相手を見逃すとか理解できない。流石だなお前(カンピオーネ)、神様も神殺しも常識外れの連中ばっかりだがその中でもお前は“とびきり”だ」

 

割と本気で感心している様子の将悟に護堂が苦虫を噛み潰した顔をする。人間ではないからと言って迷わずに“殺す”と言い切り、実行できるだろう将悟に変人(なお控え目な表現)呼ばわりされるのは遺憾であること甚だしい。

 

一般常識の範囲内では護堂の言い分にも一理あるのだが、基本非常識が常識になる神殺しから見ると却って護堂の方がおかしく見えてくるのだ。

 

「これが俺のやり方だ。文句を言われる筋合いはない」

「別に東京以外ならその言い分を認めてやってもよかったんだがよ? よりにもよって俺の街でやりやがった(・・・・・・・・・・)

 

―――怖気が走る。

何でもない口調、何でもない言葉。で、あるはずが護堂は気圧される。

 

「俺としちゃあ、はいそうですかと納得してやれる気にはならないな」

「なんであんたにそんなことを言われなくちゃならないんだよ!」

 

護堂の反駁に呆れと怒りの中に潜む冷やかさが増す。

もう一つ溜息を吐いてまだ理解していない護堂に苛立ち紛れに解説を加えていく。

 

「また来るぞ、アテナは。今日はここがそのリングだった。次は何処だろうな?」

 

そのままズバリ、と核心に踏み込んでくる。

幸いにも今回アテナが巻き起こした騒動において人的被害“は”ゼロだ。だが次に来襲した時も同じ事が続くとは将悟には到底思えなかった。

 

「あいつはこの街を蟻の巣よりあっさり“踏み潰せる”。そして俺達(カンピオーネ)が憎いからでも、目障りだからでもなく“ただそこにあったから”踏みつぶしてしまう…まつろわぬ神だからな」

「それは…」

 

反論できない。それこそ神自身の意思すら関係なく存在するだけで災厄を撒き散らすのが『まつろわぬ神』なのだから。

 

「そうなった時お前はどうするんだ?」

 

圧力が加速度的に増していく。応じて自然と護堂の心身も戦闘態勢にシフトし、説得よりも応戦に思考が傾いていく。

 

「そうなった時俺はどうすればいいんだろうな。なあ、おい?」

 

一度ならず二度までも、己の大切な場所を危険に晒され将悟は顔に出さないが激昂していた。少しでもキッカケがあれば権能の行使も躊躇わないほどに。

 

「さて……ここで“原因”を取り除いておくか、否か。どっちがいいと思う?」

 

お目当てがいなければアテナも案外あっさり退いてくれるかもな、と将悟。

 

「逆にお前を始末した俺に目をつけてくる可能性もあるが、その時はその時だな。これ以上面倒事をまき散らされても困るし」

 

戦意が高まったのか、微かな呪力の風が将悟から吹いてくる。だが臨戦態勢にはまだ遠い。好戦的な気配をまき散らしつつ草薙護堂に此処で延長戦をしかけるか決めていないように見える。

 

(ヤバいな…)

 

草薙護堂は直感する。同じ神殺しの性か将悟の中の天秤がゆらゆらと揺れるのが幻視できるが…恐らくすぐに秤は一方に傾く。そして一度決断すればその決定がブレることはまずあるまい。

 

そしてこのままでは天秤は戦闘に傾いてしまう気がする。

 

「やるの、王様?」

「ん…」

 

傍らの少女―――将悟の《剣》たる清秋院恵那の問いかけに肯定とも否定ともつかない相槌を打つ。それをイエスと受け取ったのか恵那は竹刀袋の口を開け、鍔元から先を露出させる。僅かに溢れ出る神気が護堂の警戒心を著しく刺激した。

 

(……なんだ、あの女の子の剣。赤坂ほどじゃないけどなんかヤバい(・・・・・・)

 

少しずつ臨戦態勢に入り始めている将悟たちに危機感を募らせる。かと言って護堂の側に将悟を説得するための材料などない、やらかした身で下手なことを言えば逆効果になるだろうとは流石に分かっている。

 

結局やり合うしかないのか…と軽く絶望しながら身から出た錆だと諦観の念に至る。

 

あとは天秤が傾ききった瞬間が魔王同士の戦闘のゴングとなる―――誰もがそう考え、確信し、各々の事情と思惑のため制止にかかった。

 

真っ先に声を張り上げたのは万理谷裕理だった。

 

「お待ちください! 赤坂様、ここで御身らが争っては無辜の民に多大な被害が齎されます。どうかお怒りを鎮め、お引きくださいませ!」

「ああ、まったくもってその通りだ。痛ましいことだな」

 

強い憂いと焦りを込めた彼女の懇願にも感情の薄い目で見るだけだ。その訴えに感銘を受けた気配はない。

 

「だけど悪いな、それは俺が止まる(・・・・・・・・)理由にはならない(・・・・・・・・)―――下がってろ、万理谷。ここは危なくなるぞ?」

 

それでも裕理への気遣いだけは真情が籠っていた。一抹の情けを裕理にかけるとそれ以上関心を向けることなく視線を護堂に固定する。裕理は絶望と悲嘆の余り無言のまま崩れ落ちた。恵那も一瞬だけ視線を向けたが臨戦態勢の維持のためすぐに外す。

 

次に行動を起こしたのは才知溢れる王佐の才、エリカ・ブランデッリだ。

 

「お待ちください、王よ! ここで争っては御身の住む町にも少なからぬ災禍が―――」

 

故郷という先ほどの交渉で推察した将悟のウィークポイントを的確に突いたエリカだったが、返されたのはそれこそ護堂に向ける以上に関心が消えうせた冷たい視線だった。一応は敵として認識している護堂と異なり、エリカが戦力的にはほとんどカカシも同然だからだろう。

 

「―――“知るか”。もう黙れ、エリカ・ブランデッリ。お前の言葉程度じゃ収まりつかないくらいには頭にきてるんだよ、こっちは」

 

どんどんと高まっていく将悟の呪力。もはや魔王同士の衝突は不可避と悟った護堂とエリカが各々構えを取る中意外なところから声がかかる。

 

すぐ傍らでエリカに視線と敵意を放ち牽制していた恵那である。

 

「王様」

「―――うん?」

 

これは将悟も意外だったらしく、視線を護堂から外し恵那に向ける。意図せずして気を外されたその顔は存外に邪気がない。

 

いいの(・・・)?」

 

短いが思いの籠った問いかけだった。

天秤の両側に置かれているものを改めて問い直す静謐な視線だった。裕理のように周囲の被害を考慮して反対しているのではなく、ただ後悔の無いような選択をと将悟へ訴えている。

 

「…………」

 

冷静に考えればここで己が草薙護堂と争うメリットなどなに一つもない。威圧するだけで収め、貸しとするのが賢いやりかたなのだろう。頭の回るひねくれ者、アレクサンドル・ガスコイン辺りであればその選択肢を選ぶのではないか。

 

だが知ったことか、とも思うのだ。畢竟(ひっきょう)己は気分屋だ、心の赴くままやりたいように己をなす。それで、それだけで良いではないか。

 

神殺しという物騒な肩書から想像されるほど将悟は好戦的ではない。

だがたまには暴れたい気分にもなる。

 

今がその時だ(・・・・・・)

 

ゆっくりと身体の奥底に渦巻く呪力を解放し始め、言霊と太陽の権能を起動させようとする。本格的な臨戦態勢に移ろうとする、その出頭にその場にいるはずのない青年の声が待ったをかけた。

 

「―――横から失礼。憚りながら私も反対に一票を投じさせて頂きます」

 

唐突に、発声の瞬間までその身を隠し通した青年が暗闇からゆっくりと姿を現す。

 

「…甘粕さんか」

「ええ。無事の御帰還、ささやかながら寿がせて頂きます」

 

くたびれたよれよれのスーツを着崩した若い男性。明らかに修羅場と分かる場の雰囲気を察知しながら飄げた笑顔を崩さない。正史編纂委員会所属のエージェント、たまに赤坂将悟の付き人もこなす甘粕冬馬である。

 

その場の誰にも、勘が滅法優れた将悟にすら気づかれずに登場するという密かな偉業を達成した甘粕。相変わらずのとぼけた顔でタイミングのズレた発言を将悟に向ける。

 

「そっちも無事で何よりだ。実を言うと甘粕さんも微妙に俺の勘に引っかかってたんだよ、万理谷程死に近くはなかったけどな」

「……思い当たる節は無きにしも非ずですな。ではお互い無事でなりより、と言い換えましょうか」

 

アマカス…、とエリカが驚愕と納得を込めて小さく呟く。近くにいた護堂がようやく拾った呟きを耳ざとく聞きとがめた甘粕が嫌な意味で名前が売れたなーと慨嘆する。将悟の活動は世界各地を股にかける、故に意外と方々に知り合いがいるし甘粕が遠征に同行することもある。将悟のお付きとして甘粕の名も少しずつ広まっていたのだ。

 

「出来れば関東圏から退避したい位だったんですけど。一連の事態の経過を逐一報告せよと命じられていましてね。上司の命令に逆らえないのが公務員のつらいところですな」

「危険手当が無いのにな。沙耶ノ宮に言っといてやろうか?」

 

それは是非お願いします、ととぼけた返答を聞きながら将悟はささくれ立っていた感情がわずかに静められるのを感じる。

 

必要なら荒ぶる魔王の前でも飄々とした姿勢を崩さず物申す糞度胸こそ将悟が甘粕を仲間と恃む最大の要因である。それは相手次第だがカンピオーネにすら通用する隠密の技量などよりもよほど貴重な資質だ。

 

それはさておき、先ほどの甘粕の発言の意図を考える。と言っても考えるまでもないだろう、ここは東京都心のど真ん中。ここでカンピオーネ二人が暴れ始めればビルが立ち並ぶ大都市の一画があっという間に見渡す限りの更地に荒廃しかねない。

 

それを避けたいと思うのは至極まっとうなのだが、同時に疲弊している今が草薙護堂の首をとる絶好の機会である。将悟も大概呪力の消費が大きいが、肉体的な損耗は護堂ほどではない。勝機は十分にある―――尤も戦力の優劣が必ずしも勝敗に結びつくわけではないのがカンピオーネの闘争なのだが。

 

「……ここで始末した方が後腐れないとも思うが?」

 

なので王様権限で反対を押し潰すのではなく、あくまで意見を聞く形で戦闘の意思を表明する。

 

「いえまー、正直私としてもちょっとはそう思わないでもないんですが」

 

さらりと本音の混じったかなり不敬な発言をこぼしながら甘粕は言葉を継ぐ。

 

「例え赤坂さんだろうと、相手がどれほど弱っていようとカンピオーネを殺しきれるかはちょっと分からないですし」

 

そのまま語るのは身も蓋も無い現実論だ。

 

「大体面倒事云々をいうなら将悟さんがいる時点で今更ですし」

「―――そりゃそうだ」

 

軽く言っているがその実深い嘆きが込められている。この一年将悟が引き起こした数々の厄介ごとの後処理に従事し続けた苦労人のぼやきに思わず頷く。後悔はしても反省はする予定がない真性の暴君に対してこうかはいまひとつのようだったが。

 

なおやたらと実感が籠った青年の慨嘆に一名を除き周囲が引いていた。コイツ、これまでにいったいどれだけはた迷惑なことをやらかしてきたんだ…と。それほどに甘粕の醸し出す苦労人の空気が身に染みたのだ。

 

「あと日本が被る政治的、経済的、人的被害が洒落になってません。そしてなにより私が処理しなければならない仕事が馬鹿みたいに増えます。ええ、それはもう過労死しなければおかしいというくらいに」

「あんた絶対後半のあたりが本音だろう」

「ええまあ。それがなにか?」

 

ついでのように言い放たれる、一応最も強調して伝えるべき事柄。ただ周囲の迷惑など一切顧みない魔王様にこの手の泣き落としはあまり有効ではなかい。それを熟知しているため被害そのものよりそれによって被る甘粕自身の苦労を語る、おどけた発言の中にちくりと皮肉の意を込めながら。

 

将悟は容赦なく甘粕に面倒事を投げつける暴君だが、その苦労を察せないほど鈍感ではない(だからこそ余計に性質が悪いともいえる)。身内と認める甘粕から諫言されれば耳を傾ける程度の度量はあった。

 

「困るか?」

「大いに」

「……なるほど、ね」

 

理屈より多分に感情を利用した説得は将悟に対してかなり効果的だった。行動の指針が感情か、理性かの二択で問えば神殺しの例にもれず将悟は前者に分類されるからだ。

 

甘粕のおかげで先ほどよりはるかに場の空気は和らいだが未だに山場は抜けていない。

 

最後の一押しがいる、そう甘粕は直感したがこれ以上彼の手札に将悟を動かせそうなものがない。一抹の期待を込めて周囲を見渡す。すると甘粕の期待を察したわけではないだろうが、これまで沈黙を保っていた護堂が動いた。

 

尤も話の切り出し方は甘粕の期待を大いに裏切っていたが。

 

「…俺は、俺のやり方でいく。戦う力も残ってない奴を殺すのは俺の流儀じゃない。だからもう一度機会があってアテナを殺せとか言われても自分を曲げる気はない」

「護堂? 何を―――」

 

鎮火しかけた火種に油を注ぎかねない発言を制止するべく声を上げたエリカ。焦った彼女を護堂は目配せ一つで黙らせる。無意識の行動だろうがだからこそ護堂が持つ器の大きさ、人の上に立つべき度量を感じさせた。

 

「だけど俺のせいで、いろんな人たちに迷惑をかけた。赤坂にも……謝ってすむことじゃないけど―――本当にすまない」

 

そう言って護堂は深々と頭を下げる。

自身の不心得を素直に認め、謝罪できる性格は他の魔王に無い草薙護堂だけの美徳と言えるだろう。

 

だが同時にのど元過ぎれば熱さを忘れる悪徳もまたあらゆるカンピオーネに共通する性格だ。少しばかり苦言を呈した程度で欠点が直るような殊勝な性格ならカンピオーネなんて言う代物に成り果てていない。

 

どうせ同じ状況に陥ればまた同じようなことをやらかすに決まっている。

 

ただまぁ……将悟自身の気は大分晴れた。

 

一戦交えなくては収まらない、そう思うくらいに腹が立ったのも確かだ。だが冷静に考えれば草薙護堂の息の根を止めたところで根本的な解決は出来ないしそもそも殺しきれるかも怪しい。

 

結果的に将悟の街にまだ被害はでていない。奪われたゴルゴネイオンは将悟にとってはオマケだ。ないよりはあった方がいい、その程度の物でしかない。

 

未来に襲来するだろう女神の問題は頭が痛かったが…流石にあそこまで追い込んだのならば当分は日本にやってくることはないだろう。その間に対策なりなんなりを考えればいい。

 

そうだ、催眠系魔術を極大化して街全体にかけ、速やかに避難を完了させるのはどうだろう? さらりとグレーゾーンぎりぎりの発想を脳裏に浮かべる将悟。

 

それらの事情を総合的に考え、甘粕や裕理の懇願、周囲が被る被害を自身の感情と天秤にかければ…………不本意だが仕方が無い、なんとかその程度に納得できなくはないくらいに怒りは収まった。

 

将悟がこれほどまでに好戦的になっていたのは結局のところ利益ではなく感情の問題なのだ。故に仲間たちに問われ、諭されその上で護堂に本気で謝罪されれば怒りも鈍るし矛先も見失ってしまう。

 

(上っ面で謝っただけなら始末する気分にもなったんだがなァ)

 

しかし将悟の直感は頭を下げた護堂の後悔の念が偽りでないことを見抜いてしまった。この先護堂が行いを改めるなど期待できないししてもいないがある程度は溜飲が下がった。将悟の中の天秤は片方に載っていた感情という錘が除かれ急速に不戦へと傾く。

 

赤坂将悟は気分屋なのだ。感情としてしこりは残ったがもはや戦意は残っていなかった。

 

「…………」

 

高まる呪力を収め、沈思黙考していた将悟から急速に呪力が膨れ上がり、周囲へ放射される。固唾をのんで見守っていた周囲の緊張が頂点に達した。

 

『―――!?』

 

もう一度繰り返そう、赤坂将悟は気分屋だ(・・・・・・・・・)。だから気まぐれ一つ、直感一つで判断を覆すこともあり得なくはない。恵那と甘粕を含めその場のだれもが驚愕に息をのみ込んだ。

 

全員が極限まで高まったその場の緊張に身動ぎひとつすることが出来ない。指一つ、言葉一つ不用意に動かせば針でつついた風船よりも容易く破裂するだろうと肌で感じられたからだ。

 

一拍の、途轍もなく長い一瞬が過ぎ去ったあと。

 

「……デカい貸しが一つだ。次にアテナが来た時は“始末をつけろ”。意味は分かるよな?」

 

将悟の手打ちと言える言葉の後、その場の全員が一斉に息をつく音を漏らした。甘粕などは驚かさないで下さいよ、と手の汗を拭いながら胃が痛そうな顔をしている。

 

「帰る。あとは任せた」

「任されました。ああ、その前に一つ、よろしいですか?」

「なんだよ。もう今夜はこれ以上働かないぞ」

「いえいえ、単なる個人的な好奇心ですとも」

 

甘粕はそう言うと意味ありげに並び立つ将悟と恵那を見詰める。ごく自然に隣に寄り沿う二人。昨日よりも随分と距離が近い…。なるほど、我が王は恋愛関係においても積極果断であるのかと内心感嘆の念をあげる。下手をすれば一生これまでの関係で終始してもおかしくは無いと危惧していたが、進むときは一気に進んでしまうものらしい。

 

「今日の間に起こった恵那さんとの御関係に関する変化について野次馬根性からのちほどじっくりと伺いたく…」

 

山場を越え、臨戦態勢を解いたとはいえこの期に及んで戯言をほざく青年に周囲の背筋にヒヤリとしたものが伝う。なんでこの青年は地雷原をタップダンス付きで抜けた後でわざわざしなくてもいい綱渡りに挑戦しているのかと。

 

しかし将悟の操縦法を比較的心得ている甘粕の意見は違う。将悟は魔王の中でもトップクラスに洒落が利く性格だ。本当に激怒している時ならともかく苛立って荒れている程度なら軽口を叩いて発散させた方が元の調子に戻るのも早いだろう。

 

同じく将悟のことをよく知る恵那は密かに、

 

(らしいなぁ)

 

と苦笑を漏らし、将悟は護堂に向けた時の次くらいに乾いた笑い声を上げた。

 

「甘粕さん、今月給料50%カットな。沙耶ノ宮に言っておくから」

「…いえ、あの。冗談でもやめて下さいよ? あの人に言ったら額面通りに受けるどころか喜々としてそれ以上のことを実行しかねない…―――待って、何も言わずに消えないで下さいよ!」

 

最後の最後にコントじみたやりとりを交わしながら『転移』の魔術を行使した将悟たちの姿が一瞬で掻き消える。周囲へプレッシャーをまき散らしていた存在が去り、緊張に満ちていた空気が弛緩する。

 

なおこの一幕における最大の功労者は二人の魔王に極限まで痛めつけらえた胃の腑を撫でさすっていた。その後気を取り直した護堂やエリカ、裕理と甘粕らの間にしばし平和的かつ事務的なやり取りが交わされたがこれは余談だろう。

 

この一幕を最後の山場に蛇と鋼の英雄にまつわる騒動の幕は本当に降りたのだった。

 

 

 

 




なんで妥協するだけでこんなに面倒くさいことになってるんだよ(迫真)
魔王二人のキャラクターが強固過ぎて折り合うだけで一苦労だよこんちくしょう。

四か月もお待たせして申し訳ありません、原因は私生活が忙しくなったのもありますが八割は筆が乗らなかったせいです。更新が途切れた後もいただいた感想を励みになんとか再起動して書き上げました。

原作二巻まで幕間を何話か挟みます。次は短いのでもっと早く上げられると思います。きっと、たぶん…。


PS
サブタイトルの番号を全体的に変更しました。


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幕間 沙耶宮馨

それにしてもうちの王様マジ魔王様である。


アテナ襲来、そして武蔵坊弁慶顕現という日本壊滅の危機を脱した夜から数日が経過し、東京は表面上元通りの活気を取り戻していた。

 

朝食をこしらえ、朝のニュースを見ながら摂っていると数日たった今も話題は浜離宮恩賜庭園を含むあの騒動でもたらされた数々の異変が主体である。時間がたつにつれて明らかになってきた経済的損失は総額で百億ではきかないだろうとか。

 

が、将悟にはそうした事情には無関心にニュースを眺める。あの騒動の翌日も律儀に城楠学院に登校を続けて週末の休日を迎え、やっと用事が果たせるのだ。

 

一定のペースで朝食を腹の中に収める。その後弁慶との戦闘でコツを掴んだ生命の権能による絆を通して清秋院恵那に声をかけた。一応携帯電話を持っているはずだが彼女の場合電源が切れていることが非常に多い、というか真っ当に携帯電話を使っているところを見たことがあまりない。

 

朝早く、という程の時間帯ではないため恵那は起床していた。どうも七雄神社の境内の一画で素振りをしていたらしい。これから赴く旨を伝えると「身支度があるからゆっくり来てねー」とのことだった。心なしかその声音には悪戯っぽい気配が滲んでいたが…さて。

 

護堂との手打ちの後、将悟と別れた恵那はこれまで万理谷家に宿を求めていたはずだった。裕理とも話しておくから、と言っていたがさて、どんな塩梅になっているのやら。ほとんど無関心であった今までと違い、恵那の存在を抜きに裕理は少なからず気にかかる存在になっていた。

 

来る者は選び、去る者は追わないのが将悟の流儀。だが関係が険悪なより良好なほうがいいに決まっている。あの夜、激情に任せて裕理の懇願を一刀のもとに切り捨てたことについて自責の念がないわけではないのだ。

まあ、今はいい。どんな間柄になるにせよそれはこれからの積み重ねでいくらでも変わりうる。まずは目の前のことに集中するべきだ。

 

「それじゃ黒幕気取ってるジジイを問い詰めに行きますかね」

 

急を要する、という程ではないが先のドタバタから頭の隅に引っかかっている疑問がいくつもある。将悟が求める答えを一端なりとも知っているだろう『古老』達を問い詰めるべく、将悟は恵那に幽世渡りの秘儀を依頼するため連絡を入れたのだ。一応甘粕にも今日の幽世渡りは伝えてあるため、身体が空けば顔を出すと言っていたが望み薄だろう。あの日からまだ数日しか経っていない、甘粕達東京分室のデスマーチは今日も続いているはずだった。

 

彼らの苦労を他所に雑にならない程度に鏡の前で身だしなみを整え、財布と携帯電話を懐に入れる。

 

両親が海外勤務中であるため己一人で住む自宅に鍵をかける。ガレージから普段使わないため若干痛んできた自転車を引っ張り出すと将悟は駅に向けてゆっくりと漕ぎ出したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自転車と電車を使って幾つかの駅を渡り、下車する。そのまま路地に踏み込み、奥へ奥へと分け入っていくといつの間にか七雄神社に続く長い階段が目の前にある。

 

そのまま体力に任せて長い階段も軽快に登っていくと七雄神社の鳥居が見えてくる。都心に似合わぬ静けさが耳に心地よい。ざっと周囲に目を配るとほとんど人影を見ない。恐らくは将悟の到来を知らされていたため人払いしたのだろう。

 

そのまま己と恵那を結ぶ絆を辿り、境内の奥へと足を進めていく。

 

視線の先には人影が二つ。一人はもちろん清秋院恵那、もう片方は多忙の極みにある甘粕冬馬―――ではない。だが将悟とも顔見知りであり、一応この場に顔を出してもおかしくない人物である。

 

「へえ」

 

だが予想もしなかった人物であり、その思いが音となって口から洩れた。

特注の学ランを身に着けた完璧な美少年―――ただし性別は♀―――である沙耶ノ宮馨だった。

 

「やっほ、王様」

「おう」

 

恵那とも軽くやり取りを交わしてから彼(に見える彼女)に向き直る。

 

「こりゃ、また。久しぶりだな、沙耶ノ宮」

「お久しゅう、王よ。ええ、前回顔を合わせてから大分経ちましたね。変わらぬご活躍ぶりでなによりです」

 

優雅な微笑、特注の学ランを男子以上に見事に着こなした『彼女』は相変わらず少女漫画に出てくる王子様さながらの美少年っぷりだった。しかも学業も優秀、媛巫女としての力量も恵那を除けば後れを取ることはない。

 

これで性格がまともなら本物の完璧超人なんだが、と一番の問題人物が内心でのたまう。

 

まあ馨の場合能力的な優秀さに反して自分が楽しむためなら手段と目的を選ばない洒落者で数奇者。甘粕曰く「悪戯好きで嘘つき、おまけに女たらしって三冠王」というなかなか将悟好みの破天荒なキャラクターの持ち主である。その時点でまっとうな善人から程遠いのは確かだ。

 

「まさかここに来るとは思わなかった。甘粕さん以上に忙しいはずだよな?」

「ええ、学生の身ですから就学時間はそちらを優先しているんですが…その分放課後にスケジュールが詰まっている状態です。ですが幾らか御身と話しておきたいことがありましてね。少し無理をして来ました」

 

たぶん「少し無理を(押し付けて)来ました」なんだろうな、となんとなく思う将悟。彼の直感もこの推測が外れてはいないと言っている。南無、と彼ら共通の知人に向けて祈る。

 

「話しておきたいこと?」

「今後についてです」

 

解釈次第でどうとでもとれそうな話題。とりあえず思いついたことから口に出すことにする。

 

「エリカ・ブランデッリは結局日本に居着いたんだったか」

「はい。ローマの結社との交渉に当たり日本にも担当者がいた方がいい……という方便で移住してきました。メインは草薙護堂氏の近くに侍ることでしょうけど。まあ一々日本とローマを往復するのも面倒だし時間もかかりますから、渡りに船と言えばそうでした。懸念は能力的なものでしたがそちらも問題はないようです」

「ほぉ」

 

思わず頷く。

 

それはつまり多少なりともエリカと話す機会があったということだ。このとびきり優秀だが同じくらい癖のある才媛が。傍で見物していたかったな、とショーでも見るかのような気分で思う。

 

「早速ローマの連中を毟り取りに行ったか。どんな気配だ?」

「あちらも賠償には同意しています。貴方の名前を使った脅しが利きました。問題はその金額と賠償の方法ですね。如何に大身だろうと所詮魔術結社程度が今回の被害総額を一括払いなんて不可能ですし仮にされても困ります」

 

まあそこはいろいろと考えていますので、と話を打ち切る馨。将悟としてもそれ以上は興味がないし、きっと話されても理解できないので問題はない。

 

「今のところエリカさんが窓口兼御用聞きになって話が進んでいます。大した権限は無いようですが草薙護堂氏の権威を背景にうまくローマの結社群をまとめているようです。各結社の実態も我々よりはるかに熟知しているようですし、下手に口出しするより彼女がまとめた案を我々が頂く形にしようかと。実務はさておき大まかな方向性を詰める所までは彼女を信用してもよさそうですね」

 

そのままニコニコと楽しそうに腹黒いやり取りを開陳してくる馨。

 

「ひとまず被害総額に二倍増しして吹っかけてみたんですがね、上手く躱されてしまいました。サルバトーレ卿とイタリアの魔術結社は僕らと将悟さんほど強く癒着していませんから強気で出てみましたが中々どうして。機会があれば喜んで戦いを求めるサルバトーレ卿の気性、理不尽には強く反発する草薙護堂氏の存在を持ち出してきて逆に脅されました。もちろんやんわりと、隠喩を用いてですけどね」

「なるほど、ね。まあそこらへんの腹黒いやりとりは良いんだ。面白そうだが深く首を突っ込むつもりはない。俺に面倒がやってこない範囲で好きにやってくれ」

 

それよりも、と将悟。

 

「エリカ・ブランデッリ。沙耶ノ宮はどう見た?」

「おや、珍しい。将悟さんが気に掛けるほどとは。これは僕も注意が必要ですか」

 

気にした理由はもう少し別のところにあるのだが敢えてスルー。

 

「才気煥発。そして曲者。一筋縄ではいかない、というのが第一印象ですね―――ええ、彼女がいてくれて本当に良かった(・・・・・・・・・・・・・・・)

 

心底嬉しそうにエリカの存在を歓迎する馨を見やる。

ふむ、と一つ頷き確信の念とともに最大の理由であろう一人の名前を挙げる。

 

「草薙護堂」

「流石は『智慧の王』。我々にとって彼女は手綱です、草薙護堂という極めて手に余る魔王と付き合うための」

「天才だろうが曲者だろうが人間相手なら交渉もできるからな」

 

暗に護堂は交渉できないとけなしているが将悟本人もそうした方面の適正はない。だがそうした時のためにいるのが甘粕である。魔王と人をつなぐ仲介役。馨はエリカにもそれを求めるつもりでいるのだろう。

 

「とはいえいざという時に奴を抑え切れる手綱とも思えんが」

「正直カンピオーネの本領を発揮する場面では如何なる制止にも効果は期待できないし、していません。我々もいい加減学習しています」

 

クスリと悪戯っぽく笑いつつウインク。馨のいう『学習』に使用させられた教材はまさに目の前の少年王なのだから。一方遠回しとはいえチクリと皮肉で刺された将悟はどこ吹く風だ。この程度で心を動かすほど繊細な神経をしていない、良くも悪くも。

 

「我々としては草薙氏を速やかに国内の勢力に取り込み、安定させたいんです。なんなら正史編纂委員会と対立する形になっても構わない」

 

同格である貴方がいますからね、と馨が言えば、

面倒事はごめんだぞ、と将悟が返す。

 

なお『敵対』ではなく『対立』というところがミソだ。そこを越えると―――恐らく洒落を一切抜きにこの国の裏側は血で血を洗う修羅の巷になる。それを誰よりも理解しつつなお心底楽しげに笑える馨に将悟もまた内心で笑みをこぼす。

 

恵那の動物的な感性、甘粕の飄々としつつも随所に配慮を覗かせる立ち回りは将悟のお気に入り。加えて言うなら馨の鉄火の間でも大胆不敵に立ち回る度胸と手腕も中々好みに沿っている。

 

「お手を煩わせる事態にならないよう立ち回りましょう。ともかく日本の呪術会はこの先荒れるでしょう。その時に備えて将悟さんとより昵懇の仲になれるよう支援は惜しまないつもりです」

 

具体的には恵那に続く第二夫人とかどうですか、と洒落っ気たっぷりに冗談を飛ばす。甘粕の時と違って一切将悟の気に障らない軽さは女遊びで鳴らす粋人の面目躍如か。まあ思い返すと中々こっぱずかしいあれらの場面を直接見られたわけでもなし。この程度の冗談であれば大して気にならない。

 

情報ソースは甘粕さんか、と容疑者に内心で当たりをつけながら一言「要らん」と返す。少なくとも恵那と同じくらい気が合う相手でもなければ興味の一つも惹かれない。異性の好みは人によりけりだが将悟は外見より内面重視派だった、それもかなり癖のあるタイプだ。

 

更に言えば身内と認識した者たちには殊の外大事にする性質でもある。仮に自分が恵那の立場なら嫌だろう、とごく常識的な発想を(必要な時に限って働かせない割に)働かせ、端から選択肢を持とうとしない。以上から将悟が今後愛人などという代物を持つ可能性はほぼ0と言っても過言ではなかった。

 

「いい加減話を戻すか。それで、本題は?」

 

唐突に話題を切り替えたのも半分は話を打ち切るため、もう半分は馨が話を切り出す機会を窺っていると見受けたからだ。意を汲んだ馨もまたその眦を鋭くし、怜悧な表情で問いかける。

 

「では。率直にお聞かせください。貴方の目から見て草薙護堂はいかなる御仁に見受けられましたか?」

 

―――なるほど、そういう質問か。

 

赤坂将悟と草薙護堂。日本呪術界の台風の目となる二人のキーパーソンについてその片割れから直接聞ける機会、あまりなかろう。特に今はまさに護堂が原因で生じた事件が勃発、終息したばかり。正史編纂委員会次期頭領としては対立、妥協、友好いずれの道にしても可能性を探っておきたい訳だが結局重要なのは神殺し同士の相性、個人的意見なのだ。そこを掴む機会を逸する訳にはいかないのだろう。

 

草薙の気性ね…。

 

将悟はしばし目を閉じ、草薙護堂というカンピオーネを思い浮かべる。関わり合った時間は僅かながら将悟は直感で真実を見抜く霊視力の持ち主。本質は射抜けずとも輪郭を言い当てるくらいならば問題ない。

 

無念無想、色即是空。頭をからっぽにし、心を空の境地に誘えば言葉が自然と口をついて出る。

 

「       だな」

 

意外な言葉を聞いたように馨は目を丸くするがすぐにふむ、と頷く。将悟の言葉は半ば神の託宣に近い。解釈次第で幾らでも受け取り方が変わるため100%当てには出来ないが、判断材料にはなる。

 

「手は、取り合えそうですか?」

「無理だろ」

 

99%諦観しつつ1%の可能性を見出そうとする馨の懇願に似た質問をバッサリと切り捨てる。

 

「相性云々のレベルじゃない。カンピオーネなんてエゴの塊が服着て歩いているような生物、近くにいたら絶対にどこかでぶつかる。普段の生活は良い、あっちも俺もこだわりは無い方だからな。けど鉄火場なら話は別だ。テメエのやり方を押し通そうとして、譲らないに決まってる」

「……で、ありますか。互いに譲らなければ」

「勝った方が好き勝手できる。そういうことになるだろうな」

「…………仮に我々が決闘の場を整え、立会人になるといった場合は」

「状況次第だ。切羽詰まっていれば俺は躊躇う気はない」

「なるほど、中々頭の痛い事態が続きそうです」

 

やれやれ、と肩をすくめる馨からは珍しく洒落っ気というものが薄かった。それでも平常心を保ち、捨て鉢になっていないのは見事と言えるだろう。将悟が見たところ、草薙護堂の誕生によって地獄の鍋底の様相を呈してきた東京を上手く転がせそうなのは目の前の馨くらいだ。能力的に匹敵する人材がいないわけではないが他の面子は絶対的にカンピオーネへの理解が足りていない。

 

「腹案はありそうだが?」

「……あっさり見抜かれますか。流石です」

 

得意の勘働きに任せて馨に問いかけてみると肩をすくめて肯定された。しかしそれ以上その腹案について開陳してくることはなかった将悟もまた王の権威で無理やりに聞き出すような無粋を働く気はない。きっと後で自分の目で見た方が面白いと思うからだ。

 

ただ、もろもろの期待を込めて馨に視線を向ける。

 

「沙耶ノ宮」

「…は」

 

何気ない呼びかけの裏に何かを感じ取ったのだろう。微かに警戒心を覗かせつつ神妙に頷く馨に向けて将悟はこれ以上ないほど朗らかな笑顔で囁きかける。さながら堕天使か悪魔―――人を悪へと誘う魔王のような笑顔で。

 

好きにやれ(・・・・・)。文句を垂れる連中には俺の名前を使って黙らせろ」

 

俺たちに振り回される分だけお前も周りを振り回してやれ、きっと楽しいぞ(・・・・・・・)―――と。

 

カラカラと陽気な笑顔をうかべながら不心得極まりない楽しみをそそのかす。その様子はほとんど悪魔が人好きのする笑顔で堕落に誘うのと変わりない。まっとうな人間なら関わることすら放棄したくなる悪辣な囁き、あっさりと全権委任状を馨に寄越した決断に流石の若き俊英たる馨も虚を突かれた。

 

深く考えての行動ではない。強いて言うなら、この混沌とした状況はきっと馨に任せた方が面白くなる―――そう勘が囁きかけたからである。

 

「……ええ。ええ、あなたはそういう方だ。この僕ともあろうものが失念していました」

 

どの道委員会に将悟との癒着関係を解消するという選択肢はない。ならばいっそ行けるところまで関係を突き進めてしまうというのは十分にアリ(・・)だ。身内贔屓が強い将悟の性格を馨はよく知っている。

 

そして見込まれた馨個人もまた将悟(アクマ)に目を付けられるだけのことはある生粋の快楽主義者(エピキュリアン)だった。面白ければそれでよし―――馨はその欲求に非常に忠実だった。面白い“手段”を採用するために“目的”を選ぶ数奇者の性は伊達ではない。

 

普通なら顔を顰めるのが普通である己の悪徳を正面から肯定し、あまつさえ思うが侭に振る舞えと庇護を与えられる。まさしく悪魔的な懐の深さ。それは生来善性とはいえない人格を持つ馨の決断を後押しするに十分な振る舞いだった。

 

馨はクスリ、ととびきり魅力的で優雅な微笑を浮かべる。

そのまま服が汚れるのも厭わず地面に片膝をついて大仰に臣下の礼を取った。

 

「仰せのままに、我が王(・・・)。この命尽きるときまで変わらぬ忠誠を貴方に捧げます」

 

将悟は無言のまま頷き、差し出された誓い(モノ)を受け取る。

 

これまで赤坂将悟と沙耶ノ宮馨の関係はカンピオーネとその傘下組織の幹部というものでしかなかった。だがこの時両者はその枠を踏み越え、余人に断ち切れぬ絆を結ぶに至った。それは王と忠臣というより一方を主、一方を従とした共犯関係に近かったがだからこそ強力に二人を結びつけたのである。

 

その確信とともに将悟は己の中にある生命の権能が馨にも例の加護を与えることが可能になったと囁きかけるのを感じとる。将悟はこの流れのまま馨とも契約を結んでしまうか……少しの間考え込んだが、今は時期尚早と取りやめる。

 

此処に当事者達しか知らない、だからこそ強固な誓約はなされ―――性根の悪辣さという点で他の追随を許さない主従が誕生した。

 

「では、始めましょう。楽しい楽しい悪だくみを、ね」

 

素晴らしい、それでこそだと将悟は手を叩いて喜ぶ。優美さと才知の中に一つまみの邪悪さを掻き雑ぜた馨の笑顔は全くもって将悟の好みだった。愉快さの追求という人生の命題、その一点においてある意味恵那以上の期待の逸材である。

 

「とはいえさし当たり我が王に動いていただく必要はありません。手回しはこちらで進めておきます。どうぞ、吉報をお待ちください」

 

馨が洒落っ気を多分に含めた軽い口調で言上すれば。

 

「期待している」

 

と、八割がた冗談で構成された無駄に重々しい口調で将悟が返す。

そして互いの視線が絡み合うと人の悪い笑みを交わすのだ。越後屋と悪代官が裸足で逃げ出す悪辣さである。

 

そして馨との会話はそこで途切れた。話すべきことはすべて話しており、お開きであるという空気が漂ったからだ。馨は時計を見て時間を確認すると相変わらず一部の隙も無い立ち居振る舞いで暇を告げ、七雄神社を軽やかに去って行った。相変わらず絵になる伊達男っぷりだった。

 

将悟はその背中を見送りながら満足した笑みを浮かべる。それは一つの山場を越えた仕事人、あるいは一人の人間を悪の道に誘い込むことに成功した悪魔の笑顔だったかもしれない。

 

うんうんと無駄に充実した様子の将悟に苦笑しながら歩み寄る影が一つ。

 

これまで蚊帳の外で話を聞いていた恵那である。面白いこと、破天荒な話は彼女の好物だが先ほどまでの悪だくみは少々好みにそぐわない。故に黙ったまま二人のやり取りに耳を傾けていたのだ。

 

話は終わった? とばかりに近くの木に寄りかかっていた恵那が天叢雲劍を取り出し近寄ってくる。確かに随分と話が長引いてしまった。空を見上げると太陽も中天に近づいている。

 

やってくれ、と頷くと恵那は心を空の境地に誘い空っぽな己の器を呼び込んだ神の力で満たしていく。恵那の神がかりが急激な速度で黒雲を呼び、太陽を隠してしまう。ざあざあと激しい雨が横殴りに吹き付け、ほんの一分前まではカラっとした晴天だった様相があっという間に変わってしまった。

 

そして将悟を中心に等間隔に並ぶ八つの地点から凄まじい神力が溢れ出る。御老公・スサノオが所有する欺き、騙し、太陽すらも隠してしまうトリックスターの性を顕したのだ。

 

将悟を中心とした地面が黒々とした闇に変わり、急速にその面積を増していく。闇が将悟の足元を絡めとるように蠢き、ズブズブと沼に沈み込むようにその体が沈んでいく。行先は生と不死の境界、古老の頭領たるスサノオの御座す幽世の領域だった。

 

「すぐ戻る」

「オッケー。戻るころになったら連絡入れてね」

 

気軽なやりとりだが現実世界とアストラル界の隔たりは広い。ただの一般人はもちろん熟練の術者でさえ貴重な霊薬がなければその隔たりを飛び越えることなどできない。本来神、精霊、妖精、聖人といった人ならざる者たちの住まう領域なのだ。だが二人の間に繋がれた絆は物理的な距離はもちろん、現世と幽世の間すら飛び越えた意思疎通を可能とする。だからこその自信、だからこその余裕である。

 

そのまま将悟は散歩をするような緊張感のない空気のまま闇に飲み込まれ、現世から幽世へ渡った。

 

 

 




将悟と馨さんの腹黒なやりとりは書いてて超楽しかったです(小並感)。

割かし書いてるうちにキャラクターが動き出した感じ。将悟への臣従とか太陽の加護も当初の予定では載せなかったんですけどね。あっても困らない、執筆は生き物ということで採用。

今回書いてて一番生き生きしてましたわ、コイツら。予想外に駄目な方向にステップアップしてしまった。


PS
GW恐るべし。
いろいろそっちのけで書き溜めてたら何話かストック出来ました。
一週間間隔で一ヶ月投稿出来るくらいでしょうか。
というわけで暫く週一で更新します。

お楽しみ頂ければ幸いです


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幕間 速須佐之男尊

ほぼ説明回。
弁慶関連のゴタゴタはこれで本当に幕です。


恵那と天叢雲劍によって切り裂かれた現世と幽世の狭間に足を踏み入れた将悟。

 

闇に沈んだのは一瞬。周囲を暗闇に包まれたと認識した瞬間にはもう溢れる緑に囲まれた深山に足を踏み入れていた。空を見上げれば分厚い黒雲、横殴りに殴りつける雨。少し気配を研ぎ澄ませれば厳かな気配に包まれているのを感じ取れる。零れだしたスサノオの神力がこの世界をある種の霊山、聖域として清めているのだ。

 

アストラル界は物質より精神に優位が置かれる世界。常人は事前に精神を高揚させる霊薬を服用しなければあっという間に精神と肉体のバランスを崩し、死の淵へと転がり落ちていくがカンピオーネの肉体にその心配は無用である。どんな環境だろうと瞬時に適応してしまうデタラメぶりなのだ。

 

幽世に渡る前から体内の呪力を活性化させていたため、肉体にかかる負荷も軽い頭痛程度で収まっている。この頭痛も数分すれば跡形もなく消え去るだろう。

 

それにしても轟々と風鳴りを挙げながら吹きすさぶ雨風が鬱陶しい。

 

現世では人目を憚り、魔術の行使を自重していたがこの世界に人の目は皆無。ならば少しぐらい横着してもよいだろう。

 

降りかかる雨粒を弾くため指で水天の梵字を宙に刻み、短く口訣を唱える。すると将悟の周囲に見えない傘が生じたかのように横殴りに降りかかる雨粒が勝手に避けていく。水難除けの魔術、そのちょっとした応用だった。

 

何でもないことのように魔術を操る一連の動作は鮮やかにして無駄がない。将悟はほとんど肉体を動かすのと同じレベルで魔術を使いこなしていた。

 

やろうと思えばスサノオの支配を跳ね除け、この嵐吹く深山に一時的な晴れ間を呼び込むことも可能だろうがそこまで大げさな効果は必要ない。あくまで目的地を見つけ出すまでの傘代わりになればいいのだ。

 

ちなみに甘粕、パオロ、アレクといった複数の人物が行使する魔術を霊視力で盗み取った将悟が扱う術は中々節操がない。標準的な欧州式魔術にテンプル騎士が扱う騎士魔術、陰陽術・修験道・遁術が混然一体となった東洋呪術と一人魔術博覧会の様相を呈している。

 

閑話休題。

 

水難除けの魔術を維持したまま周辺の呪力の流れを知覚する魔術を行使する。ここはスサノオが支配し、その意思を反映する世界。故にスサノオから零れだす神力を辿っていけば自然とかの老神のもとに辿り着けるはずだ。しばらく魔術に集中し、一際密度が濃く勢いのいい呪力の流れを感知する。

 

ゆっくりとその流れを遡っていくといくらもしないうちに将悟の視界に粗末な掘立小屋が現れる。ほとんど中世か古代のあばら家といった感じでどうみても電気や水道とは縁がなさそうだ。将悟が知覚した呪力はこの小屋を発生源に緩やかに渦を巻いていた。

 

この轟々と嵐が吹き荒ぶ深山、その一角に佇む粗末な小屋こそが古老の頭領、スサノオが幽世に定めた隠居場所なのだ。

 

「よう」

「おう」

 

スサノオが居を構えるあばら家に足を踏み入れると不良じみた挨拶をこぼす。対するスサノオも適当に返事をするだけで一瞥することも無く酒を飲み続けている。このあたりのやりとりが恵那と似ており、彼女が見込まれたのはこうした相性の差もあるのかな、などと考える。

 

「今日はちょいと聞きたいことがあってな」

 

いろりを挟んでスサノオの対面へ無造作に腰を下ろすと前置きもなしに話を切り出す。

 

「久しぶりだな、赤坂の。何の話だ……と言うのは流石に惚け過ぎだわな」

「分かってんならさっさと本題に入ろうぜ、ジジイ」

 

気安く声をかけると面倒くさそうに酒を注ぐスサノオ。

 

「まずは弁慶だな。あんたら何処で神様が現れるのを知った?」

 

と、将悟。

 

「というかあの馬鹿でかい陣は何だ? あんなのが眠ってるなんて初耳だが」

 

まつろわぬ弁慶を呼び起こした出雲の地に敷かれた大魔方陣。将悟の目から見ても全ては理解しきれない細密な神秘。なぜ神を呼び出すような危険物が放置されているのか。

 

「あー。ありゃ大分昔に竜蛇避けのために敷いた仕掛けよ。ま、失敗だったがね」

「竜蛇避け…っつーとアレか。日光にあるエテ公の封印と同じ」

「おうよ。この国に竜蛇が襲来することをきっかけに《鋼》を呼び出し、相食ませるための仕掛けさ。まあ形は出来たが不具合が多すぎた。しかも出来上がる目途がつく前にエテ公とそれを捕らえる大呪法の方が出来ちまったからなァ」

 

必要が無くなったので放置していたのだとか。

 

「それをオメェに知らせたのは俺らなりの筋の通し方よ。幽世に隠居した俺は滅多なことじゃ地上に戻れんからな」

 

それにしてもそんな危険物さっさと解体しておけよ、と将悟は思うのだが…。

 

「おかげでこっちにも被害が来たんだがな?」

「言っとくが《蛇》が来たのはキッカケに過ぎんぜ。お前ら神殺しがアホみたいに地脈を乱さなきゃあの坊主を呼び出すことも無かったろうよ。その程度の代物だ」

「今回俺からは全く動いてないんだがな…俺のせいかよ」

「割合としては蛇が半分、お前ら神殺しがさらに半分ずつってところか? 一人だけなら多分呼び出すどころか反応すらしなかっただろうよ」

 

一欠けらも意図していなかったとはいえ今回の騒動、どうやら己の存在も多少関わっているらしい。とはいえ罪悪感や申し訳なさといった普通の人間ならば抱いてしかるべき諸々の感情はちっとも浮かばなかったが。

 

「なるほど……つまり、草薙が全部悪いと」

「俺の話を聞いてなかったのかよ。お前が四分の一だ」

「アテナを呼んだのは草薙だ。併せて七割五分。四捨五入すれば十割だろ」

 

スサノオはその我田引水な理屈に呆れを見せながら疑わしそうな顔をした。関わった途端良くも悪くも予想もつかない事態を招く―――もはや本能か呪いと言っていい赤坂将悟の特徴である。理屈の上では確かにこの騒動に将悟が関与したのはわずかなもの。だが“コイツがいなければもう少し平穏無事に済んだのではないか”―――そうスサノオが邪推するのも無理はないだけの前科を意図せずに重ねているのだ、この神殺しは。

 

「それで? 用件は終わったか。帰るならあっちだぜ」

「邪険にするなよ、相談役。聞きたいことがあるんだ、たまには知恵を出してくれ」

 

面倒くせぇなオイ…とやる気なさげに呟くスサノオ。

 

「俺の質問はあと二つだ。“こいつ”はなんだ? そして何故俺は権能を簒奪できなかった?」

 

そういって無造作に『取り寄せ』の魔術を使い空間をつなげると、反りの強い剥き身の刃を取りだす。

 

将悟が言うように結局弁慶から権能を簒奪することは無かった。代わりに弁慶が倒れた場所に残っていたのがこのボロボロに錆びつき、朽ち果てた三尺を超える刃だった。よくよく見れば弁慶が使用していた『岩融』の刃にそっくりである。

 

ボロボロの刃を一瞥するなりスサノオはなにがしかの納得をしたように頷く。

 

「ああ…。そいつか」

「なにか分かるか?」

「恐らく、って但し書きがつくがな。結論から言えばあの坊主はお前さんに殺される前に死んだ…いや、零落したのさ」

 

そういう呪詛を自分にかけていただろう、とスサノオ。

 

「あの坊主が敗北を悟った瞬間、呪詛はきっちり仕事をして名前を奪い去った。そうなると残るのは…」

「…まて。つまり俺は弁慶を殺害したんじゃなくて」

「名前を失った坊主のなれの果てにトドメの一撃をくれてやったんだろうさ」

「な・る・ほ・ど・ねェ…」

 

権能を簒奪できなかったカラクリは……納得できないものの理解は出来た。しかしそうなるとますますこの刃の存在が謎に思えてくる。

 

「ならこいつは何だ? 言っちゃなんだが名前を失った死に損ないが耐えられる火力じゃなかったはずだが」

「そいつは…ふむ、ちょいと借りるぞ」

 

将悟から受け取るとまじまじと見聞する。

 

「確認だが死に際にあの坊主は《鋼》の性を前面に出していやがったな? そして仕留めるのに《太陽》を使った」

「ああ」

「それだな。『《鋼》は火の中から復活する』。名前は失っても《鋼》の性は失っていなかった…辛うじて残っていた不死性が働き、この《骸》になったんだろうよ」

「《骸》…っていうとこれがいわゆる『竜骨』か」

 

『天使の骸』『竜骨』などと呼ばれるまつろわぬ神が斃れた地に偶発的に残るという、神の亡骸の一部。それは神獣をはるかに上回る神性を有し、所有者に絶大なる力を与えると言う。

 

「ああ。お前さん運が良いぜ、こいつに蔵された神力はかなりのもんだ。神がかりの巫女辺りに持たせれば手綱を誤ることなく力だけ引き出せるだろうよ」

「言っとくが神がかりできる呪術師はいま日本には清秋院以外いないぞ」

「あ? そうだったか? ちょっと前まではもう何人かいた気がするんだがな」

「あんたの言う“ちょっと前”ってのは人間の暦で何時の話だよ、神様」

 

呆れたように人間とまつろわぬ神の尺度の違いを指摘する。例え一〇〇年が経とうともまつろわぬ神ならば“ちょっと前”で済ませかねない。

 

「あとは…そうだな。どこぞの鍛冶神に見せて打ち直せば、お前が欲しがる“器”になるかもしれんぜ?」

 

何気なく零れ出た、しかし無視も出来ない発言に将悟の視線が鋭さを増す。

 

「……相変わらず耳が早いな。一応隠居の身だろ、アンタ」

「隠居の身だが現世を覗き見る裏技の一つや二つ、持ち合わせてないはずがねぇだろ」

 

神だぞ、俺はよ―――と。

 

問答無用の説得力を持ったスサノオにそれもそうかと肩をすくめる。煮ても焼いても食えぬ、という言葉がここまで似つかわしい神も珍しいだろう。こと腹の探り合いとなると類稀な霊視力の持ち主である将悟を以てして分が悪い。そちらの陰険なやり取りは早々に諦めるとして大人しく情報を引き出す作業に努める。

 

「ついでに聞いておきたいんだが、俺が求める“器”―――どうすれば手に入ると思う?」

「 “鋼殺し”の器か…異国(とつくに)の呪術師に号令をかけてまで求めているところ悪いが人知の及ぶところじゃないぜ? 名のある神具、鍛冶神が鍛えた呪物…ま、最低でもその程度の“格”が要る」

 

常命定められた人の子じゃあ、足元にも辿り着けはしねえよとスサノオは言う。分かりきっていたことだが、自身の裡にある制御不可能な滅びの権能、一筋縄では到底いかないようだ。

 

「逆に聞くが、お前は本当に御せると思っているのか? あのじゃじゃ馬を」

「可能性はある…としか今は言えない。でも意外と見込みはあると思っているよ。“前例”があるからな」

「ほう?」

 

そもそも御す方法がないのではないのか、と疑義を呈すスサノオに将悟は口を濁しながらも前向きな予測を告げる。すると今度はスサノオが好奇心をうかべた顔を浮かべ、話を促した。

 

「ジョン・プルートー・スミスの持つ『魔弾』の権能。アレも当初変身体にならなければ撃てなかったらしい。だが例の魔銃を用意することで人間体でも自由に使えるようになった―――要するに強力すぎる権能から来る反動に耐えきれるだけの“器”を用意すればいいんだ」

「成程な。まあ理屈は通ってるか」

 

元々賢人議会との共同研究も太陽の生命力を保管する“器”の研究を主体で進めさせるつもりだった。今のところ議会側がメインとなって進めている例の研究、進捗状況は悪くないがやはり将悟が求める水準に届くか……万能極まりない太陽の権能を加味しても難しいとしか言いようがない。

 

「だがよ」

 

そんなことを考えている将悟にスサノオは頷きながらも無視できない点を突きつけてくる。

 

「それだけの代物を用意してもお前が持つ滅びの権能……アレに耐えきれるかは分が悪い。例の巨神を(かたど)るお前の顕身を以てして抑え込めなかったんだろう? 少なくともお前が挙げた“魔銃”程度の代物じゃおっつかねえぜ」

「そこだな…。いっそ研究から神具の収集にシフトするか?」

「ま、俺らにはどうでもいいとは言わんが関係のない話だな。どの道助力もロクにしてやれねえ隠居の身だ」

 

と言いながら止めていた手を動かし、再び酒を呷っている。

 

「とりあえず聞きたいことはそんなもんか? あと助力してやれるのは精々その《骸》の後始末くらいだぜ」

「そこだな。こんなもんあったところで持て余すだけだし。余計なものまで呼びよせかねん」

「ま、神にまつわる諸々が地上にあって厄介事にならんことの方が珍しいわなァ。その《骸》、なんなら俺が引き取ってやろうか?」

 

今回の騒動の詫び代わりだ、とスサノオ。

 

「アンタがか…まあどっかに結界敷いて保管しておくよりは安全か」

 

将悟もまたその提案に前向きな考えを見せるが一応釘は刺しておく―――主に己の知的好奇心のために。神殺しと言えど神々の《骸》に出会う機会は滅多にないのだ。なにより聞き捨てならない情報を耳にしたばかりでもある。

 

「ただ、そいつに用が出来たら受け取りにいくからな。頼むからしまった場所を忘れるとかいう痴呆症の爺さんみたいな真似はすんなよ」

「分かった分かった。隠居の身だがボケるにはまだまだ早いんでな。必要になったらここに顔を出せ。ノシを付けて返してやる」

 

スサノオの返答に満足し、現世へ帰還しようと腰を浮かせたところで一つの懸念が脳裏に浮かぶ。

 

「…………」

 

いや、流石に。まさか…なぁ―――と思うのだが。

 

清秋院恵那の守護者であるこの老神に被庇護者の様子を逐一見守る甲斐性は無い。だが多少なりとも自身の企てが関わって生じた今回の一件、さて何処まで関心を持って眺めていた?

 

将悟の脳裏を走る危惧は具体的に言葉にすると己と恵那に関する“アレ”や“コレ”やだ。

 

「……ところでもう一つ聞きたいんだが、今回の一件お前らどこまで覗き見てた(・・・・・・・・・)?」

「そりゃあ一から十まで全部よ。もう一人の…草薙護堂と言ったか。奴と合わせて色々見物させて貰ったぜ」

 

唐突に湧いた嫌な予感を肯定するスサノオの台詞。

 

「と、言うことは…」

 

つまり己と清秋院恵那のやりとりも全て見られていたということか?

嫌な汗とともに浮かぶ危惧の念を裏付ける台詞をスサノオが悪い笑みを浮かべ、放ってくる。

 

「久方ぶりに笑わせてもらったぜ。ガキ同士中々ケツの青いやり取りだったな」

 

かかかっ、と意地の悪い笑い声を上げるスサノオ。流石神話で乱暴狼藉を繰り返したロクデナシである。性格の悪さが面構えににじみ出ていた。

 

―――よしコイツ殺そう。

 

脊髄反射的に殺気と呪力をスサノオに飛ばすが蛙の面に小便とばかりに意にも介さない。権能を用いてでも報復してやろうかとかなり本気で検討するが、幸い実行に移す前に別の案を思いつく。

 

「…………」

 

この策、実行すれば己にも精神的痛手をこうむる諸刃の剣。だがこの眼前の性悪な神様に一矢報いることができるなら、まあしかたあるまい―――必要なのは捨身に似た開き直りと性根の悪さだ。

 

「知ってるってんなら話が早い。仲人はあんたに頼んでいいかい、義父(おやじ)殿?」

「―――待ちやがれ、クソガキ。誰が、誰の、なんだって?」

 

将悟の思いもよらぬ呼びかけにスサノオは苦虫を噛み潰して飲み込んだ後でもう一度反芻したような、苦り切った表情を浮かべる―――作戦成功、是非とも鏡で自身の表情を見せてやりたいくらいだ。渾身の嫌がらせに成功した将悟は嬉々として逆襲を開始した。

 

「あんた清秋院の保護者だろ? いわば父親代わりだ。それじゃ清秋院と付き合う俺も相応しい呼び方を考えなきゃな。それとも“おじいちゃま”の方が良かったか?」

「止めやがれ、怖気が走る。あんな呼び方するのは恵那のクソガキ一人で十分だ。ましてや神が神殺しにオヤジなんぞと呼ばれてたまるかよ」

 

最後の一言だけ愛嬌たっぷりに言って見せる将悟へ今度はスサノオの方が如何に将悟をむごたらしく殺害できるか冷静に吟味している視線を送る。例え幽世に隠居しようと神は神。神殺しとの相性が悪いのは致し方ないのかもしれない。

 

満足のいく報復を終えた将悟も長居は無用とばかりに腰を上げ、小屋から出ていく。その後ろ姿に不意打ちをしかけるべきか検討し、そして取りやめた風の剣呑な視線を送りながらスサノオは舌打ちを一つこぼした。

 

あのクソガキ/クソジジイ、何時か痛い目にあわせてやる―――などとこの時全く同じ思考を全く同じタイミングで刻んだこの二人は意外と似たもの同士だった。

 

さておき、最後は大分剣呑な視線を互いに送りあうことになったがこれにて一連の事件は本当に終幕を迎えることとなったのである。

 

 

 

 




英国会談でちょろっと出てきた鋼殺しが久しぶりに話題に出たけど、久しぶり過ぎて大分設定を忘れていたという。

ちなみに現状の滅びの権能(不完全版)概略は、

灼熱巨人化+劫火の断罪者【Red Punishment】撃ち放題+自滅

となっております。

ぶっちゃけ人間に手出しできる領域に無い代物なので、
賢人議会との”器”の共同研究はウチの王様の目的としては無駄骨折りです。
メタ的に言うと決して無意味ではないんですがね、未来の可能性的に。

ともあれ前フリというか伏線というかそんなものを仕込んだ一幕でした。


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幕間 草薙静花

唐突に思いつきで書き上げていくスタイル。
次回登場予定は未定だけど何時かどこかのお祭りでコンビを組む二人を書いてみたいなぁ。

なお重ねて言うがハーレムとかないから。



ないから。


赤坂将悟はカンピオーネである。

妖しき魔術に関わる人々にとってけして無視できないプロフィールの持ち主ではあるが、普段の行動は私立城楠学院に在籍する一高校生という身分に収まっている。要するに普段は平凡な高校一年生に過ぎないわけで、ごく普通に過ごしていれば当然起こりうる事態ではあった。

 

東京にて草薙護堂と女神アテナが、出雲にて赤坂将悟と《鋼》の英雄神武蔵坊弁慶が生命を賭けぶつかり合った激動の日から一週間ほど経った日のことである。

 

昼休み、購買へ適当な食べ物を買いに行こうと高等部一年の教室に面した廊下を歩いている将悟。何の気なしに歩いていた将悟だが見覚えのある人物の姿を捉え、視線を向けると向こうもこちらに気づいたらしく互いの視線が一瞬絡み合った。

 

「…よう」

「…どうも」

 

ぺこりと頭を下げた小柄な、やや目つきのきつい少女(頭に美を付けても異論は出ないだろう)の名前は草薙静花といった。

 

つい一週間ほど前までは万里谷祐理の後輩という認識だったが、現在はより重要で愉快な身分がくっついていた。つまり将悟と同格の魔王、草薙護堂の妹というステータスである。本人は一切そのことを知らず、また今後も知る機会はないだろうが。

 

ちなみに護堂とは例のゴタゴタ以来特に会話を交わすこともなくごく自然に互いを無視し合うように過ごしていた。気にならないわけではないがわざわざこちらから顔を出すほどの関心はない、そもそも当たり前のように顔を突き合わせる間柄でも無い。用事が出来なければ接点を持つ気がなかった。恐らくだが向こうも似たような心境ではあるまいか。

 

実のところ護堂とは関係なく以前からふとした拍子に愉快な個性(キャラクター)を垣間見せる静花に対し意外なほど興味を持っていたりしたのだが、護堂の妹であるという点がこれまで以上の接触を断念させた。

 

ただでさえ揉め事と死闘に愛されている人生を送っているのにこれ以上正史編纂委員会の苦労の種を撒かずとも良いだろう。神殺しにとっても平穏な時間は貴重なものだ。ありがたがる気はないが日常は日常なりに愛し、楽しむのが将悟のスタイルである。

 

そう思って静花の横を通り過ぎようとしたのだが何を思ったか相手の方から仕掛けてきた。

 

「すいません、赤坂さん。放課後に少し…いえ、色々と(・・・)聞きたいことがあるので時間を取ってもらえませんか?」

 

頼んでいる立場の割には表情や挙動に内から抑えきれない怒りが垣間見えた。ただその怒りの対象が将悟かと聞かれれば恐らく違うと思われた。静花の視線は将悟を通り過ごした先、彼女の兄である草薙護堂が在籍している教室に向けられていたのである。

 

中々面白そうな気配がした。そして面白さという要素は興味関心の外にある事物に怠惰な将悟を動かす材料としては中々だ。提案したのが草薙静花という将悟の興味を引く人物であったのも拍車をかけた。

 

「分かった。待ち合わせは校門でいいか?」

「いえ、私が赤坂さんの教室に行きますから待ってて下さい」

「いいのか。大して遠くないが中等部からじゃ面倒くさいだろう」

「私が頼みごとをしてる立場ですし。それに一応年上ですから」

 

本人を前に憚りなく一応と言う辺りが気の強い性格であることを十分にアピールしていた。そして静花は知る由もなかっただろうが下手に謙られるより多少不遜であってもはっきりした物言いの方が将悟の好みだった。むしろ愉快な気分になって将悟は笑みの形に頬を歪ませ、了承の意を示す。

 

その何気ない笑みを見た静花は両手を肘に合わせた姿勢で視線を横に逸らすとやっぱり似てる、と対面にいる将悟にも聞き取れないほど小声で漏らしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして特に何事もなく放課後となり、合流した二人は通学路をぶらつきながら適当に学院近くに構えた客足の少ない喫茶店に入った。そのまま一番奥の座席を確保すると適当な飲み物を二人分注文した。

 

周囲を見渡すと静かな店内に適度な音量でクラシックが流れ、人気が少ないせいか雰囲気は非常に落ち着いている。取り立てて特筆する点が無い地味な店としか感じられないが、中々居心地の良い空間だった。

 

静花は対面に座る人物に視線を向ける。

 

すると相手の方もごく自然に視線を合わせてきた。微かに頬を歪めた、面白がるような視線を。そのまま静かに見詰め合う時間が数十秒間過ぎ去っていく。

 

―――赤坂将悟。

 

彼について静花が知っていることはあまりない。精々が先輩の万理谷裕理と知り合いであること、彼女から怯えた目を向けられていること。最近は以前ほど怖がられていないこと。性格と雰囲気に掴みどころがないこと。それくらいだ。

 

だが、静花は対面に座る少年をみてなんとなく思う。どうも付き合いが浅い割に他人の気がしないというか……身近にいる一人の人物とどこかで似通っている気がするのだ。

 

そんなことを考えているとマスターが注文していたコーヒーを二人分持ってきた。香ばしい、良い匂いに誘われまず一口漆黒の液体を含む。苦い、が飲めないほどではない。味など大して分からないがそのまま二口めをいただいた。

 

共通の話題が少ない両者だが会話の口火を切ったのは静花だった。

 

「……最近万里谷先輩がおかしいんです」

 

無理やり胸の内に押し籠めた激情が隠せない語調で静花は言う。

 

「ちょっと前まで名前をも知らなかったのに何時の間にかうちのお兄ちゃんについて色々聞いてくるわ、お兄ちゃんを巡ってエリカさんと争ってるわ…」

 

切り出した話題にはてと首を傾げる将悟。目の前の少女は己と万里谷祐理の微妙な雰囲気を察しており、どう考えても己に相談するには不適当な話に思えたからだ。が、続けられた言葉に納得する。

 

「一週間と少しくらい前からなんですけど、万里谷先輩が赤坂さんの教室に顔を出したのも確かそれくらいでしたよね」

 

ずばりと切りこんできた。何故知っている、とは聞かない。祐理は学院内ではとにかく有名人で、茶道部の先輩後輩の関係にある静花の耳に入っていてもおかしくはない。

 

「唐突にイタリアからエリカさんが転校してきて来たと思ったら何時の間にか万里谷先輩がお兄ちゃんの“正妻”扱いされているわ……もう何が何やら。遂にお爺ちゃんから受け継がれた悪い才能が開花したのかもしれませんけど、どういう経緯でこんなことになったのかさっぱり分からないんです」

 

将悟はふむ、と重々しくうなずき。

 

「ちょっといいか。お爺さんの才能辺りを詳しく」

「いいから黙って聞いててください」

 

言葉を重ねるごとに陰々滅滅していく空気をスルーして気になった部分を聞き出そうとする将悟。それに対し、空気を読まない発言を一刀両断して二の句を継がせない静花。控え目に言って目が据わっていた。

 

「それで一週間前に何があったんですか?」

「…………」

 

思わず沈黙してしまったのだが敢えて言いたい、どう説明しろと。いや、ここはこう考えるべきだろうか。

 

―――果たしてどう説明すれば一番面白いことが起きるだろうか?

 

赤坂将悟。高校生である前に、カンピオーネである前に、彼は愉快犯(トリックスター)的な性格の持ち主であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結局のところ。

 

魔術やまつろわぬ神と言った怪しげな話を一般人に過ぎない静花に対して正直に話すわけにはいかない。そうした事情はすべて省き、万里谷祐理があるトラブルに巻き込まれたこととそこに草薙護堂が絡んでいたこと。あとはそのトラブルを解決する過程であったことについて全て事実を基に話すだけに留めた。

 

もちろん魔術等にまつわる部分を話せない以上誤解が発生する余地が幾らでもある説明になったがふだんの行状がまともでさえあればそう深く問い詰められることは無いはずだ。やはり日頃の行いとは重要である(棒)。

 

話を進めていく内に額に漫画のような青筋が浮かび上がっていったがもとは自分でまいた火種である。草薙自身の手で刈り取るのが筋だろうと現在進行形で油を注ぎ続けている愉快犯は他人事ライクに考える。

 

将悟が滑らかに口を滑らせるごとに静花の額に浮かぶ青筋の太さが増していく。

 

五感の優れた将悟がギリギリで聞き取れるほど僅かな音量であの馬鹿兄貴、と漏らすそれはそれは冷え冷えとした声音に流石の将悟も、

 

(煽り過ぎたかな…)

 

と自重を覚えるほどである。

とはいえ将悟の発言から護堂の所業を受け取ると、自分でトラブルを招き込んでおきながら裕理を巻き込んで危険に晒した挙句自分の我儘でトラブルの原因を解放したロクデナシとなる。言っては何だが静花の反応は当然といえた。

 

「お話、ありがとうございます。帰ったらゆっっっくりとうちの馬鹿兄貴を問い詰めますので!」

「……おー、頑張れー」

 

と、将悟が乾いた相槌しか打てないほど静花はヒートアップしていた。

 

「まあ、程ほどにな。程ほどに。俺も結局人伝てに聞いただけだし」

「そうなんですか?」

 

支障のない範囲で微に入り細を穿って説明したため当事者ではないという言が胡散臭く思えたらしい。多少は過熱した頭が冷え、冷静に物事を考えられるようになったのか今度は将悟に不審の目を向けてくる。嘘ではないと思うが信用しきれるほどではない、そんな視線だ。

 

「まあ、知り合いの知り合いからな?」

 

ジーっと不審な目を向けてくる静花に適当な言い訳を返す。誤魔化しはしたが語った内容に嘘はない。嘘は許さないとばかりに鋭い視線を向けてくるが、それ以上語ることはないとばかりに堂々と視線を合わせる。

 

すると幸いにもそれ以上追及することはなく納得したかのように頷く。

 

「そういう話を誤魔化すのが下手くそなところ、少しうちのお兄ちゃんに似てますね」

 

と、その代わりに予想外の妄言を吐かれたのだが。

 

咄嗟に脳内で己と草薙護堂の共通点を検索するが思い当たる節はない。心情的にも一緒にしてほしくはない。不本意そうに顔を顰め、反発する発言が口から飛び出る。

 

「世にありふれた男子高校生を捕まえて失礼なレッテルを貼るな。少なくともギャルゲー主人公もかくやな活躍っぷりの兄貴と一緒にしないでくれ」

「うちの馬鹿兄貴とタメを張れそうな同年代の男子なんて私が知ってる中だと赤坂さんくらいですけど。自分で言ってて説得力が全然ないと思いませんか?」

「ちっとも」

 

鋼鉄製の面の皮で以てノータイムかつ自分に後ろめたいことなど何もないという顔で返答したが静花が納得した様子はまるで見られなかった。

 

「そうですか? 私はお兄ちゃんと赤坂さんって結構似てると思いますよ」

「比べられている本人としてはそうは思わないが」

「人付き合いにマメじゃない割に色んな人から頼られたりしませんか? あとは普段はまともっぽい癖に変なところで大雑把で突飛な行動を取ったりとか」

 

まるで見てきたように確信した様子で話す静花へ咄嗟に抗弁する言葉が出てこない。草薙の人柄など大して知らないが、己に関して言うならばそれなりに思い至るところがある。しかしほとんど面識もないと言うのにここまでズバズバと当てられるとは。

 

魔王というのは本人だけではなく血筋もデタラメであるという法則でもあるのだろうか、と類稀な商才と勝負勘で以て外資系企業で辣腕を振るい、勇名を馳せている己の母を思う。

 

ともあれ心当たりのある様子の将悟を見てやっぱりと頷く静花。

 

「性格とか全然違うのに雰囲気が妙なところで似てるっていうか……根本的なところで似通っている部分がある気がするんですよね」

 

腕を組み考え込んでいる表情。対して将悟は全く別のことを考えていた。

 

この短い会話の中ではまだしかめっつらか怒りと嫉妬を押し込めたふくれっ面くらいしか静花の表情を見れていない。感情豊かな性格で内心を隠すのに慣れていないのだろう―――だからこそ笑ったら可愛いだろう、という益体も無い思考をつい浮かべてしまった。

 

「でも違うところもあるかも。お兄ちゃんは割と誰でも仲良くなっちゃうタイプだけど、赤坂さんは好き嫌いがはっきり分かれそうかな」

「……かもなー。少なくとも喜んで俺の悪口を吹聴するくらい嫌ってる奴らにはそこそこ心当たりはあるわ」

 

カンピオーネの力を憚って直接的な行動に出ないだろうが畏怖、嫌悪の類を向けられるだけのことはやっている。人当たりの良い性格であるという妄想を抱けるほど客観視が出来ていないわけではない。ありえない仮定だが将悟が権能を喪失しただの人間に戻ることがあれば積極的に殺しにかかる人間も出てくるかもしれない。

 

しかし返す返すも初対面に近い状況でここまで図星を突かれるとは。将悟の直感とはまた違った智慧の持ち主であるとでもいうのだろうか。

 

「それにしても初対面でここまで遠慮のない口を利かれるとは思わなかった」

「……すいません。年下なのに生意気でした」

 

一呼吸置き、流石にぶしつけだったと感じたのか静花が殊勝に頭を下げる。

 

「別にいいよ。むしろそっちの方が気が楽だ。また何かあったら呼んでくれ。都合がつく限りは出向くから」

 

ここまで遠慮のない言葉を聞かされると却って清々しい。付き合いのある人間のうち業界関係者の割合が明らかに増えてきている現状、背筋が痒くなるほど丁寧な言葉を聞かされることが多い。そういう面倒なやり取りが苦手な将悟にとって静花の物言いはむしろ一服の清涼剤に思えてくる。

 

「良いんですか? 私、結構人使い荒い方ですけど?」

 

と、確認するように静花が問えば。

 

「それはそれで楽しそうだ。“だから”良い」

 

と、将悟が物好きな発言を返す。

 

「分かりました。きっとこれからも色々とお手数おかけすると思いますけど遠慮なんかしませんから」

 

クツクツと遂に将悟は口元を抑えて吹き出してしまう。

 

知らぬとは言え仮にも大魔王たる己に対して何という啖呵を切るのか。将悟が彼女の兄と似ているというならそのデタラメっぷりにも薄々気がついているはずだ。その上で何の躊躇もなく、当然のように己を主張する自我の強さ。

 

無意識のうちに他者を狂わせ、畏怖を抱かせるカンピオーネの空気を意識することなくそれこそ柳に風と受け流している。これもカンピオーネなどという超ド級のロクデナシを兄に持つが故の資質か。

 

あっという間に静花の口調から遠慮が消えていったがこれは将悟と彼女の兄との間に共通点を見つけ、ぞんざいに扱うくらいで丁度いいと付き合い方を悟ったためだろう。

 

総評するとなんとも心惹かれる個性(キャラクター)の持ち主だ。これほど将悟の感性を擽る少女との付き合いを絶つ理由が草薙護堂では軽すぎる(・・・・・・・・・・)

 

数時間前まで静花との接触を避けていたことなど空の彼方に放り投げ、真逆の発言を向ける。

 

「いや、マジで気に入った。何かあったら是非とも呼んでくれ、地球の裏側からでも見物に駆けつける」

 

なお今の将悟が全力を振り絞れば言葉通りの真似が可能である。割と本気の発言だったのか流石に冗談と受け取ったのか同じく軽やかに冗談を返す静花。

 

「別に無理して駆けつけてこなくていいですけど。そこまで言うなら見物料の一つも貰っていいですよね」

 

にこりと笑い。

 

「とりあえずここの支払いはお願いしていいですか―――センパイ?」

 

未来の女王様の片鱗を覗かせる笑顔でのおねだりに、将悟は今度こそ爆笑した。

ひとしきり笑い倒して少女を見やると少女もまたおかしそうに笑っていた。

 

「冗談です。あんまりセンパイがお兄ちゃんと似てるからつい同じような感じでやっちゃった」

「俺をあいつと同類項に扱うのは断固拒否するが、それくらいなら軽いもんだ。ここの支払いは俺が持つよ」

 

いつの間にか呼びかけがさん付けからセンパイに変化しているが将悟は鷹揚に受け入れた。やはり思った通り彼女の笑顔は好ましい、見ていると思わず愉快な心持ちになってくる。そんなことを思いながら。

 

「いえ、でも」

「実は前々から使い道のないあぶく銭が貯まってたんだ。財布を軽くするにはちょいと足りないが肥やしになってるよりマシだろ。ここは黙って奢られてくれ」

「うわ、やっぱりそういうロクデナシっぽいところお兄ちゃんとそっくり。もしかしてギャンブルが強かったりします?」

「いや? そもそもギャンブルなんぞやらんし。ただまぁダチからはよく『貴方とは運が絡まないゲームしかしない』とは言われる」

 

甘粕辺りに誘われ、麻雀もたまにやるが腕前は平凡。ただし無暗矢鱈と強い引きが味方し、負けた記憶がほとんどない。ちなみに副業ではカンピオーネ特有の豪運を有効利用して荒稼ぎしていたりする。

 

「その知り合いなんだが、最近はこの魔法少女ものが熱いとか話の種に何気なく布教してくるんだ」

「あ、そのアニメ友達から聞いた気が…。私は見てないけど評判もいいらしいですね。その人ってセンパイの同級生ですか?」

「いや、まだ三十路になってなかったと思うが…」

「一回り年上の社会人を友達扱いする高校生って普通(・・)そんなにいない気がしますけど」

 

その後、二人は他愛のない出来事をひとしきり語り合った。日常に起こる出来事のこと、共通の知人のこと。特に静花が彼女の兄についてこき下ろすのを聞くのは面白かった。それは彼女の語り口が激しくはあっても悪意はなく、むしろ慕っているのが丸分かりであるからだろう。

 

将悟が楽しんでいたのは護堂に関する話というよりそれを話す静花の生き生きとした表情だった。

 

単なる雑談、単なる世間話。しかし当人たちにとっては決して軽くはない、なにせ魔王と魔王の妹を結びつけるには十分なくらい楽しく、実りのある時間だったのだから。

 

詰まる所静花がカンピオーネである草薙護堂を慕うならば。

同じカンピオーネである赤坂将悟に親しみの一つも感じても可笑しくはなかったのだろう。

 

短くない時間をおしゃべりに費やしたあと自然な沈黙が訪れるが、全く不快ではなかった。こうした時間を天使が通り過ぎたというのだったか、とくだらない雑学を思い浮かべる将悟。何気なく店内の時計を覗くともういい時間だった。釣られるように静花も時計を見るとそろそろ帰らなきゃ、と呟く。将悟も軽くうなずいた。

 

名残惜しくはあってもそれを表に出す可愛げは両者ともにない。

 

「それじゃ、また」

「ああ、また学院で」

「学院で」

 

ただ再会を約束すると静花はそのまま振り返ることなく気風のいい足取りで店を出ていく。その後姿を残っていたコーヒーを啜りながら見送ったあと、ぽつりと独り呟く。

 

「それにしてもばしばし痛いところを当てられたなぁ…」

 

アレは恵那や将悟が持つ野性的な直感でも、祐理のような霊視でもない。

 

「強いて言えば女の勘って奴かね」

 

末恐ろしいもんだ、と一人ごちる。

 

つい先ほど気風の良い立ち居振る舞いで去って行った草薙静花。彼女の兄の存在を差し引いても十分すぎるほど個性的な少女である。どう見ても一人の良き妻、良き母として収まる器ではあるまい。良かれ悪しかれ周囲の男を振り回し、翻弄する未来の“女王様”の片鱗を見た気がする将悟であった。

 

そう遠くない未来彼女に振り回されるだろう男達には彼女はとても魅力的に映るのだろう。個性豊かな人間が大好きな将悟にとっても彼女のキャラクターに中々心惹かれるものがある。女性として惹かれるのではなく友人として付き合うと楽しいタイプだ。

 

問題を挙げるなら護堂の存在だ。逆の立場だとして将悟は呪術とかかわりのない身内がカンピオーネという生物と親しくするのを歓迎する気にはなれない。

 

だからと言って静花との付き合いをやめよう、とは思わないのだが。

 

「……ま、なるようになるか」

 

少しだけ未来の話を語るならば。

将悟が学院を卒業し…あるいは静花が社会に出る頃になってもこの二人の付き合いは人知れず続く。

 

その先に何が待っているか、それをこの場で語るのは無粋だろう。

 

ただ今後も静花が兄の不行状に関する証言者として将悟を頼る内に親しくなり、いつの間にか年が離れている割にやけに息が合うコンビとなることは確定した未来であった。

 

 

 

 




なおこの後静花の登場予定は完全に未定。
再登場を希望する皆様は静花可愛いとお書きください、100人くらいいたら次も静花の話にします。

いなくてもたぶん何時かは書きます、日常パートのどっかで登場させたい。その程度には気に入ってます。


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嵐、来たる ①

委員会の人たちマジお疲れ様です。
彼らは王様に対してもっと怒っていい。



《サーシャ・デヤンスタール・ヴォバン》

 

豪奢で、快適そうな高層ホテルのスイートルーム。

だが言っては何だが、ただそれだけの、何処の国でもありそうな一室に二人の人物が向かい合っていた。

 

一人は知的な風貌、紳士の佇まいを見せる老人―――に見せかけた狼王、ヴォバン、サーシャ・デヤンスタール。

もう一人は彼の前で膝をつき、騎士の礼を取る少女―――《青銅黒十字》所属大騎士リリアナ・クラニチャール。

 

ミラノから急遽かの老王に呼び出されたリリアナは己が呼び出された理由に見当がつかず、内心訝しげに思いながら王の言葉を待っていた。

 

「君がクラニチャールの孫娘か。久しいな、と言いたいのはやまやまだが君の顔に見覚えがないな…。ああ、物覚えの悪い老人と思わないでくれ。君くらいの年ごろはすぐに成長する。私でなくとも似たようなものだろうさ」

「は…。侯と私がお会いしたのはほんの十分ほど、未だ私が幼く小さかった頃です。無理もございません」

 

適当な世間話。魔王と交わすにはあまりに真っ当すぎる会話。

多少なりとも欧州に覇を唱える魔王たちと間近で触れ合う機会があったリリアナは却って警戒の度合いを高めた。

 

「今日君を呼んだのは他でもない。私でも単独では成就の難しい儀式に、君“たち”の力を借りようと思ってね。その手始めとしてミラノの神童と名高い君をクラニチャールに命じて召し出したのだ」

 

ヴォバン侯爵がリリアナに―――複数の巫女に、手伝わせる大儀式。四年前のあの儀式の当事者として心当たりがあり過ぎるリリアナは密かに冷や汗を一滴垂らし、確認のための言葉を絞り出した。

 

「侯、その儀式とは四年前の…」

「然り。察しが良いな、リリアナ・クラニチャール。まつろわぬ神を招来するアレをもう一度実行に移そうかと思ったのだよ。そろそろあの儀式に適した星の配列と地脈の流れが整うのだ」

 

かつて多数の巫女を犠牲にまつろわぬジークフリートを呼び出した大呪の儀。あれほど危険な魔術を何故…などという疑問は思いつきもしない。神殺しが神を呼ぶ―――戦うため以外に理由があるとでも?

