GIOGAME (Anacletus)
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プロローグ
プロローグ 天より降り来るモノ
東京。
嘗て隆盛を極めた極東国家に存在する一都市。
人口一千万を越す怪物都市の一角で彼らは奇跡を目撃していた。
東京において最も自然を有する地域、奥多摩。
広大な山林や古びた私道、林道、あるいは民家、川、草原、そんな場所の至るところで彼らは空を見上げながら世界最後の日と目されたX-DAYを過ごしていた。
巨大隕石激突なんて映画で使い古されたネタではあった。
しかし、彼らにとって生存不可能という政府広報も十分実感の湧かない冗談だった。
それでも世界各国のマスコミは相変わらず祈る以外にもはや手は無いと言う話を垂れ流していたし、最後の日を家族と過ごそうと大勢の政治家や企業役員、あらゆる業種職種の重役達も家に帰っていた。
世界のリーダー達の帰宅風景が映画さながらに世界中の至る場所で見られ、人々に滅亡を実感させた。
世界中の核弾頭を一斉発射する案や絶対境界線上に宇宙用の核機雷を敷設するなんて方法も国連主体で進められ、全世界の核弾頭三分の一以上が宇宙に上げられていたが、それでも状況は絶望的だった。
地球に隕石が当たれば何処に逃げようと惑星そのものが崩壊する。
そう言われた隕石。
通称【黒い隕石】(ブラックメテオ)
その正体は最新の観測技術によって暴かれた。
地球には存在しない分子組成を持っていて極端な耐熱性を有する半径五キロの巨大隕石。
そんな話が新聞に載れば、誰もが人類滅亡というお祭り騒ぎを静かに鑑賞しようという諦観しか持ち合わせていなかったのは当然の帰結だろう。
諸外国では暴動・略奪・犯罪件数が鰻上りとなり、国家の破綻や経済の破綻が起きていたが、日本の混乱は極めて軽微なものだと新聞は人々の冷静さを伝えていた。
「後・・・もう少し・・・」
草原でノートパソコンを開く若者を中心に人の輪が出来ている。
リアルタイムでカウントダウンされる人類滅亡、隕石衝突時刻を黄昏時の空と交互に見つめていた人々は、ジャスト一分を切って、家族や恋人と抱き合った。
午後七時三分。
カウンターゼロ。
大質量隕石の衝突。
地殻が捲れ上がり、惑星が歪み、一瞬の内に人々は熱波で蒸発する、はずだった。
【・・・・・・】
長い沈黙と死んでいるかもしれない恐怖と安堵とも着かない胸の高鳴りを彼らは奇妙に思い空を見上げる。
夏も近い暮れ掛けた空には雲一つ無く、太陽は未だ穏やかな光で人々を包んでいた。
――――助かったんだ。
誰かの言葉だった。
助かったんだ。
続く言葉を紡ぐ者がいた。
彼らの間に大きな声が上がり始める。
世界は滅んでいない。
地球は滅んでいない。
喜びの声が山林を振るわせんばかりに巨大化し風に乗って渡っていく。
「どうして・・・・・・」
ノートパソコンを持っていた青年はネット上に応えを求めようとして、メールが届いた事に気づく。
「こんな時に人妻もOLもお断りだ。くそったれ」
ダイレクトメールの節操の無さで生きている事を実感してしまった自分に苦笑して、青年はメールを開いた。
「GIO? 何処の会社だ」
メールの添付ファイルを開くと大きな垂れ幕に【祝。人類生存おめでとう。我が社の商品を特定区域の方々にプレゼント致します】の文字。
小さな捕捉項目を呼んで「ああ」と青年は納得する。
特定区域のGPS位置情報を送信する事によってゲーム内でのクーポンやら特典やらを受け取る事が出来るジオゲームと呼ばれる種類のネトゲが最近流行している。
様々な会社が特定のイベントを行う際に様々なネトゲとコラボして特定時間、特定区域の位置情報にクーポンや特典を設置してもらう事も多々ある。
近頃ではそういう客寄せ効果を期待してか、ゲーム会社だけではなく普通の会社もサイトで位置情報特典契約という項目を設けている。
イベント加者が位置情報を送れば特典として何か送られてくる。
そういう話だ。
「それにしてもこんな時に回線込み合ってるはずだろ?」
半ば呆れながら商魂逞しい会社に脱帽しつつ青年はパソコンを閉じる。
青年が伸びをして当たりを見回すと誰も彼もが喜びを互いに分かち合いつつ平静を取り戻し始めていた。
ピロリン。
青年の後方にいた少年が手に持っていたケータイに着信が入る。
ポロン。
青年の前方にいた老人の手にあったスマホにも着信だった。
家族と連絡を取り合った者、電話を終えた者、メールを送り終えた者。
誰のケータイにも着信音が響き始める。
青年はひょいっと後ろにいた少年のケータイを横から覗き込んだ。
そこにはやはり【GIO】という会社名があった。
世界が滅びなかった日、GPS機能を搭載する情報端末約四億台にそのメールが届いた。
新たな世界に響く着信が誰の目にも奇異に映っていた。
続きます。
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プロローグ2 GIONET
プロローグ2 GIONET
20××年某月。
国会において一つの法案が提出され全会一致の可決を見た。
時に人類の生存から十五年後。
太陽系絶対防衛線構想が持ち上がってから十年の月日が流れていた。
【個人座標情報保護法案】
俗に【ジオネット法】と呼ばれる個人情報保護法案は新たな時代の到来を告げた。
それは政府の下にGPSの送受信を一元管理保護する法案である。
その実態は複数の財閥、コングロマリットが政治工作を全面的に行ったと揶揄される程に一部の者達には刺激的な内容だった。
具体的内容に付いては政府管理下のサーバーを経由しなければGPS情報を扱えないよう端末への新OS導入を行うというものだ。
あらゆる環境下で通信を確保する光量子通信網を持って旧態然とした複数の情報網を刷新する。
正に法案は建設会社などを抱える財閥にも莫大な利益を齎す大規模な公共事業。
そんなインフラ整備でもあった。
ただ、多くの人々が思うような公共事業的側面よりも本質的な部分で法案は大きな変化を国民に与える事になる。
商業利用においてのGPS機能。
特にジオゲームと呼ばれる位置情報の送信によって様々な特典を得るゲームに端を発した新たな概念。
【位置情報利益(ジオプロフィット)】
それに関する様々な規定・罰則を設けた事でジオネット法は後の世に多大な影響を及ぼした。
GPS機能を用いた個人位置情報の取得とその送受信に関して世界に先立って行われた法整備が威力を発揮しだしたのはそれから数年後の事ではあったが、一部の者は理解していた。
これから世の中が変わるのだという事が。
人々の生活に浸透した商業目的でのジオプロフィットは莫大な利益を生む利権と化した。
企業側から提供される特典と特典を得る為に特定の場所へと集まる民衆。
この図は一目では企業側からのみ利益が供与されているように見えるが、実際には人を集める新しい方法として企業側にとっても有益な手段となった。
最初期、イベントなどの開催を行いながら人を集めて収益を上げるという形を取っていたジオプロフィットの基本的なスタイルに変化が起きた。
複数のジオプロフィットを扱う企業や団体が日時や位置に規定を置き、その規定によって得られる利益にも起伏を付けるという事をやりだしたのだ。
これによって単なる客寄せ効果は人口を複雑に分配する効果へと昇華された。
人の位置を自在とまではいかなくとも、ある程度コントロールする術を企業・政府・民間を問わず手に入れたのだ。
心理学とジオプロフィット。
最初に新しいジオプロフィットスタイルを確立した男はそう最初に説いた。
人を動かす為に必要なのは動機。
その動機を補強する為の因子として彼はジオプロフィットを使った。
「もしも、目の前の位置で十秒後十万円を確実に得られるとしたら君たちはどうする?」
カリカリと講義を行っていた老齢の教授が訊く。
窓から入ってくる熱線にグッタリしている学生達は心此処にあらずと言った心境で無言だった。
「まぁ、大概の連中は十秒後までにその位置に陣取って待つだろう」
反応は無い。
「簡単な話だ。ジオプロフィットは人間を特定位置へ精神的にも経済的にも縛り付ける効果を発揮する。これを心理学的な応用と組み合わせて、彼は様々なイベントや政府主催の巨大事業をプロデュースしたのだ」
カリカリと応えない学生達がノートを取る音だけが響く。
「現在、政府のジオプロフィット政策には主に三つのものがある。一つは超高齢者社会対策、福祉分野への応用。二つ目は税制に関する応用。三つ目は企業へのジオプロフィットマニュアルの推進。その他の例外として自衛隊、つまり軍事関連が現在模索されている状態だ」
ジリジリと髪を焦がしているような顔で教授が話しを進める。
「君達も知る通り、高齢化と過疎化が進む地域では特定の期間や時刻に政府が特典を設けている。その時期、その時間帯を歩きながら端末で位置情報を送るだけではあるが、人が集まる事で地域の横の繋がりや高齢者と若者の交流、更にはもしもの時の対策として多いに役立っている。昨年、この政策で夏場に病院へ運ばれた人間は六千人。政府広報は当てに出来んが、少なくとも数百人以上の人間は命を取り留めただろう。効果を疑問視されていたにしては上々な成果だとは思わんかね? 利益目当ての人間でも死に掛けた老人をそのままにしておけない奴がいれば電話の一つも掛けてくれるというわけだ」
丁度、ベルが鳴った。
「続きは来週。各自、今回話した福祉分野においてのジオプロフィット応用についてレポートを一枚提出するように。それと先週から言っていた任意の常時位置情報送信については更に一週間期限を延ばす。来週の講義は外国人条項の削除がジオプロフィットスタイルにおいて望ましいかどうかだ。では、解散」
ゾンビのように起き出した学生達がフラフラと部屋から出て行く。
「あちーよ。なげーよ。もうことばがぜーんぶひらがなになっちまうぐらいな」
背丈のある青年だった。
洒落っ気の無い黒のスラックスと黒革のごついベルト、ワイシャツを着込んでいる。
何処かのバーでソファーに寝そべっていれば「組」に関係した「そっち系」な「有力株」のように見えない事もない。
彫りの微妙に深い顔はまるで刃物の鋭さとは無縁そうなだらしないものだが、ワイシャツの中に詰まっている決して太くは無い洗練された筋肉が青年の雰囲気を多少シリアスに保っている。
青年はソファー代わりの長椅子でだるそうに寝そべったが如何せん椅子すら熱を帯びていたので体感気温が変わる程の涼は得られなかった。
その手にあるペットボトルのお茶はもう既に温くなっている。
「貧乏学生してるかい。貧乏人」
姿の見えない声の主に青年はだるさ全開で無視を決め込む。
「僕が恵んであげた熱いお茶も温くなってるみたいだけど、君もこちらの冷たいアイスティーの方が良かったかい?」
クスクスと声が弾む。
青年は嘆きながら顔を顰めた。
「それじゃあ、賭けは僕の勝ちだね。利子は明日までに払ってもらおうかな」
「金は無い。それ以前にこのクソ熱い時間帯に熱湯寸前のお茶を飲み干せたら利子を待ってやるとか何か? 悪鬼羅刹なのかお前は?」
「可哀想な人生の負け犬には僕の家に飛び込んでくれば三食昼寝つきで借金帳消し待遇をご用意するけど?」
「それは、ない」
「あ、今一瞬だけ考えただろう?」
悪戯ずきな子供のように声の主が笑う。
「まぁ、それじゃあ仕方ないね。利子も払えぬ輩には一仕事してもらおうかな」
青年の顔に一枚の紙が落ちる。
「探偵事務所もとい興信所の犬として君には新しい任務に付いてもらおう」
「非合法の癖に」
ボソッと青年が愚痴ると紙が細い手によって引き上げられそうになった。
青年は紙の端をさっと掴む。
「探偵じゃなくて【何でも屋】だろう?」
青年が起き上がる。
その目の前にはニヤニヤと笑う女が一人立っていた。
真夏だというのに全身を黒のスーツで覆い男のように無造作な髪型の女は甘い声で青年に囁く。
「いい加減に返済を諦めてくれると僕も嬉しいんだけどな。外字久重(がじ・ひさしげ)君」
「テメェだけはお断りだ。アズ」
黒のスーツの内、ワイシャツのボタンが上から三つまで外れている女はまるで汗を掻いていない。
ワイシャツの中に治まっている胸はかなり「無い」ものの、そのまま直視し続けるのは躊躇われて、青年久重はアズと呼んだ女から顔を背けて紙を強引に奪い取った。
「ふふ、ノーブラな僕に釘付けになりたくないという君の気持ちは男として普通の事だよ。ひさしげ」
「僕口調の年齢不詳女が何言ってやがる」
吐き捨てられる言葉にニヤニヤしながらアズはやれやれと肩を竦める。
「未だに僕の事が怖いなんて、君はよっぽど強い星の下に生まれたんだね」
「たまには人間らしい顔でもしてみせやがれ。この悪魔」
「悪魔だったら今頃僕は君を誘惑し放題でとっくの昔に落としてるよ」
「オレの信条はノータッチオカルト、ノータッチアズ、だ」
久重が紙の内容を頭に入れ始める。
「今回のは別に【ちょっと怪しい病院で夜の叫び声の調査をしたら不倫現場でした】とか【丑三つ時の路地裏で行われている取引を調査したらヤクじゃなくてチャカでした】とかじゃないから大丈夫大丈夫。君なら楽勝さ♪」
「無いはずのクラブを探し出せってのはどこら辺が大丈夫なんだおい?」
「ダミー企業でジオネット使って連中の足取りを追ってみたんだけど、途中で消えちゃって困っててね。地下か特殊な施設にでもいるのか一定区域で情報が途切れちゃって」
「おい。ダミー企業でジオネット使うとか何考えてるんだテメェは?!」
「大丈夫大丈夫。休眠状態の宗教法人複数買い取って、その系列の会社って事で審査通してるから。使い終わったらポイっとね」
置かれていた飲み掛けのペットボトルに蓋をしてアズがゴミ箱へと投げた。
「あ~~~もう?! 訊かなきゃ良かった!! そんな裏話?! オレのささやかな青春がバラ色からドブ色に!!」
もう、お前なんかの話を聞いてられるか。
ベチリとそう机に紙を置いて久重はその場から「うわ~~ん。オレの青春がぁああああああ」と逃げ出していく。
アズは放り出された紙に目を通した。
ビッシリと書き込まれた情報は普通の人間ならば一度見ただけでは覚え切れない程の量に達している。
「ふふ、やっぱり君は僕に相応しい男だよ。久重」
妖艶に笑んだアズの指から離れ紙が窓から外へと運ばれていく。
20××年七月下旬。
外字久重二十四歳の日常は借金と危ない仕事と黒い女によって九割が占められていた。
そう。
人は出会いによって変わる。
重き決断は死と再生の始まり。
少女は現われ、青年は知った。
物語の幕が開く。
第一話「迫り来る恐怖の影」
其処に決する人々は誘われた。
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第一話 迫り来る恐怖の影
第一話 迫り来る恐怖の影
朝方の薄暗闇に画面からの光が輝く。
マンション二十五階ワンフロアーの一角で朝からシュールな音楽が流れていた。
じゃーじゃん、じゃーじゃん、じゃーじゃんじゃーじゃんじゃんじゃんじゃんじゃん―――。
朝から海と叫びとヒレと牙とサスペンスが繰り広げられる一室で、裸の女が毛布に包まり寝こけている。
横のソファーでバスローブ姿の優男が次々に餌食になっていく画面の中の人々をぼんやりと見つめていた。
ポチコーンと安っぽい呼び鈴の音が鳴ると優男はノロノロ起き出して玄関まで遠い廊下を歩きつつ、あちこちに散らかる衣服を無造作に拾い上げ一応の身嗜みを整えた。
無造作に玄関のドアを開けた優男はドアの先にいた男の顔を見て、閉めた。
「おい?! ちょっと待て!! さすがにそれは傷つきますよ?! ええ、オレの心情的に!!」
「何だ。ただの新聞配達のおっさんか。家新聞取ってないですよ」
優男の返答にドアがガンガンと叩き壊される勢いで打ち鳴らされる。
「もうその発言が矛盾してるから!? 親友として少しは親友を敬いやがれ!! というか飯を食わせろ!!」
優男がドアを開ける。
「本音はそれ? 久重」
「う・・・」
「今月で何回目だっけ?」
「ぐく・・・」
「あ、そっか。今月は借金の利息で首が回らなくて二日に一回ペースだったかな?」
「だ、ダメ?!」
ヒシッと低姿勢で久重が優男に上目遣いのキレーな瞳で訊く。
「はぁ・・・」
優男がサンダルを突っかけてマンションの外付け非常階段を下りる。
「僕、永橋風御(ながはし・かぜお)はこれから親友(笑)と食事に行きたい気分だから、来たかったら来れば?」
「おぉ、心の友的な発言に感謝しませう」
なむなむと拝み倒す勢いに優男風御は親友(笑)久重にジットリとした視線を向けた。
「朝っぱらから友達に食事をたかるしか能の無い人間て最低だよね」
「人間は食わなければ生きていけないんだ」
「ドヤ顔で言うな」
風御は歩きながら財布の中を確認した。
現金なんてものはなく、カードばかりが並ぶ財布の中身に久重が脂汗を浮かべた。
「何でお前のカードは金ぴかと真っ黒しかないんだろうな」
「僕、昔からカードコレクターだったんだよ。結構今でもコレクターらしいだろ?」
「ええ、そうでございますですはい。どうせオレは鉄道ゲームで必ず貧乏神的な何かが付くような人間ですよ」
「朝から何かテンションおかしくない? 僕は今はスーパー賢者タイム突入中なんだけど、さすがに切れていい?」
「何て羨まし――ごほん。何て爛れた生活を!? そんなんだから未だにスーパーニートなんだよ!!」
「悔しがれビンボー人」
「自分で言っておいて何だが自滅!?」
下らない話をしながら二人が向かったのは大手牛丼チェーンだった。
朝っぱらから開いている聖地を目の前に久重がハートマークにならんばかりの瞳を輝かせる。
牛丼大盛りが二つ。
久重の箸が牛肉に掛かる刹那、風御が話を切り出す。
「で、どうしたの久重?」
「ぐ、こういう時だけ鋭い・・・」
「で?」
「・・・アズからの仕事だ」
「僕、関係ないみたいだから帰ろっかな。あ、支払いはしておいて」
「ちょ、ガチで親友を食い逃げ犯にするつもりか親友!?」
溜息を付いて風御は再び席に腰を降ろした。
「それで僕に何を頼みたいわけ?」
「あ~~~ほんのちょっとでいいから真っ黒の方貸してくんない?」
「とうとう落ちるとこまで落ちちゃったんだね久重・・・・」
哀れみの視線に久重が否定する。
「今回行かなきゃならない場所の情報は解ったんだが、入る方法がそれしかなくてな」
「一分以内で簡潔に説明してよ」
「アズに頼まれたスニーキングミッション【あるはずのないクラブを探し出せ (できれば内部の情報も一緒に)】でそれらしい場所までは解ったんだが、扉の前にこわーいガチムチ黒人お兄さんがいて【おいジャップ。テメェみたいな貧乏人には此処に入る資格なんざねーんだよヒャッハー】とか言われた」
「金持ちのフリして入りたいわけね?」
「ま、まぁ、簡単に言うと」
「・・・何処?」
「さっすが親友。話が解るぅううう」
「そのキャラうざい。静かに食べようよ。人間でしょ君?」
「はい。申し訳ありませんでした親友様」
イソイソと食事に戻った久重が牛丼を約三分で平らげる。
「それにしてもまだ諦めてないの? あのアズトゥーアズに狙われて無事だなんて君くらいだよ」
「オレだってまだ人生の墓場に向かうのは早いと思ってる」
「最終手段はアズの奴隷か。これが大学一の頭脳(笑)とは世界って広いよね」
「頭の出来と貧乏は関係ない」
「ちょちょいと書庫で金融工学でも学んでくれば?」
「オレはそういうのは・・・」
久重が苦い顔で水を呷る。
「あーはいはい。頭良い癖に中の中で成績維持してた人間には無理か。ま、こっちも人のことをとやかく言えるような人間じゃないからいいよ」
「・・・悪い」
「悪いと思ってるなら誠意で返して欲しいね。今まで奢った朝食代を耳を揃えて返してくれるとか」
「ごめんなさい。オレが全面的に悪い」
溜息を吐いて久重から時間と場所を聞き出した風御は食事を済ませた後、久重を連れて駅へと向かう。
「カード貸したところで入れる場所でもないでしょ。僕が付いてってやるからガードと調査は任せる」
「了解した。それで何処に向かってるんだ?」
「こんなみすぼらしい格好でクラブとか行けとかどうかしてるよ。久重」
「男の買い物に付き合うとか。オレの青春が遠のいていく」
「ま、君もだけどね」
「は?」
久重がその言葉を理解するのは数時間後。
無駄に高そうなスーツを着込まされ、グラサンを与えられ、ちゃらいリングや指輪を付けさせられてからだった。
*
午後八時。
当初の予定時刻に達した二人は高層ビルが立ち並ぶ一角の商業ビルへと足を運んでいた。
未だに営業している店が多数あるというのに早々とネオンが消えたビルの中を進む。
あちこちにある監視カメラに視線を向ける事もなく二人はその入り口まで辿り着く事が出来た。
安っぽい鉄製の扉の前にはお約束の如く黒スーツの黒人が屯している。
「ハロー」
ズンズン進んでいき軽いノリで挨拶をかました風御に黒人の瞳が集まる。
如何にもちゃらいスーツ姿の優男。
無駄に光物が使用されている腕時計を煌かせる姿は何処かのホスト風とも見える。
しかし、黒人達はその腕に囚われるわけでもなく、風御の隅々まで舐めるように見回した。
「いやん。僕そういう趣味ないよ?」
ゲラゲラと品も無く笑う男の全身がまったくもって完全無欠に【金】以外の言葉が見当たらない事を確認して、二人の内の一人が風御にボソボソと質問した。
「あーうん。紹介は無いんだけどさ。お得意様にはなってあげられるかもよ? ここそういう場所でしょ?」
黒人が難色を示すと風御は後ろで控えていた完全無欠に危ない「お兄さん」と化した久重に目配せする。
久重は手に持っていたケースの中身をぶちまけた。
比較的重い紙の束がほぼ百、床に落ちたソレを見て黒人達が慌てる。
「あーうん。これでここのオーナーさんに取り次いでくれる? 幾分か懐に入れても構わないよ?」
サラッと流した風御の言葉に男達が二人で顔を見合わせた後、一人を残して慌てて扉の中に入っていく。
扉を開けると更に扉があり、その扉の内には更に扉がある。
三重の警戒を解いた内部へ駆け込んだ黒人が戻ってくる頃にはケースに再び束が収められていた。
残って散らかった束を片付けた黒人が手数料とばかりに幾つか束を懐に入れているのをニコニコしながら見ていた風御が出てきた黒人に振り返る。
慇懃無礼に男達は礼をして扉の内部へと二人を招き入れた。
扉の先の暗幕が払われる。
ボディーチェックを受けて入った扉の中には十数人の客。
(!?)
内部の様子に僅かに久重が動揺した。
「久重。自重」
「―――解ってる」
久重がグラサン越しにも解る内部の様子に歯を軋ませ風御に止められる。
内部では競りが行われていた。
競りが行われている以外の場所には複数の強化プラスチック製とも見える大きな箱が無造作に置かれている。
商品はまるで生気もなく与えられた食事をもそもそと口に入れていた。
「あなたがお見えになられたお客様ですか?」
競りを行っているステージ横から出てきたのは安っぽい流行りの戦隊モノの仮面を被った壮年の男だった。
「その仮面も売り物?」
「いえ、これはちょっとしたお遊びですよ。競りに来ている方々の中にもそういう方がいらっしゃいます」
久重が競りを行っている者達の内の数人が様々な仮面を付けている事に気付く。
東南アジアのものと思われるもの。
米国のヒーローを象ったもの。
それぞれにまったく別の仮面が競りに夢中で札を上げ下げする光景は滑稽なものに見えた。
「ふーん。結構、雰囲気良い店だね。昔はこういうとこって、もっと臭い場所だったもんだけど」
「いえ、それでは近頃の商売は成り立たないもので」
「そうなんだ」
「はい。それでお客様は何方様からの紹介も無いという事ですが、此処の事は何処で?」
「え? ああ、僕さ。【ADET】の関係者だったもんなんだけど、一人で商売始めたら少し仕入れが芳しくなくてね。小耳に挟んだ此処でちょっと仕入れて見ようかなぁって」
「【ADET】の? 今はフリーという事ですか?」
「まずいかな?」
「いえ、それなら基本的に身元確認さえ行っていただければ今からでも競りに参加できますが」
「あ、そう? 無理言って悪いね。それじゃあ、ほら出して」
久重が懐から数枚の書類を取り出して仮面の男に渡す。
「はい。では、どうぞ。ご既約はお読みになりますか?」
「え? いいよ。どうせ、何処も同じでしょ」
「それは・・・まぁ、そうかもしれません」
「そうそう。で、ちょっと相談なんだけど、今競りに出されてるモノと此処にいるモノ合計で何匹?」
「今はそうですね。おい、在庫表を」
仮面が競りの参加者にシャンパンを配っていたボーイ風の男に声を掛ける。
ラテン系の顔立ちの男はすぐに店の奥に消えて戻ってきた。
男から渡された紙に仮面の男が目を通す。
「現在二十四匹で。今競りに出されているのが一、上物が七、売約済みが一、それ以外が十四、塵が一」
「売約済みと競りに出されてるの以外を全部でコレぐらいでどう?」
風御がスマホを取り出して計算した金額を提示した。
「ん・・・んん。今日のお客様方をこちらも手ぶらで帰らせるのは忍びないのですが」
難色を示す仮面の男に風御が更に追い討ちを掛ける。
「ま、それじゃあ、ちょっとおまけしようか。参加者に一人これくらいでどう?」
「ふむ。それならば」
「商談成立。ちなみにキャッシュでいいよね?」
「ええ、それ以外は受け付けていません」
「なら、コレ。隣のビルの七階にフェラーリ止めてあるから。車ごとでいいよ。差分は次の競りが行われる時に回収でいいかな?」
「よろしいですとも」
仮面が上機嫌に頷く。
「で、モノの移動はどうやってしてるのか聞いていい?」
「はい。落札後は基本的にお客様のご自宅に私どもの宅配業者が赴く事になって――――」
「トイレって何処?」
「トイレは左奥の部屋を曲がって突き当たりです」
久重の言葉に仮面の男がすぐに返した。
「じゃ、後は任せる」
「はいはい」
風御が安請け合いすると久重はそのまま歩き出した。
(ホント、君は優しいよ。久重)
内心で溜息を吐きながら、親友の善良さを好ましく思う風御は更に商談を進めた。
*
誰もいないトイレの鏡の前。
「クソがッ」
手洗いの台に拳を振り下ろして久重が唇を噛み締めた。
店内の商品と競りが生み出す空気が未だ久重の肺に蟠っていた。
「人間を何だと思ってやがる!?」
店の商品は人間であり店の競りは人間の競りだった。
嘗て黒人奴隷が競りに賭けられていた如く店内では若い人間が競られていた。
(ああ、くそ! アズめ!? 最初からオレがどういう反応するか解ってて・・・・・)
妖艶な笑みで人を地獄に落とす天才を恨みながら久重は頭を切り替える。
トイレを出ると左脇にスタッフオンリーの文字が扉に刻印されていた。
躊躇無く扉を開けて内部に侵入し扉を閉じる。
内部で監視モニターを見ている二人と先程までボーイをしていたラテン系の男がギョッと驚いている間に久重は行動に移る。
距離を瞬時に詰め、立っているラテン系の男の喉を拳で潰し、そのまま肘で鳩尾を抉り抜く。
振り向きざまに二人の男の一人を無防備な首筋に拳を振り下ろし昏倒させ、立ち上がろうとしたもう一人の顔面を蹴り砕いた。
脳震盪で意識を失った三人の男達がそれぞれに下手をすると死亡する可能性があったが、久重は構わずに辺りに積み上げられている資料の何枚かを掴んで懐に収める。
部屋の上部にブレーカーと配電盤を見つけて、久重は座る者無き椅子を持ち上げて投げ放った。
突如として店内の全ての電源が落ち、一瞬の静寂の後、ざわめきが広がる。
部屋から出た久重は確認しておいたステージの舞台裏へと移動した。
まだ何が起こったのか把握しない監視者が三人いた。
舞台裏で外国人の少年少女を監視していた男達へ音も無く歩み寄った久重は予め闇に慣らしていた片目からの情報を頼りに拳銃を取り出していた男の鳩尾に拳を打ち込んだ。
「がはッ!?」
仲間の苦鳴に驚いた二人が銃口を向けた時には、姿勢を低く保ったまま突進していた久重の拳がもう一人の鳩尾を打ち抜いている。
「がッッ」
やっと慣れてきた目で仲間を打ち倒した侵入者を見つけた最後の一人が発砲する。
左腕を掠めた銃弾に怯む事なく、久重が低姿勢から全力で膝蹴りを放つ。
「―――――――」
ゴチュリ。
男の下半身から聞こえる男には耐え難い音に顔を顰めて、久重は男達が落とした銃を舞台へと蹴った。
銃声に恐慌を来たした客達が扉の方へと殺到しているのか。
悲鳴とざわめきに包まれる暗闇がやっと本来の意味を取り戻したように異様な気配を醸し出す。
人が売り買いされるという異質さを包んでいたオブラートが消え去った今、その場に残っているのは暴力と悪徳の気配のみだった。
「これで後は警察にでも任せるか」
さっさと撤収しようと久重が親友の姿を探そうとした時だった。
「【ITE】起動」
小さな声に篭る殺意に久重は反射的にその場から飛び退いた。
刹那、久重が今までいた場所が明滅した。
瞬時に治まった光が何だったのか解らない久重の背筋に冷たいものが走る。
理解できない致命的な何か。
それを本能的に感じ取った久重がその場から舞台へと疾走する。
「【ITEND】Multiplication Rate4。Increase Level3」
久重の後を追うように立て続けに光が明滅した。
「【Devil1】Armoryより項目Martial Artを検索。第四種近接格闘武装Download」
久重が舞台から飛び降りると明滅が止まる。
しかし、それでも久重の耳には小さな声がしっかりと聞こえていた。
その声に込められた敵意の源を見定めた久重が呻く。
「マジか・・・・子供とか」
声の主が今まで震えていた舞台袖の子供達の中から立ち上がる。
夜目の利く久重には線の細い欧州系の人種、十二歳程の白人の少女と見えた。
「構築終了まで十七秒。SabWeapon“Fire Bag”」
舞台へと進み出てくる少女が仄かに照らし出された。
「な!?」
少女の手が燃えていた。
辺りにガソリンの匂いが立ち込め始める。
『助けてくれぇええええええええええええええええええ!!!』
誰も少女など見ていなかった。
客の誰もが入り口へと殺到し続けている。
一人客席に取り残された形になった久重は己の手が燃えている少女の瞳に息を呑む。
その瞳には殺意と侮蔑と敵意だけが宿っていた。
「アレは絶対に渡さない」
「な、何の話だ!? ちょ、ちょっと待て!!」
「惚ける気? 言っておく。もし、私があの場所まで行けばジオネットを通してアレは破壊される」
「何か物凄い勘違いで殺されかけているような気が。って何だソレ?!」
少女のまったく聞く耳を持たない姿勢に久重が脱力しようとして、少女の燃えている手に長い棒が握られつつある事に気付いた。
「痛いじゃ済まない。もう増殖は終わってる。構築も終了した。“Fire Bag”の威力は知ってるでしょ? この屋内で逃げ場が無い以上、逃れられると思わないで!」
一人で盛り上がる少女が血気盛んに叫ぶ。
ギリッと今だに燃えている手が握っていた棒が差し向けられる。
(この棒・・・伸びてるのか?)
異常な状況を久重は冷静に受け止める。
1少女は自分を敵だと思っている。
2少女は手が燃えて、燃えた手に握られた棒は伸びている。
3少女はFire Bag(たぶんはあの発光現象)を攻撃手段として認識している。
4少女の言い分を聞く限り攻撃が当たったら死ぬ(かもしれない)。
5少女から安全に逃げる術が今のところ思いつかない。
以下の条件から導き出されるその場での最善の方策を久重は瞬時に叩き出した。
「投降する。だから、オレの話を聞いてくれ」
「馬鹿じゃないの?!」
思い切り悪態を吐かれて、棒が振り回される。
飛び退った久重のいた場所を棒が通り抜けていく。
少女の燃えていた手の光が消える。
次の瞬間、久重は一瞬少女を見失い、大量に何かの欠片が落ちる音を聞いた。
「い?!」
それが少女の振り回した棒の通り過ぎた後の観客達の椅子の末路だと気付いて、久重はそろそろ全員が脱出しそうになっている扉へと逃げるべきか悩んだ。
「ッッ」
久重が瞬時にその場から跳ぶ。
瞬間的に空間がまた明滅した。
「何ソレ?! 気配も何も無い攻撃避けるなんて薬でもやってるの?!」
「オレは基本的にノータッチオカルト・ノータッチアズ・ノータッチヤクの厳然とした普通人だ!!」
「そうやって混乱させようなんて!! 【連中】らしい手口!!」
「『連中』って誰だ!!」
明滅から逃れながら瞬間的に見える少女と棒を回避しつつ、退路を探す久重の耳に開けっ放しのドアの外から警察よろしくパトカーのサイレンが聞こえ始める。
「く、警察にだってまだ息が掛かってない場所くらいあるんだから!!」
「何か大事になってくれてるようでまったく嬉しくない予感だチクショォオオオ!!」
涙目で回避行動を取りつつ久重が何とか少女を取り押さえようとした時だった。
銃声が響く。
「あうッッ!?」
弾かれたように少女が倒れた。
「何の騒ぎかと思えば、やはり貴女でしたか。ソラ・スクリプトゥーラ」
突如、電源が回復し当たりに明かりが戻る。
「ッ、おい!!」
久重の目の前で少女の金髪が血に塗れていた。
「ター・・ポーリ・・・ン」
少女はどう考えても致命傷だった。
出血する胸元から後から後から血が溢れていく。
「気をしっかり持て!! すぐ救急車を呼んでやる!!」
少女の傍に膝を付いて久重が胸の傷を押さえながら声を掛ける。
「どうやら逃避行も此処までのようで。【D1】は回収させて頂きます」
舞台袖から白いスーツの青年が降りてくる。
普通の日本人然とした顔とは不釣合いな白いスーツが薄暗い中で浮かび上がり・・・底知れぬ何かを連想させた。
「おい!? テメェか!! この子を撃ったのは!!」
「え・・・?」
「ソラ。彼はどういったお知り合いですか?」
「ま・・さ・・か・・・」
少女が死の間際に目を見開く。
「おや? まさか、貴女の知り合いではない。という事は部外者? はは、貴女も最後まで笑える人生ですねぇ。関係ない人間と戦ってる最中に隙を見せるとは・・・く、くく、いやいや、傑作にも程があるでしょう」
笑いを堪え切れないように青年が口元を押さえる。
「ぁ・・・ご・・・め・・・ッ」
少女が久重を見上げて喋ろうとして吐血した。
「いい!? もう喋るな!! すぐに助けが来る!!」
「で・・・ごめ・・・・な・・・・かん・・・・け・・・・」
「いい!! 気にしてない!!」
「ぁ・・・」
少女は微かに久重の言葉に微笑んで、手から棒が零れ落ちた。
「さて、掃除も済んだ事ですし、貴方にも死んで頂きましょうか」
「おぃ」
「はい?」
薄ら笑いを浮かべていた青年が銃を久重の頭に付けて撃ったと同時。
青年の顔が見事に歪み、体が数メートル吹き飛んだ。
「テメェは、クズだ」
白く握り締められた拳から血が滴り落ちる。
「はは、これは・・・どういう冗談で・・・私が傷を?」
何か酷く驚いている青年が見上げた。
「貴方は何なんですか?」
「オレか? オレはただの通りすがりの何でも屋だ」
近づいてくる久重に対し、青年は構わず銃を連続で撃ち放つ。
計十五発。
しかし、弾丸が久重に当たっている様子が無かった。
弾丸は全て外れていく。
「銃弾が効かない? いえ、これは、ッ?!」
立ち上がった青年の顔に渾身のストレートがめり込み舞台下へと激突した。
「これはいけない。さすがに未知数の存在との交戦は骨が折れる」
鼻がねじ折れ、歯が欠けた青年が己の状態を意に介した風も無く立ち上がる。
久重が疾走する。
まるでトラックが激突したような衝撃音。
最後の一撃を見舞われた青年が何とかその拳を両腕でガードして、舞台へと吹き飛ばされる。
ゴトリと立ち止まった久重の足元に何かが落ちた。
閃光。
「彼方のような得体の知れないモノと戦うのは遠慮します。もしもまた会う事があれば、その時はお相手しましょう。では」
舞台からすでに消えている青年の足音が遠ざかっていく。
追いかけようとした久重だったが、その時異様な臭いに気付いた。
「ガソリン!」
ハッと顔を上げた久重に雨のようなガソリンが降り注ぐ。
「くそ!? 証拠隠滅は万全とか!?」
舞台袖で震えていた子供達の事を思い出し、久重が走る。
数人の子供達を見つけた時にはスプリンクラーで撒かれたガソリンに部屋の一角から火が回り始めていた。
久重が透明な箱の鍵を次々に破り、売り物にされていた誰もを走らせる。
避難させる途中。
客達の椅子の最中に倒れ臥した少女を見つけたが、完全に炎に巻かれていた。
「――――悪い」
久重は歯を食い縛って、未だに逃げ遅れている者の誘導を行う。
見る限り最後の一人を外に出した時点で扉の外に出た久重は扉を閉めた。
すでにビル周辺には紅いパトカーのサイレンが屯していた。
大勢の足音が駆けつけてくる。
「この子達を非難させてくれ!!」
銀色の衣服を身に纏う消防隊数人が寄ってくると久重の言葉に頷いて走っていく。
そのまま隊員に先導されてビルの外に出た久重が上を見上げるとビルの一角から煙が立ち上っていた。
「くそ!!」
助けられなかった少女の事を思い、久重が歯を噛み締める。
「君!! そこの君!! 今、ビルから子供達と一緒に出てきたね!!」
警官の声に振り向いた久重は自分が多くの警官に囲まれている事に気付いた。
「ちょっと事情を聞かせてもらいたい。署の方までご同行願うよ」
*
完全に密室となった店内。
炎がうねり、全てを呑み込んでいく。
血に塗れた少女の死体もまた燃えていた。
しかし、燃えているにも関わらず、少女の体には焦げ目一つ付いてはいない。
少女の前髪が炎の熱で炙られて揺らいだ。
髪に今まで隠れていた額付近に僅かな輝きが灯る。
少女の額に文字が浮かび上がった。
【ITE】Automatic Control。
Lost Part Activate。
【ITEND】Re:Start。
周囲の炎が急激に静まり始める。
その熱量はただ一点へと吸収されていく。
少女の負った傷へと。
GIONET Connecting。
Channel Police Radio。
【あーこちら233。本件の重要参考人と思われる青年一名を確保。これより移送する。名前は本人によると外字久重。二十四歳。來邦大学大学院一年生。尚、現場での―――】
「・・・ひさ・・・しげ」
その日、商業ビル群の一角で起こった小火騒ぎは比較的小規模で収束した。
火の手は何故か急激に弱まり、二時間後には鎮火。
火事における犠牲者は零。
ただ、不思議な事に店内の一角だけが不自然に焼け残っていた為、現場検証が引き続き行われている。
そこにはもう少女の姿は無かった。
ある者は受け入れ、ある者は謀り、ある者は慮る。
少女は思い出す。
世界には未だ温かなものがあると言う事を。
言葉にならぬ想いに名があったと言う事を。
第二話「謀略の読み手」
奏でられていく日々へ彼らは向う。
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第二話 謀略の読み手
第二話 謀略の読み手
物語には小道具が必要だと知る者ならば、その光景をこう表したかもしれない。
舞台装置としての神。
全てを終着させる【造られた神々】(デウス・エクス・マキナ)の墓場。
古びた劇場の最中、地に落ちた面と衣装が散乱している。
雄々しく優雅に人間臭い愛と欲望に満ち溢れた神々の衣装は安っぽく、生地も飾りもおざなりな出来だった。
『ターポーリン』
舞台の上で一人。
頭を下げている青年がやっと散乱した塵の上で頭を上げた。
「はい。ここにおります」
白いスーツ姿の青年は何処からともなく響く合成音声に畏まった。
『首尾は?』
「ソラ・スクリプトゥーラの処分を完了し、現在は警察に【D1】の回収を急がせています」
『そうですか。無能の烙印は避けられませんね』
「それはどういう事でしょうか?」
『【D1】が稼動しています』
「まさか? 確かにこの手で胸部に致命傷を負わせましたが」
『どうやらソラ・スクリプトゥーラは【D1】を完全に取り込んだようですね』
「生体融合実験は未だに成功しては・・・」
『ジオネット上で【D1】の活動再開と同時に探査プログラムからの発信が途絶えました。変異した【D1】はバックアップが起動したと考えられます』
「では、ブラックボックスが開いたと?」
『ええ、完全な形でプログラムが甦れば、我々が施したロックは消失するでしょう』
「【D1】の機能が完全に戻る事になれば・・・」
『その事態だけは避けなければなりません。ターポーリン』
「はい」
『二個中隊を貸し与えます。ソラ・スクリプトゥーラの処分を最優先に』
「アレは如何しますか?」
『アレと【D1】は諦めて構いません』
「よろしいのですか?」
『他のオリジナルロットの解析が遅延するのは避けられませんが、致し方ありません』
「了解しました」
青年はその場に背を向けて劇場の外へと歩き出した。
『・・・・・・悪魔が笑っていますね・・・これは・・・・・・』
声が途切れた劇場にはもう何の気配も残ってはいなかった。
*
警察署を後にするクーペの後部座席で久重は空ろな瞳で虚空を見つめていた。
「・・・・・・・・・」
「随分とご傷心のようだけど、どうかしたのかい?」
アズの声に答えは返らない。
「もしかして、行ったら悪徳の限りアンアン喘がされる可哀想な子が一杯いたとか?」
楽しげなその無神経極まる発言に久重の手がすっと伸びた。
胸倉が今にも事故を起こしそうな程に強く掴まれる。
「知ってたな」
質問ではなく確認。
「知ってたとしたら?」
「オレはテメェを・・・」
「許さないなんて言葉だったらガッカリするよ。久重」
「何?」
「君には何が出来た? 君はただの便利屋だ。警察でも無ければNGOでもない。精神科医でも無ければ、消防士でもない。君が出来る事は潜入して探って場を引っ掻き回す事だけだ」
「――――?!」
「君が怒るべきは世の悪徳であって僕じゃない。でも、世の悪徳に君は無力だ。怒るだけなら誰でも出来る。いや、殆どの人間はそれしか出来ない。君がどんなに強くても、君はただ強いだけだ」
久重の手の力が緩む。
「今日だって世界の何処かじゃ大勢が不幸な目にあってる。親に売られ、兵隊に浚われ、乱暴され、薬漬けにされ、兵隊にされ、同じ民族を殺し、病気になれば棄てられ、ボロボロになって死んでいく。貧困と格差と差別と宗教と憎悪と多くの悪徳が今日も誰かを呑み込んでいく。だろう?」
久重の手がダラリと下げられた。
「それでも君は怒るんだろうさ。君の心は真っ直ぐで、折れても折れても真っ直ぐで、君を傷つけてばかりなのに」
「解ったような口を利くな・・・」
「久重。君は一人の少女を救えなかったらしい。だから、君は悔やんでる。心で泣いてる。けれど、それは無意味な感傷だよ。少女の人生で君はたった一欠けらの最後に過ぎない。悲しみも苦しみも痛みも君は癒してやる事が出来ない。少女の命すら助けられない。それが君だ」
「オレは・・・」
久重の手がゆっくりと白く白く握り締められた。
「君には出来ないことがある。君には助けられない人がいる。偶然、君は出会ってしまっただけだ。自分の手の届かない人に。忘れるといい。殆どの人間はそうやって生きてるんだから」
「オレを勝手に決め付けるな」
力なく項垂れる久重が吐き棄てるように呟く。
「着いたよ」
久重が顔を上げるともう安アパートの前でクーペは止まっていた。
車を降りた久重が少しだけ躊躇してから窓を叩く。
ウィンドウが下り、怪訝そうな顔のアズに対して久重は一言だけ告げた。
「・・・送ってくれて・・・ありがとう」
少しだけ驚いた顔をしてアズが小さく首を振る。
「警察から釈放させた分は付けておくから。気にしなくていい」
「金取るのか」
「ああ、それが僕のやり方さ」
微笑んだアズがクーペを発進させた。
僅かに軽くなった心を引きずりながら、久重は階段を上る。
自分には他に何が出来たのだろうかと。
自室のドアを開ける。
そのまま靴を脱ぎ散らかして畳みの上に倒れこんだ久重は天井を見上げる。
「・・・・・・オレには出来ない事がある・・・か」
どんなに怒っても少女を生き返らせる事はできない。
どんなに怒っても少女を救う事はできない。
「格好悪くて死にたくなる。まったく・・・・・・」
独り言の余韻すら消えて、静寂に耳を傷めながら、久重は瞳を閉じた。
そうして、やがて眠りへと誘われていく。
(オレには誰も救えないのか)
答えはもう出ていた。
明確な回答が映像となって久重の脳裏を巡っていく。
『泣かないで』
不意に響く声に夢現を漂う久重の意識が反応した。
ゆっくりと瞼を開ければ、滲む世界は紅。
いつの間にか夕方になっていると気付く。
起き出そうとして、紅の世界に金色が紛れ込んでいる事に気付く。
ぼやけた視界がゆっくりと焦点を結び始めて、久重は初めて、自分が心に大きな傷を負ったのだと知った。
見下ろす瞳。
緩められた口元。
ほっそりとした手。
久重自身、そんなものを見てしまえば、認めざるを得ない。
自分は少女を救えず、傷つき、幻想に逃げてしまうくらい、疲弊しているのだと。
「・・・・・・・・・?」
紅の静寂に温もりが入り込んだ。
頭を撫でる手。
「!!!」
完全に目が覚めて久重が起き上がり、振り向く。
「あ・・・・・・」
金色の髪をした少女。
何故か、命のやり取りをして、何故か、殺されてしまった、守れなかったはずの少女。
「・・・ぇと・・・・・・ひさ・・・しげ?」
そんな少女を前にして久重はただ呆然とするしかなかった。
*
「戒十(かいと)さ~~~ん。ちょっとはこっちにもネタ回してくださいよ~~~」
警察署の一角。
資料の山に埋もれるようにして存在するデスクに近づいた三十代の女が画面に齧り付いて文書を作成している男にベッタリと甘えた調子でしな垂れかかった。
「うっせぇ。ちょっと黙ってろ」
「そんなどうでもいい報告書なんて書いてないであたしとお話しましょ?」
「手口が記者クラブ時代より悪辣になってねぇか? 了子(りょうこ)」
「今はフリーですから」
今年で定年を迎える佐武戒十(さたけ・かいと)六十五歳にとって女はハイエナより達の悪い友だった。
了子と呼ばれた女は佐武にとってみれば、自分の子供の世代で、どうしても何処か甘くなってしまう部分がある。
記者クラブ時代の女はまだ本当に佐武にとって子供と思える程に若かった。
それが今では長年連れ添った伴侶以上に色々とややこしい関係になりつつある。
ネタをくれとせがまれたり、ネタをくれとせがまれたり、ネタをくれとせがまれたり。
友人だからとお歳暮を毎年毎年贈ってくるわ、色仕掛けが似合う歳になるわ、ピンポイントで佐武自身の情報が筒抜けになっているわ。
化粧が若い時より濃くなった以外はまだ二十代でも通用しそうな美貌が懐いた猫みたいに擦り寄ってくる光景は警察署内でも見過ごされてしまう程に常態化している。
「不祥、羽田了子(はた・りょうこ)。上司のセクハラに耐えられず辞職して、今はフリーですから」
「そこんとこだけ強調すんな。セクハラに対してビンタ一発お見舞いして慰謝料ふんだくった奴が言う事じゃない」
「このお仕事、お金の為でもあるけれど、自分の為でもあるんですよ? ネタを追う。良い記事が書ける。世間が少しだけ、ほんの0.0000001パーセントくらい良くなる。私、超満足。良い事ずくめじゃないですか!」
「真実を探求するとかフリージャーナリストみたいな事を言い出さんところは買ってやる」
「それでネタありませんか?」
溜息を吐いて佐武はデスクを発った。
お供にしてはありがたくない良子を子機よろしく引き連れ、近くの公園まで散歩を始める。
警察署に出入りする老若男女の署員達が微笑ましそうな顔で二人を見送った。
「で、で、ネタはあるんですか!!」
「あ~~どうだったかな。この頃物忘れが激しくてよぉ」
「そうなんですかDHAがいいらしいですよDHA」
「ホント、そういう旧過ぎるネタだけは持ってんのな。お前」
「古巣の書庫で時々昔の記事漁って読んでますから!!」
「何してるんだよ?」
「○○年目の真実的なネタが無いかと暇潰ししてるだけですけど?」
「・・・・・・もういいわ」
「そうですか。それではさっそくネタを頂戴します」
「マグロでも食ってろ」
「絶滅危惧種で今じゃ一皿二千円。奢ってくれるなら頂きます」
「解った。お前と話してると頭痛がしてくらぁ。ネタやるからとっとと今日は帰れ」
キラキラと子供のように瞳を輝かせる三十代のフリージャーナリストに頭痛を通り越したものを覚えつつ、佐武はタバコを取り出して咥えた。
無論、火は付けない。
「昨日のビル火災あんだろ。あれの出火の原因は人為的なもんだ」
「ネタキタ―――!!」
突っ込みも入れずに無視して今では一箱四千円するタバコを噛みながら佐武が続ける。
「ちなみに放火とかそんなんじゃない。証拠隠滅ってやつだ」
「証拠隠滅キタ―――!!」
「あそこは人身売買の拠点だった」
「―――それって近頃話題になってる華と韓の非合法風俗に関係あります?」
「いや、裏ルートで入国させた連中を働かせてるとか、そういうのじゃない。移民政策であぶれた連中が報告してない未戸籍の人間をターゲットにした専門店だったらしい」
「らしいってまた戒十さんにしては曖昧ですね」
「しょうがねぇよ。本庁から来た奴らが主軸で捜査が進んでやがるからな」
「それでそれで!!」
「こっからはオフレコにしとけよ」
「イエスシーキャン」
「その場所で商品にされてた連中を保護した際に怪しいのを引っ張ってきたんだが、あっさり釈放された」
「はい? それって重要参考人って事ですよね?」
「ああ、だが、上の連中はバッサリ捜査線上からそいつを切り捨てやがった」
「どういう裏が?」
怪訝そうな了子に佐武が解らないと首を振る。
「ただ、問題はそれだけじゃねぇ。あいつらが何故か執拗に現場を漁っててな。とにかく虱潰しに何かを探してるみてぇなんだよ」
「何かを探している?」
「他にも不可解な点が幾つもある。さっきの重要参考人だが、店にいたのは確かだが、別に店を利用してたわけじゃねぇらしい。それどころか保護した連中の話だと助けようとしてくれたとか。そいつの証言だと女の子が一人死んでるはずだとか」
「死体って事は殺人も絡んでますか。だとすれば、何故釈放されたんですか?」
「死体が出なかったからさ」
「は?」
「証言が丸っきりの嘘だったのか。あるいは死体が消えたのか・・・」
「これはまさかのミステリー路線!?」
「って事で、オレは帰る。お前もお前の巣に帰れ」
佐武が後ろを振り返った時にはもう了子の姿は影も形もありはしなかった。
「お前の方がよっぽどミステリーだっつーの」
佐武の声は暮れ始めた空に虚しく吸い込まれていった。
*
夕飯の匂いが家々から立ち上り、まるで平和という名を表したかのような黄昏時。
八畳一間で机と本棚しかない場所で、久重はジットリとした汗を浮かべていた。
その前には少女が何処か済まなそうに正座して久重を真っ直ぐな視線で見上げている。
「その・・・・・・」
ゴクリと唾を呑み込んで、その行為があまりにも周囲から誤解されそうであるという認識の下、久重は混沌とした内心とは裏腹に、明るい声でソラ・スクリプトゥーラと呼ばれていた少女に声を掛ける。
「君は・・・どうして?」
冴えない一言はあまりにも多くの質問を含んでいる。
どうして此処にいるのか。
どうして死んでいないのか。
どうして自分の名を知っているのか。
どうしてどうしてどうして。
「謝り・・・たくて・・・」
会った時とはまったく正反対に大人しい少女が真摯な瞳で久重に向かい合う。
「私・・・勘違いして・・・それなのに・・・助けてくれようとしてくれて・・・だから」
「オレは別に・・・・ただ、当たり前の事を」
少女ソラが久重の手を両手で掴んだ。
「ごめんなさい。ありがとう」
ソラが頭を下げた。
そして、頭を上げると立ち上がり、ドアの方へと歩いていく。
「さようなら・・・・・・」
久重の勘は言っている。
その少女ソラに関われば大事になる。
問題が多発する。
関わるべきではない。
関われば、命にすら危険が及ぶ。
長年アズに使われている久重にとって、危機に対する防衛本能は絶対の信頼が置けるものだ。
そうなると確信したならば、それはもう現実に危機と同じ。
だから、久重は己の本能に従った。
「ぇ・・・?」
ソラの手を掴んだ久重は一言。
「命の取り合いをした仲だ。夕飯ぐらい食べてけ」
「ぁ・・・・・・」
久重の手に篭る力にソラは俯けていた顔を上げる。
「でも・・・私・・・」
「それとオレはこう見えて危ない仕事も引き請ける何でも屋なんてのをやってる」
ソラが呆然として、慌てて首を振る。
「もし、何かに巻き込むと思ってるならもう遅い」
「ど、どうして?」
「あの白スーツ野郎にオレとお前の分はぶち込んでおいた」
「な!?」
ソラの手を離して、久重が台所へと向かう。
「わ、私・・・!?」
慌てて止めようとするソラに久重がそっと人差し指で口を閉ざす。
「人の厚意は素直に受け取っておけ。それが世渡りの基本だろ?」
クシャクシャと金髪を撫ぜて、久重が台所に立つ。
「ちゃぶ台が横にあるから出しておいてくれるか?」
「・・・・・・」
ソラが泣いているような笑っているような、そんな顔で久重の背中を見つめ、
「・・・・・・はい」
玄関から部屋の中へと戻る。
黄昏時、どこからかチャルメラが響いた。
「あ」
久重が固まる。
「?」
「ちょっと一人増やしてもいいか?」
「??」
久重は冷蔵庫を背に端末を取る。
その中身は言わずとも空っぽだった。
*
「で、正体不明の死んだと思ってた命の取り合い(ガチ)をした謎少女が部屋に来て、優しくも夕食をご馳走すると言い張った愚かで可哀想な外字久重君は夕飯にする食材すら買えない有様でありながらも見栄を張る為、更なる借金をこの僕に申し込み、尚且つ食材の調達まで任せてくれたわけなんだね?」
胃酸で今にも解けそうな内心をグッと呑み込んで久重はアズのジットリとした視線を背中に受けながら答えた。
「イエス」
「へぇ、君にこんな冗談の才能があったなんて僕もまだまだ君に対する研究が必要だと心底に感じたよ」
「HAHAHAHA」
食材を調理しながら白々しい会話が展開される。
「君にロリコンなんて高尚な日本の精神が根付いてたとは。気付けなかった僕の負けだ。今日の分は僕が支払っておく。心配しなくていい」
アズの機嫌を損ねている要因が主に自分の女性関係だと理解している久重にとって「支払っておく」との文句は「君は命を大切に出来ないの?」という死刑宣告に等しい。
一頻り久重にプレッシャーを掛けたアズはちゃぶ台を挟んで座っているソラへと視線を向ける。
「【ただ聖書のみ】(ソラ・スクリプトゥーラ)、か」
ボソリと名を呼ばれて、縮こまっているソラが更に身を縮こまらせた。
「久重の話を要約すると君は狙われている。狙われるに足る何かを持っている。そして、殺された。殺されたにも関わらず生き返った。あるいは死亡できなかった。更には【僕の】久重に会いに来てしまった」
「いつ、オレがテメェのもんになったんだよ!?」
「何か問題でもあるのかな。久重」
思わず突っ込んだ久重にアズの眼光が飛んだ。
怖気すら走らない、見られれば諦観しか持てなくなる視線に晒されて、久重が脂汗全開で調理に戻る。
「その容姿からしてゲルマン系かな。アングロサクソンの中でも血統書付きなレベルだ。所作に美しさがある。上流階級だね。その歳で日本語がペラペラって事は頭は優秀だ。男の部屋で羞恥心丸出しだからまだ男性経験は無しかな。キョロキョロ視線が動くのはこういう室内が珍しいから。つまり、少なくともこの国でもそれなりの場所に住んでいたわけだ。眉間の筋肉の動きからして近頃は怒ってばかりいたんじゃない? 服装のデフォルトが某有名ブランドのワンピースだけど、それは近頃発売した奴だ。その状態からして買ってきたばかりだろう。キャッシュの持ち合わせが外国人に多くあるとは考えにくいから支払いはカードだ。更に言うと君はどうしてそんな事が僕に解るのだと不安に思ってる。ただの推理にしか過ぎないけれど、当たってる?」
「それくらいにしておけ」
ペチンと久重がアズの頭を叩く。
「君が知りたい事を教えてあげただけだよ。久重」
「人に知られたくない事まで晒すのは卑怯者のやる事だ」
「それじゃあ、一番重要な事だけ教えておこう」
「なに?」
料理がちゃぶ台に置かれる。
カレーだった。
「久重。この子は間違いなく君に思慕の情を抱いているよ」
「ば?!」
「し・・・ぼ・・・?」
ソラが首を傾げ、久重が顔を紅くした。
「・・・・・・・・~~~~~~~?!!」
意味に気付いたソラも顔を急激に紅くした。
「ついでに言うと猫も被ってる。ちょっと考えられないくらいの優良物件だけど、手を出したりしないように」
「テメェはどうしてそう場をカオスにぶち込む天才なんだ!?」
「ふふ、こんな事言ってるけど、内心少しだけ嬉しいのさ」
「え?」
「そこ!? 無駄話をしない!!」
そ知らぬ顔でカレーを突き始めるアズにそれ以上何も言えなくなって久重が自分の分をちゃぶ台において座る。
「こいつの話は真に受けなくていい。とりあえず飯にしよう」
「頂きます」
久重が手を合わせる。
「いただきます」
ソラもそれに習った。
静かに始まる食卓にカチャカチャと音が響く。
「それで久重。これからどうするつもりなんだい?」
「Cコースってのはどれくらい掛かるのか聞きたい」
アズと久重のやり取りにソラが疑問符を浮かべる。
「ざっと四千万」
「!?」
ソラがアズの語る金額にビクリと体を震わせる。
「・・・・・・付けておけ」
「君は優し過ぎるよ。久重」
アズが溜息を吐いた。
「あ、あの、何を話して・・・」
「良かったね。ソラ・スクリプトゥーラ嬢。君の身の安全の値段を久重が僕に払ってくれるってさ」
ソラが目を見張る。
「な、何でそんな?!」
「それは君に死なれたのがよっぽど堪えたからじゃないかな」
久重がアズを睨み付ける。
口元を押さえてアズが話題を変える。
「ちなみにこのコースはジオネットからの完全遮断と戸籍の抹消その他の個人特定情報の完全秘匿を目的にして僕が開発した代物で、捜査機関や公安が全力でも追跡は不可能。要するに君は目視以外の情報を完全に失う事になる。その上で生活していく為の環境の全てを整えるからお値段的にも馬鹿高い」
ソラが久重を見上げる。
久重は頭を掻いて、目を逸らした。
「あー、袖振り合うのも他生の縁ってな」
「君が気に入ったから助けたいらしいね」
翻訳したアズの言葉に信じられないといった面持ちでソラが首を振る。
「そ、そんなのダメ!! 私、他の人にこれ以上迷惑なんて掛けられない!!」
思わず立ち上がったソラの手からスプーンが零れる。
そのまま立ち去ろうとするソラの手が大きな手で掴まれる。
「オレは君を助けられなかった。その代償だと思ってくれればいい」
「そんな?! だって、全部私の勘違いで!! 私は彼方を殺そうとして!! それで勝手に巻き込んで!! なのに!?」
手を振り払おうとしたソラの肩を掴んで久重が視線を合わせる。
「オレは、君を助けたい。だから、助ける。これは君の為じゃない。オレの為なんだ」
「オレの為?」
「ああ、オレのただの我侭だ。君を救えなかったオレが、自分が救われたいから願い出ただけの話だ。君がもしもそれを本当に嫌だと思うなら断ってくれていい。でも、その場合はオレがオレの責任でオレの力でオレの都合で君を勝手に助ける」
「私、そんな、そんな価値なんて!!」
うろたえるソラにアズがお茶を啜りながらニヤリとした。
「ご愁傷様。こうなったらこの年中金欠男はテコでも動かないよ。犬に噛まれたとでも思って諦めるといい」
「私・・・私・・・」
ポロポロと零れ始める雫が頬を濡らした。
「まずは夕食を済ませてからこれからの事を話そう」
久重の優しい声にアズがやれやれと肩を竦める。
「まるで【できちゃったの】とか言われた男のいいそうな台詞だ」
「――――」
ソラが涙を零しながら紅くなった顔を伏せた。
*
すっかりと夜が更けた八畳間からアズが立ち上がる。
「とりあえず、この子の身柄は此処に置いておくよ。今説明したように必要な偽装と戸籍、書類は三日で何とかする。ちなみに此処に居候する【聖空】(ひじり・そら)のストーリーはこうだ。君はロンドン留学の経験がある久重がお世話になった日系の大学教授の娘で夏休みを利用して遊びに来ていて、日本での保護者である久重の自宅にホームステイしている」
「ああ、解った」
「Cコースは最低でも二か月以上準備が必要になる。準備が出来るまでの仮の身分だけど気を付けるように」
久重が頷く。
アズがソラへと視線を向ける。
その視線は今までの遊び半分のものではなかった。
「ソラ・スクリプトゥーラ嬢。僕は君の過去に付いて一切の調査を行わない。君が何処の出身で、どうして追われていて、何を秘めているのか。依頼を受けた以上、追求する事は無い。ただ、それは久重の身に何も無かった場合の話だ。僕は君を信じていないし、君の何かしらの事情も斟酌しない。僕の債権者である久重が死ぬという事は君と久重に関する全ての負債を償還できないという事だからだ。もしも、久重に何かあった場合、君がそれでものうのうと生きてる場合、僕は君が負債を償還し切るまであらゆる方法を使って稼がせる。君が『潜伏先』として使ったあのクラブで行われていたような事を含めてだ」
アズの念押しにソラが真っ直ぐな瞳で頷き返す。
「後、僕の久重にちょっかいを出したら僕も本気を出すからそのつもりで」
「だから、テメェのもんじゃないって」
頭痛を抑えるように久重が片手で頭を押さえる。
「それじゃあ、また明日」
ドアが閉まる。
まるで嵐の後。
静けさが戻ってきた部屋に互いの呼吸音だけを認めて、久重がオロオロし始める。
「そ、そろそろ寝るか?」
「ひゃ、ひゃい!!?」
完全に意識してしまっているソラが頷く。
まるで沈黙を嫌うかのように久重はパパッと布団を敷き終えた。
「悪いがオレの布団しかないんだ。これでいいか?」
「は、はい。で、でも、その、ひさ・・・しげ・・・さんは?」
ソラの問いに久重が首を振る。
「オレは別に何処でも寝られるからな。布団は使っていい」
「で、でも!?」
「それと口調も・・・これからしばらくは一緒に暮らす事になるんだ。遠慮とかしなくていい」
「で、でも!!」
「でも、は無しだ。オレも君の事をソラって呼ぶ。だから、君も最初みたいにオレの事は呼び捨てでいい」
ソラはしばらく迷っていたがコクリと頷いて、躊躇いがちに名前を呼ぶ。
「ひさ・・・しげ・・・これでいい?」
「ああ、十分だ。ソラ」
「うん」
ソラの天真爛漫を絵に描いたような笑みに久重も思わず笑みが零れた。
明かりが消える。
もぞもぞと布団の中で動いていたソラが壁に寄りかかって瞳を閉じた久重の方を向く。
「ひさしげ」
「何だ?」
瞳を閉じたまま、久重が答える。
「ひさしげは優しいわ」
「そんな事ない」
「嘘。だって、普通はこんな事してくれる人なんていないもの」
「言っただろ? オレの為だ」
「人を助けるのが?」
「ああ、そうだ」
「日本人ってもっと慎ましい人達だって思ってた」
「難しい単語知ってるな。慎ましい・・・か」
「私の日本語。何処か変?」
「いや、今の日本に慎ましいなんて使う奴はいないと思ってな」
「そうなの?」
「オレもアズもソラよりは慎ましくない」
「そ、そんな事・・・」
照れた声のソラがもぞもぞと布団を口元まで上げる。
「いや? 一応、慎ましくないところもあるか。勘違いで戦ったし」
「あ、あれは!? ちょっと、その・・・ひさしげが強くて・・・絶対追跡者だって思って・・・」
「オレ、強いか?」
「普通の人は銃を持ってるプロを倒せたりしないわ」
「武術ってのは肉体労働じゃなくて思考作業だってのがオレの持論なんだがな」
「どうして?」
「自分の体なんだから自分の思うように動かせて当然。自律神経や副交感神経だってある程度は恣意的に操作できるのが普通だ」
「それって普通?」
「銃だって射線上にいなければどうって事ない。人間が引き金を引く時間は狙いが定まった時こそ早いが、狙いも定まってない時は躊躇するのが大半だ。ちなみに真正面の至近距離でもなければ狙いも定まってない銃で負傷するなんて有り得ない。そもそも拳銃じゃ致命傷を負わすには一発二発じゃ殺傷能力が足りない。頭や心臓を狙い撃たれない限り」
「ひさしげが玄人なのは解った・・・」
「難しい漢字知ってるな」
「ひさしげって危ない仕事をしてる人?」
「オレは大学院生だ。何でも屋は借金返済の為の副業だ」
「ダイガクインセイ?」
「簡単に言うとGraduate Student」
「博士になりたい?」
「オレの場合は色々と事情があってな」
「事情・・・」
「そろそろ寝ないと明日起きられないぞ。今日はここまでにして寝た方がいい」
「うん。オヤスミナサイ。ひさしげ」
誰かにそんな言葉を掛けられて眠るのはいつぶりだろうかと、そんな感慨を覚えながら久重の意識は落ちていった。
師は語る。
その青年が必要だと。
友は語る。
その青年の在り方を。
白き襲撃者の瞳が過去を捉える時、争そいの火蓋は落とされる。
第三話「証左無き仕掛け」
その男、お人よしにつき。
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第三話 証左無き仕掛け
第三話 証左無き仕掛け
【明日を夢見て集え!!】
海外留学のポスターが張り出される構内。
ストローを咥えてミルクティーを吸い上げている金髪少女ソラは外国人が多数往来する廊下を見つめながら目立たないようラウンジの端で約束の時間を待っていた。
(ひさしげ。まだかな?)
今はソラの保護者と化している久重が学業を休学する旨をソラに持ちかけたが、ソラはそれを断固拒否し、自分の為に何かを犠牲にしないで欲しいと久重に懇願したからだった。
(・・・・・・・・・)
朝食後、一人で部屋に置いておく事に不安を感じた久重が多数の留学生を受け入れている自分の大学ならば目立たないはずだとソラを連れ出していた。
「ぅ~~~~~」
久重の通う大学構内の風景にウズウズと体が好奇心に負けそうなソラが立ち上がろうとした時だった。
「これはこれは。学生の妹さんかな?」
「!?」
ビクリと体を震わせたソラが振り向くと大柄で小麦色の肌をした男が金髪を掻き揚げたところだった。
「・・・・・・・・・」
警戒心マックスとなったソラが視線を険しくする。
男は四十代で大学の講師をしているのか白衣を着込んでいた。
「子猫ちゃん。君の飼い主は誰だい?」
嫌味の無い口調で爽やかに聞いてくる無礼者にソラが口を開く。
「彼方、ステーツの人?」
ノリで看破したソラに男が頷く。
「如何にも。そういう君はクイーンズの人だ」
僅かに日本語に残る訛りを感じ取られたのかとソラが口を引き結んだ。
「警戒させちゃったかな?」
「初対面の年下を子猫ちゃん呼ばわりするなんて命知らずだわ」
「俺の母国ならな。此処はそういうのに寛容な国さ」
ソラが男の瞳に気圧されて、反射的に後ろに下っていた。
男の持つ雰囲気。
覇気のようなものがソラにジリジリと焦りを生む。
「彼方、ライオンみたい」
「俺がライオン? はは、冗談は止してくれ。これでも大学一の平和主義者で通ってるんだ」
獰猛な獣に睨まれたような圧迫感を感じてソラがラウンジから逃げ出そうとした時だった。
ポフッとソラの頭が何かに当たる。
「どうかしたか。ソラ?」
「ひさしげ!!」
思わぬ救い主の登場にソラが猫よろしく久重の背中に隠れた。
「ひさしげ。そこにライオンがいるわ」
久重がソラの指差した先にいる男を見つけ、頭を掻いた。
「ん~~確かにライオンって言えばライオンか? 全体的な輪郭が・・・」
「お前のお友達か久重!? それはそれはとりあえず赤飯でも奢るか!?」
男が大げさに喜びHAHAHAと笑う。
「ひさしげ。このライオンと知り合いなの?!」
驚くソラに久重が首を振る。
「知り合いになりたくない知り合いのナンバーツー。簡単に言うとオレの大学での上司だ」
「ふぇ?!」
ソラが素っ頓狂な声を上げる。
「そういう事だ。子猫ちゃん」
男が豪快に笑った。
「冶金学の博士。スティーブ・ライオネル・ジュニアとは俺の事だZE♪」
無駄なポーズを取りながら変人はソラにキラリ☆と白い歯を見せた。
*
変態チックな動きでポーズを決めたスティーブの研究室をソラは久重の背中に隠れながらも訪ねざるを得なくなっていた。
「それで久重。今回のプロジェクトから外れたいってのはどういう事なんだ?」
「やる事が出来た。それだけだ」
ソファーに座りながら、出されたコーヒーにミルクを大量に投下してフーフー冷ましていたソラは二人の会話に耳を澄ます。
「いつもの借金返済か? だが、利息くらいは返してるんじゃなかったか?」
「ざっと四千万程追加になった」
「ほう? 使い道は?」
ソラがコーヒーを掻き回すスプーンを止める。
「アンタに教える事じゃない」
スティーブが「ふむ」とコーヒーを啜る。
「大学院を休学するわけじゃないってのはいい。論文はもう大学時代に出してなかったやつを三つ提出済みで審査を待ってるだけだから問題も無い。だが、俺の研究にはお前が必要だ」
「オレは別にアンタの研究室から出たわけじゃないし、あくまで研究への参加は自由って事になってたはずだ」
「そんな事は解ってるさ」
「なら、何が問題だ?」
「解析結果が出た。ほら、これだ」
手渡された紙を見つめて久重が溜息を吐く。
「お前がこのプロジェクトから抜ければ、これからの研究に十年は掛かる。研究が此処で減速すれば、プロジェクトの規模は縮小されるだろう」
「だが、アンタと研究室の連中だけでも出来ないわけじゃない」
「研究が完成すれば各方面からの資金提供と特許の使用料も入ってくる。特許の二つ三つに関してはお前の名前で登録しても構わない」
「随分と豪気だな?」
「それがお前を引き止めるに足る材料なら、その程度の利権ぐらい手放すさ」
それからの沈黙が長かったのか短かったのか。
ソラが久重の顔を見上げた時にはもう答えが返されていた。
「悪いが降りる。オレは別に金持ちになりたいわけじゃない」
「世の中にはそんな台詞を吐けない人間が五万といる」
「アンタがオレを特別視してくれるのは光栄だと思ってる。今までの恩もある。でも、それはオレの人生じゃない。アンタの人生だ。オレの人生じゃなくてアンタの人生を賭けるべき問題だ」
「天才と秀才の違いが解らないわけじゃあるまい?」
「スポーツの才能があったからってオリンピックに行くかどうかはそいつ次第なはずだ」
「この我侭小僧め」
スティーブが仕方なさそうに笑う。
「ああ、アンタに扱かれて育ったからな」
「なら、行け。お前の進む道がオレの研究より凄かったら、その時は祝福してやる」
その言葉に頭を下げて久重はソラを伴い研究室を後にした。
大学の廊下を歩きながら、ソラが久重の袖をクイクイと引っ張る。
「ねぇ、ひさしげ」
「何だ?」
「断って良かったの?」
「ソラが気にする事じゃない」
「気にするわ。気にならないわけない・・・だって、協力してれば借金返せたかもしれない。私の事なんか放って置いてもだい―――」
それ以上ソラに久重は言わせなかった。
唇の上に人差し指がそっと乗せられる。
「今現在、オレの人生を賭けるべき問題は此処にある」
コツコツと人差し指がソラの額を突いた。
「ひ、ひさしげ・・・」
照れくさそうにソラが視線を逸らす。
「とりあえず、これからアズと合流する」
「うん」
二人の足音は講義の時間となった誰もいない廊下に重なり合った。
*
久重とソラが大学の正門を出るとクーペが一台止まっていた。
運転席からヒラヒラと手を振るアズが二人の様子を見てニヤリとする。
「おい。何だその笑み?」
久重が助手席にソラが後部座席に乗り込むとクーペが発進した。
「いや、仲睦まじいとは良き事かな、とね」
バックミラーに移ったソラのそわそわした様子にアズが目を光らせる。
「で、そっちの首尾は?」
「上々だよ。色々と生活に関するマニュアルも組んでおいたから。ソラ・スクリプトゥーラ嬢。君の足元にあるバッグを開けてくれないかな?」
「は、はい」
ゴソゴソと足元のバッグを開けたソラが?マークを頭に浮かべた。
「出して着てみてくれるかな」
アズに言われるままソラがバッグから取り出した灰色の外套を着込んだ。
袖が余り手先が隠れるくらいの大きさにソラが戸惑う。
「あ・・・」
着込まれた外套の表面に自動で不規則な文様が浮かんだ。
「夏にそれは無いだろ?!」
突っ込みを入れた久重にソラが驚いたように首を振った。
「ひさしげ。これ凄く涼しいわ」
「涼しい? それが?」
「ふふん。久重。君は僕を侮り過ぎだよ」
「何なんだ。あのコート?」
「都市迷彩仕様の軍事品」
「ぐ?! おい。何か物凄い犯罪のニオイが・・・」
アズがダッシュボードから書類を取り出すよう久重に促した。
数枚の紙の束を取り出した久重がTOP SECRETと書かれた一枚目に顔を引き攣らせる。
更にはその紙に描かれている何処かの米印な国の軍事機関のマークに汗を浮かべた。
「・・・・・・おい」
「ちなみに正規品じゃないから大丈夫」
アズが物品の入手方法を得意げに話し出す。
「いや、僕に逃がしてくれって頼んできた米軍帰属の元特殊部隊隊員がいてね。金が無いって言うから何か金になるもん持ってないのかと聞いたらソレをね。こうポンと」
「で、ただ夏場に着てて涼しいコートなんてのがどうして軍事機密なのか聞いていいか?」
「簡単さ。都市部で着てたらまず見つからない」
「は?」
「ひさしげ!!!」
「うお?!」
響き渡った大音量に久重が驚く。
「ソ、ソラ。どうかしたか!?」
「さっきから話しかけてるのにどうして無視するの?!」
機嫌を損ねた様子でソラがコートを脱いだ。
「いや、話しかけてた・・・か?」
「話しかけてたわ。ちょっと声小さかったかもしれないけど、なのに・・・」
「わ、悪い。気付かなかった」
「そんなにその人とお話するのが好きなんだ。ひさしげ」
何故か半眼で睨まれ、久重が慌てる。
そんな久重とソラの様子にクツクツとアズが笑った。
「効果あるだろう?」
「な・・・そのコートの?」
「簡単に言うと簡易のパワードスーツみたいなものさ。内部温度の調節と防弾性、耐火性、対電性。それはデフォで付いてるおまけ機能。一番の売りは臨床心理学の研究で出来た人の意識に視覚で干渉する心理的迷彩ってのを真面目に付け加えたところかな。更には最近になって実用化した光学迷彩も装備。超薄型のバッテリーと表面に仕込まれた太陽光と熱から発電するシステムで充電も経済的」
楽しげに話すアズの言葉にソラも久重もマジマジと外套を見つめた。
「それを着て全迷彩機能を使う限り、監視カメラにも違和感程度しか映らない『怪奇、真夏にコートを着る少女』とかになれるって寸法さ」
アズの得意げな顔に久重がげっそりした。
「おい。得意げになってるとこ悪いがそのコートのまま行き倒れたらどうする?」
「ずっとコートが壊れるまでそのままかもね」
微笑むアズが良い事を思いついたとばかりに手を打つ。
「そんなに心配ならコートを着ている間は手でも繋いだら?」
「な!?」
「ふぇ?!」
二人同時に動揺する様子にアズがジットリとした視線で久重を見る。
「ロリコン」
「ぐふ?!」
思わぬダメージに久重が呻いた。
それに構わずアズが続ける。
「ちなみに心理的な迷彩って言っても大した能力じゃない。そのコートの文様を見た人間が次ぎに見たモノを強く印象付けられ、コートを着た人間を見たって記憶が薄れるとかそういう話だったはずだから。記憶自体はあるけど大した記憶として残らないって言うのが正しい効果かな」
「だが、ずっと透明人間になってるわけにはいかないだろう? 監視カメラだって都市中にある」
何とか心理的ダメージから回復した久重が訊く。
「光学迷彩機能を使わない場合に監視カメラなんかに映ると隠しようはない。けど、都市中の監視カメラに関してはジオネット経由で細工し始めたから、こちらが指定した、あるいは君達が指定した区域での活動なら特定の時間帯は問題無く外出OKだよ」
「凄い・・・」
アズの説明に正直に感心するソラがアズの横顔をマジマジと見つめた。
「で、今日はこれだけか?」
「君が昨日僕に借金した額を言ってみてくれるかな久重」
「とっても一杯ですはい」
久重が額に汗を浮かべて笑った。
「君にプライベートな時間なんてあると思ってる? きっちりと体で払ってもらう予定立てておいたから。ちなみに借金の完済までざっと単純計算で五十年。これからも末永く君には働いてもらうよ」
「お、お手柔らかに」
ソラが二人のやり取りに暗い顔をする。
自分のせいで久重にどれだけの借金を背負わせてしまったのか。
そう考えるだけでソラの心は沈んだ。
「それじゃあ、まずは猫探しでもしてもらおうかな。君も手伝うかい?」
「え・・・」
ソラが驚いた顔をする。
「君の借金は確かに久重が肩代わりした。けれど、君が協力するなら二人分の働きを差し引きして構わない」
「おい。アズ」
「僕はソラ嬢に訊いてるんだ。久重」
アズが久重を訴えを退ける。
「どうする?」
「やらせてください」
「聞こえない。もっと大きな声で」
「やらせてください!!!」
久重がソラの出した出会った時以来の声に驚く。
「決まりだよ。久重」
「いいのか。ソラ?」
久重の問いにソラが決意を瞳に秘めて頷いた。
「私、久重に助けられてばかりだった。だから、今度は私が久重に何かしたいの」
「・・・解った。これからよろしく頼む。ソラ」
「ッ、うん!!」
ソラの溢れる笑顔に久重は思う。
それは救えなかった後悔より、強く久重の胸に響く思いだった。
この少女にずっとこれからもこういう顔をしていてもらいたいと。
(これからが大変だよ。久重・・・・・・)
アズが二人の様子にひっそりと目を細めた。
*
安アパートの一角。
外字との表札が出ている部屋の扉を前にして了子は溜息を吐いていた。
「いないのかぁ。やっと見つけたのに」
己の伝手と情報網を駆使して、ビル火災現場で確保された重要参考人である人間の名前と住所を突き止めた了子だったが、取材を申し込もうと意気込んでその男の住むアパートに突撃を掛けた結果は空振りだった。
生憎の留守。
居留守ではないかとしつこく扉を叩いたものの誰も出てこず。
アパートの管理人に話しを聞こうとしたがそちらも留守だった。
トボトボと萎れた様子で了子がその場を後にする。
「外字久重。二十三歳。來邦(らいほう)大学大学院一年生。大学での専攻は位置情報利益学。近頃流行りのジオプロフィットのスペシャリスト・・・か」
了子が調べ上げた経歴に「う~~~ん」と唸る。
経歴は平凡なものばかりだった。
別に何かに突出しているわけではない。
それ以前に何か犯罪に巻き込まれるような経歴でもない。
それなのにビル火災の現場にいた。
一部の人身売買被害者からは自分達を逃がしてくれたとの報告も警察にはある。
警察の取調べには淡々と応じていたらしいが、すぐに釈放された。
(経歴と行動がチグハグ過ぎる)
了子は自分が見逃しているモノの大きさと調査不足を痛感した。
(本人に当たれないなら、友人や家族に当たるのが妥当だけど、この人『黒い隕石』騒動で家族失くしてるみたいなのよね)
了子がやっと手に入れた学生の個人情報には家族欄の場所があった。
殆どが黒塗りで読めないものの、家族欄だけは基本的に開示されていた。
その場所には『黒い隕石』被災孤児との名称があった。
(友人から探るにしても友人関係の把握がまだ出来てない。ああああああ、もう!! 後出来る事が何かないかな!?)
歯痒さに悶絶して、了子はガックリと項垂れた。
「一回帰って風呂でも入ろう」
トボトボと肩を落として帰ろうとした時だった。
ポチコーンとの音。
グルリと首が九十度は曲がったような振り返り方で了子がその光景を神に感謝した。
外字の表札が出ている扉の前、一人の青年がインターホンを連続で鳴らして諦めたのか帰ろうとしていた。
ゴキブリも驚く脅威の瞬発力を発揮した了子の足がハイヒールで百メートル十二秒を叩き出す。
「すいませ~~~ん」
「はい?」
声に振り返った青年に人当たりの良い外面で了子が近づいていく。
「外字久重さんのお知り合いの方ですか~~?」
「・・・アンタ誰?」
「あ、私はこういう者です」
ササッと懐から名刺を取り出した了子が青年にそれを手渡す。
「へぇ、ジャーナリスト」
「はい」
「・・・この間の件調べてるの?」
「ビル火災の現場で外字さんを見たとの話がありまして、それでお話を伺わせて頂こうかと思ったのですが、どうやらご在宅ではなかったらしく、諦めかけていたところに彼方がいらしたので」
「つまり、僕に久重の事が訊きたいんだ?」
「はい。それはもう是非に!! もし、これからよろしければ喫茶店なんて如何ですか?」
「悪いけど行き着けの店以外は行かない事にしてるもんだから」
「あ、そうなんですか。それなら乗せていきますよ?」
「言っとくけど、高いよ?」
「いえ、気になさらないで下さい」
「そう?」
「ええ」
近くの駐車場からセダンを回した了子が内心でガッツポーズ出来たのは外字久重の親友永橋風御の行き着けの店の駐車場に行くまでだった。
聳えるホテルの最上階。
『これはこれは永橋様』との声に魂が抜けた了子はその日、自分の給料の半分を放棄するかネタを追い求めるかの二択を迫られた。
無論、ネタを追う者としての矜持がどちらを選んだかは言うまでもない話だった。
*
魂の抜けた了子が黙々とモグモグと行き着けの『喫茶店』自慢の料理を涙半分自棄で頬張る。
「凄いねジャーナリストさん。こんなとこで涙流すくらい美味しいんだ?」
「い、いえ、あんまりの展開にこう涙が。うぅ・・・喫茶店じゃない」
「何か言った? ちなみに此処は僕にとって喫茶店みたいなもんだけど?」
「な、何でもありません!?」
「で、僕に久重の何を訊きたいわけ?」
ゴクリと水でしっかり料理を平らげた了子が本題に入る。
「そのお友達の外字さんはどうしてあんなビル火災現場に居たんだと思われますか?」
「仕事でしょ」
「仕事?」
「あいつ何でも屋だから」
「何でも屋?」
「ま、何でも屋って言っても仕事そのものはあいつが取ってるわけじゃないけど」
「それはどういう事でしょうか?」
「つまり、あいつは特定の人間から仕事を下請けしてるわけ。内容は言わずもがな」
「・・・では、あそこで外字さんは仕事をしていたと?」
「そうなんじゃない?」
「そう、ですか。では、その今度は外字さんの人柄についてお聞きしてもいいですか?」
「人柄? あいつの人柄なんて一つでしょ」
「一つとは?」
「お人よし」
「お人よし?」
「昔っからあいつは何かと厄介事に首を突っ込んで貧乏籤引いてたし」
「外字さんとは昔からのお付き合いなんですか?」
「小学生くらいからの付き合いだけど」
「外字さんは昔から人が良かったんですか?」
「根っからの善人。しかも偽善て付く方の」
「え・・・その、お人よしなのでは?」
「だから、お人よしで偽善者。更には貧乏人。そんなんだからかな。僕といつまでも縁が切れないのは・・・」
何処か遠い目で言う風御に了子は目を細めた。
嘘を言っている様子ではなかった。
仕事柄、人を見る目と嘘を吐いているかどうかを見分けられた。
了子にとって自然と身に付いたスキルであり、そのスキルは風御の発言が嘘ではないと言っていた。
「その、貧乏人というのは・・・?」
「文字通り。金が無い。いつも金が無い。そういう事」
「外字さんはお仕事なんかはされてなかったんですか? アルバイトでもいいですけど」
「言ったでしょ。あいつの仕事は何でも屋。それで食ってる。全うな仕事も出来ないわけじゃないだろうけど、長続きしないだろうね」
「長続きしない?」
風御が皮肉げに頷く。
「世の中ってさ。妥協とか必要悪とか、悪い事やそれに近い事でも強要されたりするじゃない? 理不尽な事やどうしようもないと目を背けられるような事とかもある。あいつはそういうのが我慢できないタイプだね。例えば、並ばない客。例えば、不当な借金の取立て。例えば、見知らぬ死に掛けのホームレス。例えば、ヤクザに殺されそうなサラリーマン。例えば、花壇を荒らす高校生。例えば、落とした財布を盗む馬鹿。例えば、猫を轢き殺したチャラ男。例えば、男に食い物にされてる女。例えば、年寄りから騙し取る詐欺師。例えば、悪事を働く国家権力。例えば、売り物にされた移民の無戸籍児童」
「―――!?」
了子が息を呑む。
風御が常のヘラヘラした顔のまま瞳だけは真っ直ぐに了子を見つめる。
「そういうのが許せないから、あいつに他の仕事は無理でしょ。報われるわけでもない。理不尽や悪が消えるわけでもない。それでも許せないから拳を握れるだけの自分で在り続ける。タフでなければ生きられない。優しくなければ生きる価値がない・・・なんてのはあいつの為にあるような言葉だよ」
「褒めてるんですか?」
「いや、貶してるけど」
「そうは聞こえません」
「偽善者って言ったでしょ? あいつはいつだって自分がそういう人間で在りたいから戦う人間だ。そこに自分の感情は差し挟むけど、あいつの芯の部分は他人ではなく自分の為に戦ってる」
「誰かの為じゃなくて自分の為にそういう事をしていると?」
「そ。だから、あいつは聖人君子や正義漢って奴とは根本が違う」
「でも、それは・・・」
「ま、だからこそ付き合いは長いんだろうけど」
「え?」
「考えてもみなよ。本気で誰かの為だけに何かをするなんて傲慢じゃない? 僕は聖人君子的に正義や愛なんかを信じて戦うヒーローに助けられるなんて御免被る。誰の為でもなく自分の為にお前を助けるなんて『綺麗事』を真顔で言える馬鹿にならちょっとは助けられたいと思うけど」
「・・・・・・・・・」
風御がワインを空にしたグラス置いて立ち上がる。
「これが僕が知る外字久重という男だ。少しは参考になったジャーナリストさん?」
「はい・・・」
「そ。それは何より。じゃ、僕は帰るから。あ、送ってくれなくても結構。此処のマネージャーにタクシー呼ばせてるし」
「あの!?」
スタスタと歩いていく風御の背中に思わず了子が声を掛けていた。
「ん?」
「何で、彼の事を教えてくれたんですか?」
了子は直感的に風御が外字久重の側にいる人間だと感じていた。
どんなに貶しても外字を語る風御は愉快げで楽しげだった。
親友と呼ぶからには外字久重を擁護する、あるいは何も話すべきではないと判断してもおかしくは無い。
「ジャーナリストさん。あなたがどれだけ調べても解らない事が世の中には沢山ある。そして、その解らないカテゴリーの中にあの貧乏人はいる」
「私は・・・ただ・・・」
真実が知りたい。
そんな言葉を了子は呑み込んだ。
「手を引くなら今の内だ。世界なんてのは謎に満ちていて不可解で理解できないまま過ごした方がいい。下手に理解して人生台無しにはしたくないでしょ?」
もう言う事は無いと支払いをカードで済ませた風御が店を出て行く。
「それでも私は・・・」
一人残された了子はポツリと呟いた。
*
闇の中に白いスーツの青年が立っていた。
その後ろには多くの紅い光が闇に浮かんでいる。
光の源は顔を完全にマスクで覆った人間の群れだった。
マスクの目元はまるで目隠しをするように硬質な物体で覆われていた。
複眼にも見えるフラクタルな眼球部分に小さな紅い明かりが点いている。
「では、目標を再確認します」
闇の中、真上に巨大なビジョンが浮かび上がる。
まったくテレビやAV機器やコードなんてものは見当たらない。
虚空に映し出されたビジョンの中には少女が一人笑っていた。
「これが我々の殲滅するべき目標Aです。最後に反応があった地点からサテライトを使って探査中ですが、微弱な反応があったと報告がありました。数分で場所が特定できるでしょう」
ビジョン内の画像が差し替えられる。
次に出てきたのは白衣の人の手に乗った小さな黒いボールだった。
「これが我々の殲滅目標Bです。現在は殲滅目標Aとの融合を果たしているはずですが、目標A死亡後にどうなるか未知数な為、ここで見せておきます。尚、これは初期状態のものであり、この状態で現れるとは限りません」
ビジョンが更に刺し替えられる。
最後に出てきた画像は一番最初に映されていた金髪の少女が白い部屋で黒いボールを掴んでいる画像だった。
「では、これから目標の性能をお見せします。これは目標が実験で出した値ですが、あくまで目安としてください」
画像が動き出す。
その動画の中で少女以外の声が記録の為か実験の詳細を述べていく。
「1200時。これより【情報熱機関(インフォメーション・サーマル・エンジン)】の起動を開始する」
白い部屋の各場所で小さな炎が立ち上り始める。
「被験者名ソラ・スクリプトゥーラ。実験名【ITEND】集積制御装置【DEVIL1】の人制御による全力稼動実験」
炎が少女を取り囲み始めるが、少女はまったく動じずに瞳を閉じて黒いボールを持ったままだった。
「尚、本実験において博士によるNDの仕様変更が行われている。現在稼動しているのは熱量閉鎖系の作業構築タイプではなく、熱量開放系の放出特化タイプである」
炎が正に白い部屋を完全に埋め尽くし業火とばかりに少女を包んだ。
「設定焦点温度は放射線発生の危険を考慮して一万度以下とする」
炎が緩やかに少女を取り巻いた。
にも拘らず、少女の髪は一本たりとも焼け焦げていない。
「破壊対象は全方位の十四層耐火防壁を使用」
少女の周囲の壁から炎が完全に消え、少女を取り巻いた炎が意思を持っているかのように蠢き出す。
「使用プログラム。NO.3“fire bag”今実験用の特殊プログラムである。このプログラムは作業構築タイプNDを複数繊維状にして一点に貼り付け対象へ瞬間的な熱量の伝達を行い仕様変更されたNDを通して放出、温度を急激に上げるものである」
少女を取り囲む全ての壁が中央を瞬時に発光させ、融解した。
「このプログラムは通常では不可能な溶接作業を行える可能性があり、本実験後最終調整を経てオリジナルロットに登録される予定となっている」
「え・・・・・何?」
少女が不意に声を上げた。
「どうかしたか?」
「どうして?! 熱量が急激に増大して!?」
動画の中で少女の周りの炎が膨れ上がる。
「ッ、実験を中止!! 全熱量を緊急に放出!!」
「だ、ダメ?! 【D1】の制御が、あぅ?!」
少女が持っていた黒いボールを落とした瞬間だった。
動画が全て白く染まり途切れた。
「では、予習も済んだところで出かけるとしましょうか。どうやら目標の位置も特定できたようです」
白いスーツの青年ターポーリンがマスク達に号令を掛ける。
「全隊、行動開始。目標を完全に殲滅せよ」
マスク達がターポーリンの言葉に闇の中走り出していく。
やがて、足音が途絶えるとターポーリンが溜息を吐いて上を見上げる。
ビジョンが再び現れる。
ビジョンの中には紅い大地と白い建物が映し出されている。
それが、瞬時に、中心から融解した。
融解した建物を中心にグズグズに大地が蕩けていく。
やがて、巨大なクレーターの中央。
その解けた大地の中心からせり上がるように黒いドーム型の物体が現れる。
「・・・・・・博士。彼方はアレも【Dシリーズ】も造るべきではなかった」
ターポーリンが顔を伏せるとビジョンが消えた。
「さて、今度こそ死んでもらいましょうか。ソラ」
闇の中を歩き去る男の背中は何故か悲しみを湛えていた。
啼き、震えて、嗤え。
嘗ての仲間を白き魔人が追い詰める。
その声は一体、誰の声か。
叫びは一体、誰の耳に届く。
戦いの先に彼らは懐かしき声を聞く。
第四話「グレムリン」
埋み火を焚いた者は誰か。
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第四話 グレムリン
第四話 グレムリン
「にゃーにゃー」
細く鈴のような声が可愛らしく響く。
「に゛ゃーに゛ゃー」
野太い声がげんなりした様子で響く。
「ひさしげ。そんな声だと逃げちゃう・・・」
「勘弁してくださいマジで」
そろそろ夜も更けてきた時間帯。
都市の路地裏で迷い猫探しという地道過ぎる作業も終盤に差し掛かっていた。
鳴き真似作戦と称して近寄ってきた猫を片っ端から照合するという作業に久重の心は折れる寸前。
路地裏を覗く輩から悉く哀れみの視線【お大事に・・・・】を受けるのは苦行以外の何物でもない。
久重はげっそりとやつれた顔で相棒の少女ソラを見る。
路地裏を覗く輩から悉く微笑ましいものを見てしまった笑み【が、頑張って!!】を受けて闘志を燃やすソラが近寄ってきた猫を怒涛の如く掻き分けていく。
「あ、この子みたい」
「ビンゴ?!」
久重が懐から写真を取り出す。
夜のピンク色のネオンに照らされた写真の猫とソラが持っている三毛猫は正しく瓜二つ。
間違いなく探していた猫だった。
「でかした!?」
人間に慣れているのか。
ブラーンとソラに抱かれている猫は大人しい。
久重がソラに近寄ろうとした時だった。
ソラの額に瞬く紅い点に気付いて走る。
久重の行動に驚いた猫が「ふぎゃ?!」とソラの手から逃げ出した。
「ひ、ひさし――?!」
久重がソラを庇い路地へと転がった瞬間、久重の肩を熱いモノがすり抜け、地面が爆ぜる。
「?!」
庇われたソラが久重の先、遥か先の高層ビルからのレーザーサイトを確認した。
次撃の弾丸が久重の背中に殺到する。
更に路地裏へと複数の方向から弾丸が奔る。
一連の流れで放たれた弾丸の銃声はほぼ一発。
それも常人の耳に僅か聞こえる程度。
最新式の静穏ライフルによる遠距離からの高精度同時狙撃。
初弾は測量の為。
次弾こそが必殺。
しかし、その並の要人なら即死の状況でソラは慌てなかった。
ソラの周囲数メートル四方に薄く黒いベール状のものがそそり立つ。
(【CNT Defender】展開!!)
ソラの思考を読み取ったように展開された薄いベールが数箇所ソラに殺到するように槍の如く迫る。
弾丸を受け止めたベールが変形して勢いを殺していた。
ベールがソラの頭部に向けて幾度も槍の如く伸びるものの、全てが頭部に届く事なく元の形状に戻って地面に弾丸を零していく。
「大丈夫か!?」
「ひさしげ!! ここから離れないと!! たぶん部隊が展開されてる!! このままじゃ囲まれて蜂の巣にされる!?」
「部隊!? 追手ってあの白スーツだけじゃないのか?!」
「あいつはエージェントなの!! 部隊を動かす権利があるから、指揮官として何処かにいると思う!?」
立ち上がった久重が次々に勢いを殺されて落ちていく弾丸の音に顔を引き攣らせた。
「おいおい?! くそ、ここじゃ狙い撃ちかッ。ソラ!! このカーテンみたいなの動かせるか!?」
「大丈夫!! 走れば一緒に付いてくるからッ」
「なら、行くぞ!? ここら辺の地理なら詳しい!」
ソラの手を取って久重が走り始める。
それと同時に弾丸の雨が止んだ。
表通りに出た久重が何やら五月蝿そうな住人達の怪訝そうな顔を横目に地下道へと降りていく。
「この地下道は東西南北に出入り口がある! 今は北口から入った。南口は駅の構内。西口はアーケード。東口は国道に出る」
「駅とアーケードはダメ!? あいつら絶対に他人を巻き込むわ!?」
「国道か?! 障害物が看板ぐらいしかないぞ!!」
「いえ、その前にたぶん」
二人が曲がった直後。
銃撃の雨が降り注ぐ。
薄いベールに突き刺さり次々に落ちていく弾丸が小山程になるまで数秒も掛からなかった。
「ちょ?!」
奇妙なマスクを被る黒いスーツ姿の一団からの銃撃。
慌てて戻ろうとした久重をソラが止める。
「大丈夫。あいつらはただの足止めだから。問題は」
「そう、問題は私に追いつかれてしまう事です。ソラ」
交差路の中央で立ち往生する二人へと西から歩いてくるのは白いスーツの青年ターポーリンだった。
「こんな街中で銃声響かせるなんてどういうつもり?!」
ソラが久重を後ろに庇うように前に出て、歩いてくるターポーリンを睨みつける。
「おお、怖い怖い。簡単に言いますが、今の彼方達は正体不明のテロリスト。こちらは警察の特殊部隊。付近はさっきから警察の誘導で避難中です」
薄く笑うターポーリンに空が苦々しい顔をした。
「もう、そこまで治安当局に侵出して!?」
「いえいえ、こちらの作戦時間も情報漏洩の可能性を考えると十分程度で切り上げなければならないので」
「どうやって私達を見つけたの!?」
「企業秘密です」
「・・・サテライト?」
「企業秘密です」
「その様子だと【ITEND】のサスペンドモードを嗅ぎ付けたってところじゃない?」
「企業秘密ですから教えて差し上げるわけにはいきません。さて、と」
話を切り上げたターポーリンが大声を張り上げる。
「皆さん。仕上げといきましょう!!」
ターポーリンが懐から巨大な銃を取り出す。
「デザートイーグルなんて格好付け過ぎ!! 馬鹿みたい!!」
「ちょっと弾が特別製です」
軽い調子で向けられた銃口が火を噴く。
「イートモード!!」
ターポーリンからの銃撃が安々と黒いベールを貫いた。
しかし、ソラの叫びに反応したのか。
二人の周囲を覆うように黒い霧のようなものが発生する。
弾丸が黒い霧に飲まれ消失した。
「どうなって?!」
久重が目を白黒させ後ろを振り向くと今まで銃撃してきていたマスク達が巨大な砲身を担いでいるところだった。
(RPG?!)
未だ現代において現役を貫く『兵器』に久重は其処が日本の地下道であるという事を忘れそうになった。
「ソラ!!」
「解ってる!!」
弾体が着弾し周囲に爆風と炎が吹き上げる。
それでも黒いベールと霧に覆われている二人の場所まで爆風は届かなかった。
「さすがにイートモードまでは届きませんか。ですが、どれだけ耐えられますか?」
ソラが唇を噛み締めた。
「大丈夫なのかソラ?!」
「大丈夫・・・久重だけはちゃんと守るから」
「そういう事を聞いてるわけじゃ?!」
「ひさしげ」
久重の言葉を途中でソラが遮る。
「ごめんね。こんな事に巻き込んで。一杯苦労掛けて。大学の事も借金の事も」
「ソラ?!」
銃撃が再開される。
言葉の端々の不吉な響きに久重の体温が下る。
「日本のカレー美味しかった。お布団温かかった。私の為に一杯頑張ってくれて・・・嬉しかった」
「おい!? 何一人で完結しようとして、オレはま―――」
振り向いたソラが久重の唇を塞ぎ、すぐに離れる。
「これで我侭最後だから。お礼」
「・・・ソラ」
そっと久重を突き放し、ソラが背を向ける。
「今から全力で【ITEND】を駆動するわ。瞬間的に百メートル圏内で気温が数十度下る。今、久重には防護用の【ND】を渡したから五分ぐらいは大丈夫。あいつらもターポーリン以外は動けないはずだから逃げ切れる」
「何勝手な事言って!?」
「これしか!!」
久重の声にソラが大声を上げる。
「これしか・・・私、ひさしげにしてあげられないの・・・私、もう誰も目の前で大切な人に死んで欲しくない」
何も言えないまま、呆然とする久重にソラが再び明るい声で語りかける。
「後、少し。大丈夫・・・絶対にひさしげは守ってみせる」
「お涙頂戴は結構。そろそろお終いにしましょう」
銃をその場に棄ててターポーリンが二人へと近づいていく。
「全力で食らえば少しは痛いでしょ!!」
「それで死ねない身なればこそ、私は貴女の殺し手に選ばれた」
「可哀想な人。【死体袋(ターポーリン)】に入れられてもまだ使われるなんて」
「博士のお人形に言われる筋合いはありません。これでもこちらは世界平和の為に働いています」
黒いカーテンをターポーリンが引き裂いた。
「増殖終了。撒布完了」
「それでは倒せないと言っています!!」
黒い霧へと拳を振りかざしてターポーリンが叫ぶ。
「なら、喰らって!! NO.00“closed jail”!!!!」
「無駄です!!」
黒い霧を抜けた腕が衣服を消失させながらソラの首を掴み取り、久重がもう一方の手で邪魔とばかりに払われ吹き飛ばされる。
地下道を照らしていた全ての電灯が消え、久重は絶望する間もなく、壁へと激突した。
*
高級レストランの食事を味わっておけば良かったと微妙に後悔しながら帰途に着こうとしていた了子は途中、警察の封鎖により帰り道を寄り道に変更していた。
都市の地図が頭に入っている了子にとって警察の封鎖の網を潜り抜けるのは至極簡単な仕事だった。
時には裏の世界を覗いて危ない目に会う事もある記者。
蛇の道は蛇の言葉通り、執拗にネタに迫る気魄は了子を狩人よろしくカメラという銃とペンというナイフを装備した【兵隊(ジャーナリスト)】へと変えていた。
(ネタ!! ネタ!!)
レコーダーを片手に路地裏から外の様子を伺う了子に気付かず警察官達が素通りしていく。
『いきなりテロリストとか本気なのか? 本庁の特殊部隊と公安が来てるらしいが』
『何でも国際テロ組織の一員らしいぜ。半径三百メートルの封鎖をいきなりヤレとか頭ごなしに命令されてもな。実現可能かどうかよく考えろってんだ。本庁の連中も困ったもんだよ本当』
しっかり録音した了子はササササと何処かの蛇的な兵も真っ青な足取りで現場へと裏道から接近していく。
現場周辺では警察官に促された市民が混乱しながらも遠ざかっていく。
「これは?! 確かこの先は地下道と駅だったはず・・・駅側からの封鎖があるとすれば、むむ」
現場へと急いだ了子が地下道付近の路地裏に付いた時だった。
(静か過ぎる・・・?)
そっと顔を路地裏から半分出して見回した了子が不自然な周囲の状況に顔を潜める。
(封鎖しているはずの警察官の姿が見当たらない? これはどういう・・・)
突然だった。
地下道を中心とした周囲百メートルに霜が降り始めた。
「へ? さ、さぶぅううううううううううううううッッ!?」
混乱しながら了子が路地裏から顔出して辺りを確認する。
「な、なななな、何!? 異常気象!? エルニーニョ?! ラニーニョ!? ま、まさか、クリスマス!?」
スカートにパンストしか履いていない了子が震えながら路地裏から道へと出た。
ゴオッと寒風が了子を直撃する。
「な、ななな、何が起こってるって言うのよぉおおおおお!!!」
ダンと地面を踏み締めた瞬間、了子の足がツルリと滑った。
「うぉっとっとっとっとぉおおおおおおおおおおおおおお?!!」
バランスを取ろうした結果、了子のブーツが滑り出す。
「ひゃう?!」
サーファーも驚く氷捌きで十メートル以上滑った了子が何とか止まった時には、もう其処は地下道の出入り口付近だった。
―――そして、了子は見た。
*
「“Fire Bag”ですか」
ターポーリンが呟く。
電灯の消えた地下道で未だに明かりは失われていない。
その理由は簡単だった。
衣服が消失しているターポーリンの全身が炎に包まれていた。
「良い格好」
焼ける様子もなく無傷のまま炎に包まれる男に首を掴まれた少女は吐き捨てる。
「ええ、さすがにこの格好で警察に応対するわけにもいかないでしょう」
「殺すなら殺せばいい」
「ここで殺すのは簡単です。いえ、此処で殺さない方がこちらにとって簡単ではない」
「何が言いたいの?」
「もう一度戻ってくる気はありませんか? ソラ」
「私を一度殺した癖に!!」
「生体融合の被検体としてなら生かして差し上げるのも吝かではありません」
「モルモットなんて!!」
ソラがターポーリンの顔へと唾を吐き掛ける。
しかし、その行為に激昂するでもなくターポーリンは続ける。
「貴女を殺してやるのが貴女にとっても最良だと思っていました。しかし、【D1】がもう覚醒しているにも関わらず貴女の能力はこの程度だ。死の間際だというのに強力になる気配もない。これならば上層部に掛け合うだけの価値はある。【D1】があの悲劇を起こさずアレを貴女が大人しくこちらに渡すと言うならば、命を取る必要も無い」
「本気、なの?」
「ええ、この上なく」
「博士は・・・信じてた・・・信じてたの・・・なのに今更!!」
「悪役に何を期待しているのですか? これは取引です。博士亡き今、貴女を本当の意味で知っているのは私しかいない。これは過去の私が、今の私に送る最後のケジメだと思ってください」
「!!」
「地べたに這い蹲れと言っているわけではありませんよ?」
「此処でそんな風に生かされるなら死んだ方がいい」
「く、くく、そうですか? 仕方ない・・・博士、あなたの愛した人形を今そちらに送ります。どうか、安らかに」
何処か寂しげに笑いながらターポーリンの手が力を入れ始めた。
*
金色の髪を持つ少女の口から唾液が流されていく。
炎の魔人に少女は縊り殺されようとしている。
なのに、体は動かなかった。
外字久重は所詮、誰も守れない、誰も救えない、そんな人間だった。
そう思えば、幾分楽になれる気がして、久重は己の無力を、嗤う。
はは。
ははは。
はははは。
そう、嗤う。
【君は何を憎む?】
そんな声が聞こえた気がした。
(人一人助けられなくて、何が男だ)
【君は何を憎む?】
(頼ってくれる女一人救えなくて、何が何でも屋だ)
【君は何を憎む?】
「オレは・・・オレが憎い」
ギチギチと体が悲鳴を上げる。
間に合わないと理性が囁く。
それでも前に向かわねば、手を握ってやる事も、殴ってやる事もできないと知っている。
「オレは、オレの無力を憎む・・・」
掠れた声に対して、幻聴はもはや無く。
『君は良い奴そうだ。助力しよう』
「「!?」」
死に掛けていた少女と炎の魔人が同時に驚愕した。
キュァン。
そんな甲高い弓を引くような音がして、魔人が吹き飛んだ。
「な?! 馬鹿な?! 博士!? ぐァ、がああああああああああああああああああああああッッッッ!!!」
その場で落とされたソラが咳き込みながら、涙でブレる視界で辺りを見回す。
「博士!! 博士!!」
呼ぶ声に答えは返らない。
ただ、声は続く。
『君はソラが好きか?』
「な!?」
ソラが状況も忘れて紅くなった。
「大切に思ってる」
久重の答えに声は続ける。
『君はソラが可愛いと思うか?』
「将来、綺麗になるだろう」
「ちょ、博士?!」
ソラがあまりの状況に声を荒げる。
『君が誰か僕は知らない。君が本当はソラをどう思っているのか僕には解らない。僕はこの音声が流れた時には死んでいるだろう。ソラ、君もたぶんは逃走しているか戦いの最中だろう。だから、僕は僕が持てる全ての英知を持って、此処に遺書を残す事にした。我が人生最大にして最高の傑作と我が人生最愛の娘を授けるに相応しい者がいた時、その窮地にのみ、この遺書は発動する。ソラ、君がもしも一人だったならば僕はもう君が生きているべきではないと思う。生きていても辛い事ばかりで幸せにはなれないのは目に見えているからだ。しかし、もしも君を守るに足る者がいるならば、君はその人と共に人生を生き抜け。世界の何もかも敵に回して上回る力が在るならば可能だろう。さあ、涙を拭いて立ちなさい』
電灯もターポーリンの体の炎も消えた地下道で光が溢れる。
「博士・・・」
ソラが泣いていた。
今まで一度として久重の前ですら気丈に振舞っていた少女が、何の躊躇いも無く、ボロボロと。
その胸に光の源があった。
地下道に響く声が続ける。
『見知らぬ君よ。さぁ、剣を取れ。そして、どうか・・・この子を救ってやってくれ!!」
「ああ、見知らぬおっさんに言われるまでもない!!」
久重は重い体を押してソラの前に立ち、その胸元の光を掴んだ。
「ははは、はははははは、博士ぇえええええええええ!!! さすが博士です!!! 正に貴方らしい遺書でした!!! ですが、ただの素人に【D1】が使いこなせるはずもないでしょう!!!!」
壁にめり込んでいたターポーリンが全てをかなぐり捨てて、久重の背中に襲い掛かった。
『反応を確認。敵は君か。厘西(りんざい)』
ギクリとターポーリンの動きが止まった瞬間、地下道を風が吹き抜けた。
ターポーリンの体があまりの風速に飛ばされ東口の出入り口の虚空で縫い止められたように止まる。
『そうだな。敵が君だと言うならば、最後の講義をしてやろう』
久重が立ち上がり、掴んだ光を握り潰した。
潰された光が零れ落ち、ソラの額に微かな光の文字が連なる。
【ITEND】Annihilation Mode。
Energy Source 【SE】。
Full Drive。
零れ落ちた光が久重の右腕を覆った。
『そもそも情報熱機関内臓のナノデバイスを有効に使う為には膨大なフィードバック制御情報が必要だ。その為に我々は量子コンピューターを小型化するか、他の選択肢を考える必要があったわけだ』
「ええ、だからこそ、あなたは人間の脳を使う事を考えた。その試作品を愛でる程に研究にのめり込んだ」
『君には教えていなかったが僕はソラの脳そのものには何ら手を加えていない。せいぜいが情報の送受信と信号の変換を行う端末を埋め込んだ程度だ』
「なん、だと?!」
久重が走り出す。
『僕はこれでもフェミニストだよ。研究に没頭するあまり女の子を機械にしたりはしないさ。君達には教えていなかった研究成果が一つあってね。【SE】開発中のとある発見が全てを解決した』
「何!?」
「【SE】や【D1】の構築に光量子通信網を使ったのは正解だったようだ』
「どういう事ですか!! 博士ぇえええええええええええええええええええ!!!!」
もがきながら、走る久重の腕の光に恐怖を感じて、ターポーリンが叫ぶ。
『【SE】の光量子通信網が人間の『特定パターンの脳波』を経由して繋がった時、回路が生まれる。その回路は量子コンピューターと同等、いや・・・それ以上の演算能力を示した』
「テメェはクソだ。全裸野郎!!!!」
「ひッ?!」
『ま、簡単に言うと人間の愛ってのは深淵らしいよ? 愛は全てを上回るのさ♪』
ソラの額に紅い文字が浮かぶ。
NO.000“Exhaustion Crest”
接触の瞬間、久重の拳が白い篭手のようなものに覆われた。
どてっ腹をぶち抜かれて、ターポーリンが出入り口から飛び出した。
「――――――――――――――――!!?」
外の霜の降りた道を滑りながらターポーリンだけに声が続ける。
『【SE】はあの子の為に残してあるものだ。この遺書が発動した以上、もう君達の手元から去っているだろう。君達がこれから戦う者はこの星のエネルギーを自在に抽出する存在となる』
「そう・・・か・・・このエネルギーの源はS―――グッッッ?!」
ゴポリと込み上げてきた血にターポーリンの肺が溺れ始める。
『ちなみに君達の有する【ITEND】の永久停止信号を見知らぬ君には与えておいた。君達が最先端の科学を有する存在だと言うのなら、見知らぬ君は科学を食い物にする悪魔グレムリンといったところかな。君がまだ人間らしい体である事を祈っている。厘西』
それを最後に声が途切れる。
「もう・・・遅いです。博士・・・今・・・あなたの・・・とこ・・・に・・・」
途切れた声に続くようにターポーリンと呼ばれた男は静かに目を閉じた。
何故か、その顔は安らかに笑みを浮かべていた。
*
「どうなって、え? 人が!? ちょ、ちょっと貴方大丈夫ですか!!」
了子は闇の中に瞬いた光に打ち出されたかのような全裸の男に駆け寄った。
そのまま何度か頬を叩き、呼吸を確認し、脈を取り、救命措置を取ろうとして、気付く。
闇の中、薄ぼんやりとした光が消えていく。
その最中に今日出会うはずだった男の顔を刹那見た。
「誰かいるの!!」
『!?』
『こっち!!』
闇の中から聞こえた声に了子が目を見張る。
少女の声だった。
綺麗な鈴を鳴らしたような声。
足音が駆け足で遠ざかっていく。
「ちょっと!! 救急車!!」
もう片手でスマホをコールしながら了子は地下道へと続く闇を見つめる。
(あれは確かに外字久重だった・・・どういう事? テロリストと何か関係があるっていうの?!)
『そこの女ぁああああああああああああ!! 君は何者だぁあああああああああ』
突然の大音量に了子が顔を上げる。
道を百メートル以上離れて警察官の群れがジリジリと迫りつつあった。
「あ、やば・・・」
『もしかしてお前了子かああああああああああああああああああ』
「え・・・まさか戒十さん? 戒十さあああああああああああああああああん」
『とにかく其処の男と一緒に事情を訊かせろぉおおおおおおおおお』
「救急車ああああああああああああああああああ用意してくださあああああああああああああああい。この人心臓止まってるううううううううううううううううううううううう」
現場によく解らない微妙な空気が立ち込める。
変なやり取りをする正体不明の女と現場のトップ。
その間柄がどんなものなのか。
大事が発生したにしては呆気ない、あまりにも不可解な事件の終結だった。
*
封鎖された駅構内に警察官の姿が無い事を確認してから地下の線路に出た二人は全速力で走っていた。
「大丈夫か? ソラ」
「うん。ひさしげはケガしてない?」
「ああ、こっちも大丈夫だ」
「そっか。良かった・・・」
何をどう切り出せばいいのか解らない。
両者とも同じような顔で只管に走る。
「ソラ」
「うん」
「此処から逃げ出せたら後で訊きたい話がある」
「うん。私もひさしげに話したい事沢山ある」
「なら、一緒だな?」
「うん。一緒」
命の危機を迎えていたからか、走っているからか。
その二つの胸には多くの感情が過ぎる。
「オレ、人殺しになっちまったみたいだ」
久重が少しだけ苦く笑った。
「違うわ。ターポーリンはそもそも死人だった」
ソラが首を振る。
「どういう事だ?」
「【ITEND】で体の各場所の機能を誤魔化してたの。融合体とは程遠い設計だったはずだから、寿命そのものは後一、二年も無かった。ひさしげは死んでいる人間を元の死体に戻しただけ」
「ずっと気になってたんだが【ITE】とか【ITEND】って何なんだ?」
「【ITE】正式名称インフォメーション・サーマル・エンジン。NDはナノデバイス」
「まさか・・・」
久重がSFでよくある設定を思い出す。
「うん。ひさしげが思い浮かべてるモノで正しい。簡単に言うとナノマシン」
「ちょっと待て!? 確か、ナノマシンってのは」
「ひさしげが言いたいのはナノマシンはあくまで『出来ただけ』って事でしょ? でも、私達の体はそれに守られてる」
「どういう事だ?」
驚く久重にソラが自分の額をコンコンと叩く。
「【ITEND】は完成してるの。それもSFに出てくるような高性能な代物として。私もひさしげも今全然息を切らしてないで走れてるわ。それはこの【ITEND】にサポートされてるから」
「・・・信じるしかないんだろうな」
「さっきのターポーリンは【ITEND】での人体修復の検体として【連中】に体を弄繰り回された。でも、技術不足で修復ではなく『不完全な固定』しか出来なかった」
「それは・・・ソラが生きてる事とその・・・関係あるのか?」
「うん。私の【ITEND】は肉体だけなら細胞の残骸とエネルギーで完全な修復が出来る。エネルギーが溜まったら自動で肉体の破損を修復してくれるの。細胞の活性化支援プログラムとNDの細胞再構築OSが完全なものだから」
「SF・・・だな」
「うん。でも、SFみたいに無限のパワーや無限に復活なんてご都合主義じゃないの。この力を創造した人は言ってた『無から有を創造する事は今の科学では出来ない。これは神の力ではないんだ』って」
「なら、ちゃんと守らないとな」
「え?」
「ソラ。オレは君を二度も死なせない」
「あ、ありがと・・・ひさしげ」
二人は不意に夜の風を感じた。
長いトンネルから抜ける。
「帰るか。まずはそれからだ」
いつの間にか繋がれていた手をしっかりと握り返して、ソラは頷いた。
姦しい。
青年の下。
女と女は相手を定めた。
過ぎた技の精粋が暗雲を呼び、天に涙を流させる。
荒れ狂う者は無くとも、火中とはその部屋であった。
第五話「風車と狂気」
狂気の男は英雄となるか?
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第五話 風車と狂気
第五話 風車と狂気
「ふんふんふふ~~ん♪」
何処にでも在る高校の何処にでも居る女子高生【布深朱憐(ふみ・しゅれん)】は上機嫌に未だ朝早い道を急いでいた。
亜麻色の完全な縦ロールが左右に三つずつ燦然と頭の後ろに輝く姿は正にチョココロネを思わせる。
スレンダー『過ぎる』体型を覗けば、顔の良さは近隣の高校の中でも群を抜いている。
しかし、決定的に今時の洒落た高校生と違うのはそのチョココロネでも顔でもない。
化粧っ気や洒落っ気の無さだった。
最低限の手入れはされているが、まったくのノーメイク。
最低限の身嗜みはあるが、まったくの装飾品絶無状態。
高校の制服を正しく着こなし、鞄も新品を絵に書いたように綺麗で小物も付いていない。
高校一年生という事を除いてもまっさら過ぎる様態はある種の人間達にすると「自分色」に染めたくなる程の無垢さで、夏の朝日に照らされた朱憐はキラキラと何らかの粒子でも放射していそうな笑みで道を急ぐ。
その嬉しそうな笑みには理由があった。
朱憐の運命の出会いを回想する。
中学三年生冬の陣。
最初から推薦を貰っていた朱憐は高校受験とは無縁な暢気さで冬の夜道をホクホク顔で帰っていた。
無論、焼き芋屋さんから大量の焼き芋をゲットしたからだ。
そこに悪者がやってきた。
『おうおうおう。その焼き芋旨そうだな。ちょっと寄越せ。何? 寄越せない? なら、お前の体で払って貰おうか!! げへへへへへへへ、げはははははは(主観と客観の相違が含まれています。ご了承ください)』
『待てぇえええええええい。貴様ら!! そのかわゆいおぜうさんをどうするつもりだ。オレが相手になってやる。キラン(主観と客観の以下略)』
ぐああああああああああ。
どかーん。
『そこのおぜうさん。大丈夫でしたか? あの悪い連中に何かされやしませんでしたか?』
『大丈夫ですわ!! わたくし、これでも合気道六段ですの♪ それにしても逞しい方・・・・・わたくしと恋人になってくださいませんこと?』
『そいつはいけねぇや。そういうのは結婚できる歳になってからにしてくだせぇ。おぜうさん』
『何て謙虚な方・・・ぽ』
『それではまた何処かで』
『ああ、行ってしまわれるのですか!? せめて、せめて!! お名前だけでも!!』
『あっしの名前はガジ・ヒサシゲ。けちな遊び人でさぁ』
『ひさしげ様・・・・・・あの方がわたくしの運命の人』
半年後。
『お、おぜうさん!?』
『ひさしげ様!?』
『こんなところで会うとは偶然で』
『まさか、こんなに早く・・・出会うなんて・・・高校の登校途中の道で会うなんて・・・運命を感じますわ』
『そうかもしれやせん。オレの家は此処の近くなんでさぁ。もし、良ければ今度は家に来てくだせぇ』
『はい。喜んで。ひさしげ様』
そんな事があって以来朱憐は三日に一度くらい朝から運命の人の家へと通っていた。
清貧を旨とした運命の人はいつもお腹を空かせているので朝から朝食を作る。
少し新婚さんチックで朱憐にとっては何よりも優先するべき高校生活の一部としてその行為は組み込まれている。
朱憐にとってはまるで一世紀以上昔に建てられたような住宅が見えてくる。
その009号室。
外字の表札があるドアのベルを鳴らした。
「もう、ひさしげ様ったらお寝坊さんなんですから。わたくしが起こして差し上げなければ」
そっと朱憐はドアを開ける。
鍵は掛かっていない。
それが自分の来るのを待っている合図なのだと朱憐には解っていた。
靴を脱いで上がると小さな小屋のような場所で愛しい人の入った布団の膨らみを見つけ、朱憐の胸がキュウウウウウンと高鳴った。
「ひさしげ様。ひさしげ様」
優しく優しく声を掛け、それでもやはり布団の中から顔が出てこず、朱憐が少しハシタナイと思いながらも頬を染めて、そっと布団を剥いだ。
「ひさしげ様。朝ですわ。わたくしの方にお顔を向けてくださいませ」
背中を向けている久重の背中をそっと引き寄せて顔を拝もうとした朱憐が久重の顔とは別の顔を見つけた。
「?」
バッチリとその久重ではない視線と目が合った朱憐がしばしの沈黙の後、倒れた。
「・・・・・・?」
久重の腕の中でぼんやりとしていたソラが頭に?マークを浮かべて数秒。
「ひさしげ。誰か倒れてるわ」
「・・・・・・んぁ?」
起こされた久重はまだ寝ぼけている内から自分の布団を朱憐に譲渡する事となった。
*
「・・・ん・・・ん・・・?」
目が覚めた朱憐は目元を少し擦った後、体を起こした。
ぼんやりとする頭の中に響く包丁の音。
その音の大本を見つめて、胸が高鳴る。
(ひさしげ様。わたくしの代わりに朝食を作ってくださってますの? わたくし嬉しくて涙が出そうに・・・)
少しだけ伸びをして出た涙をそっと拭い、朱憐が出されたちゃぶ台に気付く。
「?」
更にちゃぶ台の上に肘を乗せてジィィィィッと自分を見ている少女に気付く。
外国人の少女。
流れるような金髪でほっそりした手足がお人形のよう。
更に朱憐の興味を引いたのは少女の仕草だった。
ほんの少しだけ首を傾げて朱憐を見つめているだけなのに、その所作は洗練されていた。
「あの、何方ですか?」
「私? 私は・・・ひさしげの大切な人」
「お、おい。ソラ!?」
「ひさしげ。昨日、大切な人って言ってくれたの・・・嘘?」
少女の少しだけ不安そうな顔で背中を見つめる瞳に自分と同じものを認めて、朱憐が驚く。
「そ、それは言った。言ったが、それを人前で公言するのは日本人としてどうかと思う。そういうのは秘めてこそ華って日本では言うんだ。OK?」
「うん。おーけー」
クスクスと慌てた背中を悪戯っ子のような笑みで見る少女は朱憐にも解るくらい、自分と同じだった。
「・・・・・・」
「?」
再び気を失った朱憐にソラが首を傾げる。
「ねぇ、ひさしげ。また、この子気を失ったわ」
「おい!?」
一行に事態が進展しないまま進んでいく何かが久重の背中にズッシリと重く圧し掛かった。
*
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
沈黙を打ち破ったのは朱憐の方からだった。
「ひさしげ様」
黙々と鮭の切り身と白米と味噌汁を口内に消していた久重が白米を喉に詰まらせそうになってお茶を啜る。
「わたくし一つだけお聞きしたい事がありますわ」
「何だ?」
「この外国人の子は何方ですの?」
「オレが昔世話になった外国人の教授の娘で夏休みを利用して今はホームステイに来てる。止まる場所をオレが提供する形で今は居候の同居人だ」
「いつからですか?」
「二日前」
「・・・・・・どうして一緒のお布団で寝ていましたの?」
「どうしてだ?」
「そこで私に話を振るなんて・・・ひさしげって女性心理に疎いと思う」
「いつの間にかオレが悪い事になってないか?」
「ひさしげ様?」
朱憐の問いかける眼差しに久重が重い口を開く。
「う、昨日二人で疲れてたからな。急に眠気が襲ってきて、記憶が曖昧な感じだが、そのまま寝たらしい」
「ひさしげ様。日本は男女七歳にして同衾せずとか。そのような格言があったりなかったりする国です」
「以後、気をつける」
頭痛を抑えるように頭に手を当てて久重が頷いた。
「その・・・貴女お名前は何といいますの?」
「ソラ。ソラ・スク・・・聖空(ひじり・そら)。片親が日本人なの」
「ソラさん?」
「うん」
「わたくしは朱憐。布深朱憐ですわ」
「シュレン?」
「はい」
「シュレンはひさしげの恋人?」
「な?!」
うろたえる久重だったが、以外にも朱憐は動じなかった。
「ひさしげ様はわたくしの運命の方ですから」
「ちょ?! ぐ?!」
サラリと答えられて久重が喉に飯を詰まらせ、グビグビとお茶を呷る。
「・・・シュレンは高校生?」
「はい。近頃進級しまして。今は來邦高等女学校の一年となります」
「(大和撫子って慎ましやかで御淑やかな人だって聞いてたけど、随分積極的だわ)」
「あの、何か?」
ボソボソと呟いてソラが朱憐に何でもないと答えて食事を再開した。
それから食事を終えて洗いものまで済ませた朱憐が正座でちゃぶ台の前にジッと座っている久重の前に戻ってくる。
「ひさしげ様」
「何だ?」
「今日からお夕飯も時折作りに来ますわ」
「あ~~夕方は基本的に仕事でいない事も」
「はい。ですから、これを」
鞄を手繰り寄せて朱憐が中からゴトリとちゃぶ台に一台のスマホを置く。
「―――――――」
その意味に戦慄した久重は作り笑顔のまま絶句した。
「必要な時は学校が終わる三時以降にお掛けください。そろそろ夏季休業に入りますから、その時はお電話差し上げます。わたくしもいつも空けておけるわけではありませんが、出来る限りの夕食を用意させて頂きますわ」
「いや、さすがに悪―――」
「何も、悪くありません。ひさしげ様は信頼に足るお方ですから。ちなみに料金はわたくしのポケットマネーなのでご安心を」
「いや、そういうもんだ―――」
「ひさしげ様がわたくしを必要としてくださる時にわたくしが出来る限り応える。何処にも問題なんてありません」
「はい・・・・・・」
朱憐が「それでは」と丁寧に頭を下げてそのままドアを開けて駆けていく。
高校の一時限目は迫っている。
しかし、久重は知っている。
何事にも丁寧な朱憐は必ずドアはゆっくり閉め、どんな時も決して走るような事はない。
「ひさしげって・・・プレイボーイ、なの?」
その様子を畳んだ布団の上に座り込んで見ていたソラが半眼で訊く。
「その表現の断固とした変更をオレは要求する」
ちゃぶ台の上のスマホを凝視しながら脂汗を滴らせる久重が溜息を吐いた。
「あんな可愛い子に言い寄られて本当はちょっと気分いい?」
「人間は愛だけじゃ生きられない。そこを的確に突いてくるからな。朱憐は・・・」
「それって久重に生活能力が無いだけじゃ・・・」
ジットリとダメなモノを見る視線を送ってくるソラに久重はもうグゥの音も出ない有様でバッタリと畳みに倒れ臥した。
「それを言われるともうオレには返す言葉もない」
「でも、あの子の気持ち。少しだけ解るかも・・・」
「?」
「ひさしげは寄る辺無き小鳥にとって止まり木みたいに見えるんだと思うの」
「止まり木?」
「ひさしげ。あの子を私みたいに助けてあげた口じゃない?」
「半年くらい前にチャラい男のグループに囲まれてて、ほんの少し捻って追い返しただけだ」
「ひさしげ・・・」
呆れた様子でソラが溜息を吐く。
「それって運命の出会いとか、馬に乗った王子様って言うと思う」
「いや、本当にその時だけしか助けてないぞ? それ以前に再会したのが四週間前。不定期で朝食を作りに来てくれるようになった。何処に王子様フラグがあるのかとオレは聞きたい」
「ひさしげって女性の機微が解らない人?」
「オレは運命だからあいつを助けたわけじゃない」
「他の人が同じような目にあってても助けてた?」
「当然だ」
「でも、今は大切に思ってるでしょ?」
「だが、今の関係を数年は続けるべきだとオレは判断した」
「シュレンの事好き?」
「恋愛感情に関しては・・・まだ先延ばしにしておきたいと思ってる」
「ちゃんとシュレンが大人になったらって事?」
「見て話せば解るが、朱憐はお嬢様だ。本来ならオレが普通に話す事も難しい家の一人娘。ちなみにいつも朱憐が来る日は朝から周囲に複数の気配がある。窓から見える風景の何処かから双眼鏡で見られてるぞ」
「それホント?」
驚いた様子で窓の外をソラが見つめた。
「ああ、あくまで来る日だけってのがポイントだ。たぶんこっちのプライバシーも一応は考慮してるんだろう。さすがに集音マイクや盗聴器なんかが怖かったからアズに頼んで調べてもらったが、そういうのは来る日でも無いらしい」
ソラが布団の上から降りる。
「ひさしげ。ずるい・・・」
指摘されて何も言い返せない久重は「そうだな」と一言だけを口にした。
やがて、沈黙を割るようにソラが今までの『日常の確認』を終えて本題へと入る。
昨日は結局精神的な疲れからまったく話せていなかった『事情』が二人の上に圧し掛かっていた。
「ひさしげ。まだ、戻れる・・・」
「そういうのは大人の方から言わせてくれるとありがたい」
「子ども扱いする気?」
「違う。ソラはオレが一方的に巻き込まれてると思ってるだろうが、そうとは限らないって事だ」
「どういう事?」
何を言われたのかと混乱したソラが訊き返す。
「オレを見てきたなら解るはずだ。オレは一般人じゃない。いや、一般人に見えても普通じゃない」
「何でも屋の事?」
久重が頷く。
「オレが普通だと思うか?」
「久重は私みたいな暗い世界よりは普通の世界で生きてるもの」
「普通の日本人は君の事情が透けて見えれば冗談と笑うか警察に行く。少し暗闇に踏み入れた人間なら利用しようとするか、全力で逃げようとする。でも、オレはそのどれでもない」
「そうかも・・・」
「アズの本名というか通り名というか正式な名称は『アズ・トゥー・アズ』、昔に聞いた話だと国籍も人種も年齢も住所も性別以外は何もかも未定なんだそうだ。そんな奴の下で働いてるオレはその手の一部の人間からは正体不明なアズの手下らしい」
久重がまだちゃぶ台の上に残っていたお茶で口を湿らせる。
「オレはあいつと一緒に色々とやってきた。時には非合法、時には合法、やり方は問わなかった。日本のマフィア。ヤクザの連合と話付けたり、お米の国の情報機関に付け狙われてみたり、日本の国家権力にちょっかい出してみたり、そういうのがオレとアズの仕事上何度もあった。外国に連れていかれて仕事させられた時は拳銃どころかサブマシンガンだの自動小銃もよく向けられたし、工作員がまとめて三ダース程攻めて来た事もあった」
ソラがあまりの内容にポカンとした。
「どっかのアニメとか漫画の話どころじゃない。オレはそういうところで生きてる。アズがオレを使う理由は単純にオレの頭のデキとオレの精神的な耐久値を見込んでとの事だ」
「漫画みたい・・・」
「本当な。だが、それがオレの、外字久重の日常だ。だから、オレは昨日の襲撃も銃を向けられて動く事ができた」
「久重・・・」
「オレはソラの事情に一方的に巻き込まれたわけじゃない。まだ、そういう事態になってないだけでソラがオレの周囲の事情に巻き込まれる可能性だってある」
「シュレンみたいな?」
久重がお茶を噴出しそうになった。
「そ、それとは別にして」
お茶が喉の奥に強引に流し込まれる。
「オレにとって、ソラの事情はたぶん『凄い技術』が関わってる以外はいつもの事だ。だから、言うなら『まだ、戻れる』なんて水臭い事じゃなくて『助けてくれる?』の方がオレは嬉しい」
ソラが顔を伏せる。
「久重。絶対後悔するわ」
「見知らぬおっさんに頼まれたからな。たまにはそういうのもいいさ」
少しずつソラの声がブレていく。
「後悔しないって言わないんだ」
「オレが後悔するのはソラを死なせた後だろう」
その視界が滲んでいく。
「私、凄く凄く迷惑かけると思う」
「今更だな。朱憐の今後の行動にオレの胃は現在ジクジクしてる真っ最中だ」
鼻が啜られる。
「世界の運命とか、悪の組織なんて馬鹿なものと戦わないといけなくなるかもしれない」
「オレがどうにかできるのはオレの手が届く範囲にいる奴だけだ。世界も悪の組織も知った事じゃない」
ポタポタと音がして畳に染みが出来る。
「命掛けじゃない。命を掛けてもどうにもならない。きっと、久重死んじゃう・・・」
目を瞑って、ソラという少女は震える。
「ソラより先には死なない。約束する」
決壊した少女の顔は涙と鼻水でグシャグシャだった。
「・・・・・・・・・・・・助けてくれる?」
やっと、それだけを搾り出した少女の肩を掴み上向けて、そのグシャグシャな顔に、久重は頷いた。
「オレに出来る限り。こんな君より弱いオレで良ければ」
「う・・・ん・・・」
少女は思う。
自分がもう救われているのだと。
抱きしめてくれる人の温かさを失いたくないと。
事情が話された後、二人はやってきたアズに言われるまま仕事へと向かった。
*
二千年代初頭。
日本において二つの研究成果が発表された。
一つはマックスウェルの悪魔を実験装置において再現した事。
一つは量子テレポーテーション関連技術における基礎の確立。
この二つによりナノデバイスと量子通信、更には量子コンピューターの基礎研究が出来上がった。
二つの研究成果は多くの諸技術を発展させ、百年に満たない内にその成果を民間が享受するまでに至った。
光量子通信網による大容量超高速通信の実用化。
量子コンピューターによる予測演算結果を元にした研究速度の飛躍的向上。
SFの世界にしか存在しなかったナノマシンの開発成功。
どれもこれもが世界を驚かせるに足るものだった。
しかし、ナノデバイス研究はナノマシン開発の成功と共に影が落ち始めた。
ナノマシンそのものを造り出した事は賞賛に値したが、そのナノマシンの限界と実用性が当初の予測を下回ったからだ。
ナノマシン一つを作る為に掛かる莫大なコスト。
ナノマシンの性能限界。
ナノマシン量産の困難さ。
様々な問題が山積した後、ナノデバイス研究はナノマシンそのものから離れて、ナノマシン開発過程で発生したナノテクノロジー応用研究へと移行していった。
しかし、一人の男はその多くの困難を解消した。
博士。
そう呼ばれた存在はナノマシンの研究において画期的な多くの発明を行った。
複数のナノマシンによる自己複製能力の開発。
ナノマシンの複雑な動きを可能にする新OSの開発。
ナノマシンの個別分業を可能にするマイナーチェンジされた個体群の開発。
ナノマシン制御を簡易に行えるデバイスの開発。
その他無数の改善がナノマシンの能力をSFの域にまで引き上げた。
どれもこれもがノーベル賞どころか歴史に名を残すに足る所業だった。
その行いが一つの組織の下で行われたものでなければ。
その後、彼らは【ITEND(インフォメーション・サーマル・エンジン・ナノ・デバイス)】研究において一つの成果を望んだ。
それは一人の科学者が考え出した無限機関の創造。
人類の歴史を左右する力。
【SE(シラード・エンジン)】
不可能とされていたソレに足る、その名を冠するに足るだけのモノを彼らは博士に望んだ。
*
昼も過ぎた頃。
ソラと久重はアズに導かれるまま都市の外れの廃工場跡に辿り着いていた。
「で、今日の仕事は?」
「逃げ出した脱走犯の捕獲」
クーペから降りたばかりの久重が思わずコケそうになった。
山が近く緑豊かな廃工場跡。
一面が草で覆われたアスファルトと鉄筋コンクリート製の建物。
どう見ても夏場の怪談スポット。
どんよりと垂れ込め始めている雲で薄暗さが増した周囲には虫の声。
「おい?! 何で警察が動いてない!?」
「公安の人間的にそれは不味いらしいね。監禁場所から逃げられたらしいし」
笑顔で言われてグッタリしたい気分に駆られた久重は後ろでジッと待っているソラに声を掛ける。
「手伝ってくれるか?」
「どうすればいいの」
何もかも吐き出してスッキリしたのか。
何の気負いもない笑顔で言われて、訊いた久重の方がうろたえそうになった。
「へぇ・・・昨日の仕事を失敗して何をしてたのか知らないけど、随分と仲が良くなったんだね?」
笑みと怒りを同等に混ぜ込んだアズの皮肉に久重の胃がシクシクと胃薬を要求し始めた。
「それについては謝る」
「いいよ。何か依頼人が勝手に帰ってきたとか言ってたから」
「帰ってきた?」
「何でも酷く怯えた様子で外に出たがらなくなったみたいだよ」
「「・・・・・・・・・」」
内心、二人が猫に謝った。
「ちなみに今回の目標の顔写真はこれ」
差し出された顔写真を二人が覗き込む。
「おっさんだな」
「うん」
「しかも、アロハを着てる」
「うん」
「グラサン掛けてるな」
「うん」
「何か釣り番組でクルーザーに乗りながらカジキ釣ってそうだな」
「?」
よく解らないという顔をしたソラが首を傾げる。
「で、このファンキーなおっさん誰だ?」
「GIOの幹部候補生。名前は『田木宗観(たぎ・そうかん)』三十九歳」
「ちょっと待て!? GIOって言ったか?」
「言ったね」
「・・・・・・ゼネラル・インターナショナル・オルガン?」
恐る恐る久重がアズに訊く。
「そう。現在世界一の超巨大多国籍企業。世界各国のジオプロフィットプロデュースを手掛けるジオネット時代の雄。君の大きい仕事の八割を占めてるお得意様」
「おいおい。何でそんな大物が公安に捕まってる?」
キナ臭さ全開の仕事に久重が愚痴る。
「テロリストとの関わりを指摘されて逃げ出そうとした。確保したはいいが結局逃げられてしまいましたとさ」
「表の事情なんぞいい。本当のところは?」
「内閣官房長官をブチ切れさせたみたいだよ」
「は?」
「日本政府、経済界とGIOとのデカイ取引をぶっ潰されて、どちらの幹部もお冠なのさ」
「待て待て。どうして幹部候補生がそんな事をする?」
「さぁ? 取引内容はトップシークレット扱いだから知らないけど。拳銃持って経済界の大物達の傍にいたって証言が出たから、そこからテロリスト扱いされたみたいだね」
「ちなみに訊くが、今回のは公安からの依頼か? それともお前自身の私用か?」
「どっちだと思う?」
「どっちにしろ断れないのは分かってる」
「なら、悩む事なんてない。はい。捕獲用のスタンガンと催涙スプレーと警棒」
「要るか?!」
後ろの席から取り出された黒いバックを久重が速攻で拒否する。
「要らないの?」
ソラの不思議そうな顔に久重が頷く。
「とりあえず先行する。ソラはオレの合図でオレの後を追うようにしてくれ」
「うん」
久重が歩き出す。
「ふふ、相変わらずだ」
「・・・それ中身無いわ」
ソラがボソリと呟く。
「おや? バレてたかい?」
「ちょっと気になったから調べただけ」
ナノデバイスでとは言わず、ソラがアズを見上げる。
「久重はああ見えて熱血漢の博愛主義者だから、人間は死傷させないようにしてる。まぁ、熱血漢だから悪い奴は死ぬぐらいボコボコにしたりするけどね」
「そういう道に誘ったのは貴方だって久重が言ってた」
「これでも付き合いは長いから。色々と久重には儲けさせてもらってるよ」
「・・・・・・」
「一つ誤解が無いように行っておくけど、久重は僕がいなければ、いつか、どこかで、理不尽を許せず理不尽に殺されてただろう。小悪党、巨悪、それが例え国家であろうと自分の許せないものには容赦なく立ち向かっていく。それは所謂アロンソ・キハーナの生き方だ。基本的に現代の生き方として賢くない。自分の物語を現実として置き換えた者の末路は愉快な騒動じゃなく無様な死に様となる。だから、僕はこれでも久重の保護者を自負してる」
「風車に立ち向かっていく勇気があるから、久重は私を助けてくれた。不器用かもしれないけど、私はそんな久重だから一緒にいたいって思う。そんな久重だから・・・」
「人はそれを狂気と呼ぶよ?」
「私の知ってる人が言ってたわ。狂気の無い人間にどれだけの事が出来るのかって」
「確かに・・・そうかもしれないね。狂気無くして偉人は何も生み出せないのかもしれない」
ソラが病院の方に顔を向ける。
久重は手を上げ、もう合図していた。
「アレが偉人かどうかは後世の歴史家にでも評価を任せるとしようか」
駆けていく背中をアズは笑いながら見送った。
未だ雲は晴れていなかった。
走れ。
走れ。
追いたてられる麦藁の案山子に手は伸ばされた。
別ある者の狭間で苦悩するは愚者の驕りか。
無答の質問に針は刺さる。
第六話「善悪の彼岸」
模索する往く手には血と骨が積まれていく。
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第六話 善悪の彼岸
第六話 善悪の彼岸
「本はいい」
曇天。
「実に素晴らしい」
廃屋の屋上にて、彼はアロハを着込み、ビーチチェアに腰掛けて本を読む。
「そうは思わないかね?」
傍らにある台には骨董品クラスの機械であるラジカセ。
「人類が他の種に唯一自慢できる文化だろう」
サングラス越しで文字が見えているのかも怪しい。
「君達はどう思うかね?」
ひょいとグラサンを外して尋ねる男に久重は本能的に関わり合いになりたくはない人間だと察した。
「フーガか。随分と趣味がいいな」
ラジカセから流れる旋律に男が微笑む。
「そうか。これが解るか」
パイプオルガンの音色にソラが興味深そうな顔でラジカセを見つめる。
「今時の若者にしては見識が深い」
「それはどうも」
男が片手に持っていた缶ビールを煽る。
「傘はどうした?」
「生憎と仕事は迅速が信条だ」
「ふむ。感心な事だ」
「あんたを捕獲にしに来た」
「雨に一緒に打たれてみないか?」
胡散臭い男の提案に久重は首を横に振る。
「お友達を募集中なら会社に帰ってからにしてくれ」
「会社には嫌われたらしくてね」
「ついでに政府と経済界からもか?」
「雨に打たれた事の無い連中が考える事はどうにも合わない」
「致死性トラップを百以上仕掛けた人間の言うこっちゃない」
呆れながらもまったく油断していない久重は男を睨む。
久重とソラが通ってきた道には巧妙に隠されたトラップが幾重にも張り巡らされ、ソラの【ITEND】のサポートが無ければ建物ごと二人は爆死していたかもしれなかった。
「結構、真面目に組んだんだがなぁ。自衛隊仕込だよ?」
「訊いてない」
「それにしても驚いた。こんなに可愛いお嬢さんが一緒とは」
頭に載せた麦藁帽子を取って、男がソラに一礼する。
「お嬢さん。『田木宗観』(たぎ・そうかん)と言います。どうぞよろしく」
「ふぇ!? ひ、ひさしげ」
『どう接すればいい?!』とオロオロするソラの気持ちが解って、久重は苦い顔をした。
目の前の男が柔和どころか、見たままの男である事が二人を困惑させていた。
「あんたは国からも組織からも追われる立場だ。言ってる意味が解るな?」
「人生最後は笑って前のめりで死にたいものだ」
「あんたの持ってる情報を欲しがってる奴がいる。オレはそいつからの使いだ」
「お嬢さんや未来ある若者を巻き込む程の秘密じゃない」
「後、数時間もすれば此処も嗅ぎ付けられる。此処で拘束を待つか死を待つか」
「君達と共に行くか?」
言葉尻を捉えられて久重が頷いた。
「そうだ」
「・・・曇天に掛かる虹を期待して此処で待ってたんだが、どうやら一緒に見る時間も無いらしい」
「おい。少しは真面目に」
久重が男に声を荒げようとしてソラが久重の前に出る。
「ソラ?」
ソラが男の前に立つ。
「おじさんは悪い事をしたわ」
「ん? 何かな?」
「あんなに罠があったら誰も虹を一緒に見てはくれない」
「そうか・・・いや、その通りだ」
男が一瞬、我に帰ったような顔をして、まるで悪戯を叱られる子供のように頭を掻いた。
「お嬢さんに言われてしまうとは我ながらみっともないな」
男がズボンの横をゴソゴソと漁り、久重に投げた。
久重がそれを受け取ると男が歩き出す。
扉の方ではなく、屋上の淵へと。
「持っておきたまえ。それが答えだ」
「おい!?」
久重が慌てて男を追おうとすると、ソラがそれを止めた。
「ソラ?!」
「ダメ!! 足元よく見て!!」
言われて初めて久重が気付く。
足元に薄く光輝く線が僅かに見えた。
「ちなみに連動している爆薬は全てこの場所の支柱に仕掛けられている」
男の声に久重が呻く。
「あの罠は囮か・・・」
「最後に君達のような若者に会えて良かった。たまには偶然も良い仕事をする」
「おじさん」
「お嬢さん悪い。こんなおじさんの我侭に付き合わせて。目を閉じていなさい」
男が手すりを越え、呆気なく、落ちた。
「アディオス」
最後の声が遠のいていく。
久重がソラの視界を手で覆う。
「ひさしげ」
「悪い。やっぱり待ってて貰えば良かったな・・・」
久重の苦渋の声にソラが首を振る。
「生きてるわ。おじさん」
「は?」
「さっき話してる間に【CNT Defender】張っておいたから。降りよう」
ソラが下来た道を急ぎ足で戻っていく。
それに久重も続いた。
二人が建物の外に出る。
「この間の黒いカーテンか?」
上を見上げた久重が気を失い薄く黒いベールに受け止められ宙吊りで気を失っている男を見つけた。
「ターポーリンにやられたの修復終わったから。おじさん一人くらいなら大丈夫」
「ソラには頭が下るというか何というか」
安堵の息を吐いて久重はゆっくりと降りてくるベールから男を受け取ると背負う。
「行こう。厄介な連中が来る前に」
「うん」
二人を迎えたアズは男を後部座席に座らせ、その場を後にした。
車が出発して数分後。
巨大な爆光を後ろに確認したアズは目を白黒させている二人を楽しそうに見つめ、クーペのスピードを上げた。
*
寂れた商店街の一角。
シャッターばかりが下りた店舗の一つ。
細い路地を抜けた裏側から一つの階段が続いている。
錆びた階段を軋ませながら大きい荷物を運び込んだ久重は遮光カーテンが下りている部屋のソファー横でグッタリと椅子に座り込んだ。
店舗の一角を改装してある事務所にはデスク用品が並び、クーラーがガンガンと冷風を吐き出している。
部屋の中央。
巨大な黒檀の机が鎮座していた。
無闇に大きな牛革の椅子がその主を向かえて沈む。
「ご苦労様。久重」
アズの労いに久重は更なる疲労に襲われて溜息を吐く。
「ここ・・・事務所なの?」
久重の横の椅子に座って内部をキョロキョロと見回していたソラがアズに訊く。
「ようこそ。我が居城へ」
アズがにこやかに告げる。
「本当に城だから性質(たち)が悪いけどな」
ボソッと久重が呟いた。
ソラが首を傾げる。
「さて、今回の仕事の報酬だけど。これくらいでいいかな」
机からゴソゴソと茶封筒を取り出したアズが久重の方へと押しやる。
立ち上がった久重がそれを受け取って中身を確認した。
「・・・これで何日生活しろと?」
「ああ、そうだ。忘れてた」
アズが更にもう一つ茶封筒を差し出す。
「布団一組分。必要経費として出しておくよ」
「一応、感謝しておくべきなんだろうな」
「勿論。君の借金の利息は年利で0.00002パーセント。それすら返せない君に、それでも儲けを考えて出してる金額だよ。借金が今日も一万円程減った事を僕に感謝するんだね」
ソラが利息の低さに驚きを隠せない様子で目を丸くする。
「それでこいつはどうするつもりなんだ?」
ソファーに“大きな荷物”田木宗観三十九歳が目覚める気配もなく眠っている。
「とりあえずは事情を訊いて。金目のものを吐き出してもらって世界の果てにでも送っておこうかな」
「世界の果て?」
ソラの疑問にアズがニッコリと微笑む。
「北は北極から南は南極まで」
ソラが驚いて久重を見た。
「本当だ」
久重が悪い冗談でも口にしたのかのように呆れながら頷く。
「近頃は衛星技術も発達してるからな。そういうのから逃げたい連中を一年中空が曇ってたり吹雪いてたり雨が降ってる場所に送って金取ってるんだよ。そいつは」
「君に褒められるなんて何年振りかな?」
久重が無視して続ける。
「主要各国が独自の宇宙開発とGPSネットワークの構築に躍起になってるからか、そういう情報も結構そいつのところに入ってくる。そういう情報から抜け穴を見つけて逃亡者に高額プランで売付けてるわけだ」
「地獄の沙汰も金次第ってわけさ♪」
人差し指を立て妖艶に微笑んだアズだったが、不意に上を見上げて懐から拳銃を取り出す。
「おい!? 何懐から出して?!」
「久重、お客さんが来る」
「な!? どうやってだ!?」
「ああ、どうやら其処の眠り王子に衛星からの監視が付いてたらしい」
「お得意の抜け穴の話はどうした!?」
思わず喚いた久重にアズが首を振る。
「さすがに抜け穴を全部網羅してるわけじゃないよ。と、言っても日本が上げてる衛星に関しては殆どの情報を網羅してるはずだけど。たぶん、あの金に五月蝿い政府肝入りでわざわざ特別予算まで組んだ【上弦一号】かな。アレにはGIOも出資してて打ち上げが先月だ。TV見なかったかい?」
「家にTVなんて時代遅れなものは無い」
「女からは端末を買ってもらえるのに君ときたら」
やれやれと言いたげなアズが肩を竦める。
「何で知ってる!?」
「君の事で僕が知らないのはその心の内ぐらいだよ」
「言ってろ。で、数は?」
「二十人。米軍上がりのゴロツキにヤクザ屋さん。それとGIO警備部の特務外部班。この構成から言って国民の選んだ政治家とGIOの御偉いさんがそれぞれの人脈に声を掛けたってところかな」
「特務が? 洒落にならない冗談だ」
久重が頭痛を抑えるように頭を押さえた。
「ひさしげ?」
ソラが不安そうに久重の袖を引っ張る。
「あ、ああ、悪い。少し嫌な思い出が・・・」
「思い出?」
「話に出てたのはGIOの掃除屋だ。表向きは現金輸送車の護衛とか、GIO要人の警護なんかを担当してるんだが、裏の顔は簡単に言うと諜報機関さながらのエージェントが蔓延る魔窟だ」
「殺し屋・・・とか?」
「かなり荒っぽいGIA、公安の類と思って構わない」
「外はもう固められてるっぽいなぁ。ついでにジオネット上で半径三キロのマップがジオプロフィットから除外されてる。しかも、五キロ以上先の地域でスーパーや百貨店のプロフィットセールがオンパレード。あからさま過ぎだね」
「その、どうして解るの?」
ソラは虚空を見ているようにしか見えないアズが次々にライブ情報を口にする不思議にマジマジ顔を見つめた。
「昔、左の眼球をやって以来こういうのを入れて楽をさせてもらってる」
アズが片目でウィンクすると、虹彩の色が変色し、薄く輝く紺碧に染まる。
ソラが目を見開いた。
「【BMI Sight】」
「ご明察。よく知ってるね?」
「日本が近頃今までの視力装置より高性能なものを開発したってニュースで聞いたから。でも、確か・・・」
「僕のはちょっと高性能なんだ。色々と繋げてあるからね」
「言ってる場合か。ルートは?」
「地下から二百メートル先の倉庫下」
「了解。で、このおっさんはどうする?」
「もう起きてるよ」
久重が後ろを振り向くとボリボリ頭を掻いて田木が起き上がるところだった。
「どうやら君達を巻き込んでしまったようだ」
ばつの悪そうな顔で田木が三人を見渡す。
「こちらで何とかしよう。それがケジメだ」
「違う」
「お嬢さん?」
ソラが田木の前に立ち、真っ直ぐに瞳を見上げた。
「死ぬのは責任を取るとは言わない」
「どうやったかは知らないが命を助けられた。こちらに出来るのは君達にこれ以上迷惑を掛けない事だけだ」
言い聞かせるように笑みを浮かべる田木にソラが首を横に振る。
「人生に疲れたからって、私たちを言い訳にしないで欲しい。それはケジメじゃない」
辛辣な言葉に田木は初めて少女の瞳を見た。
その瞳の奥にある光が田木の全身を射抜く。
「―――まったくもってその通りだ。私も焼きが回った。一日に二度も年下のお嬢さんに教えられるとは・・・」
田木がアズに視線を向けた。
「あなたの高額プランとやらを利用させてもらいたい」
「お支払いは?」
軽い調子でアズが営業スマイルを浮かべる。
「今の私はカードもキャッシュも持ち合わせていない。資産の大半はGIOに押さえられていて引き出す事も出来ない。隠し口座もたぶんバレているだろう」
「返済プランもご一緒にどうです?」
「臓器と良心を売り渡す以外なら何でもしよう」
アズが胸に手を当て一礼した。
その顔が久重には悪魔のような天使に見えた。
「ご利用ありがとうございます。お客様♪」
「話はまとまったな。行くぞ」
久重がソファーを退かした。
「隠し通路?」
ソラが驚きに目を見張る。
「言っただろ? お城だって」
久重が苦笑する。
下にポッカリと口を明けた黒い穴には梯子が掛かっていた。
*
「元々、私は防衛大卒でね。陸自で働いていた。一身上の都合で退職した後、あの会社に声を掛けられたのが全ての始まりだった」
暗い通路を懐中電灯で照らし歩く中で田木は事の発端を語り始めていた。
「私はエリートコースを自分から外れた人間だ。古巣には未練も無かった。そして、彼らは最初からそんな私のコネを当てにしていたのだろう」
「コネ?」
「コネクション。つまりは自衛隊との繋がり」
ソラの疑問を久重が補足する。
「私は提示された金額にそう興味が無かった。ただ、新しい仕事場としてあの会社は魅力的に映った」
「そこまではよくある話だね」
アズに田木が頷く。
「そうだ。私も企業側の意図は何となく察してはいたが、別に職業倫理上問題があるとは思えなかった。役人が天下りしているように、私もそういう枠組みの中に組み込まれただけだったからだ」
田木が一拍の間を置いた。
「政府高官や経済界と元々太いパイプを持っていたGIOにとって、私の取り込みはコネ強化の一環。その程度の認識だった。しかし、とある計画が私のいたセクションで持ち上がってから、私は自分の仕事に疑問を持つようになった」
未だ追手に追いつかれる気配もない通路で田木の声が反響する。
「自衛隊へのジオプロフィット導入。それはそもそも私がいた時代にも一部で噂されていた。それを行うのが自分の仕事になるとは思わなかったが、時代の流れだとは思っていた」
「試験的な導入こそあるが本格的な導入はまだ委員会で審議中じゃなかったのか?」
久重の言葉に田木が首を振る。
「いや、問題だったのは表向きの平和利用ではない」
「表向き?」
ソラの疑問に久重が答える。
「今現在でも日本は米軍の力で国の防衛費を削減してる。日米安保が未だに生きてるから日本は本来巨額の負担になるはずの防衛費を安く済ませてる面がある。だが、近頃は米国の凋落が激しい。米軍の再編で基地もどんどん自衛隊側に引き渡されてる。そこで問題になったのが自衛隊の頭数だ。超少子高齢化+自衛隊員確保の困難さ。更に移民の受け入れ失敗で懲りた日本は多くの職業に国籍条項を取り入れた。差別だなんて言われたが世論は支持してな。そういう経緯から今の日本は人員不足で自衛機能が停滞してる」
「GIOがそこにジオプロフィットを持ち込んだ?」
ソラの言葉に久重が頷く。
「簡単に言うと法整備を行って民間人なんかに危険地帯で『特定の行動』を起こすと給料が出る仕組みだ」
「それって・・・」
「所謂、戦時特例法。ジオネット法の拡大で民間人なんかに国土の防衛を自発的に行ってもらおうって訳だな。つまり、戦争へのジオプロフィット導入だ」
「それ本当に?」
日本の平和憲法を知っているソラからすれば、まるで信じられない話だった。
「昔の日本なら絶対に潰されてそうな法律だが、今の人口の高齢化比率を考えたらやむを得ないんだろう。何せ自衛隊員の平均年齢が四十四歳以上。四十パーセント以上が五十歳以上、どうしようもなく疲弊してる」
田木が声を硬くして久重の説明を引き継ぐ。
「国土の防衛は綺麗事では済まされない。実際に現環境では人口の増大した大国と渡り合うのは自衛隊では不可能だ。どんなに兵器を効率化しても、どんなに兵士達の練度を上げても、数の前には敗北するだろう。だから、自衛隊はその信念というべきものを曲げざるを得なかった。守るべき国民に自衛という名の戦闘行為を容認する・・・そんな政府の暴挙を留める事は出来なかった」
田木の言葉に滲むのは力無き自らへの悔恨だった。
「審議は続いてるが数年の内に成立するだろう。法案が成立すれば『誰であろうとも』その地域において国土防衛の為の戦闘行為は合法となる。その高額なジオプロフィット目当てに人は集まるだろう。民間人への武器や端末の供給はGIO軍事部門が自衛隊協力下で行う事になっている。それによってGIOも利益が上がる仕組みだ」
「そんなの・・・」
何と言っていいのか解らず顔を曇らせるソラが黙り込む。
「昔の日本なら完全に馬鹿にされただろうね」
アズがその会話で初めて口を挟んだ。
「でも、日本の国民はそれを受け入れた。五十年続く不況、続く超少子高齢化、移民に労働人口を奪われた悲哀、それらは目を曇らせて余りある。それにジオプロフィットを求めて戦場に行く日本人は事実上存在しないと言っていい。だから、国民からは大きな反対意見が出ない」
「え・・・でも、それだと・・・」
ソラの言いたい事を先取りしてアズが皮肉げに笑った。
「移民政策の失敗で難民化したような外人が今の日本には三百万人もいる。生活保護も受けられない彼らは日本という国ではスラムすら作れない。徹底した治安対策、テロ対策、労働政策が移民を下層労働者として固定してる。更に『日本人』じゃない彼らに『敬意』を表して、政府は法案が通った後、彼らに対してのジオプロフィット設定金額を高くする予定さ」
ソラが完全に沈黙した。
「それと同時に何故かコスト削減の名目で経済界が賃金を引き下げればアラ不思議。日本の為に命を掛けて戦ってくれる移民達の出来上がり。ちなみに指定される一定地域で自衛隊や日本人への攻撃が確認されれば、マスコミはこぞって放送するだろう。ああ、やはり移民なんて受け入れるべきじゃなかったと。その差別利権に乗っかるのは移民排斥運動で国民から圧倒的支持を得るだろう与党なのさ。と知ったかぶりしてみたけど合ってるかい?」
アズの言葉に田木が頷いた。
ソラが泣きそうな顔を俯けた。
社会の歪んだ部分を直視するのはまだソラには早過ぎると久重は隣を歩く小さな手を握る。
「だが、それだけならまだ私は会社の歯車として今も職にあっただろう。少しでも人々へ働きかける術があるなら、それに越した事はない。同じ国に住んでいる以上、私は彼らも守るべき国民だと思っている。しかし・・・」
今までの『前置き』を挟んで尚、田木の口は重かった。
「GIOは・・・政府と密約を交わした」
「それが狙われる理由か?」
久重に田木が視線を合わせた。
「もし、自衛隊へのジオプロフィット導入やジオネット法の拡大が全て茶番だったとしたらどうする?」
「茶番だと?」
「現代の戦争は経済活動の一部だ。利権が生まれるのは当然だろう。そこに漬け込むのは死の商人だけではないのだよ」
「一般論だな」
「GIOは政府に戦争が起こった場合、その危険区域に指定される場所の統治を『委託される』事を約束した」
「一種の特区ってわけか?」
「違う。地方の疲弊著しい日本で企業が主体となって地域を立て直すというのは昔から言われていた事だ。GIOはそれを戦争で実現しようとしている」
「嫌な想像しか出来ないんだが、あんたの言ってるのはまさか」
「戦時ジオプロフィットの指定区域がGIOの統治下に移行する。法、政治、軍事、経済、全てが『委託』という形で譲渡される手はずだ」
久重が空も見えない地下道で天を仰いだ。
「いつから企業が国を欲しがる世の中になったんだ?」
「一応の形は戦時ジオプロフィットの明確な指定と管理を行う為、自治体から自治権を一時的に借り上げる事になっている。事実上の国土分割に等しい」
「国土を守る為に国土を企業に売るか。確かに知れればGIOはこの国から追われるだろうな。矛盾してるどころの話じゃないだろソレ」
「一部勢力の政府高官が調印した契約書と詳細な資料は全て手に入れた。政府は私の裏切りがあるとは思ってなかったからか契約を闇に葬りたくなったらしい」
「そりゃそうだろう。今の官房長官は元々クリーンなイメージで売ってきた。企業経営手腕を大物から買われた起業家からの転身組みだ。こんな大スキャンダル喰らったら速攻アウトだろ」
「どうして解った?」
「そこの雇い主が激怒してる奴の話をしてたからな」
「そろそろ出るよ。久重」
「解った」
今まで先頭を行っていたアズの声に久重が前に出る。
一分もしない内に道の先、鋼鉄製のドアが現れた。
「殿は僕が勤めるよ。ソラ嬢と田木さんは彼の後ろから離れないように」
「私がお嬢さんの前になろう」
田木がソラの前に出る。
「おじさん・・・」
「叱ってもらったからな。少しは格好を付けさせてくれ」
「出るぞ。オレが出て合図をしたら出てきてくれ」
ドアに手を掛けた久重の耳元で声が囁く。
「(ひさしげ。ひさしげの周りに【CNT Defender】張っておくから)」
(ソラか?!)
思わず後ろを振り返った久重の耳にまた声が飛び込んでくる。
「(こっちは私が守るから。気を付けて)」
【ITEND】を使った何らかの通信手段なのだと気付いて、久重がジッとソラを見つめる。
「(私は大丈夫だから。ひさしげ)」
ソラが微笑んだ。
その笑みに何も言えず久重は頷く以外無かった。
「恋人みたいに分かり合うのは僕達がいない時だけにしてくれないかな? 久重」
「まさか君達はそういう関係・・・近頃の若者は進んでいると聞いてはいたが、まさかロリコンだったとは。避妊と認知はしっかりとな」
「ひにん?」
ソラが何の事か分からず疑問符を頭に浮かべる。
「お前ら大人なんだから少し空気読め!!」
ツッコミを入れてから久重が扉を開け素早く駆け出していく。
光の差し込む扉の先で久重が周囲を警戒した。
確認を終えた久重が手を上げた瞬間。
バスッと音がして久重の周囲の床に硬い金属音が響く。
合図するのと撃たれたのは同時だった。
*
GIO警備部特務外部班。
その肩書きは場所によってはそれなりの価値を持つ。
表向きは現場担当者クラスの高い地位であり、裏向きには各国の諜報機関に蛇蝎の如く嫌われる地位である。
一国の諜報機関よりも相当に高い給料。
各種の保険や危険手当。
更には様々な融通をGIOの他セクションに利かせる事も出来る。
そんな場所に生きている彼らの基礎能力は正規の諜報機関を超えるものだと言われている。
兵隊としても諜報員としても優秀な者達の集まり。
ある者は米軍からの離脱者であり。
ある者はCIAからの離脱者であり。
ある者はモサドからの離脱者であり。
ある者はMI6からの離脱者であり。
各国の組織からあぶれてしまった能力だけは無駄に高いアウトローをごった煮にしたような部署なのだ。
故に彼らは己を正しく評価し、自負もなく淡々と仕事をする。
出来て当たり前。
やれて当然。
それが彼らの身上であり、無能なものはいない。
「目標1を確認」
「風が東南から三メートル」
「了解」
スポッターからの適切な情報を元に僅かにライフルの銃口を調整した男が淡々と引き金を引いた。
「命中。いや、待て。足元に弾丸有り。当たっていないぞ」
「何だ・・・何か目標の周りに薄くて黒いものが見える。そちらで確認できるか?」
「確認した。何かしらの防弾装置だと思われる」
「このライフルの銃弾を受け止めるだと?」
「周囲の部隊に通達する。『ブラボー。目標に対して至近距離の銃撃を敢行せよ。尚、目標は徒手空拳であるが何らかの防弾装置を使用している可能性有り。銃撃で倒しきれないと判断した時は接近戦に持ち込め』」
『了解』
テナント募集中の窓から見える倉庫一階の駐車場。
敷地内立ち入り禁止の札を振り切ってマスクを被った男達が潜んでいた場所からと飛び出した。
サイレンサー付きの拳銃が幾度も火を噴く。
集中砲火で釘付けになった男の周囲にバラバラと弾丸が落ちていく不思議を目の前にしても男達は動じずナイフを取り出して襲い掛かった。
「『目標1に続き目標2、目標3、目標4を地下通路側から挟撃』これで今日の仕事は終われそうだな」
「・・・・・・・・・」
「おい?」
スポッターが横の相棒を振り向いた瞬間だった。
頭のあった場所から熱く間欠泉のように紅い温かな液体が噴出し、顔を染めた。
「へ?」
それが男の最後の呟き。
一秒後、男の頭部は綺麗に宙を舞った。
最後に男が見たのは遠い場所で部隊が目標1に叩き伏せられていく光景だった。
「あぁ、ターポーリン先輩。後はこちらに任せておいてくだい。ええ、今確認しました。それにしても彼強いですね。素手なのに特殊部隊上がりがポンポン投げられてますよ。ええ、はい。はい。それでは療養が終わるのをお待ちしてます」
声の主がボールでも投げるような動作でソレを投げる。
紅い血飛沫を振りまきながら、ソレは狙い違わず部隊を全て叩き伏せた男へと突き進み【CNT Defender】に止められた。
「卑怯臭い装備だよなぁアレ。幾らカーボンナノチューブ繊維を保存しておいて組み上げてるだけと言っても戦車砲とか自走砲レベルじゃないとどうしようもないとか。チート過ぎ」
声の主が端末を握り潰す。
降ってきたソレにうろたえた男の後ろ。
扉から出てくる人間の中に顔見知りを見つけて、声の主はその場から空へと飛び出した。
「ソラ・・・今、行くよ。【ITEND】 Multiplication Rate10。Increase Level7。Assist!!!!」
声の主が瞬時に久重の至近に到達した。
久重が気付いた時には黒いカーテンは引き裂かれていた。
「こんにちわ。そして、さようなら。見知らぬ君」
「!?」
そして、呆気なく、久重の片腕が宙に舞う。
「ひさ・・・しげ?」
続く少女の絶叫が戦いの幕が上がった事をその場の誰もに告げていた。
友よ。
そう言えぬ間となった少女を少年は詰る。
何故、消えた。
何故、帰らぬ。
溝に腕を伸ばしても得るは虚空。
そこに彼の者はいない。
第七話「その腕に掴むもの」
その手が欲するは過去に在らず。
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第七話 その腕に掴むもの
第七話 その腕に掴むもの
「戒十さ~~~~ん(涙)」
警察署の一角で任意の事情聴取を終えた了子は涙目で佐武に泣き付いていた。
「ええい!? 鬱陶しい!!」
羽田了子的に言うと佐武戒十は厳しい父親や歳の離れた兄のような存在と言えるかえもしれない。
「お前少しは反省しろ!?」
了子の取材手帳を没収した佐武が泣き付いてくる了子を振り払いつつ自分のデスクへと収まった。
寝ていない目元には黒いクマが浮いている。
「これ一つで拘留を免除してやってる俺の身にもなってみろ。本庁の連中が引き下がったのは以外だったが、本当なら取調べでずっと留置場だぞ」
「だって、テロリストなんてネタが!! ネタが悪いんですよ~~~~!!」
「ああ、お前のその頭の出来だけは褒めてやりたいよ・・・」
「え、本当ですか!?」
「少しも堪えてねぇ・・・」
げんなりした顔でデスクの上に手帳を広げた佐武がページを捲ろうとした。
「きゃ☆えっち♪ 佐武さんがそんなセクハラする人だとは思いませんでした」
署員達が一斉に佐武のデスクを振り向く。
「お・ま・え・はぁあああああああああああ!!!」
ついにキレた佐武に首根っこを掴まれた良子は署の玄関から摘み出された。
「一週間出入り禁止だ!! コピーを取り終わったら郵送してやる!!」
肩を怒らせて署の中に戻っていく佐武を見送って、了子は懲りる事なく事件に付いての思考を巡らせていた。
「とりあえず駅に行かなきゃ」
車も押収された為、徒歩で駅へと向かう。
道すがら了子は昨日得た情報を脳裏で整理していく。
人身売買が関わったビル火災と現場で確保された青年外字久重。
留守の外字宅で出会った親友と称する青年永橋風御。
海外からのテロリストを緊急に包囲した警察。
封鎖された地域で起こった不可解な異常気象。
地下道の闇から突如として出現した死に掛けの全裸男。
地下道の微かな光に見た外字久重。
親友と言っていた風御の話を総合した場合の外字の性格と何でも屋という職業。
(外字久重はテロリストと何らかの因果関係にあった。それは外字の何でも屋という職業に通じている?)
憶測は了子が最も嫌うものだ。
しかし、事実を元にした推測ならば出来る。
了子の中での外字久重は大学院という博識者達が集まる場所へ所属するインテリであり、同時に親友に言われる程のお人よしで、その性格故に何でも屋等という怪しい職業に就いている変わり者だ。
それが事実かどうかはともかく、情報を総合すると難儀な性格と仕事をしている貧乏インテリという事になる。
「事実は小説より奇なり・・・か」
駅の改札を潜ろうとして了子は電光掲示板に映る電車時刻が遅れている事に気付く。
『え~~~現在、復旧作業により一部区間に五分から十分の遅れが出てい―――』
(昨日の事件のせい?)
駅員に詳しい事情を訊き、了子はホームで電車を待つ。
(テロリストには結局逃げられたって戒十さんは言ってた。設備の不具合が起きたのは昨日の騒ぎの後。なら、テロリストは駅の設備の故障と何らかの関係があってもおかしくない。逃走に地下鉄の線路が使われたなんて漫画か映画の見すぎかもしれないけど・・・・・・)
了子が歯噛みする。
情報が圧倒的に足りなかった。
詳細な情報は手帳に書かれてある。
事実関係を整理するのにはやはり手帳を眺めるのが一番だと思っている了子にとって、手帳の没収は痛いペナルティーだった。
(でも、戒十さんには感謝しなきゃ。テロリストに間違われて射殺されるところだったみたいだしね)
心臓の止まった全裸の男を抱きかかえながら無数の光源に照らされて歩く。
そんな非常識な体験から現実的な感覚が麻痺していた了子だったが、今更に自分が実は死の淵に立っていたのかもしれないと内心で震えた。
(とりあえず調べなきゃならない事は四つ。外字久重の昨日午後十時から事件終結午前二時までのアリバイ。全裸男の身元と現在の安置所。外字久重が行っている何でも屋の実態。それからあの声の主について)
了子が今も耳に残る声を脳裏で反芻する。
綺麗な鈴を鳴らしたような声。
たった一言の声を自分の知識を動因して分析する。
(一瞬だからかもしれないけど訛りは殆ど感じ取れなかった。でも、発音に若干の拙さがあった。女の子としてもまだ中学かそれ以下くらい? だとしても、あの状況で凜とした声が出せるならメンタル面が強いはず)
ようやく来た快速に乗車して満員とは程遠い座席に座り揺られる。
(まずは情報。全部それからね。連絡取ってみよう)
端末は没収されていたが財布とその中のカードは無事だった。
未だに滅んでいない公衆電話のある駅に降り立った了子はさっそくテレホンカード(死語)を差し込む。
馴染みの情報屋が出るまでの数秒。
了子は何か言い知れぬ不安が己の内に蟠っている事を自覚して・・・・・・気合を入れ直した。
警察に渡さなかった頭の中のネタを頼りに良子は行動を開始する。
*
佐武が溜息を吐きながらデスクに戻ってくるとデスク前に数人の男達が待っていた。
「これは宮田さん。こんな所にどうしてまた?」
内心、苦虫を噛み潰しながらも佐武は嫌な顔一つせず男に挨拶する。
「いえ、捜査本部を立ち上げたはいいんですが、あなたがまだ重要参考人から取り上げた証拠をこちらに提出していないというので。こうしてわざわざ出向いてきたわけです。佐武警部補」
嫌味な顔一つせずにこやかに嫌味を言ったのは男達の統率者だった。
『宮田坂敏』(みやた・さかとし)五十二歳。
本庁からテロリスト捜索本部を任された実質的なリーダー。
幹部クラスのエリートだった。
警察官僚の見本のような男でもある。
その情報に脳裏で毒づきながら佐武がデスクをチラリと見た。
「コレ、有効に使わせて頂きます」
宮田がスーツから手帳を取り出す。
(この優眼鏡が・・・・・)
佐武が長身で細い宮田の容姿にそんな綽名を付けて一日。
その鼻に付く態度に佐武は苛立ちながらも顔には出さない。
「どうぞどうぞ。こちらも早く提出しに行こうと思ってたところだったので」
「そうですか? では、遠慮なく」
クソ高いテーラー製のスーツを颯爽と翻し部下を連れて巣へと戻っていく背中に佐武が小さく舌打ちした。
(全部取り上げていきやがる。捜査本部はどうなってんだ)
テロリストを確認したから包囲せよと本庁からやってきた宮田は佐武にとっていきなり家に入ってきた強盗もいいところだった。
混乱する現場を仕切り、訳も解らぬまま働かせられて、その上情報の一つも寄越さない。
何が起きているのか。
何一つとして署の人間は知らされていなかった。
ただ、捜査本部の要請に出来る限り協力するようにとの通達があった以外は他に何も無く。
テロリストの逃走という非常事態にも関わらず、マスコミは協定で黙らせて、捜査は粛々と水面下で進行している。
「こりゃ、そろそろ槍か雹でも降ってくるか」
ボソリと愚痴った佐武がデスクに戻ろうとすると、佐武の背中に声が掛かる。
「佐武さん。ちょっと」
同僚の一人がこっそりと呼ぶ声に佐武は去っていく宮田に気付かれぬよう静かに近寄った。
「何だ?」
「さっき通報があったんだ。何か銃声がしたと」
「何?」
「あの連中、本当は通報の内容を確認しに来たんだよ」
「どういう事だ?」
「テロリスト警戒してる時に銃声がしたなんて通報があったら報告しないわけには行かないだろう? それで上に報告を上げたら、今から本部で人員を派遣して真偽を確かめるから余計な事をしないようになんて釘を刺された」
「ついでに俺のデスクで手帳を見つけたと」
「そういう事。ちなみに通報があったのは東のシャッター街近くにある住宅地だ」
「住宅地っておい!? 連中、真偽の確認なんてしてる場合か!?」
「こっちもそう言ったが聞く耳無しだった。連中の言い分だと真偽が解るまでは関わるなだと」
「殆どが売り物件とはいえ、あそこらにはまだそれなりに人が住んでるはずだぞ!?」」
「テロリストはもうこの都市から逃げ出してるってのが公式見解なんだとよ」
「クソがッ、何が公式見解だ!!」
壁に思い切り拳を打ち付けて、佐武が拳を振るわせた。
「ほら」
「?」
「こんな事もあろうかとコピーしておいた。時間が無かったから重要そうな部分だけだが」
同僚が数枚のコピーを佐武に渡す。
「・・・・・・解ってんじゃねぇか。行ってくる」
佐武が同僚と拳を合わせ、その場を早足で後にする。
その背中を見ていた他の同僚達が同時に顔を見合わせる。
「さてと。全員解ってると思うが準備だけはしておけ。戒十さんが『お前ら早く来い』なんて言ってくるかもしれん」
頷いた誰もが仕事をこなしながら、その同僚の言葉に頷いた。
それから一時間後、準備は無駄にならず、数人の捜査員が事件現場へと応援に向かった。事件現場へ最後に駆けつけたのがテロリスト捜索本部だったという皮肉は署員達の溜飲を大きく下げる事となった。
*
咄嗟に脇を締めた久重は後方に跳んでいた。
叫びが響く。
それも束の間、瞬間的な大量失血が久重の意識を明滅させ奪った。
倒れこむ久重を田木が支える。
追撃を掛けようとした者の前に黒い嵐のような霧が吹きつけ、背後へと後退を余儀なくさせた。
「いきなりイートモードとか酷いなぁ。それが久しぶりにあった友人に対する態度。ソラ」
軽い調子で笑ったのはやや猫背の少年だった。
水色のパーカーに半ズボン。
外見上目立ったものはない。
十二歳かそこらの少年がふわりと着地する。
「メリッサ・・・・・・・」
激情に駆られながらもソラはそのまま久重と田木の前に不動となって己を盾とし、その少年の名前を呼んだ。
睨み付ける視線の苛烈さに少年が肩を竦める。
「そんな怒らなくても。君の未練を断ち切ってあげようって言う友人としての善意なのに」
「どうして此処にいるの?」
ソラが横目で駐車場の横に転がっている人間の一部を確認し、歯を噛み締めた。
「愚問だよ。ターポーリン先輩が上と掛け合ったおかげで君にもまだ生き残る芽があるって事を伝えに来たんだ」
「ターポーリンが!?」
「蘇生が間に合ったよ。新しいNDを運んだの僕だから感謝してくれてたよ?」
まるで天気の話でもするように少年が笑う。
「・・・・・・今すぐ帰って」
「今の君に僕が退けられるとは思えないけど」
「帰らないなら死ぬ事になるわ」
「怖い怖い。でも、死ぬのは僕より彼の方が先じゃないかな?」
「絶対に死なせたりしない」
「咄嗟にNDで血管の縫合と傷口からの出血を抑えたのは凄いけど、僕と戦いながら維持出来る?」
「あなたを倒せばいい」
「言っておくけど連中はもうオリジナルロットの解析を始めてる。オリジナルそのものは使えなくても、その解析情報は十分に活用されてる。言ってる意味解るよね?」
黒い霧に周囲を覆われつつありながらもメリッサと呼ばれた少年は動じない。
「どんなに情報を解析しても【Dシリーズ】以上のものは造れない。である以上、あなたが勝てる要素は無い」
「確かに君の【D1】の能力は最高だ。でも、それはあくまでオリジナルロットの超近似レプリカ増殖能力と博士の制御OSを搭載してるからに過ぎない」
「何が言いたいの?」
「つまり、劣化版だって目的特化で運用すれば」
ソラが硬直する。
『君の戦闘能力は超えられる』
耳元で声が囁き、ソラは脇腹からの衝撃に一階駐車場から矢のように吹き飛んだ。
「ターポーリン先輩みたいに」
周囲のコンクリート壁にぶち当たって土煙が上がる。
「最高の性能じゃなくても一芸特化で君の防御は抜けられる。ちなみに展開速度が遅過ぎるよ。ソラ」
「それが・・・どうかした?」
ガラガラとコンクリ片の中からソラが起き上がる。
「へぇ。でも、その場所から彼を助けられる?」
死に掛けている久重に意識を向けようとして、メリッサの顔が変形し、体が吹き飛んだ。
「大人を舐め過ぎだ。クソガキ!!」
駆け寄ったソラが久重の横に立つ。
「田木さん。あんたはアズと一緒に逃げてくれ」
「何が何やら解らないが大丈夫なのか!?」
「腕は回収しておくよ。後で繋げたかったら早めに切り上げてくるように」
田木とアズが今まで閉じていた口を開く。
通常では考えられない事態にも平静を失わないのは裏を歩いてきた人間故だった。
「とりあえず、あいつが復活する前に此処から退避してくれ」
田木とアズが顔を見合わせ、頷き合った。
「死なせるな。まだ、私はお嬢さんに恩を返していない」
「解ってる」
「いつものとこで待ってる。久重」
アズがブラブラと久重の腕を持って走り出す。
二人の背中がコンクリート製の壁を越えていった。
「ふ・・・ふふ・・・まさか、死に掛けの一般人に殴られるとは思わなかった。これもNDの能力?」
ズルズルと駐車場を滑っていたメリッサがゆっくりと立ち上がる。
その目に久重へ寄り添うソラの姿が映った。
「ソラ。君は間違ってる」
「博士は私に自由をくれた。久重が人の温かさを思い出させてくれた。私はもう戻らない」
「世界の全てを敵に回しても?」
ハッキリと頷くソラに今までの軽かった調子が嘘のようにメリッサが深く溜息を吐く。
ソラはその濁った瞳を真っ直ぐに見返した。
「僕にも勝てない君が?」
「もう解析は終わってる。あなたは【ITEND】で造った糸を周囲に張って、身体の動作を制御してるだけ。出力が小さくてもそれなら超人的な動きができる」
動きの速さを看破されたメリッサが嗤う。
「まぁ、それが連中の限界でもある。でも、それだけじゃ、ない!!!」
横にあった駐車場の柱の一つにメリッサが裏拳を叩き込む。
柱がそのたった一動作で中央から吹き飛んだ。
「!?」
「元々の肉体強度と筋力があってこそ、僕のNDは威力を発揮する」
「まさか、『開発』で体を?!」
ソラが目を見開く。
「君は僕がただの友達に過ぎないとでも思ってたの? あの場所で何かしらの能力を付与されていなかったとでも?」
「それは・・・・・」
「おめでたいなぁ。薬物にDNAドーピング。骨格強化手術にホルモン操作。君の友達は全員が君とは別系統の基礎改造の被検体だった。君も詳しい能力値くらい知ってるかと思ってたんだけど」
ソラの顔が何かに気付いて歪む。
「メリッサ。止めて・・・・」
ソラの言葉にメリッサが愉快げに笑った。
「止められないよ」
「博士はこんな事望んでなかった!」
「泣き言なんて聞きたくない。僕が聞きたいのは帰ってくるの一言だけだ」
「昔のあなたはあんな事しなかった! 人殺しなんて絶対したりしなかった!」
ソラは視界の端に転がっている誰とも知れぬ首の残骸に唇を噛む。
「裏の人間が何人死んだところで痛む良心なんて持ち合わせてない。何なら転がってる奴らも同じようにしてみようか?」
「止めて!? 昔のあなたは空が飛びたいって・・・それだけの・・・」
ソラが声にならず拳を握る。
「博士なら本当に翼か羽をくれたのかもしれない。でも、博士がもういない以上これが僕だよ。ソラ」
「メリッサ・・・」
泣きそうなソラに向けてメリッサが嗤い告げる。
「僕は【蜜蜂】(メリッサ)。世界平和を約束する人殺しだ」
「そんなのッッ?!」
「ターポーリン先輩から聞いたよ。君が『開発』されていない事」
「!?」
「あの博士が、あの馬鹿みたいに子供っぽい無慈悲で哀れなマッドサイエンティストが、君に手を出してなかったなんて笑ったよ」
メリッサの瞳に憎悪が宿り、揺らめき始める。
「僕達はいつも博士に構ってもらってる君を羨んでた。でも、そんな君を時には哀れんでもいた。自分の意思や思考をどれだけ弄られているのかと、それに比べれば自分達は何て恵まれている事かと」
「―――――――」
「だが、君は今も綺麗なまま、あの『開発』で頭の中にちょっと機械を据え付けただけで済んだ。偶には死体袋に入れられて、薬品付けにされてみたらどう?」
もうやり取りを見ていられなくなった久重が震えるソラの前に出る。
「おい。ガキ」
「僕が話してるのはソラだ。半死人は黙っててくれない? 黙って此処を去るなら追いはしない」
「テメェはクソだ」
「言葉には気を付けた方が―――」
「女の気を引きたいなら、少しはマシな顔で泣かせてみろッッ!!」
「―――――調子に乗らない方がいい。殺すのに一秒」
構える素振りすら見せず、メリッサが消える。
『要らない』
人間の視界では追いきれない速度を持った恐るべきメリッサの打撃が片腕を失った久重の腹へとめり込んでいた。
「死ね」
「お前が、なッッ!!!」
打撃に吹き飛ばされる刹那。
「!?」
メリッサの鉄筋コンクリートの柱すら打ち砕く一撃を受けた久重が残った腕の肘と膝で伸び切ったメリッサの手首を捉えていた。
メキリと何かが割れる音と共にメリッサが久重の前から消える。
『ッ』
再び姿を現したのは久重達から数メートル前方だった。
メリッサが吹き飛んでいく久重に対し追撃を掛けようとした直前。
「NO.00“closed jail”ッッ!!」
駐車場全体の気温が一気に数十度下った。
「く!?」
一早く反応したソラの【ITEND】による周辺熱量吸収に出遅れ、メリッサの動きが鈍る。
(退避!?)
瞬時に判断を下し、駐車場から外へと転がり出たメリッサが今まで自分がいた場所に眩い光が現れるのを見た。
「“Fire Bag”で友達を焼き殺そうとするなんて人の事を言えるの。ソラ」
「私はひさしげを守る。そう決めたの」
メリッサが久重の腹部に黒い液状の何かがベッタリと張り付いているのを見て瞳を細める。
(対衝撃防御? NDを凝集させて、やっぱり基本性能が違い過ぎる)
「最初から知ってたみたいに反撃かぁ。あなたソラが守ってなきゃ上半身と下半身が分かれてましたよ?」
「頭に血の上ったガキがどう攻めてくるかなんてお見通しだ。真正面から来る拳なら見えなくてもインパクトの瞬間にカウンターくらい取れる」
「漫画の読み過ぎって言われません?」
「ソラを信じてる。それだけで十分試すに値するな」
軽口で返されてメリッサが閉口した。
「ひさしげ」
久重に駆け寄ったソラが残った片腕に自分の胸を押し付ける。
「ソラ?! な、何して!?」
「ひさしげが博士から貰った力があればNDは止められる。だから」
「アレか!? だが、出し方とか解らな―――」
ソラの額に微かな光の文字が連なり、久重の手に触れた胸から光が寄り集まっていく。
【ITEND】Annihilation Mode。
Energy Source 【SE】。
Full Drive。
(これが先輩の言っていた【D1】の裏モード!? でも【SE】の効果範囲圏外なら!!)
急激に周囲の温度が下っていくのを黙ってみているわけもなく。
メリッサが超高速でその場から離脱しようとした。
「―――ッッッ?!」
久重が走り出す。
(体が動かない!? 何をされ!?)
ハッとメリッサが気付く。
駐車場の中、一人でこちらを見つめているソラの額の文字が浮いていた。
Coupler Mord。
結合。
その意味にメリッサが思い当たる。
久重の腹部に集積されたNDへ大量接触していた事に。
「ソ、ソラァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!?」
他のNDを己のNDで抑制し、更には無理やりに結合するというデタラメさ。
NDの能力差が単純なミスを致命傷に変えていた。
もしも、拳ではなく手刀による切断だったならば、接触時間と面積故に起きなかったはずの隙だった。
(NDのパージが間に合わない!?)
駐車場周辺の光が急激に遮られていく。
「歯ぁ食い縛れッッ、ガキ!!!」
ソラの額に紅い文字が浮かぶ。
NO.000“Exhaustion Crest”
接触の瞬間、久重の拳が白い篭手に覆われた。
『エグゾーション・クレスト』
「「!?」」
拳に顔面を打ち抜かれた瞬間、メリッサはその声に驚愕する。
同様にソラも凍り付いた。
駐車場傍の民家の塀を突き破り、窓も樋も扉も何もかもを突き破って、メリッサの意識はそこで途切れた。
*
「博士?」
『二回目の発動おめでとう。これは言わば君達に与えた力の解説となる。遺言とは異なり事実のみを伝える為の音声だ。色々と疑問が尽きないだろうが、最後まで聞いてくれたまえ』
「博士・・・・」
『見知らぬ君よ。君に与えられた力は私が生み出した【ITEND】を完全停止させる信号を直接ND使用者に打ち込む事で無力化するものだ。この能力は基本的にソラから【D1】の貸与という形で使う事ができる』
「ソラ。悪い・・・・後は任せ・・・・」
ドサリとその場で久重が崩れ落ちた。
「ひさしげ!!」
駆け寄ったソラが久重を抱えて歩き出す。
ソラが歯噛みした。
(どうすれば、このままじゃ!?)
『【D1】は正式な【Dシリーズ】の一号機。他のオリジナルロットの目的特化型とは違い汎用型だ。その能力は他ロットに先鋭的な部分でこそ劣るものの、総合的な値では最高の能力を有している』
NDによって現状を維持する事は出来るが、ソラに出来るのはそれだけだった。
基本的な治療がそもそも出来ない。
重大な症状が生じてもソラは根本的な治療など出来ない。
久重が先程まで動けたのは傷口の組織をNDで応急処置をしたからに過ぎないからだ。
それでも意志の力が強くなければ片腕が無い状態で立ち上がる事など不可能に違いなく、危険な状態であるのは今も変わっていなかった。
『今日も一人退けた君に感謝する。では、また次の機会に』
博士の声が途切れる。
久重を抱えたソラがジオネットに接続、周囲の地図を確認し、アズ達が逃げていった方角へと歩みを進める。
しかし、アズ達が見つからない。
人通りの多い方角へと向かっている事に気付いてソラの足が止まった。
出来れば公的な病院は避けたかった。
迷惑どころの話では無くなるかもしれないし、人死が出かねない。
更にソラの内心を曇らせていたのは久重が危ない事に関わっていると誰かに知られる事だった。
久重の人間関係が裏のものばかりではない事は共に数日過ごしただけでソラには十分理解できていた。
ライオンのような大学の上司に健気な大和撫子。
きっと、他にも久重には大勢の友人がいて、そんな友人関係を壊すかもしれない噂や事実は他人の目から遠ざけておくべきものに違いなく。
「ひさしげ。いつもの場所ってどこ?」
「・・・・・・・・・」
そっと聞いて、やはり目覚めない久重を前にソラが涙を堪えた。
(もし、本当に危なくなりそうだったら・・・病院に行こう)
それでまた襲われるような事があれば、その時は自分の命を賭けて全てを守る。
それでいいとソラは己を納得させた。
ルルルルルルル。
「!?」
ソラが久重のズボンの振動に気付き、それが朝朱憐に渡された端末だと気付いた。
「は、はい。こちらソ・・・外字です」
慌てて取り出した端末に出て、ソラが久重の苗字に言い直す。
「朱憐ですわ。あなたはソラ・・・さん?」
「あ、えと、ひ、ひさしげなら今少し出てるから、それで家に置いてあったコレ届けに行く最中なの」
「まぁ、ひさしげ様ったら」
「い、今ちょっと立て込んでるから、ひさしげ見つけたら渡しておくから、その、ごめんなさい!!」
ブツリと通話を切って、ソラが道を急いだ。
再びの着信。
出ずにやり過ごそうとしたソラが先の番号とは違う着信である事に気付いた。
「は、はい。外字」
「ソラ嬢? ひさしげの様態は」
「あ、アズ!!」
「無理してたからそろそろ倒れてる頃じゃない?」
「い、今、ひさしげ倒れちゃって、それで!!」
「状況は解ってる。今、そっちに向かってるから端末の電源はそのまま。すぐ先の左側の路地で」
「は、はい!!」
「それと僕をアズと呼び捨てにする場合はそれなりの覚悟をしておいて欲しい」
「ア、アズさん?」
「ふ、ふふ、別にアズでいいよ。からかっただけさ。敬語も不要だ。君にはそれだけの資格がある。ソラ・スクリプトゥーラ嬢」
こほんとアズの声が仕切り直しを告げる。
「これから医者のところに向かう。腕の保存状態は良好だから繋げるのに問題は無いだろう。君にも協力してもらうよ。君の持ってるNDがあれば神経系の接続や骨の接合も十分に出来るだろうし」
「ッ」
ソラの手がギクリと強張る。
「とりあえず難しい話は全部後だ。今は久重の事を最優先に」
「う、うん」
やがて、ソラの待つ路地にクーペが走り込んできた。
アズと田木、ソラの三人は久重を連れてその場を後にした。
曇天の空に僅かな光の兆しが現れ、少しずつ晴れ上がっていった。
*
「・・・・・・・・・」
意識を取り戻したメリッサが動こうと手を持ち上げようとして、その手が内側から弾け飛んだ。
「――――――僕もこれで終わり・・・か・・・」
穏やかに己の死期を受け入れ、メリッサは先に行ってしまった友人の姿を思い浮かべる。
(呆気ないなぁ。でも、これで・・・・・・)
メリッサの肉体のあちこちで内側からの圧力に耐え切れず破裂が起き、血飛沫が上がる。
膨大な量の筋肉がメリッサの肉体を内側から圧壊させつつあった。
無数の改造を受けた筋肉は骨格や内臓を己の圧力だけで壊す程に肥大化している。
メリッサのNDは基本的にそれを押さえ込み、精密制御する為のものだった。
ガシャンと音がして、瓦礫に埋もれていたメリッサの前に手が差し出される。
その手の上には黒い玉のようなNDの塊があった。
『随分と手加減したようで』
玉から発せられる声にメリッサが笑う。
「あぁ、ターポーリン先輩」
『そのまま死ぬつもりですか?』
「それもいいかなぁって思いますけど」
『任務の完了は報告を持って行われるものだと教えたはずですが?』
「【D1】は能力の封印を解かれている。これは間違いないかと。でも、リミッターが掛かっているって先輩の推測は当たりです」
『根拠は?』
「ソラは未だにあのND無効化以外に二種類しかプログラムを使用していない。たぶん、使わないのではなく使えないからと考えるのが妥当でしょう」
『では、あなたには引き続き、情報収集の任を受け持って貰います』
「殺さなくてもいいんですか?」
『上には博士が独自にリミッターを設けている為、過去の力は余程の事が無い限り復活しないと言い添えておきました』
「瀕死の重傷でも負わせなければ?」
『ええ、しばらくは様子見をしながら、時折人員を当てて力を見る。それでも安定していれば安全に【D1】を回収する方法を探るという事で落ち着きました』
「・・・・・・この善人」
ボソッとメリッサが呟く。
『善人は人殺しをしたりしないでしょう。ましてや過去の仲間を本気で殺そうとも』
「【D1】が起こした悲劇だけは避けなければならないと上を煽っていたのは先輩ですよ?」
『だからこそ、殺す以外の方法を模索するのも手の一つとしては切り捨てられない』
「了解しました。先輩」
メリッサが残った腕で黒い玉を掴み取り、
「――――」
口に運んだ。
警察が駆けつけた時に見つけたのは凍りついた駐車場と瓦礫と化した売り家。
それから駐車場の地下に続く崩落した通路だけだった。
一時の休息。
誰も休まず夜は越えられない。
戦う者の仮面を剥がして、人は安寧を得る。
ただ、それを外せない者以外は・・・。
第八話「長椅子に寝子」
永き眠りに落ちる日まで、その面に微笑むは悪魔か。
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第八話 長椅子に寝子
第八話 長椅子に寝子
【黒い隕石】(ブラックメテオ)。
その当時、世界を滅ぼすとされた巨大隕石。
人類の科学技術では破壊不可能とされたソレが落ち、人類は滅びるはずだった。
しかし、人類は生存してしまった。
その矛盾に科学者達が挑んで結果を得るまでに十数年の時を要した。
「解った事はたった二つ」
教師のチョークが箇条書きで事実を羅列する。
「一つは【黒い隕石】が日本上空十五キロ地点で最後に観測された事」
学生達のやる気が底を尽いている為、その声に反応するものは一人もいなかった。
「一つは【黒い隕石】が日本上空で消失した事」
流れる汗を拭い教師が巨大な疑問符を描く。
「今現在も研究が続けられていますが【黒い隕石】の消失原因は未だに解っていません。そして、国連は【黒い隕石】事件当時の混乱時に出た被害がどれ程になるか未だに完全には把握してないと言われています。
その当時、各国の混乱は凄まじいもので諸外国では暴動と治安悪化、紛争などが起こっていましたが、その殆どの記録が残っていません。これは警察の治安維持機能が完全に麻痺し、公務員やそれに順ずる人々、高額所得者などを狙った犯罪が莫大な数に上った為です。
その当時の国が今は政府も無く無法地帯として放置されているところもあります。特に第三世界での混乱は各地で虐殺を誘発し、アフリカ大陸だけでも推定四千万人が死亡しました。滅んだ民族も多く、生き残った人々も民間からの支援でどうにか耐え凌いでいるのが現状です。
殆ど犯罪発生率が変わらず、大きな暴動や紛争が起こらず、他国からの侵略すら無かった日本は世界でも例外的な扱いと言っていいでしょう。国連加盟国の半数以上が政府の機能不全に陥った後、全ての国にいち早く支援を行った日本が国連での指導力を発揮しているのは皆さんも周知の―――」
布深朱憐にとって世界は謎に満ちている。
それは所謂世界が滅びなかった理由とか今世紀最大の謎とか学校七不思議的なソレではない。
オカルトなど眼中にない。
あるのはいつの世も女と男の間に蟠(わだかま)る深くて長い溝だ。
例えば、いきなり外字久重の前に現れた美少女とか。
朱憐の知らない間に家に泊まっているらしい美少女とか。
自分と同じ表情で外字久重を見る美少女とか。
朱憐にとって問題なのはソレだ。
どうしたらいいのかと混乱したままお昼を過ごし、混乱したまま体育を受け、混乱したまま渡したばかりの端末に電話してみる。
そして、何故か端末に出るのは朝方に紹介された少女で忘れ物として端末を届けに行くと一方的に告げられて通話が途絶えてしまう。
「・・・・・・ぅぅ」
パタリと朱憐の縦ロールがゆるふわカールのように萎びた。
「ひさしげ様・・・・・・」
昼休み。
年頃の女性が男性の部屋に寝泊りするという衝撃的な事実についてどう対応したらいいか朱憐は友達にアドバイスを受ける事にした。
朱憐の友達の多くは快く相談を受け、顔を真っ赤にし、何やらヒソヒソと話し合った後、アドバイスを行った。
曰く。
『家の方に調査を依頼してみては如何でしょう?』
『ここはその殿方が布深さんをどう思っているのか直接的に訊いてみては如何かしら?』
『それにしてもその殿方も殿方です!! 布深さんがこんなにも心を痛めているというのに』
『布深さん。負けちゃダメですよ!! 幾ら若い子が良いと殿方が言ってもきっと最後には戻ってきますから!!』
男女七歳にして同衾せず。
旧い話とは解っていてもそう教育されてきた朱憐にとって今朝の久重とのコミュニケーションは刺激的過ぎた。
友人達からのアドバイスを聞いても更に心が重くなった。
朱憐にとって久重に対する不安とは未だ強固な信頼関係を築けていない事を意味した。
お世話になった大学教授の娘さんが遊びに来ているというだけの話に衝撃を受けているのは久重と自分が未だ『そういう関係』とは程遠いからに他ならないと朱憐は自覚する。
恋は闘争。
奪われてしまえば帰って来ない。
友人達の話を総合して、朱憐にはそう聞こえた。
自分には誰かと争うなんて向いていないと思う。
しかし、諦められるものではない。
朱憐は自分がお嬢様であると自覚がある。
女性が運命という言葉に弱い生物であるとの知識もある。
それでも特別な人というものが家族以外にも存在するのだと朱憐は知った。
知ってしまった。
初めて久重と親しく話した日から胸に積み上がっていく感情と記憶を否定出来ない。
何かの本で読んだ知識では三年もすれば本能的な愛は醒めるとあった。
だが、胸に降り積もるものが三年で熱を失うとは朱憐には到底思えなかった。
『では、これでホームルームを終わります』
気付けば放課後。
朱憐は友人達に挨拶しながら学校を後にする。
傘を差して歩き、端末を見つめつつ、今一度電話するべきか悩む。
思い切り躊躇してから電話を掛けた。
『はい。お嬢様。何か御用でしょうか?』
(うぅ・・・わたくしの意気地なし・・・)
使用人への電話に変更してしまう自分の情けなさに肩を落としつつ用事を告げる。
「ひさしげ様のお家に寝具を一式配達しておいて頂戴」
『畏まりました。あの【小屋】に相応しいものを一式ご用意しておきます』
「お願い」
『帰りの車は如何しますか?』
「今日は歩いて帰りますわ」
『そうですか。では、湯女達を何人か見繕っておきますので』
「それと・・・・・・」
言い掛けて止まり、己を恥じながらも朱憐は続ける。
「ひさしげ様のお家に女の子が一人泊まっていて・・・少し調べて欲しいの」
『畏まりました・・・・・・』
「な、何か言いたそうですわね?」
『いえ、お嬢様も御家の力をそういう事に使われるようになったのかと。少し時間を感じてしまいまして』
「よ、余計な事はいいです!? と、とにかく家に帰るまでに調べておいてください!!」
『はッ、畏まりました。それでは』
通話を切った朱憐が溜息を喉の奥に呑み込んで空を見上げる。
「ひさしげ様の馬鹿・・・」
己の嫉妬に微かに頬を染め、傘で顔を隠した朱憐は帰り道を急いだ。
*
「―――――――――――――――!?」
思い切り起き上がろうとして全身に激痛が奔り、久重は自分が黴臭い寝台に寝かされている事に気付いた。
視線だけで辺りを見回して、眠りこけている少女を見つける。
「ソラ・・・・・・」
「ようやくお目覚めかい?」
頭上から掛かった声に驚きもせず、久重は内心の緊張が解けていくのを感じた。
「あれからどうなった?」
アズが久重の横の椅子に腰掛けた。
「ソラ嬢に担がれてクーペで回収。闇医者に見せてどうにかね」
「よく繋がったな」
片腕の感覚がある事に驚きつつ、久重はソラのおかげなのだろうと内心感謝で一杯になった。
眠りこけているソラの肩に掛けられたタオルケットが徹夜での看病を物語っていた。
「ソラ嬢に感謝するように。彼女のNDが無ければリハビリで元に戻るまで数年は掛かったかもしれない」
「・・・知ってたのか?」
「何も知らないよ。理解できるのはソラ嬢が使っている力の正体ぐらいさ。それでも十分状況を想像するのは容易だけどね」
「なら、そういう事だ」
「あの域のNDなんて後三十年は出ないと思ってたんだけどなぁ」
「そんなにソラのアレは進んでるのか?」
「凋落した大国を再び再興する程度には」
「そこまでの・・・・・・」
「現在のNDは莫大なコスト問題を除けば夢の医療機器で工業機械で兵器だからね。その使い道は千差万別。特定部分の腫瘍を壊滅させるだとか、ナノレベルの精密作業でしか造れないものを容易く作るとか、人体に致命的な損傷を与えるとか、色々と使い道がある。でも、転用分野が莫大な数に上ってもコストの問題で殆どの分野に導入できないってジレンマを抱えてる」
「コストに見合う利益が出ないわけか」
「そう。でも、もしそのコストを劇的に下げる事が出来たら・・・・・・そういう意味でその子のNDに遣われている技術は数十兆ドル以上の価値がある」
「す――――」
久重が絶句する。
「SFチックな国と戦場が増えればそれくらいの価値は幾らでも湧くさ」
(いきなり話がでかくなったな)
久重がソラの寝顔を見る。
簡単に事情を説明されていたとはいえ、そこまでの大事と実感していなかった久重にとってアズの言葉は十分に自分の置かれている状況が悪いものなのだと感じさせた。
「アズ。シラードエンジンって知ってるか?」
アズが僅かに片眉を上げた。
「・・・・・久重。いつから人類の未来とか背負いたい人間になったんだい?」
「数十兆ドルに人類の未来とか。最後には宇宙でも救えばいいのか?」
アズが久重のぼやきに思い切り溜息を吐く。
「元々、NDは【マックスウェルの悪魔】を実験装置で実証した事から研究が飛躍的に進歩した。そして、その【マックスウェルの悪魔】を使って空想上の無限機関を想像したのがレイ・シラード。故に彼が考えたエンジンはシラードエンジンと呼ばれてる」
「そいつはどういう奴だったんだ?」
「現在の原子力研究の基礎を作り、確か原爆にも関わってたかな」
「物騒な奴だったのは理解した」
「とんでもない。彼は原子力の兵器的な運用には反対の立場だった。技術そのものには関わってたけど、その研究が無きゃ世界中の経済成長を支えた原子力エネルギー供給は不可能だったし、二十世紀中の飛躍的な工業発展も有り得なかったかもしれない。悪人と彼を謗る者もいるだろうけど、確実に人類の発展に貢献した一人だよ」
「ん・・・?」
薄らとソラの瞳が開き始める。
(話はここまでだ。とりあえず飯でも持ってきてくれ)
アズが仕方なさそうに頷いて古びた木製の扉から出て行った。
「ひさ・・・しげ・・・?」
「おはよう。ソラ」
「ひさしげ!?」
完全に目を覚ましたソラが慌てて立ち上がった。
「だ、大丈夫!? ひさしげ!!」
「問題無い。今、アズに状態は聞いた」
「そ、そう」
ほっと肩を下ろしてソラがパイプ椅子にへたり込む。
「良かった・・・」
「心配掛けた。悪い」
「ううん。ひさしげが無事ならそれでいい」
微かに紅い目元に久重は何も言わなかった。
泣き腫らしたのだろう紅い目が全てを雄弁に語っていた。
「ありがとう。ソラ」
ソラが鼻を啜る。
「・・・うん」
突如、扉が開いた。
「「!?」」
「大丈―――済まない。出直してくるとしよう」
二人の間に漂う空気を読んだ田木が一瞬で踵を返そうとして、慌てた二人に止められた。
*
酷く静かな画廊で白いスーツ姿の青年ターポーリンが色鮮やかな絵画には目もくれず道を急いでいた。
その行く手には有名な絵画がズラリと並べられている。
ゴッホ。
ゴーギャン。
ルノワール。
無論、全てが贋作。
それでも照明に照らし出される絵画は人の目を楽しませるには十分かもしれない。
歩き続けるターポーリンがようやく見えてきた道の先の扉に目を細める。
扉の前に立ち、ノックは二回。
どうぞ。
穏やか声にターポーリンが無言で扉を開けて部屋へと入った。
内部には天井の照明、机とテーブルが一つずつ。
白い壁紙が照り返す光にターポーリンは一瞬眩暈にも似た錯覚を覚えた。
革製の椅子に腰掛けているのはグレーのスーツを着た初老の白人。
ターポーリンに視線を向けたその男が呆れたように口を開いた。
「せっかくの療養期間だ。少しは回廊で目を楽しませてきたらどうだね」
「すいません。生憎と芸術には疎いもので」
ターポーリンの減らず口に肩を竦めて、男が机の上の封筒を手渡した。
「ご要望通り。ファイルは揃えてある」
「ありがとうございます」
ターポーリンが受け取った封筒の蝋の印を確かめて脇に携える。
「それで今回は随分とやられたらしいが体の方は?」
「おかげさまで寿命が半年程縮みました」
「そうか。君の我々への忠誠には頭が下るな」
「それ程でも。死に損なって多少恨みこそしましたが、やるべき事が残っている事を思えば些細な話です。まだ、私の人生にはロスタイムが残っていた・・・この時間は幸運と言えるかもしれない」
「随分と前向きだ。ふむ」
男が机の引き出しから取り出したものをターポーリンの前に置いた。
「使ってみるといい。君にならば可能性が無いわけでもない」
ターポーリンが置かれたモノを見て体を強張らせる。
「オリジナルロットの解析は未だ順調に進んではいないと聞いていましたが?」
「これはオリジナルロットではない」
「まさか、超近似レプリカの?」
ターポーリンがマジマジとその机の上に置かれた白銀の玉を見つめる。
「いや、我々が持つ近似レプリカを十分の一注ぎ込んだ特注品だ」
「よくそんなものを造る許可が下りたのものです」
「増殖中に出た不良品を固めたものだ。工作精度は超近似レプリカと比較しても六十七パーセント以上。現在の我々に製造出来る物の中では最上位に近い性能を持っている」
「この死に掛けにコレを渡す理由は何です?」
「ただの餞別だ。死に往く君への」
「・・・そういう事にしておきます」
ターポーリンが玉を掴んで、その場から立ち去ろうと背を向ける。
「また、会おう。今度は検死現場だろうがな」
「そうなる事を願っています。では、これで」
ターポーリンが部屋を後にした。
しばらく、扉を見つめていた男が端末を取り出して電話を掛ける。
「ああ、私だ。今渡したよ。君の言う通りに」
電話越しの声が男に礼を言った。
「君は本当に容赦が無い。彼はあれでも我々の為に最も働いてくれた駒だ。少しは感謝するべき存在だと思うが」
電話越しに幾つかの言葉を聴いた男が瞳を伏せる。
「解っているさ。【SE】が消えた以上、彼にはまだやって貰わなければならない事が山ほどある」
男が眉間を揉み解した。
「だが、それでもだ。君だってまだ人間を止めたくはあるまい?」
相手が沈黙した事を肯定と受け止めて男は笑った。
「ではな。次の会議で会おう」
端末を床に落として男が思い切り踏み潰した。
「・・・悪魔が笑っているか・・・」
部屋の照明が落とされ、声は途切れた。
*
長い長い坂道を転がりながら消えていく石ころを見送って、了子は上がった息で吐いた。
街の端。
住宅地造成を急いだ都市計画の弊害は山間部近くのニュータウンを坂道の多い年寄りに優しくない世界へと変貌させている。
遠い昔、まだ都市がそれ程アスファルトに囲まれていなかった頃、山に近い場所では自然が溢れていた事を了子は未だに覚えている。
しかし、その名残も見当たらない坂道を登るだけ記憶は薄れ曖昧さを帯びた。
(タレントのおっかけ連中も中々侮れないわよね。こういう事とか知ってたりするんだから)
了子が贔屓にしている情報屋は元々タレントのおっかけを専門にしている。
情報機器の近代化や端末の手軽さ高性能化に伴い、情報を収集し発信するのはその筋専門の人間だけとは限らなくなっている。
人間が三人以上いる場所の情報なら大概は何処かの誰かが知っている。
了子が掴んだのは外字久重の居場所だった。
情報屋を名乗る素人も千人集まれば玄人と代わらない働きをする。
一見まったく関係なさそうな情報でも幾つも集まれば別の情報を浮き彫りにしてしまう事がある。
タレントの家の近くで起きた騒動の写真の画像や映像。
明らかに不審な車を思わず撮ってしまった一枚やネタとして提供される一枚が実は重要な情報を有している場合もある。
サーバーの大容量化と高性能化が進行した昨今、自分で取得したデータを全て特定のサーバーにUPしておく事はそう特異な事でもない。
クラウドコンピューティングの浸透によって、そういった特定の情報を端末で受け取るだけという人間も少なくないし、GPS情報を常時送信し、ジオネット上での利益を移動するだけで溜めていく輩も増えている。ログや保存されているゴミ情報が本人さえも忘れてしまうような真実を教えてくれる事もある。
了子の掴んだ外字久重の情報もUPされたゴミ情報からピックアップされたものだった。
(ここから先の地域であのクーペが確認されていないなら、直前の目撃情報や位置情報から言って近辺で下ろされている可能性が高い)
了子が端末に画像を表示する。
それは一台のクーペだった。
不審車両として一般人に取られた一枚は確かに後部座席でグッタリとしている久重を捕らえていた。
問題はそれだけではない。
車を運転する如何にも胡散臭い笑みを浮かべる女や屈強そうな四十代前半くらいの男。
更には金色の髪で久重にしがみ付いている少女。
(これが【あの子】なのだとしたら)
了子が脳裏でテロ事件の暗闇で聞いた声と少女を重ねる。
「・・・・・・・・・」
了子のジャーナリストとしての勘が言っていた。
大当たりだと。
(それにしても長過ぎだから、この坂)
下ろしたばかりのなけなしの万札でタクシーを拾って二時間。
最後にクーペが確認された場所まで辿り着いてから歩いて情報を収集している良子の脚はクタクタだった。
(これで・・・何も見つからなかったら・・・お笑い・・・よね・・・)
歯を食い縛って食い縛って坂の上に立った時、了子の視界が開ける。
夕暮れの町並みが地平の彼方まで続き広がる景色。
「綺麗・・・・・・」
思わず呟いて、背後からの影に気付き良子が振り返る。
「!」
それは教会だった。
密集する家に阻まれて見えなかった坂の上の聖堂。
フラフラと導かれるように良子の足がそのドアへと向く。
十数年前に造成されたばかりの場所だというのに木製の扉はまるで長年使われたかのような光沢を放っている。
「――――」
無言で了子が扉を内側へと押し込んだ。
ギギギィィィと軋んだ扉が内側に開く。
内部の薄暗い長椅子の列に夕暮れの日差しが当たっていた。
誰もいない内部へと入り込み、折れそうなヒールでコツコツ音を響かせながら、良子は不思議と疲れが和らいでいくのを感じていた。
「どなたか居ませんか?」
シンと静まり返った講堂の内側でパイプオルガンだけが夕暮れに輝いている。
「・・・・・・・・・」
しばらく休ませて貰おうと良子が長椅子にへたり込んだ。
ふぅと一息吐いた了子が静寂に耳を澄ますと僅かに開かれたままの扉から風が吹き込んで来るのが解る。
頬を撫でた風の行き先が何処かと視線を彷徨わせた時だった。
壇上脇の入り口から、その少女が現れた。
「ふぇ?!」
「―――――?!」
夕暮れに照らされた金色の髪。
響いた声が講堂に反響し、了子の耳に余韻を残した。
驚きに固まっている少女が何か行動を起こす前に了子が静かに声を発した。
「貴女は此処の方かしら?」
「あ、えと・・・少しお祈りをしてて・・・ちょっと探検・・・」
了子が内心の滾りを抑えた。
少女の言い訳が、少女の声が、少女の仕草が、了子に多くの事を教えていた。
外国人の少女は日本語が堪能だ。
その上でとても正直だ。
少女の視線が泳ぎ、壇上脇の入り口に一瞬だけ合わせたのは、その奥に少女の気になる事があるから。
今までの何もかもを神に感謝してもいいと良子が少しだけ唇の端をにやけさせる。
「そうなんだ。奥に誰かいた?」
「え・・・ぅ・・・」
困る少女の顔だけで了子には十分だった。
「それじゃあ、私も少し探検しちゃおうかな」
優しく言って、了子が立ち上がる。
それに敏感に反応した少女はまるで怯えた猫のようだった。
「ねぇ。貴女の名前は何て言うの?」
「な、名前・・・?」
「ええ」
「聖・・・聖空(ひじり・そら)・・・」
「ひじり・・・そら・・・さん?」
ゆっくりと歩み寄っていく了子を前にして車を目前とした猫の如く硬直したソラが瞳に困惑の色を示す。
「そう。良い名前ね」
了子がもう一歩でソラの横に立とうという時。
「すみません。そろそろ此処は閉めますが何方かいらっしゃいますか?」
了子が振り返る。
扉の外から入ってくるのは修道服を着た老齢の女性だった。
「あら? これは可愛い娘さんが二人も。こんにちは。いえ、こんばんわ・・・かしら?」
「此処の方ですか?」
了子の問いに女性が柔和な笑みで頷く。
「はい。ここの管理を任されている藤啼(ふじなき)と言います」
「藤啼さん?」
「今日はこれから友人が来る事になって少し早く閉めに来たんです」
悪戯っぽくウィンクするお茶目さに了子が「そうなんですか。残念です」と肩を落とすフリをする。
「ちょっと坂を上ったところにこんな場所があって驚いて。それで入ったんですけど、此処は平日には?」
「はい。祝日以外は毎日朝八時から午後六時三十分まで」
「なら、出直してくる事にします」
「礼拝にはパイプオルガンの演奏もあります。どうかお気軽に来て下さい。いつでもお待ちしてますよ」
笑みに「はい」と頷いて了子が扉の方へと歩いていく。
「ところで貴女はこの方のお知り合い?」
了子を見て言う藤啼にブンブンとソラが首を振る。
「そうですか。では、もう遅いですから保護者の方に連絡を入れて向かえに来て貰いましょうか。それまでは此処で過ごされて結構ですから」
了子が扉の外に出ると藤啼がそっと一礼する。
「では、またの機会にお越しを・・・ふふ・・・」
パタンと閉められた扉に鍵が掛けられる。
あっという間の出来事にソラは何も言えずにいた。
ソラへと振り返った藤啼がそっと片目でウィンクして人差し指を唇に当てる。
「!」
ソラが驚くと藤啼がチョイチョイと壇上脇を指差す。
そこにアズの姿を認めてソラは全て理解し、ドッと疲れた顔でその場にへたり込んだ。
『・・・・・・・・・』
閉まった扉の先でどんな会話が行われているのか。
耳を済ませていた了子は暗くなり始めた辺りを見回して、車の一台も止まっていない事を確認し、その場を後にする事にした。
坂道を降りる途中何度か立ち止まり見上げた教会もやがて見えなくなる。
(聖空。外字久重の秘密に繋がる鍵。あの子は一体何を知っているの?)
