あの味を求めて幻想入り (John.Doe)
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前編:民家の魚介だしけんちん汁

「まいったな……ここ、潰れちゃったのか」

 井之頭五郎が残念そうに見ていたのは、シャッターの下りた店舗の張り紙。つい一週間ほど前に潰れてしまったようだ。ここは五郎が以前仕事途中に寄ったことのある食事処で、甘味よし定食よしと二度おいしい店だった。仕事前の一服、そして仕事終わりの一食で、珍しく五郎が二回寄った店である。

「うーん……ここら辺に来たらもう一度来ようってきめてたんだけどな。まいったぞ」

 仕方なくほかの店を探索し始める五郎。しかし、あの店に入ろうと決めていて潰れていたという出来事は、思いのほか五郎にほかの店をつまらなく見せていた。

(落ち着け。店がつぶれるなんてよくあることじゃないか。今はほかの店を探して入るしかないんだから)

 

 

 十分、二十分と時間が過ぎていく。見る店すべてが、なんとなくつまらなく見えていた五郎は、ただ散歩しているだけのような気がしてきていた。だが、昼飯を食べないわけにもいかない。冬空の木枯らしに、つい無意識に咥えていた煙草の紫煙が揺れる。そんな紫煙のように、五郎の心もどこか流れていくような気分だった。

 もうどこの店でもいい。そう思ったときに、周りが見慣れない場所になっていることに気付いた。その見慣れない場所が、先ほどまで歩いていたはずの商店街だとか、人のいそうな所ならいいのだが、こうも木々に囲まれた状況では、見慣れないという言葉は不相応かもしれない。単刀直入に「迷った」というべきだろう。

「ここはどこなんだ? まいったな、帰り道が分からないぞ……」

 先ほどまで歩いていた商店街近くに、森があったというようなことはないはずだ。東京下町の森と言えば、大きな公園などがあるかもしれないが、近辺にそんな公園はないはずである。冬であるからか、周りに生えている木々はほとんど葉を落としているが、今日はあいにくの曇り空であるため明るくはない。周りを見渡しても道らしき道もないし、そもそも人の声がほとんど聞こえてこない。東京であったなら、公園内でも少しは人の声が聞こえるというものだ。

 仕方なく後ろに向き直って歩き出すと、ほのかな明かりが見えた。近づいてみると、いかにも古い日本家屋、そう形容するにふさわしいものだ。

「これは驚いた……この時代にこんな家を見るとは」

 藁ぶきの屋根、木の引き戸、木枠のガラスのない窓。映画村だとか、江戸村だとか、そういう場所でないと見かけないような家である。明かりがついているということは、誰かいるのだろう。木の引き戸を控えめに二度叩く。

「うん? ちょっと待ってて」

 中から高い声が返ってくる。女性のようだ。

 

「はいはい誰ですかっと……おや、見ない顔だね」

「あ、どうも……」

 中から戸を開けて顔を出したのは、紅いズボン、いや、モンペと白いシャツに身を包んだ女性だった。モンペはお札のようなものが多数貼り付けてある。白髪というより銀髪に近い長い美しい髪の彼女は事の次第を察したのか、五郎が言い出す前に言った。

「あんた、もしかして外から流れてきた人間? あるいはまだそれも分かってないかしら」

「うーん、一体どういうことなんだ?」

「まぁ、そうよねぇ。ちょっと上がって。詳しく教えてあげる。ああ、そうそう。私は藤原妹紅。そっちは?」

「あぁ、こういうもんです」

 五郎は名刺ケースから名刺を取り出して渡す。妹紅は特に怪しむこともなく受け取る。

「井之頭……五郎、ね。ま、とりあえず中に入っちゃいましょっと」

 

 

 

「なんだか厄介なことになっちゃったぞ……」

 五郎が妹紅の説明を受け、唸る。それもそのはずだ。いきなり「あなたは結界を超えて幻想入りしました」などと言われて理解が追いつくはずもない。だが、現実的じゃないからと突っぱねることもできないということは五郎も分かっていた。

「しかし運が良かったねぇ。ここら辺は妖怪達が多いから、運が悪けりゃ……」

「運が悪けりゃ?」

「次の日には三途の川を泳いでただろうね」

「ぞっとすることを言うな……」

 青ざめる五郎に、冗談で済ませられればよかったけど、と返す妹紅に、さらに五郎は顔を青くする。情報をくれた彼女に礼を言って、立ち上がろうとする五郎。しかしそれを妹紅は引き留める。

「ああ、今からどこかに行こうってんならやめた方が良いよ。暗くなる前に人里に行こうとしたって、今からじゃもう遅い」

「……困ったな。明日は取引の約束が無いとはいえ……」

「明日には帰れると思うよ。とりあえず、今日はウチに泊まっていくといいさ」

 五郎は死ぬよりはマシか、と妹紅のほどこしを有り難く受けることにする。

 

 

 

 

「とりあえず、夕飯にするから、適当に寛いでて」

「俺も手伝うよ……調理自体はあまり得意じゃないが」

 すると妹紅は五郎の意図するところ――――つまり気遣いだとか恩義の念だとか、そういうのを察して、じゃあということで簡単な作業を任せる。魚を串に刺したものを渡し、囲炉裏に刺させるだとか、鍋を囲炉裏の火にかけるとか、その程度のことだ。とはいえその分場を離れなくていいから、若干調理が捗るというのは事実であった。

 

「はい、お疲れさん。鍋のふた、取ってくれる?」

「……これは?」

 五郎がふたを開けた鍋から現れたのは、いくらかの野菜を炒めたものが煮込まれたものだった。けんちん汁のようなものだろう。

「大根とかゴボウとかサトイモとか、冬でも採れる野菜を炒めてから煮たんだよ。ホントは、もうちょっと野菜を入れてけんちん汁にしようと思ったんだけど、冬だからこんなもんしか手に入らなくって。で、さっき焼いてもらった魚を……」

 妹紅はけんちん汁……のようなものをよそった椀に、焼いた魚を串から外して沈める。

「へぇ……」

「その代り、こうやって魚のダシで味を足すのさ。本当はけんちん汁って精進料理なんだけど、私は坊さんじゃないからね」

「よし、俺も……」

 五郎は妹紅に倣い、魚の串を外し、箸も使って椀に魚を沈める。

(寺の坊さんには出来ない……なるほど、こいつは贅沢な料理だな)

 椀に口をつけて少しすする。

(ほう……こいつは良いぞ。焼き魚とシイタケの出汁のランデブーだ。山と川がこの椀の中にあるんだ)

 思わぬ当たりに、昼間は影っていた五郎の心に光が差す。

(それに野菜もウマいな。ゴロゴロしててまさしく「食べてる」って感じだ)

 向かいに座っている妹紅は、五郎の食べっぷりが嬉しいのか少し頬が緩んでいる。囲炉裏の炎が家を温めているのを挟んで、二人は冬場の寒空で冷えた体を温めていた。そんな中、妹紅が何かを思いついたらしくにやりとした笑みを浮かべ、五郎に話しかける。

「そうだ、こいつはこうしてもウマいんだぞ?」

 椀にけんちん汁を再びすくい、魚の出汁を馴染ませた妹紅。すると、それを程よく冷めた白米にかけ始めた。

「行儀は悪いんだけどね。まあ、あんたもウマいものを食べるときに細かい礼儀作法は気にしないクチなんだろう?」

 そう言って、けんちん汁と白米を一気にすすり始める。あまり話しかけられたことにいい印象を持たなかった五郎は、それに一気に心変わりをおこし、ゴクリと喉を鳴らす。

「ホレ、遠慮しないでもう一杯」

 妹紅が意地悪そうな、嬉しそうな、そんな笑みを浮かべて五郎の椀にけんちん汁をよそう。五郎もそれを受け取ると、挑戦を受け取った、と言わんばかりの笑みを浮かべて、躊躇なく白米にかけていく。そしてそれを豪快にすすり始めた。

(ほう……シイタケの出汁がメインのけんちん汁単体だけだと合わないけど、魚の出汁でガッチリと歯車がかみ合ったな……味噌汁をかけて食うのと同じ、気軽な味だ。山と川が米の水田まで下りてきてる)

 五郎がどんどんと米をすすっている。対面の妹紅も、負けず劣らずのペースで食べていた。そうして二人の茶碗が空いたとき。

「どうだい、おかわり、いる?」

「あ……悪い、頼むよ」

「よっしゃよっしゃ、どんどん食え」

 そう言って、自分と五郎の器に白米とけんちん汁をよそうと、再び二人は食べ始める。五郎と妹紅は、お互い何か似たような性格であるようで、食べている間は基本的に無言であった。ただ、食事をする音と、囲炉裏の火が弾ける音がするのみである。湯気と煙が混じって外に流れる中、二人はただひたすらに目前のウマい食い物を食べることに集中していた。

 

 

 

「ふぅ、ごちそうさん」

「ごちそうさま。いやはや、思わぬ幸運だった。こんなにウマい飯が食えるとは」

「そりゃよかったよ」

 妹紅は笑顔を見せると、さてと、と片づけを始める。五郎もそれを手伝い、十分程度で終わらせる。

「んで……五郎、だったっけ。とにかく、明日にでも人里で「上白沢慧音」か「稗田阿求」を尋ねるといい。そんで「八雲紫」ってやつに連絡を取ってもらえば、近日中に帰れるはずさ」

「八雲紫? 帰るにはそれしか?」

「一番確実なのはそいつに頼ることだ。博麗神社ってとこに行ってもいいけれど、あそこは昼夜関わらず妖怪がいるから少し危ないんだよ。行くとしても、とりあえず明日の朝人里に行ってからでも遅くないさ。とにかく、今は寝よう。明日、人里には案内してやるから」

「そうか。世話をかけてすまないな……」

 気にするな、と妹紅は毛布二枚を取り出す。

「悪い、ウチは寝床にできるもんが無くてな……毛布で我慢してくれ」

 その発言に少し驚きを見せる五郎だが、彼女の言う「妖怪」とやらがいつ現れるか分からない外で眠るよりは大いにマシだろうと、素直に毛布を受け取ってそれにくるまった。



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中編:懐かしき里の白玉汁粉

「さて、じゃあ行こうか」

 簡素な朝食を済ませた五郎と妹紅は、早速人里に向けて歩き始める。排気ガスなどが混じっていない、寒空の透き通った風が二人の通る道を吹き抜ける。思わず身震いし、五郎はポケットから煙草を取り出して火を点ける。今日は風が少し強いせいか、紫煙はどこかに広がる前に流れて行ってしまう。

「どれくらいかかるんだ?」

「人里までかい? うーん、昼までには着けるはずだよ」

「そうか……」

 スーツの上着が風にあおられて音を立てる。古武術で鍛えている五郎の体も、この冷たい風に震えている。

「今日はまた一段と寒いな……」

「晴れた次の日の朝は寒いからね。人里で何か温かい物でも食べよう」

 温かい物と聞いて、五郎は何があるか思案し始める。

(ぜんざい、おでん、鍋……うん、確かにこういうのは寒い日に食べるからウマいんだ。いかん、楽しみになってきてしまったな)

 つい人里に行くことが目的になりそうな自分の考えを消そうとするも、既に五郎の頭の中には湯気を立てる椀や鍋のイメージがこびりついてしまっていた。

(いかん……もう温かい物のイメージが離れんな)

 自分の食べ物中心の思考に、思わず苦笑いがこぼれる。紫煙を吐き出しながら妹紅の後ろをついていく五郎の頭は既に、食べ物のイメージを消すことを諦めていた。

 

 

 歩くことしばし。一本の大通りと、その両脇に並ぶ家屋が見えてきた。

「ここが?」

「そう、幻想郷の人間の多くが集まる、通称人里さ」

 既に二本目となった煙草を携帯灰皿に落とし、周りをきょろきょろと見回しながら妹紅の後をついていく五郎。意外と活気あふれたものだと思う半面、まるで江戸やそこらの時代だと驚く。

「まるで時代劇でも見ているみたいだな……」

「時代劇?」

「あ、いや、こっちの話だ」

 不思議そうな顔をする妹紅だが、まあいいかと再び歩き続ける。

 

 二人が人里を三分の一ほど行った頃だろうか。二人の前方から、三人ほどの男が走ってきた。何かから逃げているようだ。

「だ、誰か! そいつら食い逃げだ!」 

 その遥か後ろから、店の従業員らしき女性が叫ぶ。それを聞いた妹紅は、やれやれといった風に立ち止まった。

「全く。狭い人里なんだから厄介起こすなって」

 事の次第は簡単だ。前から走る三人は食い逃げで、女性が追いつく距離ではない。となると、五郎もやることは一つ。スーツのポケットから手を出して、肩幅に足を開く。

「って、てめえらどけっどけっ!!」

 先頭を走っていた男が、妹紅と五郎に叫ぶ。が、構えをとっている二人はそんな言葉でどくつもりは毛頭ない。舌打ちをしつつ強行突破を仕掛けようとこぶしを振りかぶり、男が妹紅に殴りかかる。

「おいおい、やめときなって」

「うっせぇ!!」

 やめるつもりが無いことを察すると、妹紅はこぶしが自分に到達するより早く、その男の股を勢いよく蹴り上げる。鈍い音を立てて男の体が一瞬浮くと、うずくまる暇もなく白目をむいて気絶してしまった。それを見た二人は妹紅に挑みかかるのを止め、斜め後ろにいた五郎だけを相手取ろうとする。

「井之頭! 一人お願い!」

 一瞬早く反応した妹紅が近い方の男の袖をつかみ、足を払って地面に叩きつける。首から地面に叩きつけられた男はやはり気を失ったらしい。

「があぁぁぁぁっ!」

 五郎は五郎で、自分に殴りかかってきた男の腕をとり、背中側に回して関節をきめる。長時間行うと脱臼や健の断裂を起こす技をもらった男は、気絶こそしないものの痛みで声を上げる。背中側に腕が回っていることで、逃れようにも素人では動くことすらままならない。男は店員の女性が走ってくるまで痛みに苦しむ運命となった。

 

 

「本当にありがとうございます!」

「いいのいいの。気にしないで」

 ぺこぺこと頭を下げる女性に、妹紅が笑顔で対応する。男三人は人里の自警団に引き渡されたため、一安心だろう。そんな中五郎は、どこか不思議そうな顔をしていた。

「……どうしたの?」

「うん、どっかで見たことがある気がするんだ……多分会ったことはないと思うんだけど……」

 ウンウンと唸る五郎。しばらくすると、はたと記憶からある人物が一致する。

「そうだ、田端食堂の店員さんに似てるんだ!」

 田端食堂とは、五郎が昨日潰れていたことにショックを受けた店である。

「田端食堂? とやらがどなたかは知りませんが、私は田淵食堂の者です」

「田淵食堂……似た名前だなぁ」

 どこか運命めいたものを感じた五郎は、そこで何を食べられるのか少し気になった。五郎は思わず質問する。

「ウチで何を提供しているか、ですか……えーと」

 そうして店員が読み上げたメニューは、田端食堂で見たメニューの品々と多くが類似していた。やはり、運命めいたものを感じずにはいられない。昼飯を食べるならそこにしよう、と、内心で静かに硬く、決心する。

「とにかく、ありがとうございました。もしお時間あれば、お礼をさせてほしいんですけれど……」

「お礼? どうする、井之頭」

「時間に問題なければありがたく受け取っておこう」

「そうだなぁ。じゃあ、ありがたく」

 

 

 店に通されて座席に案内された後、案内した女性定員は店の奥の方で何やら店長らしき男と会話している。それを見て、妹紅と五郎は戻ってくるまでしばし暇をつぶそうと会話を始める。

「しかし、思ったより強かったんだねぇ、井之頭って」

「祖父が古武術の館長をやっててね……というか、君が言えたことじゃないんじゃないか?」

「そうかい?」

「少なくとも、躊躇なく男の股間を蹴りあげて、直後走ってた別の男を地面に勢いよく投げる女性は見たことないな」

 その言葉に妹紅が笑って返す。

「そりゃまあ、私は「普通の人間」とはちょっと違うからね」

 彼女がそう言ったのは、髪の色のことだろうか、などと想像する五郎。実際のところそうではないのだが、彼には知る由はない。そんな他愛のない会話をしている二人の前に、椀を二つと湯呑を二つ乗せたおぼんを持って、先ほどの女性が返ってきた。

「お待たせしました。外が寒いので、お汁粉でよろしいですか?」

「おっ、良いねぇ。ありがとさん」

「ありがとう、ごちそうになるよ」

 ごゆっくり、と店の業務に戻った女性を見送り、改めて置かれたお汁粉に目をやる。シンプルな、白玉入りのお汁粉だ。湯気が甘い香りがする気がする。

「じゃあ早速……」

 妹紅が匙をとったと同じく、五郎も匙をとり、小豆のよく絡んだ白玉を口に運ぶ。口の中に小豆の甘さと白玉の食感が広がり、二人の体を温める。

(うん……いいぞ、いいぞ。混じりっ気のない、これでもかって位お汁粉って感じのお汁粉だ)

 小豆と砂糖だけで作られたお汁粉と、白玉粉と少量の砂糖だけで作られた白玉は、まさしくシンプルな、混じり気のないお汁粉と言える。

(やっぱりこういうのは冬に食べるに限るんだ。冷えたお汁粉ってのもウマいんだけど、熱いので大正解……しかしやっぱり、田端食堂のお汁粉を思い出すなぁ)

 田端食堂で食べたお汁粉も、同じような椀に同じような盛り付けで、同じような味のお汁粉であった。一度食べたきりではあるが、よく覚えている。やはり、運命的な何かを感じてしまうが、きっと偶然なのだろう。

 二人がほぼ同じタイミングでお汁粉を食べ終わり、湯呑に手を伸ばす。

「おっ、ほうじ茶か……甘いものの後には嬉しいな」

「それには大いに同意ね。うん、温かい」

 すっきりとしたほうじ茶が、程よく甘みを流して、身体に染み渡る。小腹の空いていた二人にはうれしい小休止になったようだ。

 

 

 店員の女性に声をかけて店を出た二人は、まず稗田阿求の家を目指すことにする。今の時間、上白沢慧音は寺子屋に行っているから、との妹紅の言で、先に行ける方から行ってしまおうということだ。その道中、妹紅は五郎に阿求と慧音がどんな人物か説明しつつ歩いていた。阿求は転生を繰り返して幻想郷縁起を編簿している九代目であることや、慧音は寺子屋で歴史を子供たちに教えていることなどを話していく。中には五郎には信じがたい話もあったのだが、彼女が自分に嘘を吐いても何もないことは分かるため、おそらくは本当なんだろうと思うことにする。

