六門再編記 ~俺たちの物語~ (みょこすけ)
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0、 エピローグ ――黙示録との出会い――

0、 エピローグ

――黙示録との出会い――

 

 

 事の始まりは瓦礫に埋もれた一冊の本だった。

 迷宮都市エメラルズの地下3階層の床に仕掛けられた落とし穴に引っかかり、一心不乱にハンマーを振ったおかげで転がり込めた謎の横穴の、ジメジメした岩肌を這い進んだその先に、俺の運命を大きく変えた本は眠っていた。

 周囲の岩とは不釣り合いな大量の細かい砂と、どこか見覚えのあるローブ。

 それらの下に大切に隠されていた立派な丁装の本。赤い皮張りのカバーに、金押しで書かれた共通語の文字。ひどく擦れていて読みにくかったものの、肩にとまらせていた煌々蟲の灯りの元で確認してみたところ、何とか解読できた。

『とある召喚術師の手記』

 そこでようやく俺も思い出せた。

 この本に被せてあったぼろいローブは、大陸中部のサザン領の大学院アカデミアに所属する学生に与えられる品物である。見れば見るほどそうだと思えた。ずっと昔、まだ俺が物心も付いていないガキの頃に、親父が自慢げに見せてきたローブとよく似ている。

 親父にとって「栄光の証」だったとか何とか。

 今となっては虚しいばかりだ。

 まあ、そんなことはどうでもいい。

 ここではローブより本の話のほうが重要だった。

 最初は俺も貴族の日記帳か何かだと思った。金の取り立てに来ていたデブのガークスが同じような豪勢な本を持ち歩いていたから、俺もそこまで期待せずに、とりあえず、といった感じで本を開いたんだ。

 しかし、それは見当はずれの勘違いだった。

 『とある召喚術師の手記』は確かに日記の体裁をしていた。ほぼ毎日、その日に起きたことを日記の書き手の視点で詳細に書かれていた。たとえば、差し障りのない1ページを上げると、こんな感じである……

 

 

〉AR850年 十月十五日(第二週天曜日)

 

〉〉今日は第二休日だったから、家でゆっくり過ご……すつもりだった。

 しかし、僕のお師匠様はそれを許してくれなかった。お師匠様の都合で事件調査に付き合わされて、イアノーク平原まで一っ飛び。まあ、アーニャの我儘はいつも通りだけど、わざわざ月に二日しかない休日まで潰してくるなんて、ちょっと弟子に厳し過ぎると思う。僕も失踪した円卓魔導師の行方は気になるけど、それはそれ。こういうキナ臭い事件はその筋の専門家に任せたほうが良いと思う。

 成果は皆無。

 ああいや。違った。

 ケンタウロスの友達ができた。以上。

 

 

 

 こんな調子だ。

 さらっと流し読んだだけでは分かりにくいと思うが、この日記は明らかにおかしな点がある。特異点は腑抜けた文章ではなく、日付の欄にある。

 そう。

 ――AR850年。

 これが日記だって?

 そんな馬鹿な話があってたまるか!

 なぜなら俺がその本を手に取ったときの年代はAR847年の三月だったのだ! 未来の出来事をあたかも見てきたかのように書き記す。しかも、嘘くさい黙示録のように勿体ぶった大仰かつ抽象的な表現ではなく、日記の内容は具体的だ。

 アーニャ?

 これはたぶん人名だろう。

 イアノーク平原は聖都サザンの周囲に広がる肥沃な平原である。

 日付と時間と場所。そのすべてが揃っている。

 要するに、この日記に書かれた内容の真偽を確かめたければ、その日、その時、その場所で待ち構えていればいい。そうすれば、日記の書き手のほうからやってくる、という寸法である。何も難しいことはない。

 しかし、当時の俺はそんな回りくどい確認方法を取らなかった。

 とりあえず持ち帰って、中身を詳しく確認したい。ひょっとしたらこの日記に内容などなく、何かしらの特別な暗号が隠されている可能性が一番高い、とすら思っていた。そんなこんなで俺は目を輝かせ、意気揚々とメルラルズの地下三階から這い上がり、地上へ出た。

 

 そして、俺は世界の運命を変える第一歩を踏み出した。

 

 



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  1、 俺、遺跡荒らし、アングースト

  1、遺跡荒らしのアングースト

 

 

 

 アングースト。

 それが俺の名前だ。

 他人に名乗るときは頭に「遺跡荒らしの(トレジャーハンター)」を付けることもある。

 要するにならず者と大差ないアウトローの一員だ。

 中背中肉。健康状態は常に頑健。丈夫が取り柄の若者である。

 仕事はほとんどフリーで行う。仲間の蘇生代を稼ぐためだけの奴隷生活に転落したくないから、パーティなんぞ死んでも組みたくない。実の親父が仲間の蘇生代で破産する様を見ていれば、誰だってそう思うはずだ。

 しかし、俺はもうそんなしみったれた生活とは縁の遠い人間になれるのだ。

 この『とある召喚術師の手記』のおかげで!

 

「……まあ、そう上手くはいかねぇよな」

 

 度重なるダンジョン探索で、俺は現実の厳しさを嫌と言うほど味わわされた経験がある。

 あと一歩で宝物が手に入るというところで横から団体様が割り込んでくることなど日常茶飯事だった。向こうが宝物を手にして満足するようなヤツラならまだいいが、後々の禍根を恐れてこちらを消しにかかるクソッたれも山ほどいた。

 だから、知っている。

 世の中、一発逆転なんてそうそうない。

 奴隷が市民に成り上がることはあっても、奴隷が領主になることはない。

「遺跡荒らしはどうだか、な」

 石畳の表通りに設けられた軽食屋のベンチに腰かけてサンドイッチを齧りつつ、俺は『とある召喚術師の手記』のページを捲った。迷宮都市メルラルズからここ南サザンにやってくるまで、何度も何度も確認して、頭の中に叩きこんだ文章が紙の上で踊っている。

「モンブラン、ドラジェ、アーニャ、ブリオッシュ……」

 まるで夢物語だ。

 この俺、アングーストが歩んできた半生とは似ても似つかない素晴らしき冒険の世界。

 美人の魔剣姫に、喋る黄金熊のヌイグルミ、ドラゴン使いの少女……

「欲深き帝王、ダークエルフの皇太子、黒き翼の天使、最後のファラオ、狂霊王……」

 禁断の秘術により復活したオークの暴君に、狂霊嵐(エレメンタル・ストーム)……

 生まれてこの方、肉体労働で汗水を垂らす毎日を送っていたこの俺には、一冊の手記から経済の流れを予測することなどできなかった。手記の内容を暗記することはできても、使い道がまるで思い付かない。

 そんな姑息な思考を吹き飛ばすほどの屈辱を、俺は感じていた。

 ――何故、俺ではないのだ!

 冒険に出たい。

 六皇子のようなバケモノ相手に立ち回ってやりたい!

 博覧強記のヌイグルミと話してみたい! 魔剣姫を一目見てみたい! ドラゴンの背に乗りたい! 魔女の少女とやらに会ってみたい! 夢魔の世界へ行ってみたい! フェニックスを間近で見てみたい! ダークエルフの第十三部隊の顔を拝みたい! ジャイアントの手に乗ってみたい! 風魔の隠れ里に行ってみたい!

 歴史にアングーストの名を刻みたい!

「……俺は、……俺だって……」

 確かめたかった。

 自分とブリオッシュの差を。

 生まれて十七年間、必死に生きぬいてきた自分と、手記を読む限りヌクヌクと過ごしてきただけの大学院(アカデミア)の学生とではどれほど差があるのかを。ブリオッシュが英雄の器であるならば、すっぱり諦めがつくかもしれない。

 サンドイッチの包み紙を丸めて、ベンチから腰を上げた。

 とりあえず、南サザンまで来てみたものの……

「ハッ。俺は何がしたいんだか……」

 ブリオッシュと会って、そこからどうする?

 肩に担いだ袋の中には、あのおんぼろローブも用意してある。

 用事があるのは大学院だ。

 この手記の書き手であるブリオッシュ・ランパートとやらに会うためには、大学院の寮に忍び込まなければならない。ヤツが寮住まいだからである。手記によれば今から二年後のAR849年にはまた実家に戻ることになるらしいが、今は寮住まいなのだ。だから、もしも大学院の寮にブリオッシュ・ランパートの部屋がなければ、そもそもこの手記はでたらめだったというオチがつく。

「まあ、それはあり得ないだろうけどな」

 俺はそう呟いてから本を閉じた。

 待っていろよ。ブリオッシュ・ランパート。

 

 

 

 大学院の警備は思っていたほど厳重ではなく、むしろユルユル過ぎて侵入するこちらが不安になったくらいであった。いちおう、正門の脇には門番が立っているものの、入門手続などは一切なく、異様に古いローブを身につけた俺でも易々通れた。

 大丈夫なのか? 大学院。

 俺はローブの下に仕込んだ商売道具たちを手で確かめた。

 これなら、武器や魔法道具、禁忌の品だって簡単に持ち込めそうだ。

 俺はテキトーに大学院の敷地内をふらついてから、目に付いた学生を捕まえた。

「なあ、ブリオッシュ・ランパートって知っているか?」

「ああん?」

 たまたま声を掛けた相手が悪かったのか。

 俺が呼びかけた体つきの良い男子は怒りをあらわに振り返った。ここで事を荒立てるのはマズイ。俺は慌てて名乗った。もちろん、遺跡荒らしのことは伏せておいた。すると意外なことに向こうも自分の名前を明かした。

「俺はスコットだ」

「スコット?」

 『とある召喚術師の手記』に出てきた名前だ。

 そうか、コイツが「あの」スコットか……南サザンの大学院の召喚術科の学生であり、性格にやや難があるものの、そこそこ優秀な成績を収めているらしい。後年の「キング・オブ・サモナー」ではダイアモンド・ドラゴンを召喚するバケモノだ。

 最初から当たりとは嬉しい限りだ。

 俺はじろじろと相手を観察してから、どうするべきか考えた。

「で、おちこぼれのもやし野郎が何だって?」

「そうだ。そうそう。ブリオッシュだ。ヤツの部屋が知りたい」

「てめぇ、あいつの知り合いか?」

 スコットは俺に敵意を見せた。

 なるほど。

 ブリオッシュが嫌がるのもよく分かる。こういう生意気なヤツは一度、死者の谷へ連れていって一晩放置してやればだいぶ丸くなるのだが、コイツのためにわざわざそこまでやってやるつもりはない。

 俺は黙ってローブの内側を開いてみた。

 すると、相手の顔色が変わった。

「そ、そいつは……」

「心配するなよ。ただの商売道具だ」

 俺のローブの内側では大量の虫たちが蠢いていた。

 親指サイズの芋虫や、瓶詰めの蜘蛛、煌びやかな甲虫に、小振りな繭等々。

 ローブの内側にはびっしりと蟲、蟲、蟲で覆われていた。

 何てことはない。フリーの遺跡荒らしの必需品を見せてやっただけである。魂の糸で操る便利な召喚術とはちがって、一匹一匹きちんと一から飼い慣らした俺の自慢の道具たちだ。コイツラがいなかったら俺のような魔法も召喚術も使えないただの人間がメルラルズの地下三階まで降りられるわけがない。

 俺はローブの内側から手のひらサイズの指切蟲(ユビキリムシ)を取り出した。

 黒光りする甲殻と、身長の半分を占めるほど巨大な鋏が頼もしい。モンスター・プラントに取り込まれそうになったときに、コイツのおかげで九死に一生を得たこともある。指切蟲は苦手な陽の光を浴びて、キキッと顎を鳴らした。

「お前が話したくないなら、俺はコイツラを使わざるを得ない」

「おっ、俺を脅してんのか!」

「はっはっは! ただの世間話にそこまで警戒するなって!」

 スコットの肩を叩いて励ましてやろうと思ったら、怯えきった様子で手を避けられた。

 異常者か犯罪者を見るような目をこちらに向けている。

 アホか。

 頭のぶっ壊れた人間なら、遺跡で何度も会ってきた。そういう連中がまともに話しかけてきたことなど一度もない。しかし、俺はきちんと自己紹介をした。だから、異常者ではないし、俺が犯罪者なら、とっくにコイツを血祭りに上げている。

「なあ、もう一度言うが、俺はブリオッシュの部屋を知りたいだけだ」

「そ、そ、そそんなもん! 大学院の寮に決まってんだろ!」

「その寮がどこにあって、ブリオッシュの部屋が何階にあるのか分からない。案内しろ」

「い、い、い、嫌だ! そんなもん勝手にヒィッ!」

 鼻先に指切蟲を近づけてやると、スコットは大人しくなった。

 なるほど。

 召喚術を使うヒマさえ与えなけりゃ、召喚術師なんてかわいいもんだな。

 俺は指切蟲を突き付けたまま再度頼み込んだ。

「ブリオッシュの部屋に連れていけ」

 今度はスコットも快く引き受けてくれた。

 

 

 

 部屋の前に着いたら、俺はスコットを解放してやった。

 「もういい。ご苦労だった」と労ってやると、スコットは尻に火が着いたようにすっ飛んで行った。捨て台詞のひとつもナシ。あんなへなちょこのガキでも、あと数年のうちにアイスドラゴンを召喚できるようになるから子供の成長は侮れない。

 俺は深呼吸してからドアの横に備え付けられた呼び鈴を鳴らした。

「ブリオッシュ、いるか?」

 『とある召喚術師の手記』に直接書かれているわけではないが、俺はブリオッシュがここにいると踏んでいた。やつは今、召喚術科の初等クラスに所属しているはずだ。これが六月であればブリオッシュも講義を受けに教室かどこかに足を運んでいるのかも知れないが、今は三月。春休みだ。そして、AR850年にモンブランに出会うまで、ブリオッシュは長期休暇の度にやることがないと嘆いていたらしい。

 まったく、良いご身分だ。

 今日を生きるために金を稼ぐ必要がない。

「ハッ」

 俺は自嘲気味に笑ってから、今度はドアを叩いた。

「ブリオッシュ・ランパート。お前と話がしたい! 出てきてくれ!」

 ドア板をガンガン殴りつけていると、ようやく部屋の内側で人が動く気配が感じられた。

 よかった。もうそろそろ背負い袋の中から使い慣れたハンマーでドアをぶち破ってやろうかと考えていたところだった。俺は少しドアから離れて部屋の主が出てくるのを待った。

 開くドアからは距離を取れ。遺跡荒らしの常識である。

「はいはいはい! いったい何なんですか?」

 ドアを開いてひょっこり頭を突き出したブリオッシュはあまりに無防備だった。

 絶好の機会に遭遇してしまった俺は、ドアの隙間から出されたブリオッシュの後頭部をぶん殴りたい衝動に駆られたが、さすがにそこは堪えた。俺はできる限り柔らかい笑みを浮かべてブリオッシュに手をさし出した。

「お前がブリオッシュか?」

「ええと、はい。あの、どちら様でしょうか?」

「俺は……」

 不意に、俺は寒気を感じた。

 もしも、俺がここで名乗ったら歴史が大きく変わってしまうのではないだろうか? ブリオッシュの書いた『とある召喚術師の手記』には俺の名前は出てこない。まだ、ここで名乗らなければ歴史は元のレールの上を走ることが出来る。

 そこまで考えてから、俺はニヤリと笑った。

「俺はアングースト。遺跡荒らしのアングーストだ」

「……はぁ」

 ブリオッシュはぎこちない愛想笑いを浮かべてこちらの手を取った。

 コイツには俺の意図など分からないだろう。しかし、俺は小さな達成感を感じていた。

 もしもここで俺が名乗らずに帰っていたら、おそらく俺の名前が歴史に出てくることはなかっただろう。しかし、未来は変わった。

 どれだけ小さかろうと、俺が歴史を変えたのだ。

 実にいい気分だった。今ならブリオッシュの間抜け面も寛大な心で笑って許せる。

「お前のおかげで生き甲斐が見つかった。ありがとな」

「え? あの、何の話でしょうか?」

「さぁな。今のお前には理解できない話だ」

 俺は首を横に振ってから踵を返した。

 あの程度の甘ったれた坊ちゃんが世界を救えたのだ。俺ならもっと上手くやれる。ドラジェとモンブランとアーニャはいないが、俺には飼い慣らした虫たちと『とある召喚術師の手記』がある。

 ブリオッシュに背を向けたまま、俺は頭だけ振り返って言った。

「ここから先は競争だ」

「競争? 何のことですか?」

「本来、お前が進むべき道を、これから俺が突き進む。俺に与えられた時間は3年間。たった3年間のうちに、お前の成した偉業を越えてやる! お前のように、先祖の名や優れた仲間や召喚術の才能に助けられずとも、英雄になってみせる!」

 突然の宣誓布告に、ブリオッシュは困惑しきった顔を見せた。

 何も知らないコイツの立場では、この宣誓布告の意味はさっぱり分からないだろう。だが、それでいい。よく物を考える内向的なブリオッシュであれば、これから先、どこかのタイミングで俺の言葉に込められた意図を正しく理解するはずだ。

「あの、人違いだと思いますけど……」

「今はまだ、な」

 それだけ言うと、俺は歩き始めた。

 ――やってやるさ。

 今なら空だって飛べるような気がした。

 

 

 



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  2、 アルフレアの不死鳥 その1

 

  2、アルフレアの不死鳥 その1

 

 

 『とある召喚術師の手記』にはこう書いてある。

 

 「僕の最初の冒険は、シノビの里から始まった」

 

 ああいや、すまん。

 引用する箇所を間違えた。

 どこからブリオッシュの冒険が始まったか、ということを説明したかったのだが……まさかこんなクソどうでもいい文章が出てこようとは……宅配のクレームを付けに街から出ただけで冒険とか言うなよ。甘ちゃんが。

 で。

 本来、引用したかった文章はこっちだ。

 