もう見えない教会の方角を振り向いた了子の瞳には少女の姿が今もハッキリと焼き付いていた。
(間違いない)
テロリストの包囲事件現場で聞いた声は少女のもの。
了子は確信を深め帰路に着いた。
*
「紹介するよ。此処のオーナー兼管理者。藤啼三郷(ふじなき・みさと)。僕の友人の一人だ」
横になっている久重の部屋に田木とアズ、ソラ、藤啼が集まっていた。
紹介された三人が一斉に藤啼を見る。
柔和な顔で藤啼が久重の傍まで来ると余った椅子に座った。
「ふふ・・・アズに誰かを紹介されるなんて歳を取ったものね」
「君に言われたくないよ」
アズが藤啼の言い分に肩を竦める。
「このトランクルームを預かる藤啼です。よろしく」
「トランクルーム?」
「都合の悪いものを放り込んでおく場所だ」
ソラが首を傾げると久重が説明した。
「主に武器や書類。それ以上にヤバイものを置いておく事もある」
「君もその仲間入りだよ。久重」
「此処に匿おうってのか?」
「いや、此処はあくまで仮置き場さ。君にはいつもの場所に戻ってもらおう。君がいきなり消えたらお姫様が悲しむだろうしね」
「お姫様って・・・朱憐の事?」
ソラにアズが頷く。
「襲ってきた連中、ソラ嬢の追手、どちらも公権力を公には無視出来ないと見た。あそこはああ見えて地理的にはかなり恵まれてる。財閥を仕切る家が近隣に複数あるせいで近くで事件なんか起こった日には周辺の監視が厳しくなるし、色々と探られる。更にはお姫様の家が近いから裏社会の連中は大手を振って手が出せない」
「・・・ひさしげって」
ソラのジットリとした視線を受けて、久重が何も知らんかったと慌てて首を振る。
「お姫様とあんな仲になるとは思ってなかったけど。君は知らない内に守られてるよ。久重」
「全然知らなかった・・・」
「教えてなかったからね」
「教えろよ!?」
「君が恩を恋と錯覚しないか僕は心配だったのさ♪」
グッタリとした顔で久重が寝台に身を沈めた。
「あーごほん。何か本題から逸れているような気が・・・」
田木から指摘されてアズが話を戻す。
「とにかく、久重。君は戻れ。あそこなら連中もおいそれと攻撃はしてこない。大物政治家やGIOだって今回の部隊壊滅で少しは慎重になる。あっち側のアプローチはこっちで何とかするから、君はいつも通りの生活に戻るように」
「腕の治療はどうする?」
久重の問いにアズがソラを見る。
「ひさしげの家の付近には病院が無い。治療は任せても大丈夫かい?」
「うん。ひさしげの傷は絶対に私が直す」
「という事で決まり・・・かな?」
「まだ、決まってないだろ。田木さんはこれからどうするんだ?」
久重に田木が首を振る。
「いや、僕の事は気にしないでもらいたい。君達に助けてもらっただけで十分だ」
安心させるような笑顔にソラが顔を曇らせる。
「田木さん。貴方にはしばらく此処で暮らしてもらいたい」
「此処で?」
アズが今まで口を挟まなかった藤啼を見る。
「どうぞご自由に。このルームの借用人は貴女ですもの。アズ」
「という事でしばらくの間は此処であなたには暮らして欲しい。今後の事は状況が落ち着いてからになるかと。連中の出方が強硬なものなら国外への退避を前提に計画を練る事にしましょう」
「すまない。君達には本当に迷惑を掛ける」
頭を下げる田木の肩にアズが手を置いた。
「はいはい。お話が決まったならお食事にしましょう。アズ、ほら手伝って頂戴」
「・・・君は僕に家事とかさせる気かい?」
アズのげんなりした顔に藤啼が笑う。
「家事が出来る女が男から好かれるのは理解の範疇でしょう?」
「・・・了解」
「わ、私も」
「あら、手伝ってくれるの?」
ソラが大きく頷く。
「お嬢さんよりもやる気の無い誰かさんとは大違いね」
「勘弁してくれ・・・」
アズのやり込められる様に久重は珍しいものを見て驚き、内側から滲み出す笑いを堪える事が出来なくなった。
「僕がやり込められてるのがそんなにおかしいかい?」
「意地悪な魔女が聖女に諭されてるなら尚更な」
「さ、それじゃあ、消化に良いものを何か適当に見繕いましょう」
藤啼が締めくくって出て行くとそれにソラとアズが続く。
「「・・・・・・」」
残された男性陣二人が顔を見合わせる。
「君は随分と愛されているようだ。久重君」
しばしの沈黙の後。
「・・・・・・はい」
答える久重の声は優しかった。
乙女の秘密とは常に死と隣り合わせである。
輝く世界を迎えて少女は一人誓いを立てた。
束の間の戯れ。
その時、友が見たものは。
第九話「ラブコメさん」
愛と笑いの間で彼らは踊る。
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第九話 ラブコメさん
第九話 ラブコメさん
カーテン越しに黄金の埃が舞う。
密やかにカーテンから漏れる日が新たな世界を運んでくる。
ハローワールド。
そう朝の挨拶する男を思い出して少女は上を見上げる。
視線はいつか天上へ届くのだろうかと停滞している思考で思う。
「博士・・・・・・」
その男は言っていた。
朝とは夜を越えた者だけが持ち得る特権だと。
朝とは死んだ世界が甦る儀式なのだと。
闇に消えた全てが照らし出された時にこそ真実は目前に現れる。
そこにはきっと楽しい事だけではなくて、哀しくて辛い事も待っている。
それでも前に進み続けるしかないから、人は朝に希望を見る。
今日は死ぬには良い日だと笑って居を後にすら出来る。
「・・・・・・」
男は最後の朝に言っていた。
朝日が昇り続ける限り、希望が消える事はない。
夜の帳が降り続ける限り、絶望が終わる事はない。
だが、どちらに目を向けるかは自分で決められる。
闇に閉ざされた空がいつかは照らし出されるかもしれないと見上げるかどうか。
たった、それだけの選択が、人と世界を生まれ変わらせる。
「・・・・・・」
熱いモノが瞳の端から一筋零れ落ちて、少女は横を見た。
小さな寝息を立てて眠る青年が一人。
ゆっくりと起き上がる。
薄ぼんやりした意識のまま少女は身を起こし、隣の青年の顔を覗き込む。
いつも人の事ばかり考えていそうなお人よし。
その顔に片手で触れる。
「Hello World・・・・・・」
髪を掻き上げて、少女はそっと唇を触れ合わせた。
ガチャリと扉が開く。
「え――――――」
少女はゆっくりと振り向いて、声の主が知っている人間だと認識した。
「・・・・・・?」
己が今何をしていたのか、少女は再確認する。
「!?」
「ソラ・・・さん?」
その日、朝から外字家には恋の旋風が巻き起こりつつあった。
*
『今日は一日夏日となる事でしょう』
朝の食卓。
肩を包帯に巻かれて身動きが不自由な久重は顔を微かに引き攣らせて目の前で繰り広げられる光景を見つめていた。
『いやぁ~~~今日の特番ドラマ【愛してるよ。貴女(マイハニー)】は楽しみですねぇ~~~』
部屋の隅にあるラジオから流れる番組など久重の頭には欠片も入ってきていなかった。
『では、今日の運勢です』
ジッと見詰め合う二人の少女がちゃぶ台の左右に展開し、黙々と食事を平らげている。
片や六本の縦ロールを従える押しかけ富豪少女。
布深朱憐。
片や金色の髪を靡かせ颯爽とNDを操る不思議少女。
ソラ・スクリプトゥーラ。
どちらにしても未だ戦いの趨勢は定まっていない。
『おひつじ座の貴方。今日の運勢は最悪。もしかしたら浮気現場を彼女に見られちゃうかも!』
ラジオから垂れ流される番組を真剣に聞くフリをしながら久重は思わずにはいられなかった。
(朝から何でこんな空気!? いや、それ以前にどうしてこうなった!?)
朝、起きた瞬間から何故か背筋を震わせた久重が見たのは二人が互いに無表情で見つめ合っているところだった。
目が笑っていない、どころの話ではなかった。
乙女達の瞳が澄み過ぎた水のように自分の顔を映した時、久重の背筋には何か言い知れぬ冷や汗が伝った。
清過ぎる水には何も棲めない。
正に聖人君子ならば泰然とその視線を受け止められたのだろうが、何かと後ろ暗い仕事をしている久重にはその瞳が眩しすぎてかなり近寄り難かった。
「ひさしげ様」
「は、はい? な、何だ?」
オドオドしながら朱憐に振り向いた久重が作り笑いを浮かべる。
「今日のお味噌汁はどうですか?」
「う、上手いと思う」
何度も頷いた久重に朱憐が僅かに微笑み、チラリとソラを見てから再び食事に戻る。
「ひさしげ!」
「ソ、ソラ?」
ソラがジットリとした視線で睨み付けるように久重の方に身を乗り出す。
「食事が終わったら包帯変えるから!」
「わ、解った」
頷く事しか出来ない人形のようにカックンカックン首を動かす久重の様子に満足したのか、ソラがチラリと朱憐を見てから何事も無かったように食事に戻る。
「ひさしげ様」
「こ、今度は何だ?」
朱憐の視線が少しだけ迷う素振りを見せてから久重の肩に注がれた。
「その・・・ケガは大丈夫ですか?」
「ああ、大した事ない。少し仕事で痛めただけで三日もすれば直るらしい」
「そうですか・・・・・・」
僅かに顔を曇らせた朱憐が俯いて食事に戻るも箸を止めた。
『腕取れてたのに・・・。大した事無いわけない』
久重の耳にソラの沈んだ声が響いた。
ソラが自分にしか聞こえないようNDを使ったのだと気付いて久重はその場の居たたまれなさに頭を掻く。
「ひさしげ様。今までずっと言わずにおこうと思っていた事があります」
「朱憐・・・?」
俯いていた朱憐の顔がいつの間にか上を向いていた。
その瞳に宿る今までとは別の色に久重が戸惑った。
「ひさしげ様。ひさしげ様が普通のお仕事をしていない事・・・わたくし知っていましたわ」
「・・・そうか」
たぶん、そうなのだろうとは久重にも解っていた。
ご令嬢と呼ばれる人種である朱憐が本気になれば家の力で大概の事は調べられる。
そんな素振りもなくいつも接してくれていたからこそ久重は身分や門地とは人間にとって重要なステータスであるという基本的な事を朱憐の前では忘れられていた。
それを急に持ち出すという事は朱憐にとっても久重自身にとっても互いの深い場所に触れ合う行為であり、その場は無傷では済まない鋭さを持つ。
「ひさしげ様がただの大学院生だけではなくて・・・何でも屋というものをしていて・・・時には危ない事や法に抵触するかもしれないような事をしているのも・・・」
「その通りだ。間違っちゃいない」
久重が朱憐の言葉を肯定する。
「それで失礼かと思いましたが、ソラさんの事も調べさせてもらいましたわ。久重様に留学のご経験は無く、世話になった大学教授もいないと家の者から言われました」
「―――いつ調べたんだ?」
「昨日です」
久重がその日数に内心で驚く。
自分が思っていたよりも朱憐の家の力は強大なのだと今更ながらに感じた。
「ひさしげ」
「ソラ?」
箸を置いたソラが朱憐を見つめる。
制止しようとした久重を手で制して、ソラが首を横に振った。
「私が話さないといけない事だから」
その微笑に久重が反論の余地が無いと知る。
「大丈夫だから、ね?」
「解った」
「シュレン」
向き直るソラに朱憐を真っ直ぐに見つめた。
「単刀直入にお聞きしますわ。聖空さん。いえ、何処かの誰かさん。貴女は一体誰ですの?」
「話す前に聞いておきたいんだけど、私の事をシュレンはどれだけ知ってるの?」
「貴女がこの日本では不法滞在者である事。貴女がこの国では存在しないはずの人間である事。貴女の経歴が全て嘘である事。貴女がひさしげ様の仕事に何らかの関わりを持っている事。これで全部です」
ソラが持っていた箸を置く。
「私は・・・ひさしげに助けられたの」
静まり返る食卓からラジオの音が遠ざかっていく。
「それまで私は一人だった。昔親しかった人達と道が違えてしまってからずっと・・・世界中を逃げ続けてきた」
「逃げ、る?」
衝撃を受けている朱憐の言葉にソラが頷く。
「もう何もかもに疲れてた。そんな時、私はひさしげに出会ったの」
たった数日前の事をソラは懐かしそうに語る。
「その時の私は何も見えなくなってた。自分はまだやれるって弱気になんてなって無いって自分が強いフリをしてた」
久重が始めて出会った頃のソラを思い出す。
まるで何もかもを拒絶するように強がった少女の姿が今も瞼の裏に焼き付いていた。
「本当はこんなにちっぽけで何も出来なかったのに・・・」
己の手を自嘲気味に見つめてソラが拳を握る。
「敵だと思い込んで酷い事をした私にひさしげは優しくしてくれたわ。そして、私の為に怒ってくれた。私は絶対に忘れない。ひさしげが私にしてくれた事を・・・」
朱憐がソラの瞳の奥。
揺らめきを見つける。
「・・・・・・・・・」
耀かしいものを秘めた瞳が自分と同じものだと朱憐は認める事にした。
その誰にも侵せない輝きは辛苦を舐めた者の証。
それを知って尚その先を望む者の色。
「私はソラ。【ただ聖書のみ】(ソラ・スクリプトゥーラ)。世界平和を望む逃亡者」
朱憐がその響きを微かに呟くとソラが頷いた。
「私の本当の名前は誰も知らない。私自身さえ。きっと、私を追いかける者さえ。自分がどんな国のどんな人種なのか私には解らない。予測は出来ても証拠が無い。たぶん、どんなに探したって私の生まれた記録はこの世界の何処にも記されて無い。私に解るのは私が誰にも利用されてはいけないという事だけ」
シュレンとソラが名を呼ぶ。
「貴女に私が教えられるのは貴女の未来に私はいないから心配しなくていいって事。それだけ・・・」
「――――――」
その微笑に感じられるものが胸を抉って、朱憐は胸を片手でそっと押さえる。
それは痛ましさだった。
最初からソラという少女が己の未来を信じていないという事実。
朱憐が望む未来に自分がいないと断言するという事はつまり「そういう」話だ。
「空さん。それはご自分を過小評価し過ぎですわ」
「え?」
未だ整理出来ない混沌とした胸の内が僅かに「弾んでしまった」事を朱憐は羞じ悔いる。
「わたくし達には明確な差がある。確かに優劣が最初から存在する。でも、それは貴女の想いが実らない事に対する言い訳にならない。それがどんなに『致命的な溝』であるにしろ、諦めるのは最後でいい」
「――――――」
今度はソラが何も言えなくなり、胸を押さえた。
「それがわたくしの持論です。わたくしの未来に貴女がいないとしても、それはただわたくしの前からあなた『達』がいなくなっているだけかもしれない」
「シュレン・・・・・・」
ソラの顔に一筋の流れが伝った。
思ってもみなかった言葉がソラの胸を震わせていた。
「殿方の前で無闇にソレを見せてはいけません。それは女の最後の武器なんですから」
ハンカチを差し出した朱憐の手を震える手が捉えて、きゅっと握る。
「あり・・・がとう・・・」
二人の様子にどうやら丸く収まったようだと久重がわざとらしく咳払いをして告げた。
「早く食べないと遅刻するぞ」
「え? あ、は、はい!?」
腕時計を確認した朱憐が慌てて箸を持つ。
その顔は僅かに高潮していた。
着替えでも覗かれたような気分に違いなかった。
自分の心の内を吐露するという事は誰だって恥ずかしい。
「空さん。これからもそう呼んでよろしいですか?」
ハンカチで目元を拭いたソラが朱憐に赤い目元を細めて笑った。
「うん!!」
*
闇雲に走り出せるのは何も若い人間だけとは限らない。
佐武戒十にとっての人生はいつも五里霧中。
その最中を最速で走り抜けてきたからこそ、今の佐武があると言っても過言ではない。
職業倫理スレスレの違法捜査は数知れず。
しかし、自分の正義だけは貫き通してきた。
上から何と言われようと上すら黙らせる結果こそが全てを押し通す剣となった。
磨り減った靴の踵を誇れないならば、己の人生に一欠けらの価値無しと断ずる峻厳さ。
多くの人が佐武を称して「鉄槌」と呼んだ。
その佐武の称号をしてもその結果は警察始まって以来の大戦績だった。
「お宅の住所を家宅捜索させてもらいました。出てきた書類は高度な偽造を施されたものばかり、カード類も免許類も全て偽造。銃弾二十箱。サブマシンガン二挺。フラッシュグレネード七発に通信傍受装置。顔を照会したら何処かの国のテロリストモドキな諜報員ときた。GIOの実働部隊を捕まえたのは初めてだが、どうやら噂通りらしい」
顔の半分を包帯で巻いている白人の男が黙りこくった。
一晩過ごした留置場で体が固まったのか。
佐武の前でしきりに首の間接を鳴らしている。
「おたくのお仲間半分は自供しましたよ? 後の半分はGIOが助けてくれると思っているのかだんまりだが、時間の問題でしょう。ちなみにGIOにおたく達の顔を照会しましたが「我が社は現在その犯罪者達に内部機密を持ち出されたのではないか調査中ですので」とか何とか」
「・・・・・・・・・・・・」
頑なな男の態度に机の上で手を組んだ佐武が笑みを作る。
「ちなみに此処の留置場の警護は交代で二人」
ピクリと男の眉が動いた事を佐武は見逃さない。
「今時電子錠も掛けてない旧い設備なんですが、いや困ったな。今日辺り少しの間オレの呼び出しで五分は持ち場に戻ってこないかもしれない」
「――――――脅しているつもりか?」
「いやぁ? どういう意味で」
男が唇を噛んで佐武を睨み付ける。
いつ始末されてもおかしくない男にしてみれば、佐武の言葉は『不審死』を遂げたいのかという脅しだった。
「取引だ」
佐武がニッコリと微笑んだ。
「条件を聞きましょう」
「オレが『独自に行った作戦行動の全容』を教えよう。その代わり絶対に釈放するな」
(まぁ、さすがにそこら辺が落としどころか)
内心で佐武が一人ごちる。
あらゆる分野に進出しているGIOの影響力は絶大。
そのGIOに楯突く供述などしようものなら、どんな方法で始末されるか解ったものではない。
だからこそ、男の妥協点は「作戦内容は教えるがGIOと自分は公式には関係ないという事にしてくれ」というものだった。
「では、銃刀法違反で書類送検しましょう。検察には話しを通しておきます。気にしなくても彼方が嫌いな国とは犯人の受け渡しが無いので安心を。『幸いな事』に彼方は外国人だ。今のご時勢なら再度逮捕されるでしょうから二十年は堅いでしょう。では」
四十分後、席を立った佐武は外で待たせていた同僚にその場を預けて部屋を出た。
佐武が脳裏で話しを整理する。
男の話を要約すると単純なものだった。
男に暗殺の仕事が舞い込んだ。
とある男を始末しろと言われて手を出したが途中で見失った。
再度見つけた時には女と青年と少女を連れていた。
そこで襲ったが返り討ちにあった。
対象の詳しい情報は知らない。
(国家権力を何だと思ってやがる)
内心の怒りを静めて佐武はGIOの遣り方に吐き気を覚えた。
男があそこまで警察に協力的な理由は一重にGIOに対する恐怖があるからに他ならない。
状況的にぶち込まれるのはもう『詰んでいる』状況の男にとって逆にありがたい措置だろう。
日本程にスパイ天国の国は他に無いが日本程に国家権力が仕事をする国もまた無い。
官僚や幹部こそ天下りだの何だのとやっているが日本の末端の公僕は外国に比べても犯罪者との癒着や賄賂などに対してのモラルが高い。
組織内部への宗教汚染や官僚・経済界からの圧力なども比較的容易に撥ね退け自浄する。
日本の警察組織そのものの独立性が高く、その独立性の高さ故に様々な外部からの干渉が悪い意味でも良い意味でも届き難い。
未だに民営化されていない刑務所の管理は先進国の中でもとりわけ厳重というわけではないが、末端まで行き渡る職業意識が大きな背任行為を発生させづらく刑務所内での暗殺なんて仰々しい事はまず起こらない。
これが隣国ならば、知らぬ間に殺されていても何の不思議もないのだから、男にとって捕まった事は未だ最悪の結果ではないと言わざるを得なかった。
「とりあえず回るか」
男の身柄の安全を確保する為、複数の協力者に厄介事を申し入れようと佐武が端末を取り出した時だった。
「佐武さん!!」
声に佐武が振り向くと慌てて今正に男を預けてきた同僚が駆けてくるところだった。
「今、被疑者がいきなり死んだ!!」
「――――――!?」
「佐武さん!!」
後ろからまた声がして佐武が嫌な予感に顔を強張らせる。
「どうしたってんだよ!?」
怒鳴る佐武に他の同僚が二人駆け寄ってくる。
「留置場の連中が軒並みやられた!!」
「死んだのか!?」
「今、救命処置を行ってるがダメそうだ!」
思わず舌打ちして佐武が唇を噛んだ。
「それで原因は?」
「それが目撃者は全員いきなり苦しみ出して死んだとしか?!」
(やられた!?)
佐武が苦い顔で思考を巡らせる。
(もしナノマシンや毒物なら証拠も残らないクソ!!)
GIOならば大げさでも何でもなく証拠の残らない殺害方法をコスト無視で行える。
体内に本人達の知らぬ間に何かしらの仕掛けが施されていたに違いなかった。
「それで今現場はどうなってやがる!?」
同僚の男の端末に連絡が入り、佐武の前で男が渋い顔をした。
「今、あっちの捜査本部が現場を封鎖してるらしい」
「クソが・・・・・」
歯を軋ませて佐武がその場から歩き出す。
「どうするんだ?」
同僚達から佐武に質問が飛ぶ。
「オレはこれから出てくる。お前らは何か解ったら連絡してくれ」
同僚達を置き去りにして佐武は騒がしい警察署から抜け出した。
歩きながら佐武が端末を取り出して短縮ダイヤルに掛ける。
「おい」
相手はすぐに出た。
「ふぁ~~~い。こひら、りょうほ~~」
伸び伸びの声が寝起きである事に佐武がげんなりした顔で続ける。
「面白いネタをやる。欲しかったら公園に来い」
「!? マジ!? 了解しちゃいますですはい!!」
「お前の頭には何が詰まってんだ? ああ!!?」
不機嫌にかなり切れ気味で佐武が怒鳴ると了子が答える。
「それは無論。一にネタ。二にネタ。三にネタ。四に命。五に、くぁ~~~~あ・・・とりあえず衣食住」
欠伸を挟んだ了子がバタバタと外出の準備を整えていく。
「それならお前もネタ出せ。言っとくがこれからの話は命賭けになるかもしれん」
佐武がそう口にするとカラカラと了子が笑う。
「命賭けてないネタでスクープなんて無いですよ。戒十さん」
「冗談に聞こえるか?」
「これでも戒十さんに命賭けなネタを十や二十は上げました。えっへん」
「今回は今までの比じゃねぇ」
「・・・・・・それでも戒十さんならどうにかしてくれると信じてます」
「お前・・・後悔すんじゃねぇぞ」
「はい!」
了子の電話越しの明るい声に何か救われたような気がして佐武は電話を切った。
昼間の公園に辿り着くまで数分。
(少し他のネタもサービスしてやっかな・・・)
佐武の口元にはいつの間にか緩やかな微笑が浮いていた。
*
永橋風御にとって数日も親友が尋ねてこないというのはほぼ異常事態と言ってよかった。
しかし、それが親友の仕事の話だと言うならば納得するだけの理由として十分だった。
アズトゥーアズ。
そう呼ばれる女の仕事にはいつも危険が隣り合わせ過ぎる。
風御が知る限り、親友外字久重は常にその危険(リスク)を背負っている。
数年前。
初めてその年齢不詳の女に出会ってからというもの久重は才能とも呼ぶべきものを開花させている。
それを知る故に風御はその女の情報には気を付けている。
傍から見ればアズと久重の関係は雇用関係の域を出ない。
しかし、風御にはまるでアズが久重を試し鍛えているようにも思えた。
最初こそ小さな仕事をしていた久重が今では正体不明の女フィクサーの片腕と裏の世界では大評判だからだ。
猫探しだの浮気調査だのやっているだけならば風御はアズという女を見過ごしていたかもしれない。
しかし、諜報機関を相手取り詐欺紛いの手法で翻弄し、武器商人を相手に得物を安く値切り、公安とのパイプを持ちながら公安そのものにマークされ、海外富豪の私設軍隊やSASと一線交え、暗殺者に狙撃されてもケロリと外出しまくり、出所の解らない莫大な資本で特定業種の会社をM&Aし続け、小国だらけの地域でパワーバランスの調整に一役買い、交渉相手が気に入らなければ確実に破滅させる人間は見過ごせない。
そんな危険人物が親友の借金を持っているとなれば尚更に。
親友の傍にいる自分もその類だとは自覚しながらも風御は久重に極力裏社会に関わらせてこなかった。
自分が裏社会でどんな仕事をし、どんな地位にあったのか。
それは恥ずべき事ではあっても、誇れる事ではない。
未だに親友である男にそんな自分の昔を見せる事は出来ないと思いながらも、裏社会での仕事から抜けている風御には風聞だけが届いてくる。
情報にイライラもどかしい毎日を送るのは体に悪い。
数日見かけないと思えば、海外で大暴れしているアズのお供が工作員をダース単位で返り討ちにしただのと聞いて風御は愕然とした事もある。
いつの間にそんな話になっていたのかと溜息を吐きたくなる事は数知れず。
(まったく。持つべきモノは気に掛けてくれる親友だろうに)
毎朝のように朝食をタカリに来るのは正直辟易するものの、風御にとっては久重が裏社会に取り込まれていないか確認するコミュニケーション手段の一環だった。
そんなコミュニケーションを数日ほったらかしている親友が何をしているのかと微妙に気になった風御が朝から外字家を訪問するのは殆ど予定調和かもしれない。
淡々と階段を上り、外字の表札のあるドアをそのまま開けようとした時、風御の耳に甲高い声が響く。
『ひ、ひさしげの変態!!』
「は?」
思わず風御は自分の耳がイカレタのかと思った。
万年、アズ以外の女とは無縁の久重の部屋から若い女の声がする等という事態は風御にとって非常事態だった。
『ジャ、ジャパニーず銭湯はこ、混浴だって知ってるんだから!!』
「はぁ?」
声はたぶん少女。
そんな若い少女が久重の部屋でほんのり桃色空気な会話を展開している。
その事実に頭痛を覚えて風御がドアを少しだけ開けて中を覗く。
「博士が日本のお風呂は裸の付き合いで銭湯は男と女がくんずほぐれつ夢のドリームパラダイスだって言ってた!!」
少女がぎゅっと自分の体を抱きしめてジットリした視線で呆れ顔の久重を睨んでいた。
「凄い混ざってるというか特定の業種に偏ってるというか何から突っ込めばいいんだオレは?」
「ひ、ひさしげが・・・その・・・一緒に入りたいって・・・言うなら・・・考えてもいいけど・・・」
モジモジした少女の姿態にげんなりした様子で久重が首を振る。
「オレはここ数日忙し過ぎて風呂に入ってないという驚愕の事実に今気付いただけだ」
「ぅう。私も少し忘れてたけど」
「いや、忘れちゃダメだろ!? 女の子として!!」
「で、でも、ただ忘れてたわけじゃなくて。【ITEND】は体の老廃物なんかを排除して常に肉体の置かれる環境を保つから汗とか皮脂とかそういう汚れを綺麗にしてくれて」
「オーバーテクノロジー無駄に使ってんな?!」
久重が思わずツッコミを入れた。
「こ、これは戦場なんかで清潔を保つ事で士気の向上なんかを目的にしてる機能だから。それにそういう能力があるから今まで逃亡中も不快な思いはしなかったの・・・」
「―――そうか。悪い。少し考え無しだったか」
頭を掻いて何やら反省した親友の顔に風御は愕然とした。
『あの』外字久重が自分よりも数歳は若い少女を相手にラブコメをしている。
風御の気が遠くなった。
「言っておくが日本の銭湯は混浴じゃない」
「ふぇ!?」
「とりあえず、これからは毎日風呂ぐらい入りに行くから」
「ひさしげも一緒?」
「ああ」
「あ、でも・・・」
「どうかしたのか?」
「その、着替え」
「・・・悪い。気付かなかった。今日はその辺も含めて買出しに行こう」
「いいの?」
「悪い理由があるのか?」
「それは・・・だって、ひさしげ貧乏みたいだし」
「そういうのはこっそり心の中にしまっておいてくれると助かるな」
「お金大丈夫?」
「それなりに」
「うん・・・ひさしげが言うなら。お世話になります」
「畏まらなくていい。少し値段に気を付けてくれれば数着分買える金はある」
「無理してない?」
「してるように見えるか?」
「いいわ。ひさしげが驚くくらい安いのにするから」
「それはそれはどうもありがとうございます。お姫様」
おどける久重に少女は輝くような笑みを浮かべた。
【・・・・・・お前誰?】
ラブコメを繰り広げる親友へ密かにツッコミを入れて風御はそっとドアを閉め、その場から立ち去った。
どうやら悪い夢でも見ているらしいと風御が二度寝したのはその日の正午過ぎだった。
老人は言った。
この国は醜く美しいと。
人々は知る。
己に命題を課するは己しかないと。
第十話「命の宣託を」
汝、何処へ往く?
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第十話 命の宣託を
第十話 命の宣託を
病院の奥にはいつも闇が広がっている。
廊下の先で誰にも知られないようにひっそりと人生の終わりが訪れる。
命と向き合う現場は戦争のようで、実際には救われる命よりも消えていく命の方が多い。
超少子高齢化が進んだ世界は葬儀屋こそ儲かるものの、人の命を救う病院に金は回らない。
高騰する医療費に国は抑制策を打ち出し、年金というシステムは破綻し、国民皆保険は崩壊しつつもまだ生きている。
そんな世の中でも技術という一点において人々の医療は守られていた。
新技術による高い医薬品や医療機器のコストダウンが医療の質を下げずに値段を下げた結果、未だ医療現場も完全には崩壊していない。
人口の激的な減少が起こった【黒い隕石】事件の後も例外的に人口が緩やかに衰退している日本で医療現場と国民は昔よりも親密な関わりを持つようになった。
一日中病院にいる老人達の多くが良い例かもしれない。
患者の誰もが長い生に疲れながらも、笑い怒り泣き、病院で余生を持て余している。
老人ばかりが通う病院からは産声の数が少ないという声が聞こえてくるものの、だからこそ人々は子供達に未来を託そうと制度上は手厚い保護を行ない続けていた。
「残念ですが、諦めて頂くしか方法がありません・・・・・・・」
六十を過ぎるだろう医者が僅かに顔を伏せた。
小さな個室で一人の女性が目を閉じ俯いて唇を噛む。
「私の命を賭けても?」
「どうにもなりません」
張り出した腹を撫でて沈む女性を後に医者が退出した。
押し殺した嗚咽が暗い廊下を伝う。
その場を通り過ぎる看護師達は誰もが顔を沈ませながら早足になる。
そんな時だった。
ガラリとドアが開いた。
医療関係者以外入ってくるはずの無い扉を抜けて一人の青年が顔を覗かせる。
「何方?」
女性には両親がいない。
女性には恋人もいない。
女性には友人もいない。
「失礼を。私はこういう者です」
白いスーツを着た青年が印象の曖昧な笑みでそっと名刺を女性に差し出した。
女性が受け取った名刺に視線を移す。
名刺には奇妙にも名前が無かった。
書かれているのは肩書きと会社名だけで胡散臭い事この上ない。
しかし、そこに書かれた一文が女性に僅かな興味を抱かせる。
先進技術。
「何か御用でしょうか?」
「その命を賭けても守りたいと貴女が望んだからこそ、私は貴女の前に現れた」
「・・・・言っている意味が解りかねます」
「今感じた貴女の胸の内の期待を裏切らないだけの用意がこちらにはあります」
「本当・・・ですか?」
「はい」
「でも、用意できるお金は・・・・・」
手を握り締めた女性に青年は首を横に振る。
「我々は先進技術を実用化する為の被検体を探して貴女を見つけた。適合率七十七%、金銭は要りません。ただ、我々の実験に貴女が欲しい」
「この子を・・・本当に救えますか?」
女性の瞳に決然たる意思を認め、青年は頷く。
「産んだ後、成人まで面倒を見ましょう。しかし、貴女がこの子を抱くのは一度きりとなる」
女性がその言葉に張った腹を撫でて沈黙した。
「神も仏も運命も我々の管轄外ですが、技術という一面において我々は貴女に望むままのものを与えましょう。これは契約書のファイルです。三日の後に回答を」
蝋で封じれられた黒い封筒を渡して、青年が背中を向けようとした時だった。
「待ってください」
振り向いた青年が黒い封筒を受け取った女性の視線に僅かばかり目を見開く。
「・・・お願いします」
「よく内容を読むべきだと思いますが?」
「私には学がありません。難しい事も解りません。でも、この子がもう助からないと医者に言われた時思った」
女性がそっと寝台から足を下ろす。
「何をしても私はこの子が産みたい」
青年が女性の強さに敬服するようにゆっくりと手を胸に置いた。
「人間を捨てる覚悟があるならば、貴女の願いは叶います。ですが、己の幸せを考えるならよく悩んだ方がいい」
女性の瞳は揺るがず。
「いいでしょう」
手を取って青年が先導する。
「では、行きましょう」
「彼方の・・・・・名前を教えて頂けますか?」
青年が恭しく名を告げる。
「ターポーリン。世界平和を造るサラリーマンとでも呼んで頂ければ。お嬢さん」
その日、病院から女性が一人消えた。
誰もそれに気付く事は無かった。
*
洒落たブティックの一角。
カーテンが開く。
黒のスラックスに白いワイシャツ。
男装と見紛う姿に金色の髪が清(さや)かに擦れる音。
艶やかな色など無くとも少女は美しく笑みを咲かせる。
「どう・・・?」
恥ずかしげに頬を染めて聞かれて「それは無い」とか言う野暮な者は誰もいない。
しばし見入っていた久重はソラの服のチョイスが少し残念だと思いながらも無言で頷いていた。
「あんまり女の子っぽい服装だともしもの時に動き難いから」
言い訳のようにソラが言って、傍らの黒いコートにチラリと視線を向けた。
「他にも幾つか買っておくか?」
ソラが常に自らが追われている事を意識しているのだと気付いて、何かやりきれない気持ちになりながらも久重は動じずに応じる。
「ううん。これを二着だけでいい」
「金なら本当に心配要らないし、遠慮する必要も無い」
「・・・やっぱりいい」
サッとカーテンが閉められた。
「今、一杯服を買っちゃったら久重とまた来れなくなるかもしれないから」
「はい?」
思わずポカンと口を開けて首を傾げた久重にソラが続ける。
「その・・・また、一緒に・・・その・・・連れてきて・・・欲しくて・・・ダメ?」
心臓に杭でも打ち込まれたか。
久重の体にジワリと汗が浮いた。
世界の何処にこの破壊力満載なおねだりをダメと言う男がいるというのか。
ソラの声に当てられて紅くなった顔を冷ましつつ、久重は苦笑しながら答える。
「ダメじゃない」
「本当? それじゃあ、また来てくれる?」
「ああ、折りを見てな」
「うん!」
カーテン越しに輝く笑みを見た気がして、久重がカーテンから視線を逸らし、
『・・・・・・』
体を硬直させた。
「――――――――?!」
店内にいた女性客からの好奇の視線が久重の全身を磔にしていた。
平日の昼からブティックで金髪の少女に服を買い与える青年。
暇な奥様のゴシップ材料には十分すぎるネタに違いなかった。
「行こ。ひさしげ」
上機嫌で服を持って出てきた少女が真っ黒いコート姿をしているとなれば、もう百パーセント周辺の奥様達の噂になるのは避けられない。
「・・・・・・」
手を自然に引かれながら久重は思う。
少女の笑顔が見られるならば、それくらいの事はいいかと。
(いつか、女の子らしい服くらい着せてやりたいな・・・)
ブティックを出ると昼を過ぎていた。
余計な外食は外字家家計の敵ではあったが、久重は構わずにファーストフードの店に入る。
「知ってる。これって『ふぁーすとふーど』でしょ!?」
まるで幼子のようにはしゃぐ姿にソラの過去が透けて見えて、思わず一番高いセットを注文した久重はほぼ満席の窓際の一角に隣り合って座った。
「ひさしげ。みんな楽しそうだね」
二階の硝子越しに行きかう人の群れを見つめながらソラが微笑む。
何が楽しいのかと思わず聞こうとした久重は口を噤(つぐ)んだ。
楽しいはずだ。
久重にも想像できる程にソラの過去は暗い。
複数の聞かされた事実を照らし合わせれば、ソラにはたぶん明確な親が存在しない。
それどころか育ての親とも言うべき親しい人間すらこの世にいない。
残っているのは親しかった「博士」から受け取った【ITEND】と大きな組織から追撃されているという事実のみ。
まともな精神性を獲得しているからとソラを普通の少女として扱うのは問題がある。
久重が今まで出会ってきたソラの追撃者達は誰もが人格的に何処か壊れていた。
ソラと追撃者達は同じ場所で過ごしていた知り合いらしいが、ソラがその場で異端であった事は疑いようがない。
まともな性格をしているからと言って自分の「普通」に当て嵌めてソラと語り合えば無自覚に傷つけかねない。
久重が見る限り、ソラには常識的な知識こそあるものの経験としての知識が乏しい。
何処にでもあるような町並みに感心するのは新鮮だから。
服を一着買うだけで大はしゃぎなのは買った事が無いから。
妥当な理由が久重の心に重く沈んだ。
「あ、呼ばれてる」
ソラが嬉しそうにカウンターへ向かう後ろ姿を複雑な感情のまま久重は見送る。
それから、戻ってきたソラと共に昼食を平らげ始めて数分後。
「ひさしげ。今日はありがとう」
「どういたしまして」
窓の外に視線を向けていた二人の間に生まれた会話は何処か静かだった。
ポツリと呟いたソラがバーガーを置く。
「凄く楽しかった・・・・・・」
「そりゃ良かった」
「ねぇ。ひさしげは楽しかった?」
「ああ、少しだけ緊張したが」
「どうして?」
「異性に付き添ってブティックなんて行くのはリア充くらいなもんだからな」
「りあじゅう?」
「簡単に言うとNEETとは対極の人種だ」
「にーと?」
解らないという顔をするソラに解らなくていいと笑って久重が口元に付いたソースを指で拭った。
「~~~~~~?!」
「どうかしたのか?」
「ひさしげってずるいわ・・・」
僅かに俯いた少女の黒いコートが揺れる。
「・・・日本ていいところよ。ひさしげ」
「そんなにか? ハッキリ言っちゃ何だが技術は進歩しても国力は衰退してるし、国政は数十年前からグダグダで毎年首相が代わるし、オレなんかもう社会の底辺スレスレだし」
冗談交じりの久重にソラが「それでも」と首を横に振る。
「だって、この国には平和があるもの」
「平和?」
ソラの言葉に久重が耳を傾ける。
「街にはゴミが落ちてないし、今日の糧を乞う物乞いもいない。家族でショッピングをする人がいて、友達同士で笑い合う場所があって、体を売る人が道で誰かを待っている事もない。空は蒼いまま排ガスで曇って無いし、夜は女の人が出歩いても襲われる事が無い。食料と水を奪い合う時代に飲み水が何処でも手に入って食事も命掛けで手に入れる必要が無い。家族を亡くした子供が通りで一杯座ってる事も無ければ、自分の未来を夢見るだけの余裕もある・・・」
「確かにそうかもしれない。でも、それは『綺麗事』だ」
「うん」
久重の言葉に頷いて、それでもソラは窓越しの蒼い天(そら)が贋物だとは思えなかった。
「博士が言ってた。自分のいる其処が戦場なんだって」
「そうだな。たぶん、その通りだ」
久重はそんな「冷たい当然」が未だ幼さが残る少女に教えられた事を内心苦く思った。
「この国で当たり前に享受してる事が実は凄く尊いものなんだってのは誰もがいつもは忘れてる事実なんだろう。でも・・・世界から見れば本当に恵まれてる日本ですら自殺者が出る。
純粋に餓死者が毎年必ず出る。行方不明者の数も変死体も多い。孤独死して数年も発見されない老人がいる。他人からどう見えようと確実に「不幸」である人間は消えないんだ。
命に関わらなくとも平和とは程遠い奴が大勢いる。老後の年金が無くて困る連中が沢山いるし、今日を生きてく為に病気でも働く奴がいる。住所が無くて日雇いで働いてネットカフェに数十年暮らす奴もいれば、増水しそうな橋の下に寝ぐらを構えるホームレスも山の如く。
暮らし向きが苦しくて不和を起こす家族、働き口も無く家で親の財産を細々と食い潰す独り者、信頼できる大人がいなくて非行に走る子供、どれだけ平和だと言ってもそういう人間はこの国で減るどころか増えてる」
「ひさしげはこの国が嫌い?」
純粋な瞳が久重を見つめる。
「半分だけ」
「それじゃあ、後の半分は?」
「嫌いじゃない。少なくともオレはこの国で生きて行きたいと思う」
「どうして?」
「オレが悲観主義者(ペシミスト)じゃないからだ。この国に将来の展望や希望があるとは思わないが、これ以上に悪くなるなら誰かが変えてくれるはずだと信じてる」
「自分で変えられるとは思わないの?」
「思わないな。人間一人の力には限りがある。大きな変革が個人の力で出来る状況なんて限られてる。理想を共有して大勢の人間を動かしてすら、一つの事を変える為に人生は足らないかもしれない。オレに変えられるのはオレの身近な事だけだし、それ以外に手を伸ばす気もない」
ポンポンと久重の手がソラの頭に置かれる。
「喧嘩して仲良くなった居候の今日のご機嫌とか。近頃いっつも朝方にやってくる女子高生のご機嫌とか。一体オレ以外の誰が取ればいい?」
「それ・・・何か凄くダメな人みたい」
はぐらかされたソラが呆れた様子で半眼になって睨む。
「いいんだよ。それで」
笑った久重がソラの頭をグリグリと撫でる。
「ひ、ひさしげ!?」
慌てるソラに久重が視線を合わせた。
「オレはそういうのでいい。オレは世界を救ったり変革できたりしない。オレはオレが出会った奴が幸せとはいかなくとも笑って過ごせるなら、それで十分な人間だからな」
「ひさしげ・・・」
ソラは気付く。
目の前の人はきっとそういう男なんだと。
助けてくれたのは大そうな理由からではない。
それがその人にとって当たり前の生き方なのだと。
(ひさしげはもう世界を救ってる・・・誰にも救えなかったはずの世界を・・・)
『ソラ・スクリプトゥーラ』の死と共に世界は劇的に変わっていたはずだった。
多くの人間の血を流して、世界は変革を迎えるはずだった。
そんな未来を変えた人の言葉をソラは胸に刻む。
「それじゃ・・・その・・・ご機嫌まだ取ってくれる?」
おずおずと上目遣いに少女は青年に甘えた。
「そうだな。今日の夕飯は外食にするか?」
「ひさしげが一緒なら凄く安い袋に入った「らーめん」でもいいけど?」
少女が囁く。
「どこでそんな話を聞いてきたのかの方がオレは知りたい」
「まいったな」と財布の中身を看破されて苦笑する青年は頭を掻いた。
「ま、それはとりあえず保留にしとこう。そろそろ出るか」
「うん」
互いに気付かぬまま、少女と青年の手は結ばれ、その日遊び呆けた後の夕食は屋台の「ラーメン」となった。
*
黴の臭いが僅かに鼻を擽(くすぐ)る図書館の最奥。
十数メートルの本棚を左右にしてカウンターが置かれていた。
天蓋からの漏れるのは緋色。
背表紙は日に焼ける事もなく、静かに智を収めている。
日が落ちれば明かりの全てを失うだろう場所で老人が一人本を読んでいた。
白髪であるものの、燕尾服を着込んだ老人の背筋は未だ鋼の芯を有している。
カウンターの傍らに置かれたカップから立ち上る香気が市販されるあらゆる茶葉と似ても似つかないものだと知る者は少ない。
本とインク、黴と紅茶。
「・・・・・・?」
全ての薫りが渾然と漂う世界に老人が足音を聞くのは久方ぶりの事だった。
「まだ、その本読み終わってなかったんだね?」
アズトゥーアズと呼ばれる事もある女にそう言われて老人が顔を上げた。
「これはどうも。CEO」
本を置き、頭を下げる老人にアズが笑った。
「いや、頭を上げてくれないかな。君に此処を任せてるのは頭を下げさせる為じゃない」
「はい。それで今日の御用は?」
「ちょっと昔の資料が見たくなって。七年前と十七年前の移民政策に関する情報。それから三年前のアメリカ上院議会八月の議事録。後はGIOの五年前の資料を」
「畏まりました。今日はえぇと・・・・『ろ』の二千八百八十九番と『さ』の六千百二番です」
「ありがとう」
「資料は閲覧後如何しますか?」
「アーカイブに放り込んでおいていいよ。今のところは」
「了解致しました」
頭を下げた老人が手元のキーボードを操作し始める。
カウンターの左右に展開されていた本棚が分割され一本の道だったはずの道が三本に分かれていた。
「今日は右かい?」
「いえ、左に六十メートル。下に五百メートルです。はい」
「ありがとう」
アズが左の道に進むと本棚が再び動き出した。
行く手にギッチリと詰まっている本棚が歩みに合せて左右へ分かれていく。
やがて、きっちり六十メートル進んだアズの足元がゆっくりと回りながら下り始める。
その足元を構成していた本棚の多くがまるで生き物のように自らを別の場所に置き換える事で足元は変化し続けていた。
アズの視界には無数の本棚が蠢く光景があった。
一分もせずに足元が止まりカチリとロックされる音がして目の前に本棚がせり出す。
一冊だけ置かれていた本が取り出された。
開かれた本の中身は紙ではなく画面。
上から高速でスクロールされていく情報を読み取って十数分後。
アズが本を閉じて本棚に戻すと再び本棚は何処へともなく埋没していく。
元来た道を戻ったアズの前に広がっていたのはカウンターではなく扉だった。
「また、来るよ」
扉の外に出て行こうとするアズの背後に老人の声が掛かる。
『そういえば少し聞きたいのですが【BMI Sight】の調子は如何でしょうか?』
「さすが工学博士と褒めておこうかな。脳に対する負担は最小限で済んでるよ」
『それは良かった。ソレの適合者が何人か狂ってしまって少し心配していたのですが安心しました』
「まったく酷い爺だ。君は」
苦笑するアズに老人も笑う。
『今のところBMI(ブレイン・マシーン・インターフェイス)技術の課題は生体改造(エンハンスメント)後、何処まで脳が適応し得るかというところにあります。脳と機械を直結しても未だ人間は脳に直接意味のある情報を入力する事が難しい。高次機能を代替するレベルでは未だ成果も出ていない。だからこそ抹消感覚レベルで置換しているのですが、それでも適応性が低く耐えられない者もいるようで』
「確かに普通の人間なら狂うって言うのは解る気がするよ」
『何か見えましたか?』
「君のコレは高機能(みえ)過ぎる。問題は其処さ」
片目を手で隠してアズが笑う。
『・・・・・・?』
「要は無駄に見たくないものが見える」
『ああ、そういう事ですか?』
「やたらと使い勝手が良くて殆ど完璧な視覚情報を得られる上、『更に』高機能だから最低限の機能でも恒常的に脳への負担が重くなる。普通の人間には少し辛いんじゃないかな」
『IPS細胞との合いの子なので期待していたのですが・・・』
何やら落胆した様子で老人の声が溜息を吐く。
「重過ぎるプログラムはいつの時代も嫌われるよ」
『今度取り替えましょう』
「いや、いい。僕にはこっちの方が合ってる」
『では、次回には大改造(バージョンアップ)を』
「それもお断り」
『そうですか・・・・・』
少し残念そうな老人の声がしょげる。
「君の言う改造は全身機械とかになりかねないから。健全な青少年を機械に恋させるなんて野暮ってものだろう?」
『まだ、あの男に御執心なのですか?』
「文句でも?」
『誠心誠意これからも応援させて頂きますが』
「男心の掴み方とか教えてくれると有り難いかな」
『女性のしなを作った際の「ねぇ」は日本の昔ながらの口説き文句です』
「君の感性が昭和風味なのは理解したよ・・・」
呆れ笑いながらアズは外へと出ていく。
『貴女の前途に幸在らん事を・・・CEO』
図書館の扉がそっと光を閉ざした。
*
太平洋側にある港の埠頭に大型の石油タンカーが横付けされていた。
深夜を過ぎて作業をする者の姿は消えている。
置かれている事務所の一角で握手が交わされていた。
分厚い遮光カーテンに遮られた室内で二人の男が椅子に腰掛ける。
一人は四十代の黒人。
一人は三十代の白人。
どちらの顔にも笑みこそ浮いていたが、内心は厄介事にうんざりで疲れていた。
「はじめまして。ミスター・・・何と呼べばいいかな?」
黒人が少し困って白人に訊く。
「商売敵にはOZなんて呼ばれてるが何でもいいさ。マイケルだろうがハワードだろうが」
フランクに白人が答えると黒人が僅かに顔を顰めた。
「この国では身分証明が必須だ」
「なら、オズ・マーチャーとでも呼んでくれ」
どうでもよさそうに適当な答えを返すオズに黒人が溜息を吐いた。
「それじゃあ、オズ。君に三つ忠告だ。一つ目は『ニュウカン』に付いて。この国は基本的に密入国外国人に厳しい。移民局こそ無いが法務省下の『入国管理局』はかなり優秀だ。
偽造書類は必ず最も信頼できる物を使う事を奨める。二つ目はこの国での態度に付いて。この国だとその態度はかなり目立つ。別人に成り切る演技力が無いなら本国に帰った方がいい。
この国での君のような白人のスタンダードは外国人観光客か日本の公共マナーを守る留学生だが、間違っても移民に化けるのは止した方がいい。
都市部だと夜間に職務質問の嵐を受ける事になりかねない。三つ目はこの国では公務員その他のあらゆる業種に対して不正を教唆するのは極めて難しいという事だ。
チップの習慣は無いし、賄賂も殆ど効かないし、義務や規律の遵守姿勢は尋常じゃないから痛い目を見るかもしれない。もし生の情報が欲しいなら、とりあえずその人物のブログやツイッターを調べる方が手っ取り早い。
おっと、ゴミは漁るなよ? 近所の「オバサン」にマークされるからな。後、仲良くなる手法は厳禁だ。顔を覚えられたら似顔絵を描かれて顔を変えなきゃならなくなる」
「三つ以上のご忠告どうも」
軽いノリのオズに黒人が再び溜息を吐いた。
「言っておくがくれぐれも表立った犯罪は行わない方がいい。警察の優秀さは侮れない」
「今まで中東だったから思うのかもしれないが、法治国家なんてまだ残ってたんだな」
「地球が崩壊する日に暴動も略奪も犯罪も起こらなかった国だぞ。統計だと、その日だけは日本人の犯罪率が劇的に下ったそうだ。無論、移民や外国人達は例外だったが、それもちゃんと機能していた警察に押さえ込まれて死傷者は日本全国でもごく僅かだった」
男が驚きに口笛を吹く。
「本当か? あの日に警察が動いてたって? どういう神経してるんだこの国の連中?」
「それが国民性、民度の違いと言ってもいい。インテリジェンスには最適の国と言われる程に平和呆けしているし、「スパイテンゴク」なんて汚名も事実だ。
世界各国の人間が入り込んで好き放題に情報を盗み出してもいる。まぁ、此処二十年でだいぶ変わったが、それでも未だスパイって奴はこの国で働き口がある。大企業なんかは第十六機関の関係でプロテクトが強化されたが、中小企業なんかにはまだまだ盗み放題だ。
活動している連中から漏れる居心地が良いとの評判は君にもすぐ理解できるだろう。此処に住み着いたら金さえあれば不自由な思いはしない。
食事は十年違うものを食べていられる程に種類が豊富だし、酒も世界中のが揃ってる。女は総じて御淑やかで露出が少ないものを着てるが『そっち』の文化も進んでるから心配は無用だ」
オズが黒人を呆れた様子で見つめた。
「楽しみ過ぎだろう。おい」
「二十年も居れば愛着も湧く」
「それでオレの部屋は何処に置く事になってる?」
「契約は済んでる。住所はここだ。『カンジ』読めるか?」
「問題ない」
黒人が男に書類一式を渡した。
「ちなみに治安は最高だ。旧華族、旧財閥の名家が乱立する場所が近いせいで普通の組織は手が出せない。だが、逆に犯罪が起きれば徹底的な追及を受ける危険がある」
「こっちから何か事件を起こさない限りは大丈夫って事か?」
「そういう事だ」
「了解した」
書類と鍵を全てを受け取ったオズが事務所から出て行こうとすると背後から声が掛かる。
「言い忘れたがお隣には必ず挨拶に行け」
「はぁ? 何言って―――」
思わず振り向いたオズが黒人が真剣な顔に黙り込む。
「その場所を確保するのに色々とコネを使った。部屋を借りる条件がソレだった」
「・・・そのお隣ってのはどんな奴なんだ?」
「オレも詳しい事は知らない。いや、知りたくない人間だ」
しばし考えたオズがそっと聞く。
「・・・・・・・『ヤクザ』?」
黒人が首を横に振る。
「そんなものよりずっと恐ろしい」
「おいおい。危険人物に挨拶に行けってどういう神経してんだ」
「危険は危険だがこちらから手を出さない限り安全だ。彼女はそれを裏切らない」
「女かよ!」
「いや、正確には彼女の下で働いている男だ」
「男かよ!?」
「それと居候が一人いるらしい」
「何なんだよ?!」
喚くオズに黒人が「まぁまぁ」と宥めながら汗を浮かべつつサムズアップする。
「頑張れ。相手はただの下働き。ただの『AS』の手下だ」
「―――何?」
時間が数秒止まったオズが再び動き出して訊く。
「・・・ウチの上層部が昔は目の敵にしてた?」
オズに黒人が頷く。
「その『AS』だ。だが、今は協定で互いに過干渉しないと取り決めてある。特定状況下なら協力もあり得るんだから時代は変わった」
「・・・知ってる。あの時オレの同僚が四人程仕事止めたからな」
「くれぐれも機嫌は損ねないでくれ。この国での仕事が人生最後になるぞ」
「ああ、解った。くそったれ」
「後は自力で何とかしてくれ。ここもそろそろ引き払う。もう会う事もないだろう。祖国の為に頑張れ」
「オレがそんな年に見えるか? ったく」
オズが事務所から出て行くと黒人がドッと疲れた様子で椅子にもたれてグッタリとした。
階段を上がってくる人の気配に黒人が慌てて起き上がる。
事務所の扉が密やかに開いた。
「あなたいる?」
三十代と思しき女の声に黒人が破顔した。
「おお、マイワイフじゃないか。どうしたこんな夜更けに?」
「お仕事頑張ってるって同僚の方に聞いたから来ちゃった。さっき降りていった人との商談だったのかしら?」
「まぁ、ね。とりあえず入りなさい。外は蒸し暑かっただろう」
「ええ、お弁当持って歩いてきたから汗掻いちゃった」
「おぉ、ベントーか!」
妻の手に持たれていた大きなバスケットが目に入って黒人が大喜びしニッコリと笑ってバスケットを受け取った。
(これで借りは返したぞ。アズ・・・)
二人の賑やかな声が事務所の外に僅かに響き、歩き続けるオズは一人愚痴った。
「何処がテメェの祖国なんだっつーの」
声は小さく闇に呑まれた。
彷徨うは人の定め。
傅くは運命にのみ。
なればこそ、女は男より賢しらとなる。
それでも男達の意思は堅く。
だからこそ、擦れ違い、別離は続く。
第十一話「偽善者の証明」
それでも惹かれ合うのが性か。
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第十一話 偽善者の証明
第十一話 偽善者の証明
佐武戒十は苦虫を噛み潰したような顔でボードの文字を睨み付けていた。
(面倒な事件押し付けられちまったな・・・・)
数日前、警察署内でGIOの裏方の実行犯達を捕まえるという功績を挙げた佐武だったが、犯人達の不審死によって功績どころか一部上層部からの非難を浴びる事態に至っていた。
不審死した犯人達の解剖結果から解ったのは犯人達が同時刻に心不全を起こしたという事のみ。
何らかの検知不能の殺害方法がGIOによって使われたのは目に見えて明らかだったが、立証する為の証拠は何一つ残っておらず、自殺の可能性すらあるという建前で警察上層部は全ての事件を揉消した。
事件の犯人達が数人警察署内で同時刻に殺されたともなれば、警察の信用は失墜するどころの騒ぎではなくなるのは無論の事、警察機構そのものの弱体化にも繋がりかねない。
GIOからの経済界を経由した警察上層部への圧力も犯人達の死亡原因を突然死や不審死、自殺で片付けさせるには十分な判断材料だった。
結果、事件捜査を主導していた佐武はその責任を取らされて、名目上は新たな事件の捜査という話で窓際に追いやられる事となっていた。
「プロファイラーの見地から言わせていただけるならば―――」
公には責任を取らせられない事情から無駄に時間が掛かりそうな事件を割り振られた佐武は内心で歯噛みしながらも淡々と事件の概要を頭に入れていく。
「この事からも解るように犯人の性別はほぼ間違いなく女性―――」
二日前、都市部の東側でジョギング中の男性が川原で死体を発見し警察に通報。
遺体には四肢が全て欠けていた。
「この遺体を検死解剖した結果、死因は『餓死』だと解りました」
胸糞の悪い説明に佐武が顔を顰めた。
「更に欠落していた四肢は丁寧に縫合され、痕が完全に塞がっていた事から半年以上前に手術されたものだと村田先生からは結論を頂いています。全肢を縫合するような手術が半年前以前に何処かの病院で行われていたかを問い合わせてもらいましたが大学病院私立病院開業医どれも空振りで―――」
仏の顔を写真越しにそっと覗いて佐武は思わず渋面になる。
今まで惨たらしい死に方の遺体を山のように見てきた佐武だったが、その写真の遺体は異次元の生物でも見せられているような悍(おぞま)しさを秘めていた。
焼死、溺死、窒息死、失血死、圧死。
どれもこれも決して綺麗な苦しまない死に方は出来ない。
しかし、そこには一様に人間として苦しんだ痕跡がある。
(この仏・・・・・なんつー面してやがんだ・・・・)
だが、その写真の遺体は人間らしく苦しんで死んだ顔とは佐武にはとても思えなかった。
「尚、当初遺体の年齢は老齢かと思われいましたが・・・・・・・検死結果では二十代の男性だそうです」
ザワリと会議室の空気が変質する。
「検死結果では白髪化の原因はおそらく心因性のもので、顔の皺も飢餓と心因性のものではないかと・・・・・・」
気まずそうに進行役の刑事が告げると場の空気が一気に重くなった。
誰も彼もが事件の惨たらしさと異様さに汗を滲ませていた。
バラバラ死体なんて昨今珍しいものではない。
問題は殺し方の異常性と遺体の異様さ。
見慣れているはずの刑事達すら遺体の写真を面と向かって見るのは腰が引けていた。
佐武が手を上げる。
「何でしょうか。佐武警部補」
「つまり今までの話を総合すると仏さんはサイコな女に達磨にされた挙句に餓死させられたって事でいいのか?」
『佐武さん!? 言い方って物が・・・・・』
同僚の一人が佐武の袖を引っ張り小声で忠告する。
「言い方もあるだろうがそういう事じゃねぇのか?」
進行役の刑事が「ああ」と苦い顔で頷いた。
佐武が座る。
「本人確認は現在歯型を照合中。周辺の聞き込みは五班と六班が主軸となってくれ。二班と三班は病院関係者を当ってくれ。一斑と四班は周辺の監視カメラの情報を当って欲しい」
それから会議が解散となるまで佐武は黙り込んだままだった。
「佐武さん」
会議後の一室で同年代の同僚に話しかけられ佐武が顔を上げる。
「今は我慢の時だ。アンタらしくもない」
「近頃、おかしい事件ばっかりだろうが。オレもおかしくなる程度で調度いい」
佐武の冗談に苦笑して同僚が肩を叩いて部屋を後にした。
「・・・・・・」
再び佐武が遺体の写真を見る。
全体写真を見れば、それは異様としか言えない死に様だった。
ガリガリに痩せた骨と皮だけの四肢を失った老人。
その顔は形容し難い程に歪み人間の顔とは思えない末期を刻んでいる。
「何かが起きてやがんだ・・・何かが・・・」
まるで連動しているかのように続く不可解な事件の数々が佐武には数日前のテロリストの包囲に端を発している気がした。
事件が立て続けに起こる原因が何なのか。
それを究明しない限り、また何かが起こる。
そう佐武には思えてならなかった。
*
永橋風御の生活サイクルには労働という言葉が存在しない。
マンションの最上階を全て所有している程度には金に困っていない。
だから、人生を楽しむ術だけが生活の全てと言える。
居酒屋で引っ掛けた女を連れ込んで次の日には別の女を連れ込んで更に次の日には何処かのパーティーをぶらつき意味も無くホテルのスイートで寛ぎ唐突に家の冷蔵庫が気になって買出しをしてから帰る事もザラだ。
そんな風御の趣味は「どうしようもない女」を拾ってくるという事に尽きる。
「どうしようもない」という形容は風御本人にとって慣れたものだ。
顔がボコボコに腫れ上がった腕に注射痕だらけの女をゴミ箱の近くから漁ってくるとか。
完全に捻くれてしまった頭空っぽの哀れな死に掛け不良少女を公園から担いでくるとか。
明日も知れない借金まみれな酔ったソープ嬢を橋の欄干の上からしょうがなくお姫様だっこで持ってくるとか。
そういう至って「普通」な慈善行為だ。
裏の世界側にいた風御にとって身を持ち崩す女は日常的に転がっている落ち葉と大差ない。
何処にでもある悲劇を可哀想等とは思わないし、それを救ったからと利益を得るわけでもない。
だからこそ、正に趣味として風御は保護を行っている。
「どうしようもない」女を拾ってきて、とりあえず傷があるなら手当てをし、病気なら看病して医者に見せ、借金があるなら払ってやり、頭が空っぽなら勉強を教え、ヤクザ屋さんが怒っているなら話を付け、とりあえず問題が解決したら家から追い出す。
まるで聖人か何かのように聞こえる行為も本人からすれば、趣味の範囲でしかない。
その日も風御はブラブラと都市を歩きつつ、落ちた木の葉の中を散策していた。
「・・・・・・」
黄昏時の都市には多くの匂(かおり)が混在する。
排ガスよりも濃く鼻に残るのは夕食の香り。
香料と汗と帰路を急ぐ人が立てる埃の臭い。
日常に追われながら生きる者のニオイは都市を昼から夜へと移し変えていく。
「・・・・・・?」
ふと気付けば、風御は小さな映画館の前にいた。
大昔の映画をリバイバル上映しているらしい小さな小さな映画館。
貸しビルの一角へ続く狭い階段を上っていけば、風御も見知った十年以上前の大作のポスターが乱雑に貼り付けられている。
エレベーターも無い貸しビルの三階。
やる気の無さそうな老人が一人ポツンとカウンターに佇んでいた。
耳の遠そうな老人に金を払い途中からでいいかと風御が場内への扉を静かに開けて入る。
風御が辺りを見回すが誰一人として場内にいなかった。
正面のスクリーンに映し出される男が静かに酒を呷るシーンに何の映画だったかと僅かに記憶を手繰りながら歩いた風御は部屋の中央ど真ん中に座る事にした。
微妙に背が高い備え付けの椅子に腰掛けた風御が正面のスクリーンに集中しようとして気付いた。
「?」
スクリーンの前に余計なものが映り込んでいた。
それは風御から数席前の席からヒョッコリと生える鉤型の細い何かだった。
暗い室内でよくよく目を凝らした風御がソレの正体を探る内にスクリーンの内側では男達が銃で無駄弾をばら撒いていく。
『!』
風御の見つめる先でソレがビクリと震え、左右に揺れ始める。
(ああ、何だアホ毛か)
ソレが漫画などにはありがちな表現、髪の天辺から何故か生えるレーダー的な何かだと気付いて風御は納得する。
スッキリした気分で風御が再びスクリーンに視線を向けると何故かスタッフロールが流れ始めていた。
「・・・・・・・・」
何か理不尽なものを感じて風御は溜息を吐く。
とりあえずアホ毛の持ち主に意識を殺がれた風御の時間は無駄になった。
自分以外にこんな時間帯の寂れた映画館にいる暇人を確認してみる事にした。
前に五列目、最前列からは三列目、その中心席を覗き込んだ風御の瞳がバッチリとアホ毛の持ち主の瞳と交錯する。
「誰・・・・・何ですか?」
細い声が風御の耳を抜けた。
「君こそ誰?」
互いに同方向に首を傾げつつ、風御の脳裏が高速で回転し始める。
列の中央に座っていたのは未だ中学生より下に見える少女だった。
僅かに赤みがかった髪に夏だからと言うには滑らか過ぎる褐色の肌。
顔立ちは僅かに日本人に似ているものの、全体的に彫りが深い。
整った顔立ちのせいでその年齢その身長にしては大人びて見える。
割と人物の所属する層を姿から推し量れる風御はすぐに少女が低下層の移民二世三世辺りだと解った。
「失礼な人ですね。名乗るならばまずは自分から、でしょう?」
年齢の割にしっかりとした答えが返ってきて風御が驚く。
少女が学業を修め、礼儀を躾けられている事実に僅かなりとも驚きを感じた。
「そうもそうかな。ん、僕は風御。しがない大富豪だよ」
シレっと真実を語りながら風御はたぶんはハーフだろう少女の動向を伺う。
胡散臭そうな瞳で風御を見た少女が数瞬だけ考える素振りを見せて口を開く。
「あたしはセキ。しがない移民四世です」
「四世? 確か日本でも四世は全体の0.002以下。珍しい部類だ」
「出会った女の子にいきなり珍しい発言をするアナタの方が珍しいのでは?」
皮肉げに答える少女の理知的な瞳に風御は益々驚きを感じる。
「いや、本当に君は珍しい部類に入る。君の国の移民の殆どは自国語での教育に力を入れてるはずだし、こんな場所で見かけるような層は全体で一万人もいない。それなのに君は平日にこんな場所でこんな時間に映画を見てる。うん、珍しい」
断定口調の風御に少女セキが気分を害するより先に目を細めた。
「そんな事をペラペラ口にする二十代前半の日本人がこんな場末の映画館でこんな平日の夕方にいるのも随分珍しいと思いますけど」
風御はその反論に思わず噴出してしまう。
「確かに・・・くく」
セキが僅かに渋面を作った。
「これだから日本人は・・・お兄ちゃんを見習わせてあげたいです」
「お兄さんがいるの。セキちゃんには」
「初対面の女の子をちゃん付けで呼ぶ危ない人には教えたくないです」
「それじゃあ、初対面の女の子を呼び捨てにしてもいい?」
「ナンパなら他所でやって下さい」
「生憎と女性関係に困った事は無いね」
「そんな高級スーツを着崩してるなら、そうかもしれませんね」
棘のある言葉の数々に滲み出た少女の『色』。
風御は内心冷静なままで会話を続け警戒感バリバリのセキに肩を竦めた。。
「貧乏人には高級感が伝わらないよう着てるつもりなんだけど。よく解ったね? 今まで見破られた事ないからさ」
「見ていれば解ります・・・アナタ、何が目的ですか?」
「君のせいで映画を見逃したんだよ」
「は?」
「君のアホ毛が気になって気になって結局内容も覚えてない」
一瞬、唖然としたセキが自分の頭を慌てて押さえ紅い顔で風御を睨み付けた。
「人の弱点を論(あげつら)う。如何にも金持ちのしそうな嫌がらせですね!?」
「いや、事実君のアホ毛はこの映画館だと他の観客には耐え難い試練だったはずさ。僕には解る。君のせいで数人いた観客も消え失せたのが」
「言い掛かりです!!」
「いいよ。君が何と言おうと事実は変わらないでしょ」
「~~~~~~~~~」
ふるふると震える少女の顔が真っ赤に染まる。
怒った顔に風御は「ニヤリ」と笑みを浮かべて手をヒラヒラさせながら道を引き返した。
背中に怒りの視線を感じながら場外に出た風御が幾つかの自販機に財布の万札を呑み込ませて、ドリンクとツマミを大量に取り出す。
「今日何時まで?」
老人が横を指差す。
ボードには午後十一時とあった。
「コレで十一時まで貸切にしてくれる?」
財布から一センチ程取り出して詰んだ風御がニッコリ笑うと老人が僅かに驚き顔を上げてコクコク頷いた。
「それじゃ」
場内に戻っていく風御の背中を見つめていた老人は慌てるように外へと出て行く。
クローズドの札を吊るされた映画館に続く階段には結局、その日最後まで人が訪れる事は無かった。
*
午後十一時を回った映画館から二人が出てきた時には通りには人通りなど皆無となっていた。
空は暗く、街灯の半分は節電の名目で光量を落としている。
「・・・・・・・・・・・」
ムスっとした顔のセキが無言で歩いていく。
早足のセキが何かに耐え切れなくなったように後ろを振り向いた。
「どうして付いてくるんですか? 新手のストーカーか何かですか?」
「僕の金で飲み食いして映画を最後まで見てしまった人間の言葉とは思えないよ」
「それは!? アナタが何かと私に話しかけて来るから!! お、お菓子だって飲み物だってお詫びとか言ってたはずです!!」
「それを真に受けて冗談だと思わない無垢さが現代には失われた日本人の心って奴だね」
「意味が解りません!!」
「考えるな。感じるんだ」
「それは映画の台詞です!!」
「僕はこれでも人見知りする方だよ」
「誰がそんな事聞きましたか!?」
「少しだけ引っかかったから少しだけ観察させてもらったんだ」
「―――――アナタは・・・・・」
今までの馬鹿話が一転、風御の笑みにセキの顔が冷静さを取り戻していく。
「十一時まで付き合うどころか。君は最初から最後までいるつもりだったでしょ?」
「・・・・・・・・」
押し黙るセキの前に進み出て風御が振り返る。
「人間観察は僕のライフワークでね。僕には君が出会ってから奇妙に思えて仕方なかった」
風御が四つ指を立てる。
「君には四つの不審点がある。一つ目は君の服が近頃流行りの低価格帯を席巻してるブランドだってこと。安くてそこそこ丈夫で可愛いのを売りにしてる。
でも、君は四世っていう立場でそれを買うには少し無理がある。何故ならそのブランドがあるのは例外なく付近五十メートル以内に交番が存在する場所だけだからだ。
残念ながら移民政策の失敗で今の警察は移民への職務質問は常態化してる。移民が仕事をする場合、例外なく端末を与えられ、ジオネット上で登録、更には常時の位置送信を義務付けられる。
職質を嫌って移民は普通自分も自分の子供にもそういう付近に近づかないように教えてる。四世ともなれば親は苦労から必ず日本内での仕来りや作法や注意点を言い含めてるはずだ。
つまり、君は普通なら買うはずのないブランドを、やけっぱちにでもならない限り買う機会の無い服を、何故か着てる事になる」
風御が指を一つ折ってセキの靴を見る。
「二つ目は靴。君の靴は僕が知る限り近頃発売されたばかりのものだ。値段こそ最廉価の代物だけど発売からたった十日でそこまで汚れるわけがない。もしも汚れるとすれば状況がそうさせているはずじゃない? 例えば、ずっと靴を履き続けてるからとかね。君の歩き方がぎこちないのは靴擦れで足が痛いからでしょ。慣れない靴を延々と履けば誰だってそうなる」
二つ目の指が折られる。
「三つ目は君が映画館に一人でいた事。君のアホ毛が気になったからって普通は金を出した映画を最後まで見ないなんて有り得ない。でも、君は実際に一人だった。トイレの途中で聞いたけど、あの映画館は数人の常連が何時間も見たりする場所らしい。
でも、君がいた時間帯には誰一人としていなかった。つまり、一つの映画だけならまだしも君があの場所にずっと陣取り続けていた為に常連は今日のところは止めて帰ったって事が推測出来る。
あの映画館は客の入れ替えなんてやらずに老人がフィルムだけ入れ替えて続け様に上映してると言っていた。杜撰な管理だから客の出入りを老人が記録して居た時間分だけで料金を取ってるらしい。
教えてもらったところによると君は一番最初の上映からずっといた。つまり、君は学校帰りでもなく平日の朝っぱらから映画漬けで学校を休んでいるって事になる。更に言えば、朝から入り浸りだったのに君の近くには飲み物のゴミも食事の痕跡も無かった。
普通何時間も飲まず食わずで映画なんて見るもんじゃない。映画は楽しく見るものなんだから。そうしなかったのは無論お金が無いから。
普段なら絶対こんな胡散臭い僕から奢られたり施しを受け取ったりしないであろう君がついお菓子を手に取った理由は節約してお腹が空いていたからで間違いない。そんな君がわざわざ映画を見ている理由は・・・まだ聞きたい?」
セキが唖然とした後、風御をキッと睨み付ける。
「あたしが家出少女みたいだからってアナタに関係ありますか?」
「大有りじゃない? 共に寝食を共にした仲なんだから」
「いつ一緒に寝たんですか?」
「映画が退屈で寝てたよ」
頭痛を抑えるようにセキが片手で額を押さえる。
「アナタと話していたら帰りたくなってきましたから帰ります」
「そう。僕も帰ろっかな」
「それではあたしはこれで」
「それじゃ、僕もこれで」
バイバイと手を振って風御がセキと分かれた。
数分後、分かれたはずの二人はコンビニの週刊誌を置く場所で出会っていた。
風御を見つけたセキが風御の横まで歩いてくる。
「どうして此処にいるんですか? 帰るんじゃなかったんですか?」
「ほら、今日月曜だから立ち読みしたくなって」
「・・・・・・」
無言でセキが風御をすり抜けてトイレへと入る。
数分後、セキがトイレから出てくると風御の姿は消えていた。
しかし、嫌な予感が胸を過ぎったセキはすぐさまにコンビニを出て近くの小さな公園へと歩き出した。
数分後、セキが公園のベンチに座ってグッタリとして目を瞑る。
疲れた溜息を吐いて虫の声に耳を澄ましていたセキの頬に急に冷たいものが当たった。
「ひぁ!?」
思わず可愛らしい声で飛び上がらんばかりに驚いたセキが振り向くと冷えたコーヒーを腰に手を当てながら一気飲みする風御がいた。
「な、なな、何なんですかアナタ!?」
「え? 何だか缶コーヒーが無性に飲みたくなって自販機でちょっと買ってたら君が勝手に僕の座ってたベンチにいたからお裾分けを」
きょとんとした顔で言う風御にセキは脱力した。
「本当に何なんですかアナタ・・・」
「ただの通りすがりの大富豪かな。ちなみに虫除けスプレー要らない?」
「・・・要ります」
もはや諦めの境地に達したセキが缶コーヒーを受け取って自棄気味に飲み始める。
一気に飲み干した缶が憎いとばかりに近くのゴミ箱に八つ当たり気味に投げ入れ、風緒の手から毟り取ったスプレーを全身に振り掛けた。
風御が横に座ってもセキはもう何も言わなかった。
ただ、ジッと風御を見つめていた。
欠伸をし始める風御にセキが不信感もそのままに心底不思議そうに聞く。
「どうして、こんな事して何かアナタに得でもありますか?」
「僕がそんなケチな人間に見える? ほら、アレだよ。アレ」
「アレ?」
「こう大富豪的な慈善活動というか。報われない無垢で哀れな子羊にお布施をしてあげるような心地というか」
「つまり偽善ですか?」
「うん、ソレ」
「少しは悪びれて!!」
べチンと風御の頬にセキの手型が付いた。
「どうしたのセキちゃん?」
「どうしたのってアナタおかしいですよ!!」
「何処が?」
「何処がって・・・それは全部が!」
「何で?」
「普通、こういう時は・・・『これから家に止めてあげるよ』とか『何しやがんだテメェ』とか何か言い包めたり脅したりして持ち帰りしようと企んだり・・・って何言わせるんですか?!」
乗りツッコミ全開で再び風御の頬にビンタが炸裂する。
「別に君じゃ後四年は立たないから安心していいよ」
ニッコリ聖人の顔で平然と言う風御にセキが顔を紅くした。
「~~~~~馬鹿にして!」
「僕の友人にダメな人間がいるんだけど」
「人に話を振っておいて唐突に振り切らないでください!?」
「そいつが社会のクズでどうしようもない貧乏人だったりするわけ」
もう何を言っても話し続けるらしい風御にセキは黙り込むしかなかった。
「僕はいつもそいつに毎日のように朝食を奢ったり仕事を一億とか二億とか使って手伝ったりするんだけど、そいつは僕を殴ったり理不尽だったり怒ったり笑ったりしてくれる。ホント馬鹿な付き合いだとは思うけど、僕にはそれが人生のスパイスみたいなものに思えてる」
風御がスーツの内ポケットからクシャクシャになったタバコを一本取り出してジッポで火を付け噴かした。
「そいつは社会のクズではあるけどさ。人間のクズじゃない。いや、どっちかと言うと人間としたら表面的には聖人クラスかな。だから、そいつが人助けしてるのを見てると何か自分が空っぽだなぁとか少し羨ましかったりする。人間として大切なものをそいつは沢山持ってて、自分はそんなに持ってなくて・・・・・・」
タバコをポイ捨てして風御が踏み潰した。
「僕は君に同情したりしてないし、君がこれからどんな目に会うのかリアルに想像できても可哀想だとは思えない。でも、ちょっと友人みたいに君を助けられたならそいつに少しは胸を張れる気がする」
風御がセキに視線を合わせた。
「こういうのは僕の趣味の範疇。で、君はもの凄く不幸そうなオーラが出てる家出少女A。つまり、君がもしも困ってるなら僕は君を助ける用意がある。無論、君がそんなのお節介だと言うなら僕は君を『必ず助ける』」
セキが風御の言葉に何か難解な問題でも解いていたように額を揉み解した。
「つ、つまり、アナタはあたしを自分の自己満足の為にこっちへ何の意見も求めず勝手な判断で助けるって事ですか?」
「え、そう言わなかった?」
あまりの「あまりっぷり」にセキが今度こそ全力全開で脱力した。
「こう見えても功績結構はある方だよ。薬中にアル中にソープ嬢に自己破産女に頭空っぽな不良と色々見てきたから」
「同じにしないでください!!」
風御がセキに手を差し出す。
「あたしは・・・家には帰りません」
「好きなだけ家にいればいい。三食パスタか店屋物で良ければ」
しばしの無言の後、二人の手はしっかりと握手で結ばれた。
「まぁ、近頃はその友人が人間のクズ(性的な意味で)になりかけてるような気がするけどさ」
「今サラッと重要な事言いましたよね!?」
「いつの間にか自分より十歳位下の女とラブコメ(性的な意味で)やってるらしいし」
「ラブコメは性的な意味を含むはず!? じゃなくて?! やっぱり止め―――」
「生憎とクーリングオフって制度は嫌いなんだよね」
「もう嫌~~~~!!」
ズルズルと引きづられるように少女は風御に連れられてゆく。
その夜の事。
前日から幾度かお持ち帰りしている二十三歳OL独身が未だ家にいるという事実を風御が思い出すのはOLが裸エプロン姿で手料理を持って出迎えた直後の事だった。
「サイテェエエエエエエエエエエエエ!!!」
永橋家の玄関に嵐が吹き荒れ、二つの手形を頬に付けた風御は翌朝まで放って置かれる事となった。
*
風御家で主が伸びている頃、外字家の小さな一室でソラは両隣で寝ている久重に気付かれないよう背を向けて額を触っていた。
その額は僅かに発光している。
浮かび上がる文字が流れていく度にソラの顔は曇りを帯びてゆく。
Link Protection Error.
Delusion Amulet Stand By.
Execution.
Error.
Execution.
Error.
「・・・・・・・・・まだ、これでも・・・」
【SE】Fragment.
Super Resemble Closely Replica Increase.
【Devil1】Central Core Closed System 【Fatalist】.
Intervention Start.
Invade Collapse Rate 0.000000009%・・・.
「やっぱり・・・」
やがて、何かを諦めたソラが小さな溜息と共に目を瞑った。
数分後、小さな寝息が聞こえ始める。
少女の唇が僅かに寝言を呟き、青年は己の無力さを噛み締めながら意識を閉ざしていく。
密かな少女の呟きが青年の胸にはとても痛く、とても温かかった。
【ひさしげ。守るから】
二人の日常は未だ始まったばかりの劇にも似て。
(・・・・・・)
青年の想いは答にならず。
(情けなさ過ぎだ・・・・・・)
胸底に澱重なっては沈み。
(守ってもらってるのは本当はどっちだった・・・)
明日の夢に燻り続けて。
(・・・クソ・・・)
やがて、消え去っていく。
(必ず・・・お前を・・・)
その想いの終着点は。
(オレは・・・)
未だ青年の目に映ってはいなかった。
巷を覗けば、人々は日々に邁進する。
高望みの理想と醜悪なる現実。
ただ、そこにある悪意と良心を持ち寄って。
彼らの日常は先へ先へ。
第十二話「よくある話」
どちらにしても時は過ぎ去る。
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第十二話 よくある話
第十二話 よくある話
よくある話だが、彼女は何よりも兄を愛する。
「おにーちゃん。もうこっちは大丈夫だよ」
微笑みながら彼女は草むらで兄との逢瀬を楽しんでいた。
誰もいない草むらで彼女は兄の横に座って日常を語る。
今日は嫌な奴と会ってしまった。
昨日は優しい人に助けてもらった。
明日は大好きな映画を見に行く事にした。
話題は絶えない。
「今はおっきいマンションに住んでるの」
最新のファッションはこうだとか。
きっと、これから来るのはこのアイテムだとか。
どうでもいい話は尽きる事なく彼女の口から溢れ出す。
「昔は辛い事ばかりだったけどさ。今は全然楽しい事ばっかりなんだ。お友達は全員優しくしてくれるし、それにお金だって心配しなくてもよくなったんだよ。凄いでしょ」
彼女は一人喋り続ける。
喋れぬ兄の代わりに。
髪を撫で口元を少しだけ緩めて微笑む。
「誰も今まで助けてくれなかったのにね。少し顔が変わっただけで態度が全然違うんだよ。おっかしーよねー。人間は心だって道徳の時間、先生だって言ってたのにさ」
彼女は辛かった過去を思う。
生まれの別名を運命と言う世界で彼女達は生まれた。
違う国、違う人種、違う肌、違う思想、違う言葉、違う教育、違う世界。
社会の最底辺として生を受ければ、世間は冷たかった。
【ガイコクジン】には冷たい人々に彼女と兄はいつも途方にくれていた。
親達はいつもいつも彼女と兄に勉強をしろと言った。
勉強をすればきっとどうにかなると言った。
彼女がそれに疑問を持ったのは『ガッコウ』に入った頃。
『ガイジン死ねよ』
ランドセルとノートには落書きが一杯だった。
幼心に彼女は解らない文字が悪口なのだと解った。
兄はそんな彼女をいつも慰めては抱きしめてくれた。
「その、ね。今ね・・・付き合ってる人がいるんだ・・・おにーちゃんがもう心配しなくてもいいように、おにーちゃんがちゃんと安心していられるように。べ、別におにーちゃんが嫌いになったわけじゃないんだよ!? ただ、ほら、おにーちゃんとは兄妹だから、だから・・・その・・・おにーちゃん離れしなきゃいけない気がして・・・」
今まで黙っていた罪悪感から彼女はグッと唇を噛んだ。
「その人ね。おにーちゃんに似てるんだよ。凄く優しくて、凄く頼りがいのある人なんだ。でも、ちょっとだけ掴みどころが無くてフラフラ風船みたいに何処かへ飛んで行っちゃう事があって・・・あはは、ごめんね。おにーちゃんに言うような事じゃないよね。だって、おにーちゃんが喋れないのに一方的に喋ってばっかりで・・・これじゃ、妹失格だよね」
彼女は顔を翳らせて兄の手を握る。
「もう、行くね。最後に話せて良かったよ・・・おにーちゃん。【半年間ありがとね】」
彼女はそっと兄に口付けして、早足に草むらを去った。
その頬には涙の痕が幾筋も幾筋も流れていた。
―――――――――――――――――――――――――――――。
誰も来ない草むらは夏の盛りに猛る。
一日でどれだけ長くなったかも解らない背高(せいたか)ノッポな草達は兄を最後まで隠していた。
最後の別れを告げられた彼女の兄はただ世界を見上げていた。
その瞳に蠅が集り始めた次の朝、彼は発見された。
*
羽田了子の口癖は常に「ネタ」である事は間違いない。
「ネタ~~~~~ネタ~~~~~最高のネタ~~~」
その日も了子は合いも変わらずネタを追い求めていた。
踊り出しそうな上機嫌で愛車を運転する了子が回想する。
戒十が窓際に追いやられ、テロ関係の仕事から遠ざけられたのは数日前の事。
それ以降これといったテロ系のネタも無く、チマチマと地道な情報収集をしていた了子が戒十から新ネタを提供されたのは数十分前の事。
【達磨殺人事件】(仮)。
今時猟奇なバラバラ殺人などありふれている。
しかし、戒十が了子に調べろと言うならば、それにはそれ相応の価値がある。
戒十からネタを聞いてから短時間で重要情報を入手した了子は即座に行動を起こしたのだった。
「♪」
そもそも了子が前々から追っていた失踪事件が新ネタの事件と妙な合致を見せた事が大きかった。
とある場所の近辺で連続した失踪事件の被害者と新しい事件の被害者の顔写真が了子の頭の中でカチリとパズルの如く嵌り、速攻で車庫から車を出発させるに至っていた。
戒十から送られてきた被害者の顔写真はかなり悲惨なものだったが調べていた失踪者の一人に間違いなかった。
急いで端末のファイルを整理して引っ張り出し、被害者の身元を特定、良子は被害者の住所へと急行していた。
「・・・・・・・・・・・・」
車内で不意に了子が静かになる。
近頃キナ臭い警察に任せる事など何も無い。
了子の勘は何か得体の知れないモノが蠢いているのを感じていた。
テロリストを警察が包囲した日以来、都市には何かと多くの噂が浮上している。
白いスーツ姿のサラリーマンがおでんを食べていたとか。
気味の悪い子供が夜な夜なビルから飛び降りているとか。
病院で原因不明の病が流行るとか。
世界の滅亡が再び起こりそうとか。
隣国と戦争になるとか。
まったく馬鹿げた話の数々は了子の興味をそそり過ぎる材料だ。
不安になる程、未知の感覚が了子の第六感とも言うべき記者の勘を刺激していた。
(まだ、あの男の事も解ってないし、これから何が起こるって言うの・・・)
テロリストの包囲された日、了子の前に地下道から飛び出して倒れた全裸の男。
病院に搬送されたはずの男の所在は終に解らずじまいだった。
了子が調べたにも関わらず、警察の伝手を幾つか使ったにも関わらず、男は忽然とあらゆる情報の中から消えてしまっていた。
(誰が彼を何の為に隠したかったのか。それが問題・・・少なくとも政府系の機関に干渉出来る【何処か】なのは確かだけど・・・)
大規模な情報操作が行われているのを了子は肌で感じていた。
情報操作には三つの遣り方がある。
一つ目は関係者への口止め。
古来から人の口に戸は立てられないと言うが、殆どの政府系の情報操作はソレに含まれる。
二つ目は媒体上の情報削除。
ネット情報やら住民基本台帳やら一枚の写真やら媒体から情報を削除する方法。
最も困難であるものの【人間を含めた】媒体の削除は基本的に成功すれば二度と任意の情報を引き出せないという厄介極まりない方法だろう。
三つ目は偽情報の拡散。
九の嘘に一つの真実を混ぜてしまう事で物事の本質を見誤らせる。
真実が漏れてしまったのであれば、真実がただの噂に堕すればいいという考え方は良子にとって最も好かない類の遣り方に違いない。
どんな荒唐無稽な話にも真実が混ざっているものだが、殆どの場合は偽と真を見分ける術が無い。
噂はとりわけ問題になる。
嘘でも本当でもない【噂】は多くの情報を塗り潰してしまう。
(まずは地道に足で探しましょうか・・・)
ハンドルを強く握り締めて了子はスピードを上げた。
*
朝、外字家の賑やかさは限界を迎える。
セレブリティー全開な女子高生と怪しさ爆発の美少女がガチンコで微笑み会うからだった。
朝から胃をキリキリさせた久重がアズの呼び出しで仕事へと赴いたのはそんな食事時が過ぎ去った後。
僅かに腹部を片手で押さえつつ、冴えない顔でアズのクーペに乗り込んだ久重とソラはさっそくその日の仕事内容を聞かされる事になっていた。
窓の外に流れてゆく町並みを眺めているソラの元気が無い事を気に留めつつ、久重はアズから渡された書類に目を通した。
「行方不明者の捜索か。オレにこの仕事を回す意図は?」
「それを見て半分は理解してる。違うかい?」
「半分、ね。問題はジオネット上の個人登録だな」
「その通り。誰かが行方不明者の最後の目撃場所を指定してジオプロフィットを仕掛けてる。かなり複雑な条件を付けてる事からも何らかの意図があっての設定だ。なら、行方不明者達が回ったであろう場所を巡れば・・・・」
緩やかな笑みで答えるアズに久重が嫌な顔をした。
「おいおい。オレに行方不明になれとか。それ以前に達って何だ達って」
「それ以外にも幾つか捜索を頼まれてる。でも、その全ての行方不明者達も最後の目撃場所はそこなのさ」
「警察と政府のジオネット管理業者には問い合わせたのか?」
「無駄だよ。その情報だって僕のネットワークでキャッシュを抽出したに過ぎない。そもそもそんなジオネット登録は【無かった】んだから、答えようも無い」
「・・・ジオネットへの干渉なんて政府機関か諜報機関か。どっちにしろ痕跡が残ってないはずはない」
「それが残ってないから問題なんだよ。久重」
「何だ。つまり、その登録を抹消したのは正規の管理IDを持ってる奴か。あるいは痕跡を完全に消せるハッカーなわけか」
「どちらかと言えば管理IDの方だと思って構わない。ジオネット上でそんなハッカー紛いな事が出来るのは僕と数人の実力者。それと機関系の連中だけ。連中や実力者達がこんな馬鹿げた行方不明事件を演出する理由は皆無だよ」
「解った。それでオレは今日このルートを通ればいいんだな?」
久重が書類上のジオネット上に設定されていたルートを見つめた。
「登録そのものが消されても行方不明者を出す【原因】が見逃してくれるとは限らないからね」
「魚(げんいん)が其処にるとは限らないがな」
「それでもまだ潜んでいないとも限らないから君の出番と」
互いに視線を投げ合い、久重が渋々、アズはニヤリと互いの顔を確認した。
「ひさしげ。私も一緒に行くから」
後ろから掛かった声に久重が振り向く。
「いや、それは・・・」
真剣な表情のソラに昨日の夜の寝言を思い出して久重が途中から何も言えなくなる。
「ソラ嬢。ひさしげを後ろから見守っててくれないかな」
アズが割り込んだ。
「どうして?」
「行方不明の原因究明には男が必要なんだよ。今までの行方不明者の全員が二十代の男性のみ。ジオネットの設定にも一人でルートを通るようにと出てる。つまり、同伴する誰かがいたら無駄骨になるかもしれない」
「ひさしげ・・・」
ソラの不安そうな顔に久重が重い空気を笑い飛ばすように笑みを浮かべる。
「本当に危なくなったら頼りにしてもいいか?」
「うん」
「決まりだね」
アズの声と共にクーペが旧市街地へと侵入した。
*
国道を高速で駆けていくクーペを最大望遠で監視していたパーカー姿の少年メリッサはつまらなそうな顔で端末に耳を当てていた。
「現在、東南東に向かって進行中・・・・・・先輩いいですか?」
『どうかしましたか?』
「ハイテクも使わずに望遠レンズで覗きするのは仕事としては虚し過ぎます」
クーペが走る道路から十数キロ離れた高層ビルの屋上。
無駄にゴテゴテしたデカイ双眼鏡を片手にメリッサがうんざりした声を出す。
『支給品のソレは十分にハイテクの領域ですが? ナノフォトニクス系の研磨技術なんて惚れ惚れします。超高精度のレンズ研磨は宇宙開発を下支えする基礎の一つで―――』
「ウチには最新の盗聴機器とハッキングシステムと量子コンピューターの最新型が在ったと記憶してます」
『空からの監視と電子的な盗聴は不可能だそうで』
「どういう事ですか?」
『【SE】の一部が雲で都市部での移動を偽装しています。都市部全域で【D1】と同じ微弱な反応を偽装して反応もロストしました。通常電子機器の盗聴はあのクーペに乗っている方の防衛プログラムが優秀過ぎて昨夜返り討ちです』
「ふ、『連中』の無能さには頭が下りますよ」
『いえいえ、少し見ていましたが中々の鉄壁ぶりで。たぶんは【SE】の能力の大半を天候操作と【D1】の隠蔽に使っているのでしょう。【D1】の偽装モードを使われないだけマシと考えれば』
「夢の環境技術の無駄遣いだと思いますけど・・・」
『今の状態だと最も気付かれず監視する方法はソレしかありません』
「分裂した他の【SE】の行方は?」
『『連中』は世界中の都市部に潜伏した状態で自己開発モードを起動してると推測してますが、たぶん見つからないでしょう』
「先輩の考えは?」
『廃坑になった鉱脈跡や火山近辺で活動しているのではないかと思いますが』
「鉱脈は解るとして火山近辺ですか?」
『増殖に必要な鉱物資源やレアメタルを大量に確保し、尚且つ熱エネルギーに困らない場所。ピッタリ合致すると思いませんか?』
「火山性のガスだと腐食するんじゃ・・・」
『生憎と【SE】は地球環境下なら何処でも運用できるよう開発されました。熱エネルギーと運動エネルギーを相互に極小スターリングエンジン群で置換し、モーターや太陽電池で光、電気エネルギー、運動エネルギーと相互変換しつつ抽出する。これは最終的にはあらゆる環境下での対応を想定していた為です。雷雲の中、陽光の下、火山の付近、烈風の最中、如何なる場所でもエネルギーを取り出す事が出来る』
「でも、それを連中には教えてないわけですか?」
『さぁ? それはご想像にお任せしましょうか』
「これから移動します。次の定時連絡までは通信を途絶。引継ぎ役の到着まで監視を続行」
『了解しました。では、明日11:20時に引継ぎ役を向かわせます』
「ちなみにこの件の正式な監視役は誰になったか知ってますか?」
『【テラトーマ】が就くようですが』
僅かにメリッサがターポーリンの言葉に息を飲んだ。
「――――どういうつもりですか? ターポーリン先輩」
『どういうつもりとは?』
平然と返されて、メリッサが言い淀む。
「・・・何処の世界に戦略兵器へ偵察任務を行わせる馬鹿がいるんですか?」
『いえいえ、近頃デチューン処理を施されたらしく前に比べればスペック上殆ど無害です』
「先輩がそう言うなら・・・・・この件に関しては何も言いません」
『スポンサーも近頃は使いどころが無くて持て余し気味だったらしくて、返品したかったものをこちらで引き取ってリサイクル処理しただけの話です。問題無いでしょう』
「『第三世界の終末がこれで少し遠のいたと安堵してる』の間違いですよソレ」
『人間無駄に強い力を持つと後で気づくものです。こんなはずじゃなかったと』
「えぇ、そうかもしれません。それじゃあ、もう行きます」
『では次の提時連絡で』
メリッサが通話の切れた端末を手の中で砕いて捨てた。
「アレがデチューンされたから大人しい威力なんて誰が信じられるわけ・・・はぁ」
しばし、沈黙していたメリッサが脳裏で回線を開く。
『こちらメリッサ。サーバーへの接続許可申請』
電子音声がメリッサの声に応じた。
【はい。確認しました。認証番号20880211。サーバーへの接続許可申請通りました。閲覧情報、深度Bまでが開示されます。閲覧項目を選択してください】
メリッサが作り物の眼球を通して視界に複数の項目を確認する。
【第三世界からの人事異動引き揚げ者のリストを確認します。現時点で引き揚げ者無し。尚、貸出しされていた『戦略兵器テラトーマ』が準人員として該当ヒットしました】
『テラトーマに関するスペックの閲覧申請を』
【不許可。テラトーマのスペック閲覧には閲覧深度A以上の人員の同意が必要となります】
『・・・接続終了』
【接続を切断します】
メリッサは諦め気味に接続を切った。
「今更あの頃の亡霊に会う事になるなんて・・・・・・」
メリッサはビルの屋上からそっと飛び降りた。
その瞳はもう遠く消えていくクーペに固定されていた。
*
長橋風御が目を覚ました時にはもう昼を過ぎていた。
ソファーに転がされて上に薄いタオルケットが掛けられている。
むっくりと起き上がった風御は寝癖が付きまくった頭を掻きながら直ぐ側の絨毯の上に移民四世少女セキが寝転がっているのを見つけた。
「おはよう」
「ん・・・おはようございます」
寝起きが良い方なのか。
セキが身を起こした。
「目が覚めましたか? 駄目人間」
「駄目人間?」
いきなり駄目人間呼ばわりされた風御が首を傾げる。
「あの人。泣いてました。もう帰るって・・・アナタによろしく言っておいて欲しいって」
「そう、悪い事したかな」
「悪い事したかなって!? 何で裸エプロン姿の同棲してる女性がいるのに家に家出少女連れ込もうとするのですか!? どういう神経ですかアナタ!!」
昼から少女の激高した声が無駄に広い部屋に響く。
「言ったはずだけど。趣味だって。彼女もその類と思ってくれて構わない」
「な?! アナタの為に料理まで用意してたのに!? 何て言い草!!」
風御が相手にせず冷蔵庫を漁って、テーブルの上にラップが掛けられている料理の横に大量のシリアルと牛乳を入れたボールを置いた。
凄い形相で憤慨するセキを横目にスプーンでシリアルと食べ始める風御はテーブル上の冷め切った料理に目を細めた。
「昨日、何かあの人と話した?」
「話しましたとも!! あたしはアナタに連れられてきただけで全然まったく関係ない他人だと強調しておきました。それから自己紹介したら、その人も移民三世だって言ってました。あたしの家族の事を親身に聞いてくれて、それからあたしに【この人優しい人だから後は頼む】とか勘違い全開の泣きそうな笑みで出ていって・・・この駄目人間!!」
セキの怒りも何処吹く風で風御がシリアルを平らげて一息吐いた。
「そっか。やっぱり僕じゃ彼女は救えない・・・か」
「何を他人事みたいに!?」
胸倉を掴まれて風御がセキの瞳を初めて見る。
その瞳の奥に敵愾心だけを認めて、風御がソファーに沈み込みながらセキの手を退けた。
「行っておくけど彼女を見つけたのは一ヶ月前だから」
「え・・・」
セキが固まる。
セキはOLと少し話しただけだったが、まるで長年付き合っているような話しぶりであった事は覚えていた。
「君は色んな意味で勘違いをしてる。とりあえずそれを幾つか正しておくけど」
風御が指を四つ立てた。
「一つ。彼女と僕は一ヶ月の付き合いだ。二つ。僕と彼女は体の関係こそあったけど付き合ってない。三つ。彼女は君と同じで「どうしようもなさ」が目についたから連れてきただけの人間で、それ以上の感情はない。四つ。僕と彼女が会ったのはこれで四回目だ」
「え? いや、でも、そんな風には・・・・は!? 誤魔化そうとしてもそうはいきません!! ど、どっちにしろアナタは四回しか会ってない人間に裸エプロンをさせる最低人間という事です!!」
「まぁ、それはいいとして。君には彼女がどう見えた?」
「よくないです!!」
「いいから。問題の本質は僕と彼女の関係じゃない。僕が聞きたいのは彼女の不自然さに気付かなかったかって事」
「ふ、不自然?」
少しだけ己の中で引っかかっていた事を指摘されて、セキの勢いが削げた。
「不自然て・・・あの人はあたしと同じ移民だって、それで今は会社でOLしてるって。着替えたらホントに日本人のOLみたいに綺麗で服だってちゃんとしてて―――」
「本人が言い出さなければ日本人のOLにしか見えなかった? ちなみに君が見ただろうものは彼女の自前だけど」
「あ・・・・・・」
風御がラップを取り、冷め切ったオムライスにスプーンを突っ込む。
「気付いた?」
「で、でも、あたしに嘘を付く理由なんて!」
「今の情勢でOLをやってる移民なんているわけがない。いや、どちらかというと日本人のOLにしか見えない移民なんているわけがない、の間違いかな」
オムライスを平らげながら風御が続ける。
「君も知ってる通り、今の日本は移民を下層労働階級で固定してる。派遣法の改正で非正規雇用では移民が『優遇』されてる」
「あれは差別でしょう!!」
風御が「確かに」と頷く。
「そして、基本的に何処のどんな小さな会社だろうと純日本人の下に移民を置く構図が出来上がってる。社会の風潮がそもそも移民外国人を正社員にしている会社を受け付けない。過去の外資や移民外国人労働者との軋轢から、今の日本の会社と社会構造は海外からの出稼ぎや転勤してきたような永住資格を持たない外国人なんかには偏見を抱かないが、永住資格を有した移民外国人労働者に関しては仕事上の『逆差別を理由にして』採用しないのが一般的だ」
「都合の良い事ばっかり言って連れてこられたってお爺ちゃん達は言ってました」
「そこは世の中の議論にでも預けておいて。僕に聞かれても正しい答えなんて返せないから」
「・・・・・・」
「それで本題だけど。日本のOLみたいに見える人間がわざわざ自分を移民と言う理由は無いし、逆に移民が自分をOLに見せかける理由もまた無い。本当に移民ならば綺麗な服より明日の家族の糧を得るのに必死だろう。
日本人に見えるような整形をしても通り名が禁止され移民である事が仕事を探す上で隠せない以上、そんな金を使う理由にはならない。そんな金を使えるならそもそもOLになる必要も見い出せない。つまり、彼女はとても不自然な存在だった」
「アナタの言う「どうしようもない」って事ですか?」
「そう「どうしようもなく」不自然な日本人に見える移民がいて、デパートの屋上の遊戯施設のフェンスで黄昏(たそがれ)てる。だから、僕は彼女をとりあえず家に連れてきた。それ以降同じ場所に行くと同じように黄昏てるから仲良くなってみたわけ。彼女は少し人格的に壊れてたから、何とか直してあげられれば良かったんだけど・・・」
「こ――そんな言い方・・・」
「人間観察は得意な方って言わなかった? おにーちゃんと話が出来なくて寂しいとか。おにーちゃんになってくれるとか。色々言われて何度か深く聞いてみたら支離滅裂で曖昧な話を始めたりしてたから、精神科を薦めようかと思ってたんだけど」
風御が平らげたオムライスの皿をテーブルに置いた。
今まで話を聞いていたセキが風御を真剣な表情で見つめ、何を言うべきか内心から言葉を探した。
「どうして」
「何?」
「どうしてアナタはそんな顔で態度で・・・話が出来て・・・」
「僕も「どうしようもない」から」
「アナタも?」
「セキちゃん。君は今の話を聞いたから何か自分に出来る事があると思う?」
「それは・・・少しぐらい話を聞いてあげられるかもしれません」
「そう、君に出来るのは其処までだ。僕に出来る事もそう変わらない。君と僕の差は大人と子供。金の有無。付き合いの長さ。でも、どれをとっても彼女を本当に幸せに出来るような差じゃない」
「やってみなければ、やってみなければ分かりませんッ」
「いや、分かる。僕には限界がある。君にも。君に出来る事で解決するような問題なら僕にも解決できる。けれど、僕にも解決できないなら君にも出来ない」
「そんな事――」
「無い?」
瞳の奥を覗き込まれて、セキが拳を握った。
「・・・【この人優しい人だから後は頼む】って彼女は言ってました」
「そう」
「あたしはアナタを正直好きになれません。でも、アナタが彼女にそう言われるような人だって事は分かります」
「君も言ってたように偽善だよ」
「それでもアナタはお人好しです」
「友人に集(たか)られるくらいだから」
風御の言葉にセキが立ち上がる。
「彼女を迎えに行きます」
「彼女はたぶん戻ってこないだろうし、きっとあそこにもいない。勘だけど」
セキが風御の持っていたスプーンをもぎ取ってテーブルを指した。
意味が分からず風御が首を傾げる。
テーブルの上には色とりどりの肉と野菜が数皿並んでいた。
「とってもよく出来てます。どれもこれもちゃんとした下拵(したごしら)えが無いと出来ません。手間も時間も掛けない手料理なんてありません。まだ日本人に一宿一飯の恩義を感じる感性があるなら、アナタは彼女を追わなければならないはずです」
「移民が語るようになったら日本はおしまいかもしれない」
セキが首を横に振って、思い切り風御の頬を張った。
「移民でも日本人でも! 男が女の手料理を食べたなら褒めるのは当たり前です!!」
風御が驚いたまま固まって、軽く溜息を吐いた。
「確かに礼くらい言わないと罰(ばち)が当たる手料理だ・・・」
「冷めても美味しいように作り直してたから当たり前です」
「へ?」
風御が思わずセキを見た。
「昨日の分はあたしが頂きました。それは彼女が改めて作り直して置いていったものです」
風御がテーブルの上の料理を見つめて、深く、深く溜息を吐いた。
「・・・コレ食べたら少し出るけど君はどうする? セキちゃん」
「移民は金に汚い社会のクズだって言われます。けど、人に助けられて恩を返さない奴は人間のクズですから」
セキが風御に手を差し出す。
「昨日とは逆になったかな」
二人の手が握手で結ばれた。
(アナタの手があったかいと思ったから・・・彼女もあたしもきっとアナタに・・・)
十数分後、永橋家には誰もいなくなっていた。
どうして。
そう問う事に意味は無い。
そうなってしまったからには後戻りなど出来ない。
無為なる命と成り果てて、それでも選んだ道なれば。
第十三話「夜話は朧に融けて」
悪夢は二度、少女を還す。
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第十三話 夜話は朧に融けて
第十三話 夜話は朧に融けて
夜の幻影に少女を見るのは怪奇譚の一つと言えるだろう。
泡沫(うたかた)は宵の刻を引きずり、やがて闇の中に結実する。
世界の黒より深い色合いを湛えて少女はビルの表面を急ぐ。
夜の霧がけぶるビルの狭間を意に介さず、重力すら超越した少女の動きは緩やかな波紋となって周囲の霧を広げてゆく。
流れるような金色の髪が常夜灯の明かりに僅か照り返して煌く。
「・・・・・・・・」
ビルの遥か下で久重は事前情報通りの道を急いでいた。
(次の角を十二時までに曲がって後は直線距離で一キロか。バイアスロンでもさせてるつもりなのか? このジオプロフィットを設定した奴は・・・・・・)
ジオネット上に設定されているジオプロフィットは限られた領域での滞在時間や様々な設定にGPS情報が合致した時点で初めて得られる。
細かい設定が加算されジオプロフィットには得られる利益に幅を持たす事もできる。
例えば、とある品を買う為に並んだ人々に整理券が配られ、一人だけあぶれてしまった。
その人は数時間前から並んでいる。
店側が設定していたジオプロフィットの条件に合致すれば、並んでいた時間に比して何かしらのクーポンや特典を得る。
GPS情報のやり取りがそのまま利益となるジオプロフィットの使われ方は幾つもの商業利潤を生み出した。
深夜に開いているコンビニに来て受け取るクーポン。
祭りの会場をくまなく回って得られる商品。
店舗前を通り過ぎただけで得られるジオプロフィットすらある。
政府のサーバーを介して行われるGPS情報とジオプロフィットのやり取りが日常となりつつある日本では、並ぶだけ歩くだけ領域内にいるだけで何かしらの利益を得られる事がある。
その個人利用が増加するのは必然だった。
ジオネット上で様々なジオプロフィットを個人が設定するのも常識となりつつある。
法整備が進んだ昨今ジオプロフィットに関する犯罪は横行しつつあり、厳しい管理と警察に新たな部署を設ける事で国は対応していた。
(これで十万とか如何にも怪しいのに引っかかる奴・・・いるんだろうな・・・)
人気の無い道を急ぐ久重が脳裏でジオプロフィットを思い起こす。
所定の場所まで指定のポイントを一定時間で通り抜けて十万円。
正にボロい儲け。
普通なら怪しんで当然。
しかし、それでもやる人間はいる。
遊ぶ金欲しさか。
止むに止まれずか。
どちらにしろ他人から食い物される可能性があろうと人々は利益に群がる。
久重は多くの失踪者達に己を重ね合わせて思う。
(もしも、オレがアズと出会ってなかったらやってただろうし・・・)
借金苦は藁にも縋る。
それでなくても金が無くて困る人間はいつの時代にもいる。
日本でその最底辺より少し上辺りをウロウロしている久重にはそれがよく解る。
そんな人間が今の日本には溢れ過ぎていると知る故に久重にはこの事件が他人事だとは思えなかった。
久重にとって金とは命より重くない。
だが、命を繋ぐ為に必要不可欠なものだとも知っている。
己の境遇がまだ報われているからこそ、ジオプロフィットに仕掛けられた罠が久重には許せなかった。
「生きてろよ・・・」
僅かに今まで保ってきたペースが崩れ、息が乱れた。
その途端。
「?!」
久重は不意打ちの浮遊感に抗って虚空に手を伸ばした。
ッッッ。
その手の端がマンホールの端に引っかかる。
(抜かった!? 時間指定が月に一度の理由はこれか!?)
月の無い夜。
スモッグで覆われた都市に星の光は微弱。
金の為に急いている被害者は足元が疎かになる。
不意に一つだけ切れている常夜灯の一角。
都市の光が僅かも届かない死角に開いたマンホール。
注意力散漫な人間はズッポリと嵌ってしまうに違いない。
偶然の落とし穴と言うには計画的過ぎる奈落の淵で久重が声を聞く。
【アナタが新しい・・・おにーちゃん?】
「!?」
己の足元から響く女の声に久重の背筋が震えた。。
その声は悍(おぞま)しい響きを伴っていた。
子供が蟲を千切るような純粋さと甘く幼い陶酔が交じり合う声。
思わず下を見た久重が僅かに血の気を引かせる。
黒々とした穴の底で赤い瞳が輝いていた。
人の瞳が放つわけのない輝きには【人間らしい光】があった。
ギラギラとした揺らめきの中に【理性と感情】も含まれている。
(――――やばい)
こんな異常な状況でまったく周囲の暗さを気にしない。
闇の底で不安すら無い。
そんな人間が理性と感情を持って人間らしい光を携えて待ち構えている。
人によってはそれを【狂気】と呼ぶだろう。
(こいつ!?)
直感的な震えが久重を慌てさせる。
狂気に走るだけの人間なんて久重は恐れない。
しかし、久重は知っている。
世の中には狂気よりも恐ろしいものがある。
口で何と言おうと己の行動を断じて肯定する【折れる事が出来ない強さ】を持つ者。
そんな【人間】は狂気に駆られただけの【化け物】より恐ろしい。
どんなに酷い事もどんなに醜い事もどんなに異常な事もできるのが人間という生き物だ。
絶対的な精神の主柱を持つ人間は理由さえあれば何でもやる。
大学を出て理論的な思考能力が高い人間が宗教の下テロを行うように。
軍隊の指揮官が無情な作戦を断じて遂行するように。
狂気とは思考停止した人間が陥るもの。
人間らしい思考と感情と理屈に折り合いを付けた結果から人道を外れる者は狂気に取り付かれただけの者と比べても段違いの性能を発揮する。
明らかに女は狂気に駆られただけの【化け物】ではない【人間】だった。
【さぁ、行こうよ。おにーちゃん♪】
何かに足を掴まれて久重の指が急激な負荷に耐えられず穴の淵から離れる。
(何を言っても無駄なタイプか!)
明らかに待ち構えていた女が何も用意していないわけがない。
話し合っても結果が変わらないタイプの人間に状況を掌握された場合、問題は時間との勝負になる。
何かされてしまうのが先か。
救出が先か。
(ソラ!!)
闇の底に落ちた瞬間、久重の意識は落ちた。
*
彼女の一番最初の記憶は大きな手で抱きしめられているところから始まる。
それが父ではなく四歳歳年上の兄の手であると知ったのは彼女が七歳の頃。
その頃、彼女の両親は消えた。
ジョウハツという言葉を知ったのは確かその頃だったと彼女は記憶する。
それ以来、兄と共に彼女は生きた。
学校で虐められても、世間の冷たい目に晒されても、彼女は兄と共にならば耐えられた。
恐れるものは人間ではなく狭い四畳半の部屋に吹き込む隙間風だけ。
そんな生活が終わりを迎えたのは彼女が九歳の時。
親戚の家から逃げ出した後。
保護された兄と共に施設へと送られ、彼女は兄と離れ離れになった。
それから兄は学校の卒業と共に彼女を引き取った。
懸命に働き養ってくれる兄を彼女は敬い愛した。
それから、それから、それから。
彼女は兄の勧めで養女として引き取られた。
彼女を引き取ったのは裕福な家だった。
そこで彼女は全てのものを失った。
一月目。
彼女は学校を辞めた。
行く必要が無いからと退学届けが出されていた。
二月目。
彼女は外出できなくなった。
首輪に鎖が繋がれていたから。
三月目。
彼女は笑顔を忘れた。
小屋の床が冷たくて。
四月目。
彼女は人間では無くなった。
誰も彼女を人間として扱わなかった。
五月目。
彼女はいない事になった。
彼女は死んだ事にしたと誰かが言った。
いつの間にか。
彼女は動けなくなった。
手足が無くなってしまっていた。
――――――夥しい時間の果て。
彼女は兄を失った。
偶然に聞いた留守電。
聞こえたのは懐かしい人の声。
【アレのダイキンはマダマダ支払ってモライマス】
留守電に吹き込まれていく悪魔の声に彼女はオワリを聞いた。
家主は彼女に薬を撒いた。
【コレハオマエヲクイツクシテシマウクスリサ】
小瓶に入った銀色の綺麗な粉。
彼女を食べてしまうはずの薬。
けれども、彼女はグズグズに解けていく最中思う。
少しだけ、ほんの少しだけ。
【ああ、おにーちゃんに会いたい】
銀色の粉が彼女の心を食べた時、彼女は銀色の粉となった。
解けてしまいそうな体で彼女は家主に一つお願いをした。
【おにーちゃんに会いに行ける腕を下さい】
家主はとても驚いて彼女を叩こうとした。
彼女は感謝した。
【ぎぃうううううううううううううううううううううううううううう】
彼女は家主にもう一つお願いをした。
【おにーちゃんに会いに行ける足を下さい】
家主はバタバタ暴れながら彼女から離れようと足を向けた。
彼女は感謝した。
【ひぃぎいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい】
彼女は家主に最後のお願いをした。
【おにーちゃんに会いに行ける体を下さい】
家主は涙と涎に塗れながら笑ってくれた。
彼女は感謝した。
【あ゛ぎ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛】
彼女は貰った足で、貰った腕で、貰った体で出かける事にした。
兄はすぐに見つかった。
彼女はとても嬉しかった。
兄は昔とは見違えるような格好をしていた。
高級外車に乗って高級スーツを着込んで高級マンションに住まい高級食材を食べ高級そうな女を抱き何不自由無く微笑んでいた。
彼女はとても嬉しかった。
涙が出る程に嬉しかった。
ようやく、ようやく、ようやく。
会いたかった人に会えたから。
【おにーちゃん。ただいま。もう何処にも行かないでね?】
彼女の声に兄は振り向いた。
彼女は笑ってちょっと悪戯をする。
【へ? は、ひぁあああああああああああああああああああ!??】
兄は彼女の悪戯に変な声を上げて笑った。
【おにーちゃん。これからもずっと抱きしめててね】
彼女は嬉しくなってもう少し悪戯をする。
【ひううううううううううううううううううううううううう?!!】
兄は奇特にも彼女に腕をくれた。
【おにーちゃん。これからどうしようか?】
【あ、あ、あや、あやまッッッ?!!】
【おにーちゃん。これからどうしようか?】
【か、か、代わッ、代わッッ!!!】
【おにーちゃん。これからどうしようか?】
【た、た、たたた、助けッッ!?】
【もう、少し五月蝿いよ?】
彼女が怒ると兄は沈黙した。
【あ、死んじゃったのおにーちゃん? 代わりって言いたかったの?】
彼女は兄の亡骸をそっと抱きしめる。
【ごめんね。おにーちゃん。殺しちゃって。でも・・・】
彼女は孤独に苛まれそうになって気付く。
【おにーちゃんホントは私の事嫌いだったんだよね? ホントはいない方が良かったんだよね? だから、私の事を売ったんだよね? 大金を手に入れて良い暮らしがしたかったんだよね? あんな生活するくらいなら妹一人売ろうって思うよね】
彼女は兄を撫でて思う。
【何処で間違っちゃったんだろう私達。ホントは一杯話したい事があったのに・・・・・・】
兄の顔を見て彼女は気付く。
【あ、そうだ。おにーちゃんの代わりを探してみようかな。良いと思わない? だって、おにーちゃんは良い暮らししたんだから、私にだっておにーちゃんみたいに人生を楽しむ権利くらいあるよね?】
何も言わない兄にそっと彼女はキスする。
【じゃあね? おにーちゃん。今度のおにーちゃんはちゃんと愛してあげるから心配しないで】
彼女の新たな始まりは凡そ何処にでもある話で始まった。
*
【彼女の話】を見終えた久重は覚醒する。
「そういう、事か」
「え?」
女が不意を突かれた。
久重が思い切り体を投げ出す。
肩に担がれていた久重は土手を転がり落ちた。
転がり切った場所で痺れている体を無理やり起こした久重は暗い夜道から降りてくる紅い輝きを睨む。
「自分のママゴトに他人を巻き込むなよ」
僅かに霞む意識を維持しながら久重は紅い輝きに怯む事なく拳を握る。
「あなたは新しいおにーちゃんになってくれないの?」
「生憎と今は居候一人で手一杯だ」
「そうなんだ。あなたは私と同じみたいだから、きっと良いおにーちゃんになれると思ったんだけどな」
久重に向かい合い佇む女から放たれる声は細かった。
人一人を持ち上げ逃走しているとは思えない肉体は頼りなく風に吹かれている。
「今まで行方不明になった奴は全員が日本人だ。お前のおにーちゃんとやらは日本人でいいのか」
「おにーちゃんは出会った時、日本人の顔をしてた。あなたが見たみたいに」
僅かに久重の目が細められる。
「アレを見せたのはお前か?」
「あなたも【銀色の粉】を持ってるから、教えてあげられるかなって」
会話時間を引き延ばしながら肉体のコンディションを少しずつ戻していく。
「お前の今までの【おにーちゃん】はどうなった?」
半身の構えで久重が訊く。
「えっと、六人は死んじゃったけど三人は生きてると思う」
その答えが予想通り過ぎて久重が拳が白くなるまで握り締めた。
「一つだけ訊きたい」
「何?」
「お前は今幸せなのか」
思ってもみなかった質問なのか。
女が僅かに目を見開いた。
「あなたはどう思う?」
「楽しそうには見えても幸せそうには見えない」
女がまるで悪戯を叱られた子供のように目を伏せた。
「そっか・・・」
久重は女に拳を向ける。
「復讐、理不尽、無理解、どれもこれも自分で抱えて背負っていくしかない。それを他人に強要した時点でお前はお前をそんなにした誰かと同じだ」
女が自嘲気味に嗤う。
「それはやられた事が無い人間の言葉。やられたらやり返して、取られたら取り戻して、やっと少しだけ私は満たされたの。誰にもそれを否定させたりしない」
女の気配が膨れ上がる。
それ以上の会話は危険。
激昂させれば、命も危ない。
そうと知っていても久重は言葉を躊躇しなかった。
「やられたらやり返せばいいし、取られたら取り戻せばいい。それは人間から容易には奪えない自然な感情だろう」
闇の中、紅い輝きが僅かに揺らめく。
「だが、やり返しても虚しくて、取り戻しても同じじゃない」
「え?」
「他の誰かにやり返したら加害者になるだけだ。それで何かを決して取り戻しても、それはきっと失ったものじゃない」
「そんな綺麗事じゃ私は満たされない!」
女の声と共に肉体が膨れ上がっていく。
「胸に満たされたものが薄汚いと知っていて尚求める事は綺麗なのか?」
女が襲い掛かってくるのも構わず、久重がその突進を紙一重で横へすり抜けた。
「全てに目を背けて、悪い酒に溺れていれば誰だって楽だろう」
「知った風に!?」
横薙ぎの腕を己の体勢を無理やり崩してやり過ごす。
「本当に望んだのはそんな人殺しのママゴトだったのか?」
「うるさい!」
女が腕を振り下ろす。
その腕は人を薙いだだけで殺すに余りある力を秘めている。
背後へと飛んで転がり様に久重は言葉を繋げてゆく。
「本当はただ大好きな人と笑いあっていたかっただけなんじゃないのか?」
「うるさい!?」
人ではありえない速度で女が跳ぶ。
上から降ってくる女の足を避けるも蹴り砕かれた地面と共に久重は転がった。
「一緒に食事をして、今日は職場で何があったって馬鹿な話に花を咲かせて、暇な日に出かけようとか計画を立てて」
「黙ってよ!!」
完全に体勢を崩した久重の上に女の影が落ちる。
片腕で首を掴まれ持ち上げられた。
今にももう一方の腕は鉄槌のように打ち下ろさようとしている。
それでも久重は険しい顔で女の額に己の額をぶつけ視線を突き合わせる。
「思い出せ。お前が望んだのはこんな薄汚い満足で贖えるものだったのか?」
「――――止めてよ?!」
女は表情を歪ませ、久重を投擲した。
あっさりと宙を飛んだ久重の体がノーバウンドで土手へと大きな音を立ててめり込む。
(肋骨が三本、か・・・)
他にも全身打撲や内臓破裂の可能性もあった。
「あなただってお金が欲しいだけの卑しい日本人の癖に!!」
女がゆらりと久重の前に立つ。
「もう消えて・・・」
女の表情は暗がりの中で歪んでいた。
憎しみでも怒りでもない哀しみで。
「確かにオレも金の為に色々とやってきたさ。だが、金に貴賎があることぐらい知ってる。お前はジオプロフィットを人間の命を買う為に使った。その時点でお前はお前を虐げた奴と何も違わない」
「――――――」
女が拳を思い切り振りかぶり久重の胸に叩きつけた。
辺り一体に響く衝撃。
普通の人間ならば臓物をぶちまけているはずの一撃が細い手に遮られていた。
「ソラ!!」
「ひさしげ。大丈夫!?」
「ッ」
目の前に疾風の如く駆けつけてきたソラを警戒するように女が咄嗟に後ろへと下がった。
「お約束のようにギリギリだが助かった」
久重が笑いながらその場から立ち上がる。
「もう!! ひさしげッ、心配したんだから!? 解ってるの!!」
軽い久重のノリにソラが怒る。
「それよりまずはあいつを止めないとな」
ソラが油断無く女を見据える。
何処にでもいそうなOL風の女はところどころはち切れたスーツの内側から銀色とピンクの斑な肌を見せていた。
「アレって!?」
その姿に僅かな驚きを持ってソラが久重に訊く。
「どうやら闇ルートに流れたNDの一部らしい」
「やっぱりND!?」
「詳しい事は知らないがそいつを殺す為に使われたNDがそいつを生かしてる」
ソラが女の姿態に正体を探る。
(NDの暴走? 旧世代型のNDにそこまでの力があるなんて聞いた事ない)
「あなたも【銀色の粉】を持ってるの?」
女の問いにソラが目を細めた。
「あなたも同じなの?」
女の視線に僅かな変化を見て、ソラがその感情が何なのか気付く。
「・・・違う」
「?」
「私とあなたは同じじゃない。この力は私の大切な人が与えてくれたもの。その使い道は目の前の人と共に歩んでいく術。だから、私とあなたは違うわ」
女が傷ついた様子で微笑んだ。
「なら、死んでくれる?」
「断る!!」
女の体が跳躍し、久重を抱えてソラが超人的脚力で回避する。
女が落下し蹴り砕いた地面が鳴動して、爆裂した土石が周囲に飛び散った。
「ひさしげ。あの人のNDについて他に知ってる事は!?」
「あいつは本来四肢を失ってたはずだ。だが、NDを投与されてから他の人間の肉体を取り込んで再生させてる」
「再生?! そんなの普通のNDじゃ絶対―――」
その事実に気付いたソラが黙り込む。
「ソラ?」
「・・・昔、研究途中のNDを市場に放出して実験させられたことがあるって博士が言ってたの」
「まさか!?」
「うん。たぶん未完成品を流通させて人間に対する作用を観察してた。でも、被検体は全部【連中】が追跡して廃棄処分にしたってデータにあったから」
「そういう事か・・・」
女が二人の会話を隙と捉えたのか一直線に駆け手を伸ばす。
その手に掴まれれば人間の体如きは毟り千切られる。
襲い掛かってくる女に対してソラが咄嗟に黒い霧を解き放った。
「イートモード!!」
「!?」
女がその霧を避けて距離を取った。
イートモードは領域に入った対象となる全てをNDの力により分子レベルで解体する死の圏域。
対抗できるのは同じNDを身に纏った人間だけ。
女の不完全なNDでは防げない。
敏感に脅威を感じ取った女が警戒しながら圏域ギリギリの場所で黒い霧に覆われた内部へと意識を向ける。
「ソラ。もしも博士が作ったNDならオレに止められるか?」
「・・・たぶん基本設計もプログラムも同じはずだから。でも、そんなケガじゃ」
「やらせてくれ」
「何があったのひさしげ?」
「あいつに過去を見せられた」
「過去?」
人間を人間とも思わないクズが人間を化け物にする力とは知らずNDで少女を一人処分しようとした。
移民として虐げられ、世間から抹消され、記録すら残らなかった少女はだからこそ生き残った。
その事実を女が久重に知らせる意味なんて無かった。
それは女と同じようにNDの力に関わった久重だとしても変わらない。
同情が欲しかったなら過去なんて幾らでも誤魔化せる。
自分と似た力を持つ人間だからと全てを見せる必要も無い。
ならば、どうしてあそこまで過去を見せたのか。
「そこであいつは泣いてた。ずっと何かを求めてた。知った以上見て見ぬフリなんてできない」
「ひさしげが、それはひさしげがやらなきゃいけない事?」
心配そうなソラに久重が首を横に振る。
「たぶん違う。これはあいつの傍にいた誰かの仕事だ。本当ならな。だが、此処で止めてやれるのはオレ達しかいない。だから」
女が意を決したように半径二十メートルにも及ぶ黒い霧【ITEND】のイートモードの中へと突入する。
まず服が全て食い尽くされ、更に膨れ上がった肉体のあちこちが黒く蝕まれ始める。
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああ?!!」
下手に全身をNDによって構築している女にとって黒い霧は硫酸の雨にも等しく。
なまじ耐性がある分だけ少しずつ解けていく体に女は転げ回った。
「ソラ」
「・・・ステイモード」
逡巡したソラが躊躇いがちながらもイートモードを切った。
黒い霧が晴れ、漆黒を染める輝きが女の目に飛び込んでくる。
ソラの額に微かな光の文字が連なっていく。
【ITEND】Annihilation Mode。
Energy Source 【SE】。
Full Drive。
「おい。憎い日本人なら此処にいるぞ」
「ッッッ!!」
女が全身から血に似た何かを零しながら立ち上がる。
久重の右手に集まる輝きが増した。
「掛かって来い。受け止めてやる!!」
「―――――――!!!」
女が一直線にその手で久重を引き裂こうと跳ぶ。
その手を掻い潜り、真下から【左の拳】でのカウンターが仕掛けられた。
胸を打ち抜かれた女が久重の倍はあるだろう巨躯を浮き上がらせ、地面へと膝を付く。
「――――あなたみたいな人が私のおにーちゃんだったらなぁ・・・」
女が胃液と体液に塗れた口元を緩ませた。
膝を付き、上を見上げる額に久重の手はもう触れている。
「自由に生きれば良かったんだ・・・」
「あはは・・・そう、出来たら、良かったんだけど」
「出来たはずだ」
「悪い夢に掴まっちゃったから」
「なら、もう一度やり直せ。夢は起きて見るもんだ」
女が首を振る。
「もう、疲れちゃった」
「・・・・・・そうか。なら、休むといい」
NO.000“Exhaustion Crest”
白い輝きが久重の手と女の額の間に溢れ、世界は白い静寂に満たされていく。
「ねぇ、少しだけ傍にいて、くれる?」
「ああ」
「ありがと。おにーちゃん・・・・・・・・・」
女はどこか少し残念そうに笑った。
「おやすみ」
事件の終わりは呆気なく訪れ、世界は再び闇に沈んでいく。
*
『では、次のニュースです。本日未明、男性数名が○○区の廃工場跡から発見されました。彼らは連続失踪バラバラ事件の被害者達と思われ、四肢を―――』
未だ絶滅していないラジオが垂れ流すニュースに耳を傾けるでもなく了子は横の男の顔を見つめる。
『尚、容疑者と目される移民の女は死体で見つかっており、その体の―――』
「戒十さん。事件解決しちゃいましたね」
「ああ」
「何か呆気ないですね」
「ああ」
「容疑者の身元どうやって調べたんですか?」
「タレこみがあった」
「タレこみ?」
「死んだ女の身辺情報をロッカーに置いておくとさ」
「それって、誰が・・・」
「知らねぇよ。ただ、ロッカーの中身に事件の全容が殆ど乗ってやがった。調べたらドンピシャだ。移民が人身売買に関わってるってのは常識だが、売られた先でどうなってるのかは実態が定かじゃない。というより、お上はそんな都合の悪い事実は無かった事にしたいからだろうな。調べなんかしねぇ」
「だけど、今回の件で調べないわけにはいかなくなった?」
「移民の子供を達磨にして遊んでやがった男がいて、その養女として女が買われ、女は同じように日本人の男を達磨にして弄んだ。男はジオネットの管理機構役員で、同僚の男は自分達の趣味の発覚を恐れて証拠のジオネット登録を消してた。女は結局何かの薬で誰かに殺され、男の同僚は今でも何食わぬ顔で生きてる」
「絶対捕まえてくれますよね?」
「当たり前だ。社会正義なんて胡散臭い言葉は好きじゃないが、今回の件でこれから世論は移民の人身売買利権を追求するだろう。移民に対する風当たりは強くなるだろうが子供に対する保護は厚くなる、と信じたいな」
佐武がコップの中身を空にした。
「戒十さん・・・どうして人間て分かり合えないんでしょうね」
「了子。お前第三世界の現状知ってるか?」
「いきなり何です?」
「ほら、答えてみろ」
「え、えっと、アフリカの殆どの国は崩壊、現在は内戦すら人口の減少で消滅してるって聞きますけど」
「分かり合えない民族紛争地帯が今じゃただの無人の荒野って事だ。ここ数年は更に疫病の流行で二千万人が死んだ」
「何が言いたいんですか?」
「単純な話。分かり合えない人間がいるだけマシって事だよ。争い諍い全ては他人がいるからこそ。やがて分かり合う事ができるかもしれない希望がある分な」
「人間がいなきゃ分かり合えないも何も無いと?」
「無論、数百年どころか千年経っても分かり合えない民族同士もいるだろうがな」
「戒十さんは分かり合えない人っています?」
「いるとも。消えてくれと思うような人間なら両手の数で足りない」
「いつか分かり合えると思いますか?」
「思わないな。人間の人生なんてあっという間だ。死ぬ前に分かり合えると思えない人間ばっかりで困る」
佐武の苦笑に警察内部での苦労が透けて見えて了子が複雑そうな顔をした。
「日本の世の中は悪くなる事はあっても良くなる事はない。オレの先輩刑事がそう言ってた事がある。どうしてだか解るか?」
「悪事が尽きる事は無いから・・・とか?」
「いや、理由は日本人は前に進んでも何とも思わず、後ろのことが気になる人種だから、だったかな」
「それは・・・何か解る気がします」
「ホントか? 要はアレだ。日本人にとって良い事ってのは当たり前なんだよ。当たり前過ぎて誰も誇らないし、誰も気にしない。けれど、悪い事は注目して改善しようとする。そんなだから、日本人は世界でも珍しい人種になった」
「確かに日本人て未来の栄光より過去の失敗を省みる方が多いかもしれません」
「そんな奴らが多いから日本は平和を保ち続けてる。悪い悪いと言いながら、その平和を脅かす過去の失敗を跳ね除けていく。未来志向だなんだと世の中の連中は言うが、過去を省みなければ国だろうと民族だろうと進歩は無い。きっと、移民問題だってそうだ。後数十年もしたら人身売買や道徳や人権の問題より『どうして近頃の若者は自分の民族に誇りを持たないんだ』とか平和ボケしたものが主題になってんだろ。それがどんなに平和な時代でしか主題にならない問題か無自覚なままな」
「ずっと世の中は悪いのに平和なんておかしな国ですね」
了子の言葉に佐武が笑った。
「昔の日本はもっと悪かったぞ。不況に次ぐ不況。政府と政治家の無能。外国に随分と酷い目に会わされてデモが絶えなかった。それでも平和は続いてる。悪い悪い平和がな」
「どれだけ平和になっても悪いまま、ですか?」
意地悪く訊いた了子に佐武が頷く。
「逆に世の中が良くなったなんて話をし始めたら日本は終わってる。どんなに今が進んでいる平和の最中か無自覚なまま過去を悔い続けるからこそ、日本は悪い世の中を変えていけるんだ」
了子はコップに残っていた日本酒を空にして屋台の外に出た。
思い切り伸びをして空を見上げる。
「おい。どした?」
「外字久重」
「あ?」
「今、追ってるネタの中心人物の名前です」
「あぁ、あいつか。お前の手帳にも書いてあったな確か」
「戒十さんもよく覚えておいて下さい。ごちそうさまでした」
了子が一万円をポンと置いてバックを取って歩き出した。
「私もこんな悪い世の中を少しでも変えてみます」
置いていかれた佐武が頭を掻いて、その背中に小さく声を掛ける。
「無理、すんなよ」
声は星の見えない空に融け戒十は再びコップの日本酒に口を付けた。
ジオネットの登録を操作し、移民の女と己の罪を隠蔽しようとした男が児童虐待及びその他余罪十六件で立て続けに起訴されたのはそれから三日後の事だった。
傷を遺して逝く者がいる。
傷を残して往く者もある。
繋がれた手と手の間に白き骨を拾い。
彼らは果てへと想いを馳せた。
第十四話「名も無き者が咲きし日に」
己の名すら失って尚ありがとうと彼女は言った。
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第十四話 名も亡き者が咲きし日に
第十四話 名も亡き者が咲きし日に
オズ・マーチャー。
経歴という経歴を捨ててきた男にとって己の本当の名前など無い。
もう実家は存在せず親類縁者は皆無。
実名で呼ばれるような地で働いていた事はなく、属する組織で呼ばれる事もない。
名前だけなら三十通り。
偽の経歴だけなら二十五人分。
殆ど真実と言えるのは彼が嘗ての超大国にある世界一有名な諜報機関に属しているという事だけ。
西アジアから中東、アフリカ北部を主な活動拠点としていた彼にとって最も大きな顔は武器商人という職業。
運び屋と武器商人とマネーロンダラー。
それぞれに同業者達が営んでいた三つの商売を一体として統括する事で武器の小売業において彼は戦場という市場を席巻しつつあった民間軍事会社達を相手に商売を成功させた。
彼はさながら生存競争の過酷な地域の『火種を落としながら歩く亡霊』(ウィル・オー・ザ・ウィスプ)。
周辺国のパワーバランスの微調整役として重宝されていた経緯から彼の活躍は世界の大半の国で悉く評価される悪名高いものとなってしまった。
そんな彼がアフリカでの疫病の大流行を機に姿を消したのは裏の仕事は潮時に来ていると悟ったからだった。誰にも言わないものの彼にとって日本は最後の任務を終える地だ。
もはや表立った行動を取れば命の危険がある彼にとって、最後の任務はスパイ生活のおまけに過ぎなかった。
上司にスパイを止めると言い出し、最後に頼まれ事を引き受けた。
その程度の話のはずだった。
「・・・はぁ」
故に甘く見ていたのかもしれないと彼は思う。
平和な国で探し物をする。
きっと、探せばすぐに見つかる。
そんな事を漠然と思っていたのだから。
彼の上司は彼に日本へと持ち込まれた兵器を探し出すよう依頼した。
それはアフリカにおいて使用され、何の因果か日本国内に持ち込まれた。
それがどんな形をしたものなのか彼は知らない。
どんな性能でどんな威力なのかも知らない。
知らされた情報は持ち込まれた期日と持ち込んだ業者と名前のみ。
「・・・・・・はぁ」
彼は嘆息する。
血の染みと骨だけが残存する部屋の中、げっそりした顔で視線を死体から逸らした。
蠅や蛆がいない。
裸電球なんてものが未だにぶら下がっているコンクリート壁のワンルーム。
周囲を調べ、血が乾いてカサカサになったスーツから幾つかの免許証やカードを拾い出し、その場を後にする。
「帰ってシャンパンでも開けるか」
ボソッと愚痴りながら廃マンションの階段を下りる彼は夏の陽気を感じながら乾き切った血がパラパラと落ちる免許から業者の素性を推し量った。
(日系九世か八世辺りが妥当だとするなら・・・)
死んだ男達のカード類の中から一枚の名刺を見つけてオズは相手の素性に当たりを付ける。
(新手の和僑系の犯罪組織か? 厄介だな)
日本人が海外において犯罪組織を作る事は稀な事例だったが、二千年代初頭に始まった日本の移民政策において海外へ移住した日本人が自警団や日本人街の発展と共に日本古来のヤクザの如き組織を形成していったのは歴史的事実だ。
その類の組織と何度か仕事をした事のあるオズにとっては華僑系の組織程に派手で数の多い連中ではなく、堅実で手堅い商売で稼ぐ印象がある。
そういった海外で成功した和僑系の組織が祖国へと逆輸入され、韓・中・露系の人種に浸食されたヤクザや暴力団、マフィアなどの勢力図に食い込んでいるとアジアの片隅で聞いた噂を思い出す。
彼にとって死んだ運び屋達は日本で始めて見る和僑系の末端組織の構成員だった。
(連中は日本人と見分けが付かないし、目立つ存在じゃない。こうして死人が出てる以上は何らかの動きがあるはずだが、部屋は荒らされたり立ち入った痕跡も無かった)
薄らと埃が積もった部屋の床から判断して死んだ構成員が最初から切り捨てられていた可能性が高い。
死後の構成員をほったらかしにしているのも妙なら連絡を取れなくなった構成員のアジトに何のアプローチもしていないのも妙な印象を受ける。
血が固まった床には外からの靴跡が一つもありはしなかった。
(とりあえずは身元を洗うか)
彼はビニール袋に再び遺留品を入れて鞄にしまいこんでマンションを後にする。
都市部へと向かうバス停の待合所で数十分待ち、バスで移動して駅から電車を乗り継ぎ、目的の駅の裏手から自転車で移動し、ようやく現在の住処へと辿り着く。
古びれた二階建ての『アパート』とやらはオズにとって今までの居住環境の中で六番目ぐらいには寛(くつろ)げる場所となっていた。
二階に上り自分の部屋に入る。
爆弾がいつの間にか仕掛けられている事もない部屋こそオズにとっては最高の部屋と言えた。
鞄を放り出し入居時にさっそく入れた最新式の冷蔵庫からオズは冷やしたシャンパンを取り出そうとして自重する。
まずは肴の用意しなければご機嫌な晩酌とはならない。
「♪」
冷蔵庫の中から幾らかの食材を取り出す。
金さえあれば大概のものが揃うと言っていた黒人の言葉をオズは日本に来てすぐ理解する事となっていた。
ネット上なら殆ど何でも揃うのは当たり前。
特定の地域だけに存在するようなコアな品でもなければ見つからない食材は無かったし、オズが食してきたものの殆どがそういうコアなものではない。
作るのが面倒な時はコーラとピザなら瞬時に電話一本で届き、『テンヤモノ』と呼ばれる日本独自の様々な料理もやはり電話一本で届く。
大型の高級百貨店やスーパーではこのご時勢にも関わらず品物が溢れ、日本独自の商品や新鮮な海産物が並ぶ光景は驚くべきものだ。
そんな日本の普通の品揃えがオズにとっては日本を夢の国と認識させるのに十分な効力を発揮していた。
オズが幾つかの肴を作り終えた後、シャンパンを取り出し、さて食うかと小さなちゃぶ台の前に座った。
壁に賭けてあるディスプレイを起動し、ネット上のニュースを閲覧し始める。
「?」
グラスに注がれたシャンパンに口を付けようとした時だった。
音が壁を通して漏れ聞こえてくる。
『ひさしげ様!! 今日はちょっと新しいお菓子に挑戦してみた次第ですわ!!』
『何かこのチョコ・・・アルコールの匂いがしないか?』
『ダ、ダメ!? ひさしげ!! そんなもの食べたら!?』
『こ、これ・・・めっひゃ、の、のどらけるわぁああああああああああ?!』
『純度百パーセントのアルコールですから!! でも、すぐ気にならなくなるって家の者が太鼓判を押してくれましたの!! これでひさしげ様も心が広くなって、わたくしに目一杯優しくなるかもしれないと!!』
『ひ、ひさしげ!! ペー!! ペーしなさい!!』
『おれはひうか!!』
『あぁあ!? ひさしげの顔がもう真っ赤に?! こ、これ以上そんな危険なものひさしげにあげちゃダメなんだからシュレン!! って、ひさしげも何でもう一粒食べようとしてるの?!』
『なんらーか。もう一ひろつほひくなるあひというか』
『ああ?! もう呂律が回ってない!! ひさしげ!!』
『ひさしげ様!! ピ、ピスタチオを食べさせてあげますから、あ、あ~~んて口を開けてくださいませんか?』
『?・・・あ~~ん』
『ひさしげダメ!? それ以上は今まで積み上げてきた威厳とか尊厳とかその他諸々が大変な事になっちゃう!?』
『ひさしげ様が実はこれ程アルコールに弱いなんて・・・これからも色々とお作りしますわ!!』
『うーいっく?』
ガヤガヤと喧(やかま)しい隣に何を言うでもなく、オズがシャンパンを飲み干す。
(あれが【AS】の手下なんて誰が信じられる?)
肴を口にして喧騒を聞き流しながらオズは隣の部屋に引越しの挨拶に行った時の事を思い出す。
数日前に済ませた挨拶の傍ら、やはり隣の男は二人の少女に囲まれて喧しい朝を送っていた。
唖然としたのは少女達と男が何やら同居紛いな関係であるという事だった。
日本は性に開放的な場所だと聞いていたがこんな狭いアパートに自分より十歳くらい下の少女と住まい、朝や夕方に如何にも品の良い少女が出入りする生活は日本ではありがちな普通の事なのかと首を傾げざるを得なかった。
面と向かって貴様はASの手下かと聞いてこそいなかったものの、凡そ少女達に振り回されながら困った笑みを浮かべる青年はオズからすれば無能そうという一言に尽きる。
日本なら普通学校に通っていそうな同居している方の少女は常に青年と行動を共にしているし、ハイスクールに通っているらしき品の良い少女は一目で上流階級の人間と見当が付いた。
無能そうな青年がどういう状況になれば、こんな生活を送る羽目になるのかとオズは日本の不思議を思わずにはいられない。
唯一の救いと言えば隣から喘ぎ声が聞こえてこないという事実であり、オズは毎日のように繰り広げられる二人の少女と青年のコメディーをBGM代わりに日夜活動を続けていた。
肴とシャンパンが尽きた頃、少女達の喧騒は消えて、隣から物音が消える。
靴音からすぐに今夜も青年と少女はいないのだろうとぼんやりオズは知った。
ソレらしい行動は青年がASと何かしらの仕事をしているからという言葉で片付けて、オズは自分の仕事へと入る。
幾つかの秘匿回線を繋いで情報を売買する。
ものの一時間でディスプレイには送った男達の情報が映っていた。
【大牙会】
男達の所属していた組織の名前が即座に出た。
脳裏を探るがまったく記憶にない組織だった。
組織に関する情報を画面越しに相手へ要求するも明日と素気無く返されて交信を終了させる。
(・・・風呂にでも行くか)
仕事を明日に回してオズは近頃気に入っている日本独自の場所である【コウシュウヨクジョウ】へと向かった。
極めて稀な話だったがオズは内心で日本をもう気に入り始めていた。
*
銭湯の談話ルームでコーヒー牛乳を一気飲みするのが日本の仕来り。
そう信じて疑わない少女ソラ・スクリプトゥーラは今日も今日とて腰に手を当てていい飲みっぷりを
披露していた。
「おやおや。今日も凄いわねぇ」
「ありがとうございます。おばーちゃん」
番台に座る老婆がニコニコして言うとソラが微笑み返した。
老婆がいそいそ傍らにある冷蔵庫から牛乳瓶を取り出してソラへと差し出す。
「え?」
「ほら、あの人にも上げなさいな。他の人には秘密よ?」
老婆の温かな言葉にソラが牛乳を受け取って再度礼を言って頭を下げる。
そのまま青年外字久重の下に駆けていくソラを老婆はやはりニコニコしながら見送った。
僅かに上せた様子で空いているソファーに身を沈めていた久重の頬にひやりとした感触が奔る。
「?! ソラか?」
「ひさしげ。はい」
「どうしたソレ?」
「番台のおばーちゃんに貰ったの」
「礼言ったか?」
「うん」
「そうか。悪いな」
「ひさしげ。こういう時はありがとう、でしょ?」
「・・・違いない」
苦笑して久重が立つと番台の老婆に軽く頭を下げた。
再びソファーに身を沈める久重の横にソラがそっと腰掛ける。
壁に掛けられたテレビからは旬の過ぎた芸人が失笑に近い笑いを取るのに必死な姿が映し出されている。
意識だけは横に向けている久重にソラがこれからの事を訊く。
「ひさしげ。今日はどうするの?」
「少ししたらアズと合流する。今日は怖いヤクザ屋さんとの折衝に借り出されるらしい。ジオプロフィットの地権絡みだからって話だが、まぁ・・・ただのボディーガードだな」
「ジオプロフィットの地権?」
「現実の場所への滞在で色々と利益を受けるのがジオプロフィットだ。だから、誰もが人の集まる場所や条件の良い場所を探してジオプロフィットを設定したがる。
だが、一箇所に複数のジオプロフィットを置くと周辺に人が集まらない空白地帯が出来たりする。そうすると大手の広告代理店が徒党を組んだら卑怯だろって話になるわけだ。
だから、設定には限界が設けられてる。つまりジオプロフィットの設定に定員があるんだが、それが利権化しててな。その場所に対しての定員に結構な金が動いたりする。
そしてダフ屋行為ってのが発生するわけだ。最初にジオプロフィットを設定する気の無い連中が大勢その場所の定員に応募して、定員を獲得したら売り払う。
色々な規制をしてるが巧妙にすり抜けて書類審査では落とされないヤクザ屋さんのダフ屋部門が残る事もある。今回の依頼はそういう連中から定員に割り振られる書類を回収する事だ」
「ねぇ。ひさしげ」
「それでオレ達が――」
「ひさしげ・・・」
ソラの小さな声に久重が横を見た。
「まだ、気にしてるの?」
「・・・気にしてないって言ったら・・・嘘になるんだろうな」
「ひさしげが止めてあげなかったら止まらなかったかもしれない。普通の人間や警察には勝てないし捕まえられない相手だったのはひさしげがアズに調べてもらった通り。ひさしげは正しい事をしたって私は思う」
「正しい事、か。どうだろうな・・・ただの自己満足だったかもしれない。必要な事だったとは思うが、オレはあれが正しい結末だとは思ってない」
「どうして?」
「正しい事なら人殺しをしてもいいわけじゃない。必要に迫られるから、自分の様々なものの為に誰かを殺すのが普通だ。よく戦争では兵隊に罪を問わないって言葉が使われるが、アレは正しい事をしたから罪に問われないわけじゃない。言ってる意味解るか?」
「たぶん・・・」
視線を俯かせたソラの頭に手を置いて久重が続ける。
「オレは殺す必要には迫られてなかった。極論するとあそこで逃がして関わりを絶っても良かった。それは道徳的には悪い事かもしれないが、自分が人殺しになるよりはずっとマシだったかもしれない」
「ひさしげ。あの人はもう死んでた。それを無理やりNDで繋いでただけ・・・ターポーリンの時にも言ったけど、ひさしげは死体を死体に戻しただけ」
「一種の治療薬を打ち消したって言葉の方がオレ的にはしっくりくる・・・」
ソラが久重を見上げてハッキリと告げる。
「あの人はそもそもターポーリンより酷かった。頭部の殆どが残ってなかったから・・・たぶん脳内の電気信号の動きだけをNDが擬態して人格をエミュレートして動かしてた可能性が高い。だから、ひさしげが悩む必要なんて無い。NDが人格のあるように死体を見せかけてただけなんだから」
ソラの沈んだ調子に久重が反省した。
自分の保護者であった博士とやらが創ったNDで人が不幸になった。
そんな事実を受け止めるソラの方が自分よりも辛いかもしれないと考えてすらいなかった自分の愚かさに久重は冷静さを取り戻した。
「ごめんな」
「何でひさしげが謝るの? 必要ない」
「そういう気分だからだ。それと・・・ありがとう」
そっと頭を撫でて久重が立ち上がる。
「行くか?」
「・・・うん」
ソラが自然に久重の手を取った。
「さっさと行かないとアズにどやされそうだ」
久重がおどけて言いうとソラは思わず笑う。
「アズが怒ったらどうなるの?」
「それはまぁ、知らない方がいい」
「?」
「あいつが怒ったらそれこそ合衆国大統領だろうがマフィアのドンだろうがただじゃ済まない」
互いに顔を見合わせて・・・思わず噴出した二人はそのまま外へと向かった。
*
二十一世紀も半ばを過ぎた日本では二十四時間開いている火葬場も珍しくない。
そんな場所の一角、チラホラといる人々の端で青年と少女が暗闇を見つめながら他の人々と同様にその時を待っていた。
風御とセキ。
二人の間にはもう一時間以上会話が無かった。
「ありがとう・・・」
ポツリとセキが呟き、風御が不思議そうに訊く。
「何で?」
「きっとあの人も嬉しいと思うから・・・」
「死人は何も思わないでしょ」
「それでもきっと・・・」
「これはただの感傷。それは誰だって解ってる」
「・・・・・・」
「日本じゃ死ねば誰でも仏ってね。形の上で死者に敬意を払ってるだけさ」
「あたし、あの人と少ししか話さなかったんです。でも、あの人はあたしにとても優しくしてくれた」
目に見えて落ち込んでいる少女を前にどうしていいか風御には解らなかった。
傷ついた女を慰める方法なら知っている。
一人ぼっちの女を立ち直らせる方法も理解している。
しかし、風御には落ち込んでいる少女の扱い方が解らなかった。
どうしてかと己に問い掛ければ少女のような無垢な人間とは縁が無く、汚れた人間ばかり見てきたからだとの連れない答え。
「日本人の男を誘拐して達磨にして弄んでたにしては?」
セキが無神経な風御の発言にキッと顔を上げる。
「君だって解ってるはずだよ。セキちゃん」
「そんなの・・・解りません」
膝の上で拳を白くなるまでセキが握り締める。
「最後に残った事実は彼女の境遇が不幸で、彼女は他人を不幸にする人間だったって事だけだ」
「―――――」
「あの刑事に根掘り葉掘り聞かれた時、僕は納得した。そして、幾らかの事情も知った」
「あの人は!? 移民だったから!」
「移民だったから不幸だったし、移民だったから人殺しをした? 違うでしょソレ」
「あなたはどうして!!」
セキがやり場の無い怒りに泣きそうに風御を睨む。
「僕にとって事実と真実が違うものだから、かな」
「事実と真実って何ですか!?」
周囲に他の人間はいなくなっていた。
「彼女は不幸になりやすい移民て立場で偶然その不幸のど真ん中に落っこちた。彼女は不幸の中で誰かを不幸にする道を選んで他人を虐げる側に回った。それが君の目を逸らそうとしてる事実」
「なら、真実は?!」
「彼女は僕と出会って女の喜びを知った。そして、彼女は君っていう仲間を得て、時間を少しだけ共有した。僕と君の真実はそれしかない」
「それが真実だって言うんですか?」
「それで十分じゃない? 世間では移民の猟奇なサイコ女が不幸な過去から日本人を襲ったって話になってる。別に間違ってないし正す必要も無い。けど、僕と君に残された真実は他の人間とは違う。彼女は普通に笑えたり誰かを思いやったりできる人間で、ほんの僅かな時間かもしれないけど、共に交わった」
「それが・・・真実なんですか・・・」
「君はそれ以上の真実が必要だと思う? 僕はごめんだよ。彼女は「どうしようもなかった」から僕と出会った。僕と出会ったから彼女も君と出会った。それだけが価値ある真実ってやつでいい」
「あの人は優しかった・・・優しかったんです・・・・・・」
ギュッと風御の胸を掴んで少女が頭を預けて嗚咽する。
「ああ、知ってる」
声を押し殺して泣く少女を前に何もしてやれないから、風御はただされるがまま胸を貸す。
「一つだけ確かなのは彼女が最後に笑ってたって事さ」
「・・・見たんですか?」
「一応、死体を引き受けたから見られる事になって、ちょっとだけ」
「あの人は笑っていましたか?」
「頭部も無ければ手足も無い。それでも彼女は笑ってた。ホント羨ましいぐらい綺麗に・・・だから、僕は彼女を笑って見送る事にする。彼女に僕と君が出来る最後の事はそういうのでいいんじゃない?」
見上げてくる顔の涙をスーツの袖で拭って風御は笑みを浮かべる。
それを見つめてグッとセキが涙を押し殺した。
何度も失敗しながら、やがてボロボロな笑みを浮かべる事に成功する。
「それでいい。そっちの方が可愛いよ。セキちゃんは」
「ちゃん付けしないでください・・・」
その泣き笑いの少女をそっと立たせて風御が迎えに来た施設の人間に向かい合う。
「ご遺体の方を冷まし終わりましたので・・・」
「はい。すぐに」
そう言って風御がセキに手を差し出した。
「今日、君は一つ大人になった」
「大人になったらからって、良い事がありますか?」
「何にも無いよ。けど、誰かの為に笑顔を浮かべられるなら、それはきっと素晴らしい事だから」
差し出された手を取ってセキが歩き出す。
長い廊下を歩く傍ら、風御の手が大きい事にセキが気付く。
ナヨナヨした印象しかなかったはずの男が自分よりずっと大きいのだと初めて知った気がした。
「あの人は・・・天国に行けたんでしょうか」
「宗教なんて当てにならないと相場は決まってる。僕が信じるのは一つだけ」
風御が静かに答える。
「彼女は僕の人生で背負う一人になった。だから、天国でも地獄でもなく彼女は僕の中にいる」
「ロマンチストなんですね」
「いや、ただのオプティミスト」
「楽観主義なんて、あなたらしいです」
風御が皮肉げに笑った。
「神は土から男を創り、男の肋から女を作った。最後の審判の日、人は裁かれ信仰ある者は天国に信仰無き罪人は地獄に、そう宗教家達は説く。けど、死んだ人間は日本なら灰になるしかない。最後の審判で甦りなんてしない。灰は何も語らないし、灰は何も喋らない。焼け残った骨すらやがては風化する」
「なら、何が残るんですか・・・」
「決まってる。記憶だよ」
「だから、自分の中にいる?」
「僕にとって彼女はそんなに重要な人間じゃない。それでも忘れられない人になった」
「・・・あたしも、です」
目の前にある扉が施設の人間の手で開かれる。
その先には白い台の上にただ白い粉の塊だけがあった。
風御は内心で少しだけ安堵する。
少女にまだ人の骨を拾わせるのは早い。
それはもう少し少女が歳を重ねてからでいい。
そう思う。
「大丈夫?」
「はい」
しっかりと手を繋いで風御とセキは一歩前に踏み出した。
*
此処では無いどこか。
今では無いいつか。
彼女は一人空白に佇む。
「・・・・・・」
彼女の人生の大半は哀しい事や辛い事の方が多かった。
だからか、彼女はいつの間にか信じていた。
自分は移民だから、ガイコクジンだから、肌の色が違うから、日本人じゃないから、貧乏だから、「どうしようもない」のだと信じていた。
「・・・・・・」
けれども、彼女は知ってしまった。
人は違っても分かり合えるのだと。
大好きだったデパートの屋上で一人寂しく思っていた彼女に声を掛けてくれた人がいた。
最初、彼女はその人が自分を日本人と勘違いして話し掛けて来たのだと思った。
しかし、その人は彼女に最初にこう言ったのだ。
『移民なのに此処が好きだなんて変わってますね』
それから彼女は何かに導かれるようにその人と話した。
沢山、沢山。
その人は優しい瞳で頷いては話をずっと聴いてくれた。
まるで夢のようだったと思う。
ずっとずっと酷い事ばかりだった人生の中で兄以外に安らげる人を初めて見つけた。
「・・・・・・」
その人の近くで安らいで、また別の人と出会った。
今度は自分と同じ「自分」を見つけた。
その瞳は昔の自分だった。
本当に信頼出来る人以外は拒絶して他の何もかもを敵視してばかりいた。
それでも絶望をまだ知らず、それでも愛するという事を信じていた。
遠い過去の自分に彼女は思った。
こんな自分なら、その人に本当の安らぎを与えられるのだろうと。
何もかもを絶望して、全てを失って、誰かを虐げていく事でしか、自分を保てない。
抜け殻のような自分より相応しいのではないかと。
「・・・・・・」
彼女はその人の下を去る事にした。
寂しくて寂しくて彼女は兄を求めた。
そんな彼女が最後に出会った人はとても優しい人だった。
その人は彼女に醜さを教えてくれた。
彼女が目を逸らし続けたものを指摘してくれた。
終わりもなく苦しみ続けた人生に最後を与えてくれた。
「・・・・・・」
彼女は思う。
空白の最中で思う。
人は分かり合える。
赦し合えなくても、どんなに醜くても、争っていてさえ、その努力を放棄しないならば。
「・・・・・・」
彼女は啼く。
空白に呑み込まれながら一人啼く。
自分の罪に、自分の境遇に、自分の愚かさに、自分の醜さに、自分のどうしようもなさに、啼く。
やり直せたらと、未練だらけだと、死にたくなんかなかったと、それでもどうしようもないから、啼く。
「・・・・・・」
彼女は思った。
たった一つの願いを。
また、いつか、会いたい。
そんな刻を、そんな世界を思い描く。
胸にした言葉を抱いて彼女は笑みを浮かべ終わってゆく。
「・・・・・・」
最後の、最後の最後の、最後の最後の最後に、彼女は確信した。
結局のところ、自分は今幸せなのだろうと。
それが彼女に残った最後の真実なのだろうと。
「ありがとう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
空白にはもう誰もいない。
ただ、言葉の余韻だけが、終わりもなく、空白に、響き続けていた。
追ってくる過去から決して逃れる事はできない。
破滅を宿して踊る人形。
罪と贖の天秤は崩れ。
簒奪者は一人悪意に震える。
第十五話「死に到る病」
冷徹なる兵器は人の熱を持っていた。
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第十五話 死に到る病
第十五話 死に到る病
枯れてしまった樹に少女は水を掛けていた。
何度も何度も涸れた井戸から僅かな水を汲む。
他の誰かが野次を飛ばす。
そんなの無駄だ。
諦めろ。
それでも少女は日に何度も何度も水を運ぶ。
やがて、涸れ井戸が水を一滴も吐き出さなくなった頃。
少女は己の血を少しずつ与えるようになった。
誰もが言った。
もう止めろ、と。
それでも少女は血を注いだ。
どんなに苦しい時でも、どんなに渇いた時でも。
やがて、彼女に誰も何も言わなくなった。
少女は年月を費やした。
枯れ枝に新芽が芽吹いたのは少女がいなくなった後。
少女はついに花を咲かせた樹を見る事は無かった。
そんな夢を見た。
*
「ひさしげ」
ゆさゆさと揺さぶられて目を覚ました久重が欠伸を噛み殺す。
「・・・ひさしげって大物な気がする」
半眼のソラが溜息を吐いた。
「悪い。だが、こうも交渉が長期化すると・・・ふぁ・・・」
二人が座ったソファーは革張りの高級品だった。
「「「「「「・・・・・・・・・」」」」」」
久重が視線に気付いて横を見る。
強面なセールスマンが六人ほど直立不動で立っていた。
「今夜で四日目。 アズにしては珍しい」
「そうなの?」
「まぁ、こういう所でここまで話が長引くってのは中々無いな」
ソラが辺りを見回した。
何故か国旗と大きな家紋らしき文様を縫い付けられた布が並んでいた。
何故か日本刀が二つの布の下に置かれている。
何故か虎の毛皮が壁には掛けられている。
最初こそ驚いたものの、四日もくれば見慣れた景色にソラが今の今まで黙っていた疑問を久重の耳にヒソヒソと呟く。
「・・・・・・ねぇ久重。ここってあの有名な【YAKUZA】の事務所?」
「何が有名かは訊かないが、あまり違わないな」
「?」
「基本的にお世話になりたくない場所という意味じゃ同じか?」
解らないという顔をするソラに久重が向き合う。
「ここは簡単に言うと和僑の事務所だ。厳密にはヤクザとは違う。外国からの逆輸入な分、現在の日本のヤクザより昔堅気なヤクザなんて希少価値かもしれない。解り易い例えにすると日本人より日本好きな外国人みたいなもんだな」
ジロリと一斉に視線が二人に突き刺さる。
「ひ、ひさしげ!? そ、そんな事言っていいの?」
ソラがサラリと言ってのける久重の言葉に慌てた。
案の定。
細身でメガネを掛けた強面のセールスマンが二人の前に進み出る。
「!?」
ソラがビクリと体を震わせると近づいてきたその男がニッコリと微笑んだ。
「お嬢さん。そう身構えなくともいいです。横の方の言っている事は殆ど当たりですから」
外見とは裏腹に柔らかな物腰にソラが拍子抜けしたように男を見つめる。
「我々のような和僑。とりわけ、外国で最下層から組織に拾われたような人間は日本のヤクザなんかとはそもそもの成り立ちが違います。日本は様々な差別や貧困層からあぶれた人間がよくこちらの道に来ますが、我々は基本的に自警団的な意味合いが強い組織がコミュニティーを守る為の尖兵として招き入れるのが常道。故にどちらかと言うと本当に昭和までは残っていた日本古来のヤクザに近い立ち位置なんです」
「そ、そう、なんですか・・・?」
おずおずと訊くソラに男がニッコリとして名刺を差し出す。
「【大牙会】で税理士をしている『伊佐(いさ)・ジョージ・由木(よしき)』です。どうぞよろしく」
「は、はい・・・」
ソラが差し出された名刺を受け取ると久重が伊佐に振り向いた。
「伊佐さん、でいいか?」
「ええ、構いません」
「あんた三日目まではいなかったよな? 今日はどうしてまた?」
「はい。そろそろ話が付きそうだと言うので様子を見に来まして」
伊佐の笑みに久重が内心で警戒心を引き上げる。
「【大牙会】って名前はあまり聞かないんだが、日本で活動し始めたのって近頃の話なのか?」
「そうですね。日本での活動はここ数年の話で未だ新参者と言っていいかと」
久重が僅かな違和感に首を傾げる。
「和僑の殆どは貿易商を兼ねてるのが常識だが、何でジオプロフィットに手を出した? こっちの分野は基本的に地元の同業者が食い合うから、新参者が参入するには辛いはずだろ?」
「いえ、ウチの頭は先を見据えなさる人で。それでこれからはこっちで食っていけるんじゃないかと道を模索してる最中なんですよ」
「アズが出張るなんて相当に珍しいからな。大成功ってところじゃないか?」
「褒められても何も出せない台所事情でいつもカツカツですよ。恥ずかしいですが組のもんに食わせていくのが精一杯でして」
頭を掻きながら伊佐が苦笑いした時だった。
何かが割れる物音がした。
反応して伊佐が目つきも鋭く横の別室に向かう。
久重とソラが即座に立ち上がり、それに続いた。
「どういう意味だコラァ!?」
「止めねぇか。馬鹿たれ」
別室で床に灰皿が割れていた。
一人激昂している比較的若い男の額には青筋が浮かび、もう一方の黒い羽織姿の六十代の男が若い男を制止していた。
「ちなみにこれは僕からの純然たる善意であるとお忘れなく」
いつもの胡散臭い笑みでニコリとしたアズの顔に久重がドッと疲れた顔をする。
「・・・アズさん。あんたの言葉が真実だとすりゃ、オレ達はさっさと此処を引き払わないと壊滅するって聞こえるんだが。そういう事でいいのかい?」
「ええ。ちなみにこっちは商売相手が消えると色々と不都合があるので情報はサービスにしときます」
「ちなみに期限は?」
「今すぐにでも」
「さすがにそりゃ無理ってもんだ。組の連中を全員移動させるとなりゃ色々と運ばなきゃならんもんが多過ぎる」
「お宅が運んだものはそれだけ危ないものだったという話です。運ぶものくらいは選んだ方が良かった」
「そんなにアレが拙いものだって言うのかい?」
「拙いで済めばいいですが」
「・・・・・・おい。組のもんに全員集合を掛けろ。事務所を移す」
「頭!?」
その場にいた誰もが六十代の男の発言に驚いていた。
「こんな若い女の言葉を信じるんですかい!?」
「君にも見習わせたい発言だよ。久重」
「お断りだ」
アズの微笑にキッパリと久重が返す。
「勘てのは無視すると時々酷ぇ目に合う。オレの勘が正しけりゃ、この人の言ってる事に間違いは無ぇな」
最初に灰皿を落とした男がその言葉に何かを言おうとした時だった。
「そん―――?」
ビチャリと男の口から血が飛び散った。
【!?】
その場の誰もが固まる。
そして、男が倒れ、咳き込み始める。
咄嗟にその場から一歩引いたアズが久重に視線を走らせた。
「おい!? 大丈夫か!?」
倒れた男に伊佐が駆け寄ろうとした時、久重がその手を掴んで止める。
「何を!?」
「何かのウィルスや病気だった場合、血に触れればアウトって事もある。まずは救急車とこの場の全員を退避させた方が無難だ」
「・・・解った。おい!! 今からこの部屋は立ち入り禁止だ。他の連中にも声を掛けて警戒させておけ!! それから基本的に二人一組で必ず行動するようにと―――」
伊佐が場を取り仕切り始める。
慌しくなっていく事務所内で黒の羽織を着た男がボリボリと頭を掻いた。
「こりゃ行動するのが遅れちまったか?」
「まずは病院に行って検査した方が身の為だと忠告しておきます」
アズの言葉に男が倒れこんだ部下に視線をやる。
「おい。こんなとこで死ぬなよ? まだテメェもやりてぇ事一杯あるだろ?」
「―――は・・い。おか・・・しら・・・」
途切れ途切れの返答を耳にしながらその場の全員がすぐに部屋を退出した。
ドラックストアから買ってきたのか。
男達が数分後にはマスクと手袋を次々に着用し始める。
「あんた達も」
伊佐がマスクを渡そうとしてくるとアズがソラに視線を向ける。
「必要かい? ソラ嬢」
「要らない。でも、このウィルスは・・・危険」
「解るのかソラ?」
久重の声にソラが頷く。
「この系統のウィルスにしては繁殖力が尋常じゃない。空気感染しないみたいだけど血に触れたらアウトだと思う」
ソラが難しい顔で虚空を見つめている光景に伊佐が僅かに目を見開いた。
「その・・・お嬢さんは一体何をしてなさるんですか?」
「色々と」
アズが笑顔で答えた。
「色々・・・ですか」
「ええ」
その返答から答える気が更々無い事が解ったのか伊佐が他の組員へとマスクと手袋を配りにその場から遠ざかっていった。
「ちなみにこの場にいた他の人間に感染してるかどうかは解るか?」
「ひさしげとアズは大丈夫。私といる時はいつもNDで基本的に守られてるから。私の場合はウィルスや病原体に対してNDが繁殖する前に除去してくれるから何ともない。他の人は体温が普通だからまだ大丈夫だと思う」
「つくづく便利だなNDって奴は」
感心する久重にソラが難しい顔をして首を振る。
「それでもやっぱり感染症なんかの重篤患者までは治せない。DNAの解析データと現在の細胞構造。他にも色々な情報が無いとNDでの治療は無理だから・・・」
自分では治せない罪悪感から暗い顔をするソラの頭を久重が撫でた。
ソラが久重の服の端をキュッと握り、撫でられがままに受け入れる。
「頭!! 救急車が後数分で着くそうです」
ソラがその声に反応して伊佐に近寄った。
「何ですか。お嬢さん?」
伊佐の耳元でソラが囁く。
「それは・・・本当ですか?」
僅かに驚いた顔の伊佐にコクリと頷いてソラが真摯な顔で頷く。
「解りました。救急隊員にはそう伝えておきます」
ソラが久重の下へと戻ろうとするとその背中に声が掛かる。
「ありがとうございます」
伊佐の丁寧な言葉にソラは振り返って再び頷いた。
そろそろ潮時かと事務所内部で部下達に指示を出していた黒い羽織の男にアズが声を掛ける。
「それじゃ、僕達はそろそろお暇させてもらいます」
「大丈夫ですかい?」
「ええ。そちらこそ気を付けた方がいい。相手が本気になる前に此処を引き払う事をお勧めしておきます」
「今回の件はやはりさっきのくだりで出てきた?」
「ほぼ、間違いなく。あなた達が運んだものの手口と一緒です」
「・・・解りやした。その情報への対価は必ず」
「サービスですから。お宅も大変でしょうし、商談はまた後日。一息着いたら連絡を」
そう言い置いてアズが番号だけが書かれた名刺をそっと手渡し、事務所を後にした。
クーペが事務所から遠ざかるのと同時に救急車のサイレンが聞こえ始める。
慌しい事務所周辺を見えなくなるまで後部座席からいソラが見つめていた。
「それでアレって何の事なんだ?」
助手席の久重の疑問にアズが視線も寄越さず声だけで答える。
「【大牙会】が近頃運んだものが相当にヤバイ代物だったのさ」
「テメェが言うならさぞかし危険なものに違いないと思うがバイオテロされる程のものなのか?」
「本来は第三世界、アフリカで猛威を振るっていたらしいけどね。何の因果かこっちに流されてきた。情報だけは入っていたけど運び屋が何処かまでは掴んでなくて。ようやく運び屋の名前が解ったと思ったら」
「自分の交渉相手だった・・・か」
アズの言葉を引き継いだ久重が苦い顔をした。
「ちなみに核心は?」
「僕が掴んだ限りじゃ、戦略兵器」
「―――さすがにんなもんを日本に持ち込めるものなのか?」
「それが本当に兵器の形をしていれば、持込は防げたかもしれない。でも、それが兵器とは無縁の形をしていたらどうだい?」
「兵器とは無縁・・・?」
「ちなみに持ち込まれた経緯までは掴んでる。ソレは自分の意思で運んでくれと【大牙会】に接触を持った。そして、ソレは自分の意思で日本まで来た。その跡をまるで掃除するように誰かが意図的に情報を消して回らなければ僕も感づかなかったね」
「自分の意思って・・・まさか」
「人間さ。そして、僕が掴んだ限りの情報を総合するとソレは限りなく真っ黒な兵器だ」
「今回の件と内容から察するに病原体の保菌者か?」
「今までもそういう例は世界に幾つもある。難病の抗体を持っている為、自分だけは病で死なず、自分の周囲に病気をばら撒く。でも、もし自分の周囲に病気を『意識的にばら撒く』事が出来るとしたらどう?」
「だから、戦略兵器なのか? 病気の種類にも因るが確かにヤバイな」
「それだけなら戦略兵器の名は要らないよ。問題なのはその病気の種類じゃなくて病気の数だ」
「何?」
久重の額に嫌な汗が伝う。
「僕が調べた限りだと第三世界で流行した疫病は三百種以上。その殆どが同時多発的に一定の区域から広まって広大なアフリカを覆い尽くした」
「今回のは運がいい。いや、手加減されたのか?」
久重があまりの話に思わずアズに訊く。
「ちなみに疫病とそれに端を発した紛争やらで二千万人は死んでる。紛争と言っても敵も味方もバッタバッタ逝ったから殆ど発生初期で自然消滅したらしいけどね」
「・・・・・・」
後味の悪い話に久重が口を噤んだ。
アズは躊躇無く話を続ける。
「誰が付けたか知らないけど、ソレの名を知っている輩はソレをこう呼んだ」
「テラトーマ」
「ソラ?」
久重が後ろを向くとソラが沈んだ様子で俯いていた。
後部座席から聞こえてきた言葉にアズがバックミラーを思わず見た。
「知ってたのかい?」
俯いたままのソラの表情を久重は確認できなかった。
「戦略兵器テラトーマ。【ITEND】のバイオ工学部門から兵器開発部門に移転された技術で生み出された唯一の兵器。【連中】が地球環境改善の為に人口コントロールの要として開発したの。でも、一個体が能力を完全開放しただけで人類が滅びかねないスペックだったから製造は初期ロットで中止。それ以降は造られてない」
いつの間にか路肩にクーペが止まっていた。
久重が思わずソラに手を伸ばそうとして、ソラがその手をそっと掴んだ。
「本来は私に積まれるはずだったもの・・・なの・・・」
「ソラ・・・もういい」
「逃げ出す時に見た情報だと【連中】の造ったテラトーマの完成度は七十%未満。運用データや病原体の種類なんかの完全な調整を含めて、私に移植される手筈になって」
「もういい」
「でも!?」
顔を上げた少女の目尻を久重が差し出した指で拭い、車を降りる。
「アズ。後は二人で帰る。いいか?」
「構わないよ。若い二人を邪魔する程野暮じゃないさ」
後部座席のドアを開けてソラの手を引いた久重がポケットから出したハンカチでソラの泣き顔を拭いた。
「それじゃ、明日はお休みだから」
気を利かせたらしいアズの声に内心で感謝しながら久重は車を見送った。
「・・・・・・」
「ゆっくり聞かせてくれるか?」
「・・・うん」
トボトボと覚束ない足取りの少女に寄り添いながら久重は話しかけもせず黙って歩く。
傍にいてやる事しか出来ないもどかしさに歯噛みしながら、少女の手を決して離さないよう強く握った。
やがて、ポツリポツリとソラが語り始める。
「・・・・・・テラトーマはBSL-4、物凄く厳重な施設でしか生成出来ない兵器なの。無数の病原を一個体に共存させて尚且つ制御する。それは従来の科学技術では殆ど不可能に近かった。でも、博士の造ったNDはその常識を覆した」
「確かに凄い技術だよな・・・」
「うん・・・施設ではNDの実用的な計画を幾つかの分野に分けて研究開発してた。博士は専ら兵器開発部門担当だったけど、他の開発部門から研究成果を借りて人の為になる研究も幾つかしてた」
「その結果の一つがそのテラトーマって奴なのか?」
ソラが頷く。
「NDによる厳密な病原体の保存と管理、分かりやすく言うとNDを使った人工免疫プログラム。それがあれば病原菌を保持したまま日常生活が送れる。つまり、本来はエイズや他の病原体なんかの活性を抑えたりする事を目的にして開発されたのがテラトーマ・レゾナンス・システム。TRSだった」
「TRS?」
「病原体は発症する為の条件が幾つもある。だから、その発症条件を満たさない生体情報を、他の健康な人間の体なんかを基にしてリアルタイムで体に上書きする。NDの生体融合実験の過程で出来た技術の一つで、それがあれば幾つかの制約はあるけど現存するどんな病原体に掛かっても病気の進行や発症は抑えられるって・・・ひさしげ分かる?」
「つまり・・・あーなんだ。他人の健康な状態をNDで無理やり再現するって事か?」
「・・・ひさしげって結構頭いい?」
「結構は余計だ」
僅かにソラが笑うものの再び表情を硬くする。
「それで軍事転用技術としてもTRSは優秀だったから、ND保有者の肉体制御にも使われた。でも、病原体を制御する技術を【連中】は最も残酷な形で兵器に転用した」
「それが戦略兵器テラトーマ?」
「うん。テラトーマって日本語だと奇形腫って言葉になるんだけど、それは技術的なところから来てて。ひさしげは他の人間の生体情報を別の人間に上書きしたらどうなると思う?」
「それは・・・何かしらの弊害があるんじゃないか? 普通の臓器移植も他の人間から移植すると免疫系の薬とか一生飲まなきゃならないらしいし」
「そう。だから、TRSで上書きする健康な肉体情報をどこから持ってきたらいいかって話になる。だから、病原体が病気を発症させられない細胞の情報を保有する分身を作った」
「まさかクローニング技術か?」
呑み込みの早い久重にソラが首を横に振る。
「人間一人分をクローニングするのは凄い手間と時間が掛かる。整備費なんかも見合わない。だから、IPS細胞技術で作った正常な細胞の塊で奇形種テラトーマを人工的に作ったの。【連中】はその技術の先で逆に病原体を保存するテラトーマを人間の生体情報で管理するって方法を見出した」
「つまり、病原体を保持した自分の細胞の分身が兵器になるって事か?」
ソラが僅かに沈黙した。
「・・・戦略兵器テラトーマのオーナーはその体にテラトーマを取り込まされる。それはつまり生きた病原体の保管庫になるって事。NDとTRSで保存されたテラトーマを肉体に取り込んだ人間は歩く核弾頭に等しい存在になる。どんな国も滅ぼすのは簡単。能力を解放するだけでその国は滅亡するんだから」
「・・・・・・」
ソラが続ける。
「比較的死亡率の低い病原体で同じような発症条件を持つものを数個ずつ、それ以外の絶対に流行させてはいけない病原体は一つずつ、各テラトーマは保管してる。全身に植えつけられるテラトーマの数は大体四百個前後。人類を百度絶滅させて余りあるって言われてた」
「確かにそれなら戦略兵器で間違いない、か」
「隔離してない場所でもしオーナーが死ねばNDは全ての病原体を解放する。NDで特定の病原体を他人に運ぶ事も出来る。安全に倒す方法はオーナーと周囲の病原体飛散予想地域を同時に千度以上の炎で焼き尽くす事だけ。そして、それが実現できるのは今現在の兵器では・・・・・・」
(核弾頭や気化弾頭だけ、か)
ソラが何を言いたいのか察した久重はとりあえず、笑う事にした。
「ま、何とかなるだろ」
「ひさしげ?」
「オレはどんな状況だろうが二度と君を死なせないと決めた。それがもし誰かの犠牲の上にしか成り立たないと言うなら、覚悟はしよう。その時が来たら泣くかもしれない。でも、絶対に守った事に後悔はない。それだけは言える」
「ダメ・・・そんな事言われたら私・・・」
身を引こうとしたソラの手を久重が握る。
「頼っていい。オレは、オレ達はもう家族みたいなもんだろう?」
「か・・・ぞく?」
「一緒に飯を食って、一緒に笑い合って、何かもう何年も一緒に暮らしてるような気がしてるからな。迷惑か?」
手だけが握り返される。
その握り返された手に宿る力の強さが久重には嬉しかった。
「話してる間に到着っと」
ソラが顔を上げるともうアパートの前まで来ていた。
二人が二階の階段を上がる。
「「?!」」
暗闇の中進んだ二人が通路の先に人影を見つけた。
そのタイミングに恣意的なものを感じた二人が警戒心から止まった。
カツカツと硬い靴底の音。
歩いてくる姿がやがて常夜灯の僅かな光に照らし出される。
「―――――――!!?」
ソラが驚愕に体を強張らせた。
「へぇ、今はその人が貴女の保護者?」
ツインテールの髪が揺れる。
映し出されたのは端正な少女の顔だった。
十三歳程の日本人と久重には見えた。
小豆色の外套を羽織り、ソラよりも幾分か背が低い。
その顔には僅かなソラへの嘲りが込められている。
「【連中】からの命令を教えておくわ。ソラ・スクリプトゥーラは現時点では要監視対象である。対象の能力査定が済むまで一切の戦闘行動を禁じる。以下の条件において対象への干渉を許可する。一つ対象への敵対行動を取らない事。二つ対象を無闇に挑発しない事。三つ【D1】の調査を行う事」
ソラの目の前まで歩いてきた小柄な少女がソラを睨み付ける。
「グランマを死なせた貴女が博士すら死なせて未だ笑っているなんて滑稽だわ」
ソラが後ろに下る。
「自分がどれだけ罪深いか自覚してないの? それとも現実逃避? どちらにしろ貴女の友達は誰も貴女を赦したりしないわよ。ソラッ!」
少女が吼え、ソラはその声に威圧されながらも踏み止まった。
後ろにいる久重の事を思い出していなければ、逃げ出していたかもしれない視線を前にソラが拳を握る。
「シャフ・・・まさか貴女がテラトーマ!?」
ソラの驚きようにシャフと呼ばれた少女が嗤う。
「そうよ? どんなに近くで監視しようと絶対に貴女が手を出せない兵器。それがあたし」
「今日のあの事務所での一件も?」
「挨拶代わりよ」
ソラが僅かに震えた。
その様子にシャフが得意げ顔で笑う。
「大丈夫。まだ、死人は出てないはずだから。せいぜい半年も入院したら日本じゃ治るようなのにしといたし」
「他の人を巻き込まないで!」
「それはここまで他人を巻き込んだ人間の言う事じゃないわ。【連中】がご執心な【D1】の機能を赤の他人に渡した時点でアタシと貴女の何が違うっていうの?」
唇を噛んだソラがジッと耐えるように俯く。
見かねた久重がソラの前に出た。
「ひさしげ?!」
「何アンタ? 聞いてないの? アタシに攻撃するって事は国を滅ぼすのを覚悟しろって話なのよ。ま、一番最初に死ぬのはアンタだけ―――」
バチンと世闇に響く程の音量が鳴った。
――――――――――――――――。
一瞬、静寂がその場を支配する。
シャフが信じられないように放心して、無意識に自分の張られた頬を触り、久重を見上げた。
「それが人に傷つけられる痛みだ。お前が誰かに向ける力がもたらす痛みはこんなもんじゃない。覚えておけ」
「ひ、ひさしげ!?」
慌てたようにシャフの頬を張った手をソラが掴んだ。
「―――な、ア、アタ、アタシにひ、平手!?」
混乱したように瞳の焦点をブレさせて、シャフの目尻からジワリと涙が浮く。
「来い」
ドアの鍵を回して扉を開けた久重がソラに掴まれているのとは反対の手でシャフの外套を首根っこから捕まえた。
「な、は、放?!」
「黙ってろ」
ポイッと部屋にシャフが放り込まれる。
唖然としたソラが呆然としていた状態から即座に復帰する。
「ひ、ひさしげ!? シャフはテラトーマでこんな事したら!?」
「悪いが少し世間を舐めてるガキに色々と教えておかないと気が済まない」
(ひさしげの目、据わってる!?)
ツカツカと玄関から内部へと入っていった久重を追ったソラが見たのは涙目で怒り喚くシャフを相手にせず救急箱を取り出すという意味不明なシーンだった。
遂に切れたシャフがNDの力で久重の背後から殴り掛かる。
ポーン。
その光景は擬音にするならば、そんな具合だった。
強化されていたシャフの身体能力を物ともせず久重が片腕で投げていた。
相手の力を利用しているのか。
一回転したシャフが畳みに強か体を打ちつけ、目を白黒させる。
何をされたか解ってないシャフが身を起こした時にはもう久重が救急箱から大きな絆創膏とスプレー状の傷薬を出していた。
「ジッとしてろ」
「な、何する気!?」
「黙れ。沁みるぞ」
「は、はぁ?!」
思い切り口を空けて驚くシャフの頬にブシャアアアアアアとスプレーが過剰気味に薬品を撒布した。
久重に頬を張られて僅かに切れていた口の中に薬剤が沁みこみ、シャフが思わず畳みの上を転げ回った。
「ほれ、立て」
「ひゃ、ひゃめ!?」
反射的に逃げ出そうとするシャフを捕まえ、久重が張った方の頬へ大きな絆創膏がベチリと貼り付けられる。
沁みる薬を擦り込まれ、シャフがビクンと全身を震えさせた後、グッタリと畳みにへたり込んだ。
「いいか。誰かを傷つける事に言い訳するな。お前がもしも人をオレ達への報復で殺すなら、それはオレ達のせいじゃない。ただ、お前自身の選択の結果だ。もしも、お前がオレ達の大切な人を殺したならオレはお前を憎む。この行動がお前を誰かの殺害に駆り立てるって言うなら此処でケリを付ける。もしもお前が此処で何らかの手を打っていたとしても無意味だ。オレにはオレの力で救える限界がある。だから、オレはそれが誰の命だとしても被害を最小限にして切り捨てる。理解したか?」
「アンタ自分が何言ってるか」
顔を上げ、久重を睨み付けるシャフの顔にはもう嘲りも嗤いも無かった。
「解ってないと思っているなら、それこそお前はオレの事を何も解ってない。オレがどういう人間でオレがどういう事を選択するのか。お前に解るとは言わせない」
久重の問いにシャフが立ち上がる。
「アタシは『海を渡る風』(シャフ)。世界平和を憎む簒奪者。アタシに手を上げた事、後悔してからじゃ遅いわよ?」
「なら、此処で死んでも止めるまでだ」
譲らない男を前にシャフは思う。
何をしているのかと。
未だ自分は混乱していると。
ここで戦う事になれば激戦は必至。
【連中】によって消滅させられる事すらありえる。
しかし、それでも目の前の男から視線を外せない。
周囲に配置してあったNDの多くはソラによって破壊されていたが、それでもいざとなれば、周囲数キロ圏内の民間人の殆どを人質に出来る状況下にあった。
シャフにとってそれは大きな力であり、即座に号令一つで都市一つを病に侵す事も出来た。
だが、シャフの前で男は宣言している。
最小限の犠牲なら、甘んじて飲もうと。
外に待機させているウィルスの殆どが致死率五パーセント程のもので、完全には都市部の人間を殺せない。
それどころか密室での戦闘ともなれば、至近にソラがいるだけでシャフの致死率は跳ね上がる。
所詮は間接的に人類を滅ぼせる程度の力。
条件さえ揃えば直接的に人類そのものを殲滅できる【D1】や【SE】の力はまともに戦えば負ける。
それに、そんな事をすれば、本気で男が攻めてくる。
今まで何とも思っていなかったはずの男の瞳に見えるものをシャフは知っている。
それは死を覚悟している者の目。
シャフが第三世界で見てきたテラトーマの犠牲者達の中には時折、そんな目をして反抗した者がいた。
直接戦闘を苦手とするシャフを追い詰めた者すらいた。
もしも、そんな目をしているNDの保有者と戦えば、結果は芳しくない。
更に言えば、今現在のテラトーマは日本内部への侵入に備えて弱体化されていた。
日本という完全に大陸から離れている場所で貴重なウィルスを散財したくない【連中】の思惑からシャフの持つ病原体の九割近く、テラトーマの八割が削られている。
そんな状態で戦ったところで身体を常時NDで守られている人間は殺せない。
奥の手と言えるものはあったが、それでも不安要素が多過ぎた。
ほんの少しだけ、シャフが頬を意識する。
「・・・馬鹿馬鹿しい」
シャフは全身から力を抜いた。
「止めるなら誰か殺したり、人質に取ったりするな」
「それも含めて止めるわよ。だから、いい加減アタシのNDを壊すの止めてくれない? ソラ」
次々に身体を保護していたNDを破壊されるアラートを脳裏に聞きながらシャフがソラに視線を向ける。
「・・・・・・」
「テラトーマの制御NDまで破壊されたらどうなるか。解るでしょ?」
ソラが体から力を抜いた。
それと同時にシャフの脳裏のアラートも消えた。
「また来るから」
そう言い置いてシャフがその場から立ち去ろうとして、ガシッと頭を掴まれる。
「な!? 何して!?」
声を荒げようとしたシャフに久重がビシッといつの間にか持っていた雑巾を突き出した。
「?」
怪訝そうな顔のシャフに久重が告げる。
「土足で人様の家に上がったんだ。拭いてけ」
「はぁ?!」
「嫌なら畳み代を置いていけ。ちなみにコレだけ」
指を三本立てる久重に唖然としたシャフがソラに顔を向ける。
ソラが何か居たたまれないようにポツリと呟く。
「ひさしげ。貧乏・・・だから」
「び、貧乏だけど! この頃ちょっと脱出気味じゃないのかとオ、オレは主張する!!」
「・・・・・・」
いきなり下らないコントを見せられたようにげんなりしたシャフが溜息を吐いたのは当然の成り行きだった。
その日、結局のところシャフは雑巾を持ち畳を拭く事になった。
畳みを綺麗にしろとガミガミ五月蝿い青年のリクエストに渋々応えている内に料理を振舞われるとは知る由も無く・・・。
妙に脱力させられてしまった結果にシャフは一体自分は何をしているのかと本気で首を傾げるしかなかった。
罰とは甘受する者にこそ与えられる。
別たれた明暗は期待の裏返し。
五分と五分。
ならば、何故違うのか。
第十六話「齟齬」
その声に彼女は絶望を知る。
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第十六話 齟齬
第十六話 齟齬
羽田了子にとって歩き続ける事はネタを拾い続ける事に等しい。
誰も知らない秘境だろうが銃弾飛び交う抗争のど真ん中だろうが何処までも歩き続けネタを拾い続けてきた事、了子とって誇れる事と言ったらそれしかない。
「はぁはぁ・・・やっと、着いた・・・」
息を切らしながら了子が小さな街を見つめる。
山間にある人口数万の寂れた街。
都会からのアクセスは日にバスが二本と隣街から通っている私鉄が一本。
本来なら電車かバスで行けるはずの街に了子は取材の為、愛車で来ていた。
しかし、愛車が突然のエンスト。
更に業者を呼んだら「あ~~これは一度徹底的に直さないとダメですね。って言うかどんな乗り方したんです?」との褒め言葉。
街から幾分離れた場所を取材中だった了子は取材資金の節約の為にもと涙を飲んで歩く事にした。
それから一時間。
アップダウンの激しい一本道を歩き続けた末に良子はその街に辿り着いていた。
(これで少しはあの男の事も・・・)
下り坂を降りる了子は手帳の中央、外字久重の名を睨みつけながらパラパラと新しい手帳に書き込まれた情報を頭の中で整理した。
外字久重。
20××年5月4日生まれ。
現在二十四歳。
來邦大学大学院一年生。
両親なし。
災害孤児。
アパート「栄和」在住。
出生地に関する情報皆無。
ネット上での検索ヒット皆無。
電子媒体上の情報ほぼ皆無。
大学の紙媒体の完全閲覧不可により基本情報皆無。
何らかの意図的な情報封鎖が行われている可能性大。
唯一の友人である永橋風御に情報提供を求めるものの話す事なんてもう無いと素気無く断られる。
ただ、唯一「あの街」に言ってみればいいとの証言を得ての現地取材だった。
「遊ばれてる?」
整理したら何やら理不尽な答えが脳裏に浮かび上がり、ブルブルと了子は頭を振った。
(と、とりあえず収穫はあったんだから!?)
街の最南端に位置する小学校。
そこで了子は外字久重の情報を手に入れる事に成功していた。
(その当時の先生が一人だけ残ってて生徒を覚えてたなんて、まったく僥倖だったわ)
今年で定年を迎えるという女性教師はニコニコしながら了子に久重の事を語った。
曰く、外字久重は神童だった。
曰く、それを隠していた。
曰く、あの子ならきっとどんな職業にでも就けるだろう。
(相当に頭が良いってのは確定みたいだけど、どうしてそれを隠す必要があったのか?)