 そうこうと話しているうちに、阿求の家の前に到着した二人。特段広いとも狭いともいえない、いたって周りと変わり映えのない家である。妹紅が戸を叩いて、中に入っていくのに五郎もついていった。



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後編:幻想の豚バラ炒め定食

「じゃあ、頼むよ」

「わかりました。ただ……運が悪いと、今眠りについているかもしれないので、博麗神社にも話を通した方がいいかもしれませんね」

「眠りについているって言っても一日待つくらいじゃあないのか?」

「いいえ。冬眠に近い眠りなので……春まで起きませんよ」

 阿求から発せられた衝撃の事実に、一瞬目を見開いた五郎は思わずため息を漏らす。マズい時期が重なってしまったものだ。とりあえず、博麗神社までは足を延ばした方が良さそうだ。とりあえず阿求に礼を言って別れ、昼食を済ませることにした。

 

 

「いらっしゃいませー!」

 先ほど訪れた田淵食堂に再び訪れた二人。今度の目的はズバリ昼食である。先ほどのお汁粉を食べた時とは違って正午に近い時間であるから、かなり繁盛しているようだ。あちらこちらから話し声や食器の音、店員の応答の声と、様々な食べ物の匂いがそれぞれ主張し、まるで酒場のような状況になっている。中には、真昼間にもかかわらず酒を飲んでいる客も実際にいるようだ。

 空いたテーブルに案内され、お茶を出される。先ほどと同じほうじ茶のようだ。お品書きと書かれた表を二人で読んでいると、しばらくの後に店員がやってきた。先ほどの女性店員とは違うようだ。

「ご注文お決まりですか?」

「あー……じゃあ私は生姜焼き定食で」

「うーん……そうだなぁ、やっぱりここは豚バラ炒め定食と、竜田揚げ、それから……山女魚の串焼きもお願いします」

 予想以上に注文した五郎に、妹紅も店員も大丈夫なのかという視線を向ける。だが、五郎は気が付かない。とりあえず店員が注文を厨房に伝えに行ったのを見て、妹紅が話しかけた。

「ちょっと、大丈夫なの? あんなに頼んで」

「ん? 大丈夫じゃないか? それに、俺の勘だと、この店の料理の量が分かる」

 五郎には、少し確信めいた考えがあった。この田淵食堂は、幻想郷の田端食堂なのだ、と。確かに屋号は違うし、お互いの存在を知ってはいないようだ。しかし、こうも椀の種類も味付けも似ていて、店員の顔も瓜二つとなると、そう思わずにはいられない。だからこそ、その料理を一度食べた五郎は、そう言い切ったのだ。ちなみに、以前と異なるメニューは山女魚の串焼きだけである。田端食堂に行った時には、まだ山女魚の串焼きは準備中であった。

 

 しばらくして、定食二つと竜田揚げ、そして山女魚の串焼きが運ばれてくる。生姜焼き定食と豚バラ炒め定食は、漬物と味噌汁、そして白米がついている。定番にして王道であるが、そのメインである生姜焼きと豚バラ炒めには、すり胡麻が加えられていたりと、一工夫あるのが特徴だ。

「うん、やっぱり胡麻が乗ってる。この胡麻がいい味を出すんだ……」

 見覚えのあるそれに安堵感を覚えた五郎。早速、二人は箸を手に取ってそれぞれの食事に手を出し始める。

 

 生姜焼き定食に手を伸ばした妹紅。普通の生姜焼き定食にすり胡麻と柚子がトッピングされている。口に含んだ時に生姜焼きをまろやかな胡麻の風味とさっぱりとした柚子の風味が包み込む。妹紅が口に含んだ瞬間に感じた美味しさに、思わず顔がほころぶ。

 同じく豚バラ炒め定食に手を伸ばした五郎。やはりすり胡麻は乗ってはいるが、こちらは柚子ではなく硬くゆでた玉子の黄身が散らされている。塩コショウのシンプルな味付けに、ふくよかな胡麻の風味と優しい黄身の風味が混ざり合う。口に運んだ瞬間、思わず目を見開く美味しさだった。

(うん……これだこれだ。この不思議な味わい。男の子と女の子が混じって遊んでいるような感じだ)

 二人の肉と米が見る見るうちに減っていく。むしろ、これで米が無かったら二人は生殺し状態と言えるだろう。

(この漬物も、漬かりすぎていないから、これを食べるとますます箸がすすむな。これがまた肉単体と食べても合うんだからビックリだ)

 三分の一を切ったところで、五郎は竜田揚げに箸をシフトしようとする。だが、見ればもう自分の椀の米はほとんどないではないか。

「しまった……すみません、ご飯おかわりってできますか」

 店員ができる旨を伝えて、すぐに新しい白米を持ってくる。竜田揚げの白いさっくりとした衣には少し唐辛子がかかっていて、これもまた食欲をそそる。ゴロゴロと大きな竜田揚げは白い皿に5つ、顔を並べている。男の胃を満たす十分なサイズだ。

(おっ、これも変わらないなぁ。ピリッとした唐辛子と竜田揚げって、普段じゃ思いつかないな。うん、ウマい)

 やはり白米がみるみるうちに減る。これだけ白米を減らさせるのは、この店の料理がいかに美味しいかということだろう。これもまた、田端食堂と変わらない味だった。五郎にとっては、実にうれしいことである。

「うん……じゃあ山女魚に行ってみるか……」

 そういって、二尾が乗った皿を引き寄せると、内の一尾をつかんで丸かぶりで食べ始める。

(おっ……これは塩だけなのか。珍しくシンプルな料理だけど、それが素朴でいいんだ……こういうのは無駄に箸で崩すより、やっぱりかぶりついて食べるのが男の子の味なんだよなぁ)

 魚にふりかけられた塩は大粒で、山女魚を焼いた時の山女魚から出る旨みを含んだ汁を吸ってギュッと濃縮されている。骨までしゃぶりつきたくなるような、そんな料理だ。

(うん、昨日食べた魚も出汁を取った後もウマかったけど、これはすごいな。ウマさの洪水が流れ込んでくる。大洪水だ)

 恐ろしい食べっぷりを見せる五郎と妹紅だが、二人の間に会話はほぼないと言っていい。食事をするとき、二人を包むのは孤独。その孤独こそが周りの余計なものを気にさせない。ちょっとした時間の間、彼らはほんの少し自分勝手になる。誰にも邪魔されず誰にも干渉させず、食事を楽しむ。それが、二人が偶然共有していた食事の時間のポリシーであった。

(いいぞ……豚、鳥、魚……全部違って、全部うまい。いかんな、ずっとこの店に通えるんなら、幻想郷に住みたくなってしまう)

 二人とも黙々と箸を進める。良い食べっぷりだなぁと、店長が見ていることは二人とも知らないし、気にもかけない。見る見るうちに肉が、米が、二人の胃袋に収まっていく。すべて完食するのに、三十分とかからなかった。

「ふぅ……ごちそうさん」

「……ごちそうさまでした」

 満足、という表情で二人は手を合わせる。ほうじ茶を啜りながら一息ついて、二人は昼の休みに入っているであろう慧音のところへ向かうことにした。

 

 

 

 

 慧音曰く、私ではどうにもなりそうにないし、八雲紫に阿求がコンタクトをとれるならなおのこと、という。思ったより短く済んでしまった二人は、どちらからともなく「博麗神社を目指そう」と意見が合致した。

「博麗神社はここから少し歩いた森というか山というか、その中よ。妖怪が昼夜問わず出るから、万が一襲われたら私の後ろに隠れて」

「隠れて……って、本気で言ってるのかい?」

「もちろん、本気よ。私はこれでも妖術を使えるからね」

 そう自慢気に言って見せた妹紅。妖術がどういったものか詳しくは知らないが、何かしらの対処法とみて間違いないのだろう。とりあえず、自分の身は自分で守ろうと決心し、半信半疑といった状態で彼女についていくことにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……うん?」

 五郎はふと目を覚ますと、自分の車のハンドルに臥せっていたようだ。記憶をたどると、赤いモンペに白いシャツの、長い銀髪の少女の姿、それから見覚えのある定食やお汁粉、それとけんちん汁が思い浮かんだが、それ以上思い出せない。

「夢でも見てたのかな……」

 ふと腕時計を見ると、既にお昼時である。腹の虫が鳴り、それを再認識する。手帳を見ると、今日は夕方に一件顧客との打ち合わせがあるだけであった。

「うん……飯でも食べに行くか」

 知らぬ道路ではない。パーキングに車を停め、五郎は寒空の下を歩き出す。今日は何を食べようか――――五郎は詳しく思い出せないけれど、不思議な体験もあって、きっと今日は良い飯を食える気がしていた。




 読了、ありがとうございました。井之頭五郎と藤原妹紅のちょっとした食べ歩き、いかがでしたでしょうか。少しでも楽しんでいただければ幸いです。


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半人前の鍋焼きうどん

 大変なご好評と続編希望のお声を頂きましたため、短編の連作という形で継続させていただくことになりました。その記念すべき第一弾、どうぞお召し上がりください。


「では、失礼します」

「ありがとうございます井之頭さん、おかげで助かりました!」

 首都圏某所にある、特徴といった特徴のない喫茶店で商品の取引を一件終えた井之頭五郎。慣れた手つきで胸のポケットから煙草とライターを取り出して、春一番が過ぎたばかりの空に紫煙を揺らす。

「ああ……煙草吸い始めたけど、腹が減ってきた……お腹ペコペコリンだ」

 そうとなれば腹を満たすために動く以外の選択肢はない。駐車場まで少し距離があるから、この辺りで店を探して、腹を満たしてから駐車場へ向かおう。そう五郎は決める。春も始まったばかりの今日、まだまだコートを手放すには辛い時期だ。煙草の熱を失うのを惜しみながら、灰皿へ煙草を捨てる。大通り側とは反対側へ歩を進め始る五郎。五郎の勘は、大抵大通りよりも少し細いくらいの道の方がウマい店があるのだと告げている。それに逆らう理由は今の彼にはない。

 

「うん、いいぞいいぞ。こういうところは嫌でも期待が高まるってもんだ」

 思わず五郎の顔がほころんだ。昭和の香りがわずかに漂う、と言うべきか。二階建てくらいの建物が並んだこの通りは、食べ物屋ばかりで五郎の胸をはずませる。どこがいいか。五郎がまずは一通り、と歩きながら店を眺めていく。

「色々あるな……焼き鳥、居酒屋、和定食、ラーメン、うどん……迷うぞ」

 選り取り見取りといったところか、いろいろな店が軒を並べ、五郎を誘惑する。一通り見終え、端まで来たらしい。さて、一度戻ろうか……そう思って振り向いた瞬間、一瞬だけ視界が白く弾けたような感覚をおぼえ、立ちくらみに近い状態に陥る。それもほんのわずかな、一瞬といって差し支えのない時間であったが、問題はそのあとであった。今まで見ていた景色とは全く違う。軒を並べる店は一軒もなく、日本庭園の真ん中にでもいるような景色である。背丈の小さな松の木や枯山水、灯篭など、見れば見るほどやはり日本庭園然とした場所にいるらしい。

「うん? 一体何が起こったんだ?」

 理解が追いつくはずもなかった。瞬間移動した、とでもいうのか。訳が分からない。そんな心境だった。そんな時、不意に後ろから高めの声が聞こえた。

「みょん!? ど、どなたですか!?」

 再度、振り向く。すると、おかっぱ気味に切りそろえた銀髪に黒いカチューシャのように結んだリボン、そして緑を基調とした服をキチっと着た少女が箒をもって立っていた。背と腰には黒い棒のようなものがみえる。日本刀の鞘のようにも見えるが……いやいや彼女の背丈には大きすぎる。そんなことを考えている五郎に、その少女はもう一度訪ねた。

「あ、えと……井之頭五郎です。信じてくれるか分からないけれど、気付いたらここに……」

 あまりにも突飛な現状に、五郎の口調が安定しない。そして同じく、予想外の回答を受けた彼女もまた、鳩が豆鉄砲を食ったようにぽかんとしている。一度心の中で五郎が言ったことを咀嚼して、ようやく少し彼の言ったことが理解できたらしい。

「えっと、気付いたらここに、ということはここがどこだかは?」

「さっぱり……」

 ああ、やはりか、と彼女は小さくため息を吐く。五郎がどういう意味か尋ねると、妖夢は少し長くなるだろうからと主に許可を取るのも兼ねて五郎を屋敷へ招き入れる。

 

「うーん……随分大きいな。学生の頃行った三十三間堂より広いぞ」

 スタスタと歩く妖夢を追いながら、五郎がひとり言をもらす。走って幾分かかるのか分からぬ程に長い廊下だった。それが隅々まできれいに磨かれていることもまた五郎を驚かせる。そしてもう一つ、彼が気付いたことがあった。目の前を行く彼女――魂魄妖夢と名乗った――は、剣術を身に着けているらしいこと。それは彼女が背負っている二振りの大きな日本刀もそうだが、素早く、そして隙を――――恐らく無意識的に――――見せず歩く彼女のそれは、剣道などでよく見る「摺り足」であろう。古武術を身に着けている五郎だからこそ気付けたことかもしれないが、どうも彼女を怒らせるのは避けた方がいいらしい。

 

「すみません、今主は手が離せないようなので、代わって私から説明します」

 少々疲れをおぼえるほど歩いたところで部屋に通され、主に話を通してくると五郎を座らせて待たせていた彼女が、ふすまを開けて部屋に戻ってきた。畳の匂いに差し出された茶の香りが混じり、まさしく日本家屋という香りを充満させる中、五郎は姿勢を改めて妖夢と卓越しに向き合った。

「まずここがどこかからお話します。単刀直入に言うとここは冥界。要は死後の魂が集まる場所です」

「え……冥界?」

 五郎が思わず聞き返す。死後の魂が集まる世界、ということはつまり……

「じゃあ、俺は死んだってことになるのか……? そもそも天国だとか地獄だとかそういうのにつながるような世界があることに驚きだけど」

「分かりません。と、言うのも、冥界で生者が姿を保つことができる方法もあるからです。実際、こちらへ足を運んでくる人間も数名います。貴方は気付いたらここに、とおっしゃいました。その直前までは何か自分に危険がふりかかっていたようなことは?」

「そうだなぁ。降ってくる植木を置いてるような店もなかったから、心当たりは……」

 そこまで聞くと、妖夢は一つ、今度は安堵のため息を小さくもらした。そして五郎に、死んだからこの世界に来た、という可能性が低いことを教え、五郎も安堵のため息を漏らした。

「こちらか、閻魔かどこかの手違いで呼び寄せてしまったのかもしれません。元の場所へ戻る方法はそう時間もかからず見つかるはずですよ」

 それを聞いて安心した、と五郎は茶の入った湯呑を手に取る。湯気が薄らと漂うそれを口元へ持っていったまさにその時、五郎の腹が盛大に音を立てる。五郎はそれにわずかに顔を赤らめて動きを止め、妖夢は妖夢で再び鳩が豆鉄砲を食ったかのように目を見開いて、少ししてからわずかに吹き出すように笑った。

「はは、安心したら腹の虫がわがまま言いだしたな……昼を食べ損ねたからな」

「そうなんですか。じゃあ、お昼位ならお出ししますよ。どうせお待ちいただく時間はありますから。私は庭の手入れがありますので」

 その申し出に五郎は素直に感謝し、じゃあ、と申し出を受け取る。少し待っていてください、と席を外した妖夢が戻ってくるまで、再び茶を楽しみながら庭を眺める。まさかとは思うが、この庭を一人で手入れしているのだろうか。いやいや数人単位だろうな。そんな考えが空腹にかき消されつつあった。

 しばらくすると、部屋に醤油ダシの良い香りが入ってくる。ノックもないその来客は、五郎の空腹感をさらに掻き立てる。すぐにその発生源を持った妖夢が部屋に入ってくる。

「お待たせしました。簡単なもので申し訳ありませんが……」

 テキパキと妖夢が小さな土鍋と蓋のしてある椀を五郎の前に並べ、茶を足すかどうかたずねる。五郎はその好意を受け取り、茶の注がれる間に少しネクタイを緩める。こうも美味しそうな料理を前にすると、このきつく締めたネクタイはただ煩わしいというものだ。

 

「では、私は席を外しますので。ゆっくりお召し上がりください」

「うん、ありがとう」

 引き留める間もなく――――といっても引き留める気はなかったが――――妖夢がふすまを閉めたその直後、五郎は火傷しないように慎重に土鍋と椀のふたを開ける。

「おお、これは……」

 五郎の鼻を、醤油と卵の合わさった香りの嵐が襲った。湯気にまで味がついているような感覚に陥る。鍋焼きうどんと茶碗蒸しだった。

「へえ。溶き卵で作った鍋焼きうどんか。卵とじみたいだな……おっ、ほぐすと出汁と卵がダンスして絡み合う……いいぞ」

 ネギ、ゴボウ、鶏肉、シイタケが、卵とじのような鍋焼きうどんがほぐれるときに一緒に絡み合う。卵スープの卵とは違う、もっとずっしりと麺に絡む、本当に卵とじのような卵の量だ。湯気がもうもうと立つそれを、口を火傷しないように、かつ豪快に啜りこむ。

(おお……うどんが連れてきた卵が、一緒につゆを連れてきた。うん、うん。いいぞ、仲良しこよし、鍋焼きうどんトリオは絶品だ。具もしっかり味を主張してるけど、喧嘩してない。これはトリオじゃない、家族だ。鍋焼きうどん家族だ。勢いに任せてズルズル啜っちゃうぞ)

 つゆがはねるのも気にせず、うどんを啜りこんでいく。そして三分の一ほど胃に収めたころ、そばに置かれた調味料の容器に気付いた。木でできた瓢箪のような小さな容器に入っているのは、どうやら七味唐辛子らしい。ふむ、と何か納得したような表情で、五郎は一振り二振りほど土鍋に落とす。それを同じようにすすると、今までとは違う味が口になだれ込んできた。

(ん……! これはすごいぞ。七味君が入ってきても喧嘩する気が一切ない。七味の七人家族と鍋焼きうどん家族の家族ぐるみのお付き合いだ。いいぞいいぞ、体も温まるし、この七味の香りと味が一層うどんの旨みをギュッと引き締める。卵とじうどん、いいぞ!)