「エスメラルダはただでは死なせない。

 あの死にはなにか意味があった。その死を僕らが見たことで、何かが変わった」

 

 エスメラルダとはアルフレアの火山に住まう不死鳥のことである。

 春のオーブなる宝珠を守っていたが、邪悪なダークエルフたちに襲撃され、春のオーブどころか自身の心臓まで盗み出されて死んでしまう。神格視すらされている伝説の怪物にしては間抜けな最期といえよう。

 ここでは重大な問題がいくつも起きている。

 『とある召喚術師の手記』に明記されているわけではないが、前後の関係性から推測するに、どうやら、春のオーブと不死鳥の心臓は後の大戦争を引き起こしたオルクス3世の復活に使われたらしい。

 要するに、ブリオッシュは最初の一歩で大きなミスを犯した。

 俺が歴史を変えるとしたら、ここからやり直す。

 大きな失敗から始まった『とある召喚術師の手記』の歴史を、この六門世界の未来を、俺がより良く導いてやる! そのためには、まず不死鳥エスメラルダと春のオーブをダークエルフたちに回収されないようにしなければならない。

「さて。どうしたものか……」

 俺は独り言を呟きつつ、人手の入っていない山道を歩いた。

 ゴツゴツした岩が剥き出しになっており、非常に歩きにくい。火口のほうから漂ってくる腐卵臭と熱気にローブの内側の虫たちが苦情を訴えてくる。山を下りたらたんまり御礼を与えてやらねば、虫たちとの信頼関係にヒビが入りそうだ。

 さっそく雪光虫が俺の横腹を爪で引っ掻き始めた。

「待て待て待て。もう少しの辛抱だから、大人しくしてくれ」

 俺は北サザンの町で仕入れておいた干し肉と草をそれぞれの種類に応じて分け与えた。

 こういうときだけは召喚術が羨ましく思える。あいつらは部下たちの食費に頭を悩ませたりはしない。必要なときに呼び出して、ドカンだ。ブリオッシュ曰く、召喚術師にもいろいろと面倒なことがあるらしいが、蟲使いの苦労に比べれば全然大したことはない。

 俺は気を取り直してメルラルズの山を登り始めた。

 今のところ、空に異変は見られない。

 三年後の今頃はダークエルフたちの飛行船がここいらの空域を飛び回って、メルラルズに近づく者を監視していたそうだが、今は飛行船の飛の字も存在しない。

 ――イニシアチブはこちらにある。

 そんな楽観的なことを考えながら邪魔な岩を乗り越えたら、巨大なトカゲとばったり目が合った。足の筋肉の発達した、派手なカラーリングのレプタイル。しかも火山の岩場に生息しているとすれば、答えはひとつだ。

「フレイム・ランナー」

 自分の声で、俺はハッと意識を取り戻した。

 何を呑気にトカゲと見つめ合っているんだ! こいつらは自分たちのテリトリーを冒されて怒っているはずだ。このままぼーっと呆けていたら食い殺されるぞ!

 俺はなるべく巨大トカゲを刺激しないようにゆっくり後退した。

「…………」

 大きな眼がこちらの様子をじっと観察している。

 夜宴蝶の幼虫が俺の背中のあたりに溜まった汗を吸っている。よほど咽喉が渇いていたのだろう。虫たちの苦しみを思い出して、俺は後退していた足をぴたりと止めた。

 ――このまま逃げても、俺の望む未来は得られない。

 ここがフレイム・ランナーのテリトリーになっているということは、彼らが生活を営むのに適した環境が揃っているに違いない。暖かい天然の寝床に彼らの餌となる小動物や水分。

 そう。水分だ。

 あまり知られていないが、フレイム・ランナーも水を飲む。

 こういった細かなモンスター知識を頭に溜め込んでおかなければ、遺跡内で何日も生活することはできない。子供の頃、最初にダンジョンに潜ったときに嫌というほど思い知らされたおかげで、今では一端の学生よりも博識なのではないか、と自惚れているくらいだ。

 とにかく、ここでフレイム・ランナーを逃したら終わりだ。

 劣悪な環境に耐えきれなくなった虫たちは大人しく死ぬか、本来の凶暴さを剥き出しにして俺に襲い掛かってくるだろう。一匹一匹なら大したことない虫たちでも、複数体に同時に攻められたら、あっという間に人間を殺してしまう。

 ――ここが正念場だ。

 俺はさりげない動作で後ろの背負い袋に手を伸ばした。

 フレイム・ランナーの頭がピクリと震えた。

「チッ、勘の鋭いヤツだな……」

 スコットやブリオッシュとは大違いだ。

 俺はフレイム・ランナーを見据えたまま手探りでハンマーの柄を掴んだ。いくら人間より巨大なトカゲであろうとも、頭をカチ割ってやればすぐに大人しくなるだろう。

 勝負は一瞬だ。

 向こうもすでにこちらの殺気を感じ取って身構えている。

 不意打ちを望める状況ではない。

「……………」

 額で生じた汗が、スコッタの目と鼻の間を流れ落ち、顎の下で動きを止めた。

 顎先に溜まった汗が、雫となって地に落ちる。

「セェェィイッ!」

 背負い袋の内からハンマーを引き抜き、フレイム・ランナーの眉間目掛けて投げつけた。

 抜刀術のような一連の動作だった。

 元々は厄介な追い剥ぎ相手に使うことを想定して身につけた技であったが、意外と応用が利く。俺の十八番のひとつであった。俺の手から放たれたハンマーは縦に回転しながら巨大トカゲに迫った。

 しかし、相手も野生の怪物(モンスター)。

 おそらくこちらが何をしたかも理解していないだろうに、反射的に横っ飛びに地面を蹴りやがった。おかげでこちらの攻撃の狙いは外された。だからといって、まだ俺の攻めは終わっていない。

 右手の袖に仕込んだ虫を叩いて叱咤した。

「行け! 鉄砲蟲!」

 ギギッ。

 鉄砲蟲は返事とともに動いた。

 俺のシャツの袖を引き千切りながら、弾丸のような速度で鉄砲蟲が俺の右腕から打ち出された。緊急回避の直後で体勢の崩れていた巨大トカゲにこの弾丸を避ける術はなかった。パンッ、と乾いた破裂音とともに、鉄砲蟲もろともフレイム・ランナーの首から上が弾け飛んだ。

「ジュ……ジュグ……」

 フレイム・ランナーであった肉体が声にならない呻きを上げた。

「まだ死んでないのか……」

 俺は驚愕して目を見張った。

 頭を失った巨大トカゲはよろよろと足を左右によろめかせながら、それでもまだ立って歩いていた。戦意を無くしたのか、それともただ体に刻み込まれた本能に従って動いたなのか、フレイム・ランナーだった肉体は乱れた足取りで俺から離れていった。

 ――そのまま、俺たちを巣へ導いてくれ。

 俺は心の中で祈りながら、フレイム・ランナーの後ろをつけていった。

 

 

 

 頭の打ち砕かれたフレイム・ランナーは、岩と岩の間にできた洞窟まで俺たちを導いてくれた。巨大トカゲの死体が洞窟の数歩手前でバタリと倒れると、同胞の死に気付いたたくさんのフレイム・ランナーたちが洞窟の中から次々と出てきた。

 数にして十二匹。

 一匹倒すだけでもあんなに苦労したというのに、流石にこの事態はマズイ。

 ヤツラは俺を発見するとぐるりと円を描くように取り囲んできた。俺は巨大トカゲ越しに見える洞窟の入口を睨みつけながら歯軋りした。

「せめて、中に入れれば、まだ……」

 水場はすぐそこにあるのだ。

 それに、洞窟のなかに入ってしまえば、フレイム・ランナーたちと一対一で戦うことができる。ついでに言えば、遺跡荒らしの俺は狭い空間で戦うほうが慣れている。洞窟ならば、虫たちを犠牲にせずとも戦えるはずだ。

「ギェェェッ!」

「ギョッギョッギョ!」

 十二匹のフレイム・ランナーたちは威嚇の声を上げた。

 どうやら、こちらをかなり警戒しているようだ。パッと見た限りでは武器らしい武器も持たないただの人間だが、現に仲間が一匹殺されたのだ。俺がフレイム・ランナーでも慎重に構えるだろう。

 巨大トカゲたちの声に、ローブの内側の虫たちの一部はすっかり委縮してしまった。

 マズイマズイ。戦力激減だ。

 この様子では、鉄砲虫も先程のように働いてはくれないだろう。

 ――こうなったら……

 俺はローブの内側から、艶やかな光沢を持つ甲虫を取り出した。

 洞窟などでランタン代わりにも使える、光り輝く高価な虫。煌々蟲(キラキラムシ)。白銀のコガネムシといった形質の体を掴んだまま、高々と右手を掲げる。

 フレイム・ランナーたちの視線が煌々蟲に集まる。

 俺はさっと腕で目を覆った。

「ばーか!」

 宙で足をバタつかせる煌々蟲を握りつぶす。

 すると、凄まじい光が周囲を白く塗りつぶした。煌々蟲が作り出す最後の輝き。光の爆発だ。何もかもが真っ白に染め上げられ、見るものの視界を奪う。

「ギョッギョッギョ!」

「ギャシャァァアアアア!」

「ギギギ、ギェェェェエッ!」

 一時的に目を潰された巨大トカゲどもが喚き声を上げる。

 フレイム・ランナーたちの包囲網に乱れが生じた。俺はその隙を逃がさず、トカゲたちの間隙を突破した。相手が回復するよりも早く洞窟の中に飛び込み、ガンガン奥に進んでいく。ここで稼げた距離によって、生存率が大きく変わる。

 闇に包まれた洞窟の中を駆け抜けながら、俺は手についた煌々蟲の体液を拭きとった。

「こういうときこそ、煌々蟲の出番なんだがな……」

 失ったものは帰ってこない。

 俺はローブの内ポケットから雷鳴蟲の繭を取り出して、指で軽く叩いた。

 小さな白い繭は自衛のために青白く放電した。コバエ程度なら追い払える威力ではあるものの、身体の大きな人間にとっては大したことはない。繭の電気の灯りが消えないうちに、俺は素早く洞窟内の地形を確認した。

 基本的には外と同じく岩肌が広がっているが、所々苔のようなものが生えている。不安定な光のせいで正確には特定できなかったものの、砂漠に見られる乾燥に強い種類の苔だったように見えた。

「水気は……」

 俺は身を伏せて地面の岩肌に鼻をつけた。

 ほんのりと水の匂いがする。

 洞窟の奥へもっと進んだ……やや上のほうからだ。耳を澄ませば、そちらの方向からごく微かに、ぴちょーん、ぴちょーんと水の滴る音も聞こえる。そちらに水源があると考えて間違いなさそうだ。俺は跳ね起きて走り始めた。

 

 



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  2、アルフレアの不死鳥 その2

 

「ふわぁーっ。ようやく一息つけたぜ」

 俺はシャツ一枚になって大の字に寝っころがった。

 脱いだローブはきちんと広げてすぐ近くの地面に敷いてある。寒さに弱い虫たちは仕方なくシャツの内側に避難させてやっているが、洞窟のオアシスの気候に問題のない虫たちはローブの上で自由に休憩させている。

 水源は洞窟を突き進み、分岐路で一度右に曲がり、少し歩いたところで発見できた。

 後ろからフレイム・ランナーたちが追ってくるような足音も聞こえないので、とりあえず俺はこの洞窟のオアシスで休むことにした。念のため、地雷蚯蚓(ジライミミズ)をオアシスの入口にばら撒いておいたから、その気になれば、少しの間仮眠を取ることだってできるだろう。こういう機会にくつろげないヤツは遺跡荒らしに向いていない。

「……っと。そんなことより」

 俺は起き上がって、長年水滴に打たれてきたためにお盆上に凹んだ石の器から手で水をすくい、背負い袋の中から取り出した竹筒に流し入れた。竹の中には風船芋虫(フウセンイモムシ)と呼ばれる細長い虫が住み着いている。名前の通り風船のような体をしているソイツは、本来川辺に住んでおり、水中の汚れを食べて生活していた。意外にタフで汚れを食べるのも早かったため、俺は濾過装置代わりにこの風船芋虫を持ち歩いている。

 ぼんやり石の天井を見上げている間に竹筒の反対側からちょろちょろ水が漏れだし始めた。

 どうやら、風船芋虫が仕事を終えたらしい。

 俺は竹筒から滴り落ちる水を飲んで喉を潤した。

「ふぅーっ、生き返る!」

 水は少し硬い味がしたが、今は飲めるだけで十分である。

 竹筒三本分水分を補給してから、俺は虫たちに水を振る舞い、ついでに虫の餌として持ち歩いている草も湿らせておいた。こうするだけで、葉の寿命が数日延びるから馬鹿にできない。その他もろもろの雑用を片付けてから、俺は再び横になった。

 旅の疲れからか、眠りはすぐに訪れた。

 

 

〈立ち去りなさい〉

 夢の中で声が聞こえた。

 漠然と広がる暗闇の中で、明々と燃え盛る巨大な火の玉が語りかけてくる。

〈山を荒らす人間よ。立ち去りなさい〉

 凛とした女の声だ。

 俺は心地よい温かさを感じつつ、答えた。

「お前が不死鳥エスメラルダか?」

〈そうです。私は今、夢を通してあなたに語りかけています〉

「ほほぅ。夢の中であれば、念話が使えない俺のような人間とも意思疎通できるのか。すごいもんだな。お前が信仰の対象になるのも分かる気がするよ」

 炎の塊が、考えるようにゆらゆらと揺れた。

 『とある召喚術師の手記』によれば、不死鳥エルメラルダはブリオッシュに負けず劣らずの甘ちゃんらしい。たとえ俺がこのように生意気な口を叩いたとしても、子供が背伸びしているくらいにしか感じないだろう。

 それほど、人間と不死鳥には距離がある。

 エスメラルダは深い溜息を吐いた。

〈あなたの目的は何ですか?〉

 ――よしっ、喰い付いた!

 内心でガッツポーズを取りつつ、俺はできる限り平静を装って言った。

「世界を救うことです」

 我ながら名演技だと思った。

 声も震えていなかったし、きちんと意思も込めているように聞こえたはずだ。

 しかし、不死鳥には通じなかった。

〈嘘は止しなさい〉

「なっ――」

 俺は思わず言葉に詰まってしまった。

 ――不死鳥、恐るべき。

 知性が高いとは聞いていたが、まさかこれほどとは……俺の名演技を真正面からばっさり切り捨てやがった。サザンの用心深い商人でさえ、ちょっと時間をかけて考えるというのに、コイツは即答しやがった。

〈世界を救おうと志す者は一人で行動しません〉

「ハッ! 群を好まないヤツには世界を救えねぇってことかよ!」

〈あなたは世界よりも自身の心を救いなさい。あなたの傷付いた心は見るものを悲しくさせます〉

 エスメラルダの声は胸にズンと響いた。

 厳しいようで、慈愛に満ちた女の声に、俺は心を打たれた。

 生まれてこの方十七年。まともだった幼少期はいざ知らず、遺跡に潜るようになってからはついぞ掛けられた覚えのない声だった。俺を見て心を動かすとしたら、大抵は恐怖と蔑みだった。俺だって別に誰かに同情してもらいたくなかった。

 ――同情など邪魔だとすら思っていた。

 しかし、このザマだ。

 俺はしわくちゃになった心を押し広げて、何とか気丈に振る舞った。

「お、お返しに、こっちもひとつ忠告しておいてやるよ」

〈忠告? この私にですか?〉

「そうだ。朱き四天使(スカーレット・ランサーズ)とかいう連中からアンタが預かった春のオーブ。あれを狙う連中が三年後に現れる。そのとき、お前はガレットの曾々孫のブリオッシュという召喚術師を信用して命を落とすことになる。当然、春のオーブも奪われる」

 俺は自分の計画を投げ捨てて、とりあえず全部ぶちまけた。

 『とある召喚術師の手記』を拾ったこと。

 その手記に書いてあった内容。

 将来、手記の書き手となるはずのブリオッシュに会ったこと。

 そのとき俺が感じた気持ち。そのとき抱いた、俺の野望。これほど洗いざらい胸の内をぶちまけたのは生涯初めての体験だった。エスメラルダは黙って最後まで聞いてくれた。きっと向こうは向こうでいろいろ思案しているのだろう。

 しばらく経ってから、エスメラルダがぽつりと言った。

〈よく、がんばりました〉

「……え?」

 それは予想外の言葉だった。

 もっと世界に関することについて言われるものだと思っていた俺は、肩透かしを食らったように感じた。しかし、不死鳥は世界の危機などそっちのけで、至って真面目な様子で語り続けた。

〈先程はきつく申し上げましたが、話を聞いてみれば、あなたの孤独は仕方のないことのように思えます。今なら、不幸に襲われ、闇の世界に落とされてなお折れぬあなたの心が美しく見えます〉

「いや、あ、ああ……そ、そうか……」

 俺はまともな返事を返せなかった。

 お世辞を言われることに慣れていないのだ。たどたどしい俺の反応に、不死鳥はクスクスと笑ってみせた。

 ――ああくそっ! まるで相手にされていない!