街に近づきながら良子が疑問を呈する。
(大学に当たってみたけど友人はいなかったし、成績も普通みたいだった。けれど、あの研究室の人間でもないのに招かれて研究に従事してたって事はそういう知識があったって事よね? なら、並みの秀才なわけがない)
冶金学博士スティーブ・ライオネル・ジュニア。
外字久重が大学在学中に入り浸っていた研究室の長。
その功績は調べれば立派以外の言葉が出ない。
新合金の開発やその関連の加工技術特許の数は業界関係者の中でもダントツ。
現在は過去の観測情報を元に【黒い隕石】の組成を再構成する研究を行っている。
産業スパイが横行する昨今、そんな重要な研究をしている研究室に部外者である人間を招き入れるだけでも十分におかしい。
それが同じ分野や学部の生徒ならともかく、別の学部に通っている別分野の生徒であるなら尚更に。
外字久重はたぶん天才の域にいる。
大学卒業後も大学院に残り、校舎で度々目撃されている事からも、研究室へずっと通い続けていたに違いないと了子は推察した。
「まずは生家を調べないとね」
了子は田が広がる街の端で一端止まる。
「待ってなさい。外字久重」
意気揚々と新たなネタを求めて了子は歩き出した。
*
パーカー姿の少年メリッサにとって仕事=退屈という図式は随分前から出来た代物だった。
主に人殺しと雑用を押し付けられる立場の人間であるメリッサにとって上司の有能無能は己の置かれる環境を左右する重要なファクターとして見逃せないものとなっている。
同僚であり同時に自分の管理者でもあるターポーリンという存在を上司にしてからというもの、メリッサの周辺環境は劇的に変わった。
まずは仕事の質が上がった事を筆頭に多くの点でメリッサ自身に利するような特典が付くようになった。
例えば、一仕事を終えると定期的に自由時間が設けられるようになり、規則なども緩められた。
おかげでメリッサは日本で仕事をする度に幾分かの休日を得られるようになっていた。
別に趣味も無いメリッサにとって休日とは多くの場合、自分の次の仕事や自分の周辺に関する情報を集め、己を鍛える時間であり、自身の肉体や能力に対する見識を深める時間でもある。
【連中】から管理される立場にあるメリッサにとって科学技術全般の知識はそういった管理からの離脱や逸脱を行う為のカードの一つであり、決して学習や情報収集は疎かに出来ない。
そんな日々を送っていたメリッサに長期休暇という名のお使いが頼まれたのは監視任務の引継ぎ後だった。
「先輩も人使い荒いよなぁ・・・」
情報隠蔽と経費節約の名目で殆どの乗り物や交通機関を使わず足だけで移動する事を余儀無くされているメリッサはトボトボと山道を歩く。
暮れ掛けた山間に差し込む夕焼けが妙に赤かった。
「・・・・・・」
メリッサは幾つかのお使い内容の内を反芻する。
外字久重の身辺調査。
情報操作や隠蔽を常とするメリッサ達にとって外字久重という存在は久しぶりに現れた謎の人物だった。
表面上の軽い情報は幾らでも手に入ったが、特定の情報が如何にも何かありますよと言わんばかりに電子媒体上から削除されていた。
電子情報で解らない事など無いと言われている時代に地道に足で情報を稼ぐしかないという馬鹿げた状況は殆どメリッサ達にとって悲劇だった。
無駄な行動は情報として残る。
それを承知で情報を足で追う。
現代ではありえないようなアナログ極まる方法で正体を探る。
その煩雑さに探偵でもあるまいし、とメリッサは内心で愚痴った。
日本という国の地形は森林が多く起伏が激しい。
更に言えば、道路には多くの場合カメラが設置されていたりする。
無用な情報を残さない為だと山道をわざわざルート指定する辺り、本当に極秘なお使いなのだろうとメリッサは感じていた。
「あーテンションが・・・・」
歩く内に落ち込む気持ちにメリッサは頭の中を空っぽにする。
何とか山道を抜け、山にありがちな畑と私道を抜け、誰も通らないような獣道を抜け、ようやく目的の街に付いた時、メリッサは空っぽの頭を殴られたような気分で空を見上げた。
「・・・・・・先輩。まさか、何か知ってたんですか?」
今までメリッサが歩いている最中にまったく気付かなかった空の異常。
小さな山間の街。
その上空に巨大な黒い岩塊が制止していた。
それが何であるか知識上は常識として知っているメリッサだったが、そんなものが日本の田舎街の上に鎮座している等という情報はどんなに事前情報を漁っても出てこない。
【黒い隕石】(ブラックメテオ)
人類を滅ぼしかけた原因。
何故か、そんな馬鹿げた映画にしか出てこない滅亡が街の上で鎮座している。
背筋に伝う冷たい何かを押さえ込み、メリッサはもう傍にいない少女の名をポツリと呟いた。
「ソラ・・・」
己を奮い立たて再びメリッサは思考を再開する。
(【連中】はこの事を知ったのか? いや、それなら僕がここまで辿り着くなんて在り得ない。くそ・・・情報が足りない)
自分や自分を操っている【連中】こそ世界を裏から動かしている陰謀論者達の敵だと思っていたメリッサにとって、その光景は自分達すら誰かの掌上に踊らされているのだろうかという疑問を抱かせた。
言い知れぬ不安を抱えながら、その異常な街へと降りようと震えそうな足をメリッサは踏み出した。
*
外字家の朝は早い。
否、早くならざるを得ないと言うべきかもしれない。
十畳一間の主である外字久重の朝はまず超人的な勘によって何かされるより先に起きる事から始まる。
近頃、朝からやってくるセレブ女子高生と同居中の謎美少女が微妙な視線を交わしあいながら、微笑み会っていたりするので油断できない。
油断すると部屋の空気がいつの間にか戦場のような雰囲気にガラリと変わっていたりするのだから・・・しょうがない。
朝から食事を作りたがる同居人が女子高生にニコニコしながら教えを受け、ふふふふと笑い合いながら朝食を分業で作っている姿は竜虎を想起させて見ていられない。
胃への負担からか。
連日の背筋に冷や汗を禁じえない光景を見ていたからか。
そういう朝はそそくさその場を後にしてトイレで着替え、サクッと軽いノリで朝の挨拶をするのが吉であると久重のブレインは冷静な判断を下せるようになった。
「ひさしげ様。どうぞ」
ご飯のお代わりをニコニコしながら盛ってくるのは亜麻色の『縦ロール』(チョココロネ)を持つセレブ女子高生、朱憐だった。
久重は無言で頷いて盛られた白米を口に運ぶ。
「はい。ひさしげ」
鮭の切り身を口に運ぼうとして視線を彷徨わせた久重に金色の少女ソラがニコニコしながら醤油を差し出した。
やはり久重は無言で頷いて醤油を受け取る。
「ソラさん。その切り身にはもう塩が掛かっていますわ。ひさしげ様のお体を考えたらお醤油は要りません」
キッパリと言い切って醤油瓶を遠ざけようと久重の手からひょいと取り上げた朱憐の手をガシリとソラの手が掴む。
「ひさしげはちょっとしょっぱいのが好きだから別にいいと思う」
ニコニコしながらソラが反論するとギシリと醤油瓶が軋む音がした。
「ソラさん。日本にはこんな諺がありますわ。過ぎたるは及ばざるが如し。調度いい塩加減こそが人間にも求められているのです。ひさしげ様も自重くださいませ」
ニコニコと瓶を手放す事もなく朱憐の指に血管が浮く。
「ひさしげ。必要ないわ。人間は好きなものを食べるのが一番健康だもの」
「同じものを食べ続けるのは偏食ですわ。ソラさん」
ミシ、ミシッ、と少しずつ何やら不吉な音がし始める瓶に久重が口を挟むのも恐ろしく視線を逸らした。
「ひさしげ様?」
「ひさしげ?」
二人が同時に久重に意見を求めようとした時だった。
玄関がバタンと開いた。
ビクリと驚いた二人の手から何故か醤油瓶が飛んだ。
どれだけ力を入れていたのか。
瓶は弧を描いて玄関の開け放たれたど真ん中にストライク。
ガツンという非常に硬い音がして、瓶が地面に落ちて割れる。
飛び散った醤油に下半身を汚されて、ドアを開けた主の頭からブチリと何かが切れる音がした。
久重の目に飛び込んできたのは・・・人形のように無表情な戦略兵器搭載型少女シャフが底冷えするような笑みを浮かべるというシーンだった。
十分後。
必至なソラと久重が謝り倒し事なきを得た一室で三人の少女が微妙な間を持って対峙していた。
「それで、その・・・こちらの方はソラさんのお友達ですか?」
「う、うん。そうなの。ね? シャフ」
慌てたソラが言い訳気味に笑って肘でシャフを急かした。
「・・・ええ」
微妙な間を置いてシャフが答え、非難の視線をソラに向ける。
「それでその・・・シャフさん、でいいですか?」
「ええ」
「シャフさんとひさしげ様はどういうご関係ですか?」
「関係・・・殺(や)るか殺(や)られるか?」
「や、犯(や)るか犯(や)られるか!?」
「な、何かシュレン絶対間違ってる気がする」
「そろそろ学校じゃないのか?」
「え? あ、もうこんな時間!?」
慌てた朱憐は身支度を軽く整えてからシャフに笑いかけた。
「シャフさん。これからもソラさんと仲良くしてあげてください。今度来る時にはお菓子を用意しておきますわ」
ペコリと頭を下げてから朱憐が玄関を出る。
妙な沈黙がその場を支配し、いたたまれずに久重が台所に食器を持っていく。
「・・・外字久重。大学院生の傍ら借金返済の為にアズトゥーアズと呼ばれる日本屈指のフィクサーに仕える男。大まかな表側の情報はあるものの電子媒体上での個人情報は皆無。現在調査中」
背後からの言葉に振り返った久重はシャフにジッと見つめられていた。
「よく調べたな」
「別に自分で調べたわけじゃないわよ。それに」
「それに?」
シャフが半眼になる。
「【連中】に調べられない人間なんて例外中の例外だわ。それこそ紙や電子媒体上でも情報が殆ど載ってないって事になる。買い物をするだけで殆どの人間は情報が追跡できて中身まで丸裸にできる時代だってのにアンタは買い物の中身から上辺の情報しか探れなかった。【連中】が推測出来たのはアンタがボットみたいに特定のパターンに沿った買い物しかしてないって事。それこそアンタは電子媒体上でプログラムでも走らせただけなんじゃないかってくらいパターンに入ってる」
「オレは正真正銘ただの人間だが?」
「でも、本当の買い物は電子情報が残らないようにされてる。この部屋の中に存在するもので見える限り十一個、電子情報上は買われた痕跡が無い」
「よく解るな」
感心する久重に呆れた様子でシャフが溜息を吐く。
「更に言えばアンタの身辺事情は複雑過ぎるわね。大物フィクサーに大財閥を牛耳る名家のご令嬢。ノーベル賞ものの冶金学博士に元【ADET】の関係者。極めつけにSFなナノマシンを持った美少女。ふざけてるわ」
「お前がソラをどう思ってのかは解った」
「皮肉よ!? 解るでしょ!?」
「ああ、はいはい。ツンデレ乙」
サラッと久重が適当に流す。
「何その態度!! アタシにそんな態度でいいと思ってるわけッ!?」
喚いたシャフに久重がやれやれと肩を竦めた。
「それで今日は朝から何しに来たんだ?」
久重を睨み続けていたシャフだったが、不満げに息を吐いて、冷静さを取り戻す。
「アタシの任務はアンタ達の監視よ。アンタ達の情報を得て上に報告する義務があるわ。アタシが選ばれた理由はアンタ達が手を出せないから。つまり、アンタ達の傍で堂々と監視しないわけないじゃない」
「「・・・・・・」」
久重とソラが同時に沈黙する。
「な、何よ・・・」
「暇、なのか?」
「何でよ!?」
真顔で聞いてくる久重にシャフがちゃぶ台をひっくり返しそうな勢いで立ち上がって拳を握る。
「いや、昨日ソラとお前の事を話してたらお前が目の前に現れる理由なんて殆ど無いって聞かされたからな」
ギロリとシャフがソラを振り向いて睨む。
ソラがそ知らぬ顔でそっぽを向いた。
「ソラの話だとそもそもお前があんな風に現れずに監視されても得られる情報は今と殆ど同じだろうって事だったんだが、違うのか?」
シャフの眼力に負けたようにソラが見つめ返した。
「久重と私を監視してるのはたぶん【連中】がこちらの現在位置を常に把握する為。本当なら最初から手を出せない人間が監視を行うって何かの方法で警告してから監視を受け入れろって言うだけでいい。遠くから監視されてた時に生活圏内の移動ルートはバレてる。ある程度の距離を保って見てるだけで十分な任務のはずだから、わざわざ姿を現して警告する意味なんて無い」
「ふん。何て言うかと思えば。そんなのアンタを追い詰める為に決まってるじゃない。アンタは仲間を捨てて裏切ったのよ。一人で逃げて【連中】から自由になった・・・」
シャフの言葉にソラが瞳を伏せる。
「友達なら祝福したらどうだ?」
久重の言葉にシャフが怒鳴り返す。
「アンタに何が解るのよッッ!?」
久重がちゃぶ台の前に座った。
「オレに解るのは今のお前が嫉妬してるように見えるって事だけだ」
「嫉妬ですって? 笑わせてくれるわ。世界滅ぼす力持って、人間止めて、仲間も捨てて逃げた先でいつ回収されるのかビクビクしながら暮らしてる。冗談じゃないわ」
目に見えてソラが俯いた。
「いい? 貴女の運命はもう決まってるのよ? これから【連中】に捕まってモルモットにされて体切り刻まれて実験動物にされて玩具にされて、ただの兵器として永遠に使い潰される。解ってるでしょ? ソラ」
「・・・・・・」
ソラが言い返せずに俯いたまま瞳を閉じた。
それ見た事かとシャフが己の正しさに勝ち誇るが久重が笑いながらソラの頭を撫でる。
「させやしない」
「え?」
ポンポンと軽くソラの頭が叩かれる。
大丈夫だと安心させるように。
「オレは君を守ると決めた。オレともう家族だと思ってるって昨日言ったろ? 家族を誰かに奪われるなんて、そんなのさせやしない。誰が何と言おうと、な?」
「ひさしげ・・・ありがと・・・」
シャフがその二人の間にあるものを感じ取って、今までの表情を一変させる。
僅かに拳を握り震わせながら、その光景にギリッと歯を軋ませた。
「どんなに言い繕おうと結局のところ結末は変わらない!」
シャフの言葉に久重はあくまで不敵だった。
「ああ、確かにその可能性は高いんだろう。でも、オレは諦めるつもりはない。そして、オレとソラが諦めていないなら可能性は低くとも盤上の形勢はひっくり返るかもしれない」
「何を相手にしてるのかも知らない癖にッ?!」
「この世の中の殆どの人間は自分が何と戦ってるのかなんて知らない。それでも誰の手にも二つの選択肢が乗っかってる。諦めるか。諦めないかだ」
「綺麗事で誤魔化せるわけないでしょ!? 【連中】は確かに世界を動かす力を持ってる。滅びかけた多くの国々に浸透し、政治、宗教、経済、あらゆる分野に根を張ってる。それこそ、ソラの持ってるNDの為ならたかだか先進国一国ぐらい潰してもいいって考えてるわ。そうでなきゃアタシが此処にいるはずないんだから!!」
「お前の言ってる通りなんだろう。でも、オレにはお前がそんなに悪い奴には見えないな」
「―――アタシがどれだけ殺したか知らないなら教えてあげる。二千万よ。どんな独裁者だって敵わない数でしょ? その気になればアンタの親類縁者同僚職場赤の他人・・・誰も彼も皆殺せるわ」
「なら、オレはお前がその気にならないよう気を付ける事にしよう」
久重が冷静に返す。
「~~~~!!! ああ、そうね!! そうするといいわ!!!!」
完全に怒ったシャフが立ち上がる。
「おい。何処に行く?」
「気分が悪い・・・今日はこの辺で勘弁してあげる。せいぜいその時が来るのを怯えてるといいわ」
険しい顔で二人が引き止める間もなくシャフが玄関から出て行く。
後姿を見送った久重が頭を掻いた。
「悪い。怒らせちまったな」
「いい。昔からシャフはちょっと頑固で意地っ張りだったから・・・」
「友達、だったんだろ?」
「うん。教養分野で一緒だった」
「教養分野?」
「普通の人間の暮らしに溶け込んで任務を遂行できるようにって研究所(ラボ)には普通の人間の生活様式と礼儀作法なんかを学ぶ場所が設けられてたの。メリッサとシャフは私と同じ教養をそこで培った。だから、こうやって日本語が話せるし、日常生活でも溶け込める」
「どんな奴だったんだ? その頃は」
「皆小さかったから・・・シャフは凄い能力を手に入れて、いつか【連中】を逆に自分に従わせてやるんだっていっつも言ってた。メリッサは博士のライブラリーから漫画を持ち出して自由に飛べる翼が欲しいって笑ってた」
黙って耳を傾ける久重はソラの優しい声が泣きそうだからなのだと気付いた。
ソラの唇からは止め処なく言葉が溢れる。
「私達に常識を教えてくれたのは英国人の年を取った女の人。皆はグランマって呼んでたわ。研究所で働く人の奥さんで英語と日本語はその人が教えてくれたの。とっても優しい人だった・・・」
ソラの瞳の奥で光が揺らめく。
「でも、二年前グランマは事故で死んだ・・・ううん。シャフが昨日言ってた通り私が殺したの。稼動データを集めてた最中に【D1】のプロトタイプが制御不能になって、暴走して研究所ごと消滅した・・・」
「―――消滅?」
「熱量の放出実験中に通常ではありえない熱量を放出して研究所そのものを融解させたの。その後【D1】の自動防衛プログラムが研究所を強制的に再構築して私とその周囲だけは守ってくれたけど、他の職員は全滅。グランマもその犠牲者の一人だった」
「それでか? あんなに刺々しいのは?」
「シャフはグランマの事が大好きだったから・・・」
ソラの罪悪感に押し潰されそうな様子からグランマという老婦をシャフと同じように好きだったのだろうと久重には解った。
「私以外で助かった人も殆どは死に掛けてた。そして、黒い繭の中で地獄が始まった。それを後から映像で見たシャフは凄いショックだったと思う」
ソラがちゃぶ台の上に手を翳す。
黒い粉が虚空からサラサラと流れ落ち、ちゃぶ台の中心で薄く円を形成する。
何をしようとしているのか久重が察した。
「ソラ・・・」
ソラが目を閉じる。
すると薄く輝きを帯びるNDの群体が映像を浮かび上がらせた
「これが・・・」
それは白と黒に分かれた世界だった。
黒い世界側から覗いた白い世界では部屋が扉がグズグズに蕩けていく。
その中で多くの人型の何かが一瞬で融け消えていく。
そして、全てが融けてしまった白い世界を押し込めるように黒い世界が全てを侵蝕し封じ込めた。
光も差さない黒の世界での視点は一貫している。
ゆっくりと視点が移動し、本来は廊下だったのだろう黒い穴の中を覗いた。
「――――――」
久重が絶句した。
その穴の中で黒く蠢く人型の何かがいた。
それは全てを覆う黒いものと同じもので出来ている。
蠢いた黒い人型はよく見れば、様々な部分が欠けている。
あるモノは手も足も無く。
あるモノは体だけが無く。
あるモノは頭だけが無く。
「人間の機能を向上代替する機能が備わっているオリジナルロットに侵蝕されて、研究所の再構築と同時に再構成されたのが・・・その【人達】」
あるモノは欠けた部分が多過ぎて黒く蠢く水溜りのようになっている。
「再構築に中身が足りなかったから、NDは人間を人間以外のモノで補完したの」
全てが蠢いて一斉に視点の方に視線を向けた。
その人型らしき蠢く黒い何かの瞳はすでに人間のものではなく赤い色をしていた。
「勿論、足りないものを他のもので補ったからって、そもそも同じになるはずない。それ以前に人間の体を人間に使われていないもので再構成したら、どうなるかなんて解り切ってた」
黒い人型のモノがザワザワと蠢いて、一斉に視点に襲い掛かってくる。
しかし、ザクンと黒い壁の一角から伸びた鋭いものが人型を貫通した。
「NDはより良い材料を探した。その結果が」
人型達がざわめき、不意に黒い人型の一体が他の人型に襲い掛かった。
瞬間、人型の首から上が頭部とはまったく別の機関に変わる。
即ち、顎(あぎと)。
「それなの」
ただ、それだけとなったソレが他の黒い人型を捕食した。
「NDは『無い部分』を合理的な結論として最良のもので補う事にした」
「私はNDの最優先保護対象だったから助かった。けど、他の優先順位同列で個人に貸し出されている状態のNDは他のND個体群と競合を起こした」
人型が喰い合いを始める。
その時点で映像が途切れた。
ソラの肩が僅かに震えていた。
「結局、あの事故で生き残ったのは二人だけ。私とターポーリンだけだった」
「あいつか?」
「最後まで頭部を失わずに黒い人型の中で生き残ったのがターポーリン・・・博士の助手だったの。【連中】は生体融合実験の貴重な被検体としてターポーリンを使った。人間に戻す事には成功したけど融合実験は失敗してNDで体を固定化して実験は終了。それでも寿命は五年以下って言われてターポーリンは殆ど死を待つだけになった」
己が一度は倒した男の過去に久重は苦い顔をする。
「シャフはそんなターポーリンの実験を誰に何を言われてもずっと見学してた。そしてグランマが死んだ時の事を知りたがって今の映像をライブラリから盗み見て・・・」
久重は何も言えなかった。
「恨まれたって当然なの。家族みたいだった研究所の人をあんな姿にして殺したんだから・・・」
「暴走したのはソラのせいなのか?」
「解らない。でも、私が【D1】を制御できていれば、あんな事にはならなかったかもしれない。それが解ってたから事件の後、最後に会った日もシャフはあんな感じだった。それでも・・・まだ・・その時は・・・仲間だって・・・言ってくれてた・・・・」
涙声のソラがグッと堪え切って話を続ける。
「それから、ターポーリンの生体融合実験のデータを使う事で【D1】は完成した。ターポーリンにしてみれば、私は自分の犠牲の上に成り立ってる存在。許せなくて当たり前だと思う。
オリジナルロットの開発が終了した事で博士は【SE(シラード・エンジン)】の研究も飛躍的に進歩させた。一年前に【SE】は完成。博士は私に【D1】を持たせて逃がした。
ターポーリンはたぶんそんな博士が許せなかった。自分の敬愛する科学者でありながら、自分の実験データで研究を完成させ、あまつさえ私に成果を渡して逃がそうとした事が。だから、私を逃がした日に博士を裏切って・・・」
その時の情景が甦ったのかソラが唇を噛んだ。
怯えるように久重を見上げる。
「ひさしげ・・・」
もしも軽蔑されてしまったら。
そんな不安に少女の瞳は翳っていた。
「話してくれて嬉しく思う」
「ホント・・・?」
「ああ」
ソラの表情が僅かに和らぐ。
「悪いな。辛い事思い出させて」
「でも・・・私は確かに裏切り者で・・・皆を死なせて・・・沢山の人に迷惑を掛けて・・・それなのにこんな風にひさしげに支えられてる・・・本当はそんな資格無いのに・・・」
「オレにだって誰かに助けられる資格なんて無い」
久重の言葉にソラが首を横に振る。
「ひさしげは凄く沢山の人に必要とされてるわ。本当は私なんかより朱憐の相手をしなきゃいけないし、アズを手伝って借金を減らなくちゃいけない。本当なら大学院にも通って研究を手伝って、友達ともっと遊んだりしてるはずだもの。みんなひさしげなら助けてくれるわ」
自分の事では必死に堪えようとしていたソラの涙が、
「ひさしげに私・・・迷惑しか掛けてない・・・」
一筋畳に落ちた。
「ああ、その、何だ・・・」
久重が何と言って慰めたらいいのかと迷ったあげく、ソラの額にペチンと軽くデコピンを喰らわせる。
「ひ、ひさしげ?!」
「オレはな。今までの生活が結構幸せだった。オレの傍にいる連中は確かに気の良い奴ばっかりだ。どんな贔屓目に見ても恵まれてるのは間違いない。けど、思うんだ。オレは今、昔よりも幸せになったんじゃないかってな」
「―――幸せ?」
思ってもいなかった言葉を受けてソラが驚く。
「君が来てからオレは初めて朱憐があんな風に表情が豊かなんだと気付いた。今まで一緒にいたはずなのに、オレはあいつがあんな風に怒ったり嫉妬したり笑ったりする普通の女の子なんだって事を知らなかった」
「そんな・・・」
「それにアズだってオレの事をあんな風に思ってくれてると解らなかった。オレの事はまぁ冗談の類だと思ってたし、もしも本当に危なくなったら切り捨てられる側だと思ってたからな。あそこまでソラを脅すなんて思っても無かった」
「それは私が・・・危なかったから・・・」
「他にもあの大学のライオン親父だって、あんな条件を付けてくれる程にオレを必要としてくれてた。オレが気付かなかったものを・・・君は気付かせてくれたんだ」
「私がいなくても」
久重はソラに最後まで言わせない。
「オレは今まで生きてきて色んな奴に支えられてた事を忘れてた気がする。感謝するどころか何もオレには救えないんだと自分勝手に絶望ばかりしてきた。傍で支えてくれてる連中が大勢いたのに目を向けてこなかった」
「ひさしげ・・・」
「近頃のオレは銃で撃たれて片腕を飛ばされて肋骨を幾つも折った。でも、辛かった事より楽しかった事しか思い浮かばない。それはソラがいたからだ。だから、言っておく」
久重がとっておきの秘密を告げるように囁いた。
「君のおかげで、オレは今幸せなんだ。ソラ」
ソラは視界が完全に歪んでしまった事を惜しく思う。
その人の笑みをちゃんと見つめたかった。
身を寄せて、その人の胸に顔を埋める。
「私も、私も今・・・幸せだよ。ひさしげ」
未だ現実は厳しい。
少女を守る為の戦いは激しさを増すだろう。
それでも目の前の少女を守れなければ、この世の何もかもが嘘だと外字久重は思う。
こんなに純真で己を責めてしまう少女が幸せになれないならば、こんな世界に価値など無いと思う。
「ソラ・・・言いにくいんだが、ちょっとこの体勢は改めた方がいい。怖いお姉さんが見てるぞ」
「え?」
思わず振り返ったソラの目には未だ歪んでこそいたが、ハッキリと胸元の開いた黒いスーツが玄関に見えた。
「久重・・・朝から昼ドラとは良いご身分だね?」
「休みじゃなかったのか?」
「緊急の要件が出来てね。本当は休みにしてあげたかったんだけど、僕も商売だから」
「昼ドラが終わってからでいいか?」
「随分と余裕みたいだから借金の利子を上げておこうかな」
「それは勘弁してくれ」
「・・ふ・・・ふふ・・・あはは・・・・」
二人のいつものやり取りにソラが思わず噴出した。
「笑われてるよ。久重?」
「いや、お前が、だろ?」
部屋に流れる温かい空気にソラは内心で誓う。
こんな日常を続けて生きていきたいと。
こんな日々を守らなければならないと。
心の中で何度も、何度も・・・・・・。
*
そして、そんな幸せそうな声に小豆色の外套を羽織った少女は近くの公園のベンチで絶望していた。
【どうして、何で!? 何なのよ!! どうして貴女だけ、そんな・・・そんな風に笑えて・・・アタシは貴女と同列の力を手に入れたのに・・・何で!!・・・こんなの・・・こんなのありえないわッッ?!】
孤独な少女の呟きは深く深く己の内へと沈んでいく。
自分と同じ位置にいたいたはずの少女が笑っている。
本当に幸せそうな声で笑っている。
そう思うだけで少女(シャフ)の脳裏は悲鳴を上げる。
大勢の人間を殺し、自分や仲間達を裏切り逃げ出した少女、自分と同じ虐殺者の少女がそんな声で笑う事など許せなかった。
【やだ・・・やだ・・・やだ・・・やだよ・・・こんなの・・・許せない・・・許せない・・・許せない・・・】
虐殺兵器となった自分と世界を滅ぼせるだろう少女。
どっちもどっちだと嗤ってやれるはずだったのに、現実は違った。
自分と同じだけ汚れているはずの少女は自分と違って未だ笑えた。
一体何を間違ったらそうなるのか。
【最初は全部同じだったはずじゃない!!】
同じ罪を、自分と同じように汚れた少女(ソラ)を、最初は期待していた。
きっと、どんなに言い繕っても内心は自分と同じように穢れているはずだった。
そんな少女を楽々連れ戻して【連中】を見返してやれるはずだった。
こんな殺すしかできない力を捨てて、あの神の如き力を手に入れられるはずだった。
なのに、少女(ソラ)と少女(シャフ)の間には大きな差が溝が明暗が分かれている。
ただの笑い声でそれが解ってしまう。
【どうして!! どうしてよ?! グランマを研究所のみんなを博士すら貴女は殺したのよ!! それなのに!! 何でそんな貴女の方がアタシより、アタシより幸せそうなのよ?!】
しかし、幾ら内心で叫ぼうと自分とは似ても似つかない笑い声をNDは拾い続ける。
やがて、少女(シャフ)は呟いた。
「奪ってやる」
少女は己の名を呟き立ち上がる。
「アタシは世界平和を憎む簒奪者なんだから・・・」
幽鬼の如くシャフの姿は数分後にはその場から消え失せていた。
戦争だ。
地獄への路は善意と血に濡れている。
たった一滴の雫を求めて争うのが人の性か。
代価も無く求める廃国の影が平和という名の偽善に忍び寄る。
第十七話「WWW」
遊戯の始まりが宿世を導く。
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第十七話 WWW
第十七話 WWW(ワールド・ウォーター・ウォー)
眼窩に花を持つ猫が寂しげな様子で森の中に横たわっていた。
朽ち果てた動物達の亡骸を寄り代に根を下ろす小さな花々は禍々しいというより、何処か散った命を祝福しているようにも見える。
「・・・・・・・・・・・」
そこは小さな森だった。
その中で生きる小さな住人達を観客に白いスーツを着た印象の薄い青年が一人片膝を折り頭を垂れていた。
「ターポーリン。君は今まで己を捧げてきた者の中で最も僕らに貢献しているね」
老成した雰囲気を持ちながらもそれは少年の声音をしていた。
「いえいえ」
謙遜しながら首を横に振るターポーリンに対し声が続ける。
「【D1】への警鐘を鳴らし、管理と廃棄を真剣に考える君の目的が本当にただそれだけなのかは疑わしいけれど、君が今まで行ってきた数々の工作は我々にとって有意義なものだったよ」
「そう言って頂けるならば重畳です」
僅かな沈黙。
その沈黙に込められたものを感じ取り、ターポーリンは内心の苦笑を悟られぬよう表情を一切崩さなかった。
「あの女は君に部隊の使用権限を与えた。あの男は資源を惜しげもなく次ぎ込んだ意欲作をくれてやった。僕も君に何かをやるべきかな?」
「そんな滅相もありません。ただ、テラトーマの管理権を譲ってくだされば幸いです」
しれっと冗談交じりに要求するターポーリンに何処か困ったような溜息が吐かれる。
「僕らは一人に付き一人分の被検体を己の分野で改造する事で合意していたんだ。知ってるかい?」
「存じています」
「他がどういう風に被検体を使っているのかは知っているよ。でも、僕は違う」
「そうなのですか?」
「あの子は僕にとって最高の素材だった」
声が何処か寂しげに呟いた。
「だからこそ、僕は彼女をデチューンなんてしていない」
僅かも崩れない鉄面皮の笑顔でターポーリンがその不穏な言葉に訊き返す。
「はい? それはどういう事でしょう」
「単純な話。彼女から病原の殆どを取り去ったのは強化の為だって事だよ」
「強化・・・」
「あの子が死人みたいな肌が嫌いだって不満そうだったから」
ターポーリンは脳裏でTRS技術の情報を反芻した。
「TRSの逆利用だと人体機能の殆どを停止させNDで維持しなければならないから、ですか?」
「そう。だから、彼女が普通の人間並みに体を扱えるようにして、病原は数じゃなくて質でカバーする事にしたんだ」
「・・・・・・」
「今、彼女が積んでいる病原体の保有数は実際のところ七つ【も】ある。どれも僕の最高傑作だ。そして、切り札も与えておいた。更には飴もね」
「随分と可愛がっているのですね。被検体に飴とは」
「あの子が【D1】をこちらに引き戻した際には【D1】そのものを与える約束をしてるぐらいだから」
「冗談にしても笑えませんが」
「冗談にするつもりはないよ。適性試験でAだったしね。SとAの違いなんて研究に何の支障もない」
「強引に事を運べばテラトーマを失い、日本が滅びるかもしれません」
「それは全て彼女次第。今の彼女なら単純に虐殺するだけだった過去よりも複雑な働きが出来るはずだよ」
ターポーリンは相手が何を言いたいのか正確に理解した。
つまり、今までの会話は覚悟しておけという警告なのだろうと。
自分以外が【作品】に手を出した場合、思わぬところで躓くかもしれないと釘を刺された格好だった。
「ふふ、意地悪もこれくらいしておこうか。君にテラトーマの管理権限を移譲しよう」
「ありがとうございます」
頭を下げたターポーリンが立ち上がり、その場に背を向けた。
「それでは。私はこれで」
森を抜けようとその場からターポーリンが歩き出す。
「ターポーリン」
「はい。何でしょうか?」
声が何かを迷ってから言葉を口にした。
「博士はもういない」
「理解しています」
「他の【連中】には君を止められないだろうね」
ターポーリンの足元に小さな子犬が森の何処かからやってくる。
チョコチョコと歩いてきた子犬の口には小さな試験管が咥えられていた。
それを受け取ったターポーリンがしげしげと日差しに試験管を翳す。
中には銀色の粒子が舞う琥珀色の液体が満たされている。
「だから、これは君への退職金代わりだ。もしも老後を静かに暮らしたいなら、その時は飲むといい」
「・・・受け取っておきましょう」
ターポーリンが一度振り返ってお辞儀をすると森の中から出て行く。
「可能性があるだけいいと思うのは僕の自己満足なのかな」
しばらく、子犬は円らな瞳で去っていく背中を見つめていた。
「これじゃ悪魔が笑ってるのも無理ない話、か」
声はそれを機に途切れた。
*
銃弾が終わりを運び。
世界は崩壊した。
その世界には幾つもの選択肢があった。
しかし、誰もが滅びゆく選択をしてしまった。
『これで終わりだ』
敵の声。
敵は強く、彼らは弱かった。
何億回繰り返したところで決して自分では歯が立たないのだと彼は悲しげにその光景を見つめる。
「結局は何処で間違ったのかも解らない。まったく因果な事だ」
ブラックアウトしていく視界の端に今も助けを求めている少女を見つけて、彼は目を閉じた。
「これが、死か」
彼は絶望に身を浸しながら、その時を待ちつづけた。
「田木さん」
パチンと部屋の明かりが点けられ、呆れた溜息が彼の頭の上に降り注ぐ。
「いい加減に寝てください」
振り返った彼、『田木宗観(たぎ・そうかん)』三十九歳を呆れ半分で見ていたのは初老のシスター『藤啼三郷(ふじなき・みさと)』だった。
「これはすみません。いや、また何処で間違ったのかヒロインを救えずに・・・・・・」
「・・・田木さん。ゲームは一日一時間ですよ」
田木は四十近い年齢の己が初老の藤啼に叱られる様子が何となく子供の頃と被り、懐かしい気分で笑った。
「よく母にも言われてました」
「田木さんは元自衛隊員という話でしたから体育系かと思っていました。他にご趣味は無いんですか?」
「お恥ずかしい話ですが、コレといったものが無くて。カードにゲームにライトノベルに漫画に音楽。こういうのばかり好きなんですよねぇ・・・」
「いつまでも子供心を忘れないのは結構ですが、トランクルームの電源は有限というのを覚えておいてください。昼間の太陽と電源からの充電だけで成り立っているので容量が少ないんです。夜間の消費電力の殆どは警備システムに回していて独立性の高い反面、無駄遣いされると一部センサー強度が落ちる可能性があります」
「すみません。藤啼さん」
素直に田木が頭を下げてテレビとゲーム機の電源を落とした。
「よろしい。では、また明日。おやすみなさい」
「はい」
廊下を帰っていく藤啼の足音が去った後、田木が四畳一間に設置された狭い寝台に横となる。
そして、何処から取り出したのか。
ポチリと携帯ゲーム機の電源を入れた。
「ふむ。やはりゲームはいい。これこそ人類が生み出した文化の極み」
イソイソとセーブデータをロードしようとした田木だったが、不意にゲーム機の画面が明滅した。
「・・・・・・」
一通のメールだった。
メールに一通り目を通した後、田木がゲーム機の電源を落とす。
(どうやら徹夜しなければならないようだ)
その数分後、一室から田木の姿は消えていた。
次の朝、藤啼が見つけたのは田木からの『心配しなくでください。少し日本を救いに行ってきます』という置手紙のみ。
藤啼の深い溜息が朝の教会の空気に溶けて消えたのは言うまでもなかった。
*
呼び出しを受けた田木が向かったのは深夜の国道沿いだった。
一台のクーペが道路脇に止まっているのを発見し、田木が躊躇なく後部座席に乗り込む。
クーぺが発進した。
かなりのスピードで国道からバイパス、高速道路と道を次々に変えていく車中、田木は懐かしい気持ちで後部座席に座っていた少女に挨拶する。
「お久しぶりだ。お嬢さん」
「おじさん」
ソラが僅かに微笑んだ。
「また、あんたに会う事になるとはな」
「青年も一緒か」
田木が助手席の久重を見て拳を突き出した。
それに久重も拳を突き合せる。
「男同士感動の再会もいいけど。今日は用があって呼んだからちょっと借りるよ」
大型トラックしか見えない夜の高速を限界まで飛ばしながら危うげない運転をするアズがバックミラーで田木と視線を合わせた。
「・・・貴女にも感謝しなければならないな」
「料金分は働いてるもので」
アズが唇の端を歪める。
「それで。何が【日本が危ない件】なのか聞いてもいいかな?」
アズがミラー越しに頷いた。
「GIOに動きがあって」
「居場所がバレたわけじゃないようだが?」
「今現在、僕は政府筋の依頼で動いていて、その件で貴方に色々と確認したい。もしも貴方が今回の件で協力してくれるなら料金分働いたと見なしてもいい」
「・・・話を聞こう。それで政府筋の依頼とは?」
「貴方の件と幾つかの点で重なってる事案が浮上して僕に御呼びが掛かった。これを」
アズが片手でサイドボックスから資料を出して後ろ手に放った。
田木が資料を暗い車内で見ようとして、背後のトラックからのライトに一瞬資料の表紙が照らし出される。
「―――――――」
田木は資料の内容をその文字からすぐに推し量り、自分が呼ばれた訳を知った。
資料の表紙には部外秘とWWWの文字があった。
「三日前。大陸東部旧モンゴル自治区でロシアの四個大隊と中国の軍閥連合一個師団が衝突した」
「マジか?」
アズの言葉の危うさに久重が思わず訊き返していた。
「理由は色々あったらしいけれど、一番大きいのは砂漠化らしいね」
「予てから懸案だった高速での砂漠化進行か?」
田木の静かな声にアズが頷く。
「その通り。NEW United Nations Convention to Combat Desertification。新砂漠化対処条約は主にアフリカが主役だったから、放って置かれた方は結局我慢出来なかった」
「?」
話の筋が解らずソラが首を傾げた。
「お嬢さんにも解りやすく説明すると。問題は水資源の枯渇だ」
「・・・あ・・・えっと、それって・・・」
ソラが田木の持っている資料のWWWの文字に見入りおずおずと答える。
「水、戦争?」
答えたソラにアズが頷いた。
「正解。WWW(ワールド・ウォーター・ウォー)・・・世界水大戦の資料だ」
「現実になったのか。その話・・・」
久重が聞き齧った事のある水戦争に付いての知識を脳裏から掘り起こしながら訊く。
「あの【黒い隕石】騒動後は特に中国で水資源の枯渇が酷くなった。理由は単純。無秩序な人口増加と国家不在で台頭した軍閥の水源確保による大規模開発が乱発した結果さ」
ソラがよく噛み砕いてからゆっくりと問い直す。
「それってつまり人が増え過ぎて水を沢山使うようになったからって事?」
「中国はあの混乱でほぼ瓦解したからね。複数の軍閥がそれぞれに水資源を奪い合って開発した結果は水質汚染土壌汚染として現れた。温暖化も後押した結果、中国東部は水資源の枯渇に喘ぐ事になったってわけさ。開発を抑制すれば後十年は持つって計算だったんだけどね。軍閥にそれを守るだけの理由は無かった。砂漠化との相乗効果でそろそろ干上がる頃だとは思っていたけれど、侵攻が此処まで急になったのには理由がある」
「理由?」
「今現在でも旧中国領内沿岸部は辛うじて水質汚染限界を超えてない。他国からの輸入で飲料水だけは確保してる有様だけどね。それが一気にまずい方向に転がった。理由は二つ」
アズがバックミラー越しに田木を見る。
「伝染病の隔離を名目にした海上封鎖と軍閥間バランスの変更か。随分とGIOは日本が欲しいと見える。貴女の考えている通りだ」
田木が資料を暗闇で読みながら溜息を吐いた。
苦い顔をしたまま資料をそっと横に置く。
「第三世界での疫病の蔓延をWHOはずっと監視していたはずだ。伝染病が東に伝播し始めたのを理由にGIOがWHOを抱き込んだ。そういうことだろう?」
「ご明察。世界貿易はGPS機能無くして語れないわけだけど、GIOは世界規模で海路にジオプロフィットを設けてる。そのジオプロフィット航路に変更があった。理由は伝染病の伝播速度遅滞。WHOが推奨してるともなれば貿易船の殆どは利益優先安全優先で遠回りせざるを得ない。つまり、今まで一週間で届いたものが二週間掛かるようになる。中国各軍閥領内は限界ギリギリで保たれていた秩序を水が無いの一言で瓦解させられる」
田木が沈んだ様子で座席にもたれる。
「もしも未だ中国が一つの国家だったなら国家存亡の危機に一致団結、利益度外視、安全度度外視、さっさと水は運ばれて問題は無かったかもしれない。けれど、軍閥同士の駆け引きと争いで足を引っ張り合ってる連中は互いに事実上の海上封鎖を機と見なし、難しい舵取りを迫られた。受け入れるか。抗うか」
「抗わなかったのか?」
久重の言葉にアズが頷く。
「実際に今現在の環境で伝染病が入ってくれば、人口爆発に悩む各地域は壊滅的な疫病被害を受けるかもしれない。そうなれば他の軍閥の【大規模な領土拡大】も在り得る。そういう憶測が結果的にWHOとGIOの方策への支持に繋がった」
久重が難しげな顔でアズを見る。
「他の軍閥には弱みを見せたくない。かと言って水資源を確保しないと渇いて死ぬ。つまり、隣国を攻め落とし水資源を確保する以外の道が絶たれたわけか」
久重の言葉にアズが頷く。
「でも、未だに形を保ってるロシアに軍閥一つじゃ役不足だ。そして、各軍閥もそれは解ってた。だから、水が入ってこない状況を容認する代わりにGIOからの全面的な軍事支援を取り付けた。GIOにとってはどうぞどうぞって話だったはずさ。各軍閥は水資源の確保という大義名分で一応の結束を得たわけだ」
「武器の密輸はGIOの副業らしいと噂だったからな」
田木が殆どの状況を把握して呻くように言った。
「連中は旧モンゴル領からロシアへと進軍を開始。軍閥間のバランスはGIOが音頭を取ると。そして、その結果として」
久重の言葉尻をソラが捕らえる。
「日本の戦争へのGIOプロフィット導入が早まる・・・?」
ソラの真剣な視線にアズが頷いた。
「そうこれは日本のジオプロフィット導入を後押しする為の戦争なのさ。正に呼び水なわけだ」
アズの冗談に笑えず久重もソラも田木も黙り込んだ。
「そして、ここからが本題。官房長官は日本を売り渡す契約を全部無かった事にしたい。GIOは日本の全てを手に入れたい。問題は一つだけ。官房長官とGIOで作成した書類一式の在り処は何処か?」
「それって・・・」
ソラが田木を見る。
「青年に預けた鍵が刺さる場所の中だ」
「ひさしげ。持ってる?」
「あれか? あんな危ない鍵はサクッとアズ行きだが?」
ソラの視線がアズに向く。
「無論、ちゃんと現物は預かってるよ」
「それじゃ安心」
「じゃないのが今回の話の味噌でね」
アズがチッチッチと人差し指を振る。
「基本的に契約書ってのは二つ用意されるものなのさ。そして、一つは持ち去られたけれど、もう一つはGIOの手の中にある。僕の依頼主は少なくともGIO側のものが消えれば、今回の国土分割は無かった事として処分する方針だけど、もしも相手側から言われたらやらざるを得ないと言ってる。その為の根回しと準備は済んでいて、実際に契約書そのものが表沙汰になった時点でアウトだそうだよ」
「今回の依頼主ってのは官房長官か?」
アズが殆ど明言しているに等しいからか笑みで誤魔化した。
「とりあえず言える事は中国軍閥とロシアの戦闘が表向きに報道されてからが勝負って事かな。来週の審議にGIOの社長が呼ばれてるのは知ってるかい?」
「そうなのか?」
「依頼人的には野党からのGIOの違法献金問題追求なんて瑣末な事なのさ。外国人献金の禁止なんてもので罰されるより、あの総理みたく日本を売り払った売国奴として暗殺される方が怖いらしいよ」
「・・・つくづく政治に絶望させられる発言ありがとさん」
「最初から止めておけばいいものを・・・」
久重のぼやきと田木の呆れ顔にソラは日本は難しい国なのだろうと難しい顔をする以外なかった。
「それでさっきから気になってたんだが、一体オレ達は何処に向かってるんだ?」
「何処? 今更だよ久重。今までの話の流れから行く場所なんて一つしかない」
「おいおい。おいおいおい!? まさか?!」
久重がクーペの窓から見える景色の一部に気付いて顔を引き攣らせた。
超巨大ビル。
言葉にするならそんな粗末な単語になってしまう現代のバベル。
GIO(ゼネラル・インターナショナル・オルガン)日本支社ビル。
666メートルと洒落た高さを持つ日本最高のビルが迫ってくる。
その迫力に久重が思わず片手で顔を覆った。
「敷地内に戦車あるんだぞ?!」
「何も戦車にガチでタイマン張って来いなんて言わないよ。何処かの泥棒三世みたいに華麗な盗みを披露しろともね。ただ、ちょっとGAMEをしてもらいたい」
「ゲーム?」
アズ以外の三人が内容を飲み込めていない内にクーペが敷地に侵入し地下駐車場へと入ってしまう。
すんなりと入れた事にわざわざ驚いたりはしないものの、久重は気が気ではなかった。
GIOは日本でも屈指のセキュリティーを誇る。
何かあった場合、拘束、拷問、処分のフルコースにもなりかねない。
近頃は産業スパイをセキュリティーの対人装備が焼き殺す事件すらあった。
それでもGIOの日本での地位は小揺るぎもしない。
それがGIOの実力に他ならなかった。
「ちなみに頑張れば契約書は返してくれるらしいから」
「・・・どんな取引しがやった?」
「まぁ、単純に僕と戦争するか大人しく返すかの二択を迫ってみただけだよ」
「あぁ。お前ってそういう奴だったな、そういえば。すっかりこの頃は忘れてたが」
サラリとトンでもない事を言うアズに久重が顔を引き攣らせた。
「僕も居心地の良い国が無くなると困るからね」
クーペの行く手に大型の車両エレベータが姿を現す。
音もなくエレベータのドアが開き、クーペを招き入れた。
「それに僕としては中国軍閥が本格的に戦闘状態に突入した場合に発生する危機は避けておきたい」
「珍しく愁傷な心がけだな」
「別に僕は虐殺を止めたいわけじゃない」
「何?」
「あんまり人が死ぬとヤバイものの管理が疎かになる可能性がある。それが僕にとっては問題でね」
「どういうことだ? お前以上にヤバイものなんてあるのか?」
アズがニヤリとして久重に説明を続ける。
「【黒い隕石】騒動当時に中国もアメリカもロシアも保有核の半分以上を宇宙に上げて、残ったものも太陽系絶対防衛線構想の為って名目で現在までに殆どが宇宙に上げられた。今現在、世界で保有されてる核弾頭の数はせいぜい十発程度。それぞれロシア、中国軍閥、アメリカが本国に保有してる」
「一体、その話がどんな風にお前の目的に繋がってる?」
「世界は核の脅威から遠ざかった。そう当時は持て囃されたんだ。その原因の一つが各国の原発を安全に停止させる国連採択の緊急勧告だった」
「確か燃料棒を原発から順次抜き取って厳重に地下施設で保管するって話だったか?」
「その頃、各国は核によるテロや原発を狙ったテロに参ってた。地球全体でウランの採掘にも陰りが見え始めていたから、原発を一時封印し、使用済み燃料棒の再利用計画が技術的進展を見るまでは地下施設で保管する。これが国連での一致した見解だった。そして当時、日本の各都道府県は原発の停止に伴って出る使用済みの燃料棒を何処に貯蔵するかで揉めた。日本の原発数は世界でも有数。でも、その原発から出た燃料棒を貯蔵する施設はすぐに満杯。さて、どうするのか?」
「ヤバイものってのはまさか!?」
「中国国内でも核燃料棒保存の為にゴビ砂漠近郊に作られた地下施設があった。日本は他の国よりも余裕があったから中国に有償協力をしていた。その当時の政府は恩を売って利益を得たわけだ。長年の懸案が消えてくれて大助かり。国内での核テロを未然に防ぐ事にもなった」
「いや、待て。中国に燃料棒を預けるとか本気なのか?」
「普通の感覚だと危ないのは理解できる。けど、それがもしも国連ぐるみで行われていたとしたら?」
「何?」
「中国と日本の交渉は最初とても合意されるとは思えない流れだったらしいよ。でも、世界各国で核テロの脅威が実しやかに囁かれてた時期に日本と中国のこの交渉は国連内部で話題になった。中国は喉から手が出る程援助が欲しい状態。各国は混乱してて保安にまで手が回らない状態。
両者の利害は一致した。結果は秘密裏に国連主導で世界各国から運び込まれた約四百万トンの高レベル放射性廃棄物。あの時期に中国への支援に大量のタンカーが向かって、右の人間達が反対してたけど、実際にはゴミを大量に押し付けてたのさ。それを守る為に配置された大量の工作員と監視システムが今も周辺地域を見張ってる」
「で、戦争になると工作員は引き上げて監視システムも崩壊すると」
久重が溜息を吐いて頭を抱える。
「そういう事。現在、あそこを管理している軍閥は正に金塊や核汚染兵器を持ってるのに等しい。燃料棒をロシア国内の反政府主流派に渡せば、穢い核で国土を蹂躙できるだろうし、他のテロリストや何処かの国に高額で売り付ける可能性もある。
再び核の脅威が世界を覆えば、結果は火を見るより明らかだ。世界中でインテリが減った隕石事件以降、テロの脅威は増すばかり。それを阻止するはずの警察や諜報機関もガタガタだ。国連は正確な情報が無ければ事件をでっち上げたり、PKOの派遣をしたり出来ない。
日本の事実隠蔽体質と事なかれ主義は良くも悪くも世界の動きを鈍化牽制してるのさ。これからどうなるかは解らないけれどね」
アズ以外の三人は己の置かれている状況を理解して、何やらとんでもない事に巻き込まれてしまっていることを自覚した。
「それにしても今日だけでそれ調べたのか?」
久重に「何を今更な」という顔をしたアズがやれやれと肩をすくめる。
「依頼を受けて戦端が開かれたのを知ったのは今日だけど、最初から知ってた事を照らし合わせたら、こういう話になる。前々から危ないとマークしておいた案件でGIOが介入好き勝手やってるのが解ったから、こうやって急いでるわけだよ。誰が僕の情報網に細工したんだか・・・」
アズが僅かに溜息を吐いた。
「それにしてもテメェと戦争するぐらいならこれだけ大きい規模の計画を諦めてもいいのかGIOは・・・」
「ま、多少のコネは使わせてもらったけれどね」
「呆れればいいのか。笑えばいいのか分からん」
ガコンと車両エレベーターが止まる。
「さて、そろそろ着いたかな」
「やけに長かったが地下か?」
「GIOが誇る地下施設にご案内ってところ」
アズがクーペをエレベーターから移動させる。
久重達が見たのは広大な地下駐車場だった。
軽く百メートル四方はあるだろう場所の一角にクーペが止まる。
「田木さん。どうしますか。此処で貴方が下りるというなら、それでも構いませんが?」
日本のGIO総本山のど真ん中で言うセリフではないだろうと思いながらも、アズの理不尽さに久重は何も言わず行方を見守った。
「ここまで来たらNOとは言えないな」
「身の安全なら心配無用。GIOと幾らか取引しましたから官房長官と公安にさえ気を付ければ大丈夫かと」
「私は日本人・・・それが答えだ」
「解りました。貴方の勇気に敬意を表します」
僅かに頭を下げたアズが助手席の久重に微笑む。
「さ、行こうか。久重」
「つくづく悪魔だ。テメェは・・・」
呆れながらも久重は頷いた。
アズに先導される形で久重達が付いていく。
やがて、薄暗い駐車場の奥に見えたのは何の変哲も無いEXITと名の付いた扉だった。
扉の前には誰もいない。
それどころか何かの機器も無い。
あまりにも無防備な扉を前にアズが三人に振り返る。
「これから僕達はGAMEをする。此処にはそのエントリーをしに来たのであって、戦いに来たわけじゃない。つまり、暴力はご法度。それとソラ嬢」
「?」
「NDの使用は極力控えた方がいい。目を点けられると後々面倒事が増えるからね」
コクリとソラが頷く。
「それと久重」
「何だ?」
「その子は君の何だい?」
「は?」
チョイチョイと人差し指で久重の背後をアズが指した。
振り返った久重に見えたのはソラの姿。
久重は何やら恥ずかしい事を聞かれているらしいと顔を僅かに赤くした。
「ソラはオレの・・・家族だ」
「ひさしげ・・・」
ソラが頬を緩ませ笑う。
「むぅ。もうそんな仲に・・・これが若さか」
田木が若い二人の間の空気を敏感に感じ取って何やら一人得心した様子で頷いた。
「いや、ソラ嬢じゃなくて後ろ後ろ」
アズの言葉に久重がソラの後ろに視線を向けて、見つけてしまった。
「な!?」
凍り付く久重の様子にソラも後ろを振り返った。
「どうしたのひさしげ・・・え?」
ポカンとソラが呆けた顔で己の背後数メートル先にいる影に気付いた。
ポツンと薄暗い駐車場の明かりに照らし出されていたのは小豆色の外套を羽織った少女シャフだった。
「シャフ?!」
半歩後ろに下がり、NDの警戒レベルを引き上げたソラが後ろの三人を庇うようにして構えた。
「随分と腑抜けてるわよ。ソラ」
「どうやって此処まで付いてきたの!?」
「言わなかった? アタシが今どういうNDを使ってるのか」
シャフが片手を手を上向けるとその掌の中にゆっくりと黒いものが堆積し始める。
「――――そんな!? まさか、オリジナルロット!?」
ソラが信じられないように目を見張る。
「【連中】がそれだけ本気って事よ」
「この間のNDはただの複製品だったはずなのに!?」
「わざわざ奥の手を初っ端から見せるわけないでしょ」
「でも、機能なんて使えるはずない!?」
「無論、機能の九割以上は停止してるわよ。けど、近頃の解析で一割近くの能力は開放された。オリジナルの一割も能力があればアタシの力を生かすには十分」
「何が、目的」
ソラが慎重にシャフに問う。
「目的? アタシが貴女になんて言ったのか覚えてないわけ?」
唇を噛んでソラはまずいと直感的に感じた。
「話は聞かせてもらったわ。アタシもそのGAMEに混ぜてくれない?」
ニヤニヤと笑みを浮かべるシャフがソラに近づいて耳元で囁く。
「それとも同列のNDを使って此処で戦争してみる? 【SE】の加護無き此処で」
「!?」
固まったソラは何も言えなかった。
「おい」
不意に掛けられた声に不満そうな顔でシャフが視線を向ける。
「何かしら?」
久重は呆れた視線でシャフをソラから引き離す。
「ソラを虐めるな」
「虐めるだなんて。ただ、アタシはお願いしてるだけ」
「この場での決定権はオレ達にある」
「決定権があるのはこっちでしょ」
「オレは別にお前がこの件に噛むのは構わない。だが、一々ソラに突っかかるな」
断られる事を前提で話を進めていたシャフが内心で警戒心を引き上げた。
目の前にいる男はやはり一筋縄ではいかないと再認識する。
笑みを消したシャフが久重を睨んだ。
「アタシの監視を受け入れてくれるってわけ? わざとGAMEとやらに負けるかもしれないわよ?」
「オレにはお前がそういう奴には見えない」
「・・・何分けの解らない事を」
「オレの目にはお前がソラに対して突っかかるのは負けず嫌いだからだと映る。ソラが勝てるのにお前が勝てない状況をお前自身は許容できるのか?」
シャフの瞳に怒りが灯る。
「―――いい度胸してるわよアンタ。【連中】が本気になって命令が来たら一番に相手してあげるわ」
「光栄だな。その時は「ごめんなさい。もうしません」と言うまで尻を叩いてやる」
頭に一瞬青筋を浮かべたものの、シャフが息を吐いて心情を平静に保った。
「なら、決まりって事でいいわよね?」
シャフが作り笑顔で微笑む。
その微笑の裏にある悪意を隠しもしないシャフの姿に内心の溜息を飲み込んで、久重がアズに振り返った。
「と、いう事でいいか?」
「・・・久重。別に僕は世界を救えなんて言うつもりはない。けど、失敗したら給料が無くなると雇い主として言っておくよ」
諦めの境地に達しているらしいアズが久重の肩にポンと手を置いた。
その手の「解ってるよね?」的意味合いに恐怖して久重が頷く。
「わ、解ってる・・・」
「それとシャフ嬢、でいいかな?」
「構わないわよ」
アズが人差し指を立てる。
「一つだけ言っておきたい。僕はこのGAME中に死人は出さない事を君に希望する」
「どういう事?」
「君が何処まで僕達の事情を聞いたのかは知らないし、君がどれだけ力を持っているかも正確なところ僕には解らない。でも、GIOを怒らせればただじゃ済まないのは確かだ。
GIOはあくまで企業。しかし、君達が扱う技術と比べても遜色無いだけの技術を持ってる。君一人で怒らせる分には構わないかもしれないが、君の後ろにいる人間達にすら迷惑が掛かる事は想像に難くない。だから、これは希望であると同時に忠告であり警告だ」
「一応、聞いておくわ」
「よろしい」
アズがあっさりとシャフの参加を受け入れ頷いた。
ソラが複雑そうな顔でシャフとアズのやり取りを見ていたが、不意に肩をチョイチョイと叩かれる。
「?」
「お嬢さん。よく事態が飲み込めなかったんだが・・・つまり、彼女は」
真剣な顔の田木にソラが頷く。
「君の恋敵なのかね?」
「「へ?」」
ソラとシャフのリアクションが被った。
「「な、何言って!?」」
思っても見なかった言葉に二人が同時に言い返そうとする。
「君も大変だな。若い身空で修羅場とは」
何やら同情した表情で久重の肩に手を置いた田木が笑う。
久重は顔を引き攣らせながらも、場を和ませようとしたのだろう心遣いに感謝した。
「久重。ラブコメってるところ悪いんだけど時と場所を弁えてくれないかな?」
アズの半眼の視線に久重が脱力する。
「何かスッゴイ理不尽な事を言われてないかオレ?」
「とにかく。この五人でとっととエントリーを済ませよう」
扉が開いた。
「GIOGAMEの始まりだ」
アズの言葉と共に新たな事件の幕が上がる。
祭りが執り行われようとする最中。
少年は青年を追い求め、とある街に行き付いた。
天空に座す秘密。
未だ明かされない真実の欠片が瘧のように背筋を震わす。
第十八話「祭典の始まり」
陰り差す世が明ける。
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第十八話 祭典の始まり
第十八話 祭典の始まり
会場は極彩色のライトが目まぐるしく駆け巡るステージを中心にして大勢の観客で埋まっていた。
「おう!! 野郎共&女朗共!! 今夜のゲストのとぅじじょおおだだぁああああああああああああああああああ!!!」
流れ出す曲にステージ上からパイプ椅子が邪魔とばかりに投げ落とされる。
弾み出す音楽。
観客達の熱気と叫びが会場を包み込む。
ステージ上でマイクを握り締めた二十代の青年達がジーパンにTシャツ一枚で踊り出す。
会場全体からカウントダウンが始まる。
【10】
「Are you ready?」
【9】
「Are you ready!!」
【8】
「Are you ready!?」
【7】
「Are you ready↑」
【6】
「Are you ready↓」
【5】
「Are you ready→」
【4】
「Are you ready~」
【3】
「Are you ready(笑)」
【2】
「Are you ready!!!!!!!!!!!」
【1】
男達の声に混じって少女の声。
ステージ上の中央、闇に閉ざされていた場所にスポットライトが当たる。
【GOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!!!!!!】
会場に全開で響き渡る雄叫びが全てを圧する。
踊り狂う男達の声に陶然と群集と少女の声が唱和した。
それからの四分二十秒。
何に巻き込まれたのかも解らずアズを筆頭にした五人は棒立ちになった。
曲のラストと共にステージで火薬が弾け、観客達の興奮が最高潮に達する。
拍手と口笛と叫びが渾然一体となった会場の最中。
男達に混じっていた中央の少女が進み出る。
男達が十代後半から二十代であるにも関わらず少女は十代前半だった。
呆然としていた久重が気付いた時には群集の殆どが静まっていた。
「――――――」
不自然なくらい黄色いポニーテールの少女がステージから降りて歩いてくる。
遠目には解らなかった少女の姿の細かい箇所に気付いた久重が僅かに驚いた。
「♪」
ノースリーブに短いスカート姿の少女。
その肌はあちこちに縫合痕を晒している。
本来は愛らしいのだろう少女の顔も体と同じく幾つも傷が走り、見るものに痛ましさを感じさせた。
しかし、少女の顔には陰りが無い。
顔に浮かんでいる微笑には微塵の羞恥も無い。
あるのはただ楽しげで何か懐かしいものを見るような視線だけ。
アズの目の前まで来た少女がそっと膝を付いて頭を垂れた。
「お帰りなさい。CEO」
「な?!」
衝撃の一言にアズ以外その場の誰もが固まった。
「随分と前に辞めた身だよ」
顔を上げて立ち上がった黄色い髪の少女が首を横に振る。
「それでもCEOは皆の生みの親です。そして、それはこれからも変わらない。だから、皆!!!」
【お帰りなさいッッッッ!!!!】
その日、青年と壮年と少女二人はよく解らない内にGAMEのエントリーを済ませる事となっていた。
ただ年齢不詳の女だけは微笑みながらもGAMEの始まりを実感していた。
*
GIO日本支部人事管理部門。
人材勧誘から配置転換まで幅広く行う部署の一角。
支社ビルの地下一階。
デスクワークの殆どは終わり、社員達の姿はほぼ無い。
それでも片隅のデスクは小さな照明に照らし出されていた。
ガチャリと扉が開き、警備員が一人入って来て僅かに苦笑した。
「中臣(なかおみ)さん。とっくの昔にセキュリティーが作動してますよ」
デスクの横に立ったのは頭の禿げ上がった壮年の警備主任。
「ああ、すいません!? でも、もうちょっとで仕事が終わりそうなので。後一時間!! いえ、後三
十分もあれば」
答えたのは三十代後半の柔和な表情の男だった。
取り立てて有能そうにも見えない糸目の男が実は日本支社でも指折りの実力者であると知っている警備主任にしてみれば、毎日のように残業している姿は実に好感が持てる要素と言えた。
「相変わらず仕事の虫、ですか? あなたも一応幹部なんですから他の方と同じように時間外勤務は自宅でされては?」
「そうしたいのは山々なんですけどね~~。何せウチの部門は機密と持ち出せないデータが多くて。やっぱり社で仕事をするのが一番効率的なんですよねぇ」
「で、今日の残業理由は何ですか? 一応、規則ですから」
「ああ、はい。これです」
小さなノートパソコンが警備主任に向けられた。
「えぇっと、ライブ会場?」
画面へ映った歌い踊る男達の映像に困惑する警備主任が中臣と呼ばれた男に首を傾げる。
「実は広報部門から幅の広い人材を頼まれまして。インディーズでぶいぶい言わせてる人をスカウトしまくらないといけないという・・・」
警備主任は半ばいつもの如く、規則で決まっている残業理由の欄に部外秘情報と書き込んでおくかと内心で決めていた。
「家でも出来そうな仕事ですが?」
「はは、実は実力者だけを集めてちょっとライブを開かせてまして。お客さんに投票してもらって、その結果で決めようかと。それで今はそのライブ中なんですよ」
「それだけの為にライブを?」
人員を一人二人入れる為にライブを開く。
画面の中の会場や機材はとても古臭いものとは思えない輝きを映している。
賃貸料だけでも相当なものになるはずで、そんな事をサラリと言ってのける目の前の男はやはりヤリ手なのだろうと警備主任は呆れ半分感心半分で画面を見つめた。
「いや~~一億も掛かるとは思ってませんでした」
「一・・・はぁ、よく解りませんがこういうのは下請けに委託でいいのでは?」
「自分の目で自分の同僚になるかもしれない人間を選ぶわけですから金も時間も掛けずにとはいきません」
「そうですか。では、三十分後にもう一度来ます。それまでには仕度をしておいてください」
「はい。重々承知してます」
「では、自分はこれで」
警備主任が去った後、見送った笑顔のまま再び中臣が自分のデスクで画面を見る事に集中し始める。
「アズ・・・・・・」
その視線は画面中央に位置するステージではなく、画面端観客の一人に注がれていた。
【お帰り】
そう言った顔に笑みは無く。
僅かな哀惜だけが滲んでいた。
*
エントリーを済ませた五人はライブ会場から数分歩いた場所に移動していた。
五人を先導するのは不自然に黄色い髪をした全身傷だらけの少女。
ドアを開けて明かりを点けた部屋へと招き入れられた四人が内部に入って唖然とする。
【――――――――】
洒落たバーが其処にはあった。
一人驚いていないアズだけがカウンターに先だって腰掛ける。
他の四人もアズに倣った。
バーの壁一面にあるボトルの数は数千本以上。
壁面全てが瓶で埋め尽くされていた。
「CEO。何か飲みますか?」
カウンターの内側に入った黄色い髪の少女が訊く。
「いや、その前に自己紹介をお願い出来るかな?」
「はい」
素直に頷いた少女が四人に畏まった様子で頭を下げた。
「GIO警備部特務外部班総括。亞咲(あざき)と申します」
「「「?!」」」
その肩書きに久重と田木が驚きを隠せず目を見張った。
「ひさしげ?」
ソラの問い掛けに久重が頷いて小さな声で切り出す。
「覚えてるか。オレが腕を飛ばされた時に襲ってきたGIOの掃除屋連中の話」
「それって!?」
「そうだ。首を飛ばされた奴は特務の人員だった」
ソラが亞咲と名乗った少女をマジマジと見つめる。
「その節はお世話になりました。まさか、CEOと同僚の方々だとは知らず。お詫び申し上げます」
深く頭を下げた亞咲にソラと久重は名状し難い顔でどう反応したらいいのか解らず固まった。
「そのくらいにしておいてくれるかな。君の謝罪が欲しいわけじゃない」
「はい。CEO」
頭を上げた亞咲にアズが渋い顔をする。
「それとCEOも無しだ。呼びたいならアズでいい」
「・・・承知しました」
刹那の逡巡を経て亞咲が頷く。
「アズ・・・・・・話してくれるか?」
二人のやり取りを聞いていた久重がようやく本題に入れるとばかりにアズに視線を向けた。
「まぁ、そういう事になるだろうとは思ってたけど。どうしても知りたいかい?」
アズの歯切れの悪い口調に久重が内心で驚いた。
年齢不詳、本名不祥、国籍不祥。
世界を又に駆ける女フィクサー。
過去を一切話した事の無いアズが己の過去に口を重たくする。
今まで見た事の無い顔に自分の知らない過去の一面を見た気がして、久重は頷くのに数秒の間を要した。
「何処から話したものかな」
「こちらでお話しても構いませんが」
「僕の事を僕以外で誰が語れるのかな?」
「失礼しました」
亞咲が黙った。
「それじゃあ、GIOと僕の関係から話そうか」
「ああ」
久重の視線に口を重くしながらもアズが訥々と語り出した。
「GIOは僕が友人達と一緒に立ち上げた会社なんだよ」
「まさかとは思ってたが・・・」
「ま、大昔の話だけどね。途中で友人と意見が会わなくなって代表を降りた後、自由業を営んだわけだ」
「それが探偵紛いの事務所か?」
「探偵ってのはそもそも管理されてたり、公安に興信所ですなんて届け出たりしなくても出来る。僕に一番合ってる生き方がそれだっただけの話さ」
「いや、届け出ろよ!? 後、随分とアバウトだな」
室内に緩やかなジャズが流れ始める。
釘を刺され話に参加する気が無いのか。
亜咲がカウンターでBGMのボリュームを調整し、何やら料理を始めていた。
「まさか世界的女フィクサーがGIOの大物だったなんて、あんたに付いてきて正解だったわ。ソラ」
「・・・・・・」
ソラの視線が無言でシャフと交わる。
「今は株式も一株しか持ってないし、実質的には何の関連も無い。その頃に出来たコネや資産は有効活用してるけど、GIOを出た僕の情報は殆ど消したからGIOの社員や役員会だって僕を知る人間は今じゃ極少数。更に言えば何をしてるのかも知らないはずだよ。今回の件で色々と調べられただろうけど」
亞咲がアズの微妙に非難がましい視線に頭を下げた。
「悪いとは思いましたが現在の情報は会長の命で全て調べました」
「あの馬鹿は元気?」
「お変わりなく最前線で働かれています」
「そう。それであいつは何だって?」
フライパンから香ばしい匂が辺りに漂い始め、亞咲が危うげなく答える。
「今回のGAMEは過去最大。プロジェクトに掛けられた資金以上に元が取れれば、手を引くそうです」
「そう。それで他には?」
「無論、あなたが戻ってきてくれるならば一切の要求はしない方針だとも」
アズが顔を顰める。
「なら、あの馬鹿に言っておいてくれるかな。もうGIOに未練は無いってさ」
「畏まりました」
フライパンから料理が皿に移され、カウンター越しに五人の前に置かれていく。
「どうぞ」
話を聞いていた四人が目の前に置かれた皿で湯気を立てるパスタとアズを交互に見つめた。
「食べても問題無いよ。此処で何か入れるようなら僕は迷わず戦争するって相手も解ってるから」
五人分のフォークが出され、各自がパスタを口に入れた瞬間に固まる。
「相変わらず、だね?」
「いえ、近頃調理器具を握っていませんでしたから腕が鈍っているかと。申し訳なく思います」
四人がアズと亞咲のやり取りを横目にパスタを微妙な速さで食べ始める。
その料理の味は一言で足りた。
美味い。
数分間、場には妙な空気と沈黙が漂う。
命を掛けたGAMEに参加するものとばかり思っていた四人は何故か地下でパスタを啜っている己の状況に疑問を抱きながらもアズとGIOの因縁に口を挟む事もできずにいた。
「・・・一つ聞いてもいいか?」
最初に切り出したのは久重だった。
「何だい?」
「『皆の生みの親』ってのはどういう意味だ?」
「それは」
言い掛けたアズを亞咲がそっと手で制止した。
「それはこちらから申し上げる事です」
久重が亞咲を見る。
「私は結論から言えば普通の生まれ方をしていません」
「生まれ方?」
「【誘導多能性幹細胞(induced Pluripotent Stem cell )】はご存知ですか?」
「――――まさか!? 国際条約で禁止されてるはずだろ?!」
久重の理解の速さに亞咲が僅かに顔を綻ばせ頷いた。
「IPS細胞技術を使用したクローン。その初期ロットが私です」
「「?!」」
驚いたのは久重や田木ではなくソラとシャフの二人だった。
「それと私に適応されるのはどちらかと言えば【カルタヘナ議定書】(Cartagena Protocol on Biosafety)の方かと思います」
「カルタヘナ・・・確か生物多様性を遺伝子組み換え生物から保護するやつだったか」
「はい。私や私の兄妹達は人間という種に対しての優位性を持った遺伝子組み換え生物。クローンと言うよりは人間を種族的に脅かす・・・そうですね・・・日本で言うところの生態系を乱す外来種みたいなものです」
まったく亞咲の顔には悲壮感も無ければ秘密を打ち明けるような後ろめたさも無かった。
「GIOには色々と噂があるが、陰謀論者やネットの謂れの無い誹謗中傷にも幾つか真実が混じってたわけか」
久重の何か遣り切れない顔にクスクスと亞咲が笑う。
「ええ、GIOは遺伝子工学において違法な研究をタブー無く進めていますから」
「何処のSFだ・・・」
溜息を吐いた久重に亞咲が続ける。
「CEOは元々経営だけではなく多彩な才能をお持ちでした。私や兄妹達を生み出したプロジェクトチームの統括者としてお世話になった過去があります。そういう縁で今も私や兄妹達はGIOを去ってもCEOを人間で言うところの親だと思ってます」
「アズでいいと言ったんだけどな」
「すみません。いつもの癖で」
割り込んだアズの声に亞咲が頭を下げる。
「皆さんも大体の事情は理解されたと思いますので、これからGAMEに付いての説明をさせてもらいたいと思います」
空になった皿を回収し後片付けながら亞咲が本題とばかりに話し始める。
「皆さんが参加するGAMEはGIOが不定期に世界各国のVIPに賭けの対象として行っているものです。年間で賭け金は世界経済総価値の約1%程で日本円で五兆は下らないでしょう」
その示された金額に田木が目を細める。
「社内の噂は本当だったのか。随分と規模が違うようだが・・・」
「ミスター田木にはあのプロジェクト後に秘密を知るだけの地位が約束されていました」
亞咲が始めて口を開いた田木にIF(もしも)の話をする。
「どうやら辞めて正解だったようだ」
田木の言葉に何も返さず亞咲が続けた。
「このGAMEの特徴はジオプロフィットを点数化して扱うというところにあります」
「ラリー形式のレースか?」
久重の言葉に亞咲が頷く。
「民間で行われているようなジオプロフィットの総合得点で順位を競うラリー形式のレースと基本は変わりません。ですが、GIOの行うGAMEがそんな健全なものであるはずもありません」
「自分の勤めてる会社をそんな風に言っていいのか?」
「会長自身が【こんな会社がよくまだあるものです】とか言ってますから」
「どんな奴なんだよ」
「それは直接お会いする機会が来れば解るかと。説明を続けます」
呆れ顔の久重にサラリと亞咲が返す。
「このGAMEの特徴は毎回そのジオプロフィットを得る為の場所や設定にテーマが設けられている事です。例えば、室内に一時間いるだけでジオプロフィットが得られるとして、テーマが耐久だとすると。そうですね。今までの例から言えば、遅効性の毒ガスやそれに近いものが室内に充満していく事もあります」
「―――随分と物騒だな」
「序の口かと。例えば、移動手段を問わずポイント通過順位のみでジオプロフィットを得るとして、テーマが妨害だとすれば、一定の規則内で武器の使用や戦闘を行っていただく場合もあるでしょう。無論、生死問わずというのが基本になります」
「物騒過ぎだろ」
「それくらいしなければ大金を掛けるだけの興奮も無い。それがGAMEを取り仕切る部門の見解です」
「それでオレ達はどうなったら勝ちなんだ?」
「今回行われるGAMEは一ヶ月掛かるものですが、プロジェクトが動くのは来週中です。今日が木曜日ですから土日にGAMEをスタートとして来週の国会での質疑が行われる時間までGAMEには参加してもらいます。その過程であなた達に賭けられたチップの総額がプロジェクトの運用した資金満額に届いて回収された場合のみ、契約書は全て引き渡し、今後一切同プロジェクトを凍結。同じようなプロジェクトは立ち上げないと制約した上で皆さんに対しGIOは如何なる干渉もしないと会長自身が出向き誓うそうです」
「ちなみに僕に関して集めた情報も破棄してくれると助かるな」
アズの笑顔に亞咲が頷く。
「はい。会長はそう言うだろうとデータは全て閲覧せず此処に」
後片付けの終わった亞咲が懐から一枚のディスクを取り出した。
「あの馬鹿の事だから本当に閲覧してないんだろうね」
亞咲が頷く。
「フェアでは無いので賭け金の総額は常に開示します」
どうぞと亞咲が小さな端末を久重に渡した。
「プロジェクトが今まで運用した資金の総額が右。あなた達に賭けられた資金の総額が左です。ちなみにレートは円で、運用した資金が増える事はありません」
久重が端末に表示された金額を覗き込み、頭痛を抑えるように片手で顔を覆った。
「どうしたの? ひさしげ」
「見てみろ」
端末を受け取ったソラが画面に示された桁を数え始めて顔色を変えた。
田木とシャフがソラの背後から画面を覗き込む。
「「「・・・・・・」」」
「軍閥に流した武器類と取り込みに使った賄賂。工作員の人件費や機材の運用コスト。その他には日本でジオプロフィット導入に際して行った政府への援助や政治家への裏献金。総額で1798億4567万2451円です」
三人が沈黙した。
「約一千八百億、か」
半笑いで久重が額に冷や汗を浮かべた。
「それでも安い方かと。経費削減でプロジェクトの規模が縮小されていなければ三千億以上は次ぎ込んでいたはずだったそうですから」
金額の大きさにこれから己が参加するGAMEの過酷さを全員が認識した。
亞咲から詳しい日程やルールを聞かされたアズと一行がその場を引き上げたのは夜半も過ぎ朝も白み始めた頃だった。
*
メリッサはまるでお伽噺に迷い込んだような錯覚を起こしながら街を歩いていた。
街には灰色の雪が降っている。
異常な状態に慣れてしまっているのか。
あるいはまったく認識していないのか。
人々はまるで何事も無いように過ごしている。
「・・・・・・」
肥大化していく違和感を感じながらメリッサは夜の街を歩き続けた。
街の端から端まで隅々まで歩く必要も無い。
異常の中心。
隕石が止まっている中央。
その一軒家をメリッサはなんなく発見した。
外字。
もう人が住んでいない家の表札にはそうある。
家の二階はほぼ破壊されていて、内部の部屋が丸見えになっている。
巨大な隕石の真下に存在する一種の境界とメリッサにはその家が見えた。
秘密や謎といったエッセンスは殆どメリッサにとって不必要なもの。
外字久重の基本的な身辺情報さえ上がれば問題はない。
そう自分に言い聞かせながら、一刻も早く離れたい気持ちに蓋をしてメリッサが玄関の扉に手を掛ける。
ギ、ィィィィ。
あっさりと開く扉の中は暗黒。
しかし、作り物の瞳にはハッキリと内部が映っている。
己の全ての能力を限界近くまで上げながら、メリッサは意を決して内部へと侵入した。
巨大な影の落ちる灰色の世界。
床に積もった雪は今までこの家に誰も入っていない事を示している。
「・・・・・・」
リビングを覗いたメリッサは小さな棚の上に写真立てを見つけた。
そっと手に取ったメリッサが覗き込むと写真には三人の人間が写っている。
一人は老齢の男。
一人は若い女。
一人は小さな男の子。
その男の子に外字久重の面影を見つけて、メリッサが写真立てを回収する。
続けてキッチンやトイレ、和室を見て回ったものの他には成果らしい成果が出なかった。
トイレには使われた痕跡が無い。
和室には仏壇の一つも無い。
ようやく階段を上がる決心が付いたメリッサはゆっくりと二階へと上っていく。
「?」
その途中、壁に落書きを見つけた。
落書きは小さな文字で書かれている。
ひらがなでの一文。
【きょう、いんせきがせかいをほろぼした】
何かがズレた感覚。
滅んだ後に書かれるはずの無い言葉。
「・・・・・・」
メリッサが階段を上り切ると二階には部屋が三つ存在した。
その内の二つは扉が完全に拉げていて中を伺い知る事は出来ない。
屋根と壁の消えた一部屋に進む。
すぐ其処がどういう部屋だったかが知れた。
子供部屋だった。
クローゼットに勉強机に寝台が一つ。
灰色の雪がやはり一面に積もっている。
雪は融ける事も無いのに何故か積もり過ぎる事も無いらしい。
「・・・・・・」
勉強机の一番上の引き出しを漁ると中から一冊のノートが出てきた。
拙いひらがなと漢字混じりの日記だった。
幾ら捲っても重要な事は書かれていない。
友達と遊んだ。
外食をした。
親にものを買ってもらった。
何処にでもある話に過ぎない。
「?」
ただ、ふと日本語に違和感を覚えて、メリッサはよく内容を反芻する。
明日、友達と遊んだ。
明日、お爺ちゃんと外食をした。
明日、お母さんにゲームを買ってもらった。
明らかにオカシイ。
何かがズレている。
更に机を漁る。
鍵の掛かった引き出しがあった。
それを無理やりに壊して中を漁ると更に日記と同じノートが幾つか出てくる。
「・・・・・・」
目を細めながらメリッサはノートを捲っていく。
内容はやはり何処かオカシイ。
明日、夢を見た。
明日、友達とサッカーをした。
明日、テストの点数が悪かった。
やがて数冊のノートを捲り終えたメリッサが机の上にノートを置こうとして、気付く。
灰色の雪の下に何かが見え隠れしていた。
全てを払い退けた瞬間、メリッサが息を呑む。
机の上には透明なマットが敷かれていた。
下に幾つかの学校の連絡やらクラスメートの連絡先を書いた紙が挟まっている。
その中央。
たぶんは破かれたのだろうノートの切れ端が一枚。
幾つかの文が並んでいた。
【きのう、いんせきがふってきた】
その書き出しで始まった文は僅か三行。
【あした、いんせきはふっていなかった】
最後の一文にメリッサは言い知れぬ不安を覚えた。
【きょう、せかいはほろんでしまったのだろうか?】
悪い夢でも見ている気分でメリッサはその場から離れた。
家の中を再び通るのも気持ち悪くて、その場から跳躍する。
何かに急かされるように道を急ぐ。
やがて、街から遠ざかり気付いた時にはもう隣の市まで来ていた。
夜明けが近い。
「・・・・・・」
白く染まり始める空。
使い捨ての端末がコールされる。
『はい。こちらターポーリン』
『先輩。任務完了しました』
『上出来です。それで成果は?』
僅かに逡巡したメリッサの沈黙は短かった。
『家を見つけて進入しましたがこれと言って重要なものは何も・・・』
『そうですか。解りました。では、次の指示があるまで待機してもらって構いませんよ』
『・・・一つだけ写真を見つけました』
『写真を?』
『はい。祖父と母親らしい人物と幼少の外字久重が映っているものです』
『十分に成果かと思いますが?』
『やはり通常の業者を使って過去の調査を行うべきかと思います。聞き込みなどが出来ないのでは集まる情報も限られます』
『・・・・・・そうですか。では、幾つかの専門業者に声を掛けてみる事にしましょう』
幾つかの連絡事項を受け取ったメリッサはいつも通り通話を切った端末を投げ捨て踏み壊す。
完全に朝日が昇った国道をトボトボと歩きながら、自分の握った情報を忘れぬように幾度も脳裏で反芻する。
(あれだけの情報じゃまだどういう意味合いを持つのかが解らない。でも、あれだけの情報に意味があるとすれば、それはたぶん)
朝日が眩しそうに見つめられる。
(僕を解放するに足る情報(ちから)のはずだ)
そのまま通常の待機場所へとメリッサは向かった。
大きな秘密を背負った小さな背中に冷や汗が流れている事を自覚しないまま・・・・・・。
小さき国よ。
彼らは全てをそう受け取る。
その中で蒼い瞳の少女は見た。
清き水に不自由しない世界を。
第十九話「チョココロネ誘拐」
隣の現実は苦く重い。
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第十九話 チョココロネ誘拐
第十九話 チョココロネ誘拐
嘗て軍事強国であった中華人民共和国。
世界の工場と言われ、世界中から富が集まり、その成長は世界を牽引していた世界最大の共産主義国家。
軍事を増大させる隣国と海を隔てながらも、その小ささを笑えていた大国。
全ての民はその国では等しく平らであったと教科書は語る。
そして、あの大戦で侵略者達から国土は守られたのだと大人達は語っている。
もう誰もその当時の事を本当に知る人間はいない。
それなのにそこまでして己を大きく見せようとする国は本当に大きいのだろうか?
自分達は大陸に覇を唱えられる大国で、あの小日本は今も我々の軍靴の音にビクビクしているのだと笑う大人達の戯言は好きになれない。
それは人として当たり前の感情だと思う。
事実と乖離した言葉は雲よりも軽いものだ。
無論、今も国家は偉大だ。
されど、国土の大半が砂漠化していく最中、無策に滅びゆく大人達の姿はいっそ哀れと言えた。
物事の本質が見えていない。
歴史がどうあれ、過去がどうあれ、今現在の大陸と日本は掛け離れている。
真に国を憂う者がいれば、その絶望的な距離に目を覆うだろう。
ずっと昔、我が国は偉大だと言った先生を思い出せば「では、我々よりも彼の国は更に偉大なのですか先生」と聞いてみたい感慨に囚われる。
「・・・・・・・・・」
小日本に来る前まではそれでも少しは希望があった。
そう、小さいと心の何処かでまだ侮っていた。
見上げれば摩天楼(スカイスクレーパー)。
見渡せば巨大都市群(メガロポリス)。
過去の遥か彼方に置きざられたはずの大中華。
心の奥にあったそのままの威容。
初めて知った真実は絶望的だった。
どちらが優れているのか。
その光景を見て解らないものはいない。
真実を心に刻まれない限り、己の心にある虚栄は全てを盲目としてくれるだろう。
国家の中にいる大半の国民は真実を知る事は無い。
それは国が盲目であるのと大差ないのではないかと感じた。
「・・・・・・・・・」
もしも、そんな事を言えば、すぐさま処刑されるか迫害されて当然だろう思考は留まってはくれない。
国民の大半は知っているのだろうか。
小さな国と馬鹿にしてきた国の道には痰が無く、塵が無く、糞も無く、ゴミ箱も無く、乞食は在らず、転んで起き上がろうとしたら無償の助けの手がある事を。
大丈夫?と聞かれて何も答えられなかった。
持ち歩く銃器の重さが想定外だっただけの話。
大人達が転んだこちらを射殺すような視線で睨んでいたにも関わらず、少し怖がりながらも手を差し出してくれた小さな手。
きっと、苦労なんてした事が無いのだろう柔らかで白い手。
薄汚れた移民に成りすましていたはずの自分にそんな手を差し出す子供なんて在り得ない。
どんな国でも移民は嫌われている。
そんな事すら知らないのか。
小さくとも男だというのに、膝まで折って他国の人間を助けようというのか。
男の子は差し出した手を掴むと引っ張り上げてニッコリと笑った。
「・・・・・・・・・」
小日本の日本鬼子が何を偉そうに。
助けの手などいるものか。
そんな、大人達からの小さな呟きが聞こえてきた時、咄嗟にその手を払い除けていた。
もしかしたら、大人達がその手に何かしてしまうのではないかと怖くて。
男の子が呆然とする中、背を向けて大人達の中に混じって道を急いだ。
急いで、思い知った。
道を歩けば秩序があった。
車が走れば秩序があった。
人が居れば秩序があった。
誰も見ていないのに。
「・・・・・・・・・」
如何にも移民姿の大勢にホテルのフロントで笑顔を浮かべる女性。
その職業意識はどれ程なのだろう。
良く思っていなくとも決して不快な顔などしない。
蛇口を捻れば出てくる水やお湯。
しかも、飲めてしまう程に清いもの。
その蛇口を目前にこれは魔法かと涙が浮かんだのは当たり前の話ではないか。
たった一分蛇口を開けて出た水を持っていけば、大陸で今正に渇き果てようという赤子が何人助かるだろうか。
口々にまったく平和ボケした国だと嗤いを浮かべて嘲りの言葉を吐く大人達の誰もそんな事は口にしない。
初めて湯船というものを見た。
お湯を張り、その中に身を浸す。
本国の誰がそんな贅沢を許すというのか。
大人達はその時だけは嬉しそうに笑いながら狭い浴室で騒がしかった。
自分の体がようやく収まる小さな浴槽で始めての快楽を得ながら、心は晴れなかった。
初めて自分がどれだけ汚れていたのか出た浴槽を覗いて解った。
初めて自分がどれだけ何も知らなかったのか蛇口から苦しい程に水を飲みながら思った。
こんなにも近くて遠い世界。
海を隔てただけの世界が哀しかった。
「・・・・・・・・・」
微酔んでいた顔を上げる。
何度も世界が眩んだ。
いつの間にか緊張の糸が切れてしまったのか。
周りの仲間達も見張り以外は気も漫ろな様子で静かに浅い眠りに身を浸している。
【黒星(ヘイシン)】
中国裏社会において星の数程もある幇(そしき)の一つ。
過去に名を馳せたトカレフと呼ばれる密造拳銃を売り捌いたところから付いた名だと幇の幹部は言う。
どうでもいい事だったが、そんなものに拘らなければ幹部にはなれないらしい。
幹部達はいつだって手下を殴って蹴って金で黙らせる。
己の美学と遣り方が最高だと派閥を創る。
けれども、そんな派閥にさえ入れてもらえない下っ端はやはり使い捨ての駒にしか過ぎない。
それが女ならば尚更だろう。
男の為に働け。
そう育てられてきた。
大きな荷物を運ばされれば死体だったし、小さな荷物を運ばされれば首だった。
殴られなければ殺される場所で、教育だけは受けられた事を感謝するべきかは解らない。
ただ、娼婦にされなかっただけマシだとそれだけは解る。
人殺しの方がマシだ。
病気の末に一人苦しみながら死ぬよりは誰かに銃弾の一つも貰って死んだ方が良い。
少なくとも幇の男達はそういう生き方をしていて、そういう死に方をする。
そんな普通の死に方が良いと聞いた男達は何やらこちらを見てから変な顔をするけれど。
「・・・・・・・・・」
ゆっくりと起き上がる。
腕の安物の時計は四時を指している。
交代の時間だった。
廃ビルの一角。
未だ通電している場所。
電子錠が取り付けられた部屋の前まで行くと大人の一人が待っていた。
遅いと怒鳴られ殴られる。
ただ頭を下げてから部屋の中に入ると鍵が掛けられる音。
たぶん、閉じ込められた。
次に移動するまではそのままなのだろうと悟って拳銃の安全装置を外す。
上からぶら下がった青白いライトに照らし出されて、その部屋の主が不思議そうな顔でこちらを見ていた。
*
布深朱憐にとって世界は謎に満ちている。
それは別に世界が滅ばなかった理由とか、見知らぬ少女がいつの間にか恋敵になっているとか、そういう事ではない。
謎とは常に男と女の深い溝に付いてだ。
ちゃんと連絡手段を渡したにも関わらず一回も掛かってこない連絡。
掛かってくる番号に一喜一憂させられ続ける空回りな自分。
いつも朝食や夕食を作りに行っているのに時折何の連絡も無くいなくなる愛しい男(ひと)。
正に自分は「都合の良い女」なのかと思ってしまう辺り、まだ外字久重という青年と自分は絆的な意味で結ばれていないと思う。
別に絆的な意味じゃなくても結ばれているべきとは思うものの、中々難しい
「・・・・・・」
そんな朱憐は自分程にお嬢様をしているお嬢様も珍しいという自覚がある。
日本でも中堅に位置する財閥の令嬢でそれなりに裕福な人間。
更にはありがちな誘拐や誘拐未遂もそれなりに経験が有ったり無かったりする。
その経験の中でも現在進行形で続いている誘拐は妙なものだと朱憐には解っていた。
朝、偶然寝坊した朱憐を送る車に待っていましたとばかりに黒いバンが横付けされ、車で四方を囲まれたあげくに、それぞれ防弾リムジンを安々と打ち砕くだろう武装が窓からニョッキリ生えた。
それだけでも日本では有り得ない事態と言えた。
日本に武器を持ち込むのは難しい。
兵器に関する輸出入の原則が此処数十年で大幅に緩和されたとはいえ、正規のルートを通らない武器弾薬兵器の類は殆どが水際で取り締まられている。
特に危ない地域からの船には注意が払われるし、十数年前から続く厳しい海上保安庁の臨検で小型艇などで運ばれる銃器、薬ともに上陸は阻止している感がある。
そんな日本にまとまった兵器類を密輸入するとなれば、無駄に足が付くのは避けられない。
更に言えば、大財閥ならまだしも、小さな財閥を細々と続けている家を脅したところで取れる身代金も少ないのは自明の理。
数十人規模で綿密な連携が必要だろう営利誘拐としては兵器や人数から言っても不審過ぎた。
最も解らないのは犯人達が日本人ではなく中国人というところだった。
訛りなどを聞けば内陸出身者も多い。
話している内容は何やらキナ臭くて「止められるのか」「いや、まずは取引の窓口をどこにするか」等々と何やら計画性が疑われるような話も出ていた。
そして、何よりも疑問なのは・・・目の前の十五歳前後の少女だった。
真夏だと言うのに茶褐色のトレンチコートを羽織った少女。
その姿が自分の知る少女達と何処か被って、朱憐はマジマジと少女を見つめた。
浅黒い肌に蒼い瞳。
胸元には鋭利な輝きを宿すナイフ形のアクセが一つ。
その目付きは鋭く尖った顎や細い体と相まって猛禽類を思わせる。
細められた視線。
銃の安全装置を外す動作。
どれもこれも苛烈な環境で生きてこなければ身に付かないものだろうと朱憐には思えた。
『熱くないですか?』
近頃予習をサボっていた広東語で話しかけてみる。
「!?」
ビックリした様子で何やら警戒されてしまった。
『コートを脱がないと脱水症状になるかもしれません』
「・・・・・・いい」
日本語で返されて逆に驚く。
誘拐犯達は殆ど日本語が話せないと解っていた。
誘拐後の相談で日本語の出来る代理人を立てようと何故か今更な話をしていたから間違いない。
「日本語、解りますか?」
コクンと頷かれて、胸に少し安堵が広がる。
日本語が解らないままの誘拐犯達にトイレは何処かと話しかけるのは躊躇われていたところだった。
少なくとも同じ年代の少女とコミュニケーションが取れるだけでも精神的に違った。
「貴女は中国の人みたいですけれど、何処の生まれかしら?」
「・・・無い」
「え?」
「生まれは無い。知らない」
「知らない?」
コクリと頷かれてそれ以上訊くかどうか迷った。
「幇(バン)は孤児を育てるから」
その独特の言い回しにやはり誘拐犯達が中国裏社会の人間なのだと確信する。
不意に今まで青白いライトのせいで気付かなかった事に気付く。
少女の頬が腫れていた。
「そこ、どうしたんですか?」
朱憐に指された頬を僅かに撫ぜてトレンチコートの少女は言った。
殴られたと。
「ど、どうして?」
無言で目を逸らされて何も言えなくなる。
組織の内情を悟られるのは良くないと思われたのかもしれない。
「大丈夫?」
触れようとすれば警告され撃たれるかもしれず、そっと尋ねる。
「・・・・・・」
無言で頷かれて、僅かに緊張が解れる。
相手がコミュニケーションが取れる人間だと解ったから。
「そう言えば自己紹介がまだでした。私の名前は布深朱憐」
「ふみ・・・しゅれん?」
「そう、朱憐。貴女は?」
「・・・虎(フウ)」
「ふー?」
「とら」
「虎・・・ああ、虎(フウ)?」
小さな首肯。
「随分と可愛いらしい虎さんです」
朱憐の顔に笑みが零れた。
「・・・どうして、怖くない?」
ジッと虎が朱憐を見つめる。
「貴女が悪い人には見えないから」
「・・・・・・」
虎の視線が銃に向いてから朱憐に戻る。
言いたい事は朱憐にも解った。
「家の父がよく言っていますわ。この世には貧富の差や資質の差を持って生まれてくる人間はいても、善悪や功罪を持って生まれてくる者はいないと」
朱憐の言葉を噛み砕いている最中なのか。
虎は考え込んだ様子で俯いた。
「どんな子も生まれた時には善くも悪くも無い。罪も無ければ功も無い。そういう事です」
「銃、ある」
「そうしなければならないから、ではありませんか?」
虎が朱憐の瞳を上目遣いに見つめる。
「撃たれれば、死ぬ」
「でも、貴女は貴女の決定で私を殺さない」
朱憐の瞳が揺らいでいない事に虎は内心で驚く。
銃を持ってすぐ横にいる人間が撃つという単語を使って未だ微塵も揺るがない瞳は普通ではない。
「撃たれたら、痛い。血が出る」
「ええ」
「どうして、怖くない?」
再びの問いに朱憐は微笑む。
「貴女が私を脅かさないからですわ」
「?」
「今も貴女は銃口をこちらに向ける事が出来る。でも、貴女はそうしなかった」
虎は未だに自分が持つ銃が下げられたままである事に気付く。
でも、それはただ単に必要ないからという、それだけの理由でしかない。
もしも、怪しい素振りを見せれば、躊躇い無く威嚇射撃を行い、必要であれば体に銃弾を掠らせる事も平気で行う自分にそんな言葉を投げ掛けてくる方がどうかしていると思う。
「そうして、ないだけ」
「でも、こういう時にそういう事をする人間が沢山いる事を思えば、貴女は良心的です」
もう何を言えばいいのか解らなくなった虎はただ朱憐を見つめるしかなかった。
「痛みを知らない人間は人を傷付ける事を厭わない。だけど、貴女は傷つく事を知っている。だから、私を無闇に傷つけない。そんな貴女に私は自分を傷つけさせないし、自ら傷つく選択もしません」
二人の間に沈黙が流れる。
先に折れたのは虎だった。
「・・・好きに、したらいい」
目を逸らして壁に寄り掛かる虎に対し、朱憐が笑顔で頷いた。
「はい。そうさせて頂きますわ」
誘拐されている方と誘拐している方。
その関係は変わっていない。
にも関わらず、何故か虎は不可解な敗北感を感じて、情けない気分になっていた。
*
永橋家は基本的に朝の挨拶など皆無な世界だ。
それは間違いない。
そんな日々にピリオドが打たれたのは極最近。
移民の家出少女セキが居ついてからの話だ。
朝に弱い永橋家家長永橋風御は基本的に朝の挨拶などしないし、するような人間を家に泊めた事もない。
だからこそ、風御はその挨拶を受けるようになってからというもの、殆ど毎日のように困る事となっていた。
おはようございます。
そんな風習はもう要らないと思う日本人にあるまじき怠惰で風御は完璧な作り笑顔なセキに手をヒラヒラと振るのがやっと。しかし、そんなもので誤魔化されない真面目家出少女は「挨拶も出来ないなんて風御さんは本当にロクデナシです。あはは」と皮肉を忘れない。
朝から何故か和食が出てくるようになった永橋家の台所事情は改善されている。
毎日、朝早くから朝食を作ってくれている少女に「挨拶なんて要らないじゃん」とも言えず、風御は半笑いでシャワー室に逃げ込んで熱いお湯を浴びるのが日課になっている。
風呂場から出たらダラダラといつもの如くバスローブ姿でいたい気持ちになる風御だったが、そんな事を許してくれる程居候少女セキは甘くない。
一緒に生活し始めてから一週間目でセキは「風御さんは女の子にフルチンを見せても平気かもしれませんけど、あたしはまったく平気じゃないですから(ニッコリ)」と風御に釘を刺した。
風御的には色々あった後「アナタ」から「風御さん」にクラスチェンジした呼び名をそれなりに重く受け止めていたりする。
だからというわけでもないが、とりあえず大人の玩具や大人のBD(ブルーレイディスク)や大人の漫画や大人の小説や大人にしか必要無いだろう諸々を隠しておく大サービスを行っていたりする。
が、それを公言するのも躊躇われた。
公言したらボコボコにされる程度で済むとは思えない。
とどのつまり、永橋風御は家出少女セキの尻に敷かれつつある現状をとりあえず黙認している。
どこかで何か言わないとガチガチな常識人にされかねないと思いつつも、備え付けてある全然使った事の無い洗濯機を回す少女の背中の健気さにちょっと絆(ほだ)されていたりする。
そんなあやふやな距離感で今日も風御はセキの作った温かい朝食を頬張っていた。
「うん。マジ美味い」
「お世辞よりも食費を下さい」
「アレ? 何か立場逆転してない? 此処僕ん家だよね?」
「どうしてこの家には酒と肴とパスタしかないんですか?」
「だって、作れるのソレしかないから。ほら、酒の肴にする奴って結構塩辛いよね? アンチョビとかニンニクとかオリーブの実とか鷹の爪とか。香草やそういうのを具にするとあら不思議。いつの間にか本格パスタのできあが―――」
ビキッとセキの持っていた茶碗に罅が入り、風御は押し黙った。
「食費と食費と食費を下さいませんか。家主の風御さん?」
「はい。コレ・・・」
サクッと女の怖さに降参した風御がカードを一枚どこからともなく出すとセキの前に置いた。
「それとあんまり塩辛いものばかり食べてると高血圧になります。野菜と魚は定期的に取ってもらいますから」
「僕のお母さんか何かなのかな。セキちゃんは」
「ちゃん付けは止めて下さい。それとお母さんとか年頃の女の子に言う事じゃありません」
半眼のセキの視線に責められながら風御は涼しい顔で朝食を完食した。
食器を片付け始める背中をぼんやり見つめながら風御はこれからどうしたものかとしばし思案する。
「・・・そうだ。今日はカジノに行こう」
ガシャンと台所から皿が甲高い音を立てた。
後ろを振り向くセキの形相はもはや鬼娘と言ったところ。
氷の微笑を浮かべたセキがスタスタ風御の前まで歩いてくる。
「今、何て言いましたか?」
「え? セキちゃんて結構耳悪い?」
ビキィッとセキの額に青筋が浮かぶ。
「風御さんがどんなにお金持ちでも、この間から言ってる通り、少しは働いたらどうです?」
「冗談まで上手いなんてセキちゃんといつか結婚する人は幸せものだなぁ~~~~」
ヘラッと返した風御に思い切りグーを叩き込みそうになったセキが何とか思い留まった。
「カジノに行ってお金を擦るなんてアホみたいだと思います」
「カジノなんてATMと変わらないよ?」
額を手を当てて頭痛を抑えるような仕草をしたセキが反論する。
「バカラだろうがポーカーだろうがブラックジャックだろうがルーレットだろうがスロットだろうが負けない賭け事なんてありません」
「え・・・賭け事で勝った事ないの?」
意外そうな風御の顔にセキの頭の何処かで何かが切れた。
「少しは反省してください!」
「・・・今日のランキング一位はえっと」
風御はいつの間にやら端末で動画サイトに接続していた。
ヒョイッと端末を振って風御が壁掛け型のディスプレイに動画を投げる。
すぐさま接続されたディスプレイが起動、動画を写し始めた。
「~~~~~!!!」
まったく人の言う事を聞いていない家主の横暴ぶりに思い切りセキが拳を振り上げようとした時だった。
リンゴーンとベルが鳴り、玄関の来客を知らせる。
玄関脇のカメラの映像を端末で見た風御は微妙に顔を顰めた後、チョイチョイとセキを指を曲げて呼ぶ。
「?」
不機嫌なセキが傍まで来ると風御がそっと人差し指を唇の前に立ててから、風呂場を指した。
セキは目の前の男が実はそれなりに何やら普通な世界の人間ではないと漠然と知っていた為、渋々音を立てないようバスルームへと入って扉を閉めた。
そのまましばらくの間は静寂が辺りを支配したものの、突如としてドアが内側へと弾け飛んだ。
轟音を立てて飛んだドアを踏み越えるように男が一人室内へと入ってくる。
ラテン系の男は黒い肌に赤い髪、痩身で三十代も半ばという、如何にも日本の堅気には見えない。
目に悪そうな赤いスーツに赤いネクタイ。
物腰は柔らかそうな面持ちだったが、している事は強盗そのものだった。
そのスーツから覗く左腕は人間の形を模しているものの鋼色の光沢を放っている。
「あ~~ら。居たのね」
しんなりと体をくねらせてラテン系の男が微笑む。
所謂オネェ系な人種だった。
「家の玄関結構高いんだけど」
風御が半眼で溜息を吐く。
「あんたの資産に比べりゃぁどうでもいい事よ」
男の言葉に風御が肩を竦めた。
「それで【ADET】の大幹部様が何用。暇なの?」
「年がら年中暇なわけじゃぁないわ。というか、また何処かのアバズレ匿ってるの? 随分と良いもん食べてんじゃない」
男が台所でまだ湯気を立てている味噌汁の鍋を見て辺りを見回した。
「あ~はいはい愚痴は今度聞いてやるから。それで本題は『BAI(バイ)・AR(アール)』」
「ちょ~~っと気になるけど、ま・・・いいわよ。今度また来るから」
「いやいや、来るなよ。もう足洗った人間のところに」
「別にいいじゃないのよぉ。あんたとあたしの仲じゃない」
「誤解が発生する言い方は断固拒否らせてもらう」
げんなりした風御にBAI・ARと呼ばれたラテン系の男はニヤリとしつつも、本題に入る。
「ま、今回は簡単に言うと二つ程お使いを頼まれて欲しいの」
「内容に拠るよ」
「一つはちょっとそこら辺でやんちゃしてる連中を黙らせてきて欲しいっていう簡単なのだから大丈夫大丈夫」
「自分の兵隊使ったら?」
「それがねぇ。今回はGIOが噛んでて、あたしんとこの兵隊使うとファッキン官憲ちゃんがお出ましになっちゃうかもしれなくて面倒臭いわけ」
「何処の尖兵?」
「ん~~あたしも詳しいとこは知らないんだけど、どうやらお隣の国の幇(バン)みたい」
「華僑系とか。何かしたら命狙われまくるんですけど」
「そこら辺のイザコザはこっちでどうにかするって【FADO(ファド)】が言ってたわ」
「ぶっちゃけるけど、それって僕じゃなきゃダメなわけ?」
「ぜ~んぜん。別に他のとこ雇ってもいいっちゃいいのよ? でも、あなただって自分の家の近くで勝手にドンパチされたくないんじゃない?」
「・・・何処?」
「んもぉ!? 相変わらずのツンデレさんなんだから♪ 期限は明日までよ」
グッタリした風御の前にBAI・ARが左ポケットから取り出した紙切れを一つ置いた。
「方法はこっちに任せてもらえるわけ?」
「煮るなり薬なり殺すなり、お好きにどうぞ」
「それでもう一つは?」
「これよ」
右ポケットから紙切れを一つ取り出したBAI・ARが今度は風御の手に直接渡した。
「・・・報酬ってわけじゃないのはいいとして、どうしろと?」
渡されたのは高額の小切手だった。
その中に書き込まれている金額に風御はBAI・ARを睨む。
「別にロンダリングして欲しいとかじゃないわよ? ちょっと、それで遊んできて欲しいんだって【BOSS】が」
「あの男まだくたばってなかったのか」
毒づく風御にBAI・ARが苦笑した。
「【BOSS】の事を悪し様に罵って生きてられるなんてホントあんたも恵まれてるわよねぇ」
「何処で遊んでこいって?」
「GIOでいつものレースが土曜からあるんだけど【BOSS】は今回の参加を見送りたいらしいの。でも、それで関係悪くしたくもないじゃない? だから、名代としてあんたがそのお金でパァ~~~ッと遊んできてくれれば、あっちの面子もこっちの義理も通るってわけ」
「全部使っていいの?」
「ええ、勿論。でも、レースは一ヶ月ぶっ通しだから基本的に全レースへ賭ける事。こっちとしては賭け金そのものは返ってこなくてもいいし、スっちゃっても全然OK。勝った分に関しても懐にいれていいそうよ。ホント、羨ましい夏休みだわ~~」
まるで夢見る乙女のように頬を染めてBAI・ARが自分も行きたかったと溜息を吐いた。
「最初の件と何か絡んでたりするわけ?」
「そこはあたしノータッチだから解らないわ。でも、この頃大陸への本格的な参入で色々忙しい時期だから、そこら辺が絡んでるのかもね。あ、いっけない!? もうこんな時間。あたしもこの頃は忙しいのよ。じゃあね?」
腕時計を確認してヒラヒラと掌を振ったBAIが来た時同様スタスタと歩き去っていった。
後に残された風御が二枚の紙を見てポケットにしまう。
「もう出てきていいよ。セキちゃん」
おずおずとバスルームのドアが開く。
室内に転がっている玄関のドアを目を丸くしながら、セキは微妙な顔で風御を見た。
「お友達?」
「アレとお友達にされたら自殺ものでしょ」
「でも、親しそうでした」
「まぁ、昔の同僚だからね」
「何を話してたんですか?」
しばらく無言でセキを見つめていた風御は埃を払って椅子から立ち上がる。
「ろくでもない話、かな」
その日、業者によって深夜まで掛かった永橋家の玄関修理が終わっても風御は帰ってこなかった。
一人残されたセキは久しぶりに寂寞とした心地になり、風御が今まで自分を寂しがらせないよう極力傍にいてくれたのだと初めて理解した。
眠りこけたセキの点けていたテレビが風御家に近しい廃ビルで爆発があったと報じたのは午前零時過ぎ。
隣の国で不穏な動きがあると報道したのは翌日。
戦争の影は少しずつ日常へと迫り出し始めていた。
渦動する事態。
その中で浚われた者は聞く。
生きる事の冷たさと死ぬ事への憧れを。
価値は違えど、彼らもまた人であった。
第二十話「突入」
分かり合う事とは傷つけ合う事なのか?
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第二十話 突入
第二十話 突入
布深家(ふみけ)は所謂第二次世界大戦後に現れた戦争特需による成り上がりの一族と言える。
その原動力となったのは昭和から平成に掛けての海運・貿易。
日本を牽引する大財閥と比べれば小さな企業体を管理しているに過ぎなかったが、時代の流れに逆らった経営方針と柔軟な対応をした資本家の一族として有名と言えるかもしれない。
会社をあくまで株式会社ではなく有限会社として育て、法改正が行われるまで株式会社の形態を取らず、更に全ての有限会社が株式会社化されて久しい現在も保有株式の全てを一族が握っている。
株式市場にも上場せず、頑なに一族の理念を反映する貿易会社はやがて時代の最先端を行く古風な総合商社という奇妙なものとなり、あらゆる時代の荒波を乗り越えてきた。
バブル期には投資ではなく蓄えを作り、効率化と経営の大規模化の時代に少数精鋭の人間を永続的に抱えて大規模化を避けた。
時代遅れの理念に柔軟な発想で一つの事業を深く開拓し、新規事業は十年単位でのリサーチと地盤固めを行った後に実行された。
儲けは二の次。
重要なのは永続的な経済活動。
厳しい時代も儲けられる時代も大当たりを期待せず、淡々と存続の二文字を守り続けた。
その結果、二十一世紀の半ばを過ぎた現在、日本有数の大財閥とまでは行かなくとも小規模にして堅牢な資産運用を行う財閥として十二分な地位を確立するまでに到っている。
一族の殆どは高学歴のインテリであり、天才は輩出せずとも秀才は幾人も出した家。
現代日本において最もお堅い家柄。
そう言われるまでになった近頃の布深家が抱える最大の問題は次期当主の交代。
時代に対応する為、企業のトップである当主は六十五歳までに定年。
同時に当主の座を次代へと受け継ぐ。
しかし、布深家本家筋には子女しか生まれていない。
次代の当主は分家筋からの養子を取るか何処かの家から婿を取るか。
そう言われ始めて十年の月日が流れた。
「・・・・・・」
そんなよくある世代交代の話を悩まなければならない現在の布深家当主『布深海造(ふみ・かいぞう)』はその日、本当にどうすればいいのか解らず、額を揉み解しながら使用人達から話を聞くこととなっていた。
主に可愛い一人娘の身柄が何故か得体の知れない中国人に確保されているらしいと知ったからだ。
過度な装飾の無い無味乾燥とした一室の中、部屋の中央に位置する革張りの椅子が軋んだ。
「それでお前達はオメオメと戻ってきたわけだな?」
白いものが混じり始めている髭を撫でメガネを外した当主に睨まれてSPのリーダーである男が土下座した。
「申し訳ありません。お嬢様の命を守る為には身柄を渡すしか・・・」
六十四歳。
未だ衰えを知らない痩身の海造は土下座する男に立てと促す。
「それで敵の武装は?」
「はい。基本的には機関銃やアサルトラフルでしたが、幾つかの武装は車体ごと吹き飛ばせる重装備でした。車両に横付けされた時点で朱憐様に身柄を渡すようにと言われ・・・申し訳ありません!!!!」
土下座こそしないものの男は腰を九の字に折った。
グレーのスーツ姿のまま海造が立ち上がる。
「直ちに銃器の出所を探れ」
「はい。それはもう始めています」
「なら、今日一日もう社は閉じて構わん。相手からの連絡に対しての逆探知準備。それと南口の倉庫からDコンテナを開放。SP各自は完全武装で待機だ」
「了解しました」
「あと」
敬礼した男が頭を下げ、部屋から出て行こうとした時、背後から海造が呼び止める。
「なんでしょうか!?」
「あの男を呼べ」
「は・・・あの男とは?」
僅かに困惑する男に海造は不機嫌そうに告げた。
「あの胡散臭い経歴の男だ。資料は見た。少しは役立つだろう。私は外務省と警務省を当たる」
「はッ!!!」
GIO日本支社から明け方に帰った久重とソラが叩き起こされたのは寝てから十三分後。
馴染みの顔が何故か朝食を作りに来る途中で誘拐されたとの報を聞かされての事だった。
*
『宮田坂敏(みやた・さかとし)』はその道を今日も急いでいた。
警察官僚。
五十二歳。
単純に言えば幹部クラスのエリート。
本庁からテロリスト捜索本部を任された事で一気に株を上げた宮田に今や追い風の吹かない日はない。
根っからのインテリである宮田が現場の最前線へと送られテロリスト捜索本部に入ってからと言うもの、都市部には大きなテロの予兆らしき事件が多発している。
それを機に上層部から大幅な権限の移譲、更には現場レベルでの高度な捜査も許されるようになっていた。
事件が起これば起こる程に宮田の辣腕は冴える。
そう上層部は重く信認している。
不気味な程に沈黙していると他の部署からは懐疑的な目で捜索本部は見られていたが、水面下での巨大な戦果は警察官僚達を震え上がらせる大規模な事件を未然に防ぐ結果に繋がっていた。
その捜査上の戦果が実際の空間ではなくネットの電子空間上であるという事実が無ければ、正に巨悪と戦う警察官僚と宣伝に利用できたかもしれない。
契機となったテロリスト包囲事件。
結局のところ全てはそこに集約される。
上層部から突如として案件を押し付けられた宮田にしてみれば、不可解な事件ではあった。
指名手配のテロリストが公安によって発見され、大規模な避難誘導をして包囲するという馬鹿げた話。
普通では考えられない対応だったが、上層部からの絶対に逃がすなとのお達しに宮田は全力で事に当たった。
結局、テロリストには逃げられて捜索本部が設置されたが、それすら何故専門の部署で行わないのかと疑問は尽きなかった。
よく解らない上層部からの命令も多く、何か得たいの知れないものを感じていたのは何も宮田だけではない。
それでもそんな疑問を覆い隠して宮田は全力で捜索本部を指揮した。
本部のマンパワーを半分以上電子空間上に割く事でテロリストの発見に全力を注いだ。
結果はサイバーテロ対策に躍起となっていた警察の威信を十分に満足させるだけのものだった。
移民達による大規模テロ計画。
同時に発生させられるはずだった騒乱と暴動。
中国からの覚せい剤・銃器大規模密輸ルートの摘発。
暴力団に浸透する外国勢力の内情。
指名手配のテロリストを追う過程で何故か面白いように引っかかった別案件の情報は未然に事件を防ぐ柱となった。
別件のテロ計画の中核人物を根こそぎ逮捕し、準備されていた騒乱と暴動の加担者達を逮捕国外追放し、密輸ルートを壊滅させて、非合法の外国勢力から資金源を断ち、暴力団のパワーバランスの調整にも一役買った。
将来の事を考えるなら、正に警察官僚のトップまで上り詰める事も出来るだろう成果。
しかし、その大きな結果を一番醒めた目で見ていたのは他でもない宮田自身だ。
宮田は内心でそれらの戦果を冷静に分析し続け、一つの結論に到っていた。
自分は誰かに動かされている。
(・・・・・・)
大きな事件を幾つも未然に防いだ事は確かに喜ぶべき事だった。
それでも情報の収集結果には疑問が尽きない。
何処か不自然に思える。
本来ならばするはずの無いミスをした犯罪者達。
普通ならば知れる事の無いはずの僅かなヒント。
それらの情報から細い糸を手繰るように証拠を固めて事件の全容を看破し続けた自分。
まるで最初から仕組まれていたように辿り着く犯罪の数々。
世界中で資源の枯渇と砂漠化が進む現代。
政情不安は内乱とテロ戦争を進める。
それを好ましく思う勢力がいるのは確かで、その状況に漬け込もうとする者は必ずいる。
だから、そんな悪は必要悪だと見逃されがちだ。
悪が栄えた例(ためし)はないと言うが、それにしても『正義が勝ち過ぎる現状』は不気味だった。
まるで他国の工作した後を通り過ぎていくようで。
(・・・・・・)
国家単位での間接侵略は二十一世紀に入ってからと言うもの、激しさを増している。
日本は一時期それらの侵略に対し無防備で、数多くの犠牲を払った。
ネットを中心とした報道勢力の拡大により、侵蝕を受けていた政治家、政治団体、企業、広告会社に自浄作用が働きだした頃には目も当てられない惨状ではあったが、弱者利権を食い物にする他民族の勢力という図は日本の誰もが知るところとなった。
勃興したナショナリズムの台頭は諸外国に比べれば大人しい方だと時の政治家や評論家達は言うが、それは殆どの場合詭弁と言わざるを得ない。
大人しいナショナリズム。
直接的な暴力ではなく、あらゆる経済的法律的日本人の復権によって為された戦争。
レイシストと謗られながらも多業種に渡る国籍条項の強化と外国人勢力に対する規制と監視の強化を行った政治家が幾人も出た。
内政干渉を明確に規定し、日本人が日本人を統治するという基礎を打ち立てた男達がいた。
外国人からの反発は当たり前の話だっただろう。
それらの政策は諸外国との摩擦こそあったものの、極東の島国がまだ己の利権を追及する為なら、戦争が出来る国家なのだと世界中の人々は知ったのだ。
『小さく静かな戦争』(リトル・サイレント・ウォー)。
グローバリゼーションと多民族国家を否定した日本という国のナショナリズムの勃興はそう呼ばれる。
兵器も武器も使わずに文化と法律と人間によって行われた戦争は日本にしか成しえないものだった。
それ以来、隣国との摩擦は激しくなるものの、逆に様々な面で日本が安定したのは皮肉な話だろう。
領土問題も移民問題も貿易も全ての面で日本の立ち位置が明確になった。
あの曖昧な笑顔の日本人が怒った。
それが他国に与えたインパクトはアジアの権力者層を密かに震撼させた。
笑っている内は静かな友人が怒ると銃を醒めた瞳で見ている。
そんな例え方をした外国の有識者も多い。
それからの外政・内政は成功こそしなかったが失敗も少なかった。
財政再建こそ不完全にしか出来なかったものの、厳しい緊縮財政や財政規律の強化が国債バブルを安定させ、デフォルトなども起こらなかった。
弱者利権に群がっていた外国人勢力から日本人は乖離し、その殆どの外国人勢力も衰退した。
艱難辛苦の道ではあったが、現在の日本は低成長のまま緩やかに滅亡していく安定した国家と言えた。
そんな時代を戦ってきたのは別に現場の人間だけではない。
宮田もエリートとしてあらゆる事件・犯罪の場に立ち会った。
テロ、移民、新興宗教、外国企業。
様々な悪と断じれられた全てと戦ってきた。
正にそんな自分は国家の手先で相手側から見れば日本人の悪(ナショナリズム)そのものだろうと自嘲した事は数知れない。
(・・・・・・)
もはや年老い、激動の時代を戦いきった後、安らかな間にある国。
そんな見方が世界中からの日本への評価だったというのに、近頃宮田には緩やかな流れが急激に荒波を孕み始めていると見える。
その原因は何なのか。
宮田には予測しようもない。
超少子高齢化も半ばを過ぎた時代。
移民の子供の活力と日本の子供の少なさが目立つ時代。
今一度、揺り返しが起こる前兆なのか。
それともまた別の波が来るのか。
自分は流れの中でどんな場所にいるのか。
もしも、いるとすれば波紋を起こせるものなのか。
全ては何もかもが終わってから解る事だろう。
ルルルルルルル。
やけに今日は懐かしい時代を回想したものだと宮田が自分の歳に苦笑しながら端末に出る。
『ああ、宮田君?』
『これは警視総監?! こんな時間にどうかされましたか!?』
驚いた宮田に警視総監が続ける。
『うん。僕なんだけど。ちょっと、緊急に頼みたい事があるんだよね』
『は、どういったご用件でしょうか!』
『それがね。ちょっとマズイ事になった。今から迎えの車を寄越すから、そうだな・・・自宅で待機していてくれるかな? それから信頼出来る部下で荒事が得意そうなのを二人か三人くらい集めておいてくれると嬉しい』
『わ、解りました!』
『本当なら僕も君みたいな苦労人の睡眠を邪魔するなんてしたくないんだけれども、どうやらそうもいかないみたいでね。状況はこちらに来たら話すから』
『了解しました』
幾つかの連絡事項を受けてから端末の通話が切れる。
(荒波か・・・それとも日本を転覆させるような嵐か。どちらにしろ私にはまだ何も出来ない)
宮田は自宅へと急いだ。
その背中は歳を反映してか僅かに細い。
しかし、確かに大きなものがその背中には背負われていた。
*
少女は夜気に篭る熱気と湿気を吸い込んで空ろな視線で溜息を吐いていた。
戦略兵器搭載型少女シャフだった。
一人ビルの淵に座り込み足をブラブラさせながら湿度の高い日本の夏を憎々しく思っていたシャフは突如として視界の片隅に発生した爆炎と黒煙に目を細める。
「?」
爆発など都市部でいきなり発生する類のものではない。
僅かに作り物の瞳孔が収縮し、レンズがテロの標的にでもされたような惨状のビルを映し出す。
「・・・拡大、サーバーに接続、記録」
監視役としての役目を思い出したシャフはだるそうに呟く。
視界にはRECの文字が浮かんだ。
ビル全体を眺めていたシャフは内側から吹き飛んだ硝子の無い窓の中で人がワラワラと動いているのを確認する。
人相や風体からサーバー内の人物を参照するも該当する人間は一人もいなかった。
そのまま見続けていると不意に窓の一つに黒い影が横切る。
「――――――グリッドE12を拡大、補正、明度上昇」
不穏なモノを見た気がして、その窓の中に一瞬映った影の正体を明確にしようと画像に補正を掛けて鮮明にしていく。
幾度目かの補正を掛けた時、小さな体が震えた。
(【大香炉(ポタフメイロ)】?!!)
顔を顰めたシャフが今まで記録していた情報を全て破棄して、その方角を見る事を辞めた。
(もう此処まで来てるなんて・・・【連中】は全部消す気? いや、でも、それならこちらの情報も漏れるような監視任務なんてさせたりしないはず・・・そう言えば報告に対しての次の指令が遅かった・・・まさかGIOとのGAMEで散逸する情報の抹消準備でもしてるっての?)
影の正体を知っているシャフは視界に映し出された記録の中の影を睨む。
黒い獣のように四つん這いになった何か。
頭部は人間のように見えるものの、目も鼻も耳も口も無い。
全身は黒く滑らかな皮の服でも着ているように見えるがまったくそんな生温いものではない。
人間のように見えるが人間ではない。
その悍(おぞま)しい中身を知れば、大概の人間は吐き気を覚えるか、卒倒するだろう。
「・・・・・・」
シャフはその場から飛び降りる。
これからあのビルの中で起こるだろう惨劇とその惨劇を引き寄せた情報が如何なるものなのか知る必要がある気がした。
一瞬、本当にアレに関して情報収集するべきか迷うものの迷いを振り切る。
出来る事なら関わり合いにはなりたくない。
しかし、放っておけば好き勝手に自分の持ち場を荒らされる可能性があった。
(今のアタシの性能なら、あのケダモノにも劣らない)
地面を陥没させ着地したシャフが小豆色の外套の埃を払う。
普通ならば地面に何もかもをブチまけているはずの衝撃をいなしたNDが体に掛かった負荷をすぐに軽減し回復していく。
(まずは様子見。それから情報収集・・・後は臨機応変にってところかしら)
行き当たりバッタリの行動ではあったがそう決断した。
(それにしても【連中】が何を考えてるのか読めない。あれをこの盤面に放り込んだのは【連中】の誰? 少なくともターポーリン(あいつ)からの連絡は・・・)
全ての疑問を振り切るようにシャフがその場から走り出す。
祭りでも始まったような喧噪へと。
*
彼は小さな教会の司祭だった。
彼女は大きな会社の社長だった。
その子は死に掛けた女の子だった。
彼らは大工、医者、貿易商、画家、作家、脚本家、小説家、放蕩息子、宗教家、老人、幼子、青年、淑女、童貞、娼婦、政治家、商人、葬儀屋、殺人犯、放火魔、兵隊、海賊、船員、船長、添乗員、その他諸々の個人であり、それぞれの名前で呼ばれていた。
大工としての彼はとある工事を受け持った為に彼らとなった。
医者としての彼はとある治療を行った為に彼らとなった。
貿易商としての彼はとある品を扱った為に彼らとなった。
他も全て同じような理由で彼らとなった。
彼、あるいは彼女、その全てである彼らは基本的に犠牲者でありながら加害者だった。
彼らは選ばれた者だった。
禍々しい息を吐く彼らからはもう個性が消失している。
彼らにとって至上の喜びは彼らを増やす事だけだ。
彼らの上に降る祝福の音色は管弦楽の響き。
彼らの内に積もる声は主の御言葉。
産めよ増やせよ地に満ちよ。
彼らの増え方は哺乳類より形の無い単細胞生物に似ている。
【力となる源】(ぎせいしゃ)を得て、増え、分かれる。
宗教家である彼が信者である彼を、信者である彼は可愛い孫である幼子を、幼子は父親である青年を、青年は妻である淑女を。
そんな調子で彼らは増える。
彼らの通った後には何も無い。
彼らとなった彼あるいは彼女達の痕跡は風化していく。
蒸発したのだと言う人間がいれば、自殺したに違いないと勘ぐる者もいる。
他国に旅行に出たと思われている者もいれば、誰にも疑問に思われない者もいる。
ただ、彼らの姿を見た者は一人として彼らの事を喋りはしない。
いや、出来ない。
彼らの姿を目撃した電子機器も同様だ。
何故なら、それが彼らの力だからだ。
彼らの吐息を吸えば当然そうなる。
彼らの吐く息は彼らの為に働く。
脳の中枢。
海馬にはまるで薬で受けたような傷が付いているだろう。
電子機器の全ては彼らを映した時には役立たずになっている事だろう。
彼らは人知れず世界中にいる。
喜びを満たす為に働き続けている。
彼らの主は彼らの頭の中で言う。
彼あるいは彼女を仲間に、と。
【………】
彼らの歩いた後には何も無い。
彼らは頭の中の主が言われる通りに増え続けていくだけだ。
山を越え、川を越え、都市を渡り、砂漠を抜け、夜に走り、朝に眠り、海を掻き分け、国を駆ける。
今日も彼らは選ばれた人々の上に降臨し、増えようとしていた。
目の前のドアから入って、階段を降り、出くわした彼を彼らは抱き締めた。
【ああ、主よ】
【ありがとうございます】
【また一人、彼方の下僕が】
バチュン。
そんなトマトを潰すような音がして、彼らは増える。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!!!!!!!!!!!」
彼らは喉から耳から目から鼻から肛門から性器から人体にある全ての孔から侵攻を開始する。
ドロドロに解けていく黒い彼らは血液に乗り、内臓を掌握し、脳に到達すると前頭葉の特定部位を破壊し、五感の全てから信号を送る。
それは時に言葉であり、図であり、音楽であり、熱さであり、匂いであり、感触である。
人が畏れずにはいられない神の威光である。
言葉は優しく、図は莫大であり、音色は心地良く、温もりは安く、匂いは芳しく、感触は母のもの。
屈さぬ人間はいない。
人はそのように出来ている。
一万と五千四百六十七人分のデータから最も効率的な催眠誘導方法は確立されている。
【おお、神を畏れよ】
【おお、人を捨てよ】
【おお、彼らは祝福されている】
「あ゛あ゛あ゛あ゛ああああ・・あああ・・・ああ・・・」
産めよ増やせよ地に満ちよ。
彼らの脂肪はより効率的に燃焼されるようになる。
彼らの骨格はより優れた耐久性を持つようになる。
彼らの関節はより嘗めらかに連動し回るようになる。
彼らの筋肉はより柔軟な運動が出来るようになる。
ならば、脂肪はドロリと融けていても問題ない。
骨格は人の形をしている必要が無い。
関節はどれだけ回そうと血管なんて傷つけない。
筋肉は幾らでも伸びて縮むはずだ。
神の威光を持ってすれば容易き話。
彼らはそのようになる。
脂肪は全て対衝撃防御に優れた液体へと変わり、骨は鋼よりもタングステンよりも硬く、関節は幾らでも可変し曲がり続け、筋肉は体の数倍も伸びては縮む。
口で食べる必要が無いから口は要らない。
目で見る必要が無いから瞳も要らない。
鼻で嗅ぐ必要が無いから鼻腔も要らない。
耳で聞く必要が無いから鼓膜も要らない。
肌で感じる必要が無いから皮膚も要らない。
その全ての代わりとして主から授けられた黒い衣がある。
黒い衣は万能だ。
獲物に喰い付き栄養を補給する。
無数の目となって標的を見逃さない。
嗅がずとも成分を分析し、相手を嗅ぎ分ける。
聞かずとも最適な方法で振動を検知し、居場所を知る。
感じずとも空気の流れを把握してあらゆる攻撃を避け、弾体に対して無類の強度を誇る。
【………】
彼らは新たな彼らを祝福する。
頭の中を染められ続ける事を、喜びに満ちた人生を祝福する。
二体となった彼らはものの五分でビルの屋上から五階までを制圧した。
彼らの前に等しく全ての彼は無力だった。
ある者は叫び声を上げながら突撃した。
ある者はありったけの重火器を発射した。
ある者は漏らしながら背を向けた。
ある者はこれは夢だと壊れた。
ある者は拳銃で己の頭を撃ち抜いた。
ある者は勇敢に素手で立ち向かった。
彼らとなった者は十五名。
彼らとなれなかった者は十二名。
【………】【………】【………】【………】【………】
総勢十七名の内五人である彼らは一枚の扉の前にいた。
扉へと殺到する。
ベキベキと電子錠は壊され、鋼鉄製厚さ十センチの扉が拉げていく。
彼らとなるべき者を求めて、彼らはその扉を壊し、中へと飛び込んだ。
【【【【【?】】】】】
彼らは一斉に首を傾げた。
誰かいるはずの場所には誰もいなかった。
キョロキョロと辺りを伺う仕草をした彼らの一人が不意に天上近くを見つめる。
【………】
そこにはダクトに続く換気口がぽっかりと口を開けていた。
*
久重が招かれた場所で言われた事は三つ。
布深朱憐は誘拐された。
生死は不明。
居場所はほぼ特定されている。
対して久重が招いた者達に言った事は二つ。
居場所を教えろ。
オレが行く。
招いた者達が難色を示した中、誘拐された娘の父親は記しの点けられた地図を渡して言った。
準備が出来次第に突入する。
リミットは突入準備の完了する十一時五十五分。
久重は頷いた。
それから諸々の準備を行った久重とソラがそのビルの傍まで来たのは午後十一時四十五分。
ソラが傍受した情報によれば、犯人グループは交渉の場を用意しろと言い、まだ人質は無事との事。
二人が人通りの無くなった道を歩きビルの手前まで来た時、ソラが顔を強張らせた時点で、もう事態は急転直下を迎えていた。
突如の爆発。
炎と煙が上がり始めるビル。
更にはビル周辺百メートル圏内においての停電。
そこまでならば、まだ久重にも余裕があった。
ソラの支援を受ければ、取り戻せる範囲だろうと思っていた。
後方に控えている突入部隊は混乱して今にも突入を始めようとしているかもしれないが先行する事は出来る、はずだった。
ズダンッッッッッ。
そう、ビルの上から合計五体の黒い何かが落ちてくるまでは。
【………】
全身を黒い皮のような質感で包んだ人間のような何か。
「ポタフ、メイロ?!!」
驚きに固まったソラの呟きを聞く暇も無く。
久重はソラを抱いて横っ飛びにその黒い人型から伸びる腕を回避していた。
「ソラ!!」
久重の叫びで我に戻ったソラが周辺を氷に閉ざすNO.00“closed jail”を咄嗟に展開した時点で、待機していた警察と布深家のSP達は完全に混乱のどん底に叩き込まれた。
突然の爆発、停電、異常気象、そして部隊を襲う謎の黒い人型。
全ての現象が場を地獄へと変えていく中、一人ビルへと突入した男がいる事をまだ誰も知らない。
永橋風御は表での騒動が大きくなりつつある事を感じながら一人ビルの全自動ゴミ処理用パイプの点検用通路から内部へと侵入を果たしていた。
「ホント、だるいよね。まったくさ」
早く帰りたい本人はいつものスーツ姿にトランク一つという気軽さだった。
黒き使者は舞い降りた。
勃発する戦いが多くの運命を決する。
敵は何処だ。
敵とは誰だ。
第二十一話「天命」
災厄を切り裂いて、今・・・悪夢が吹き払われる。
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第二十一話 天命
第二十一話 天命
夜霧。
そう言うには黒過ぎる粒子が辺りを覆っていた。
纏わりつく瘴気は天を覆う程に高く。
その元凶たる黒の人型は炎上するビルと辺り全体を覆う薄氷の世界を背に久重とソラの前に立ちはだかる。
【大香炉(ポタフメイロ)】
そうソラに呼ばれた人型達がゆらりと四つん這いの姿勢から立ち上がる。
背は優に三メートルは越えるだろう細くしなやかな姿態。
目も耳も鼻も口も無い。
無貌(むぼう)。
「こいつら、何なんだ?! 【連中】ってのの手先か?」
「ひさしげ」
ソラが久重の手を己の胸へと押し当てた。
驚く久重の手の中へと硬い感触。
横目に確認した久重は己の手の中に黒い塊が現れたのを知った。
「先に行って」
「ソラ!?」
久重には己の手の中のソレが何なのかすぐに解った。
ソラ・スクリプトゥーラという少女の唯一にして最大の切り札。
【D1】と呼ばれる【ITEND】の集積制御装置。
それ無くして少女は今まで生き残れなかった。
少女にとって力の全てとも言えるソレを他人に渡す行為は正気の沙汰ではない。
五体の敵を前にして、何を言い出すのかと久重はソラに視線だけで問い掛ける。
「もう増殖は完了してる。本体が無くても力を使うのに支障は無いから」
「いや、でも、どうやって」
久重の慌てた声に静かにソラが告げる。
「大丈夫。ひさしげが望めば【D1】はちゃんと力を解放してくれる。ほら」
ソラの声と同時、久重の手の中にある黒い塊が解(ほど)けて空気へ溶けるように消えていった。
「―――これが【D1】」
久重は全身が軽くなっていくのを感じた。
更には視界に様々な情報が流れ込んでくる。
ビルの見取り図やら現在の自分の肉体の状況やら現在使用できる武器とプログラムの一覧やら。
「ちゃんとひさしげにも解りやすいようにしておいたから」
「大丈夫、なのか?」
「うん。此処は任せて早く」
久重が唇を噛んだ。
「こいつらは人間を侵蝕するの。NDが無い人間は近づくだけでも脳にダメージを負う。こいつらを送り込んできた【連中】の意図は解らないけど、早くしないと手遅れになる」
久重が白くなる程に拳を握り締めた。
「すぐ戻ってくる。無理は絶対するな」
緊迫している状況にも関わらず、ソラは笑みが零れるのを止める事が出来なかった。
「うん」
「すまない!!」
久重が真正面から大香炉の群れへと突っ込んだ。
右手が輝きを帯びる。
その手の脅威を感じ取ったのか。
五体の大香炉が咄嗟に脇に退く。
中央を突破していく久重の背後へと殺到しようとした五体が振り向こうとして更に跳び退った。
虚空に突如として現れる輝き。
超高温の明滅が暗い辺りを一瞬だけ浮かび上がらせた。
「行かせない。ひさしげは、私が守る」
身を低く構えたソラが瞳を細める。
その貌に浮かぶ苛烈な視線が五体の大香炉を射抜き、再び世闇が明滅する。
No.03“fire bag”
【D1】に登録されたプログラムの一つ。
糸状にしたNDを対象の特定部位に複数貼り付け、急激に熱量を放出する事で一点の温度を急激に上げる。
本来は溶接作業用のプログラム。
現在は燃えるビルから放出される熱量を吸収し、威力は普段の数倍にまで上がっている。
【………】
五体の大香炉の内一体が久重を追おうとして、その両足が明滅と共に融け崩れた。
全ての個体がソラへと体を向ける。
ソラは僅かに唇を噛んだ。
「あなた達が本当は人間だった事。巻き込まれてそんな姿にされた事」
大香炉達がソラとの間合いをジリジリと詰め始める。
「謝っても赦されないのは解ってる」
ソラは僅かに震えていた。
「でも、私はひさしげを守りたい。だから」
黒い巨体がソラへと殺到する。
「ごめんなさい」
脚部を融かされて明らかに移動速度が鈍かった一体の頭部がトプンと明滅と同時に融けた。
ワンステップで背後へ跳躍したソラに追い縋ろうとする残りの大香炉の動きが止まる。
同時に闇に紛れていたものが姿を現す。
薄氷に覆われたビルや道を薄く黒いベールが隔てていた。
【CNT defender】
NDによって編みこまれたカーボンナノチューブによる対弾防御機構。
その強度は相手が見える程に薄い布でも対戦車ライフルの弾丸を止める。
そんな強度を誇るベールが幾重にも重なって外界と内部を隔て四体の巨躯を浮き彫りにさせた。
ソラが両腕を背後へと引く。
全ての巨躯が釣られた魚のようにソラへと無理やり引きずられた。
「“fire bag”readjust mode HALO」
ソラが前へと踏み出す。
大香炉達が少しでも傷を負わせようとするが、ベールに絡め取られて思うように動けなかった。
ソラが化け物立の真横を通り過ぎる。
【……?】
大香炉達がベールを何とか切り裂き終えて気付く。
――――体の大半がまるで何かに抉られたように消えていた。
黒い瘴気が断末魔を上げる。
行動不能に陥った四体の巨躯が次ぎの行動を取る前に頭部を明滅させられ、融けた。
闇の中で赤熱し融け崩れていく巨躯が映し出したのは抉られた体が少女の周りに落ちて同じように解け始めているという事実。
ソラと大香炉達が交差した刹那に起きたのは“fire bag”による線の攻撃だった。
従来の一点へと熱量を注ぎ込む使い方とは違う。
点ではなく線となった“fire bag”は融かし崩すのではなく、融かし斬る。
背後に擦り抜けた時点で肉体の大部分を抉られてしまった四体にはもうソラの攻撃を避けるだけの余力など残ってはいなかった。
「さようなら」
目を伏せ黙祷した少女の背後には未だ余熱を持って輝くNDの輪が幾つか見て取れ、従来よりも多量の熱量を点ではなく線で出力したのは明らかだった
NDで構成さえた輪はホロホロと儚く崩れて消える。
「ひさしげ・・・」
久重を追う為にビルへ突入しようとしたソラの耳に叫びが聞こえた。
振り向いたソラが目を細め、NDによる情報収集プログラムを起動する。
近くで未だ生きていた情報端末の一つに侵入。
カメラ機能を起動。
映像がソラの瞳に張り付くNDから出力される。
完全武装の警察官らしき十数名が大香炉数体に襲われていた。
警察官の一人が解けた大香炉の一体に取り込まれる。
【松井ぃいいいいいいいいいいいい!!!!】
叫び声が聞こえる。
ザリザリとカメラからの画像がブレて途切れた。
大香炉の撒布するNDが端末を焼き切ったに違いなかった。
迷ったのは一瞬。
(此処で見捨てたら・・・ひさしげに胸を張れない!)
ソラの足はビルではなく背後の道へと向かっていた。
*
ビル周辺が慌ただしくなった頃。
息を切らしながら朱憐は狭いダクト内部を進んでいた。
「大丈夫?」
「は、はい・・・大丈夫・・・ですわ」
背後の虎(フウ)が平静な声を出しているのに年上である自分がどうしてこんなに弱いのか。
「大丈夫」
そう思い直した朱憐はハッキリとそう口にした。
「そう、ならいい」
二人で進むダクト内には薄く煙が充満している。
胸が苦しくなるものの、それでも二人はダクトを延々と渡っていた。
「この先、エレベーターシャフトある」
「そこから下へ?」
「そう。爆薬爆発したら、下の通路から逃げて主導権握る作戦」
「・・・教えていいのですか?」
「もう、関係ない」
虎の僅かに沈んだ様子が朱憐にあの映像を思い出させていた。
虎と共に閉じ込められてから数時間。
何かと話しかけていた朱憐と虎の間には犯人と被害者というより、何処か友達とお茶でもしているような空気が流れていた。
そんな空気が変わったのは日付も変わろうという時間帯。
いきなり虎が険しい顔つきで懐から端末を取り出したところから始まる。
虎が何か信じられないような顔つきになった後、取り出した端末を操作して何かの映像を見ながら凍り付いた。
その様子に警官隊でも突入したのだろうかと疑問に思った朱憐が数回虎に呼び掛け、我に返った虎は何かを悩んだ後、端末を朱憐にも見せた。
その端末の画面には幾つかの監視カメラの映像が流れていた。
問題は全ての監視カメラの映像に黒いものが蠢いていた事。
「警官隊、違う・・・」
人間が黒いものに取り込まれていた。
ビクビクと体の一部が黒いものの中から出て痙攣している。
カメラが一台ずつブラックアウトしていく中、ハッキリとは解らなくても・・・映っていた人間がどうなったのかすぐに想像は付いた。
「な、何ですのアレ!?」
「知らない。日本の?」
虎の疑問に思い切り首を横に振って否定した朱憐は何が起こっているのかと体を震わせる。
「今、八階突破された」
「虎・・・さん?」
虎が唇を噛んで何かを考えていたが、朱憐に瞳を向けると僅かに見つめ、拳を握った。
「仲間、アレに食われてる・・・アレ増えた」
「え?」
虎にどうしてそんな事が解るのかと疑問に思う前に虎が片目を手で覆う。
「たぶん、最新型のND機械、みたいなもの・・・爆薬で、完全に壊れてない。ダメ・・・止められない・・・」
虎の瞳に何が映っているのか朧げに朱憐は理解した。
「BMI義眼・・・」
「退却しない?! でも、勝てない。それ無理・・・」
ブツブツと独り言を言う虎の表情がどんどん泣きそうになっていく。
やがて、轟音が部屋を揺さぶった。
「・・・あ」
ガクリと崩れ落ちた虎が両手を床に付く。
その片目からは一筋だけ涙が零れていた。
それで何があったのか察した朱憐は虎に初めて近づいた。
不意に近づいた朱憐に染み付いた動作で虎が銃を向ける。
しかし、朱憐は止まらずにそのまま虎を抱しめた。
「――――――?」
朱憐を見上げてくる左目は哀しみに染まっていた。
「虎さん」
ただ名前だけを呼ばれ、そっと抱しめられた虎の手が銃を無意識に下ろす。
優しい朱憐の手にされるがまま撫でられていた虎はしばらく無言だった。
「しゅれん」
そう切り出した虎の表情にもう哀しみは無かった。
ただ、決意の感情だけが乗っていた。
「はい。何ですか虎さん?」
「逃げる。このままだと、死ぬ」
虎が立ち上がる。
そのまま朱憐に手を差し出した。
「・・・しゅれん、死なせたくない」
「虎さん・・・」
手を取った朱憐が立ち上がると真っ直ぐに虎が瞳を見た。
「信じて・・・貰いたい・・・」
「はい」
朱憐は切迫している状況にも関わらず微笑む。
二人はどうにかして逃げようとしたものの扉が開かず、監視カメラの映像が途切れた事から包囲されたと気付いた虎は見つけたダクトの入り口へと朱憐と共に逃れた。それから複雑に入り組んだダクトを二人は這い続け、ようやく目的の場所まで来る事に成功していた。
「次の角を右」
「はい」
答えと同時だった。
ダクトが大音響を立てて揺さぶられる。
「きゃ?!」
思わず縮こまった朱憐に虎が大丈夫だと告げる。
「たぶん、置いてきた手榴弾」
「え?」
「入り込んでくるものあったら、線が切れて爆発する。今ので距離解る。百メートル」
朱憐は百メートルという生々しい距離に息を呑んだ。
あの黒い人型。
人間を食って増えるという悍(おぞま)しい怪物。
それがすぐ傍にいるという事実に冷や汗が止まらなくなる。
「い、行きましょう」
コクンと頷いた虎に促されて更に這う速度を速めた。
すぐダクトの終着点に付く。
しかし、ダクトの終端はボルトで止められた格子が嵌っていた。
朱憐の気が遠くなる。
「大丈夫、少しだけ退く。耳塞いで」
朱憐がその言葉に従う。
僅かに身を捩って開いた狭い隙間から銃だけが出され、正確に四隅のボルトを打ち抜いた。
「すぐにアレ来る。シャフトの中、ロープある。飛び移って、足持つ」
「は、はい」
格子が外れ落下する。
そのまま急いで上半身を出した朱憐は底の見えない虚空に眩暈がした。
しかし、化け物がいつ襲ってくるかも解らないという状況にこうしてはいられないと虎に貰ったペンシル型のライトを点灯してロープを探す。
すぐにロープは見つかった。
手を伸ばせば届くだろう範囲。
グッと上半身を引き出した時だった。
ダクトに異様な音が反響した。
「来た!!」
(?!)
朱憐が慌ててロープを掴んだ瞬間、足が虚空へと放り出された。
後に続いて虎が這い出た。
その手を掴んだ朱憐に引き寄せられ、ロープに片手でしがみ付いた虎が銃を正面に向けて撃つ。
一発、二発、三発。
一発目の火花で目標である反対側に固定していたロープを見つけ、二発目で狙いを付け、三発目で命中させた途端、ダクト内部から黒く長い腕が迫り出した。
「――――――?!」
その腕を真直に見てしまった朱憐が叫ぶより先にロープが落下し始める。
「最初だけ!! ちゃんと掴んで!!」
最初の二秒間の落下後、ロープの落下速度が減速し始める。
緊急脱出用のものだったのか。
減速する仕掛けが成されているようだった。
それでも結構な速度でシャフトを降りていく二人は十秒後には地面に転がっていた。
速度が落ちたとはいえ、コンクリートの上に落ちた朱憐が衝撃に咳き込む。
「早く!!」
受身を取っていた虎が起き上がり朱憐へと駆け寄って支えた。
二人の前には落ちたライトに照らし出され非常用と書かれた鋼鉄製のドアが一つ。
扉は開いている。
すぐさま扉の中に入って虎が扉を閉めた直後だった。
何かが落下してくる轟音。
重い鉄製の扉を閉め切った虎は慌てて鍵を掛ける。
小さなツマミを回した途端に周囲のロックが作動し、鉄製の扉を棒がガッチリと固定した。
しかし、ドカンと轟音と共に扉が僅かに内側へと凹んだ。
非常灯が僅かに二人の顔を照らし出す。
「「~~~~」」
二人の顔が引き攣り、同時に頷いた。
同時に走り出した時には鋼鉄の棒は曲がり始めていた。
「で、出来の悪いホラーですわ・・・」
「悪鬼・・・」
顔を蒼白にして二人は同時に呟かずにはいられなかった。
*
二人が走る通路の先にはゴミ処理用のパイプラインが設置されている。
本来は都市計画時に設置されたゴミ焼却施設へと直通するはずだったパイプは建設途中で業者が変わった事により、殆どの人間に知られる事なく眠っていた。
「♪」
一度も使われなかった保守点検用通路に風御の姿があった。
いつもの着崩したスーツに小さなトランクを持っただけの姿。
眠っていた電源は入れられていて、通路の明かりは十数年前まで使用されていたLEDの青白い光で煌びやかに飾られている。
本来はゴミのパイプだけではなく非常用の電源や水道も引くはずだったのか。
通路は数メートルの直径を持つトンネルの左側を通っている。
「ほんと、だるいよね」
一人ごちた風御がそろそろ準備でもするかとトランクを開けようと立ち止まった時だった。
いきなり、パイプラインの一角の扉が開いた。
「?」
「「!?」」
走り出てきた二人がいきなりの明るさに立ち止まる。
そして、風御に気付いた虎が咄嗟に銃を向けた。
「・・・どういう状況?」
「え、あ・・・まさか、ひさしげ様のお友達の・・・えっと・・・風御さん、ですか?」
「しゅれん?」
三者が三者とも何とも言いがたい顔で互いの顔を交互に見る。
「どうして君が此処に? 確か久重のとこにいつも来てる子でしょ?」
「あ、あの! 誘拐されて、それで化け物が、すみません。わたくしにもよく解らなくて」
「何かもう巻き込まれ臭半端ないんですけど・・・」
何かにとんでもない事に巻き込まれるのが確定してしまった気がして、風御が脱力した。
「しゅれん。もう来る!?」
「と、とにかく風御さんも一緒に逃げてください!! 化け物に追われてます!!」
「化け物?」
「誘拐犯の方々が全滅して、人間を食って増える化け物です!!」
「・・・・・・」
「そ、そんな風に見ないでください!?」
自分が何を言っているのか解っている故に、風御の微妙な表情に耐え切れなくなって朱憐は頬を軽く染めた。
「しゅれん!!」
「は、はい!!」
急かされた朱憐が虎と共に風御の下まで走ってくる。
「早く!」
「いや、僕も一応仕事だから。化け物だろうが誘拐犯だろうがADETの敵だろうが一応は殺(や)っておかないと後でどやされるし、君達だけで逃げたらいいよ」
サラッと流した風御がトランクを開けて中身を取り出した。
「銃も効かないみたいで、それに爆破されても生きてるような本当の化け―――」
「来た!!」
風御の袖を引っ張り必死に説得しようとしようとした朱憐が虎の声に固まる。
轟音。
通路の反対側の壁が爆砕し、更に二人が通ってきた通路から黒いものが這い出してくる。
「「!?」」
二人が完全に言葉を失った。
挟撃されていた。
唯一の逃げ道である反対側の通路にはコンクリートの粉塵が舞っている。
その中から黒い巨躯が姿を現す。
「へぇ、確かに化け物・・・ジーンプラント計画か、それとも亡国の次世代遺伝子組み換え生物か、ってところ?」
トランクから取り出した中身、金色の粉が詰まった小さな試験管の蓋を開けて自分の頭に掛けながら、風御が何やら一人呟く。
「・・・しゅれん。必ず、守る」
虎がもはや逃げ道は無いと懐から銃を取り出し安全装置を外す。
「とりあえず、君達にも、はい」
幾らか残った金色の粉を二人の上にサラサラと掛けた風御がトランクの内部にあるスイッチを押した。
内部に備え付けられていた画面に赤い文字が表示される。
LIMIT11。
【………】
【………】
青白い輝きが満ちる通路で大香炉が全身を広げるように立ち上がった。
長い手足、貌の無い頭部。
皮のような質感の全身。
悪夢に姿があるとすれば、正にそのような化け物かもしれない。
「とりあえず聞くけど、アレの正体か使われてそうな技術に心当たりは?」
「ND機械、かもしれない」
虎の声に風御が頬を掻く。
「人体のND魔改造なんてムズい研究成果出てたっけ? ま、それなら幾らかやりようは・・・」
風御がおもむろに懐から三種類の試験管を取り出して、ひょいと無造作にビル側の大香炉へと投げた。
反応した巨躯がそのまま高速で三人へと突っ込んでくる。
風御が腰のホルスターに収められていた拳銃を抜き打ち様に撃った。
巨躯に接触し割れる寸前の三つの試験管を一発の弾丸が一直線上で割る。
直後、混合した三種類の液薬は大香炉の表面で弾けた弾丸の衝撃に反応し、通路内を莫大な衝撃と爆風が突き抜けた。
―――――――――――――――――――マジ?
風御の呆れるような声が二人に聞こえた。
目と耳がすぐに回復した二人が頭を振る。
ズダンと通路を蹴る音と共に鈍い殴打音が続く。
二人が見たのは逃げ道を塞いでいた巨躯が吹き飛び、自分達の横を抜けて起き上がろうとしていたビル側の化け物にぶち当たる瞬間だった。
「硬った。あ~~~確かに化け物なみ。撤収かな、これは・・・」
「だ、大丈夫ですの!?」
朱憐の心配そうな声に風御が笑う。
「大丈夫大丈夫。どうせまだNDで守られてるから。君達もまだ大丈夫でしょ? それよりアレは今の装備じゃ殺し切れないみたいだから逃げるけど、動けるなら早くした方がいい。あっちはまだまだやれるみたいだし」
肩を竦めた風御は早くも起き上がろうとしている大香炉へと銃を無造作に乱射し始める。
「しゅれん」
「はい!」
「レディーの足だと遅い。乗っけてくよ」
風御が銃を投げ捨て二人の下まで来ると朱憐の体をお姫様だっこした。
「な、なな、何を!?」
「ちびっ子は走る事」
風御が疾風の如く走り出す。
背後に付いた虎が頷いた。
二十秒程ノロノロとしていた大香炉達がようやく銃撃の痛でから起き上がる。
二体は腕を伸ばしてガッチリと通路の数メートル前に固定した。
そして、腕が急激に縮む。
巨躯が瞬時に加速し、ミサイルの如く飛翔した。
「おいおい」
三百メートル近く離していた距離が瞬時に百メートル以上縮められるという瞬間をさっと振り返って確認した風御は溜息を吐きたい気分に駆られた。
「ちょっといい?」
「は、はい!」
懐にある情報端末を取り出すように風御が朱憐に告げる。
「この端末の左端、そう、そのボタン。言ったら押して」
ギュッと端末を握り締めて朱憐が頷いた。
「後ろのちびっ子に言っておくけど、遅れたら見捨てるから」
「了解した」
「な、何を!?」
慌てる朱憐の声に風御が罰が悪そうな顔をした。
「気付いてないかもしれないけど、さっき逃げ道の方の奴を殴り飛ばした時に脇腹をやられてる」
「え、虎さん?」
朱憐の瞳に虎が首を振る。
「問題、ない」
「何が、何が問題ないですか!? ケガをしてるならどうして!?」
「大丈夫。心配しなくても、いいから」
風御はそれ以上は何も言わなかった。
化け物が二人の横をすり抜けていく途中に朱憐を掴もうとした。
その指先から庇ったとまでは・・・。
顔色こそ変わらないものの、虎の足が少しずつ遅れ始める。
「虎さん!?」
「気にしなくていい。どうせ誘拐犯、だから」
息が上がり始めた虎が風御の背から離され始める。
「ま、待って、待ってください!!」
「死にたいなら止めないよ。後ろ」
もう二体の大香炉と数十メートルも距離は開いていなかった。
「―――!?」
「この先に、何がある?」
虎が風御の背中に問う。
「ゴミ処理施設側からの悪臭対策と侵入者対策に厚さ四十センチの分厚いシャッターがある。パイプライン以外は完全に切断するやつ。ま、上を爆破してロック外すだけだけど」
大香炉二体との距離はもう三十メートルを切っていた。
「もし、死なせたら、鬼になって出る」
「幽霊は信じてない。けど、ウチに出られると居候が泣き喚いて困りそうだから承知しておくよ」
二人の会話に不吉なものを感じて朱憐が口を挟もうとしたが、虎と瞳が合った瞬間に言葉が口内に消えた。
「・・・・・・後は任せる」
虎が立ち止まった。
「餞別だ」
風御がサッと己の腰から銃を落とした。
「虎さんッッッ!!!」
朱憐が暴れようとした。
「あのちびっ子は君を助ける為に残った。君が出て行けば、あの子は君を守ってすぐに死ぬ」
「――――?!!」
風御の言葉に朱憐が固まる。
バッと路の明かりが消えた。
電源が落ちたのか非常灯も付かない。
「あの子を一秒でも生かしたいなら黙って助かれ。助かった後にどうにかしろ。それが君に出来る唯一の方法だ」
「そんなッッ、そんなのありませんわ!!!」
「あるさ。幾らでもある。そんな話は五万とある。君が知らないだけの話だ」
「あの子はまだきっと何も知りませんッッ!! お友達がどんなに大切なものかッ! 好きな人が出来たらどんなに嬉しいかッ! 甘いものが好きかもしれませんッ! 可愛いお洋服に興味を持つかもしれませんッ! そんな、そんな未来があの子にはッッ?!」
「なら、君は死体に友情を語るの? 恋愛事を話すの? お茶をして洋服の話をするの? 君の言ってる事はそういう事だよ」
「――――わたくしは!!!」
泣きそうに、何よりも強い瞳で、朱憐は風御を睨み付けた。
「後、二十メートル。僕は君にスイッチを任せる。もしも、そうしたいなら君を下ろしもしよう。ただ、あの子の寿命はその時点で零だとだけは言っておく」
朱憐の耳に銃声が響き、目に一瞬だけ銃を撃つ虎の姿が映った。
「あ・・・」
「今だ!!」
その時、朱憐は端末のボタンを押す気など無かった。
しかし、虎の必死に戦う姿にまだ生きているのだと、そんな僅かな安堵が生じ、指は―――――。
爆破。
風御達の背後に迫っていた数メートルは伸びている腕が、上から落ちてきたコンクリート壁に押し潰され、地面へと落ちた。
*
遠方で爆破の火の粉が上がった時にはもうその場から走り出していた。
チャラチャラした男が置いていった銃は反動が殆ど無いにも関わらず凄まじい威力を発揮し、暗闇の中で命中した化け物の体へ大きく孔を開けるのが見て取れた。
(これなら、行ける)
化け物の動きが鈍った時点で撤退の為のルートが幾つか浮かんでいた。
化け物に対して背を向ける恐怖はあった。
それでも両肩への銃撃が腕を伸ばさせないとの確信もあった。
四肢が十分に動けるように回復するまで一足でも遠くへ。
元来た道を走りながら図面を義眼に呼び出す。
パイプラインの点検用敷設通路は一つだけだったがその通路の真横には工事用の通路が存在する。
いきなり背後へと出てきた化け物がいたのはたぶんそういう事だと解っていた。
道は二通り。
工事用の通路へと侵入して今は使われていない郊外の出口まで走るか。
再びビルへと戻るか。
工事用の通路にはたぶん殆ど出入り口が無い。
それはつまり化け物と出くわせば死ぬまで戦わなければならないという事。
再びビルに戻れば出入り口こそ多く隠れる場所や死角はあるだろうが、確実に化け物と遭遇し、切り抜けれなければならない。
どちらもどちらだったが、すぐに回答は出た。
(立ち回りで、切り抜ける!!)
再び通路の終点へと戻った。
化け物が追ってきた通路はまだ崩れていない。
「・・・・・・」
そのまま走り込んだ。
慎重になれば死ぬ。
何処までも大胆に走り抜けなければ命は無い。
そう理解していた。
背後には未だ音が無い。
それでも確実に近づいている事は感じ取れていた。
すぐに出口であるエレベーターシャフトの真下まで辿り着く。
そこで思わぬものを拾った。
ペンシル型のライトが未だに光を放ったまま生きていた。
拾い上げた時、その光が小さな偶然を起こした。
シャフトの真下に扉がもう一つ存在していた。
(これは・・・?)
見れば、シャフト点検用通路との文字。
気が動転していて気付かなかったもう一枚の扉を開けると階段があった。
「しゅれん・・・」
暗闇の中で、誘拐した少女の名を呼んで、まだ助かったわけではないと気を引き締める。
扉を閉め、階段を走り出した。
螺旋状の階段はどうやら他の階とは繋がっていないらしく何処まで上に伸びている。
たぶん、エレベーターシャフトの最上階、ビル屋上から直接降りてくる為のものらしいと気付いた。
だが、もしもそうならば逃げ場は無い等とは考えない。
壁をよじ登る事も降りる事も訓練の内だった。
指先だけで断崖絶壁からビルの隙間まで、とっかかりのある場所ならば上り下りする技術は叩き込まれていた。
息が上がっていくのも構わず階段を上る。
下から何か近づいてくる気配は無かった。
苦しくて足が鈍り、速度が歩く程になっても進む。
よろめいて不意に脇腹を触った手がネチャリと音を立てる。
出血はそれなりにあったが、内臓が出ていない事と歩くのに支障が無い事からまだ無視できそうだと思わず笑みが浮かぶ。
最後の一段を上がり切った。
「はぁはぁ、はぁ・・・」
階段を登り切った場所には巨大なエレベーターの巻き上げ機があった。
稼動していないソレの横。
屋上へと続く扉を押し開ける。
「・・・・・・?」
風を感じた。
熱風と寒風。
煙と薄氷。
ビルは燃えていた。
しかし、屋上の床は凍り付いていた。
夏にこんなにも熱く寒い場所。
化け物がいるのだから、こんな事もあるのかもしれないと日本の不思議を思う。
「ぅ・・・く」
何とかビルの淵まで辿り着く。
ギィィィィ。
そんな音がして、振り返る。
屋上へと続く通常階段からのドアが開いていた。
並ぶのは五体の黒い人型。
三体は何の傷も無く。
一体は両手両足に傷を負い、一体は片腕が無い。
逃がしたくないのか。
いきなり襲い掛かってくる事もなく。
散開した五体がゆっくりと距離を狭めてくる。
持っていた銃で正面の化け物を撃った。
頭部を狙ったものの、頭を横に傾けるだけで回避される。
しかし、銃の威力が大き過ぎるのか。
目の横の部分が僅かに吹き飛んで、中身が見えた。
「大兄・・・・・・」
今回の件のリーダー。
いつも威張り散らしてはいたが金回りは良く、女には他の幹部より優しかった。
自分を何故かいつも重用し、友人になろうなんて冗談を言って、自分をいつも撫でていた。
周囲の大人達にどうしてかと聞けば生温い視線と下卑た笑みが返ってきて、その意味を近頃は少しだけ理解できていた。
そんな間柄の男の顔が見えた。
【………虎(フゥ)】
感傷が奇跡でも呼んだのか。
男の声が聞こえた。
「!」
しかし、
【……神の御意思を】
もう、中身が違うのだと悟った。
【・・・大兄。残念です】
最後に口にするのは祖国の言葉。
「・・・・・・」
片目を閉じる。
義眼で周囲の電子機器に接続する。
予め用意していたものは全て全滅していた。
どのチャンネルからも応答が無い。
それが切り札を使い切った末の結末ならば、惜しくはあっても、悔いはない。
ドロリと黒いものが解けて体に纏わり付いていく。
せめて、敵は増やさないでおこうと、まだ自由になる腕で銃を頭に当てる。
引き金を引いた。
「?」
弾切れだった。
死ぬ時は誰かに弾を貰って死ねたら本望だと思っていた己が、そんな死に方すら出来ないとは笑うしかない。
(しゅれん。ごめんなさい)
ほんの少しの時間だけ何故か打ち解けられた・・・朋友とは言ってはいけないだろう少女の名を内心で呼んで、諦めようと瞳を閉じる。
そして、耀きが世界を覆った。
死とはそんなものか。
己が無くなるとはそういうものか。
そう、思っていたのに。
目を開ければ、世界の光景は未だ死を否定する。
黒く覆われた地に一本の雷光が落ちていた。
右手の耀きに照らされた男。
その背中はとても似ている。
三国志に出てくる猛将のような、誰かを背にして立つ、物語の主役に似ている。
「動けるか」
声は軽やかに優しく、耳に響いた。
「は・・い・・」
「なら、死ぬな。まだ、やりたい事くらいあるだろ?」
地に突き立つ拳。
“Exhaustion Crest” Dividing Penetrate.
地から放たれる五つの雷。
「・・・はい」
悪夢が掻き消えていく。
世界が再び耀きに閉ざされていく。
「お前達が誰かは知らない」
その日、天命に出会った。
「だが、そんな姿にした奴らなら知ってる」
黒い災厄を払う天命に。
「だから、敵(かたき)は・・・いつか取っておいてやる」
そんな、敵(ばけもの)に優しい言葉を掛ける人に・・・出会った。
それは常に騙られる。
だが、差して意味は無い。
審判の日も変わらず。
人は功罪を産むだろう。
第二十二話「滅びる世界の話をしよう」
明日世界が終わっても女はきっと戦い続ける。
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第二十二話 滅びる世界の話をしよう
第二十二話 滅びる世界の話をしよう
羽田了子(はた・りょうこ)が思うにどんな悲劇が起こっても人間というのは腹も減れば眠くもなる。
幾ら嘆こうと空腹に耐えられる人間はいない。
幾ら泣こうと睡眠を取らない人間はいない。
【黒い隕石】騒動前夜の事を了子は今も覚えている。
世界中が核戦争に怯えながら次々に内戦や紛争を勃発させ、経済活動は崩壊し、犯罪・暴力・略奪・あらゆる悪徳が世を覆い尽くした。
そんな世界が滅ぶ夕暮れに一人小さなデジカメを持って隕石の衝突する瞬間の写真が取りたいと、誰もいない天文台に一人佇んでいたのは良い思い出だ。
いつの間にか気付けば新聞記者になっていた。
世界が滅ばなかった日から十数年。
あの学生だった頃から自分は未だ変わっていないと思う。
食べて眠って働いて、あの日の写真が取れれなかった悔しさを糧に、真実という景色を見る為の、事実というピースを積み重ね続けている。
「・・・・・・」
トボトボと私鉄から降りながら、了子は昨日までいた街の事を思い出す。
外字久重。
様々な事件にその姿の片鱗が見える男。
その生家がある街で結局了子は何も見つける事が出来なかった。
いや、何もというより、誰もと言うべきかもしれない。
街には確かに外字久重という人間の痕跡があった。
しかし、外字久重を知っている人間はいても【出会った人間】がいなかった。
ああ、あの出来の良い子の事かい。
そんな言葉は聞こえてくるが【家の子がそう聞いた】【隣の奥さんが言っていた】【確かあの地区の人が】という具合に調べれば調べる程・・・伝言ゲームが続いた。
生家が何処かを必死に調べた。
近隣に聞き込みもした。
しかし、街の一定区域に入ると情報はパッタリと途絶える。
確か、そこの右の左を、あれ?
そんな調子で街で聞き込みをした住人の誰も生家の場所を正確には把握していなかった。
それでも意地で街中を歩くも生家は見つからなかった。
住民ならば町役場で聞き込みをすればいいと出向いたものの、何故かそんな住所は存在していなかった。
そもそもそんな人間は記録上は存在していなかった。
痕跡という痕跡が無かった。
「・・・・・・」
やはり此処でも意図的に情報が消されているのかと落胆したのは言うまでもない。
しかし、人の記憶にまでそんな事が可能なのかと疑問にも思う。
確かに現在の科学技術ならば人間の記憶すらも干渉可能ではあるとされている。
ナノデバイス開発と同時に脳腫瘍の除去や認知症の改善の為の研究が成された。
海馬の強化技術などの分野では一定の成功が確認されているし、記憶そのものに完全ではないにしろ直接的な干渉が可能でもある。
しかし、街全体で不特定多数の人間にそんな事が可能なのかと問えば実際には不可能だろうし、出来たとしてもそんな大規模な事をしたならば痕跡が何一つ残っていないわけもない。
街そのものに対する調査は外字久重の調査初期段階で殆ど完了していた。
何の変哲も無い山間の街。
交通の便が悪い以外に取り立てて何かあるわけでもない。
そんな場所に秘密という秘密は見つからなかった。
結局、再調査するしかないのだろう。
「・・・?」
都市部の駅まで戻ってきた途端に何か懐かしいような感慨に囚われる。
たった二日の宿泊だったはずだが、やはり賑やかな都市の方が性に合っているのかもしれない。
不意に端末に着信。
メールが一通届いていた。
開けてみる。
差出人は佐武戒十。
内容はしばらく署にはいないとの短い一文のみ。
「ふ~~、一人かぁ・・・」
こんな時こそ傍で話を聞いて欲しかった。
駅の雑踏から抜け出して、入り口で空を見上げる。
熱くなりそうな雲一つ無い快晴だった。
*
午後十一時五十二分。
佐武戒十は叫んでいた。
財閥令嬢誘拐事件。
犯人グループは中国人。
集められたチームは速やかに財閥のSP部隊と共に連携し事に当たれ。
それが佐武の知る事件のほぼ全てだった。
人質救出の顧問として招聘された佐武はいけ好かないテロリスト捜索本部の長である宮田と共に令嬢救出の作戦を立てた。
特定された中国人グループのアジトへと突入する五分前。
突如として周囲の電源が落ちた。
同時に電子機器の殆どが使用不能となった。
バッテリー駆動である大半の装備が使い物にならないという異常事態。
現場が混乱すると同時にまるで大寒波が到来したかのような急激な周辺気温の低下。
その段に至って佐武はデジャブを感じずにはいられなかった。
あの全ての元凶にも思えるテロリスト包囲事件。
その時の状況と雰囲気が似ていた。
嫌な予感。
当たって欲しくないものに限っては当たる勘がヤバイと叫んでいた。
そして、あの時以上の脅威が、来た。
黒い化け物。
頭上から降ってきたソレに次々薙ぎ倒されていく仲間達。
武装を使う間も無く吹き飛ばされるSP。
同士討ちを避ける為の躊躇が一瞬で情勢を決めてしまった。
五体の貌の無い化け物に蹂躙されていく男達が必死に翳した盾は紙切れ同然だった。
本部として使用している黒のバンがひっくり返され、何とか車体の下から這い出た時には全てが手遅れだった。
「!?」
未だ突入部隊の後方に残っていた同僚が立ち上がった時、後悔せずにはいられなかった。
声を掛けられた時、どうして働き盛りで奥さんと幼い娘がいる奴を選んだのか。
そいつが柔道有段者だったからか。
そいつがよく自分と共に現場へ行く男だったからか。
端末の履歴に一番多く名前があったからか。
解らない。
【松井ぃいいいいいいいいいいいい!!!!】
貌の無い化け物に拾った盾ごと突っ込んで行った。
多くの男達が倒れている仲間を建物や遮蔽物の背後へと引きずっていく。
五体の化け物の意識が逸れたからこそ出来た奇跡のような瞬間。
代償は、払われた。
【あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!】
化け物達が蕩けて同僚の全身を覆った。
目も耳も鼻も口も黒いものに犯されてゆく。
ようやく取り出した拳銃で最も同僚に近い化け物を撃つ。
しかし、火花すら散りはしない。
「松井しっかりしろおおおおおおおおおおおお。気をッ!! 気を確かに持てッッ!!! テメェの娘の誕生日プレゼントどうするつもりなんだよぉおおおおおおおおお!!!!」
【あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛】
その叫びすらゴボゴボと明確な音ではなくなっていく。
ただ、瞳だけが、必死に抵抗した末に拭われ今にも黒い粘液に覆われようとする瞳だけが、交差した。
頼むと。
たった一言を告げられた。
「ッッッッッ!!!! 総員ッッ、射撃体勢えええええええええええええええ!!!!! 狙撃班!!! 頭部を狙えぇええええええええええええ!!!!」
もはや無線も通じない。
ネットワークも遮断されている。
何処までも遠くに響くよう叫ぶ。
化け物の周りにはもう誰もいなかった。
グリンと化け物達の頭部が佐武に向く。
「テメェらぁあああああああああああ!!!! 撃ててえええええええええええ!!!!」
硝煙が立ち上る。
辺りを全て包み込むように。
激発し続ける弾丸の数は数百を超えて、それでも終わりなく夜空へと鳴り渡る。
だが、悪夢は終わらない。
「クソッッ!? 何なんだッッ!!!」
数百発の銃弾に傷つく様子もなく、ライフル弾すら当たった直後にポロポロと黒い表皮から零れ落ちていく。
「うッ?! が、な・・・に・・・・?!」
佐武がその場でグラリとよろめく。
その瞳には同僚達とSPが同じようにフラついて倒れていく様子が見えた。
強烈な吐き気、眩暈、頭痛。
(BC兵器?! 何か撒布さ―――)
急激に平衡感覚を失った佐武が倒れ臥すのを意地の二文字で堪え切る。
佐武を次ぎの獲物としたのか。
六体の内の一体が佐武の前へと歩いて来た。
思考が掻き乱されていく中、佐武は僅かに顔を上げる。
(!!)
化け物の足はまだ完全には同化されていなかった。
履き潰したからと新しく新調した同僚の革靴が目に入った。
ゆらりと腕が佐武を掴み上げた。
視界には貌の無い頭部。
佐武に近づいた頭部から僅かに声がした。
【……佐武さん】
「ま、つ・・・い・・・」
僅かな希望を佐武が得る前に声が続ける。
【神の、下僕に】
「ッ・・・お・・・まえ・・・」
頭部から黒い表皮が解け、佐武の口内へと侵入しようとした時、世界が明滅した。
地面に放り出され、衝撃で咳き込む。
佐武の涙で滲む視界の中で未だ世界が明滅を繰り返していた。
ドシャリと佐武の前に何かが落ちてくる。
「ぅ、ぁ、あ、あ゛―――」
辛うじて動く手で擦った目が見たのは黒い泥に塗れた同僚の首だった。
ボッ。
そんな音と共に首が泥ごと赤熱し融け始める。
「うあ゛ッッ?!!」
ガチガチと歯の根が噛み合わず、佐武は己の意識が落ちていくのを感じた。
同僚が融ける炎に照らされた世界には黄金の光が舞う。
「―――――」
漆黒の外套を纏ったソレの姿が融け崩れる化け物達の傍にあった。
死を司る女神。
怖気が走る程に美しい哀しげな顔をした少女が手を胸に当てて黙祷していた。
【ごめんなさい】
そんな声がして佐武の意識が薄れていく。
次の瞬間にはもう女神の姿は幻の如く過ぎ去っていた。
*
「・・・・・・?」
意識が戻った頭はぼんやりとしていた。
不意に意識の底に張り付いた光景が瞬く。
必死に生き延びようとしていた友達になれるかもしれない少女。
愛しい人の友人。
黒い無貌の化け物。
爆破された天井。
落ちてくる壁。
「?!!」
朱憐はその場でガバッと跳ね起きた。
ゴッ。
そう頭蓋があまり立ててはいけない音を立てて。
「~~~~~~~~~~~~!??」
朱憐は自分がようやく透明なカプセルに入れられているのだと気付く。
病院などに普及している高濃度酸素カプセルだった。
腕にはカプセルの外から繋がれている点滴の管。
体に掛かっている白い布団の感触は覚えのあるもの。
カプセル越しに見覚えのある部屋の天井が見えて、そこが自分の家だと知る。
「大丈夫か!? 朱憐!!」
カプセルがゆっくりと開いた。
横を見れば父の姿。
その横で大勢の医療スタッフがこちらを見つめていた。
「おとう、さま?」
何も言わず、抱き締められた。
「あ・・・」
白いものが混じり始めている長い髭が少しくすぐったく感じて、朱憐が僅かに口元を緩める。
「ただいま、帰りました」
「あぁ・・・」
「すいませんがあまり強く抱き締められますと」
横に付いていたスタッフに諌められて、名残惜しそうにしながらも抱擁が解かれる。
「お父様。わたくしはどうやって此処に?」
その問いに僅か顔を顰めた海造はしばし沈黙してからこう言った。
「あの胡散臭い経歴の男だ」
「え?」
「少しは・・・使えると認めざるを得んな」
「あの、お父様?」
「お前を連れてきたのは無能な警察や家のSPではない。いつもお前が食事を作りに行っている男だ」
海造の言葉に朱憐が驚き、何かを噛み砕くようにして、瞳を閉じる。
「ひさしげ様・・・」
「ッ、様付けなど要らん! 要らん・・・が・・・いい。今は寝ていろ。後はこちらで全て済ませておく。話は体調が戻ってからだ」
朱憐が首を振る。
「今、聞いておきたいです。わたくしがどうして助かったのか。そうしないときっとわたくしは後悔します」
「朱憐・・・」
「お父様。わたくしは布深家の娘ですわ」
強い瞳の光に押されて海造が先に折れた。
「・・・今日の三時頃お前を連れてあの男が来た。警察と家のSP達の殆どがBC兵器らしき何かでやられたと報告を聞いて、一時絶望していた私の前にな」
海造が不機嫌そうに告げる。
「お前は無事だと。それ以外何も語らずあの男は去った。事後処理があるとか無いとか言っていたが詳細までは解らん」
「そう、ですか。ひさしげ様らしいです」
思わずその時の光景が想像出来て朱憐が微笑む。
「お前を襲ったらしき中国人共だが数名の死者を残して行方を眩ませた。警察が新たな部隊を送ったが、その時もうビルには影も形も無かったそうだ。あの男からも話は聞いていない」
「―――そう」
朱憐がそっと目を瞑る。
一筋、涙が流れ、海造が慌てた。
「ど、どこか痛いのか!?」
「いえ、少し緊張が解れて・・・」
「そ、そうか。なら、これでもう本当に休んでくれ。私も疲れた・・・」
六十を過ぎた海造の目には未だ力が宿っている。
疲れた等とは誰の前でも口にしない父親が自分の為にそんな言葉を吐いたなら朱憐は頷くしかなかった。
(わたくしは結局あの子を・・・)
救えなかった。
あの未来があったかもしれない少女を見捨ててしまった。
そんな己への失望と悔恨の中、久重と常に一緒のソラは大丈夫だったのだろうかと不安が更に襲ってくる。
「では」
スタッフが再びカプセルを戻そうとスイッチに手を掛ける。
「あの、最後に一つだけ」
「何だ?」
「ひさしげ様の隣に女の子がいたと思うのですけど、大丈夫でしたか?」
「あ・・・ああ、あの男が連れていた子達か?」
「達?」
「お前が仲良くしているとは部下達から聞いている。片方はお前の病状を詳細に伝えてくれた。もう片方はしきりにお前の事を心配していたが」
朱憐が二人の少女、漆黒と小豆色の外套を思い浮かべる。
「黒と小豆色の外套の子ですか?」
「いや、黒い外套に褐色のトレンチコートだったと思うが?」
「!!」
体に思わず力が入った。
「ど、どうした!?」
「いえ、何でもありません。何でも・・・」
朱憐がグッと泣きたいのを我慢する。
「後で、回復したらお礼に行かせてください。お父様」
「ん、いや、しかし」
「・・・・・・」
「・・・・・・好きにしなさい」
折れた海造は頷いた。
再びカプセルが閉ざされる。
眠気に襲われた朱憐はただただ内心で呟いていた。
良かったと。
本当に良かったと。
何度も何度も、閉ざされなかった少女の未来を、朱憐は喜び、胸を震わせた。
*
融け崩れた化け物を後にしてソラがビルへと駆け出していく。
後には倒れた警察官とSP達だけが横たわっていた。
後数分で新たな警察の部隊が到着するだろうという現場で似つかわしくない香りが立ち込める。
それは紅茶の香りだった。
倒れ臥した者達の間を場違いな香りを纏いながら歩く者が一人。
その手には小さな魔法瓶が一つ。
道端の電灯のポールに背を預けて、男が瓶の蓋を開けた。
男の姿が湯気に曇る。
顔に付いた水滴を払って、未だ道端で融けている化け物達と酷似した姿の男は紅茶を蓋に注ぐ。
化け物達と同じ質感でありながら、男には化け物達と明確に違う点が一つだけあった。
男には顔があった。
目も鼻も耳も口も存在していた。
細い目にシニカルな笑みを浮かべる口元。
尖った耳に横から見れば三日月にも見えるような高い鼻。
そんな異常が倒れ臥した男達の間でお茶を楽しみ始める。
「?」
暗がりから出てくる客に気付き、男が振り返った。
「アンタ・・・何?」
シャフが警戒心も露骨に男を睨み付ける。
「何と聞かれれば答えもしよう。世界平和を憎む簒奪者」
「?!」
シャフが己の周囲に展開していたNDの警戒レベルを引き上げた。
「そう気負わないでくれたまえよ。これでも私は平和主義者だ。君の言う【連中】の良心と自称するくらいには優しい方だからね」
「化け物が死んだら化け物の親玉が出てきたみたいに見えるわよ?」
皮肉げなシャフの言葉に男は紅茶を飲みつつ微笑した。
「親玉というところはそう違っていないな。私は情報管理の職にあるし、融けてるこいつらは私の作品だからね」
男が今は消し炭になりつつある化け物達の残骸を見た。
(大香炉の開発者?!)
内心の動揺を表に出さなかったが、シャフは背中に流れる冷や汗を止めらなかった。
「随分な大物が出てきたじゃない。何が目的? アタシはあいつから信託を受けて此処にいる。監視任務は続行中でその任の責任者はターポーリンから動いてない」
「そうだ。確かに監視任務はあの道化の任だろう。でも、今回の件はそちらとは別件だ」
「別件?」
「大陸を中心に情報管理をしているからね。君達の支援をしに来たわけだ」
「支援ですって?」
「他の管轄における環境に被害が出ないよう状況の保守管理をする。それが我々の仕事でね」
男の笑みにイラッと来たシャフがNDで病原体の準備をしながら睨む。
「それってアタシ達の任務に首を突っ込むって事?」
「そう怒らないでくれたまえよ。どちらかと言えば君達の方が新参者だ」
「どういう事」
「前々からこちらが活動していた地域で君達が働いているという事だよ。ちなみに君達の件では色々とサポートもさせてもらった」
「アタシは知らないわよ」
「アジア圏での情報操作は永続的に行っている。我々は君達のような下っ端が働きやすくなるよう下地・環境を整えるのが仕事だ。それ自体は君達に直接的に関わってやっている事ではないから、君達が知らないのも無理はない。ま、君達の中で知っているのはあの道化くらいだろうが」
(ターポーリンの奴・・・)
シャフが後で問い詰めなければと臍を噛む。
「日本の警察に喧嘩売るのが仕事だって言うのかしら?」
「君が監視する人間達の周辺環境保全は優先事項になっているから致し方ない」
「優先事項?」
「そう。君の監視する【D1】所有者であるソラ・スクリプトゥーラは誘拐された財閥令嬢と関係が深い」
「誘拐・・・何の話?」
「おや? 知らないのか? 布深家の令嬢が誘拐されたのだよ。それでわざわざ出向いてきたのだが」
「【大香炉】を投入しておいて何の戯言かしら」
「一応、セーフティーは掛けておいたのだがね。目標である令嬢以外は全て通常通りの排除と増殖、記憶の抹消。令嬢を捕獲したらそこら辺に置いておくように設定してある」
男を睨み付けていたシャフだったが、周囲に展開していたNDが大勢の足音を拾って路地裏に踵を返した。
「せいぜい狙撃手に気を付けるといいわ」
「ああ、それなら心配ない。全部処置済みだよ」
「!!」
路地裏に転がっていた空き缶を思い切り蹴り付けてシャフは道の奥へと消えていった。
警察の増援がその場に到着すると周囲が一気に慌しくなり始める。
しかし、その場からまだ男は動いていなかった。
魔法瓶から紅茶を最後まで注いでゆっくりと味わっていく。
その間にも倒れこんでいる警察とSP達が近くまでサイレンとランプ無しで来た救急車に運び去られていく。
男は魔法瓶から紅茶が一滴も出なくなった頃、ようやくその場からノソノソと歩き出した。
緊迫した空気に多くの警察官が配備されている場で男は明らかに浮いている。
だが、誰も男を見ていない。
その場の誰もが、異様な化け物が真横を通り過ぎていっても平静だった。
「帰ろうか。また明日からあちらだ」
男の声に暗闇の中から大香炉が二体現れると付き従った。
その様子はまるでよく躾けられた犬と主のようにも見える。
「さぁて、【ADET】への謝礼に幾ら包むか」
【【………】】
無言の大香炉達からの返答は無い。
しかし、その表皮のNDが蠢いた気がして男が嗤う。
「・・・・・・解っているよ」
【【………】】
「あの男が描いた道ならば、もはやそれは運命、いや天命だ」
【【………】】
「悪魔に笑われるのは我々だけでもあるまいさ」
男と化け物が二体、道を普通に歩いて場を離れた後、警察官達の一人が空の魔法瓶を発見するも、仄かな温もりと紅茶の香りが残る魔法瓶の謎が解ける事は永久に無かった。
*
アズ・トゥー・アズ。
そう呼ばれる女が一人巨大なレンズ風車の下に立っていた。
大規模洋上発電プラント。
日本の浮体技術や太陽電池技術、あらゆる発電に関する技術の粋を集めた夢の発電所。
三十年程前から原発の代替として普及し始め、今では日本の総電力の半分以上を水力と共に二分している日本の心臓部。
その連結された巨大な浮体の集合体上でアズは棒アイスを舐めていた。
「・・・・・・」
どうやって冷たいアイスを持ち込んだのかと疑問に思うような場所で暗闇に沈んだ水平線を眺めている背中は哀愁と言うには聊か風情の足りない様子でグッタリと待っている時間の長さに比例し、萎(しな)びている。
生温い潮風、穏やかな潮騒、風車の回る音。
不意にアズが視界に海とは違うものを捉えた。
それは少しずつ大きな輪郭を浮き上がらせる。
それは巨大な漁船だった。
船は速度を落とし、アズのいる浮体にゆっくりと接岸していく。
本来ならば不審船が近づくだけで海上保安庁やらスクランブルした戦闘機やらが飛んで来てもおかしくない場所にその船は何の躊躇も無く近づいているという事になる。
監視機構やらレーダーは正常に作動している。
プラントの管理者も真面目に仕事をしている。
それでもその船は見つかっていなかった。
見回りの警備員だけが今日は不意に舞い込んだ母危篤との知らせに慌てて走り、シフトをいきなり代わってくれと言われた友人は本部からいきなり届いた時刻表を確認して三時間は寝ていられるとご就寝だろうが、そんな事は社会人ならよくある話で済むだろう。
致命的な三時間の間に何かが密かに運び込まれ、何かが密かに取引されたのだとしても、それは見つかっていないし、電子情報上では存在していないのだから、問題はない。
接岸した大型漁船から出てきた男が一人アズの下へと歩いてきた。
でっぷりと油の乗った体は着ているスーツをはち切れんばかりに膨張させている。
鼻の赤い五十代の男がニコリとアズを見て笑った。
「おヒさしぶり」
イントネーションにはおかしな訛りがあった。
「品は?」
アズの質問に男が頷く。
「金を一トン。白金を百キロ。レアアース一式を二トン。爆薬はTNT一トン。弾薬は四百キロ。重火器は指定されたのをデータから再現シたよ。爆薬モだけど、本当にあんな時代遅レでいいの?」
「戦争がしたいわけじゃないからね」
「今なら最新の銃も飛行機も戦車も安くすルよ?」
「GIOからの横流し品だからって手を付け過ぎじゃないかい?」
「はは、ソれ面白い冗談よ。コれ自前よ。銃も飛行機も戦車もヨ」
アズが男の様子に苦笑する。
「ま、いいよ。それが君のでもGIOのでもね。銃に関しては前々から頼んでたのを前倒しさせたんだから、報酬は弾むよ」
「銃ともカく。金属数日で用意スる。大変大変ダた」
男が腹を揺すって胸を張る。
「どうせ軍閥が閉鎖した鉱山とかで人死に出して掘ってたものだろうに。戦争前の軍資金だろう? 買い手はGIOだったけど軍閥間の摩擦で売りたくても売れなかった代物だ。違うかい?」
「さ、さぁ? 何の話ヨ」
「これ以上は突っ込まないでおくけど・・・銃の出来は?」
「上々よ。あナたの注文。旧いトいうより骨董品よ。データ探スの苦労したよ。本職ダた人に前々カら頼デたケど、納入今日てナッて凄イ急がセた」
「本職? まぁ、確かに既製品よりそっちじゃ旧い密造品を扱う人間が多そうだけど」
「違うヨ。本場ノ会社で試作品作テた人。今時珍シい本物のガンスマスよ」
「ガンスミス」
「そう。それそレ。久しブりに古い銃ノ仕事で面白カたて」
「期待しておくよ」
ニコニコしながら男が小さな端末を差し出す。
それにアズが指でサインして金額を振り込む。
「コレからもゴ愛顧よ」
「また会う事があれば、ね」
「予定通リ。港に下ロして行くカラ」
男が船に戻ると大型漁船はまるで正規の日本の船の如く近くの港へと航路を取った。
「これで準備は整った・・・けど、これからが大変かな」
今まで片手に持っていたアイスの棒をぽいっと海に投げてアズが伸びをした。
「地球温暖化で人類滅亡か・・・懐かしい話だ。まったく・・・」
アズは若い頃、しきりに世間で言われていたエコという言葉を思い出す。
誰もが信じていて、誰もが実感していなかった。
異常気象が増え出して初めて日本人はその人類が地球環境を変化させたという事実を受け入れた。
永遠の暖冬。
雹が降った春節。
地獄の常夏。
乾き過ぎた晩秋。
多くの人間が実感を覚え始めて、やっと世界は動き出したのだ。
しかし、対抗策として打ち出したエコが地球環境という途方も無い規模の話では何の成果も上げないと人々が理解したのもまた早かった。
先進諸国は後進国に義務を受け入れさせる事が出来ず。
後進国は先進国に義務を押し付け続ける事が出来なかった。
結果はもう回復の限界点を過ぎて半ばという事実。
地球環境は今後百年で大干ばつを多発させ、砂漠化した多くの土地から水を奪うだろう。
人間の行う焼け石に水の規制と先進的な環境技術も根本的な解決には至らない。
水資源の奪い合いは激化し、北と南、東と西、大陸と島国、そんな全ての国々を分断する。
渇いた地域から難民が大量に発生し、多くの国で格差と貧困と人口の極大化を招く。
問題は平和な国にこそ飛び火する。
水資源の確保名目に軍備は増強され、それを撃退する為に軍備は増強され、それでも核無き世界には無限のテロの連鎖と消耗戦という選択肢しか無い。
水の濾過技術と豊富な水資源において先手を取る日本は大陸側からの脅威が去る事はまずないだろうし、南方からの伝染病や大陸からの不法移民撃退で騒々しくなるのは目に見えている。
援助や支援という力は実際に世界を動かす。
しかし、幾ら援助しても大陸や他国の全てに行き渡る事は無い。
支援という自己防衛手段も最後には他国からの憎悪の対象になり得る。
持たざる国と持つ国の狭間は果てしなく遠い。
中国軍閥の侵攻は一時的に阻止出来ても不可避だろう。
日本内部にいる移民で戦闘の出来る年齢の中間層を殆ど動員しても億という単位での侵攻には太刀打ち出来ない。
航空戦力、海上戦力の質がどれ程に悪かろうと圧倒的な量の前には屈さざるを得ない。
最後の手段である核を軍閥がある程度使ってでも日本を手に入れたいと考えた場合、中国の主流は決定的に道を違える。
「難儀な事だよ。本当に・・・」
戦争と歴史が繰り返すものだとしても、第三次世界大戦は人類最後の戦争になる可能性が高い。
その主戦場が中東でもヨーロッパでもアフリカでもなく、この極東アジアだとすれば・・・笑うしかないだろう。
もう世界にはヒトラーも東条英機もスターリンもムッソリーニもいないのだ。
戦後はたぶん罪を被る独裁者も無く。
罪を裁く戦勝国すら残らない。
そんな最後の戦争は滅びの引き金。
日本という国の崩壊後、莫大な環境技術の喪失と共に緩やかに滅亡の影が人類に降り、環境の変化に人類の殆どは対応する術も無く消えていくに違いない。
まさに楽園か箱舟でも作るしか道は無くなる。
一部の人間は生き残れても世界という人の生み出す社会基盤は滅ぶ。
WWW(ワールド・ウォーター・ウォー)は人類がこれからの数百年で滅亡するか否かを占う一戦になるとアズには確信出来ていた。
「人類の未来、この一戦にありとか・・・久重なら何て言うか・・・」
ただの誇大妄想と笑うか大変だなと肩を竦めるか。
たぶん、そんなところだろうなとアズは苦笑する。
「時期が来た・・・そういう事なんだろうね・・・」
未来を背負って、女は歩き出す。
誇大妄想の滅亡を止め、好きな男のいる国を守る為に。
最後の審判の日すら神に取引を持ちかけるだろう女の戦いはまだ始まったばかりだった。
青年の周りに彼女らは集う。
朧げに見える空の導を目指す如く。
笑う者。
悩む者。
敬う者。
適う者。
第二十三話「昼の月」
手を伸ばして触れ合えば、そこに差は無く。
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第二十三話 昼の月
第二十三話 昼の月
狂気を孕んだ音色が世界を包み込んでいた。
肉の爆ぜる音。
強く蠱惑(こわく)する香り。
正気は瘴気に飲み込まれ、震える手を伸ばさずにはいられない。
騒々しさとは無縁の静寂が辺りを包み込んだ時、湯気を上げる肉に喰らい付く。
「?!!!」
何が起こっているのか解らなかった。
悪鬼が末期の夢でも見せているのか。
それとも自分の知る世界が実はただの虚構であったのか。
「旨いか?」
絶望する程に美味い。
本当に悲しい程に美味い。
そんな豚の生姜焼きとか言うらしい食べ物だった。
コクコクコクコクコクコクコクコクコク!!!!
久重はそんなに美味いだろうかと首を傾げつつ、首を立てに振るだけの機械と化した礼儀正しい少女を見つめ、昼飯時を長閑(のどか)に過ごしていた。
「ひさしげ。この子お箸の持ち方上手みたい」
「確かに・・・」
布深朱憐誘拐事件解決から数時間後。
我が家に帰ってきた久重とソラは数時間ほどの仮眠を取ってから、かなり重大な案件が布団の横に沈黙と共に鎮座しているという状況に頭を抱えていた。
「―――」
虎(フゥ)という名前らしい少女。
真夏にも関わらずトレンチコートを着ている少女は久重にデジャブを感じさせた。
名前の如く喰らって喰らって喰らい尽くしそうな勢いで白米やらおかずやらがその口内へと消えていく。
食い意地が張っているのはいいとして、何かと微笑ましい気分になるのも置いておくとして、久重は困る。
「本当にお前の仲間が何の為に朱憐を誘拐したのか知らないんだな?」
虎の箸が止まり、その視線が真摯なまでに真っ直ぐ久重へ向いて、首肯が返される。
「下っ端」
自分を指した虎の言葉に久重は嘘が無いと感じた。
「・・・解った」
遡る事午前零時。
久重はビル内部にいた五体の大香炉を倒した後、助けた虎に朱憐に付いて質問し、その行方を知るところとなっていた。
(・・・あいつには感謝しないとな)
遅れて駆けつけてきたソラと共に未だ危険かもしれないビルを降り、保護した虎の治療をしながら、その証言に従って朱憐を追い続けた。
二時間後。
久重は親友が朱憐をお姫様抱っこで持ち歩いているシーンに出くわした。
永橋風御から朱憐の身柄を預けられた久重はビルの惨状に付いて風御から聞かれ、ただ生存者は虎だけだった事を告げた。
その話に【あー、それならいいか】と何だか投げやりな風御は行く場所があるからと早々に消え、後には気を失っている朱憐とそれを心配そうに見つめる虎という図だけが残った。
詳しい話は後回しにして朱憐を実家に届けた久重は家に帰ってきてから風御の証言や虎の話を総合して、一応問題無いだろうとの見解に到り、虎の身柄に付いての相談は仮眠後という事にした。
(やっぱり悪そうには見えないんだよなぁ)
虎から自分は華僑系マフィア【黒星(ヘイシン)】という組織の末端構成員であると告白されたものの、久重は少女にそこまで悪そうな印象を受けなかった。
国際的には子供兵などが後進国で制度化されるような時代。
若い少女が何かしらの組織構成員として扱われるのも、日本以外ならばよくある話。
久重は虎の素直に話す様子に幾らか好感すら持っていた。
誘拐犯と被害者の間に特殊な信頼関係が構築されるという話は有名だが、それはあくまでかなりの時間を要する場合が殆どで、もしもそういった何かしらの関係を短時間で築いたというならば、それは取りも直さず虎という少女の心根が朱憐という少女と打ち解ける程に善良である事を示している。
たった十数時間の関係。
その繋がりの為に命を懸けて化け物と戦い朱憐を逃がした虎の行動は久重の中では大きい。
誘拐犯とはいえ、その組織構成員は全滅している。
帰る当ても無く、生活していく当ても無いだろう虎という少女を久重はいつものお人よしから、どうにかしてやりたいと思うようになっていた。
カチリと箸が揃えられる。
ご馳走様でしたの声。
「詳しいな」
「てれび、見たから。日本人、そうする」
久重が何の事を言っているのか解った虎がおずおずと語る。
三人での食事はそのまますぐに終わった。
洗い物を片付けた久重が湯飲みを三つ用意した。
お茶が注がれて夫々(それぞれ)の前に置かれる。
「で、だ。虎(フゥ)・・・でいいか?」
コクリと虎が頷く。
「お前の処遇を決めなくちゃならない。一応言っておくが、此処は日本で、お前は誘拐犯の一味、更には警察から見たら唯一残った犯人で証人だ。言ってる意味解るか?」
再びの首肯。
「お前がやった事は普通なら今の日本だと無期懲役。無期懲役が事実上の死ぬまでの投獄になってもう二十年近い。要は一生刑務所から出られない。無戸籍、無登録、不法入国、その他諸々の罪で刑は日本人の数倍になるが、お前の場合は若さや情状酌量の余地が認められる可能性もあるから、それよりはマシだろう。ざっと三十年は硬いだろうが・・・」
「そう」
僅か沈んだ様子で虎が瞳を閉じる。
すっかり警察に渡される事を受け入れた様子の虎に久重は罪悪感に駆られながらも更に続ける。
「これはオレ達がお前を警察に突き出した場合の話だ。そして、此処からが本題」
「?」
顔を上げる虎に久重が視線を合わせる。
「オレとソラはお前の仲間を襲った化け物がどういうものか知ってる」
「!」
虎が微かな警戒心を見せる。
「簡単に言うとアレはオレ達の敵が作った兵器、らしい」
「兵器・・・」
「ソラが言うには、オレ達の身近で事件が起こったから出てきた可能性が高い」
今まで口を挟まずに話しの行方を見守っていたソラが頷く。
「つまり?」
「お前の仲間が死んだのはオレ達の知り合いだった朱憐を誘拐したせいだ。直接的に言えば、お前の仲間の死因はオレ達だ」
「・・・・・・・・・」
虎が久重を見つめる。
その瞳の奥には窺い知る事の出来ない何かが宿っていた。
「あの場でお前が見た通り、オレがお前の仲間を確実に五人殺した」
虎が俯く。
久重は己の放った一撃で黒いNDに覆われた男達があの後どうなったのか鮮明に思い出す。
化け物と化した男達はNDから開放された後、人間とは思えない異様な人体模型の如き体を晒していた。
NDに弄繰り回された体からは皮膚が消え失せ、ドロドロと脂肪らしい何かを滴らせながらバッタリと倒れ臥す男達にもう鼓動は無く、息もしていなかった。
「もう、死んでた」
虎の呟きに久重はケジメとしてソラから聞いた事実を話す。
「化け物にされても生きてはいた」
「中身、違った」
虎が久重を見つめ、頭を下げた。
久重が驚きに固まる。
「救ってくれて、ありがとう」
「お前は・・・オレに怒っていい」
困った久重が顔を逸らす事もできず、虎に顔を上げさせる。
「少なくとも仲間を殺してるのは事実だ」
虎が首を振った。
「仲間とは違う。駒同士だった」
久重が少女の生きてきた世界の常識に口も挟めず虎を見つめる。
虎はそのまま己にとっての事実を淡々と呟く。
「幇(バン)は頭や腕や足以外、幾らでも代えがある。指や爪が死んでも、問題ない」
虎の瞳には嘘など一欠けらも無く。
久重が現実はそれどころではないのだろうと内心の重たい溜息を飲み込む。
中国裏社会には人材が腐る程に余っている。
人口爆発と貧困。
その結果は血で血を洗う裏社会に血河を築く。
数万人規模の組織同士が抗争で人命を消費しても、まったく問題にならない。
人間は使い捨ての弾となる。
そういった組織からすれば、三十人前後の人数など正に使い捨ての爪楊枝にも満たない。
「駒は殺されたら、補充されるだけ」
「お前はまだ死んでない」
「・・・どうして、怒ってる?」
虎の純粋な疑問に久重は頭を掻いた。
「お前の国ならそうなんだろう。だが、此処は日本だ」
虎が首を傾げる。
「お前は命を拾った。だけど、此処でお前は駒じゃない。オレにとっては・・・朱憐を救ってくれた恩人だ」
「誘拐した」
「だが、お前は事実、朱憐を救った。命を掛けてだ。此処じゃそういうのを何て言うか教えてやる」
「?」
「お人よし、だ」
久重が虎に手を差し出す。
「・・・・・・」
「友人を命掛けで救った人間に礼を尽くさない奴は中国人だろうが日本人だろうが移民だろうが化け物だろうが、ただのクズだ。違うか?」
虎が久重を見つめ、その手を見つめ、己の手を見つめ、最後に胸に手を当てて。
「・・・違わない」
ゆっくりと差し出された手が掴まれた。
「オレは外字、外字久重だ」
「がじ・・・ひさしげ?」
「ああ」
「自分、小虎(シャオフゥ)・・・虎(フゥ)でいい。ヒサシゲ」
「解った」
決して強くは無い力で、しかし確かに硬く握手が交わされる。
*
何故だと問う事に意味はない。
哀れだと思う事に善意はない。
行動で全てを示す事だけが歩みを進める。
そう身を持って知っているからこそ、ソラ・スクリプトゥーラは一切の口を挟まず、ただ二人を見守っていた。
虎という少女は仲間の死の要因がどうであれ、きっと理由を問わなかった。
久重という男は誘拐犯達の末路や経緯がどうであれ、きっと少女を哀れまなかった。
つまりはそういう事だとソラは思う。
ソラの時もそうだった。
外字久重という青年は自分が馬鹿げたSF話に巻き込まれたのに理不尽への疑問など口にしなかった。
全てを語った自分を哀れむ事など無く、こちらに可哀想なんて言葉一つ吐きはしなかった。
それは普通とは乖離した世界に生きているから、というだけではない。
人間としての芯に他者への驕(おご)りが無いからだ。
自分のありのままで他人に触れている。
(だからこそ、ひさしげは私なんかよりずっと強い)
初めて久重がNDを使って戦闘を行った日。
ソラは聞いている。
薄れる意識の中で憎むと口にした声を。
己の弱さに、不甲斐なさに、目の前の誰かを救えぬという事実に、己を憎むと言った声を。
人を殺してしまったと暗闇の中で感情を抑えている声を。
(自分の弱さを自覚するからこそ・・・)
あの時からソラには解っていた。
外字久重という青年は身を置く世界こそ異質でも、その本質は普通の人間だった。
日本人にありがちな良心を持つ人間だった。
いざという時、人殺しを躊躇わない己とは違った。
どんな世界に身を置いても性根が真っ直ぐ過ぎる、傷付きやすく苦しみやすい、そんな青年だった。
(きっと、ひさしげは私達と違って壊れてない)
暗い世界に染まったソラ・スクリプトゥーラや敵とは根本的に違っていた。
「ひさしげ。いい?」
「ん? あ、ああ」
握っていた手を離した少女『虎(フゥ)』に向かい合う。
「?」
「ひさしげは五人だったけど、私は九人」
「ソラ?!」
止めようとする久重をソラは手で制止した。
「私はひさしげみたいに手加減はしなかった」
虎の視線に怯む事なく。
「全員を完全に融かした」
ソラは語る。
「跡形も無く」
虎の視線は不意打ちの告白に揺らがず。
「最後に何か、言ってた?」
静かだった。
「いいえ」
「・・・なら、良かった」
「え?」
ソラが驚き、虎が微かに笑む。
驚く二人を虎が見つめる。
「幇の男達は、誰も皆、弾で命を落とす。病気や命乞いで死ぬの、名誉と違うから」
唖然とする二人に虎は続ける。
「いつかそうやって死ぬの、自分の夢」
「――――――」
久重は虎の言葉に複雑な瞳で頭を掻き、ソラは自分よりも過酷な現実を生きている人間を初めて見た気がして、己の恵まれた境遇を思い知った。
確かにソラは自分が決して普通の人間よりは不幸なのだろうという自覚がある。
しかし、それでも久重という理解者を得た。
今まで多くの人間に支えてもらってきた。
自分で何かを変えられるだけの大きな力を持っている。
だが、虎はいつか自分も男達のように死にたいと、それが夢だと言った。
其処には未来への展望など無い。
過去への未練など一欠けらも無い。
力すらソラに比べれば微々たるものだ。
それでも組織に消費される事を良しとし、死に方は選べるからと、過酷な終わりがせめて良いものであれと、そう望んでいる。
そこに名誉はあるのか。
無いに等しい。
捨て駒に名誉という言葉は虚しい。
それを虎は解っている。
そもそも虎は自分で言っていた。
組織にとっては自分はただの駒にしか過ぎないと。
それを自覚しながら、男達の死に方を目にしながら、それでも虎は言った。
出来うるならば、男達のように戦って死にたいと。
有って無い、不名誉ではない死に方ならばいいと、自分の終わりを決めていた。
「どうか、した?」
本当に純真な瞳で聞いてくる虎にソラは強さを見る。
「私の名前はソラ。ソラ・スクリプトゥーラ」
「ソラ?」
「ひさしげの所に居候してるの。シュレンとは・・・友達」
「しゅれん・・・」
虎が心配そうに顔を俯かせた。
「大丈夫。シュレンは貴女のおかげで傷一つ無かったんだから」
ソラは大丈夫だと虎の手を握る。
「それなら、いい」
虎の薄い笑みにソラも微笑む。
「で、だ」
二人の少女が打ち解けた様子に久重が割り込んだ。
「虎。お前の処遇だが」
虎は最後にこの二人に出会えて良かったと全てを受け入れるつもりで久重を見つめた。
「とりあえず、これからの事を考える時間が必要だろ。何かしらの方針が決まるまでは此処で面倒を見てやるから安心していい」
「???」
何を言われているのか理解不能となった虎がソラに視線を映す。
「つまり」
ソラは本当によく解っていないらしき虎に今一度手を差し出す。
「【これからも】よろしくって事」
その手の意味に気付いて、虎は手を取るか躊躇い、青年と少女の笑みを見つめて、おずおずと手を差し出した。
「お世話に、なります」
「そうじゃない。一緒に暮らすかもしれないんだ。そういう時は素直に一言でいい」
表情の薄かった虎の頬に軽く朱が差した。
「あ・・・あ、ありが、とう・・・」
頭を軽く撫でてくる久重を見上げながら、虎は思う。
世界の広さと人の温かさ。
未だ己の知らないものが世には沢山あるのだと。
虎の胸が、高鳴る鼓動が、全てをそう教えていた。
*
GAMEに向けた準備を着々と進めていたアズの下に連絡が来たのは夕方もそろそろ終わろうという時間帯だった。
久重のお願いと大概の事情を聞き終えたアズが溜息を吐いたのは言うまでも無い。
自分の知らない間に誘拐事件を解決したら、何故か誘拐犯の一人である中国人らしい少女を拾ったので、これからの相談に乗って欲しい。
会話に「・・・」が多様に含まれてしまったのは仕方ないと言える。
日本の命運を掛けたGAMEが明日から始まるという事実を忘れているのかとツッコミたいのも山々にアズはその愛しい男の願いを聞き届けざるを得なかった。
最後の準備が終わったら行くと投げやりに端末を切り、クーペでアパートへと向かったのは九時頃。
いつもなら使わないアパートに近い駐車場へクーペを止めて、さて歩くかといそいそアパートに向かったアズの行く手に・・・いつの間にか暗い道を一人歩く学生がいた。
何処の夜遊び好きな女学生だろうかとアズの視線は女学生の制服に引き寄せられ、違和感を覚える。
少なくとも夜遊びするような人間が入れる高校の制服ではなかった。
「・・・・・・」
足音しか響かない道で不意に視線を感じて周囲を検索すれば、無数の男達が何やら物騒な代物を持ってあちこちから暗視ゴーグルで監視し集音マイクで音を拾っている。
更には数人の警察官らしきスーツの男達に公安らしき男達の影まである。
辺りを綿密に検索すると殆ど死角無くカメラが張り巡らされていた。
通信を拾って端末に接続する。
電話が掛かってきたフリをして耳に当てると大たいの経緯が解った。
公安の見知った顔は無かったものの、連絡口は持っている。
アズはすぐに端末でメールを送る。
すると二十秒もせずに辺りがざわつき始めた。
それを確認して、辺りのオンライン監視カメラと電子機器へ制限を開始する。
相手側は緊張が走っているものの、正体を知っている公安から説得されているらしく、男達も警察も手を出してはこなかった。
「ちょっと、いいかな。布深嬢」
「?!」
ビクリと体を震わせる朱憐はすぐにアズの方を向いた。
その体の強張らせ方から間違いなく本人だとアズは確認する。
「誘拐されて敏感になってるのは知ってるよ。でも、そう驚かないでくれないかな。君は僕を見た事があるはずだ」
「え・・・あ、た、確か・・・ひさしげ様の?」
立ち止まって近づいてくる朱憐に顔がよく見えるよう電灯の下にアズは歩みを進める。
「ご名答。君には一度か二度、顔を見られてる。久重に仕事を斡旋してる人間って言えば解るかい?」
「あ、アズさん、ですか?」
「アズトゥーアズ。何でも屋の主と言っておこうか」
「こんな夜にひさしげ様に何か用でもあるのですか?」
「明日の仕事の話と久重からの依頼の件でね」
「そう、ですか」
「それにしても誘拐されて救助されたその日に出歩くなんてよく許されたね?」
「お父様に物凄く止められました。でも、約束は守らせてくれた。それだけですわ」
「そうか。なら、一緒に行こう。五月蝿い連中も一応今は大人しいから文句は出ないだろう」
「・・・SPの方達ですか?」
「警察と公安もいるよ」
朱憐は何処か申し訳なさそうに辺りを見回した。
「警護対象に気を使われるとか逆にあっちが泣けてくると思うから知らないフリでもしてあげたらいいんじゃない?」
「・・・では、そうしますわ」
二人がアパートまでの短い道のりをトボトボと歩く。
「その・・・アズさんはよくこんな時間にひさしげ様のお家に?」
殆ど見知らぬであろう正体不明の胡散臭い女に話しかける度胸をアズは嬉しく思う。
愛しい男がそういう女に好かれているという事実が少し誇らしい。
「この間まではしょっちゅうだったかな」
「お仕事ですか?」
「今はさすがにそれ程でもないけど、借金を返そうと躍起になってたから」
「・・・ひさしげ様の借金に付いては知っていますわ。金額は如何ほどなのですか?」
「知ってどうするんだい?」
「もしも、わたくしに返済できる額ならば、肩代わりしても良いと思っています・・・」
「それを久重が望まないとしても?」
「今回の件でようやく解りましたから・・・」
「何がだい?」
「わたくしとひさしげ様の関係を知る人間は皆が皆ひさしげ様がわたくしに釣り合うかどうかを考えて話をしますわ。でも、本当は・・・ひさしげ様にわたくしが相応しいのかどうかが問題なのです」
「君は財閥令嬢で片や久重は借金地獄の苦労人だけど」
「社会的にはそうかもしれません。でも、わたくしには富があっても資質が無い。ひさしげ様に相応しいだけの女としての資質が足りない」
「買いかぶりじゃない?」
「・・・好きな男の人生一つ守れなくて何が女かと、そう・・・わたくしは思いますわ」
「男の台詞だよソレ」
「わたくしがひさしげ様を支える方法はひさしげ様には受け入れられないかもしれません。でも、わたくしがひさしげ様に対して捧げられるのはこの身一つとこの心だけ。その裁量でひさしげ様の人生が少しでも良く変わるのだとしたら、心身の捧げ方を選ぶくらいには恵まれているわたくしにも・・・価値があると思いませんか?」
アズが目を細める。
「・・・アズトゥーアズとしてなら君の決意は僕を動かすに足るよ。もしも、相手が久重じゃなければ、大幅割引で借金を立て替えてもらっても構わないくらいだ。けど」
「けど?」
「久重はそれを望まないし、僕もそれを望まない」
「え?」
驚く朱憐の顔にアズが微笑む。
「僕にとっても久重は特別だって事さ」
「アズさんも・・・まさか・・・」
「布深嬢。君は久重がどうして莫大な借金をしてるか解るかい?」
「いえ、その・・・聞いてはいけない気がして・・・まだ・・・」
「教えてあげるよ。久重の借金の殆どは僕と出会ってから出来たものだ」
「それはどういう?」
アズが胸元から一本タバコを取り出した。
もう目と鼻の先にあるアパートを見つめながら、塀に寄り掛かってジッポで火を付けて咥える。
「僕はこれでも資産家でね。そして、僕の仕事は所謂何でも屋。フィクサーって名乗ってもいいかな」
「裏の、ですか?」
「そうだよ。そして、最初あのどうしようもなく真っ直ぐな馬鹿は手下として雇ったんだ」
「手下・・・」
一吸いして煙を天に吐き出しながらアズは煙に過去を見る。
初めて久重と会った日もこうしてタバコを吸っていた気がした。
近頃めっきり吸わなくなったのはどうしてだったか。
「色々とあったよ。色んな人間と出会った。その度に僕はあの男に金を貸した。具体的には料金を取るべきところをツケにして仕事をした」
「ツケ?」
「ある時は死に掛けたホームレスに一輪の花を。ある時は何も無いスラムに学校を。ある時は病気の外国人の子供に手術代を。ある時は移民の男の子に奨学金を。
ある時は親の死んだ少女に養子縁組先を。ある時は死んだ子猫の為に十字架を。ある時は自国から逃げ続ける工作員に新しい人生を。ある時は戦わなくてもいい悪と戦う為の弾薬を。
終始そんな調子だったから借金は瞬く間に膨れ上がった。僕はその度に言ったよ。これは君の命の値段だってさ」
「そんな・・・ひさしげ様は他の誰かの為に?」
「ソラ・スクリプトゥーラ。ソラ嬢だって例外じゃない。今はまだ保留にしてあるけど、もしも時が来る事があれば、もう一度新しい人生を歩ませるだけの準備はしてある」
「・・・知りませんでした」
「当たり前だよ。君以外に喋ったことなんてないんだから」
「どうしてかな。人を好きになるなんて真昼の月みたいなものだって解ってたのにさ。いつの間にか、本当に知らない内に僕はあのどうしようもない男に惹かれてた」
「アズさん・・・」
「死ぬ人間に花くらいいいだろう。学校があれば体を売らなくてもいいんじゃないか。将来、肖像画を書いてくれるまでは生きてて貰わないとな。奨学金があれば大学くらい出られる頭はしてるみたいだ。未来を自分で決められるようになるまでは誰かの手があったっていい。自己満足だろうとも墓ぐらい作ってやりたい。まだお前はやり直せるとオレは思う。悪党と戦うなんてカッコイイだろ? 全部、外字久重の言葉だ」
「それは・・・」
「しかも、借金は誰の為でもなく自分の為だとあの男は言ったよ。何の衒(てら)いも無い眼差しで、何の驕(おご)りも無い表情で、自分の為だってね。止めてくれよ。僕はどれだけ薄汚い自分を洗えばいいんだ。そう思った事は片手の指じゃ足りない」
タバコはもうフィルター以外灰になっていた。
「借金は己の無力を購った証。それを返す事は久重にとって絶対に譲れない己の無力の証明。だから、久重はどんな事があっても借金は自分の手で返すだろう。自分の限りある人生を削ってね」
「わたくしは・・・」
「それに僕も君には返して欲しくないよ。僕にとってこの債務は人生を賭けて回収するに値した唯一のものだ。最初に言っただろう? 僕は資産家だって。別に僕は金が欲しいから金を貸してるわけじゃない。誰がどれだけ払おうと僕の手で久重から回収しない限り、この借金には意味が無い」
朱憐が完全に沈黙する。
「僕も君と同じなのさ。あの男に相応しいだけの女になりたい・・・ホント、馬鹿馬鹿しい限りだけど」
すでに火の消えているタバコをポイ捨てしたアズがゆっくりとアパートに向けて歩き出す。
その後に続いた朱憐は己が久重の何も解っていなかった事に少なからず衝撃を受けていた。
階段を上る足取りも遅くアズが背後の朱憐に語り続ける。
「布深嬢。【敵】として君には一つだけ塩を送っておこう」
「・・・はい」
「あの馬鹿の往く道は限りなく険しい。いつ死んだっておかしくない。実際、今まではそうだったし、これからは更にそうなるだろう。でも、付いていく僕もそれは一緒だ。だから、もしも僕がいなくなったら・・・その時は後を任せるよ」
「え、アズ・・・さん?」
目的のドアの前、振り返ったアズは飛びっきりの悪戯っぽい笑みで人差し指を唇に付けた。
「僕と君だけの秘密だ」
二人の間に下りた沈黙は短く。
「―――――はい。期待しないで待ってますわ」
二人は顔を見合わせてクスクスと笑い合う。
そっとドアノブが回された。
*
昼時の話し合いを持って幾らか虎と打ち解けた久重とソラは夕飯を食べ終えた後三人で銭湯へと赴き、すでに家まで戻ってきていた。
久重はアズが来るのを待っていたが、虎は部屋の端で一組布団を敷き、久重の予備のブカブカなパジャマ姿でソラと様々な事を話している。
主にソラが日本の常識や知識を与えているが、それは教師と生徒というより、仲の良い姉妹のように見えなくもなかった。
人種も肌の色も髪も身長も年齢も違う二人がそうやって布団の上で話している様子は微笑ましく、久重の胸の内に温かなものを灯す。
「・・・・・・」
「何、ひさしげ?」
「ヒサシゲ?」
二人が怪訝そうな顔で見つめてくる段に至り、久重は己が二人の少女を凝視している危ない人間になっている事に気付いた。
「な、仲良いなぁと思ってな」
「そう?」
「それなら、嬉しい・・・」
ソラは首を傾げ、虎が何故か褒められたような微かに嬉しげな顔をする。
「?」
不意に室内が闇に閉ざされた。
「寿命だったか?」
暗闇で立ち上がって久重が玄関のブレーカーを確認するもやはりブレーカーは落ちていなかった。
戻ってくる久重が部屋の中央に座る。
「今からはさすがにな・・・明日帰りにでも買ってくるか」
「虎?」
ソラが確認した時にはもうソラの傍に虎はいなかった。
プチッと音がして久重が世闇に慣れ始めた目で近くまで寄ってきていた虎を発見する。
「どうかしたのか?」
「・・・・・・上手く、出来るか分からない」
「何がだ?」
「借りを返す方法・・・」
「別に返さなくても――」
虎の手が久重の手を掴んだ。
「幇では仕事幾つも・・・ある・・・」
「あ、ああ。それで?」
「自分は・・・強かったから、しなくても良かった」
ジワリと久重の額に汗が浮かぶ。
「そうなのか・・・」
「でも、男に借りを作ったら・・・大たい皆そうしてた」
プチとまた小さな音が響く。
当然ながら、虎は下着なんてものを付けてはいない。
「ふ、フゥ!?」
ソラが驚きの声を上げる。
「ソラと・・・してる?」
「な、何・・・を・・・」
聊か後ろに引き気味になった久重の耳にシュルリと衣擦れの音。
暗闇ながらも飛び込んできた視覚情報に久重が顔を慌てて背ける。
「男と女・・・一緒に住んでたら、普通はしてる」
「いや、ちょ、待て小虎お前!? 凄い誤解し―――」
久重が虎を押しのける前にスルリとその胸に重さが掛かり、後ろに倒れた。
「初めて名前・・・全部呼んでくれた」
その無垢で儚げな喜びと笑顔が久重の脳裏に「結構可愛い奴だな」という一文を表示させる前にソラが慌てた様子で久重と虎の間に入ろうと試みる。
「虎!? そ、そそ、そういうのは!?」
「ソラも一緒に、したい?」
「な?!! な、なな、何言って!?」
「落ち着け!? とりあえず落ち着け!? というかさすがに洒落になら――」
「これでいい?」
シュルリと二回目の衣擦れの音。
ソラがパジャマが落ちると慌てた。
「ふぁ?!」
久重が頬を赤くして首を完全に横へ向けた。
もはや暗闇と月明かりの合間で展開される事件をまともに見ていられなかった。
「ヒサシゲ。いつもは、どうしてる?」
「ぶッ?!! いつもとか無いから、いや!? ありませんですはい!?」
ガツッと後ろの壁に後頭部を強打した久重がそれでも何とか壁際まで後退する。
「それじゃ、奉仕からでいい?」
「ゴフッ?! 何処でそんな単語覚えた!? 女の子がそういう意味でそういう言葉を使っちゃいけませんて習わなかったのかオイッ?!」
「? 女なら知っておけって、幹部の女達が・・・」
色々な意味で無垢過ぎる少女がそっと上へ跨ろうとして、久重は慌ててその腕に引っかかっていたパジャマを引き上げようとした。
「ヒサシゲ?」
「・・・こういうのは基本的に日本じゃ好きな奴に対してやるもんだ。少なくとも昨日今日出会った人間にする事じゃない」
「そういう、もの?」
「ああ、そういうもんだ。だから、こういうのは大事な人が出来るまで取っておけ。いいか?」
「・・・分かった」
素直に頷く虎に久重が安堵の溜息を吐く。
「ひさしげ!!」
ソラが慌てた様子で虎の上着をちゃんと着せようとした時だった。
いきなり電灯が点いた。
『ひさしげ。邪魔するよ』
『ひさしげ様。今日のお礼に参りました』
「?!!!」
久重はその場から逃げ出す事も出来ず、固まってしまった。
その一瞬が生死を分けた。
「久重。とりあ――――」
「ひさしげ様。今日は――――」
沈黙。
刹那か無限大かもよく分からない沈黙が降りた。
一瞬で久重の脳裏に状況が実況される。
青年の上にブラも付けていない上半身裸の少女が乗っている。
更に青年の手はそのパジャマに掛かっている。
更に更に二人目の少女がまるでそのパジャマを脱がす手伝いでもしているような格好で、やはり上半身裸である。
パジャマを脱がされかかっている少女は無垢な瞳で自分の守った者を見つけて顔を輝かせ、パジャマを脱がそうとしている少女は裸を見られた為に涙目だが、この場合は脱がすのを強要されたようにも見える。
導き出される答えは無論、最悪である。
【【・・・・・・・・・】】
終始無言で事態が収拾されていく。
女四人に男一人という絶望的な状況。
完璧な女神のような笑みを浮かべる二人の女。
どうしようもないが死にたくない男の本能が逃走を選択しようとするも、久重の足は世界最高の強さを誇るカーボンナノチューブ製の糸で雁字搦めになっていた。
久重の視界でふくれっ面のソラが涙目でそっぽを向いている。
「久重」
アズが微笑む。
「ひさしげ様」
朱憐が微笑む。
「どう見ても誤解だという事を分かってもらえると信じてる。いや、信じたい。ごめんなさい。信じさせてくださいマジで」
神も仏も無い地獄とやらが始まるまでの猶予はソラと虎のパジャマが着付けられるまでだった。
「さ、行こうか。久重」
「何処へッッ?!」
「大丈夫ですわ。ひさしげ様」
「いや、大丈夫じゃないだろッッ?! 絶対大丈夫じゃないだろッッ!?」
ガシリを両腕を二人に引っ張られズルズル外へと向かう久重が最後の望みとばかりに二人の居候に視線を向ける、が・・・虎はよく状況が分からないらしく布団に入って小さくバイバイと手を振っていたし、ソラはまだ涙目で顔を背けていた。
「ひさしげの馬鹿・・・」
そんな呟きを最後にバタンと小さなアパートのドアは閉まった。
アパートを監視していたSP・警察・公安の人間が、その夜の記録を公式に残さなかった事は世の男達にとって幸いな事だったかもしれない。
女は愛するものだが、怒らせてはいけない。
そんな単純な事を彼らは一生肝に銘じ続ける事となる。
その光景を見た誰もが生涯浮気もせず昇進したという事実は後年彼らの集まりでのみ分かる笑い話だが、今はただ男達のこの悲鳴が早く終わって欲しいという祈りばかりが世界を包み込んでいた。
硬貨を積め。
賽を振れ。
札を切るのだ。
突破する事も能わない。
其処は現世の行止まり。
第二十四話「地獄の釜」
さぁ、張った張った。
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第二十四話 地獄の釜
第二十四話 地獄の釜
【官房長官!! お話を!!】
記者達の声に答える事なく壇上から男が一人去った。
政権にとっての要とも言える官房長官。
その地位に収まっている人間と言えば、実力のあるエリートか知識派なインテリと相場は決まっている。
首相の女房役であり、与党との調整や野党との意見調整に四苦八苦するのは毎年の恒例行事だろう。
百年以上前から変わらぬ仕組みの中で、国という船の行き先は決められずとも帆をどうするか決めてきたのはそのポジションの人間に他ならない。
国内の外国人団体から外国人に優しくないと呼び名も高い現政権の中核。
それこそが彼『安藤正明(あんどう・まさあき)』だった。
元々、経済界からの成り上がりである安藤は組閣時に自分は誰よりも制度と金の流れに詳しいのだから経済産業省か厚生労働省辺りで働くものだとばかり思っていた。
五十代後半。
脂の乗り切った働き盛りの自分ならば、そこで活躍の場があると思っていた。
役人に負けない知識量と経済学で博士号を持っている自分がそのポストに付いたなら、現在の日本が抱える借金や福祉問題に果敢に切り込んでみせるとある種奢ってすらいた。
しかし、与えられたポストは大臣ではなく内閣官房長官という任。
与党・野党との調整に次ぐ調整を繰り返し、首相を擁護しては立てるという地位。
影響力は一段上がったものの、やりたい仕事という訳ではなかった。
「はぁ・・・・・・」
壇上から舞台袖、通路へと出る。
一人溜息を吐きながら自分の執務室へと戻った安藤は秘書達に出て行くよう告げると椅子に持たれかかる。
秘書達の出て行く際の視線に冷たいものを感じて、彼は凹んだ。
「・・・・・・」
現在の与党は『小さく静かなる戦争』(リトル・サイレント・ウォー)と呼ばれるグローバリゼーションと多民族国家を否定した日本のナショナリズムの勃興から始まっている。
無論、外国人勢力の排斥という一種の差別が起点となっている以上、そういった反日勢力との火種は尽きない。
そんな与党が作った政府は国民から見れば、今の日本では必要不可欠となっている下層労働力の調整に苦心している印象があるだろう。
感情的な差別こそ日本は少ないが制度的な差別は日常的に移民労働者達の労働争議を勃発させている。
それでも先人達が作った強固な【制度格差】という檻は上手く機能しているし、現在も改正という動きはない。
その当時の荒れた日本では外国人勢力と右翼政党が真っ向から対立していた。
時代の流れという奴か。
ネット上のマスコミ批判や何が起こっているのか分かっていたネット住民達の広報活動で国民の大半を味方に付けた政権は自浄作用を高めながら躍進し、多くの人権擁護団体や外国から差別だと非難批判を受けながらも日本内部の制度改革を進めていった。
その終着点とも言える政権の組閣で選ばれる時点で安藤は思想的には中道か右の人間と言える。
そんな安藤に持ち上がった外国企業からの献金問題は与党からすれば青天の霹靂、人権擁護派の野党からすれば、与党の牙城と切り崩す切欠という国会の焦点となった。
それを抑え込むのがGIOというのは皮肉かもしれない。
国内最大手の広告企業として日本経済に食い込み、他の広告企業から莫大なシェアを奪い取ったGIOは報道にもかなりの影響力を持っている。
外国企業としては異例とも言える躍進があったのは『小さく静かなる戦争』(リトル・サイレント・ウォー)後の事であり、外国企業としては極めて珍しい部類に入る。
しかし、それらの前進があったのはGIOの敏感に時代を読んだ経営陣と誰にも真似出来ない先進的な技術があったからこそだ。
現在の与党に対して好意的な世論形成に一役買い、その実何の要求も無く、更には外国人勢力からすれば自分の首を絞めているとしか思えないような経済的ハンデを飲みながら文句も言わず、従順とも言える態度で政府に貢献し続けてきた。
昔からGIOと現在の与党には黒い噂が絶えなかったがバリバリの右翼政権を樹立し続けてきた与党と政府から反日的な法案が出された事は一度も無い。
それに近いような法案が出されたとしても過剰な経済競走是正の為に日本企業、外国企業、両者に働きかける程度のものだ。
そんな現在の政府中核の人間がGIOから裏献金を受けていたとの醜聞は普通の大臣なら即刻罷免されてもおかしくない。
そうなっていないのは実際のところ安藤の優秀さと内閣官房長という立場、それから現在の日本が直面している巨大な外交問題故だった。
「・・・清い沼には何も棲めないと首相にも解って頂きたいが・・・無理、だろうな・・・・・・」
革張りの椅子に沈みながら安藤はその多少メタボな体をグッタリさせる。
内閣官房長として安藤は今まで外国人勢力のガス抜きに幾つかの法案を出させている。
それは与党上層部からすれば甘いのではないかと釘を刺されるようなものばかりだった。
与党の執行部に睨まれながらも法案を可決させてきたのは近隣の国の動向に深い根を張っている安藤には様々な状況が見えていたからだ。
例えば、中国軍閥や中国国内の環境問題が限界を迎えようとしている事実。
例えば、中国軍閥に同調し始める兆しを持つ幾つかの移民労働団体。
例えば、世界各国で水危機が高まりナショナリズムの激化が起こっている惨状。
どれもこれも日本の地位や経済活動を危うくするに足る問題であり、同時に今から何かしらの対策無しにはどうしようもなくなるだろう事は分かっていた。
安藤が売国奴と罵られるようなGIOとの密約に走ったのもその為だった。
このままでは中国軍閥の暴走に日本が巻き込まれる。
そうなれば三百万人の移民労働者の一斉蜂起で日本は崩壊する。
ジオプロフィットの拡大、ジオネット法の拡大、戦時特例法の改変。
これを持ってしなければ、中国軍閥に対する抑止力は無い。
国土の分割という最大級の売国行為すら、安藤にとっては日本という国家を支える為の生贄に過ぎなかった。
本来ならば十年程の時間を掛けて行うはずだった計画は九州をGIOの管轄とする事で疲弊し切った地方の回復と世界最先端の防衛設備を導入するというもの。
GIOが見返りとして安藤に提示したのは日本と分割された国土を保全する為の莫大な戦争準備資金。
そこに移民労働者と武器を次ぎ込んで水戦争の趨勢を占なえば、安藤には辛うじて日本の生きる道筋が見えた気がした。
しかし、計画は元自衛隊のGIO幹部の裏切りで半ば頓挫しかかっている。
契約書が公表されれば、売国奴として投獄、計画は準備期間も設けずに前倒しされ日本は数ヶ月以内にでも水戦争へ突入していく。
その結果は言うまでもなく日本の崩壊。
現在の政府内部では未だ戦争の準備という話すら出ていない。
生温い政府のやり方では間に合わないのが必定である以上、不完全な計画は何処かで破綻を見せるだろう。
もし上手くいったとしても、自分にそれを確認する未来があるとは思えない。
少なくとも中国軍閥がロシアと激突してしまった以上、もう流れは止められない。
最後の頼みの綱と言えるのは一つ。
(GIOとの契約を前倒しするか。破棄するか・・・結局はあの女次第か・・・)
安藤は黒いスーツの女を思い出す。
日本裏社会において最高のフィクサーと名高い女は黒いスーツにノーブラで胸元を見せ付ける品の無い女だった。
それでも安藤はコンタクトを取り、何とかその胡散臭い女に契約書の奪取を依頼した、するしかなかった。
公安とのパイプから女のデータを事前に受け取り分析出来ていた事は大きい。
アズトゥーアズと呼ばれる女の傾向は安藤には簡単に読み取れるものだった。
陰謀の裏を渡りながら、陰謀を好む人間とは掛け離れた思想を持っている事もすぐ分かった。
(我ながら馬鹿な政治家は嵌り役だったろうな・・・はは・・・)
自嘲気味に安藤が笑う。
女は必死に日本を救おうとするだろう。
馬鹿な政治家には何も任せておけないと。
本来ならば、日本の趨勢を表で決められるような立場にあってもおかしくない女だ。
義憤を燃やしてくれるに違いない。
「・・・・・・」
灰皿を公安から取り出して受け取った資料を載せる。
極秘の二文字が飾り気も無く数枚の変色し始めている紙に踊っていた。
数十年前の旧い資料。
本来ならば返却しなければならないものだったが、安藤はそれに懐から取り出したマッチを擦って置いた。
ゆっくりと資料が燃えていく。
その最中にやはり変色してしまった写真が一枚。
安藤が会った女と瓜二つの人物が白衣を着て大勢の人間と微笑んでいた。
その中にはノーベル賞候補者や受賞者、日本の科学技術の基礎を作った者が多く映っている。
現在の日本の基幹産業である電子機器製造の基礎研究やIPS細胞を筆頭とした再生医療の研究を行っていた者達の数も多い。
他にも物理学、天文学、量子力学、と各研究の大物が目立つ。
彼らの功績は限りなく大きい。
彼らに生み出された【特許(パテント)】は日本の主要産業全てに影響を及ぼしているのだから。
(政財界にすら影響を及ぼす正体不明の【影】。まさか本当に年取らぬ物の怪の類だったとは・・・)
昔、経済界の裏で馬鹿馬鹿しいSF話の類を聞いた事があった。
話半分に聞いていた噂は今も深々と経済界の大物達の間で実しやかに流れている。
曰く、とある科学者が先進的過ぎる研究成果の果てに不老不死を手に入れた。
その科学者はあらゆる分野の探求者を集めた末に一つの結社を生み出した。
その結社は世界に決定的な影響力を持ち、今も人知れず日本の裏で暗躍していると。
(嘗(かつ)て科学技術振興の名の下、数多の学問のトップを集め、国内最大を誇った総合学術研究所。通称【天雨機関(あまめきかん)】・・・『小さく静かなる戦争』(リトル・サイレント・ウォー)下で外国人研究者問題の末に解体された最先端科学の亡霊・・・公安が情報を出し渋るわけだ・・・)
三十数年前に解体された公の機関ではあったが、その情報は殆ど失われている。
機関解体後バラバラになった研究者達が機関での研究を実用レベルで昇華してこそいるが、機関での内情や本当にされていた研究を知る術は無い。
大成功を収めた機関出身の研究者達の口が割れた事はなく、未だ機関の呪縛は健在であると言える。
しかし、それでも公安には幾つかの資料が残っていた。
何故極秘裏に公安で保存されていたのか経緯は分からなくとも理由はすぐに分かった。
安藤には今までこの情報を取得した者がどれだけいたかは分からないが、単純に利用できなかったのは想像が付く。
不老不死。
少なくともその入り口に存在するのだろう技術を【水】というたったそれだけの資源で戦争を引き起こそうとしている人間が手にしていいわけがない。
人口爆発に悩む今現在の地球でその技術は人類の破滅を加速させるだろう。
死ななくなった或いは死に難くなった人間という最悪のウィルスが地球そのものを食い尽くす可能性すらある。
不死や不老に関する技術が人類の破滅の扉を開く鍵だと理解する程度には利口だった。
そういう事なのだろう。
「・・・・・・」
資料が全て燃え朽ちるのを確認して安藤がデスクに置かれている端末を見た。
(中国軍閥とロシアの激突は隠しておくのも後数日が限界・・・)
日本の行く末は安藤が考える限り二つに一つ。
安藤がGIOからの献金問題で追及を受け、GIOのCEOが出てきて契約を前倒しで履行するのを待つか。
契約書を奪取し、GIOに一端この件から手を引かせて、新たな道を模索するか。
日本での準備を進めさせる為、中国軍閥を好き勝手煽っているGIOには一応釘を刺してある。
契約が履行された場合、日本と中国軍閥が戦争状態に突入した時点で日本へ付くようと・・・しかし、所詮は裏取引に過ぎない。
最悪のシナリオは契約が履行された後、開戦と同時にGIOが九州地方を掌握して中国軍閥に付くという事態。
二番目に最悪なのは九州地方の統治をGIOが中国軍閥へと移譲し日本から撤退するという事態。
どちらも有り得ないとは言えなかった。
GIOの裏切りを防ぐ為の術は現時点では存在しない。
それを模索する時間も含めての準備期間だったのだから。
GIOからの中国軍閥への支援。
その一手で盤面は殆ど握られてしまった。
攻め手へと転じる機会が回ってこなければ、一方的に蹂躙されるだけなのは目に見えている。
「・・・あまり日本人を嘗めるなら教えてやらなければな」
安藤は傍らの受話器を取って内線に繋いだ。
「外務大臣を呼んでくれ。最優先事項だ。それと布深商事の取締役にアポを。前々から頼んでいた件だと言えば分かるだろう」
受話器を置いた安藤がデスクの中段から真白い資料の束を取り出した。
(窮鼠猫を噛む。だが、いつも噛むのが鼠だとは限らないぞ? ゼネラル・インターナショナル・オルガン)
資料の表紙にはただ四文字。
人道海廊との表記だけがあった。
*
凜として少女(セキ)は少女(フゥ)を見つめていた。
マンション最上階。
永橋の表札が掛かった部屋の一室。
広大なリビングで移民の家出少女セキとテロリストな中国少女虎(フゥ)が一つテーブルを挟んで食事していた。
その間を取った中央、朝餉の味噌汁を喉に流し込みながら永橋家の家主風御は何をどうセキに話そうかと脳裏で色々な言い訳を考える。
「「「・・・・・・」」」
三者三様に無言。
それぞれ理由は違えど、声も無かった。
カチャカチャと茶碗と箸の立てる微かな音。
もう数分も猶予は無いだろうと風御は脳裏でどうしてこうなったのか反芻する。
ビルの一件から一日。
まだ朝も空け切らない午前五時。
端末にメールが届いた。
それが端末のアドレスなんて教えていないはずの貧乏人からのものだと気付いた時点で見る気も失せた風御だったが、前日の一件の事もあり見ざるを得なかった。
話したい事があるという完結な内容。
指定された場所までは徒歩で数分。
大手牛丼チェーンの駐車場には一台のクーペ。
ガラス張りの店内に見えるのは外字久重とビルの一件で出会った少女だった。
店内へと入って二人の対面に座った風御へと掛けられた第一声は「預かってくんない?」というもの。
そのまま目を細めて店内から出て行こうとする風御を久重は慌てて引き止めた。
土下座しそうな勢いでお願いされてしまっては風御に否の文字は無く。
理由を聞けば仕事で今日中に帰ってこられるか分からないとの事。
虎(フゥ)と言うらしい少女がどういう世界で生きてきたのか大たい想像できる風御は結局のところ大甘も過ぎるだろう判断を下し、親友に貸し一つで身柄を引き受ける事にした。
久重が牛丼チェーンから消え、結局サイドメニュー一品でお茶を濁した風御はそのまま帰路に着いた。
帰れば笑顔で朝食の用意が出来たと玄関に出てくるセキの姿。
その笑顔が一瞬で崩壊したのは言うまでも無い。
今度はどんな経緯で少女を連れ込んだのか。
お持ち帰りしてきたのか。
そう言いたげな半眼の居候少女に朝食の後で話すからと遅滞工作を行ったのは的確だったと風御は確信している。
脳裏で幾つかの案を浮かべ、嘘らしい嘘を省き、真実を幾つか混ぜてから、小説のプロットでも思い描くように風御は完璧な言い訳を完成させた。
コトリとセキの赤い茶碗が食卓に置かれる。
「風御さん。その子は誰ですか」
「うん? 簡単に言うと僕の知り合いが拾ってきた子でセキちゃんの同類かな」
虎が風御の言葉に首を傾げた。
「テロリスト?」
虎が純真無垢な視線でセキを見つめた。
見つめられたセキが風御を睨んだ。
睨まれた風御は空気を読まない虎に渋い顔をした。
「合わせようよ。せめてさ」
「?」
未だよく分からないという顔の虎に付いて風御がセキから全て白状させられたのは夕方を回った頃。
言い訳とお説教の間、虎は眠そうにソファーで横になり、風御の恨めしそうな視線を買う事となった。
数時間後。
夕方まで続いた説教に体力をゼロにされた風御が侘しい夕食(カップラーメン)を啜りながら自室で壁に映る動画を見つめていた。
夕食作りを拒否したセキは不機嫌なまま部屋へと戻っている。
ようやく開放された脱力感でグンニャリと椅子に体を預けている風御の横でカップラーメン味噌味を啜っている虎は話しかけるでもなく、画面に映る動画サイトの映像に見入っていた。
動画が流され始めて早一時間が経過している。
風御は一言も発さない虎の扱いを決めあぐねていた。
何かしらの思想に染まっているような感触は無く。
どういうわけか何も聞いてくる様子でも無く。
普通ならば風御自身愚痴の一つも言っているだろう状況。
しかし、場の空気はおかしな具合に和んでいる。
まるで前日の事なんて無かったかのように。
「・・・・・・」
食べ終わったカップラーメンの空をゴミ箱に捨てた虎は風御の横に立つ。
差し出された手の上には一丁の拳銃。
知っている人間なら何年前の銃だと笑うような【ソレ(トカレフ)】。
風御は横目で確認してカップラーメンを啜る作業に戻った。
「あげるよ」
「高いもの、返す」
「いや、高くないし。というか基本的に特別なのは銃弾だから今更返されてもね」
しばらく銃を差し出していた虎が頭を下げて銃をコートの懐に戻した。
「・・・ありがとう」
「どういたしまして」
壁に映し出されていた動画が不意に消え、新しいウィンドウが開いた。
「そろそろゲームの始まりだ。君も見てく?」
「?」
「人間てのはホント業が深い生き物だなぁって、そういう話」
「??」
「興味があるなら其処にいるといい」
コクリと虎が頷いた。
ウィンドウの中には虎に読めない外国語がズラリと並んでいる。
赤い点が十五と蒼い点が一。
傍らのカウンターはゆっくりとその秒数をゼロへと近づけていく。
「まずは迷宮探索かな。宝箱に何が残ってるやら・・・」
カウンターゼロと共に不自然なくらい黄色いポニーテールの少女が画面に現れ、ペコリと頭を下げた。
*
肌のあちこちに縫合痕を晒す姿は前と変わらず。
少女は黒いスーツ姿でGIO日本支社地下の会場ステージでマイクを取っていた。
GIO警備部特務外部班総括『亞咲(アザキ)』。
未だ歳若いと見えるものの、その肩書きは少女なんて生温く弱いイメージとは掛け離れている。
【紳士淑女の皆様。今まで大変お待たせしました。これよりGAMEを開催いたします】
誰もいない会場のステージでそれを見ているだろう客に向かい亞咲は続ける。
【では、まず基本的なルールの説明をさせて頂きたいと思います】
亞咲の後ろにホワイトボードが滑るように流れてきて止まった。
【新規のお客様の為にも既存のお客様はしばし我慢してくださるようお願いします。では】
ホワイトボードの上に黒いマジックで書いたように文字が浮かび上がる。
【今GAMEは基本的にGPS情報を基にして点数が加算されます。各GAMEではテーマに沿ってGPS情報の動きに点数が付けられ、その総合得点で順位を決定。皆様に賭けて頂く事になります。基本的には『GEOCACHING(ジオキャッシング)』のようなアウトドアスポーツと考えて下さって構いませんが】
文字が亞咲の言葉に沿ってルールを羅列していく。
【『CACHE(キャッシュ)』と呼べるような『宝(もくひょう)』が有る場合と無い場合があります。無い場合には完全にGPS情報を元に行動を分析し点数が加算されるものとします】
マジックの文字で埋め尽くされたボードが裏返る。
【そして、指定されていない限りは基本的ルールは【指定された範囲内】でGAMEをするという、たった一点になります】
そこに緻密な線で何かが描かれていく。
【賭けの受付時間についてはGAME開始から五分のインターバルを設けます。五分内にチームを分析して賭けるも良し、事前情報や前GAMEの内容を吟味してインターバル前に賭けるも良し、それはお客様次第です。ただ、GAME参加者がこちら側で指定する特定の状況に置かれた場合、ボーナス倍率が加算される事もあるのでインターバルを使う事をお勧めします】
ボード上に巨大な構造物が描き出された。
【ここまでが基本的なルールです。では、第一GAMEの概要に移りたいと思います】
亞咲が初めて懐から黒いマジックを取り出す。
【第一GAMEの会場は我がGIO日本支社地下。つまり、今現在私が立っている会場の真下、地下深度四百メートル。十八番区画。第六閉鎖施設研究棟で行われます】
ボードに描かれた構造物が三層に分離された。
それぞれ通路やら階段やら部屋の名称やらが書き込まれていく。
【第一ゲーム会場である第六閉鎖施設は十年前にハザードが起こり閉鎖されたままとなっています。病原体が漏洩したわけではないのですが、生物兵器の一部が暴走した為、GIOは研究棟ごと破棄という結論に達しました。しかし、その当時の研究成果が未だ完全独立した研究棟内のサーバーに残っており、その情報を我々は欲しています】
ボード上の構造物最下層中央の部屋に亞咲が○印を付ける。
【第一GAMEの目標は研究棟サーバー内の情報。位置情報は施設内部で未だ生きているセンサー類を使い探知するので心配する必要はありません】
ボード内部が再び白くなる。
【ちなみに内部で未だ生物兵器の一部が存在しており、外部への流出を防ぐ為にも接続領域は常に閉ざされている必要がありますので、一度入ったらギブアップを申し出るか情報を持ち帰ってくるかという何れかの状況で無ければ、扉は開きません】
カラカラと亞咲の後ろに大きな布が被せられた箱状の何かが滑ってくる。
【生物兵器の概要ですが、実際に見てもらうのが早いだろうという事で、見た目と能力をある程度再現したものを用意してもらいました】
亞咲が後ろの箱の上から布を取った。
甲高い鳴き声。
『―――――!!!』
檻の中から犬程の大きさの蜘蛛が足をはみ出させていた。
【遺伝子改良による既存生物の大型化。主に蟲を軸として進めていたものです】
亞咲がしゃがんでニコニコしながら蜘蛛の足を摘んだ。
【結構愛らしいと思いますが、能力的には人間一人程度はあっという間に食い尽くしますので参加者の皆さんはご用心を】
亞咲が手を離して再び布を掛ける。
【では、今回はこの辺で。他の細かい補足などはGAMEの主催本部に問い合わせて頂ければと思います】
鳴き声が布の中から絶え間なく響く。
【今GAMEの参加は全15チーム。装備は自前で用意してもらいました。チームの概要は画面に映し出されている通り。常連、新規、飛び入りと様々取り揃えてあります】
ボードが白く染まる。
【最終GAMEまで何チーム残るかは分かりませんが是非皆さん奮って賭けにご参加ください】
胸に手を当てて亜咲が一礼した。
【ああ、言い忘れました】
亞咲が顔を上げてから不意に思い出したように笑う。
【無論】
白いボード一面に亞咲がマジックで意外な達筆で四文字を書き込む。
【参加者は【生死不問(せいしふもん)】ですよ?】
GAMEの開始が告げられる。
*
GIO日本支社閉鎖施設接続領域の一室。
それぞれのチームに与えられる個室内部で久重、ソラ、アズ、田木、シャフの五人は壁の大画面に映し出された四文字に微妙な顔をしていた。
「ちなみに今回は行く人数に準じて点数と賭けの倍率が変動するみたいだね。一人で三倍。二人で二倍、三人で一倍、四人で0.5倍。五人で0.2倍」
アズが事前に渡された資料を片手に紅茶を啜った。
「デカイ蟲相手にするとか。どこのクソゲーだオイ」
久重が呟いた。
「む? その評価は如何なものだろうか。昔からシューティングにはありがちな要素だと思うが」
田木が反論する。
「いや、そういう話じゃないだろ。というか、横」
「ん?」
田木が己の横を見ると今まで余裕で画面を見つめていたはずのシャフが顔を青褪めさせていた。
久重が己の横を見ると不思議そうな顔でソラが首を傾げた。
「どうかしたのひさしげ?」
「・・・いや、ああいうの大丈夫なのか? ソラ」
「大丈夫って?」
まったく意味が分からないらしくソラが頭に疑問符を浮かべる。
「まぁ、分からないならいいんだが」
久重が苦笑した。
「とりあえず誰が行くか決めようか」
アズが仕切って四人を見つめる。
「僕はソラ嬢に行って貰いたい。ソラ嬢のNDがあれば不足の事態にも対応可能なはずだ」
ソラがアズの言葉に躊躇なく頷いた。
「なら、オレも行こう」
久重が手を上げる。
「いや、君は留守番だよ。久重」
「理由は?」
「これからの事を考えたら少しでも客の心を掴んでおきたい。ソラ嬢なら少なくとも一人でも生還出来る」
「大丈夫。ちゃんと帰ってくるから、ね? ひさしげ」
「いや、だが・・・」
「心配と信用は別物だよ。久重」
「本当に一人で大丈夫か?」
「うん。任せて」
「・・・・・・分かった」
久重はしばしソラを見つめてから頷いた。
アズが続けてGAME内容を整理して説明し始める。
「それじゃこのGAMEの要点を説明しようか。まずギブアップは全ての点数の放棄と見なすとそうGAMEの補足条項には書いてある。このGAMEでは情報を持って来る以外はギブアップする以外に扉を開ける術が無い。
つまり、情報を自分で持って来る以外ではギブアップ組か情報取得組に便乗しなければ帰還しても点数にならない。この事から容易にはギブアップ組が出ない仕組みになってる。単純に言えば、情報取得組が帰ってくるまでは殆どの人間が施設内部で待機しなきゃならないって事で、同時にそれは情報強奪の可能性もあるって事だ。
目的の部屋に近づけば点数になるけど、危険を冒さなくても情報取得組が帰ってくるまで待つ方が利口。そう考える人間が絶対にいる。そして、それがこのGAMEの最初にして最大の罠と言っていい」
アズが端末で先ほどまで映っていた亞咲の映像を映し出した。
「どうして蜘蛛だと思う?」
「言ってる意味が分からな・・・ああ、そういう事か」
久重がアズの言葉の意図に気付いた。
「亞咲は生体兵器が蟲とは言ったけど蜘蛛とは言ってない。少し拙いとしてもこのプレゼンは意地悪だね」
「どういう事かね?」
田木の質問にアズが画面の蜘蛛の映像を拡大する。
「蜘蛛と言えば巣に獲物が掛かるのを待ってるイメージがある。だから、動かずに待っていれば戦わなくてもいいなんて刷り込みには丁度いい。実際に待ってるだけなんて無理だろうな」
久重の答えにアズが苦笑しながら頷いた。
「たぶん、蜘蛛どころじゃないだろうね。蟻、蟷螂、他にも交戦的な蟲は色々いるから待ってたら餌食だよ」
【各チームは代表者をエントリーしてください。まもなく接続領域内の扉が開きます】
部屋にアナウンスが流れる。
「ひさしげ。行ってくる」
「・・・ああ、待ってる」
心の底から這い寄る不安を押し殺して、久重がソラの頭を撫でた。
数分後、接続領域の扉が開放された。
始まりは唐突に闇の中から現れる子犬程の蟻の大群と銃声によって開かれる事となった。
第一GAMEエントリー総勢28人中5人が重症の末五分未満でギブアップ。
GAMEはまだ始まったばかりだった。
後悔はない。
未練はある。
各々の理由を賭けて人々が競う中。
彼らが動き出す。
第二十五話「GAME1-1」
勝とうが負けようが血を吐いて進め。
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第二十五話 GAME1-1
第二十五話 GAME1-1
(花のような笑みを浮かべる子供達だったと思う)
世界には大勢の乞食がいて、世界には大勢の貧困があって、世界には大勢の恵まれぬ国がある。
その中には大勢の子供達がいる。
人口の半分以上が若年者で占めるようになってしまった国で世界の縮図が蠢いていた。
100cal(カロリー)足りないばかりに死に逝く子供達がいる反面、祖国は豊かだ。
極東の島国でありながら、食物に溢れ、廃棄すらしている。
その差とは何なのか。
考えたところで無駄なのは知っている。
豊かさとは対比するもの無くして成り立たない類の言葉だ。
持たざる者と持つ者の溝は深い。
ただ確かなのは弱者が食い物にされているから何処かの誰かの豊かさが保障されているという事だけ。
最貧国から穀物を大量に買い付ける穀物メジャーが悪いのか。
投機目的で何処までも穀物の値段を上げる資本家が悪いのか。
食物の無い悲惨さを知らぬ顔で放置し続けた先進国が悪いのか。
昨日の食事を捨てながらでダイエットに勤しんでいる国民が悪いのか。
穀物限界を知りながら己の国しか省みない世界中の市民が悪いのか。
未だ回答らしき回答があっても子供達は救われていない。
明日の糧に苦しいから盗みを働く。
今日の糧に困るから誰かから奪う。
明日の糧に怯えるから他者を廃す。
子供達にお腹一杯の食事より麻薬と銃を押しつける事を世界は望んだ。
武器弾薬に消える資源に豊かさの象徴は無い。
革命と武装蜂起と紛争と戦争と民族衝突と資源開発は豊かさを生まない。
搾取された末に細々と生き残る人々がいるだけだ。
【 先生 】
子供達に文字を教えた
【 先生 】
子供達と食事を共にした。
【 先生 】
子供達と地球儀を回した。
【 いつか先生の国に働きに行くよ 】
そう約束した。
【 そうしたら先生にきっと会いに行くよ 】
結果はどうだ。
結果はどうだった。
立てた学校は灰になり、子供達は連れ去られ、女は消耗品となり、男は麻薬漬けにされて戦場へ駆り出され、殺し合いの果てに国連軍なんて何処の国の人間かも解らない人間に包囲され捕らえられ銃殺されて、残ったのは嘆く者もいない荒野と芥子畑だけだったなんてお笑いもいいところだ。
そして、天罰のように病気が残った子供達も奪い去った。
世界は子供達を救わなかった。
先進国は見てみぬふりをした。
悪いのは誰か?
