黒雪のコモリオム --What a beautiful Fakes -- (ジンネマン)
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プロローグ
あの日。彼はこの星に降り立った。
そこはとても寒い土地。地上の大半の生命を拒絶した土地。地上の大半の植物を排斥した土地。
そんな水墨画のような灰色の世界に彼はいた。いや、正確には色彩の乏しい殺風景な大地の中心。きれいな円形に抉られ剥き出しの大地。その大きな窪地の外は|まるでお伽噺に出てくる巨人に踏み倒されたように木々が放射状に薙ぎ倒されている。《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》
彼曰く、これでも被害は抑えたつもりなのだが、それでもこの惨事はいかんともし難く。必然この地の地図を書き直す未来しかない。
そして、彼がこの地に降り立際の衝撃による静寂がが過ぎ去り、白い雪と
その穴より覗く
この時の彼はいつ自分がいつ降り立ったかは正確には覚えていない。せいぜいこの国の名が『ロシア帝国』とエカテリーナという女がいたことぐらいしか覚えてはいない。それでもこの星に降り立った理由は明確に覚えている。
なにかを見たくって、なにかを知りたくって、なにかを感じたくって、この星に降り立った。
自分が産み出した戯曲しか知らない彼は、自分の戯曲以外のなにかを見たくって、知りたくって、感じたくって、この星に降り立った。
そして、その願いは早々に叶えられ、延々と続く
例えば、晩年幻聴と幻覚に苛まれる音楽家。
例えば、死神と言う名の騎士に追われた親子。
例えば、耳を切り落とした悲劇の画家。
だが、その結末に彼は関心がなかった。いや、理解をしていなかった。
彼がその事に気付くのはまだ先。彼がその事を知るのもまだ先。彼がその事に
彼が極東の彼らに逢い、真に後悔するのはまだまだ先の話。
それを真に、理解しようとも、回り、廻り、まわる。回転悲劇は回り続ける。止まらない回転。
止めるために、停めるために、彼は
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
今日は1902年1月7日。私がアカデミーに入ってから初めてのクリスマス。
この国では元来欧州とは違う暦だったのだか、欧州好きで有名なヒョートル一世の時に欧州と同じ暦となったのだか、長年の習慣はそうそう変わるものではなく、12月25日に祝う人々は少数で大半の人は年が明けの1月7日にクリスマスを祝う。こうなった理由の一説にはロシア人の欧州嫌いが根強いとも、ただ欧州被れのヒョートル一世への反骨とも言われるが、少なくとも私たち一般市民は1月7日に祝う。
この日はクリスマスの定番『くるみ割り人形』と主催者の要望でマリンスキーの若手主体の、私とタマーラも舞台に立った『白鳥の湖』『火の鳥』は幕を閉じ、私やタマーラ、マリンスキーのみんなは制服や礼服、思い思いのドレスに着替えて社交界というなの慰労会に参加する……はずだったのだか、私はそれほど疲れていなかったし、それよりも明日の公演が控えているからもっと練習したくってドレスに着替えることなく、タマーラに言付けを頼んでアカデミーに直行した。
この日は灰も雪もそれほど降ってなく、風も穏やかなとても静かな日だった。街を歩く人たちも外食の後なのか、それとも郊外の
因みにロシアの子供たちがプレゼントを貰うのは年末、今から一週間前だ。この国でプレゼントを配るのは欧州で一般的な
無論私は幼少部には行かない。そんな子供じゃないしね。けれどもちゃんとプレゼントは貰った。しかも三つもだ!
ただ、なんで三つもプレゼントが貰えたかは不明だ。昔私がジェド・マロースを一目見たくって夜更かした夜に靴下の下にプレゼントを置こうとした
『いいかいアンナ。ジェド・マロースも多忙なんだよ。近年この国も人口増加に伴い彼の仕事も多忙で一人ではロシア中の子供たちにプレゼントを贈ることができないんだ。
そこで彼は自分と同じ格好をしてくれる人や、子供のいる家のお父さんお母さんにプレゼントを前もって渡しておいて、当日に子供たちに贈るように頼むんだよ。
これはみんなに秘密だよ』
つまりこれは何らかの手続きの不備で私のところに三つもプレゼントが来たということ、これはジェド・マロースに返還すべきかとタマーラに聞いたら。
『いいんじゃない別に返還しなくっても。そもそもそのプレゼントも手紙も突然送られてくるものだから住所なんて記載されてないだろうし、今更返されても向こうも困るからありがたく貰っておきなさい』
返還先がわからないならどうしようもない。だからタマーラの言う通りにありがたく貰っておくことにした。
そう自分に言い聞かせて、ちょっと背徳感もあるが、それ以上にたくさんプレゼントが貰えたのが嬉しかった。
ただ、プレゼントが届けられた年末のあの日はコンスタンチン先輩が飲ませてくれた妙に美味しいジュースを飲んだあと記憶が曖昧なのと、その後深夜に物音と三人ほどの口論があった気がしたのだが、その時に限ってまぶたは石のように重く、身体に至っては全身鉛になったかと錯覚するくらいに重かったのと、やはり意識がぼんやりしてその後の記憶がない。
次の朝にはジェド・マロースのために用意していたクッキーと牛乳が少し散乱していたのはたぶん三人のジェド・マロースが争った結果なのかな?
その事もタマーラに聞いてみたが、返ってきた答えは肯定で、しかも三人のジェド・マロースの中に一人食い意地が張ったジェド・マロースがいるとも言っていた。
もしかしてタマーラはジェド・マロースと知り合いがいるのかと聞いた。そしたら、
『な〜いしょ。お子様なアンナにはわからないかもしれないけどね。女は秘密が多いほど魅力的になるものなのよ』
そう言って私をはぐらかすタマーラ。
――でも、その時のタマーラは普段とは違う、蠱惑的な雰囲気を醸し出した大人の女性に見えた。いまの私じゃ逆立ちしてもできない魅力的なタマーラ。認めたくないけども子供っぽい私じゃとても真似できない。とても素敵なタマーラ。
クリスマスで思い出したが、私がバレエを初めて見たのはアカデミーに入る前、私が9歳の時の1月7日クリスマス。この日、私は初めてバレエを見た。それはとてもとても綺麗で、とてもとても美しかった。
あんまり裕福ではない我が家で、本来なら年明けのクリスマスのご馳走に使うはずだったお金の一部を使って家族でバレエを観に来た。
ううん。違う。クリスマスのお金どうのこうのとは関係なく素敵だった。
本当に素敵で、本当に綺麗で、その日その時に私の将来の夢が決めたのだ。
もちろん親からの反対はあったが、それを必死に説得して条件付きではあるが、やっとのことで了解を得ることができた。
その条件は高等教育課程からの入学。同じ帝都サンクトペテルブルクに住んでいるとはいえ、私は上流階級のことにあまり無知だった。もちろんアカデミーの人たち全員が上流階級の人とは限らない。今では広く一般の人もいるけれども一定以上の人はそうなのだ。
だから最低限以上に勉強以外の様々なことを知らなければならないというのが親の意見。最もその中には幼い私を寮暮らしとはいえ一人では色々無理だと判断もあったらしい。もっとも後から聞いてみれば好きなことばかりやって体を壊さないかの心配の方が大きかったらしい。全く我が親ながら失礼な話だ。
――もちろん自分が好きなことに夢中になりやすいのは自覚しているけど、そこまでではないと思う……思います。
その後の数年間、私は必死に勉強した。言葉の是正からテーブルマナーに社交ダンスの仕方など、貧しいゆえの情報の少なさと生活費を切り詰めなければならなかったこともあり、この数年間は本当に大変だった。無論私も家の仕事や家事を手伝ったりしたがそれでも大変だった。
ようやく約束の年になり私はアカデミーの門を叩いた。自慢ではないが元来物覚えがいい方だったのが幸いし、最近頻繁に聞くようになった《エイダ主義》と古くはエカテリーナ二世が切り開いてくれた女性の社会進出の功績も後押し、更には振り付け師の人にバレエに適した体型と言われたこともあって私は、帝国サンクトペテルブルグ碩学アカデミー付属帝室マリインスキー劇場舞踊学校に入学ができた。
やっとの思いで入学してからは苦労の連続だったけども、それでもタマーラや飛空艇研究会のみんな、各学部の講師や教授の方々、
ううん。他に見たことのない貴重な本や資料、篆刻動画に記録されている過去の名バレエダンサーの舞台が私の世界を大きくしてくれた。
こんな素敵な場所にこれたことはとても、とても、とても素敵なことで。神様には感謝してもし足りない。
だからこそ願わずにはいられない。こんなにも素敵な演目がいつまでも続きますように――
暖かく優しい演目が続きますように。
日常と言う名の舞台が幕引き来ないように。
今日と言う閉幕のあとの開幕がありますように。
歩きを止めて顔を少し上げて、ほんの少し瞠目して祈る。
祈り。願い。乞う。
声には出さないけど、あの灰色雲の上にいるであろう神様に届くように。
この《きれいなもの》と《うつくしいもの》に終わりが来ないように。
――真摯に――
早く見つけて
目を開けると頬に一筋の涙。いま一瞬、小さな声と視界の端に誰かが見えた。黄色い誰か、その胸には黒い縞瑪瑙のメダル。
目を瞑っていたのに見えた光景と理由もなく頬を流れる涙に違和感を覚え、辺りを見回しても誰もいない。気配すらない。
――でも、いまたしかに、ううん。たぶん気のせい。涙も思い出し泣きだ。
そう思い、涙を拭い気を取り直す。せっかくのクリスマスに暗い気分でいるのは損だ。
――さあ、明日の練習で…も、
練習の為に社交界を抜け出したのを思い出すのと同時に、綺麗な街のクリスマスイルミネーションなどを見て、幸せそうな家族連れを見て、思い出した。まだ今年のクリスマス風景の写真を撮っていないことに、昨年から昨日までアカデミーに寝泊まりして、朝から晩まで練習に夢中で風景写真を撮っていないことに。
――しまったーーーー!!
昨年、部活動で初めて貰って、初めて触って、初めて使った篆刻写真機。型は古いものの私のお気に入り。
写真機を支給されて以来、私にとってバレエと並ぶほど好き写真撮影。年末は練習に夢中になりすぎて忘れていた写真撮影。
――急がなきゃ!
善は急げ、私は荷物部屋に乱暴に置き、外行(いくら汚れても傷ついても問題ない丈夫な服)の服に着替えると寮母さまに急ぎ外出届を提出して外に出た。まだお昼を少し過ぎた程度で人も多い。そんななか私はあちらこちらに写真機を向けて、いいな~と思った風景を逐一写真に収めながら、今日中にめぼしいものは撮ってしまうと躍起になる。
――だって、明日からはまた練習の毎日で、外で写真を撮っている暇もないかもしれないから。
走る。
走る。
走る。
ひた走る。今日と言う素晴らしき日を写真に残しておきたいから。心に残しておきたいから。みんなにもたくさん見せたいから。みんなにも喜んでほしいから。
――だから、精一杯頑張らないと!
そんな、なんでもないようで特別な毎日ととても特別な一日を繰り返し幕開く演目。日常。
でも、そんな小さな願いは聞き届けられなかった。この二日後に、あの大惨事が起こるとは誰も知らなかった。誰も予期できなかった。誰も止められなかった。
そこら静かに回り始めた。私の回転悲劇。このロシア全体を回りだした回転悲劇。
チクタク。
チクタク。
チクタク。
チクタク。
チクタク。
チクタク。
その影で蠢く《赫》。《黒》を駆逐せんと燃え上がる《赫き者》。
すべてを染め上げる狂気の《赫》が地の底から鳴動する。
遅くなりました。
さて、構想を一部練り直しして、プロローグを落とします。
練り直しの主な要点は以下の通りです。
①血の日曜日事件の日付変更。
②キャラクターの口調の変更。
③日付の随時書き足し。
①は思うところがあったのと、色々調べるとやっぱり無理があると思うったからです。
②はキャラの口調が余りにも似通っている、とうか無個性が過ぎるのでこちらも随時書き直しまあす。
③は日付がないと今後やりづらくなる部分が出てきたので、こちらも随時書き足しですね。
あと①の為に二部と三部でお話に齟齬が大いにありますが、ちゃんと直しますので今は少し待て下さい。
今回の報告はこのくらいで、では親愛なる皆様方。良き青空を。
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プロローグpart2 タマーラ・カルサヴィナ
なぜ活動報告かと言うと、本編では当分そんなこと書く暇がなさそうなので……ではどうぞ。
1904年1月7日 クリスマス。これは私とアンナが出会ってから初めてのクリスマスを迎えた時の話。その時は、その二日後にはあんな惨事が起こるとは露ほども思わなかった。まだアンナ程ではないにしろ、無邪気にこの学生生活が、アンナ風に言うなら『日常と言う名の演目《うつくしきもの》はまだまだ続くの!』みたいな感じかな? いや、ちょっと違うかな?
ともかくだ、この話はまだ私たちの周りが平和だった時の話だ。
あの日、私はとある社交界に参加していた。クリスマスの定番となった『くるみ割り人形』と主催者の要望でマリンスキーの若手主体の、私やアンナも舞台に立った『白鳥の湖』『火の鳥』を講演した後の社交界。その際に親族とその関係者がひっきりなしに私に会いに、私が会いに行く。それはまるで時計の歯車のように、くるくる。クルクル。ぐるぐる。グルグル。ただそれだけならマシだったのだが。
だがこれは違う。表向きは演者と劇団関係者の慰労会の
くるくる。
クルクル。
ぐるぐる。
グルグル。
彼らは機械のように、発情した獣や繁殖期の虫のように相手を探している。いや、それでは虫や獣に失礼だ。彼は彼らの規範に従いつがいを得るために努力と研鑽を怠らない。たとえ人間から見れば醜悪でも彼らにとっては《うつくしきもの》なのだから。
ここにアンナがいないのが嬉しかった。エイダ主義のおかげとはいえ、まだこの国の多くのバレエダンサーは収入が少なく、スポンサーやパトロンがいなければ役を得ることさえ出来ない。
だからアンナと言う逸材がアカデミーに来てくれたのは本当に幸いで、彼女と会えたことがとても、とてもとても幸運で、神様に感謝の祈りをしたいくらいの幸運。天運。特大の僥倖。無垢で、白くって、暖かく、柔らかな、私に無いモノをたくさん持っている素敵な女の子。まるでバレエをするために生まれてきたかのようは奇跡の女の子。
そんな彼女がここに無いのもまた特大の僥倖。もっとも理由が『明日の公演の為に練習しに行ってくるね』と淑女としてはどうかと思う理由でいないのだが、それが幸いしているので文句はこのさい彼方に置いておく。もちろん後で説教はする。
そんな吐き気を催す汚泥のような社交界で屑どもが私たちに視線を合わさっては離れ、また合わさっては離れ、それの繰り返しにいい加減辟易した私はアンナに倣ってお父様に『明日もバレエの講演会があるからアカデミーに早めに帰って練習してきます』っと言って会場を駆け足で抜け出した。
私目当てで来たであろう汚物たちの面倒は兄や父に押し付けてアカデミーに向かう。更衣室で舞台の早着替えもかくやで着替えてアカデミーに向かう。
向かったのだが――――
「はあ? アンナは外出中?」
アカデミーで待っていたのは落胆と言う名の落とし穴。絶望と言う名の
私は大きな溜息と一緒に魂とやる気が抜ける。ようやくあの陰鬱な社交界を抜け出し、この鬱屈とした気分を見たことはないけども晴れ渡る蒼空の如くスッキリさせたかった。なのに、
――確かにここ最近はずっとアカデミーに泊まり込みで外に出ることなく、練習漬けの毎日だったから気持ちは……多少はわからないでもないが、あの子は少し大人しくできないもだろうか。
アンナを探すという選択しも無いわけではないが、あの子が一人で行動するとなるとその活発さやいなや、それこそ空を舞う小鳥(まかり間違ってもあの子を鳥とは言わない)のようで捕まえるのは難しく、以前にも『黒くってかわいい子猫を見付けたので撮ってきます』っと行ったアンナを追いかけて探した結果は惨憺ものだったのだった。
そうなると私がとれる選択肢は多くない。勘違いしないでもらいたいが、何も親しい友達や先輩後輩がいない訳ではない。むしろ多いほうだと思う。が、今日は日が悪い。
クリスマスという日はそもそも家族水入らずで過ごすもので、私たちのようなある程度の地位やお金を持つ人たちはパーティーを開き親交を深めると言う名の政争を繰り広げる。
そんな日に途中離脱した私が他のパーティーに出るというのはとても許されることではなく、それこそ父や母、兄弟にまで迷惑をかけることになるので自重せざるおえない。
そんな私がとった選択肢は
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
この広いアカデミーを歩くこと十数分。目当ての場所にたどり着いた。
扉が少し開いていたのでこっそりと覗いてみる。
――いた。
視線の先にいたのはある男。研究するときにしか掛けない落下防止用のチェーンが繋がれた眼鏡、色々な物が
その黒パンを時折摘まみながらも、右手は一切止まることなく進み続ける。淀みなく、止まることもなく、進み続ける。
そんな彼をもっと見たくってつい扉に体重が掛かってしまい、キギ。っと蝶番が鈍い音を響かせる。
そこで彼の手は止まり、眼鏡を外して此方に声をかける。
「誰だ? ウラジミールか? それともアンナか?」
――なんで真っ先に私の名前が出てこないのよ!