 まさかこういった方面から攻められるとは思わなかった。

 俺は自分の手の甲を噛んで、浮足立っていた心を無理やり鎮めた。

「俺の言いたかったことは全部伝えた。今度はアンタの考えを聞かせてもらおうか?」

〈ほほほほ! あそこから冷静に立ち戻れるとは驚きました!〉

「ぐっ! い、いいから答えろ! アンタはこれからどうするつもりなんだ?」

〈それは……〉

 不死鳥は言い澱んだ。

 取るべき選択肢は大まかに言って二つに分けられる。

 逃げるか、戦うか。

 ダークエルフたちが襲撃してくるまでに三年間の猶予があるから、どちらの場合でも策を練る時間は十分用意できる。戦うなら、ラストゥスの領主に協力させるなり、大学院から円卓魔導師を借り入れるなり手が打てる。逃げるなら、さっさと逃げたほうがいい。ダークエルフも手を出しづらい魔海域の孤島にでも籠っていれば命を落とさずに済むだろう。

「逃げるか、戦うか。どっちにするんだ?」

〈私には春のオーブこと『イメルダの宝珠』をこの地に収めるという義務があります〉

「この山から移動できないってことか?」

〈それも不可能というわけではありません。十年や二十年くらいなら山から離れていても大丈夫です。永い永い時の流れにとって、十年の歳月はちょっと瞬きする間に過ぎていくようなものです。私と春のオーブが移動することによって魔素(エレメント)に少々影響が出るでしょうが、狂霊嵐(エレメンタルストーム)に比べれば微々たるものです〉

 正直、言っている意味が半分くらい分からなかった。

 何百年と生きている不死鳥と十七年しか生きていない人間が会話しているのだから、話が噛み合わなくて当然である。

 俺は単刀直入に尋ねた。

「で、けっきょくアンタはどうするんだよ?」

〈戦うしかあるまい〉

「それなら、手紙の配達人として俺を雇ってみないか? 礼儀作法はこの通りテンでダメだが、物覚えは悪くない。アンタが教えてくれるなら、お望み通りの小間使いになってやってもいいぜ?」

 学ぶとしたら、コイツから学びたい。

 そう思った俺はいつの間にかこんな提案を口にしていた。それに、不死鳥の伝言役となれば、ラストゥスの領主の館にも招かれるだろうし、三年後に襲撃してくるダークエルフの皇子の顔だって拝める。

 考えてみりゃ、悪くない。

 しかし、エスメラルダは素気無く否定した。

〈私が戦うとしたら、一人です〉

「はぁ?」

〈春のオーブに人を近づけるわけには行きません〉

「いやいや。でも、アンタ一人で戦ったら殺されちまうぞ? 『とある召喚術師の手記』にはそう書いてある。しかも、善戦した末に敗けたんじゃなくて、けっこうあっさりやられちまうらしいじゃねぇか」

〈さすれば、それが私の天運なのでしょう〉

 不死鳥は達観した様子でそう答えた。

 自分の死すらも運命だと受け入れる。

 ――ふざけんな。

 エスメラルダの態度が癪に触った。

 何故、全力で足掻こうとしない。自分に与えられたモンが気に入らないなら突っぱねろ。力にも地位にも恵まれておきながら、潔く諦めてんじゃねぇよ! ふつふつと膨れ上がる怒りの感情に呼応するように、俺の身体が暗黒の中でどんどん膨張していった。

〈む?〉

 これは賢い不死鳥も予測していなかったらしい。

 どんどんどんどん膨らんでいって、不死鳥を掴めるほど巨大化したところで、俺はエスメラルダを見下ろした。上から眺めてみると、不死鳥の炎は煌々蟲ほど強烈な生命力を宿していないように見えた。

〈召喚術師でもない人間がここまで自己意識を拡大できるとは――〉

「カァァァッ!」

 不死鳥の声を遮るように吠えた。

 言いたいことはいろいろあった。

 しかし、言葉にして正しく伝わる自信はなかった。

 だから、俺は野生の虫を手懐けるときのように、なるべく柔らかい手つきで不死鳥の巨大な炎の塊に手を伸ばした。虫も鳥も同じ生物だ。もう信仰の対象だろうが、何百年と生きた伝説の生物だろうが、構うものか。

 相手を両手で抱きかかえ、自分の胸に押し当てる。

 理屈は分からないが、大抵の虫はこれで警戒心を解いて大人しくなるのだ。抱きかかえた火薬蜂に刺されて血反吐を吐くような失敗も何度か経験してきたものの、今までこれで何とかやってきた。

 俺は虫に語りかえるように口を開いた。

「決めた。お前は俺のものにする」

〈はっ、はわっ、な、何を……〉

「お前は俺のために尽せ。その代り、俺はお前を養ってやる。お前に子ができたときは、ソイツの面倒まで見てやる。信用できないなら、他の虫たちに聞いてみろ――って、ここにはいないか」

 途中から完全に虫を口説くいつもの台詞になってしまった。

 そのせいか、エスメラルダの炎は先程よりもしゅんと大人しくなってしまったように見える。

〈……………〉

 ――引かれちまったかな

 まじまじとエスメラルダの炎の塊を眺めていると、不意に炎が爆発した。

 地雷蚯蚓を踏んだときとはまるで違う、大地を揺るがす火山の噴火のような重く激しい大爆発の流れに圧され、俺は夢の世界から弾き飛ばされた。意識を失う直前に、エスメラルダが何か呟くように口を動かしていたが、その声は爆音に掻き消されてしまったため、まったく聞き取れなかった。

 

 

 目覚めたとき、俺は隣りに人の気配を感じた。

 そんな馬鹿な! ガバリと跳ね起きて入口に撒いておいた地雷蚯蚓が元気に這い回っている姿を確認し、ぽんぽんと自分のシャツを叩いて虫たちの無事を確かめてから、慌ててローブを引っ掴んで身に纏った。

 急な動きに対応できなかったタンポ虫が何匹かぼとぼととローブの裾から零れ落ちる。

 俺はローブのポケットからエグリ蜘蛛の瓶を取り出して臨戦態勢に入った。

 エグリ蜘蛛は俺でさえまだ手懐けられていない、とても凶暴な虫である。相手が人間サイズであれば、たちどころにズタズタに肉を抉ってくれるだろう。エグリ蜘蛛はそれを可能とする強靭な顎を持っている。

 しかし、瓶を構えた俺を見ても、相手は少しも動じなかった。

「寝起きから騒々しいですよ。少し落ち着きなさい」

 初めて見る顔の女だった。

 燃えるような赤い髪を腰まで伸ばしており、切れ長の目も赤く燃えているくせに、肌は雪のように白く、彼女の朱さをより一層際立たせていた。身体的な特徴は人間によく似ているが、どことなく人間離れした気高さというか、気品を持った女……

 俺は警戒心を解かずに問いかけた。

「お前は何者だ?」

「つい先程話したばかりだというのに、もう名前を忘れてしまいましたか?」

「…………」

 驚きのあまり声が出せなかった。

 だって、その、不死鳥が、人間の姿に化けるなんて、聞いたこともなかったのだ。

 考えがうまくまとまらない。要するに、この、目の前にいる女が、あの、不死鳥エスメラルダであり、だから、つまり……どういうことなんだ?

 俺は混乱した頭を振りつつ、地面に落ちたまま放置されていたタンポ虫を拾い集めた。

 うむ。まだ温かい。

 だいぶ気分を落ち着けた俺は、改めて女の顔を見た。

「分かった。アンタはエスメラルダなんだな」

「ようやく理解できましたか」

 エスメラルダがクスリと笑った。

 顔は笑っているものの、どことなく責められているように感じられた。ひょっとして、正体に気付くまでにちょっと時間が掛かったから怒っているのか? いやいやいや。魂の波長とか見ることのできないただの人間に一瞬で正体見抜けとか、無理だからな

 俺は頭を掻きながら話題を変えた。

「で、けっきょくどうすることにしたんだよ?」

「それをあなたが聞きますか?」

「えっ」

 エスメラルダの笑顔がより深くなった。

 たぶん、怒りのボルテージもガンガン上がっていると思う……正体が正体だけに、今すぐ口から炎でも飛び出してくるのではないかと冷や冷やしたが、さすがは数百年生きてきた不死鳥である。エスメラルダは静かに言った。

「あなたが言ったのですよ。『お前は俺のものに――」

「うわあぁああああああああッ!!!」

 俺は頭を抱えた。

 あの言葉は、相手が虫や鳥だからこそ言えたのだ。人間の女の姿で喋られると凄まじく恥ずかしい。俺は間違ってもプレイボーイって柄ではない。それどころか、女性経験は皆無に等しい。正直、中身はどうであれ、外見は美女であるエスメラルダに見つめられているだけで少し焦る。

「ふっ」

 エスメラルダが鼻で笑った。

 もう勘弁してくれ。俺は羞恥に心を抉られつつ、話題を変えた。

「お、俺はこれから世界各地を旅して回る。まず手始めにジオテランの森へ行って、エルフたちから狂霊嵐について色々聞き出すつもりだが、その、ええと……ア、アンタもつ、ついてくる、ん、だよな」

「『お前は俺のために――」

「ぐっはぁ! よし! 分かった!」

 俺は大声で押し切った。

 この不死鳥、完全に楽しんでやがる! たぶん、これから先もずっと夢の中で言った台詞をことあるごとに引き出してくるに違いない! 本当に勘弁してくれ! 何百年も生きているくせに、性格が悪過ぎるぞ!

「ところで、この山を下りるにあたって、春のオーブはどうするんだ?」

「私の体の中に隠しておきます。現状、それが一番安全でしょう」

「まあ、そうだろうな」

 事務的な話になったおかげで、ようやく気を鎮められた。

 普段から静かで落ち着いたダウナー気味の生活を送っていた俺が、この短時間のうちに一週間分くらい騒いでしまった。このままだとスタミナがもちそうにない。いざとなったら狂騒蟲を食べて精気を補うこともできなくはないが、こんなしょうもない理由で虫を犠牲にしたら、他の虫たちとの信頼関係が崩れかねない。

「前途多難だな……」

 敵はまだ動き出してすらいない。

 これから立ちはだかってくるであろうダークエルフたちに対処する術もまだ用意できていないし、狂霊嵐を止める方法の手がかりすら何一つ掴んでいない。ハイエルフの錬金術師や魔剣姫が何度も失敗を重ねて身につけた知識と力に匹敵するものを、俺は与えられた三年間で手に入れなければならない。

 常識的に考えれば不可能だ。

 しかし――

「何ですか?」

「いや、別に」

 俺にはコイツがいる。

 それだけじゃない。

 頼りになる虫たちと、『とある召喚術師の手記』もある。常識の枠ならもう踏み越えた。俺はできる。別の次元からやってきた連中に頼らずとも、俺は俺たちの歴史を紡げるはずだ。本当の意味で、新しい歴史――

 

「さて。行くか」

 

 〈俺たちの時代〉の幕開けだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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2-0 プロローグ ――俺、アングースト、再び登場――

今回から第二章ということになります。


第一章で歴史をぶっ壊してしまったために、
ここから先はほぼオリジナルチャートとなります。


なるべく公式キャラなり何なりを出していきたいですが、
ストーリーを捻じ曲げてでも登場させるような無理はしませんので、
あしからず。


 『とある召喚術師の手記』を拾ってから早半月。

 運命はごくわずかに変わり始めていた。

 相変わらず俺はしがない遺跡荒らしのままだが、隣りには美女がいる。

 まあ、その美女の正体が外見を好きに変えられる不死鳥なのだから、容姿の自慢をしても仕方ない。ずるみたいなものだ。

 アルフレアの火山で不死鳥のエスメラルダを仲間に引き入れて、そこからジオテランの深い森を目指して北上すると決めたまではすんなりと事が進んだ。しかし、そこから先が困りものだった。

 世界の運命を変える旅を続けるには、金も虫も、少し心もとない。

 エスメラルダは「私の羽を提供したほうがよろしいでしょうか?」と提案してきたが、不死鳥の羽を売り払ったことにより、万が一にでもこちらの正体が他人に露見されてしまっては非常に面倒くさいことになる。謹んでお断りした。エスメラルダは「男のプライドですか」とニヤニヤ笑っていたが、そんな上等なものではない。

 

 幸い、ジオテランへ向かうルートの途中にはいくつか目ぼしい遺跡が点在している。

 

 時間の都合上、あまり深くまでは潜れないだろうが、うまくやればテキトーに浅瀬を掬っているだけでもそこそこ稼げるはずだ。問題はむしろ金銭面ではなく、替えの利きにくい虫たちのほうにあった。

 アルフレアではフレイム・ランナーを相手に3匹も虫を死なせてしまった。

 まあ、3匹程度なら全体の一割にも満たない。しかし、失った虫はどれも一騎千金のエース揃いであった。特にランタン代わりに使える煌々蟲(キラキラムシ)を失った痛手が大きい。虫籠に閉じ込めずとも脱走しないように煌々蟲を仕込むのは骨が折れる。

 金と虫。

 どちらも次の場所で手に入れなければ、後々困ることになるだろう。

 そう胸の内で計算しつつ、俺は〈光の都〉帝都ソブリニを迂回してタルドゥの密林へ侵入した。

 

 

 

 

 

 

 湿度の高い沼地が広がっている。

 所々陸地も見えるが、陸には木々が鬱蒼と生い茂っており、そちらはとても歩けそうにない。

 べちゃり、べちゃり。

 ぬかるんだ地面を踏みしめる度に不快な音が鳴ってしまう。後ろから付いてきているエスメラルダは器用に無音で歩いている。さすがは不死鳥だ。沼地を歩く姿も優美に見える。人間の俺には無理な芸当である。見よう見まねでできる限りエスメラルダの歩調をトレースしてみるが、そううまくいかなかった。

 首を傾げながら足を動かしていると、エスメラルダと目が合った。

「沼地を歩くのは初めてですか?」

「ずっとタージケント付近の遺跡で稼いでいたからな。御覧の通り。初めてだ」

「焦らずとも大丈夫ですよ」

 エスメラルダは柔らかく諭すようにそう言った。

 しかし、その姿を見て、むしろ俺はより強い焦りを感じていた。

 『とある召喚術師の手記』によれば、この不死鳥ですら、ダークエルフたちの手で簡単に殺されてしまうのだ。俺はそいつらを相手に立ち回らなければいけない。春のオーブがこちらの手のうちにある限りは〈欲深き帝王〉オルクス3世が復活することはないが、『とある召喚術師の手記』に書かれている最悪の場合には、オルクス3世を倒す必要だって出てくる。

 ――力が、いや。何もかもが足りない。

 表面上は普段通りにダウナーに取り繕っていても、俺は焦りに焦っていた。

 しかし、不死鳥には俺の考えなどお見通しだったようだ。

 エスメラルダはズイと顔を近づけて言った。

「あなたは人間です。いくら焦ったところでオーガに勝る筋力は得られませんし、エルフに勝る魔術も身に付けられません。落ち着きなさい。責任感と向上心を持つことは美徳ですが、あなたはあなたに合ったやり方で試練に挑むべきでしょう」

 エスメラルダの励ましの言葉を聞いても、俺の焦りは薄れなかった。

 相手の目から逃げるように前を向いてから、俺は尋ねた。

「俺に合ったやり方で試練を乗り越えられないとしたら、どうする?」

「あなたが諦めない限り、試練は続きます」

「俺はアンタじゃない。人間だ。すぐ死ぬくせに、死んだら終わり。次はない」

「あなたはそう簡単に死にません。私が護ります」

 背中越しに不死鳥の力強い視線を感じた。

 誰かから守られた経験の乏しい俺は、たったこれだけのやり取りだけで嬉しく感じてしまう。我ながら単純で薄っぺらな人間だと思う。俺の心の中にまだ焦燥感が残っているものの、だいぶ縮んでしまった。

 俺は肩を竦めて言った。

「アンタこそ死ぬなよ。アンタが死ぬと、犠牲者の数が跳ね上がる」

「それに、あなたが悲しみますからね」

「どうだか――」

 そこまで言って、俺はピタリと動きを止めた。

 前方に動く人影が見えた。沼地を物ともせず歩くリザードマン。青い鱗に覆われた皮膚が甲冑の間から覗いている。獲物は薙刀か。腰にも短剣が佩いてある。武者修行を兼ねた縄張りの警備中なのだろう。

 見つかったら面倒なことになる。

 俺は手振りでエスメラルダに事態を伝え、身を屈めた。

 



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2-1、決闘

 タルドゥの密林はリザードマンたちにとって聖地のような場所らしく、彼らは他種族の侵入に厳しいらしい。そもそも、タルドゥという言葉もリザードマン語であり、「聖なる」とか「古の」といった意味だったはずである。

 リザードマンは想像以上に手ごわい連中である。

 人間より丈夫で、尻尾一本分手数が多く、そのうえ水属性の魔法を使うヤツまでいる。幼少期から武芸の鍛錬に励むため、武術の腕も平均的に高い。そして、こうした実戦混じりの見回りを日々行っているため、戦闘経験も豊富である。

 まさに、戦闘民族である。

 そのリザードマンが40歩ほどの離れた地点を歩いている。

「若い雌ですね」

 エスメラルダが小声で話しかけてきた。

「どうするつもりですか?」

「理想としては、話し合って虫の種類や生息地を聞き出しておきたいが、ヤツは武装している。他を当たったほうが良さそうだ」

 俺の意見を聞いて、不死鳥はわずかに眉を震わせた。

 どうやらお気に召さなかったようだ。

 前方を巡回しているリザードマンに注意を払いつつ、俺は溜息を吐いた。

「『やり過ごす』が最善策じゃないのか?」

「あなたはより広い視野を持つべきです」

「答えになってねぇよ。ただ、まあ、言いたいことは分かった。要するに俺は何かを見落としているんだろ」

 俺はローブの下で這い回っていた葉巻蟲(ハマキムシ)を指であやしながら黙考した。

 ――何を見落とした?

 相手のリザードマンの戦力を過小評価しているつもりはない。十分手強い相手だと認識しているからこそ、やり過ごそうと思ったのだ。地の利もあちらにある。ついでに、コミュニケーションを取れるかどうかも分からない。俺はリザードマン語を習得していない。

 やはり、見落としていることはないように思える。

 そう結論付けようとしたところで、エスメラルダに頬を抓られた。

「いででででッ!」

 間抜けな声が密林に響き渡る。

 前方を巡回していたリザードマンがギロリとこちらを睨んだ。俺は涙目になりつつ、エスメラルダの胸倉を掴んだ。

「おい! どういうつもりだ! 見つかっちまったぞ!」

「あなたのためを思ってのことです。経験の乏しさがあなたの視野を狭めています」

「だぁぁあああああッ!」

 俺は怒りのあまり吠えた。

 お前、ちゃんと答える気ねぇだろ! ちゃんと分かるように話せッ!