 うどんがしっかりとした歯ごたえをもっているおかげで、より強く味を感じるらしい。具材もそれを手伝って、卵が連れてくるつゆの味が、普通の鍋焼きうどんよりも一層豊かに五郎の口の中で華を咲かせている。更に三分の一ほど食べ進んだところで、椀を引き寄せる。木の匙を手に取り、なめらかな茶碗蒸しの表面を軽く押すと、すっと匙が吸い込まれた。

「うん? よくよく考えれば卵が被っちゃってるな……いやいや、それはそれで」

 口の中へ茶碗蒸しを放る。これはシンプルなもののようだが、作りはとても丁寧で、基本に忠実に作っているのがすぐにわかるものだった。

(うん、これもいいな。具材はありきたりだし、鍋焼きうどんとは違って全体的にシンプルだけど、これが良いんだ。三つ葉の香りもいい。そうそう、これこそ茶碗蒸しなんだよ)

 スルリスルリと滑るような食感に舌鼓をうつ。いつの間にか、気付けば半分以上を胃に放り込んでいたらしい。食感の良さで今まで全く気が付かなかった。

「うん……しまったな、茶碗蒸しは後にも食べたいし、ここはうどんを先に頂いちゃおう」

 再びうどんに集中する。茶碗蒸しを食べた後のうどんの感覚はまた少し変わって感じる。

(おお、茶碗蒸しの後に食べると、今度は少し濃いめの味に感じるな。これもこれでいいぞ……)

 少し冷めたことも相まって、今まで以上に豪快にすする五郎。どんどんとうどんが無くなっていく。気付けばあと最後の一口を箸に挟んで、口へ持って行っていた。

(むむむ……ウマすぎてついつい我を忘れて食ってしまった。だけどそれだけウマかったんだからいいんだ、これで)

 妙な納得の仕方をした五郎は、茶碗蒸しのトドメへと取り掛かる。一口分をすくいとってはた、とあることを思いつく。匙をまだつゆの残っている土鍋へ潜らせ、つゆの滴るそれを素早く口へ運ぶ。

(予想通り、こうやって食べてもいけるな。うん、茶碗蒸しをこんな食べ方して美味しいと思うとは。でも同じ卵を使った料理だから美味しいんだな、卵が被っちゃってて大正解だ。うんうん、あっさりもがっちりも味が楽しめる茶碗蒸しと鍋焼きうどんなんてそうそうないぞ……つゆを滴らせて食べるのと、そのまま食べるのを織り交ぜて食べる。こんな食べ方するなんてそうそうない。こっちも鍋焼きうどん家族の親戚さんだ)

 あっという間に完食してしまった。茶の香ばしい香りが今食べたものを爽やかに流していく。口の中に無駄に残らず、後味まで良い。集中していて全く気にかけていなかったが、自分が汗でぐっしょりなことに気付いた五郎。風に当たりに外に出ると、その涼しさが一層満腹感を感じさせる。流石に人の家の庭で煙草を吸うわけにいかなかったが、それでも今日くらいはいいか、と思えたほどだった。

 

 しばらく涼んでいると、満腹感からか少しウトウトと瞼が重くなってきた。視界がだんだんとぼやけ、暗くなっていく。待つ時間があると言っていた、少しうたた寝するのもこんないい天気の日には悪くない。そう五郎が心の中で思ったその瞬間にはもう、五郎の意識は眠りについていた。

 

 

 

 ふっと目を開けると、目の前にいくつか子供用のカラフルな遊具があった。公園のベンチで、寝てしまっていたようだ。

「マズイマズイ。えっと、商談……いやその前に時間は……」

 腕時計を見ると、今日はもう商談はなかった。それにホッとした途端、腹の虫が鳴りだした。

「うーん、夢でも飯を食ってた気がするぞ……いかんいかん、腹が減ってきてしまった。時間も頃合い、飯にするか」

 そう思って席を立とうとしたとき、ふと後ろから声をかけられた。

「あのー、この地図の場所ってご存知です?」

「うん? ああ、ここならあそこの角を左に行けば見えるよ」

 二人組の女性だった。一人は白いワイシャツに黒いスカートと帽子のショートカットの子。もう一人は紫が基調の服に、外国の生まれなのか、きれいなロングの金髪の女の子だった。二十歳前後くらいだろうか。

「えー!? ずっとここら辺ぐるぐる回ってたのに! もう、行くわよ! あ、ありがとうございました!」

 白いワイシャツの方の子が慌て気味に頭を下げて、ロングの金髪の子の方はぺこりとしっかり頭を下げる。その直後白いワイシャツの子に腕を引っ張られて、苦笑いしながら走って行った。大変そうだなぁ、というよりも楽しそうだなぁ、という感想が真っ先に浮かび上がってきたのは、二人が一目見ただけで仲良しだと分かるほどの距離感だったからかもしれない。

「ははは、元気なのはいいな。どれ、今日はうどんでも食べられればいいな……」

 そういって五郎はベンチの背もたれにかかっていたスーツを羽織り、鞄をしっかりと忘れずに手に持ち、他に忘れ物が無いかさっと確認すると、彼女等とは反対の方向へ曲がって食事処の多い通りへと歩いて行った。



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紅い洋館の和食

「しまった。降ってきちゃったか」

 地下アーケードを抜けた五郎が、わずかに立ち尽くしたように灰色の空を見上げた。取引を終えて、駐車場へと戻ろうとしていたときのことである。まだ小雨ではあるが、陽の光をほとんど遮断し、日が沈んだかのように錯覚させるほどの雲は、このまま小雨で終わることが無いと確信させる。それに秋雨は体にも厳しい。

「傘、車の中に置いてきたのは失敗だった」

 僅かにスーツの肩に水滴がついたのを払いながら、五郎がぼやく。この後商談が無いか手帳で確認すると、午後にはないが、明日朝一で一件の商談があった。風邪を引くわけにもいかないなぁ。そんな独り言を内心呟きながら、黒いカバーの手帳をしまう。こうなったらビニール傘を緊急で買うしかないか、と辺りにコンビニが無いか探す。するとすぐに、少し小さいながらもコンビニが見つかった。看板の白が、今日は救いの手を差し伸べるようにも見えた。道の向い側だが、そうそう濡れる距離でもないはずだ。信号が青になる直前を見計らうため、五郎はしばらく屋根の下に居続ける。

 

 

 

「……あれ?」

 信号を見ていたはずの五郎。しかし気付けば、その視界の中から信号……それだけではなく周りの道路も、建物も、人も、すべてなくなってしまった。代わりに目の前にあるのは大きな館と、背後には地下アーケードの入り口ではなく霧がかかった巨大な湖。唯一同じ物をあげるとすれば、自分の持ち物くらいである。ここがどこなのか、どうしてここに居るのか、全く見当もつかない。

 目の前にある巨大な血色の館。その門前に、緑色が目立つ中華風の服を着た女性が立っているのが見えた。怪しさ満点、不安満点、言葉も通じるか分からないが、とにかく動いてみるしかない。数歩歩み寄ると、草を踏みしめる音にでも気づいたのか、向こうもこちらに気付いたらしい。こちらを振り向き、誰かを見定めるようなその眼からは、どこか世離れしたものを感じる。まるで人を捨てたかのような。しかし、その眼の主が発した言葉は、予想に反し柔らかなものだった。

「あのぉ、どちら様でしょう?」

 日本語だった。目の前の洋風な館の門前に立つ中華風の彼女が喋ったのは、確かに聞きなれた日本語そのものである。英語くらいなら営業もあるし何とか……そんな五郎の心配は稀有に終わった。とはいえ、どちら様と聞かれても、というのが五郎の本音ではある。ただ不思議なのは、彼女に僅かに見覚えがあることだ。

「あ、えぇっと。井之頭五郎という者です。その、おかしな質問ですが、ここは……」

「ああ! 貴方が!」

 一人合点した彼女は五郎の質問には答えず、さらに続ける。

「お話は伺ってます。ご案内いたします」

「え、ちょ、ちょっと」

 こっちは何の話も伺っていない、とでも言いたげな顔で、女性に連れられる五郎。門をくぐると、まず大きく賑やかな花畑が五郎を出迎える。なるほど、館の赤の激しさの割に、この花畑は目に優しいようで、コスモスやパンジーが秋空の下を彩っている。荘厳な雰囲気を醸し出す正門から招き入れられ、彼女がよく通る声で「咲夜さん」とやらを呼び出す。聞き違い、勘違いがなければ、日本人名のようだが。そしてやはり、彼女の名も聞き覚えがあるような気がしていた。

 

 しばらくすると、東京某所で見かけそうなメイド服――そう、きっとメイド服である――に身を包んだ銀髪切れ目の女性が正面の階段を下りてきた。真っ赤な絨毯と壁に映えるその色合いはしかしながら、冷気にも感じる溢れ出す気品と相まって見るものを圧倒させるものがある。

「お待ちしておりました。主が直接商談をお願いしたいとのことですので、こちらへお願いします」

 またしても、五郎の知らぬ間に話が進んでゆく。とはいえ、客を待たせているとなれば、五郎の体は反射的にそれについてゆく。ネクタイが曲がったり緩んでいないか確認し、襟を直し、髪を整える。丁度その直後、先導していた咲夜が足を止めて扉の取っ手に手をかける。

「どうぞ」

 木でできたドアが僅かに音を立てて開かれる。五郎は軽く頭を下げて、自分より頭三つほどの高さの扉をくぐる。目の前に広がる真っ赤な絨毯と、部屋の真ん中に構える白いクロスが映えるテーブルが印象的な部屋だった。いくつかの燭台が置かれているそのテーブルには、一人の子供がちょこんと腰かけていた。薄らと赤みがかったドレスとナイトキャップのような帽子、そして空を彷彿とさせる青色のショートヘアが可愛らしい。だが、その背には人にはあるはずのない、蝙蝠のような巨大な羽が生えていた。五郎は本能でか知識でか、直感的に彼女が「吸血鬼」だと察した。察した、というよりも知っていた、という感覚が近かったが、五郎は彼女と会ったことはないはずであるし、ここへ来たのも初めてのはずだ。

「随分早かったのね。今日は暇だから助かったのだけど」

 はぁ、と五郎は返す。なぜか、彼女に名刺を渡した記憶がある。彼女に席に着くよう促され、名刺を渡すことなく席へ着く。

「で、早速本題に入らせてもらうのだけど。貴方に頼みたいのは棚なのよ」

「棚、ですか」

 目の前の少女――なぜか名乗られた記憶がないのに「レミリア・スカーレット」という名を知っている彼女が頷く。

「私の部屋の棚がいい加減痛んできてね、買い換えようと思ったのだけれど、香霖堂にいいのが無くて。赤い絨毯はここと同じなんだけど、基本的に寝室だからあまり派手派手なのはナシでお願い。後は部屋に馴染めばいいわ、貴方に任せようと思うの」

 少し部屋を見回し、大よその色合いなどの見当をつける。本来ならその部屋を見たいのだが、やはり寝室を見られたくはないのだろう。五郎が了承したのを見て、レミリアが扉の前で立っていた咲夜に声をかける。

「咲夜、お昼の用意お願い」

「かしこまりました」

「ああ、待った。貴方も食べていくでしょう? 遠慮しなくてもいいわ」

「あ……じゃあ、お言葉に甘えて」

 レミリアの提案をうけて、五郎はふと空腹感を感じる。もう昼時なのだと思いだすと、折角の好意を無碍にするわけにもいかないし何より吸血鬼の館という普段では食べられないようなものが食べられそうな貴重なチャンスだった。その機会を待つ間、彼は目の前の少女の世間話に付き合うという代償を支払っていた。つい先ほどまでの「お嬢様」らしい気品よりも、見た目相応の「女の子」の部分を垣間見ることができる、他愛のない会話だった。普段は食事を待つ間は独りで待つことを愉しむ五郎であったから、最初は内心機嫌を悪くしていたが、同じ食べ物を待つ者同士でその期待に胸を膨らませるというのも、たまにならば悪くは思わなくなっていた。今後はあまりしたくないのも本音だが。

 

 

 しばらくすると扉の叩かれる音が聞こえた。レミリアが入るように言うと、扉の向こう側に咲夜をはじめ羽の生えたメイド達数名が食事を運んできていた。

「お待たせいたしました」

 咲夜の支持のもと、テキパキと食事がレミリアと五郎の前に並べられていく。その並んでいく料理を見て、五郎が疑問を抱く。目の前に並ぶ料理は、何皿出てきても「和食」なのだ。レミリアを見ても特別な料理に対する反応ではない。まさかと思い、レミリアに話しかける。

「もしかして、結構な和食派で?」

 その質問に、レミリアはしばらくきょとんと五郎を見つめ、ようやく意味を理解したらしく回答を返す。

「ええ、幻想郷じゃ洋食の材料は手に入りにくいし、何より咲夜の和食は美味しいし。納豆とか美味しくない?」

「納豆が美味しいのは否定しないけれど……」

 目の前の少女は確かに「吸血鬼」である。吸血鬼と言えば現ルーマニアのかつての人物、ヴラド公をモデルとした西洋の生物であるはずだ。そんなイメージによる五郎のレミリアへの先入観はあっさりと、完膚なきまでにたった今崩れ去ってしまった。愕然とした表情の五郎を見て大抵の察しがついたらしいレミリアは楽しそうに笑いながら、幻想郷だもの、と訳の分からない「理由」を説明する。もうどうでもよくなってきた、と五郎はため息をひとつだけついて、目の前の食事に意識を切り替える。

「では、ごゆっくりお召し上がりください」

 そう締めてメイド達が咲夜以外退室すると、レミリアが箸をとり食べ始める。なるほど、普段から食べているというのは嘘ではないらしく箸の使い方は慣れている様子。それはともかく、と五郎も目の前の品々を改めて見やる。味噌汁と白米、そして刺身、肉、付け合せ、漬物、野菜、と一通りそろっている。

 

「さて……」

 まずは前哨戦、と言わんばかりに味噌汁に口をつける。その最中に最初のターゲットを決める腹積もりだ。味噌汁そのものは油揚げと葱が具になっている。定番中の定番ともいえるが、味噌は薄めらしい。

(おお、味噌が薄い気もするけど、逆に揚げの甘みと仲が良いぞ。これはとんだパンチを最初に貰っちゃったらしい、一気に飲み干しちゃいそうだ)

 葱の香りも相まって、食欲をそそる。次のターゲットを決めるのにモタついてしまえば、本当に一気に飲み干してしまいそうだった。慌て気味に五郎は椀を置いて、とりあえず目についた刺身に的を絞る。身が赤みでも白身でもないらしい。小ぶりな魚から作ったのか、タタキのような切り方だった。向かいのレミリアも丁度疑問に思ったらしく、咲夜に尋ねているらしい会話が耳に入る。

「ねー咲夜、これ何の魚よ」

「鮎ですわ御嬢様。。新鮮なものを頂いたので、塩焼きとは趣向の違うものを御嬢様に楽しんでいただこうと思いまして」

「ふぅん。珍しいのは確かね」

 その会話を聞いて、五郎は再び刺身を見つめるように見やる。

(なるほど鮎の刺身……川魚の刺身はめったに食べられないからなぁ。これは……柚子味噌も添えてあるのか。まずは定番のわさびと醤油かな)

 一度に二、三切れの鮎を掴み、わさびを溶いた醤油に軽くつける。本当はわさびは醤油に溶かさない方がいいらしいが、五郎は溶かす方が何となく好きだった。醤油がたれないよう素早く口に運ぶ。噛んだ瞬間、五郎は目を見開いて、ご飯をかき込む。新鮮だと言っていたからだろう、臭みはなく、ほのかに甘みを感じる。

(おお、おお、いいぞ、鮎、いいぞ! 塩焼きとは全然違う。刺身は元気に山を駆けまわる子供だ。ご飯の遊具で遊びまわってる。うん、刺身もおいしいぞ)

 すぐに柚子味噌をつける方法でも食べてみる。今度は醤油とは違う、ふんわりとした香りが口の中にあふれる。

(ん! 柚子味噌もすごい! 山で育った幼馴染達の相性は抜群だ。すごいぞ、柚子味噌の香りと鮎って合うんだなぁ。これはこれでご飯と合うぞ。こっちは村を丸ごとおいしく食べている気分になる)

 もともと数は少ない鮎の刺身だったが、一気に三分の二ほど食べてしまった。それに気付いた五郎は、次の獲物に目を移す。魚の次は、肉だ。そう思って一口大くらいに切り分けられた肉の皿に目を移すと――――

「げ……」

「どうかいたしましたか?」

 思わず声を上げてしまった五郎。咲夜がたずねると、五郎はばつの悪そうな顔をして言った。

「いや、これ血じゃないですよね……?」

 ああ、と五郎の指差した料理を見て咲夜が納得の声を上げる。五郎が指差したのは、肉に紅いソースがかかっている料理だった。真っ赤なそのソースは、場所も相まって血を想像せざるを得ない。生憎と自分はそうそうぶっ飛んだ味覚の持ち主ではない「人間」である。血を舐めたりすすったり、果ては吸血するなんて趣味は全くない。

「それは石榴のソースですわ井之頭様。硬くならない程度に火を通した兎肉に石榴を潰したソースをかけた物ですから、御安心ください」

「それは安心した……」

 箸で一つ肉をとり、口に若干恐る恐る運ぶ。咲夜の言うとおり硬くならない程度に火を通されたそれは簡単に口の中でほぐれ、石榴の酸味のある味わいと共に口に広がる。

(ほぉー心配して損した。さっぱりした兎肉と甘酸っぱいソース……梅肉よりいいかもしれないぞ……すごいな、肉ってこんなにさっぱりした味になるのか! それにご飯も進むぞ……ちょっと甘いけど、甘酸っぱい恋の味はご飯も虜になっちゃうんだな)

 みるみるうちに減っていく五郎の白米。半分ほど夢中で兎肉を食べた時、付け合せのいんげんの胡麻和えに気付いた。折角目についたのだ、と口に数本を運ぶ。少し時期の違ういんげんだが、濃いめの胡麻の味付けでしっかりと料理として成立している。

(うん、さっぱりとした鳥肉に胡麻のしっかりした付け合せの味。背中合わせのパートナーのコンビネーションは抜群だ。おお、兎肉と一緒に食べてもやっぱり合うな。ちょっと甘さが強いけど、違う甘さだから飽きないぞ)

 さらに箸のスピードを上げる五郎。向かいのレミリアと咲夜はいくつか会話を挟んでいるようだったが、自分に話しかけているようでもない。会話は蚊帳の外へ追い出して、黙々と食べ続ける。次に目についたのは青い葉物に包まれた鳥肉の蒸し物だった。外見だけではこれといった味付けはされているようには見えない。不思議そうに口へ迎え入れると、予想外の味との遭遇に再び目を見開いた。