 

「そのために、君に問いたいことがある。四年前、あの場に集められた巫女の中で最も優れた巫力を示した者は誰だったかな?」

 

騎士として王に虚偽を報告するのは論外。だが素直に名前を出せば一人の少女を地獄に突き落とすことになる。律儀で、清冽。義侠心に満ちた騎士としてリリアナは忸怩たる選択を突き付けてくるヴォバンに反発を覚えるがそれを表に出しはしなかった。

 

「あの時の儀式はサルバトーレめにしてやられたが、全てが無駄ではなかった。私は思い知ったのだよ、質より量ではなくとび抜けた資質を有する巫女を選りすぐり、揃えるべきだったとな」

 

できればそんな教訓を生かさないという選択をして欲しかったのだが…。内心だけで溜息を吐くとあくまで謹厳にリリアナは先ほどのヴォバンの質問に答える。

 

「極東の島国、日本に生まれた巫女。名はマリヤ。宜しければ私が候の御前まで連れてまいりますが」

「日本。奴めの故国だったか」

 

ヴォバンが顎に手をやり、微かに視線を上向けた。その焦点は部屋のどこにもあっておらず、過去の記憶をその脳裏に甦らせているようだ。だがそれも致し方ないだろう…、リリアナは思った。

 

日本に一年前に誕生した『智慧の王』。最も新しく、最も激しく争ったというヴォバンの仇敵。かの王の故国となればヴォバンもまた無関心ではいられないはずだった。それが良い風に繋がればいいのだが…と密かに祈るリリアナ。

 

「いや、それよりも良い案がある。私自らかの島国に赴くとしよう」

 

だが現実は往々にして無常である。

最も避けたかった未来がヴォバンの口から出されてしまった。

 

「…カンピオーネたる候が御自ら? しかし」

 

リリアナはやはりこうなったかと動揺を抑えるために一拍を必要とし、その後実直に懸念を表明する。

 

「あの島国にはかつて候と争った『智慧の王』がいらっしゃいます。あの国に乗り込み、巫女を連れ出す以上あの方が関わってくるのは必然。また新たに八人目のカンピオーネが誕生したとのこと。話を通しておいた方がよいのでは?」

「そうだな……いや、止めておこう。そちらの方が面白い(・・・・・・・・・)

「はっ……し、しかし侯、このままではかの王とぶつかりかねませんが」

 

冗談そのものの言いぐさのくせにひとかけらの洒落っ気もない大真面目な発言。明瞭な頭脳の持ち主であるミラノの神童もさすがに一瞬返す言葉を失い、芸のない言葉を絞り出すほかなかった。

 

「なに、サプライズというやつだ。老人のささやかな戯れさ、その程度のお遊びだ。あまりうるさく言うな、クラニチャール」

 

そのサプライズの結果次第で日本の首都、東京―――世界有数の大都市が灰燼に帰すかもしれないというのに気にした風もない。笑えない、本当に心の底から笑えないユーモアを発揮するヴォバンにリリアナも流石に顔を顰めた。

 

その表情を見てヴォバンは揶揄するように少女に向けてフッと笑うと己の過失を悟ったリリアナは大人しく目を伏せる。他者の命を路傍の石ほどにも見ていない暴君の前でこの振る舞い、処刑されても文句は言えない。

 

だが彼女にとって幸いにも追及するどころか微かに上機嫌な様子でヴォバンは言葉をつづけた。

 

「それにあやつとぶつかる気はない、まだな。かつての闘争から未だ一年、何柱か神を屠ったと聞くが―――このヴォバンと伍すにはまだまだ遠い。もうしばし、時間をくれてやらねばな」

 

樽に詰めた極上の美酒の開栓を待ちわびる愛好家じみた言いぐさ。だがその気配の端々に濃厚な闘争と狂気が香る。

 

「ではなおさら―――」

「言っただろう、遊びだ。それにアレは興味のない事柄にはとことん怠惰な性質だ。巫女の一人程度、相応の対価をくれてやればこだわりなく差し出すだろうさ」

 

その言葉にまたしても驚く。対価を与える…これは曲がりなりにも相手を対等と見ていなければ出ない言葉である。

 

最長老の魔王・ヴォバン侯爵が未だ若く奪った権能も少ない赤坂将悟と一際激しく敵対しているという噂、実は眉に唾を付けて聞いていたリリアナだがどうやらその認識を改めなければならないらしい。また併せてこれほどまでに強くヴォバンに意識されている赤坂将悟への認識と脅威度を一段高く引き上げる。

 

「とはいえ供回りがいた方が便利なのも確かだ。その役目に君を任じよう、異論はあるかね?」

「光栄です、候」

 

異論などあっても口に出せるはずがない。

リリアナは言葉短かに承諾の言葉を発した。

 

かくしてこの一幕から因縁深き二人の王、そして最新の神殺しである草薙護堂を巻き込んだ三つ巴の騒乱へ繋がるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《赤坂将悟》

 

五月が瞬く間に過ぎ去り、六月も末に近づいたころ。

ゴルゴネイオンと大魔法陣にまつわる騒動も落ち着きを見せ、少なくとも将悟の耳に新たな知らせが入ることも無くなった。

 

甘粕もデスマーチを潜り抜け、最近は通常の業務に戻っているらしい。

 

将悟、そして護堂もまた元通りの生活に戻っていた。否、護堂に関してはあの一件の直後日本にやってきたエリカ・ブランデッリによって日常的にかなり目立つ生活に変化していたが……まあ、些細と言えば些細な変化だ。少なくとも将悟の関心を少しも引かない。

 

一方で将悟の日常にも多少の変化があった。

 

「王様ー。今日は何処いこっか? 日帰りで恵那お勧めの秘湯でもいく?」

 

清秋院恵那が将悟の元に顔を出す頻度が以前よりずっと増えてきたのだ。

 

「人をタクシー代わりに使うのは止めてもらおうか。細かい座標の指定とか地味に面倒なんだぞ、転移(アレ)

 

とはいえキスとかデートだとか恋人らしい振る舞いはほとんどなかった。

 

「ええー、いいじゃん。王様のケチー」

 

その代わり、以前よりお互いと過ごす時間が増えた。

 

また今度な(・・・・・)―――ほら」

「…うん」

 

苦笑した将悟が差し出した手に恵那がおずおずと握り返す。女の子らしい、小さくて柔らかい手のひらのなかにある固い感触、剣ダコだ。その半生を修行に費やした恵那の手に刻まれた鍛錬の証。この手が恵那の生きてきた時間そのものを表しているようで、嫌いではない。

 

アレ以来、二人はこんな風だ。

 

恵那は自然と身を寄せてくるようになったし、将悟もそれを拒むことはない。いつの間にか将悟の自宅に上がり込んではテレビを占有された挙句夕食まで頂かれたなんてこともあったし、その代価として清秋院の本宅でお茶を振る舞われたりもした。作法などさっぱりだが抹茶と菓子の組み合わせが絶妙に美味かった。

 

その際に清秋院家当主が直々に挨拶にやってきたり、ささやかなハプニングがあったりもしたのだがそれは余談だろう。

 

「最近平和だねー。魔王様が二人も東京にいるとか信じられないくらい」

「清秋院よ。お前はフラグという言葉を知らんのか?」

 

気を取り直した恵那が呟く不謹慎な発言に呆れた声音で将悟が返す。

 

なんかこのやり取り前にもあったような…、とデジャヴを感じつつ突っ込みを入れた将悟に恵那は「旗がどうしたの?」と素で返している。世間一般の恋人が撒き散らす砂糖を吐きそうな甘い空気とは無縁。だがなんとなく二人の間に入り込み辛い。そんな独特の雰囲気を醸し出している。

 

甘粕あたりが見たら「熟年夫婦のイチャコラっぷりは家に帰ってからにしてくれませんかねェ」などとのたまいながら何かの機会にYes/No枕でも贈りかねない、そんな雰囲気の二人だった。

 

「でもひと月以上なーんにも起こらないのはほんと久しぶりだよ。これは記録更新いくかな?」

「だからフラグを立てるなと…」

 

恵那のいうことが全部事実なのがなんとも言えない。普段はまとも“っぽい”高校生生活を送っている将悟だが多いときは毎週、少ないときでも月に一度は世界の危機に立ち向かっていたのだから恵那の意見もむべなるかなだ。

 

「話は変わるが…」

 

これ以上思考を進めるといかん気がする、と感じた将悟が少々唐突に話題を切り替える。

 

「最近は割と頻繁に見るが、神がかりを使うのは問題ないんだよな?」

 

そう、これまで恵那は一度山に籠れば最低でも月を跨ぐ程度の日数を修行に費やしていたのだがここ最近は将悟に顔を見せる頻度が明らかに増えていた。神がかりを扱う恵那は常に精進潔斎し、肉体に溜まる穢れを祓わねばならない。恵那が日常的に山籠もりをするのもそれが最大の理由なのだ。

 

「使えるかってことなら全然問題ないよ。なんか弁慶と戦ってからレベルアップしたのか身体に俗気がたまらないんだよね」

「ゲームじゃないんだからレベルなんてそうひょいひょい上がるもんでもないだろ。するってーと“アレ”か…?」

「あれ、実は最近薄気味悪いくらい調子がいいから変だなーとは思ってたんだけど。王様、ひょっとして心当たりでもあるの?」

 

顎に手をやり、考えこむ表情になった将悟に恵那が訝しげに問いかける。

 

「……ま、あると言えばあるし、ないと言えばない」

「結局どっち?」

「有力な仮説はあっても確証はない。だからもう少し考察してからだな。何かわかったら知らせる。これは勘だが、身体に害がある類のものじゃないはずだ」

「ん、オッケー。それじゃ楽しみに待ってるね」

 

ひとかけらの疑いもなく眩しい笑顔でかけられる信頼の言葉がなんともむず痒い。実のところ確証がないだけでまず立てた仮説に間違いないだろうという確信はある。

 

だがこの情報、扱い方を一つ間違えれば絶対に面倒くさいことになることもまた確信していた。恵那は奔放な言動と反してほいほい口を滑らせるような粗忽さからは程遠い。だがそれでも思わず口が重くなる程度には厄介な話なのだ。

 

……恐らく、太陽の権能を以て恵那に与えた生命の根源にまつわる加護。それがいま恵那の身体に起きている異変の原因だ。生命力の付与、という本質から派生した太陽の加護。やたらと厳しい使用制限のクリアを条件に将悟から加護を授かった契約者は様々な恩恵を得る。

 

例として距離や次元に左右されず将悟と聖なる陽光をやり取りできる、自己治癒能力の強化、半永久的な不老(・・・・・・・)などその効果は多岐にわたる。将悟自身が把握し切れていないものを含めれば更に増えるだろう。

 

そしてこの加護の大本命というべき最大の恩恵はまだ片鱗すら顕れていない。そのための時間がまだまだ足りない(・・・・・・・・・・・・・・・・)、そう太陽の権能が将悟に向けて内から語り掛けてくるのだ。

 

ともあれこの加護、一時的なものではなく将悟と契約者のどちらかが死なない限り永続的に効果を発揮し続ける。またその心身に不可逆の変質も伴うというデメリットも存在する。

 

いつぞやの会談で沙耶ノ宮馨に対して加護を与えるのを取りやめたのもそこが大きい。

 

度々言及されているが基本的に将悟は個性ある人間が大好きだ。どのくらいかというと控えめに言って頭のおかしい懐の深さの持ち主、またはでっかい穴が空いた大器と思われているくらいには。

 

例を挙げよう。

 

仮に将悟の仲間が確固たる己の意思で将悟と敵対したとする。

そうしたとき将悟は激怒するでも躊躇するでもなく、理由があるなら仕方ない(・・・・・・・・・・・)―――そう言って真っ向から殴り倒した上で敵対する理由を粉砕し、再度自陣に迎え入れるだろう。

 

その程度には身内に対して甘い。

 

で、あるからして本人の意思確認なしに人生設計に多大な影響を与える太陽の加護を授けることは憚られた。もちろん権能を完全に掌握しきれておらず、詳細が判明していないという理由もあったが理由としては余禄だ。

 

愛すればこそ自主性も尊重する。どんな選択であれ、悩み苦しみ貫いた先に選んだ答えを、己の道と重ならないという理由で押し潰すような狭量さは将悟には無い(なお敵に回らないとは言ってない)。

 

閑話休題。

 

その後も二人はお互いの手を握りながらなんということもない雑談を交わし、帰り道をゆっくりと歩む。歩く道先には緋色に輝く太陽が沈みゆき、そろそろ地平線に触れようかとしている。

 

目をつむっても目蓋に刺さる赤い陽光に、不意に影が差す。

 

ふと恵那が沈みゆく太陽へ目をやると、先ほどまで影も形もなかった黒雲が日輪をその暗幕に隠そうとしていた。併せて空気が雨の降り出す前特有の重苦しく、湿ったものになり始めている空気中に漂う水の匂い、それもかなり強い。

 

恵那の鋭い嗅覚はもう幾ばくもしないうちに雨が降り出すことを告げていた。

 

「あれっ…さっきまで晴れてたのに。ヤな天気だなぁ」

 

恵那の慨嘆は、しかし将悟の耳に届かない。

 

急速に変わる天気、晴天から曇天への入れ替わりがふと将悟の霊感を刺激する。なんでもない光景が齎す不吉な予感が無心となった将悟の口から単語となって零れ落ちる。

 

「嵐…」

 

凄まじい早さで西の方角から押し寄せてくる黒雲を幻視する。あっという間に都市を包み込み、風雨雷霆で打ち壊していく騒乱を。

 

「王様?」

「嵐が来る…」

 

気配がした、血風鉄火が渦巻く嵐の匂いが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《草薙護堂》

 

放課後、学院からの帰り道に彼女と肩を並べて歩くのもすっかり日常になってしまった。とびきり優雅で、とびきり魅力的だが曲者っぷりもまたとびきりなエリカ・ブランデッリと。

 

ほんの数か月前まで思いもしていなかった光景に護堂が感傷じみたものを抱いていると、エリカ・ブランデッリは草薙護堂に唐突に問いかけた。

 

「それで、護堂。貴方の愛人にして第一の騎士たる私が聞くのだけれど…」

 

草薙護堂はごく普通の高校生だ。少なくとも本人の認識においては。

だから学生の身で愛人などという怪しげな関係性を構築する気はないし、ましてや自称・愛人の少女から次のような嫌疑を向けられることは遺憾であること甚だしかった。

 

「貴方、最近何かやらなかった? 具体的にはこれまで貴方がカンピオーネとして遺憾なく成し遂げてきた非常識な所業に類することなのだけれど」

「……エリカ、いきなり人聞きの悪い前置き付きであらぬ疑いをかけるのは失礼だと思わないか?」

 

あら、そうだったかしらととぼけるエリカを睨みながら質問の答えを返す。

 

「別にこのひと月、平和なものだよ。いや、お前が学院に転校してきてから別の意味で色々あったけど」

「つまりまつろわぬ神に関連する出来事に心当たりは無いわけね?」

「ない。……なんでそんなこと気にするんだ?」

 

顎に右手を当て、視線を下に向けながら思考に沈むエリカの様子に訝しげなものを感じた護堂はつい問いかける。するとエリカもまた状況を把握し切れていないのか、どう説明したものか迷っている表情で話し始めた。

 

「何と言えばいいのかしら…。そうね、まずここ数日で私たちの周囲に置かれた監視の目が明らかに厳しくなってるわ」

「は…? 監視の目―――ちょっと待て、監視ってなんだ!?」

 

ひょいとエリカの口から飛び出したあまりに予想外かつ不穏な単語に思わず詰め寄る護堂。それに対してエリカは一般常識を指摘するような淡々とした口調で返した。

 

「護堂、常識的に考えて頂戴。公共の治安と平和を守る職務に努める人たちがカンピオーネなんて危険人物に対して一切のリアクションを取らないなんて選択、出来ると思う?

「俺がカンピオーネだからってほかの連中と一緒くたにして危険人物扱いされる覚えはないっ! そもそも普通の一般市民を公共機関が張り込むってのはどうなんだ!」

「護堂、何事にも例外はあるものよ。貴方はその一例というだけ。それにプライバシーまで侵害されていないようだから安心しなさい」

「なんでそんなことがエリカに分かるんだ?」

「それはもちろん私も同じように見張られているからよ。むしろ私の方が向けられている目が多いわね」

 

護堂の片腕たる私も要監視対象としてブラックリスト入りしたみたいね、と剣呑な内容を気楽に発言している自称・草薙護堂第一の騎士。

 

「まあ監視と言っても私たちがトラブルを起こさないよう、逆に巻き込まれないように遠巻きに視線を向けてくる程度よ。街中で視線を集めるのはエリカ・ブランデッリなら当たり前のことだし、一々区別するのも面倒だから全部無視していたのだけれど…」

 

自意識過剰な発言もエリカの黄金比を体現した如き女獅子の美貌と抜群のスタイルを見ればさもありなんと納得してしまう。

 

「それがこの数日で明らかに警戒度がハネ上がってる。怪しい動きをしていなければ関知しない、からどんな怪しい動きも見逃さないってくらいにね」

 

おまけに、と続けた。

 

「それだけじゃないわ。昨日青山界隈にある業界の顔役のところに顔を出したんだけれどね…。そこの店主も一切態度に出さなかったけれどピリピリしてるみたいだった」

「態度に出してないのにピリピリしてたって矛盾じゃないか?」

「私と彼女の関係はビジネスライク、仕事に関する話はするけどそれ以上は互いに踏み込まない。特にカンピオーネに関する話題はさりげなく、でも絶対に避けていたわ。たぶんこれは赤坂様の所業によるものだと思うのだけれど」

 

思案気に、彼女自身も思考をまとめている風で言う。

 

「それが昨日は向こうから護堂、貴方に関する話題を切り出してきたわ。世間話を装った、それとない切り出し方だったけれど逆にそれで確信できたわ。絶対に何かあるって」

「だから昨日はスケジュールを全部中止にして情報収集に回っていたの。でもどれだけ探っても詳細は出てこない。確信できたのは業界全体…少なくとも関東圏全域の魔術関係者の警戒心がものすごく敏感になってるということ。私も昨日散々痛くない腹を探られたわ」

「どうも末端は詳細がほとんど知らされてないみたい。でも“何かある”ことがほとんど規定事項として全員が確信している。私たちの監視の目が強まったのもその影響でしょうね」

 

正直、私も訳が分からないわとエリカは肩をすくめた。この聡明な才女をして何もわからないと言うのなら恐らくほとんどの人間が状況を把握できていないのだろう。そこで手がかりの一片を求めて遺憾ながらしばしば騒動の台風の目となる己に問いかけてきたのか。

 

「……それで最初の質問につながるわけか」

 

得心のいった護堂だが自身の生活が不特定多数の目に触れているという現実に些か以上に気が重くなる。誰に恥じる生活をしているわけではないが、ここ最近は主にエリカのお蔭で外聞の悪い出来事を山ほど量産しているのだ。

 

気分が下降気味になっている護堂に苦笑しながらエリカがフォローを入れる。ただしそのフォローがまた別の痛い所を突いていたりもしたのだが。

 

「まあ実のところ護堂本人に見張り役はほとんど振り分けられていないわ、やっぱり天下無敵の大魔王様の機嫌を損ねるのを恐れたのかしら」

 

これは完全に余談だが護堂に向けられた監視の目が少ない理由の半分ほどはどんなに巧妙に見張り役を置こうとたちどころに看破した上でクレームを入れてくる先輩魔王の存在があったりする。草薙護堂もその同類であればむしろ彼の周囲の人物にこそ人を配しその動きから騒動の前兆を察知しようとしていたのだ。

 

「それにしても一番の容疑者だった護堂がシロとなると……あとは裕理と甘粕さんが頼りね。でも裕理は世間に疎いところがあるし、甘粕さんに貸しを作るのもちょっと」

 

容疑者云々の辺りには護堂も異論の一つも投げつけたいところであったが、本気で困惑している風の彼女を見て段々と嫌な予感を感じ始める。なんとなくだがコレはただ事ではないのではないか、と。なにかとんでもない騒動に繋がっているのではないかと。

 

聡明なるエリカ・ブランデッリも首を傾げたこの珍事、実のところその原因は主に一人の少年の“予言”に遡るのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《甘粕冬馬》

 

上記のやりとりが交わされるほんの数日前。

その発端となる会話は東京都港区、青山界隈のある店内にて行われていた。

 

ここで話は変わるが日本呪術界の関係者は概ね二種類に分類される。

 

一方は古来から日本呪術界を統括してきた『沙耶ノ宮』『清秋院』『九法塚』『連城』ら四名家を中心とした『官』の呪術師。

もう一方が在野の拝み屋、占い師、霊媒など『官』に属さない『民』の術者達だ。

 

その『民』の術者達がこの界隈に多数潜んでいたりする。

そしてその青山に居を構える『故月堂』の店主は彼ら『民』の呪術師たちの顔役として認知されているのだ。

 

「あらあら、甘粕さんじゃないですかー。ウチにはもうお宝は残ってませんよー。そういうわけでお引き取りくださいな」

「開口一番ソレとは嫌われてしまいましたねー。そもそもご禁制の品を取り扱わないで頂ければ私どもとしてもお仕事が増えずにすむんですが」

「そこはまぁ、需要があるから私等のような稼業が成り立つんでしてー。それに委員会さんも困った時には私らがいた方が役立つでしょ」

「その質問にはノーコメントとさせていただきます」

 

地味だが仕立てのいい和服を着こなした若い女性とくたびれたのスーツの上着を肩にかけた青年。

 

先日、とある『民』の術者らがオークションにかけようとした

人狼の魔導書『homo homini lupus(ホモー ホミニー ルプス)』を指定された禁書と断じ、甘粕ら正史編纂委員会は没収していた。

 

その件に関してシレッとした顔でお互いに嫌味を交わしあいながら、二人の間には何とも言えぬ白々しさが漂う。どちらも仕事である、と割り切っておりそれ以上の熱意が感じられないからだろう。

 

「ま、そこらへんの議論は別の誰かに吹っかけてくださいな。本日伺ったのは別の用件です」

「例の書籍の処分が決まりましたかー? ちなみにあれって本物でした?」

「書籍と無関係とは言いませんがそちらのお話とはまた別です。この界隈の顔役である貴方に一つ依頼を持ち込みたい」

 

はて、と首をかしげる。規模も人員も『官』の代表である正史編纂委員会の方がはるかに大きい。わざわざ『民』の自分たちに依頼すべきことなど思いつきも……もとい、思いつきたくもなかった(・・・・・・・・・・・)

 

「あのー。それってもしかしてしますけど」

以前も(・・・)お願いした草の根情報網、アレをもう一度やって欲しいんですよ。何かあるのは確定ですが(・・・・・・・・・・・)何が起こるかは私どもも(・・・・・・・・・・・)まだつかめていませんので(・・・・・・・・・・・・)

 

外れてくれないかなーという故月堂店主の微かな期待は無慈悲に裏切られた。曖昧な内容のくせに確信した様子である甘粕に若い女店主の脳裏に一人の少年の存在が思い浮かんでしまう。

 

「やっぱりですかー! もーやだ、ほんとやだ! 知り合いに片っ端から声をかけて関東圏から脱出させますけど止めないでくださいね!?」

「ではそれも報酬に含めましょう。その代わり仕事とかで脱出できない人たちにはご協力頂けますよね?」

「王様命令じゃやらないという選択肢がないじゃないですかー、やだー」

 

脱力しながらも諦観とともに受け止めている店主に同情と共感の視線を送りつつ、嘆息するように甘粕は言った。

 

「いえまー、杞憂で済めばほんと良いんですけどね。あの将悟さんが出した”予言”ですから無視したらいつの間にか東京が更地になってる可能性が無きにしも非ずですしー。なんでも“嵐が来る”らしいんですよ。私としては天空神の類が来ても驚きませんね」

「ほんと否が応でもって奴ですよー。あの方の“予言”、無視できる業界人なんて日本にはいませんもの」

 

赤坂将悟は以前も何度か自身が関わる大騒動が表面化する前にその発生を予知している。もちろん何が起きるなどさっぱりわからなかったわけだがともかく何かあることは予知できたのだ。経験則として将悟は今までも何度か同様の予知を発しているが、いずれも警告を発した後大概何らかの事件が襲い掛かってきている。

 

何か起こるのはまず間違いないのだが詳細は不明。そんな状態で出来る対処は小さな異変も見逃さないように通常以上に監視の目を強めるくらいしかない。しかし国内最大規模とは言え、その業務もまた膨大な正史編纂委員会は常に人手不足の状態にある。

 

異変を探る人員を十分に用意できるとは言い難い。

だからこそ委員会だけではカバーできない範囲を『民』の術者達に目を配るよう依頼するのだ。

 

動員できる人員の数が曖昧な依頼のため金銭的な報酬は皆無。強制力もまた皆無だが。言うなればこの依頼について知らされることが報酬と言ってもいいかもしれない。要するにやってくる大災害に対して身を隠したり安全な場所に逃げ込んだりと事前の対策がとれるということだ。

 

完璧な余談だがこの“予言”が出ると委員会のエージェントの中には家に帰らず、泊まり込みで仕事に没頭する者が続出する。曰く「むしろ何も起きないはずがない」「いま苦労した方が後で地獄を見るよりマシ」「最近東京全域の住民を避難させる前準備に慣れてきたんですけどコレおかしくないですか」などの発言(くじょう)とともに。

 

ともあれこのあと甘粕は店主と幾つかの質問と確認を済ませた後故月堂を後にする。

 

その夜から日本全域の業界関係者に“予言”の話が持ち込まれ、瞬く間に業界全体で警戒度が引きあがる。それに伴って大なり小なり混乱が発生するがその煽りを最も食らったのがいま日本で最もホットな話題の主である草薙護堂―――二人目の魔王その人だった。

 

要するに“また”なにかやらかすのではないかと考えた者が少なからずいたため彼に向けた監視の目が増加したのだ。加えてその腹心たるエリカ・ブランデッリも日本に来日して日が浅く日本の業界人らと信頼関係を構築できていなかったため日本特有の情報共有網から“予言”の報せを受け取れなかったのだ。

 

彼らの監視網に甘粕が絡んでいれば下手に護堂を刺激しかねない真似は控えただろう。だがこの時甘粕は全国から集まる情報の山の解析に追われ、他所事に手を出している余裕がなかった。

 

それら様々な要素が影響し、エリカ・ブランデッリを困惑させた珍事へと繋がっていく。そして来る三人の王が相争う闘争へささやかな影響を及ぼしたりもするのだが、それはまだ誰も知らない未来だった。

 

 

 

 




ちょっと時系列が分かりづらいですが並べると


侯爵、思い付きで来日決定
 ↓
王様、ソレを予知(詳細不明)。甘粕さんにリーク
 ↓
甘粕さん、全国各地に警報発令
 ↓
業界人ら、警戒度爆上げ
 ↓
護堂周辺の監視の目が強まる
 ↓
事情がつかめずエリカ困惑


となります。
つまりうちの王様が大体原因。


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IF短編『ある日の兄妹+1』

お待たせしました。

皆様のリクエストに応え、静花IF短編です。
なんだろう、お菓子を作っていたはずなのに茶漬けが出来上がった感が…。

ともあれお楽しみいただければ幸いです。

以下注意事項。

設定上本編において将悟、静花、護堂が一堂に会することは最低でも静花が社会人になってからでないとありません。
ありませんが思いついたネタを形にするためIFという形で短編にしました。楊枝でつつかなくても拾えるくらいに重箱の隅が汚れだらけですが、細かいことは良いんだよのノリでお楽しみください。

時系列的には知り合ってからたぶん半年経ったくらい



 

 

ある何でもない日の朝、草薙家にて。

祖父と妹、己の三人で朝食を摂り終え、学院に出ようとしていた草薙護堂はキッチンにいる妹の姿に気づいた。そろそろ家を出なければ始業時間に間に合わない。一言注意しようとして近づくと、ふと何をしているのかと好奇心が刺激された。

 

朝食の後片付けをしている風ではない。

 

気になって思わず手元をのぞき込むと女子らしからぬ立派なサイズの弁当箱に料理を詰め込んでいるところだった(細身に比して意外なほど静花はよく食べるのだ)。そのことに密かに驚く護堂。妹、草薙静花がこのように弁当を用意するのはかなり珍しい。彼女の料理スキルは正直なところ護堂と同レベル。倹約のために弁当を用意することはあるがけして好んではいなかったはずだ。

 

それに近頃は祭りの出店に出資者兼従業員として一口噛むことで妹の懐は暖かかったはずだが…。

 

「珍しいな。最近はそれなりに稼いでたたよな、祭りで」

 

わざわざ弁当を用意する理由が思い当たらない。気になって思わず後ろから声をかけると、静花は一瞬肩をビクリとさせ、やがてゆっくりと呆れた顔で振り向いた。

 

「ちょっと、お兄ちゃん。急に話しかけてこないでよ、びっくりしたじゃない」

「ああ、すまん。気付かなかった」

 

気の強い妹らしい言い草に朴訥な兄は素直に謝る。驚かせたのは事実だし、先ほど投げた質問の答えが気になったからだ。

 

「わざわざ弁当を作ってたのが少し意外だったからさ。気に障ったらすまん」

「別に大したことじゃないよ。ちょっと……“友達”とお弁当を用意する約束をしただけ」

 

“友達”の辺りで口ごもる静花に違和感を覚える護堂。基本的に静花は怒りっぽいのが玉に瑕だが、竹を割ったように明朗闊達な性格である。この反応、隠し事があると言っているようなものだ。

 

お世辞にも察しがいいとは言えない護堂の脳裏にもしや…、という思考が走る。“こうしたこと”の機微に関して護堂は己がとことん当てにならないことを知っている。恐らく的外れな当て推量だろうと思いつつ、慎重に問いを投げかける。

 

「その“友達”って、女子か?」

「……男子だけど。それが、どうかした?」

「いや……何でもない」

 

一拍口ごもってから遠回しに“異性と一緒に昼食を摂る約束をした”と告白する妹に護堂は少なくない衝撃と感慨を抱く。昔は何をするのも兄妹一緒だった、やがて反抗期を迎えて突っかかって来る回数が増えた。それでも兄妹仲は悪くないと思う。

 

だがそろそろ妹が兄離れの時期を迎えようとしているらしい。

若干の寂しさと妹の成長を喜ぶ兄心が複雑に混じりあい、思わず感傷に浸るのをやめることが出来ない。

 

「……お兄ちゃん、絶対誤解してる。言っとくけどお兄ちゃんが思ってるようなことは全然ないから」

「そうか。いや、それならそれでいいんだ。別に」

 

不本意そうな静花に独り勝手に納得した風の護堂。

噛み合っているようで噛み合っていない会話だった。

 

兄の口振りに絶対に自分の言うことを聞いていないと気付いた静花がその後護堂に何度も認識の修正を要求する。だが護堂は相変わらず一人納得したまま頷くだけ。

 

ある意味兄妹仲睦まじいやり取りはその後、学院に着き中等部と高等部へ別れるまで続く。

 

これが意識無意識にかかわらず周囲を振り回すカンピオーネ・草薙護堂が、珍しく彼の妹と“もう一人”に振り回される一幕の始まりだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同日、昼休み。

 

ここ数日ほど、昼休みは教室で食事を摂っていたのだが何故か日が経つごとに周囲の視線に籠る殺気が増してきていたため、たまには屋上でもどうかと提案したところ満場一致で受け入れられた。

 

護堂はエリカやリリアナ、裕理といったこの数か月ですっかり親しくなった少女たちともに校舎の屋上へ足を運んでいた。いつものように裕理とリリアナが丹精込めて手作りしたお弁当に加え、清秋院恵那から裕理に差し入れられた上等な和菓子まであるという。

 

恵那さんからたくさん頂いたのでおすそ分けです、と可憐な仕草で御菓子を示す。同時に昨日頂きましたがとても美味しかったですよ、と珍しく自信たっぷりに太鼓判を押す。若干差出人…と親しい少年を思い出して微妙な顔になるが、御菓子にも差し入れてくれた清秋院恵那にも罪はない。感謝とともにありがたく喫することにする。

 

少女たちと肩を並べて談笑しながら、屋上へ向かうルートを辿る…その途中で。

 

「うん…?」

 

視界の端、屋上へ続く階段への曲がり角を今しがた見覚えのある“誰か”が曲がったような…。

 

「護堂、どうしたの? ボーっとして」

「ああ、すまん。いま行く」

 

しかしその“誰か”は今頃中等部で異性の友人と昼食を共にしているはずだ。わざわざこちらに来る理由がない。姿を見かけたのが一瞬だったせいもあり、気のせいだろうと判断した護堂は精神的な耐ショック体勢をとる機会を逸してしまう。

 

そのままガラッと屋上に出る扉をスライドし―――心構えを取れないまま自身の視界に映しだされた光景にたっぷり5秒はフリーズした。

 

そこにいたのは護堂の“同格”、赤坂将悟。だが彼だけならば驚きはしても放心するほどの衝撃は受けなかっただろう。護堂が驚いたのは将悟の隣に座り、お弁当を広げようとしている自身の妹、草薙静花。

 

もっと言えばこの二人が当たり前のように同席している光景に眩暈を覚えていたのだ。

 

「…お兄ちゃん? なんで屋上にいるの?」

「おかしいな。最近は教室でいちゃつきながら食っていると聞いていたんだが」

 

将悟の言葉にギンッと視線を鋭くした静花が兄を睨む。

が、数秒後同じ視線が将悟へと向けられ、不機嫌な声音でクレームを付けた。

 

「……先輩。だから中等部で食べようって言ったんですよ。お兄ちゃんが屋上で食べないなんて適当言って」

「悪い。まあ良いだろ、知られて困ることなんてそんなにないし」

 

メンゴメンゴとどうしようもないレベルで誠意のない謝罪を繰り返す将悟にブリザードの如き冷徹な視線を向ける己の妹の姿に護堂が思うのは唯一つだけだ。

 

なんだ、この状況は。

 

極めてシンプルな疑問はそのまま護堂の胸中を表していた。加えて護堂を取り巻く三人の少女たちも口々に、

 

「これは…ちょっと、予想外ね。どう応じたものかしら」

「草薙護堂の妹御があの方と…? なんだ…衝撃的過ぎて何と言えばいいのか」

「お二人の仲が宜しいのは喜ばしいのですが…」

 

と、三者三様に困惑の声を漏らす。

その声から滲み出る不審と疑問に、この状況に違和感を持っているのが己だけでないと励まされた護堂は正気を取り戻した。

 

「な…なんで、赤坂と静花が一緒に?」

 

あまりに予想外の組み合わせに微かに震える声で二人に問いかけると、

 

「なんでって、なあ?」

「別に、昼に一緒に食べようって約束しただけよ」

 

至極なんでもないことのように返された答えに、疑問と困惑を感じている自分の方がおかしいのかと錯覚を覚えてしまう。いやいや騙されるなと胸の内で唱えながら、より深く核心に向けて切り込んでいく。

 

「そうなのか……いや、俺が驚いたのは二人が知り合いだったってことなんだが」

 

更に疑問を呈すると、将悟がクツクツと人の悪い笑みを浮かべ。

 

「五月ごろ、お前の不行状に関して相談されてな? 兄の所業を更生しようとする草薙妹の心意気に打たれた俺は涙を呑んであることあること散々に吹き込んだってわけだ。流石に本気で話しちゃマズイことは言ってないけどな」

「静花がやけに詳しい話を知ってると思ったらお前の仕業か!? 本当に余計なことしかしないなカンピ―――お前って奴は!」

 

根も葉もある話を伝えるだけだから簡単だった、今後も続けていくからよろしく―――などと余計すぎるお世話を焼く将悟を思わず怒鳴りつける護堂。周囲の女性陣に関わる騒動が起きるたびに嫌に事情に通じた態度で問い詰め、詰め寄ってくる静花に手を焼いていたのだ。

 

「失礼な。事実に基づいて大袈裟に脚色した話しかしていないぞ俺は」

「つまり限りなく嘘に近い話ってことだろ!」

「すまん。実は大袈裟に脚色したとか嘘だ。そのまま話すだけでお前がロクデナシってことは十分理解できるからな」

 

流れるような切り返しにぬがっ…、と言葉に詰まる護堂。言いがかりだ、と断言するには心当たりが多すぎた。しかし決して自分から積極的に平和主義を返上するようなことはなかったはずだ、たぶん、きっと。周囲の状況が己に平和的な解決手段をとることを許さなかっただけで…。

 

「別に俺はやましい覚えなんてない!」

「この場合重要なのはお前の主観じゃなくて周囲からどう評価されているかの客観だろ。少なくとも城楠学院高等部一年の間でお前の評価は“学院を代表する美人を何人も侍らせてる好色大魔王”だぞ。評判の割に悪感情を持たれてないようだが」

 

そこらへんはまあ、人徳と言っていいかもしれん、と将悟。

フォローされているのか微妙な発言に護堂も思わずどう返していいのか迷う。意識してか無意識かはともかく相変わらずの人を煙に巻く言動だった。

 

「まあ、これだけ綺麗所に囲まれてるんだ。有名税と思って諦めることをお勧めする」

 

意識している風もなくナチュラルに口に出した褒め言葉に女性陣は「あら…」「む…」「そ、そんなことは…」と三者三様の反応を見せつつ、まんざらではなさそうな表情だ。尤も約一名若干面白くなさそうな顔をしていたが。

 

そんな静花を見て途端におちょくってくる性悪魔王が約一名。

 

「もちろん草薙妹も中に入っているぞ? 良かったな」

「何がですかっ!?」

「そりゃお前、負けてないってことさ」

 

暗に目の前の(おもむき)異なる美少女3人と同じくらい可愛い、と異性の先輩から認められた静花はぬぐっ…と悔しそうな声を上げながらも羞恥と喜びで頬を真っ赤に染めている。なんだかんだ親しい年上の男性から褒め言葉を貰えば悪い気はしないのだろう。

 

将悟は100%からかっているつもりだろうが、端から見ていればカップルがイチャついているようにも見える。

 

その様子を見た護堂はくそ、コイツの方がよっぽど女たらしだろと憤慨する。しかし敢えて言うなら緊急時においてもっと過激な行為と言動を繰り返している彼に弾劾する権利はないと衆目の一致するところだろう。

 

「ついでに言っておくと妹に関してはもっと積極的に構ってやれば大体解決するぞ。聞くのは愚痴より楽しい話の方が俺も楽だからこちらは是非改善するよう要請する」

「ちょっ…、何言ってるんですか!? 本人を無視して勝手なこと言わないでください!」

 

頬を赤く染め、対面の将悟に食ってかかる静花。割と本気で焦った声を上げながらもチラチラと横目で兄の顔を見ているのがなんとも可愛らしく、いじらしい。まあ後輩をイジるのは先輩の特権である、ここは精々揶揄(からか)わせてもらおうとスルーする将悟。

 

「許せ。ちょっとからかってみたくなってな」

 

なお揶揄の対象を誰と言わないあたりが実に性質が悪い。下手に突っ込めば自爆するだけと悟った草薙兄妹は揃って形相を歪めて将悟を睨んだ。神殺しとその妹、中々強烈な眼光の十字砲火に晒された将悟だが大して痛くも痒くもなさそうな顔だ。相変わらずの面の皮を千枚張りしている厚顔さであった。

 

そうして二人をひとしきりからかい倒した将悟は、

 

「ま、そういう訳だ。分かったらとっとと他所へ行け。顔つきあわせて楽しくお喋りできるほど親しくもないだろう」

「……前から思ってたんですけど、実は先輩ってお兄ちゃんと仲悪いんですか?」

「外野で眺めている分には面白いだろうが、深く付き合おうとは思わないな。ついでに言えば俺のダチと、草薙のダチが仲悪くてな。それに引きずられている部分も多少はある」

 

サッと目立たない程度の目配せが護堂に送られる。今のは二人の魔王を巡って日本呪術界が真っ二つに割れている現況を遠回しに言っているのだろう。そういうことで通すぞ―――そんな意思表示であった。

 

護堂としても異議はない。無いが、このまま別れて他所で食事をとる前に聞いておかなければならないことがあった。

 

「あー……その、ちょっと、聞きたいことがあるんだが、いいか?」

「なんだ? 昼はゆっくり取りたいから手短に頼む」

 

対して返される言葉は非常に軽い。これから少なからず尋ねるのに心の準備が必要だったが、遂に意を決して昼食に手を付けようとしていた二人に声をかける。

 

「二人は…………なんだ、付き合ってたり、してるのか?」

 

あるいはこのクエスチョンに対する回答で己は極めて苦しい立場に立たされるのかもしれない。しかし心を鬼にして反対票を投じるにせよ、交際を認め義弟に迎える心構えを固めていくにせよ、二人の心の内を確かめなければならない。個人的には将悟を苦手とする護堂だったが、妹の幸せを考えれば二人の仲を認めるのもやぶさかではない。

 

正直に言えば将来兄も凌ぎそうな大物っぷりを発揮する静花の隣に立てそうな相手など他にいないということもある。女王様と下僕という関係性なら放っておいても量産出来そうだが対等なパートナーを静花が得られるかとなると途端に不安になるのが護堂の正直な胸のうちであった。

 

そんな一大決心とともに投げかけられた質問に、当の二人はというと…

 

「「…………」」

 

こいついまなんて言った―――さあ私も意味不明で―――だよな聞き返すか―――そうしましょう―――。

 

「いきなり何を言ってるんだ、お前は」

「とつぜん何言ってんの、お兄ちゃん」

 

二呼吸程沈黙する間、流れるようにアイコンタクトを交わすと息をぴったりと合わせた答えを返す二人にたじろぐ護堂。返ってきた言葉こそ否定的なニュアンスを含んでいたが、行動自体はまさに肝胆相照らす仲のソレだった。男女交際にまで至っているのかはともかく、ナチュラルに仲睦まじい姿を見せつけられた護堂は言葉にし難い衝撃を覚える。

 

「……」

 

言葉をなくし思わず沈黙した護堂の背後で様子を伺っていた三人娘がひそひそと会話を交わしていた。

 

「……どうする? 草薙護堂が随分と劣勢だが。私たちもあの場に参じるべきか」

「ご家族の会話ですし、ましてや“王”であらせられる赤坂さんがいる中に割って入るのは…」

「案外この会話次第で赤坂様と護堂との関係が大きく変わるかもしれないわよ。私も様子を見ることを勧めるわ」

 

と、成り行きを見ている。救援は期待できそうにない、と脳内の冷静な部分が告げる。

 

「あー……結局二人は付き合ってないってことでいいんだよな?」

 

念押しのように繰り出される確認にふたりは、顔を見合わせ。

 

「付き合ってるか、付き合ってないかで言えば」

「ないですよね。全く。その気配もない」

「だな。アレだ、男女の友情って奴だよ。多分」

「友情というにはもう少し生暖かい気がしますけど。どちらかと言えば、腐れ縁が近いような」

「否定はしないが、俺たちまともに話すようになったのってこの半年くらいじゃなかったっけか」

「変なところで妙にウマが合うんですよね。この間も好みの銘柄で……あっ」

 

一部グレーどころかブラックゾーンをオーバーした静花の問題発言にジト目を向ける将悟。どうでもいいが静花は将悟の好みの日本酒の名前…さらにその味まで知っている、その逆もまた然りだが。

 

「お前さ、家族の前で今の失言は俺の社会的信用がマズイんだが」

「大丈夫です。お兄ちゃん…というかウチの家なら普通なので」

「マジかよ。流石だな、草薙家。常識的な我が家とは一味違うわ」

「実家が元山師の豪農で、母親が凄腕のトレーダーだか金融商社員っていう先輩の家も大概ですよ」

「……かなぁ」

「ええ、まあ」

 

遠い目をした将悟にそっと慰めの視線を向けて優しい沈黙で応える静花に、余人には立ち入りづらい空間が形成される。放っておけば延々と続きそうな会話に、頭を痛めているような、あるいは対応に迷っているような声音で割り込む護堂。

 

「なあ…本当に、二人は付き合ってないんだよな?」

 

隙あらば以心伝心とばかりにテンポのいい会話を繰り広げる妹と将悟に疑念と切願の念を込めた問いを発する。

 

「だから違うよ。私と先輩はただの先輩後輩ってだけで、それ以上でもなんでもないし。確かに知り合いの男子の中じゃ一番親しいけど」

「…そう、なのか? 知り合って半年って割に随分気心が知れてるんだな。同級生の男子には仲のいい奴はいないのか?」

 

かなり遠回しにもうちょっと友達は選べよ、との慨嘆を乗せて問いかける。

 

思うに、体育会系の護堂が知る先輩と後輩という間柄は主に同性同士の上下関係だ。上は下を導き、引っ張り上げる。下は上を支え、助ける。護堂が知るそれに当てはめるには二人の距離は近すぎる。どちらかと言えばピッチャーと捕手のような相棒とでも言うべき関係が近いが、これも適切な表現かと言われれば首をかしげる。

 

とにかく、男女の間のソレは感じないものの二人を流れる空気は随分と気安い。

 

そんな護堂が抱いた印象を知ってか知らずか、ケロッとした顔で静花は続けた。

 

「仕方ないじゃない。正直先輩に比べたらクラスの男子って印象薄いし。たまにしか会わないけどその分色々と話し込むことも多いんだよね、話していて面白いっていうのもあるけど」

 

そりゃ赤坂将悟(カンピオーネ)と比べたら大概の中学生は没個性的だろう、と密かに妹へ呆れた視線を向ける護堂。なお更に呆れた視線を将悟から向けられていることには気付いていない。

 

曰く、お前のせいだよと。

 

とはいえ、胸の内をそのまま口に出したりはせず、護堂もまたもやもやとしたものを抱えつつもそれ以上追及する言葉を持たず、口をつぐむ。

何とも言えない空気のまま、唐突に始まった兄妹+1の会話は妹の発言を最後に、終わりを迎えることになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

筆舌し難い気持ちを込めた視線をこちらにやりながら、護堂は周りの少女たちを伴い、去っていた。

 

ひと時の嵐の如き集団が去り、ようやくゆっくりと昼食を摂ることが出来るようになると、将悟と静花はどちらからともなく視線を合わせ、苦笑した。ほんの思い付き、たまには一緒に昼食でも食べるかという提案が、思いもよらず騒ぎになったものだと。

 

「ようやく行ったな」

「ですね。お昼も落ち着いてとれなくなるところでしたよ」

 

やれやれ、とでも続きそうな若干疲れたような相槌。それにしても、と静花は続けた。

話題は当然、先ほどまでこの場にいた護堂達のことだ。

 

「なんか、変な風に食いつかれちゃいましたね。この分だと帰っても聞き出しに来るかなー」

「ご愁傷さま。俺に面倒が降りかからない範囲で適当に言っておいてくれ」

「他人事みたいに! 元はと言えば先輩が適当なことをいうからじゃないですか!」

 

全力で我関せずをアピールする将悟に頬を怒りで真っ赤に染めながら怒る静花。しかし将悟はどこ吹く風とばかりに持参した弁当を開け、早くも料理をつまみ始めている。

 

「……ッ」

 

ぞんざいな対応に再び怒りが燃え上がる。とはいえ短い付き合いながらこの先輩が超のつくマイペースであることは散々に知っている。相手にするだけ無駄と早々に見切りをつけ、心の内で逆襲を誓いながら静花も弁当に手を付け始める。

 

「それにしても、お兄ちゃんも何を誤解しているんだか。自分の回りにいるのが恋仲の女の子ばかりだからって、私たちまでそれに当て嵌めないで欲しいですよね」

 

淡々と…否、恋仲の辺りで護堂への怒りを覗かせながらも、言葉自体に羞恥や照れといった感情の熱量が宿っていない。照れ隠しなどという可愛らしい行為ではなく完全に本音の言葉だった。

 

「だよなー。まあ、可愛い妹に悪い虫がくっついてたんだ。警戒するくらいは許してやれよ」

 

相槌を打つ将悟の言葉にも熱がない。精々護堂へのフォローを込めるくらいだ。身内にカンピオーネという危険人物が接している護堂の心境を慮ってのことだった。だからといって静花との付き合いを断とうなどとは露ほども思わないのだが。

 

「せめてお付き合いする女の子を一人に絞ってくれれば、多少は素直に聞けるんですけどね」

 

せめてものフォローを鼻で笑いながら静花は冷淡に言い切った。確かに派手な女性関係で鳴らす兄から異性との付き合いをどうこう言われても耳を傾ける程の重みなど皆無であろう。

 

将悟も自業自得だな、と苦笑で済ませ、それ以上言葉を発することはなかった。

 

それからしばらくの間、持参した弁当をつつき、茶を喫するだけの静かな時間が流れる。こうした時、将悟は無理になにか喋って間を持たせようとは思わない。それは静花も同様らしく、沈黙が続くが少しも不快ではない空間だった。

 

知り合って半年と思えない、長く同じ時間を共有した幼馴染同士のようなまったりとした空気が過ぎていく。

 

のんびりとご飯を咀嚼し、茶を啜りながら将悟が考えるのは目の前の少女、そして先ほど護堂と交わしたやり取りのことだった。

 

どうにも身内の目から見ても草薙静花は赤坂将悟の距離は大分近いように見えるらしい。とはいえ、将悟に言わせれば静花との距離感がこうなったのも無理からぬというかほとんど時間の問題だったと主張したい。

 

意外と人を見る目がある将悟は、静花の気質と彼女自身が語った草薙家の家庭環境から概ね二人の距離が縮まった要因を察していた。

 

「…………」

「? なんですか? 急にこっちを見て…」

「いや…無理もないわなー、と」

「だから何ですか? 先輩って割と頻繁に電波を受信しますよね」

 

そういうお前も相変わらず年上だろうが遠慮がないな、とは口には出さず。

 

「アレが兄貴じゃなぁ…。本人の気質もあるだろうが異性の基準が草薙護堂(カンピオーネ)とか、ハードル高すぎだろう」

 

と、対面に座る少女に聞こえないようひっそりと呟いた。

 

草薙静花はブラコンである。これは本人とその兄が否定しようとも、将悟の中ではほぼ決定事項となっていた。これまで交わした会話から事実を拾っていくと、草薙静花は幼少期において概ね兄の後ろをくっついて回っていたらしい。

 

つまり、最も身近な異性が草薙護堂なのである。当然同年代の異性と接する時、草薙護堂が比較対象となる。

 

栴檀は双葉より芳し、あるいは三つ子の魂百までとも言うが、やはり草薙護堂は昔から“ああ”だったらしい。涼しい顔でとんでもない行動力を発揮しては、周囲を振り回していたという。でもって今ではカンピオーネ、世界の常識と平和に真っ向から喧嘩を売る神殺しにジョブチェンジして、そのキチガイっぷりを証明したわけだ。

 

そんな規格適応外の色物が静花にとっての“普通の男子”なのだ。そりゃまあ男を見る目が厳しくなるのも納得である。せめて草薙護堂と比較になる程度のインパクトが無ければ、彼女の認識はモブキャラAで終わるだろう。

 

で、そこに赤坂将悟という同格(カンピオーネ)の登場である。

 

護堂とはベクトルは違うものの癖のある性格という点で一致している。そして気になる兄の動向をよく知っており、愚痴を吐く相手にうってつけ。学生の身でアルコールを嗜むという不謹慎な趣味にして秘密も共有している。

 

逆に将悟から見ても草薙静花のような一風変わった癖のあるキャラは大好物である。自然対応も好意的なものになるし、好意を向けられれば好意を返したくなるのは人間の性。静花が将悟と会話する糸口になる護堂の不祥事も事欠かない。ひと月と経たずトラブルメーカーっぷりを発揮して事件に関わっては周囲の女性陣と仲を深めるのだから。

 

これだけ条件が揃えば、あとは放っておいても二人の交流は自然と深まるというものだろう。

 

概ねこのような過程を経て将悟と静花は互いに懐を開き合い、打ち解けていったのである。

尤も、とこの後に但し書きがつく。

 

(たぶんずっとこのままの気がするけど)

 

双方向的な意味で。

将悟には恵那がいるし、静花の方も恋や愛に現を抜かすタイプではなさそうだ。もっと言えばハーレムやら男の甲斐性やらに理解を持っているはずがない。関係は仲のいい先輩後輩、または飲み友達辺りで固定されそうな気がした。

 

そんなことを思いながら、将悟は昼食を詰めた弁当箱から最後の一口をさらい、口に運んだのだった。

 

 

 

 

 

 

 




一緒にお昼の約束を交わした理由は各自脳内補完で。多分静花の料理の腕前をからかったことがキッカケでとかそんなん。

ともかく私がイメージする二人の関係は大体こういう感じ。
原作組のようなラブコメじみた関係じゃなくて、生ぬるいくせにやたらと距離の近い関係で固定されて延々と続いていくような…。互いのキャラクターを深いところまで理解してしまったから相手に恋という幻想を抱けないというか。飲み友達、あるいは腐れ縁と言えばいいのか。

ただし何らかのキッカケ次第で関係性に変化が起こる可能性はあり。ワンチャンあるやもしれぬ。



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嵐、来たる ②

今回は短めです。



東京、羽田空港。

日本トップクラスの利用客を誇る大型空港である。

 

おかげでまだまだ早い時間帯にもかかわらず空港内は利用客で溢れ返っていた。

 

そんな人混みの中を、端から見ていて奇異を覚える組み合わせの二人組が闊歩していた。

 

色素を失った銀髪を撫でつけ、紳士の装いで固めた背の高い老人と銀の長髪を頭の後ろで括って背中に流し、鋭い視線を絶え間なく周囲に飛ばす小柄な少女だ。

 

知的な老紳士といった風情のヴォバン侯爵と、妖精さながらの可憐な容姿をしたリリアナ・クラニチャール。祖父と孫ほども年の離れた二人組ながら、その間に流れる空気は不自然なほど堅苦しい。リリアナは軽く目を伏せ、言葉少なにヴォバンを先導している。

 

まず素晴らしく美しい銀の少女が周囲の目を引き付け、次いで先導される老紳士に目が留まる。二人の関係性が一見では窺えず、様々な想像が脳裏を行きかうのだ。それがこの針山の如き視線の数に繋がっている。

 

先ほどからこの組み合わせが周囲の目を引き付け、足を止めさせていた。

 

(見られている? この国に外国人は珍しくないはずだが…)

 

と、二人組の片割れでありリリアナ・クラニチャールは訝し気な思いで周囲の視線の意味を推し量っていた。確かに日本で外国人など大して珍しくもないが、夜空の月を溶かしたような銀髪に妖精の如き容貌をもった美少女などそうはいない。己の器量に無頓着、あるいは意識して無視している彼女は、周囲の視線を集めている原因の一つが自身の美貌であることが分からないのだ。

 

周りから向けられる視線の意味を考え込んでいるが、彼女が気にするのは実のところヴォバンの機嫌一つだ。

 

ひとまず東欧から出立する際に公共の交通機関を利用する意見は採用された。

 

最古参の王を名乗りながら、ヴォバンはそうした事柄にこだわりがない。体面を気にするような細い神経をしていない、あるいはそうした見栄に酷く無頓着なのである。無論己の権威を傷つける者には然るべき罰を与えるが、実務的な事柄には意外なほど寛容なのだ。

 

だからファーストクラスとは言え、ほかの乗客も乗り合わせるジェット機の搭乗に迷わず首を縦に振った。

 

とはいえ、これだけ視線を集める状況を気にしないかまではリリアナには分からなかった。やろうと思えばこの場にいる群衆すべてをひと睨みで塩の塊に変える権能を持った暴君なのだ。無いとは思うが気まぐれのその力を振るわないとは限らない。

 

侯爵が不躾な視線に気を悪くしないことを祈りながら足早にヴォバンを先導していく。一秒でも早くこの場から立ち去れるよう、一人でも多く向けられる視線が外れることを祈って。

 

誠実で、責任感のある少女は苦労を背負い込ませた祖父に胸中で盛大に愚痴を吐きながら、騎士の責務を遂行していた。

 

(……? いま何か―――)

 

そんな中。

 

ふと、向けられ続ける視線の一部に好奇心とは違うものが…警戒のような、疑念のような感覚がうっすらと混じったかのように感じる。念のために視線を周囲へ素早く走らせるが、見て取れるのは行き交う人込みと好奇心を込めた視線を向けてくる群衆だけだ。日本の伝統衣装だというキモノを着ている青年が若干目についたが、よくよく見渡すと数は少ないものの他にもキモノを着込んだ人間はちらほらと見かける。

 

この国の同業者と思われる人間の姿は確認できない。

 

そもそもヴォバン侯爵が唐突に訪日を決意し、その足で飛行機に搭乗するまで四半日とかかっていない。加えてその意思を誰に示したりもしなかった。それこそ“あらかじめヴォバンの来訪を予知していた”のでもなければ、この場に居合わせることなど不可能だ。

 

気のせいだろう、そう素早く結論したリリアナは意識を再びヴォバンに戻した。

 

「…………」

 

足早に立ち去っていく二人を見送る人混みの中に、仕立てのいい着物を着こなす青年の姿があった。青年は少しの間奇妙な二人連れに視線を向けていたが、やがてゆっくりとロビーの端に移動する。懐から変哲のない通話機器を取り出しながら。

 

個人認証を解除し、淀みなくある電話番号をコール。

 

「……もしもし? こちら羽田空港にて、“剣の妖精”らしき少女と老人の二人連れを確認した」

 

そして幾らかの言葉を交わし、通話を切ったあと、青年は再び人混みの中に紛れていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同日、放課後。

護堂、エリカ、そして裕理の三人は連れたって下校していた。

 

いつも通り、隙あらば護堂との距離を詰め、愛を囁くエリカとそれを時に柔らかく、時に厳しく(たしな)める裕理。二人に挟まれ、あたふたする護堂という、周囲から殺意と嫉妬を籠った視線が向けられる中での下校時間だった。

 

一見して痴話喧嘩の最中に見えるが、彼らの間を流れる空気は、知り合ってからひと月の時間が経ったせいか随分と気安い。

 

そんな中、エリカがさりげなく裕理に向けて話を切り出す。

 

「それにしても、最近はどうも同業者の人たちがピリピリしているわね。先日も訪ねたお店で質問攻めに遭ってしまったし」

 

甘粕さんに尋ねてもはぐらかされてしまうのよ、とエリカ。

 

「―――裕理は何か知らないかしら?」

 

と、さりげなく先日も語った、業界全体に蔓延する奇妙な厳戒態勢について裕理に尋ねる。世間話を装った情報収集。ここらへんがエリカの意外と抜け目ないところなんだよな、と護堂は呆れながらもつい気になって耳を傾ける。

 

一方水を向けられた裕理もキョトンとした表情で、

 

「はぁ…そうなのですか。申し訳ありません。私自身は七雄神社で巫女として責務を果たすばかりで、お話しするのはもっぱら宮司さんたちくらいなのです。あの方たちからは特に何も聞いておりませんが」

 

と、困惑の言葉を返す。半ば予測していたがこの世間知らずなところがあるお嬢様は、やはり世間の空気というやつにも疎いらしい。まあそれも彼女らしいか、と逆に護堂は納得した気分になった。

 

これで裕理が情報通なところを見せられれば、逆に意外過ぎる思いを抱いただろう。

 

「なるほど…。ごめんなさいね、急にこんなことを聞いたりして」

「いえ、気になさらないでください」

 

と、気を悪くした様子もなく微笑む裕理。

その笑顔に山間にひっそりと咲き誇る桜の可憐さを見た気がして、護堂も癒される思いであった。

 

「痛ッ…」

 

なお敏感にそれを察知され、密かに脇腹をエリカに肘でつつかれるまでがお約束であった。

それから少しの間、三人はある意味仲のいい様子で賑やかに会話しつつ歩みを進めていたのだが、ある交差点に至ったところで。

 

「申し訳ありません。本日は委員会から頼まれたお仕事があるので、私はここで失礼します」

 

と、裕理は折り目正しく頭を下げ、暇を告げた。

 

「頼まれた仕事って、万理谷が普段こなしている巫女さんの仕事とは違うのか?」

「普段は巫女として七雄神社で奉職するのが主なお仕事なんですが……たまに正史編纂委員会を通じて、呪術にまつわる物品の鑑定依頼などが持ち込まれるんですよ。私の霊視はこうした時に役に立つので」

 

つい気になった護堂が問いかけてみると、裕理は柔らかな笑みとともに丁寧に教えてくれる。

 

「なんでも魔導書を鑑定して欲しいとかで…。甘粕さんもお忙しいらしいのですが、何とかお時間を作って頂いて連れて行ってくださるようです」

 

そのまま何気なく事情を開陳してくる。ふと思ったのだが、部外者の自分たちにそうした事情を話してもいいのだろうか…。情報管理的な観点から心配した護堂は気付かなかったことにしておこうと見なかったふりをする。

 

そのまま別れを告げる裕理を見送ると、護堂達も引き続き帰宅の道を歩いていく。

 

―――この数時間後、彼らは東京を襲うとんでもない大嵐に巻き込まれるのだが、今の時点ではその前兆すら見えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とある貴族の別邸だったという由緒あるホテル。

敷地内に小さな日本庭園を擁した、和の雰囲気溢れる居心地のよさそうな宿だ。

 

このホテルの一画にヴォバンとリリアナは逗留していた。

 

見掛けは如何にも和風の宿といった風情だが、実際に中に入ってみると西洋人である二人にも馴染み深い洋風の装いだ。その中に畳や障子と要った和の要素が上手く配置されて、オリエンタルな雰囲気を醸し出している。

 

密かに日本贔屓な一面を持つリリアナは敷地内に誂えられた日本庭園等に興味を示していたのだが、随伴する超ド級の危険人物を放置するわけにもいかない。後ろ髪を引かれながらも、ヴォバンのために抑えたスイートルームの隅に控えていた。

 

緊張と畏敬を感じつつ、控えているリリアナを放ってヴォバンは食事に没頭していた。ホテル側にオーダーした食事を手当たり次第に口に含み、飲み下す。戦に備え、力を蓄えるように見境なく食い散らしていく。天ぷらなど比較的外国人にも知られたメニューが多いが、口に入れば何でも同じという風に無造作に喰らっている。

 

そうしてヴォバンが食事を食らい、リリアナが静かに控える時間がしばらく続いたが…。

 

「さて、リリアナ・クラニチャールよ。君に命じていた仕事の進捗はどうかね?」

 

ひと段落したヴォバンが問いかけるのは、万理谷裕理の所在だ。

 

「……いえ、今全力で彼女の存在を追っていますが、何分この国には伝手がなく」

 

嘘だ。本当は彼女の所属と住居程度なら青銅黒十字を通して把握している。だがそれを馬鹿正直に告げればヴォバンは気忙しく確保に動くだろう。周囲に配慮を見せない、乱暴な形で。せめて万理谷裕理と日本国民にかける迷惑を僅かでも減らすため、少しの間黙っておくつもりだった。とはいえリリアナ個人が抱えるヴォバンに向けた反感の発露という側面も確かにあったのだが。

 

そんなリリアナの叛意を見透かしたようにヴォバンは獰猛に笑う。

 

「構わぬさ、過程はどうあれ巫女はいずれ我が手に落ちる。ヴォバンが定めた以上、それは決定事項だ」

 

鷹揚な態度は絶対の自信の裏返しでもある。そして他者を顧みない傲岸さもまた。

 

「それに丁度小鳥が向こうから籠に飛び込んできたところだ。それを手繰ればどうとでもなりそうではある。君の手落ちは責めるまい」

「ご配慮ありがたく…。しかし、小鳥とは?」

「何者かは知らぬがね。先ほど何らかの縁を手繰り、最強の狼たる私を霊視した輩がいる。そやつが例の巫女かは知らぬが捕えれば十分役に立とう」

 

リリアナは何気なくヴォバンが漏らした、霊視されたことに気付いたという非常識な偉業に戦慄する。

霊視とはアストラル界の『虚空(アカシャ)の記憶』にアクセスし、情報を得る行為だ。故にどれだけ五感を研ぎ澄まそうと霊視されたことを察知できるはずがない。だがそんな理屈はヴォバンには通じないらしい。

 

リリアナは改めて痛感する。目の前の老人は、3世紀近い年月を闘争に明け暮れた純然たる怪物であると。

 

「おまけに、私の感覚も“視られた”せいかやけに研ぎ澄まされてね。おかげで意外なものも見えた」

「意外なもの、ですか?」

 

問い返すリリアナに微かに失望した視線を返すヴォバン。

 

「気付いておらぬか。剣の妖精と言えど、まだまだ青い」

「侯…? なにか無作法を―――」

「何故かは知らぬがこの国の術者どもは既に我らの存在に気付いている。遠巻きに囲んでいるのが見えた」

「まさか…! この国に降り立ってから幾ばくの時間も過ぎておりませんが」

 

流石に疑わし気なリリアナの言にも機嫌を悪くした様子はない。ヴォバン自身これほどまでに素早く位置を捕捉されたのは意外だったのだ。

 

ヴォバンが所有する権能の一つ『ソドムの瞳』は生者を塩の塊に変えるだけではない、ヴォバンにはるか遠くを明瞭に見渡す視力を与え、透視能力さえ付与する。

 

“見られている”という直感を頼りに、気になった方向に視線を向けてみれば術者らしき姿を捕捉したのだ。

 

「理由は分からんがな。それにヴォバンがいるとまでは知らぬらしい。欧州からはるか東の島国とは言え、好んで私に無作法を働くほど物を知らぬ輩はいまい」

 

その言にリリアナはますます首をひねる。では一体いかなる理由で彼らはこちらを監視しているというのか。

 

(私の存在に気付かれた? ……いや、だが)

 

リリアナ・クラニチャールは銀褐色の髪と妖精の如き端正な容貌で知られる乙女。その名前と特徴的な容姿はそれなりに認知度が高い。日本の術者が知っていても、おかしくはない。たまたま目に付き、存在を気付かれたことはおかしくない。だがその存在を知られたからと言って即座に監視に至るのは、対応が行き過ぎていると言わざるを得ない。

 

今も周囲を囲んでいるという術者たちの思考が読めず、せわしなく頭を回転させる。

 

将悟の“予言”を知らないリリアナでは合理的な結論に至ることが出来ない。そもそも霊視力による予言という合理からかけ離れた現象を起点として日本の術者たちは行動しているのだから無理もないが。

 

沈黙するリリアナを他所に、ヴォバンはしばし瞑目する。

 

(…あやつのことだ。時間を与えればこの先一切動かずとも勝手に気付き、こちらにやって来るであろうな)

 

赤坂将悟という少年を脳裏に描く。

 

邂逅したのは僅か一度、その時間の大半を権能のぶつかり合いに終始したが、その性格は概ね理解している。あの少年ならばヴォバンの存在に気付いたその瞬間に喜び勇んで突撃してくるだろう。喜悦に歪んだ笑みと、戦意に満ちた膨大な呪力を伴って。

 

それほどの逆縁をあの騒動の中で紡いでいた、良かれ悪しかれ。

 

気付かれ、そして再び顔を合わせることになったとしても……実はそれほど問題がない。元々件の巫女は交渉で手に入れるつもりだったのだ、実務的に考えれば万理谷裕理の確保より赤坂将悟との交渉の方が重要である。

 

懸念はあの少年の方から喧嘩を売って来るかということだが、恐らくは問題ない。ヴォバンに戦意が無いと知れば恐らくだが、将悟もまた矛を収めるだろう。あの少年は己の中の一線を超えない限り、不思議と相手に付き合う癖があるのだ。

 

故にこの状況は不可思議であってもさして解決困難というわけではない。むしろこちらから存在を知らせ、彼との交渉を申し込んでもいい。

 

(―――が、それは私が取るべき選択ではない)

 

頭を垂れ、恵みを乞うのは間違ってもヴォバンの流儀ではない。

如何に赤坂将悟という“王”の力量を認めていようが、それだけは認められない。

 

あの少年と交渉するところまでは同じでも、件の巫女を“譲ってもらう”のではない。まず自らの力で巫女の身柄を強奪し、その後に交渉によってその所有を“認めさせる”のでなくてはならない。

 

合理主義的なアレクサンドル・ガスコインあたりならば鼻で笑いそうなこだわりだ。交渉で解決できるのならば無駄に挑発し、無意味な労力をかける必要はないと。

 

傲慢な独りよがりと言ってしまえばそれまでだが、逆に言えばその強固な自我こそが彼ら(カンピオーネ)に神を殺害させた一因である。こうした時に折れる、妥協するという選択肢をカンピオーネは持たないのだから。

 

故に。

 

「……フン、多少は時間をかけるつもりであったが、思惑が外れたか。まあいい、私自ら動くとしよう。クラニチャール、君にも働いてもらおうか」

 

ヴォバンは拙速を決断する。

 

時間はあまりない。恐らくヴォバンの存在はまだ露見していないはずだが、あの智慧の王は条理を無視した直感力の持ち主。あの少年に話が持ち込まれれば、最悪その瞬間にでも自国に入り込んだ災厄に気付きかねない。

 

ならば存在が露見する前提で行動を急ぐべきだ。最善手を経験と野生の勘で導き出し、ヴォバンは決断した。

 

「はっ…。しかし万理谷裕理の居場所は未だ―――」

「そんなものはどうとでもなる」

 

リリアナの意見を一言で切って捨てる。

自身の発言を裏付けるように痩身から呪力を立ち昇らせながら、ヴォバンは尊大な調子で命じた。

 

「マリア・テレサ。そして魔女術の使い手達よ、来るがいい」

 

ヴォバンの号令に応え、影から現れ出でたのは十数人もの黒衣の女たちだ。長い杖を携え、鍔の広い黒帽子、全身をすっぽり覆う黒ローブと如何にも魔女という姿の女性を筆頭に精気の抜けた死相を晒した死人たちであった。

 

(彼女たちが…)

 

死せる従僕。

ヴォバンが自らの手で殺めた人間を忠実な下僕として使役する権能の犠牲者だ。

 

(なんと、惨い…)

 

彼女たちから流れてくる呪力はみな一様に淀みなく、力強い。少なくとも全員がリリアナ以上の使い手である。あるいは天地の位を極めるに至った達者もいるかもしれない。それほどの使い手達が死後の安息を許されず、魔王に酷使されている現実を目の当たりにし、リリアナは密かに痛ましさと義憤を抱く。

 

「魔女どもよ。生前の業を駆使し、目当ての巫女を探し出せ。急げ、時間はさほどあるまい」

 

彼女たちは横暴な命令にも黙然と頷き、空間を揺らめかせて姿を消す。

それを見送ったヴォバンは次の指示を出すべく、リリアナに向き直った。

 

「クラニチャール。君には目当ての巫女を見つけてからの説得を頼むとしよう」

 

手荒な真似は好みではないだろう、と嗜虐的な笑みを浮かべたヴォバンに…。

リリアナはただ一言、諾と答えた。

 

 

 

 




爺さまとリリアナの存在が原作より早く察知されたせいで、少し駆け足気味になっています。


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嵐、来たる ③

夕暮れ、もう少しすれば夜の闇が迫るであろう頃。

一台の国産乗用車が公道を走っていた。運転しているのは正史編纂委員会エージェントにして赤坂将悟の懐刀、甘粕冬馬だ。

 

「…やれやれ、一縷の希望を抱いて手がかりを求めて来てみれば、待っていたのは予想外のアクシデントとは」

 

これは権禰宜さんたちからお説教をもらいますかねェ、と。

 

平時からくたびれた様子の青年は、今はもっとくたびれた様子でぼやいていた。ハンドルの握りながら後部座席に視線をちらりとやると、そこには目を瞑って眠っている万理谷裕理が横たわっている。

 

先ほど青葉台にある委員会の機密文書館にて万理谷裕理に、最近押収した魔導書の鑑定を行ってもらっていた。尤も鑑定とはいってもあくまで霊視の霊力で魔導書の真贋を判別してもらうだけなので、専門的な知識は必要とされない。

 

さておき、全国から押し寄せてくる種々雑多な情報の山の処理に忙しいはずの甘粕が何故わざわざ裕理の鑑定に同行したのかといえば……ありていに言えばサボりのためだった。いや、それだけではないのだが。

 

将悟の“予言”により、業界関係者から寄せられる情報は爆発的に増大したが、現時点ではどれもこれも有力なものではない。強いて言うなら今朝方羽田空港で目撃されたイタリア・青銅黒十字所属のリリアナ・クラニチャールの存在が気にかかる。だが如何に“剣の妖精”と噂される天才児であっても将悟の言う“嵐”になるかと言われれば首をかしげる。

 

そんな中、迫りくる災厄の手掛かりを求め、霊視力に優れる裕理に同行していたのだ。将悟に次ぐ霊視力を有する彼女ならばなんらかの予兆を感じてくれるのでは、と期待して。

 

―――正直な本音を晒せば迫りくる膨大な仕事の山から逃げだすための口実という一面もあったのだが。

 

いやホント勘弁してください、と今もデスクに待ち受けているだろう膨大な情報の山を思い出すと些かならず憂鬱な心情になる。学生の頃は月給泥棒が夢だったという甘粕冬馬。能力はあれど勤労意欲は薄い類の人間なのだ。

 

甘粕の処理を待っている仕事の山に密かにため息を漏らしながらハンドルを握っていると、胸元の携帯電話からコール音が鳴り始める。

 

道路交通法上運転中の電話操作はいろいろと不味いが、幸いなことに現代の電子機器は日々便利さを増している。耳元に装着していたハンズフリー・イヤフォンの調子を確かめると、通話機能をオンにする。

 

『―――っすさん! 聞こえますか、甘粕さん!』

「聞こえていますよ。何事ですか?」

 

途端に耳に飛び込んでくるのは、委員会エージェントの緊迫感に満ちた荒げ声だ。言葉だけは軽いまま何か起きたか、と警戒心を最大に高める。一言一句聞き逃さぬように耳に神経を集中させた。

 

『“剣の妖精”を張り込んでいた連中がやられました! “塩の柱”ですッ』

「はぁ?」

 

一瞬何を言っているのか意味が分からず、反射的に問い返す甘粕。

 

『ですから“塩の柱”です! 張り込んでいた奴らが全員塩の塊になっちまってるッ! こんな真似ができるのはあのバルカン半島の―――』

「そういうことですかッ! 全員すぐにその場から撤退、近隣住民の避難準備も急いで! 下手をすれば文字通り東京が水没しかねないですよコレは!?」

 

らしくもなく混乱した甘粕だったが、ここまで言われてやっと有力な候補者の名前が浮かび上がる。

 

デヤンスタール・ヴォバン侯爵。

 

バルカン半島に拠点を置く最長老の魔王であり、確か東欧出身のクラニチャール家現当主は彼の心棒者と聞く。そして悪名高き風雨雷霆の権能“疾風怒濤(シュトゥルムウントドラング)”の所有者! 一〇〇と数十年前、とある都市を自らが呼んだ嵐で吹き飛ばしたという逸話の持ち主である。

 

かの魔王は文字通り嵐を呼ぶ男、なるほど将悟の言う“迫りくる嵐”にもぴったり符合する。

 

矢継ぎ早に指示を出しながら一体この国に何の用だ、と毒づく。かの老王に将悟が強いこだわりを見せたところを甘粕は見ている。このことを知ったあの少年がどんな行動に出るか、甘粕にも予想がつかない。

 

(狙いは将悟さんですかね…。まあそれくらいしか思いつかない―――)

 

いや待て…と、密かに引っかかりを覚える。

確か数年前、誰かがヴォバン侯爵がらみの“何か”に関わっていたような…。

 

(…………! 裕理さんは確か四年前の儀式に)

 

まさか、という念が過ぎり反射的に後部座席の人物を確認する。ありえない話ではない、甘粕の読みでは狙いは9:1で将悟。だが楽観視していい見立てではない。なにせカンピオーネに抗うことなどどんな人間にも出来ないのだから!

 

七雄神社に向かう予定だったが、行先変更だ。一刻も早く将悟と合流し、その庇護の下に入るべき。即断した甘粕は将悟と連絡を取るべく、一時道交法を棚上げして携帯電話を手に取って操作し始める。

 

11桁の数字を呼び出し、コールしようとする。ほんの十数秒の余裕があればそれは完遂されるはずだったが、生憎と少しばかり、しかし何もかもが遅かった。

 

「―――!? 次から次へとッ」

 

唐突に目の前の車線、甘粕が運転する国産乗用車の進路上に3人の人影が空から降り立ってくる。銀褐色の長髪をポニーテールにまとめた可憐な容貌、リリアナ・クラニチャールを筆頭に不気味な雰囲気の戦士が更に二人。手にはサーベル、戦斧、長剣と盾と物騒な武器が握られている。

 

咄嗟に周囲に視線を走らせても人影は見えない。恐らく進路を予測したうえで人払いの術をかけていたのだろう。

 

「狙いは裕理さん、と。入国したのは確か今朝だというのに嫌になるくらい手際が良いですねェ…。私のような貧弱な文系男子には荷が重すぎますよ、まったく」

 

こんな時も変わらないぼやき節。甘粕はこんな時でも甘粕だった。伊達に何度も将悟の繰り広げる騒動に巻き込まれては、その後始末に従事してきたわけではない。元々図太い性格が鉄火場慣れして更にしぶといものに変わっていた。

 

が、だからと言って状況が好転するわけではない。今のところ敵には電光石火の鮮やかさでことごとく先手を取られている。

 

「ひとまず失点が1、挽回はこれから次第といったところですが」

 

そして今日一番深い溜息をつき。

 

「言っても聞こえていないでしょうが……本当にすいません、ご迷惑をおかけします。裕理さん」

 

そしてアクセルを猛然と踏み込んだ。

 

エンジンが獰猛な唸りを上げ、車体が急加速する! 進路上の少女がギョッとした顔をするが、すぐに動揺を鎮めて手に持つサーベルに危険な光を漲らせる。抵抗されるならやむを得ない、そんな表情だ。

 

実際あの見るからに危険な魔術をかけたサーベルなら暴走する乗用車でも文字通り一刀両断しかねない。

 

こちらの勢いにひるんで突破できるものならばあわよくば、と考えていた甘粕だが流石にそこまで甘くはないらしい。だが構わない、もとより容易くこの場を切り抜けられるとは考えていない。

 

再度重い溜息を吐いた後、乗用車を操作する。

 

急ブレーキ、そしてハンドルを左に切る。手元に召喚した呪符に呪力を込める。猛スピードで動く常用車のタイヤとコンクリートが擦れ合う凄まじいスリップ音を響かせる! そのまま結構な速度で車体をクルクルと独楽のように回転させながら滑り続け、少女たちの丁度数メートル手前で急停止。

 

タイヤのゴムが溶ける嫌な臭いを漂わせながら、運転席の甘粕と通せんぼする銀髪の少女の目が合う。目線で車から出てくるよう促され、これみよがしにやれやれと頭を掻きながら敢えてゆっくりとした動作でドアを開けた。

 

「これはどうも、素敵なお嬢さん。ところで我々の進路妨害されているところ申し訳ありませんが、ただいま人を待たせておりまして。どいて頂けると助かります」

「……。すまないが、万理谷裕理は連れて行かせてもらう。承知しないのならば、残念だが手荒な真似をしなければならない」

「待ち合わせの相手が我らの王、赤坂将悟と知ってもですか? リリアナ・クラニチャールさん」

 

甘粕のとぼけた発言に、旧知の少女を思い出したのか若干の沈黙を挟んだ後不本意そうな声音で万理谷裕理の身柄を要求する銀の少女。自然な様子でリリアナの要求をスルーしつつ、カンピオーネの雷名を利用してこの場を切り抜けようとする甘粕。

 

両者の間に見えない火花が散った。

 

「……それがヴォバン侯爵の命故に。騎士として王の勅命に逆らえない以上、私に引き下がることは許されない」

「なるほど、ご苦労されているようで」

 

リリアナの言葉からやはりヴォバン侯爵の企みだったか、と疑惑を確信に変える。

 

渋い口調であくまで言葉を曲げないリリアナに、彼女とヴォバン侯爵との溝を感じながらやはり口だけで何とかなる相手ではなさそうだと感じる甘粕だった。

 

「悪いが同じ事を二度言うつもりはない。貴方は口が上手そうだからな、付き合っていたら何時まで時間がかかるか分からない」

「ということは、あなた方にとって時間をかけるのはマズイということですかね?」

「……ッ! 会話を引き延ばそうとする手には乗らないぞ、貴方みたいな知り合いを一人知っているが口車に乗れば大抵ロクなことにならないんだ!」

 

苦虫を噛み潰した表情でグイとサーベルを突き付けてくる少女。心なしか、そのロクでもない知り合いに抱く不満まで込められているのは果たして気のせいか。この少女、冷静沈着な見た目に反して中々直情径行にありそうだ。

 

「やれやれ……どうしても、裕理さんの身柄が必要と仰る?」

「そうだ。この国の人間として忸怩たる思いだろうが……悪いことは言わない。万理谷裕理の身柄を渡してくれ。侯は智慧の王と争う気はないと仰っていた。今ならば彼女の身柄だけで済むはずだ」

 

視線を鋭くして問いかける甘粕に、目を伏せて後ろめたそうに言葉を継ぐ。

 

「何故、彼女を? やはり四年前の儀式ですか」

「……そうだ。侯は再びあの儀式を執り行うつもりだ」

 

罪悪感と侯爵への反抗心からか、本来ならば喋る必要もないことをさらりと漏らしてくる。話しているだけで分かるほど彼女は善性の人間である。騙し合いや詐術にはとことん適性がなさそうだ。だからこんなにもあっさりと(・・・・・・・・・・・・・)甘粕の手口に引っかかる(・・・・・・・・・・・)

 

「なるほど…。どうやら、この場は貴方に従うしかないようですね」

「感謝する」

「感謝など、筋違いもいいところですよ」

「…そうだな、すまない」

 

甘粕が言っているのは“そういう意味”ではないのだが。まあいい、自分から目を塞いでくれるのなら好都合だ。

 

「裕理さんはある呪物を霊視して頂いたショックで寝込んでいます。丁重な扱いをお願いしますよ?」

「承知した。私は魔女だ、上手くやるさ」

 

自身は油断なく甘粕と相対したまま目配せで背後に控えていた二人に裕理の確保を指示する。見るからに死相を浮かべた死人が壊れ物を扱うように繊細な手つきで、車の後部座席から万理谷裕理を運び出す。

 

「それでは私はこの辺でお暇を―――」

 

そのまましれっとこの場を去ろうとする甘粕。

当たり前だがリリアナはそれに待ったをかける。このまま放置すれば将悟に話が行くのだから当然だ。

 

「それと万理谷裕理だけではなく貴方にも同行してもらう。この国の王に話が持ち込まれては困るからな」

「いやァ、それは困りますね。無断欠勤したなんてバレたらまた減給を食らいかねない」

 

甘粕をして反応できない速度でサーベルをその首元に突き付け、恫喝する。伊達にこの若さで大騎士の位を戴いているわけではない。ミラノの神童の看板に偽りない剣技の鋭さだ。

 

「なるほど。それでは抗ってみるか」

「いえいえまさか♪ これでも私暴力とは縁を切りたい性質なんですよ。だって殴られると痛いですから」

「ならば大人しく私に従ってほしいものだな」

 

サーベルを手に凄むリリアナに肩をすくめ、飄々とした調子を崩さない。この辺り甘粕も中々大した糞度胸の持ち主だった。しばし睨みあう二人だが、やはり最初に視線を逸らしたのは甘粕だ。

 

「まぁ、そろそろ頃合いですかね」

 

そうぽつりと呟きながら。

そして耳聡く聞きとがめたリリアナが次の行動に移るよりも早く。

 

「魅力的なご提案でしたが、それをやるとウチの王様が恐ろしいので。時間稼ぎ(・・・・)、お付き合いいただきありがとうございました♪」

 

最後に戯言を吐きながらパチリ、と似合わないウィンク。するとドロンッ、と古典的な音とともに甘粕の肉体が煙に変じ、後に残るのは人型に切り抜かれた一枚の紙がひらひらと舞うのみ。

 

「言ったでしょう? “感謝なんて筋違いも良いところだ”ってね」

 

捨て台詞がどこからともなく聞こえ、遠ざかっていく。

甘粕が使用したのは分身の術。講談で語られ、広く周知されたメジャーな忍術を使った見事な逃げっぷりだった。

 

「コレは噂に聞く、分身の術!? 迂闊、彼はニンジャだったか!」

 

あまりに見事に出し抜かれたリリアナは驚愕を顔に張り付けて叫ぶ。

 

魔女のリリアナが至近距離で視認しても気づかれず、加えて流暢に会話までこなす現身(うつしみ)。日本の呪術には門外漢のリリアナだったが、相当に高度な技術と練度が必要なのは想像に難くない。若く、頼りない見掛けに反して間違いなく達者(マスタークラス)の腕前である。

 

「油断した…もしや、彼がアマカス。智慧の王のお付きとかいう、ニンジャマスターか!?」

 

本人が聞けばそんなマスターシーフみたいな称号を勝手に付けないで下さいと突っ込むであろう台詞だった。

 

「一体何時の間に入れ替わった…いや、最初からか!」

 

リリアナと会話しながら入れ替わる隙など数瞬たりとも与えなかった、それは断言できる。ならば初めからリリアナはあの青年と直接顔を合わせてなどいなかったのだ。

 

わざとらしいほどにスリップしながら迫りくる乗用車にリリアナの注意は完全に引き付けられていた。その隙をついて分身を作り出し、運転席の本体とすり替わる。車体が死角となったタイミングを見計らい、ドアを開けて素早く離脱。リリアナの襲撃からほんの十数秒で決断し、実行せしめた手並みは敵ながら天晴れと称賛する他ない。

 

なにせリリアナが最も恐れるのはこの事態がかの智慧の王の耳に入ること。神出鬼没にして魔術に長けた魔導王を相手に逃げきれる自信、はっきり言って全くない。万理谷裕理を確保しながら状況は有利と言い切れない。一刻も早くヴォバンの元に戻らなければ、下手を打たずとも死ぬ。

 

「やってくれたな、ニンジャマスター。この借りはいずれ返すぞ!」

 

そして捨て台詞とともに万理谷裕理と二人の死せる従僕を連れ、軽やかにその場を飛び去って行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなリリアナを優に2㎞は離れた場所から視線を送るものが一人。

 

「―――誰がニンジャマスターですか、誰が」

 

ボソリとやはり突っ込みを入れながら、付かず離れず尾行を試みるのは甘粕である。

 

当初は一目散に逃走するつもりだったが、相手方が思った以上に赤坂将悟の存在に焦っていることに気付いた甘粕は一部方針を切り替えた。あの場から離脱した後、安全マージンを取った上で可能な限りリリアナを追跡することにしたのだ。

 

隠行は甘粕が特に得手とする術だ。例え追跡を警戒していたとしても、時間制限のあるあちらに慎重を期す余裕はない。そう踏んでの尾行だったが中々上手く嵌まっている。

 

甘粕に一杯食わされたことに気付いたリリアナは万理谷裕理をカバーしながらとにかく速度を重視して帰還しようとしている。行先は恐らく拠点としている場所だろう…とはいえ日本に来て一日も経たず、土地勘もない彼女たちが用意できるハコなどロクな物件ではないだろうが。

 

こちらとしても最低限拠点が判明すればそれでいい。出来れば移動中に奪い返せれば最上だが、大騎士クラスにサポートが二人いては甘粕では太刀打ちできそうにない。

 

それよりも今は将悟に連絡を付けなければ。

 

足音を潜めて疾走しながら懐から取り出した携帯電話で11桁の数字をコール。鳴り響くコール音が、2度3度と続く。普段なら何ということもなく待つ時間が今は焦りを呼び込んでやまない。

 

十数秒後、丁度甘粕がビルからビルの間をノーロープで飛び越えつつあるタイミングで電話先の相手に繋がる。

 

『おう、甘粕さん。例の件についてかい?』

「ええ、まあ。大本命が向こうからやって来ましたよ」

『そいつは奇遇だな、丁度俺の方にも容疑者最有力候補が来たところなんだ』

 

なに、と驚いて問い返す暇もなく二の句が継がれる。

 

『悪いけど切るわ。そっちも気になるが、今はどう考えても目の前のジジイに集中した方がよさそうだ』

「将悟さん? …まさか、いまそちらに―――」

 

ツー、ツーという無情な音が鳴り、通話が切断されたことを知らせる。

 

甘粕の脳裏に嫌な予感、というより確信が走る。絶対に間違いはない、こういう時に限って最悪の状況かその少し斜め上を行くのがカンピオーネという人種の特徴なのだから。

 

つまるところ甘粕からの報告を無視させるだけのものが、将悟の前に現れたのだろう。

一体誰が、などと敢えて考えるまでもない。

 

王に相対できるのは王だけなのだから。

 

 

 




ニンジャマスター・アマッカスの苦労はまだまだ続く!

そして次回、ヒロイン対決始まるよ!(ミスリード感)


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嵐、来たる ④

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もしやヴォバン侯爵こそが真ヒロインではないだろうか(錯乱)


夜の闇が迫りくる夕暮れ時。

赤坂将悟は傍らに清秋院恵那を伴い、ゆっくりとした歩調で歩みを進めていた。

 

あの“予言”以来、それまでに増して二人は同じ場所、同じ時間を過ごすようにしていた。

 

異変が起きた際にすぐ対応できるように、という名分だったが実のところ太陽の絆で結ばれた二人は将悟が望めばすぐ合流が可能だ。絆によって感覚的に恵那の位置が分かるので、自身の方に『転移』の術で呼び寄せるも、逆に自分から赴くことも出来る。

 

恵那も頭の巡りは悪くないので、その程度分からないはずがないがなんとなく流れで押し通している。一方の将悟もわざわざ無粋な指摘をするつもりもない。朝早くからモーニングコール代わりに太陽の絆を通じておはようの挨拶、学院が終わった放課後は連れたって各所をほっつきまわったり、逆に自宅で簡単な魔術の改良を進めたり、たまに恵那との太刀合わせ(ガチ)に付き合ったりという現状に特段不満もないからだ。

 

そんな平和な日々をのんびりとした気分で謳歌する将悟。自身で迫りくる嵐を幻視したというのに見事なまでの開き直りだった。この辺りは殺し合いが半分くらい日常と化した神殺し特有の感覚なのかもしれない。将悟の中で平和と闘争がごちゃごちゃに混ざっており、同一線上にあるくらいの気分なのだ。

 

だから夕食のためにレストランを恵那と探す、平和な時間を享受しながら異変を感じてからほぼ一瞬で脳内のスイッチを戦闘モードに切り替えることも出来た。

 

コツッ…、コツッ…とやけに耳に響く靴音。一歩一歩の間が長いのは靴音の主が相応の長身で、歩幅が常人よりも大きいからだろう。そして二人の眼前で最後の靴音を鳴らし、立ちふさがったのは黒ずくめの老人だ。

 

直感など必要ない。

脳裏に刻み込まれた眼前の飢狼が有する脅威が将悟に知らせる、この男こそ己が予感した“嵐”なのだと。

 

銀髪を撫でつけ、髭も綺麗に剃り上げている。秀でた額は知性的な印象を買うのに一役買っている。知的な老紳士の装い、されどそれはこの男の本質ではない。その気になれば衣を脱ぐよりもあっさりと、いとも容易く暴虐極まりない真似を実行する。

 

獰猛にして凶悪。猛々しい飢狼。

戦うために生きている男。生まれながらのファイター。

 

将悟にとっては全霊を以て打ち倒すべき不倶戴天の仇敵である。

 

ニタァ……と歓喜にも似た闘志が将悟の口元を三日月の形に歪めた。

 

―――そしてこのタイミングで将悟の懐で携帯電話がブルブルと震えだす。

 

何ともタイミングが悪い、いや逆か。

眼前の老人が入国した悪夢の如き事実がたった今発覚したのだろう。

 

通知を見ると、やはり甘粕からかかってきていた。

最低限の義理を果たすべく、将悟は油断なく眼前の老人を睨みつけながら携帯を手に取る。

 

「おう、甘粕さん。例の件についてかい?」

『ええ、まあ。大本命が向こうからやって来ましたよ』

「そいつは奇遇だな、丁度俺の方にも容疑者最有力候補が来たところなんだ」

 

なに、と驚いた様子だがそのまま問い返す暇を与えず二の句を継ぐ。

 

「悪いけど切るわ。そっちも気になるが、今はどう考えても目の前のジジイに集中した方がよさそうだ」

『将悟さん? …まさか、いまそちらに―――』

 

それ以上は最早聞いていられなかった。乱暴に通話を切ると、懐に携帯電話を突っ込む。

そして無意識の内にポケットに突っ込んでいた手を抜き、ほんの僅かに先ほどより前傾姿勢を取った。

 

将悟が戦闘態勢にシフトしたのを感じ、恵那もまた咄嗟に竹刀袋から相棒を露出させた。

 

「久しぶりだなァ、ジジイ。待ち草臥れてわざわざ俺に会いに来たかァ…?」

 

眼前の老人の名など、問わずして恵那にも分かる。

将悟の敵愾心をこれほどまでに刺激し、露骨なまでの警戒態勢を取らせる異邦の老人など世界にただ一人。

 

バルカンの狼王、サーシャ、デヤンスタール・ヴォバン侯爵を置いて他にない。

 

「英国以来だな、少年。会えて嬉しいよ」

 

あからさまに闘争意欲を剥き出しにする将悟に対して、その返答は穏やかだった。

 

「だが、喧嘩腰なのは頂けないな。我らの死闘を場末のチンピラの諍いに貶めるほど、君と私の逆縁は安くはないはずだぞ?」

 

それどころか将悟との闘争には肯定的でありつつ、悪戯に好戦的な言動を嗜めさえしてくる。これには将悟もまた自身の言動を顧みたのか微かに不貞腐れた空気を漏らした。

 

恵那は思わずホッと一息を吐く。彼女の王様は自身が暮らす街を殊の外大事にしているものの、実際に意識が戦闘モードに切り替わるとブレーキが利かなくなることが多い。智慧の王などと賢しらな称号を得ていても、結局は感情で動くタイプであり、後先考えない粗忽者というキャラクターである点は他のカンピオーネと変わらないのだ。

 

将悟はケッと唾でも吐きたそうな表情を見せたあと、肩透かしを食らった表情で問いかける。

 

「それで何の用でこの国に来た? 間違っても観光じゃねぇだろ」

 

それは当然の問いかけだったが、それに対する返答は相当におかしいモノだった。少なくともヴォバンの気性にそぐわない言葉だったのは確かである。

 

「君へのサプライズだ。驚いてくれたかね?」

「……あぁ?」

「言ったろう、サプライズだ。老人のささやかな戯れだ。付き合ってくれると嬉しいのだがな?」

「なんだ、そりゃ」

 

珍しい、というよりほぼ絶無と言える稚気を覗かせながらヴォバンが吐いた妄言に将悟は己の耳か正気を疑っている表情をしている。それはそうだろう、恵那もまた密かに将悟の困惑した気配に強く同意する。

 

伝え聞く侯爵の所業、気性を考えればそんな茶目っ気を持ち合わせているようには到底思えない。

 

「無論、それだけではないがね。強いて言うなら、君と私がここにいる。それが目的に繋がっている」

「自己完結するな、ボケジジイ。きっちり俺にも分かるように説明しろ」

 

口汚く、しかし疑問と疑惑が強く滲み出た詰問も却って侯爵の口元に浮かぶ笑みを歪めるのみだ。それもやや嘲笑の色が強い揶揄とはっきり分かるくらいに。

 

「あまり長上に減らず口を叩くものではないぞ、小僧」

「あんたが大人しく敬老精神を発揮させてくれるなら考えないでもないけどな」

 

戯言に付き合いながらも、どうやって眼前の老人に口を割らせるか頭を回す。普段は頼みもしないのに働くくせに、当てにすると途端に降りなくなるのが霊視である。いま将悟の中では強い好奇心と危機感が等分に混ざり、混沌としている。こんな精神状態では霊視など間違っても降りてくるはずがない。

 

「まあ私の目的はいずれ君の耳にも入るであろう。敢えて私の口から話すまでもない……それよりも、少し気になっていることがあってな」

「―――ああ?」

 

こちらの話など何一つ取り合わず、好き勝手に話を進めていく言動にこれは間違いなくカンピオーネだ、と恵那はおかしなところで確信する。だがそんな呑気な感想を抱くのが許されたのも、ヴォバンの次の発言までだった。

 

ヴォバンはその無造作に肉の落ちた長い指先を―――清秋院恵那に向ける。

 

そこのソレは何だ(・・・・・・・・)?」

 

ゾクリ、と説明不可能な悪寒が恵那の背筋を奔り抜けた。

人に向けるにはあまりに熱量がなく、それでいて不快感と失望が入り混じった視線が突き刺さる。路傍に落ちたゴミを見て顔を顰めたような…そんなマイナスな感情を露骨に顔へ表している。

 

「少し、失望したぞ。かつての死闘より一年、ヴォバンに届かずともそれなりに力を蓄えていようと期待していたのだが……なんだ、その様は? 我が後進、同格の神殺したる君がまさか人間の真似事か?」

 

将悟に向けて微かな失望を覗かせながら、エメラルドの凶眼が清秋院恵那をねめつける。

 

「世間に恋に現を抜かし、愛に溺れる輩がいるのは…理解できぬが、否定はすまい。だがそれは(われら)に相応しきあり方にあらず」

 

どこまでも物静かにヴォバンは言う。

 

「あるいはその娘を失えば、少しは君も気概を取り戻すか?」

「……ッ」

 

淡々とした穏やかな口調で紡がれる横暴で身勝手な発言、最長老の魔王から向けられる害意に反射的に怯む恵那。情けないとは思わない。如何に神がかりの巫女と言えど、眼前の魔王に真っ向から相対するには格が違い過ぎる。

 

―――しかしまぁ、相変わらず好き勝手なことを言ってくれるじい様だ。

 

赤坂将悟は本質的に感情の人間だ。万事鷹揚とした態度を見せるのは畢竟世間の事柄の大半に自身の関心が向かないからであり、実のところ己の身内を蔑ろにされれば猛然と牙を剥き、突き立てる類の猛獣である。それが例え、自身よりはるか格上と認める相手であろうと!