 しかし、今ここで怒鳴り合っている暇はない。前方に見えていたリザードマンは滑るような足取りでスルスルとこちらに近寄ってくる。素人が見ても分かる、武芸を修めた者の足取りである。

「チッ!」

 俺はエスメラルダの胸倉を放して臨戦態勢を取った。

 こうなっては仕方ない。

 何とか相手の隙を突いて逃げるなり倒すなりするしかない。ぬめる地面に不安を抱きつつ、すぐにでも虫を取り出せるようにローブの内側に手を入れたところで、後ろから凛とした声が聞こえた。

「碧鱗の戦士よ! 名乗りを上げなさい!」

 不死鳥の声に、あと十歩の距離まで間合いを詰めていたリザードマンの動きが止まった。

 俺とエスメラルダを交互に見比べてから、リザードマン語で何か叫んだ。

「おい。何が起きているんだ?」

 エスメラルダは俺の問いには答えず、満足げに頷いてから口を開いた。

「勝負はこの男が引き受けます。私は付き添い人に過ぎません。絶対に手を出さないと誓います。この人間の名前はアングースト。粗暴にして純真な勇者です。召喚術も魔法も使わぬ陽の者です」

 それを聞いたリザードマンが、槍を立てて軽く一礼した。

 何が何やら分からない。

 このまま和解できるのか、と思ったが、俺の期待も虚しくリザードマンは再び槍を上段に構えて戦闘態勢に入った。さっきのやり取りは何だったんだ? 事態が呑み込めず、俺はエスメラルダに目を向けた。

「けっきょく戦うのか?」

「戦いの意味を変えました。是非勝ってください」

「……答えになってねぇよ」

 俺は諦めて前に向きなおった。

「ああ、それと」

 後ろから、エスメラルダが一言付け加えてきた。

「相手をなるべく傷付けないように配慮してください」

「はぁ?」

「あなたなら出来ます。お願いしますよ」

「おいおい……」

 俺は溜息を吐いた。

 不意打ちに備えて袖の下で待機させておいた雷光蟲を下がらせる。迂闊に打ってきてくれれば、カウンターで簡単に片づけられたのだが……単に卑怯を嫌って手を出さなかっただけかも知れないが、やはり場数を踏んだ武芸者は一筋縄ではいかないようだ。

 相手は俺の得物が分からず、攻めあぐねている。

 こう構えられるとこちらも困る。

 虫では手数が稼げない。一撃、二撃で仕留められなければ逆にこちらが窮地に立たされる。

 俺は仕方なく背負い袋からハンマーを引き抜いて片手で構えた。武器を手に取ったものの、まともに打ち合ったところで勝てる見込みは少しもない。俺は少し考えてから、背負い袋を肩から外して、振りかぶった。

「ドグァラッ!」

 リザードマンの罵声が聞こえたが、俺は気にせず背負い袋を投げつけた。

 相手が人間であれば避けられずに対処に困ったはずだが、リザードマンは違った。足場の悪いこの状況下で、身を伏せて滑るように前進してこちらの投げた背負い袋を躱しやがった。しかし、それも想定の内――

 俺は手首のスナップを利かせてハンマーを投げた。

 地面と水平に回転しながらハンマーは唸り声を上げてリザードマンに迫る!

 ガギンッ!

 硬い音が密林に響く。

 目にも止まらぬ速度で振り抜かれたリザードマンの槍が、俺のハンマーを吹き飛ばした。

「冗談だろ!」

 足を止めずに接近してくる相手に、背筋に悪寒が走った。

 ぎろりと見開かれた丸い目玉に俺の姿が映っている。もう相手の間合いだ。俺は全力で後ろに飛び退きながら、ローブの内側に手を入れた。頼む。これで攻撃を躊躇してくれ! しかし、俺の願いは届かなかった。

「グァルルァ!」

 聞き慣れない気合とともに鋭い突きが放たれた。

「クッ!」

 俺は槍の穂先を胸の中心に来るように体を捻った。

 ――リザードマンの突きくらいなら!

 吸い込まれるように槍の穂先が俺の胸に突き刺さった。相手もこれで勝負がついたと思ったに違いない。俺だってちょっと本気で死を覚悟した。俺の胸に一撃を入れたリザードマンは、静かに槍を引き戻そうとした。

 そのとき、異変が起こった。

「ヌ……」

 槍が動かない。

 何かにがっちり掴まれたように、押せども引けども穂先は俺の胸から離れない。リザードマンの顔に焦りの色が浮かんだ。想定外の展開で混乱しているのだろう。俺はその好機を逃さなかった。

 俺は倒れたままローブの袖から槍づたいに石喰百足(イシクイムカデ)を相手に向かわせた。

 石をも砕く百足を前に、リザードマンは迷った。

 自らの得物を手放すか、それとも――

「グラルァ!」

 逡巡の末、リザードマンは槍を手放して飛びずさった。

 相手が距離をとったので、俺はようやく立ち上がり、胸に刺さったままの槍を引き抜いた。穂先には鉄鎧蟲(テッコウチュウ)の緑色の体液ほんのり付着している。これでまた手持ちの虫が一匹減った。

 しかし、鉄鎧蟲のおかげで場は整った。

 相手は間合いの長い武器を失い、ちょうどいい具合に距離が空いている。

「終わらせてやるよ」

 俺はローブの内側から葉巻蟲を五匹まとめて取り出した。

 一匹一匹ではただ煙を吐き出すことしかできない芋虫たちだが、こうして数が集まると、より効果的な運用ができる。俺は両手で葉巻蟲を掴んで、手にほんの少し力を込めた。刺激に反応した葉巻蟲たちが一斉に煙を吐き出す。

 ふしゅーっ、

 気の抜ける音とともに、灰色の煙幕がリザードマンを包み込む。向こうが慌てて腰の短刀を抜こうとしたところで、辺りが煙幕に呑み込まれ、視界が灰色に遮られた。おそらく、相手は何もできずに立ち往生しているはずだ。

 俺はこの隙にローブの内側から大量の虫を解き放った。

 地獄蠅(じごくばえ)、吸血鬼蚊(ヴァンパイア・モスキート)、狂々蝗(フォビア・ローカスト)、風斬蟲(かぜきりむし)、迷宮百足(ダンジョン・センティピード)……羽を持つ虫たちは宙を飛び、血を這う虫たちはぬかるむ地面にめげることなく煙幕の中に呑まれていった。短刀一本を構えたリザードマンが四方八方から迫り来る虫たちに翻弄されながら四苦八苦している姿が霧の中にうっすら浮かび上がる。

 いくら剣を振り回したところで、虫たちの侵攻のすべては止められない。

 徐々にリザードマンの影の動きが遅くなっていく。

「ははははっ! 踊れ踊れ!」

 どの虫に噛まれ、どの虫に刺されたか。

 きっと本人にもよく分からなくなっているに違いない。

「ドゥガルガッ!」

 いかにも悔しそうな声が絞り出された。

 リザードマンの言葉を分からずとも、相手の台詞を理解できた。おそらく、降参と宣言したのだろう。しかし俺はここで勘弁してやるつもりはなかった。虫が死んだ。何十何百と俺の育てている商売道具の一匹二匹に過ぎないが、それでも俺と温もりを分かち合った虫だった。

 薄くなった霧の合間から、リザードマンの姿が見えた。

 全身虫塗れになっており、もはや立っているだけでも辛そうだった。

 蒼い瞳が俺を見据える。

 俺は黙って腕をローブの中に――

「そこまでですッ! アングーストッ!」

 ぱしんっ!

 強烈な張り手を頬に受け、視界がブレた。

 横合いから割り込んできたエスメラルダは怒りと悲しみの入り混じったような複雑な顔をしていた。

 ――どうしてそんな顔をするんだ?

 俺には分からなかった。

「彼は自らの敗北を認めました。それはあなたも理解したはずです」

「ああ」

「ならば矛を収めなさい。戦いは終わりました」

 エスメラルダは氷のように冷たい声でそう言った。

 不死鳥の後ろで、リザードマンが膝を折って地面に崩れた。どうやら本格的に限界が近いらしい。狂々蝗に鎧の紐を齧り取られ、甲冑の間に滑り込んだ迷宮百足に鱗を荒らされ、肩の上にとまった地獄蠅は今か今かとリザードマンの死を待ち構えていた。

「アングースト。矛を収めなさい」

 宝石のような赤い双眸が悲しげに細められた。

 ああ。

 ひょっとして、俺はまた一人になっちまうのか?

 ――それは困るな。

 不死鳥エスメラルダ(コイツ)が俺の手から離れれば、きっとロクな対策も取らずに三年後にダークエルフたちに殺されるだろう。不死鳥の死は太古の暴君〈欲深き皇帝〉の復活に繋がり、結果として数多の人々が命を落とす。

 正直、他人の命にそこまで感心はなかった。

 それでも俺が犠牲者の数に拘る理由は、すべてブリオッシュに勝つためであった。あの、苦労知らずな甘ちゃんが打ち立てるはずだった功績を上回る成果をこの俺が叩き出して、アングーストという名を歴史に刻み付けてやる。

 俺にはそんな魂胆があった。

 しかし、不死鳥の意図は分からない。

 ――こいつはどうして他人の生き死に拘るのだろうか?

 分からない。

 分からない。分からない。

 考えが纏まらない。

 俺は長い間エスメラルダと見つめ合っていた。

 相手の目を覗き込んでいれば何か分かるのではないかとも期待したが、ダメだった。

 ――仕方ない。

 俺は口笛を吹いた。

「戻ってこい。お前ら」

 虫たちを呼び戻すために再度口笛を吹き、そしてそのままぶっ倒れた。

 

 



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2-2、蜥蜴人(リザードマン)

 

 

「へっくしょい!」

 俺はくしゃみと共に意識を取り戻した。

 体が寒い。

 上半身が剥き出しにされている。虫たちの感触がないとどうも落ち着かなかった。

 目を擦ってから自分の身体を確認すると、リザードマンの突きを受け止めた胸に内出血の跡が浮かび上がっていた。槍の穂先は鉄鎧蟲が受け止めてくれたものの、突きの衝撃までは殺せなかったようだ。

「やっと目覚めましたか」

「……おう」

 俺はすぐ近くに座っている女の顔を見上げた。

 辺りに目を向けると、ここは硬い地面の上であった。どうやら、倒れている間に陸地まで運ばれたらしい。ちなみに、さっきまで戦闘していた相手のリザードマンはすぐ近くに草を敷いてその上で寝かせてあった。

「なんで向こうのほうが待遇が良いんだよ」

「私の膝枕では不服でしたか?」

「はぁっ!?」

 俺はガバリと跳ね起きた。

 こちらの驚きをよそに、エスメラルダは気だるげに言った。

「冗談です」

「…………」

「それはさておき、無茶もほどほどにしてください。魔法で治すにしても限度があります。胸の骨を折った人間を修復するのは、さすがの私でも疲れてしまいます」

 そう言って、不死鳥が俺の肩に凭れ掛かってきた。

 艶やかな黒髪が俺の鼻をくすぐる。

 どうやら俺は自分で考えていたよりも深い傷を負っていたらしい。戦闘中は興奮して痛みを感じにくくなるから、見誤ってしまったか……思えば、戦闘直後にぶっ倒れるなんて、軽い傷ではありえない。

 エスメラルダの疲労具合から考えるに、相当大変だったのだろう。

 俺は少し申し訳ない気分になりつつ、不死鳥の身体を引き剥がした。

「で、けっきょく何だったんだよ」

「侵入者との戦闘ではなく、武芸者との決闘、ということにさせました」

「決闘にしたって、やることは同じだろ?」

「事後処理が違います。碧鱗の里の掟によれば、決闘で勝利した者は負かした相手にひとつ命令することができます。たとえば、碧鱗の里へ案内してくれ、とか。虫の居場所を教えてくれ、とか」

「……だからリザードマンを呼び寄せたのか……」

 エスメラルダの選択は理に適っていた。

 俺たちには、タルドゥの密林に詳しい案内人が必要だった。また、案内人を雇ったとしても、それとは別にリザードマンたちと何とか敵対しないで済む方法が欲しかった。何百年と生きた不死鳥は、ふたつの望みを同時に叶えてみせた。

 ――敵わねぇな……

 俺は腕を組んで目線を地面に落とした。

 エスメラルダには「落ち着け」と言われたが、そんな暇はどこにもない。

 俺は胸の傷跡がうずくのを無視して立ち上がった。治療のために脱がされていたローブを羽織り、小さくまたくしゃみをした。

「今回、あなたはひとつの大きな間違いを犯しました」

 まるで独り言のように、エスメラルダがそう言った。

 ローブの虫たちの状態を確認していた俺は背を向けたまま尋ねた。

「ひとつで済むのか?」

「はい。細かい改善点なら無数に存在しますが、根本的な間違いはひとつです」

「蜥蜴男を殺そうとしたことか?」

「あれは……私のミスです。申し訳ありませんでした」

 エスメラルダは深々と頭を下げた。

 他人に謝られた覚えのない俺はバツの悪い気持ちで不死鳥のつむじを眺めた。こう、自分が他人から謝られることは珍しい。街でぶつかられたときも、だいたい顔を顰められるか、慌てて目を逸らされる。

 俺は何と答えていいものか迷った。

「……そうか」

「はい。あなたに事情を説明する時間を稼ぐべきでした。きちんと決闘についての知識があれば、あなたのことです。決してあのような愚行を犯さなかったでしょう。だから、あなたがあのことで気を病む必要はありません」

 そう言って、エスメラルダは顔を上げてこちらを見つめた。

 自分の非を認めながら、まっすぐな目をしている。高貴という言葉は、こういうやつのために用意されているのだろう。俺には出来ない顔をしている。今まで俺が見たことない種類の表情であった。

 こう素直に謝られると、怒りも引っ込んでしまった。

 ――うまいもんだな。

 そのうち、コイツから交渉術のひとつやふたつ教わっておこうか。

 俺は頬を掻きながら尋ねた。

「じゃあ、俺の間違って何だったんだよ?」

「まだ分かりませんか?」

「……悪い」

 今度は俺が頭を下げた。

 ひょっとして、さっきエスメラルダが先に謝っていたのは、俺に頭を下げやすくさせるためだったのではないだろうか……あらかじめ手本を示すことによって、不慣れな者に勇気を与える。虫たちを躾けるときにも似たような手を使うこともある。

 エスメラルダは不承不承といった態で口を開いた。

「あなたは仲間の使い方がなっていません」

「そうか? 自分で言うのも何だが、虫ならうまく使えているぞ」

「では、私をうまく使えていますか?」

 そう言って、エスメラルダは自分の胸に手を当てた。

 ――ああ。

 思い返してみれば、不死鳥のことは駒の数に入れてなかった。というか、正直なところ、コイツが俺の指揮下に入っていると認識していなかった。確かにアルフレアの火山では「俺のモノになれ」と言った。もちろん本気で口にした言葉だ。

 しかし、相手は不死鳥である。

 俺は頭を掻きながらエスメラルダの話の続きを待った。

「あなたが世界の運命を変えるつもりなら、まず、仲間や部下の扱いを学びなさい」

「なぜ?」

「独力で世界を変えることは不可能です。優秀な人材を手足のように扱えて、初めて世界を動かせるのです。そういう意味で言えば、ブリオッシュには世界を変える才能がありました。あなたも彼のようになれとは言いません。しかし、見習うべき部分は見習ってください」

 不死鳥は優しく諭すようにそう言った。

「俺にその才能はあるのか?」

「あなたに見込みがなかったら、私は今ここにいませんよ」

 そう言われても俺は首を傾げた。

 物心ついたときから一人で遺跡に潜っていた俺である。基本的な読み書きなら問題ないが、それ以上のことを要求されると、どれもこれも怪しい。なかでも、対人関係の問題は一番不安が大きい。考えてもみてほしい。三日に一度にしか他人と会話しない人間が、まともにコミニュケーションできると思うか?

 俺が不死鳥の言葉を訝しんでいると、地面に倒れていたリザードマンが目を覚ました。

 まずは左右に目を走らせてから、一度目を閉じて、それからゆっくりと起き上がる。まるで身体の調子を確かめるような動きだった。

 なるほど。これが武芸者の起床というものか。

 リザードマンは鱗の剥がれた傷跡の生々しいうなじに手を当ててから口を開いた。

「ググルォ、ガル、グォンガ」

「おい。何だって?」

 俺はエスメラルダに通訳を頼んだ。

 この不死鳥は博識であり、どうやらリザードマン語も話せるらしい。エスメラルダはこほんと咳をしてから言った。

「虫は恐ろしいな、だそうです」

「なるほど」

 俺は軽く頷いてからエスメラルダに耳打ちした。

「本当は卑怯だとか罵っているんじゃないのか?」

「はい?」

 きょとんとした顔でエスメラルダが聞き返してきた。

「なぜそう思うのですか?」

「今まで俺が倒してきた連中はみんなそうほざいていたからな。種族は違えど、ヤツだって同じことを考えていると思ったのさ。それともアレか? リザードマンは決闘に勝った者こそが正義だとでも思っているのか?」

「……どれも違います」

 エスメラルダは困った顔で溜息を吐いた。

 そこまで的外れなことを言ったつもりはなかったが、どうやらダメだったらしい。こっちも溜息を吐きたい気分になったが、もし、エスメラルダの言うことが本当なら、リザードマンとも友好的に接せられそうだ。

「ゴォルド、グガ、ガルシュン」

「何を話しているのか、と尋ねてきました」

「グルァ、シュサ、クルルァク」

「シュサ――勝者の権利――について相談しているのか、だそうです」

 リザードマンの青い眼が心なしか不安そうに動いた。

 無理難題を押し付けられたら尻をまくって逃げちまおうって腹じゃない。それくらいのことは種族の違う俺でも読み取れた。これから用件を押し付けようと思っていたこちらとしては有難い性格だが、気苦労の多そうなヤツである。

 コイツが虫だったら、きっと餌の好き嫌いも激しかろう。

「俺がコイツに危害を加えるつもりがないことを伝えてやってくれ」

 エスメラルダにそう伝えてから、俺はふと閃いて言葉を付け足した。

「ああそうだ。それと、まあ、無理だとは思うが……仲間の扱いを学べと言われたから、いちおう訊いておく。アンタの魔法で一瞬でリザードマン語を理解できるようになれないか? 俺もコイツと話してみたい」

 そう尋ねただけで、不死鳥の顔がぱぁーっと明るく輝いた。

 もちろん実際に光を出しているわけではないが、いかにも嬉しそうに目をきらきら輝かせている。手も小さくガッツポーズを取っているし、今まで相当フラストレーションが溜まっていたのだろう。

 エスメラルダは俺の肩を両手でつかんだ。

「やっと私を頼ってくれましたか!」

「ま、まあ……」

「やはり私の見込み通りでした! アングーストはやればできる子です!」

 今にも俺に抱きついてきそうな不死鳥の様子に、リザードマンが困惑している。

 分かる。分かるぞその気持ち!