呼ばれなかったことに内心憤慨を禁じ得ないものの、それを顔に出すのは癪でここは笑顔で、決して察せられないように完璧な笑顔と所作で部屋に入る。
「ウラジミール先輩やアンナでなくって悪かったわね。
って、また随分と色んな種類の記録ね、20世紀になってからのロシア全土の天気、地形、
コンスタンチンが私の顔を見た瞬間、苦々しい顔した。本当に失礼な奴だ。私が何かしただろうか?
……色々したかもしれないが、だが私も役者の端くれ、感情をそうそう顔には出さな――
「……なんだよお前か。あとこれらは全部必要だ。地形は物資の運搬と周囲への影響を考慮して、天気は打ち上げに適した季節と時期を知るために、他にも色んなのがあるがすべて必要なんだ」
「――ふーん。って『お前か』とはなによ失礼ね。それよりもアンナ知らない?」
「あーアンナは、と言うか今日はお前以外誰来てないし、来る予定はない。そもそもの話、クリスマスにわざわざこんなインク臭い所に来る酔狂な奴なんか俺を除いたらお前くらいだ」
「――――そう。寂しいクリスマス送っているのねコンスタンチン先輩。あと、私はあなたが思うような寂しい人ではないの。煩わしいパーティーを抜けてアンナと静かで楽しいクリスマスを送る筈だったのに……まあ、あの子を驚かせようと思って事前に約束してなかったのは私なんだけどね。それでもアンナときたら、こんな日までも写真機片手に外を走り回るって……あの子にはバレエダンサーと言うよりも女の子としての自覚は無いのかしら――
あーーせっかく
「まじか!?」
身を乗り出して詰問する勢いで迫ってい来る。その衝撃で山積した紙の摩天楼の一部が崩れた。雪崩となった紙は周囲一帯が白く染められて、その姿は昔見た絵画の雪原を彷彿……しそうになって紙に書かれた癖のあるのか下手なのか判別しづらい文字が見えてなんかげんなりした。
「はー何やってんのよ」
「すまん」
そう言いながら私たちは散乱した紙をコンスタンチンの指示に従いながら片付け、全てが終わるまでに一時間もかかってしまった。
疲れた私たちは保温性水筒に入れてきた紅茶を飲んで一息してコンスタンチンは再度迫ってきた。
「んでさ、それって、お前だけが知っている
「はーーお礼言う前に食べ物の話って――――しょうがないでしょ。賞味期限が今日までで、アンナはいないんだから今食べるしかないし、二人分も食べたら太るじゃない。
それとなに? あんたは私が太ってもいいて言うの?
私はまだバレエをやめる気はないのだから私に感謝して食べないさいよ」
「ああ。ああ。感謝するからいいから早く食べよう! その
ニューヨークチーズケーキ。我が国仮想敵国の一つ合衆国の地名の一つ。かつては世界最大の機関都市だったが、2年前の1902年12月25日未明に発生した異常災害《大消失》により、約300万の住人すべてが死亡し廃墟と化してしまった重機関都市。
その後は合衆国政府によって完全封鎖されて、記録上、廃墟となってからは正式な調査が行われたことはなく、立ち入った者は誰もいないとされる都市。その都市でユダヤ人が作っていたお菓子だったことから、ニューヨークチーズケーキと呼ばれるようになったとされるニューヨークチーズケーキ。以前はこの帝都でも少ないながらも作られていたのだが、あの《大消失》のあと不思議と誰も作らなくなり、アンナに指摘されるまで私も忘れていたくらいだ。
「はあ。まったく――食べるのはいいけど手くらい洗いなさいよ。私は不潔な人と一緒に食べたくないわよ」
「よし。すぐ洗ってくる」
言うやいなや入り口付近にある水道で手を洗い、机の上を少し片付けてスペースを作って、準備万端と椅子に座った。
――なんと言うか、子供みたいね。
「うん。うまい」
ガツガツと食べ始めるコンスタンチンは本当に子供みたいで、あっという間に食べ終わってしまった。私は自分の分もそこそこにバカの食べっぷりに感心してしまった。
「ん。お前食わないならそれくれよ」
「いやよ。あんたのがっつくから呆れていただけよ」
「そか。悪かったな。いやーそれにしても相変わらずうまいなこのケーキ」
「―――――――――!!!」
とびっきりの笑顔で、見ているこっちが恥ずかしくなるくらいの笑顔。アンナの儚くも力強くきれいなのとは違った優しく明るい笑顔。思わず顔を背けてしまいそうになった。そう、なりそうになって――
「いやーーこれを作った人が女の人なら、
――なんだろうか、私のことを言っているわけではないのに、私と比較してるわけでもないのに、なんか、物凄く腹が立ってきた。
私は無言で、無音で、無意識に、無拍子で、
そして――
「綺麗でお淑やかでなくって悪かったわねーーーー!!」
自身にも反響するほどの大音量をコンスタンチンの耳元でお見舞いしてやった。我ながらいい肺活量だ。そう思えるほど出来栄えで、そんなものをくらったコンスタンチンは座っていた椅子から滑り落ちて頭を打った。
落ちた馬鹿は肘から上で器用に耳と頭をおさえて、声になってない呻き声を出しながら打ち回っている。五分ほど経つと痛みと耳鳴りが収まったのか、椅子、机と順に支えにしてたちあがった。
次に深呼吸した。私は次に来るのが予想がついたので瞬時に耳を押さえた。
「――バカかお前は! 頭と耳が悪くなったらどうするんだよボケ!!!! てか、なんでお前が怒るんだよ!」
「うるさいわね! 怒鳴らなくったって聞こえるわよ馬鹿!
あと、耳と頭云々なら問題ないわよ! 普段と何ら変わってないもの。よかったわねコンスタンチン先輩、もう既に耳と頭が底辺なのは証明されたからこれ以上落ちることはないわよ! あ、間違えたこれ以下でしたね!
それと唾飛ばさないでくれますか! 私が黒パン臭くなるから!」
――売り言葉に買い言葉。そんなこと言いに来た訳じゃないのに…………
思ったのと違った、やろうしたことと違った、言おうとしたことと違った。想定して練習したのと何もかもが違う。
――ほんと、なんでこいつの顔を見るといつもこうなっちゃうんだろう?
――本当はこのケーキだってアンタと食べるために作ったのに、アンタと一緒に楽しい時間を、少しでも二人だけの思い出を作りたかっただけなのに。
去年、研究成果報告会に備えて缶詰していたアンタの為に、アンナにどんな差し入れがいいかを聞いて出てきたのがニューヨークチーズケーキ。《大消失》前に一度食べたのをアンナが覚えていて、その味が忘れられないほど美味しかったって言っていたから、私も差し入れには多少の衝撃的なのがいいと思ってニューヨークチーズケーキを出すお店を探した。
でも、なぜかこのロシア機関帝国が誇る帝都サンクトペテルブルクに一軒もなかった。無くなっていた。《大消失》前は何件かはあったはずなのに一軒もなくなった。だから一から作った。材料を買い揃えて、設備の整っている海外料理研究会に貸し(海外の珍しい材料、またはレシピを手に入れた場合優先的にそちらに回すという契約)を作って、何度も何度も怪我と失敗を嫌になるほど繰り返して、やっと人に出せるまでのニューヨークチーズケーキを作ったのに、誰に出しても恥ずかしくないケーキをやっと作れるようになったのに、あなたがおいしいって言ってくれるくらいおいしく作れるようになったのに、それなのに――
今に思えば、今日アンナがいないのを望んでいたかもしれない。でなければクリスマスの公演で忙しい前日に手間隙のかかるニューヨークチーズケーキなんか普通は作らない。
そう思うと、私自身がこれほど嫌な女だと思うと、もう
「――はあ。まあ良いや、おまえいつもこうだし言ってしょうがない。んで、なんのようだ? 冷やかしなら差し入れだけ置いて帰ってくれ」
その
彼と正面から向き合い対等に成ったときだけだ。
――だから、今は、拳を強く握り。涙腺が崩壊しないようにしなが顔は平然と、普段通りの私を演じる。
「……――冷やかしに来たに決まってるじゃない。あなたの研究の進捗はどうか気になってね。ほら私が存命中にその研究成果が見えるかどうかも知りたかったしね」
――ああ、まただ。なんでもっと別の言葉が出てこないのか? 皮肉や嫌味にしても他の言い方があるだろうに、それが一言も出てこない。演じるなら他にもやりようはあるでしょうに。私は女優なのよ。バレエダンサーなのよ。それなのに。
――それなのに、これじゃあ私。ただの嫌な女じゃない――――
本当は今すぐこの場から逃げたい。いや、その前に誠心誠意謝りたいのに、こんな時に変な意地が出てくる。態度を崩さず嫌な自分を演じてしまう。そんなことの為に演技を学んだわけではないのに―――
落ち込みそうなる。いや、ここに誰もいなければ間違いなく落ち込んでいる。でも、そんな無様をこのバカの前では晒さない。晒してはならない。
このバカの前では強く、エイダ主義の体現するタマーラ・カルサヴィナでいなければならない。
このバカ、コンスタンチン・エドゥアルドヴィチ・ツィオルコフスキーと対等でいなければならない。
「は? そんなこと心配してたのか?」
そんな私の葛藤を知らずか、否! 絶対気づいてないし、気付こうとしない鈍感はあっけらかんとしたことを言い出す。
「そ、そんな事ってなによ! 私はね」
「いいかタマーラ・カルサヴィナ。確かに今のロシアでは俺の研究は必要とされてないかもしれない。それどころか一部じゃ俺の研究は時間と金の無駄だ、『いずれは忘れられて終わる』なんて言われてるけど俺はそう思わない。このテーマが終わるとは思えない。俺が終わらせない。いや、俺がいなくても終わることはない」
自信に満ちたコンスタンチンの言葉に私は困惑した。何よりあなたが私の名前を呼んだことに動揺する。あなたが私の名前を呼ぶ時はとても真剣で、とても稀なことで、とても大事なことを言う時。
彼の言う通り一部の口さがない連中は自分達のことを棚に上げてあなたのことをあれこれ言っているのは知っている。すごく腹が立つし、中には真剣に彼のことを心配して言っている人たちもいる。このバカはこんなんでも優秀な男で、物理学と数学に関しては普段を知る者からすれば別人としか思えないくらいなのだ。
「なんでよ!?」
「だってな、俺がいるんだぜ」
「は?」
「いいか。この国は広い。そんな中に俺がいる」
遂にこの男は頭まで空の果てまで行ってしまったのかと心配してしまった。
――でも、たぶん違う。
「……だから何よ?」
「つまりだ。この国は俺みたいなバカが何人いてもおかしくない。むしろいなきゃおかしい。
だって男はな、上を目指すものだ。なんでも良い、何かの高みに行きたいと思うものだ。そんで、たまたま俺は物理的に上を目指したいと思った。
いいや、そもそも根元的に男は未知を求めるものなんだよ。あの道の先には何があるか? あの川の先。あの山の先。あの海の先。あの空の果て。あの空の天蓋、永遠の灰色雲の先の空には何があるのか?