 

プツプツと米神の辺りで何かが切れる音がするのは果たして幻聴か。

 

端的に言ってこの時将悟は“ブチ切れかけていた”。

それ以上ヴォバンが不用意に言葉を続ければ、街の被害など何もかも投げ捨て躊躇せず権能を行使するほどに!

 

「それこそ余計なお世話だよ、爺さん。あんた何時からそんな面倒見のいい人間になった?」

 

胸の内で渦巻く激情に蓋をし、敢えて淡々と言葉を紡ぐ。ヴォバンがそれ以上言葉を継ぐのなら実力行使してでも黙らせてやる、と気概を込めて。

 

冷徹な決意を込めながらそれとな、と言葉を継ぐ。

 

俺の≪剣≫を舐めるな(・・・・・・・・・・)

 

特段語調を荒げたわけではない、寧ろ静かな一言にヴォバンは僅かに瞠目する。

 

将悟が吐き出した言霊。そこに込められた感情の熱量が伊達でないということを悟った故に。

真実、将悟(カンピオーネ)が隣に立つ少女()を頼り、信頼していることを理解させられたが故に。

 

そしてただ一言でヴォバンにそれを認識させる、成長した将悟の“格”に!

 

「―――クッ」

 

なまじ権能の数を自慢されるより、こちらの方がよほどヴォバンには“効いた”。

 

「ク、ハハハハハハッ!」

 

堪えきれぬ、と言いたげにヴォバンは愉快気な笑声を漏らす。

今日はなんと良い日だろう! 未来の仇敵の成長を、この目で見て取れたのだから!

 

笑う、笑う、吼えるように笑い声を張り上げる。

おかしそうに、楽しそうに呵々大笑する。

 

ひとしきり笑い倒すと、そのまま微かに機嫌の良さそうな気配を漂わせる。欧州では珍しいを通り越して絶無に近い光景だ。この狼王の琴線に触れる存在など、強大なまつろわぬ神か同族との闘争以外ありはしないのだから!

 

「なるほど。謝罪しよう、少年。その言葉の真偽はさておき、確かに君は弱くなっていないようだ」

「…謝罪するなら俺じゃなくてこっちにしろよ、相変わらず礼儀を知らない爺様だな」

「はは、長く生きているとついつい怠りがちになるのでな。だが確かに道理だ。すまなかったな、お嬢さん」

 

言葉の上っ面こそ謝罪の態を成しているが、視線に罪悪感など微塵も込められていない。むしろ無遠慮な好奇心と遊び心が強く混じっている。

どうやらヴォバンの興味は将悟にそこまで言い切らせた恵那にシフトしたらしい。

 

「……別に、構わないよ。ヴォバンの王様」

 

普段は野生児然とした彼女だが、生まれは名家の子女である清秋院恵那。異様なまでに丁寧で堅苦しい口調もその気になれば使いこなせるのだが、この場では敢えて使う気はないらしい。

 

「ふむ。君はヴォバンに(こうべ)を垂れぬのだな。君の主を(たの)みとしているのなら、それは誤りだと忠告しておこう」

 

自身の権威に膝を屈さない恵那へ面白がるように言葉を投げかける。だがヴォバンは歪んだユーモアの持ち主にして力を振るうのをためらわない暴君、機嫌を損ねれば即座に死を与えられてもおかしくない。

 

それを理解していないはずがないが、なお恵那は己の意思を曲げずに貫き通す。

 

「うん。迷ったけど、侯爵様にはこっちの方がいいかなって」

「ほう? 君如きに私の何が分かったのか、興味があるな。是非教えてもらいたい」

 

威圧的な言動にも最早怖気づかずに、かといって殊更に声を張り上げるでもなく自然体な調子で言葉を紡ぐ恵那。庇護者を頼りながらも、依存しない彼女は、将悟の存在に助けられて調子を取り戻してきたらしい。

 

言動に注意を払いながらも、むしろ堂々たる態度でヴォバンに向かい合っている。

 

「これは勘だけど。ヴォバンの王様って、傅かれるのに慣れてそうだけど、別に好きってわけじゃなさそうだよね」

「……続けたまえ」

 

恵那に向けてヴォバンは僅かに視線を細め、続きを促す。恵那の発言が的外れであれば、あるいは恵那が庇護者を盾とし、その陰に隠れるだけの人間であれば何らかの罰を下していたことは想像に難くない。

 

「王様から話に聞いた侯爵様は、間違いなく戦に狂ったひねくれ者。そんな人が従順で、諾々と命令に従うだけの人を好むかな? むしろ反抗的で、簡単には自分に従わないくらいの人の方が好きだと思う」

 

思う、と言葉を結ぶ割にやけに確信している調子だった。これは恵那が論理と理性ではなく、直感と野生で動くが故に。将悟や裕理の霊視力とは種類が違うが、彼女の直感もまた侮れないのだ。

 

その鋭さは未だに恵那がヴォバンの勘気を(こうむ)っていないことで証明されている。

 

「はは…。全てを射抜いてはいないが、そう遠くもない。そう言っておこうか。中々目が利き、弁も立つようだ」

 

自他ともに認めるひねくれ者としては絶賛に近い言葉だった。並の者ならばここでヴォバンと相対しているプレッシャーから解放され、気を緩めてもおかしくないが恵那はむしろ兜の緒を引き締めながらヴォバンの出方を待つ。

 

この筋金入りのひねくれ者がただお褒めの言葉をかけるだけ終わるはずがないと、確信に近い念を抱いて。

 

「だが果たして人間が神殺しの戦場に立つに相応しき力量を持つか…要点は常にそこだ。いささか気になるところだな」

 

やはり、と言うべきか痩身から不吉な呪力を揺らめかせながらあくまで静かな口調で恫喝する。知的な老紳士の皮を脱ぎ捨て、撒き散らされる邪悪な圧力をこれまでの比ではない。唐突に寒気に襲われ、びりびりとした害意が全身を叩く。ただの殺気でこの有り様、流石は三〇〇の齢を数える魔王の貫禄だった。

 

「―――!」

 

咄嗟に恵那を庇って前に出ようとする将悟を制し、恵那は(おもね)らずしかし抗わず、透徹とした意志を込めて決意を表明する。例えどれだけ強大なる敵と向かい合おうと、それは自身が退く理由にはならないのだとその身で示すように。

 

「すべて、戦場(いくさば)に立てば分かること」

「……」

「恵那は王様を援けるよ。何時でも、何処であっても。もちろん、侯爵様と戦う時だって!」

 

その決意に一切の嘘偽りがないことを、輝く生命の絆が万の言葉よりも雄弁に将悟に伝えてくれる。恵那は必要なら今この場でも鞘から太刀を抜き、抗いぬく決意を携えて、思い上がりと紙一重の啖呵を切ったのだ。

 

“あの”デヤンスタール・ヴォバンを前にして!

 

嗚呼、と将悟はこれまで数限りなく覚えた感嘆の念をまたも抱く。

出来るならば命一杯声を張り上げて、ヴォバンに自慢の一つもしてやりたいところだった。

 

どうだ(・・・)いい女だろう(・・・・・・)―――と!

 

「小娘がよく言った! つくづく主従揃って長上への礼儀を知らぬ輩よな、だがそこがらしくもある」

 

ヴォバンもまた己を相手に一歩も引かない恵那の宣言にいっそ痛快な様子で哄笑を上げ、少女の存在を路傍の石からちっぽけだが確かな敵に認識を改める。

 

「良かろう、貴様もまた赤坂将悟と同様に我が障害と認めよう。ヴォバンが貴様の主を狩ると決意した、その時同様に最期を迎えるだろう! 努々忘れず、備えることだな!!」

 

老紳士の皮を脱ぎ捨てた吼えるような敵対宣言に、恵那は負けじと笑みを浮かべて不敵に頷いて見せる。流石に哄笑する魔王のプレッシャーに晒され、額にびっしょりと汗をかいていたが五体満足のまま立っているだけで十分称賛に値する所業である。

 

「名乗り給え。君は私が記憶しておく価値のある人間であることを証明した」

 

普段の陰鬱さが鳴りを潜めた代わりに重厚感を増した、威厳のある低い声音で少女の名を問いかける。対する恵那もまた、畏敬を持ちつつ微塵も怯えを見せず堂々と言い切る。

 

「清秋院恵那。王様の“女”で…敵を討つ“剣”!」

 

異国の響きを持つ少女の名を幾度か舌の上で転がすと、深く頷きを見せる。

 

「その名、しかと覚えたぞ。主をよく支えることだ、私と戦う前に討たれてしまわぬようにな!」

 

余計なお世話だと呟く将悟に構うことなく、二人は笑みを浮かべ合う。ひどく好戦的で、僅かに喜悦を浮かべた笑みを。

 

「思いもかけぬ出来事もあったが、中々実りある時間だった。その点については感謝しよう」

 

ひとしきり感情を発散させ、満足したのかヴォバンはまた物静かな大学教授じみた雰囲気を纏った。そして話は終わりだとばかりに背を向ける。相変わらず来るときも唐突なら去る時も突然だと毒づきながら咄嗟に呼び止める。

 

「待て、爺さん。アンタ、俺の国で何をやった? 俺の仲間から聞いたぞ」

「ああ、ヴォバンの興味を引く獲物がこの国にいた故な。少々事を荒立てたが、やり過ぎぬように言い含めてある。安心するがいい」

 

なんだと? とその返事に対して訝しく思う将悟。

そんなとんでもない案件は……意外とあったな、と日光の蛇殺しや草薙護堂の存在に思い当たる。まあ前者はともかく後者はわざわざこの男に足を運ばせるほどの格はまだ有していない。まさかこの国にわざわざもめ事の種を求めて来たのか、このじい様は。その割に将悟のことをみすみす見逃しているのは奇妙なところだが。

 

「その件で話す気になったのならば、何時でも訪ねてくるがいい。歓迎しよう」

 

が、話し合うという意思表示が尚更首を傾げさせた。間違ってもそんなお茶を濁した動きを取る人間ではないのだ、この老人は。獲物を見つければ他者を顧みず食らいつく、さながら飢狼のような男なのだから!

 

「私の用は済んだ。さらばだ、赤坂将悟。そしてその《剣》たる娘よ」

 

疑問符を浮かべたまま怪訝な面持ちで見送る将悟を他所に、ヴォバンは足早に迫りくる夜の影に紛れるように立ち去っていったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二人の胸に腑に落ちぬ思いを残し、去っていたヴォバン。

しばしの間、それぞれ思考と感慨に耽っていたが、やがてヴォバンとの会話を前にかかってきた甘粕からの連絡を思い出した。

 

今頃さぞや気を揉んでいるだろうと、電話を取り出したのだが。

 

「あま―――」

『将悟さん! いまどちらですか? 戦況は!?』

「おおうっ…」

 

やはりというか、開口一番予想通りの反応をされてしまった、いや、問いかけてくる勢いが激し過ぎて若干引いてしまったが。

 

「俺の家の近く。ヴォバンのじい様がやって来て、少し話したらまた行っちまった。ほんと何のために来たんだかな」

 

あのジジイが暇を持て余すとロクなことが無いな、とそのままぼやきに繋げる将悟に苦笑と安堵の溜息を吐く甘粕。彼にしてみれば本気で東京23区の一画消滅を危惧していたところにこの呑気な発言である。人の気も知らないで、という呆れと物騒なことにならず良かった、という安堵が同時に訪れ、溜息に繋がった。

 

『それなら私がご説明できると思いますよ。こちらに来たお嬢さんが親切な方でしてね。色々とお話してくれました』

「で、そのあと一杯食わせてからエスケープしたんだろう。悪い大人だな、甘粕さん」

 

でなければこうして甘粕が将悟と呑気に電話していられるはずがない。

そして同時に納得がいったと頷く。

 

「どうにもあのジジイにしては手緩いことの運び方と思えば、狙いは俺以外の何かか。でもってわざわざ俺の前に現れたのは“足止め”? まさか日光のエテ公の封印を解こうってんじゃあるまいな」

 

思索より直感に重きを置く将悟だがこれで頭の巡りは悪くない。むしろ荒事、勝負事に関わる分野なら人一倍鋭いものを持っている。

 

『幸か不幸か、ハズレですな。しかしあなた“方”の対応次第では同等の面倒事に成り得ます』

「……へェ。草薙も首を突っ込んでくると甘粕さんは見るか」

『鉄火場に迷わず突っ込む度胸と人並み以上の義侠心の持ち主ですからねー、あの方は。それが彼を望まない厄介ごとに引き寄せているのは皮肉と言う他ありませんが』

「要するに小さな親切、大きなお世話って話だわな。半分は巻き込まれたにしても、もう半分は自分から首を突っ込んだに決まってる。その上で要らん綺麗事や言い訳を口にしなければもうちょっと好きになれそうなんだがな」

 

その後も益体の無い軽口が2、3二人の間で軽妙にやり取りされる。

 

恵那が呆れた視線を向けてくるが、ここまでぐだぐだと無駄口を重ねているのは、流石に意図あってのことである。甘粕は自身の持つ情報を将悟に伝えていいか迷い、将悟はそんな甘粕の心理を察した上で付き合っている。

 

胸の内だけで一つ、溜息をこぼす。

 

この場で話さずとも、遠からぬうちに必ず将悟の耳に入るだろう。何かのきっかけで霊視を得るかもしれない。ならばせめて自分から伝え、望む方向に誘導するよう試みる方が幾らかましだろう。

 

そう自分を慰めた甘粕はやがて諦めたように口を開く。

 

『……お願いですから、本当に委員会一同伏して御請願奉りますから、冷静に聞いてくださいね?』

「いーからとっとと言ってくれ。時間が惜しい」

『侯爵の狙いは裕理さんです。彼女は以前侯爵が執り行ったまつろわぬ神を招来する秘儀に捧げられた巫女だったんですよ』

 

四年前、狂気じみた激しさで強敵との戦いを望むヴォバンによって執り行われた儀式。

ヴォバンの好戦的な気性を示すと同時にサルバトーレ・ド二の鮮烈なデビュー戦として認知されている。

 

そして儀式のために召集された三〇余名の巫女の大半はいまも自我が崩壊したままだという。なお執り行われた儀式の難度を考えればこれは奇跡的に少ない犠牲らしいが―――無論、将悟からすれば何の関係もない。

 

「―――へぇぇ?」

 

ひどく乾いた調子の、疑問符が混じった相槌が打たれる。

何でもない相槌だ、何でもない一言だ。

 

だがその一言から零れ落ちる感情の“熱”に近くにいた恵那が思わず一歩後ずさり、甘粕の脳裏に不吉な予感をよぎらせる。

 

もともと裕理の優先順位が将悟の中で低くないことは甘粕も薄々とだが察していた。弁慶とアテナの一件以来恵那や、たまに甘粕を通じて裕理の様子を聞き出していたのだからそれは一目瞭然だ。

 

だがその一方で動物的な感性の持ち主であるため、相手に配慮することが苦手な性格でもある。エリカ・ブランデッリや草薙護堂あたりの、さりげなく人に目を配って心を砕くマメさは持ち合わせていない。

 

そんな人付き合いが下手くそな少年なのだ。だからこそ彼が配慮を向ける人間と言うのは少なからず関心を持っている人間に限定される。

 

だがここまで入れ込むほどに親交はなかったはずだ…と、甘粕は違和感を抱く。

 

いま将悟の中で荒れ狂っている衝動が如何なる心の動きにねざしているのかはわからない。だが間違いなく危険な兆候である、あるいはこの東京を飲みこみ、焼き尽くしかねないほどに。

 

ぞくり、とヴォバン侯爵の存在を認識した時以上の悪寒が甘粕の背筋を奔り抜けた。

 

 

 

 




勝手にキャラが動き出す不思議。
そして自分が認めた敵にしかデレない侯爵は間違いなくツンデレ。



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嵐、来たる ⑤

またしても宣言していた年内投稿に間に合わなかった…。
あ、はい予想されてましたよね。約束破りの常習犯ですいません…。

以前リクエストされた方はちょっと今執筆中なんで待って下さい。
清秋院家嫁入り挨拶のついでに太陽の加護を絡めて書こうかと模索中なんです。

それにしてもカンピオーネに交渉事ってほんと鬼門なんだなって(小並感)



聞き捨てならない発言に思わず胸の内の怒りを漏らしてしまったものの、しばし時間経過により将悟は落ち着きを取り戻した。その後電話越しに甘粕と大雑把な現状やヴォバンの拠点らしき箇所の位置など情報交換し合いはじめる。

 

『侯爵の目的はまず裕理さんの確保として…二番目は将悟さんですかね。伝え聞くご気性だと本番の前のちょっとした手合わせ程度の感覚で、喧嘩を売って来ても可笑しくはない気がしますが。東京都民一〇〇〇万の生命など何とも思っていないでしょうし』

 

甘粕はカンピオーネに関わる人間の習性として、悲観的な見方を述べる。神やカンピオーネが関わる事態には最悪の状況を想定するのが定石である。実際はその少し斜め上をいくこともしばしばだ。だから甘粕の見方は定石とすら言えるが、将悟はヴォバンをよく知るが故にもう少し別の見方を示した。

 

「どうだかねー。俺はそこまでやる気はないと見るが」

『と、言いますと?』

「簡単だ。上を見ればわかる」

 

ひょいと指で分厚い黒雲で覆われた夜空を示す。つられて恵那も視線を空に向け、甘粕も電話口の向こう側でそれに倣っているだろう。

 

『……曇っていますな』

「だが降り出すには程遠い。空気の湿り気もそれほどじゃない」

 

誤った解答に対して淡々と機械的に正答を指摘する調子で将悟は言う。

 

「テンションが天候に直結するじい様だからな。本気でその気ならとうの昔に土砂降りになっていないとおかしい」

『では侯爵は将悟さんと争う気はないと? 確かにリリアナ嬢は事を荒立てる気が無いと言っていましたが…』

 

ちょっと信じ難い、との本音が透けて見える口調。将悟としてもヴォバンの扱いに異論はないが、もっと救いのない事実も知っている。

 

「たぶん、じい様自身にはそこまで荒事にする気はないと思う。だから鉄火場に(・・・・・・・)ならないとは限らないが(・・・・・・・・・・・)

 

例え俺がいなくてもな、と将悟。

 

本人にそのつもりがなくとも勝手に揉め事の火種、または注がれる油になり、その規模を拡大させていく。全てのカンピオーネに共通する得意技……というよりも生態と言うべき特徴である。草薙護堂、アレクサンドル・ガスコイン辺りがその典型だろう。

 

そして今しがた名前が挙がった魔王が、丁度このすぐ近くに住んでいるのだ。間の悪いことに攫われた裕理はひと月前の騒動以来草薙護堂と交流を深めている。おまけに人一倍義侠心と公共心を持ち合わせ、後先考えず突っ走るその性格。

 

「これで楽観視出来る奴がいたら、思わず指を差して笑う自信があるな」

『やめてくださいよ。また予言を成就させた貴方にそう言われると、1%の希望すら消えてしまいそうだ』

 

1%の希望……つまり甘粕もまた確信しているのだ、草薙護堂の参戦を。だが護堂の存在に頭を痛める甘粕と少しだけ異なり、将悟はより積極的に考えを進め、平然と果断な決断を下す。

 

「毒も喰らえば皿までだ。潔く1%の希望なんて捨てちまおう」

『……と、言いますと?』

 

先ほどと同じ言葉を、覿面に重苦しい調子で繰り返す。なんとなく言いたいことを察しつつあくまで乗り気ではないという意思をこれ以上なく雄弁に表現した一言であったが、将悟はもちろん頓着せずに続けた。

 

「こっちから草薙に状況を知らせろ。放置して、良いところで横合いから殴りつけられるくらいなら最初から巻き込んでスタンスを確かめる」

『日本の平和を守る公務員としては出来ればそのお考えは取り下げていただきたいのですが…』

「はっきり言うがリスクはどちらも大差ないぜ? 草薙が何も気付かず、呑気に爆睡してくれる可能性に賭けるなら別だが」

『大穴狙いのギャンブラーでも断固拒否するでしょうね、賭けが成り立たないと。しかしそんな…カンピオーネのお三方が相争う地獄絵図を、本当にコントロール出来るので?』

 

神殺しと言う種族への理解から来る深刻な危惧と疑念に満ちた問いに少年はいっそあっけらかんと答える。

 

「無理に決まってるだろ。イギリスの時もそうだった」

 

と、かつての騒動を余計にこじらせる一端に関わった少年がそうのたまった。

 

「単純な話だよ。見えないところで動かれて予想外のことをやらかされるより、いっそ目が届くところで暴れてもらった方がまだましだ」

『その“暴れる”というのが唯一にして最大の問題だと思うのですが』

 

予想外のファクターを嫌う将悟に対し、首都東京へもたらされる広範囲の物理的な被害を憂慮する甘粕。こうした騒動に際し二人の意見が分かれるのはしばしば見られることだが、議論になることは少ない。大抵の場合将悟が譲らず、素早く見切りをつけた甘粕が折れるからだ。

 

最近とみに多くなってきた溜息をまたこぼし、甘粕は了承の意を示した。

 

『かしこまりました。万事、仰せの通りに』

「頼んだ…。悪いな、甘粕さん」

『もう慣れました。それより少し自重というものを覚えていただけると嬉しいですな』

「ごめん無理。なんせ相手が無茶苦茶な連中ばっかりだからなァ…、真面目にやってちゃラチが開かないんだ」

『将悟さんが取る行動が多くの場合有効なのは認めます。ただ、傍から見ていると嵐の中で綱渡りしているようにしか思えないんですよ。私の胃を少しは心配してくれても罰は当たりませんって』

 

愚痴を交えて、しかし真摯に少年の身を案じる言葉を口にするエージェントに少しだけ口元を笑みの形に歪める。

 

「ほんと悪いね、“これからも”苦労を掛ける」

『知ってました。将悟さんですからね』

 

暗に自重するつもりはないと答えながら、同時に数多の騒動に協力して解決する中で築いた信頼と絆を言葉に乗せる。

 

俺の街(うしろ)を任せる。甘粕さんなら上手くやれるだろ?」

『―――お任せあれ。ま、伊達にあなたのお付きで鍛えられてはいませんよ』

 

甘粕は恒例となった溜息を吐きつつ、密かに胸の内を焼く熱いものを反芻する。

 

次から次へと迫りくる厄介ごとに胃を痛めながら、暴走する少年に突っ込みと諫言を入れ、更にそのフォローに奔走する。この少年の女房役は今のところ自分以外勤まらないだろうし、ついでに言えば誰かに譲る気もない。そんな自負のこもった応えだった。

 

やはり良かれ悪しかれ、カンピオーネという人種は人を狂わせる何かがあるな…と思いながら。

 

「俺は少し避難誘導を手伝ってくる。委員会だけじゃ人手は足りないだろう。それが終わればじい様の所だ」

『……あー。まあ手伝っていただけるなら有り難いことこの上ありませんが―――本気でやるつもりなんですね、我らが王様は』

「多分今までで一、二を争うくらいには酷いことになるなー」

『そこは断言して欲しくなかったですねー…』

 

いっそ確信と言っていい念が込められた不吉な宣言に暗鬱な未来を予期しながら、せめてもの次善を行うため、甘粕は通話を切ると行動を開始した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヴォバン一行がかりそめの拠点としたホテルの一角で、リリアナは万理谷裕理の目覚めを待っていた。常に謹厳な態度を崩さ胃ない彼女だが、今はいつも以上にむっつりと黙り込み、不機嫌な気配を漂わせていた。

 

その原因はやはりと言うべきか、ヴォバン侯爵にあった。

 

リリアナが裕理と二人の従僕を連れて帰還すると、ヴォバンは常に無い機嫌の良さで迎え、あまつさえ褒美の言葉まで与えたのだ。ここまでならリリアナも困惑しつつ丁重に対応するだけだったのだが、その中でふとこぼれた言葉にリリアナが危機感を覚えた。

 

ヴォバンがこともなげに言ったのだ、このホテルは貸切っておいた…と。

 

無論この暴虐なる魔王に正当な手続きを踏んで一般人を退去させる真似ができるとは…そもそもやろうとしないであろうことは簡単に想像できる。嫌な予感が全力で警鐘を鳴らしていた。リリアナはヴォバンとのやりとりもそこそこにホテル中を歩き回るとすぐに嫌な予感を裏付ける代物をいくつも発見できた。

 

それは極限までリアリティを求めた、人の姿を塩塊で象った彫像だった。否、彼らは人間だった。暴虐なる魔王の邪視を受けて塩の柱と化した無辜の犠牲者たちなのだ。多くは日常の中にいたのだろう、ありふれた情景を切り取り、そのまま塩の彫像と化した彼らは見かけだけは平穏そのものであった。

 

事を荒立てる気はないといってすぐにこの所業である。

 

無辜の民に振るわれた仕打ちへの騎士としての憤り、止める機会すら与えられなかった自分への無力感。おまけに決死の覚悟で諫言に臨んだものの、一言で切り捨てられたみじめさ。もろもろ併せてせめてもの抗議の意を示すため、以降裕理の容態を見るという名目で部屋に引きこもり、ヴォバンとは最低限の言葉しか交わしていない。

 

陰鬱な気分を引きずりながら、万理谷裕理の容態を見ていると。

 

「……ここは」

 

無意識にこぼれた呟きに、リリアナは意識して淡々とした口調を保って答えた。

 

「ここは私たちが…、ヴォバン侯爵が逗留されているホテルだ。万理谷裕理、あなたはヴォバン侯爵の命を受け、その身柄を強奪された」

「―――あなたはっ…。いえ、そんなことより侯爵がこの国に…? ではあの霊視は―――」

「驚くのは当然だが、まず落ち着くと良い。諫言一つ容れて貰えぬ身だが、せめて貴方がいまの状況を理解する役に立ちたいと思っている」

 

裕理の認識では、魔導書の鑑定中に唐突に霊視を得て気絶。ようやく目覚めてからは見慣れぬ外国人の少女から驚くべき発言を聞かされ、今まさに混乱のただなかにいる。偽善と分かっていてなお、この少女に真摯に向き合うことだけがリリアナに出来る贖罪であった。

 

リリアナは予め淹れておいた紅茶を裕理に差し出すと、十数分の時間をかけてゆっくりと事情を説明する。

 

当初こそ混乱し、訳もわからぬといった風の裕理だったが、リリアナが最初から遡って事態の推移を説明していくと次第に落ち着きを取り戻していく。リリアナが驚いたのは四年前の儀式に再度巻き込まれると聞いても、意外なほど反応を見せなかったことだ。それよりもむしろリリアナと例のニンジャマスターのやりとりや草薙護堂の安否について関心を持っているように感じられた。

 

災禍に巻き込まれた己の身にはどこか達観した様子なのだ。思い返せば四年前もそうだった。彼女自身ひどく怯えていたにもかかわらず、周囲の少女たちを慮って自ら儀式の前への先陣を切ってみせた。

 

やはり人の性格と言うのは四年と少し程度では変わらないらしい、とリリアナはほんの少し暖かいものを覚える。

 

「リリアナさん…?」

「いや、すまない。四年前の貴方のことを思い出していた」

 

リリアナの表情がわずかにほころんだのを感じたのだろう、裕理がきょとんとした様子で問いかけると思わず素直に胸の内を漏らしてしまう。

 

「えっ? 私とリリアナさんは四年前にもお会いしていたのですか!?」

「ああ。私もまた霊視の才を持つ魔女だからな。自ら勇気を振り絞り、儀式場へ向かった貴方のことはよく覚えているし、儀式の前には少しだけ話もした」

「そ、そうだったのですか…。申し訳ありません。気付かずに」

「無理もないさ。私自身、あの場にいた者たちの中で覚えているのは貴方ぐらいだ」

 

旧交を温める、というには置かれたシチュエーションが物騒だったが、共通する過去を持つとそれだけで互いに親近感を抱けるものだ。裕理の警戒したような空気が緩み、先ほどより滑らかに言葉を交わし合う。

 

影から湧き出るように死相を浮かべた従僕が1人、部屋に現れリリアナを手招きする。

 

「……お呼びがかかったか。すまないが、私はここで」

 

退室する旨を告げようとしたリリアナだが、従僕はそれを遮って身振りで裕理もまた指し示す。

 

「彼女も、と。なるほど、ついに来たか」

 

憂鬱な心情を隠さず、重苦しい声音で呟く。

 

「来た、とは?」

「恐らくはこの国のカンピオーネが来たのだろう。真意は不明だが、侯は己が力ではなく言葉を以て智慧の王に対するおつもりだ」

「そう、ですか」

 

裕理は王が来たことではなく、リリアナの言葉にホッとした雰囲気をこぼした。リリアナはそんな心優しい少女に多大な尊敬と、僅かに同情を示すと何度目か知らない溜息を吐き、裕理をささえながら出来るだけゆっくりと歩きだした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

リリアナ・クラニチャールを尾行した甘粕が探り当てたヴォバン一行のねぐらは、都内にある高級ホテルであった。数万平方メートルの広い敷地内の多くを見事な日本庭園が占め、素晴らしい美観を提供している。

 

都内の一画を占めるだけあり、本来ならそれなり以上の人の流れがあってもおかしくないのだが、ホテル周囲の建物も含めて人気が全くないゴーストタウンと化していた。その理由は二つ、ホテル内の人間をヴォバンが悉くその邪視の権能によって塩の塊にしてしまったこと。そして正史編纂委員会によるホテルを含む周辺一帯の避難誘導と封鎖によるものだ。

 

そんな人っ子一人見当たらない街並みを、将悟はゆっくりと歩いていく。その気になれば魔術を行使して瞬きの内にホテルへ侵入することも可能だが、敢えて無駄に時間を使って何かを確認するように自分の足だけを使う。

 

だがそんな時間もあっという間に使い果たし、拠点であるホテルの目の前まで来てしまう。

眼前に建つホテルの何処かに、目当ての老王は待ち構えているだろう。

 

「おっかねー」

 

ポツリと本音を呟きながらホテルを見上げる。

赤坂将悟はデヤンスタール・ヴォバンという魔王をよく知っている。その気性も、隔絶した実力も。

 

正直に言えば勝ち目は薄い。彼我の間には未だ埋めきれない実力差が立ち塞がり、以前の諍いでこちらの手札は少なからずバレている。おまけに前回の争乱時と違って、黒王子アレクの相手をした“余り”で将悟と相対するような驕りは最早見せることはないだろう。

 

客観的に戦況を分析した場合、下手をすれば前回よりも不利とすら言える。

 

「それでも―――」

 

呟いた。

将悟ではなく、恵那が。

 

「引き下がれない…ううん、侯爵様に負けたくないんでしょ?」

 

分かっていると、その上で付き従うと目で語り掛けながら。

 

「なら、行こう」

 

そう、力強く言い切った。

 

「そうだな」

 

嗚呼、やはり良い女だな―――そんな、惚気にも似た感想を胸の内に漏らしながら。

 

勝てるから(・・・・・)戦うんじゃない、勝ちたいから(・・・・・・)戦うんだ」

 

そう、それが俺たち(カンピオーネ)の流儀なのだ。

なるほど確かにヴォバンは強敵だろう、だが己がカンピオーネに成り上がるための最初の戦い…只人の身でトートへ挑んだ時ほどの戦力差ではないのだ。

 

それを考えればヴォバンに勝つことなど、なんと容易いことか!

 

未だ埋まらぬ膨大な戦力差、状況は先ほどと比べて何一つ変わってなどいない。だが将悟の心は随分と軽くなっていた。悪戯っぽい笑みを浮かべて従う恵那を伴い、ホテルのエントランスホールに続くドアをくぐった。その先には―――、

 

「……あのじい様、相変わらずだな」

 

呆れたように嘆息をこぼす将悟の視線の先には真っ白な人型。ホテルマンの日常の一枚を切り取り、塩から彫刻を削り出せばこうなるかもしれない。そんなどこか寒気を感じさせる彫像が視界に幾つも映る。

 

「これが、ソドムの瞳…」

「大概の敵をひと睨みするだけで塩に変える権能だ。これがある限り聖騎士の位階持ちだろうと障害物にもならん」

 

その畏敬の念に満ちた呟きに、将悟はいっそ無感動な調子で言葉を返す。

 

ある意味只人とヴォバン侯爵を絶対的に隔てる壁とも言える。どれほどの腕自慢だろうと振るう力が人間の範疇に収まる限り、ヴォバン侯爵は視線一つで命を握ることが出来るのだ。

 

この悪名高き邪視の権能を受けてなお、抗える者。それこそがヴォバンに敵と認められるための最低条件なのである。

 

そのままホテルの中を進んでいくと、二人を出迎えたのは中世騎士物語から抜け出てきたようなサーコートと全身甲冑に身を固めた騎士姿の従僕であった。素肌は一切露出していないが、動作一つ一つに生気が薄い。決して動きが鈍い訳ではないのだが、どこか人形のようにぎこちない感じがするのだ。

 

一礼した死せる従僕に黙ったまま頷くと、何も言わずに背を向けて先導を始める騎士。そのまま付いていくと、やがてある一室の扉の前に辿り着く。神と神殺しが接近した時のような独特の感覚は無い、だがどこか敵意と高揚感が混じった熱がほのかに胸に湧きだしてくる。根拠なく確信する、ここにヴォバンがいるのだ。

 

「案内ご苦労さん。もういいぜ、助かった」

 

ありがとよ、と声をかけると心なしか先ほどより念の籠った一礼を返された気がした。

 

やっぱあのジジイの権能はロクでもないなーと再確認しつつ、特に気負うでもなく扉に手をかける。そのまま無造作に開けると中々快適そうな椅子に腰かけた老侯爵、そしてその傍らには見慣れぬ女騎士と囚われの万理谷裕理の姿があった。

 

「よく来たな、赤坂将悟。そして清秋院恵那よ」

 

“あの”ヴォバン侯爵が同格のカンピオーネのみならず、その従者の名前を諳んじている。その事実に驚愕を込めた視線を見知らぬ日本人の少女に向けるリリアナを他所に、将悟は鷹揚に頷き、恵那は丁寧に一礼した。

 

「その様子では我が企図について既に耳にしたようだな」

「概略は。儀式に必要な巫女を揃えるために、万理谷を攫ったんだっけか」

 

肩をすくめながら答えると、ヴォバンも穏やかな調子で頷く。

 

「然様。時が無かった故に君の国で無作法を働いたことは謝罪しよう。しかし今ひと時は水に流し、我が言に耳を傾けてほしいものだな。損はさせぬと約束しよう」

 

ヴォバン侯爵はこう見えて老紳士の皮を被ることを好む見栄っ張り。一見物わかりの良さそうな言葉を紡ぎながら、その実中々身勝手なことをのたまう。相変わらずのゴーイングマイウェイぶりに生暖かいジト目を向けながら将悟もまた渋々だが頷くのだった。

 

「……ま、ツッコミどころは山ほどあるがひとまず話は聞くさ。喧嘩するのは何時でもできる」

 

後半部分に無視できない荒事の気配が漂っていたが、上々の滑り出しと言っていいだろう。将悟の口調も喧嘩腰ではあるが一触即発と言う程でもない。奇襲を仕掛けられる可能性も想定していたので、なんとか穏当に済むかもしれないとリリアナは一筋の希望を抱く。

 

「まずはかけたまえ。茶の一杯を飲んでからでも、話は遅くあるまい」

 

予想以上に静かな会談の立ち上がりに僅かな安堵を感じつつ、努めて楽観を自戒するリリアナ。少女はちらりと向けられた視線に一礼し、早々に命じられた紅茶の用意をするために一度席を外し、奥へと向かっていく。

 

その後ろ姿に一瞬目を向けた後、ヴォバンは人の悪い笑みを浮かべる。

 

「我が従僕どもも流石に茶のこしらえ方など心得ておらぬのでな。こうした時はまだ生きている従者を使う他はない」

「まだとか言うなよ。趣味が悪いぞ…」

 

リリアナが胸の奥に抱いている叛意を見抜き、揶揄するような言葉を口に出す老侯爵。その悪趣味なからかいに対し、あくまで謹厳に実直に応じているリリアナ。将悟もそんな様子を見て二人が互いに抱いている心象を何となく悟ったらしい。呆れたように言葉を継ぐ。

 

「まともな神経を持っていれば、あんたの相手をしていて反感を持つなっていう方が無理な話だろうさ」

「だ、ろうな。尤もその程度の気概もなくては傍に置く気も起こらん。そういう意味であれも私好みの狼の魂を持つ娘だぞ」

「あんたに気に入られるとは気の毒な話だ。適当に遊んだらとっとと解放してやれよ」

「さて、それはあの娘次第だな。我が手勢に加わるに十分な力量を持っておる。その上で私に牙を剥くならば―――止むをえまい?」

「それは止むを得ない、なんて言う時の顔じゃないぞ、じい様」

 

色々と手遅れな類の人でなしを見る将悟に、どこまでも傲岸不遜な調子で笑みを浮かべるヴォバン。

 

周囲に置く人間の好みに癖がある、という共通点のある両者である。傍から聞いていて頭痛のしそうな雑談をテンポよく繰り広げる姿は……年の離れた友人同士の語らいのように見えなくはない。無論、それはうわべだけ。両者を知らない第三者が見た場合の錯覚でしかないのだが。

 

そんな中身のない会話を続けていると、やがて紅茶を饗するための道具一式を持ったリリアナが戻って来た。流石に当人の前で先ほどまでの開けっ広げすぎる話を続ける気にはなれない。

 

ヴォバンと将悟の前に恭しい仕草で紅茶が置かれると、そのまま無造作にカップを手に取って一口。味など大して分からないが、少なくとも香りは抜群に良かった。ヴォバンも手に取って早々に一杯目を乾したが、文句も言わなかった辺り恐らく不味くはないのだろう。

 

さておき、雑談を終え、茶の一杯も供され、本格的な交渉を始める準備は整ったと言っていいだろう。

 

「ふむ、では本題に入ると……ちっ」

 

ようやく会談の本番、というところで唐突に忌々し気に舌打ちするヴォバン。その視線は部屋の壁……その向こう側にある何者かに向けられていた。その原因に少なからず心当たりがある将悟だが、笑いを漏らすのは努めて堪え、出来るだけ謹厳な風を装って問いかける。

 

「どうかしたのか、じい様」

「……侵入者だ。無粋な鼠め、早々に始末をつけてくれよう」

「ああ、ようやく来たか」

 

件の侵入者を知っている風の将悟にどういうつもりだと不機嫌さと疑問を込めた視線を向ける。

 

「ま、お付きに紅い悪魔(ディアヴォロ・ロッソ)がいるんだ。すぐにこっちに来るだろうよ」

「…そうか。そう言えば8人目が生まれたのはこの島国であったか」

 

半呼吸程思索に費やした沈黙を挟み、得心がいったと頷く。本気で8人目―――草薙護堂は眼中になかったのだろう。流石は三〇〇を超える齢を経た大魔王、例えカンピオーネと言えど面識もない新参者程度ヴォバンにとっては名を覚える価値もない小物に過ぎないのだ。

 

そしてまた沈黙が降りてしばらくの時が経ち。

 

「……来たか」

 

ピクリ、と閉じていた瞼を開いたヴォバンが一つしかない扉を注視する。将悟もそれに倣い、視線を向けるとその数秒後にガチャリとドアノブが握られる音が響き、在室中の魔王二人に一切憚ることなく、堂々と扉が開け放たれた。

 

「赤坂…。お前もか」

 

扉の向こう方姿を見せたは言うまでもなく、八人目のカンピオーネ・草薙護堂。傍らに赤銅黒十字筆頭騎士・紅き悪魔(ディアヴォロ・ロッソ)の称号を引き継いだエリカ・ブランデッリを従えながらの登場であった。

 

が、ヴォバンの対面にふてぶてしく座る将悟を見て深々と溜息を吐いたのはどういう訳か。叶うならばひとしきり問い詰めたいところだったが、流石にそこまで空気が読めないわけでもない。結局は鼻で笑って無視を決め込むことにした。

 

しばらくの間将悟に非難と疑問を込めた視線を向けていた護堂。だが蛙の面に小便とばかりに平然としている様子を見ると意志の強さはそのままに視線をヴォバンに向けなおし、恐れを見せず口火を切った。

 

「あんたがヴォバン侯爵だな。万理谷を攫って行ったっていう」

 

ヴォバンはその非難混じりの詰問にも子犬が騒いだほどの驚きも見せず、平然と頷いて見せる。

 

「いかにも。私一人では成就が難しい儀式を控えていてな。協力者として同行願った」

「なにが協力者だ! 前に同じ儀式をやった時はほとんどの子の気が触れたって聞いたぞ!!」

 

怒鳴る護堂にヴォバンが声音だけは平静なまま返事を返す。

 

「そうだな。それがどうした? 王の望みに従う…それこそが魔術師どもの義務であろう?」

「ふざけんな! そんな危険な儀式、一人で勝手にやってろ。他人を巻き込むなよ!」

「別段巻き込みたい訳ではないのだがな。だが彼女らがいなければ儀式を成せないのだから仕方があるまい」

 

口論が成り立っているようで成り立っていない。お互いがお互いの主張とも言えない言葉を投げつけ合っているだけだ。分かってはいたが最初から喧嘩腰の護堂とまともに取り合うつもりのないヴォバンのやりとりはかなり険悪だ。

 

将悟としてはどちらかと言えば護堂の意見に賛成だが(特にわざわざ日本までやってきたことについて)、このままでは話が進む前に怪獣大決戦が始まりそうだった。諸々の事情からそれを看過できないため、己に不向きと自覚しながら仲裁のために口を挟む。

 

「草薙、このじい様に倫理を説いても労力の無駄だ。まともに話すつもりがあるなら実務的なところだけにしておけ」

 

端的に忠告だけ投げると、今度はヴォバンに向き直る。

 

「じい様も三世紀は生きてるくせに大人げない真似してんじゃねーよ。必要なところ以外は流せ」

 

さっさと話を進めろ、と心底面倒くさそうに手を振る将悟と同じくらい渋面を作った同族達がやはり渋々と矛を収める。

 

仲裁役や進行役という役柄がこれほど似つかわしくない人間も珍しい。だというのに将悟がその役割を担ってしまっているあたり、この会談の参加者の無軌道っぷり、滅茶苦茶っぷりがうかがえた。

 

なお上々の滑り出し、と思えた期待が開始早々裏切られ、リリアナの胃がキリキリと痛み出したのだがこれは全く会談と関係のない蛇足だろう。

 

何はともあれ。

 

ヴォバンの背にはリリアナ・クラニチャールが傅き。

草薙護堂の傍らにエリカ・ブランデッリが侍り。

赤坂将悟の隣に清秋院恵那が控える。

 

それぞれ警戒、好奇心、敵意を混じった視線を向け合いながら主に従う三人の少女たち。奇しくも三人の魔王と、同数の従者がそれぞれの主の傍に控える会談の始まりだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

会談の口火を切ったのはやはりと言うべきか、この騒動の火付け役と言えるヴォバンだった。

 

「見ての通り、巫女の身柄はこのヴォバンが浚わせてもらった。しかし必要以上にこの国で騒ぎを起こすつもりはない。それはまず伝えておこう」

「騒ぎを起こすつもりが無いってあんたな、これまでだけで十分大騒ぎだ!」

 

我田引水な話しぶりに早速ツッコミを入れた護堂に、ブリザードの如き冷徹な排除の意思が込められた視線を向ける。

 

「黙って最後まで聞いておれ、小僧。同格の王ゆえに同席を許したが、必要になれば私直々に始末をつけても良いのだぞ」

 

大袈裟に言っている気配が一欠けらもない。護堂がそれ以上余計なことを言えば、実力で排除すると言葉よりも雄弁に視線で語っていた。悪いことにヴォバンの上から目線な発言に反発する意志が視線に籠っていたが、これ以上二人に口論させれば決着がつく前にホテルを含む一区画が更地になるだろう。

 

護堂の言い分も尤もだが、世の中には正論の通じない人種が確実に存在する。そしてこの老王はその最右翼と言っていい。

 

「……草薙、いい加減黙れ。このじい様に良識なんてものを期待するな。分かるか? 腹を立てるだけエネルギーの無駄なんだよ」

 

学習しない後進にいい加減イライラとした声音で忠告を投げつける。

 

「この話が終わったのなら一戦交えようが好きにしろ。ただな、それまでは黙ってろ」

 

何時になくナーバスな様子の将悟に何かを感じたのか、護堂は顔一杯に分かりやすく不満と怒りを籠らせながらも沈黙を選ぶ。ようやく静かになった場に満足したのか、ヴォバンも先ほど中断された言葉の続きをゆっくりと紡ぎだす。

 

「赤坂将悟よ。君と私はいずれ互いの生死を賭けて争い合う間柄ではあるが、それにはやはり然るべき時と場所を選ばねばなるまい。そして、それは今ではない」

 

ただの喧嘩に大仰なことだ、と努めて冷静でいようとする将悟だがどうにも奇妙な興奮と充足感を覚えるのを止めることは出来なかった。将悟にとってこの老王は決して無視できない最大の仇敵。普段はそこまで好戦的ではない将悟に平時から珍しいほど戦意と闘争心を掻き立てさせるのはほとんど唯一ヴォバン侯爵のみだ。

 

その仇敵に対等の敵手として認められることに将悟はどこかくすぐったいような感覚を覚えていた。

 

「未だ君と争うには時が満ちていないと私は考える。故に我が力と権威ではなく、言葉と対価で以て巫女を貰い受けたい」

 

将悟は返答の代わりに口元に持って行ったカップを傾け、紅茶を味わいながら視線で続きを促す。ヴォバンもその非礼を大して気に留めず、胸の内で検討していた条件を無造作と言っていい口調で明かす。尤もその内容は軽い口調に比して些か以上にスケールの大きなものであったのだが。

 

「バルカン半島の我が拠点には、かつて私が殺め、下僕とした神獣どもを幾体か眠らせている。その内の一匹を君に貸与しよう」

 

自意識の封じられたケダモノ程度、君ならばどうとでも飼い馴らせるだろう…と挑発的に微笑むヴォバン。

 

神獣。

 

カンピオーネにとっては弱敵だが、人間の尺度からすれば半ば天災に等しい暴威である。それを掌中の玉を右手から左手に移す程度のことのように、造作もないとヴォバンは挑発的に微笑んだ。

 

「無論我らが変じ、あるいは操る顕身ほどの力は持たぬ。が、巫女一人の代価としては十分であろう。例え何らかの要因で死しても復活する神獣。一度我が元に帰って来こそするもの、死したから契約は無効などと詰まらんことは言わん。幾たびでも持っていくがいい。我が名にかけて誓おう」

 

実を言えば神獣はその霊的質量の巨大さ故に、人間の従僕のように自在に召喚することは出来ない。従って件の神獣も取引に応じても、神獣をなんとかしてはるばるバルカン半島から日本までユーラシア大陸を横断させる必要がある。

 

が、ヴォバンにはそこまで親切に話すつもりはなかったし、将悟ならどうにかできるだろうと思っていた。事実、太陽の権能と魔術を組み合わせれば時間はかかるがなんとかなるのだから、些細な問題だと言えなくもない。

 

とはいえもろもろの条件を加味しても、破格と言っていい申し出である。これで交渉の全権を握っているのが甘粕か沙耶宮馨であれば、“あの”ヴォバン侯爵から十分な譲歩を引き出したとして手打ちにしていたかもしれない。

 

だがこの場にいるのは赤坂将悟だ。

 

「ヤだね」

 

破格の取引の申し出は、ただ一言で以て拒絶された。

 

 

 

 




後編に続く!
要するに長くなったので分割です。
字数を使った割に全く話が進まないのはなぜなのか。

なお今回の投稿で出てきた『死せる従僕の檻』の神獣当たりの設定は一部オリジナル設定ですが、大部分は原作に沿っています。
本編には記述されていませんが、漫画版3巻の巻末おまけに各カンピオーネの権能の設定が載っています。その記述に基づいて文章を起こしました。

ちなみにWikipedia 『カンピオーネ!』の頁でも確認できます。編集者の人が非常に詳細に書いてくれているのです。


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嵐、来たる ⑥

今まさに将悟とヴォバン侯爵が口舌を交わしているだろうホテルを遠方から監視しながら、甘粕冬馬は思い出す。ほんの数時間前、心胆から寒からしめることになった会話の続きを。

 

「侯爵の狙いは裕理さんです。彼女は以前侯爵が執り行ったまつろわぬ神を招来する秘儀に捧げられた巫女だったんですよ」

『―――へぇぇ?」

 

何気ない、とはいかないがまさかこんな一言が予想外の過剰反応を生み、極限まで場の空気を凍らせるとは甘粕をして見通せなかった。

 

電話越しでも十分に察せられる冷たい気配。王の胸の内に巣食う怒りにはたしてどう言葉をかけるべきか。数秒ほど次に口に出す言葉を迷った甘粕だが、結局は最大限神経を使いながら探りを入れる決断をする。

 

「……失礼ながら、少々意外でした。何時の間にそれほどに裕理さんと仲を深められたので?」

『ここには身内しかいないから言うけどな。正直万理谷自身にはそこまで深い思い入れはないよ。これからそうなれたら、とは思うが。意外と面白いキャラクターしてるし、あいつ』

 

あっさりと甘粕の疑問を否定しながら―――ただ、と続ける。

『「あいつは身内の身内…つまり俺の身内だ』

『俺は身内に手を出す奴は許さねー。神様でも魔王でもな』

『手を出すってんなら仕様がない。あのじい様との決着をつけるには大分急だが、それも流れだ』

 

傍らに立つ少女の顔を努めて見ないようにしながら出来るだけ淡々と言葉を紡いでいく。

 

「どの道ジジイと俺が顔を合わせた時点で荒事になる予感はしてたしなァ。甘粕さん、先に謝っとくよ。ゴメン」

『…………。ま、その誠意のない謝罪はありがたく受け取っておくとして。私からは一言だけですな』

 

今夜、この少年と最古の狼王との争いによりどれだけ被害が出ることか。そしてその後始末にどれだけの労力をかけて、自分たちが奔走するか。甘粕は二呼吸分の沈黙の中に千言万語の皮肉を押し込め、将悟にとって最も“効く”だろう一言だけ返した。

 

()()()()()()()()

 

どう言い繕おうと、将悟が戦うのは裕理が将悟の身内の身内であるから―――つまり、恵那と親しいからなのだ。少なくとも理由の一端を担っているのは間違いない。一人の少女の心情を慮り、自身が格上と認める最古参の神殺しと血で血を洗う死闘を決意する。

 

おまけとばかりに底冷えのする殺気まで撒き散らすのだから、どれほど彼女を大切にしている顔して知るべしだろう。

 

『…………』

 

電話口の向こうから漂う凄まじく微妙な念の籠った沈黙に、一矢報いたり、などと甘粕が思ったかは定かではない。

 

しばらくの間ささやかな報復の余韻に浸っていた甘粕だが、やがてこの微妙な沈黙を流すべく事務的な口調で将後と情報交換を行っていく。ヴォバンの拠点としているホテルの位置、最低限住民を避難させるべき地域の範囲などを手早く取りきめていく。

 

そんなこんなで通話を切ったのだが。

 

「なんというかもう、女で国を滅ぼしそうなあたり立派な暗君ですねー。流石は将悟さん(カンピオーネ)です」

 

憂いを通り越して感嘆の念さえ抱かせる主へと、切実なぼやきを漏らすのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして時と場所は、三人の王が一堂に会するホテルへと戻り。

 

「ヤだね」

 

破格の取引の申し出は、一言で以て拒絶された。否、将悟は最初からヴォバンにどんな取引を持ちかけられようと突っぱねることに決めていた。これまで大人しく話を聞いていたのは一応の事実確認以上の意味は無い。ヴォバンがこれ以上の隠し玉を持っていれば流石に対応を考え直さなければならないからだが、どうにもそういった裏はなさそうだ。ならばあとは既定通り、ヴォバンとの対決まで突き進むのみ。

 

「ほう」

 

己の予想を裏切られた。その事実に、ヴォバンは微かに驚いた気配を漏らす。

 

「何故だ? 確かに稀少な資質の持ち主であるが、君が気にかける類のものではあるまい」

 

将悟自身が卓越した霊視能力者であり、しかもその能力に大して誇りもこだわりも持っていない。ましてや裕理程度の小物を気にするとは…。

 

己の見立て違いに驚きながら、純粋な疑問が口をついてでる。

 

「ああ。正直霊視の才能の方はどうでもいいんだ。大体は自前で何とか出来るし、無くても別に困らんし」

 

世界最高峰の霊視能力者である裕理すら凌ぐ霊視の資質を持ちながら、あるいはそれ故にか将悟は霊視がもたらす託宣にほとんど執着を示さない。偶然霊視が降りてきたら運が良いな、と思う程度で当てにすることはない。あるいはそうした執着から離れた心、“空”の境地こそが霊視の成功率を高める一番の近道と本能的に悟っているのかもしれない。

 

「だがな、コイツは俺の身内なんだ。手を出そうって言うのなら相応の覚悟はしてもらう」

 

厳密に言えば将悟の背後に控えている恵那の存在が絡むのだが、わざわざ懇切丁寧に教える義理もない。一方身内、と聞いた裕理が驚いたように顔を上げるが、すぐに説得のため言葉を紡ごうとする。

 

「お待ちください! 私の身柄一つでこの東京が救えるのなら私は―――」

「黙ってろ、万理谷。お前が良くても、俺が納得出来ないんだよ」

 

ついでに言えば、と続ける。

 

「目の前にまで出てきたこのじい様をわざわざ見逃すなんて選択肢、俺の中じゃ“ありえない”んでなァ」

 

言い切った瞬間、吹き付ける熱波のような敵意がその場を満たす。非物理的な衝撃がその場にいる全ての者の身体を打ちのめし、強制的に魔王以外の者たちに警戒態勢、あるいは臨戦態勢を取らせた。

 

まるで裕理はおまけで、本命はヴォバンなのだと、言葉に出さず示すように。

 

「なあ、ジジイ。あんたもちょっとは期待してたんだろ? 俺もだよ。あんたともう一度戦いたくてたまらなかった。」

 

いっそ朗らかな口調でヴォバンに誘いをかける。猛獣よりも獰猛に、童子よりも無邪気な笑顔で。

 

()()()()()()()()()()()()()()()

 

―――とうとう言い切った。

 

この場にいる者は最早誰も赤坂将悟をエピメテウスの申し子、騒乱と闘争を望み、愛される星の元に生まれた魔王であることを疑うまい。性格自体は決して悪性の人間ではない。でありながら己が渇望のために故郷すら危険に晒す無鉄砲さ、考えなしな性質は正しくカンピオーネの真骨頂であった。

 

一種のラブコールとすら表現できそうな、熱烈な将悟の誘いに対峙するヴォバンは。

 

「ふ、む…」

 

驚くほど反応を示さなかった。

 

「困ったものだな。ああ、困った…」

 

ただ脱力したような、気落ちしたような―――嵐の前の静けさのような陰鬱さで(かぶり)を振る。

 

「勘違いして欲しくはないのだが、私は本当に君と争うつもりはないのだ。ああ、無論我が所業が君の神経を逆撫でしたことは認めよう。だからその分の詫びも含めて条件を提示したつもりだったのだが…」

 

気落ちした“ような”空気が一転、どろりと濁る。さながら底なし沼を覗き込んだような、怖気(おぞけ)の奔る気配がヴォバンから溢れだす。それは若き神殺し二人が咄嗟に椅子から腰を浮かせるほど濃密な死と苦痛、そして闘争の気配だった。

 

「本当に、困った。これでは君と“戦えてしまう”ではないか―――?」

 

ニタァ…、とヴォバンの口元が歪む。さながら餓えた狼が獲物に牙を剥くように。

 

「困る必要なんか何処にもない。今度は俺があんたに勝って、それで終わりだ」

「未だヴォバンの足元にも届かぬ未熟な身でよくぞそこまで吼えたものだ。良かろう、誘いに乗ってやろう」

 

応じる言葉だけは淡々と、そのくせ喜悦と期待の光を眼光に漲らせる。

 

「先に指摘しておくが未来の雄敵であるからと、手加減をする選択肢はヴォバンにはないのだ。そこに一抹の期待を寄せているのならば、早めに考えを改めることだな」

 

一見警告する風の言葉でありながら、その実仲間を遊戯に誘う猛獣の気配が匂う。

何のことはない、眼前の宿敵との闘争を待ち望んでいたのは将悟だけではなかった。それだけのことなのだ。

 

「…………」

 

そんな、周囲を放ってどこまでも危険なテンションを上げていく魔王二人に周囲の人間たちも残らず顔色を悪くしていく。特に裕理が自責の念と魔王二人から放たれるプレッシャーに倒れる寸前と言った風情だ。

 

大騎士の位を戴いたエリカとリリアナすらあまりに常人の感性から乖離した会話、人間の枠を超えた怪物同士の敵意のぶつけ合いに多大な疲労を覚えている。カンピオーネ以外で唯一平然としているのは己もまた常人から逸脱した感性を持つ麒麟児、清秋院恵那のみ。

 

そして最後の一人、同族たちの身勝手な発言の数々を黙って聞いていた草薙護堂と言えば。

 

「―――ふざけるな」

 

喉元から込み上げる怒りを無理やりに押し殺しながら一人、静かに激昂していた。

 

「ふん…?」

「……」

 

冷静に撒き散らす怒りの熱に当てられ、二人はようやく存在に気付いたように視線を護堂に向ける。だが護堂はそれを無視して自身の臓腑を焼く怒りをなだめるので精いっぱいだった。

 

護堂は思う。

 

この場は万理谷裕理の身柄を、命を左右する場であるはずだ。

この無垢で、献身的で、時に般若の如き恐ろしさも示す、ごく普通の少女の命を。

 

だと言うのにこの二人は()()()()()()()()()()()()()! 勝者に贈られるトロフィーほどの価値も感じていない。眼前の仇敵と食らい合うための理由付け、偶々巻き込まれただけの火種、それだけの存在でしかない。

 

特に将悟は口では身内と言いながら、それに相応しい労わりを向けられているようには到底見えない。護堂からすればヴォバンと同じくらい将悟は信用ならなかった。敵の敵は味方、と考えるにはこれまでの祐理への仕打ちが障害となった。

 

万理谷裕理は身勝手な理由で死闘を望む横暴な老魔王に巻き込まれただけの被害者なのだ。だというのにこの仕打ちはなんだ!? あまりに理不尽、あまりに身勝手ではないか!

 

自責の念と恐怖で満ちているだろう少女の心中を思い、義憤の念を燃やす護堂。

 

実際のところはそんなことは無い。将悟がヴォバンとの決着に必要以上にこだわっているのは確かだが、己の我儘を通す以上戦闘は不可避と悟って手早く話をまとめたに過ぎない。

 

とはいえそのように受け取られても仕方のない絵面であり、積極的に誤解を解きに行く勤勉さと時間的余裕を残念ながらこの時将悟一行は持ち合わせていなかった。

 

そして気に食わなければ猛然と反抗するのが神殺しの性。特に草薙護堂は弱きを助け、強きを挫く義侠心の持ち主。しばしばその美徳が彼を望まぬ窮地や不行状に追いやることも多いのだが、この場においては比較的真っ当な義憤と戦意を燃え上がらせる助けになっていた。

 

「自分だけの都合で万理谷を巻き込んでおいて、勝手なことばかり言いやがって! 決めた、あんた達を二人まとめてぶん殴ってやる!」

 

そのあまりに無謀な宣言布告に、ヴォバンは失笑し、将悟は…二ヤリと楽しげに笑う。よく言ったと言いたげに。

 

「吼えたな、若造。王に成り上がって一年も経たぬ未熟な身で、それが叶うと思うか?」

「俺が言ってるのは別に大層な話じゃない。ただ、手前勝手な我がまま爺さんにキツイお灸を据えてやるってだけだ! 俺が、あんたがどんな奴だって関係あるか!!」

 

凶悪なまでに好戦的な気配を撒き散らすヴォバンに対し、一歩も臆することなく護堂は啖呵を切る。そしてその宣戦布告を見事とばかりに陽性の笑いを向けるのは赤坂将悟だ。

 

「そりゃあ、ケンカするのに地位だのキャリアだの関係ないわなァ…。爺さん、あんたも成り立ての頃の俺に一杯食わされたの忘れちゃいないだろ?」

 

面白いモノを見た、とばかりに笑みを浮かべて口を挟むとヴォバンは不機嫌そうに口をつぐむ。そんな一歩離れた位置から他人事のように口を挟む将悟に対してもキッと睨みつける。

 

「お前もだ、赤坂! そのじいさんに喧嘩を売るだけ売って、万理谷のことは無視か!? お前らがどうしようと知ったことじゃないけど、少しは巻き込まれる人たちの迷惑も考えろ!」

「いや、全くもってお前の言う通りだ。()()()()()()()()()()()()()()

 

己に向けられた罵倒もなんのその、千枚張りした面の皮の厚さでそのままシレッと裕理を押し付けた。微かに驚いた気配を漏らしたのは恵那だ。表面上の仕打ちはどうあれ、将悟の中で裕理は身内に準じる扱いになっているのはこれまでの一幕でなんとなく窺える。だからこそ裕理の身柄をあっさりと護堂に任せたのが意外だったのだ。

 

「お前なんかに言われるまでもなく、万里谷は俺が守る! お前なんかに任せられるか!?」

「……ま、だよな。返す言葉も無い」

 

その微かに自重の籠った苦い笑みに気付けたのは将悟に最も近い恵那と、皮肉なことにヴォバンのみだった。

 

決して本意では無かったとはいえ、己と祐理の関係は修復困難なまでにこじれてしまった。ほとんど一方的に将悟の責任でだ。この上祐理が大人しく身柄を任せてくれるとは思えなかったし、顔を合わせるときに後ろめたさを覚えないと言えば嘘になるだろう。

 

それならばいっそ祐理と絆を結んだ草薙護堂に任せるのも悪くないと思えたのだ。草薙護堂はやはりカンピオーネだけあって様々な不行状を抱える問題人物、だがしかし―――ほんの一か月前に大神アテナを退けた器量の持ち主であるのも間違いは無い。そして裕理とは良かれ悪しかれ相性が良い。この場において祐理を任せるのにこれ以上の人物はいないだろう。

 

「良かろう。話もまとまったことだ、巫女の身柄を賭けて我らで以てゲームを行うとしよう」

「ゲームだって?」

 

護堂が不機嫌そうに答えたのは、やはり祐理を景品か何かのように扱っているからか。

 

「然様。なに、ルールは難しくない。巫女は解放しよう、そしてしばし時間を与えよう。そう、半刻ほどで良いか。その後に私は巫女を狩りだし、行く手を遮る障害を撃破する。何なら若造二人がかりで来ても構わんぞ?」

 

からかうようなヴォバンに。

 

「論外だな。こいつに背中を預ける気にはなれないね」

「それはこっちの台詞だ」

 

端的に妄言を切り捨てる将悟とそれに噛みつく護堂。そのままばちばちと火花を鳴らし始める少年達に周囲の少女達は非常に微妙な物を込めた視線を送っている。少なくとも祐理を守ると言う一点で利害は重なっているのだが彼らに敵の敵は味方、という言葉は通じないらしい。

 

そんな少年二人の不和を余所にヴォバンは機嫌良くゲームの開始を告げようする。

 

「さて、これ以上なく単純なルールだ。他に質問はないな? ゲームを始めると―――」

「待て」

 

久しぶりに歯応えのある闘争に出会え、御満悦なのだろう。調子よく続けようとしたところで言葉を遮られ、ヴォバンは不機嫌そうに顔をしかめる。

 

「なんだ、赤坂将悟。まさかこれ以上余計な問答をかわすつもりか」

「あんたにとっちゃ詰まらなくても、こっちにとってはそれなりに気になることがあるんだよ」

 

尤も気にしているのは俺じゃないが、と胸の内で続ける将悟。ホテルに向かう前に、甘粕ら正史編纂委員会の意向で出来る限り一般人の犠牲者は減らすように嘆願されていたのだ。

 

「あんたが塩の塊にしたこのホテルの連中、今のままじゃこの騒ぎに巻き込まれてお陀仏だ。とっとと元に戻せ」

「王とも思えぬ詰まらぬことを言う。あまり私を失望させてくれるなよ」

 

言葉の通り詰まらなさげな気配を漂わせながら、生徒の誤りを指摘する物静かな大学教授じみた調子で続ける。

 

「貴様の言うとおりそやつらを我が邪視の呪縛から解放したとしよう。そこからそやつらを我らの決闘場から遠ざけるまでどれほどかかると思っている? 下らん時間稼ぎを弄するつもりならば、私に付き合う義理は無い。ならばいっそ塩と化したまま苦痛なく死を迎えさせてやるのが慈悲というものだろう」

 

相変わらず身勝手すぎる台詞に再度護堂が食ってかかろうとするが、その前に平静な調子で応じる将悟に沈黙を余儀なくさせられる。

 

「良いから戻せ。お望みなら彼らを解放した5分後にタイマン張ってやる」

「……ほう、つまりこのホテル内に残留する数百人を5分以内にどうにかする術があると?」

「やってみれば分かるさ」

 

至極平然とした様子の将悟の言葉を挑発と受け取ったのか、お手並み拝見とばかりに片頬を歪めて笑みを浮かべる。

 

「良かろう。我らが再会に至るまでの年月、果たしてどれほど成長したかを見せてみろ」

 

そのままパチン、と指を鳴らすと……見える範囲では何も起こらない。彼らが一堂に会尾する室内に邪視の犠牲者が一人もいないから当然だが、通常の五感以外の手法で感知する術を持った者たちは別だ。どこか遠くを俯瞰する目つきでぐるりと視線を回した将悟が、

 

「確かに全員戻したみたいだな」

 

と発言すると、エリカやリリアナも頷いている。護堂には見当もつかないがなんらかの魔術によって犠牲者たちの状態を確認したのだろう。

 

「さて、ここから如何なる手妻を―――」

 

まるで芸を披露する道化師を前にした王侯貴族のよう。いっそ不謹慎なほどの期待を見せるヴォバンに頓着せず、将悟は己の内に蔵された太陽と生命にまつわる権能を呼び起こす。尤も神々や魔王と対峙したほど力を振り絞る必要はない。

 

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パチン、とヴォバンに合わせるように将悟も指を鳴らす。

その刹那、将悟の全身が山吹色の光を発したことに気付けた者は一人だけだった。

 

そしてやはり見た目上の変化は無い。いや、一瞬だけ将悟を中心に呪力が凝り、複数の箇所で歪む感覚があったが、はたしてその呪力の動きがどんな意味を持つのか魔術に疎い護堂では到底理解は出来なかった。狸に化かされたような気持ちになった護堂だが、やがて東欧の老侯爵がかすかだが目を瞠っているのを見て、確かに“何か”が起こったことを知る。

 

「―――見事だ。一切の口訣も無くこれほどの人数を一度に運ぶなど、果たしてあの羅濠教主にも叶うかどうか!」

 

唐突にヴォバンの口から滔々と流れ出すのは掛け値なしの称賛だった。次いで信じられないとばかりに将悟に視線を向けたのはエリカとリリアナだ。

 

「……ざっと三〇〇人以上はいた人間を、あの一瞬で?」

「これが、『智慧の王』…。侯が仇敵と看做すわけだ…」

 

人間業ではない…。

 

称賛よりも先に諦観の籠った乾いた呻きが少女達の口から漏れる。二人の天才から向けられた視線に共通するのは畏怖と敬意。人の扱う神秘の領分を超え、神域に足を踏み入れつつある魔術師に向けられるに相応しいものだ。

 

それほどに今しがた将悟の為した所業は、きっぱりと人類が辿りつける領域を逸脱していた。

 

「使ったのは『転移』の術かね? あれはかなり難度の高い術だったと記憶しているが…」

「らしいな。俺は気付いたら使えるようになってたからあまり意識したことはないんだが」

 

次々と魔術的常識を覆す所業、発言にあくまで常識的な範囲で天才と呼ばれる才媛二人は頭痛を堪えている顔をする。同時にこうも思う、何故この才能をもうちょっと“まとも”な人格を持った人間に与えてくれなかったのかと…。その嘆きは奇しくも南欧魔術界の盟主、『剣の王』サルバトーレ・ドニに向けられるものとよく似ていた。

 

「座興としては中々だった。仮にそこの若造がいなくても、君さえいれば十分に我が無聊を慰めることが出来よう」

 

対照的に非常に満足そうな顔をしているのがヴォバンだ。仇敵の力量が鈍っていない…否、更に向上していることを目にし、上機嫌この上ない獰猛な笑みを浮かべている。

 

一方で将悟と比べて露骨に下に見られた護堂は憤懣やるかたないと言った感じだが、荒事に慣れていても不必要なプライドの類は持っていない性格だ。自分の中で折り合いをつけたのか不満そうではあるが、特に発言することなく沈黙を貫いている。

 

「ではゲームを始めるとするか。半刻の後、私は動き始める。何処へなりとも逃げたまえ、この世の果てまで追いつめてくれよう」

 

とうとうゲームの始まりが告げられ、悠々とした態度で宣戦布告を告げる。それに応じる将悟と護堂はそれぞれ闘争心に満ちた視線を返す。少しの間、敵意のやり取りが行われるが、早々に席を立ったのは将悟だった。

 

「―――ここの庭園で待ってるぜ」

「承知した。真っ先に君の元へ向かうと約束しよう」

 

視線を鋭くして己を見詰める若き仇敵に、老王もまた真っ直ぐな戦意を以て応える。余人に立ち入れぬ空気に護堂すら例外なく気圧されるが、やはりそのやり取りは短く、すぐに終わった。

 

「行くぞ」

「お前に言われなくてもそうするさ」

 

言葉短かに行動を促すと、険のある言葉が返ってくる。険悪な雰囲気のまま、将悟と護堂ら一行はホテルの廊下を進む。与えられた時間は少ない、移動しながら簡単に必要事項を打ち合わせていく。

 

「ところで逃げるためのアシはあるのか?」

「…あー、走って逃げるっていうのはどうだろう」

「体力馬鹿のお前らは良くても万里谷は無理だろ。5キロ以内で足が止まるぞ」

 

考えなしな後輩に呆れた視線を向けつつ、あらかじめ用意していた解決策を提示する。

 

「ホテルの前で甘粕さんがアシを用意して待っているはずだ。従僕と狼くらいなら十分あしらえる腕前だから思う存分使い倒すといいぞ」

 

と、さりげなく甘粕を酷使するオマケ付きで。

 

「……あの、赤坂さん。私は―――」

 

早足で歩きながら祐理がおずおずと将悟に声をかける。はたしてどんな言葉をかければいいのか迷っている様子の裕理に、将悟もどこか迷いを含んだ言葉を口に出す。

 

「……俺は俺がやりたいようにやった。お前が何て言おうとこうしてた。そこに文句を言われても返す言葉がない。だけど、まあ…」

 

すまん…、とどこかばつが悪そうな様子で謝られ、複雑そうな顔をする祐理。

 

見ると、護堂も同様に将悟へどんな顔をすればいいのか迷っているようだった。見直した、とまではいかないが決して祐理のことを軽視したわけではないことは理解できたのだろう。だからといって祐理への仕打ちを許せるほどではない。その心情を分析すればそんなところか。

 

気まずい沈黙がホテルのエントランスと庭園にそれぞれ続く分かれ道まで続いた。

 

「……負けるなよ」

「言われるまでもねーよ。お前は万里谷の心配だけしてろ」

 

恵那一人を伴い庭園に向かっていく将悟の背に声をかける。

背を向けたままひらひらと手を振る将悟を、護堂と祐理はどこか複雑な視線を向けて見届けるのだった。

 

 

 

 




次回、決戦。


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嵐、来たる ⑦

嵐、来たる


都内の一画に建てられたホテルの敷地内、決して広くはないが調和のとれた日本庭園の中心に将悟と天叢雲を肩に下げた恵那は立っていた。

 

茫洋と黒雲に覆われた夜空を見上げるとにわかに雨足が強まり、黒雲の中を稲光が走る。狼王の猛りを受けて、会談を始める前までは落ち着いていた天気が急速に崩れ始めていた。横殴りの雨が叩きつけられ、備えていても体勢を崩す強風が尽きることなく通り過ぎていく。

 

ヴォバンの闘志がこれ以上なく高まっていることの証左であった。

 

約束通りの場所で自然体のまま宿敵の到来を待ちながら考えるのは今まさに雌雄を決しようとする宿敵の戦力評価である。

 

最長老のカンピオーネ、ヴォバン侯爵の強さを一言で表すならばどのような言葉が適切か。そう問われれば将悟は迷わずにこう返すだろう。

 

即ち、“単純に強い”。

 

そうとしか形容できない、戦法に一癖も二癖もある同族たちと比してある種正統派とすら言える戦闘スタイルの持ち主である。

 

まず歴線を経て鍛え上げられた地力の高さ、

次いで死闘と別離で彩られた三〇〇年に渡る戦闘経験、

そして何より純粋なまでに戦闘に特化した権能の数々!

 

特筆すべきはあらゆる戦況に対応可能な権能の多彩さか。

 

大魔狼に変化し、巨神とも対等に渡り合う『貪る群狼』、自らの手で殺めた死者を従える、威力偵察などとにかく小回りの効く『死せる従僕の檻』、ひと睨みであらゆる生物を塩と変える『ソドムの瞳』、風雨雷霆を下僕としあらゆる敵対者を打ち倒した『疾風怒濤』、天から煉獄の火種を落とすことで敵主に有利な地形・陣地を一発で潰す『劫火の断罪者』―――。

 

良く知られている権能だけで片手に余る数を所有し、今だ余人に知られぬ更なる奥の手まで隠し持つという。対巨体、対軍勢、対空中戦、対砲撃、対陣地…。近距離戦、遠距離戦―――あらゆる戦況に適した権能を持ち、遠近どちらにも隙が無い。

 

下手な小細工など不要、事実弱いまつろわぬ神ならば真っ向からの喰らい合いで勝利を捥ぎ取る圧倒的な戦力を誇る。

 

故にヴォバン侯爵はただひたすらに、純粋なまでに“単純に強い”! そんな正真正銘の化け物に好んで真っ向勝負に臨もうというのだから我ながら気が狂っているにもほどがある。

 

だがそれでも勝ちたい。結局将悟の心情はそこに行きつき、変わらない。ならばあとは腹を据えてヴォバンの打倒という難業に取り組むのみ。

 

静かに思考を弄んでいると、ホテルからふらりと長身痩躯の人影が現れ、歩み寄ってくる。強風に黒衣を翻し、悠然とした足取りで迫るのは無論デヤンスタール・ヴォバン。両者とも激しく火花を散らしながら互いを見つめ、無言のままただ距離が縮まっていく。

 

やがて彼我を隔てる距離が10メートルを切る頃になってヴォバンが足を止め、合わせるように将悟が口を開く。

 

「あんた一人か。リリアナとかいう騎士はどうした?」

「我が配下とともに小僧どもの足止めを命じておいた。大して期待はしていないがな、未熟と言えど王が巫女を守っているのだから」

「ま、確かにあんたなら騎士の一人程度誤差の範疇だわな」

 

介添え人の不在について問うと、順当とも言える答えが返ってくる。将悟が最優先目標とは言え、ヴォバンの勝利条件は裕理の身柄なのだから当然だ。この老人は二兎を追う者一兎も得ず、などということわざの類は無視してのけるだけの戦力を持ち合わせているのだから。

 

そしてしばしの沈黙を挟み、ヴォバンが感慨深げに呟く。

 

「一年ぶりだ」

「ああ」

「欧州にいても君の活躍は耳に入ってきた。果たして幾柱の神々と渡り合ったのかな?」

「両手の指に余る程度には」

「結構。それだけの死線を超えたのならば、権能の掌握も進んでいよう。一年前とは違うところを見せてみるがいい」

「上から目線な発言をどうも。おかげで過剰なくらいやる気に満ち溢れてきたわ」

 

口元だけで笑い、睨みあう。両者が認識をともにする―――待ち望んだ嵐、来たる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とりわけ激しい強風が吹き抜け、風に飛ばされた人の背丈ほどもある大ぶりな木の枝が両者の間に突き立つ。それが合図となって呪力が爆発した、そうとしか表現できない魔王二人の莫大な呪力が渦を巻いて天に昇る。

 

「まずは小手調べといくか」

 

開幕の狼煙を上げるのは、やはりと言うべきかヴォバンだった。思案深げに呟く痩身―――その影から軍勢が溢れだす。

 

軍馬並みの体格と鼠色の体毛を有する巨狼の群れ、種々雑多な装備を着込んだ文字通りの死兵達が主の意思に従い、俊敏な動きで走り出す。目標は前方、言うまでも無く将悟の身体に牙と剣を突き立てるべく、彼らは疾走する!

 

「懐かしいなァ…。前にやった時はこいつらにも大分苦戦したもんだ」

 

英国魔王争乱の時は未だ魔王に成り上がってから日が浅く、権能の習熟も魔術の習得も十分とは言えなかった。そのため一々権能で『創造』した事象で倒していたのだが、一年の経験を経て【原始の言霊(Chaos Words)】の掌握もかなり深い部分まで進み、また新たに得た権能もある。

 

従僕や狼程度であれば、今更対処に苦労することは無い。

 

単なる自信を超え、確信の念すら以て獰猛かつ機敏に躍りかかってくる軍勢を静かな視線で見つめる。そのまま四方八方から急速に迫る刃の群れにも微塵も反応することなく、太陽の権能を行使するのと同時に摩利支天―――仏法の護法善神の加護を恃む真言を唱える。

 

「生を享け、生を謡い、生を寿げ……オン アニチ マリシエイ ソワカ」

 

口訣を口ずさむや否や、呪力が将悟の周囲を渦巻き、その姿がゆらゆらと輪郭を崩していく。何らかの魔術を使ったことは火を見るよりも明らかであったが、権能で思考を縛られた彼らに咄嗟に対応しろというのは不可能であった。そして狼らには元々指示も無く対応できるだけの知能は無い。

 

結果として勢いも微塵も殺すことなく全周囲から殺到する剣と牙、だがそのことごとくが将悟の肉体を()()()()()。否、勝手に外れたという表現の方が適切だろうか。ごく自然な軌道で刀槍と爪牙が将悟に当たる範囲から逸れていったようにヴォバンからは見えた。

 

「小癪な手を…」

 

にやり、と手品を前にした観客のように片頬を歪めて笑う。魔術の種は読めないが、構わない。あの程度の手妻に一々付き合う義理などない、小細工など正面から叩き潰すのがヴォバンの流儀である。

 

追撃せよ、との意を受けて侯爵の配下たちは再度己の得物を掲げて第二撃を振るわんとするが…。

 

「遅い」

 

それよりも早く(ゴウ)、と砂塵が混ざった一陣の烈風が巻き起こる。弁慶との戦いでも活躍した『砂嵐』が襲いかかったのだ。

 

展開された時間はほんの数秒、規模も弁慶の時とは比べ物にならないほど小さな物であったが、まつろわぬ神と死せる従僕たちでは所詮存在としての格が違う。十数人はいた従僕や狼たちがまとめて風に乗って渦巻く砂塵にすりつぶされ、真夏の太陽に照らされた氷塊よりもあっさりと消滅していく。

 

死闘の火蓋が切られてから十数秒の攻防、ヴォバンはもちろん将悟も傷一つなく、また一歩たりとも開始地点から動いていなかった。

 

ひとまずは互角と見える戦況だ。

 

「見ての通りだ。退屈な物量戦を仕掛ける気が無ければ、下僕程度じゃ話にならないぞ」

「あの程度の輩にも苦戦していた小童が、見違えたものだ。だが私を相手に減らず口を叩くにはまだまだ早い」

 

肩をすくめて挑発する将悟に、あくまで見下しながらも闘志の籠る一瞥を投げるヴォバン。この攻防はまだまだ小手調べ、互いに手の内を図っている段階に過ぎない。

 

「私の下僕程度では流石に王の相手は荷が勝ち過ぎるようだ。だが、君に従う彼女はどうかな?」

 

本来なら視界にも止めず無視するだけの清秋院恵那を意識し、さり気なく彼女を排除する手を打ってきた。ヴォバンの配下たちは将悟相手では使い道の少ない駒だが、恵那の相手としては十分に厄介だ。戦闘力ではなく、倒してもきりがないという意味で。

 

「一つ、配下の腕比べに興じるのも悪くなかろう。我らの死闘にあまり無粋に手出しをされても面倒であるしな」

 

意識か無意識か地味に厄介な手を打ってくる。舌打ちを抑えながら短く恵那に指示を出す。

 

「消耗を抑えて適当に連中の相手をしてろ! 必要ならここから離脱してもいい!」

 

言うが早いか恵那がましらの身軽さで庭園から離脱する。従僕らとの戦闘の愚を悟ったからだろう。

 

死せる従僕と狼はヴォバンが生きている限りほとんど無限と言える物量を誇る。この場で恵那がどれほど奮闘しようと戦術的な意味がほとんどない。かと言って向こうから斬りかかって来るなら相手をしないわけにもいかない。

 

神がかりを使う恵那の助力をそれなりに当てにしていた将悟としては先んじて手札が一枚封じられた状況だ。

 

「さて、邪魔者も消えたところだ。我らも王に相応しき死闘を始めるとしよう」

 

言うが早いか、頭上の黒雲に幾条もの雷光が輝き、天を引き裂くが如き雷鳴が轟き渡る。伴って吹きつける風雨が本格的な嵐のそれに変わる。ヴォバンが本腰を入れて『疾風怒涛』の権能を操り始めた証左だ。

 

天から落ちた稲光が大地を貫く、物理的干渉力すら伴った何十条もの雷霆が将悟目がけて殺到し、小さなクレーターを量産していく。

 

「相変わらずの馬鹿呪力か、この脳筋ジジイが」

 

毒を吐きながら、呪力を練り上げ、すばやく術を行使する準備に入る。

 

「オン アニチ マリシエイ ソワカッ!」

 

咄嗟に体内を巡る呪力を充溢させて雷撃の雨を凌ぎながら先ほど従僕らの襲撃に対処した真言を、先ほどよりも語気を荒げて唱える。流石にヴォバンが直接振るう暴威は配下程度とは格が違う。応手にも相応の気合いを以て望まねばならない。

 

相応の呪力を練り上げ、魔術を行使すると進路線上に将悟の肉体へ直撃するコースに遭った雷光が不自然な軌道でブレる。

 

いま行使したのは摩利支天の加護を恃む呪術。摩利支天とは夜明けの陽炎を神格化したインドのマリーチを本地とする、仏教の護法善神だ。陽炎は実体がない故に斬れず、突けず、焼けることも濡れることもない。

 

だからこそ摩利支天の真言を唱えて行使される呪術は(よこし)まなる災いを退け、己から逸らしまう護身の術である。

 

刀槍、魔術、権能の区別なく己が身に降りかかる災厄を逸らし、やり過ごしてしまう。カンピオーネはしばしば体内の呪力を高めることで権能による破壊から逃れる業を使うが、この呪術はそれに加えて刀鎗などの物理的な攻撃に対しても効果を発揮するのだ。もちろん、弱点が無いわけではないのだが…。

 

(ゴウ)(ゴウ)(ゴウ)と降り注ぐ豪雨を思わせる密度で落雷の雨が降り続ける。

 

将悟はその(ことごと)くを逸らし、捌き、時に鋭いステップを交えて躱し続ける。雷光から躍るように身を躱し一本の綱の上を渡るようなそれは傍から見ていて危なっかしいことこの上ない。実際に紫電が身体をかすめたことも一度や二度ではない。

 

だが事実として未だ将悟は無傷であった。この奮闘にヴォバンも僅かだが満足げな気配を漏らす。未来の雄敵と見込んだ男なのだから、この程度のことはやってもらわねば困るとでも言いたげに。

 

「やってくれるものだ。これでは霞を撃つようなものだな」

 

口では困った風なことを言っているが、その実余裕のある気配。三〇〇年にわたる戦歴か、一つ手札を切ってもすぐさま対処法を見つけ出され、破られてしまうのだ。手数と小細工で翻弄し、作り上げた隙に最大火力を叩き込むスタイルの将悟にとってはたまったものではない。

 

「だが霞が相手ならば風で散り散りに吹き飛ばせばいいだけのこと。それも飛び切りの強風でな」

 

将悟の知る摩利支天護身法の破り方は三つ。

 

一つ、将悟と同格以上の術者が行使する対抗魔術ならば問題なく術を破ることが出来るだろう。

二つ、心眼之法訣を極めた者ならば術に惑わされずに実体を見極め、的確に痛打を与えることが可能だ。

最後の三つ目はもっとシンプルな方法だ。この呪術で逸らしきれないほど広範囲、大威力な攻撃を叩きつける。

 

太陽の権能で限界を底上げしているとはいえ、所詮は呪術の範疇に入る程度の代物。カンピオーネが全力で振るう破壊の権能に対抗できるほど御利益は無いのだ。

 

そうした事情を見透かした笑みで頬を歪ませながら、ヴォバンはさながら大気を掴むように五指を曲げると、勢いよく腕を横に薙ぐ。その動きに追従するように弾けるような爆音が轟き、一瞬遅れて身体がバラバラになったような衝撃が走る。まるで見えない壁が高速で飛来し、全身にそれが叩きつけられたようなインパクト!

 

「クッ…オオオッ―――!」

 

護身の法により威力の大部分は殺せたものの、全身が痛む。思わずうめき声を漏らしながら衝撃で吹き飛んでいく己の身体を何とか二本の足を踏ん張って地面に縫い止める。その甲斐あって立っていた地点から数メートルほど後退するだけで済んだ。

 

「クッソ、相変わらずとんでもない威力だな。ちくしょうめ」

 

これは言うなれば大気を用いた“張り手”だ。先ほどまでの雷霆のような“線”ではなく“面”で押し潰す回避困難な打撃、おまけにその威力は象が相手でも視界の果てまで吹き飛ばしかねない凶悪なものだ。これは流石に逸らしきれる限界を超えている。

 

正面からの激突を身上とするだけあってヴォバンが振るう権能の破壊力は同格のカンピオーネの中でも頭抜けている。対抗できそうなのは精々がヴォバンと互角に競り合ったと噂に聞く羅濠教主くらいだろう。

 

遠間から嵐の権能で以て将悟の防御を抜き、軽微とは言えダメージを与える。言葉にすると単純だがその実凄まじい難行である。

 

だが三〇〇年を超える戦歴とそれに相応しい地力があっさりとその難行をこなしてしまう。あくまで通るダメージは皮一枚、肉体の表面を張り手で叩かれるようなものだが、足を止めればより強烈な雷霆が雨嵐と飛んでくる。

 

それだけは喰らってはダメだと華麗ならざる体捌きを交えて躱す、躱す、躱す。

 

時折雷霆の群れに混ぜられる颶風の張り手に苦慮しながらも回避を続ける中、あるかなしかの隙を見つけた将悟が『転移』―――瞬きほどの時間も要さず侯爵の背後に出現する。

 

「その程度で―――」

 

予想していたぞと言わんばかりに侯爵が余裕さえ持って振り向き、目にした鮮やかな輝きに僅かに狂笑が歪む。

 

「ぶっ飛べ、クソジジイ!」

「!?」

 

驚愕を顔に浮かべたヴォバンの瞳に映るのは、全身から溢れんばかりに光輝を滾らせ、見るからに危険なほど呪力が練り込まれた拳を振るわんとする将悟の姿だった。この輝きは無論カルナより簒奪した権能―――最近プリンセス・アリスが気まぐれに【聖なる陽光(Sacred Force)】と命名した、太陽と生命にまつわる権能である。

 

万能極まりないこの権能の加護により将悟の身体能力は爆発的に高まっていく。今なら軍神や英雄神と殴り合おうとも一方的な力負けはするまい。“それだけ”とも言えるが…。この権能を手に入れるまで将悟の手札に近接戦闘に耐えるカードはなかった。そしてヴォバンもそのことを知っている。戦端が開いてからもヴォバンの思考の隙を突くために敢えて使用してこなかった。それがこの奇襲にささやかな優位を生む。

 

右拳に一際眩い陽光を纏った将悟がヴォバンに向けて技もへったくれもなく、ただ思うさま握りしめた拳を振るった!