(何だ、なんだこれ? シャッキリしたこれは青梗菜かな。うん、鳥肉の旨みがギュッと青梗菜の布団に包まれて幸せな空間になってる。いいぞ。豚肉と白菜で似た料理があるけど、青梗菜と鳥肉、これもうまい! 味付けがほとんどないのにご飯がどんどん進む。いかんなぁ、ご飯なくなっちゃうぞ)

 そんな五郎の気配を察したのか、向かいでレミリアと話していたと思っていた咲夜が五郎へ朗報を告げる。

「ああ、ご飯でしたらたくさんありますから、おかわりはお気兼ねなくお申しくださいね」

「そりゃ嬉しいな、ありがとう。早速お願いしても?」

 にっこりと笑って咲夜は椀を受け取る。すぐに温かいご飯がよそわれて、五郎に返ってきた。礼を言って再び食事との格闘に入る。次は仕切り直しも兼ねて、小鉢によそわれた白菜の漬物だ。日持ちさせるためか風味をよくするためか、何かの柑橘系の青い果物の皮も混じっている。白菜ごと齧ってみれば、それは柚子だった。

(早摘みの方の柚子か。なるほど、さっぱりしていて漬物にはばっちりだ。夏の海にスイカ、冬の炬燵にミカン。そんな感じの相性だな、これはいいぞ)

 口の中がさっぱりしたところで、一通り食べてみた食べ物を次々とトドメを刺していく段階に入る。まずは若干食べ損ねた感じがしていた鳥肉と青梗菜の蒸し物に狙いを定める。シャクリ、と口の中で小気味の良い音を立てて旨みを口中に広げる。ご飯を口に放り込み、その旨みと米を絡める。

(うん、このコンビネーションの良さは何度目でもかわし切れない、すごいワンツーだ)

 ふと気づけば最後の一切れだった。名残惜し気にそれを口へ放り込む。しっかりと噛みしめて別れを告げる。次の獲物へ行く前に、もう一度漬物で口直ししながら、狙いを定めていく。

(よし、次は刺身だ。残りは柚子味噌でいこう。うん、この幼馴染達、ずっと見ていたくなるような二人は幸せな味だ)

 市販のとは違う、柚子の香りが強く甘みの控えめな柚子味噌に鮎の刺身をつけ、ご飯と共に口へ。蒸し物とは違う、鮎の緩やかな甘みと柚子味噌のふわりとした香りが口を満たしていく。きっと柚子単体を鮎と食べてはこうはいくまい。

(よぉし、味噌汁も冷めないうちに飲んでしまおう)

 茶碗を味噌汁の椀に持ち替え、油揚げと葱もろとも口へ流し込んでゆく。油揚げの甘みと葱の香りが薄めの味噌とお互いに引き立てあい、飲み干したいという衝動を掻き立てる。今度は躊躇なく飲み干しにかかり、胃まで一気にほうっとする温かさが充満する。

(この温かさ。味噌汁はこうじゃあなきゃ。さて、じゃあメインを平らげますか)

 最後の一つまみの漬物を齧りつつ、蒸し物と対を為すもう一つのメイン、兎肉の石榴ソースがけにロックオンする。最初こそ恐怖感すら感じた一品だが、この中ではメインらしく一番印象の強い料理でもある。一口大の肉を口へ運び、その瞬間から溢れるような酸味とわずかな甘みを併せ持つ石榴のソースがさっぱりとした兎肉と混ざり合う。続いて濃いめのいんげんの胡麻和えを口に追加し、甘酸っぱさにまろやかさの加わるその瞬間を噛みしめる。

(うんうんこれこれ、この料理のこの感覚はすごいとしか言いようが無い。いつまでも食べていたいのにすぐ消える、花火みたいな味だ。だからウマいんだなこれは)

 ご飯といんげんをお供に食べ勧める。今自分は彼等のミュージカルの最中にいるのだ、と感じる味のハーモニーであった。みるみる間に五郎の胃の中へ吸い込まれていくそれらは、五郎自身惜しいなと思っていた。許されるならもっと食べていたかった、と。だが、こういうのは「また食べたい」と思えるくらいで終わらせるのが丁度いいのだ。そう言い聞かせて、五郎は最後の一切れをご飯と共に口へ運び、ゆっくりと咀嚼する。

 

「いやぁ、いい食べっぷりねぇ」

「え? あ……」

 向かいのレミリアに突然声をかけられ、我に返った五郎は、他人の前で己が欲望のまま食べ進めていたことを思い出し、顔を赤くする。よりによってすべて食べ終わった時に。

「あはは、変に気にしなくていいのよ。私だってそもそもマナーもへったくれもない食事してた時があったわけだし」

「それに、マナーにこだわって楽しんでいただけないよりもずっといいですわ。作り甲斐があったというものです」

 それでもやはり、大人の男性として恥ずかしいものは恥ずかしかった。少しうつむき気味になった五郎に、レミリアが「いい商品を持ってくれば誰にも言わない」という救いの手を差し伸べる。もともと彼女にとって言いふらすようなことでもないのだろうが、気を使ってくれたらしい。目の前の少女は思ったより空気が読める子らしかった。

「ど、どうもすみません……お気に召すものを持ってくると約束します」

 五郎にそれを払いのけることはできるはずもない。もともと依頼人の気に入るものを探すのも仕事である。五郎はこの仕事は張り切って取りかからねば。そう思い直したその瞬間だった。五郎の視界はぼやけ、目の前に広がるのは真っ赤な絨毯でも真っ白なクロスの映えるテーブルでもなく、ビル街と信号であった。そして何より、目の前に長い金髪の女性が心配そうに立っていた。

「あの、大丈夫でしょうか。ずっと立ち尽くしているようでしたが」

「え!? す、すみません、ちょっとぼうっとしてたみたいで」

「秋雨は冷えますから、お気をつけてくださいまし」

 白いドレスのような服と金髪からは想像もできない流暢で丁寧、そして綺麗な日本語をしゃべった女性は、髪を僅かに舞わせながら五郎に背を向ける。声をかけようとしたその時、目の前を通ったスーツ姿の男に一瞬姿が隠れたかと思うと、既にその視界に女性の姿はなかった。

「うーん……まだぼうっとしてるのかな? 早く帰って温かくして寝よう……」

 丁度青になった信号を駆け足でわたり、道路の向かいのコンビニエンスストアでビニール傘を買う、という一連の流れの中、五郎はぼうっとしていたらしい時のことを思い出していた。ここ最近、どうも白昼夢のようなものを見る事が多い。だが、今回も含めて、全く鮮明に覚えていなかった。医者に行った方がいいのか、放っておいても害はないのか……少なくとも明日には取引がある。少し長引きそうな相手だから、医者へ行くなら明後日以降だろう。そんなのんきにも近い考えに決着し、五郎はとりあえずとビニール傘を広げて駐車場を目指してのんびりと歩いて行った。



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西洋風魔女の魔法の森和食

 大変お待たせいたしました。ちょっと更新が遅くなってしまいましたが、今回もどうぞお楽しみいただければ幸いです。


「すみません、道をお尋ねしたいのですが」

 大通りから少し歩いた辺りで、後ろからふと呼び止められた。振り返ると、自分より頭二つほど背の小さな、後ろで鑿を使って束ねられた空色の髪が印象的な女性が立っていた。

「こちらの住所はどちらでしょうか」

 見せられた紙切れは和紙で、書かれている字も筆でのものだった。達筆ではあるが読めないものではなく、知っている住所であったため、口頭で道を説明する。大して複雑な道ではなく、説明に難儀するものではなかった。ただ五郎はその説明の中、言いようのない不思議な違和感をおぼえる。

「どうもご親切に……どうかなさいました?」

 その違和感が顔に出ていたのだろう。五郎の様子に気づいた目の前の女性が顔を覗き込む。

「あ、いえ。それではこれで」

 違和感は女性からだった。根拠としては薄いが、本能的にそうとしか思えなかった。その女性に対しては失礼かもしれないが、感じるのだから仕方がない。髪色が日本人を含めとても見たことのない髪色だから、というだけではない。雰囲気そのものに違和感をおぼえる。

「え?」

 女性を避けるかのように後ろへ振り返ったそのとき、目の前にあるべき道路や住宅はなく、変わりに整備されていない獣道の通った森の中にいた。慌ててもう一度後ろへ振り返る。だが五郎に走った嫌な予感は当たり、やはり道路や住宅は消え去り、森が広がっている。

「ここは……」

 生き物の気配がそこかしこに蠢き、青々と茂る木々は肌寒い空の下でも胸を張って五郎を見ている気がする。森の中に獣道が通っているということは、ここを頻繁に何か――人間や熊など大型の動物が通る証拠である。屈んでみると、僅かに残っていた足跡を見つけることができた。人間の足跡が双方向に入り乱れている。恐らくは拠点になる地点と何かを結ぶ通路なのだろう。ならば、どちらかへ進んでいけば人と会えるかもしれない。そんな淡い期待を抱いた五郎は、とりあえず自分が今向いている方向へ歩き出す。

 

「うーん、どれくらい広いんだろうな」

 しばらく歩いていた五郎がぽつりと呟く。既に靴や裾は泥で汚れ始め、肌寒さを感じると同時に少々の汗をかき始めている。鞄の中の大量の紙がいつも以上に重く感じてしまう。それだけではない。先ほどからどうも気分が優れず、頭も痛い。そんな五郎に、まさしく泣きっ面に蜂というべき事態が起こった。突然、どこからか物音がした気がした直後、鈍い音と共に視界が横へ猛スピードで流れていった。何かとぶつかって倒れた、そう理解するのが一瞬遅れた五郎の脇にいたのは、黒い大きな帽子を被った金髪の少女だった。黒いのは帽子だけではなく、白いエプロンの下の服は真っ黒である。

「いっつつつ……ご、ごめん、こんなところに人がいるなんてな」

「あ、いや、こっちこそ。立てるかい?」

 差し出された五郎の手を素直にとった彼女は特にどこかを痛めていたりするわけでもなさそうだ。ひとまず安心した五郎に、目の前の彼女は申し訳なさそうにもう一度謝った。

「あ、服……悪かった、よりによってこんなところで」

 言われてから見てみれば、ぬかるんだ泥の上に倒れ込んだ五郎と目の前の少女の服は泥で汚れ、スーツのグレーが見事に色をひそめていた。

「私の家、近くだからさ。そこで服洗っていってくれよ。昼飯くらいならお詫びに出すからさ」

 返事を待たず、彼女は五郎の腕をひったくるようにして獣道を進み始める。どうやら、五郎が歩いていた方向は、彼女の家へ向かう道らしい。それなりに歩いてきたからか、彼女の、もとい、霧雨魔理沙の言うとおり彼女の家はすぐに見えた。少し汚れた看板らしきものがかかっている。

「霧雨……魔法店?」

 読み上げられた屋号に、魔理沙は胸を張る。本店……というわけではないらしいが、人里にある霧雨店、という道具屋の娘らしい。あそこは人里では最大手ともいえる道具屋だが、目の前の魔法店の方は、屋号を掲げた看板に同じく「なにか」しますとしか書かれていない。立地も、恐らく人はめったに来ないはずである。彼女の見た目から察するに、子供のままごとに近いものがあるのかもしれない。こんなところで家族から離れて暮らしているということは、もっと別の何かで生計を立てているのだろう……仕送りとか、食糧の自給とか。しかしあの道具店、確か娘さんはいないと聞いていたが……そんな風に五郎が無意識に色々と考えを巡らせていると、魔理沙は正面の玄関扉を開け、五郎を中へ招く。

「うっ」

 思わず声を上げてしまった。部屋の中はとてもではないが綺麗と言える部屋ではなく、むしろ真逆である。流石に客人を招くには別の部屋があるらしく、二階へ通された。二階もお世辞にも綺麗とは言えなかったが、それでも五郎が何か言えるほど散らかっているほどではない。魔理沙の指示で上着を渡し、出来ることを手伝っていく。ズボンがあまり汚れなかったのは幸いだった。これくらいなら目立たないし、あとで洗っても十分落ちる。

 

 あっという間に上着と魔理沙の服を洗って外に干した彼女が、今は料理に勤しんでいた。こうなると料理のできない五郎の出る幕はなく、大人しく茶をすすりながら漂ってくる匂いを嗅いで楽しむしかなかった。鼻歌交じりに調理する魔理沙は先ほど洗っていた服とあまり変わらない服装をしていたが、その西洋の魔女を彷彿とさせる見た目からは想像のつかない「キノコ類」の匂いがしてくる。幻想郷は和食好きが多いのだろうか……

「うーん……そういえば、なんで俺は『知っている』んだろう」

 ふと五郎が呟いた。調理に集中している魔理沙には聞こえなかったらしい。自分は見知らぬ世界へと迷い込んだはずだ。なのに、この世界を知っているし、人物についてもある程度知っている。どころか、顧客の記憶まである始末だ。全く不思議で奇怪だが、そんなことを真剣に考えていた五郎の思考回路を一瞬で吹き飛ばしたのは、運ばれてきた料理だった。

「お待たせ。ちょっと簡単なもので悪いんだけど、この季節だったら食わないわけにはいかないぜ」

 そう言って彼女が持ってきたのは、いくらかの野菜と、たくさんのキノコを混ぜ込んだご飯、それと吸い物、それから竹の皮で包んだ何かだった。全てから秋の味覚の香りが漂い、食欲を強く刺激する。そういえばこの辺りの森はキノコが育つには良い気候なのかもしれない。

「じゃあ私は一階で収穫物の整理してるからさ、食べ終わったら呼んでくれよ」

「あ、うん。じゃあいただきます」

 にっこりと笑顔を見せた彼女は一階へ降りて行った。独り孤独になった彼の前には美味しそうな食事。言い方は悪いが、都合のいい状態だ。

 

「さて……」

 店などではないから椀に蓋はないが、意識を向けると一気に香りを強く感じる。吸い物そのものの香りの中から突き出してくる、マツタケの香りが心地よい。

「うん、大地の匂いのするお吸い物って感じだな……おお! マツタケの香りと、すっきりした味がいいジャブになってるな」

 ニンジンの程よい硬さ、ミツバの仄かな香りがマツタケの強い大地の香りと相まって、五郎の食事とのファーストコンタクトを彩る。男勝りともいえる元気溌剌とした魔理沙の印象とはまた違う、おしとやかな味という印象を受けた。その椀を一度おいて、炊き込みご飯へ手をつける。茶飯……緑茶を用いて炊いた方法での茶飯になっているらしく、これまた香りが良い。マツタケをはじめとして、シメジ、マイタケ、シイタケなど、これでもかというほど多様なキノコを見る事ができ、ゴボウやニンジンで味も整っているらしい。箸で一口分をほぐし取り、ゆっくり香りを楽しみながら口へ運ぶ。

「おお、おお……これはすごいな。春の茶の香りと、秋のキノコ達の香りが混ざって、すごい豪華なショウを見ている気分だ。ニンジンやゴボウの引き立て具合もいいぞ。いかんな、ご飯だけでもイケてしまう」

 かき込むように大きめの茶碗から米を食らっていく。半分ほど平らげてしまったところで、いよいよ気になっていた包みものに手をかける。しっとりと蒸れた竹の皮をワクワクしながら剥がすと、中から一本の大きなキノコが出てきた。マツタケほど香りはないが、立派なシメジだ。五郎は、むしろ魔理沙も知らないことだが、これはシメジの中でもホンシメジと呼ばれるもので、有名な「香り松茸味占地」の占地とはこのホンシメジのことである。

「ほう、これはたまらんな……噛む度に旨みが溢れ出てくる。大地なのに出てくるのは大洪水、不思議だけどこれがウマイからすごい」

 二口目を齧り、そして炊き込みご飯をかき込む。ご飯と共に噛むことで、一層強く噛むことになったシメジから、更に旨みが溢れ出てきて、五郎の顔を驚きと歓喜に満ち溢れさせる。すごい、と感じた次の瞬間、その旨みを含んだ汁気がご飯と混じり合い、更に風味を豊かにして五郎の口の中を満たす。

「うーん、これはやられた……! キノコは好きだけど、こんなにウマいキノコを食えるのは一生に何度だろうな……」

 大袈裟には感じさせない程の旨みが、確かにこの一食にはあった。気付けば茶碗の残りは三分の一、包み焼のシメジも半分しか残っておらず、吸い物も既に半分を切っている。もったいなさを感じるが、それでも最後までウマい味を惜しむことはしたくなかった。一瞬の躊躇の後、五郎は再びシメジを口へ運ぶ。残りすべてを一口におさめ、ゆっくりと噛みしめる。先ほどとは比べ物にならない濃い味が口の中にあふれて、名残惜しさすら感じてしまった。

「うーん、これで終わりというのももったいないが、いいものは少し食べるからいいものなんだろうな」

 独り頷いた彼は茶碗にもとどめを刺すべく勢いよくかきこみ、その時の香りと味を、鼻と舌にしっかりと焼きつける。

「俺の舌と鼻はもう味専用カメラだな……一瞬の味覚を切り取る。これぞ物を食うってことですよ」

 吸い物を少し啜る。シメジと食べた時とは打って変わって、ご飯と吸い物の包み込むような優しい香りが口中に広がる。そういえばシメジと吸い物で試していなかった、と気づいた時にはもう遅かったが、それでもこの優しい香りは後悔を忘れさせてくれる。むしろ、次に食べる機会が来るかもしれないという希望を抱かせた。やはり、いいものは食べられるときに少しだけに限る。

「このお吸い物、最初と最後にピッタリじゃないか。マツタケの香りってこんなに優しくなるんだなぁ……」

 最後に飲み干した吸い物の長い余韻に浸りながら、ゆっくりと茶を啜る。よくよく味わってみると、この茶も普通のものよりいくばくか香ばしいものだった。キノコ達の余韻とぴったりと合うことから、彼女の主食たりうる食材が何か少し察しがついてしまって、思わず苦笑いが出た。いつか毒キノコにでも当たるんじゃないかという心配反面、自分で採取して食べると言うのは楽しそうだとも思った。

 

「よし、っと……」

 湯呑も空になり、一息つけたと立ち上がる五郎。一階にいるという魔理沙にそろそろ声をかけるべきだろう……そう思って階段を降りていくと、ばったりと丁度階段を上がってこようとした彼女とハチ合わせた。