老人たちが言うような青空があるのかないのか、星は? 月は? 太陽は? そういったものを見たいと思うやつらが一人でもいる限り私の研究は無駄じゃない。
だから、最悪私以外の誰かがあの天元にたどり着いたのら、その時は、
優しい顔。ある種の達観した顔。ある意味で諦めている顔。とても寂しい顔――
――違う。違う。私は……私はあなたにそんな顔をしてほしくってあんなことを言ったんじゃない。私はあなたのそんな顔をしてほしくない。あなたはいつものように無駄に根拠のない自信と理論を言ってほしい。そんな顔するのはあなたじゃない!」
「…………あ~ちょっといいか?」
人が理由のわからない感情が渦巻いてイライラしているのに、このバカは唐突に声かけ来た。少しは空気を読めと言いたい。
ただ、何かを言おうとしている彼は、いつもと違ってなにか歯に挟まったかのような、歯切れの悪い物言いをしている。それが余計に私を苛立たせる。
「何よ!」
「あー途中から声に出てたぞ?」
「!!!!」
今、顔が物凄く赤くなっているのがわかる。
「いやな。お前が俺のことをそう言ってくれるのは嬉しいんだが、でもな現実問題として難しいし、実現にはいろいろ不足してるものが山積みなんだ。だからさ」
「だからなによ。私はね。あなたには、あなただけには、そんな大人みたいな顔してほしくないの! 目指したものを諦めるのに言い訳する人間になんかなってほしくないの! 私は、
誰かが私の頭に手を乗せた。
違う。ここにいるのは二人だけ。
私と、コンスタンチンだけ。
二人だけ――――
「な・なななな何すん」
「ありがとうなタマーラ・カルサヴィナ。俺のこと心配してくれて」
コンスタンチンは私を抱きしめてくれた。優しく、頭と腰に手を回して、包み込むように抱きしめてくれた。私よりも頭一つ以上背が高いから、私の顔は彼の胸に収まっていた。
彼からは紙とインク、オイルと金属の臭い。それと今しがた食べていた黒パンとニューヨークチーズケーキの匂いが私の鼻腔をと思考を占める。
「でもな、実際、この世界は早い者勝ちなんだよなぁ・・・いくら頑張っても先を越されたら意味がない。意味がないんだよ。それでも、私は誰かが空の果てに行ってほしいし私自身も行きたい。友人で行くの難しいから無人でもいいからあの天蓋の先にロケットを飛ばしたいんだ。飛んでほしいんだ。
タマーラ・カルサヴィナ。お前も少しはわかってもらえないかな?」
「――――わかったわよ。わかってるわよ。わかってる。
だから、もう離してよ――」
「ああ。悪いな」
躊躇なく離してくれたコンスタンチン。
――ほんの少し、惜しい気もしたけども、でもあのままでいたら私は――――
「あのなタマーラ・カルサヴィナ」
「いい。もう何も言わないで、わかっているから」
「そうか。安心したならもう心配もなくなったな」
ぽん。
また頭に手を置かれた。でも、もう驚かない。むしろくすぐったいくろい。
私としては悔しいながらも、ちょっと嬉しくって目を細めたのが、それをコンスタンチン嫌がっていると勘違いしたのか『すまん』と謝れて、手を引っ込めてしまった。
――もう少し優しく、してくれてもいいのに。
それならお互いに無言。コンスタンチンはひたすらに資料と小型演算機とノートをいったり来たり、私は机の空いた隙間に身を預けてコンスタンチンを見る。とても静かな空間。だけども不快ではなく、むしろ心地好い雰囲気でいられて。
チクチク
チクチク
チクチク
刻まれる時間とコンスタンチンの筆が走る音と演算機を叩く音がオルゴールのように静かに奏でられる音楽。
その後は日が暮れる(実際に太陽が見えるわけでなく、昏くなる一歩手前)頃までコンスタンチンは机の上の紙と格闘して、私はその光景を静かに見つめた。
その時私は神に願った。願わくばこれから先、コンスタンチンが、コンスタンチン・エドゥアルドヴィチ・ツィオルコフスキーがこのまま夢に突き進めるよう。様々な困難や試練があろうとも真っ直ぐ行けるように。
諦めることなく、立ち止まろうともまた進めるように願う。
それが私の、アンナの、みんなの知るコンスタンチンそのままでいられるように願う。
その時の私は知らなかった。その二日後に起こる惨事を、このアカデミーに、ロシア全土に這い寄る影を、すべてを焼き尽くす《赫い者》の魔の手がすぐそこまで来ていたのに気づいていなかった。
アンナやコンスタンチンのこと笑えない。私は無邪気に、なんの根拠なくこの暖かい日常というなの至高の演目が、いつまでも続くと思っていたのだから。
アンナに襲いかかる驚異と災禍も知らずに暢気なものだ。でも私は諦めない。
たとえ何があろうとも、私ができる限りのことを、やれることすべてでアンナとコンスタンチンの夢を守りたい。
だから、ねえ神様。お願い神様。少しでいいですから、ほんの僅かでもいいですから、すべてとは言いませんから、せめて私の近くにいる人たちを守る力を私にください。
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第一章 白を忘れた雪
1-1
なおこの拙作は、このハーメルンの海にあるとある作品と時代と地域が非常に近いので関連せいはあるようで、ないようで、というような作品です。
気になる方は原作のところで検索するとそれが見つかります。
そちらは素晴らしい作品なので見てみる価値は大いにあります。
では皆様お楽しみください。
追記
7月20日(木)設定変更に伴い、地文などを書き足しました。
白い風景。
白い空間。
白い世界。
ここは何もかも白いところ。けれどもある一点、そこだけに灯る
そこにいるのは、そこにあるのは、そこには■■■■■■■がいる。
それはプラスをマイナスにするもの。
それはありとあらゆるものを凍らせた。
それは国を、星を凍りつかせた。
そんなモノのいる此処を誰も訪れることはない。
そんなモノのいる此処を誰も訪れることは出来ない。
しかし、
「やあ久しぶりだね■■■■■■■。しかし相変わらずここは寒い」
誰かいる。いや、誰かというの人を指す言葉だが、かのものは本当に人なのか?
「そして君は未だに
そして、かのものは気軽に、気さくに、気安く灰色の炎に話しかける。
「僕かい? 僕は別になにも、憤怒王は白い彼がなんとかしてくれるだろうだし」
かのものは、そのものは着古した黄色とも緑ともとれる外套をし、深くフードを被って灰色にはなしかける。
「それはともかく、
その時。灰色の炎がまるで心臓が脈打つように鳴動した。
「なるほどね。待っているつもりは無いと言うのかい」
灰色の炎はさらに鳴動する。まるで臨月を待つ胎児のように。
「解放者がいるというのかい。しかし君が解放されたかたといってどうにも」
いま、ひときわ、おおきく鳴動した灰色の炎。
「なるほどね。たしかに今の君自身は何もできないけど、人間たちを使ってどうにかするんだね」
一応の納得をしたかのもに呼応する灰色の炎。
「しかし律儀だね。そんなに
一瞬、爆発音がした。それは鳴動などと形容できるものではなかった。
「わかったよ。全く■■■■■の敵は自分の敵かい。本当に律儀だ」
「でもね。僕は君の復活もあれの復活も許容しない」
灰色の炎は変わらず鳴動を続ける。
「だって僕は人間が好きだからね」
静かになる。
誰もいなくなる。
ここにあるのは灰色の炎だけ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
チクタク。
チクタク。
チクタク。
カチッ、チリンチリン。チリンチリン。
目覚まし時計が鳴る。チリンチリンときれいな鈴の音のような機械音が部屋に響き渡る。静かでおとなしい音だが起きるには十分な音量だ。友人……親友曰く『よくこんな小さな音で起きれるね』とよく言われる。
縫いつけられたように重いまぶたを薄っすらと開ける。外はまだ暗いが時計を見るといつもの起床時間だ。暖かなシーツをどけてひどく、冷たく、冷えた、凍るような外気に身を晒して眠気を払う。
私は洗面所に足を運んで蛇口を捻り水を出し顔を洗う、痛みを伴うほど冷たい水はほんの少し残っていた眠気を洗い落としてくる。
しゃっきりした意識で鏡を見る。鏡に映るのは肩甲骨あたりまであり、ところどころ寝癖のある私の髪、かつてこの国で、いや世界中で見ることのできた雪のような白い髪の毛。
そして
他にも胸に炎の形をした灰色の痣がある。これも生まれた時からあるもので、生まれつき白い肌をしているからあまり目立たない。これも家族や親戚にないらしい。
私は寝癖を直し、髪を櫛でとく、最後に問題がないかを確認して洗面所を出て寝間着代わりの肌着を脱ぐ、下着以外になにも身に着けていないからすごく寒い。
私は歯がカタカタと鳴らしながらもいそいそと服を出す、今日は一段と寒いから厚手の服を着こみ、最後に大事な
そして
今日の朝食はサンドイッチと卵、ヨーグルト、カッテージチーズにコーヒーだ。ロシア……というかこの近くの国は酷農の国が多いのでの朝食は基本的に少食である。そのぶん乳製品などが豊富でいろいろな料理に使われる。
私がトレイに朝食を載せて適当な席に着くと向かいの席が引きつられる音がした。
「おはようアンナ。今日も寒いね」
朝の挨拶をしてくれた癖のある茶髪の少女はタマーラ・カルサヴィナ、同じ帝室マリインスキー劇場附属舞踊学校の私の先輩、私の親友、私のライバル。
――私の大切な人。
彼女は帝室バレエのダンサーであったお父さんの影響からバレエを始めて、最初は知り合いにコーチしてもらい、次に現役引退したお父さんにコーチしてもらい帝室マリインスキー劇場附属舞踊学校に入ったらしい。
彼女は哲学者の兄がいるそうで、その影響なのかちょっとした会話でも知性あふれていて社交界では人気があるらしい。
さっきから『らしい』『らしい』『らしい』と連呼しているのは私が彼女の会話に出てくる人物達に会ったことがないからだ。
だって私は貧しい家庭に生まれで、戸籍上は退役兵と洗濯婦との間の娘となっているが、実の父親は二歳のころに亡くなっていると二人から聞かされた。でも他にも私の父親という人物がいるらしく私自身誰が本当の親なのかわからない。
――でも私の生まれがどうのと彼女は言ったことも、気にする素振りも見たことがない。彼女は気さくに、明る笑顔で私に接してくれる。
――古い本でいうところの『太陽のような優しい笑顔』というものだろう。
「おほようタマーラ。今日もたくさん食べるね」
彼女のトレイにはスィルニキ、ソバのカーシャ、ビーツのサラダ、キノコのピクルス、ジャムと紅茶と種類も量も多い。
「だって私は育ち盛りだもの。それに今日一日学校の後には厳しいレッスンが鎌首をもたげて待っているのよ。
そんな場所に空腹のまま赴いては身が持ちません」
そう言う彼女を私は微笑む。
――ああ、今日という暖かい一日が始まる。
――ああ、日常という演目が始まる。
――ああ、こんな優しい日々がいつまでも続いてほしい。
「さあ食べましょうか、いただきます」
食事の祈りを終えて私たちは食べ始める。
食事中はおしゃべりはせずに静かに、黙々と食事を進めていく。
食事が終わるとトレイを返却口に置いて、再度部屋に戻る人と戻らずに学校へ行く人の二通りいる。
私たちは後者でそのまま学校へ行く。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
私たちの住む街はサンクトペテルブルク。ここはロシア機関帝国の首都にして、西欧諸国の国境線に近い最前線の都市。都市の名は『聖ペテロの街』を意味する。これは、建都を命じたピョートル大帝が自分と同名の聖人ペテロの名にちなんで付けたもの。
このサンクトペテルブルク西欧諸国に倣って作られた人口の都市。サンクトペテルブルクのネヴァ川は、古くはバルト海からヴォルガ川、ドニエプル川といった内陸水路を通じて黒海へと向かう交易ルートに位置し、この川はフィンランド湾最深部に流れ込む。サンクトペテルブルクの街はネヴァ川河口の三角州を中心に発達した。
しかし機関文明の流入によりネヴァ川かつての姿から大きく変貌している。川は
周りの人は『すごい』とか言っていたけど私は初めてその光景を見た日は怖くって夜にトイレにも行けなかったくらいだ。
もちろん今は一人でトイレにだって行けるし、おねしょなんかもしない。
でも、積極的に見たいとは思わない。
だって、怖いことには変わらないから。
やっぱり、不気味にしか見えないから。
しかし、それ以上に怖いことがあった。
そう。今から一週間前にあったあの惨事。低賃金労働者の抗議活動から発展した事件、ロシア機関帝国軍の一兵卒が暴走して守るべき一般市民に銃火を浴びせた悲劇の日。
未だにそこかしらに残る生々しい血痕や建物の残骸、歴史に残るであろう残虐な傷跡。死者は千人以下とも四千人以上とも言われているが、精確な数は不明であることがその凄惨さを物語っている。
この帝都には惨事の首謀者が潜んでいるとの噂がある。みんな噂している。
いや、今でも、そこかしかで新聞に載るようなものからそうでないものまで毎日事件が起きている。とても恐くって怖い。
そんな私をタマーラは優しく手を包み込んで、
――タマーラには『まったく、
――
――他にも
――あれは少し恥ずかしかったけど、でも、お母さんみたいに撫でてもらってうれしかった。
――でも
――昔は白かったかもしれないが、今は違う。
――滑らないように足元に注意しながら歩いていても目に付く、すべてを覆い尽くす雪。
――灰色の、白と黒の間にある色。
――けれども決して白ではない色。
指で髪を摘み弄る。
自分で言うのもなんだが白くってきれいな自慢の髪。
だからこそ、尚更複雑な思いになってしまう。美術館で観たいくつもの雪を題材にした絵はどれもきれいだったが、いま目の前にある光景を見て同じものとは思えないから。
いや、この灰色雪はすべてを覆い隠す。生々しい血痕も残骸も、事件の痕跡と人々の嘆きも覆い隠した。
まるで、誰かが意図的に隠し去ろうとしているように思えて、人の、街の、すべての影が黒から《赫》に染まっていくと錯覚してしまう。
そんな不安から先程よりも深く足元を見詰めてしまって、それをタマーラが心配してくれてもう一度強く握ってくれた。
「アンナ、足元に気を付けるのはいいけど前も見ようね。もう着いたよ」
「え?」
横からタマーラの声が聞こえる。いつの間に私たちの学び舎についていたらしい。
そう私たちの学び舎。
帝国サンクトペテルブルグ碩学アカデミー。
第一話はちょっと短め、でも自分的には平均的かな?