 

天を引き裂く雷鳴に似た音が響き、“大地”と接触した拳が人間一人をすっぽりと飲みこむ地割れを作り出す。間一髪、ヴォバンは老人とは思えない鋭い動きで難を逃れたのだ。達人の妙技ではなく、むしろ追い詰められた獣の身ごなしとでも言うべき剽悍な動きだった。

 

しかしコートの襟が引きちぎられ、その頬に僅かな傷を残している。致命傷には程遠いが届いた、と見て取った将悟が更なる追撃に入ろうとする―――が、ヴォバンは動揺を見せず素早く2メートル超サイズの『狼』に化身した。銀の体毛を輝かせる、文字通り人間離れしたその顔が喜悦と闘志の籠った笑みで歪む。

 

この程度の苦境、150年前のロンドンでもっと強烈な敵を相手に経験済みである。ヴォバン侯爵は曲がりなりにも世界最高峰の武術家、羅濠教主を格闘戦の距離で真っ向から相手取ったこともある歴戦の猛者なのだ。

 

あまり私を侮ってくれるな、仇敵よ(グルウウウウゥゥオオオオオオォォ)!』

 

明瞭に響く侯爵の台詞と重なるように天地を喰らうような魔狼の咆哮が耳に届く。ヴォバンが『狼』の化身へと変じると自然とこうなってしまうのだ。今の姿は2メートルを優に超える体躯の人狼。例の体長30メートルを超える『大魔狼』ではない。だが身体能力は人間体とは比較にならず、尋常ならざる野生の勘を装備した二足の魔狼だ。

 

『―――』

 

一瞬の停滞とともに銀と眩い黄金の軌跡が交差し、刃鳴り散らす接触音が響き渡る。超常の魔術戦から一転、いっそ泥臭いとも言えそうな殴り合いの始まりだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

銀の人狼から放たれる五爪の軌跡が目にもとまらぬ速度で繰り出され、ガードした将悟の右前腕部が切り裂かれる。

 

「ガ…ァ…!」

 

傷つけられた腕に痛みというよりも熱さが走る。かれこれ五分ほどの攻防、ひたすらに拳打と爪牙を交わしあい、一瞬ごとに互いの位置が入れ替わるような人外の速度で繰り広げられる格闘戦。

 

戦況は順当すぎるほどヴォバンの有利に傾いていた。攻防を五合交わすごとに将悟の傷が増えていく。隙を狙って繰り出される将悟の四肢による一撃はどれも有効打にならず、空しく空を切る。

 

【聖なる陽光】はまだまだ掌握が進んでいない権能だ、十全に使いこなせていない。将悟自身、互いの身体がぶつかり合うような距離での鍔迫り合いも当然慣れていない。

 

対してヴォバンも武術の類は一切嗜まないが、三〇〇年にわたる戦歴の中で剣戟の間合いにおけるやりとりにも十二分に慣れており、完全な我流ながらその身体能力を十全に生かす身ごなしを身に着けている。

 

例えスペックで追いつこうと膨大な戦闘経験で攻防のやり取りと先読みに圧倒的に優位に立たれているのだ。

 

無論ヴォバンが前回戦った弁慶ほど武芸に優れているはずがないが、あの時将悟は向かってくる弁慶に対し、魔術で牽制した上で神速の足で回避に徹していた。自ら挑んだ今回の勝負とは条件が異なる。

 

ならば、退くか…?

 

胸中で不安を源に湧く疑問に対し否、と将悟は断じる。神殺しの嗅覚が将悟に警告していた…ココで引けば後は無い、と。

 

戦場とは水物、その場の勢いと言うのは意外なほど重要だ。始終ペースを相手に握られたままでは勝てる勝負も勝てはしない。加えてどこかで必ず力比べを要求されるのもまた戦場の機微。ならばどこかで競り勝てなければ常に劣勢の中で戦うことになってしまう。せめて一つでもいい、勝てる場所を作らなければ一気に勝利に辿り着く目が小さくなる。

 

ヴォバンは強い。真っ向からぶつかり合えばあらゆる戦局で上をいかれるのは目に見えていた。それでもなおこの場で踏ん張るだけの意味はある。

 

今のヴォバンは全力を出していない。真剣ではあるかもしれないが、あらゆる手段を使ってなりふり構わず将悟を潰しに来ていない。不意に降って湧いた死闘を存分に楽しもうという余裕の表れなのだろうが、それは油断と紙一重だ。今のヴォバンは従僕を伴わず、『貪る群狼』も全力を振るっていない。あるのは魔狼の身体能力と獣の身ごなし、野生の直感のみだ。

 

故に―――()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

ならばこの場で引いて勝ち筋を探れる道理はない。多少強引だろうが、得意と言えない局面だろうがあるものをやりくりして有利をもぎ取るしかないのだ。

 

「ヌルい、なァ! これでは先ほどまでの方がよほどマシであったぞ!」

「うるせェ。ほっとけ」

 

人並み外れて達者にこなす魔術と比べて稚拙でさえある体術に無様な嘲笑がかけられる。そんなことは自覚済みだが、改めて敵手から指摘されると腹も立つ。

 

出来るだけのことをしてなお、求める結果に結びつかない。

 

単純な身体能力に限定すれば軍神らを相手取ってもそうそう引けを取らないほどに上昇したが、それを生かす術が将悟には欠けている。前々から太刀合わせをしていた恵那からも言われていたことだがやはり将悟には直接的と殴り合う分野での才能は無いらしい。少なくともまつろわぬ神やそれを得意とする魔王を相手にするには全く足りていない。

 

ここで勝負をつける必要はない、だがせめて有利と言えるところまで戦況を盛り返し、場の勢いをこちらの味方につけたい。ヴォバンの打倒と比べればささやかとすら言える望みであったが、それが果てしなく遠いものに思えてならない。これ以上ないほどに恵まれた状況であるにもかかわらず、有利と言うには程遠かった。

 

拳と爪牙が触れ合い、一瞬ごとに互いの位置が入れ替わるような高速の格闘戦。目まぐるしく動き続ける攻防に追いつくので精いっぱい。攻防の中に魔術を差し込む余裕はない。ジリジリと…などという緩やかなものではなく、数秒ごとに将悟の身体に傷が増え、急速に戦況が押し込まれていく。

 

「ちっくしょうが…」

 

どうする、どうすれば…焦りと迷いに惑う中―――声が、聞こえた。肉声ではなく、一心に将悟を思う意志の籠った心の声が。

 

“―――王様!!”

 

死が二人を分かつまで断てぬ、太陽の絆を通じて。

 

「……あ…」

 

何かに気付き、ぽつりと声を漏らす。

 

その呼びかけは何も戦況を変えない、だが将悟に独りの少女の存在を思い出させるキッカケになった。放課後に連れ立って歩いた恵那、人目につかない空き地で太刀稽古を交わした恵那、自宅でノンビリと猫のようにくつろぐ恵那…。

 

相棒と恃む少女を思い浮かべ、僅かな心の余裕を得た将悟は敢えて今までと真逆のことを行う。すなわち魔狼から繰り出される爪牙を捌きながら、ゆっくりと息を吐いて笑ったのだ。

 

『戦場で気を抜くとは臆したか、ならば死ぬがいい!』

 

怒号を上げて一層猛烈な勢いで体躯に秘める暴力を振るう。全身にバネのように力を溜め込み、一気に爆発させて瞬く間に将悟へと迫る。

 

一気に首を掻き切ろうと大器の壁を突き破って進む短剣の如き五爪。刻一刻と己の命に迫るそれを前に、将悟はどこか他人事のような感覚で眺める。勝負事に成れば勝手に最大限に高まる集中を超えてなおコンセントレーションを高めていく。ヴォバンの動き、その一事のみに意識の全てを向け、敵意の具現たる魔狼の爪牙はどこか遠い。

 

()る、()る、()る、()る――――!

 

いつしか何故視るのか、などという雑多な意識も消え去る。目に映る景色が色を失い、どろりと粘つく液体の中で動いている感覚に襲われる。だがまだまだこの程度は序の口だと、この先があるのだと誰に教わるでもなく確信する。

 

―――ガキィッ! と硬質な物体同士がぶつかる不快音が響く。下からアッパー気味に降りぬかれた拳が、風を切り裂いて迫る爪撃にジャストミートしたのだ。

 

迷いが消え、入れ込み過ぎていた気が霧散する。心に“空”の境地が戻り―――ささやかな奇跡が将悟の下へ舞い降りる。望むほど手に入らず、しかし少女と繋ぐ絆という人為によって成された奇跡が。

 

魔狼に変化したヴォバンが飢狼の勢いで喰らいつく、その姿を掌中の球を転がすがごとく“視て”とれる。

 

大陸の武術家達が心眼之法訣とも呼ぶ超感覚。神速すら見切る霊眼を不完全ながらも会得し始めている。

 

死闘の中で極限まで研ぎ澄まされた将悟の霊的感性、霊視の導きがこの奇跡を呼び込んだのだ。

 

太陽の神力を全て身体能力のブーストに回していたために行えなかった第六感を含む感覚強化。弁慶との戦いでは陽光による強化で無理やり為した“心眼”が、いま将悟自身の器と経験を糧に開眼したのだ。

 

権能とも魔術とも関わらない、将悟自身の“力”がいま急速に花開こうとしていた。

 




心眼を開眼した要因:愛と絆、あと才能


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嵐、来たる ⑧

颶風の速度と刀鎗の鋭さを持った魔狼の爪が迫る。ほんの少し前までならば辛うじて弾くか、体を崩して躱すか、無様に喰らうかの三択だった。だが今ならば爪撃の軌道を余裕すら持って見て取り、対応できる。

 

「グルラァッ!」

「シャアァッ!」

 

弧の軌跡を描いて迫る鋭い爪を、陽光の宿る拳で正面から迎撃する。激突、後ろに弾け飛ぶ拳の動きに敢えて逆らわずに体を流し、逆の手で裏拳を叩き込むと鼻先まで迫っていた魔狼のアギトが瞬く間に飛び退く。

 

武術を知らないが故に常識に囚われない身のこなし。目に頼らずとも理不尽な精度の直感がヴォバンの位置を正確に教えてくれる。恵那をして予測不能と言わしめたその身ごなしが、世界最高峰の霊視の才とこれ以上なく上手く噛み合って劣勢を押し返し始めていた。

 

「先ほどとは随分と調子が違う。何を見た、赤坂将悟!」

「あんたの、お蔭、でなッ!」

 

目まぐるしく攻防を続ける中、不意に投げられた問いかけにきれぎれにだが答えを返す。

 

「ふん…?」

「あんたが速すぎて見えないもんだから、必死こいてあんたを見てたら()()()()()()()()()()()()

 

目に見て取れるほど急激な動きの変化。稚拙な体術のまま、先ほどまで無様に喰らっていた爪撃を尽く躱して見せる。控えめに言って異常な事態に不審の念が籠った問いかけを投げると、あまりにも適当かつ曖昧模糊とした言い草が返される。だからこそ確信する、この若き王はサルバトーレ・ド二や羅濠教主らも持つ心眼をこの死闘の中で開くに至ったのだと!

 

なんというデタラメか―――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

思わずクククッと愉快気に笑うと、その非常識さを揶揄する。

 

「胡乱な奴よ。その“目”―――心眼は神域に近づいた武術家か、霊視術師どもがようやく至りうる境地。ましてや心乱れるのが常たる死闘のただなかで開眼するか…流石我が同胞よな!」

 

仇敵が成し遂げた偉業にヴォバンはいっそ痛快ですらある調子で笑い、称賛する。この心眼、人類屈指の実力者であり聖騎士の位階を持つパオロ・ブランデッリをして不完全な形でしか行使できない超一級品のスキルである。見たところ将悟のソレもまだまだ不安定かつ不完全なまま発現しているようだが…なに、死闘のただなかに置いておけば勝手に成長するだろう。

 

神殺しの性質は人よりもむしろ魔獣に近い。彼らを研ぎ澄ませるのは鍛錬にあらず、ただ死闘のみ。戦う中で勝手に力を得ていく類の、常識で計れない生き物なのだから!

 

「ご高説どうも! くたばれ!」

「その程度ではまだまだ喰らってやるわけにはいかぬな!」

 

奇跡の恩恵を受けた将悟が息を吹き返し、今が好機とばかりに猛然と反撃を加え始める。今まで少なからず将悟の身体に傷を刻んだ鋭い爪は空を切り、逆に将悟が振るう殴打と蹴りは直撃こそしないもののヴォバンの肉体に触れる深さが少しずつ増していっている。

 

傾いた天秤を、一気に盛り返した。その事実にヴォバンは眦を鋭く釣り上げ、歓喜の咆哮を上げる。そうでなければやりがいが無いとでも言いたげに。

 

それでもまだ、分が悪い。奇跡に助けられてなお、ヴォバンの地力はそれを上回った。その事実を前に、それでも将悟は動じない。己がヴォバンに劣っていることなどとうの昔に知っている。

 

ならば…。

 

自問する。

 

ならば…かつての己はどうやってこの仇敵を相手に一矢報いたのだったか。

 

脳裏に過ぎった問いに、ふと思い出す。

 

―――そうだ。

―――己の全てを以てして、ヴォバンには勝てまい。

―――特に至近距離での殴り合いなど、己の領分ではない。

―――ならば、どうする? どうすれば奴に勝てる!?

 

その答えは、かつての死闘の中にあった。

 

パオロ・ブランデッリ。

 

先代『紅き悪魔』。当代屈指の戦歴と武功を誇る聖騎士。英国争乱において未だ目覚めて日が浅い赤坂将悟を導き、死闘の決着となる一撃を繰り出すまでの下準備をこなしきった騎士。その戦いぶりから将悟の“人間”に対する価値観に強い影響を与えたと言っていい。将悟が盟友と呼ぶ数少ない傑物だ。

 

一人の騎士の献身に助けられ、狼王と相討った死闘を思い出し、自答する。

 

―――勝つための戦力と、手段を他所から持ってくればいい。

 

その答えは将悟にとって当然とすら言えるものだった。元より赤坂将悟は己一人ではこれまで生き抜けなかった弱く、未熟な魔王。清秋院恵那の、甘粕冬馬の、戦場を共にした仲間の力を借りてようやく、全ての力を発揮できるのだから!

 

重量と巨躯に任せたヴォバンの突進を大きく身を捩って回避、そのまま距離を取ると太陽の絆を通じて“彼女”の存在を感じ取る。彼我を隔てる距離はそれなりに遠いが、己と彼女には何の関係もない。

 

輝ける光輝を迸らせ、『転移』の魔術を行使。我が剣よと恃む少女を召喚する。

 

「―――来い、恵那ぁッ!」

 

死闘のただなかへ誘う、その呼びかけに。

 

「―――やっと呼んでくれた」

 

これ以上ないほどに嬉しそうな(いら)えが返ってくる。

黄金の残光に照らされ、神々しいほど美しい少女が艶やかに笑い、そこにいた。

 

「埒が開かん。(たす)けてくれ」

「任せて。恵那は、王様の《剣》だからね」

 

あらゆる状況説明をすっとばした救援要請へ当意即妙とばかりに答えを返す。

“相棒”は既に竹刀袋から取り出され、何時でも斬りかかれる臨戦態勢に入っていた。

 

「クハハッ! 君も来たか、清秋院恵那よ!」

「言ったでしょ、侯爵様―――何時だって、何処であっても恵那は王様を援けるって!」

 

ヴォバンもまた虚空より顕れた少女の参戦を歓迎し、文字通りの犬歯を剥き出して猛々しく哄笑する。黄金の輝きを身に宿し、凛々しくヴォバンに立ち向かう恵那に、戦意と歓喜を等分に入り混じらせた称賛を送った。

 

「その言や良し! だが私に抗う資格があるとはまだ言えぬな!」

 

そう見栄を切るや否や、人狼と化しても変わらないエメラルドの瞳が妖しく光る。【ソドムの瞳】、ひと睨みするだけで生物を塩の塊に変える邪視の権能を振るう前兆だ。

 

ヴォバンは“敵”と認めた相手にこそ、手加減などという生ぬるい真似はしない。元よりこの邪視の権能を退けなければ己の前に立つ資格すらないのだから。この程度の試練、軽く打ち破ってみせよと期待すら込めて睨むその双眸から不可視の波動が放射される!

 

「勝利を望むならば我が邪視を乗り越えてみせよ、その先にしか道は無いのだから!」

「こうも言ったよ。侯爵様と戦う時だって、負けてなんか上げたりしないって!!」

 

暴悪なまでに強烈な眼光を輝かせたヴォバンに一歩も引かず、決意を込めた声で右手に構えた相棒に呼びかける。その身は既に戦に臨む準備を万端整え、充溢する神気で心身を満たしている。太刀の媛巫女第一の切り札たる神がかりを行使し始めたのだ。

 

「天叢雲劍よ、我が手に破魔の霊験を顕し給え!」

 

刀身に邪を祓う清冽な神気を漲らせた天叢雲劍を気合い一閃、押し寄せる波濤の如き邪視の波動に向けて振りかぶる。

 

「駆邪顕正の刃たれ…汝災いを退けるべし! キエエエェィ―――!!」

 

裂帛の気合いとともに上段から振り下ろした神刀は迫りくる邪視を散り散りに斬り伏せ、霧散させた。かくして恵那は見事邪眼の呪いを斬り破り…無傷。指先一片も塩に変えられていない。

 

「その神力…もしや、降臨術師か? 久しく目にしておらんな。お蔭で気付くのが遅れたぞ!」

「ご老公・速須佐之男命(ハヤスサノオノミコト)から賜った加護とその佩刀・天叢雲劍。侯爵様の権能にだって、負けたりはしないよ!」

 

まつろわぬ神と交信し、その加護を賜る神がかりの術。魔術の本場である欧州ですら三〇〇年以上同系統の術者は輩出されていない。ヴォバンをして目を剥かせるほど稀少価値を持つ伝説的な霊能力なのだ。

 

むしろ納得がいったと獰猛に笑うヴォバンに対し、半ば以上虚勢ながら見事に啖呵を切ってみせる。

 

「中々驚かされたが、我らの戦いに割って入るには力不足だぞ!」

「そいつはどうかな?」

 

恵那に向けた言葉を引き取ったのは、呪力を総身に漲らせた将悟である。

 

「ぬ…?」

 

ヴォバンの予想では将悟が前でヴォバンと張り合い、後ろで恵那が援護する形を取るものと判断していた。如何に神がかりの使い手と言えどカンピオーネやまつろわぬ神々を相手に真っ向からぶつかり合うには根本的に地力が足りないのだ。この場の誰も知らないことだが、現に草薙護堂も大抵の場合仲間には自身のフォローに徹させている。

 

だがこの時、愛刀を構えて前に出たのは恵那であり、後方で呪力を猛らせているのは将悟だった。

 

「合わせろ」

「うんっ!」

 

多くを語らずとも意思疎通できる…否、太陽の絆を通じて文字通り心と心で会話が出来る二人だからこその打てば響くやり取り。

 

「何か企みがあるようだな。乗ってやろう」

 

真っ向勝負で己が負けるはずがないという自負を込め、あくまで正面から受けて立つ選択を取る。

 

『――――――』

 

二人と一匹が睨みあう一瞬の“間”が空き、

 

「グルウウウウウゥゥオオオオオオォォ!」

「イィヤアアアアァァアアアアアアァァ!」

 

―――激突する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

銀と黄金、それぞれ異なる輝きを纏いながら人狼と太刀の媛巫女は互いに得物を交わし合う。

 

その激突の激しさは、先ほどまで繰り広げられていた将悟とのせめぎ合いと比べても一切劣ることが無い。戦歴と地力に勝るヴォバンはもちろんとして、恵那もまた神がかりに加え将悟から与えられた太陽の加護を最大限引き出し、この拮抗を作り出していた。

 

「その光、己だけでなく部下をも強化できるようだな!」

「中々便利な権能だよ。二対一だがまさか卑怯とは言わんよな」

「構わんさ。君達がどんな手を使おうと、勝つのは私なのだから!」

 

後方で恵那のフォローに徹する将悟の挑発に笑って答えるが。

 

「だが、不可解なのは確かだ…」

 

微かに、至近距離で鎬を削る恵那にも聞こえない声量で疑念を漏らす。先ほどから腑に落ちない攻防が幾度となく繰り返されていた。

 

振るわれる太刀を躱して懐に潜りこみ、爪を振るう―――手元に引き戻した太刀の“柄”で受け、弾かれる。

魔狼の身体能力と巨躯を生かした突撃を見舞う―――ギリギリまで引き付けて躱し、翻って太刀を振るう。

 

ヴォバンの猛攻を全て防ぎ切り、あまつさえ反撃すら加えてくる。先ほどまでの将悟よりも、それこそ心眼を開いた状態と比較してなお“強い”。如何に神がかりの使い手、そして将悟の加護を受けているとは言え理不尽に過ぎる強さである。

 

「我は呪言を以て世界を形作る者。我創造するは『雷』なり」

 

加えて、“これ”だ。

 

雷霆の速度で飛来したプラズマ球がヴォバンの回避する方向に的確過ぎる程的確に迫る。この雷霆自体にヴォバンを打ち倒す威力は無いが、まともに喰らえば総身に痺れが走り、動きが一瞬止まる。ダメージは無いが食らうと面倒だ。

 

それを嫌って避けたその場所には―――、

 

「天叢雲!」

『応っ!』

 

暴風を身に纏い、砲弾となって突撃する少女の姿がある。

 

「ッ、ちぃぃッ!」

 

舌打ちを一つ、腹の奥底から呪力を汲み上げて魔狼の身体能力を最大限に引き上げる。砲弾そのままの勢いで迫る少女の斬り下ろしを真っ向から受け止め、弾き飛ばす。華奢な体躯が風に飛ばされる紙細工のように遠ざかっていくが、眼光は力が満ち、神具もしっかりと両手に保っている。ダメージは無いと見た。

 

ともあれ体勢を崩した。好機とみるや即座に追撃を試みる。獣の瞬発力で彼我を隔てる数十メートルの距離を刹那の間に踏破し、人間を紙屑のように引き裂く爪を振りかぶり、

 

―――『転移』。

 

恵那と位置をそっくりそのまま入れ替わる形で魔術を行使した将悟が、右手にぎゅうぎゅうと限界まで雷撃を圧縮したプラズマ球を構えている。

 

「吹き飛べ」

 

行き場を求めて暴れ出そうとしている莫大なエネルギーが解放され、のたうつ紫電の大蛇となってヴォバンに迫る。至近距離から雷霆の速度で迫る大出力砲撃。完璧なタイミングで、完璧なカウンターとなった。

 

「―――」

 

着弾。紫電が弾け、極大の閃光にヴォバンが飲み込まれた。紫電がバチバチとけたたましく鳴り響きながらのたうつ蛇のように無作為に庭園の草木を焼き焦がす。数秒の後紫電が収まったその場所に立つヴォバンは、恐ろしいことに僅かな火傷程度の負傷しか負っていなかった。

 

まともに喰らって耐え抜いたのではない。咄嗟に影から呼び出した死せる従僕たちを盾として数舜の時間を稼ぎ、体内の呪力を活性化することで雷撃を逸らし、難を逃れたのだ。思考の瞬発力、危地に陥った時の切り抜ける方策が体に染みついているからこその妙技であった。

 

しかししてやられたことには変わりがない、とヴォバンは思う。

 

(認めねばなるまい…)

 

このまま付き合っていても同じことの繰り返しになるだけだろう。

 

事実、先ほどから似たような攻防が幾度となく繰り返されていた。互いに攻め込み、攻め込まれ、しかしほとんど全ての局面で上をいかれる。恵那が奇跡的なレベルで奮闘を見せているのは確かだが、それ以上に将悟のフォローも厄介だ。不慣れな心眼を行使しているとは思えぬほどに適切なタイミングで適切なフォローをこなしてくる。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

これほどの芸当をこなすのに、心眼の存在だけでは説明できない。それこそ心眼すら凌ぐ千里眼の権能か、心を見透かす類の権能でもなければ―――いや、違う。これはもっと別の、まるで互いに心を通じ合わせているような…?

 

「そういうことか」

 

何かが頭の隅に引っかかり、それをとっかかりに獣の直感と膨大な戦闘経験が道理を超えて正答を見つけ出す。この種の鋭い読みは聡明で知られるアレクサンドル・ガスコインの専売特許ではない。こと戦いに関する分野では同等以上のものを発揮するのがヴォバン侯爵という怪物である。

 

「その奇妙な光、単純に力を強める類のものにあらず。己やその眷属に加護を授けるのがその本質。そうした加護の権能はしばしば霊的に“親”と“子”を結びつけ、五感や精神をリンクさせることが多い…君達の当意即妙に過ぎる連携は、その恩恵という訳だ」

 

ヴォバンは一つ頷き、得心した。

 

「察するに赤坂将悟の心眼すら共有して“視”えていたのではないかな?」

「……。相変わらず頭のおかしい洞察力だな」

 

言外に肯定を告げながら、驚きと呆れの混じった視線を向ける。まさかたかだか数分剣を交えただけで見えない種を暴かれるとは…分かっていたことだが、やはり幾世紀にも渡ってまつろわぬ神々と戦い続けてきた経験は伊達ではない。

 

ヴォバンの言う通り、将悟と恵那は太陽の権能で結ばれたアストラル・リンクで以て異体同心の境地、それこそ将悟の心眼すら共有するレベルにまで至っていた。声による合図どころかアイコンタクトすら不要。互いが互いに求めることを脳裏に浮かべた瞬間既に実行されているという理不尽極まりない精度のコンビネーションである。

 

今の将悟と恵那の連携に勝るには、複数で一体を成す神々か自身の分身たる顕身の間で交わすものくらいしかいまい。

 

地力ではヴォバンが勝れども、流石に本領ではない人間サイズの格闘戦。しかも神がかりを行った恵那に将悟による十全以上のバックアップが加われば不利となっても仕方が無い。特に心眼の存在は殴り合いの距離ではヴォバンが持つ魔狼の直感に匹敵、あるいはそれ以上に有用だ。

 

「まさしく阿吽の呼吸と表現すべきか。なにせ真実互いの心が見えているわけだからな。その上で馬鹿正直に力比べに付き合えば、こうなるのも必然か」

 

尤もらしく頷きながらも微塵も戦意は衰えていない。

 

「認めよう。このまま付き合っていては私にとって分が悪い勝負となるだろう。良くて千日手だ」

 

口では潔く敗北を認めているが、それはあくまで“これまで”の話だ。

 

「だがな」

 

最終的な勝利まで譲るつもりなど、一欠けらたりともありはしないのだから。

 

あまり私を、舐めてくれるな(グルウウウゥゥオオオオォォ)!」

 

吼えるような怒声とともに、人狼と化したヴォバンのシルエットが急激に膨張する。魔狼の本性、『貪る群狼』を遂に全開にしたのだ! その偉容、実に三〇メートルを優に超える大巨狼。こうなれば先ほどまでヴォバンを翻弄した精密な連携も大きな意味を成さない。その連携ごと小さき者たちを叩き潰せば良いだけなのだから。

 

だがその偉容を仰ぎ見た将悟はどこかやり遂げた顔で小さく頷く。

 

「―――よし」

 

戦況は変わりつつある。

ヴォバン自ら宣言したように、今場の流れは将悟達の方に来ていた。

 

死闘が新たなステージに移行したと確信した将悟は、さらに天秤を己に向けて傾けるため、今一度兜の緒を締め直して臨むのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大巨狼と化したヴォバンはその巨体に見合わぬ速度で庭園を所狭しと暴れまわっていた。対する二人は燕か鹿のように跳ね回りながら、必死でその暴威を躱しつつヴォバンの隙を伺っていた。

 

振り回される巨腕はやすやすと起伏に富んだ庭園の地形を変え、整えられていた風景があっという間に崩壊していく。

 

小回りは流石に二人が上回っていたが、逆に言えばそれ以外の優位が見当たらない。速度でかき回して有効打を与えようにも、牽制程度の攻撃には目もくれず本命だけを察知して恐ろしい反応速度で相討ちを狙ってくる。

 

ヴォバンの巨体はその体格に見合うタフネスを備えている。天叢雲で斬りつけられたとしても剃刀(カミソリ)で肉を薄く裂いた程度のダメージでしかないのだ。そのためある程度割り切って迎撃とカウンターに全てを注ぎ込んでいた。相討ちならば十分に元は取れるのだ。そうと分かれば将悟たちもそう簡単に死地と化したヴォバンの懐に潜りこむわけにはいかない。

 

さらに厄介なのが『疾風怒濤』との合わせ技である。荒れ狂う暴風を従え、とんでもなく大雑把な精度で強風を吹かせてくるのだ。それ自体に威力は無いが、行動を阻害するという実に厄介な狙いが潜んでいた。二人の身体能力も人外の域を突破していたが、いくら何でも台風並みの向かい風の中で普段通りの精度で動き回れるはずがない。

 

将悟としては狙い通りにいかず、攻めあぐねているのが現状である。一つの権能で出来る欠点を別の権能を使って埋めてくる老練さは流石と言うべきだろう。

 

なんにしろこれ以上続けても埒が開かない…ならば自ら思うように動いて埒を開けるしかないだろう。

 

絆を通じて恵那に合図を送り、『転移』で手元に呼び寄せる。これまで常にヴォバンを挟むように動いていた二人が一か所に合流した形だ。ヴォバンからすれば狙いやすいことこの上ない…つまり、これは挑発だ。

 

そして格下からの挑発を無視できない…否、乗ったうえで企みごと粉砕するのがヴォバンの流儀である。

 

「覚悟を決めたか? それとも策でもあるか。いずれにせよ、目論見ごと叩き潰してくれるわ!!」

 

怒声とともに剽悍な動きで押し迫るヴォバンが見上げる程の巨躯を存分に生かした剛腕を振り下ろす。単純に巨大な質量と巨体と思えない俊敏な速度、この組み合わせから合算される物理的破壊力はひたすらにとんでもない。3階建ての雑居ビル程度ならば腕を一振りするだけでがれきの山と化すだろう。

 

「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を!」

 

スサノオが詠んだとされる最古の和歌そのままの言霊を発すると、上空に重く立籠っている雷雲とは出所が異なる黒雲が恵那を中心に急速に湧き出てくる。恵那に加護を齎すスサノオの神力が具現したものだ。

 

歴史書に曰く、高天原で乱暴狼藉を働くスサノオを恐れた天照大神は天岩戸に隠れ、世界中は闇に飲まれたという。これは暴風神スサノオの象徴である嵐雲が太陽を遮り、隠してしまうことの隠喩だ。

 

故に恵那(スサノオ)が駆使する黒雲は太陽神の系譜に連なる攻撃に対する強力な盾として機能する。

 

「何を企んでいるかは知らぬが、その小癪な盾ごと粉砕してやろう!」

 

各々が決死の覚悟を決めて突き出した矛と盾が激突する。接触の瞬間ぶつかり合い、弾け飛んだ運動エネルギーが周囲へ放射されていき、衝撃に耐えきれない地面が大魔狼と黒雲を中心にめくれ上がっていく。

 

拮抗は数秒、天秤が傾いた先はやはり地力に勝るヴォバンだった。ゆっくりとだが確実に黒雲を押し込み、二人に向けて刀剣のような爪を近づけていく。恵那が振るう神がかりの力は、結局は人の器に収まる範囲でしか行使することが出来ない。ならばこの結果は順当とすら言えたが、もちろんそれで諦めるような将悟達ではない。

 

「気合いを入れろ、ここが踏ん張りどころだ!」

 

将悟は叱咤激励を張り上げると瞬間的に絞り出せる呪力を全て輝ける陽光に変換し、恵那へと譲渡した。敢えて防御に関する一切は全て恵那に任せ、自身は次の行動に向けた準備と恵那への援護に専念する。

 

信じている―――未熟者の空想と笑われても、己と恵那がいるならば…と。

 

「そうだね…」

 

向けられた信頼は太陽の絆を通じて恵那の心にダイレクトに伝わる。心の中に流れ込んでくるそれは、死闘の最中だというのにどこか暖かい。いま真実恵那は将悟に《剣》と認められ、信じられている。その事実が奇妙なまでの幸福感と燃え猛る戦意を呼び起こし、恵那の胸中を混沌にかき乱す。

 

「恵那と、王様がいる。ならなんだって出来る! 誰にだって勝ってみせる!」

 

押し込まれた豪腕を、今度は黒雲の圧力が押し返していく。

 

心の内に氾濫する感情は、形のある言葉となって恵那の口を衝いて出る。身の程を弁えない無謀な宣言を、しかしヴォバンは笑わない。ただ大口を叩くのならばそれに相応しい力で証明してみせろと一層の力を込めて、黒雲に加える圧力を加速度的に増大させていく。

 

ヴォバンもまた、普段から纏う余裕の衣を投げ捨てて恵那の盾を突き破るために満身の力を振り絞る。相性の不利など知ったことではないとばかりに臍下丹田から引きずり出した呪力を惜しげもなくこの均衡を破るために注ぎ込む。

 

その成果は眼前で如実に現れ、再び拮抗していたはずの天秤がヴォバンへと傾いていく。

 

「天叢雲、残ったもの…ここで全部、使い切るよッ!」

『承知した。最源流の《鋼》の神威、とくと目に焼き付けよ! 清秋院恵那と天叢雲劍、ここに在りとな!!』

 

急速に迫ってくる大質量に抗うため天叢雲を天に掲げ、魂まで持っていけとありったけの呪力を神刀に注ぎ込む。最源流の《鋼》、闘争こそを何よりも尊ぶ神刀は己に流れ込む膨大な呪力に常ならぬ高揚と歓喜の意を盛大に示し、存分に哄笑する。これほどの死闘、これほどの闘争のど真ん中で己とその巫女が存分に武を振るう……これ以上の喜びなど、《鋼》たる己にあるはずがない!  天井知らずに突き抜けたテンションのまま、天叢雲は平時ならば絶対にやらないであろう無茶をやらかした。

 

『見事な覚悟だ、巫女よ。(オレ)の全て、余さず持っていくがいい!!』

 

神刀に認められた恵那に、許容量を超えた神力が流れ込む。幽世のスサノオ、そして天叢雲から存分に引き出した呪力が渦を巻いて猛り、恵那の身体をボロボロに蝕んでいく。本来ならばこの時恵那の肉体は注がれる膨大な神力を受け止めきれず、全身から血を噴き出して死んでもおかしくはなかった。だが太陽の神力で底上げされた全能力、そして太陽の絆を通じて日々少しずつ輝ける陽光を受け続けることによって現在進行形で成長し続けている恵那自身の地力がぎりぎりのところで恵那を救った。

 

「あ…ああ……」

 

痛い、と全身が引き裂かれるような痛みに思わず呻きが漏れる。

 

言うまでもなく危険な状態だ。この状態が後一〇秒続けば、辛うじて保っていた均衡はあっという間に“死”に傾くだろう―――だが、肉体が破裂しかねない無茶を押し通すことでこの数秒に限って言うならば恵那は守護神たるスサノオに等しい力を振るえる、赤坂将悟が持つ最強の《剣》となる!

 

「あ、あ、あああ…うわあああああああああああぁぁぁ!」

 

痛みを咆哮に変えて喉も裂けよと恵那が叫ぶ。すると轟、と恵那を守る黒雲から一陣の烈風が渦巻いた。烈風は加速度的に渦を巻く勢いを増し、ヴォバンの巨体をも飲みこむ暴風の(アギト)へと急成長していく! 

 

黒雲から噴き出す暴風だけではない、恵那と将悟を守護する黒雲そのものが火山から噴き出す噴煙の如き勢いで膨張していく。

 

外へ外へと噴き出す黒雲の圧力は暴威の化身足るヴォバンの大魔狼を以てして押しとどめることは出来なかった。同時に吹き荒れる暴風は大魔狼すら飲みこむ極大の竜巻と化し、ついでのように庭園全域を薙ぎ倒しながらホテルに向けてヴォバンを叩きつけた!

 

「幾ら王の助力があれどこれほどとはな…。見誤っていたか、清秋院恵那ァ!」

 

自身との激突でホテルを半壊させながら忌々し気な感情を撒き散らす。人間が振るうには規格外すぎる力に、さしものヴォバンも怒りと驚きを込めた怒声を上げるほかない。恵那が起こした奇跡は、遂に大魔狼を吹き飛ばし、ホテルに叩きつけることで無防備な姿を曝け出させる大難事を成功させる。

 

「最高のアシストだ。主演女優賞をくれてやってもいいくらいだぜ、相棒!」

 

小さくとも不思議と明瞭に聞こえる少年の声は、どこか遠い。そして()()。疑問に思う暇もなく恵那の視界が唐突に切り替わり、『転移』の術で避難させられたのだと一瞬遅れて理解する。無論他でもない、これから無防備なヴォバンに向けて放たれる赤坂将悟が渾身を込めた全身全霊の一撃から!

 

声の出どころを辿って上空を見上げればそこに見えるのは見慣れた暗雲ではなく漆黒の度合いをさらに深めた影が―――否、これは視界を覆う程、巨大な…“砲弾”だ!

 

「いい加減、潰れっちまえええええぇぇ!!」

 

目算で優に直径100メートルを超える超巨大な岩塊を『創造』し、上空から地表の目標に向けて高速で投擲する荒業。威力に限れば近い未来将悟とも対峙するランスロット・デュ・ラックが放つ隕石墜落(メテオストライク)にも匹敵する、極大規模の質量攻撃であった。

 

三〇メートルを優に超える体躯を誇る大魔狼であろうと、ことこの砲撃に対する“質量”においては勝ち目がない。

 

予想外に次ぐ予想外の一手に虚を突かれたヴォバン。ゆっくりに見えるが、実際は相当な速度で天から墜ちてくる超巨大質量体を、咄嗟に暴風で押し返し、雷霆で撃墜しようとする。だが恵那が稼いだ時間を使って準備された将悟の“とっておき”に対抗するにはいかんせん時間が圧倒的に足りなかった。

 

かくして勢いを微塵も衰えさせることなくホテルを紙屑のように押し潰し、粉砕した規格外の砲弾がヴォバンに直撃したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高層建築物の発破解体もかくや、という勢いでホテルが粉砕され、立ち込める粉塵が周辺一帯に蔓延している。

 

将悟が地上のヴォバンへ向けて躊躇なく撃ち掛けた巨大と言うも生温い大質量弾。周囲へ飛散した砕けた破片によってホテルはもちろん周辺数キロに渡る範囲に絶大な破壊をもたらしたそれは役目を終え、ゆっくりと元の呪力へ還っていく。

 

間違いなく渾身の一撃を最も無防備な瞬間にブチ当てることが出来た。直撃の瞬間を恵那がしっかりと目撃していたので、見間違いと言うこともないだろう。如何にカンピオーネと言えど一応は生物なのだから流石に死ねよ、と希望的観測を込めながら爆心地を注視していたが、まさかと言うべきかはたまたやはりと言うべきか悪い意味で期待通りの音が聞こえてくる。

 

ガラッ…、と砕けた岩が転がる音が。

 

「く、は…」

 

単発的な音がガラガラという音の連なりとなっていく。

 

「フハハッ…」

 

呆れを通り越して感嘆と確信の念に至る。間違いなく健在…どころか元気いっぱいな様子ですらある。

 

「ハハハハハハハハハハッ! やるではないか、堪能させてくれるではないか!?」

 

耳が潰れそうなほどの大音量で咆哮する大魔狼。ダメージが浅い訳がない、だが余力を残しているのは確かだ。しかも強烈な逆撃を食らったことで却って戦意が高揚しているらしい。頭痛がしてきそうなくらい闘争心溢れるテンションだった。

 

まさに意気軒高といった様子だが、先の砲撃自体はまともにブチ当てている。流石にダメージが無い筈はない。体中の骨がバキバキに折れていても不思議でないだろう…だが一体あとどれほど痛打を叩き込めれば落とせる? 

 

算段を立てるため頭を回していると、ヴォバンは大魔狼から人間体へと戻る。老紳士の服装はボロボロになり、ところどころ血の赤で染まっている。赤が占める面積も少しずつ増えているようだ。

 

だが全身を襲う激痛を微塵も表に出すことなく、老王は威風すら漂わせ若き少年王に向かい合う。

 

「無論、成長していると確信していた…だが、私の予想を超えたことは認めなければならないな」

 

少年に向けて最長老の魔王はどこかゆっくりとした調子で声をかける。

 

「強くなった。一年前とは比べ物にならぬ程に」

 

酷く満足気で、それでいて闘争の喜悦とは異なる感慨を込めた一言だった。将悟に向ける眼差しは冷徹ですらある普段のソレより少しだけ柔らかい。

 

対して嬉しくねーよ、とそっぽを向く将悟の頬も微かに緩んでいる。互いに仇敵と断じ、その命を奪うのは己だけと執着すらしているというのに……あるいはだからこそか、僅かだが暖かい交感が両者の間に生じていた。

 

「無論まだヴォバンと互角と言うには足りぬが」

 

尤も、そんな空気を断ち切るように余計な一言を付け足す辺りヴォバンのひねくれた性格が垣間見えた。

 

「第二ラウンドもまあ、幕といったところか。これから始まるのは第三ラウンドだが用意は良いかね?」

 

少なからず蓄積したダメージを余裕たっぷりな演技で覆い隠したヴォバンの発言に、苦笑するように頭を掻く将悟。真実、あの極大砲撃は将悟が放てる最大威力を有する。それをこれ以上ないタイミングで命中させ、なお致命打に届いていない。骨は確実に一ダースほどブチ折れているだろうし、臓器の損傷も複数あるはずだ。だがカンピオーネの基準ではまだまだ戦闘続行できるレベルの負傷である。

 

対して将悟は負傷こそヴォバンほどではないが、呪力の枯渇がそろそろ深刻なレベルに達している。ヴォバンに有効打を充てるために後先考えないハイペースで突っ走ってきたが、このままの調子で戦い続ければ先に将悟の呪力が底をつく。

 

「…ま、しょーがねーわな」

 

畢竟(ひっきょう)全てのカンピオーネが有する最大の能力とは、どんな逆境からでもなんだかんだ生き残ってしまう“生き汚さ”にこそある。三世紀を超える戦歴を誇るヴォバンは、その種の能力が他の面子と比べても頭一つ高いのだろう。

 

事実として認めねばならない。このまま十二ラウンドの最後まで付き合ったとしても―――十二ラウンドまで辿りつけるかもまず怪しい―――間違いなくヴォバンの命には届かない。届かせるためには、将悟もそれ相応の代償を払わねばならないだろう。例えば……使えば己の命すら脅かす、諸刃の剣を持ち出すといった風に。

 

「第三ラウンドじゃない。最終ラウンドだ。勝つのが俺にしろ、あんたにしろ―――ここから五分で、全部決まる」

 

どこか諦めたような、あるいは覚悟を滲ませる声音が漏れる。その響きは奇しくもいつかの死闘で弁慶が乾坤一擲の大勝負の望むときのものによく似ていた。将悟の切った啖呵を聞いたヴォバンもまた纏う空気を鋭くし、冷徹ですらある眼光で将悟を射抜く。

 

「覚悟を決めたか…。良いだろう、刹那の時に全てを懸けると言うのならそれに付き合うのもまた王の度量と言うものだ」

 

ヴォバンの宣言を受け、将悟はもう一度己の心の内を見つめ直す。

 

十二分にヴォバンの力は削いだ、裕理は無傷の草薙護堂と共にいる、ここで退くのも戦術の一つ、あとは奴に任せてもいいのではないか? 

 

己に問いかけるように、諭すように言葉を重ねていくが、心の内に残るのはやはり一つだけ。

 

ヴォバンに勝ちたい―――この誰よりも強いと思った最強の敵に、勝ちたい。愚かしいほどの無謀に駆り立てる、燃えるようなこの思いが。

 

勝てるから戦う、負けるから逃げる。それもまた戦場の理だ、否定するつもりは無い。だが眼前の仇敵を前に背を向けるのは、断じて己の流儀ではない! 俺は勝てるから戦うのではない―――勝ちたいから戦うのだ。

 

「下がってろ」

「……分かった」

 

恵那は無理しないで、とも死なないで、とも言わずにただ頷く。自身も己の身体の負傷は把握しているのだろう。これ以上将悟に付き合っても足手まといになるだけだと。少しだが輝ける陽光を渡し、退避を促す。

 

()()()()()()()。侯爵様なんか、やっつけちゃえ!」

 

その激励に将悟は思わず笑みをこぼし、足をふらつかせながらも退避していく恵那に心の中でああ、やってやるさと呟く。

 

「さて、と…」

 

自身の奥底で厳重に錠をかけ、封じていた力の一端に触れる。火山神スルトから簒奪した第二の権能、その本領を引きずり出していく。

 

「いま終末の刻は来たりて黄昏に至る」

 

それは言霊…過ぎれば己の身すら焼く破滅の炎を解放する鍵だ。

 

同胞(はらから)よ、騎馬に跨り虹の橋を駆け上れ。金の宝物を溶かし崩せ。汝らの火を大地に投げよ。世界を黒き燃えさしで満たせ!」

 

躊躇いは刹那、臍下丹田から引きずり出した最後の呪力を封印していた第二の権能に注ぎ込むと下腹部から灼熱の塊が噴き出し、一瞬で全身の隅々にまで行き渡る。

 

「我が剣は災いの火、天地一切の被造物を焼く破滅の焔!」

 

身体が赤熱する。足元の大地が融解し、天を衝く火柱が吹き上がる。さながら火山の噴火の如く! とめどなく吹き上がる灼熱の奔流に巨大なシルエットが浮かび上がり、重々しい地響きと共に火柱を割って降臨する。

 

その偉容、実に体高20メートル超の赤熱する巨神であった。将悟は赤黒く灼熱するマグマで出来た巨人へと化身したのだ。火山岩の漆黒と溶岩の深紅が入り混じる色合い、岩から削り出した相貌は将悟の面影をわずかに残している。

 

顕身が身動ぎするたびに零れ落ちる火の粉が大気を焦がし、その身から発散する莫大な熱量が大地をどす黒い赤色の流体へと変じていく。

 

制限時間は五分。

 

それを超えればその身に蔵する炎は己が身を焼き、最後にはその命を奪うだろう。だがその代償に、この顕身には世界都市、東京を大火と荒廃に沈めるだけの暴威が秘められている。その脅威に比喩はあれど一つの文明圏(セカイ)を滅ぼすに足る災厄の化身と表現しても大袈裟と言うことは無い。

 

賽は投げられた、窮地の代償に好機を得た、()るべきものは仇敵の命一つだけ。

 

さあ―――死力を尽くせ。

 

 

 

 



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嵐、来たる ⑨

死闘、決着。


眼前に屹立する巨神、莫大な熱量とどこか底知れない不吉さを感じさせるその偉容。

 

途轍もない脅威を感じる赤坂将悟の顕身に対して一合も交えぬうちにその危険性を感じ取っていたのは流石ヴォバン侯爵と褒め称えるべきだったろう。基本的に“力には力を”の戦法で敵に当たるヴォバンだったが、下手に大魔狼に化身して突撃すれば少なからぬ痛手を被るだろうと言う予感をひしひしと感じていた。

 

ならば様子を見るのが正解なのだが、あくまで先手をとることをヴォバンは選択する。戦に狂う狼王にとって根本的に受け身なのが性に合わないのだ。それ故にヴォバンは常套手段ですらある、従僕らによる威力偵察を試みる。

 

「来たれ、私に仕える狼達」

 

老紳士の装いに戻ったヴォバンの影が炎に照らされゆらゆらと踊る。その影から幾十…否、数百にも届こうかと言う軍勢が現れる。死相を浮かべた従僕らと、それ以上の物量を誇る巨狼達からなる混成軍団。

 

最初から傷を与えることなど期待されていない軍勢が、逆らうことのできない命に従い、無謀な突撃を開始する。格で言えばカンピオーネとは比較にならない、芥子粒のような者たちだがその命を顧みられていないが故にその動きは無謀なほど獰猛で剽悍だった。

 

そんな命を無視された影の軍勢に、屹立する巨神が示したリアクションは一つだけだった。

 

―――無造作に、巨神の右腕が横薙ぎに振るわれる。

 

赤熱する巨神、赤坂将悟の顕身が腕を一振りするだけで炎の津波が巻き起こり、軍勢に向けて瓦礫の山を溶かし崩しながら飲み込んでいく。視界全てを覆い尽くす圧倒的な規模、加えて火焔の端々にこの世全ての不吉で塗り潰したかのような漆黒が入り混じっている。

 

ただの炎ではない、とヴォバンが直感すると同時に軍勢が炎の津波に飲み込まれる。刹那の抵抗も許されず、灰と化した己の配下たちに一切の感慨を向けず迎撃のため呪力を溜めることに注力していたヴォバンだがすぐに違和感に気付く。

 

つい先ほど津波に飲み込まれた従僕達、魂を呪縛された彼らは何度死しても本当の死を得られず、ヴォバンの元に帰ってくる。灰と化した程度で権能【死せる従僕の檻】からは逃れられないのだ―――だというのに、手応えが無い。見えない鎖に繋がれたはずの、従僕らの魂が感じ取れない。

 

まさか、という驚愕がヴォバンの脳裏を奔るが眼前には既に従僕らを焼き尽くした紅蓮の津波が今まさに迫って来ている。故に思考の全てを一瞬で迎撃に切り替える。動揺を覚えながらもそれに囚われないのはやはり歴戦を潜り抜けた戦士の面目躍如と言えただろう。

 

一切合切を飲み込みながら迫るのはヴォバンにすら久方ぶりに恐怖という感情を思い出させる、圧倒的な威力を秘めた劫火―――"なればこそ"、迷わずに己の全力をぶつけるべきだ!

 

戦場でこそ冴えわたる戦士の嗅覚が命ずるまま、ヴォバンは上空にわだかまる黒雲に命じて幾十条と降らした雷霆を右手で掴み取る。更に唸りを上げて吹き荒ぶ周囲一帯の豪風を拳大にまで収束し、そこに蓄えた雷霆のエネルギーも一緒くたにしてまとめてしまう。迫りくる絶大なる火勢を少しでも弱めるために降りしきる豪雨もそこに混ぜ込んでいく。

 

出来上がったのは風雨雷霆を混然一体に融合させた“嵐”としか表現できない莫大なエネルギー。それを掌に収まるサイズにまで圧縮した力の塊だ。

 

「猛れ、嵐! 私を阻む敵を蹂躙せよ!!」

 

ヴォバンは言霊を唱え、東京タワーを丸ごと炎上させ、跡形も残さず吹き飛ばすだけの威力を蓄えた掌大の嵐を解放し、迫りくる紅蓮の波濤へけしかける! 解き放たれた嵐は一瞬で極大の雷霆を纏う竜巻と化し、両者の視界を塗りつぶす規模の紅蓮と風雨雷霆が真正面からぶつかり合う。

 

轟、とぶつかり合った極大のエネルギーが渦を巻く。

 

将悟が繰り出した紅蓮の津波は尋常ならざる火勢だったが、ヴォバンが嗾けた風雷霆もまた瞬間的にだが台風に匹敵するほどのエネルギーを備えていた。ともに莫大な破壊力を湛えた風雨雷霆と煉獄の炎は互いに喰らい合う。風雨雷霆を焼き尽くしあるいは紅蓮の火勢は吹き散らされ、対消滅していく。

 

一見は、互角。また事実として両者の元に互いの繰り出した攻撃は一片たりとも届くことは無かった。

 

「私の風雨雷霆を焼き尽くすか…!? 恐ろしい炎を飼い馴らしたものだな、赤坂将悟!!」

 

だが獣の感性を色濃く有するヴォバンは今の炎が巨神の全力ではないことを見抜いた。いわば小手調べ。力を抜いた、様子見のための一撃でヴォバンの全力と伍したのだ。

 

「挙句の果てに我が従僕を魂魄ごと消滅させるだと? 何というデタラメだ、何という理不尽だ!?」

 

しかも威力偵察の先触れとして放った死せる従僕らの最期の光景。今も焼き尽くされた従僕が手元に帰ってくる感覚は無く、呪縛した鎖の先を辿っても手応えの欠片も掴めなかった。ヴォバンの三世紀を跨ぐ戦歴を思い返してもこれほどの不条理はごく稀だ―――()()()()()()()()など、一体何の冗談だというのか!? 

 

ヴォバンの観察眼を以てすれば確信に至るのは容易だった。なにせ神と神殺しがやることに、常識など皆無なのだから!

 

まず間違いなく、彼らはあのどす黒い紅蓮に焼かれ、呪縛された魂魄ごと消滅を遂げてしまったのだろう。言うまでもなく魂は本来燃やせるような代物ではない。そもそも物理法則で扱える範疇に無い。だと言うのに従僕らは灰だけを残してこの世の何処からも消え去ってしまった。あの炎は間違いなくヴォバンが知る理の外にある。

 

老王の推測は的を射ていた。物理法則など易々と超越する炎―――《破滅》の属性を宿したスルトの火に燃やせぬものは無く、例え呪力を高めて掻き消そうとも刻まれた傷痕に呪詛を宿し肉体を蝕む。単純な火力以上に敵の殲滅と絶命に特化した凶悪な攻撃性能こそがこの権能の最大の武器であり、()()である。

 

そこまで思考を進めたヴォバンの背筋を尋常ならざる戦慄が駆け巡る。

 

ただの炎ではない。強いて言えばかつて矛を交えた冥府神が繰り出した煉獄の劫火に似ているが、より凶暴でタガが外れている印象を受ける。ヴォバンの魔狼は奪い取った神格(アポロン)の性質から太陽・光・熱に関わる攻撃に対して強い耐性を誇るが、それでも悪戯に触れる気は欠片も起こらなかった。

 

しかし。

 

(それだけの権能だ。当然リスクもあるだろう…?)

 

一方で冷静に将悟の権能を見極め、判断を下していたあたり流石ヴォバン侯爵と称えられるべきだろう。

 

ヴォバンの経験則では概ねどんなカンピオーネが所有していようと、どんな類の能力だろうと権能のポテンシャルにそう大差はない。ある権能が理由もなく理不尽に強力すぎるということはまずありえないのだ。その強力さの代償に何らかのリスクや制限事項という形で縛りがあるのが普通である。

 

一例を上げればジョン・プルートー・スミスが所有する『魔弾』の権能。あれも後先考えずに全力を振り絞れば国一つを滅ぼす威力を叩きだせるというが、一月に6発しか撃てない弾丸全てとありったけの呪力を犠牲にしなければならない制限がある。

 

(五分…そう言っていたな。制限時間があるということか)

 

ブラフである可能性も視野に入れて思考するが、決して的外れではない読みに思えた。これだけ凶悪な性能を持つ権能を長時間使い続けられるほど世の中は便利にできていない。理不尽の権化である神と魔王にも逆らえない理はあるものだ。加えて将悟の呪力も消耗が激しく、疲弊していたはずである。

 

持久戦に持ち込むしかない、と思考が狂戦士から冷徹なハンターに切り替わる。死闘を愛するヴォバンだが、その本質は単純な力自慢ではない。自身の戦力が劣ると判断したならば、躊躇わずに策を用い、手練手管を以て敵を狩り殺す狩人としての一面も備えているのだ。

 

「命を燃やし尽くす五分か…。背を向け、手が届かないところまで下がるのも手だが」

 

フッと不敵に笑む。合理性だけを追究すれば最善の手、だがけしてそれを選ばない己がいることを知っているからの闘志と喜悦に満ちた笑みだ。

 

「それは私の流儀ではないな」

 

やはりヴォバンは三〇〇年を闘争の中に生き抜いた生粋の戦士だった。力比べでは分が悪いことを悟りながらも、敵の正面に立つことは放棄しない。策を弄するにせよ、弱者の戦略を採るにせよ、全て正面に立って手を講じるのが己のスタイルなのだと堂々と巨神に相対する立ち姿だけでそれを示してみせる。

 

狷介で、ひねくれたユーモアの持ち主。気まぐれに他者を害する暴君。されどヴォバンもまた紛れもなく“王”であった。将悟の命を燃やした心意気に応える、愚かしくさえあるほど大きな器の持ち主なのだ。

 

「貴様の挑戦に受けて立ってやろう。死力を尽くせ、赤坂将悟! 我が、仇敵よ!!」

 

これから始まる死闘を前に景気づけを兼ねた堂々たる宣戦布告を告げる。それに応えるかのように、オオオッと地響きのような咆哮が巨神から返ってくる。どうやら仇敵も気持ちは同じらしい。

 

ヴォバンはこれから潜り抜ける死線の数を思い、常ならぬ武者震いと喜悦の笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――暴威が振るわれる。

 

巨神が振るう一挙一動のたびに灼熱が大地を焼き、天地を焦がす漆黒の火勢が世界を焼き尽くさんと燃え広がる。比較的小規模な攻勢でさえ破壊し、蹂躙する範囲が四方数百メートルに達し、焔が舐め尽した大地には生命の痕跡を見つけることが出来ない。後に残るのは黒々と灼け溶け、あるいは固まった噴火跡のような大地だけだ。

 

未だ最終ラウンドが幕を開けてからの経過時間は二分に満たない。だが既にヴォバンが潜った死線の数は片手に余るほどだった。

 

無造作に放った初手、ヴォバンの軍勢を焼き尽くし、全身全霊の嵐と拮抗した火焔の大津波を凌ぐ激烈な攻勢が絶え間なく続く。その威勢はヴォバンが知る最強の仇敵が繰り出した最大の一撃すら優に上回り、現在進行形で上限を更新し続けている。

 

そして特に瞠目するべきは"アレ"だ。

 

「来たか…!」

 

巨神が真っ直ぐに突き出した右腕、その五指がさながら獣の口腔のように曲げられた中心で地獄の溶鉱炉を凌ぐ熱量が収束する。球の形で安定した灼熱の塊、制御を放棄するだけで地上に煉獄を再現できる莫大な熱量を有しているが、恐ろしいのはこのあとだ。

 

(ひらめ)く。

 

超小型の太陽を思わせる火球から一筋の熱線がヴォバン目がけて撃ち放たれる。高速で進む熱線を、人狼の身体能力で横っ飛びに躱すが恐ろしいことに彼我の距離が三メートルを超えているにもかかわらず熱線から放射される熱エネルギーが空気を焦がし、ヴォバンの皮膚を焼く。さながらSF作品に出てくるビームかレーザーか、といったところだったが火線に秘められた暴威はそれこそ空想にしか存在しないような、異様なものだった。

 

地表と平行して放たれた火線は放射熱だけで大地を赤々とした液体に変え、直撃を受けた建築物は漏れなく貫かれる。挙句の果てにその構成物質の一部は気体と化して沸騰するほどの絶大なエネルギー! 一直線に進む火線がもたらした被害は優に二キロに届く。天空から俯瞰すれば赤黒く揺れる線がさながら傷跡のように幾筋も大地に刻まれていることが確認できただろう。

 

一切の洒落を抜きに、巨神は東京都の一画を灰燼と化す勢いで暴れまわっていた。“あの”ヴォバン侯爵を相手取ってなお、防戦一方に追い込むほどに! まつろわぬ神すら力づくで屈服させることが叶う絶大なるその“力”。一個人が物理的に都市を瓦礫も残さず焼き払える実例をその身で示しながら、しかし巨神は未だにヴォバンを討ち取れずにいた。

 

理由は幾つかある。

 

一つはヴォバン自身が恐ろしいまでにしぶといこと。死地に近づくほど冴えわたるヴォバンの戦闘勘が紙一重のところでその身を救い、幾世紀に渡る年月が練り上げた実力は幾度となく危地に追い込まれながらギリギリのところで抗ってみせる。

 

天上の黒雲に命じて少しでも火勢を弱めんと底なしの豪雨を土砂降らせ、荒れ狂う暴風を鎧として身に纏い、無尽蔵に呼び寄せた配下を使い捨ての盾として利用する。魔狼の化身に変じて身体能力を最大限に引き上げ、天空から呼び寄せた雷霆で荒ぶる火焔の壁を突き破った。

 

あらゆる権能を駆使し、どこまでも泥臭く生き汚い姿を見せながら、なおも意気軒高と笑える狼王。現存する魔王七人の中でも最高峰の戦闘力を誇る彼ならばこその奮闘だった。

 

更に一つ、巨神が振るう禍々しき炎は瞬間的な火力こそ傑出していたが持続時間はかなり短い。顕身から放たれ、ある程度時間が経過すると幻だったかのように掻き消えるのだ。後に残るのは黒々と溶けた跡を残す大地と延焼によって生じた普通の炎のみ。それもヴォバンが呼び込んだ豪雨によって即座に鎮火される。

 

最後の一つは目立たないが、重要な事実。

巨神は、戦闘開始からこれまで一歩たりとも動いていない。動かないのか、あるいは動けないのか。理由は分からないが、延々と一か所に留まって攻撃を放ち続けるだけ。これで巨神が大魔狼並みの機動力の持ち主であれば、ヴォバンはとうの昔に深紅の煉獄に魂まで焼き尽くされていただろう。

 

―――などと、思考を回す間にも巨神は次々と激烈なる攻勢を仕掛けてくる。

 

第一陣、眼前に迫るは初手で見たあの烈火の大津波。燎原の劫火よりも容赦なく大地を舐め尽すように迫り来る。ヴォバンの全力を込めた嵐と相殺したコレを巨人は当たり前のように放ってくるのだ。

 

「雷霆よ!」

 

咄嗟に言霊を唱え、呪力を漲らせながら上空の黒雲から稲妻を幾条も落とす。天から降った稲妻は全てヴォバンの掌に集い、東京タワーを丸ごと炎上させるほどのエネルギーを蓄えるに至った。

 

掌に集め、圧縮した紫電を解放。自然界に存在する雷の何十倍も強力なエネルギーを蓄えたそれは魔王の意思に従い、一条の強烈な投槍となって炎の津波を突き破らんと一直線に駆け抜ける。時間が許す限り力を振り絞った雷霆の箭は炎の津波にぶつかり、その勢いを急速に衰えさせながらも一点の突破口を開けることに成功する。

 

作り上げた突破口に魔狼に化身したした上で暴風の鎧を身に纏い、身体をねじ込むように突入する。轟々と荒ぶる火の粉の群れを辛うじて風で逸らし、突破した幾つかは体内の呪力を高めて強引に鎮火する。それでもどことなく不吉さを感じさせる火傷が身体の端々に刻まれていく。魂を侵すような痛みが絶え間なく響くが、そんなものに構っている暇はない。

 

紅蓮の炎幕を突破した先の視界には、デジャヴを喚起させる灼熱の大津波が映っている。理不尽極まりないが、今しがた潜り抜けたばかりの死線と同等の攻撃を連続で放射し続けているのだ。

 

目の焦点を今も迫る大津波の後ろに向けてみれば第二波に続き、第三波。文字通りの、波状攻撃。第一陣を突破するだけで少なからぬ呪力を使ったというのに、敵はまるで限界などないとばかりに無尽蔵の火力で以て暴威を振るっている。

 

「く、ハハハッ!」

 

"だからこそ"哄笑し、最高だと、最悪の戦場だとヴォバンは猛った。これ以上の死地など長い長い彼の生涯を振り返っても早々思い出せない。それほどの地獄、それほどの大戦(おおいくさ)! ここで昂らないような魔王ならば、ヴォバンはもう少し穏やかな生涯を辿っていただろう。もちろんそんなものに全くもって興味は無いが。

 

戦いこそが我が喜び、我が生きる場所。戦を愛する古き王、デヤンスタール・ヴォバンは死地のただなかにあってなお獰猛に笑っていた。

 

狼王はあらゆる権能を駆使し、あらゆる能力を振り絞り、この世に顕現した煉獄の化身が振るう攻勢を躱し、穿ち、凌ぎ続ける。かつてない危地に放り込まれた魔狼の化身は裡に眠る魔獣の本能を完全に覚醒させ、紙一重の賭けを奇跡的なレベルで成功させ続けていた。神殺しの魔王に対して不適切な表現であるが、控えめに言って神がかっている。

 

そして…。

 

将悟が顕身に変じ、短くとも濃密な180秒が過ぎ去ろうという頃になって死戦の節目が訪れる。

 

グシャ、ともビキィ、とも聞こえる不吉な音を立てて巨神の右腕にヒビが入り、ボロボロと崩れ落ちていく。隻腕となった巨神に痛みを感じている様子はないが、噴き出す火勢が明らかに一段弱まっていた。明らかな異常、そして漬け込むべき弱みである。そしてヴォバンに眼前の巨神が振るう権能に関する推測の材料を一つ、提供することになった。

 

「読めた」

 

直感する。

 

あの顕身は“砲台”だ。尋常ならざる脅威を秘めた《破滅》の炎を撃ち出すための砲身であり、それ故に一か所に留まって撃ち続けるしかない、機動力を放棄した顕身なのだ。恐らくは《破滅》の属性を宿した炎、その凶悪過ぎる威力故に生身では撃つことに耐えきれないのだろう…。それ故に人間体よりも頑強で、権能を扱うのに適した赤熱する巨神に化身しなければあの火焔を扱えないのだ。

 

そしてあの巨神に化身してなお、将悟は獰猛すぎる猛火を制御しきれていない。それは一撃たりともダメージを入れていないにもかかわらず、自身が繰る炎の圧力に耐えかねて自壊した右腕が証明していた。将悟の言っていた制限時間とは、恐らくは顕身が自壊するまでのタイムリミットか。

 

これまでの奮闘、危地を紙一重で潜り抜ける離れ業を幾度となく続けてきた影響でヴォバンの消耗もまた深刻な域にまで達していた。

 

だが自身がどれほど弱り切っていようと、敵が弱みを見せた途端に気力を取り戻すのもまたカンピオーネが持つ能力……否、神を殺すほどの負けず嫌いの賜物だった。呪力と体力、精神をすり減らしながら将悟の攻勢を凌ぎ続けてきた成果が目の前で現れた。その事実に、僅かだが確かに疲弊を見せていたヴォバンの横顔に二ヤリとした不敵な笑みが戻る。

 

将悟は言った、制限時間は五分だと。

 

「さて…貴様の言葉通りならば猶予は幾ばくもないぞ? 例え夜明けまで続こうが付き合ってやるがな! さあ―――私を殺して見せろ!!」

 

吼えるように、己を奮い立たせるような剛毅な宣言。応えるように、天井知らずに規模が膨れ上がっていく暴威の煉獄。

 

もう一度笑う、頬を歪め、喉を嗄らして哄笑する。最長老の魔王はいま一人の狂戦士に立ち戻り、そのまま自ら危地に飛び込んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――そしていま巨神を維持できるタイムリミットが目前に迫っていた。恐らくあと30秒とないだろう。

 

既に赤熱する巨神の両腕と右足は崩れ去り、残った足で辛うじて体勢を支えているだけ。まさに満身創痍という他はない。だがその赤く燃える両眼は身に纏う炎とは全く違う光でギラギラと輝き、ヴォバンとの勝負をいまだに投げていないことが濃厚に見て取れる。

 

それでこそ、と歓喜すら覚えながらヴォバンも後先を考えず権能を駆使し、致命傷となる攻撃のみ集中して防ぎ続ける。ここまで凌ぎ続けていたヴォバンも満身創痍だった。五分に満たないわずかな時間、だというのに身体中に黒々した火傷の跡が刻まれ、潜った死線の数は既に数えるのも億劫なほどだった。

 

「いい加減この死闘の幕を下ろすとするか!」

 

形勢は逆転した。

ヴォバンもまた疲弊の極みにあるが、それ以上に将悟の消耗が激しい。

 

他と隔絶した暴威を有しながら仕留めきれなかった将悟の未熟は否定できまい。スルトの権能を使うのはこれで二度目。掌握が進んでいるとはお世辞にも言い難い。

 

だがそれ以上に生涯を通じても稀な極大の死地に獣の本能を最大限発揮したヴォバンが見せた奮闘…否、生き汚さは群を抜いていた。それこそ他のカンピオーネと比較しても驚愕せざるをえないほどに!

 

とはいえヴォバンが満足に戦えるのもあと僅かな時間だけだ。自身の状態を誰よりも把握しているヴォバンは安全だが水入りになる恐れのある持久戦ではなく、確実に将悟の息の根を止めることを選んだ。余力が残っている内に確実に仕留める選択、あくまで死闘の決着を望む精神は確かに戦に狂う狼王に相応しい。

 

これが最後の大一番と断じ、残った余力を注ぎ込んでいく。己が身体能力を最大限に引き出すため、また熱と炎に強い耐性をもつ人狼に化身し、ヴォバンは跳躍する。

 

巨神は迎撃のため口腔に炎熱を溜め込み、炎の吐息として噴き出す。ヴォバンに向けて一直線に向かっていく劫火の奔流は、しかしその勢いが明らかに最初と比べて弱まっていた。幾度となく見せたレーザー砲じみた極大の火砲、最早あれを使えるほどの余力が無いのだ。

 

「その程度の火勢などぉッ!!」

 

太陽の化身たる魔狼に変化したヴォバンは渦巻く風を鎧に、配下を肉の盾としながら最も火勢の弱い箇所を強引に突き破る。百戦錬磨のヴォバンを以てしてその火勢は完全に防ぎきれず、配下の盾と風の鎧を突破した炎が魔狼の皮膚を焼き焦がす! 火焔は熱、炎に強い耐性を持つはずの魔狼の皮膚にすら食い込み、ジリジリと肉を焼く。咄嗟に盾とした片腕を炎の舌が舐め、肉体を炭化させていく。

 

ただの火傷のものではない…精神をやすりで削り、魂を蹂躙するかのような激痛。これまでも同様の苦痛に襲われていたが、今のこれは先ほどまでの十倍増しだ。だが神殺し特有の人間離れした我慢強さで無理やり耐えきる。

 

あるいは半身を犠牲にする必要があるかもしれない。だがこの勝利にはそれだけの価値があると確信し、ヴォバンは疾走した! 悪足掻きのように将悟はその後も続けて劫火を操って迎撃するが、ヴォバンはそのすべてを避け、捌き、時に強引に道を開いて突破する。

 

『グ、グググ…』

 

軋むように、呻くように漏れ出る巨神の唸り声。巨大な溶岩と岩石の融合体となった顕身はひどく感情が読み辛いが、やはり相応の激痛が将悟を襲っていたのだ。

 

全身を苛む痛苦が若干以上に巨神の反応を鈍らせた。

 

好機と見たヴォバンは更に速度を上げ、数秒の間に彼我の相対距離を踏破する! そのまま出来うる限り風雨雷霆を掻き集め、手元に集めるが……足りない、これだけでは如何に弱っているとはいえ巨神を倒すには至らない。

 

だがその程度、何の障害にもなりはしない。足りないと言うならさらに足せばいい。あるではないか、お誂え向きに風雨雷霆を被せるだけで立派な砲弾と化す―――己そのものという、最後の切り札が!

 

遂に互いの距離が五〇メートルを切ったところで、ヴォバンは渾身の力を込めて足元の地面を―――踏み砕く!!

 

激烈な踏み込みに伴う反発力を余さず推進のエネルギーに転嫁、音速の壁すら易々と突破する。刹那の間に巨神と己を隔てる空間を踏破し尽くし、巨神の左胸目がけて風雨雷霆を纏った己自身を砲弾とした突撃を敢行する。

 

重量一五〇㎏超、速度は音速を優に超え、挙句の果てに東京都のランドマークすら跡形もなく吹き飛ばす規模の風雨雷霆を身に纏う。殺意というやすりで極限まで研ぎあげ、己そのものを(やじり)とした必殺の一撃だった。

 

対峙する巨神も最早後が無い。必滅を期して放つ最後の一撃は、この一度だけ往時の勢いを取り戻す。その代償と言うかのように、巨神に残った最後の四肢が…砕け散った。

 

迎撃のため巨神の口腔から噴き出す劫火。激烈なる灼熱の渦を、風雨雷霆が突き破る! そのまま微塵も勢いを殺すことなく巨神に迫り、ヴォバンそのものを弾丸とした必殺が―――巨神の左胸を、貫いた。

 

巨神を突き破った勢いのままその向こうに抜けたヴォバンは見事に着地……そしてそのまま崩れ落ち、地面に片膝をつく。将悟よりもマシとは言えヴォバンを襲う疲労もまた尋常ではないのだ。

 

顕身が負ったダメージはそのままカンピオーネ本人もフィードバックを受ける。ならば、この一撃は致命傷! 仇敵の命に届いたという実感、苦戦に次ぐ苦戦を乗り越えた感慨が胸に満ち()()になる。

 

『―――タダじゃ負けねえよ、一緒に地獄に落ちろ(グオオオオオオオオオオオオオオオオォッ)!!』

 

だが。

 

四肢を喪失した巨神が地面に身を投げ出す寸前、巨神の双眼が凶暴な深紅の光を放つ。巨神の咆哮と重なるように聞こえる、あまりにも不吉すぎる道連れの呪詛。

 

(うごめ)く。

 

全方位からヴォバンを囲むように巨神の足元に滞留する赤黒い流体…溶解したマグマが爆発的な勢いで噴き上がった―――さながら火山の噴火か、荒れ狂う竜巻のように!

 

将悟は悪戯に崩れ落ちる四肢を見送っていたわけではない、己の意思により迅速に反応する攻撃手段として砕け散った己の肉体を密かに周囲の赤熱する溶岩に溶け込ませていたのだ。負った負傷は覆しようがないが、少しの間なら砕けた肉体にも意思を通わせておける。

 

そしてヴォバンを覆う灼熱の檻が完成する、360度全方位逃げ場のない奥の手だ。最早逃れようがない、ヴォバンにすらそう認識させるほど迅速な手並みだった。

 

抗いようなどなく、ヴォバンは紅蓮の濁流に飲み込まれた。

 

そして万物を影も残さず焼き尽くすのに十分な時間が経ち、赤黒いマグマからなる竜巻が陽炎のように消え去った後には―――蛇に巻きつかれたようなどす黒い火傷を全身に刻まれながらも、両の足で屹立するヴォバン。耐えきったのだ、手品の種などない。ただ極限まで呪力を高めて猛火の檻を凌ぎ切った。

 

一瞬、声も出せないほどの驚愕が将悟を襲う。

 

『―――……。クソ…ッタレ。アレで死なない、だと……ギッ…!』

 

オオオオォッ…と巨神の姿のまま弱々しい呻きを上げて負け惜しみを投げる将悟。その声には濃密な苦痛とそれ以上の困惑と驚愕が籠り、そして微量の畏敬の念すら含まれている。

 

最後に見せた決死の一手に十分な炎熱を注ぎきれなかった。疲弊の極みにあったからこその火力不足、というのはもちろんある。しかしそれ以上に奇襲のタイミングは絶妙だったはずなのだ。無防備に喰らえばカンピオーネの肉体と言えど人間大の黒焦げ死体しか残らないほどの火力はあったはずなのだ!

 

だからこそ勝因は明らかに奇襲を仕掛けるよりも前に体内の呪力を高めていたヴォバンの機転にこそある。

 

「確信していただけだ。君が黙って殺されるような諦めのいい男であるはずがないからな」

 

例え死の淵に転げ落ちる直前だったとしても、とヴォバンは告げる。

 

幾らカンピオーネが生き汚いと言っても限度はある。歴代の神殺しは大往生より戦場で野垂れ死んだ例の方が多いし、魔王殺しの英雄が現れた時代の神殺し達は例外なく命を落としているのだから。

 

将悟の消耗は神や神殺しの基準に照らし合わせても、尋常ならざるものだった。このまま死んでも不思議ではないと思えるほどに。将悟もそれは分かっていた。分かったうえで自身の疲弊を受け入れたのだ。あるかなしかの一瞬の隙を作り出し、仇敵を確実に抹殺するための罠として利用するために! 

 

実際、相対したのがヴォバン以外だったのならば何者だろうとほとんど確実に命を刈り取れる必殺の布石だった。

 

だがヴォバンには、ヴォバンに“だけ”はこの必殺が通じなかった。ヴォバンだからこそ、将悟が神殺しの基準で瀕死だろうと起死回生の一手を打たない“はずがない”というある種の信頼すら抱いていたからこそ!