 なぜなら、俺はお前の数十倍困っているからな!

 エスメラルダの手を肩から引き剥がしてから、俺は話を戻した。

「それで、できるのか?」

「多少体に負荷が掛かりますが、〈思念の糸〉で互いの意思を交換するくらいなら可能です!」

「アンタの体力的には大丈夫なのか?」

「他人を気遣うその心意気や良し! それくらいの体力は残してあります!」

「分かった。早めに頼む」

 頭に伸ばされた不死鳥の手を空中で掴みながら、何とか話をまとめた。

 これ以上、テンションの高いエスメラルダの姿をリザードマンに見せると、馬鹿にされかねん。まあ、傍から見たらもうとっくに手遅れかも知れないが、それでも自分の尊厳を守ろうとするのは当然だろう。

「アングースト。私に頭を撫でてもらえるなんて大変名誉なことなのですよ?」

「わ、悪いが、俺にもプライドってもんがあってな」

「後で泣いても、撫でてあげませんよ」

「こっちから願い下げだ!」

 しばらく無言で手を掴み合っていたが、やがて不死鳥が折れた。

 

 

「我らの一族にも虫を使役する者がいる」

 リザードマンはそう言った。

 俺たちは木々に囲まれた陸地に車座になって座り込んでいた。俺はテキトーに虫たちを解き放った。この話し合いの時間を利用して、虫たちが食事を済ませてくれるとこちらとしてもだいぶ助かる。硬い地面に匙を投げた地雷蚯蚓(じらいみみず)を指先であやしてやりながら、俺は話を続けた。

「で、虫使いについてはどう思ってるんだよ?」

「虫使いにとって虫は武器だ。お前は武器を使って戦った」

「卑怯だと感じなかったのか?」

「小技を弄したものの悪い戦い方ではなかった。敗北は私の修行不足のせいだ」

 思念の糸とかいうよく分からないものを繋げてもらったおかげで、俺にもコイツの喋っている内容が理解できた。相手の言葉が直接脳みそに流れ込んでくるみたいで気持ち悪かったが、意思疎通できるだけで御の字である。

 目だけ動かしてエスメラルダのほうを確認すると、何やら集中しているようだった。

 魔法を使っているのだから、話しかけないほうが良いだろう。

 俺は再びリザードマンに目を向けた。

「リザードマンも召喚術を嫌うと聞いたが、虫使いは憎まないのか?」

「お前は散っていった虫のために心を痛めていた。死んだ虫よりもお前のほうが苦しんでいるように見えた。虫たちはお前のことを憎んでいない。むしろ、喜んでお前のために働いていた」

「そう見えたか?」

「褒められたら素直に礼を言え。躾けがなっていないな」

 そう言ってリザードマンは口を開いてエスメラルダに歯を見せた。

 たぶん、微笑みかけたのだろう。

 止せばいいものを、不死鳥も集中を解いて困ったように肩を竦めた。

「まだ勉強途中の身なので大目に見てください」

「良き魂を持っている。素質は感じる。大成したときが楽しみだ」

「うるせぇ!」

 俺はやさぐれた気分になってそっぽを向いた。

 先程からいろいろ話していたが、この二人はよく俺のことを子ども扱いしてくる。リザードマンの年齢を聞いたら俺の五倍以上年取っていたので、まあ、十七の俺が子供に見えるのも仕方ないことのように思えるが、そう簡単に割り切れない。

 何せ、俺は決闘に勝ったのだ。

 ついでにエスメラルダに関しても、いちおうアイツは俺のものとしてここまで付いてきたのだ。つまり、あの不死鳥は俺の手下といっても過言ではない。だというのに、手下が主を子ども扱いするとは……それこそ礼節に欠ける振る舞いだろう。

「それはそうと、里の虫使いとうまく交渉できれば虫も手に入れられるはずだ」

「ありがとよ!」

「私からも感謝の意を伝えさせていただきます」

 エスメラルダは俺とは対照的に礼儀正しく振る舞った。

 

 

 



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2-3、碧鱗ノ國(へきりんのくに)

 それから沼地を三日ほど歩いて、俺たちはようやく碧鱗ノ國に辿りついた。

 リザードマンたちの主な住処は絶壁の崖を登った先にあるしっかりとした高地の上に建てられていた。石と木で作られた、風通しの良さそうな建物。石畳の上でリザードマンたちが整列して演武をしている脇を通り抜け、俺たちは宮殿へ連れていかれた。

 宮殿では青い着物に身を包んだ偉そうなリザードマンたちと引き合わされた。

 沼地で出会ったリザードマンからは碧鱗の王、シン・メーンだと紹介されたが、エスメラルダの補足によると、あれはシン・メーンの影武者であり、本物はもっと奥の別室に控えていたらしい。まあ、そもそも俺は王様に会いたいなんて思っていなかったから、大して腹も立たなかった。

 謁見の終わりに、シン・メーンの影武者が尋ねた。

「人間の眼に、この国はどう映る?」

 学の無い人間には難しい質問だった。

 俺が悩んでいると、エスメラルダが代わりに答えた。

「質実剛健。堕落した人間たちには真似できない健全な社会だと感じました」

 碧鱗ノ國はまさに健全であった。

 瀑布の上の街には学舎や道場、寺院があちらこちらに点在しており、通りを歩くリザードマンたちの身なりもしっかりしていた。おそらく、酔っ払いの浮浪者や歓楽街とは縁の無い世界なのだろう。

「ふむふむ。朕も左様な社会を目指して国策を執ってきた。時には苦しい選択を迫られもしたが、遠方の客人にも認めてもらえたのだから、朕の選んできた道に大きな間違いはなかったのだろう。嬉しい限りである」

 影武者は実に嬉しそうに顔をほころばせた。

 リザードマンたちは不死鳥の言葉を褒め言葉と受け取ったようだったが、俺には別の響きを持って聞こえた。落第者(ドロップアウター)の存在しない世界。健全であるということは、不健全なものを受け止められないのと同義である。

 ――この国は脆い。

 エスメラルダは言葉の裏でそう警告していた。

 奥の間に潜んでいた本物の碧鱗の王にはどう聞こえたか。俺は少し気になった。

 その後、紋切り型の謁見を終えて、俺たちは宮殿を後にした。

 

 

 

 宮殿を出たところで、沼地で出会ったリザードマンと別れた。

 ヤツは沼地での修行に戻り、俺たちにはシン・メーンから手配された別のリザードマンが案内役としてつくことになっていた。

 別れ際にヤツは握手を求めてきた。

「俺の名前はガロオムだ。覚えておけ」

 それだけ言うと、ヤツはさっさと手を放して離れていってしまった。

 俺は握手していた手を何となく引っ込められず、ただ茫然とガロオムの後ろ姿を見送った。虫使いのことを偏見なく評してくれた初めての相手だった。俺に「素質がある」とも言った。お互いに口には出さなかったが、少なくとも俺は気の合うヤツだと感じていた。何日も連れ立った相手と別れると、こう、心に隙間ができるのか。

 初めての体験だった。

 エスメラルダに説明を求めると、笑顔で断られた。

「あなたの心が感じたことを素直に受け止めなさい。それが真実となります」

「……そうか」

 俺はようやく手を引っ込めた。

 ガロオムか。しっかり覚えておこう。

 

 

 

 案内役のリザードマンは名乗らなかった。

 どうも碧鱗ノ國には親しい相手にしか名を明かさないような風習があるらしい。新しい案内役が名乗らないことが、俺にとって心地よかった。エスメラルダの要望により、俺たちはほとんど観光せずに客人の泊まることができる無心教の寺院へ直行した。

 俺たちには、本堂からだいぶ離れた敷地の隅に建てられた庵が割り当てられた。

「宿泊施設もあるが、人間はこちらを好むのか?」

 リザードマンがそう尋ねてきた。

 俺は背負い袋を床の上に下ろしながら答えた。

「一般的な人間は宿を選ぶだろうな。これはコイツの趣味だ」

「二人は<無心教徒>か?」

 <無心教>とは辺境で信仰されることの多い宗教である。

 自らの肉体を鍛え抜くことによって心を無に近づけ、自然との調和を目指す。それが無心教の教義である。そのため、無心教徒たちはひたすら肉体を苛め抜き、屈強な体を手にする。考えてみれば、日々修行に明け暮れている碧鱗族のリザードマンとはすごく相性が良さそうだ。

 しかし、俺には向いていない。

「虫たちと話しているうちに宗教のことは忘れちまったよ」

 俺は手のひらで懐炉蟲の幼虫をあやしながら答えた。

 四六時中遺跡に潜っていた俺には神を崇める時間はなかった。

 それに、つい最近まで神を呪いたくなるような生活を送ってきたから、どの神であろうと崇めてやる気にはなれない。胸中でそう付け足してから、ふと思い付いたようにエスメラルダに目を向けた。

「そういや、お前は信仰している宗教があったりするのか?」

「まさか。愚問ですよ」

 不死鳥は御座の上でごろんと寝返りを打ちながらそう言った。

 たしかに、コイツの立場を考えれば愚問だったかも知れない。コイツの正体は何百年と生きてきた不死鳥なのだ。周囲から神格視される存在が、他者から奉られる存在が、誰かに縋っては格好が付かない。

 ――相当な負担だっただろうな。

 エスメラルダの背負ってきた重みを想像して、俺は胃が痛くなった。

「ぷっ、くふふふふ」

 そんなことを考えていると、エスメラルダが横になったまま声を立てて笑い始めた。

「あなたはまだ私と思念の糸が繋がっていることを忘れないように」

「どういう意味だ?」

「あなたの思考は筒抜けで私の頭へ流れ込んできています。その考えを私が瞬時にリザードマン語に翻訳して、再び思念の糸伝いに相手に伝えることによって、言語の障壁を越えて会話できているのです」

「つまり?」

「あなたの想像していることはお見通しです」

 にこっ。

 そんな音が聞こえてきそうな飛び切りの笑顔で不死鳥が見上げてきた。

 俺は自分の顔が赤くなっていくのが分かった。羞恥に耐えられず、俺は案内役のリザードマンを追い出した。向こうも俺とエスメラルダの力関係を理解したらしく、やけに素直に出ていってくれた。

「だぁあああああッ! 今すぐ切れ! 思念の糸とやらを!」

「恥ずかしがる必要はありません。あなたの他人を思いやる気持ちは立派なものです。今まで私の立場について同情して下さった者はおりませんでした。私は今、確信しました。やはりあなたに賭けて正解だった、と」

「うるせぇッ! いいから思念の糸を切りやがれ!」

 それからしばらくの間。

 俺は鳥に突かれる芋虫の気分をたっぷりと味わわされた。

 

 

 



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2-4、敵襲

 翌日。

 俺たちは沼地に居を構える虫使いのリザードマンに会いに行った。

 碧鱗ノ國では虫使いの存在が認知されているとはいえ、その総数も少なく辺境に追いやられていることに変わりはないようだ。それとも、虫たちの都合で沼地にいるのだろうか? たぶん両方だと思う。

 街の寺院を出てからというもの、俺は常に誰かの気配を感じていた。

 瀑布を下りて沼地を歩いている間も、誰かに監視されているような気がしてならなかった。それとなく虫を飛ばして辺りを探らせてみたが、敵の姿は見つからなかった。念のためのトラップ代わりに地雷ミミズを俺たちの通過した地点に撒いてみたが、そちらも何の反応もなかった。

 ――嫌な予感がする。

 俺は道の途中でエスメラルダに尋ねた。

「何か感じないか?」

「いいえ……アングースト。何か心配事でも?」

「ああ」

 俺は少し頭を働かせた。

 『とある召喚術師の手記』を手に入れてからここまでは順調に進んできた。それは未来の出来事が記されている手記あってこその道のりであった。しかし、現在、俺は自らの意思で手記に書かれた世界を捻じ曲げ、新たな世界を歩いている。ぬいぐるみの万能錬金術師(モンブラン)や、鬼神如き戦闘力の魔剣姫(ドラジェ)に頼らない世界――

 俺はブリオッシュより三年も早く動き始めた。

 だから、ダークエルフやオークたちの二手、三手先の手を打てている。おかげで不死鳥のエスメラルダはダークエルフたちに襲われる前にアルフレアの火山を離れて今ここにいるわけだし、俺は碧鱗ノ國を出てからジオテランの森に行き、エルフたちに協力を仰ぐつもりだ。

 敵が動き始めるまでにすべての下準備を整えて、完封勝利する。

 それが俺の計画であった。

 だが、しかし

 ――そんな簡単な相手ではあるまい。

 俺の行動に気付いたヤツラは計画を前倒しするかも知れない。

 いや、もっと簡単な手がある。

「今、敵側の最善手を考えてみたんだ」

「あなたの敵が動き出すのは三年後からでしょう。今はまだ焦るときではありません。あなたは自身の力を付けていくことに専念してください」

「……同じだ」

 ブリオッシュが活躍した世界と同じである。

 『とある召喚術師の手記』では、この余裕と油断のせいで大勢の人々が死んでいった。連合側は常に後手の対策しか講じられず、欲深き皇帝オルクスの怒涛の攻めに太刀打ちできなかったのだ。

 背筋に悪寒を感じた。

 虫の知らせ、というものだろう。

 俺は不死鳥の華奢な肩を掴んだ。

「気を付けろ!」

 先を歩いていた案内役のリザードマンが怪訝そうにこちらを振り返った。

 エスメラルダも似たような表情をしていた。

 ――クソッ! 馬鹿ばっかりだ!

 敵にとって、最善手はイレギュラー要素である俺を殺して『とある召喚術師の手記』を略奪することである。そうすれば、歴史は変わる。おそらく、未来予知の力を得た皇帝オルクスの前ではブリオッシュたちも歯が立たないだろう。

 ほどなくして、俺の予感は的中した。

 俺たち一行の前方の土が瞬きする間に膨れ上がり、爆ぜた。

 不意打ちだ。

「グルォオオッ!」

 案内役のリザードマンは即座に印を組んで水の障壁を作ったが間に合わなかった。

 迫り来る土砂の散弾に体を叩かれ、リザードマンは悲鳴を上げながら後方へ吹き飛ばされた。俺は細かい砂からエスメラルダを庇うように立ち回ってから、背負い袋の中から『とある召喚術師の手記』を取り出した。

「焼け! 燃やしちまえ!」

「何を――」

 エスメラルダの戸惑いが命取りだった。

 敵の二発目の魔法が俺の腕ごと手記を凍りつかせた。

「グォォォォッ!」

 腕に割れるような激痛が走った。

 こちらの戦力が確実に削ぎ落とされていく。賢い狩人のような戦い方である。

「アングースト!」

「俺を抱いて飛べ! 足を止めたらただの的だ!」

 俺は凍っていないほうの腕でエスメラルダを揺さぶった。

 そうしている間にも敵の第三の攻撃が飛んできかねない。案の定、上空から無数の火の玉が落下してきた。なるほど。相手は遥か上空からばんばん魔法を打ってきているわけか。絶望的な状況にも関わらず、俺は感心した。

 ――これは死んだか。

 小さな虫たちでどうこうできる状況ではない。

 そう思った矢先、視界が赤く染められた。

 美しい炎の翼が俺の頭上に広がっていた。

「エスメラルダ!」

「少し手荒に扱います。注意してください」

 本来の姿を現した不死鳥は、巨大な足で俺を掴むと豪風を巻き起こしながら飛び立った。

 敵の火の玉を受けても涼しい顔で不死鳥は大空を飛んだ。それもそのはず。不死鳥にとって炎は水よりも親しいものなのだ。だが、俺は安心していられなかった。狡猾な敵がこんな初歩的な呪文選択のミスを犯すとは思えない。

 火の利かない不死鳥相手に火属性の魔法をぶつけてきた。

 ――ということは

 俺はローブの内側から黒くてツヤツヤした甲虫を取り出した。

 エスメラルダが大きく羽ばたき、薄っすらと空に広がっていた雲を越えた。

 すると、雲の上で胡坐をかいて座っている髑髏の魔術師の姿が見えた。真っ黒に染め上げられた魔術師のローブに身を包み、三つの髑髏の付いた杖を持った、肉のない魔術師。一目見ただけで死を直感するバケモノと目が合った。

「バーンアウト!」

「させるかッ! 黒曜蟲(こくようちゅう)!」

 髑髏の杖から放たれた魔法が完成するより先に、黒曜蟲がエスメラルダの前に躍り出た。

 炎の勢いを増加させ、どんな相手でも焼き殺す〈バーンアウト〉の効力は発揮されず、ただ黒曜蟲の甲殻が妖しく光った。相手の魔法を掻き乱す。それゆえ「魔法(スペル)殺し」とすら呼ばれる黒曜蟲の前では、髑髏の魔術師も動けなかった。

「召喚(サモン)! シャドウ・スピリット!」

 今度は召喚術かよッ!