そして今更後悔、なぜなら連載作品がなろうも含めて三本……どうしよう。やりきれるかなと思っている。
けれども悔いはない(支離滅裂)だって書きたくなったんだから。
というわけで(どういうわけ?)雪原のコモリオムです。
あと自分はあまりクトゥルフ神話は詳しくないのでなにか変でもあまりツッコまないでください。お願いします。
では親愛なるハーメルン読者の皆様、良き青空を。
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1-2
今回は、というか当分は細々とした説明文が入り乱れる話が続くかもしれません。
しかし、それもある思いがあってやっています。
それはスチームパンクシリーズが少々、ハードルが高いのではないかと思ったからです。
自分はガクトゥーンから入り、いまも他のシリーズを少しずつやっていますが、ガクトゥーンをやってはじめ思ったのが用語の多さにビビりました。
ですから作品はそういったスチパンシリーズの用語を自分なりに噛み砕いた説明を随時入れていこうと思うので、スチパン上級者には退屈な話が続くかもしれませんが、ご了承下さい。
そして、自分の説明にどこか間違いがあれば指摘してください。
なお、この作品はオリジナル設定があるので、あとがきではシリーズ共通の用語は何かをを書いていきます。
帝国サンクトペテルブルグ碩学アカデミー。
ここが私達の通う学舎、正確に言えばこのアカデミーの敷地内にあるアカデミー付属帝室マリインスキー劇場舞踊学校が私たちの学舎だ。
本来なら私達が通うようなところではないが今世を席巻している『エイダ主義』の影響によるところが大きい。
エイダ、エイダ・オーガスタ・バイロン。カダス北央帝国。世界最強の軍事国家であり、カダスにある三つある大陸の一つ北央大陸を支配する寒冷の大帝国。その帝国が認める人類と文明に貢献を果たした世界最高の碩学十名。通称『十碩学』。エイダは女性でありながら十碩学に名を列ね『機関の女王』と呼ばれるほど高名な碩学。
エイダ主義はエイダのように女性の社会進出の模範とする風潮を指す言葉だ。
しかし、この国は本来は閉鎖的でそういったものは大抵否定される、が、国際情勢が許してくれない。
西インド会社が、大英帝国の王立組織を発祥とし、現代文明の構築に多大な貢献を果たして来た西インド会社が、多くの碩学や技術者を管理運営する碩学協会が、この国に手を伸ばす前に自分達独自の西インド会社のような強大な組織を、碩学協会のように多くの碩学を管理運営できるコミュニティを構築するためにこの『帝国サンクトロベルグ碩学アカデミー』を作り、試験的ではあるがエイダ主義の推奨もしている。
そして私たちバレエダンサーの見習いがこのアカデミーに通っている理由は、曰く『バレエダンサーともなれば国内外問わず様々な人に会う。ならば何処へ行っても恥ずかしくない知識と教養を身に付けなければならない』とのこと。
そして試験的に推奨されているエイダ主義も優秀な女性碩学が輩出されなければすぐに撤回されるだろう。
だから私達がここに通えるのは運が良かったとしか言いようがない。なにせ
そのことを聞いたタマーラは『なんて罰当りなこと言うかこの
もちろん勉学をおろそかにしているわけではない、むしろ勉強は好きな方だ。周りの人たちからは『このバレエ馬鹿がなんでこんなに勉強できるんだ』と言われるくらいには勉強はできる。ただ論文などは苦手なのでやめてほしい。
他にもいろいろ思うところはあるが、やはり私は
普通は読むことが出来ないほんの数々、大好きなバレエ仲間、大好きな友達。
――そして大切な人。みんなここにある。たから私は本当にここ好きで、ここ通えるなんて運がいい。
私は物思いに耽りながら校門をくぐる。にこにこと笑顔でくぐる。タマーラが袖を引いて私を制止しようとしているのにも気づかずに。
「
「ハイ!」
冷たく、鋭く、女性にしては低い声が、私を呼び止める声が、私を現実に呼び戻した。
「
「はい、いえ、あの」
「なんですか、はっきりと言ったらどうですか?」
――朝から怖い人に見つかってしまった。
――レフ・ダヴィードヴィチ・トロツキー先生。ウクライナ出身の女性碩学で、このアカデミーでは経済学の講師をしている。大変な読書家で色々なことを教えてくれる先生だと一部の人に評判の先生。この国のエイダ主義の先駆者とみんな言うけど……
「
「いえ、大丈夫です」
――私には……ただ怖いだけの
「Msアンナ、あなたは前に自分がこのアカデミーに入学できたのは運が良かったから。っと言いましたよね。
もう一度言いましょう、たしかにあなたがアカデミーに入学できたのは帝国が推奨するエイダ主義の風潮によるものもありますが、それはあくまで1つの要因に過ぎない、それなにのあなたは運がいいなどと戯言を弄する。ならばアカデミーに入学出来なかった者たち全員が運がなかったから入学出来なかったというのですね。
それは違います。入学出来なかった者たちは実力がなかったから入学出来なかったのです。だからあなたが運が良いと言うことはここにいる全ての者たちに対する侮辱にほかなりません。あなたは実力があったからアカデミーにいるのであって決して運などという曖昧模糊なモノのおかげではありません。
ここにいるからにはあなたたち全員が帝国の威光を背負っているのですから、それを肝に銘じて勉学に励まなければならないというのにあなたの態度は目に余る。わかりますね、Msアンナ」
「はい」
「なんですかその気の抜けた返事は」
レフ先生が手を振り上げ、その手が振り下ろされてくる。
私は目をそらすことなく立つ、だがその手が私に触れる直前、私の目の前に人が割り込んできた。
乾いた音が響く。その場の空気が凍る。
私は一歩分後ろに押されて尻もちをつく、そしてそばに倒れている人を見る。
「タマーラ!」
私はすぐに駆け寄り、タマーラを抱き起す。
タマーラの右の頬が少し赤くなっている。
「タマーラ大丈夫!?」
タマーラは強くつむっていた目を開けて私に微笑みかける。
「大丈夫よアンナ、そんな痛くないし」
タマーラの瞳は少し涙ぐんでいた。すごく痛かったんだろう。
私はレフ先生を睨み付ける。
「なんだ、その目は」
「謝ってください」
私は臆することなくレフ先生を睨んだまま言葉を紡ぐ。
「タマーラに謝ってください」
「なんだ! その目は!」
普段感情を見せないレフ先生が激昂して再度手を振り上げる。それでも私は目をそらさない、決して。
だが、その手は私に届くことはなかった。
なぜならレフ先生の振り上げた手を、誰かがレフ先生の後ろから止めているから。
「レフ先生、我が帝国の将来を担う若人に手を挙げるのは感心しない」
レフ先生を止めたのは
「イヴァーン、その手をどけろ。これは教育であり、躾でもある。お前の指図は受けん」
「レフ先生、私のことは本名ではなく修道名で呼んでほしいのですが」
「くだらん。本名だろうが修道名だろうがどうでもいい。それよりも離せ」
「いいえ、レフ先生がやめるまで」
ほんの数秒レフ先生が修道士ニコライを睨む、おもむろに修道士ニコライが手を離すとレフ先生は踵を返して何処かに歩いて行った。
「閣下はなぜあのような小娘に」
レフ先生がなにか呟いたように聞こえたがよく聞こえなかった。
「大丈夫ですか二人とも」
修道士ニコライが私たちに手を指し出してくれる。私たちはその手を掴み、起こしてもらう。
「修道士ニコライありがとうございます」
「ありがとうございます」
私たちは修道士ニコライにお礼を言う、すると修道士ニコライは下げた私たちの頭に手を置いて撫でてくれた。
「いいのですよ。大したことではありません。では私はこれで」
そう言うと修道士ニコライは教会のある方に歩いて行った。
修道士ニコライが歩き出して少しすると凍っていた空気が氷解して動き出す。
「二人とも大丈夫か? いやー俺の耳がもう少し良ければもっと早く駆けつけることが出来たのに」
――二人の男子が駆け寄ってきた。コンスタンチン・エドゥアルドヴィチ・ツィオルコフスキー先輩、アカデミーでは数学の講師をしつつも機関工学の学生として在籍しており、夢はあの灰色の空を貫く『飛空艇』を開発することだ言うおもしろい人でちょっとお調子者。そして幼いころ病気で難聴になったと言う。
「……何言っているんですか先輩、この間自作の補聴器を新調してよく聞こえるようになった。って、言っていませんでしたっけ?」
――もう一人の男子、ウラジミール・ベルナツキー先輩。礼儀作法をわきまえた紳士。ちょくちょく暴走しがちなコンスタンチン先輩のブレーキ役。専攻は鉱石学で他にも放射線やコンスタンチン先輩と一緒に『ロシア宇宙主義』という議題についてよく話し合っている。
「――はて? そんなこと言っていたかな?」
「はぁ。先輩ついに耳だけではなく頭まで病に侵されたのですね」
「失敬な。私は耳の難聴を除いて常に健康で健全で万全な男だ。つまり何の問題もない」
「つまり、すでに、いつも問題だらけなのですね」
「なんだと」
――いつもの二人の喧嘩、もとい寸劇が始まる。見ていて楽しいのだが隣のタマーラがフルフルと震え始めたので黙っておく。
「お二人さん」
――山が動き出した。そう形容していいほど二人にとって重い空気が流れ出す。私は静かにそれを見守る。だって無関係だし。
「聞いていて何の益のない話をする前に、私たちがレフ先生に手を挙げられていた時二人は何していたのかな?」
二人は永久凍土のように固まる。しかし、その額には汗が浮かんでいた。
「――なにって、最悪の事態にはいつでも駆けつけるようにクラウチングスタートの姿勢でいた」
――あ、コンスタンチン先輩が墓穴を掘った。
「先輩、先と言っていることが違いますよ。ここは素直に謝りましょう」
「うるさい。余計なこと言うな」
「つまり二人はレフ先生が怖くって縮こまっていたということかしら?」
「いや、えと、う、え」
「はいそうです。助けるのが遅くなってすいませでした」
ウラジミール先輩がコンスタンチン先輩よりも早く白旗を挙げて謝った。
「あ、ウラジミール。おまえ」
「はい、素直でよろしい。っでコンスタンチン先輩は?」
タマーラがレフ先生もかくやの冷たい目でコンスタンチン先輩を見つめる。なまじ美人だから迫力が違う。
「ハイ! レフ先生が怖くって助けに行けませんでした。ごめんなさい」
コンスタンチン先輩が凄い勢いで頭を下げた。その勢いは頭が腰よりも下に来るくらいだ。
――ここまで伸ばすくらいなら早く謝った方がよかったのに。
私はこの後、起こるであろう惨事を思うと、そう思わずにはいられなかった。
「まったく初めから素直に謝ってくれたらよかったのに」
「え? それはどういう」
コンスタンチン先輩はわけがわからないと、顔を上げる。
タマーラが右足を一歩分後ろに引く。
「こういうこと」
瞬間、コンスタンチン先輩の顔面にタマーラの握りこぶしが炸裂した。
コンスタンチン先輩は後ろにゆっくり倒れていく。そして、
「レフ先生よりも、
などという断末魔(叫んでない)を残し、コンスタンチン先輩は倒れた。
「さ、二人ともこんな人は置いて行きましょう。アンナも朝練の時間が少なくなっちゃうから早く」
「う、うん」
そう言えば私たちは朝練のために早くアカデミーに来たんだった。
「コンスタンチン先輩お先に」
ウラジミール先輩はコンスタンチン先輩に近寄り頬をツンツンと指す。
「ほらコンスタンチン先輩、僕は門外漢にも関わらず今日コンスタンチン先輩の飛空艇の手伝いのために早く来たんですから早く起きてください」
――ウラジミール先輩は先輩で苦労が多そうだ。
「ほら、アンナ早く。時間の無駄よ」
「うん。今行く」
タマーラが早足で進んでいく。私はそれを小走りで追いかける。
そうして少しトラブルがあったけど、私たちの一日が始まる。
――ああ、今日という暖かい一日が始まる。
――ああ、日常という演目が始まる。
――ああ、こんな優しい日々がいつまでも続いてほしい。
私はそう思い、そして、思わずカバンから携帯型
タマーラは誰にも聞こえないほど小さなため息を吐いた。たぶん後でお説教だろうけど、なぜか、いま無性に撮りたくなったのだからしょうがない。
そう、たぶん、今日という大好きな演目の開幕を写真に収めたかったから。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ここはサンクトペテルブルクにあるであろう地下室。
でも本当にあるかどうかもわからない地下室。
一般人は決してたどり着けない地下室。
そこはとても深く、暗く、黒い場所。
階段も、扉も、天窓も、照明さえもないこの場所に置いて、その中心は明かりがともっている。
否、これは明かりなのか。
その中心は赤かった。紅かった。朱かった。
そのような場所にいる男も赫い。
血も、目も、服も、思想も、すべてが赫い男。
「ついに見つけた。聖痕を持つものを」
男は紡ぐ、赫い言葉を。
「ついにかなうわれらが悲願」
男はただ一人、赫き言葉を紡ぐ。
「この国を、世界を、我らの赫きモノで染め上げる」
ここには男の声を聴く者はいない、その赫き言葉を。
「結社よ、■■■よ、■■■■■■よ、邪魔はさせない。白い男にも決して邪魔はさせない」
ここに一人、赫い男は紡ぐ。
シリーズ共通設定及び用語。
『エイダ主義』『北央帝国』『十碩学』
オリジナル設定及び用語。
帝国サンクトペテルブルク碩学アカデミー。
わかりやすく言うと某禁書目録の学園都市。スチパンシリーズでいうならガクトゥーンのマルセイユ洋上学園都市。その二つの縮小版。
最後に、当分はコモリオムを何話か書いてから他のを進めようと思うので、よろしくお願いします。
では親愛なるハーメルン読者の皆様方、良き青空を。
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1-3
なお今回はさる方の作品の登場人物が出ます。さて誰かな?(すっとぼけ)
そして今回もあとがきにオリジナル設定とスチパンシリーズ用語を区別できるように書きます。
では皆様、開演でございます。過度な期待はせずごゆるりとご覧下さい。
白い風景。
白い空間。
白い世界。
ここは何もかも白いところ。けれどもある一点、そこだけに灯る
そこにいるのは、そこにあるのは、そこには■■■■■■■がいる。
それはプラスをマイナスにするもの。
それはありとあらゆるものを凍らせた。
それは国を、星を凍りつかせた。
そんなモノのいる此処を誰も訪れることはない。
そんなモノのいる此処を誰も訪れることは出来ない。
しかし、
「初めまして、お久し振りですね■■■■■■■」
誰かいる。いや、誰かというの人を指す言葉だが、かのものは本当に人なのか?
「どうたい、ここは? 寒いかい? 寒いだろ? 寒かろう? ははハハはは寒いね~~」
そして、かのものは気軽に、気さくに、気安く灰色の炎に話しかける。
「けれども、君が此処にいられるのもあと僅かかも知れないし、今の内に堪能しておくのも悪くないね」
話す声は、仮面の男だ、薔薇の華の。異形の男だ、黒い僧衣の。周囲を満たす黒よりも尚、色濃い《霧》だ、《闇》だ。否、既にそれは《混沌》だ。
「今日ここに来たのは他でもない、いや、君の顔を見に来たんだよ」
その時。灰色の炎がまるで心臓が脈打つように鳴動した。
「おや? 起こっているのかい?」
灰色の炎はさらに鳴動する。それはまるで火薬が炸裂するかのように。
「それは失礼、なに私は真摯に、真面目に、他の誰でもない君を心配しているのだよ」
いま、ひときわ、さらに大きく鳴動した灰色の炎。
「悪い子だ、■■■■■■■よ。ここから抜け出せると思っているのかい?」
さらに激しく鳴動する灰色の炎。
「ああ、君は必ず抜け出せるとも。私が保証しよう」
一瞬、爆発音がした。それは鳴動などと形容できるものではなかった。
「大丈夫、いずれ必ず、きっと必ず」
「そう、必ず─────ふっ、フハハハハハハハ! フフフフハハハハハハハハハハハハ!! フッハハハハハハハハハハハハハハ!!! 」
灰色の炎は変わらず鳴動を続ける。
「滑稽かな、滑稽かな。ではな、■■■■■■■よ。良き青空を」
静かになる。
誰もいなくなる。