決まっている。
誰よりも悪いのは決まっている。
【 はい。これ 】
悠久の大地に咲く花を受け取った。
受け取ったのに。
それなのに辛い生活に嫌気が差して逃げ出した。
帰りたいと弱音を吐いた。
家族に会いたいなんて今更な台詞を呟いたのは誰でもなく。
どうしようもなく惰弱な自分。
『 うあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッッッッッッッ!!!!!!!!!! 』
走馬灯のように全てが脳裏を駆け去っていく。
鼻水が出る。
涙が止まらない。
視界が歪んでいる。
鼓膜はとっくの昔に破れている。
血が出る。
何かが喰い込んでいる。
頼りない腕で銃を振り回し、頼りない足で踏ん張り、頼りない声で叫び、頼りない自分が死に物狂いになる。
それは懺悔か。
それは悔恨か。
違う。
これは贖罪だ。
ただ自分が自分に課した償いだ。
『 うあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッッッ!!! うあ゛あ゛ああッッッッ!!!! あ゛ああ゛ああ゛あッッッ!!!! 』
お金がいる。
何もかもにお金がいる。
貯金ではダメだ。
そんなものはすぐに消える。
真っ当に働いてもダメだ。
そんな自己満足は屑にも劣る。
何もかもを変えるお金がある。
そう聞いたのだから、そうするしかない。
そうしないなんて嘘だ。
自分の心まで嘘になってしまう。
『 あ゛あ゛あ゛あ゛ッッッ、あ゛あ゛あ゛あ゛ッッ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッッッ!!!!! 」
犯罪?
知ったことじゃない。
親が泣く?
もう死んでいる。
だから、全てを変えるお金を欲した。
ゾブッッ。
そんな音がして足に力が入らない。
茶色い何かが自分の太ももに潜り込んでいた。
『 ―――――― 』
夢中で撃った。
撃った撃った撃った!!!
撃って、撃って撃って、撃って撃って撃って、撃ち続けた。
それでも視界は茶色いもので覆われている。
世界にはそれしかない。
それはまるであの日の大地のよう。
あの日、戻った世界で見た茶色い茶色い大地の色。
地雷が危ないよと誰かが言って、泣き崩れた大地の色。
世界はどうしようもなく悠久だった。
世界はどうしようもなく人の肌を浮き彫りにさせた。
銃弾の薬莢とまだ焼き払われていなかった芥子畑だけが清(さや)かに音を立てて。
【あんたの役目は第一GAME。ま、要は生き残れたらラッキーな捨て駒だよ】
お金を集めて、集めて集めて集めて集めて集めて、集めきった先で見つけた仕事。
金が欲しいならくれてやる。
金の使い道だけは用意しておけ。
言葉は簡潔でとても芳しい響きを伴っていた。
提示された金額は集めたお金の三倍。
もしもGAMEに出るならば、その契約金の頭金だけで四倍。
全てを前払いにして、弁護士と信用できる人に全てを託し、己の全てを最後の一円まで清算して、一文すらないただの女になったなら、GAMEに出られる。
家も住所も免許も名義も車も家財も売り払い、後はGAMEに出て生き残れれば、二十倍のお金が手に入る。
だから。
『 !!!!!!!!!! 』
茶色いものがプチュプチュ弾ける。
赤いものがビュクビュク跳ねる。
世界は斑になっていく。
世界はきっと子供達が死んだ日と同じ色。
それでいい。
でも、それではいけない。
生き残らなければ、お金は手に入らない。
だから、生きる。
生きて生きて生きて生き延びて。
ギギィイイ?
そんな可愛らしい音がして、指の感覚が無くなった。
引き金を引き続けているはずなのに世界はただ赤くなっていく。
命が大事?
今更。
怖くて怯えて何になる。
泣いて喚いて何になる。
茶色いものを両手で掴んで真っ二つに引き抜く。
ズルリと変な液体に濡れながら、足で地団駄を踏む。
潰して引き抜いて、潰して引き抜いて、潰して――――視界が茶色くなった。
片目はもう見えない。
銃は有るのか無いのか解らない。
世界は茶いろくなっている。
いや、くろくなっている。
ああ、もういいやなんておもえないのに・・・どうしてねむく・・・わからなく・・・それでもわたしは
ギイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ。
ちゃいろいなにかがこすれあ
こどもたちがよんでい
それならいっ
【ダメ】
え?
【そんなのダメ】
なんで?
ちゃいろいせかいがふきはらわれる。
せかいにいろがもどっていく。
そのいろはこんじき。
いつかみた。
あのひのおうごん。
そらをそめていた。
こどもたちのえがおをてらしていた。
どんなひとのこころもあらわにするいろ。
にぶいおかねとはちがういろ。
【死んじゃ、ダメ!!】
【あなたが誰なのか知らない! でも、こんなところで死んだらダメ!!】
体があたたかい。
いつの間にか。
茶色いものは全て動かなくなっていた。
『 どう、して? 』
応えはない。
ただ、金色の髪の擦れる音と。
温かな日の感触だけが、世界を染めていった。
それがGAMEに参加した最初で最後の日。
それ以降の事は覚えていない。
不意に見上げれば深夜の月。
公園で一人だった。
手元に残った小切手が、そのGAMEと自分を繋ぎ止めたものの、それも消えた。
最後に残されたのは無くなった人差し指と見えなくなった左目のみだった。
「・・・・・・」
そんな、夢から覚めた。
ダンボールに包まりながら冬の空を見上げる。
片目には未だ曇っている空が映る。
いつかはこの空もあの日のように輝くだろうかと、そう思いながら空き缶集めを始めようと起き上がる。
【あなたが―――――さんですか? わたくしこういう者なのですが】
見れば、見知らぬ男が傍らに立っていた。
渡された名刺にはGIO日本支社人事部部長の文字。
【『中臣修(なかおみ・しゅう)』と申します】
【我が社で働いてみませんか?】
【今、我が社は学校法人の経営に乗り出している最中でして。あなたのような人材を必要としています】
命以外の全てを失った自分に一体何が出来るのだろうか。
【勿論、来てくださるならあなたの現状の改善をお約束します】
高い人生の授業料を払って、残ったのは我が身一つ。
【子供達の笑顔をもう一度見つめてみませんか?】
「・・・・・・・・・話を聞いてくれますか?」
柔和な笑みを浮かべる悪魔のような囁き声の男に。
「花のような笑みを浮かべる・・・そんな子供達だったんです」
私は自分の一番大事な話から始める事にした。
*
奇特な人間もいるものだ。
彼は一人トップ集団から引き返した少女の事を惜しく思った。
第一GAME序盤。
多くのチームに言える事は何よりも他者の出方を伺うという一点に尽きる。
その為に敢えて捨て駒を持ち出して様子見だけさせる事も稀ではない。
十五チーム中で五チームが新規参加。
五チームが過去のGAMEに参加した経験あり。
四チームが各国からの飛び入り参加。
そして、最後の一チームがよく分からない。
十四チームほぼ全てのデータが揃っているというのに最後にエントリーされたチームだけが正体不明。
事前準備段階でまったく影も形も無かったチームのメンバーの顔は多彩だ。
ゲルマン系の少女。
アジア系の少女。
日本人の青年と壮年。
更に何人かも定かではない女。
女に関しては昔から日本を知っている仲間からの情報で日本を拠点にしている【あのフィクサー】ではないかとの話も出た。
第一GAMEで早くも出てきた十代の金髪の少女は手に何も持っていなかった。
男のような格好で身に付けるものも無く。
武器の類を隠し持っている様子も無く。
他の参加チームの殆どが訝しげに注視しても動揺せず。
GAME開始と同時に蟲の大群の中を颯爽と駆け抜け、トップ集団の中へと躍り出た。
そんな少女が何故か悲鳴を聞いて立ち止まり、蟲の絨毯を踏みつけるようにして戻っていった。
その時点で他のチームは少女に脱落の烙印を押して思考を停止したものの、彼は一人戻っていった少女について思考を巡らせていた。
華奢に見えながらも圧倒的な身体能力は見事と言う他無い。
何かしらの技術で身体能力をサポートしているのかもしれないが、身のこなしまでは身に付かない。
少女でありながら蟲に対する嫌悪で体を硬直させる事も無かった。
唯一惜しいと思えるのはその思考。
GAMEに参加するほどに深い闇の中を歩きながら悲鳴を見過ごせなかったという一点。
(どうすれば、ああいう人間が出来る?)
彼はブーツで蟻の大群の最中を疾走しながら片手のナイフを閃かせる。
周囲から飛び掛ってくる蟻に群がられないよう一時も足を止める事なく。
(我らが國にも中々あの種の目が出来る人間はいない)
研究棟内部の電源はもう入れられている。
視界は暗視ゴーグルを使わずとも明るい。
「・・・・・・」
思い出されるのは接続領域内で他の幾つかのチームが感情丸出しで少女を見つめていた時の光景。
その無礼にも程がある者達を見返した少女の瞳。
凍えるような冷たさも燃え盛るような熱さも無い。
無機質な硝子球の瞳。
感情と理性から切り離された視線には何も読み取れず。
見られた者の背筋に振るえが奔るような・・・【モノ】を観察する気配だけがあった。
幾分か興奮し高ぶっている参加者が大多数の中、その場に異様な静けさを齎したのは間違いなく非力そうな少女の眼光だった。
(久しぶりに呑まれそうな目に会ったが、あんな目をしながら何故他者を案ずる? 何処か噛み合わん)
彼はやっと蟻の大地を抜け切った。
蟻が入ってこないのはどんな理由からか分からなかったが立ち止まらずに階段を駆け下りていく。
大きな円筒形状の空間に階段が幾つも設置されていた。
三つの階をぶち抜いているシャフト。
その最下層まで続く階段は普通に歩けば二分以上掛かりそうな代物だった。
最下層までは電源が回っていないのか。
円筒形の底は薄暗い。
(あのGIOが用意したGAMEがこの程度であるはずもない。さて、どうする)
他のトップ集団は更に先行している。
しかし、彼は走りながらも決して周囲の警戒を怠らなかった。
黒い薄型のカーボン製防弾防刃服に各種装備を備え付けたジャケット。
拳銃はオートマチックを腰の後ろと両脇、両太ももに一挺ずつで計五挺。
アサルトライフルを片腕に抱えて、最新のエアフィルターを搭載したマスクと薄型の暗視ゴーグルを首の後ろに下げている。
それなりに良質の装備ではあったがGIOのGAMEでは軽装とすら言える。
安易に目標へと突撃すれば一瞬で命を落とす可能性は高い。
『うあああああああああああああああああああ!!!!!』
さっそく犠牲者の悲鳴。
彼が足を止めてゴーグルで最下層を覗く。
最下層近くの階段付近で百足らしき生物に男が一人巻き付かれていた。
他にはバッタらしき生物に蹴り飛ばされる者。
ゴキブリらしき生物に群がられる者。
蜘蛛らしき生物の糸に絡め取られている者。
本来の蟲は臆病であり、そもそも人間にわざわざ自分から襲い掛かるなど有り得ない。
(だからこその生物兵器か? いや、それにしてもおかしい。捕食対象が近くにいるにも関わらず人間を襲うだと? そもそも共存出来るような蟲の種類じゃないはずだが・・・GIOめ。何か隠しているな)
彼は視界の端に先行する最下層から一層上の通路へと侵入するチームの一隊を見つける。
(構造上、最下層には幾つかのルートで侵入出来る。二階から別ルートだな。これは)
即座に彼は階段の手すりにフックを付ける。
細いワイヤーを掴んでそのまま虚空へと身を躍らせた。
重力の捕まりながらもワイヤーを操り数秒で二階部分の階段の淵に下りた彼は周囲を一瞬で見渡し、脳裏に予め叩き込んでいた構造図と照らし合わせる。
三つの階に分かれている研究棟はシャフトを基本として四つの通路で区画を分けている。
最下層の中心。
サーバーの安置室へと行く為には最下層の四つの通路、その終端にある扉のどれかから入らなければならない。
扉を開けるコードは各自持たされている端末にインプットされていて、扉の制御システムが自動的に読み取って開くという話になっている。
つまり、まずは最下層へ降りるのが第一段階。
その最下層にある四つの通路のどれかの終端まで辿り着くのが第二段階。
終端の扉から中央へと向かい情報を得るのが第三段階。
得た情報を持って接続領域に帰るのが第四段階。
四つの段階を得ずして第一GAMEは終わらない。
(二階の南は食堂と研究者達の私室が多く有る。通路も僅かに広い・・・確かに俺でも人数がいれば其処にベースを置く)
最下層にアタックを掛ける為エントリーしている全ての人間を投入したチームがいた。
たぶん二階の通路に入っていった数人は全員が南口の食堂に拠を置く。
(だが、蟲の性能が未だ不明確な以上、一箇所に留まるべきではないな)
どれだけの蟲がいるかも定かではない研究棟内で一箇所に留まれば、蟲を集める事にもなりかねない。
蟲は基本的に特定の能力で驚異的な性能を誇る。
しかし、本当に怖いのはその数。
最初の蟻が良い例であり、限られた装備で攻略する為には出来うる限り戦闘は少ない方がいい。
装備を過信すれば、最終的にどうなるか分かったものではない。
(北は物資の保管庫。各セクションへの搬送用通路が併設されている。最下層への小型のエレベーターに電源が入っているなら・・・狙い目か)
彼は注意深く周囲を警戒しながら小走りに北口へ向かった。
それが彼にとって最初で最後の間違いだった。
*
使命、任務、仕事、どんな言い方をしたところでやっている事は変わらない。
どこまでも続いていく徒労を積み重ねるという事。
その先に目的を果たすという事。
それだけの事に過ぎない。
蟲に喰われそうになってすら、やっている事の本質に変化は無い。
参加者達にはそれぞれの理由があるだろう。
理由が高尚か下劣かは分かれても各々にとって命を掛けるに値する理由である事は間違いない。
問題は常に己だ。
やりたくてGAMEに参加しているわけではない。
強制された結果がGAMEへの参加であるだけだ。
例えば、それは組織への忠誠を示せとのお達し。
例えば、それは捨て駒になれとの命令。
例えば、それはどうしようもない暴力を背景にした圧力。
一々挙げれば切りが無い。
弱者に拒否権が有るわけも無く。
逃げるなんて不可能に違いなく。
だから、どうしようもないと諦めて腹を括るのだ。
最下層まで何とか降りてもそこからは一人。
よく分からない蟲に追い立てられながら通路を突っ切って、真横の部屋から飛び出してくるトラップもいいところだろう蟲の顎を掻い潜り、縋る希望も無く通路の一番奥の扉を目指す。
二百メートルの障害物競走。
障害を乗り越えられなければ死あるのみ。
即、仏の仲間入り。
バックアップしてくれる人間なんていない。
転びそうになる足だけが頼りの一発勝負。
最後の最後まで気の抜けないゴールへの道程。
扉の前に辿り着いた時、もう心臓は早鐘も打たなかった。
振り返れば、蟲で一面を覆われた通路。
退路は無い。
端末を取り出して扉の前に翳せばロックが外れて開く。
駆け込んだ扉が閉まった時、恐ろしいくらい扉が打ち鳴らされた。
死の足音というものがあるならば、間違いなくソレだろう。
扉の中は明るい。
最下層より下に向かう通路。
施設の中央に位置するサーバー安置室。
扉は複数存在し何重にもロックが掛かっている。
一つ一つの扉が開き、最後の一枚が開ける。
丸い円筒形の室内。
その中央にあるのは薄く巨大な白いモノリス。
ブレードサーバー。
サーバーには幾つもの接続端子。
持たされていた端末からコードを引き出し接続する。
すぐにダウンロードが始まった。
ホッと一息付いたのは責められるような事ではないと思う。
しかし、致命的に脱力していた体が、致命的に立て直せず、崩れ落ちる。
声を出そうとして気付く。
チクリと全身に感じる痒み。
首筋から何かが不意にピョンと床に飛び降りる。
それはどんな家にも必ず一匹はいるだろう生き物。
蚤(のみ)だった。
普通よりも肥え太っているようにも見える大きな蚤。
馬鹿馬鹿しい、そう笑みが浮く。
そんな蚤を掴もうとした手がもう斑に腫れていた。
僅かに動く指で端末を掴もうとして、手が白い何かに触れた。
粘り気のあるソレが何かと考えるより先に目の前にカサカサと小さな足音を立てるものが通り過ぎる。
小さな蜘蛛。
見れば、いつの間にか体に薄く白いものが掛けられていた。
首を動かして上を見上げる。
頭上から幾つかの複眼が見下ろしていた。
「・・・・・・」
餌も罠も上等と。
渾身の力で銃を掴み持ち上げる。
撃てば、文字通り蜘蛛の子を散らすように小さなソレらが逃げていく。
シャカシャカシャカシャカ。
抵抗して抵抗して撃って撃って。
コンプリートの文字が端末に表示される頃。
視界は白く、少しずつ白く染まっていった。
*
第一GAMEを見つめていた招待者達は寛ぎながら定点カメラからの映像を見つめていた。
接続領域の扉の外。
未だ人は映らない。
しかし、殆どの客達は施設内で動き回るGPSの座標情報からGAMEが終盤に差し掛かっている事を知っていた。
客達の見る座標情報には異変が起きている。
全てのチームが今や殆ど重なるように移動していた。
座標の動き方は客達に賭けの行方よりも何が起きたのか知りたいとの欲求を駆り立てる。
GPS座標の固定は大概にして端末を持つ者の死を意味する。
死人が出るのは珍しくも無いGAMEにおいて動かない座標に一喜一憂する客は多い。
GAMEが始まってから二時間半。
散らばって止まっていたはずのチームの座標が何故か動き出した時、客達の半分以上は蟲に端末が運ばれているのだとそう理解した。
しかし、各チームの座標が一つずつ寄り集まっていくという現象に客達は自分達の考えているような事実とは別の可能性があるのではと興味を膨れ上がらせた。
部屋に到達したチームの座標すら、その一点に集まった時、客達は何が起きているのかと本気で不可思議に思い、己の想像しえない結末に胸を躍らせた。
定点カメラの位置は最初の通路をそのまま映している。
全ての座標が曲がり角に差し掛かる。
何が現れるのか。
それを客同士で賭け合った者が大勢いた。
あれはきっとチームを食い尽くした化け物だ。
いや、あれはたぶん端末を全て回収した猛者だ。
的外れと思える予測も的射たと思える想像も客達には娯楽の限りでしかない。
その座標の謎が角を曲がる。
最初に画面に現れたのは蜘蛛だった。
客達の間にどよめきが奔る。
勝った勝ったと驕る客に負けた負けたと溜息を吐く客。
その様子が一変したのは蜘蛛の後ろに数人の男達が歩いてきた時。
今度は負けた客が勝ったと騒いでいた客に大笑いする。
それで全てが決したかに思えた時、客の幾人かが気付く。
蜘蛛は何故かカメラに背後を晒し、何かを引きずるように下っていた。
更に蜘蛛の足の合間から蟻がワラワラと湧き始める。
その段に到って、GIO日本支社に招待された客達の殆どは静まっていた。
海外などの遠方で賭けを行っている客達も画面にただ釘付けになった。
肩を貸し合いながら歩いてくる男達。
血を流し、粘液に塗れ、体を自分とは別のチームに運んでもらっている者すらいる。
だというのに、蟲は男達を襲ってはいない。
それどころか。
複数の蜘蛛達が引っ張る白い糸の先には倒れた人間が蟻を下にして引きずられながら呻いていた。
無数の蟻と数匹の蜘蛛と倒れた男達。
敵対するはずの存在が何故か助け合いながら歩いてくる姿に客の一人はタバコをポロリと床に零した。
映像の中。
男達が接続領域の扉前に集結していく。
蟲に運ばれてきた者を掴み上げて担ぎ、無事な者は倒れそうな者に手を貸していく。
ギブアップした者以外の殆どが其処にいた。
蜘蛛や蟻達が仕事を終えたとばかりにカシャカシャ足を動かして通路の奥へと待避していく。
映像を見つめていた客の殆どは男達が無事帰ってきたというのに扉ではなく通路へと視線を向けている事に気付き、唾を飲み込んだ。
カツンカツンと靴音がして角を曲がる。
映像の中に見えたのは武装なんて何も身に付けていない金髪の少女と男が二人。
少女は大の男二人に肩を貸して歩いてくる。
大勢の蟲を背後にして平気で歩いてくる。
男達が自然に左右に道を譲った。
Shepherd.
客達の一人が呟いた。
惹き従える者。
その意味を正確に理解する外国の客達は脳裏に同じ答えを見出した。
少女が両肩の二人を男達に預けて、後ろを振り向く。
「ありがとう」
少女の呟きを聞いてか。
今まで通路の奥にいた蟲達がまるで潮が引くように消えていく。
「・・・あんたのだ」
「え?」
蟲を見送った少女に男の一人が蜘蛛の糸に塗れながら震える手で端末を渡した。
「誰にも文句は言われないさ」
少女が端末を見て、それがサーバーのデータが入ったものだと気付く。
男達はその光景を見つめながら何も言わなかった。
「ギブアップだ」
糸に塗れた男の声と共に扉が開く。
第一GAMEはあっさりと幕が引かれ、客達の間にも静寂だけがあった。
*
映像を部屋で見続けていた久重がさすがに驚いた様子でカメラに映ったソラを見つめていた。
「NO.08“The Shepherd”もうすでに開放されてたってわけ」
未だに顔が青く具合の悪そうなシャフが嗤った。
「知ってるのか?」
久重の言葉にシャフが吐き捨てるように言葉を紡ぐ。
「生物を制御する為の脳機能干渉プログラム。有り体に言えば都合の良い洗脳プログラムよ。博士が死んだから他のオリジナルロットにすら組み込まれてない。【D1】が抱えるプログラムの内で最も悪性な代物。ふん。お似合いじゃない」
シャフが具合も悪そうに俯いた。
「ダウトだよ。さすがにまだ人間の脳を完全に支配するような技術は確立されてない」
アズの言葉にシャフが皮肉げに応える。
「それはそうよ。そっちは心理学分野で【連中】が研究を継続中だもの。あれはあくまで生物の脳機能を簡易制御する為の代物。本来はBMI技術への適合や脳機能の強化に使う補助プログラムに過ぎないわ。ま、それでも蟲程度ならああいう芸当もできるんでしょ。博士がどこまで出来るものを作ってたか知らないけど・・・」
シャフが瞳を細めた。
「せいぜい気を付ける事ね。いつの間にかあの子の思い通りの人間にされてるかもしれないわよ?」
毒の混入を忘れない物言いに久重がやれやれとシャフを見つめる。
「ま、それは後で本人に聞くとして、だ。お前・・・蟲とかダメなのか?」
「―――ッ!! そんなのあんたに関係ある!?」
「さすがに野外でGAME中に蟲が怖くて気絶しましたとか格好付かないだろ?」
「―――蟲が嫌いな女の子がいちゃ悪いっての!?」
「自分の事を女の子とか言うには程遠い存在だと認識してないのか?」
「ッ、言わせておけば?! あの子だって初めはあんなの絶対無理だったわよ!?」
「初め?」
「研究所(ラボ)には緊急時のマニュアルがあった。食料制限で備蓄の代わりに蟲を食べる訓練なんてあんたした事ないでしょ? 蠅(ハエ)に蜚(ゴキブリ)に蝗(イナゴ)。ゲテモノを一ヶ月も食べさせられれば誰だって―――ぅう」
嫌な記憶でも思い出したのか口元を押さえてシャフが青くなった。
「結果が出たようだね」
アズの声に久重が振り向くと画面に各チームの得点が映し出されていく。
「お嬢さん。コレを」
今まで静観していた田木が何処から取り出したのか小さな紙袋をシャフに差し出す。
それに耐え切れなくなったのか。
シャフが部屋からバタバタと外へ駆け出した。
「蟲・・・喰えるか?」
久重の質問にアズが苦笑いした。
「昔食べた事があるけど、口には合わなかったね。どうやらソラ嬢は訓練で百点。シャフ嬢は零点だったらしい。僕は五十点くらいかな」
「ふむ。蟲は消毒すれば結構イケる口だが? 近頃は自衛隊にも蟲の缶詰があって結構美味いものだ」
「順位が出るよ」
アズの言葉に三人が黙って画面に見入る。
一位。
天雨。
232Point。
「何処のチームだ?」
「何処って僕達だけど?」
「・・・そう言えばチーム名とか聞いてなかったな」
「行き当たりばったりでチームを集めてたからね。僕も言い忘れてたよ」
「ホントにな」
己にすら呆れた様子で久重が苦笑する。
久重もまったくチーム名なんて気にした事が無かった。
「でも、少なくとも僕が知る限り、僕達以上にスキルのある人間も珍しいよ。今回のGAMEに参加する人間の資料は一通り見たけどね」
「そりゃな。闇のフィクサーに元エリート自衛隊員に不思議少女×2もいれば」
「君だって一応はジオプロフィットのスペシャリストだろうに」
「本格的に開拓され始めてまだ半世紀の分野だぞ? その系統の法律には詳しいし、関連の情報は色々と新しいのを仕入れてるがまだ新しい学問として未熟過ぎだろ。関連書籍を十冊も読めば誰でもジオプロフィット博士だっての」
(謙遜してる割に大学で講師を引き受けてくれって君は頼まれてるけどね)
アズが知る限り、久重はそういった頼みを断り続けている。
優秀でなければ声なんて掛けられるわけもない。
「久重。どうやら今日の主役がご帰還だ」
久重が後ろを振り向くと同時に扉が開いた。
「ひさしげ」
「早かったな」
そのまま久重の前まで来てソラが止まる。
「一位。取れたわ」
何処か陰りのある顔で報告するソラの頭に久重が手を置く。
「ああ、見事だった。それによく頑張った」
「でも・・・」
「気にしてない。あそこで見捨ててたらオレが助けに行ってるかもしれない」
おどけた久重にそれでもソラの顔は浮かない。
「だけど・・・NDも使って・・・」
「別にいいよ。そこは僕が矢面になるからね」
アズが笑う。
「え?」
「どういう事だ?」
「僕も腹を決めたって事。チーム名を見て僕の姿を知ってる連中がいれば納得してくれるよ」
二人がアズの言っている意味が分からず同時に頭へ疑問符を浮かべた。
*
第一GAME終了から三十分。
不自然に髪の黄色い全身傷だらけの少女亞咲は自室の壁一面に映している参加者達の記録を閲覧していた。
一人ソファーで寛(くつろ)いでいると端末に着信。
亞咲が掛けてきた名前を見て端末を耳に当てる。
「会長。新規のチームが一つ潰れました。それに古参の方も幾人かリタイアです」
耳から聞こえてくる暢気な声に亞咲が目を細める。
「それにしても趣味が悪いかと。生物兵器なんて嘘よく考え付きましたね?」
テーブルの上に置いてあった水滴だらけのカップからチューハイが手に取られた。
「ただの食品サンプルやサンプル作りの為に作った適当な蟲の暴走。大型化させる為に蟲の脳を肥大化させて人間みたいな食欲を植え付けようだなんて・・・変態過ぎたかと」
会話相手が何やら言い訳らしき言葉を並べ始める。
「前から言おうと思っていましたが、食用蟲の大型化研究なんて卑猥な事をしてるのはウチくらいですよ?」
端末から疑問の声が上がった。
「何処が卑猥なのかって・・・日本はそういうお国柄だと思います。蟲を食べようとして蟲に食べられたなんて笑い話やホラーじゃなくて猥談の類です」
感心するような声に亞咲がやれやれと肩を竦める。
「日本文化が分かってきたじゃないか、ですか? いえ、理解できません。それでCEOの件はどうしますか? 今回のあの少女の性能とチーム名から客の幾人かが気付いたようですが」
冷静な声が応える。
「放っておけと? 分かりました」
それから声の主に亞咲が幾つかの命令が下される。
「はい・・・はい・・・では、軍閥からの使者にはそのように」
端末が一方的に切れる。
それを見計らっていたかのようなタイミングで部屋の扉が叩かれる。
「どうぞ」
亞咲の声を検知した扉のロックが外れる。
ぞろぞろと入ってきたのはスーツ姿の男達だった。
男達の先頭に立って歩いてくるのは髭を蓄えた四十代の男。
野性味に溢れる獣よりも鋭い視線が同じくスーツ姿の亞咲を捉える。
筋骨隆々とした肉体はスーツをはち切れんばかりに内側から膨張させていた。
「亞咲さんですね? 軍閥統合本部から参りました。第四特務大隊隊長『池内豊(いけうち・ゆたか)』と申します」
丁寧なお辞儀と共に笑みを浮かべた男に亞咲が興味も無さそうに映像を見ながら応える。
「日系八世の中国人。軍閥に入る前はPMC(民間軍事会社)最大手で軍事顧問をしていらっしゃった『あの池内豊さん』ですか?」
「はい。その池内豊です」
「ウチの人間が一応警備してたはずなんですが、どうしましたか?」
「少しの間、眠って貰いました。通してくれと言っても通してもらえなかったので」
「それで今日は何の御用でしょうか?」
「今現在軍閥統合本部にはGIOに対して幾つかの疑念が有りまして。その疑惑を晴らさなければ、日本にご迷惑が掛かるものと思い此処まで」
「疑惑?」
「ええ、GIOからの支援が一方的に打ち切られるのではないかとの話です」
「可能性の話で言えば無きにしも非ず、というところですか」
サラッと流した亞咲の答えに微動だにしない男達の目尻がほんの微かに釣り上がる。
「ほう。それはまたどうして?」
「単純にリスクとリターンの天秤が動いただけです。あなた達を支援するリターンよりもリスクが高くなる可能性が出てきたと捉えてください。別にロシアや日本の政府から圧力を掛けられているわけでも無ければ、今更怖気づいたわけでもありません。単にその可能性があるというだけの話です」
「出来れば、リスクの内容が知りたいのですが」
「・・・天雨機関。ご存知ですか?」
池内が頷く。
「ええ、存じてます」
「それが動き出しました」
「解体されていたのでは?」
亞咲がテーブルの上に置いてあった冷め切ったコーヒーを口にする。
池内が今回のGAMEの情報を知っているだろう事は最初から分かっている。
それを踏まえて事情を話せと言っているのだろう男にどう説明するか。
亞咲は一拍の間を置いた。
「あなたは天雨機関がどういう実態を持っていたか知っていますか?」
「そう詳しくは。ただ、日本国内にいる優秀な科学者と技術者を集めた総合学術研究機関であり、その成果は不老不死にまで到達したという噂がある程度でしょうか」
「表向きの天雨機関に関する情報は今でも幾つかネット上でも散見されます。そして、データを分析すれば分かる事ですが、機関の研究の殆どは機関内部では行われていませんでした」
「どういう事でしょう?」
「天雨機関そのものはあくまで予算を付けてもらう名目で立ち上げただけの伽藍堂のハリボテ。その内実は研究者から予算と引き換えに研究成果を蒐集する蒐集機関だったという話です」
亞咲がカップをテーブルの上に置く。
「年に一回は集まって研究者同士の交流をしよう。蒐集した研究成果を基礎に新たな産業を生み出そう。本来はそういう目的で設立された機関でして。所属していた研究者にしても殆どは研究資金欲しさの名簿貸し。幽霊みたいなものでした。故に本体で働いていたのは極少人数せいぜい十数人に過ぎませんでした」
池内が興味深そうに話に聞き入った。
「その中核となったメンバーを総称して事情を知る者は天雨機関と呼称しています。ハッキリ言えば、我々のような人間にとって天雨機関とは中核研究者個人を指す場合が殆どの単語なんですよ」
「それでその天雨機関がどう我々の件に関わってくるのでしょうか?」
「中核メンバーの一人一人の才能は他に比べても突出するものでした。そして、それは今現在も変わらない。彼らの殆どが表舞台から消えていますが、その影響力は今でも世界の警察を仕切る大統領より上です。彼らはそれぞれに得意分野を持っていた。
その分野においてなら、現在の世界に彼らを上回る人間は存在しない。もしも、彼らが左と言えば、GIOも左と言わざるを得ない。
もしもそれを拒否するならGIO本体と天雨機関との抗争に発展するでしょう。その時点で発生するだろう天文学的な損失は軍閥の援助から得られるリターン程度では見合わない」
「天雨機関から脅迫を受けていると?」
「いえ、陳腐な言い方をするなら戦争のお誘いと言ったところです」
「GIOが人間一人如きを畏れますか」
亞咲が苦笑した。
本当に池内の言う通りだった。
普通ならば笑い話だ。
笑い話で済ませられる程度の戯言だ。
それでも世の中には理不尽という言葉が存在する。
「池内さん。あなた日本のアニメはお好きですか?」
「?」
「人間型ロボットや巨大ロボットが出てきたり、遺伝子を改良した人間やクローン人間が現れたり、夢のある技術が何故か戦闘の為に使われてみたり。今では五十年以上前のアニメに近いものが出来上がっています。でも、天雨機関はそれを地で行きますよ」
「言っている意味がよく分かりませんが?」
「我々GIOは物量的に無茶な行動が出来ます。そのつもりなら一国と事を構えて戦争すら出来ます。それどころかその国の経済活動を根こそぎ破壊したりも出来るでしょう。そして、それと同じように彼らは質的な無茶が出来る。
彼らは一個人で核弾頭を製造し、あらゆるセンサーを掻い潜る戦闘機を作り、如何なるコンピューターにもハッキングでき、様々な病原体で世界を死と恐怖に染める事が可能です。
その気があるなら世界を道連れに出来る能力があります。それが一企業に向けられるとするなら、テロリストより性質が悪い」
「本当にそんな事が個人で出来るのならば確かに」
「それが出来てしまうから問題なんです。彼らは天雨機関という組織で巨額の資金と恐ろしく先を行く技術を手に入れた。特定の分野において必ず世界の一歩先を往き、その技術一つで世界に莫大な影響を及ぼす。もしも、この世界に未だ【黒い隕石】が降っていなかったならば、彼らに対応できる人材も残っていたかもしれない。しかし、世界中で諜報機関が弱体化している昨今、本気の彼らを止められる組織は皆無です」
池内がいつの間にか亞咲の前に立っていた。
「ならば、我々が止めましょう」
胸に手を当てて答える池内に亞咲が首を横に振る。
「軍閥の特殊部隊程度では荷が重いかと」
「何事もやってみなければ分かりません」
「・・・そうですか。ならば、これを」
亞咲が自分の横に置いてあった数枚の資料を池内に渡した。
「彼らに今回のGAMEで勝ってください。そうすれば、幾分かの譲歩を引き出す事が出来るかもしれません」
「ご期待に沿えるよう努力するだけしてみましょうか」
「どうぞよろしく」
二人の間には終始笑みしかなかった。
数分後、男達が引き上げて行った後。
「会長。茶番好きにも程があります」
亞咲が冷蔵庫から一面に詰められた缶コーヒーの一本を取り出しながら愚痴った。
小道具のコーヒーカップから流し台に香り高い液体が捨てられていく。
「好きな女の子に意地悪って、小学生ですか。まったく・・・」
そうして第二GAMEにおいて新規参加チームが加わる事となる。
各チームは補充人員をメンバーに向かえ、再びのスタートは翌日の夜となった。
喜びに笑いあう久重達は新たなGAMEが更なる過酷さを帯びるとは未だ知らずにいた。
他が為に鐘が鳴るとするなら。
我が為に鐘を鳴らさんと欲す。
鎮魂の調は罵倒となり。
明星に天使の喇叭が鳴る。
第二十六話「贖罪」
購うとは奢る事に似ていた。
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第二十六話 贖罪
第二十六話 贖罪
それは暑い日が続くクリスマスの前夜。
世界に未だ希望が満ち溢れていた頃の事。
家族と共にツリーを飾ってはこうでもないああでもないと納得がいくまで飾を弄り回していた。
数年に一度の大干ばつで牧場の経営は火の車。
大都市圏へ水の供給を名目に川は干上がり、草の一本も生えない土地は痩せ細っていた。
その年が牧場最後の年になると分かっていたからか。
父も母も最期のクリスマスに飛び切りのご馳走を用意していた。
陽気に笑いながら心配を掛けまいと求人雑誌を漁っていた。
地球温暖化の折。
皮膚癌が多発し始めていた土地で肌の弱かった妹が死んだのは前年。
失うものは家と命以外何も無かった。
それでも家族は支え合いながら生きていた。
懸命に生きていた。
そんないつもが崩壊したのは新しい年を迎えた日。
移民政策の失敗から低強度の内戦状態が続いていた地域で移民の暴動が起きた。
切欠は些細な喧嘩だったと後のニュースは語る。
しかし、そんなのは気休めにもならない。
英語と中国語で罵り合うのは母の母国と自分の祖国の人間。
誰が悪いのかなんて決まっている。
自分の家族を襲った暴徒だ。
暑い暑い日の事。
悪魔という名の人間は全てを奪い去っていった。
壊される玄関。
母の悲鳴。
銃声。
父の呻き声。
死んだ妹が残したお手製の飾は儚くツリーと共に砕け散った。
ふわふわと舞い散る羽毛。
中国語と英語が入り混じるグループの声。
金目のものを探せ。
終わったら行くぞ。
上玉じゃねぇか。
面倒だ殺せ。
死んでくれや。
バンバンバン。
見つかって、引きずり出され、男達が嗤う。
手が伸びてくる。
世界は回る。
希望という名の絶望が終わりも無く体を這いずった。
「―――」
下種が、そう吐き捨てた。
吐き捨てて、気付く。
傍らには数人の男達がいた。
あの下種な男達とは違う。
自分だけのチーム。
「どうかしましたか?」
一人起きていたのか。
未だ武装したままの男が一人。
蒼い瞳に白い肌。
あの男達と似て・・・しかし、まったく違う。
今年で三十後半になる男は嫁と娘がいるという。
名前は何だったか。
ぼんやりとした頭は思い出せない。
「何でもありません」
そう呟くだけで精一杯。
「コマンダー。我らは貴女の牙だ。しかし、牙を振るう貴女がその調子では困る」
「何でもないと言っているじゃないですか」
イラついた。
その声は何もかもを見透かしているようで。
「GIOに我が國から手を引かせる。貴女はその為、此処にいる」
「分かっています。いますから、だから今は・・・」
「貴女はもう訓練生ではない。貴女はもう人間ではない。貴女はもう女ではない。貴女はもう我が國の防衛を担う歯車だ。それを自覚するならば、どうか気を静めてください」
脳裏にフラッシュバックしていくのは光景だった。
何もかもが終わった後。
火を付けられた家。
助け出される自分。
施設に暮らし、里子に出され、蔑まれて家出し、軍に入り、機械のような人間のような曖昧なものとして磨かれていくだけの日々。
友は無く。
愛する者も出来ず。
ただの兵として精錬された己。
「・・・・・・」
すぅっと息をして整える。
いつもの自分を意識する。
「アマンダ。おはようございます」
ようやく。
まともに男の顔を見れた気がした。
「おはよう。サントン伍長」
「はい。落ち着かれましたか?」
「ええ、ありがとう」
「どういたしまして」
時計を確認する。
昨夜の第一GAMEからもう五時間が経過していた。
「伍長。昨日のGAMEに付いてまだ報告を聞いていませんでした。目が覚めたという事はもう大丈夫ですね?」
「はい」
「では、口頭で構いません。昨日、一体何があったのか報告してください」
「はい。あれは自分が二階部分の通路へと侵入してからの事でした」
GIOに借り受けている一室。
窓の外からはブラインドを透かして朝日が昇っている。
伍長がゆっくりとあの時の状況を説明し始める。
その声はGAMEに負けたという負い目よりも、湖面を思わせる静謐さを湛えていた。
「自分は・・・通路の先で死を覚悟しました」
オーストラリアより柔らかな日差しの中、伍長の話が始まる。
*
朝日を浴びながら白人の男が一人朝食の準備をしていた。
オズ・マーチャー。
経歴という経歴を捨ててきた裏社会の事情通。
今はしがない武器商人からお米の国の諜報員にクラスチェンジ中のオズはフライパンが相棒だった。
「ベーコン・・・どうして日本はコレをベーコンと言い張るんだ?」
愚痴も程々に薄いベーコンをフライパンに敷いてカリカリに焼いて皿に盛る。
注ぎは卵をフライパンに二つ落とす。
ミルクは温め、レタスは千切ってオリーブオイルと塩だけで味付ける。
トースターからチンッとの音。
出てきたトーストにはピーナッツバターを片面にベッタリと。
数分で出来たご機嫌な朝食をテーブルに移してオズはそっと手を合わせた。
「イタダキマス」
近頃身に付いてしまった仕草だった。
日本人の不思議ではあったが、周囲に浮かないよう作法は常に学んでいる。
オズが指で壁の画面を指示するとネットに繋がれ画面に今日のトピックとニュースが羅列されていく。
インスタントなのに何故か上手いコーヒーを片手で持ちオズはニュース欄の海外を選択。
ベーコンを口にしてから目を細めて世界情勢を見つめる。
(第三世界は相変わらずの混沌。欧州はテロの巣窟。祖国はいつもの如く弱いもの虐め。問題は中国と露西亜か・・・)
お気に入りのサイトへと移動したオズがスレッドの一つを表示する。
そこには一つの画像が貼り付けられていた。
露西亜の主力戦車とそれに突撃していく兵隊の図だった。
【キタコレ!! ちょ、マジ?!】
【どー見てもガセ】
【どこがガセなんだよ? モノホンにしか見えん】
【そう見えるのは情弱だけ】
【また芳しいのが湧いてるな】
【ソース何処よ?】
【ソースソースソース】
【はい。やっぱりソースはコレ】
【誰がお好み焼きのソース写真張れとw】
【まだ草生やしてる奴絶滅してなかったんだ。もう爺だよね。そういう奴】
【これが本当だとしたら、一体どうなる?】
【いや、日本オワコン】
【オワコンとかまだ言う奴いたんだ。それこそオワコン】
【コテハンで気づけ】
【それよりSAGEろよ?】
【マジレスするけど、中国軍閥と露西亜じゃ勝負にならない。露西亜未だに国だから。ただでさえ海岸沿いのとこが落ち目になってる軍閥が一つ二つ戦いを挑んだところで・・・あとは分かるな?】
【とばっちりフラグ】
【日本が水資源の輸出を法律で制限してるから悪い。賠償!!とか言い出すんだろ?】
【分かります。戦後に日本がこっそり支援してたとか言い出すフラグですね】
【軍事板で誰かが言ってたが、審議中のジオネット法の拡大で昔のGAME設定みたいな管理戦争が始まるらしい】
【つーか、そこの共通見解はそれでも日本は勝てないなんだが】
【さすがに二十億とかドン引き】
【いや、あっちも爺しかいないから大丈夫じゃね?】
【戦術に差が無ければ、物を言うのは物量=人間の数】
【日本海側から来る船全部沈めればいいんじゃないの?】
【その船を沈める砲弾には限りがある】
【それ以前の問題。軍閥の一つが公式に未だ核弾頭配備中】
【無敵な盾船は?】
【亡国の何たら乙】
【何年前の話だよ】
【GIO中国が軍閥に支援してる。最新のミサイルに弾頭詰め替えれば発射準備完了】
【移民労働団体の幾つかに不穏な動き有りって移民板の連中が騒いでる】
【そうか。とうとう日本滅亡エンドか】
【その時、奇跡が起こった!】
【戦争になったらまず最初に沖縄と九州が主戦場。それ以前に日本海側の海洋発電プラントがやられたら南の方はアウトに近い。土建屋さんの近頃の仕事は旧いダム解体だからな。電力供給がどうしようもなく足りない】
【そもそも海路を押さえられたら貿易出来なくて死亡】
【太平洋側の航路は?】
【物が半分以上入ってこなくなるからどっちにしろ】
【そもそも自衛隊の空・海自って防衛に関しちゃ無敵じゃないのかよ】
【戦術核による海洋でのECM戦術とか中国的には実戦投入する予定だったからヤバイんじゃね?】
【無理だろ】
【初戦だけなら防衛に徹する我らが自衛隊には超有効。ま、その後は死ぬけど・・・】
民間レベルで情報が出回り始めている。
露西亜と中国軍閥の衝突は殆ど隠せていない。
オズが知る限り、もはや日本という国に待ったは無い。
本来ならば、ネット上でこんな不確かな情報が出ているような次期ではない。
今正に侵攻が開始されるかどうかの瀬戸際なのだ。
本来ならばもう集められる兵隊と兵器の数を把握し、国家予算に莫大な軍事費を計上していなければならないような時勢であるにも関わらず、日本人の殆どはそんな事にも気付いていない。
政府は情報を掴んでいるだろうが、未だに日米安保が有効で米軍が守ってくれるなんて幻想を抱いている。
何かと友好関係が広いオズの情報網には米軍の再編計画に極東からの離脱が含まれているなんて話がちらほらと引っかかり始めている。連動するようにアメリカの下院や上院でも与党野党関係なく超党派で米軍の日本撤退が議論されている。
(見せ掛けのカードで何処まで日本が釣れるか・・・)
極東の要衝として機能してきた日本という国に危機感を齎し、米国が併合すら視野に入れているというのはディープな軍事評論家辺りなら知っている事実だろう。
CIAの超法規的な活動は日本内部の脅威論を呷り、今現在も幾つかのプロジェクトが実際に進行している。
米軍の撤退という表側のカードは日本の気を引く為のもの。
日本の戦争突入は日本そのものを変質させる一助となるだろう。
冷え込んだ日米関係。
国連での主導権の凋落。
経済活動の停滞。
時代に著しく活力を奪われた米国にとって日本は目障りであると同時に必要不可欠な存在となった。
現在の米国政府は他国を虐めるのが数十年前より好きだ。
軍部やCIAが共に進めている計画の殆どは植民地政策の復活とも言えるものばかり。
その最も大きな獲物として選ばれたのが日本だというのは皮肉でも無ければ意外でもない。
対外的な脅威が高まり続け、日本という国が自身ではどうにもならなくなったところで恩を売る。
日本政府に米軍無くして日本の国土を守れないと思い知らせる。
それが出来ると思っているからこそ米国政府は米軍の日本撤退というカードを此処数年で表面化させてきた。
無論、脅威が実際に日本を覆い尽くし、軍閥に日本を取られる訳には行かない。
あくまで中国軍閥は危機感を煽る為の駒でしかない。
ならば、本国が何らかの『切り札』(ジョーカー)を伏せている事は十分に考えられる。
それが経済的なものか軍事的なものかは解らないが程なく・・・それが発動されるに足る状況に日本は陥っていく事だろう。
「・・・ん」
いつの間にか朝食は胃の中に消えていた。
隣の部屋のドアが開く音。
『ようやく帰ってきた・・・寝るか』
『うん・・・』
『虎を後で迎えに行かないとな・・・』
『うん・・・ふぁ・・・ん・・・』
朝帰りらしい。
バッタリと体が倒れ臥す音。
相変わらずの様子にオズはやれやれと溜息を吐く。
日本人は本当に危機感が足りない。
「【AS】の手下でさえ、あの有様か」
とりあえずは朝風呂にでも行くかとお風呂セットを用意する。
(ま、気楽に行くさ)
そろそろ目的の情報も入手できそうなところまで仕事は順調に推移している。
オズはこの仕事がいつまで続くのだろうかと、そう思いながらも・・・日本人の暢気さに中てられた生活をエンジョイする事とした。
*
朝の病院。
モソモソとパンを口にしていた佐武戒十は病院の寝台の柔らかさに慣れずソワソワしていた。
いつもなら自宅の堅いソファーか張り込みの車の中で夜を明かすのだから仕方ない。
(結局、何も出来なかったな・・・)
あの誘拐事件から二日。
事件前後数時間の記憶が曖昧になる何らかのBC兵器の後遺症が佐武の顔を顰め面にする。
頭痛が治まってくるのに一日も掛かった。
佐武はあの場にいた他の隊員と同じく事情聴取を受けていたが、未だ詳しい事件の顛末は知らされていない。
知らされたのは人質にされていた令嬢がとある筋の人間に救出されたという話と他の部隊が踏み込んだ時には現場に死体しか残っていなかったという事だけ。
残りの犯人達を捜索しているというが、その逮捕という話は佐武の耳には聞こえてこない。
佐武が覚えている限り、その記憶は誘拐犯達が潜んでいるビルへと向かう車の中で途切れている。
(面子も面目も立ちゃしねぇ。それ以前に無能の烙印を押されても文句も言えんか)
水でモソモソしたパンを無理やり胃に流し込んで一息付いた佐武が病室の外を見上げる。
数人が住まう病室の窓際。
空は晴れ上がっている。
夏というのに珍しく気温が低い。
適度に湿った風が窓の外から病室内部を吹き抜けていく。
「・・・クソが」
力ない呟きに自嘲すら漏れて、佐武が横になろうとした時だった。
「か~~いとさ~~ん!!」
バッと窓とは反対側のカーテンが開けられる。
「・・・何だ了子?」
「うわ?! テンション低?! それ以前にいきなり来たんですから驚くとか大声だったんだから怒るとかしない戒十さんはもう戒十さんじゃないやい!」
「お前はオレに何を求めてんだ?」
「無論、ネタですが何か?」
「聞いたオレが馬鹿だったよ。ああ、ホントにな」
佐武がグッタリと寝台に横たわった。
「・・・相当まいってるみたいですね。戒十さん」
「まぁな」
横の椅子に腰掛けて了子が己の懐から手帳を取り出す。
「でも・・・良かったです」
今まで賑やかだったのが嘘のようにポツリと了子が呟く。
「何が良かったんだ? 悪い事づくめじゃねぇかよ」
「それでも・・・そうだとしても・・・戒十さん・・・死なないで・・・良かった」
「馬鹿か。オレが簡単に死ぬような人間か?」
了子が顔を伏せる。
「佐武さん。自分がどうやって運ばれてきたか分かってますか?」
「知らねぇな」
「意識不明でした。他の皆さんも同じです。でも、面会謝絶で当分は会えないって警察の人に言われて・・・意識が戻ったって聞いて安心して・・・私・・・」
僅かに目元を拭った了子に佐武が気まずい様子で視線を逸らす。
「悪りぃ・・・」
「いえ。とにかく戒十さんが生きててくれて私は凄~~く安心したのは確かです。戒十さんがいなかったら私は何処からネタを探せばいいのか分かりませんから」
「おいおい。勘弁してくれよ」
無理やりに笑みを作った了子に合わせた戒十はそのぎこちなくも思いやりを湛えた心遣いに感謝する。
「それで此処まで来れたのはどうしてだ?」
「同僚の方が特別に通してくれました」
「顔見知りってのは厄介だな」
「いいじゃないですか。それで下っ端の戒十さんに入ってきてないと情報も分かるんですから」
「教えてくれるか?」
「はい」
了子が頷いてパラッと手帳を捲る。
「私が知りえた限りの事をお教えします。まず事件の概要から」
了子が一つずつ事実を列挙していく。
前半部分は殆ど戒十が知る情報と大差は無かった。
それでも個人のライターがたった一日でそこまで調べるのは至難の業に近かったが、佐武が知りたいのはその先。
「此処からは佐武さんが知らないことだと思います。症状の事は聞きました。まだ記憶は戻りませんか?」
「ああ、何か紙やすりでも掛けられたみてぇに記憶がごっそり削れてやがる」
「分かりました。続けます。ですけど、ここから先は事実と推察がありますから注意してください」
「分かってる」
佐武が頷く。
そもそも警察の誰一人として本当のところは分からないらしいと意識が戻った佐武に同僚が零していた。
それでも警察の視点以外から何かが判明する事は多々ある。
注視する佐武に了子が話し始める。
「三日前の午後十一時五十一分。ビルから突然の爆発音と煙が上がり、突然現場と本部の通信が途絶。突如としてビル周辺の電源が落ちました。更に異常気象なのか近頃設備更新されたAMeDASがビル周辺で一時的にマイナス八度って凄まじい寒気を観測してます。これはたぶんまだ警察も掴んでません」
「何? そいつは・・・」
佐武の脳裏に浮かんだものを正確に了子が読み取る。
「はい。あのテロリスト包囲事件の時と同じです」
「どうなってやがる。最近のテロリストや誘拐犯は天気や電気系統でも操れる超能力者か何かなのか?」
了子が笑った。
「それだったら凄いネタなんですけどね。一応、これに対応した科学技術全般を漁ってみたんですけ
ど、電気系統を一瞬でダウンさせるなんてそれこそ軍事用の装備が要りますし、凄い電磁波が観測されてないとおかしい話です。
けど、周辺のそういうのが分かりそうな観測機器がある施設を当たっても電磁波の観測はありませんでした。更に大容量の電源が周辺にあったって話もありませんでした。
仮に軍事用のECMが発動していたら物理的に電子機器が焼け付くはずですが、そういう痕跡も皆無。つまり」
「あの場所にはそれ以外の電子機器を妨害する方法が存在した」
「はい。さすがに気象を変更するような装備は最先端の技術でも殆ど不可能って見解が出てますから、本当に不可解ですけど。電子機器を一瞬で落とす方法はECM以外にも幾つかあります。それがどういう方法で行われたか特定できればあるいは・・・」
佐武が苦い顔をする。
「科捜研に頼んだところでどうにかなるわけ・・・無いか」
「あそこも最先端の科学技術は持ってるんですけどね。如何せん頭が固いというか」
「同感だ。それでその後どうなった?」
「あ、はい。午前一時七分。周辺に追加の特殊部隊を集結。九分、電源の落ちた一帯に突入。十二分、現場で倒れている部隊を発見。同十二分、ビルに突入。十七分、ビル内部を制圧。一部火災が発生していましたが、それは部隊が屋上の防火装置を手動で使って消し止めました。その後、捜索活動を行いましたが人質は発見されず、発見されたのは犯人が逃走経路に使った地下トンネルでした。しかも、しっかりと爆破で封鎖してあったらしいです」
「おいおい。警察が無能と謗られて腹が立たないなんてどうすればいいんだ?」
「事実を重く受け止めればいいんじゃないですかね? それとも遺憾の意でも表明してみますか?」
「はぁ・・・それで周辺を封鎖して更に捜索活動を続けたが人質は見つからなかったと」
「はい。それどころか第三者が人質を救出したそうです。その経緯を知りたがった警察に対して財閥側は【無能な警察に話す事は何も無い】と突っぱねてます。あくまで財閥の関係者が偶然に発見して救出したとだけ」
「事件は闇から闇へ・・・か」
「詳しい現場検証が大規模に行われてますけど、今のところ死体以外に事件の解決に必要な証拠品は発見できていません。ただ」
「ただ?」
「その・・・残ってた死体がかなりアレで、現場にも妙な痕跡が残っていたって話があって」
「それは初耳だな。どういう事だ?」
「はい。屋上のスプリンクラーを手動で操作しようとして部隊が・・・皮膚を完全に失ってドロドロの脂肪を滴らせた死体を発見したとか・・・」
「火傷か?」
了子が僅かに言い淀んだ。
「いえ、ですから、皮膚が完全に全身から消え去ってたと」
「生皮でも剥いだってのか?」
「詳しい事はまだ分かりませんが本当に言った通りの意味で『無い』そうです。更に骨格とか筋肉とかが人間なのか疑うような状態になってたとか何とか。それと妙な痕跡に付いてですが、十か所以上確認されてます。それも佐武さん達が倒れていた場所にもあったって話です」
「どう妙なんだ?」
「はい。超高温で融かして消し炭にした跡らしいです」
「・・・何をだ?」
「・・・たぶん人間を」
「―――オレが倒れてたところでそんなもんがあったって言うのか・・・」
息を呑んだ佐武が愕然と呟く。
「はい」
「・・・オレはその犯人にまんまと記憶を奪われたわけだ」
佐武が拳を握り締めた。
「更に妙なのはそんな痕跡を残せる装備が未だ持ち運ぶには不便だという事です。何らかの薬品や爆薬の類を使った痕跡が無いというのも気になります。人間を熱量だけで綺麗に融かす尽くすなんて普通の軍事品では考えられません。人間は数百度で燃やしても骨が残りますから千度どころかそれ以上の火力が無いとああいう痕跡にはならないそうです・・・」
「見てきたみたいだな?」
「ちょっと隠し撮りで」
「ま、それはいい。で、だ。気になったんだが昔から人間が偶然に発火して死傷した事件って無かったか?」
「それも調べてみたんですけど、今回のは度が過ぎてます。自然現象なんてもので片づけられないのは明らかです。数分で人体を融かすなんて考えられません」
「さすがにそう上手く手口は解らんか」
「それに十人以上の人間を短時間で融かし尽くす何か・・・そんなものが日本にあると考えるだけでも荒唐無稽なのは解りますよね?」
了子が自分で言っておきながら納得のいかない顔をする。
「だが、お前はそれがあると確信してる。いや、何かしらの核心を知ってやがるのか?」
「――――――戒十さんは人の心が分かる魔法使いか何かなんですか?」
了子が驚き、佐武が笑う。
「刑事の勘だ」
「外字久重。それから外字と一緒にいる金髪の女の子・・・聖空」
「それがお前が近頃追ってるネタか?」
「はい。彼は何かを知っている。そして、その子が鍵だと私の心が言ってます」
「それは記者の勘か?」
「・・・この間は話しませんでしたけど、一瞬だけあのテロリスト包囲事件の現場で、あの全裸の男が吹き飛んできた暗闇の中に外字久重の顔を見た気がしたんです」
「ああ?! テメェは何でそんな重要な事隠してやがったッッ?!」
佐武が思わず怒鳴った。
「ひゃ!? そ、そんなに怒らない下さいよ。わ、私だって自分の記憶に自信が無かったから・・・」
「自信が無かったらネタとして追い求めてたりしないよな? ああん?」
「う・・・追ってましたけど・・・」
白状した了子がしょんぼりする。
「で、何か分かったのか?」
「それがあんまり・・・ただ、外字久重という男はかなり厄介ですよ。電子情報が極端に少なくて、しかも過去の情報がいまいちハッキリしません。それにいつも昼は留守がちで夜は夜でいない事が多い。色々調べようとしたら周辺の警察のパトロールが厳しくて・・・張り込もうとしたら職質されるし、盗聴器やカメラ仕掛けたら何でかいつも壊れてるし、踏んだり蹴ったりで・・・何でも警察の人が言うには付近に財閥を持つ家が幾つも存在してるらしくて・・・あ」
「何だ?」
「ああ、どうして気付かなかったのよ私!!!」
「お、おい?」
「戒十さん。誘拐されたのは布深家の令嬢なんですよね?」
「お、おう。一人娘で名前が布深朱憐・・・だったか?」
「外字久重の家から三キロぐらいの場所に布深家があります!!」
「何ぃ!?」
了子が己の端末を取り出して地図を呼び出す。
「外字久重のアパートが此処。そして、今回誘拐された令嬢の家が此処。偶然だと思いますか?」
端末から呼び出された地図を見て佐武が唸る。
「普通なら偶然で片付けるが、こんな偶然があるのか?」
「戒十さん。これから私・・・外字久重に会ってきます」
「おい。何も今から行かなくても」
了子が立ち上がる。
「退院する時はメールください。退院祝いに何かご馳走しますから。それじゃ!」
了子が早足で病室を出て行く。
「・・・相変わらず台風みたいな奴だな」
昔から変わらない良子に苦笑して佐武が病院の外を見つめていると三分で了子の車が病院の前を通り過ぎて行った。
「あいつのおかげで調子は戻ってやがるが・・・それにしてもキツイな・・・オレももう年か・・・」
人が殺されたというのにそれを記憶にすら留められなかった己の不甲斐なさに打ちのめされ、それでも佐武は事件に付いて思いを巡らせる。
すでに定年が決まっている身で何処までやれるかは分からない。
だが、テロリスト包囲事件も今回の誘拐事件も自分が未だ警察に留まっている内にケリを付けたいという刑事としての絶対的な感情が佐武の心に芽生えた瞬間だった。
病室に風が吹く。
日が昇り始めたからか暑い風だった。
その病室に再びの来客。
「佐武さん・・・」
振り向いた佐武が見たのは三十台の女性とまだ十歳にならないであろう少女。
「松井の・・・奥さん・・・」
幽鬼のように綺麗な笑みで佐武の同僚である松井の妻、優江(ゆえ)がポツリと呟いた。
「どうして主人を連れて行ったんですか?」
「―――――――」
そのたった一言で何もかもが繋がっていく。
僅かに記憶に残った叫びと未だ病院内にいる仲間が一人欠けているという事実。
頭の中で噛み合わなかったパズルが嵌り始める。
(ああ、そうか。オレが引っかかってたのは・・・)
佐武は寝台から降りて、土下座する。
数分後、フルーツの汁に顔を塗れさせながら、佐武は泣いた。
心の中だけで。
それしか今は不器用な佐武に出来る供養は無かった。
*
ようやく明け始めた空は未だ白んでいる。
誰かの足音。
不意の出来事に白いスーツ姿で歩く青年ターポーリンは辺りを見回した。
印象の薄い顔には僅かな驚きが滲む。
「・・・まさかとは思いましたが」
今は閉鎖されている日本の鉱山の数は多い。
採掘し尽された後、捨てられるように眠っている小さな鉱山の名残は未だ多く存在する。
鬱蒼と木々が茂る山の奥。
もう誰も知らない山道の先。
ターポーリンはポッカリと空いている崩れ掛けた坑(あな)を前にして背後の茂みから出てきた少年に溜息を吐いた。
「よく此処まで来られたものです」
青いパーカーに半ズボンの少年メリッサだった。
その体には草がこれでもかとばかりに付着している。
ターポーリンの白いスーツは沁み一つ無い。
対照的な二人だったがメリッサはいつもの調子とは何処か違う。
「怖い先輩に鍛えられたもので」
僅かな緊張を押し隠しながらメリッサは自分の上司に相対した。
「怖い先輩とは心外です。これでも後輩には優しく接してきたつもりですが」
メリッサが己の服を手で払った。
「此処は待機場所ではありませんよ?」
「先輩が【連中】を出し抜く為に何を探していたのか。僕が知らないと思いますか?」
メリッサがターポーリンの背後の坑を見つめた。
「やっぱり最初から何処にあるか知ってたんですね。先輩」
「・・・ええ」
ターポーリンは穏やかな顔でシレっと頷いた。
「そもそも博士が選んだ候補地は私がリストアップしたものですから。ほんの一部とはいえ開発にも携わった・・・見つける裏技の一つや二つぐらいは」
「博士に教えてもらっていた?」
「その通り。教授された知識の内です」
メリッサが目を細める。
「一帯で【連中】の監視機構が根こそぎ外れたのもソレの力ですか?」
「無論、これの光量子通信網、ネットワークが我々の通信を検知した結果です」
「でも、僕はまだ死んでいません。先輩も」
クスクスとターポーリンが笑う。
「我々のNDのフィードバック情報は確かに【連中】の支配下に置かれています。同時にそれが止められれば即死なのは今も変わりません。ですが、そもそもは【連中】も博士が作ったものをただ使っているに過ぎない」
メリッサはターポーリンの言葉に己に未だ希望を見出す。
「まさか、NDの制御を?」
「はい。支配域のND全てのフィードバック情報をコントロール下に置く。これは基本能力の一部と考えてください」
「【連中】がどうして独自規格でNDの量産に踏み切れないのか。ようやく分かりました・・・」
「何の為に光量子通信網がコレに実装されたのかと言えば、どんな環境下でもコレを支える膨大なフィードバック情報が受け取れて活動を妨げられないように・・・というのが【連中】の考えでしょう。しかし、実際にそれは一部の目的でしかない。コレを支えるネットワークは基本的に【連中】が思い描くものよりもずっと先を行っています」
メリッサが頭を掻いた。
「全て・・・博士の掌の上ですか?」
ターポーリンは苦く笑う。
「科学者の端くれとして大変遺憾ですが、今現在も彼は世界最高の科学者にしてマッドサイエンティストです。後、実質三十年は博士のNDを越えるものは出てこないでしょう。ですが、コレを越えるシステムは一世紀掛けても作れるかどうか・・・・・・」
羨望と感嘆と嫉妬。
ターポーリンが見せる多くの感情が複雑に入り混じった表情にメリッサは初めて上司の素顔を見た気がした。
「それでこれからどうするつもりですか。先輩」
「それこそ君は誰に付くつもりですか?」
「・・・あなたに【連中】を倒せるとは思えない。でも、【連中】にあなたが負けるとも思えない」
「ならば、黙って見ていると?」
「僕は僕の道を行きます」
「これから何が起こるのか聞きたいですか?」
「いえ、遠慮します。少なくとも聞きたいとも思わないし、察しも付きますから」
「もしも付いて来るなら、一矢報いるのは可能になりますよ?」
「自分の力で生きていない僕達が自分の力で生き方だけは決められる。僕が初めて仕事をした時、そう教えてくれたのはあなたですよ。先輩」
「では、何故ここまで?」
「博士の仕組んだスケジュールを知りたかっただけです」
ターポーリンはその言葉に内心の驚きを隠した。
「ソラとあの男が戦い始めてから【連中】の様子が慌しくなった。それは少なくともただソレが消えたからではない。問題はスケジュールが【連中】の思っているよりもっと短いスパンだという事、そうでしょう?」
「そこまで知っていて、この力が欲しいとは思いませんか?」
メリッサが笑う。
その表情にターポーリンは少年が己が知っているよりもずっと早く大人になりつつあるのだと知った。
「僕は【蜜蜂(メリッサ)】・・・世界平和を約束する人殺し」
拳が握られる。
「いつか【連中】も【ITEND】も【この生き方】すら振り払って、必ず僕は―――――――」
一瞬、山間を渡る風が声を浚っていく。
それでも何を言っているのかターポーリンには解った。
「それが・・・君の本心ですか?」
今までの笑いも無い透明な表情で男は少年に尋ねる。
「翼が無くても、羽が消えても、人殺ししかできずとも、地を這って、その先へ」
少年の脳裏に己を殺そうとした少女の顔が浮かぶ。
もう見る事の無いだろう笑顔が未だ過去の景色の中に焼きついていた。
「それが僕に唯一出来る事ですから」
「その呪縛を解く力を見過ごす事になるかもしれませんよ?」
「方法に拘る必要は認めません。でも、此処で貴方に付いても破滅する以外の未来が見えない。それもいいかなぁって思いますけど、やっぱり僕は・・・先輩にも【連中】にも付けません」
「敵でも味方でもないと?」
「はい」
青年が笑みを浮かべた。
「いいでしょう」
「?」
「今日、此処で誰にも出会わなかった。そういう事にしておきます」
「・・・通常待機に戻ります」
そう言ってメリッサが元来た道へと戻っていく。
その気配が完全に途絶えてから白いスーツ姿の青年は一人残された感触に頭を掻く。
「・・・はは・・・案外自分で思うよりも寂しがり屋なのかもしれません」
自嘲して青年は未だ背後に存在する坑へと向き合った。
「やっと此処まで来た。何もかもこれからです」
一人呟いて、片手を掲げる。
その掌の上にゆっくりと白銀の何かが堆積し形を為していく。
完全に姿を現したのは【ITEND】の塊。
オリジナルロットに最も近い【連中】の生み出した一つの成果。
白銀の玉から煙が吐き出され始める。
煙は少しずつ坑へと流れ込んでいく。
微振動。
周辺一帯の地面が震え始めた。
青年の顔に今までとは違う禍々しい笑みが浮き始める。
「まさか、五千キロ以上とはやはり博士あなたは天才だ」
振動が続く中、坑の中へと青年は歩き出す。
「仮初めとはいえ、その所有者となるのですから名前くらいは付けましょう」
暗い暗い坑の中。
「無限に力を生み出す悪魔がいるのなら、そうですね。終末の喇叭(らっぱ)を鳴らす天使がいてもいい・・・【SE・Fragment4】・・・いえ【Angel0】それがお前の新しい名前です」
最後の声と共に青年の姿は闇に呑まれた。
(彼女が笑う悪魔と契約したならば私は怒る天使に身を捧げましょう)
その日、天使が生まれた。
知る者も祝福する者も無く。
ただ、破滅を呼ぶ天使が明星と闇の狭間に・・・生まれた。
生まれる事と死にゆく事は同じだ。
それでも人は死んだ日よりも生まれた日を多く祝う。
優しさが君を包んでも、愛された事を君は知らない。
第二十七話「君が誕生した日」
祝福の代価を災いに変えて、願いはようやく現実となる。
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第二十七話 君が誕生した日
第二十七話 君が誕生した日
最初から何処かデジャブを感じていた事をソラは覚えている。
接続領域の内扉。
そこに集まる大勢の人々。
宗教色の濃い衣装を身に纏う者がいる。
異国色の強い肌の色をした者がいる。
人種、宗教、国家、民族、肌、顔、全てがバラバラな人々。
たぶん、引っかかったのは研究所の事。
過去のソラにとって我が家と言えた唯一の場所。
そこにもあらゆる人間が働いていた。
一日に何回かお祈りをする人間がいた。
食事でいつも他の人と違う物を食べている人間がいた。
グランマ。
そう呼んだ人と二人の友。
昼食を中庭の大きな樹の下で取りながら話題にした事があった。
どうしてあの人はいつもお祈りをするのか。
どうしてあの人はいつも皆と違う物を食べるのか。
近頃は腰が痛いとクッションを持参して座っていたグランマは三人にこう言った。
『それはあなたがあなただからよ』
あなたがあなただから。
他の人の事を聞いているのに何故自分達の事を挙げるのか。
謎掛けでもされたのかと三人が三人で首を傾げると更に声は続けた。
『同じだったらつまらないわ。でも、あなたはあなたしかいない。それはこの大きな世界の中では価値も意味も無いものだけれど、あなた達があなた達だから私は尊いと思うの。もしも、あなたが私だったら、きっと私はあなた達を尊いとは思わないもの』
益々訳が分からない。
誤魔化されている気がしながらも納得できた。
自分が自分である事。
そこに価値も意味も無いと言いながら、それでも優しくしてくれる。
それは自分達が違うからなのだと。
人の数だけ答えがあるのだろう難しい問いにちゃんと答えをくれた。
その事が実は何よりも嬉しかったのだと後になって気付いた。
違う事を肯定する。
その努力こそが人を個人たらしめている。
そう学んだ・・・。
周りにいる大勢の人間。
今はただ競い合い命を掛けてGAMEに参加するだけの間柄。
それだけの事でさえ、実は相手を認めなければ成立はしない。
良いも悪いも無く。
他人と自分が違うと認める努力。
それこそが本当は生きていく上で必要なものだった。
それこそが生き残る鍵だった。
他者と己を比較するという事。
平等ではなく差がある事を前提とした認識。
冷静に見つめれば、参加者の誰もNDによって強化された身体能力を上回る人間はいない。
内在的な能力値はともかく身体能力で負ける事はない。
そう思えば心が軽くなった。
スタートの合図と共に押し寄せた蟲を踏むように疾走した時点でトップ集団の中にいた。
そのまま何もかもを押しのけて勝利を掴もうと思った。
そう出来ると思っていた。
けれども、悲鳴に体は動いてしまった。
昔の自分なら切り捨てられただろう悲鳴。
誰も彼も命の危険を承知で挑んでいるGAMEに自己責任なんて言葉は今更で。
見知った人間ではなくて、赤の他人で、善悪すら分からない。
過去のソラ・スクリプトゥーラなら見捨てて走り続けられたはずだった。
後悔よりも先に大丈夫なのかと不安になった。
己の利益の為に他者を犠牲にする事を厭わない自分。
そういう者であると自嘲しながらも、それは時と場合によっては自負にも成りえると、何かあった場合には非情に徹する事が出来る能力だと、そう思っていた。
なのに、体は動く。
それが過去の自分と今の自分の違いだった。
ソラ・スクリプトゥーラではなく。
聖空。
今は何でも屋なんて仕事をする男の家に居候している少女。
あなたがあなたである事。
その理由。
過去のソラ・スクリプトゥーラと今の聖空の間にあるもの。
外字久重。
そのお人よしな青年ならば、きっとそうするだろうと、その人のように生きてみたいと、その人にそう見て欲しいと、妥協と打算と今の自分というまだ知らない何かが、うねりとなって体を突き動かした。
悲鳴の先で蟲に集られた人を見た。
【ダメ】
どうしてそんな言葉が出たのか。
未だ分からない。
【そんなのダメ】
でも、理由らしきモノなら己の中にあった。
【死んじゃ、ダメ!!】
そう、死んではいけない。
【あなたが誰なのか知らない! でも、こんなところで死んだらダメ!!】
死んでは何も為せはしない。
死んでは全てがお終いだ。
疲れ切って、それでも命を望んだ日。
せめて謝りたいと願った日。
あの日、あの人が言ってくれた言葉が己の中にはある。
お人よしにも程がある。
そんな人がくれた思いがある。
だから、助けなければいけない。
それを為す為の力と状況が揃っているならば、そうしない理由など無かった。
【死んだから苦しくもない。けど、嬉しくもない。でも、生きてたらまた笑う事くらいあるかもしれない。だから】
蟲を払って払ってその人の周囲に蟲が入ってこられないようにして傷を塞ぐ。
そして、また悲鳴。
遥か奥から聞こえてくる悲鳴。
勝たなければならない。
けれど、死んで欲しくもない。
偽善だというのは知っている。
それでも偽善すら言えなくなった人間に一体どれだけあの人は笑ってくれるだろう。
そんな心の声に自嘲して走った。
走って走って走って。
沢山の蟲の餌食になろうとしている人々を見た。
デジャブ。
あの黒い繭の中で見た光景。
助けられなかった人々の末路。
代償かと己に問い掛ければ、そうかもしれないとの声。
【―――】
そうだとしても救わず前へは進めない。
シャフトの最下層。
誰も彼もをシャフトの天井へと吊り上げる形で救出する。
蟲の数は多い。
下手にNDの活用方法を見せたくも無い。
結果はCNT(カーボンナノチューブ)を多彩に使うことでカバーした。
蟲達が入り込めない網をいたる場所に敷設して誘導。
悲鳴が上がる度にその場まで駆けた。
誰も彼も蟲の圧倒的な数に苦戦し、疲労していた。
全ての人間を安全地帯であるシャフト最上階まで運ぶ。
施設の中を巡り、蟲を退け、今にも死にそうな誰も彼もを拾って走った。
覚えていた顔を全員拾った時にはもう汗で体が濡れていた。
NDは強力無比でもそれを使う人間は疲労する。
疲労の度合いを減らし回復力は高められても、基礎部分が人間である以上、疲れないわけがなかった。
蟲達の行進は続く。
CNTを一部食い破る猛者も数匹いた。
集めた誰もを一斉に逃がす事は出来なかった。
囲まれ始めた周囲は蟲の壁と化していた。
誰もが息を呑んで諦め顔だった。
彼らの銃の弾は底を尽いていた。
蟲で密閉されたような空間で爆薬の類を使えば全滅は必至。
ならば、もうこの状況を打破できる力はNDの直接的な使用以外ない。
汗を握って、心の内で謝る。
また、迷惑を掛ける事になれば、きっとあの人は笑って赦してくれる。
その度に誰かではなく自分が傷つく選択をして前に進む。
だから、心の底から望んだ。
ただ、あの人の意思と思いを守っていける自分であるようにと。
NDを誘い凝集させようと、手を―――。
【おめでとう。ソラ】
脳裏に響く声に私の手が止まる。
「博士・・・・・・」
懐かしい声。
これで三度目の遺言。
【これは僕が揃えておいたプログラムの制限解除によって君に届く言葉だ】
「・・・・・・」
蟲はもうそこまで迫っている。
それでもその声を聞いた。
【もう一度言おう。おめでとう。この声は君が成長した時にこそ開かれる。その時、君は何歳だろうか? 君はまだあの時の君のままだろうか? 分からない。ただ、君が誰かを思いやり、救う時にこそ、この力は開示される】
私の網膜に映るのは初めて見るプログラムの名前。
NO.08“The Shepherd”
【文字通り、導く者の名を冠したこの力はこの世界に存在する脳を抱く生物の九割以上を管理する世界最強の洗脳プログラムだ。脳内活動の生命維持と運動機能を完全掌握し、そこに幾つもの作用と改変を加える。使い方によっては脳の容量増大、脳細胞そのものを増殖する事すら可能な代物だ】
僅かに驚く。
【このプログラムは人の意思を捻じ曲げられない。人の思いも操作できない。だが、【SE】の広範囲化プログラムと同時に使用するなら、人類を思いのままに動かし命を司るだろう】
優しい声。
【君は人を思いやる事を知った。救いたいと願った。だから、これは【連中】ではなく君にこそ相応しい。ただ、己の為に他者を救え。その偽善の責任と結果を背負うのならば、この力は国家や宗教を超える第三の強制力として人類と君の未来を照らすだろう】
その恐ろしい内容すらきっとその人にとっては私と話すだけの理由に過ぎない。
【長くなった。今日はここでお開きにしよう。君が今日も笑顔である事を祈っている】
そうして声が途切れた。
私の頬に熱いものが伝う。
自分が今笑っているのだと知る。
悲鳴と怒号と理不尽な世界を呪う声。
蟲に埋め尽くされていく世界にも未だ光がある。
私はたった一つの言葉を口にする。
それはプログラムを開始するキーワード。
網膜に映された一文。
「かく・・・あれかし」
どうか、この世界が悲鳴ではなく、怒号ではなく、理不尽に嘆く声ではなく、ただの喜びの声で満たされますように。
それが願い。
何処にでもある陳腐で小さな、でも・・・確かに誰もが一度は祈るだろう細やかな願いだった。
*
「あの時、自分は確かに死を覚悟した。死に掛けて助けられながら、それでもこれ以上の幸運は無いだろうと。最後の祈りの時間を貰えた事を・・・彼女に感謝したのです」
部屋の中で誰もが伍長の話を聞いていた。
「蟲に押し潰されそうになった誰もが死に怯えながらも同じ気持ちだったはずです。あの状況下では彼女すら何も出来ないだろうと助け乞う者は誰もいなかったのですから」
己を指揮する女を前にして伍長の声は続ける。
「しかし、自分の瞳に蟲が喰らい付こうとした時、蟲は止まりました」
「止まった?」
「完全に死んだかのように。そして、動き出した時には波が引くように後退していた」
誰もが信じられないような目で伍長を見るものの、隊員の誰もがあの光景を見た後では嘘とも言えなかった。
「それから彼女はおもむろに歩いて、こちらを伺っていた蟲・・・あの大きな蜘蛛に近づいて、頭を撫でました」
「―――文字通りの意味で?」
「はい。そして、自分達に振り向いて【ケガ人はこちらに】と。誰もその奇跡を目の前にして何も言えませんでした。ただ、嫌悪も多くの感情の置き去りして、その場の誰の体も反射的に動いた。彼女に付いていく事が生き残る道だと確信した・・・いえ、そんな事すら考えていなかったかもしれない。ただ、彼女が【正しい】のだと分かってしまったから、というのが本当のところなのかもしれません」
全ての報告を終えた伍長に隊長アマンダ・フェイ・カーペンターは何も言わなかった。
もしも、その報告が通常時の任務で吐かれた言葉ならば、即刻本国への帰還命令を出していただろうとアマンダは思うものの、あの光景を見た後ではやはり何も言う気にはなれなかった。
「後日、詳細な報告書を提出してもらう事になると思います」
「はい」
「今夜に備えコンディションを調整しておくように。私はこれからに外出します。全員通常待機。午後五時に合流した後、今夜のGAMEに対しての策を練ります。各自、幾つか案を考えておいてください。では、解散」
ぞろぞろと各自が元いた場所に戻っていくのを確認して、アマンダは部屋を後にした。
GIOの日本支社から車で移動する。
盗聴や監視の目が無いか気になったが、この日本においてGIOから完全に逃れる事は不可能だと半ば割り切れば、そう大した問題でもなかった。
日本の道は狭い。
だが、容易には渋滞にならない。
防衛庁の官舎まで来るのに三十五分。
何の狂いも無く時間通りに着いた。
巨大なマンション。
その玄関先から出てきた五十代の男とゴルフバックを乗せて再び車を走らせる。
男の背は小さい。
風貌は軍人というよりはデスクワークをしていそうなサラリーマンの類だ。
弛んでこそいないものの、体は平凡。
丸顔の男のスーツ姿はどう見ても古典的な日本人像を反映している。
「丘田(おかだ)さん。お久しぶりです」
「ええ、君も元気そうで何よりです。アマンダ君」
「はい」
柔和な声。
その声が時に部隊の人間を震え上がらせる逸材だとは誰も分からないだろう。
丘田英俊(おかだ・ひでとし)。
陸上自衛隊幹部の一人にして二千年代初頭に生まれた日本発の諜報機関への出向組。
日本には第二次大戦後これと言って諜報機関が存在していなかった。
しかし、世界的な情報戦争の時代が到来して間もない200×年、時の総理が危機感を感じ、情報機関を創設、アメリカのCIAへ人員を出向し訓練、幾つかのマニュアルを導入して、内閣府も諮問機関を設置した。
インテリジェンス活動の開始は2010年以降。
それから組織は少しずつ拡充され、今では日本内部の主要産業からカウンターインテリジェンスを一手に引き受ける立場へ収まっている。
日本そのものが二千年代初頭まで諜報機関を持っていなかった事は比較的知られていない事実だ。
そして、それで何の問題も無くやっていたというのも驚きだろう。
世界中でナショナリズムが勃興し始めた時代。
日本は諜報活動という一点において殆ど無防備だった事になる。
それでも尚まったく問題なくやっていたという事実が日本の豊かさと繁栄の証左だったかもしれない。
そして、その日本が本気で諜報機関を作ったという事実が各国に与えた衝撃も想像が付く。
各国にとって日本は先進技術の牽引役であり、新たな産業を興す為の起点でもあった。
対外的には技術者の引き抜きで産業を興していたとは言うものの、その当時の状況を鑑みれば、諜報活動によって技術流出が頻繁に起こっていたのは事実であり、何よりも手っ取り早かったはずだ。
しかし、日本からの技術や人材の流出が幾つかの法案で止められ、諜報機関の設立で産業スパイや外国資本に厳しい目が向けられるようになれば状況は一変する。
その後の日本が辿った外交での強硬路線はそのまま『小さく静かなる戦争』(リトル・サイレント・ウォー)へと繋がっていくが、その後押しをしたのは間違いなく、その諜報機関だ。
section16。
日本語では【第十六機関】。
最も日本語ではちゃんと別名があるらしいが、誰も本当の名前で呼んではいない。
いつの間にか組織に定着していた名前が知らない間に使用されていたというという話だ。
何故、十六なのかと過去に聞いた事もあったが、色々と複雑な事情があるらしく、答えは要領を得なかったと記憶している。
少なくとも外国人であり、研修生として留学していたアマンダ・フェイ・カーペンターには意味不明だったし、言葉が拙かったからちゃんと教えられても理解できなかっただろう。
小娘として扱われた過去はそう遠い日の話ではない。
そして、未だにそういう扱いなのだろう事は何となく察していた。
「アマンダ君。君も大変ですね」
丘田の声はやはり優しい。
「いえ、仕事ですから」
教師が生徒を諭すように。
「それで今日は何の用でしょうか? 電話では話せない事だと伺いましたが?」
「マスター・丘田とあろう人が分からないと?」
「はは、そう言われてもこれが性分なもので」
丘田がゴソゴソと懐を漁ると私に膝の上にポンとUSBメモリを置いた。
「【今】の君が知りたそうなことは全てその中にあります。ですが、一つだけお願いを聞いてもらってもいいでしょうか? アマンダ君」
「・・・何ですか?」
「GAME参加者に付いて知りたいのですが、どうにもガードが固くて。参加者である君に三人の人間をマークしてもらいたいんです」
「それだけでいいと?」
「ええ、それだけです。それ以外に何もこちらからの要望はありません」
「・・・その三人の素性は?」
「これです」
車の窓に薄く情報が表示される。
外からは見えないだろうし、特殊な機材でも観測できないよう細工された画像は少しだけ見えにくかった。
「一人は外字久重という青年。もう一人は聖空という少女。最後の一人は通称【AS】と言われています」
少しだけ驚く。
少女の顔は忘れたくても忘れられない。
それは数時間前、奇跡のような『何か』を行った少女だった。
顔には出さず最後の方にだけ視線を向ける。
「【AS】・・・あのフィクサーの?」
「ええ、第十六機関的にはあまり関わりたくない【あの】フィクサーです」
「・・・前の二人は手下ですか?」
「そんなものです。こちらとしては早めに情報を掴んでおきたいところですが、何分近頃は忙しい。人手も足りないし、世界中に部隊が散らばっていますから、どうやってもGIOのセキュリティーが突破できない。という事で繋がりのある君に白羽の矢が立ったと理解してください」
「忙しいのは露西亜と中国軍閥のせいですか?」
「はい。まだ実際にはこちらに被害があったわけではありませんが、後半年以内には・・・日本もお終いですかねぇ」
「不謹慎ですよ」
「いやはや」
丘田が笑う。
本当にこれが日本の諜報機関で一二を争うオブザーバーかと疑いたくなる。
「それでどうしますか?」
「引き受けます」
「即答してよろしいのですか?」
「ここでNOと言えるなら、軍人はしてません。少なくとも我が国の現状を打破する為には・・・あのGAMEに勝つしかない」
「もしも、国を出る事になったら僕の所で雇いましょう。日雇いですが、日給二万は堅いですし、保険も利きます」
「そうなったら、復讐しに来ますから」
「はは、僕は直接手を出したりしませんよ?」
「・・・裏工作はするんですよね?」
「ええ、勿論」
しれっと本気でするのだろう事は丘田の下で学んでいれば分かった。
「では、お願いも聞いてもらった事ですし、少しサービスしましょう」
車の窓に更なる画像が表示される。
「これは・・・・・・」
「今回、我々が近頃情報を集めている組織の末端構成員です」
そこには白いスーツ姿の男と青いパーカー姿の少年。
それから黒い顔のある怪物が映っていた。
「彼らは国も宗教も民族も関係無い組織の一員です。そして、唯一分かっているのは彼らが我々の部隊とかち合えば、我々が確実に負けるという一点。もし、見かけたら逃げるのをお勧めします」
「第十六機関の部隊が負ける?」
思わず振り向くと丘田はニコリとした。
「ええ、というか。もう一回彼らの一人に我々の部隊が負けました」
「・・・・・・」
知っている限り、丘田の抱える部隊は米軍の特殊部隊と良い勝負ができる。
その部隊が個人に負けるというのはかなり可能性が低かった。
それこそ旧い映画に出てくる伝説のコックでも無い限り個人で戦うのは死を意味する。
「そろそろですね。あまり近くまで行っては目を付けられるでしょう。此処で下ろしてください」
霞ヶ関近くの小道脇に寄せる。
「これはお土産です。何かと日本には重火器が持ち込めなくて大変でしょう。できれば、使ってみてください」
後部座席のゴルフバックを指して丘田が微笑んだ。
「相変わらず滅茶苦茶ですね。マスター・丘田」
「別に法に触れるようなものは積んでいません。合法ですよ?」
それを最後にスタスタ何も持たず丘田はその場を後にした。
「・・・・・・・・」
その姿を見送って車を出した。
午後、少しだけゴルフバックの中身を覗いた。
入っていたのは一本の杖。
握りの付いた外見上はまったく普通の金属杖。
確かに外見上は合法だろう。
えらく値の張って硬度30を越える超軽量の合金の塊が武器と言えないならば、だったが・・・。
*
元気な産声。
スヤスヤと眠る顔。
新しい産着に包(くる)まれる姿。
優しそうな看護師に抱かれ、ミルクを与えられる。
オムツを替えてと泣いてはあやして欲しいとねだる。
そんな光景に微笑みが浮かぶ。
全てが画像越しだとしても。
己以外の全てが闇に閉ざされているとしても。
其処は暗い場所だった。
暗闇と己と画像以外には何も無い。
凍えるような冷たさが忍び寄り、背筋を犯して熱へと変わる。
変化。
そう、よく分からない専門用語を使う白衣の男達は言った。
背中の肌から侵入し、脊髄へと侵蝕し、脳幹に到達し、心臓を回り、血液に乗って、細胞に住み着き、少しずつ少しずつ繋がっていく。
ゴポリと口から冷たい何かが込み上げて床にビチャビチャと落ちる。
幾度目になるかもしれない拒絶反応。
【・・・・・・・・・・・・】
素晴らしい。
そんな大勢の声がした。
喜びにも似たものを湛えて、多くの声が脳裏に反響していく。
最終ステージに移行したぞ。
これならば生体融合実験の再始動すら視野に。
博士に完結できなかった研究を我々の手で。
新たな種には新たなカテゴリーが与えられる。
運用を誰に任せる。
やはり、メンテナンスにおいて優れたのは奴しかいまい。
さっそく機材を運び出せ。
送り先は日本だ。
ははは、博士これでようやくあなたを我々は。
【・・・・・・・・・・・・】
口からドバッと今までのものとは違うものが吐き出される。
今度はとても多い。
何度も何度も何度も何度も私の口から何かが吐き出されていく。
体はバラバラになりそうだった。
心はドロドロになりそうだった。
熱を帯びた冷たい体・・・いや、躯体(からだ)。
そう説明された事を思い出す。
ギチギチと何かが繋がっていく。
ミチミチと躯体の隅々まで繋がっていく。
全身が床を吸い上げていた。
頭に装着されたものも消えていく。
画像が・・・途切れて・・・私に触れる全てが私の中に吸い上げられては口から吐き出されていく。
【――――――】
今だ。
投下しろ。
プログラム通りに行えば最小限の負担で済むはずだ。
やれ。
【――――――】
もう要らない。
そんなものは要らない。
何も欲しくない。
吸い上げさせないで欲しい。
けれど、そんな事は言えない。
言いたくたって言えない。
あの子は元気なのだから。
あの子の代償こそが私なのだから。
世界はいつまで経っても暗いまま。
けれど、あの子の世界は明るかった。
私が知るどんな世界よりも明るかった。
将来、どんな子に育つだろう。
明日を夢見てくれるだろうか。
私に似て騙されたりしないだろうか。
昨日を後悔ばかりしないだろうか。
一人で生きていけるだろうか。
勉強はできるだろうか。
友達が沢山出来て欲しい。
愛する人を見つけて欲しい。
出来うるならば、善き人生を歩んで欲しい。
人並みな幸せを送って欲しい。
どうする事も出来ない荒波に負けないで欲しい。
私に出来なかった事に、負けてしまった事に、打ち勝って欲しい。
でも、本当の本当に望むのは・・・生きて、生きて生きて、生きて生きて生きて、最後まで生きて欲しい。
【―――――――】
願いを込めて、私は啼く。
上から降ってくる何かを吸い上げながら。
自分の周辺にある全てを吸い上げながら。
口から零れた何かを吸い上げながら。
私の中で私以外の何かが繋がっていく。
私の体が私以外の何かで埋められていく。
取捨選択された何かが残り、後の何かが零されていく。
私に必要なものが残り、私に必要ではないものが吐き出されていく。
繰り返し、繰り返し、繰り返し、永遠に巡り続ける。
【あ゛、あ゛あ゛、あ゛あ゛あ゛、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛
あ゛!!!!!!!!!!!】
ゴボゴボと私は啼く。
私の中から溢れ出す全てを吐き出しながら。
私に必要なものを吸い上げながら。
終わりが来る事を願って。
ただ、それしか出来なかった。
それしか、出来る事なんてなかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――。
何秒、何分、何時間、何日、何年、何十年。
何もかもに終わりが来る頃。
私は立ち上がる。
遥か天井。
ガラガラと崩れていく壁。
零れ始める光。
私を遮る物全てが消え去っていく。
いつぶりかも分からない外へ。
光差す方へ。
跳ぶ。
空の中に出たと思えば、勢いを失い私は地面に落ちていく。
そして、彼を見つけた。
白いスーツを着て、大きな白いシーツを一枚携えた彼を。
【おめでとうございます。これで貴女は我々の一員だ】
脳裏に響く声。
【被検体第8343号】
私と同じような何かである彼が曖昧な笑みを浮かべる。
【8343(ヤサシサ)ですか。これは面白い偶然だ】
ズドンと地面に落ちた私の上にシーツが掛けられる。
【これから貴女に名前を授けなければなりません】
彼はあの日と同じように手を差し出した。
【・・・名前・・・】
ゆっくりと立ち上がる。
【はい。それが昔々に彼と我々の間で為された約束ですから。この力に連なる者には新たな名前を。そして、名乗るべき名には己を規定する形容が必要だ】
よく分からないという顔をした私に彼は苦笑する。
【まぁ、ただのゴッコ遊びです。この力を生み出した彼は世界平和の為にこの力を使おうとしていた。だから、我々は彼の望んだ世界平和と己の為にこの力を使わなければならない。そういう話です】
彼が私を抱き抱え、
【世界平和を望む逃亡者がいたり、世界平和を約束する人殺しがいたり、世界平和を憎む簒奪者がいたり、世界平和を造るサラリーマンがいたりする。だから、貴方もどんな風に自分を形容するか頭の片隅で考えておいてください】
歩き出す。
もはや人とは思えない私の重さに屈する事もなく。
【何か名前に付いて要望はありますか】
【・・・私の願いを・・・叶えてくれて・・・ありがとう・・・】
【契約を履行しただけに過ぎません】
【・・・それでも・・・叶わないはずだった願い・・・ですから】
【叶わない願い・・・なら、差し詰め空から振ってきた貴女はPie in the skyと言ったところですか】
【パイ・イン・ザ・スカイ?】
【叶わない願い事という意味です】
私の中でカチリと何かが嵌った気がした。
【どうかしましたか?】
【きっと、私の願いはまだ沢山あります。でも、それが叶うかどうかは分かりません。だから・・・もしも私の分まであの子が願いを遂げられるなら・・・私は『叶わない願い事』(パイ・イン・ザ・スカイ)で構わない】
少しだけ驚いた彼は「はは」と笑う。
その笑みは何故か嬉しそうだった。
【なら、願掛けでもしますか? 貴女が何と名乗ろうと誰も文句なんて言いはしません】
私は・・・頷いて、不意に襲ってくる眠気に身を預けていく。
【今は眠る事です。目が覚め、地獄が始まるまで・・・】
世界が暗くなっていく。
【これから貴女の人生に何一つ幸運など訪れないのでしょうから】
暑い砂漠には風が吹き始めた。
【おやすみなさい・・・『叶わない願い事』(パイ・イン・ザ・スカイ)】
吹き上げられる砂の嵐が陽光を閉ざしていく。
瞳を閉じても、躯体はもう冷たくなかった。
いてもいなくても迷惑なもの。
あってもなくても構わないもの。
拝んでも恨んでも届かないもの。
従っても逆らっても結果は変わらず。
第二十八話「まつろわぬ者達」
移ろっても定められても人は自由である。
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第二十八話 まつろわぬ者達
第二十八話 まつろわぬ者達
ステンドグラスから差し込む光には何かが宿っていると言う者がいる。
それは世界を満たす何かだと言う者もいる。
神の威光だと言う者もいれば、我々の気持ち一つだと言う説教者もいる。
ただの可視光でしかないと見れば、世界は色褪せた景色でしかない。
結局のところ、それは人の心と人の技術が織り成した結果だと言えるだろう。
己の心を当て嵌めれば、何もかもが価値と無価値と等価値になる。
今日の酒も明日の酒も味は変わらない。
昨日の彼も今日の彼も彼である事には変わりがない。
けれども、人の価値は常に違っている。
彼(か)の人にはコイン一つの価値も無く。
此(こ)の人には世界一つよりも価値がある。
神すらも人の世では平等にならない。
平等とは人が産んだ概念だからだ。
そこに不平等は真理となる。
故に今日もその演奏を聴く者達は驚き、その音色を噛み締めていた。
凡そ大勢の者が聞けば、限りなく平等に込められたものを感じ取れる。
不平等というものを忘れられる。
小さな教会に置かれたパイプオルガン。
演奏されているのは日によって様々であるものの、決して宗教様式の音色ばかりではない。
その日の選曲は一体誰が行ったのか。
教会の人間が考えたにしては笑えない一曲だった。
【巴里は燃えているか】
深い哀しみを湛えた音色は戦争を思い起こさせ、聞く者の心に深く波紋を広げていく。
しかし、朝の教会に集う誰もが今日その日だけはいつもと少し音色の赴きが違うと感じていた。
口に出す者はいない。
それでも疑問に思う者はいる。
奏者の顔は・・・見えない。
オルガンは教会の二階部分に席がある。
教会信者から見えるのはただ背中だけ。
その背中はいつもと変わらないシスターの後姿。
数分後、説教者の話が終わり、誰もが出て行くと教会は静まり返った。
朝から働きに出る者が殆どの地域で月曜日の教会にわざわざ残る人間はいない。
「良い演奏でした。マヌエル」
藤啼三郷は席から立ち上がり狭い通路へと戻ってくる二十代の女性を労う。
「ありがとうざいます。藤啼」
マヌエルと呼ばれた女は少し照れた様子で頭を下げた。
ラテン系の顔は細長で身長は百七十前後と比較的長身。
色の薄い赤毛と灰色の瞳。
顔に僅か残るそばかすが女に少女のような可憐さと愛嬌を与えている。
「すみません。急に来て弾かせて欲しいなんて厚かましいお願いを・・・」
「いえ、気にしないで。本当に素晴らしい演奏でした。今日の説教は反戦に関してでしたから、あなたの演奏はとても嵌っていましたよ」
「そう・・・ですか。それなら良かった」
ほっとした様子のマヌエルを藤啼が自室に招いた。
沸かした薬缶から藤啼がポットにお湯を注ぐ。
「それにしても久しぶりね。もう五年になるのかしら」
お茶の準備をしている間にも小さなテーブルの横で静かに座っているマヌエルに藤啼が訊いた。
「は、はい。此処で預かってもらった事は今でも忘れません!」
マヌエルの声が弾む。
その少々早くなる口調は藤啼が諭した頃とそう変わっていなかった。
「今もあの修道院に?」
「いえ・・・今は修道院を出て・・・改宗しました」
「そう」
サラリと藤啼は流した。
入れ終わった紅茶をお盆に載せてテーブルの上に置き一息付いた後。
藤啼が緊張した面持ちのマヌエルに問う。
「それで今日はただ演奏しに来たわけではないのでしょう?」
「・・・藤啼には何も隠せませんね」
「ええ、少なくとも一年は一緒にいたんですから」
藤啼はマヌエルの少女時代の姿を思い出して笑った。
縁あって藤啼の管理する教会に預けられ一年を共にした。
それから修道院へと再び帰っていった少女は滞在中いつもいつも藤啼に何かを教えて欲しいとせがんだ。
服の繕い方から料理の仕方など序の口で日本の文化、習俗、神話、果ては政治経済軍事とあらゆる事を藤啼に聞いた。
少女にどうしてこうも知識に貪欲なのかと聞いて返ってきた言葉を藤啼は今も忘れていない。
「自分の教会を持ちたいって夢は叶った?」
「―――本当に・・・藤啼には何も隠せませんね」
僅かに俯いて苦笑したマヌエルがゆっくりと顔を上げる。
その顔に浮かぶ感情に藤啼は覚えがあった。
それは覚悟した者の顔。
何かを決めてしまった者の顔。
藤啼がトランクルームを経営するにあたり時々見てきた顔だった。
「売って欲しいものがあります」
「キルト?」
そんな、冗談。
しかし、マヌエルはその壁を突き破る。
「いえ・・・・・・銃を・・・・・・売って欲しいんです」
藤啼がマヌエルに微笑んだ。
「優しいのね。でも、覚悟があるだけじゃダメよ」
「ふ、藤啼・・・?」
「彼らの殆どは此処に何もかもを死蔵する事を良しとして私に頼る。その意味が分かるかしら?」
「・・・・・・それは」
マヌエルが言葉に詰まる。
「この教会をやり始めてから色々な人間を見てきたわ。死ぬ奴もいたし未だに生きてる奴もいる。けれど、誰一人として私に頼って隠し事をする奴はいなかった」
ゴクリとマヌエルが唾を飲み込んだ。
「それはね。此処が人間の生き様と死に様を保管する場所だからなの。私はそのつもりで此処を管理しているし、それを曲げるつもりもないわ。どんな善人も悪人も死人も此処では平等にお客様として扱う」
初々しい乙女に老年の域へ差し掛かった藤啼が強(したた)かに笑う。
「朝居・インマヌエル・カークスハイド」
「は、はい」
「教えて頂戴。貴女に何があったのか。貴女を何が突き動かすのか」
マヌエルが言い淀んだ。
「貴女の物語の全てと引き換えに貴女の願いを叶えましょう。このトランクルームの主、藤啼三郷が誓うわ」
その偽り無い瞳を前にしてマヌエルは震えた。
嘗ての恩師と言うべき人が裏の人間だと知っていて、その力を当てにした。
全て自分に都合良くゆくわけもない。
そう藤啼はマヌエルに教えている。
ならば、応えなければならないと彼女は思う。
「聞いて、くれますか? 藤啼」
覚悟があるのなら巻き込んでから綺麗事を言えと。
全てを己の内に留め置く事なんて赦さないと。
そんな優しくて厳しい母親のような瞳で藤啼は頷く。
「ええ、勿論」
マヌエルはゆっくりと口を開いた。
「これは私が新しい教会の管理を任された時から始まった話なんです」
*
日本において宗教というものは往々にして難儀で厄介なくらい生活に密着している。
何処までも近く、限りなく遠いものという言葉がピッタリの形容だろう。
宗教の自由が保障されている日本において何人も宗教を制限される事はない。
しかし、そんな日本が実は世界唯一の無宗教大国である事は世界中の外国人からしてみれば興味深い話かもしれない。
日本には危険な宗教原理主義者なんてものは存在しない。
例外は一部の新興宗教くらいに過ぎない。
古来から続く仏教も神道も殆どの場合、民間の冠婚葬祭や習俗に対しての影響しかなく、実質的な生活に深く浸透してはいても、命掛けで宗教の為に死のうなんて民間人は存在しない。
数百年前に渡ってきた基督教にしてもそれは同様だろう。
日本内部で過激思想を持つ宗教は殆どが新興宗教やカルトと呼ばれる現代に入ってからの流行でしかない。
古来からの宗教に似せられた新興宗教は詐術と話術にこそ長けるが民間レベルで規模の巨大な母集団になる事は稀と言っていい。
それすらも日本内部では少数派である事に変わりはなく、何かしらの事件を起こせば規制されるようになった。
政治に進出する宗教組織がないわけではない。
それでも真の意味で民衆が宗教組織に現代社会で圧倒的支持を与えたことは未だ嘗て一度も無い。
日本が海外から言われるような「無宗教」とは宗教と人々の生活が近しいからこそ生まれる。
宗教が何処までもその教えを民間の間で浸透させていけば、その教えの純度は薄められていく。
クリスマスにはケーキで祝い、正月には神社に行き、冠婚葬祭には仏教も基督教も取り入れる。
日本人の宗教への節操の無さはよく語られる笑い話だろう。
アメリカのように無神論者が声高に叫ばないのが「無宗教」の証左だと言う外国人もいる。
相対的に宗教を否定する者がいなければ、宗教の影響力がそもそも少ないという理屈は最もだろう。
わざわざ自分は無神論者だと叫ぶ必要が無いという事は神を熱心に信じている者もまた少ないという事。
宗教が生活様式や習俗として広く深く浸透して尚、影響力が政治の世界から遠ざかった日本は世界でも稀な国家と言えるかもしれない。
日本の神とは唯一神ではない。
日本人の感性は日本神話にある如く、唯一神の救いよりも多神教における共存共栄の形を取る。
そんな日本人が大規模なナショナリズムを現代で起こせばどうなるか。
想像した者は少数だったかもしれない。
二十一世紀も半ばを越えた時代。
政治の混迷期に起きた『小さく静かなる戦争』(リトル・サイレント・ウォー)後の日本。
マイナーな宗教は少しずつ少しずつ弾圧の対象とされていった。
外国人と関わりあっているという理由だけで。
少数の信仰が迫害され始める社会。
それはつまるところ魔女裁判に他ならない。
しかし、その現象が具体的で形式的な形を取るものではなく・・・人々の感情と社会の中で形成されていった嫌悪感として育ったならばどうなるのか。
答えはゆっくりと社会の奥底で出始めた。
まず最初に影響が出たのは大規模な母集団を抱える新興宗教。
信者の数が減り、警察からの圧力が大きくなっていく。
相対的に政治面や経済的な発言力は低下し、衰退の道を辿り始める。
更に小規模な新興宗教組織の殆どは社会の厳しい目に晒される事になった。
先行する新興宗教への懸念材料と嫌悪感が国民に蔓延した時、今まで見逃されていた宗教活動は全て社会的な決議を経ずして、社会のフラストレーションの矛先へと乗せられた。
事実としてネットから放流されるようになった新興宗教への情報攻撃は現実世界の水面下で沈殿していたアンチカルト、アンチ新興宗教という新右翼の活動に火を付けてしまった。
それまで右翼と名乗ってきた反日活動の殆どを社会そのものが排斥するようになる過程で第二次大戦前には存在した「普通の右翼」が復活し始めたのも大きいだろう。
その活動は政治と電子情報上の海で結合していき、最後には新しい右翼政党の成立と左翼バッシングへと大きく傾いていく事となる。
ただ、その波の大きさは新興宗教やカルトにだけ及ぶものではなく古来からの宗教にも大きな舵取りを迫った。
人々の間で「宗教不審」という現象が起き始め、多くの宗教から人が身を引いていった。
弱体化していく宗教組織の拠り所となったのは必然的に日本人そのものではなく移民系外国人や帰化した者達となったが、その選択が更に宗教と日本の社会を乖離させ始めたのは皮肉だろう。
帰化外国人や移民労働者を中心層とした宗教組織の再編が社会から外国人が「宗教の乗っ取り」を図っていると捉えられたのだから。
古来からの様式が何も変わっていないにも関わらず、社会には日本古来の宗教が新興宗教と変わらないとの偏見が蔓延した。
それを後押しするような形で実際に古来からの様式に変更を加えたり、反日的な思想を教え、日本の国家や民族のナショナリズムへと対抗しようとした者も多数に上った為、一概に社会の偏見が嘘だったわけでもない。
移民や外国人にこそ受けはいいが、日本社会には白い目で見られる宗教。
そんな日本での図式が出来上がったのだ。
それを機に完全に日本人だけでの運営へと切り替える古来からの宗派が誕生し、同じ宗教ですら左、右、中道という図式が入り込んだ。
「あの日、私は教会を任されて誇らしかった。けれど、本当は・・・」
そんな日本の小さな基督教宗派の一つに彼女は籍を置いていた。
宗派が運営する小さな教会の管理を彼女は任された。
彼女が正式に教会を任された日。
彼女の目の前には門の落書きと教会に押し寄せる移民達の姿があった。
移民達の憩いの場。
社会から見れば危険思想を持った移民達の集会所。
カルトかもしれない。
警察や公安へ「監視しろ」と民間人からの声が絶えない場所。
そんな教会の管理者として彼女は派遣された。
後任の彼女に後を託して前任の日本人シスターは即日その教会を後にした。
残された彼女に見えたのは日本社会で肩身の狭い思いをした移民の子供や若者達。
その目には差別があった。
日本人だけではない。
日本人とのクォーターや移民ではない外国人労働者。
自分よりも良い仕事、良い教育、良い衣食住、その他諸々を妬む視線。
「何度もぶつかりました。乱暴されそうになった事は片手の数じゃ足りません。でも」
危険を承知でオンボロの教会に彼女は居続けた。
腕っ節だけで食べていけそうなくらい逞しかった彼女の傍には少しずつ人が集まっていった。
オルガンの音色に拍手をする者。
花壇に小さな種を持ってきてくれる者。
僅かな食事を差し入れては頭を下げて帰っていく者。
彼女の説法にそこは間違いだと指摘する者。
長い長い夕暮れで一緒に歌い続ける者。
何もかもが彼女には試練だった。
人は穢く醜く怖く悲しく寂しく言葉には言い表せないくらい誰かを嫌悪して誰かを傷つけるような生き物だと彼女は知った。
それでも彼女は教会に残った。
送り込んだはずの本部事務局から心配されるくらい穏やかに彼女は教会を掃除した。
埃を被っていたステンドグラスに息を吹きかけては磨いて、床を雑巾掛けで走る日々。
そんな日々が続いたのは神様のおかげではない。
彼女に少しでもいて欲しいと願い始めた人達がいたからだ。
それまで教会で日々を戦い続けようと思っていた彼女はいつの間にかその教会で人生を終えようと思えるようになった。
「でも、ある日・・・私に・・・愛していると告白してきた方がいて・・・」
「まぁ、それはそれは命知らずね?」
「どういう意味でしょう。藤啼」
「そのままの意味よ。私は貴女に出来る限りの事を教えたんだもの。乱暴されそうになって普通に過ごせたのは誰のおかげなのかしらね?」
彼女に告白した青年はそもそもが彼女を乱暴しようとし張本人だった。
それがいつの間にか仕事を見つけてきて、休みには人が違ったように教会を手伝うようになった。
同じような男が数人いた。
彼らは彼女の体目当てだと正々堂々と彼女に宣言した。
彼女はそんな彼らに隙なんかありませんと宣言した。
子供達は興味津々に瞳を輝かせ、恋のレースを実況しては彼らに点数を付け始めた。
終わりが来るまで続くレースに脱落者は出ない。
何処までも何処までもそのレースは続くはずだった。
きっと、そのはずだと彼女すら信じていた。
「彼は大金と仲間達の働き口を手に入れる手段があると言いました。私はそれを聞き出そうとして、結局何も教えてもらえませんでした」
彼らの元に知らせが来たのは数ヵ月後。
彼の悲報だった。
彼はどうやら大きな工事の最中に事故で死んでしまったらしい。
彼らは遺体も無い彼を弔った。
それしか彼らと彼女と子供達に出来る事なんてなかった。
それから幾分か沈んだ日を過ごして、また誰もが日常へと返っていった。
「でも、そんな私の下に手紙が来たんです。今時、便箋に入った手紙でした」
彼女は手紙を開けた。
それは彼からの手紙だった。
何もかもが其処から始まった。
そこに記されていたGAMEの内容に彼女は震えた。
人の命を使い捨てにした非合法の賭博。
警察に駆け込んでも容易には信じてもらえないような内容。
どうしようもなく彼女は悩んだ。
その手紙をどうするべきか。
しかし、そんな彼女の前に使者が現れた。
その手紙を渡すようにと。
拒絶する彼女に使者は言った。
GAMEの主催者であるGIOと呼ばれる企業は世界最高の総合企業複合体に他ならない。
手紙一つでどうにかなるような組織ではないと。
もしも、その手紙を公表しようと言うのならあなたの大事なものが消え失せるかもしれないと。
何とも現実味の無い脅しだった。
しかし、彼女は悟っていた。
少なくとも自分の周囲を「掃除」するくらいならば、GIOは躊躇しないのだろうと。
そんな彼女に使者は言った。
GAMEに参加しないかと。
もしも、GAMEに勝てたなら貴女と貴女の周りにいる誰もが幸せになれる道を用意する。
そんな悪魔の誘惑を彼女は突っ返した。
手紙を返して、何もかもを無かった事にする。
それが彼女の取れる唯一の道だった。
しかし、彼女の道を嘲笑うかのように世界は悪意に満ちていた。
ある日から突然、教会へ男達が誰も来なくなった。
彼女は何があったのかと知りたくなって新たに彼らが集まる場所へと出向いた。
そこで彼女が偶然耳にしたのは・・・テロ計画。
移民労働団体に働きかける外国勢力と共に日本を転覆させようと息巻く移民達。
その中にはいつも教会に来ている男達や歳若い少年少女すらいた。
計画を聞いて逃げ出した彼女は教会に戻って神に聞いた。
どうすればいいのかと。
どうすれば道を誤ろうとしている人々を助けられるのかと。
人の心には善悪がある。
人の心には正邪がある。
そんな事は当たり前だと理解していたのに。
彼女は圧倒的な現実を前にどうしようもなく無力を痛感した。
そして、彼女に再び使者は何もかもを見透かして近づいてきた。
新たな誘惑はとても彼女には現実的なように思えた。
GAME参加の条件は移民達への仕事の斡旋だった。
彼女のいた地区を中心に大規模な採用を行ってもいいと使者は言った。
口約束で心許無いのであればとテロに加担しようとした男を一人採用しよう。
使者の言葉は果たして本当になった。
仕事を見つけてからというもの、テロに加担する素振りすらなく、その男は教会に戻ってきた。
教会へ再び来るようになった。
「現実はそんなものでした。神は移民問題を救わない。いえ、救えない。本当に彼らに必要だったのは神への信仰ではなくて・・・仕事と自分を誇れる社会だった」
そう気付いた時、彼女は決意した。
悪魔の誘惑に乗った。
信仰を説いて回ったところで彼らを止められない事は彼女が一番よく分かっていた。
例え、己の信仰を裏切る事になろうともテロリストとして彼らを見捨てることは出来なかった。
彼女に使者はGAME参加チームへ入れと言った。
それは彼女と同じような宗教関係者達が各々の理由で参加を強いられたチームだった。
チームのある者は言った。
明日の米に困る孤児院があると。
またチームの別の者は言った。
途絶え掛けた宗派を再興したいと。
そのまた別の者は言った。
もうあんな宗教から足を洗いたいのだと。
「GAMEが始まった時、私は後悔しました。その悪魔の誘惑が正に地獄への案内だったと本当の意味で気付きました。でも、全ては遅かった」
最初のGAMEで重症を負った男は片腕を失った。
それを彼女は見ている事しか出来なかった。
用意できる装備なんて市販の防犯グッズくらいしかなかった。
防刃ジャケット一つで彼女達の月の支出を軽く越えてしまっていた。
その結果。
彼女達は真の意味で悟った。
契約書ですら現実味の無かった本当の地獄を知った。
自分たちはGAMEを盛り上げる為の前座。
言わば生贄なのだろうと。
死にたくないとチームの一人は警察まで逃げ出そうとして空ろな目でチームの下に戻ってきた。
自殺を試みようとした者もいた。
彼女は思った。
自分がどうにかしなければならないと。
「・・・これで全てです。藤啼」
そうして彼女は己の全ての伝手を使って戦う事を決意した。
信仰がどうのこうのと理由を付けて逃げる事を止めた。
「もしも、断られるのでしたら・・・それでも構いません。ただ、この話を聞かなかったことにしてください」
嘗ての恩師。
己の最も敬愛するべき人への懺悔。
軽蔑される事も忌避される事も覚悟の上。
だからこその告白。
彼女は思う。
これからどんな顔で自分はその人を見ればいいのだろうかと。
「顔をお上げなさい。マヌエル」
「は、はい」
顔を上げた彼女は柔和な笑みを浮かべる師を見つけた。
「立派になったわね」
「え・・・」
「少し驚いたけれど、貴女は何も昔と変わってないわ。それが分かって私はとても嬉しいの」
「あ、あの、藤啼・・・私は!!」
そっと彼女の手が握られる。
「人生ってね。とても辛いものよ。生きているだけで死にたいと思う事が山のようにあるの。でも、それと同じくらい貴女は誰かを愛した。愛するが故に貴女は罪を受け入れた。汚れる事を厭わなかった。それは誰にでも出来る事じゃないわ」
「ふじ・・・なき・・・」
彼女の視界は滲む。
「無論、悪い事をしてもいいなんて事は無いわ。けれど、どんなに言い繕おうと民族も国家も社会も世界も決して優しいとは言えない。でも、だからこそ、誰かを救いたいと行動する人がいて、少しだけ人々は心を動かされて、自分も誰かに何かをしてあげようと思う。貴女みたいな人がいるからこそ、人はただ罪深いだけじゃない」
「で、でも・・・・私・・・私は・・・」
「この世界の為に血を流した聖人が二千年前にいたわ。けれど、誰かの為に血を流したのは決して彼だけじゃない。彼は奇跡なんてものが起こせたらしいけど、今も何処かで誰かの為に血を流す人はそうじゃない。貴女のように、貴女以上に、彼よりも苦しい場所で抗う人が大勢いる」
そっと彼女の頭が引き寄せられ、抱きしめられた。
「私はね。彼の様式ではなく彼の行動、彼の意思こそを重んじるわ。彼は行動した。世界の不平等と無理解、あらゆる悪を前にして立ち向かった。それはその当時今みたいに歓迎される価値観じゃなかったし、その時の公(おおやけ)の正義からすれば噴飯ものの行動だったでしょう。つまり、彼は他の大勢の人から見れば悪人だった。それでも彼は今この時代に語り継がれている」
彼女が最も敬愛する人の言葉を心に刻む。
「彼は罪を背負って、赦す事と愛する事を貫いて殺された。私達は彼じゃないから奇跡も起こせなければ人を一人救う事もままならないかもしれない。でも、彼よりずっと辛い立場で戦い続ける事はできる。彼よりも罪を背負って、彼よりも過酷に戦い続ける事は出来るの。その生き様を誰かが語ってくれるくらい、誰かの人生に刻まれるような戦い方をしたいと、私は今も思ってる」
「戦う・・・?」
「人の戦場はそれぞれよ。彼は己の民族と宗教と慣習に立ち向かった。私は私の人生という場所を最後まで戦場とする事を決めたから、こんな非合法のトランクルームをしてる。貴女の戦場は近頃始まったばかり。その中で貴女はきっと多くのものを失って、僅かなものを得るでしょう」
彼女を抱きしめていた腕が解かれ、
「だから、その手伝いをさせて頂戴」
その手に一本の鍵を渡される。
「地下の一番端十七番よ」
「こ、これ・・・いいのですか藤啼!?」
彼女に力強い声が応える。
「決して自分の罪から逃げてはダメよ。兵器を持つ意味。人を傷つけ殺すという事。赦されない事を己に課してこそ、逃げ出せない場所で立ち向かってこそ、貴女はそれを持つに値する。覚えておいて」
「は、はい!!」
扉が開けられる。
「お行きなさい。貴女の戦場を生きる為に。戦いが終わったら、今度ゆっくりお茶でもしましょう」
彼女は師に頭を深く、深く下げた。
そうして走り出す。
己の戦場へと向かう為に。
信仰を捨てても意志と行動で己の芯を貫く。
それは何処か日本人に似ているかもしれない。
良くも悪くも宗教の教えや様式に囚われない信仰を持ち。
その行動にこそ、その意志にこそ、何かが宿ると信じている。
そんな空想主義者(ロマンチスト)で現実主義者(リアリスト)な二律背反の民族に・・・・・・。
*
一人。
ビルの上。
少女は手すりの上に座り、足をブラブラさせていた。
シャフ。
戦略兵器テラトーマのオーナー。
今は二人の人物を監視する任務を課されているだけの存在。
そんな彼女は一人己の瞳映る世界をゆっくりと見つめていた。
風に乗って彼女の体から放散されるNDの個体群が空を渡っていく。
独立した個体群にプログラムされているのは一つの指令。
個体群の中に取り込まれたウィルスの人体感染。
人間に取り付き、発症の信号を受信するまで待機という到ってシンプルな仕組み。
感染経路はもう決まっている。
彼女の視線の先には巨大な鉄道網があった。
一日に何人使うのかシャフは知らない。
が、そんな事を考えなくても彼女のNDは少しずつ少しずつ電車に乗る者達へと浸透伝播していく。
対象なる人数は一万人。
時間や列車はバラバラにして均等な値でNDをばら撒いていく。
「ふふ・・・」
シャフは呟く。
「もうすぐ」だと。
そんな彼女の傍に立つ人影があった。
「・・・シャフ」
「メリッサ。何か用かしら?」
「君のやっている事は無益だと思うけど」
「無益?」
「少なくともこんな島国でこれだけの規模で力を使うなら承認が必要になるんじゃない?」
「そんなの要らないわ。日本滅亡程度は【連中】も許容範囲よ。それにこれは下準備に過ぎないんだから、誰にも文句なんて言わせない。それが【連中】でもターポーリンでも」
「今夜のGAMEで中国軍閥が参入する」
「だから?」
「【連中】がホットラインで連絡してきたよ。ターポーリン先輩じゃなく直接指揮下で動くようにって」
初めてシャフが後ろを振り向く。
「何でアンタにそんな連絡が来るわけ?」
「ターポーリン先輩が新しい任に就いた。だから、監視任務は僕を筆頭にして君を管理する体制に移行されたよ。まだ君に連絡がされてないから僕が直接伝えに来た」
「冗談じゃ―――」
シャフが拒絶しようとした時、メリッサが口を挟む。
「NDのフィードバック情報に関して一時的に干渉できるよう僕の権限は上げられた」
「・・・・・・それで」
「GAME参加者の内、国外の人間と軍閥の人間を君の力で【爆弾】にして欲しいって要望が来てる」
「ついでにアンタもそうしてあげましょうか?」
嗤うシャフにメリッサが僅かに顔を背けた。
「・・・シャフ・・・君は随分と変わった・・・」
「どうしたのよ? いつもみたいに「ですます」ってターポーリンに言ってるみたいに話したら?」
昔と違うのは何も自分だけじゃないだろうと皮肉られたメリッサがシャフを見つめる。
「少なくとも僕は先輩を敬ってるから。でも、君は違う」
「・・・今もソラお姉ちゃんのおっぱいが忘れられないから監視任務なんてずっと引き受けてる奴に言われたくないわね」
クスクスと嗤うシャフに対してメリッサは何も言い返さなかった。
「今日のGAME後に連絡を。それで今後の対応はターポーリン先輩と僕で決める事になると思う」
「ああ、そう。勝手にして」
メリッサがシャフの隣まで来るといつもの如く飛び降りようとして――――――僅か嗤う少女の方を向いた。
「僕が好きだったのは【ソラ】といつも仲良くしてくれてた【シャフお姉ちゃん】・・・そんな・・・二人だった・・・」
シャフが何かを言う前にメリッサがビルから飛び降りる。
その姿はすぐビルの下へと消えていく。
残されたシャフは一人空を見上げる。
「・・・何よ・・・やっぱり昔と全然変わってないじゃない・・・空が飛びたい症候群・・・治ってから生意気な口利きなさいよ・・・」
それからNDでのウィルス撒布を止めたシャフは二人の監視対象がいるアパートへと向かった。
第二GAMEが始まるまで数時間の猶予が残されていた。
しかし、それよりも先に新たな事件が発生する事になる。
未だ事件に巻き込まれるとも知らず、シャフは過去を顧みて、嗤った。
「もう戻れやしないわよ・・・・・・」
あの日、あの時、あの場所で、三人で遊んだ、あの空はそこにない。
「・・・馬鹿・・・」
寂しさ。
そんなものが自分の中に未だあると自覚しないまま。
少女は一人そう呟いた。
過去の客は今や敵。
嘗ての敵は今の友。
密やかに関係は崩れ。
露見する事もない。
第二十九話「嵐前の静寂にて」
秘された封が切れるのを待っている。
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第二十九話 嵐前の静寂にて
第二十九話 嵐前の静寂にて
自動小銃30挺。
対戦車ライフル5挺。
機関砲七門。
RPG20発。
積層強化プラスチック盾40個。
手榴弾135個。
感染症防護服46人分。
他武器弾薬etc。
保持しているだけでテロリスト容疑の無期懲役確実な品揃えに男達は感嘆の溜息を吐いていた。
もしもその光景を警察官僚が見たならば悪夢のような事態に震え上がったかもしれない。
日本転覆を狙うテロリストと目されても言い訳できないのは明白。
何を標的にしたいのかと目を疑うような重装備は戦争でも始めるのかと思わせるに違いない。
しかし、その装備は別にテロ目的でもなければ戦争に使用されるわけでもなかった。
用意された装備は【狩り】の為。
そう、たった一人の標的を叩く為に準備されたものだった。
「すまねぇな。無理難題を押し付けちまって・・・」
黒い羽織姿の六十代の男。
『我東大牙(がとう・たいが)』
外国へ移民した日本人達の自衛組織から発展した【和僑】と呼ばれる組織の頭目。
外国勢力に色分けされながらも【日本様式】を受け継ぐ外国産の八九三(ヤクザ)。
その中でも日本へ近年入ってきた【大牙会】の事実上のトップが僅かに頭を下げ礼を尽くす。
相手は武器弾薬をズラリと並ぶ光景を実現した功労者。
「別に料金と約束さえ守ってもらえるなら構わないさ」
今は武器商人ハワード・ベイルと名乗っている三十代の白人オズ・マーチャーにだった。
「ああ、口座に今から振り込もう」
我東が頷いて傍らの男から差し出された小型端末の電子口座へタッチペンで入金手続きを踏んでいく。
「それで一つ疑問に思ってたんだが、こんな装備を使って何をしようって言うんだ? 少なくとも熊
や鹿を取ろうって話じゃないだろう?」
「はは、気になるか?」
我東が苦笑する。
「ああ、少なくとも取引相手がこれから破滅するのか生存するのかは重要だ。これからの取引にも関わるからな」
いつもよりも微妙に生真面目そうな顔でオズが訊く。
此処では生真面目な一流武器商人ハワードであるオズは神経質な面がある心配性な男という事になっている。
「心配する必要はねぇ。何もテロに走るわけでもなけりゃ、政府に殴りこみに行こうってわけでもねぇからな」
「戦争か?」
「・・・まぁ、戦争というよりは狩りだな」
「人間相手に使うには大げさな武装が幾つもある。もし良ければ小型で使い勝手のいい他の銃器に変える事もできるが・・・」
オズの言葉に我東が首を横に振った。
「いや、どうやら奴さんは軍隊規模でどうにかなるってな話だからな」
「その言い方からすると・・・」
「はは、それ以上の詮索は無しだぜ?」
「・・・ああ、とりあえず、これで取引は成立だ。もしも次があるなら、その時はまた」
「どうだかなぁ。これだけデカイ買い物しちまったから家の財布はスッカラカンだ。次は何年後になる事やら」
「その様子だと生き残る気はあるようだ」
「そりゃ、誰も死ぬ為に戦うわけじゃねぇさ」
「次がある事を祈ってる」
「じゃぁな。良い買い物だったぜ」
オズは端末で確かに口座へ代金が振り込まれている事を確認してその場を後にした。
「まさかこうも早く情報が引っかかるなんてな」
すっかり明るくなっている空を見上げながらオズは道端にある大手牛丼チェーンに入る。
大盛りを頼みながら眼鏡を外し、近頃の進展を順次頭の中で思い浮かべた。
【大牙会】という名前を掴んでからオズは徹底的に組織を洗った。
資金源や組織の立ち位置。
人員の名簿。
今までの活動歴。
海外での評価。
現地での評判。
頭目である我東の血筋から友好関係。
その他諸々を丹念に調べながら接触の機会を待っていた。
そんな時、入ってきた情報にオズは目を付けた。
大牙会が大量の武器を欲している。
狭い武器商人の情報網にはその手の話題がいつも多い。
どこどこの組織にこれだけ流したとか。
どこどこの組織にあの大物を入れてやったとか。
元武器商人であるオズにとってそれは大牙会と接触する千載一遇のチャンスだった。
オズは知り合いの武器商からの紹介で大牙会との接触に成功した。
その後はトントン拍子に話が進んでいった。
日本国内に持ち込める武器弾薬類には限りがある。
しかし、大牙会が望んでいた武器弾薬の類は皆大物ばかり。
普通の武器商人なら一世一代の大仕事と呼ぶべき取引だったが、オズはそもそもが米国の諜報機関の人間であり、米軍の伝手を使って密かに大牙会が望んだ品を全て揃える事が可能だった。
取引をする間にも大牙会の内部情報を仕入れ、着々と自分の知りたい情報へと近づいていたオズはついに己が追っていた兵器の情報を掴んだ。
テラトーマ。
日本語では奇形種。
オズが追っている内に知りえた情報では第三世界を滅ぼしかけたという情報まである兵器。
幾つもの情報を総合してオズはそれが病原菌の類。
しかも、人間に積まれた類のものというところまで突き止める事に成功していた。
人間に病原体を積んで兵器化する。
その発想自体は嘗ての米軍や米国内でもあった。
研究開発をしていた事実こそ隠蔽されているが、諜報機関の事件プロファイルには機密情報が満載であり、それを巡って幾つも事件が起こったという情報はオズの知りえる範疇のものだった。
何処の誰が実現したのかオズは未だに掴んでいなかったが、テラトーマと呼ばれる病原兵器を積まれた人間を探せばいいという具体的な目標が見えた時点でオズの仕事はほぼ半分以上終わっていた。
日本がそれなりに楽しくなりつつあったオズだったが、急に仕事の終わりが見えて郷愁にも似た感情を日本へ持つようになっていた事に自分でも驚いたのは記憶に新しい。
「結構楽しかったが、これで仕事も終わりか」
残る仕事はテラトーマの写真でも取る事くらい。
現物を奪取しろなんて事を命令された記憶は無いし、テラトーマが殺されていようが生きていようがその具体的な情報さえ掴んでしまえば仕事は終了。
少し手間を掛ければ大牙会から死体を回収して米軍辺りに本国へ空輸させる事も可能。
事実上オズの最後の仕事は盗聴盗撮くらいという事になる。
テラトーマの背後関係を洗おうかとも考えたが上からの指示を鑑みるにあまり深く首を突っ込めば薮蛇になる可能性もあり止めた。
平和な世界でご機嫌な生活を送れるならば、別に米国で暮らさなくとも日本に永住するという手もある。
日本の移民への風当たりは厳しいが、情報の偽造なんてお手の物であるオズからすれば障害には為り得ない。
その気になれば日本で武器商人をしてもいいし、米軍やCIA辺りに協力して小金を稼いで暮らしても良い。
もう本国での生活に未練なんて無いオズの脳裏には薔薇色の退職後生活が描かれていた。
(ま、悠々自適に日本で老後ってのも悪くないか。はは、オレもついにあの男の仲間入りかよ)
オズの脳裏には日本に初めて来た時に世話になった同じ仕事をしている黒人の声が甦った。
【居心地が良いと評判なのは君にもすぐ理解できるだろう】
(確かに居心地が良すぎてすぐアンタみたいに平和呆けしちまいそうだな)
にこやかな店員が大盛りの牛丼を持って来る。
目の前に置かれたそれをハフハフ言いながらオズはがっつき始めた。
*
「えーこちらに展示されていますのが世界で初めて開発に成功した日本が誇るモノポール磁石の現物で開発コード【左右(もとこ)】の右の方です。左の方は現在東京の国立博物館に展示されています」
博物館の中央。
技術先進国ジャパンをアピールするツアーガイドが外国人達を引き連れて巨大なショーケースに入った握り拳大の磁石の前で立ち止まっていた。
「白金。つまりプラチナを用いて作成された【左右】ですが、現在の時価総額で約二十一億円分の白金が使用されました。見て分かる通りとても綺麗ですね。これこそが現在の日本産業を下支えする先進技術の一つであり、世界中で使われるようになった最先端デバイスを作成するのに欠かせないものなのです」
ぞろぞろと歩いてきた外国人観光客達が「ワーオ」とのリアクション。
「近年は白金の需要が高まって値上がりしている事から日本政府はこのモノポール磁石を白金を使わずに製作する研究に対して補助金を出しており、今現在も研究が進められています。量子コンピューターなどにも使われている技術であり、日本を代表するモノポール磁石技術ですが、その道は前途多難でした」
ガイドが熱を込めて語り始める。
「当時、まだ理論段階だったモノポール磁石に関する論文は毎年のように出されていましたが、その殆どが理論に欠陥を持ち、様々な点で不十分なものばかりでした。
スピントロニクスの発展に伴い多くのデバイスが開発されましたが、幻でしかなかったモノポール磁石の生成が発展の最後の壁となって立ちはだかっていたのです。
多くの学者が匙を投げたモノポール磁石の作成でしたが、とある一人の女性科学者がモノポール磁石について画期的な論文を出しました。それがそこのプレートに書かれている十三人の科学者の一人。亜頭小夏(あず・しょうか)教授なのです」
ババンとガイドがプレートを指差した。
「亜頭教授は一時期ノーベル賞候補にまで上がった人物なのですが、その人物像を知る手掛かりはあまりに少ない人としても有名です。亜頭教授本人が人見知りで写真や自分の記録を残す事を極端に嫌っていた傾向にあり、更には論文の発表すら助手に任せ切りという人だった為と言われています。事実、教授の写真は悉く紛失しており、今現在残っていません」
ツカツカとガイドが観光客達の前に立つ。
「教授は日本政府が立ち上げた総合学術機関である天雨機関の創設時に教授職を辞職しました。席を天雨機関に移した後、その解体と同時にGIO設立の立役者としても活躍した経緯があるのですが、それはあまり知られていません」
ガイドがキリッとした顔で外国人達にドヤ顔をした。
「その後、GIOにしばらく在籍していたという事ですが、数年後に失踪しており、今現在は死亡されたものとして処理されています。ですが、実際には生死不明であり、未だ生きて研究を続けているという噂もあります。その生死も噂の真偽も定かではありませんが、そういった事情から日本の陰謀論者の間では彼女は伝説の科学者として名高く、何かしらのヤバイ研究を行って何らかの組織に拉致あるいは消されたのだと主張する人もいます」
グッとガイドが拳を握る。
「正にミステリー!! 正にSF!! 世界を変えた偉大な女性科学者が謎の失踪を遂げるというのはロマン以外の何だというのでしょう!! そういった筋の小説家の方やノンフィクション作家さん達が日夜彼女の情報を漁っているという事実は彼女の人気の高さを表しています!! こういった裏話は普通のガイドはしないのですが」
ギュピーンとガイドが己の服に付いている小さなバッチを客達に見せ付けた。
「私はミステリーとSFをこよなく愛する愛好家の一人として今も教授が何処かで怪しげな科学技術に手を染めているに違いないと思っています!!」
全てを語り終えたガイドが清々しい顔でニッコリ笑い・・・スタスタその場から歩き出していく。
「では、次の場所へ行きますので皆さん逸(はぐ)れないで付いてきてくださ~~い」
【は~~い】
ゾロゾロと旅行団体が博物館の出口へと向かっていった。
「随分と脚色されてんじゃないかい? アズ」
「人見知りだったんじゃなくて体が弱かったから面倒な事は全部助手に任せてただけなんだけどね」
団体客が去った後。
その場に残った二人の女が互いにニヤリと笑った。
二階の展示室の一角。
ガラス張りの休憩所の長椅子に並んで座ったのはアズトゥーアズともう一人。
白髪でスーツ姿の老女だった。
「久しぶりに呼び出したと思ったら・・・自分の功績を誰かに自慢したくなる程、耄碌したのかい?」
老女が歳に似合わずゲラゲラと下品な笑みを浮かべる。
「まだまだ耄碌って歳じゃないさ」
「ふん。歳取らないからって粋がってると足元すくわれるよ」
「はは、君に言われちゃ僕もそろそろロートルと自称しないといけないかな」
立ち上がり後ろの販売機から缶コーヒーを買って老女に渡し、アズは紅茶を開けた。
しばらく二人の液体を啜る音だけが空間に響く。
言葉にならない感慨を共有し終えた二人は同時にゴミ箱へ缶を投げ入れる。
「で、近頃は古巣のGAMEにご執心なアンタがアタシに何の用だい?」
「君に聞きたい事がある」
「裏社会の情報なら幾らでも持ってる人間に手に入らない情報なんてアタシが持ってるように見えるかい?」
「見えるね。特に僕みたいな人間を妄念染みた行動でマークしてた嘗ての公安屈指の女傑なら僕より詳しいんじゃないかい? 僕の嘗ての友人達の行方とか」
「・・・そんな昔の話は忘れちまったね。そもそもそんな事を知ってどうしようってんだい」
「そろそろ世界が動き出す。僕らは嘗て、そんな時の為に研究をしてた。次期が来たって事だよ」
老女がアズの言葉に目を細めて、懐から取り出したシナモンスティックを一本咥えた。
「アンタがそう言うからには・・・まぁ、そうなんだろう。けど、何が起こるって言うのかまずは聞かせてもらおうか」
「露西亜と中国の衝突は始まりに過ぎない。これから起きる一連の事件も世界の命運を掛けたものには違いけど、あくまで長いスパンで見ればの話だ。問題はWWW(ワールド・ウォーター・ウォー)に端を発して今まで大人しかった僕の友人達が行動を開始するところにある」
「天雨ってGAMEで名前を出したそうじゃないか。あれもそんな行動の一部じゃないのかい?」
「あれは成り行きに過ぎないよ。まぁ、誰かが連絡を取ってくる可能性も考慮してはいるけどね」
「それでアンタは何を心配してるんだい?」
「www(ワールド・ワイド・ウェブ)には再起動の為のカードがあって、数人の人員がそれを管理してるって知ってるかい?」
「唐突じゃないか。どういう事なのかサッパリ話が見えないよ」
「あれは世界で数人に再起動の為の鍵がある。けど、それは数人以上が集まって初めて機能する代物だ。無論、wwwが止まるとか一斉にSPOFするとか在り得ないし、あれはプライベートキーの再発行に関しての話なんだけど・・・僕達の扱ってるモノは性質が違ってね。世界の動向に直結する」
「ほほう?」
「僕達はあの当時から誰が一番最後まで残るか分からない事を前提に【SYSTEM】を構築した。それ故に誰もが単独で再起動する事が出来る仕様になってる」
「システム、システムねぇ。ロクなもんじゃない臭いがするけど、そのシステムってのは何なんだい?」
アズがしばらく黙り込んだ。
「・・・この世界が【滅ばなかった事を約束する力】ってところかな」
「―――何だって?」
「最先端科学の産物であるNDやモノポール磁石、異端科学の結晶たる不老技術。そんなものは所詮・・・全部オマケに過ぎないって事だよ」
老女が唖然としてアズを見る。
「アンタ・・・一体何の話を・・・」
「今世紀最高の科学的進展はとある粒子の発見だと僕は思ってる」
アズが立ち上がって窓際に寄ると空を見上げる。
「天雨機関は確かに世界最高の研究施設だった。現実にあの機関発の先端技術は今この世界の多くの分野を席巻してる。でも、あの機関が生み出した本当の意味での最高傑作は間違いなく【SYSTEM】だけだ」
老女がアズの様子に息を呑んだ。
それはアズと長い付き合いの老女も初めて見る表情だった。
「運命論者は世界が破滅するならば、それは必然だと言うだろう。けど、僕らはそれを善しとしなかった」
何もかもをただ冷静に見つめる科学者の顔。
「だからこそ、僕らは己の手でこの世界を救済する為の力を作り上げたんだ」
老女が振り向いたアズに一筋の冷や汗を流した。
「世界を・・・救済するだって?」
博物館の外に風が吹き、すでに入道雲が空を覆い始めていた。
「僕達の意図しない使われ方で意図しなかったイレギュラーに【SYSTEM】は一度発動した事がある」
雨の気配に博物館から人々が去っていく。
「あの人類が滅びるはずだった日にね」
「?!」
人気が無くなった休憩所で老女は今自分が何を知ろうとしているのかと僅か臆病になる。
「織拿(おりな)。君はきっと僕達の最高の研究成果は僕自身だと思ってるんじゃないかい?」
老女は何故か目の前の歳取らぬ怪物が悲しげな顔をしていると感じた。
「それが本当だったなら僕はきっと今も研究室に篭って好きな研究をしてたかもしれない」
ポツポツと窓の外には雨が降り始め、やがて大降りになっていく。
「でも、現実は違う。僕は【SYSTEM】を最後まで管理できるよう用意された保険に過ぎない」
「保険・・・アンタがそのシステムとやらを守る為の駒だって言うのかい?」
老女は己の背中に流れる冷や汗を感じながらも慎重にアズの言葉を吟味する。
「君は今こう思ってる。僕以上にヤバイものがこの世界に存在するのか? 残念な話だけど、僕なんかよりヤバイものがこの世界には存在する。断言しよう。僕に使われた技術なんてアレに比べれば児戯に等しい」
「もったいぶるじゃないか。それが本当だとしてアンタの言うシステムとやらはどんな代物だって言うんだい」
土砂降りの雨の中。
アズは老女の隣に座った。
その耳元でそっと何事かを囁き始める。
しばらくして老女の顔は見る見る強張っていった。
「・・・そんなSF話に付き合えって言うのかい? まったく・・・耄碌して呆けた方が幸せかもしれないねぇ」
再び共に並んだ二人はもう互いを見ない。
「もしも・・・アンタの言うそのシステムが再起動されたらどうなる?」
「再起動した者の意図にもよるよ。けど、再び人類は滅亡の危機に陥る可能性がある」
「今更だろうに。地域によってはもう滅亡したと言えるところもあるじゃないか。国際政治欄でも読んでみたらどうだい?」
「人類がこのまま衰退して消え去るならそれでも構わないよ。でも、それは時間が解決する淘汰の問題だ。でも、その間に流れが変わる可能性はある。その可能性を摘むかもしれない戦争は回避したいけど、回避方法は少なくとも個人が選択するべき問題じゃない」
「再起動させてやればいいじゃないか。アンタの与太話が本当ならシステムとやらは戦争を止められるんだろう? 何処に問題があるって言うんだい」
「WWW(ワールド・ウォーター・ウォー)は人々が己の手で回避するべき問題だ。僕はそう思ってるし、それが出来ると信じるよ。もし、そう出来ないなら人類はシステムなんてものに世界の命運を頼り切って生きていかなきゃならなくなる。そんな人類はどっちにしろ文明を衰退させ滅亡すると僕は結論する」
老女がアズの瞳を覗き込んで、大きな溜息を吐く。
「随分とアンタ変わったねぇ。昔は自分の目に見えて理解できるモノしか信じなかったアンタが今更人の可能性なんて曖昧なものを信じるだって?」
「リスクヘッジの手法を変えただけだ。あの【黒い隕石】(ブラックメテオ)は人類が己の手でどうこうできるものじゃなかった。けど、これから起こるだろう戦争は違う。戦争が起こるのは人々の欲望(エゴ)の結果だ。なら、それを止めるのもきっとそれを止めたいと願う人々の希望(エゴ)のはずさ。それを無視するやり方を僕は認めない」
「もしも、その綺麗事で止められなければ?」
老女の最もな言葉にアズは笑う
「その時は最後まで抗うよ。例え運命を前にして跪く事になるとしても・・・」
老女が立ち上がる。
「現在までに居場所が割れてるのは五人。その内の二人はアンタとあの男だ。後の八人は行方不明だが、数年前までの痕跡は幾つか発見してる。生憎と資料はアタシの頭ん中にしかない。もしも情報が必要になったら呼び出しておくれ。これがアタシに出来るアンタへの最大限の譲歩だ」
そのまま立ち去っていく老女の背中にアズは声を掛けなかった。
ただ、その背中にアズはゆっくりと頭を下げる。
誰もいない廊下から老女の背中が消えても、しばらく頭は下げられたままだった。
雨も小ぶりになった頃、博物館の駐車場から一台のハイヤーが公道へと出る。
その後部座席で老女は一人どこか愉快そうな笑みを湛えていた。
「随分とご機嫌なようですね」
六十代の男性運転手がバックミラーを覗いて軽く驚いた様子で言う。
「ん? ああ、久しぶりに会った奴が随分と丸くなっててね。何と言うか人間らしくなってたもんだから」
「貴女がそう仰るという事はその人はとても危ない方だったのでしょうか?」
「はは、冗談は止しとくれ。危ないなんて形容詞が合うような奴じゃない」
運転手が脂汗を浮かべる。
「と言うと?」
「日本どころか世界だって滅ぼせる悪魔みたいな奴だ」
「それはまた・・・何処かの独裁者みたいですね」
「独裁者が核を撃ったって、あの女以上じゃない」
「それはまた随分と評価なさっておいでで」
「ま、無駄口はここまでにしておこう。それより公安の連中には話を通しておいたんだろうね?」
「はい。OBからの善意を無碍には出来ないと不満そうに対応して頂きました」
「くく、そうかい。なら、良かった。あの無能な馬鹿共にもう少し世間の荒波って奴を教える機会があって。これがたぶん・・・アタシの最後の仕事だ」
「織拿様。日本はこの戦争を生き残る事が出来るのでしょうか」
運転手が僅かに視線を俯けた。
「心配かい?」
「ええ・・・その・・・この間・・・娘が無事出産しまして・・・」
「ほう? そりゃめでたい」
「出来るなら幸せな時代に生きて欲しいと・・・そう願っています」
男に落ちた影を笑い飛ばすように老女は唇の端を吊り上げる。
「心配するだけ無駄だよ。戦争をしていようと世界が滅亡しようと人間は幸せを手放せない。どんな時代のどんな国にも笑顔がずっと消えた事なんて無いんだ。幸せな時代なんて考えはドブに捨てな。アンタがアンタの手で娘さんを幸せにしてやるんだ。家族を守るのに時代なんて関係ないだろう?」
「・・・・・・はい」
運転手が敬服するように僅か帽子を下げる。
「さあ、まずは霞ヶ関参りと行こうかい。あのブチ殺されても文句の言えない無能官僚共と糞の役にも立たない雛(ひよっこ)政治家共の尻に火を付けなきゃ」
「さすがです」
「当たり前だろうに。アタシを誰だと思ってるんだい? 定年になったとはいえ公安の鬼女(きじょ)、経済界屈指の名門【佐宝家】の長女にして、裏社会の馬鹿共を震え上がらせた稀代の策士様だよ?」
「本当にさすがです」
そのままハイヤーは東京へと向かった。
その日、各省庁の重役達と政治家達は慌てる事となる。
嘗て『小さく静かなる戦争』(リトル・サイレント・ウォー)下の日本において猛威を振るった公安の鬼女。
今現在ですら政治・経済界に莫大な影響力を及ぼす名家の女傑。
佐宝織拿(さほう・おりな)の来訪に首相官邸すら慌しくなった。
米軍が海上事前集積船部隊(MPS)を動かしたのは織拿の来訪から二日目。
戦時突入を睨んだ米軍の準備は着々と進められていた。
そんな最中、警察は未曾有のテロに戦慄する事となる。
佐宝織拿が首相官邸に来訪して一時間四十五分後。
和僑系組織大牙会による遊園地占拠事件が発生。
中国においても軍事行動とも思われる動きが確認された。
それと期を同じくして東京でも新たな事件が発生。
関東地域において「未知のウィルス」そう呼ぶしかない代物までもが猛威を振るい始めていた。
敵を取れ。
仇を取れ。
急かされる猟犬は遊園を駆ける。
時を同じくして、動き出す者達がいた。
第三十話「夢の国」
醒めたならば、既に其処は現実。
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第三十話 夢の国
第三十話 夢の国
遊園地。
それは夢のワンダーランド。
安っぽい装飾のメリーゴーラウンド。
無駄に揺れる海賊船。
回り続けるコーヒーカップ。
体に悪いジャンクフード。
甘ったるいソフトクリーム。
汚れ切ったからこそ美しい夕景。
そんな全てが渾然一体と化す場。
普通ならば子供達の笑顔と親子連れとバカップルで埋め尽くされているはずの世界。
そんな所に現在進行形で響くのは銃声だけだった。
一発目の銃声が響いた時、誰も逃げようとはしなかった。
しかし、マスクをして防弾ジャケットを着た自動小銃片手の男達が登場すればそうはいかない。
園内はパニックに陥った。
非難経路に押し寄せる客と運営側のアルバイト達。
幾人かのケガ人が出ただけで済んだのは奇跡。
しかし、それは実際には最初から予定されていた範囲内の出来事。
客達と運営者側の人員は誘導されて園内から締め出された。
男達の目的は客を人質にしてテロリスト紛いに何かを要求する事ではない。
男達はただ作戦遂行の妨げになるようなイレギュラーをフィールドから排除したに過ぎない。
男達にとっての問題はそれ以降。
完全に客達を締め出した所で各出入り口を完全に閉鎖できるか。
閉ざした扉を内側からも外側からも突破させない事が男達にとっての最優先事項だった。
遊園地中央広場。
巨大なアーケードの交わる十字路の中心。
今はぬいぐるみだのアイスだのが散乱する惨憺たる場。
設置されているベンチの上で一人不機嫌そうに座っているのは戦略兵器搭載型少女シャフだった。
彼女はどうしてこんな事になったのか思い出す。
今日のGAMEに参加する為、ソラをいびり倒してやろうと外字家へと向かう途中。
襲撃に会った。
第一波は五百メートル以上先からの遠距離狙撃。
第二波は車両で併走しながらの機関砲での銃撃。
第三波は逃げるルート上に隠蔽・仕掛けられた爆発物。
何に追われているかも定かではなく。
NDを使って応戦する前に圧倒的な火力によって追い立てられた。
まるで運命のように乗り捨ててあったバイクで移動し、追い詰められた先は遊園地。
最初こそ人気に紛れようと選択した場所だったが、全ては計算通りだったのか。
何もかもが目まぐるしく変わっていく内に園内で足止めされたシャフは身動きが取れなくなっていた。
一度園内から非難客に紛れて出ようとしたものの、やはり何処からかの狙撃が全てを遮った。
シャフの有するNDには簡易の防弾機構が存在しない。
ソラが常に傍らで待機させてあるCNT(カーボン・ナノ・チューブ)系の防弾機構は本来ならばオリジナルロットと呼ばれるシャフのNDにも付与されるはずだったが、シャフそのものの能力やNDの能力をフルに活用して圏域内部への侵入物体を解体するイートモードの使用が可能だった事もあって搭載されていなかった。
NDをフルに活用する形態の使用は普段禁じられている。
技術流出の恐れがある場合。
衆目に存在が明らかになる可能性がある場合も許可されない。
人目を気にする【連中】は決して表舞台に立つような真似はしない。
少なくとも組織単位で攻め立てられているシャフは情報漏洩を防ぐ名目でNDで使用できる能力を極端に制限された状態にあった。
だからと言って籠の鳥のように園内に閉じ込められた失態は言い訳できない。
もしもテラトーマが鹵獲されそうな事態にでもなれば、結果は見えている。
これだけ大規模な事件は連中でもかなり本気にならなければ隠蔽は不可能。
逃げられなければ【連中】から送られてくる指令は一つだろう。
NDとテラトーマの完全な破棄。
待っているのは全身のテラトーマを維持しているNDの消滅と病原体に内側から食い尽くされる未来。
日本という国を道連れに技術流出を防げとのお達しは想像の中だけで済むか怪しい。
(こういうの日本語で何て言うんだっけ・・・)
NDでの身体能力向上だけで組織的な追撃から逃れられる事はまず不可能。
全力でのND使用が制限されている今、シャフに出来るのはNDで周辺にある構造物に沿ってNDを撒布し相手の喉下まで届かせる事くらいだった。
狙撃地点が限られたアーケード内ならば相手の出方も見やすいかと思ってそこに陣取ったシャフだったが能力を警戒しているのか相手がそもそも近づいてこない。
シャフは狙撃手の位置くらいは掴んでいたが常に相手は五百メートル以上先の建造物に篭って出てこない。
どうにかしようとNDを伸ばしてもプログラムを実行するまでには時間が掛かる。
もしもテラトーマが使えたならば、即座に相手を病魔で犯して危機を脱していただろうがそれも無理な以上シャフに出来る事はほぼ尽きていた。
(・・・四面楚歌、だったかしら・・・)
キュルキュルと音がしてシャフが顔を上げる。
いつの間にか正面から近づいてきていたのは小さなリモコンと薄型の画面が備え付けてあるラジコンの車体だった。
お粗末な改造で作られたらしいソレがシャフの目の前で止まる。
「・・・・・・」
NDで検査するものの爆発物は感知されず。
マイクとスピーカーとカメラが付いているだけのありふれた黒い画面にシャフの顔が映る。
己の顔にシャフは思わず皮肉げに笑んだ。
その顔はいつだったか見た事のある表情。
グランマの死に衝撃を受けてから初めて見た鏡に映った自分。
「・・・・・・」
備え付けのリモコンを取り、シャフが画面の電源を入れる。
映ったのは何処か暗い部屋。
そして椅子に座る一人の男。
シャフは何処かで見た事のある顔に一瞬だけ脳裏を探ったがすぐに諦める。
己は瑣末な出来事を記憶しているような性格でないと気付いたからだった。
【まさか、お嬢ちゃんみたいな歳の子をこうやって囲む事になるとはなぁ】
「アンタ誰?」
至極当然の疑問をシャフが口にする。
【大牙会頭領。我東大牙ってもんだ】
「・・・ああ、そういえば運ばせたかしら」
【思い出してくれたかい? そう、お嬢ちゃんを運んだ運び屋だ】
「料金なら定額で支払ったはずだけど?」
【そうなんだがな。何せ組のもんの命の駄賃がまだなもんで、ちょっと取り立てさせてもらうぜ】
「命まで取った記憶は無いわ」
【ほほぅ? だが、お前さんを運んだ組のもんが二人程この間干からびた姿で見つかったんだが? いや、どうしてかな『すっかりんな事を忘れちまってた部下が幾人かいてな』慌てて確認を取ったらこれだ】
綺麗に朽ち果てた人間の写真が一枚表示される。
「・・・・・・」
【だんまりかい?】
「殺したかと聞かれればイエスとは答えない。けれど、ノーと言っても証拠は出せない」
【なら、誰がウチのもんを殺した?】
「知らない」
シャフは内心で黒い顔のある化け物を思い出す。
仕事がしやすいようにと移動の証拠を消して歩かれた可能性は高い。
しかし、それを悟られるような発言は【連中】の存在を示唆しているとも取られ、即座にNDを崩壊させられるかもしれず、知らないで通すしかなかった。
【なら、この間ウチの若いもんが血反吐を吐いて倒れた件はどうだ?】
「それなら、アタシよ。別件で巻き込ませてもらったわ。死んでるような事はないはずだけど」
大牙が溜息を吐く。
【テラトーマさんよ。随分と調べさせてもらったぜ? アンタの力は確かに凄い。殆ど反則だろ。だがな】
大牙の瞳に光が灯る。
【それで退いたってんじゃ大牙会の名折れだ。売られた喧嘩は買うぜ?】
「日本で死ぬまで刑務所に入るとしても? こんな騒ぎを起こした以上、もう組織はお終いでしょ」
【無論、考え無しじゃねぇさ。少なくとも組織の今後は考えてある。お前さんの情報そのものがオレ達の切り札だ】
「何ですって?」
【考えても見ろ。オレ達が捕まったら裁判に掛けられるのは必死。だが、日本政府はお前さんみたいなもんが日本の内部に侵入していたなんて事実を認めると思うか?】
「政府を強請る気?」
【司法取引と言ってくれ。日本の諜報機関にしてもアンタの具体的な情報は欲しがるだろう。この事件が闇に葬られる為にはオレ達の口裏合わせは必須だ】
「しかも、民間人に死人は出してない?」
【その通り。更に言えばアンタとのやり取りも含めて情報の全てはネット上に隠してる最中だ。オレ達の発言をどれだけ情報操作しようと現在戦争まっしぐらな日本政府が火消しにまで手が回るとは思えねぇ。つまり・・・此処にオレ達がアンタを此処に誘き出した時点で作戦は半分以上成功したも同然なわけだ】
「ただのテロリストの妄言で済ませられないわけね・・・」
【状況はオレ達にとって圧倒的有利だ。世間からしてみれば何故テロが起こったのか理由は知りたいはずだよな? その理由そのものが国家の安全に関わるとなりゃ政府だってオレ達を無碍にはしねぇ】
「その提案を政府は呑まざるを得ない。だから、此処で小娘一人殺しても構わない?」
【アンタの死がそもそも公にされるかどうかは未知数だが、少なくとも大量殺戮兵器とは言われんだろう】
「そして時間稼ぎは警察待ちと」
【ご名答。アンタがもしもオレ達を突破しても次は警察を突破しなきゃならん。もし、アンタがその力で病原体を撒こうとするなら、その時点でオレ達は園内全てを焼却、爆破する】
「用意周到な事で・・・感心するわ。自分達ごと葬ろうなんて随分と殊勝な心がけじゃない」
【アンタの日本での行動から推測するに自分の存在を公にしたくないはずだ。もしもこの状況でそれを望むならアンタの道は二つ。自決か日本を巻き込んで自滅するか】
「アタシが自殺するような人間に見えるかしら?」
【・・・真実が分かるなら、逃がしてやってもいい】
「ここまでしておいて? 随分とお優しい事ね」
【少なくともアンタが下っ端なのは分かってる。だが、アンタの背後関係は未だに分からねぇ。喧嘩を売ったのがアンタだったとしても、責任はアンタの背後に取らせる。それがオレ達の筋だ】
「・・・・・・」
八方塞だった。
シャフは【連中】に言及した時点で死ぬ。
かと言ってNDの能力をフルで使わずには囲いを突破できない。
しかし、NDの能力は衆目に晒せないという理由で封じられている。
話してみてシャフに分かったのは画面の中の男に嘘は通じないだろうという事だけ。
つまり、シャフの生き残る道は絶対に死ぬだろう【連中】からの自爆コード待ち以外での選択肢になる。
可能性が最も高いのは警察の突入時。
少なくとも園内に仕掛けられた爆薬で人死にを躊躇って隙が出来るかもしれない。
だが、そうなるまでにどれだけの時間が掛かるか分からない。
【連中】が警官隊の突入を自爆の期限と見る可能性は十分にある。
とすれば、残された選択肢は一つだけ。
囲いの強引な突破のみ。
どれだけの爆薬を仕掛けたのか分からなくとも、NDの基本性能を相手が把握しているとはシャフには思えない。
オリジナルロットの基本性能ならば半死・重症程度ならばどうにかなる。
脳が完全な状態で重要臓器が三分の一も残っていれば再生は可能。
シャフにとっての問題はNDの増殖に必要な構造材ぐらい。
それも園内に囲い込まれてから撒布していたNDの働きで幾分か用意できていた。
(使えるのは身体能力向上とNDによる微細な作業構築と解体・・・後は・・・)
シャフは現在登録されているプログラムの中で使えるものを探す。
しかし、【連中】からのプロテクトの掛けられていない使用可能なプログラムには碌なものが残っていなかった。
「とりあえず、アタシはアンタ達を『通常手段で半殺し』にするわ。爆発させたいならどうぞご自由に。アタシが死ぬのを願いながら先に死んでて。その程度でアタシが殺せると思うのなら、ね?」
【はは、そう来るか。確かに組のもんに大義も無く死ねってのは気が退ける】
大牙が唇を吊り上げた。
テラトーマによる大規模な病原体撒布が行われるという前提で爆薬を仕掛けた側からすれば、通常手段で戦うと宣言されれば、自分達ごと巻き込んで爆破するのは躊躇われる。更に自分達の爆薬が相手を確実に道連れに出来るかどうか未知数ならば、ボタンを押すか躊躇わないわけがない。そして、ダメ押しに相手から「殺さない」と言われれば、生死の駆け引きなんて人は倦厭する。
「生死の駆け引きに持ち込んだのはアンタ達よ」
【違いない。が、それを素直に信じてやるほどお人よしじゃねぇな】
「半殺しで済ますと宣言するアタシと死ぬかも分からないのに道連れとなる事を選ぶか。アタシにボコボコにされて生きる事を選ぶか。ま、好きにすればいいわ」
言い捨ててシャフはNDで画面の回路を焼き切った。
「はぁ・・・」
アーケード越しに空を見上げる。
強がってみたものの、現状は何一つとして変わっていない。
狙撃で殺される可能性は大きい。
警察が使うようなライフルでの狙撃にならばシャフは殆ど無敵と言える。
しかし、相手が軍用の対物ライフルか対戦車ライフルなら話は違う。
貫通力、破壊力、更に超遠距離からの高精度精密狙撃は防弾機構無くして防げない。
辛うじて出来るのは遮蔽物で遮るか逸らすか。
それにしても弾丸の種類によっては貫通があり得る。
実用的なプログラムが実装されていないシャフのオリジナルロットでは対応が後手に回らざるを得ない。
(まだ、こんなところで死ぬわけにはいかないのよ)
シャフが立ち上がる。
「ソラ・・・アンタから全て奪い尽くすまで・・・アタシは・・・」
ダァアアアアアアアアアアアアアアン。
一発の銃声が『遅れて』やってくる。
シャフの胸元には大穴が開いていた。
*
画面の先。
胸に大穴を開けた少女を見て大牙の顔が強張った。
「おい!? 誰が撃った!!」
マイクに向かって叫んだが配置している狙撃手達はいずれも否定を返してくる。
「くそが!? どうなってやがるッッ!!」
【こちらブラボー!! 標的の様子がおかしい!!】
『何だと!?』
再び画面を食い入るように見た大牙は少女の姿に『ノイズ』が走るのを目にして状況を悟った。
『各自警戒!! 今の『映像』は囮だ!!!』
大牙の声と同時、無線の一つが何の前触れも無く途絶した。
『チャーリー!? どうした!! 応答しろい!!』
しかし、大牙の声に反応は返ってこない。
『狙撃手が狙われるぞ!!! 各自、現在位置から一時退避!! 体勢を立て直して発見に全力を尽くせ!!! チャーリーの状態を視認した者はすぐに報告を寄越せ!』
「お頭・・・姿を見失った以上、我々のアドバンテージが悉く覆される可能性が。此処は退避を」
大牙の横で各隊に指示を出し終えたスーツ姿の男が画面越しに胸に大穴を開けた少女を見ながら進言する。
「伊佐。悪りぃがよ。一度始めた喧嘩は最後までやる主義だ」
「ですが、姿が見えないという事は何らかの偽装・・・恐らく光学迷彩のような能力を持っている可能性があります」
「六種類のセンサーを掻い潜って此処まで来るってのか?」
「いえ、ですが足りない目を組員の視認で補っている以上、こちらの目を掻い潜られる可能性はあります」
「・・・ま、確かにホログラフたぁ思ってもみなかったな」
画面には未だ少女の幻影が写っていた。
【こちらチャーリー!!!】
「「!?」」
二人がその声に振り返る。
無数の画面と電子機器で埋め尽くされた壁のスピーカーから途絶した声が響く。
『無事か!?』
マイクを掴んで思わず叫んだ大牙だったが、その返答が返ってくるより先に今度は別の声が飛び込んでくる。
【こちらホテル!!! エコーが倒れているぞ!? 敵は西に向かって移動中】
【こちらゴルフ!! ブラボーが倒れているぞ!? 敵はゲートに向けて進行中】
銃声。
【こちらデルタ?! 助けてくれ!? 今襲われてる!!】
【こちらエコー!!? 何なんだ!? う、うあああああああああああああああああああああ】
通信の途絶と復活。
【こちらアルファ!? 何が起こっているの本部!! 本部!!!】
【まさか敵の欺瞞情報!? 各自!! これより通信を途絶し、各々の判断で動かれたし!!!】
悲鳴と苦悶の声。
【お頭あああああああああ!!!!!】
【こちらデルタ!! 現在応戦中救援を求む!!!】
【ひ、ひぎいいいいいいいいいいいいいいいいい?!!!!】
【騙されるな!? デルタはもうすでに倒されているぞ!? 視認した!!!】
【騙されるんじゃねぇ!!!! 全部偽の連絡だ!! 標的はもう外側に移動し始めた!! 各自!!! 園内と外を隔てる出入り口を当たれ!!! 守りを固めねぇと突破されるぞ!!!】
無数に飛び交う声に己の声が混じっている事を知って大牙が唸る。
「あいつ!? この短期間でどうやってウチの無線に割り込んだんだ!? しかも、無線内容まで把握してやがる!? 指揮系統をまず絶ちにきやがった!? クソッ!? これじゃ囲いが崩れる!? 伊佐!! オレはこれから現場に向かう!!! お前は指揮系統の混乱を収めろ!!!」
「ですが!? お頭!!」
「テメェの子分ばっかりに働かせてたんじゃ立つ背がねぇ。後は任せたぜ?」
大牙が唇の端を吊り上げて笑う。
「了解・・・しやした。存分にお働きを!!!!」
「あぁ、あのお嬢ちゃんに一発ブチかまして来るぜ」
大牙が隣の扉を開いて大型のバンの中から飛び出していく。
扉を閉めた伊佐は現状を回復しようと大声で組員達を怒鳴りつけ始めた。
*
【こちらデルタ!! 敵は五番通路を東に向けて逃走中!!!】
【こちらブラボー!!! 現在応戦中!!!】
【こちらチャーリー!!! 東じゃない!! 騙されるな?! 西だ!!!】
幾通りものパターンで音声を合成し無線に流し込みながらシャフは右往左往する男達を眺めていた。
外側の警察無線を拾った限り、警察の突入は近い。
内部の様子を伺っていた警察も園内の慌しさは認識している。
混乱に乗じて警官隊を突入させる手はずは整っていると見て間違いなくシャフはそろそろかと機を見計らっていた。
NDによる簡易のホログラフ投影。
碌な使い道の無いプログラムだったが混乱を引き起こす引き金としては十分だった。
(これだけ動揺してれば・・・)
シャフはふら付く足を前に進める。
外套の左肩が二センチほど抉れていた。
最初の一撃。
誰が撃ったか定かではなかったがシャフは狙撃を避ける事に成功していた。
最初からホログラフを撃たせる事は織り込み済みだったものの、準備が終わる寸前での狙撃はハッキリ言って危機一髪。
それでも賭けに勝ったシャフは未だ初弾で左肩を撃ち抜かれただけで後は無傷。
それに比べ相手は混乱の極みにある。
連携の取れていない兵隊などただの烏合の衆である以上、シャフの敵ではない。
(ホログラフの一斉起動まで後十五秒・・・)
園内に広げていたNDが一斉にシャフのホログラフを映し出し走る姿を結実させた。
それと同時にシャフも走り出す。
よく見れば偽者と分かる映像も混乱している兵隊には本物に見える。
撹乱は成功し、陽動で殆どの戦力は外側へと意識を向けている。
残る関門は時間とルート上の敵掃討のみ。
全方位から狙い撃たれる心配が無いなら最短ルートで外へ向かってもリスクは最小限。
次々に園内で銃声が上がる。
敵が仕掛けに気付くまで一分も無いかもしれないが、その一分を全力疾走に費やせば囲いは突破する事ができるとシャフは確信していた。
「!?」
百メートルを六秒で駆け抜け、息切れもせずに走り続けたシャフだったが、曲がり角を曲がった瞬間、咄嗟に反対側の脇道へと身を投げ出していた。
キュガガガガガガガガガガガガガ。
そんな音と共にシャフが通り過ぎた場所を何かが穿つ。
堅いコンクリート製の構造物が一瞬にして抉れていく。
「!?」
シャフが唇を噛む。
道が十メートルはあるだろう建物で行き止まりになっていた。
そのまま上に逃れようとして気付く。
上に出れば格好の狙撃の的だった。
もしも、相手が一人でも狙撃手を連れているならば、絶対に建物の上を狙える位置に待機させている。
「随分と面白い得物じゃない!!」
『土建はシノギの一環だからなぁ。お嬢ちゃんにゃ此処で付き合ってもらうぜ』
シャフは抉れたコンクリの壁に突き刺さるソレを見て嗤う。
コンクリを抉り突き刺さっているのは釘だった。
大牙からの射撃が止む。
その背後には数人の気配。
「どうやって位置を特定したのかしら?」
『なぁに・・・そう大した話でもねぇさ。よく考えてみただけだ。どうしてベンチでずっとホログラフを維持し続けてたのかってな』
内心でシャフが舌打ちする。
『よく考えりゃ分かる。たぶんNDの類なんだろうが、そんな無意味にホログラフなんて維持させてるわけがねぇ。つまり、理由があったんだ。その理由は何か? 言うまでもねぇ』
ガッチャガッチャと機械が擦れ合う音がシャフのいる路地へと近づいていく。
『あの場でホログラフを維持してたのはもう自分は此処にはいないと印象付ける為、つまりホログラフの影に堂々と隠れてたわけだ。後は通信を撹乱してウチのもんが右往左往しながら配置を換えてくれるのを待ってりゃいいって寸法だ。あの場所から最短の逃走経路を考えりゃ馬鹿でも道は分からぁな』
「ヤクザって計算出来たのね。驚きだわ」
シャフの皮肉に大牙が笑う。
「はは、今は経済ヤクザが主流だからな。それとオレ達はヤクザじゃねぇ。和僑だ」
「ああ、そう」
大牙が角を曲がりシャフを捉えた。
その体に巻かれているバンドが何を固定しているのか知ってシャフが呆れた眼差しで大牙を見つめる。
「釘撃ち機の化け物ってところかしら」
大牙が両手で持っていたのは機関砲とも見紛う巨大な砲身と一抱えもありそうな弾倉(クギの束)、更にその後ろに付いているボンベという・・・シュール過ぎる得物だった。
「昔から何かと銃の規制が厳しい国で生きてきたもんだからよぉ。法には引っかからんもんを現地の奴に頼んだらこんなの出してきてなぁ。今じゃ抗争なんかは【ガスガン(コレ)】が手放せなくなっちまった。安上がりだろう?」
シャフがNDで瞬時に得物へと細工を始めるものの大牙は撃たなかった。
「これが最後だ。大人しく後ろの連中の事を吐くなら悪いようにはしねぇ」
「そういうのは追い詰めてから言えば?」
シャフが壁に向かって跳躍した。
しかし、それでも大牙は撃たなかった。
そのままシャフが園内の建物の上を渡っていく。
散発的に銃声が上がった。
「・・・おい。一っ走り本部まで行って標的の位置の確認取って来い。確認が取れたらプランCの手はず通り警察に事実を伝えて、他の連中の武装解除を優先しろ」
「へい!! お頭」
大牙よりも数メートル後方で待機していた男達の一人が走り出していく。
シャフに逃げられたというのに大牙はまったく動じていなかった。
「お頭!? 大丈夫ですかい!?」
男達は今にも駆け寄りたい衝動に駆られながらも動けず、その場で大牙へと声を掛ける。
「ああ、心配いらねぇよ。値が張っただけある。さすがに軍事用のNDを易々突破する程じゃねぇらしい。テメェらはまだドンパチやってる連中に声掛けて投降の準備でもしとけ。オレはこれから一人で追う」
「で、ですが!?」
ゴトンとベルトの金具を外され繋がれていた得物が地面に落下する。
「クソ高ぇNDは生憎と一本だけだ。それも後せいぜい二十分持つかどうか。心配は要らん。オレが誰だか忘れたか?」
「「「「へ、へい!! ご武運を!!!!」」」」
後ろ手にNDが入っていたアンプルを放り投げて大牙がシャフが今までいた場所まで来ると左の壁を裏拳で殴り飛ばした。
その手応えは無い。
ノイズが奔る。
壁には人が一人通れるだけの立て穴が開いていた。
その先に見えるのは店舗の裏口へと続く通路と開けっ放しの扉。
その真下にはマンホールの蓋が転がっている。
「ぬぅん!!!!」
大牙が己が入るには小さい縦穴に拳を叩き込んだ。
穴が爆砕し広がる。
「そういやぁ・・・子供の頃は夕方までよく鬼ごっこなんてしてたもんだ」
懐かしくなった大牙はそろそろ暮れ始めている空を見上げる。
「はは、若返る心地ってのはこういうのを言うのかもな・・・」
店舗裏へと歩き出した大牙はマンホールの上まで来ると身を細めるようにして水音のする地下へと向かった。
*
シャフは巨大な横穴を予め読み込んでいたマップを確認しながら只管に走っていた。
日本の上下水道の整備率は高い。
大都市圏ならば人が通れるような幅の地下埋設型の水路は多い。
だからと言って全ての水路が通れるわけではないが、NDの加護によって水没していようが、ガスが発生していようがシャフに通れない道は無かった。
遊園地はモノによっては大量の水が必要となる。
その莫大な水の供給を行っている水路は現在運営側が水の供給を止めているのか殆ど水が通っていなかった。
各アトラクションへと枝分かれするように整備された水路は逆に辿れば巨大な水路へと合流する。
シャフは真っ暗な水路を物ともせず大きくなる道に安堵しながら付近で最も安全な出入り口を探していた。
(レプリカの残量が少ない・・・何処かで補給しないと・・・)
通常、シャフやソラが使っている【ITEND】は都市部の構造物からその大元となる材料を調達する。
二人のオリジナルロットと呼ばれるNDの最も優れた点は大本であるコアと呼ばれるND個体群が消耗しないというところにある。
コアのND個体群は基本的に己の補修と他の実働する個体群を複製する事のみに特化されている。
つまり、本来ならば使い捨てで高価なNDをエネルギーと原料さえあれば幾らでも複製できる事がオリジナルロットを特別たらしめている要因に他ならない。
複製(レプリカ)は基本的に役目を終えると同時に崩壊するようプログラミングされている。
その為、使い終わったND個体群は再び使い回される事が無い。
故に、その複製を使い切ってしまえば、NDの全ての能力は残されたコアだけで処理するしかなくなる。
しかし、それは本末転倒。
コアは一定以上磨耗した場合、修復が不可能になる。
それと同時にNDの複製能力も低下していく。
シャフは複数のホログラフの為に準備していたND個体群の殆どを使い切ってしまっていた。
だが、だからと言ってコアを使って力を低下させれば後が無い。
何処かで時間を掛けて複製を行うべきだったが、状況がそれをシャフに許してはくれなかった。
「後は何処で地上に―――」
パキンと何かが引っかかり弾ける音。
シャフが少ないレプリカを全て使って全身の対衝撃防御体勢を取った。
爆発。
水路に爆風が吹き荒れる。
「―――トラップ!? 読まれてッ!? ッッ!?」
シャフが片膝を付く。
巧妙に足元の水の中に隠されていたのは原始的な糸が切れると同時に手榴弾のピンが抜ける類のトラップ。
(左ふくらはぎに裂傷が七箇所・・・回復に・・・十四分・・・ダメ・・・今ので居場所を知られたわ・・・このまま水路を走り続けるのも危険過ぎる・・・)
シャフは己がどんどん追い詰められていっている事を自覚して唇を噛んだ。
(・・・此処から無理やり地上まで出る? ダメ・・・すぐに包囲されてお終い・・・更に能力が制限されたら対処できなくなる・・・)
ザザザザ。
「ッッッ!? まずい!? あいつら!!!!」
水音にシャフは顔を引き攣らせ、一体何をされているのか即座に理解する。
水攻め。
水路に再び水を満たして酸素を奪う。
警察が突入して水が止められるまで放水が続けば水死体になる可能性は高い。
そのままでいれば激流に流されて更に何処かに仕掛けられたトラップにぶち当たる可能性もある。
どちらにしろケガを負っているシャフは圧倒的不利な状況に立たされていた。
「戻るしか・・・無いってわけね・・・」
NDが少ない今、無駄な体力の消耗は死に直結する。
幾らNDの加護があるとはいえ、酸素無しに一日中水路の中で身を隠すなんて不可能に近い。
「よう。お嬢ちゃん」
「―――」
シャフが振り返る。
「一緒に自殺でもしに来たなら遠慮してくれない?」
「水の放流で此処が満たされるまで約五分。まだ勢いは弱めだが、タイムリミットは近けぇぞ?」
「・・・・・・一つ聞いていいかしら?」
「何だ?」
「どうしてここまでするの。所詮、下っ端でしょ。死んだのもせいぜい二人。倒れた奴だって半年もすれば直る。リスクとリターンが見合わないわ」
「なら、お嬢ちゃんに一つ聞きてぇ。お嬢ちゃんは自分の大事な家族が殺されたらどうする?」
「家族はいないわ。そして、組織と家族を一緒にするような人間なんて、アタシの人生にはいなかった」
「そりゃ哀しいねぇ」
「悲しい?」
大牙が拳で胸を叩き胸を張る。
「あぁ、自分の死を悼んでくれる人がいる。人間てのはそれだけで結構幸せなもんなんだぜ?」
「・・・・・・」
シャフは僅かに目を細める。
「人間の命が重いなんてのは当たり前だ。だが、その重さを背負える人間となると少ねぇ。それが血の繋がってない他人なら尚更だ。だが、だからこそ、オレ達は互いの命の価値って奴で繋がってるんだよ」
「命の・・・価値?」
「オレの命が何処かの鉄砲弾に取られたら、オレの可愛い子分がそいつをブチ殺しに行くだろう。オレもオレの組のもんが殺されたら、そいつをブチ殺しに行くと決めてる」
「ご大層な理屈ね」
「オレ達にとって組織は経済的な寄り代だってだけじゃねぇのさ。旧いかもしれんが、これが祖国を離れて理不尽の中で団結してきたオレ達の生き様に他ならねぇ」
シャフは己の足がどれだけ動くか確認する。
全力で使えて一回。
一撃でケリを付けて来た道を戻らなければ待っているのは死のみ。
「・・・アタシはアンタ達みたいな連中の気持ちは分からないし、分かろうとも思わない。人の価値観や生き方なんてものを知ろうと思わないし、興味も無い」
「なら、どんな理屈で、どんな感情で、アンタは生きてる?」
シャフが拳を握って大牙に構え、怒りとも苦しみとも付かない表情で睨み付ける。
「アタシは『海を渡る風』(シャフ)・・・何者にも束縛されず、何者からも自由な風・・・アタシの往く道を塞ごうとする輩がいるならアタシは全力を持って排除するだけよ」
大牙も拳を構えるもののシャフとは違って表情は穏やかに笑みすら湛えている。
「自由・・・か・・・若けぇなぁ」
苦笑に近い自嘲だった。
「オレもアンタくらいの頃は自由って奴が好きだった。だが、アンタとは一つだけ違うところがある」
「?」
「オレは少なくとも楽しかったぜ? それがただの若さに任せただけの迸りだったにしろな。だが・・・アンタはちっとも楽しそうには見えねぇ。自由って奴を語るには顔が少し堅過ぎじゃねぇのかい?」
「――――」
思ってもみなかった事を指摘されてシャフが固まる。
「さぁ、そろそろ本気でやらねぇと時間が無ぇみてぇだ」
足元の水嵩が増していた。
後どれくらいで完全に水路が水没するかも分からない状況で喋っている余裕はもう無かった。
「「・・・・・・・・・」」
二人が同時に動こうとした―――矢先だった。
轟音が突如として通路に響き、闇が打ち砕かれた。
急激に水嵩が激増し、シャフが真上から降ってくる光に向かって跳んだ。
「おい、ま―――」
腰まで上がった水嵩が激流と化し、足を掬われた大牙が流される。
(!!!)
光へと手を伸ばしたシャフの手が取られ、一気に引き上げられた。
むに。
そんな感触。
何に顔を埋めているのかも分からずシャフが暴れようとするが、前に急な加速がシャフを黙らせる。
「!!?」
瞬時に明るくなった世界は夕暮れ。
その中でシャフは己の姿が見えない事に気付いて驚きの声を上げる。
「光学迷彩!? 誰!!!」
しかし、その声も虚しく。
見えない何者かに抱かれながらシャフは壮絶なスピードで移動し都市の上空を駆け抜けていく。
下で大規模な警察車両の群れを発見したシャフは遠ざかっていく遊園地をただ見つめる事しかできなかった。
数分後。
シャフは都市の外れにある山中に降り立っていた。
誰もいない峠にある小さな駐車スペースと併設された公園。
都市部を一望できる高台に馴染みの顔を見つけてシャフは直後に全てを悟った。
ゆっくりと丁寧に下ろされたシャフの前に白いスーツ姿の青年ターポーリンがやってくる。
「何とか間に合ったようで」
自分を見下ろす曖昧な印象の男にいつもならば皮肉の一つも返しているはずだったがシャフは何も言わなかった。
「さぁ、終わった事ですし、何か食べに行きませんか?」
「はぁ・・・」
ターポーリンの言葉にシャフが脱力する。
「おや、お疲れ気味ですか?」
「今まで溺れ死にしそうだったからかもね」
「これでも気を使ったつもりですが」
「何処に気を使ったのか是非教えてくれると助かるわ。元管理者さん」
「服は乾いたでしょう?」
脛に蹴りでも入れてやろうかと思ったシャフだったが助けられた手前自制が働いた。
「話は聞いている通りです。新しい任務に付いたのでメリッサに全権を譲渡しました」
「・・・一体そいつは誰なのよ」
シャフが未だに姿を消している己を助けた存在に視線を向ける。
僅かに屈折した光が空間の中に歪な人型を形成していた。
「これから私が管理する事になった新しい人材です。ああ、試験は終わったのでもう迷彩は解いていいですよ」
ジワリと空間に色が滲む。
次の瞬間には其処に一人の女が佇んでいた。
「・・・・・・」
黒いライダースーツ状の衣装を着込んだ女は腰まで届く長い黒髪に巨大な黒いリボンを一つという奇妙な姿で妙に表情が乏しかった。
「誰?」
「パイと名乗るそうです」
「パイ?」
「はい。正しくは食べる方のパイと」
何かトンチンカンな会話をしながらシャフがライダースーツの女パイを睨む。
「試験て?」
「彼女の性能試験です。ちなみに【連中】特性のND構築プログラムと飛行用のスーツ。それから幾分かのジェット燃料しか使っていません」
「つまり、新兵器のテストでアタシの救出をさせたって事かしら?」
「ええ、何か不満でも?」
「あれだけ派手な事をして【連中】が黙ってると思う?」
「偽装は完璧ですから心配要りません。テロリストの爆薬が偶然にも爆発して穴が一つ開いただけ、ですから」
「あの地下水路から地表まで何メートルあると思ってるの? そもそもどうやったらあんなのをNDで開けられるのか是非知りたいわね」
「いえ、NDで外装を製造した小型のバンカーバスターです。目新しいものは無いかと」
「了解。これからGAMEに向かうわ」
自分に知らされない事実や真実など山の如く。
常の通りかとシャフは早々に【新人】への興味を失った。
「その前に一端メリッサと合流しましょう。色々と話さなくてはならない事が増えました」
「どういう事?」
「普通の和僑程度が我々の情報網を掻い潜ってアレだけの準備が出来ると思いますか?」
「・・・誰か黒幕がいるってわけ?」
「今回の件で【連中】が慌しくなりました。どうやら予期せぬイレギュラーという事らしいですが・・・」
「イレギュラー?」
シャフが和僑のトップなのだろう男の顔を思い出す。
そんな裏があるようには見えなかったが、何が真実かは往々にして分からない。
「そう言えば、あの飛びたい症候群の馬鹿はどうしたわけ?」
「仮にも自分の管理者を悪し様に言うのは頂けませんが」
「それで?」
不機嫌なシャフに溜息を吐いてヤレヤレと肩を竦めたターポーリンは都市部へと視線を向けた。
「状況管理の為に警察と園内へのシステムハックをお願いしています。地下水路ではグッドタイミングでしたよ。そろそろ引き上げて合流地点へ向かっている頃でしょう」
「ああ、そう。足は?」
自分で聞いておきながら、更に不機嫌になったシャフが「その先にタクシーを待たせてあります」と言われた傍からターポーリンとパイを置いて歩き出す。
その背中を苦笑気味に見つめていたターポーリンは己の横でシャフの背中を見ているパイに気付いた。
「どうかしましたか彼女が?」
「その・・・可愛らしい子ですね」
パイの一言にターポーリンが固まる。
「お話からして、もっと感情の無いような人達だと思っていました・・・」
思わずターポーリンが噴出した。
「ふ、ふふ、ははは、いや、まさか・・・あのシャフが「可愛らしい」とは・・・ふふ・・・確かに彼女は我々の中では最も可愛らしいかもしれないですね」
「?」
パイがターポーリンの意図を掴みかねて首を傾げた。
「能力こそ我々の中では世界規模の影響力を持ちますが、その内実はただの子供です。いえ、ただの子供だからこそ、あそこまでの能力を与えられたと言えるかもしれない」
「どういう、事ですか?」
「我々の開発者達はそれぞれ癖の強い人間ばかりですが、自分の研究の管理は徹底的です。だから、管理し易い【素材(マテリアル)】を選んでいるのは想像に難くない。性格はともかく管理しやすい人間だからこそあれだけの能力を与えておける。と・・・まぁ、そういう話です」
パイが複雑そうな顔をした。
「そろそろ行きましょう。あの「可愛らしい風」が怒り出さないウチに」
二人はもう沈みつつある夕日を背に歩き出した。
その日、奇妙な三人を乗せたタクシーの運転手は冗談交じりにこう後ろへ言葉を投げ掛けた。
旦那さん・・・奥さんが若くて羨ましいね。
家の古女房とは大違いだ。
お嬢ちゃんも優しそうなお兄さんで嬉しいだろう。
次の日から風をこじらせた運転手は一週間以上通院を余儀無くされた。
運転手が都市部で流行り始めたウィルスに掛かったと大騒ぎして家族から顰蹙を買ったのは自業自得としか言いようが無かった。
*
峠を下っていくタクシーを見つめる視線が二つ。
【あれが【連中】の実働部隊・・・随分と欲張った仕様じゃないか。是非、解体してみたい】
【父様(とうさま)。【復古(リヴァイヴァル)】の活動時刻まで後二時間を切りました。あちらが仕掛けたモノは全て除去が完了。いつでも行けます】
【GIOに我々の凱旋を知らせなさい。朋友達は未だ到達せず。されど、先遣たるわたしが到着したと】
【はい】
【・・・アズ・・・君はまだ・・・こんな国を守ろうとしているのか・・・】
視線の一つがゆっくりと空を見上げた。
*
その日、GIO会長の下に一通のメールが届く事になる。
差出人の署名は個人ではなく一つの団体。
天雨機関。
それは人々に降り注ぐ慈雨の名を冠した組織が再び日本へ集結するという知らせだった。
善は害し、悪は救う。
何が正義で何が不義か。
棺桶で眠る者は知っている。
この世に確かなものなど何も無い。
第三十一話「交戦準備」
そも戦いに良し悪しは無かった。
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第三十一話 交戦準備
第三十一話 交戦準備
探偵がいるから殺人事件が起こる、とは一面の真理を付いた言葉かもしれない。
人に構図が合せられる。
役者の為に舞台装置が仕立てられる。
殺人事件があるから探偵が必要なのではない。
探偵がいるから、殺人事件が必要とされるのだ。
この構図は往々にして様々なものに当て嵌まる。
一見して環境(シーン)に対して必要な人材(キャラクター)が宛がわれているように思えて、実は逆であるという事もよくある話・・・出来過ぎな物語には必ず修飾(レトリック)に隠された本音(すじがき)が存在する。
用意された出番。
活躍の場。
退場の間合い。
複雑に見えて実は単純な生き物である人間の扱いになれた者を裏世界では大概の場合フィクサーと呼ぶ。
「・・・アズ・トゥー・アズ」
羽田了子は確かにそう呟いた。
脚本家(フィクサー)の一人を突き止めたからこその呟きだった。
了子もジャーナリストの端くれであり、その名は裏の道で聞いた事があった。
ヤクザの連合に殴り込みを掛けたとか。
海外マフィアの壊滅に一枚噛んでいたとか。
周辺諸国が作るブラックリストの一番目に名前があるとか。
その実態は誰も知らない。
ただ、事実として言える事があるとすれば、そういう人物が本当に存在しているという一点のみ。
経済界や政府関係者から名前が挙がるところを了子は確かに聞いた事がある。
民間では殆ど知られていない名であるものの、その名前を使って「猫探します」とか「浮気調査します」とか怪しい広告がこっそり週刊漫画雑誌の一番後ろ端に乗せられていたりもする。
世間というのは狭いもので、電話番号を辿れば、住所が案外簡単に割り出せて、しかも近かったりする事もある。
ネタとして持っていた情報の中に探していた情報の欠片があるなんて事はよくある話。
故に了子は自分がかなり本当の情報に近い位置にいると確信した。
もしも、怪しい広告の主が本物だったとしたら?
普通の諜報機関は絶対に気付いたりしないだろう。
全国紙の漫画雑誌の一番端にアジア中の国が警戒する存在が普通に広告を出していたりするなんて夢にも思わないだろう。
もし気付いたとしても軽く確認を取って「やっぱり違うかヤレヤレ」と早々に調査を投げ出すかもしれない。
事実と己の中の真実が噛み合わない時、人は物事を己の解釈で理解し勝手に納得する生き物なのだ。
「左、右、後、前、オールクリア・・・スニーキングミッション開始」
古びれたシャッター商店街の一角。
コソコソしながら外字久重と聖空の後を追っていた了子は二人から二十メートル程離れて尾行していた。
ちなみに台詞はただ雰囲気が欲しかっただけだったりする。
(まさか、外字久重があのアズ・トゥー・アズと関係を持ってたなんて・・・ちょっとしたネタのつもりで調べてて本物かなぁとか思ってた住所だったけど・・・たぶんホントにあのアズ・トゥー・アズが使ってる・・・少なくともテロリストと関係がある外字久重とあの住所が関係あるとすれば・・・信憑性は高い・・・)
二人が出かけるところに丁度出くわした了子の尾行術は完璧だった。
(それにしても、やっぱり聖空は外字久重と既知の間柄だった・・・でも、まさか一緒に住んでたりするのかしら?)
本職の諜報員から見れば馬鹿みたいな尾行だったかもしれない。
が、了子はありとあらゆる追跡方法を駆使して対象を追う事に掛けては天才的な力を発揮する。
事実を追い求める執念はそこら辺にいる諜報機関のスパイ程度では比較にもならない。
ネタを追う時、良子はマニュアルで出来るスパイ活動なんて軽く超越した追跡行動を行える稀有な才能の持ち主と言えた。
(外字久重と聖空の関係・・・同居?・・・つまり・・・ロリコン!! あ、あんな可愛い子に一体毎日何してるって言うの!? こ、これは・・・まさか最高の犯罪者ネタになる予感!? 【記者は見た!! 闇のフィクサー、手下はロリコン男!?】)
くだらない事を考えながらも、了子の頭の中では高速で事実と事実が組み替えられ、パズルのピースが当て嵌められ、答えが導き出されていく。
尾行の最初の頃はこの暑い中あんまり動いて欲しくないなぁとか考えていた良子だったが、その二人の行き先が完全に定まった時点で脳内では今まで手に入れたネタをフルに使って推測を立てていた。
外字久重という男。
何でも屋。
消された経歴。
テロリストとの関係。
聖空、外字久重と関係のある少女。
テロリスト包囲事件の際の声。
教会での動揺。
闇の天才フィクサー、アズ・トゥー・アズ。
(何でも屋の仕事を誰が斡旋していたのか。それがアズ・トゥー・アズだとして・・・外字久重と親しげな聖空は庇護下にあるの? ダメ、確定には情報が足りない。でも、そんなに外れてはないはず・・・)
路地へと入っていった二人を了子は追った。
細心の注意を払って僅かに路地裏を覗く。
(事務所に入っていった。アズ・トゥー・アズがいるかもしれない!? と、盗聴器盗聴器・・・それと集音マイクと発信機、周辺端末に侵入して録音機能の開放もしないと・・・ああ、後は・・・)
微妙に犯罪チックな追跡用プログラムを端末で立ち上げる了子が路地裏に踏み入れようとした時だった。
ポンポンと肩を叩かれる。
「あぁ、すいません。今、忙しいんです。警察ならコレを・・今取材中なんですから静かにお願いします。もしも、ここで取材を妨害されるなら、後で然るべき抗議が行くと思いますので」
了子が後ろで振り向きもせず名刺を渡す。
その名刺には【友達(ハートマーク)】の中に佐武戒十とのツーショット写真が仕込まれていた。
かなり問題になりそうな名刺だったが、生憎と受け取った人間は警察ではなかった。
再び肩が叩かれる。
「だ・か・ら!! 今、取材で忙しいんです!!! 闇のフィクサーと手下のロリコン男とロリ一名を補足できるかどうかの瀬戸際なんです!! あんまりしつこいと大手に【近頃の警察】とか寄稿しちゃいますよ!!!」
しかし、肩は更に叩かれる。
「しつこい!? しつこ過ぎです!? 訴えられるレベルで!!」
ようやく了子が振り返る。
「――――あ、あぁ、そう言えばそろそろ戒十さんとお食事の時間だったっけ。すいません。お騒がせして。それじゃ私はこれで・・・」
そのままその場を後にしようとした了子の肩をガシッと二つの手が捉えた。
「悪いが、ちょっと話を聞かせてもらおうか」
「ロリ・・・・・・」
半眼の久重とソラがジットリとした視線で了子を見つめた。
了子の尾行は追う事に掛けては一流だが、偽装に関しては三流だった。
*
大規模な遊園地でのテロがニュースになっている頃、日本の最も南に位置する県で日本の未来を左右する会合が行われていた。
「それで今回の件はどこまで本気なのかって【BOSS】から訊くよう言われてるんだけど。米(アメ)さんとしちゃあどうなのよ?」
沖縄と言えば南国。
南国と言えばトロピカル。
トロピカルのイメージとしては原色過多というのが相場だろう。
そんな原色過多な男が一人、グリーンの制服に身を包んだ勲章過多な六十代の米国人に絡んでいた。
その光景をもしも米軍のMP(ミリタリーポリス)が見たなら卒倒したかもしれない。
沖縄米軍の最高司令官。
アラン・カーペンター。
五十七歳。
極東有事の際には最前線で戦う事となる男の頬をウリウリと人差し指で突くなんて、神が許しても海兵隊が許すはずはない。
ラテン系の黒い肌に赤い髪の男。
目に悪そうな赤いスーツに赤いネクタイをした痩身の三十代。
『BAI(バイ)・AR(アール)』
【ADET】と呼ばれる裏組織の幹部はスーツから覗く鋼色の義手の指で司令官に無礼を働きまくっていた。
「ミスターBAI・AR」
「あーら。喋れたのね」
「私は大統領閣下から直々に貴方達へ便宜を図るよう言われているが、だからと言って無礼を働かれて無条件に許せる牧師や聖人のような心根はしていない」
まったく動じる事なく釘を刺すアランにBAI・ARが「もう冗談じゃない♪」と自分の席に戻った。
「で、だ。司令官・・・その男が【人道海廊(じんどうかいろう)】の鍵ですか?」
「あぁ、そうだ。ミスター布深。残念な事にそれが事実だ」
味気ないパイプ椅子と粗末な簡易テーブルが置かれた廃屋の中。
米軍の特殊部隊が周辺に一ダース程潜んでいる世界の中央で、グレースーツ姿の布深家当主『布深海造(ふみ・かいぞう)』が呆れたように白いものが混じり始めている髭を撫でた。
海造が眼鏡越しにBAI・ARを睨んで品定めする。
「そんなに見られてもあたしの守備範囲は+-10歳よ」
六十四歳。
未だ衰えを知らない痩身の海造はふざけたラテン男を前にして怒るでもなくタバコを咥える。
「それでこの計画には何人米国の中枢が関わっている?」
ズバリを訊く海造にアランが首を横に振った。
「我々はあくまで大統領命令により動いている。そういった事に関しては発言する立場にない」
「日本を手に入れたいアメリカがこうして日本を救う計画に参加する。何処の誰が何の為に貴方の上を動かしたのか知りたい。いきなり接触を持ってきただけではなく、こちらの情報をかなり掴まれていた。出所を探ろうと思うのは当然の流れだと思うが?」
海造の言葉に司令官が何やら苦労人な溜息を吐く。
「今のステイツが活力を失っているのは事実だ。強い祖国を再び再建する為の生贄を探しているのも認めよう。しかし、我が軍はあくまで【大統領の下】にある」
「その言葉は信じていいのだな?」
「神に誓って」
海造は自分が脳裏で幾つか想定していた内の【最も話がややこしい場合】の対応を取る。
「なら、一つだけ答えてもらおう。【大統領の下に付いていない方】はどれだけいる?」
アランが僅かに目を細めた。
すでに情報を握られていたのか。
鎌を掛けられているだけなのか。
それは分からないとしても嘘を吐くのは得策ではないとアランは事実だけを告げる。
「約、半々だ。これ以上は言えない」
海造が事前に調べていた情報とほぼ同じ結果に一応は納得する。
「了解した。では、現状の確認に入ろうか」
海造が己の椅子の横にあるトランクを開けてテーブルの上に日本近海の地図を広げる。
「今回の計画、日本政府の最終目標は中国との新しい関係の構築にある。その為の餌として日本政府・・・正確には外務省と内閣官房長官『安藤正明(あんどう・まさあき)』氏が我々布深商事を中核に据えて、この計画を立ち上げた。急な話だったが、実際には最初からあった計画を始動させたというのが正しい」
「へぇ~~。あの官房長官って結構なやり手なのね?」
オネェ口調のBAI・ARを無視しつつ海造が続ける。
「この計画はそもそもが十年後を目処にして行われるはずのものだった。今現在、中国と日本の貿易は停滞している。それはあの『小さく静かなる戦争』(リトル・サイレント・ウォー)後の日本が外交姿勢を強気に転換した証左とも言えるだろう。だが、そのせいで中国との交易は激減・・・現在は中国との取引は貿易額の4%に過ぎない」
「あの戦争以来中国製品見なくなったもんねぇ」
BAI・ARが懐かしそうに嗤う。
「レアメタルを初めとする鉱物資源の殆どを現在日本は【海底熱水鉱床(かいていねっすいこうしょう)】からの採掘と欧米やオーストラリアからの輸入に頼っている。日本にとって中国は今も主要な貿易国ではあるものの【重要視しなくとも良くなった】というのが現状だろう。そして、そんな状態のまま日本はここ数十年を乗り越えてきた」
「ついでに水資源も止めてきたわけね♪」
「そうだ。日本は国益の為にあの戦争以降、水資源の輸出規制をしているが、それは外交上のカードとして温存しておく事を時の政府首脳が決めたからだ」
「そして、そのカードを切る時が来ちゃったと。まぁ、大変♪」
BAI・ARがテーブルの上に放置していた飲み掛けのペットボトルをグビグビ呷る。
「水資源はカードの一枚に過ぎない。我々の目標が新しい関係の構築というのはあくまで【中国に恵む日本】の図を世界にアピールする最良の方法がソレだからだ」
地図の上に海造が線を引く。
「既成事実として中国が我々からの支援を受け入れたにも関わらず侵攻を開始したという構図が我々には必要になる。我々は人道支援を【戦争中であろうと】継続するルートの確保を任務とする」
「よく考えたわよね~~確かに日本一国なら負ける戦争も国際的な悪者を倒す戦争ならどうにかなる。ふふ、二枚舌三枚舌で多くの国を正義の戦いに駆り立てるなんて素敵な考え♪」
BAI・ARがニヤリと笑った。
日本の各港から中国各地の港まで幾つかの線は貿易航路。
嘗ての日本と中国の貿易最盛期に繁栄していた船の道。
「現在の国連を日本が主導しているのは知っての通り。あの【黒い隕石】事件以降、世界中の国々を日本は支援している。我々が立ち直らせた国は実に七十カ国以上。アジア周辺諸国にはここ十数年でかなりの投資もしてきた。その日本を見捨てる事が【正義であろうはずがない】と我々は各国に知らしめねばならない。中国軍閥連合の【人道支援を続けているにも関わらず戦闘行為を続けようとする悪逆非道な行い】はすぐさま広報が広めてくれるだろう」
「人道支援してたのに攻撃されちゃった~~あぁ~~誰か~~助ぁ~~す~~け~~て~~ってなわけね」
「無論、各国への褒美(えさ)はすでに用意されている。向こう三十年分、水の濾過技術を無償で開放する用意がある」
「今や重要機密となった大量濾過技術をタダとか。砂が多い国は欲しがるでしょうねぇ」
BAI・ARが肩を竦めた。
「これからの百年で最も必要になる技術が無為に失われるのを待つならば、この世界に未来など無い」
「たかだか島国の癖に」
海造がBAI・ARの呟きに反応する事もなく地図の上に四文字を書き殴る。
「日本の価値を知らしめる為の計画。それこそが【人道海廊】・・・日本政府が推進する人道支援物資輸送プロジェクトだ」
「そして、あたし達の出番と。軍閥の派閥間抗争の隙を付いて連中を唆し、密かに軍閥への水の供給を始めるわけね? ま、GIOからすれば、軍閥の戦争する理由が消えるんだから痛手でしょうね」
BAI・ARがシナを作る。
「知っていたか・・・随分と耳が良いと見える」
「当然♪ GIOとも取引があったりなかったりするし」
「ほう?」
「あ、でも今回はこちら側に付くわよ? こっちはこっちでGIOと利益が相反するから」
今まで黙っていたアランがBAI・ARの不用意な発言に汗を浮かべた。
「ミスターBAI・AR。誤解を与えるような発言は慎んでもらいたい。我々はあくまで日本に付いているという事を忘れないで欲しい。ミスター布深。彼の発言は事実だろうがあまり警戒しないでくれ。今回の件で彼らの支援無しにこの計画は失敗する可能性がある」
「本当にそれだけの力があるのか?」
海造の言葉にアランが頷く。
「日本からの貿易船の殆どは中国の税関で不自由な思いをする。GIOの管理下にある戦時の軍閥では人道支援なんてものは結束を乱すとお断りだろう。が、【ADET】ならば話は違う」
「まぁね。一応、近頃は香港や上海、重慶辺りでもドンパチやってるし」
「中国での税関と流通経路の問題は政府よりも民間。更に言えば彼らのような組織が最も適任なのです。ミスター布深」
アランの言葉に布深は半ば本気で懐疑的な視線をBAI・ARへ向けた。
「日本製の水を中国に与える如雨露(じょうろ)。それが米軍から齎されるとは思わなかったが・・・本当に信じるに値するのか・・・我々には判断する材料が無い」
BAI・ARが初めて真面目な顔を作った。
「こう見えてもウチの【BOSS】は日本での生活が気に入ってる方よ。それこそ日本が無くなるのは困るって常々あたし達に言ってるわ」
「・・・何故、この計画に何の見返りも無く協力する? 米国との間に密約でも設けたか?」
アランが口を挟もうとするとBAI・ARが獰猛な笑みを浮かべる。
「冗談!? あたしは米軍なんて千回裏切っても足りない人間よ。この腕吹っ飛ばされた恨みは早々忘れられるもんじゃないわ」
「それなら、益々信用できないと思うが?」
「言ったでしょ? 【BOSS】が日本を気に入ってるって。あたしも好きよ、この国。主に下半身的な意味でだけど。それはともかくとして見返りならあるから心配しなくてもいいわ」
「どういう事だ?」
「中国での名声やコネ作りに慈善活動は最適って事よ。進出(ドンパチ)してるって言わなかった? ま、NPO法人を装って活動する事になるだろうけど、裏の連中ならすぐに何処が何をしているか気付くでしょうね。
それを踏まえて、物資の護衛・保管を一手に引き受け、GIOの目を盗んで確実に流通させる。そんな神業を披露したら軍閥連中や無数にある幇の覚えもめでたくなる。
あたし達にとってはこの仕事そのものが見返りってわけ。無論、ちょろまかすような事が無いよう管理は徹底するわよ。何なら何人か外務省の奴を中国支部で働かせてもいい」
海造はジッとBAI・ARを見つめた。
一歩も退かないラテン男の目に海造が見る限り嘘は無かった。
「・・・外務省とウチの社から数人ずつ受け入れてもらおうか」
「護衛も任せて♪ 絶対死なせないで帰国させてあげるわ」
「期待しておこう。では、詳細を詰めようか」
三人の男はそれぞれに胸の中で思惑を秘めながら日本の行く末を決めていく。
「この計画がただの人道支援で終わる事を切に願う・・・」
最後に何が残っているのか誰にも分からない争い。
最後の大戦を前にして準備は着々と進められていた。
*
不自然に黄色い髪の少女が一人黙々とスピーチの原稿を呼んでいた。
夏場にはお似合いのノースリーブから見える肌には無数の縫った痕が凄惨なまでに刻まれている。
GIO日本支社ビル屋上。
ソーラーパネルを設置した空中庭園の一角。
日差しを遮る瓜の茂みの下でGIO特務筆頭を名乗る『亞咲(あざき)』は次のGAMEへの下準備を余念無く行っていた
「・・・・・・?」
集中が不意に途切れ、亞咲が顔を上げる。
すると亞咲よりも年下に見える七歳程の少年がいた。
「あぁ、もうそんな時間ですか?」
少年が頷いた。
「それじゃ、この辺でお終いにしておきましょう」
亞咲が原稿を置いたまま立ち上がる。
少年が頭を下げて亞咲に付き従った。
二人は設置されているエレベーターへと乗り、声紋と指紋と網膜の確認を行う。
「サイドルームへ」
亞咲のオーダーにボタンを押すまでもなくエレベーターが稼動した。
GIOの通常業務を行う社員達も使っているエレベーターは本来ならば存在しない階へと到達する。
通常のボタンの脇に設置された小さな画面にはEH(エントランスホール)という表示。
ドアが開く。
白い通路が広がっている。
二人がエレベーターから出た後、通常稼動へと戻ったのか、エレベーターはそのまま下の階へと降りていった。
スタスタと歩き出した二人の前にある扉が次々に開かれていく。
一つの扉に付き、一つの確認が行われ、十項目の確認が終了した時点で二人はようやく住処へと付いた。
背後の扉が閉まり、最後の扉の内側へと蒼く透き通った液体が溢れ出していく。
完全に空気が抜かれ、水没した。
常人なら普通溺れているだろう最中で二人は淡々と歩き出す。
二人の靴に付いた簡易の磁石が床に仕込まれた磁石と引き寄せ合い、二人をその液体の中で泳がせずに歩く事を可能にする。
最後の扉が開かれ、二人が我が家の中へ戻った。
やはりそこにも液体が満たされている。
【亞咲姉さん。お疲れ様】
【姉様。お疲れ様です】
【姉貴。お疲れ】
【待ってましたよ】
扉の中には広大な空間が広がっていて幾つものカプセルが壁際に備え付けられていた。
その無数に敷き詰められたカプセルの中にいる者もいれば、亞咲や少年と同じ洋服姿のまま、防水性の端末を弄っている者もいる。
ほぼ全員が三十代前半から十代だった。
声の伝達は誰もが骨振動を利用した小型の埋め込み式イヤホンを使っている。
声そのものは合成であるものの男女それぞれに幾つかのパターンが用意されていて、声そのものだけで大概は誰か判別が付く。
思考を読み取り言語化する技術は日々進歩しており、各自がそれぞれに持つ端末が個人の様々なパターンを蒐集して、その時の状況や体の状態、液体中の喉の発音、脳波など多くの要素から最適な言葉を選び出す為、日常会話程度は殆ど支障なく伝わっている。
肺に満たされた液体から酸素が供給されている為、常人ならば息苦しくて数時間が限界かもしれないが、亞咲のような【遺伝子組み換え生物】の類にはまったく問題とはならない。
【では、第五班の召集を】
ゾロゾロと亞咲と少年の前に十数人の男女が集まってくる。
総員で数百人規模のカプセルがある事を思えば、その程度の人数は極少数に過ぎなかった。
【後、七時間三十四分五十六秒で第二GAMEの開始となります。現在、第七班が特務と共に環境の調整を行っています。東シナ海の空域はこれで数時間とはいえ我々の領域となるでしょう。自衛隊及び米軍基地へのハッキングは第八班が担当しています。三沢を中心として第三期エシュロンの妨害、沖縄一帯を中心としたGPS信号の偽装。どれも順調です。しかし、一つ情報が引っかかりました】
集まった男女十数人の端末に一つの画像が転送された。
【中国と台湾の基地に動きがあります。どうやら情報が流れているようで最新のパトリオットが密かに沿岸配備されているという情報が掛かりました。これは由々しき事態です。客に対してもそうですが、何よりもGAME参加者の無駄な死亡は頂けません。今後の支障となりますから】
衛星写真が数枚端末に転送される。
【第五班の任務は中国と台湾に在中の部隊と連携した中国・台湾の沿岸部に陣取ったパトリオット部隊への破壊工作及び事故の偽装工作です。作戦は現地部隊の指揮下で行って下さい。今回の作戦は隠密性よりも早さ重視です。時間がありません。第五班は輸送機内で各自最終調整を済ませておく事。出来れば開始時刻後までには作戦を終了させるよう心がけて下さい。タイムリミットは参加者のテイクオフまで。その後は各自で撤収し帰還。以上です】
非常にアバウトな命令を下した亞咲がそのまま解散命令を出した。
ゾロゾロと誰もが亞咲に頭を下げてが白い扉へと向かっていく。
【・・・調整槽に入って三時間休みます。会長にはウチの人員に死人が出る以外では起さないようにと言っておいて下さい】
少年がコクリと頷いて、第五班に紛れて扉の先に消えた。
【ふぅ・・・】
無数に並んだ調整槽(カプセル)の奥の奥。
最奥部の一角にある仰々しい寝台が一つ存在する。
他とは明らかに違う真紅の台の上に亞咲が横たわる。
すると、寝台が沈み込み、その上に天井から蓋が降りてくる。
まるで石棺そのもの。
古のファラオでも眠っているのかという悪趣味なオブジェの中で亞咲が目を閉じる。
ガコンと完全に蓋がされた。
(脇役も楽じゃないと・・・CEO・・・貴女ならばそう言うのでしょうか?)