「っと、食い終わったかい?」

「あ、うん。ごちそうさま、おいしかったよ」

 そりゃよかった、と笑った彼女は、少し誇らし気だった気がする。そして直後、五郎の来ていたスーツを渡された。もうすっかり汚れは見えない程綺麗に落ちており、しっかりと乾いていてすぐにでも着れる状態だった。こんな短時間で乾くものだろうか、という疑問をぶつける前に、彼女の方から理由を教えてくれた。

「この八卦炉、ホント便利だぜ。こんな短時間で洗濯物が乾くんだからな!」

 そう言って手に持った足つきの小さな八角形の木箱のようなそれを見せてくれた。一目見て、その凄さはなんとなく理解できた。きっとマジックアイテムの類なのだろう。曰く魔力を注いで使うらしいのだが、今回はそれで温風を出して、それを使って乾かしたらしい。外に干す必要はなかったんじゃないか、と内心でツッコミを入れておいた。と同時に、もう一度食事のお礼を言った後、彼女が玄関まで見送ってくれるのを背に、五郎は人里の方へここへ来るときに通った獣道を歩いていく。

 

「うん、やっぱりちょっと暑いな……」

 秋口とはいえ、こうも湿気が多い森の中をずっと歩いていて、更に瘴気による影響も受けていた彼は、せめてネクタイを緩めようと手をかける。くっ、と引っ張ってもう一度前を見た瞬間、五郎が今まで歩いていた森の景色はどこかへ吹き飛び、住宅や道路が広がっていた。道を五郎の方に背を向けて歩く女性の、空色の髪がとても印象的で、そして既視感を覚える。

「あれ、俺はどうしてたんだっけか」

 ボケるには早いぞ、と考え込むも、記憶に靄がかかった感覚とはこのことか、と落ち込むことになった。全くと言っていいほど思いだせない。森を歩いていたような気がするが、その森は何のために歩いていたのか、どこの森を歩いていたのか、森のどのあたりを歩いていたのか、その全てに見当がつかなかった。うんうん唸りながら考え込む五郎だが、一向にきっかけになりそうな事柄すら思い出せない。そして同時に、腹の虫が空腹を訴える。

「腹が減っては考えもまとまらぬ、か」

 ひとまずどこかで腹を満たして、それから考えよう。一度そう結論付けて、この辺りにいい店が無いかいつも通り探し始めるのだった。



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八つ目の盲目まん

 ブラウンのコートに身を包み、自分の立てた靴音を聞きながら歩いていた五郎は、ふと立ち止まって脇を見る。

「あれ……ここ、移転しちゃったのか。ここの肉まん美味しかったんだけどなぁ」

 以前小腹がすいた時に立ち寄った、その場で食べられる肉まん屋だったのだが、その店は今シャッターが降りて、移転の旨を知らせる張り紙がしてあった。その張り紙曰くここからかなり離れた場所に移転したらしい。それでももともと他の店でしっかり昼食を食べるつもりであった五郎にはあまり関係ないことではあったはずなのだが、移転してしまったとなると途端に惜しく感じてしまう。ついでに言えば、やたらと肉まんが食べたくなっていた。

「肉まん……コンビニのもいいけど、やっぱり専門店のを食べたいよなぁ」

 すがるようにタバコを内ポケットから取り出して咥える。すぐに昼食を食べることを考えて味がわからなくなるかと火をつけるか戸惑ったが、結局咥えてしまっては点けないわけにはいかないかとライターを取り出す。紫煙が春の風に吹かれて、五郎の鼻をくすぐる。春一番からしばらく経って、コートもそろそろクリーニングの時期か、などと考えながらもう一度歩き出す。アテがどこかあるわけでもなく、ただうまそうな店でもないかなぁと適当に歩くだけであった。そんなものだからぼうっとした頭で周りに意識はいかず、思うような店が見つかるわけでもない。それからしばらく歩いた時のことだ。

「……あれ? いつの間にこんなところに来てたかな」

 周りの景色が、少しだけ開けただけの森を通りぬける道になっていた。見覚えがあるようなないような、そんな感覚。ともかく人の気配もなく、いつの間にか日も沈みかけていた。本能が危機を感じて、五郎は無意識的に足を早める。灯りも持たずこんなところで一人うろついているとなれば、何があるかわかったものではない。

 

 幸や不幸というのは重なりやすいものなのか、ただでさえ迷った五郎に追い打ちをかけるようなことが起こり始めた。どこからともなく聞こえてくる、方向感覚を失わせる声……いや、歌だ。

「まいったな……」

 この時間帯に歌が聞こえてくるというだけでも不気味だというのに、場所が場所である。更にというべきか、この歌声を聞いていると目がよく効かなくなってくる。話に聞いたことはいくらかあったが。嫌な予感がこうも形になってしまうとは、と思いながら、更に足を早める。目が効ききらなくなる前に、せめて灯りを見つけなければ……そう焦りきった五郎のコートから、コトリと何かが落ちて靴に当たる。今の状況なら放っておいたほうが良かったかもしれないが、一瞬でも目をそちらに向けたのは正解だった。

「あ、そうか。ライターがあった」

 五郎はライターを拾い上げ、ほんの少し胸をなでおろす。ライターに火を灯し、それでもやはり足早に森を歩く。だんだんとライターの火も明るさを感じなくなってしまった頃、ふと目の前に大きな灯りが存在を主張しているのに気付いた。安心感を感じる赤提灯。少し近づいていくと、だんだんと一人で引くには少しばかり大きい気もする屋台が見えてきた。その存在に気づいた五郎は、ようやっと安心感に胸を撫で下ろした。

「はぁ。貴女でしたか。とって食われるかと思いました」

「あれ。お久しぶり、かしら」

 暖簾をくぐった先にいたのはミスティア・ローレライ。この屋台の主人であり、五郎の商売相手でもあり、夜雀の妖怪でもある。最近パンク系バンドもやっていると噂を聞くが、五郎はそういったジャンルに興味がないのもあって見たことはない。ふと、五郎が思い出したようにミスティアに尋ねる。

「そういえば今日は私服ですか。いつもの和服は?」

 それに苦笑いしながら頭をかいて、ミスティアは事情を話した。曰く、薄力粉を使っていたら跳ねて目立つように付着してしまい、今は洗濯中なのだとか。彼女らしいといえば彼女らしいと、五郎は腰掛けながら苦笑いを返した。

「折角だから何かもらおうかな……なにか面白いの入ってます?」

「あっじゃあ、丁度いいから新しいメニュー食べていってよ。さっき言ってた薄力粉を使うやつだけど」

 そう言ってミスティアは小さめの蒸籠のなかから何かを取り出すと、たくあんニ切れを添えて五郎に差し出した。一見すると肉まんそのものである。彼女の口ぶりからするとただの肉まんというわけでもあるまい。中身を聞こうと一瞬彼女を見上げると、まずは食べてみろと言わんばかりに笑っている。確かにその方が先入観にとらわれることなく味わえるかもしれない。覚悟を決めたかのように、一口それを齧る。歯に触れたそれはなにかの塊だった。普通の肉まんのような餡ではない。次の瞬間、強い歯ごたえと臭みのようなものを感じる。それほど不快ではないが、いわゆる人を選ぶ味というやつで、彼女が普段出している料理からもすぐに察しがついた。

「……八つ目鰻?」

「そうよ。癖が強い八つ目鰻だけど、薄力粉で包んで肉まんみたいにしちゃえば食べやすいかなって。でも試作だけあって、まだ未完成なのよねぇ。よかったら意見聞かせてちょうだい」

 彼女の言う通り、生地と中身の味はマッチしているとは言い難い。蒲焼ダレをそのまま使用していたり、中の八つ目鰻の切り方が大きかったり、まだまだ始まったばかりといったところなのが伺える。普段あまり味に関しては口出ししない主義の五郎だったが、普段世話になっている彼女に頼まれたとあらば断われまい。タレの味付けを変えることや切り方をもっと細かくするなど、できる範囲でのアドバイスをしていく。

 

「よし、とりあえず貴方に教えてもらったことを試してみたわ。はい」

 手早く作られた二つの小さな八つ目鰻まんを、五郎とミスティアで一つずつ手に取る。一度目を合わせ頷いてから、ほぼ同時にかじる。山椒をタレに混ぜ込んでみたり切り方を工夫してみた成果が出たのか、先程の試作品よりもずっと食べやすい。一口かじったところからもうもうと漂う湯気も、ヤツメウナギの泥臭さは感じずに食欲をそそる。とは言え、普段ヤツメウナギの蒲焼きを食べている五郎からするとやはり物足りなさのようなものを感じる。

「うーん、これも美味しいんだけど、やっぱり普通の蒲焼きをもらえると……」

「あら、やっぱり? 慣れるとこっちの方がいいって言う人はいると思ったのよねぇ。すぐ焼くわ」

 予め串打ちされた切り身をタレから素早く引き上げ、赤く焼ける炭火にかける。ところどころ焼けて欠けたり穴が開いた使い込まれた団扇で仰いで、火力を調節するミスティアの手つきは流石に慣れたもので、いつ見ても五郎を感心させる。次第に五郎の鼻をタレの焼ける匂いがくすぐり始める。タレに混じるヤツメウナギの香りはウナギのものとはまた違った印象をもたせ、野性味のようなものを感じさせるものである。炭火の弾ける音とタレの焼ける音が静かな森の中に心地よい。これを肴にして飲めればよかった、とも思うが、このあとに物を食べるとなるとやはり飲めなくても正解だとも思う。

「はい、お待ちどう様。飲み物はお酒……はダメなんだっけ。じゃあお茶にする?」

「ああ、お願いします」

 お茶を入れる間に、焼きたてのヤツメウナギを一口かじる。焼き鳥にも似た歯ごたえとタレに混じるクセのある風味は、人こそ選ぶが一度ハマれば病みつきモノである。これがウナギであれば米が欲しくなるところであるが、ヤツメウナギのこの風味はこれだけでもイケるものがある。なにより歯ごたえが強いため、むしろ米と食べるよりも単品のほうが好みという人もいる。差し出された茶をすすると、ヤツメウナギの風味をより強く感じる。

(うんうん、これこれ。誰とも手を繋ぎたくないってヤツメウナギをさらっとあしらっちゃうお茶。二人共実は仲良しさんだ)

 噛めば噛むほど、とはよく言うが、ヤツメウナギもまた噛むたびに独特の風味が口の中で踊り、五郎を楽しませる。四本の串を打たれた切り身一枚はかなり大きめで、噛みごたえと相まって一枚食べるだけでもそれなりに腹は膨れてくる。それでも焼かれている切り身から漂うたれの匂いは五郎の空腹感を刺激して、二枚目が出されるのを楽しみにさせる。そんなところへ、ミスティアがふと気付いたかのように五郎に問う。

「あ、キモ焼きは食べるかしら?」

「おお、珍しい。頂きます」

 ヤツメウナギのキモは蒲焼きにする時点で取り払うが、それを焼いて食べるという人もいる。量が量なのでなかなか食べられないものだが、蒲焼き以上に特徴の強い味はそれだけファンも濃い。差し出された二枚目の蒲焼きに早速かぶりつきながら、キモ焼きを待つ。半分ほど蒲焼きを胃の中へ送り込んだところで、ようやくキモ焼きが五郎の前に置かれた。一度蒲焼きを皿に戻し、キモ焼きの皿をそばに寄せる。灰のような色のそれは砂肝に見えなくもない。が、その食感やくせは砂肝とは全く異なる。一口かじった五郎の口内に、泥抜きされてなお強く感じる泥臭さのようなくせが広がり、やはりくせのある独特な舌触りを感じる。

(そうそう。キモのこのくせの強さがいいんだ。滅多に食べられないだけにこれがくせになる。楽しめない人もいるだろうけど、それを楽しめるっていうのはバーゲンよりもお得かもしれないな)

 蒲焼とは違って一本の串で打たれたいくつかの切り身状になったキモが、あっという間に半分以上五郎の胃の中へ消える。とはいえ串モノを食べるのに躊躇する必要はない。そう言わんばかりに、最後の一口をほおばり咀嚼する。ゆっくりとその独特な味や食感、匂いを堪能して、湯飲みに口をつける。蒲焼とは違い、匂いが強まるのではなく茶の香りと溶け合い、調和していく。

(うーん、蒲焼とは違うこの混ざり方、いいぞ。ゆっくり馴染む幼馴染の関係だ)

 馴染んだそれをゆっくりと飲み込むと、間髪入れず残った蒲焼をかじる。少し冷めはしたが、まだ身は固くなっていない。タレの風味が口に再度広がって、一種の安心感を覚える。

(やっぱりシメはこっちの方がいいなぁ。八つ目鰻といったらこの味、俺の幼馴染はこっちの方だ)

 あっという間に食べ終わり、やはり茶で一息つき、満足したと言う代わりに息を大きく一つ吐く。ミスティアもそれがどういう意味か察して、笑顔を向けた。

「あら、もういいのかしら? また来てちょうだいね。今度こそ完成品を出せるようにしておくわ」

「楽しみにしてますよ。それじゃご馳走様」

 代金を屋台の向こうにいるミスティアに支払い、暖簾をかき分けて一つ大きな伸びをした。

 

「あれ?」

 伸びを終えた五郎が目を開けると、目の前にあったのは肉まん屋だった。大きな黄色い屋号が赤い屋根に映える。

「そっか、こっちに移転したんだっけ。いかんなぁ、ついつい無意識に足を運んでしまったか」

 しかしせっかく足を運んだのにこのまま帰る、というのももったいない。五郎は腹具合と財布の中身を確認すると、そちらのほうへとゆっくり歩き始めた。店の直前で、五郎が扉に手をかけようとしたとき、曇りガラスの向こうが一気に開かれた。中から人が出てくる、と理解するより早く五郎とぶつかってしまう。

「おっと! スミマセン」

「こ、こちらこそ突然すみませんでした。服、大丈夫でした?」

 おそらくここの肉まんを買ったのであろう紙袋を見て、その人は尋ねた。そういわれてふと見るが、特に汚れた様子はない。それを向こうも確認してほっとしたらしく、表情からわずかに安堵をうかがえる。

「大丈夫みたいですね、よかったです。それでは!」

 長い、珍しい若葉色の髪をなびかせながら、少女が駆けていく。平日だが制服ではないし、社会人にも見えない。私服の学校か、休校の日か何かだろうか、と他愛もないことを思いつつも、再度店へ向き直って暖簾をくぐった。



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妖の山直送山菜蕎麦

「お待たせしましたー」

 店先にある、外の陽気と景色を楽しむことができる特等席に腰かけた五郎に、黒い小ぶりなお盆を持った女性店員が声をかける。そのお盆ごと受け取った五郎に軽く礼をして、店の中へ戻っていった。それを見届けるでもなく、五郎はお盆に目をやる。注文した通りの、桜餅がちょこんと乗せられていた。京都に出張に来た五郎の楽しみの一つが、この道明寺粉を用いた、関西方面の桜餅だった。関東のものとは違ってざらざらとした見た目の皮が特徴で、餡全体を生地で包んでいるものだ。大きな口をあけて、半分ほどをかじる。

「うーん。やっぱり京都だからか、味が上品だ」

 口の中に餡の甘さが主張しすぎずに広がり、道明寺粉のクッションとともに華やかな風味を演出する。丁寧に仕込まれたそれらは、シンプルかつ繊細に五郎を楽しませた。

(桜餅ってどうしてこう、結構なキツめのピンク色なのに、嫌悪感が出ないんだろう。桜への美的感覚と、餡との仲良しさからか)

 ゴクリ、と喉を鳴らしながら飲み込んだ後、湯気を立てる湯呑を手に取る。口に運ぶと、新茶とは違う香りが漂ってきた。

(お、今の時期に新茶じゃなくて番茶なんだな。新茶と違って、幼馴染みたいなコンビネーションだ)

 新茶ではこうはいかない。新茶を使えばいいという風潮を打ち壊してくれたような気がして、五郎は思わず頬を緩ませた。もう半分を口に運び、外の景色を見渡しながら咀嚼する。ちょうど桜も散り、葉桜になりきるころだが、満開の時とは違うこの葉桜の爽やかさも、五郎は嫌いではなかった。

「もう夏も近いな……そろそろ山菜の時期か」

 そんなことを言いながら、ぐっと背筋を伸ばし、その反動で息を吐く。ゆっくりと腕を降ろしながら無意識的に閉じていた目を開く。

「……あれ。俺、何してたっけ……?」

 ふと周りをきょろきょろと見回して、腰かけていた岩を見て少しばかり休憩しようと腰を下ろしたことを思い出す。少し寝てしまったらしい、と慌てて腰を上げて空を見上げる。まだ陽は高く……というよりも、よく考えてみると腰を下ろしたのは昼前であったはずだから、結構な時間こうしてしまっていたらしい。いかんいかん、とスーツの襟を正して鞄を拾い上げる。幸いにも誰かの悪戯にはあっていないらしい。

「さて。この後の予定は……」

 手帳を開くもほぼ白紙である。何せここ最近、手帳にメモしようにも、相手が日付を決めてくれないことが多く、直前になって連絡をもらうことのほうが多いからである。であるから手帳に書き込む予定のほうが少なく、それでも大事な予定が多いから確認せざるを得なかった。そして今日は、その大事な予定が一件入っている日でもある。幸いにも時間にはまだ余裕があるから、今から歩いて行っても随分と余裕をもって到着するはずである。今から里に戻って昼を食べて、それからでも十分間に合う程度には、だ。そんな考えに行き着くと、懐に手を入れて煙草の箱とライターを取り出す。慣れた手つきで口に一本をくわえこみ、小気味のいい音を立ててライターの火打石を擦る。火が点いた煙草の先から、ゆっくりと紫煙が漂い始めた。春の陽気と紫煙の香りに揺られるように、しっかりとしつつもゆったりした足取りで里を目指し始めた。

 

 日が頂点を過ぎてからしばらく、五郎はあれから十数分程歩いたというところで里に到着した。皆昼を終えたころらしく、慌ただしくも活気に満ち溢れた表情で仕事場に戻っていく。それを見て自然と、五郎の顔がほころんでいた。そんな心地良さを胸に抱いたまま店を物色し始めた五郎はしばらくして、一軒の店が目に留まる。藍色の暖簾に白字で蕎麦と染められており、高貴な色の暖簾のはずだが、どこか安心感のようなものすら覚えていた。