ここにあるのは灰色の炎だけ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
アカデミー付属帝室マリインスキー劇場附属舞踊学校は一限目が始まる30分前まで練習場(アカデミー全体では部室とも呼ばれる)を開いており、熱心な子(朝練は強制ではない)は朝練に精を出す。
タマーラと私は校門での遅れを取り戻すために手早くレオタードに着替える。更衣室には暖房機関がついておらず冷える、いい加減つけてほしいものだが更衣室を使う時間は基本的に限られているため必要ないと言うのアカデミーの見解で、ぐうの音の出ない正論であり、みんな諦めて無駄話せず着替える。
でも、やっぱり暖房機関はほしい。いくら壁が厚く、外よりは暖かいと言っても寒いものは寒い。
――でも練習場には暖房機関がついており、暖かいからまだマシ。
私はタマーラより早く着替え終えて、練習場へ駆け足で行く。
「タマーラお先に」
「あ、こらアンナ、走らない」
――いやだ。だって寒いんだもの。こればかりはタマーラに注意されても直せない。
私は更衣室の扉を勢いよく開け、練習場に続く廊下を駆け抜け、練習場の扉を勢いよく開ける。
途端に暖房機関によって暖められた空気が私を包み込む。この瞬間はおとぎ話で出てくる暖かい春や夏を想像させる。
暖かな空気が、冷えて縮こまってしまった血管を、身体を、ほぐしてくれる。
私は手を広げた状態で30秒ほど立っていると後ろから頭をこつかれた。
「こら、入り口の前で通せんぼしない」
後ろを見るとタマーラが呆れ顔でいた。
――レオタード姿のタマーラ、細身で、肌もきれいなタマーラ。同性の私も羨む素敵なタマーラ。
「あ、タマーラ。さっきぶり」
「『あ、さっきぶり』じゃないでしょ。ほら隅に行って一緒に柔軟しましょ」
タマーラはそう言うと私の手を握って引っ張って行く。強く、けれども優しく包み込むように握られた手は少し震えていた。寒かったのもあるかもしれないが、まだレフ先生の時のものが残っているのかもしれない。
だから私はタマーラの手を、大好きなタマーラの手を優しく握り返す。
隅に移動した私たちはそれからお互いに協力しながら10分ほど柔軟をする。本当はもっと時間かけるものだが、朝なので時間はなく軽くで終わらせる。そしてバーレッスンとセンターレッスンをして朝練は終わりだ。曲に合わせるのは放課後のでやるので問題ない。
朝練を終えると私たちはアカデミーの本校舎に駆け足で進む。
アカデミーは少し変わった制度がある。飲酒許可年齢までは午前中は本校舎で他の付属校の学生と一緒に基本科目を学び、午後からは選択科目を二限こなし、その後に付属校で部活や専攻学科をやる。
この制度は知識や見識を広くさせるのと同時に、交友関係やコミュニティを作るためでもある。因みに選択科目は学年や年齢の関係なく自分の専攻や部活とは無縁のものを選ぶ決まりなので私たちがコンスタンチン先輩とウラジミール先輩が出会ったのもこの制度があったからだ。もっともコンスタンチン先輩は初め数学講師として出会ったのだが。
アカデミーは総生徒数は約二万人。その内約六割は飲酒許可年齢に満たない生徒だ。そしてその六割の学生が集う本校舎はアカデミーの中心に位置しており、その大きさはモスクワの
本校舎は四角い囲いを十字に区切り、さらにその中心には円形の広場がある。建物は地下三階、地上五階の構造で一番大きい講堂は千人以上収容できる。
私とタマーラは飲酒許可年齢に満たないので基本科目を受ける。内容は主に機関学、数学、地球学、外国語学おまけ程度に国語と歴史、アカデミー内外のゲスト講師による特別講義の四限を毎日繰り返す。
修学期間はマルセイユ洋上学園都市を倣い、基本的に修業年数は5年。研究科に進めばさらに4年が加算される。
あと、地球学は地質学、鉱石学、海洋学、気象学を含めた学問のことで一番学生に嫌われている。ほぼ毎回講師が変わる。
――しかしこれも見識を広めるための一言で済ませるアカデミーはどうかしていると思う。私個人は色々なことが学べていいと思うけど……やはりこの地球学の詰め込み具合は異常だ。
――大抵の学生はこの科目に根を上げる。そしてこの学科が理由で退学希望する人も少なからずいる。
基本科目を終えて昼食の後に休憩を挿み選択科目の時間となる。タマーラと私、それにコンスタンチン先輩とウラジミール先輩の選択科目は第三文学。ここは忙しいアカデミーの中では珍しくゆっくりで静かな時間の流れる空間。主な活動内容はその日その日のテーマに沿った内容の本を読み、見識と教養を深めようという趣旨の科目。わかりやすく言うとゆったり本を読んで楽しもうという場所が第三文学である。
読み切れなかった本は自分専用の箱が用意されており、そこに入れて次回に続きを読む決まりだ。読んだ本は記録され、読み終わったら感想文を出すのが決まりだ。一応の活動記録らしい。
他の文学は外国書籍の翻訳や討論、古語の訳などしているところもある。かなり忙しく大変らしい。
次の選択科目はタマーラは政治学、最近はマルクスの著書について話し合っているらしい。コンスタンチン先輩とウラジミール先輩は天文学、主に観測機器打ち上げてあの灰色の雲の上はどうなっているか調べているらしい。
私はみんなとは別れて芸術科篆刻写真部(正式な部活ではない)を選択している。篆刻写真部は自然、建物、人物、とこだわりなく色々なものを写真機に写し鑑賞会を開くのを趣旨とする。他にも簡単な写真機の整備方法や地図の読み方なども習う。なによりもこの授業を選択すると廉価品ではあるが写真機が配布されるから選んだのだ。
そして選択科目が終われば待ちに待ったバレエの時間だ。
一日で一番楽しい時間。
一日で一番好きな時間。
一日で一番楽しみな時間。
ここでも私はタマーラと一緒に柔軟とバーレッスンとセンターレッスン、音楽合わせとたっぷりできる。
このために生きていると言っても過言ではない。
そして休憩中は持ち込んだ写真機に練習風景やタマーラを写す。
それらが私の最高の時間の過ごし方。
以前に無断で撮ったらコーチに『無断で撮るのはマナー違反ですよ。もしかして写した篆刻写真を男子生徒に売ったりしていませんよね?』と、ひと悶着あった。
その時タマーラが擁護してくれなかったら篆刻写真機は取り上げられていたかもしれない。
結果、幾つかの決め事が出来た。
①許可を取った人しか撮ってはならない。
②練習場で撮った写真は被写体とコーチに必ず見せる。
③絶対に門外不出。無論撮っていることも秘密である。
――この三つの範囲内なら自由なのだ。
――ただ、タマーラが擁護のさい『アンナは写真の虫なんです』はどうかと思う。
そんな充実した時間も日が暮れる前には終わる。
このサンクトペテルブルクは日が暮れると途端に酷く暗くなる。だから閉門時間は季節によって変わる。
いくらロシア機関帝国の首都であろうとも暗くなれば治安は悪くなる。このアカデミーの近くも例外ではない。
何よりも最近は不穏な人達が街を徘徊している。そんな話も多く聞く。
他にも不穏な話は聞く、農村などでストライキや暴動、いや他の街でも小さいが
――私達の日常を壊すもの。
――いや、違う。これはこの国の悲鳴。もしかしたら断末魔かもしれない。けれども私にはどうすることも出来ない。
――でも、だからこそ今を大切にしたい。この《うつくしきもの》を形として残しておきたい。
――たとえ永遠でなくとも――
「タマーラ早く帰ろ。寒いし、暗くなってきたし」
「落ち着きなさいアンナ、私たちの寮はそんなに遠くないんだから。それとも何か怖いものでもあるの?」
「ないよそんなの。たしかに最近は怪しい人が徘徊している。って言うけど、幸い私達の寮は大通りに面しているから変に狭い路地や小道にいかなければ問題ないでしょ?」
「たしかに最近は怪しい人が多いって言うけどね。私が言っているのはそっちの方じゃなくって、こわーいオカルトな噂の方だよ
曰く路地裏などで強い光があった後には黒い
曰く路地裏の発光現場に近寄ると呪いを受けて病にかかる。
曰く男女の区別なく路地裏に入ったものは服だけ遺し消える。
って言う噂。今社交界はこの手の噂で持ちきりなんだからね。
全くみんな暇してるわよね。少し前ならいざ知らず、この帝国も科学万能の時代を今、まさに、享受していると言うのにね。
噂の黒い
まあ
「――べ、別に大丈夫よ。たんにタマーラがおどろおどろしい話し方するからよ」
――そう、別に大丈夫だと思う。タマーラの話し方が上手いだけ。そう、それだけ……
「本当かな?
タマーラが空を見上げる、雲が更に暗くなり、灰色だった雪が黒に――正確には黒に近い灰色になっていた。
私は遠くに、見えない、けれども確かにあるであろう高い煙突。
太く、大きく、まるで異国の昔話に出てくる『バベルの塔』を彷彿させるそれを見つめる。
――チェルノブイリ
――カダス式に頼らない機関はニューヨークの大型蒸気機関が思いつくが、それが原因とされる《大消失》により世界最大の都市であったはずのニューヨークが一夜にして無人廃墟と化した、と噂されるほど不安なもの。それほどのものにまで手を出すこの国はどうかと思う。
――ただ誰も《大消失》のことを指摘する人がいないのは不思議でしょうがない。その事を話題にしてもみんなそっけない。
「この調子じゃあすぐ暗くなるわね。急ぎましょうか?」
「もう、だから最初にそう言ったじゃないって、置いて行かないでよ」
タマーラが駆け出す。煤交じりとはいえしんしんと降積った雪の上を舞うように、そうまるで舞台を見ているかのように華麗に駆けるタマーラ。
そんなタマーラを器用に、急いで鞄から取り出した写真機で撮影しながら追い掛ける私、しかし。
視界の端に。
黄色い外套が。
私の横を通る。
「見つけた」
――だれ?
「けれどもまだ見つけてないんだね」
――なにを?
「早く印を見つけないと僕は君を■■■■■■■から、いや■■■■■■から守れない」
――なにから?
「でも印を手にするか否かは慎重にね」
――なんで?
「今日はこれまで、じゃあね
私の中で何かが、いや、目が何か訴えかける。
私はタマーラ撮るのを忘れて、足を止めて後ろを振り返る。
私が止まったのを足音で気づいたであろうタマーラが声を上げる。
「アンナーーーーどうしたの」
「タマーラ、今黄色い外套を着た小さい子見なかった?」
「見ていないわよ」
「そんな! 確かにいたの!」
――私はたまらずに声を荒げる。
「どうしたの急に?」
「だって――――」
――そんなのおかしい、だってあの子確かにいたんだ。
「ふぅ、アンナ言いたくないけど、この白と黒と灰色の寂しい色彩の街で、黄色なんていう目立った色を目にしたら流石に気づくわよ」
「でも――――」
――正論だ。たしかにこの町で黄色はすごく目立つ。しかし、
「それにアンナ、あなたの横に足跡がないじゃない」
「え? ――」
私は自分の足元を見渡す。たしかに私の横には、いたであろう小さい子の足跡が見当たらない。振り合えって後ろを見ても結果は同じ。
「でもタマーラ、私たしかに」
「うん。ごめんねアンナ、私が怖がらせたから変なのを幻視したんだね」
タマーラが近寄ってくると私を優しく抱きしめる。
「違うのタマーラ」
――タマーラに抱きしめてもらうのは嬉しい。けれども、こういった形は少々腹に据えかねる。
「タマーラ!」
「はいはい。今日は一緒に寝てあげるね」
さっきよりも、ギュッと強く、けれども暖かく抱きしめられる。
――卑怯だ。こんなの。
私は気付かずに出来でいたであろう胸の中の不安という氷が溶けていくのを感じると、なぜだ涙ぐんでしまう。
「さあ、帰りましょうか可愛い可愛い怖がりの
タマーラが私を解放すると手を繋いで歩き出す。
私は涙ぐんでいるのを気付かれないようにそっぽを向く。
そして、タマーラに気づかれないよな小さい声で、
「タマーラ――――――ありがとう」
「うん? なにアンナ」
――気づかれた。でも聞き取れなかったみたいだから問題ない。
「ううん。なんでもない」
私達は帰る。暖かな日常に。
明日という名の暖かな演目が。
明日も開幕されるのを。
当たり前のように。
待っている。
シリーズ共通設定及び用語。
マルセイユ洋上学園都市の修学期間。
オリジナル設定及び用語。
チェルノブイリについて。
では親愛なるハーメルン読者の皆様方、良き青空を。
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1-4
要約すると
①冒頭の神性変更
②もともと出る予定の神性はそのまま出る
以上です。
あと今回はタマーラ視点です。
ごめんねアンナ、こんなことになって。
ごめんねアンナ、こんな場所に連れてきて。
ごめんねアンナ、助けられないのかもしれない。
私はアンナの手を引いて駆ける。脇目も振らず、後ろを振り替えることなく、ただ前を向いて。
今日は、いつもの日常のはずだったのに。
今日も、暖かな日常という演目のはずなのに。
今日を、いつも通りに閉幕して明日へとなる。
そうなると疑うことなかったのに。
聞こえる。背後から聞いたことのない獣の声が。
違う、アレは獣の声ではない。アレは獣以上のなにか。
「お…………ウ……ゴん………………ド…ウ」
背後のソレは追ってくる。私はアンナの手を強く握りしめる。少し痛いかもしれない。でも、我慢してほしい。
「ど……ko………………ダ」
声が近い、足音までもがすぐ近くに聞こえる。
もう、そんなに距離はない。あと、数分も逃げられない。
どうしてこんなことに…………
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
チクタク。
チクタク。
チクタク。
――世界が、時計が、日常が時を刻む音がする。
私はうっすらと目を開ける。時計の針はは目覚ましが鳴る三十分前を指している。
いつもならここで目を閉じて、僅かだが、細やかな二度寝という楽園に身を委ねる。のだか今日はそんな気になれなかった。
私タマーラ・カルサヴィナは暖かいシーツを払い除けて、ひどく、冷たく、冷えた、凍るような外気に身を晒して眠気を払う。
私は軽く体を捻り伸ばす。体の節々がコキコキと子気味よく音を鳴らす。その音は私が静かに、けれども明確に動き出した音だ。
暖房機関を起動させる。この
これは英国の暖房機関をモデルにし、ロシアの厳しい環境に対応できるよう出力強化をしつつも、大きさはそう変わらない。という売り文句で実際は、些か大きいとは思うが、確かにすぐ暖かくなるので重宝している。贅沢を言うなら静穏性をもう少し上げてほしい。
部屋が少しばかり暖まったのを確認する。私は一息つくと洗面所に足を向ける。
私は蛇口捻り、痛さを感じるほど冷たい水を顔に浴びせる。まだ微睡んでいた意識が鮮明になる。私は寝間着を脱いで籠に入れる、私の部屋には小さな脱衣所とシャワー室が備え付けてある。他の寮生の部屋にはほとんどついてない設備、たまにアンナと一緒に浴びたりしている。
シャワーは水圧も良く、温度はすぐに上がってくれる。初めは水圧も温度調整も今ほど良くはなかった、が、これもお父様がやってくれた。
――やってもらうのは嬉しいが過保護が過ぎると思う。実際はじめ備え付けてあった暖房機関は暖まるまで時間は掛かるし、音は工事中の工機並にうるさく辟易していた。本当に暖房機関については感謝してもしたりない。
――けれども、シャワーは初めの物でも問題なかったがお父様が部屋を視察(強制訪問)した時に『これは、ひどい』っと言って寮監を強引に押し切った次第だ。
――以降、寮監には睨まれて、私だけ他の子より規則に厳しい。本当に迷惑なことだ。
しかし、寮監もタダでは許可しなかった。備え付けての暖房機関は余りにうるさく排熱効率も悪いと前から思っていたらしく、全部とまではいかなったが幾つかの部屋の暖房機関を私の部屋のと同じものにすることで合意した。まったく抜け目ないことだ。
もちろんアンナの部屋のヤツは真っ先に替えさせた。他にも私とアンナの部屋の周りを中心的にしてもらった。
私は五分ほどで暖かいシャワーを終える。私は体に付いた水滴をしっかり拭き取り、自慢の髪を温風機で乾かし、櫛で整える。歯も磨き口をゆすぐ。
鏡に映る自分を確認、髪は寝癖で跳ねていないか、顔色はいいか、歯はきれいになっているか。
――よし!