 召喚門より呼び出された黒い霧のようなシャドウ・スピリットに黒曜蟲に迫る!

「行けっ! 鉄砲蟲!」

 俺はローブの内側から鉄砲蟲を三匹ほど突撃させたが、シャドウ・スピリットはふわふわと後退しただけで傷を負ったようには見えなかった。

「アングースト! 撤退します!」

「ああ! 急いで頼む!」

 追加の虫を飛ばしながら俺は怒鳴った。

 ごうごうと流れる風のせいで大声を出さないとすぐに掻き消されてしまう。髑髏の魔術師が懐から取り出した小さな石を雲の上に並べている姿が見えた。

「まさか、アレは……」

 エスメラルダが何かに思い当ったらしい。

 忙しなく翼を動かしながら、エスメラルダは俺に指示を飛ばした。

「アングースト! サークルストーンを破壊してください!」

「あの白い石ころを壊せってことか?」

「そうです! 早く!」

 エスメラルダの焦り方が尋常でない。

「分かった! 標的変更!」

 俺は追加の鉄砲蟲を伝令役として走らせ、先に展開していた鉄砲蟲を石に向かわせた。それでも嫌な空気を払拭できなかったため、いちおう後詰めとして槍蜂(スピア・ホーネット)を投入しておいた。

 今のところ黒曜蟲のおかげで何とか戦えている。

 しかし、黒曜蟲がやられた場合、どちらが不利になるかは明確である。矢継ぎ早に放たれる髑髏の魔術師の魔法を防ぐ手立てはない。サークルストーンとやらが何であるかは知らないが、エスメラルダのあの焦りようから考えて、黒曜蟲を取り除く装置に違いない。

 不死鳥の焦りが俺にも伝染した。

「召喚(サモン)! カース・エレメンタル!」

「くそっ! また新手か!」

 シャドウ・スピリットより二回り大きな暗黒の塊が鉄砲蟲たちを薙ぎ払った。

 宙に散った鉄砲蟲の後ろから飛び出した槍蜂がカース・エレメンタルの身体に風穴をぶち開けた。暗黒の塊を貫き、あとわずかで白い石に触れられるというところで、髑髏の魔術師が口を開いた。

「時間切れ、ですな」

 印を結んでいた手を解き、冷たい声で言い放った。

「すべての敵を焼き払え! インフェルノ!」

 サークルストーンが赤く輝き、雲の上に地獄の業火を出現させた。

 石に向かっていた虫たちは黒い悪霊もろとも瞬時に焼け焦げ、俺は多くの手駒を失った。業火の中心にありながら、髑髏の魔術師は少しも燃えずに悠然とたたずんでいた。

「これで邪魔な黒曜蟲は消えた」

「アングースト! 準備が整いました!」

 切羽詰まった掛け声をともに、不死鳥の頭上に召喚門によく似た巨大な門が描かれる。

 円状の魔方陣の内側に描かれた六芒星が光り輝き、エスメラルダ体を照らした。髑髏の魔術師は立ち上がり、杖を振るおうとしたが、今度は間一髪でこちらのほうが早かった。敵の魔術が完成するより先にエスメラルダが門の向こうへ飛び込み、彼女の脚に掴まっていた俺も時空の門を潜った。

 白い光に覆われて、俺は右も左も分からなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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3-1、帰省

「起きてください! アングースト」

 エスメラルダの囁き声に俺はハッと目を覚ました。

 人間の姿に戻ったエスメラルダは俺を背中に隠すようにしながら辺りを警戒していた。

 ヤバい状況なら、不死鳥の姿に戻ればいいのに……と思ったが、周囲の光景を見て俺も考えを改めた。俺はどこかの洞窟で倒れていたらしく、天井も含めて四方が壁で覆われている。それなりの広い大広間のような空間に落とされたようだ。どことなく懐かしい独特な空気の流れを肌に感じる。天井に生えた光苔(ひかりごけ)の幻想的な淡い灯りに映し出された部屋の奥に何か小さな黒い影が潜んでいることに俺は気付いた。

「髑髏の魔術師は?」

「完全に振り切りました。彼の脅威は去りました」

「ここはどこだ?」

 俺は冷え切った右腕を摩りながら尋ねた。

 右腕の感覚は一切なくなっている。触っても何も感じないというのは気持ち悪いが、まあ、魔法の発達した現代であれば、腕の一本や二本ぐらい後でどうとでもなるだろう。再生、複製、義手、移植。金次第で何でもござれだ。

 不死鳥は周囲を警戒したまま答えた。

「分かりません。敵に妨害されて、転移の瞬間に術式が乱れてしまいました」

 エスメラルダはちらりと俺の様子を確認してから、またこちらに背中を向けた。

 石造りの大広間の四方の壁際から黒い影がどんどんどんどん頭数を増やしていった。まるで壁から染み出てくるような勢いである。

 ――こりゃぁ、何かの巣に潜り込んじまったな。

 新人の遺跡荒らしですら犯さないようなタブーを現在進行形で実戦中というわけだ。

 天井の高ささえ許せば、エスメラルダもさっさと不死鳥の姿に戻っていただろう。ヤバい、ヤバいと頭の中で考えながらも、不思議と俺は危機感を抱けなかった。

 むしろ……何というか……こう……懐かしいような……くすぐったいような……?

 小さな影たちがじわじわと距離を詰めてくる。

 相手の姿を確認して、エスメラルダは身体を強張らせたが、逆にこっちは緊張を解いて小さな溜息を吐いた。俺は気分が軽くなったので、まだ気を張っている不死鳥に語りかけた。

「ちなみに本来だったらどこに逃げるつもりだったんだ?」

「私の山。アルフレアです」

「だったらかえって好都合かもな」

 不死鳥が振り返ってこちらを見た。

 ――何故です?

 エスメラルダの眼がそう尋ねてきた。

「んー……」

 口で答える代わりに、俺はエスメラルダから離れて小さな影に近づいて行った。

 相手は警戒するように「シュウゥゥゥ」と音を立てたが、俺が仰向けになって地面に寝っころがると黙ってまじまじとこちらを観察してきた。

 二本の脚で人間のように直立している蜘蛛。

 メルラルズの地下に住まう者――土蜘蛛だ。

 三本目の右手には杖を握っており、毛と目と顎でできた顔をゆっくりと俺に接近させる。上下に四つずつ並んでいる丸い眼に見つめられて、俺は懐かしい気分に浸った。

「よお、蜘蛛爺。久しぶり」

「……お主、なぜワシの名前を知っておる?」

「あー……やっぱりまだ人間の顔は区別がつかないままか?」

 俺の言葉を聞いて、土蜘蛛の代表者は首を傾げた。

 そうだった。

 この勘の悪さのせいもあって、かつての俺は彼らのもとから離れたのだ。俺は気まずさを誤魔化すように頭を掻きながら、できるだけストレートに伝えた。

「俺はアングーストだ」

「アングースト! ああそうか! アングーストか!」

「そうそう。七年前にここから出ていった人間だ」

「やはりあのアングーストじゃな! ワシもそうじゃないかと思ってたんだ! 本当だぞ? ところで、後ろの人間は何者だ?」

 蜘蛛爺が杖でエスメラルダを指し示した。

 まともに説明していると、おそらく一日が終わってしまうだろう。俺はなるべく簡潔で、分かりやすく、また都合の良い言葉で答えた。

「俺の新しい家族だ」

「え、あの、えぇ?」

 エスメラルダが説明を求めて背中の肉を抓ってきたが、俺は笑顔で無視した。

 こうでもしないと話が進まないのだ。

 蜘蛛爺たちは疑問に思ったことを聞き流しちゃくれないうえに、本当に話を聞いていたのか疑いたくなるような勘違いを頻繁に引き起こしてくるから、込み入った事情をまともに説明してやることなど不可能である。

 蜘蛛爺は俺の言葉を聞いて、大きく頷いた。

「なるほど! そりゃ大変けっこう! 皆の衆! 安心してよい! 脅威の襲来は延期されたようじゃ! ワシらの世界はまだ終わらん! そうと分かれば宴じゃ! 男どもはメシの支度に取りかかれ!」

 土蜘蛛たちは文字通り蜘蛛の子を散らすように解散した。

 

 



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3-2、土蜘蛛の国

 迷宮都市メルラルズ。

 中原大陸の西域に位置するこの風変わりな都市には毎年多くの冒険者が訪れる。彼らの目的は決まっている。メルラルズの地下に広がる古代遺跡である。修行、トレジャーハント、モンスターの研究などなど……古代遺跡の利用価値はとても高い。毎年、百人単位で冒険者たちがメルラルズの地下に潜っていくものの、街の公式な記録によれば、未だに最深部まで到達したものは一人もいないらしい。

 いきなり長々と説明したことには、もちろん理由がある。

 俺とエスメラルダは今、メルラルズの地下迷宮の第二階層と第三階層の間にある〈土蜘蛛の国〉に滞在していた。

 この土蜘蛛の国について、詳しいことは誰も知らない。

 いつから存在していて、どういう歴史を辿ってきたのか……

 土蜘蛛たち本人を除けば一番詳しい俺でも分からないことが多すぎる。

 新婚夫婦が暮らすための家にブチ込まれた俺たちは土蜘蛛用に作られた小さなテーブルで向かい合って緑茶だか何だか分からない緑色の液体を飲んでいた。エスメラルダは恐る恐るティーカップに口を付けてから、苦い表情を浮かべた。

「何ですか、これは?」

「蜘蛛爺の孫娘が作っているお茶だそうだ」

 そう言って俺はグイッと緑色の液体を飲み干した。

 口の中にぴりぴりとした刺激的な味――というか感触と土の臭いが広がった。

「よく飲めますね。私は遠慮しておきます」

「不死鳥の口には合わなかったか」

「きっと平気な顔で飲める種族のほうが少数派だと思いますよ」

 ティーカップをテーブルに戻してから、エスメラルダはこほんと小さく籍をした。

 ちなみに、今彼女が身に付けているシルクのような純白のレースのドレスは、土蜘蛛の国の伝統的な花嫁衣装だそうだ。エスメラルダは着用を断ろうとしたが、分からず屋な蜘蛛爺たちに押されて結局着ることになった。

 赤色の長髪に白い衣装はちょっと似合っていないが、これはこれで新鮮で面白いし、不死鳥の化ける外面はかなりの上玉だから何を着てもそれなりに見栄えが良い。たぶん、本人もそのことが分かっているから、こうして室内でもドレスを着たまま過ごしているのだろう。

 そんなことを考えていたら、正面で溜息を吐かれた。

「……分かってます。今のあなたに期待する私のほうが馬鹿なんです……」

「はぁ? 何の話だ?」

「何でもありません。気にしないでください」

 そう言われると逆に少し気にもなる。

 正直に質問しようとしたらエスメラルダに睨まれた。相手を怒らせてまで聞き出すほどの興味もなかったので、俺は大人しく引き下がった。

「それより、アングーストはずいぶんとこの国に詳しいみたいですね」

「ああ。何年かここで暮らしたからな」

「この国に、ですか?」

 エスメラルダが驚いた声を上げた。

「以前、あなたは物心ついたときから遺跡で生活していたと仰いましたよ?」

「ここも立派な遺跡の中だろ? まあ、地図には載ってないがな。家族が散り散りになって、何とかメルラルズの地下に潜り込んで、あれこれ探索しまくっているうちに、ここに出ちまったのさ」

「……よく彼らに馴染めましたね」

「非力なガキにとって、危害を加えてくる連中がいないってだけで楽園だったさ」

「そうでしたか……」

 エスメラルダは長いまつ毛を合わせて物憂げに俯いた。

 俺としては暗い話をしていたつもりはなかった。むしろそこそこ明るい話題だったと思っていた。土蜘蛛の国は、ガキの頃の俺にとっては楽園だった。基本的な読み書きはまだ親父の家に住んでいたときに叩きこまれたが、それ以外の一般常識の大部分はここの土蜘蛛たちに教わった。

 おかげでその後、虫たちとうまくやれるようになった。

 この特技は今現在も俺を助けている。

 不自由だらけの生活ではあったが、同情されるほど悲惨なものではない。

 エスメラルダは俯いたまま尋ねてきた。

「昔のことを聞いてもよろしいですか?」

「好きにしてくれ。何が聞きたい?」

「何でも構いません。とにかく少しでも多くあなたの過去を知っておきたいのです」

 ――今のうちに。

 言外でエスメラルダはそう言った。

 髑髏の魔術師を振り切ったといっても、いずれまたどこかで対峙しなければならないだろう。

 相手は正体不明のバケモノだ。不死鳥ですら一対一では敵わない。俺なんかが加勢したところで、状況はそう変化しなかった。虫を失いながら精一杯戦っても時間稼ぎにしかならず、俺は自分の矮小さを痛感した。

 再びあのバケモノと対峙したとき、二人とも無事に乗り切れる可能性は非常に低い。

 ――語り合っておくなら今のうち……か。

「確かに、良い機会かもな」

 俺は長い昔話を始めた。

 



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3-3、過ぎ去りし日々

 

 まだ俺にも両親がいて、家があった頃。

 俺の一家は水の都ウォーレスで生活していた。

 その頃の記憶はほとんど残っちゃいない。たしか、近所の同じくらいのガキとよく遊んでいた。親父はほとんど帰ってこず、後から知ったことだが、どうやら数人でパーティを組んで年がら年中どこかを冒険していたらしい。

 母親はよく俺に勉強を教えようとした。

 読み、書き、計算。

 今思えば、あれは英才教育というモノだったのかも知れない。

 親父のような武闘派になってほしくない。そんな小言を聞かされたこともあった。

「お母様は優しい方でしたか?」

「細かくて、強くて、厳しいひとだったな」

「いい人だったのですね。お母様のことを話すアングーストは楽しそうです」

「そうか?」

 話を元に戻そう。

 俺の家は簡単に吹き飛んだ。

 ある日、黒ずくめのいかにもガラの悪そうな連中がやって来た。

 そこでようやく、どこか遠くで親父が破産したと知らされた。

 パーティの仲間が何人か死んで、ソイツらの蘇生代で信じられない額の借金を背負いこんじまったとか何とか……黒服の男たちは紙切れを片手に事細かに語ってくれやがった。

「まったく、馬鹿な親父だよ」

「アングースト。お父様の悪口は感心しません。それに……」

「それに?」

「すいません。口が過ぎました。続けてください」

「あ、ああ……」

 正直、俺の知ったこっちゃなかった。

 俺は白い砂を詰めた瓶や、お気に入りのハガキを近所の友達に貸したままだったし、これから勉強するはずの問題も山積みだった。来週、こっそり街の外に探検に行く予定だってあったのだ。

 それらがすべて、消し飛んだ。

 母親は押しかけてきた男たちと怒鳴り合っていたが、あとから現れた奴隷のオークに引きずられてどこかへ連れていかれてしまった。俺はすぐに煤だらけの煙突の中に身を隠した。家の中ではしばらく男たちがドタバタ騒がしく物音を立てていた。

 その間中、俺はじっと息を殺していた。

 そこで待っていれば、いつか母親が帰ってくるんじゃないかと期待していた。

 しかし、何も起こらなかった。

 辺りが暗くなり、男たちが引き上げて物音が聞こえなくなっても母親は帰ってこなかった。

 汚い煙突の中に身を潜めていた俺は、空腹に負けて部屋に降りた。

「そしたら、どうなったと思う?」

「借金取りが下で待ち構えていた、という展開ですか?」

「いいや。もう連中はいなかったよ。人どころか、物すら無くなっていたな……」

「どういうことですか?」

「家ン中が空っぽになっていやがったんだよ」

 買い置きのパンどころか、テーブル自体がなくなっていた。

 椅子も、ベッドも、化粧台も。調理場の壁に吊るしてあった鍋や、小さな壺に小分けに保管していた調味料も、蝋燭を置くための燭台も、ベッドの脇に置いていた水差しや、勉強のための蝋板も、何から何まできれさっぱり撤去されていた。

 何もない暗闇のなかで、俺はようやく実感できた。

 ――これまでの日常はもうどこにもないんだ、と。

 開けっ放しにされた窓から見える隣家の灯りが妙に眩しく見えた。

「それから、どうしたのですか?」

「しばらくはスリで何とか食いつなげたな」

「窃盗……ですか……。今は反省していますか?」

「他にやりようがなかったんだ。反省のしようもねぇだろ」

 非力なガキに回される仕事がないこともなかった。

 金屑集めや露店商人の真似事なんかをやるようなガキもいた。だが、そういうヤツは春に働き始めて、冬が過ぎると見なくなった。飢えと寒さを凌げるほど稼げる仕事じゃなかったということだ。

 俺の周りでも、俺と似たような境遇のガキがバンバン死んでいった。

 ひとつの街でスリを続けていくことには限界があった。

 港のあるウォーレスは人の入れ替るものの、カモの数は限りがあった。与えられた少ないパイを取り合っていては、すぐに限界が来る。俺は早々に見切りをつけて故郷のウォーレスから出ていった。

「それから、メルラルズに?」

「ああ。まあ……実際一番つらかったのは、メルラルズに着くまでの道中だったな」

「路上強盗団ですか?」

「そんなようなところだ」

 ウォーレスからノリスを経由してここメルラルズに辿りつくまでの道のりは、ありていに言って地獄だった。過ごしやすい春に旅立ったから、そう苦も無く進めるだろうと楽観視していたのが間違いだった。

 ある程度の治安が保たれていた都市と外の街道は別世界だった。

 まず、食い物がない。

 比較的都市に近い場所であれば、街道沿いにもぽつぽつ民家が建っていて、運が良ければ軒下に野菜や果物が吊るされていることもあり、それらを盗んで食いつなげたが、だだっ広い平原を何日もかけて進むときはよく空腹で視界が歪んだ。