「蕎麦か……うん、いいな。今日はここにしよう」

 引き寄せられるように暖簾をかき分けて店に入る。すでに昼時を過ぎているからだろう。ほとんど客はおらず、しかして人がいたという人の気配の残り香のようなものが感じられた。少し硬めの座布団に腰を下ろして、ほぅと一息ついた。

「いらっしゃい。今日は随分と遅めなんだね?」

 少し年を食った女性が五郎に茶を差し出した。年季の入った小豆色の着物と、純白ではなく使い込まれた風合いの白い襷掛けが似合っている。余裕があるから少しすいている時間を、と返して、お品書きに目を通し始める。するとある一品が、五郎の目を惹いた。他と変わらず少し汚れた木の板にしっかりとした筆運びで書かれた「山菜蕎麦」の四字だった。丁度旬の時期である山菜の入った蕎麦だ、外れではあるまい。ピーク後の片付けをしていた先ほどの女性を呼ぶとすぐに対応してくれた。

「山菜蕎麦を一つ。それと、焼きおにぎりを」

「はぁい、山菜蕎麦と焼きおにぎりね。焼きおにぎりには柴漬けがつくけど、苦手じゃなかったわよね」

 ええ、と五郎が返事をしたのを確認して、女性が厨房に引っ込む。すると店の中はしばし静寂を過ごす場所を提供してくれた。湯飲みを静かにすすると、ふわりと新茶の香りが鼻をくすぐる。ここで煙草を吸うのはもったいない、と五郎はゆっくり背を壁に預ける。この店の角にある特等席から見える一席に、ふと見覚えのある姿を見かける。

(あれ、確か山の天狗様じゃないか。ええと、射命丸さん、だったっけ)

 頭襟がちょこんとのった艶のある黒のショートヘア、太陽のもとではまぶしさすら覚える真っ白なワイシャツと、それと正反対の光を吸い込むかのような漆黒の烏色の羽。見間違えようがなかった。人里まで頻繁に降りてくる天狗様、といえば彼女、射命丸文以外にない。そして何より、五郎にとっては今日の約束相手でもある。奇遇、の一言で片づけてよいものかとすら思えた。まだ彼女のところにも注文は出てきていないらしい。となるとこれは好都合だった。席もそう離れていない。

「どうも、奇遇ですね射命丸さん」

「あや! 井之頭さんじゃないですか。もしかして貴方もお昼です?」

 赤い目を真ん丸にしたかと思うと、いつも通りのスマイルを見せた。営業スマイルへの移行スピードも幻想郷一、ということか。折角だからご一緒しましょう、という彼女の提案を快諾した五郎が座布団に再び腰を下ろすと、ちょうど文の注文したらしいものが運ばれてきた。黄金色の衣が映えるかき揚げ蕎麦だ。五郎が席を移したことに気付いた女性店員が若干驚いたように二人に話しかける。

「あらあらお知り合いだったのかい。山菜蕎麦のほうももうできるから、ちょっと待ってて頂戴な」

 そういって奥へ再び引っ込む。目の前のかき揚げ蕎麦を捕捉したまま、文が世間話でもするかのように五郎に教えてくれた。

「実は今の時期だけ、このかき揚げにもアシタバとかタラの芽なんかが入ってるんですよ。山菜をもってきたときは、大体ここで食べていくんです」

 さらっと自分が山菜を持ってきたことを明かした彼女は、お先に失礼します、と早速手を付け始める。サクリ、とこちらからも聞こえるほどの良い音を立てる揚げたてのかき揚げと、勢いよくすすられる蕎麦を見ていると、五郎の腹が一気に空腹を訴え始めた。そんな五郎の状態を見透かすかのようなタイミングで、山菜蕎麦が運ばれてくる。一緒に持ってこられた焼きおにぎりも、味噌の焼けた匂いが鼻を刺激する逸品である。

 

「うん、これこれ……じゃ、いただきます」

 箸を手に取り、丼を持ち上げてまずは蕎麦をすする。上品ではないがしっかりと下ごしらえされた醤油ベースの出汁と、蕎麦独特の香りが五郎の口の中で絡み合う。

(これだ、これだよ。飾りっ気も混じりっ気もない、蕎麦って蕎麦だ。二人で一つ、しっかりと手をつないでダンスを踊ってくれる)

 一口目の余韻も消えぬ間に、メインでもある山菜達に手を付ける。ゼンマイ、タラの芽、フキ……様々な山菜が盛り沢山に入れられている。他の具材といえば天かすくらいに主役として立てられている。箸で適当に蕎麦と共に一掴みし、一気にすすりこむ。蕎麦の食感に、山菜達のしゃっきりとした歯ごたえが加わって、より出汁の味も濃く感じる。

(おお、春の音だ。これが春の音なんだよ。この山菜蕎麦ってのは春の音楽会なんだ。指揮者がいなくたって纏まってる、オーケストラ山菜蕎麦団。何の変哲もないけど、何の変哲もないからいいんだ)

 一口出汁を直接すすり、一度溜めこんだ息を吐き出す。息継ぎを済ませた水泳選手を思わせるほど、貪欲に三口目へ突入する。そのまま三分の一ほどを飲み込んだあたりで、一度丼をおいた。いよいよ焼きおにぎりである。まだまだ熱いぞ、と言わんばかりに湯気を立てるそれを火傷覚悟で掴み、頂点から大きな一口でかじる。一気に口の中に熱さが広がり、思わず舌の上で転がしながら息を吐き出して冷ます。どうにか味わえる程度に覚めると、一気に焼かれた味噌と米の風味が広がり、同時にピリッとした辛みも感じる。

(おお。ここは味噌に山椒を混ぜているのか。七味とか鷹の爪とは違う辛さだけど、味噌に合うんだな)

 咀嚼する度に米としっかり結びついた味噌の旨みと、それをしっかり整える山椒の辛みが溢れ出し、五郎を虜にする。よし、と言わんばかりに再び丼を手に取り、出汁をすする。出汁の味が米をほぐし、先ほどよりも柔らかで豊かな味が広がり、思わずおぉ、と声を漏らしてしまった。ただ、目の前の文は文で蕎麦に夢中らしく、それに気付いた様子はない。五郎は五郎で、無意識に出した声に自身が気付くこともなかった。すぐに蕎麦もすすり、米と蕎麦を一緒くたに咀嚼する。

(蕎麦と米、米と蕎麦。ナンセンスに思えるけど、これがまた堪らん)

 二つのうち一つの焼きおにぎりを同じ食べ方を続けて胃に収めきってしまうと、ハッと我に返ったように五郎は柴漬けの存在に気付く。一欠けを口に放ると、それまでの出汁や味噌、山椒の残り香の一部をきれいに取り除く。残ったのは心地よい残り香の部分で、良いリセットになった。二つ目の焼きおにぎりを手に取り、今度は柴漬けと一緒にトドメを刺し始める。

(うんうん、これは安心できる味だ。蕎麦とは意外なコンビネーションを見せてくれたけど、こっちは昔っからの王道コンビ。焼きおにぎりが力強くて、それに柴漬けがしっかりついてくる。これも立派なダンスだ)

 サイドメニューとして頼んだつもりだったが、思わぬ大当たりであった。五郎は気を良くしながらあっという間に焼きおにぎりを食べ終えると、一口湯飲みに口をつけてから蕎麦へ再び意識を集中させる。勢いよくかきこむかのようにすすられた蕎麦は、その勢いで花が開かれるかのように出汁の香りを広げ、蕎麦が口内で蕎麦特有の香りとともにしっかりと広める。思わず息継ぎすることも忘れて、一気にすすり込んでいく。

(おお、おお。テンポが速くなってもしっかりと纏まってるな。流石オーケストラ山菜蕎麦団。この時期に来てよかった)

 蕎麦の熱で出る汗もお構いなしに、次々とすすり込まれていく。蕎麦をすすり切ると、今度は出汁を喉を鳴らしながら流し込んでいく。すると、向かいの文とほぼ同じタイミングで大きな息を吐き出した。二人ともつゆまでしっかり飲むタイプだったらしい。しかし流石天狗というべきか、汗が玉になっている五郎とは対照的に、満足げな顔をしつつも文は汗一つかいていなかった。

「いやぁ、いい食べっぷりでしたねぇ。思わず釣られてしまいました」

「ははは、みっともないところを……ところで、このまま移動するというのも面倒ですし、ここで大丈夫です?」

 勿論、と今度は文が五郎の提案を快諾する。お互いに手帳とペンを取り出して、ああだこうだと話し始めていた。するとふと、五郎の意識がすっと落ちるように暗転するのを感じた――――まるで急に耐えがたい眠気が襲ってきた時のように。

 

「うん……? しまった、もうこの駅か!」

 ふっと目を覚ました五郎。電車内の簡易的な電光掲示板が、いつの間にか五郎の目的地である駅を表示していた。商談先の近くに駐車場がないという話だったから電車で来たはいいが、危うく乗り過ごすところであった。慌てて電車を降りた五郎はすぐ近くの出口へつながる階段を登っていく。丁度登り切ったあたりだろうか、醤油のいい匂いが五郎の鼻をくすぐった。

「立ち食い蕎麦か……ここはドアがないんだな」

 開け放つドアもないこの店から、ちょうど一人女性が出てきた。年季を感じさせる丸メガネと、白髪ではないがかなり明るめの部分と焦げ茶の部分とが狸の毛皮を思わせる髪の特徴的な女性だった。ドアの向こうに向かって、気風の良さを感じさせる声を通す。

「ご馳走さん、また来るよ」

 毎度ありがとうございました、と中から声が聞こえてきた。女性にしてはそこそこの身長で、どこか仕草に古めかしさのようなものを感じたが、少し変わった人だというだけでこれ以上気にするほどでもない。それよりも五郎は、今の匂いで腹の虫が泣き始めてしまったことを感じていた。この店に入るのは少し気が進まないが、それでも蕎麦で腹が減ってしまったのなら今の五郎の腹は蕎麦しか求めていなかった。この近くに蕎麦屋はあるだろうか、と切符を改札に通しながら、五郎は少し軽い足取りで駅の外へ向かっていく。



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地底の洋風食堂

「よし。昼はここにするか」

 革靴の歩みを止めて、僅かにネクタイを緩める。五郎が目を付けたのは、小さな商店街にある小さな洋食店だった。レンガ造りの壁は新品のものではなく使い込まれていることを感じさせるもので、少し黄ばんだ硝子から覗く店内には客が二組ほど見える。空席はその倍以上あるが、寂れているという感じ方はさせなかった。いい雰囲気だ、と喜び勇んでドアを開けようとしたその瞬間、目の前が真っ白になるような感覚が五郎を襲う。

 

 ふっと目を開けた五郎。山の中で洞窟の前に立っていた彼は少しだけ呆けていたように立っていたが、すぐに何をしようとしていたのか、すなわちこの洞窟の先にある橋を越えた、旧地獄へ行こうとしていたことを思い出す。何度目か分からぬどこからかの不気味な視線と、飲めない酒の臭いが鼻を埋め尽くす大通りを通り抜け、地底で光を取り入れることをあきらめたステンドグラスの窓らが目を引く館に到着する。到着と言っても正門前に着いただけで、館に入るためにはまず門前にいる妖精に声をかけなければならない。この妖精はゾンビを思わせる不気味な風貌をしてはいるものの、雇い主というか使役主というか、とにかく彼女らを統括する火焔猫燐という存在のおかげで、他の妖精のような悪戯を気にする必要はない。五郎が手短に自身の身分と用事を伝えるように頼むと、こくりと頷いた妖精は館の中へ飛んでいった。

「相変わらず薔薇の手入れは熱心なんだなぁ」

 門からも見える庭に咲く赤を中心とした薔薇達は、この地霊殿の特徴の一つでもある。薔薇といえば日本でも歴史の深い植物であるが、この地獄では周りに花が少なすぎるからか、余計に映えて見える。戻ってきた妖精に案内されながらその薔薇から微かに香る香りを楽しむのが、五郎の地霊殿に来た時の楽しみだ。

 

「そうですか。それではそのようにお願いします」

「はい。では一週間後にまた」

 席を立って立ち去ろうとした五郎を、その対面で商談をしていたこの館の主、古明地さとりが呼び止める。覚妖怪たる彼女の特徴である、大きな第三の目が心を見透かすような感覚が、五郎は嫌いではなかった。しかし呼び止められた理由は、心を読む力を相手は持っていても五郎は持っていない。どんな目的があるのか見当もつかない五郎がきょとんとした様子で立ち止まると、さとりは僅かに笑みを浮かべながら用件を伝えた。

「お食事、まだなのでしょう? お酒を飲めない貴方が大通りで入れる店も少ないでしょうし、地上に上がるころには陽も沈んでしまうわ。お昼くらいはご馳走させてくださいな」

 そういえば、と五郎が腕を上げて時計を見る。いつの間にか昼頃を指しており、それに気づいた途端一気に腹の虫が主張を始めてきた。無論、そんなことは音を聞かずとも目の前の少女には筒抜けになるわけである。

「ふふふ。丁度お腹の方も空いていらっしゃるようですし、ご遠慮なさらずに。ああ、準備ができるまで、お茶とクッキー、よろしかったらどうぞ」

 膝の上に寝かせていた二本の尻尾を持つ、赤い模様の入った黒猫を地面に降ろすと、ポンと小気味の良い音とともに人型に姿を変える。えんじ色の三つ編みが特徴的な髪、大きな猫耳、上下一体の不思議な柄の深緑色のゴシック調の服……地霊殿のペットの代表格である火焔猫燐、通称お燐と呼ばれる化け猫である。

「やっ、五郎さん。準備してくるからちょっと待っててね」

 落ち着いた口調のさとりと対比的に、楽しそうに笑いながら砕けた口調で話すお燐。何故か五郎は彼女に気に入られているらしく、ちょくちょく死体を運ばせてくれとせがまれる。慕情でも友情でもない感情を抱かれた五郎は不思議に思いつつも、商売先の子供になつかれたようなものとして大して重く受け止めていなかったし、お燐もそれで満足しているようである。そもそも、この人懐っこさや人には理解しがたい愛情表現のようなものは五郎に限った話ではなく、たとえば博麗の巫女などもその対象らしい。

 お燐が部屋を出ていったのを見送り、改めて目の前に置かれていた紅茶とクッキーに目をやる。商談中、先程出ていったお燐が出したもので、クッキーは目の前の少女、さとりの手作りであり、紅茶はこの地霊殿で栽培した葉を使っている、という話だ。まずは、と紅茶のカップを口に運ぶ。渋みはなくスッと喉を通り、深いコクが舌に染みていく。

(ほほー。紅茶は詳しくないけど、初めて飲む味だ。淹れ方がいいのか、茶葉がいいのか……両方かなぁこれは)

「ああ、そうそう。その紅茶、シッキムという茶葉の名前だそうです。随分前に流れてきたのを少しずつ栽培しているのですよ」

 五郎の心を読んださとりが、五郎の邪魔にならない程度の音量で話しかける。シッキム、という茶葉については、一度商談しているときに聞いたことがある。確かインドの方の茶葉だったはずだ。随分遠いところから流れてきたものだ、と思いつつ、その深いコクを楽しむ。対してさとりは、そのシッキムの原産地を思いがけず知ることになり、感慨深い表情を浮かべていた。二口目で喉を潤した五郎は、クッキーに手を付ける。干し葡萄が練り込まれたクッキーが口に入った瞬間、さっくりと口の中で砕けていく。

(うーん、こうも軽い口当たりのクッキーはなかなか焼けるもんじゃない。生地の甘さと葡萄の甘酸っぱさが癖になる……飽きずに何枚でも食べられちゃうぞ。まるでアルプスの平原のようなさわやかな風の味だ)

 二枚目を食べ終え、三枚目を口に含んだ後、シッキムの紅茶を口に含む。すると、コクの深いシッキムの味と香りが、干し葡萄と軽い小麦の甘酸っぱさに消されることなく、程よい調和を見せる。軽い小麦はシッキムをよく吸収し、単純な足し算掛け算ではない味の融合を五郎に楽しませ、干し葡萄とシッキムの香りが鼻をも楽しませてくれている。

(うん、うん。相性抜群、長年連れ添った熟年夫婦の味だ。縁側に二人腰かけて飲むお茶みたいな安心感。紅茶とクッキー、シンプルだけど、だからいいんだ)

 最後の一枚を口に放り込んだ丁度その時、背後の扉が開く音が聞こえた。ティーカップを持ち上げながらチラリと視線をやると、予想通りお燐が戻ってきていた。どうやら用意が済んだらしい。

「さとり様、準備完了です!」

「そう。では井之頭さんをご案内して。紅茶とクッキー、お気に召していただいたようで何よりです」

 椅子から立ち上った五郎は、さとりの言葉にご馳走様です、と返して頭を下げる。おいしかったことは、心の中でだけ呟いておいた。きっと彼女には伝わっているはずだろう。その証拠に、さとりは先ほどよりも嬉しそうに微笑んでいる。

 

 お燐に案内されたのは、この地霊殿の食堂らしきところだ。地下で陽が入らない割には燭台が多いこともあって明るく、ところどころにここのペット達が座って談笑したり食事をとっている。時間感覚が人間と違うからか地底で太陽がないことで感覚がないのか、色々な種族がいる。しかしペット中心だからと言って清潔感がないかというと真逆で、真っ白なシーツのかかったテーブルと整った椅子が並んで五郎を出迎えていた。

「ささ、適当なところに座ってちょうだいな。すぐ持ってくるからさ」

 そう促されて座った五郎のもとを離れたお燐。宣言通りわずか一分足らずで料理を運んできて、五郎の前に並べていく。準備をしてきた、ということだから驚きこそしなかったが、配膳の手際の良さには驚かされる。

「はい、お待ちどう。この食堂では当番の奴が片付けることになってるから、食べ終わったらそのまま帰っていいよ」

「あ、どうも……」

 お燐は今度こそ立ち去り、五郎は改めて並べられた料理を見る。成人男性でも満足な量のピラフと、湯気の立っていないスープだ。おそらくスープはヴィシソワーズなのだろう。正式な場でもなんでもないが、とにかくまずはジャブに、とヴィシソワーズに匙を浸す。わずかな手ごたえとともに沈み切った匙を引き上げ、零れ落ちないように口に運ぶ。さっぱりとした味の中に、何か不思議な香りを感じた五郎。よくよく見てみると、細かく刻まれたみかんの皮が入っている。

(ほう。みかんの皮が入ったヴィシソワーズ……じゃがいもの甘さと、玉ねぎと鶏がらのコクだけじゃない、冷たすぎない中で主張しているさわやかな香り……さっきのクッキーと紅茶がアルプスの平原なら、これはアンデス山脈の高地だな)