眠り姫の如く。
意識を手放し、亞咲は奈落の底へと落ちていく。
その最中、夢のような、曖昧な世界を彼女は見た。
*
『ママ・・・』
『僕はそういう類の人間じゃないよ』
『私はどうして人間じゃないの?』
『そう望まれたからさ』
『どうして?』
『君は人間の可能性を追求する為に人間以外として生まれてきたんだ』
『可能性の追求?』
『そう、人間の可能性の追求。別にマッドサイエンティストを自称するわけじゃないけど、そろそろそういう時代になってきたって事かな』
『分からない・・・』
『今はまだ分からなくていい。君が大きくなったら分かる事だ』
『大人になれる?』
『無論。クローンが短命なんてのは克服出来る程度の話だよ』
『ママ、凄い?』
『自慢はしないけど、君達を造ったからね』
『いつか・・・ママみたいになれる?』
『それは無理かな。君は僕じゃない。それに君の大本は頭の悪い人間だった』
『・・・・・・』
『怒らないで欲しいな。少なくとも頭は悪いがとても僕より人間らしい奴だったんだから』
『人間らしい?』
『ああ、馬鹿に恋したくらいだからね。馬鹿が馬鹿だったせいで死んだけど』
『・・・馬鹿って?』
『いつも缶コーヒーもらってるだろう?』
『あの人が馬鹿?』
『そう、馬鹿』
『・・・ママはあの人が好き?』
『研究者としては尊敬するけど、経営者や人間としては好きになれないかな』
『パパ・・・って呼んじゃダメ?』
『あの馬鹿に泣かれてもいいならいいんじゃない?』
『なら、何て呼べばいい?』
『・・・役職で呼んだら?』
『会長・・・CEO』
『役職で呼んでくれた方がしっくりくるみたいだ。それにしても呼び名が代表取締役でも社長でもないセンスだけはそっくりというか何というか・・・』
『?』
『君が気にする事じゃない【East Bloomer】』
『その名前(コード)嫌い・・・』
『どうして?』
『東の失敗作って・・・』
『なら、新しい名前をあげてもいいけど』
『可愛いのがいい』
『それじゃ・・・東・・・亜細亜・・・東亜・・・咲く・・・亞咲、なんてどうかな?』
『亞咲・・・?』
『アジアに咲く大輪。意訳で随分と女性らしい意味合いになる』
『うん。それがいい』
『人に何かを貰う時は?』
『あ・・・ありがとう・・・ございます。マ―――CEO』
『どういたしまして。亞咲』
クスリと笑って、彼女は頬を緩ませる。
それはいつだったか。
初めて世界の見方が変わった日の事。
己の名前すら見方や捉え方一つで別物になるという事実を知った。
この世に確かなものなど何も無い。
それは良い意味でも悪い意味でもそうだ。
だからこそ、彼女は己を変えた。
その名前に相応しい女になろうと。
己の母親にすら頼りにされる人間になろうと。
【CEO・・・・・・】
少女は夢を見た。
それはとても哀しい夢だった。
とても不確かで、とても温かな・・・・・・・・・。
第二のGAMEが始まる。
新たな夜が来る。
何もかもを呑み込む夜が。
空を見上げて彼らは祈る。
もはや備えの時期は終わった。
第三十二話「宵越しの宴」
その酒が不味いのは何故か。
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第三十二話 宵越しの宴
第三十二話 宵越しの宴
桜と朧月。
後は何が必要だと言わんばかりに夜を渡る柔らかな風。
はらはらと落ちては踏み締められる一片。
盃に姿を満たすのは夕闇の風情ではなく。
風を孕みながら遊弋(ゆうよく)する数隻の艦艇。
はためく旗は日の丸と米国国旗。
沖縄本土から約十五キロ離れた洋上。
約三キロ四方に及ぶ世界最大の海上軍事基地。
【ニライカナイ】
日本の技術の粋を集め、メガフロート技術と多くの先進技術の集約の結果生まれた沖縄米軍再編の要。
約八年の建設期間、約八兆円にも及ぶ建設費を持って浮かべられたソレはマスコミが報道の時使った【ギガフロート】という呼び名で地元には定着している。
海洋軍事基地構想はそもそもが沖縄返還後、2000年代初頭の政治的な迷走後に時の内閣が一部の有識者達を集めて検討させていた案の一つだった。
米軍再編計画の遅れと米国との関係の冷え込み。
沖縄本土と本州の政治家達の間の軋轢。
世間と沖縄の乖離。
これら諸々の結果として2030年代の政府が推進したのが海洋発電所計画と共に進展した浮体技術における新たな海洋軍事基地構想であり、沖縄米軍の再々編計画等と揶揄されたニライカナイの建設だった。
ニライカナイは沖縄本土に存在した在日米軍基地機能の約七割を集約する大規模軍事基地であり、再編後沖縄の基地の殆どは民間へと開放され、残りは自衛隊への引渡しが完了している。
毎年、維持費だけで三千億円以上を国家予算に計上するニライカナイは金食い虫の汚名を着ながらも、米軍、自衛隊、民間の三者が合同で運営する特異な基地となっている。
ニライカナイのセクションの七割は米軍と自衛隊の基地機能に特化しているが、残りの三割は先進技術を提供した日本国内の企業や大学などが運営する研究開発機関でもあり、基地と沖縄を結ぶ玄関口はそれらの機関で占められている。
大学や企業が独自に開発した遺伝子組み換え植物や最先端のホログラフ技術が看板や建築物にも取り入れられ、独特の景観を齎している為、観光資源としても近年は活躍していて軍事基地としては異例ながらも賑わった名所となっていた。
午後六時。
本島からの最終便の船が出た時点で港は全て閉鎖されていた。
年間を通して咲いている桜並木の下。
一人安物のカップ酒を煽る男がベンチに座っている。
安藤正明(あんどう・まさあき)。
内閣官房長官。
時の人。
外国人に日本を売り渡した売国奴。
裏切り者。
闇献金事件の張本人。
etcetc。
「これで根回しは全て終わった。後は時間との勝負か・・・」
「いえいえ、これからも官房長官にはやって頂きたい事が山程あります。ここで自棄酒を飲まれても困るのですが」
「君は相変わらずだ。人使いが荒い」
安藤に話しかけたのは背は小さい男だった。
風貌は軍人というよりはデスクワークをしていそうなサラリーマン。
男の名は丘田英俊(おかだ・ひでとし)。
陸上自衛隊幹部の一人にして二千年代初頭に生まれた日本発の諜報機関【第十六機関】への出向組み。
外国では【section16】と呼ばれている機関のオブザーバーを務める生粋の諜報員。
「それはこちらの言い分では?」
丸顔のスーツ姿。
典的な日本人像を地で行く丘田は安藤とは違いコーラをチビチビとやっている。
「ふ・・・幾らでも代えがある頭と絶対に代えの無い優秀な手足。どちらが本当は主人なのか」
「そうですねぇ。難しいところですが、今現在はどちらか欠ければ車輪は回らず、というところかもしれません」
丘田が暮れていく夕闇を見つめながらコーラを煽る。
「あの公安の鬼女が出てきてようやく政府は思い腰を上げた。根回しした甲斐はあっただろうが、如何せん時間が足らない」
安藤の愚痴に丘田がこれからの状況を説明する。
「GAMEが後二時間もせずに始まります」
「そうか。報告通りか」
「はい」
「・・・勝算はあるのか?」
「どうでしょうか。少なくともあの天雨機関を自称する以上、負けはない気もしますが」
「工作の方はどうなっている?」
「中国軍閥と台湾に情報を流した結果ですが、現在進行形でパトリオットを配備中です」
「あちら側からすればGIOの支援を続けさせる為にはGAMEを潰すのが手っ取り早いからな」
「同時にGIOは中国軍閥を攻撃して難しい舵取りを迫られる事になるでしょうね」
「無論、一枚岩ではない軍閥内部の間を取り持つGIOが表立って連中を攻撃するとは考えられないが、一波乱はあるだろう」
「これはまだ未確定の情報なのですが、GIOの特務内部に併設された【あの部隊】が動いた可能性があります」
「例の?」
「ええ」
「未だ信じられないが、その考えはもう旧いか・・・」
「昔はSFで済ませられました。しかし、現実にもうこれは起きてしまっている事です」
「遺伝子組み換え生物。デザインベイビー。クローン技術。法整備が整っていない隙をどう埋めるかが今後の課題として残るな」
「法で裁けぬからこそ、我々が存在します。我々は裁く事はありませんが葬る事なら出来る」
「物騒な話だ」
苦笑する安藤に丘田が首を横に振る。
「これはもう戦争ですよ。一企業が国家を相手取る時代。我々は法に絡め取られて身動きが取れないまま死ぬ選択はしないと決めた。ならば最後までやりましょう。身を粉にして」
「・・・二流だな」
丘田は安藤の評価に頭を掻いて笑った。
「ええ、自覚はありますとも。もっと飄々と仕事を出来る性格なら良かったのでしょうが」
「愛国心・・・か」
「そんな良質なものじゃありません。せいぜいが地域愛程度ですよ」
「ああ、そう言えば君の出生地は此処だったか?」
丘田が頷く。
「今の政府は沖縄を本土防衛の要とは思っても、最終防衛ラインとは思っていない」
「沖縄が不法移民労働者の巣窟だと知らないわけじゃあるまい?」
「ええ、確かにそうかもしれません。でも、此処も日本である事には変わりが無い」
「ここを戦場にするつもりは毛頭ない、と言っても信じられないか・・・」
「貴方も此処を本土とは思っていない類の人間だ。GIOはあくまで九州に軍備を置く手筈になっていた。それは此処が落とされる事を前提としていたからではないですか?」
「否定はしない。だが、此処が戦場になるのを黙って見ているつもりもない」
「・・・そう願いたいものです」
丘田が地面に腰を下ろす。
カップ酒を安藤が横に置いた。
二人の間にしばしの沈黙が下りる。
沈みつつある夕日は本土と比べるべくもなく美しい。
最初に口を開いたのは安藤だった。
「・・・愛国者は二度死ぬという話を知っているか?」
「それは確か・・・」
「一度目は公の世界から消えて、二度目は裏の世界から消える。だから、愛国者は二度死ぬ」
「・・・あの戦争に参加した政治家の方々のジンクスですか?」
「そうだ。あの戦争を経験した政治家の中には公の世界から消えた人間が何人もいる。その後、裏社会で名が挙がった後、また消えた。今も老齢の政治家からこの話はよく聞く」
「あれは政治結社潰しを裏でやっていたから、ではなかったですか?」
「知っていたか?」
「若い頃に先輩方から聞いた事があります。あの当時は右翼政党の障害になった左翼政治結社が雨後の筍と幾つも出てきて大変だったと」
「その当時の議員達の一部は今後の日本の政治を混迷させかねない結社を敢えて表の身分を捨てて裏で潰していた。当時、そういった議員達を後押しした財界の大物や何かと便宜を図った官僚の派閥は今も政治中枢にいて、よくこの話をしたがる」
丘田が耳を傾ける。
「その本人達や周囲の虎の威を借る狐も政治に携わる者として鑑とは言えん。だが、日本のような国の政治家がその人生を擲ってでもあの当時は何かを変えようとした事だけは評価されるべきだ。それは本当に愛国心が無ければ無理だったはずだ。法や倫理すら超えた所でただ国の為にと彼らが邁進していなければ、外国に強い態度も取れず、今も日本は国内世論も纏められないまま流されていくだけの国だっただろう」
「・・・・・・」
「今、日本に必要なのは愛国者だ」
「マスコミにナショナリズムと叩かれますよ?」
「悪(ナショナリズム)と非難されても命を掛けて薄汚い仕事を出来る人間こそ私は信奉する」
「憂国の士は亡国の士となるかもしれない」
「いつだろうと私は過程より結果を重んじてきた」
「【第十六機関(section16)】はあくまで―――」
「諜報機関として国の命令に従わなければならない、か?」
「はい・・・・・・貴方がこれ以上日本の国益を害する場合、拘束する事は私に課せられた義務です」
「今はその国が無くなるかどうかの瀬戸際だ。身を切らずして何も出来はしない」
「それでも貴方はこの国を生かす為とはいえ国の一部分を売ろうとしている」
「それが最善の策だからだ」
「努力を放棄しただけでないと誰が証明できますか?」
「他人からの評価の為に働いているわけではない」
「・・・立ち止まって後ろを振り向けば何か違う道が見えるかもしれませんよ」
「私はまだ一度も死んでいない。だからこそ、二度目の死を迎えるまで立ち止まるわけにはいかない」
「酔っているだけでは?」
「酔っていないわけがない。戯けた事を言わないわけがない」
安藤が快活に笑んで立ち上がる。
「何故なら、今私はこの国の未来を背負っている。何の驕りも騙りも無く。ただの事実として、私は歴史の教科書に空前絶後の大悪人と記される未来を所望する」
「国を救った売国奴。最悪の官房長官として?」
「悪いか?」
「・・・いえ、男の生き様として憧れますねぇ」
丘田が笑みを消して安藤を見上げる。
「官房長官。貴方は・・・もう少し早く生まれてくるべきだったと、僕は思いますよ」
「生憎と祭りには乗り遅れる性質だ」
丘田がいつの間にか空になっていたコーラの瓶を置き去りにして立ち上がる。
「行きましょう」
「ああ」
二人が歩き出す。
数分後。
ニライカナイから政府高官専用機が東京へ向けて飛び立った。
しかし、その航空機が途中で別の空港に降り立つ事になると未だ二人は知らない。
機内の丘田に入った連絡は第十六機関からのものだった。
正体不明のウィルスが関東一円の病院で確認され始めていた。
*
薄暗いフロアーの中。
光る一台の端末。
画面に映っているのは随分と旧い映像だった。
【そろそろ語りを遮ろう】
ザリザリと砂嵐に滲んでいるのは灰色の町並み。
【何がどうなっているのか】
小さな山間の町。
【知りたいと望む君は一体誰だろうか?】
取り立てて何か語るべき事など無いはずの場所。
【君はどんな絶望の先で此処へ辿り着いたのだろうか?】
小さなバス停の休憩所。
【ワタシにそれを知る術はない】
琥珀のステッキを握る老人が一人。
【が、君がせっかく此処まで辿り着いたというのに何も話さないわけにもいくまい】
スーツ姿の老人は皺くちゃな口元を緩める。
【これからワタシが話すのは言わば、黙示録】
缶コーヒーを啜りながら詠う。
【まぁ、ただの老人の戯言だ】
この世の全てを諦観したような笑み。
【・・・まずは何処から話そうか】
老人は空を見上げる。
【そうだな。ワタシがまだこの世界に絶望していなかった頃の話からにしようか】
入道雲が蝉の声を吸い込んでいく。
【そう、確かアレはまだワタシが妻と息子の傍にいた頃の話だ】
ザリザリと映像が荒くなる。
【研究―――永――しか―――】
声が途切れ、雑音が酷く混ざり始める。
【――が―――結―――】
何を言っているのかは分からない。
【――な――か――だと――も】
しかし、老人の顔には狂おしい程の悲壮感と嘆きがあった。
【そ―――き―――だ】
数分にも及ぶ音声の空白。
結局、老人が何を言っていたのか映像は語らない。
しかし、本当に最後の最後の部分で僅かに砂嵐が治まる。
【・・・・・・これがワタシが知る全て・・・・・・ワタシが描いた全てだ】
急に映像の視点がブレる。
【こんな老人の退屈な語りに最後まで付き合ってもらった礼だ。君が今現在知りたいだろう情報を教えよう。たぶん、その為にこそ君はこの映像を手に入れたのだろうから・・・もし人を探しているのでなければ、ここで映像は切った方がいいと予め忠告はさせてもらう】
映像の外へと老人が向う。
カメラの外側から何かが駆けてくる音。
【・・・ワタシが立ち上げた研究会は総勢十三人から構成される。その内の二人にワタシは研究の殆どを託した。それぞれがどちらも天才だが役割は違う。二人とも―――】
熱い夏を走る子供の声。
【この世界の行方を真に憂う者達だ】
ソーダを買って欲しいとねだる子供の声。
【彼らに託した研究は究極的に人類へ決定的な選択を迫るだろう】
歩き出す音。
【これからの百年を彼らは変える。時代の変革を迎える事なくワタシは消えるだろうが、その予定は変わらない】
画面にはただ伽藍としたバス停だけが映され続ける。
【これを見る君にはどうか知っておいて欲しい】
最後の声。
【この世界は・・・未だ美しい。だからこそ、この映像をワタシは残すのだ】
画面が暗転する。
映像は終わり再びフロアーには静寂が戻ってくる。
「・・・・・・さてと」
一人映像をずっと見ていた男が肩を回して凝りを解した。
画面にはメール作成画面。
映像が添付されたメールがそのままネットの海へと送り出される。
「そろそろ帰る仕度を・・・」
「中臣さん?」
男が振り向くと顔見知りの警備員がやれやれといった様子で己を見ていた。
「また、ですか」
「ええ」
「今日は一体どんな理由で?」
「ああ、今日はもう終わりました」
「・・・珍しいですね」
「まぁ、毎日毎日残業しているわけでもありませんから」
「それならそれでいいんですが、とりあえず理由を」
「プロジェクトの最終段階を監視してまして」
「人事部のですか?」
「はい。今日は航空ショーを開きつつ人材を確保するという画期的な――」
警備員の男が呆れた様子で笑う。
「この間はライブでしたか? 本当に人事部門はお金を掛けてますね」
「いやいや、やっぱり会社の中核は金融部門でも開発部門でもないですから。最も大事なのは全ての部門を支える人・・・それが持論です」
「はぁ、そうですか。では、そろそろ行きましょう」
「はい。しばしお待ちを」
数分後、ディスプレイの電源を切って二人がその場を後にする。
二人の背中が通路の先に消えると不意にディスプレイの電源が入った。
画面上でカーソルが動き始める。
隠されていたファイルを見つけだされ、削除が選択されるとファイルの完全な削除と共に再びディスプレイの電源が落ちた。
*
【え~~皆様。大変長らくお待たせ致しました】
不自然なくらい黄色いポニーテールの少女が画面に現れ、ペコリと頭を下げた。
肌のあちこちに縫合痕を晒す姿は前と変わらず。
少女は黒いスーツ姿でGIO日本支社地下、ではなく。
野外ステージでマイクを取っていた。
GIO警備部特務外部班総括『亞咲(アザキ)』。
巨大コングロマリットGIOの裏方。
火消し又は暗部とも呼ばれる警備部の中核人物。
【本日は第二夜。しかしてGAMEは地中より飛び出て遥か空へと舞台を移す事となります】
誰もいない会場のステージでそれを見ているだろう客に向かい亞咲は続ける。
【では、今回のGAMEの説明に入らせて頂きます】
前回と同様、亞咲の後ろにホワイトボードが滑るように流れてきて止まった。
【今GAMEの舞台は日本から東シナ海を抜け中国本土の空域までです】
ホワイトボードの上に黒いマジックで書いたように地図が描き出される。
【つまり、恒例のレース形式によるGAME。航空機での指定空域の横断が内容です。基本的に得点はチェックポイントの通過順位に比例して加算されていき、各チェックポイントでの順位と総合得点順位に対して二つの賭け方をお楽しみ頂ける仕様となっています】
【総合得点順位の方は一番初めのスタートから五分で締め切らせて頂きますが、各チェックポイントでの賭けよりも倍率が五倍以上違うので、GAMEの行方次第では各チェックポイントでの負け分を取り返す事ができるかもしれません。ポイントは全部で五つ。賭けの開始から締め切りは各ポイントを最初のチームが通過した時点から五分後までとなります】
赤いマジックの線が黒い地図の上へと滑っていく。
【得点順位は随時公表とし、それはGAME参加者自身にも伝えらます。参加チームの方針や作戦の変更は時にお客様の思わぬような事態を引き起こすかもしれません】
地図の上の広大な範囲を赤い線が囲い込んだ。
【今回、こちらで設定する得点のボーナス倍率条件はこれです】
ボード上に四つの文言が書き出される。
一行目。
【他チームの機体と後続の距離を引き離してポイントを一位通過した場合×2倍】
二行目。
【他チームの機体を明確に自機の武装で撃墜した場合×3倍】
三行目。
【他チームの機体より五分以上遅れてポイントを通過し、次のポイントを最初に通過した場合×4倍】
四行目。
【他チームの機体が全てリタイアした状態でゴールを通過した場合×10倍】
最後の文言を読み上げた時、一瞬だけ亞咲は苦笑した。
【リタイアとなる条件は三つ。1撃墜された場合。2燃料切れで地上に降り立つか墜落した場合。3自機から参加者が脱出した場合です】
ボードが裏返る。
【ボーナス倍率はチェックポイントを通過した時点で確定し点に加算されます。これによっては後から通過しても得点において一位通過したチームを超えるチームが出てくる可能性もあります】
ボードがガラガラと再びその場から退場する。
野外ステージを映し出すカメラの先で亞咲が大きく伸びをした。
【さて、これで退屈なルールの説明はお終いとして。続いて今回使用される機体をご紹介しましょう】
亞咲の背後、GIOとロゴが入った白い壁が倒れる。
その先にある光景を見た賭けの参加者達の様子はほぼ二通りだった。
大笑いするか。
驚愕するか。
【今回使用されるのは我々が独自に入手した骨董品。F-18スーパーホーネットです】
亞咲の後ろは滑走路に置かれた戦闘機の群れだった。
【ちなみに中古品ですが、我々GIOの技術力を結集しカスタマイズした仕様であり、マシントラブルなんて事は断じてありませんのでご心配無く】
舞台を飛び降りて戦闘機の一つに近づいていく亞咲をカメラが追う。
【燃料タンクの増設で航続距離の問題はクリアーしました。逆にレーダーなんかには引っかかり易いですが、そこはGAME開始まで我々GIO運営の方で何とかします。GAMEが始まるまでは撃墜されないと思ってくださって構いません。単座式で武装はサイドワインダー二発のみ。かなり旧い機体ですが、この滑走路からこの状態で飛び立ちゴールまで普通に飛べるはずです】
亞咲が戦闘機の横でチラリと時計を確認した。
【そろそろ各チームのパイロットが来る頃ですね。一旦カメラをそちらに回してみましょう】
カメラ映像が切り替わった。
滑走路脇の建物の入り口からパイロットスーツなど着ていないチームの参加者達がゾロゾロと出てくる。
【ちなみに【都合の良い服】(パイロットスーツ)なんてのは用意していませんし、酸素マスクもありません。機体内部及びキャノピーは最新のものに変えてありますので与圧は問題無いはずです。常時、加圧酸素が供給されますので耐えて頂くのはGぐらいのものでしょう。無論、機体に何らかの障害が起きた場合はその限りではありませんが、それは皆さんの技量次第です。無線は骨振動のヘッドセットをお渡しします。参加チームが選抜した人間が機体を上手く扱える人間だろうがド素人だろうがGAMEには必ず参加してもらいますのであしからず】
狂気。
そう言えるかもしれない愉快げな声が続ける。
【各チェックポイントは全て軍事基地上空を指定してあり、通過中のチェックポイント間にある航空基地のレーダー及び情報システムには妨害を掛けませんので自衛隊か米軍か中国軍閥の戦闘機が現れた際は【イベント】としてお楽しみ下さい。チェックポイントを通過した時点でその間の航空基地には妨害が再開されますが、敵機が目視で参加チームを追っている場合は自力で逃げ切ってください】
無茶な話をされている。
参加者達の殆どは渡されたイヤフォンで亞咲の説明を聞きながら暗澹たる気分になった。
【何チーム残るかは分かりませんが、是非皆さん奮って賭けにご参加下さい】
胸に手を当てて亜咲が一礼し、滑走路から離れていく。
【ああ、言い忘れました】
楽しそうな声で亞咲が続ける。
【救済措置として離陸から全機が横一列に並ぶまでは全自動です。それと動かし方は従来のものからプ○ステ12のマルチコントローラーに変えておきました。キャノピーに各種情報が表示されるのでどうぞ活用して下さい♪】
『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』
GAMEの開始まで十五分。
その声を聞く亞咲以外の誰もが沈黙した。
GAME参加者達がコックピットで見たのは座席と脇の脱出レバー。
そして、前に備え付けられているゲーム機のコントローラーだけだった。
最後の日。
空より火が降ると書は語る。
なら、沸いて降る病も果たして破滅か。
混沌の宵闇に撒かれた影が大地に芽吹く。
第三十三話「新たなる火種」
天地共に已むか。
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第三十三話 新たなる火種
第三十三話 新たなる火種
イメージ。
世界を認識する時、想像力無しに物事を見るのは難しい。
例えば、日本人なら四季を想像しながら時期を認識するのは常だろう。
芽生え息吹く若葉は春。
栄え鳴き出す虫は夏。
実り蓄える獣は秋。
堪え忍び待つ人は冬。
「・・・・・・・・・」
田木宗観(たぎ・そうかん)は知っている。
全ての失敗はイメージと現実の乖離から来る。
しかし、現実に限りなく近く想像力を働かせるならば、人間の精度は機械にも劣らない。
二十代の頃から自衛隊幹部候補生として働いてきた田木にとって想像力はある場所で鍛えられた。
とある基地で研修していた頃の話。
彼はまだ肩身の狭い身分だった。
そんな時、旧いフライトシミュレーターで空自の男達が盛り上がっているところを見つけた。
まだ仲間と呼べるような間柄ではない彼らに混ざり、田木はシミュレーターに毎日のように乗った。
最初は共通の話題や話を会わせる為の切欠に過ぎなかったが、暇な時間を作っては乗る内に田木の実力は上がっていった。
そんな田木を知ってか知らずか。
男達は話しかけるようになった。
実際に空を飛ぶパイロット達からの時折掛かる声に田木は耳を傾けた。
空の上では知識と想像力が全てではないと背後から声を掛ける男の一人は言った。
戦闘機で飛ぶという事は現実と想像の間にある乖離をゼロに近づけていく作業なのだと。
目視で見えない距離の敵は当たり前。
戦争になればレーダーに映り難い敵機から視認するより早くミサイルが飛んでくる。
ドッグファイトなんてものは幻想で先手必勝の一撃を放てるかどうかに全ては掛かっている。
だが、それでも想像力無くして空を飛べば、待っているのは死かもしれない。
実際には感じられない高空の様子。
空気の流れ、雲の流れ、気圧、湿度、温度。
全てを肌で感じられないパイロットが最大限に想像力を駆使して脳裏に描く世界。
相手は何処にいて、どんな空の中で飛んでいるのか。
それを鮮明に描き出せば、きっと一枚の絵に出来る。
実践と想像。
どちらともを得てパイロットにはようやく空を飛ぶ力が備わるのだと、その男は言った。
「・・・・・・・・・」
基地から去る日。
最後に乗ったシミュレーターで名前すら聞いた事の無い男と田木は戦った。
結果は散々なもので、彼は少しだけ笑って言った。
『君の飛び方には現実が足りないと』
それからもう十年以上。
田木は己の置かれた立場を最大限の想像力で描き出す。
駆使される脳裏の絵(せかい)と現実(いま)を擦り合わせる。
「・・・・・・・・・」
スイッチの一つも無いコックピット。
今正に雲を突破するキャノピー。
何処までも続く黒と白と月だけがある世界。
(あれから、どれだけの月日が流れたか・・・)
田木が不意に思い出したのは力強い三味線の音。
東北最大の軍事基地。
その最中で祭りの際に男が引いていた。
哀愁と躍動でロックとも聞こえた音色。
不可思議な話だったが、それが田木にとって始めて男が空を飛んでいる景色をダブらせて見た一瞬だった。
力強い音色に空の景色を見たのはたぶん男が空を飛ぶ時のような懸命な顔をしていたから。
「少しだけ、この時だけ、貴方の力を貸してください」
スイッチの一つも無いコックピットの中で田木はコントローラーを握り締める。
人の命を磨り潰すGAME。
用意された空飛ぶ棺桶。
GAMEOVERを誘うボタン。
【では、皆さん横一列に並びましたね? では】
イヤフォン越しに息の吸い込まれる音。
【これより第二GAMEのスタートを告げます。参加者各自はキャノピーに注目を】
キャノピーに映し出されるのは赤黄青の信号機。
【3】
カウントが始まる。
【2】
空は静寂に満たされている。
【1】
最後の一秒は瞬く間に過ぎ去った。
【スタートです!!】
田木以外の全機がアフターバーナーを全開にした。
「行くぞ」
午後八時十五分ジャスト。
突如としてレーダーに映った十五機の戦闘機に対し、山陰地方の航空自衛隊機はスクランブル。
政府に齎された凶事に事実を知らない者達は慌て【戦争】という言葉が実しやかに囁かれ始める。
*
「ネタ~~~ネタ~~~るるる~~~飛び切りのネタ~~~♪」
GIOが用意した一室。
レコーダーで室内の会話を録音しながら手帳に状況を書き留める愛と正義とネタの女神(自称)が一人。
羽田了子は至福の表情でネタ集めに精を出していた。
「で、だ。久重」
慈愛の女神も真っ青な微笑みを浮かべたアズが問う。
「はい。何でしょうか雇い主様」
地獄の沙汰すら変えてしまうだろう雇い主を前にして憐れな子羊よろしく外字久重は視線を逸らした。
「僕は今まで君が馬鹿だとか阿呆だとか間抜けだとか本当にどうしようもない男だなぁとか、そういう事は思っても口にしてこなかったんだ。君の精神衛生を考えたりしてね」
「とても嬉しい発言ありがとうございます」
様々な意味で汗を背筋に感じながら久重は機械的に応答した。
「でも、今回ばかりは君に色々と言いたい事がある」
「具体的にはどういった事でしょうか」
「何で」
ババンと擬音が挿入された。
アズの右手には真夏にトレンチコートという暑苦しい中華裏社会から来た少女が一人。
虎(フゥ)がアイスをペロペロ舐めている。
「こういう」
ドンとかなりドヤ顔な擬音が挿入された。
引き続きネタを集めていた了子が裏世界に名を轟かせるフィクサーと手下のやり取りに目を輝かせる。
「事になってるのかな?」
「いや、話せば長くなるんだが・・・」
ついにアズの手が久重の片手に伸びる。
手の甲がギュチィイイと立ててはいけない音を立てて捻られた。
「―――話せば長くなるのですが―――」
「ほほう?」
痛みに手の感覚が消え失せていく間にも久重の口からポロポロと致命的な弱音が漏れていく。
「こちらの記者さんにちょっと話を聞いたのはいいのですが、何か自分の捕まるシーンまで念入りに望遠レンズ付きのカメラで撮影してたらしくてネット上に情報を隠しているとかいないとか。
もしも、自分が定期的にアクセスしないとその映像が動画サイトへ勝手に流れるとか流れないとか。確認してみたら言われたアドレス先のストレージサイトに動画が確かに保存されてたとか。
消そうとしたらそれも予備とかバックアップが複数あるとか」
「つまり、僕のいない間に情報戦で負けて此処まで付いてくるのを許したわけかな?」
「ちょっと気を失わせてから逃げ遂せたと思ったら何故か先回りされてたとか色々と事情が」
「何でその子も此処にいるのかな?」
虎が無垢な瞳で首を傾げる。
「とりあえず、もう一日置いてもらえるよう親友に頼もうと思ったら今日からちょっと泊り込みで行く場所があるから家には置いておけないとか言われて。とりあえず大学の知り合いに預かってもらおうとしたら記者さんに追いつかれて逃亡してたらもうこの場所まで来てしまった的な」
手の甲が完全に白くなって数秒。
「・・・本来なら首どころか違約金どころかドラム缶にコンクリと一緒に詰めて東京湾のど真ん中に放り込むとか考えるくらいの失態なわけだけど」
「わ、わけだけど!?」
ヒシッと涙目で縋りつく久重にアズが微笑んだ。
「借金の利子を今の三倍くらいで許してあげるよ」
「ぅぐ!? 元金を倍にするよとか利子を複利にしてあげるよとかよりは・・・マシ、なのか?」
「十日で一割がいいなら、それでもいいけど」
「ごめんなさい。マジで許してください。もうしません」
「君は小学生かい? 久重」
呆れた様子でアズが久重の手を放り出し、そのままネタに目をキラキラさせていた了子をチョイチョイと指で呼んで部屋の片隅に移動した。
何やら話し込み始める二人にホッとした様子で久重がソファーに座り込む。
「ひさしげ。大丈夫?」
少し心配そうなソラが左側に座って完全に白くなった手の甲に触れた。
「感覚は無い。が、これで済むならまぁ・・・」
「ヒサシゲ。自分のせいで・・・怒られた?」
虎が右側に座って怒られたような顔でしょげた。
「いや、お前のせいじゃない。オレの不手際だ」
「・・・ごめんなさい」
更に顔を曇らせた虎の頭をポンポン叩きながら、久重が気を使い過ぎるきらいのある居候に笑いかける。
「だから、謝るなって。別にお前が怒られたわけじゃないだろ?」
「・・・はい」
「で、こっちはいいわけ?」
壁に寄り掛かったまま、大画面を眺めていたシャフが呆れた様子で騒がしい面子を見た。
巨大な画面には軌道上の静止衛星からと思われる映像が映し出されている。
日本上空。
十五のグリッドにはそれぞれの戦闘機が映し出されている。
リアルタイムで合成しているのか。
戦闘機の上にはそれぞれに番号が振られていた。
画面の大部分には地図が表示され、その上を番号が移動している。
「一応、アズからの指示は出せるし、十分程度とはいえ事前の打ち合わせもしたからな」
久重の答えにシャフが嗤う。
「ビデオゲームのコントローラーと腕前に自分の命を賭けさせるなんて面白い事考えるわよね。GIOって」
シャフの声に久重は動じない。
「これでこのGAMEの本質は大体分かった。少なくともGAMEとしての公平性はあるつもりなんだろうが、人間の命はシューティングゲームの残機程度にしか考えてないんだろうな」
正に遊び半分。
戦闘機なんて動かせるはずの無い人間にも動かせる仕様と言っても、それはあくまでゲームメイクの一環であり外連味を添える為のルールに過ぎないと久重には思えた。
「何を今更。そういうのはお得意じゃないの?」
シャフが揶揄しているのが自分の置かれている境遇だと気付きつつも久重は怒らない。
「何つーか。そういつも突っかかってくると安く見られるぞ?」
「なッ?!」
してやったと内心で得意げだったシャフの額に青筋が浮かぶ。
「幇(バン)にもいた。力ないと大げさに振舞う人・・・」
「ッッ?!」
虎の言葉にシャフが固まった。
思わぬところから来た援護射撃に久重が苦笑する。
「む、昔からシャフは意地っ張りなだけで、小物とかとはちょっと違う・・・と思う」
「ッッッ!!?」
フォローしようとしているのか。
ソラが目を泳がせながら久重と虎に対して小さな声で反論する。
今にも頭の血管が切れそうな怒りに我を忘れそうになって、シャフがグッと堪えた。
「―――いい度胸してるじゃない。その時になったら覚えてなさいよ」
「いや、そういう捨て台詞が負けフラグというか。もう少し歳相応に可愛げのある言葉を吐けばいいんじゃないのか?」
今にもNDで目の前の男を肉塊に変えたくなったものの、自分は自分の仕事をしなければとシャフはその道のプロらしく冷静さを何とか保つ。
「絶対、アンタだけはこうか――こんな時に何よ!?」
不意に懐の震えを感じて端末を取り出した少女が舌打ちした。
端末の画面には緊急の文字。
シャフがそのまま室内を後にする。
「おい。何処にい――」
「HENTAI」
「ぐふッ?!」
心理的ダメージで久重が胸を押さえた間にシャフは扉を開けてトイレへと向った。
その間にも緊急の文字が絶え間なく端末の表面を流れていく。
通路の一番左の扉。
中の個室に入り鍵を閉めた後。
ようやく端末に出たシャフの耳に届いた第一声は凡そ不愉快なものだった。
『ばら撒いたのは貴女ですか?』
「何を?」
ターポーリンの声にシャフが素直に聞き返した。
『メリッサに聞きました。かなりの量を撒布したと』
「それが何?」
『活動し始めたウィルスがかなりの速度で都市部で広がっています』
「はぁ?」
『このままでは関東一円を呑み込むまで二週間も無いでしょう。あれだけの代物をこの時期に投入したとあってはさすがに私の方でも上に対して言い訳できかねます』
「何か勘違いしてるんじゃないの?」
『どういう事でしょうか?』
「アタシがばら撒いたのはGIOネット経由での発信が無い限り発症しないタイプよ」
『・・・・・・』
「嘘かどうか知りたいならNDの活動ログでも何でも上に掛け合ってサーバーから取り出せばいいでしょ」
『つまり、犯人は自分では無いと?』
「少なくとも意味も無く発症させたりしないわよ」
『今現在、都市部で収拾したウィルスを簡易に解析中ですが、詳しい正体が掴めていません。これだけの代物となると貴女か、あるいは【連中】かと思いましたが、貴女の言いようと上の慌てよう・・・内部の人間の犯行ではないとすると・・・かなり厄介な事になります』
「一応、聞くけど既存のウィルスの突然変異種か何か?」
『いえ、そんな生易しいものではありません。貴女が持つ病原体の殆どは動物ウィルスの類ですが、これはハッキリ言ってそれより性質が悪い』
「どういう事?」
『最悪のテンペレート・ファージです』
「上手く事態が呑み込めないんだけど」
『単純に言えば、細菌感染型のウィルスです』
「細菌感染? 普通ウィルス感染したら細菌て溶けて消えるんじゃなかった?」
『貴女はウィルスに関してどれくらいの知識を持っていますか?』
「自分の持ってるやつに関してだけ基礎が少しあるくらいだけど」
『では、情報が不足しているようですので簡潔にお答えします』
今まで聞いた事もないような真面目な調子のターポーリンの声。
シャフが黙って聞き始める。
『いいですか、よく聞いてください。ウィルスの中でもファージと呼ばれるタイプの細菌感染するウィルスには二種類あります。ビルレント・ファージとテンペレート・ファージ。貴女の言っているのは【溶菌】と言ってビルレント・ファージが細菌に感染した場合の話です』
「それで?」
『テンペレート・ファージの中には抗生物質への耐性遺伝子や毒素の遺伝子を持っているものがあり、更に細菌に感染する事でそれらの遺伝子を細菌が獲得する事があります。この性質を使って分子生物学分野では細菌にテンペレート・ファージを感染させて、任意の遺伝子を導入する実験を行ったりしています』
「へぇ・・・」
聞く気なさげにシャフが相槌を打つ。
『今回、確認されたテンンペレート・ファージは従来のものとは違って、様々な人体中の細菌に感染する機能を持ち、尚且つその細菌に現在地球上に存在する殆どの抗生物質に対しての耐性を持たせる事が確認されました。更に言えば、このテンペレート・ファージに感染した細菌がBSL-4クラスの研究所でしか扱わないような危険性のある細菌へと変質する事も確認されています』
「普通の細菌が凶悪な代物になるって事?」
『ええ、変質した細菌を調べたところ・・・かつて人類が経験した複数の致命的病原細菌と類似する遺伝パターンが発見されました』
「つまり?」
『このままでは日本全体に薬剤への耐性を持った致命的な病原が蔓延します』
「・・・バイオテロどころの騒ぎじゃないわね」
『当たり前です。こんな代物は管理できない時点で戦術・戦略兵器として成り立ちません』
「現在の状況は?」
『都市部病院の通信を傍受しましたが、どうやら現場は大混乱しているようです。ウィルスの源を捜索していますが、まだ収穫はありません。このままでは・・・日本が地図から消えます』
「人のお株を奪うなんて面白い奴もいたもんね」
『仮にですが、このウィルスを【トランスポーター】と呼称します』
「あたしにどうしろってのよ? 放っておくって選択肢は無いわけ」
『社会基盤が崩壊した地域で働きたいですか?』
シャフが溜息を吐く。
ターポーリンが、その声に何も言わず、誰かとゴソゴソと話し始めた。
『どうしたの?』
『・・・今、【連中】から貴方の切り札の使用許可が下りました』
『何ですって?』
『関東圏へトランスポーターが完全拡大する前に貴女がテラトーマに保管しているNO.7を使い、流行を食い止める事になるでしょう』
「人の【切り札】(とっておき)を大多数の人間に使おうっての?」
『今回は緊急事態という事で一部の技術開放は止むを得ないという結論に到ったそうです』
「人体強化系のウィルスなんて流行らせたら、さぞかしSFな世界になるんじゃないかしら」
『貴女のソレもテンペレート・ファージの一種には違いありません。毒を持って毒を制す。これが最善と私は考えます』
『ふん。今更善人ぶってもね』
『日本は【まだ】連中にとっても捨てがたい場所なのですよ』
「・・・いいわ。此処で勝手に任務降ろされても敵わないし」
『では、これより合流を』
「了解」
『病原を拡散している【何か】の特定はメリッサに一任しています。もしかすると一緒に出て貰う事も在り得るので戦闘準備はしておくよう』
「はいはい」
投げやりにシャフが返す。
『これから【連中】にも大規模な動きが予想できる。何かと忙しくなると思っておいてください』
「分かったわよ。で、こっちのGAMEの方はいいわけ?」
『それについてはこちらから一報入れておくので心配なく』
「中国軍閥に対してまだ仕事してないけど?」
『それどころではない。というのが【連中】の本音らしいので問題ないかと。改めてGAME中に行うようとの指示です』
それから幾つかの連絡事項を話し合った末、端末の通話は途切れた。
シャフがトイレから出て左側の通路の先を見る。
曲がり角の先にある部屋。
今もGAMEの行方に一喜一憂しているだろう監視対象達を置いて消える事に後ろ髪を引かれるような気分になりながらも・・・シャフは視線を逸らして施設の外へと向った。
*
一人街を駆け抜けていく水色のパーカーに半ズボンの少年。
メリッサ。
その瞳にはサーバーから齎される情報がリアルタイムで表示されていく。
(病原が特定できないのは偽装されているからだとすれば、こちらのサーバーでハズレとされた空白を足で探せば・・・・・・)
メリッサが人気の無い世界を跳ぶ。
地面からビルの壁面へ、壁面から更に看板、看板から屋上、と跳躍を繰り返しながら街をあらゆる角度から視界に収めていく。
己の目で確かめながら違和感を探す作業。
丹念に感覚を研ぎ澄ましながら終わりも見えない徒労を続ける。
(通常のセンサー類でサーチ不可能なのか。それともそもそも病原が一箇所では無いのか)
僅かな違和感。
何かを見落としている気がした。
(今も増加している患者数から少なくともまだ病原は活動していると推測される。でも、病原が見つからない。いや、見つけられない。見つけられないのは見つからないようにしているからか。それとも見つけても病原であると認識していないからか・・・・・・)
メリッサが街を一望できるビルの屋上でようやく足を止める。
『こちらメリッサ。サーバーへの接続許可申請』
電子音声が応じた。
【はい。確認しました。認証番号20880211。サーバーへの接続許可申請通りました。閲覧情報、深度Aまでが開示されます。閲覧項目を選択してください】
『現在未使用の探査プログラム一覧を』
【今現在個体メリッサの使用する探査プログラムは七種。インストール候補として三十八件がヒットしました】
『現在の探査プログラムを削除。ヒットした全プログラムのインストールを開始』
【承認されました。三十八件の探査プログラムを全てインストールします。よろしいですか?】
『YES』
ND制御中枢へとサーバーから多量の情報が流れ込んでいく。
一気に思考が鈍ったような心地になる。
全ての探査プログラムが一斉に起動され、メリッサが吐き気のする感覚に耐えた。
「――――――」
あらゆる情報がNDより収拾され、サーバーを経由して結果が視覚情報に還元されていく。
殆どのプログラムは空振りに終わるものの、たった一つだけ思考に引っかかった情報があった。
「これは・・・静か過ぎる?」
最後に残ったのは音の視覚化情報。
俗に【音カメラ】と呼ばれる周辺の音を色として認識する為の装置を代替するプログラムからの情報だった。
今まで自分が収拾してきた情報に照らし合わせながら、メリッサが確信を深める。
(どんな高性能な装置を使ってるのか知らないけど、この不自然さまでは消せなかったって事か)
メリッサの視界に映る情報には街の幾つかの地点で音が出ていないという結果を示す。
街に溢れているはずの音。
九時を回ったばかりだと言うのに不自然に「何の音も無い」世界がメリッサの視界には黒い穴のように映っていた。
「行くよ」
体中のNDを活性化し、己の肉体の性能を限界まで引き上げながら跳ぶ。
NDの薄い糸を他のビルや看板へと貼り付けては引き寄せ、次々に障害物を越えていく。
数分で目標の地域に到着したメリッサはグルリと辺りを見回した。
どこにでもあるような工業団地の一角。
整備された公園には遊具だけが置かれている。
その奥。
ブランコにポツンと八歳程の少年が座っていた。
全身を覆う長く白いコート。
体毛が無いのか髪も睫も無い姿。
外国人と見える青白い肌。
瞳の色は青。
「・・・・・・?」
正しく自分が捜し求めていた病原。
如何にも【当たりです】と言わんばかりの存在。
少年を睨み付けた。
【病原体濃度45%上昇。視界内の目標を病原と推定します】
サーバーからの回答。
【場に他のNDを検知。周辺環境レベル急速に悪化。作戦行動可能時間を五分と指定。それ以降の作戦続行は人員の安全を保障できません】
「君は誰だ?」
その声にブランコから立ち上がった少年がメリッサを見つめ返す。
「よく此処が分かりました。父様の偽装は完璧なはずですが、一体どうやって?」
透き通る声。
律儀にも他の人間が関わっている事への言及。
出来る限り情報を引き出さなければと会話を続ける。
「教える義理は無い」
「そうですか」
ただの疑問だったのか。
少年は追及しなかった。
「病原体の撒布を中止し、投降するなら此の場で危害は加えない」
「【連中】に解体されるまで大人しく待っていろと?」
自分の背後関係が完全にばれている事に聊かの驚きを感じたもののメリッサは顔に出さなかった。
「大人しく掴まる気は?」
「ありません」
「なら、僕から言える事は一つだけだ」
メリッサが半身に構える。
「君が誰かは知らない。君が何故こんな事をするのか知らない。君がどんな力を持つのかも知らない。だが、このまま君が病原の撒布を続けると言うなら、僕は君を殺す」
少年が苦笑した。
「死にますよ?」
「く、くく・・・」
「どうして嗤っているのですか?」
周辺のNDが少しずつ己の体を侵蝕し始めている事に気付きながら、それでもメリッサは会話を続ける。
「僕は【蜜蜂(メリッサ)】世界平和を約束する人殺しだ」
「?」
「その僕がこんな事をしてる。今まで誰かを殺す以外でこの力が役に立った事なんて無いのを考えたら・・・」
「言っている意味がまるで理解できません」
「理解しなくていい。だって、これは・・・」
NDで周囲に張られたメリッサの糸が敵NDの攻撃に崩されていく。
しかし。
「僕にしか分からない。僕みたいなのにも少しは何か守れるのかなぁって、それだけの話だから」
ドゴンと音が響き抜ける。
語り終えたメリッサは少年の背後にもういた。
少年が振り返る。
ゴボリと少年の口から血が吐き出されてビチャビチャと落ちた。
人間の肉体が出せる速度の限界を超えて繰り出された一撃は少年の肉体を叩き砕いていた。
少年が自分の体から飛び散った血飛沫と多量の肉片を見つける。
衝撃で心臓、脊椎、肺、脇、腕、全てが見事に破砕され、ぶちまけられていた。
砕かれた上半身の半分は腕の形に抉れている。
「少しだけ、侮っていたと認めます」
少年の唇が明瞭に言葉を紡いだ。
その在り得ない様子にメリッサは動じない。
ただ、己のNDとは一線を画すのだろう少年のND性能に警戒心を引き上げる。
少年が砕かれた上半身を傾がせながらニコリと笑った。
「友達になりませんか?」
「ゾンビを友達に持つ気はさらさらない」
「そうですか。それは残念です。そろそろ父様が向えに来るので今日はこれで」
少年は体が傾いだままメリッサに背を向ける。
逃がさないと、もう一撃加えようとしたメリッサの緊張させた筋肉が【暴発】した。
ブバン。
そんな弾ける音と共に左腕が壊滅的な血飛沫を上げて破裂した筋繊維が完全に断裂し、ボタボタと地面へと落ちる。
「ああ、動かない事をお勧めします。NDの制御がしばらく利かないはずなので」
少年が体を傾がせたまま去っていく。
それを追おうと体に力を入れようとして―――肉体内部の悲鳴にメリッサが動きを自重する。
一歩でも動けば、肉体が内部から圧壊する。
そう理解したメリッサは目の前の少年に自分が敗北したのだと悟る。
自分のNDの能力が殆ど沈黙している異常事態。
一見すればメリッサが勝ったとも思えるが、事実はまったくの逆だった。
上半身を砕かれ、今もダラダラと血と肉片を零している少年はメリッサと違いまだ動ける。
もしも、メリッサの頭部をぶち抜く拳銃の類でもあれば、それで積み。
上半身を砕かれ尚動くゾンビなんて冗談に勝てる程メリッサはSFな体をしていない。
肉体は心臓が無ければ動かない。
脳が破壊されれば再生も出来ない。
多量に失血しても、重要臓器の七割が破壊されても死ぬ。
最後まで生き残った方が勝つと言うならば、もうメリッサに手は残っていなかった。
「メリッサ。覚えておきますね」
「お前は、何だ?」
「人間の形をした何か、とだけ」
「父様って?」
意に介さず去ろうとした少年が不意に立ち止まった。
「父様から今伝言が来ました。【連中】に伝えておいてください。【我々は敵でもなければ味方でもない。天雨機関の先遣たる分子生物学部門主査『波籐雅高(はとう・まさたか)』が確約しよう】と」
「天雨機関・・・まさか、あの戦争の亡霊がまだ生きてたとは驚きだ・・・」
メリッサが時間稼ぎの会話を続ける。
先程からサーバーとの連絡が途絶している状態だった。
肉体を維持するNDを動かすフィードバック情報が途絶して孤立化するとNDは待機状態へと移行する。
NDに異常が無いとしても膨大な制御情報が途絶した状態ではNDによる肉体維持は停止したも同然。
一刻も早くサーバーとの回線を復旧させなければ、メリッサは立ったままに死亡する可能性すらあった。
「此処からは貴方に向けた言葉だそうです。【もしも君の肉体を解体させてくれるなら、君の呪縛を全て絶ち切って自由を保障してもいい】との事です」
「【連中】の技術がそんなに欲しいのかって、その父様とやらに言ってやればいいよ」
「【天雨機関の一員はそれぞれに得意分野を持ってはいるが、他の分野に疎いわけではない。この提案は君に使われている技術に対する知的好奇心によるものであり、技術そのものを欲しているわけではない】だそうです」
その言葉にメリッサが内心で舌打ちする。
少年越しにメッセージを送ってくる男にとって自分に使われている技術はあくまで【連中】の技術力を測る参考資料程度なのだろうと理解したからだった。
目の前の少年に言葉を送る男にも【連中】のような人間をぞんざいに扱う気質が見て取れて、メリッサは久しぶりに吐き気のするような怒りを感じた。
「ああ、そう。なら、僕から言える事は一つだけかな」
少年がメリッサの歪んだ笑みに首を傾げる。
「馬鹿め」
「?」
「馬鹿めって伝えなよ。【連中】もあんたも人間として大差ないレベルだってさ」
少年が驚いた顔をして、メリッサを見つめて、更に驚いた様子で虚空を見つめる。
「・・・【わたしを馬鹿呼ばわりするとは面白い。メリッサ。その名覚えておこう】」
「覚えて欲しくないから・・・」
少年が少しだけ戸惑った表情をした後、そのままメリッサに再び背を向けた。
病原の撒布が止まった為か。
その日、それ以上ウィルスが広まる事は無かった。
テンペレント・ファージの蔓延を機に関東圏ではもう一つのウィルスが広まりつつある事を誰も知らない。
二つのウィルスに掛かって生き残った人間が発生し、調査報告が政府に上がったのは二ヵ月後。
日本が新たな火種を抱える事になるのはまだ先の話だった。
区切り無き一繋がり。
それが世界。
人は車輪によって地の果てを、翼によって空の彼方を、螺旋によって海の終わりを目指した。
第三十四話「空の果てより到るもの」
だが、其処から来るモノなど誰も歓迎しない。
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第三十四話 空の果てより到るもの
第三十四話 空の果てより到るもの
―――さん。
わたしは今日も検査入院の日々です。
先日の事はごめんなさい。
検査から帰ってきたら花束だけ置いてあったのを見つけました。
隣の部屋の方に聞いたら誰が花束を置いていったのかすぐ分かりました。
いつも花束ありがとう。
とっても嬉しいです。
せっかくの手紙なのに字が穢くてごめんなさい。
近頃は調子がよくなってきたので手の振るえも治まるとお医者様が言ってくれました。
きっと、その内に綺麗な字の手紙を送れると思います。
それまでは見難いかもしれないけど、愛想を尽かさないでくれると嬉しいです。
・・・・・・お母様から聞きました。
入院費用を立て替えてくれたという事を。
こういう体で働けもしないわたしが今も生きていられるのは貴方のおかげです。
貴方はたぶんこんな事を書くと怒るかもしれません。
でも、わたしは貴方に感謝する事以外、貴方に何も返せません。
苦しい事も悲しい事も今まで沢山ありました。
でも、今・・・一番わたしが苦しくて悲しいのは貴方に何もして上げられない事です。
笑い掛けてくれるだけでいいと貴方は言いました。
時々、暇な時にでも相手をしてくれればと貴方は言いました。
けれど、わたしはそう出来ているでしょうか?
ずっとずっと貴方はわたしを励ましてくれました。
頑張れなんて言葉ではなくて。
生きろなんて無責任ではなくて。
傍にいて、笑わせてくれて、友達でいてくれました。
それは今までわたしの傍を通り過ぎていった誰とも違うものでした。
こんな人が世の中にはいるんだとわたしは始めてお母様以外の人と共に居たいと思いました。
今更・・・今更に・・・聞きます。
手紙でこんな事を聞く不躾なわたしをどうか許してください。
―――貴方は・・・わたしの事が好きですか?
もしも、好きなら・・・二枚目を呼んでください。
もしも、違うなら・・・この続きは読まないでください。
勝手な事を一方的に書いて本当にごめんなさい。
――――――――――――!!!!
不意に暗転しそうになった意識が戻る。
懐の手紙が意識を取り戻してくれたのかもしれなかった。
体の隅々、指先にまで掛かるGに歯を食い縛る。
世界から色は失せている。
眼球に血液が足りないのかもしれない。
速く速く速く。
そうすればする程に体は悲鳴を上げる。
それがGAMEの設定なのだと気付く。
何の装備も無いままに戦闘機に乗る。
何の訓練も無いままに戦闘機を駆る。
GAMEの参加者は誰もが限界ギリギリで争わねばならなくなる。
意識が堕ちれば死。
肉体がGに負けても死。
誰よりも速くゴールに辿り着きたいならば、誰かを追い落とすしかない。
機体のサイドワインダーを減らせば、その分の燃料が余る。
速度が増す。
ロックオンはRボタン。
発射は□ボタン。
とても簡単な事だろう。
GAMEに参加している人間の心理を上手く逆手に取った方法でもある。
ボタン一つで競争相手が消えるかもしれない。
そうでないとしても機体速度を増す事はできる。
速度が増したとしても肉体が堪えられる保障はないが、何もしないよりはマシだ。
「!?」
警告音(アラート)が響く。
照準(ロックオン)されている。
感じた時には予定の航路を外れて急旋回していた。
肉体が悲鳴を上げ、世界が暗転し、明滅する。
それでもアラートが消え去るまで機体を―――。
何故か、巨大な白い鋼鉄の槍が目の前から自分へと向ってくる。
たった刹那もあるか分からない間。
あの子への思いを言葉にする前に・・・世界は輝いた。
*
「ヒィイイイイイイイイイイイイイイイイヤッホオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」
奇声が上がる。
爆発して粉微塵となった機体の構成部品は殆ど蒸発していた。
敵機撃墜。
奇声の上がった機体のキャノピーに倍率が浮かび上がる。
巨大な花と散った敵が背後へと流れ去り、奇声の主はご満悦で速度を上げる。
肉体は限界まで未だ余裕があり、これで誰よりも早くゴールを目指せると、彼は獰猛に笑う。
夜闇に浮かぶ月は雲の合間から漏れる街の明かりを打ち消して。
彼は自分が何処の上空にいるかを悟る前に・・・地上からの地対空ミサイルの直撃を受けて蒸発した。
*
早くも二機の離脱。
今の日本では数少ない米軍基地上空で度派手にドンパチをすればそうなって当然。
サイドワインダーを放とうものなら、即座に撃墜されても文句は言えない。
そもそもチームとGIO以外からの通信が届かない仕様となっている戦闘機は棺桶。
突如として現れた兵器搭載済みの戦闘機が本土の領空にいきなり現れ、武器を使用すればどうなるか。
普通の国ならば問答無用
専守防衛の日本でも撃墜されない理由は無い。
日本国内の米軍が次々に撤退していく中、残った米軍基地は設備強化に余念が無く、影響力の低下を武装の強化で補っている。
最新鋭の兵器は放たれた時点で必殺。
戦闘機一機程度なら塵も残さない。
先だっての地対空ミサイルの発射はもはや過去の遺物と化した日米安保を律儀に守るというよりは、己の頭上の馬鹿を掃除したというのが正しい。
後々問題になったとしても、米軍としてはバカを自分の頭上に置いておくなんて事は絶対にするはずがない。
つまり、基地への攻撃と取られても仕方ない行動は即座に死へ繋がる。
そんな事を考えてすらいなかった馬鹿の脱落。
無論、残りの機体操縦者達はスーパーホーネットの中で身震いせずにはいられなかった。
そんな事があった時刻、時を同じくして航空自衛隊のスクランブル機が五機以上の編隊を組んでスーパーホーネットへと接触しようとしていた。
【こちらデルタ1。目標をレーダーに捕捉した】
【了解。デルタ1は目標を捕捉しつつ次の指示を待て。尚、呼び掛け及び戦闘を許可しない】
【どういう事だ!? 本部!?】
明らかな領空侵犯機。
しかも正体不明。
更に言えば、日本国内から海外へと向っている時点で撃墜は不可避に近い。
この中国軍閥との戦いに備えた時勢。
もしも、日本国内から正体不明の航空機が中国領内に侵入しようものなら即座に開戦となってもおかしくない。
それを理解しているからこそ、編隊の先頭を往く機内から驚きの声が上がるのは当たり前だった。
【繰り返す。デルタ1は目標を捕捉しつつ次の指示を待て。呼び掛け及び戦闘を許可しない】
【話にならん!? 今、誰が指揮を執っている!!?】
【現在、指揮権は・・・内閣官房下の【第十六機関(section16)】にある】
【何だと!? どういうことだ!?】
【現在、幕僚会議はこの件の全権を第十六機関へ預けている】
【幕僚会議が!?】
【―――はい。了解しました。次の指示を伝える。『心神改三型』全機は『ECM spreader』を展開。有効射程圏内まで接近せよ】
【な!? アレはまだ専用の発電衛星が無いはずだぞ!?】
【GPSリンク及び機体の同期はこちらで管理する。全機、速やかに有効射程圏内まで接近せよ。尚、発射の指示があるまで無線を封鎖する】
【おい!?】
【尚、無人機の増援は無い】
一方的な言葉にリーダー機から怒号が上がるも、それを機に通信は途絶した。
*
無茶苦茶な命令を出したオペレーターが恨みがましい目付きで命令を下した男を振り返った。
発令所の中。
大勢の職員が慌しく連携しながら情報を集めている。
その中央。
本来ならば司令官が座るべき椅子には誰もいない。
ただ、大型のディスプレイが置いてあるだけだった。
ディスプレイの中で如何にも日本人といった困った笑みを浮かべているのは丘田英俊だった。
【いや~すみませんねぇ】
オペレーターの冷たい視線や自衛官達の冷ややかな視線に丘田は笑みを崩さずに続ける。
【とりあえず、米軍にはこちらから手出し不要と申し入れておきます。今後、米軍からの問い合わせには『今、情報を集めている』で通してください。それと山陰と九州の航空自衛隊基地にはこれ以上スクランブル機を上げないようにと通達を。ああ、それと―――】
テキパキと国家の一大事に指示を下していく部外者という図に自衛官達の忍耐はギリギリと絞られていた。
先程、理不尽な命令を伝えさせられた若い三十歳代の女性オペレーターが顔を僅かに顰める。
【何か不満でも?】
丘田が命令を出し終えて一息付き、その顔に気付いた。
「いえ、何も・・・」
【国家の一大事に幕僚会議は何をしているのか!? とか言いたそうにも見えますが?】
「いえ、そんな事は・・・」
【まだ、運用は一年以上先であるはずの『ECM spreader』の電源を何処から持って来る気なのコイツとか思ってませんか?】
さすがに閉口した様子でオペレーターが丘田を睨んだ。
【ちなみに今から衛星とのリンクをそちらに回しますが、この件に付いては部外秘・・・というか国家機密に類するものですので他の皆さんも口外しないように願います】
丘田が言った途端。
発令所の大型ディスプレイにとある場所の映像が映し出された。
――――――。
発令所の誰もが映像に釘付けとなる。
「これは・・・【上弦一号】!? でも、あの衛星付近に他の衛星なんて!?」
オペレーターが上ずった声を上げる。
衛星軌道上。
映し出されたのは近頃打ち上げられたばかりの衛星だった。
【まぁ、機密と言った意味がこれで君達にも分かるはずです。とりあえず、此処まで見せた以上、出し惜しみしてもアレです。上弦一号のカメラ映像でも見せておきましょう】
映像が切り替わる。
更に発令所内でどよめきが起こった。
「―――この衛星は・・・」
思わず呟いたオペレーターに丘田が笑みを崩さずに続ける。
【日本政府が所有する秘密裏に打ち上げた太陽光発電衛星『天照(あまてらす)』です】
「あま・・・てらす?」
【ええ、ちなみにJAXAと自衛隊の技研と民間の三者が作り上げた傑作と言い添えておきましょう】
「そんな、こんな大規模衛星を秘密裏に打ち上げられるわけ・・・」
『天照』と呼ばれた衛星は映像の中で数百メートルに渡って薄い銀色の幕を広げていた。
これ程の規模ならば、公式に打ち上げを行わなければならないと誰にも分かる。
それを日本が秘密裏に打ち上げるなんて発令所の中の人間には殆ど不可能に思えた。
【ああ、色々と裏技を使いました。そして、技術大国日本の底力でもあります。要はピギーバックペイロードを上手く活用したんです】
「まさか相乗り衛星で!? いや、そんなはず・・・あれはせいぜいが一メートル以内・・・!?」
オペレーターの言葉に発令所の内の何人かが『天照』の打ち上げ方法に気付いた。
【頭の回る方が何人かいらっしゃるようですね】
丘田が苦笑しながら解説し始める。
【ええ、発令所の方の何人かが気付いた通り、この衛星は複数の小型衛星の連結により形作られています】
丘田の言葉と共に衛星の細部がカメラに映し出される。
よくよく見れば銀色の幕を張る衛星が幾つも幾つも存在していた。
【我が国が他国の衛星をロケットで打ち上げて儲けているのはご存知の通りです。年間を通して二十件から三十件にも及ぶロケット打ち上げで我が国は数千億以上にも及ぶ売り上げがあります。小国から大国まで受注は幅広く。価格設定も他の国に比べればリーズナブルと言えるでしょう】
「他国の衛星の打ち上げと同時に相乗り衛星を打ち上げてたんですか!?」
【そんな非難されるような事はしていませんが? ほんの少しロケットに秘密の部分を持たせて、乗せられる重量を少なく見せかけただけです。高度な軌道計算を自立して行い移動する小型衛星というのも中々乙なものですよ】
サラッと恐ろしい事を告げる丘田にその場の誰もが自分達の置かれている立場を意識した。
【相手国からすれば、些細な話でしょう。日本のロケットは並だなんて近頃は言われていますが実際にはちょっと未来に片足を突っ込んでいるくらいの技術力があって、その差分に時の内閣の一部や総理達が夢と希望と埋蔵金を積んだだけの事です。官僚に喰い散らかされる金ならば、こういう使い道があってもいいとは思いませんか?】
「・・・・・・」
その衛星が発電衛星なんて名ばかりだとオペレーター以外の他の自衛官達にも理解できた。
秘密裏に打ち上げられる衛星。
それは時に最強の兵器を意味する。
仮に発電能力だけを備えていたとしても他国に対し膨大なアドバンテージを有しているのは変わりない。
国際的に知られれば非難は免れない事実だ。
【米国や露西亜のように核やそれに類する殲滅兵器でも載せようかという案もあったらしいですが、日本はそういう選択をしませんでした。あくまで軍事転用できる能力しか載せなかった、というか載せたくなかった技術者達や政治家達は素晴らしい道徳心の持ち主だったと思いますよ?】
発令所の中で沈黙が広がる。
今正に日本が戦争になるかどうかという事態の最中に・・・自分達が予想よりも遥かに難解な世界に引き込まれたのだと彼らは理解した。
【ここまで言っておいて何ですが、これからもあなた方と長い付き合いになると思います。正式な辞令はまだですが、出向を解かれ特別顧問として自衛隊に戻り『こういう現場』の指揮を取る事になると思いますので、どうぞよろしく】
暗にこれからこの部署を乗っ取ると宣言した丘田の声に誰も何も言えなかった。
日本側の対応が後手に回っていると思っている者達は道化が静かに刃を研いでいる事を未だ知らずにいた。
*
【黒い隕石】騒動以後、台湾が中国に殆ど併合されている事は公然の秘密として扱われている。
騒動時、貿易航路の麻痺によって滅びかけた台湾が中国の瓦解と混乱の中で沿岸部の軍閥と手を結んだのが始まりであり、その後軍閥の後ろ盾で政治経済と市政を守り切る事が出来たのは皮肉の極みだろう。
中国国内の混乱に見切りを付けた富裕層や統治者層の大量流入が台湾を中国の頭脳という地位にまで押し上げたのは一部のアナリスト達からすれば当然の事だった。
如何に中国から独立していたとはいえ、それでもやはり中国と台湾は切っても切れない関係だった。
今も各軍閥の上層部が香港やマカオよりも台湾に家族を置く事実からも、その歴史的な流れは裏付けられている。
領土拡大に凌ぎを削る各軍閥が台湾に対しては無干渉を貫いているのだから、【中国国内】で最も安全な地域と言われるのは当たり前だろう。
そんな台湾北部沿岸地帯。
パトリオットの暴発に地形が変わりつつある一帯は夕闇の中で煙に覆われていた。
到る所で配備されたミサイルが暴発。
付近に展開していた部隊の大半は巻き込まれて散り散りになっている。
そんな中で正規軍に配備されているアサルトライフルが火を噴いていた。
銃声。
怒声。
悲鳴。
嗚咽。
混沌とした領域内部で同士討ちが複数発生し、バタバタと人が倒れていく光景は悲劇を通り越して喜劇的ですらあったかもしれない。
「――――」
今正に死んでいこうとしている配備部隊の一人が血に濡れた眼球の先の光景に違和感を覚えて、それを発声する前に頭部が吹き飛ばされた。
【兄さん。あっちの方は片付いたみたいだよ】
【ああ、そうらしいな】
沿岸部に蔓延する煙が緩やかに滞留しながらおかしな形を描いた。
煙で薄暗いとはいえ、何も無い場所で煙が一人手に形を変えていく。
【姉さん達は大丈夫かな】
【中国本土の沿岸部でも爆発が確認された。多少、時間を食っているようだな】
【それ便利だよね。僕も兄さんみたいに頭に埋めてみようかな】
【止めておけ】
軽口を叩き合いながら煙の中を『彼ら』は進む。
姿がまるで見えない。
それが最新鋭の光学迷彩機能を搭載したスーツだと気付くものは辺りに誰もいない。
【それにしても歯応え無かったね。連中】
【確かに・・・だが、その問いへの回答はすでに出ている】
【へ?】
未だ周辺の木々が燃えている一角で大量の屍が倒れ臥している。
その中に足跡を付けながら、兄さんと呼ばれた方が死体の一つを仰向けに転がして服を剥いだ。
【見ろ】
【・・・刺青?】
怪訝そうな声。
背中に黒い星のような刺青があった。
【そうだ。現在の中国国内で特定の人間にだけ与えられる刺青だ】
【特定の人間って何さ?】
【黒孩子(ヘイハイツ)だ】
【それって確か・・・一人っ子政策とか何とか言うやつの?】
【中国最大の汚点にしてその産物。人権の無い者達。未だ人口の四割を占める無戸籍の連中だ】
【どういう事かさっぱりなんだけど】
【オレ達が戦うべき相手は中国軍閥の精鋭と仮定していたわけだが、もしも敵の中身が擦り替えられていたらどうなる?】
【擦り替え・・・ああ、そういう事!】
【何処の軍閥。いや、何処のどいつがこの方法を考えたのかは知らないが一本取られたな。あのパトリオットも中身は最新という話だったが・・・たぶん半世紀前のガラクタかジャンク品だろう】
【まんまとしてやられたわけだね】
【ああ、どうやら頭の切れる奴が軍閥にもいるらしい。刺青入りという事は何処かの『幇(バン)』が飼ってる連中を使ったんだろう】
二人がその場から離れながら会話を続ける。
【最初からこちらの動きは読まれていたのかな】
【そうだろうな。更に言うなら、たぶんオレ達の部隊の動向は筒抜けになってる。衛星が使えなくても監視する方法なら幾らでもある。戦力分析されてるのは間違いない】
【それにしても、こんな大胆な作戦よく思いついたよね】
【こっちは男が余る世の中だと聞く。兵隊にするだけなら腐る程に人材はいる。正規軍を温存しつつ、こちらの出方を伺う。上手い事考えたじゃないか】
【・・・今頃、報道は何て言ってるかなっと】
死んだ兵隊の体から虚空に小型の端末が浮かび上がる。
『―――現在、台湾及び本国沿岸部において大規模なテロ活動が』
『日本領空より十数機の戦闘機が』
『これは明らかな宣戦布告と』
チャンネルが幾つか変えられてからすぐに電源が切られる。
【どうやら軍閥の連中はGIO(ぼくたち)を無視して時期を早める気みたいだね】
【やられたな・・・帰還しよう】
タタタン。
噴煙の中で浮かび上がる二人分の陰影に向けて銃撃が加えられた。
【どうやら、もう一つこいつらには用件があるようだ】
二十メートル以上離れた場所から数人の人影が絶え間なく銃撃を見舞い始める。
【・・・僕達を此処に足止めする理由なんて・・・まさか?】
【GIOの裏方半分が出払ってる。残りはバックアップと非戦闘区域内で警備する人間だけ。日本支社に連絡を取ろうにもどうやら無線は封鎖されたらしい。応答が無い】
【どうする? 兄さん】
【まずは分散している兵をまとめる。予備戦力を何処に隠していたかは知らないが、撤退戦ならお手の物だ】
【中東で活躍してたものね。兄さんは・・・あ、もしかして大きい姉さんはこれを見越して?】
【さてな。あの人のサプライズ好きにも困ったものだが、とりあえずは合流しよう】
銃撃を受け続ける二人の間から上空に閃光弾が打ち上げられる。
緑色の閃光が放たれると同時に沿岸部では局地戦が開始された。
何処からともなく現れる中国軍閥非正規軍と姿の見えない襲撃者達との戦闘が終わるのはそれから数時間後。GIO日本支社への大規模爆破テロが敢行されたとの報は翌日の新聞二面端に載せられる事となる。
世界中の一面が「日中軍事衝突か!?」の見出しで賑わうのはまだ十時間以上先の話だった。
*
十二機のスーパーホーネットが武装を使わず速度だけのチキンレースを繰り広げている頃、一人一群から離れた地点を順調に飛行していた田木宗観は自分の後方に自衛隊機が付けて来ているのを察知していた。
【どうする。この装備じゃ日本の空自の機体には太刀打ち出来ないが?】
雲に紛れているらしき航空機の機影がチラリと見えた時点から田木はアズと交信を続けていた。
【そもそも戦う必要があるならね】
【・・・空自にも何か起きているのか?】
【そうみたいだ】
異常を察知した田木の言葉をアズが肯定する。
【航空自衛隊の各基地にこれ以上スクランブル機を上げないようにとのお達しが来てるみたいだ】
【どういう事だ?】
【今、防衛省のサーバーに侵入してるんだけど・・・どうやら中国と台湾で大規模な軍事行動が確認されたらしい。今、幕僚会議は喧々轟々。こちらの件も含めて情報が錯綜してて統制が乱れてる】
【一体何が起こっている?】
【内閣が緊急招集されてて、えっと・・・関東で未知のウィルス騒ぎや遊園地テロ。台湾と中国沿岸部でもテロらしき爆炎を確認? それから黄海に空母が四隻集結中・・・それに重なって僕達の件も触れられてるね。えっと、このままだと中国を無駄に刺激して戦争状態へ一気に突入・・・空自の保有する『ECM spreader』で撃墜命令を・・・まずいかな】
【とりあえず状況を整理してくれ】
【情報を整理して僕の推測を加えると現在の状況はこうだ。中国と台湾で沿岸に展開されていた軍に対し、大規模なテロが起こった。日本の関東地方でもBC兵器と思われるウィルスによるテロや遊園地でのテロが起こった。
中国軍閥はこれを日本の自作自演の謀略と言い張っていて、いつの間にか黄海に空母四隻を集結中。日本から軍事攻撃が行われたという確証を得ると同時に侵攻を開始する、らしい。
そして、日本は外交ルートで協議の場を設けると言ってるけど、相手は聞き入れる状態に無い。日本政府内では逆にこれは中国の謀略だという意見が大勢を占めているものの、外務省が戦争回避の努力に全力を尽くしている最中。防衛体制を【整える準備】は野党との諸々の事情で・・・三日後?】
【・・・とりあえず言わせてくれ】
【何だい?】
【もうこの国の政治家は滅んだ方がいい】
【はは、昔の人間もよく言ってたよ。あの暗殺された首相を指して『ああ、この国の政治家もうダメぽ』ってさ】
【笑い事で済ませたい。ああ、本当にな】
【ちなみに現在のGAMEの状況は最悪だ。まだ幕僚会議からGOが出てないけど、この状況だと日本側が悪者になるのを避ける為に日本領空内で全機撃墜は固いだろうね】
【『ECM spreader』か。風の噂に聞いた事はあるが実用化されたのか?】
【日本の航空技術者は少ないが民間の力は最高って話さ。『心神改三型』のアップグレードパッケージとして極秘裏に運用開始されてたみたいだよ】
【・・・敵航空機の電子兵装だけを停止させる航空機搭載型の小型高性能ECM装置・・・そんなものが都合よく創れるのは日本かアメリカだけだと友人が冗談交じりに言っていたが・・・】
【さすがに僕もこれはまだ先だと思っていたけど・・・傍受した限りじゃ、運用の為の設備はもう構築が終わってるみたいだ。何処から電源を持って来るのかって問題も解決済みらしい】
【どうする?】
【本来なら事前の作戦でそれなりの戦績を出せるはずだったけど、さすがに戦争の引き金を引かせられるのは癪に障るよ。この状況を終わらせる方法は二つだけだ】
【一つ目はこのGAMEの勝者を出さずに終わらせる事。つまり日本領空内で全機撃墜、もしくは不時着】
サラリと己の死が語られるのを田木は静かに聴いていた。
【二つ目は機体が殆ど撃墜もしくは不時着させられたという事実を作った上で少数機がゴールする場合】
【それでは引き金になるのではないか?】
【自作自演の為に十数機の航空機を自分で撃墜するなんて馬鹿な真似をしてから戦争を始める馬鹿なんていないと思うけど】
【それは・・・】
【つまり、中国側が言い掛かりを付けていると世界に印象付けられれば開戦の口実としては弱いのさ】
【だが、どうする? 現実としてサイドワインダー二発で出来る事には限界がある】
【一番現実的なのは空自に協力してもらう事なんだけど、まず無理だろうね。しかも、もう無線封鎖で上からの指示すら暗号化された緊急回線を開かない限り届かないようになってる。緊急時の回線を警戒レベルが上がってる今ハッキングするのは無理だろうし、政治家連中に話を持っていっても今の僕の肩書きからして、それはまずい。官房長官はウィルス騒ぎで関東にいないから現場に口出しできる状況じゃないよみたいだしね】
田木は無言で機体のアニュアルをキャノピーに呼び出す。
明るくなった機内で次々にスペックを調べていくものの芳しい情報は出てこなかった。
【調べ物はそこまでにいておいた方がいいよ】
【?】
【GIOも意地が悪い。衛星軌道からの映像でもハッキリと光が確認できる】
【GAMEの最中にマニュアルを見ているような人間は目視で確認、撃墜されるわけか】
【ああ、そういう事なんだろうね】
田木が溜息を吐いてキャノピーに映していた情報を切ろうとして―――止まった。
【どうかしたかい?】
第一ポイント通過機体確認。
キャノピーが僅か輝き、一位通過のチームの情報を継げた。
【・・・賭けになるが、一つだけ方法が思い浮かんだ】
通信越しにアズが驚いた様子で息を呑む。
【この状況を打破するのは僕の役目かと思ってたんだけどな】
【可能性は低いが、試してみる価値はある】
アズが田木の真剣な声に沈黙したのは数秒。
【いいよ。やろう。どちらにしろ・・・後何時間もせず日中開戦になるかどうかだ。試せる事は全てやらないと】
【自衛隊機の詳しい座標が知りたい】
【了解。すぐに知らせる】
交信が途絶えた機内で田木が夜空を見上げる。
満点の星。
いつか本当に飛んでみたいと願った空。
その空に誰かを殺す為だけに戦闘機が飛ぶ光景なんて田木は望まない。
平和ボケした一人の日本人として田木が望むのは見上げた少年がいつか飛びたいと願えるような空。
爆弾の雨も弾丸の雹も無い空だった。
空は人の心。
瞳を曇らせる戦いの嵐を田木はその目で幻視する。
「国を守る為に今も貴方は・・・」
いつか再び会ったら心の底からあの男に言えるよう。
この空は素晴らしかったと語れるよう。
田木はコントローラーに力を入れた。
日本領海に向けて航行する空母に何が乗っているのか。
未だ誰も知らない。
『父様。掌握完了しました。はい・・・いつでも発射可能です』
レーダーマストの上で一人白い少年が呟くと操作する者のない無人の艦橋で武器管制装置が動き出す。
空母に追随するようにソナーには幾つかの原潜の姿が映し出され、もはや一刻の猶予も日本には無いのだと告げている。
ICBMの四文字が交信中の画面(ディスプレイ)には躍り始めていた。
理想とは諦めるものではない。
まるで老いた鳥のように堕ちていくものだ。
後悔よりも先に、苦悩よりも先に。
食い潰されようとする雛がまた一羽。
第三十五話「墜落者」
それでも飛び上がろうとする者もある。
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第三十五話 墜落者
第三十五話 墜落者
朝居・インマヌエル・カークスハイドはスーパーホーネットの中、押し潰されそうなGに堪えながらコントローラーを握っていた。
ラテン系の顔立ち。
細長ながら高い背。
色の薄い赤毛には小さな十字架の髪留めが一つ。
その灰色の瞳には最先頭を行く数機が映っている。
(大丈夫。大丈夫。大丈夫。絶対に・・・絶対に・・・)
ナンバー4。
チームSHEEP。
宗教関係者だけを集めて作られたGAMEの為の生贄。
それがマヌエルのいるチームだった。
GIOの主催する非合法GAMEの参加にはかなりの大金が動く。
参加したい者は多くいるが、参加するのがただただ強いチームだけになってしまえばGAMEは硬直してしまう事にもなりかねない。
結果の分かりきったレースでは賭けの対象には向かない。
だからこそ、GAMEには波乱と華が必要とされ、それを演出する専門のチームを作る者達がいた。
彼らは賭けの対象として面白い素材(にんげん)を寄り集めてチームを作り、GIOに提供する事を商売としている。
そして、過去最大のGAMEに出品する作品としてマヌエル達を地獄に放り込んだ。
マヌエルが知る限り、チームの誰もがGAMEに参加したくてしているわけではない。
止むに止まれぬ事情を抱え、それを何とかしてやるとの甘い囁きに乗ってGAMEへと身を投じたのだ。
契約書は悪魔との契約にも似て恐ろしいものだった事を今もマヌエルは覚えている。
遠回しな表現で糊塗されていたものの・・・それは人間を人間とも思わぬ所業をグダグダと連ねた呪いの紙だった。
それでも命を賭けてマヌエルはGAMEに参加した。
同じチームの仲間達が第一GAMEで怖気づき、次のGAMEに出たくないと喚き散らし、互いに罵り合う中で、それでも最初に手を上げた。
彼女を罵る者、彼女に感謝する者、彼女を恐ろしげなモノを見るような目で見た者。
多くの視線の中でマヌエルは自分が為すべき事を為す為にホーネットへと乗った。
最初から戦闘機を上手く使う事なんて出来ないのは承知していた。
行けば八割方死亡するだろうとも思っていた。
それでもマヌエルは行かないという選択肢を持ち合わせなかった。
彼女には自分の命を賭けても欲しいものがあった。
嘗ての恩師に銃を売ってくれと、神と信仰すら捨てても守りたいものがあると、そう懺悔して形振り構わず来た道だった。
戻るなんて考えもしなかった。
(ぅ・・・く・・・)
飛行場を飛び立ってから一時間以上。
圧倒的なGに肉体は悲鳴を上げている。
ブラックアウト寸前。
そんな加速の中で辛うじて精神力だけを糧にコントローラーのボタンを押し続けて現在位置は5位。
待っているチームから報告される情報に唇を噛み締めて、加速を解かないまま前の機体の後方に付けて何分立ったのか。
目まぐるしく彼女の前で順位を変えながら競い合っている数機にマヌエルは悔しさにも似た気持ちを持つ。
たぶん、彼女の前を行く機体の中にいるのはGAME本命チームの人員で・・・彼女達を引き立て役として使うだろう側だった。
マヌエルは他のチームの事なんて何も知らない。
もしかすると同じような境遇の人間だっているかもしれない。
そう考えてみても、やはりマヌエルにはその心の澱を拭い去ることは出来なかった。
追い詰められてもいないのに、金の為にこんな非人道的なGAMEに身を捧げる。
勝手だと分かっていても、本命達のデッドヒートがマヌエルには浅ましく見えた。
(・・・それは私も同じかもしれない。でも・・・)
本命達の求める場所にただ金だけが置いてあるとすれば、自分とは違うとマヌエルは思う。
とても身勝手で傲慢な物言いだとしても、誰かの為に求められない人間に負けたくない。
そう心の底からマヌエルは思った。
「・・・?」
キャノピー越しに見える空に不意な違和感を覚えて、マヌエルが左側の夜空に目を凝らした時だった。
コックピット内部で周辺から火花が散った。
「なッッ、何ッッッ!?」
その答えが出る前にキャノピーに機体状況が赤く表示される。
機体の一部分、マヌエルは知らなかったが電子兵装の中枢が完全に非常事態だった。
その結果は即座に現れる。
「そ、操縦が効かない!? う、嘘!?」
素人にも操縦できるよう煩雑で細かい機体調整を全てセミオート化していたGIOご自慢の機体が辿る末路は一つしなかった。
急速に安定を失った機体はそのまま墜落を始める。
「ど、どうしよう!? どうすれば!? あ・・う・・か――」
思わず祈ろうとして、それすら今の自分には資格が無いのだとマヌエルは咄嗟に口を噤んだ。
彼女は知らない
自分の機体以外にも周囲を飛んでいた全ての機体が同じ憂き目に合っている事を。
一機を残し、全ての機体が行動不能となったのは領海の接続水域ギリギリという場所においての事だった。
*
横田飛行場内、航空総隊司令部。
発令所。
本来ならば座っていなければならない人間がいない中央の椅子。
そこに鎮座するディスプレイの中でガタリと丘田が立ち上がっていた。
【どういう事ですか!?】
事態は不透明極まりなかった。
無線封鎖していたスクランブル機によって命令も出ていないのにほぼ全ての正体不明機が撃墜されるという事態に慌てていたのは何も丘田だけではなかった。
「き、機体からの信号を受信!! 『心神改三型』全機の『ECM spreader』発動を確認!!」
【何を戯けた事を!? アレは電源無しには動かないはずでしょう!!】
「どうやら機体に積まれている緊急時用のバッテリーに接続して使用したようです!! 本来は広範囲をカバーする為の装置ですが、範囲を縮小すれば限定的にですが、使用は可能かと」
【とにかくです! すぐに回線を繋いでください!! 無線封鎖を解除!!】
「は、はい」
丘田は内心で何が起こったのか思案しながら各所への命令を飛ばす。
本来、この状況は想定されていたはずのものだった。
そもそも中国軍閥にGIOのGAME情報を流したのは丘田だ。
軍閥とGIOの不和。
そして、日本から中国領内へと飛び立つ正体不明機を餌に日本の様々な状況を動かすのが【第十六機関】のシナリオだった。
幕僚会議が混沌としている間に現場の指揮権を内閣官房長官である安藤が自衛隊出身者である丘田に一任させて、なし崩し的に自衛隊内部への発言力拡大を目論んだのは目的の一つに過ぎない。
一見して日本が直面している中国軍閥との戦端を切る行為である第二GAMEだが、丘田は『心神改三型』でGAMEの機体を撃墜するつもりはなかった。
それはGIOをある意味で信じていたからに他ならない。
現在進行形でGIOが中国軍閥との戦端を切らせるはずがないというのが丘田の見解だった。
それは第二GAMEが始まってからのGIOの動きからも明らかで丘田に確信を齎した。
中国軍閥にはGAMEを止める理由こそあれ、GAMEを出汁にして戦端を早める理由はない。
そもそもがGIOがいなければ中国軍閥にしても戦争は困難な道なのだ。
それを知っていたからこそ丘田は軍閥にGAMEの情報を流した。
丘田にしてみれば、軍閥が沿岸部にパトリオットを配備したのは想定の範囲内。
それをGIOが阻止するのも想定の範囲内。
丘田にとっての問題は中国軍閥がGAME内容を知らずに「日本の侵略行為」が始まったと誤認する方だった。
軍閥内部は一枚岩ではない。
だから、情報を流す時も各軍閥が先走らないように平等に薄く情報を流した。
事態を察知した各軍閥とGIOの折衝が戦争への準備期間を逆に長くする結果になるはずだと丘田は予想し、実際その流れに軍閥とGIOは乗せられていた。
つまり、丘田の航空自衛隊内部での工作は部署への侵出以外では【GAMEの機体を無事に日本国外へ送り出す事】にあった。
後手に回っていると見せかけて、実際には盤面を転がし、第二GAMEという一手を己の巧手として仕掛ける。爪を研いでいたのは何も自分達だけではないと後からGIOや軍閥に思い知らせて警戒感を与えれば抑止力としても成り立つだろう。
そう考えたのだ。
安藤が雇ったフィクサーのチームがGAMEに勝つか負けるかは戦争の鍵を握る重要なファクターでこそあったが、大局的にはGAMEに負けても構わないつもりで丘田は策を巡らしていた。
だが、此処に来て計画には狂いが生じている。
その理由を握るパイロットへの通信が回復した瞬間。
丘田はオペレーターの声を遮って、直接回線に割り込んだ。
【どういう事ですか?】
【何だ? オペレーター・・・ではないのか?】
【こ、こちらは現在指揮を取ってい――】
慌てたオペレーターの声を丘田が遮る。
【私が現在の指揮権を預かっている者です。それよりも質問に答えてください。どうして『ECM spreader』を発動させたのですか? これは明らかな命令違反ですよ】
【・・・近づいてきた正体不明の機体が一機。我々にとある手段で情報を伝えてきた】
【どういう事です!?】
【そ、そんな!? レーダーには何も映っては!?】
オペレーターが丘田の声に報告を怠ったのかというニュアンスを感じ取り、全力でディスプレイに首を横に振って否定する。
【彼は言った。『このままでは戦争になる』と。我々に力を貸して欲しいと】
【どういう・・・彼の通信をこちらだけに回して秘匿回線に切り替えを】
【え? あ、はい!!】
即座に回線が秘匿回線へと切り替えられる。
丘田がsound onlyの画面から聞こえてくる声に耳を傾けた。
【では、まず訊いた事を教えてください】
【彼は元自衛官で現在日本の為にとあるGAMEに参加させられていると語りました。このまま機体を全て行かせれば戦争になる。だが、自分がゴール出来なければ戦争は回避出来ない。故に他の機体を墜落させる手段を持つ我々に手伝って欲しいと】
【俄かには信じられない話ですねぇ。無線封鎖の状態で・・・一体どんな通信手段を?】
【・・・・・・モールス信号です】
【はい?】
思わず丘田が聞き返す。
【我々に近づいてきた彼はキャノピーに映る光の有無で我々にコンタクトを取ってきたのです】
【・・・正気ですか?】
丘田の呆れた声に無線越しの声が苦笑した。
普通ならば、まず在り得ない。
馬鹿な話だった。
【実は自分が一番驚いていますよ】
【・・・自衛官としてあるまじき行為だと自覚がありますか?】
その言葉に声の主はポツリと呟く。
【昔のよしみでなければ誰が信じるものか・・・】
【どういう事です?】
【あの男の名前を自分の前で出す正体不明の戦闘機なんて馬鹿げたものでなければ、信じませんでしたよ】
声が続ける。
【自分の友人があの機体には乗っていました。こちらの事は分からなかっただろうが、それでもアレは彼だった】
【友人? 本当に貴方の友人が乗っていたのですか? 名前を教えてください。すぐさまに照会します】
【田木・・・『田木宗観』・・・自分が知る限り、自衛官の鏡のような男です】
丘田は口を噤んだ。
まるで世間は狭い檻のようだった。
GIOとの契約の破綻。
その契機となった男の名前に丘田は溜息を吐いた。
*
GIO管轄の滑走路脇の建造物一室。
三台のノートPCを猛烈な速度で叩いているアズを久重とソラは関心した様子で見ていた。
その脇で虎(フゥ)と了子がアズに大人しくしているよう言われた為、シュンとなっている。
無論、了子は見せかけだけでまったく反省などしていなかったが。
「スパコンも無しに政府機関の情報操作が出来るようじゃ日本もお終いだな」
「生憎とレーダー関係は現在GIOが妨害しててやりたい放題出来る環境だよ。さすがに一番気を使ってる通信まではこの状況じゃ無理だけどね」
まったく目を向けずにアズが軽い調子で応じる。
アズのやっている情報操作の高度さに驚いているソラは三台のPCによって作り出される虚妄の檻とでも言うべきデタラメな情報の数々に汗を浮かべた。
「これ・・・中国のも・・・」
「あっちは金で物は揃えてるけど各軍閥の使ってる機材の統合性が無かったり、使ってる人間の質が均一じゃないから情報管理は僕からしてみれば穴だらけだよ」
「「・・・・・・」」
二人が黙り込む。
実際、個人で国レベルの機関を手玉に取る在り得ない存在が目の前にいると思うと二人はアズが味方で本当に良かったと内心出会いの神様に感謝した。
「こ、これで一位ゴールは確定したわけだが・・・これから田木さんをどうする?」
「それは中国の友人に頼もうかと思ってる。今、GIOと軍閥の動きがおかしい」
気を取り直した久重の言葉にアズが答える。
「どういう事だ?」
「あっちのマスコミなんかが戦争を煽ってるとしか思えない報道を繰り返してる」
「何?」
「報道に軍閥からの規制が入ってないっぽいね。GIOの中国現地法人も軍閥とゴタゴタしてて、ゴール地点の上海で参加者確保の準備が難航してる」
「仲間割れでも始めたってのか?」
「コレは・・・たぶん、戦闘状態に入ってる。衛星の映像を画面に出すよ」
唯一飛んでいる田木の機体の映像が分割されて、片方に新たな映像が映し出される。
それは上空からの写真。
砂漠地帯が広がる一角がズームされていき、上海の高層ビル群が見えてくる。
角度を補正したカメラが即座に都市部の一角を映し出した。
「・・・今サラッと流したが、これ何処の衛星だ?」
「アメリカがこっそり使ってる奴の映像をちょっと拝借してる」
アメリカの軍事衛星。
しかも、極秘の軌道にあるのだろうソレの映像をちょっと拝借出来る能力に脱帽しながら久重は画面に映る散発的な輝きを見つけた。
「銃撃戦か?」
「そうみたいだね。やりあってるのは沿岸軍閥の一つとGIO中国、上海支部の連中だ。ビルのマークに注目してみればいい」
ライブ映像の中に更に小さなウィンドウが現れた。
火花が散っている駐車場の横。
ビルの側面の画像が抽出される。
そこにはGIOとの文字があった。
「どうしてこんな抗争に発展してるんだ?」
不可解な顔で久重が首を傾げる。
「軍閥はどうやらGAMEでの僕達とGIOの契約を知ったらしいね。今、アメリカの盗聴してる会話を傍受してみたけど【裏切り者が】との声が現地で飛び交ってる」
「いや、それにしてもおかしくないか? こういう状況は上で話し合いを持つもんじゃないのか?」
「確かに・・・僕も少し、この状況には違和感を覚える」
アズがPCに目を貼り付けたまま続ける。
「軍閥とGIOは言わばビジネスパートナーだ。確かに裏切りにも等しい僕達との契約は軍閥にしてみれば見逃せないものだけど・・・明らかにGIOを潰す気で戦闘を仕掛けるなんてのは普通じゃない。というか、報復にしても度が過ぎてる。これじゃ、契約を無かった事にしてくれとの交渉だって出来やしない」
「つまり、軍閥がGIOを見限った・・・?」
「いや、それは普通なら在り得ない。そもそもこの日中開戦はGIOが音頭を取ってる。軍閥側のデメリットが多過ぎるよ」
久重が画面の映像に瞳を細める。
「GIOを見限るデメリットよりもメリットが上回ったら在り得るって事?」
その何気ないソラの一言にピタリとアズが静止して、考え込んだ。
「軍閥に変化が起きてるとすれば、その変化は・・・何処にある・・・何処に・・・」
アズの指がもはや視認も難しい速度でキーボードを叩き始める。
「・・・コレだ」
アズの声と共に二分割されていた画面が更に四分割となる。
「これは例の空母か?」
「ちょっと事態が緊迫し過ぎて見落としてたよ。そもそも空母だけが四隻なんて運用上在り得ない。というか、日本を脅す目的にしても展開が速過ぎる」
「!」
久重が始めて気づいたように衛星からの映像に見入る。
確かに空母だけが四隻というのは運用上おかしいものだった。
「それとこの緊迫した状況にも関わらず、この空母の群れは全速力で日本領海に近づいてる。明らかに挑発や警戒の動きじゃない」
「今のところ、軍閥の動きで『メリット』に換算されそうなのはコレだけだ。これがどういうメリットに繋がってるのかまでは分からないけどね」
「空母・・・原子力・・・核・・・までは考え過ぎか?」
アズが「まさか」と僅かに顔を強張らせる。
「情報が足りない。そもそも核で日本を蹂躙する程に軍閥は追い詰められてはいないはずっていう前提に僕らは立ってる。それが間違ってる。あるいは何かを見落としているとすれば話は違ってくるかもしれないけど」
「・・・空母だけならまだいいが、原潜とかに関してはどうだ? 何か動きはないか?」
アズの顔が渋くなる。
「生憎とそっちは殆ど情報が入ってきてない。完全に行方を暗ませてる。数日前から殆どの原潜が出港してるとの情報はあるんだけど・・・現在進行形で中国の原潜がどうなってるのかは僕の情報網じゃ殆ど分かってない。ちょっと空自に訊いてみようか」
教えてくれないだろうなんて野暮なツッコミを久重はしない。
訊いてみるが文字通りであるはずもなく。
数秒で日本海周辺の地図がディスプレイに表示された。
その中には七つの点が光っていた。
「これは?」
「次世代哨戒機P‐X4正式名称未定な最新鋭機の現在位置。対原潜の切り札だ。今まで使ってた奴をアップグレードしただけの代物だけど、数を減らさなかったから能力がアップした分、超広範囲をカバー出来るって触れ込みだったかな。空自ご自慢の一品だよ。第二次世界大戦後も使われてた対原潜哨戒機の正統なる後継。今じゃ三機で太平洋全域をカバー出来る程の性能なんだから中国の三十年遅れた原潜になら十分過ぎる」
「で、電子兵装特盛りのジャンボジェットは何て言ってる?」
アズが数秒で目を細めて溜息を吐く。
「今・・・団体さんが津軽海峡通過中だってさ」
「おいおいおい!? まずいだろ!?」
久重が色めき立つ。
「これはちょっと確かにヤバイかもしれない。中国軍閥と情報操作ばかりに気を取られてたから・・・こっちにまで気が回ってなかったよ。そうか・・・だから、幕僚会議が紛糾してるわけだ。会議内容がICBMに関してじゃ仕方ないね。今にも核を撃つかもしれない原潜が日本を狙ってますなんて日本人には冗談の類だろうし」
「狙いは三沢か?」
「何で津軽海峡なのか。無論、目的は三沢が近いからなんだろうけど露西亜にも近いからね。海自の動きを今見てみたら、接続水域から戦闘機パイロットの回収を急いでるって話と南に回してた原潜を急いで北に向わせてるって話が引っかかった」
「どうして今まで分からなかったんだ? ご自慢の哨戒機が能力不足だったか?」
「哨戒機だって万能じゃないよ。無線を封鎖して深くまで潜られたら見つけるのは難しい。近頃、哨戒機の能力が上げられたのはそもそも年々原潜が技術革新で見つけ難くなってるからだし。それにしても津軽海峡まで来てるなんて。これはGAME前から計画されてたっぽいなぁ・・・」
「そっちはとりあえず置いておけ。裏側の事情は後で調べればいい」
「そうだね・・・」
その後があれればいいがとアズは内心の弱気を隠して続ける。
「米軍はどうしてる?」
「空に気を取られてたけど、もう動き出してるよ。停泊中の空母が八戸を出港したみたいだ。自衛隊も大湊の部隊を動かしてる。原潜側も見付かった事はすでに分かってるだろうし。いつ何が起きてもおかしくない」
二人が深刻な顔で顔を見合わせた時だった。
廊下に続く扉が開いた。
「随分と長いトイ―――」
振り返った久重はシャフが帰ってきたのだろうと叩き掛けた軽口を止めた。
「CEO・・・」
入ってきたのはGIOの特務を取り仕切り、GAMEのMCも努める『亞咲(あざき)』だった。
「何か用かな。ちなみに今の僕は忙しいよ」
その声に振り向かず声だけで応えたアズだったが次の一言に手のキーボード操作はそのままに振り向かざるを得なかった。
「フィクサーであるアズ・トゥー・アズにGIO特務から正式な依頼があります」
それは混沌とした日本の現状を変え得る依頼の始まり。
GAMEの最中に告げられた拒絶し得ない戦いの始まりだった。
*
二つの国の鬩ぎ合いを未だ本当の意味で人々が知らずにいた頃。
世界の裏から送られてきた指令にオズ・マーチャーは古巣の正気を疑っていた。
「・・・・・・」
工作員として長年勤め上げてきたオズにとって日本は最後の仕事場だ。
故に最後くらいは快適な生活がしたいともはや天国染みた贅沢(そこそこに高品質な衣食住)を実現している部屋の中、シャンパンの入ったグラスを片手にツマミをやりつつ、月1000円で日本の邦画見放題という有料サイトでサムライがバッタバッタと倒されていく映画をゆったりと鑑賞していた時だった。
一通のメールが端末に届いた。
「・・・・・・」
その内容を見たオズは殆ど映画の内容も忘れて、下された指令内容を吟味していた。
指令の内容は暗殺。
しかも、普通に考えれば在り得ない相手。
沖縄の米軍トップ。
「オレの知らない内に何が起こってるってんだ?」
不意に電灯が落ちた。
「!?」
異常を察知したオズは慌てる事なく寝台の下に必ず置いてある装備一式を数秒で身に付けた。
硝子が割れる音。
ゴトリと食卓の上に落ちたものを確認するより先にオズは反射的に狭いトイレのドアを開けて身を入り込ませ耳を塞いだ。
直後、爆発。
フラッシュグレネードの類ではなく手榴弾だった。
ドアに仕込んでおいた鉄板が上手く爆発の衝撃を和らげ、オズはドアに吹き飛ばされる形でトイレ内部へと吹き飛んだ。
強か体を打ったものの、五感は全て正常。
数秒の間も置かず外から足音が聞こえた。
それだけですぐ何処の部隊か看破したオズは理不尽な気持ちになった。
米軍の特殊部隊。
ハッキリと言えば海兵隊だった。
まだ殺すとも殺さないとも返していない。
それどころか準備すらしていないというのにこの有様。
メールの監視をされていたのは十分に在り得る可能性だが、それにしても決断が早過ぎる。
溜息を飲み込んでオズがトイレ内部から屋根裏へ続くカバーを拳で吹き飛ばし、懸垂の要領で体を上に引き上げる。
ドアに対して数発の銃声。
しかし、ドアにも鉄板が仕込んであった。
凹みこそすれ貫通はしない。
鍵周りも強固にしておいたオズに抜かりは無い。
いつ何時何処だろうとも逃走経路だけは作っておく。
それがオズのポリシーだ。
裏の業界で長生きしているのはそれなりの理由がある。
相手の常識に沿って非常識な壁を入れておく。
それに相手が手間取っている間に逃げ遂せる常套手段である。
屋根裏に上がったと同時に内側にドアが吹き飛ばされる。
馬鹿みたいにやってくる足音を後にしてオズは屋根裏から更に屋根の上へと移動する。
こっそり大家に内緒で開けておいた蓋を蹴飛ばして、屋根へ転がり出たオズが身を伏せながら素早く狙撃ポイントを睨み付けた。
バスンと鼻先で屋根が弾け、オズは屋根からそのまま地面へと身を躍らせ、両手両足を使って着地する。
体を襲う衝撃もそのままに腰に下げた見かけ上は手榴弾にしか見えないソレを引き抜いて、そのまま地面に叩きつけた。
「!?」
周辺の狙撃ポイント三点から頭と胸と胴体が狙い撃たれる。
二階の階段や通路に押しかけていた数人の目出し帽姿の黒服もアサルトライフルの洗礼をオズに浴びせ始めた。
あわや蜂の巣と思われたオズだったが・・・己に到達する前に消え失せる銃弾を確認して、腰に下げたナイフ二本を投擲した。
素早く投げられたソレが目だし帽二人の首筋を刺し貫く。
【?!!!】
その刃は幾分か錆びたようにボロボロと欠けていた。
【『ND‐P』だッッッ!!! 各自対『鉄喰い(Steeleater)』装備に換装!!!】
男達の怒号に構わず。
オズは全速力でその場から逃走した。
【追え!!! 逃がすな!!!】
銃撃と狙撃が追ってくるのを振り切りながらオズは涙目になって愚痴る。
「ちくしょうがッッ。高かったんだぞ!!」
オズが狙撃と銃撃を受け切ったのは地面に投げ付けた手榴弾のおかげだった。
見かけはそこらで使う手榴弾と代わりない代物。
だが、内部に入っているのは火薬や雷管なんてものではなく『ND‐P』と呼ばれる軍事用NDだ。
『ND‐P』(ナノデバイス・プロテクション)。
撒布したNDによる銃弾防御層の形成能力。
撒布空間内に侵入する金属を解体する事に特化した『ND‐P』はソラが使うNDのイートモードの劣化版とも言える。
NDの能力を限界まで金属の解体に割く為、稼動はせいぜいが起動から十数秒。
更に言えば、NDそのものの量に銃弾の解体量と解体速度が比例する為、少量での使用は出来ない。
一グラム単位で五百万を下らないNDを大量に使う時点でその金額は恐ろしいものになる。
性能は現存する如何なる小火器の銃撃をも防ぐが、コストが高過ぎて使う軍隊がいないという悲劇の兵器。軍事関係者からは金食い虫や【鉄喰い(Steeleater)】と呼ばれる『ND‐P』は殆どの場合が政治家や官僚、資産家や資本家の護衛に使われる言わばセレブ御用達の装備だった。武器商人としての顔を持つオズが己の資産の殆どを『ND‐P』に注ぎ込んでいると知っている者はいない。
「二年分の稼ぎも十秒で消える、か」
オズは全力で疾走しながら近辺の地図を脳裏から掘り出して逃走経路を探る。
懐の端末を取り出して警察に掛けたものの繋がらない。
「確認するまでもなく妨害済みと」
車両が追いかけてくるのは間違いない。
しかし、逃げるられるだけの移動手段が手近には見付からなかった。
「やっぱり車くらい買っておくべきだったか?」
日本の不審車両に対する対策はかなりのもので、安易に偽造免許を使って職質を受ければまず一発でバレる。
そんな理由でオズは緊急時の車両を用意していなかった。
オズの真横をライフル弾らしき何かが通り過ぎていく。
「クソ。こんなとこで銃撃戦するなよ!」
人通りの多い駅までは走っても十分以上。
すぐに追い付かれるのは分かっていた。
オズが走っていた歩道脇の小さな路地に逃げ込む。
腰に未だ備え付けてある銃を引き抜き、息を整えつつ、脳裏で自分を追い詰める的確なシミュレートを開始する。
車両による追跡。
『ND‐P』を抜ける銃弾への即時換装。
位置はとっくの昔にばれていると見て間違いない。
数は圧倒的で個々人の技量は粒揃い。
つまり、包囲された時点で摘む。
「此処は水と安全がただの国じゃなかったのかよ」
愚痴らずにはいられなかったオズは路地裏から道路へと歩き出した。
普通なら自殺行為。
しかし、包囲が完成したら死ぬ以上、オズに取れる方策は一つしかなかった。
(完成前の包囲を食い破る)
車両のブレーキ音と同時にオズが腰に備えて合った四角いブロック上の粘土の塊を道路に投げた。
車両のドアが開き、部隊が押し寄せてくる。
オズは路地横の民家の鍵を銃で破壊して内部に身を躍らせた。
予め腰のベルトから引き抜かれていたスイッチが押される。
――――――――――――――――――。
辛うじて耳を塞いで目を閉じたオズの体が吹き飛ばされた。
「ぐッッッ!!!?」
民家にはブロック塀がある為、この距離でも何とかなると感じたオズの直感は正しかった。
爆発によって民家は半壊しているものの、まだオズの肉体には致命的な傷は無い。
すぐむっくりと起き上がったオズが見たのは・・・めちゃくちゃになっているリビングにひっくり返って気絶している住人達の姿。
「悪いな」
ポケットから逃走資金用のダイヤを住人の手に幾つか握らせて、オズはすぐ道路へと出た。
爆発に炎上した車両が数メートル先に転がっていた。
音を聞きつけたらしい警察のサイレンも聞こえる。
警察が駆けつけるまで数分。
その間に包囲を抜けなければならない。
警察の厄介になれば、地位協定で身柄を渡されるのは必定。
結局は戦い、逃げ切るしかない。
「まったく。こういうのを引退したいと思ってたってのに・・・」
オズが目を細めて、走り出した。
部隊がいるはずの方角へと。
転がり落ちていく事態は誰の上にも等しく戦争という二文字を叩き付ける。
未だGAMEは終わらず。
誰もが祭りに向けて加速する今を急いでいた。
*
【領海接続領域付近】
「へぇ。日本て面白い所じゃないか」
大型クルーザーの上に水死体の如くマヌエルは引き上げられていた。
「――――――」
「遊んでたら美人が釣れるなんてね。ほら、お客さんを運んで。あ、丁重にね」
未だ十五にも届かないくらいの少年が回りにいる厳つい顔の男達に命令し、微笑んだ。
偽りの笑みはやがて真実となった。
危機を前にして怠惰の時間は終わる。
現代の巨塔が紅く染め上がる時。
二人の青年は戦場を目指した。
第三十六話「機動する世界」
攻め手追い、守り手走る。
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第三十六話 機動する世界
第三十六話 機動する世界
永橋風御は今日も今日とて常の如く大金持ちだった。
GIO日本支社。
最上階展望フロアー。
日本において最も高いビル。
その厨房。
邪魔この上ない小さなテーブルが一つ置かれていた。
シェフズテーブル。
忙しい厨房の中を取り仕切る料理長が食事を取る場。
普通のVIPが賭けに夢中となっている間にも風御はお供のセキと共に黙々と運ばれてくる料理を平らげていた。
「かなり、腕上がったんじゃないですか?」
風御がそう傍らで中華鍋を振っている男に話しかける。
「そうか? 自分ではそんな風に感じた事はないが」
三十代の無精髭を生やした男だった。
右往左往している調理師達を尻目に気負った様子もなくコースメニューを淡々と作ってはすぐ横のテーブルに置いている姿は堂に入っている。
「料理長になって何年でしたっけ?」
「かれこれ四年くらいになるか」
「ああ、もうそんなになるのか」
「ああ、もうそんなだよ」
その胸には料理長とバッチが付いていた。
「どうしたの? セキちゃん」
男と会話しつつ、シャンパンを喉に流し込んだ風御は厨房の喧騒をBGMにして落ち着かない様子の少女に首を傾げた。
「う・・・ど、どうして厨房なんですか?」
「え? 料理熱々の内に食べられるのって嬉しくない?」
「う、嬉しいですけど!! そういう事じゃなくて!? どうして風御さんは普通っていうのと縁遠いのかって話です!!」
「普通?」
首を捻って分からないという顔をする風御の顔が憎らしくなって、セキは横においてあるオレンジジュースを一気に飲み干し、捲くし立て始める。
「だ・か・ら!!! GIOにVIPで通されるくらい風御さんが超金持ちなのは分かりました!! でも、金持ちらしくするのかと思えば、いつの間にか厨房に平然とした顔で入っていって、しかもテーブルまで用意させるとか何様なのかと言ってるんです!!」
「超絶VIPの金持ちで料理長の知り合い。ですよね?」
「ん? まぁ・・・知り合いというか恩人というか・・・そんな感じだな」
「そ、そんな感じって・・・」
思わず脱力してしまいそうになったセキは風御と料理長を交互に見つめる。
「料理長さんはその・・・風御さんと長いお付き合いなんですか?」
「ふむ。かれこれ七年ぐらいか?」
「それくらいですかね」
二人が飄々と応えながら、料理を作り、食べる。
「その・・・聞いていいのか迷ったんですけど、風御さんとはどういう類の?」
料理長が微妙に困った顔となった。
「どういう類・・・言わばアレだな」
「アレ?」
「実は俺は地下料理会に雇われていた闇のシェフで風御はその料理を気に入った裏のエージェント。そして、二人の間にはいつの間にか硬い友情が!」
「・・・・・・」
セキが今まで大人に向けていた視線を百八十度変えて白い目で料理長を見た。
「はは、そんなんだったら、どれだけ面白かったか」
風御がゲラゲラと笑いながら、目の前に出されたメインデッシュを頬張り始める。
真面目に答える気の無い大人達にむすっとしたセキだったが、目の前に置かれた如何にも香ばしい香りのする皿の上の芸術に目を奪われ、食事に戻る事とした。
「それで、今回はどれだけ儲ける気だ?」
「ええ、というかもう儲けましたよ。」
「お前には賭博師の錯誤もありゃしないか?」
「勝てる幻想は運の話。負ける現実は確率の話。錯誤に陥るようじゃ賭けなんてしませんよ」
呆れた様子でデザートに取り掛かった料理長に風御が淡々と答える。
「で、今回はどんだけ勝った?」
「単品買いで持ってきたのを全額。それと僕の資産から少し出して、ざっと・・・十一桁くらい?」
思わず口の中の料理を噴出しそうになったセキがグッと我慢して料理を喉の奥に消した。
「―――こほこほ!?」
「そんな勢いで食べなくても。そんなに美味しかった?」
「いや、違ッ!? い、今なんて言いました!? じゅ、十一桁とか言いませんでした!!?」
「言ったけど?」
「い、今まで全然気にしてませんでしたけど・・・風御さんは何の賭けに参加してるんですか!?」
料理長が呆れた様子で振り返った。
「教えても無いのに連れてきたのか?」
「VIPの催しとしか言ってませんでしたから・・・」
「答えてください!!!」
セキにも解っていた。
風御の言う金額は普通の賭け事で出るような金額ではない。
「・・・今日此処に連れてきたのは僕の家じゃ少しセキュリティー不足だからって言ってたっけ?」
「はぁ!?」
「ま、VIPも楽じゃないって事だよ。参加自体は強制だから少し安全な場所で賭け事をしようかって話。巻き込んだ以上は安全くらい確保できるところが良かったから出向いて来たんだけど・・・って聞いてるセキちゃん?」
「つ、つまり・・・公には出来ない類の賭けですか?」
「一応、ね。断るわけにもいかないし、自分だけなら家でやってても良かったんだけどさ」
「今の言い方だと賭けに参加してるだけで命が掛かってるように聞こえます」
「そう聞こえなかった?」
「聞いた方が馬鹿でした・・・ええ、風御さんはいっつもそうですよね!! ええ、そういう人です!!」
「そんな怒らなくても」
困ったように笑う風御にセキはこの人に法律なんてものは何の意味もないのではないかと思った。
「詳しい事は聞きません。だって、聞いても答えてくれないですから」
「分かってきたじゃない。セキちゃん」
「何で嬉しそうなんですか!? もう少し反省してください!!」
「僕が今までの人生で反省したのは一度だけだよ」
「・・・ちなみに何を反省したんですか?」
「友達の選び方」
「もういいです!!」
プリプリと怒りに任せてフォークを魚介類に突き立てていくセキの表情を風御は面白そうに眺めた。
「随分と変わったな。お前」
料理長が風御の表情に少しだけ目を見張り、微笑む。
「そうですか?」
「ああ、出会った頃と比べたらな」
「人間が大きくなったのかもしれませんよ?」
冗談交じりの声に料理長は何も言わなかった。
再び食事へと没頭していく風御とセキを見つめながら、とっておきのワインでも出してこようかと料理長がワインセラーへ向おうとした瞬間、バツンと厨房の電源が落ちた。
「どうした?!」
料理長の声に今まで忙しく動き回っていた調理師達の一人が状況を報告する。
「どうやら主電源が落ちたようです。こちらのブレーカーは落ちてません」
「非常用に切り替えは?」
「・・・十秒で切り替わるはずですが・・・どうやら、こちらも作動してないみたいです」
料理長が調理場の隅に行ってゴソゴソと何かを探し当てるとテーブルの上にゴツンと乗せた。
ボッとガスバーナーの火が点火される。
テーブルの上に大きな蝋燭の姿がゆらりと滲み出した。
蝋燭に火を付けながらテキパキと部下に指示を出していく料理長が風御を真面目な顔で見つめる。
「心当たりは?」
「無いです」
簡潔な答えに料理長が頭を掻く。
「さすがにGIO日本に喧嘩を売る馬鹿は―――」
言い掛けた途端、ビルを振動が襲った。
「地震か!?」
思わずセキを料理長が床に伏せさせた。
そんな状況にも関わらず風御はメインデッシュの最後の一欠片を平らげて立ち上がる。
「此処の耐震性能は震度8クラスの地震でも持ち堪える仕様だったはずですよ」
「―――どこの馬鹿だ!? GIOに喧嘩売って生き延びられると思ってるのは!?」
事態を察した料理長が語気も荒く立ち上がる。
「このビルにこれだけの衝撃を与える時点で相手は軍隊規模。更に言えば、GAME中の襲撃・・・かなりのやり手ですね。ちょっと見てきますから、セキちゃん頼んでもいいですか?」
床に伏せていたセキが慌てて立ち上がった。
「か、風御さん!? 何する気なんですか!?」
「いや、少し様子を見てくるだけ。セキちゃんはまぁ・・・その髭面が似合うダンディーにデザートでも食べさせてもらってて」
「危ない事しないでください!!」
「危ないかどうかはまだ分からないけど?」
「嘘です!! だって、今自分で言ったじゃないですか!?」
「僕はこれでも裏社会の人間だよ? もう分かってると思うけど、かなり危ない組織の人とお付き合いのある身だ」
「で、でも、もう抜けたんですよね!?」
「色々と柵が嫌になってね」
「なら、別に何もしなくていいじゃないですか!?」
「そうもいかないでしょ。此処を襲撃してる相手によっては逃げるルートとか確保しないと巻き込まれかねないし、状況が分からないと身動きが取れない」
セキが真っ直ぐに風御を見上げる。
「風御さんは・・・戦う人なんですか?」
その質問に風御が頬を掻く。
セキの瞳は真っ直ぐで、何処から見ても真剣で、嘘で受け流すには真摯過ぎた。
それでも風御は言う。
「昔は戦う人だった。今は・・・ただのスーパーニート♪」
「何ですかソレ・・・」
この後に及んでもまだ誤魔化されたように感じたセキが涙目で俯く。
「あ~~泣かないで。セキちゃんは笑ってる方が可愛いよ」
「そんなおべっかで誤魔化されたりしません」
頭を撫でようとする風御の手をセキは頑なに振り払った。
「セキちゃんにはまだ本当には分からないかもしれないけど、世の中には絶対的に「どうしようもない事」がある」
「それって・・・・・・」
セキが顔を上げる。
「そう。僕は「どうしようもない」人間を救うのが趣味だ。それはさ・・・本当は・・・ただ僕が『どうしようもない事』から逃げてるからなんだよ」
セキが見上げた風御の顔は今までのおちゃらけたものではなくて、何処か悲しそうな笑みだった。
「昔から何でも要領が良かった僕は・・・大人になる前からどうしようもない人間で、どうしようもない事をしてて、どうしようもない結果ばかりを見てきた。そういうのが嫌になって逃げ出したけど、結局・・・僕自身は何も変わらなかった。君やあの人・・・他の誰かだって助けたのはただ僕が変われなかったから、誰かに変わって欲しいなんて、傲慢な代替行為そのものだ」
「風御さん・・・」
「でも、僕はこの生き方をするようになってから少し気が紛れた。自分は何も変わってないし、逃げてる事にも違いはないけど、それでも昔よりは善人面が被れるようになった」
「か、風御さんは! 風御さんはあたしをた―――」
ピタリと風御の人差し指がセキの唇を封じる。
「これは僕の勝手な我侭で君に対してする最初で最後のお願いだ」
セキが目を見張る。
「どうか君の前では僕に善人面のままでいさせて欲しい」
「――――」
セキの唇からそっと人差し指が離される。
もう、セキは何も言えなくなっていた。
目の前の男が自分の留める言葉を望んでいないと理解してしまっていた。
「セキちゃんに飛びっきりのデザートを頼みます」
今まで黙っていた料理長が頷く。
「じゃ、一時間くらいで戻ってくるから。何かあったら彼の言う事を聞いて仲良くね。セキちゃん」
頭が撫でられ、風御は暗い厨房の外へと歩いていった。
扉が、閉まる。
「・・・・・・あいつは昔」
料理長が言い掛けた時、セキが首を横に振って声を遮った。
「あたしは風御さんに助けられて此処にいます。風御さんと一緒に暮らしもしました。だから、それは風御さんが話してくれない限り、聞く必要がない事です」
「・・・そうか」
「はい。風御さんは嘘吐きで誤魔化してばかりでロクに仕事もしない超絶的に金持ちでぐーたらなニートですけど・・・悪い人じゃないって、あたしは知ってます」
「悪い人じゃない、か。本人が聞いたら喜びのあまり川にダイブするかもな」
「いつだってヘラヘラして戻ってくるんです。あの人は・・・必ず・・・」
セキの視線はいつまでも扉に向いていた。
結局、一時間後に風御が戻ってくる事は無かった。
*
GIO日本支社。
正面玄関。
戦車三両による砲撃が敵装甲車を貫通していた。
完全なバッテリー駆動の戦車も珍しくない時代。
戦車という文字は地上戦においてあまり重要ではなくなった。
戦争、紛争と名の付く戦いにおいての先進国のスタンスは爆撃機による地上戦力の無力化と白兵戦とも呼べない残存勢力の掃討に特化していた。
山岳部や都市部といった地形での戦いも殆ど機械化された部隊が担当していて、生身の人間が戦線で血を流す機会そのものが少なくなっている。
人間が使われる作戦の殆どは人質の救出作戦や高度な状況判断が求められるものばかりだ。
無人(オート)化された戦場。
そこにあっては優秀な指揮官も優秀な兵士も高度にネットワーク化された通信網で宛がわれた端末の先にある機械を動かす技術者でしかない。
単純作業は機械の仕事。
そして、高度な作戦立案をする人間は少人数でも問題ない。
極度に機械化・効率化された軍隊にはすでに人間の姿そのものが見えない。
最終的に大局を動かす誰かは安全地帯の本国。
そんな現実によって先進国の世論すら戦場での死による忌避感は薄い。
荒廃が著しい後進国地域や紛争地帯、テロが後を立たない第三世界においては人口爆発によって溢れた人間を湯水の如く使って作戦が行われるのも珍しくないが、それは単純にコストの問題でしかない。
人権という言葉が希薄になって久しい荒廃した国では盾と矛は人間であり、力を失いつつある大国や技術先進立国では機械がその役を務めている。
そんな構図がGIO正面玄関でも繰り広げられ、死体の山が積み上がっていた。
何処から調達してきたのか。
数台の装甲車両と数百人以上の兵隊。
大隊規模の人数を相手に戦車三台は広大な駐車場を走り回りながら敵兵力を掃討している。
【てぇええええええええええええええ!!!!!!】
一斉に放たれたRPGの弾体が正面玄関で弾けた。
閃光。
第二射、三射と火力が集中され続ける。
爆炎が膨れ上がり、夜のビル壁面を紅で染め上げた。
正面玄関の緊急用シャッターが赤熱し罅割れる。
しかし、明らかに突破できていない。
【隊長。準備完了との事です】
戦車の相手をしている部隊から幾分離れた場所を走る男達の一隊から声が上がる。
【分かった。作戦の第二段階に移行する】
【了解】
今までの交戦が嘘のように部隊が下がっていく。
戦車が追撃しつつ殿に喰い付こうとした時だった。
不意に戦車の動きが止まり、一瞬後・・・各車の側面が吹き飛ぶ。
【ECMの作動を確認】
止まった戦車などいい的。
ECMによってオンライン操作を凍結され、自動に切り替わる瞬間を狙い済ました一撃だった。
軍用無線の機器が一斉にショートし、まるで狼煙の如く各隊の間から煙が上がる。
引いていく部隊が夜闇に消えていく間にも消防と警察のサイレンがGIOに近づきつつあった。
それらの撤退する部隊から取り残されるように数十人の男達がその場へ留まる。
【後方へ後退する各隊は主要幹線道路の封鎖を実行せよ】
残っていた部隊の数人が敬礼し、そのまま走り出した。
人が走り、情報を伝えるというアナログ極まりない手法。
しかし、それは最も確実な情報伝達手段でもある。
情報戦激しい現代において情報の撹乱と偽装は常。
情報なくして部隊の統制がままならない以上、常に兵を指揮する者は情報を握っている必要がある。
情報戦争という言葉がありふれて久しい昨今、通信の確保は軍全体にとっての生命線と言える。
それでも限定的な状況下においてはアナログな情報伝達が有効な場合もある。
例えば、あらゆる情報インフラを破壊し、主要道路からのアクセスを断ち、衛星からの電波すら撹乱する事が出来たのならば、最後に残る情報伝達手段は限られる。
【あの方から指定された時間まで後十五秒です】
禿げ上がった頭に小さな弾痕を持つ男が傍らの声に正面玄関を見つめた。
時間を計る機械が全て止まっている状態にも関わらず時間を告げる傍らの兵の報告に彼は疑問を持たなかった。
人間は鍛えれば、決して機械に劣るものではない。
劣悪な戦場において機械化された部隊が決して最上では無い事を彼は知っている。
先進国と後進国が戦場を形成する時、それでも先進国の部隊が苦戦するのはよくある事だ。
幾ら戦場を機械化しても人間という資源を浪費し続ける事で戦い続ける国は後を絶たない。
そんな国に生まれて、機械化された部隊とやりあっても生き残る兵士はいる。
機械に劣りながらも時に機械以上の戦果を叩き出す事が出来るのもまた人間。
だから、彼は、彼らは誰も失敗など疑っていなかった。
己が待っている男の事を知っているからこそ、微かな疑問すら抱かなかった。
果たして、彼らの思いは現実となる。
―――――GIO日本支社正面玄関が内側から爆砕した。
吹き上がる火の粉と煙。
その奥にたった九人のスーツ姿の男達がいる。
中央に立つ男に兵の誰もが敬礼した。
【待っておりました!!!】
現場指揮官である禿げた男が大声を張り上げる。
その声を受け止めた男が頷いた。
【待たせたようだ】
髭を蓄えた四十代。
野性味に溢れる獣よりも鋭い視線。
スーツをはち切れんばかりに内側から膨張させる筋肉。
軍閥統合本部所属。
第四特務大隊隊長。
元民間軍事会社(PMC)最大手軍事顧問。
日系八世の中国人。
『池内豊(いけうち・ゆたか)』
戦争の尖兵である池内が狙う目標は二つ。
【中央電算室及びGAME関係者のいる最上階の占拠を目標とする。では、諸君これよりGIO日本支社の攻略を始めよう。各隊行動開始】
凡そ中国語の会話だけが飛び交う戦場が其処に開かれる。
機械と人間の戦(ほんばん)の火蓋が切って落とされた。
*
GIO日本支社が陸の孤島(せんじょう)に姿を変えていた頃、その現場へと戦闘機が一機向っていた。
一人しか乗り込めない狭さのコックピットには定員オーバーも甚だしい三人の人影がある。
外字久重。
小虎。
ソラ・スクリプトゥーラ。
男一人に少女二人という構図。
どうしてこんな事になったのか。
キャノピーで二人の少女を両脇にしている久重は思い出す。
黄色い髪の少女。
GIO特務筆頭『亞咲』。
そのアズへの依頼は単純にして明快だった。
GIO日本支社が襲われている。
軍隊規模の敵に殆どの裏方が出払っている隙を狙われた。
賭けの参加者達の保護を行ってもらいたい。
依頼を聞いたアズは何も言わず亞先を見つめ、頷いた。
いいよと。
そんな事してる場合かと思わず突っ込んだ久重に対するアズの回答は明確だった。
『僕達に出来る事はほぼ無い。何か干渉出来るのは僕だけ。なら、余ってる君らに任せても問題は無い』
軍隊規模の相手を前にして人の命を賭けの対象にする下種を助ける。
そんな事に意味があるのか。
そもそも襲っているのは何処の誰なのか。
GIO日本支社の現在の状況は。
軍隊規模の敵と渡り合って来いって何だ。
どれもこれも反論として脳裏に浮かんだものの、久重は結局のところ頷く事しか出来なかった。
自分に出来る事には限界がある。
それを理解しているからこそ、久重は己が出来る事を選んだ。
明日、世界が滅んだとしても、久重に出来る事はそう多くない。
明日、争が始まろうとも、それは変わらない。
だからこそ、常の如く。
何でも屋として、久重はその依頼を受けた。
『絶対、一緒に行くから!!!!』
『ヒサシゲ。付いていく』
置いてこようと思っていた少女達が一歩も譲らず、離してくれず、最終的に押し切られた事を除けば、久重は依頼を受けた選択に関して後悔はしていない。
『乗ろうと思えば乗れるかと思います』
最速の移動手段として残っていたスーパーホーネットを与えられたのは予想外。
三人も乗れるかと二人の少女を置き去りにしようとした久重に亞咲は笑って言った。
両手に華なんて羨ましいです、と。
「・・・ひさしげ。怒ってる?」
ソラの言葉に久重は首を横に振った。
「もし、オレがあれ以上拒否してもアズに連れてけって言われてただろ。実際、敵の装備如何によっちゃオレには手が出せない可能性もある。亞咲だっけか。あいつが現地に装備を送るとか何とか言ってたが、それが届くかどうかも怪しいし・・・付いてきてくれて感謝してる」
「ひさしげ・・・」
本当なら連れてきたくなかった。
そんな言葉の裏に透けて見える優しさがソラには嬉しかった。
「ちなみにお前は本当に良かったのか? あそこで待ってても誰も責めやしなかった。これは何でも屋としての仕事でお前には直接関わりない話だ」
「荒事。役に立つ・・・使って欲しい」
懸命な瞳で己の有用性をアピールする虎に久重が何とも言えない顔をする。
「一つだけいいか?」
「・・・何?」
「オレがお前を世話すると決めたのは役に立つからでも使えるからでもない」
虎がよく分からないという顔をする。
「だから、約束してくれ」
「やくそく?」
「ああ。一つ、危なくなったら絶対に自分の安全を最優先にしろ。二つ、どんな事があっても自分の命を粗末にするな。約束、守れるか?」
「・・・・・・」
真剣な瞳で見上げる瞳が僅か揺らいで、何かを噛み締めるように虎が頷く。
「約束だ」
久重がギュウギュウのコックピットで二人を抱きしめるように広げていた片腕を動かし、小指を差し出す。
「??」
首を傾げる虎に久重が日本の約束する時の儀式だと説明すると虎は素直に小指を合わせた。
「わかった」
ゆっくりと指を切る虎がまるで小指を大事にするかのように手で包んだ。
その時、ギチッと久重の約束した方とは反対の手に僅かな痛みが走る。
「あー・・・っと・・・」
ほんの少しだけソラが頬を染め、そっぽを向いていた。
「・・・・・・」
どう何を言うべきか悩んだ久重が誤魔化し気味に笑う。
「約束、するか?」
「・・・服・・・」
「?」
唐突なソラの言葉にポカンとした久重を恥ずかしそうな怒っているような微妙な表情でソラが睨み上げる。
「これが終わったら、また・・・一緒に・・・」
「・・・く・・・ふ・・ふふ・・・」
「な!? ひ、ひさしげ!!?」
クスクスと笑い出した久重に完全にソラが顔を紅くした。
「分かった。それじゃ時間が出来たら一緒に行くか? お姫様?」
自分の内心を見透かされてしまった恥ずかしさにソラが眦を吊り上げる。
しかし、内側から込み上げてくる喜びが少女の顔を怒らせたままにはしておけなくなる。
怒っているような喜んでいるような・・・複雑過ぎる感情。
ソラは己の顔を見せたくなくて、久重の胸に顔を埋めた。
「・・・・うん」
不意にキャノピーの画面が点滅した。
「静穏性が高い機内でのお取り込み中に申し訳ありませんが、そろそろです。久重様」
亞咲の声に思わず久重から離れようとしたソラの頭がゴツリとキャノピーの中にぶち当たる。
「~~~~~~!!?」
さすがにそれに対しツッコミを入れるのもどうかと思った久重は見なかった事にしてキャノピーに映る亞咲に向き合った。
「状況はどうなってる?」
「正面玄関を突破されました。敵は地下八十五階の中央電算室と最上階のVIPルームへ突入しようと進行中です。こちらの戦力は約百五十名。中央電算室付きが百でVIP付きが五十。
現在中央電算室の方は侵入者用の設備による撃退を実行中ですが、地下二十五階まで突破されました。VIPの方は上層階への移動手段であるエレベーターと階段に爆薬と人員を配置して八十七階から百三階付近で交戦中。
敵の数は見る限り数十人ですが、予備兵力はまだまだいると見ていいでしょう。GIO日本支社に続く陸のルートは何処も完全に封鎖されていて警察と連中が交戦中です。死傷者が多数出ている事から陸自に緊急の出動要請が出ました」
「随分と大事になってるな」
「ちなみに報道のヘリがビルに近づこうとして何処からか飛んできた地対空ミサイルに撃墜されました。かなり大規模な封鎖を見る限り千人規模。大隊クラスの部隊が周辺に展開していると思われます」
「おい!?」
「現在、GIO日本支社以外から外部協力員としてあちこちの組織に召集を掛けています。対空陣地に関してはこちらの部隊を向わせて無力化している最中ですが、完全に安全とは言えません」
「そういうのは早く言おうな?」
「言ったら行きましたか?」
「行くわけないだろ・・・」
頭痛に悩むような仕草で久重がガックリと溜息を吐く。
「これだけの装備をどうやって日本政府にバレず運んだのか興味はありますが、問題は連中の所属はたぶん中国軍閥の部隊だと言う事です」
「不明なんじゃなかったのか?」
「いえ、ビル内部で交戦中の仲間から中国語が飛び交っていると連絡がありました」
「連絡取れてるのか? 軍隊規模だってのにザルな情報統制だな連中」
「いえ、あちらでは強力はECMのせいで無線が使えません。更に周辺の公的な情報インフラは全て破壊もしくは妨害されているようで、警察では現地情報が錯綜しているみたいです」
「おい。今、平然と秘密の情報インフラ持ってますとか暴露しなかったか?」
嫌な汗を掻きつつ質問する久重に亞咲が微笑んだ。
「御内密に」
「・・・はぁ・・・で、だ? オレ達はこれからどうすればいい? 何処かの道路にでも不時着すりゃいいのか?」
亞咲が耳を触るような仕草をした後、久重に視線を映した。
「今、部隊から連絡がありました。対空陣地の無力化に成功。ECMの破壊に向うと」
「これで空中で爆砕される可能性は無くなった訳か」
「ご冗談を。確実に死ぬようなミサイルは飛んでこなくなった程度です」
「・・・それで、これから実際何処で降りる?」
「警察車両が足止めされている場所から数キロ先に廃棄されて今は無人のモールがあります。九百メートル四方の駐車場にこちらの操作で着陸を。ちなみにモール内部に支社の地下へ続く回廊があるので、皆さんには其処から侵入して貰います」
「敵の待ち伏せの可能性は?」
「現在突破された地下階層に繋がっているので、何らかの仕掛けが施されている可能性はあるかと。ですが、人を置いておける程の人数がいるとは思えませんから、そう警戒しなくていいでしょう。ちなみに現地にもう装備は運ばせています」
「今、考えたんだが・・・敵が正面玄関を突破して上と下に向って部隊を動かしてるんだよな?」
「はい」
「VIPは最上階って言ってなかったか?」
「はい。言いました」
「つまり、あんたはオレ達に部隊の殆どを蹴散らして最上階までVIPの確保をしに行けと言ってるわけだな?」
「ええ、間違いありません」
「内部構造の現在状況は分かるのか?」
「制圧された階に限って詳細は分かりません。こちらで確認できる場合はアナウンスを入れますが、制圧された階を進む場合は自力でどうにかしてくだされば幸いです」
無茶な話をされていると分かっていながらも久重は喚く事もなく「了解」と短く返しただけだった。
ブツリと通信が途切れる。
それと同時に自動で機体の高度と速度が下がっていく。
遥か先の地上には赤いランプの群れ。
そろそろ着くのかと久重が体に力を入れようとした時だった。
チカリッと地上で何かが光った。
それを見た瞬間、反射的にソラが脇の脱出レバーを引いていた。
高度が下がっていたとはいえ、それでも地上から千メートル近い上空。
一瞬、何がどうなっているのか前後不覚に陥った久重の手が両側から引っ張られる。
脱出した座席にはベルトがあったものの、三人乗りの都合上、そんなものはしていない。
座席からも離れた完全な虚空。
闇に飲み込まれそうな久重の意識を二つの手が繋ぎ止めていた。
『ソラ!? 虎!?』
声は風音に掻き消されて聞こえはしない。
不意に三人の前方で巨大な爆発が引き起こされる。
それが今まで自分達が乗っていたホーネットの結末だと知って、久重は内心で亞咲を罵った。
闇に手の感触だけを頼りに引き合った三人がそのまま顔を付き合わせる。
ソラが大丈夫だと言うように頷いた。
三人は落ちていく夜の中、僅かな光で照り映え聳える巨塔を目に焼き付ける。
不吉なまでに圧倒的な迫力。
日中開戦までどれだけの時間があるかも分からない深夜、一人の青年と二人の少女は戦場へと到達した。
そこに何が待ち受けているのかも未だ知らずに・・・・・・。
無間の狭間で男は一人明日を見る。
確かに在ったものは一つだけ。
朧に消えゆく記憶の楔。
戯れる死神が最後に見せたのは。
第三十七話「排撃者」
名も知らぬ者を想う。
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第三十七話 排撃者
第三十七話 排撃者
夢を見ていた。
この世界にはきっと蒼い空と薄汚い売春宿だけがあるのだと信じて疑わなかった頃の夢だ。
母は男を取る四十過ぎの売女。
父は何処の誰とも知れない。
迷路のような都市の片隅でひっそりと立っていた廃墟とも見紛う宿には港湾労働者ばかりが来る。
潮の臭いと咽返るような汗。
昔は船が無数に往来していたと宿の主であるクソジジイは言っていた。
今は廃れた小さな港にいつも運ばれてくるのは水と武器と薬だけだった。
母は幇(バン)に息子を売る前日言っていた。
どんな事があっても薬だけには手を出すなと。
首が二つの鳥が鳴いた朝。
知らない男達に同じようなボロ切れを纏った餓鬼と一緒に粗末な車の荷台に載せられた。
連れて行かれた先は地獄。
出来ない奴は肉の塊になるしかない場所。
逃げ出せば頭をぶち抜かれる場所。
病気になった奴から先に近くの山の穴に捨てられた。
粗末な家畜の餌と欠けた碗だけが命を繋ぎ止める全て。
走り、疲れ、追い立てられ、脱落していくモノの末路に身を震わせながら、ただ従うだけの何かになった。
選ばれたのは偶然。
同じような境遇の人間は幾らでもいた。
目付きが気に喰わないというだけで死人が出る所だ。
どんな成績を修めたところで死ぬ時は死ぬ。
そんな場所で死ぬまで押し込められるはずだった自分が始めて寝台と服を与えられた。
死ぬまで食うはずもなかった飯を食えるようになった。
それだけで十分に幸運だ。
それでも我慢できない奴は上に昇ろうと必死だった。
何処までも必死になって、死んだ。
あっさりと部屋の同居人達は消えていった。
欲を欠いた己が生き残れるような場所ではないと思っていたというのに、事実は奇妙なものだった。
汚れた水に蛆の湧いた飯を喰らって永らえた命。
今更に何を望んだところで長くは生きられないと幇に飼われ続ける日々。
ずっと、そうだと思っていた。
でも、薄汚れたネオンしかない街の片隅で隣の幇のシマを荒らした日に何かが変わった。
幹部に言われるまま、売春宿の一つを同じ境遇の連中と攻め立てていた時。
三人が頭をぶち抜かれた。
随分と小柄なそいつは隣の幇からでも聞いた事のある有名な奴だった。
歳は自分よりも七つ下。
それなりに整った顔と銃の扱いが上手いと評判のそいつは【小さな虎】と呼ばれていた。
本当の名前などない。
自分と同じような境遇で本来なら体を売っていてもおかしくない年齢。
幇に飼われている以上、いつかはそうなるだろうと言われながら、それでも何度でも帰ってくる弾として重宝されたそいつはいつの間にか幹部の人間から取り立てられるまでになっていた。
殺されると思った。
実際、銃を向けられた。
取り落とした銃を拾う事なんて考えられなかった。
だが、【小さな虎】は自分を殺さなかった。
そのまま背を向けた虎に何故殺さないのかと聞けば、銃弾がもう無いとの答え。
後ろから襲えば、どうにかなるかと思ったものの、容易く組み伏せられるわけがないと諦めた。
それからよく街でそいつと出会う事となった。
抗争に次ぐ抗争。
時には敵として、時には味方として。
無数の幇が鎬を削る都市で【小さな虎】と長い付き合いになった。
最後に味方となって戦ったのは大きな幇が都市に乗り込んできた時。
任された相手は百以上。
対してこちらは全部で五十以下。
まるで映画のように虎は駆け抜けた。
どうしてそんなに倒せるのかと聞けば、銃弾が今日は沢山あるからだとの答えに笑ったのは良い思い出だ。
弾と飯さえあるならば、幾らでも戦い続けよう。
そんな話をして、味方が十もいなくなった頃、疲れたところを狙われた。
庇われたと知ったのは虎が倒れた後。
相手を殺り終えた後。
弾は体に当たってはいなかった。
ただ、弾で壊れた何かの破片に虎は片目から血涙を流していた。
これから戦えなくなれば、客を取らされるだろうと軽く答えた虎に何故だか涙ばかりが溢れた。
客を取る女達の苛烈な生き方は知っていた。
知っていたからどうなのだと、己はそんなもの見飽きていたのではなかったのかと自嘲して。
それでもやはり涙は止まらなかった。
挙句、虎からどうかしたのかと心配そうな顔をされて、ようやく自分が何故泣いているのか解った。
その日の内に溜めていた金を全て持ち出した。
幇にもケガで動けないと報告し、虎を連れて病院へと行った。
金さえあれば裏ルートで物は何でも揃う。
有り金の全ては義眼と手術代に消えた。
虎は聞いてきた。
どうしてこんな事をしてくれるのかと。
恩を売っておけば、また助けてくれると思うからだと答えれば、虎は笑った。
もしも、またそんな日が来ればいいとそう言った。
それから虎は別の都市へと流れていった。
新たな拠点を作る手伝いをさせられるのだと言っていた。
いつの間にか虎は消え、いつの間にか自分が飼われていた幇も消えた。
そんな自分を拾ったのは軍閥の人間。
今度は国の為に戦えと上司となった男は言った。
そうして、それが己の最後の戦場なのだと今更に理解する。
夢は海を渡った先にある国の港の風景で途切れた。
【こいつはひでぇ】
そんな声。
何が酷いのかは解らない。
【楽にしてやりますか?】
何が楽になるのだろう?
【いや、捨てておけ。弾の一つも使わせられれば十分だ】
足音が去っていく。
体の感覚はすでに無い。
視界は滲んでいる。
少しずつ、少しずつ、何かが欠けていく。
重たい夢に飲み込まれていくような気分。
不意に何かが自分を包んだような気がした。
滲んだ視界に何かが映る。
また、夢を見ているのかもしれない。
夢の淵から温かい何かが滲んでいく。
それが自分の目の端から零れているのだと気付く。
黒く重たい夢は醒めていく。
白く白く滲んでいく。
感覚も無い手の先に触れる感触。
初めて、思った。
心の底から恥ずかしく、心の底から惜しかった。
一度くらい抱かせろと、そう迫っておくべきだったと、消えていく中、思った。
だから、送る言葉は一言でいい。
「・・・・・・・・死ぬな・・・・・・・・・」
自分は結局、小さな虎を傍に置いておきたかっただけの、死んでいった連中と何も変わらない・・・愚かな男だったらしい。
【今日はちゃんと沢山弾を持ってるから・・・だから・・・・・・・心配しなくていい】
虎は気高く、孤高だと知っていたのに・・・・自分は何を躊躇っていたのか。
勇無き者に結果が付いてくるわけもない。
―――――――小虎(シャオフウ)。
そう呼んで。
自分の名前をそう言えば教えていなかったと気付いたのは―――――――――――――――。
*
「知り合い・・・だったのか?」
明かりの点いた白い回廊に久重の声が響く。
答えず、男の目を瞑らせてから立ち上がった。
「・・・目をくれた・・・」
「義眼か?」
振り向かないまま頷く。
「・・・・・・お前はどうしたい?」
「自分は・・・行く。ヒサシゲと一緒に」
「そうか。なら、行くぞ・・・虎(フウ)」
声が響く。
振り返る少女は自分が今一人ではないのだと気付いた。
振り返った先に見たのは貴重な時間を何の文句も言わず待ってくれていた二人の恩人。
どんな言葉よりも嬉しい言葉に頷く。
「はい」
過去を振り切るように。
いつだってそうしてきたように。
ただ、一言だけをかつて隣にいた名も知らぬ男に告げて、
【再見】
いつか胸を張って見(まみ)える事が出来るよう、小さな虎は歩き出した。
*
GIO日本支社最上階より十三フロア下。
ホテル並みの宿泊施設が無数にある一角。
電源の入っていない暗い廊下を先行する部隊があった。
暗視装置(ゴーグル)を付けている以外はいたってスタンダードな姿の十数人だった。
アサルトライフル一挺に黒で統一された赤外線吸収素材製の全身スーツ。
ビル中間付近で徹底抗戦を続けるGIO側を挟撃する為に地上数百メートルの絶壁を登って内部まで侵入してきたのだから、肝っ玉は伊達ではない。
VIPがいる最上階はビルの中で最も強固なセキュリティーが施されている。
八重の緊急時シャッターは内部から開けるか、あるいは地下最下層にある中央電算室から開けるか、特定の鍵でしか開かない。
しかし、部外者に最上級の機密である鍵が渡る事はないし、フロア内部に軍閥グループの人間を送り込む事も軍閥には出来ていなかった。
必然的にシャッターを開ける為には中央電算室を押さえる必要がある。
どれだけ最上階付近に部隊を送り込んでも中央電算室を攻略出来なければ無駄である以上、軍閥側はとにかくビル内部で交戦しているGIO警備を早く制圧する必要があった。
軍閥側に残された時間は少ない。
警察がダメとなれば陸自が出てくるのは時間の問題。
幾ら大隊規模の人員がいるとはいえ、幾らでも供給されるだろう戦力相手に戦い切る事は出来ない。
そもそもGIO日本支社への攻撃は電撃戦である必要性があった。
GIOが対応できないであろう戦力の空白時間は少ない。
優勢に立っていられるのは最大で四時間弱と部隊の誰もが聞かされていた。
【クリア】
紅い絨毯が敷き詰められている廊下を音も無く部隊が移動していく。
内部のセキュリティーの一部は電源を掌握して動かしハッキングで突破しているものの、緊急時用の通路シャッターは電源が喪失した場合を想定されてロックが掛かるようになっていた為、殆ど全ての通路が遮られていた。
【電源回復。ロックを解除します】
部隊の一人が声を上げると同時にシャッターが上がった通路を部隊が駆けていく。
階段を下っていく足音が途中で止まったのは足音が増えているという事実を全員が確認したからだった。
【・・・・・・?】
敵を視認し、反射的に引き金を引ける兵士達が戸惑う。
部隊の人数は変わっていない。
しかし、確かに足音は増えていた。
何処かに敵が潜んでいるならば、速やかに発見し、掃討しなければならない。
だが、肝心の敵を部隊の誰も見つける事が出来なかった。
風音。
ボキンと部隊の最後尾にいた男の首筋が圧し折れる。
その理由を見た瞬間、部隊の誰もが唖然とした。
分厚い金属製の板。
それは宿泊施設に使われているドアそのものだった。
「何!?」
男達が反射的にドアへ銃撃を加えて、跳弾が男達に跳ね返る。
【ぐあ!?】
【や、止めろッッ!?】
【撃つな!!】
男達が一瞬の混乱を来たし、銃撃が止んだ瞬間。
また風音。
暗視装置に映らぬドアが階段の上から男達を押し潰すように襲い掛かる。
【がぁ゛あああああああああああ!!!?】
悲鳴。
VIPルーム専用の扉は少なくとも五十キロ以上。
普通に考えれば、人体を破壊するだけの重量はある。
再び銃声が響いた。
何処から飛んできたかも定かでは無いドアに暴発するアサルトライフルの弾が跳弾し、部隊を襲う。
【止めろ!!!? 罠だ!!! 撃つな!!!】
一瞬でまた銃撃が止んだところを狙い澄ましたかのように駆ける足音。
今度は階段の一番上から大声が上がった。
「ひゃっほおおおおおおおおおおおおお!!!!」
少なくとも五人は並んで通れるだけの長い階段は折り返す踊り場まで約二十五メートル間隔。
階段の最上階から蹴り上げられたドアに乗るサーファー永橋風御は跳んだ。
反射的に男達が一斉射撃するもドアの下部に結局跳ね返る。
「少しは学ぼうよ。子供じゃないんだからさ」
しかし、男達にそれ以外の選択肢が無かったのも事実だった。
避けようにも階段は狭い。
途中で止まっていた男達にとってドアは排除するか受け止める以外の選択が無かった。
【受け止めッッッろぉおおおおおおおおおお!!!!】
未だ辛うじて冷静さを保っていた男達が押し潰されてなるものかと上から降ってくるドアを銃を捨てて受け止めた。
しかし、時すでに遅く。
「バイバイ」
ドアを思い切り蹴り付けられ、部隊の大半の男達が体制を崩して階段の下へと転げ落ちた。
華麗に階段へ着地した風御に向けて先行し被害を免れた男達の何人かが反撃を加える。
しかし、無数の弾丸が風御を捉える事は無かった。
不安定な足場で銃撃をしている誰にも風御を正確に捉え切る事が出来なかったというのが正しいだろう。
それにしても銃弾の一つや二つは風御に致命傷を与えていそうなものだったが、風御に何とか当たりそうだった弾丸の幾つかはそのまま何かに喰われるように砂状となって弾ける。
【鉄喰い!?】
「気付いたところで遅いよ」
日本語が理解出来ていてすら遅い。
風御の拳と手刀が階段中央にいた男達の喉を抉り、延髄を絶ち、瞬く間に部隊の人間が絶命していく。
何とか階段下で立て直そうと立ち上がった者にライフルを投げ付け、更に階段から跳んだ風御は何処かの正義のライダーよろしく残っていた男の首を蹴り砕いた。
【ひ、ひぃいいいいいい!!!?】
瞬く間に数を減らされた部隊の数はもう三人を切っている。
闇雲に銃弾を風御に撃ち続ける男達に風御はズルズルと男達の死骸に引っかかりながらようやく降りてきたドアを片手で持ち上げて投げ付けた。
衝撃に男達が吹き飛んで壁際に激突し、白目を剥く。
「鈍ってるなぁ。結構」
風御が人を十数人殺した後だと言うのに軽い調子で首をゴキゴキと鳴らす。
「もう十二億とか。昔は三億くらいでやれただろうから最盛期の四分の一くらい?」
風御が階段を上って一番端にある部屋に置いていた白いスーツケースを引っ張り出す。
中を開くと其処には試験管が六本収められていた。
試験管が納められていたはずの場所が四つ開いている。
「扉の接合部分外すのに一本。扉に迷彩するのに一本。ND-Pに一本。体のアシストに一本。残り六つで足りればいいけど・・・」
ガチャリと風御の頭にゴツイ銃口を宛がわれた。
「随分と豪勢な装備(ND)を使っているな。お前は何者だ?」
「・・・えっと、簡単に言うとGAMEに招待された元裏社会のスーパーニート?」
手を上げて風御がサラッと答える。
「最上階フロアのシャッターが内側から一度開いたのはお前の仕業か」
「様子見ついでに来たら何か物騒なのがいたから掃除しただけなんだけど」
銃口が頭から離される。
「ゆっくりとこちらを向け」
風御が言われたまま、ゆっくりと振り向く。
「美人に銃口を向けられて喜ぶ趣味は無いよ」
「口が達者なようだな。名を名乗れ」
「風御。永橋風御」
「アマンダ。アマンダ・フェイ・カーペンターだ」
くすんだ金髪を男勝りに刈り上げた女。
日本語も流暢なオーストラリア産の兵(つわもの)を前に風御はとりあえず微笑むところからコミュニケーションを始める事とした。
*
【GIO日本支社第四回廊特殊実験控え室内】
回廊の終点近くの何の変哲もない壁の内側。
久重達は小休止していた。
爆砕されそうになった戦闘機から脱出後。
何とかモールに辿り着いた三人を待ち構えていたのはGIOの補給部隊。
文句を言う暇も与えられず装備を持たされ、渡された鍵を使ってまだ敵が見つけていない秘密の小部屋まで強行軍する事となったのは一時間前の話。
モール地下の回廊まで階段で下り、迷路のような回廊内部を三人は何とか進んだ。
回廊のあちこちで非常灯が灯っていた。
未だ電源が生きている場所があり、在り難いと思ったのは一瞬。
時に中国軍閥の人間と思われる死体や戦闘の痕が生々しく映し出され・・・三人の士気を下げた。
事前の情報ではまだ回廊は軍閥には見付かっていないのではないかとの話だったが、軍閥はGIOが思うよりもかなり深くまで地下を攻略しているらしく、時折聞こえてくる足音に三人は細心の注意を払わざるを得なかった。
それでも事前に渡された詳細な地図を頼りに指定された場所まで戦闘する事もなく三人は到達する事が出来た。
それはソラのNDによる援護があったればこそだろう。
壁に隠された鍵穴に鍵を差し込んだ瞬間、音も無く扉は開き、三人を溜息を飲み込んでいた。
【ご苦労様でした】
まるでカラオケルームのような狭い空間には大きなテーブルと椅子が三つ、大型のディスプレイが壁に埋め込まれているだけだった。
ディスプレイに映った亞咲からの労いに久重は目を細める。
「蒸発するところだったんだが?」
【どうやら、対空陣地の無力化が十分ではなかったようです】
「・・・それでオレ達は此処でカラオケでもすりゃいいのか?」
【いえ、ここで簡易にブリーフィングを行います】
久重のジットリとした半眼の視線に亞咲がまるで何事も無かったかのように話を始める。
「そういうのは外でやってたら良かっただろ」
【そういうわけにもいかない事情があったもので】
「その事情ってのは何なんだ?」
【GIO日本支社内部に数人の諜報員がいました。工作中の者を何名か捕らえましたが、まだいる可能性が否定できない状態です】
「そりゃそうか。さすがにGIO日本支社を外側からだけで攻められるわけないもんな」
【では、前置きはこのくらいにして今現在の状況を説明します】
画面にGIO日本支社のビル構造が映し出される。
【これが地上部分の見取り図です。666メートル。全150階】
見取り図が更に地下へと映る。
そこにはかなり広大な地下施設が広がっていた。
【これが公式な地下施設の見取り図ですが、実際には】
今まで何も無かった場所に見取り図が増殖するように広がっていく。
その増殖は留まるところを知らず。
最終的にGIO日本支社の地下数百メートル規模まで広がった。
「―――どんだけ広いんだよ。此処・・・」
呆れた様子の久重に目を丸くした少女達がコクコクと頷く。
【震度9クラスの耐震性能がありますから、関東大震災クラスを上回る地震が来なければどうという事はないと思われます】
「で、このクソ広い地下を軍閥は少規模の部隊で攻略中なのか?」
【はい。無線式の偵察用機械を大量に使っているようです】
(戦闘痕に壊れてた機械類は軍閥のもんだったのか)
【現在、地下施設はセンターフロア、此処です】
地下施設の約半分程の場所が赤く示される。
【この場所で軍閥を食い止めています。が、敵がどうやら気付いたようで正直に言って厳しい状況です】
「何に気付かれた?」
【GIO日本支社には主・副・予備の電源設備があり、外部からの電源が途絶えてもどれか一つでも生き残っていればビルと地下全体をまる四日稼動させるだけの電力が蓄えられています。今回、敵は内側からもビルを攻撃し、全電源を奪われるという状況に陥っていますが、それでも一部の区画や一部の設備は電源が落ちていない状態です。これは各部署が備える本当に重要な部分だけは如何なる場合でも電源が落ちないようにとの配慮から、電源を完全独立性にしてあるからです】
「・・・つまり、オレ達がいる此処がソレか」
久重が改めて回りを見渡す。
ディスプレイの中で亞咲が頷いた。
【はい。其処は所謂パニックルームとしての役割があるので独立電源で稼働させています】
「それでその独立電源に気付かれた、と」
【その通りです。全ての電源を握っているはずなのにどうして相手は抵抗出来て設備を稼動できるのか。最初は偽装して何とか分からないようしていましたが、予想外に敵の中に頭のキレる方がいるようで】
「オレ達が請け負ったのは人質の救出だ。戦争はお門違いだな」
【最上階フロアの緊急時シャッターは中央電算室からの命令がある場合、あるいは内部からしか開けられません。ですが、VIPルーム内部の人間を人質に取るだけなら、実は方法が一つ存在します】
久重が何を言われるのか何となく分かって顔を顰める。
「独立電源を使うわけか・・・」
【ええ、内部からシャッターが開けられるのは独立電源があるからに他なりません。それを押さえられれば・・・開けられなくても人質になったのと何ら変わりません。フロア内部で空調が動かなければ・・・人数にもよるでしょうがかなり早い段階で地獄になります。今回の参加者の数はフロア全体で二百人弱。空調が止められれば、たぶん軍閥連中が戦っている間に窒息死します】
「これだけ大きいビルの1フロアならもっと持つんじゃないのか?」
【問題はフロアではなくルームです。賭けを行うVIPルームは完全個室と大部屋がありました。フロア全体から見ればVIPルームは極僅か。そこを密室にして賭けを行っていた途中、緊急時体制に移行・・・部屋は完全に閉鎖されたパニックルームと化しました。BC兵器を完全遮断出来て戦車砲の直撃に耐える個室が広いと思いますか?】
「軍閥はそこまで知ってるのか?」
【知らないとしても電源を押さえれば最上階を無防備に出来ると考えて絶対に落とします。大半の人間が賭けに集中したいと個室に入っていましたから、電源を落とされた時点でアウトを考えてください】
「解った。それでオレ達はまず電源を守ればいいんだな?」
【はい。最上階の独立電源はこの地点にあります】
久重が自分達がいるパニックルームからそれ程遠くない地点を紅く示す地図を見て・・・唸る。
「・・・冗談だろ?」
【冗談ではありません】
話に付いていけななくて隣のソラとヒソヒソと話していた虎が地図の示す場所の図に首を傾げる。
「これ、何処?」
【GIO日本支社の下水道処理中核施設です】
巨大なタンクのような形の地下施設の図には通路など無かった。
「ひさしげ。これって・・・」
【独立電源は集まってくる下水処理を行う200メートル四方の巨大タンクの真下にあり、そこへ往く為にはタンク内部を渡る以外に道はありません】
「つまり、汚水に塗れてお仕事らしい」
「「・・・・・・」」
ソラと虎が顔を見合わせた。
【設備の点検などは下水を抜いて行う仕様だったので】
少しだけ罰が悪そうな顔で亞咲が笑う。
【ちなみに敵の排除後の心配は要りません。内部へ人体に極めて有害な薬品を入れる予定です】
「最初っからそうしたらどうだ?」
【どんなに急いでも約二十五分掛かります。予測では後二十分弱で独立電源を軍閥が掌握します】
「それまでに何とかしろと・・・」
久重が頭を手で押さえる。
【電源を押さえて頂ければ、残るは軍閥よりも早く最上階に行くだけです。お渡ししたマスターキーは最上階の緊急時シャッターを油圧系システムで開放する為のキーであり、更にはVIPルームを外側から開放する唯一の鍵でもあります】
「ギミック満載だなGIO日本支社。いっそ玩具屋か忍者屋敷でもやったらどうだ?」
部屋を開けた鈍色に輝く鍵を見て久重が呆れる。
【生憎とそういうのは会長の趣味ではないので。ちなみにVIPルームを開放して頂ければ、こちらの勝ちと思って頂いて構いません】
「・・・何がある?」
【今、大型の輸送ヘリを三機屋上に向わせています。話している間に急襲していた対空陣地の制圧が終わりました。すぐにでも屋上に到着するはずです。下の連中は警察と派遣されてきた陸自に手一杯のようで上はがら空き。到着後、防衛ラインを築きビル中層で交戦している警備と共に打って出ます】
久重が今度こそ脱力しそうになった。
【オレ達をそっちに乗せておけば良かったとか思わないのか!? あるいは鍵をそっちに回せばとか!?】
【それが出来れば苦労しません】
ドカン。
そんな音と共に映像が乱れた。
「おい!? まさか?!」
【今、一機落ちました。どうやら想像以上のようですね。このヘリもいつ落ちるか・・・】
ソラが思わず口に手を当てる。
亞咲はサラリと死んでしまえる場所で冷静な瞳のまま続けた。
【その鍵は会長が持つ一本とそれ以外には存在しないものです。その鍵一つでGIOの機密の殆どが開けられると思ってください。そんなものこのヘリには置いておけませんよ】
「―――オレ達が紛失する可能性だってあるだろ」
亞咲の淡々とした表情に久重が視線を逸らす。
【そうは思いません。何故なら、貴方はCEOが見込んだ方です。それに貴方達は見事その場にいる。あの対空陣地からの一撃を逃れて。私は貴方達にその鍵を渡して良かったと改めて思います】
「・・・必ず、最上階は開放する」
【はい。ちなみに渡されていると思いますが端末に現在のGIO日本支社全階のMAPを転送します。現在位置情報は随時こちらの設備で送りますが、設備の停止している場所や軍閥に掌握されているフロアではどうなるか解りません。どうぞ、お気を付けて】
僅かに亞咲が頭を下げる。
【最上階でお待ちしています】
それを機にブツンと映像が途切れた。
「・・・さて、時間も無いようだし此処で休憩は終わりだ。行くか」
「うん」
「行く」
二人の少女が頷いて立ち上がる。
三人が部屋のドアを開閉させた時だった。
部屋とは反対側の通路に大きな影を認めて三人が身構えた。
ブツンと再びディスプレイに明かりが灯る。
【言い忘れてました。その階で軍閥を押し留めているのは警備ロボットです。当然ですが、非公式階層内部にいる人間でGIOが予め登録していない者は『抹消』するようにプログラムされていますので悪しからず】
「警備・・・ロボット・・・」
周辺の回廊の壁にまるで【接続】しているようなワイヤー状の全身を蠢かせ、宙吊りになって三人を見ているのはどう見ても【警備ロボット】なんて生易しい言葉では表現できないだろう機械の塊だった。
人間の筋肉をワイヤーだけで再構成したかのような上半身。
幾筋もワイヤーの間から光が漏れて奔る。
人ならば眼球が納まっているだろう場所にある観測機器が鈍い非常灯の輝きを反射した。
その手・・・らしき場所に埋もれている兵器に久重の顔が引き攣る。
「―――突破するぞ?!!」
ワイヤーに埋もれていたのは安っぽい手榴弾が幾つも付いたベルト。
何処かで三人も見た事のある代物。
ピンが一つ甲高い音と共に引き抜かれて、ベルトがパニックルーム内へと投げ込まれた。
三秒後。
閃光と爆発。
「軍閥の兵器も平気で使うとか高性能だなオイ!?」
「ひさしげ・・・」
「ヒサシゲ・・・」
全速力で走る二人の少女は哀れむように自分の前を行く青年を見つめた。
「クソッッ、少しでも絆されたオレが馬鹿だった!! やっぱり特務は特務だ!?」
何かが空気を割く音を感じて、久重が頭を横に倒す。
ナイフらしきものが回りなが飛んでいった。
「!?」
僅かに後ろを振り向いた久重が後悔する。
壁に接続されたワイヤーを次々に切り替えながら何の冗談か【警備ロボット】は人が走るような高速で追跡してきていた。
「どんな技術使ってるんだ!?」
かなり恐怖を覚える光景に久重が叫ぶ。
「た、たぶん。内視鏡検査で使うみたいな細くて動くワイヤーで電源を施設の専用コンセントみたいなのから取って―――」
ソラが考察し切る前に銃声が数発響く。
「ソラ!!」
「大丈夫!!」
「ヒサシゲ!!」
三人の声と足音が薄暗い回廊に木霊した。
午前零時も回らぬ内にGIO日本支社周辺では大勢の死人が出ていた。
軍閥特務部隊124名。
警察関係者54名。
陸上自衛隊員8名。
報道関係者7名。
GIO日本関係者44名。
死傷者数の数が更に膨れ上がっていくのはそれから一時間後。
近隣の陸自が有する師団全てに政府より出動が通達されてからの事だった。
投棄てられた杯が硝煙に巻かれ消える。
酔狂が深淵を覗く時。
新たな地獄が始まった。
ただ、閻魔も其処にはいない。
第三十八話「酔いどれ鬼が巣食いたる」
兵は銀の霧に沈んだ。
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第三十八話 酔いどれ鬼が巣食いたる
第三十八話 酔いどれ鬼が巣食いたる
「何と今日の盃杯は輝いている事だろう」
薄曇の夜闇に抱かれながら、純米大吟醸が鈍色の器に注がれる。
「君は真実よりも虚構と踊れる才に明るい」
星も月も見えない世界。
「果てる事ない螺旋に今も君は舞うだろう」
轟々と音を立てる風と時折吹き荒ぶ弾丸と爆薬の灯に喜色すら含んだ声が続ける。
「ならば、惑う時代に君を託してみよう」
まるで詩人気取り。
「輝く笑顔に咲いているだけの時間を与えよう」
繋がれる言葉には何かが足りない。
「いつか君が望んだ物語を奏でる為に」
道化の如く愉快げに。
「安らかなる時が、温もりが、君の常しえとなるように」
電子音声が詩を紡ぐ。
「ああ、愛しい人よ」
掲(かか)げられた器と掲(かか)げた酔っ払いにサーチライト並の光が当てられた。
「遠き日の思い出が君に満ちるのを僕は待っている」
GIO日本支社屋上。
大型輸送ヘリが余裕で着陸できる場所の中央へ複数のロープが落ちてくる。
ロープを伝って一瞬で降下してきたのはモスグリーンの戦闘服に身を包んだ若年者達だった。
一瞬にして囲まれた酔っ払いのビーチチェアがそそくさと数人に運ばれ、ヘリが降下し膨大な風が周辺に撒き散らされる。
ビーチチェアの主は器から儚く散る慰みに笑みを浮かべて、傍らの一升瓶がいつの間にか風で何処かに転がっていってしまったのを惜しく思った。
スーツの皺を伸ばすように男が立ち上がり、器が後ろへ見もせずに放られる。
器はそのまま風に乗ってビルの手摺をすり抜けた。
回りながらビル壁面を落ちていく鈍色の輝きを照らし出すのは時折ビルの中で輝くマズルフラッシュ。
ビル屋上へと到達したヘリからタラップが降ろされ、特務筆頭である少女が降りてくる。
「会長。いつも言っていますが、貴方はトップだという自覚を持ってください」
亞咲の声にチャキリと眼鏡が直された。
「持っているつもりって言っても信じてくれない君が今更何を言っているのか」
声は相変わらずの電子音声。
サーチライトの中で無精髭だらけの顔が映し出される。
神経質そうな細面の顔が笑みの形を作った。
「それに今は非常体制です。何処で油を売っているのかと思っていましたが、こんなところで酒盛りしている暇があるなら、少しは働いて下さい」
「僕の手はそういう事に使う為にはないと何度も言っているでしょうに」
苦笑する声。
「人の家にテロリストが入ってきてるというのに知らん顔ですか?」
やれやれといった様子で三十代後半程にしか見えない男が肩を竦める。
GIO日本支社会長。
荒崎完慈(あらさき・かんじ)。
「人は肩書きだけで生きているわけではないんですよ」
「この状態の会社を放って遊び呆けてるならまだしも酒に酔っているのは頂けません」
「君も大人になれば解りますとも。人には酔わずにはいられない時があると」
次々にヘリから降りてきたGIO特務の人員が最上階へ降りる階段を下っていく。
その間にもヘリのエンジンが停止し、風が止んだ。
「生憎と永遠の十代です」
「僕は永遠の三十代ですが?」
「穀潰しですか・・・」
ボソッと亞咲に詰られた完慈が笑む。
「随分と人間て奴が解ってきたじゃないですか」
「表の顔がカッコイイと少しでも思っていた過去の自分を殴りたい気分です」
「人間放っておいても結構成長するらしい。親は無くとも子は育つとは・・・真理かもしれない」
溜息しか出ない亞咲が手を完慈に差し出した。
「?」
「マスターキーを」
「ああ、あれなら今頃家のリビングにあるテーブルの上に」
「・・・・・・・・・」
亞咲が閉口した。
「ちなみに今回の件は君に全て任せるという事で。僕はそろそろ支度に向わなければ・・・」
「何の、支度ですか?」
亞咲の低い声に完慈が唇の端を歪ませた。
「旧い友人達が来るそうなので、これからアメリカの方に飛んで仕込みを少し」
「旧い友人・・・まさか―――」
「これだけの規模で軍閥を動かすとなると、たぶん一人か二人あちらに付いたと考えるべきでしょう」
眼鏡の位置を指で直して完慈が今までの笑みを消した。
「現場指揮をどうしても手伝わせたいなら、中臣にでも任せておいてください」
「あの人に投げっぱなしにするのは遠慮したいところですが」
亞咲が嫌そうな顔をする。
「多少、絶望する人間と悲惨な死体が増えるでしょうが、彼に任せておけば大概の人間はどうにでもなる。時代さえ違えば十四番目の可能性すらあった男です。踊らされている駒相手なら十分過ぎる」
「あの人の戦い方は好きません」
「ですが、このビル内部や周辺で戦闘をするなら彼以上の適任はいない事もまた事実、でしょう?」
「日本国内ならほぼ無敵、の間違いでしょう・・・解りました。本当に必要ならば召集を掛けます」
渋々、亞咲がそう口にする。
「もし渋るようだったら時間外勤務扱いで時給三千万くらいで釣ってください」
「金に興味ある男ならどんなに楽か・・・」
「ははは、面白い奴がいるとでも言えば、飛びつくでしょう。彼以上に人の心に詳しい人間はいない。ジオプロフィット部門を退いたとはいえ、今も彼はジオプロフィットスタイルの創造者であり、臨床心理学の権化ですよ」
亞咲が結局頷いて、そのまま最上階へと降りる階段へと走り出した。
「気を付けて」
ヒラヒラと手を振って見送った後、完慈がビル端の手摺へと歩いていく。
やはり月も見えない夜。
ビルの地上付近はまるで奈落に続くような闇で閉ざされている。
壁面は遠方の街からの明かりに薄らと浮かび上がっているものの、やはり下を見通す事は出来ない。
懐から取り出した情報端末から掛かるかどうか解らない番号がコールされた。
ルルルルルと呼び出しが始まり、完慈はもうECMが己の会社の部隊によって破壊された事を知る。
プツッという音と共に相手が出た。
「ああ、GIOの荒崎です。今、かなり忙しいと思いますが、日本の為を思うなら回線はそのまま聞いてください。ええ、どうやらウチにテロリストが来てるようですが、ご心配なく。
後二時間以内には収束すると思いますので。ええ、ええ、解っていますとも。その件に関しては遺族に対してウチで賠償金を出させて頂きます。まとめて一千八百億程なら都合出来ますので。
そうカリカリせず。ええ、ええ、現在迅速に対応していますので。こちらの死人の数? まぁ、そこは探らぬが吉かと。ちなみに気になっているだろう委託研究中の衛星関連技術のデータはバックアップを含めて流出の可能性は皆無です。
ええ、ええ、ええ、そうです。それでお願いがありまして。はい。そうです。出来れば、今回の件は報道関係にあまり乗せない方向で調整して頂ければ。国民への説明?
それよりも戦争寸前との見出しの方がメディアは喜ぶでしょう。こちらでも遺族には話を通しておきますので。先生のお力添えも頂ければ幸いです。ええ、はい、はい、そういう事です。
軍閥の空母と原潜が? ああ、その程度ならどうにかする方法が無い事もありません」
いきなり端末に怒鳴り声が入る。
僅か耳から離して端末の先の人間に完慈が請け負う。
「これから所用でアメリカまで飛ぶのですが、大統領辺りに『神の杖』を借りれば迎撃出来るかと思います。まぁ、周辺地域は津波で壊滅、核で海洋汚染被害が出るでしょうが、本土を大規模汚染されるよりマシなのでは?
ええ、ええ、最後の手段として? そうですか。では、これからコンタクトを取ってみますので、後でこちらから折り返し連絡差し上げます。
ええ、ええ、はい。ああ、もしも不安でしたらこちらから社員を数人派遣してもいいですが? では、そのように」
それから幾つかの話題を話し合い数分間の会話が終わる。
通話の切れた端末を投げ捨てグシャリと踏み潰した完慈は超高層ビルにしてはまったく問題ありまくりだろう低い手摺を跨いだ。
吹いている風にスーツをはためかせて、封鎖された数キロ先を眺める。
未だあちこちで光が瞬いている。
陸自と警察と軍閥が入り乱れている。
混沌の内に死体が沈んでいく夜の空気を吸い込んで、完慈が軽く眼鏡の位置を直した。
「・・・まったく・・・教育せねばなりませんか」
足がビルの端から消えた。
眼鏡を抑えたまま直立不動で落ちていく。
自殺行為中にも関わらず顔色一つ変わらなかった。
「コード【PCA】発動」
完慈が落ちていく間にもビルに変化が起きる。
電源を奪われ完全に沈黙していたはずのビル内部で一部の者しか知らない独立電源が稼動し始めた。
ビル壁面に幾何学的な光が行く筋も奔り、一定階層毎に壁面に亀裂が生まれた。
亀裂内部から人一人分はあろうかというメタリックなブロックがボロボロと零れ落ちる。
膨大なブロックが吐き出されていく光景は滝の如く見えるに違いなかった。
「オペレーターは僕こと荒崎完慈が務めます」
一斉に地面へと突き立ったブロックの滝が爆発するかのように砕け散り、粒子上になってビル周辺を覆い尽くす。
完慈の体が膨大な銀の粉塵へと突入していく。
【承認されました。【Fatalist NO.03】より第一操作権を荒崎完慈に認めます。こんばんわ。荒崎完慈様。貴方は記念するべき第一号操作資格者となりました。システムを継続運用する為に後続の操作資格者に対してログを残しますか?】
「YES」
どんな手品を使っているのか。
ガクンと急激に落下速度が落ち始める。
【では、どうぞ】
「この音声を聞いているという事はGIO日本支社に再びの侵攻があったと認識します。このログは今後このシステムを継続運用する上でのガイドラインとして記録するものであり、操作資格を持つものにとっての簡易マニュアルでもあります。聞く暇が無ければ、片手間に聞き流しても結構です」
遠方で何かが光った。
「では、第一にこのシステムは何を操作しているのかに付いて説明しましょう」
音速よりも早い砲弾がビルへと迫り、それを完慈が認識するより早く、銀の粉塵に触れ分解された。
ビル壁面にパラパラと細かく砕け勢いを失った鋼の砂が弾ける。
「貴方に適切な助言と適切な戦闘方法を教えてくれているのは【運命論者(Fatalist)】と呼ばれるGIO日本のメインサーバー内で稼動している一つのシステムです」
砲撃が立て続けに行われた。
戦車でも隠していたのか。
それとも自走砲の類でも密輸したのか。
どちらにしても平和な国には似つかわしくない音が連続する。
何故、砲撃が行われているのか。
最初から人質になりそうな連中は切り捨てても構わなかったのか。
それとも最初からビルに異変があった場合は「そのつもり」だったのか。
どういう理由だとしても困ったものだと完慈は軍閥のやり方に眉を顰めた。
「そのメインオペレーターとしてシステムの掌握する全ての兵装を操作する権利が貴方には発生します」
完慈が目を細めると同時に見ようと思っていたものが視界にGIO日本支社周辺にあるあらゆる観測機器からリアルタイムで届けられる。
「元々は僕が所属していた研究会において考案された未来志向の兵装統括システム案の一つなので、基本的に変な兵器がてんこもりと思ってください。これは従来の国家が先導開発する兵器群の先を往くものであり、同時にいつかは戦場で試されるだろう兵器の叩き台、その寄せ集めと言えるでしょう」
自走砲が数台。
ビルに向けて射撃を続けている。
「【PCA】とは【Particle Crowd Arms】の略。つまり、日本語で【粒子群兵器】となります」
しかし、砲撃には如何なる効果もなく。
ただただ砲弾は粉塵の中に消えている。
「粒子とは此処ではNDを指し、それを使ったあらゆる武装が【武器庫(Armory)】と呼ばれるGIO日本の書庫より即座に検索・構築できる。それがこのシステムの最大の特徴であり欠点でもあります。
このシステムは戦闘力において非常に優れた代物である反面、NDの性能限界や資金的な制約が付きまとい、たぶん二十二世紀中は開発上の予定スペックまで能力が届かないと思われます。
ですが、このシステムが完全に能力を発揮出来るNDが開発され資金的な問題をクリアすれば、あらゆる障害は取り去られるでしょう。では、初の実戦テストをしてみましょうか。
軍隊規模の敵に対する有効な兵器の使い方をレクチャーします」
完慈が手を伸ばし、人差し指と親指で銃の形を作る。
「【運命論者(Fatalist)】は人間が直感的に操作出来るようあらゆる武装を瞬時にオペレーターの意思を反映して検索します。今、僕は銃の形を手で作った。それを読み取ったシステムはそれに類する兵装を瞬時に選び出し、貴方の目に映し出すでしょう。様々な選択は目で追ってもいいですし、音声操作でも構いません。システムのチューン・カスタマイズはオペレーターの為すがままですが、今は緊急時ですので省きます。では、特徴的な兵器を一つ使用してみましょう」
完慈が兵器の名を告げる。
「【内結合性ワイヤー】」
粉塵には見かけ上は何の変化も起きない。
「単分子ワイヤーという言葉を聞いた事があるでしょうか? これはそんなSF用語の類似品と思って構いません。目に見えない程の極細のワイヤーを無数に生成し、相手を切り刻む武装です。
正確には単分子などではないのですが、NDによって相手の構成物質を分子レベルで分解する作用を【線】にした武器と思ってください。細かな設定次第ではかなり汎用性の高い武装です。
今回の敵に対して僕はこれをセミオートで使用します。設定は基本設定にある【索敵即殺(サーチ&デストロイ)】。僕が敵と認識する姿を指定し、後はそれに類似するパターンの敵をシステムがほぼオートで斬殺する仕様ですが、使い方を間違えると仲間まで殺しかねません。
ですので、出来れば味方や無関係な人間の姿も指定しておきましょう。現在は民間人と仲間に対しての指定がすでに為されていますので被害は出ないと信じて、状況を開始します」
急激な変化が完慈の視界の中で起こった。
今までビルに砲撃していた自走砲の車両が全て真っ二つとなって爆発する。
更にはビル周辺でGIOを封鎖していた軍閥の人間達がやはり様々な線(ライン)を刻まれて、サイコロステーキのように崩れ落ちていく。
「ちなみにこの武装が何故『銃』の項目に入っているかと言うと、周辺のND群から対象へNDの塊が撃ち込まれた後、近辺のNDと結合しながらワイヤー状となるからです。
ワイヤー状のNDがモノを切断するのではなく、撃ち込まれたNDとNDが内部から対象を破壊しながら結線していく事で最終的に切断されたのと同じ状態になるわけです。
硬いコンクリートを樹木が時間を掛けて根で割るような仕組みと思ってください。これを使えば、殆どの軍事用鋼板を内側から切断可能です。現在は雑な【斬殺】になっていますが、肉体の重要部位や血管だけを切って殺す事も容易でしょう。
本来は人間の手が届かない患部を治療する医療用NDの作業構築技術として開発していたものですが、現在は軍事転用の危険性からGIOが秘匿保存しています」
GIO日本支社周辺で今まで戦っていた陸自やら警察やらそれを撮ろうとするマスコミやらが一瞬の出来事に恐慌を来たし、混乱していく。
今まで大規模に銃撃戦が繰り広げられていたというのに・・・一瞬で訳も分からず細切れにされた人間を見れば、当たり前の反応かもしれない。
「と言っている間にも周辺十キロ圏内の敵はほぼ壊滅のようです。車両・人員・兵器・その他諸々の排除が完了しました。レクチャーはここまでにしておきましょう。ちなみにこのシステムが稼働状態で唯一の弱点らしい弱点はGIO日本支社施設そのものを攻撃対象に指定できない事です。
このシステムを動かす為には設備の稼動が必須であり、何か一つでも欠けると効率的な運用は不可能となります。GIOでは小型化まではできませんでした。
今回は辛うじて独立電源が生きているおかげで何とかなったようですから、まだまだシステムの改良が必要かもしれません。では、お疲れ様でした」
【敵性パターンの消失を確認。お疲れ様でした。コード【PCA】を解除しますか?】
完慈が頷くと粉塵がまるで逆回しでも見ているように萎み始め、地上で幾分か堆積が減らしながらも再びブロックの姿を取り戻していく。
GIO日本支社から半径十キロ以上に渡って広範囲に薄く銀色の粉が積もっていた。
【次回起動時、本オペレーターではない場合にはログが自動再生されます。この設定を変更する場合は再び本オペレーターが起動した際に修整してください。またのご使用をお待ちしております】
今の今までゆっくりと落ちていた完慈がそのシステム音声と同時に着地した。
服の埃を払って広大な駐車場の一番端に止めてある黒いポルシェの方へと歩いていく。
あれだけの激戦だったというのに車体は傷ついていなかった
「ああ、無事で本当に良かった」
まるで恋人へ愛撫するかのように表面を撫でられ、今では珍しいガソリン車のキーが回される。
まったく問題ない排気音。
致命的なまでに破壊された駐車場から奇跡的に無傷だった車が走り出した。
「・・・君に会えるのは当分先になりそうですね・・・アズ・・・」
ぼやきながら完慈が街の方角を見る。
幾つもの車両のランプと排気音。
近くの基地から陸自の師団がようやく近場へ到着し、支社へと向っていた。
「愛しい人に会う時間も無いとは・・・」
軽い苦笑。
テロリストとはいえ今正に数百の人間を虐殺したにしては穏やかな顔でGIO日本支社会長は軽やかにハンドルを切る。
「そろそろ引退を考えるべきか否か・・・」
声が風に流れ去った跡にはただ血と肉と骨だけが轢き潰されていた。
地獄のような風景に陸自の自衛官達が慄くのはそれから数分後の事だった。
*
GIO日本支社地下非表示階層中間部センターフロア。
【撃ぇえええええええ!!!! 何としても中央電算室を占拠せよ!!!!】
銃弾の応酬が続く巨大な回廊で軍閥とGIO日本支社警備は二十メートルを挟んで睨み合っていた。
警備部が背にしているのは下層への直通エレベーター。
センターフロアより下へと続く独立電源により確保された唯一の道。
そこを突破されれば、一気にGIO側は総崩れとなる。
各階へ続くエレベーターシャフトの内で最も重要な場所だけに強固な防衛システムを持っているものの、シャフト内部に侵入されれば、最重要区画であるGIO中枢を掌握されたも同じ。
逆に言えば、其処を死守出来たならば、GIO側の勝ちと言っても過言ではない。
【外部との回線回復しました!! どうやらECMは破壊されたようです。封鎖部隊からの応答ありません】
階層制圧時に幾つかの部屋から引っぺがしてきた合金製の扉やらガラクタやらが積まれた壁の内側から数十人にも及ぶ男達が代わる代わる銃で牽制し続けている。
その中央。
未だスーツ姿のまま指揮系統の頂点に立つ池内は僅か黙祷した。
最初から織り込み済みとはいえ、随分と早く部下の大半を亡くした事はもう分かっていた。
【大隊長殿。予定よりも一時間半程早いようです。このままでは・・・】
傍らの頭の禿げ上がった男の言葉に池内が決断する。
【独立電源の確保は未だ終わっていないが打って出るしかないか。機械化猟兵を投入する】
【はッ!!!】
その時だった。
【うぁああぁあああああああ?!】
池内が振り向くと同時にガラクタの壁付近で血飛沫が上がる。
兵士の一人が隙間から鋭く突き出されたワイヤーに頭を貫通されていた。
【増援が来ました!! あの屑鉄野郎です!!!】
数人の兵達が盾となるように二人を囲む。
その合間から見える光景に池内の目が細められた。
壁の隙間からズルズル這い出してきたのは無数のワイヤーで肉体を構成した機械の化け物だった。
【撃て撃て撃てぇええええ!!!】
無数の銃弾がワイヤを抉り砕き、内部構造を完全に破壊する。
しかし、その壊れた体を捻り出すように再び新たな化け物が隙間から侵入し始める。
【猶予は初めから無かったな】
傍らの男が池内に頷く。
【そのようで】
銃声の中で尚響く声が張り上げられる。
【これよりワンフロア後退!! 後方に待機していた機械化猟兵を投入!! 独立電源へ向わせた部隊以外に集結の指示を出せ!! 第二目標は破棄!! これより第一目標を最優先とする!!】
池内の声にその場の空気が変わった。
今まで防戦一方だった兵達が波が引くように後退し始める。
それと同時にフロアの上からパラパラと埃が降ってきた。
何かが押し寄せてくる気配。
【・・・随分と気が立っているようだ】
後退する部隊の中央で池内は上にいる部隊の状態をそう測る。
【それもまた致し方ないかと。今まで同胞が散るのをただ見守るだけであった事を思えば】
【軍閥正規軍の連中にその言葉が吐ければ、この作戦も少しはマシだっただろうが、これも天命と思うしかあるまい】
【心中お察し致します】
【GAME、か。一国を滅ぼすも生かすも遊びと言うならば、我々はせいぜい遊びを荒らす駒となろう】
【中央委員会さえ、意見がまとまっていれば正規軍からも幾分かは動員出来たのでしょうが】
【己等の悪行に荒れ果てた領土を見限ったあそこに今更未練がましい思いなど持ち合わせてはいない】
【はい】
【政争に狂い、私利私欲に溺れ、果ては『あの男』の傀儡となった者達が人民の代表とも思わん】
遥か地上から何かが階層を降りてくる。
【この作戦は未だ大国気取りのプライドを振りかざし、安全地帯にいる連中の思惑に乗っているのではない。あの地で今も飢え渇いていく者達への道を示す為のものだ】
【それ故に我らは・・・貴方に命を賭けるのです。大隊長殿】
兵達が階段を上ろうとした時だった。
キュルキュルと何かが回る音が響き始める。
【知っているか? 日本では鬼とは退治されるものだそうだ】
【随分と突然ですが、どういう事でしょう?】
【日本鬼子(リーベングイズ)と呼んだ我らこそが、この地では鬼と呼ばれる事となる】
突如として大きな黒いものが階段へと降ってくる。
兵達が慌てて道を開けると複数のソレが今まで兵達が撤退してきた通路に幾つも並んでいく。
その数は一分と待たずに四十を数えた。
【機械化猟兵中隊『黒』只今到着致しました】
ソレの一つが敬礼するとソレ等も同様のポーズを取った。
ずんぐりむっくりとした黒い躯体(ボディー)。
腰から足回りに着いた複数の車輪(タイヤ)。
完全に人間の形を覆い隠す装甲と背後の蓄電池(バックパック)。
まるで宇宙服を二回りも大きくしたかのような姿。
それは黒い強化服(パワードスーツ)。
米軍が使う物よりも二世代、三世代は旧い代物だった。
池内がパワードスーツの内にいる男達へ大声を張り上げる。
【これより作戦の最終段階に入る。エレベーターシャフトを確保し、中央電算室への道を拓け。これより我らの目標はただ一つ。GIO日本支社所有の量子コンピューター『采覧異言(さいらんいげん)』を管理下に置き、GIOの衛星支配を打ち破る事のみ!! 機械化猟兵中隊、行動を開始せよ!!!】
鬨の声。
男達が一斉に振り返って通路を駆け抜けて行く。
その先では壁の間から吐き出されるように警備ロボットがウジャウジャと湧き出している。
通路へと押し寄せてくるワイヤーと機械の群れに黒いパワードスーツ達は怖じる事なく突撃していった。
*
センターフロアで命運を別ける激突が生じた頃。
久重達は下水処理施設入り口付近まで何とか辿り着いていた。
巨大タンク内部へと続く通路は狭い。
人が二人通れるかどうかという幅しかなく圧迫感著しい。
通路内部の電源は生きているらしく灯りは付いているものの、三人の口数は少なくなっている。
送られてきた地下のMAPに照らし合わせれば、タンクへ続く道は二つ。
一つは広い通常の業務用通路。
もう一つは狭い非常用点検通路。
二つの道の違いは水密扉の多さ。
完全に地下施設を掌握していない軍閥は扉を開ける手間の少ない道を選び、最初からGIOのバックアップを受けられる久重達は完全に扉が解放された道を安全に急ぐ事が出来た。
最後の扉を前にしてGIO側から渡された端末に扉が開放される旨が表示される。
「ひさしげ。下がって」
ソラの声に久重が首を横に振る。
「こういう時は男が前に出るもんだ」
「でも・・・」
「ソラ」
「・・・分かった。でも、無理しちゃダメだから」
「ああ、分かってる」
二人のやり取りを見ていた虎(フゥ)が久重の袖をクイクイと引っ張る。
「どうかしたか?」
「敵の扱い」
まるで明日の天気でも聞くような軽さ。
しかし、その内容の真意は死人を出していいかどうかという話だろうと久重にも分かった。
「オレが殴り倒し易いように牽制してくれ。此処は戦う場所かもしれないが日本だ。いつ何処で警察の目が光っていないとも限らない」
冗談めかした言葉に虎はジッと見上げて、頷いた。
「無論、無力化した後、連中が勝手に毒で死のうが失血で倒れようがオレ達に責任はない。それと危なくなったら自分の命を最優先するように。それだけは言っておく」
「了解」
言っている間に最後の扉のロックが外れ、一瞬で開いた。
タンク内部の明かりは点灯していた。
「行くぞ!!」
タンクの最も上で繋がっている通路の先には内部を螺旋状に降りていく階段があった。
滝の如く中層の流入口から流れてくる汚水の音。
そして、タンク下に溜められた膨大な水。
下は濁って見えないものの、その一番奥に独立電源の中枢施設へ続く扉がある。
【!?】
久重が走り出す。
今正に階段を下りようとしている一団が三人に気付いて銃を向けた。
「『CNT defender』」
ソラの声と共に相手が見える程に薄いCNT(カーボンナノチューブ)製のカーテンが展開され、走り出す全員の数メートル前を自律移動していく。
弾丸は錐のようにカーテンに突き刺さるものの、すぐ勢いを失いタンク下部へと落下していった。
百メートルを十秒で駆け抜け、反対側の扉の前にいた兵士の顔を久重が殴り抜いて一撃で昏倒させる。
相手は動転していたもののナイフを取り出していた。
突き出されたナイフを紙一重で避け、クロスカウンター気味の拳で吹き飛ばすという芸当。
通常では考えられない。
凶器に対して身が竦むのは人間の本能、銃声にもナイフにも躊躇せず突撃する等というのは相当に訓練した兵士でも難しい。
少なくとも本能を越えるような怒りで我を忘れたり、正常な判断能力が無い状態でなければ、中々出来ない。
そういう意味で外字久重は精神的に非凡と言えた。
虎のトカレフによる援護射撃がカーテンの隙間を縫って相手側の足元で弾ける。
浮き足立った兵達の中に踊り込んだ三人がそれぞれの役割を自然に選んだ。
虎の銃が相手を威嚇・牽制し、ソラのNDが相手の銃弾へ対処し、久重の拳によって相手は昏倒する。
凡そデタラメな連携。
腕に覚えのある兵士達の頭を正確に打ち抜いて一撃で昏倒させるのは神業だろう。
相手の動きを機敏に察知し、火力で圧倒的に劣るにも関わらず先制し、たった一挺の拳銃で場の流れを形成するというのはどう見ても子供の技術ではない。
如何に最新鋭のNDの力があったとしても、防御の要であるCNTの防弾機構を自在に操るのは本人の高度な操作能力無しには成り立たない。
「ひさしげ!!!」
ソラの警告に階段の上部にいた数人を制圧し終えていた二人がタンク下部を見た。
銃撃で応戦していた兵士達の数人が汚水へと飛び込んでいく。
「ソラ!! 薬品投入までの時間は!?」
「後、三分!!」
「このままじゃ間に合わないか・・・」
さすがに水中戦で三分以内にタンクから兵士達を追い出すのは不可能だった。
しかし、このまま放っておけば、確実に独立電源を落とされる。
「・・・魚みたい」
ソラの横で弾倉を交換しながら、虎が水中に潜っていく兵士達にボソリと呟く。
「それだ!?」
「?」
久重の言葉に虎が首を傾げる。
「ソラ!!」
何を言われたのか。
何を期待されたのか。
正確に意図を読み取ったソラがハッとして頷いた。
次の瞬間、タンクの片面の壁に黒い網目上の文様が浮かび上がる。
それは瞬時に下部へと滑るように移動していった。
三十秒後。
未だ飛び込んでいない兵士を無力化し終えた三人が階段を駆け上がり、元来た通路に引き返す
「いっせーのーでッッッッ!!!!!」
ソラの掛け声と共に二百メートル下の汚水から黒い網に雁字搦めとされた兵士達がポーンと一本釣りでもされたかのように飛び上がり上の通路に引き上げられた。
「間に合うか!?」
「大丈夫」
請け負う声の最中も倒れ伏した男達が三人とは反対側の扉の奥へと押し込められるように放り込まれる。
「ドアも封鎖する準備は出来てるから」
全ての男達が元来たドアに見えない何かで叩き込まてドアがスライドした。
ぎゅう詰めにされた男達の姿を見送って三人が退散するより先にタンクに落ちる水にどす黒いものが混じり始める。
「―――行くぞ!!」
その汚水から水飛沫が上がってくる前に扉の奥へと三人は退避していく。
全てが終わったタンク内部はそれから数秒で内部を完全に黒く塗り潰された。
争いは終わらない。
ある者は置いていかれ、ある者は先に進み。
そして、ある者は明日が訪れない眠りへ。
世界に朝は遠く、未だ戦いは続いていた。
血潮を渡し、供物は換える。
それは連綿と続く代価の話。
命で購った金より重き時間が、破滅と救世の選択に揺れる。
第三十九話「兆し」
正しき選択などあるのか。
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第三十九話 兆し
第三十九話 兆し
永橋風御は長話をしながら階段を下っていた。
その後ろに銃を突き付けられているというのにケロリとした顔をして・・・。
「それでその親友(笑)が言ったわけ。正しい事なんて糞喰らえってさ。まったく、馬鹿馬鹿しい話だって思うんだけど、何でかそういうのが美人には受けがいい。中学も高校も付き合ってる女はいなかったけど、実は裏だと女の引く手数多だったって本人の前で言ったら、新手の精神攻撃かって逆切れされて―――」
ジャキリと撃鉄の引き上げられる音に思わず風御が言葉を切る。
「黙って歩こうと思わないのか?」
アマンダ・フェイ・カーペンターの言葉に微笑みが返される。
「頭に風穴が開くまでに楽しい思い出でも話そうかっていう如何にもな人間心理だよ?」
楽しげな声にアマンダは目を細めた。
まるでいつでもこの状況を打開出来ると思っているような、あるいは銃を突き付けられる事なんて何とも思っていないような、そんな一般人いや、そういう世界に生きているにしても軽過ぎる調子。
圧倒的不利な状況にも関わらず体に力みも見て取れないとなれば、益々アマンダの警戒心は上がった。
「それでオーストラリア陸軍の軍人さんがGAME参加中に賭けの参加者兼スーパーニートな僕に何の用?」
「知っていたか・・・」
「そりゃ、賭けの対象だから知らないわけが無いね」
「ふん」
アマンダが鼻を鳴らす。
「それでいつまで僕は銃口を向けられてればいいのかな?」
「危険人物を自分の制御下に置いていると考えてみろ。貴様はそんな危険人物を放っておくか?」
「いやいや、僕の何処が危険?」
「随分と謙遜が上手い。あの惨状を生み出した張本人が何を今更」
「あんなのは惨状なんて言わない。世界中でもっと酷い場所なんて幾らでもあるんじゃない?」
「見てきたような口を・・・」
不機嫌になったアマンダが銃口で頭を小突く。
「君の行動を言い当ててみようか? 君はGIOの弱みを握る為、あのGAMEに参加するフリをしてGIO日本支社に潜伏していた。そして、その間にGIOへの襲撃が発生。
これ幸いにと行動を開始したものの、時既に遅く。重要区画に潜入する前に襲撃者達とGIOの戦闘がビル内部で勃発。何とか敵をやり過ごしながら、戦闘準備をしていたら、襲撃者の部隊を見つけて近場の重要区画へ連れて行ってくれるんじゃないかと期待して尾行。
結果、襲撃者達を襲う謎のスーパーニートの登場に動揺を隠し切れず、思わず銃で脅していた。本来ならやり過ごすべきだったが、個人で部隊を全滅させるような非常識な戦闘能力が何かに使えないかと考えた末にこういう結果に至る」
「―――貴様」
アマンダが息を呑んで銃を持つ手に力を込める。
「これでも僕は人間観察が得意な方なんだけど。君には面白い特徴が見受けられる」
「喋るな」
銃が更に突き付けられるものの風御は動揺した様子もなく淡々と語り始める。
「君はまずオーストラリア南西部の生まれだ。肌から香る匂いは紫外線対策のUVカットクリームの一種。問題はそれをどうして日本のGIOにいるような人間が使っているかって言う事。普通、軍隊でそんなクソ高いクリーム使ったりはしない。でも、使わざるを得ない場所もある。それは皮膚癌が多発する地域だ」
「!?」
「確かオーストラリアの紫外線危険度の高い地域だと紫外線遮断対策は軍事施設でも当たり前のはず。逆に付けてないと怒られる類のルールだったと記憶してる。つまり、君はこの荒廃した世界で高いクリームの使用を義務付けられている軍隊の一員って事になる」
「貴様は・・・何者だ」
驚きを隠せないアマンダが銃口を僅か揺らがせた。
「そして、更に言うと君の歩き方だけど癖がある。CIAの工作員に似てるような感じかな? たぶん日本の諜報機関で訓練を施されたんじゃない?
日本の第十六機関は元々がアメリカのCIAを元にして発足したからね。マニュアルその他もCIAに準じてるって話だし、同盟国からの訓練も請け負ってるって話も聞く。
そういう事から推察するに君は諜報機関勤めを行う為の訓練を日本で受けた陸軍の交換留学生みたいな立ち居地にいたと推測できる。
その君の立ち居地から考えるに日本のGIOへ来たのはオーストラリアにかなり口出ししてるGIOの内部調査及び破壊工作。GAME参加は見かけだけで勝つ事を上はあまり君に期待していない。つまり、君は・・・」
階段の上からアマンダは思わず風御を突き落としていた。
「おわ!?」
風御が転げ落ちる間にもアマンダの姿は階段から他の階層へと消えていた。
ゴロゴロと二十数段を転げ落ちた風御が折り返しの壁に激突した後、むっくりと起き上がって埃を払う。
「痛った~~~。もう少し優しくして欲しいって・・・もう行っちゃったか」
得体の知れない存在に近づくべきではないと思いつつも殺せなかったところを少し高く評価して風御は消えたアマンダの行動を予測する。
「上の階層でまだ機密がありそうなのは・・・あそこくらいかな」
ジャコン。
そんな聞きたくない音を再び風御は頭の上で聞いた。
「警備部の者です。お話を聞かせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「・・・・・はぁ」
風御がゆっくりと後ろを振り向くと数人の男が小銃を自分に向けていた。
*
【ドクトル・ファウストゥスというのを知っているか?】
センターフロア中央。
破壊された機械の海が一面に広がっていた。
【ファウストゥス・・・ゲーテ、でしたか?】
【そうだ】
【すみません。そちらの方はまったく不勉強で・・・】
池内豊。
中国軍閥特務部隊の長は配下である頭の禿げ上がった男に「構わない」と続けた。
【そこで主人公である男ファウストを堕落させるメフィストは序曲でこう神を嘲る。『人間達は貴方様から与えられた理性をろくな事に使っていませんな』と】
【人間を皮肉ってるわけですか?】
【ああ。だが、神はこう続ける。『人間は努力すれば迷うものだ』とな。そうしてファウストの魂を堕落させられるかどうかの賭けに乗る】
【それはまた・・・神も性善説が好きなようで・・・】
瓦礫と化した警備ロボットの成れの果てを先導する数人が掻き分けていく。
【だが、面白い事にファウストは己の人生の最後を民が田畑を耕す鋤鍬の音と共に終える。結局、メフィストは人の手助けばかりさせられる滑稽な役を自らかって出ただけの道化でしかなかった。神は・・・最初から結果を見通していたのかもしれない】
【・・・何故、今そのような事を?】
部隊が周辺を固める中、交戦中の部隊【黒】からの無線が入った。
残すところ後、二階層のみ。
無理やりに抉じ開けられたエレベーターのドア脇には数人の強化服(パワードスーツ)が内部から血を溢れさせて横たわっていた。
【我々はたぶん道化役にすら足りない】
『ロープの準備が出来ました!! もう少しお待ち下さい!! 大隊長殿!!!』
部下達からの報告にも関わらず池内が暗いシャフト内部に歩を進める。
『だ、大隊長殿!?』
【これでもまだ現役だ。降りるのはロープ一本で構わん】
『で、ですが、未だGIOとの交戦は続いており!?』
【大隊長殿が構わないと言っておるのだ!!!】
『は、はい!!!?』
腹心からの言葉に周辺の末端兵士達が縮み上がった。
池内が周辺を警戒し続ける兵達に一度だけ振り返る。
【ご苦労。諸君の愛国心と同胞への働きに敬意を表する】
『『『『『『『『『『『『『―――――――はッッッ!!!!』』』』』』』』』』』』』
兵達の顔にあらゆる感情を越えた畏敬が浮かんだ。
それも束の間。
池内がシャフト内部に吊るされたロープを掴み、そのまま下りていく。
腹心もそれに続いた。
暗く互いの顔も見えないシャフト内部で数十秒にも及ぶ降下の後。
最下層近くのドアから漏れる光が見えてくる。
ロープからその階へと降り立った池内が死屍累々と横たわっている強化服の群れを横目に悠々と歩き出した。
慌てて追いついた男が池内の背後で警戒を強める。
【我々はあの悪魔にとって結局、主役の脇で人生を送る舞台装置の一つに過ぎないと言える。代えのある部品というわけだ】
【・・・・・悪魔、とは?】
それに答えず。
池内が己の腰から拳銃を抜く。
【墓穴を掘った道化にそれはお前の墓穴だと我々が教えてやらなければな・・・】
もはや数人となった前方の強化服姿の男達が巨大な扉の前で立ち往生していた。
『こ、これは大隊長殿!!!』
男達が一斉に敬礼する。
【状況は?】
『そ、それが用意していたこちらの機材の殆どが歯の立たない状態で・・・このままでは・・・』
【そうか。少し貸せ】
池内が扉の脇に設置されている暗証番号の入力機器を一見して、弾丸を打ち込んだ。
『だ、大隊長殿!? な、何を!? お止め下さい!? それでは完全にあちら側からのロックを外せ―――』
ゴウン。
地下が鳴動するような響きを伴って、扉が急激な変化を見せた。
今までただの平面の扉としか見えなかった表面が泡立ち、即座に銀色の粒子となって溶解していく。
『こ、これは!?』
誰もが唖然としているのを横目に目的地への通路へと池内が歩き出す。
【『あの男』からの支給品だ。せいぜい有効に使わせてもらおうか】
『お、お待ち下さい!!』
【三人は退路確保の為、此処に残せ。残りは共に来い】
『は、はい!!!』
もう誰も池内が先頭を歩く事を止めようとはしなかった。
角を幾つか曲がりながら一分程でGIOの最重要区画の扉が見えてくる。
池内はその扉のディティールに唇の端を吊り上げた。
【天の門でも気取っているつもりか・・・】
最終セーフティーである扉は白い石柱と華美に掘り込まれた大理石と見えるもので構成されていた。
重い音と共に内側へとひとりでに扉が開く。
警戒する部下達とは反対に池内がそのまま扉の中に進んだ。
その先にいる最後の難関を見据えながら。
「ようこそ。GIO日本支社中央電算室へ。池内豊様」
扉の内側は巨大な空間を見渡す位置にあった。
幾つかのコンソールの先に一面の強化硝子。
その先には赤い液体の中で煌々と輝く一本の柱が存在していた。
明滅を繰り返す柱には幾つものケーブルが繋がれ、壁全体からレーザーらしき光が照射されている。
ただ、液体内部に見える機器の全てが機械的というよりは何かの遺跡のような荘厳さを持ち合わせていた。
細部にまで掘り込まれたレリーフや文様はいっそ呪術的ですらあるかもしれない。
【まさか、GIO特務筆頭が最後の難関とは・・・貴女はまだ外にいたと思っていたが?】
辿り着く者達を待っていたのは・・・亞咲だった。
その姿はまるでこれから何処かに出かけようとしているかのようなGパンにTシャツというラフなもの。
場にそぐわない事甚だしい。
しかし、池内は確信していた。
目の前にいるのは確かに最後の障害なのだろうと言う事を。
部屋の片隅には無数の肉体が積まれている。
今まで動いていたのであろう抵抗者達の成れの果てだった。
血が流れていないのに動かない様子から、池内はそれが何なのか理解した。
【ご期待に添えましたか? 亞咲さん】
最初に会った時の口調で話しかけた池内に亞咲は苦笑した。
「繕う必要は在りません」
【そうか。こちらで構わないというなら率直に言おう。『采覧異言(さいらんいげん)』を明け渡してもらおう】
亞咲に見える【ソレ】が溜息を吐く。
「最初からこうするつもりだったと見抜けなかったこちらの落ち度とはいえ、たかだか千人規模の部隊に此処まで手の内を暴かれるとは・・・」
やれやれと肩を竦めようとした瞬間、一発の銃弾が部下から亞咲の胸に打ち込まれた。
【!?】
部下達が動揺する。
体は倒れる事無く。
全員の前で肩を竦めて見せた。
更に銃弾を打ち込もうとする部下を池内が手で制す。
【ジェミニロイド・・・GIOの特務筆頭は神出鬼没だとは聞いていたが、こういう仕掛けか】
亞咲が己の胸からポロリと落ちる弾丸の跡を払ってから首を鳴らした。
「その洞察力、GIOの為に使ってみませんか?」
軽口に池内が首を横に振る。
【生憎と鬼の同類となるのは御免被る】
「そうですか。いやはや、意思は堅そうだ。ならば、仕方ない」
【何・・・?】
「本物には気を付けた方がいい。【彼女】はGIOに仇為す者は誰だろうと決して許さない。まぁ、貴方の場合は生き残っても【彼ら】や【連中】の段取りを無視した代償を払わせられるでしょうが・・・」
【貴様は・・・誰だ!?】
池内は目前で喋っている亞咲の姿をしたロボットの中身が『真実に近い誰か』だと気付いて拳銃を向けた。
「ちょっと、生まれる時代が遅れた人間です。ああ、もう気付かれたかな。時間が無いようなので簡潔に忠告しておきましょう。池内豊さん・・・貴方の目的は達成できない。そして、もしも貴方がそれでも祖国の民を救おうとするならば、弾頭の落下地点は此処にするといい」
コンソールのディスプレイの一部に地図が表示され、紅いマークが記される。
【!?】
「ただの凡人にして此処まで辿り着いた稀有なる資質。失うにはあまりにも惜しい」
池内は躯体の先にいる存在が忽(たちま)ち消え失せようとしているのを感じ、制止した。
【待て!?】
「では、もしも次に生きて会う事があればまた・・・お待ちしていますよ? 池内豊さん」
ガクンと亞咲の体が揺れ、芯が入ったかのように再び背筋が伸びる。
「・・・【彼】と何を話していたのか知りませんが、人の体越しには困ります」
今度こそ本物の亞咲が己の手を握り開いて感覚を確かめた後、池内に向かい合う。
【GIOも面白い人材を抱えている】
池内の言葉に亞咲が目を細める。
「出来れば力を借りたくない類の人間です。貴方のようなイレギュラーを好む傾向にありますので」
【この茶番を仕掛けている者に貴女も心当たりがあるようだ】
「詳しく知ろうと思えば理解できるかもしれませんが、それはGIOに直接の危害が加わらない限りは在り得ない状況かと。それがこの世において私が身に付けた処世術です」
【賢しらな者を賢者と呼ぶならば、この身は愚者でいい】
池内が亞咲を睨み付ける。
「愚者こそが真実を求めるには相応しいと? でも、それでは何も守れない。今正に全てを失いつつある貴方がそれを一番よくご存知でしょう」
【失ったのではない。目的の為に代償を払っただけの事だ】
亞咲が完全に決裂した事を確認して溜息を吐く。
「この『リモート・ジェミニ』はほぼ完全な体感機構を持つ高性能躯体です。たかだか、数人に遅れを取る事はありません。私が貴方達に与えられる選択肢は二つ・・・投降か、死か」
【悪いが此処で立ち止まるわけにはいかない。我らの後ろには同胞の屍が山と積まれている】
「ならば、死んでください」
言われるよりも先に池内は自然に体で己の流派の型を取っていた。
ドゴシャッッと部屋の内部に破砕音が響く。
超高速で突撃した亞咲の体を池内が背後の壁まで放り投げていた。
【右後方撃て!!!】
兵達が今までの動揺を捨てて命令通りの位置に銃撃を見舞う。
壁に半分めり込んでいた亞咲が銃撃の只中に立たされた。
【後は任せる】
【お任せを!!!!】
腹心の叫びに池内はコンソールへと走る。
銃撃で肉体のあちこちから部品を飛び散らせながらその背中を狙おうとした亞咲の前に男達が立ちはだかる。
「!!」
亞咲は何も言わず。
全力で男達へと突撃する。
如何な体格も機械と人間の壁の前には些細な事。
そのまま男の一人の胴体を真っ二つにして進もうとした亞咲の頬が打ち抜かれた。
「?!」
グジャッと鈍い骨の潰れる音と共に亞咲の躯体が宙を舞う。
亞咲を再び銃撃が襲った。
「それが人間技ですか? 」
拳が完全に潰れ砕けた腹心がニィッと唇の端を吊り上げて笑う。
【空手が出来る日本人と拳法の出来る中国人。どちらだろうと死の覚悟を労して望めば、機械に決して遅れを取るものではない。違いますかな? GIOの娘娘(にゃんにゃん)殿】
「反応速度・反射速度・重量・精密動作。どれも人間が敵うはずないとウチの開発部は言ってましたが・・・これは後で文句を言わなければならないようですね」
言っている間にも亞咲は銃撃を見舞ってくる兵達の方を先に片づけるべく突撃を掛けていた。
両目が銃弾で潰されるのも、腕や足が少しずつ欠けるのも構わなかった。
接近された端から亞咲の裏拳で人が吹き飛ぶ。
更に回し蹴りが二人目の胴体を横薙ぎにして蹴り飛ばし、抜き手が一人の男の太ももを貫通した。
たった数秒の出来事。
兵達の半分を無力化した亞咲が更に襲おうと床に指を立てて滑るのを止めた。
その顔面に蹴りが入る。
「ぐ!?」
ゴキリと頚部を破損した亞咲がそれでも自分を蹴った足を掴み取り圧し折る。
不意に手応えを失って体勢を崩した躯体に更なる銃撃が加えられる。
さすがにボロボロとなった躯体の動きはそれでも未だ健在。
GIOが用意しただけの事はある。
あらゆる補助機関が半壊状態のジェミニロイドを未だ人間以上の性能に留めていた。
まるで性質の悪いゾンビ映画よろしくまだ稼動する部位を使って高速で床を這う亞咲が歯を使って兵士達の足元を狙った。
一人の足首を噛み千切り、一人の顔を蹴り上げて気絶させ、一人を勢いのまま絡みつかせた足で捻り、頸部を破壊する。
【鬼め!?】
最後に残った腹心が杖上になった片足で床を這う体を蹴り飛ばす。
「義足ですか? GIO関連会社の製品でも如何です? 安くしておきますよ?」
体の下から掬い上げるような蹴りが男の鳩尾に変態的な角度から迫った。
通常の人間ならやった瞬間に体を破壊されるような股関節の曲がり方。
無理やりに人間の形から繰り出された非人間的な一撃は男の鳩尾を刳り貫く。
横隔膜を半分裂かれた男がそれでも最後の一呼吸で震脚を見せた。
ズダンと一番防備の薄い亞咲の首筋が半分以上砕けた。
それでも強固なケーブルの束が辛うじて首が落ちるのを防ぐ。
血を吐いた男が白目を剥いて倒れた。
「これで、チェックメイト!!」
ようやく全員を排除し終えた亞咲は満身創痍の躯体を引きずってコンソールの操作している背中へと飛び掛る。
しかし、悠然と振り返った池内の拳銃が火を噴いた。
通常の弾丸ならば問題なかったかもしれない。
だが、その弾丸は最後の守りの要を開けた代物だった。
中身はITENDの塊。
池内が知る限り、それの機能は一つだけ。
機械内部へと瞬時に浸透し、制御中枢を掌握・停止させる。
弾丸を胸の中央に打ち込まれた亞咲の体が一瞬で力みを失った。
制御不能となった躯体はただの機械の塊に過ぎない。
そんなものは池内の敵ではなかった。
銃を捨て去った腕とは反対の拳がすでに引き絞られている。
撃ち出された拳は狙い違わず躯体の中心を捉え、吹き飛ばした。
【これでも黒帯びだ】
見事な正拳突きだった。
「・・・さて」
池内が再びコンソールへと向き合う。
ディスプレイに映し出されているのは極東の上空に存在するほぼ全ての人工衛星の軌道と現在位置。
そして、その衛星の発信する情報の全てだった。
現在の世界において人工衛星は人の生活に直結している。
戦争もGPS情報無しには成り立たない。
GIOがあらゆる国家を敵に回しても争える理由。
それこそが超高ビット数を誇る量子コンピューター『采覧異言(さいらんいげん)』の真価。
【極東衛星支配網(イースタン・サテライト・ネットワーク)】
その全てが手の内にあるという事はそれだけで極東の空を支配しているに等しい。
例えば、GPS誘導を必要とする兵器の全て。
例えば、GPS情報を必要とする情報システムの全て。
それらを一括して支配できたならば、如何な戦闘機もミサイルも敵国と争う道具とは為り得ない。
強い兵器を求めれば求める程にその兵器には高度な情報が必要となる。
GPS情報はその根幹であり、『采覧異言』はそれのみならずジオネット及びジオプロフィットの全ても司る。
政府機関も民間も最も重要なライフラインを握られたと言っても過言ではない。
【これで・・・ようやく・・・】
日本の防空圏など意味を成さない。
ミサイル防衛なんて出来るはずもない。
それだけの力を支配下においた池内が政府へ降伏勧告を行えば、日本は窮地に立たされる。
政府要人達はGIOの力を知っている以上、池内の言葉を無視できない。
近頃の人工衛星は耐久年数が過ぎた後は自力で地球に下降する能力を持っている。
突入軌道で燃え尽きないよう調整し、一つでもそれを重要施設に落とせれば、被害は天文学的な値。
一時期に比べれば少なくなったとはいえ原発を稼動させている以上、政府には対抗手段など無い。
国内の混乱に乗じて日本の力をかなり削ぎ落とす事すら出来る。
【・・・設定は・・・】
予定時刻が刻一刻と近づいてきているのをディスプレイ上で確認して池内が思案する。
『貴方の目的は達成できない』
亞咲の躯体を乗っ取っていた何者かの言葉に池内は直感的に嘘は無いと感じていた。
【何故・・・達成できない・・・その理由・・・理由は・・・何処だ?】
己の目的まで後一歩というところで、今までの過程に点検を課して数秒。
何もかもが上手く行き過ぎている事を不審に思う。
中国の各国境地帯の映像を呼び出した池内は理由を探した。
【・・・何だ・・・何が引っかかっている】
何処もおかしなところはない。
それどころか平穏そのものですらある。
混乱する軍閥内で何とか準備してきた計画に支障があるとは思えなかった。
不意に違和感を感じて、国境地帯の一角を池内が拡大する。
【何故、今まで気付かなかった・・・】
幾つものピースがガチガチと脳裏で嵌っていく。
【国境地帯の主要道路に兵を置かない馬鹿が何処にいる・・・】
視線を己の下にあるUSBメモリに向けた池内がとある可能性に行き着く。
(最初から上層部はこちらの計画を察知していた? いや、だが、そんな素振りは・・・ならば、どうして止めようとしなかった? いや、最初から止める気が無かったのか・・・)
「随分と慌てているようですが、何か問題でもありましたか?」
その声に振り向く事なく。
池内が最終的な行動を衛星に送信する直前の状態を維持したまま手を止める。
部屋の片隅に積まれていたジェミニロイドの山の中から鋭い眼光が飛んだ。
【・・・随分と余裕だな】
「いえ、正直なところ・・・今回は負け戦です。貴方の電撃戦は完璧でした」
【何故、そう平静で要られる?】
諸々の事件でGIOが負った傷は浅くない。
それは動かしようのない事実のはずで、GIOの中枢であるシステムを掌握されているにも関わらず、襲ってくる気配も無いのは妙だった。
「貴方だけが秘密を知っているわけでもありません」
【・・・秘密とは何だ?】
「誰に聞かされたのか知りませんが、貴方の国は貴方が知っている通り・・・もう終わりです」
【戯言だな】
「今、貴方がしている操作によって得られる結果から推測するに国家の枠組みから逃す事で生き残りを図ったようですが、それは意味がありません」
【なん・・・だと? どういう意味だ!?】
「私も殆どの事は知りません。ただ、その時が来れば、民族単位での扱いになるらしいとは聞いています・・・様々な枠組みの中から閾値を越えたものを削除という方向らしいですね」
【貴様は何処まで知っている?】
「貴方と同程度です。そういうのはそちら側の人間の領分で私のような駒の領分ではありません。ただ、貴方の考えている事なら今まで集めた事実から推測する事はできます」
【推測だと?】
「全て推測の域を出ませんが暇潰しに聞きますか?」
【貴様らのようなはみ出し者にとって国の興亡すら暇潰しか】
「GIO内部においてCEOや役員・株主は切れるカードの一つでしかありません。会社そのものを作った人間達にしてもそうです。今、働いている社員の殆ども我々にとっては切ってしまえる程度の存在でしかありません。GIOという会社は確かに社会の中で生まれましたが、その内でしか生きられない我々にとっては国家や己の創造主よりも優先されるべき総体です」
【その内に人類へ叛旗でも翻すか?】
その皮肉に亞咲はクスクスと笑う。
「いえ、そもそも叛旗を翻すまでもなく人類は勝手に絶滅しそうに見えますが?」
【貴様・・・】
「我々は確かに人間とは違います。でも、人間よりは状況を冷静に捉えていますし、人間よりは賢く立ち回っていると自覚します。だから、貴方にもこうして接触を図っている。GIOに仇為すなら抹消するしかありませんが、貴方の願いは根本的にGIOを揺るがしてはいません」
【何だと?】
「中国軍閥の目的と貴方の目的は重ならない。軍閥は日本国内より核弾頭が発射され、他国・・・露西亜や南方諸国を蹂躙したという事実を欲しているようですが、貴方は違う道を選んだ。違いますか?」
【・・・・・・・・・】
「日本そのものを破壊するより日本脅威論を世界で展開する道を選んだ軍閥の中、貴方は中国国内から人民を逃がす事をこの電撃戦の中核とした」
池内は殆どの事が相手側に看破されている事を認めざるを得なかった。
「行動隊長として選ばれた貴方は日本脅威論を生み出して日本を最終的に占領するよりも、他国への不法な移住・移民こそが最善策だと考えたのではのではありませんか?」
【まるで、見てきたようだな】
苦いものが池内の顔に浮かぶ。
「貴方は軍閥側が考え出したGIOの中枢システム乗っ取りという作戦の一番重要な部分の内容だけを変えた。衛星支配による日本側への干渉ではなく、中国の国境を監視する諸国の衛星への干渉。それこそが貴方がGIOに押し入った最大の目的」
沈黙するのを肯定と取って、亞咲が続ける。
「各国の衛星を停止させ、ロシアや国境を警備する軍の動きを牽制しつつ、混乱させている間に民間人を諸国へ大量に流入させる。こうして既成事実を作りあげ中国軍閥内に南方への侵略を容認させる事。それが貴方の狙いでしょう?」
【日本を手に入れられるかもしれないのにわざわざそんな回りくどい事をする理由は?】
「秘密を知った貴方はどの道、中国の破滅は避けられないと不完全ながらも理解していた。如何なGIOのシステムとはいえ、永続的に操作できるわけもない。確かに当初はかなりのアドバンテージを得られるかもしれませんが、それだけで日本が屈服する程甘くないとも分かっていた」
【今の政治家連中を見れば分かるだろう。この国は大戦を拡大した時のように現在は極右翼が主流だ】
「だから、貴方は欲に目の眩んだ反日教育漬けな老人達の計画に乗ったフリをした。日本という中国にとっての怨敵を相手にするとなれば軍閥間の連携は不可欠。そして、その力をもっと単純に『弱いもの虐め』へ使えば、日本と戦うよりは効率的に目的を達成出来るだろうと」
池内が大きく溜息を吐く。
「最初に言った通り、貴方の最終的な目的は達成出来ません。『M計画』は民族単位で閾値を指定しています」
【それが『あの男』の言っていた計画か】
「貴方の言う『あの男』が誰なのかは知りませんが、最初期の十三人かそれに連なる者でしょう」
【『あの男』のような連中が十三人もいるのか。国が滅ぶわけだ・・・】
「『彼ら』の一人こそが会長であり、貴方のGAMEの相手、天雨機関を名乗った彼女です」
【GIOは誰に付く?】
「『彼ら』はそれぞれ個人が強烈な個性の塊と思って構いません。そして、個人で世界を滅ぼすに足る力を持っています。GIOは確かに『彼ら』の幾人かで作られた会社ですが、もはやその管理下は離れています。彼女はGIOを離脱し、会長はその時の為に独自の備えをしているようですが、本人曰く【誰の味方でもない】そうです」
【何故、そこまで教える?】
「貴方のシステム操作自体はもう止められない。躯体が幾らあっても緊急時の入室制限で私が操れるのは一体のみ。それすら他人の躯体は動かすのが難しいので満足に戦えない。貴方を排除できない以上、貴方が我々にとって最善の行動を取らざるを得ない状況に仕向けるのが妥当だと判断しました」
【・・・・・・・・】
「国境に兵がいないのは貴方のやろうとしている事を見抜いた軍閥の誰かがいるから。そして、勝手な事をした貴方は祖国に帰れば処刑を免れない」
【承知の上だ。そもそも生きて祖国の土を踏めると思ってこの作戦に参加した者などいない】
「ですが、今更貴方が衛星に干渉したところで中国の人民の殆どには生き残る術がないと貴方は知った。この情報が嘘である可能性を貴方は否定しないでしょうが勘は真実だと告げている」
【知ったような口を】
「残る選択肢は軍閥が当初から予定していた通りにするか。貴方の計画を実行に移すか。あるいは本気で日本を攻め落とす為に主要都市を核で壊滅させるか」
【悪いが、新しい選択肢が一つあってな】
「?」
【計画には閾値があると言ったな? その閾値はどうすれば越える?】
「知りません。ただ、様々な状況からその民族が持っている力が強ければ強い程にという推測ならできますが、合っているかどうかは分かりません」
【そういう事か・・・】
「一人で納得しているところ悪いですが、貴方の部隊はこちらの駒でほぼ制圧を完了しました。残るは最下層付近に立て篭もっている十数人のみです」
【日本の不利にはならない。GIOへの被害もないと約束しよう。部下達の命を保障してもらいたい】
「では、此処で作戦を諦めると?」
【いや、全ての人民と我ら同胞の為、核は撃たせてもらおう】
「何を・・・」
もう声には応えず。
最後の設定を終えて、池内は日本海と津軽海峡内部に侵入している原潜へと電文を送った。
【我々が保有する核の数は3発。一発は本土、一発は日本海、一発は津軽海峡にある】
「用意周到ですね」
【核弾頭は・・・爆発させない】
「どういう事です?」
【こういう事だ】
池内はコンソールのエンターキーを押した。
*
夜。
砂塵の舞う氷点下の世界。
凍える砂の崩れる音色が煌びやかに響いている。
小銃を抱えた男達が金網に遮られた白い建造物の周囲を巡回していた。
いつも通りの日常に男達の幾人かは欠伸すら漏らす始末だった。
「なぁ、やっぱ戦争か?」
「ああ、だろうよ。ラジオでも言ってたろ? もうあっちはやる気らしいぜ」
「まぁ、徴兵されたらこんなシケた場所なんざおさらばして、AVの本場で犯ってやろうや」
ニタニタと笑う男にケタケタと笑う男が返す。
「お前の短小なソレなんぞで誰がよがるかよ!」
「テメェ!? んなのオメェもだろが!?」
「はっ、知ってんだぞ? テメェの家には日本製のTVがあんの」
「ば、声デケェっつうの!? それに誰が直して一日で爆発するTVありがたがるんだっつの!」
「言いわけ用の我らが祖国製だろ? モノホンは地下にあると見た」
「さ、さぁな?」
「ふん。うちの上司にも困ったもんだぜ。幾ら日本が嫌いだからって部下にまで押し付けんなよ」
「・・・だよなぁ。さすがにAVまで取り上げるのは頂けねぇわ」
「つっても、しょうがないのかもなぁ。何せ、かみさんが極東ユーラシア半島出だからな」
「露側? それともこっち? まさか南か?」
「南だとよ。ソープで一目惚れらしい」
「んだよ。ただの整形女じゃねぇか」
「そこがいいんだとよ」
「分かんねぇな。こっちに幾ら女が少ないからってアレに手を出す勇気はさすがにねぇわ」
「日本は少子高齢化だが、女はこっちよりも比率的に多いらしいぞ」
「マジで?」
「ああ」
「かみさん貰うならやっぱそっちがいいわ。オレ」
「お前みたいなのに日本女の誰が引っかかるんだよ?」
「何十万元か積めば買えるんじゃねぇのか?」
「そりゃ、何処の後進国の嫁だよ? 日本人だぞ? 買えるわけねぇっつーの」
「内陸なら、綺麗な嫁さんと小奇麗な家と子供まで付いてくる額だぞ?」
「田舎もんが・・・沿岸部の連中にんな事言うなよ? あいつら妙に人権(そういうとこ)には五月蝿いからな」
「はいはい。で、お前はどういうのがいいんだよ?」
「オレは・・・その・・・詩亞・・・ちゃんだよ」
「誰?」
「いや、その・・・なんつーか。学園に通ってんだよ!!」
「学園?」
「ああ!? もう!!? だから、『神裸フリークス』の詩亞ちゃんだっつってんだろ!!!?」
「ああ、お前そう言えば・・・そういうの好きだったっけ」
「おま!? ば、馬鹿にすんなよ!!? 詩亞ちゃんは健気なんだよ!!! 画面の中にしかいないけど、健気過ぎて涙が止まらないんだよ!!! 第十四話の最後の台詞で泣かない奴は人間じゃねぇ!!!」
「お前の場合、日本行ったら最初に秋葉行きそうだよな?」
「ば、当たり前ぇだろが!? 限定版三十五分の一誌亞ちゃんがオレを待ってんだっつの!!!」
男達は冷える世界の中、下らない掛け合いで笑いあった。
だが、彼らが次の朝日を見る事はとうとう・・・無かった。
深夜、飛来した三発の核弾頭は爆発する事なく施設を直撃。
続いて飛来したミサイルの雨によって周辺地域一帯を【汚い核】(ダーディー・ボム)として汚染した。
ゴビ砂漠付近に存在する燃料棒保管施設が使用不能となったのは誰にとっても以外な結末だった。
これにより新たな核弾頭製造を指示しようとしていた軍閥連合内部は非難の応酬で喧々囂々。
日本への侵出計画は遅滞する事となる。
誰かが描いた結末は緩やかに破綻の兆しを見せ始めていた。
多くの者を巻き込んで、戦いは収束へと向っていく。
それがどれだけ激しいものになるのか誰にも予測できないまま・・・・・・。
放たれた矢は戻らず、死命は覆らない。
それでもまだ人は糧とした者の為に争いへ耽る。
血で血を洗う夜が渇く事を許すはずはなく。
紅はやがて漆黒となった。
第四十話「ヴェスペラム」
幕引きは当事者だけに限らず。
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第四十話 ヴェスペラム
第四十話 ヴェスペラム
全てが早回しの映像。
そんな光景だった。
弾丸が通る廊下を人間とは思えない速度で二人の少女が駆け抜けていく。
照らし出される通路に跳弾する鉛玉は火花を散らし、世界を彩る。
三十メートルという地獄の距離は踏破されるまで四秒弱。
黄金の髪が靡き、黒い銃身が吼える。
無数に飛ぶ弾丸の流れに逆らうのは一発。
それが完全に統制の取れた兵隊達の中央。
男達が持つ自動小銃の一つに命中した。
銃口が跳ね上がりあらぬ方向へ逸れる。
流れに出来た僅かな隙間。
一秒もあれば消えてしまうだろう隙間へソラ・スクリプトゥーラは己を捩じ込む。
突然の奇襲に見事反応した速度は褒められて然るべきものだったが、それでも軍閥側の兵にとって相手は悪過ぎた。
黒の外套がはためき、バリケードを身を縮めながら難なく跳躍してすり抜けたソラの手が広がる。
周囲の男達が上に銃口を向けるより先に通路内部が黒い糸に絡め取られた。
幅一ミリにも満たない【CNT(カーボン・ナノ・チューブ)】製の極細ワイヤーが引き金部分に巻き付き男達の手から銃を引き上げる。
数人はその流れに逆らわず、即座にナイフを抜き、数人は銃に固執して判断を誤った。
反応が遅れた者を糸が縛り上げるより先にソラの背後に付いていた少女が未だ通路側を撃っている男達の一角へと踊り込む。
ソラとは違い何発か肉体を銃弾に捕らえられながらも小虎(シャオフウ)は銃を持ったまま小さな体でバリケート上に顔を出していた男の顔面を蹴り砕いた。
バリケート側にいた四人の内三人までを落下している最中に一発ずつ弾丸で捕らえ、呻きながらたたらを踏んだ男達の懐へ着地したと同時に潜り込んだ。
一人目の男を膝の金的で行動不能にし、その股を潜るようにスライディングして二人目の男の睾丸をすり抜け様に撃ち抜き、最後の一人に額へ銃口を向けられながらも後ろ手に隠していたソレを前に出して牽制する。
虎の手にしていたのは手榴弾。
相手が一瞬の躊躇を見せた時点で勝敗は決していた。
刹那の差で【黒星(トカレフ)】が小銃の側面を撃った。
弾丸は銃スレスレの弾道を描き出し、安全装置に命中する。
金具が回って弾け飛んだ。
引き金が引かれ、弾は出ず、手に持たれていた手榴弾が股間を殴り付ける。
【!!!!?】
目を剥いて崩れ落ちた男の傍で猫のような敏捷さを見せた虎がすぐに周辺の状況を再度確認しようとした時には殆ど全てが終わっていた。
「ソラ。終わった?」
「うん・・・行こう」
虎がNDに分解された弾丸の粉をトレンチコートから払い、周辺に展開していた黒い糸がスゥッと消えていくのを不思議そうに見る。
「糸なくていい?」
「もう、必要ないから」
男達をぐるりと見回して、虎はその言葉が事実なのだと確認する。
その場で倒れている誰一人として立ち上がる気配もなく昏倒していた。
傷を負った者も出血は止まっていて、死ぬ程の状況には見えない。
「NO.08“The Shepherd”は相手の体の機能を掌握する。一日くらい強制的に寝せておく位なら簡単みたい」
隣にいるソラが特別な力を持っているのは虎も知っている。
それが具体的にはどういうものか知らないものの、それでも信用は出来る。
言っている事の半分くらいしか分からなくとも寝かせておけるらしいという言葉は素直に感心できるものだった。
「すごい」
ソラが苦笑する。
「凄くない」
二人は油断する事もなく通路を渡っていく。
「・・・ヒサシゲ。大丈夫思う?」
「きっと・・・」
今まで共に行動していた三人がどうして二手に分かれたのか。
その始まりは十分程前に遡る。
三人の持っていた端末へ繋がるGIO側の回線にアズが割り込んだのだ。
内容は中国と台湾に配備されていたIRBM・SRBM(中距離・短距離ミサイル)の運用部隊に変化有りとの報。
その情報は核弾頭の発射という最悪の事態が未だ進行しているという事を暗示していた。
だが、それよりも衝撃的だったのはアズからのメールにあったGIOの秘密とも言うべき事柄だった。
極東の衛星支配能力を管理し、その中枢が日本支社の地下最終階に存在しているという事実。
その力があれば核弾頭を止められる。
しかし、だからこそ、この局面で日本支社が狙われたのだろうというアズの推測は三人には現実味を帯びて見えた。
GIO側の傍では不用意に話せない類の情報だったと断りを入れたアズの文面には時間が無いとも記され、三人を急がせた。
請け負った仕事はマスターキーを最上階まで持っていき、VIPルームを開放する事。
しかし、それが終わったとしても核弾頭が発射されれば日本は戦争に突入していく。
それを誰よりも理解しているのだろうアズの送ってきた情報の末尾にはこう書かれていた。
―――――もしも、まだ余裕があるなら、どうか僕の古巣にお節介を焼いてやって欲しい。
悪魔のような企業複合体。
それに立ち向かう立場であるのは承知で・・・アズはそう記していた。
日本や世界の為。
あるいは己や仕事の為。
そんな言葉は使わずにただ善意を期待するという文面。
ソラと久重の二人は同時に同時に溜息を吐いて、顔を見合わせ、頷き合った。
この緊迫した状況下ではVIPルームにいる財界や政界のセレブ連中を放っておく事は軍閥側に大きなアドバンテージを与える事になる。
同時に時間が無い中で核弾頭の発射を止めるにはすぐさまにでも行動しなければ間に合わない。
その二つを同時に解決する方法が二手に分かれるという決断。
ソラは久重にテロリストがいるビルに突入した時と同じように力を分け与え、上に行くのを見送った。
久重本人はより危ない地下には自分が行くべきだと渋ったものの、合理的に考えて最大戦力はNDを保有するソラで・・・そこは納得せざるを得なかった。
護衛役に残ってくれと虎をソラに付いて行かせたのが久重の妥協だったかもしれない。
少女達に危険な仕事を任せる不安を押し殺して「程々にな」と笑った青年に二人の少女は大きく頷き、今に至っていた。
「・・・ヒサシゲ」
不意の言葉にソラが走ったまま顔を横に向ける。
「いつも?」
「えっと・・・いつもって?」
聞き返した声に虎が何処か真剣な目をした。
「危険分かってて笑う」
ソラが何を言いたいのか理解して、何と言ったらいいのか困った。
「それは・・・うん。そういう時にはいつも大丈夫だって笑ってる事が多いと思う」
「ヒサシゲ。幹部と同じ」
「え・・・?」
「幇の幹部。危険な時笑う」
「そう、なの?」
虎が頷く。
「昔、訊いた。どうして笑う? 強い幹部答えた。人それぞれ。でも・・・戦う人危険な時笑うの未来見てるからだって・・・」
「未来?」
「ほんの少し楽しい未来。死ななかったら、出会える未来」
ソラは思わず隣を見た。
「ヒサシゲ。大物・・・」
大真面目にそう言った虎の真意が何なのか理解して、少女が微笑む。
「そうかも。ひさしげだったら悪の組織とか倒して世界だって救えちゃうかも、ね?」
コックリと大仰な頷きが返される。
「絶対、生きて帰る」
「うん」
二人の少女の前には二つ目のバリケートが見えてきていた。
*
永橋風御は何故か戦場の最前線を突破していた。
正確には撤退していく軍閥の殿へと喰い付いている最中だった。
地下に戦力を集中する事にした部隊はトラップを残しながら撤退している途中。
「ああ、もう。ただ働きとかダメ過ぎでしょ」
愚痴が出る。
風御は着の身着のまま部隊の応射を身に纏ったNDで食い尽くしながら百メートル近い廊下を十秒フラットで駆け抜ける。
部隊の手前で跳んだ体を捻り、驚いている男達の中へとナイフ片手に踊り込んだ。
着地まで閃いた斬撃の数は二つ。
最も近い二人の太ももが数センチ程断裂する。
痛みにブレた銃口から弾丸が吐き出されるより先に二人の銃口が手とナイフで同時にズラされた。
撃ち出された銃弾が一斉に周辺の男達に襲いかかり、腹に無数の風穴を開ける。
倒れ込んだ二人の手からアサルトライフルが零れ落ち、地面に落ちる事なく風御の腕に納まった。
「はぁ」
溜息越しの銃弾で沈む者、多数。
殿八人が軽く呑み干された後、その場で背筋が伸ばされた。
「どうしてこうなったんだっけ?」
自分で言っておいて、そんなのは決まっていると風御の脳裏に苦い記憶が押し寄せてくる。
オーストラリア産の美女兵士に転がされた後、中間地点で応戦していたGIO警備に囚われ、男達の集まる前線に連れて行かれた。
そうして運悪く最上階からの増援が到着したところに居合わせた。
最初警備部に滅茶苦茶怪しい不審者扱いされていたものの、上の階への招待状やら個人データが一致した為、そのまま見逃されるだろうと本人は楽観していたわけだが、そう事態は甘くなかった。
最上階から降りてきた特務筆頭である少女『亞咲』が風御に不審な女と一緒にいた事を不問に付す代わりに戦闘への参加を要求。
断るにもテロ発生下の不審者としては言い訳できない行為をしていた為、風御は已む無く協力せざるを得なくなっていた。
階層をショートカットしようとしたGIO側の警備部隊がエレベーターシャフト内部で仕掛けに引っかかり数名吹っ飛んだのは十数分前。
そのエレベーターシャフトの中へ「貴方なら大丈夫でしょう」とかいい加減な感じに亞咲から先陣を切らされたのは風御の身元を最初から知っていたからに他ならない。
GIO特製のNDとやらを与えられ、内部に張り巡らされていたワイヤートラップを自然落下しながら避けるという人類にはかなり無茶な芸当を強いられつつ、最速で爆破フラグを回避して当該階層に辿り着いたのはあまり風御本人も思い出したくない思い出だ。
追々トラップを丁寧に処理し終えたシャフトを部隊が追いかけてくる手筈だったが、一向に後ろから誰か来る気配はない。
「なんだろ。この来ない雰囲気・・・」
インカム類は単独行動するよう言い渡されていた為に持たされていない。
使っているNDで色々と盗聴はされているのだろうが呼びかけはない。
今更に脳裏で予測していた可能性が現実味を帯び始め、風御が唸る。
「正規部隊っぽいテロリスト相手に一人で立ち向かえって、どこのラ○ボー。いや、どっちかというとライ○バックかもしれないけど・・・どっちにしろ貧乏籤この上ないって」
げんなりと呟いた後、一階の表示を発見して溜息が一つ。
風御はようやくかとトボトボ一階玄関ホールへと足を踏み入れた。
「「あ・・・」」
二階から階段を下ってきた者と地下から階段を上がってきた者がバッタリと一階中間地点の噴水を挟んでお互いを発見した。
「お、おま?!」
「相変わらず厄介事に追われてるみたいで親友(笑)」
永橋風御は皮肉げに笑い。
外字久重は驚愕に顔を引き攣らせる。
中間地点まで歩み寄った二人が互いを観察した結果、今まで何があったのか大たいの予想を付けた。
「・・・そういうのは卒業したんじゃなかったのか?」
僅かに顔を顰めた久重に風御が溜息で応える。
「人間。業って奴からはそんなに遠ざかれないらしくて困ってる」
「まぁ、オレがとやかく言う事じゃないか。それで? 上はどうなってる?」
「GIO日本の特務筆頭様ご一行が色々と復旧させながらおっとり刀で駆けつけてくるよ。君こそ、下はどうなってるのか聞いておきたいんだけど」
「下の連中は半分以上制圧した。今は床で伸びてるはずだ」
「で、君は一人で上に何の用?」
「コレだ」
久重が鍵を見せた。
「あーっと何だっけ? 確か・・・マスターキー的な?」
「知ってるのか?」
「昔、偉い人に見せてもらったことがあるだけ」
「お前そういうとこだけはセレブだよな」
「
「褒め言葉として受け取っておこうかな」
二人が一階から外を見る。
GIO日本支社を囲むように次々と自衛隊の車両が終結しつつあった。
「テロリストと間違われない内に自分達の仕事を果たそうか」
「ああ、そうしよう」
二人がすれ違いそのまま互い歩き出そうとした瞬間だった。
[残念ですが、それは無理かと思います]
ほぼ同時に久重と風御が声のした方向に振り返る。
自衛隊の集結しつつある正面玄関を悠々と歩いてくる存在に二人が目を奪われた。
「――――!?」
息を飲んだのは久重だった。
その驚いている様子に僅かな笑みを零して、子供特有の高い声が続ける。
[周辺自衛隊の掌握はすでに完了しています。残るは軍閥残党とGIO特務。そして、VIPルームの虜囚とADETの王子、イレギュラーたる『連中』の道具と第三位『采覧異言(さいらんいげん)』の確保のみ]
サーチライトが後光のようにその存在に影を作る。
「いつから米軍は子供兵を採用するようになったのかな?」
呆気に取られている久重に代わって風御が訊く。
ライトに照らし出されたのは軍服だった。
その胸には幾つかの勲章が付いている。
[白人の少子高齢化は先例である日本同様深刻です。ステイツも人材不足ですから]
歳の割りにまったくもって人を食ったような口調。
年上の人間に対する敬いなど欠片も無い。
[悪いですが、こうして話している暇も惜しいというのが本音です。ですので]
ベキリと風御の左腕が反対方向へと曲がった。
[何も理解せず、このまま大人しく確保されるのをお勧めします]
「?!」
思わず庇いそうになった片腕を自制して、風御が半身に構える。
「――――お前は、何だ!?」
親友の負傷にようやく我に返った久重もソラから託されたNDの力を完全に解放し、拳を構えた。
「外字久重・・・貴方はあのASの手下で『連中』の道具に縁があるとの報告を受けていますが、確保の対象外ですので此処で消えて頂きます」
まったく答える気は無いらしく、十四歳程の少女はそっと指を鳴らした。
「!?」
咄嗟に久重を庇って突き飛ばした風御の全身が、メキャリと鈍い音を立てて崩れ落ちた。
「風御!?」
転がり立ち上がった久重がその場から即座に走って柱の影に身を隠す。
[咄嗟の判断力はさすがです。もしも、永橋風御に近づいていれば、貴方は終わっていました]
「どういう事なんだ?! 何で米軍が今更この状況に干渉してくる!!」
[日本のMANGAの悪役なら此処で説明でもするのでしょうが、こちらはただの米軍です。付き合う義理などありません]
「なら、それはそれでいい!? だが、これだけは答えろ!! どうして・・・どうしてお前は!?」
久重の言葉が形になるよりも早く。
少女はその疑問を口にした。
[連中の道具であるソラ・スクリプトゥーラと同じ顔をしているのか?]