 さらに厄介な問題があった。

 数人で郎党を組んでやってくる路上強盗団だ。

 ゴブリン、オーク、バードマン。

 誰かに襲われる可能性など、それまでほとんど考えたこともなかった。

 だって、俺は何も持っていなかったのだ。

 相手の懐に潜り込むまでに身なりで警戒されないように洋服や髪はそこそこ清潔にしていたが、それ以外は浮浪者と何ら変わらなかった。もしも襲撃者たちが俺を殺せていたら、きっと無駄骨だったと後悔したに違いない。

 ウォーレスを出るときに有り金はたいて買った背負い袋の中は空っぽだった。

「で、何度も死にかけながら、俺はあることに気付いた」

「あること? 何でしょうか?」

「虫はどこにでもいるってことさ。俺が飢え死ぬ一歩手前の状態でも、虫たちは草を食って元気に生きている。驚いたことに、自分より小さくて非力だと思っていた生き物が、自分より逞しく生きていやがった。不思議な気分だったよ」

「私も、よく同じことを感じます」

「……やっぱり、アンタにとって俺は…………」

「アングースト?」

「何でもない。忘れてくれ」

 とにかく、俺は虫に目を付けた。

 虫を摘まんで飢えを凌ぎ、草を食んで渇きを潤した。途中で何度か激しい下痢に襲われたが、それでもなんとか死なずにやっていけた。そんな旅を続けているうちに、俺は虫と草を非常食として持ち歩くようになった。

 このとき、ようやく俺のスタイルの原型みたいなものができてきた。

 マントの内側に草と虫を抱え込み、道端でそれらをちょこちょこ補給していく。強盗団を見かけたら一目散に逃げたが、しばらくしてから、俺が虫たちの習性――例えば、斑蟷螂(マーブル・マンティス)は危険を察して身を固くするし、小粒小金(こつぶこがね)は自由になると安全なほうへ飛んでいく――に気付いてからは、そもそも強盗団と遭遇する機会がグンと減った。

 メルラルズに辿りついたときには、俺も立派な虫使いになっていた。

「そこから先は、ほとんど話すこともねぇよ」

「えっ?」

「メルラルズの地下遺跡にこっそり忍び込んで、右も左も分からずにダンジョン内をウロウロするだけの日々と、地上に出て発掘品を売りさばく生活を繰り返して数年経ったある日、ダンジョンの綻びみてぇなものを見つけてな」

「メルラルズの綻び、ですか……」

「ああ、虫たちのほうが先に気付いたが……アイツらも反応に困っていたよ」

 定期的に部屋の配置や通路が入れ替わる不思議なダンジョン。

 メルラルズの最深部に隠された財宝を守るための防御装置だとか、奈落の底に封印された邪悪な魔物の魔力を拡散するための機能だとか、いろいろな説が飛び交っているが、とにかくメルラルズの地下遺跡はよく構造が書き換えられる。昨日まで通路だった場所が一夜にして大きな泉に姿を変えたり、冒険の拠点としてテントを張れるような大部屋がまるごと土の中に埋まるようなことさえある。

 そのため、「メルラルズの地下に定住する者は存在しない」というのが定説である。

 ――しかし、メルラルズにも綻びがあったのだ。

 地下二階と三階を区切る分厚い岩盤に刻まれたわずかな綻びから中に入り、進んでいった先には、メルラルズのシャッフル機能に影響されない、不動の空間が広がっていた。

「それが、土蜘蛛の国だ」

「聞きたいことがいくつもあります」

「ほぅ」

「まず、彼らはあなたをすんなり受け入れてくれましたか?」

「それが……よく覚えてねえんだよ」

 土蜘蛛の国に来たときは、手持ちの草と虫と、ついでに俺自身も限界まで消耗しきっていた。

 ほとんど行き倒れるように土蜘蛛の国に足を踏み入れて、それからちょっと記憶が抜け落ちちまっててな……気付いた時にはもう普通にこの国で暮らしていてな……自分でも少しおかしいとは思ったが、それで現実が変わるわけでもない。

 何より、土蜘蛛の国の生活は辛酸を舐めてきた俺にとっちゃ天国みたいなもんだった。

 だから、多少の違和感はあっても、俺はしばらく土蜘蛛たちと一緒に暮らしていた。

 狭いながらも自分の家があり、町外れの井戸から水をくみ上げて、それを民家に配ったり、植物に撒いて、それから虫を使って土の状態を整えて……そんな仕事を毎日繰り返すだけの日々だった。近所の土蜘蛛たちと衝突することもあったし、仕事に関してもたくさん文句をつけられたし、意味不明な理由で怒られたりもしたが、生き死にの狭間を渡り歩く生活に比べれば、そんなもん屁でもなかったさ。

「人里離れた秘境で、ようやく俺も人間らしい暮らしが出来たってわけだ」

「ならば何故、ここを出ていったのでしょうか?」

「ハッ! 土蜘蛛たちからも散々似たようなことを聞かれたよ。『どうしてお前はここを出ていくのか?』ってな。俺もこの国は嫌いじゃなかった。でもな。虫たちが俺から離れていくようになっちまったんだ……」

「虫、ですか」

「そうさ。たぶん、ここの草が口に合わなかったんだろう」

 何年も暮らしているうちに、俺の手元からどんどん虫が去っていった。

 苦労して配下に入れた虫がいなくなるのは淋しいもんさ。やつらは置手紙なんて残さない。いつの間にか俺のことを見限って消えちまう。マントの内側にできた空きスペースは冷たくてな。俺はその感触に耐えきれなかった。

 だから俺は、土蜘蛛の国から出ていったのさ。

「………………」

「どうした? 何か思い当ることでもあったか?」

「……はい」

 エスメラルダは目線を宙に彷徨わせてから、ピンと人差し指を立てた。

 俺にはそれが何を意味するのか分からなかったが、どうやらエスメラルダが集中していることだけは伝わってきた。不死鳥はしばらく自分の指先を見つめていたが、諦めたように小さく溜息を吐いてから俺に目を向けた。

「やはりダメでしたか」

「おい。一体何をやろうとしていたんだ?」

「魔法を使おうとしました。初級の魔術師でも扱える『ライト』の魔法を唱えました」

 しかし、不死鳥の指先は少しも光らなかった。

「つまり、魔法が使えなかったってことか?」

 不死鳥は魔法に長けた生き物である。

 すべての属性の呪文を使えるうえに、それぞれの威力も凄まじい。髑髏の魔術師と戦ったときは俺という弱点を抱えていたために防御に専念していたが、まともに戦っていれば、髑髏の魔術師も無事では済まなかっただろう。

 そのエスメラルダが、魔法を使えないなどということは――

「そうです」

 エスメラルダは暗い表情で頷いた。

「ここの空気は変わっています。魔法を発動させるためには体内の気を使って周囲の魔素に働きかける必要があるのですが……この国の空気からは魔素の気配を感じられません。混じりけのない不自然なまでにクリアな空気……これは、狂霊嵐(エレメンタル・ストーム)とは真逆の現象が起きているように思えます」

「はぁ?」

 狂霊嵐とは魔素の乱れによって生じる大規模な自然災害である。

 元来、この世界は狂霊嵐によって滅びることになっていた。それを『とある召喚術師の手記』の著者であるブリオッシュとモンブランが食い止めて世界を救う未来も存在していた。しかし、ブリオッシュより先に世界を救ってやろうと企てた俺は、モンブランたちとは別の方法で狂霊嵐を未然に防ぐすべを探していた。

 その狂霊嵐と真逆の現象といわれても、イメージが湧かない。

「ひょっとして、その魔素の話は、俺の元から虫たちが消えたことと結びつくのか?」

「その可能性は高いと思います」

「まさか、さっきお前が茶に口をつけなかったのも……」

 エスメラルダの手に口を塞がれた。

 なるほど。ここでも壁に耳あり障子に目ありってことか。

 俺は目で了解したと伝えてから、エスメラルダの手をどけた。

「話せる範囲で説明してくれ」

「分かりました。メルラルズ全体の空気はかなり混沌としていて、魔素も豊富に漂っています。おそらく地下遺跡に施された儀式魔術の影響でしょう。ここの地面や植物からは魔素を強く感じられます。しかし、この国の空気だけは違っています」

「何が原因なんだ?」

 エスメラルダは額に手を当てて首を振った。

「分かりません。ただ……」

 不死鳥が顔を上げてこちらを見つめてきた。

 相変わらずきれいに澄んだ双眸が珍しく心配そうに揺れていた。どうしてここでそんな目を見せるのか……俺はワケも分からずただ本能的に心臓だけが勝手に高鳴った。ロマンスの気配を察したわけではない。

 むしろ、その反対だ。

「アイツらか?」

「はい。彼ら(土蜘蛛たち)から強大な魔力を感じました」

 

 



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3-4、もうひとつの預言書

 

 ジャッカルの頭に、人間の身体。浅黒い肌。

 そしてその鍛え上げられた表皮には刺青で呪印がびっしりと刻み込まれていた。

 アヌビスの魔拳士であるヘルマニビスは石で造られた宮殿の内部を駆け回っていた。常人であればすぐに息が切れるであろう速度で走っていても、アヌビスの魔拳士は涼しい顔で動き続けた。

 普段は彼女もこのように宮殿内を駆け回るようなことはないが、今日は特別だった。

 ネフティス様からお呼び立てがあったのだ。

 言いつけられた時刻よりまだずいぶん時間があるものの、ヘルマニビスは居ても立ってもいられずこうして駆け足で謁見の間を目指して動いていた。自分でも早すぎるとは思うが、遅れるよりは絶対に良い。

 謁見の間の前までたどり着いたとき、ヘルマニビスは事の重大さを思い知った。

 指定された時刻よりまだずいぶん時間があるというのに、自分より遥かに位の高い神官たちが既に皆到着しており、石の扉の前に集結していた。ヘルマニビスは神官たちに跪き、頭を垂れた。

「只今到着いたしました!」

 若々しい声が石の壁に反響した。

 神官たちは新参者の声を聞いて鬱陶しそうに鼻を鳴らした。

「遅いぞ」

 それだけ言うと、神官たちは再び議論に戻った。

「ネフティス様は何故このような愚か者を選ばれたのか……」

「シッ。あまり大きな声で申されるな。今回の件に関してはネフティス様のみならず、我らが長の思惑も絡んでいるらしい。濫りに疑問を抱けば、それだけで身を破滅させられることになりますぞ」

 そう言って、年老いた監察官が皆を牽制するように睨んだ。

 宮殿にいながらあらゆる陰謀を躱してきた監察官らしい慎重な態度である。ヘルマニビスは平伏したまま感心して聞き耳を立てた。ピリピリした緊張感の漂う監察官の話の流れを変えるべく、管理官が口を開いた。

「それに此の者は身分こそ低いものの、武術と呪術に長けているそうではないか」

「若さゆえの強靭さと今後の将来性まで含めて考えれば、あながち悪い選択でもあるまい」

「その若さが裏目に出なければ良いが……」

 ヘルマニビスは何となく自分の話をされているような気がした。

 しかし、平民階級の出で、武術の才能を見込まれて宮仕えの端くれとして昇格させられたきり何年間も忘れ去られていたこの自分に、大事が回されるはずがない。おそらく、自分の同僚の誰かについて話しているのだろう。

 ヘルマニビスは勝手にそう結論付けた。

「ここで愚痴を溢しても、ネフティス様とオシリス様の決定は変わらんさ」

「どうなることやら……」

「偉大なるネフティス様は非常に正確な予知能力をお持ちだ。我らは何があろうともこの暗黙の条件を疑ってはなりませぬ。これ以上の危惧はネフティス様に対する狐疑を抱いたと見なされかねませんぞ?」

 監査官の忠告に一同は閉口した。

 掟、掟、掟……

 表の掟に、裏の掟。

 血族の掟に、役職の掟。

 よくもまあ律儀に守れるものだ。

 ヘルマニビスは平伏したまま胸中で神官たちを嘲笑った。

 ――と、そのとき。

 指定された時刻にまだ達していないにも関わらず、石の扉の向こうからけたたましい銅鑼の音が二度三度と聞こえてきた。じゃぁあああん、じゃぁあああああん、じゃぁああああああん。銅鑼の音が止むと、石の扉が物々しい音を立てながら内側に開いていった。

 いつの間にやら周りの神官たちも石畳の上に跪いていた。

 ヘルマニビスも地面に額を擦りつけて、玉座が現れるときを待った。

 ガガォン、と石の扉が開き切ってから、ようやく王家の者が声を発した。

「一同。そのまま待機」

 神官たちは微動だにせず、黙って指示に従った。

 扉の向こうからは黒い光が流れてくる。

 平伏したままのヘルマニビスには、謁見の間の様子すら窺えなかった。

 しかし、魔拳士としての修行を終えたヘルマニビスは目で確認せずとも、肌で謁見の間にいる相手を感じていた。気配からして二人……。おそらく、ネフティス様と、ネフティス様を護衛する近衛騎士だろう。

 そう見当をつけたところで、声を掛けられた。

「ヘルマニビス。面を上げよ」

「はっ!」

 まさか名指しで呼ばれるとは思っていなかった。

 ヘルマニビスは慌てて顔を上げて玉座に目を向け、ぴくりと肩を震わせた。

 ――二人どころではない。

 玉座についているネフティス様は気を隠そうとしていないために感じ取れたが、その周りに気配を消して佇んでいる十五人の近衛騎士団に関しては一人の未熟者を除いて、誰も感じ取ることができなかった。

 ――やはり、近衛騎士は格が違う。

 ヘルマニビスは悔しさ半分、誇らしさ半分でネフティス様の顔を見上げた。

 黒い毛並みの頭部に、白目の部分まで金色に塗りつぶされた邪眼。肌から滲み出している黒い瘴気のせいで身体の輪郭がぼやけている。黒い瘴気のおかげで王家の象徴である黄金の首巻がよりその存在を主張していた。

「そなたに申し付ける大事がある。そこな神官たちはその証人のために招集した」

「はっ!」

「単刀直入に告げる。そなたにはこれより旅に出てもらう」

「はっ!」

「密命故に親族の者たちには宮殿より追放したと言い聞かせるが、それは妾の本心ではない。無事、使命を果たした暁にはそなたは一族の英雄として迎えられるため、後始末の懸念は不要である」

「はっ!」

 歯切れよく答えながら、ヘルマニビスは内心動揺していた。

 世界を見て回ってみたいとは思っていたが、まさかそれがこのような形で実現するとは思っていなかった。

 しかし――密命というのが妙に気に掛かる。

 ネフティス様が手を挙げると、近衛騎士が一冊の本を手渡した。

「そなたは『滅びの書』という預言書を知っているか?」

「いえっ!」

「そなたは知らぬであろう。しかし、一部の神官は知っているはずだ。監査官!」

「はっ!」

 背後で監査官の声が上がった。

「『滅びの書』について教えてやれ」

「畏まりました!」

 それから監察官の説明が始まった。

 しかし、その説明はヘルマニビスに向けたものではなく、彼女を通り越してネフティス様に話しかけるような調子で語られた。

 監察官曰く――

 

 『滅びの書』とは世界の終焉について書かれた預言書である。

 それによれば、世界はまもなく訪れる空前絶後の自然災害〈エレメンタル・ストーム〉によって魔素が混じり合い、すべてが混沌に染まり、やがて滅びるらしい。『滅びの書』の著者によれば、本来は異世界からやってきた錬金術師や魔剣姫や若き召喚術師たちの活躍のおかげで、この大災害を回避できたらしい。

 しかし、『滅びの書』の著者が歴史を改ざんしたために世界が滅んだ。

 

 

「『滅びの書』とは、即ち、著者の懺悔の記録でもあるのです」

 監察官はそう言って説明を締めくくった。

 ヘルマニビスにとって、何もかもが初耳であった。

 預言書の存在も知らなかったし、あと少しで世界が崩壊するなど聞いたこともなかったし、異世界から救世主が現れるといった未来についても同じだった。ここがネフティス様の御前でなければ鼻で笑っていただろう。

 しかし、この場にいる者は残らず緊迫した表情で固まっていた。

 ――一体何が起きているのだ?

「ヘルマニビスよ。そなたに密命を与える」

「はっ!」

「『滅びの書』の結末を変えよ」

「はっ!」

 ヘルマニビスは困惑した素振りをおくびにも出さずに即答した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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3-5、決別

「はぁ?」

 俺は困惑を露わに答えた。

 エスメラルダと話してから事の真偽を確かめるために蜘蛛爺の家を訪ねたら、土産の酒を渡す前に、庭先で先手を打って尋ねられてしまった。

 ――ここに永住するのか? と。

 蜘蛛爺は杖でコツコツと庭先の地面を叩いてから言った。

「ワシらも一枚岩ではない。お主たち余所者に対して悪意を抱く者も少なからずいる。安定したこの国に紛れ込んできた余所者が不安で仕方のない臆病な連中じゃよ。彼らを安心させるためには、お主たちを余所者でなくしちまうしかないのじゃが……」

 牡丹の花が咲き乱れる色彩豊かな庭の小道を歩きながら、俺は答えを探した。

 蜘蛛爺の言うことは分かる。

 どこの町でも余所者を嫌う連中はいた。

 それはここ土蜘蛛の国でも変わりない。特にエスメラルダはあまり歓迎されていないようだ。蜘蛛爺は「お主たち」と言ってくれたが、もっぱら嫌われているのはあの不死鳥のほうだろう。俺だったらもっと早期に直接的な手段で脅しに来ていたはずだ。

 ――まあ、そっちのほうがやりやすかったかね?