脱衣所を出ると部屋は裸でも寒さを感じないくらいに暖まっていた。衣装棚から今日着る服を出し着替える。今日はそれほど寒くないので少し薄着でお洒落なものを選ぶ、アカデミーは公序良俗に反しない限りは多少は羽目を外しても文句は言わない。
――仮に寒くっても厚手の
着替えを終えた私は片手に外套、もう片方に鞄を携えてある部屋に向かう。そう、アンナの部屋に向かう。
いつもは屋内を走るアンナを注意するけど、今日は、今は、早くアンナの顔が見たいから特別に走る。
アンナの部屋の前に着く、私は
アンナに貰った合鍵、友情の証、親愛の証、私にしか持っていない物。
私は鍵を使って扉を開ける。静かに、足音、服の擦れる音、呼吸さえ抑えてアンナに近づく。
寝ているアンナの顔を覗く。静かな寝息を立てているアンナ。安心しきって悪戯したくなる寝顔だ。
可愛い後輩のアンナ。
大切な親友のアンナ。
私はじっとアンナの寝顔を見つめる。見ていて飽きない可愛い寝顔。ツンツンとアンナの頬を突っつく。
アンナは『うんうん』っと唸るだけで起きる気配がない。最後にはシーツを顔まで被ってしまった。
――どこまで可愛いんだこの子は。
私はひとり悶える。何しにこの部屋に来たか忘れかけるほどに。
正気を取り戻した時には部屋に入ってから十分は経っていた。
――本当、何しに来たんだか。
――自分に呆れる。しかし、今からでも間に合う。
私はアンナのシーツを思いっきり剥ぎ取る。多少の抵抗はあったが力技でどうにかする。
「ん~~タマーラ、どうしたのこんな時間に? 」
時計を見たアンナが眠たそうに、不服そうに、恨めしい顔をして私を見る。
「んふふ。今日はなんか目が覚めちゃってね」
「それで?」
私は深呼吸をして、とびっきりの笑顔をして告白する。
「暇だからアンナをからかいに来た」
「なんでそうなるの!?」
アンナが寒さをものともせず、大声で、いきり立つ。
――アンナのこんな表情は初めて見た。
「ごめんね。でも、目が覚めちゃったから早めにアカデミーに行って練習しよ」
「はぁ。わかった。着替えるから外で待ってて」
アンナは何もかも諦めたのか深いため息をついた。そして私を追い出そうとする。
が、私は追い出そうとするアンナの手を掴み、それを阻止する。
「――ねえ、アンナなんで追い出そうとするの?」
私はさっきよりもいい笑顔をしてアンナに迫る。
「……え? だって、なんか、今のタマーラは……」
私はもう一歩アンナに迫る。
「私がなあに?」
私はもう一歩アンナに迫る。
「タマーラ、ちょっと落ち着いて……」
私は迫る。目と鼻の先には可愛いアンナの顔がある。
「私は冷静よアンナ、さあ着替え、手伝って
あ げ る」
「ちょっと、タマーラ、待って、あ、い、や、あああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
私は額にかいた汗を輝かせ、この一言を言いたい。
「うん。いいことした」
「うう、ひどいよタマーラ」
笑顔で、ホクホク顔の、私とは正反対の表情をするアンナ。
「どうしたのアンナ? 朝からそんなに消耗して」
「うぅ、もういい。早くアカデミー行こう。
もうお嫁に行けない……」
アンナは落ち込んだ顔をして、トボトボと扉に向かう。
私は、そんなアンナ後ろから優しく抱きしめる。
「ごめんねアンナ、ちょっと、ふざけ過ぎたわ」
アンナはまた、ため息をつく、でも今回のは優しいため息。
アンナはお腹に回した私の手を、優しく包み込む。
「もう。いいよ。タマーラ」
「ありがとうアンナ。帰りになにか美味しいもの買ってあげるね」
「でもタマーラ、いつもは登下校中の買い食いは感心しないって」
私はアンナから手を離して、軽やかに、ステップをきかせてアンナの前に踊り出る。
「いいの。今日は特別」
「変なタマーラ」
「さあアンナ朝食を食べに行きましょ」
私はアンナの手を握りしめて引っ張る。
――今日のような幸せが、
――明日もこんな楽しさが、
――二人でいつまでも、
――《美しいもの》が、続くと、いいな。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
楽しい時間はあっという間だ。
朝の楽しい楽しい時間から、既に二限目の選択科目の時間だ。
私は政治学は選択をしている。だから、ここでアンナと別れる。因みに私が第三文学と政治学を選択した理由は社交界の話題作りのためだ。政治学に関しては親の勧めが強かったというのもある。
――だから、アンナと第三文学が一緒になったのは、とても嬉しい偶然だ。
ただ、アンナが二限目に選択している芸術科篆刻写真部は正直どうなのかと思う。
芸術科篆刻写真部、別名チェーカー。担任はフェリックス・エドムンドヴィチ・ジェルジンスキー先生。細身で長身、とても優しい人、イエズス会の
先生としてはとても真面目で、罰則者には厳しいけれどレフ先生とは違って酷くはない。だって罰を与える時のあの人はとても悲しい顔をするから。いつも『こんなことはしたくない』っと言っているくらいフェリックス先生は子供が大好きな人だ。先生の家にはたくさんの子供がいるけれど、みんな孤児で、フェリックス先生が引き取って育ている。
そんなフェリックス先生が芸術科篆刻写真部をなぜチェーカーと呼称するかというと、曰く『子供はこういった堅苦しい名前よりも、言いやすい愛称の方がいいだろうから』らしい。なんともフェリックス先生らしい理由だ。
無論フェリックス先生には文句はないが……なぜかチェーカーにはフェリックス先生が優しいせいか、変な人というか、癖のある人というか、兎に角いろんな人が集まる。
その筆頭がラモン・イワノヴィチ・ロペス、十歳にも満たないのにこのアカデミーに入れる登山が趣味の優秀な碩学の卵、性格は割と猪突猛進で感情的なところが大いにある子供だ。ただ問題なのは事あるごとにレフ先生との衝突が絶えない。前にアカデミーの風景写真を撮っていた時に偶然、その写真にレフ先生が写っていて『なに、私の許可なく、私を撮っている』っと詰問され、写真機は壊されて、殴られた。
途中で他の先生が止めなければ酷いことになっていた程で、それ以来ラモンは『レフの野郎、いつかその頭かち割ってやる』などと物騒なこと言う始末。他にも何にもいるがここでは割愛したいと思う。
一つ言えるのは、そういった変な奴らに限って優秀だから頭が痛い。
なにはともあれ今日は、なんら厄介ごともなくバレエの時間が来た。
私とアンナはいつも通り、一緒に柔軟をしてバーレッスン、センターレッスンをこなして音楽合わせとなる。ここ最近アンナはさる方からの要望の戯曲の練習を一人でしている。台本はまだ渡されてないらしく、公演の直前に渡されるらしく、今は曲合わせをしている。
この戯曲の依頼者は私やアンナどころかコーチも知らない。この依頼はアカデミーの学園長からのトップダウンでその詳細はわからない。
楽しいバレエの時間も終わり、あとは帰宅するだけなのだが、朝にアンナと約束した買い食いがある。
「じゃあアンナ、なにが食べたい?」
「うーん、特に要望はないかな。タマーラがくれるならなんでもいいよ」
――以前にも同じようなことがあった。なにか買ってあげると言ってもアンナは特に要望もなく、なんでも良いと言う。無欲な子だ。だからこういう時は私が決める。いや、全部私が決めている。
「じゃあ、あのピロシキにしましょ。ほら、以前コンスタンチン先輩が教えてくれた路地う」
「君たち」
誰かが私たちに声をかけてきた。後ろを振り返るとフェリックス先生が立っていた。
「
アンナはフェリックス先生にいきなり声をかけられて小さくなる。フェリックス先生は普段優しいが、悪いことをすると途端に厳しくなる。だからアンナは今の会話が大丈夫か心配なのだ。
「大丈夫ですフェリックス先生。寄り道と言ってもすぐに済みますし、私たちの寮はすぐそこですらね」
私はフェリックス先生をはやく振り切ろうとする。
「しかし、最近はこの近くも物騒な噂が立つ、それに今日は早く暗くなる」
『早く暗くなる』私はなにが言いたいかすぐにわかった。
「? おかしなこと言いますねフェリックス先生。まるでもうすぐチェルノブイリ
「いえ、なんとなくですよ」
フェリックス先生は少し困り顔をする。
「本当に大丈夫ですよ。そんな一時間や二時間寄り道しませんし、せいぜい掛かっても十分くらいですから。ではフェリックス先生また明日」
最後の方は捲し立てるように言って、早足で校門へ向かう。
「あ、タマーラ、待って。フェリックス先生また明日」
アンナが私を追いかけようと、慌てて走り出す。
「あ、二人ともくれぐれも寄り道せず、まっすぐ帰りなさいよ。
黒い雪が降る前に」
フェリックス先生が最後に何か言ったように思えたが聞こえなかった。多分小言の類だろう。
私は校門の外に出て少し行ったあとアンナを待つ。
――アンナ早く来ないかな――
私はアンナを待つ。そして思い馳せる。
――今日のような幸せが、
――明日もこんな楽しさが、
――二人でいつまでも、
――《美しいもの》が、続くと、いいな。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ここはサンクトペテルブルクにあるであろう地下室。
でも本当にあるかどうかもわからない地下室。
一般人は決してたどり着けない地下室。
そこはとても深く、暗く、黒い場所。
階段も、扉も、天窓も、照明さえもないこの場所に置いて、その中心は明かりがともっている。
否、これは明かりなのか。
その中心は赤かった。紅かった。朱かった。
そのような場所にいる男も赫い。
血も、目も、服も、思想も、すべてが赫い男。
「閣下、本当にこれでよかったのでしょうか」
いつの間にか細身で長身の男が赫い男の傍にいた。
「問題ない。これもすべてわれらのため」
男は紡ぐ、赫い言葉を。
「そう、すべてわれらが悲願のため」
男はただ一人、赫き言葉を紡ぐ。
「この国を、世界を、我らの赫きモノで染め上げる」
ここには男の声を聴く者はいない、その赫き言葉を。
「たとえ■■■が来ようとも、たとえ彼女が印を手にしようとも、たとえ黒い道化師が奪われし知恵を手にしようとも、われらを誰も止めることは能わず」
ここに一人、赫い言葉を紡ぐ。
今回の反省。もう少しちゃんと勉強してからこの作品を書くべきだった……
うん。というわけ(どういうわけ)で不穏な影が二人に迫っています。あと二話ほどしたら自分初のテンプレ戦闘になります。正直不安でしょうがないですが頑張ります。
では親愛なるハーメルン読者の皆様方、良き青空を。
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1-5
つまり、ガクトゥーンのShining Night風というこで(おこがましい)よろしくお願いします。
照明に照らされる。舞台が照らされる。劇場が照らされる。
黄色を基調とした舞台には扉はない。ここは出ることも、入ることも出来ない。
何者も見たことない程の大きな劇場。誰も見たことない意匠の壁と観客席。如何な人も見たことのない舞台装置。
見たことない観客席、壁、舞台、各所に施された
人を嘲笑うのとも違う感情が込められたシンボル。人も英知や経験を遠く高みから見下ろされている感覚に囚われる。
ならばこの舞台は何の為の舞台か。
ここはたった一つの演目の為の舞台。ここはたった一つの戯曲の為の舞台。ここはたった一つの狂気に彩られた舞台。
その劇場には誰もいない。観客も、楽団も、役者も、裏方も、誰もいない。
あるのは狂気だけ。一人の王が望み、一人の王が見て、一人の王が嗤う。
私は強い光を目蓋に感じる。
目を開けると私は困惑する。
――ここはどこ?
違和感を感じる。
私は周りを見渡す。
見たことのない劇場、
客席、壁、舞台、どれもこれもだ。
――誰かいないの?
誰かいる。
私はもう一度、周りを見渡す。
しかし、人の気配は感じられない。
客席や舞台装置、舞台袖を覗いても誰もいない。
――なんで誰もいないの?
どこにいるの。
私を照らし続ける照明はあるのに、
誰かが動かしているはずなのに、
誰もいない。
――いや、そもそも。
応えて。
私は気付いた。
この劇場は人が使った形跡がない。
それなのに塵や埃が積もっていない。
――いったいなんなの?
見つけた。
「久しぶり
――え?
私は声のした方に振り向いた。
そこには少年がいた。
着古した黄色とも緑ともとれる外套をした少年が。
――あなたは。
「そう言えば名乗っていなかったね。僕は■■■■、■■■■■■■■」
私には彼の名前がよく聞こえなかった。
まるで、そこだけモザイクかかったかのように。
「あれ? 僕のことわからない?」
――わからない。あなたはいったい何なの?
そう、わからない。
でも、なぜだか、彼とは前に会った気がする。
よく見ると彼は0.3フィートほど浮いている。
「あ、そうか。君はまだ印を見つけていないんだね」
――印? 印って何なの?
「うーん。答えてあげたいけど、今の段階で過度に君に干渉するとあいつに見つかりそうだし」
――あいつって?
「それは君が気にしなくっていいことだよ」
――なんで?
「なんでって、あいつに、
……いや、あいつならとっくに見つけているかもい。だってメスメル学はあいつの独壇場だし……」
――……
「あ、あいつの名前は無暗に言わない方が良い。碌なことにならないからね。
それよりも、今は、他の奴が君を狙っている」
――誰が?
「誰って、あの赫い奴だよ」
――赫い……
赫、最近この国を騒がせていると思わしき一団が掲げている旗の色。
とても危険な人たちの集まりと言われている。
「あ、そいつのことも滅多なことでは言わない方が良い。命が惜しければね。
――って、あまり長いと本当によくない。兎に角印をみつけてね。いざという時に助けられないから」
――待って!!
「でも――見つけたあとは、どうかは慎重にね」
――答えて!!
「時間切れだ。じゃあね
私は少年に向けて右手を伸ばす。
しかし、届かない。
黄色い外套の少年が、消えていく。
同時に照明が、どんどん暗くなっていく。
暗くなる舞台が、どんどん存在感が希薄になっていく。
そして、私の意識も暗くなっていく――
◇◆◇◆◇◆
チクタク。
チクタク。
チクタク。
「待って!!」
私は右手を突き出した状態で目が覚めた。
――息が苦しい。それに胸が……
手を胸に当てると心臓が激しく動悸している。
時計はいつも起きる時間よりだいぶ早い。
「……私、どうして……」
――どうして、私は……それにこんなに汗をかいて。
私はひどく汗をかいていて、寝間着が肌に張り付き少々冷える。
――寒い。それに気持ち悪い。
私はベットを抜け出し、タマーラが
数分ほど浴びた後、水気をしっかり取り、新しい寝間着を着てベットへ入る。
それから少し時間が過ぎる。普段から小さな、小さな、鈴の音ようなの目覚まし時計で起きられる私だ。だから、私はタマーラが鍵を開ける音で目が覚めた。しかし、時計を見ると、目覚ましが鳴るまで時間があるから二度寝することにした。
――いや、三度寝か。
私は再び楽園へと身を委ねる。だが、私の三度寝は数秒ともたなかった。
タマーラが私の側に静かに立った。まるで第三文学で読んだ
タマーラの癖のある茶髪がわずかに開いた視界の端に映る。
しばらくタマーラは私の顔をじっと見つめている。ここで起きるのも億劫なので私は意識を沈めようとする。
しかし、そうはならなかった。タマーラが私の頬を指で突っついてきたのだ。ツンツンとくすぐるように、何かを確かめるように、何度も何度も突っついてくる。
私はまだ眠りたいのでシーツを顔まで被る。そしたらタマーラは私を突くのをやめて
――諦めたのかもしれない。やっと寝られる。
私は再び楽園に身を投じた。が、そんな楽園は長くは続かなかった。
私の暖かな楽園をつくっていた
「ん~~タマーラ、どうしたのこんな時間に?」
私はねぼけまなこで時計を見る。時間は私が見たときから十分ほどしか経っていない。
流石に私も不満は隠せず顰め面をしてしまう。
しかし、ここに至ってタマーラが意味もなく、こんなことするはずがないと思った。もしかしたらタマーラも悪い夢か何かを見て、それで不安になって私のところに来たかもしれないから。
私はタマーラに気づかれないよう、固唾を飲んでタマーラの言葉を待つ――
「んふふ。今日はなんか目が覚めちゃってね」
「なんでそうなるの!?」
私は勢いよく上体を起こして怒鳴ってしまった。
――なんか、心配して損した……でも、私の杞憂でよかった。
「ごめんね。でも、目が覚めちゃったから早めにアカデミーに行って練習しよ」
タマーラも少しは申し訳ないと思うのか、いつもの茶化すような謝罪ではなかった。
――それに今ので目が覚めちゃったし、しょうがない。
「はぁ。わかった。着替えるから外で待ってて」
せめて、少し一息つきたい思いでタマーラを外にだそうとする。が、
「――ねえ、アンナなんで追い出そうとするの?」
――へ?
私は一瞬、部屋の中に漂う冷気とは別のモノに、寒気を感じた。
そして、タマーラが手をワキワキと、怪しい動きをして近づいてくる。いや、あれは近づくより迫ってくるという表現が正確だ。
――いやな予感がする……
「……え? だって、なんか、今のタマーラは……」
私はまだベットの上にいる。つまり、すぐ後ろには壁しかない。
「私がなあに?」
タマーラがまた一歩迫り、私は逃げようと後退するがすぐ壁につきあたる。
「タマーラ、ちょっと落ち着いて……」
ついに、きれいなタマーラの顔が目と鼻の先に来た。
「私は冷静よアンナ、さあ着替え、手伝って
あ げ る」
「ちょっと、タマーラ、待って、あ、い、や、あああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
私はせめてもの抗いとして精一杯声を上げた。しかし、誰も部屋には来なかった。
――私の声は届かなかった……ねえ、この寮の防音性、高すぎない?