 

将悟もまたなんとなくそれを理解し、苦い苦い笑みを零した。敗北の苦渋を、苦い土の味を噛みしめるように。

 

『ちっくしょう…強ェなァ…』

 

また、勝てなかったか…。

 

千言万語を費やす感慨に勝る、たった一言だった。

ハラワタが焼けるような悔しさと気のせいかと思うほど僅かな嬉しさが籠る。切り札を、命を懸ける諸刃の剣を切ってなお届かなかった。最強の仇敵はやはり最強だった。そのことがほんの少しだけ嬉しい。超えるべき壁は、高い程やりがいがあるのだから。

 

まあ、“次”があるかは大分怪しいものだが…。

 

ビキビキと、ミシミシとなにか大事なものが崩れていく音が連続して聞こえる。初めてスルトの権能を使った時もそうだった。限界を超えるまで権能を行使した後、強力過ぎる力の反動だと言う風に全身から不吉極まる崩壊音を響かせながら、献身が解除されたのだ。

 

ドサリ、と音を立てて地面に投げ出される将悟。

 

あとに残るのは全身を炭化させ、命を蝕む呪詛に侵されたボロキレよりも無残な肉体だけ。おまけにヴォバンにぶち抜かれた左胸の負傷はそのまま、破られた心臓から大量の血液が流れだし、生命維持のレッドゾーンを余裕で踏み越えている。太陽の権能を使うだけの呪力もない。この状態で出来るのは精々仇敵に黙って首を差し出すくらい―――いや、まだやれることはあったな。

 

“この後は任せて”―――そう啖呵を切った彼女のためにも、出来ることはやらなければ。

 

「今日は…俺の負けだァ…。次…こそ、は、…は……」

 

霞む視界に苛まれながら負け惜しみでなんとか舌を回すが、限界を超えて意識が飛びかける。

 

「次など、無い。ここに至って私が詰めを誤るとでも…?」

「どー…………かな…」

 

やべェ…マジで死ぬ。肉体以上に魂魄を侵し尽くす洒落にならない激痛にかつてないほど近づく“死”を明敏に感じ取る。それでもなんとか耳と舌は動かせる、視界はそろそろブラックアウトしてきたが。将悟の負け惜しみに応えるヴォバンに声にも深刻な疲労が感じられる。なんだ、いいところまで行っていたんじゃないかと自画自賛しながらも、精一杯己に出来ることを将悟は実行し続ける。

 

信じること、それだけは何時だって誰にだって出来ることなのだから。例え無駄に終わるとしても、きっと将悟は後悔しないだろう。

 

「―――天叢雲!」

 

だが幸いにも、将悟のささやかな時間稼ぎは無駄には終わらなかったらしい。

轟く地鳴り。視界の端に黒光りのする巨大な人型、ただしどこもかしこも鋭角でまるで『剣』のような巨人が見える。

 

―――お願い、死なないで。意識が消える直前に、そんなひどく取り乱した恵那の声が聞こえた気がした。

 

その声を最後に、赤坂将悟の肉体は生命活動を止めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…………。

………。

……。

…夢を見ている。

絶え間なく黒い炎の舌で身体を炙られる悪夢だ。

 

だが夢を見ている自覚はなんとか出来た……ならば、起きねば。

 

「ッ…~~~~!」

 

身じろぐ。その途端に全身を襲う濃密な苦痛、全身の骨を一本一本砕いたうえで内側に溶けた鉛を流し込んだような痛みと言うも生温い地獄の拷問だ。カヒュッ、カヒュッと必死に酸素を取り込もうとするが、喉がかすれ、呼吸すらままならない。

 

「起きてはいけません、羅刹の君。今しばし体を休め、力を蓄えねば」

 

耳に届く優しい声音。どこか聞き覚えのある女性の声と共に、スッと唇に少量の液体が注がれる。冷たい感触が喉を滑り落ち、優しく内側から身体を慰撫する。治癒の霊薬か、と感得するが全身、特に四肢を苛む苦痛をなだめることは叶わないらしい。

 

だが無理もないと将悟は思う。スルトの顕身は制限時間を過ぎれば自然と砕け散り、全身に反動として呪詛を帯びた火傷を残すのだ。顕身を以てしても抑えきれない凶暴な猛威、そのフィードバックだった。極端な話、権能の発動中ただの一度も攻撃をもらわなくても反動で勝手に自滅してしまう欠陥品。前回は治癒の術も霊薬も満足な効果が見られず自然治癒に任せるしかなかった。しかもカンピオーネの自己治癒能力を以てしても完全復帰まで一か月近い時間がかかったのだ。

 

絶え間なく送られてくる痛みを忘れるため、助言に従ってもう一度眠りに落ちようとするが。

 

「これ以上俺を待たせんじゃねェ。とっとと起きやがれ、クソガキ」

 

酷くイラついた壮年の男の声、これは……スサノオか? 声音と人相が頭の中で結びつき、魂魄を蹂躙する苦痛など無視して半身を起こそうとする。これは負傷ではなく意地の問題だった。この老神の前で弱みを見せるなど、ヴォバンに見せる次くらいに許せないのだから。

 

「スサノ…ッッァ…~~~~ッ!!」

 

なんとか喋ろうと舌を回すが、それに連動して動いた筋肉が全身の負傷を刺激し、ままならない。声にならない呻きを上げ、苦痛に体を横たえる。なんとか我慢できないでもないレベルまで痛みが治まるのを待って視線だけで周囲を見渡すと、そこは穏やかな空に見下ろされた静かな四阿(あずまや)。周辺には将悟が横たわっている布団をはじめとした看病のための道具が幾つも並んでいる。見える範囲にいる人影は玻璃の媛と、スサノオの二人だけ。ちなみに媛はスサノオに咎めるような視線を送っているが気にしている気配は一切なさそうだ。

 

ここは、幽世。それも玻璃の媛が支配する領域のようだ。

 

何故この場に、と一瞬だけ疑問が脳裏をよぎるがすぐに理解する。気を失う直前に聞いた恵那の声、恐らくは彼女が幽世へ渡るための扉を開き、避難させてくれたのだろう。そのまま最も頼りになる庇護者…スサノオの元まで満身創痍の己を運んだのだ。

 

冷静に己の身体を見直すと、無残に破られた心の臓は元通りになり、一定のリズムで鼓動を刻んでいる。身体に遺された傷は破滅の焔に負わされた火傷の形をした呪詛のみ。

 

とはいえあの負傷はあまり癒しの権能と関わりのないスサノオが治せるものではないし、言ってはなんだが神祖程度の玻璃の媛でも荷が重い筈だ。何故俺は助かった? と視線だけで問えば、心得たもので素早く媛が答えを返してくれる。

 

「御身が印度国の英雄殿から簒奪した権能の恩恵です。御身は確かに一度、死の淵へ転がり落ちました。しかし冥途の(みち)へ向かおうとした貴方様を、生命と活力の象徴たる太陽の恩恵が生の側へと引き戻したのです。異国の羅刹王に破られた胸をご覧ください、傷跡一つ残っておりません。……尤も御身が振るう破滅の焔、その傷を癒すには荷が重かったようですが」

「ついでに俺がロクでもない目にあったがなァ…。はた迷惑な用法に目覚めやがって」

 

俺が一秒遅けりゃ媛も恵那の野郎も跡形も残ってねぇぜ、とどこか焦げ臭いスサノオが厭味ったらしく含みのある発言を告げるがそんなことよりも重要なことがある。

 

「―――…恵那は、そうだ、グギッ……アイツは…!」

「無事だ。だが元々限界を超えて神がかりを使った後で下準備も無しに無理やり幽世渡りをやらかしたお蔭で呪力はスッカラカン。そのせいでいまはこんな有り様よ」

 

と、将悟に手にもつ櫛を見せてくる。続けて無理やり暴走させた天叢雲もしばらくは使えねェしよ、と呟くスサノオだが将悟の中では正直あの反りの合わない神剣より恵那の方が優先度はよほど高い。

 

「それ、が…?」

「ああ、恵那の野郎だ。放っとけばそのまま幽世に溶けてもおかしくなかったからな。こっちで櫛の形に押し込めれば、傷は癒えないが悪くなることもねぇ」

 

幽世は精神と物質の境が非常に曖昧な世界だ。自我と呪力をしっかりと保てなければそのまま息を止め、死体も跡形残らず消滅してしまう世界なのだ。

 

「そうか…。ありがとよ」

「やめやがれ、薄気味悪い。俺が勝手にしたことに、外野がゴチャゴチャ言うんじゃねぇよ」

 

これがツンデレなら生暖かい視線の一つも向けただろうが、徹頭徹尾本気で言っているので苦笑程度しか出ない。その苦笑が苦痛を呼び、すぐに歪んだものになってしまったが。

 

「それじゃ、ジジイは…」

「あ、俺か?」

「テメェに用は―――」

 

無い、と言い切ろうとしたところで再び尋常ならざる激痛が将悟を襲う。身を捩らせて必死に苦痛を紛らわせようとする姿にスサノオは底意地の悪い笑みを浮かべながら滔々と説明してくる。

 

「冗談だ。あの狼爺の神殺しならもういねぇ。あのまま草薙護堂とやり合う元気は流石に無かったようだぜ」

「羅刹の君の中でも一際鋭き方でした。幽世から覗く我らの存在を看破し、赤坂様へ言伝を預けたのです」

 

無言でスサノオに向けて怒りを向けていた将悟だがヴォバンからの言伝と聞いて思わず媛に向き直る。視線で玻璃の媛に続きを促すと、ゆっくりとその言伝について教えてくれた。

 

「はい、ありのままお伝え致します。“私の負けだ。巫女はくれてやろう。再戦まで壮健であれ”―――以上となります。羅刹王よりも羅刹王らしい、豪胆な物言いでした」

「余裕ぶりやがって。あのクソジジイ…!」

 

激痛を押し殺すほどの怒りに身を震わせる将悟に面倒くさげな視線を向けるスサノオ。

 

「試合に勝って勝負に負けたか、その逆かは知らんけどよ。最初の目的は果たしたんだろうが、ちっとは喜べや」

「あのジジイに上から目線で見下されたままなんざ負けたのと同じなんだよ!」

 

外野は引っ込んでやがれ、と殺意すら籠った視線に怖い怖いとここぞとばかりにからかってみせるスサノオだが最早将悟の目にはヴォバンしか映っていない。

 

「次だ、次は絶対、俺が…、勝つ!」

 

文字通り死んでも懲りない、という実例を目の前で見せつけられたスサノオは呆れの籠った溜息を吐きながら如何にしてこの魔王を幽世から厄介払いできるか、頭を回すのだった。

 

 

 

 

 

 

―――これが赤坂将悟とヴォバン侯爵の因縁が絡まり生じた第二戦、その結末。過程はどうあれ互いに求める物を得られず、勝負は痛み分けに終わった。

 

残ったものは確信だけ。

 

我と彼、彼我の力は互いが考えていたよりはるかに近づいた。ならば次こそは五分と五分との大勝負。

 

否応なく両者の死生勝敗を分かつ、乾坤一擲の大勝負になるだろうという確信だけが今回得られた報酬だった。

 

 

 




これにて『嵐、来たる』の章は終了です。後始末くらいは言及されるかもしれませんが。
ここまで読んで護堂が空気だと思った人は活動報告を読んでください。今回の執筆における紆余曲折を載せてあります。


2016.4.30
一部改訂。


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幕間 沙耶宮馨 ②

今回は正史編纂委員会の日常風景を切り取りました(真顔)



千代田区番町界隈、沙耶宮家別邸にて…。

少しばかり年の離れた二人組が沙耶宮家当主のために用意された居室で怪しげな密談を繰り広げていた。

 

「やらかしたねー」

「やらかしちゃいましたねー」

 

と、些か以上に語気が軽く、中身のない会話をしている二人はもちろん沙耶宮馨とその懐刀、甘粕冬馬である。重厚な造りの椅子に腰かけた馨と机を挟んで向かい合う甘粕が軽い口調で話をしていたが、その内容はヘビーなどというものではなかった。尤も当人たちとしては現実逃避の側面が半分程度あったのかもしれない。

 

話題は勿論、先日『智慧の王』赤坂将悟とヴォバン侯爵が繰り広げた死闘、その被害についてである。

 

「物理的な被害範囲はホテルを中心に少なく見積もって平方キロ単位。正確な数値は不明だけど東京23区総面積の数パーセントが瓦礫しかない更地に一夜で早変わりだ。いっそ奥多摩あたりの山奥ならこれほど面倒くさいことにはならなかったんだけどねー」

「数パーセントと聞くと大したことが無いように聞こえますが、よりにもよって大都市東京のど真ん中ですからねー。救いと言えば人的被害が皆無ということぐらいですか」

「大規模な催眠魔術をかけて避難誘導を手伝ってくれた将悟さんさまさまだね。尤も一番の戦犯でもあるけど」

「今回の被害の大半がその場の勢いに任せた悪ノリの結果ですからね。そろそろ委員会一同を代表して抗議の一つもしますか、鉄砲玉付きで」

「それは抗議じゃなくて報復か暗殺というんじゃないかな?」

「何を言っているんですか。この程度でカンピオーネを殺せるわけがないんだから抗議の範疇に収まりますよ」

 

心の底から真面目に言っている風の甘粕にこれはヤバイなーと馨は直感する。上辺は平静に見えるが、どうもかなりの程度キレているらしい。今回の一件で、とうとう甘粕の堪忍袋の緒が豪快に切れたようだ。普段冷静な人間が起こると怖いと言うが、どうも今の甘粕は何をやらかすかわからないおっかなさがあった。せめて被害が大戦犯である少年一人にいきますように、と身勝手だが至極妥当な祈りをささげる。

 

「控えめに言って戦後史上最悪の大火災…原因やらなにやらのでっち上げにも苦労しそうだし、被害跡の復興にも苦労しそうだ。リアリティのあるカバーストーリが即座に思いつかないくらいには状況は最悪で最大規模と言っていいだろう」

「まあ戦隊を組んだ爆撃機による空爆を余裕でぶっちぎる被害範囲ですからね。いっそ東京の地下に密かに建設された原発施設が暴走したとでも噂を流しますか」

「悪くないね。陰謀論者が食いつきそうだ」

 

都市伝説の類を持ち出して揶揄する甘粕に軽妙な相槌を打つ。舌鋒が鈍っていた彼も多少は調子が戻って来たらしい。

 

「被害は甚大、動かせる人員は足りず、放っておいても揉め事を拾ってくる魔王様は二人とも健在。ああ、一人は病院で療養中だけど」

「最悪ですね。何が最悪かと言えば後始末に従事する私の休暇がまた遠のくことが」

 

控えめに言って修羅場を通り越した労働地獄を前になおも肩をすくめて韜晦する甘粕に、いっそ不敵な笑みを浮かべる馨。この最悪な状況下でどこか面白がっている風の主人にやれやれと溜息を零すが、この場に客観的な第三者がいればどっちもどっちだとツッコミを入れただろう。

 

()()()()()()()()()()()()。規模が普段の数倍増しと言うだけで」

「不本意ながらこの一年散々将悟さんの後始末に駆り出されてきた身としては、困難だが不可能ではない…とでもコメントしておきましょう」

 

どうもこの二人、鉄火場慣れしすぎて正常な感覚を失っているようだった。潜った修羅場の濃さを感じさせる、泥沼にどっぷり肩まで浸かった感のある発言。事実として日本に神殺しが誕生してから一年、似たような事件を度々起こされてはその後処理に苦労してきた経験は伊達ではないのだ。

 

そして不本意ながらの成長を遂げたのは彼ら二人だけではない。関東方面の支部は過酷極まる労働環境によって淘汰され、無能な者は生き残れない、精鋭揃いの魔境へと変貌していたのだ。

 

「それに経済的被害を言うならアテナの時の方が酷いしねー」

「あの女神さま、容赦なく文明の利器を奪っていきましたからね。強制的に“夜”を呼び込まれた東京で一体どれだけの損害が出たことか」

 

あの時も大概修羅場などというレベルを振り切った酷い有り様だったが、人員を最大効率で振り回すことで何とかやり切ったのだ。ならば今回も何とかなるだろう、と楽観できる材料が一つもない癖に鉄火場慣れした図太さのおかげで彼らは現状を悲観してはいなかった。物理的な被害規模では今回の方が数十倍は酷かったが、総合的に判断するとどちらの件も最悪を突き抜けた最悪なのは変わりがないのだ。

 

それよりも話すべきことがあった。ある意味極大規模だが一過性の被害に過ぎない今回の一件よりもよほど重要なことが。

 

「被害には目を瞑るとして今回、裕理を通じて草薙さんと縁を結べたのはかなり大きいよ。あの人の扱い、一歩間違えれば後々まで禍根を残す火種になりかねないからね」

「火種どころかメガトン級原爆並の爆発力ですけどね。あまり気付いている人はいませんけど、現在進行形で日本の平和は大ピンチの最中ですし」

 

一世代に一人いれば僥倖と言う神殺しが二人、しかも関係性は友好的と言うには遠く挙句の果てに生活範囲が極端に被っている。怪物二人が住処とする今の東京は実のところヴォバン侯爵が居を構えていたころのロンドンをはるかに凌ぐ危険地帯なのである。

 

「全くもって笑えないけど本当に裕理の存在が日本の命綱になるかもしれないね。今のところカンピオーネお二人に対して直接・間接問わず強い影響力を与えられるのは彼女だけだ」

「草薙さんには十代青春真っただ中の異性として、将悟さんには恵那さんを通じて…ですね。ハハハ、裕理さんに傾国の美女の資質があるとは見抜けませんでしたよ」

「おまけで言うなら甘粕さんにも期待しているよ。なんだかんだ今回の件で草薙さんともそれなりに親しい間柄になれたようだし、人柄に関する情報だけでも貴重だ。ああ、そういえばエリカさんから引き抜きをかけられたりもしたんだっけ?」

 

しれっと更なる仕事を押し付けてきそうな上司にうんざりした表情を隠さず、答えを返す。

 

「どちらかと言えば遠回りに取引を持ち掛けられたと言った風が正確ですかね。あちらとしても日本に草薙護堂一党の地盤を築く腹積もりのようですから、正史編纂委員会とのパイプは欲しいのでしょう―――それとこれ以上の過重労働は御免こうむりますので悪しからず」

「うん。やっぱり向こうとしては日本に居座るつもりか。こちらとしてはイタリア辺りに移住してくれたらもろ手を挙げて歓迎できるんだけどなァ…。なんなら必要な資金を一括で提供したっていいくらいだ―――すまないね、日本の平和のため犠牲になってくれ」

 

他所に言ってくれればこっちの面倒が大分減る、と限りなく本音に近い戯言を呟く馨。部下の方も内心だけで転職の可能性を検討しつつ、発言自体には尤もだと頷きを返した。

 

「ウチの王様と草薙さん、どうも聞く限り相性が良くなさそうだからね。普段はどちらも大人しい方だけど、一度トラブルが持ち込まれれば連鎖誘爆してもおかしくないよ。場合によっては山を一つ二つ崩す規模の喧嘩になって相討ちもあり得るんじゃないかな」

「全く否定できないあたりカンピオーネの人格のアレっぷりが改めて思い知らされますねェ…」

 

しみじみと呟く甘粕。普段から散々将悟に迷惑をかけられてきた人間なので発言にも重みが宿っていた。

 

「…遺憾ながらそこらへんを完全にどうにかする方法は無さそうなのがなんともね。それこそどっちかが日本から離れるとかいう奇跡が起きない限り無理じゃないかな」

 

馨も達観した目付きで悲観的な発言をするが、上司の有能さといささか毒のある茶目っ気を知る甘粕は少し違う捉え方をする。

 

「完全ではないがいまよりもマシな状況に改善できる、そういう風にも聞こえますが?」

「流石は我が懐刀だ。勘が良い」

 

普段は飄々としているくせに肝心なところは抜け目のない部下に苦笑を向け、今日の本題を告げる。

 

「ま、今回忙しい中わざわざ呼んだのは甘粕さんの意見を聞きたかったのさ。この国の呪術界、その未来についてね」

 

意味ありげに視線を飛ばしてくる上司にまたぞろ厄介ごとの一つも抱え込まされそうな予感を感じ、甘粕は思わず顔を顰めた。そんな部下の憂鬱な心情を華麗にスルーすると馨は座ったまま視線を机に落とし、思慮深げな表情を浮かべながらゆっくりと話し出す。

 

「状況を整理しよう。いま現在日本国首都東京都にはカンピオーネが二人住んでいる。住んでいる場所も日本地図で見ればごく近所だ」

「ええ、仰る通りです」

「ではこの状況の果たしてどこが問題なのか? 究極的には彼らが敵対すること。この一点に尽きる」

 

騒動についてはこの際一人でも二人でも変わらないし、と遠くを眺めるながら諦観の籠った口調で馨は淡々と呟く。

 

「この場合二つのケースが考えられる。本人同士が直接ぶつかり合う場合と、傘下組織同士の抗争にまで発展してしまう場合だ」

「将来的な可能性まで考えればどちらも十分にあり得る話です。お互いの仲は決して良好とは言えず、その影響力は自身に仕える結社を立ち上げて余りある」

 

消極的な同意を示すと馨はうん、と自信を深めたように頷く。

 

「前者…二人のカンピオーネが全力で殺し合う、となると周辺の被害が尋常じゃないことになる。ただ、こっちの方は言ってしまえば“それだけ”とも“どうしようもない”とも―――極論“いつものこと”だとも言えるんだよね。人間が本気で意思を固めたカンピオーネを翻意させるなんて不可能なんだし、彼らがトラブルに巻き込まれないようするのは人間が呼吸するのを止めるのと同じレベルで解決不可能な問題だ。早めに割り切って被害の軽減に努める次善策しかないと思う」

 

それにカンピオーネは良かれ悪しかれものすごく図太いから揉め事が起こっても一回ケリがつくと意外なほどあっさり元の鞘に納まっちゃいそうだし、とも付け加える。

 

ポンポンと飛び出す些か以上に王に向ける敬意の薄い発言は中々身も蓋もない。ただし内容自体に異論は全くない、彼らに平穏無事な生き方をしろと言うのは魚に空を飛べと言っているのに等しいのだから。彼らは只人と生きる世界からして異なる“王”、神殺しの魔王なのだ。

 

「この次善策に関しては追々考えていこう。幸いなことに二人とも喧嘩っ早い方じゃない。御自身が持つ力のはた迷惑さは自覚しているみたいだから、絶海の無人島でも決闘場として提供すれば場所を変えることくらいは飲んでもらえると思う」

「お二人が冷静さを維持しているという条件付きなら、概ね異論はありません。ただ、カンピオーネの方々は知らず知らずのうちに地雷を踏みぬく名人ですからね」

「ありがとう。日本で最もカンピオーネを知る甘粕さんからそう言ってもらえて心強いよ」

 

一部条件を付けつつも消極的な同意を示す部下にからかうように言葉を放ると嬉しくない称号ですねー、と当の本人は言葉通りに嫌そうな顔を隠そうともしない。クスクスと軽い笑いを挟みながら、飄々とそのまま話を続ける。

 

「対して後者の傘下組織を巻き込んだ抗争だけど…直接的な被害規模こそ前者程大きくない代わりに、後始末が面倒臭くなる気配がプンプンする。ただ、幸か不幸か俗世にまつわる部分が大きくなるから、こっちでコントロールできる目も出てくる。僕らが本腰を入れて対処するべきはこっちだ―――洒落抜きで言うけど対処を誤ると正史編纂委員会どころか日本呪術界という枠組みそのものが崩壊しかねない」

「それほどですか…。いえ、懸念は理解できます。半日目を離せば地球の裏側で神様と戦っていてもおかしくない御仁らですからね。何年も居座るであろう東京にその影響が出ないわけがない」

 

ぼやきの混じった甘粕の嘆き節に苦笑しながら「付け加えると」…と馨が話を継ぐ。

 

「お二方の性格や権能について考えると、それぞれ組織を率いることになる可能性は大分高いしね。特に草薙さんの方は将悟さんのお墨付きだ」

「…将悟さんの? 何時の間にそんなお話をされたので?」

 

確か将悟が入院してから絶対安静、そうでなくても多忙を極めている沙耶宮馨が将悟を訪ねる暇などなかったはずだが。首を傾げる甘粕になんでもないことのようにつげる。

 

「アテナ・弁慶との一件の後でね。類稀なる眼力の持ち主であるあの方に聞いてみたのさ、『果たして草薙護堂氏とは如何なる人格の持ち主なるや?』とね」

 

つまり馨はかなり初期から魔王二人が君臨する日本呪術界、その将来について考えていたのだろう。まだまだ若年とは言え馨は正史編纂委員会次期頭領にして現関東地方の責任者も兼ねる。むしろ誰よりも深くこの問題に取り組む動機があるのだ。

 

「…なるほど。それで将悟さんはなんと?」

「曰く、『やくざの大親分』―――らしいよ。当時は半信半疑だったけれど、人柄についてある程度掴めた今では納得だ」

「やくざ…というか任侠ですかね、本来の意味での」

 

任侠…中国春秋時代に発祥した、仁義を重んじ、困っていたり苦しんでいたりする人を見ると放っておけず、彼らを助けるために体を張る自己犠牲的精神を指す言葉だ。なるほど、確かに草薙護堂を一語で表すならば的を射ていると言えるかもしれない。

 

甘粕も思案気に宙を見つめながら、草薙護堂の人格を構成するパーツについて一つ一つ言及していく。

 

「上っ面の言動はともかく、実際に接してみると確かに頷ける部分はありますね。弱きを助け、強きを挫く義侠心。目の前の悲劇を正義感から見過ごせず、首を突っ込んでは手段を選ばず大暴れ。おまけに意外なほどアッサリと清濁併せ呑むアウトロー気質…関羽や劉備のようなお行儀のいい英雄よりも張飛や曹操辺りの無法の星に生まれた輩を思わせます」

「ついでに言えば妙に人を惹きつける気質の持ち主でもある。自称・愛人のエリカさんも間違いなく傑物だし、まさか裕理が一月足らずであれほど心を許すとは僕は考えもしなかったよ。本人は意図していないだろうけど周囲の陣容が充実しつつある。このままエリカさんが積極的に動いていけば十分に一勢力として立ち上げられるだろうし、ひょっとするといずれは正史編纂委員会と伍する勢力を築くかもしれない」

 

かも、とは言っているが確率は決して低くない。正史編纂委員会を率いる沙耶宮家、その家格・権勢と伍する一族があと三つはあるのだから。その内の一つでも草薙護堂の勢力下に入れば、決して無視できないだけの影響力を持つだろう。

 

「草薙さんは気質が組織向けとして……よくよく考えれば将悟さんも大概ヤバイ権能の持ち主ですからねぇ」

「太陽の権能…ああ、プリンセス曰く《聖なる陽光》だったかな。初めて聞かされたときは驚いたよ、まさかアンチエイジング効果のある権能なんて代物があるとはねー」

 

魔王の片割れの話が出たことをきっかけに、もう一方へも会話が発展する。

 

「まあ持ち主曰く、恵那さんのように加護の契約を結ばなければ半永久的な不老などというデタラメは起きないらしいですが…」

「それでも定期的に加護を享ければある程度肉体年齢が全盛時に向かうし、健康状態は劇的に改善するだろうとのことだからね。旧家の老人あたりが聞けばよだれを垂らして飛びつきそうな話だ。連中、暇と金は腐るほどあるし若さと健康に目が無い」

「それだけなら全然話が小規模で収まるんですけどね。金や物で釣れる人じゃありませんから、本人が拒否すればそこでおしまいですし。ただねェ…予想外の方向から意外と実現できそうなのがなんとも」

 

ああ、と馨も甘粕の意を汲んで頷く。

 

「“あの”賢人議会との共同研究。まるっきり今の話に応用できそうだよね」

「目標も寝たきりのプリンセスの快復と近い分野ですから。実現の見込みは相当あるでしょう。そうなるとただでさえ無駄に口うるさく長生きな彼らの寿命が余計に伸びるわけです」

 

慨嘆調の口調の甘粕だったが、一方の馨といえば笑みすら浮かべていた。

 

「いいことじゃないか。逆に言えば太陽の神力を供給できる将悟さんが、彼らの首根っこを摑まえたってことだ。ひいては僕らの発言力も上がるということでもある」

 

それも腹黒さと爽やかさが均等に混じった、それでこそ沙耶宮馨と言いたくなるような笑みだ。やはりこの上司は曲者過ぎると、溜息を吐く甘粕だが彼は知らなかった。周囲の同僚や委員会の上役から、甘粕自身も似た評価を受けていることを。類は友を呼ぶ、赤坂将悟はこのことわざを地でいく人間なのだ。

 

ここまで両者の気質や相違点を議論していた二人だが、話が脱線したと本筋に戻る。

 

「ともあれ、草薙さんが結社を立ち上げる可能性はかなり高い。本人はともかく腹心のエリカさんはそう動くと僕は見ている」

「そうなると委員会としても対抗するために将悟さんとの縁を深めるしかなくなるでしょう…ああ、どんどん嫌な予感がしてきました」

「安心してくれ、僕もだよ。で、その状態でトップ同士が先陣切ってドンパチし始めると…」

「周囲が流されるかも、と。カンピオーネが率いる勢力が小規模で収まるとも思えませんし…組織同士の抗争がなし崩しで始まり、そのまま日本呪術界は血で血を洗う世紀末の様相を呈する。中々不吉な未来予想図ですが意外と否定できる材料が見つかりませんね」

 

無理矢理例えていうなら恐ろしく仲の悪い隣国の指導者同士の争いに引かれ、国同士の戦争につながるようなものか。日本のような常識的で理性的な国家ならありえない話だが、生憎カンピオーネたる彼らが率いる組織はその権威の絶対性ゆえに独裁的かつ武断的な気風を帯びる可能性が高い。

 

そして何より神殺しという連中は大体の場合最悪の予想の少し斜め上を行く名人なのだ。馨らが言うような事態がそのまま起こらないにしても、より悪いかより予想外な方向にかっとんでいくに決まっている。

 

「うん、なるほど」

 

ここまで妄想スレスレの…だが始末の悪いことに意外と低くない確率で訪れそうな将来の懸念について考察を進めた馨は尤もらしい顔で頷いた。

 

「流石はカンピオーネだ。少し動けば厄介ごとに突き当たるし、何もしていなくとも厄介ごとの火種になっている。世界に騒乱を齎すことに人生を懸けて取り組んでいるようにしか思えない」

 

驚くべきことにそこに皮肉の気配は無かった。むしろ感嘆と賛美の念が若干だが含まれてすらいた。沙耶宮馨、有能さにかけては同世代で並ぶことない“彼”。だが、治よりも乱を好み、仕事であっても粋と洒落を挟まずにいられない曲者でもある。有能さよりもやや行き過ぎた快楽主義的な気性を将悟に見出され、全権代理人に任じられるだけのことはある若者なのだ。

 

「まあ杞憂で終わる可能性もないではないけどねー。僕らもそんな最悪に陥らないために色々動く予定だし」

 

それでも、と続ける。

 

「この先絶対であるはずの“王”が同時に二人君臨する状態が続く限り間違いなくこの国の裏側は混沌とした情勢が続くよ。自分の望みを果たすためにそうした情勢とカンピオーネを利用しようとする真性の愚者が出ないとも限らない」

「まさか、と言いたいところですがありえそうな話です。人間なんて一〇〇〇〇人もいれば一人か二人は常識のない輩が出てきますからね。それに我が国は昨年まで羅刹王との関わりなんてほとんどありませんでした。欧州の魔術結社あたりと違って彼ら神殺しとの付き合い方を熟知しているとは言い難い」

「ましてや一人だけでも十分に厄介な魔王が二人に増えた。それこそ欧州の結社でもこんな状況を上手く乗り切れる方法を知っているとは思えないね」

 

いやだいやだと珍しく本気で力なく呟く上司にこればかりは心からの同意を示す。よりにもよって自分たちの住む国にピンポイントで神殺しが二名も相次いで誕生しなくてもいいだろうにと。

 

「この先日本呪術界の勢力図は相当な変動を強いられる。今まで日の目を見られなかった人間が王に見出されて表舞台に立つかもしれないし、あるいは勘気を被って左遷されるかもしれない。それだけカンピオーネの有する影響力は絶大だ」

「今回の一件でこれまで以上に畏敬の念が膨れ上がること間違いなしでしょう。その力に逆らう愚かさもまた、刻み込まれたでしょうしね」

 

東京都の一画を灰燼に帰した暴力の前に立てる人間などいまい。いるとすれば自殺志願者か人間離れしたレベルのドMだけだ。

 

「これでどちらか一人だけなら話は早かったんですけどねー」

「既存の勢力図のまま絶対の王として玉座に座って頂ければいいだけだからね。まあ誕生したものは仕方がない。天災と思って受け入れよう」

 

本人たちがいないからとは言え相当な言い様だった。その危険性を十分に認識しつつ不敬すれすれの発言がポンポンと飛び出す辺り、馨も大概神経の図太さが他の人材と比べて頭一つ抜けている。あるいはだからこそ将悟に見出されたと言うべきか。魔都と化した東京を上手く転がすにはただ優秀なだけでは足りない、必要ならカンピオーネすら駒と見做し盤面に配置する程度のクソ度胸はむしろ必須なのだから。

 

そんな有能な上司が暗示する未来予想図は暗雲に満ちていると言わざるを得ないものだったが。

 

(とはいえまぁ…なんとか“する”でしょう)

 

うちの上司と王様なら、と胸の内で確信に満ちた呟きを漏らす。

 

甘粕の心中はそこまで不安はなかった。危機感はそれなりにある。だが一方でなんとかなるだろうとも感じていた。その一因には不本意ながらも不敵な笑みを零している上司の存在があるのだろう。沙耶宮馨は性格、行動ともに問題が多い要注意人物だがその有能さもまた比類ない。彼(?)の手腕を以てすればならばこの地獄の釜底と化した魔都・東京すらも上手く転がすことが叶うかもしれない。

 

多分に混じった野次馬根性と一抹の期待を込めて問いかける。

 

「で、どうするんです?」

「うん? なにがだい」

 

と、疑問符をつけて返しながらもどこか悪戯っぽい光で目を輝かせる上司に改めて水を向けた。

 

「散々悲観的な未来予測が続きましたが、なんだかんだ腹案をお持ちなんでしょう?」

「まあね。尤も秘策と言えるほどのものじゃない。むしろ日本人の得意技、お家芸ですらある」

「ほほう。傾聴しましょう」

 

言葉の上では謙遜しながらもその実、得意げですらある響きを伴って馨は口を開き、

 

「―――根回しと談合さ。いや、格調高く秘密協定と言った方が良いかな?」

 

現役高校生の口からひどく爽やかな口調で生臭さの過ぎる単語が飛び出す。甘粕はふと日本の教育制度の問題について思いをはせたくなった。こんな問題人物が自分の上司であると言う現実から目を背けるためにも。

 

「まず、日本呪術界…というか『公』の四家を敢えて二つに割る。沙耶宮と清秋院は赤坂さん側、連城と九法塚は草薙さん側だね。元々互いに権勢を争ったり、張り合ったりする間柄だ。自然な形で緩やかな対立関係に持っていけるだろう」

 

いっそあっけらかんと。

 

「その上で裏では手を結んである程度の共同歩調を取ろう。身も蓋もなく言えばプロレスの台本かな。そこから不文律と言う名のルールを作って組織という重しを彼らに括りつける。緊急時にはあっさり振り捨てられる重しだろうけど、逆に言えば普段ならそこそこ有効な筈だ。非常時に振り回される分平時は彼らの権威を遠慮なく利用させてもらっても罰は当たらないはずさ」

 

朗らかな笑顔すら浮かべて馨は腹黒い企みを開陳していく。政治的茶番を語る馨はやけに生き生きとしており、流石は赤坂将悟(アクマ)に目を付けられるだけのことはあると誰しも納得する悪辣さだった。

 

「カンピオーネ二人がぶつかり合うにしても、それは組織を巻き込んだ大抗争ではなく、彼ら二人の私闘という形に抑え込む。誰だって自分たちが滅ぼされるのを良しとはしないさ。裏で通じてお二人の争いに本気で介入しない、()()()()な空気を作る。そこまで持ち込めれば僕らの勝ちだ」

 

そうすれば後は決闘場の一つも提供すればいいだけだからね、と。

 

「表側ではやり合いながらも裏では協定を組んで、神殺しの羅刹王が有する権威を四家が独占する。これならば既存の勢力図を大きく壊さずに、絶対の権威が二つと言う歪な状態による悪影響を抑え込める。あとは血なまぐさい手段を排した政争でケリをつければいい」

 

ニヤ、と犬歯を覗かせて笑う馨は最早悪の結社の幹部としか言いようのない邪悪さすら振りまいている。

 

「幸いなことに将悟さんから全権委任状を貰った僕の立場は正史編纂委員会の次期頭領、なんて不安定でささやかなものじゃない。『智慧の王』、赤坂将悟の”宰相”だ。話を拒否するようなら横っ面を張ってでもうんと言わせてやるさ」

 

それはそれは腹黒い笑みを浮かべ、馨は話を締めた。

 

「…………」

 

ある種期待通りだが色々と期待を裏切る、予想以上に悪辣かつ不道徳だがこれ以上なく有効な一手に甘粕は最早言葉もない。たっぷり二呼吸分は沈黙を挟み、呆れとも、感心とも、諦めともつかない、あるいはそれら全てが混沌と混ざった形容しがたい空気が流れる。

 

「いやなんかもう言葉が見つからないと言うか、無理に言葉にすると上手く表現できる気がしないので一言だけコメントを」

「ははぁ、傾聴させてもらうよ」

 

と、先ほど部下が見せた応答を真似てからかうように返す馨に向けて甘粕はあくまで率直に感想を告げる。

 

「流石は馨さんです。腹の底までコールタールで真っ黒ですね」

「甘粕さん、ボーナスカットだ。ただし本人を前に堂々と言える度胸を買って危険手当については増額しておくよ」

 

つまるところこれからも遠慮なく厄介ごとがあったらその爆心地に放り込まれると言うことだ。これについては最早今更ですらあったので甘粕は特に言葉を返さず肩をすくめることでその返答とした。

 

 

 

 




一行まとめ:こんな正史編纂委員会は嫌だ(ブラック的な意味で)



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幕間 沙耶宮馨 ③

―――諸君、可愛い馨さんが見たいか?









5千文字くらいでサラッと。
思い付きなためこの先のプロットは皆無。主人公サイドでこの話が出ることは恐らくない。




後日談

 

 

 

以前、上司から招かれた沙耶宮家別邸に甘粕はまたしても呼び出されていた。

 

あれから数週間ほど経ち、ようやく甘粕らエージェントが夜も眠れない忙しさから夜遅くまで帰れない忙しさにまで落ち着いた頃だ。ちなみに一連の元凶である赤坂将悟も1か月近い長期療養を終え、日常生活に復帰していた。なんでもこれから恵那の見舞いで清秋院本家に顔を出すとかなんとか言っていたが、これ以上厄介ごとを起こさなければもう何でもいいと言うのが正直な気持ちである。

 

前回聞かされた話がヘビーというも生臭くて重苦しいものだっただけに呼び出された時には憂鬱な心情に襲われたものの、逆らうと余計に悪いことが起きることは確実だったため、重い足取りを引きずるように上司がいる執務室まで足を運ぶ。

 

「やあ。今日はいい天気だね、甘粕さん」

「……このどんよりと曇った空模様が良い天気と言えるなら、そうなのでしょう」

 

普段の三倍増しで爽やかさを振りまきながらやけに朗らかな口調で話す上司に薄気味悪さを覚えながら、覿面に乗り気でない気持ちを込めて返す。

 

「今日はちょっと個人的な相談がしたくて呼んだんだ。恥ずかしながらいま抱えている問題に対して、少しでも力になってくれそうな知り合いが甘粕さんだけでね」

 

目の前の上司に頼られる、というシチュエーションが幾ら頭を捻っても想像できず、腹の底を探る視線を送るが一部の隙もない完璧な笑顔と言う壁に跳ね返される。腹の探り合いと言う分野では馨も中々侮れない曲者である。少しの手掛かりもない状況で思い至れるほど、甘粕は万能でも霊能に優れてもいない。

 

すぐに無駄な努力を放棄し、大人しく次の言葉を待った。

 

「うん、実はだね」

 

従順かつ優秀な部下の様子に満足げに頷いた馨はそのまま勿体ぶることもなくあっさりと、そして至極真面目にその“悩み”を開陳する。

 

「―――結婚を考えているんだ」

「…………」

 

その瞬間、甘粕は周囲を見渡して『ドッキリ!』の看板が無いことを確認した後、自分の耳と正気を疑う作業を開始した。そのまま三〇秒ほどかけて自己診断を終えた後、自身が耳にし、理解した言葉の羅列に誤りが無かったことを嫌々ながら認識する。

 

「……ふむ、驚くのは分かるけれど流石になにがしかの反応は欲しかったね。それで、どうかな?」

 

どこか面白がるような、いや、率直に部下をからかっている気配を漂わせながら二の句を継ぐ。上司に話を振られた部下としてはどんなに気が進まず、予想もつかない内容だろうととりあえず言葉を返すしかない。

 

「……ちなみにお相手はどこの女性で?」

「おいおい、僕の性別をサラッと無視してくれるね」

 

特注の学ランを身に着け、女性としては驚異的に薄い胸の前で腕を組む少年のような“少女”。少年漫画から出てきた王子様のような中性的な美貌。多数のうら若き乙女と恋を語らう粋人である沙耶宮馨の性別は実のところ『♀』なのである。

 

「そういう主張をされたいのならご自身の性別について積極的に誤解を振りまいていくスタイルを捨てて、現在交際中の女性陣と少しずつでも縁を切っていく作業が必要になると思いますが」

「ハハハ、こればっかりは中々ね。旧来の名家に縛られた哀れな子女のささやかな息抜きだ、多めに見てくれ」

「ささやかな息抜き、と言う割には派手にやっているように見えますがねー」

 

このまま下らない戯言の応酬で話が終わらないかなーと一縷の希望を抱くが、もちろん馨はそんな希望を斟酌しない。

 

「で、本題に戻るけど。僕は本格的に婚姻を結ぶことを考えている―――将悟さんとね」

 

やはり、と甘粕は溜息を一つ。最近上司とあの少年の距離が近いというか、関係が深まった気配が双方の言動の端々から感じ取れていたのである。だからと言って二人が結婚、などという想定は端から起きなかったが。良かれ悪しかれ二人の間にそういう色事めいた気配はない。

 

だがこの場で本人から伝えられれば尤もありそうな可能性として挙げられそうなのは、あの少年くらいだ。個人的感情の面からでも、政治的事情の面からでも。

 

「この話、本人にはもう伝えたので?」

「いいや、これでもうら若き十代の乙女だからね。一世一代の告白の前に、頼れる大人の一人にでも相談したいと思うのは当然の乙女心だろう?」

 

などと微笑みながら、サラリと耳にかかった髪をかきあげる美少年(性別:♀)。うら若き云々の辺りで思わず鼻で笑いそうになった甘粕だが、辛うじて耐える。本人が申告する通り一応は多感な時期の少女で、かなり洒落にならない悪戯が好きという悪癖持ちだ。わざわざ猟師の前で鳴く雉になるつもりは無かった。

 

「でしたら諦めたほうがよろしいでしょう。恵那さんがいます。その程度の事実に思い至らない馨さんとも思えませんが」

「率直に言うねー。……愛人、側室という形でもダメかい?」

「意外と潔癖症というか、身内に対しては義理堅い人ですからね。恵那さんを万が一でも悲しませるような、特に乗り気でもない婚姻をわざわざ結ぶとも思えません」

「それこそ形だけの関係で、でもかな。ああ、もちろん恵那の承認は取り付けるつもりでいるよ」

 

舌鋒鋭く馨の論を切り裂いていた甘粕だが、ここで言葉に詰まる。将悟は恵那を大事にするだろうが、逆に恵那はそうした男が複数の女性と交際する関係について驚くほど寛容だ。戦国大名を先祖に持つほどの名家の子女として育てられたからでもあるし、本人の気質もかなり大きい。

 

恵那が拒否感を示さなければ、将悟自身が複数の女性と関係を結ぶことに対して積極的に拒否することはないだろう。積極的に求めると言うことも考えづらいが。

 

そして肝心の馨と将悟との相性だが……男女のそれかはともかくとしてかなり良好と言わざるを得ない。火種に油というか、ロケットエンジンにニトロというか混ぜると危険的なニュアンスも多分に含まれているが、お互い嫌っているということは決してないはずだ。

 

先ほどは無下に否定したが、逆に恵那以外で将悟と縁を結ぶとしたら―――なるほど、眼前の“少女”以外に適任はいないのかもしれない。

 

「…………その条件でなら、まあ可能性はあるかもしれませんが」

「が?」

「何故、唐突にこんな話を? 実家の小五月蠅(こうるさ)い老人方にでもせっつかれましたか?」

 

そして何故よりにもよって相談相手が自分なのか? 天に自身の運命を呪いたい甘粕だった。いや、理屈は分かるのだ。将悟と最も親しい同性は自分だし、あけすけに下半身事情を聞き出せそうな人材など自分が知る限り皆無である。だが何も殿上人の色恋沙汰に自分を巻き込まなくてもいいではないだろうか、という至極尤もな感想を抱く。馬で蹴られるどころか権力闘争に巻き込まれて轢き潰されかねない。

 

「いや、これは僕自身の意思だよ。最近、この業界の将来について色々話したじゃないか。それに釣られてか、恥ずかしながら僕自身の未来という事柄についても思いを馳せるようになってね」

「ははァ…」

 

力なく相槌を打つと、馨はその表情を真剣なものに改める。

 

「―――正直に言うとね、今の僕は将悟さんのことが女性として好きなわけでも何でもない。もちろん彼の直臣として忠誠を誓っているし、一緒に来いと言われれば地獄の底までだってお供しよう。でも普通の少女が感じるような恋のときめきだとかそういう衝動を感じたことは一度もない…それこそ、誰に対してもね」

 

馨が積極的に同性の少女たちと付き合うのは彼女が同性愛者であるからではなく、単に悪戯好きな性格だからだ。自身を美少年と勘違いして熱を上げる少女たちをみて楽しむのが好きと言う、改めて聞くと中々悪趣味な性格の産物なのである。

 

「でも、仮に僕がこの生涯で誰かを好きになれるとしたら、それはきっとあの人だと思う。少なくとも実家の老人方がお見合いを勧めてくるような輩との間にそうした絆が結ばれるのは0%だね。ありえないと言い切っていい」

 

肩をすくめてうんざりした気配を漂わせながら断言する。

 

「それに条件も魅力的なんだよねー。そもそも沙耶宮の次期当主である僕の婚姻問題はどうしたって避けて通れないんだけど、ウチの家格と釣り合う相手なんて中々いない。その中で気が合う相手と巡り合える可能性はほとんどゼロだ。だけど将悟さんならこれ以上なく馬が合うし、僕の男装や交際関係について五月蠅く言わないだろうし、何かと口を挟んできそうな周囲を黙らせてくれる権威もある。おまけに恵那がいるから仮に“女”として情を通じることが出来なくても、あまり求められることもない…」

 

うん、と頷き一言でまとめた。

 

「すごいね、改めて考えると偽装結婚の相手としては最適だ」

 

惚気ているようにもばっさり切り捨てているようにも聞こえる、だがこれこそ沙耶宮馨と言いたくなる台詞だった。将悟ならば似たような感想を評するだろう、“こうでなくては沙耶宮馨ではない”と手でも叩きながら笑い混じりのコメントをしてくれるはずである。

 

「それでは丁度結論も出たようですし、私も忙しい身なのでこれでお暇を…」

「まあ待ってくれ。甘粕さんにはぜひ頼みたいことがあるんだ」

「プライベートな問題については給料の範囲外ということでファイナルアンサーです」

「残念、僕の結婚問題は業界全体と関わる重大事。つまり業務範囲だ、上司の僕が言うんだから間違いはない」

 

甘粕は遠い目をしながら遠慮なく職権乱用する上司に率いられる将来の正史編纂委員会の未来を思い、深い憂いを浮かべた。主が主なら臣下も臣下である。類は友を呼ぶという言葉を思い出す甘粕だった。

 

「とりあえず清秋院家への対応は僕が考えておくから、甘粕さんは将悟さんの方を頼むよ。今の話が持ち上がった場合、将悟さんがどんな反応をするか上手く探っておいてくれ」

「アッハイ」

 

あとはもう問答無用とばかりに一方的に告げられる。最初から望み薄ではあったが、ようやく甘粕は全てを諦め、力なく頷いた。

 

しかしなぁ…と胸の中だけで危惧の混じった愚痴をこぼす。

 

どうも馨は自身が言い出した将悟との婚姻に対して相当に乗り気であることが窺える。仮にこの縁組が成立すれば、馨は煩わしい実家とのつながりからほとんど自由になれるのだから無理はないが、果たしてそれ以外の感情が混じっていないと言い切れるか。もしや知らず知らずのうちに“女”としてあの少年に心惹かれているのではないか?

 

もう勝手に恋愛でも結婚でもやってくれ、というのが忌憚なき意見なのだが実は今の話を聞いた甘粕には一つ、懸念がある。

 

今の話は全て馨が将悟に対して“本気にならない”ことが前提なのだ。飄々とした馨の性格からは考え辛いのだが…万が一、馨が恵那を排してでも将悟の寵愛を独占したいと思ってしまえば、かなり笑えない事態になることは明白である。逆に恵那が馨の存在を疎む可能性も捨てきれない。彼女も箱入りの大和撫子として教育された成果により相当に古めかしく男に都合のいい男女観を持つが、実際に愛する男に別の女が出来ても笑っていられるか―――“恐らく”、大丈夫だろうと思う。だが、“絶対”ではない。

 

案外、外圧ではなく内紛で正史編纂委員会は瓦解するかもしれない。

 

冷静で有能、怜悧と言う言葉を絵に描いたような馨だが、恋も知らない十代の乙女と言えなくもないのだ。人間関係が破綻する原因は概ね恋愛、金銭、健康に分類できるという。こうした感情が絡む事柄で、大丈夫と軽々に言い切ることは甘粕にはできない。

 

かと言ってこの胸の内でわだかまる不安を開陳したところで馨は笑って否定するだけだろう。大袈裟だよと、自分はそんなキャラではないと。だがありふれた言いぐさだが、人間だれしも自分だからこそ分からない部分を持っているものだ。

 

そこはかとない胃の痛みを感じ、溜息を一つ。

 

今は良い、そもそも話が始まってもいない。だが具体的に形を取り始めていくにつれて、今の懸念が正誤の二択となって迫ってくるのだろう。上手くいけば万々歳、しかし悪い方に転がればなかなか笑えない未来が待っている。

 

誰かに愚痴の一つも零すなり、助力を求められればとも思うがこんな悩みを相談できる人間は知り合いにいない、主に機密的な意味で。結局のところ甘粕が一人でこの不安とも懸念ともつかない悩みを抱え込むしかないのだ。

 

―――いっそ一切合切を当事者の少年にぶちまけてやろうか。

 

あの少年も精々自分が悩んでいる半分くらいは同じ気持ちを味わえばいいのだ…。案外あの色々と規格外な少年なら瓢箪から駒とばかりに上手く収めてくれるかもしれない。甘粕は半分くらいヤケな気持ちになって、この後ろ向きな思い付きを弄び始めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

後日談のおまけ

 

 

 

ただでさえ業務が重なりいっぱいいっぱいだったところに未来への不安という地味に引きずりそうなストレスの種を背負ってしまった甘粕。憂鬱な気分を押し殺し、この時間を余計な重荷を背負うだけでなく、せめて少しでも建設的なものにしようと業務内容についての確認などを行い始める。

 

「……ちなみに、先日伺いましたお話なんですが―――将悟さんにはもう伝えたのですか?」

 

先日の話―――もちろん将来的な日本の呪術界の未来も左右する、馨の腹黒さが存分に発揮された一連の策謀のことだ。

 

「ああ、『楽しそうだから許す。思いっきりやれ』……そう仰っていただけたよ。正直、こういう政治的な話が苦手だと思っていたから、首を傾げられるか難色を示されるかと思っていたけど、予想よりずっとスムーズに内諾を頂けた」

 

と、馨は満足そうな、それでいて少し不思議そうな風韻が含まれた答えを返す。確かに少々将悟らしからぬ発言に甘粕はしばし、んーとうなりながら思考をまとめていたがやがて合点がいったと頷く。

 

「これは勘ですが、おそらくその発言に込められたニュアンスは少し違うと思いますよ」

「ニュアンス? 興味深いね。是非ご教授を頼むよ」

 

好奇心で瞳を輝かせた馨が興味津々という態で言う。

 

「なにせ甘粕さんほど将悟さんの取り扱いマニュアルを知り尽くしている人は他にいないだろうからね」

 

と馨が悪戯っぽくウィンクすれば。

 

「その肩書き今からでも返上できませんかね」

 

と甘粕がぼやき混じりに溜息を零す。

 

「賭けてもいいですが将悟さんは馨さんの話を全て理解できたわけじゃありません。いえ、一部は理解できたでしょうが、承認した理由は別のところにあります」

「? そうなると前後の話がつながらないんじゃないかな」

「ええ、ですからニュアンスが違うんです」

 

分かりませんか、と確認を一つ挟み。

 

「将悟さんはきっと『“お前が”楽しそうだから許す』…そういう意味で言ったんだと思いますよ。日本の未来すら左右する場面で、大真面目に」

 

随分とご寵愛を受けているようですね、未来の宰相殿…と。

わざとらしく取り繕った謹厳さの中に少なからずからかう響きが混ざっている。

 

「―――…」

 

それは完全な不意打ちだった、少なくとも沙耶宮馨にとっては。

 

部下の言葉に理解が及んでから一秒、二秒…途端に顔に血の気が昇り、脳裏に幾つものまとまりのない思考が過ぎ去っていく。いや、まさか、でも本当に…、あの人なら―――と。ある種とても似つかわしくなく、それでいて十代の乙女らしい懊悩は一時的に周囲の存在すら忘れてしばらく続く。

 

世に珍しき、沙耶宮馨の照れと羞恥で赤く染まった華の(かんばせ)

 

余人にはほとんど見る機会のないそれを拝むことになった甘粕はお返しですよ、と心の中で密かに舌を出す。たまには意趣返しの一つをしても許されるだろう、と委員会一の苦労人はささやかな報復の余韻に浸るのだった。

 

 

 

 




(最後だけ)可愛い馨さん。こんな彼女はアリですか?


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幕間 清秋院恵那 ②

ヤンデレ黒タイツ氏のリクエストをやっと実現できました。
日付を確認するとなんと約一年前。お待たせしてすいません。

今回は清秋院家への婚約話。オリジナル設定がてんこ盛りのため細かいところはスルーしていただけると助かります。




燦々と太陽が空で輝く中、建物の入り口から出て、思う存分ノビをする。たったそれだけのことが随分と嬉しい。神殺しになる前もなった後も1か月近い長期療養など経験したことが無い。そのせいだろう、久しぶりに全身で浴びる陽光がやけに明るく暖かいように感じられた。

 

ヴォバンとの死闘から既に一ヵ月近い時間が経過し、赤坂将悟はそのほとんどを担ぎ込まれた病院ですごしていた。

 

最初の一週間はまさしく地獄、絶え間なく続く苦痛のため夜もろくに眠れずに過ごした。第二週、そして第三週目は少しずつ薄れてきた全身の呪詛と格闘しながら痛めつけられた身体機能を取り戻すことに専念した。その甲斐あって大分復調したが、そこから先は暇との戦いだった。仮にも長期療養、絶対安静の身なのだ。少しでも余計なことをしようとすれば即座に人が飛んできてベッドに連れ戻される。

 

実のところ今もまだ痛みが時折走り、四肢の動きがぎこちないのだが、本人としてはもう少し早く退院しても良かったのではないかと思っている。もちろんそう思っているのは本人だけで、病院に運び込まれた直後は診察した医師が即座に治療を諦めた程の重態だったのだ。普通の人間なら半時間を待たずに死亡、奇跡的に生き延びてしまったとしても一生病院のベッドから動けなかっただろう。

 

結局のところ、将悟が入院した病院のスタッフ達は全身を蝕む呪詛になんら有効な対抗手段を持っておらず、カンピオーネの驚異的な治癒力を手助けするのがせいぜいだったと言うのが実情である。もちろん病院のスタッフ達を責めるのはアンフェアと言うべきだろう。《破滅》の劫火に焼かれた呪詛を癒せるものなどそれこそ神様かカンピオーネくらいしかいないのだから。

 

そんな医者泣かせな患者だったが、ようやくお役御免となり、軽やかな足取りで世話になった病院を去ろうとしていた。将悟の面倒を見ていたのは事情を知らされたごく少数の関係者が主だったため、見送りに来たものは皆無だったが、もちろんそんなことは気にせず悠々と歩き出す。

 

退院して早々だが、一刻も早く足を運びたい場所があるのだ。そのためにわざわざ多忙の極みである甘粕に繋ぎを取り、アポイントメントまで取ったのだから。他ならぬ将悟の《剣》、あの戦いで重傷を負った清秋院恵那が療養しているという、清秋院家本宅まで。

 

奥秩父にあると言う例の本宅、交通の便が極めて悪いと言うことで足を用意すると先方から言われたのだがわざわざ自分一人のために大袈裟なことをさせるのも気分が悪い。やけに恐縮されたらしいが自分で足を用意して向かうから構わない、と押し切らせてもらった。

 

言うまでもなく将悟が使う“足”は公共の交通機関でも免許を持っていない自動車でもない。その類稀なる才能を頻繁に称えられる魔術でもって移動するつもりだった。たまにはちょっとしたルール破りも良いだろうと携帯から地図アプリを呼び出して教えられた住所を入力、その大雑把な位置を確かめるとおもむろに『転移』。

 

同じ東京都内程度の距離なら太陽の権能でブーストをかける必要もない。

 

特段鍛えているわけでもないのに戦う中で勝手に研ぎ澄まされていく魔術の腕前は、数か月前とは最早別人の如き成長を遂げていた。あるいは権能の掌握というプロセスが魔術の習得とある程度似ているからかもしれない。いや、他の魔王達は恐らく意見を別とするだろうが将悟の権能は呪術的な要素が絡んだ権能が多い。第一の権能たる《原初の言霊》などはまさしく神々の魔術を再現する権能だ。そうした独自の事情も関係しているんかもしれない。

 

さておき、空間転移であっという間に清秋院本家の近くまで来た将悟だが、目の前という訳でもない。無造作に『人物探査』の魔術(身体の一部を持っていればその持ち主の位置を探れる魔術。今回使ったのは恵那の頭髪である)を使い、正確な位置を確かめると再度『転移』をかける。

 

今度こそ、清秋院本家の前に立つとそびえたつ巨大な門扉を見上げる。元は奥秩父に建造された山城だったという。結局一度として実用されることなく基礎だけを残して解体され、その上に今の清秋院本家が建てられたと聞くが…軽く敷地内を魔術で探ってみると端々に物騒な呪力の気配があったり、さりげなく配置された警備の目や緻密に敷かれた結界の存在から恐らくは防衛機能が現役なのだろう。山城の解体もこの防衛性能を考えると、基礎から呪術的に手を加え要塞化するために敢えて行ったのではあるまいか? 流石は平安時代から千年を超えて続く四家の一角というべきか。

 

使用人や清秋院家に仕える従者達がまとめて住み込みで生活しているという触れ込みに相応しい、恐ろしく巨大な邸宅。その門扉を確認してみるが呼び鈴などという現代的なものは見当たらなかった。果たしてどうやって客人の応対をしているのか…疑問に思った将悟だった。

 

そんな疑問を弄んでいると、次の疑問に辿り着く―――さて、どうやって到着したことを伝えたものか?

 

適当に人を捕まえて話を通すのがやはり無難だろうか…などとしばらくの間考えているとふと脇の通用口から和服を着た上品そうな老婆が顔をのぞかせた。往年の美貌を覗かせながら老いを衰えではなく成熟と言う形で積み重ねた、気品ある老婦人だ。一瞬、視線が合うとあらあらまあまあと柔らかい笑みを浮かべて将悟に歩み寄ってくる。そのまま恐ろしく丁寧な所作で深々と頭を下げた。

 

「失礼します。もしや赤坂将悟さまでいらっしゃいますか?」

「…ええ、はい。今日は清秋院…あー、恵那の見舞いに来ました」

「委細、聞き及んでおります。ただいまご案内させていただきますわ」

 

流石は名門・清秋院家の人間と言うべきか、将悟の名前を諳んじていると言うことは恐らく業界関係者なのだろうが、彼女の目に怯えた気配は微塵も感じられない。むしろ将悟が恵那の名前を言い直した時は年齢不相応の悪戯っぽい光すら目に浮かんでいた。

 

最初の数秒は目の前の老女が噂に聞く清秋院家当主かと疑ったが、幾らなんでもそんな人物が偶々門の近くにいたと言うのは考えづらいし、彼女の柔らかい物腰は“老女傑”とまで畏怖される人物評と噛み合わない。恐らくは清秋院家に仕える人間、その中でも偉い人なのだろう、と適当に脳裏で結論を下す。正直なところ彼女の正体に対する関心はさほどなかったのだ。

 

そのまま老女に案内されて横に縦に十数分(!?)も敷地内を歩き回るが、最初に感じたとにかく巨大という印象は間違っていなかったことが道中で証明された。

 

まず敷地が恐ろしく横に広い。塀で囲まれた一辺が視界の遠くまで延々と続いているのだから囲まれた面積の広さは推して知るべしだろう。敷地の中央近くには一際立派な母屋と思しき武家屋敷がデンと立ち、周囲に幾つもの建物が建てられている。ざっと数えただけでそこらの住居と変わらない大きさの家屋が十数軒はある。視界外にあるものも含めればもっといくだろう。

 

「こちらです」

 

少なからず歩き回ったあとおもむろに老婦人が指し示したのは巨大な母屋から繋がる家屋…思わず老婦人を見ると甚だ真面目な顔。どうやらこの一戸建てのアパート位はありそうな大きさの家屋がそっくりそのまま恵那に与えられた空間らしい。比較的郊外とは言え狭い日本でよくこんな贅沢な空間の使い方を…と、呆れる。思わず問いかけてみるとどうもこの贅沢な住居も恵那は有効活用していないらしい。というより活用する暇がないと言う方が適切か。ひと月の半分は山籠もりで青空を天井に野宿するような少女なのだ。

 

この家屋の中に恵那の私室があり、そこで恵那は身体を休めているようだった。清秋院家の跡取り娘が療養中という事情のせいか周囲におそろしく人影が少ない。いや、考えてみると邸宅の規模に比して道中見かけた人影の数も少なかったような…。

 

老婦人は臆した様子もなくそのまま家屋の中に足を進め、やがて襖で区切られた部屋の前まで辿り着く。

 

「あの子はこちらの部屋で療養しています」

「―――?」

 

ふと違和感を覚えたが、さして気にすることでもない。できるだけ丁寧に礼を言うといえいえそんな勿体無いとあの柔らかい笑みで応じられてしまった。道中特に変わった会話をしたわけではないのだが、あの老婦人との気配りの利いた応対のお蔭でどこかリラックスした気分になることが出来た。流石は名家、いい人材を抱えているなと感心していると、老婦人はあの悪戯っぽい光を浮かべた目で将悟を一瞥し、深々とお辞儀する。

 

「それではごゆっくり」

 

果たしてこの場面で正しい言葉なのか、なんとなく気になった将悟ではあったがある意味で間違っていないことに気付くのはもう少し先だった。だがこの時はなにも気付かず、将悟も応じてお辞儀すると老婦人も再度返礼をしてくれた。そのままゆったりとした足取りで去っていく。その何気ない後ろ姿には風格すら漂っていた。

 

視界から老婦人がいなくなるのを待ち、襖越しに声をかけると即座に声が帰ってくる。元々五感が人並み外れて鋭い少女だ。襖越しのやりとりも聞き取っていても不思議に思わない。

 

そのまま襖を無造作に開けると、部屋の中央に敷かれた布団から身を起こした清秋院恵那がそこにいた。

 

「王様、久しぶりー」

「おう。思ったよりは元気そうだな」

「もう一か月だからね! 見ての通り暇で暇で―――」

 

手を振って健在ぶりをアピールする恵那を押しとどめ、呆れた声を向ける。

 

「“まだ”一か月だろ。正直に言うがもうしばらく寝たきりだろうと思ってた。空元気を出すくらいの気力はあるみたいだがな」

「……やっぱり王様にはバレちゃうかー。うん、流石恵那の王様だね!」

「……。確認するが、後遺症は残らないんだよな。甘粕さんからはそう聞いているが」

 

恵那の呼びかけについて指摘するか迷った風の沈黙を挟み、結局は諦めた様子の将悟。その頬はほんの少し紅潮している。見ると恵那もエへへと照れ臭そうに笑っていた。何とも初々しい空気が二人の間に流れるが、ごほんと取り繕った咳払いを挟み、軌道修正する。

 

「あ、うん。それは大丈夫。お医者様も順調に身体は回復中だって太鼓判を押してくれたし。ただ、あの日に追った負傷と疲労が大分深かったみたいだからさ。大事を取ってまだ療養中」

「そうだろうな。あの時のお前は文字通り限界を超えて身体を酷使していたんだ。それを思えばもう一ヵ月休んだっていいくらいだ」

「絶対ヤダ! 暇を持て余して死んじゃうよ」

「幸か不幸か暇で死んだ例は無い。諦めて大人しく養生しようぜ。俺も動けるようになったから出来るだけ顔を出すつもりだし」

 

むー、と可愛らしく口をとがらせる恵那。彼女の王様が足繁く通ってくれる、というのは大変魅力的なのだがやはり活発な性質の彼女としては一緒に遊びに行くなどのアクティブな活動の方が好ましいのだ。

 

「でも王様は恵那以上に重傷だったんだよね。その割に元気そうなのがすっごい理不尽」

「勘弁しろよ。これでも最初の十日間くらいは人の手を借りなきゃ身動き一つとれない有り様だったんだぞ」

「え。地味にプライドと警戒心が高い王様が甘んじて人の手を借りるなんて…そんなにヤバかったんだ」

「実感するのがそこか? いや、確かにかなり抵抗があったけど」

 

特にシモの世話とかな、とこればかりは口に出せず胸の内だけで苦々しく呟く。制御に成功しない限り二度とスルトの権能は使うまい、と誓った瞬間でもあった。

 

「逆に聞くがそっちはどうだったんだ? お互い現世に戻ってからはすぐ救急車で緊急搬送だ。その後ロクに連絡も取れなかったしな」

「あー。なんか権能を通じた絆も全然繋がらなかったしねー」

 

といってもあんまり変わったことはなかったけど、と恵那。

 

「病院に行ったのは初めてだったから周囲の物が珍しかったくらいかな、面白いことは。あ、でもろくに探検できなかったのは心残りかも」

「? 初めて? 病院がか」

「うん。清秋院家にはお抱えのお医者さんと薬師の人がいるからね」

「……なるほど。流石は名家」

 

彼女と接していると忘れそうになるが、清秋院家は先祖に戦国大名がいると言う名家中の名家なのだった。その有り余る財力と権勢に任せて医者の一人や二人抱え込んでいてもおかしくは無い。あるいは病院の一つも経営しているかもしれなかった。

 

そのまま話の流れが互いの近況報告に傾き、暇に飽いた恵那に付き合って中身がないが息の合った駄弁り合いを始める。話の種は様々だったが、中には老女傑とも称えられる恵那の祖母の話も出てきた。

 

「ばあちゃんはね、んー、一言で言うと『裕理に見せかけた恵那』かな」

「…なんだその人柄。全く想像がつかないぞ」

「根っこは恵那と同じで滅茶苦茶やっちゃう方なんだけどさー。外面を取り繕うのが凄く上手いの。だから付き合いの浅い人には上品なお婆さん、なんて思われてたりするよ。恵那からすれば臍で茶が沸くって話だけどね! 若い頃に神獣とも切り結んだなんて伝説もあるし。歳を食った今でも薙刀とか上手いよ。神がかり無しなら恵那でも危ないかも」

「確かそろそろ七十代と聞いたが」

「生涯現役。歳なんて関係ない、なんて真顔で言っちゃうばあちゃんだからねー。たぶん王様とも馬が合うと思うよ」

 

少し伝え聞くだけでその破天荒な人柄は窺い知れる。この孫にして…と言ったところか。恵那が型破りに過ぎる性格に育ったのは実の祖母から影響を受けた可能性はかなり高そうだ。そんな人物評に少しだけ考え込んでいたが、焦れた恵那が次の話題を喋り出すと応じるために忘れ去ってしまう。

 

その後も少なからずお喋りに時間を費やしていたがある時ふと話の種が尽き、何気ない沈黙が訪れる。

 

頃合いだろう、と胸の内だけで将悟は覚悟を決める。

 

少し空気が変わる。居住まいを正した将悟が真っ直ぐ恵那を見つめ、彼女もそれを感じ取って気を引き締めた。

 

「…恵那」

「なに?」

「ありがとな。お前がいたから、命を拾えた」

 

居住まいを正したまま頭を下げると、今度は恵那がそれを押しとどめる。

 

「いいよ、そんなの。恵那は何時だって何処だって王様のお供をするって決めたんだから。そのために体を張るのは当然だよ」

「それとこれとは話が別だ。助けられたら、礼を言う。王様だろうがそれを無視するのは、なんか違うだろう」

 

少しの間困ったような恵那と視線を合わせているとやがて彼女の方が折れた。

 

「…ん。それが王様の流儀なんだね。分かりました、謹んでお受け取りします」

 

ペコッとどこか元気よく可愛らしい仕草で頭を下げて返礼する。自分の我が儘を汲んで合わせてくれた少女に、もう一度心の中だけで頭を下げる。やはりこいつはいい女だな、と惚気に似た感慨も思い浮かべながら。

 

「それじゃ早速働いたご褒美が欲しいんだけど、いい?」

「もちろん。俺に出来ることならなんでもやるぞ」

「それじゃ、いい加減寝たきりなのは飽きたからさ。手っ取り早く王様の権能で回復させてよ。それで、今日は遊びにいこう!」

「―――すまん。それは無理だ」

 

間髪容れずに返すとええーっと驚く恵那。それほど無理なお願いをしたつもりがないのだろう、いや、普段ならば彼女の願い通りにするのは全く問題ないのだが今はやりたくても出来ないのだ。

 

「いまの俺はカルナの権能が使えない。手持ちの権能でお前に効きそうな回復手段はあれだけだからな。とにかく今は無理だ。もう少し待て」

「……王様こそ、後遺症じゃないの? それ」

「後遺症といえば後遺症だが…どちらかといえばペナルティかリスクと言った方が近いな」

「権能の使用条件ってこと? 確か侯爵様から逃げた後、新しい使い方を覚えたんだっけ」

「覚えたと言うにはその時意識が無かったからなァ…。さておき、新しい用法の効果はシンプルだ。『俺が死んだ時、意識の有無にかかわらず蘇生・回復させる』ことだろう…ああ、もう一個余計なおまけが付いていそうだが」

 

その余計なおまけ…幽世でのスサノオの不機嫌な様子、どこか焦げたような匂い、あの時のスサノオの台詞から何となく想像できる。おそらくこの用法はただ太陽の不死性を体現するだけではなく、破壊的な側面も持っているのだ。

 

「強力だがその分ペナルティも重い。一度使えばしばらくの間は太陽の権能が使えないみたいだ」

 

特に今回は呪力がカラッケツの上に満身創痍で使ったからな、と肩をすくめる。それがなければもう少しマシだったはずだ。

 

「そういう訳だから今すぐに、という訳にはいかない。多分もう少しで使えるようになるはずだからそれまで待て」

「オッケー。そういうことなら了解! その代わり治ったら絶対一緒に遊びに行くからね、約束だよ!」

「任せろ。俺は約束を破らせたことはあるが破ったことは無い男だぞ?」

「それ、全く安心できないから! でもすっごく王様らしいね、流石は我が背の君!」

 

半ば冗談交じりの呼びかけ。恵那は将悟がこうした恋愛関係にそこまで積極的ではないのを知っている。それに最近は《剣》としても大いに頼られ、自己承認欲求も十分満足していたため本当に軽い気持ちで言ったのだが、将悟の顔がほんの僅かにだが強張った。

 

「ああ…そうだな」

 

今日清秋院本家にまでわざわざ足を延ばした目的は恵那の見舞いだけではない。現清秋院家当主、老女傑と畏れられる清秋院蘭への挨拶も含まれていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結局将悟が恵那の自室を辞したのは日が中天から大分過ぎ去った頃だった。あの後も二人は会えなかった時間を埋めるように他愛のない話を続け、結局昼餉も取らずにこんな時間まで同じ部屋で過ごしたのだ。話の種があれば語り合い、尽きれば横になって静けさを共有し、またおもむろに意味もなく互いに呼び掛け合った。

 

特段何かあったわけではなかったのだが、両者ともにひどく充実した時間だったのは確かである。

 

暇を告げる将悟を見送る恵那は名残惜しそうだったが、時間が付く限りは出向くからと言うと花を散らしたようにぱっと笑顔を浮かべてくれた。元々超のつく大和撫子として育てられた少女なので自分自身の幸福の基準値が酷く低いのだ。こっちの方からいろいろ気遣わないとなぁ…と思わず感じてしまう将悟だった。

 

さておき帰りの道案内については恵那が呼んでくれた。なんとも古風なことに部屋の隅にあるひもを引っ張ると、なんでも使用人がいる部屋と繋がっていて人を寄越してくれるのだと言う。普通の内線電話ではダメなのか、と問うと伝統でなんとなく続けてる、という答えが返ってくる。これもある意味でむやみやたらとマンパワーが有り余っている名家だからこその贅沢だろう。

 

しばし…と言っても待っていたのはひょっとすると分に満たなかったかもしれない。足音は静かに、しかしそこはかとなく急いできた気配を漂わせてやってきた作務衣を着た体格のいい中年男性に恵那は気さくに声をかけ、将悟の道案内を頼む。恵那におっちゃんと呼びかけられた男性も最初は将悟を見て少しばかり怯んだ様子だったが、恵那と会話するうちに調子を取り戻してきたらしい。大柄な体躯から感じられる威勢の良さを適度に引き出しながら、丁重な言葉で恵那の頼みを引き受ける。

 

無駄に威圧するのもなんだからと将悟がよろしくお願いしますと頭を下げると、逆に大いに恐縮されてしまう。やはり将悟のいる恵那の部屋へ来るだけあってカンピオーネの雷名を知る者らしい。若干動作がしゃちほこばりつつも、恵那へ声をかけた後に将悟を先導するため、部屋を辞去する。

 

そのままとにかく広い敷地を歩き回りながら、将悟にも出来るだけ気さくに声をかけてくる。礼儀作法という意味では完璧とは言い難かったが、こちらを気遣っている気配は痛いほど感じられたし、気まずい沈黙が続くよりはるかにマシだった。だがやはりこういう対応には慣れないな、と思う。

 

なにより将悟を見る男の目には微かだが常に怯えがちらついているのだ。めっぽう勘の鋭い将悟は気付きたくないことも気づいてしまう特技を持っているのだから間違いはない。尤も一か月前の私闘のことを聞き及んでいるならば無理もないことだった。いまだにニュースにもなっている東京都心の大惨事、その原因と一対一で向き合うなど普通の神経を持った人間なら御免こうむる。

 

…つまりは自業自得だろうと遠い目をしながら早急な改善を求めるのは諦める。清秋院恵那と親しくする限り、彼らとの交流は避けられないのだからもう少しマシな関係を築きたい。だがこればかりは改善のための努力を積み重ねていくしかないだろう。

 

そう結論し、恵那がいる家屋から十分遠ざかったのを確認してから、ちょっといいだろうかと男の背中に声をかける。これからする頼みをできれば恵那に聞かれたくない。相当に人間離れした五感の鋭さを持つ少女なので、家屋から少し離れた程度では会話の内容が筒抜けになりかねない。

 

「…なんでしょう。なにか無作法でもしてしまいましたでしょうか」

 

と、強面をもっと強張らせながら肩を縮めてみせる男に頼みがあるのだと続けた。

 

「頼み…はい。あっしに出来ることならば」

 

どこか悲壮な決意すら漂わせているが、そこまで非人道的なことをやらかすつもりはないので安心して欲しい…と言っても無理か。さっさと用件だけ言わせてもらおう。

 

「清秋院家当主に伝えてもらえませんか。時間がある時に俺が少し話をしたいと言っていたと」

「御当主様と、でございますか?」

 

確認するかのように問いかけられると黙ってうなずく。まあ頼みと言っても伝言程度だ。今日は恵那の見舞いが主な目的で、思った以上に遅い時間まで過ぎてしまった。次回に来た時に会えればいいくらいの気持ちだった。

 

そのまま今日は帰りますので、また来た時にでもと続けると男は途端に焦ったような気配を醸し出した。

 

「しょ、少々お待ちください」

 

と、足早に将悟を手近な一室に案内するとぺこぺこと頭を下げ、どうかそのままでと重ねて嘆願しながら部屋の襖を閉じる。その途端ドタドタと足音を響かせながら去っていく気配。そのつもりはなかったのだがどうやら迷惑をかけてしまったようだ。

 

普段から王様と呼ばれる身ではあるが、身近に置く人間からはぞんざいに扱われることも多いので、こうした過剰に丁重すぎる扱いはどうにも慣れなかった。下にも置かぬ、といったやり取りに心が拒否反応を感じるのだ。王様などと呼ばれても気質的には大勢の人間に傅かれるより気の合う仲間とぶらぶらほっつき回っている方がよほど性に合っている。

 

やっぱ王様稼業なんて向いてないな、とぼんやり考えながら待つことしばし…と言っても五分は経っていないだろう。

 

恵那程ではないが常人よりもかなり優れた聴覚がしずしずと歩み寄ってくる足音を捉える。内心はどうであれ殊更に急いでいる気配はしないから、平静を保っているのだろう―――カンピオーネを前にして。そしてさっきの男の様子から恐らくやって来たのは…。

 

足跡が部屋のすぐ外でピタリと止まり、額づく気配。

 

「羅刹の君のお召し出しと伺い、参上いたしました。清秋院家当主、清秋院蘭でございます。入ってもよろしゅうございますか?」

 

どうぞ、と声をかけると襖をあけて顔を覗かせたのは―――まあ、順当と言っていいのだろうか。恵那の話を聞いてからもしやと予感がしていたのだが…、襖を開けた先から現れた清秋院家当主は恵那の部屋まで案内をしてくれた、あの上品そうな老婦人だった。

 

あの悪戯っぽい光をまたしても目に宿して、どこか探るように将悟を見ている。いや、探ると言うよりも仕掛けた悪戯の成果を検分していると言った風だ。見掛けと違って随分と茶目っ気のある人らしい。呆れとも感嘆ともつかない溜息を吐きながら、少しばかりジト目の入った視線を老婦人に向ける。

 

裕理に見せかけた恵那、という評は存外的外れという訳ではないらしい。多少はあった緊張も消え失せ、あまり取り繕う気のない砕けた敬語で呼びかける。

 

「中々人が悪いんですね、あいつのお婆さんは」

「あら、なんのことでしょう? とんと心当たりはございませんが。ですが強いて言わせて頂けるならば」

 

ニコニコと満面の笑みを浮かべながら言葉を続ける。

 

「あの子が自ら身命を捧げたいと思った殿方と色眼鏡を無しに触れ合わせていただく貴重な機会だったのでつい…。御不快に感じられたならば、お詫びいたします」

 

そのまま三つ指を突いて深々と畳に頭を下げる。流れるような動作に最早溜息も尽きた。元から恵那の縁者ということで粗略に扱うつもりは皆無だったが、どう対応したものかと頭を悩ませていたのも確かだ。だがこの度胸を見れば良かれ悪しかれ遠慮する必要はなさそうだ。あるいはそこまで計算してやっているのだろうか。だとすれば中々の役者である。

 

恵那が自分と馬が合うと評したのも今ならば納得できる、間違いなく傑物だ。ただし型破りと紙一重の。

 

「もうその件は良いです。それよりも今日は急に話を持ってきてしまってすいませんでした」

「まさか。羅刹王のお言葉とあらば万難排して従うのが我ら呪法の道に生きる者の定め。ましてやわざわざご足労頂いた己が屋敷で都合がつかぬとむざむざ帰らせてしまっては当家の名折れとなりましょう。どうかお気になさらず」

 

どうも建前というだけでなく、本気で言っているらしい。それだけカンピオーネの威明を評価していることだろうか。業界関係者の中では恵那が一番自分との距離が近い。その影響を最も受けるのもまた清秋院家だろうから殊更に配慮していると言うのはあるかもしれない。

 

「それで、お呼び出しとのことですが、私に一体何を…」

 

そんなことを政治分野に殊更鈍い頭で考えていると、先ほどより少しだけ緊張の籠った声音で問いかけられる。応じて益体の無い思考を打ち切り、今日の本題へと意識を向ける。元よりそのために来たのだ。

 

「そうですね。具体的になに、と改めて問われると言葉にし辛いんですが……まあ、一言で言うとケジメを付けに来ました」

「ケジメ、でございますか? それはあの子に関わることと考えても?」

「そうなります。あいつの身内である貴女とは色々と話しておかなきゃいけないことがあるので」

 

あらあらまあまあと期待と喜びが混じる声を漏らす当主。恵那とケジメ、この二つのワードが揃えば当然人生の墓場とか薔薇色の鎖とか諸々想像できるからだろう。清秋院家当主として、恵那の祖母として、両方の立場から彼女にとって慶事に違いない。

 

まあ、その想像は外れていない。それだけでもないのだが。

 

「先に言っておきますけど多分いま考えていることの斜め上の話になると思いますので」

「…単純に喜べる話では無いのですね。畏まりました、謹んで拝聴いたします」

 

ストレートに喜色を顕した表情から一変、謹厳とすら言っていい面持ちに変わる。合わせて雰囲気が一気に真面目なものになり、自然と将悟の身も引きしまった。表情、佇まい一つでガラッと雰囲気を切り替える。流石は日本呪術界を代表する四家の一角、清秋院家当主と言ったところか。こうした威厳は王などと呼ばれていてもまだまだ将悟などの若輩には持ちえないものだ。

 

「あいつから聞いているかもしれませんが、前にまつろわぬ弁慶とやり合った時、俺はあいつと権能による契約を結びました。歳を食わなくなったり、傷を負っても治るのが早くなったりと色々と厄介かつ便利な力ですが…こいつの本質はもっと別のところにあります」

 

そのまま話し出すのは輝ける太陽の絆、互いが互いのために命を懸けられる信頼関係を最低条件として発動する加護の権能だ。一見無害な権能に見えるが、見方によっては人生設計に洒落にならない影響を与える厄介な絆でもあった。

 

清秋院蘭は黙って話を聞きながら、時折頷いている。話を頭の中で整理しているのだろう。

 

「太陽に由来する加護の権能。こいつは時間経過に伴って太陽の神力を俺からあいつに少しずつ送り込み、あいつ自身の力を成長させています。無理やり例えるなら肥料の溶けた水を植物にやって成長を促進させる感覚が近いかな?」

「…それだけならばさして問題がないように聞こえますが、赤坂様が殊更強調するからには違うのですね」

「ただの成長ならいいんですが―――()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そしてこの成長は俺やあいつの意思では止められません」

 

その自然ならざる歪な成長をなんと表現するべきか、将悟は迷う。

 

「成長限界の突破…霊格の向上? …いや、いっそ()()()()()()()()()()()()と言った方が近いか」

 

言葉を探している将悟は嘆息を込めて、恵那の祖母にできるだけ感情を込めずに伝えていく。

 

「この先あいつは神がかりが無くても神獣と伍し、媛巫女の先祖になった神祖と同格の存在に先祖返りするでしょう。戦う、という一点なら神祖でも上位に入るかもしれない。そんなことが出来るのはもうまっとうな“人間”とは呼べない。少なくともそう認める奴は少ないでしょうね」

 

自身天変地異に等しき権能の所有者である将悟だからこそその発言には説得力があった。

 

将悟こそカンピオーネと成り上がってからはもはやある種の天災と見做され、まっとうな人間扱いされていない筆頭でもあるのだ。将悟自身はそういった周囲の対応に対して思うところは無いし、さんざっぱら周囲に迷惑をかけてきた経験からこの待遇も止むを得ないと納得している。だが恵那自身が、また恵那の身内が納得できるかはまた別の話だ。

 

「俺の権能で、あいつを人間以外の何かにしてしまった。今日はそのことをあいつの…恵那の身内である貴女に報告に来ました」

 

視線を真っ直ぐに清秋院蘭に向け、憚ることなく見据える。

 

「―――ただ、さっきはケジメを付けに来たとは言いましたが、謝罪に来たわけじゃないんです」

 

静かに、自責の念ではなく決意を言葉にして伝えていく。

 

「俺はあいつと絆を結んだことは全く後悔してない。貴方が何を言ってもこの約を破棄するつもりはないし、俺が死ぬまで一緒に付き合わせます」

 

目に宿る光は断固たる、というに相応しい硬質なもの。応じて見返す清秋院蘭の面持ちも固く、その視線は将悟を射抜くかのように鋭かった。

 

「神様との喧嘩にも連れていきます。出来るだけ努力はしますが、死なせるかもしれません。その時後悔するかもしれないけど、覚悟を決めたつもりです」

 

宣言する。

 

恵那(あいつ)を貰います。今日はその挨拶に来ました」

 

そう、言葉を締めた。もっともすぐに咳ばらいを一つしてから。

 

「正直刺されても文句は言えないと自覚してますが、祝福してくれると嬉しいです」

 

と、少し居心地悪そうに付け加えたけれど。

散々な仕打ちを孫にしているというのに祝ってくれ、という虫のいい願いをするのが気まずく思ったのだろう。

 

『……………………』

 

そうして硬い雰囲気のまま一秒、二秒が過ぎ…。

 

「―――律儀ですねぇ、羅刹の君ともあろう方が」

 

フッと嘆息した清秋院蘭の発言で、緩んだ。

 

「憚りながら申し上げます。あまり清秋院家の女を舐めないでくださいませ」

 

真っ直ぐに将悟を見つめ、うっすらと唇の端を持ち上げて笑みの形を作りながら堂々と言い切るさまはいっそ不敵ですらあった。

 

「あの子は武家の女として育ててあります。戦場で骸を晒すのも、神殺しの君に付き従うのであればやむを得ぬこと。ましてや当主である私やあの子がそれを恨むなど…」

 

お門違いも良いところですわ、と不満そうだ。色々と予想外な発言に、流石の将悟も応じる言葉に迷う。詰られたり、あるいは受け入れられる流れも考えていた。だが私たちを侮るなと憤慨されるのは想定の外だ。

 

「それに御子を授かれないわけではないのでしょう?」

 

そうなると少し困るのですが、と頬に手を当ててあっけらかんと問いかけてくる当主に何とも言えない表情で子供は問題なく出来ると返す。世にある夫婦はみな両親から子供をせっつかれたときこんな微妙な気分を味わっているのだろうか…と自問し、いやこれは何か違うのではと疑問混じりに自答を出した。

 

「でしたら当家としては否やはありませんわ。流石に婚姻を結ぶのは赤坂様の御年齢から不可能ですので…今は、内縁の妻ということで」

 

と、あまつさえ己と恵那の結婚を既定路線のように話を勧めさえしてくる。

 

「…えーと、それだけですか?」

「はい、それだけです」

 

もうちょっとなにかあるんじゃないのか、と疑問を含めた問いかけに老婦人はどこか可愛らしささえ覗かせながらにっこりと頷く。

 

「本当は多少ご不興を買おうとあの子を大事にしていただくよう懇願するつもりでいました。ただ、今のやり取りでその必要はないと感じられましたので」

 

安心したのだと、彼女は言う。

 

「実際、御家としては良縁極まりないとしか言えないのです。羅刹王と婚姻を結ぶ利益は計り知れず、こうして深い配慮を見せていただける程にあの子を気に入って頂けているのですし。何よりあの子が心の底から惚れぬいた殿方です。反対する理由など何一つなく、反対したらそれこそあの子のタガが外れかねません」

「タガ…?」

「必要なら家を出奔しても貴方様と連れ添おうとしたでしょうし、そのくらいの気概が無ければ私から蹴り出していました」

 

物騒極まりない発言をにこにこと何でもないことのように言い切る。第一印象の上品そうな老婦人像がガラガラと崩れていく音を幻聴で聞きながら思った以上に奔放過ぎる発言に頭痛を覚えた。この孫にして…ではない。逆だ、この祖母にしてこの孫ありなのだ。

 

だが同時に思った以上にこの老女に対して親近感を覚えている自分に気付く。なるほど、恵那の言う通り彼女と自分は大分馬が合いそうだと得心する。気のせいでなければ清秋院蘭も似たような感想を覚えたようで、どこか共犯者を見つめるような悪戯っぽい視線を向けてくる。将悟の身内にまたしても曲者すぎる傑物が加わった瞬間だった。

 

「そもそも連れ合いとなる殿方が出来るか危ぶんでいた子だったので。清秋院家当主としては御子の一人を跡継ぎとして迎えることを許してくださればあとは一門挙げて慶事を祝うだけですわ」

 

奔放過ぎる孫を憂えていた名残を見せる清秋院蘭に思わずああと頷く。清秋院恵那は類稀な美少女であり、媛巫女筆頭の位を持つ優秀な術者だ。だが異性として評価した場合、その癖のあり過ぎる性格と相まって相当な難物であるのも確かである。言ってはなんだが蓼食う虫も好き好きの蓼なのだ。尤もそんな癖のある彼女だからこそ将悟が惚れたのだから、結果だけ見れば最良の縁を引いている。

 

「とにもかくにも話が纏まったからには、時機を見て公表いたしましょう。羅刹王の婚姻ともなれば日本を揺るがす一大事。御家としても内々の話で進めるわけにはいきませんし」

「……当人としてはもう少し控えめでも全く構わないんですが」

「恐れながら申し上げます。女にとって結婚は人生の一大事。であれば華々しく、盛大に盛り上げるのも当家の器量というもの。許していただけるならば孫の門出を盛大に祝わせて頂きたく存じます」

 

恐れながらと言いながら臆したところは全くない老女傑の進言にそんなものかと首を傾げる。正直恵那ならば宴の規模が大きかろうと小さかろうと気にするとは思われないのだが、女心などちっとも分からない自覚がある将悟としては否定できる論拠が無い。

 

「そんなものですか」

「そんなものです」

 

狐につままれた気持ちで問うと至極当然だとばかりに答えが返ってくる。ならば仕方があるまいと思わず頷く、恵那に与えた数々の不可逆的な変質も負い目となった。まあ結婚が可能な年齢になるまであと数年の猶予もあるのだし、と高を括って了承するのだが将悟は名家の底力というものを甘く見ていた。まず婚約が決まった祝いの宴、その後も定期的にお題目を付けては開かれる宴に早々に嫌気がさすのはそう遠い未来ではなかった。

 

とはいえそんな未来もいまは見えず、首を傾げながらも長くなる付き合いの始まりとして改めて挨拶を交わす。

 

「改めまして、赤坂将悟です。これからは身内としてよろしく」

「羅刹王と縁戚となれるなど望外の栄誉です。こちらこそ末永くお付き合いをお願いいたします」

 

表面上全く問題のない、笑顔と笑顔のやり取り。だがどこか二人の間には共犯者めいた空気が漂う。それは危険性からニトロに例えられる少年と、そんな少年と殊更に馬が合う精神性を持った老女傑だからこそ醸し出せる雰囲気だったのかもしれない。

 

さておき。

 

清秋院蘭、後年日本呪術界を二つに割る赤坂将悟の陣営における重鎮中の重鎮。首魁たる少年と公私ともに関係が深い清秋院家当主として広く知られることとなる。そんな老女傑との出会いは概ねこのような次第から始まったのだった。

 

 

 

 



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アナザー・ビギンズ ① 帰郷、そして

新章開幕。



夏休み。  

 

大多数の学生にとって心のオアシスと言い切っていい時間だろう。もちろん赤坂将悟も例外ではない、いささか一般的とは言い難い肩書と精神性の持ち主ではあるが学業よりも趣味や遊びに時間を打ち込む方が当然好きだ。

 

ヴォバンとの死闘が六月、そこから病院で一ヵ月もの長期療養を過ごし、シャバに出てきたときには夏休みはもう目前だった。この一か月、自分は勿論草薙護堂も大したトラブルに遭わなかったらしい。幸先が良いな、とちょっとした感動を覚えつつ、清秋院家に“挨拶”に行ったあと将悟は早速夏休みの予定を立て始めた。

 

尤も、厳密に言えば前々から決まっていたイベントの具体的な日取りを決めるだけなのだが。

 

そのイベントと言うのは他でもない、以前から少しずつ進行していた例の共同研究を本格的に始動させるためのグリニッジ賢人議会への長期滞在である。

 

滞在中の時間の大半は思う存分研究に打ち込むつもりだが、以前のイギリス旅行ではロクに観光もできなかったため、今回はそちらも多少スケジュールに入れている。

 

実は前々から時間を見つけてはグリニッジに『転移』で跳んで(もちろん如何に太陽の権能による恩恵があるとはいえ易々と為せる業ではない。『転移』に絡めた種々の魔術理論、儀式場の提供など賢人議会の協力も大きい)、理論の開発だけでなく実際に太陽の神力を使った実験も進めていた。

 

まあ、所詮は週末の僅かな時間を縫っての成果だ。今のところ具体的な見通しも立っていない進捗でしかない。だからこそ賢人議会としてもまとまった時間が取れる今回の長期休暇に相当の期待を寄せていた。

 

前々からいつ来るのかとせっつかれていた位だ、具体的には療養で身体を休めているはずのおてんば姫から。彼女の場合きっと暇に飽かせて時間潰しの種を自分に求めていたといのもあるのだろうが。

 

スサノオとのやり取りで直接的に“鋼殺し”の創造に利用できないと分かったものの、こういう魔術や権能に絡んだ研究は将悟の趣味なのだ。だから将悟にとって今回の長期滞在は仕事というよりも趣味の延長線上に当たり、不満があるわけではない。それに割と馬の合うじゃじゃ馬プリンセスを助けてやりたいと思う気持ちも多少ある。趣味と実益、どちらも兼ね揃えているのだからどこからも文句は出ないだろう。

 

と、高を括っていた将悟だったが意外なところから待ったがかかった。

 

「一緒に行く! 絶対に絶対、脱走しても行くから!!」

 

話を聞いて元気いっぱいというよりやけくそ気味な威勢の良さで将悟に迫ったのは勿論というか清秋院恵那だった。あの死闘から既に一か月以上経過していたがいまだに彼女は床に伏して体力の回復を待っていた。

 

スサノオの御霊を限界以上に取り込み、スサノオ自身に近い規模で権能を行使すると言う本来なら肉体が爆発四散してもおかしくない無茶を犯していたのだ。如何に《聖なる陽光》による補助があったとしてもいまだ人間に過ぎない彼女ならばまだまだ休養は必要だった。

 

必要なのだが、彼女は将悟だけがイギリスに遊びに行くことがどうしても我慢ならないらしかった。定期的に顔を出すし、権能の使用条件により使えなくなっていた太陽の権能が復活すればすぐに向かうと説得したのだが頑として聞き入れない。その意見を要約すれば王様ばっかりずるい、恵那も一緒に遊びに行く…なのだが、悪いことに無茶を言う側も聞く側も尋常ではなかった。

 

しばらく腕を組んで唸ったあと、将悟はそれまでの迷いが嘘だったかのようにあっさりと決断した。まあ大分持ち直したし、神様と喧嘩しに行くわけでもないんだし、無茶しなければ大丈夫だろう――などとのたまって恵那の同行を認めたのだ。

 

この少年にとって病床を押しての海外旅行は無茶の内に入らないらしい。一見まともそうに見えてもつつけば必ずツッコミどころが出てくるカンピオーネらしい一幕であった。

 

そんなこんなのあれやこれやがあったものの、こうして赤坂将悟と清秋院恵那、世に永く『智慧の王』とその《剣》として知られるコンビによる初の外国遠征は始まったのである。

 

もちろん最初から分かっていたことだが、これだけカンピオーネが能動的に動き回って騒動に巻き込まれないと言うことはあり得ず、神獣以上まつろわぬ神未満の存在が一柱、とある鍛冶神の手により復活したまつろわぬ《鋼》が一柱と遭遇、討伐と中々に濃い夏休みとなる。

 

とはいえこの時の二人はそんなことは露知らず、顔を突き合わせてのんきに旅行の予定を立てているばかりであった。

 

そして時間はあっという間に過ぎ去っていき、何事もなく七月後半になって終業式を迎えると、将悟はその足で清秋院家に向かった。もちろん足と言っても『転移』による瞬間移動なのだが。

 

恵那との待ち合わせ場所は清秋院家の門前、見ると手にある荷物はいつもの竹刀袋が一つ。流石に服装こそいつもの制服姿ではなく、涼しげな雰囲気の私服へと改められていたが、とてもこれから旅行に行くとは思われない。

 

それは将悟の制服姿も同様であり、『投函』の魔術を応用して先に滞在先の館へ必要な荷物一式を送っていたから出来る荒業である(なお恵那の持ち物は風呂敷一枚に収まる量であり、運送も将悟の手による魔術ではなくごく一般的な手段によって行われた)。

 

そして将悟達の移動手段も魔術ではなく、公共の交通機関を利用することに決めていた。

 

時間に余裕はあるのだ。週末に海外旅行を敢行する弾丸トラベラーよろしく時間に追われながら動くのも面白くない、たまには金銭と時間を浪費するのも悪くないだろうと敢えて手段を限定してのイギリス渡航を計画したのだ。

 

「行くか」

「行こう!」

 

と、元気よく差し出してくる恵那の手を取り、音もなく『転移』する。併せて『隠形』の術も使用し、転移先の最寄り駅で目立たないよう偽装。物陰から現れた風を装い、人混みの流れに紛れる。流石に夏休み、学生の季節ということもあってか人混みの中にいる若者の姿はそれなりに多い。キャリーケースなどを引いている者もチラホラと見かける。

 

改札前で切符を買い求め、東京へ向かう線路に乗り込む。目指すは成田空港、そこで午後三時発イギリス行きの旅客機に乗り込むのだ。

 

「お、駅弁だ。王様も買う?」

「ここはスタンダードに幕の内弁当で」

「オッケー。恵那はこっちにしよっと」

 

などと手際よく旅行の風情を醸し出す駅弁なども買い求めていたが、なにか違うのではと突っ込む人間は不在だった。まあ駅弁とイギリス旅行、並べてみると関連性があるようなないような微妙なワードである。

 

「そういえばさ」

 

と、電車の座席を確保した二人が手際よく駅弁の包装を破りながら恵那が唐突に話を向けた。

 

「うん?」

「王様が侯爵様と初めて会ったのもイギリスだったっけ?」

 

途端に将悟の口元がへの字に結ばれ、目に見えて機嫌が急降下する。先月の一戦の結末が納得のいかないものだったらしく、以来些細なことでも関連する話題が出ると必ずこうなるのだ。

 

「…まーな」

「どんな風な出会いだったかは―――?」

「言わない」

「えー」

 

不機嫌そうな将悟をけち臭いと言いたげな表情で見つめてくる。そのままジト目で眺め続けていると口元のへの字を解き、仕方がないと頭を振る。

 

「逆に聞くがなんであのジジイのことなんか聞きたがるんだ?」

「別に恵那としては侯爵様が知りたいというか、王様がこだわっていることが知りたいって感じかなー。今のところ侯爵様との決着が王様の中で一番の関心事みたいだし?」

「…………」

 

さて、彼女の祖母曰く“内縁の妻”と関係を規定された少女からこんなことを言われた場合世にある男子高校生はどう返したものだろうか? などとこの時将悟は考えていたが男子高校生はそもそも“内縁の妻”など持っていないという当たり前の常識が浮かばないあたり割と末期的だった。順調に社会的常識が死んでいっている。

 

「……あのジジイとのやり取りについてはあんまり話したくない。代わりに別の話をするからそれで勘弁してくれ」

「お、なになに? なんの話?」

「お前と会う前、俺が初めて神様やらなにやらと関わった時の話」

 

パチクリと目を瞬かせる恵那は一瞬沈黙し、将悟の言葉が腑に落ちると喜々として頷く。赤坂将悟が神殺しを成し遂げるまでの物語。誕生以来長らく語られることのなかったエピソードを本人から聞くことが出来るのだ。そのままワクワクとした顔で将悟の話を待ち望んでいる風な体勢でいるものだからかえって将悟の方が落ち着かない。

 

「長くなるし、大して面白くもないだろうけどな。まあ、暇つぶしにはなるだろう」

 

そのまま訥々と語り出すこれは、赤坂将悟の『はじまりの物語(アナザー・ビギンズ)』―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

赤坂将悟が中学二年生と三年生の狭間にあった時間、三学期を終えて春休みに突入した頃の時期だった。暇を持て余した学生の常で日々をぶらぶらとほっつき回りながら過ごしていたのだが、唐突に一本連絡が入った。海外へ移住する準備のため忙しくてほとんど家を空けている母から命令が来たのである。

 

曰く、実家へ行け。母の実父、つまり将悟の祖父がなにがしか問題を抱えているらしい。それを解決してこいとのことだった。

 