 俺は石ころを蹴飛ばしてから言った。

「早いうちにここを出る」

「ほぅ……また旅立つのか? 何のために?」

 蜘蛛爺の黒くて丸いつぶつぶした眼がこちらを見つめてきた。

「世界を救うんだよ」

「お主らしくないのぅ」

「その通り。本当はこんなこと、俺がやるはずじゃなかったんだ」

 アルフレアの火山を踏破したり、沼地を歩いたり、リザードマンと決闘したり、碧鱗ノ國に行ったり、髑髏の魔術師と戦ったり…………最近は遺跡荒らし(俺)らしくないことばかりやっている。

「何故だ? 何がお主をそうさせる?」

「ちんけなプライドが俺を動かしているんだよ。俺なら世界を救えるはずだ、ってな」

「解せんな。外の世界はお主にとってそうまでして守りたい場所だったかのぅ?」

「大嫌いさ。世の中なんて。良いことなんてほとんどありゃしなかった……」

 そう言ってから、ふと沼地で出会ったリザードマンの顔が目に浮かんだ。

 ガロオム。

 アイツと出会えたことは良かった。初めて虫使いとしての自分の生き方を認められたような気がした。エスメラルダとの出会いも悪くない。自分の心を曝け出して語る機会なんて、この先どれだけあるだろうか……

 白い玉石の敷き詰められた砂利道を踏みしめた。

「でも、最近はそこまで悪くない」

「ほぅ……お主にとって世界はどう変わった?」

「相変わらず外の世界は暗くて痛いが、その向こうに温かい光があることに気が付いた」

「迷える蟻が蜜に辿り着いたか。人は妻を持つと変わる。お主の顔も以前より少し明るくなった。しかし、世界の終焉はもうすぐそこまで来ておる。薄暗い地下に引き籠っていても外界の淀みが日々酷くなっていく変化を岩盤越しに感じる」

 言葉を切って、蜘蛛爺が天井を見上げた。

 分厚い岩盤の向こうに広がる外の世界はそれほど淀んでいるのだろうか?

 俺も岩盤を見上げながら呟いた。

「狂霊嵐(エレメンタル・ストーム)が来るらしい……」

「すべてを無に帰す破滅の嵐じゃ」

 ――やっぱり、知っていたか。

 胸の内に渦巻いていた迷いがストンと腹の底に落ちた。

 土蜘蛛の国で過ごした日々の思い出があるせいで、俺の目もだいぶ曇っていたようだ。ここに迷い込んだとき、虫たちが離れていったとき、エスメラルダの魔術の転移先が勝手にここに書き換えられたとき。警戒すべきタイミングは何度もあった。

「なぁ、蜘蛛爺。この際だからハッキリしてもらおうか」

 俺はローブの内側に隠していたハンマーを取り出して構えた。

 ハンマーがいつもより重たく感じた。

 まるで土蜘蛛の国の思い出が染みついているみたいだ。

 蜘蛛爺の孫たちと殴り合った庭先。きっとこの白玉のどれかに俺の血が付いているはずだ。滅多に雨の降らない地下迷宮にできた狂った空間では物事がやけにゆっくりと流れていく。遅々として進まず。

 ――ああ。だから俺はここを出たのか。

 この国には変化がない。

 空気に魔素がないということはそういうことなのかも知れない。人間に変革をもたらした魔法の存在しない世界。大陸中が土蜘蛛の国のような魔素の漂っていない空間であれば、狂霊嵐は起きない。

 ただ、痛みのない平穏なときだけが無限に続いていく……

 ――ふざけるな。

 俺は何かを叩き潰すようにハンマーを素振りした。

 蜘蛛爺の背後の草むらからバッと数人の若い土蜘蛛が飛び出してきて、俺と蜘蛛爺の合間に割って入った。こうなるであろうことは蜘蛛爺の家を訪れる前から分かっていた。俺はハンマーを構え直しながら尋ねた。

 

「アンタら、本当は何者なんだ?」

 

 



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3-6、分解者

 

 白玉の砂利が敷き詰められた広い庭園に、いくつもの影が躍っていた。

 複数の小さい影たちは四方から俺を取り囲むように連携して動き、俺の接近を牽制するように遠間から蜘蛛の糸を吐き出した。横に跳んで蜘蛛の糸の包囲網から抜け出し、受け身を取って砂利の上を転がった。

 ――動きを止めた瞬間にやられる。

 その確信を胸に、俺は右へ左へと転げまわった。

「お主は本当に変わったのぅ」

 視界を横断する蜘蛛の糸越しに杖をついた蜘蛛爺の姿が見た。

「ここに最初に現れたときのお主はとても扱い易かった。外の世界の辛さが身に染みていたお主は、ワシらにとって非常に都合の良い駒でもあった。だからこそ、ワシらはお主の生存を許し、世話を見てやった」

「ケッ、質問の答えになってねぇよ!」

 俺は転がりながらハンマーを振り回し、小石を打ち飛ばした。

 打ち出された小石は矢のように一直線に宙を突き進み、蜘蛛爺の横に控えていた土蜘蛛の頭をカチ割った。

 まず一人。

 残りは十二人といったところか。

 仲間の体液を横顔に浴びても蜘蛛爺は感情を動かさずに淡々と喋りつづけた。

「ワシらはこの地の底で、永らく不変の日々を過ごしてきた」

「クソつまんねぇ毎日をな!」

「左様。不変と快楽は水と油に等しい。ワシらにとって、生は死と変わらず。喜びも悲しみもすべては遠い過去のこと……お主が不満を抱くのも当然じゃ」

 蜘蛛爺の溜息が聞こえたような気がした。

「そして、ワシらもお主に不満を抱いた」

 僅かに目の前の戦闘から意識の逸れた俺の隙を突かんと、三人の土蜘蛛たちが背後から襲い掛かってきた。しかし、ヤツラの不意打ちは失敗だった。地面に布かれた砂利が音を立てるとともに振り返った俺は、ローブの袖から地雷蚯蚓(じらいみみず)をばら撒いた。

 空中で身動きできない土蜘蛛たちは自ら宙に撒かれた地雷蚯蚓に突っ込んだ。

 パパパン! パパン!

 唐突な刺激に驚いた地雷蚯蚓が弾け、罠に掛かった土蜘蛛の柔らかい皮膚を焼いた。

「ほっほっほ! 賢くなったのぅ!」

「お前らと違って、俺は進歩しているからな!」

「不変な世界を維持するのも楽ではないぞ?」

「うるせぇ!」

 こちらの脚を狙った蜘蛛の糸を飛んで避けつつ、俺は怒鳴った。

 蜘蛛爺は止まった時間を生きている。

 いや。蜘蛛爺だけじゃない。

 土蜘蛛の国で暮らす土蜘蛛たちはみな、凍った日々を過ごしている。

「地下に潜っていても時は進む! 狂霊嵐(エレメンタルストーム)は避けられない!」

「然り、然り。しかし、脆弱なワシらに何ができる? 括目して現実を見よ。現にワシらはお主一人を相手にこうも手こずっておる。こんなワシらに世界を救えとでも言うのかぇ? 誰もがお主のように夢のなかで生きられるわけではないのじゃよ」

「クッ!」

 ついにハンマーが蜘蛛の糸に絡め取られた。

 しかし、ここで足を止めたら嬲り殺しにされる。俺は即座にハンマーを手放して、すぐ横まで接近していた土蜘蛛を殴り倒した。卵を潰したような感触と、体液の生暖かさが腕に伝わってきた。

 ――確かに、脆過ぎる……

 『とある召喚術師の手記』を拾ってから戦ってきた相手と比べると、まるで子供レベルの弱さである。これなら隙だらけな甘ちゃんのブリオッシュでも善戦できるだろう。

 ――髑髏の魔術師から見れば、俺だって似たようなものか……

 そんな程度の実力で世界を救うなど、蜘蛛爺の言うとおり、夢の世界に違いない。

「夢に生き、困難に挑戦する。そんなお主の存在は、不変な時を生きるワシらにとって毒でしかない! 妬み、羨望、劣等感! お主さえ現れなければ、ワシらは苦しみを知ることもなかった!」

「でも、だからって――」

 蜘蛛爺に向けた視界の隅で、ガサリと黒い影が下からせり上がってきた。

 ――死角から潜り込まれたか!

 俺の鼻先まで飛び上がった土蜘蛛は八本の手足で俺の攻撃を封じたうえで、鋭い牙をカチカチ鳴らした。

「人間風情に、この地に縛り付けられた我らの苦しみが分かるか!」

「土地に縛り付けられた?」

「そうだ! 魔素を喰らう者として、分解者として、外界で生きられぬ身体を与えられた我らの苦しみを、自由な人間に分かるものか! 生まれながらに背負わされた重石の辛さが、お前なんぞに分かってたまるか!」

「ハッ! わかんねぇよ!」

 威勢よく啖呵を切って、俺は相手の口に頭突きを決めた。

 額にピリッとした痛みが走った。どうやら額が切れたようだ。正面の土蜘蛛が絶叫した。しかし、口を潰された土蜘蛛の叫びはまともな声になっておらず、狂った獣の咆哮と大差なかった。俺は自由になった右足でダメ押しの一発を相手の腹に蹴り込んでから後ろに飛んで距離を稼いだ。

「お前らの事情も、お前らの苦しみも、どれも俺のもんじゃねぇ! だから俺には理解できねぇし、俺は痛くも痒くもねぇ! 苦しんでるのはお前らだろうが! 苦しくて苦しくて堪らないくせに、ただじっと止まっているだけしかできないヤツの気持ちなんぞ、俺には一生分かりゃしねぇよ! 変わろうと努力しろ! でなけりゃ一生そのままだ!」

 土蜘蛛たちの動きが止まった。

 こちらの反撃を警戒したのか……あるいは俺の言葉に思うところがあったのか……

 蜘蛛爺は杖をついて一歩前進した。

「努力が実を結ぶとは限らん。これでもワシらは十分努力したんじゃよ」

「それでもだ! それでも変化を求めろ!」

「では、変化のために何人の同胞を差し出せば気が済むかのぅ? 未知の事態に遭遇して散っていく犠牲者たちの遺族に、何と言って詫びるんじゃ? ワシはお主と違う……ワシの背中には守るべき者たちの命がたくさん載せられておる……」

 そう言った蜘蛛爺の背後から、追加の増援がバッと姿を現した。

 一、二、三、四、五……たくさん。

 それに引き替え俺のほうはハンマーを失い、体力も削れ、手持ちの虫の残りも少ない。

 ――これは勝負あったか。

 俺はじりじりと後退しながら時間を稼いだ。

「たった今死んでいった連中は〈不変のための代償〉だから仕方なかったってか?」

「他に道は無かった」

 蜘蛛爺がシュルシュルと息を吐いた。

 その仕草がヤケに俺の勘に触った。体質だか何だか知らないが、世界が崩壊し始めているというのに、こんなところで腐っていていいものか! 同じ犠牲を出すのなら、前進するために代償を払うべきだ!

 変化を悪とするのなら――

 血肉を削ってまで不変が大切だと言うのなら――

「だったら、俺は何なんだよ!」

 こちらを取り囲んでいた土蜘蛛たちがビクリと震えた。

 やはり何か事情があったのだ。

 この不変な地下世界に紛れ込んだイレギュラーな人間をわざわざ拾って育てただけの事情があったのだ……俺は自分の推測通りであったことに嫌気がさした。

 理由がなければ、俺は見捨てられていたのだ。

 無償の優しさなどどこにも存在しない。

 そんなことくらいとうの昔から理解していた。頭で理解していただけでなく、いろいろな体験を経て、叩き、弾かれ、傷付いて、嫌というほど体で覚えさせられたが、それでもまだ心のどこかで期待していたのだろう。

 ひょっとしたら――

 ひょっとしたら、土蜘蛛たちは俺に無償の優しさを与えてくれていたのではないか、と。

 俺は湧き上がる怒りに任せて一気にまくしたてた。

「なぜ俺を拾った! どうして俺を育てた! どんな形であれ、いずれ俺がアンタらの不変の世界をぶち壊しちまうってことくらい最初から分かっていただろうが! 俺は人間だ! 不変にしがみ付くアンタら土蜘蛛とは違う!」

 拒絶の言葉に、土蜘蛛たちが俄かに殺気立った。

 俺を取り囲んでいた包囲網がじわじわと縮められ、正面に構えている若い土蜘蛛などは今にも飛び掛かってきそうな気配である。俺は自分の腹に手を当てて、最後の武器を取り出す準備を終えた。

 一触即発の緊張した空気のなかで、蜘蛛爺が静かに口を開いた。

「左様。だから託した……」

「託す?」

「自らの手で変革を進められぬのであれば、自らの手で世界の崩壊を食い止められぬのであれば、他者に希望を託すしかあるまい……自分とは違う苛烈な性質を持つ、他者に、の」

 蜘蛛爺の黒いつぶらな瞳がじっとこちらを見つめていた。

「お主はもう行きなされ。分解者たるワシらはワシら。幾度となくより良い世界を目指して足掻いてきたが、今回の騒動で身に染みた……ワシら土蜘蛛はもう不変から離れられぬ。無理にワシらを変えようとしてくれるな。お主が余計に傷つくだけじゃ。早くお主の帰りを待つ妻の元へ向かうんじゃ」

 返事の代わりに、俺は土蜘蛛たちに背を向けた。

 この機会を逃せば、次はない。

 とにかく全力で足を動かして走った。

 背後で土蜘蛛たちが動く気配が感じられたが、なぜか彼らの動きはすぐに止まった。理由は分からない。もしかしたら、この場を仕切っている蜘蛛爺が指示を出したのかも知れない。これ幸いと俺は一気に加速して距離を開け、土蜘蛛たちの視線を振り払った。

 



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3-7、暗闇で輝く太陽

 エスメラルダは約束通り外界へと繋がっている亀裂のそばで待っていた。

 彼女には万が一亀裂が塞がれていた場合のために、先に亀裂に向かうように指示しておいたのだ。今回の戦闘のことを考えると、魔法の使えない不死鳥を遠ざけておいて正解だった。

 ――それとも、この不死鳥がいたら結果は変わっていただろうか……

「馬鹿馬鹿しい」

 喉に絡まった痰と一緒に妄想を吐き捨てた。

 盛り上がった丘の上に刻まれた縦長の細い線。遠目からではただの窪みにしか見えないが、この人一人通れるかどうかの細い亀裂が、この地下世界と外界を繋ぐ唯一の出入り口なのである。

「本心は聞き出せましたか?」

「…………」

 俺は黙ってエスメラルダの横を通り過ぎた。

 足を止めたらもう歩けなくなる。

 そんな思考に動かされ、前へ前へと進んでいった。土蜘蛛たちはもう見えない。

「そうですか」

「……おい。行くぞ」

「心配しなくても大丈夫ですよ。私はあなたについて行きます」

「俺が『とある召喚術師の手記』の持ち主だったから、な」

 こちらに歩み寄ってきていたエスメラルダの足がぴたりと止まった。

 どうやら俺は気が立っているらしい。

 いつにもまして嫌味がポンポン湧いてくる。

「それともアレか? 手記はもう燃やしちまったから俺に用はなくなったか? 義理で付いてくるなら、やめたほうが賢明かもな。俺は何一つ自分の思い通りにできない、器の小さな人間だ。何かをぶっ壊すことは得意だが、そんなもの……お前は望んじゃいねぇだろ」

 俺は返事を待たずに足を進めた。

 丘に刻まれた狭い亀裂の奥へ歩いていくと、視界がどんどん暗くなっていた。

 背後から声を掛けられた。

「私はあなたのものです」

「舞い上がって言っちまった戯言だ。忘れてくれ」

「アングーストッ!」

 エスメラルダが珍しく大声を出した。

 暗闇のなかに響き渡った不死鳥の凛とした声は、俺に足を止めさせた。振り返ってエスメラルダに目を向けようとしたら、華奢な手に胸倉を掴まれ、腰を屈ませられた。

 目と鼻の先に不死鳥の紅い双眸が広がっていた。

「前にも言ったはずです」

 エスメラルダは少し怒っていた。

 俺の胸倉を掴んでいる手も震えている。

「あなたにはあなたの長所があります。腕力でオーガに勝とうとしないでください。魔術でエルフに、武術でリサードマンに、泳ぎでマーメイドに、器用さでドワーフに……あなたは人間です。そこに良し悪しはありません」

 碧鱗ノ國に行く前の、タルドゥの沼地で言われた台詞である。

 当たり前のことしか言っていないのに、俺の胸を強く打つ。

「あなたはあなたの良さを活かしてください。私が全力でサポートします」

「俺に何ができる?」

「自分で考えなさい」

 甘えるな。

 優しくも厳しい不死鳥の瞳はそう語っていた。

「その決断が何であれ、私はあなたについて行きます」

 すっと胸倉から手を離された。

 風の流れに漂う花の匂いが鼻をくすぐる。暗闇のなかであってもエスメラルダは輝いて見えた。この不死鳥に導かれたら、誰だって勇者になれてしまうのではないだろうか……。そんな気すらしてくる。

「後悔するなよ」

「あなたなら大丈夫です。私が保証しますよ」

 暗闇の向こうで不死鳥が笑った。

 太陽のような柔らかい笑顔だった。俺は思わず上体を逸らしてエスメラルダの笑顔から遠ざかった。驚きのあまり胸が高鳴っている。俺は自分の胸に手を当てて深呼吸した。胸のうちでこんがらがっていた蜘蛛爺や土蜘蛛の国についてゴチャゴチャが、一気にどこかへ吹き飛んでいってしまった。

 腹は決まった。

 できる、できないで物事を判断していては平凡な結末しか掴めない。可能性だの器だのはどうでもいい。どれだけ他人を羨んでも、どうせ俺は俺であることを止められはしないのだ。そこに「もしも」や「あるいは」は存在しない。

 だったら、

 ――やりたいことをやってやる。

 俺はローブを脱いでエスメラルダに手渡した。

「もう一度、土蜘蛛たちと話し合ってくる」

「私も同行します」

 ローブが投げ返される。

 内側に入っている虫たちがギャァギャァ騒ぎ立てた。

 

 

 

 



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