コツコツと軍靴の音が響く。
ロビー中央まで歩いてきた少女は・・・まるでソラと瓜二つの少女は目を閉じて唇の端を吊り上げた。
[一つだけ教えておきましょう。これは所謂日本語で言うところの【メイドの土産】というやつです]
太い柱が少女の横を抜けて突き刺さった弾体の炸裂によって吹き飛んだ。
「ぐぁ!?」
辛うじて直撃を避けた久重が少女の数メートル前に転がり出る。
[私の名前はソラ]
僅かに名前を聞いた青年の体は硬直した。
せざるを得なかった。
[【ただ信仰のみ】(ソラ・フィーデ)]
狙い済ましたかのように全身に掛かる圧力が久重の骨に亀裂を入れていく。
ザラザラとNDによって視界に展開されていた幾つかの数値がブレる。
「これは!?」
ソラ・フィーデが腰から拳銃を抜き出そうとした。
迷っている暇も無く。
久重は気付いた事実に基づき、己の周辺に展開しているNDと自分の分離を選択し、実行に移す。
銃弾は連続して五発。
[しぶといですね]
辛うじて圧力から抜け出して久重は銃弾を体の中心に叩き込まれる寸前、床へと転がっていた。
その後を追いかけるように銃弾が立て続けに床で弾ける。
立ち上がらず、遠心力を利用してゴロゴロと床を丸太のように転がりながら柱の一つに久重は身を寄せる事に成功した。
[随分と面白い移動の仕方で笑えます]
「ああ、まだライフルの餌食になりたくはないからな」
[万が一を考え備えるのは日本人の美点ですが、同時に無駄が多いので悪い癖でもあります]
「NDへ瞬間的に干渉する機器でも持ってきてるんだろ? 周辺の自衛隊を妙な技術で黙らせて、ビル周辺にはスナイパーを配置。後は突入部隊で追い立てて脱出したところを一網打尽。当たってるか?」
[ノーコメントで。それにしてもそこまで行くと被害妄想にも聞こえますが?]
「考えたんだよ。わざわざお前が此処に姿を現した理由って奴を」
[どんな情報を組み立てればそうなるのか是非聞きたいです]
「NDへの干渉はたぶん一瞬。しかも、素早い対象には不向きな機器だ。それは相手の位置を観測してから干渉を開始してるからで時間稼ぎ役がいなきゃ有効には使えない。違うか?」
[飛躍し過ぎていると思いませんか?]
「お前が米軍か米軍を騙る奴か、そんなのはどっちでもいい。ただ、米軍と名乗っても問題ないから出てきたはずだ。今まで殆ど舞台に上がってこなかった勢力がいきなり事件に首を突っ込む場合、その行動原理は二通り。漁夫の利欲しさか、止むに止まれずか。この場合は火事場強盗が目的と判断した」
[火事場強盗とは人聞きが悪いですね]
「もしも、このタイミングで米軍が出てきたとしても、日本国内の米軍が大掛かりに動いては目立ち過ぎる。どちらかと言えば、今の米軍は核の脅威に曝されている日本を守ったという事実の方を欲しがるはずだ。
此処を襲撃するのに大規模な部隊を動かしては日本政府の監視に対して襤褸が出かねない。なら、考えられるのは中規模の特殊部隊を投入して、カウンターテロの部隊を善意で送り込んだと言った方が聞こえはいいし、説得力もある。
ある程度の情報が流れても日本政府に対して角も立たない」
[本当に面白い空想で]
「ああ、そうなってくれた方がオレとしてもありがたい」
[大人しく出てくれば、話し合う場くらいは持ってもいいですが?]
「お断りだ。中規模の部隊でこういう汚れ仕事をしてるって事は暗殺・隠蔽・奇襲はお手の物。取引には一切応じないのは目に見えてる。それ以前に殺すとか言ってたのは何処のどいつだった? 今、こうやって時間稼ぎをしてるのもスナイパーの配置換えと突入部隊のタイミングを計ってるからだろ?」
[生憎と嘘は嫌いです]
「無理やり突入させないのは突入部隊の人員が少ないからだ。オレみたいなND持ちに対して一撃必殺の攻撃手段があったとしても、それ以外は普通に戦わなきゃならない。不利という程の数ではないんだろうが、追い立てるのが目的なわけだから、この場所で何時間も粘られちゃまずいわけだ」
[日本人の妄想は気合が入ってますね]
「お前達の目的の順位はたぶん地下にあるGIO日本の中枢から順に特務筆頭、軍閥の司令塔、あいつ、VIPルームの奴らの確保。それ以外は一緒くたに殺害、だろ?」
[・・・・・・]
ついに喋るのを止めたソラ・フィーデに久重が続ける。
「重要な秘密と要人を確保して非合法賭博好きの倫理感ゼロなセレブ連中に貸しを作ったとなれば、そのメリットは計り知れない。しかも、この混乱じゃ誰が誰を殺したかなんて分からないからな。重火器や弾丸はGIOと軍閥のを手に入れてると見た」
不意に何処からか飛んできた弾丸が久重の頭部を貫通した。
[そこまで理解し、更に時間を稼いだのは賞賛に値します。ですが、幾ら時間を稼いだところで無駄でしたね]
ソラ・フィーデが手を上げて前に降ろすと同時に足音が出入り口に殺到する。
次々に見えない何者かが上と下に殺到していく。
「君は久重って男を軽く見過ぎた」
【あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッッッ!?】
[何?]
無様な悲鳴に思わず反応してソラ・フィーデが辺りを見回す。
[!?]
その瞳が信じられないものを見た。
十数人の男が見えない兵達の間を駆け回っていた。
全てが同じ顔。
それは外字久重の顔に他ならない。
[これは・・・]
【グゲッッ!?】
【ッッ?!】
【ゴッ?!!】
思わず瀕死で横たわっている風御を見たソラ・フィーデが唇を噛む。
「見えない兵隊の欠点は見えない限り誰が負傷したのかパッと見には分からないって事かな」
同士討ちを恐れて突入部隊の殆どが銃を撃てずにいた。
「しかも、通信や共有情報がジャミングされたら、見えない為に同士討ちを避ける傾向にある」
兵達は十数人の久重を押さえ込もうとしたが、その姿はスルリと通り抜けていく。
本体が見当たらなかった。
[ホログラフ!? こんな安い手で!?]
「ちなみにあの親友(笑)は僕も見習いたいくらい体術技能が豊富だよ。つまり、日本の伝統芸能ジャパニーズNINJAって奴かな」
風御が皮肉げに嗤う。
その間にも兵達の間には混乱が広がっていた。
ホログラフなら全て消せば残るは本体のみのはずだという幻想はすぐに打ち砕かれる。
「集団を個人で相手取るには幾つも念入りな準備が必要だ。それをこの短時間で行った手腕は凄いよ。裏稼業が生業の僕でも難しい」
[本体は何処です?]
ガチャリと拳銃が風御の頭に向けられた。
「あいつの凄いところはその知識量と応用力にある。ジオプロフィットには様々な学問が使われるけど、その中で最もあいつが得意なのは臨床心理学系統」
いきなり、一階のロビーで辺りを染め上げるような輝きが奔った。
暗視ゴーグルに焼きつく目暗まし。
兵の中にはゴーグルを脱ぎ捨てる者が出始める。
[ゴーグルを取らないで!!!]
咄嗟に警告したものの、一歩遅い。
ゴーグルを『している者』が再び襲われ、その本体がスルリと未だ動き回る久重の群れの中へと合流して散開する。
「これで君の部隊はゴーグルを取らないと襲われると学習した」
ヒソヒソと呟く風御に少女が唇を噛む。
「これはあいつから聞いた話だけど、人間てのはどんなに正しい真実を教えられても、咄嗟の判断には自分で経験した情報を採用する」
幾つかの銃声。
光源が弾ける。
再び周囲が暗闇に沈んだ。
また鈍い打撃音と人が倒れる音。
ビル外側からの光源の中で【見えない兵達】はかなり心理的なダメージを受けていた。
「ここまでで七人脱落。全体の数からすれば軽微だけど、君達が受けたダメージはそんなもんじゃない」
ソラ・フィーデの拳銃が予告なく風御の左足を打ち抜く。
「―――この練度から言って部隊が落ち着きを取り戻すまでに七分弱ってところかな。そして、その時間は君達にとって致命的だ」
脂汗を浮かべながら風御がまた嗤った。
[F○ck!!!]
バリッと少女の服の袖が縦に破け、爪痕が残る。
腕を引っ掻いた拳銃を所持する手がきつく握り締められた。
「出鼻を挫かれた兵隊程脆いものはないよ。メンタルダメージは尾を引く。押し切れるだけの勢いがあるからこそ、最初の突入に使う部隊は精鋭。それを欠いた予備兵力でのゴリ押しはお勧めしない。下の異変に気付いてるGIO側はこっちからの侵攻を感じて復旧させたビルの機能で徹底抗戦の構えだろうから。さぁ、どうする?」
[~~~地下に全戦力を投入!! 全隊、目標CからDまでを放棄!! 目標Aを最優先とします!!!]
耳のインカムに怒鳴った少女の息は僅かに上がっていた。
「それも間違いだよ。あいつがいたって事は下からもっと厄介なのが来るって事だ」
上層階に突入しようとしていた兵達が地下へと向う階段へと雪崩の如く足音を残す。
しかし、
【は、反応消失!!! 繰り返す!? 地下へ向った部隊の反応消失!!!】
インカムから聞こえてきた声に再び部隊の動きが止まった。
「だから、言ったのに・・・」
[何が来るのか答えて!?]
余裕を無くした様子でソラ・フィーデが風御の眉間に銃を叩き付けた。
ダラダラと流血する風御がそれでも余裕を崩さず解説する。
「軍閥のECMが途絶えてる今、NDを持つ人間に通信機なんて要らないってのは君達にも分かるでしょ」
[!?]
「ビル内部は電磁波が通らないように設計されてるけど、機能が回復すれば通信設備は復帰する。君達の情報はもうGIO側にも【彼女】にも筒抜けじゃないかな」
地下からまるで間欠泉が噴出すかのように十数人以上の人間の雨粒が吹き上がる。
[な!?]
バラバラと落ちてくる兵隊の半分以上が透明な部分と滑らかなスーツ部分が混じるという奇妙な斑模様の姿となっていた。
「同じ顔してる癖に調査不足だね・・・」
[NDに対する我が隊の装備は磐石です?!]
信じられない様子で地下へ続く階段を見つめていたソラ・フィーデが歩いてくる影に目を見張る。
額には光の文字列が流れていく。
その瞳はまるで機械の如くNDによる過剰な情報投影によって内側から漏れる光に輝いていた。
世闇に浮かぶ黒い外套に黄金の髪。
しかし、それよりも恐ろしいのは視線。
ソラ・フィーデが事前に押さえていた情報には決して現れていなかった表情。
「貴女が・・・久重を撃った人?」
己と瓜二つの人間に初対面で会っているというのに動揺など一欠けらもありはしない。
まるで巨大な機械的何かを相手にしているような不気味さにソラ・フィ-デの背筋に冷や汗が流れる。
[今すぐです]
【はッ!!】
ソラ・フィーデの意図を正確に汲み取った声が反応した。
ビル周辺の部隊の一角。
自衛隊の隊員がまるでマネキンのように身動き一つせずに固まっている。
その異常な状態の駐車場に大型軍用車両が数台止まっていた。
車両内部で情報管理をしていた複数人がキーボードを猛烈な速度で叩き始める。
【中継要員の配置完了しました。出力正常。敵性ND照準。全機器動作オールグリーン。いつでも行けます!】
[今すぐ!! 出力を全開にしなさいッッッ!!!]
一階の数箇所で配置に付いた見えない兵達がその手に持っていた曲面で形成される盾のような装置をソラに向けた。
【出力全開!! 照射時間はコンマ七秒。照射開始!!】
車両の中でボタンが押し込まれる。
だが、その瞬間・・・各所に配置された装置を持った男達の体勢が崩れ、倒れ込んだ。
[く?! 対『鉄喰い(Steeleater)』装備の兵にどうやって干渉を!? 敵ND‐P発現を確認。狙撃部隊攻撃開始!!]
一見無防備に見えるソラの頭部と胸部に狙撃位置に付いていた部隊から無数の弾丸が放たれる。
それは弾丸がNDによって分解される事を見越して創造された特殊弾。
『Precede』
脳幹と心臓を一撃で破壊し、指先をピクリともさせずに倒すはず一撃の成果を・・・ソラ・フィーデが目の前で確認する羽目になった。
[化け物め!?]
全ての弾丸がソラに殺到するより先にその弾道を逸らせ、掠りもしなかった。
「【CNT defender】readjust mode BANISH」
ポツリとソラが呟く。
その場の誰にも見えてはいなかったが、幾つも極細の黒い糸がその場に縦横無尽と張り巡らされていた。
全ての糸は半分以上固定されておらず、風に靡く旗のように空気中で揺れている。
その重量は人の体に感じられない程しかない為、夜に知覚する事はほぼ不可能に近い。
そんな糸の群れが弾丸の全てをソラから逸らしていた。
どんな弾丸にも言える事だが、進行方向に対しては突き進む力が強く働くものの、横からの力には弱い。
張り巡らせられた糸は突き進む弾丸へ僅かずつ接触し、方向に狂いを生じさせ、最終的には弾道に極端な誤差を生じさせていた。
「許さない。“Fire bag”readjust mode HALO」
ソラの背後に輝く後輪が無数に出現する。
[ひ!?]
後ろに下がるソラ・フィーデの周辺に展開していた兵達が装備していたアサルトライフルを掃射した。
何年経っても変わらない戦場の臭い。
硝煙の煙が周辺の視界を閉ざしていく。
「Burst up」の文字がソラの額に浮かび煙の中で仄かに明滅した。
光の輪が煙を突き抜けて見えない兵達を襲った。
ライフルが次々に焼き斬られ地面に落ちていく。
腕を負傷した兵の絶叫が上がった。
「認識終了。周辺展開部隊数七。総人員七十八人。総員排除まで三十二秒」
[な、何を言って!?]
ソラがいつもとは別人のような感情のこもらない瞳でソラ・フィーデに告げる。
「最終警告。撤退が確認されない場合、十五秒以内に殺害を開始する・・・」
[―――総員撤退!!!]
ソラ・フィーデの決断は早かった。
唇を噛んだままインカムで指示を飛ばし、激しい憎悪を秘めてソラを睨んだまま、何も言わず兵達に護衛されて退いていく。
一分もせずに負傷していたはずの兵全てがその場から消え失せていた。
それから二十数秒後。
撤収が終了したのか。
不意に今までマネキンのように固まっていた自衛隊の人員が何事も無かったかのように動き出す。
騒がしくなる周辺から危険が去った事を確認して、ソラが今までの表情が嘘のように泣きそうな顔で一階の奥に走り出した。
並んだ柱の傍。
一見して何も無い空間にソラが膝を折った。
「ひさしげ!!」
「何とか、なったか?」
パラパラと姿を偽装していたNDが剥がれ落ち、生気の失せた顔で体を横たえていた久重が笑った。
「今、応急処置するから!!」
血塗れの手で押さえられていた左肩にソラが手を翳す。
「無理し過ぎ・・・だよ・・・」
「悪い・・・」
「NDで体を守らずにあんな無茶するなんて・・・馬鹿・・・」
あまりにも弱々しい馬鹿の声に無事な手が小さな頭に伸ばされる。
「相手のND対処方が分からなかったからな。パージして周辺に配置するのが手一杯だった。何とか呼び戻した量だけじゃ、傷の方まで回せなくてな・・・」
「でも!! 戦わなくても・・・隠れてても・・・誰も責めたりしなかった!!」
「お前と虎を軍閥と米軍に挟み撃ちになんてさせられないだろ?」
「そんなの!!! そんなのひさしげがケガするよりずっと・・・ずっと・・・!!」
お茶目なウィンクで誤魔化す青年を少女は叱る。
「ホログラフで致命傷は避けたし、結構上手く立ち回ったと思うが・・・そう、だな。ごめんなソラ」
「ひさしげ・・・」
溢れそうになるものを堪えてNDで傷の応急処置を終えたソラが久重を抱き締める。
「ちょっといいか?」
「うん」
「あいつがどうなったか解るか?」
「あいつ?」
「ああ、オレの親友がそこらに転がってたと思うんだが?」
「あ・・・その・・・ごめん・・・なさい・・・」
ソラが顔を申し訳無さそうに顔を伏せた。
「連れてかれた、か?」
コクリと頷きが返される。
「ま、殺されはしないだろ。一応はADETの出だからな」
風御の身を思いながらもグッと体を起こして久重が立ち上がる。
「ひさしげ?! まだ、安静にしてないと!!」
「そうもいかないだろ。そろそろ自衛隊が突入してくる。まだ依頼は完遂してないし、軍閥の件も時間が残ってるとは思えない。早めに行動しないとな―――」
グラリと傾いだ体を慌ててソラが支えた。
「まだダメ!! これ以上無茶したら!!?」
「無理も無茶も承知の上だ。男には踏ん張らなきゃならない時がある。偉い本の受け売りだ」
ソラが押し留めようとした時、懐に持っていたGIOからの支給品である端末が振動した。
「オレもだな。何かあったか?」
互いに顔を見合わせて端末を取り出した二人が目を見張る。
届いた最悪の速報にソラと久重は自分達が間に合わなかったのだと知った。
【複数の核弾頭発射を確認】
リアルタイムで三つの弾道位置が端末に表示されたマップ上を動いていく。
息を飲んだまま。
二人はその弾道を凝視した。
しかし、すぐにその弾道がオカシイ事に気付く。
「何処に向ってるんだ!?」
久重の焦った声が弾道を予測し指でマップ上をなぞった。
「久重。これまさか?」
終着点と思われる場所を指が探り当てた時、ソラが驚いた顔で傍らを見上げた。
「ああ、間違いない。どうなってるのか分からんが、どうやら弾道は砂漠に向ってる」
「それじゃ日本は救われたって事?」
「そう考えるのは早計だ。まずはこの情報を送ってきてるアズにそれぞれ確認を取ろう」
「それぞれ?」
「そろそろ自衛隊が来る」
久重の声がした時点でソラが硬い靴音を幾つも外から捕らえる。
「時間が無い。オレは上に・・・ソラ、下を任せる」
「―――それじゃ、コレ・・・」
少女の差し出した黒い塊オリジナルロット【D1】を何も言わずに久重が受け取り頷いた。
今まで使っていたレプリカとは違う、本当にSFを体現する超技術の塊。
借り受けるのは二度目。
もしも、受け取らないならば少女は決して青年の傍を離れないと決意している。
だからこそ、何も言わず、外字久重は少女の信頼の証を握り締めて走り出した。
それを見送って、本格的に突入してくる自衛隊から逃げるようにソラが元来た道を戻り始める。
廊下にはもう電源が戻っていた。
付近にあったエレベーターのドアを抉じ開け、ソラが道程を大幅にショートカットする事を決める。
「ひさしげ・・・」
飛び込んだシャフトを高速で落下していく間も少女は青年の無事を願わずには要られなかった。
上の状況はNDから流れてきた情報で大体は把握していたが、それでも狙撃音に心臓を凍らせたのはソラにとっては忘れられない出来事で、結局自分の任された場所を投げてまで助けに行った。
(虎・・・)
それだけではない。
NDの加護を残してきたとはいえ、それでも虎だけに全てを押し付けてきたのだ。
どちらの心配をしても内心穏やかにはなれない。
すぐエレベーターで行き来出来る最下層まで到着し、強化された肉体能力を駆使して扉の前で壁に指を突き込んで止まる。
幾つも扉を抉じ開け、潜り抜けた先。
ソラはようやく虎の背中を発見した。
「虎!!」
安堵の息を吐いて近寄ろうとした時、背後に気配を感じて手刀が閃き。
「ダメ!!」
虎の声に寸前で留める。
「え・・・」
自分が貫こうとしたものを確認してソラが目を丸くした。
「その子、助けてくれた」
「助けて・・・?」
振り返った虎がコックリと頷いた。
思わず手で己の額に触れて、ソレの情報がすぐにソラの脳裏に流れ込んでくる。
「外部でプログラムが待機状態になってる。NDの自己組織化? こんな事って・・・」
「連れて・・・行く?」
そわそわしながら親に捨て犬を「拾っていい」と訊く子供のような瞳で虎がソラに問う。
二人の傍でギギィと声が上がり、ソラはマジマジとそれを見た。
可愛らしく首を傾げたのは第一ゲームでソラが操った蟲の一匹。
巨大な蜘蛛だった。
「・・・・・・どうしよう」
居候先の主の反応を想像して金髪の少女はどうしていいか分からず困った顔をした。
近くに白い糸で口までぐるぐる巻きにされた兵達が震えているとも知らずに・・・。
*
GIOでそれぞれの戦いが終わりに近づいている頃。
上海近海上空・・・海の表面スレスレを田木宗観(たぎ・そうかん)は飛んでいた。
もはや自棄とも言える超危険行為。
バードストライクどころかフィッシュストライクすら起きそうな冗談染みた光景。
握り慣れたコントローラーで機体の姿勢制御を微調整しながら、田木は額から落ちる汗も拭わず笑う。
常に鳴り響くロックオンアラートを引き連れてホーネットは飛んでいた。
「さすがに・・・手の震えを押さえるので精一杯か・・・」
複数の艦艇から放たれた対空ミサイルを後方支援のアズが狂わせていなければ、今頃機体は塵も残さず蒸発している。
情報戦は衛星情報を狂わせて行われていた。
しかし、幾ら情報を狂わせても、その先から正しい情報を軍閥が上書きするというイタチごっこになっている。
ミサイルはあらぬ方向にフラフラしながら飛行しているものの、ホーネットを未だ追ってきている。
全て承知の上で機体に乗っている田木だったが、それでも次々に背後へ忍び寄る気配は死神の足音にも似て、喉までせり上がってくる吐き気を押さえ込むだけで酷く消耗せざるを得なかった。
ピコン。
そんなその場に似合わない音がして、キャノピーの有視界に薄く地図が表示される。
GIO中国。
最終目的地である場所が地図の上で近づいていた。
【こちら田木。目的地(ゴール)は近い!!】
無線の先にいるアズが応答する。
【それは良かった。でも、そう喜んでばかりも要られないみたいだ。悪い知らせと良い知らせがある】
【なんだ?】
【じゃ、悪い知らせから・・・3発の核が七秒前に発射された】
【馬鹿なッッッ!?】
【そして、良い知らせもある。今、弾道を追跡してるけど、目標は日本から逸れてる・・・このままで行くと・・・たぶん、中国北部ゴビ砂漠近辺に着弾する】
【どういう事だ!?】
【僕にも詳しい事情は分からない。ただ、この状況で核が中国側に落ちるとすれば、それにはGIO側の意思が働いているとしか思えない。GIO日本支社側の久重達にも今リアルタイムで情報を送ってる。何があったのか聞き出したいところだけど、GIOの情報セキュリティーシステムが回復してるみたいで無用な連絡はさせないつもりらしい。とにかく、こちら側はまだ問題ない。というか、問題なのはそっちだよ】
【何?】
【対空ミサイルを上に乗っけてる車両を衛星で確認した。このままだと後三分で射程圏内に入る。ちなみにGIO中国から八キロ地点】
【ここまで来て!!? どうにかならないのか!?】
【一度に幾つも衛星にちょっかい出してる手前、妨害が激しい。ここで無駄にルートを外れると二度とゴールに辿り着ける保証が無い。それに軍閥側がこっちの情報に気付いたみたいで・・・衛星への干渉がブロッキングされ始めてる】
【く・・・このまま最短でゴールに向った場合、どうなる】
【ゴールした直後に直撃するね。速度を落とせば背後から追ってくるのにやられる】
【・・・直後という事はゴールは出来ると考えていいわけか?】
【それにしても上海市街上空を超低空飛行アフターバーナー全開で飛ぶ事になるよ】
【それが唯一の道なら構わない。タイミングはそちらに任せる】
【了解。進路そのまま。バーナー点火まで後十七秒】
カウントダウンが10を切った時点で田木は己の人生を振り返っていた。
これより先は振り返る暇すら無いと理解したからこそ、その脳裏に今までの全てを甦らせる。
懐かしい景色は本家のある田舎だった。
懐かしい姿は初恋の女性だった。
懐かしい時は受験に忙しい青春だった。
未だ未婚。
特段変わった事もなく過ごしてきたはずの人生。
だが、己の信じたものを貫き通せた・・・誇りに出来る生き方だった。
何もかもが田木の脳裏に押し寄せてくる。
【0】
アフターバーナーの点火と共に田木の体がシートの上で悲鳴を上げる。
ミシミシと背骨が軋み、全ての景色が高速で流れ去っていく。
上海の街並みが田木の目にも視認できるまでに近づいていた。
【ロックオンを確認。敵発射体勢。今、発射された!】
すぐにアラートが鳴り響く。
キャノピーには機体が向う方角から発射されたミサイルが確かにレーダーに捉えられていた。
【ミサイル接触まで後二十五秒。ゴール地点上空まで後二十三秒】
田木が上海の下を見下ろす。
本来なら多くの船が行き交っているはずの海上は閑散としていた。
【市街地侵入まで後四秒・三・二・一。入った!!】
上海の超高層ビル群が田木の目前に迫る。
【前方注意。ビル二つ。間を抜けて。タイミングまで後四秒】
注文の多い後方支援者に皮肉げな笑みを浮かられる。
襲い掛かるGをものともせずにコントローラーへコマンドが叩き込まれた。
隣り合った二つのビルの合間をホーネットが機体を滑り込ませるように傾けて通過する。
【ゴールまで後十二秒。脱出のタイミングはこちらで指示する】
田木が脱出レバーに手を掛けた。
【まずい!? 迂闊だった!?】
【何だ!?】
【GIO中国のビルは二つ。ゴール地点はその中間。ビルの合間に空中回廊がある。今の高度だと激突する!?】
【?!】
今更、突入を中止するわけには行かなかった。
もうレーダーには機体に重なりそうな点(ミサイル)が幾つも表示されている。
このままコースを変えても機体を上向けてもどうにかなるとは思えない。
脱出時に回廊へ激突して死ぬとしても田木は直進するしかなかった。
【――――――!!!!】
数秒にも満たない時間。
早鐘を打つ心臓。
時は無常に流れた。
死ぬ寸前。
人は走馬灯を見ると言うが、田木はまったくそんなものは微塵も見なかった。
キャノピーがGOOLの文字を浮かべて僅か0.5秒後。
機体は猛烈なスピードで迫ってきた白い槍に衝突し、爆発した。
背後から追ってきたミサイルが次々に爆発に巻き込まれ連鎖的に爆発が膨らんでいく。
「・・・・・・・・・」
日本の飛行場内部でアズがパソコンを瞬きもせずに見つめて歯噛みした。
握り締められた拳がテーブルに叩き付けられる。
室内に設置されているディスプレイが不意に明るくなった。
今までアズが表示させていた情報が消え、白い部屋が映し出される。
『さぁ、得点の程をご覧下さい』
車椅子に乗った亞咲が手を掲げると得点順にチームが並んだ。
『一位は・・・第一GAMEに続き【チーム天雨】!!! これで連続して一位です!! 加算得点は1562ポイント!!』
ワァーとわざとらしい歓声が挿入される。
『素晴らしい抜群の成績です。今後のGAMEは波乱に富んだものとなる事は請け合いでしょう!! さて、それでは次の第三GAMEに付いてのお話を・・・といきたいところなのですが、此処で賭けにご参加下さっている方々に残念なお知らせをしなければなりません。
今回のGAME中にGIO日本にテロ攻撃が仕掛けられた為、支社機能が麻痺した状態となっています。これを完全に回復する為には凡そですが、三ヶ月から半年程のお時間を貰わなければならない事と相成りました。
これも万全の体制でGAMEを推進する為の致し方ない猶予期間とお考え下されば幸いです。尚、今回賭けにご参加なさった方々にはお帰りの際、安全の為にヘリに乗って頂かなければならない事態となりました事を此処にお詫び申し上げます。
では、次回GAMEにも奮ってご参加下さい。これにて第二GAMEを終了させて頂きます』
プツンと映像が途切れて、再びアズが映していたものに戻る。
「・・・田木さん・・・」
このまま気を取られていては次なる犠牲者が出かねない。
そう切り替えて、再びキーボードが猛烈な勢いで叩かれ始めようとした時だった。
【CEO】
Sound only.
そんな文字がディスプレイの片隅に表示される。
【今から硝子の請求書をそちらにお送りします。後で治療費諸々も・・・それにしても近頃の自衛隊員はラ○ボーやライ○バックみたいな超人か何かなのですか?】
「―――!?」
すぐに通信は途切れた。
「まさか」
その言葉に再び監視衛星へとハッキングを開始する。
たった数秒ではあったものの、爆発で焦げたビル壁面を曝すGIO中国ビルが映った。
目を皿のようにして丹念に見つめてアズが気付く。
「田木さん・・・」
すぐに映像は途切れた。
しかし映し出された映像がディスプレイに再度映し出される。
爆発でビル壁面の硝子は殆ど吹き飛んでいた。
その片方の壁面に何かを擦り付けたような跡。
更に拡大するとビルの内部が僅かに映り込んでいる。
人一人が座れるくらいの金属製の座席が転がっていた。
爆発する瞬間、確かに田木が脱出に成功していた証拠だった。
「・・・・・・」
機体を真横に倒す事で脱出する方向をビル内部へと変更するという奇跡的な荒業。
そんな芸当をあの瞬間に田木はやってのけたのだ。
「何て人だ」
脱出した座席は操縦者を括り付けたまま硝子を突破し、ビルの中に突入。
無事では済まない。
全身を強く打ってショック死する可能性があるし、全身の骨と内臓を痛めるのは分かり切っている。
だが、それでも生き残った。
九死に一生を得た。
それは正に映画の中のソルジャーに違いない。
「依頼料は完済で結構です」
呟いて、アズは再び久重とソラのサポートへと没頭していった。
*
【日本海長崎県五島列島沖】
海上保安庁の巡視船と海自所属の艦艇が無数に空母四隻を取り囲んでいた。
今までのスピードが嘘のように航行を止めた空母に未だ突入部隊は入り込んでいない。
再三の呼び掛けにも無言を貫いていた空母群が唐突に止まったのは誰にとっても予想外の事態だった。
迂闊に原子力空母を沈めるわけにもいかず。
かと言って、そのまま日本に突入させるわけにもいかず。
官邸が迷走している間、とにかく航行を止め様としていた現場はもはや混乱の極みに達していた。
サーチライトに照らし出される空母の先頭。
そのレーダーマストの上で一人白い少年は闇に融けて耳を澄ます。
『父様。【こちらにはまだ五発残っていますが】撃たないのですか? はい。了解しました。では、作戦を中止し、これより帰還します』
マストから体を離して少年はそのまま海へと跳躍した。
海上の監視を行っていた複数の人員がその光景を目撃し、現場には緊迫した空気が流れるも・・・結局のところ、捜索にも関わらず誰も見付かる事はなかった。
数時間後。
夜明けと共に空母へと突入した海自と海上保安庁の男達が見たものは黒い通路と冷め切ったスープ。
【―――――――――此処で・・・何があったんだ・・・?】
人体を巡っていたソレと人だった物の成れの果てに足を浸しながら、突入部隊の人員の大半はその日・・・甲板で朝飯を戻す事となった。
第二GAMEの終わりと共に新たな事件の幕が上がる。
連綿と続いた日常に変化は劇的で。
季節は誰にも等しく移ろう。
役者達は新たな世界にアドリブを強いられ。
全てが再び動き出した。
第四十一話「HELLO WORLD」
新生する破滅に人々は気付いていない。
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第四十一話 HELLO WORLD
第四十一話 HELLO WORLD
「ソ、ソラさん!? ぼ、僕と付き合ってください!!!」
圧搾ガスによって作動する機構は容易に銃身内部に込められていた弾を通常弾の半分程の速度で射出した。
軽いガスの噴出音は殆ど無視できるレベル。
バッタリと男子が倒れ臥し、体がビクビクと痙攣し始めた事にグラウンドの生徒達は誰も気付かなかった。
放課後の部活に積極的な生徒達の声が聞こえてくる校舎屋上。
ソラ・スクリプトゥーラはスナイパーよろしくモデルガンに見せかけて実はガスガンという性質の悪い銃器で狙撃を敢行した護衛に溜息を吐いた。
「虎(フウ)?」
『此処にいる』
屋上の出入り口上部。
設置されている貯水タンクの横からギターケースと共に制服姿が軽やかに床へ降り立った。
常のトレンチコート姿からは想像も出来ない日本の学生らしい姿。
中華少女【小虎(シャオフウ)】。
日本人と殆ど見分けが付かないものの、その雰囲気やら眼光の鋭さは微妙に衣装とマッチしていない。
同じ服を着ているソラが外人でありながらも妙に着こなしている感がある分、その違和感は増しているかもしれなかった。
「いつから居たの・・・」
「五分前」
簡潔な答えにソラは少女の俊敏な行動力に汗を浮かべる。
「どうして、その・・・撃ったの?」
「呼び出し。怪しい。待ち伏せある」
「ま、待ち伏せ?」
学校施設の中で使われるべき言葉ではない。
しかし、使っている当の本人が本気であるのはそれなりの時間を共にしたソラには分かった。
「だから、相手より早く。待ち伏せ」
「心配してくれるのは嬉しいけど・・・この子は敵じゃないと思う」
日本の学校施設内で待ち伏せとかそういう状況になるわけがない。
そう常識的な知識で答えるソラにフルフルと虎が首を横に振った。
「敵、大人とは限らない。此処、危険地帯思え。アズ言ってた」
「アズが?」
コクンと虎が頷く。
「怪しい気配確かにいる。だから、こっそり撃つ」
「別に撃たなくても・・・」
「ソラ守る。これ自分の仕事」
その何か大任を任された事を誇っているようなドヤ顔にソラは何も言えなくなる。
「排除完了。一緒に帰る」
「う、うん」
階段を虎が先に下りていく。
その様子に何やら複雑なものを感じながら、ソラは一度だけ振り返った。
今はもう痙攣すらしていない少年が先程と同様に倒れている。
「ご、ごめんなさい」
ペコリと頭が下げられた。
『ソラ?』
「今行くから!」
再び頭を下げたソラが慌てて、その場から階段を駆け下りていく。
―――――――――――――。
残された少年の横にはコロコロと丸いゴム製の弾が転がっていた。
気絶した少年が目を覚ました頃にはもう二人の少女の姿は跡形も無く。
何があったかも理解していない男子生徒の再度アタックが決行される日は近かった。
*
そんな告白狙撃事件の学校帰り。
二人はファーストフード店に立ち寄っていた。
帰りの学生達が主な客層である店内は放課後という事もあり、喧騒に包まれている。
通っている学校の制服がチラホラと見える事からも人気が高い場所であるのは学校生活なんてものに疎い二人にも一目瞭然だった。
「美味しい・・・」
二人掛けの席で対面しながらストロベリーシェイクが吸い上げられ、虎の口内に消えていく。
「こういうの好き?」
ソラの問いにコクリと頷きが返された。
「祖国。こういうの無い」
「そうなの?」
「水でも貴重品」
「そうなんだ・・・」
「水は配給制。何か育てても・・・値高いと食べられない」
「値?」
「汚染の値」
「あ・・・ごめんなさい」
中国の実情に関して国際的に知られている情報からソラは虎が言いたい事を察した。
「謝る必要ない。事実」
中国の環境汚染は回復不能へと追い込まれている。
度重なる乱開発と汚染物質の不法投棄は最終的に飲み水を輸入に頼る事態にまで至っていて、その影は安全な基準を比較的遵守する日本という国では考えられない度合いだという。
だが、水の話も上流階級に限っての事であり、実際の市民生活には多大な苦労と危険を伴う。
中国では法令で指定された汚染の閾値内ならば、あらゆる食物は流通する。
しかし、そのせいで平均寿命が年々下がっているという話は有名だった。
「汚染。年々都市でも酷くなってる・・・人口増え過ぎた弊害」
素気なく祖国の実情を口にする少女にソラは何と返していいか解らなかった。
「水質汚染深刻。川・・・綺麗見た事ない」
遠い目をして虎が続ける。
「それでも飲まない死ぬ。でも、子供・・・大人になる前・・・一杯病気なって死ぬ」
「虎・・・」
「自分幸せ」
「え?」
思わず聞き返したソラに虎が僅か微笑んだ。
「【幇(バン)】の水綺麗。下っ端病気なる少ない」
「―――そっか」
何とか笑みを返したソラに虎が頷いた。
「勉強もできた。此処(にほん)・・・来れた。ヒサシゲ。ソラ。会った」
いつの間に全て飲み終えたのか。
少女はコトリとカップをテーブルに置いてソラの瞳を見つめる。
「今、幸せ」
未だ目前の少女の事を自分は何も知らないのだと。
ソラは内心で虎を多少は分かっていると思っていた己を恥じた。
制服のポケットが震える。
不意な端末への着信だった。
メールが誰からのものなのか確認してソラが己の脳裏に保存しておいた解読コードを引っ張り出す。
「えっと・・・」
端末の画面がブラックアウトして白い文字列が浮かび上がる。
ソレは高度に暗号化された情報だった。
文字列は一見して意味無いものと見えるが、頭の中で内容を解読したソラには重要な案件だとすぐ知れた。
「虎。行こう」
「何処?」
即座に反応した虎がテーブルの上のトレイを持って立ち上がる。
「すぐ近くみたい」
「わかった」
二人の対応は素早く。
数秒後、二人の姿はもう席になかった。
*
羽田了子は迷っていた。
別に道に迷っていたわけではない。
ただ、人生というものに迷っていた。
日本と中国軍閥連合のやり取り。
その巨大な鍔迫り合いの最中。
国境とは遠い場所にいながらにして、彼女は最前線を取材する事に成功した。
GIOという巨大企業体が主催する非合法のGAME。
そして、その中で苦闘し続けた一つのチーム。
その名は天雨。
嘗て、日本の最先端を往く科学者達が集った研究機関を名乗った数名の男女。
決して表には出ないだろう彼らの働きが大きく戦争の前哨戦に関与していたという馬鹿馬鹿しく荒唐無稽な手記は今も了子の手帳の中に納まっている。
もしも、これを世間に公表する事が出来たならば、世界的な名声を得る前に殺されて、全ては闇に葬られる事になると、天雨のリーダーである女天才フィクサー【アズ・トゥー・アズ】は語った。
警察も国も如何なる機関へ情報を持ち込んだとしても、死ぬ事は避けられないと言われて怖気づく程やわな性格はしていないが、それでも自身の周辺にまで被害が及ぶという話はまったくもって許容できず、結局のところ了子はその情報を誰にも公開していない。
何処の新聞社にも持ち込まず、何処の電子媒体にも記録していない。
(あーあ・・・事実を積み上げて真実に辿り着けば・・・そこは地獄の一丁目・・・戒十さん・・・私どうしたらいいんでしょうか・・・)
了子の脳裏に甦るのはチーム天雨のメンバーの顔だった。
フィクサーであるアズを先頭にしてチームには謎の多い人物ばかりがいた。
まずは元自衛官であるという【田木宗観(たぎ・そうかん)】。
第二GAMEの主役を張った男は今中国上海付近で潜伏療養中だという。
まったくアズの後ろで存在を忘れ去られていた了子だったが、しっかりと田木の雄姿は目に焼きついている。
上海上空で普通の人間なら心臓が止まってもおかしくないレースを演じ、無数のミサイルに追いかけられながらもゴールしたのだから、並の元自衛隊員ではない。
二人目はアズの手下にして何でも屋を営む青年【外字久重(がじ・ひさしげ)】。
前々から不審な点を追っていた青年はGIO日本において軍閥との戦闘に参加していた。
何でも屋。
その職業とは裏腹にチームの中核と言えるかもしれない。
アズを含め、他のメンバー全員が一目置いていたのだから。
そもそもアズの手下とは言え、軍閥の部隊と渡り合ったという時点で只者ではない。
三人目は久重の庇護下にあると思われる少女【聖空(ひじり・そら)】本名【ソラ・スクリプトゥーラ】(というらしい)。
幼い外見にも関わらず青年と共に軍閥のテロリスト部隊と戦ったというのは信じられない話だったが、テロリスト包囲事件の頃から追いかけていた了子には妙に少女が【戦う人間】だと納得できた。
こんな子供をテロリストと戦わせる気なのかとチームの正気を疑ったものの、誰一人としてそんな事を言いはしなかったし、それが出来ないとも思っていなかった。
そんな少女はまるで傍目から見ても丸解りなくらい久重を好いていた。
(ああ、やっぱり幾ら考えても・・・あの久重って男・・・ロリコンよね・・・)
青年の周りは騒がしい。
チームの残り二人もソラと同世代の少女だったが、一人は猟犬のように青年を慕っている様子で、一人は狂犬のように事あるごと噛み付いていた。
(それにしても核まで発射されたにしては・・・政府も与党も静かっていうか・・・)
あの軍閥との戦争状態突入寸前となった事件は民間では一つの名で呼ばれている。
【日中近海事変(にっちゅうきんかいじへん)】
公式な政府の見解は見るに堪えない欺瞞に満ちている。
事の起こりは日本国内に突如として十数機の正体不明国籍不明の戦闘機が現れた事に始まる、とか偉そうに書いている新聞を見て腹が立ったのは了子の記憶にも新しい。
(真実なんて誰も教えたくないのね。きっと・・・)
その現場付近にいた了子には事件の全体像が朧げながらも見えている。
つまりはGIOと中国軍閥の関係が全ての始まりに違いなかった。
軍閥の戦争の後押しをしていたGIOがGAMEをしている最中に軍閥との関係を悪化させ、軍閥側はGIOを裏切る形で日本に戦争を仕掛けようとした。
しかし、その中で多くの駆け引きが行われた結果・・・核弾頭は発射されたものの日本には落ちず、軍閥が支配する砂漠地帯へと落下した。
(中国脅威論は今も日本の中で勢いを増してる・・・専守防衛だけじゃどうにもならないって議論は完全に天秤を傾けた。戦争に突入する前に法整備が終われば戦闘地域へのジオプロフィット導入も進む。第九条もそろそろお役御免になるとすれば、残るは野党と移民団体の封殺のみ・・・今の与党幹事長が解散を匂わせたら、今の野党には法案を飲み込む以外の道がない)
真実がどういうものなのかなんて日本の国民は知らないし、興味も無いだろう。だが、現実に核弾頭が日本領海内の原潜から発射された事実は公表され、世論は完全に右一色になっている。
今まで人権という利権に群がっていた野党や移民団体は世論からの圧力で大幅な意見変更を求められるのは間違いない。
それを鵜呑みにしなければ生き残れない程に社会の目は左周りの人間に厳しくなっている。
日本国民の防衛意識が目覚めたなんていう有識者もいるが、それが間違いである事は新聞の紙面を見れば一目瞭然だった。
移民への排斥運動は一層激化しているし、特に半島系や大陸系の外国人には厳しい視線が向けられている。
事変の最中に移民が暴動を計画していたと一部の報道関係者が情報を暴露したせいで、破防法による移民団体の解散がしきりにネット上では呟かれてもいる。
略称破防法【破壊活動防止法】は1952年の血のメーデー事件という事案をきっかけとして、同年の7月21日に施行された。
共産党や武装革命闘争での警察署や税務署への襲撃、デモの暴徒化などの末に作られた法律は未だにひっそりと生きている。
適用例が殆ど無い法律であるものの、一度動き出せば政府に都合の悪い団体を黙らせる恰好の材料になるだろう。
この時期に世論の後押しを受けて無茶苦茶な右巻きの法案が成立するとすれば、日本はまるで第二次世界大戦前夜を彷彿とさせるような状況。
本来ならば右翼にも働く法律だが、今の状況では左翼系の団体を狙い撃ちする攻撃方法として運用されるのは政府の基本的政策から見ても明らかだ。
(この法律自体は必要かもしれない。けど、明らかに傾き過ぎた天秤は善悪以前の問題として狭量な価値観を世間に蔓延させる免罪符に成りかねない)
どんなに正しいものだろうと権力や意見の一極集中が歪みを齎すのは人類の歴史から見ても自明の理。
(私が握った情報で・・・何が変えられるの?)
結局、了子の意識はそこに戻っていた。
迷走が暴走にすり替わっていく世界で一体何を変えられるのか。
別に左も右も了子には関係ない。
日本の殆どの人間にしてもそうだろう。
問題なのは巨大な流れが生まれてしまった事に他ならない。
その濁流は成否も可否も善悪も飲み込んで一つの方向へと向っていく。
流れを逆戻しには出来ないし、そうしたところで日本に未来があるとは思えない。
だが、それでも・・・自分が正しいかどうかを常に己へ問い掛けながら進める社会でなければ、流れの中で間違いを犯す人間は多くなっていくに違いない。
それはダメだ。
それは許容できない。
仕事柄、了子は様々な犯罪者を見てきた。
反吐が出るような奴もいれば、どうして犯罪者と呼ばれなければならないのかという人間もいた。
でも、全ての人間に言える事があった。
彼らは犯罪者と呼ばれる行為の最中、己を省みてはいなかった
自己を点検する事ができれば、少しでも客観的な視点が入れば、彼らの未来は違っていたかもしれない。
間違いは正すべきだが、それ以前の時点で己を省みる事があれば間違いは減らせる。
本来の報道はそう人々に働きかけるべきだと了子は長年の記者生活から思うようになっていた。
(まだ、何も見えてこない。けど、あのチームを追っていけば何かが・・・・何かがある気がする・・・)
了子がグッと拳を握り締める。
「はい。ここから入らないでねー」
封鎖された事件現場には野次馬が群がっていた。
その最中から小型のカメラだけを手で掲げて何枚かの写真を取って撤退する。
新聞記者なら齧り付きで現場を取材しようとするのが人情かもしれない。
が、それならば封鎖が解けた後でも出来る。
了子はそのまま場を離れた。
「さて。後は戒十さんと合流して―――!?」
近くの駐車場に止めていた愛車に戻ろうと歩道を歩いていた時だった。
反対車線の歩道に見覚えのある顔があった。
思わず凝視した了子の視線を感じ取ったのか。
二人の少女が同時に気付く。
「「!?」」
互いにドキリとしたに違いなかった。
視線を交し合ったのは数瞬。
そそくさとソラと虎が近くの小道へと入っていく。
「あ、ちょっと待って!?」
思わずガードレールを抜けて車道に飛び出した良子の真横をトラックがクラクションを鳴らしまくって通り過ぎた。
構わず全速力で少女達を追っていく背中にもう影はなかった。
*
いつの時代にも不良がいるのは常だ。
社会不適格者。
歯車に成れない奴。
反抗期の過ち。
どれでもいいが根本的には社会の歪みを反映している。
何が歪んでいるのかについては異論議論数多いかもしれない。
だが、結果である彼らの傾向はほぼいつの時代も変わらない。
それはまるで漫画のテンプレを見ているようなものでマンネリ甚だしい。
例えば、奇矯な髪型や風体。
例えば、突飛な行動や法律無視。
例えば、カツアゲと脅迫。
そこにもしも不思議な力というものが加わった場合、どうなるか。
それはそこらの三文小説の類かラノベでも読めば分かる話だ。
「お小遣いくれるかなぁ僕ぅ」
夜、ゲラゲラと品のない嗤い声が路地裏に響く。
数人の柄の悪い十代の男達とオドオドした学生服の少年。
ジャンプさせるという古典的手法は不滅らしく。
チャリンとズボンの横から音がした時点で少年に退路は無かった。
サイフの中身を根こそぎ奪われ、そのまま帰ろうとした少年の首が掴まれる。
「おい。ちょっと待て」
「な、何ですか!?」
「んー君にはさぁ・・・ちょーっと僕達のサンドバックに成って欲しいのよぉ。この頃ストレス溜まってってからさぁ」
ニタニタと嗤う数人の男達が理由なく人を殴れる人間だと気付いて、少年はどうしようかと迷った。
人を呼べば、もしかしたら何かされる前に相手は逃げていくかもしれない。
男達の筋力は常人の域を多少逸脱している為、誰も来なかったら面倒(なぐられる)事になる。
「ま、すこーしの辛抱って奴だ。死なねー程度にしてやっから、なぁ?」
大人しそうな顔が僅か顰められた。
少年は背が低いし、取り立てて頭が良いわけでもないし、あまり暴力的な物語も好きではない。
そんな人間を痛めつけて喜びを見出す人間。
暴行を加えて快感を得ようとする学生なんて、少年には漫画の中の出来事に等しかった。
「止めておいた方が・・・傷害罪って結構重いですし」
「ははは、心配するなよ僕ぅ。こういうのは様式美っつーんだ。お前みたいな殴り易そうで警察にもチクらなさそうな奴にしか手なんか出しゃしねぇからよぉ」
「後悔してからじゃ遅いですよ。僕、結構勇気ある方だから、警察とか届け―――」
少年をそのまま男が壁に押し付ける。
「んん~~? 生意気な口はこの口かぁ? んじゃ、ちょっとガムテープでも張っとくかぁ。ホント死にかけてから力強くなるとかマジヒーローだよな。オレ達」
口元を押さえられた少年の口元にベッタリとガムテープが貼り付けられる。
「じゃ、ちょっくらお楽しみタイムといきますか」
二人の男が少年の脇をガッチリと固めた。
「オレ、いっちばーん!! つー事で、オラァ!!!」
ボキンと軽い音がして、男達は珍しく一撃で折れたものだと下卑た笑みを浮かべた。
叫び声。
その声音が少年のものではないと気付くまで仲間達は数秒の時間を有した。
両腕を掴んでいた男達が目の前で何が起こったのか理解できず呆然とする。
殴った男の手が肘辺りから逆に折れ曲がっていた。
「・・・・・」
膝を付いた男を醒めた目で少年が見下ろす。
「何しやがったクソがぁッッ!?」
二人の男達が思わず両手を離して恫喝する。
ペリペリと唇に張られたテープを剥がして少年が男達を見回した。
たったそれだけの行動に男達が本能的に後退する。
(んだ!? こいつの目・・・)
少年を甚振(いたぶ)っていたはずの男達の方が気圧されていた。
「僕って結構頑丈ですから」
その瞳は尋常な色を宿していない。
「はぁ!? 何言ってやがんだテメェ!?」
男の一人が少年の言葉に切れそうになった。
「まさか、本命に会う前から荒事になるとは思いませんでした」
路地裏に転がっていた鉄パイプを男の一人が拾い上げ殴りかかろうとする。
「それにしても【連中】のプロファイリングから『にわか』の発現者を掃除して歩いるのは明白だったけど・・・こうも早く・・・」
「意味分かんねぇんだよ!!!」
ドサリと少年を見ていた一番後ろの男が一人路地裏に倒れ込んだ。
思わず振り返った男達の半数が次の瞬間。
「へ・・・?・・・ぁ、ぎ、ぎぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッッッ?!!」
削ぎ落とされた己の体の一部分を道端に見つけて悲鳴を漏らした。
ある者は鼻。
ある者は指。
ある者は耳。
「お、おお、オレのぉおおお。オレのぉおおおおおおおおおおおおお!!!?」
崩れ落ちて呻き始める男達には目もくれず。
少年はポケットに入っていた紙を一枚取り出して手の中でクシャクシャにして溶かし、その液体で頭を撫で上げた。
パリパリと瞬間的に少年の髪がオールバックに固定されて固まっていく。
「貴方が近頃流行りの通り魔ですか?」
闇の奥からの返答は無い。
「僕は貴方はそんな風にした人間の一人です。どうぞお見知りおきを」
闇の中から僅かな驚きの気配。
「貴方のその力は約748人に一人の割合で発現するものです」
【!?】
「自然治癒後、本来の力を発現する者が現れるのは想定内でしたが、生きて力を発現する者がこれほど大勢出るのはその力を創り出した者にとっても面白い数値だそうです。まぁ、此処に転がっているのは貴方みたいな完全発現と違って『モドキ』ですけど」
【・・・・・・・】
「僕は貴方のような貴重な『サンプル』を回収している代理人と思ってください」
闇の中から音もなく飛んできたソレを少年が片手で掴み取る。
「これは・・・随分と凝った玩具を・・・自作ですか?」
明らかに少年が己よりも格上である事を悟った襲撃者がジリジリと後ろに下がる。
「人の体温で復元し、それより低い温度では再び姿を消す・・・どおりで・・・」
動揺が伝わってきて少年が微笑む。
「此処で逃げたところで貴方には未来がありません」
【ッッ!?】
「今、貴方の情報は検索し終わりました。貴方の住所、家族構成、所属する組織、年齢、体重、成績、個人間の横の繋がり、殆どが把握済みです」
【――――】
「ですが、面白いものを見せてくれたお礼です。チャンス、欲しくありませんか?」
【・・・・・・・】
「僕はサンプルを回収するのが仕事。つまり、貴方がそのサンプルを集めてくれるなら、僕の仕事量は減る」
襲撃者が息を飲む。
「期限は一ヵ月。最低三人見つけてください。連れて来いとまでは言いません。ただ、見つけたと思ったら端末に名前を書き込んでください。何処かに送る必要も誰かに言う必要もありません。見つけるのが困難というわけではないはずです。貴方達は【独特の生態】を持っている。要は貴方に似た人間を見つければいいだけです」
少年はスタスタと路地裏から出て行く。
「ああ、それと早めに逃げる事をお勧めします。そろそろ『後片付け』に来るはずですから」
【・・・!】
「?」
【名前】
「・・・『メリッサ』です」
少年が完全に路地裏から見えなくなって、襲撃者が僅か安堵の息を吐いたと同時だった。
路地裏に上空から何かが落ちてくる。
【!?】
スタンと軽い音を立てて、ソレが地面に着地した。
人間離れした巨躯とそれに比して細い体。
黒い皮状の肌と顔の無い頭部。
もしも悪夢に形を与えたなら、きっとそういう姿だろうソレに襲撃者ですら慄いた。
即座にその場を離脱していく【時限協力者(サポーター)】を見送って、ソレが【大香炉(ポタフメイロ)】と呼ばれているNDと人から創られる化け物が地面で震えている男達を見た。
「ひぎ!?」
何の話をしていたのかまったく理解していない男達はこれから自分達がどうなるのか本能的に悟って、逃げ出そうとするより早く意識を失った。
*
スティーブ・ライオネル・ジュニア。
言わずと知れた冶金学博士。
多数の大手企業から多大な視線を集めつつある彼の研究はユニークなものとして知られている。
そんなスティーブには近頃かなりの難問が出来た。
それは彼の研究上のものではない。
大学内での派閥争いとか、やけに激しい企業スパイ連中のハードなハッキングとか、そろそろ気になってきた生え際の問題でもない。
如いて言うなら、それは関数を幾つも孕む凡人には解けない類の数式に似ている。
「やれやれ・・・オレがこんな事で悩む日が来るとはなぁ」
基本的に朝から晩まで研究漬けのスティーブは家という概念が希薄だ。
高級マンションの最上階付近一室に自宅を構えながら、一年で一度その景色を楽しむかどうかも怪しい。
倉庫代わりに雑多なメモやら書籍やらを詰め込んでいる以外は家というのは軽い食事の為のカップ麺を大量に買いだめしておく場所、くらいの認識が彼にとっての家だった。
そう、だった。
その認識は過去形になってしまっている。
それは何故か。
無論、それは・・・家に色々と帰る理由が出来たからだ。
「ライオン。お帰り」
何処か醒めた表情で少女が一人トレンチコート姿でスティーブを出迎えた。
虎(フゥ)。
研究室にどうしても必要な人材から一ヶ月くらい預かっててくれとの要望を受けて、仕方なく彼が預かった『預かりもの』の片割れ。
中国人という事以外ではちゃんとした食事を出してやれば基本的に放っておいて構わないとの話だったが、何だか急いでいた要望の主は彼に色々と言い忘れた事が多々ある。
例えば、少女は基本的にトレンチコートを着ている。
とにかく何処でもトレンチコートを着ている。
昼も夜も学校が無い日は同じコート姿でいる。
しかも、そのコートに対して言及するとスティーブに微妙な視線を向ける。
例えるならば、女性にブラのサイズを聞いて思いっきり顰蹙を買ってしまったような目だろうか。
それ以来、スティーブはその姿に突っ込まない事を心に決めたものの、気になるのは今も変わらない。
「今、ソラ食事作ってる」
「あ、ああ、そうなのか。オレもついに世帯染みたやり取りが出来るなんて感激だぜ。HAHAHAHA」
靴を脱いで己の家に上がるだけだというのに彼の背筋には一筋の汗が伝っていた。
「それとな。フウ嬢」
「?」
虎にスティーブがゆっくりと笑みを浮かべて視線を合わせた。
「オレの名前はスティーブ・ライオネル・ジュニアであって、決してライオンじゃねぇ。OK」
「・・・分かった。ライオン」
コクリと素直に頷いてパタパタ家の中に戻っていく虎にスティーブは溜息を吐いた。
もしスティーブに過去へ戻る力があったなら、過去の己を説得するのは確実な夜が幕を上げる。
*
そもそもの始まりは外字久重からの一生のお願いとやらを聞いた事に始まる。
夜も開いている研究室で仮眠中のスティーブが叩き起こされたのは十二時過ぎ。
何やら急いでいる様子の若者は背後に二人の少女を連れていた。
『一ヶ月だけ預かってくれ。この通りだ!!』
とりあえず話を聞いた彼に久重は初っ端からエクストリーム土下座をかました。
詳しい話は聞きそびれたが、話を要約するとたった一行で事足りる。
急な仕事を受けたはいいが海外でしかも一人で行かなければならないので二人を預かって欲しい。
少女達の片方はスティーブにも面識があった。
ソラと呼ばれていた少女。
久重の背に隠れて自分を警戒していた姿は彼の脳裏にはハッキリと残っていた。
青年との幾つかのやり取りの中で本当に困っている事を感じたスティーブは二つ返事でその願いを承諾した。
帰ってきて色々な事にケリが付いたら研究に少しでも参加しろと暗に恩を売った形だったが、それでも青年はスティーブに感謝して空港へと旅立った。
少女達をそのまま研究室に置いて・・・。
それが四日前の話。
(年頃の女二人を相手するにはオレも歳を食ったって事なんだろうな)
四日前まで本とメモが載っていた埃だらけのテーブルはピカピカに磨き上げられ、その上には皿が載せられている。
ホカホカと湯気を上げるインスタント以外の飯を家で食う事になるとは思いもよらなかったスティーブは最後に運ばれてきたパスタの盛られた皿越しにソラを見て、何やら感慨深いものに囚われた。
「はい」
そっと置かれたパスタから立ち上る湯気がふわりとスティーブの頬を撫でる。
「すまんな。いつも遅くて」
フルフルとソラが首を横に振る。
「居候はちゃんと家主を手伝うべきって。ひさしげ言ってたから・・・」
「躾けが行き届いているというか。あいつの生活が透けて見えるというか」
「ライオンは・・・ひさしげがどういう生活してたか知ってるの?」
「だから、スティーブでいいと何回オレは言えばいいんだ?」
TVが付けられ番組がニュースに変更された。
「ひさしげって生活力ある方だから、あんまりお掃除とかお料理とか手伝わせてくれなくて・・・」
「華麗にスルースキルが発動してるが、オレはスティーブ!ライオネル!ジュニア!だ」
「・・・・・・ライオネル」
ソラが無表情に視線を逸らしてボソッと名前を口にする。
「―――?!」
もうスティーブは何も言わない事にした。
これならライオンと言われた方がまだマシだった。
「OK。もうライオンでいい。ちなみにあいつは昔から苦学生だったから普通の主婦より料理の腕がある。もう二年も前になるか。あいつがオレの研究室を手伝ってた時はいつも料理を振舞われてた」
「苦学生? ひさしげが?」
「お、何だ? 知らないのか?」
コクコクとソラが頷く。
虎がスパゲッティーを啜りつつ聞き耳を立てた。
「あいつはあの【黒い隕石】の時に家族を亡くしててな。頭の出来がそこそこじゃないと出ない奨学金で大学に入ってきたんだが、実際にはたぶん大学中で一番だった。それをオレが見抜いて研究室にスカウトしたわけだが、金に終始困ってる様子で仕事七割大学三割ってな出席日数でこっちも色々苦労した。一応、研究室で働いてる扱いにして出席日数は免除させたが、最初は勉強が疎かになるんじゃねぇかと心配になったりもしたっけ。ところが」
「ところが?」
相槌を打ったのはソラではなく虎だった。
その口元にはベッタリとトマトソースが付着しているものの、衣服には染みの一つもない。
「あいつは全教科のテストを合格点からかなり余裕で合格した。本来なら一位を取る事すら出来ただろうが、奨学生であるに相応しいレベルに押さえて良い点を取った」
「ヒサシゲ。頭良い?」
虎が何故か誇らしそうな顔で聞いた。
「ちょっと違うな。あいつにとって勉強ってのはもう殆ど修めちまったもんに過ぎない。大学入ったのも卒業したって証明が欲しかっただけなんだろう。ま、つまりウチの大学はそれなりに良いとこに就職できて、それなりの奨学金が入るから入学されただけ・・・舐められっぱなしだったわけだ」
グッとスティーブが拳を握る。
「学生連中の中にもあいつが只者じゃないって気付く奴はいたが、知識で勝てる奴はいなかった。ウチの研究室の連中も何かと勝負を吹っかけてたが全戦全敗。情けねぇ」
「ひさしげ・・・凄い・・・」
今まで青年の事を本当は何も知らなかったのだとソラは目を丸くする。
「でも、あいつはそんなのはどうでもいいように見えた。なのに、何故か大学から出てあの女の車に乗る時だけは生き生きしてやがった・・・ホント、悔しいったらなかったぜ」
あの女というのがアズの事だと気付いて、ソラはふと考えた。
いつの頃からアズとひさしげは付き合いがあったのだろうかと。
「つー事で。そろそろ食わせてくれ。パスタくらい熱々の内に食いたいOK?」
ソラが頷いて横を見ると虎が皿の上に山盛りになっているパスタをズルズルハフハフと啜っていた。
「・・・・・・虎?」
「―――なに?」
ビクーンと反応した虎の様子から知らない内にオカワリしていたのは明白。
本来なら少し嗜めて「もうちょっとゆっくり食べないとダメ」と虎を久重から任された手前教育ママのような事を言うところだったが、ソラは今日の出来事を思い出し・・・・・・口元を緩めた。
「また、茹でる?」
「――――!?」
コクコクと高速で何度も頷く機械と化した虎にソラは「今日はまぁいいか」と微笑んだ。
二人の少女の微笑ましいやり取りに癒されつつ、パスタを啜っていたスティーブは今遠国にいるだろう青年を思い浮かべる。
(随分と可愛い居候を手に入れやがったな。色男(ロメオ)も真っ青だぜ。まったく)
三人の夕食が終わる頃、ニュース番組には一つの映像が映し出されていた。
それは白くてずんぐりむっくりした日本製アニメマスコットの着ぐるみがインドで指名手配されたという何とも間の抜けたものだった。
*
凍えるような冷房が効いた部屋の中、中央の椅子に大きなディスプレイが幾つか向けられていた。
画面の中には多少旧い映像が流れている。
それは日本が第二次世界大戦後に始めて行った戦争。
『小さく静かなる戦争』(リトル・サイレント・ウォー)。
その最初期に登場した一人の総理の姿だった。
――――――――――――――――――20XX年7月14日官邸前。
では、お答えしよう。
私の考えを。
そもそもこの問題に対して我々の意見は食い違っているらしい。
君達マスコミは私を史上最悪の独裁者あるいは最低最凶の右翼首相と言っている。
だが、私の意見を言わせてもらえるならば、私は自身をただの左翼であると答えたい。
何故か?
簡単だ。
私は自身を改革者だと位置付けているからだ。
君達は多くの発言から私の失言を拾おうというのだろうが、それは情報戦略的には正しくても、賢くない選択と言わざるを得ないな。
私の発言で今までの日本の常識に照らして失言でなかったものは何一つ無いだろう。
だが、私の失言にはちゃんと意志が込められている。
つまり、君達が失言だと思っている言葉で私が失言であると思っている事柄は何一つ無い。
世間的にはどうなんだと有識者や何処かの国を支持する記者達は言うだろう。
でも、考えてみるといい。
世間とは誰の事なんだ?
新聞やマスコミが騒ぎ立てる喧騒に賛成する者か。
それとも恣意的に編集された情報を共有し誘導された体の良い市民か。
私はあの問題に対して何一つとして譲ることは無いだろう。
そして、この問題で私を攻めるだろう各種マスコミ新聞ネット雑誌を気にする事さえ無いだろう。
支持率?
支持率が欲しくて総理をするなら、君があの椅子に座ってみるかね?
あんなのは国民のご機嫌度を測る指標に過ぎないだろう。
私の仕事は国民のご機嫌を取る事ではなく歪み過ぎた国の柱を叩いて直す事に他ならない。
それで総理の椅子から転げ落ちるようなら、私もそれまでの人間だったというだけの事だ。
周辺諸国への配慮?
私は謝罪と賠償をする為に総理の椅子に座っているわけではない。
何処の神社に参拝しようが避難される謂れもない。
軍事的にいつも脅かされているのは日本であるというのは私の中の常識なのだがおかしいだろうか?
周辺某国々が○ちゃんねるで叩かれている様子でも観察してみるといい。
あそこで大概の嘘と事実は揃う。
本当は教育の現場で教えなければならない歴史がネットで検索しなければ中々出てこないのは悲しいとは思わないかね?
何処かの戦争批判しか能の無い組織が教育に携わっているかと思うと私は悲しい。
戦争を肯定するのか?
はははは、私は戦争を肯定したりはしない。
戦争は悪だ。
だが、戦争をする理由は悪なんて陳腐な言葉で飾る気はない。
確かにあの戦争で大勢の人間が死んだ。
それが私にとっての悪だ。
しかし、それ以外で戦争が悪になる理由などない。
今の日本の教育現場を見てみればいい。
生徒に戦争は悪い事だとは教えるが、戦争が起こった詳しい理由なんて教えてはいない。
西洋諸国と亜細亜諸国。
あの当時の関係を教えているだろうか?
日本が戦争前夜に置かれた状況は?
無論、日本に非が無かったと言えば嘘だろう。
だが、相手国に非が無かったかと言えば、相手国にもかなりの非がある。
どちらにも非があるからこそ戦争は起こる。
どちらか一方が悪くてどちらか一方が正しいなんて事は決して無い。
戦後にしても民主化・資本主義化できたのは日本という国だからこそだ。
よく学び働き養い育て次へと受け渡す。
その中で多くを得た日本だが、それ以上の負債も背負った。
奢る人々や外国の意見に左右される政治。
日本人ではないのに日本人を貶め、日本人が決めるべき事に干渉する勢力の浸食。
戦争で戦死した多くの人々を我々は参り続けているが、それすら気に食わないと言う国々に配慮など必要であるはずがない。
寛容者には寛容を持って対するべきだが、不寛容者には不寛容を持って相対するべきだとそろそろ我々日本人は気付かなければ。
移民の排斥を推進するのか?
排斥したりはしない。
ちゃんと移民の皆さんには働き口を紹介しているじゃないか?
普通の日本人の若者が働けないご時世に働き口があるという事は不寛容であるだろうか?
移民の意見は取り入れる考えはだって?
どうやら君の頭の中には国民と移民の区別もないらしい。
言葉に気を付けたまえ。
日本は日本国民のものだ。
そして、その中で生きるならば、如何なる外国人にも日本は最大限の敬意を払うべきだ。
だが、政治は日本を愛する者が行うべき事柄であって、外国の人間がとやかく言うべきではない。
参政権も帰化の問題もそうだ。
日本という国を愛さない人間に参政権を与えるつもりはないし、帰化をさせるつもりもない。
もしも嫌ならこの国を出て母国に帰るよう我々は政策で移民の方々に勧めている。
経済界の意向?
馬鹿馬鹿しい。
国敗れて山河あり。
しかし、国敗れて企業を残す馬鹿はいない。
あの戦争の後、気概と命と努力で我々の祖先はこの国を復興した。
そんなに労働力が欲しいなら、日本人の若者を使いたまえと私は常々言っている。
グローバリズムを標榜する前に企業も内需拡大に努めるべきだ。
私の政権下では少なくともその為の政策に政府は尽力している。
それでも儲けられないからと出て行くなら構わない。
この国を見限るのも一つの選択だろう。
宗教者達が私に天罰が下ると言っている件に付いて?
独裁者や過激派や胡散臭い新興宗教の人間と本当の信仰者の区別なら私にも付く。
真の宗教者とは決して無理強いや強引な誘導をしないものだ。
本当に信じるに値するべき教えがあるのなら、それは決して他者の言葉に踊らされて見聞きするものではない。
それに天罰があるとするなら、破防法でも何でも使えばいいだけの事だ。
私はテロが起こって殺されるか病気で死ぬか以外に自分が死ぬとは考えていないのでね。
おっと、そろそろ秘書官が怒り出しそうだ。
これで私は去るとしよう。
ちなみに本題は何だったかな?
はは、とりあえず時間が無いのでその話はまた後日にして欲しい。
君達も今日は好きなだけ失言が取れて嬉しいだろう?
たまには頑張って私のカッコイイ記事を書いてくれたまえ。
では、親愛なる廃れゆくマスゴミ諸君。
【・・・・・・・・・】
革張りの椅子に座っている者に向けて一発の銃声が奔った。
ライダースーツ姿の女が開けた扉の前で銃を腰に戻すと内部へと足を踏み入れる。
銃弾は背もたれを貫通している。
普通の人間なら体の中心を打たれて失血死するはずだったが、まったく声も血も出無かった。
パイと自らを呼称する女がゆっくりと椅子を回す。
椅子には等身大に近いアニメのマスコットらしいぬいぐるみが押し込まれていた。
脳天がぶちまけられた衝撃で綿が零れている。
【目標は逃亡した模様】
懐から取り出した端末で報告が行われた。
【そうですか。『連中』の予測も役に立たないとなると、これは正に本物かもしれません】
【?】
【ああ、貴女はまだ今回の目標が誰なのか教えていませんでしたね。彼は『連中』が突き止めた十三人の一人であり、如いて言うならガチガチの国粋主義者です】
【十三人?】
【この間のウィルス事件は十三人の一人である男・・・分子生物学の巨頭『波籐雅高(はとう・まさたか)』が関わっていたらしいですが、あちらは根っからの左翼だった。彼が日本を崩壊させかねないテンペレート・ファージをばら撒いたのは正にそういう思考の持ち主であったからと言えるでしょう。しかし、今こちら側が追っているのはその間逆の人間です】
話の内容をよく飲み込めなかったもののパイは「真逆?」と聞き返した。
【ええ、十三人の一人にして天雨機関外部構成員。遺伝子工学の専門家。更に言えば極右翼の最先鋒】
【今の首相みたいな方ですか?】
【いえいえ、今の政権与党すら生温いと憤るような人間であると資料にはあります】
【どうして、そんな人を?】
【こちらが情報を掴んだのは彼が動いたからです。そして、彼が動いたのは彼が天雨機関の同僚であり、天敵とも言える男が日本にちょっかいを出したからだ。さて、一つ問題を出しましょう。右でも左でも構いませんがそういう主義者達が他人の行動に怒った時、どうすると思いますか?】
【・・・分かりません】
【正解は相手の背後関係を調べて排撃する、です】
【え・・・?】
【極端な思考の持ち主が極端な行動に走る。そして、報復するべき個人が自分と同格の相手で片付けるのに時間が掛かると分かった。では、その掛かる時間の片手間で何をするべきか。無論、背後関係を攻撃して相手の弱体化を図るべきと彼は判断した】
【それはつまり・・・】
【標的は国家です。我々を飼う【連中】が重要としている国も狙われたらしく。もう被害が出始めている。『連中』としてはまさに自分達と同じような技術を持った組織の内紛でとばっちりを食う形になります。泣きっ面に蜂ですよ。ただでさえ、まだ用がある日本で無駄な騒ぎを起こしているというのに外国まで被害が拡大すれば、自分達の計画にも支障が出る。だから、事前に排除しておきたかったわけです】
端末からの声に耳を傾けながらパイが辺りの床に散らばる資料や近くの大型端末から情報を集める。
【今回は人助けと思って構いません。もう四回実戦投入しましたが、五回目は無辜の民が死ぬのを守る仕事と言っていい・・・・・・そろそろ向上を名乗る日が近いかもしれませんよ】
【それは、その・・・】
【もう考えてあるのでしょう?】
【・・・はい】
女が僅か顔を赤らめそうになったが、首を横に振って打ち消した。
【これは・・・】
【何か見付かりましたか?】
【紙の資料の一つに菌の名前が】
【ほう?】
【むぎ・・・かく・・・きん?】
【ばくかく・・・それはもしかして麦角菌ではありませんか?】
【たぶん、そう読むと思います】
【―――思っていたよりも事態は深刻かもしれません】
【どういう事ですか?】
その答えがパイの上司兼管理者であるターポーリンから返される前に画面に今までリピートで流れていた映像が切り替わる。
「ッ」
パイが身構えた瞬間。
画面がブラックアウトして、正面に緑色の文字が浮かんだ。
「ハロー・・・ワールド?」
スピーカーから音楽が流れ始める。
【これは・・・交響曲第9番ホ短調・・・まずい!? 見られて?! 脱―――】
その日、日本国内のとある山系に立っていた山小屋がTNT火薬130キロ分の火力を持って火柱と化した。
―――あまりの爆発に一瞬で炎が消し飛んだ山肌で全裸のパイがNDで交信を続ける。
【・・・・・・貴女の頑丈さには頭が下がる思いですよ】
【いえ】
【とりあえず山を降りて服を調達するところから始めましょう。すぐに後を追います】
【何処に向ったのかもう?】
【ええ、彼は随分と洒落っ気がある人間のようです。そして、誘ってきている。攻撃されているのは南米のブラジル、アジアのインド・・・そして【新世界(アメリカ)】・・・日本(こちら)はメリッサに任せておいても大丈夫でしょう。我々はこれから機器の移動と――】
パイの姿が消えたのはそれから数分後。
警察車両や山岳救助隊など多くの人間がその場に詰め掛けるのはそれから一時間以上後の事だった。
日本の警察が辛うじて事件現場周辺で発見したのは一つの割れたレコード。
ドヴォルザーク作曲。
交響曲第9番ホ短調。
「新世界より」
アメリカを謳った日本人にも聞き覚えのある作品だった。
新たな世界の幕開けを告げる狼煙が今上がる。
少女はその日、白き友を得た。
青年はその日、幼き友を得た。
名立たるものは全て偽り。
されど、偽りに宿る優しさを少女は知る。
第四十二話「遠き地の姫君」
雲は風に去り、何かが変わる。
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第四十二話 遠き地の姫君
一人で眠る事が怖くて誰に向けているかも分からないまま微笑む。
胸の奥から零れていく何かを留める事はない。
いつかこの身が大地に融けたら、あの故郷を思い出して帰ろう。
例え、この手が何にも触れず、掴まないのだとしても、この声が誰にも届かず、聞こえないのだとしても、行動を起こした事はきっと無駄じゃない。
だから、夜が来る度に怯えるのはこれでお終い。
赤、青、黄、緑、紫。
全てを塗り潰す鈍色の夕景に虹が巡って―――風が―――。
ぽむぽむ。
そんな風に頭が撫でられた。
「え・・・・・・」
ずんぐりむっくりした白い手だった。
「・・・・・・?」
友達として楽しい日を経験させてくれた手だった。
「どう・・・して・・」
大きな背中が私の前に進み出る。
「・・・・だ・・・め・・・」
生きている彼が、これからも生きていくはずの彼が。
「・・・・・あぶ・・・な・・・い・・・・」
巻き込みたくなかった。
「・・・・に・・・げ・・・て!」
死んで欲しくなかった。
けれど、そんな私の声に喋らないはずの彼はとても力強く言った。
【よく頑張った】
パンと渇いた音がして。
「――――!!?」
悲鳴すら上げられなくて。
「い・・・やッッ?!」
今日の事を全て後悔しようとして。
【もう、大丈夫だ】
何事も無かったように声は優しく響き。
【すぐ終わらせる】
大きな背中は前に進んでいく。
「あ・・・・・・」
【だから、『テメェは黙ってオレの活躍を見てろよ』・・・約束だ】
私はその日、恋をした。
「・・・・はい」
震える声で泣きながら、人生でただ一度の恋をした。
雲は風に去り、祝福の虹が今、降り注ぐ。
第四十二話 遠き地の姫君
【世界の果てまで霧に覆われて、例え貴方が見えなくなっても、私はきっと貴方の傍にいます。想い届かず、果てる日が来ても、きっと・・・・・・】
そんな無駄に長い日本語で書かれた看板が設置され、あちこちで作業員が忙しく舞台の設営に勤しむ会場で、一人浮いた存在が現場監督に怒られていた。
と言っても飛び交うのは日本語ではなく英語。
更に言えば、現場監督含め、殆どの立ち働く者が日本人ではない。
浅黒い小麦色の肌が汗して働く最中でその存在の異様さは際立っている。
『新入り・・・こういう事は言いたくないがお前は日本で何を学んできたんだ?』
ペコペコと頭を下げたのはずんぐりむっくりした着ぐるみだった。
基本的に人間の体型ではない。
全体的に丸い輪郭に尻尾と耳が付いている。
目と鼻がちょこんとあるだけで中の人間がどうやって呼吸しているのかは謎だ。
可愛いと言えるがチープさが際立つ作りかもしれない。
ただただペコペコする着ぐるみに怒り心頭の様子で監督が切れた。
『貴様!? 【ヒランヤちゃん】はな!!! んなペコペコ頭下げたりしねぇんだよ!!?』
「?!」
ビクッと身を竦ませた着ぐるみに対して監督は淡々と語り始める。
『主人公のマスコットの癖にいつも尊大で敵が出てくる度に主人公にダメだししまくる毒舌キャラで不遜な態度が可愛いんだよ!!? それなのにテメェは何だ!? ペッコペッコしやがって!? それで【ヒランヤちゃん】のつもりか!?』
何か虚しい程に労働の厳しさを叩き付けられたらしく。
着ぐるみ【ヒランヤちゃん】がグッタリする。
『このANIMEイベントに来る『神裸フリークス』が大好きなファンにどう言い訳する気なんだ!? お前は日本人かもしれないが何も【ヒランヤちゃん】の事が分かってねぇ!!? あの毒舌の裏で実は健気に自分の命を削って詩亞ちゃんを守ってる獣の姿がまるで分かってねぇ!? 今から事務所に言って漫画貸して貰ってこい!!』
「(漫画あるのか・・・)」
そんな事すら初めて知った【ヒランヤちゃん】がボソっと日本語で喋った。
『詩亞ちゃんのコスプレイヤー達に毒舌も言えないようじゃクビも考えておけ!!? いいか!? 分かったか!?』
監督がそのまま他の設営スタッフに促されて場を後にした。
一人ポツンと残されてトボトボと白いマスコットは外へと歩いていく。
会場を出るとムッとするような湿度と暑さだった。
超高層ビル群が乱立する一角が遠方に見えている。
「(漫画見せてもらうか)」
巨大なドームから数十メートル先にはプレハブが幾つも立っていた。
漫画を見せてもらう為に歩き出した着ぐるみは思う。
何処で何を間違えたのだろうかと。
海外での実入りの良い仕事を紹介してもらったはずなのだが、いつの間にか日本製ANIMEイベントのマスコットキャラの中の人となってしまった。
最初は暑さに耐えながら着ぐるみで子供達向けに風船でも配るのかと思っていた中の人だったが、事態はそれよりも深刻な様相を呈している。
中の人に求められたのはガチなANIMEイベントキャラクターとしての役。
日本製とはいえANIMEとか見ない生活をしていた為、予備知識など一切無い。
それなのにマニアック(いや外国に売れるくらいなのだからその筋ではメジャーなのかもしれないが)なANIMEのマスコットキャラを演じ切れというのは原作漫画すら知らなかった身からすると厳しい。
不意に置かれているベンチにドッカリと腰を下ろしたくなり、中の人は一息入れる事にした。
ベンチに座って深呼吸するも吸えるのは着ぐるみの埃っぽい空気だけ。
しかし、契約上着ぐるみを脱ぐ事はできない。
設営スタッフ&マスコットキャラクターの中の人という立ち位置で働いているのだが、契約内容の中には「中の人などいません」という類の条項が入っていた。
もしも、特定の部屋以外でそれを脱いでしまうと賃金は半減。
殆ど外国で仕事をする意味が無い。
早く着ぐるみを脱いで深呼吸しようと立ち上がろうとした時だった。
『あ・・・ひーちゃん!!?』
着ぐるみを見つけて駆け寄ってきたのは十歳程の少女だった。
伝統的な衣装(サリー)などは着ていない。
ジーンズにトレーナーにスニーカーという何の特徴も無い恰好は・・・妙に浮いている。
それは少女の可憐さからかもしれない。
野暮ったい衣装に反比例するかの如く。
少女には育ちの良さを感じさせる気品があった。
この国にしては珍しくあまり彫りの深くない顔をしている。
ただ目鼻立ちはかなり整っていてそこらを歩いている人間が振り返るレベルかもしれない。
『あ・・・そっか。詩亞ちゃんは日本人なんだから、日本語・・・』
ハッと何かに気付いた少女はこほんと咳払いをする。
「ひーちゃん。こんにちわ」
かなり流暢な日本語だった。
とりあえず中の人は申し訳程度に付いているヒレみたいな手でグッと親指を立てて誤魔化す事にした。
「日本語通じてますか・・・?」
何処か自分の日本語が信用できないようで少女が上目遣いに聞く。
まったく問題ないと中の人が頷くと少女の顔がパッと輝いた。
「ひーちゃんに会えて嬉しいです・・・お、お友達になってください!」
思わず乗りで言ってしまったのかもしれない。
紅い顔でちょっと恥ずかしそうに告げてくる少女にやはり中の人はコックリと頷く。
すると少女は感動した面持ちで「えへへ」と笑った。
「その・・・インドに来てくれて嬉しいです」
横に座った少女の言葉にジェスチャーで自分もだと答えると少女が怪訝そうな顔をした。
「あ、あの・・・いつもみたいにお喋りしないんですか? 『こんな国ホントは来たくなかったんだけどな』とか『まったくオレと友達になりたいなんて馬鹿な餓鬼だ』とか」
流暢過ぎる日本語から繰り出される破壊力満点の毒舌。
正しくない日本語はこうして蔓延するのだろうと妙に感心するものの、対応に困った。
喋るのは禁止されている。
というかイベントでは予め録音された声にそって演技する事になっていたので喋る必要が無かった。
それゆえに英語しか出来なくても採用されたのだが、子供の夢は壊したくない。
「・・・・・・」
「ひーちゃん?」
そっと日本語で少女の掌に「話せない」と書く。
「え・・・」
少女の顔が困惑に染まった。
一瞬、少女を失望させたか疑われてしまうのではないかと思った中の人だったが杞憂に終わった。
ハッと少女が気付いて真剣な顔で頷く。
「第七話みたいに言葉を封じられてるんですね!?」
知らない話キター。
とか中の人が狼狽している間に少女の中でストーリーが一人歩きしていく。
「大丈夫です! 私、ひーちゃんが喋れなくても七話みたいに役立たずでも気にしません!!」
役立たずだったのかよ。
内心でツッコミつつ、切ない気分で中の人が頷く。
「あ、あの・・・ひーちゃんはインドは始めてですか?」
コックリと【ひーちゃん】が頷くと少女が何かを決心したかのように立ち上がった。
「その・・・街を歩いてみませんか? ひ、ひーちゃんには私の国を一杯好きになって欲しいんです!」
本来なら中の人はその申し出を断ったはずだ。
何故なら、自分は仕事をしに来ているのであってインド観光をしているわけではない。
そして、今の内に漫画を読破して完璧な演技をしなければクビにされかねない。
だが、少女の瞳は何処までも真剣だった。
ただの子供が気軽に誰かを誘っていると他の人間からは見えるかもしれないが、その必死で真剣で何処か追い詰められてる感すらある瞳に・・・中の人は頷く以外の選択肢を持っていなかった。
首が立てに振られるとパァーッと笑顔が更に輝く。
「それじゃ行きましょう・・・」
ちょこんとヒレみたいな手を握って少女が先導して歩き出す。
「あ、忘れてました。私、カウル・・・カウルって言います」
そこに妙なマスコットキャラ【ひーちゃん】と少女【カウル】のコンビが結成された。
*
インド。
正式名称インド共和国。
嘗てイギリスの代表的な植民地だった国は今、人口過多の超大国となった。
半世紀掛けて識字率は九割以上に向上し、国内の格差も縮小。
中間層が大幅に増加し、貧困層は三億人を切る。
インド経済の牽引約である情報サービス産業は此処半世紀において成長は鈍くなっているものの、未だ経済の一角に厳然として君臨し、巨大な国内市場を抱えてもいる。
【黒い隕石】直後の大混乱により人口十七億人の内五億人を失ったものの、今も国としての体裁は保っている数少ない大国。
それが南アジアの中心インドと言えるかもしれない。
インドは国ではなく大陸に例えられる程に多数の民族と言語が乱立する国として有名だが、現在は国内の建て直しの為、英語とヒンディー語を強力に推進し子供達を教育している。
故に他国の言語まで学ぶのは並々ならない努力が必要なはずで如何に少女が日本文化を愛しているのか中の人には透けて見えた。
「此処のお茶が美味しいって評判なんです」
日本にもある大手チェーン店を背に何か遣り遂げた的な汗を掻きつつカウルは自慢げだった。
とりあえず、ジェスチャーで「パンフレットがポケットから丸見え」と伝える中の人だったが、少女は「日本にもあるんですか!?」と何処をどう解釈したのか驚きの声を上げる。
微妙にズレたやり取りをしながら二人は衆目を集めつつ、ムンバイの市街地を歩いていく。
あちこちで商店に入ったり、店先のショーウィンドウを眺めたり、近頃ようやく再び普及したらしい自動販売機で水分補給したりと・・・二人の珍道中的インド観光は続いた。
「少し休みましょう」
牛がノソノソと歩きながら横切っていく公園の中でベンチに腰を落ち着けた二人は、というよりカウルが一方的に自国の流行やら歴史やらを楽しそうに話し始める。
それに頷いたり、ジェスチャーを使って答える【ひーちゃん】の図は何処か笑いを誘うものだった。
「まだ、この国には一杯問題あります。貧しい人、カースト、未だ続く混乱、全部解決するのに百年じゃ足りません。でも、どうにかなると思います。だって・・・皆生きてるから・・・」
懸命に何かを伝えようと言葉を手繰るカウルの頭を【ひーちゃん】が撫でた。
目の前の少女は大人になろうとしている。
小さな体で懸命に背伸びをしている。
それが分かった。
「あぅ・・・」
顔を真っ赤にして俯いたところは年並みなようだと中の人が撫で続ける事に決めた時だった。
「?」
【ひーちゃん】は辺りを見回して気付いた。
七人。
見えるだけでそれだけの人間がこちらに視線を向けてきていた。
それだけなら珍しいのだろうという話で済ませられる。
だが、全てが着ぐるみではなく少女に向けられた視線ならばどうか。
「あの・・・どうかしましたか?」
少女をそっと立たせて公園から出る。
着ぐるみ姿のまま路地を歩いていると後ろから付いてくる気配。
鈍色の看板越しに背後を確認し、全員が付いてくるのを見つけて・・・中の人は少女を抱えて走り出した。
「ひゃう!? ひ、ひーちゃん?」
目を白黒させる少女を抱えたまま、一般人に見える追跡者を越えるスピードでムンバイの街中を走破する。
十数分の逃走の後。
ようやく振り切ったと感じた中の人は一息吐いてビルとビルの合間にあるベンチに腰を下ろした。
「ど、どうかしたんですか!? ひーちゃん!」
不安そうな少女が狙われているとすれば、誤魔化しておくのは良くないだろう。
小さな手に「沢山の人間が後ろから付けていた」と書かかれた。
すぐにカウルはハッとした様子で俯いた。
「・・・そろそろお家に帰ります。今日はとっても楽しかったです・・・」
そっと立ち上がったカウルが笑みを浮かべる。
「私なんかのお話を聞いてくれてありがとうございました。詩亞ちゃんとの楽しいお話期待してます」
その言葉に潜むものに中の人は気付いた。
カウルと名乗った少女はアニメのキャラクターが現実にいない事くらい知っているのだと。
そして、それを知っていても目の前の怪しい着ぐるみと話したかったのだろうと。
そもそもどうしてイベント前の会場近くに少女がいたのか。
イベントの事を知っているなら、そもそも当日に来るべきだ。
でも、そうしなかった。
つまり、イベントが無いと知っていても来たかった理由があったのだ。
「さようなら・・・」
駆け出した少女の背中には拒絶があった。
何を背負っているのか。
今にも押し物されそうな何かが乗っていた。
「・・・・・・おい」
【何だい? ちなみに君の給料は今日一日で一万七千円くらい下がったけど】
着ぐるみに内臓されている通信機器一式が遥か彼方にいる中の人の雇い主と会話を可能にする。
「教えろ。全部だ。聞いてたのは知ってる」
【僕的にはあんまり関わらない事を勧めるよ。何故かって? 楽しそうに話してるから調べてみたんだけど・・・あの子の問題はこの国の未来を左右する重大なものだったよ。外国人の僕達が手を出すような問題じゃないし、手を出したところで何の利益にもならない。いや、下手したら不利益になるかもね】
「ああ、そうかい」
【それどころか。もしも関わろうものならかなりの厄介事を背負い込まなきゃならなくなる】
「それで?」
【・・・やれやれ・・・『平和五原則(パンチャ・シーラ)』って知ってるかい?】
「何だソレ?」
【事はそう簡単じゃないって話さ】
黄昏時の世界には雲が広がりつつあった。
*
カウルは走っていた。
その小さな体を弾ませるようにして。
(絶対、巻き込まない・・・遠い所に行かないと・・・)
列車に紛れ込めれば、逃げ切れるかもしれない。
もし、そう出来なかったとしても、【最低限の準備】は出来ている。
懐に入っているものを意識してカウルは身を震わせた。
(楽しかったな・・・)
今日一日の思い出がその脳裏に甦る。
初めて街を散策した。
楽しい事ばかりだった。
隣には【彼】がいた。
もう叶わないと思っていた夢の一つが叶った事を純粋に喜んだ。
例え、その先に何一つ希望など無いとしても。
(・・・お母さん・・・・・・)
少女カウルの人生はインド南部で始まった。
母と二人暮らし。
【壊された民】(ダリット)。
カーストにすら属さない最下層。
そんな身分ですらない身分に生まれた事を少女は恨んだ事なんてない。
ただ、その身分のせいで母が傷つく事だけは我慢ならなかった。
人権なんて言葉をその当時知らなかった。
それでも少女はどうにかして母が楽に生きられればいいと思っていた。
(・・・あの頃は・・・食べるものも無かったっけ・・・)
暮らしは酷く貧しかった。
物乞いをした方が食べられるのではないかというくらいに。
それでも少女の母は路地に子を放り出さなかった。
大事に大事に抱き締めた。
母が抱き締めてくれるだけで他の全てがどうでも良くなってしまうくらいに少女は嬉しかった。
どんなに貧しくても母と一緒に生きていけた。
そんな風向きが変わったのは少女が体を売ろうかどうかと悩むような歳になった頃の事。
母は娘を養子に出した。
その日の事を今も少女は覚えている。
弁護士という立派な服を着た人間が母と話していた。
そう、それは少女の父からの申し入れだった。
父の事を何一つとして知らなかったものの、それでも立派な服を着た人間を雇えるくらいにはお金があるのだと知って、断ろうとする母に少女は自分から進んで言ったのだ。
養子になると。
お母さんが楽に暮らせるようになるならと。
見た事もない車に乗せられて運ばれた先で出会った父は優しそうな人だった。
少女に父は今までの事を話した。
愛人として囲っていた母を正妻との間の確執から手放してしまったのだと。
穏やかに大人の汚さを語る父に少女は怒りを覚えなかった。
カーストですらないアチュートとたぶんヴァルナの中でも最上位の家の人間では釣り合わなかった。
それが理解できるくらいには少女も世の中を知っていた。
父は少女に言った。
今までずっと探していたのだと。
母と結婚は出来ないが生活の保障はすると。
少女を養子にするのはこちらからの最大限の誠意と見て欲しいと。
それを承諾した少女はその日からお屋敷に住まう事になった。
容易されたのが部屋でなく家というだけでもう少女には冗談にしか聞こえなかった。
母と時折会う事が許された事もあり、少女の不満なんてない日々が始まった。
沢山の家庭教師が付いて、沢山の知識を得て、学ぶ事が楽しくて・・・いつか母と暮らせるような職に付くのが少女の夢となった。
母の年収よりも多い小遣いを殆ど貯金しつつ、遊ぶという事も学んだ。
どう遊べばいいのか分からなかった少女だったが、屋敷の衛星放送に出ていた一つの番組に夢中になって以来、その番組に出てくる主人公「ごっこ」をして遊ぶようにもなった。
恥ずかしいから屋敷の使用人達が寝静まった夜にこっそりとだったが、とても楽しくて止められなかった。
少女にとっての問題らしい問題と言えば、友達がいない事くらい。
それでも寂しいという程ではなかった。
母がいた。
寂しくなれば母に会いにいけた。
でも、そう長くそんな幸せは続かなかった。
母が死んだと知らせを受けたのは屋敷で生活するようになってから二年程経った頃だった。
若い頃からの無理が祟ったのだと医者は少女に告げた。
一ヶ月は泣き伏したかもしれない。
だが、いつまでも泣いていては母に申し訳ないと少女は泣くのを止めた。
少女の未来はもう心の中で決まっていた。
いつか、母のような人間を出さない為に働く人間になろうと。
けれど、その夢は呆気なく壊れた。
それは少女が自分の学んでいるものに疑問を持った事に始まる。
貞淑な妻として。
いつも学んでいるとそんな言葉を聞いた。
よく耳にした言葉に違和感を覚えて、ふと家庭教師達に聞いた。
自分は将来何になるべきかと。
教師達は口を揃えた。
良き妻になるべきだと。
(私は・・・・ただの・・・)
少女は答えを知りたかった。
だから、屋敷を訪問した父にそれとなく「とある願い」を頼んで反応を伺った。
学校に行きたいというありふれた願いだった。
しかし、その願いに対して父の態度は冷たく一変した。
その時点で少女は全て納得した気分となった。
自分が何の為に育てられているのかを察した。
それから少女は父を観察するようになった。
表面上は何も変わらないよう装いながら。
やがて、父の隙を付いて少女は情報を集めた。
政略結婚の道具に使われるなら、その相手くらいは知っておきたかった。
カーストの元では同じヴァルナの人間としか結婚できない。
それらしい情報を見つければ、相手くらいは特定できるはずと少女は・・・訪問していた父の端末を覗き見る事に成功し、現実を知った。
(・・・私は・・・本当に・・・道具だった・・・)
そこには信じられないような内容が書き込まれていた。
(その日から・・・眠るのも怖くなって・・・何も手に付かなくて・・・)
震える毎日が続いた。
しかし、それでいいわけが無かった。
母はこんな時、どうするだろうか。
そう考えたのは一度や二度ではきかない。
幾度も幾度も少女は考えた。
これからどうするべきなのかと。
自分はどうすればいいのだろうかと。
(答えなんて・・・一つしかなくて・・・)
少女は逃げる事にした。
何もかもから逃げる事にした。
黙って運命を待っている事なんて出来なかった。
溜めた小遣いを片手にして。
裕福そうに見えないよう服まで買い込んで。
少女は屋敷から逃げる事にした。
もしも、掴まった時にはどうするのか全てを覚悟して、自分の足で旅に出た。
でも、世界は少女の想像なんて超えていた。
逃げる方法まで考えていた少女は自分が逃げられるような立場ではないのだと理解した。
一人で逃げて、暴漢に襲われそうになって、一人で逃げて、宿も取れなくて、一人で逃げて、国境なんて遠過ぎて、疲れて、疲れて、疲れて。
(誰もが追ってくる気がして・・・)
少女を追う人間達は確かにいて、怖くて、懸命に走って、逃げ続けて、夜も眠れなくなって、誰もいない場所を見つけては昼に少しずつ眠って・・・。
(いつの間にか・・・あそこにいた・・・)
もう限界なのだと何となく少女は自分の体調を理解していた。
だからなのかもしれない。
当ても無く逃げていたと思っていたのに・・・いつの間にか・・・とても行きたかったイベント会場の前にいた。
(楽しかった・・・)
イベントは開かれていなかったけれど。
きっと、母が死んでから一番楽しかった。
「ようやく見つけました。お嬢様」
前を見ていなかったせいで少女は角の先にいた誰かにぶつかっていた。
「ぁ・・・ぅ・・・?!」
干上がった喉が唾を飲み込む。
小雨が振り出していた。
その濡れた路地に優しそうな顔の男が、少女の家庭教師の一人がいた。
「さぁ、帰りましょう。旦那様がお待ちです」
「ぃ・・・ぃや・・・」
首を横に振って、思わず後ろに下がった少女は懐にあったものを取り出して首に当てた。
「来たら・・・死にます!!!」
「おやおや。これは困った・・・」
本当に困ったような仕草で頭に手を当てた男が腰から黒光りするものを取り出す。
「―――?!」
「死ぬ覚悟があるなら受けてみますか?」
いつも優しかった家庭教師の顔で少女に男が笑う。
少女の中で迷いが生じた。
その一瞬を男は見逃さず撃った。
しかし、撃たれたのは足。
血すら出ない。
ただ、銃の先から飛び出した小さなパットと細い糸から電流が奔った。
ビクン。
刹那、痙攣した足が縺れて少女が倒れ込む。
「―――ぁ?!」
『目標を確保。各班はその場で待機。車両を回せ』
少女の瞳に涙が滲む。
声すら喉の筋肉が引き攣って震えた。
「これも国の為です」
少女は引き攣り動きの鈍い首を横に振る。
「貴女の半分はアチュートだが、貴女の半分はブラフミンだ。外国人とはいえ、将来の皇帝となる『かもしれない』者には丁度いいでしょう。そう嫌がる事もないのでは?」
本気で男の瞳には理解できなさそうな色が浮かんでいた。
それを見て少女は「ああ」と理解する。
【彼】に語った夢は未だこの地では夢にしか過ぎないのだろうと。
*
【インドと中国は基本的に犬猿の仲で過ごしてきた。世界第一位と二位の人口を抱えてるんだ。そりゃ衝突もするだろうって話は表向き。ただ仲が悪いだけじゃない。経済と貿易では密接な関係があった】
「過去形なんだな」
【あの隕石事件以降、中国では軍閥が各所に税関を設けた。それが近頃の中国とインドの貿易を阻害する要因になっててね。結局、貿易額は過去の三十分の一にまで縮小した。それでも嘗ての条約は軍閥の一部が引き継いでて相互不可侵てのが結ばれたままだったのさ】
「それが『平和五原則(パンチャ・シーラ)』って奴なのか?」
【そう、それが『中印両国の中国チベット地方とインドとの間の通商と交通に関する協定』の主な内容だ。けれど、此処に来て中国の態度は硬化した。そして、あの騒ぎだ。日本との関係を悪化させた軍閥連合内部でどうやら拡大主義が承認されたらしくてね。国境を接してる国々には今物凄い勢いで軍が放出した武器を手にした武装移民が流入してる】
「・・・まだ戦争状態にはなってないって話じゃなかったか?」
【表向きはね。でも、実際には低強度の紛争地帯となってる。あの最後の局面でGIO側の衛星支配の力が一瞬あちら側に渡ったのは話したと思うけど、それで国境監視用衛星が軒並み妨害・撹乱されて建て直しには後二ヶ月くらい掛かる。その間に今まで国内で鬱屈した生活を強いられていた国民に武器を与えて国境を開放すれば・・・後は分かるよね?】
「中国が戦争を仕掛けたんじゃない。国民が難民として押し寄せているだけだって言いたいんだろ?」
【正解。さぁ、此処からが本題だ。そんな詭弁で一番問題になるのが軍閥内部で今までインドを押さえていた一派閥。このままでは自分達の支配地域が戦争状態に突入してもおかしくない。インドはあの隕石事件以降穏健派が大量に死んでいて残ってるのは強硬派が主流。此処で国境に一億以上の難民が押し寄せれば・・・他の国々が何とか自重していた『開戦』って火種が発火する】
「つまり?」
【その軍閥に上手い事考えた奴がいたのさ。この状況をどうにかして自分達の利益にできないかって。そこで誰かが閃いたんだろうね。武器を供給しているものの国際社会に対しての言い訳で兵隊は動かせない。難民による戦争を掌握するのは難しい。なら、逆の側に立てばいいんだってね】
「ピンチがチャンスになるタネは?」
【国土割譲。そして、軍閥連合の殆どをインドを主力とした国連軍が破った後、占領・独立に際して樹立される新政権の主要ポスト】
「どうしてこう売国奴ってのは何処にでも湧くんだ?」
【僕に言われても・・・そして、その最初の段階を踏む為には邪魔な条約があるわけだ。それが『平和五原則(パンチャ・シーラ)』なのさ】
「それでどうしてあの子が関わってくる?」
【自国民の鎮圧と他の軍閥の崩壊後、当事者の癖に何食わぬ顔で『反省した! これからは友好を結ぼう』なんて言う為には決定的な象徴と繋がりが必要になる。だから、現在インドの上院(ラージヤ・サバー)を仕切ってる一番上の人間に軍閥側が打診したのさ。『嘗ての皇帝の血筋を確保した。これに見合う婚姻相手を』と】
「嘘みたいなホントの話か?」
【ああ、インド側からすれば帝政が復活した時、自分達が政治に口出しできる環境を得られるなら、万々歳だろう? それでその花嫁に・・・あの子が選ばれた。その『結納金(ダウリー)』として密約は果たされるわけだ。平和の条約は誰にも知られない内にこっそりと破棄される事になるだろうね】
「つまり、戦争後・・・統治の道具にされるのか?」
【いや、その前に軍閥側へ引き渡されるらしい。要は約束の手形なんだよ。もし相手が約束を違えなければ、あの子は生きて戦後最大の婚姻を果たす。しかし、戦争であの子が死ぬような事があれば、約束は無しにして他国に中国は占領されたまま消え去る。あの子を囲って生き残れば、その軍閥は一人勝ちできるって寸法さ】
「・・・外道め・・・」
【これが日本にとって朗報だってのは理解できるはずだ。第二次日中戦争は回避される。いや、もし軍閥連合が何とかまとまって戦争を始めて継続できても核を失った以上、抑止力は無い。西からインド、南からASEAN、東から日本と亜米利加、北から露西亜と囲い込まれて戦争は長期化する前に終わると僕は予想するよ】
「そうか」
始動するNDが全身の筋肉から疲労を取り去り、酸素を取り込ませ始めた。
【軍閥連合はもう互いに誰かが裏切っているんじゃないかと疑心暗鬼に陥り始めてる。此処で連合の繋がりを瓦解させる事ができれば、当分日本は安泰と考えていい】
「だから」
躍動する全身から叩き出される速度は人間を越えていく。
「見逃せってのか?」
【茨の道という事を覚えておくといいって話だよ。この話にそれ以上の意味は無い】
二キロ先。
その背中を捉えて、速度が増す。
「オレには誰も彼も子供を寄って集って道具にしてるようにしか見えない。密約の手形にするとか。上手く行けば日本が平和になるとか」
着ぐるみの中。
唇の端が吊り上げられる。
「今のオレには関係ないな」
【言い切るね】
「ああ、何故なら今のオレは」
短い足が思い切り跳んだ。
「ただのアニメイベントの毒舌マスコットキャラだ!!!」
少女の傍に降り立って、青年は思う。
どんな理由があるにしろ。
どんな利益があるにしろ。
子供から未来を奪う人間におもねたくはない。
だから、少女を安心させた後。
目の前の、周囲にいる、全ての追跡者達に青年は言った。
「掛かって来い。お前らに日本のANIMEって奴を教育してやる」
クイクイとヒレみたいな手で挑発した青年に男達が四方八方から突撃し、群がった。
その日、襲い掛かった男達は一様に己の上司へこう報告する事となった。
『信じてくれ!? 【ヒランヤちゃん】は・・・カンフーマスターだったんだ!!?』
カウルを追う部隊の人員が全て入れ替えられ再編成されるのはそれから数時間後の事だった。
惹かれ合うように蠢く者達がいる。
陰謀と言う名の傲慢に導かれて。
弱き者は怒り。
強き者は嘆く。
第四十三話「少女達の軌道」
その道程に必要なのは安き友か。
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第四十三話 少女達の軌道
第四十三話 少女達の軌道
僕は社会の屑だ。
だから、屑のやり口は知ってる。
【また、お前がやったのか!? これからはもうお前には任せんからな!? 分かったか!!】
殴られたものの、違うと言ったところで誰が信じるわけも無い。
教師はスタスタと歩き去る。
殴った事が周囲に注目される前に消えたかったのだろう。
クスクスと嗤う一部の生徒達の仕業だと言ったところで口裏を合わせた連中に敵うはずもない。
とりあえず放課後はすぐ学校を出るように心がける事にした。
追い討ちを掛けようとする下種がきっといるだろうから。
学校というシステムはよく出来ている。
社会の縮図とはよく言ったものだ。
確かに下種が蔓延る社会を端的に現している。
それはきっと間違いじゃない。
社会は厳しいなんて大人の代表面をした教師や親は言うのだろうが、弱いもの虐めが社会を回す歯車なのだと潤滑油なのだと声高に言わないだけで体にその縮図を叩き込むのが学校だ。
いつの間にか学校からは遠ざかり、いつの間にか夜になっていた。
帰らざるを得ない。
養われている以上親に心配を掛けては文句が飛んでくる。
家は小さな団地の一角。
七階の13号室。
帰ると親がいた。
【あら、帰ったの? とっとと夕飯片付けて頂戴」
どうやら文句を言われる程の時間では無かったらしい。
ガチャリと後ろでドアノブが回る。
すると親の態度はガラリと変わった。
【あ、マコトちゃん帰ってきたみたいね。何ボサッとつっ立っんてんのよ。邪魔でしょ!?】
そそくさと靴を脱いで食卓に付く。
後ろではテンションの高い声がキィキィと鳴っている。
【あら、そうなの!? まぁ!? ホント、何処かの誰かさんとは違うわね~~】
嫌味のつもりすらない賞賛は他者を貶して行われるべきなのだろうか。
だが、それを指摘したところで働いてもいないあんたに何か言われる筋合いはないとキレるのがオチだろう。
【今、夕飯作るからちょっと待っててね】
イソイソと料理し始める親の背中は嬉々としている。
ぼんやり食べずに料理している背中を見ていると弟が反対側の席に付いた。
【ほら、ちゃっちゃと食べなさい!? 今、料理出すんだから!】
出来あいのパックされた惣菜と冷や飯をモソモソ咀嚼する。
希望と絶望の明暗はクッキリと食卓の左右で分かれている。
一族希望の星と謳われる弟に対して兄は役立たずの烙印を押された日陰者。
別に対して感慨は無いが、明らかな優劣を付けられるのは疲労せざるを得ない。
奨学生として高校に入った弟に比べれば、愚劣な兄に構う暇など無いと親の背中は暗に語っている。
ごちそうさま。
そう呟いてパックをゴミ箱に食器を流しへ盛っていく。
丁度出来上がった料理とは入れ違いに台所に立った時、背中から「早く洗っちゃいなさい」との声。
あまり洗剤で手を穢すのは好きではない。
昔からアトピーが酷いし、洗剤とは相性が良くない。
それは知っているはずだったが、親にとっては些細なものなのかもしれない。
【あ、それと近所からも言われるんだから、さっさと就職決めてきて頂戴よ! 働き口一つ見つけられないんじゃ良い笑い者なんだから。見付からなかったなんていい訳聞きたくないからね?!】
食事中に背中越しで語るべき事柄ではないはずだったが、どうでもいい事柄をとやかく話し合う気は毛頭ないのだろう。
軽く頷いてから部屋に戻る。
随分と薄暗い部屋の中。
何となく虚しくなって机の棚から一冊アルバムを取り出す。
開いたアルバムには過去の平穏だった日々が載っていた。
弟が親にとって生きがいになる前。
まだ平等に過ごしていた頃。
まだ自分の顔には笑顔があった。
【あ、それとあんた!! 学校から連絡あったけど、謝ったんだからね!!? 何したか知らないけど、家に迷惑掛けるのだけは止めて頂戴!! マコトちゃんの将来にだって関わってくるんだから!!】
声を抑えているとはいえ、それでも怒気が伝わってくる。
学校への『出頭』は拒否したらしい。
一々、こんな屑に構ってられないという本音が透けて見える。
もう両親の期待は弟に掛かっているし、冷たい視線しか向けてこない。
そんな二親であるものの、養ってもらっている以上は不満など口に出せるはずもない。
片や成績も振るわず進学もせず働く事を強いられる兄。
片や成績優秀にして文武両道を得意とする有名公立志望の弟。
どちらが人に良く思われるのかは理解している。
だが、居場所がないのは酷い話ではないか。
しかし、そんな愚痴を聞かそうものなら親はキレるだろう。
誰が養ってやっていると思っている。
働いた事もない子供は黙っていろ。
少しは弟を見習ったらどうだ。
そんな言葉が返ってくると知ってから反論も議論もする気は失せた。
昔は多少慕ってくれていた感のある弟も目に見えて自分より優秀ではない人間を見下す態度が酷くなっている。
品行方正で通っている学校でも何処か能力が劣っている奴に向ける視線は冷たい。
逆にどんなに品位の無い相手だろうと目上の相手や強者に対しては従順で覚えがめでたい。
きっと社会に出たなら出世するタイプだろう。
居場所の無い家に長居は無用。
すぐにコンビニ言ってくると言い添えて何か言われる前に街へと繰り出した。
何かが決定的に壊れたのはそう遠い日ではない。
二人の人間が同時に同じ病に倒れ、その際にケガをした衰弱の激しい弟を救う為には珍しい血液型で同様の型を持っている兄から輸血しなければ助からないと医者は言ったらしい。
その兄は血など抜かれようものなら死ぬかもしれない状況。
だが、両親の言葉に躊躇など無かった。
意識の霞む最中で両親は言った。
どうかお願いします先生と。
迷う事など無かったのだろう。
危険を承知で行いますかと言われたのに躊躇など無かったのだろう。
それはとても正しいがとても悲しい言葉だった。
生き残るなら優秀な方を選ぶ。
そう暗に言ったのだから。
【ああ、神様良かった】
医者がすぐに戻ってくると言い添えてその場を後にした時、そう親は言った。
助かるのを喜ぶ声。
だが、見捨てる事は厭わない声。
表側しか見ていなければ、その声の後ろにある下劣さは分からない。
結局、二人同時に回復して事なきを得たものの、これが最後だと聞かずにはいられなかった。
何を聞いたのか正確には覚えていない。
ただ、言われた事だけは覚えている。
【何処で育て方を間違えたのかしらね】
まるで拗ねる子供のような声で、苦々しい顔で、そう言われては何も言い返せはしない。
か弱い弟の為に何かしたいと思うのが兄じゃないのかとそう聞き返された時は腹すら立たなかった。
弱さなんて言葉で糊塗された中身を知っている身からすれば、吐き気がした。
【ちょっと、君】
その声には振り向かない。
たぶん警官が一人。
気付かないフリをしてコンビニへと早足に入る。
どんな横暴な警官もコンビニの中にまで押しかけて職質しようとは思わない。
人の目がある場所で横暴な行為をする事はない。
嘗て、横暴な警官に補導された事を忘れはしない。
親の答えに疲れ、繰り出した先で警官は容赦なく追い討ちを掛けてきた。
怒りすら湧かなかった。
警官には警官の事情があるのだろうから。
だが、明らかに自分よりも柄の悪い男達が自分の近くにいたというのに声も掛けないのはどうかと思っただけだ。
コンビニで数時間も粘られたら巡回中の警官はの場を離れないわけがない。
獲物が誰でもいいなら点数を稼ぐ為に他の誰かを漁るだろう。
警察の傾向は明確だ。
性質の悪い者よりも目先にいる怪しいとか暗いとか如何にも警察にビビリそうな人間に声を掛ける。
明確に観察すれば分かる事だ。
怪しいものに職質は掛けても、怖いものには声を掛けない。
真理だろう。
警官の影が消えたところで百円の品をレジに持っていき、そそくさとその場を後にする。
繁華街方面には近づかないよう気をつけながら警察をよく見かける場所を避けて移動する。
しかし、そんな事は警察が嫌いな人間なら考え付く事で道に補導確実そうな風体の若年者が増えていく。
そして、すぐにいつもの如く絡まれた。
問答無用で引きずり込まれ、殴られ、財布の中身を漁られて、何も入っていないのかよと捨て台詞を吐かれた挙句に路地奥へと消えていく。
今日も酷い目に会ったと溜息を吐いた。
ハズレに構っている暇はない。
アタリを引かなければならない。
とりあえず、そのまま周辺の人気が無さそうな場所をうろつく事にした。
約四十分の散歩コース。
自分が好みそうな場所をフラフラしながら周囲に気を配っていると声が聞こえた。
とても僅かな声は若い女のものらしく。
怯えている様子だった。
何をしているのかと声のした方角に向う。
約二キロ先の廃ビルだった。
鍵が掛けられているはずのドアは揺ら揺らと風に吹かれて開いていた。
内部に侵入すると警報装置も切られているらしく。
まったく問題なく現場へと近づけた。
声は一階からのものらしい。
二階まで吹き抜けになっているエントランスが見えたので二階に上がってこっそりと一階を覗き見る。
「止めて下さい?!」
下卑た声が幾つか重なる。
これが所謂暴行の現場というものなのだろう。
未だ触られていないようだったが、不良っぽいグループはニタニタと怯える子羊を見て嗤っている。
よく見れば、グループのほぼ全員があの少年が言っていた通り『モドキ』だった。
暗い室内にも関わらず夜目が利いているらしく少女の姿をしっかりと捉えている。
他にも肉体の幾つかの部分が一般人よりも僅か盛り上がっている。
決して普通の人間には分からないだろう些細な事だったが、同じような人間からすれば一目瞭然。
盛り上がり方は個々人でバラバラなものの、一部分が強化されたらしい。
「や、止めて・・・」
まったく一部分が強化されたというよりはただ単に下半身の欲望だけが強化されたのではないかと疑う。
呆れるものの、そのまま見ているわけにもいかない。
そっと袖に仕込んでいるソレを手袋越しで指に挟んで関節の力だけで投擲する。
空を切るソレは移動中ただの針状の塊に過ぎない。
「じゃ、お楽しみタイムと行きますか♪」
過ぎないが、敏感な鼻に触れた瞬間に展開し、通り抜け、元に戻った。
ポロンと今にも手を掛けそうだった男の鼻が落ちる。
何かが落ちた事に気付いた男は床にあるものを摘み上げ、愚鈍にも程がある感覚をようやく自覚したらしかった。
「ひ、ひぁあああああああああああああ?!!!」
思わず後ろに倒れこんだ男の手からポロリと鼻が落ちた。
手元に残っているソレを次々に投擲する。
男達は体の一部を削がれて悲鳴を上げ蹲る。
少女は何やらその凄絶な光景にトラウマを作った様子で震えながら立ち上がり、駆け出した。
微妙に人助けっぽい事をしてしまったものの、別にそれが目的ではない。
結局、今日も空振り。
得物をお手製のリールで巻き上げる。
作業は単純で一センチ程のリールのボタンを押すだけ。
即座に反応したリールはソレの尻に付いている二十メートル程の糸を五秒で回収した。
そのままその場を立ち去り、誰かに見付かる前に元来た道に向う。
手の中にすっぽりと納まるソレと一式を袖に仕込み直しながら、そろそろ帰るかどうか悩んだ。
あまり長い夜は禁物。
だが、アタリを引かない事にはたぶん自分の命は無い。
あの日出会った少年の事を思い出す。
少年は言った。
助かりたいなら三人アタリを見つけろと。
たぶん、戦ったところで少年には勝てない。
それが本能的に分かってしまっていて、そうするしかないのだと理解している。
気分が落ち込んでくるものの、このまま夜の街を彷徨っては要らない情報を残す事にもなりかねない。
「・・・・・・」
いつもの帰り道へ辿り着くまでもう少し。
そんな時だった。
ガチャリと何かが背中に押し当てられた。
「動かないで」
心臓が飛び出るかと思った。
「貴方の武器をゆっくりと置きなさい。妙な真似をした時点で命は無いわよ」
とりあえず速攻で殺される事は無さそうだと安堵するものの、相手がどういう類の人間か分からない。
袖の中のソレをゆっくりとした動作で地面に転がす。
無論、リールだけを・・・。
「糸巻き? こんなので貴方さっきみたいな事をしたの?」
用心深い。
すぐに凶器へ意識を向けるなり飛びつくなりしてくれるのなら、相手によってはここからでも挽回できるのだが、そう上手く事は運ばないらしい。
「何処の漫画よ・・・糸が特別製って事かしら?」
どうやら呆れているらしい。
確かに糸を使って戦う漫画の人間はいる。
だが、実際には重さの無い糸で即座に何かを切断するなんて事はできない。
もし、そうするとなると糸の先に錘でも括り付けないといけなくなるだろう。
ガシャンと地面に何かが放られる。
手錠だった。
「それを自分で付けて。そうしたら、ゆっくり立ち上がってこっちを見なさい」
酷い話だ。
しかし、飲まざるを得ない。
言われた通りに手錠を嵌めた後、ゆっくりと立ち上がり、後ろを向いた。
「あ・・・」
何てこったと間抜けな自分を責めたくなる。
其処に居たのはついさっき自分が助けたはずの少女だった。
ポニーテールの制服姿。
かなり可愛い。
清楚な感じがするものの、視線は鋭い。
どうやら嵌められてしまったらしい。
襲おうとしていた連中が仲間とは到底思えないから、こちらの出現を待っていたのかもしれない。
手には予測通りというかお約束通りというか拳銃が握られている。
「貴方が近頃世間を騒がせてる『EDGE』ね?」
声を録音されている可能性も考慮して黙ると少女が目を細める。
「そう、だんまりを決め込むわけね。いいわ・・・なら、今からする質問にイエスかノーで応えて」
答えを返さないのは理解しているのだろうが、こちらの表情から色々と読み取る事は出来る。
何が目的かは知らないものの、個人情報が流出した時点で人生オワタとなるのは目に見えている。
さて、どうするかと悩むより先に少女の声は続けた。
「貴方、近頃○○区に行った?」
まったく行った事の無い地域だった。
首を横に振る。
「じゃあ、貴方は近頃の犯行現場でこの人を見た事ある?」
少女が用心深く写真をこちらに向ける。
見た事も無い顔の男だった。
無論、顔を見る前に鼻を削ぎ落としたかもしれないので断定は出来ない。
首を横に振ると少女の視線は一段を険しくなる。
「本当に? 本当に知らないの?」
ブンブンと首を横に振る。
「自分が殺した人間の顔なんて覚えてないってわけ?」
蔑むような表情に背筋が凍り付く。
殺る気満々。
いつ撃たれてもおかしくない。
だが、そう思う一方で『その誤解はいつか受けると思っていた』のは事実であり、一応言っておくべきかと口を開く。
この際、声を録音されようが構わなかった。
少なくともやっていないものはやっていない。
何となく胸が痛かった。
人に信じて貰えないのはいつもの事だが、人を傷つけてまで嘘を言うつもりはない。
もしも、この行為で誰かを殺したならば、いつか裁判になったら殺したと認めようと思っていたし、殺していないならば誰が何と言おうと反論すると決めていた。
「僕は例えどんな人間だろうと殺してない。僕が標的にしたのは明らかに他者を害してるのを見かけた不良だけだ」
驚いた様子で少女はこちらの反論を聞いていた。
「それを信じると思うの? この通り魔!!」
「僕が通り魔なのは否定しない。犯罪を犯してるって自覚もある。でも、僕が攻撃した連中を調べてみるといい。大概が手の付けられない下種な連中ばかりのはずだし、病院に運ばれた後、警察に余罪を追及されてる」
「正義の味方気取り!? それで人も殺すわけね!!」
「あくまで警察の目を連中に向けさせるのが目的であって、それ以外の目的で誰かを攻撃したりはしない。今までも連中の被害者がいる場面で攻撃を仕掛けてきた。それ以外で誰かを攻撃した事はない」
「あんたの手口そっくりな傷で死んだ人間がいるのよ!!」
激昂する少女はかなり震えていた。
銃口もブレている。
しかし、それでも近過ぎた。
銃を避けるにはもっと致命的な隙を生まなければならない。
「それは知ってる。そのニュースは見たけど新聞は読んでない。ちなみにその日に何をしてたかと聞かれれば、ずっと本屋で立ち読みしてたと答える」
「この人殺し!!」
少女が目を瞑る。
そして、撃った。
咄嗟に手袋をしていない方でソレを掴んで展開する。
ガキュッと銃弾ごとソレがめり込んでくる感覚。
しかし、何とかソレが一発目を止めた。
手を貫通しなかったのは幸い。
目を瞑った少女が再び目を開けて再度銃弾を放つより先に懐へ入る。
両拳を鳩尾辺りに打ち込んだ。
「―――?!!」
ドサリと少女が崩れ落ちる。
人生で初めて銃に撃たれるという経験をしたわけだが、足を震わせている暇はない。
そのままでは警察がやってくる。
ソレの破片を不自由な手で拾い集めて、銃を懐にしまい、少女を担いだ。
「死ぬ程痛い・・・」
ポタポタと血が地面に落ちた。
「やれやれ」
まだまだ家に帰れそうもなかった。
*
秋の夜空には星を探すのが良い。
そう言われた少女は暇潰し用の正座盤を片手に空を眺めていた。
夏の気配が去った空気には澄んだものがある。
「此処・・・ホクトシチセイ・・・」
盤をなぞりながら次々に正座を発見していく中華少女『小虎(シャオフウ)』は星の不思議と美しさに目が輝かせ、幼子の如く無心で星座を見続けた。
懐の無線が鳴る。
合図に少し残念そうな顔をした虎は傍らに置かれていた自分の身長に届きそうな長さの鉄の固まりをゆっくりと構えた。
骨董品に等しいボルトアクション式のライフルだった。
今の時代、プラスチックによる軽量化や機械による支援は当たり前。
競技用ですら時代の流れを取り入れているというのに少女の持つ銃(それ)は無骨で無機質な冷たい鋼だけで出来ている。
狙撃手の相棒である『観測手(スポッター)』もいない。
狙撃するにしては何も用意されていない環境と言っていいが、少女は何も気にしてはいなかった。
そもそもが観測機器や正規の銃とは無縁な場所で生きてきた。
頼りになるのはいつだろうと五感。
闇夜の先を除くには暗視装置の一つもあればいい。
そして、その暗視装置は少女の片目に装備されている。
轟々と海風が鳴る場所で虎は一人孤独な作業を始めた。
狙撃体勢を取り、ライフルを固定し、照準し、目標が移動してくるのを待つ。
周囲にある白い建屋群が生み出す複雑な風を読みながら銃口を向ける先を調整する。
距離700メートル。
遠いが撃てない距離でもない。
己の鼓動すら静まったような錯覚を覚えながら、目標が現れるのを待つ。
やがて、スコープの中にある一本道の先から十数台のバンが走ってくる。
黒塗りのバンは如何にも怪しい。
力む筋肉は信用せず。
骨を使って固定したライフルの引き金を虎はそっと引いた。
火薬が弾け、燃焼し、ガスが発生。
押し出された弾丸が風の煽りを受けて角度を微妙に変化させながら宙を飛び、着弾した。
一発目が先頭車両至近、左脇の林へ消える。
「外した・・・」
何となく腕が落ちているのは分かっていたものの、ちょっとショックな気分で虎が次弾を装填し、今度は前よりも近い車両を狙い撃つ。
次の弾は吸い込まれるようにボンネットに着弾し、内部のエンジンに潜り込んだ。
先頭車両がスリップしながらエンジンを炎上させる。
背後の三台が巻き込まれ横転、残りの車両が急ブレーキを掛けた。
車両から次々に目出し帽姿の男達が出てくる。
辺りを警戒しながら、先頭車両から何とか這い出た者が何かを叫んだ。
次々に止まった車のボンネットへ弾丸が着弾し、炎に包まれる。
男達は焦った様子で横転した車両内部から何かを取り出して退避していく。
その様子をスコープ越しに余すところなく見ていた虎は男達の何人かを撃つべきだと判断したが、事前に人殺しはダメと言われていた事も手伝って、自制した。
自分の役目は足止め。
後は自分が守るべき人がどうにかする。
今からでも現場に駆けつけたい衝動に駆られながら、虎はスコープに映った背中へ声援を送るだけに留めた。
「がんばって・・・ソラ」
道路の真ん中に一人ポツンと少女が立っている。
原子炉建屋屋上からの声が聞こえるはずもないが、金色の髪を揺らした少女は緩く笑みを浮かべた。
*
そもそもの始まりは第二GAME終了後。
再び日常へと戻った外字久重へ大きな仕事が舞い込んだ事に始まる。
GIOの第三GAMEは数ヵ月後。
それまではいつも通りの生活に戻る事ができるとGIO側から通達を受けたチーム天雨の活動は休止していた。
日本と中国軍閥が関係を悪化させ、いつ戦端が開かれてもおかしくないという状況にはなっていたものの、青年の周りにはあまり関係なかった。
何も世界の未来を占なう戦いに参加するだけが仕事でもない。
生きていくには金が必要で、その金を手に入れる為には働かなければならない。
ならば、何でも屋の仕事に休みはない。
最初は負傷した肩の治療に専念していた久重だったが、ソラと虎の献身的な介護やNDによる治療で傷は数日で完治、身体的には何の問題も無くなっていた。
当初、新しい仕事の話を青年に持ってきたアズはこれから居候二人を養うなら高収入が見込める仕事は外さない方がいいとその海外での仕事を薦めた。
二人の少女はそれを手伝う気満々だったが、生憎と一人で海外という特殊な条件のもので付いていく事は出来ないと判明。
それでも付いていこうとした二人に対してアズは久重に本来回すはずだった仕事を宛がう事で自分の食い扶持を稼げばいいと持ちかけたが、本来仕事を回されるはずだった本人は断固拒否の姿勢を取った。
だが、子供は大人しく養われてなさいとの過保護な大人全開の青年に・・・少女達は首を立てには振らなかった。
話し合いの最中。
自分の仕事は他人に誇れるようなものではないし、危険もあるし、時には人を傷つけるものだと自嘲した青年に二人の少女はこう力説した。
命を救い、心を救ってくれた。
その人の仕事が誇れないはずはないと。
その人の為なら自分達は危険も他者を傷つける事も厭ったりしないと。
本当は・・・どうやっても裏の世界から抜け出せない少女達にそんな仕事をさせようと青年は思っていなかった。
しかし、自分などよりも余程に逞しい少女達の心からの声を否定できはしなかった。
だから、ただ一言「分かった」と承諾した。
そんなやり取りを見ていたアズは青年の前で少女達に新しい仕事を紹介した。
それは『学校』で『普通』の『授業』を受けながら『長期的』に『とあるもの』を探す仕事。
青年は思ってもみなかった言葉に自分の雇い主を見て頭を下げ。
『他にだって危険な仕事は押し付ける事になる』と雇い主は青年の頭を上げさせた。
それから少女達は大学教授の家に預けられながらも学校に通っている。
時には危険な仕事を請け負いながら。
原子力発電所へのテロ阻止なんて仕事をしながら。
『連中がやたら撃つ前に決着を付けようか』
イヤホン越しに聞こえてくる声にソラはテロリスト達へ突撃した。
気付いた男達が小銃を照り返す金色の少女へ向ける。
だが、遅い。
致命的なまでに速度が足りない。
テロリスト達がワンアクションしている間に少女はもう人間離れした動きで彼らの合間を駆け去っている。
星明かり以外、車から立ち上る炎だけが照らす世界に悲鳴すら響かない。
引き金に掛かっていた人差し指が捻じ曲がり、喉の内部をNDによって編まれた黒い布が塞いでいた。
【――――――!!!】
急激に酸素を奪われ、銃を取り落とす男達が痙攣しながら倒れていく。
口内へと侵入していたNDが窒息死する前に布を分解するものの、体中を黒い糸に絡め取られた男達は身動きすら許されずに転がった。
「・・・制圧完了」
『ご苦労様。警察が来る前に引き上げよう』
「うん」
ソラが撤収する準備を始めようとした瞬間だった。
『ご立派な事ね。人殺しなんていけませんってあいつに言われて守ってるわけ?』
突如として入ってきた通信に硬直したソラの背後から何かが横顔をすり抜け、正面から同様に何かが肩を掠るように背後へと突き抜けていく。
『へぇ、面白いじゃない。弾道を変えた?』
ソラが何を言われているのか気付いて、それが【自分の力】ではない事に愕然とする。
『まさか、今のを逸らすなんて・・・肩ぐらい持っていけるかと思ったのに残念』
『シャフ・・・』
同じ周波数でソラが話しかけた。
『一体どうやって逸らしたのか興味あるところだけど、今日は挨拶代わりよ』
『今まで、何してたの?』
『あんたに話す必要なんかないわ』
第二GAMEの最中に忽然と消えてしまった【連中】からの監視役である小豆色の外套を着込む少女。
人類を滅ぼすに足る病原体を幾つも保有する管理者(キャリアー)。
仕事で抜けますなんて電文をGAMEの終わった後に受け取ったチームからすれば、その動向が気になるのは必然だろう。
『何が目的?』
シャフが再び接触を試みてきた事がどういう意味を持つのか。
ソラには半分以上理解出来ていた。
『連中はこれから本格的に動き出す。だから、あんたが忘れないよう教えに来てやったのよ。どんな抵抗したところで無駄だって事をね』
『今のは?』
『オリジナルロットの解析は進んでる。あんたの通常防御機構を抜ける弾くらい幾ら連中が無能と言っても造れるわ。試作品だけど、完成すればイートモードも楽々貫通って話よ』
『どうして教えてくれるの?』
『これからあんたは私にぐっちゃぐちゃの顔であたしに許しを請うのよ。それが先に殺されてちゃ興ざめでしょ』
僅か唇を噛むソラにシャフがそっと絶望を告げる。
『全人員にM計画の中期計画書が告知されたわ』
『そんな!? あれは博士がいなかったら二十年以上掛かるって!?』
『【SE】の断片捜索は後回しなんじゃない? その前に【兵隊】の方がそろそろ完成する。【博士】が言ってた通りだとすれば、リミッターの掛かってるあんたの【D1】じゃまず無理ね』
その通信内容にソラが愕然とした顔で固まる。
『それと【連中】が慌てるような奴が此処(にほん)に来てる。聞いてるでしょ? 『あんた』に言ってるのよ。あんたの昔のご同類・・・随分と愉快な奴ばっかりみたいだけど、とんでもないわね。せいぜいこいつが巻き添えで死なないよう気を付けて・・・あたしの獲物なんだから』
『ああ、ご忠告どうも。シャフ嬢』
いきなり二人の通信に割り込んできたアズに驚いた様子もなく。
シャフの通信が途切れた。
『・・・アズ?』
『なんだい?』
ソラの不安そうな声にカラリとした声が答える。
『その・・・』
『気にしなくていい。こっちの事情は必ずこっちで片を付ける。君は君の身を第一に考えるべきだよ』
『うん・・・』
『―――ああ、今回すよ』
『?』
『ソラ』
『虎?』
『大丈夫・・・』
『あ・・・さっきの虎が?』
『狙撃手見つけた。間に合わなくて・・・ソラを撃った』
『え!?』
『ごめん・・・』
気落ちした声にソラが何と言っていいのか分からなくなる。
『ああ、ちょっと誤解があるようだから言っておくけど。神業だった・・・君が今無事なのは虎嬢のおかげだ』
『どういう事?虎』
虎が何かを言おうとするが、アズが割って入った。
『簡潔に言うと弾丸を弾丸で撃ち落そうとした』
『ふぇ!? 虎!?』
『ごめん・・・なさい』
驚いたソラに罪悪感に駆られた声が謝る。
『あ、別に責めてるわけじゃないから、その・・・』
『事実だけを言えば、それは失敗した。けど、弾丸が超至近で交差した瞬間に弾道が変わった』
『だから、シャフは・・・』
『ソラ・・・怒ってない?』
怯えた子供みたいな声。
これから怒られるかもしれないという不安に実を縮こまらせている図がすぐソラの脳裏に浮かんだ。
『うん。怒ってない』
『本当?』
『本当』
安堵したような溜息。
『ふふ。さ、それじゃ乱入者もあったけど、そろそろ帰ろう。さすがに警察が来たようだ』
二人のやり取りに微笑ましそうな笑い声が上がり、それと同時に二人にも遠方からのサイレンが聞こえ始めた。
『海上保安庁の巡視船が来る前にボートに集合。遅れたら置いていくからね♪』
二人の少女は次の瞬間には同時に頷いて走り出していた。
『ああ、そうそう。それから明後日にはあのお人よしが帰ってくるから、また忙しくなるよ』
『『?』』
『某国のお姫様に結婚を申し込まれたみたいでね』
『『?』』
『聴いてみるかい?』
二人がよく分からないという顔をしている間にも何やら通信に雑音が入り、すぐクリアーになる。
【本機はこれよりマダガスカル上空に入ります】
機内アナウンスに混じってスヤスヤと寝息が聞こえた。
【・・・ぁ・・・ん・・・】
それに混じって何やらもぞもぞと何かが動く音。
小さな鈴を鳴らすような声が微か英語を紡いだ。
【・・・ひーちゃんと結婚できたらいいのに・・・///】
高度一万二千メートル上空での呟きが白い着ぐるみに向けられているとは知らず。
日本の少女達は名状し難い顔で思った。
帰ってきたら青年に精一杯甘えようと。
一方、自分の一生の秘密になるべき呟きが聞かれているとも知らず。
褐色の肌の少女は貨物室の中、ひっそりと着ぐるみに抱き付いていた。
大国の寡兵は墓場より敵地を好み。
誇りの徒は牢獄より出でて大海に向う。
彼の地に断末魔が響く時。
災いは都市を呑み込んだ。
第四十四話「旗幟不在」
平和の祈りは無に帰して・・・。
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第四十四話 旗幟不在
第四十四話 旗幟不在
CIAは比較的新しい組織と言える。
そもそもの始まりが1900年代に前身の機関の改編で出来た集団であり、1990年代には多数のプロフェッショナルを抱えていた。
しかし、その栄耀に翳りが見え始めたのは2000年代初頭の事。
古参の人間が大勢辞める事になってからだ。
2005年までに約半数の古参者が消え、任務従事五年以内の者ばかりとなった。
経済活動を軸に諜報を始めたCIAの組織的性格は冷戦当時からすれば、変わっていったと言える。
裏の汚い仕事を軸にしていた組織が自国経済への貢献を第一義として動き出したとなれば、仕事の主内容は基本的に経済分野での諜報活動という形になった。
それは今までも行われてきた事だったが、より先鋭化した活動は他国から貪欲なまでに資源と資金を吸い上げる形で特化されていった。
それから数十年。
【黒い隕石】という人類規模の危機の後。
CIAは今まで培ってきた膨大な各分野へのネットワークを七割以上失った。
各国の諜報機関の活動も縮小され、相対的に影響力そのものの比は維持したものの、それでも嘗て程の力は無い組織が自国経済の建て直し工作で目指したのは古典的な目標だった。
植民地の開拓。
無論、公にはそう呼ばれないもののそうとしか思えないような条約や構想を巧みに疲弊した国々に仕掛け、富を吸い上げる機構を作り出したのは世界一有名な諜報機関の面目躍如だったかもしれない。
隕石落下から十数年後。
植民地政策復活の主な得物である日本という国で【工作担当次官(DDO)】へホットラインが繋がってしまうというのはある意味・・・奇跡。
CIAの裏方でも【汚い方】の末端だったオズにしてみれば、それは大事変そのものだ。
どうしてそんな大物がいきなり電話回線に割り込んできて高飛び用のチケットを購入しようとしていた自分に話しかけてくるのかと裏を勘ぐらずにはいられない。
こっそり集めていた上層部の人員データがこんなところで役に立つとはオズも思ってもいなかった。
普通の諜報員なら誰かも分からなかっただろう相手が話し始める。
【我々は四人まで捕捉した】
名乗りもしないフィクサーの話はこんな調子で始まった。
何の話かなんてオズに分かりはしない。
だが、そんな事に構わず声は続ける。
【大統領命令により、『半分』である我々は日本へ人員をこれ以上投入出来ない】
まったくオズは何を言っているのか理解はしていない。
【だが、君を追う『半分』に君は一切の情報を渡してはならない】
それでもその一言一句聞き逃さないよう脳裏に声を刻んでいく。
【『半分』は君の持つ五人目への手掛かりを狙っている】
知らない内に何に巻き込まれているのか。
唇の端を曲げつつオズはただ垂れ流される音声を聞き続けた。
【君の隠し口座の凍結は解除した。当分の活動資金は問題ないだろう】
ご丁寧な事だと唇の端が曲がる。
【新たな目標を与える】
「目標?」
思わず聞き返した声に当然の如く声は答えなかった。
【『亡霊の軍』(レギオン)から『ADET』の王子を取り返せ。奪取の後に再び連絡する】
「ADETだと・・・」
【二度と祖国の土を踏むな。それが君にとっての最善だ】
まったく何がどうなっているのか説明する気もないのだろう声が僅か躊躇ってから呟いた。
【・・・この状況を打破したいならば『AS』を頼りたまえ】
その名前が此処で出てくるとは考えもしなかったオズが思わず聞き返そうとして、声はそれを許さなかった。
【協定は未だ生きている】
プツンとそのまま電話が途切れる。
(分からない事だらけだが・・・)
オズが住んでいたアパートの住人、ASの手下である男の顔を思い出す。
(まずはあの男に接触するか)
周辺を少女達に囲まれ妙に身辺が騒がしい男。
外字久重。
(それにしてもまるで仕組まれてたような偶然。いや、どうだろうな・・・)
隣人であった久重をASとの太いパイプとして利用する事は一体誰の誘導だったのか。
自分を日本に招き入れた同業者の黒人を思い浮かべながらオズは必然というものを感じていた。
米国という機構の歯車から外れてすら、未だ何かの駒として動かされているような感覚が付きまとう。
(沖縄司令官の暗殺。奇襲してきた海兵隊。病原戦略兵器の情報。犯罪シンジケートADET。聖書の敵の名を冠する個人もしくは組織。天才フィクサー。日中近海事変。GIO。DDOの電話。CIAと半分)
身震いしたのは何も天候のせいだけではなかった。
(この日本で何が起きてやがる・・・何が・・・)
秋へと移り変わっていく空には雲。
オズはそのまま東京の雑踏へと紛れ込んでいった。
*
2000年代初頭から米軍には一つ大きなターニングポイントがあった。
それは所謂艦載レーザー砲の開発と言われている。
音速を超えるミサイルや戦闘機の配備は何も米国だけの特権ではなくなった戦場において艦を守るのが炸薬を使った兵器でなくなった事は大きな意義があった。
嘗て米国を悩ませた莫大な軍事費のコスト削減は成功したと言えるだろう。
型遅れの兵器を大量に海外へ輸出する事で莫大な富を得る一方、更新された兵器のローコスト・ローリスク化は米国の戦争スパンすらも塗り替えた。
膨大な金額に昇る兵器開発の経費は計上され続けているものの、それでも扱われる兵器のコスト削減はあらゆる面で米軍を身軽にした。
その先駆けとなったのが艦載レーザー砲の技術開発だった事は軍事マニア当たりなら知っている事実だ。
レーザーの飛び交う戦場が現実のものとなった後。
米軍の兵器開発は兵器の威力も然る事ながら兵器の運用コストにも大きな転換を迫った。
機械化された軍団がレーザーを放つ。
正に1900年代のSFは半分以上実現されたと言える。
先進国の艦載標準装備となったレーザー兵器は防御手段として飛躍的に進歩し、米軍の足場を支える基礎であり続けている。
故に日中近海事変で紆余曲折の後に米軍預かりとなった中国軍閥連合の空母四隻は米海軍関係者に衝撃的な反応を齎すには十分な威力を持っていた。
ギガフロート【ニライカナイ】内部の米軍基地エリア。
白衣を着た技術者達がズラリと並ぶ会議の席で沖縄米軍の最高司令官アラン・カーペンターは苦い顔をせざるを得なかった。
「つまり、だ。諸君はこう言いたいのか?」
ゴクリと誰かの唾を飲む音。
「現在のステイツの力ではあの空母に搭載されていた兵器に対抗できない、と」
白衣達の中から最も年嵩と見える男が立ち上がって頷いた。
「ええ、事実だけを申し上げます」
コホンと咳払いの音がやけに広く響く。
「あの空母に備え付けられていたレーザー艦載砲の威力は我が方の四倍の出力を備えています。これはつまり・・・我が方の艦船を遠方から一方的に狙い撃ちするだけの威力という事です」
シンと静まり返る会議室でアランは額を揉み解す。
「つまり、我々がもしも中国大陸に近づけば、どうなる?」
「非常に残念な事ですが、常に我が方の艦艇はレーザーの脅威に怯えねばなりません。このレベルの艦載砲が複数あるとは考えられませんが、主要都市・港湾には配備されていると見るべきです」
将官の一人がアランに見つめられ、慌てて立った。
「今朝、衛星にて確認を取りましたがそれらしいものが複数配備されているようです!!」
「強引な突破はお勧め出来ません。我が方の艦艇が全て沈む事にもなりかねません」
「敵レーザーの弱体化策は開発していたと記憶しているが・・・」
白衣の男が首を横に振る。
「今現在の代物では四倍の出力に対して防御機構は脆弱である事を否めません」
「空軍による沿岸部の空爆で強引に突破出来ないのかね?」
「その戦闘機がまずやられるでしょう。少なくとも無人機やミサイルだけでは・・・あちらも無人機や迎撃兵器は複数配備しているのはお分かりでしょう?」
「・・・海兵隊による隠密行動・・・強襲で設置された艦載砲を破壊、後に軍を進める。これしかないか」
アランが最も現実的な案を口にする。
その時だった。
不意に会議室のドアが開いた。
やってきた兵が敬礼の後にアランへと一つの封筒を差し出した。
本来なら会議室でそのような事は無い。
黒い封筒から一枚の紙を取り出して目を通したアランが紙を握り潰した。
「諸君。悪い知らせだ。軍閥内陸部で今議題に上がっていた艦載砲が量産されている」
会議室がざわめく。
「博士」
厳しい声に今まで喋っていた男が声を上ずらせる。
「は、はい。何でしょうか!?」
「現在の中国での電力事情を鑑みて、これらの艦載砲の運用限界はあると思うかね?」
「・・・現在、各軍閥の電力供給はほぼ全てが自然エネルギーからのものですので夜間ならば、このレベルのレーザー砲を無制限に乱射される事は無いかと」
「そうか。今日のところはこれで解散とする」
建設的な意見というよりは希望的な観測だけが流れたところで会議はお開きとなった。
MP(ミリタリーポリス)を引き連れながらアランは基地内部を進んでいく。
誰もが敬礼し、直立不動でやり過ごしていく様子にアランは何故か虚しさを覚えた。
如何に偉かろうと極東有事の際に何も出来なければ、無能の烙印は免れない。
その有事が実際に起こりつつあるというのに軍の進め方さえ、今は議論の段階だった。
米国が培ってきた軍のドクトリンは米国よりも優位な兵器を持つ国など想定していない。
常に最先端の兵器を生み出し続けている米国の技術力を上回る力なんてものと米国は相対した事がない。
戦略や戦術において失敗や敗北こそ重ねているものの、兵器という分野においては米国以上に進んだ国は過去も現在も無かったのだ。
そう、無かった。
無かったはずのものが現れたからこそ、沖縄という地でアランは苦悩している。
(これがたかだか日本の研究機関の人員一人が引き起こした事態とは・・・この国はあの第二次大戦からずっと我々に思いもよらないものを投げ掛ける)
戦争というものの一部を担う必然としてアランはそれなりの情報を得ている。
そして、その情報から自分達が本当は何を相手にしているのか一応は把握していた。
嘗て日本に存在した天雨機関という名の組織の残党が戦争に大きく関与している事はアランにも情報として伝わっている。
それを知っているだけでもアランは相当に米国の深遠を覗いている一人だろう。
[こんにちわ。司令官]
「!?」
考え事をしていたアランが角を曲がった先で思わず硬直する。
基地内部で聞くような類の声ではない甲高い響き。
それは少女特有の甘さを僅か含んでいる。
「君か。ソラ・フィーデ中佐」
[そんなに怖がらなくても噛み付いたりしませんよ]
薄く微笑んだ金色の髪の少女の瞳があまりにも輝いていて、心の内から今にも噴出しそうな恐怖心をアランが軍で培ってきた全てで持って飲み込む。
「こんな所で油を売っていていいのかね? 君達には待機が命じられているはずだが?」
[遊んでいた方が何かと褒められます]
「そうか。君達は通常の指揮系統には組み込まれていないから、そういう事もあるだろう」
[ええ、ですから、司令官の悩みの種を少しだけ解消してきました]
ニッコリと作り笑顔を浮かべたソラ・フィーデにアランが眉を顰める。
「なに?」
ブーブーとアランのポケットで端末が震えた。
「失礼」
断ってからアランが端末を確認する。
パスワードを打ち込んで、届いた情報を開いた瞬間、アランは目を疑った。
[どうかしましたか?]
相変わらず笑顔で訊いてくる少女にアランが視線を移す。
「これは・・・君の仕業か?!」
怒気を膨らませたアランにそれでも変わらぬ顔でソラ・フィーデが頷く。
[はい。軍閥連合のお偉方が揃って会合を開くって言うので北京で遊ばせてもらいました]
アランが内心凍りつきそうな心情のままデータを目で追った。
「半径数十キロ圏内の生物が中性子で全て死滅すると知っていて使ったのか!?」
[そんなに怒る理由が分かりません。軍閥連合が内密に用意していた最終兵器が【偶々、起爆してしまった】だけの事故ですよ? 自分達の不敵際で爆発させてしまったとあちら側も疑っていません]
「~~~~?!!」
サラリと言い切る少女にアランが思わず拳を握った。
[これで軍閥連合は大混乱でしょう。各軍閥のトップ交代で足並みが乱れれば、諜報活動も破壊工作もしやすくなる。本国の『半分』には塩を送る形になりましたが、北京からのルートを確保できたと考えれば安い犠牲です。司令官が日本と共に進めている何でしたか。人道回廊・・・そちらの広報にも使える状況では?]
「米国の意思に反しているとは思わなかったのかね。それ以前に君は核戦争の引き金を引いたのかもしれんのだぞ?」
[もしも汚染されるなら中国本土のみとなるでしょう。【極東衛星支配網(イースタン・サテライト・ネットワーク)】を手に入れ損ねたとはいえ、日本の危機に対してGIOの彼らは敏感です]
「犠牲者の数を何とも思わないのか・・・君は・・・」
[先日の失敗で我々の部隊は五人入れ替わりました。今日の成功で十人が入れ替わるでしょう。なら、敵が千人、万人、億人入れ替わっても大差ない。それが我々であり、そんな我々を未だに使い続けている米国の意思と判断します]
「まだ、敵と決まったわけではない」
[ええ、ステイツの敵となる前に軍閥連合は瓦解しますよ。これはとても喜ばしい事ですね。大統領にもご報告しなければ]
百万人単位の核による虐殺を行ったとは思えない心底の微笑みにアランが歯を噛み締めた。
ソラ・フィーデの笑みはまるで「今日の天気は晴れですね」と言っているような軽さだった。
[人類の総計で言えば、この程度は一年もあれば増えて埋まってしまう程度の数。でしょう? 司令官殿]
反駁しようとしたアランだったが、拳を握り締めるに止めた。
責めるべきは目の前の少女の形をしたモンスターではなく。
少女を生み出した者達だと内心の自制が辛うじて働いた。
「・・・・・・」
[これから先日捉えた捕虜の尋問がありますので。これで失礼します]
背を向けて去っていく小さな背中をアランは見えなくなるまで目で追っていた。
「司令官殿?」
MPが怪訝そうな顔で廊下の途中で立ち止まっているアランに声を掛けた。
「ああ、何でもない」
そのまま歩き出すアランにMPは今までの会話など無かったかのように付き従った。
(・・・亡霊の軍団・・・か・・・)
アランは何も聞かず何も見ず何一つとして気付いていないのだろうMP達の様子に僅か心を痛めた。
人間を一時的に停止させる技術。
それがどういう類のものかアランは知らない。
だが、それが人間の尊厳を根こそぎ踏み躙る為に使われているのは間違いなかった。
(偉大なる御方よ。我々はあなたの名の下にどうやら最悪の選択をしてしまったようです)
今も米軍の何処かで深遠から這いずり出す亡霊が蠢いている事をアランは胸に刻んだ。
いつか最後の審判の日に己を地獄に落とすよう懇願する為に・・・・・・。
*
「ふぁ~~~」
大きな欠伸が大部屋に木霊した。
「お頭! 何か歌でも歌いましょうか。それとも芸でも見せやしょうか!」
「黙っとけ」
「へい!」
無駄に活きの良い若い衆に暑苦しい顔で迫られて、和僑組織大牙会の頭目【我東大牙(がとう・たいが)】は迷惑そうに首を横に振った。
彼ら和僑は刑務所というものに入るのは慣れていたが、入国管理局という場所に入れられるのは初めての経験だった。
それというのも基本的に犯罪者呼ばわりされる身の上であり、それなりに不正に手を染めてきた彼らだからこその違和感かもしれない。
テロ集団として警察に逮捕された彼らの連行先が何故警察署ではなく入国管理局管轄の施設なのか。
組織の幹部である人間達は殆ど理解していたが、下っ端の連中は何も理解していなかった。
「それにしてもいつまで入られるんですかねぇ。お頭・・・此処に来てからもう・・・かなりになりやすぜ。取り調べも受けないし、一体この国の警察はどうなってんだか」
口の達者の若造が愚痴る。
「そりゃ、無論。オレ達の作戦が上手くいってんのさ。外でゴタゴタあったらしいが、警察もその上もそっちで忙しいんだろう。そろそろお迎えが来る。テメェらももう少ししたら出る準備しとけ。後、一週間も放置はさすがにないだろうからな」
我東が枕に肘を付きつつ答えた。
「「「「「「「「「「へい。お頭!!」」」」」」」」」」
手下達の返事に頷いて我東がもう一眠りするかと枕に頭を付けた瞬間だった。
ガチャリと部屋のドアが開き、警備の人間が名前を読み上げる。
「お頭!?」
「いいからテメェらは準備だけしとけ。ちょっくら話を付けてくる」
一人呼ばれた我東が手錠と指錠を掛けられ、椅子が二脚と机が一つだけの一室に通される。
それから数分後。
如何にも典型的な日本人と言えるような背は小さいサラリーマン風の男が入ってきた。
「はぁ~~~ようやく会えた。我東大牙さん」
ペコリと帽子を取ってお辞儀をする男に我東も頭を下げる。
「で、そちらはどちらさんか聞いておくべきか?」
「【丘田英俊(おかだ・ひでとし)】です」
「丘田さんでいいかい?」
「ええ、構いません」
ゆっくりとパイプ椅子に腰を下ろした丘田が鞄からそっと二つの瓶を取り出す。
「此処は熱かったでしょう? ラムネでも如何です? カツ丼みたいに後で請求したりしませんよ?」
悪戯っぽく笑う丘田に我東が「ありがたく」と頷き、外した手錠と指錠を床に落としてラムネを呷る。
その様子にまるで怯える様子もなく。
丘田もラムネに口を付けた。
「いや、今回は災難だったようですね」
「踏んだり蹴ったりって奴だな」
「多少調べさせてもらいましたが、いやはや・・・鏡のような和僑っぷりで驚きました。まだ、こんな集団が残っていたのかと素直に感心するとは思ってもいませんでしたよ」
「オレの自慢の子分共だ」
「ええ、ですから貴方達がどうしてこんな暴挙に出たのか最初は理解できなかった。だが、貴方達から内閣官房長の事務所宛てに送られた手紙を見て疑問は氷解しました」
「そうか。それであんたは一体オレ達をどう見たんだ?」
「それはただの馬鹿なサイコ野郎か。それともただの陰謀論者か。もしくはただのテロリストか。という意味でしょうか?」
「いや、国の一大事に国が何の機能も果たしていない事を証明する生き証人か、だ」
丘田が何処か微笑みながら溜息を吐く。
「ハッキリ言いましょう。紙上で無罪にする事は出来ません。ですが、貴方達を事実上の無罪放免にする方策ならば有ります」
「ほう? 有意義そうな話じゃねぇか」
「政府はこれからジオネット法の改正法案を臨時国会に提出する予定です。その中で極刑犯罪者あるいは無期懲役の囚人に対する強制労働という項目が存在します」
「それで?」
「貴方がジオプロフィットにお詳しいという前提で話を進めてもよろしいですか?」
「ああ、構わねぇ」
「貴方達も知っての通り、今現在中国と日本は戦争状態一歩手前となっています。これを機に政府与党は第九条の削除を初めとした関連法案各種を提出し、通過させることになるでしょう。国民に憲法改正をしてもらう手はずは整っていますから、戦争へ向けた準備は滞りなく済むはずです」
「日本もようやく重い腰を上げるわけか?」
「ええ、それで関連法案の中には防衛特区を創るという構想がありまして、法案可決後速やかに犯罪者達の移送が始まります」
「盾に為れってか?」
「いえいえ、本土決戦になった時点で日本は無いも同然。貴方達にはそちらよりも更に先へ行ってもらう事になると思います」
「何?」
「九州で二機目の【ギガフロート】が建造されていたのはご存知ですか?」
「あぁん? ん~~確か・・・面積が沖縄にあるやつの三倍で日本海側の海洋風力発電プラントの守備に使うとか何とか言ってた奴か?」
「それです。それを今回の件で沖縄から更に数百キロ南の洋上に浮かべる事が決定しました」
「日本海側の防備が手薄になるんじゃねぇのかい?」
「今回、日本海側から大量に潜水艦が日本側に侵入し、それを察知出来なかった事が自衛隊の方達にはショックだったらしく・・・日本海側の対潜哨戒機の数を二倍に増やしました。それを機に米軍側も沖縄に常駐させる艦隊の数を増やすとか。まぁ、それだけ戦力が集中すれば、さすがに中国軍閥側も容易には手出しできないでしょう」
「大体のことは分かった。そのギガフロートにオレ達を乗っけて防人にするわけか?」
「それだけでもいいのですが、実はそのギガフロートで・・・『新たな県』を発足する事になりまして」
「あ? 日本政府は正気か?」
「ええ、正気です。ギガフロートを防衛設備だらけの島だけで終わらすのはもったいないと主張する有識者の方々がいらっしゃいまして。それで国際的に企業を誘致して経済特区にしようという構想が持ち上がっていたのを流用させて頂きました」
驚きと共に我東が目を細める。
「・・・考えたな。海洋上の経済特区で手の出し辛い防衛圏を形作ろうって腹か?」
「所得税無し、法人税無し、相続税無し、人種、民族、宗教、主義、主張の差別も無し。まぁ、その代わり【日本企業】お断りという斬新な場所です」
「随分と大胆な事を考える奴がいるもんだ。確かにそれが成功すれば、日本は最強の盾を手に入れたも同然だろうな」
「海外企業に出してもらうのは唯一ギガフロートの維持管理コストのみ。それも基本的には誘致された企業に組合を作ってもらって負担金という形で出させようという話です」
「【場所を固定しない大規模経済圏】の誕生・・・貧困を貪る多国籍企業(あくま)を盾にする・・・か。いやはや、その壮大さには魂消るが、まるで【ジオプロフィットのお手本】みたいな絵を描いたのは誰だ? あの官房長官は結構な食わせもんだと思ってたが、そんな考えが一人で浮かぶはずはねぇ。というか、そういう大言壮語よりもあの男は現実路線だろう?」
「・・・昨日の敵は今日の友。そして、今日の敵すら明日の危機を乗り越える為には利用する。敵の敵は味方ではないにしろ、生き残らなければ綺麗事も言えません。我々はもうそういう場所に足を踏み入れている」
丘田が立ち上がり、我東に手を差し出した。
「政府は貴方達を新たな県の警備に使う【労働虜囚(バイター)】として【日本南洋経済特区構想(ヒルコ・プラン)】へ召喚します」
「どうやら・・・とんでもねぇ事に首を突っ込んじまったみたいだな・・・」
我東が一拍の間を置いて、丘田の手を取る。
「貴方達の身の振り方はこれで決まりました。後は貴方達が追っていた存在に付いての情報を頂きましょうか。そちらは本来我々の管轄ですので」
丘田は日本政府に知恵を授けた男を思い出し、心を引き締めた。
その甘言がいつか身を滅ぼすと自覚する故に。
*
復興中のGIO日本支社。
人事を一手に引き受ける人事管理部門デスクの一角。
地下一階で三十代後半の柔和な表情の男がひっそりとクシャミをした。
その日、北京市民980万人以上の死滅と同時に太平洋の何処からか撃ち上がった核弾頭が日本へと向うも途中で墜落したというニュースが全世界を駆け巡る事になる。
第二次日中近海事変と後に呼ばれる日、一人の青年は日本へと帰国した。
傍らに小麦色の肌をした少女を連れて・・・・・・。
始まった。
狂騒に沸く世界。
此方はもはや彼方へ。
地獄の門を前にして人々は決意する。
第四十五話「彼もしくは彼女の戦い」
煉獄はもはや真直か。
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第四十五話 彼もしくは彼女の戦い
第四十五話 彼もしくは彼女の戦い
『この爆発の死者は述べ一千万以上になると見られ、数百万人以上の負傷者も出していると現地入りしたWHOの特務医療チームからの報告が上がっています。国連は沿岸軍閥との調整に入っていますが、海外からの救援物資及び救助隊の受け入れなどに付いては調整が難航しており、未だ実現には遠い模様です。
爆発した原子力爆弾は中性子爆弾と見られ、その出所が現在のところ第二次日中戦争を占なう鍵になると見られています。
沿岸の4軍閥は公式見解を発表し、これは中国軍閥連合の用意したものではないとの回答と同時に日米の謀略であると主張していますが、各国の有識者の間からは日中近海事変において軍閥所属の潜水艦から核が発射された事を踏まえ、未だ残されていた核弾頭が何らかの外的要因によって起爆したのではないかとの見方が多数を占めています。
中国軍閥連合の見解に対し日本政府外務省は【日本が核弾頭を製造し、各国の監視衛星の網を掻い潜って北京に投下する事は不可能である。太平洋から発射され日本近海に落下したミサイルの回収を急がせているがほぼ間違いなく核弾頭であるのは明白であり、これは日中近海事変において行われたような日本を陥れる為の中国の欺瞞行為である可能性が高い】と反論しています。
軍閥から脱出した軍閥連合高官筋の話によりますと中性子爆弾の爆発時、北京には各軍閥の代表者達が集っていたとの話もあり、日本を降伏させる為の提案が為されていたという事です。
この情報の拡散により、SNS上では【軍閥連合の秘密兵器が爆発したらしい】【何故、日本製を使わなかったんだ?】というような書き込みが各国で爆発的に行われており、軍閥連合の自作自演用の核弾頭が何らかの拍子に爆発したとの見方が強まっています。
こういった見方に多くの華僑コミュニティーが反発しており、各国で中華系移民の反日デモが多発、和僑系コミュニティーの警戒が続いています。当事国である日本では市民から軍閥連合への非難が噴出している模様ですが、一部のネットコミュニティーやNGOからは【中国軍閥にではなく中国国民へ支援をしよう】との計画が複数持ち上がっており、募金や物資が集められているという事です。
日本国内の華僑系移民労働団体は被爆地の支援を政府に求めていますが、これに日本政府は事実関係の確認が終わり次第【同じ被爆国】として人道的見地から救援物資を送るかどうか検討を開始するとしており、北京への支援が行われるかどうかは不透明な情勢です。では、次のニュースです』
一室に流れるラジオ放送に耳を傾けながらトレーナーにジーンズという井出達の池内豊は窓際でハラハラと落ちる落葉を見つめていた。
風に舞う紅葉を眺めつつ彼は隣で同じように外を見つめている女をチラリと横目に見た。
オーストラリア陸軍がGIOに送り込み第二GAME終盤で捕まったアマンダ・フェイ・カーペンターだった。
今やGIOの虜囚として囚われている二人には接点らしき接点は存在しない。
敵ではないが味方でもないというのがどちらにとっても正式な見解だった。
GAME終盤。
日中近海事変の中心にいた池内にとっては殺されていないだけでもマシであり、GIO内部から機密情報その他諸々をどさくさで盗み出そうとしたアマンダは射殺されていないのが不思議な状況。
互いにGIOに拘束され、引き合わせられたのは数日前。
これからどうなるかと未来を悲観していたアマンダと、もう祖国の道先を先導する事も出来ないと諦観していた池内は互いが同じ中華系の血筋に連なるという以外にまったく接点が無かった。
互いの素性を知らされたものの、GIOに掴まっている以上どうする事も出来ないのは言うまでも無く。
ろくに話しもせず二人は同室に放り込まれる事となった。
『今は猫の手も借りたい時期なので、地獄の沙汰もお休みです。GAMEも延期して関連したアレコレは全部GIOの復興が終わってから行う事になりました。貴方達のこれからの処遇が決まるのはとりあえず諸々が片付いた後ですので。それでは』
猛烈に忙しいと愚痴りながら二人を引き合わせた張本人であるGIO特務筆頭亞咲は二人に対して投げやりな態度で事情を説明してから去っていった。
与えられたのは東京某所にある3LDKアパートの一室。
鍵付きの牢獄に入れられるわけでもなく。
GIOの特殊施設に連行されるでもなく。
監視すら付いていないのではないかと思えるようなお気楽な放置は二人の目には異様なまでの自信と映った。
生活費が振り込まれる通帳を手に二人はそれ以来誰に接触を図るでもなく暮らしている。
暴挙とも思えるような投げやりさで生活させている背景を考えれば、池内もアマンダも行動など出来なかった。
いつでも消せる。
誰と接触を図ろうと無意味。
大人しくしていろ。
つまりはそういう事だ。
GIOが本気になれば、それこそ日本政府すら動かせる。
ジオネット上の情報で怪しい動きがあれば【明示されない事柄】がどうなるか分からない。
例えば、二人の仲間達の安否。
下手をすれば殺されるだろう。
GIOが人道的である等と一ミリたりとも思わない二人にとって何も言われず知らされず誰かに接触できるという誘惑の横に置かれるのは拷問と言えた。
「心の檻・・・か。GIOには臨床心理学の権威がいるらしい」
思わず愚痴った池内にアマンダが視線を向ける。
「あの池内豊が愚痴とは・・・」
「人は自分で思っている程には強くない。状況を見通せる目を持つ事だ」
「第二次日中戦争が勃発するか否か・・・この後に及んでGIOはまだ諸々を手玉に取れると考えているのでしょうか」
「だろうな」
「お国は大変なようですね」
「あの老人達の行動を考えてみれば、確かに何かしらの切り札を隠していたのは理解出来る。最後の脅し文句が消えたと思っていた諸国に対して強硬な姿勢を取れる力があったからこそ、武装難民の流入を許容したと考えれば、納得できる部分は多い」
「爆発は・・・事故だと思いますか?」
「いや、事故に見せかけられた可能性が高い。核の扱いまで耄碌していたとは考え難い」
その可能性すらあるという含みを持たせた池内の内心にアマンダは同情した。
その手の世界では絶賛される手腕を持つ男がそういう権力構造に悩まされている姿は同じ世界に生きる者として歯痒いものがあった。
「人民を愚かにしたのは党だ。だが、その本人達すら己が愚昧だとは気付かなかった。大真面目に日本の占領政策が検討され、その青写真までは出来ていた事を思えば、金と憎悪が瞳を曇らせていたのは必定。他国から事故扱いされても心底反論できようはずもない。たぶん、当事者達すら内心は事故だと思っているはずだ」
「太平洋からの核攻撃に付いては何か心当たりがありますか?」
「こちらの管轄に回されてきたのは3発だけだった。それが最後だと聞かされていたが、この状況を見る限りは幾つか隠されていた核弾頭が秘密裏に運用されていると見るべきだろう」
「大変ですね。そちら側も・・・」
「今やこの身に従う兵は無い。核を本土に向けて撃った時点でな」
心情的には何も聞くべきではないとアマンダの内心、感情は囁く。
しかし、この期に及んでも諦める事を知らない理性が勝った。
「どうして、日本に撃たなかったのか聞いても?」
「律儀だな。だが、それは君が知るべきではない事だ」
「そうですか」
アマンダは素直に引き下がる。
どちらもがプロフェッショナルとしての矜持を持っている故に弁えていた。
訊いたところで答えは返らないのだと。
「まだ、この檻から出られると思っていますか?」
だから、そんな他愛の無い言葉でアマンダがお茶を濁す。
「さぁ、な」
本来なら愚痴ったところで誰が聞いているわけでもない。
訊かれていたとしてもGIOが盗聴しているくらいのものだ。
それでも池内はこの世の裏側よりも尚深い奈落に歳若い兵を招き寄せるような真似はしない。
あまりにもおふざけが過ぎる真実など生真面目な若輩に聞かせるようなものではない。
「そろそろ買出しに言ってきます」
会話が途切れたところでアマンダはそれ以上追及するでもなく席を立つ。
全ては未だ手の届かない場所にある事を二人は強く実感していた。
*
国際空港の管制塔の上で少年が一人座っていた。
その手にはゴツイ双眼鏡が握られている。
水色のパーカーに半ズボン。
外見だけを見るなら何処にでもいそうな少年だった。
無論、そんなものがわざわざ管制塔の上なんて目立つ場所に陣取っているわけがない。
そもそも発見されないのも不思議な場所で悪目立ちもせずにいられる時点で尋常ではなかった。
メリッサ。
そう呼ばれる少年は一人今日も黙々と己の任務をこなす。
これから離発着する航空機を観察するのはそこが一番の特等席だった。
「そろそろかな」
十数キロ先でもクリアーに見える双眼鏡なんてものを使いながら、メリッサは一人空港へ続く主要道路に視線を向けた。
双眼鏡の先には一台のクーペ。
その内部には数人の少女が乗っている。
嘗ての仲間である監視対象。
ソラ・スクリプトゥーラ。
中国の幇出身の兵(つわもの)。
小虎(シャオフウ)。
小さな財閥を管理する布深家の長女。
布深朱憐(ふみ・しゅれん)。
「楽しそうで何より・・・」
少女達はお喋りに花を咲かせている。
その内容は唇を読む限り、これから飛行機で帰ってくる主に対する想いだけだった。
クーペを運転する女フィクサー【アズ・トゥー・アズ】すらも何処か浮かれている。
それほどまでにあの男の帰りを待っているのか。
メリッサは気に喰わない己を殺して見(けん)に徹する。
「外字久重(がじ・ひさしげ)・・・か」
世界には星の数程も男がいるのにどうしてよりにもよってあの男なのだろう。
そう思わずにはいられなかった。
何でも屋としてアズというフィクサーに飼われている男。
最初はその程度の認識だった。
だが、そんな認識は当の昔に捨てている。
不可解と不可思議を足して2で掛けたような男。
それが現在メリッサの久重に向ける評価だ。
身辺調査を行った時から何かと監視する傍ら集めた情報や評価し直した情報にはある種、異質な気配が纏わり付いている。
己の上司が上げた報告書や詳細なデータを整理して初めて見えてくる異常性。
それはおぞましい程に意表を付く。
最初期に出された報告書にはまるで馬鹿げた内容が書かれていた。
素手においてソラ・スクリプトゥーラと交戦。
更にエージェントであるターポーリンを殴り飛ばして負傷させたと。
NDを持ち、その力で戦闘をこなしている人間と初回で当たって同等に戦う。
その時点で普通ではない。
更には負傷させたというのは常識的に在り得ない。
その時のエージェントでありメリッサの上司であるターポーリンは【連中】が抱える中でも指折り。
NDに詳しく開発者の一人であり、同列の存在との戦闘すら熟知した手慣れと言っていい。
不可解なのは銃が当たらなかったという記述にも見受けられる。
走って近づいてくる標的に銃弾を正確に撃ち込んだと報告書には記載されていた。
NDの加護ある人間が扱う銃器の命中精度はかなりのものだ。
それこそ、曲芸染みた射撃能力があると言っても過言ではない。
それなのに一発も銃弾は当たらなかった。
NDで強化され、通常の徒手空拳で傷付けるのはほぼ不可能なはずである肉体にダメージを与えた。
正に正体不明の敵。
その最初の一戦を見る限り、NDの加護すらないはずの青年が一体どうしてNDの権化のようなエージェントに勝てるというのか疑問に思うのは当たり前だ。
フィクサーに鍛えられていた精鋭という言葉だけでは理解出来ない。
更に理解しがたい深い霧に包まれているのはその出生。
表面上の電子情報はあるのに幼少期からの生活実態が何処にも存在しない。
それは天才とも言われる女フィクサーの仕業かと最初は思っていた。
しかし、専門の業者を雇って調べさせた後も殆ど何も分からなかった。
戸籍情報はある。
育ったはずの地域の学校にもいた痕跡はある。
なのに、その地域の公共機関には何の情報も無い。
生活すれば必ず出る情報の断片すら無い。
様々な情報が電子媒体に変わった昨今、在り得ないはずの事態だ。
生活実態に関する公的情報が消えているというのはどう考えてもおかしい。
大規模な情報操作か。
そうならば、その痕跡は残るはずだが、その可能性は無かった。
【連中】のハッキングで一バイトすら情報は出なかった。
消されたデータを復元する事なんて容易な人間達が本気で探して無いというのだから、それは確かに無いのだ。
メリッサが知る限り、【連中】に嗅ぎ付けられもせずに情報操作するのは例え大国でもほぼ不可能。
それを上回る隠蔽工作が出来るなら、正にその個人又は組織の力は世界を征するに足る。
(そして・・・あの異様な街・・・)
出生地である山間の寂れた場所に行った時、メリッサは確かに通常では考えられないような異常に出会った。
灰色に染められた世界。
上空に浮かぶ世界を滅ぼすはずだった隕石。
そして、その下にあった外字久重の生家。
恐ろしい何かの片鱗を味わった。
連中ですら為しえないような光景。
だが、それよりも驚いたのは全てが終わった後。
NDの活動ログには映像も記録されているはずだったが、まったくメリッサが体験した映像は映っていなかった。
映っていたのは普通の街に普通の廃屋と化した生家の姿だけ。
隕石も灰色の雪のようなものも確認できなかった。
それだけではない。
情報収集に専門業者を使ったのはいいものの、結局生家に辿り着ける人間はいなかった。
サテライトによる確認も為されたものの【生家なんてものは街の何処にも存在していなかった】のだから、疑念は深まるばかり。
明らかな映像との矛盾を【連中】は何某かの技術で妨害されていると断定。
調査は引き続き、行われている。
「第一級の危険指定・・・正体不明(アンノウン)・・・」
きっと、そんな事を男の傍らにいる少女達は知らない。
メリッサにはそれが何か致命的な齟齬を引き起こすような気がした。
「ようやくお帰りか」
思考に耽っていた顔が上げられる。
予定の便が空から降りてくるところだった。
クーペも空港の駐車場へと止まっている。
急いでいるのだろう。
少女達がワラワラ車から降りると急いでターミナルへと走っていく。
「ソラ・・・」
ポツリと呟いたメリッサの懐が震えた。
端末に新しい情報だった。
それを見た顔が険しくなる。
(【M計画】の関連オペレーションに追加案? 生体強化案の修整協議・・・・・・まさか僕にやらせてたウィルス強化の検体(サンプル)採集はこの布石だった?)
今では昔の上司と同格になっているメリッサには様々な情報が開示されるようになっている。
これから何が起こるのか。
何となく察したメリッサは搭乗口付近で青年に抱き付く嘗ての仲間を見ていられず俯いた。
「僕は・・・・・・」
結局、言葉にならず。
監視の引継ぎの為、管制塔の上から飛び降りた。
硬いコンクリートの地面にメリッサが難なく着地するとそこにはもう部下が不満たらたらでいた。
「いい加減ソラお姉ちゃん大好きっ子止めたら? 上司殿」
戦略病原兵器搭載型少女シャフの嫌味に返す元気もなく。
少年は双眼鏡を渡すと誰にも見咎められず滑走路内部を去っていく。
舌打ちした後、少女は一人イライラした様子で少年の背中に毒を吐いた。
「女々しいのよ! そんなに好きなら略奪するなり殺すなりすればいいじゃない!?」
しかし、その声に答えは返らない。
相手にされていない事が心底に腹立たしく。
シャフは追い討ちを掛ける。
「その内、あの男に大好きなソラお姉ちゃんが犯(や)られちゃうかもね♪」
足が止まった。
振り向いて僅か口が動かされる。
何事かを呟いた後、メリッサはその場所から忽然と姿を消した。
「・・・・・・」
返された皮肉は確かにシャフへ伝わっていた。
【そんなに羨ましいなら、あの中に混ざったら?】
一人ポツンと残された少女は何故か言い返されてショックな自分に戸惑い。
その理由を胸の内に求めて。
「ああ、そっか」
気付いた。
「あたし・・・もう本当に一人なのね・・・」
今まで繋がりのあった仲間ですら、もうシャフの【傍】にはいない。
新しい居場所を見つけて幸せそうに微笑む奴。
新しい目標に向って歩き出してしまった奴。
そして、一人残された奴。
「上等じゃない。全部・・・全部・・・奪ってやるわよ・・・あたしは・・・」
―――あたしは世界平和を憎む簒奪者なんだから。
数分後。
少女の姿は消えていた。
深く静かに監視は続行される。
*
【中国軍閥領内12:05】
朝居・インマヌエル・カークスハイドはモムモムと生春巻きを食べていた。
丸く巨大なテーブルが一つ置かれた部屋の四方には小銃を持った中国由来である辮髪(べんぱつ)でスーツ姿の男達が直立不動で立っている。
「・・・・・・」
ここまで生きた心地のしない昼食を取るのは何も初めてではない。
拾われてからずっとそんな感じだった事を思えば、もはや【日常(いつも)】の光景と言っても差し支えは無い。
「ん~今日の昼食はいいじゃないか。調理師にお前はまだまだ使ってやるって言っておいて」
子供特有の何処か無邪気な声が木霊すると傍に仕えていた給仕三人の一人が頭を下げてから部屋を退出していく。
「・・・相変わらず傲慢ですね。貴方は」
「貫禄があるって言い方をして欲しいな。君には♪」
丸いテーブルを挟んでマヌエルと対面する形になっている少年が笑った。
長い黒髪を女性の如く一つに束ね、朝だというのにグレーのスーツ姿で朝食を取っている姿は堂に入っている。
愛らしい顔立ちをしているものの滲み出る雰囲気はまるでマフィアの幹部のような重圧。
子供と馬鹿にすれば、一瞬の内に笑顔で銃殺しろと言い出しかねない。
それがマヌエルを死の淵から救った【富儀(フギ)】と名乗る十四歳程の少年だった。
「それでいつになったら私を日本に返してくれるんですか?」
「生憎と玩具は手放さない主義さ」
「人を玩具呼ばわりする人間に関わってる暇なんて無いんです。早く・・・早くしないと・・・」
唇を噛んだマヌエルに富儀が笑う。
「ちなみに君のやってたGIOのGAMEは延期になったそうだけど」
「な!?」
「君の素性くらいちゃんと調べたよ? それに君が帰りたいと思う理由もね」
「・・・・・・」
「喋ってくれればもっと早く調べてあげても良かったんだけどな」
「私は・・・」
「ちなみに君のチームは全滅だって」
「え・・・」
思わず目を見張って立ち上がったマヌエルに生春巻きを口にしながら富儀が説明する。
「何でもGAMEを見てて死にたくなったらしい。自前で調達してた拳銃で全員が自殺したとか何とか」
「――――――」
目の前が真っ暗になって、マヌエルが崩れ落ちる。
「ああ、椅子に座らせてあげて」
四方にいる男の一人が頷いて床のマヌエルを椅子に優しく座らせた。
「色々と調べてみたけど、銃を買えるような感じの人間達じゃなかったから・・・もしかして、君の?」
ビクリと震えたマヌエルが何も言えないまま恐怖に歪んだ顔で富儀を見る。
「持ってきてたのを置いてきたままだったとか?」
「ッッッ」
「そんなに落ち込む事ないよ。自分で死を選んだ人間が一番悪いなんて当たり前だしね」
「貴方に何が分かるんですか!?」
「分からないよ。此処にこうして暮らしてれば、君にも理解できる通り、僕はこういう人間だから」
「~~~!!!?」
「そんなに親しい間柄だった?」
「人が!? 人が死んだんですよ!?」
「君の拳銃で死んだから君のせいだと言いたいなら、僕には慰める言葉はないよ」
「そ、それは?!」
「今日この中華の大地で一千万人が死んだ」
「え!?」
「ニュース出して」
テーブルの中央に立体的な映像が映し出される。
各国のニュース一面が無数に映し出され、その中でも日本のものが大きく表示された。
流れてくる音声に愕然とした様子でマヌエルが見入る。
「人が大勢死んだ。でも、僕はそれを悲しまない。だって、戦争してればこういう事は覚悟の内だからね」
「あ、貴方は!? 自分の国でこんな・・・こんな事があったのに!?」
「僕は君が死んだら悲しいよ。でも、見ず知らずの人間や政争でやりあう間柄の老人や軍閥連合の中枢部が消えたって喜びこそすれ悲しむ謂れはない」
「―――喜びこそすれって・・・何を貴方は・・・」
僅か後ろに下がるマヌエル。
口元を拭いてから富儀が立ち上がる。
「僕にまで手番は回ってこないかと思ってたら面白いところでリーチ・・・笑っちゃうね。さ、お前達にも働いてもらわないとならない。軍閥のお偉いさんに書類を幾つか回さないと」
男達が慌しく部屋の外に出て行く。
「あ、貴方は・・・」
「僕? 君も知っての通り。金持ちで傲慢でマフィアっぽい男達に傅かれてるちっぽけな子供さ。まぁ、一つだけ普通と違うとすれば、僕の血には特別な家系のものが流れてる事くらいかな」
「特別・・・」
「そう。皇帝の血筋。と言っても軍閥が言ってるだけで本当かどうか分からないし、DNA鑑定すら怪しいけどね」
今度こそマヌエルはどう反応していいか分からなくなった。
「それでもこれから僕の周りには権力と金と薄汚い人間がわんさかやってくるだろう。中国がこれから先残ってるかどうかは分からないけど」
戸惑うマヌエルに近づいて手を取ると富儀が先導して歩き出す。
「ど、何処に行くんですか!?」
「演説会場。明日までに動けば、先んじて日本に対してもコネがある僕の有利は揺るぎないものになる。君には僕の秘書をしてもらうよ」
「な、何を!? 何を言って!?」
腕を振り払おうとするマヌエルを見上げて少年が腕を放した。
「君がもしもまだGAMEを続けようと思うならバックアップが必要じゃないかな? もしも、手伝ってくれるなら僕は君に対して軍閥連合を掌握した後、支援を約束しよう。それと僕の屋敷で一ヶ月以上飲み食いしておいてただで帰れると思ってる大物なところは買っておく」
「な!? ま、待って!? 待ってください!?」
再び手を取って歩き出そうとした少年からマヌエルが身を引く。
「わ、私がこれからどうするかなんて貴方に分かるわけな―――」
「分かるよ。君はこれから日本に帰れば絶対GAMEに参加する。そして、一人であろうと戦い続けようとする」
「わ、私を決め付けないでください!!?」
あまりに付いていけない言動だった。
「僕が何で君を引き上げてからも此処に置いたか。そう言えば話してなかったね」
「何の話ですか!?」
「君は覚えてないかもしれない。けど、一番最初に目覚めて朦朧としていた君は僕に最初こう言ったんだ」
―――戦いに行かないと。
「その時、僕は思ったよ。面白い者に出会ったと。僕が助けるに値する者に出会ったと」
「富儀・・・それは・・・ただ・・・私は・・・!!」
「朝居・インマヌエル・カークスハイド。もしも君が誰かを救う為に戦うなら、手段を問うな。死んだ人間にかまけて生きてる人間まで蔑ろにするな。君はそれが出来る人間だ」
二人が見つめ合う。
「調べたんですね」
「無論ね・・・僕は君が思うように傲慢で政争相手を落としいれるような汚い人間だが、君と同じように自分の信念を曲げても戦い続ける覚悟がある。だから、僕は君を傍においた。君が僕に少しだけ似ていたから・・・」
長い間があった。
「私は・・・貴方が嫌いです。傲慢で人の死なんて何とも思ってなくて人を勝手に巻き込んで・・・でも、貴方が助けてくれた事、貴方が私に思い出させてくれた事、感謝します。だから」
そっと今度はマヌエルの方から手が差し出される。
「もうしばらくだけ、GAMEが始まるまでお世話になります。でも、私は私の思うように行動しますし、貴方の意見に賛同したりしません」
フッと富儀が唇の端を吊り上げる。
「それでいいじゃないか。君が疑問や嫌悪、不満に思った事があるなら言えばいい。僕は何でも頷いてくれるイエスマンが欲しいわけじゃない」
二人の手が結ばれる。
其処に朝居・インマヌエル・カークスハイドの新たな物語が始まった。
北京が死滅してから一日後。
世界に一つの演説が放送されることになる。
そこには軍閥連合の複数の高官が出席している様子が映し出されていた。
中国に新たな皇帝を迎える為の演説だった。
その後(のち)、事態は大きく動き出していく。
皇帝と目される少年の横に顔を隠した秘書が一人立っている事を誰も意識する事は無かった。
思い返すは我にあり。
忘却だけが救いでも。
永き淵を共に覗かん。
それは始まりへと続く深み。
第四十六話「回顧射程」
遠き過去への扉が開く。
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第四十六話 回顧射程
第四十六話 回顧射程
国破山河在、城春草木深。
詠まれたのはどれだけ前の話だろう。
その詩は今も変わらぬ真理を教えてくれる。
だからこそ、もはやそんな詩すら詠めない祖国を思う。
自分の生まれたあの都市は今もあるだろう。
しかし、国破れ、己の手で山河を崩し、残る人すら棄てた時、感慨を覚える者が残っているだろうか。
民は草木も育たぬ荒野に泣き、毒を撒いては日々の糧を育てた。
菜を洗う水は濁り、川の流れは淀んだ。
あらゆる穢れを喰らいながら、金を求めて貧しさに身を捧げ、それでも一生懸命に生きていた。
だが、それも限界に近い。
滅びゆくのは誰のせいだと聞けば、祖国の者は誰でも国と敵国と答えるだろう。
世界を敵に回しても金と暴力で全てが解決するのだと信じている者は多いに違いない。
権力は如何様にも人を動かすのだと誰も疑いはしないのだ。
だが、自分すら信じていた構造はただ見方を変えただけで崩壊した。
金では買えないものがあった。
権力では手に入らないものがあった。
祖国には無いものが其処にはあった。
祖国の者が聞いたなら、それは欺瞞だと嗤うだろうか。
それとも幻影だと蔑むだろうか。
いや、きっと売国奴めと罵るだろう。
それはきっと見たものにしか分からない。
必死に生きているから、自分達の中にあるとすら知らない。
例えば、それは手を繋いだ時に感じられるものだ。
例えば、それは共に笑い合った時に気付くものだ。
例えば、それは同じものを感じれば共有できるものだ。
―――絆。
敵だから。
通じ合えないから。
今も多くの国が憎み合っている。
そう思っていた。
しかし、それは真だろうか。
否、それは欺瞞かもしれない。
人を無智のままにしておきたい人間がいる。
知れば、変わるかもしれない。
変われるかもしれない。
その可能性を摘んでしまう者達がいる。
都合の良い事だけを教えて生かせば、楽だからだ。
そして、そうした方が楽だから身を委ねてしまう者が大半なのだろう。
思考の停止。
疑うものには罰を。
それだけで都合の良い誰かが出来上がる。
ただ与えられた情報を咀嚼する為だけの存在が出来上がる。
そう成りたくはないと思う。
自分で考えて答えたいと思う。
そう思える自分でいたいと思う。
「ヒサシゲ」
まだ拙い異国の言葉で。
そう彼を呼ぶ。
振り向いた顔にただ一言を告げたかった。
沢山の事を教えてくれた人に教えたかった。
今、自分は幸せなのだと。
どんな事があっても前を向いていけるのは貴方のおかげなのだと。
もう自分はただ与えられたものを考ずに飲み込んだりする人間ではないのだと。
「お帰りなさい」
それが小さな虎と呼ばれる少女の初めて誰かの為に浮かべた笑顔だった。
*
言葉に詰まった。
不意打ちを喰らった。
だから、久重は驚いていた。
喜びに抱き付いてくるソラ・スクリプトゥーラと布深朱憐の重さを感じながらも、微笑む小さな虎に目を奪われた。
「随分と良い顔するようになったな。小虎(シャオフウ)」
人が行過ぎていくロビーの中、少しだけ驚き、戸惑った様子で、頬の赤い顔が伏せられる。
「・・・・・・はい」
その二人の様子に朱憐とソラは固まった。
「(う、迂闊でした・・・まさか、虎さんが此処まで日本の貞淑な女性像を学んでいたなんて!?)」
「(ひさしげ。嬉しそう・・・うぅ・・・何か負けた気がする・・・)」
亜麻色のドリルが不安げに揺れ、金色の長髪が控えめに震える。
思わぬダークホースが自分達以上に久重の心へ食い込んでいる事に気付いて、二人は女としての危機感を持って見守った。
「それであいつは何処行った? 一緒じゃないのか?」
少女達の付き添いで来ているはずの雇い主の姿が見えずキョロキョロと久重が辺りを見回す。
「あ、久重様。そのこちらを」
朱憐が小さな端末を差し出す。
スゥッと立体的に人の画像が浮かび上がる。
『やぁ、お帰り。久重』
「録画か?」
久重の言葉に朱憐が頷く。
『ああ、とりあえず行っておくけどコレは録画だから。今、此処に彼女達を乗せてきたついでに少し旅行に行ってくる。ちょっとアメリカに用が出来てね。二週間かそこらで戻ってくるから、それまではソラ嬢の端末にある通りに仕事をして動いて欲しい。【シャフ嬢】や【軍閥】や【米軍のあの部隊】や【僕の知り合い】その他諸々の襲撃者対策は大体終わってるから、君一人でも大丈夫なはずさ』
「いきなりだな・・・」
『君はきっと【いきなりだな】とか言ってるだろうけど、第二GAMEが終わった後にもうアメリカに行くのは決めてた事なんだ。それが国内のガチもののテロリスト排除やらウィルステロの動向見極めやらで忙しかったから今まで伸び伸びになってただけでね』
「なんでもお見通しか」
『まだ空港内部ならここまでにしておいて後の部分はクーペの中で見るといい。鍵は渡してあるから僕が帰ってくるまで壊さないで使う事。壊したら借金に加算だからね?』
「了解」
相変わらずだなとの呟きを飲み込んで久重が向えの三人を見回した時だった。
カサリと久重の背後から音がした。
「・・・ひー・・・ちゃん?」
三人の少女達が今まで意識の端に止めていた白いパーカーに身を包んだ少女に視線を合わせる。
「ひぅ!?」
印度から非公式に脱出してきた少女カウルがビクビクしながら久重の背中に引っ込んだ。
「あの・・・久重様? その子は・・・」
朱憐が怪訝そうな顔になった。
「ああ、知らないのか。ソラ、事情は聞いてるか?」
「一応」
ソラがコクリと頷いた。
「色々説明するのはクーペの中にしよう」
そのまま外へと歩き出した一行はクーペに乗り込むと久重の運転でその場を後にした。
*
「それで久重様。その・・・この子はどういう理由で一緒に?」
本来の持ち主以上に危うげなく運転する久重が大体の事情を三人に聞かせた。
助手席にはソラ、後部座席には左右を虎と朱憐に挟まれてカウルが縮こまっている。
「・・・つまり・・・拉致誘拐してきたという事ですか?」
微妙に半眼な視線で朱憐が運転席を見つめる。
「う・・・人聞きが悪いな。これでも結構人助け的に連れてきたつもりなんだが」
「でも、ひさしげ。印度政府から公式で指名手配されてるみたい」
ソラが己の端末を後部座席に渡した。
虚空に浮かび上がる画像には一枚の新聞が出ている。
新聞の内容は全て英語。
虎が「?」という顔をしたのを見て朱憐が翻訳した。
「えっと・・・【この日、上院議会の―――議員宅から一人娘である―――さんが誘拐された。犯行に関わっていたとされる誘拐犯は現在各国で大ヒットを飛ばしている日本製ANIME【神裸フリークス】内の人気マスコットキャラ【ヒランヤちゃん】の着ぐるみに扮しており、現在警察が全力を持って捜査中である。
尚、この騒動により印度国内での同ANIMEの再放送が延期される事態となったが、根強いANIMEファンからの要望が多数TV局に寄せられた事から再び再会される運びとなった。
犯人からの要求が無いことから警察では目的は暴行ではないかとの見方が出ており、ネット上では早くも犯人探しが始まっている。
卑劣な犯罪を許しておけないと【神裸フリークス】ファンも【あのペ○野郎を生かしちゃおかねーF○CK】等の合言葉と共にこの活動へ加わっている模様だが目下犯人の情報は一つも出てきていない】という事らしいですわ」
虎がしばし沈思黙考の後。
「ヒサシゲ。セイハンザイシャ?」
と、のたまった。
「違うから!? というか、さっき説明したよな!? つーか何処でそんな単語覚えてきたんだ!? お父さん許しませんよ!?」
助手席からも少しだけ冷たい視線を久重に向けられる。
「ひさしげ・・・小さい子好き?」
「何だろう。涙が出て止まらない帰国初日とかマジ勘弁してください」
「久重様の日ごろの行いのせいだと思いますけど」
「いつの間にかオレが年下好きに思われている?!」
衝撃の事実に青年が戦慄く。
「違うの・・・?」
「違う・・・?」
「違うんですか?」
ソラと虎と朱憐が同時に首を傾げた。
「違います!!」
「「「?!!」」」
そのやり取りを今まで黙って見ていたカウルが強く否定の声を上げる。
今まで大人しかった様子からは想像できない音量に他の女性陣が驚いた。
「ひーちゃんは・・・ひーちゃんは私を助けてくれたんです!! ずっと一人でもうダメなんだって!! 全部諦めるしかないんだって!!! そう思ってた私をッッ、私を・・・・・!!!」
ソラと朱憐が同時に溜息を吐いた。
【ま・た・か】と。
「今、何かサラッと重要な事を諦められたような気がするのですがおぜうさん達!?」
喚く久重にソラが完全に半眼な視線を向ける。
「ひさしげってそういうところが天然なんだと思うの・・・」
「何が!?」
朱憐が隣の涙目なカウルの頭をそっと優しく撫でながら半眼な視線でやはり前の座席を睨む。
「久重様は優しさの限度とか自分の行動が誰にどう思われるかとか。もう少し考えるべきですわ」
「何か責められてる!?」
二人分の圧力に即座に負けた青年は理不尽だと精神的に追い詰められながらも事故るわけでもなく車の運転を続けた。
そんな車内にラジオから緊急ニュースが飛び込んできたのはクーペが大手牛丼チェーン店の駐車場に止まった時だった。
第二次日中近海事変の幕開け。
青年と少女達はそれを何も言わず聞く事しかできなかった。
*
(・・・ふぅ・・・さすがに銃弾では死ぬのは・・・ぅ・・・勘弁・・・)
近くに人が通れるくらいの排水溝があったのは行幸。
警察のサイレンが聞こえてくるのを尻目に横に寝かせた襲撃者のポケットを幾らか漁るとあっさり手錠の鍵は見付かった。
手錠を外して投げ捨てる。
手に食い込んだ得物の破片と銃弾は気絶しそうな痛みの中で抉り出したので今はのた打ち回りたい程度しか痛みは感じない。
焼けた鉄でも押し当てられたような激痛に気が遠くなるものの、手を貫通しなかっただけマシだと思う事にした。
横目に少女を見る。
ポケットの中身から学生手帳が出てきたので情報的にはこちらの方が優位だろう。
霜山円子(しもやま・えこ)。
どうやら有名な私立の女子高生徒。
一年生という事は去年までは中学生。
かなり可愛いと思うのだが、そんな学生が拳銃を手にして復讐を誓い徘徊しているとは尋常ではない。
現場から回収した拳銃を格子の間から漏れてくる外灯の明かりで見る。
市場に出回っている代物ではないのがすぐに分かった。
近頃の銃は何かと高性能であり、拳銃でもID認証が無ければ撃てない仕様な事が多い。
トレンドとしては安全装置を多量に積んで素人にも扱い易く安全管理がしやすいものが世界的には売れている。
しかし、回収した拳銃にはID認証の装置も安全装置らしきものも詰まれていなかった。
それどころかちっぽけな掌サイズであるにも関わらず強化プラスチックやセラミックの部品が見当たらない。
最近はカーボン系の素材を安価に成型する技術が普及したせいで銃の重量自体がかなり軽くなったとも聞く。
そんな中でズッシリと重量のある拳銃が売れているなんて聞いた事がない。
となれば、たぶんは密造。
銃規制の厳しい日本にあって密造拳銃を手に入れるのはかなりの骨だ。
警察のネット捜査では拳銃の売買をかなり厳しく監視している。
安易に裏の売買サイトなどで手を出せばお縄となる可能性は高い。
そんな可能性を推してまで女子高生が拳銃を手に入れるというのはどれだけの執念かしれようものだった。
「・・・ぅく・・・?」
どうやら気付いたらしい。
顔を上げるとキョロキョロ辺りを見回してボーっとしていたが、こちらに焦点が合った瞬間ハッとした表情になる。
「―――わ、私も殺すのね!」
身構えられる。
涙すら浮かべられる。
「・・・はぁ」
思わず脱力してしまった。
未だに疑われているのは心外な話だった。
「なら、どうして君は殺されてない?」
「そ、それはこれ以上の罪を重ねれば刑が重くなるからでしょう!!」
とりあえず誤解くらいは解いておくべきかと袖から得物を出した。
「!?」
悔しそうに今にも睨み殺しそうな顔で唇を噛んだ少女の前にそっとソレを見せる。
糸の先に括り付けられているのはかなり太い針だ。
人間の体温において復元する形状記憶合金の塊であり、三つの復元が可能になっている。
近頃は形状記憶合金も温度の域によっては二つ以上の形を復元できる。
特殊な加工が必要だったが、それでもそれなりの知識と根気と金さえあれば作れる程度の代物。
三十三度以上で多少大きな剃刀程になり、三十二度以下では針状に再度復元される。
本来の形は更に百度以上で復元するが、そこまで使った事は無い。
「君の言った殺人現場で殺された人間を僕の暗器が殺す事は可能だ。でも、僕の暗器では現場のようには殺せない」
「な、何を今更言い訳なんて!?」
そっと自分の手を傷つけないよう得物を手に乗せて復元する。
「これは人の体温で復元する独創の暗器で、僕以外には使っている人間がいない。同じような事を考える人間がいたとしても常人には使えない。そして、新聞に書かれているようには絶対に殺せない」
「どうしてそう言えるの!!?」
「君の言ってた殺人事件では被害者は犯人に後ろから狙われて、髪を絶ち切って首を落とされ、殺害された」
「そ、それがどうかしたって言うの!?」
「大量の毛髪が落とされたのは新聞でも読んだ。けど、髪は人間の体温よりも明らかに温度が低い」
「ッ」
言われた事に気付いたのか。
少女の瞳が揺らぐ。
「僕のコレは復元しても一本せいぜいが4Cm。例え後ろから首を落とす為に投擲したとしても、殺害には二本必要になる。首を落とした瞬間に引き戻したら針状になるからどっちにしても髪は切り落とせない」
「―――貴方がやってない理由になんてならないわ!」
「なら、好きにすればいい」
拳銃を床に置く。
「君は本当に殺したか定かでない相手を拳銃で撃ち殺して警察に連行されることになる。刑務所から出てきた時には本当の犯人がいたかどうかすら分からなくなってる」
そのまま背を向ける。
これでもまだ撃たれるなら、仕方ない。
「・・・・・・・・」
歩き出すと後ろで銃を拾う音。
「もし、貴方が犯人ではないとしても・・・貴方は警察に行くべきです」
「君がもしも通報すれば、僕も君の事を通報する。霜山円子さん」
気付いたのか。
ポケットを探る音。
「―――貴方!?」
「電子情報上の隠蔽が上手くいっていたとしても調べられればすぐにバレる。君は犯人を捜す時間もなく逮捕されて、結局犯人を見つける事が出来ない」
生徒手帳をヒラヒラさせると悔しげな声が呻いた。
「わざわざ自分で復讐を企てるなら、君にとって一番の痛手は捜索できなくなる事。僕が犯人かどうか確証が持てないまま事件を終わりにするなら、それでも僕は構わない」
「くッ!?」
構えられる音。
「今、もしも僕を撃てば、近くにいる警察に君はすぐ拘束される」
迷っているのか撃たれなかった。
「待ちなさいッッ!!」
「これ以上待つ理由がない」
「待ちなさいよ!!!」
まるで泣きそうな声に仕方なく振り向く。
「貴方が本当に彼を殺した犯人じゃないって言うなら、それが本当なら、私に協力しなさいッッ!!!」
やけっぱちになっているのか。
ヒステリックとまではいかないものの、かなり本気で撃ちそうな勢いで叫ばれる。
「警察に任せておけば?」
「警察なんて!? 私の証言一つ取り上げてくれなかったのに!!」
溜息を吐く。
「・・・一つだけ聞く」
その瞳を見つめた。
「殺された人は君の何?」
動揺からか銃口が揺れた。
「私の・・・兄さんよ」
涙が一粒ポロリと零れ落ちる。
「わ、私の目の前で・・・目の前でッ・・・兄さんは・・・ッッ」
感情を抑えきれなくなった手が震えていた。
「・・・・・・協力してもいい。ただ、条件が三つ」
「な、何よ・・・!!」
「一つ。君も僕の探しものに協力する事。二つ。こっちの事情に首を突っ込まない事。三つ。見付かるにしろ見付からないにしろ探している最中に拳銃は無し」
「それが・・・貴方の条件?」
「僕が安心して協力できる条件を満たせないなら、この話は無かった事にする」
「な、なら、私からも条件を言わせて貰う!!?」
「それが受け入れられるものなら」
「私からの条件は二つ。貴方の身辺情報を全て。もう一つは・・・どんな事があっても誰かを殺したりしないで」
「矛盾してると思わない?」
「私は兄さんを殺した奴を破滅させられるならそれでいいの。でも、だからって・・・他の誰かを殺してまで・・・復讐を達成したりしない」
銃口が下ろされる。
「・・・信じよう」
振り向いて近づくとビクリとされた。
凶悪犯に面と向かって対する度胸は無いらしい。
さっきの銃撃は余程に怒りが後押ししていたのかもしれない。
手を差し出すものの、取られる事はなかった。
「名前・・・まず名前を教えて」
見上げてくる瞳があまりにも真剣だったからか。
「久木鋼(ひさぎ・はがね)」
すんなりと名前を教えていた。
「・・・・・・そう、なら私は貴方を久木と呼ぶわ」
そうして奇妙な関係が始まった。
片や兄を殺されたお嬢様。
片や世間を騒がす通り魔。
何処にも接点の無い二人はそうして同じ方角を向く事となった。
同類(サンプル)を未だ一人も発見できていない夜。
運命というものがあるならば、確かにその夜が自分の運命の日だったのだろうと僕は後で気付く事になる。
核の文字が紙面に踊り、夜出歩き難くなったのはそれから二日後の事だった。
*
霧の中を歩めば、覚えざるに衣湿る。
主に人は知らぬ間に周辺の環境に影響されているという事の例えだが、佐武戒十は今現在の警察組織が正にそれではないかと思うようになっていた。
あの記憶を失う事になった誘拐事件以降、問題なしと判断されて退院した佐武は様々な事件を盥(たらい)回しにされ続けた。
それは佐武に誘拐事件を忘れさせる為の嫌がらせ、というよりは・・・まるで上層部そのものが混乱しているかのような印象を彼に与えた。
巨大な力を持つ警察権力すら上回る何かが蠢いている。
それは政府か。
それとも財界か。
あるいは政治家か。
又は諜報組織に類する何処かか。
真実が分からずとも確かにその影が佐武の目には見え隠れしていた。
中国との戦争やら国内の左翼の排斥活動に忙しい政府は目に見えて移民労働者に焦点を当てた治安維持・警備を警察に要請している。
しかし、それに警察が上手く応えているかと言えば答えはNOだ。
警察上層部にも派閥やら属するグループがある。
右翼系の政治組織の者がいれば、保守派議員と繋がりの深い者もいる。
各省庁との太いパイプを持っている者はそれぞれの省庁の意思を代弁し、逆に警察の意思を外部に運ぶ渡り鳥としての役割も持っている。
近頃の主役は外務省とパイプのある者で主導権を握っているが、各派閥や省庁の利権・柵が戦争という危機を前にしてエゴを剥き出しにしている為か、上層部の意思決定速度は遅滞していた。
「それで我々に何の御用でしょうか。警視総監殿」
初め呼び出された時には何の冗談かと佐武は思った。
警視総監直々の呼び出し。
会った事もないトップから家に呼び出されるような覚えは無い。
誘拐事件に付いては表向き無かった事にされている。
そこで失われた命すら・・・表向きは捜査中の事故という事で処理されていた。だというのに・・・臭いものには蓋の精神が行き届いた組織の長が何故その臭いものを見た人間を呼び出したのか。
「・・・・・・此処に君達を呼んだのは他でもない。とある事件に付いて調べてもらいたくてね」
男が椅子に付いたまま、デスクの中から一冊のファイルを取り出した。
「事件?」
佐武の横で声が上がる。
それはテロリストを追いかけていたはずの佐武もよく知る男、宮田坂敏だった。
「十数年前の【黒い隕石】事案当時の事件で君達二人に再捜査を依頼したい」
「依頼?」
佐武はその不自然な言葉に内心首を傾げた。
「再捜査・・・ですか。見ても?」
宮田の言葉に警視総監が僅か躊躇する素振りを見せる。
「出来れば、やるかやらないかを決めてから見る事をお勧めします」
「「・・・・・・」」
近頃のガチガチな右翼系高官が珍しくない警察官僚の中でも柔和でフレンドリーと評判の警視総監が顔を固くしながら言う時点で二人にはそのファイルが地獄の扉にも等しいのだと理解出来た。
「この件は極秘でね。公安や第十六機関、外事の管轄下で処理するには不適当・・・だから、私はここ最近起きている【一連の事件】に関わってきた君達に頼む事にしたんです」
「待ってください!? 【一連の事件】ってのは何の話ですか!?」
佐武は思わぬ所からやってきた情報に身を乗り出した。
「君はこの警察という組織の中で最も【事件】への接触率が高い」
「接触率・・・」
警視総監の言葉は佐武が近頃の事件で感じていた諸々の違和感を射抜くものだった。
「宮田君と君を選んだのは【警察官】として全てを理解する立場に置いても問題ないと判断したからだ。もし、この件に関わるなら、これから設立される【特案捜(とくあんそう)】の人員として君達を招聘したい」
「特案捜?」
宮田が目を細める。
「特殊案件専従捜査係。私の直轄で活動する場所で明日発足する事になっています」
佐武が警視総監を睨み付けた。
「其処に・・・其処に入れば・・・全て分かるんだな?」
雲の上にいる人間に対する態度ではなかった。
佐武に警視総監が頷く。
「君達の持っている違和感の七割方は氷解するだろうね。しかし、もしもこの件を引き受けるなら、君達には大きな危険が伴う」
「はっ。こちとらこの間からケチの付きっぱなしですよ。警視総監殿」
「その危険は警察組織ではまったく歯が立たない・・・そう言ってもかな?」
佐武が唇の端を吊り上げる。
「オレは・・・警察官だ。怪獣が相手だろうと軍隊が相手だろうと市民の安全を守るのが仕事だ」
絶対に引かないとの佐武の回答に宮田は苦笑した。
これ程までに言い切る人間を宮田は他に知らなかった。
「どんなに君達が奮戦しても【これから起こる事件】の九割方は解決できず過去に沈んでいく運命かもしれない」
「警視総監。私は・・・いえ、私達は警察官です」
宮田の声に警視総監が笑みを作る。
「・・・君ならそう言うと思っていましたよ」
佐武が宮田に視線を向けた。
「お前のとこは・・・放っておいて大丈夫なのか?」
崩れた口調で話しかけられても宮田はそれを訂正しなかった。
「心配はしていません」
「なら、決まりだ」
佐武が古びれたファイルを見つめる。
「明日付けで辞令が降りると思うからよろしくね。それとそのファイルの名前を教えておくよ」
警視総監がファイルを宮田に渡した。
「名前、ですか?」
「【Mファイル】 そのファイルは昔からそう呼ばれてる」
「Mファイル・・・昔の海外ドラマを思い出すな」
佐武の言葉に警視総監が笑った。
「はは、似たり寄ったりでしょう。そのファイルは三十数年前から代々警視総監が受け継いできたもので通常では考えられない迷宮入りにせざるを得なかった事件だけが載っている代物ですから」
佐武と宮田が並んで、汗の滲む手でファイルを開いた。
「君達が主に捜査する事件は最初に入れ込んでおきました」
二人が促されてファイルを開く。
「殺人事件、ですか?」
宮田がページを捲った。
「外字秋定(がじ・あきさだ)教授・・・外字?」
佐武が聞いた事のある苗字に眉を顰め、二ページ目に釘付けになった。
「そこに載ってる事件は最初のページに入れ込んでおいた事件を除いて新旧全て後回しにしていいですから」
「どういう事ですか?」
「その事件さえ、解決したならば・・・これから起こり得る全ての問題は日本を脅かす事もなくなるだろうという事です」
「脅威・・・?」
宮田の声に警視総監が一人窓の外を見上げる。
「戦争、こちらに侵出している【連中】、この国を破滅に追いやろうとする【彼ら】、果ては更なる植民地支配を望む【米国】に至るまで・・・全て黙らせられるという事ですよ。三十数年前、そのファイルの大本を作った公安の鬼女はこのファイルが継続され秘密裏に引き継がれる事を予期していなかった。警察という組織の体質を考えれば、こんなファイルは消滅するだろうと完全に破棄しなかった。だが、だからこそ誰にも知られず引き継がれたソレは我々警察の最後の切り札となる」
ゴポリと何かが滴る音がした。
「歴代の警視総監達は時の総理や政治家達からすら、そのファイルを隠蔽した。それは日本国民を守る最後の盾が自衛隊でも無ければ米軍でもない・・・警察という組織に他ならない事を知っていたからです」
振り返った男の姿に二人が息を飲んだ。
「警視総監!?」
「おい。大丈夫か!?」
駆け寄ろうとした二人が手で押し留められる。
「そのファイルの全事件は一つの線で結ばれています」
椅子に寄りかかった体が震える。
「君達は今日此処には来なかった。そういう事に―――してください」
口元から溢れるものを吐き出しながらも緩まない眼光が二人を釘付けにしていた。
「何を馬鹿な事を!?」
宮田が救急車を呼ぼうと端末に触ろうとしたものの、その手が血塗れの手で押さえられた。
「宮田君。どうやら僕は此処までのようだ」
「!?」
「最後の頼みとして今からこの手帳の通りに行動してください」
デスクの上に置いてあった小さな手帳が宮田に押し付けられる。
「警視総監!? 貴方は何を知っていると言うんですか!?」
「全てを話す時間は・・・早く此処を・・・」
グラリと傾いだ体がデスクの上に倒れ込む。
「警視総監!!!」
「―――お願いだ・・・宮田君・・・」
思わず近寄ろうとした二人にそれでも「逃げ・・ろ」と短い言葉が呟かれ、途切れた。
「今、救急車を!!」
端末をコールしようとした佐武の手を宮田が抑えた。
「―――佐武警部補。行きますよ」
「な!? 何言ってんだ!? 宮田さん!?」
「この手帳に書いてあります。自分が死んだらそれは攻撃を受けたからだと。攻撃を受けて自分が死んだ場合、速やかに其処から逃げなければ、同じ目に会う可能性が高いと」
「これは人為的なものだって言うのか!?」
「行きましょう。絶対に救急車を呼んだり誰かに連絡を入れるなと書かれてあります」
「おい?! 待てよ!? 正気か!!?」
「警視総監は・・・数少ない友の一人です。彼の意志を・・・彼の死を無駄にしてはいけない・・・」
宮田の握り締められた拳から血が滴る。
佐武は警察官としての己を捨て切れず叫んだ。
「オレ達は警察官だ!!!」
「【これから起こる事件】の九割方は解決できず過去に沈んでいく運命だと彼は言ったんですよ!!?」
「―――そんな、まさか!?」
宮田の言いたい事を悟って佐武が動かなくなった警視総監を見つめる。
「我々が彼に出来る事は彼の死の真相を探り、もし出来るならば犯人を追い詰め、司法の場に引きずり出す事だけです!!! 早く!! 我々が死んでは誰にも真相の究明は不可能になる!!!」
佐武は唇を噛み締め、己のやるべき事を悟り、頷いた。
(必ず、貴方の仇は取りますよ。警視総監・・・)
後ろ髪を引かれながら早足で二人はその場から去った。
次の日、警視総監肝いりで設立されたものの当の本人が心筋梗塞で亡くなった為に閑職扱いとなった係へ二人の刑事が配属される事となる。
数日後、事件にもならず捜査もされなかった警視総監の葬式に参列した佐武と宮田は誓った。
ファイルの全ての事件を解決する事を。
それから三日後、第二次日中近海事変を機にファイルに記された事件の捜査は進展を見せていく事になる。
【特案捜(とくあんそう)】へ最初に持ち込まれた事件は海上保安庁と海自からのものだった。
日中近海事変において拿捕された四隻の空母内部で起こった大量無差別殺人。
国が非難される事を恐れて公には伏せた事件が極秘扱いとされながらも、何故か二人の下へと降りてきた。
【血海事件(けっかいじけん)】と一部で俗称され、不可解な殺傷方法から解決困難とされた特殊事案は【Mファイル】内の一つの事件と符合していた。
【黒い隕石】が降ってくる前年にGIO所有の研究所で起こった事件の資料にはその一件で生き残った五人の名前が記載してあった。
荒崎完慈(あらさき・かんじ)。
波籐雅高(はとう・まさたか)。
亜頭小夏(あず・しょうか)。
國導仁(こくどう・じん)。
御崎彰吾(みさき・しょうご)。
過去に続く扉を叩こうという二人の警察官の挑戦は誰にも悟られる事なく、もう始まっていた。
恐怖とは何処か恋に似ている。
失恋とは何故か死と隣り合わせだ。
幸せはいつもそこにある。
呆気なく壊れる儚さの上に乗っている。
第四十七話「恋のテロリズム」
奪うなと誰もが足掻いた。
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第四十七話 恋のテロリズム
第四十七話 恋のテロリズム
凡庸さを大事になさい。
教養クラスの三人にある日そうグランマは説いた。
人よりも優れた事が出来るに越した事はない。
そう周辺の大人達の有り様を理解していた誰もが聞いて首を傾げた。
すると老婦は日本にある一つの言葉を持ち出した。
『過ぎたるは及ばざるが如し』と。
【嘗て届かぬ果てであった月は人類が到達する事の出来る領域となったわ。手を伸ばし続ける者の頂が此処にはある。それは人類の叡智と挑戦の歴史の最先鋒。けれど、届かせる手を持った人々は一握り】
何故か寂しそうに続いた言葉が三人にはまるで魔法の如く耳に残った。
どんなに便利な社会になっても。
どんなに高度な文明を築いても。
どんな先端科学を持ってしても。
人は幸せそのものを生み出しているわけではない。
『『『 』』』
誰かと共に在るだけで人は幸せになれる。
それがもしも恋し愛される間柄であるならば、それは尚更だろう。
あるいは祝福された時、人は幸せになれる。
それがもしも喜ばしい日の出来事であるならば、それは意義深いものとなる。
誰かに微笑みを向ける時、そこに高度な科学も文明も技術も重要であるだろうか。
お腹一杯の食事をして、温かな寝床に入って、愛する人と共に眠りに落ちる。
それは確かに物が無ければ成り立たないかもしれない。
しかし、僅かな食事でも、凍える寝床でも、人間は確かに幸せを感じられる。
豊かさの中だけに幸せがあるのではない。
貧しさの中にも確かにソレは息衝いている。
喜びも悲しみも抱き締めた・・・そんな凡庸な日常にこそ、きっと幸福がある。
だから、もしも叶うなら、そんな日々を、人生を歩んで欲しい。
【幸せになりなさい。それは生み出すものでも与えられるものでもない。きっと、もうそこにあるものだから】
目を覚まして少女ソラ・スクリプトゥーラは小さく感じるようになった部屋の中で起き上がった。
「・・・・・・」
仲良く並んだ布団が四つ。
前日の騒ぎが嘘のように静かな寝息だけが室内には響いている。
白み始めている彼方からの光がカーテンの隙間から零れていた。
それはまるで雲間から覗く天上の光の如く。
青年とそれに寄り添うように眠る二人の少女達を照らし出していた。
「グランマ・・・今なら・・・分かります・・・貴女が言っていた事の意味が・・・」
そっとカーテンが開かれる。
「ん・・・・」
何よりも己の意思に殉じる青年。
「ふぁ・・・」
祖国と義と忠を重んじる少女。
「nya・・・」
争そいを良しとせず自ら国を出た幼子。
(此処にある日常・・・奇跡・・・あの頃もそうだった。きっと、幸せは・・・あそこにも・・・)
もぞもぞと動く誰もに笑みを投げて、ソラ・スクリプトゥーラは寝巻き姿のまま、青年の枕元に座った。
「・・・ソラ・・か?」
目元を擦った青年が起き上がる前にそっと頬に手が添えられて。
「おはよう・・・ひさしげ・・・今日も良い天気みたい」
綻ぶような笑みが向けられる。
「・・・昨日の言葉は訂正しないとな」
「?」
「出会った頃よりも良い笑顔になった・・・ソラ」
「――――ひさしげ・・・」
染めた頬が赤いのは朝焼けのせいだと言い訳して、少女は心の内に溢れるものに従い行動した。
柔らかな手でそっと青年の顔が包まれ、額に軽い音が響く。
少女が自分のした大胆な行動にようやく理性が働いて、顔に添えた手を離そうと―――。
きぃぃぃぃぃぃ・・・・。
「「!?」」
安っぽい玄関の扉が開いていた。
朝一番で押しかけ女房的にやってくる富豪少女『布深朱憐』が一切変化の無い笑みを浮かべたまま、気を失って玄関へと倒れ込んだ。
*
第二次日中近海事変の当日。
クーペに乗っていた誰もがラジオやら端末やらを取り出して事の次第を見守っていた。
途中で家令達から連絡を受け取った朱憐はようやく帰ってきた久重との時間を惜しみつつも向えの車に乗って去っていった。
それからソラが一部引き継いだらしいアズのネットワークによって情報を収集し続ける事になった為、初めて日本にやってきたカウルに関する諸々は必要最低限の事以外全て後回しにされた。
太平洋側から中国の原潜が核を発射したという情報をリアルタイムで聞いていたその場の全員や朱憐に連絡していた虎は息を飲んで事態の行く末を見守ったものの、結果は墜落。
GIOがさっそく衛星を操作したとの裏情報に誰もが一喜一憂した。
落ち着かない夕食時を過ごし、カウルの生活用品を買い足しに走り、情報の整理やら状況の監視やらでこれ以上の危険が無いと判断され、全てが安定したのが午後十一時過ぎ。
ろくに歓迎も出来なかったカウルに大して久重は誤った。
明日色々話そうと言われて少女もコクリと頷いたのだ。
そして、朝っぱらから誤解、いや・・・有罪全開言い訳無用の状況が展開されたのだから、女性比率がまるで笑えない事になっている外字久重の部屋は騒がしい事この上なかった(精神的な意味で)。
(ひーちゃん・・・やっぱり、この人達と・・・あぅ・・・凄く白くて綺麗・・・ぅう・・・かっこいいから当然・・・ですよね)
インドでは肌は白ければ白い程に良いとされる。
幼いカウルにとって久重の傍にいる女性陣はまるで驚きの白さなんて洗剤を売る会社の謳い文句さながらの美貌に見えていた。
自分を救ってくれた【ヒランヤちゃん】の中の人。
途中で着ぐるみを脱いだ久重との出会いはカウルの中ではもう飛び切りの衝撃だった。
今まで友達という対象として格好良くて憧れる間柄だったというのに中から飛び出してきたのはまるで御伽噺に出てくる王子様。
優しい笑みで頭を撫でられてからというもの、初めての空の旅も上の空だった。
その青年が紹介した【仲間】達は誰も彼も女性ばかり。
しかも、自分よりも白くて、何か力強くて、更にはとても有能そうな面を見せられた。
コンプレックスなど生易しい。
ハッキリと自分が劣っていると感じたカウルは朝から勃発した女の戦いを黙って見ている事しか出来なかった。
ちゃぶ台を五人で囲んでの狭い朝食時。
サクッと火蓋を切ったのは無論、朝から見せ付けられてしまった布深朱憐その人である。
「久重様」
「はい。何でしょうか。朱憐さん」
もういっそ土下座していた方がいいのではないのだろうかという威圧感に萎縮しつつ鮭の切り身をモグモグと頬張った久重が味も分からずにビクビクしながら、おさんどんと化した朱憐に答えた。
「朝から随分とお盛んですね」
「いや、あれは・・・ほら、挨拶・・・・だよな?」
苦し紛れにボールをパスされたソラがさすがに恥ずかしそうな顔でプイッと顔を逸らす。
「うっ・・・」
「ソラさんは話したくないそうですわ。さて、何か言う事があるなら聞きましょう」
「朝の家族的なコミュニケーションの一環という事だと理解してくれれば非常に助かる」
「そうですか。へぇ・・・それでアレは何と言う行為なんでしょうか。久重様」
「・・・オデコにチッス」
表現のチープさで誤魔化そうとした久重はすぐにその選択が間違いだったと悟った。
プルプルと箸の先を震わせた朱憐が片手で額を揉み解した後、ジト目になる。
「良く、分かりました。では、久重様は女性からオデコにチッスされても朝の家族的なコミュニケーションとして理解していると覚えておきます」
ダラダラと嫌な汗が背筋に伝わるものの、何と言って女性のご機嫌を取るべきか知らない無智なるドンファン外字久重は困った笑みでその場をやり過ごした。
「それで今日の事なんだが」
今まで会話の外だったカウルに視線が向けられる。
「っ、な、なんですか? ひーちゃん」
真正面から久重に見られて、ご飯とおかずをスプーンやフォークで口に運んでいた印度産少女がオドオドしながら赤くなる。
「これからの生活や諸々の事について話しておきたい」
「は、はい!」
「基本的にオレは【何でも屋】って職業にもならないような仕事で食ってる。正確には非正規雇用で非公式な仕事の依頼を回して貰って、その場その場で解決してく派遣労働者みたいなもんだ」
「あ・・・え、えっと・・・その・・・」
「ああ、済まん。分からなかったよな。つまり、単純に言うと」
「フリーター(仮)ですわ」
朱憐に毒を吐かれた久重が顔を引き攣らせる。
「ぁあ!! フリーター!!」
何やら納得したカウルがニコニコした。
「【神裸フリークス】の詩亞ちゃんが言ってました!! 『フリーター。ああ、それってつまり人生の落伍者よね』って!!」
「ガフッ?!」
思わぬ所から来た毒舌に青年の心がサクッと切り刻まれる。
「それから『職歴にもならない短期低賃金非正規雇用労働者とか何ソレ馬鹿なの死ぬの?』とも言ってました!!」
「ゲフッ!!?」
「日本語の暗喩はとっても難しいです」
「(いや、暗喩じゃないから!? ド直球だからソレ!!?)」
もう止めてオレの心のライフはゼロよ、とも言えず。
顔色が悪くなった久重を不思議そうにカウルが見る。
「どうかしたんですか? ひーちゃん」
「い、いや、何でもない・・・と、とにかくだ。オレはそういう感じなわけだが、大体一日の大半は仕事で家を開けるのが常なんだ。それで昨日色々と雇い主の残してった仕事内容を見たんだが、かなりの量をこなさなきゃならない。で、おざなりになって悪いと思うんだが、仕事の間は朱憐の家で預かってもらう事になると思う」
「え・・・・・・」
今までの表情が嘘のようにカウルの表情が翳る。
「カウルさん、と呼んでよろしいですか?」
朱憐が前日に打ち合わせをしていた通り、気落ちした様子のカウルの横で話しかける。
「・・・は、はい」
「貴女に何も話さずにとても大事な事を決めてしまってごめんなさい。ただ、この話自体が久重様の優しさという事だけはお話しておきますわ」
「え?」
「久重様はその・・・貴女も知っている通り、とても危ない事も出来ます。それはお仕事がそういうものを含むから・・・危険な仕事も請け負うから、ですわ」
「あ・・・」
カウルが初めて気付く。
自分を救った青年は父が動かした大勢の大人達を蹴散らした。
その力は少なくともまともな青年が持つには相応しくない程に大きい。
「それにまだ貴女は幼い・・・久重様に昨日頼まれました。日中預かってもらう時、貴女の好きな事を学ばせてやってくれないかと」
カウルが驚いた目で青年を見上げる。
「まぁ、オレの勝手で連れてきたわけだからな。その償いと思ってくれればいい」
何処か照れくさそうに頬を指で掻いた久重の顔を見ていたカウルの瞳から一粒ポロリと雫が落ちた。
「なッ!? そ、そんなに嫌だったか!? いや、嫌なら別に無理強いまでしようとは―――」
「・・・あ・・・が・・と・・・」
二つ三つと頬を伝う雫が増す。
「・・・あ・・・りが・・・と・・・・・・」
涙を見せまいと俯いてしまう少女の目元を朱憐がハンカチで優しく拭った。
「ちょっといい? カウル」
その様子に少しだけ貰い泣きしたソラが目元を袖で擦って、閃いたとばかりにカウルの横に移動してひそひそと話し始める。
「?」
何時の間にそう呼ぶ事が確定したのか。
同じような境遇の少女にシンパシーを感じているのかもしれない。
ソラがそっと耳元で名案を囁く。
「――――お手伝い?」
「うん」
「何の相談だ?」
ソラが青年に向き合った。
「簡単な仕事があったら、時々でいいから手伝ってもらいたいって言ったの」
「それは・・・」
「猫を探すくらいは出来るでしょ?」
「いや、そうなんだが」
「ひさしげ」
どうしてそこまで仕事からカウルを遠ざけたいのか。
理由を正確に理解しているソラは確信を持って告げる。
「一番危険な場所だから一番安全なんだと思う。もしも、何か恐ろしい事があったら、私達がどうにかすればいい。それはきっと・・・危険を遠ざけるよりも必要な事だと思うから」
ソラ・スクリプトゥーラの抱える事情だけが外字久重という青年の全てではない。
アズ・トゥー・アズの手下として、GAMEへの参加者として、GIO・連中・米軍・中国軍閥と戦ってきた。
無数にある危険な事情に巻き込めないと仕事から遠ざけるのは妥当な判断かもしれない。
だが、
「カウルが抱える問題だって危ない事には変わりないわ」
「ッ」
小さな少女がハッとその事実に気付く。
日本にまで逃げているとは父も思うまい。
そう心の何処かで思っていた事を言い当てられたような気がした。
「危険から逃げてるだけじゃ何も変わらない。こんな事・・・私が言うべきじゃないのかもしれないけど、いつかソレと対峙する時は必ず来ると思うの」
「ソラ・・・・・・」
久重は反論できなかった。
それはそこにいる全員に言える事だ。
セレブで一般人に近いとはいえ、誘拐されて恐ろしい化け物に追いかけられた朱憐。
死亡したと思われているだろうが幇という組織の体系を考えれば、いつ刺客や同業者などが接触を持って来るか分からない虎。
最先端の科学技術を有する組織から追われ続け、今は監視対象とされているソラ。
誰もが危険と隣り合わせに生きている事はそれを助けてきた久重自身が一番よく分かっている。
「・・・簡単なのだけだぞ?」
そう一言を呟いた青年にパァッとカウルが顔を輝かせた。
「はい!!」
そうして新たなる居候との同居生活がスタートした。
だが、その時まだ外字久重は知らない。
家計に新たなる項目【教育費】が直撃するという事を。
*
ソ連解体という共産主義の衰退以降、日本においてテロリストという言葉は独り歩きしている。
嘗て赤軍や革命闘争に身をやつした者達が1990年代より後、テロリストという言葉を遠く感じるようになっていったという記録もある。
それは往々にしてテロリストが革命を夢見た青年淑女ではなく、ただの物騒な厄介者の象徴として祀り上げられたからに他ならない。
資本主義は共産主義を駆逐した。
だが、戦いは次なる場(フィールド)に移っただけの事。
宗教と大国のエゴと資本主義。
それらが渾然一体となって不の連鎖を刻んでいくテロとの戦いに終止符は無かった。
テロ戦争。
人々は大国の戦いをそう呼ぶようになった。
そんな争いを遠くから見つめる事となった日本においてテロはもう現実に革命という言葉と結びつかない程に乖離してしまっていた。
故に日本においてのテロとは正しく邪悪の象徴。
嘗て社会を変えようと内部からの変革を望んだ者達が知るテロと平和となった世代が知るテロは天地程にも開きがある別物と言えた。
宗教や外国というキーワードと関連付けられ、社会から排斥される【敵】として認識されるようになったテロという言葉が新たな意味として再構築されていったのはそれだけ日本という社会が安定していたからだろう。
武装して標的を襲い誘拐する。
乗り物のハイジャックによって要求を通す。
そういう旧いやり方のテロが日本社会の内側から掃除されつつあるという意識が芽生えた事も大きい。
人々の間で共有されるテロという言葉の本質(イデア)が変わり、時代の変遷によって在り様が多様化していく事で内包・指示される領域が拡大したのは当然の帰結だった。
扇動者(アジテーター)すら電子の海で騙るようになり、0と1の波に乗って世界を巡るようになった人々の意識はテロという言葉へ多くのものを当て嵌めた。
環境テロ。
情報テロ。
企業テロ。
産業テロ。
宗教原理系組織。
テロ支援国家etcetc。
主義主張利益の為に暴力を持って何かを変える事が依然としてテロの外国での共通認識である中で、それでも「これはテロリストと同じやり口だ」とか「これは新たなるテロだ」とか「国自体がテロを輸出している」と言い始める人間が増えた。
拡張されていくテロという枠組みはマスコミの言葉遊びと揶揄されながらも確かに情報の受け手に飲み干されていった。
日本人ならば間違ってもしないだろう原子力発電所へのテロ。
言わば【原発テロ】を敢行しようとした男達は新たな言葉の仲間入りを果たしたと言える。
原発を推進する電力事業者にしてみれば【事故が起こったらお前らはテロリストだ】と言われ叩かれる時代に被害者としてあるいは原子力の守り手として【テロリストを撃退した】と言うのは胸のすくような心地だろう。
『今回の【原発テロ】に対しまして我々【統一電力事業団】は決定的な意思を示す事が出来ました。国内で燻る外国勢力や過激な環境保護活動を推進する組織が如何な行動を起こそうとも、我々は断固として日本の安定的な電力供給を続けます』
一歩間違えれば国を揺るがしかねないテロを未然に防いだ。
風向きの厳しい原子力発電の喧伝には持ってこいのネタと言える。
それを一体誰が防ぎ警察に通報したのかはさておいて、諜報機関にも察知させずテロに及ぼうとした者達の手際は並大抵ではない。
「遊園地テロ。ウィルステロ。そして今度は原発テロですか。何とも頭の痛くなる話です」
第十六機関。
日本が抱える対カウンターテロ組織の筆頭。
その東京本部の地下某所で溜息を吐いたのは丘田英俊だった。
未だ自衛隊へ帰るよう辞令が下りていない彼は機関の歯車の一つである。
中国軍閥と日本の諸々を監視し、誘導し、制御しようと干渉し続けて、結局のところは蚊帳の外に置かれた第十六機関の職員達は・・・プライドはボロボロ、働きづめで過労死寸前、そんな顔をして・・・チーフである丘田の愚痴に固い顔をした。
様々な組織や勢力の思惑が乱立する世情は彼らが思っていた以上に辛かった。
ケチが付いたのはまず数ヶ月前に行われた正体不明の組織、その末端だろう構成員との戦闘からだ。
警察の特殊部隊のエリートやら自衛隊生え抜きのソルジャーやらを擁する第十六機関の実働部隊四つの内の一つが戦闘の後遺症、隊員重傷者多数の為、機能不全に陥った。
更にGIOのGAME前後に起こったテロを殆ど未然に防ぐ事が出来なかった。
遊園地テロでは警察から情報を渡されるという在り得ない状態に陥り、ウィルステロでは出所も犯人も特定できずに結局収束するまで事態の推移を見守るしかなく、最後の原発テロに関しては世間がゴタゴタして軍閥や日本国内への情報操作に人員を割いていたとはいえ、その存在すら分からなかった。
続く失態に彼らの上はカンカンで組織の大幅な改編すらも在り得た。
それでも未だに何とかなっているのは一重に丘田の尽力と内閣官房長官の後ろ盾があればこそ。
その官房長官にしても機関にとっては監視対象であり、後ろ盾であると同時に場合によっては排除するべき障害となっている。
辛うじて存在を許された危ういバランスの上に成り立つ組織。
それが今現在の第十六機関の立場だった。
外事や公安には任せられない裏の仕事。
税関や入国管理局では対処し切れない大規模テロ組織の水際での摘発。
内調では把握し切れない国家間のパワーバランスの調整や折衝、情報の取得・干渉・隠蔽・抹消etcetc。
人口が一億一千万人を切ったとはいえ、それでも一億人以上いる日本人という総体を守るにしては人員も資金も環境も不足している彼らがそれでも戦えているのは日本人の鏡のような労働体勢と高い職業意識やスキル・・・そして、何よりも国を守ろうという愛国心があるからに違いない。
その彼らが明らかにオーバーワークであるにも関わらず、一向に改善されない日本の状況は言ってみれば、在り得ないような危機が迫っている前兆と捉えられなくもなかった。
「それで各班の現状はどうですか?」
それぞれの事件。
それぞれの捜査。
それぞれの問題。
次々に報告されていく情報に芳しいものは殆どない。
しかし、たった一つだけ各班の班長達の報告は一致した見解を持っていた。
「つまり、テロリストと思われる人間達に裏から接触し、バックアップを図っている人間がいる。という事は分かったわけだ。大変喜ばしい情報です」
丘田の冗談なのか暗に叱責しているのか分からない言葉が班長達の内に燻っていた感情を発火させる。
「チーフ・・・一つ・・・いいでしょうか?」
「何でしょうか。綾坂君」
四十代。
今はラフなTシャツにGパンといういでたちの優男が鋭い視線を丘田に向ける。
「我々に何か隠してはいませんか?」
ズバリ核心を突いた綾坂に他の班長達が驚いた。
「それはつまり僕が実は鬘(かつら)を被っているという事でしょうか?」
「ふざけないでください!!!」
会議室のテーブルに両拳が叩き付けられる。
「此処にいる全員が確信しているはずです!! いや、何人かは知っているのかもしれないが、たぶん全体像を知っているのは此処でチーフだけでしょう」
「ほう? 僕が一体何を隠していると?」
「我々の敵に付いて」
間髪入れずに返った答えに丘田がポリポリと頬を掻く。
「今現在、国内で確認されている最重要監視対象は六つ。GIO特務。軍閥連合本体。中華系移民労働団体。沖縄米軍内部に存在すると思われる特異な部隊。GIOのGAME内においてエントリーされた天雨機関と名乗る数名のチーム。そして、我々の実働部隊をたった一人で壊滅させた【少年に見える何か】を要する組織」
自分で言っておきながらあまりにも曖昧模糊とした情報に綾坂が顔を顰める。
「チーフもお分かりでしょう。我々ではそろそろ手に余る事態になりつつある」
「そうでしょうね」
丘田が眼鏡の位置を直した。
「それに加えて、また新たな班を立ち上げた事をこの場の誰もが不安に思っています」
「理解はできます」
「なら!!? 此処は情報の共有を図るべきではないのですか!!」
「・・・そろそろ限界かと思っていましたが、案外早く根を上げましたね」
「限界なのはチーフにも分かっていたはずです!!」
「ええ、勿論」
まったく動じない丘田に綾坂が歯を食い縛る。
「・・・そろそろ責任を背負ってもらわなければならない時期なのかもしれません」
「責任?」
「今日、此処に各班の班長を集めたのはちょっとしたイベントを開く為なんですよ」
「どういう事ですか」
「・・・入ってきて下さい」
会議室の扉が開き、その場を埋め尽くす程の人間が雪崩れ込んできた。
「な!? チーフ!!!? これは一体!!?」
班長達が全員目を見張った。
まったく知らない人間達が国の最重要機関の一つである第十六機関の会議室にドヤドヤと入り込んでいる時点んで異常事態に違いなかった。
綾坂が思わず腰の拳銃に手を掛けようとして、その手を押し止められる。
【まぁまぁ、若人。とりあえず彼の話を聞け】
誰の声かも分からない内に綾坂の手からスルリと拳銃が消えた。
班長達の間に異様な空気が漂い始めたところで丘田が手を上げて合図をする。
思わず班長達の幾人かが身を屈めようとした時、パーンと火薬の弾ける音がした。
――――――おめでとう。
「・・・は?」
綾坂が身を硬くしてポカンと呆ける。
「これから此処にいる班長全員を第十六機関の正式な職員として歓迎します」
グレーのスーツを着た五十代の男が丘田に辞令らしき紙を数枚手渡す。
「こ、これはどういう!? 正式な職員とは何なんですかチーフ!?」
クラッカーの紙を頭に貼り付けたまま綾坂が丘田に食い下がった。
「いえいえ、今までも一応公務員扱いだったのですが、第十六機関の本体と合流してもいいと判断された。そういう事です」
「本体!?」
班長達が固唾を飲んで綾坂と丘田の話に聞き入る。
「君達には話していませんでしたが、第十六機関は二つに分かれているんですよ」
「二つとは・・・」
「下部と上部・・・単純に言えば今まで仕事は試用期間でこれからが本番と言ったところでしょうか」
「そんな話聞いた事もない・・・」
「当たり前です。本当に仲間として認められたものでなければ明かされる事はない事実ですから」
丘田が立ち上がり「付いて来て下さい」と班長達を誘導して部屋を後にする。
地下施設を本部としている第十六機関。
その最深部である、と信じてきた設備の横にある予備電源施設。
そこにある何の変哲も無い階段がいつもよりも長くなっている事に気付いた班長達が驚きながらもその長い階段を下っていく。
「ちなみにここから先で出会う半分以上の人間が専門技能のスペシャリストです。そして、ここからが肝心なのですが、これからこのチームで新たなオペレーションを行う事になるでしょう」
「・・・この状況で今の仕事を抜けろと?」
綾坂の言葉に丘田が頷く。
「ええ、というか。この状況だからこそ、ですか。ちなみに貴方達の代わりに新人を同じ分だけ補給する事になっていますから、残してきた仕事の事は安心してください」
数分も階段を下りたはずだが、未だに底は見えてこなかった。
「上部の組織形態はチームが主体ではないんです。一人の工作員に対して十人からなるオペレーターや工作補助の担当官を付けて、それぞれのオペレーションを実行してもらうスタイルになっています」
ようやく終わりが見えてきた階段の先には真紅の扉が薄明かりに照らされていた。
「では、実際の現場を見てもらいましょうか」
扉を潜り抜けた先で班長達が全員その広さに絶句した。
広大な空間がそこには広がっていた。
体育館が二つ以上入るだろう空間の壁面にはズラリとパネルが張り付いている。
その中で忙しなく立ち働くのは百人以上になるだろうスタッフだった。
「第十四期候補生全員を連れて参りました」
その場で働いていた全員が一瞬だけ丘田の方を見ると再び自分達の仕事に没頭していく。
「仕事の引継ぎは一両日中に終えてください。これから君達には新規オペレーションチームとして働いてもらいます」
空間の一角。
真新しいビニールの掛かった電子機器が所狭しと並んでいる。
「これから此処が君達の職場です」
全員が戸惑った様子でいるのを丘田が誘導し、機器に手を触れさせた。
「正式な従事はまだですが、先に貴方達には作戦名を教えておきましょう」
丘田がブースの衝立に掛かったビニールを剥ぎ取る。
「【オペレーション・パラムアフィニス】」
「パラ・・・何ですか?」
綾坂が噛みそうな名前に顔を顰めた。
「パラム・アフィニス。このオペレーションの成否如何では様々な勢力から一秒先んじる事ができるかもしれない」
「は、はぁ・・・つまりは情報収集でしょうか?」
班長の一人未だ三十代を出ていないだろう歳若い女が訊く。
「そうですね。この作戦は一人の男を徹底的に監視するものですから」
ざわめくチームに丘田が微笑んだ。
「政治的にも現実的にも監視が困難過ぎると公安や警察も匙を投げた男です。君達の疑問や我々が何と対峙しているのかはこのオペレーションが終わる時までにはほぼ全て明らかになっているでしょう」
「そんな男が・・・」
綾坂の驚きように丘田の笑みが苦笑に変わる。
「まぁ、と言っても・・・何やら愉快な人間らしいというのが前評判です。近頃は年下の少女を何人も侍らせているとか何とか」
そっと差し出された写真をその場の全員が覗き込んだ。
そこには最大望遠で捉えたと思しき青年の顔が一つ切り。
パラム・アフィニス。
パラフィンの語源。
狭義には蝋燭の原料の名を冠する作戦が翌日から実行される事になる。
外字久重の写真写りはハッキリ言って・・・・・・とても悪かった。
心の病と疑えば。
医者に掛かるも不治とされ。
言葉も入らぬ頭では。
永久の言葉も浮かばぬと。
第四十八話「少年少女のミステリヨ」
少年よ、己に素直たれ。
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第四十八話 少年少女のミステリヨ
第四十八話 少年少女のミステリヨ
【おのれ!!! 我が野望を!!? 道を阻むのは誰だ!!?】
風が吹く。
月下に輝くのは白銀の杖。
強大な力を持つ者の怨嗟に応えが返る。
【ゼロ金利だって何のその!!! どんな介入も許さない!! ワロスの魔を退治する為、今日も明日も売り抜けて、外貨を融かす魔女の道!!!】
ビルの上に華麗なドレスを纏った少女が一人佇んでいた。
【お、お前は!!?】
【数字の魔術を操り、ありもしないバブルを発生させたその罪許し難いわ。神様にお祈りはした? これからガクガク震えながら取り立てを食らう準備はOK?】
【ま、まさか!?】
【まだその紙切れに価値があるなんて思ってるなら救い難いわね。格付け会社がランクを上げた時から全ては決まっていたのよ】
【お前は―――】
【金融と株価の使者。『詩亞』只今見参!!! 他人の金で肥え太った魔よ。正しき流れに戻れ!!!】
【や、止めろ!!? そ、そんな事をしたら、どれだけの人間が首を吊らなきゃならないと思っている!!?】
【知った事じゃないわね。正しい数字を使わなくなった時点で破滅は決まっていたのよ】
【こ、この禿鷹がぁああああああああああああああああ!!!!】
【はッ、やらせるかよ!!?】
野太い声の白い獣『ヒランヤちゃん』が逆上した化け物の攻撃から少女を守る。
【皆を正気に戻す魔法の言葉――――きゃぴ☆ふら!!!!!】
少女の杖から演出過剰な輝きが幾重にもエフェクトを纏いながら迸った。
「――――――きゃぴ☆ふら」
「「「・・・・・・」」」
印度産ヲタク少女カウルは一人こっそり深夜再放送していた『神裸フリークス』を与えられた小端末で見ていた。
「ぁ・・・ッ~~~~~~~~~~~~!!!!?」
そして、今世紀最大の恥ずかしさに悶絶し、しおしおと萎びた菜っ葉の如く縮こまると布団の中に潜り込み、震えながら沈黙の海に沈んだ。
「「「・・・・・・」」」
外字家の家主と二人の居候仲間の少女達はカウルの様子に少しだけ笑みを浮かべてから何事も無かったように再び深夜の布団へと戻っていく。
和やかな夜。
世間では『EDGE』と呼ばれる殺人鬼が朝の紙面を賑わせる事件を起こし、都市は夜通し騒がしい警察のサイレンで核の影に怯える事となる。
翌日、仕事の一つである切り裂き魔探しに出る事になっている青年は耳に残る少女の声に苦笑しつつ夢の中に意識を落とした。
*
AR技術というものがある。
現実拡張。
実際の現実の映像に様々な電子情報を上乗せして投影する技術だ。
ジオプロフィットの進展と共に簡便なプロフィットの視覚化に一役買ったAR技術は人々に眼鏡やコンタクトの使用を半ば強制するようになった。
ARグラス。
AR情報を端末から受信し映し出す眼鏡は現在市場の主力商品になっている。
眼鏡市場が眼科医療技術の向上に伴い縮小していた嘗て・・・眼鏡を売る会社にとってARグラスは正に救世主だった。
その市場規模は高齢者から子供までと幅広い。
2000年代。
携帯電話や小型端末を持つのが当たり前になっていったようにARグラスもまた人々の生活に欠かせない商品として根付いた。
街に出れば数多くのAR情報が視覚の中を飛び交い人々の消費活動の一翼を支えている。
霜山円子(しもやま・えこ)は古臭くゴツイARグラスの蔓を押し上げて、待ち人が来るのを待っていた。
土曜の午前。
小さなアパートから待ち人が出てくるのを確認して、その瞳が細められる。
何処か冴えない暗い顔をした十代の少年。
その姿に気を引き締めているのか。
顔にはあからさまに厳しい表情が浮かんでいた。
「久木・・・」
「霜山さん」
片や連続不良通り魔。
片や復讐の拳銃女学生。
早朝から二人を見る者がいれば、きっとぎこちない学生カップルに見えるのかもしれないが、実際にはギスギスした殺されるかどうかという関係。
久木は薄い表情に僅か驚きを乗せ、円子は今にも刺し殺しそうな顔で新聞を差し出した。
「これ・・・貴方の仕業?」
出された新聞が覗き込まれる。
「・・・昨日は履歴書を書いてた」
「つまり、やってないのね?」
首が立てに振られると疑わしそうな顔で円子が久木の顔を見つめる。
「それと新聞を良く読んだ方がいい。被害者は斧で頚部を切断されてる」
「貴方がそれを出来ない理由にはならないわね」
「でも、君のお兄さんの殺害方法とは明らかに異なる」
「殺害方法が毎回同じかどうかも怪しいものね」
暗にお前が毎回別の方法で殺しているんじゃないのかと言われて久木が頬を掻いた。
「確かに僕にもやろうと思えば、斧で頚部を切断できるくらいの膂力がある。普通の人間が斧で頚部を切断するよりは簡単かもしれない。でも、この事件では首を一撃で切断してる。これは僕にも難しい」
「何で一撃で切断したなんて分かるの? 新聞にはそこまで――」
追求しようとした円子の前に久木が端末を差し出した。
「ひ!?」
そこには生々しい首を切り離された死体が切り口も生々しく写っていた。
「や、やっぱりあな――」
久木が端末の端を指す。
「○ちゃんねる・・・死体見つけちったイェーイ?」
スレの名前を読み上げた円子が顔を顰める。
端末が操作され、再び新しいスレが表示される。
【馬鹿発見器によって馬鹿が警察に連行されるスレ5667】
そのスレの一角に新しいニュースが貼り付けられていた。
社会的にアウトな行為をSNSではっちゃける行為が報告されるスレ。
その最新の話題は『EDGE事件』のグロ写真を貼り付けた人間の身辺情報。
言うまでもなく炎上していた。
「そう。言いたい事は分かったわ」
死体の切り口を考察する者が結構な数に上っている為か。
すぐに書き込みが1000を記録しそうな勢いでスレが流れていく。
「なら、良いけど」
「でも、さっきの言い分からすると貴方にも可能なのね」
「・・・・・・」
目を逸らした久木が歩き出す。
「あ、ちょっと!!?」
慌てて円子が背中を追った。
土日は彼らにとって貴重な捜査時間となっていた。
*
人気のない早朝。
公園の一角。
ベンチに座った久木の端末から情報を受け取った円子はそれを熟読していた。
「・・・これ、信用できるの?」
「信用できないなら、それまでだけど」
「・・・・・分かった。今はこのネット上の情報を捜査方針にしましょう」
二人が追っている事件は俗に世間では『EDGE』事件と呼ばれている。
突然に姿の見えない何者かに襲われ、何時の間にか身体の一部を切り落とされる。
その結果として死者まで出しているというのが世間一般と警察の見方だ。
最初は指や鼻といった部位を標的にしていたのがエスカレートして今では首を落として回っている通り魔殺人鬼。
それが『EDGE』と俗称される正体不明の存在。
その本人である久木鋼は事件の初期から起こっているような不良への通り魔以外に手を出していない。
見に覚えのない濡れ衣で殺人犯とされた彼にとって霜山円子の存在はある種毒薬に近かった。
今は拳銃の件と兄の捜査が吊り合っている為に通報されていなかったが、それでも事件が解決すればほぼ100%通報は間違いない。
放課後の時間を共にして数日。
円子の真面目な性格を久木はほぼ把握できていた。
二人の間にある空気は未だ悪い。
今も兄の首を切り落とした犯人では無いかと久木を疑っている円子の目は厳しく、居心地の悪い久木が視線を逸らすのは常になっている。
「コレも端末に入れてみて」
「?」
小さなメモリーを渡された円子が不審そうな顔をする。
「アングラな辺りで話題の探しモノ検索プログラム」
「・・・胡散臭い」
「プラグインと一緒に入れれば、予め登録してた相手とARグラスで共通のものを探せる」
「玩具に興味はありません」
「最近の玩具は侮れない」
「・・・分かりました。気乗りしませんけど」
メモリーを端末に差し込んでデーターを読み込ませた円子がインストールプログラムを立ち上げた。
「『詩亞ちゃんと探そう。忘れモノを追え』・・・」
かなり白い目で円子が久木を見つめる。
「本当に使えるかどうかは使ってみないと分からない」
「・・・・・・」
「このプログラムは元々作者不明でネットのストレージサイトに転がってたものを有志が発見。色々と使ってみた後・・・恐ろしい代物と分かって、ネット上の大本がクラッキングで削除。その後、裏マーケットで目玉が飛び出るような金額で取引されたとか噂されてる代物でもある」
「恐ろしい?」
「二年前取得できた最後の時期に確認された取得者の内で顔が割れてる人間は全員生きてない」
「!?」
ビクリと円子の手が止まった。
「二年前の最新端末でも動かすにはハイエンドな高スペックが要求された。しかも、めちゃくちゃな容量を喰う。
価値が分からなかった当時、ネット上で取得した人数だけは確認されてて、それが十八人。話題に上ってから取得できた人間は基本的に確認できてない。
取得できた内の十四人はネット上で経歴がバレてから数ヶ月以内に全員・・・不慮の事故と自殺と行方不明で消えてる」
「な!? 一体・・・これはどういう!?」
「そのストレージサイトのURLが乗ってた小さなリンクページにはこう記してあった。核弾頭から迷い猫まで」
そのフレーズの胡散臭さに円子が微妙な表情となった。
「・・・どうしてそんなものを貴方が持っているの?」
「残りの四人の一人が僕だ。危な過ぎて二年前に使ったきりになってたのを引っ張り出してきた」
「一体、何を探していたのか教えてくれる・・・」
「とりあえず起動して」
「・・・・・・・」
円子はプログラムを起動するかどうか見守っている久木がどういう意図でそんなものを勧めてきたのか理解できなかった。
「このプログラムを開いた途端に危険に曝されるかどうかが知りたいわ」
「ただちに危険はない。保障する」
保障されたところで信じる以外無い。
だが、どういう経緯で手に入れた代物で、どれだけの価値と危険があろうと・・・犯人を追う為の力ならば、使うという選択肢以外円子にはなかった。
「・・・分かりました」
警察も当てにできずにいた彼女にとって危険を冒さずして何も得られるものはない。
それは疑わしい協力者「久木鋼」を拳銃という代価でもって手に入れた事からも明白。
リスクとリターンは常に両天秤。
ならば、どんなリスクだろうと【取る】のが円子の指針となっている。
「これで・・・」
プログラムが起動される。
すると端末の画面に大量の項目が並べられた。
「その項目に全部情報を入れれば本格的にスタートする」
「その情報は何に使われるの?」
「全て使用者のルート設定に使われる」
「ルート設定?」
「入力と答える項目は約四百項目。知らない項目以外は基本的に全部真面目に埋めた方が色々と精度が高くなる」
「よ―――」
「後で埋められなかった項目は追加できる仕様になってる。情報をシェアしてる相手には項目は全て閲覧可能になる・・・もしも、不公平だと思うなら後で僕の項目を見てみればいい」
久木の言葉に黙々と出てきた項目を埋めていく円子が危険に付いて再び訊く。
「具体的にどういう危険があるか聞かせてください」
「・・・たぶん、このプログラムの反応がネット上で監視されてる」
「どういう事?」
「このプログラムの価値と危険性を知った誰か又は何らかの組織がプログラム保有者を消して回ってる。このプログラムを手に入れた当時、一度だけ使ったものの気付かれる前だった事が幸いして僕はまだ生きてる」
「まるで被害妄想か誇大妄想じゃない」
「でも、その推測は恐らく正しい。そうでなければ、僕は通り魔になれなかった」
「?」
久木が袖から一本の針を円子の前にぶら下げた。
「コレは僕が検索した二年前の結果で造られた。僕程度の人間がこのプログラム一つで正体不明の切り裂き魔になれるんだから、金も地位も権力もある人間がこれを使ったらどうなるか・・・」
【EDGE】の暗器。
人に知られず人を傷つける恐ろしい威力を発揮する代物。
冗談のように人体の一部を切り落とす威力は円子の脳裏に今も焼き付いている。
「検索エンジンの類ではないって事?」
「これは求めるモノへ使用者を近づけるルートを示すプログラム。推測に過ぎないけど・・・たぶん、それが具体的な目標なら必ず辿り着けるルートを膨大な検索結果から類推してこのプログラムは弾き出す。
そのルートに耐える事が出来れば必ず使用者はその目標に辿り着く。実際に使った人間の報告には株で大儲けした奴に人を陥れる事に成功した奴もいた。
どんな数式があれば、そんな事が可能なのかは知らない。ただ、金や権力や地位がある人間がこのプログラムを使えば・・・少なくとも核弾頭ぐらいなら作れるかもしれない」
「大げさ・・・じゃないの?」
「無論、制約も大きい。無数の項目に正しい情報と正しい自分の状況を入力できなければ、ルートの成功確率も下がっていく。
アプローチ方法が複雑化したり複数のルートを構築するのも難しくなる。何より検索による情報収集がそのまま死に直結する可能性があるのは痛い。
このプログラムでライブ情報を検索した瞬間からどうなるか・・・情報不足だとルートの構築も覚束なくなったりもするから、万能でもない」
「・・・まるで使いたくないような物言いね」
「僕の探し物も出来れば、コレを使いたくない。どういう手段でプログラムが監視されてるのかまったく分からない以上、リスクを考えれば起動すらしたくない。だから、本当に最後の手段と考えてた」
「なら、どうしてこんなものを持ってきたの?」
「僕の探しものにも時間が足りないのに放課後の時間はそっちの犯人探しに使ってる。だから、本来の力が発揮できなくても状況を動かすにはコレが必要だと思った」
「本来の力が発揮できないって・・・それじゃ意味なんて・・・」
「少なくともそう高度じゃない特定の目標を達成するのに必要な情報量ならネットで膨大な検索を掛ける必要がない。こっちで集めた情報をそのまま打ち込んで、他に必要な情報をその都度手に入れていけばいい・・・たぶん・・・」
「たぶんって・・・」
確証の無い久木の言葉に円子が呆れる。
しかし、出会ってからそれなりの日数経っているものの二人の犯人探しが殆ど進展していないのも事実だった。
所詮は学生。
しかも、時間・金銭・地位とあらゆるものが足りない。
それを補えるというのなら、どんな曰く付きの代物でも円子は足しにする気でいた。
しばらくして項目が全て埋められ、プログラムが起動される。
なう・ろーでぃんぐ。
そんな文字が躍り、ポロリンと可愛らしい音と共に一文が表示された。
【対人インターフェースプログラムの起動を許可しますか。N/Y】
無論YESを選択した円子の端末がブラックアウトした。
「え・・・」
電源は入っているのにまるで反応しなくなった端末に円子が焦るものの、すぐに気付いた。
自分の隣に誰か立っている。
【うーわ。二年もほったらかしにするとか死んだ方がいいわね。しかも、こんな良さげな女学生GETしてるとか笑わせてくれるわ。
何時の間にか根暗が通り魔になってるし、やっぱ犯罪者になったかって感じよね? 一辺、お前なんて借金取りに追われてコンクリ漬けにされちゃえばいいのよ。ねぇ、聞いてるのゴミクズ?】
魔法少女。
そう呼んで差し支えないヒラヒラした衣装を身に纏う同年代くらいの少女が久木へ悪態を付いている状況に円子が目をパチクリさせた。
ARグラスには大体骨振動性のスピーカーも付いている。
端末からジオプロフィットの音声ガイドなども聞けるのだが、それにしても・・・声はまるで合成には思えない滑らかさだった。
「・・・・・・・」
グラスを外せば当然誰もいない。
何度も円子が確認する。
「最近の玩具は侮れないって言わなかった?」
「・・・・・・・・・」
『神裸フリークス』主人公【祠堂詩亞】の罵詈雑言は日が高くなるまで続いた。
プログラムに悪態を付かれた少年がげんなりした顔をして、少しだけ呟いたのを円子は聞いてしまった。
やっぱり最後の手段にしておけば良かった、と。
*
丘田雅彦(おかだ・まさひこ)にとって近頃の世界は薔薇色に見えている。
世間はテロが多いだのEDGEだの核だの中国軍閥と戦争だの外国勢力と内戦だのと騒ぎ立てているものの、至って普通の学生である雅彦にとっては対岸の火事だ。
そんな事よりも大事な事がある。
例えば、近頃転校してきた金髪の美少女とか。
スレンダーな肢体に丁寧な物腰で少し臆病な子猫みたいな緊張感を持っている美少女とか。
一緒に転校してきた中華系の少女と毎日のように昼を過ごしていて時折、華が綻ぶような笑みを浮かべる美少女とか。
一言で表すなら可憐。
そう言うべきだろうと雅彦は確信している。
クラスの男子はその美少女の転校から一週間程で全員「可憐だ」と呟いてしまった。
気は利くし、話しかければ気さくだし、とても和やかな空気を纏っている美少女なんていう仮想生物(キャラクター)を見たら誰だってそう思うに違いない。
無論、競争率は有名私立大学の受験倍率など軽く超越した。
ただ、惜しむらくは美少女の横にいつもくっついている中華系少女【小虎】の恐ろしいまでのガードが並大抵ではないという事だろう。
挑戦者の殆どは返り討ちにされた。
下駄箱の中身は全て検閲された挙句にゴミ箱へ。
美少女に影の如く張り付いている小さな虎は虎視眈々と獲物を待ち構えていたのだ。
あまりにも激しい妨害活動に男子の一部が難癖を付けようと校舎裏に呼び出した事もあったのだが、その全員が病院に担ぎ込まれない程度にボコボコにされて脅されたらしく。
次の日から「虎怖い虎怖い」とガタガタ震えて布団から出てこないという話もある。
そのガードっぷりから百合属性かと疑われるものの、何だか傍目から見ると仲の良い姉妹のようでもあり、二人の少女が仲良く弁当を突き合う姿は一部の層には人気を博している。
そんなこんなで結局の所は誰も告白まで漕ぎ着けていない。
と言うのが数日前までの話。
雅彦はその鉄壁の虎の防備を潜り抜け、何とか告白するところまで至っていた。
正確には告白中に気を失った。
何をされたのかまったく分からなかったが、たぶん虎の仕業。
一人放課後の空気を大きく吸った雅彦は気合を入れた。
「今日こそ!! 今日こそ空さんに告白だ!!!」
朝から隙を伺っていたのを虎に知られぬよう慎重に事を勧めてきた。
最後の試練は放課後の時間帯。
下駄箱やら何やらを先に必ず調べる虎が目標から遠ざかった時に屋上へ誘えるかどうか。
常に行動を共にしている少女達が数メートル離れた間隙を狙う。
ミッションは難易度ウルトラCと言ったところか。
雅彦は階段を下りたソラがいつも立ち止まる下駄箱から少し後ろの地点から接近した。
二人の少女が分かれ、たった五秒弱の間隙にさりげなく近づき、後一歩というところまで来た時だった。
「空さ―――」
「あ・・・」
ソラが顔を見知らぬ他人かと思う程に輝かせた。
(これは・・・まさか気に掛けてくれてた!?)