いきなり持ち込まれた話だから当然快諾はしないし、むしろ事情を聞き出そうと色々と問いかけたのだが母は忙しそうに話している時間は無い、祖父に直接聞けとだけ言って電話を切った。最後に私の次に勘が良い貴方ならなんとか出来るでしょうと付け加えて。

 

ああ、“そういう”要件かと腑に落ちた将悟はそれ以上文句もつけずに電話帳から実家の番号を探し出し、連絡を取った。

 

昔から将悟はめっぽう勘が良い、空を見れば翌日の天気はほぼ的中したし、探し物で困ると言うことがほとんどない。物心のつかない子供の頃にちょっとした霊障事件があり、それを解決したのも将悟だという。

 

本人に記憶は無いのだがそれ以来大小真偽含めてそれなりの数、怪しげな事件に関わって来た。その経験を買われたのだろう。

 

本人からすれば自分の力は勘が良いというだけで幽霊が見える類の直接的にオカルトチックな代物ではない。だが祖父の実家は村の庄屋と呼ばれた豪農の家系であり、そうした迷信に対する信仰が強かった。

 

実のところ将悟だけでなく、家系図を辿れば巫女やら修行僧がいる赤坂家には昔からそうした“霊能者”がしばしば誕生していたらしい。だが、今存命中の中でそれらしい力を持っているのは己と母のみ。その中でも母は近年稀に見る逸材という話だった。なにしろ外資系の金融商社に勤めているのだが、朝に出社して相場を見るなりその日一日の動きをひょいひょいと“予言”し、しかもことごとく的中するというのだから凄まじい。そのくせ本人は自分の勘にさして執着も持っていないようで、結婚を機にあっさり寿退社しようとしたという。紆余曲折あって今も同じ職場に勤めているのだが、未だにその勘は衰えを知らない。

 

祖父の実家でそうしたトラブルが起きれば母に話が行くのはむしろ必然だった。そこからスルーパスで暇を持て余した将悟に投げ渡されるのも、面倒ではあるが妥当と言えただろう。久しぶりに祖父母に顔を見せるのも悪くないというのもあった。

 

まあこの時の将悟はあまり深刻な話とは捉えていなかった、勘が良いと言うだけで魔法使いでも何でもない身だが“なんとなく”妖しいものを見分けることは出来る。本当にオカルト事件か否か、見分ける程度のことは出来るだろう。そしてそれ以上は専門外として祖父に投げ返すつもりだったのだ(結果としてその予想は大暴投を超えて斜め上にかっとんでいくのだが、もちろんこの時の将悟にそんなことを知る由は無かった)。

 

さておき、改めて祖父に連絡を取り、詳細を聞くと大喜びの反応で迎えられた。単純に孫が帰省するから嬉しい、という類の喜びではない。九死に一生を得た、これで首の皮一枚が繋がった…そんな風な切実ささえ感じられる期待混じりの喜びである。

 

嫌な感じがプンプンとしてきたのを我慢して事情を聴くと具体的な話は聞けなかった、とにかく早く来てくれとの一点張りである。粘って問いただすと祖父からは一言だけ、赤坂家伝来の御社に捧げられた御神体が()()()()()()()()()()―――とだけ言われた。それ以上は祖父には分からない、だから分かりそうな母や将悟に来てほしいのだと真剣な調子で訴えてくるのだった。

 

これは思った以上に面倒かもしれない、そう囁いてくるのは自慢の勘かそれとも生存本能か。かといって今更行かないとは口に出しづらいし、本当に“何か”あった場合後悔するのは明白だったため、将悟は見て見ぬふりをすると言う小市民の特権を行使せず、祖父母の実家への帰省を決めた。

 

―――そして話が持ち込まれた翌日には早速身の回りの持ち物と電子機器類一式だけを詰め込んだ旅行ケースを片手に祖父母の実家に向かっていた。昔から理由もなく行動をモタモタするのが嫌いなのだ。決断は即決、決めたならばあとは方針に沿って迅速にことを進めればいい。

 

そんなポリシーに則って日が昇る頃には早々に家を出たのだが、祖父母の家に到着したのは日が暮れるかという頃だった。これでもかなり早く着いた方だ。田舎だけあってバスが一日六本しか運行せず、最寄りの停留所から実家への距離もキロ単位で離れている。視界一面田んぼしかないという如何にもありがちな山間の村落なのである。

 

その分周囲の自然は豊か過ぎる程で、将悟も幼い頃に帰省しては田んぼで蛙を、雑木林では昆虫を採ったりもした。もっとも見せびらかすような同年代の子供がほとんどおらず、すぐに飽きて付近で一番大きな山の麓にある神社やその昔神事を行ったという滝壺周りをほっつき歩き始めたのだが。そうした場所は奇妙な静けさに満ちていて将悟には不思議と居心地が良かったのだ。

 

幼少期の思い出を想起する中で、ふと記憶を刺激され一際印象深い出会いを思い起こす。そういえば何時だったかやけに綺麗…というか凄艶な、という表現に相応しいとんでもない美人に遭遇したこともあった。

 

端麗な面差し、絹糸のように細い髪は一度も日を浴びたことが無いように白く、輝きすら宿していたように思う。身に着けていた着物はどこか日本より大陸風の意匠で、その美貌は一度見つめれば二度と目が離せなくなるような……今思い返すととにかく浮世離れしていた印象ばかり残って、肝心の顔の造りは覚えていない。

 

ごくわずかな時間、将悟は彼女ととりとめのないことを語り合った。話の内容は幼い将悟にはよく理解できなかったようで、記憶には全く残っていない。だが将悟が何かを言うとひどく痛快そうに笑い声をあげ、最後に名残惜しそうな顔をした彼女が優しく頭を撫でてくれたことだけは覚えている。常に超然として雪に閉ざされた深山のような空気を纏った彼女がその時だけはやけに人間臭く、そのくせ慕わしく思えたのだ。

 

その晩は何故か体調を酷く崩し、一時期は生死の境をさまよう程だったと言う。たった一晩のことであり、大袈裟に誇張された話では無いかと今では考えているが、数日間は寝床から起き上がれない程に衰弱したのは確かだった。“悪いモノに遭わなかったか?”体調が元通りになると母にはそう聞かれたが、彼女が悪いモノであるとは思えなかったので首を横に振った。

 

その後は彼女に会うために足しげく滝壺に通ったものだが、結局二度と顔を合わせることは無く、祖父母らに聞いてもそれらしき住人は見当たらないとのことだった。やがて記憶は薄れ、すっかり滝壺から足が遠くなっていたが……いま思い返せばあれが将悟の初恋だったのかもしれない。

 

そんな懐かしくもこっぱずかしい思い出を思い出しながら、実家の玄関に着いた呼び鈴を鳴らして来訪を告げる。応対の返事を返しながらガチャガチャと玄関の鍵を開けて出迎えてくれたのはそろそろ髪が真っ白に染まりつつある祖母だった。皺くちゃの顔を嬉しそうに歪めて出迎えてくれる祖母に抱きしめられながら、将悟も親愛の情を込めて抱き返す。将悟の身内に対する懐の深さ、情の深さはこの家で過ごした時間によって養われたのだ。

 

懐かしき祖父母の家、今は大分足も遠のいたが昔は長期休暇の度にここに足を運んだものだ。盆と正月には親戚連中と宴会をすることもあったし、時に療養に来た親戚の最期を看取ったこともあった。

 

「おう、おう。将悟、よう来た」

 

居間に通されるとそこには相好を崩し、来訪を歓迎してくれる祖父が座っていた。ひとしきり将悟の近況などを聞き、多少の世間話を交わしたあとで将悟の方から話を向けると祖父も早速とばかりに話し始めた。

 

年に一度、赤坂家が細々と執り行っている神事がある。赤坂家は村の庄屋であると同時に過去、この地に根付いていた神社の神主の家系も婚姻で一体化しており、そうした行事にまつわる役目も負ってきたのだ。尤も今では氏子も少なくなり、神社も経年劣化で崩落の危険性ありということで立ち入り禁止になっているのだが、神事だけは細々と続いていた。

 

それに神事とはいっても大した規模ではない。家の当主が年に一度吉日を選んで供え物を用意し、口外無用の社に捧げられた御神刀の前で祝詞を捧げるというだけだ。そのために一日中当主が駆り出されるのは手間だったが伝統と言うことで続いている。

 

「秘密の御社(おやしろ)って、俺それ知らないんだけど」

「別段秘密という訳ではないのだがなァ…。この辺りの大人ならみんな知っとる。ただ、子供が好奇心で忍び込むにはちいと危ないところでな。十五になるまでは口外無用としているのよ」

「で、その御社だか祠ってのが今回の揉め事の種?」

「揉め事と言うな、罰当たりな孫め。まあ良いわ、祠そのものではなく奉納された御神刀がなぁ」

 

先日、神事の下見で覗いて来た時に奇妙な胸騒ぎを覚えたのだと言う。それだけならば気のせいですんだのだが、以来おかしな夢を連続で見るのだと言う。

 

村が炎に焼かれる、奇妙な人影に押し入られる、山が崩れ土砂崩れに飲み込まれる…と不吉極まりない悪夢が毎日続くのだ。この祖父も赤坂家の直系、老境になってよく分からん才能に目覚めたと言うこともまあ考えられなくもない。

 

ただ、どうしても現代社会に生きる一介の学生としてはそうしたオカルト的な出来事に眉に唾を付けて見ざるを得ない。自身類稀な直感と言う才能を持ち合わせているものの、なんとなく薄い拒否感のようなものがあるのだ。

 

「…まあいいや。その御神体とやらの由来ってなにかあったっけ?」

「そもそもあの御神刀は―――」

 

と、年寄りの常として長くなりがちな話を要約するとこの辺りに伝わる伝承に行きつく。

 

曰く、三〇〇年以上の昔、この辺り一帯の水脈を束ねる水源に毒気を吐く大蛇が棲みついたことが発端だったと言う。大蛇は滝壺の奥深くに棲み、気まぐれに河川を氾濫させ、毒気をまき散らし人々を疫病で苦しめた。人々はその大蛇に抗うことは出来ず、荒御霊として奉じ、巫女を仕えさせ、人を生贄すら捧げたという。そこまでしても大蛇は鎮まることを知らず、河川の氾濫は度々村に牙を剥いた。

 

人々は倦み疲れ、捧げられる生贄の死を嘆かぬ日は無かったという。

 

そんな中滝壺の大蛇のうわさを聞きつけて、粗末な身なりをした一人の山師(昔で言う鉱山技術者、鍛冶師を差す)の男が村を訪れる。男は事情を聞くや金山彦神の加護を受けた宝剣を腰に佩いて大蛇の下へ向かい、見事にこれを討ったという。()()()()()()()()()()によって大蛇は縫い止められ、最早身動きすることも毒気を吐くことも出来なくなった。

 

人々は男に感謝を捧げ、宝剣を御神体として崇めることとした。今でも宝剣が突き立てられた大地の底には大蛇が眠っていると言う。この地方で頻繁に起こる種々の水害は眠りについた大蛇が一時眠りから覚め、暴れることが原因とも伝わる。

 

で、この時大蛇を退治した山師だが村人たちに請われて村に定住し、遂にはその時助け出した巫女と結ばれたとかなんとか。かくなる奇縁によって結ばれた夫婦が誕生したらしいが、何はともあれ両者の間には無事に子供が生まれ、今もその血筋は続いている。

 

何故断言できるのかと言えば今の話の夫婦こそが赤坂家のご先祖だからである。件の巫女は村の庄屋の一人娘であり、請われた山師はそこに婿入りしたのだ。なんと家の御先祖様が昔話に登場してくるのだから思わず開いた口が塞がらなかった。

 

御先祖様、ちょっと話を盛り過ぎだろうという少し冷めた気分の将悟に気付かず、祖父の話は如何にも謹厳に終わった。

 

「うちの御先祖様がそんな曰く付きの代物と関わりがあるとは知らなかったよ」

「曰く付きとはなんだ! …と、言いたいところだが、確かにちいと妖しげな雰囲気じゃった。毎年無難に奉るだけのものが、妙な揉め事の種になってな。困っとる」

 

将悟が御先祖への経緯が薄い感想を呟くと、併せて祖父も困ったような風で相槌を打つ。典型的な昔気質の農家に見えて、その実身も蓋もないくらい開けっ広げであっけらかんとした物言いをする老人なのだ。

 

「ふむ、まあ、丁度良かろう。今から一度見に行くか」

「今からって…もう日が落ちてるけど」

「行き帰りで一時間もかからん。早く支度せい」

 

気が短く、気忙しいのはこの祖父からの遺伝かもしれない。将悟はやれやれと肩をすくめながら、玄関に向かう祖父の後に続いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大型の懐中電灯で道を照らしながら先導する祖父の後を静かに将悟に続く。

 

流石田舎と言うべきか、少し家から離れると人口の光がほとんどない暗闇に包まれてしまう。夜空を見上げると満天の星空が広がり、懐中電灯が無くても多少の光源は確保できるだろうが、文明にどっぷり浸かった現代人としては星明かりだけで夜道を歩くスキルは持っていない。いや、昔から夜目が効くほうだったのでやろうと思えば出来るだろうが自前の光源があるのだからわざわざ野生に戻らずともいいだろう。

 

少し歩くうちに見覚えのある道だと気付く。この道に続くのは確か、この辺りでも一番の絶景という大滝があるのだ。そういえば、幼い頃に例の白い美女に遭ったのも確かこの滝壺の淵だったはず…。

 

懐かしい思い出を喚起されて記憶を掘り返している内に、山に入り斜面を登り始める。身の軽さに任せて軽快に登っていくと、祖父も負けず劣らずの健脚さを発揮して進む速度は衰えることが無い。

 

赤坂家の血を引く人間にしばしば見られる特徴である。特別に足が速い、喧嘩が強いと言うことは無いのだが、身が軽く、長い距離でも息を乱さずに進め、夜目が効く。性格も一度決断すると行きつくところまで突き進む果断さを持つ。身も蓋もなく言うと動物的なのだ。

 

「ここだ」

「…祠なんて影も形も見えないけどな」

 

周囲を見渡しても、また幼少の記憶を探ってもこの辺りにそれらしき建造物は無かったはずだ。

 

「まあ普通にしてたら分からんわ。私のすぐ後ろに続け、足を滑らせて溺れれば下手すれば死ぬぞ」

「…溺れる? もしかして祠って」

「あの大滝の裏には小さな洞窟があるのだ。孫悟空の花果山水簾洞ほど広くも立派でもないがな」

 

そう言って祖父は滝壺に入らせないための柵をあっさりと乗り越え、大滝に向かっていく。おいおいマジかと念のため自分の服装をチェックする。まあ濡れても捨てても惜しくない既製品だ。持ち物も防水仕様の携帯電話が一つ。仮に滝壺に落ちても泳ぎは達者な方だから早々死にはしないだろう。それだけ確認すると淀みの無い足取りで祖父の後ろに駆け寄る。自分で言うのもなんだが決断までかける時間が驚くほど短く、決めた後は迅速に行動する性質なのだ。

 

大滝の飛沫を被りながら、水流のすぐ後ろにある僅かな空間に身を潜り込ませる。ほんの数メートル程度奥に潜りこむと、唐突に祖父の姿が消えた。

 

「ここだ」

 

見ると懐中電灯を持った腕だけがニュッと伸びている。祠があると言う洞窟に繋がる穴から腕だけ出しているのだ。声を出して答えると将悟も祖父に続き、その穴に身を潜り込ませる。懐中電灯だけが光源として頼りであり、これが無ければ携帯電話の僅かな光を頼りに動くことになるだろう。

 

しかも人目のつかないこんな場所に行くのだから、事故の一つも起きればあっさり行方不明者が二人出来上がりである。だからと言って怖気づくわけでも、中止する気が起きるわけでもない。祖父に至ってはそもそも思いつかないといった感じだ。

 

遺憾ながら時々無謀と言っていいくらい考え無しな一族なのだ。そんな宿業と言っていい血筋にまつわる性質を思いながら、真っ暗闇の中を祖父の持つライトだけを頼りに見渡す。

 

滝壺の裏にあるだけあって湿気はかなりのもの、空気はひんやりとしており、息苦しさを感じないくらいの広さはあるようだ。入口は身を屈めなければ入れないくらい窮屈だったが、中は立って歩き回れるくらいに天井が高い。奥を見ると小さな泉が湧いており、少しずつ湧き出しては洞窟の端に掘られた溝に沿って滝壺の方に流れ出ているようだ。

 

「これが私の言う祠だ」

 

と、祖父がライトで光を当てて指し示すのは泉のすぐ手前にある空間だった。祠というからには神を祀る小さな箱の一つも立ててあるかと思ったのだが、実際には岩盤に突き立てられた見たこともない意匠の短剣とそれを一辺二メートル程の長さで囲った注連縄があるだけだ。

 

「…変な形の剣だな。というか錆の一つも浮いてないように見えるけど。この湿気むんむんの洞窟の中で」

「ついでに言えば、引き抜こうとしても絶対に抜けん。私が無分別な子供の頃に散々試したから確かだ」

「爺ちゃんにもツッコミどころはあるけど、それ以上におかしくない? この宝剣とやら」

 

一尺を少し超える長さの両刃の短剣であり、鍔がかなり長い。また柄頭が他の部分と比べて大きかった。総合的にどう見ても日本刀と同系の刀剣には見えない。むしろユーラシア大陸から交易で持ち込まれたと言われたほうがよほど納得できる異国風の短剣であった。

 

二人は知る由もないが大地に突き立てられた短剣は大陸において径路剣と呼ばれた武器に酷似していた。同形の武器はユーラシア全体に広く見られ、西はスキタイやペルシア、古代ギリシャを始めとし、東においては匈奴(フンヌ)で使われ、また平安時代の日本に持ち込まれたと伝える文献もある。

 

概ねスキタイ、トルコ系遊牧民族において多く使われた意匠の短剣であった。また祭祀にもしばしば使われたとされ、匈奴では捕虜の犠牲に伴う供儀で使用する軍神の神体となっていたという。スキタイでも似たような祭祀が行われていたというから文化の伝播という観点から見ると非常に興味深い資料である。

 

閑話休題(それはさておき)

 

「で、どうだ? なんぞ感じるところはあるか」

「いきなり言われてもね。一応視てみるけど元からあてにしてない勘だし、あまり期待しないでおいて」

 

と、祖父から促されて奇妙な形の短剣をぼんやりと眺める。こういう時に大事なのは妙な期待も恐れも抱かないことだ。ただフラットな精神状態を保って、視たいものを視る。あとは運否天賦で当たるも八卦当たらぬも八卦と言ったところ。

 

長年の経験から何となく霊視の“コツ”を悟っていたあたり、将悟の生まれながらの才能は傑出していた。本人も知る由は無かったが、世界最高峰の霊視能力である万理谷裕理に迫る能力を男性の身で備えていたのだから、その異常さは推して知るべしである。

 

視る。心を一点に定めず、宙に浮いている感覚を保持し、ただ何を見るでもなく視ると―――霊視が降りた。ボンヤリとした意識の中へ唐突にイメージの奔流が流れ込む。

 

これは器、大地と水(へび)から精気を奪い取り、蓄える器。そして蓄えた力を糧に一振りの剣を産み出す神具なのだ…。

 

「…既に器は満ち、残る《鍵》は二つ。探せ、探せ、探せ…。《贄》が捧げられた時、旧き《鋼》は再臨する―――」

 

とりとめのないイメージが無理矢理言葉となって口から漏れ出す。将悟自身どんな意味を持っているかわからない、意味不明な言葉の羅列だ。この場に呪法に携わる識者がいれば顔色を真っ青にして取り乱したかもしれないが、生憎とこの二人に理解できるほどの識見は無かった。

 

「おい、大丈夫か? なんぞブツブツ呟いておったが」

「……ごめん、ちょっと待って。キツイ」

 

一気に頭に叩き込まれた情報を何とか処理しながら、若干の頭痛と吐き気を堪える。これほどはっきりとよく分からないヴィジョンを見たのは初めてだった。悪い電波を受信したと言われたら思わず信じてしまいそうだ。それくらい真に迫っていて問答無用で真実だと認識させる鮮烈なイメージだった。

 

恐らくその原因は目の前の宝剣。よくよく見るとその中で蠢く意味不明な“力”は今まで遭遇したオカルト事件のどれよりもはるかに大きい。さっきまでロクに知覚も出来なかったはずのモノが今は手に取るようによく分かる。さっきのイメージがショック療法となって訳の分からないシックスセンスでも開いたのかもしれない。

 

「…俺自身全部は分かってないけど、とりあえず理解できてる部分を言う。爺ちゃんの言う通り、()()()()()()()()。こいつ、今は大人しいけどキッカケがあれば多分ものすごくマズいことになる、俺のイメージだけどとんでもない巨人が来て村が丸ごと踏みつぶされる感じ」

「…そうか」

 

呻くように祖父が相槌を打つ。彼自身、なにか危ないと漠然に不安に思っていたのだろうが、己よりよほど勘に優れた孫から改めて言葉にされると実感する重みが違うのだろう。だからといって恐れから目を背けないのは流石に赤坂家の頭領といったところだった。危地にある時こそ図太くなる一族なのだ。

 

「ああ…でも、逆に言えばキッカケが無ければこのままだ。使うのに必要なものが足りない。そんな気がする」

「とはいえ、このままでいいとはいかんな」

「不発弾を放置しておくわけにはいかないだろ。ツテを辿って本物の霊能者でもなんでも呼んできてくれ。これ以上は俺の手に余る」

「ツテなぞあるか…。が、まあ仕方あるまい。物狂い扱いされるかもしれんが、声を上げれば本物にも突き当たるかもしれんしな」

 

それと蔵から古文書も引っ張り出してみるか、と呟く祖父に曖昧に頷きながらふと、もう一度短剣を見る。するとなにやら視線が磁力じみた強烈さで誘引され、離すことが出来ない。

 

―――何かに、呼ばれているような…。

 

ふらふらと意識を半ば宙に浮遊させて無意識のうちに注連縄を超え、件の宝剣を歩み寄って引き抜こうとする。

 

「おい、だから抜こうとしても無駄だと―――」

 

後ろで何か言っているが気にならない。祖父にこの剣が抜けなかったのは、喰らうべき竜蛇がまだ生きながらに貫かれていたからだ。仕留めた獲物を食い尽くすまで傍を離れる獣はいまい? それだけのことなのだ。

 

またしても意味の分からないことを、そのくせ確信を抱きながら思い浮かべる。そのまま無造作に宝剣の柄に手をかけ、突き立った大地から抜こうとし、

 

「―――うん?」

 

()()()()()()()()()()()()()。その感触は例えようがない、強いて言うなら水で出来た蛇が手首に絡みつき、袖口から潜り込もうとしたような…冷たくも気妙に生々しい肌触りだった。

 

思わず手を引っ込めると合わせて握っていた宝剣がすっぽ抜ける…将悟の手から。そのままクルクルと宙を舞い、祖父のすぐ足元の岩盤に突き立った。それも結構深く。少しずれていれば祖父の足をサクッと貫いていたかもしれない。

 

「危なッ! 仮にも御神体なのだぞ。もう少し丁寧に扱え、馬鹿孫!」

「…あー、うん、ゴメン」

 

自分のミスは自覚できていたので、そのまま大人しく謝るしかない。

 

しかし今の感触は果たして…。念のため、身体の各所をチェックしてみるが蛇やらなにやらが服の下に潜り込んだ感触は無い。気のせいだったと思うのが無難なのだが、よりにもよってこの怪しげな宝剣に触って起きたことである。無視しろと言う方が無理だろう。

 

ともあれ首を傾げながら、将悟は突き立った宝剣を今度は丁寧に引き抜く。

 

「……私の時はどれだけ力を入れても抜けなかったのだがなァ」

「爺ちゃんの時はまだその時じゃなかったってだけだよ、多分」

「なんだそれは?」

「さっき言ったヤバイ事態と関係があるってこと。きっとずっと抜けない方が良かったんだ」

 

なるほど、と神妙な顔で頷く祖父に声をかける。

 

「とりあえず帰ろう。ここにもう用はなさそうだし」

「分かった。だがその前に少しそいつを貸せ」

 

と、将悟から宝剣を受け取ると懐から取り出した手ぬぐいで素早く宝剣の刃を覆ってしまう。なんでもいいが御神体と言う割に扱いがそいつとやけに軽い。

 

「抜き身で持ち歩くわけにはいかんだろうからな。見たところ四〇〇年は手入れされておらんくせに、錆びてもいなければ刃が欠けているわけでもない。その上岩に刃が突き立つほど鋭い。つくづくおかしな剣だ」

 

悪戯半分で振り回すなよ、と現実的な危険性を恐れる観点から注意する祖父に黙って頷くと二人は再度滝の裏を通って外に出る。そのまま来た道をたどるように家へ戻っていく。その帰路の間二人はずっと無言だった。

 

 

 




ようやくお届け出来ました新章、アナザー・ビギンズ。
全六話、約七万字。
これから毎日投稿予定です。

赤坂将悟の『はじまりの物語』であり、初恋の物語でもあります。
乞うご期待。


PS
第一話の序盤を少々修正。
尤もプロット的にはかなり変更がかけられています。流石に三年前のプロットはそのまま使えなかったよ…。


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アナザー・ビギンズ ② 大神来臨

 

―――夢を見た、懐かしい白き乙女。

 

嬉しそうに、懐かしそうに、そして少しだけ申し訳なさそうに笑っていた。十余年ぶりに夢で出会った彼女は、前に遭った時よりもずっと人間臭くて慕わしく、その癖妙に疲弊しているように見えた。

 

「…大丈夫なのか?」

 

夢だと言うのに思わず問いかけると乙女も何か口にしたようだが、耳には届かなかった。ガラス越しに会話をしているように、聞こえるのは己の声、いや思念だけ。そんな将悟の様子に乙女も気づいたようで、呆れたように息を吐きながら手を伸ばしてくる。黙って身動ぎせずにいると、頬を両手で挟み、互いの額をこすり合わせてくる。乙女の美貌がこれ以上ない程に近づき、流石に胸の動悸が激しく打ち始めていく。

 

『――― えるが い、いと 子よ。《鍵》を め、あの下郎が…否、もっと厄介な が来るぞ』

 

途切れ途切れの、お世辞にも聞き取りやすいとは言えない思念がちょろちょろと流れ込んでくる。詳細は不明だが、警告されているようだった。とはいえ警告されてもどうしろと言うのか? 助言するならばもうちょっと具体性を絡めてしてほしいものだ。

 

そんな不服そうな気配を読み取ったのか乙女は途端に憮然とした顔になり、少し乱暴に将悟を突き飛ばす。

 

「おい…」

『なんとかせよ』

 

最後の一言だけはやけに明瞭だった、相変わらずこちらに投げっぱなしではあったが。これが例え予知夢の類でもあてにならないにも程があった。やれやれと頭を掻いていると白き乙女の姿は掻き消え、急速に意識が暗黒の中に沈んでいく。それが奇妙な逢瀬の終わりだった。

 

―――瞑っていた瞼を開け、闇をしばし見つめていた。

 

要するに夢だった。ただのと言うには如何にも意味ありげだったが、夢には違いあるまい。しかしあの面倒くさそうな宝剣が手元に来てすぐ、しかも触れた時のおかしな感触を思えば、本格的に霊能力だのオカルトだのの可能性を想定しなければいけないのだろう。憂鬱なことだが。

 

これまでもオカルト事件と言っても別に本物の化け物だの妖怪だのに遭遇したわけではない。ただまともな理屈では到底説明できないような事件には何度かかちあったことがあるというだけだ。そこでも何が出来たという訳でもない。更に言えば今回のようなケースは流石に色々と初体験だった。

 

枕元に置いていた宝剣を取り上げ、巻いてあった手ぬぐいを取り去る。外から差し込んだ月の光が一筋、刃の腹に当たり幻想的な光を放つ。妖しげで引き込まれてしまいそうな光に、先ほどの夢と合わせて妙に目が冴えてしまう。このまま横になってもきっとすぐには眠れまい。

 

「…散歩するか」

 

奇妙に昂った気を落ち着けるために少し外を出歩くのもいいだろう。寝間着代わりのTシャツとズボンの上から上着を一枚羽織り、懐に例の宝剣を忍ばせる。厄介ごとの塊とは分かっているのだがどうしてか手元から離す気になれないのだ。

 

そのまま玄関で外履きに履き替え、肌寒さを感じる外気に身を晒した。ほんの数メートル、実家から出ただけだがやけに月が良く見えた。しかも折よく満月、月光浴をするには絶好の天候だろう。将悟にそうした趣味は無いが、良く照らされた月光の下、実家からあまり離れない程度に歩き回るのは中々悪く無いように思えた。

 

そのままふらふらと落ち着かない足取りで真っ直ぐに道を進んでいく。闇に慣れた目と中天に輝く月のお蔭で歩くのに不自由は無い。歩きながら考えるのはやはり懐に忍ばせた宝剣の処遇のことだ。面倒事の塊、だが有効な対処法に心当たりはない。その上先ほどまで見ていた夢…。

 

さて、どうしたものか。きっとどうしようもないというのが実情なのだろうけど、それでも考えざるを得ないのだ。なんだかんだこの地は長期休暇のたびに訪れた思い出の地、祖父母や良くしてくれた近所の人への義理や親愛の念もあるのだから。

 

溜息を一つ、良い考えが出ないことを嘆きつつ、懐から宝剣を取り出して刀身を月光にかざす。

 

嗚呼、だがやはり、この刀身は美しい―――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そのまま無意識の内に握っていた方の腕に力を込め、刃を胸へ送り込もうとして、

 

 

 

「―――人の子よ、定命なる者よ。いま汝は神を招来する器に魅せられている。我が声に耳を傾け、世に稀なる神具を血で汚すのを止めよ」

 

 

 

唐突にかけられた声に籠った強制力とでも言うべきものに無理やり停止させられる。なんだ、この声は…? 全く気付かない内に胸を貫こうとした己自身の心と、それを強制的に止めた未知なる声の存在に深刻な驚きを覚えながら声の出所に視線を向ける。

 

月に照らされた空の下、奇妙な人が―――否、人型の何者かが悠然と将悟を()()()()()()()。人型と将悟の身長にそう大差はない。だが魂の位階、気位の高さとでもいうべき階梯が次元違いだった。眼前の人影に比べれば将悟など惑星の前の塵と同じだ。取るに足らない、ちっぽけな存在でしかない。

 

何より人影は異形だった。その肉体は痩身ながら力感に満ち、手に持つ奇妙な杖は支配者としての威厳をもたらすのに一役買っている。浅黒い肌と奇妙な装束は異国の風貌を意識させ、なんてことの無い田舎道をその身に纏うオーラが荘厳な神殿に仕立てているようだ。

 

そしてなによりその頭部は…鳥だった。鳥類特有の長い首にこれまた鋭くとがった(くちばし)。思わず首元を視ると黄金の装飾具と衣服に隠され、如何なる形で人体と接合しているのか視ることは叶わない。だがそんなことがどうでもよくなるほどにその眼光は知性に満ち溢れている。

 

鳥頭人身の異形、人ならざる存在を言葉にするならば、“神”。気まぐれに地上へ降り立った超常の存在というのが最も印象が近い。

 

「我が名を知る識見は無かれど本質を見抜く智慧を持つか…。死すべき定めの子にしては鋭き目を持っているようだ」

 

ただ語り掛けているだけだというのに一語一語に思わず跪き、忠誠を叫びたくなる支配力に満ちている。

 

「その智慧に免じ、命ず。トートの名の下、汝が所有する《鋼》の神具を我に引き渡すがいい」

 

古き魔導の都、エジプトにて広く古く信仰された強大なる智慧の神の御名において聖なる命が下される。

 

―――トート、ジェフゥティとも呼ばれる古代エジプトの大神である。ヘルもポリス創世神話において『卵から生まれたもの』との称号を冠する造物主であり、その口から零れ落ちた言霊によって混沌とした世界に秩序、即ち宇宙を運営する法則が定められた。定められた言霊、宇宙の法則は忘却から守るべく永遠に朽ちないイシェドの葉に文字にして記され、全ての智慧の保管者となったという。

 

このエピソードからトートは言霊、即ち最源流の魔術神という神格を得る。尤も“智慧の全てを司る”属性からその職掌は極めて広く、冥府の審判者、時間と暦を支配する者、月を司り夜の秩序を守護する、文字の発明者であり神官たちの守護者…など少し上げるだけで片手の指が埋まる数の役割を持つ。

 

また歴史的に見てもその信仰の起源は非常に古く、エジプト古王国時代…紀元前2100年頃には既に確立していた。時代が下るにつれて信仰範囲はエジプト全土に広がり、バビロニア語による綴りも確認できることからやがては異国にまでその存在が知られたことが確認できる。

 

ヘルモポリスを中心に創造神として大いに崇められた智慧の神であったが、後年になるとラー、オシリス、ホルスなど神王クラスの神々に仕える形でその信仰は存続した。尤も上位者である神王らがその時々の時勢で台頭したり凋落していったのに比べ、トートはほとんど全ての時代を通じて神話における宰相・神官など高位の役に就き続けてきたため一概にその権勢の強さは比較できないだろう。

 

一つ言えるのは古代エジプトのあらゆる地域、あらゆる時代においてトートが強大な影響力を持ち続けてきた大神であるということだ。

 

そんな最源流の魔術神が下した、絶大なる支配力を有する言霊が将悟へ干渉する。卑小で矮小な人間である将悟に抵抗など叶うはずもなくその手に握った宝剣を眼前の神に捧げようと膝を折り―――

 

()()()()

 

「……突然声をかけてきて人の物を寄越せだのふざけんな、とかその頭はどうなってんだ、とか色々言いたいことはあるが」

 

心臓が動悸を一打ち、夢から醒めたように正気に返った。

 

「嫌だね。これは、あんたにはやらない」

 

蛮勇に無謀を塗り重ねた挑発的な文句が咄嗟に口を吐いて出る。

 

先ほど目の前の異形からかけられた言葉に宿る強制力、カリスマは最早絶対とすら言える圧倒的なものだった。異形の言う通りに膝を折って手元の御神刀を捧げ、命を永らえたとしてもその偉大さはトラウマじみた強烈さで将悟の心に焼き付いただろう。下手をすれば眼前の異形を崇拝する新興宗教の一つも立ち上げたかもしれない。

 

どういう訳か唐突に支配力が薄れ、反抗することが出来たがそうでなければ将悟の人生に深刻な影響を及ぼしただろうことは間違いない。もちろんそんなおぞましい未来は絶対にごめんだった。

 

「これは如何なることか。少年よ、我が言霊を如何にして退けた」

「知らん。そんなことよりあんたはこいつをどうする気だ?」

 

神の問いかけをバッサリと切り捨て、あまつさえ逆に問い返しさえする。眼前の存在がそれこそ言葉一つで己を吹き飛ばせるだろう、強大な存在だと言うことは分かっていたが染みついた性根が咄嗟にこんな文句を吐かせた。上から目線で話しかけてくる相手には条件反射的に反骨心が煽られる性分なのだ。我ながら愚かしいとは思うのだが、どうにも幼少からの癖で治らない。三つ子の魂百までという奴だ。

 

……何故だが、どこかで誰かにくつくつと笑われた気がした。

 

「こいつが厄介事の種ってのは分かっている。そんなのをどうして欲しがる?」

「智慧の神たる私に謎を突き付けた功績により答えよう。既に《鋼》の器は満ち、贄を捧げればあの強大なる鋼の軍神が降臨しよう。世に神具あれど神を招来する神威有するほどのものは稀。私は如何なる(ことわり)を通じ、かの神具が神を呼び招くかをこの目で見、知りたいのだ」

「よく分からんが要するに地雷をわざわざ踏みつけて見物に来たってことかァ…」

 

《鋼》、軍神、神具…。意味不明な単語もちらほらあるが大意を読み取れば要するに目の前の偉大だがどこか怖気の走る存在をもう一人、この宝剣を使って呼び出すつもりなのだろう。そうなればこのちっぽけな村はどうなるか。気まぐれに踏みつぶされても全くおかしくない。

 

―――断じてお断りである。

 

この神とやらの強大さは肌で感じられるが、偉大だとも従いたいとも思えない。眼前の異形がとにかく気に入らない、例えどれほど強壮で、威厳に満ち溢れ、比較して己がちっぽけな石ころに過ぎないのだとしても、無駄な努力だったとしても抗うことだけは止められない。

 

それでこそ、と呆れと感心が混じった声が脳内だけに響くがいい加減誰だお前は? おかしな奴に当てられて遂には俺もおかしくなったのか? 

 

「ふふ、既に汝の謎…我が言霊を退けた種は見えている。少年よ、()()()()()()()()()()()()()()()》。初めは神具を渡せば捨て置くつもりであったが、その気は失せた。手荒い手段は好みではないが、我が神威により汝の身柄を強奪するとしよう。抗うなかれ、ただ受け入れよ」

「お断りだ馬鹿野郎! 鳥頭なんぞに人の実家を好き勝手されてたまるか!!」

「人の子よ、君の意思など関係が無いのだ。世界の秩序を言霊で定めた私が発した言葉に逆らえる者などこの世にいるはずがないのだから」

 

林檎が上から下に落ちるのは当然だ、そんな物理法則を語るのと同じ語調で断言され、ますます反抗心が頭をもたげる。そして正体不明の苛立ちも胸の内からどんどん湧き上がってくる。腑に落ちない異様な違和感がその根源だった。

 

()()()()。こいつは神だが、本当の神様ではない。どこか捻じれ、歪み、曲がっている。その癖所有する莫大な力だけは神と呼ぶに相応しい。だからこんな無茶苦茶を言える、踏みつけたものを気にせず(ほしいまま)に行動する!

 

「…あんた、本当にそんなことがしたいのか。神様なんだろう、秩序を定めた神様なのに、間違ったことをしたいのか!?」

「奇妙なことを言う。如何にして我が行いを誤謬と断ずるのか? 人に過ぎない汝が、智慧の神たる私に」

()()()()()()()()()()()()()()()! あんたはここに、いや、この世にいちゃいけない気がする。神様は、昔話の中だけにいればいいッ!!」

 

天与の霊眼で無意識的に見抜いた真実が言葉となって衝いて出る。将悟のいうとおり、まつろわぬ神とはそういうものだ。本来いるべき不死の境界から何かの弾みで肉体を得、生の領域たる現世に顕現した時、彼らは“歪む”。神話に限りなく忠実に、しかし全ての災厄となる形に歪むのだ。

 

眼前の神にとっては戯れに発した問いかけだったかもしれないが、将悟が万感の思いを込めた叫びは神秘を伴わない言霊となって僅かにその胸を揺さぶった。

 

「……汝の申しよう、確かに思い当たる点がある。なるほど、確かに我が行いは誤りであるのやもしれぬ。だが、違うのだ」

 

将悟の叫びを肯定しつつ、訂正する声には僅かに疲れた響きがあった。長い長い時を過ごした倦怠の念が籠っていた。

 

「違う?」

「まつろわぬ我、神の本道から外れた我は死を得ることでしか正しき道に戻れない。あるいは幽世に居を移すか、死に近き眠りを得て長き時を過ごす手もあるが…それでは本来あるべき真なる神には戻れぬのだ」

 

将悟は直感した、この神が抱いた感情の一端を。この神は、死にたいのだ。正しい頃の己、その残滓とでも言うべき思いが今の叫びにならない嘆きを漏らさせた。もちろん、今のトートは歪み、捻じれ、何をしようとも正しい頃の彼が望むものには辿り着かない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。智慧の神たる己の在りようを体現する過程で、何時か己が殺められるその日まで!

 

矛盾だ…神の矛盾を悟った将悟は、少しだけ哀れに思った。眼前の偉大なる神を、ちっぽけな人間が…。

 

「なら、俺があんたを殺してやる。あんたを助けてやるよ」

「死を定められた子よ、それは叶わぬ。人は神を殺せない、神を殺めうるのは同じ神か、神殺しのみ。只人にすぎぬ汝が如何なる手管を以て智慧深く、強大なる私を弑逆するというのか」

 

トートはどこか苦悩に満ちた仕草で頭を振った。尤も一瞬で掻き消え、再び深淵のような静けさと威厳に覆われてしまったが。

 

「叶わぬ願いだ。無意味な抗いを止め、大人しく己が身を私に捧げよ」

「さっきも言ったぜ、絶対嫌だ!」

「ならば是非もなし。神の言葉を聞き入れぬ愚者に仕置きをつけるとしよう」

 

仕置き、と言ってもファイティングポーズをとるわけでもない。当然だ、これは戦いですらない。例えるなら蟻に噛み付かれた人間が、戯れと報復として手でつまみ、力を加えるようなものなのだから。もちろん手加減はするだろうが、それはそれとして仕置きを受けた後で生きているかは全く別の話だ。何しろスペックが根本からして異なっている。

 

「この鳥頭、智慧だのなんだの言ってる割に頭が固すぎるぞ!」

 

かと言って背を向けて逃げても逃げ切れる気は全くしない。蟻の歩幅と人間の歩幅が違うように、そもそも勝負が成立しないのだ。こうして向かい合って言葉を交わしているからこそなけなしの興味を少年に抱き、矢継ぎ早に意識を刈り取ろうとしないのだから。

 

「惜しいな、これほど鋭き霊眼の持ち主ならば我が徒弟として迎え入れるに相応しく、神官として大成したであろうに」

「今のあんたの下に着くなんて御免だね。自分が正しいって胸を張って言えるようになってから来やがれ!」

「それこそ矛盾だろう。正しき我がこの世にあることなど出来ないのだから。嗚呼(ああ)、だが叶うならば不死の領域に君を招いてもいいかもしれぬ。尤もとんと方策は思いつかぬが」

 

思慮深げな様子柄とんでもないことをこともなげに呟く神。

 

「その智慧で以て神を理解し、誠心で以て神と向き合う君は神に愛される稀なる資質の持ち主だ。神代の、未だ神々が地上を闊歩していた時代ならばあるいは神や女神に伴侶として迎えられたかもしれぬと思わせる程に」

 

魔術師あたりがこの会話を聞けば発狂するか血眼になって将悟の身柄を手に入れようとしたかもしれない。神に愛される人間など、人類史を通してなお稀少な資質だ。しかも智慧の神のお墨付きである。

 

尤も神々からすれば可愛いペット感覚であり、また寵愛を受ける当人にとって必ずしも幸せな結末となるかは全く別問題なのだが。具体例を挙げればギリシア神話辺りを参照するとよく分かるだろう。

 

「逆に蛇蝎の如く忌み嫌われるかもしれぬが、少なくとも私は好ましく感じる。一度口にした言葉を軽々に引っ込めるのは我が流儀ではないが、その価値はあろうか」

「…………」

 

なんだ? 眼前の神は何かを考えている。それが吉と出るか凶と出るか…運否天賦を自分以外の何かに任せる、というのは受け入れがたくはあったが根本的な立場の差はどうしようもない。将悟が何を言おうと何ほどのことも変えることが出来ないだろうことは悔しながら骨身に染みている。

 

「命ず。《鋼》を招来する神具『アキナケスの祭壇』を捧げ、我に仕えよ。汝に代わる《鍵》は別の地にて探すとしよう」

「―――…」

 

予想外、というのが近い感想だったろうか。まさか妥協とも譲歩とも言えそうな提案…いや、命令が来ようとは。足元の小石のためにわざわざ意見を変える人間がいるだろうか。それと同レベルで眼中にないと思っていただけに、少しばかり信じがたい。

 

正直に言えば、抵抗はある。トートは将悟を認めているようで、完全に下に見ている。いや、実際天と地ほどに力の差はあるのだが、将悟はトートに仕えたい訳ではない。先ほどの嘆きを聞いて嫌悪感は大分薄れていたが、代わりにむくむくと頭をもたげてきた衝動がある。

 

即ち、こいつを何とかしてやりたいという具体的な方向性を持たない漠然とした思いである。

 

何をすればいいか分からない、どうしてやるのがこいつにとっていいのかも分からない。分からない尽くしで頭を抱えそうだが、一度湧き出してきた思いは容易なことでは頭から去ろうとはしなかった。だがどちらにせよトートと将悟は相容れない。繰り返すが、将悟はトートに仕えたいのではない。対等の立場で、“何か”をしてやりたいのだ。

 

あるいはこの場面でそんなことを真剣に思えることこそが、神に愛される資質と称された所以だったのかもしれない。

 

(……とはいえ、ただ拒否しても)

 

これ以上の譲歩を眼前の神はしまい。残念だ、とでも呟いて当初の予定通り将悟から『アキナケスの祭壇』とやらを強奪し、ついでのように生贄に捧げるのだろう。なんとなく、しかし確信をもってそうするだろうことが将悟には分かる。

 

トートの命令を受け入れれば少なくとも、将悟の故郷に災禍が訪れることは無い。他の場所に被害をもたらすことについては心を痛まないでもないが、将悟は基本的に見内優先で利己的、ついでに計算高い思考の持ち主だった。あっさりと心の棚に罪悪感の欠片を放り投げてしまう。

 

天秤が傾き、仕方がないという思考に行きつく。

 

「分か―――」

 

頷き、承諾の意を示そうとした刹那、

 

 

 

―――轟、と。

 

 

 

地鳴りを響かせ、一つ目の巨人が天から降って来た。

 

「……は?」

 

流石の将悟も唐突過ぎる急展開に馬鹿みたいな声を漏らすしかない。一世一代の決心をしていたところにいきなり巨人が轟音を立てて着地したのだから無理もない。見たところトートほどの強壮さは無いが、一五メートル級の巨体に単眼、手に持った棍棒と外見のインパクトは一応人型を保っていたトートよりも大きい。

 

「GYUOOOOOOOOO―――ッ!!」

 

ついでに凄まじく五月蠅い咆哮をあげた。先ほどの轟音と合わせて村中の人間が跳び起きたのではないだろうか。

 

「……鍛冶神の眷属か。どうやら彼奴めもかの神具を欲しているようだな」

「彼奴って誰だ! これ以上なんか降って来るのか!?」

「降って来るかは知らぬが、眷属がもう一体いままさに天を翔けているようだ」

 

狂乱の混じった問いかけに意外と律儀に返してくれるトート。咄嗟に月天を見ると、月の光に照らされ黄金に輝く鷲が見える。月が輝いているとはいえはっきり見えているのを一瞬不思議に思ったがすぐに疑問は氷解した。単純に、大きいのだ。縮尺が狂っているのではないかと思う程に、すぐそこの単眼巨人を掴んで運べるのではないかと思える程に!

 

というかそれで間違いないだろう。前触れもなく唐突に空から降ってくるなど、それくらいしか思いつかない。混乱からいまだ立ち直れない将悟がいささか場違いなことを考えている間にも、件の巨人は棍棒を将悟ごと吹き飛ばす軌道でトート目がけて振り下ろそうとしている。

 

「生と不死の境界で大人しく傍観していたかと思えば、眷属を送り込んでくるとはな。如何なる魂胆か」

 

のんきに呟いているトートにそんな場合か、と突っ込みたくなるが結果だけ見ればこれは将悟の間違いだったろう。

 

「《雷》よ」

 

淡々と、一語だけ告げる。それだけで全ては決した。トートが持つ不思議な形の杖から凄まじい勢いで雷霆が(ほとばし)り、一瞬のうちに単眼巨人を飲み込み、焼き尽くしたのだ。後に残るのは人型の炭と肉の混合物となった痕跡だけ…。おぞましさを通り越した非現実的な光景に流石に将悟の現実認識を超える。映画の中にでも迷い込んでしまったような感覚に、一瞬だけ現実感を失い、足元が定まらずにふらついてしまう。

 

だがトートの言う彼奴、も負けず劣らずの応手で応えてみせた。

 

突如として単眼巨人の亡骸から炎が溢れだすと、その炎は亡骸を焼くどころか急速に膨張・再生させ、元の人型を取り戻したのだ。ただし完全に元通りではない。肉の身は失われ、代わりに錆び一つない黄金の逞しい裸形へと変じていたのだ。再誕した巨大な青銅巨人はまさに神の御技と言う他ない偉容を備えていた。

 

ほう、と感心したように息を吐くトート。

 

「その炎、破壊のためのものにあらず。《創造》をつかさどる鍛冶神の火か。中々見事な手妻よな」

 

だが私には到底及ばぬ、とやはり淡々と呟き、より強力な言霊を駆使するために威を込めて一歩踏み出す。それは一筋縄ではいかないことを悟った智慧の神が小手調べから全力を振るうための戦闘態勢へ移行したことを示していたが、同時に一つの隙も生んだ。

 

―――この瞬間、偉大なる智慧の神は傍らにあったちっぽけな人間のことを完全に意識から追いやった。

 

その隙を突くように天から黄金に輝く青銅製の大鷲が急降下、大質量と亜音速にも関わらず、一切の衝撃もなく、将悟をその巨大な爪で掴み、攫って行ったのだ。将悟からすれば視界が一瞬のうちにブレ、気付いた時には強制的な空中飛行に招待されていたというのが一番近い。思わず悲鳴が口から漏れ出るが、聞き入れる者は生憎どこにもいなかった。

 

「やるな、鍛冶神め―――しばし『祭壇』は預けるとしよう、くれぐれも丁重に扱うのだな!」

 

その持ち主については故意か無意識か一切の言及はせず、この世ならざる世界から覗き見ている鍛冶神―――中途半端に落魄し、十全ならざる身の上の神に向けて警告とも言える文言を叫んだ。

 

慌てて追いすがり、力付くで奪い返すのは彼の流儀にあらず。取り返すのならば正面から堂々と、身を隠すならばその智慧で探り当て、抗うならば権威と魔術を以て封じ込めん。その威風を込めて奪還の誓約を告げると、その姿を見送るのだった。

 

ふざけんなこの鳥頭、という微かにエコーがかかって聞こえる将悟の叫びは一切耳に入らなかったのはある種のお約束だったかもしれない。

 

夜風に当たっての散歩がとんだ一幕になったと嘆く。ただの散歩でこれ、ならばこの次は一体どうなるのか? 嵐に巻き込まれ、振り回されるしかないちっぽけな己の身に苛立った将悟はせめてもの八つ当たりとして己の身柄を強奪した青銅の大鷲に拳を叩きつけ、返ってきた痛みにまた歯噛みするのだった。

 

 



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アナザー・ビギンズ ③ 陥穽

例えようもない不快感、それが目を覚ました将悟を襲うものだった。身体がバラバラになるような、表と裏がひっくり返るような、何もかもが溶けてゆく快感と己そのものを失うような喪失感。嘔吐しようにも身体が動かず、黙って耐えるしかない。

 

そんな地獄の連続に、変化が現れる。

 

「起きろ、小僧」

 

それはあの智慧の神の声ではなかった。もっと低く、偏屈で、独善的な響きを備えていた。当然、呼びかけられたからと言って動かないものは動かない。ぼんやりと漂う意識を声がした方に向けるのが精一杯だった。

 

「仮初にも神たる儂の命に背くか」

 

自身の声に将悟が反応しないと悟った途端に分かりやすく怒気を露わにする声。微かに顔を動かして視線をやるとそこには醜男(しこお)がいた。蓬髪を振り乱し、顔を煤に塗れ、眼光は職人の偏屈さと執念じみた光を放っている。

 

しかし身だしなみを整えれば素晴らしい美形であろうことが窺える。その肉体は素晴らしく逞しく、力仕事に長年従事してきた男の肉体だ。しかしその片足は折れ曲がっていた、跛行(はこう)…足萎えなのだ。

 

意図せずして霊視が働き、男の素性の片鱗が頭の中に入ってくる。

 

かの男は半身を捥ぎ取られた神、かつて有した強壮さを失いし神。その象徴こそが片足の跛行、武勇の喪失。その執念は『祭壇』に向けられ、かつての己を取り戻す機会をうかがっている…そしてその名は、いまは失われたその名は―――。

 

「よせ」

 

と、とびきり不機嫌な声音が強制的に将悟に流れ込もうとした情報の奔流をストップさせる。

 

「視るな、我が凋落の歴史を。我が汚点を覗き込むつもりならば相応の代償を支払ってもらおう」

 

将悟を見る目は冷たい、それこそ蛇蝎を見るようなというのが相応しい。かろうじて自制したようだが、一歩その鎖から解き放たれれば我を忘れて暴れ狂いそうな…そんな危険な光が宿っていた。尤も視るなと言われても勝手に頭の中に流れ込んでくるものをどうしろと言うのかと反発していると。

 

「貴様は『虚空(アカシャ)の記憶』を覗く霊能の持ち主なのだな。この生と不死の境界は現世よりもそこに近い。考えるだけで自然とその記憶を覗き込んでしまうのだ。故に何も考えるな、探るな、問うな」

 

と、意外と面倒見良く対処法を伝えてくる。若干の意外さを覚えつつも壮年の男を見ると、あちらも将悟を見て何かを考えているようだった。

 

「……そういえば生と不死の境界へ参った人の子はしばしば己を保てず、形を失うのだったか」

 

不便な、とこれまた不機嫌そうにつぶやいた後、壮年の男は手に持った(ハンマー)を掲げると、何事かを呟く。すると何もない場所からメラメラと炎が立ち上り、将悟の身体を包み込んでゆく。咄嗟に悲鳴を上げて暴れようとするが、それだけの余力はない。

 

「我が名はヘファイストス。尤も、かつての名を失い、長き時を漂白する中で得た借り物の名だが。まあ、まんざら無関係な名という訳でもない」

 

容赦なく炎で炙りながらマイペースに自己紹介を続ける男。

 

だが驚くべきことにその炎は熱くなかった。まるで実体のない幻のように将悟の身体を舐めるように揺らめき、触れた箇所がどんどん熱くなってくるが、そこには痛みが伴わない。何とも不思議で神秘的な炎がひとしきり将悟の身体を舐め尽すと、先ほどまで襲っていた不快感は消え去り、身体も動くようになる。

 

あっけにとられた思いで先ほどまで火であぶられていたはずの手のひらを眺める。そのまま身体を起こして周りを見渡すと、そこは洞窟…否、鍛冶場だった。金鎚、金床、たがね、砥石、鑿など各種の鍛冶道具が並んでいる。見上げると空は見えず、ただ尽きない闇と微かな岩肌が見えるのみ。炉からは勢いよく炎が漏れ出し、光源となって周囲を照らしている。

 

なにがあった…と自身の記憶を掘り返すと、すぐに答えは見つかった。トートとの不可思議な邂逅の後、奇妙な大鷲に将悟は攫われ、ある場所に連れていかれたのだ。攫われた場所からそう遠くない、ある深山の山肌まで。

 

そこは一見して普通なようで、将悟が見るとその異様さは一目瞭然だった。例えるならごく普通の森に、全く別の光景が重なっているような…異界という近くて遠い世界を想起させる、奇妙な場所だったのだ。おまけに奇妙に清浄で神聖な空気が流れており、聖域と言う言葉に相応しい神々しさまであった。

 

そして大鷲は将悟ごとその空間を()()()―――そこから先の記憶は無い。察するに不快感に襲われた将悟が気絶したのだろうと思われる。

 

「人の子が、神たる儂に手間を懸けさせるな」

 

如何にも億劫そうな台詞にカチンと来た将悟が反射的に言い返そうとするが、煌々と光る眼光を前に留まる。眼前の男は格で言えばトートよりも数段墜ちると思われるが、その分直接的な手段に出るラインが相当に短いと思われたからだ。

 

ついでに言えば正体不明の焦燥感が表情に渦巻いており、余裕の無さも感じられる。一言で言えば小物っぽいのだ。だがだからこそ危険性はトートよりも高いだろう。

 

「……」

 

皮肉の一つも言い換えそうと思ったのだが、結局は視線に敵意を込めてぶつける程度に収めた。ヘファイストスも反抗的な目つきにフンと鼻息を漏らしつつ、一々やり玉にあげるつもりは無いらしい。

 

「愚かなる人の子に問う。女神は何処(いずこ)に逃れた?」

「……女神?」

「然り。汝が持つ『アキナケスの祭壇』に縫い止められ、死を待つばかりであったはずの白蛇だ。蛇め、精気を食い尽くし、腹を満たした『祭壇』が牙を緩めたのをいいことに、魂だけとなってまんまと逃げだしおった。しかし如何に拘束が緩もうとあれほど弱った蛇では手引きが無ければ抜け出すことなど叶わぬ」

 

女神…突然言われて何の話だ、と問い返したいのはやまやまだが思い至る点は無いではない。幼き頃に遭遇した白き乙女、先ほどからたびたび頭に響く声、トートが言った将悟こそが《鍵》である旨を示す発言…

 

加えて祖父から聞いた昔話も象徴的だ。この鍛冶神の言い分では女神=蛇。即ち、昔話で討たれた大蛇こそが鍛冶神の言う女神であり、宝剣に加護を与えた金山彦神…鍛冶神とはこのヘファイストスのことなのではないか? 必死に頭を回す将悟に霊視の導きが端的にイエスと答え合わせをしてくれる。

 

ならばヘファイストスは単なる善意ではなく、いずれこの宝剣を使う腹積もりがあって大蛇を退治する手助けをしたのだろう。赤坂家の先祖である山師の男は知ってか知らずかまんまとその手伝いをしてしまったというわけだ。

 

「貴様は女神を見ているはずだ。答えよ」

「…知らない。俺は女神なんか見ていない」

 

将悟の中であの白き乙女は幼い頃に遭った行きずりの会話相手であり、女神などというけったいなものではない。そもそもあの乙女にはトートのような偉大さ、力感と呼べるものは無かった。どこか生に倦み疲れ、その癖幼い子供のために心を砕くような…そんなどこにでもいるような、子供の頃の憧れのお姉さんだ。

 

その意を込めて鍛冶神を見返すと、心底まで覗き込むような視線でひとしきり将悟を見た後、頷いた。

 

「偽りは申しておらぬか」

 

どうやら信じたようだ。だが、だからこそと言うべきか、ヘファイストスの興味は完全に将悟から消えたようだった。

 

「ではもう用は無い。神具を置いて何処へなりとも失せるがいい」

 

勝手に攫ってきたくせにそれか、と身勝手すぎる発言に震える拳を何とか抑える。ぶん殴りたいのは山々だが、考えもなく反抗しても腕の一振りで消し飛ばされて終わりだ。それよりも建設的なことを考えた方がまだましだ。

 

「どうすれば元の場所に帰れる?」

「生者の世界とこの生と不死の境界を繋ぐ門がある。貴様も通ったそこをくぐれば戻れよう。尤も、辿り着ければだが」

「そこは何処だ」

「貴様に教える理由は無い」

 

一応質問に答えはくれるものの、億劫そうでまともに応対する気がないのは一目で見て取れる。ならばとヘファイストスが言った霊能とやらを駆使するため、今自分が知りたい事柄について考えると……。

 

「ッ!?」

「ああ、貴様の霊眼は視えすぎるのだな。慣れれば必要な分だけ視られるのだろうが今の貴様では無理だろう」

 

頭が割れるような頭痛が走り、ヘファイストスが他人事を評する口調で言い捨てる。ますますこの偏屈な神への殺意が湧いてきた。

 

確かにヘファイストスが言うような“門”に関する情報が入って来た。ただし全世界数百か所近い数と“門”が存在する領域やその主たる神格について、更に“門”そのものに関する情報と叩き込まれたイメージが膨大かつ鮮明に過ぎ、とても将悟が潜って来た“門”について精査出来ない。例えていうならば出来の悪いサーチエンジンでキーワードを検索し、出力されたまとまりがなく膨大な情報の海に溺れているようなものだ。

 

だが今の霊視のお蔭でこの世界について分かったこともある。魔術師(!?)と呼ばれる輩には幽世、幽冥界、イデア、メーノーグなどと呼ばれていること。肉体よりも精神に重きが置かれる世界であり、今の将悟はヘファイストスによる炎の加護で肉体を保っていること。辿り着きたい場所を思い浮かべるだけで移動出来ることなどだ。

 

ただし今のような無茶を何回もしたらそれこそ脳が焼き切れてもおかしくない。詰まる所現状では手詰まりだった。脳が焼き切れるリスクを背負ってロシアンルーレットを繰り返すのならば話は別だが。

 

それしか道が無いのならば将悟はきっとその決断をしたのだろうが、幸か不幸か別の道が残されている。そちらを試してからでも話は遅くないだろう。

 

「おい、神様。提案がある」

 

即ち、眼前の鍛冶神との交渉と言う道を。並の度胸ではそもそも交渉を試みる発想が思い浮かばないだろうが、生憎将悟の心臓はタングステン鋼以上の強度である。怒らせれば一思いに叩き潰される絶対的強者だろうが、道があるなら進まない道理が無い。

 

「胡乱なことを言う。神に従う智慧もなき者が吐く戯言など愚かしきことに決まっていよう。速やかに口を閉じよ」

「―――もうすぐ、トートがここに来るぞ。そうなったらあんたはマズいんじゃないのか?」

 

ばっさりと話を切り捨てるヘファイストスを無視し、端的に無視できない事実のみを突き付ける。

 

「やはり聞くに堪えぬ戯言よな。確かにあやつはその智慧に並ぶものなき賢神にして大神。正面から矛を交わせば確かに不利は免れまい。だが儂とて長き漂泊の時を無為に過ごしていたわけではない。ここは儂が作り上げた工房にして城なのだ。号令一下、死を厭わぬ強兵。侵入者を欺く数々の仕掛け。神すら傷つける武具も供しておる。何より奴の職掌は智慧と魔術。戦と城攻めに通じているとは思えん」

 

将悟の質問に答える、というよりいかに自分の神威が強大であるか…自分の優位と敵の劣位を自身に言い聞かせている口調だった。この男も不安なのだ、と読み取った将悟は早速自分を売り込みにかける。

 

「でもトートは間違いなくあんたより強い。例え勝てるにしても、絶対に痛み分けになるぞ。それにトートとの戦いに手一杯になって『祭壇』とやらを使う準備が出来ないんじゃないか?」

「……貴様、何故『祭壇』の秘密を知っておる?」

「トートが言ってたぜ。そいつを使うには《鍵》とやらが必要なんだろう?」

 

アキナケスの祭壇について言及する将悟を無視できずに鋭い視線を向けるが、続く将悟の発言にそれも霧散する。だがその代わりに不穏な気配が滲み出てきている。段々と嫌な予感がしてきているが、ここに至って売り込みを中断する選択肢などない。不安に胸を騒がせながらも、滔滔と舌だけは回し続ける。

 

「陽動作戦だ。あんたがこっちでトートを引き付けている間に、俺が地上に戻って《鍵》とやらを探してやる。見つけた《鍵》はあんたに引き渡す―――どうだ?」

 

その提案はヘファイストスに腕を組ませ、黙考させる程度の重みは有していた。本来なら目の前の小さき者の戯言に耳を傾けるなどありえないのだが、今はあの強大なる魔術神との戦を控えている。猫の手も借りたいというのが正直な心境だったろう。

 

ヘファイストスにあの大神を相手に無駄にできる戦力など一片もない。

 

トートとは油断すればたちまち彼の築いた城壁を突き崩す程の神威を有する神なのだ。太陽神が最も隆盛した魔導の都においてそれに次ぐ宰相として崇められた過去は伊達ではない。旧き魔導の都(エジプト)の都市と言う都市から、月神という月神を習合で以て束ね、一体化した強大なる魔術の神なのだ。

 

「…………」

 

油断ならざる大敵との大戦を控えたいま、自分の意思で考え、動ける手駒は貴重だ。例え神たる彼にとって虫けら程度のちっぽけな存在だろうとそれなりに利用価値はあった。戦力としては期待していないが、女神の魂の前まで『祭壇』を持っていく程度の役には立つはずだと。

 

それにいざとなれば別の使い道もある―――…。

 

そこまで思い至り、鍛冶神はニタァ…と嫌な笑みを浮かべた。

 

(嫌な気配だ…)

 

ずきん、と鋭い痛みが警告するように将悟の胸を刺したが、最早賽は投げられている。どうだ、と気迫を込めてヘファイストスを睨みつけると……自ら籠の中に入り込んだ小鳥を嘲るような、憐れむような表情を浮かべ、言葉を繰る。

 

「知っておるか、小僧。我が職掌は鍛冶、即ち創造の権能。なれど、小さき人の子が自ら上げた誓約を以てその行動を縛る程度の芸当は叶うのだ」

 

もちろん魔術の神には及ぶまいがな、と続けるヘファイストスの言霊とともに不可視の力が放たれる。視えない力は波動となって将悟の肉体を包み込み、やがて鋭い痛みとなって心臓に絡みついた。

 

「ッ!?」

「我が呪言で以て貴様の心臓を捕えた。自分自身で宣言したように、貴様は儂に《鍵》を捧げなければならぬ」

「保険…てわけか。人間相手にみみっちい神様だ」

「思慮の足りぬ人の子らしい戯言だ。これは賦役ではない、名誉である」

 

矮小な人間らしく、約束破りの踏み倒しという解決手段も頭の中で検討していたのだが、それを封じる手を講じたという訳ではなさそうだ。名誉、つまりヘファイストスの基準で“素晴らしい”ことの片棒を担がされるのだろう…と、思っていたのだが。

 

「その神具を目覚めさせるために必要な鍵は三つある。一つ、豊潤なる大地の精気。二つ、女神の魂。三つ、()()()()()()()()()()()()()。大地の精気はかつて討ちとりし蛇より存分に蓄えた。肝心の魂には逃げられたようだが、いずれは見つかろう。故に小僧、汝には三つ目の《鍵》を捧げてもらおう」

「……と、いうことは」

「女神の魂を捕えた時、貴様は自らの手で心臓を抉り出し、『祭壇』に捧げるのだ」

 

実際の宣言は更に予想の斜め上を行っていた。虎穴から逃れるための努力が、決定的な死地へと繋がるとは…。そのリスクも覚悟はしていたが、流石にこの流れを予想できる者はいないだろう。ふざけるな、と言い返そうにも迂闊に与えた言質のせいで既に呪が心臓に括られている。無意識の内に悟る、将悟が決定的に先ほどの誓約に逆らう意思を固めれば心臓は忽ちのうちに潰れ、絶命するだろう。

 

とんでもない落とし穴に嵌まってしまった、と舌打ちする暇もない。

 

「地上までは送ってやろう。そこで女神の魂を見つけ出せ。それと『祭壇』も預ける故、肌身離さず持ち歩け」

 

鍛冶神は《鍵》を見つけ次第儀式を行ってもらおう、と続け、最後に視る者すべてを委縮させる凶暴な笑みを浮かべた。如何に半身が捥がれ衰えたりとは言え、仮初にもまつろわぬ神たるヘファイストスが本気で威圧したのだ。クソ度胸はあろうとちっぽけな人間に過ぎない将悟の意識が持つはずもなく、高波に飲み込まれる小舟よりもあっけなく、意識がブツリと途切れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また夢を見た。

 

夢を見ていると自覚できる感覚、意識ははっきりしながらも薄皮に包まれて漂っているような感覚。しばしその薄闇の中をぼんやりと浮遊していると、前触れもなく色彩の奔流が現れる。例えていうならとりとめのないイメージ、統一性のない静止画を連続して見せられているような感覚だった。

 

大半がすぐにぼやけて詳細が判別しない中、一際はっきりと視えたのは思い出と因縁深きあの滝壺…あそこで白き乙女が背中を向けて誰かを待っているイメージだった。その風景が心に焼き付けられるのを自覚すると、その心の動きが合図だったようにイメージの奔流は途切れて急速に意識が浮上する。

 

見覚えのない景色、己ならざる心の声…不可解で理解できない事柄が多すぎて、流石の将悟も音を上げてしまいそうだった。よくよく考えれば実家に戻ってからこの方、どうにもならない理不尽に振り回され過ぎている。自身がちっぽけな小石に過ぎないと無理やり自覚させられるのは、思った以上に苦痛だった。

 

ネガティブな感情を引きずりながら、意識が昏睡から覚醒に切り替わった。

 

目が覚めた時、そこはあったのは見慣れた部屋の天井だった。アンニュイな雰囲気でお約束な台詞を呟くか三秒だけ迷った後、あっさりとふざけた思い付きを放り捨てる。そんなことよりももっと重要なことがあるだろう、と思い出して。

 

身体を起こして周囲を見渡すと、懐かしさを覚える部屋の風景。間違いなく祖父母の家、それもいつも将悟が使っている一室だった。どういう経緯を経たのか、意識を失った後にいつの間にかあの不思議な世界から見慣れた日常風景の中に帰ってこれたらしい。

 

かといってこれで何もかもが終わったと気を抜けるはずもない。

 

懐や枕元を探ると、やはり『アキナケスの祭壇』が手元に届く位置に置いてあった。見掛けは只の異国風の短剣だが、将悟には最早呪いのアイテムじみた瘴気を発して見える。いっそ放り捨ててしまいたいものだ、と思いつつも心臓に括られた呪を思えば軽はずみなことも出来ない。

 

呪…そう、呪だ。アレがある限り、赤坂将悟の死は確定している。そして、呪を解く方法など一般人でしかない少年が持っているはずがない。端的に言って、詰んでいる。この先赤坂将悟に待ち受けるのは確実な死だ。

 

「やれやれ…」

 

溜息を吐いて、もう一度布団に寝転がった。ひどく憂鬱で、気力が湧いてこない。いっそ不貞寝の一つもしたいところだったが、このまま座して動かなければどの道お陀仏だ。ならば悪足掻きでも何でもしなければ…、と頭では思うのだが、身体の方は随分と億劫だった。

 

五分ほど経つとノロノロと身体を起こしたが、すぐに止まってしまう。そのために使ったエネルギーの源泉は半ば義務感、もう半分は危機感からだったが、その供給が長続きしない。あっという間に力尽き、気力が薄れていく。

 

“何か”をしなければならない、そうでなければ己はこの剣の形をした『祭壇』とやらの生贄に捧げられてしまうのだから。だが具体的に“何を”と問いかけても、応えてくれるものは何処にもいなかった。

 

途方に暮れ、手がかりを探すという名目でこれまでの経緯をぼんやりと思い返すことだけに終始してしまう。そのまましばし時が流れ…

 

「―――やっと起きたか」

 

と、ここで物思いに耽っていた将悟に声がかけられる。思考を中断して声のした方を見ると、当然というか祖父が立って孫の体調を案じながらも同時に不安も浮かべた複雑な表情で将悟を見つめていた。不景気そうな顔をした孫に負けず劣らずの憂鬱そうな気配だった。

 

「何があった?」

「逆に聞きたいけど、何があったと考えてる?」

「……分からん。説明がつかんことが多すぎる」

 

祖父はハァとため息をつき、正直な心境を漏らした。

 

「お前が一昨日の夜にあの御神刀を持って行方不明、同じ時間にとんでもない轟音やら雷が落ちたなんて話もある。現場に行ってみれば田畑がめちゃくちゃに荒らされていた。あんな有り様、ブルドーザーを何台使えば出来上がるのか分からんぞ。お前はお前で村中総出で丸一日探して見つからんかったというのに今朝方家の庭で倒れているのをかあさんが見つけた。起きたら話を聞こうと手ぐすねを引いて待ち構えておったところだ」

 

ああ、怪獣大乱闘(そんなこと)もあったなとやけに前のことのように感じられる一つ目巨人の暴れっぷりを思い出しながら頷く。というか攫われてからいつの間にか24時間が経っていたらしい。

 

「で、何があった?」

「昔話の神様が現れた…ってところかな。笑えないことに、文字通りの意味で」

「……どういうことだ?」

「正直俺自身も整理しきれてないよ。ああ、でも一つ頼みがある」

 

力の籠らない、そして説明になっていない言葉に、理解できずとも不吉な未来だけはありありと思い浮かべられるらしい。

 

「嫌な予感がするが一応聞こう。なんだ?」

「村の連中、一人残さず避難させて。猶予があるかもなんて言ったけどもうダメだ。早ければ一日経たないうちにもっとやばいことになる」

「待て待て待て! 意味が分からん、最初から説明しろ!」

「ここら一帯をお遊び気分で踏みつぶせる神様が二人いて喧嘩中。最悪もう一人増えるかも」

 

端的な状況解説に泥を呑んだような顔になる祖父。信じられないし信じたくない、だが孫の眼力と一昨日の超常現象を考えれば無視も出来ない…そんなところか。

 

「…神様? おい、それは何かの比喩か冗談か」

「いや、あれが本当に神様なのかは知らんけど。でも神様を自称してたし、例の荒らされた田畑程度の被害なら鼻歌交じりに量産出来そうなのは確か」

「……確認だが、お前の言う神様とは、その、文字通りの意味で、なのか」

「あー、俺も驚いた。ポルターガイストなんて目じゃないね。崇り神ってのはああいうのを言うんだろうな」

 

呆れたように慨嘆する将悟の口調に、冗談の気配が一切感じられないことを悟ってしまったのだろう。しばらくの間呻きながら頭を抱えていたが、やがて腹を据えたのか真剣な目で将悟を見る。

 

「分かった。村のみんなには私から話をしよう。一昨日のアレで不安がっている者も多い。説得に骨は折れるがなんとかしよう。お前も十分危ない目に遭ったようだ。一足先に―――」

「そうしたいところだけどもうとっくに巻き込まれてる。俺は残るよ」

「馬鹿を言え。残ったところでお前に何が出来るのだ。いいから早く荷物を纏めろ」

 

あ、これダメなパターンだ。

 

なんだかんだ祖父との交流が深い将悟は悟った。散々常識外れな将悟の発言を受け入れ、行動の指針としてくれた祖父であるが、だからこそ危険地帯と化した村に将悟が残ることは認められまい。孫を危地に呼んだ負い目もあるだろうし、一度決断すれば行きつくところまで行ってしまう性格もある。

 

ここで逃げれば恐らくはヘファイストスの呪によって心臓を止められてしまうだろう。緩慢な自殺と分かっていても将悟に逃げる選択肢などないのだが、意志を固めた祖父にそれを納得させられるかというと微妙だ。一昨日の一つ目巨人が暴れた跡と違って提示できる証拠もないのだし。

 

(と、なると…)

 

ここは騙して悪いがからの独断専行、強行突破しかあるまい。あっさりと決断した将悟は表面上大人しく聞き入れる振りをし、祖父が部屋を去るのを待った。あまりにも呑み込みが良すぎるせいか却って胡散臭げに孫を見つめていたが、今の時点で無理に行動を強制させる名分は無い。村民を説得する時間も欲しい筈だ。その程度の勝算はあった。

 

その後もきつく言い聞かせたあと、足早に去っていく祖父。力の入らない体に鞭を入れて善は急げとばかりに布団から身を起こし、外へ出ようとするが…

 

「あら、あの人の言った通り。早速抜け出そうとしたでしょ。ダメよ、無暗に年寄りを心配させるものではないわ」

 

身を起こした途端、間髪入れず襖が開かれる。そこから出てきたのは将悟の祖母、手にお盆を持って苦笑を浮かべていた。

 

お手上げ降参、白旗の一つも振り回したいくらいに見事な采配だった。孫の不穏な気配を察して、動きを封じる一手を打ってきたらしい。かといってこのまま座していても袋の鼠だ。仕方ない、強行突破するかとむやみやたらと果断すぎる決断力に任せて窓から飛び出すことを画策するが、その心の動きを見抜いたようにさり気ない仕草で押し留められてしまう。

 

「まあまあ。出かける前に腹ごしらえの一つもしていきなさいな」

 

挙句、指し示すのはおにぎりと漬物、お茶が乗ったお盆だった。しかし、今の発言は…。

 

「良いの? 俺、飯食ったら逃げるけど」

「こんなおばあちゃんに若い人を抑えられるはずがないじゃない。あの人だって分かっているわよ」

 

問いかけると逆にあっけらかんと言い返され、口をつぐむしかなくなってしまう。祖母の対応に呆気にとられた風の孫を見てクスクスと笑いながら、

 

「今のあなた、若い頃のあの人にそっくりねぇ。何一つ見通しが立ってないのに自信満々に突っ走っていくところは本当に瓜二つ。大体痛い目に遭うんだけど、全然懲りないで繰り返すの。その癖“ここぞ”というところは大勝するんだからねぇ」

 

もう慣れちゃった、と将悟を通して昔日の祖父を見ている気配が漂う。

 

「男の人が大一番に臨む時の顔をしているわ。そういう人って止めても大体意味がないの。赤坂家(うち)の男は特にね!」

「……そんな顔、してるかな? 正直、いま大分キツくてさ。どうにも、気力が出ないんだ」

「あら、私の目には今にも飛び出していきそうな男の人が見えるけれど? 殴られたら熨斗を付けてやり返すあの人の孫が、そんな大人しいはずないじゃない!」

 

当然のように告げられる言葉には有無を言わせぬ実感が籠り、口の端に浮かべた苦笑は随分と板についていた。きっと祖父の破天荒に付き合わされる内にこの諦観と寛容を備えるに至ったに違いない。

 

「何が起こっているかなんて私にはさっぱりだけど、孫がやりたいって言うんだもの。手伝ってあげなきゃダメよねぇ」

 

祖母にいま村を襲っている事態の深刻さは理解できていまい。だが孫の決断とその意思の硬さを十分に考えた上で将悟の背中を押してくれている。その意思は決して軽くない。

 

「…ん、ありがとう」

 

苦笑して頭を下げると祖母も合わせ鏡のように苦笑を浮かべたまま、早くおあがりなさいと勧めてくれた。考えてみるともう丸一日以上腹に何も入れていないことになる。意識すると急に空腹が襲ってきた。おにぎりが空っぽの胃を埋め、熱いお茶が身体の芯から温めてくれる。身体中に血が巡り、鈍っていた心の情動もさっきよりずっと活発になってきた。

 

(…つーか、なんで俺があんな連中に振り回されなきゃならないんだ)

 

すると段々と理由もなく巻き込まれた理不尽の元凶たちへの怒りが湧き上がってくる。先ほどまでの後ろ向きな考えが薄れ、前向き(ポジティブ)というよりもっと荒々しく、攻撃的なエネルギーが腹の底から湧き上がってくる。我ながら単純な性質だと思うが、腹が満ちれば力が湧いてくる。力が湧いて来れば、合わせて怒りも湧いてくるというものだ。

 

ギラギラとした凶暴な光が将悟の双眸に宿る。

 

よくよく考えれば何故俺が諦め、尻尾を振らなければならないのだ? 手元には奴ら御執心の『祭壇』があり、頼りに出来そうなアテもついさっき()()()()()。このままでは死という運命が将悟を待ち構えている。だが逆に言えば命をチップに差し出せば、一か八かの勝負に出ることくらいは出来るかもしれない。

 

あるいはこの決断を後悔する日が来るのかもしれない、大人しく諦めて命を差し出しておけばよかったとみっともなく頭を抱えるかもしれない、でもそんなこと今は気にならない、知ったことじゃない。例えこの怒りと無謀と同情の先にあるものが苦痛に(まみ)れたものだったとして、俺は俺が生きてやりたいことをやるために最後の最後まで俺の意思で突っ走りたい。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

死の淵に立たされた将悟の精神から余分な“人間らしさ”が削り落とされ、動物的で野性的な本能が剥き出しになる―――純粋極まりない生存と、復仇の意思が。

 

まず喧嘩中の神様連中を横合いから思いきり殴りつける、これは確定だ。その上で―――己の命を諦めるつもりなど一欠けらもない。あの偉そうで強いだけの、神様らしい徳の一つも持ち合わせていない馬鹿野郎どもの手のひらの上で踊るのはもうやめだ。無理やりにでも俺のペースに引きずり込んで尻の一つも蹴り飛ばしてやらねば。

 

神々への反逆の意思がふつふつと湧きあがり、浮かべる笑みに不敵さを取り戻す。

 

「行ってくる。じいちゃんには後で謝りに戻るって言っておいて」

「はいはい。気を付けなさいね」

 

裏口が開いているからそこから出ていきなさい、とのアドバイスに感謝の言葉を返して外に出る。見上げる空は行く道の暗雲を示すようにどんよりと曇っていた。

 

これでいい、と将悟は思った。あのデタラメ神様パワーの持ち主どもに喧嘩を売りに行くのだ、未来が明るい筈がない。しかしそんな先行きの暗い道の先にこそ、将悟が望む未来はあるはずなのだから。

 

身体に満ちた力と身の軽さに任せて軽快に田舎道を駆けていく。

 

一路、白き乙女との思い出の地を目指す。この騒動が始まった場所であり、この一帯に残る昔話の舞台となったあの滝壺へ。

 

 

 

 

 



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アナザー・ビギンズ ④ 初恋の貴女に

駆ける、一直線に田舎道を駆け抜けていく。

 

やがて道のりは急な傾斜に造成された山道に達するが、お構いなしに三弾飛ばしで駆け上がる。祖母の心配りにより腹が満ちた恩恵か、身体はやけに軽かった。気力も充実している。仮初の錯覚だったとしても、今ならばきっとどうにもならないことでも何とか出来る、そんな気がしていた。

 

そのままハイペースで道のりの全てを駆け抜け、やがて目的地であるあの滝壺、この騒動が始まった場所へと辿りついた。

 

「…………」

 

はぁ、はぁ…とそのまましばし荒くなった息を整えながら、周囲を見渡す。どう動くか、の段になって迷わずにここまでやって来たが、将悟にもはっきりとした手がかりがあったわけではない。覚醒する直前に見たあの夢の情景、滝壺の淵にて待つ乙女の姿を頼りに来ただけだ。ただの夢と言われればそれまで、確証なんてなにもない。だが確信はあった。

 

彼女はきっと、ここにいると。

 

滝壺に近寄ると、気付く。一昨日に来た時には気付かなかった気配、神々との邂逅で開眼した無色無形の“力”を知覚する感覚が神聖で清浄な気配を捕える。将悟を浚った大鷲も潜ったあの“門”にもあったこの世ならざる場所の空気。ここは周囲よりも少しだけその気配が強いようだ。

 

その感覚に従って、より清浄な空気が強い場所を探してしばらくの間周囲を歩き回る。その結果わかったことは滝壺に近づく程清浄な気配は濃くなり、逆に遠ざかると薄くなるようだ。

 

つまり…。

 

得心がいって頷くと、迷わずに柵を超えて滝壺に近づいていく。そのまま服の端が濡れるのにも構わず滝の裏をくぐり、先日祖父と一緒に潜った例の小洞窟へ身を潜り込ませた。あの時と違って自前の光源は無いが、代わりに陽光が水面で反射して洞窟の奥に差し込み、奥の壁にゆらゆらと揺れる影法師を投影する幻想的な光景を作り上げている。

 

薄暗い闇に包まれているが、視界に不自由があるほどではない。そしてなにより例の清浄な気配が一際濃かった。己はきっとここに呼ばれたのだ、と直感する。

 

「……おい、女神様。聞こえてるか?」

 

慎重に、洞窟に籠る静けさを憚るように一人声をかける。

 

「ここで俺が『祭壇』とやらに触れた時、トートにあれを寄越せと言われた時、ヘファイストスに呪いを食らった時―――助けたり、警告してくれたのは、あんたなんだろう? 色々助けられておいてなんだけど、今はもっとあんたの助けが欲しいんだ。だからここにいるなら頼む、応えてくれ」

 

普段通りの声音に、精一杯の意思を込めて懇願する。懇願…そう、懇願だ。あの神を名乗る連中に下げる頭などないが、何故か女神=白き乙女になら素直に頭を下げられる。何故だろう、と不思議に思いながらしばしの間反応を待つが、女神からの(いら)えは無い。

 

もしや見当違いだったかと落胆しかけたところで、唐突に洞窟の奥にある小さな泉に“力”が凝った。

 

「!?」

 

驚きながらも期待していた事態に、思わず体に力が入る。緊張を漲らせながら凝っていく力の塊に視線を向けるとやがて弾け、光となる。瞑った瞼の裏から光が差し、少ししてから目を開けるとそこには懐かしささえ感じられる白き乙女が小さな泉の上に浮遊していた。そう、半透明の身体で幽霊のように浮遊しながら、愛おしげに微笑んでいた。

 

幼き頃に遭ったそのままの姿で、懐かしき白き乙女がそこにいた。凄艶な美貌は変わらないが、どこか慕わしさと人間臭さが増している。相変わらずの大陸風の衣装はさながら仙女か天女を思い起こし、その髪は絹糸のように細く美しい純白。ただ両の双眸の動向が縦に裂けていることに将悟は気付いた、まるで蛇のような切れ長で怜悧な目だった。

 

「許せ、いとし子よ。あの下郎が汝の心臓に伏せた“目”を騙すのにしばしかかり、遅くなってしまった」

 

果ての無い慈愛を宿した視線が将悟を優しく撫でる。そしてやはり監視の一つも置いていたかとあの偏屈な鍛冶神に向けて吐き捨てる。むざむざ将悟の手に『祭壇』を渡したまま捨ておくまいとは思っていたがやはり手は打っていたようだ。

 

「彼奴め、弱り切った妾ではこの程度の“目”を仕込むだけで十分と踏んだのであろうが…いとし子の“内”に潜んだ妾を見抜けなんだためにこうして隙を晒したのは不手際よな。あの下郎の足元を掬わぬ理由もない、自業自得というものよ」

 

くつくつと人の悪い笑みを漏らす。ヘファイストスに一杯食わせたのが愉快なのだろう。

 

「そして我が啓示からよくぞこの場所に辿りついた。弱り切り、魂魄のみと成り果てた妾ではかつての寝所であったこの(うろ)でしかこうして仮初の肉を得られぬのだ。今となっては我が巫女の(すえ)たるお主の内に潜む程度の力しか妾には残されていない。斯様に落魄した妾なれど、いとし子が助力を乞うならば無論、力を貸そう」

 

手柄を上げた部下を称えるような、良い点数を取った息子を褒める母親のような上位者からの慈しみ。彼女が上で、自分が下。普段なら条件反射で噛み付きたくなるはずだが、今は何故か反骨心が育つ予兆すらない。あるいは男は幾つになっても年上のお姉さんには勝てないという世界の真理のせいかもしれない。

 

しかし、やけに白き乙女が将悟に向ける好意の念が強い。己と乙女の関わりなど、子供の頃に一度出会った時くらいのはずだが…。

 

「…久しぶり、と言っても覚えているか? 俺とあんたは大分前に、ここらで遭っているんだが」

「無論、覚えているとも。まるで昨日のことのように覚えている。懐かしきいとし子よ、妾のことは滝壺の女神と呼ぶがいい。この天地(あめつち)豊かなる国に来て得た名だ。真の名は別にあるが、中々に気に入っておる」

 

そう言って白き乙女…もとい、滝壺の女神は親しみを示すように将悟に向けて笑いかけた。

 

「ふふ…もうしばし久闊を叙して語り合いたいところではあるが、お互いにさしてのんびりと出来る時間は残されていまい。断っておくが、女神の位にあるとはいえ妾の力は最早衰え切り、彼奴等に抗えるほどの力は残されておらぬ。お主の心の臓に括られた呪を解くことも叶わぬのだ、いや、解くことは出来ようがその前に胸の鼓動は止まり、冥府へと旅立つこととなろう」

「…そうか。まあ、覚悟はしていたよ」

 

やはりというべきか、この女神でも鍛冶神が遺した呪いの言霊を解く手立てはないらしい。そのことに落胆しつつも意識を切り替える、これで九割九分九厘死が確定したのだとしても目指すべき目的はある、後悔を楽しむのは走り切ってからでいい。

 

そんな心の動きを見抜いたように、滝壺の女神は少し悪戯っぽいな笑みを浮かべ。

 

「だが、あるいは妾が死力を振り絞れば五分五分程度の望みはあるかもしれぬ。我が命と引き換え、となれば妾も心安らかにとはいかぬが、他ならぬいとし子のため。我が命数、くれてやっても良いぞ?」

「―――いや、そっちはいい。代わりに、あの馬鹿二人をぶん殴るのに手を貸して欲しい」

 

即断であった。僅かな迷いも挟まずに、将悟は女神の申し出を退けた。

 

「ほう、良いのか? 恐らくはお主の助命が叶う最後の機会なのだぞ。何故拒むのだ?」

「これまで散々助けてもらって、その上命まで差し出してくれなんて下げる頭は持ってない。本当なら借りを返さなきゃならないのはこっちなんだ。“そうじゃなければ対等(フェア)じゃない”」

「ふふ、ハハハッ! 変わらぬのう、嗚呼、これが三つ子の魂百までという奴か! 中々含蓄ある言葉であることよ! この期に及んで対等というか、女神の妾と、人間のお主が! 愚かよな、愚かに過ぎる。小さき人の子が神の差し伸べた救いの手を取ることは恥でも何でもないのだぞ!?」

 

どこまでも痛快そうな女神の笑い声。責めるように、呆れるように、慈しむように複雑な感情が籠った声音。だが紛れもない称賛がその声には満ちていた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()。いとし子よ、遠慮はするな。如何なる道筋を辿ろうと月が跨ぐ前に我が生は閉じるのだ。ならばそれまでの道のりを如何に歩むかが肝要。女神たる妾が許す。我が命、存分に使い潰せ。それが彼奴等めへの復仇の一助となれば、尚良いのう!」

 

そのままあっけらかんと自分の生命を差し出してくる。例え命数短きものだろうと、容易く差し出していいものではないだろうに…。困惑さえ覚えるが、それほどの覚悟で渡されたものを受け取らぬことこそ侮辱となるだろう。自らの運命を捧げた滝壺の女神と、捧げられた少年。だがこの時少年は完全に女神に圧倒されていた。

 

せめてもの苦し紛れで軽口を叩く。

 