私はそんなどうでもいい(どうでもよくない!)ことを思いながらタマーラの成すがままにされた。
「うん。いいことした」
タマーラが額にかいた汗を輝かせて、無駄に爽やかな笑顔で言った。
「うう、ひどいよタマーラ」
私はというと、床に膝と手をついて項垂れていた。
「どうしたのアンナ? 朝からそんなに消耗して」
タマーラは何食わぬ顔で私を心配している。いや、心配しているふりをして次に何をしようか思案しているにちがいない。
「うぅ、もういい。早くアカデミー行こう。
もうお嫁に行けない……」
私はため息一つして弱い足取りで扉に向かう。するとタマーラがいきなり私に抱き着いてきた。
「ごめんねアンナ、ちょっと、ふざけ過ぎたわ」
タマーラは優しく、まるで壊れ物を扱うように優しく、ギュッと抱きしめる。
本人は気づいていないかもしれないが私のおへそ辺りにある手は震えている。この震えは寒さによるものではない。多分よくない夢を見たか、嫌な予感がしているのだろう。タマーラのカンはよく当たるから、自分でもそう思っているから。
だから私はタマーラを安心させたくって
タマーラの震えが少しおさまった。
「もう。いいよ。タマーラ」
私はタマーラを安心させたかった。
いつものように笑ってほしかった。
あの失われた太陽のように朗らかに笑ってほしかった。
「ありがとうアンナ。帰りになにか美味しいもの買ってあげるね」
笑ってくれるタマーラ。まだぎこちないけど、いつものタマーラの笑顔だ。だから、私もいつも通りに。
そう。いつも通りの私でいる。演じる。タマーラのことは心配だけど。
「でもタマーラ、いつもは登下校中の買い食いは感心しないって」
変に気負ってほしくないから。
「いいの。今日は特別」
だから。
「変なタマーラ」
タマーラが私の手を握りして引っ張る。
「さあアンナ朝食を食べに行きましょ」
――いつものように。
――まだ冷たいけど、さっきみたいに震えていない。
――タマーラの暖かい手。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
アカデミーでコンスタンチン先輩とウラジミール先輩に校門前で合流してからタマーラは調子が戻っていた。お調子者のコンスタンチン先輩といつものようにじゃれ合い、所々で冷静なウラジミール先輩が行き過ぎないよう間に入る。無論タマーラが暴力を振るうことはないが(先日のようなことは極稀である)熱くなる二人を前にするとアタフタする私を慮って行為だ。しかし、ウラジミール先輩曰く『あれは二人独自の求愛行動みたいなモノだから気にするな』と言われて私は首をかしげる。
たしかに二人は仲は悪くない、むしろお互いをよく思っていると思うが、流石に《求愛》はどうかと思う。
ともあれタマーラが元気になってよかった。朝に感じたんであろう不安も今は無さそうで本当によかった。
私たちが談話しながら校門をくぐると機械のように定時通り、校門から11ヤードほど離れた場所に、機械よりも機械らしくいつもと同じ場所に立っていたレフ先生。
レフ先生が登校してくる生徒を睥睨している。すると目が
今朝はレフ先生に何かされることはなかったが……そのレフ先生の瞳が、暗い雪のような瞳が、私を見るその瞳が、
レフ先生のそんな瞳は見たことがなかった。そんな目で私を見ていたかわからない、その瞳に見られた瞬間背筋に鳥肌がたつ。
全身に冷や汗が滲む。
目に涙が溜まる。
「……! ……ンナ! アンナ!」
声と共に、レフ先生と私の間に誰かが入ってきた。
タマーラの顔が入ってきた。
心配半分好奇心半分(なぜぼうっとしていたか)のタマーラの顔が入ってきた。
「――タマーラ、どうした、の」
「どうしたのじゃないわよ。アンナったら急に立ち止まるんだもん――アンナどうしたのそんな顔をして……まさかまたレフ先生に」
タマーラは私の視線がレフ先生に向いていると気づいた。そのままレフ先生に振り向いて何か言おうとする。私は慌ててそれを止める。
「大丈夫だよタマーラ! そんなことないよ……ねぇタマーラ、今日のレフ先生何かいつもと違わない?」
私はタマーラに尋ねる。私の感じた違和感が真実であるかどうかを。
「え? レフ先生? ………いつも通りの仏頂面、鉄面皮、無表情の三拍子に見えるけど」
「おーーい二人してなにやってんだーー」
10ヤード程先でコンスタンチン先輩が私たちを呼んでいる。
「すぐ行くわよ。まったくあの男は――ほらアンナいきましょう。練習時間が少なくる」
「う、うん」
私はタマーラに手を引かれて歩き出す。そしてレフ先生の横を通り過ぎる時に、レフ先生の横顔を見る。
その顔はさっき感じた喜悦は感じず、タマーラの言う通りいつものレフ先生だった。
――気のせいだったのかな。
私はどうしても先程感じた違和感を拭えぬまま練習場に向かう。練習に一汗かいた頃には違和感は薄れていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
あの後レフ先生とは会うことなく午前の基本科目が終わり、昼食、休憩、そして今は選択科目の時間だ。
第三文学のあとの芸術科篆刻写真部、通称チェーカーの時間が始まる。担任のフェリックス・エドムンドヴィチ・ジェルジンスキー先生は細身で長身、とっても優しい父親のような人だ。
今日の活動内容は写真機の整備。写真機はとても繊細だ。特に支給される写真機は廉価品で性能も最新式に比べれば格段に落ちるし、耐久性能も大きく劣る。そのために定期的な整備は必要なのだ。特にこの国は欧州に比べると寒いし、落ちてくる灰の量も多くチェルノブイリ
チェーカーのような直接社会的貢献とは結びつかない活動には予算は降りにくく、全員分の写真機を用意するだけでもフェリックス先生はかなりの苦労をしたという。だからチェーカーのみんなは面倒でもこの時間は真面目に、黙々と整備作業に没頭する。
ふとした表紙に顔を上げれば優しい顔でみんなを見守るフェリックス先生がいる。本当の子供を見守るように暖かな眼差しをみんなに向ける。
だが、私と目が合った瞬間、その瞳は揺れた。
――あの目は何かを堪えている目だ。フェリックス先生、何をこらえているの。どうしてそんな目をするの。
口には出ないけど、出せないけど、そう見えてしまっては気になってしまう。そんなモヤモヤした気持ちをチェーカーの活動時間ずっとしていた。
そのあとの。
一日で一番好きな時間。
バレエの時間も抱えたまま下校時刻になった。
下校時にはコンスタンチン先輩とウラジミール先輩とは一緒になることはあまりない。二人とも研究熱心で場合によってはアカデミーに泊まり込むこともあり、この時間はタマーラと一緒のことが多い。
「じゃあアンナ、なにが食べたい?」
「うーん、特に要望はないかな。タマーラがくれるならなんでもいいよ」
――だって、私はタマーラと一緒ならなんでも美味しいから。嬉しいから。幸せだから。
「じゃあ、あのピロシキにしましょ。ほら、以前コンスタンチン先輩が教えてくれた路地う」
「君たち」
誰かが私たちを呼び止める。
「Msガスパジャーアンナ、Msタマーラ、いまから寄り道ですか? 校則で禁止されているわけではありませんが、感心はしませんね。早く帰りなさい」
フェリックス先生だ。そして、また、私をあの揺れる瞳で見つめる。
タマーラは気付いていないみたいだけど私には
「大丈夫ですフェリックス先生。寄り道と言ってもすぐに済みますし、私たちの寮はすぐそこですらね」
タマーラは早くピロシキを食べに行きたいのかフェリックス先生との話を切り上げようとする。
「しかし、最近はこの近くも物騒な噂が立つ、それに今日は早く暗くなる」
いま、フェリックス先生は何を言ったのか、
「? おかしなこと言いますねフェリックス先生。まるでもうすぐチェルノブイリ
「いえ、なんとなくですよ」
フェリックス先生は濁す、その隙をタマーラは見逃すことなく話を捲し立てる。
「本当に大丈夫ですよ。そんな一時間や二時間寄り道しませんし、せいぜい掛かっても十分くらいですから。ではフェリックス先生また明日」
タマーラはそう言い終えると私の手を引いて校門へ走る。
「あ、タマーラ、待って。フェリックス先生また明日」
フェリックス先生は諦めたように……いや、諦めて私たちを見送る。
「あ、二人ともくれぐれも寄り道せず、まっすぐ帰りなさいよ。
フェリックス先生が最後に何かを呟いた。その小さな声は私には届かなかった。
けれどもわかったことが一つある。フェリックス先生の瞳に映っていた感情は、
――悲しみと懺悔だ――
――あの瞳は無力な自分を呪う瞳だ――
アカデミーを出た後私たちは目的のお店に向かっている。タマーラもフェリックス先生の言葉に半信半疑のようだが遅くなるのを避けるために早歩きでいる。
そして、近道である裏路地への入り口を視認する。普段はこういった裏路地はコンスタンチン先輩たちと一緒ではない限り入らない、けれども今日は急ぐため使用する。
が、
その近くを女性が歩いていた。
赫いドレス身に纏ったきれいな女性だ。
大きな赫い傘と深めの帽子で顔隠した女性だ。
「そこの
赫い女性が話しかけてきた。きれいな声で、優しく、気品すら感じる所作で。けれどもその声は冷たく、女性にしては低い声で。
――私、この人を知っている。
私に言い知れぬ不安が走る。私の
「はい
タマーラが立ち止まり丁寧に応答する。今日のタマーラなら立ち止まらず走り抜けると思ったが、この女性になにか感じるものでもあるのだろうか。
そして、タマーラは気付かない。なにか、この人は関わっていけいない。そう思える何かに。
「それならやめておいた方が良いわよ。この路地、今朝がた壁の一部が壊れて通行止めになっているのよ」
「? そんな話は聞いていませんが……」
「ええ、わたくしもついさっき確認したばかりで今遠回りをするところなの」
「そうですか――ご婦人ご忠告ありがとうございます。では私たちもそうします。アンナ行きましょう」
タマーラが再び私の手を引いて歩き出す。通り過ぎる時、赫い女性の、瞳が見えた。
その瞳は喜悦に染まっていた。
それから遠回りをして向かう最中に降ってきた。
暗い灰が、黒い雪が、すべてを覆い尽くす灰が。
チェルノブイリ複合機関の灰が。
「やだ、本当に降ってきた。アンナ急ぎましょ」
ここまでくると手を離し走り始めていた。
次の瞬間暗い灰が、黒い雪が、吹雪いた。
「きゃ」
──
──
──
何かが聞こえた。違う、網膜に響かないが何かが聞こえた。
私の声を聞いたタマーラが私を抱きしめた。私を守るように強く抱きしめた。タマーラの暖かな体温が私を包み込む。そのまま二・三秒ほどして、
「どこ……ここ…………」
暖かな安らぎが一瞬で消え去る。私はタマーラから離れて辺りを見渡す。
そこは、見たことのない、風景。きっきまで私たちがいた場所と違った場所。どんなに辺りを見回しても同じ、石造りの壁が両脇に佇む無機質な風景。先程まで降っていた雪が消え、遠くには高い塔のようなモノ。
「ねえアンナ――私たちさっきまで遠回りして街の大通りにいたわよね?」
「うん。その、は」
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!!!!」
私の言葉は最後まで続けられることなく、後ろから聞こえた雄たけびにかき消された。その声は氾濫した河の轟音のようで、心が軋んでしまいそうになる。
私たちは
見たことのない怪物、知らない怪物、出会ってはならないモノ。
――あれは、なに――
怪物が空洞で、ないはずの瞳で私たちを見つけた。怪物がゆっくりと、けれども怠慢ではなく、機敏な動きでこちらに来る。
「お…………ウ……ゴん………………ド…ウ」
――冷汗が止まらない、足が震えて言うことが聞かない、呼吸がうまくいかない。
そんな私が動いた。違う引っ張られた。タマーラが手を引っ張ってくれた。
「ど……ko………………ダ」
「逃げるわよアンナ!!」
駆ける。走る。兎に角逃げる。幸いなことかわからないが道は一直線ではなく、曲がるたびに怪物の声が遠くなり少し心が平静になる。
しばらく走ると気付いた。タマーラの瞳に涙が溜まっているのを、握られた手が汗で濡れているのを、走っている以上に呼吸が乱れているのを。
だから私は。
「タマーラもう大丈夫だから! 手を離しても走れるから!」
私は訴えかける。これ以上タマーラに負担をかけたらタマーラが倒れてしまうから。
「だめよアンナ! あなたここ一番でしでかしてしまうから! 大丈夫、私が必ず守ってあげるから」
そう言うとタマーラが一層強く手を握ってくる。痛いくらい強く。
でも、気付くべきだった、その声が氾濫した河なら、静かに流れるのも川なのだから。
視界の端に鈍色が煌めく。
「タマーラ!!」
「っ!」
私のとっさの声にタマーラが反応して私を抱えて後ろに飛び引く。
鳴り響く轟音。その音はアカデミーの部活見学で見た兵器開発部の爆弾の爆破演習の時の音によく似ていた。
その反動で私と1ヤード以上飛ばされてしまった。私は頭にたんこぶが出来たかなとくらい軽く打ち付けた程度ですぐに立ち上がった。でも、タマーラは頭から血を流して起きない。
「起きてタマーラ!! ねえタマーラ!! 早く!!」
私はタマーラを強く揺する。頬を叩く。でも起きない。
その間にどんどん怪物が近づいてくる。その息遣いが、その大地を踏みしめる音が、死の気配が、近づいてくる。
私はタマーラを無理やり抱えて歩く。少しでも、あの怪物から離れるために。
――決して見捨てないからねタマーラ。
怪物はそんな私をあざ笑うようにゆっくりと近づいてくる。
逸って速度を上げようとした私はつまづいて転んでしまった。走ってきた疲労と恐怖で体がうまく動かない。タマーラを抱えて起き上がろうとするもうまくいかない。そうして何度も失敗している内に怪物の動きが止まった。ついに私たちの至近距離まで来たのだ。
――させない。
私はタマーラを離すことなく、這いつくばるように進もうとする。――少し、ほんの少しずつ進む、が、これでは意味がない。
――だれか助けて、タマーラを助けて。私じゃあタマーラを助けれないから。
目が涙で滲む。諦めたくない。諦めないけど。でも、このままじゃ助からない。
――夢があるんだ。
進む、一歩よりも短く、儚い距離を、
――みんなに《きれいなもの》を《うつくしいもの》を、あの感動を
手を伸ばす。
――あの気持ちをみんなに
ふっと、右手のほんの先に何かある。
瞳が何か訴えかける。
――なに? あれ?
私は手を伸ばす。なにかはわからないが、手を伸ばす。
それはある王との契約。
――これは?