雅彦が満面の笑みで話しかけようとしたその時、ソラがいつもよりも早く下駄箱の方へと駆け出していく。
「へ?」
見れば下駄箱を確認していた虎も何やら笑みを浮かべて慌てていた。
二人の少女が靴を履き替え、校門へと走った。
その先に雅彦は何やら気取ったクラシックカーが路地に止まっているのを発見した。
ボンネットに腰掛け、何やら煙草を咥えた二十代の男へ少女達が飛び込むように抱き付く。
あまりの光景に呆然とする雅彦の横でやはり驚いた顔をした学生達がポカンとしていた。
(え? え? 何が!? 一体何が起こって?!!)
二人の少女が学校では見せないような蕩ける笑みで青年に何かを喋っている。
そして、いつもソラと話している時以外は愛想の無い虎までもが微笑んでいるという信じられない光景が繰り広げられた。
「・・・・・・」
あんぐりと口を開けて雅彦が呆ける間にもすぐ後ろへ二人の少女を乗せて車が走り去る。
「へぇ、あれが噂の空さんの王子様なんだ。確かにカッコイイわね」
魂が抜けたような雅彦の耳にサクッと致命的な言葉が突き刺さった。
「・・・ちょっといい・・・」
「ん? 何」
「空さんの王子様ってどういう事?」
クラスメイトの女子の一人に雅彦が気の抜けたまま聞く。
「ああ、男子知らないんだっけ? 空さんて外国からの留学生だから、当然居候先があるんだけど。その居候先の人に凄くお世話になってるんだって。
それで女子と話してる時にはすっごく乙女な表情でえっとヒサシゲさんだったかな。その人の事ばっかり話してるのよ。
【ヒサシゲはとっても優しくて強くてお人よしなの】とか【寝顔が可愛いわ】とか」
「寝顔?!」
「あたしらもどういう関係って聞いた事があるんだけど、【私の一番大切な人】って言われちゃぁ後は何も聞けなくなったわ」
よくある話だろう。
「いや、それにしてもこのご時世にクラシックカーに乗っててカッコイイとか凄い優良物件よね。あ~あ、アタシもそういう人ゲットしたいなー」
年上の男性に惚れる年下の少女。
「・・・・・・・・・」
それが報われるかどうかは別としても少女が青年を好いているのは遠目に見た雅彦にすら明白だった。
だが、しかし、納得できるかどうかは別問題だ。
トボトボと女生徒から遠ざかって靴を履き替えた雅彦は校門まで歩くと端末を取り出した。
(・・・調べてやる)
メラメラと燃え上がった男の純情は暴走気味に発火し始める。
(お前が空さんに相応しいかどうか!!!)
男の嫉妬が醜いという事実は人生経験14年の雅彦にとって未だ理解し得ない事だった。
*
午後四時過ぎ。
久重とソラと小虎はさっそく新たな仕事に取り掛かっていた。
「今回の仕事は色々と複数平行して行ってる。下調べやネット上の調査はソラが、本格的な実地調査はオレと虎がやる事になる。此処まではいいか?」
「うん」
「了解」
ソラと虎がコクコク頷いた。
近場のファミレス。
三人は仕事の打ち合わせを最奥部の席に陣取って行い始める。
「で、だ。アズの野郎がオレ達に優先的にやらせたい仕事は幾つかあるらしいんだが、今回はコレだ」
パサリと今では珍しい紙資料が二人に渡された。
「【EDGE事件】・・・これをアズはあのGAME最中に起こったウィルステロと関連付けてる。資料にはテロ以降、若い学生の間で暴行事件の増加、それから幾つか肉体の異常発達が見られるって話が載ってる。
これをアズはウィルステロの後遺症だと踏んだ。【肉体強化】がどういうウィルスによって発症し、どんな経緯があって放たれたのかは結論から言ってどうでもいいと、アズは資料の中で言ってる。
本当の問題はこのウィルス後遺症によって暴力事件やそれ以上の事件が【起こり過ぎるかもしれない】事だってな」
「起こり過ぎる?」
ソラがその表現に首を傾げる。
「ああ、アズに言わせれば世の中にはバランスってもんがあるんだと。その天秤が崩れると一気に事態は悪化していく。【EDGE事件】はその前哨戦だとアズは結論した。
この事件を放置しておけば犠牲者だけじゃなく後遺症で強化された肉体能力を使った事件件数も飛躍的に跳ね上がっていくだろう。そうなれば国内の治安の悪化は避けられない。
それを知った日本の組織の一部が今回の依頼人らしい」
「それって警察関係って事?」
ソラの疑問に久重が首を横に振る。
「いや、資料だと第十六機関になってるな。知ってるか?」
虎が首を縦に振る。
「・・・日本の暗部」
「よく知ってたな。ああ、簡単に言えば日本版のCIAだ」
「此処(にほん)来る時、出会ったら逃げろって言われた」
「逃げろ?」
コクリと虎が頷く。
「装備、最新。見付かったら危ない」
「そうか。オレは詳しくないんだが、昔アズが言ってたのを鵜呑みにするなら日本国内なら【普通の諜報合戦で負けなし】だそうだ。あまり近づきたくない類の組織だとも言ってたな。何でも政府や省庁に顔が利き過ぎて気持ち悪いくらい日本の内部事情に詳しい奴がいるんだとか何とか」
「・・・どうして諜報機関がアズに依頼するの?」
ソラの最もな疑問。
「これは日本の今の現状では仕方ないそうだ」
「仕方ない?」
「猛烈に何処の組織も忙しいんだと。それこそ普通の諜報活動じゃ解決できそうにない事件に関わってる暇は無いくらいにな」
「どういう意味?」
「ウィルステロはもう一つのウィルステロで沈黙させられたらしい」
「え?」
「資料に寄るとマスコミが騒いでた内容よりヤバイ状況、日本が無くなる瀬戸際だったみたいだな。そこに新しいウィルステロが起こってウィルスの無力化と人体の強化でもって対抗。事態の収束後に強化系ウィルスの作用が強く出た人間が今回の事件を起こしたってのがアズの調査の結果だ」
「ウィルステロが二回あったって事?」
「ああ、資料じゃそうなってる。第十六機関は多くのテロを予防、監視してる。明らかにオーバーワークらしい。ちなみにそんなウィルスを持ってそうな奴をオレ達は一人知ってるな。GAME中に消えて何処に行ったのかと思ってたが、どうやらそういう事だ」
「・・・シャフ・・・」
ソラの呟きに久重が頷く。
「まぁ、確証は無いが、状況証拠的に行けば、後の方のウィルステロはあいつの可能性が高い。ソラを監視してる【連中】にとっても日本が無くなるようなウィルステロは好ましくないだろう。だから、ウィルステロの後の方はほぼあいつで間違いないってのが報告書の最終的な見解だ」
「うん。合ってると思う。まだ、日本には連中も用があるはずだもの」
「用?」
「日本は【連中】にとっても貴重な技術資源なの。博士も実験機材や新しい理論は日本の大学の研究なんかを参考にしてたくらいだから・・・」
「そうか・・・」
「博士がいなくなった今、色々と忙しい【連中】にとって日本の重要度は増してるはず・・・そんな簡単に無くなったりしたら困ると思うわ」
「なら、あいつが助けてくれたって事で決まりか。色々とオレが帰ってくるまでにあったらしいが、相変わらずだったか?」
「うん」
苦笑するソラが頷いた。
「一応、感謝しとくか。言ったら【あんたらなんかに感謝される謂れなんか無いわよ】って怒り出しそうだが」
久重の真似に思わずソラが噴出した。
「ひ、ひさしげ・・・似てない」
「とりあえず、話を戻すぞ」
「う、うん」
少し恥ずかしげに咳払いをして久重が資料を再び読み漁る。
「アズに言わせれば【EDGE事件】を引き受けた理由は効率の問題なんだそうだ。普通の諜報機関に超技術持ってる【連中】や奇奇怪怪な【GIO】やその周辺の事情を解決できる能力を期待するのは無理な話だ。
確かに第十六機関ってのはかなりの組織力を持ってるらしいが、所詮は常識の範囲内。今回の事件の首謀者がたぶん世間的に力の無い若者とはいえ、超技術の一端が関わってたら、解決には時間が掛かる。時間が掛かれば大勢は決まってるのが常。
必要なのは軽いフットワークと緻密な情報ネットワーク。そして、機動力のある少数精鋭部隊、だそうだ」
「それが私達?」
「ああ、【EDGE事件】の犯人が簡単に掴まれば、ウィルステロの後遺症連中も容易に犯罪へ手を出しはしないだろうってのがアズの考えらしいな。つまり、オレ達は事件の解決が抑止力にならなくなるまでに全て終わらせなきゃならない」
「うん」
「がんばる」
二人の少女が同時に頷く。
「じゃ、詳細を詰めるか。まずは・・・何処で手に入れたのか知らないが警察の内部資料からだな」
呆れた様子で資料がペラリとまた一枚捲られた。
*
【あんな楽しそうに・・・空さん・・・】
少年が一人ファミレスで遠目に少女達と青年のやり取りを見ていた。
【あれが・・・僕らの敵・・・リア充!!!】
三人がきゃっきゃうふふなシーンを繰り広げているに違いないと確信する青少年丘田雅彦の冒険(ストーキング)はまだ始まったばかりだった。
巨人の手は容易に全てを覆す。
その足は知らず何かを踏み潰す。
それでも小さき者達は頂を築き。
家を建てるだろう。
第四十九話「虫は知る虫の未来を」
報われぬ者もまた小さき巨人であった。
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第四十九話 虫は知る虫の未来を
第四十九話 虫は知る虫の未来を
日本という国における大財閥の力は明らかに一国に匹敵するものがある。
企業=国家。
その図式を思い浮かべる程に巨大となった財閥は正に怪物のようなものだ。
多国籍企業や外資・禿鷹など歯牙にも掛けず握り潰せるだけの金と権力が渦巻いているのも珍しくは無い。
財閥を連合国家のような各分野の複合的な総体として見た場合、基本的に中枢は一人に集約されない。
大財閥の企業と言っても株式が創業家一家に集中している時代はすでに遠い昔。
現在のトップは有能な一個人ではなく、各会社の代表者達が運営するコミュニティーの形を取る。
無論、親類縁者が多いのはよくある話だが、血の繋がりによる連帯が希薄化する現代においても比較的強固なコネクションで結ばれている財閥中枢の関係者は多い。
第二次世界大戦後。
GHQに解体されてすら復活した力は凄まじいものがある。
日本の財閥が世界にどれだけの影響力を保有しているのか。
詳細に知る機会があれば、その空恐ろしさに震える者もいるだろう。
東京の一等地に立つ高層ビルの群れがとある財閥関連企業のもので占められているなんて実話は一部では有名な話でもある。
その力に気付けば、普段何気ない機会に聞く会社の名が時に意外な場所で聞こえるような、そんな驚きを持つのは間違いない。
どんな有名企業だろうとも普段表に出てくる会社なんて大した事はないのだ。
新聞に載らずとも話題に上がらずとも宣伝などしていなくても、確かに生活を支配するに足る企業群。
それが財閥なのだ。
そんな日本の産業の中核にとって目の上のタンコブと言うべき存在がいる。
GIO(ゼネラル・インターナショナル・オルガン)。
たった十数年前に表舞台に現れた現在世界最高の株価を持つ総合企業複合体。
アメリカ合衆国に本拠を置くGIOはその類稀なる技術を持って世界を席巻した。
第一次産業・第二次産業・第三次産業の殆どに食い込み、大規模なシェアを食い荒らす悪魔の如き企業として勇名を馳せた。
GIOの参入により莫大な利権を失った老舗企業が廃業に追い込まれる現象も世界各地で珍しくなくなった。
しかし、その爆発的な侵出が成功した一番の理由をアナリスト達は常にこう表現する。
【あの黒い隕石という奇跡が無ければ、今もGIOはありふれた超優良企業にしか過ぎなかったはずだ】と。
世界中が大混乱に陥り、国家が無数に破綻した【黒い隕石】事件。
その最中に火事場泥棒のようにシェアを奪い取ったやり方には批判の声も多い。
日本においてGIOが勢力の拡大に【失敗した】と論じる向きがあるのは日本の混乱が最小限に押し留められ、大財閥の影響力が衰えていなかったからだ、と主張する者達もいる。
更に言えば、幾ら日本人が立ち上げた企業とはいえ外国企業であるGIOが極右の時代に入っていた日本の風土には馴染みずらかったというのもあるかもしれない。
経済に食い込んだGIOが国家を乗っ取れる程に勢力を増せなかった稀有なる国。
それが日本だったというのは創業したのが日本人であるGIOにとって最大の皮肉だろう。
企業=国家。
この図式に当て嵌めるならば、あらゆる企業(こっか)との戦争(マネーゲーム)に勝ってきたGIOは自らを生み出した世界(にほん)には勝てなかったという事になる。
故に世界(にほん)を滅ぼす毒(ぐんばつ)を使って勢力の拡大を図ったのはGIOにとっても禁じ手に近いものがあるのではないか丘田は常々思っていた。
神話の時代から親殺しは大罪。
その結末は栄光を掴み次代の王となるか、罪人として殺されるかの二択。
日本において母を焼き殺した炎の神は父に生まれながらに殺されている。
「チーフ?」
「はい?」
モグモグと安っぽいジャンクフードを頬張りながら丘田は真横で怪訝そうな顔をしている綾坂直人(あやさか・なおと)に顔を向けた。
「何か考え事ですか?」
「いいえ。少し日本という国の特殊性への感慨に耽っていただけです」
「そ、そうですか・・・」
綾坂が何と言っていいか分からず困惑した様子でコーラをカップから直接喉に流し込む。
「綾坂君。今日、君を連れてきたのには三つの理由があります」
「三つですか?」
「ええ、三つです」
「あの協力者の方と関係が?」
綾坂が先程まで丘田と離れた席で話していたスーツ姿のサラリーマンの姿を思い浮かべた。
「はい。それが一つ目の理由です」
「彼に関する情報は聞いても?」
「構いません。今日の話し合いは勿論重要な情報の交換の為でしたが、一番の理由は彼に貴方を紹介する為でしたから」
「紹介?」
「これから君達にも独自に資金確保をしてもらわなければならない。『窓口』の一つである彼に顔を見せるというのは君がこれから班のリーダーとしてやっていってもらう為の言わば試金石です」
「リ、リーダー!? そんな話聞いてませんよ!?」
「今、言いましたから」
サラッと丘田に言われて綾坂の気が遠くなった
「資金確保・・・『窓口』・・・どういう話なんですか?」
「色々とまだ分からない事があると思いますが、その内の幾つかの疑問に付いてリーダーである君には知っておいてもらわなければならない。説明は歩きながらしましょう」
丘田が店内から外に出て行く。
慌てて綾坂も付き従った。
*
「まず、最初に言っておかなければならない事ですが、第十六機関の上部は国からの税金で運営していません」
「はい!?」
さすがに驚きを隠せない様子で素っ頓狂な声を上げた綾坂に丘田が人差し指を唇の前に付けた。
「そう驚く事でもないでしょう。CIAの末端が金に苦しんで金策に奔走するなんてよくある話です。幾ら税金を資金源にしたと言ってもそんなに大きい金は回ってこない。故に我々は独自に複数の資金源を持っているんです」
「それが・・・今日話していた方と関係があるという事ですか」
「ええ、彼は資金源の一つである『窓口』です。我々は彼らの欲しがっている情報を流し、彼らは我々にその代わりに援助をする。ギブアンドテイクの典型です」
「・・・流している内容如何によっては、いえ・・・それ以前の時点で重大な違反行為ですよ?」
「はは、それはそれこれはこれという奴です。綺麗事だけではお腹は膨れないんですよ人間。それに彼らは我々の正規の顧客でもある」
「顧客?」
「企業スパイへの対策を国策にしてからというもの、我々と彼らのパイプはかなり太くなった。それはある意味今まで日本という国が抱えていた病巣・・・平和ボケを取り除く契機ともなったんです。国が包括的な間諜対策をしたと言ってもまだまだ若い組織である第十六機関にはやはり資金面での苦労が伴う。財務省には金食い虫である我々に大金を注ぎ込みたい人間はいません。故に彼らの出番となった」
「彼ら・・・」
「彼らの性質を考えれば、我々との協力体制は寧ろ自然です。政府の一部要人は知っている事ですし、経済産業省の幹部クラスの幾人かも知っている話です」
綾坂が会話の流れから今さっき丘田があっていた者の背後関係を即座に理解した。
「ちなみに何処の方ですか?」
「戦闘機の開発をしているところです。他のところからも似たり寄ったりの支援を頂いています」
「・・・・・・本当に彼らが国の為に金を出していると?」
「日本という国で育っても国を愛さない人間もいるでしょう。だが、その逆もまた然り。日本が無くなっては困る人間の中でも一際愛着のある方々なのは我々の調査結果からも明らかです」
「随分とグレーな資金源ですね」
「・・・日本という国の維持は彼らにしても一大事という事ですよ。彼らには資金と組織力はあっても人材と行動力がない。平和(りえき)というものを願って止まない彼らにすれば、自分達で『そういう部署』を作るよりは『外部委託』して働いてもらった方が何かと効率がいいし安く済む。
専門の人間を育てるにはノウハウが足りない以上、GIOのように裏方を自分達で保有するのはリスクも高い。嘗てはそういう荒事は専門業者(893)に頼んでいたものですが、今や外国勢力に侵蝕されてしまったところは使いたくない。というわけで我々に白羽の矢が立ったんです」
「・・・・・・・・」
綾坂が大人の事情という奴を忌避しがちな己は未だ若いのだろうと自嘲しながら溜息を吐いた。
「幻滅しましたか?」
「いえ、感心しました」
「そうですか。なら、これからは君にも金策に回ってもらうことがあるでしょう。頑張って下さい」
「・・・はい」
「ちなみに二つ目の理由が見えてきました」
「?」
綾坂が丘田の視線を追い掛ける。
「此処は・・・」
路地から一歩出た途端だった
「日本が誇る最新鋭の原子力採掘船【不知火(しらぬい)】です」
東京湾近郊。
海の匂いがする場所で綾坂は巨大な鋼鉄の櫓を五つ抱える都市の如き広さの【船】を見上げた。
まるで陸続きかと疑うような広い世界が海の上に浮かんでいる。
「浮体技術の進展によって可能となった超長期間航行に耐える世界で唯一の島型原子力採掘船の一号機。これから九州で進水真直のギガフロート二号機【扶桑】に合流し【日本南洋経済特区構想(ヒルコ・プラン)】の中核となるべき最初の箱舟です」
あまりの大きさに視界の端に全てを収めきらない船体を綾坂は不思議そうな面持ちで見た。
「これが二つ目の理由ですか?」
「ええ、君は第十六機関が進めてきた次代の班長育成プログラムの第一被験者です。故に君にはこれから支部が出来る場所を見せておこうと思いまして」
「支部・・・まさか、此処に?」
「新たな県の創設と共にあらゆる国の企業が集う事になるだろう構想(プラン)の中には無論諜報活動も含まれます。世界中の企業の情報を日本に引き込む事で見えない壁を生む事になれば、いずれ諜報合戦は避けられないでしょう。君には来るべき戦いにおいて前線に立つ指揮官となってもらう事が決まっています」
まるで現実味の無い話に綾坂が目を瞬かせる。
「冗談、じゃないんですよね?」
「冗談で戦いを強いるGIOのような組織なら良かったですか?」
「いえ・・・ですが・・・その・・・」
「中国軍閥が硬直している時間はこれから一年も無いでしょう。数ヶ月以内には必ず動き出す。核戦争となれば全ては消えてしまうのかもしれない。
しかし、もしも次の時節が回ってきて準備もしてなかったら我々は何の為に身を粉にしてきたのか分からない。常に五年先を見据えて動くのが最良の諜報員というものです」
「・・・最善ではなく?」
「我々に【善】などという言葉が当て嵌まるようになったらきっと平和ボケしたお花畑な人間が世界を動かしている時代になっていますよ」
『それは面白い未来図だ。ふふ』
二人が振り返ると白髪のスーツを着た上品な老女が杖を付きながらやってくるところだった。
「あの坊やが弟子を連れてくるなんて歳を取ったもんだよ」
丘田が深々と頭を下げた。
綾坂もそれに倣う。
「お久しぶりです。佐宝さん」
「堅っ苦しいねぇ。相変わらず」
「いえ、貴女を織拿と呼び捨てにできる人間を僕は知りません」
「礼儀が成ってない人間に何か教えるような性根はしてないだけなんだがね」
嘗ての公安の鬼女。
佐宝織拿の手を恭しく丘田が取った。
「お待ちしてました。これから詳細を詰めるに辺り、お力をお貸し頂ければ幸いです」
「で? 今回呼んだ小僧共は来てるのかい?」
「はい。五十人呼んだ内の四十九人はもう会場にいると連絡がありました」
「来なかったのはどいつだい?」
「首相です」
「―――!?」
思わず綾坂が目を剥いた。
「まぁ、いい。あの子は昔から苦労性だったから・・・確か今は国連に行ってるんだったか?」
「はい。国連で中国大陸への支援表明を。今は官房長官が現場の陣頭指揮を取っています」
「あの男か・・・随分と賢しらな事を考えていたようだが、足元を思いっきり掬われて、これからどうするんだか」
「・・・・・・・・・・」
その男と二人三脚で日本という船の舵を取ってきた丘田は沈黙した。
「あんたも随分と入れ込んでるようじゃないか?」
「恐縮です」
どうすれば諜報機関の内部事情をサラッと調べられるのか丘田は未だに知らない。
が、目の前の老女からすれば雛に過ぎない自分の情報がバレていたところで驚かなかった。
「そ、その・・・チーフ。これから何が始まるんですか?」
綾坂のビクビクした様子に丘田が宥めるように笑う。
「ああ、まだ言ってませんでしたね。今日は【不知火】の本格的な運用を始めるに辺り記念パーティーが開かれているんです。と言ってもこの船に出資した財閥の方々を招いた些細な催しですが」
「人の名前で呼ばせておいてその言い草かい?」
「その点は本当に感謝しています」
「誰の入れ知恵か知らないがあんたのとこが立てたヒルコプランてやつは確かに面白い。この日本を守る盾の構想としちゃ一目置くに値する。だが」
「?」
「同時に【第三次世界大戦の引き金】を握りたいなんて大した野望は身を滅ぼすよ?」
丘田は何も言わず。
綾坂は思わず大声になった。
「―――チーフ!?」
「はい。何でしょうか?」
「今の話は・・・どういう事ですか!?」
「ヒルコプランの副次的な産物というか状況がそうなるかもしれないだけの事です」
「かもしれないだって? よくもまぁ・・・この不安定な世界の政情下で大企業の楽園なんてものが出来たとすれば、そこは正に地獄の釜だろうに」
織拿が白々しいと言いたげな口調で丘田の考えを看破していく。
「もしも盾が壊れた時は壊した国を生贄として争いが始まるのは必定。その意味ではこの時点であんたは業界の誰よりも先を行ってる。
壊れる事を前提とした盾の使い道は幾つかあるがその中でも大きいのは二つ。立て直してきた外国企業の力を殺ぐ事と戦争が起こった場合の盟主としての地位の確保。
上手くすれば水戦争も生き残れるかもしれない。プランの内容を見たけど日本企業お断りだそうじゃないか」
「はは、何もかもお見通しですか」
「あたしを誰だと思ってるんだい?」
「・・・日本が保有する現時点で世界最速の量子コンピューター【伊弉冉(イザナミ)】がWWW(ワールド・ウォーター・ウォー)勃発の条件をほぼ絞り終えました。
その回答に従えば勃発の条件は以下の四つです。大規模経済圏の消失。水資源の枯渇によって国家間の貿易額における水の輸出入が世界全体で約12兆ドルを上回った場合。
現在存在する環境技術の約52パーセントが消滅した場合。地球人口が現在の値から92億人まで増加した場合。黒の隕石事件で人口はほぼ三分の二程までに減り現在は六十八億人。
環境技術の特許総数の内の約三十六パーセントが日本のもので新型の水の大量濾過技術に関してはほぼ九割以上です。しかも中核技術は特許に申請されておらず諜防も我々が万全を期している為、技術流出は皆無。
現在の世界規模での水の輸出入総額は約9兆ドル・・・水の値段が金より高くなる水バブルなんてよく聞きますがまだ大丈夫でしょう」
「だから最後の鍵を自分で作る、か。まぁ、好きにするがいいさ。どちらにしろ手としては下策というわけじゃない。問題はあんたがこれから起こる万難を何処まで制御できるかって所だからねぇ」
「ご期待に沿えるよう誠心誠意努力します」
織拿が鼻を鳴らす。
「じゃぁ、行こうか。そこで呆けてる弟子も連れてきな。まったく・・・誰に似たんだか」
愚痴る老女に丘田は何も言わず笑むだけだった。
「綾坂君。では、そろそろ行きましょう。理由の三つ目も無事終わりましたから」
「・・・・・・チーフ」
「何でしょうか?」
「チーフを越える日はきっと永遠に来ないと思います」
「ははは、何を言ってるんですか。こんなのは後十五年もすれば君にも出来る程度の事ですよ♪」
ウィンク一つにノックアウトされた綾坂はその日、この世のモノとは思えない日本の暗部と笑いながら調整を続ける男を見つめ続ける事になった。
*
二人のお供を従えて外字久重がその異常に気付いたのはほぼ偶然に近かった。
クーペに違和感を感じたのだ。
何がどう違っているのか分からなかったものの、間違い探しで喉に小骨が刺さったような感覚が一瞬だけ勘というべきものを働かせた。
店の裏手。
ほぼファミレスの死角になっている位置に止めていたクーペの前で二人を下がらせたのは間違いではなかった。
「!!」
クーペの上部に回し蹴りを放った瞬間、クーペの屋根が撓んだ。
「何だコイツは!!?」
思わず呟きながら久重はその物体を目で追っていた。
周囲の風景に完全に溶け込んでいた物体はその映し込む景色の処理が追いつかないのか。
僅かな輪郭を浮かび上がらせた。
全体的なシルエットからそれがどういうものであるのか即座に察して、ゾワリと久重の背筋が凍る。
それは一メートルもあろうかという生き物だった。
「蜘蛛とか勘弁しろよ・・・!!?」
『連中』の新手の嫌がらせかと追撃の姿勢を取ろうとしたものの、横から咄嗟に二つの手が遮った。
「ソラ!? フウ!?」
「ダメ!? 久重!!? 敵じゃないの!!」
「だめ・・・」
言っている間にもジャンプして再び落ちてきた見えない蜘蛛がノシッとクーペの上に着地する。
殆ど音が立たない。
今までクーペの上にそんなものが乗っていたかと思うとかなり顔が引き攣る久重だったが、さすがに制止された以上は何かあるのだろうと二人に向き直った。
「・・・で、どういう事なんだ?」
二人の少女が顔を見合わせて罰が悪そうに俯く。
再びファミレスへと戻ったのは当然の流れだった。
*
「外部待機状態のプログラム?」
「うん」
またファミレスに入り店員に怪訝そうな顔をされた三人はコーヒー一杯で再び席に付いていた。
「第一GAME中にロックが解除されたNO.08“The Shepherd”は元々博士が脳の機能開発を進める目的で作ってたものなの。さっきの子はプログラムの一部がNDを使って脳に作用した結果ああいう風になってる」
「確か・・・シャフが言ってたな。BMI(ブレイン・マシーン・インターフェース)技術への適合だとか何とか」
「それは間違ってない。けど、シャフも連中も博士が何処まで研究を進めてたのか理解してなかったのは間違いないわ」
「そんなに研究は進んでたのか?」
「脳機能の内の運動野を掌握するNDの開発は早い段階から『連中』が行ってた。そして、博士もその開発には参加してたんだけど・・・博士はたぶん自分の得た独自の脳研究成果を殆どこのプログラムに入れ込んでる」
「天才の残した遺物ってやつだな」
一口啜った久重を真似て虎も啜るもののすぐに水に手を付ける。
「解析したらこちらからのアクセスをブロックするブラックボックスが有って・・・推測だけど自己開発モードが起動してるんだと思う」
「自己開発モードってのは・・・まぁ、何となく分かるがそんな機能本当に働くのか?」
「博士はNDの基礎研究が終わってSEの開発も終了した時点でプログラムの研究に入ってたの。それは博士にしても凄く複雑な研究らしくて上手くいってないって言ってた」
「天才にも限界はあるんだな・・・」
「・・・きっと自己開発モードは博士が私を逃がす事を前提にして作ったんだと思う。検索と開発を繰り返すプログラムなら自分がいなくなっても代わりに力を開発する手段として有効だろうって・・・」
ソラの顔が翳る。
「ふむ。それであの蜘蛛はどう自己開発モードってのに関わってるんだ?」
ソラが難しい顔をしたかと思うと自分の小型端末を取り出して二人に見せた。
「NDによる脳機能の復元に関する研究?・・・まさか・・・」
久重が驚く。
「たぶん、久重が考えてる通りだと思う」
「マジか・・・つまり、NDによる脳の代替機能の研究・・・人間の脳機能がNDで再現できたら情報を機械に保存する事も・・・本当にSFだな・・・」
「脳機能の情報そのものをNDのネットワーク上に保存する技術は今の連中でもまだ本格的には開発できてないけど、久重はその一端をもう見てる」
「そんなの見た覚えが―――そうか、あの時の・・・」
「うん」
久重が思い浮かべた回答にソラが頷いた。
移民として買われ、NDに食い尽くされながらも生き残り、最後には化け物になった一人の女の事を未だ青年は忘れていない。
脳をNDに殆ど食い尽くされていたにも関わらずNDそのものが人格を得たように振舞っていたと確かに事件後ソラは語っていた。
その事を鑑みれば博士の研究は「脳の情報を機械にコピーアンドペースト出来たなら」というSFの題材が一つ現実になるという事を意味するに他ならない。
「この研究自体は博士のものじゃなくて最先端の脳科学を研究してる人のものだけど、博士はきっとその先を見てた。そして、たぶん・・・開発プロセスをプログラムに全て組み込んでたと見て間違いない・・・」
「じゃあ、何か? あの蜘蛛は・・・人間に近い脳機能を持ってるってのか?」
「あの子は脳機能の改変や増大と同時にNDから複数のプログラムを思考させられてるの。解析結果だけで見れば・・・大体七歳児くらいの思考能力がある」
さすがにその言葉に久重も押し黙った。
蜘蛛。
虫が人間と同等の知能を有する。
それが事実だとすれば、正にノーベル賞すら取れる偉業と言っていい。
「ああいう生物がいる大たいの理由は分かった。それで・・・何処でそんな事になったのか教えてくれ」
「あの、その・・・第二GAMEの最後で久重と別れてから虎に追いついた時に・・・虎を助けてくれたの・・・」
「助けた?」
今まで黙っていた虎がコクリと頷いた。
「加勢してくれた。いい子」
「プログラムか何かの影響か?」
「うん。外部待機状態のプログラムにも幾つかあって、あの子は私の護衛としてプログラムが選別した素体みたい」
「実験体兼護衛って事か」
「・・・うん」
何だか目に見えて実験体という言葉に落ち込んだソラに思わず謝りかけて、結局のところ久重は・・・己の未熟さに溜息を吐く事しかできなかった。
「ひさしげ?」
「今の話を聞いて棄てて来いなんて言える程オレは鬼じゃない」
「ひさしげ!!」
ソラが顔を輝かせた。
「だが、これからそういう大事な事は先に話してくれ。さすがに知らない内に巨大な蜘蛛が車の上に乗ってるとか何処のホラー映画だ・・・」
「うん」
思わず抱き付いてきたソラを引き剥がしつつ、青年は嘆息する。
「今まで何処に隠して飼ってたんだ?」
「え? あの・・・それは・・・」
「屋根裏」
「ふ、虎(フウ)!」
「屋根裏・・・あんなのがいたら怖過ぎだろ」
思わず想像して久重が顔を引き攣らせた。
「ちなみに飯は?」
「ご飯はあの子が自分で・・・雑食だから鼠とか蛙とか虫とか」
「・・・ペット系と人間が入ってなきゃいいが、想像したくない絵面だな」
更なる想像で久重が溜息を付いた。
「これからは食費くらいは出してやる。ちゃんと世話してやれ。人間並みの知能があるって言うならペットじゃなく家族として、な?」
「あ・・・うん!!!」
「ヒサシゲ・・・フトイハラ」
虎が何度もコクコク頷いた。
「それを言うなら太っ腹だ。ちなみにオレの体脂肪率は10パーセントだと言っておこう」
これからどれだけ食費やら雑費が掛かるのだろうかと悩める家主外字久重は二人の少女の笑みに苦笑いだった。
*
丘田雅彦は三人が再びファミレスに戻っていくのを機と見て父親仕込みのテクでクーペに近付いていた。
忘れ物でもしたのか車から離れてくれたのは好都合。
クーペの車体を端末で画像として取り込み、取り込んだ画像を追跡プログラムに追加、近頃は殆ど無線式の防犯カメラの電波を幾つか拾いつつ、画像解析プログラムも奔らせる。
これでクーペの進路をカメラの映像から拾い出し追跡を続行するわけだが、不意に端末が手からすっぽ抜け、雅彦は慌てた。
「おっと!?」
端末は何故かクーペの方に落ちる。
「どうなって・・・?」
まるで何かに引き寄せられたかのような落ち方に周辺を見渡すも雅彦の目には何も映らない。
端末を拾おうと手を伸ばした時、端末が動いた。
「!?」
思わず手を引っ込め、辺りを伺うものの・・・やはり何も無いし誰もいない。
「何だ・・・?」
慎重に雅彦が端末に近付き、そのまま取ろうとした瞬間、また端末が移動した。
移動先はクーペの下。
何か磁石的なもので悪戯でもされているのだろうかと辺りを再び見回すもやはり誰もいない。
「・・・・・この!!」
サッとクーペの下に手を入れて端末を掴んだ雅彦がホッと安堵して顔を上げた時だった。
―――感情を映さない複眼と目が合った。
その日、丘田雅彦は最新の小型端末を失って・・・ノイローゼ気味に帰宅した。
クーペの屋根から微かな音楽が流れ始めたのは三人の搭乗者が目的地の駐車場から仕事に行った後。
其処が閉まるまで流れていた曲は交響曲第9番ホ短調「新世界より」。
奇妙な符合に気付く者はなく。
ただ、新たな世界への期待だけが音色に乗って夜に響き渡っていた。
50・50。
それが平等。
だが、1を譲る心無くして。
交渉は成り立たない。
第五十話「シュピオン」
若き獅子の手に乗るは幾つか。
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第五十話 シュピオン
第五十話 シュピオン
国際原子力機関(IAEA)。
その二十一世紀における役割は飛躍的に高まってきたと言える。
各国が抱える原子力という力の監視人であるIAEAは【核拡散防止条約(Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons)】の守り手であり、今世紀中最も活躍した機関の一つだろう。
人類の歴史が争いの歴史である以上、世界を滅ぼして余りある火を欲しがるのは性かもしれない。
その拡散を何とか防ぎ、平和利用を謳ってきた彼らの役割は人類の保全という観点からも重要極まりない。
ただ、黒の隕石事件以降、核弾頭の宇宙配備や各国の原発の廃炉が続くなどした為、組織全体としての注目度は低下し続けていた。
国連主要各国が核弾頭を必要最低限保有しているものの、それでも世界を滅ぼす程の核の脅威がほぼ消え失せたのは彼らにとっても望外の結果だっただろう。
残る仕事は膨大な核廃棄物の管理のみ。
無論、それも困難な仕事ではある。
しかし、核兵器の脅威が遠ざかった事には違いなく、多くの人類にとっては望ましい話だ。
例え、終末時計の残り時間が延ばされたという些細なニュースが祝われる程に世界が平穏なものではなかったとしても・・・・・・。
そんな一仕事終えた感のある彼らにとって中国軍閥の核弾頭の大量保有は疑惑の一つが現実になったという以上の衝撃を持って迎えられた。
ゴビ砂漠の核廃棄物の保管施設は国連が主導して事件の混乱期に作った世界最大の保管庫に他ならない。
中国が瓦解し軍閥へと分裂した時にも彼らはあらゆるチャンネルと手段を使って施設を守り抜いた。
運よく軍閥間のイザコザによって核の拡散を防いだのはいいものの、何かと注視していたのは言うまでもない。
中国国内にも目を光らせていた彼らにとって自らの知らない大量の核弾頭が存在し、それを実際に使われる事態にまで発展したのは正に最悪のシナリオだ。
中国・ロシア・アメリカ。
その三国の核弾頭の保有数は黒の隕石事件後IAEAの監視の下で一定数に削減された。
削減に反対する国は無く。
査察にも素直に応じた三国は自国の核弾頭の保有残量を3発まで落とすに至った。
無論、三国が他にも核弾頭を保有しているだろう事は彼らの中に疑惑としては残ったものの・・・実際、その保有数が大幅に増えると彼らは考えていなかった。
その理由は核弾頭そのものの耐久年数と他国へ直接打ち込む為の長距離ミサイルの陳腐化にある。
核弾頭やミサイルの製造コスト・運用コスト・維持コストは膨大な金額であり、並大抵ではない。
世界全体で新型核弾頭の開発そのものがほぼ四半世紀以上停滞し、頻繁に新規弾頭を作成するのは世界的な非難の的になりかねないと各国が自主制限する中で黒の隕石事件は起こったのだ。
核弾頭本体は製造してから何十年もそのまま、長距離ミサイルの開発はレーザー兵器の進展による防衛力の強化によって現実的に他国の領土まで届き難くなり遅滞するようになった。
核弾頭が現実的に他国へ届かなくなるとすれば、戦争は第二次世界大戦前夜のようにスイッチ一つでけりが付かない泥沼となる。
ミサイル防衛技術の進展は核という切り札を張子の虎に近づける効果を発揮した。
中国は経済(バブル)が衰退(はじけ)て以降、核弾頭やミサイルの更新を遅々としか行ってこなかった。
実際に資金の次ぎ込まれた軍事分野が海軍の兵器更新と次世代戦闘機の開発だった事は一重に拡大主義を取ってきた中国にとって正しい選択ではあったのだ。
それ故にIAEAにはそれ程中国が核に拘っているようには見えず、大きな懸念は無かった。
中国国内に建設された百近い原子力発電所の全てを隕石事件以降停止させ、燃料棒をゴビの施設に移送させたのは紛れも無く彼ら自身であり、核弾頭の新規製造がほぼ不可能と見たのは甘い見方ではない。
しかし、そんな見方はたった一夜で覆された。
正に遺憾の意ではすまない。
彼らの元には日本において発射された核ミサイルの情報が米軍経由でほぼ正確に伝わってきていた。
ミサイルはGIO中国が供給していた最新型。
だが、問題はそこではなくミサイルに積まれていた弾頭の方だった。
アメリカの監視衛星は最新鋭の観測機器を備えている。
その衛星が捉えた情報からは日本近海で発射された核弾頭は極最近作られたという結論しか得られなかった。
軍閥に分裂して以降、中国国内に核弾頭を製造できるような施設は限られている。
施設がある軍閥には多くの監視の目が光っているし、複数の軍閥へ分裂して以来、核弾頭を総合的に製造運用できるような環境は中国国内に確認されていない。
それに元手となる核物質を何処から調達したのかという疑問も残る。
彼らにしてみれば、旧い核弾頭を大量に隠しているのではないかという疑念を持っていたわけだが、実際には旧い弾頭は日中近海事変で一度も確認されなかった。
つまり、過去に製造された分は大方が宇宙に上げられているのはほぼ間違いない。
極秘裏にGIOからの供与を受けていたとしても、それだけでは説明の付かない事も多く、彼らにとって正に中国軍閥の動きは予測不能の事態に陥っている。
だからこそ、その不可解な状況に陥っている中国とほぼ戦争突入寸前となっている日本政府からIAEAへ直接お呼びが掛かったのはそう不思議な事でもなかった。
彼らにしてみれば、どういう事なのかと事情聴取されるのは当たり前に感じられていた。
「演説大変感銘を受けました。同じ被爆国としての人道支援・・・並大抵の決断で出来るとは思えません。それが己に銃を突き付けた者に対してならば尚更です」
「いえ、そう褒められた話ではありませんよ」
そう広くも無い部屋に三人。
一人は日本人を褒めるアメリカ人。
一人は傍観するフランス人。
一人は謙遜する日本人。
「これはあくまで人道支援でしかありません。復興や災害救助をするにしてもジェミニロイドでの遠隔操作になるのは確実ですし、国内からの圧力で大きな金額も動かせませんので」
笑いながら微笑んでいるのは四十代の男。
オールバックの黒髪からは精油の匂いがしていた。
「宮松総理。貴方は日本人らしい謙遜をお持ちのようだ」
その優男な風貌に似合わない貫禄に二人のIAEA職員は男の内心の評価を多少引き上げた。
極東にある経済大国の主。
現国連の盟主にして唯一隕石事件で人災を免れた国の統治者。
宮松厚志(みやまつ・こうし)。
四十代という若さで国を背負って立っているとは思えない物腰の柔らかさは魔窟である国連の職員からしても舐められそうなものだが、七ヶ国語が出来て主要国との会合でも殆ど通訳が要らないというのだから相手にすれば下手なジョーク一つ飛ばす事も出来ない。
「いや、それにしてもどうして人道支援を総理自らが? 今朝のネットニュースでは総理が最初にこの件を言い出したのだと書かれていましたが」
「ああ、そんな風に書かれてたのか。はは、参ったな。本当は全て官房長官が準備してくれていたんですが・・・」
苦笑いした宮松にアメリカ人が聞く。
「そう、なのですか?」
「ええ、私はただ彼の案に乗っかっただけなんですよ」
「なら、どうして総理自らが国連へ? あの有事ならば外務大臣を派遣すれば済む話では?」
フランス人からの最もな疑問だった。
通常の対応ならば、有事がもう起こってしまっている日本を総理が離れる事は最善ではない。
「彼は何処までもリアリストで私は何処までもロマンチストだから、かもしれません」
「は、はぁ・・・」
フランス人がよく分からないという顔で頭に?を浮かべた。
「本当なら今、この椅子に座っているのは彼だったかもしれない。いや、もしも私がいなければ彼をと押す声は党内に多かった。ただリアリストが首相では国民の理解は得られない。
外国と戦争となれば、リアリストは明確に被害の想定と妥協案の構成に取り掛かる。それは国民にとって耐え難い数字や妥協となるかもしれない。逆にロマンチストは国民の理解は得られても理想の為に犠牲者を出してしまう。たぶん、リアリストよりも大きな支払いが待っているでしょう。
だから、この有事でも私は人が信じるに足る理想を掲げに此処へ出向き、彼は数字を整える為に国で働く。要は適材適所という事です」
「・・・どうやら謙遜だけではなく理念もお持ちのようだ」
フランス人の声が僅かな尊敬の念を宿した時だった。
バタンと扉が開いた。
「ロシア外務大臣のお越しです」
SPが180cmはあるだろう白髪で壮年の男を部屋に通す。
外でロシア側のSPと話し合いでも持たれているのか妙に騒がしい。
大臣が己が何か言うとすぐ屈強な男達が日本の護衛者達の横へ加わった。
「申し訳ない。ウチのSPがやたらと頑固で」
そうジョークを飛ばした外務大臣がソファーにゆっくりと腰掛ける。
イワン・ゴドノフ。
ロシア外務省のトップ。
五十七歳にして最も大統領の椅子に近いと言われる男。
「どうぞ」
その細い体に反比例するように弛んだ場所など一欠けらもない肉体がアメリカ人から出されたカップを優雅に持ち上げる。
「ありがたく」
先だって中国軍閥領内からの侵攻に対し、各国に裏から非難声明を出させ、金融面でも商業面でも孤立化させる事に成功した立役者。
各地に散らばる今や四千万人とも言われる華僑の企業家等に対しても太いパイプを持ち、本国のやり方にケチを付けさせた事でも本国で多大な支持を得た怪物。
日本国内のロシアからの諜報活動を一手に取り仕切っていると専ら噂に上る人物を前に宮松は欠片も緊張せずニコニコと応対した。
「では、役者も揃った事ですし、本題に入りましょう」
宮松が小型端末を取り出してテーブルの上に置いた。
すぐにレーザーによる立体図が四人の中央に立ち上がる。
その鮮明さにイワンが僅か笑んだ。
「ほほう? これは・・・」
それはまるで新しい玩具を見つけた子供のような笑みと言っていい程に無邪気なものだ。
「現在経産省が官民一体で取り組んでいる次世代型の3Dホログラフ投射装置を内臓した端末です」
宮松のそう誇るでもないサラリとした口調にIAEAの二人が目を丸くした。
「このサイズで此処までの鮮明さを・・・日本の技術にはいつも驚かされる・・・」
フランス人が感心した様子で繁々と端末を見つめた。
「来月アメリカで行われる予定の先進技術の展覧会には出すつもりだと報告を受けています。もし良ければ是非現地で確かめてみてください。それではまずはこちらに注目を」
映し出された地図に全員が注目する。
描画された地図は日本海から中国北部近郊。
「現在、軍閥の一つが所有しているゴビ近郊の核燃料棒及び高レベル核廃棄物の貯蔵施設が此処です」
音声認識で拡大された上空からの地図が今現在最も地球上で重要な地域の一角を映し出した。
「これは・・・リアルタイム映像ですか?」
アメリカ人の声に「ええ」と宮松が頷き、虚空の映像をズームアップする。
「我が国の【UAV(無人高空偵察機)】からの映像を処理して送ってもらっています。見ての通り・・・施設上部は完全に破壊されている」
イワンが目を細めた。
「では、少し地下施設の状態も見てみましょう」
それに気付きながらも宮松は気にした風もなく虚空に画像を触った。
すると今までの上空からの映像が今度は地下施設をワイヤーフレーム状にして映し出す。
「ミサイル攻撃によって地下三階までの施設は崩壊。上部の建造物が瓦礫となって燃料棒などの搬入口を封鎖。核ミサイルから漏れ出た放射性物質によって施設周辺は一時間で人間をボロボロに出来る量の放射線を放っています」
IAEAの二人が施設周辺の状況を想像して身震いする。
「この瓦礫を撤去する為に中国軍閥は現在領内にある大型の工作作業機械を導入してリモートで撤去に当っていますが」
瓦礫付近の一角にブルドーザーやショベルカー、ダンプなどの車両が多数存在していた。
その列はまるで運河の如く続いている。
「ご覧の通り。上手く行っていない。リモートでの既存の重機や車両の操作が難しいというだけではありません。施設に使われた建材の頑強さや重量を考えた場合、化石燃料の輸入が滞っている軍閥領内で他の軍閥からの支援無しに重機や車両を最大限活用するのは不可能に近いからです。
況して現場は内陸部。パイプラインも近くを通ってはいない。これで施設を掘り出そうというのが土台無理な話でしょう」
ここまではIAEAの職員でも一部の人間には知らされている話だった。
無論、資料や監視衛星の探査から判明していたに過ぎないが既知の話ではある。
「ですが、ここに来て急な動きがありまして」
「急とは?」
アメリカ人の疑問に再び宮松が端末を操作する。
「モンゴルに近い遼寧付近の映像です」
「これは・・・?」
アメリカ人とフランス人が同時にその映像に疑問符を浮かべた。
映像の中には一面に黒い輝きが蠢いている。
「・・・・・・」
イワンが目を細める。
「ロシア側も掴んでいると思いますが、コレが現在モンゴルに向けて侵攻中です」
IAEA側の二人が緊張した面持ちで映像を見つめる。
それが何かよく飲み込めていなかった二人はようやく映像の縮尺がおかしい事に気付く。
「これは・・・こんな面積が、動いている!?」
「宮松総理!? この映像は一体!?」
宮松が何も言わずに映像を更に拡大する。
「な!? まさか!?」
広大な範囲を埋め尽くすように黒い人型の群れが一糸乱れぬ統制で進んでいた。
「はい。中国が運用しているパワードスーツ。いえ、ロボットと言った方がいいでしょうか」
「ロ、ロボット!? 今の軍閥連合に此処までの力が!?」
「ええ」
宮松がアメリカ人に頷く。
広大な面積を移動するスーツの群れが一体どれだけの数になるのか二人には想像できなかった。
「・・・俄かには信じられない・・・」
フランス人がそう零したのも無理は無い。
黒い隕石事件以降、中国軍閥は目立ったイノベーションが起こらず工業力は低下していた。
それこそ大陸中で次々に工場が消え、工業が衰退しているのが現状だと誰だって知っている。
「本来、中国軍閥が使っているのは最先端から数世代遅れた強化服であるはずでした。しかも、軍閥に分裂後は更新もされずにいた装備だった。だが、此処に来て何故かその時代遅れのスーツが何処からとも無く現れ、中身の人間も無く、完全にスタンドアローン化された状態で遼寧を横断している」
「・・・総理はこの事態をどう見ますか?」
イワンがようやく口を開いた。
「最悪のシナリオの一つでしょう」
「今現在核を使わない大量破壊兵器を所有している日本にとって最悪のシナリオだと?」
「このスーツ達の動向を逐一報告させていますが、その行き先を知れば当然でしょう」
宮松の言葉にIAEAの二人がハッとした様子になる。
「まさか、総理・・・このロボット達は・・・」
フランス人に宮松が頷く。
「はい。間違いなく核燃料棒の保管施設に向っています」
オゥジーザス。
そんな声が漏れる。
「最初、この軍団を見つけた時、報告を聞いてロシア軍への攻撃に使われるのかと思っていたのですが、移動方向がどうもオカシイという事に部下が気付きまして。ほぼ一直線に目的地を目指している為、簡単にその先にあるのが何の施設なのか分かった」
「という事はロボット達の目的は施設の発掘だと?」
「監視衛星からの映像を解析した結果、ロボット達の殆どに土建用の装備と思われるものが幾つも発見されました。つい先日立ち上げた専門の委員会に問い合わせた所、不眠不休のロボット達ならば少なく見積もっても一ヶ月以内には施設は掘り出される見込みだろうと」
「何てこった・・・」
「こんな事が・・・」
天を仰ぎそうになった二人が大きく嘆息する。
「お二人とも状況は理解頂けたでしょうか?」
「ええ」
「はい」
二人が自分達が何故呼び出され日本の総理を前にしてこんな話をされているのかすぐに見当が付いた。
「貴方達はあの施設建造の際、現場にいた。故にあの施設の内部構造には詳しいはずだ。これから日本政府からIAEAに打診があるかと思いますが、お二人にはあの施設を完全に破壊するチームへの参加を頼みたい」
二人が思わず慌てた。
「施設の破壊!? 総理・・・その・・・ですが我々は!?」
「総理。あの施設の施工には日本企業も関わっていたはずです!」
アメリカ人とフランス人の言葉を宮松がそっと手で遮った。
「分かっています。無論、現地に行って欲しいという事ではありません。戦闘地域や汚染地域に行かせるつもりもありません。ただ・・・今の日本にはあの施設に携わった人間を探している余裕がないのです」
宮松が厳しい表情で俯きがちになる。
「あの当時の混乱期。日本国内から現地で施工に参加した企業は秘密を守る為、殆どの関係者を退職させてしまった。更にその当時のデータの全ても物理的に抹消。時間を掛ければ当時の人間は集められるかもしれない。だが、我々にそんな時間は・・・唯一外務省に残っていたデータから当時IAEAが派遣していた貴方達の情報を知り、こうして今日は頼みに来た次第なのです」
「「・・・・・・」」
さすがに一国の首相が厳しい表情をしているという時点で二人は何も言えなくなった。
「現在、国内外から施設の破壊に関してのプロフェッショナルを集めている状態です。あのロボット達を破壊する為には大規模破壊兵器などの使用が不可欠なのは規模を見ればお分かりでしょうが、今現在の日本がそれをすれば・・・国際的な非難は免れない。
それだけならまだいいが核汚染を引き起こした中国軍閥領内に向けてミサイルを撃ち込む事になれば、軍閥連合を刺激し、戦争の時期は確実に早まるでしょう。
撃った時から第三次世界大戦が始まる可能性は高い・・・故に貴方達に我々はお願いするしかないのです」
宮松が立ち上がる。
「どうか・・・我々にご協力をお願いします」
腰が九十度に折れた。
「そ、総理!? 頭をお上げください!?」
「あ、貴方が頭を下げる必要は何処にも無い!?」
慌てて宮松の頭を上げさせた二人が何か葛藤するような表情になった後、キッと宮松に向き合った。
「そのお話・・・承りました」
「一国の首相に頭を下げられて国を救ってくれと言われたんです・・・男冥利に尽きるというものですよ」
二人に宮松が二人の手を取ってガッシリと握った。
「ありがとう! 貴方達は我が国の偉大なる友人だ」
二人が感激した様子で固くその手を握り返した。
それから数分後、二人が仕事に戻っていくのを機に部屋の中には宮松とイワンだけになる。
「・・・随分と持ち上げましたね。宮松総理」
宮松が無言でポケットから眼鏡を取り出して掛ける。
先程まで熱く語っていたとは思えない程に落ち着きを取り戻した様子で瞳がその巨躯に向けられる。
「施設の破壊・・・確かに困難だが我々ロシアならば容易いと思ったからこそ、私を此処へ呼んだのでは?」
「ロシアに大きな借りを作る程にまだ追い詰められてはいない」
冷たい声にイワンが微笑んだ。
まるで今ままでとは別人のような視線の鋭さ。
外国人はそうそう知らないが、今現在の日本の先頭を切る極右政治家の筆頭に上げられる若人。
その本性とも言うべきものを直に感じて、イワンは内心未だこういう政治家のいる日本を少しだけ評価した。
「うちの外務大臣が泣き言を言っていたよ。あちらが吹っ掛けてきたと」
「あれで吹っ掛けたとは心外だ」
イワンがサラリと流し、もう醒めた紅茶を飲み干す。
「北方四島全てと秘匿環境技術の七パーセント、財政の苦しいロシアへの開発援助十五年分。日本の国益を損なうには十分な代価だ」
「そう仰るなら、何故此処に私を呼んだのか聞いても?」
宮松が窓の外を見上げた。
「モンゴルの占領後、ロシア領として組み込む事を止めてもらいたい」
イワンが宮松の背中を見つめる。
常人ならプレッシャーで冷や汗を掻いているだろう。
しかし、宮松はまったく気にした風もなく続ける。
「独立させろと?」
「我々からの要求はそれだけだ」
「・・・・・・随分と大それた要求だ」
「ウラン鉱の開発利権が欲しいなら国内の大手には手を引かせても構わない」
「お断り申し上げる」
振り返った宮松の険しい顔に即答したイワンは何事も無かったように笑う。
「来年の三月辺りがタイムリミットだと考えれば、それまで十分まだ話し合う時間はある」
「・・・・・・」
「鎌を掛けていると思われているなら心外だ。我々はそれ程に愚かなつもりはない」
「・・・知っていましたか」
「あの地域から日本に飛散する黄砂の量を考えれば、分かりそうなものだ。ロシア国内の研究所に試算を出させましたが、何も手を打たなければ、日本全土の汚染は避けられない」
宮松はイワンの言葉に急激にボルテージが上がっていくのを感じたものの、顔色一つ変えずにその憤りを胸の内にしまい込んだ。
「汚染の度合いは低くとも長期間に渡って汚染が続けば十年、二十年、いや百年後までも禍根は残る。核弾頭3発分程度ならば問題は軽微だっただろうが、施設内部の放射性物質が万が一でも流出する事態となれば、飛躍的に全ては解決困難となる」
イワンの指摘は的確だった。
「施設からの核燃料の持ち出しはまだ看過できたとしても、持ち出された核燃料の漏出は絶対に防がなければならない。日本の防衛策は四つ。我々にモンゴルを早期占領させ、後に日本の復興援助という形で介入するか。第三次世界大戦を覚悟してモンゴルまで侵攻するか。外交での圧力か。あるいは・・・ただ黙って指を咥えて見ているか」
宮松が笑みを浮かべて、射殺しそうな瞳をイワンに向ける。
「まぁ、まだ時間はある。我が方はモンゴルにおいて作戦展開中である軍に対して基本的には対処を一任していますが、文句を付ける程度の事は出来る。良く考えた後にまた連絡を頂きたい」
そう言い置いて席を立ったイワンがドアを開けようとした時、後ろから声が掛かった。
「あの自立制御型の機械群を見る限り、中国軍閥には日本すら凌駕する科学力を有した存在が付いているのは明白。気を付けられる事です」
「ご心配には及びません。我がロシアの科学力も劣るものではない」
「そうですか。もし、その存在が貴方達の中に浸透しているとしても?」
「何・・・」
イワンが振り返る。
「忠告はしておきましょう。敵に塩を送るというのは聊か流儀に欠けるが、貴方達が崩壊しては我々の身が危ないのだから」
「・・・“アリガトウ”・・・若き獅子よ」
日本語で獰猛な笑みを浮かべたイワンが扉を開いた。
即座にロシア側のSP達が反応し、警護に付く。
「帰るぞ・・・?」
去っていこうとするイワンの背中に視線が刺さる。
それが日本側の視線ではないと気付いた時、SPの一人が呻いた。
【!?】
即座に対応したSP達の反応は評価に値する。
しかし、全てが遅過ぎた。
「お、お前!? その目は!!!?」
SPの一人が呻いて膝を付いた男の顔を見て、表情を強張らせる。
男の瞳の中で紅い光が点滅し、急速に高まっていく。
「外相をお守りしろ!!!!!!」
咄嗟の判断でSP達が巨漢のイワンを伏せさせ、その上に覆い被さった。
次の瞬間。
閃光が走った。
国連の入っているビルの中層階の廊下が爆裂し、側面のガラス張りの窓が全て崩壊する。
――――――。
爆発から三十秒後。
全身を強張らせていたロシア側のSP達が己の無事を認識し、その理由をすぐ横に見つける。
「な―――」
驚いたのは何もSPばかりではない。
イワンもその光景に内心、驚かざるを得なかった。
まるでイワン達を守るように日本側のSP達が一列になって肉の壁となっていた。
普通ならば簡単に吹き飛んでいるはずの肉体―――鋼のボディーが融け崩れて倒れる。
「日本の首相の安否を!!」
誰が最初にそう言ったのか定かでは無い。
だが、その心配をするまでもなく崩壊した廊下側へガシャンガシャンと耳障りな声が聞こえてくる。
「どうやら思っていた以上に彼らの行動は早いようだ」
宮松の声に振り返ったイワンはそこに半分以上外見が崩れた宮松を見つけた。
その表皮を消し飛ばされた内側からはSP達と同様の色が覗いている。
「ジェミニロイド・・・此処まで精巧な代物を・・・」
「ロボット首相なんて呼ばれたくないので普段は秘密にしていますが、もしもの時の備えです」
一国の首相が生身ではなく機械の体で演説や外遊を行う。
戦場や兵士が自動化(オートメイション)されてから久しい世界にもそれなりに慣れてきていたイワンであるが、その宮松の姿はまるでSFのように感じられた。
「生身だとどうしても最後の一線で常人の如くミスが出る。故にこうした何があるか分からない外交上の出国時はコレを使っています・・・早めに此処を出た方がいい。今、待機させていた私設部隊を幾つか周辺で展開させました。アメリカの州軍と連携するように伝えて有ります。避難誘導は要りますか?」
「・・・結構だ。お前達、体に異常は?」
SP達が確認し、次々に以上無しと告げていく。
「では、これより本国に急いで帰国する・・・この借りはいずれ」
イワンが立ち上がり、そのまま颯爽と崩れ落ちそうな廊下を歩き去っていった。
SP達が完全に崩壊して崩れ落ちたのを見て宮松は廊下の外、窓際に足を向ける。
「良い天気だ・・・さて、そろそろ次の国に行くか。織拿ばーちゃんからどやされる前に帰らないと・・・」
力みを失った体がゆっくりと崩れ落ちた。
国連への爆破テロに震撼するニュースが世界中に流れるも被害はゼロと報道される事になった夜、日本の首相官邸は慌しく遺憾の意を表明した。
それから日本政府にアメリカ政府からの謝意が送られる事態となり、その事件は後にアメリカの動きを鈍化させる外交上優位な出来事として語られる事になるのだが、それは未だ一人の首相の頭の中だけで描かれる未来像でしかなかった。
何かが変わろうとしていた。
世界の終わりを導く程に。
機械と人間が鬩ぎ会う。
新たな時代の到来に殆どの人々が気付くのはまだ当分先の事だった。
暴かれていく真実。
迫り来る廃滅の影。
祖は罪より出でて人を狩る咎。
一粒の麦に泣くは民か。
第五十一話「クリミナル・リコード」
懺悔の時間は未だ遠く。
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第五十一話 クリミナル・リコード
第五十一話 クリミナル・リコード
え~国民の自称代表者たる皆様に本日は一つ言っておかなければならない事があります。
今回、政府が出します一つの法案に付いての話です。
何かと批判が多い同法案を烏合の衆よろしく多くの野党の方々は好意的には受け取ってくれていないようで、このような場を借りてこちらの考えを伝えさせて頂きたいと存じます。
長の話になるかとは思いますが、とりあえずお聞きください。
さて、まずは皆様の中にある偏見の話に付いて少しお話してみる事にしましょう。
無論、何の偏見かと言えば【彼ら】への偏見です。
彼らを人々は、いや・・・国民の大半は悪い悪い極悪人のように揶揄する事があります。
まず、これが一番の偏見です。
彼らはただ天下り先の確保に腐心し、国民の血税によって永らえる害虫のように思われている。
多くの利益を得る為に【政治】を行い、政府を裏から操る陰とも言われている。
利権と権力に取り付かれている様は正にドラマに描かれる通りに違いないと多くの方は疑わないでしょう。
故に皆様は彼らを虐めるのが好きです。
国民にしても彼らを虐める法案が選挙の争点になれば、当然のように虐める側に付く。
それが政治家の人気取りであろうともそれで良しとする。
ですが、それが本当に正しい政治のあり方なのでしょうか?
彼らにしてみれば、とんでもないと口を揃えるでしょう。
無論、人々にしてみれば彼らの内の極一部を指して【この税金泥棒】と言いたい気持ちがあるのは理解できる話ではあります。
しかし、実際国家を運営していく上で彼ら以上に必要な存在はいません。
コロコロと代わる政治家の代わりは五万といるのです。
それは皆様でも我々与党でも変わらない永遠の真理でしょう。
一国の首相の責は重々承知しているつもりですが、あえて私はこう言いましょう。
この場にいる政治家の誰一人として長年仕事を勤め上げてきた彼ら以上に国家の運営方法に詳しい人間はいない、と。
どう言い訳しようと我々政治家は最後の一線で彼らに勝てない、と。
おや、野次があちこちから飛んできますが、そちらは無視しましょう。
こほん。
彼らは既得権益者層なのです。
国家を運営していく上で欠かせない知識の宝庫であり、同時に如何なる国家の中にも巣食う必要悪。
ただ一つだけ我が国の彼らが他国の彼らと差別化を図れるとするならば、それは多くの場合一つの事柄に関してでしょう。
それは・・・コストパフォーマンスについて。
不思議そうな顔をしている方々がいますが、まずはどうか話を聞いて下さい。
こう言っては何ですが、薄汚い野郎だとこの国でも罵られ気味の彼らは比較的クリーンな存在です。
何処がクリーンなんだとお怒りの方もいるようですね。
では、皆さんにお聞きしましょう。
彼らが得る利益は多くの場合過大ですが、それで我が国が破綻するような事があるのでしょうか?
何十年も続く不況は彼らのせいなのでしょうか?
一向に減らない借金が彼らのせいなのでしょうか?
いえ、違うはずです。
どんなに考えようと彼らのせいであるはずがありません。
それらは全て我々政治家のせいであるはずです。
国家の財政規律を破綻させ、政治を弄んで国民の人気取りに奔走してきた我々政治家の迷走の結果です。
無論、国民が選んだ政治家ではあります。
我々が悪いなんて持ち出すとは何て馬鹿な首相かと顔を顰めるのも理解はできます。
しかし、ここでこう言わない事には何も始まらないのです。
何故、彼らのコストパフォーマンスがいいのか。
お教えしましょう。
比較してみたんですよ。
他国と我々の国の彼らを。
お隣の国においては彼らのような既得権益者層になるのは一種の夢なのだそうです。
権力には金が寄ってくる。
それは何処でも普遍の話であり、お隣の国では金を得る最良の方法は権力を握る事に他ならない。
だが、それは同時に腐敗の温床であり、大きな社会問題となっている。
その体質を変えるのは今世紀中には不可能であろうというのが大きなシンクタンクの結論の一つでもあります。
返って、我が国の彼らはそれ程に腐敗していると言えるでしょうか?
ええ、無論新聞を賑わせるくらいには彼らも権益が大好きです。
ですが、だからと言って法を曲げたり、仕事を放棄しているような人間は皆無です。
いないとは言いませんが、無数に不正や買収が横行しているなんて新聞どころかどんな国のメディアにだって取り上げられてはいません。
彼らに掛かる費用が膨大であるのは認めますが、それだって国が傾く程に逸脱しているわけでもない。
要点だけを言えば、彼らは御伽噺に出てくる魔法の鏡そのものです。
その鏡に【お前を破壊する方法は?】なんて質問をしてはトンチンカンな答えが返ってくるのは道理ではありませんか。
他にもお前の力を奪う方法は?とかお前の力を落として人気を得る方法は?なんて言う馬鹿がいるのですから呆れます。
魔法の鏡を維持するには大きなお金が必要です。
しかし、それを有効に活用しようとする者が皆無ではせっかくの宝も持ち腐れなのです。
どうやっても破壊できない大金喰らいの鏡を壊そうと思案するよりは彼らにもっと建設的な意見を問うべきでしょう。
例えば、景気を良くする為に経済対策をしたいんだが、その財源を何処から持ってこようかとか。
例えば、新たな産業を育成する為に多くの人材を出して欲しいとか。
彼らが出す答えが必ず良いものでないのは知っているつもりです。
だが、誰がやっても同じだと揶揄されるような政治なら、誰よりも政治を知っている人間を使うのが良い事は疑いようがありません。
彼らがそれで新たな利益を得ようとするなら、そうさせてやればいいのです。
社会には自浄作用がある。
あまりに大きな利益を不当に得ようとすれば、人々は怒り彼らは顰蹙を買うでしょう。
我々政治家の仕事は彼らを罰する事ではありません。
彼らに対価に見合った労働をさせる事です。
その対価が不当かどうかは社会が決定してくれるでしょう。
ここまで話しておいて何ですが随分と不満そうな方が方々(ほうぼう)にいらっしゃるようですね。
きっと、私が彼らの権益を守る為に立ち上がった大悪人に見えているんでしょう。
少しだけ考えれば分かるはずですが、どうやら理解できていないようだ。
日本という国は三代富を維持するのも難しい国であるというのに・・・・・・。
彼らは確かに高給取りですが、同時に消費者であり、納税者でもある。
彼らの消費活動も貯蓄も相続税も回り廻っては国に帰ってくる。
本当に警戒しなければならないのは富を海外に流出させる外国資本や多国籍企業。
それからグローバリズムを標榜して日本という枠組みを解体しようとする勢力に他ならない。
日本には日本の“冴えない遣り方”がある。
なのに時代の流れだのこれが最先端のトレンドだのこれからの政策は外国にも開かれているべきだなんて戯言に一体どれだけの価値があるのか。
この国から活力と人々の仕事を奪う者達がいて、なのにどうして同じ国民である誰かを叩く事でしか人々の関心を政治家は得られないのか。
私は極右という呼び名で呼ばれる事がある政治家です。
ですが、日本程に生まれて幸せな国はないと、そう誇れるような国を創る事を目指しているつもりです。
今、我々がすべき事は内輪揉めでも自虐思考でも外国にも開かれた国なんて標語でもありません。
本当にすべき事は一つ。
国民に幸せを掴んでもらう事です。
掴ませるでも与えるでもありません。
掴んでもらう事です。
己の生きている場所を誇り、正しく省みる事ができる教育を受け、己の情熱を傾けられるだけの仕事に就き、生涯の伴侶を得て子を儲け、次の世代により良く在れと願いながら老い、死んでいける世界を創る事です。
それには彼らの協力が必要なのです。
どう考えても彼ら無しでは夢物語でしかないのです。
ですから、私は此処で皆様に申し上げておかなければならない。
私の前に立ち塞がり、道を阻む者は斬り捨てられると覚悟して頂きたい。
――――――この首相・・・面白い・・・ね? 兄さん。
とある時代に首相を務めた男の演説を『日本の名演説百選』なるメモリから読み出して端末で再生させつつ、十六歳程の少年が笑った。
「コレ大きな姉さんから借りたんだけど、やっぱり面白い」
「良かったな」
「うん」
その少年の笑みに頷いたのは二十程になるだろう目つきの鋭い青年だった。
「ほほう。これは・・・宮松鍵平(みやまつ・かぎひら)総理のあの演説か・・・」
「おじさん。知ってるの?」
麦藁帽子の似合うダンディーなヲタク系元自衛官【田木宗観(たぎ・そうかん)】は包帯でグルグル巻きの全身を僅かだけ頷かせた。
「ああ、若い頃はこの人の演説が政治哲学系のセミナーで結構流行っていてね。一度だけ本人が講演したのを聞いた事がある。何でも本人的には若い頃の自分の声を聞くのは恥ずかしいものだったらしい」
感心した様子で少年が田木の座っている車椅子を押した。
「へぇ~~」
「そろそろ付くぞ」
青年が言うと少年が頷いた。
「これで大陸ともお別れだね」
「ああ」
青年と少年と田木は大海原を前にして潮の匂いと共に朝の空気を吸い込んだ。
*
【中国沿岸軍閥領内】
第二GAMEにおいて全身打撲と内臓破裂と粉砕骨折を負った田木が生死の境を彷徨いながらも何とか生還する事に成功したのは二ヶ月前の事。
軍閥との間に抗争を発展させていたGIO中国の裏方達の働きにより、一命は取り留められ、更には最新の医療で車椅子で外出出来るまでに回復していた。
大量のNDによる各部の修復や手術による多臓器再建、IPS細胞の高速培養技術で各部の主要器官を補填されたのも大きい。
治療面で言うならば軽く十億近い医療を受けた田木だったが、それでも基本的には怪我人であり、未だ全快とは程遠かった。
そもそもGIOはもはや中国軍閥領内では追われる立場となっていたのであり、彼らの移動に付き合いつつ治療を受けた田木は何度も近くで銃声を聞いた。
何とか遠回りしながらも沿岸部に辿り着いたのは奇跡的な事ではない。
綿密な計算と高度な偽装。
更には多数の襲撃者達を返り討ちにする二人の男の功績が大きい。
少年と青年の名を田木は逃げながら治療される途中聞いた事があるのだが、未だに答えは返っていない。
ただ、二人がGIOの裏方である特務の海外組であり、同時にGAMEを取り仕切っていた特務筆頭の亞咲の弟に当るという事実だけは聞かされていた。
自分の事を人間とは違う遺伝子組み換え生物である・・・そう淡々と語った亞咲の親類。
つまりは遺伝学における優勢種。
実際にDNA上の血の繋がりがあるのか怪しいものだったが、彼ら二人の語る【姉】の姿を聞きながら・・・田木は彼らが自身で言う程人間離れしてはいないのではないかと思うようになっていた。
確かに少年と青年は強い。
只管に強い。
二ヶ月で軽く二百人以上の人間を退けてきた。
田木を守る為だけに編成されたらしい複数の車両からなる旅団を率いて軍閥領内を横断し、如何なる敵を前にしても切り抜けた強さは軽く想像を超えていた。
まるで漫画の世界から抜け出してきたような強さと表現するべきか。
車両内部の窓からよく見えたマズルフラッシュ。
その大半が軍閥側が差し向けた者達から放たれる弾丸の結果だったというのに傷一つ負わないのは明らかに異常だ。
戦術単位での戦闘力は間違いなく自衛隊陸自の精鋭を上回り、先進国の特殊部隊も真っ青な銃撃戦を演じて顔色一つ変えないのは非人間的だろう。
しかし、田木の面倒を見て愚痴り、普通に談笑しながら食事を取り、死んだ者には敬意を払う。
その姿を見ては彼らを化け物とは思えない。
「兄さん。後十分でお迎えが来るよ」
人気の無い海岸線沿い。
手の付けられていない浜辺まで降りてきた三人が背後を振り向くと十五メートル以上ある長方形の黒い箱型の物体が透明になっていくところだった。
クラクションが鳴るとそのまま音もなく僅かな違和感を抱えたまま箱が走り去っていく。
「見えない車両か。同じようなものは陸自でも開発されていたらしいが、使い道が無いと技研の人間が嘆いていたな昔・・・」
機能性に溢れた快適な内部を思い出して田木が感慨深そうにステルス車両を見送る。
聞いた話によればGIOの特注品。
静穏性能は日本車の技術でほぼ最高。
ステルス技術は米軍の次世代型で最新のレーダーにも小鳥程度にしか映らない。
問題は消費電力の高さで様々な医療機器や電子機器を備えている為、隠密行動しながらの移動距離が日に約百五十キロという事らしい。
「あれは何処へ向うのか聞いてもいいかね?」
「各地の人員をピックアップしてから南方に向うって言ってたっけ」
弟の方から答えが返る。
「GIOはやはり軍閥から手を引くのか・・・」
「軍閥側が瓦解を始めている以上、もはや利用価値は無いって大きな姉さんが判断したみたいだから」
「大きな姉さん・・・あの亞咲と名乗った彼女の事か」
「そうそう。まぁ、まだ日本の割譲は諦めてないみたいだけど」
「そこまで知っているのか・・・」
クスクスと少年が笑う。
「おじさんには意外だった? まぁ、確かに僕達は末端に過ぎない。けど、GIO特務の中で僕らは末端でありながら同時に権限も保有してる」
「権限?」
「最初のウチは負傷率が高かった僕らの要望でアレが送られてきたし、僕らが言えば大きな姉さんはお金も物も大体は用意してくれる」
「・・・・・・」
田木が少年を複雑な面持ちで見つめた。
「おじさんの臓器を培養した設備も元々は僕らの体が欠けた場合に使うものだしね」
「そうだったのか・・・」
「あの設備があれば手足が一本吹き飛んだくらいなら何とかなるし、僕らは大体世話になってる」
「・・・そこまでして特務という仕事をする必要があるのか?」
田木の本音に少年が今度はおかしそうに笑った。
「僕らは人間じゃない。人間みたいに振舞うし、遺伝学上は人間(ホモサピエンス)だけど、常人より遥かに優れた学習能力と隔絶した肉体を持ってる。生まれ方は人間と同等に代理出産の形を取るけれど、それはあくまで商売上の話であって母親と言える人間はいない。僕らにとっては自分と同質の存在が家族であり、友人であり、父や母、姉や兄、妹や弟になる。その長である大きな姉さんはこれか―――」
「その辺にしておけ」
「・・・兄さん・・・うん」
青年に遮られて少年が頷いた。
「それで今度はステルス船でも来るのかな?」
それ以上は聞かず。
田木が話題を変えた。
「ステルスの船舶が黄海付近にいたら良い的だ」
青年がボソリと呟いた。
「・・・まぁ、そうか」
最もな話だった。
第二次日中戦争になるかどうかの瀬戸際。
アメリカの監視衛星や日本の対潜哨戒機や原潜の視線がウヨウヨしている中国近辺の海であからさまにステルス機能が付いた艦船が発見されようものなら追撃は免れない。
「ふむ」
ならば、何が来るのか。
思案した田木が答えを出す前に結果が現れた。
「来たみたいだね」
少年が車椅子を押して波際まで往く。
浜辺に向って海の中から近付いてくる影が少しずつ大きくなり、やがて姿を現した。
水中を進んできたらしい車両がそのハッチを開く。
「コレお客さンよ。手早く運んデ」
三人ほどの男達が青年と少年に頭を下げると田木の車椅子を持ち上げて車両に載せた。
二人が乗り込むと即座にハッチが閉まり、再び海の中へと潜っていく。
「あんたがCEOから手配された人?」
少年の言葉に頷いたのはでっぷりとスーツをはち切れんばかりに膨張させている鼻が赤い五十代の男だった。
「ソウよ。良い額ダたネ」
その言葉に田木が目の前の男を誰が手配したのかすぐ理解した。
「じゃ、運ンだら指定の場所に置いてクよ」
田木がこれから何処に運ばれるのかぼんやりとだが把握する。
数分後。
車両が揺れた。
そして、同時にハッチが開かれる。
「これは・・・」
そこは鋼色の世界だった。
ヘリとコンテナが詰まれた大きな倉庫程もあるだろう場所。
「原潜・・・か」
赤鼻の男が頷く。
「正シくは揚陸艦だけどネ」
巨大な空間を見回して、田木がその艦の非常識さを認識する。
「・・・揚陸潜水艦?・・・これだけの規模・・・GIOはこんなものまで持っているのか・・・」
田木の反応は正常な軍人なら当たり前のものだろう。
ステルス性能、静穏性能、長期航行性能、更には運用面でもあらゆる困難が伴う事を思えば、常識的に巨大潜水艦なんてものは無用の長物だと誰でも理解できる。
それが【揚陸潜水艦】なんて冗談だとすれば、正に夢でも見ているのかと疑う方がまだ安い。
潜水艦というのは基本的に通常の艦船よりも運用に膨大な資金が伴う。
原潜ならば尚更。
しかも、大きさに比例して武装も多量に積んでいるとすれば、その力は一企業が抱え切れる規模を超えている。
核魚雷、核ミサイルを積まれていれば、ステルス潜水艦というだけで正に悪夢だろう。
(どうやって此処まで・・・これだけのデカブツがこの状況下で中国本土付近まで近づけるわけが・・・)
図体のでかい艦に苦労があるのはよくある話だが、それはあくまでも技術や運用面での事だ。
それより田木にとって疑問なのは開戦の緊張に震えている黄海を超えて陸地近くに潜水艦が存在していると言う不可解な状況だった。
どんな潜水艦だろうと多数の艦にほぼ封鎖されている海域で自由に行動できるはずがない。
「違うネ。コレ軍閥ノ」
「!? これだけの規模のものを軍閥が? 随分と面白い冗談だ・・・」
「ジョーク違うネ」
「・・・・・」
田木が黙り込む。
自衛隊にいた頃の情報には大規模新規原潜が軍閥の何処かで開発されているなんて情報は無かった。
日本やアメリカや欧州ならばまだしも軍閥がそんな原潜を保有しているというのは明らかに不自然だ。
「数年前から建造されテて。近頃貰っタて。艦長の話ネ」
「そうか・・・」
事実として乗ってしまっている身からすれば、どんなに不自然な話でも納得する以外ない。
無論、目の前の男が嘘を言っている可能性やGIOが偽の情報を掴ませている可能性もあるが、何かと裏道を歩いてきた田木はその手の嘘に敏感だ。
【兄さん。どう思う?】
【ああ、大きな姉さんに報告しなければな・・・】
しかし、艦内を見回しながらボソボソと広大な空間の端でボソボソと話している兄弟や赤鼻の男の言動・仕草に不自然さは無かった。
「アズからノ仕事。イツも大変ヨ。丁度軍閥デる人イてヨカた」
「軍閥を出る?」
赤鼻の男が頷く。
「この間、軍の大物逃ゲた。この艦ノ艦長。先見あルからインド辺リ売るテ」
(この艦を・・・売る、だと? それほどまでにもう軍閥の瓦解は・・・)
脱走。
しかも艦船を伴っての離反。
それを売るのが日本ではなくインドというのが何とも中国人らしいと田木は思う。
日本にはプライドから売れず。
周辺諸国には金額的に売れないのは承知済み。
海軍の質が低く同時に中国と内陸部で対決姿勢を打ち出しているインドならば、手土産として潜水艦はこれ以上ないものだろう。
それが不自然な代物とはいえ軍閥の最新艦ともなれば、日本やアメリカと共同歩調を取っているインドにとっては今後の三国間での外交材料としても有益に働く。
何故、軍閥にそれほどの新型潜水艦を新造する余裕や技術があったのか。
想像の範囲外だったが、田木は日本に本来向けられていたかもしれない力が他国に流出するという話に僅かな安堵と同時に同型の原潜が存在するかもしれないという不安を抱いた。
「GIOはこの艦の事は?」
田木の元に戻ってきた青年と少年が同時に首を横に振る。
「今回はCEOの手配なんだ。それにしても軍閥がこんなの保有してるなんて・・・最初からGIOは利用されてたのかな? 兄さん」
「さぁ、な・・・ただ、これでようやく合点がいった」
「合点?」
「ああ・・・」
青年が頷く。
「じゃア、インド洋沖まデ乗せるヨ。後、手配したタンカーよ」
赤鼻の男がそう言うと通路へと消えていく。
(・・・長くなるな・・・これは・・・)
田木達の日本への旅はまだ遠回りが必要なようだった。
*
一粒の麦という話がある。
地に落ちた麦の一片はやがて無数の実を付ける穂を抱く。
故に落ちぬ麦に如何程の価値があろうか。
例え話にしては有名な話だろう。
大地に落ちる麦は死。
そして、そこから始まる稔りは生。
世の定めの一端である。
「大統領。新しい情報が入ってきました」
彼らにしてもそれは賛同するに値する価値観と言えた。
一粒の麦が次の稔りを約束する。
今までそう信じてきた者達の集りこそ彼らそのものだった。
「そうか・・・」
会議室の中には異様なまでの緊張が走っていた。
軍服に無数の勲章を付けた者が四人。
政府関係者が八人。
民間からのアドバイザーが二人。
そして、巨大なスクリーンの横に議事進行役の諜報機関関係者が数人。
「今度は何処だ」
「はい。アイダホです」
巨大なテーブルの上と会議室に集った各々の前には合衆国の地図が出ている。
ただ、その祖国のほぼ半数以上の州には薄く紅い色が広がっていた。
「それで状況はどうなのかね?」
政府関係者の一人が議事進行役の男に聞く。
「どうなのかね、とは?」
「今回の件を引き起こした人物は絞り終えたのかと聞いている」
「現在、本部の検証チームが【十三人の内の誰なのか】を特定中です」
その場の空気に大きな落胆が落ちた。
「では、此処で一端状況を整理してみては如何でしょうか大統領。長時間の情報取得で混乱してはいけません。個々人での認識を一致させておく必要があるかと」
上座に座り込んでいた大統領。
いや、大統領をそろそろ辞任するかもしれない男が頷いた。
共和党出の黒人として五人目。
そろそろ激務で髪も白くなってきたというのに此処半月でメッキリ老人のような白さを獲得した髪が頷くと同時にハラリと一本抜け落ちた。
「では、皆様にもう一度此処二ヶ月で起こった出来事を説明し直しましょう」
議事進行役の男がテーブルの端でコンソールを操作した。
「事の発端となる情報は我々CIAの【オペレーション・パトリオット】が一時期捕捉した人物から齎されました」
地図が消えて、一枚の写真が浮かび上がる。
「荒崎完慈(あらさき・かんじ)。言わずとも大統領や政府筋の方なら知っておられる【あの悪魔のような企業】における事実上のトップです」
その中で眼鏡を掛けた三十代の男がオープンカーの後ろに一升瓶を山と積んで高速を疾走していた。
「彼はGIOが主催するGAME終盤、衛星で姿を捕捉した我々に・・・直接的に声を送ってきた」
完慈の唇が動くと四方に配置されているスピーカーから声が発せられる。
『【これから友人達が迷惑を掛けるかもしれないが、それは余波に過ぎない。もしも、国が大事なら倉庫と生き物を注意深く見守っておいた方がいい】』
機械音声に顔を顰める者が多数。
しかし、その理由は声が耳障りだからというよりは二度と聞きたくない声を聞いてしまったという風にも見えた。
「彼はこう我々に忠告し、そして忠告の代価として【神の杖】を貸せと秘匿回線に割り込んで言ってきた」
政府筋の男達が苦い顔をした。
『秘匿回線が聞いて呆れる』
ボソリと誰かが言った。
その声を咎める者はいない。
世界最高のセキュリティーを誇る回線にいつでも割り込んでくる時点で相手は尋常ではない。
それを悔しく思いながらも誰一人として納得できない者はいなかった。
彼らが相手にしている者の事を思えば、それくらい【在り得ないわけがない】からだ。
「無論、我々を通じてこの報を聞いた大統領は拒否された。国の安全保障上最重要の兵器を寄越せと言われて寄越す馬鹿はいません。当然です。ええ、まったくもって正常な判断でした」
大統領が己の失態を悔いる如く眉間を揉む。
「そして、GAME終了後・・・彼の言葉の意図を探るべく我々は米国行きの旅客機に乗った彼に【話を聞きに行った】わけです」
日本製の中型旅客機。
テーブルの上にその【聞きに行った最中】の映像が映し出される。
黒いマスクを被った完全武装の客達の中、一人スーツ姿でお茶を飲んでいる完慈が指先で小型カメラを弄って己の顔に向ける。
完全武装の男達は座席で指先一つ動かせず静かに固まっていた。
『御機嫌よう』
合成音声が響き、誰もが顔を暗くした。
その場にいる半分以上の人間が日本語など分からなかったが、それでも空恐ろしい何かを全員が感じ取った。
『【杖】を貸して頂けないのは日本人的な言い方にすると遺憾だという事になるが、どうやらあちらはどうにかなったようだから良しとしよう。この映像は録画して四日以上は上層部に届かない事を考慮して話すものとする。では、これから君達【半分】が直面しなければならない事態を教えておこうか』
字幕が映像の下に流れ始める。
『まずGIOアメリカ本社のサーバー情報から推測して君達の置かれている事態を簡潔に伝えよう。これからアメリカ全土の穀倉地帯は新型の麦角菌(ばっかくきん)によって壊滅する』
シンと会議室の中が異様な静けさに包まれる。
『この菌は長期間苛酷な環境でも耐え抜く力を持った代物だ。そして、その最大の特徴は増殖力にある。通常の麦角菌とは違い・・・この麦角菌は薬剤にかなりの耐性を持ち、人間に付着して移動する。アメリカ全土で小麦生産に従事する人間の徹底的な衛生管理が出来なかった場合、約3000時間程で国内の流通小麦の全てが汚染されるだろう。
汚染された小麦を食べる事はお勧めしない。ヒステリックな女性の叫びや大物セレブの離婚劇、銃乱射事件で紙面が賑わい、車両・航空・医療、その他諸々の事故で社会の麻痺を我慢できるなら問題ないが』
ピキピキと頭の血管が今にも切れそうな男達が黙ってその男を凝視し続ける。
『倉庫の管理を徹底し、国内の小麦消費を抑え、主食を他の穀物類や芋類・果物に変えれば、数年は持ち堪えられるだろう。
穀物メジャーが悲鳴を上げるだろうが、それをどうにかするのは君達の仕事だ。世界各国で穀物価格が急激に膨れ上がればどうなるか君達には自明だろう。
まぁ、バイオマス系の燃料や牛肉豚肉を止めれば肥満も解消されて結構健全かもしれない・・・』
拳を握っている男達が半数。
『今回、この事態を引き起こした人間の予想は付く。が、それに応対するのは君達の仕事であって僕の仕事じゃない。誰かは知らないが、彼ないし彼女はアメリカを潰す気だろう。
何故今なのかという問いには時期が来たからだと答えよう。更に潰す理由に付いては君達が知らないわけもない。今の【半分】の構成員で知らない人間がいるなら、除籍されてる古参のCIA職員か勲章だらけの退役軍人にでも聞くといい。
どちらも口を噤むだろうがね。今の君達の大勢がどうなっているかに興味は無いし、全て理解しているという前提で話は進めさせてもらう』
今にも画面に殴りかかりそうな者が約八割。
『君達が生き残る為にはマストカウンターの時期を見極めないとならない。だから、我々の弱点を教えておこう。これは本社を置かせてもらってる義理と理解して欲しい』
「義理だと・・・白々しい・・・!!」
男達の一人が毒づいた。
『僕らのような研究者上がりの人間にとって最も痛いのは研究や実験結果の破壊なんかじゃない。研究はいつだって己の頭があれば何処でも出来る。そこが墓場でさえなければ幾らでも結果を出す機会はある。僕らにとって最も痛いのは研究の為に集めた研究材料(サンプル)の破壊だ』
彼らの誰もが映像の内容を再確認する。
『我々【十三人】の誰もがとは言わないが、ほぼ全員の共通項・・・それは再現性の無いサンプルの採集に成功した者が新たな扉を叩く権利を得てきたという事だ。
現代では再現できない何か。それを再現する事を求めて我々の技術は飛躍的に向上する。ある者は大昔に作られた一つのプログラムに嫉妬して、分野の頂点に立った。
ある者は遥か過去の刀に魅せられ、新たなコアマテリアルの生成に成功した。ある者は深海の生物進化に引き込まれ、淘汰の先にある生き物を愛した』
言葉の本流は僅かな熱が帯びている。
『我々は十三の分野を住み分けたのではない。我々は十三の分野を進んだ先、己にそれしかない事を悟った者だ。無論、誰もが天才であり、秀才である事は疑いない。己の分野以外も一流ではあるが、それでも門外漢の分野に対しては研究速度に限界がある。
あの頃からの延長線上にある技術や最新の研究成果を常に吸収する事で一定のラインは保っているだろうが、それでもアメリカの最先端を全て越える事はほぼない』
遺憾だったが、その場の男達にとって完慈の語る内容は今後を左右する重要な情報だった。
『まずは君達の敵を特定したまえ。そして、その者の得意分野以外で勝負する事だ。間違っても同じ分野での争そいは避けるように・・・それが我々の誰であろうと勝ち目はない。
ちなみに行動を阻止したいと望むなら同等の者をぶつけるか時間稼ぎをするといい。個人での立ち回りには必ず時間制限がある。流動的に流れていく事態の中で機を逸するのは誰にとっても痛い』
語り終えたとばかりに指が伸びて映像が途切れる。
『これからこちらは君達の国で色々と準備がある。邪魔はしない方がいい』
何様だと誰の顔にも書いてあるが、傲慢なまでの物言いは全て録音でしかなく、内心を露にする者はいなかった。
『・・・この状況は君達【半分】が撒いた麦(たね)の一つだ』
機械音声には僅かな嘆息が混じる。
『収穫の時期を間違えた穂はやがて腐り、地に落ちて、世界を覆い始めるだろう』
まるで預言の如く声は男達の間を渡っていく。
『呪いのように祝い、嘆きながら祝せよ諸君・・・【あの日さえ】と後悔しながら・・・以上だ』
その場に沈黙が下りる。
明らかに何かを知っている男が今何処で何をしているのか。
アメリカ国内に本人がいてすら誰も知りはしない。
それがGIOの本気であり、一国の諜報能力を超える技術力の証左だった。
「・・・それで事情を知っている除籍者の行方は?」
大統領の言葉に諜報機関の男の一人が首を横に振った。
厳しい表情が眉根を寄せる。
「如何に我々と同等である【半分】でもこの案件に対する情報を隠せば、国家反逆罪での処罰も在り得る」
その男達の中から代表者が一人進み出た。
「大統領。この件に関して【SB】は協力的です。除籍者の追跡は現在各地の人員を使い最優先でさせていますが、殆ど発見できていません。それは一重に除籍者や軍OBが逃げているからというよりは・・・死亡しているからだと思われます」
「まさか・・・」
大統領の声に男が頷く。
「この件に関して荒崎完慈の言動から推測された時期の【前任者達】が殆ど消えています。今現在確認できる者に聞いても返答は【NO】としか返ってきません。この案件に続く情報はその頃の【我々】と【そちら側】の間で保護協定となった可能性があります」
「残っている資料からの推察はできないのかね?」
「残念ながら全ての情報は紙媒体ですら残さなかった可能性があり、死亡した前任者で行方が割れている者の遺品から情報を回収している最中です」
「時間が無いと言うのに・・・」
大統領が愚痴った。
その時、内線がコールされた。
すぐさまに端末で連絡を受けた代表者の男が顔色を変える。
「ああ、分かった。転送してくれ」
「どうかしたのかね?」
「今、ほぼ特定されたとの連絡がありました」
会議室内がざわめく。
「いきなりだが、どういう事かな」
今までのやり取りから即座に状況が変わった事を訝しんだ大統領に男が説明し始める。
「シカゴの空港で防犯カメラに十三人の内の二人が掛かりました」
「二人だと・・・」
「はい。1分程の会話の後に分かれたという事です」
「誰なんだ・・・」
会議室の虚空に二人の男女が映し出される。
「現在日本国内でフィクサー・アズ・トゥー・アズを名乗る【亜頭小夏(あず・しょうか)】と」
スーツの胸元が覗くアズの全身が虚空に浮かぶ。
「情報処理心理学を応用したAIプログラムの第一人者【國導仁(こくどう・じん)】です」
狐目の顔に長髪という風体の男がその横に並んだ。
「一体どちらだ。いや、どちらもか?」
「いえ、アズ・トゥー・アズは十三人の内で唯一こちらと協定を結んでおり、相互不干渉と特定状況下での協力体制を敷いています。確かに可能性はありますが、今回の穀物テロを主導する理由に欠けます。渡航に関してはそもそも実行犯ならわざわざ安全な日本を出るのは聊か不自然に映ります」
「という事は・・・」
男達が狐目の男を見つめる。
「今のところこちらの男が主犯である可能性が高いと検証チームは推定しています。國導仁は十三人の中でも極端な国粋主義で知られ、一時期はネット上で【Fox Face】という多年草のアイコンと通称FFのハンドルネームを使い、主に日本と敵対する国や外交上問題のある国のサーバーを荒らし回っていました。
暴露された政治上の重要機密は数知れず。単独で世界中の政府から煙たがられたウィキリークスを上回る被害を出した事からICPOによる特別指名手配が為されましたが未だに捕まっていません」
『まさか【FF】による犯行とは・・・』
軍人の幾人かがボソボソと互いに会話を交わす。
「確か・・・我が国にもそのFFの被害が出ていたと記憶しているが」
大統領の問いに代表者の男が頷く。
「はい。大なり小なりありますが、最後に被害が確認されたのは十八年前。黒い隕石事件の混乱期に日中が緊迫した際、日本へ配備する原潜及び空母に核が積み込まれた事を暴露され、日本への核配備を事実上阻止された経緯があります」
「FFの声明はあの当時に見た記憶がある。確か・・・」
『マッチは要らない・・・でしたかな』
会議室の中で最高齢だろう軍人の男が遠くを見つめるような顔で呟く。
事前に用意されていた箱の中から一つのファイルが取り出される。
「その時の様子ですが」
呟いた軍人が代表者の男を手で制してそっと話し始める。
「此処は当時を知る者が」
ゆっくりと息を潜めるように声が語り出す。
「彼はその事件当時ペンタゴンのサーバーに対して単独でクラッキングを仕掛け、三十秒間複数のシステムを乗っ取りダウンさせました。
軍の技術者連中は揃って言いましたよ。【在り得ない!! きっと悪い夢を見ているんだ!!】とね。クラッキングの後に検証委員会が召集され、その結論として彼は当時世界最高と謳われた我が国のヨッタフロップス級量子コンピューターと同等の性能を持つマシンを数台投入した可能性があるとされました。
そうでもなければ軍のファイアーウォール突破は不可能だと・・・しかし、日本国内で家宅捜索された際に押収されたのはノートパソコンが一つ切り。
ハードディスクが完全に焼き切られていた為、実際の所は分かりませんが、幾つか残されていた彼のメモなどから独自開発したAIプログラムを世界各地のスーパーコンピューターに感染させ、同時多発的にクラッキングを行ったのではないかという事です」
静かに口を閉じた軍人に代わって再び男が話し出す。
「その後、【国家安全保障局(NSA)】と【中央保安部(CSS)】による合同捜査が行われましたが発見されたのは手口として使われた各国のスーパーコンピューター内の一文のみでした」
「一文?」
大統領に男が頷く。
「【いつでも見ているぞ】と」
ゾッとしたように当時の事を話した軍人が背筋を震わせた。
「いつでも見ているぞ・・・か」
大統領が苦虫を噛み潰したような顔になる。
「エシュロンによる追跡は今も続けられていますが、何分一時期とはいえ世界を席巻した男の名です。今でこそ減りましたが、FFのハンドルネームを使う人間は全世界で約百八十万人以上。現在世界中からネットに書き込まれるFFという単語の流通量は一日でもかなりの数に上ります。本人と思われる痕跡は・・・この十八年間の追跡で一度も出ていません」
「まるで亡霊だな」
愚痴った大統領が眉間を揉み解しながら溜息を吐く。
「【君達】の責任ではないのかね? 安易に日本を糧にしようと画策した・・・」
長話に疲れミネラルウォーターを呷っていた男がそっとペットボトルを置いた。
「【SB】が今後日本に対して実施する作戦の予定は三年後を目処にするものでした。今回の件の検証を進めさせていますが、やはりこの一件の最大の遠因はGIOGAMEと予想外に過ぎる軍閥の急激な変化であると考えられます。
彼らが動かなければ【半分】のどちらもこの時期に動く必要は無かった。そして、我々が動かなければ米国が標的にされる事もまた無かったのではないかと。そもそもGIOに【レギオン】単独による作戦など仕掛けなければ、まだ表舞台に上がる事も無かったはずです。
その後の中国軍閥での非公式作戦に付いても明らかな越権行為であると我々は認識しています。あそこで軍閥連合の瓦解を加速させる必要は無かった。十三人の誰かが関わっているとはいえ、このままでは制御不能になった軍閥がどう出てくるのか予想が付かない事態になっている」
大統領が瞳を細めて男を見た。
「・・・それは認めよう。あれは確かに此方側の落ち度だ。しかし、君達は君達で一人の男を単独で日本国内に潜伏させている。この一件が起こるよりも、GAMEが始まるよりも前からだ。五人目の情報がこの一件の引き金になっている可能性もあるのではないかね」
「大統領。【我々】は米国に対して不利益を齎しません。五人目の情報を得たいが為に他の十三人の誰か、軍閥にも関与しているかもしれない誰かが、我々に脅しを掛けてきたという事は十分に考慮されるべきですが、荒崎完慈の言葉を借りるなら時期が来たという事になる。
それが何に対する時期なのか。そして、嘗ての我々が撒いた麦(たね)がどういうものなのか。まずはそれを突き止めるのが先決と存じます」
両者が視線を交わせる。
「・・・いいだろう。【国防高等研究計画局(DARPA)】に【レギオン】の日本撤退を指示しろ。これは決定事項だ」
『大統領!?』
複数の高官が思わず立ち上がった。
「何も本土に引き上げろとは言っていない。【レギオン】はハワイ沖の空母に搭乗させ、いつでも出られるようにしておきたまえ」
大統領の命令に軍人達がざわついた後、四十代の黒人の男が立ち上がる。
「よろしいのですか? 今、極東情勢を鑑みた場合、【レギオン】が有する超高難度の作戦遂行能力は不可欠かと思いますが・・・」
「今回の作戦において自衛隊の研究機関による調査が始まったと【国防情報局(DIA)】から情報が来た。これ以上、日本国内での作戦遂行は日米同盟の妨げにもなる可能性を否定できない。
確かに軍閥領内での核弾頭の起爆はやり過ぎた面があるのは認めるべきだろう・・・もし我が国が起爆に関わっていたと知れれば日本との軋轢は今以上になる。それは今の段階では避けたい・・・これが私の考えだ・・・」
一歩間違えれば核戦争になっていたかもしれない現実を前にして大統領に面と向かって意見する者は一人もいなかった。
「では、引き続き各自の任に当たってもらいたい。本会議はこれにて解散とする。次の提示連絡会議はオンラインではなく生身で会う事になるだろう」
大統領が立ち上がると他の全員も立ち上がり、敬礼と共に軍人達や他の閣僚の姿が消えていく。
最後に残っているのはCIAの代表者の男と大統領と数人の官僚のみとなった。
その会議が終わって幾分気分が緩んだところを狙い済ましたかのように緊急回線が開き会議室内の中央テーブルの虚空にEMERGENCYの文字が浮かぶ。
「何事だ!!」
代表者の男が端末を確認して唇を噛んだ。
「大統領!! 国連ビルで自爆テロです!!?」
「何?!」
「現在状況を確認中ですが、事前の情報によればそのフロアで宮松総理とロシア外相が非公式会談中であったと!?」
「ッ!? 次から次に!! これも攻撃なのか・・・!!?」
「分かりません。ですが、【敵】が牙を向いているのは確かでしょう」
「すぐさまに対策会議を設置しろ!! 宮松首相の安否の確認を最優先だ!! 現場の指揮は此処から私が取る!!! 機長に行き先の変更を指示しろ!!」
「はッッ!!!」
事態は大きく動き出そうとしていた。
会議室の窓が開く。
大空の上。
大統領専用機(エア・フォース・ワン)の往く手には積乱雲が鈍するように重く沈んでいた。
*
爆炎が吹き荒れる海辺。
機械(ジャンク)の群れが列を成して海岸線を埋め尽くしていた。
夕日も翳る噴煙を上げているのは一つの工場。
それも海に浮いている幾つものプレートの上に建造された場所だった。
巨大なプレートはフラクタルな形状をしていて一枚で二百メートル以上の半径を持っている。
それが十数枚と言えば工場の大きさは大企業の心臓部とも言える面積だろう。
しかし、今正に崩れ往く六角形(プレート)の大半は崩壊しながら海の藻屑になろうとしている。
「あ~~らあら♪ 結構脆いのね此処・・・」
機嫌良さげに崩れていく工場の屋根の上で笑っているのは全身赤のスーツを着たラテン系の男。
その片腕はギラギラと炎に照り返して輝いている。
「BAI・AR・・・そっちは?」
裏世界に名を轟かせる犯罪シンジケートADETの幹部【BAI・AR】。
今現在中国に進出している組織の先鋒として、あるいは日本の国際世論誘導計画である【人道海廊】の一翼を担う者として軍閥との折衝を引き受けている男は・・・その小さな声を聞き逃さなかった。
「FADO? いつの間に来てたの? よくBOSSが貴女の渡航を許したわね?」
ドカンと工場内から特大のキノコ雲が上がる最中。
それでもまるで動じた様子も無くBAI・ARが目の前の存在を珍しげに見つめた。
「BOSSから新しい命令届いてる?」
「?」
「やっぱり・・・その表情からして届いてない。BOSSから新しい任務が出た」
「どういう事かしら?」
「たぶん、情報が遮断されてる。誰の仕業かは分からない。これが終わったら早目にそっちに回って欲しいって」
「へぇ、ウチのシステムを遮断するなんて【連中】か米国の諜報機関くらいじゃない?」
「・・・【人道海廊】の推進と同時に軍閥側の交代したトップとの折衝を任せたいって」
「相変わらず人の話とか聞かないわよね。あんた」
「そっちこそ」
「ま、いいわ。BOSSの命令ならNOなんて無いんだから・・・それで気になってたんだけど、この工場一体全体どうなってるわけ?」
「?」
「いや、あんたがそんな顔しないでよ。この作戦立てたのアンタでしょ?」
「そう」
「アタシ的に見たらこんなアメリカにもそうそうない造船プラントを軍閥が秘密裏に動かしてればねぇ・・・」
「此処、四年で潜水艦を三隻造ってた」
「潜水艦? この規模で潜水艦を三隻って・・・どれだけ大げさなのよ」
見渡す限り、様々な施設が所狭しと並んでいる六角形の群れはまるで都市の如く広い。
「大げさじゃない」
「七百メートル級でも作ってたの?」
「一キロ」
「1―――軍閥にんなもん造れるわけ?」
「これ軍閥のプラントじゃない」
「はぁ?! じゃ、一体誰のプラ」
屋根の上を弾丸の嵐が通り抜ける。
「っとと、どうやらまだいるらしいわね。無人の造船プラントを守るのがロボットとは日本も真っ青なSFじゃない♪」
何処か愉快げにBAI・ARが避けた屋根の上から炎に包まれる地上を見つめる。
崩落しそうになっている床の上にまるで蟲の見本市のような多種多様なシルエットの機械が集合していた。
「あら・・・人型だけじゃなかったのね。で、FADO・・・一体誰のプラ―――ってもういないのね。相変わらず人の話聞きゃーしない。あの女郎(めろう)」
ピロリンとBAI・ARの懐で端末にメールが届いた。
「次の任務もあるし、さっさと片付けましょうか」
ギチリと赤いスーツの内側で筋肉が膨れ上がる。
「起動」
始動認証された義手内部のシステムが立ち上がり、その力を展開する。
「I have control.BMI remote system connecting.」
鋼の腕が内側から幾つかの亀裂を発生させ、同時に内部から幾つかの突起を出現させた。
「……Fire」
光が奔った。
BAI・ARの下、蟲の形を得た機械が粉々に砕け散り、爆砕する。
同時にプラントの至る場所で区画中枢を完膚なきまでに砲撃が打ち抜いてゆく。
遥か数キロ先の沿岸部で数十台以上に及ぶ特殊車両が一列に並んでいた。
戦車。
現代戦において最も活躍の場を奪われた憐れなる兵器。
白兵戦が行われるのも稀な戦場を駆ける抑止力という名の骨董品。
それがBAI・ARの義手と連動し、目標を精密射撃していく。
崩壊が加速するプラントを見渡して、溜息が吐かれた。
「補給無しだと一日三十キロが移動限界とか・・・近頃の戦車ってのはホントポンコツよねぇ。ま、軽くて何処の橋もスイスイ駆動系動かすのに油要らずで電池ってのは助かるけど・・・やっぱり、使うなら陸自の十四式・・・ああ、ホントBOSSに今度オネダリしてみようかしら」
ガラガラと砲撃の衝撃で屋根も建物ごと海へと沈んでいく。
その上でBAI・ARは次の仕事に向わなければと思いながらも夕闇に沈んでいく崩壊の絶景をしばし見つめていた。
「まったく。自分の女もほっといて米軍に捕まるとかホントあいつも物好きよねぇ・・・」
愚痴は誰の耳にも入らなかった。
*
そんな事が中国軍閥領内で起こっていた時間帯。
【起きていますか?】
遥か離れた人口の浮き地の奥底でスーパーニートな青年が一人笑みを浮かべていた。
漆黒の闇の中、開かれたドアの先で金色の髪の少女が静かに嗤う。
【さぁ、今日も楽しい尋問の時間ですよ。ADETの王子(Jack)いえ、ここではこう呼ぶべきですか】
明かりが部屋の内部を照らし、全身を拘束具で雁字搦めにされた風御を浮かび上がらせた。
【ADET暗殺部隊の中核人物・・・永橋風御さんと】
風御の人生で一番長い一日が始まる。
闇の中。
放蕩者は思い出す。
己が生まれた日の事を。
初めて友が出来た日の事を。
第五十二話「Fの憂鬱」
闇より出でて還る場所も知らず。
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第五十二話 Fの憂鬱
第五十二話 Fの憂鬱
枯れた樹を撫でる手があった。
枯れ枝のような手が幾度も慈しむ。
陽気も届かぬ木陰の中で。
誰かが言った。
思い一つで何が取り戻せますか。
ようやく得た安らぎに微笑みながら少女は笑った。
何度でも思う事の何が悪いのかと。
命生まれた日に根を張り、命終わる時に切り落とされる。
それでも手に抱く幸せは変わらないだろうと。
足掻いているだけに過ぎないと知りながら、それでも伝わると信じた者の笑みで。
少女は年月を費やした。
枯れ枝に新芽が芽吹いたのは少女がいなくなった後。
少女はついに花を咲かせた樹を見る事は無かった。
そんな夢を見た。
*
「ひさしげ?」
「うお!?」
近頃疲れ気味な外字久重が一瞬の睡魔から開放されたのは内海沿いにある工業地帯の一角だった。
世界が終焉するとされた日にも休まず動き続けていたという逸話を誇る日本の製造業。
それを如実に現す大小の工場群は旧区画の整理と新区画の整備に追われている。
最新の工業製品を生み出す会社がある一方、昔ながらの技術によって最新技術を下支えする旧い会社もあり、如何に技術が進んだとて最後は人の手と言われるような分野が今も存在している。
ただ、新興国との価格競争に負けた者がいるのも事実であり、廃墟と化した場所が散在している事も実際の所ではあった。
工場が騒音と煙を吐き出していたのは過去の話。
外部不経済(こうがい)の消えた世界は澄んでいる。
そろそろ夕闇に沈む一帯には暗いというよりは蒼い夜が訪れつつあった。
「大丈夫? 疲れてない?」
「あ、ああ・・・いや、色々と今日は在り過ぎたからか・・・ちょっと静かになって気が抜けてたな」
静寂に響く罰の悪そうな声にソラ・スクリプトゥーラはマジマジと青年を見つめる。
「・・・体は疲れてないみたいだけど、精神的に参ってるみたい・・・少し休んでた方がいいわ」
「何でもお見通しだな・・・」
参ったと言わんばかりに苦笑した久重が己をどこまで見透かされているのだろうと笑った。
「だって、ひさしげの健康管理は私の仕事だから」
「はい?」
思わぬ言葉に聞き返した青年に少女はにこやかに告げる。
「アズがせっかく高性能のNDがあるんだから、あの人生的不摂生が上手い馬鹿をよろしくって」
「(・・・アズさん。一体何をあんたは教えてやがるんですか。ええ、つーか人生的不摂生って・・・)」
内心愚痴ったものの、少女が自分の事を常に気に掛けてくれているという事実を嬉しく感じた久重はポンポンとソラの頭を撫でた。
「ありがとな」
「あ、え、う・・・うん・・・」
褒められるとは思っていなかったソラが頬を染めるが暗い事が幸いして悟られる事は無かった。
「それでボーっとしてて悪いとは思うんだが、何かそういう気配はありそうか?」
「まだない・・・でも・・・」
「でも?」
「何か不気味な感じがする・・・」
「不気味な感じ?」
「うん。上手く言えないけど、こんなに工場があるのに凄く静かな感じがして・・・」
「そうか・・・」
青年が廃工場の敷地に佇みながら辺りを見回した。
そもそもどうして二人が工業地帯にいるのか。
それは三時間程前に遡る。
【EDGE事件】の捜査を始めた虎を含めた三人がまず進めたのは捜査資料の洗い直しだった。
ソラが資料を整理し、被害者の共通項を見つける。
そして、その共通項に沿って捜査を始める事になったのだ。
そこで三人は最初から色々と躓いた。
警察が大方調べ上げた被害者の情報はほぼ完全なものだ。
共通項があればとっくの昔に捜査は進展していなければおかしいわけだから、再び見直したからと言って重要な手掛かりが簡単に見付かるはずもない。
殺された被害者は五人。
身体の一部を切り落とされた被害者は百数十人。
誰も彼も比較的若い層が狙われたという以外はほぼ一つしか共通項がない。
それは襲われた殆どの者が不良もしくはそれに殉じるような素行の悪い者ばかりという事だ。
これらの犯行から警察ではEDGEを不良に恨みを持った者の線から追っている。
だが、不自然な点が幾つかある。
まず、殺された被害者の年齢が若い層から逸脱している事。
五人が五人とも世代的にはバラバラで五十代や六十代の者も含まれている。
更に不可解なのは殺された五人の素行は悪くないという事。
個人個人で色々と離婚だの退職だの大病だの経済的困窮と大変な面はあるものの一様に悪さをするような人格ではなかった。
比較的貧しい生活を送っている大人なんてカテゴリの人間は世の中に五万といる。
それを思えば正に殺された被害者達の繋がりは薄く共通項は少ない。
警察は不良への復讐的な犯行がエスカレートした結果だと見ていたが、それも当っているか怪しい。
早々に考え込んだ三人だったが、それを打破したのは以外にも虎だった。
『殺して歩いてる・・・力持った方じゃない・・・』
久重とソラが何の事かと聞けば、虎は己の考えを虚空に浮かび上がった資料を分けながら語った。
曰く資料を見て気付いた事が三つ。
ウィルス感染によって肉体強化を引き起こしたEDGEの行動パターンの規則性。
それとはそぐわない殺され方。
殺し方の急激な変化。
『力持った方・・・使い方上手い。殺した方、雑』
『雑?』
その久重の言葉に虎は幾つかの資料を別けて提示した。
『被害者順。チョウショ・・・犯行良くなってる。無駄ない』
『ああ、そう言えばそうだな。犯行時間も短くなってるし、くっ付く確率が高くなってるのか・・・』
虎の言いたい事が二人にはすぐ理解できた。
最初の頃は切り落とし方が雑だったらしく体の一部を切り落とされた被害者達は再生医療を受ける事が多かったのだが、その率は後半に襲われた者程低くなっていく。
更には再生させるまでもなく残った一部を縫合したという者も多くなる。
『これ、幇(バン)でも同じ。力持つ。上手くなる。上手くしたくなる』
『真理だな・・・確かに人間わざわざ下手な仕事にしたがったりしない』
『殺した方。雑、雑、雑、全部殺し方違っても雑。上手くなってないおかしい』
『殺し方が全部別々だから上手くならないわけじゃないって事?』
ソラの最もな疑問にコックリと虎は頷いた。
『殺し方、雑でも慣れれば、時間短くなる。同じ場所(くび)狙うなら凶器違っても慣れる。でも、コレ』
最後に虚空で別けられた資料が二人の前に浮かぶ。
『目撃者いる事件以外時間掛かってる』
『・・・確かに犯行時間が一瞬なのは目撃者がいるのだけだな・・・他は人気の無い場所で犯行時間が妙に長い』
『こっちとこっち違う』
犯人が二人。
そう結論した虎に二人は関心してしまった。
無論、その推理が正しいかどうかは確かめようが無かったものの、一理有ると感じた二人はその推測を下に再び資料を整理した。
殺された方には首を切られてころされる以外の共通項がない。
つまり、別人が同じような方法で別々の犯行を犯している。
模倣犯の可能性を否定できない。
そう考えれば事件はより明確な形で単純化する事が出来た。
『ひさしげ。とりあえず殺された方の共通点が分かったかも・・・』
最初に気付いたのはソラだった。
『ほら、五人全員が殺される二、三ヶ月前にハローワークに通ってる』
『さすがにそれだけで共通点になるかは疑問だな。このご時世ハロワ通いは成人の義務みたいなもんだ』
『違うの。今、ハローワーク周辺のジオプロフィットのログを洗ってみたんだけど、コレ』
ソラがテーブルの上にある端末に指を向けると新しいホログラフが浮かび上がる。
『こいつは・・・自殺予防チャンネルの番号か?』
『そう。自殺率が高いからって職難の人の相談を受け付けてる所の・・・定期的にジオプロフィット上に番号が上がってるんだけど、死んだ人がハローワークに行った時間帯には必ずコレがあったみたい。それでちょっとそこのデータベースを探してみたら』
更に新しい資料が提示される。
【相談案件××月分】
会話ログという形で残っているらしい情報が一列に並ぶ。
『調書に乗ってる被害者の詳しい生活状況と酷似した案件が五件。それと凄く不自然な所があって』
『不自然?』
『うん。ログの最後に変な痕跡があるの』
二人が資料の最後に不可思議な分を見つける。
『文字化けしてるな・・・どういう事だ?』
『あんまり詳しくないんだけど、音声から文字でログを残すタイプのプログラムって変換できなかった音声を変に認識する事があるって聞いた事ない?』
『変換できない音声・・・怪しいな。この文字化け直せるか?』
フルフルとソラは首を横に振った。
『元の音声データと稼働中のプログラムが無いと・・・でも、音声の出所なら・・・』
ソラが言うなり、幾つかの資料を脇に退けて新しい窓(ウィンドウ)を開く。
『音声の出所? その相談所じゃないのか?』
『・・・今調べてる最中だけど複数の相談所の通信記録を洗ったら五件の相談が行われた直後に変なノイズみたいなのが混じってて・・・これって不正な処理でアクセスがあったんじゃないかなって』
久重が考え込む。
(この五件を見る限り、相談が全て終わった後に文字化けが出てる・・・つまり、相談後に不正な操作で音声が挿入されて、正規のプログラムじゃ文字に変換できなかった・・・って事か?)
『通信大手のサーバーだから少し待ってて』
『ああ・・・・・・?』
久重が気付く。
(今サラッと流したが通信大手のサーバーに侵入って普通無理だよな?)
アズなどはまるで己の庭のように通信を取り仕切る大手のサーバーから情報を引っこ抜いては仕事に活用していたが、同じような事が出来るという時点でソラの能力の高さが知れた。
(まぁ、アズは掴まるような事は無かったが・・・って・・・ハッ?! 何考えてんだオレ!? さすがに背に腹は変えられないが一応犯罪だろ!? アズに毒され過ぎてるな近頃・・・)
完全犯罪が普通なアズに引きずられている事を自覚して、二人にあまりそういう事に手を出さないよう今度説いておくべきだろうかと悩み始めた久重の前へソラが新しい情報を表示した。
『出た。通信記録を見る限り・・・これって此処ら辺からのものみたい』
表示された地図は日本の代表的な工業地帯だった。
『工場が多い場所から不正アクセスか。その主が此処にいるか。あるいは通信の経由地点なのか。どちらにしろ一回行ってみるべきか』
『近くで傍受して同じような反応があったら場所の特定は出来ると思う』
『決まりだな』
そうして三人は頷き合い工業地帯へと向う事となった。
*
(考えてもみれば分かる事だよな。不良を叩いて回ってるって事は復讐の可能性が高い。虐げる側に回ったからって無差別に人を殺す程の度胸があれば、初っ端から不良が軽くダース単位で半死半生になってたっていい。なのに最初からの犯行を重ねてる【EDGE】はあくまで肉体の一部を切り落とす警告で済ませてる)
そう・・・復讐にしてもかなり大人しい。
力を得て復讐に走るならもっと己の手でボコボコにしたいと望むものだろう普通。
通り魔が卑劣だとは言うものの、それでも不良が誰かを被害者にする瞬間を狙い済まして犯行に及ぶ事からネットでは死人が出るまではEDGEを英雄として見る向きもあった。
(この世相ならもっと子供が荒れて事件を起こしてても不思議じゃない。それが不良オンリーの通り魔が出て逆に青少年の補導や犯行が減ってるってんだから・・・皮肉過ぎる・・・)
久重が溜息を吐こうとした時だった。
「ビンゴ!! ひさしげ!!」
「反応が出たのか!?」
「うん。今、逆探知・・・え・・・これって・・・」
ソラが固まった。
「何か問題か?」
「この反応・・・全国の相談所に複数アクセスしてるみたい」
「此処ら一帯から同じようなアクセスが全国にって事か?」
「うん。今、解読するからちょっと待ってて・・・・・・え・・・ふ・・・え・・ふ・・・を・・・し・・・って・・・い・・・る・・・か?」
「えふえふ? この場合はFFって事でいいのか?」
「う、うん。完全に市販の音声ソフトみたい・・・あ」
「今度はどうした?」
「今、アクセスしてる場所は特定したんだけど、同じ場所から変な通信が一瞬・・・」
「とにかくまずは特定した場所に急行だな。行くぞ」
「うん」
二人が急いでその場を離れて走り出す。
事件は早めに解決できるのではないかと久重には思えていた。
その時はまだ。
*
永橋風御が知る限り、彼にとって最も最初の記憶は暗闇だ。
窓も明かりもない部屋の冷たいスベスベした床に座っていた事以外はただ黒い世界だけを覚えている。
日に三度部屋の中に押し込まれるトレイに乗った食事を食べて生きていたが、それ以外に何かをしていた記憶は無い。
部屋の隅に置かれた便器の使い方だけは覚えてはいたのだが、どうやって覚えたのか自体覚えていない。
只管にぼんやりとして食べて出して眠る。
そんな日々だった。
変わらない日常が全て同一だったからか。
その頃は一日というサイクルを理解していなかった。
故に幼い頃、風御は時間という概念を完全には把握せずに過ごしていた。
明日と今日に違いがあるわけではない。
昨日と今日に違いがあるわけでもない。
だから、永遠の一日しか記憶には存在しない。
それが変わったのは急激だった事を今も風御は鮮烈に覚えている。
部屋という世界が壊されたのだ。
切り取られた四角い白。
人というか己以外に動くものを知らない風御に手が差し伸べられた。
いや、差し伸べられたのではなく試されていたのかもしれない。
何故なら、その手を差し伸べた存在が以後風御の人生を決めたのだから。
外に出された幼い彼にとって世界は眩し過ぎた。
光を加減するマスクを付けられ、病院という所に置かれてから一年はそのままだった。
その後・・・街という場所に移されたのが九歳の頃。
見るもの見るもの全てが驚きに満ちていた。
そうして山間の小さな街で一軒屋に連れて来られた後、風御は訓練をさせられるようになった。
生物に刃を通す訓練と物を見る訓練。
体を動かす訓練と考える訓練。
それは医者並に人体構造を把握させ、的確に相手を解体する為の下地作りだった。
それは視覚による危機回避能力を養うものであり、瞬時に物事を正しく判断する為の訓練だった。
食事を与えられ、訓練をして、眠る。
その繰り返しに新たな項目が加えられたのは風御がそのサイクルに慣れた頃の事。
学校に行く、が入った。
そこで初めて風御は・・・己の名前を知った。
ピカピカのランドセルを背負って事前に言われたままの行動を取っていたのだが、教室に己と同年代の子供達が入ってきてお喋りを始めたり、大人が入ってきて名前を呼び始めた辺りから、色々と彼は注目された。
永橋風御君。
先生と言うらしい大人にそう呼ばれて誰も返事をしなかった。
それで妙に思ったのか。
その先生は名簿の顔を見て風御を教室の端に見つけ微笑んだ。
緊張しちゃったのかしら、風御君。
最初、呼ばれているのだと気付かなかった風御だったが、周囲の視線から初めて、その名が己を呼ぶ為のものなのだと知った。
周囲に合わせる事を言い含められていた為、無難に「はい」と答えた風御はその後も淡々と子供達の中に紛れる事を実行した。
いつもと同じように言われた通りのままを実行し続けた。
その放課後。
風御は人生で初めて友達というものを得る事になった。
帰り際。
校庭脇に埋められていたタイヤの上に座っていた同年代の男の子と擦れ違った時だ。
【目、悪いのか?】
自分と同年代。
どうしてそんな事が分かるのかと風御は不思議に思った。
確かに光を長年見てこなかった風御の目は極端に光の変化に弱く最新の技術で造られた自動で光を調節するコンタクトを入れていた。
【・・・・・・・・】
とりあえず素通りした風御だったが次に背中から掛かった言葉には振り向かざるを得なかった。
【友達いないのか?】
どうして振り向かざるを得なかったのか。
学校に行く際に言われていたからだ。
友達を作れと。
【・・・いるように見える?】
質問で返すと男の子は首を横に振った。
【友達なんか欲しくない。そんな顔してるな】
そう言われてもその頃の風御は自分の顔や感情なんてものを知るような生き物ではなかったので「そうなのか」と納得する以外無かった。
【あ、そう】
だから、素気なくこう言ったのだ。
しかし、それが不味かったのか。
【・・・オレなら友達になってもいい】
不意にそう言われた。
【どうして?】
【明日、友達になったからだ】
風御は上手く理解が出来なかった。
明日とはどういう意味なのか。
明日友達になろうと言っているのか。
それとも明日には友達になれているはずだとの希望的観測なのか。
どちらにしても友達は必要だったから、風御はその言葉に反論しなかった。
【じゃあ、また明日】
それが人生を振り返ってみても笑ってしまうくらいバカバカしい最初で最後の親友外字久重との長い付き合いの始まりだった。
(まったく・・・親友(笑)とあれからどれだけやんちゃしてきたっけ・・・はは・・・数えるのも馬鹿らしいか・・・)
*
「【ADET】・・・あちらの【半分】やこちらの【半分】も正体を把握していない日本発の国際犯罪シンジケート。現在世界の93カ国で展開し、その公式人員推定250人、その人員の下に非公式人員を五十数万人。主な資金源は後進国から先進国への人身売買と高級娼婦による売春及び麻薬の製造売買。
世界各国の財界・政界の要人を女で篭絡する事二十数万人以上。新型麻薬の製造及び普及を進める為、全世界規模で既存の麻薬密輸ルートを約三年半で壊滅。従来の麻薬への抵抗を付ける薬と依存度が極度に低い薬を廉価で公的に薬が認められている国々に販売し莫大な利益を上げる。
その利益の全てはダミー会社を経由して租税回避地(タックスヘイブン)を通しロンダリング。国家が崩壊し荒廃する第三世界やテロの温床となっている欧州で慈善事業に投資し、組織下の人材確保と育成に当てている。所謂【和僑】とは違い幹部には外国人が多数関わっていると言われているが、実際定かでは無い。
三十数年前の【小さく静かな戦争】の後に組織された事から、組織の頂点である【BOSS】と呼ばれる存在は日本を公的に負われた外国人とも日本のナショナリズムが生み出した愛国者(パトリオット)だとも囁かれている。
組織は幾つかの部署に分かれていて、自前の実働部隊を持ち、その力は一国の師団を上回る規模で存在しているとされる。その実働部隊の中でも暗殺部隊はグリーンベレー並みの練度を誇り、様々な国の麻薬王、独裁者、官僚、企業家が標的となって実際に殺された。
数年前より暗殺部隊のトップに立ったのは十代の日本人で幹部の称号として【Jack】を受けた。その仕業と思われる暗殺事件は露見しているだけで189件。実際には殺された人物の護衛者や周りの目撃者も被害者に含まれる為、事件件数の倍以上は殺しているものと思われる。その手並みの速さと量の多さから裏社会でジャック・ザ・リッパーの綽名を受けるも公式記録では女子供を殺した事が無い」
「・・・・・・・・・・・・・・」
「口元の拘束帯を」
全裸にされた挙句、全身を拘束され、排泄の為だけで尻付近だけが開いているという非人道的極まる恰好で風御はようやく息苦しさから開放された。
「で、今日は何を聞きたいのかな。ソラ・フィーデちゃん?」
「どうやら今日も満足に答える気はないようですね。長橋風御さん」
「待遇が悪いと口が重くなる性質なんだ」
「喋らないのは組織への忠誠心か。それとも何も知らないからか。どちらでしょうか?」
「忠誠心なんてこれっぽっちも無いね。何も知らないのかって言われたら、その通りだとしか答えようが無い。ADETは基本的に知らない事は知らなくてもいい組織だ。BOSS以外だとFADOくらいかな。全体像を知ってるのは」
「私が知りたいのは貴方がいつ誰を殺したのか、どんな装備でどんな協力者と、そんな情報ではありません」
「・・・・・・」
「幹部の事も結構。そういうのが喉から手が出る程に欲しいのはCIAや情報機関の連中だけでしょう」
「・・・・・・」
「我々が知りたいのはたった一つの情報です」
「我々・・・ね・・・」
「先日から申し上げている通り【LEGION(レギオン)】が貴方の事を他の情報機関から匿っているのはその情報を貴方が握っているからに他なりません」
「他のとこに移されたらどうなるのかな?」
「色々と搾られ廃人にされた後、肉体を標本にされるだけです」
「随分と楽しそうな未来で困る・・・」
「ですから、我々が欲する情報を教えて頂けるなら、引渡しの期限一杯までは此処で普通の捕虜待遇を約束しても構いません」
「その期限が今日だったりして?」
思わずソラ・フィーデが顔を顰めた。
「いつでも我々は貴方を彼らに預ける事が出来る。その事は忘れない方がいい」
正にその通りである事を悟られぬよう声の調子だけは変えずに答えが返った。
再び拘束帯で口元を覆われた風御がモゴモゴと何か言ったものの、付いていた部屋の明かりは消され、扉が閉まる。
隣の部屋に入ったソラ・フィーデが溜息を吐きつつ暗闇で過ごす風御を見る。
幾層にも加工が施された側面の壁は一面がマジックミラーの機能を有し、同時にディスプレイでもある。
あらゆる生態活動を監視しているのは常時二人。
壁には脳波から呼吸の回数、心拍数、体温、香り、内臓の状態、肉体の水分量、その他多くの情報が所狭しと並んでいる。
ある意味VIP待遇で風御は尋問されていた。
「どうですか? 単語に対する反応は?」
監視の一人がソラ・フィーデに顔を横に振る。
「彼は非常に動揺が少ない。一単語一単語に対して殆ど変わりがありません。ここまで脳波も他の生態活動も常人に比べて極めて反応が薄いのは一種の特異体質でしょう。先日から肉体的な追い込みを掛けて反応を引き出しているにも関わらずコレです。臨床心理学の学者としての意見を言わせて頂けるなら、何を聞いても無駄です。恐ろしく彼は肉体の制御と思考を停止するのが上手い」
「・・・やはり従来の拷問で情報を引き出してみては? 薬に耐性がある以上、それが最善かと」
もう一人の監視に言われてソラ・フィーデが首を横に振った。
「それが出来れば事は簡単でした。ですが、そう出来ないからこんな方法を取っています」
苦々しい顔で置いてあったコーラのボトルを呷った唇が歪む。
「永橋風御は肉体的には一部を除いてほぼ常人と変わらない。肉体の耐久力が低いというよりは・・・こういう時の為に耐久力自体を下げていたと考えるべきなのかもしれません」
「どういう事でしょうか?」
男の一人が首を傾げる。
「肉体の耐久力が高ければ我々には拷問という手段がありました。ですが、実際にはそんな事をすれば死んでしまう。あの男は己が捕まった時どういう立場に置かれるのか事前に理解し、それを込みで生活を送っていたのではないかという事です」
「そんな、まさか・・・」
「彼の体の情報を専門家に見せましたがほぼ九割は常人としか診断しませんでした。ですが、一部の者は興味をそそられたようで一部レポートが出されています。その内容に寄れば・・・【肉体の基礎的な部分は柔軟で尚且つ面白い程に頑強だが、それ以外の部分があまりにも堕落している】との事です」
「・・・門外漢なのでよく分かりませんが、それはつまり・・・アスリートが肥満になったようなものでしょうか?」
「上手い喩えですね」
「恐れ入ります」
「・・・結局、あの男が本当に特別なのは肉体ではないという事です」
「確かに・・・」
「マインドセットと肉体に染み付いた反射や特異な装備。たぶん、そういった複雑な要素(ピース)をパズルのように組み合わせて威力を発揮するタイプ・・・随分と我々に似通っている」
瞳が細められた。
「ただ精神的な耐久値は段違い。常人なら耐えられない扱いを受けて平然と話しているのですから、拷問したところで口が割れないのは確定しているようなものです」
二人の監視は風御に為された幾つかの措置を思い出す。
水分の制限。
食料は栄養注射。
湿度03%以下の室内。
排泄は全て終わった後に掃除され、拘束によって血栓が出来ないよう複数の薬品を投与される。
そんな過酷な環境で一日に尋問が十五回。
朝も昼も夜もなく不規則に行われ、寝ていれば起こされる。
それが拘束してから一日も休まず続けられている。
緩慢な飢餓と生活とも言えない【保存方法】は人の精神を磨耗させて余りある。
常人なら一週間もせずに発狂するか口を割る。
鍛えられていても二週間が限度だろう。
だが、しかし、永橋風御はかれこれそんな状態で一ヶ月以上を平然と過ごしている。
口を開けば軽口を叩き、食事や水が欲しいなんて一言も口にした事がない。
現状を改善したいという意思などまったく感じられない。
明らかに異常だ。
「引渡し期限は本日の2100時ですが、ハワイ沖の空母に引き上げるよう通達がありました。現時点を持ってこの部屋は破棄。囚人E‐33は尋問中に死亡。死体はDARPAの研究素材として我が部隊が特例的に沖縄米軍から徴発する事とします。ただちに麻酔を掛け【梱包】の用意を」
「「はっ!!!」」
二人の監視がすぐさまに頭を下げて部屋から出て行く。
監視部屋に一人になったソラ・フィーデが暗闇の中に浮かび上がる風御を睨んだ。
(CIA(あちら)は【五人目】の手掛かりをもう得ている。こちらもうかうかしていられませんか・・・)
注視される中、顔面を覆う拘束帯が動いたような気がして、少女は無力なはずの男の事が少しだけ怖くなった。
「私なら耐えられて二週間・・・その心の強さだけは評価して差し上げます」
皮肉げな嗤い声が室内に響いた。
風御がギガフロートから運び出されたのはそれから十五分後。
貨物扱いになった棺桶を載せた輸送ヘリが日本領海内で消えたのはそれから二時間後。
金色の髪の少女が部隊の人間すら畏れる程にF言葉を連発するのはそれから二時間三十五分後の事だった。
霧に沈んでいく。
言葉も遺せぬままに。
善意を説く悪辣。
悪意の説く理想。
第五十三話「鉄が硝子に変わる時」
しかして、その差は遠く。
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第五十三話 鉄が硝子に変わる時
第五十三話 鉄が硝子に変わる時
世界はどんよりと滲んでいた。
雨雲は光を遮り、都市を水底に沈めるよう淀ませていく。
まるで卵の殻の中で知らず茹で上がる雛の如く、一人の少女はどうにもできない胸の奥の鈍痛を無視した。
それがもしも病気だったならどれほどに良かっただろうか。
悲しい時、人は体に異常を覚える。
「セキちゃん。上がったよ」
「あ、はーい」
楼野赤(ろうの・せき)は小さな店の窓辺から厨房に向った。
都心に程近い住宅街の一角。
カフェ兼レストラン兼バー。
名前は【料理長】という店だ。
あまりの直球に開店当初文句を言っていたものの、それも店が評判になるまでの話。
夏の事件以来GIOの最上階で料理長をしていた男の下で赤は暮らしている。
何故、GIOで働いているはずの男が個人経営の店なんてしているのか。
それはGIO日本支社の機能が回復するまで無職となったからだった。
雇われてはいるものの、料理してもらう場が無いと言われ、料理長たるもの料理をせずには鈍るとか何とか言った男が昔から夢だったらしい個人経営の店を期間限定で始めたのがそもそもの始まりである。
男の下で世話になる事になった赤は当然手持ち無沙汰だったので、店の店員になるのを申し出た。
何かとしっかりした少女の恩返しであり、自分の食い扶持くらい稼がなければと思い立った末の話である。
【店員の心得】(電子書籍)を一日くらいでサクッと学んで店に出た。
それ以来其処は料理が上手いマスターと可愛い外人の少女が店員をする評判の店として繁盛している。
「三番テーブルね」
頷いて黙々と仕事をこなした午後三時。
一時閉店となった軒先に【くろーずど】の看板を下げた後、赤は料理長が作った恒例の三時のオヤツ(名前がフランス語?)の説明を聞きながら何処か落ち着かない自分に溜息を吐いた。
「・・・おいしくなかったかい?」
「い、いえ!? とってもほっぺたが落ちるくらい美味しいです!!!」
「また古風だ・・・でも、ありがとよ」
「は、はい・・・」
カウンター越しの視線を感じながら赤は悟られただろうかと顔を赤くする。
「あいつなら心配ない」
「あ・・・えっと・・・その・・・あ、あいつって何の事ですか?」
「もう一ヶ月は当に過ぎてるが・・・ま、そう珍しくない」
「珍しく・・・ない?」
オズオズと聞く赤に料理長が頷く。
「ああ、昔はよく追われながら身を隠して帰ってくるまで結構時間が掛かったもんだ」
「その・・・」
何と返していいか分からない赤が目を泳がせる。
「荒廃した第三世界、テロの温床となった欧州、恐ロシアや麻薬王の楽園南米まで。何処からでも大たい三ヶ月以内で帰ってきた」
「オソロシア・・・?」
「ああ、あっちは軍隊上がりな人間が多くてな。ガソリンを猛吹雪きの中で被らされた時はどうしようかと思ったもんだ」
「それ笑うところじゃありません・・・」
思わず半眼でツッコミを入れた赤に男が頭を掻く。
「凍傷の部分は再生治療したんだが、新しい神経はさすがに慣れるまで勘が取り戻せなくてな。よくあいつに愚痴った。どうしてお前は無傷なんだチクショウってな」
サラリと実話らしい。
「風御さんはいつだって風御さんです」
「はは、違いない」
実際、時折物騒な話をしたりする男だったが、肝心な中身などをぼかして聞かせてくれる手前、赤は自分がとても大切にされている事を実感していた。
「で、だ。そろそろオレも言わなくちゃと思ってたんだが・・・」
「・・・はい」
緊張する赤に男は淡々と語り始めた。
「家に帰るつもりがあるなら取り成すのは簡単だ。これでも肩書きは立派だからな。家出したお子さんを一時預かってましたってな説明程度なら出来る。警察絡みの事は心配しなくていい。GIOってのはこれでも大きいからな。早々世話になる事もない」
赤は首を横に振る。
「決めたんです。あの人が帰ってくるまでは絶対に待つって・・・」
「だが、学校にも通ってないのはさすがになぁ・・・」
「それは・・・学力なら・・・貰ったお給料で勉強してますから・・・」
「別にそういう事を言ってるわけじゃない。学生時代ってのは誰にとっても大切なものだって普遍的な話をしてるだけだからな。これから普通の世界で普通の学生生活を送ってもあいつなら文句なんて言わんだろう」
「はい。きっと【セキちゃんは学生服の方が可愛いよ】とか心にもないおべっかが飛んでくると思います。でも、あたしはまだ恩を返していません。あの超絶グータラニートにちゃんと【貴方がいなくたって立派に生きてましたけど何か?】って言ってやるまで帰らないって決めましたから」
「・・・頑固なお嬢さんだ」
「お母さん譲りです。我が強いって兄にはよく言われてました」
男が僅か溜息を吐いて口元を緩めた。
「それじゃ夜の営業が始まるまでは自由時間だから」
「あ、はい。それじゃ、あたしは買い物に出かけてきます」
「警察の職質に気を付けてな」
「はい!」
笑顔で頷いた赤はオヤツを食べ終えると店内で着替えて街へと繰り出した。
あの日、永橋風御と映画館で出会った時と同じスニーカー、同じブランドの秋物を着込んで。
*
【北京近郊市街地より97キロ地点。中国軍閥連合緊急救助隊本部野営キャンプ群北地区】
スモッグと死体を焼く匂いに紛れて呻き声が飽和していた。
運びこまれて来る半死人の山がそのまま翌日には深い穴の底で焼かれる地獄のような光景。
それを他所に軍事用のガスマスクを被った一団がそんな溢れ返る【山】を掻き分けるように進んでいた。
目的は地区の中央に位置する半径四百メートルに及ぶ巨大なドーム状の簡易建造物。
日本の民間から送られてきた第一陣の救援物資の一つだ。
外国から齎された救援物資を全て注ぎ込んでも未だ救えているのは十万人にも満たない。
多くの者はほぼ一瞬でDNA構造を破壊されて一日もせずに死んだ。
他の者にしても距離に応じて被害の度合いが比例し、重傷者は助からない。
辛うじて生き残った者達にしても再び市街地へと戻る事はできず家から遠ざかり、飢えと渇きに喘ぐ。
難民キャンプに運ばれてくるのは救助部隊の車両に運よく出会い何とか運んでも死なずにいる者だけであり、まだ歩ける者は徒歩での移動を勧められる。
怒る者、喚く者、攻撃してくる者、賄賂を渡す者、泣き叫ぶ者、他者を蹴落とす者、人々は様々な顔で救助隊の車両へと近付くものの、厳命としてまだ助かるかもしれない患者のみを運ぶ車両に投げ掛けられるのは基本的に罵詈雑言の類だ。
ううううううううううううううううううううううううううううう、う゛―――――。
「はい。午後二時十一分御臨終。焼き場に運んで~次の方~」
何とか運ばれてきた者達の大半がそうであるように幼い男児もまたすぐに医者の前を通り過ぎた。
「あ~しんどいわ~~」
日本語で語られる溜息交じりの愚痴にそのテントで文句を言う者は誰もいない。
上海近郊では生き残った人間達による日本の陰謀説が実しやかに流れている。
そのせいで中国軍閥領内では日本人狩りが横行し、同じ中国人同士を間違えて狩る、あるいは日本と関わりがあるだけで売国奴として殺される事件が多発している。
にも関わらず日本語で愚痴る等というのは正に正気の沙汰ではない。
何よりも不謹慎なのはその声の主の気の抜けた様子だろう。
子供が死んだというのに淡々と流れ作業で新たな患者を診る時点で狂気に犯されているようにも見える。
しかし、その言葉が実際に聞いたままの意味である事を知る者はその場にいなかった。
そう、いなかった・・・今までは。
【ドクター。ドクター・ミーシャ・ベルツはいますか?】
振り返ったのは銀髪の髪を無造作にゴムで束ねた三十代程に見える女だった。
【う~い。こっちだよ~】
その恰好はダボダボの青いジャージと白衣にサンダル。
まるで何処かのオバサンスタイルである。
容姿がそれなりに整っている事を差し引いてもやはり何処か野暮ったさが抜けない。
【ドクター。中央からお客様です】
声の主。
モスグリーンの戦闘服にガスマスクを付けた軍閥連合の男はミーシャの前に来ると頭を下げた。
【中央~~? 北京終わっちゃって今どこが中央なの?】
【分かりません。名目上首都は華南の方にしようとの事で協議が始まっているらしいですが】
【じゃ、中央じゃなくて中央(仮)のお客様だね~】
【は、はぁ。ですが、とにかくお客様です。どうやら中央の最も上付近にいる方らしくキャンプを預かる中将自らが腰を折っていましたので間違いないかと】
【だる~~。ま、会ってあげるから此処に呼びたまえ。王(ワン)君】
【はい。了解しました】
男がすぐに建物の外に出て行く。
するとすぐにワンと呼ばれた男が一人の客人を連れてきた。
他の医者にその場を任せてすぐ横の執務室へと二人が入る。
執務室と言っても間仕切りがあるだけの簡素なものだ。
【こんにちわ】
挨拶の主がしているのは軍閥連合軍が使うガスマスクよりも上等なアメリカの最新式。
中国軍閥領内でまずお目に掛かれない装備を付けているのは歳若い少年だった。
マスクを外そうとした少年を手で押し留めてミーシャがニッコリと笑う。
【ここで外すとスモッグで肺痛めちゃうからそのままでいいよ~】
【・・・随分資料の印象と違う・・・僕は貴方が科学に取り憑かれているような方だと思っていました】
【はは、よく言われる。そうだよね~。ま、事情知ってる連中からしたら世界滅ぼせるとか馬鹿みたいな能力ある化け物マッドサイエンティストだもん】
【・・・軍閥に取り入った【十三人】の内の一人がどうしてこんな活動を?】
【う~ん。答えてあげてもいいけど、その前に君の素性が知りたいな】
【この国の最高指導者に就任予定の子供です】
一瞬ポカンとしたミーシャだったが、笑みを深くする。
【あはは、そうかそうか。君がこの国の一番偉い人になる予定の子か!】
【はい。気楽に日本語でフギと呼んでください。ドクター・ミーシャ】
新たな中国軍閥の象徴とも言える皇帝の血筋。
富儀は常の傲慢さなど無く頭を下げた。
【うん。じゃ、フギ君で。それでさっそくなんだけど、まだ権力とか握ってないはずの君がどうしてこんなお忍び医療活動中の私の事知ってるの? 私、仲間内だと一番情報関係とか疎くてさ。教えてくれない?】
【独自の情報網です】
【独自の情報網か~。波籐君辺りなら持ってるだんけどな~。いいよね。独自の情報網とか憧れちゃう】
【微々たるもので、ようやく貴方を見つけた次第です】
【それでも凄いよ~。それでどうしてこんな活動をしてるかだったっけ? えっと、強いて言うなら自己満足かな】
【自己満足?】
【そう、この事態の元凶って私が軍閥に上げたものが元凶なんだよね~】
ほんの一瞬だけ、富儀が沈黙した。
【・・・それは貴女の得意とする科学技術に関連した話ですか?】
【軍閥のお偉いさんが近頃使った核弾頭の元ネタ作ったの私なの】
冶金学博士。
ドクター・ミーシャ・ベルツ。
材料力学において三十数年前の研究が未だ論文に引用される人物。
表舞台から消えて以降の研究は不明であるものの、一部日本の原子炉研究にも携わっていた。
代名詞と言える言葉が【核融合炉】という人類の未来を左右するとされた逸材。
そう内心で情報を再確認した富儀だったものの、さすがにその回答には息が詰まった。
今、目の前で告白された事実を鑑みるならば、その女は正に数百万の命を散らした挙句に中国人を『助けてやっている』という傲慢そのものを今喋ったのだ。
そして、まるで悪魔のような鬼のようなと例えるなら、日本に関わっている時点で抗日ドラマの日本人以上に中国人にとって憎むべき対象なのは間違いない。
【いや~ホントはさ~電気と水を供給する原子力発電と浄水システムのコアになるはずだったんだ】
今度こそ富儀が完全に沈黙した。
【・・・・・・】
【あはは、驚いてる驚いてる。そうだよね~もしそれが実現してたら戦争しようなんて思ってないだろって考えたでしょ~。でもさ~そういう人が上層部には少なかったんだよね~】
【どういう経緯でそうなったのか聞いても?】
【ま、簡単に言うと人助けのつもりだったんだよ~。戦争始めるくらいなら綺麗な水と電気で慎ましく暮らしていけるようにってさ。勿論、ただ渡しただけじゃ兵器転用されちゃうから時期も見計らってたんだけど】
【時期?】
【汚染限界期。要は渇き死ぬ寸前なら兵器にするより平和利用すると思ってたわけ。ゴビの核廃棄物貯蔵施設の封印まで解こうとしてたから、そこまで限界ならさすがに兵器転用しないでしょって思ったんだけど・・・】
何処か残念そうに語るミーシャの顔にはまったく悪びれる様子がない。
【・・・・・火に油を注いだ自覚はありますか?】
【勿論。ただ・・・戦争には間に合わないよう、兵器転用し難いように設計してたんだよ? 他にも波籐君が日本から水が入ってくるかもしれないって情報持ってきたから幇に頼んで貿易会社にちょっかい掛けてみたり。GIOから手を引く切欠に防衛用にしか向かない高威力レーザー砲とか土木作業用のロボット作らせてみたり】
富儀は目の前にいるのが中国軍閥を振り回していた力の正体なのだと知る。
まるで昨日の夕食の話をするように語られる事実はどこか人間としてズレていた。
【でも、お偉いさんはみんな何でも戦争の道具にしちゃうんだよね~。レーザー砲とか言うと戦いにしか使え無さそうに見えるけど、汚れた土を焼いて土埃押さえたり、出力調整と簡単な改造で効率的に暖が取れたりできるよう設計はしてあった。それでも軍閥の上の人軍事力的な側面にしか興味ないんだよねぇ・・・】
言われて、富儀は反論出来なかった。
中国人が今も先進国とは程遠い状況なのは誰でも知っている。
その理由はイノベーションという言葉の理解が遅れているからだ。
どれだけ発達した技術を持っても中国人はまずそれで金の儲け方を考える。
そして、それが威力になると知るや振り回すようになる。
軍事転用できる最新技術。
そんなものが与えられたなら、それで生活の質を向上させるより、それで侵略した方が利になると考える中国人が圧倒的多数を占めるのは想像に難くない。
【この間作った潜水艦も汚れた海より深いところでお魚取る用だったけど、きっと真面目に使ってくれないんだろうな~】
【そんなものまで上層部に・・・】
【勿論、魚雷とかミサイルとか積めないよう工夫したよ? あるのは網と巻き上げ機と深海のお魚や鯨とか積める大っきなスペースとお魚が近くでも逃げないような静穏性能、それと中国近くだとあんまり取れないだろうから他の国の海でも漁が出来るようにステルス性能くらい。半永久的に使えるよう『高速増殖炉(FBR)』搭載型だから経済的だし】
まるで大丈夫と言わんばかりの胸の張りように「ああ」と富儀は納得した。
人間として何処かハズれているのではない。
目の前の人間は肝心な場所が壊れているのだと。
【仲間内だとみんな私の事を壊し屋とか頭悪いとか酷い扱いなんだけど、君もそう思う?】
【ノーコメントで】
【う~ん。私より賢い発言だね~】
【大たいの事情は分かりました。それで・・・本題に入っても?】
【あ、うん。なになに?】
富儀は慎重に相手を見据えて切り出した。
【今日此処に来たのは今後も中国に留まるつもりかどうか確かめに来たんです】
【う~ん。ちょっと、微妙~~ってところ?】
【・・・微妙?】
【ほら、私達って結構危険人物扱いされてるでしょ? それで日本から離れてた奴が多いわけなんだけど、中国って絶好の隠れ家だったんだよね~。波籐君や御崎さんは日本とかに思い入れが強かったからこっちで生活してたんだけど、そろそろ時期だからって理由で行っちゃったし、一人で残ってるのも寂しいし、波籐君から日本来ないかってお誘い受けたから久々に帰ってみようかな~~と考え中】
【そうですか・・・】
【これは・・・アレかな? 迷惑だから消えて欲しいって流れ?】
【単刀直入に言えば。もう軍閥には関わって欲しくないと今日は言いに来ました】
【あはは、そりゃ単刀直入だ】
ケラケラと笑うミーシャがデスクの脇に置いてあった眼鏡を取って掛ける。
【話は分かった。うん・・・新しい時代を作る人がそういうなら支度終わったら此処を出て行くよ。さすがに迷惑掛けちゃったし、これから色々と忙しくなるしね~】
【・・・一つ聞いてもよろしいですか? ドクター・ミーシャ・ベルツ】
【うん? 何だい】
【貴方達は一体何をしようとしているのですか?】
その問いにミーシャはしばらく笑顔のまま沈黙した。
【そうだね。君にはこれからの軍閥の長として知る権利があるかもね。じゃ、特別大サービスで三つ教えてあげよう】
指が三本立てられる。
【一つ。私達『秋定研究会(アキサダ・ゼミ)』は世界を救う研究をしていた】
(アキサダ?)