 ヴィシソワーズのカップを一旦視界の端に置いて、ピラフへとターゲットを変える。鮭のほぐし身、トウモロコシや鶏肉、玉ねぎが具として散りばめられている。匙を入れて一口分を崩しとると、一気に湯気が五郎の鼻を刺激する。鶏ガラ出汁のいい香りだ。玉ねぎの香ばしさや鮭の柔らかな香りと相まって、それだけでも美味しいと感じさせる。二回ほど息を吹きかけて冷ました後、ワクワクしながら口へ運ぶ。

(いいぞ。地上では食べたことがない味だ。魚と肉、それに野菜全部いっぺんに食べられる。それになんだか、この味は懐かしい……男の子の味だ。旗を立てたくなっちゃうぞ)

 二口目、三口目、と勢いよく食べていく。そのたびに全部がバランスよく整ったピラフの味が、飽きることのない美味しさを楽しませてくれた。半分ほど一気にかきこみ、ピラフの熱で体に火照りをおぼえてきた五郎が、ふと視界の端に置いていたカップに気付く。何の気なしにそれを口に運ぶと、冷えすぎず程よい冷たさのヴィシソワーズが、ゆっくりと喉と体をクールダウンさせていった。

(ははぁ、なるほど。初めは何で冷たいヴィシソワーズか分からなかったけど、今分かったぞ。なるほどなるほど、このヴィシソワーズは二重底のびっくり箱だ)

 クールダウンした体で改めてピラフを食べる。だんだんと火照っていった体が感じていた味とはまた違う、最初の新鮮な味わい。そしてすかさずヴィシソワーズを流し込む。クールダウンするのとは違う意味で仕事をして見せるヴィシソワーズ。ピラフの油分を利用して甘みとして新たな味わいをもたらした。

(いろいろなタイミングで味を変えるのか。ヴィシソワーズ、恐るべし。そしてピラフ、これもいろんなものを作ってきた畑なんだ。だからいろいろな味をヴィシソワーズにくれるんだなぁ)

 いろいろと試したくなってくるが、やはりピラフの魔力はすさまじいものがあった。考えているうちに食べ進めてしまい、クールダウンにヴィシソワーズを楽しむ。そのスタイルが自然で一番合っているのではないかという結論に至った。

(そうだ。飯を食うときに背伸びする必要はないんだ。俺はこんな大事なことを忘れていたんだ……よーし。食うぞ)

 残りは四分の一を切っている程度だった。しかしこの最後こそ、スパートをかけるようにかきこんでやろう、と内心で決心する。一口、二口、と勢いよく口に放り込んでいく。時折ヴィシソワーズでクールダウンし、また食べ始める。器の四分の一程度だったが、永遠に楽しむことができているような気がした。

 

「ふぅ……」

 ほんの少しだけ音を立てて、匙がピラフの入っていた器に置かれる。ヴィシソワーズでクールダウンしてなお吹き出していた汗を拭ってから、ゆっくりと席を立つ。再びバラの香りを楽しみながら、地霊殿を後にし、酒場通りを後にし、大きな橋を後にし、そして洞窟から地上に戻ってきた。太陽の光が何日ぶりかに感じるが、実際は一日足らずである。もう陽も沈んでしまう。厄介なことになる前に、早く帰らねば……そう思って、鞄を握り直し、足早に歩こうとし始めたその時。

「はぁい。少し、いいかしら」

 不意に声を掛けられた。勢いよく、恐怖とともに顔をそちらに向けるが誰もいない。体を向け、改めて探してみるがやはり誰の姿も認められなかった。気のせいだ、ということにして再度後ろへ向き直ろうとしたその時、肩を後ろから叩かれた。

「うわあっ!」

 反射的に大きな声とともに肩をはねさせる。再び勢いよく後ろを振り向くと、クスクスと笑う口元を扇子で隠して、切れ目のような「何か」に腰かけた、金髪の女性がそこにいた。その姿には見覚えがある。この幻想郷でおそらく最も力を持つ部類の妖怪であり、最も頭の良い部類の妖怪……

「や、八雲さん……驚かさないでください」

「ふふふ、ごめんなさいね。こんないい時間だし、ちょっと悪戯してみようと思いまして」

 微笑みを崩さない目の前の女性は、妖怪の賢者こと八雲紫であった。以前一度だけ、商談したことがある。そもそも彼女なら自前で手に入れられそうなものだが。紫は微笑みを鋭い笑いに変え、話をつづけた。

「さて、井之頭さん? 用事があるのは確かなのよ。ご一緒、してくださる? ああ、捕って食ったりするわけじゃないのは保証しますわ。捕って食わせないようにスキマ便も保証しましょう」

 五郎に選択権はなかった。し、断る理由も今のところはないので、はぁ、と気の抜けた返事だけ返す。紫は鋭い笑みを再び何を考えているのか分からないいつも通りの微笑みに戻すと、ふわりと腰かけていたスキマから離れ、扇子を一振りする。横ではなく縦に現れたスキマは、ちょうど成人男性が余裕をもって通れるほどの高さである。

「では、スキマ便御一人様ご案内」

 楽しそうに言って見せた八雲紫。しかし全く信用ならないそのテンションは、井之頭五郎に疑いの心を持たせるものだった。訳が分からないという表情のまま、五郎はスキマをくぐる――――



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スキマの津々浦々食事事情

 何度目かの鹿威しの落ちる音が、五郎と、座卓を挟んで対面に座る紫と藍の正座する一言も発されない部屋に響き渡る。きっちりと背筋を伸ばして正座する藍の隣で、一見穏やかな笑みを浮かべて湯気を立てる湯呑に手を付ける紫。それとは対照的に、その対面の一見何ともない二人から感じる圧力に、五郎のこめかみから汗が滴る。湯呑を置いた紫の冷たい瞳が、五郎を捉える。小さく扇子を振ったかと思うと、五郎の目の前に小さな隙間が現れて、それが消えたかと思えば座卓の上には饅頭が現れていた。

「そうそう、お茶菓子もお出しせずにごめんなさいね。さて……そちらを召し上がりながらで構いませんので、お話しさせていただいてよろしいかしら」

 思わず固唾をのみ込んだ五郎。笑みを浮かべて言った紫の目は決して笑ってはいない……それすなわち、商談や世間話などという呑気な話ではない、ということを告げているからである。しかし用件が分からない事にはこちらも対応のしようがない。五郎は無言で肯定し、先を促す。

「井之頭さん。貴方は私……八雲紫という妖怪がこの幻想郷で何をしているかご存知かしら。私これでも、幻想郷という仕組みの根底にある結界に関わっておりまして、それは外との常識と非常識に関する境界の結界なのです」

 話が呑み込み切れない五郎は気の抜けたため息の様な返事を返すのが精いっぱいだった。何かに縋るような気持ちで饅頭に手を付ける。蕎麦の香りと漉し餡の柔らかな甘さがかなり上等な蕎麦饅頭だと教えてくれるが、詳しい味はどうも分からなくなっている。過度な緊張はやはり食事には不向きだ。

 

「井之頭さんはこの幻想郷の外の世界に興味はおありかしら。この幻想郷では見ることのできない技術、知識、文化。もっと身近なことで言えば、家具や道具、それにお食事なんかも。私の知っている限りでも幻想郷に住む方で、外の世界に興味を持つ方はとても多いわ。半端に外の世界のモノが流れてきて好奇心を刺激されることも要因としてありますけれど」

 相変わらず彼女の話すことは回りくどいというか核心を掴ませないというか、とかく何が言いたいのか分からない。お茶に手を付けつつ、話から重要そうなところだけを聞きのがさないように耳を傾ける。

「外から流れてくるのは何も物だけに限りませんわ。時折紛れ込んでくる外の世界の人……時折外来人と言ったりもしますけれど。その中には大変珍しい場合もございますの。例えば、ほとんどの方は自分の元居た世界と違うことを自覚なさるのですけれど、井之頭さんのように自覚がない場合ですとか」

「はあ、それはまた大変そうで……え?」

 一瞬聞き流しそうになった五郎が目を見開く。対する紫は表情一つ変えることなく話を続ける。五郎が幻想入りと帰還を無自覚に繰り返していたこと。会った相手も帰還した際の事を覚えておらず、なおかつ五郎の存在自体は覚えていること。結界にも不備は見つからず、原因不明の事故であること。そして――――

「私には、貴方をこちらと外の世界とを行き来させずに、外の世界に帰す義務があります。そして貴方には帰る権利と義務がある。正直に申しますと、今の状態が続くとどちらの世界でも存在を保てない危険があるのです。幻想郷とその外、基本的にはどちらか一方でしか存在を確立することはできない。そしてどちらかで存在を確立させてしまえば、もう一方の世界では原則的には存在することはできない。どちらつかずということはできないのです。このままではどちらかで存在を確立「してしまう」か、どちらにも存在を確立できずに消え去るかのどちらか……」

 ここにきてようやく、彼女が何を言わんとするかが理解できてきた。要は自分に、元居たのであろう外の世界で自分の存在を確立しろ、ということだろう。五郎としても、このまま曖昧なままにして自分の存在が消えてしまう、と考えると想像もつかない事への恐怖が少なからずあった。普段なら半信半疑に聞いていたであろう話だが、話しているのは誰でもなく八雲紫その人である。幻想郷で、彼女の姿は知らずとも彼女の名を知るものは多い。

「ええと、それで……そのご提案には異存は全く無いのですが、私は何をしたら?」

「ああ、井之頭さんは何もしてもらわなくて結構です。井之頭さんは最後の晩餐、というのはご存知? こちら側の貴方はご存知なくても無理もないのですけれど、要は死ぬ前最後の晩餐、とまあそのままですわね」

 と、言うことはこのまま自分は晩餐の後に殺されるのか、と呆気にとられた五郎。それを察しているのか予想していたのか、紫は五郎の言葉を待つこともなく話を続ける。

「ああ、死ぬとは言っても本当に死ぬわけではありません。こちらの世界の貴方、つまり幻想郷の側の井之頭五郎という人物に関する一切を無くし、外の世界に還す……最後の晩餐、の晩餐の部分は、こんな面倒に巻き込んでしまったことへの私からのせめてものお詫び。そう思ってくださいな」

 そこまで言い終わった紫は、隣に座る藍に目配せる。一言の会話もなく意味を了解した彼女は、音一つ立てず立ち上がり一礼とともに部屋を出ていった。良くできた式神だ、と五郎は思ったが、それと同時にもはや式神という括りをも憚られる深い主従関係と絆をうかがうことができた。

 

「さて。お話もとりあえずは済みましたし、用意の整うまでお茶の御代りとお饅頭、お楽しみくださいな」

 言われて手元を見てみると、いつの間にか新しく注がれていた茶が湯気を立てている。なるほどその能力だけではない。彼女を噂足らしめるのは、その見事とすら言える手際や考えの巡らせ方なのかもしれない。

 ともかく、と気を取り直して、緊張も解れ気を新たに、蕎麦饅頭を口に運ぶ。香ばしい蕎麦粉の香りと漉し餡のふわりとした甘さを先ほどよりも数段しっかりと感じる。

(お、さっきは緊張しすぎてよくわからなかったけど、この蕎麦饅頭随分とウマいな。流石八雲家の出す蕎麦饅頭、ってところかな。お茶との相性もバツグン、ピッタシだ)

 お茶に流され切らず、かつ飽きを感じさせない絶妙な甘さの餡と言い、お茶と共にしてもなお存在を感じさせる香りの高い蕎麦粉と言い、今までに五郎が食べた蕎麦饅頭のどれよりも「良い」ものだと感じさせる蕎麦饅頭だった。先ほどまで「最後の晩餐」と言われたことで食事を楽しむ心の余裕がなかった五郎の心を、蕎麦粉の香りと餡の甘さが落ち着けてくれているようだった。これすらも彼女、八雲紫は見越して用意していたのだろうか、と考えるも、やはりそれは蕎麦饅頭とお茶の魅力の前にはすぐさまかき消されていった。

 

「お待たせしました。お食事の用意が整いました」

 風通しを良くするために開け放たれていた襖の向こうで、膳を側に置いた八雲藍が静かに知らせた。蕎麦饅頭を堪能し終わって数分のことだった。見事な手際で五郎の前に料理が整っていく。葱の乗った油揚げの香りが食欲を刺激し、丼に盛られた米と、魚の切り身をはじめとした具材、そしてそれにかけるのだと思われる出汁が五郎の目を惹く。そしてキンピラゴボウがそれらの食事に手を付けやすくするような気がした。

「キンピラゴボウと油揚げの焦がし葱醤油かけ、大根と小松菜の味噌汁、そしてスズキの出汁茶漬けです」

「スズキ……? 海の魚の?」

 海のない幻想郷にいるはずなのに、海にいる魚の名に聞き覚えがあり、そしてスズキという魚の味をも知っているような気がした。これが紫の言っていた「五郎がどちらにも存在を確立できていない」ことによるものなのだろうか。その疑問を五郎の戸惑いから察した紫が、柔らかな口調で話はじめた。

「幻想郷では見ることのできない魚の名前、それは五郎さんのお考えのように、五郎さんの存在がどちらの世界でもあやふやなせいでしょう。それも今日限りですわ、せめてこちらでの最後の食事を、心からお楽しみいただける様私共も考えております。私は準備がありますので、別室へ移動させていただきますわ。部屋の外に藍を待機させますから、何かございましたら彼女にお申し付けくださいな」

 そう言って立ち上った紫は、藍に一言二言話した後部屋を後にする。軽くお辞儀をして出ていった紫に続き、藍もお辞儀の後に部屋の外へ一度出ていったようだ。近くに気配は感じるが、気になるほどではない。

「ははは……何もかも御見通しってことかな」

 自分の食事に対する考え方である「モノを食べるときは誰にも邪魔をされたくない」というそれをすっかり見透かされているらしい。しかしそれはそれで好都合、気兼ねすることなく飯を食えるというものだ。早速、座卓の前に向き直り、置かれた料理に意識を注ぐ。

 

「すごいな。山の幸から海の幸までてんこ盛り、大人用のお子様ランチだ」

 少しの迷いもなく、まずはと油揚げに手を付ける。普通の葱ではなく、焦がし葱を使っているところに工夫を感じる一品は、口に入れた瞬間香ばしさが口中を満たし、無意識的に五郎をうならせた。

(すごいな、この香ばしさ……すごいジャブを最初にもらっちゃったぞ。油揚げのこの手の料理は酒のツマミくらいにしか思ってなかったけど、これはもう立派に独り立ちしてるぞ)

 噛むたびに油揚げの油と焦がし葱醤油の香ばしさが合わさり、新たな味として五郎の舌を包み込む。葱のシャキシャキとした食感こそないものの、こんがり程よく焼かれた油揚げはそれを必要としていなかった。その香ばしさが口に残ったまま、味噌汁に手を付ける。少し熱すぎるくらいの味噌汁が、体の冷えるこの時期にはありがたい。

(大根と小松菜の甘さ、冬の寒さと相まって心地いい。冬の炬燵に匹敵するぞ。これだけでもご飯が御代わりできそうだ)

 具の美味しさも然る事ながら、味噌の風味もまた上品さを感じさせる。ほう、と味噌汁の熱気と共に吐く吐息すらも心地よく感じる。先ほどの油揚げの香ばしさも程よく流し去り、味噌の風味も跡を濁さぬ品の良さ。三歩後ろを歩くという例えの似合う味噌汁だった。

「いかんいかん、これも一気に腹に入れてしまいそうだ。どれどれ……」

 キンピラゴボウの小鉢に箸をつける。まるで測ったかのように均一に切られたそれを口に運ぶと、濃すぎない醤油味と鷹の爪のピリッとした辛さが広がる。

(何の変哲もないキンピラゴボウ。何の変哲もないからこそ安心して食べられるな……うん、ウマい。実家の料理みたいな暖かい味)

 ゴボウの歯ごたえが五郎の箸を止めさせることなく、次の標的としてついにメインの出汁茶漬けを捉えさせる。ほんの少し注ぎ口から立つ湯気からもう、出汁の香りが仄かに漂ってきていた。ゆっくりと注いでいくと、熱でスズキの身が僅かに白みを帯び、山葵の香りがより豊かに立ちはじめる。丼を手に取り、一気にかきこんだ。

(おお……ゴマの風味、出汁の香り、そして何よりスズキの身と出汁の合わさった旨味。これだ、これだよ。日本の味ってのはこういうのを言うんだ。田園風景で遊ぶ子供達とか、海岸でゆっくりと釣りをしているオジサン達とか、そんな感じの風景なんだ、この料理は)

 思わず顔がほころび、口の中の熱気を吐き出しながら、しかしそれさえも食欲を増す一因として更に出汁茶漬けをかきこむペースを上げていく。時折キンピラゴボウや油揚げ、味噌汁で口の中の雰囲気を変えながら、その組み合わせの多様さを楽しむ五郎。いつの間にか、茶漬けの丼は空になってしまっていた。

(いかん! 茶漬けだけ食いすぎたぞ……うーん。この油揚げもキンピラゴボウも味噌汁も立派に米のお供になるのに……よし)

 

「すみません。ご飯のおかわりいただけますか」

 部屋の外へ向けて声をかける五郎。目的通り藍が顔を出し、差し出された丼を受け取った。側に置いた櫃から米をよそう。

「具はいかがなさいます?」

 藍の、五郎にとっては少し予想外な問いかけに一瞬戸惑う。ここで再び茶漬けを味わう、というのもいい。しかし、今自分が真に求めているのはどちらか……その、傍からは一瞬に思える悩みは五郎の中では数分ほどにまで長く感じた。

「うーん……いや、白飯でお願いします」

「はい。ではどうぞ」

 五郎が礼の言葉を述べるとほぼ同時に、藍が頭を下げて部屋から再び退出する。その徹底ぶりに何となく申し訳なさを感じつつも、改めて目の前の料理達と対峙する。残るは油揚げ、キンピラゴボウ、そして味噌汁と米。メインである出汁茶漬けを持たずとも一食として成立しうる顔ぶれである。

「よーし、第二ラウンドだ。さて、どう攻めるか……」

 茶碗片手に物色を始める。まずは定番ともいえるキンピラゴボウか、あるいは少しはずして油揚げか、はたまた味噌汁で様子を見るか……この迷いは五郎にとって至福の迷いだ。この時ほど邪魔されることを拒みたくなる時もあるまい、と言えるほどには。