「……あんた、俺がこう返すのを知ってていまの台詞を言ったろ。意外と性格悪いな」

「いいや、知っていた、とは違うのう。正しくは期待しておった、だ」

 

そう言って女神の威厳にそぐわない茶目っ気にあふれた仕草で微笑みを寄越した。

 

「そしてお主はその期待に応えた。ならばどうして命数短き我が生を惜しむ道理があろうか」

 

叶わない、と悟った将悟は素直に兜を脱いだ。どうにも彼女には勝てる気がしなかった、詰まらないことで一々反抗するよりもおとなしくその助力を乞うのが正解だろうと。

 

「あんた、本当に昔話で語られていた悪い大蛇なのか? あんたも、あの馬鹿二人も同じ神様なのに……あいつらの方がずっとおかしな感じがする。それなのにあんたからは、おかしな感じがしない。すごく弱っているのは確かだけど、あんたなら素直に神様だって認められる。なんか凄く…懐かしいっていうか、慕わしい感じがする」

「―――いいや、その邪なる蛇は確かに妾である。かつてこの地で悪行と放埓を尽くしたまつろわぬ女神、その()()()()()が妾なのだ」

「成れの果て…?」

 

然様、と静かに頷く女神の面持ちは沈痛だった。これから語るのは彼女にとっても思い出したくない過去なのかもしれない。

 

「神とは神話の中にあるのが道理。だが時折その理に逆らい、肉の身を得て生の領域を彷徨い歩くまつろわぬ神が誕生することがある。そしてまつろわぬ神は誕生する際に必然として生まれる“歪み”に巻き込まれ、世に災厄を振りまく禍つ神となるのだ。妾もまた、かつて大陸にて顕現し、放浪を重ねるうちにこの国に流れ着いたまつろわぬ女神であった」

 

まつろわぬ神について語る彼女に思わずそんなものかと頷きながら傾聴する。眼前の女神はさておき、智慧の神と鍛冶神はどう考えてもまっとうな神様の類とは思えない。奴らの狂気すら感じさせる歪みは実感として将悟の中に残っており、理屈など無用の説得力があった。

 

「この地に流れ着いてより幾年の月日が経ち、妾は気紛れに生と死の恵みを振りまき、畏れられていた。特に妾は元を辿れば人間の男子と縁を結び、その精気を食らう蛇精であった故な。後年、縁を結んだ夫に福と幸いの運を与え、妻として支える善神の相も得たのだが、まつろわぬ神として在る以上やはり禍つ神の側面が強く表れてしまうのだ」

 

粛々と己の来歴を語る女神は意図して感情を抑えているように見えた。

 

「そんな時であった。一人の男が世に稀なる神具を携え、希臘(ギリシャ)の鍛冶神を名乗るまつろわぬ神の加護を得て妾を殺めんと企んだ。女神の魂と贄の心臓を食らい、まつろわぬ鋼を産み出す神具、『アキナケスの祭壇』。いまお主が手に持っているソレよ」

「…前から聞きたかったんだが、こいつ剣だろ。なんで『祭壇』なんて呼ばれているんだ?」

「それは…おっと、気になるのならば後でまとめて教えてやろう。だがいまは妾の昔語りが先よ」

 

先を急ぐように女神は続きを口に出し始める。

 

「不意を突かれた妾を、男は『祭壇』で以て斬りつけ、我が神力を奪い取る縁を繋げた。幽世から彼奴の助けがあったとはいえ、見事な手際であった。それから妾は『祭壇』に神力を奪われ続けた。縫い止められるまでに散々に暴れ回ったが鍛冶神の手勢は汲めども尽きぬ大海のごとし。奮戦空しく最後にはこの聖域、妾が寝床とした洞にて縫い止められてしまったのだ」

 

敗北を語る声音には大いに苦渋が含まれていたが、同時に重荷をおろしたようなすっきりとした感情も少しだけ籠っていた。

 

「前置きが長くなったが、本題はここからよな。以来『祭壇』に精気を奪われ続けた妾は少しずつ落魄し、零落していった。まつろわぬ女神だった頃の権威と力が失せていったとも言えるが、同時に少しずつまつろわぬ性が薄れていったとも言える。皮肉な話だが女神の権威と力を失うことでまつろわぬ妾ならざる、本来の妾に近しい在り方が許されるようになったのだ。男子(おのこ)と情を交わし、幸いと福の運を与える善神として、な?」

 

な? と悪戯っぽく見やる視線の先にはもちろん将悟がいた。思わず胸の内で心当たりを探すが、思い当たるのはやはり過去の一件しか思い浮かばない。いやいや、情を交わすってそんな不埒な真似を何時した? 羨ましいぞ俺…もとい、記憶にないぞ。

 

「ふふふ、幼き頃もそうであったがいまも中々可愛らしいのう?」

 

そんな将悟の心の動きを見透かしたように、視線に籠るものが慈愛から微笑ましいものを見る目に変わる。これがまた中々こそばゆい、かといって反抗する気力が湧いてこないあたり中々重傷だった。麗しき女神の美貌、そして言い表せない慕わしさにどんどん深みに嵌まっている自覚を得ながら、滝壺の女神と語り合い続ける。少しでも時間を共有しようと、少しでもこの時間を引き延ばそうと、無意識に。

 

そのまま将悟は思いつくままに女神へ問いかけ続けた、『アキナケスの祭壇』について、神具に囚われた経緯について、鍛冶神と智慧の神らの思惑と所有する権能について長く、長く話し込んだ。

 

女神との対話は千金の価値があった、幾つも提供された情報は次第にまとまり、一つの策という形となって将悟の胸に渦巻き始めたのだ。だがこの策は非情の策、己は当然として女神にも尋常ならざる苦痛を与える、諸刃の剣となるだろう…。

 

女神は常に毅然として将悟と会話を交わしていたが、将悟の霊眼はその衰弱を察していた。月を跨ぐ前に命を落とす、というのは比喩でも何でもない。人間で言えば余命宣告された重病人に比すべき弱りようなのだ。そんな彼女にこれ以上の過酷な仕打ちをしていいのか? 将悟は果断な決断力の持ち主だったが、切り捨てる犠牲にこの女神を含めていいのか、迷っていたのだ。

 

そんな懊悩から逃げるように、苦し紛れに女神へ問いかけを投げる。

 

「…なあ、なんであんたは俺に力を貸してくれるんだ。そんな、残り少ない命まで削って。ヘファイストスの横っ面を張り倒したいってのはあるんだろうけどさ、絶対にそれだけじゃないよな?」

「乙女の秘密は暴くものではないぞ―――と、本来なら叱りつけてやるところだがお主ならまあ、構うまい」

 

とっておきの宝物を明かす楽しみを浮かべた笑顔。お主にだけ特別だぞ、とその笑顔が語る。どこまでも慕わしく、人間臭い女神さまの笑みに思わず将悟の頬も苦笑に歪む。

 

「妾と童であった頃のお主は、この滝壺の淵で一度逢うておる。どうだ、いかほどその出会いについて覚えている?」

「…少しだけ。あんたと話したら、頭を撫でられたことくらいは。詳しい話は覚えてない」

「死の淵を彷徨ったのだ。無理もあるまい」

 

さらりと言い放ったが、若干気になる。何故その晩に将悟が死にかけたことを滝壺の女神は知っているのか。

 

「その時の妾は今よりも少し大地と水の精気が残っていた。つまり、まつろわぬ女神であった頃の歪みがまだ残っていた。そして執念深きは蛇の性、僅かでも命を(なが)らえ、怨敵めに一矢報いんと虎視眈々と機会をうかがっていた。少しの間であれば忌々しき神具の頸木から逃れ、この滝壺の周囲を彷徨うことも出来た」

「…そんなところに、ガキだった頃の俺がやって来たってことは」

「流石に察しが良い。然様(さよう)、本来妾はお主の精気を吸い尽くし、糧とするつもりだったのだ。我が巫女の裔たるお主の精気は妾と格別に相性が良い。喰らえばあと二年程度は生きながらえることが出来た」

 

だが、そうはならなかった。

 

(たわむ)れであった、気まぐれを起こした妾は精気を少しずつ奪いながら幼き頃のお主に問いかけたのだ」

 

これからお前は死ぬのだと、妾に食われて死ぬのだと告げ、“さあお前はどうする”と問うた。抗うか、逃げるか、舌を回して切り抜けるかと幼子に迫ったのだ。

 

「いま思うと心底忌むべき、女神の品位を貶める行いであった。無意識であったが、妾は囚われ続けた長き時の怨毒を小さき人の子を(なぶ)ることで晴らそうとしていたのだろう。偉大なる女神が、世を知らぬ幼き童に向かって!」

 

吐き捨てる女神の顔は本心から忌々しそうに歪んでいた。痛恨、羞恥の感情が強く表に出ていた。笑う時も、愛おしむ時も常に超然としていた女神が見せた、明確な負の感情の発露だった。女神にとってそれほどに忌避すべき過去なのだろう。

 

「だがお主の吐いた答えがまた奮っていてな。寸でのところで妾は恥の上塗りを避けられた」

 

だがここで負の感情は薄まり、代わって慈愛と感謝の念が籠った視線が将悟に向けられる。

 

「お主は言った、死にたくないと。ただ死ぬのは嫌だと、生きなければ死ねないと。()()()()()()()()()()()。そうぽつぽつと、舌の回らぬ子どもが必死になって我が問いかけに応えるさまを見て、妾は自らを省みる機会を得たのだ」

「あ…」

 

女神の語りを聞いて将悟も思い出したことがある。

 

かつての滝壺の女神と出会う直前、将悟は一人の親戚を看取っていた。祖父の弟にあたる老人で、家を継いだ祖父と異なり、都会へ出ていき人並みの生涯を過ごした人間なのだと聞いていた。

 

病名は覚えていないが、余命幾ばくもない重病人だったらしい。本人たっての希望で、幼い頃を過ごした故郷の景色を見るためにここに戻ってきていたのだ。満足に起き上がることも出来ず、一日の大半を伏せっていたが暇を持て余した将悟は度々その老人の前に顔を出した。

 

その老人は将悟を可愛がり、同情の視線を向ける周囲の目に憤り、いつもこう言い聞かせていた。俺は死ぬためにここに来たんじゃないと。俺は最後に見たいものを見るために、生きるためにここに戻ってきたんだと。味もそっけもない病室で生きながらえるよりも自分の望みを叶えるために命を使いたいのだと。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と、その老人は言っていた。

 

幼い将悟は子供心にその大意を掴み取り、その老人の教えは人生観の一部となったのだ。

 

「妾もまた選んだのだ。“死”を受け入れたからではない、女神の誇りを貫く“生”を得るためにお主を食らわぬ道を選んだ。以来、滝壺の周囲を彷徨うことも止め、大人しく末期の時を受け入れることにした。『祭壇』の前に来たお主に呼びかけ、その内に潜り込んだのは……ふふ、ちょっとした茶目っ気であった。今わの際くらい、懐かしきお主の生を見取って逝きたかったのだ」

 

女神の声に含まれる感情は後悔。将悟を巻き込んでしまったことへの詫びの念だった。

 

「それがお主を斯様な危機へと陥れた。許せ」

「いいさ、別に」

 

女神の謝意に、将悟が返したのはその一言だけだった。そして、その後ずっと言葉を付け足しも引きもしなかった。だがそれは何も思わなかったからではない、むしろ思うことがあり過ぎたために言葉にならなかったからだった。

 

将悟はきっと、時間を巻き戻してもう一度ここに来るか聞かれたら迷うだろう。頭を抱えて一日中唸るくらいはするかもしれない。命の危機に、厄介で面倒なかまつろわぬ神との邂逅など厄介ごとに他ならない。祖父母のことが無ければ行くという選択肢すら思い浮かばない。

 

()()()()―――そう、それでも将悟はきっとここに来るだろう。

 

迷った後で、彼女と会うために行くだろう。彼女と“また”会えたことを後悔などしていないのだから。将悟はそう、胸の内だけで真情を吐露した。

 

その心の内を読み取ったかのように、女神の視線もまた慈愛とは異なる色合いを帯びた。

 

「―――嗚呼(ああ)、なんと、惜しいことよ」

 

何が惜しいのか、女神もまた胸の内に秘めたまま最後まで明かさなかった。ただ将悟を見る視線に、今までとは異なる熱情が加わった気がした。だがそれ以上を言葉にすることはしなかった。彼も、彼女もまた。

 

形をとる前に消えてしまう、儚く淡い感情の渦。無理に言葉にしてしまえばきっと陳腐で、詰まらないものになってしまうと思ったから。

 

それでも敢えて言うのなら―――きっと、これが赤坂将悟の初恋だったのだろう。そして滝壺の乙女も“人を愛し、結ばれ、夫婦となる”伝承を持った女神だった。二人が互いに向ける思いはきっと“恋”とも“愛”とも言えないけれど、いずれはそう昇華してもおかしくない熱情の萌芽だった。十数年前の邂逅が二人の心に埋めた種がいま芽吹き…そして鍛冶神の呪いによって実を結ぶ前に枯れようとしていた。だがせめて、例え未来に繋がらないとしても大輪の花を咲かせることは出来るはずだ。

 

「ままならぬ、ああ、ままならぬものよ。なればこその現世(うつしよ)、なればこそ人の縁か」

 

―――皮肉な話だ、彼女が死に瀕し、まつろわぬ性が薄れた“今”だからこそ二人の間に絆が生まれたのだから。

 

そう苦笑する滝壺の乙女は遡れば水辺に住処を得た白蛇の精であった。人界へ乙女に化身して顕れ、見初めた男と婚姻を結んで幸運と凶運をもたらし、最後にはその精気を食らって崇り殺してしまう蛇精こそが彼女の所有する最も古い伝承だった。

 

彼女の異類婚姻譚の結末は様々で時には夫となった男から拒絶されて去り、あるいは逃げる夫を執拗に追いかけて凶事をもたらして力ある法力僧に退治されたりすることもあった。類話のバリエーションも非常に豊かで、時代を通じて人々の間で語り継がれた。概ね時代を遡るほど男の胆を抜く、逃げ去る夫への報復として大洪水を起こすなど大地母神の残虐で血を好む性質が強く表れる一方で、逆に近世となってからはそうした不気味な側面は薄れていく。

 

人と、人ならざる者の愛を主題に据えた伝承の改変が行われたのだ。

 

民衆好みのおとぎ話、悪く言えば俗受けする講談として改変された伝承の中で彼女は一途に夫を愛し、献身する善良なる妻として描かれる。それどころか古い時代の彼女が犯した数々の悪事は別の者が行ったことになってすらいる。

 

逆に言えばそれほど民衆に愛され、親しまれた女神だった。彼女は現代でも中華と呼ばれる大地において少なからぬ知名度と人気を誇る蛇女神の一柱なのだ。いや、この日本でさえも一定の知名度を保っている。

 

彼女はそんな人を愛する女神だった。

 

「ふふ…ちと無駄話が過ぎた。本題、彼奴等を一泡吹かせる策でも立てるとしようか」

「そんなものがあるのか?」

「いいや、妾には無い」

 

二人を取り巻く空気を切り替えるように、女神が話題も切り替えた。将悟もそれに乗っかるように期待を込めて問いかけるとあっさりとふざけた答えが返される。

 

「だがお主は持っていそうだ。腹に一物を抱えた目をしておるわ」

「いや、それは…」

 

思わず抗弁しようとした将悟に分かっていると身振りで抑える。

 

「策を思いついたのは確かであろう? しかし妾に重荷を課す故、言い出せなかったというところか。構わぬ、申せ。妾が許す」

「だから俺は別に…」

「―――妾を侮るな、いとし子よ。いやしくも女神たる妾が何故苦痛に負け、安楽なる道に逃げようなど思うか! そう考えることこそが童への侮辱である!!」

 

なおも言い逃れようとした将悟に向けて痛烈とさえ言える語調で詰問する。その威厳はなるほど彼女もまた衰えたりとは言え女神なのだと将悟に痛感させるには十分だった。無用な気遣いをしてしまったことを少し後悔しつつ、大人しく頭を下げて胸の内で形をとりつつあった策を―――否、思い付きを開陳する。この思い付き、策というにはあまりに無謀で、他人任せで、出たとこ勝負すぎるのだ。

 

案の定、その思い付きを聞き終えた女神もまた呆れた表情となった。

 

「なるほど、確かに妾の申しようが誤りであった。これは到底策とは言えぬ、精々博打がいいところよ」

 

などと酷評すらする。

 

「だが、これはこれで妙案かもしれぬ。あまりにも馬鹿馬鹿しすぎて彼奴等には却って思いつかぬだろうし、お主にかけられた呪を潜り抜けることも叶おう」

 

一人で勝手に酷評された挙句に勝手に納得された身としては大変不本意なのだが、彼女は将悟の馬鹿馬鹿しい思い付きに乗る覚悟を決めてしまったようだった。

 

「とはいえ()()()な。穴を埋め、策足らしめるのに最低でも一つ…いや、二つか」

 

思案気な表情をしたと思うと、その瞳孔が縦に裂けた瞳が将悟を射抜く。

 

「ふふ、是非もなし」

 

と、ちろりと真っ赤な舌が唇をすばやく舐めた。獲物を前にした蛇のような仕草に、無意識のうちに将悟が一歩二歩と後ずさる。

 

「これ、逃げるでない」

 

するりと幻惑するように懐に入られ、あっという間に硬い岩肌に押し倒される。とんでもない馬鹿力、おまけに足元は湿って冷たい岩肌。色っぽい気配の欠片もない、強引な押し倒し方に何をすると手足を振り回すが、あっさりと鎮圧された挙句懐をまさぐられ、『アキナケスの祭壇』を強奪される。

 

「言えば渡すわ! 無理やり奪い取るな!」

「細かい男よ。婦女子のささやかな悪戯に一々目くじらを立てるな」

 

ささやか…? 言葉の定義を一度辞書で引きたくなった将悟だが、唐突に手に持った『祭壇』の刃を手首に当てて勢いよく切り裂いた女神に度肝を抜かれる。びちゃびちゃと勢いよく溢れだす鮮血に目を剥き、凶行に走った女神を押さえつけるために強引にでも身体を起こそうとする。

 

「何してやがる、気が狂ったか!?

「愚昧な。これも貴様の企てのために必要な犠牲という奴だ。我が魂を半分に引き裂き、こやつにくれてやろう。だがもう半分は決して渡さぬ、妾の意思と魂を渡す相手はもう既に決まっておるのだからな!」

 

見ると溢れだす鮮血は一滴残らず『祭壇』の刃に吸い込まれていた。見えないブラックホールにでもなったかのように、鮮血が音もなく刃に触れて内部に蓄えられていく。しばらくの間噴き出し続けた鮮血はやがて頃合いであろうと呟いた女神がもう片方の手で傷口をなぞるとピタリと止まった。だが失った血が戻るわけでは当然なく、女神の顔色は最早青白いのを通り越して土気色だった。

 

恐らくは残された寿命を少なからず、神刀に捧げたのだ。苛烈でさえある覚悟を全身から漲らせ、無言のままゆっくりと再び身体を重ねるように覆いかぶさっていく。将悟も黙ったまま暴れることを止め、女神の身体を支えるように両肩に手を置いて動作を助ける。彼女の言う、意思と魂を渡す相手など最早問うまでもないのだから。

 

「それでよい…」

 

力なく呟くと女神は将悟の服をはだけさせて心臓の上から口づけを一度、すると女神から流れ込んでくる“力”の塊があった。祭壇に魂を吸われた女神に残った“力”、その最後の一滴までもが将悟に注ぎ込まれていくことを感じる。

 

「策の成就に必要な二つのものを…即ち妾の“命”と“名”をくれてやろう。必ずやあの鍛冶神めに一泡吹かせよ…ああ、出来るのならば旧き魔導の神たる智慧者にもだ。これ以上なく上手く策が成ればあるいはお主の命も―――。フフ、いかんな。動き出してすらおらぬ企ての是非を語るなどらしくもない」

 

そのまま睦みあうように、愛を語るように耳元へと唇を寄せ、万が一にも余人に聞かれることが無いように、

 

「   」

 

ボソリと静かに一言だけ告げる。

 

「それが妾を顕す真の名だ。白き婦人の意味を持つ。必要になれば呼ぶがいい」

 

そう言って見下ろす女神の視線に籠る感情が少しだけ強まる。名残惜し気ななにか、最期を愛おしむような何かがうっすらと強まり、やがて悪戯っぽい光にとってかわられる。二人の視線が絡まったままその距離が急速に近づき…やがて、ゼロになって合わさった唇と唇がくちゅりと音を立てた。

 

()()()。餞別をくれてやろう、ありがたく思うがいいぞ? なにせ妾の接吻を享けるなど、この数百年誰一人として享受したことのない幸運なのだからな!」

 

流し込まれた女神の唾液が絡まった二人の舌でかき混ぜられるのと合わせるかのように、将悟に向けて莫大な知識が流し込まれていく。二人の企てを成就するために必要な知識が諸々併せて人間の魔術師が言う『教授』の術によって将悟の中に刻み込まれたのだ。

 

最期の一瞬まで高らかに笑い、女神が作り出した仮初の肉体は薄れていく。これが最後なのだ、と唐突に将悟は悟った。弱っていた力を更に半分『祭壇』に注いだ彼女はもう意識を保つことすらできず、こうして触れ合う機会はもう二度と来ない。意志を交わすことすらきっと最後の大一番にしか出来ないだろう。

 

嗚呼(ああ)、と将悟は短く嘆息した。

 

最期の時までもう二度と彼女には会えない。そう痛感した心に寂しさと、それ以上に燃え盛る彼女から受け継いだ意志が宿った。

 

 

 

 




滝壺の女神のイメージはオリエンタルな衣装のアテナ様(大人ver)
伏せた名前は次話で明かす予定ですが、日本でもそれなりに知名度を誇る神格です。
ただし知らない人は本当に知らないだろうと思われる。

正直本文中の説明だけでパッと思いつく人がいるかかなり怪しいのでヒントを置いておきます。

ヒント:メガテンに出演経験あり。


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アナザー・ビギンズ ⑤ 神殺しの剣

将悟が滝壺の女神から祝福を受けた丁度そのころ。

 

幽世、鍛冶神の座す領域では智慧の神と領域の主による闘争が火花を散らし、巻き起こっていた。ヘファイストスの名を借りる神が領土とするその世界は、火口に溶岩を湛えた活火山を中心に茫漠とした草木一本生えない台地が広がる荒涼とした世界である。

 

主たる鍛冶神は中心部の火山、その深奥に自身の工房を構え、数千年という永遠に等しい歳月を費やし、己の完全なる神格の復活を目論んでいた。そしてその成就は今一歩というところにまで及んでいる。

 

後は神具が生み出す《鋼》、長き漂泊の末に出会う彼の半身とも末裔とも言える神格が地上に降臨すれば彼の願いは九分九厘成ったも同然であった。

 

尤もその降臨は彼の主導の下行われなくてはならない。トートの手によるものであってはならなかった。だからこそ地上に少年を猟犬として送る一方で自身を囮とした時間稼ぎの方策を講じているのだ。

 

鍛冶神にも無論勝算はあった。

 

神具を預けた少年は所詮只人の子、恃みと出来るはずもない脆弱な存在であるがその手には女神の精気の味を覚えた神具がある。幽世で手にした際、彼の神気を一部分け与えることで神具はこれ以上ない程に活発化している。

 

あとは誰に命じずとも神具自身が女神の匂いを嗅ぎ取り、少年を使って自身を女神の下に導くだろう。そこから先は少年に付けた“目”で事態を把握した己が手勢を送り込めばどうとでもなる…。仮に少年の手から神具が失われようと、彼が望めばすぐさま神具はその手元に現れる。万が一の際のフォローまで考えられた企てだった。

 

鍛冶神の見立ては間違っていない。ただ一点、追われる立場の女神が敢えて虎口たる少年の身の内、その深い部分に潜り込んでいたのを見逃してしまったことを除けばほぼ穴が無いといっても過言ではない。

 

だがその一点の見落としがやがて蟻の一穴となり、彼の目論見を根本から崩していくのだが今の彼にそれを知る由もない。

 

さておき、目下の鍛冶神の関心事はもっぱら『アキナケスの祭壇』を求めて彼の工房に攻め込んできた智慧の大神に向けられていた。最低限彼が復活する準備が整うまでの時間稼ぎが出来ればよいが、可能ならば少しでも余力を削っておきたい。

 

だが流石は古代エジプトで信仰され続けた魔導の神と言うべきか、ヘファイストスが営々数千年をかけて築き上げた工房にして城塞を凄まじい勢いで攻略しつつあった。無論ヘファイストスが何の手立ても打たないはずがなく、矢継ぎ早に蓄えた兵力や仕掛けをつぎ込んでいた。

 

それでも尚、僅か二日に満たない時間で半分近い道程が突破されつつある。少なからず己が工房にして城塞に自負を抱いていただけに、これにはヘファイストスも歯噛みして悔しがった。

 

まずヘファイストスの工房は火山の裾野にある複数の入り口の内、正しい一つからのみ入ることが出来る。それ以外の入り口は全て偽装、消耗と殺害を目的に建造された終着点の無い魔窟(ダンジョン)なのだ。そんな第一の関門は、トートが全ての入り口を見つけ、調べ終わるなり早々に正しい入り口を看破され、突破された。智慧の神にこうした謎掛け問答を仕掛けることの無意味さを思い知らされた。

 

ならばと入口から少し奥にある広大な空間を武装させた青銅人形の軍勢で満たし、トートが現れるや全軍で突撃させる。もちろんこれで大神を討ち取れるとは思っていない。すこしでも消耗につなげ、時間を稼ぐ一手になればとの思いからだった。結果としてその目論見は半分成功し、もう半分は失敗した。トートは掲げた(ウアス)から不可思議な波動で広間全体を包むこむとあっという間に青銅兵士たちは原型も残さずにさらさらと風化してしまったのだ。まるで永劫に近い年月が一瞬のうちに過ぎ去ったかのように。神力はそれなりに消耗しただろうが、稼げた時間は一分に満たなかった。

 

三つ目の関門はクレタの大迷宮(ラビリントス)もかくやと言わんばかりの広大なる迷路だった。三桁近い階層とそれに伴い横の広さも尋常ではない。突破させることなど考えもせず、各所に罠や兵力、侵入者を惑わす仕掛けを配置した大迷宮は最もよく時間を稼いだと言っていいだろう。敢えてこうした“智慧”に関わる関門を用意しつつ兵力を逐次投入していくことでトートに力押しによる即時突破ではなく、プライドを刺激して真正面から攻略させ、漸減的な時間稼ぎを試みたのだ。最も優れた魔術師が数十人の部隊を組んで生死を度外視しても一〇〇年かかってなお最深層に辿り着くことは叶わない最高難度の迷宮。だが智慧の大神の前では両神の対面を半日ほど先送りにすることしかできなかった。

 

未だに人の子に伏せた“目”から女神の魂を見つけた報せはない。苛立たし気に荒い息をつき、胸の内で役に立たない少年に向けて罵声を浴びせる。

 

長い長い年月をかけて蓄えた(ちから)(たから)はまだまだ尽きる気配はないが、かの大神を相手取るには甚だ心もとないと言う他なかった。元より数百年前あのまつろわぬ女神を『祭壇』で縫い止めるために少なからず戦力を擦り減らした。彼は半身を捥ぎ取られた神であり、真性のまつろわぬ神が相手では地力で劣る。

 

だからこそヘファイストスがまつろわぬ神に勝利するには事が起きる前の行動、蓄えた戦力と策謀を如何に駆使するかが重要なのだが、この大神の襲来は想定すらしていない。また女神の魂が逃げ去る余力があるとも考えていなかった。

 

想定外の連続に苛立ちは最高潮に達し、ギリギリと歯ぎしりをして悔しがる。よりにもよって、“今”、彼の満願成就の時を目前とした今になって何故こんなにも邪魔が入るのか…?! 運命などという代物があるのならば呪詛の一つも投げてやりたいところだ。

 

「構うものか…! 余さず我が企みで飲み込み、突き進めばよい。逆境の果てにこそ、我が再臨は成るのだから!!」

 

気が遠くなるほど昔に半身を捥ぎ取られたまつろわぬ神、いやだからこそか、長年をかけて溜め込んできた鬱屈と憤怒の気炎を燃やし、不退転の決意を固める。運命が彼に逆らうというのならばその全てを踏破して悲願に届かせればいい。それだけのことなのだと。

 

「これは…」

 

一方快調に進撃を続けるトートの前に新たな障害が立ち塞がっていた。大岩と金属が入り混じった…否、組み合わせて造り上げられた防壁がヘファイストスへと続く洞窟を完全に塞いでいる。見るだけで分かるその偉容、一筋縄ではいかないことを一目見て感じ取りながらもその動きに遅滞は無く、迷いが無い。

 

「嵐神の矛よ」

 

一言、言霊を呟くだけで目も眩むような激しさで雷霆が迸り、道行きを阻む一枚岩を打ち崩さんとする。けして短くない時間の間雷光が迸り続け、それが収まったあと…焼け焦げ一つ見当たらない無傷の壁が姿を現す。その偉容を仰ぎ見たトートが感嘆の溜息を吐き、内心で鍛冶神の匠を称賛する。

 

驚くべき強固さ、この城壁は主神ゼウスより戦女神アテナに貸し与えられたアイギスの盾に匹敵する強靭さを誇っているのだと悟る。トートは知る由もなかったが、これと同じ堅牢さを備えた巌壁が未だ三枚控えている。これまで破竹の勢いで攻略を進めてきた智慧の神の歩みが初めて止まった瞬間だった。

 

『さしもの大神もその巌壁を力尽くでは突き崩せまい! その壁は儂が手ずから念入りに造り上げたもの。オリュンポスの神々の館を囲う城壁に等しい守りを備えているのだ!』

「見事な力作だ。なるほど、旧き魔導の神である私でも力で以てこの城壁は破れまい。だが我が手の中にその壁を突き崩す手段がないと考えるのは些か早計だな」

『面白い…我が渾身の守り、打ち崩せると言うのならば打ち破ってみよ!』

「無論。私は言霊を司る魔術の神、その名に誓って一度現した言葉を違えぬと約束しよう」

 

静謐な雰囲気のまま、トートは(ウアス)を構える。そのまま呪力を昂らせるわけでもなく、むしろ凪の大海に似た気配だ。

 

「ヘファイストス! そう、ヘファイストス…汝が名を借りたオリンポスの鍛冶神の名。そうだろう?」

『…………』

 

唐突に己が借りた鍛冶神の名と来歴について語り始める敵手に訝しげな沈黙で応えるヘファイストスだが、すぐにその余裕も消え失せる。

 

「世界に鍛冶を司る神は数多居る。その中でも何故汝がかの神の名を借りたのか…そこにこそ汝の失われた名、そして『アキナケスの祭壇』で招来せんとする《鋼》を結びつける理由がある」

 

トートから零れ落ちる言霊…流暢に語られる言葉一つ一つに呼応するように大神の周囲に夜空の月を思わせる“銀”の光球が急速に出現していったのだ。長い時を漂白した経験からその正体を見抜いたヘファイストスは文字通り血相を変える。あれは見立て通りの代物ならば、例えどれほど強固な壁だろうと一息で切り裂きうる神殺しの刃なのだ!

 

『馬鹿なッ! 神の来歴を解き明かし、神格を切り裂く剣…それを何故軍神でもない貴様が所有している!?』

(ちから)(たから)にかまけ、智慧を蓄えることを怠ったか? 愚かだな、いま汝の命数を断つのはその愚かさだ」

 

独特の憂いと迷いを引きずった気配にどこか呆れた風の感情を載せ、やれやれとばかりに鳥の首を振るトート。

 

「私は太陽神(ラー)の航海に際して彼を守護し、敵対者を言霊の剣で切り裂く。そして軍神として崇拝された過去も持つ。まつろわす神殺しの刃を所有することに何の不思議があるだろうか」

 

トートはエジプトでは偉大なる智慧の神として崇拝された。

 

しかし軍神としての側面を持たなかったわけではない。もちろん全ての地方で軍神として崇められたわけではないが、古くは小アジアと繋がるシナイ半島でも信仰され、「遊牧者の主」「アジアの征服者」などの好戦的な異名も戴いていたという。慢性的に反乱が頻発していたヌビア地方では特に軍神としての側面が強調されて信仰されたともいう。その本分たる職掌は真理・知識・学問などの知的活動に置いていたのは間違いないが、信仰の側面として軍神として崇められた形跡も見られるのだ。

 

そうした過去の持ち主故にトートは外敵をまつろわす智慧の利剣を所有している。そしていまその武器を存分に振るわんと銀河の如き光球の群を膨大な数となるまで生み出し続けていた。

 

「ヘファイストス、汝ならざる鍛冶神は奇妙な神だ。彼の前身はアナトリアを含む火山帯にて崇められた雷と火を司る火山の神。希臘(ギリシャ)へ渡りくる過程で鍛冶神の相を備えるに至ったが、本来戦う者ではない。時に河の神が操る水の波濤を尽く焼き尽くし、屈服させたこともあるがそれは彼の前身たる火山神の権能を振るったにすぎず、軍神としての側面はあくまで持たない」

 

一拍の間を置き。

 

「―――で、ありながら何故か《鋼》の英雄が持つ特徴の幾つかを彼もまた備えている。ヘファイストスは誕生の時に天空から海に投げ落とされた。これは隕鉄の落下と燃え滾る鋼鉄の焼き入れを示す隠喩(メタファー)、バトラズをはじめとした最源流の《鋼》にしばしば見られる逸話だ。そしてテテュス、エウリュノメら海の女神による幼少時の養育…すなわち大地母神による援助。これもまた《鋼》の特徴だ」

 

トートの周囲を漂う“銀”の光はその数を増していく。その脅威、厄介さを痛感していてもヘファイストスには対抗する術がない。ただの力押しでは文字通り鎧袖一触に斬り破られてしまいかねない程の利剣なのだ。

 

()()()()()。かつて汝は鍛冶神であり―――同時に《鋼》の英雄神でもあったのだ! しかしはるかな昔、如何なる理由によってかは知らぬが、その半身を、鋼の英雄神たる相を捥ぎ取られ、失った…そうして数えるのが億劫な年月を漂泊し続けてきたのだ。違うか!?」

『黙れ! 黙るがいい、我が凋落の歴史を語るなど…!! 驕るな、大神!』

「黙らぬさ。どうして黙る道理があるだろうか―――そして、汝が『アキナケスの祭壇』を使い、招来しようとしている《鋼》は汝の末裔…半身とも言える軍神。長き時の中でかつての汝の神話は移り行き、かつて鍛冶神であった痕跡を残すだけの《鋼》となった。かの《鋼》が誕生する際に汝の権能を譲渡する仕込みを行うことで、再度本来の汝として顕現する腹積もりだったのだろう」

『そうだ! 儂は立ち返る、強壮にして偉大なる旧き我に立ち戻るのだ! 邪魔立てするのであれば如何なる大神、敵手であろうと尽くを冥府に送ってくれよう!!』

 

最早執念すら籠った血を吐くようなヘファイストスの宣言にトートはあくまで静謐な雰囲気のまま答える。

 

「その執念には感嘆の意を禁じ得ぬ。だが挑む相手が悪かったな、私はあらゆる智慧の主にして神殺しの剣の所有者。汝の悲願は叶わぬ、私がかの神具を見出した時にそれは定められていたのだ。抗わずにただ受け入れるがいい、今ならば次の機会を狙うことも出来よう」

『そのような定め、許せるものかよ…! 嗚呼(ああ)、許せるものか!! 我が全ての兵が尽く打倒されようとも貴様を打ち倒し、必ずや地上に再臨してくれん!!』

 

如何なる障害があろうとただ踏破する、如何なる犠牲を背負ったとしても…失った半身こそが抱くべき激情と狂乱の念に支配されながらヘファイストスは咆哮する。

 

「ならば是非もない。あとは我らが死生勝敗を分かつ結末まで突き進むのみ」

 

ヘファイストスの戦意と決意に応えるようにトートも眩く輝く銀の奔流を操ろうとし、

 

「む…?」

 

突如として感じ取った彼方の神力の気配に訝し気に首を傾げる。この気配は求めていた神具のもの、しかしその在処は鍛冶神が厳重に秘匿しているであろう工房の最深奥ではなく地上、生の領域にあるようだ。

 

『おぉ…おおッ! この蛇の気は…小僧め、やりおったか!』

「―――そういうことか」

 

この領域にあるはずの神具の気配に覚えた疑問も、続く鍛冶神の声に氷解する。

 

「してやられたな。智慧の神たる私を謀るとは天晴れ見事。あの少年を使ったのであろうが…そうか、かの女神のもとに辿り着いたのか」

 

見事に騙されたことへの負の感情を微塵も表さず、逆に称賛の気配すら漂わせながら得心して頷く。あくまで戦闘の高揚や激昂と無縁な様子は流石智慧の神と言うべき冷静さだった。

 

「では、これ以上の長居は無意味か」

『ハハハ、無駄よ! 祭壇は望めば即座に我が手元に顕れる。そして捧げるべき心臓も既に得た。如何な大神と言えど即座に現世へ帰還し、神具を奪い取ることは叶うまい!』

 

その通りだ、と認めながらもやはり冷静に此度の企図は鍛冶神が一枚上手だったようだと認識する。同時に潮時を悟り、踵を返して工房を去ろうとする。これ以上留まっても得るものはなく、鍛冶神とも行きがかり上矛を交えた以上の因縁は無い。理由もなく無為な戦を続けるのは智慧を本分とする彼の流儀ではなかった。

 

『小僧! 今ぞ宿願の時ぞ―――汝の心臓を捧げよ! 旧き我、《鋼》にして鍛冶神たる我の復活の贄となるがいい!』

 

狂喜すら宿した鍛冶神の言霊が現世の少年に向けて放たれる。痩せても嗄れてもまつろわぬ神、魔術師ですらない人の子が抗えるものではない。これであの少年の命数も尽きた、と少しだけ稀な資質を持った少年を惜しみながらも歩みは止まらない。彼はまつろわぬトート、何者かに討たれ、真なる神へ回帰するまで地上を彷徨い続ける智慧と魔導の神なのだから。

 

『…………馬鹿なッ!』

 

だが。

 

『馬鹿なッ! 何故ッ! 如何なる手妻を使った!?』

 

狂乱と混乱をこれ以上なく表した鍛冶神の狂態が歩み去らんとするその足を止めた。

 

「…………」

 

察するに、あの少年は鍛冶神の言霊を退けたようだ。

 

それはつまり今度はあの少年が鍛冶神に一杯食わせたということに他ならない。果たして如何なる手管を用い鍛冶神を出し抜いたのか、うずうずと胸の内で好奇心が騒ぎ出す。智慧の神たる性ゆえか、彼は未知があるならば埋めずにいられない神だった。

 

この領域は主たる鍛冶神の仕込みにより幽世の基本的な移動手段である思考による空間転移は行えない。だがそれも潜り抜ける裏技の一つや二つ、どこかに転がっているものだ。幸いなことにトートの手には今まさに仕込みをひっくり返しうる『剣』が握られていた。

 

「―――我はトートなり。正義と真理の主、智慧と理解の言霊を発する者。其の言葉は神の葦筆、以て暴虐に打ち勝つ者」

 

渦巻く…銀河の如くトートを取り巻いていた銀の光球がぐるぐると速度を上げて渦巻いていく。

 

「我はトートなり。幾万年を舟の中に在る大いなる魔術師! 言葉に力を与え、言葉によって反逆と闘争を征する者なり!」

 

周囲を輪転する銀の輝きは少しずつ鍛冶神の領域を侵略していく。

 

『!? 待て、逃がさ―――』

 

残念だが待てぬな、と胸の内だけで返すと含み笑いを漏らす。そしてトートが振るう言霊の『剣』はヘファイストスの支配をしたたかに斬り破り、現世と幽世を隔てる境界を超える蟻の一穴を穿った。

 

トートはラーの航海に付き従い、昼と夜…生と死の領域を交互に旅をする。つまり現世と冥府を行き来する神でもあった。さらに冥府との関わりも深く『死者の審判』でオシリスを補佐する司法神であり、ラーが所有する『太陽の舟』に対応する『月の舟』の持ち主であるテーベの三柱神コンスとも習合する。コンスは夜に亡くなった迷える死者の魂を西の地平の果て、つまり冥府に導くと言う。

 

故にトートにとって現世と幽世の境界を跳び越えることなど人間がちょっと隣町まで足を延ばすのと大して変わりが無い。最早鍛冶神の怒号に対し一片の気も払うことなく、幽世と現世を阻む境界を無造作に跳躍。生ある者たちの領域へと再び顕現したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

再び生の領域へ姿を現したトートの眼前には神具を携えた少年。その姿を視界の端に留めたままトートは周囲を見渡した。

 

トートが神具の気配を頼りに顕現したのは、かつて女神が(ねぐら)とした滝壺の淵であった。太陽は既に地平線の彼方に去り、煌々と輝く満月が天空に座して地上を照らしている。かつての聖域はまだ女神の神気が残留しており、トートにとってもその身に馴染む空気に満ちた空間だった。

 

地上に降り立って早々に感じられるのはザラザラと濃く荒々しい《鋼》の気配、その中にほんの少し《蛇》の神力が混ざっている。伴って気配の中心である神具を握った少年が目に映り、互いの姿を視界に入れた両者の間で沈黙が落ちる。

 

『…………』

 

鍛冶神にその身柄を強奪されてより一両日ぶりの再会だった。見たところ少年自身に変化はなく、それよりも劇的に変化したのはその手に握る『アキナケスの祭壇』だ。数日前に目にした時よりはるかに神具が活性化し、今にも渦巻く力が破裂しそうなほど不安定な様子だった。

 

「君の内に潜んでいた女神の魂を喰らったか。これでこの場には三つの《鍵》が揃った…何時でもあの《鋼》を招来することが叶う」

「…………」

「その前に問いたい。汝は如何なる手管を以て鍛冶神を出し抜き、女神の魂を手中に収めたのだろうか? どちらかだけならば、あるいは幾つも傷を負うことを許容するならば脆弱な人の身でも成し遂げられるやも知れぬ。しかし私が見るに汝に神と争った気配はない…ただ《蛇》の神力の残滓を身に纏うのみ。故に合点がいかぬ」

「俺は何もしちゃいない。ただ、あいつに助けられ…いや、託されただけだ」

 

あいつの代わりに、あんたらをぶん殴る役目をな…と敵意も露わにトートを睨む将悟の怒りを無視して独り納得したと頷く。

 

「―――そうか。汝はあの女神に見込まれたのか。しかも自らの魂を捧げる程に入れ込まれるとは…これは思いもつかぬはずだ」

「あいつとは昔に縁があったんだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、それだけは言っておくからな」

 

将悟の返事に理解が出来ぬと首を傾げる。まだ理解が及ばない点はある、例えば女神の魂を神具に捧げたとしても何一つ根本的な解決になっていないことだ。むしろトートとヘファイストスに利するお膳立てを整えただけでしかない。

 

だがトートはすぐに思考を止めた。所詮は小さき人の子と零落した女神。偉大なりし智慧と魔術の神である己が幾ら考えを巡らしたところで所詮立っている地平が違う以上理解できるはずがないのだ。人が蟻の考えなど理解できないように。傲慢を傲慢と認識できない程当然に、智慧の神はそう考えた。

 

女神との対話、もたらされた知識からなんとなくそのことを悟った将悟は酷く微妙な顔をしてトートを見ると溜息を吐く。この神様は性格的には決して悪性の輩ではない、だがひどくはた迷惑かつ周囲のことを考えないのも確かで、人間の存在を足元の蟻と同列に扱っている。それでいてとにかく知らないことを知りたがる好奇心の持ち主で、その欲求にはストレートに行動する。

 

そんなに嫌いではないがとにかく面倒くさい奴、というのが不敬ではあるが率直な感想だった。

 

「……まあいいや。俺はあんたの質問に答えた、ならこっちから一つ聞いてもいいよな?」

 

この問いかけに大きな意味は無い。強いて言うならば時間稼ぎか…()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「我が好奇の念を晴らした功績によりその申し出を受け入れよう。如何なる問いかけでも投げかけるが良い。人の子が思いつく程度の疑問ならば大半を知悉している故な」

「……それじゃお言葉に甘えて」

 

いちいち有難みの失せる自信過剰な発言にジト目を向けつつ、半分以上己の好奇心からくる疑問を率直にぶつける。

 

「“神”ってなんだ?」

 

純粋な疑問の意を込めて放たれる質問が、智慧の大神の胸を刺し貫いた。

 

「――――」

 

無言で以て応える。万言を費やすよりも雄弁な、トートが将悟の質問に応える術を持たないと言う証明だった。

 

「神殺しは、神を殺す。『最後の王』は神殺しを殺す。なら、神は? まつろわぬ神は一体何のために誕生するんだ?」

 

女神に流し込まれた知識、その中にはまつろわぬ神を討つことで誕生する埒外の存在たる神殺しの魔王、そしてそんな魔王達すら抹殺する最強の鋼の存在があった。何故わざわざそんな知識まで刻み込んだのかは…何となく予想はつくが置いておこう。そうした知識に触れ合う中で生まれた自然な疑問をそのまま智慧の神にぶつける。

 

あわよくば智慧の神に対してささやかな一撃となるのではないかと、それに失敗したところで失うものもないのだしという開き直りと共に放たれた言葉はしたたかに、呪力を伴わない言霊の呪詛となって“智慧”をアイデンティティとするトートの根底を揺るがした。それは僅かにだがトートの武器、つまり言葉を鈍らせることとなった。

 

「……言を弄して逃げることも出来ようが、それは智慧の神たる我が流儀にあらず」

 

己の無知を隠さずに曝け出すトートの声は常よりもさらに威厳があった。

 

「故に汝の問いに正しからざるとも答えよう―――私もまたその答えを探し、流浪しているのだ。実を申せば此度、『アキナケスの祭壇』を求めたのもその問いへの答えを探る手がかりとなるやもと思ったからであった」

「あんた、頭良いんだろう? 智慧の神とか名乗って、きっと誰も知らないようなことをたくさん知っているんだろう? なのに分からないのか? そんなにおかしな疑問なのか」

 

侮辱や揚げ足をとるためではない、本気で疑問に思ったのだろう。どこか間の抜けた語調で重ねて問いかける少年に苦笑を以てトートは応える。

 

「然様。神のことなど、当の神自身すら把握しておらぬのだ。おそらくは世界の理、不死の領域に属する知識なのであろう。然るべき資格を持った者のみがその智慧に触れることが出来る…ふふ、敢えて地上にてその秘密に至ろうとする物好きは私だけであろうな」

「なんで、そんなことを?」

「知れたこと。私は智慧の神、未知があればそこに至ろうとする。そういうものなのだ」

 

神話を核に地上へ顕現するまつろわぬ神に変化の余地はない。誕生した時からその性格も、在り方も、権能も一切揺るがずに流浪と漂泊を続けていく。

 

「そんなものなのか」

「然り。そうとしかあれぬ、そうとしかあろうと思えぬ」

「…そっか。じゃあ、仕方ないな。許せないし、間違っていると思うけど、仕方がない」

 

嵐が破壊をまき散らすように、神は流離う中で災厄をまき散らすのだろう。良くも悪くも、ですらない。ただそうとしか在れないが故に。

 

「仕方ないから―――俺が、あんたを終わらせる。あんたが望んだとおりに」

 

明けない夜は無いように、沈まない太陽が無いように、神だからとて殺せない道理はないのだから。

 

「否だ。私は未だ私が届かざる未知あることを知っている。この世を既知で埋め尽くす。その果てにこそ我が望みが―――」

 

どこか己に言い聞かせている様子のトートに言い知れぬ歪みを感じ、同時に少しだけ哀しみを覚える。

 

「本当に、そうなのか? あんたの望みは知らないことを知るってことだけなのか? もっと違う望みが…いや、すべきことがあるんじゃないのか!?」

 

一戦も交えずに終わる、そんな未来はあり得ないと知りつつもなおも問いかける将悟に対し、一言で切り捨ててみせる。

 

「少なくとも少年よ、それは汝が知るところではない。まあ良い、今頃鍛冶神めは泡を食ってここへ攻め入る準備を整えておろう。惜しいと思わぬこともないが、猶予はあまりないゆえ、手短に済ませるとしよう」

 

あくまで淡々とした語調で、その要求によって生じる喪失に一片も心を揺るがせることなく言霊を紡ぐ。

 

「聖なる言の葉の主が命ず。汝、神具を以て己が心臓を抉り出し、《鋼》の軍神を呼び奉る贄となるべし」

 

如何なる手妻によってかヘファイストスのかけた呪いは破ったようだが、言葉によって世界とその法則を作り上げたトートは言霊の権能の大家と言い切っていい神格である。所詮は神格の半分を捥ぎ取られた鍛冶神の真似事とは格が違う。故に如何なる手を使おうともトートの命に逆らうことは不可能だ。

 

“だが”、

 

「断るッ!」

 

将悟は堂々と胸を張り、強制力を持って絡みつくトートの言霊を真っ向から跳ね除けのけて見せた。

 

「―――……」

 

()()()()()()()、先ほどトートから零れ落ちた言霊は呪力を伴う絶対的な強制力を有している。意志の強さがどうこうではない、もっと根本的に強制力を跳ね除けるだけの膨大な呪力をその身に供えていなければならない。そんな呪力を人の子が有しているはずが―――

 

「これは…!?」

 

否、前提が違ったのだとトートは悟る。よくよく将悟を見てみれば神具から溢れだす膨大な神力に紛れて気付かなかったが、将悟自身の肉体から純然たる《蛇》の神力が少なからず零れ落ちている。これが意味するのは女神の魂、少なくともその一部が将悟の裡に眠っているということ。そしてその事実が暗示する彼らの思惑は―――。

 

「あんたはまつろわぬ神であって、あいつみたいな本当の神様じゃない。あんたに従いたいなんて全然思わないし、ましてやあんたのために生贄になるなんて()()()()()()()()()()()()()!」

 

ぞくり、とトートの背を戦慄が走り抜ける。偉大なる大神に向かって不遜にも吐いた大言、そこに込められた感情の熱量が己をも脅かしうるのだと霊視の導きにより悟ったために。

 

「俺は、俺がやりたいようにやってから死ぬ。生き抜いてから死んでやる!」

 

神を相手に堂々と啖呵を切った将悟に感嘆と驚愕を込めた声を上げる。

 

「そういうことか!? 矮小なる人の子が、神をその身に降ろす―――否、力づくで従える気か! 女神の加護あれど、無謀な試みだ。むざむざ命を捨てる気か!」

「ハ―――知ってるか、智慧の神様? 博打ってのは何かを賭けなきゃ始まらないんだよ!」

 

命をチップに大博打に挑むと宣言するとアキナケスの祭壇を取り出した…その瞬間のことだった。

 

『何を企んでいるかは知らぬが、させると思うてかあああああぁぁッ―――!』

 

ギリギリの均衡を保って幽世から静観を続けてきたヘファイストスが絶叫とともに最も強力な眷属を現世に向けて送り込む。時間に猶予が無かったため、急ぎ“門”から送り込めたのは一体のみ。だが己を除けば、ヘファイストスが誇る最強の手駒だ。

 

轟、と唸りを上げて着地するは赤熱する青銅巨人、少し神話に詳しいものならばクレタ島のタロスの名を思い出すかもしれない。無論この青銅巨人はタロスそのものではない。

 

だがその巨体に宿る強壮さは只の神獣、眷属とは一線を画すものがあった。この巨人を最速で送り届けるため例の青銅造りの大鷲も動員したが、常軌を逸した強行軍で酷使したため大分消耗している。参戦は叶うまい。

 

構うものか、捻り潰してくれると憎悪を込めて小さき人の子を叩き潰せと命じる。

 

『GU、GOOOOOOOOOM!!』

 

巨人が張り上げるのは巨体に相応しい重低音の大咆哮。ビリビリと空気を震わせ、大地を鳴動させる音の波動に踏ん張って耐える将悟。青銅巨人は真っ赤に焼けた拳を無造作に小さな人の子に向けて振りかぶり―――、

 

「我が獲物を横合いから出てきた輩にむざむざやらせるとでも?」

 

その単純にして強力極まりない暴威を遮ったのは、なんと(ウアス)を掲げたトートだった。唐突過ぎる助太刀に将悟が目を開く。偉大なる智慧の神は月の意匠が彫り込まれた銀の大盾でもって衝撃の一片たりとも将悟に届かせはしなかった。

 

「鍛冶神よ、相済まぬが今ひと時私は此奴に付く。この者らしき言い草で語るならば―――“そちらの方が面白い”からだ。私や汝では思いつかなかった道を示してみせた人の子の歩むその“先”…少し、見てみたくなったのでな」

『意味の分からぬことを…! 気が()れたか、智慧の神とも在ろう者が!』

「然様、私は智慧の神! 故にこの世に未知あらば求め、探り、この目で見ねば我慢がいかぬのだ! なに、汝の思惑とは全く外れたものになろうが、中々面白きものが見れるはずだぞ?」

 

誘うような、揶揄するようなトートの声に最早まともな言葉にならない金切り声を上げて己が有する最強の手駒を遮二無二突撃させる。トートが繰り出す言霊を幾たび受けて傷ついてもそのたびに幽世からヘファイストスが与える炎が青銅巨人を修復してしまうのだ。だがその千日手によって将悟が儀式を行う時間は十分以上に稼げている。

 

ここでトートから助力を享けるのは想定外だったのだが、何ら不都合はない。後悔させてやるから覚悟しとけよ、と苦笑交じりに胸の内で呟くだけだ。

 

―――あとは己の覚悟一つ。

 

闘志の籠った目でその手に握る神刀を見つめながら覚悟を決める。最期の最期まで突き進み、突き抜ける覚悟を。無謀と蛮勇に定評のある将悟を以てしても多大な覚悟が必要な行為であったが、己よりもはるかに辛い道を選んだ女神を見た以上、立ち止まることなど己自身が許さない!

 

「……げる」

 

握りしめた神具、その鋭い切っ先を右の胸へと向ける。

 

「俺の心臓を、お前に捧げる! だからとっとと顕現し(おき)やがれ、クソッタレの軍神野郎!」

 

決意を定めるように大音声を上げた将悟は勢いよく『祭壇』の切っ先を己が心臓に突き立てた! ぶしゅっ、ともびちゃっ、ともつかない生々しい音とともに噴き出した血潮が神具の刀身を赤く染め上げ、妖しい光が宿るキッカケとなる。同時に胸を奔る激痛が将悟に膝をつかせた。

 

ここに数百年の長きにわたり女神の命を吸い上げ、蓄え続けた『アキナケスの祭壇』が捧げられた将悟の心臓から噴き出す血潮を起爆剤に完全なる覚醒を果たす。

 

神具から今までの比ではない膨大な呪力が猛り狂って溢れだし、刀身から銀白色の靄《もや》が将悟に被さるように出現する。『アキナケスの祭壇』が招来する《鋼》は神具そのものと心臓を捧げた《贄》の肉体を核にして顕現するのだ。

 

「…ッ…! ぁッ!! が、あああああああああああああああああっ!!」

 

スキタイや匈奴、騎馬民族においてしばしば軍神に向けて人身供儀が行われたという。そしてその儀式には御神体としてアキナケス、あるいは径路剣と呼ばれる形状の剣が用いられたという。だからこそこの神具にして神剣はアキナケスの“祭壇”なのだ。

 

女神からまとめて流し込まれたそんな知識を反芻する、この修羅場に何を呑気なと呆れられるかもしれないが、逆だ。そんな愚にもつかないことでも必死に考えないと心臓を中心に全身を襲う絶大なる苦痛に耐えることが出来ないのだ。

 

全身の神経と言う神経を引き抜かれ、作り替えられていくかのような痛覚と不快感を伴ったおぞましい感覚。間違いなく人生で味わった苦痛の最大記録をぶっちぎりで追い越した、しかも現在進行形で上限が更新され続けている。

 

あ、ぎぃ…と嗚咽とも苦痛とも判別のつかない呻きが口から洩れる。

 

―――眼前の強敵を殺せ、食らいつけ、戦に臨め。

 

と、絶え間なく頭の中に“声”が鳴り響く。今まさに顕現せんとする《鋼》の神霊がちっぽけな人の子の精神を塗りつぶし、押し流さんとする。それはまさに嵐に揉まれる小舟のようなもの。飲み込まれるのは時間の問題と思われた。

 

だが。

 

将悟は知っている、これ以上の苦痛があることを。そして女神は自らの意思でその痛みを選び取ったのだ。ならば己もまたこの程度の痛みで心を折られてやるわけにはいかないのだ!

 

「うるっせーんだよ、テメェはっ!! 邪魔だからちょっと向こうにいってやがれっ!!」

 

苦痛以上の怒りで無理やり“声”の津波を押しのけて思うのは女神。策とも言えない穴だらけの将悟の思い付きをその献身で補ってくれた彼女とその魂の行方だ。

 

「行くぜ、“相棒”」

 

いま女神の魂は二つに引き裂かれ、半分は『アキナケスの祭壇』に、もう半分は将悟の裡に宿っている。儀式を始めるには不安が残る不完全な状態だ。ではここで疑問が一つ生じる。果たしていま『アキナケスの祭壇』に発動の引き金となる《贄》の心臓を捧げれば()()()()()()

 

その疑問こそが将悟の思い付きの出発点であり、企てた策の要だ。要するに中途半端に準備が整った状態で儀式とやらを始めれば、奴らが望まない“失敗”と言う結果に終わるのではないかという……はっきり言えば根性の曲がった嫌がらせこそがその思い付きだった。

 

それを一発逆転の策にまで昇華させたのは女神の知識と献身だ。

 

半分に分けた魂を《贄》としても『アキナケスの祭壇』を動かすキッカケとはなるだろうが、《鋼》の顕現にまでは至るまい。恐らくは将悟の肉体に神霊が宿り、明確な自我を持たないまま獣のように暴れまわることになるだろうというのが女神の見立てだった。

 

だからこそ“そこ”に将悟たちが付けこむ一点の突破口がある。

 

元をただせば『アキナケスの祭壇』が蓄えた水と大地の精気は大半が女神のものだった。とはいえ魂が完全に神具に囚われていてはその呪力に干渉することは出来ない。ならば内と外、神具と将悟。その両方から手を伸ばせば、そして不完全な顕現を遂げ、自我も定まらない《鋼》が相手ならば隙を突いて主導権を奪えるかもしれない。

 

女神の加護を受けて《鋼》の神霊を力づくで従える―――それこそが将悟達が立てた“策”の骨子だった。

 

だが一方で魂を二つ分けることで不都合が生じるのもまた必然だった。これはただでさえ弱り切っている女神から半身を捥ぎ取るような蛮行である。彼女の意識は揺蕩い、下手をすれば二度と意識の底に沈んで戻ってこない恐れも十分にあった。

 

()()()()()

 

「頼む…俺と一緒に戦ってくれ―――白娘子(ハクジョウシ)!」

 

だからこそ、彼女は己が“名”を将悟へと捧げたのだ。決戦の時、己がアイデンティティを構成する最も重要な要素…つまり“名”を呼ばれることで、己が神格を揺り動かし、末期の力を振り絞るきっかけとするために! 

 

そして遂に、その名を呼んだ。白き乙女にして滝壺の女神、中華の大地で崇められた蛇女神に向けた呼びかけに、

 

『否やなど、あろうものかよ! さぁて、いとし子よ。決戦ぞ、大戦(おおいくさ)ぞ! 神争いの時はいま来たれり!』

 

―――当然のように、女神は応えた。

 

 

 

 

 

 

 




滝壺の女神こと白娘子の名を言い当てられた人はどれだけいましたでしょうか? ちなみに本来中国語読みでは白娘子(パイニャンズ)だったり、白素貞という別名があったりしますが語呂優先でメガテン表記のハクジョウシに。

個人的には知名度がある、というより一部界隈でメジャーな神格という認識だったのでなるほど、分からんという人と楽勝、一発で分かりましたという両極端に分かれたんじゃないかなと勝手に推測しています(割合が5:5とは言ってない)。

ちなみに真名不明なもう一人、鍛冶神の名前はアナザー・ビギンズでは明かされません。あと単行本1、2巻分くらいエピソードを挟んだら再登場予定。なお小物臭さを漂わせていますが、本来の神格を取り戻した彼の戦闘能力は原作斉天大聖並というかなりの強キャラ。正面衝突ならアテナすら粉砕する暴力の権化です。

さておき本来5話完結だったはずが長くなりすぎたために前編後編に分割した今話でクライマックス直前です。
12時間後に後編も投下しますので、よろしければご一読して感想を一言だけでも頂ければ幸いです。




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アナザー・ビギンズ ⑥ そして始まりに至る

エピローグにしてプロローグ。


一振りの神具を巡る騒動は遂に最終局面を迎え、これ以上ない程に戦場は過熱していた。

 

かつて世界を言葉で以て想像した智慧の大神、幽世より最強の刺客を送り込んだ鍛冶神。双方相手にとって不足など寸毫もない超のつく強敵たちである。だが不思議と将悟の胸に絶望は無い、そして自身意外なほど恨みと呼べるほどの悪感情もなかった。

 

ただ落とし前を付ける、思う存分ぶん殴ってやるという断固とした決意と怒りが胸の奥に深く定まっていた。その決意に呼応するかのように将悟に加護を与える女神、白娘子もまた明朗闊達にして一笑千金。場違いなほどに明るく華やかな笑みを浮かべ、少年に加護を授けている。

 

女神の覚醒に引きずられるように身の内で鳴動する《蛇》の神力が渦を巻き、並行して神具から溢れ出る銀白色の靄もその濃さを増す。合わせて将悟が味わう苦痛も増大するが、すかさず将悟と神具の裡から白娘子が《鋼》を制御するための軛を伸ばした。

 

『ゆるりとせよ、妾の命であった精気らよ。汝らの主は此処に戻った。妾の意に従うが良い。討ち倒すべき敵は我が英雄が指し示そう』

 

激烈な勢いで消費され、《鋼》の顕現を援けていた大地の精気の動きが緩やかになり、将悟の肉体を被さるように覆っていた銀白色の靄も握りこぶし大の大きさの球体にまで押し固められて胸に埋め込まれ、失われた心臓を動かす代用とする。

 

同時に全身を襲っていた苦痛が遠ざかり、顔を顰めながらも動けるだけのものへとなり下がった。膝をついたた体勢からゆっくりとだが身を起こし、全身に滾る“力”を確かめるように二度、三度と拳を握る。

 

『妾は神具と《鋼》の手綱を握るのに専念する。故にいとし子よ、この“力”を振るうのはお主だ。だが覚悟せよ、いまお主の失われた心臓を動かしているのは汝に宿った《鋼》の神霊あってこそ。時尽きるまでに彼奴等を討てねば全ては無為に終わると思え』

「了解…にしても」

 

ハァ、と場に遭わない溜息を一つつくと訝しそうに女神が問いかける。

 

『如何した? 《鋼》めはきっちりと従えておるはずぞ』

「―――赤坂将悟だ」

『なに?』

「俺の名前だよ。お前、いとし子だの何だのいう割に名前の一つも聞こうとしなかっただろ」

「…く、くくく、クハハッ! 今この時に至って“それ”か!? 嗚呼、だが悪くは無い。こうした趣向も悪くは無いのぅ!」

 

痛快そうに笑う女神がどこか声を潜めて呼びかける。そっと腕の中の宝物を秘める乙女のように。

 

『ともに行こうぞ、赤坂将悟。なにせ我らは“相棒”…なのだからな?』

「…って聞いてたのか、あんた」

『揺れる心でうっすらとな。なぁに、今の妾達はまさしく一蓮托生。言葉が軽いなどとは誰も言うまいよ』

「……おう」

 

どこか気恥ずかしさを漂わせた将悟の返事にやはりおかしそうにころころと笑う女神。

 

『貴様らあああぁッ!』

 

そんな戦場らしからぬ様子の二人の間に怒号を上げて割り込んできたのは鍛冶神だった。女神が将悟の裡ではっきりと不快そうな気配を上げるのが分かった。

 

『今すぐに死ねっ! 自害せよ! 神具を止めるのだ! でなければ―――』

 

営々と準備を重ね続けてきた莫大な年月。その積み重ねを無為に帰すかのような蛮行に悲鳴を上げて呪詛と怨嗟の念を送る。その怒りだけで並の人間ならば命を絶ってしまいそうな恐ろしさがあったが、今となっては鼻で笑って返すだけの代物だった。

 

「生憎だがテメーに返すのは一言だけだ」

 

激昂する鍛冶神に向けて最も“効く”だろう一言を返す。

 

「―――()()()()()()()

 

憤怒が、爆裂した。

 

小僧(こぞ)おおおおおおおぉぉッ!!』

 

百度殺しても飽き足りないとばかりに幽世から起こる声音だけで深甚なる憎悪を覗かせる怒号が轟き渡る。

 

「GOOOOOOOOOM!!』

 

鍛冶神の激烈な怒号に合わせるかのように、大地を鳴動させた赤熱する青銅巨人が動き出す。巨体に似合わない機敏な動きでトートに背を向けると一撃を大地にクレーターを作り、焼け焦がす赤熱する拳を振り下ろす。

 

対し、小さな人の子は、

 

「―――うるせぇ、頭に来てんのはお前だけじゃねぇんだよ!」

 

気合い一閃からの大斬撃を振るう! 

 

零れ落ちる神力が青銅巨人に匹敵するほど巨大な銀白色の刀身を作り上げ、渾身の一刀が巨人を肩口から両断した。苦痛とも鼓舞ともつかない雄たけびを上げて崩れ落ちる巨人を追撃しようとするが、突然襲われた強烈な立ちくらみに停止を余儀なくされる。

 

『いとし子よ』

「分かってる」

 

女神の諌めに短く応えを返す。怒りと報復の意思に任せて放ったさっきの大斬撃はかなり神力を消耗する。考え無しに連続で使えばただでさえ短いタイムリミットがますます減ってしまう。使いどころは見極めなければならなかった。

 

と、一蓮托生の二人が意志を伝えあっている横で。

 

「鍛冶神よ、私に背を向けるとは耄碌したか?」

『おのれ、貴様までも…!』

 

トートが旧き《鋼》の名が泣くぞ、とからかうように言葉を放りながら再生に時間をかける青銅巨人に向けて一際激烈な《太陽》の言霊を繰り出す。今まで傷つきながらも原形を保っていた青銅巨人が半身を熔け崩す程の莫大な熱量。遮二無二繰り出した鍛冶神の炎が青銅巨人を一瞬で再生させたが、その動きは鈍かった。

 

「狙い通りの三つ巴…とはいえ」

『そう都合よく漁夫の利を得られはしまい。なにより妾の好みではない!』

「言ってる場合か。まあ、俺も同感だけどな!」

 

そう、相手は一人ではない。そしてそのいずれもが味方ではない乱戦にして混戦。これが将悟らの目論んだ時間稼ぎの狙いだった。一対一で臨めばトート、ヘファイストスの両者に対して経過はどうあれ最終的に敗北する。これはまず間違いない。

 

ならば戦局をかき回し、背中から刺す一瞬のスキを作り出すしかない。もちろん将悟達にも戦局が全く読めなくなるがそんなものは今更だった。躊躇いなく二人は更なる博打に挑んだのだ。

 

戦場は三つ巴、それも一瞬ごとに戦力の均衡が揺らぐ混沌とした様相を呈してきた。なにせ機を見れば即座に矛先を向ける相手が変わるのだ。

 

最も強いものは優先して落とせ、と鍛冶神と将悟がトートを一度に狙えば、強烈な反撃を喰らった将悟が地に転がる。

 

すると弱った得物は確実に狩れとばかりに鍛冶神が標的を変えてくる。挙句その隙を狙ったトートが二人纏めて消し飛べとばかりに強力な言霊を放ってくる。

 

山を一つ二つ崩す勢いで行われる規模の、とんでもない乱戦だ。

 

「ふ、ははははははっ! まさか、まさに真逆だな! 信じられぬ、如何に女神の加護あれど人の子が神霊を従えるか!? 感謝するぞ、長き時を漂泊したが斯様な仕儀を目にしたのは初めてだ。いやはや、なかなかどうして“人間”とは侮れぬものよ。あるいは君だからこそか」

 

自らの理解の外にある“未知”を目にし、酷く高揚した語調のトートが上機嫌に声をかける。だがそんなトートに将悟は知ったことかと食らいつかんばかりに睨みつけた。

 

「そこで勝手に語ってろ。一般人代表としてぶん殴りに行ってやる…!」

呵々(かか)…生憎と人の子に対する理解は浅いが、汝が普遍的な人間であるかは大いに疑問の余地があると思うがな!」

 

痛快に笑うトートと会話の応酬を繰り返しながらも三つ巴の乱戦は激化の一途を辿り続ける。

 

その全てを将悟は命からがら切り抜ける。命が絶たれるところを肉で斬らせる程度で留める悪運、下手に迷わず思い切りよく動く度胸。そして何よりも鋼の神霊をその身に宿すことで一時的に軍神に比するほど上昇した身体能力と女神の加護によって極限まで高まった霊視による先読みの恩恵だった。

 

許されたのがほんの短時間で在ろうとも女神の加護を受け、《鋼》を従えた将悟の“力”はこの場にいる神々と同じ土俵に立てる程の神威を有していた。

 

だが人間として身に余るその“力”を以てしても戦局は硬直していた。トートは単純にこの場で最も力強い神威を有する大神であり、ヘファイストスが使役する青銅巨人は鍛冶神の加護を受けて半身を失いながらも忽ち復活するほどの馬鹿げた持久力を誇っている。このままでは一番先に落ちるのは時間制限(タイムリミット)のある将悟達だろう。

 

だが、

 

(その“程度”、問題にもなるかよ!)

 

そう、一分の勝機もなかった騒動直後と比べれば状況は天と地ほども差がある。二神の打倒、確かに著しく“困難”な難行だろう。だが決して“不可能”ではない。その差は1と0ほどにも大きい。故に無数の障害を潜り抜け、この一戦に辿り着いた将悟が怯みを覚えることなどありえなかった。

 

(…”これ”ならいけるか?)

 

このままではジリ貧だ。ならば今更リスクの一つや二つ背負うことに躊躇していられる状況ではなかった。それに土壇場の思い付きを切り札に変えることなど、ついさっきしたばかりだ。

 

『乗るか反るか…。中々好みの戦況よな。さて、疾く企みを聞かせよ。妾の助力が必要であろう?』

 

不敵に笑う女神に苦笑を返し、素早く胸の内を明かす。相も変わらず他人任せな賭けの中身を知らされた女神は一つ頷き、よかろう一口乗ってやると短く返した。

 

真っ先に狙うべきは鍛冶神の眷属、赤熱する青銅巨人だ。

 

度重なる青銅巨人の復活と再生にはタネがある。()()()()鍛冶神が送り届ける炎、《創造》の属性を司る文明の火なくしてここまでの奮闘はあり得なかったろう。実のところ純粋な地力において最も劣るのが青銅巨人であり、その証拠に将悟やトートによって何度となく致命傷にならないものの強力な攻撃を喰らっている。

 

だが逆に言えば炎の供給さえ途絶えてしまえば青銅巨人は無限に再生する難敵からただの神獣より強力な敵という程度になり下がるのだ。その難業をやり遂げられると言う確証はない、だが確信はあった。

 

故に、判断は即断。実行は即決だった。一寸先が無明の闇の中であっても己が勘を信じて迷わずに命を差し出せる度胸、これもまた赤坂将悟の持つ稀なる資質の一つであっただろう。

 

「―――!」

 

息を一拍溜め込み、心臓の位置で脈動する神力の塊から“力”を引き出して神刀に注ぎ込む。形成されるは初っ端に青銅巨人に向けてぶちかました銀白色の巨大な刀身。風の如き速度で互いの距離を潰し、懐に潜りこむ。図体の大きい青銅巨人ではやはり小回りが悪く、懐に入られては咄嗟に反撃するのは難しい。

 

それでも広げた両手を足元の将悟に向けてまるでハンマーのように叩きつぶす勢いで振り下ろす。威力よりも範囲をとった両の平手の振り下ろしは大巨剣を構えた将悟を確かに捉えていた。衝撃により地面が陥没し、巨大な手形が後に残される。粉塵が舞い上がり、一拍の間が空く―――。

 

その“間”を切り裂くように、銀白色の刃が粉塵から飛び出し、青銅巨人の両腕を豪快に叩き切った!

 

即座に粉塵から飛び出してきた将悟は一見して土砂による汚れが目立ち、頭からは幾筋も流血している。咄嗟に神刀を迫り来る青銅巨人の“指”に向けて構え、断ち斬ったのは良いのだが斬り切れなかった平手と大地の衝突から生じた衝撃波にさらされたのだ。それでも吹き飛ばなかったのはそれなりの痛みと衝撃をこらえながら両の葦で踏ん張った結果だろう。

 

そしてその甲斐あってか、青銅巨人は見るも無残に両腕を喪失した。だがこの程度の損傷ならこれまで幾たびも巨人は受けている、今回もまた同じことになるだけだ―――本来ならば。

 

『無駄だということが分からぬか!』

 

捥ぎ取られた両腕を修復するために幾度となく繰り返された再生の炎がまたしても幽世から熾り、鍛冶神と青銅巨人を繋ぐ不可視の“(みち)”を通じて送り込まれる。本来ならばけして目に見えるはずがない霊的なライン…だが幽世から送り込まれた炎が通ることで活性化した今ならばあるいは―――。

 

『―――“今”ぞ! 何も考えず、斬れ!』

 

“掴んだ”。

 

将悟の内側から霊眼を研ぎ澄ませた女神が見えないはずの“(みち)”を視てとり、将悟へとそのイメージを伝達。文字通りの以心伝心によってラインの存在を認識した将悟は神剣を片手に青銅巨人を飛び越える勢いで跳躍する!

 

『なにを―――』

 

鍛冶神もまた将悟らの意図を掴めないまでも咄嗟に青銅巨人を操って進路を妨害せんとする。だが失われた両腕は未だ再生の途上であり、遮二無二振り回した剛腕は空しく空を切り、赤熱する巨人の炎が将悟の皮膚を焼くのにとどまる。

 

一か八かの賭けを見事に乗り越えた少年は、なにもないはずの虚空を神剣でもって大上段に斬り下ろす!

 

『これは…おのれ、またしても!』

「遅い」

 

切断する。

音も、衝撃もなく虚空を薙いだ神刀は確かに幽世と現世を繋ぐ不可視のラインを断ち切った。

 

『ゆるさ―――』

 

言葉の途中で唐突に薄れていく鍛冶神の怒声。大音量で騒ぐスピーカーが音量をそのままに急速に遠ざかっていくような奇妙なエコーがかかった声の薄れ方だった。恐らくは将悟が切断したラインは同時に鍛冶神が現世に声を届けるための路でもあったのだろう。

 

なんにせよ、これ以上の鍛冶神の干渉は排除できたと判断してもいいだろう。あのしかめっ面を直接ぶん殴ってやれないのは業腹だが、奴の宿願だった《鋼》の招来とやらは既に台無しにしてやっている。大分腹立ちも収まったからこれ以上無理にこだわる理由は無い。

 

故に残る報復の相手は一柱のみ。

 

「既に私にこの場に留まる理由は無い、が…」

「もうちょっと付き合えよ、神様。あのクソほどじゃないが、俺はあんたにも腹が立ってるんだ」

 

将悟の継戦を望む発言にふむ、と得心するように頷き。

 

「降りかかる火の粉は払わねばなるまいな」

「上等ぉッ!」

 

そう己を鼓舞する蛮声を上げ、神刀を片手に突撃する。

 

十数合、絶え間なく降り注いでくる暴威を躱し、飛び退き、時に右手に握った神刀で斬り払う。隙を見つけて何度となく攻め込むがトートの守りは盤石だった。将悟ほどではないが間違いなく消耗しているはず。三つ巴の戦いが始まる前から鍛冶神の領域に攻め入っていたはずだし、見ているだけで何度も強力な言霊を発している。乱戦の甲斐もあって将悟も何度かトートに傷を与える難行に成功している。

 

だが、遠い。既に限界が近い将悟と比べてトートには余裕があった。“人”と“神”…その根本的な地力の差がここに来て重くのしかかってきているのだ。このまま無理に攻めても却って逆効果だと一度地面をけって後退する。

 

距離をとって仕切り直し、荒くなった息を整える。対し、トートはあくまで平静な様子で杖を構え、油断なく将悟を注視していた。タイムリミットは今この瞬間にも着々と迫っている。だがまともな手段でトートに敵うとは到底思えなかった。

 

『このままでは埒が開かぬな』

 

全くもって同意見だった。先ほどの青銅巨人と比べてトートは流石に格が違う。先ほどのような小細工が通用するような手合いではないだろう。

 

『ならば埒を開けに行くとするか』

「…………」

 

といっそあっけらかんとした口調で誘う女神はどこまでも軽やかだ。その明るさに反比例するかのように将悟が挟んだ沈黙は酷く重苦しかった。

 

『どうじゃ? 覚悟は決まったか』

「…………おう」

『ハハッ! 如何した、笑え! これは妾の新たなる門出なのだぞ。我らにとって“死”は終わりにあらず。ただ相応しい場所に戻るだけのことよ。せめてもの情け、彼奴目にもその恩恵をくれてやるとしよう』

 

対して将悟は胸の内を言葉にするのが酷く億劫だった。そんな重苦しい気配を笑い飛ばす女神だったが、それでも将悟の顔を覆う負の感情を消し去ることは叶わない。新たな門出、などと言葉を飾ったところで……その先に、彼女は“いない”のだ。そう思うだけで神刀を握りしめる手から力が抜けるようだった。

 

『お主は頑なだのう、頑是ない子供のように。あるいは猛る愚者の申し子のように。だが、だからこそ神を殺しうる”今この時”に辿り着けたのかもしれぬ』

 

愛おしむように、意固地な子供をどうあやすか考え込む大人のように、女神の声はひどく優しく、それでいて残酷だった。

 

『なあ、見ていておくれ。妾が本懐を遂げる光景を、我が生の尽きる果てを』

「――――おう」

 

女神の願いに応える将悟の声は、さっきより少しだけ力が籠っていた。迷いは未だ胸の中に在る。だが彼女にここまで言われてしょぼくれ、顔を俯けているようでは最早男ではない! 

 

将悟を立たせているのは“男の意地”という、これ以上なく愚かしくもささやかな誇り(プライド)だった。

 

『我が命の尽く、この一瞬に捧げよう。受け止めよ、赤坂将悟。妾が愛した、人の子よ!』

 

豪華絢爛、華開くように艶やかな笑い声が響く。後事の全てを託すに足る存在を見出したからこその潔さだった。瞬間、胸の内から一瞬全身が焼けるかと思う程の熱が迸り、《鋼》の気配が爆発的に色濃く顕現していく。一切の未練なく己が魂に残った力の全てを神具に注ぎ込んだからこその奇跡。

 

身体を重ねるように、背後から抱きしめるように将悟の背中に半透明の女神が一瞬だけ顕れ―――そして消え失せる。

 

『勝てよ、いとし子。彼奴を討ち、順縁と逆縁の果てへと進め』

 

頬をこすり合わせる柔らかな感触は刹那、命を燃やし尽くした一瞬―――だからこそ最期に触れ合えた。

 

『例え冥府に向かおうと、最期の最期まで見守ってやるともさ。我が    よ』

 

一瞬の夢幻の如く消え去った感触―――だが、決して夢でも幻でもなかったことはかつてない程に注ぎ込まれた“力”が滾る神刀が証明していた。これ以上なく狂暴で制御の利かない莫大なるその“力”、いまは女神が遺した軛が機能しているが分に満たない時間しか維持できまい。

 

末期、命の一片に至るまでを絞り尽くした女神からの最期の贈り物だった。

 

「ぁ…」

 

これが“死”だ。全ての存在が迎える終わりであり、終着点。

 

「が、あ…あああ―――」

 

あるいは再び“まつろわぬ神”として女神・白娘子が顕現するかもしれない。だがその女神は決して将悟が言葉を交わし、絆を結んだ“彼女”ではない。故に彼女とはもう二度と触れ合うことも、声を交わすことも出来ないのだと零れ落ちる涙を流しながら全てを悟る。

 

「汝を加護する女神が逝ったか…憐れな最期よな。せめてもう少し死に際を選べたものを」

 

知っている、知っていた。こうなると、こうでなければ神の命へ届きうるこの刹那には辿り着けなかったのだと。

 

「う…せェ…」

 

だからこそ、したり顔で彼女の最期を評するトートの存在が我慢ならない。智慧の神などと名乗っているくせにこいつは()()()()()()()()()()()

 

彼女が命を捧げた理由、避けられぬ死を前になおも自らの意思で選び取った結末の在処―――その意味を、高みから見下ろす傲岸さで無造作に蹴飛ばそうとしている。

 

(あいつは、あいつが“生きる”ために…!)

 

己が意志に殉じ…女神の誇りを貫くため、彼女は逝ったのだ。そのために安楽な末期より苦痛に塗れて果てることを受け入れた彼女の選択を憐憫の情とともに侮辱する輩を許せるか―――否、断じて否だ。

 

「―――許せる、ワケが…!」

「なに…?」

 

身の内に猛り狂う神力と戦意に任せて将悟はミシリ、と肉と骨が軋むほどの力を込めて神刀を握り締め―――

 

「ねえだろうがああああああああああぁぁッ!!」

 

乾坤一擲、その意を込めて死地へと踏み込んでいく!

 

「無駄なことよ。人は神に永劫及ばぬ」

 

迎撃のため放たれるは極大の雷光。視界全てを埋め尽くし、将悟の肉体を灰も残さず消し飛ばせる熱量(エネルギー)を秘めている。だが、“遅い”。雷光そのものは見えずとも、雷光を放つトートの動きは“視”て取れる将悟からすれば憤りすら覚える程にぬるい攻勢だ。

 

 

 

―――斬撃一閃。

 

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「な、ん…だと…?」

 

女神の献身で極限まで高まった神力、そして未来予知に近い精度で託宣を受け取る霊視()がその絶技を可能とした。

 

必殺を期して放った雷撃を無傷で潜り抜けた将悟の存在が理解の外にあったのだろう。間抜けな声で貴重な数秒と言う時間を無駄にするトートを尻目に彼我を隔てる距離を瞬く間に踏破し尽くす。

 

かつてない程の速度で迫る将悟を再度迎え撃つために呪力を操ろうとするが、一瞬だけ遅い。

 

「月の刃よ!」

 

トートが創り出した三日月型の巨大な刃によって肩口から両断され―――る前に、愚直なまでに真っ直ぐにトートの命に向けて手を伸ばす。

 

「―――」

 

そして命も、魂も何もかもを乗せて突き出した神刀は深々と、トートの胸板に突き立った。

 

「なんという…」

 

胸の中心を貫かれた神からどこかあっけに取られたような声が漏れる。

 

「人の子よ…」

 

ドサリ、と音を立てて人影が“二つ”大地に倒れ伏した。心の臓に達するほど深く穿たれた神刀はただ肉体を切り裂くだけではなく、破壊的な波動を肉体の内部で荒れ狂わせ、致命的な損傷をトートに負わせていたのだ。

 

そして気力だけで動いていた将悟は言うまでもない、無理やり先延ばしにしていた限界がとうとうやって来た。それだけのことだ。

 

「く、はは…。まさかあの鍛冶神奴ではなく、定命の宿命背負う人の子に私が討たれるとは、な」

 

呆れたように、敗北を噛みしめるようにトートは呟く。覆しようもない程の致命傷だった、未だに将悟を消し飛ばせる程度の力は残っているが、いまさらそんなことをしても意味は無い。であれば最早矜持を以て己が最期に臨むことだけがトートの望みであった。

 

「なんとも天晴れな愚か者よ。汝の蛮勇と幸運、なによりその狡猾な智慧に敬意を表そうではないか!」

 

類稀なる霊眼の持ち主にしてその抜け目のないその智謀、目から鼻に抜ける類の狡猾さは自身のものとは少々毛色が違うとはいえ、トートの好みにも沿っていた。この少年になら自身の権能を引き継いでも良いと思えるくらいには。

 

何より、死に瀕してようやく悟った己の本当の望み―――死することで真なる神に回帰するという宿願が今まさに果たされようとしているのだ。文句などつけようもない…強いて言うならば逆縁と災厄渦巻く因果にこの少年を巻き込んでしまったことだけが心残りだろうか…。

 

いや、とトートは思い直した。己が抱いた激情で神を殺めるような人間が、元より平穏な人生を送れるはずがない。ならばむしろこれは必然なのだ。

 

「ふふっ、トート様ったら討たれたというのに嬉しそうでいらっしゃるわね」

 

唐突に新たなる声の持ち主が現れる。甘く可憐な美声、幼い響きでありながら誰よりも“女”を感じさせる声だ。

 

「おお、汝が噂に聞く全てを与える女神か。貴女が此処に居るということは、愚者と魔女の落とし子を産む暗黒の聖誕祭が始まるのだな!」

 

あらゆる災厄と一掴みの希望を現す、名高き大女神パンドラ。神殺しの大元締めにして支援者が新たなる神殺しの誕生を悟り、『不死の境界』から顕現したのだ。

 

「ええ、あたしは神と人の狭間に立つ者。あらゆる災厄と一掴みの希望を与える女なのですから! 新たな息子を迎えにいく労を惜しむことはありませんわ」

 

当然のように、誇るように告げると今度は慈愛と悪戯心の籠った視線を新たなる義息へ向ける。

 

「貴方が私の七番目の義息ね。ふふ、トート様の神力は貴方の心身に流れ込んでいるわ。今貴方が感じている熱と苦痛は貴方を魔王の高みへと到達させるための代償よ。甘んじてお受けなさい」

 

とろけるように甘い声音を耳朶に流し込み、慰撫すると新たなる義息子の誕生を世界に向けて告げるように暗黒の生誕祭を見守る神々へ祝福と呪詛を要求する。

 

「さあ皆様、この子に祝福と憎悪を与えて頂戴! 東の最果てで魔王となり地上に君臨する運命を得たこの子に、聖なる言霊を捧げて頂戴!!」

「はは、良かろう! ヘファイストスよ! 己も道具越しに眺めるだけでなく、この愚者の申し子に祝福と呪いを与えてやれっ!!」

 

トートが虚空へと声を張り上げると、どこからともなく実物大の青銅造りの鷲が生き物のように翼を羽ばたかせて降りてくる。幽世に座す鍛冶神が送り込んだ使い魔だった。

 

「……黙れ、魔術師の守護者よ。元よりこやつに一杯食わされた借り、忘れておらぬ。小僧、我が神格を取り戻し、完全となった暁には真っ先に地上に降りて貴様を討つと誓約しよう! 忘れるな、貴様を討つはこのわしよ!」

 

一見平静に聞こえるが、その実は怨嗟と復讐心に彩られた言霊が呪詛となって新たなる神殺しの肉体にまとわりつく。新たなる神殺しと旧き鍛冶神との間で決して切れない逆縁に結ばれた瞬間であった。この瞬間からかの鍛冶神と将悟の間に(とも)(いただ)く天はなくなった。必ずやどちらかが死すべき時まで闘争と呪詛が消えることはないだろう。

 

「貴様が憎悪を与えるならば私は祝福を与えよう―――新たなる神殺しよ、赤坂将悟よ! 汝は我が智慧と魔術の権能を簒奪し、神殺しとなる。誰よりも賢く、狡猾であれ。それさえ出来れば汝は常に勝者となるだろう。これから先、汝の生涯は否応なく波乱に満ちたものとなるであろうが―――壮健であれ! 二度と会わぬことを願っておるぞ!!」

 

さらば、さらばと珍しく快活で楽し気な語調で別れを告げるトート。己の神力が少年に流れ込んでいくことを感じ取り、これが神殺しの生誕祭かと興味深く眺める。長い長い時を流浪し、見聞を広めてきた彼だが流石に神殺しが誕生する場面に立ち会う機会は無かった。それも己が捧げられる供物として立ち会うなど当然初めてだ!

 

最期だというのに、あるいは最期だからこそトートは愉快な心持ちであった。

 

これは転機だ。神殺しに生まれ変わる少年にとって一つの節目。平穏が争乱に、平凡が特異に、災厄こそが日常となる記念日となる。人並みの幸せとは縁が切れるだろうが、その代償に大いなる運命、大いなる流れに否応なく巻き込まれていくだろう。その流れに逆らい、牙を剥くことこそが神殺しの本懐。逆らい切れなくなった時が少年の命が失われるときだろう。

 

その命が尽き果てるまでに彼がどんな役割を果たすかは智慧の神たる彼を以てしても測ることはできないが…なに、己を打ち倒した神殺しなのだ。心配するだけ無用のお世話だろうとそれ以上の思索を打ち切る。

 

どこまでも軽やかな気分のままトートの意識はほどけ、霊体となって『不死の境界』へ飛び去っていく。保持する神格の一部は変わらず神殺しとなった少年に注ぎ込まれているが、それを気にすることもすぐになくなった。まつろわぬ神としての命数を完全に失い、真なる神、ただ神話の中に在る神へと戻ったからであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これが赤坂将悟による神殺しの軌跡。

彼にまつわる物語の始まりであり、人間としての終わりだった。

この時紡いだ順縁と逆縁は時に彼に味方し、時に敵となる。

 

いずれにせよ神殺し・赤坂将悟の長い永い生が波乱と災厄に満ちたものとなることだけは確定した未来だった。

 

 

 

 

 




赤坂将悟による神殺しの物語、如何だったでしょうか?