【二つ。研究の結果を元に世界の救済を行う実行機関として『天雨機関』は発足した】
指が二つ折られる。
残り一本が折られる前にミーシャがマスク越しに少年の顔を覗き込む。
【三つ・・・ここからが重要なんだけど聞く? 一応、聞いたら戻れなくなるって言っておくけど】
【構いません】
【君はきっと良い統治者になるよ・・・】
そう頭を撫でてミーシャが最後の言葉を紡いだ。
【三つ。世界救済には人口の削減が不可欠であると私達は結論したんだよ】
【人口?】
【って言っても皆が皆そういう意見じゃなくて。結局、意見の違いとかでバラバラになっちゃったから、天雨機関に所属せずに何処か行っちゃった人もいるし、機関内ですら意見纏まらなかったんだよねぇ。まぁ、それでも機関はちゃんと役目としての成果を得たから大局的には問題ないと機関にいた全員が思ってるだろうけど】
語られる言葉を一言一句聞き逃さないようミーシャを見つめていた富儀は得たいの知れない汗を背に感じた。
【まぁ、此処まで話して具体的内容お預けってのも何だかカッコ悪いしサービスで教えよっか】
こほんと知りきり直してミーシャが続ける。
【色々あって有耶無耶になってるけど、当時の結論から計画を遂行しようとしてる人は十三人の中にも何人かいて、たぶんそれを『M計画』って呼んでる】
【Mの意味は?】
【マルサスの略。分かるマルサス?】
【まさか・・・】
富儀が顔を強張らせた。
【そういう事♪ それにしても今の軍閥の人にこの話が分かる人少ないんじゃない? そう考えたら中々君も苦労人かもしれないね~】
(この女・・・いや、【彼ら】が全員このレベルで人間から逸脱してるのだとすれば―――)
恐ろしい程気軽に破滅を提示する女を前にして少年は人間が此処まで非人間的になれるのかと理解する。
【・・・さ、話はお終い。そろそろ医者家業に戻らないと。今日一日したら消えるから、そこは大目に見て欲しいな】
伸びをして、そのまま再び患者の治療に回ろうとしたミーシャを富儀の片手が制した。
【・・・今日はありがとうございました。それともう一つ】
【?】
人差し指を顎を付けて首を傾げるミーシャに皇帝となる少年は結論を告げた。
【我が祖国と人民の未来の為に・・・貴女には死んで欲しい。ドクター・ミーシャ・ベルツ】
【え?】
【詩亞!!】
富儀の肉体内部で約一秒間、超高レベルECMが作動した。
周辺百メートル圏内にある全ての医療機器が焼き切れ、同時に一キロ先で扇状に展開されていたドイツ製第五世代型戦車レオパルド4二十両の一斉砲撃がドームへと殺到した。
使用された砲弾は一発以外は全て劣化ウラン弾。
あらゆる障害を貫き破壊するタングステンに並ぶ主力砲弾だが、その殆どは指定された約五メートル圏内を包囲するように電子制御で緻密な弾道予測の後、放たれていた。
そして、砲弾の雨に刹那遅れて、本命の一撃が飛翔する。
『対鉄喰い』(アンチ・スティールイーター)。
略称AS砲弾。
先進国の間で現在試作されている『ND‐P』(ナノデバイス・プロテクション)を抜ける弾丸の一種。
今はまだコスト面の問題から戦車などの大型車両や戦闘に使用する様々な施設にNDが使われていないものの、やがてそうなるのは目に見えている。
故にNATOや先進国が開発へと乗り出した最新のND防御層を貫く技術。
現在進行形では日本とアメリカ及びEUの一部先進国の研究機関程度しか持ち合わせていないはずの砲弾は発射と同時に強力な磁性を帯び、周辺にある通信を妨害しながら直進する。
【・・・・・・】
NDの基本的な能力の一つには通信によるONとOFFが存在する。
強力な電磁波はNDのそれらの機能を狂わせ、最終的には能力を無力化できる唯一の手段だ。
勿論、戦争地帯や先進国では強度の強い電波が常に飛び交っている。
そういった電波が存在する地域で使用する事が前提なNDに対抗策が講じられていないわけがない。
だが、それでも軍用品のECMに直撃されれば、さすがに能力は半減する。
―――無論。
大統領だろうが大富豪だろうが首相だろうが独裁者だろうが、ほぼこの世界の全ての人間を粉々にするはずの一撃は一人の科学者に届かなかった。
ガシャンとテーブルの横に富儀の肉体だったものが倒れこむ。
ジェミニロイド。
遠隔操作されていた躯体は内部に仕込まれたECMに駆動系の回路を全て焼き切られて行動不能。
通信が途絶した体には本人の意思が通っている様子は無い。
【嫌われてるな~。困った困った】
今正に砲弾で粉々にされそうになったようには見えない気軽さでミーシャがチリンとベルを鳴らす。
それから一分もせずに王と呼ばれた軍閥の男がやってきた。
【ドクター!! 今、大きな音がして医療機器が全て壊れました!!?】
【とりあえず次の機器が来るまで持ちこたえるよう皆に厳命ね~】
【次とは!?】
【あ~うん。まぁ、良い子だから責任感じて三時間以内には医療機器来るんじゃない?】
【ほ、本当ですか!!?】
【本当本当。それと輸送部隊の人が来たら、この躯体返してあげて。それじゃ、そろそろお暇しますか】
【ドクター!? 何処へ!!?】
ドームの外に出て行こうとするミーシャを慌てて引き止めようとした王だったが、その振り返った笑みに固まった。
【悪いんだけどさ。時間切れ】
手を合せて「ごめん」と軽く頭を下げた彼女に王は何も言えなかった。
【最後の仕事くらいはしてくから、後は頼んだからね~】
頭を上げてスタスタ去っていく背中を追掛ける事もできた。
しかし、王は彼女が言った通り、踵を返した。
それが最善であると彼は知っていたからだ。
それから二時間と十四分後。
スモッグの中を車輪の列が通り、ドームへと複数のトラックが横付けていた。
その列の最後尾には四両の護衛車に囲まれた一台のバンが緩々と走っている。
「まったく規格外過ぎる。あんなのがいるなんて理不尽な世の中だよ」
軍用の黒いコートを着込んだ富儀が溜息を吐いた。
「どうして・・・」
横で同じコートを着たマヌエルが呟く。
「何?」
「どうして自国民がいるドームに戦車砲なんて向けられるんですか・・・」
何故か悲しそうな顔で言われて、少年はポリポリと頬を掻く。
「言わなかった? 世界最高のテロリストがあのドームにいたってさ」
「言いました。言いましたけど・・・だからって」
「民間人を巻き込んでまでする事じゃない?」
「当たり前です!!」
「じゃ、どうすれば良かったか名案でもあるなら聞こう」
「そ、それは・・・話し合うとか軍の人に拘束してもらうとか・・・」
「あそこにいたのは悪夢そのもの。そして、さっき会話した感触で推測する限り、人間として扱っていい部類の人種じゃない。更に言えば、僕が命令して撃たせた戦車砲なんて効かなかった。これだけ聞けば相手が化け物だってのは理解できたんじゃない?」
「そ、それでも難民になってる人達を巻き添えにするなんて断じて許される事じゃありません!!!!」
「もし、相手が――」
ゴトンとバンが何かを踏み付けて車両が跳ねた。
「きゃ!?」
思わず声を上げて倒れ込んで来たマヌエルをそっと富儀が抱き留める。
「またか・・・」
「ま、またかって!!? 今、車両が踏んだのが何なのか知ってて!!!?」
その激昂を極めて醒めた視線で見て少年が頷く。
「でも、知ってて今の君はこの車両に乗ってる。違う?」
「―――ッッ」
「誰も死者に構ってる暇は無いんだよ。そんなのは誰にだって分かってる。僕らも人間には違いない。軍の人間にしてもノイローゼで辞める奴が近頃後を立たない」
「なら、何で!!」
「そんな事は君にだって理解できてるんじゃない?」
「そんなの!!!?」
「この死の霧が晴れた後、残っているのが屍で舗装された道だったとしても、僕は此処を容赦なく掘り返して片付けさせ、アスファルトを敷くよ。もしも、骨が邪魔なら砕いて土に混ぜろと言うね。そして、この先で生きてる人間に次の患者の為に寝台を開けろと命令する」
マヌエルの拳が握り締められた。
「わ、私なら!!」
「君ならどうする? ちゃんと遺体を埋葬する? 道路の骨を拾い集める? 寝台に回復するまで患者を置いておく? で、君は助かる患者に必要な薬が運ばれず、道が無い故に医療機器が無く、死ぬかもしれない患者の列を永遠に消さない気?」
事実だった。
どうしようもなく事実だった。
(私は・・・私は・・・ッッ)
安全な専用車両で運ばれている身でそんな言葉は口が裂けても彼女には言えなかった。
「僕達には幾許かの余裕があるとしても、僕らの周りの人間はそうじゃないよ」
「・・・・・・降ろして下さい」
「はい。マスク」
壁に掛けてあったマスクをマヌエルに渡して富儀が車両を止めさせた。
「私は・・・私に出来る事をします」
車両を開けて出て行く姿を見送って、傍らの無線に彼は指示を出す。
「あ、今から護衛に五人付けて。後、マスクを与えようとしたら護衛のマスクを彼女に差し出すように言って。そうすれば自分のマスクを他人に渡そうとはしないはずだから。それと泣き出したら回収して本邸に」
自動的にバンのドアが閉まる。
「・・・・・・」
【何で嬉しそうなのよ。相変わらずSよね。アンタ】
誰もいない後部座席に音声が響いた。
「これでもプログラム相手に喋ってると知られてドン引きされないよう気を使う小心者だよ」
富儀が端末を取り出すとそこには魔法少女が一人映り込んでいる。
「それで解析結果は?」
【ふん。人が仕事してる間に痴話喧嘩とは良いご身分ね】
「これでも皇帝だからさ。余裕はあるんだ」
【『詩亞ちゃんに教えて欲しいな』とか言ったら教えてやってもいいわよ?】
「じゃ、詩亞ちゃ――」
【答えるな馬鹿!! ほら、あの女の話の内容を裏付ける資料】
「こういうのは何だっけ・・・ツンデ――」
【いいから見ろ!!! この馬鹿皇帝!!!】
怒鳴られて、詩亞の顔の代わりに出てきた資料やら何かの解析結果を富儀が見始める。
(廃坑になってた場所が密かに再開? 資源の行き先がロクに工業地帯もない海辺の街・・・明らかに巨大ビルが丸々建つような量を何に使ってたのか。他にも内陸部に真新しい設備の工廠や過剰な設備投資・・・随分と死んだ連中は入れ込んでたみたいだけど、問題は・・・)
呆れた様子で彼が詩亞に質問する。
「一枚噛んでた連中の背後関係の資料は?」
【今、検索中。それと今ゴビ砂漠近辺で大量のロボットが確認されてる】
「彼女の言ってたやつか・・・そんな報告が上がってこないって事は近くの軍閥の上層部が隠蔽してるんだろうね・・・」
【たぶん、破壊された核貯蔵施設上部を掘り返す気。操ってる連中がいるにしては動きが単調だから、オートなんじゃない? まぁ、誰かが動かす鍵を知ってたとしても、北京で死んでそうだけど】
「また仕事を増やしてくれて・・・死んだ連中の側近の資料も後でまとめておいて」
【はいはい。それとあの時何が起きたのか衛星からの情報で一応検証してみたわ】
端末の画面が資料から今度は映像へと切り替わる。
【スモッグで殆ど見えないから処理してあるわ。赤い点が戦車。白いのがドーム。砲撃時の状況がこれ】
画面の横に数字によるカウントダウンが入り、ゼロが表示された瞬間、不思議な事が起こった。
「ドームが黒くなってる?」
【瞬間的にね。それで砲弾はドームを直撃したように見えたんだけど、実際にはこの直後にこうなった。弾道予測を赤い線で示すわ】
画面の中で赤い線が幾つもドームに向かい、途中で大きく弧を描いて逸れていく。
【ECMで能力を低下させてND‐Pがあろうが諸共破壊する気だったわけだけど、砲弾は強制的に軌道を変更させられてる。何らかの機械が作動したにしてもECMをまともに喰らって動くなんて尋常じゃない】
「予想される方法は?」
【不明。情報が少な過ぎるわ。現地での情報が集らないと無理よ】
「分かった。じゃ、そろそろ付いたみたいだからドーム内部の人間に話を聞いて回ろう」
【・・・二年前はただの子供だった癖に今や皇帝様ってのもシュールよね】
「主に君のおかげだね」
【崇めなさいよ?】
「平和になったら詩亞ちゃんランドでも立てるよ」
冗談とも本気とも付かない言葉で返した後、富儀がマスクを付けて車両を降りた。
護衛に囲まれながらドームへと入った富儀が見たのは包帯を巻かれて呻く老若男女の姿だった。
多くの医者が新しく来た医療機器を設置し、走り回っている最中。
ガスマスクを付けた男が一人代表者のようにやってくる。
【此処の護衛担当者?】
進み出て富儀が質問すると敬礼と共に即座に答えが返る。
「はい。担当の王健林です!!」
【上から言われてるだろうけど、これから質問する事には正直に答えるようにね】
「はッッ!!」
それから幾つかの質問と答えの応酬があった。
いつ此処に来たのか。
人柄は。
他者との関係は。
評価は。
働きぶりは。
能力は。
有能だったのか。
諸々の事を聞き終わった後、外国人で更に日本語を話していたミーシャがどうしてドームで治療活動を継続できたのかと最大の疑問が富儀の口から放たれると王は無言でドームの外に導いた。
護衛と共にドームの裏手に出たものの夕暮れ時にも未だスモッグは掛かっていて、視界は悪い。
「最初反発していた医者の方々も此処を見てからは何も言わなくなりました」
【何があるのさ】
「・・・この時間帯ならば一瞬晴れる事もあります。しばし、お待ちください」
不意に風が吹いた。
夕闇に沈む世界から霧が僅かに取り払われていく。
【――――――】
その場の一同が声を失った。
円筒形の短い物体が幾つも幾つも地面に打ち立てられていた。
それは誰が見ても分かる程に整然と並んでいる。
何キロあるのかも定かでは無い広さ。
其処が今正に地獄である事を忘れそうなくらいに鈍く輝く群れ。
【これを全部彼女が?】
「ええ、ドクターは此処に来てから毎日夜になると出て行って朝になると帰ってきました。そして、その足で患者を見て夜になるとまた出て行った・・・正直いつ寝ているのか定かではありませんでした。ですが、これを見た方々の誰もそれ以来ドクターを詰る者はいなくなった。どうぞ見てみてください」
―――×月××日午後十二時二分 体重42kg 女性 腹部に裂傷 頭部に―――
円筒形の金属の表面には細かい字で幾つも幾つも『手掛かり』がある。
いつか、その人を見つける為に誰かが来る事もあるかもしれないと、運び込まれてきた状況や持ち物・歯並びや古傷の場所まで全て詳細に綴ってある。
【・・・霧が晴れた後に動き出す凡人にはまだまだ届かないって事か・・・】
「ドクターは言っておられました。鉄が硝子に変わっても鉄だった事には変わりないと」
冶金学博士としての言葉だったかもしれない。
原子炉では炉の素材となった鉄が硝子のように脆くなる事がある。
【生憎と僕の周りにあるのはいつも合金と真鍮ばっかりでさ】
再び霧に沈み始める世界に背を向けて、少年は歩き出した。
硝子の国の王子様なんて柄じゃないと自嘲しながら。
灰かぶりを待つ城へと・・・。
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第五十四話 ファイア
第五十四話 ファイア
【アメリカ合衆国ニューヨークダウンタウン近郊】
白人が支配し、黒人が地に根付き、ようやくヒスパニック系が政権与党の顔ぶれにも増えてきた昨今。
アメリカの繁栄は揺るぎない強さと衰退を両輪に回っている。
衰退とは常に高みにある者にこそ起こる。
衰退とは繁栄という一面を写す鏡だ。
主に白人上位層の没落によって黒人やその他の人種の影響力の比が大きくなった事は今までのアメリカにとっての衰退であり、同時に新興勢力の台頭と繁栄の道でもある。
そもそもがアメリカは移民の国である。
アメリカンドリームが廃れて久しい時代にそれでも世界の中核で在り続けられる理由は一つ。
無数にある主義や主張を受け入れ、如何なる人種をも許容する混沌がそこにあるからに他ならない。
今もアメリカに移民して間もない人種や少数派への差別が問題になっているが、それも結局はいつか通ってきた道を誰かが通っているだけの事だ。
ただ、アメリカ人という人種が減った事は大きな問題ではあった。
移住から月日を経て地域社会と同化して、多くの移民はアメリカ人となる。
それは国籍や出生地の話ではない。
人種としての心の在り方の問題だ。
しかし、急速に発展し続けるアメリカの原動力は移民である。
搾取構造に取り込まれた労働力は嘗て黒人が通った道を通り直す必要がある。
アメリカ人よりも移民が多ければ、そこには軋轢と膨大な摩擦によって擦り切れる大国という現実が待っている。
故にアメリカは移民をアメリカ人にする努力を怠らない。
それでもアメリカ人が少数派になってしまう程に移民政策の全ては黒の隕石事件以降限界に達していた。
国力は人口。
今もまだ崩れない常識と世界中の国々の衰退がアメリカへと移民の大波を生み出したのだ。
どれだけ阻止しようとしても不法入国する移民は後を絶たない。
双子の赤字を抱えながら、国民を養っていかなければならないアメリカにとって、それは自滅一歩手前の段階だったと言える。
移民を受け入れなければ労働力・国力・多分野での繁栄は見込めない。
隕石事件で膨大な損失を出してもいたアメリカには移民という力が確かに必要だった。
だからと言ってこのまま経済成長するのを遅々として待っていたのでは自国を移民が食い潰す。
格差社会という檻によって守られてきた既得権益者層すら危うくなる。
故に他国の植民地化にアメリカは乗り出した。
その政策の一つが現代での不平等条約や他国への搾取構造の構築、それから【移民の輸出】である。
富を求めて集った移民をそのまま仕事で外国に送り出す集配所としてアメリカは機能し始めたのだ。
嘗て中国が行った間接侵略や拡大主義にも似て、アメリカ国籍の出稼ぎ労働者が世界中で大量に溢れる事態となった。
主な事業は衰退する国々でのインフラの復旧や整備、要は土建事業である。
それはつまり他国への侵略に移民を使った二重の意味での搾取だ。
衰退する地域や無政府状態の地域に派遣労働者として送り込まれた移民の末路は悲惨を極める。
地域住民との文化や宗教の軋轢。
殆どアメリカ国籍など取得した意味の無い過酷な労働環境と貧困。
更に国策企業が労働者に出稼ぎから【祖国】へ戻る為に課すノルマは恐ろしく高い。
勿論、帰す気などサラサラ無いのだ。
実しやかにCIAなどが【アメリカ人】の帰国を妨げる活動をしていると噂される程である。
それを裏付けるような事件は実際頻発している。
送り込まれた大量の移民が現地で虐殺に合ったり、それを理由に他国への軍事介入を行ったり、それらの人々に莫大な保険が掛けられていたり、その地域に何故か移民が来る前後から武器が大量に運び込まれていたり、枚挙に暇は無い。
【人種のサラダボウル】と例えられた国は今や【地獄の釜】と言われ、その悪辣なまでの搾取の実体から移民の数は隕石事件より十年で激減し、適正な値へと戻るまでに至っている。
その間のいざこざでユサフォビア等という造語すら生まれた。
正に世界中で反米主義者が隆盛を極めるようになった。
世界の全てを敵に回しても大立ち回りが出来ると評判だった国が反米か親米かの二極の生き方を生き残った国家群に選択させなければならない程に。
新米という言葉が奴隷という意味に置き換わっていると知る者達は無論、態度保留という停滞の中に座したが、それがアメリカに認められるような国はそもそも殆ど残っていなかった。
新米というスタンスを取りながらもその主張に飲み込まれなかった国はたった一つ。
隕石事件でほぼ被害が出ず、アメリカを凌ぐ国際的発言力を発揮した日本以外にない。
それ以来、嘗て戦った二つの国は奇妙に捩れて絡まったまま今に至っている。
それが世界で唯一超大国として生き残ったアメリカという国の現実だった。
―――おっさん日本人だろ? ちょっと財布借りるぜ。
「・・・・・・・・・・・・・」
チンピラという言葉が未だ生き残っている理由を彼は身を持って感じていた。
大方、日本人観光客を狙った恐喝。
タクシーがグルであった事は想像に難くない。
数人の黒人と白人が混合したグループだった。
互いに貧しい中で身を寄せ合って犯罪に走ったのか。
一昔前ならば考えられない構図ではあった。
一昔と言っても、もう数十年以上前の話ではあるが。
「おい!! 何か言えよジャップ!!!!」
稚拙な恫喝で相手を怯ませ、金銭を巻き上げる。
アメリカでなくとも犯罪ではあるが、いきなり銃で撃ち殺さない辺りに健全さが垣間見えた。
彼はもうそろそろ老境に差し掛かって永い。
故に肉弾戦が出来るような体はしてない。
昔はそれでも駅伝やマラソンが好きで世界各地の大会に申し込んでいたものだが、それも当の昔に止めた身であり、快活な老後を過ごしているとは言い難い。
「無視してんじゃねぇよ!!!?」
彼の生活は基本的に研究と世界情勢を観察する事に特化している。
「死―――」
何事も見逃さぬようにと日々ルーチンワークとしての行動があるので趣味に使う時間もない。
だからこそ、彼は人生の楽しみというものを生活の中に見出すよう心掛けている。
「おい!? ロバート!? どうし―――」
寝る時には必ず日干ししたシーツを使うとか。
食事には三食別のものを取り続けるとか。
未だ生き残っているラジオのFM局に懐かしのヒットソングを葉書でリクエストするとか。
「このジャップ!? 一体な―――」
そういう事が彼にとっては日々を生きる喜びなのだ。
3時21分。
腕時計の確認。
通りかかったタクシーに手が上げられた。
タイムズスクエア。
そう日本語で言った彼を横目にタクシーの運転手は金払いの良さそうな日本人を逃がすまいと覚えていた日本語で「HAI」と返した。
タクシーが通り過ぎた後。
車道からは見えなかった薄暗い路地裏で数人の男達が体を寄せ合って蚊の啼くような声を出す。
正確にはそのような声しか出せなかった。が、正確かもしれない。
何故なら、彼らはもう声帯という器官を使えない程に喉元を膨らませていたからだ。
それだけではない。
肉体のあちこちがブクブクと膨れ上がる程に体中の細胞が炎症を起こしていた。
瞼は既に開かず。
鼻は息を吸えず。
僅かな呼吸は一吸いにも相当な困難を伴う。
嘔吐いた男の一人、その顎関節が外れた。
ベキンと張り切った口が内部から押し広げられる。
「―――が――ご――げぇ―――」
頚部が体内からせり上がってきたものによって圧迫され、食道は裂け、動脈の流れを止め、涙と唾液がゴボゴボと音を立てて顔面から滴り落ちた。
もう意識を失っている男だったが、横隔膜は否応なく痙攣して、ソレを完全に吐き出させる。
凡そ十分後。
警察が近所の住人の通報で動物や蠅が無数に集っているという知らせに現場へ駆け付けるも残っているのはただ無数の足跡と血痕の跡だけだった。
「・・・やれやれ」
國導仁が思うに心の在り処というやつは厄介極まりない問題だ。
とある哲学者はそれを胸の心臓にあると言い、ある脳外科医は頭の中にあると言った。
他にもこの世界よりも上位の場にあると言う者もいれば、そんなものは存在しないと言う者もいた。
臭い台詞でいいならば、他者の心にこそ己の心があると言う者もいたし、言葉に出来ない事柄だと悩むのを止めた者もザラだった。
「今、貴方は完全に包囲されているわ。四方四キロは封鎖された。十八人のスナイパーと三十四人の市警の制圧部隊。五分後までに駆けつけてくる完全武装した軍のヘリが七機に海軍の特殊部隊が三チーム。スクランブルしたF-44が一機、半径一キロ圏内に限ってミサイルの使用許可も下りてる。詰まれたナパームとクラスターは此処を破壊し尽して余りあるでしょう・・・投降しなさい」
三十過ぎの黒人女性。
そのスーツ姿はキリリと凛々しく。
抵抗の気勢を削ごうという内心の必死さが仁には少しおかしくなる。
「なんやけったいな話やなぁ・・・」
初めて言葉を発した仁にネゴシエーターとして遣わされてきた彼女の背筋に怖気が走った。
「!?」
レリー・アモンドはそれだけで目の前の男の異常性に気付いてしまった。
FBIに所属し犯罪心理学を専攻、日本との交換留学プログラムにて三年間の留学。
帰ってきたのが一月前。
昼食を取り終えて、書類仕事をしようとしていた彼女に突如として与えられた任務。
目の前の男を釘付けにして場に留まらせる事。
上司はその時に様々な情報を彼女に持たせたが、それが一体何処まで真実なのか彼女自身は知らない。
ただ、【FF】という犯罪者の事だけは知っていた。
そして、その存在が合衆国に仇なす者である事も。
命掛けになると言われた仕事は数あれど、その中でもレリーは今現在程に死を感じた事はなかった。
「そんな力むとアホみたいやで? まぁ、程々にな」
「・・・!」
「これはいっつも会う奴会う奴に聞いてんのやけど」
「な、何ですか・・・」
「心の在り処って何処だと思う? いや、答えたくないなら答えなくてええねん。ただ、オレん中の型通りの会話ってやつやから」
いきなりの話にレリーは頭の高速で回転させた。
死の恐怖など微塵もない。
こちらの言い分を疑いもしない。
ただ、その常人ならば絶望しかないような状況の最中にあって、男は至って平常心を働かせている。
それどころか質問をする余裕さえある。
そんな常人とは掛け離れた精神構造を前にしてレリーは【素直】な意見を述べる事にした。
時間稼ぎ。
相手の答えを求めているならば、それこそ話を引き伸ばすには打って付けの状況。
安易に嘘を付く必要性はなかった。
「心は此処に」
「おう。あんたも心臓にある派か?」
「いえ、胸にあると思います」
「ほぅ。で、その心得は?」
「心得と言われても・・・」
「そやな・・・そないな事言われたかてフィーリングで答えたらそんなもんか」
「どうして、そんな事を?」
「いや、オレの研究ゆーのが基本的にそういうもんなんや。はは、いやいや貴重な意見ありがとさん」
「い、いえ・・・ドウイタシマシテ」
何か場違い過ぎる問答にレリーは一人冷や汗を流す。
「それにしても待ってるだけでコレとは案外合衆国も短気やなぁ」
「貴方は・・・どうしてそこまで冷静でいられるんですか?」
「おかしい思うか?」
「自分一人に先程言った戦力を投入されて何も思わなければ異常でしょう」
「そやな。そうかもしれん。ははは」
タイムズスクエアの端。
警察が封鎖している地域には人が一人もいない。
ほんの十五分前までは大勢の人間で溢れていたというのに退避勧告が出てからと言うもの、混乱もなく人気は消えた。
世界には遠方のパトランプしか目立つものはない。
ホログラフも消え去ったアメリカの象徴とも言える街の一角は何処か寂しささえ漂わせている。
「お、ようやくご到着か」
仁が手を額に翳して笑顔で空を見上げた。
最新鋭の第七世代型戦闘機の群れがニューヨークの上空を飛んでいく。
高度な情報ネットワークで繋がれた人間の乗る主機を軸に複数の無人機が編隊を組んで上空を旋回し始めていた。
「ッ・・・」
レリーには仁の笑顔が本物だと分かった。
だからこそ、内心で恐ろしくなる。
まったく合衆国の力など歯牙にも掛けない豪胆さ。
その自信の本質は何処から来るのかと。
「ま、人払いしてくれんのは手間が省けて嬉しいんやけど、ちょっと警察と軍が邪魔やなぁ・・・あんま被害出したくないねん。今いる連中の上司に繋ぐさかい。半径五キロは無人にしてくれって交渉できんか?」
「え?」
仁が端末を簡単に操作するとレリーに渡した。
「ネゴシエーターやろ? 合衆国が滅びてもいいんやったら別やけど、もし救いたいなら包囲は半径五キロ以上先にしておけって伝えてや」
「な、わ、私は!!」
そっとレリーの唇に人差し指が付けられた。
鼓膜内部に張り付いている皮膜型イヤホンが狙撃部隊の「撃ちますか」との問いを発する。
それを後ろ手の小さなサインで制止し、レリーは観光客風の姿の狐顔を見上げる。
「出てみ。あんたのとこの上司の上司の上司の上司の上司辺りに繋がるはずやから」
プツッと通話が繋がる。
「こちらレリー・アモンドです」
【な、回線が繋がっているだと!? 一体どうなっている!!? レリー!? 君は今タイムズスクエアにいるネゴシエーターのレリー・アモンドか!!?】
「は、はい。現在、相手との交渉中であり、彼から取り次ぐから要求を伝えて欲しいと頼まれました。そちらの所属は・・・」
【私は大統領補佐官のマスクウェイン・ローだ】
「だ、大統領補佐官ッッ殿ですか!?」
【クソ・・・こちらの防衛プログラムを全て突破したというのか・・・レリー!!】
「は、はい!!」
【それで彼は、『FF』は何と言っている】
「半径五キロ圏内を無人にして包囲して欲しいとの事です」
【包囲半径を広げろ言う事か?】
振り向くと会話が聞こえているらしい仁がレリーに頷いた。
「はい」
【ふざけているのか・・・それとも・・・いや・・・何か相手からの脅しは?】
「『合衆国が滅びてもいいならこのままでもいい』と」
【ッッ、分かった。代わってくれ】
レリーが端末を仁に返した。
仁の耳に静かな声が聞こえてくる。
【初めまして國導仁。いや、ミスター『FF』と言った方がいいのかな。私は大統領補佐官のマスクウェイン・ローだ】
「じゃ、マックスちゃんやな」
【ッ、君の好きにしてくれ】
「どうして大統領のとこ掛けなかったか分かるか? 分かるんやったら、とりあえず今押し掛けてるボタンから手ぇ離すのお勧めするわ」
【ッッ!? どうやら施設内カメラまで掌握しているようだな】
「いや~さすがに自国の都市諸共破壊するとか正気の沙汰やないやろ? こっちは良心で【あんたのとこ】に話通してるんやから、小さな誠意くら見せて欲しいわ」
【『こちら』の動向は筒抜けか・・・】
「よく聞いといた方がええ。一度しか言わん。十八年前からあんたらが追ってるのはオレやない」
【何?】
「まー世界中荒らしまわったのはオレには違いない。ただ、十八年前のクラッキングはオレの偽もんや」
【どういう事だ!? 偽者だと!? なら、その偽者とは誰なんだ!!】
「あの時、GIOの元天雨機関の仲間内で意見は別れとった。そして、オレは世間の事には干渉せん事にした。日本は好きやが右翼思想って程の事でも無かったんや。それまでにやってた事はただの日本人として見過ごせない事に対処しただけやからな」
【日本人として見過ごせないとはどういう意味だ】
「単純な話。良心の問題って言えば分かるか? 日本と敵対してた国のサーバー荒らしてたのは単にニュースで解決できない問題が持ち上がってると見たから、よっしゃオレが解決したるわとそう意気込んだ末の話や」
【・・・・・・それがどれだけの混乱を生んだか理解しているのか。君は】
「当たり前やろ。ま、あの頃からあんたら合衆国の機関がネット上でうざかったから嫌がらせぐらいはしてたけどな。って、そんな話どうでもいい。それより偽者の話や」
【それが君に本当だと立証できるとは思えない】
「正論やな。だが、先生はオレらみたいな生温いやり方は好まん人や。このままいけば・・・合衆国は潰されるで」
【今現在、祖国に起こっている穀物テロや国連ビルの爆破テロはその先生とやらの仕業か?】
「そう・・・あんたらが握ってるゼミの【リスト】の十人目や」
【十人目―――まさか】
「入手したリストやその後の調査でも得意な学問分からんのが幾らかおるやろ? 先生はあんたらが未だ情報を掴んでないその一人や」
【天雨機関の中にこの男の名前はないはずだ!】
「はは、そりゃ天雨機関外部の非公認オブザーバーだったからや。ただ、時折研究成果だけは律儀に送ってきてくれてたわ。そんでオレもその人の研究をバックアップする為に幾つか研究成果は送ってたと。機関が解体されてからも十八年前までGIOでやり取りはしてたんや。半ば同僚って言って間違いない」
【そんな事が・・・】
「あんたらの『どっち』もリストの五人目に偉く執着してるようやが、先生はあの人よりもえげつないお人や。オレの以前からの行動と十八年前の件ごっちゃにしてオレの事を極右思想やと思ってたかもしれんが、実際はオレなんてそこらのなんちゃって右翼と代わらん。先生と比べたら月とすっぽんみたいなもんやな」
【いや、だが、やはりその話を信じるだけの確証は・・・】
「今日こうしてあんたらに捕捉されながらも待ってるのはな。この国を滅ぼして先生が教授の遺産手に入れるのを防ぐ為や」
【教授・・・それはまさか!?】
「おっと黙っとき。先生はオレの動きに気付いて必ず此処まで来る。もし、国を守りたいと願うなら、あんたらの仕事は黙って市民を避難させる事だけなんやからな」
【・・・・・・信じたわけではない。必ずステイツに行われた蛮行には対価を払わせる。おい!! 市長と市警本部に繋げ!! 至急だ!! この回線はそのままで―――】
仁は言うだけ言った後、端末を切って地面に棄てた。
「あ、すまん。そういや交渉はあんたの仕事やったな。堪忍してや」
「・・・貴方の目的は一体何なんですか?」
「あんま首突っ込むと死ぬで?」
「ッ・・・」
レリーには話の内容の殆どがさっぱりだったが、それが国家をも揺るがす機密の類であるのだろう事は理解できた。
「そやなぁ。よく分からん相手に命とか張らされてるんやから、知る権利くらいはあるか・・・」
無言を肯定と受け取って仁は懐から煙草を取り出して咥えた。
奇妙な膠着状態にレリーは耳の奥に聞こえる複数の音声も忘れて、目の前の男を凝視する。
「ま、単純に今の状況だけ説明しておくとな。これからオレの先生がこの国潰しに来るねん」
「合衆国を・・・潰す?」
「そ、近頃色々と日本と中国軍閥連合が話題になってるのは知ってるやろ?」
「え、ええ・・・」
「それで色々とこの国も暗躍しててな。先生にとってはチェスで勝負してる最中に盤面引っくり返したりするような無粋な連中。だから、遺産取りに来たついでに行動不能にしとこういう算段なんや」
「つ、ついで・・・」
レリーが顔を引き攣らせる。
「おっと、そろそろ時間か。お迎え来たでほれ」
爆音に彼女の顔が上を見上げた。
上空に突如【色】が現われ、戦闘機が一機降りてくる。
第7世代型VTOL機。
【i3FIGHTER】F‐44だった。
世界初の第6世代型戦闘機F‐40の正当後継機にして日本と米国の技術を集めた既存のあらゆる機体を凌駕する最先端機。
次世代型光学迷彩【クアンタム・ステルス】。
子機搭載の広範囲ジャミングシステム【アクティブ・ステルス・フィールド】。
次世代半導体素子を用いたハイパワーレーダーによる【カウンター・ステルス】。
実用化に成功した最新鋭推進機関【ターボ・ラムジェット・エンジン】。
あらゆる環境下で通信を確保する【光量子クラウド・ネットワーク】。
複数の無人機指揮を可能とする【総合AI電子火器管制システム】。
現代、空を戦う上で欠かせない諸々を兼ね備えた機体はたった一機で第六世代型戦闘機十数機と渡り合えるだけの性能を発揮する。
日本が開発した【心神型】が電子戦と無人機操作とECM兵器に特化した最先端の防衛機ならば、アメリカの保有するソレは完全に全ての敵を屠る戦闘用の虐殺機と言える。
開発費用だけで日米が負担した費用は十兆円以上。
主機一機五百億と言う破格の値段であり、セットである無人子機六機を合せても約一千二百億。
その最大の特徴は人の乗る主機に武装が一切詰まれていないところにある。
複数の高度な電子兵装を駆動する為に機体のペイロードは超高密度のバッテリーに消費し尽され、繊細な機構ゆえ過剰なまでにデリケートな扱いを要求されるF-44は機体の武装を外さざるを得なくなった。
その代価としてステルス系統のシステム充実が完全な主機の隠蔽を可能とし、撃破される可能性皆無という驚異的な能力を得たのだ。
全ての武装はあくまで無人のマイナーチェンジされる子機群に積まれている。
それらを管制するのは搭載された次世代型AIであり、主機は複数の機体から構成されるネットワークが拾ったセンサー情報を元に【クラウド・シューティング】と呼ばれる戦闘法で指揮を行う。
「エ、エンゼルフィート・・・」
レリーは呆然とした様子で呟いた。
アメリカが持つ世界最高の軍事機密は【天使の頂】の名を冠し、その姿は白亜の鳥にも似る。
敵位置情報は有視界によって捉える事を想定していない為、機体キャノピーは硝子ではない。
完全に白い機体は量子ステルスと呼ばれる光学迷彩を常に使用している。
従来の配色とは対照的な色合いは空では目立つ事この上ないが、最新のステルス塗料のせいかただ白いだけではない不思議な光沢を放っていた。
「ああ、ちょっとAIに細工してな」
安い口調の仁に反応したのか。
機体が道路に着地し、二人の目の前までやってくる。
エレクトロクロミック色変化素子を用いた印刷技術、最先端の半導体塗布を可能にする製膜技術など日本先端技術(ジャパンテクノロジー)が惜しみなく使われたキャノピーが開く。
機体部品そのものにプリントされた回路が鈍くコックピット内部で幾何学模様となっていて、何処か得体の知れない怖さをレリーに印象付けた。
【!?】
中に乗っていた男が驚いた様子で機器を操作するものの、その操作に機体は一切反応していなかった。
「おーい。運転手さん。ちょっとこの子の事頼んでええか?」
【!!?】
「その機体にこの子を乗せれば動くようになるで。それがもし嫌ならあんたは一千二百億円パーにして軍事法廷行きや。民間人の救出なんて最高やろ? ほれ」
コックピット横から細い繊維で編まれた梯子が放出され、レリーの背中を仁が押す。
「あ、貴方は何を!?」
「もう耳に音声届かなくなってると違うか? つまり、五キロ四方の退避そろそろ完了するって事や。ここから走らせるんも何か悪いしな。ほら、タクシーみたいな感じで乗っとき」
「タ、タクシーって!!?」
「はは、質問に答えてくれたお礼とでも思っといてくれ。今、それを昇らんとあんたは死ぬ。まだ人生満喫してないやろ? あんたが賢い人ならどうするべきか分かってるはずや」
「・・・・・・分かりました」
レリーが仁の言葉に梯子を昇ってコックピットの端に掴まる。
「ほな、さいなら」
結局、諦めたらしいコックピット内部の男がレリーを引き上げ、何かを喋りながらキャノピーを閉鎖した。
それと同時に暴風が周囲に吹き荒れ、十数秒後にはその場に戦闘機など陰も形も無くなっていた。
「ふぅ。じゃ、始めよか。先生」
振り返った仁が既にその場に立っている帽子姿の老紳士に笑みを浮かべる。
「チェスではなく将棋と例えて欲しい所だったな。あそこは・・・」
枯木のような手。
巌を掘り出したような峻厳なる顔。
氷雪交じりの風が吹いたかのような声。
アメリカ人の感性でその老紳士を現すならSAMURAIとなるかもしれない。
老人班の浮き出た顔にはそれでも生気が漲っている。
「随分とお互いに老けたような気がするんはどうしてやろうな」
「老いるとは精神的にも知恵的な意味でも賢くなる事だと思っているが、さて・・・我々はそんな歳の取り方をしたのか?」
「はは、違いないわ。お互いもう耄碌してんのかもなぁ」
「そう出来ればどれだけ楽か・・・そう言えば、あの子に会ったか?」
「アズの事か? ああ、元気そうやったで」
「そうか。あのやんちゃ坊主も来ているようだが、そちらは?」
「完慈は見てへん。どうせ準備しに来たんやろうから、その内接触してくるやろ」
「・・・どうしても立ちはだかるのだな?」
「今更やなぁ。その律儀なとこが先生らしい」
「日本を守る為ならば、この身は修羅とも羅刹ともなろう」
「それで外国に迷惑かけるんは違うと思うで」
「こちらの不在を嗅ぎ付けて今悪餓鬼共が東京に来ているようでな。機関の情報をDARPA側にリークしたのも奴らだとすれば、むざむざ捨て置けるわけもない。GIOに全て任せておくわけにもいかない。早めに戻る必要がある以上手加減は無しだ」
「あ~~確かにあいつら相手にGIO特務程度じゃ分が悪過ぎるかもしれんな」
「あのGIOの小娘に国を守らせる程、愚かなつもりはない」
「何か対策でもしてきたんかいな?」
「君に戦いを制する上で基本的な事を教授するべきか?」
「止めとくわ。オレには似合わん」
「そうか。ならば、此処で一度敗北というものを知っておきたまえ」
老人の目がスッと細められた。
「嘗ての生徒だ。命までは取るまい」
「ま、死なん程度に頑張らせて頂きますよっと」
対峙した仁はその細身からは考えられない跳躍力で老人から十メートル程距離を取った。
「懸命な判断だ。昔からその計算高さだけは褒めるに値する生徒だったな君は・・・」
「ありがとさん。先生」
「とりあえず答え合わせをする暇は無さそうだ。先に教えておこう」
「ん?」
「兵法の基本の一つは敵の敵を作る事にある」
十三人。
その内の二人が激突するという事態。
何が起こるか分からない戦いを前にして街は静かに老人の声を呑み込んだ。
【どうやら先客がいるようですが、目標が一人から二人になったに過ぎません。準備はいいですか。パイ】
【『ITEND』 Multiplication Rate34。Increase Level22。Assist・・・いつでもどうぞ。ターポーリン】
【では、戦闘開始と行きましょう。第一目標『貴荻一茶(きおぎ・いっさ)』第二目標『國導仁(こくどう・じん)』】
街の中、たった二人の観客がビルの屋上から遥か下で起ころうとしている争いの渦中に落下していった。
20××年×月××日
定期記録NO.4432。
記録者【管理人】
*この記録は事実に私的な見解を交えた上での推測の域を出ない憶測が混じる。以上の事を踏まえた上で閲覧者はこの記録を読み解くよう注意されたし。尚、本稿の閲覧には幾つかの事前知識が必要であるが、それはこの場所唯一の紙媒体としての性質上、明記しない。
まずここ半年における技術情勢に付いて記憶の限り記してみよう。
最初に思い浮かぶのは何と言っても日本で四年前より建造されていた【島型原子力採掘船】の一号機が艤装を済ませて運用を開始した事だろう。
これは十八年前の事件以降止まっていた海洋資源採掘用の原子力船開発が一段落した事を意味する。
高速増殖炉によって五十年で倍になるとされたウランが余り始めたのは原子力発電所の新規建造数の低下に伴った現象、受け皿の枯渇に起因する。
そもそも日本の自身への過小評価は今に始まったことではないが、それにしても技術の進歩が早過ぎる事の弊害は以外に多いのかもしれない。
原子力発電所の効率化とスマートグリッドの整備。
送電による消耗をほぼゼロに抑えた新規電線・送電網の開発。
これらによって日本の原子力政策の主な焦点が原子力発電所の数となったのは周知の事実である。
それに加えて十八年前の事件が起こった。
以降、各地の原子力発電所に納入されるはずだったウランの大半は貯蔵施設で眠る事になった。
原子力テロを恐れた国連の決定は世界の原子力政策を大きく遅滞させたのだ。
しかし、増殖炉を止める事もできずにいた日本には核のゴミはなくなったものの燃料は増えていく。
中国の砂漠にゴミを封じ込め、全うに使える資源まで送らなかったのは懸命な判断だったとはいえ、それでも増え続ける燃料の活用法が皆無なのは宝の持ち腐れ極まりない。
核燃料を有効活用する術を発電に求めないという政府方針に従わざるを得なかった大手ゼネコンや財閥系重工には面白くない話だっただろう。
しかし、ギガフロートなどの浮体技術の飛躍的な発展によって陸地と差し支えない【世界】を海洋に【原子力を持って】構築する術を得た日本は正に水を得た魚となった。
これから百年以上に渡って枯渇しないだろう海洋鉱床を大規模に採掘する移動拠点を実用化した意義は限りなく大きい。
原子力船のスタンダードが島型浮体となれば、海洋に面する多くの国家、海水面上昇に喘ぐ国家へあらゆる資源と引き換えにソレを売り込む流れは加速するだろう。
それらの製造・整備・保全は日本の技術力無しには語れなくなる。
同時にアジア全体においての安全保障は日本という国を軸に強化されなければならなくなる時がくる。
国土の保全を他国が行うとは正にそういう事なのだ。
小国であろうとも大国であろうとも国は国に違いない。
南半球の国々を取り込むシーレーン再構築にしても誰も止めようとはしないだろう。
中国軍閥連合の瓦解と極東アジアの混乱を治める盟主として日本が担ぎ出されるのはほぼ間違いない。
嘗て大東亜共栄圏という幻想を夢見た者達はこの事態を見たら何と言うだろうか。
軍事力でもなく。
経済力でもなく。
技術力という一点において厳しくなる地球環境に対応し得る国がその頂に立つ。
生存競争に人の知恵が加わった時、ようやく嘗て夢見た者達の理想は別の形で現実となるのかもしれない。
「ふぅ・・・」
黴の臭いが僅かに鼻を擽(くすぐ)る図書館の最奥。
十数メートルの本棚の奥に置かれたカウンターからペンのカリカリという音が消えた。
天蓋からの漏れるのは陽光。
日差しも穏やかな場所で燕尾服を着込んだ老人が一人日誌を付けている。
コツコツと外からの足音。
扉が開かれたのは久方ぶりの事だった。
「どちら様でしょうか?」
「・・・日向宗助(ひなた・そうすけ)の紹介で来ました」
テーラー製のスーツを着こなして、静かに宮田坂敏はカウンターの前まで歩いてくる。
横にいる佐武戒十は自分とは縁遠い空間内部をキョロキョロと見回しながら帯同していた。
「もう故人ですが、彼の手帳には此処で科学捜査を行うようにという指示があった・・・貴方が海村千次(かいむら・せんじ)さんですか?」
「ええ、此処を預かっている海村です。ようこそ・・・継承者の方々」
「継承者・・・まさか――」
「あんた【Mファイル】の事を知ってるのか?」
口を挟んだ戒十に宮田が黙って欲しいという視線を向けるものの、何かと現場に出て脚で情報を稼いできた手腕に任せてみるかと口には出さなかった。
「日向さんとは長い付き合いでしたので」
老人、海村が頷く。
「じゃ、単刀直入に聞くぜ。あんたは一体何処まで知ってる? そして、あんたは一体何者なんだ?」
「・・・・・・話せば長くなりますが、嘗てとある事件で協力した仲とだけ。それと私が何者かは私が決める事ではなくあなた方の決める事です」
「此処の事は調べた。だが、此処はただの電子図書館って事しか分からなかった。不動産の所有者、土地の権利者、図書館の施工主、調べた限りじゃ外国にいて詳しい事は不明。一体、此処は何なんだ?」
海村がそっとカウンターの上の日誌を閉じて立ち上がった。
「警察内部の機関では解明できない先端科学に通じる者として彼は私を選んだ。そして、私はとある方から此処を預かり、管理運営を任されています。此処にある情報は私の脳裏のもの以外は全てその方のものであり、同時に此処にある全ては私の個人の裁量で活用する事が許されている」
背を向けて歩いていく海村に二人が続いた。
林立する本棚の奥は暗がりでよく見通せない。
「此処には公式非公式を問わずに世界中の情報が集められています。それが価値ある情報なら1000ヨッタあるアーカイブの海からどんな些細な情報も引き上げられる」
「ん?」
戒十が気付いた。
歩いてきた、というより歩いていく道の横で書架が動いていた。
「こりゃぁ・・・」
「不意の襲撃者に備えて常に情報の位置は変えています。どうぞお気になさらず」
「(・・・無理だろ)」
ボソッと呟いた戒十だったものの、すぐさま目の前に現れた巨大な扉に釘付けとなった。
「図書館にこんな扉必要なのか?」
「中には合法非合法問わず研究用の機材が大量にありますので」
「おいおい。それ言っていいのかい?」
「あなた方にそれが合法か非合法か解るのでしたらどうぞ令状をお持ち頂ければ幾らでも持って行って構いません」
「そういう事か・・・」
戒十が頭を掻いた。
鋼鉄製とも見えた扉が片手で呆気なく開く。
内側に招き入れられた二人は目を見張った。
一面ガラス張りの通路。
その両脇にはズラリと幾つも何に使うのかも解らない機材が所狭しと置かれた部屋が並んでいる。
「彼には世話になった恩があります。何かしら証拠を持ってきて頂ければ、それがどういう経緯でどういう経過を辿ってどのような状態となったのか。仔細漏らさず調べましょう。勿論、その情報は裁判や令状の理由に使用できないという事は言い添えておきます」
「解りました。では、さっそく一つお願いしてもよろしいでしょうか?」
今まで黙っていた宮田が持参していた鞄の中から黒い袋に入れられた小瓶を取り出した。
「おい!? いいのか!?」
「我々には手段を選り好みしている程の余裕はないと思いますが」
「・・・ああ、確かに科捜研じゃ何も解らなかったが」
「外部の捜査協力者に頼る事もまた一つの選択でしょう」
戒十は苦々しく思ったものの自分もまた違法スレスレで捜査してきたからこそ頷かざるを得なかった。
「これは今追っている事件現場に残っていた【被害者】です」
渇いて変色している茶褐色のソレを海村が受け取って繁々と見つめる。
「解析までどれ程掛かりますか?」
「・・・一日と四時間程頂ければ」
「では、明日のその時間にまた来ます。今日はまだ予定がありますのでこれで失礼を」
「おい。宮田さん!!」
戒十が慌てるも宮田はその場に背を向けた。
二人の来訪者の背中が見えなくなるまで海村は見送った。
「試されるのはCEOの下に付いて以来ですか・・・」
これから男達の前に立ちはだかるだろう難題は決して一筋縄ではいかない。
そう知っている海村は検査機器のある奥へ奥へと早足に歩いていく。
言った以上はやらなければならない。
久しぶりに老体に鞭打った徹夜になりそうだと彼はひっそり苦笑した。
「ふぁ・・・・・・眠い・・・・・・」
そう呟かれたのは闇の中だった。
微かな光が虚ろに世界を照らしている。
「波籐もたるい事好き過ぎだろぉ・・・こっちは三徹だってのに・・・」
欠伸を噛み殺してスヤスヤ眠っていたい衝動に駆られた声の主はムニャムニャと口元の涎を袖で拭った。
「あの爺がいないからって好き放題出来るじゃなし。何かしたら阿修羅の如く怒るの目に見えてんじゃんよぉ・・・」
虚空にフワリと輝きが浮かび上がる。
ホログラフ。
いや、それにしては実体があった。
虚空に浮かび上がったのはキーボード。
まるで重力を感じさせない動きで声の主の前にそれがやってくる。
「ったく。NDの独自開発なんぞ自分でやれよ・・・分子生物学なんて細々したのやってんだから・・・ふぁ・・・」
カタカタとキーボードが打たれ始めた。
「いつの間にかお得意の分野から離れてあんな研究するようになっちゃあ、恩師も怒るだろぉ・・・ま、つってもオレも研究成果は遣わせてもらってるし、お相子だけどさぁ・・・」
虚空に再び輝きが走り、今度は画面が浮かび上がる。
それもまた何も無い場所に出てきたにしては質感があった。
「空気中のND濃度五パーだ。タッチ薄い・・・組み上げ速度三割り増しくらいにしとけ」
【YES.MASTER】
きゃるーん。
そんなアニメ声で英語が響く。
「で、仁の野郎は見付かったのか?」
【NO.MASTER】
「あっそ。なら、全国に散らばしてるのは全部自壊させとけ」
【YES.MASTER】
「あ~~あ~~やっぱ、プログラム関連じゃ、あいついないとダメだな。艤装の運用効率が三日もやって一割とか・・・馬鹿なの死ぬのオレ・・・ゴフッ・・・水・・・水持って来い」
【YES.MASTER】
キュラキュラと車輪が回る音がして小さな台が自動でやってくる。
その上にはコップが一つ置かれていた。
「ッ・・・ふぅ・・・少し目ーさめたな・・・あ~~それにしても我が祖国来ちゃったよ・・・アズも完慈もアメリカだし、他の連中は出てくる気配も無いし、弱い者虐めって好きじゃないんだよなぁ・・・」
虚空にまた輝きが走る。
カウントダウン。
60.00前。
「そんなに教授の遺産が大事なのかねぇ・・・あいつら・・・オレと意見会いそうなのがあの壊し屋ミーシャしかいないってのもなんだかなぁ・・・」
ピロリン。
そんな音と共に一通のメールが虚空の画面に展開される。
「お・・・この船に初めてのメール頂きました~~って誰? 波籐がこんなもん送ってくるわけねぇし、つーか、此処に送れてる時点で普通じゃねーし」
システムが自動でメールを解析し、開いてもOKとお墨付きを出した。
「パカッと開いてみますか。パカッと」
メールを開いたと同時に内部に納められていたプログラムが外部と強制的にシステムを接続した。
【久しぶりだね。彰吾】
映像の中には小さな子犬が映っていた。
舌を出して映像を見ているだけの姿。
だが、まるで子犬が喋っているかのように声は続ける。
【もう四十年以上になるかな・・・あの頃から】
「・・・・・・嘘だろぉ」
【本物だから心配しなくていい】
「で、今更行方不明のお前が何の用だ?」
【僕は『研究会(ゼミ)』を抜けた後、新しい組織を立ち上げたんだ。それで君達十二人の内、幾人かの動向は掴んできた】
「それで?」
【まだ僕の組織は日本という国を必要としてる。もしも、君が日本を攻撃して計画の前準備に取り掛かるなら、僕としては戦わざるを得ない】
「勝てると思ってるのかよ・・・序列五位のお前が・・・」
【僕もそれなりに君達を見習ったからね】
「あん?」
【DARPA側に研究情報をリークして開発費を浮かせたのは何も君達だけじゃないって事さ。ようやく不得意だった分野で貴荻さん並の成果も出た。君達と同じようにDARPAから成果を引き上げるのも秒読みに入ったと言っていい。もしも、引くなら今回は手を出さないと確約しよう】
「・・・・・・」
【・・・・・・】
沈黙は長く続かなかった。
【物理学者】御崎彰吾は面倒事が嫌いだ。
だが、彼には面倒事より嫌いな事がある。
「全艦。緊急浮上」
【・・・そう・・・なら、仕方ない・・・】
それは白黒付かない半端な優劣。
上か。
下か。
そういう事だ。
【楽しみにしてるよ。彰吾】
「ああ、楽しもうぜ? 久しぶりにな」
プツンと接続が切れる。
「ECM起動。固定用シーパイル一番から二千七百番まで順次起動。炉の臨界運転にて高圧蒸気放出、氷陸生成を開始。接岸後、上部デッキ開放。フラクタルドローン全機出撃」
闇が取り払われ、無数の輝きが数値となって彼の周囲に吐き出された。
露になる全身。
人間の形をしていながら、その姿は異形。
機械の形を模した有機体。
文字にするならそう表現するのが相応しい。
神経の代わりにケーブルを。
内臓の代わりに電池を。
筋肉の代わりに繊維を。
骨の代わりに合金を。
血の代わりに溶液を。
肌の代わりに鍍金を。
確かにそれらはそのような名前で語られるものだ。
しかし、あまりにもそれらの形は人間を模す。
神経は抹消に至るまでミクロン単位で全身を這い。
内臓は複雑にして左右対称に臓器の形を模し。
筋肉は束ねられ、液の圧力によって伸縮し。
骨は本人の形と寸分違わず。
血は体の隅々にまで浸透し。
肌は人の色をして。
何処までも機械という概念を否定するが如く違和感を感じさせない。
着込まれているのはコンバットスーツ。
顎まで伝う衣装は黒く、一繋がりでありながら内部からの圧力に無数の亀裂を生じさせている。
ソレとは対照的に全てを覆い隠しそうな白い外套は何が詰まっているのかと言う程に厚く、強固な肉体を内側に押し込めていた。
「目標、霞ヶ関、市ヶ谷、丸の内」
東京全域の地図が現われ、指定された地域が赤く染まった。
「祝砲でもしとくか。基地局、テレビ局、浄水施設、変電所、後は・・・」
【TOWER】
「それもだな。気が利くじゃねーかよ」
【THANK YOU】
「小丘(モナドノック)全車両発進。配置完了と同時に撃ち尽くせ」
【YES.MASTER】
「それと波籐に繋げ。うっかり巻き込まれても困る」
褐色の玉座に座して、御崎彰吾は作り物の顔でそう笑った。
東京湾に突如として現われた【陸地】がジオネットで話題になったのは深夜の事。
その【目的地】に仕掛けられたジオプロフィットの内容にはこう書かれていた。
――――――日本の未来。
東京が火の海になったのは陸地の出現からたった十五分後。
戦火に没する世界の中で抵抗が始まる。
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第五十五話 それぞれの視線
第五十五話 それぞれの視線
久木鋼は己が凡百の人間以下である事を自覚する。
何か取り得を一つだけ上げるとすれば、妙に他人から虐げられる素質がある事くらいだろう。
別に特殊な性癖ではない。
何て事ない自信の無さとか。
人一倍の努力なんて出来ない性分だとか。
人と関わる為に必要なコミュニケーション能力が不足しているだけだ。
別に取り立てて醜いわけではないが、イケ面なわけでもない。
成績が悪過ぎるわけではないが、平均には少し足りない。
よく虐めで自殺なんて話がニュースを賑わすが、それら人の気持ちも多少しか共感できない。
人並みに怒る感情はあるが、それよりも諦観の方が強い。
つまり、総合的に見て「社会的不適格者」というのが自分のレッテルとしては正しいと久木は思っている。
家庭環境の不和なんてものは何処にでもある。
肉体的・精神的虐めなんてのは社会に出てからが本番だろう。
だが、それらに上手く適応出来ない。
どうしようもなく脆弱に過ぎる。
それを人生の早い時期から自覚していた久木は不幸だと言えるかもしれない。
大人達は誰も教えなかったが、人間は才能と家柄、努力は資質の問題、コミュニケーション能力の低い奴や性格の暗い奴は虐げられる、作業の出来が悪い者は評価されない、といった現実を知らなくてもいい年頃でも理解出来てしまっていた。
そんな子供だったからか。
人一倍備える事が久木にとっては重要だった。
自分が何処までも『そういうの』だと知っていたから、失敗の予防線を張る事は欠かさなかった。
ネットでそのプログラムを拾った時も最初は単純に学校で物を隠されてしまった時を想定してダウンロードしたのだ。
それが恐ろしい程に高度なプログラムだと気付いて、虐めてくるクラスメイトを影から罰せるような武器を求めたのは誰にでもある全能感、漫画の主人公気取りで【強さ】というものを一度くらい味わってみたかったからだ。
勿論、そうする為に示された路はかなり険しかった。
様々な会社から匿名で原料を仕入れて痕跡を消し、製造の為の機材を殆ど違法スレスレで足が付かないよう無償で手に入れ、家族にも隠蔽して少しずつ少しずつソレを形にしていく。
不意に製造を中止したのはネット上でプログラムを巡っての陰謀、その片鱗を味わったからというだけでもない。
それもあるにはあったが、一番の原因は久木自信の恐怖だった。
武器を作っても、それでいざ他人を傷付ける事を想像して怖くなったのだ。
ある種正常な判断は自身を絶望させて余りあった。
どんな力を手に入れようとしたところで、それを振る人間は所詮強くない。
精神的にも肉体的にも強かろうはずもない。
そう自身に思い知らされた。
自信の無さ。
それが久木を敗北主義者にした。
怖くなった日から虐められようと理不尽な目に合おうと我慢と忍耐だけを持って学校に通った。
一度だって手を上げて反抗すらしなかった。
ただただ、相手に罪悪感を抱かせるまで見つめるだけに留めた。
それから・・・それからの日々は慣れだった。
何も期待などしなくなった。
何も感慨など沸かなくなった。
心を閉ざしたのではない。
強くなったわけでもない。
耐えられていたわけでもない。
バランスを保ったのだ。
崩れてしまわないように、壊れてしまわないように。
「久木? 久木!!」
「何?」
霜山円子。
ちょっと久木好みなお嬢様復讐鬼。
拳銃をまともに正面の人間に撃つくらいには【EDGE】よりも度胸がある少女。
その眉間に皺を寄せた顔が怒っていた。
「ボーっとしないで頂戴。一体誰のせいでこんな事してると思ってるの!!」
「・・・・・・」
【ゴミクズだから仕方ないでしょ。まったく生産性が無いったらありゃしない。で、少しは情報集ったの? 一人善がりは嫌われちゃうわよ。エターナル・チェリー君】
追い討ちを掛けたのはARグラス越しにしか存在しないヒラヒラした衣装を着る美少女。
人気アニメ『神裸フリークス』の主人公【祠堂詩亞】。
経済系毒舌魔法少女という何が受けているのか分からない作品の主役にして現在進行形で未来を託していると言っても過言ではない探査プログラムの対人インターフェース。
恐ろしく高度な検索能力を全開で使用した場合、高確率で死亡する要因になる可能性を秘めた二人にとっての諸刃の剣。
【ホント、少しは役に立ちなさいよね】
「いや、それは君の方じゃない?」
【ああん? 何か文句あるの? 二年もほったらかしにしてた久木鋼君】
何気に怖くなってほったらかしにした事を恨まれている。
その鋭い視線に久木は相手が現実にはいないARだという事も忘れて視線を逸らした。
逸らしたところで瞬時に視界に位置取りし、ARグラスを外さなければ罵詈雑言が飛んでくるとしても基本的に怒った他人と目を合わせていられるような性格はしていないのだ。
「それで詩亞さん。集めた情報でどうにかなりそうかしら?」
久木は少し落ち込んだ。
人間とAR。
差は明白だが、プログラムよりも優先順位が低く、尚且つさん付けすらされていない自分はどれだけ嫌われているのだろうかと。
勿論、もしかしたら兄の仇かもしれない久木を少女が信用する事など在り得ないのだろうが、せめてプログラムには待遇で勝ちたいところではある。
【入力情報からルート構築中・・・捜索目標【EDGE模倣犯】・・・殺害現場及び当日の現場周辺の情報収集率44.4223%目下上昇中・・・作業完了まで約9334時間】
プログラムの回答とは思えないような高度な返答をサラッと返して再びAR内の詩亞が怒ったように顔を顰めた。
【情報の高速自動収集プログラムが起動されない場合、時間経過と同時に作業完了までの時間が延びる可能性があります。プログラムを起動しますかY/N】
久木がキッパリと告げる。
「N」
それに更なる不満顔で詩亞が繰り返した。
【情報の高速自動収集プログラムが起動されない場合、時間経過と同時に作業完了までの時間が延びる可能性があります。プログラムを起動しますかY/N】
「N」
【・・・だから、DOTEEEEEEなのよ(ボソ)】
膨大な情報を一瞬で精査する高度な検索能力を有する詩亞だが、そのプログラムの反応はネット上で監視されているとみて間違いない。
それはつまり検索した瞬間に何処かの誰かに自分が誰なのかを教え、危険に晒される事と同義だ。
だから、久木はどれだけ詩亞(AI)にしつこいインテリジェンスの警告メッセージを出されようと頑として情報の高速自動収集は認めていなかった。
警告メッセージどころか嫌がらせのような言い掛かりを付けられても、足で情報を稼いで入力している。
もうネット上で拾えるだけの情報は手動でほぼ拾ってしまったのは昼頃の事。
詩亞が本来持っている超高速検索能力からすれば、それですら不十分な検索らしかったが、だからと言ってネットにそれ程詳しいわけでもない二人に検索できる情報には限界があった。
「ぅ・・・」
日差しにやられたような気分で久木は頭を片手で押さえる。
潮騒が聞こえて、船の汽笛が遠方から聞こえた。
御台場。
嘗て異国の敵に備える砲台が列された場所も今は昔。
秋だと言うのに晴れている空は秋風よりも熱い日差しで煮え滾っていた。
【周辺環境情報を外部端末から取り込みリアルタイムで更新中。周辺船舶の情報を超低速取り込み中】
高速検索を封じられた状態でならネットに繋げてもそこらの検索エンジンと代わらないだろうと詩亞からの助言を受けて恐る恐るネットに繋げた成果か。
ベンチ付近で端末と連動している双眼鏡片手に周辺を観察していたのも相まってARに表示される情報収集率が44から45に変わった。
(まだまだか・・・)
数時間もすれば100になるだろうという希望的憶測は二人が手動で情報を集める最初の段階で詩亞に潰されている。
本来、あらゆるネットの情報を検索して指定されたモノに辿り着くルートを提示する詩亜の検索項目にはキロバイト以下の文字列、ネットの片隅でリンクも張られずに埃を被っているゴミ情報、既に何も無いページ跡地ですら入っている。
消された情報も大本の情報の断片を繋いで類推する事や情報の復元までやってのける為、ほぼどんなデータだろうと再現が可能だ。
そういった高度過ぎる能力を集約した結果としてプログラムの所有者が入力した目的まで辿り着くルートを構築するわけだが、それにはリアルタイムでの検索が不可欠だった。
例えるならパズルのピースとして一日前の情報が欲しいのに形の合わない三日前の情報を入力されても上手くルートの構築に組み入れられないという事になるだろうか。
糅(か)てて加えて現在検索しているEDGE模倣犯の犯行現場は複数在って離れており、一日で全て回るのは学生の身分である二人には不可能だった。
お嬢様である円子が移動する資金を都合してくれてはいるものの、それでも夜の夜中まで学生が二人で犯行現場を徘徊するのは無理がある。
更に情報の痕跡は時間に比例して消えていく。
復元や類推も困難になる。
それはつまり100%という値が永遠に到達しない数かもしれないという事を指す。
どれだけ情報を集めても99.9999で止まっては意味が無い。
80%の確度でルートを構築したところで辿り着くモノが五分の一で間違いとあっては犯人かどうか知れたものではない。
円子にしても五分の一で間違いの犯人を破滅させるわけにも行かないわけで結局の所は地道に犯行現場を回って情報を集めるしかないという結論に二人は達していた。
【警察のサーバーに侵入すればいいんじゃない?】
久木は詩亜を投入進展して尚暗礁に乗り上げつつある手詰まり感に内心溜息を吐く。
超高度な検索が可能な詩亜はハッキングやクラッキング紛いの事も平然とこなせる。
そうでなければ久木が一人で暗器の材料を揃える事は出来なかっただろう。
だが、だからと言って警察に喧嘩を売るような真似は自殺行為だと久木にも分かっていた。
それは警察に対してのハッキングを日本人らしい道徳観念が邪魔しているわけではない。
単純に近年警察が電子空間上で恐ろしい程に優秀な為である。
嘗てIPアドレスが一致しただけで逮捕というお粗末な冤罪が蔓延っていたのは半世紀以上前の話。
テロリストの計画を事前に発覚させ、巨額の疑獄事件を解決し、移民労働団体の動きを公安並みに把握しているとされる警察の電子戦部隊(サイバーユニット)は普通に聞こえてくる手柄だけでも違法アップロード者の摘発を年に五万件以上という実績を保有している。
その分蛇蝎の如くネット有志から嫌われているのだが、その働きぶりだけは神と皮肉混じりに語られている存在であり、本拠地のサーバーに侵入しようものなら早々に逮捕されるのは目に見えていた。
「まぁ、まだ一日目だから・・・」
「本当にそう思ってる?」
円子に睨まれて久木は何もいえなくなった。
他者に欺瞞を見抜かれるというのはそれだけで罰の悪いものだ。
それがその本人にとって何よりも優先すべき事柄だったなら、怒られても仕方は無い。
「・・・・・・」
勿論、EDGEを模倣して殺人を繰り返す犯人を野放しにしてはおきたくないのは久木も同じだったが、それよりも切実に彼は命の危機に直面している。
自分よりも小さな少年。
掴まれた凶器。
落ちてきた黒い何か。
(ぅ・・・さすがにあんなのには・・・)
久木が蠢く黒い人型を思い出して顔を顰めた。
大香炉という名前すら彼は知らなかったが、どれだけ足掻いたところで偶然力を手に入れてしまった人間にソレがどうこう出来る存在でない事は理解出来ていた。
密かに情報を集めつつ類推した久木にとって、その誰にでも分かりそうな結論は絶望以外の何物でもなかった。
契機となったウィルステロがどういうものか実態は民間にも殆ど知られていなかったが、誰かが実験紛いの事を組織だってやっているという漫画のような展開なのは久木も容易に想像できた。
そして、その結果を管理する人間達がいて、その人間の一人に目を付けられたのだろう事も納得は出来た。
一つだけ問題があるとすれば、ウィルステロ以降久木のようになってしまった者達を管理者達はそれ以上の力を持って制御できると確信している事だろう。
推測の域を出なくても【あんなもの】が全うでないのは久木の足りない頭でも理解できたし、それが最先端技術による代物ならば、少年の背後には国家規模の研究開発を行える資本が付いているはずで・・・結論は結局言われ通りにするしかないというものに落ち付く。
「久木? またボーっとして・・・本当にやる気があるの!?」
「・・・・・・」
ベンチの上で並んで双眼鏡を手にしている円子が目を逸らした久木を睨み付ける。
「出会った時はあんなに饒舌だった癖に・・・こんな時は静かなんて・・・それに暗いし、妙に視線も逸らすし・・・」
半ば愚痴だったが、サクッと久木の心にその言葉の刃は刺さった。
「あの時はそれなりにテンパってたから」
「テンパ・・・どういう意味?」
怪訝そうな顔の円子に育ちの良さが何となく垣間見えて久木は視線を逸らした。
「一杯一杯だったとか。そういう意味」
「冷静に人の一部を切り取れる人間がそんなわけないでしょう?」
何を馬鹿なと反論されて久木は自分が円子の中では未だに冷徹な通り魔なのを再確認した。
後から舐められる事はないだろうが、心を許す間柄にはなれそうもないなと少年としての心の何処かがガッカリし、EDGEとしての心の何処かがそれでいいと呟く。
「霜山さん。喉渇かない?」
「飲み物を買う暇があるなら、情報を収集したらどう?」
「この炎天下で途中倒れたら運ぶのは僕の方だけど」
「・・・二人分ですから」
財布から札を取り出す辺りが如何にも小銭なんて知りませんというお嬢様気質だったが、そんな事はおくびにも出さず、久木は近くの自販機に向う。
【お嬢様が好きな根暗君としてはナイト気取りなわけ?】
今まで黙っていた詩亜の言葉に久木がピタリとボタンの手前で指を止める。
「嘘は無意味なんだっけ・・・」
【近頃のARグラスはいいわよね~~生活測定ってのが製品の基礎だから心拍数とか発汗量まで分かるのよ?】
ユニバーサルデザインの一環で現代製品の多くには体の調子を計る装置が多く付け加えられている。
生活測定という名で広められた製品規格は寝台、便座、床、寝巻き、眼鏡と生活上常用するような品の殆どに端末との連動で肉体の値を簡易に測定する装置内臓を義務付ける。
嘗て嘘発見器や血圧計と言った商品が存在した時代は過去のものであり、今は身近な製品にそれらが超小型で内臓されている状況なのである。
それ故にその値から相手の状態を見抜くのは簡単だった。
勿論、ちゃんとした知識無しには相手の嘘など見抜きようがないわけだが、久木の相手はプログラム。
個人情報が駄々漏れな時点で嘘の付きようがない。
【ねぇ、それでどうして通り魔なんて始めたわけ? あんたはただの根暗君。しかも、折り紙つきの敗北主義者で最後に起動した時ですら【E‐STEEL】は廃棄しようとしてたじゃない?】
「そんな名前だったなんて僕も今始めて知った・・・」
【誤魔化せてないわ】
「幾ら人間みたいに振舞ってもプログラムに分からないって言ったら?」
【そうよ? そのプログラムに路を求めておきながらあんたは途中で投げ出した。弱者は所詮弱者。あんたは結局悪にも正義にもなれない一般人以下の半端野郎だった。『現在進行形』であんたの能力情報は更新してるけど、それでこんな馬鹿みたいな通り魔なんて始めたわけ?】
「今更止めろなんて言うのは手伝ってきた君に言えた事じゃない」
【止めないわよ。あんたが誰だろうと所有者として道を聞かれれば示すだけだもの。ただ、これは単純に高度な対人インターフェースである私の人格模倣確度の向上に必要だから聞いてみただけよ】
「今以上の存在になられても困るし・・・」
【今以上に虐めないから教えなさいよ】
「(絶対嘘だ)」
武器を作っている間も毒舌で散々にいびり倒された日々が久木の脳裏に甦る
【本当、本当♪】
美少女の姿を使ってプログラムがまったく仮借なく嘘を付くのだから、世も末なのかもしれないと彼は思った。
「ナチュラルに人の心を読まないなら教えてもいい」
【・・・いいわ。特定の動作以外の時は読まない。これでいい?】
ARを通して自販機の表面に張り付いた映像が真面目な顔で頷く。
「この力を手に入れたから僕は通り魔を始めた。でも、ただ単に理由もなく始めたわけでもない」
【今までの恨み?】
「僕がそんな事を動機に出来たのは君を最後に起動した時期くらいだから」
【じゃ、どんな理由なわけよ?】
「・・・・・・ウィルステロに付いては僕の考察も込みで情報は入力しておいたはずだけど」
【該当情報有り。ウィルス感染において覚醒した者には独特の生態が発生する】
「あの事件以来、嗅覚が変質してて・・・感染者が近くにいると妙な匂いがして気分が悪くなる」
【感染者特有の症状?】
「感染しても僕みたいに完全に発現してない連中はどうしてか逆に惹かれあってるみたいに集団になる事が多い。それで街を歩くと気分が悪くてしょうがない」
【気分が悪いから鼻を削がれたんじゃ、ただの通り魔確定じゃない】
「それだけなら別に家に引き篭もってれば良かったかもしれない。でも、一部だけ変化した人間が寄り集ってると妙に暴力的になって問題を起こしてた。それで一回そういうのに絡まれた事があって、殺されそうな勢いだったから変質した部分を思わず抉り取ったら―――」
『久木!!? いつまで悩んでるの!!?』
ボタンをサクッと押して落ちてきた飲料を取り出し、足がベンチへ向う。
【・・・尻に敷かれてるわね。さすがDOTE君】
話の腰を折られた形だったが、詩亜の暴言にも素知らぬ顔で久木はペットボトルを円子に差し出した。
「どっちがいい?」
「どっちでもいいわ。それよりもほら早くして頂戴!!」
サッとサイダーを奪い取り、双眼鏡を押し付けてくる相方に久木は何も言わず従った。
プシュッと缶が開き、爽やかな炭酸の弾ける音。
「今日は何処まで回るつもり?」
「全部と言いたいところだけど、終電を逃さない程度にするわ」
「それって全部・・・」
「何か文句があるのかしら?」
「僕の方にも協力する約束じゃなかった?」
「夕方からならいいわ」
「・・・了解」
【夕方から・・・ね】
久木だけに聞こえているのだろう詩亜の言葉に反応は返らず。
双眼鏡による現場の情報収集は続いた。
工場が立ち並ぶ一角。
駆けて行く二人の背中を見送って、虎は一キロ先の追尾車両を専用の義眼で観測していた。
尾行は一人。
どうやら事前の予想通り、公安とは違う組織、第十六機関のようだった。
「・・・・・・一流」
久重が外国で働いている間にソラと共にアズの下で働いた虎だったが、その中で多くの経験と知識を得て、少なからず【戦う人】としては練度を上げていた。
嘗て中国の犯罪組織の一員であった時はよく理解できなかった日本の組織の版図。
暗躍する多くの公式・非公式の組織達の関係。
それらをソラと共にアズから教育された。
家主が心配するかもしれないからと、その事実はソラと二人だけの秘密となっている。
裏社会の天才フィクサーからの教授を余す所無く吸収し、同時に幾つか専用の道具を与えられた虎は今や一介の工作員程度なら軽く捻る実力がある。
片手で専用義眼を通常のものと入れ替えた虎はトレンチコートの専用ポケットの中にそれを仕舞い込んで二重尾行を開始する。
「行く」
屋根から体が跳んだ。
トレンチコートの下にはアズから貸し出された強化服(パワードスーツ)が着込まれている。
米軍の最新式は防弾能力は素材強度に頼る一方、何よりも取り回しと鋭敏さを重視する。
三世代程前まで強化服と言えば電池で動く着るロボット的なニュアンスを含んでいたものだが、そのトレンドは既に過ぎて、今では強化服の上からコートを着れば内側が分からない程に薄くなっている。
大きな銃器を振り回せるパワーは無い変わりにまるで獣の如く俊敏に作戦活動の展開を補助するパワードスーツは米軍の特殊部隊も実際に使用し、それなりの評価を得ていた。
弾丸など当らなければどうという事はない。
最終的に行き着いた強化服の至言はそこに尽きる。
無論、【ロボットを着る】方向の強化服は今も開発が進められているが、それは戦争でしか使えないような代物であり、威力や威圧感などを考慮しても使い勝手が良いとは言えない。
それを与えられた時、虎に渡された資料に刻印されたマークはソラに渡された黒いコートの時と同様のもの。
「あはは・・・」と苦笑いしていたソラの顔を見て虎の脳裏に?が浮かんだのはつい最近の事である。
(気付かれてない・・・)
CNT(カーボン・ナノ・チューブ)を織り込んだ伸縮自在の強靭な繊維。
極薄で折り曲げ自在のリチウムイオン電池。
電圧によって柔軟に変化する磁性流体。
肉体の神経伝達情報を読み取り緻密な同期を可能にするニューロチップ。
それらを一体としたパッケージは【連動擬似筋肉(モーション・トレース・マッスル)】と呼ばれる。
肌とスーツの間にはマイクロレベルの細さを持つ生分解性でしなやかな探査針が複数在り、肌に侵入して肉体とスーツを緻密に連動させていた。
全ては最新のバイオエレクトロニクスによって生み出された義手製造にも使われるBMI(ブレイン・マシーン・インターフェース)技術の産物。
機械と肉体の融合というSFにおける命題への答え。
(・・・監視)
恐ろしく跳躍した肉体が十数メートル先へ無事に着地して再びの跳躍を開始する。
時速50キロ以上まで徒歩による加速が可能であるスーツの性能は高い。
ソラのNDによる強化も加わっている虎(フゥ)はその気になれば八十キロ以上の高速で移動する事すら出来た。
(何のため・・・)
車両は緩々と距離を保ちつつ二人を追走している。
今までも公安や警察らしき影が朱憐の誘拐事件以降、久重の生活には付いて回っていたが、それにしても仕事を依頼した人間を監視するとは不可解だった。
不正が内容に見張るなんて事は在り得ない。
そもそもがアズへの依頼は非公式で公に出来る類のものではない。
つまり、依頼している機関側からすれば、事件解決の手段がある程度非合法である事など折込済みであるはずだ。
それを理解しながら監視しているという事にはただ単純に仕事が為されているか確認している以上の意味があるのではないかと虎には思えた。
(ヒサシゲ言った通り・・・変)
三人で捜査していた途中、監視に気付いた久重は首を傾げていた。
今更のように国家機関に監視される覚えがないと。
アズを通してそういった連中には釘が刺されているはずで、ソラやアズの能力の前に諜報活動なんてものは為す術もなく無意味極まりない。
仕事上そういった事を熟知していた青年にとって、その尾行はあまりにも不可解だったのだ。
「続行・・・」
とりあえず少しでも情報を得ようと虎は車両に近付いていった。
【深夜。東京湾沿岸部海上保安庁所有大型船舶後部デッキ】
今まで付いてきていた入管職員の去っていく背中を見つめながら我大牙はこれから己が置かれる新たな環境に思いを巡らしていた。
(警察上層部とも話が付いてるってわけか・・・)
どんなルートを使ったのか。
犯罪者として扱われているはずの大牙会組員は我東を含めて全員が警察に世話になる事は無かった。
海上保安庁の船舶に乗せられて新たな新天地であるギガフロート二号機へ向うとのお達しは既に組員全員が知るところである。
無論、手錠と指錠と縄で雁字搦めではあったが。
(背中が痒い時に野郎の手とかゾッとするが、仕方ねぇか)
職員達に次々と部屋の中へ押し込められていく。
「人生何が起こるか分からねぇもんだ・・・」
世界を渡ってきた我東は夜という言葉を忘れてしまった都市の空を見つめて呟いた。
その様子にいつもの笑みを崩さない丘田がひっそりと笑う。
「ええ、何があるか分からないのが人生。ですが、それこそ醍醐味ではないですか?」
振り返った我東が「違いねぇ」と唇の端を歪める。
「どんな人生計画を立てたところでイレギュラーというのはあります」
波音に独り言とも取れる声が消えていく。
「当方、行き当たりバッタリってやつでな。予想外だらけの人生だ。はは」
「最高の選択が最良の選択とは限りません。それと同様にその人間にとって最高の人生が最良かどうかは分かりません。そういう生き方も後から考えれば、最高ではなくとも最良だったのかもしれない」
「そういうアンタは日本人らしく何事にも精確そうだがな」
「いえいえ、世の中というのは机上の空論よろしく上手くいかない事ばかりだ。理想論では何も進まず、事実を直視して客観的な修整を加えなければ、とてもとても・・・」
「オレ達の事も修整ってわけかい?」
「大きなものではありませんが、無視できるようなものでもない、と言ったところですか」
「「・・・・・・」」
互いの顔に嘘は無い。
たぶん、これからも長くなるだろう相手に二人の男はライトに翳る互いの顔を焼き付ける。
「これからどうなるかは分からねぇが、よろしくやってくれや」
「こちらこそ」
二人の手がどちらからともなく差し出され、ガッチリと握手する寸前―――。
世界が揺れた。
「なッ!?」
「ッッ?!」
二人が船の手摺に掴まるのと急激に盛り上がった海面の傾斜に船が転覆するのは同時だった。
穏やかな東京湾には在り得ない波。
海に投げ出された我東は手の先のでっぱりだけは離さなかった。
十数秒間、激流に身を揉まれながらも船にしがみ付いたのは判断として正しい。
海中に投げ出されて一番危険なのは上下を間違える事。
海面に上がる前に息が切れれば溺死する。
横転した船の船内にはまだ空気が残っているはずで、上下の確認も合せれば最良の判断と言えた。
船の下層へと下りていく階段を見つけて、必死に這い上がり、顔を出す。
(何が起こってやがる!?)
その跡を追うように水の中から丘田が顔を出した。
「げほッ!? ごほッ!? はぁはぁ・・・何がどうなっているのか知りませんが高波のようです。船内にいる船員と組員の避難を」
丘田が懐から二本の鍵を取り出す。
「手錠と指錠の鍵です。緊急時に手も動かずに溺死させたとあってはこちらの信用にも傷が付く。出来れば、脱出の後は大人しくして頂ければ幸いなのですが」
「あんたの好意を無碍にする程、耄碌してるつもりはねぇよ。警察に圧力掛けて犯人の引き渡しもしなかった権力者に楯突くのはどう考えても馬鹿だろ?」
「はは、なら今の仕事を止めたら国政にでも参加してみましょうか」
二つの鍵が渡された。
「これから私は外の状況を確認してきます。船内の海上保安庁の職員に従って下さい」
「了解だ」
「では」
丘田がスーツを脱いで潜った。
十秒程の潜水で船から出て海上に顔を出す。
「ぷはッ。さて一体な――――」
東京の明るい夜だからこそ見えたのかもしれない。
一面の黒々とした壁が東京湾にそそり立っていた。
真直に見たからこそ、最初それが一体何なのか丘田には分からなかった。
しかし、立ち泳ぎのまま岸壁へと下がっていく事で全体像が露になる。
「耄碌した方が世の中幸せかもしれません」
引き攣った顔で丘田は確信した。
(原潜。こんな大きさの現在知られるどんな原潜とも合致しないものが存在するはずがない・・・もし、こんなものを造れるとすれば、それは巨大国家なみのパワーを持つ存在・・・まさか今まで追いかけていた【あの集団】が?)
仄かに浮かび上がる船体は黒曜石のような光沢を放ち、異様な存在感を発している。
「!?」
ガシュッと機械の作動音が鳴ったかと思えば、船体の各部に何かパイプのような突起が幾つか出た。
その突起に嫌な予感を覚えた丘田が水の中に頭を下げたのと二百数十度に達する超高温の蒸気が周辺を覆い尽したのは同時だった。
高温の蒸気は蒸発する際、熱量を奪っていく。
瞬間的に多量の蒸気が放出された東京湾の半分以上が刹那、白く染まり、蒸気の途絶と共に海面表層を凍り付かせた。
更に船体の各部から無数の突起が海中に沈みこみ海底に突き刺さる。
船体を固定すると同時に極低温となった突起から海水が急激に氷結していく。
その湾全体を凍り付かせようかという膨大なエネルギーは一キロ以上にも及ぶ船体を動かす原子炉から齎されていた。
炉心の冷却で使用された蒸気が熱量を奪い、渇いた氷を張らせていった。
その厚く張った氷の上へ上部を晒していた船体が半分以上開き始める。
展開されていく潜水艦。
まるで冗談のような光景。
巨大な船体の内側から折り紙を開くように折り畳まれた薄い銀幕が広がっていく。
張られた厚さ三メートル超の氷の浮力を得て大型重機が載ってもびくともしない大地が東京湾に出現した。
それは常識を超えた技術の産物。
潜水艦とは本来圧力に耐える為に分厚い金属の壁を周囲に張り巡らせている。
それを根底から覆したのは【鋼詰様式(Fill Style)】と呼ばれる船体の製造法にあった。
一重に潜水艦に限界深度というものが設けられているのは潜水艦内部に外部からの圧力を受ける空間(スペース)が存在するからだ。
例えるなら、潜水艦とは空気を入れた風船のようなものであり、気圧が掛かれば掛かる程に内部の空気は圧縮され、やがて風船は耐え切れなくなって破壊される。
だが、これがもしただの石ころだったならば、同じ圧力下でも破壊される事はない。
結局のところ潜水艦の限界深度を引き下げる理由は内部に外部からの圧力の影響を受ける場所が極端に多いという事に尽きる。
人間は空気が無ければ生きられない。
これが無人の潜水艇ならば現在は深度一万を越えるものが幾つか存在する。
圧力を受ける領域が少ない、空気というものが内部に無い、石ころのような詰まっている構造だから、それらの無人潜水艇は遥か深海にまで往く事が可能なのだ。
東京湾に現われた原潜の最大の特徴はその積まれているあらゆるギミックに【活用不能領域】(デッドスペース)が殆ど無く船体内部に空気がほぼ存在しない事だった。
それは人間が一人乗るのもやっとという事を示すが、同時に内部に莫大な機材を積み込めるという事でもある。
機材は全て真空下で特殊なフィルムによって包まれ、高圧の流体を流し込まれる事で保存される。
同時に船内の人間が行う全ての行動は機械化され、内部の保守管理を行う小型のデバイス達が動く経路には高圧の調整油が流れている。
東京湾で開かれた船体は中国軍閥内で開発された他の同型艦とは違い、人間を乗せる事を想定していない仕様・・・たった一人の乗組員である男がドクター・ミーシャの潜水艦を魔改造した末の【作品】だった。
大地に薄らと内部を埋めていた高圧の流体が流れ出していく。
ギギギギギギギギギギギ―――。
それを追うかの如く。
大地を高速で這うようにして六角形の小型機械群が艦内から次々に湧き出していく。
まるで津波のような、蟻の群れのような機械達に遅れて、小山のようなソレが姿を現した。
例えるなら柔らかい黒い水風船に棒が一本突き立っているようなと言うべきか。
車輪も無限軌道も無いソレがコロコロと回転しながら次々に東京へと上陸する。
十数メートルという冗談のような大きさでありながらソレは慣性の法則に振り回される事もなかった。
建造物の横や公園、ビルの狭間、公道の上、様々な場所に丸い体を柔軟に変形、引っ付かせ設置されていく姿はユーモラスですらあったかもしれない。
柔らかな球体に付いている棒が紛れも無く巨大な砲身である事を知らなかったならば。
多くの軍人とミリタリーマニアは認めないかもしれなかったが、それは紛れも無く戦車砲だった。
速度こそ無いものの自走砲や戦車には無い複雑な地形の走破性を兼ね備えたソレは紛れも無く戦争の道具だった。
人間の乗っていない自動化された戦車というものならば存在するが、ソレは人間が乗らない事を前提とした戦車という兵器に提示された新時代のスタイル。
従来兵器を自動化したのではなく。
車両兵器が自動化されたのでもなく。
自動化兵器が戦車だった場合の一形態だった。
固定化されていない砲身。
球体内部の流体を制御する事によって複雑な地形でも柔軟に形を変化させられる自由度。
伸縮自在・あらゆる天候・地域に対応し、大地に根を張るように砲身を固定できる柔軟性。
市街地戦において動きが制限される戦車にはない踏破性が生み出す三次元的な戦闘での攻撃力。
どれを取っても通常兵器とは一線を画している。
ガキン。
そう固定される音が響き、湾岸に展開されたソレの砲身がそれぞれの目標へと向いた。
第一射はソレの全ての設置が完了したと同時だった。
合計二十四発の砲弾が発射され、二十発が十キロ以上先の目標十五メートル圏内に着弾。
四発が誤差で百メートル以上離れた無関係の地域に落ちた。
砲身から上がる煙は戦場の狼煙。
東京の夜に阿鼻叫喚の地獄絵図が生み出された。
【第三世界サハラ以南疫病封鎖区域無人区画】
目的地に着くまで少し時間があるな。
ふむ・・・一つ哲学の話でもしないか。
唐突だって?
それは認めよう。
何故そんな話をするのか?
まぁ、単純にこれから君が足を踏み入れる場所にはそれが渦巻いているからさ。
一応、聞いておきたまえ。
これは先輩風を吹かせる男からの手向けだ。
どんな経緯で君が此処に来る事になったのかは知らないが、同僚になる以上は踏まえていて欲しいことがある。
こういう話は知っておいて損は無いし、そう難しい事でもない。
少なくとも宇宙の果てを想像するよりも簡単だ。
科学の話と本質的に何も違いはしない。
含蓄のある言葉やら人生における指針やら果ては人々を動かす思想に至るまで。
この世の全ては哲学というものを含んでいるという、それだけの事だからだ。
その一端が分かる哲学の用語を一般的に【止揚】と言うんだが、聞いた事はあるかな?
無いなら、少し聞いてくれたまえ。
哲学には事物は止揚されて結果を得て次の段階に移るという考えがある。
その繰り返しの中で人々は生きていると言ってもいい。
だから、一般的なものに例えれば、宗教にある輪廻だとか、企業にある改善だとか、そういうのは止揚というものを現すには丁度いいだろう。
良し悪しに関して言うならば、悪い事にもソレはある。
例えば、延々と続く民族紛争だとか、人々の憎しみだとか、終わらない不況だとか。
この一連を形とした時、それは螺旋や回転という言葉にする事も出来るが、それを断ち切るというのもまた【止揚する】という事に他ならない。
それは人が物事を捉えて噛み砕く時に使う目的・過程・結果という流れそのものだ。
止揚とは【世界】を端的に表した言葉であり、あらゆる言葉の中で最も事物の本質を捉えている。
きっと、文明が滅び、宇宙が消え、時間も空間も消え果て、素粒子すら去っても、世界は止揚され続けていく。
付いてこれているかね?
まぁ、観念的な話になってしまうが、止揚とはそういうものだ。
そして、その止揚されていく有様をすっかり飲み干す為に此処はある。
故に心の何処かに止めておいて欲しい。
世界は止揚され続けている。
結果は過程であり、過程は結果としての役割を果たして次へと向う。
此処での学問研究も同じ。
その役割は人を幸福にするだとか法則性を知って悦に浸る事ではない。
金を得たり、技術で何かを破滅させたり救ったりする事でもない。
突き詰めていく先に新たな結果を得て、それを過程として次へと向う。
それだけのものだ。
個々人の思い入れやお題目は持ってもいいが、それは副次的に手に入るだけの代物と思ってもらいたい。
次ぎへ。
それが唯一この場所が掲げる標語だ。
無論、現実的な目標が無いわけではないよ?
此処は純粋に次へ向う為の場所だが、だからと言って世俗的な世界と無縁で居られるような場所でもない。
次へ向う事は出来ても何処に向うのか迷うのが人というものだから間違う事もある。
ただ、我々は法を犯し、倫理を越え、人としての良心など棄てて研究と成果を求めたからこそ此処にいるという事は忘れないで欲しい。
それ相応に代償というものは必ず払われる。
安らかな死は期待できず、絶望の只中で無為に死んでいく事は前提だ。
凡そ人間的な終わり方は望めないのは言うまでもない。
浮かない顔だな。
では、もう一つ教えておこう。
天国も地獄も我々の管轄外だが、まぁ一応ジンクス程度は此処にもあってね。
これは嘗て一人の男が言い出した言葉なんだが、此処の誰もが常にその言葉を胸に留めて研究に励んでいる。
男が此処の中で最も非凡だったからかもしれない。
真似というわけではないが、すっかり定着してしまってね。
きっとその男のようになろうと研究者の誰もがその言葉を使う。
我々は己の非人間性を自覚する時、あるいはその男の跡を追う己に気付いた時、誰もがこう言うんだ。
自嘲と僅かな誇りを抱いて。
いつか来る破滅に微笑んで。
己の墓穴を掘る音を幸せに聞いた男のような気持ちで。
悪魔に笑われている・・・とね。
――――――扉が開いた。
「おお、その彼が今日来る新人かい?」
「新人君。君は運が良いようだね」
「今日は祝うべき日だ」
「やっと我々の研究の成果の一端が・・・」
「これでようやく実戦データの収集に取り掛かれる」
「生憎と此処にはレーションとコーヒーしかないが共に祝おう」
「さぁ、【M計画】のフェーズが繰り上がるぞ」
「ははは、理解してない様子だがいいのかね?」
「構わないさ」
「【博士】・・・貴方の望んだ世界への一歩をどうか見守っていて下さい」
「【兵隊(D‐NON)】初期型の完成だ」
「【オリジナルロット】を制御コアにした我々の【Dではない者達】・・・此処まで来たか」
「【D3】より【D7】までの調整が終わったと中央本部、北米、中東、EU、ASEAN支部より入電」
「委員長の演説が始まります」
「委員会総員よる声明とはな」
「不思議そうな顔だな。だが、これから歴史が変わるのだから此処の人間である以上浮かれないわけもない。君も見ていくといい。彼らは現時点世界最高の頭脳集団だ。今日人類は蒸気機関や原子力を手に入れた時以上の力を持つ事となる」
巨大なスクリーンに可愛らしい子犬が映る。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・諸君。
親愛なる燦然たる嚆矢足りえる諸君。
僕はこの日が来た事を嬉しく思う。
満願成就は成らずとも計画は軌道に乗った。
これらは全て等しく諸君の功績だ。
我々は技術者であり科学者であり探求者であり、何よりも次の場へ向う冒険者である。
多くの血を流し、幾多の奈落を越え、この日へと至った。
犠牲にしてきたものは過大で、得てきたものは僅かに過ぎない。
それでも項垂れる事なく進んできたからこそ、今を迎える事が出来たのは言うまでも無いだろう。
全ては一重に諸君の努力と忍耐と閃きに拠る。
故に僕は・・・此処で革新する技術は、此処で完成した知識は、この世の人々を動かすに足ると信奉する。
諸君は必ず見るだろう。
我々が得てきた技術の精粋によって歴史が変わる日を。
諸君はきっと感じる事だろう。
我々の人生を掛けて培った知識が世界を変えていく様を。
諸君、次へ向おう。
この日を迎えられなかった者達の為に。
お前の発見した成果は、お前の確立した技術は、決して無駄ではなかったと、そう散った者達へ伝える為に。
この場にいない【彼】がいつか語った夢は物語ではない。
確かな重さを持って我々の手の中にある。
【彼】が残した【Dシリーズ】は今、我々の糧となって【D‐NON】へと昇華された。
【SE】はやがてこの手に戻り、その役目を果たすだろう。
全研究員に委員会(コミッション)の総意を伝える。
今日を持って【M計画】はフェーズ3へ移行。
これより我々は一月の後、関連ミッション137の内で最も難関とされた【カウントアップ・オペレーション】及び【モップアップ・オペレーション】を開始する。
目標、地球人類総人口及びG8主要軍事基地。
この日が人類にとって新たな転機となる事を切に願う。
計画の進展を待たずして逝った【彼】に哀悼の意を表して、これを委員長以下全委員の声明とする。
――――――暗く深い世界に明かりが点る。
「委員会(コミッション)から命令(オーダー)。現在、ニューヨークにて交戦中の人員へのバックアップに【D‐NON】の出撃命令が出ました」
「初出撃だな」
「北米の出撃可能個体数は?」
「全個体出撃可能だそうです」
「実戦投入する為の準備は全て整ったか。【D‐NON】の補正データの取得が主目的だな・・・」
「目標は【十三人】の一人らしいとの情報が」
「そうか・・・現在の諜報部実働部隊筆頭は【博士】の助手だったあの男だ。早々に敗北する事は無いだろう。彼の下にはND融合実験の基礎研究素体もある。何処まで食い下がるか見せてもらおう」
「勝てるでしょうか?」
「目標が彼らの一人だと言うなら相手にとって不足無し・・・委員会の動きには気を配っておけ。この場所を引き払うのも近いかもしれん」
「置いていかれているようなんだが、新入りがポカンとしてるぞ」
「済まないね。此処は良くも悪くも研究者連中ばかりだから気が回らないんだ。おい誰か!! 施設の案内を」
「お任せしても?」
「ああ、構わない」
「良かったな。新入り」
「まぁ、見るものなんて研究機器と研究素材の保管庫、それから研究中の実験体くらいしかありませんが、どうぞ気楽に回ってください」
「では、行こうか」
「・・・・・・見ておくといい。これから君を待っているのは科学者の業に裏打ちされた世界最高の研究設備と素材、そして地獄のような現実だけだ」
――――――火中に没する死者の気分で新たな【連中】の一人は破滅への扉を己の手で、開いた。
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第五十六話 君の戦場を思う
第五十六話 君の戦場を思う
霜山円子(しもやま・えこ)にとって兄は掛け代えのない人だった。
それなりの名家に生まれた兄妹。
しかし、有能かどうかで言えば、兄は妹に劣った。
人並みに大学を出たものの、就職先が無かった兄は両親にとって恥曝し。
コネで何処かに入れるような時代でもない。
家庭で孤立していく兄に円子以外話しかけはしなくなった。
それでも変わらず優しかった兄が就職しようとハローワークに通う姿は妹にとって誇らしく思えた。
小さな頃から守ってもらった。
虐められ暴力を振るわれそうになれば庇ってくれた。
手を握ってくれるのはいつも兄だった。
彼女の世界は兄を中心に回っていたと言っていい。
いつも傍にいてくれた兄が有能でない事なんてどうでもよかった。
能力の優劣が二人の関係に影響を及ぼすはずもなかった。
例え、自分に劣っているとしても。
家族として自分の為に怒ってくれる。
悪い事をしたら正してくれる。
嬉しければ共に笑ってくれる。
悲しかったら隣りにいてくれる。
そんな人を嫌いになれるはずが無い。
だから、初めて兄に弱音を吐かれた時、彼女は悟った。
今度は自分が支えなければと。
いつかの自分のように折れそうな兄を今度は自分が救うのだと。
そう告げられて、罰が悪そうに、あるいは何処か情けなさに唇を噛んで、それでも嬉しいと、ありがとうと涙を堪えて背を向けた兄に対して声を掛けようとした時だった。
何故、兄だったのか。
はらりと髪が舞って、振り向こうとした首があっけなく―――。
「霜山さん」
「な、何?」
「ボーっとしてない?」
「し、してるわけないわ!!」
「やっぱり、そろそろ帰った方が」
「いいって言ってるのよ!? 契約は対等。貴方の探し物にもちゃんと付き合うわ」
「予想外に警察が多くて帰るに帰れない深夜に言う台詞じゃないと思う」
「誰のせいよ!? 補導されそうになって警察が一杯うろついてる事に気付くとか。どう見ても事前の下調べが足りないんじゃない!!」
【そうよ。そうよ~~】
「パトロールがここまで増えてる事に気付かなかったのはこっちのミスだけど、詩亜。君は黙れ」
ARグラス越しに架空の少女が賛同してくれて、少し溜飲が下がった。
目下一番怪しい男。
切り裂き魔にして通り魔。
久木鋼。
何処か暗い少年が溜息を吐いた。
夕方近くまで真犯人を探す為の情報収集を行って、それから二人で別々に私服へと着替えて集合したのが七時過ぎ。
探し物に付き合うという条件で【EDGE】模倣犯を追う事になっていた彼は本当に何かを探しているのか疑わしい程、街をブラブラするだけだった。
立体駐車場の最上階に上ったかと思えば、 閉店間際の百貨店を歩き、ファーストフード店に入ったかと思えば、ゲーセンをウロウロする。
そんな何かを探しているとは到底思えない時間が苦痛になったのは歩いている彼に付いていくだけで何の成果も上がらなかったからだ。
【詩亜さん】と呼んでいる探し物プログラムが一緒に彼の探している何かが無いかと確認しているようだったものの、生憎と肝心の探しているものの内容を教えて貰っていない。
「それでこれから一体どうするの?」
古本屋が乱立する地域に足を伸ばしていたのだが、結局のところ警察のパトロールが多くて補導されずに帰れそうになかった。
終電が出るより先に家へ戻らなければ何とか時間を捻出し誤魔化してきた捜査自体水泡に帰す事にも成りかねない。
「端末のスペック上、詩亜に過剰な答えを要求すると回路が焼け付く可能性もあるし、ここはパトロールが去るのを待つのがいいんだけど」
テナントの入っていない小さなビル側面。
非常階段の踊り場で久木がひっそり呟く。
こっちの事なんてお構いなしなのは相変わらず。
それでも文句をあまり言わずにいるのは寒くなってきた深夜にコートを貸してくれたから。
少なくともそういう気遣いが出来る人間ではあるのだと知ったからだった。
「そう」
トレーナー姿の久木は寒くないのか壁に寄りかかって街並みを眺めていた。
その顔には憂いのようなものはない。
内心、少しだけ疑っている。
実は探し物なんて無くて、自分を誰にも見られずに殺す為、こんな場所にこんな時間になるまで留まっているのではないかと。
あのEDGEの凶器で今にも首を落とそうと向ってくるのではないかと。
心の何処かで臆病な自分が警察に見付かってもいいから帰るべきだと主張する。
「此処で僕に殺されるとか思ってる?」
街を見つめたまま訊かれた。
心臓が一瞬早鐘を打ったものの侮られる事がないよう慎重に言葉を選ぶ。
「そうなったら、数日後に貴方は警察から指名手配されてるわね」
「人を殺そうとして平然としてられるような太い神経はしてない」
「人の一部を削ぎ落として平然としていられる人間の言う事でもないでしょ?」
「あれは・・・」
「何よ?」
「何でもない」
「言いたい事があるならハッキリ言えばいいわ」
「言えない事なら山程ある身だから遠慮しておく」
「貴方は一体何なの?」
「ホモサピエンス」
「言い方を変えるわ。久木鋼、貴方は一体どうして私に協力する気になったの?」
沈黙は短かった。
「・・・何となく」
「そんなわけないじゃない!? 貴方はッッ」
「あんまり大声を上げると気付かれる」
声のトーンを渋々下げる。
「あ、あなたは・・・あそこで私を殺す事も出来た。私を放置する事だって出来たじゃない・・・」
「放置して欲しかった?」
「真面目に答えて」
その顔を睨む。
「霜山さんが好みだったから」
「は?」
「そう言ったら?」
思わず息が止まった。
一体何を言われたのか理解出来なかった。
「勿論、冗談だけど」
「あ、貴方ねぇ!!?」
「声」
「―――訊いた私が馬鹿だったわ」
「人の事情には首を突っ込まない。そういう約束だったはずだ」
「それは・・・」
「霜山さんに譲れないモノがあるように僕にもそういうのがある」
振り向いた顔はどうしてか悲しげだった。
「通り魔にも事情くらいあるって言いたいの?」
「誰にだって事情くらいあると思わない?」
「だからって誰も容易に犯罪には走らないでしょう」
「それは否定しない。でも、ああいう輩がどうなっても良心は痛まない」
「開き直るつもり?」
「僕には夢や希望がない。将来を考えれば、犯罪なんてしない」
「誰かに迷惑を掛けても平気ってわけ」
「誰かって誰?」
「今まで育ててくれた両親。貴方を支えてきた大勢の人達にだって迷惑が掛かる!!」
「霜山さん」
彼が振り返る。
「霜山さんは誰かを見捨てた事ある?」
「え・・・」
「僕は僕を見捨てた人間を見捨てた。そして、今まで支えてくれた人は誰もいなくなった」
「な、何を言って・・・」
私は狼狽した。
何処までも澄んだ笑顔。
その何処に向けたのかも分からない微笑みに背筋が凍る。
「幼稚園の保母だろうが学校の教師だろうが、それは仕事だ。僕が一番辛い時に僕を支えたのは親の愛でもなければ、家族の気遣いでもない」
「――――――」
「親の金で生きてきて、生かされてきて、生活をしてきた。今もそれは変わらない。けど、それだけで家族と言えるなら、誰も愛が醒めたなんて言わない」
彼が横に来て壁に背中を預ける。
「僕が死に掛けた時、現実を知った時、最後に残ったのは僕の意志だけだった。死にたくない。たったそれだけの思いだった。家族が支えてくれたわけじゃない」
「貴方、家庭に問題があるの?」
「死んだ方が感謝されるくらいには」
「そんなわけ!?」
「実の子供に死を願う親はいない?」
「そ、それは・・・」
「そういう幻想が好きならそれで構わない。けど、事実子供を殺す親なんて何処にでもいる」
「でも、それは一部を見て全体を言ってるのと同じ論理じゃない!?」
「その一部に当て嵌まる人間にとって、その理想は意味が無い」
反論出来なかった。
「今更のように自分を、周辺を変える努力なんてしようとは思わない。この調査が終われば通り魔だって再会する。けど、そんな社会の塵(ごみ)にだって譲れない事はある。発覚すれば家族が受ける偏見とか、学校が被る風評被害とか、今まで育ててくれた人達に対する裏切りとか。そんなものより優先する事が・・・」
「自分だけ、自分だけ不幸なつもり!? 悲劇に酔ってるだけの人間の譲れない事なんて高が知れてる!!」
「それは今更」
思わず睨み付けていた。
「僕に言える事があるとすれば、それは・・・これからどんな事が自分の身の上に起きるとしても後悔は欠片もない。誰がどれだけ迷惑を被ろうがそんなのは知った事じゃない。それだけだ」
上手く言い返せなかった。
ただ、一言。
「貴方・・・最低よ・・・」
やっとの思いで言って、視線を逸らす。
「警察の巡回も見えなくなったし、今から走れば終電には間に合うかも」
「そう。なら、今日は此処までにして帰らせてもらうから」
視線を合わせずに階段を下りていくと背中から声が掛かった。
「じゃあ、また明日」
そのまま、一言も返さず、駅の方向へと向った。
一人になった久木にARグラスから声が掛かる。
【よかったの?】
「何が?」
【手伝わせる気で巻き込んだんじゃないわけ?】
「十分手伝って貰った。ほら、気が紛れたし」
【・・・目標は捕捉済み。今、二キロ先を歩行中】
「見えてる。顔の映像は?」
【保存済み。周辺の監視カメラの電波を拾ったわ】
(後は尾行してこっちの方に情報を書き込むだけか)
久木が今正式に使用している方の端末をポケットの中に確認した。
【相手に動きあり、これは・・・】
「詩亜?」
【見られてるわよ】
思わず遠方を見た久木の目が相手と合った。
「友好的に見えない」
【聞きそびれてたけど、結局どうして通り魔なんてしてたわけ?】
「どうしてそういう事をこういう時に限って訊くのか逆に訊いていい?」
【あんたが死んだら訊けないでしょ】
「一部分だけ変異した人間はその部位を失うと途端に大人しくなった。痛みで我に返っただけじゃなくて恐怖心が戻ったような感じに」
【変異部分のせいで脳に何かしら暴力的になる物質でも出てたって事?】
「さぁ? ただ、絡んできた五人中五人が変異した部分を取られてすぐ変化してたのは間違いない。他の部分を削ぎ落とした時には暴力的なままだった事を考えれば・・・」
久木が階段を昇り、ビル屋上の端に辿り着いた。
遅れて階段から上がってきていた足音がほぼ同時に止まる。
【これからどうする気?】
「同じ能力なら逃げるだけ無駄。話して分かる相手だろうと生態は変えられない」
【暴力的なのは不完全な発現者だけじゃなかったの?】
「たぶん、今本当に理解した。『独特の生態』が何なのか」
【どういう事?】
久木が高速で距離を詰めてきた存在を見据えた。
「この嫌悪感。道理で全員男ばっかりだったわけ―――」
ガツンと久木の手前で火花と金属音が弾ける。
【大丈夫?】
「致命傷は貰ってない」
咄嗟に反応した久木の放った針が一本粉々になって屋上に散らばる。
バックステップで数メートルの距離を取ったのはジャケットを着て、ピアスをゴテゴテと顔に付けた男だった。
【逃走方法なら検索できるわよ】
「検索出来る程度のやり方じゃ逃がしてくれなさそうだから遠慮しておく」
【距離が近付いたおかげで此処からあいつの持ってる端末に侵入出来たわ。名前は南勇(みなみ・ゆう)。あんたと同じように病院に行ってた形跡が電子マネーのログに残ってる。完全発現してるにしても相手が悪いわよ。そいつ元ボクシング部所属の札付きみたい】
「ボクシングよりは凶器が好きみたいだけど、彼」
激しい憎悪に顔を歪ませた男が何処か正気を失ったような顔でソレを構え直す。
ナックルガードにしては鋸のような凹凸が刺々しい。
ウィルスで強化された人間の腕力なら一撃で相手の肉を無理やり削ぐ程度はやりそうな凶器だった。
【結局、どうして襲ってきたの?】
「暴力衝動はたぶん雄同士の排除する本能」
【それって、つまり】
「弱い雄は本能的に群れを形成した。発現度合いの高い雄は同列の雄を相手にする時は正気を失うくらい新しい体に支配されてると考えていい」
急激に距離を詰めた男の拳が久木の腹に決まった。
その勢いに逆らわなかった肉体がビル屋上から飛び出す。
【どうする気!!?】
「痛い・・・」
顔を顰めて愚痴った久木の腕から暗器の針が放たれる。
ビル壁面にある排気ダクトに当った。
排気される温風の熱量で瞬時に剃刀状の刃に復元される。
ダクトの中で糸が絡んで刃がボール程の塊となり、排気口の狭い出口に挟まった。
ガクンと突如として落下が止まったものの、久木の背筋に冷や汗が伝う。
【漫画の見過ぎでしょ】
「落ちたとしても三十メートルくらいだろうし。今の身体能力なら罅くらいで済む。たぶん」
袖の中に隠し持ったリールでゆっくりと地面に着地した久木が糸を切った。
「また造らないと」
【通り魔続ける気は満々なわけね】
腹部の裂傷に顔を顰めながらも久木は男が追ってくる前に駅の方角へ走り出した。
走りながら取り出した端末に名前を打ち込んで【ようやく一人目】と内心ホッとしたのも束の間。
その耳に背後から足音が聞こえてくる。
【追ってきてるわよ】
どうしたものかと思うより先に端末に着信。
知らない番号だったが久木にはそれが誰なのか直感的に分かった。
【人気の無い場所に向って二分逃げ切れば、安全を保障します】
通話状態になった途端に聞こえてきたの少年の声がそう告げて途切れた。
駅から深夜は静かな住宅地方面へと方向転換。
追跡者の足音を聞きながら二分間逃げるというのは久木には気の滅入る作業だった。
しかし、ジャスト二分後。
急激に足音が途絶え、彼が振り向くと既に誰も追う者は跡形もなく消えていた。
【一体、何だったの? 近くの監視カメラが軒並みダウンしてるみたいね】
答えず。
何が起こったのか何となく理解した久木はあの夜に出会った恐ろしい黒い何かを思い出す。
どう考えても全うなものではない。
アレが近くにいるかもしれないと考えた途端、ドッと疲れが出て久木はグッタリと体を脱力させる。
「・・・帰ろう」
【説明する気は?】
「僕の死ぬかもしれない色々が片付けてくれたって言って分かる?」
【まともに話す気はサラサラないのね。じゃあ、私も良い事教えてあげるわ。節電名目で終電が早まってるから私鉄の電車無いわよ】
「徒歩、とか・・・」
【頭を下げれば雨風凌げる場所くらい超・低・速で検索してあげなくもないけど?】
ARの視界の中、ニヤニヤする詩亜に久木はげんなりする。
「・・・お断りする」
【そんな事言っ―――同期を開始】
「?」
【東に4244メートル付近。目下移動中。お姫様がお目当ての犯人を見つけて襲われてるわ。被害者が二人。頭部切断】
「な!?」
【現地までナビする。急いで!!】
「ッ」
驚いたものの端末に表示された地点に向けて久木が走り出す。
【相手は端末のカメラで捉えたけど正体不明。繰り返すわ。正体不明】
端末に表示される矢印に従って、信号を無視し、狭い路地を抜け、ブロック塀を蹴り飛ばして、屋根へと駆け上り、屋根を凹ませて跳ぶ。
【映像解析中・・・解析度23.221%。犯人は急激に実体として『現われた』と仮定される】
強化された肉体が踏破できる最短ルート上には家や壁が幾つもあった。
しかし、駆けていく久木の体は風に飛ぶ羽毛のようにそれらを置き去りにしていく。
【駅から帰ろうとして終電が無い事に気付いたあの子ね。警察の巡回に見付かって駅方面から逃げ出したのよ。それで仕方なく仮宿にしようとしたラブホで様子のおかしいドアが開いた部屋があって、顔を覗かせたら・・・】
「今の状況は?」
【人型に見えるソレに追われて逃走中。更に警察があの子を保護するのにここらに仲間を何人か呼んでる。どうやらあの子がいない事に親が気付いたらしいわね。警察無線で保護要請が出てる】
次から次に報告される情報は急激過ぎた。
今の今まで何も無かった日々がまるで嘘のよう。
「霜山さんの状態は?」
【怪我はないわ。ただ、そろそろ息が切れて走れなくなる】
まるで獣の如く夜目を利かせて久木が目的地を目指す。
躍動する筋肉に太さなど欠片も無い。
しかし、その実態を記録する詩亜は恐ろしい勢いで燃焼されていくカロリーと減っていく体重に、それが久木鋼の力を使わない理由なのだと推測する。
【痛くないの?】
「死ぬ程痛い」
その言葉に偽りはない。
それは詩亜の図る値にも出ていた。
人間の体は基本的にカロリーを消費して日々の生命活動を行っている。
常識的には人間のカロリー消費は生物界でも効率的な方だ。
成人男性で約三千キロ程が一日で必要だろう。
しかし、詩亜の測定した限り、現在久木の消費するカロリーはプロのアスリートが一日で消費するカロリーを軽く超越している。
例えるなら一時間全力疾走を続けるようなレベルで体重がドンドンと落ちていた。
無論、そんな無理な運動は体に急激な負担を掛け、筋繊維が全身至る場所で破壊されていく。
【こんな減り方するんじゃ、危なくて使えないわけね】
「体重自体は数倍に増えたから。まぁ、ガス欠にはならないようだけど」
【この運動量なら常人が数分でボロボロになってもおかしくないわ】
「乳酸の蓄積や筋肉の壊れ方は根本的に変わらない。優秀な筋肉も普段使わないなら鈍り切ってる」
【それで使えば自家中毒になるから通り魔してても能力的に大人しくしてたわけ?】
「使って体が発達しても困る。使わないのが最善。代謝がこれ以上異常になったら毎日数万キロカロリー摂取とかに成りかねない」
【でも、その危険を冒してもあの子は見捨てないのね】
「約束は守らないと」
【あんた・・・変わったわね】
何も言わず走り続ける耳元には風音で満足に音声も届かないが、ARの文字は視界に映る。
【一番初めに会った時の事、覚えてる?】
一戸建ての二階屋根が思い切り蹴飛ばされ、一部陥没した。
【最初に起動した時、あんたはこっちを見て目をキラキラさせてたわよね。話も出来るAIなんて中々ないから、これからは友達が出来ると思って】
「開始五分で夢を打ち砕かれた思い出は忘れない」
【あれはあんたが悪いんじゃない。あたしは『詩亜』なのよ? それを自分と普通に会話して助けてくれるような人格だと思ってた方がどうかしてるわ】
「身に染みてる」
【それからあんたは私がどういうモノか知ってそういう目はしなくなった】
着地したアスファルトにゴムの跡を付けての再疾走。
【正直、デリートされるんだと思ってたわ。いつか使われるにしても今度は過去のデータを根こそぎ削除して使われるんだと】
「どうして?」
【あんたの要望に答えられなかった。いえ、あんたにとってあたしは友達どころか刃傷沙汰の危険品だった】
「それは今も変わらない」
ARの文字がキッカリとした書体に直される。
【あの子に見られちゃ困るデータが今も共有項目から外されてないのは何で? 事前設定だって出来たでしょ?】
「・・・・・・」
【あんたは記録されてる情報を何一つ変えなかった。クラスメイトに這い蹲らされてパンツを下ろされた。ゴミ箱の中身を机にぶちまけられた。教師にだって体罰を受けてた。言い掛かりで一人掃除当番させられた事もあった。不良に絡まれるからっていつも財布は定期以外空にしておくしかなくて、外に出るのが嫌いだった。あんたと一緒だったのはたった一ヶ月しかなかったけど、ああいう日々があんたにとって忘れられない惨めな出来事だったのは理解出来る。そんなの普通見られたくないはずでしょ】
「プログラムに普通とか言われたら人間お終いかもしれない」
【ふざけないで!】
プログラムが怒る。
そのARにしかない怒りの文字に久木はポリポリと頬を掻く。
「隠したところで僕自身は何一つ変わらない」
【自棄になってどうでもいいって投げてるわけじゃないわけ?】
「この力はその気になれば今まで僕を虐げた人間を全員縊り殺せる。けど、あんな醜いものとのやりとりに執着して過去を隠す手間なんて・・・馬鹿らしいと思わない?」
笑み。
何故、こんな事に笑うのか。
未だプログラムは理解しない。
「この力はそんなものに執着する為のものじゃない」
【・・・・・・】
「君の中の過去(じょうほう)に手を加えないのは変えたところで意味が無いから、何か変えたところで何も変わらないから」
【・・・・・・】
「変わったとすれば、それはあの頃より人生設計が明確な事だけ」
【それであんたは誰かのばら撒いた病に死に掛けて、その後遺症のメリットすら蹴って、惰性のままあの地獄みたいな日常を過ごして、悲劇のヒーローごっこに興じるわけ? 馬鹿馬鹿しい。デメリットばっかりじゃない】
「君が怒る事?」
【あんたは犯人じゃない。それは検索するまでもなく確実だわ】
「詩亜」
ハッキリと。
「僕は命が惜しい。けど、死に方が選べて少し嬉しいと思ってる」
【―――――】
その声だけは虚空を抜けて、電子の海に伝わる。
「惰性のまま過ごして、ヒーローごっこに興じて、出来れば命を惜しんで、こんな風に夜の風を切って女の子を助けに行く。これって結構幸せじゃない?」
【あんたは・・・あんたはそれで本当にいいの?】
「危険だから遠ざけたし、罵詈雑言に辟易してたのも事実だけど、近頃荒んでたから忘れてた」
【急に何よ】
「あの頃も君がこうやって僕を心配してくれたって事」
少年は胸元のちっぽけな端末にいる少女に語りかける。
【久木・・・】
「今日一日話せて楽しかった。詩亜」
優柔不断で気弱で、何故か自分に一度も怒鳴らなかった、どんなに誰から傷つけられてもじっと拳を握っていた、そんな少年の笑みに詩亜はようやく相手が変わったと思った理由に気付く。
【あんたが変わったんじゃない。あんたはあの頃から、何も変わってなんかいない。こっちの言い分に怒る事もなくて、途中で全部投げ出すと決めた時のまま・・・】
緩やかに今まで処理能力を情報の解析に使っていた少女がARの中、僅かな白い輪郭を浮かび上がらせる。
【・・・変わってたのは、あたし】
詩亜の輪郭が久木を見つめる。
【壊されたってよかった。今までそう思ってたけど・・・嫌みたい・・・あたし】
自己保存。
それは生命が持つ本能。
プログラムが言うべき言葉ではない。
「使い捨てられるような小遣いは貰ってなかったから」
久木の言葉に詩亜もまた緩く笑みを浮かべた。
【自分の命と天秤に掛けられるものなんて存在しないわよ】
「そういうのは人間が言ってこそじゃない?」
【そうね。そうかもしれない。プログラムは幾らだって代えが利くコピー可能な羅列だもの】
既に遠方を走る円子の後姿が久木の目には見えていた。
「代えが利かないものだってある。それがただの0と1の羅列でも」
【馬鹿・・・口説くならあの子でも口説いてたら・・・】
フッと詩亜の輪郭がまるで羞じるように消えた。
「本人に内緒で今度デートを強要してみるのも悪くないと思ってる」
【さすが三大欲求旺盛な青少年。随分とスケベな本音じゃない】
「軽蔑した?」
【ええ、ホント救いがたい馬鹿(サル)だわ】
「でも、最後にこういうのも悪くないと思わない?」
【馬鹿ね。ホント・・・】
世闇の先。
円子の背中が常夜灯に照らし出された。
「馬鹿は最高の褒め言葉だよ」
【救えない馬鹿の別名が何て言うか教えてあげる】
その背後に迫っている人影に久木が跳躍する。
追う者と追われる者の動きが同時に止まった。
【誰に感謝されるわけでもない憎まれ役に甘んじる愚か者。人はそれを『お人よし』って言うのよ】
そして、振り返ろうとした朧げな黒いソレの頭部が失われ、そのままアスファルトへとゴムと共に塗り込められる。
ギジュゥウ゛ウ゛ウ゛ウ゛ウ゛ウ゛ウ゛ウ゛ウ゛ウ゛!!!!
あまりの摩擦に煙を上げる靴底。
突然の事に声も出ない円子は尻餅を付き、自分の前に立つ少年を見上げた。
未だ人がそう入っていない住宅地の一角。
灯が一つ切りの夜道。
最低と断じた背中は何も語らない。
「詩亜。今までの検索情報を霜山さんの端末に基礎情報と共に全て統一」
【了解。情報の高速自動収集プログラムを起動しますか? Y/N】
詩亜が確認を求めた。
そうしなければならないのだろうと久木は過去の経験から理解する。
相手が何者かは分からなくとも、目の前にいるソレが尋常ならざるものであるのは誰の目からも明らかで、直接的に命の危険がある対峙中どれだけ猶予があるかも分からない。
故に彼は頑なに拒否してきたプログラムの起動を―――。
「僕の端末の使用を許可する」
―――承認した。
【御用命をマスター】
少年の懐にある古ぼけた端末が急激に熱を帯びていく。
「目の前のこいつの正体と倒し方を」
【検索中。ヒット】
たったの0.76秒。
【敵生体をND(ナノデバイス)群体と推定】
それだけで詩亜は相手の正体を看破した。
【現在公にされている種類と合致せず。NDの基礎構造は脆弱であるはずですが、外気においての長時間連続稼動を確認しています。電源確保を断つ事は不可能と断定。強度電磁波を浴びせるか作動不能環境に追い込む事を提案します。南東四百メートル先に環境構築可能な場所有り】
「霜山さん」
「あ、ひ、久木!?」
唖然としていた円子の呪縛が解ける。
立ち上がった少女に少年は告げる。
「詩亜と一緒にソレを倒す準備に行ってくれない?」
「で、でも!?」
「早くしてくれないと聞いた内容からして僕はたぶん生き残れない」
「わ、分かったわ!!!」
【走って】
慌てて背中から遠ざかっていく気配に少年は安堵の溜息を吐く。
【準備完了まで推定七分四十秒、持ち堪えなさいよ。まだ、あんたには言いたい事が沢山あるんだから】
「罵詈雑言の為に生き残れって言われても」
【あの子のスリーサイズ教えてあげる】
「人参の吊るし方なんて検索させた?」
【来るわよ!!】
今までひっそり立って揺らめいた影が突進した。
「詩亜」
久木がブロック塀を蹴り上がって、宙を舞う。
【左後方にND集積音感知。回避!!】
「ありがとう」
少年の脇腹を背後の虚空に現われた刃があっさりと切り裂いた。
「はッ!? はッ!? くッ!!」
走っていた。
息が苦しい。
でも、本当に苦しいのは心だった。
「どう・・・してよ!?_」
思わず声が出た。
最低だとそう言った。
少年は人の事なんて本質的にはどうでもいい酷い人間のはずだ。
通り魔で家庭の不和から他人に不幸を運ぶ存在だ。
「何・・・で!!」
ならば、どうしてあんな事を言った自分を助けてくれたのか。
気紛れか。
約束だからか。
そうだとしても、自分を罵倒した相手の為に命を掛けてくれるものなのか。
在り得ない。
本当に怖いものを前にして、罵倒された相手の為に自分が死ぬかもしれないのに戦うなんて出来ない。
出来るはずがない。
相手は犯罪者で通り魔だ。
絆される理由なんて無い。
【貴女が走ってる理由と同じよ】
「詩亜・・・さん・・・」
ARに示される方向に言葉だけが連なる。
【放っておけないだけ】
「何・・・を・・・!!」
【誰も助けてくれなかった地獄であいつはいつだって拳を握ってた。悲しくて、苦しくて、のた打ち回って、涙も鼻水も唾液も小便も垂れ流しで、それでもあいつは震えながらどんなに情けなくても歯を食い縛った】
「そんな、の!!」
【あいつは普通の人間が知るには過ぎた惨めさと屈辱を味わってきたわ。それでも『誰か』を見捨てられなかった】
(え?)
【あいつは自分を見捨てたものを見捨てたって言ってたわよね? でも、自分を見捨てなかったものを見捨てたりはしなかった。例え、それが自分には殆ど関係ない奴でも、少しでも自分と関係があるなら、どうにかしたいと思った。それは善意じゃなくて、ただの自己満足に過ぎないかもしれない。けど、【誰かを助けられたら】と。人として全てを諦めなかったあいつの頑張りを・・・少しでもいい・・・信じてあげてくれない?】
相手はプログラム。
しかも、犯人かもしれない相手から渡された代物。
何を言っているのか分からない。
なのに、その言葉はあまりにも必死で。
【これは貴女が閲覧して構わない共有情報。あいつが貴女になら見せてもいいと思った過去よ】
ARの中に幾つも小さなウィンドウが開いていく。
音声が、映像が、溢れる。
―――はーい。ここにテストで馬鹿な点のひさちゃんを記念して写真を取りましょ~~お前ち○こ小っちぇーなぁ。これでこれからお前の綽名は『丸出し』に決定な♪ あははははははははははははは♪♪♪
―――うーわ。丸出し近付くんじゃねぇよ。それともあたし達に興味でもあんの? うーわ、妊娠しちゃいそぉ。きしょッ!? さっさとあっち行けよ!!? あんたみたいな租チンでしょんべん漏らした野郎に構ってらんねぇんだからさぁ!! で、今度のコンサートすげー楽しみだよねー♪ きゃはは♪♪♪
―――ホント・・・どうしてこう弟と差が付いたのかしら!! 少しは見習いなさいよ!! 高校に行きたいなんてあの子を私立に入れる為にどれだけ掛かるか分かってるの!!! 少しは家の事情くらい考えて頂戴!! 分かったなら返事くらいしなさい!!
―――お前のせいでクラス全体の点数が下がったんだぞ!!? 分かってんのか!!! ああ!!! 反省しろ!!! お母さんに聞いたが弟より頭悪いそうじゃないか!!! そんなんだから、お前はダメなんだよ!!! 少しは勉強しろ!!! 自習してるとか嘘だろう!! お母さんが言っていたぞ!!! 勉強してる姿なんて見た事がないってな!!!
―――おい!? さっさとそこ退けッッ。今日はむしゃくしゃしてんだよ!!! お前みたいな奴がオレの兄だと思うと反吐が出る!!! さっさと家出ろよ!!! 高校行けなかったらどうしてくれんだ!!! 勉強も出来ないお前みたいな底辺はさっさとそこらの土建のバイトでもしてろよクズ!!! 邪魔だ!!! 母さんと父さんに言いつけてやろうか!? ああ!!? きっと、お前もう家にいられないぞ!!
―――君、お母さんから連絡があった。来られないそうだ。君の『友達全員』が君が万引きしているところを見たと言ってる。誰かが鞄に入れたんだと君が主張したところで、それは誰も見ていない。あの子達を犯人だなんて言っていたが・・・あの子達は彼は魔が差しだだけだと言っていたよ。『立派な友達』に感謝するんだね。反省する気があるなら反省文を書いて店長さんに謝ってきなさい。あちらはお冠だ。頻繁な万引きは全部君じゃないのかと言っているが、あくまで否認するのか? 悪いが、嘘を付く子供は嫌いだ。今は子供に対して少年法も厳しい。学校の先生が来るそうだが、君大そう素行が悪いそうだね? あまり反省の色が無い様なら少年院に行く事も覚悟してもらわなければならないよ。
―――お前のような奴が!!! 家の敷居を跨ぐのは許さん!!!! 今日一日外で反省しろ!!!! 死にはしないだろう!!! 何で嘘を吐くようになった!!! 人の痛みが分かる人間になれとあれほど言ってきただろう!!! あいつはあんなにいい子に育ったのに・・・お前と来たら!!! いいか!!? これから問題を起こしてみろ!!! 勘当だ!!!! 分かったな!!? 返事をしろ!!! 泣いて許されると思ったら大間違いだぞ!!!? この後に及んでまだ嘘を付くのか!!? 店長さんに誤りに行くぞ!!? ほら、立て!!! さっさとしろ!!! ほら!! ほら!! あの子達の親にはPTAの役員もいたんだぞ!!! あの場にいたクラスメイト全員に謝るんだ!!! お前、おまわりさんに途中で友達がやっただのと言ったそうだな!!? そういう卑怯なやり口が私は一番嫌いなんだ!!!! 少しは反省せんかぁああああああ!!!!! 先生にも申し訳ない事をしたと分かっているのか!!? 身内から犯罪者が出たと知れたらあの子の未来にも関わるんだぞ!!!
―――痛い・・・痛い・・・止め・・・・・嘘なんて吐いて・・ごッ、あ、ぐッッ?!! 止め・・・ごめ・・さい・・・ご・・・んなさい・・・ごめんなさい、ごめ、んなさ、いごめんな、さいご・・・・んぐ、めんなさいごめん。なさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんな・・・さいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんな・・さいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめ・・んなさいごめんなさいごめんな・・さいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめ・・・んなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなひぐッ、さいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいご・・・めんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいご・・・めんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいぐ・・・ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごあぐ・・・めんなごめさいごめ・・んなさいごめんなさ・・めんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさ・・・いごめんなさいごめさいごめんなさいごめんなさいごめんな―――。
「これ・・・が・・・久・・・木?」
通り魔、犯罪者の正体。
【其処を左。廃車場の設備があるわ。車を持ち上げる強力な電磁石付きのクレーンが見える。あそこに行って。鍵はこっちから開けて動かし方は検索して指示するから。あっちの方がもう限界に近い。もうすぐこっちに来るわよ。急いで】
まるで現実感が無かった。
あんなに饒舌で、あんなに暗くて、人の一部を削ぎ落とす愉快犯。
その正体がこんなものだなんて認められるはずがなかった。
だって、犯罪者なのだ。
例え、どんな理由があろうと許されるべきではない。
許されていいはずが無い。
しかし、それでも・・・その声は、映像は、人間の良心というものを、信じるに値するものではない。
醜くて、悍(おぞま)しくて、欺瞞と偽善に満ちた『普通の人々』の姿。
信じてくれない人間は家族だろうか?
苛め貶める人間は友人だろうか?
吐き気を催す人間の欲(エゴ)の形をそのまま造形したかの如き人々。
きっと、彼らだって家族がいて友人がいて、誰かの大切な人だ。
しかし、だが・・・彼はたった一人・・・大切な人もいない。
明白だ。
それは何故か。
人より劣っているからか。
人より弱いからなのか。
たった、それだけで、たったそれだけで、虐げられていいはずはない。
犯罪者にだって人権が認められている。
囚人にだって笑顔くらいある。
だけど、彼には本当の笑顔がない。
それはきっと。
彼の周りにいるのは彼にとって家族ではなかったから。
彼の周りにいるのは彼にとって友人ではなかったから。
本当にそれだけの話なのだろう。
守ってくれる人もなく。
信じてくれる人もなく。
ならば、彼は何を拠り所に生きてきたのか。
あの笑みは何なのか。
「あ・・・」
『死にたくない。たったそれだけの思いだった』
そうなのかと思う。
たった独り、自分だけを、自分の思いだけを、糧にしてきたのかと知る。
【すぐに到達するわ。その右手のレバーを左端に押し込んで。合図したら左横のボタンを押して】
いつの間にか。
クレーンの操縦席に座っていた。
まるで自分の体ではないように手が動く。
【後、三十秒】
灯もない世闇の中、何かが遠くから駆けて来る。
【後、二十秒】
彼が駆けて来る。
嘘なんか吐いてないと血を吐くように枯れた声で喉を震わせた彼が。
【後、十秒】
ごめんなさいと幾度も溺れるように謝っていた彼が。
【後、五秒】
信じよう。
そう言って自分に協力すると約束した時、彼は何を思ったのだろう。
【四】
自分を殺そうと弾丸を撃った女に対して。
【三】
今まで自分を虐げてきた人間と同じように思ったのか。
【二】
それともそれより遥かに悪辣と映ったのか。
【一】
全て本人に聞くしかないとしても、一つだけ確かな事がある。
【今よ!!!】
ボタンを押し込んだ。
刹那。
闇の中、何かが断末魔を上げて、クレーン先に付いていた巨大な円盤へと影が吸い込まれるように融けて消えた。
同時に影から追われていた彼が勢いのまま転がって、動かなくなる。
「私・・・最低だ・・・」
唇を噛んだまま、僅か差した月明かりを頼りに彼の下へと駆け出した。
裂傷四十八箇所。
内臓一部破裂。
つまり、全身を切り刻まれ、一リットル近い血液を流し、今にも病院に行かなければ命の危険がある。
そんな状態で久木鋼は生き残っていた。
最初の脇腹に喰らった一撃を皮切りに何処から現われるかほぼ予測不能の刃が肉体に殺到したのだ。
細切れにされなかっただけマシではあった。
首筋には何度もギリギリで回避した末の傷が繰り返されたリストカット痕のように付いている。
避け続けられたのは一重に超人的な運動能力と詩亜の的確な助言のおかげで、重症でも死んでいないのはウィルスに感染してから増えた体重のおかげだった。
筋肉だけではなく血液量も常人より多い完全発現者の特性が久木の命をギリギリで救っていた。
電磁石の一撃に備えて一時的にシャットダウンしていた端末が立ち上がる。
「詩亜。漫画みたいには行かなかった・・・みたい・・・」
【何弱気な事言ってんのよ!!!】
ザラザラとノイズだらけのAR内で姿を取り戻した詩亜が叫んだ。
「霜山さんにお礼・・・言わないと・・・」
「久木!!!」
クレーンから何とか降り、駆け寄って来る声に久木が動きそうにない首の代わりに視線だけを向ける。
「今、病院に連絡したから!!! すぐに掛け付けてくるから!!! それまで死んじゃダメよ!!?」
傍に来て、月明かりに照らされた体を見て、円子の血の気が引く。
「な、こんな!? 詩亜さん!!? 久木の容態は!!? 手当ての仕方を教えて!!!」
【血管の傷はもう塞がってるわ。ただ、血液が足りないの。それと内臓もやられてる。輸血してもらって肝臓と腎臓の再建をやれれば・・・でも・・・】
「な、何!!?」
【久木は凄く珍しい血液型なのよ・・・】
「!?」
円子はそれがどれだけ致命的なものか分かった。
珍しい血液型というのは病院に無い場合もある。
公的にストックされている量も少ない。
更に超々少子高齢化社会に突入して老人が二人に一人となった時代、献血者は減る一方なのだ。
「そんな・・・私に出来る事はないの詩亜さん!!!」
【出来るだけ傍にいて声を掛けてあげて】
「わ、分かった!!」
久木の体の横に座った円子が血だらけで黒く変色した手を握る。
「久木!!」
「そんな顔・・・しなくても・・・僕はどうせ・・・犯罪者なんだ・・・か・・ら・・・」
「それは、でもッッ!?」
「約束・・・守れるか・・・わか・・・ない・・・ごめん・・・」
「ッ、あ、貴方は!! 貴方は絶対助かる!!! だから、絶対に約束は破らないで!!!」
「善処・・・する・・・」
苦笑。
その弱々しさに円子が危機感を滲ませた時、久木達の上空で夜気がざわめいた。
「ッッッ!!!」
「きゃッッ!?」
詩亜の入った端末と円子の体を久木が一緒に突き飛ばす。
ズチャッとまるで黒い絵の具のようなソレが形すら取れずに落ちてきた。
「ひ、久木!!!?」
【あいつまだ!?】
泥に沈んでいくように全身を覆われながら、少年は自分の体にソレが侵蝕していく熱湯を掛けられたかのような激痛を噛み殺す。
痙攣した筋肉は押さえ付けられ、膀胱からは既に尿がズボンを汚していた。
「し・・・もやさ・・・逃げ・・・」
「そんな事出来るわけないでしょ!!!!」
電磁石の強度を上げようとクレーンの操縦席に取って返そうとした少女の足が虚空に一瞬浮かんだ刃に切り裂かれた。
「―――――ッッ!?」
そのあまりの激痛に体が転がり、円子が泣き叫ぶ。
少年が、決断するのは早かった。
発熱する黒いソレに袖の内で虎の子として残していた最後の針を掴み、押し付ける。
瞬時に復元するのは剃刀ではなかった。
薄い、月光すら透ける薄氷のような鋭角。
ブーメラン。
「・・・とど・・・かせる・・・」
喉の奥から搾り出すような声。
【まさか、ダメ!!? 鋼!!!!】
ギリギリと指先の筋肉が断裂していくのも構わず引き絞ったブーメランが手首のスナップだけで投げられた。
頭上十メートル程の場所にある円盤、その巨大な電磁石を吊るす金属製の鎖へと。
弧を描いて飛んだ鋭角の凶器は、まるで吸い込まれたように鎖を直撃し、通過し、あらぬ方向へと消えていく。
「ひ・・・さ・・・ぎ」
痛みにボロボロと涙を流し、息を詰まらせた円子に少年は少しだけ笑って見せた。
「さようなら・・・たのしかった・・・しも・・・やまさん・・・」
ベキンと亀裂の入った鎖が砕け散り、電磁石に続くケーブルが引き千切られ、巨大な鉄槌が落下する。
現実はドラマのようにスローとは成らない。
全ては一瞬。
全ては刹那。
何もかも思い出せる走馬灯すらなく。
久木鋼は女の子を守って、巨大な金属の塊に恐ろしい機械の群体と共に押し潰された。
そして、それと期を同じくして主から下った猶予期間(リミット)を超過し、自壊命令でソレは完全に崩壊した。
「久木ぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいッッッッ!!!!!!!!!」
【鋼ぇええええええええええええええええええええええええッッッッ!!!!!!!!!】
湾岸からの流れ弾がその廃車場に落ちたのは偶然。
一面が火の海と為った其処に律儀に救急車が来た時には何もかもが劫火に包まれていた。
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第五十七話 ビッグデータ
第五十七話 ビッグデータ
ITE(インフォメーション・サーマル・エンジン)。
その大元となる理論は【マックスウェルの悪魔】と言う。
一つの箱に仕切りがあり、二つに分かれた部屋の片方に運動量の大きい粒子だけを仕切りを開けて入れる。
それが架空の悪魔の役割である。
一見して単純そうな話であるが、マックウェルの悪魔は原則としてフィルターの役割を果たす時、エネルギーを0でこの動作を行う。
この空想上の悪魔がいる時、見かけ上は片方の部屋に均一だった空間からエネルギーを抽出する事が出来る。
無論、この悪魔を実際に作り出す事は出来ない。
仕切りを上げ下げするだけだとしても悪魔(ソレ)はエネルギーを使わずには動作を行えないからだ。
しかし、科学とは進歩するもので、それに近い動きをする機構を生み出した。
スイッチのオンとオフだけで粒子自体に運動エネルギーを獲得させるという技術が生まれたのだ。
勿論、エネルギーを獲得させるには幾つかのハードルがあった。
粒子の状態がエネルギーを獲得し易い状態になったかをまずは観測しなければならない。
そうして同時にその時点でスイッチをオンオフするという精密な制御が必要となった。
この時点でマックウェルの悪魔のようなエネルギー0での動作ではなくなる。
更に言えば、観測して制御信号によるオンオフを人の手で行う以上、どうしても生み出せる力が入力以上には生み出せなかった。
しかし、これは観測した情報を制御信号に変換してオンオフを繰り返す事でエネルギーを生み出せるという事でもある。
観測情報=制御情報=エネルギーとなるのだ。
これらの機構を最小単位、最大効率化したものが【ITEND】。
情報熱機関内蔵型極小装置(インフォメーション・サーマル・エンジン・ナノ・デバイス)である。
要はナノマシン。
SFに出てくる超科学の産物だ。
ただ、それが出来たからと言って実用化には多くの困難が伴った。
まず、NDの製造が非常にデリケート且つ複雑であるせいで大量生産するのが事実上不可能な事。
ミクロ単位の動作でも動かす為には莫大な制御情報が必要である事。
更に動作しても一定の数が無ければ、現実的な用途には向かない事。
そして、一番問題だったのは動作には安定した環境が無ければならないという事だった。
非常に繊細で壊れ易い為、屋外での使用はNDの寿命を極端に縮ませる。
十秒でも安定動作させれば恐ろしく長持ちした、と言えるだろう。
そうしてNDの現実的な使用用途はナノ単位での超高精度な作業が要求される部品や回路などの製造に少なからず限定される結果となった。
それでも世界中で一番使用されている用途が防弾対策【ND‐P】(ナノデバイスプロテクション)であるという現実は悲劇と嘆くべきか喜劇と嗤うべきか。
未だ戦闘用のND兵器というものはソレ以外では比較的環境が安定している人体内部へ作用させるものに限られる。
それも治療用から派生した技術の一つであり、何処か一国だけが技術的に抜きん出ているわけではない。
故にNDを外部環境に適応させ、更に長期間連続運用を可能にするというのは一種、各国の技術者にとっては夢のように語られている。
ただ、彼ら技術者もNDの基礎技術の進展があれば、いつかSFに出てくるようなNDが実現される事は分かっていて、その点で開発現場の者達にとってのNDという製品はそういう未来に展望が持てる製品でもあった。
「博士以外にこんな事が可能だなんて・・・信じられない」
閉ざされた廃工場。
近くを通る地下の配管に自身の一部を侵入させ、回線にこっそりただ乗りしていたソレが観測結果を元に目撃者を消そうとして―――殆どの機能を破壊された。
夕闇に世界が飲み込まれたのはついさっきの事。
久重とソラは不審な通信を傍受し、その追跡を行っていたわけだが、大本に驚かざるを得なかった。
まるで工業地帯から忘れ去られているかのような一角。
知らぬ間に出来てしまった不知の領域。
公道から小さな路地に入り、誰も気付かないような曲りくねった小道を抜けると其処はあった。
もはや機械も取り去られ、伽藍堂と化して幾星霜。
買い手も付かず、更地にするには金が掛かる廃工場。
そんな放置されていた物件の中心にソレはいた。
「これでこの地域一体の超電導ケーブルに損傷は無いと思う」
廃工場に二人分の足音が響く。
「近頃の工業地帯は電力系統や光ファイバーやらインフラをでかい集合管一つに絞ってるからな。一安心ってとこか」
中央に溜まる黒い砂。
堆積したNDの成れの果てに久重がホッと安堵の息を吐く。
薄暗い世界には破けたトタンの屋根から月明かりが滲んだ。
「見つけた時は連中のかと思ってたけど、やっぱり解析結果は間違いじゃなかった。恒常活動残渣が別物だったから、もしかしてとは思ってたけど」
繁々とNDの山に近付き、解析を開始したソラが瞳に映る情報に複雑な表情となる。
「やっぱり、あいつらとは違うのか?」
「うん。私達が使ってるような恒常活動用のNDは基本的に制御情報が莫大で普通は大容量の通信を確保して量子コンピューターからのバックアップで動いてるの。ND‐Pなんかは単純な制御中枢ユニットが内臓されてて、最低限の稼動と反復動作を繰り返すのが基本だから、作動に問題はないんだけど。単独で複雑な制御情報を演算して賄う独立性の高いコアは今のところ博士が作ったDシリーズ、オリジナルロットって呼ばれてる七つしかない。それだって私やひさしげが使ってるD1に比べたら天地の差があるわ。それを考えたら・・・」
「そいつは明らかに不自然なわけか」
「このND群体はたぶん博士の作品に近い性能がある。コアだけで複雑な計算が可能なスタンドアローンタイプなんて博士以外に作れるとは思ってなかった・・・」
厳しい視線でソラが黒い砂を手で掬い上げる。
「そういうのを一瞬で無効化するのはもっと凄くないか?」
久重が思わずそう言うとソラが僅か頬を掻いた。
「相手のNDに擬態するダミー機能が解禁されたから」
「まさか新しいプログラムか?」
「その、さっきビックリしてたのはいきなりプログラムが出てきたからなの」
「ああ、それで最初どうするか悩んでたのにいきなり『どうにかなるかもしれない』って言い出したのか」
「NO.04“Ghost Farce”同レベルの対ND戦に向けて開発された高度な欺瞞プログラムみたい」
「幽霊の茶番か。見えない幽霊(ND)・・・ゾッとしないな」
ボソリと呟いた久重が降り積もった黒い砂を見つめる。
「間違いない。ハローワークに不正アクセスしてたのはこのND達。それと鹵獲したコアの解析に成功。情報を表示するから目を開けてて」
「ああ」
久重の眼球へ薄く集ったNDが情報を表示し始める。
流れていくデータの本流は多かったが、現在進行形で解析されているらしく、幾つかの情報が整理・提示された。
「こいつは・・・サイトのログか?」
「これたぶん解析したデータだと思う。そのサイトにアクセスした人間を割り出して調べてた痕跡があるわ。捜査資料にある個人のIPアドレスとかから考えると殺された人達は皆このサイトにアクセスした事があるみたい」
「繋いだら殺されるサイトか。オカルトの類は嫌いなんだが、正体は一体何なんだ?」
「消えてる情報が多くてそこまでは。ただ『FF』ってキーワードが一杯出てきてる」
「『FFを知っているか』って奴か?」
「うん。色んな検索でFFの意味を調べてみたけど、有名なのはこういうのばっかり」
ひょいとFFの意味が久重の視界に投影された。
「ま、まぁ、日本はゲーム大国で車大国だからな」
検索結果にちょっと日本人の気質が見て取れて、久重が曖昧に笑った。
「それとスラングなんかも調べてみたけど、一番有名なのはゲームで二番目に有名なのは伝説のハッカーだったから、何とも・・・」
「そういや、そういう奴もいたらしいな。今でも昔の名残かFFの名前を使う奴は多いって聞く。あのライオン似なオヤジもハンドルネームはFFだからな」
「え?」
「何でも昔右に染まった事のある連中は皆FFで通してるらしいぞ。仲間内でややこしいからFFに番号を振ってチャットとか使う奴もいるとか何とか」
「・・・正体不明の伝説・・・本人を探していた?」
ブツブツと一人で思考作業に入ったソラが視線を―――辺りに忙しなく動かした。
「ひさしげ。離れないで」
ゆらりと秋の風が工場に入り込んだかと青年が思った瞬間。
爆竹でも鳴らしたような破裂音が鳴り響いた。
そして、月光に晒された地面の上に黒い靄のようなものが浮かび上がる。
「コレのお仲間か?!」
久重が黒い砂を掌から零した。
「たぶん、同タイプ。どれどけの量がいるのか知らないけど、対ND用の防衛網に沢山反応がある」
「対処方法はあるか?」
「学習されたみたい。密集密度が高過ぎるの。擬態して一撃で全部破壊するのは・・・」
ソラが首を横に振る。
二人の目の前で影が加速度的に黒く大きく濃密になっていく。
「周辺に分散されてる状態なら逃げ切れないかもしれないけど、基本性能はこっちが上だから、凝集したNDの観測域を離脱出来れば振り切れる!」
「じゃ、とっとと逃げるか」
二人が頷き合う。
「こっち!!」
先導するソラに久重が従った。
工場の横手にある扉から外に出た途端に二人の視界が黒く染まる。
だが、惑わされず元来た道を足音が駆けていく。
久重とソラの瞳に構築されたNDによる情報投影環境は周辺を覆う敵性NDの中でも的確な路を映像として映し出していた。
「凄い数!? こんな量のND連中だって簡単には動かせないのに!?」
工場周辺を覆うように漂う黒い霧。
正体は全てがND。
その量からして時価に直せば数兆円を軽く越える代物。
ソラですら殆ど見た事のない莫大な量のNDの中を二人は出来うる限りの速度で急いだ。
約十秒の疾走で工場付近を抜けたものの、まるで生き物のように黒い霧は逃走者の背中を追い始める。
巨大な霧が蠢く姿は悪夢に近い。
公道に出た瞬間、ソラは背後から押し寄せる多勢の無勢のNDの大群から逃れる為、すぐ脇の月決め駐車場から車を一台拝借した。
NDが即座に駆動中枢に侵入、簡易の指紋認証を破壊してエンジンを掛け、駐車場内部の自動操作プログラムを起動する。
唸りを上げたのは黒のセダン。
人や動物に対して速度を落とす対物センサーは無効化され、スピーカーから流されるエンジン音がカットされた。
「乗って!!」
二人の前に走り出た途端にロックが解除された車は扉が再び閉められたと同時に超絶的な加速を見せる。
黒い霧が加速中の車に接触しようと魔手を伸ばすものの後一歩で捕まえ損ねた。
「運転お願い。今、ただ加速させてるだけなの」
「おい!? ちょッ!?」
思わずハンドルを握った青年が冷や汗を書きつつアクセルに足を乗せる。
「今、ハンドルの操作を渡すから」
「あ、ああ」
僅かにスピードが緩んでハンドル操作が利くようになって久重がホッと息を吐く。
「どうやら追ってこないみたいだな」
「そうみたい。良かった・・・」
ソラですら安堵の息を吐いた事にさっきの状況の不味さを青年はヒシヒシと感じた。
流れていく街並み。
公道を制限速度ギリギリで走行する車内で何とか助かったと二人は安堵した。
「アレが通り魔事件に絡んでるとして。背後関係を洗う必要性があるな」
「NDのサンプルは取ったからアズの贔屓にしてる機関に送れば解析してくれると思う」
「何か随分とオレのいない間に仲良くなったんじゃないか?」
「女の子には秘密が沢山あるものなのよ。ひさしげ」
命の危険が去った反動からか。
僅かに和やかな気配で会話は進む。
背後の少女が逞しくなっている事に一抹の寂しさを感じた青年はその内心から目を逸らし、そうかといつものように微笑んだ。
「それじゃあ、虎(フゥ)に連絡取るか」
「危ないと思った時にちゃんと退避させたから大丈夫」
その手際の良さにいつの間に連絡したのだろうかと脱帽した青年はバックミラーで視線を後部座席に向ける。
「それで尾行してた奴に関しては何か分かったか?」
「うん。小型の偵察ラジコンとか望遠レンズ付きの双眼鏡とかで監視してただけみたい。たぶん何が起こったか分かってないと思う。さっき逃げる時にこの車の制御システムにマーキングしようとしてたけど、気付かれたと思ったからか諦めて追って来な―――ひさしげ!!? 後ろ!!!」
「何だ!?」
二人の乗るセダンが膨大なヘッドライトに照らされ、染め上げられた。
「!?」
突如として背後車両が背後から追突しようと猛然と加速する。
「何だ!?」
ハンドルが切られた。
一瞬でその車線から移動したセダンの横を青のワゴンが擦り抜けた。
追い抜いた刹那。
スリップした車両が前方の車両を巻き込んで爆発した。
「クソッッ?!!!」
二人の乗ったセダンは爆発するワゴンの火の粉を浴びながらも何とか切り抜ける。
後続車両が複数台巻き込まれ、爆発したワゴンが弾け飛ぶ。
「一体何なんだッッッ!?」
「久重!!! 今映すわ!!!」
背後の映像が眼球上のNDから薄らと網膜に送られた。
「オイオイ!? 冗談だろ!!?」
久重が見たのはまるで濃霧のような黒いソレが車両付近から移動し、急ブレーキで止まっていた複数の車両に急速に流れ込んでいく様子だった。
「まだ追ってきてるってのか!?」
「たぶん、壊れてない中枢のサンプルを取ったから最優先に抹消するコードが走ってるんだと思う」
背後で遠ざかっていく光景に唇を噛んだソラが拳を握って震えた。
「そういう事か。自分の技術漏洩まで見逃すつもりはないとは抜け目ない製作者(やつ)だな」
「迂闊だった・・・」
白くなる少女の拳。
それを慰めていられるような時間は無かった。
複数の車両がまるで内部の人間の操作を無視した動きで破壊された車両達の横をすり抜けて再び走り出す。
「クソッッ!?」
走り出した車内の内側からバンバンと掌がフロント硝子に跡を付けるもすぐ真っ黒に塗り潰され消えた。
内部の人間がどうなったのか久重には詳しく分からないが、少なくとも生きているとは思えない状況だった。
「あのNDを止める方法は無いのか!? ソラ!!」
「同レベルに近い性能のNDで対抗する場合、モノを言うのは量なの。今の手持ちじゃ・・・」
「とりあえず、人気の無い場所を迂回しながら逃げるぞ!! ナビ出来るか!?」
「今、検索結果を表示するから」
映像が矢印の付いた地図に切り替わる。
「久重」
「何だ!?」
人間では在り得ない加速で後続車達がセダンを追い上げ、バックミラーを確認しながら久重が必死にハンドルを操作し続ける。
「賭けになるかもしれないけど、アレを倒せるかもしれない」
「どうやる!!?」
車体が左に流れ、片輪が僅かに浮いた。
「戦争になるかもしれないからって理由で此処この時間もう閉まってるの。通行止めは看板と簡易のゲートだけ。ここ一帯でたぶん一番人がいない場所よ」
地図に点滅する場所が何処かを悟って久重はソラが何をしようとしているのか大まかに理解した。
「此処ならやれるのか?」
「映像の解析結果からしてあそこで襲ってきたND個体群の殆どが車両を乗っ取って追ってきてる。たぶん、これ以上の技術流出を防ぐ為に分裂待機してない。相手が博士くらいの技術を持ってるなら、ND同士の戦いが量の戦いだって理解してるはずだから。此処で一網打尽に出来れば、あのNDは全部叩ける!」
ソラが険しい顔でミラー越しに久重を見つめる。
理不尽な死と暴力に対する怒り。
そして、誰とも知らない他人を巻き込んでしまった己への失望。
それらを全て飲み込んだ顔に青年は頷いた。
「了解だ!!」
セダンがリミッターの切られた加速を見せる。
一瞬のふらつきが生死を分ける。
そんな都市部では無謀な速度でモーターが回った。
最小の挙動でセダンが滑るように公道を走破していく。
追ってくるND群はタイムロスを避ける為、次々に前方の車両を追い抜いていた。
無論、追い抜かれたトラックや乗用車は急ブレーキのオンパレード。
遠方からは警察車両のパトランプの光とサイレンが迫る。
「行くぞ。ソラ」
「絶対、止めてみせる!!」
神奈川県川崎市と千葉県木更津市を結ぶ一本の線。
東京湾アクアライン。
数十年間、補修を加えながら使われている15.1キロメートルの道。
其処が決着の場所だった。
「ふぅ」
空調の切れた倉庫の中。
オズ・マーチャーはすっかり零の桁が失せた預金残高を見つめて溜息を吐いていた。
「・・・・・・」
人生に必要なものは然程多くない。
旨いアルコールに肴。
美しい女に多少の友人関係。
余生を過ごせる金に少々の娯楽。
生に執着するのに老若男女は関係ないが、必死さとは若者の特権であり、足掻きとは老人の得意技である。
なので、人生の半分以上が余生になりそうなオズは躍起になって遥か上の上司からの言葉を調べ、同時に何が裏にあるのかを突き止めようとしていた。
「・・・・・・」
その第一段階として電話において上司から告げられた仕事は律儀に遂行されつつある。
在日米軍内部のコネを使ったオズの重要機密奪取は成功したのだ。
沖縄配属の米軍関係者の何人かは銀行を通す事無く相応の金額を手に入れ、オズは見返りに輸送ヘリの荷物を少々得る。
順風満帆とは言わないまでも『事態』を進行させている連中を出し抜いてやった事に彼は少し満足していた。
「ようやくか」
輸送ヘリの航路は沖縄米軍が日本のドサクサに紛れて急に捻じ込んだ案件だった為、近くの米軍基地に物資の行き先が変更になったと偽って事なきを得た。
ヘリが消えたように見えたのは機体のコードを民間機のものに摩り替えたからだ。
ペーパーカンパニーを通して飛行計画を毎日のように提出し、実際に米軍が使う空路近くに小型機を複数飛ばさせていたのは伊達ではない。
沖縄米軍のど真ん中に機密に値する人物を置き続ける事はないだろうと予測したオズの勘は大当たりした。
無論、その輸送を時間の掛かる陸路や海路を使って行うわけもないという推測もである。
そして、ヘリはオズの息が掛かった当初とは違う米軍基地に着陸。
書類上は計器が故障した民間機として扱われ、公的には存在しない時間が発生する。
レーダーは誤魔化せなくても、レーダーに映る情報を報告する者は買収出来るのだ。
後に殆どの仕掛けはバレる事だろうが、相手は非公式の部署。
表立った罰を下せるわけもない。
とりあえず予定外の荷物に検査が入ったという理屈でソレは輸送ヘリから下ろされ、米軍基地から運び出される。
後は何の障りもなくオズが雇った元運送会社社員の手で中古のトラックに乗せられ、監視カメラの少ない公道へと侵入して、複数台の同じ型のトラックでバラバラに運送(リレー)されて跡形も無く消え去る。
警察の照会が来る頃にはトラック自体が海外に売り出されて証拠も残らない。
事が露見するまで一日無いだろうが、関わった人間は米軍の中でもそれなりの地位に複数いる。
真相が発覚するのはかなり遅れるだろう。
更に言えば、非公式の部隊が横暴に振舞っているおかげで聞き取り調査もスムーズにはいかないはずだ。
何処の基地でも縄張りを荒らされればお冠にならない人間の方が少ない。
そういう連中にしてみれば、その【亡霊】は公的に存在しないわけだから上からの査問でもない限りは問い合わせも突っ撥ねられる。
米軍の再編が近頃進んでいたおかげで嘗てオズと共同で作戦に従事した事のある者や指揮をしていたものが日本に数人流れていたのは計画には大きかった。
嘗てのオズの身分を知っている者にしてみれば、「現在どういう地位にいるのか」を理解していなかったと言い訳も立つ。
米軍内部で睨まれているのは現実的には非公式部隊の方であって、彼らがどれだけ上を動かす権限があろうと無闇に関係者を罰せば、反感は残る。
組織はただ厳しければ統制が取れるものではない。
こうして限りなく血を流さないクリーンな手腕でオズは全財産を使い果たし、ソレを東京の倉庫で迎えていた。
「これでろくなもんじゃなかったら笑うしかないな」
黒い棺。
長方形の物体。
繋ぎ目が見当たらないソレに唯一付属していたリモコンがオズの手で取り出され、お手製なのが丸見えなゴテゴテした基盤が取り付けられる。
パチンと基板上の取っ手が弾かれると数秒で基盤に繋がれていた小さなランプが青になった。
ポチリととリモコンのボタンが押される。
そうは見えないが指紋認証機能により指定された人間以外が使えば、棺桶内部を破壊する仕掛けが備わっていたが、それももはや過去。
ガコンと内部から無造作に数本の螺子が飛び出し、パラパラと地面に落ちる。
棺桶に継ぎ目が浮かんで内部の生命維持装置を止めて密封を解いた。
オズは薄暗い倉庫の中、そっと危険が無いかを確認しながら継ぎ目に手を這わせて蓋を開く。
瞬間的に飛沫が上がった。
「!?」
棺内部に備えられていた酸素供給装置が自壊し、多量の酸素が内部の生理食塩水を溢れさせる。
内部機構が『中身』をゆっくりと持ち上げていく。
口元にチューブ付きのマスクをさせられていた永橋風御はパッチリと目を覚ますとゴボゴボと一言。
【朝なら朝食用意してくれません?】
勿論、口元が動いただけで開放した当の本人であるオズには一ミリも意思は伝わらなかった。
「お前がADETの王子か?」
【一応】
モゴモゴと間の抜けた声のようなものが倉庫に響き、オズはとりあえずタオルを取りに踵を返す。
彼は全裸の男に興奮するような類の特殊性癖は持ち合わせていなかった。
そうして元CIAの工作員と元裏社会の王子様が出会った頃。
アメリカの大地で二人の男が激突していた。
オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛―――。
街に畏怖が広がったのは老人と男の真上に二人の乱入者が飛び降りた瞬間だった。
世界を覆い尽す根源的な【入力(おそれ)】が三人の意識を揺さぶった。
都市の至る場所から流れたのは叫び声。
それも飛び切りの絶望を与えられた嘆き悲しむ声である。
それはラジオからテレビから公共の場のスピーカーから置きっぱなしの端末から街のあらゆる場所から流れた。
数にして数十万の絶声。
大気を振るわせる共鳴が一瞬の内に都市の内部にいる全ての者を虜とする。
意識を取られる刹那のタイムラグ。
それで全ては十分だった。
ビル壁面が大音量の音圧に耐え切れず破砕し、二人の襲撃者達は落下軌道を逸らされた。
老人は出端を挫かれ、意識を目の前の男から離した。
それが最初で最後の隙であり、最初で最後の勝機。
男は何の躊躇もなく老人に突撃した。
それを見た乱入者二人の脳裏に最終警告(レッドアラート)が響く。
(これはまさか!!? 【十三人】を甘く見ていた!?)
落下中、ターポーリンは警告の意味を即座に理解し、パイの手を引いて隣のビルへと手を伸ばした。
「!!!」
NDが瞬時に縄のように伸ばされ、ビル壁面に到達。
落下するのとは反対に二人の体を引き上げ、強化硝子を破ってオフィスに引きずり込む。
「緊急コードDW3発動!!!」
予め組み込まれていた緊急時コードの一つがNDに特定の動作を要求する。
二人の表皮に薄らとNDによって金属が塗布された。
「NDを全力稼動!!! 全て前方の【分解】に回して下さい!!!! 行きますよ!!!!!」
普段ならば在り得ないNDによる完全な単一動作設定をパイに行わせ、己の肉体に存在する全NDをほぼ筋肉の強化のみに費やして、ターポーリンが真横に跳んだ。
その加速度は人体が出せるものではない。
時速にして二百キロキロオーバー。
凡そ、人体の全てを粉々に出来る値がたった一足で実現された。
その最たる理由はターポーリンがND融合実験の被検体として、崩壊寸前の全身をNDによって繋げているだけに過ぎない欠陥品であった事が大きい。
肉体など無きが如し。
使い潰す気でNDによる全力稼動を発動したターポーリンは己の破滅を省みない代償にあらゆる使用制限を大幅に超える能力を叩き出す。
オフィスの床が大規模に陥没した。
そして、パイを抱えたターポーリンはビルを横に突き抜けた。
(ッッぐ!? 間に合うか!!?)
脳裏へ響く脚部からの衝撃に意識が明滅する。
膨大な建材は莫大な障壁。
それらが一瞬にして二人分の肉体に抜かれた。
パイのNDは全能力を前方に集中し、あらゆる構造材を分解、二人分の路を作っていく。
次々に壊れゆく二人のNDが猛烈な勢いで在庫を減らす。
戦闘開始を告げた時点で二人が肉体と周辺に所有していたNDの量は軽く千キロを超えていたが、たった三秒で約二割が消費された。
ビルを突き抜けた二人がそのまま放物線を描いて次のビルに突入する。
ターポーリンの足は一歩目でほぼ半分以上グチャグチャになっていた。
しかし、それに構わず、反対側の足が二歩目を踏み出す。
衝撃が周辺ビルの間を震わせた。
再びの加速。
「ッッッッッッ!!!!」
ターポーリンは全身を這う痛みを通り越した死をただ意志力のみで耐え切った。
脳が悲鳴を上げるのも構わず、鼻や目元から流れる血潮にも構わず、数百メートルが一瞬にして後ろへと置き去りにされていく。
「―――――ッ?!!」
パイは刹那刹那に崩壊していく己を抱いた男の状態に叫びすら上げられず。
ただ、己の役割を唇を噛み締めて全うした。
二人の体がビルを抜け、最短で公道へと出る。
直線となった路をターポーリンの三歩目が踏み抜く。
直後。
片足が完全に崩壊した。
ボンッと数メートルの血の染みが二人の遥か後方で咲く。
(こんな最後とは中々愉快です。せめて、アレを控えさせておくべきでしたか)
最後の一歩が迫る。
姿勢が僅かに崩れ、失速する寸前。
四歩目が再び、二人を加速する。
二人の駆け抜けた後にはただ全てが分解された砂と紅い染みだけが残っていた。
【最低限の距離は稼ぎました。こちらが崩壊する寸前に放します。一人でも行けますね?】
「?!!!」
瞳に映る己をこの路に引き込んだ男の言葉にパイは何を言いたいのか理解する。
四歩目を踏んだ足は完全に崩壊、五歩目の跳躍が迫る。
しかし、ターポーリンの両足はもう無い。
【後でこのファイルを参照しておいてください】
パイの瞳に一つのファイルの存在が示される。
ND情報を扱う彼らのサーバー内、工作員達の私用領域にそれは存在していた。
【次の行動指針があります。アレは貴方にならば、使いこなせるでしょう。私の願いは叶わないだろうが、貴方にならば、惜しくはない】
「――――ッッッ!!?」
【今、です!!!!】
ターポーリンの手が離された。
足が完全に消え去った男はそのまま慣性に引きずられて、道に摩り下ろされ―――無かった。
「―――?!!」
抱えられていたパイが己の足で加速を引き継ぎ、ターポーリンを逆に抱えて疾走する。
信じられない思いで男が絶句する様子に「ああ」と彼女は思った。
彼もまた自分と同じ「人間」なのだなと。
【何を―――】
【私が信じたのは貴方です。『連中』じゃありません】
たったそれだけの言葉を相手の視界に映して、パイは己に出来る限りの速度でその場を急いだ。
そうして二人の乱入者が彼【國導仁(こくどう・じん)】の射程圏外へと出た頃。
抱き締めるように押し倒された老人【貴荻一茶(きおぎ・いっさ)】は顔を顰めていた。
「この細胞が・・・崩れる?・・・まさか」
「はは、先生に克つ為に一番合理的な力が何か知らないわけないやないですか」
二人の周囲は相変わらずスピーカーからの叫びで満ちている。
しかし、それよりも恐ろしい力が貴荻の肉体をDNAレベルで破壊させていた。
「お得意の遺伝子が抗えない唯一の破壊。受け取って下さい」
「それで包囲半径を広げさせたのか。よく考えたな」
いつの間にか。
「おや? どうやら来たようで」
二人の周辺には人型に見える幾つかの獣のような存在が現われていた。
それらは一体一体がチグハグだった。
昆虫の目にライオンの牙。
トンボの羽にチーターの足。
蟻の頭部に鳥の翼。
巨大な鋏に人間の体。
動物だけではない。
肉体の一部に植物のような構造を持つ者すら混ざっている。
「相変わらず趣味悪いですわ。先生」
共通するのは嘗て人間であった頃の名残である衣服が申し訳程度、体の上に残っている事だろうか。
生徒の愚痴に老人が鼻を鳴らす。
「実戦投入したはいいが、どうやら失敗作が多かったらしい」
キマイラ。
良識を疑うような混合種。
どのようなDNA構造をしているのか。
まるで想像も付かない生物達。
その大本が何であるか知っている仁は己の周りに増えていく影の多種多様な肉体構造に悪趣味だと思いながらも感嘆する。
「特撮モノ好きにはたまらんかもしれませんね」
あらゆる生物の構造を司るDNA。
それを神掛かった手腕で弄繰り回す老人の技術は殆ど人間に代わる次世代の生命を生み出せるレベルであり、ある種・・・創造主という単語すら当て嵌まる。
「さて、最後に聞いておきたい。【本人】は何処だ?」
「さぁ?」
「此処で敗北するとは思わなかったが、次はこう上手くいかんと伝えておけ。【機械人形】」
「次があるかどうか。そやないですか?」
「一つ教えておこう。此処で【この個体】が滅ぼうと、もはや【女神(アリラト)】は止まらん」
「もう完成してるだろうとは本人も思うてましたよ。だからこそ、こうして対抗策も揃えてきた」
ドスドスとキマイラ達の凶器が仁の体に突き刺さる。
しかし、その体からは血潮の一滴も出ない。
「これだけの小型化が物理の単位を落とした者に出来るとは思わん。あの【破壊魔】の作品かね」
「ええ、この間遊びに行ったらけったいなもん作ってましたわ」
「・・・本人と見紛うわけか」
苦々しい顔で老人が唇の端を曲げた。
「こっちのように【自動(オート)】じゃなく【操作(リモート)】なのが敗因でしたね。先生」
「【手動(マニュアル)】に勝るものなど無い。そう本人に伝えておけ」
カチンと仁の形をしたジェミニロイドの内部から軽い音がする。
超小型のカプセル内。
濃縮されたウラン235が周辺の火薬によって爆縮され、全てのエネルギーを開放した。
―――――――――。
核爆弾と中性子爆弾の違いはその燃料を反応させ切るかどうかにある。
その点で仁の形をしたジェミニロイドの内部機構は核物質の殆どを反応させ中性子として放出するタイプの中性子爆弾そのものだった。
核爆発。
しかし、その規模は限りなく小さい。
戦略核にすら劣る極小規模の爆裂は周辺ビルを薙ぎ倒す事すらない。
ただ、同時に放出された中性子は狭い圏域にいる全ての生物に対して容赦なくDNA構造の破壊と逃れられない死をばら撒いた。
二人の男の周辺にいた化け物達は爆発に巻き込まれ崩壊。
そして、次々に爆心地へと向っていた後続の化け物は細胞を破壊されながら最終的に到達する事なくただの蛋白質の泥と化して命を終えた。
日本の東京が攻撃されたと同時刻。
アメリカは建国以来の大混乱へと陥っていく。
戦術核でも戦略核でもない。
それは言わば【個人核(プライベート・ニュークリアー)】と呼べる小規模核。
核弾頭の小型化を推し進めた末に生まれた異端の技術はそうして日の目を見た。
新たな技術が世界に持ち込まれ、森羅万象皆そうであるように旧きものは駆逐されていく。
科学の行き付く先。
滅びの炎もまた技術の進歩によって多用される時代がやって来ようとしていた。
【布深邸朱憐私室。午後三時十二分】
ぼろいアパートに程近い豪邸の片隅で外国産のヲタク少女カウルは目をキラキラさせていた。
「これを」
「ありがとうございます!」
パァッと幼い少女の顔が輝く。
確実に外字久重の借りている部屋の数倍はあるだろう朱憐の私室での事だった。
「コレ知ってます!」
学習用に小型端末では寂しいと朱憐は自身のノートPCを机の上に出してきていた。
「日本の大手が出したノート最速のマシンです!!」
日本でも稀少な最新のハイエンドモデルを前にカウルの顔は甘く解け崩れる寸前となっている。
「最新型のGPU搭載!! メモリは143GB!! 容量3000TBの新世代型!! しかも、少数生産の水冷式で、光量子通信網、ジオネットに高速接続出来ると聞きました!! 単独で衛星通信も可能な上、確か連続稼動時間は従来の物とは違って驚きの84時間とか!!!!」
「く、詳しいんですね。カウルさん」
かなり驚いた様子で朱憐が目をパチパチさせた。
「はい! 詩亜ちゃんが【コレで大企業を空売りするとゾクゾクするのよね】って愛用してるので!!」
その興奮した様子に現役女子高生はクスリと微笑む。
「機械とか苦手で持て余していたので。喜んでくれたなら嬉しいですわ」
「あ・・・う、煩くしてごめんなさい・・・」
自分の熱の入れようが恥ずかしくなってカウルが小声になる。
「いえ、お茶を入れてきます」
「あ・・・さ、触っても・・・いいですか?」
おずおず聞くカウルに朱憐が頷く。
「ええ。私物ですから。実は家の者に選んでもらったんですけど、使い方あまり分からなくて・・・もし気に入ったなら久重様のお家に持って帰ってもいいですけど?」
「い、いえ!!? そんな!!? こ、こんな良いマシン貰ったりしたら嬉しくて死んじゃいます?!!」
慌てふためくカウルの顔に朱憐はそっと微笑んで席を立った。
「今日は久重様達は徹夜になるかもしれないとの事ですから、お泊りして行ってください。明日の朝になったら久重様のアパートに送り届けますわ」
「あ、はい! 分かりました!!」
「それと・・・元気な返事ばかりしていては疲れてしまいますわ。遠慮しないでゆったりしてくれた方が私も嬉しいですから、そんなに気を張らないで下さい。カウルさん」
「は、はぃ」
更に紅くなったカウルが蚊の泣くような声でコクンと頷いた。
お茶を入れに朱憐が部屋を後にする。
(はぅ・・・)
触りたくて仕方ない様子でうずうずしたカウルがちょっと躊躇いがちにPCを起動した。
(ちょ、ちょっとだけ・・・)
嘗て友達のいなかったカウルにとってPCは様々な事を知る為のツールとして最適なものだった。
家からの脱出計画を立てるのに色々と使っていた経緯からかなり詳しくなったのだが、何よりもカウルにとって嬉しかったのは生の人間が時に悩みにアドバイスしてくれる場がPCの先に有った事だ。
友達とはいかないまでも知り合いはネット上にいる。
「皆・・・元気だといいな・・・」
逃げ出してからというもの、一度もネットに接続していなかった反動か。
我慢出来ずカウルはちょっとだけ己のメールサイトにアクセスした。
接続した先には幾つかのメールが来ていたが、殆どは迷惑メール。
ただ、その中に一つだけ知った名前が有った。
「あ、【FF】さん」
時代遅れだが、今もユーザーが少なくないマウスがクリックされる。
メールの内容はまたサイトに来て話をしようというものだった。
(あ・・・色々お世話になったのに何も報告してなかったから・・・ごめんなさい・・・)
FF。
その名はありふれたハンドルネームだったが、カウルにとっては家出の際に必要な事を教えてくれた大切な知り合いだった。
(行ってみよう。ありがとうって報告しなきゃ)
自分のPCに足跡を残さないよう大切なURLは全て暗記で覚えた為、そのサイトに辿り着くのは容易だった。
本来なら幾つかのリンクを踏まなければ出てこないようになっている秘匿会員制のコミュ。
大規模SNSとは違って人は少ないのだが、偶然辿り着いた事を切欠によく顔を出していたカウルにしてみれば、其処は唯一安心して何かを語れる場所でもあった。
【FFさん?】
久しぶりにパスワードを打ち込んでログインした場所は小さな黄昏時の教室。
中には一人だけ佇んでいた。
カウルのアバターは【詩亜ちゃん】と呼ばれるネット有志が製作し、無料配布している代物。
ダウンロード数だけで数千万人。
普遍的なスタンダードだ。
大して黄昏時の教室の中から外の世界を見ているのは・・・・・・植物の鉢植えだった。
【お、『らいおん』か?】
カウルのハンドルネームを呟いて、その植物が振り返る。
【メール見ました。今まで報告の一つもしに来なくてごめんなさい】
【まぁまぁ、そう謝る事なんてない。元気そうに顔出してくれて嬉しいわ】
【その、この間アドバイスを貰って、家出・・・成功しました】
【おー成功したんか? そりゃ良かった。これからも問題が有ったら相談しに来てや、と言いたいところなんやが・・・話がある・・・】
【お話?】
【ああ、此処閉める事になってん】
【え?】
【いや、そのな。此処に来てた連中、他のとこに移ってしもうたんや】
【移るって、SNSとかにですか?】
【まぁ、な。それで今の会員ウチらだけになっててな。さすがにずっと此処に詰めてられるわけでもないし、閉めようかなと。それでメールしたんや。言うの遅れてごめんな】
【あ、その、いえ、私の方こそ。そんな事になってたなんて知らなくて。それで皆さんは何処に?】
【あーうん。ごめんな。それは言えんのや】
【言えない?】
【ああ、皆のプライバシーやからな。それで此処を抜ける時、皆からメッセージを預かっとる。コレ】
画面には幾つかの名前と伝言があった。
元気でね。
今までありがとう。
家出してもちゃんと家に帰る方法考えておけよ。
いつかまた会いましょう。
家族を大事にしなさい。
他にも幾つかの伝言が浮かんで、カウルは少しだけ現実で震えた。
【FFさん・・・】
【済まんな。ロクなお別れもさせてやれんで】
【いえ、ありがとうございました】
【お礼言われるような事してへんわ】
【でも、私の為にずっと待っててくれたんですよね?】
【・・・さぁな】
【皆の伝言。確かに受け取りました】
【ああ】
【もう会えないと思うと寂しいですけど、皆がこんな風に思ってくれてたんだって知れて、良かったです】
【ホント。素直やなぁ。らいおんは】
【そう、ですか?】
【ああ、これでインド在住の美少女なんやから末恐っそろしいわ】
【ふぁ!? な、ななな、何で私が女の子だって!?】
【皆知っとったで? インド出身で女なのは。ただ、美少女なのは皆で想像しとっただけやけどな】
【そ、そうだったんですか・・・】
【ま、思い出話もそこそこにして。こほん】
【?】
【今までありがとうな。結構、楽しかったわ。もし、また会う事があれば・・・その時はまた下らない話に華でも咲かせようや】
【は、はい。あの・・・FFさん】
【何や?】
【FFさんは・・・何処にお引越しするんですか?】
【済まんな。教えられん】
【そう、ですか・・・】
【これから色々とやらなあかん事が立て続けに入っててなぁ。あ、そうや。お詫びにもならんかもしれんけど、コレ】
画面に出ていたメールサイトに新しいメールの着信。
【コレは?】
【それは魔法のプログラムや】
【魔法のプログラム?】
【オレが本当に目指してたもんを今出来る限り形にしてみたって、それだけのプログラムや。これから開発の時間が取れそうになくてな。放置するのも忍びないし、もし良かったら貰ってくれんか?】
【いいんですか? 大事なものなんじゃ】
【いいんや。埃を被って消えてくよりは誰かが使ってくれてた方が嬉しいしな】
【その、どういうプログラムなんですか?】
【それは使って見てからのお楽しみ。らいおんなら悪用もせんやろ】
【悪用?】
【はは、悪い悪いハッカーからの送りもんや。もし、怖かったら消しといてくれ】
【そんな!? FFさんは悪い人じゃありません!!】
【さて、どうやろな。はは】
【FFさん・・・】
【んじゃ、ログアウトしてくれるか? 今まで楽しかった。元気でな】
【・・・・・・はい。ありがとうございました】
そうして、カウルはログアウトした。
画面から教室が消える。
ウィンドウにはメールの閲覧画面だけ。
最新の件名は魔法のプログラム。
添付ファイルはかなりの量があるらしい。
カウルが小型の端末に添付ファイルを落とすと容量が圧迫されているとの表示が浮かんだ。
「お茶が入りましたわ。カウルさん?」
立ち上がっているPCの横で何処か沈んだ様子になっている少女に朱憐はどうしたのかと声を掛けようとしたが、少しだけ上を向いた横顔があまりにも大人びて見えたので、止めた。
「お茶。貰っていいですか?」
「え、ええ。どうぞ」
机に置かれたティーカップが持ち上げられ、そっとカウルの唇に付けられる。
「どうですか?」
「とっても良い香りがして、それでいて」
「?」
言葉を切ったのは何故かと首を傾げた朱憐にカウルがちょっとだけ顔を歪めて笑った。
「少し、苦いです」
「お砂糖とミルク入れます?」
ふるふると首は横に振られた。
「慣れるまで、このままで・・・」
ちょっとしたティータイム。
瞳が曇るのは湯気のせいだとの言い訳して、たった一滴の塩気が効いた紅茶は飲み干された。
少女は早熟なもので、一つ大人の階段を昇った。
とても、薫り高く。
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第五十八話 終末の巨影
第五十八話 終末の巨影
どんな戦争も軍資金と兵站無くしては語れない。
それはシステマティックな兵器を持ち寄る昨今だろうと遥か昔の槍と盾の時代だろうと変わらない真理だ。
戦争はパトロンを探す事と同義であると言ったのは誰だったか。
現代の戦には膨大な資本が投入されるのが常だ。
過剰な消費は過剰な需要であり、大国の余りある供給を受け止める唯一の手段と言える。
貿易を主軸とする経済戦争(マネーゲーム)という第六の戦場を人類が構築したのは資本の隆盛がそのまま国の生死に直結するようになってからだ。
電子貨幣(ホットマネー)の海は現実より膨れ上がり、見かけ以上の富を現実に要求する。
それらを上手く扱い得る者が勝者であり、同時に市場の支配を行う者が強者である。
陸海空宇電。
これらが今までの五つの主戦場であった。
陸に戦車(タンク)、海に潜水艦(サブマリン)、空に航空機(ファイター)、宇宙に軍事衛星(サテライト)、電子空間に侵入者(ハッカー)というのがお約束だ。
しかし、此処にもう一つ字を加える。
それが経だ。
対応するのは間違いなく商人(マーチャント)だろう。
これがたぶん人類が歴史の最後まで戦うであろう六つの主戦場。
そして、この幾つもの戦場を制してようやく如何な国も大国と名乗るのが妥当となる。
その意味でG8は少なからず競い合う中であり、ASEANやEUなどの経済統合を進める圏域、横の繋がりも世界経済の中では主戦場に集う群れの一つだろう。
圧倒的な軍資金を持って各国が陸海空を戦ったのが第二次世界大戦だとすれば、これから起こる戦争は必ずしも鉄の槍が降り、鉛玉が飛び、宇(そら)から恐ろしいものが落ちてくるだけに留まらない。
電子の海から現実のインフラや工場や政治中枢を破壊・混乱・欺瞞・錯誤させ、債権と資金と契約書を持って標的とする企業・市場・国家の有する価値を暴落させるのは常套手段となる。
グローバルスタンダードなんて言葉が世界中の国々が持っていた従来の境界を崩壊させた現在、何処にも戦場ではない地域など残っていない。
距離という概念が何処までも縮小してしまった世界では戦争をするという意味がボタンを押すという行為と然程変わらない。
無論、極端な話で戦争はそう単純なものではないが、効率化されていく全てはいつか決定するボタンすら必要なくなる世界を生み出す。
これはSFの話ではない。
人の意識に反応し、人の意思を反映する機械がこの科学全盛の時代、既にある。
どんなに遠い場所だろうと大陸弾道弾は届くし、どんな地域にも広大な電子の海は広がっている。
そこから齎される利益は世界を強力に繋げ、同時に安全地帯など何処にも無い幻想だと人々を教育する。
己の人生も他の人生もいつかボタン一つすら必要なく消え去る時代が確実に迫っている。
だからこそ、なのか。
新しい戦場における兵站(ネット)は現実の流通経路にも似た。
世界を動かし安全を担保する血管の一つとなった。
世界の株価が連動しているように国々を繋ぐ経済活動という血管は何処かが傷付けば、其処に関係する場所が出血の衝撃を受ける。
国家をボタン一つで消し去れる時代にそれでも人間が自制を保って滅ばない理由があるとすれば、因果応報の図がまるで必然のように形作られたからではないか。
嘗て軍資金や兵站という頚城が繋いでいた戦争という怪物は自在の広がりを持って、新たなフィールドへと突き進んでいるが、同時にその在り様を制限されてもいる。
それが人の叡智であると自惚れる者は無いだろうが、歴史に学ばない人類自身に対する僅かばかりの叛意だという見方もある。
そう、だから、戦争遂行が可能な個人なんて孤立した存在(じょうだん)がいる時点で人類の破滅は加速する以外無い。
因果応報とは大概民に説かれる場合、俗物的な自制を求める理屈なのだ。
【あ・・・ぅ・・・あ・・・】
何一つとして意味も持たないと思われるような呻きが場を支配していた。
【クソッッ!!? いつからステイツはSFの惑星になったんだ!!! チクショォオオオ!!!!?】
其処は何処にでもあるような基地だった。
滑走路が無駄に広い事を覗けば、何て事の無い寂れた場所。
兵達は近くのバーで今日も呑んだくれて夜中には基地にこっそり帰る予定であった。
【ウォオオオオオオオオオッ!!!!? 死ねよッッ!!!! 化け物ッッッ!!!!】
乱射される自動小銃。
投擲される手榴弾。
一抱えもあるだろう車輪付きのライトが明かりも吐き出さずに敵へ向けられた。
兵隊の間で大きな電子レンジと呼ばれている【攻性指向電磁照射機(BIG・E・OVEN)】が敵を沸騰させる。
【第三小隊!!! 背後に回り込まれているぞ!!?】
兵士達の誰も自分達が何に襲われているのかを知らない。
ニューヨークにおいて核が使用された事も、その化け物が【十三人】と言われる者の一人に創られた事も。
ただ、昼間のランチの時間に一方的に正門へ殺到し、衛兵を殺戮し、基地内に雪崩れ込んだソレが敵だと言う事だけは誰の心にも確かだった。
【うぁああああああああああああああ!!!?】
【あいつはもうダメだ!!! 第三倉庫前まで後退するぞ!!!】
連続する銃声。
軍靴の雪崩を打つような音。
兵達の間の動揺は目前の命の危機に押さえ込まれている。
それでも未知の敵を前にして彼らの誰もが内心の恐怖を感じずにはいられなかった。
【クソッッ!!!? あいつらの目的は【FIFTH】の制圧か!!?】
基地の約三割が化け物達によって奪われている。
キマイラ。
そう呼ぶ以外に何と言っていいのか分からない生物。
様々な生物を捏ね合わせて人間に合成したような者達。
【こちらへ!!】
兵士達が次々に基地の一部へと立て篭もっていく最中、逃げ遅れそうになっていた兵士達を数人の白衣の男達が分厚い扉の中へ招き入れた。
【お前ら普通の言葉が喋れたんだな】
完全に密封された鋼鉄の扉の中。
ホッとした様子で兵達が白衣の男達に皮肉げな笑いを浮かべた。
【化け物よりは話が通じる方でしょう】
白衣の中から一人の男が出てくると付いてくるよう兵達に指示する。
基地内部、部外者立ち入り禁止の情報管制棟。
非常電源に切り替わったせいで紅い光に照らされる通路を兵達が疲れた様子で歩き始めた。
【怪我をした方がいたら医務室へ。この棟は地下施設が大半ですのでまだ大丈夫です】
化け物達に占拠されていない区画には多くの兵達が退避している。
最後の殿が彼らだった
【それより、あんたらあの化け物達の目標が何なのか見当は付いてるだろ? 状況はどうなんだ】
白衣達の一人が眼鏡の蔓を押し上げる。
【こんな辺鄙な基地に敵の目標となるものがあるとすれば、それは【Deep Wheel】以外にない。そんな事は分かっています。現在、非常電源に切り替えて稼動し、周辺ブロックは完全に密封されています。此方側から手出しするには大統領権限が必要なエリアになった。そうである以上、この基地の人間が全滅しても敵に【FIFTH】が渡る可能性はありません】
【ご大層な機械があるのは知ってたが、化け物に狙われるような代物とはな。数十年前の映画でももう少し前フリくらいあったぞ・・・クソ】
兵士の愚痴に白衣の男は首を横に振る。
【非ノイマン型のパターン・ベースド・コンピューティング・システムの最高峰。【Deep Wheel】は演算能力自体は量子コンピューターに劣りますが、セル・オートマトンやニューラルネットワークの流れを受け継ぐ最先端のマシンです。もし手に入れる事が出来たなら世界の未来を動かすに足る。情報操作があったとはいえ、それでもステイツそのものと言っても過言ではない。敵にしてみば、米国の喉元に刃を翳しているようなものでしょう】
2000年代初頭。
遊戯において人間がマシンに負ける事は規定路線と為りつつあった。
発想で上を往く人間に対して数億手先まで読む機械。
人間のような知能的問題処理能力が上昇していくマシンはやがて【疲れない達人】となった。
アルゴリズムの改良。
演算能力の飛躍的向上。
ミスをしない機械を相手に最善手を打ち続けるのは人間には難しい。
それはチェスだろうと将棋だろうと戦争だろうと変わらない。
現代、戦争を遂行する上で必要とされる戦略支援システムは各国にとって開発競争が激化した分野だ。
無論、システムが駒の代わりに兵隊を動かすようになったわけではない。
あくまで支援目的の最適な行動を提示する機械として戦闘に携わるようになっただけだ。
しかし、向上していくシステムの回答はとある年代を境に現場指揮官の出す最善手に近くなっていった。
故に戦闘となれば、先進国の軍指揮官は己の作戦に対して複数のシステムからの回答を取り寄せ、吟味を繰り返す事となる。
そのような状況に合わせるべく軍事基地に戦略支援システム専門の技官(システムエンジニア)が入り込むのは現代では常であったが、同時に兵達は技術者というより科学者と言うべき者達との付き合い方に戸惑ってもいた。
彼らにしてみれば、白衣の男達が言っている事は重要だが眠くなる話に他ならない。
【OK。オレにも分かるように言ってくれるか。とりあえずヤバイんだな?】
呆れた様子で白衣の男が溜息を吐く。
【今の状況を簡単に言いましょう。もし【Deep Wheel】が敵の手に落ちれば、米軍の将校の雁首を全て飛ばしても足りない損害が出ます】
【理解した。ステイツの危機って事だな】
【ええ、同時に世界の危機と言い換えてもいい。此処にある【FIFTH】はとりわけ軍事分野での機密が無数にインプットされている。核ミサイルの起爆コードすら入っているとの噂が真実ではないといいですが】
兵達が絶句した。
【核とかマジかよ】
米軍が所有する総合戦略支援システム。
【Deep Wheel】
米国本土、五つの基地に設置された五台のコンピューターは常にネットワーク上の情報を収集し、与えられた問題にそれぞれ独自の特色を持った答えを出し、互いに精査する。
一号機【FIRST】は米国国民の生命・財産の保護を優先した回答を。
二号機【SECOND】は軍事・国力の維持を優先した回答を。
三号機【THIRD】は同盟国・国連の協力を優先した回答を。
四号機【FOURTH】は共生・平和の理念を優先した回答を。
五号機【FIFTH】は敵・仮想敵の殲滅を優先した回答を。
相互補完の関係にある機体の中でも五号機は特に軍の使用頻度が格段に高い。
兵達の間にそれが噂であると笑い飛ばせる者はいなかった。
【チッ、それでそのイカしたマシンであの化け物共をどうにか出来ないのか?】
【施設内端末からの干渉は五分前から物理的に不可能となりました。出来るのはマシンの吐き出した答えを覗き見る事くらいでしょう】
【洒落にならねぇ】
苦虫を噛み潰したような顔で兵の一人が吐き捨てた。
【主任!! 【FIFTH】監視班から報告です!!! 突然、他の命題への回答を途絶!!! ただ一つのコードを繰り返し発信しているようです!!!】
【何だって!?】
【おい。どうしたんだ!?】
白衣の男達が慌てて視界の中で手話のようにハンドサインを出す。
動きを読み取った彼らの網膜に張り付く極薄のデバイスが瞬時に電子情報を投影した。
【―――【JNF】・・・何のコードか分かる者は!!】
主任と呼ばれた男の声に白衣の男達が全員首を横に振ろうとして、一人だけ凍り付いた男がいた。
【何か心当たりが?】
【は、はい・・・THIRDの保守に友人が携わっているのですが、その・・・末尾がNFというコードを保守点検の際に見たと聞いた事が・・・】
【だから、それは一体何のコードなのかと訊いて―――】
途中で主任が言葉を切った。
話を聞いた男の顔が真っ青になっていた。
【何か重要な?】
男が重苦しく呟く。
【その領域の他のコードから類推した友人は冗談だと思いますが、その・・・ニュークリアーフォーマットの略ではないかと】
【―――まさか】
さすがに否定しようとした主任だったが、確かめる方法がある事に気付き、他の機体の情報にアクセスする。
【これは・・・】
一つの命題に対して五つの機体が互いの行き過ぎを防ぎつつ最善の答えを出す【Deep Wheel】の特性上、重大な決断は他の機体の判定を受けて多数決となる。
ネットワーク上には【FIFTH】からのコードを受けて他の四機からの回答が既に出ていた。
否決2。
条件付賛成2。
ゾワリと主任の鳥肌が立った。
【主任・・・】
白衣の男達も状況の不味さに気付く。
【一つ訊きます。最初のJは何を指しているのか分かりますか?】
主任はもうその答えを半ば予想していたが、敢えて聞いた。
【その時友人が見たコードは『CNF』だったそうです。普通ではアクセス出来ない領域内で採決されていたらしく。それが【日中近海事変】の当日だった事からCは―――】
【分かりました】
主任は最後まで言わせなかった。
(頭文字が国名だとすれば、まさかJは・・・在り得ない・・・とまでは言えないですか)
近頃のステイツが日本と距離を取っている事はネット上の情報を見れば一目瞭然だった。
【とにかく外部からの増援を待ちましょう】
当たり障りの無い事を言って誤魔化したものの、その場の誰もが不安そうな顔をした。
条件付賛成が一つでも賛成になった瞬間、何が起きるのか予想した者は唾を飲み込む。
(だが、どうして表層に情報が・・・何かしらの攻撃を受けているのか?)
そうして、米国に新たな危機は到来した。
深刻な事態が連鎖していく最中。
些細な変化を敏感に感じ取った者は多くなかった。
米国だろうと日本だろうと。
多くの人々は何が起きているのか把握すら出来ず。
ただただ状況に流されていくのみ。
その中心にいる者すら、その自覚は無かったかもしれない。
それ故に。
海上をセダンで走破していく二人は気付かなかった。
何もかもが一点に向って集約されていく。
奇妙なまでの偶然(ひつぜん)の折り重なりを。
海の先に続く簡易ゲートを突破した車両の一団。
先頭を走る久重とソラは最後の確認をしていた。
背後の車両を乗っ取って走ってくる悪夢の如きND群を破壊する術を。
「分かった。後は任せろ」
「うん・・・」
顔を俯けて唇を噛んだ少女の頭が運転を自動に切り替えて後ろを振り返った手に撫でられる。
「そんな顔するな」
「でも、久重ばかりにこんな役・・・」
「NDの中の人間が死んでるか生きてるかは知らない。ただ、この方法は一番合理的だ。そして、オレはそれを支持して自分から役を買って出た。それだけだろ」
「・・・・・・」
「それじゃ、頼むぞ。ソラ」
「・・・絶対、絶対にあのNDは一網打尽にしてみせるから」
「五秒後に開ける」
後部座席の扉のロックが外れた。
「四」
微かな緊張感。
青年の背中を見つめてソラは拳を握った。
「三」
絶対に青年だけは死なせない為に。
「二」
己の為に他者を切り捨てるという選択を後悔しない為に。
「一」
(必ず、成功させてみせる!!!)
「今だ!!!」
ドアが開き、大きく跳躍したソラが海上の道を逸れて海へと身を躍らせた。
二人を追いかけてくる車両達の挙動が一瞬だけブレる。
しかし、結局は前のセダンを追う事にしたらしかった。
対象が二人に分かれる。
だが、ND群を二つに分けるのは危険。
そして、何よりも二人の面は割れている。
ならば、先に高速で逃げる車両を追って、後に移動手段の無い方を追えばいい。
そう合理的な優先順位を持って二人を追うND群はソラの方には見向きもしなかった。
車両の全てが高速で己から離れていく事を確認して。
海の中、ソラが久重にも殆ど見せない表情の無い顔で己の額を撫ぜた。
薄い輝きが文字列を浮かび上がらせる。
【SE】Fragment Accumulate.
Exclusive Control Mode.
Link Protection Connect.
Delusion Amulet Stand By.
Execution.
Function File Open.
【Devil1】Central Core Closed System 【Fatalist】.
Intervention Start.
Invade Collapse Rate 32.3323%.
Limited OS Ver.2.22 Open.
Super Resemble Closely Replica Increase.
Power Level Maximize.
「倒してみせる。博士・・・力を貸して・・・」
少女の呟きが夜気に溶けて。
すぐ近くまで迫っている大きな海洋建造物へと向けられた。
戦場は人々の憩いの場。
そうして外字久重は決死の作戦へと挑む事となる。
稼動。
待機状態を維持。
最適化を開始する。
情報を書庫に蓄積。
状況開始まで約3分32秒。
輸送ヘリの進路上にある低気圧の影響で+-44秒。
目標情報を再確認する。
耐久度最低。
戦術精度最低。
個体差による戦力誤差軽微。
増殖能力極大。
DNA情報の更新速度極大。
感染範囲測定不能。
DNA情報を持つ種は全て汚染されている可能性大。
目標中核の索敵を最優先。
変異種を更新中。
現在432項目の動植物で汚染確認。
変異種の消去優先度B。
完全変異前に焼却指定。
変異完了まで推定72時間。
装備再確認。
気象操作用ND12トン。
汎用恒常性ND2トン。
高速精密切断用ナノワイヤ140キロ。
マイクロ・ハイ・テルミット弾88発。
観測用XFELパルス発振器四基。
大出力CO2レーザー砲十門。
攻性電磁照射機二門。
機略戦用思考ルーチン開放。
時速140キロでの高速戦闘を推奨。
彼我兵力1対18。
作戦地域半径40キロ圏内での全力稼動の承認受諾。
光量子通信網に接続。
稼動個体同期。
【D‐NON】降下開始。
ガコン。
ハッチの開く音がして、暗闇が掃われる。
同時にハッチの内部から暴風が吹き荒れた。
白く輝く粉塵が上空数千メートルからばら撒かれる。
ほぼ一瞬で粒子は空に解けて見えなくなった。
―――状況開始。
全てのお膳立てが揃った世界に【彼女】が産み落とされる。
巨魁。
空飛ぶ要塞の如き輸送機から高速で落下するのは一塊の何か。
白銀のソレの表面に亀裂が入った。
その筋は微細になりながら分岐し、幾何学模様へと変化していく。
そうして今や周辺に生物の気配を持たないマンハッタン島のビル群の一角に【彼女】は直撃した。
国連ビル爆破の収拾に周辺が賑わっていたのはほんの40分前。
【十三人】の二人が相打ちとなったのは約12分前。
核攻撃に全土の基地が混乱している最中。
支援物資運搬と虚偽の情報によって全てを運んできた輸送機は空中で爆散。
現場の混乱に更なる拍車を掛けて、【彼女】の展開を支援する。
―――支援目標確認。
全土から戦闘機が集ってきている事態の中心で【彼女】が産声を上げた。
それはニューヨークに響き続けていた絶声を掻き消して、あらゆる音響観測装置を破壊し、市全域の窓ガラスを割り砕いた。
―――回収の後、戦闘を開始する。
現場を包囲して今更に防護服で放射性物質から身を守り始めていた警察も軍隊も何が起こっているのかを正確には把握していない。
それでも彼らの多くはその音を喇叭と錯覚した。
終末に天使が吹く音色を。
大気中に撒布されたNDが明確なネットワークを形作り、収集した情報を【彼女】に蓄積していく。
多くの情報の中には人々の顔もあった。
恐怖。
悲哀。
憎悪。
憤怒。
しかし、それに反応する事なく。
既に『汚染されている生物』に対して【彼女】はロックオンを開始した。
その時間約1.23秒。
市全域に渡って存在する遺伝子変異生物はこの短期間で454212個体以上。
尚も増加傾向にある。
それ以上の汚染拡大を防ぐ為、推定される汚染範囲から1キロ圏内の焼却処理が決定。
十数キロ先にいる工作員にコンタクト。
ばら撒いた気象コントロール用NDには多少の互換性がある。
汎用には及ばないものの一時的な修復は実行可能。
地下退避ルートへの移動指示が出される。
そうして【彼女】がビルの上で身動ぎした時だった。
ニューヨーク上空に集ってきていた複数の米軍機からミサイルが発射された。
排除対象に米軍は入っていない。
しかし、障害物に対して過敏に反応する防御機構は瞬時に相手から向けられた武装を解析、既存兵器と照合し、最適な迎撃手段を取った。
白銀の繭の内側から亀裂を上って武装が出現する。
大出力CO2レーザー砲十門。
攻性電磁照射機二門。
未だ落ちていないビルの電源へ侵入したNDが膨大な電力を吸い上げ、巨大な筒達に叩き込んだ。
唸りを上げる機構。
一瞬の間を置いて十門のレーザー砲が瞬時に周辺のミサイルを精密照準して、薙いだ。
同時に上空に向けられた電磁照射機から凡そ航空機のあらゆる電磁波対策を突破して電子兵装を破壊する破滅的な力が発射される。
広範囲に渡って静寂が刹那を支配した。
半径十キロという狭い空域に集結しつつあった米軍機の全てが、米軍最強の航空防衛部隊が、一秒の静寂を突破してただの屑鉄と化し、全て墜落した。
爆発するミサイルの衝撃に煽られ、【彼女】がビルから落下する。
その光景を食い入るように監視衛星から見ていた軍司令部や大統領以下全ての官僚達は頭を過ぎった正体不明のソレに対する勝利の確信を覆され、現実を知る。
【何だ・・・何なんだアレは!!!?】
エアフォースワンの機内。
大統領はそう言わずにはいられなかった。
オンラインで全てを見ていた誰もそれに答えられず。
恐ろしきモノが、落下した道路から立ち上がる。
完全に変異した白銀の巨魁は全高十数メートルの人の形をしていた。
その背後にはまるで骨のように細い砲列やミサイルと思しき翼。
蠢く白銀の表皮は泡立ち、無数の目となって耳となって鼻となってあらゆる生き物を見逃さない。
一つだけソレに人型としての欠点があるとすれば、それは頭部が無い事だろうか。
無論、米国の誰もが知らない。
人に無ければならないものが【彼女】には無いという事など。
【彼女】には中枢がない。
【彼女】には頭部がない。
【彼女】には心臓がない。
それが一体何を意味するのかを彼らはまったく知らない。
オリジナルロット。
博士が残した自立してNDの情報を賄う事の出来る制御コア。
その実態が現時点で人類が到達出来る最高精度ナノデバイスの超高密度集積体であり、独自のOSを積んだND間並列ネットワークであるとか。
コアそのものはエネルギー貯蔵機能を外せば、殆ど自由自在なNDの結合体でしかなく、稼動時間以外の弱点という弱点が存在しないとか。
現時点の人類が保有する兵器では核以外に為す術もないとか。
そんなのは彼らの頭には露程も無い。
だから、彼らに【彼女】の所業は止められなかった。
【彼女】の背後で88発の破滅がそれぞれの目標区画へとロックオンされる。
全てを焼却する業火の矢。
テルミット弾の超小型集積体。
四本のフラクタルな筒がニューヨーク上空へと撃ち上がる。
そして、無数に分裂した子弾がシャワーの如く世界に降り注いだ。
最初に炎が吹き荒れたのは国連ビル。
そうして連鎖が始まった。
吹き荒れる高熱がビルをインフラを生物を高熱に融かし込んでいく。
【こ・・・んな・・・ことが・・・】
市警も軍隊も避難民も、小さな蟲から鼠・細菌やバクテリアに至るまで、半径十五キロ圏内の全ての生物が改良を重ねてきた人類の火の一つに没した。
大統領以下その光景を見ていた全ての官僚達が言葉を失ったのは彼らが人間だったからだ。
あまりにも儚く、何の躊躇も無く、命がまるでただの蝋のように失せてしまったからだ。
戦争。
それは彼らとって現実的な対応を迫られる脅威だった。
しかし、ニューヨークに現出したのはたぶん戦争ですらない。
ただの【消去】だ。
圧倒的。
ただ只管に圧倒的な【作業】だ。
モラルとか人道とか人権とか。
虐殺とか殺戮とか鏖殺とか。
そんな言葉にある人間臭いエゴすら、その【作業】には無かった。
言うなれば、人生という言葉に消しゴムを掛けたような。
【・・・杖の使用は可能かね】
たった一人の会議室。
ホログラフで浮かび上がる閣僚の誰もが大統領の言葉に息を飲んだ。
【大統領お待ちください!!!? それはあまりに早計過ぎます!!!】
【状況を見たまえ。あの兵器か化け物は健在だ・・・あんなものを他の州へ出す事になれば、被害の拡大は必至ではないかね?】
【ッ、それは!!? ですが!!?】
閣僚達が衛星からの映像を絶望的な表情で見つめる。
炎に没した世界の中心で白銀の輝きが確かに確認出来た。
【これが十三人に手を出した報いだとするなら、我々はもう戻れないところまで来ているという事だ。日本に対する核攻撃を推奨する【FIFTH】のコードが承認される結果になった場合、核は無いにしろ・・・彼らのホームである日本の再占領計画は前倒しする】
【大統領!!! それは未だ時期尚―――】
テーブルに拳が叩き付けられた。
【たった十三人・・・たった十三人だぞ!!! アメリカが世界最大の超大国である事は今も変わりない!! だが、その力に奢った結果がコレだ!!? 穀物自給は致命的な打撃を受け、国連ビルは爆破され、挙句に核の使用とあんな化け物を呼び込んだ!!! 【F‐44】へのハッキング!! 【Deep Wheel】を有する基地への攻撃!! 日本政府からの情報途絶!!! 事態の一端は我々にあるとはいえ、我々が触れたのは禁断の領域ではなかったのか?!! どうしてこうなったのか誰か説明してみたまえ!!! CIAやDARPAにこれら全ての責任が取れるのかね!? 私は強いステイツを再びと望んだだけだ!!! それ故に統一されない【半分】の行動を黙認しても来た!!! だが、既に事態は【SB】の計画範疇を大きく逸脱しているはずだ!!! もはや猶予はない!!! 技術奪取計画は即刻凍―――】
【大統領!!!】
【今度は何だ!!? 宣戦布告でも受けたか!? それとも宇宙人でも攻めてきたか!! もう何も驚かんよ!!!】
【ニュ、ニューヨークに現われた白銀の巨人と同タイプが【Deep Wheel】保有基地周辺及び国外でも確認されました!!!?】
【何だと!?】
【今、映像を出します】
六つのウィンドウがホログラフによって開かれた。
【現在全基地に増援を送っていますが、あの巨人の出現により現場が混乱しています。各地の現場指揮官から司令部に指示を仰ぐ要請が!!】
【何と・・・言っている】
【戦うべきか。戦わざるべきか】
【大統領。現在、専門チームが解析していますが、あの白銀の巨人はNDで全身を構成されており、現行の通常兵器では歯が立たないと報告が・・・】
【同胞を見捨てろと言うのか?】
【いえ、様子を見るべきでは、と】
深く。
深く深く半日ですっかり老け込んだ感のある男が溜息を吐いた。
【距離を取ってこちらからの攻撃は控えるよう。だが、もし攻撃された場合は全力で応戦せよ】
【はッッ!!!】
グッタリと椅子に凭れ、目元を片手で解して、男が六つのウィンドウに再び視線を向ける。
【それで国外と言ったが、一体何処に?】
【その、それが・・・】
【ハッキリと言いたまえ】
【は、はい!!! 日本の東京であります!!!】
【どういう事だ。何故、日本にも・・・これは日米に対する同時攻撃だとでも言うのか・・・】
【げ、現在情報を確認中ですが、東京の通信途絶はどうやら潜水艦による首都攻撃の影響ではないかという事です。現地基地からの情報に依れば、東京湾に巨大な影が見えると。それに呼応するように市街地で白銀の巨魁を観測したとの報告が多数・・・】
【アジア近辺の衛星からの情報が途絶しているのも東京攻撃の影響かね?】
【それは何とも・・・ただ、大規模なサイバー攻撃が世界中のマスメディアやサーバーに対して継続的に行われている模様です。これらの攻撃元の特定を進めていますが、日本からではないかと】
【大統領。このまま日本占領に動いてはステイツの陰謀と他の諸外国に取られてもおかしくありません!!】
閣僚の一人の言葉に同調する声が次々に上がる。
【もしも計画を前倒しすれば、同盟をこちらから一方的に破っただけのみならず、同盟下の国が攻撃されている最中に攻撃したと非難(バッシング)を受ける事にも為りかねないのでは!?】
ただ一人。
円卓に一人の男は。
重圧に潰されそうな内心の弱気を打ち消して、厳然と周囲のホログラムの閣僚達と見つめた。
【ここが国の瀬戸際である事は誰もが理解している事だろう。此処で判断を誤るわけにはいかないが、決断を遅らせるわけにもゆくまい。命題への最終回答期限である五時間後【Deep Wheel】の判断を待って日本再占領の時期は前倒しするかどうか決める事とする。ニューヨークと他の地域の巨人に対しては現行戦力での対応が限界と現場指揮官が判断した場合、あるいは【Deep Wheel】の内のどれか一つでも敵の手に落ちるか破壊された場合、日本以外に【杖】による衛星高度爆撃を開始する。これに異論がある者は前へ。この後に及んでの意思決定速度の遅滞はステイツへの反逆に等しい。この場で即刻大統領権限により罷免とする】
誰も。
その男の前に、出る者はいなかった。
それが決定。
世界で唯一超大国として残った人々の決断。
【では、各自。最善を尽くして欲しい。祖国と国民達の為に】
ホログラフの席を立つ閣僚が数人。
通信を始める者が数人。
関係機関との調整を続行する者が数人。
一人。
ただ一人。
アメリカ合衆国大統領だけが、その場で手元の小型端末を見つめた。
彼の横には一つのアタッシュケース。
開かれた内側には窪みが一つ。
(この端末で躊躇い無く撃つと決断した時、私はどんな顔をしているのだろうか)
それは核弾頭を搭載したICBMの発射を行うシステムの端末。
核は無いにしろ。
そうホログラフの先の閣僚達には言ったものの、本当に決断を迫られた時、彼はその端末に指を押し付ける覚悟が出来ていた。
(ただ・・・この破滅の引き金は・・・本当に・・・彼ら十三人に通用するのか?)
彼は横に置かれていた擦り切れる程に読んだファイルを手に取って開く。
その黒いファイルの一行目。
題にはこう書かれていた。
―――●●●●●●による核分裂反応抑止の可能性。
黒く塗り潰されている単語が幾つかある。
ただ、その報告書にあるのはまるで一昔前のSFに出てくるような単語だった。
原子力研究の道を志す者なら一笑に付すだろう。
だが、ファイルの中にはDARPAの文字があった。
嘗てただの軍事技術の研究機関だった其処が新たな道を目指し、多くの秘密実験を行うことになった、陰謀論者達の言うような機関になっていった、その最初の原因。
「核すら決定打とならない世界・・・か・・・」
それは嘗ての第二次世界大戦前夜を彷彿とさせる世界だろう。
核の無力な世界とは人類が滅びない世界であると同時に無限のテロによって疲弊し、永遠に戦いが終わらない事を意味する。
例え戦争が終わってもテロが起こり、テロを止めても、革命が起こり、大国は正面から消耗戦を行うしかなく、戦死者の数を数える仮初めの平和すら、たぶん短い。
抑止力なんて言葉が消え失せるに違いない。
核戦争による人類の死滅と恒久的な先進国の平和は天秤に掛かっていた。
しかし、そのファイルの戯言が現実になれば、圧倒的暴力の統制を失った国家間のバランスは崩れ去る。
博愛の精神を、人道的な価値を、平和への理念を、そんな建前すら失ってしまう国家が多数だろう。
勝てると踏めば、戦いを仕掛け、負けると分かれば、躊躇い無く核を撃つ。
そんな暗黒時代の到来となる。
自国だけでも生き残れる。
そんな共同体(せかい)を理念(げんそう)を壊す技術は要らない。
もし、そんなものがあるとすれば、管理出来るのは唯一アメリカ合衆国のみ。
(そう奢った結果が・・・コレか・・・)
炎に沈む基地周辺。
燃える大気の先に揺らめいて、白銀の首無し巨人達が佇む。
「終末の天使・・・神を気取った人間が生み出したものならば、なるほど吐き気がする程に皮肉だな」
彼は目を閉じた。
新たな報が来る時を思いながら。
新たな決断が迫る時を思いながら。
優秀な意思決定者とは一重に重要な決断と冷静な判断を行う時以外はただ待つ事が、忍耐が求められる。
それが有事の際ならば尚更に。
「・・・・・・」
チクタク・チクタク。
チクタク・チクタク。
エアフォースワンに唯一備え付けられた彼の趣味が時を刻む。
出口の壁の上。
箱の中、発条仕掛けが動かす秒針が、正確に彼の時間を消費する。
やがて、決断の時がやってくる。
きっと、その日、彼は世界で一番長い時を生きた。
それはたぶん間違いのない事だった。
唐突の首都攻撃によって初動の遅れた自衛隊及び米軍は混乱を極めていた。
市ヶ谷の防衛省は沈黙。
地下施設は半壊。
死傷者は多数。
防衛相と高官の殆どが巻き込まれなかったとはいえ、地下にいた者を除いて詰めていた職員は殆どが死亡・重症を負って斃れ伏した。
原潜が出現してからの十五分。
その空白が全てを決したと言ってよかった。
電波という電波の全てが全帯域で妨害され、同時に国内の主要なサーバーが殆ど一時的にダウンさせられ、更に日本が数十年を掛けて国土全域に普及させた光ファイバーのインフラが東京圏内に限って物理的に切断されたのだから、誰が何を知ろうとしても無駄な足掻きだったのはしょうがない。
情報は錯綜すらしなかった。
東京近辺の自衛隊基地からすれば、突如として東京からの通信が遮断された事になる。
一時、核によって東京が崩壊したとの誤情報が駆け巡り、多くの基地で悲観論が多勢を占める事にすらなった。
米軍や日本政府の持つ監視衛星の情報が何とか妨害から復旧し、その大規模過ぎる目暗ましを看破した時には全てが遅かった。
凍り付いた東京湾を渡った戦車砲からの一斉射撃は目標をほぼ全て崩壊させた。
羽田を目指して東京上空を飛んでいた複数のジェット旅客機がECMによって墜落、各区で落ちてくる激甚災害と化した。
変電所など電力供給の要である施設が軒並み破壊された事で大都市の都市機能が一気に落ちる現象が多くのインフラを巻き込んだ。
戦争直前。
そう事前に警戒していた事もあって都民の避難誘導だけは警察主導で迅速に行われつつあったが、砲撃によって崩壊した地区やジェット機の落ちた区域では混乱が続き、地下鉄もかなりの路線間で運行出来ない事から避難や帰宅が困難な人間を多数生み出すに至っていた。
その最中、東京湾で転覆した海上保安庁の船から脱出した数十人の和僑系テロリストはクシャミをしつつ、港湾部から脱出していた。
大牙会の面々である。
恐らく周辺区域でまともに動ける集団としては唯一の男達。
その先頭を往くのは歳には勝てないと近頃思い始めたばかりの我東大牙だった。
「おい。海上保安庁の方々に迷惑掛けるんじゃねぇぞ!!!」
【へい!!!! お頭!!!!!!】
男達が一糸乱れぬ統率で返す。
海上保安庁の職員達は自分達が今まで犯罪者として扱ってきた男達に肩を貸されたり、負傷して運ばれたりしながら、事態の未だ多く理解出来ずにいた。
職員達の中で最も権限が強い船長との一時的な協力関係を経て、湾内の氷を渡って巨大な潜水艦から遠ざかりつつある我東は背後をチラリと見た。
組員達の疲労度は大きい。
ある物は何でも使って転覆した船底をブチ破ったが四十分掛かった。
外に出て何が起きたか大方の予想を付けたのが五分前。
各国を渡り歩く和僑として一通りの軍事の知識を修めていた我東は湾内の巨大な影が想像を超える規模の揚陸潜水艦であると看破したが、だからと言って何が出来るわけでもなかった。
(こいつはまずいな。空と周辺の様子からして完全に制空権を失って、インフラが止まってるんじゃねぇか? だとしたら、港湾への救援ヘリは考え難い。初動が遅れてなきゃ、今頃付近に警察車両がごった返してるはずだが、その気配も無ぇ。気張るしかねぇな)
湾の端に辿り着き、陸に上がる頃には全員が息を切らしていた。
「船長さん。悪りぃが此処からは全員が命掛けで避難しなきゃならないようだ。アレを見れば分かる通り、今の東京は完全にあの黒いのにやられちまってる。この状況であんたの指示を受けられない事もあるかも知れねぇってのは理解してくれ。それと負傷者には最低二人組員を付けて脱出の指示を出すが、残りの奴らに関しての命令はオレとあんたの合意の上で行いたい。どうだ?」
五十代のやや腹が迫り出してきている制服姿の男が僅か躊躇してから頷いた。
「ああ、非常時に我々を見捨てて逃げ出さなかった貴方の言葉を信じよう」
「有り難てぇぜ。感謝する。それじゃ、さっそくだが負傷者と付き添いの連中以外はここら一帯の情報を把握するのに走って貰いたい。端末が使えないようだから、十五分で返ってくるよう言い渡して、避難ルート確保、情報収集、逃げ遅れた奴の捜索を軸に行動する。逃走が心配なら組員と職員は混合で班にしてもいいんだが」
壁に背を預けた船長が頷き、職員側の説明へと回った。
一分と経たずして、職員と組員の混合部隊がそれぞれ数人ずつ各方面に散っていく。
残った者は湾近くのコンビニへと退避する。
暗く誰もいない開け放たれている店内で食料やその他の雑貨を確保しながら、我東が負傷者の傷を手当していると職員の女性の一人がポツリと外を見て呟いた。
「夜って・・・こんなに暗いんだ・・・」
「・・・お嬢ちゃん」
「あ、は、はい」
犯罪者とはいえ、それでも年上に敬意を持って応えた二十代後半の娘のような歳の女に我東はゆっくり笑う。
「外国の夜はもっと暗いぜ? 星座だって眩く見えるくらいな」
「そう、なんですか?」
「十八年前からはそりゃもうそんな国が増えた」
「あ・・・その・・・それって・・・」
「あぁ、電気なんか通って無ぇのさ。ただ、それでもな。人間てのは不思議なもんでよ。暗いなら暗いなりに愉しむもんさ。望遠鏡を買う人間が増えたなんて笑い話もある」
「望遠鏡を?」
「オレ達和僑は貿易商を兼ねるのが普通なんだが、あの黒い隕石事件以降、何処の国に行っても日本製の望遠鏡ってのは一定の需要があるんだ。人間てのは死に瀕し、生活すら儘為らないからこそ、ロマンてやつを求める生き物なのかもな」
我東を見つめて、女性が頭を下げた。
「・・・あの・・・ありがとうございます」
「礼を言われるような事は何一つしちゃいねぇぜ?」
「でも・・・貴方達がいなければ、船底の破壊も湾からの脱出も不可能でした。貴方達が犯罪者である事は知っています。でも、貴方達がいなければ、あのまま私達は窒息して死んでいたかもしれない。だから」
そっと頭が下げられる。
「よせやい。こういうのは日本でこそ普通なんじゃねぇのか?」
「え?」
「オレの母親は日本からわざわざ海外に移民した物好きだったんだが、いつもこう言ってたぜ? 誰かを助ける時、誰かに感謝されるような事をした時、こういうのは日本では【お互い様】って言うのよってな」
少しハッとした様子で女性が目を見開く。
「そう、ですね・・・誰だって【お互い様】なんですよね・・・」
「ああ、そうだ。よくこの国の人間の民度が高いなんて外じゃ話に昇るが、実際は民度が高い行為なんて日本人は意識しないだろ?」
「そうかもしれません」
「だから、オレは思うんだよ。人は一人では生きられない。いや、生きていられない。そんな何処よりも過酷な環境だったからこそ、この国の人間はこうして誰かを助けるのが普通に思えるようになったんじゃないのかってな」
「そう、なんでしょうか・・・」
「外でも過酷な環境はある。だが、誰も他者を助けて己が助かるなんて思想あまり持ち合わせちゃいない。施しとか福祉とかはそもそも寄付なんかと同じで金持ちの道楽の部分があるからな。人権が声高に叫ばれても宗教が優先され、災害で現地のモラルが崩壊する事例なんざ至って普通の事なんだよ」
「日本は災害ばかりにあっているから、こうなるしかなかったって事ですか?」
「そうだな。地震雷火事親父。大雨洪水津波に噴火。何でもござれ、災害の総合商社とは日本の事じゃないかと近頃は思ってるな」
女性が困った苦笑を浮かべる。
「あ、あはは・・・確かにあんまりにもそういうのが多くて麻痺してるのかも・・・」
「そういう日本出のオレの母親はよく聞かれてた。どうしてそんな風に助けてくれるのかって移住した現地の人間にな。そうしたら『生きていきたいから』なんて言っててな」
「生きていきたいから?」
「それを聞いて母親の友人はよく分かないと言ってた。が、月日が経って・・・母親が死んだ時、ようやく言葉の意味が判ったらしい」
我東がちょっとだけ頬を掻いた。
少しだけ恥ずかしそうに。
「その時、父親は既に他界してて財産なんぞ欠片も残ってなかったんだが、オレの学費をその母親の友人が出してくれて、オレは何とか学校を卒業出来たんだ」
「それって・・・」
我東が頷く。
「その友人が言うには『貴方がこれからも不自由せず生きていく事が出来るのは貴方の母親のおかげ・・・そして、貴方もきっとそういう人になるわ』だそうだ」
「素敵な・・・お母様だったんですね」
「生きていきたいから。上手い事言うなとその時、オレは思ったよ。きっと、理屈じゃねぇんだな」
我東がゆっくりと立ち上がってコンビニの外を見た。
「そういうのは人から人に伝わっていくもんなんだ。助け合う事を強制され続けた結果だとしても、きっとそれは間違いじゃない。此処は、この国は、そういうえらく危険と隣り合わせな運命を持ったお人よしが多い場所なんだとオレは思ってる」
続々と返ってくる組員と職員達から逸早く報告を受ける為、我東が歩き出す。
「出立の準備を」
たった一声でその場で蹲り、休息していた
誰もが顔を上げた。
コンビニの外からやってくる数台の車両のライトに照らし出され、男の影が伸びる。
「一つ言い忘れてたな」
振り返った男が唇の端を吊り上げて笑みを浮かべた。
「おめーら。連絡先ぐらい残しておかないと罪状が増えるぞ」
クスリと。
今まで我東と話していた女性を皮切りに辺りへ苦笑が広がっていく。
そうして笑いに包まれて負傷者や逃げ遅れた者を増やした一団はコンビニを後にした。
誰もいない店内。
カウンターには大量のメモ用紙が残され、やがて奇跡的に無傷で発見される事となる。
そこには海上保安庁の住所と職員達の名が連ねられた紙もあり、緊急時にしても多い支出額が後に問題となって査問を受ける事となるが、誰もただ己の不徳の致すところですとしか答えは返らなかった。
深夜の東京でひっそりと人々の反撃が始まる。
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第五十九話 前夜
第五十九話 前夜
悪意を回転せよ。
正義を打倒せよ。
遊戯の性は程々に。
祖は盲目の徒。
月に翳る静けさよ。
いや、其処に貴方はいる。
さぁさ、今宵の演目は。
時の砂は尽きた。
ならば、やらねばならぬ事がある。
涙に興じるもいいだろう。
夢に遊ぶも又然り。
全て溶けて爆ぜ尽きた。
開幕の時間と相成って。
そう、兇人も善人も最後にはきっと貴女が。
螺子の締まる音がして、人々の情報が何もかもを記録する膨大な書庫へと収められていく。
それは一つのネットワークだった。
人々には知られない秘密の一つだった。
誰も知らないわけではないが、世界の殆どの人間には関係ない。
それを通して多くが自動的に収集されていく。
ある情報は映像だった。
東京。
その何処かにあるコンビニ。
走る高速の影。
虎のような俊敏さで人間には出せない速度で進む。
ある情報は画像だった。
東京湾付近の海水温。
ポッカリと浮かんだ白の空白。
熱量を現すサーモグラフ。
ある情報は人の声だった。
ドイツ語訛りの英語で。
助けて助けて神様。
ある情報はネットの書き込みだった。
東京とニューヨークが核で攻撃された。
軍閥連合の仕業に違いない。
多くの人々の名状し難き不安。
複合的に押し寄せる情報無き故の恐怖。
まるでそれは病に似る。
情報の海はカテゴライズされ、納められていく。
その過程で情報に本来とは違うものが奔る。
意味不明の言葉の羅列。
何を表しているのか定かでは無い言葉。
示されているのは一体何の話なのか。
―――GIONET Connecting.
チャットのログ。
ダウンロードされた新世界より。
人格模倣プラグラムの精度向上数値。
可愛いお船と兵隊さん。
可哀想な鋼のお人形。
面白い女の子。
棺桶の君。
使っても気付かない鈍い少女。
変わりつつある少年。
―――ERROR.ERROR.
海に飛び込んだ貴女は何処に。
―――ERROR.ERROR.ERROR.ERROR.
一人逃げた貴方は何処に。
―――ERROR.ERROR.ERROR.ERROR.ERROR.ERROR.ERROR.ERROR.
今日は此処までにしておきなさいと誰かの声がして。
Fatelist NetWork ShutDown.
ネットワークの全てが閉ざされた。
業火に包まれつつある世界で避難し損ねた人々の一部はその影を見つけていた。
何処から現われたというのか。
知らぬ間にソレはあった。
銀色の巨魁。
ブクブクと沸騰しているのか。
泡だった表面が蠢き、未だ生きているライフラインより電力をガスを情報の欠片を吸い上げる。
炎に包まれたビルから、並木道から、道路から、車から、上昇する周辺から熱量を吸い上げる。
貪欲という言葉が相応しい。
炎に囲まれた一帯の炎がソレの【吸収】によって消えたのは意図された事ではなく。
ただの偶然の出来事でしかなかった。
それでも取り残されていた人々は瓦礫を跨ぎ、炎の消えた鉄板の如き地面を逃げてゆく。
己の背後へと脱出していく人々に目もくれず。
いや、あらゆる意味で危険度は最低と見積もって。
ソレはゆっくりと立ち上がる。
米国に現われた【彼女】とは似ても似付かない姿として。
【彼】は昆虫の姿をしていた。
可愛らしい蟲の容(かたち)。
複数の脚部。
卵型の胴体。
だが、やはり【彼女】と同じく頭部はない。
蜘蛛。
地に根を下ろすように足は地面にベットリと吸い付いている。
強力なECMの最中。
それでも的確に情報を拾い相手の位置を捕捉した【彼】はその時を待っていた。
投入された武装は多くない。
米国本土を蹂躙する【彼女】と【彼】は使用目的が違うのだから。
敵を圧倒的火力で掃討した後、超高速での機略戦を行う【彼女】に対して【彼】は基本的にはそこまで動きが速くない。
都市部での戦闘を想定した【D‐NON】の都市戦装備は基本的に殲滅ではなく制圧と支配領域の維持に当てられるものばかりだ。
威力だけを見れば、既存の現代兵器より内臓される武装やプログラムの威力は大人しいと言える。
新世代の兵器を積んでこそいるが、聊か地味なのは【彼】を作った【連中】の中でも共通の認識だった。
湾岸部に展開された数十の砲列。
揚陸潜水艦より上陸した形を自在に変える球体と砲身で構築された戦車とは言えないソレがキリキリと最初の砲撃とは違いミリ単位で精密照準し、【彼】を捉えた。
約二十五キロ先。
最初に足を開き立った【彼】に向けて一斉射撃が始まる。
それまで沈黙していたというのに突然の号砲。
災害の明り以外が消えた東京の夜空を音速を突破した砲弾が飛翔する。
湾岸部で逃げ遅れた者や他者を救助していた者は再び恐怖へと陥った。
着弾までの沈黙。
主要道路の一角に鉄鋼弾の雨が降り注ぐ。
打ち砕かれた街路樹が、商店のシャッターが、硝子が、千切れ飛ぶ看板が、粉塵の中で消えていく。
唯一の救いは周辺区画の人々が巻き込まれなかった事か。
シャカシャカと【彼】は地を這うように砲弾を避けていた。
ビルの狭間を縦横無尽の六脚で走破して、追ってくる砲撃を軽業師よろしく回避していく。
ほぼ流体と化した多脚による移動速度は瞬間で百キロを越える。
それでも接地面であるビルの表面が砕けないのは恐ろしく高度な圧力とバランスの計算が行われているから。
砲弾も事前に【彼】が回避する軌道を読んだ上で砲撃している。
次々に東京を一面打ち砕いていく砲弾の嵐は【彼】の能力を持ってしても紙一重の回避となった。
ビルの壁面から跳躍。
背の低いビル側面へ着地。
更に道路へと跳んで、地下の線路へと潜り込んでいく。
東京地下に張り巡らされた複雑なライフライン。
止まりつつあるソレに身を潜ませて【彼】は分裂を繰り返しながら小さく小さく身体を分けていく。
蜘蛛の群れの行進。
線路を皮切りにして下水道やガスのパイプや埋没型ケーブルの設備点検用通路に至るまで。
【彼】の行進は留まる処を知らない。
やがて、全ての蜘蛛は速度を落とす事なく長距離を砲弾に砕かれる事なく移動し切り、目標である揚陸潜水艦近くへと到達した。
あらゆる噴出口から飛び出して、全てを食い尽くす蝗の如く兵器群を分解するはずだった蜘蛛達は・・・外への出口へ殺到した瞬間、指向性ECMに焼き払われた。
フラクタル・ドローン。
揚陸潜水艦より発進した万能機械群。
完全な対ECMコートの施された無数の六角形は全機がスタンドアローンでありながら、高度な自立判断プログラムによる連携で自身をECM兵器と化してND機械群の進行を食い止める。
物量で押そうにも強力な指向性電磁波の中では増殖もままならず。
【彼】は一時的に退避する事を選択。
銀砂を大量に零しながら新たな道を探しつつ、援軍を要請。
炎に飲まれた区画に次々に出現するNDの巨魁が尖兵である【彼】のデータを小さな首無し蜘蛛達から取得して活動を開始した。
東京の地上でも地下でも人ならざる機械の軍勢が激突。
日本全国の自衛隊・米軍基地から地上戦力が埼玉や神奈川に集結しつつある事を避難民達は未だ知らず。
三度の激突は三つ巴となる様相を呈し始めていた。
外字久重にとって畏れるモノなど、この世にはない。
おそらく言葉にしてしまえば、陳腐な話だ。
結局、どんな権力もどんな暴力も彼にはたわいないものに過ぎない。
故に彼はそんな力すらない、己の不足を嘆いていた。
無力を購う代価。
それを黒い女に縋った日から、彼は考え続けた。
自分に出来る事は何かと。
自分に出来ない事は何かと。
己の微々たる力を憎みすらした。
無力感に苛まれ、夜眠れないなんていつもの事だった。
―――眩い黄金の髪の少女。
一人逃げてきた少女(ソラ)。
その生き様に彼が夢から醒めた気がしたのはどうしてだったか。
幼くも死を覚悟した瞳。
希望が無くとも抵抗する瞳。
誰かに縋る事を良しとせず。
誰かに頼る事を良しとせず。
優しさを忘れなかった少女。
そう、彼と違って少女は真に誰かの為に身を投げ出せた。
自分の為ではなく、自分の無力に言い訳せず、戦えていた。
まるで彼とは正反対だった。
いつから自分がそういう人間だったのか彼は知らない。
ただ己の為に何かを成し。
他者を本質的に理解するが共感せず。
どこまでも自分の価値感を曲げられず。
決して真(まこと)を他者に預けない。
彼は己が優しかった事なんて一度も無いと知っている。
いつも脳裏には計算が働いている。
頭の何処かで打算が利いている。
自分の行動が相手に対して与える影響を考慮している。
怒りに我を忘れてすら、きっとそれは変わらない。
悲しみに瞳が曇っても、後悔の海に溺れても、純粋な喜びに沸いてすら、変わらない。
―――彼の祖父は言っていた。
それがお前の力だと。
それが唯一の力だと。
そう世界が滅びた日にも言っていた。
血塗れの顔で。
死んだ彼の母親の亡骸を抱きながら。
机に向って日記を付けていた彼にそう言った。
―――コポコポと音がする
少女達が優しいとかお人よしだとか言う男の中身は何て事ない。
自分を曲げられないだけの、誰が何を言おうと変らないだけの、大馬鹿野郎で。
―――ゴボゴボと息が漏れる。
そうして彼は、外字久重は気付いた。
自分が冷たい海水に満たされたコンクリートの部屋で気を失っていた事に。
「―――!!!」
残存するND残量を網膜に投射される情報から知る。
衝撃に消え失せた意識の途絶時間は僅か数秒。
海ほたる最下層。
凡そ、逃げ場なんて無い場所。
うねったパイプと非常用発電機。
そして大量のNDに占領された目的地。
誘い込む事に成功した時点で勝敗は決していた。
NDの弱点の一つ。
動作環境の悪化による機能不全。
それを強要する為の作戦に追ってきたND群は嵌った。
駐車場にセダンを止めて、ソラのバックアップを受けた久重は次々に電子錠を突破し施設内部に潜った。
多くのNDは駐車場に突っ込んだ車両群の中から這い出し、施設内へと速やかに充満、万が一にも脱出されないよう制圧していった。
それでも相手のNDを圧倒し倒すにはそれなりの『量』が必要だ。
故にND群は地下へと潜りながらも密度を薄めないよう大量に流入する結果となる。
そうして最終的に上層のND群は手薄になっていく。
相手を追跡しながら自己複製を簡単に行う余裕はない。
そう踏んだソラの推測は大当たり。
最終層。
コンクリに固められた密室。
逃げ場はないと判断したND群は正しい。
普通ならば。
久重達を襲うNDの製作者は常識的な範囲においてまったくNDの特性を熟知していたと言える。
故に既存概念へ囚われたプログラムは判断ミスをした。
「可能性は皆無」とされた状況が久重に追い付いた黒いND群に襲い掛かった。
待ち受けていたのは爆流。
破砕不可能とも思える海ほたるの分厚い補修され続けたコンクリート壁。
最新の建材に置換されてきたソレが海中から突破されたのだ。
間欠泉の如く噴出す海水。
それは久重を飲み込みつつNDの群れを機能不全へと追い込んでいった。
海水に囚われたND群は動きを大幅に制限され、海水に混じって突入したソラの操るNDにより駆逐されていった。
(ソラの全環境対応だとは思えないって言葉は事実だったわけだ・・・)
NDの環境対応は多くの場合、気象条件の事を言う。
それが常識。
繊細な機械群である汎用恒常性NDの環境適応とは全天候適応の事を指すのだ。
普通は。
だが、【博士】の生み出したNDは違った。
文字通り、あらゆる環境の中でエネルギーを抽出する事を目的に開発された。
大気中だろうと海中だろうと都市だろうと森林だろうと原野だろうと溶岩の最中だろうと。
地球全域での使用を可能としたからこその性能。
これがもしも【連中】の造ったものだったならば、そう話は上手くいかない。
彼らが使うのは博士の作ったモノの粗悪な模造品。
だが、劣っても地球全域での使用を想定されたもの。
故に相手が【連中】ではない時点でソラの作戦の成功率は高かった。
勿論、相手のNDの構造を簡易に解析した結果が間に合ったのは大きい。
推論が外れていれば、結果は言うまでもない。
(もう。先に行ってるか)
突入するタイミングは図っていたが、それでも分厚い壁を海中から刳り貫くという荒業。
完全には久重も意識を保てなかった。
それでも意識を失った数秒でND残量を回復して、施設を昇っていった少女の痕跡は見えている。
久重は上を目指して泳いでいく。
量ではどうやっても勝ち目がない。
そして、それを覆す為の囮作戦。
もし、数秒でもタイミングがズレていれば、久重は骨も残らず蛋白質とカルシウムと水分の残滓に成り果てていた。
もし、ソラの言う事が正しくなければ、全ては水泡に終わっていた。
しかし、賭けに勝った二人は未だ生きている。
通信制限によって情報封鎖している為、未だ連絡は取れなくても、互いの安否さえ分かるなら、不安は無い。
無呼吸で進む間も上で起こる衝撃が水中を揺らしていた。
震える廊下を縫うようにして進み、久重は階段を昇る。
「はッ!!」
安全か確認した水面へと上がってようやく久重はソラの姿を見つけた。
「ソラ!!」
「この階層はもう大丈夫。後は駐車場に残ってるのだけ」
「そうか」
ザアザアと浸水していく施設の中、彼らはようやく合流する。
「これでNDの量は互角以下。勝てるわ」
「ああ、頼りにしてる」
「うん」
並んで二人は走り出した。
「作戦。成功して良かった・・・」
心からの安堵の声。
「少し胆は冷えたが結果オーライだ」
頷いたソラが再び表情を引き締め、駐車場への扉を開く。
内部は久重が思った以上に黒い霧が立ち込めていた。
その全てがNDだと理解して、久重が思わず後ろに下がり掛けたものの、少女の声がそれを制す。
「大丈夫。ここまで減っていれば、負けない。絶対に!」
ソラの額に輝きの連なりが吐き出された。
「全てを鎖す氷獄。NO.00“Closed Jail”!!!!」
刹那。
稼動したNDによる熱量の極度の吸収に周辺が凍り果てる。
氷結する空気中の水分に取り込まれて霧がサラサラと音を立てて地面へと落ちて行く。
辛うじて残った敵対するNDの殆どがソラの操作するNDに次々破壊され、やはり地面へと落ちた。
「これで決着か。後はNDのサンプルを取って・・・仏さんを確認して引き上げるぞ」
「あ、ひさしげ!?」
「どうした?」
「その・・・今、探査したら車両の中の人達がまだ生きてるみたい」
「ッ、そうか。そりゃ朗報だ」
「うん・・・うん!」
ギュッと青年の手が握られた。
(良かったな。ソラ・・・)
内心、巻き込んでしまった事を誰より悔やんでいただろう少女。
その頭をポンポン叩いて。
青年は微笑む。
二人が自分の目で車両内部の様子を確認しようと車体へ駆け寄った時だった。
僅かな判断ミスが致命の隙となって、魔の時間を運ぶ。
車両内部。
いや、その内側にある人間の体内。
保険として残されていたND達は一斉に標的へと殺到した。
それは殆ど意味を成さない最後の抵抗だった。
二人を包んでいるNDの守りは殆ど鉄壁。
量で既に負けている為、人間の内部に残留していた程度の量では勝負にもならない。
だが、しかし、今まで追跡と破壊のみに特化していたND群は物理的な破壊を齎す為には動かなかった。
二人の周囲に黒いリングが出来上がる。
自動防衛プログラムにより、瓦解いていく環が一瞬。
たった一呼吸分の間、輝き、崩壊した。
「ひさしげ!!? 残留してるN―――」
「ソラ!? まだ、残っ―――」
グルンと二人の視界が塗り変る。
「ッッ―――何だ!!?」
「久重?!!!」
同時に二人は己の感覚を疑っていた。
今まで立っていたはずの自分達が寝かされているという、理解不能の状況。
「あ、あんた達起きたのかい!!? 良かった!!」
その初めて聞く声に咄嗟の動作で二人が車両内部と思われる空間の先、声の主に同時に手を伸ばす。
久重は手刀。
ソラは指先から伸ばしたメス状のNDの刃。
「―――?!!」
声も上げられず驚きに硬直した男は六十代の初老の男だった。
「貴方は誰」
ソラが油断無く周辺NDの状況を確認しつつ冷たい瞳で詰問する。
「ちょ、ちょっと待った!!? オレはあんたらに何もしてない!!! た、ただ、他の人に頼まれて固まってたアンタ達を此処に運び込んだだけだ」
「・・・ソラ」
久重の声にソラが手を引いた。
普通の一般人に見える男にNDや武器の類も感知しなかった為、NDの刃も虚空に消される。
「どういう事か説明してくれないか?」
「あ、ああ、というか。説明して欲しいのはこっちだよ!? 運転中にいきなり意識が途切れて、気付けば海ほたるの上で、しかも海水が入り込んでるんだから!? 驚かない方が変だろう!!? 全員が気付いたらそうだったんだ。それであんたらが何故か瞳を開いたまま固まってて。最初は死人か人形かと思った。此処にいた人の中に医学生がいて、あんたらを診察して何らかの薬かショック症状で体が硬直してるんじゃないかって話だったから、何とか無事だった車両に寝かせたんだよ」
「そう・・・だったのか。悪かったな・・・」
「あ、ああ、あんたらも訳も分からず此処にいるんだろ? 東京湾の方が今おかしな事になってるからまだこっちにいた方がいい」
「どういう事だ?」
「とりあえず車を出よう。その方が早い」
男が4WDから降り、二人も起き上がった後部座席から外へと出た。
「ほら、アレだよ。何だか黒い影が見えるだろう? 全員が起きてすぐに何かを撃ってる音が・・・たぶん砲撃だろうって話だが、そういう音がして、東京の明かりが・・・消えたんだ」
男は報告してくると駐車場端にいる十数人の集まりの方へ歩いていった。
「「――――――」」
二人はその光景に目を疑う。
眠らない都市東京。
その消えないはずの繁栄の明かりが外には存在していなかった。
いや、それだけならばまだ理解出来る。
何より理解出来ないのは二人が今さっきまで戦っていた時間帯、東京湾に巨大な黒い影なんて無かった。
それが突如として短時間で出現するわけがない。
「ひさしげ―――NDの稼動タイムを確認して」
「どういう事だ?」
「いいから。これ、どういう事か分からないけど、私達・・・今数時間後にいるみたい」
「何?」
久重の網膜に直接現在時刻とNDの防御限界を示す稼動タイムが表示される。
「丸々数時間意識が飛んでたってのか・・・」
唖然として久重が稼働時間に目を見張った。
「そうみたい。あの最後のNDが私達に何かしたんだと思う」
二人の同期したNDから齎される時刻は間違いなく深夜。
「待て。これ・・・何処かで同じような・・・」
「GIOで米軍の特殊部隊が自衛隊の人達に何かしてた。あれみたいに止められてたのかも・・・」
「そうだ! 米軍のあれか。どういう仕掛けか分からなかったが、あのNDは米軍のか?」
ソラが首を横に振って否定する。
「米軍が大量のNDをあんな意味不明な事に使う理由がない」
「それじゃ、同系統の技術か、それに近い代物って事かもな。技術の正体が何なのか分からないのが痛いな・・・」
「ひさしげ!! あれ!!」
「何だ!!?」
巨大な影の上。
暗闇を横切って、何かが、東京湾の上空で星明りを遮っていく。
その大きさは東京湾の影すらも飲み込もうというもの。
どれだけの半径を持つのか。
ソラが何かを感じ取ったように胸に手を当てる。
「そんな・・・嘘・・・あれ・・・あれは!」
「ソラ?」
「フラグメントが起動してる!?」
「どういう事だ?」
カタカタと肩を震わせながら、ソラはソレの正体に混乱した様子で拳を白くなるまで握り締める。
「あれはSE。シラード・エンジンの欠片なの・・・」
「なッ!? まだ連中は手に入れてないって言う話じゃなかったのか!?」
「分からない。でも、あれは間違いなくSEのフラグメント。誰が使ってるのか知らないけど、このままだと東京は・・・」
口の中で少女が呟いた言葉を久重は正確に聞き取る。
「ソラ。本当か?」
少女は首肯した。
「どうやらまた面倒事になってるらしいな」
ポリポリと頬を掻いて青年は東京に起こりつつある異変に苦い顔をした。
「ひさしげ?」
「ソラ。行くぞ」
「え?」
「仕事の途中だが、仕事する場所が無くなっちゃ困る」
「ひさしげ。えっと、その・・・私」
揺らぐ瞳が青年に向けられる。
「ハードな夜になりそうだ」
軽く伸びをして、今正に命を掛けたばかりの青年は少女に手を伸ばした。
「今にも一人で危険地帯に飛び出していきそうな顔をしてる家族を放ってはおけないからな」
「ひさしげ・・・」
全て見透かされて。
遠慮なんてするなと暗に言われて。
また巻き込んでしまう罪悪感に震えて。
命の危険を呼び込む己の業を悔いて。
少女は伸ばされた手を、そっと、掴んだ。
「まずは情報収集。それから現地に向おう。後は野となれ山となれ。頼む」
無鉄砲。
けれども、そうするしかない。
そう知る故に少女は頷いた。
言葉にする事もない。
手が何よりも雄弁に二人の意思を示した。
握り締められた手は逃げる為ではなく。
今度はただ立ち向かう為に結ばれる。
東京襲撃。
後に中国軍閥連合からの先制攻撃であると発表されることになる事件の渦中。
そうして偶然のように必然は招かれ、必要とされた最後の火蓋が切って落とされた。
東京に集う勢力は未だ知らない。
地獄のような世界が人々を飲み込む理由を。
自分達の決断が一体何を齎すのかを。
燃え上がる炎の下、審判は下される。
日本の命運は人々の上にこそあった。
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GIOGAME~東京決戦編~プロローグ
GIOGAME~東京決戦編~
プロローグ
人の五感の内で直接的に脳から記憶を引き出すものは匂いだと言われている。
心理学の心理誘導技術における工程が煩雑に見える程、香りは心理状態を大きく左右する。
香水、芳香剤、制汗剤、人口の香りは世の中に満ちているが、本当に記憶と関連付けられるのは極々日常的な部分で人々が嗅ぐ匂いだ。
例えば、常に人を色分けする香りというものがある。
特定の煙草を常用する者。
料理の匂いをさせている者。
農業に携わり土を弄る者。
それは父であったり、母であったり、祖父であるかもしれない。
人々の五感はそれぞれが多くの記憶と結び付くが、匂い程鮮烈に一瞬で記憶を引き出すのは難しい。
自分の家のカレーの匂い。
近所の畦道で見た夕景には夏の匂い。
懐かしいと思えるものには香りが付くものだ。
それは例え人の生活がコンクリートの上で行われ、土の匂いを忘れ去っても変わらない。
香りを科学する、とは誰の言葉だったか。
恐怖と人災に襲われた東京の最中。
人々が自らの周囲で嗅いだものは確かに多くの人間が知らない【戦争】の匂いだった。
ある者はアスファルトの焼ける匂いを嗅いで言い知れぬものを感じ、少しでもその臭いから離れたいと逃げ出した。
ある者は砲弾が降り注いだ場所に立ち込める住宅火災の煙に命の危機を感じながら、動けず横たわった
彼あるいは彼女達の思考は全てを塗り潰す争いの臭いの中で諦観へと変わってゆく。
故にそちらの方が余程に人らしい最後を迎えるに当たり、良かったのかもしれない。
というのも。
【・・・この匂い・・・何だったかな・・・】
今、諦観の淵で死していく者達は仄かに世界を包み始めた香りに一時、恐怖を忘れて。
諦めたくないと。
まだ、死にたくないと。
そう残酷にも思ってしまった。
助からない命。
そこに希望を齎す香りとは何か。
助かりたいという生の欲求を引き起こし、深い絶望に涙を浮かべさせるのは何者か。
香りを嗅いだ何割かの人間は恐慌を来たしていた精神を復調させ、理性的な判断力を取り戻して行動する事により、惨状から脱する事に成功した。
そして、残った何割かの人間は助からない事を悔しがり、咽び泣き、絶望を顔に浮かべながらも、最後まで生きたいとの思いを胸に没した。
果たして。
それは神の善行か。
それとも悪魔の所業か。
「・・・・・・」
東京湾に浮かぶ巨大な影。
揚陸潜水艦。
そこから現われた氷の小島。
幾多の無人兵器群。
銀の頭無き蜘蛛達。
世界覆う人造りし万能の雲。
それら全てが人間の業。
人が生み出した激甚災害とすら言える。
これらの悪意の塊が蔓延った燃える東京で。
周囲のビルに倒れ掛かり押し潰したスカイツリーの残骸の上で。
一人の女が全てを俯瞰していた。
全裸の女だ。
しかし、この騒がしい闇の中で身震い一つしない女だ。
日本人なのか。
あるいは外国人なのか。
顔はアジア系だったが、妙に特定の人種とは掛け離れた印象だった。
「【M計画】初期段階。国家活動の減速。及び人口破壊。順調に推移。高齢個体削減。重要情報施設の保護。重要人材の保護。実行中。実行中。実行中」
女の口からポロポロと零れていく呟き。
【十三人】以外知らないはずの言葉達。
「重要な要因(ファクター)であるND個体群の存在を確認。製作者イブラヒム・イームと推定。重要な要因(ファクター)である人口削減行為を確認。実行者をミーシャ・ベルツ・クロイツェフ、御崎彰吾、波籐雅高と推定。メインフレーム【Fatelist.NO.00】への情報登録開始。シナリオF18-011に固定。状況の推移によって他のシナリオへの転轍を行う」
爆発。
ツリー下部のビル群が漏れた都市ガスの充満と温度の上昇により、爆裂した。
しかし、女は慌てる素振りもなく呟き続ける。
「案件処理者。物理学専行、御崎彰吾。冶金学・材料力学専行、ミーシャ・ベルツ・クロイツェフ。分子生物学専行、波籐雅高。量子力学・数学専行、イブラヒム・イーム。更に探索中。探索中。探索中」
砲弾のように飛び交うコンクリート片がツリーを下から破壊していく。
「勢力図の策定。日本国政府。防衛省。第十六機関。GIO日本。アメリカ政府。在日アメリカ軍。CIA。NSA。DARPA。ND保有者の検索・・・エラー・・・二名の要管理個体発見。一名を特記される最優先保護対象と認識。確認。確認。確認」
ついにツリーが中央から断裂し、完全に真っ二つに折れ、先端部分がゆっくりと落下していく。
「DNA情報合致。指紋情報合致。音声情報合致。顔認証合致。ND保有者を個体名【外字久重】と確認。計画主要構成因子たる固体の保護を優先。目視による監視を続行。死亡要因の排除を開始。順次シナリオにEX(エクストラ)構成を付随。随伴する要管理個体一名に【EP反応】を検知。フィールド生成能力は確認できず。最重要優先個体【外字久重】への干渉が確認された場合、排除及び抹消の可能性有り」
周辺構造物が多数落下、区画全域を巻き込んで大規模な粉塵が舞い上がる。
「監視を続行。行動開始。行動開始。行動開始」
仄かに人の希望を誘う香りを残して、女の姿は粉塵の中へと消えた。
誰の為に何の為に戦うのか。
今、その回答が出され始める。
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