(よーし……まずはジャブ、定番のキンピラゴボウだ。うん、これこれ。このザックリとしたゴボウの歯ごたえと、ニンジンや醤油が絡み合った味わい。米との組み合わせも安心できる熟練のパートナー)

 噛むたびに音がするほどの心地よい歯ごたえと、湯気を立てる白米の組み合わせはもはや語るべくもない。キンピラゴボウの残った小鉢半分程度の量でも、この米一杯をかきこんでしまいそうなほどだ。米はそこそこにセーブしつつ、キンピラゴボウを食べ終えた五郎は次の標的を定める。油揚げの焦がし葱醤油かけだ。キンピラゴボウとは違う醤油の味付けに、やはり米を食べるのを加速させる。

(ほほぉ、やっぱりこいつはすごいぞ。油揚げ、侮るべからず。思わぬダークホースに大穴、大当たり。単品でもウマいんだけど、ご飯との相性も予想外のドンピシャ具合)

 先ほどのキンピラゴボウの歯ごたえとは打って変わって、油揚げのサックリとした歯ごたえも心地よい。何より、焦がし葱と醤油が染み込んだ油揚げの、香ばしさ溢れる調和のとれた味わいは、五郎の米に合うおかずランキングを塗り替えるほどの衝撃だった。あっという間と言うのが最も適当なほど、油揚げを食べ終えてしまった五郎。同じくして丼の米もなくなり、残るは味噌汁のみとなっていた。米こそなかったが、いっそ米の無い方がこの味噌汁には正しい状況なのかもしれない。

(ははぁ……これは最後にゆっくりと飲むのが正解だったんだな。大根と小松菜、それから味噌の上品な甘さは、今までの味をきれいさっぱりまとめてくれるまとめ役。うんうん、味噌汁ってのはやっぱり落ち着くもんだ)

 ほう、と息を吐く。箸と椀を持ったまま、数秒の時をそのままの姿勢で過ごしていると、自然と今までの食事で得ていた高揚感が心地よく沈静化していた。味噌汁の偉大さを感じつつ、箸と椀を戻し、再び藍を呼ぶ。

「どうもご馳走様です」

「御粗末様でした。主人もそろそろ準備を終えるころでしょうから、もうしばらくお待ちください。お茶はいかがです?」

 藍の気遣いを有り難く受けた五郎は、食事前の時と同じように座卓の前に正座して待つ。長い営業生活で、この程度の正座ならば既に慣れてしまっているのが今は有り難く思えた。

 

「お待たせいたしました。さて、井之頭さん。最後に一つ……これは私の興味本位の質問ですから、もし気分を害するようでしたらお答えくださらなくても結構です。貴方は今日この日まで、こちらの世界、つまり幻想郷で多くのものを召し上がってきたと存じます。お口に合うもの合わないもの、様々だったことと思いますわ。その食事……いかがでしたでしょうか。後悔や、不満はございましたか?」

 相変わらず、八雲紫という妖怪の話は回りくどい。しかしその回りくどさすら、彼女という一個人としての性格として受け入れられそうなあたり、憎めないのが不思議でもあった。そして五郎は、その質問の意味を吟味して、ようやく尋ねられたことの意味を理解する。

「……不満があるとすれば、幻想郷の飯は私には美味しすぎました。これから食べられないのがもったいないくらい」

 その答えを聞いた紫は、本気なのかわざとなのか分からない程度に驚いた表情を見せて、口元に扇子を当てる。いつも通りの胡散臭さも、やはりこれなしには彼女と言えないくらいには印象として染みついてしまっている。

「ふふふ。幻想郷の管理者として光栄ですわ。もうきっと……少なくとも、今の記憶を持った、不安定な井之頭さんに会うことはないでしょう。さあ、心の準備はよろしいかしら。貴方はここでの井之頭五郎という存在を捨て、外の世界に戻ることになる。きっと余程のこと……そう、例えば「誰か」の手によって本にでもなるときが来ない限りは、幻想郷に来ることもないでしょうね」

 ゆっくりと紫が立ち上がる。それに続くように五郎も立ち上がり、紫の後ろに続いて部屋を出る。静かに頭を下げた藍に見送られながら、来た時と違って玄関を通って家の外に出た。

 

「それでは……ここでの貴方のグルメも終わりを迎えます。仮初の貴方だったとしても、本当は幻想郷に受け入れるべきだったのかもしれない。それでもそれは無理なお話。それでは御機嫌よう。孤独な食事好きの貴方。いつの日か、貴方が忘れ去られて幻想郷に来ることの無いよう……」

 紫が、そっと閉じたままの扇子を振るう。直後、強烈な眠気の様な感覚を覚える五郎。立つこともままならず、急激に暗さを増す視界の中で、自分が倒れていくことを自覚した。

 

 

「うーん、何だか妙に惹かれてつい買っちゃったんだよなぁ。コンビニの蕎麦饅頭、なんて今まで何とも思ったこと無いけど」

 商談と商談の間に立ち寄ったコンビニのビニール袋から蕎麦饅頭を取り出しながら、独り呟く五郎。蕎麦饅頭に関する思い出は欠片もないはずなのだが、まるで誰かにもらった蕎麦饅頭のウマさが忘れられなくて、というような感覚に陥って、つい手を伸ばしてしまった。しかし今更返品に行くというほどのものでもないし、蕎麦饅頭が嫌いかと言えば全くそんなことはない。公園を通りかかった五郎は、進路を公園のベンチに変えて腰かけた。カイロ代わりにでもなれば、とベージュのコートのポケットに入れていた温かいお茶のペットボトルを取り出して、蕎麦饅頭と共に食べ始める。

「うん。寒空の下で、蕎麦饅頭とお茶。悪くない。いっちょ、次の商談も気合い入れていくとしますか」

 こうして、井之頭五郎の記憶にない、結界に隔離された日本でのグルメ紀行は、ようやく幕を閉じた――――




 皆様、今までお付き合いいただきまして、本当にありがとうございました。諸事情(とレシピの限界)によりまして、本話をひとまずの最終話とさせていただくことになりました。

 元はと言えば友人との雑談から、軽はずみに始めた本作品。ここまで皆様に愛していただけたこと、そして私にとって最初で最後になるであろうここまで評価される作品にしていただけたことには、感謝の言葉をいくら述べても足りるものでは御座いません。
 これも、偉大なる「東方Project」と「孤独のグルメ」という二つの作品を世に送り出してくれたZUN氏と久住昌之氏両名、作品を書くきっかけを共に作ってくれた友人、そしてこの作品をお読みただいた皆様のおかげです。本当に、ありがとうございました。

 2014年10月 John.Doe


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特別編:仏教徒達の伝統カレー

孤独のグルメ深夜ドラマ版、シーズン5放送おめでとうございます! 記念で一話、特別編を書かせていただきました。少し急ぎ気味で書いたので、五郎の口調や地の文等安定しないところがあるかもしれませんが、お付き合いいただければと思います。


「うーん……参ったな。こんな大規模な工事をやっているとは……」

 力なくハンドルを握った五郎の視線の先にあるのは、工事中の看板。見れば、この先の通路を大規模に補修しているらしく、直進したい五郎の車と直交する形で工事しているらしい。困惑している五郎の車を見たからか、看板のそばに立っていた中年と壮年の間くらいの警備員が、五郎の車の方へ寄ってきた。

「いやぁ、すみませんね。先日道路がいきなり陥没してしまって、その工事なんですわ。どちらに行かれる予定です?」

「ここを直進したかったんですが……迂回ってどのあたりまで行けばいいですかね」

 そんな話をしていた五郎だが、ふと強烈な眩暈を覚える。耐えようとする間もなく、五郎の意識は暗闇に沈んだ。

 

 

「うーん、参ったな、やってしまった……」

 鞄を拾い上げ、泥を払う。取引先である命蓮寺に向かう途中、不意に道の脇から出てきた動物に驚いて鞄を落としてしまった。幸いにも、と言うべきか、こびり付く程にはひどくなかったが、中身をばら撒いてしまった。カタログは無事だが、手帳が少し汚れてしまっていた。お客様に見せないものだからいいか、と諦め半分にばら撒いてしまったものをしまっていく。すると、再び不意に、今度は五郎の腹の虫が鳴き声を上げた。

「うぅむ、もう昼飯時か……今から飯を食うのは間に合わないな……」

 待ち合わせの時間は正午から丁度一時間後。今から昼を食べに里に戻るには確実に間に合わないだろう。やはり、仕事前に昼を済ませるんだった、と後悔する。しかし正しく後悔先に立たず、と言うべきか、今は空きっ腹のまま命蓮寺へ行くしかない。自分の腹は待たせてもいいが、お客様を待たせるわけにはいかない。それが五郎含め、人を相手にする商売の鉄則の一つである。

 

「すみません、井之頭と申します。聖白蓮様はいらっしゃいますか」

 命蓮寺の扉を叩いた五郎を出迎えた、法衣と頭巾をまとった女性に尋ねる。それで合点がいったようで、彼女は五郎を中へ通してくれた。新しいわけではないが、よく手入れのされた木々の香りが鼻に入ってくる。この命蓮寺の性格を表しているかのようだ、とここに来るたびに五郎は感じていた。

 荘厳な本堂の前を通過し、客間と思わしき所へ案内される。座卓と、おそらく来客にのみ出すであろう枚数の座布団が置かれていた。座布団へ座るよう促されて、断る理由もないので有り難く座らせてもらうことにした。わざわざ座布団を来客用にと用意してくれたのだ、断る方が無礼というものだろう。ほどなくして、先程の法衣と頭巾の女性がお茶を持ってきたと同時に、聖の状況を教えてくれる。

「丁度説法の時間が終わりましたので、間もなくこちらに参ります。もうしばらくお待ちください」

「あ、どうも……」

 法衣の女性は再び部屋を出て行った。頭巾から覗いていた空色の髪から、五郎には彼女が雲居一輪その人なのであろう、とは察したが、相手方も名乗ることは今の状況では必要ない、と思っていたのだろう。故に五郎もまた、彼女の名を口にすることはなかった。そんなことを考えながらも待っていると、木張りの道を歩く足音が聞こえてきた。少し早足ながら、決して焦っているのではない気品のある歩き方。ああ、彼女が来たか、と五郎は直感で判断する。いつも彼女の足音だけは、他の誰とも違っていたからすぐにわかった。

「お待たせいたしました。井之頭五郎さん」

「いえ、お構いなく。こちらこそ御説法の時間にお邪魔してしまって……」

 庭の見える、開け放たれた襖。そこから姿を現したのは、誰でもない聖白蓮その人だった。陽を受けて輝く、紫から金色へとグラデーションの入ったロングヘアは、いつ見ても目を惹く。そして黒と白を基調とした、法衣の意匠を受けた彼女独特の服装もまた、目を惹くものがあった。何度彼女と対面しても、それは変わらない。五郎も幻想郷の名だたる重鎮と商談をする機会を得ている、と自他共に認められる男ではあるが、彼女のそれは独特なものである、ともまた認識していた。

「お忙しいようですし、早速本題に入りましょう。頂いたお話では、箪笥をご所望ということで」

「ええ。最近住み込みでお勤めになる方が増えましたから、着るものだけでもかなりの量になってしまいまして……人里の既存品でも事足りるのは確かです。それでも、今この寺に必要なのは求心力ということも確か。ですから、少しでも内部にも気を使わねばならないのです。そこで、井之頭さんに依頼をさせていただきました」

 いつも通りの他愛のない商談。五郎の示した、条件に合いそうな商品から聖が選ぶ、といういつも通りの方式。もっとも、何か変わった商談、というのは大抵ロクでもない商談か、とんでもない綱渡りな商談なので五郎にとっては都合のよいことでもある。

 商談は滞りなく終わり、さて人里で昼にしようか、と思っていた五郎。そこへ聖から、一つの提案が出された。

「ああ、井之頭さん。まだお召し上がりになっていなければ、ですが、よろしければお昼ご飯はここでお召し上がりになりませんか」

「ここでですか? いえ、渡りに船ですが……いいんですか?」

 勿論です、と返した聖の表情に、裏があるようには見えない。そもそも裏を五郎に対し抱く必要がまずないのだが、この聖白蓮という女、聖人に見えて隙を見せないところがある。五郎は少し訝しみながらも、鳴き声を上げるぞと脅す腹の虫には逆らえない。素直にその提案に甘んじることに決めた。

 

 

 しばらく客間で待っていた五郎の鼻に、微かに食欲をそそる香りが漂ってきた。嗅ぎ慣れない、香辛料らしき香り。幻想郷には時折外の食材も流れ込む。今漂っているこの香りも、おそらくその外界由来のものなのだろう、と五郎は推測する。尤も、命蓮寺という場所的に、ただのお香、という可能性もあるが、今の空きっ腹を抱えた五郎にはそんな可能性は否定すべきものであった。

「お待たせいたしました。井之頭さん、辛い物は苦手でしたか?」

「あ、いえ全く。これは……」

 運ばれてきたのは、赤みを帯びた汁物と、白く平べったい何か。五郎は、確かに見た事のある料理だ、という記憶はあるものの、名前も思い出すことができない。そんな五郎を知ってか知らずか、聖は料理の解説を始める。

「仏教始まりの地、というのをご存知ですか? この幻想郷ができるより、いいえ、私達がこの世に生を授かるずっと以前、私達の導となる御仏がお目覚めになった場所。その地に伝わる食事、カリーと、チャパティというそうです。ぬえが教えてくれました。辛味の強いもので汗をかき、暑さに耐えるのだそうです」

「随分と変わった目的の食事なんですね」

「ええ。ですが、自然からの恵みを頂き、生きる糧とする。この概念は、普段私達が頂く食事と全く変わりありません。ぬえの呼んできたマミゾウ曰くですが、今では結界の外、つまり今の日本でも一般的に食べられているそうですよ。是非お召し上がりください」

 私は用事がありますので、と聖が席を外す。五郎は偶然か、あるいは分かっていてなのか分からないが聖の退席で生まれた、この孤独の空間に、最近あまり味わえなかった至福のひと時を感じる。カレー、そしてチャパティと添えられた葉物中心の野菜のうち、まずはと鼻腔を刺激する香辛料の香りの元、赤い汁物を匙ですくい、口へ運ぶ。

(うん、やっぱり辛い。でも、この辛さがウマい。見た目も味も、どぎつい性格だけど、すこーしだけ見せる、コクのある笑顔。頑固おやじみたいな味)

 如何にコクのある辛さとはいえ、辛いものは辛い。五郎は三口ほどで匙を一度置いて、チャパティへと手を伸ばす。薄い、円形のそれは、少なくとも米や豆類に慣れ親しんだ五郎にはなじみの薄いものであった。ほんのりと温かいチャパティを、手で一口大にちぎり、口へ放り込む。全粒粉を水でこねて焼く、というシンプルな調理法のそれは、カレーの辛味とは対照的に甘みのある味わいだった。

(ほほー、米みたいにちょっと甘いんだな。なるほど、カリーと一緒に出されるわけだ。こっちは頑固おやじのフォローに回るお袋さんって感じだ。仏様の下で育った、熟年夫婦のコンビネーション。参ったな、はまっちゃうぞこれは)

 時には交互に、時にはチャパティをカレーに浸して、口へ運んでゆく。それでも口内に辛味は蓄積していくもので、額には既に玉のような汗がいくつも浮かんでいた。悲鳴を上げる口の細胞を感じた五郎は、一度匙を置く。次に目を付けたのは、盛合された野菜だった。箸に持ち替えて、一口、ゆっくりと刺激で敏感になった口へ運ぶ。

(ん? ふむ、なるほど……この野菜まで、カレーと一緒に食べるために計算されていたんだな。からーい砂漠なメニューの中のオアシスってことか……うーんこの組み合わせ、いつまでも食べられちゃいそう)

 カレーの中の野菜と、サラダとしての野菜、同じ野菜ではあるが、食べた時の印象は180°違うものだ、というのが五郎の感想だった。カレーの辛味を野菜で緩和した五郎は、再度匙を手にカレーへと手を着ける。チャパティと共にカレーを次々と口へ運び、時折サラダで口の中を落ち着ける。もう止められる気もしなかったし、止める気もしなかった。ただひたすらに、今目の前にあるカレーとお供達を味わうことだけが全てだった。

(うん、うん、辛さは食欲をそそるっていうけど、本当だ。もう手が止まらん。今俺の胃は、人間底なし沼になっている)

 額に浮かぶ汗も、外から微かに聞こえる聖白蓮の御説教も、既に五郎の意識の外。成人男性向けに、と少し多めに聖が用意していたカレーを、見る見るうちに胃の中へ運んでいく。そしてついに、カレーは匙ですくえない量まで減っていた。

(おっと、チャパティが一かけら残ってしまったが……よし。最後の一口、しっかりと"残さず"頂こう)

 僅かに口角を上げた五郎は、悪戯の名案を思い付いたガキ大将の様でもあった。手にしたチャパティ最後の一かけらで、カレーの入った鉢を拭う。白かったチャパティが赤く、そして水分を吸ってあわや滴ろうか、という直前になったころには、カレーの入っていた鉢は一滴残らずカレーを吸われていた。そしてカレーを吸い込んだチャパティを、ゆっくりと口へ運ぶ。最後の一口をじっくりと噛み締めた五郎は、直後に大きく息を吐く。満足気な、幸せに満ちた吐息だった。

(いやぁ、いかんいかん、ここまでがっついて飯を食ったのは久しぶりだな……っと、いかん、腹いっぱいに食ったからか眠気が……)

 

 

「うぅん……?」

 ふと目を醒ますと、目の前が真っ暗だった。身体を起こそうとしたとき、何か帯状のものが阻害する。はらり、と目の前を真っ暗にしていた原因が落ちると、五郎の目には車の運転席が広がった。そこでようやく、自分が車を運転していて、工事のため迂回路を探していたことを思い出す。身体を起こせなかった原因も、シートベルトだった。慌てて、腕時計を確認する。少し微睡んでいただけだったようで、最後に時計を確認してから30分程度しか経っていないようだ。

「取引までには時間があるな……昨日あまり眠れなかったし、先方の近くで何か辛い物でも食べるか……」

 五郎は膝上に落ちた地図を改めて見つめる。迂回路自体は簡単に見つかった。その途中に、私鉄の駅も見つかった。バスターミナルのあるそこそこ大きな駅だ、カレーなり何なり食べられるだろう、と見当をつけた五郎は、運転席に座る自身の身体を少し解すと、ゆっくりとアクセルを踏み始めた。



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