滝壺の女神こと白娘子は再登場の予定はありませんがいまも彼女は将悟の心の中に正負いずれの感情も思い起こす特別な思い出として残っています。

折々の場面でその残響が顔を覗かせることもあるかもしれません。

ともあれこれでこの章はおしまい。
読者(あなた)の心に何か少しだけでも残るものがあれば幸いです。

よろしければ何か一言ご感想をお願いします。













蛇足

……連続投稿しても普段と比べて反応が全然ないので正直かなり精神にダメージががが
マジで一言でいいので感想なり評価なり頂けるとありがたいです。

流石に延々と壁に向かってボールを投げ続けるような苦行は出来んです。
俺、感想乞食って呼ばれてもいいんだ。構って貰えるなら(真顔)



蛇足の蛇足
王様ってば内縁の妻に初恋話聞かせちゃうの?(意訳)な感想が多数寄せられましたが
敢えて言おう!

原作リスペクトです(やっぱり真顔)

実際ごどーさんは裡理に原作三巻におけるエリカとの同衾やらキスやら話してるはずだからね、仕方ないね。



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IF短編 『10年後の彼女』

今回更新が遅れたのは、

1/3がサボっていたからで、
1/3がリアルが忙しかったからで、
残りの1/3はアナザービギンズでキリも良いし、時間を無理やり飛ばして最期に智慧の王フルスペックモードと完全究極体フルパワーヴォバン侯爵の対決書いて完結してもいいかなって悩んでいたから。

最後のは割と真剣に悩んだが時間が経つうちにまあいいかってなって次の話を書き始めた。




それはそれとして静花可愛い(挨拶)
10年後の彼女をご覧ください。めっちゃ拗らせてるんで





 

はぁ、と勤めている会社の帰り道で深いため息を草薙静花は吐いた。

 

その暗さを含んだ嘆息は気が強く、気風の良い気性の彼女には到底似合わないものだった。静花を知る者はもちろん、静花自身すらそう思っていたが、いまこの時ばかりは抑え難かった。

 

悪いことがあった訳ではない。

 

むしろ慶事であると言うべきなのだろう。彼女の兄が、あのいい歳をして未だに怪しげな業界に片足を突っ込み、一年の半分は何をしているか掴めない自由人に遂に年貢の納めどきが来たのだ。

 

はっきり言ってしまうと、学生時代から複数の女性と交際(らしきもの)をしてきたあの草薙護堂が入籍した。つまりは結婚したのだ。

 

尤も女性関係を清算したというわけでは決してなく、入籍相手に形式を押し切られたというに過ぎない。結婚式も挙げる予定は無いらしいし、未だに兄の周りには多数の女性が侍っている。それは果たして結婚と言えるのか、という疑問は付きまとうものの本人たちは納得しているらしい。当然ながら他の女性たちは極めて、渋々、非常に不本意ながららしいが。

 

きっとこの結末に辿りつくまで数多の策謀やら修羅場やらが諸々あったのだろうが、ようやく暫定勝者が決定したというわけだ。

 

妹としては祖父譲りの悪癖もいい加減にしろ、と思わないでもないがいい加減彼女の堪忍袋の緒も擦り切れ、諦念の域に達しつつある。学生時代から付き合いが始まり、未だに親交のある”先輩”などはこの年になってようやく兄離れできてきたな、などと妄言を吐くのだが。

 

さておき、そんなことがあったのだが”何故か”静花は憂鬱な心情を引きずっていた。”どうしてかは分からないが”こういう後に引きずりそうな精神状態になった時は美味い酒を味わいながら、胸の内を吐き出すに限る。

 

懐から取り出した携帯電話の連絡帳を開き、適当な名前を探し出そうとして…手が止まる。

 

「…………」

 

何時もならこういう飲みの場に喜んで付き合ってくれる舎弟(ともだち)は幾らでもいるのだが、今この時だけは彼らと杯を交わし合いたくなかった。

 

彼らの前ではきっと自分はいつもの”勝気な、気風のいいデキる女”という仮面(つよがり)を被ってしまうだろうから。ストレス解消の場でストレスを溜め込むのは本末転倒だろう。気にしないという選択肢を選ぶには、きっと自分は少し見栄っ張りすぎるのだ。

 

とはいえそれなら誰が、という自問にしばし黙考する。

 

何時もなら兄や祖父を遠慮なく付き合わせるのだが今この時は顔を合わせたくない。彼ら以外で素直に胸襟を開け、頼ることのできる知り合い…しばしの間脳内の知人リストを総ざらいするが一名を覗き該当なし。その一名も”素直に”頼れるかという点で疑問符が付く。たぶん、話せば苦笑一つで付き合ってくれるだろうが、絶対にからかってくるだろう。

 

付き合いの幅が広い、と自負していたつもりであったが、こと”頼れる相手”となると当てはまらなかったらしい。

 

彼女に足りないのは付き合いの幅ではなく、もう少し相手に求めるハードルを下げることなのだが、身近にいる人物がやたらと器が大きい相手ばかりだったせいで感覚がマヒしていた。

 

ともかく候補に挙がるのが一名なのだから、多少難があろうと選択肢はシンプルだ。

 

「うー…」

 

立派な社会人としてバリバリ働くキャリアウーマンらしからぬ静花の口から子供っぽい唸り声が漏れる。

 

ツリ目で見るからに気が強い、デキる女という雰囲気の彼女だが、小柄で童顔気味な容姿のためプライベートの私服姿では未だに学生に間違われ、ナンパされることもそれなりにある。大体はその怜悧な眼光でひと睨みし、追い散らすのだが。

 

そんな彼女にも接する時に思わず童心に帰ってしまう相手が何人かはいる。例の先輩はその一人であり、かれこれ付き合いは10年にも及ぼうかという腐れ縁だった。

 

「……」

 

ふと沈黙し、過ぎ去った年月を思う。

 

10年、長いようで短く、短いようで長い年月だった。変わったものも、変わらなかったものもあるが、兄と”先輩”は変わらなかったものの筆頭だろう。

 

身体的には背が伸び、精悍な雰囲気が強まったようだが根本的な精神性はちっとも変わっていない。兄は兄で女癖の悪さと学生時代からちらほら片鱗のあった放浪癖は相変わらずだし、もう片方の”先輩”もその愉快犯的な性格と無駄に大きい器に変化はない。

 

対して自分といえば…まあまあ順当と言えるほどの変化、あるいは成長を遂げたと言っていいだろう。

 

小柄なのは相変わらずだが、それでも背は伸びたし女性的な部分も成長もした。それでも平均よりはちょっと上、といった程度だが。密かにこだわりを持っていたツインテールも今は解いて伸ばした髪を後ろに流している。誰が見ても立派な”大人の女”と答えるだろう。

 

大学も無事に卒業し中堅の商社に就職し、社会人として自立している。職場へは自宅通勤だが、家事を祖父に押し付けているわけではなく、住人全員で分担してやっているので自立している範疇に入るはずだ。

 

その後も益体も事をぐだぐだと考えた後、ようやく懐から携帯を取り出す。重い指の運びで連絡帳から探しだした11桁の数字をコール。

 

「もしもし? お久しぶりです。はい、静花です。草薙の…」

 

相手は電波の届かない未開の地を飛び回ることすらあると言う生粋の風来坊。繋がらない可能性もそれなりにあったのだが、タイミングが良かったらしい。

 

そのまま要件を告げると即座に了承の答えが返ってくる。お互いの生活圏が重ならない以上普通なら疎遠になって当然なのだが、なんだかんだこうして付き合いが続いているのはこうしたノリの良さというか積極的に互いを誘い、そして断らないやりとりが続いているからだろう。

 

さておき、静花から大雑把な現在地を聞いた将悟はそこならたまたま近くにいるとのたまり、すぐに行くと言葉を残してすぐに電話を切った。

 

前触れの一切ないまま電話を掛けたところにこの返し。相変わらずだなと眉をひそめた。そして宣言通り将悟はすぐに向こうから静花を見つけ、歩み寄ってきた。電話を切ってからおそらく10分と経っていない。

 

これが一度目なら凄い偶然だなで済ませるのだが、将悟はこの”たまたま”を常習犯的に繰り返してくるのだ。何度か問い詰めたがまともに答える気がないのか、適当にはぐらかしてくる。

 

この瓢げた先輩でなければストーカー疑惑が発生する珍事だが、この男に限ってはそんなイメージが一欠けらも湧いてこない。瞬間移動の超能力者ではないかと真剣に疑いたくなる神出鬼没っぷりだった。

 

「よう、久しぶり」

「相変わらず”偶然”が続きますね、先輩。お久しぶりです」

「まあな、良かれ悪しかれ”持ってる”方だと思うぞ、俺」

 

相変わらずの人を食った笑み。第一声も久しぶりの再会の割にお互いにそっけない。

 

会おうと思って連絡を取ると大体会えるため、いまいちそこらへんに有難みが無い先輩なのだ。言い換えると気軽に会って話せる間柄とも言えるのだが。

 

鋼鉄の面の皮に向けて皮肉とも言えない呆れた視線を一刺し、向けるがすぐに苦笑に変わる。この先輩を前にすると肩ひじを張るのが馬鹿馬鹿しくなってくるのだ。

 

「もう店は決めてるのか?」

「この辺りは同僚も通るので…。河岸(かし)を変えましょう。ちょっと遠いけど良いモノを揃えてるバーがあるんです」

「へえ…。期待してるぜ」

 

興味を惹かれた、という風韻を乗せた返事に任せてくださいと頷きながら先導し始めると、将悟もその隣に並んで歩き始める。ごく自然に肩と肩が触れ合う距離を保ったまま夜の街に歩き去っていく二人の姿は逢引と表現するのに不足は無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

洒落た雰囲気のバーに入り、カウンターに腰かけるなり静花は顔なじみらしいバーテンに向けて開口一番オーダーを出した。

 

「……とりあえず銘柄は何でも良いのでウィスキーをストレートで」

「最初からトバすな、おい。送ってくのは家の前までだぞ? 酔いつぶれるなよ」

 

呆れた調子で釘をさしてくる先輩に分かってますよと唇を尖らせて返す。話してみると意外と懐の広い先輩なのだが、何故か昔から似たようなタイプの兄とは微妙な仲なのだ。

 

険悪と言う程ではないが、酔いつぶれた静花を家まで送ったタイミングで鉢合わせれば、悪い方向に向かうのは目に見えていた。

 

「分かってますよ。……偶にはいいじゃないですか。今夜は思い切り飲みたい気分なんです」

「ザルを超えてワクのお前が酔っぱらうには確かにそれくらいのペースじゃないと間に合わんかもしれんけどよ」

 

あひる口をとがらせて子供っぽく反論する静花に処置無しとばかりに大袈裟に肩をすくめる将悟。少しばかりわざとらしいオーバーアクションに静花の吐き出した弱音を湿っぽい雰囲気にならないよう流す意図を感じ、気を遣われたな、と気付くがそれが意外と心地よい。

 

静花はこう見えて面倒見のいい姉御肌、他人のフォローをすることはあってもその逆の対応を受けた記憶がとんと無い。普段は苦にすることもないが、心が弱るとさり気ない優しさが心に染みてくる。

 

今夜は思い切り飲んでやろう、と前向きなのか後ろ向きなのか分からない決意を固める静花。だがその開き直りに似た決意が身内以外で数少ない遠慮なく頼れる”先輩”への信頼から来るものということだけは静花自身にすら否定しようがなかった。

 

「分かってます、分かってるんです…。でも」

 

はぁ、とあからさまに憂鬱そうな顔色のまま溜息を一つ。そして見るからにブスッとした顔で

 

「……今夜は、帰りたくないな」

 

などとのたまった後輩に思わず半眼となって、ツッコミを入れる。

 

「おい後輩。嫁さん子持ちの狼さんを挑発するような真似は止めろや」

「……そういえば先輩って既婚者でしたね」

 

狼さんの辺りを鼻で笑いつつ、この先輩が既婚者であると言う驚愕の事実を思い出す。

 

これほど家庭を持つという言葉が似合わない男が大学を卒業するなり、静花と親交を持つ前から交際していた女性と入籍し、盛大な結婚式を挙げたという話は噂で聞いていた。当初は一笑に付し、その後本人に冗談交じりに確認すると思わずひっくり返り、少しだけ心に痛みを覚えたのも今は懐かしい思い出だ。

 

結婚式に呼ばれないのは、まあギリギリ理解出来なくもないが知らせの一つもないのは水臭すぎるとクレームを入れたのだが、返ってきたのは兄経由で知ってると思っていた、という思いもかけない一言。兄に確認をとるとそういえば伝えるのを忘れていた、ととぼけた返事。どっちの方にも雷を落としたのは言うまでもない。

 

そんな過去を思い出しながら横に座る男の横顔をちらりと覗き込み。

 

「うわ、似合わない」

 

と正直な心情を漏らすと

 

「うんまあ俺もそう思う」

 

と真顔で返された。

 

「…プッ」

 

その何でもない返しが何故かおかしくなって思わず噴き出す。そのまま発作的な笑いの衝動に襲われ、腹を抱える程に大笑いしてしまった。

 

大笑いに笑い、声が尽きてもまだ腹を抱えて震えている。

 

どこか躁鬱の躁を思わせるハイテンションっぷりにそろそろ将悟がこれは何かあったなと察し始めるが、華麗にスルー。身内に開く懐は広い方だと自負しているがあまり押しつけがましい御節介は己の流儀ではないのだ。

 

静花はそのまま衝動が収まるまでひとしきり笑い倒すと、そのまま将悟の近況へと水を向ける。

 

「それで、先輩の方はどうなんですか? 奥さんにはいい加減愛想を尽かされましたか?」

「お生憎だが特段これと言った変化もない。順調かっつーと微妙だが」

 

最近息子から知らない人を見る目で見られるのが辛い、と冗談か本気なのか分かりづらいぼやきに自業自得だとジト目を返す。

 

「家庭を顧みない人には当然の対応だと思いますよ。いい加減一箇所に腰を落ち着けたらどうですか?」

「半分は向こうから厄介事が飛び込んでくるんだよ。俺以外に対処できる奴は…いるけど任せるとマズイことになるような連中ばっかだし」

「つまりもう半分は自分から顔を突っ込んでるんじゃないですか? そういうところはほんと学生時代から変わりませんよねぇ」

 

この先輩、どうも高校時代から頻繁に学校をさぼってぶらりと各所をほっつきまわっていたという。三つ子の魂百までとは言うがいい加減落ち着きの一つも備えていいと思うのだが…。

 

一方で落ち着いた雰囲気の赤坂将悟、というイメージが全く湧かないためこれはこれで”らしい”と言えるのかもしれない。

 

「というかほんと奥さんとか奥さんの実家とか文句言ってこないんですか。普通ここまで好き勝手動き回っている男の人を許容してくれる懐の広い人ってそんなにいないと思うんですけど」

「おいおい、他所様の家庭を勝手に崩壊の危機にあると決めつけるなよ。上手くやってるとも問題がないとも言わんが、離婚する予定は当分ないぞ」

「そこが本当に意外です…」

 

一般的には逆玉の輿というらしいがその割に相手の家に束縛される様子は一切ない。相変わらずどことも知れない場所をほっつき回っているらしく、たまに二人で酒を嗜みに行ったときなどは大体知らない国名や地名、馴染みのない響きの人名がポンポンと口から飛び出してくる。

 

そもそも静花はこの男の正式な職業すら知らない。一度訪ねてみたことがあったのだがトラブルシューター兼クリエイター兼学者兼王様兼―――などと関連性の全くない職業を羅列され、なんだそれはと突っ込みを入れた記憶が蘇った。

 

いやほんと自分はどうしてこんな不審人物と親交を続けているのだろう、と一瞬真剣な疑問を覚えるが、アルコールが回り始めた頭はすぐに疑問を放棄してしまう。それに頼り甲斐という意味ではこの男以上の人物はそうそう思い当たらない。

 

清濁併せ呑むのは草薙一族に共通する気性。静花もその例外に漏れないため、あっさりと不審人物への疑問を追いやってしまうのだった。

 

こうした潔いまでの割り切りっぷりが、呪術の存在など何一つ知らないにもかかわらず、神殺し・赤坂将悟と深い親交を築けている所以なのかもしれない。

 

さておき、相も変らぬ将悟の悪癖への批判から互いの近況報告が始まっていく。

 

将悟が最近足を延ばした外国の景色や知り合った人物、その土地の風物について語れば、静花も職場の人間関係や処理したトラブルを語る。ゲラゲラと、クスクスと笑いを挟みながらも和やかに盛り上がりを見せていく。

 

「そういや草薙と言えば兄の方は―――」

 

しばらくは話の種も尽きそうになかったが、適当なところで彼女の兄について話を向ける。さぞ鬱憤が溜まっているのだろうとガス抜きをするくらいのつもりだったのだが、ここで予想以上の食いつきを見せた。

 

よくぞ言ってくれた、とばかりに次から次へと愚痴の数々が溢れ出る。最近の出来事だけではなく、学生時代にやらかした数々の不祥事も混じっていた。幾つか、というか大部分は将悟にも聞き覚えがあったので、あまり真剣に耳を傾けずひたすら相槌を打ちながら酒とつまみを喉に流し込む作業に没頭する。

 

やがて遂に護堂の近況、将悟の耳にも入っていた”入籍”についての話が出た。

 

「結婚するっていうのに兄さん…お兄ちゃんってば相変わらずなんですよー…。いい加減一人に絞って真面目にお付き合いすれば、なんとか…私も、安心、して…」

 

気が緩み、普段は抑えている”お兄ちゃん”呼びがぽろっと零れる。零れて、しまった。

 

「あ、あれ…」

 

何故だろう…。

気が付けばグス、という鼻声と共に一粒、二粒涙が静花の頬を伝っていく。

 

「すいません…。なんでだろ、悲しいことなんて、なにも…ない、のに―――」

 

言葉を絞り出すうちにどんどんと胸の痛みが増していき、言葉も途切れ途切れになる。溢れ出る涙の粒が流れに変わり、やがて堪えきれなくなった静花はカウンターに突っ伏して嗚咽を漏らし始めた。

 

「…………う、ぅぐぅ」

 

お兄ちゃんの馬鹿、と隣にいる将悟の耳に聞こえるか聞こえない程の音量で届く嗚咽に将悟は酒を一口呷り、むべなるかなと天を仰いだ。予想外のような、そうでないような。

 

こうまで彼女が追い詰められた一端にはやはり草薙護堂が関わっているのだろう。

 

「ま、女心なんて分からんけどさ。誰でも理由もなく泣きたくなる時ぐらいあるだろうよ」

 

どこか察した気配が視線に籠りつつも、敢えて気付かないふりをしてポンと背中を叩いてやる。ついでに何が起こったかと視線を向けてくるバーテンにそっとしておいてくれと首を振りながらアイコンタクト。

 

「泣け泣け、泣いちまえ。泣くのに飽きるくらい涙を溢したら、酔いつぶれるまで飲んじまえ。何一つ解決しないだろうけどさ、少しは楽になるだろ」

 

心の余裕ってのは大事だ、と慰めのようなアドバイスのような言葉をかけるとそれ以上無暗に励ましの声はかけなかった。いま静花に必要なのは誰かの言葉よりもオーバーフロウした感情を咀嚼し、飲み込むための時間だと分かっていたからである。

 

そのまま、しばしの時が流れる。バーテンが空気を呼んだのか、店内に流れるBGMはゆったりとした、心を安らがせるような曲調に変わっていた。

 

「……ちょっとは、落ち着いたか?」

 

しばらくして、嗚咽が収まり始めた頃を見計らって将悟から声をかける。今ばかりは生来のひねくれ者故に滅多に見せない労わりがたっぷりと声音に籠っていた。静花もそれを察し、複数の意味で頬を赤らめ、恥ずかしそうに将悟を見遣る。

 

「はい。…あの、御見苦しいところを」

「今更だろ。学生時代、散々にお兄ちゃんの馬鹿! 嫌い! なんて聞かされ続けた身としてはその感想は十年遅いぞ」

「―――もう! 人がせっかく真面目に謝ろうとしてたのに!?」

「馬鹿、そーゆーのはいいんだよ。俺、先輩。お前、後輩。一々細かいこと気にすんな。困ったら、頼れ」

 

地球の裏側にいてもなんとかすっから、と。ただし殺し合いの最中だけは勘弁な、とも付け加えたが。お茶らけた雰囲気のくせに、気持ちだけはあくまで真情を込めて言う。

 

なお将悟の権能を総動員すれば言葉の通りの真似が可能だ。だから今の発言は一〇〇%真剣(マジ)であり、付き合いの長い後輩にも自然とそれは伝わってしまう。

 

己たちに、湿っぽくシリアスな雰囲気など似合わないのだと暗黙裡の内に伝えながらも溢れだした静花の感情に対してはあくまで誠実に向き合うことを告げる。

 

普段ならばここで静花も調子を取り戻し、普段通りとまではいかずとも取り繕えるくらいの精神状態には復調出来ていただろう。

 

しかし今日ばかりは潮目が違っていた。あるいは静花が如何に気風がよく、さっぱりとした気性であると言ってもあくまで妙齢の乙女であることを忘れていたからかもしれない。

 

「あの、ちょっと、いいですか?」

「うん?」

 

その後もやはりもじもじと迷った様子の静花から心底恥ずかしそうに、蚊の鳴くような声が漏れる。

 

「―――今日は、帰りたくない、です」

 

さっきの冗談じみた一言とはかけ離れた、切実な響きの籠った”後輩からのお願い”。普段の勝気な様子からかけ離れた小動物のように弱々しい姿で上目遣いに見つめられた将悟に最早勝ち目は無かった。

 

しゃーねーな、と呟くと。

 

「……ま、バーをハシゴして飲み明かすくらいは付き合ってやるよ。一応”先輩”だからな」

 

だから頼っていいぞ、と微かに聞こえたのは静花の心情を慮って小声で言ってくれたからかそれとも自分の願望だったのだろうか。

 

はい、としおらしく頷く静花は己の中である一点に傾いていた比重が急速に将悟へと揺らいでいくことを自覚していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最初に入ったバーを後にした将悟達は適当に目星をつけた二軒目、三軒目の居酒屋をハシゴしては店の在庫を飲みつぶす勢いで片っ端から酒類を注文していく。

 

当然お会計は跳ね上がり、既に六桁の金額が財布から飛び立っていった。だがその甲斐はあったと言うべきか、一時どん底に落ち込んでいた静花のテンションは急上昇、そのままお空に飛んで行かんばかりである。

 

言い換えればそれだけ酔っぱらって無防備というわけで、人間性に問題大ありな将悟にすらこれはちょっと注意しなければダメかなと思わせる程だった。男は何時だって狼になりうるのだ。

 

「えへへへ…」

 

すっかり酔っぱらった静花がゴロゴロと喉を鳴らして将悟に擦り寄り、甘えるように体を押し付けてくる。恐らく彼女の身内ですら見たことのないだろうはっちゃけっぷりに困惑しつつ、なんでこんなことになったのかと酔いで鈍った頭を回す。

 

おかしい、俺はいつも通り後輩に接しただけなのに…と。甘粕辺りが聞けばむしろそのせいじゃないですかねぇ、と呆れたように返しただろう。普段のブラコン状態ならまだしも、いわば重石が外れ、何処へ飛んでいくか分からない精神状態のいま、”ああ”されれば転んでしまうのも無理はないだろうと。

 

「せぇんぱい♪」

「んー?」

「呼んでみただけー」

 

おいおい静花さんや、君ってそんなキャラだったかい? 普段とかけ離れ過ぎた後輩の姿に遠い目をしつつ胸の内だけでぼやきを漏らす。なおそんな後輩に当てられて将悟のキャラも多少崩れていたが生憎突っ込む者は誰もいなかった。

 

旗から見れば恋人同士の、しかし内情を知れば危うい限りの一幕はそのまま延々ぐだぐだと続くと思われたが…あまりにもあっさりとその均衡は崩れ去ってしまう。

 

要因は一つだ―――我慢が出来なかった。

 

「ねー、せんぱぁい…」

 

酔ったふりを、否、実際酔っぱらっていたのだろう。自分のものとは思えないほど緩んだ、甘ったるい声をかけてしなだれかかり、苦笑交じりに手を回して支えようとする”男”の襟元を無理やり引っ張り、自身の唇と相手のそれを無理やり重ね合せる。

 

『―――――――』

 

この時両者の胸に走った衝撃は如何ほどであったか。

 

赤坂将悟、世に知られぬ魔王の称号を持つ青年であり人間離れした勘の良さを持つ。だが一方で日常生活では戦闘時ほどの機敏さも勘の良さも発揮されず、一度懐に入れた相手にはとことん甘い性質である。つまるところ()()()()()()がすこぶる薄い男なのだ。

 

そんな、見事に”奇襲”を喰らった将悟といえば。

 

「お前な…」

 

咄嗟に引き剥がし、叱責しようとする。

 

静花のことは純粋に好きだ。知り合った頃の彼女は、年月を重ねるうちに女性としても花が開くように魅力を増してきっと誰もが認める美人へと成長した。些か”女王様”としての気質が強すぎるが、魅力的であることを否定できる者はいないだろう。

 

だが己は既婚者で、妻以外の女性とそういうことはするべきでない、という常識の欠片くらいは弁えていた。

 

「だって…」

 

咄嗟に抗弁しようとするが、だって…の続きが出てこない、見つからない。当たり前だ、こんなのどう見ても静花から浮気に誘ったようにしか見えない。

 

でも自分からこの暖かさから離れることは出来なかった。如何に気の強い性格の静花でも、人肌の暖かさに縋りたくなる時だってある。

 

静花に出来るのはグスグスと嗚咽を漏らし、無理やり借りた胸に顔を押し付け、零れ落ちる涙で濡らしていくことだけだった。

 

自分らしくない、などとは百も承知だった。これではまるで恋に破れ、みっともなく男に縋り付く弱い女そのものだ。

 

「あー、もー…」

 

とうの昔に擦り切れ果てた良識の残骸と己に同格の魔王の存在が絡まり合って将悟の脳裏に警告を発するが、ここですげなく突き放せる男なら最初から神殺しなどという因業な存在になっていない。

 

厄介事の火種となると感じながらも、その未来を受け入れる。やがて直面するだろう問題は未来の自分が考えればいいのだ。先のことを考えて動けるようなら後から考える愚者、エピメテウスの申し子などと呼ばれないだろう。

 

「ったく…」

 

困ったような、そのくせ静花の醜態を受け入れる響きの籠った苦笑を漏らすと、静花の頭に手をやってくしゃりと優しく頭を撫でる。人肌のほのかな暖かさを感じ、少しだけほっとする自分がいることを静花は自覚した。

 

自分の弱さを、受け入れてもらえた。夢心地のままずぶずぶと泥沼に沈んでいくような、恐ろしく甘美でいながら危険な感覚に身を委ねそうになる。

 

ちょろい女と思われても今はこの暖かさに浸っていたかった。例えそれがどうしようもなく胸を刺す喪失感を埋める代償行為だと分かっていたとしても。

 

「キツイか?」

 

こくん、と頷く。

 

「一人でいたい?」

 

ふるふる、と頭を横に振る。

 

「家に帰るか? 送ってく」

 

先ほどより勢いよく、ふるふると。

 

「なら、俺は一緒にいた方がいいか?」

 

少し迷ってからこくん、と頭を縦に振る。

 

「……俺の家に来て、飲み直すか?」

 

おずおずと将悟の様子を伺ってから、こくん。

 

あのお転婆娘が随分としおらしく、可愛らしくなったものだなと苦笑しながらあまりにも情緒不安定な後輩に思った以上に重傷だとこっそり頭を掻く。

 

なんとなくこうなった原因に察しはついていたが、どうも予想外に拗らせていたらしい。

 

たぶん初恋だったのだろうなぁ、と今ではお互いに腹の底まで気性の知れた後輩を思う。岡目八目と言うが、他人だからこそ見えてくるものもあるのだ。

 

草薙護堂の入籍、静花がここまで心を揺らしてしまったのはそれだろう。

 

失恋、というには本来両者の関係性から不適切な表現なのだろう。なにせ護堂と静花の二人は実の兄妹なのだから。だがやはり言葉にするならその二文字が最も近いと将悟は考える。

 

草薙静花はブラコンである。それも少しばかり度が過ぎたブラコンだ。

 

決して本気ではなくかつ無意識だろうが、実の兄に対してやや行き過ぎた慕情を抱いてしまっていたのだろう。草薙護堂の女たらしっぷりを考えれば無理はない。なにせあの天然女殺しと幼少から接してきたのだから。

 

護堂が静花が納得できる形で女性関係を清算、せめて今回のように形式だけでも区切りをつければ吹っ切れたのかもしれない。だがこの10年間彼と彼女たちは一線を超えながらも円満にやってきた。言い換えれば大きな変化の無いままぬるま湯のような関係を続けてきたとも言える。いや、しっかりやることはやってたらしいが。

 

今回の入籍騒動が契機となって10年間に渡って溜め込み続け、澱のように積み重なった感情が遂に爆発した。つまりはそういうことなのだろう。

 

お付きの少女達、特にエリカ・ブランデッリ辺りの価値観に大分毒されてきていた気配もあるし、護堂ばかりを責めるのは不公平なのだろうが……生憎、将悟は身内びいきが大好きな魔王様だ。可愛い後輩を知らずとは言え追い詰めた不出来な兄に報復の一つもくれてやろうと胸の内の閻魔帳にしっかりと書き加えておく。

 

ともかく、目下重要なのはグスグスと泣き崩れる後輩のフォローだ。

 

自宅に静花を招く。恵那に話を通す必要はあるが、これはそれほど問題になるまい。元々浮気でも何でもないし、仮にそういう相手がいても浮気そのものではなく浮気相手の存在を伝えなかったことを怒る。そんな男に都合の良すぎる価値観を持った嫁さんなのだ。

 

そもそも自宅には恵那や長姉長男(ただし片方は人ではない)がいるはずだからおかしなことにはなるまい。一部デリカシーやエアリーディング能力に欠けているため、無遠慮に接する恐れがあったものの、そこは家長としての強権で寝室辺りに押し込むつもりだった。

 

この時、将悟は失念していた。

 

恵那が神がかりの資質を引き継いだ息子を俗気の浄化と鍛錬のため将悟の所有する現世と幽世の境に建つ”マヨヒガ”へ連れて行っていたことを。そして二人の形質を引き継ぐ娘にして恵那の佩刀たる長姉は言うまでもなく母に付き従うため、将悟の自宅にはいま現在誰もいない。

 

時に妻すらほったらかして世界中を放浪して回る風来坊らしい失敗だったが、結果的に二人きりとなった”男”と”女”は行きつくところまで行ってしまう。

 

それどころか十月十日の後、”女”は珠の様な女児を出産する。本人が知らないところであらゆる日本の業界関係者から”姫”と尊崇されることになる赤子、その誕生の契機は誰も意図しないところから始まっていたのである。

 

赤坂将悟はのちに供述する。

 

『絶対に厄介事になると分かっていた。草薙の野郎と抜き差しならない殺し合いが起きる可能性も十分すぎるほどあった。恵那もいるし、理性的に考えるなら引きはがして落ち着かせてから家まで送るのが正解なんだろう。

 ―――それはさておきここで泣いてるいろんな意味で可愛い”後輩”を放っておけるなら俺はいま王様稼業なんてやってねえ』

 

だから俺は謝らない、と胸を張って甘粕に言い放ったあと何が起こったかは定かではない。ただし部屋の外からでも聞こえる程の騒音を交わし合うやりとりがあったのは確かである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――後年、日本呪術界に一時冷戦下の米ソ間並の緊張状態が走る時期が生じる。加えてその時期に日ノ本の羅刹王、赤坂将悟と草薙護堂が複数回激突を繰り返したことが複数の筋から確定情報として認められた。

 

このとき関係者は『軽率な振る舞いと誤解が火種になって降り積もった感情の爆発を誘発した』と具体的な詳細に関して口を濁す。

 

ただその時期の前後に二人と親しいとある女性が妊娠、出産する出来事があったのだがそのことについて触れるものは誰もいなかったという…。

 

 

 




見方によっては傷心の女の子に優しい言葉をかけてコマしたと言えなくもない絵面


以降、蛇足オブ蛇足

死ぬほどどうでもいい上に本編で使われることのない死に設定のため読み飛ばしても全く問題は無い。これはあくまでIFルートなので。



静花ルート

このIF短編にてウチの王様と静花がルートクリアする瞬間が描かれたが、実は好感度的には学生時代(流石に知り合ってから数年は経過)で既にこうなってもおかしくなかった。

それが10年間に伸びたのはゲーム的に表現するとある一つの条件がクリアされず、ルートがロックされていたから。

その条件はぶっちゃけ護堂の結婚、もしくはそれに類似する出来事。要するに静花が護堂を吹っ切れるきっかけなら何でもよかった。静花も本気で肉親の情を超えて愛してるとかいう訳でもなかったし。

だがこいつらがそこらへんの関係をうやむやのままなんとなく続けてしまっていたため、吹っ切るに吹っ切れずうだうだやっていた。

今回で一気に行きつくところに行ったのは10年で降り積もった感情が溢れだしてしまったからだとも言える。護堂はあくまでキッカケであって、根本的な原因は静花が色々と拗らせていた点が大きい。そこで将悟に転んだのはタイミングが悪かった。あるいは良かったから。

その後もなんだかんだゴタゴタがあったが、最終的に関係者全員が納得する(納得したとは言ってない)形で収まった模様。

恵那は娘ともども静花に一緒に暮らしてはどうかと普通に提案したらしいが、流石にやんわりと断り、実家でシングルマザーとして頑張り始めた。風来坊なだけあり、将悟もそれなりの頻度で顔を出すが三回に一回くらいの確率で護堂と顔を合わせて険悪な雰囲気になるのでやがて出禁になった。

なお流石に清秋院家を通じて再就職の斡旋や有形無形の援助は行った。草薙一族からものすごいヘイトが将悟に集まったらしいが、時々親族の集まりに呼ばれていびられる程度なので実害はない。面の皮の厚さなら人類屈指だし。

更なる未来ネタを投下すると思春期に入った娘に一連の経緯を知られ、蛇蝎の如く嫌われた。図太さに定評のある魔王もこれには堪えたらしい。ザマァ、と委員会構成員の心が一つになったらしいが残当だった。




護堂との抗争

あと護堂を擁護しておくと、彼が怒ったのは将悟が静花に手を出したことでも二股をかけたことでもない。少なくともその点において自分が怒る資格がないのは自覚している。

怒ったのは静花のお腹の中にいる子供の父親が不明かつ”認知されていない”状況で、妹を見舞いに来たタイミングで折あしく父親の正体を知ったから。

ひとの妹に手を出すならばきっちり責任とれと迫り、うるせえそれができるならやっとるわとこじれて戦争(物理)になった。

逆に将悟の視点から言い訳すると普通に認知する気はあったし、嫁にも子供が出来た時点で打ち明けていた。ただ当の静花がそれを受け入れなかった。これは静花が元々独立独歩の気性であり、また自分から浮気に誘ったという負い目があったため。

二人がもうちょっと理性的なら抗争は起きなかった。逆に言うと二人の間に積み重なった悪感情がこの一件を火種に燃え上がって、ついでに東京も物理的に熱く燃え上がった。



余談

この数年後、恵那・裕理・静花というママさん連合()が結成される。誰も予想していなかったが古代ローマ皇帝(カンピオーネ)に対する元老院(よくしりょく)となる模様。つってもうちの王様 VS 原作主人公 という場面限定で2回に1回停戦させられたら御の字というレベル。だが実際いなければ種々の被害が漏れなく倍増していたと思われるので、ある意味王様連中よりも日本呪術界の連中から尊崇の念を受けることになる。

なお他の馨や甘粕、エリカやリリアナと言った面子は各陣営の屋台骨として活躍しているので権力はこっちの方が上。代わりにママさん連合()の権威が天元突破状態なだけ。

なお更に数年後、この暫定呼称:元老院(ママさん連合())に対カンピオーネ最終兵器(日本限定)、娘にして姪っ子が加わる模様。



あとがき

某作品に影響されて初めて未来ネタ書いてみたが結構楽しかったです(小並感)
アレだな、本編に関係ないからって本気でどうでもいいところまで設定作ってブチ撒けるのがなんとも楽しい。無責任に妄想するだけ妄想してそれを晒す。露出狂の喜びとはこういうものなのかもしれない(真顔)。

これで味を占めたら話の末尾辺りで小ネタ作ってやるかもしれないが、めんどくさくなってやらないかもしれない。

以上、自分の怠惰癖を隠さなくなった作者からでした。


PS

アナザー・ビギンズ、たくさんの評価と感想ありがとうございました。
評価もオレンジから赤にかわりましたし、大感謝であります。

話は変わりますが原作も完結秒読みになったせいか色々自重を投げ捨て始めましたね、ランスロットとか。
流石にパワーバランス的に考えてどうかなーと思ってお蔵入りにしてたアイデアがここに来て息を吹き返し始めました。

まつろわぬ女神・ハクジョウシ、再登場するかもです。
もちろん全くそのまま完全復活というわけにはいかないですが。

原作のくだりと絡めてのヒント:将悟が簒奪予定の権能に()()()()()()()()()()()()を持つものがあります。



20161104追記
活動報告にアナザー・ビギンズで登場した半身を捥ぎ取られた鍛冶神ヘファイストスに関するヒントを載せました。
お時間のある方はちょっと眺めて頭を捻っては如何でしょう?




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野蛮な狩猟 ①

短編的な。
3話構成。一日一話投稿します。


日本から遥々飛行機を用いてロンドンの地に降り立った赤坂将悟一行。

長旅の無聊に自身が神殺しに至るまでの一連の騒動に相棒の少女に語り聞かせ、休憩や睡眠を挟むうちにひとまずヒースロー空港に着いていた。

 

無事に飛行機から降り立ち、若干の時差ボケを感じながらも将悟は無暗にタフな肉体に任せて既に空港内を歩いている。

その傍らにいつもいる少女の姿は無い。

 

どうにも一連の騒動に関する話を語り聞かせてから少女の様子がおかしいのだ。

 

具体的には普段よりどこか心ここに在らずな風情だった。

そんな少女を適当に確保した長椅子に置いて将悟はブラブラと人でごった返す空港をほっつき回る。

 

恵那のことが気にならないわけではないが、声をかけても気のない返事を返すばかり。どうも彼女自身自分の気持ちを探っている様子なので邪魔することもないだろう、と。それに前々から決まっていたこともあって今回の渡英では空港まで賢人議会が迎えを寄越す手はずとなっていたのだ。

 

尤も将悟にわざわざ迎えの人間を探すつもりなど全くない。

 

仮にも己は魔王の雷名を持つ者なのだ。自身の人相を把握していない人間がわざわざ迎えになど来るはずもない、目立つところをほっつき歩いていれば向こうから見つかるだろう…と非効率的かつ適当過ぎる考えのもと種々雑多な人種の入り混じる空港を悠々と見物に回る。ヒースロー空港は国際線の利用者数が世界屈指の大空港。自然行き交う人込みの人種、国籍、年齢は千差万別で在り、人数は膨大だった。

 

―――と、ここで異国の空港をほっつき回っていた将悟の足が止まる。

 

目に留まった先には無数の人混み。

見ると有名人でもやってきたのかどうも件の人物を取り巻くように人垣ができているようだ。群衆のざわめきに耳を傾けると「…すごい美人ね」「もしかして貴族の御令嬢じゃないか」などと対象の容姿、雰囲気を感嘆交じりに賛美する呟きで満ちている。

 

貴族の御令嬢、の辺りで思わずピンと来た将悟。

 

人混みから首を伸ばして視界に“貴族の御令嬢”を入れると……ビンゴだった。意外な、というより本来いるはずのない、だが割とあっさりやっちゃいそうな人物の姿を発見する。どうも己がやろうとしたことをそのままやられたようだった。

 

要するに己が見つけるのではなく、向こうの方から見つけてもらおう…と。

 

その思惑は見事に成就したのだが、もちろんあの人混みをかき分けて渦中の人物に突撃など御免こうむる。無暗に人目に付きすぎるし、場違い感が半端ではない。

 

条件反射的に人混みから離れ、比較的閑散とした区画まで行くと懐から携帯電話を取り出し、目当ての番号をコール。件の御令嬢と連絡を取る際に多用しているツールなので、例え“霊体”と言えど所持している可能性は高いと踏んだ。

 

しばしのコール音の後、ピッという音とともに予想通り通話が繋がる。

 

『こんにちは、魔王陛下。ロンドンの空は如何でしょう?』

「悪くないんじゃないか。尤も今の心情は青天の霹靂って感じだが」

『あら、まあ。悪名高き大魔王様がそのようなことを仰るなんて…凶事の前触れかしら』

 

通話口から聞こえる涼やかで淑やかな美声…言うまでもなくプリンセス・アリスのものだった。思わず向けた視線の先にいる“貴族の御令嬢”も当然右手に携帯を握り、通話している。

 

「知らねーよ。少なくとも“今回”俺は何もしてないぞ」

 

と、そんな含みのある将悟の発言に。

 

『……流石の鋭さでいらっしゃること! もしや既にご存じだったので?』

 

一拍の沈黙を挟んだアリスが呆れたように鋭い語気で問いを投げかけてくる。

直接的ではないもののなんらかの“厄介事”が持ち上がったと推測できる発言だった。

 

「適当なカマ掛けだよ。幾らフットワークが軽くても姫さんがわざわざ空港までお出迎え、なんてお堅いミス・エリクソンが許すわけねーだろ」

 

政治を理解する適性は無いが人を見る目はある将悟らしい言い草に、早合点したアリスの声音がちょっと恥ずかし気な響きを帯びる。そう、賢人議会のトップに近い立場であるアリスが幾ら神殺しとはいえわざわざ空港まで迎えに足を延ばす、というのはちょっとした異常事態だ。

 

となればそんな行動をアリスに取らせるだけの“何か”が起こったと考えるのが普通である。

 

『それもそうですね。貴方が意外と頭の回る方なのを忘れていました』

「意外と、は余計だ」

『普段が普段ですので。御自身の直感を信じられるのは良いのですが、端から見ているととても考えて行動しているようには到底思えませんから』

 

淡々とした毒舌で、己の行状について突っ込まれては将悟としても返す言葉は無い。

巻き込まれ、あるいは引き起こした騒動の渦中をその場その場を根拠のない直感で切り抜けていく将悟の動きは控えめに言って理解不能の域にある。アリスの言い分は不本意であっても尤もであると言えた。

 

「―――で、詳細を聞く前に一応確認したいことがあるんだが」

『こちらも予想はつきますが一応聞いておきます。なんでしょう?』

「アレクは? 英国で起こった騒動は主にあいつと賢人議会の管轄だろう?」

『管轄、というほどキチッとしたものではないのですが…。質問の答えを返しますと、一週間ほど前にいつもの冒険行で失踪しました』

「いつもの、かぁ…」

『ええ。いつもの、です』

 

危険と冒険、知的好奇心を満たす難問を何より愛する同族の予想通り過ぎる行動に思わずため息を吐く。遺憾ながら気忙しく天才肌の黒王子が“ちょっとした思い付き”あるいは“突然手に入った財宝への手掛かり”をきっかけに行先を誰にも告げずに失踪する事例、実は割と頻繁に起こっているのだ。

 

結果だけ視れば見事に面倒事を押し付けられた形になる将悟は英国に降り立った早々に暗雲が立ち込めてきたことを感じ取る。

 

ヴォバン侯爵との二度目の決闘から一か月以上平穏な時間を過ごしていたというのに、ちょっと自分から行動を起こしただけで“コレ”だ。己の意思など否応なく騒動と闘争と縁が切れない己の宿命にさすがにちょっとうんざりする。

 

「……OK。他に押し付けられる相手がいないんじゃしょうがない。俺がやるよ、その程度のボランティア精神は残ってる」

『それを聞いて安心しました。詳細は車中にてお話しますが、まず端的に事態を説明します』

 

声音だけでなく視線の先でもどこか居住まいを正した様子のアリスが“厄介ごと”の正体を告げる。

 

『サマセット州キャドバリー(キャッスル)にて“アーサー王を名乗る神獣以上の存在”を確認しました。周辺は対象の権能によるものか嵐の兆候が見られ、既に賢人議会の手によって封鎖されています』

 

―――うわ、面倒臭そう。

不謹慎ではあっても端的な心情が漏れそうになるのをなんとか堪えた将悟だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イングランド南西部サマセット州。

今回件の騒動が持ち上がった中心地である。

 

観光業が盛んな地域であり、地元の名産品はリンゴを原料としたシードル酒であるという。アリスの手配した車に揺られながら望む景色ものどかな田園地帯といった風情で、畑谷の内、牧草地にそこを歩く家畜の群れとひどく牧歌的な雰囲気だ。尤も顕現した存在の権能の影響か、分厚い暗雲が立ち込め、酷く重苦しく湿った空気になっているが。

 

そしてこの地域でアーサー王伝説と絡めて語るならばキャドバリー城の存在は外せない。尤も(キャッスル)と言っても城塞どころか石造りの建物すら碌に無い。だだっ広い丘の上に記念碑が一つぽつんと置かれているだけだ。

 

古くはケルト人が砦とした丘だったが、今はその面影はない。見るものが見れば丘周辺に残る盛り土や堀の痕跡に気付くだろうが、一見してはただの丘である。

 

このキャドバリー城こそアーサー王の居城、キャメロットであると主張した学者もいた…尤もキャメロットの候補地自体他に幾らでもあるのだが。そもそもその真偽…というかアーサー王からして実在したかもあやふやな人物なので眉に唾を付けて話を聞くのが正しいのだろうが、少なくともこの付近にはアーサー王と関連した伝承が幾つも残っているのは確かだ。

 

その一つがキャドバリー城近くのキング・アーサー・レインと呼ばれる古道であり、風の強い冬の夜はそこをアーサー王が猟犬を連れて疾駆すると言う伝説が19世紀には信じられていた。

 

―――否、キャドバリー城付近だけではない。イングランド各地にアーサー王を頭領とした猟犬や猟師、悪霊を率いる集団の伝承は存在する。ただしそれらの伝承におけるアーサー王は“ログレスの騎士王”というより“夜空を駆けまわる亡霊集団の頭領”としての性格が極めて強い。

 

というよりはっきり言えば頭領に相応しい人物としてアーサー王を引っ張ってきただけで在り、アーサー王の名はいわば飾り物で添え物。

 

故にその本質は“夜間の空中を疾駆する伝説上の狩猟団”―――時に魔女の騎行(ガンドライド)野蛮な狩猟(ワイルドハント)と呼ばれる伝承であり、その顕現体。いまサマセット州を荒らし回るまつろわぬ神ならざる存在の正体だった。

 

「……つまり神獣以上まつろわぬ神未満の雑魚ってわけだな」

 

とは、封鎖されたキャドバリー城の上空を一人の騎馬に跨った騎士を先頭に立てて縦横無尽に駆けまわる無数の亡霊群を見た将悟の感想である。ちなみにヒースロー空港からキャドバリー城は車でおおよそ3~4時間の距離と意外と近い。

 

「欧州各地で無数の目撃例、無数の名前を持つ“仮称”ワイルドハント。それが“アレ”の正体ってわけだ。焦って損した」

「流石に雑魚と言い切られると大慌てで王の来臨を願った我らの立場がないのですが」

「姫さんが思わせぶりな名前を上げるからだ。封印したアーサー王がどっかの馬鹿の手で復活したかと思った」

「……まあ、赤坂様なら連想して当然の御名ではありますね。ただ、正直我々としてもいまいち真性のまつろわぬ神なのか、アーサー王を名乗るだけの存在なのか判別できなかったもので」

 

迂闊に言い切ることが出来なかったのだとアリスは言う。

 

「別に構わんがね。ボランティアが楽になる分には大歓迎だ。見たところそこまで被害も出てないようだしな」

「まつろわぬ神ほど派手には活動していないのは確かですが、伝承通り彼らの姿を目撃した一般住民は残らず床に臥せったり突然の不幸に見舞われたりと地味に被害も出ていますからね?」

「ご愁傷さま。でもまあ、物理的にサマセット州が壊滅したとかじゃないんだ。マシな方だろ」

 

アリスは順調に社会的常識が死につつある将悟の発言に眉を潜めつつも、魔王の良識を鍛え直すような無為に注力するつもりは勿論ない。口を挟むのは目下必要な情報の提供に留めることとする。

 

「ちなみに魂をとっ捕まえられて、群れに無理やり加えられた可哀想な奴は…」

 

ワイルドハントを目撃したり、ユーモアを試す会話に失敗したものは時に無理やりその集団に加えられ、永遠の行軍を強いられるともいう。流石にそんな連中がいた場合もろともに消し飛ばすのは将悟の良心が咎める。多分いざとなればあっさり決断して“やって”しまうのだろうが。

 

「幸いいません。なので遠慮なく消し炭にしてくださって結構です」

「そりゃ重畳。無駄な手間が要らないってのはいいな」

 

語尾を楽しそうに跳ねさせてまで言い切るアリスに今度は将悟が呆れたような視線を向ける。魔王による大規模自然破壊も彼女にとっては夏の夜空に咲く花火を鑑賞するくらいの気持ちなのだ。相変わらず破天荒と言う人柄を絵に描いたような姫君だった。

 

「さて、と…」

 

じゃあ始末してくる、と気負いのない発言を残し、あっさりと『転移』。ワイルドハントの影響か、分厚い黒雲を孕んだ夜空の下に躍り出ると『創造』の言霊が口から零れ落ちていく。

 

「我は智慧の守護者なり。その言葉に力を与えるもの。幾万年を舟の中にある魔術師にして道の開拓者―――」

 

生み出すは二等辺三角形の形状をした銀に輝く板上の物体。トートと習合するテーベ三柱神の一、コンスの持ち物。その劣化コピーだ。

 

「―――顕れ出でよ、『月の舟』」

 

そのまま生み出した銀のサーフボートじみた代物に足を載せるとまるで視えない手で支えられているかのように滑らかな軌道を描き、空中を翔けていく。大気と言う波に乗るサーファーじみた滑空姿だった。

 

時折まつろわぬ神あたりに挑まれる空中戦用に生み出す『月の舟』である。尤も冥府と現世を易々と飛び越え、神速にすら至るだろう本家本元と異なり、精々が高速の空中戦に耐えうる程度の性能しか持たない代物に過ぎない。

 

だが眼前の狩猟団を相手にするには十分過ぎる。足元の『月の舟』に命じ、大気を切り裂きながら闇夜の亡霊集団と対峙する位置へと移動する。

 

「我は太陽神(ラー)の宰相にして心臓―――その威光を(あず)かり呪言を紡ぐ」

 

そして唱えるは《太陽》を『創造』するための言霊―――ただし、その規模は滅多にない程に大きなものだ。惜しみなく注がれる呪力に比例して加速度的に熱量を蓄えていく紅蓮の太陽。その威力は草薙護堂の最大火力、『白馬』にも匹敵する。

 

威力に比して過剰なまでの呪力を消費するため、費用対効果と言う意味では決して優秀と言い難い。万全の状態で二発が限界。三度目を試みれば途中で力尽きるだろう。

少なくともまつろわぬ神や同族連中相手に無策で使う気には一切なれない。

 

だがこの場の標的はまつろわぬ神に満たない程度の格しか持たない亡霊集団。策など必要なく、力押しで問題なく殲滅できるだろう。

 

「消し飛べ」

 

さながら弓弦から放たれた矢のように―――解放された紅蓮の奔流が夜空を切り裂いていく! 淡々とした殺害宣言とともに放たれた激烈なる一矢は極大の流れ星の如き鮮やかさ。

 

溢れ出る呪力に反応して将悟に向けて突撃態勢を整えようとしていた亡霊集団だが、それが完全に裏目に出た。

 

群勢の密度を高め、自身を(やじり)にいままさに夜空を疾走し、手に持った剣を突き立てんと気勢を挙げたアーサー王を名乗る狩猟団の頭領(ワイルド・ハンツマン)を紅蓮の奔流が飲み込んでいく。勿論頭領の後ろに続いていた有象無象の群れなどひとたまりもなかった。

 

文字通り灰すら残さず、群勢の八割以上が消し飛ばされる。ついでのようにサマセットの大地に赤黒い傷跡のような破壊痕を残して。

 

こうした群体型の神獣・神使の類は統率する核となる個体を持つのがセオリーである。今回の場合はアーサー王を名乗る騎士がそれにあたり、加えて群集団の大半が跡形も残らずに消滅した。僅かに生き残った者たちもあとは自然消滅するだけの残りかすに過ぎない。何をどうしても致命傷であり、致命的だ。

 

それを確信した将悟は一仕事を終えたとばかりに背を向け、

 

()()()

 

―――夜風が、ざわめいた。

 

「…………」

 

背筋を奔る嫌な予感に顔を顰め、振り向く。視線の先には今まさに呪力に還ろうとしている亡霊たち―――否、その中心でうっすらと光を放つ発光体の存在を夜目に優れた将悟は捉えた。さながら縋りつくように亡霊たちは発光体を中心に群れ集っている。

 

大分距離があり、加えて発光体はかなり小さい。恐らく赤子の拳ほどもないだろう。だがなんとなくつややかな光沢のある乳白色の石……の、ようなものに見えた。

 

その発光体から突如として()()()()()()()()()が溢れだし……虚空から濁流のように新たなる幽鬼死霊が零れ落ちていく。誕生した死霊の群れたちは轟く渦のように夜空を駆け抜けていく。その様はまさに百鬼夜行の如き有り様だった。

 

神獣程度の位階では到底なし得ぬ奇跡。如何なるからくりを以てかほんの十数秒、ごく短時間で壊滅したはずの野蛮なる狩猟団は復活した。

 

「うーわー…」

 

面倒くさいことになるかもしれない。

アリスから第一声を聞いたその時に感じたその予感はばっちり当たっていたらしい。

 

嫌なことばかりよく当たる己の勘に、さしもの将悟もうんざりした溜息を洩らした。

 

 

 

 

 

 

おまけ

 

 

 

ロンドン、ヒースロー空港。

多くの人が行き交う空の玄関口であるそこに、一人の日本人少女がぼんやりとロビーの長椅子に座り込んでいる。

 

手荷物の類は無い軽装、しかも洋の東西を問わず人目を引く美しさの持ち主であることもあって少女は人目を集めていた。

艶のある黒髪をロングで後ろに流し、視線の焦点が合わない茫洋としたさまはどこか日本人形のようにも見える。

 

もちろん彼女は清秋院恵那。『智慧の王』赤坂将悟の《剣》たる少女だった。

 

傍に彼女の王様の姿が見えないが、これは長旅に疲れた様子の彼女に配慮し、賢人議会からよこされているはずの迎えを一人で探しに行ったせいだった。尤も彼女がぼんやりと心ここに在らずな風情なのは長旅による疲労は全く無関係だったのだが。

 

清秋院恵那はゆっくりと頭の中で思い定まらない胸の内を探っていた。

 

先ほどからどうにも心が落ち着かない。心が落ち着かず、じっとしていられない精神状態なのだ。

何故こんなにも己は心を騒がしているのか、じっくりと胸中の思いを見定めている。

 

何時からこんな状態なのか、と問われれば長旅の道すがら彼女の王様が語った神殺しの物語を聞き終えた辺りからだと答えるだろう。

運命の悪戯から一振りの神具を巡る神々の争いに巻き込まれた少年の反骨と逆襲の軌跡、そして少年を援けた白き女神の結末。

 

一瞬の閃光のように鮮やかな物語だった。

 

最初の語り出しはどこかわくわくと心を沸き立たせ、鍛冶神の陥穽に嵌まった下りはハラハラとすぐに物語に引き込まれた彼女。その後も話が進むうちに一喜一憂を露わにする恵那に興が乗った将悟もついつい感情を込めて語り続けた。

 

郷愁や嘆き、寂しさと尊敬、愛おしさ―――そんな感情が混沌となって“彼女”について語る将悟に宿っていたのだ。

 

きっとその時だろう。どこか腑に落ちない、息苦しさのような感覚が恵那の胸の内に生まれたのは。そのもやもやとした曖昧模糊とした情動になんだろなーと己を顧みる恵那。結論は未だ出ていない。ただなんとなくその原因に察しはついていた。

 

このもやもやが生まれたのは“彼女”―――滝壺の女神こと白娘子が話に現れてからのことだ。その時、彼女の王様はとても一言では表現できない複雑な表情をしていた。一目見るだけで将悟にとって白娘子の存在が無二のものだったと思わせる程に。

 

そこにあったのは恋になる前に燃え落ちた熱情の残滓。

 

きっと“彼女”は王様にとって初恋だったのだ―――だが、それを自覚する前に“彼女”は逝ってしまった。あまりにも鮮烈すぎる生き様を魅せ、誰よりも深く己の存在を赤坂将悟の心に刻みつけて。

 

そして時間が過ぎる内に将悟が抱いた感情は昇華され、“彼女”の存在は一言で言い表せない複雑なものになってしまった。

 

触れ合った時間は僅か、だけどそれを補って余りあるほどに二人が駆け抜けた神殺しの軌跡は鮮烈だった。まるで一瞬で夜空に咲いて消え失せる花火のように。将悟の語る物語を聞いていた恵那が心乱す程に。

 

―――“彼女”が羨ましいと、認めざるを得ない程に。

 

「…あ、そっか」

 

そういうことなのか、と恵那は得心する。

何のことは無かった。自分は嫉妬していたのだ。女神のことを妬み、羨望しているのだと自覚する。

 

自覚し、もやもやが晴れた後に胸の内に訪れた感情は一言で表現できない。

まるで自分が年頃の少女のように、という新鮮な驚き。一層湧き上がってきた“彼女”への対抗心。そして()()

 

意外なことに湧き上がってきた感情の中に暗く、ネガティヴなものは無かった。ただ“負けない”という思いは逆に意外なほど熱く、激しかった。この瞬間、恵那の中で女神の立ち位置が“恋敵”あるいは“好敵手”とでも言うべき対象へと変化する。

 

ただ己の生き様で赤坂将悟を魅了する―――それはきっと今までに女神ただ一人がなし得た偉業だ。

 

己もまた斯く在りたい。ただ将悟のために命を捧げるのではなく、己の意思で以て貫いた誇りの形として。己が生き様をもって赤坂将悟の唯一無二(オンリーワン)になりたいのだと恵那は静かに自覚した。

 

「うん…」

 

心の中の迷いは晴れた。また一つ、恵那の中で目的が生まれ、目標と言うべき対象も出来た。まだまだ心のうちに整理できない感情もあるけれど、“彼女”の話を聞くことが出来てよかったと思う。

 

「よし、行こう」

 

ぼんやりとした視線を宙に向けていた少女は何処へ行ったやら。

目にやる気を漲らせた恵那が心機一転、力強い仕草で立ち上がった。

 

「あ、王様!」

 

同時に視界に軽やかな足取りで歩いてくる彼女の王様を捕え、ブンブンと手を振る。

人目に付く仕草に周囲の耳目が集まるが、恵那は一切気にせず自分から風のように軽やかに将悟へ駆け寄るとその腕を取り、抱き着いた。

 

「おいおい、どうした。いきなり」

「んー? なんでもないよ。もっと王様の近くにいたいって思っただけ」

 

長旅での疲れを見せていたはずの恵那がいきなりアグレッシブに迫ってくるのにやや困惑した声を出す将悟。

対して恵那は何処までもいつも通りの、それでいて決意を窺わせる声で応じた。

 

「王様!」

「ああ、どうした?」

「うふふ。なんでもないよー。これからもよろしくね…って言いたかっただけ」

 

なんだそりゃ、と頭を掻く王様にも構わず恵那はどこまでも明るく笑う。

 

(例え末期の時を迎えても―――幾久しく貴方の心に)

 

そうあれかし、と決意を込めて少女は誰にも知られずに決意を表明した。

 

 

 

 



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野蛮な狩猟 ②

サマセット州キャドバリー城跡地付近の民家にて。

賢人議会による封鎖が完了し、人気の全くない周辺一帯から適当な民家をチョイス。アリスと恵那を連れた将悟はそこを住民に無断で拠点として利用していた。

 

これまた無断で拝借したマグカップにミネラルウォーターを注ぎ、机を囲む三人の顔は暗い…と言う程ではないが手詰まり感がある。

無理もない。結果だけ言えば将悟は野蛮な狩猟団(ワイルドハント)を仕留めきれなかった。

 

「ぶっちゃけ、倒すのは問題ない。問題は倒したあとだ」

「首魁を討とうが、丸ごと全部消滅させようが平気で復活してきましたからね…」

「もうどうやって始末を付ければいいか分かんないね」

 

途方に暮れたと表現するには危機感が足りない。戦力的にはカンピオーネを擁する将悟が圧倒的に勝っているのだが、対する野蛮な狩猟団(ワイルドハント)のしぶとさもまた尋常ではなかった。だからこその弛緩しつつも閉塞した感のある空気が蔓延していたのだ。

 

ピンポイントで狩猟団の頭領(ワイルドハンツマン)を灰にしようが、あるいは周辺の自然環境ごと一体残らず焼き払い焦土と化そうが例の発光体から供給される大地の精気によってあっという間に復活してしまう。

 

将悟の権能がこうした力押しに向かないこともあって呪力の消耗も早い。根競べをすれば下手をすればこちらの方が先に値を上げる可能性もあった。そのためこれからまつろわぬ神とでも一戦交えられる程度の余力を残して適当なところで離脱し、現在に至るという訳だ。

 

「結果だけ言えば藪の蛇を突いただけになってしまいましたね…」

「あいつらがお城の近くから離れないのは幸いだけど、それがいつまで続くかも分からないしねー。おまけに空模様も悪化する一方だし」

「嵐と共に来たる死霊の群勢…。まあジジイみたいに自由に雷を落とす真似は出来ないだろうが」

「普通の嵐でも十分天災の範疇に入りますよ。比較対象がヴォバン侯爵という時点で間違っています」

 

まあ確かに、とズレかけていた常識を修正しつつ、建設的な議論を進めるべく発言する。

 

「とりあえず手持ちのカードじゃ通用しそうなのは一つだけだな。あるいは例の光る石をなんとかする方法もあるが…」

「なんとかなりますか?」

「正直手が思いつかん。アレ、奴らのどこかにあるのは確からしいがピンポイントでどこにあるかを探って奪い取るとなるとちょっと難しいな」

「じゃあ王様が全部ふっ飛ばしてから恵那が―――」

「却下。体調不良の病人に任せる戦場はありません。いまは万が一のリカバリーも効かねーんだぞ」

 

体調不良の病人のあたりでアリスがえっ? という顔になるが黙殺。どれだけ元気に見えようが恵那の身体の芯に残った疲労はまだ抜けていない。そんな状況で大役を任せるには不安が大きい。安全上でも、戦術的にもだ。

 

途端にぷくーっと頬を膨らませる恵那を無視してアリスの方に向き直る。

 

「逆に聞きたいんだが、アレ、あの光る石。賢人議会はなにか心当たりがないのか?」

「さて…いま本部に連絡してこの辺りの伝承や過去に起こった事件を浚っていますがあまり期待するのは酷ですね」

「まあ、分かったところでどうしようもないことの方が世の中多いしな」

 

と、過度の期待はしないと伝えつつ、話を進めていく。

 

「となれば…やはり『智慧の剣』しかありませんか」

「だが知っての通りアレを使うには対象となる神格の知識が必要になるんだが」

「そこですね。“仮称”ワイルドハントの正体…これは中々難しい謎解きとなりそうです」

「へぇ…姫さんでも、か?」

 

二人のやり取りに密かに恵那がそわそわとし始めたのだが、知ってか知らずか完全にスルー。事務的にやり取りを進めていく。

 

「ワイルドハント…別名はガンドライドにメニー・エルカン、あるいはペナンダンティ。細かくあげればきりがありません。そうした欧州各地で無数の伝承と無数の名前を持つ『夜間に空中飛行する集団』は枚挙に暇がありません。いえ、それどころかユーラシア大陸全土にすら…。それだけ古く、かつ各地に伝播した伝承ですから細かいバリエーションは無数にありますし、幾つもの神話的要素が混在しています。はっきり言えばこの伝承のルーツがどの地域のどの神話に当たるのかすら定かではないんです」

 

幾つか候補程度なら挙げられますが、と捕捉しつつ。

 

「加えてあの光る石との関係も気になるところですね」

「大方どこぞの神具か、竜骨あたりなんだろうが…」

「いえ…。如何に神具、天使の骸の類とは言えあの復活劇は少々異常過ぎるように思えます」

「奴らのアレ以上の隠し玉があると?」

 

不吉な予想に顔を顰める将悟にどこか思案気な様子で口元に手を当てるアリス。テンポのいい会話に恵那が疎外感を感じとってむくれるのを他所に、二人のやり取りは続いていく。

 

「というよりも野蛮な狩猟団(ワイルドハント)と例の発光体の相性が殊の外良いのではないのでしょうか? アレから引き出される呪力の質、最も近くで触れた赤坂様こそよく感じ取れたでしょう?」

「ああ。豊饒、それに大地にまつわる呪力…確かワイルドハントは…」

「冥府から現世へと上ってきた死霊の集団。つまりは冥府の眷属です。本来冥府神辺りの呪力と最も相性が良いはずですが―――」

「何故か奴らを回復させたのは“豊饒と大地”の呪力…。まあ、昔から生と死、大地と冥府、豊饒と不毛はコインの裏表で語られる関係だ。どっかで繋がっててもおかしくはない、が」

「考察を進める上での手がかり、彼らを討つ“剣”を研ぎあげる一助となるでしょう。頭の隅に留めておいて損はありません」

 

恐らくはこの謎、冥府の眷属であるワイルドハントと大地の精気との関係性が解ければ奴らを切り裂く『剣』を手に入れることが出来るはずだ。

 

「改めてワイルドハントにまつわる要素を整理していきましょう。あるいはその中にヒントがあるかもしれません」

「了解。正直俺も大して詳しいわけじゃないしな。頼むぜ、先生」

「魔王陛下がそうも言われるならば精一杯勤めましょう」

 

どこか悪戯っぽい笑顔を浮かべてのやり取り。打てば響くと称するに相応しいやりとりに恵那の頬がますますぷくーっと膨らんでいくが興の乗った魔王はこれを見過ごしてしまう。もう片方のプリンセスは見逃すことは無かったが、例によって意外とゴシップ好きかつ野次馬根性に溢れた精神性の持ち主のため敢えてこれをスルーする。

 

「一般的にワイルドハントは冥府から地上に彷徨い出た死霊の集団です。幾らでも例外はありますが概ね特定の時期にのみ目撃されるという伝承が付随することが多いですね。北欧では10月31日(ハロウィン)から冬至の祝祭(ユールタイド)の時期、特に10月31日(ハロウィン)の夜は最も現世と冥界を隔てる壁が薄くなる一夜であると言われています。尤も別の地域ではまた別の時期に出現することが多いのですが」

 

と続ける

 

「また彼らを目撃した者はユーモアを試され、成功すれば黄金を。失敗すれば魂を捕えられ、永遠に猟団の一員に加えられるとも。あるいはただ単に目撃したものを不幸にするとか、大きな戦乱や疫病など不吉な事象を呼び込むという伝承もあります」

 

災厄の前触れという点ではケルト系の泣き女(バンシー)辺りとも要素を共通しますねとつなげる。

 

「特に主宰者の来歴は本当に多種多様ですよ。ここグレートブリテン島ではアーサー王が著名ですが、それ以外にも妖精王に化かされ、永遠に地上に降り立つことを禁じられたヘルラ王…ああ、彼の伝承は日本の浦島説話に似た要素(エッセンス)を含みます。北欧辺りでは死せる戦士達(エインヘリャル)を率いる戦神オーディンが。ドイツでは終油の秘蹟を拒否し永遠の狩りを願ったために梟が先導する犬の群れを率いて森の中をゆくというハンス・フォン・ハックレンベルク…。まだまだありますが、大雑把に語るだけでも日が傾くだけの時間が要ります」

 

肩をすくめ、これ以上続けますかと目で問いかけられる。将悟はうんざりとばかりに溜息を吐き、愚痴を吐いた。

 

「すげーな。要素を整理しようとしたはずなのにどんどん枝葉が広がっていくぞ」

「それだけ広範に、かつ多様な類型を以て語られてきた伝承なんですよ」

 

と、ここで思い出したように。

 

「ああ、そういえば日本の百鬼夜行も類例として挙げられる程度には伝承の骨子を共有していますね」

「言われてみればそうかも。夜も更けた宵に百鬼百霊が練り歩き、出遭った不運な人間は命を失う。暦に百鬼夜行日なんてものが記される程度には広く周知されていたしね。日本だと仏教信仰の影響で大体神仏に祈ってればなんとかなるけど」

 

東洋圏以外の神話伝承には明るくないため今まで黙っていた恵那が確かにとばかりに頷き、蘊蓄を披露してくる。流石の賢人議会元議長も極東の伝承にまではカバーしきれていないのか、口を挟むことなく興味深げに拝聴していた。

 

「あと群体じゃあなくて単独だけど阿波の夜行さんっていう妖怪もいるよ。首のない馬にまたがって忌み日の深夜に徘徊し、遭遇した人を馬で蹴飛ばしたり投げ飛ばしたりする奴。地方によっては首なし馬そのものが夜行さんって呼ばれたりもする」

「首のない馬…アイルランドの首なし騎士デュラハンを思い出しますね。流石は日本列島、ユーラシア大陸を伝播する文化・信仰の吹き溜まりなだけはあります」

 

困ったように言う巫女姫にげんなりとした表情を返す。

 

「ともあれ枝葉末節まで語れば本当に時間がいくらあっても足りません。何とかしてあのワイルドハントの正体、あるいは豊饒の属性との関わりを突き止めなければ…」

「つっても、なあ? いまのところあいつは話に聞いていた一般的なワイルドハントの範囲から洩れないように見えたんだ、が―――」

 

瞬間、将悟の視線が突如茫洋としたものになる。

世界屈指の霊的感性を通じて霊視が降りてきたのだ。

 

だが普段と違い、降りてきたのはごく僅かなものだった。あるいはワイルドハントの正体を探ろうという雑念が邪魔をしたのかもしれない。

 

「―――へロディア」

 

唐突に零れ落ちたのは聞きなれぬ神名。

 

いや、浮かんできた名前はへロディアだけではない。ホルダ、アルテミス、ディアナ、オリエント婦人…無数の“女神”の神名が泡粒のように浮かび上がって消えていく。しかも揃いも揃って大地母神の名前ばかりだ。

 

「霊視ですか?」

「ああ、名前だけだが…」

「十分ですよ。貴方はお忘れかもしれませんが霊視とは元来そういうものです」

 

霊視の的中率が9割以上というおそらく人類史上随一であろう霊的感性の持ち主に告げる。将悟や万理谷裕理などの例外を除き、普通霊視の的中率は1割ほどなのだ。

 

「へロディア…女神の名前か?」

「いえ、新約聖書に登場する国主ヘロデの后です。ヘロデヤ、へロディアスと呼ばれることもありますが…」

「ワイルドハントとの関連がいまいち不明だな」

「そうですね…いえ、待ってください。確か―――」

 

へロディアとワイルドハント。この二つの単語を掛け合わせて考えると、何か思い当たる節があるような…。あれは、そう、最高位の巫女にして魔女であるアリスとも関わり深い分野だ。中世初期、ウィッチクラフトに関して記述された文献…中世ならばむしろ教会の手によって記述された書籍の方が多い。古の魔術の継承者である魔女たちを憎み、絶滅させんと血道を上げてきた彼らの手によって。皮肉なことにそれらの文献こそが後のオカルト文化の流行、その種本になったりするのだが…閑話休題(それはさておき)

 

「司教法令集…ガンドライド。そう…魔女の騎行(ガンドライド)、あるいはディアーナの騎行とも。異教信仰に淵源を持つ豊饒儀礼?」

 

ぐるぐると連想と推測がアリスの脳内を駆け巡る。発想力、推理力と言う点でアレクサンドル・ガスコインには及ばないが、逆に隠秘学の知識量や密かに語り継がれてきた魔女の智慧と言う点ではアリスが一歩勝る。

 

「―――……!」

 

ワイルドハントという総体で見ればあまりにも多種多様な要素を含む民間伝承、その中から的確に今回顕現した猟団に関わるキーワードを拾っていき、一つの絵図へとつなげていく。

 

「分かりました」

「……おお?」

「霊視の導きではないので断言はできませんが…恐らく間違いないでしょう。仮称ワイルドハントの正体、へロディアの名が暗示する大地の精気との関わり、汎ユーラシア的に伝播した『夜間に空中を飛翔する集団』―――そのルーツ」

 

少なくともその一つでしょうといわくありげに断言する。

 

「何でもいい。鬱陶しい小蝿をさっさと潰しにいくとするか」

 

腰かけていた椅子からゆっくりと立ち上がる。

 

無双の利剣を研ぎあげる知識を手にした将悟はようやく反撃だとばかりに好戦的な笑みを浮かべ、付き従う二人の巫女もそれぞれ不敵な気配を纏った。

 

 

 

 

 

なお余談として。

 

「…………それで、どうやってお姫様から王様に知識を伝えるの?」

 

良く知られている話だがカンピオーネに魔術を掛けるには経口摂取、つまり霊薬の経口投与やキスなど手段が限られる。特に教授の魔術はほぼキスでしか掛けることが出来ない。

 

この場合はアリスが、将悟にキスをするということになる。

そういった含みをたっぷり込めた沈黙を挟み、恵那が問いかけると満面の笑みを浮かべたアリスが、

 

「そうですね。無論私も淑女として恋人ではない殿方に唇を許すのは忸怩たるものがあります。しかし今は危急の時、暴虐無尽な魔王様から命じられれば高貴なるものの義務から逃げたりは―――」

 

などとのたまう。

 

「お姫さんが恵那に術を掛けて、恵那が俺に術を掛ける。それで万事解決だな」

 

全力でからかう気満々な巫女姫に呆れた視線を向けながら、ばっさりと断ち切った。

 

あっ、と意表を突かれた表情で声を漏らす恵那。

 

経口摂取を通じてしか術を賭けられないのはカンピオーネのみ。恵那とアリスが教授の術を賭ける場合そうした制限は特にないのだから。

 

そんな一幕を挟みながらも漸う反撃の狼煙が上がろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




設題編、みたいな。
なお今話に於ける解説はほんと解説以上の意味は無い。よってこれらの情報から読み解こうと思っても読み解けないのである。発想よりも知識量が物を言う。推理小説としてはダメダメだがカンピオーネは推理小説でもなんでもないので是非もないよね。

Q.ワイルドハントを含む、ユーラシア各地(特に欧州)で確認される『夜間の空中飛行集団』と大地母神との関わりを説明せよ。

自分で出しておいてなんだが、読者の中にカルロ・ギンズブルグ著『闇の歴史』とか金光 仁三郎著『大地の神話―ユーラシアの伝承』とか読んでるような人いるかなぁ。


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野蛮な狩猟 ③

荒ぶる狩猟団はサマセットの上空を縦横無尽に駆け巡る。

彼らに状況を理解し、理性ある言葉を発するほどの高等な意識はない。

 

その在り方は人格神というよりも嵐や土砂崩れのような災害に近い。出遭えば遭遇者の勇気とユーモアを試し、目撃したものに災厄を振りまく。

 

まつろわぬ者として顕現したため時期や場所を選ばず、延々とそれだけの行為を繰り返す自然現象に等しい。

 

だが彼らにも自己保存の本能らしきものは残っており、脅威に対しては敏感だった。

 

「よう。さっきぶり」

 

例えば、眼前の呪力を漲らせた少年のような。

音もなく『転移』で現れた少年は一定の距離を保って、ワイルドハントと対峙していた。

 

「そうは言ってもまともに会話が成り立つわけでもないが」

『吠えろ、猟犬ども。我が到来を知らせるがいい』

 

燃える火のように輝く両眼をぎらつかせた漆黒の猟犬が嵐の轟に負けぬ勢いで吠えたてる。一層強く吹き荒れる暴風がのどかな田園地帯を揺さぶり、草木をざわめかせた。

 

『我はアーサー王。荒ぶる群勢、嵐の王』

「違うね。お前はアーサー王を名乗る亡霊どもの纏め役。ただそれだけの役割を与えられた影だ」

 

木の影か、壁に向かって話しかけているように無感動な調子だった。

 

『今宵、貴様に試練を与える。成功すれば黄金を、誤れば我らの旅に加わることとなる』

 

対し、狩猟団の頭領は壊れた蓄音機のように神話伝承の通りに動くだけだ。

 

「……もうちょっと話が通じれば少しはやる気も出るんだがな。これじゃほんとに害虫駆除みてーなもんだわ」

 

やる気なさげにつぶやき、さっさと終わらせるかと右手に握った”剣”を引き抜く。

 

「お前には名前が数多ある。ワイルドハントはその一つに過ぎない。ガンドライド、メニー・エルカン。ユーラシアのほとんどの地域に伝承が伝わり、それに伴って枝葉末節が付け加えられたからだ」

 

”銀”が溢れだす。

 

「その中でも主宰神は多種多様だ。アーサー王、オーディン、ヘルラ王。一々数を挙げればキリがないけど、実は過去に遡るごとに明確な傾向が現れる」

 

テニスボールサイズの光球は徐々に数を増やし、内に秘めた鋭さで狩猟団の頭領(ワイルドハンツマン)を怯ませる。

 

「それは主宰神が男神ではなく、女神…それも大地母神が主流だったことだ。9世紀頃に記述された『司教法令集』は魔女術(ウィッチクラフト)の歴史を探るうえで重要な手がかりになる資料だけど、その中にも女神ディアーナが率いて夜間に疾走する女達の集団について書かれている。この集団はディアーナの騎行と呼ばれ、のちに主宰神としてチュートン系のホルダが書き加えられた」

 

ちなみに南ドイツではホルダの名で崇拝された女神は北ドイツではペルダと呼ばれ、やがて新約聖書に登場するヘロディアと結びついたという。ホルダだけではない。ディアナ、ホルダ、オリエンテ婦人、ヘカテ―、ヴェネス婦人、妖精女王。数多の地域で、数多の女神が女達を率いている姿が目撃されている。

 

「そんな女神たちに代わってやがて英雄が率いる死せる男たちの群れが台頭する。さながら《鋼》の英雄と大地母神の関係のように」

 

《鋼》に属する英雄たちの多くが、古くは大地母神とその息子の関係だった。彼らは神話上のパートナーであったわけだが、あくまで女神が主体であり、配偶者である息子はオマケだ。だが時代が下るにつれて『魔力を持つ女性と、彼女の庇護を受ける英雄』へと主体が女神から英雄へと変化していったことはよく知られている事実である。

 

「お前が名乗るアーサー王ら英雄たちが主宰神として主流になったのは概ね11世紀以降のことだった。この事実がお前とお前を助ける発光体…大地にまつわる神力との関わりを暗示しているんだ!」

 

浮遊する銀の光球が一〇〇を超えたところで遂に一群の光球を動かす。流星雨の如き軌跡を描いてワイルドハントに殺到する”銀”は文字通りあっと言う間に死霊たちを雲散霧消させていった。

 

「流石にサクサク削れるが…意味がないな」

 

切り裂いていく速度は圧倒的だがやはり減った分は例の発光体によって補充されていく。

 

「となれば”石”と奴らのつながりを断ち切ってから、全部まとめて消し飛ばすのが手っ取り早いか」

 

『剣』の言霊は神話伝承に由来する存在を根こそぎ断ち切り、討ち倒す刃。ならばワイルドハントと竜骨らしき例の”石”の繋がりを切り裂くことも可能だ。そうなればあとは一息にワイルドハントの息の根を立てばよい。

 

将悟は一気呵成に始末をつけるべく、下手な攻勢は手控えて言霊を紡ぎ、『剣』を続々と生み出していく。

 

「―――これらの女神が率いる集団はお前たち男神が主宰する集団とはある種対極の関係にある。尤もそれは相容れないという意味じゃない。言うなればコインの表と裏みたいなものだ」

 

次々と現れていく”銀”を薄く、しかしけしてワイルドハントを逃がさないように広く展開していく。

 

「ワイルドハントは現世と冥界の境界が薄れる時期にだけ冥界から上がってくる死霊の集団だ。対して女神が先導する女達は現世に生きる生者であり、幽体離脱のような恍惚状態で動物に乗って死後の世界へと旅をする。生から死、死から生へと転じるこれら『夜間に飛行する集団』の背景にはキリスト教以前の異教信仰の痕跡が読み取れる」

 

今もユーラシアの各地に足跡を残す古代における豊饒儀礼を表す神話の名は―――

 

「”冥界下り”だ」

 

イシュタル・イナンナが冥界へと下る場面と、女神の伴侶であるタンムーズ・ドゥムジが現世への復活を許され上っていく場面はメソポタミア神話でも屈指のハイライトだろう。

 

またはギリシャ神話の穀物神アドニスも豊饒と冥府の女神ペルセポネーと一年の1/3を共にし、死と復活のサイクルを繰り返すと言う。

 

これら冥界下りに端を発する伝承は欧州各地に、変化形を含めれば汎ユーラシア的に広がっている。

 

「冥界下り。あるいは殺す女神と殺され、復活する男神。大地母神と穀物神。この両者は役柄こそ違うけどともに大地と豊饒、冥府と不毛のサイクルを象徴するカップルでもある」

 

言霊が尽きつつある、言い換えれば将悟の準備が万端整いつつあるのを感じたのかワイルドハントは本能に従って比較的密度の薄い”銀”の包囲網の一画を突き破ろうとする。

 

「お前らを生かし続ける”石”の由来、大方大地母神が遺した竜骨と言ったところだろう。はるか淵源にまで遡ればお前らと大地母神は表裏一体を為す関係だったことを考えれば納得のいく話だ」

 

だがそう易々と思惑を叶えてやるほど将悟も甘くは無い。死霊たちが移動した分だけ『剣』の包囲網も移動させ、無駄な消耗を避ける。

 

「女たちは冥界へ下り、男たちは冥界から上ってくる。行為としては真逆だが表すところはどちらも同じ…。古代の豊饒儀礼に淵源を持つ伝承の変化形―――それがお前ら、数多の名前を持つ『夜間に疾走する群集団(ワイルドハント)』の正体だ!!」

 

そうして、ようやく全ての言霊を吐き出し終えた将悟が酷く冷静な目つきで狩猟団の頭領(ワイルドハンツマン)を見遣る。

 

空に顕れた月の欠片、煌々と輝く銀河の如き光の群れは今や一片の綻びもなくワイルドハントを取り囲んでいた。呻くように、叫ぶように声を上げる首領にもはや手は無い。

 

「終わりだ」

 

騒動の収束を締めくくる一言は、酷くあっさりと零れ落ちた。

 

それを合図に殺到する月の刃はワイルドハントを構成する亡霊群を真夏の太陽に照らされた氷よりもあっさりと消滅させていく。なにせ『剣』の一つ一つがワイルドハントにとって必殺を意味し、頼みの綱である竜骨とのつながりすらあっさりと断ち切る鋭さを秘めているのだから。

 

草でも刈るかのように死霊たちを薙ぎ払う銀の剣群。最早蹂躙とすら言える圧倒的な攻勢にも将悟は油断しない。例の”石”を見逃せば結局元の木阿弥に戻るだけなのだから油断のしようがない。

 

だがあっと言う間にその数を減らしていくワイルドハントの中から、小さな発光体が飛び出した。そのまま高速で『剣』が荒れ狂う戦場から一直線に離れようとする。恐らくはワイルドハントが最期の悪足掻きで要となる”骸”を安全圏へ飛ばそうとしたのだろう。

 

「あった! 王様!」

「ええ。王よ、『剣』で女神の骸とワイルドハントのつながりを斬り裂いて!」

 

と、遠方から俯瞰して情勢を伺っていた巫女たちが嵐吹き荒ぶ中それぞれ霊的な絆や魔術を駆使して王に注意を呼びかける。

 

「見つけた」

 

そう酷薄に呟く将悟の視線は機械さながらに熱を感じさせない。将悟にとってこの蹂躙はそれこそ作業、それも特に気が乗らないボランティアのような億劫なタスクに過ぎない。元から戦うのが好きという訳でもないのだ。

 

無造作に『剣』を一つ、ワイルドハントを蹂躙する群れの中から手元へと呼び出す。そのまま急速に遠ざかっていく”石”を視認。遠ざかっていく速度は音に近かろうがなに、雷と同じ速度で動くまつろわぬ神と比べれば止まっているのと同じだ。

 

ス、と心の動きを全て胸の底に沈め、精神を一点に集中。恐ろしく無造作に『心眼』を発動する。ヴォバンとの死闘で開眼した技能に習熟しつつある証左であった。

 

神速すら見切る霊眼が彼我の距離と相対速度、射出された角度を見抜き、これから描く軌跡を脳内でシミュレートする。己にだけ視える的がうっすらと輝く軌跡の上に出現、心のうちでタイミングを計り―――狙撃(シュート)する。

 

音もなく、閃く。

 

一条の流星の如く、夜空を切り裂いた銀月の切っ先がはるか昔に大地母神が遺した骸を刺し貫いた。非物理的な、神話伝承にまつわる事象を切り裂く刃は骸を一切傷つけることなく、ただワイルドハントとのつながりだけを断ち切ったのだった。

 

「これでほんとに詰みだな」

 

尤も厄介な再生力は封じた。ならばあとは塗り絵のようなものだ。

銀光の群れが渦を巻く。竜巻のように、檻のようにワイルドハントを閉じ込めると高速で回転する剣が一人余さず亡霊集団を切り裂いていったのだった。

 

かくして手古摺った割にはあっけなくワイルドハントを端緒とする騒動はその幕を下ろした―――わけではなかった。

 

「王様、お疲れさま」

「危なげなく終わりましたね。流石はカンピオーネ、と言っておきましょうか」

 

今度こそ終わった、と確信した女達が近寄って声をかけてくる。周囲には最早以上の気配はない。サマセットを覆っていた黒雲は急速に去り、濡れた雨露だけがその痕跡を示している。

 

だが将悟は少女たちを顧みることなく真剣な表情で集中している。

 

「おかしい」

「―――どうしたの?」

 

全身から微量の呪力を発し、何らかの魔術を行使していると思しき将悟に向けて真剣な問いを向ける。

 

「例の”骸”、あれがどこにも見当たらない」

「あ…。でも、王様が『剣』で斬ったよね? そのせいで力を失ったとか」

「あの程度で竜骨が消えてくれるものか? それに…」

 

訝し気に言葉を切る将悟に、思わず問いかける。

 

「それに?」

「なんか、嫌な予感がする」

「…うわぁ」

 

フラグが立った。それも思い切り怪しいのが。

思わずげんなりとしてしまう恵那だった。

 

「あの…それって英国にいる間に起こります? 何時まで滞在されるんでしたっけ?」

「露骨に面倒事が起こるなら他所で起こらないかなーって顔するなよ、姫さん」

 

隠す気もなくトラブルを忌憚する気配を漂わせるアリスに思わず苦笑する。

 

「…ま、ちょいとばかり予定とは違ったがひとまずケリは付いたんだ。良しとするべきだろうさ」

「確かにひと段落は付きましたが…また別種の問題も発生したような気がするんですが」

「世の中どうにもならないことってたくさんあるよな」

「諦めろ、と。流石は神殺しの暴君。仕方ありません。こうなれば精々英国滞在中に少しでも元を取っておくとしましょう」

 

かなりストレートに研究への貢献を求める巫女姫にそれは仕方ないなと苦笑気味に応じる。尤もこの程度の皮肉、将悟とアリスの間では挨拶のようなものだし、アリスも本気で嫌味を言っているわけではない。

 

何と言っても淑女の皮を被った野次馬根性の塊のような、一癖も二癖もある人柄なのだ。

 

そんな彼女のことが結構友人として気に入っている将悟はむしろ発破をかけられた気分になって、意識を直前の騒動からこれからの英国滞在に向けるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幽世にて。

 

『……危険な橋を渡ったが、その甲斐はあったか』

 

陰鬱な声で賭けの成果を検分する壮年の男。その右手には乳白色に輝く”骸”がある。

将悟が討ち果たしたワイルドハントが所持していた大地母神の竜骨であった

 

『未だ時至らず道歩けど半ばまで遠く。されど見ておれ、神殺し』

 

無造作な手つきで大陸風の短剣を”骸”に突き刺す。

すると骸から呪力が噴き出し…そのすべてがブラックホールさながらの勢いで短剣に飲み込まれていった。

 

だが、足りない。この程度ではまだまだ短剣―――アキナケスの祭壇が求める贄を満たすことは叶わない。

 

『必ずや再臨せん。貴様を討ち果たすことこそ我が本懐なのだから』

 

己そのものすら駒と見做す覚悟を固めた鍛冶神―――半身を捥ぎ取られた旧き《鋼》の神の独白が、その領域へと消えていった。

 

 

 

 

 




不穏な気配を残しつつ続く…。
まつろわぬ神と神殺しどもがバチバチやり合う中で鍛冶神が地味に暗躍する英国滞在編、はっじまっるよー。

英国争乱、エター……うっ、頭が…。


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