私は固い感触の
狂気に魅入られた王との契約。
――もしかてこれって。
「オウゴんDオオォォォおぉぉおお」
怪物がその鈍色に光る右腕を振り下ろす。すべてを粉砕する一撃を振り下ろす。
――だが、その一撃は届かなかった――
私はいつまでも来ない痛みに不安を感じて後ろを振り向く。
――そこには少年がいた――
――着古した黄色とも緑ともとれる外套をした少年が――
「久しぶり
ついに、次回、念願(逃げたい)テンプレ戦闘回。やばい、逃げたい(遣り甲斐がある)時ですね。逃げる(頑張り)どころなのです。
つまり、何が言いたいかというと、耳にチク・タクって音がしますから諦めてもいいですか? ほら、チク・タク言ってる人も『賢明だ』って言っていますし。
いや、本当にちょっと涙目になりそう。
では、親愛なるハーメルン読者の皆様方良き青空を。
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1-6
ここは深淵。
星の深淵。
生命の深淵。
ここはすべての起源。
ここはすべての始まり。
ここはすべての終わり。
中央には蒸気をあげる軟泥の佇む灰色。浮遊する石板を見守るように佇む灰色。その灰色は手もない、足もない、首も、目も、なにもかもない。
誰もいない。誰も来ない。そこにいる灰色には知恵なく、知性はなく、ただ何かを吐き出し続けるだけの灰色。
しかし、
「お久しぶり。初めまして、《無形なる白痴》」
話す声は、仮面の男だ、薔薇の華の。異形の男だ、黒い僧衣の。周囲を満たす黒よりも尚、色濃い《霧》だ、《闇》だ。否、既にそれは《混沌》だ。
途端に灰色が蠢く、捕食対象として、否、敵対者として灰色が蠢く。
知恵なき灰色が、知性のない灰色が、ただ佇むだけだった灰色が、その身から触手を吐き出し鞭のようにしならせ仮面の男を攻撃する。仮面の男のいたところには大きな
「アハハハハ! 痛い、痛い、開口一番に痛烈な挨拶だね。《無形なる白痴》! でも、君みたいなバカに
仮面の男はわざとらしく、大袈裟に、両手を広げて、嘆いて見せる。しかし、顔は笑顔のままだ。
そんな仮面の男に、灰色は間髪入れず打ち続ける。毎秒十や二十を軽く越える殴打は全て当たらない。
「アハハハハハハハハハハ! そんなに私を
仮面の男は笑う。嗤う。過去にあった出来事を思い出し光悦に、歓喜に、その身を奮わせながら。
「それはそうと、ねぇ《無知なる白痴》その回りに浮いている星の銘板なんて書いてあるか教えて? もしくは貰えない?」
灰色に顔や感情かあったなら赫怒に染まり、空間を破壊する咆哮を上げていただろう。それほどまでに灰色の殴打が苛烈になる。一本が二本に、二本が四本に、加速度的に増える。
仮面の男はその光景を嗤いながら眺めている。
「そんなに怒らなくってもいいのではないか? たかだか何か書かれている石ころの一つや二つで。
まあ、私にはそれを読むことも、持ち帰ることもできないのですがね。まったく無知なのは私も同じか。
ん」
仮面の男が天井を仰ぎ見る。
「あれは――」
「そうか、─────ふっ、フハハハハハハハ! フフフフハハハハハハハハハハハハ!! フッハハハハハハハハハハハハハハ!!! 」
「滑稽かな。滑稽かな。ついに動き出したか、憐れなる赤錆どもよ。
そして、おめでとう《黄衣の王》よ」
「そういうわけだ。私はこれで失礼するよ《無知なの白痴》よ。今度来るときは手土産の一つでも持ってくるとするよ。
ではな、良き青空を。《無知なる白痴》」
仮面の男は灰色に背中を向ける。その間にも殴打続く、しかし、仮面の男はもう灰色に興味がなく、消え失せていた。
そして、そこに残るは、灰色だけ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「オウゴんDオオォォォおぉぉおお」
怪物がその鈍色に光る右腕を振り下ろす。すべてを粉砕する一撃を振り下ろす。
――だが、その一撃は届かなかった――
私はいつまでも来ない痛みに不安を感じて後ろを振り向く。
――そこには少年がいた――
――着古した黄色とも緑ともとれる外套をした少年が――
「久しぶり
「あ、あなたは――」
私は震える声で、少年に問いかけようとする。どうしてここに、どうやってここに、色々と聞きたいことが頭の中に溢れるが、上手く言葉にできない。
それを察した少年が、私に振り向いて、広げた右手で制止する。よく見ると少年はもう片方の手で怪物の一撃を受け止めているわけではなく、着古した黄色とも緑ともとれる外套が、触手のようにうねりながら受け止めていた。
「ああ、聞きたいことがあるんだろうけど少し待ってもらえるかな? すぐに済ませるからね」
少年は笑顔でそう言うと、怪物に向き直る。
「しかし、なんだろうねこの
何よりも君だよ《ヴァラファール》。
旧き聖書に記されし王に使役された72の魔神が一柱。10の軍団を率いる序列6番、盗賊の公爵。格闘技、謀り、失意、悲しみ、物品の欠乏を司り。医学知識や魔法薬に精通、人間を動物の姿に変える力がある君が、まったくあべこべじゃないか。
そんな知性を感じない。
原因と結果が逆転。
しかもその
「ジャあアああマぁだぁぁあああぁぁぁぁ!!」
いつまでも潰れない
「なによりも君は臭い。煩い。邪魔だ」
少年は空いていた左手で迫りくる怪物の顔を殴り飛ばした。怪物は10ヤードほど飛ばされて地面を打ち付けられながらも態勢を直し、こちらを凝視する。
「ふう。見た目より硬いな、やっぱりペルクナスみたいに徒手空拳では無理か」
少年は殴った左手をプラプラしている。地面に赤い水が滴る。その甲は赤く染まっており、骨が一部むき身出ていた。その光景を唖然と見ている私に少年が笑顔で振り向く。
「それで今のうちに聞いておきたいことがあるんだ
――一つ目、今は仮契約の状態なんだけどね。僕と本契約をしてあいつを薙ぎ払う」
「――あなたと、――契約――」
「そう。契約。そしてもう一つの選択肢。
――それは、あの怪物に友人もろとも喰われること」
「――――――――――!!」
――喰われる。なに、それ、私たちに死ねというの?
「冷静に聞いてくれ
「――印……」
右手に握るそれを見る。古風な金の象眼細工が施された黒い縞瑪瑙のメダル、それには
「そう。君が持っているそれが印。本来はもっと違ったかたちで人の手に渡るんだけどね。兎に角それを首にかけ僕の名を呼べば契約完了だよ。
でもね。僕と契約するということはね。死ぬよりも
「悍ましい未来……」
――死ぬよりも悍ましい未来、それは想像のつかない、荒唐無稽な話。でも、少年が嘘やはったりを言っているようには見えない。
「悍ましいって言ってもね、どんな未来が来るかは僕もわからない。他人にとってはどうでもいいことかもしれないし、他人から見ても悍ましいことかもしれない。
ただね。それはなんの例外なく、確実に訪れる破滅。その人の経験や人生を無意味する。
それでも君は僕と契約するかい?」
その人の経験や人生を無意味にする。それは、想像できない恐怖だ。それは人の破滅に他ならない。それが、今、私の手の中にあると思うと冷汗が止まらない。
でも、
「――私は」
――そう。私は。
「――あなたと、契約する」
――決して、諦めない。
私はメダルを強く握りしめる。
――夢があるんだ。
首にメダルをかける。
――みんなに《きれいなもの》を《うつくしいもの》を、あの感動を。
前にいる少年を見据えて。
――あの気持ちをみんなに
「教えて下さい! あなたの名前を!」
――そこには、タマーラも一緒でいなきゃダメなんだ。
「…………ふははは。アーハハハハハハハハハハハハハハハハハ!! 素敵だよアンナ・パヴロワ! 嗚呼。その意志に溢れた瞳、言わなっくても伝わってくる友への思い!
そうでなくっちゃいけないよ人間は、人は、君たちは! ペルクナスが愛してやまない輝きたちよ!
嗚呼、それじゃ僕も君の意志に、思いに、輝きに応えなければね」
少年は歓喜していた。両腕を大きく広げ、声高らかに謳う。会いたくって、遭いたっくて、逢いたっくてたまらない相手にやっと会えた悦びに打ち震えている。
「さあ。アンナ・パヴロワ! 今の君なら僕の名前を思い出せるはずだ!」
――思い出す。そう。このメダルを首にかけた瞬間思い出す。私は以前にも彼に会ったことがある。名前も聞いたことがある。それを今、
「――――ユーリー・ハリトン!」
私は叫ぶ、彼の名前を。
「我が名はユーリー・ハリトン!」
そして、もう一つ、思い浮かんだ名を叫ぶ。
「
「君の声は聞き届けた! 今、この日、この場所で、契約は結ばれた! これより我は永久に君の傍にいよう! 永遠に君を害するすべてを薙ぎ払う!」
刹那、胸にあるメダルが生きているかのように鳴動する。胸にあるメダルが熱くなる。持ち主を焼き尽くさんばかり熱くなる。
「さあ、哀れで醜い化け物よ。終焉の時刻だ」
《黄衣の王》が左手を前に突き出す。
「灼えいる暁に想わしめよ
我等なにをなすべきか
この蒼き星が滅びて
全てを見遥かしうる時に」
その声はあの小さな体から発せられたとは思えないほど、重く、暗い声だ。
――外套の一部が切り離れた。
――それは初め生物のようだったそれが、
――今は鉱物のような質感をしている。
《黄衣の王》が左手を上にあげる。
――外套の欠片が高く、高く、高く上がる。
――上がったそれは熱を灯す。
――それは周りの風景を、空間を捻じ曲げるほど熱を発している。
それは、かつて人々が覆い隠したもの。
それは、かつて人々が仰ぎ見たもの。
それは、人々が遠く、忘れ去ったもの。
「機関の御業より生み出された幻想なるモノよ。
見えるか、これは機関の御業とは違う、
機関とは異なる科学の闇より生まれ出る
黄金の目が訴える。あれは、決して太陽ではない。
黄金の目が訴える。あれは、もっと禍々しいもの。
黄金の目が訴える。あれは、すべて無に帰す《炎》だ。
「これぞ新たな科学の黎明。
これぞ新たな力の夜明け。
これぞすべてを凌駕する《炎》」
欠片がどんどん小さくなっていくのに反比例してどんどん熱量は上がっていく。
臨界の時は近い。夜明けの時は刻一刻と迫る。
そして、ついに、
「さあ、我が、破壊の風で
王が左手を握りしめた。
その直前に王の外套が私たちを包み込む。
――――瞬間――――
――――すべての音が――――
――――すべての風景が――――
――――白く、染まった――――
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
再び私が音と視界を取り戻した時、私たちがいたのは元いた大通りではなく、あの赫い女性に会ったところだった。
私は腕の中にタマーラがいるのを確認して一安心する。
そして、私は周りを確認する。ユーリーさんはすぐに見つかり近くには、
怪物のいたであろう場所に
「大丈夫だったかい。かわいい雪ちゃん《スニェーク》」
「ユーリーさん」
ユーリーさんが私の頭を優しく撫でてくれる。それは、まるで愛玩動物を愛でるように。
「もう大丈夫だからね」
「……大丈夫」
「そうだよ。安心していいんだよ」
――そう言われた瞬間、こわばっていたのか体の力が抜けていくのと同時に意識が急に遠のいていく。
「おっと」
私はユーリーさんに抱き留められる。いつもなら慌てて離れるところだけど、そんな力が出ない。
「いいよ――はゆっ――休み。大丈夫、君とその友――責任を持って――」
もう私には彼がなんと言っているか聞こえず、そのまま意識を手放した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「くっそ! くっそ! なんでだ! なんであの瞬間に! あの場所に! あの男がいるんだ!」
誰かが憤っている。
赫いドレス身に纏ったきれいな女性だ。
大きな赫い傘と深めの帽子で顔隠した女性だ。
しかし、その女性は壁を殴りつけ、罵倒し、自身の手が真っ赤に染まっても気に止めさえいない。ついには骨さえむき出しなっても気に止めない。
「はぁはぁはぁはぁ。私は完璧だった。日時も、場所も何もかもだ。それなのに……」
肩で息をしているのに、あれだけ罵倒し、荒れ狂ったの気が収まらない。
「なぜ……このことを知っているの一部の者だけだ。奴らが裏切るはずはない。だとしたら……だとしたら……」
女性は思案する。親指の爪を噛み砕き、さらに手が血で汚れるの気にかげず。そして、思い至る。
「そうか、そうかそうかそうかそうかそうかそうかそうかそうかそうかそうかそうか! 貴様の仕業か!
赫き女性は吠える! それを見ている道化師を嗤わせているとも知らず。それを見ている道化師を愉しませているのも知らず。
初テンプレ戦闘。うん。テンプレ戦闘になっていましたよね? 実際、連載前か考えて、書いている最中も考えながら書いたから、出来がどうか自分では判断つかないんですよね。うん。まあ、頑張ったと思います。
そして、あと一話で第一章終了の予定。長かった。この時点で時間かけすぎて自分に絶望。
兎に角、これで少し、一息つきたいと思います。
では、親愛なるハーメルン読者の皆様方良き青空を。
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1-7
逃げる。逃げる。逃げる。
私は、私たちは、逃げる。
追い掛けてくる怪物を背に逃げる。
どんなに角を曲がっても、複雑な路地を走っても。
すぐ背後に怪物の息遣いが聞こえる。
そして、ついに、怪物の爪が、牙が私たちを捉える。
タマーラが私を突き飛ばした。その時のタマーラは目に涙を溜めた笑顔でこう言っていた。
『ごめんね』
たまらず私はタマーラに何か言おうとした。しかし、その声を届けることはできず。
タマーラが怪物によって引き裂かれた。タマーラだった顔も、髪も、四肢も、内臓も、すべてをまき散らして、四散させる。
私は涙した、私は叫んだ、私は縋りついた。もう瞬きも、呼吸もしない、物言わぬタマーラの顔に。
私は抱きしめる。もう、どうにもならないほどに冷たくなったタマーラを。
「お久しぶり。初めまして
そんな私の前に声がかけられる。話す声は、仮面の男だ、薔薇の華の。異形の男だ、黒い僧衣の。周囲を満たす黒よりも尚、色濃い《霧》だ、《闇》だ。否、既にそれは《混沌》だ。
「
悲嘆にくれる私に彼の言葉は届かない。それでも、彼は話し続ける。まるで、初めから私のことは眼中にないように。
「でもね、いずれ、来るかもしれない未来だよ。
だからね。そんな君に私からプレゼントだよ」
仮面の彼は私が抱えるタマーラの顔を蹴り飛ばすと、私を押し倒し胸に手を当てる。
そして、その手が、私に埋没する。
私の体が、私の中が、弄られていく。
――苦しい、辛い、熱い、痛い。
あからさまに、苦しんでいるのわかりきっているはずの彼は、そんな私におかまいなくかき混ぜ続ける。五分か、一時間か、数日か、時間的感覚がわからないくらいの苦しみが、いつの間に消えていた。
「終わったよMsアンナ。ああ安心してくれ、これは、いずれ、君の助けになるだろう。
「無事にいられれば」
「無事だって─────ふっ、フハハハハハハハ! フフフフハハハハハハハハハハハハ!! フッハハハハハハハハハハハハハハ!!!」
「無事でいられるわけないだろ! 君はあの気狂いの王と契約したんだからな!」
「ああ、じゃあねMsアンナ。良き青空を」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ここはサンクトペテルブルクにあるであろう地下室。
でも本当にあるかどうかもわからない地下室。
一般人は決してたどり着けない地下室。
そこはとても深く、暗く、黒い場所。
階段も、扉も、天窓も、照明さえもないこの場所において、その中心は明かりがともっている。
否、これは明かりなのか。
その中心は赤かった。紅かった。朱かった。
しかし、そこに、赫き主はおらず、三人の男女がいる。三人の男女が円卓を囲んでいる。
「では同志諸君、緊急招集に応じてくれたことに礼を言う」
冷たく、鋭く、女性にしては低い声が、場に響く。
赫いドレス身に纏ったきれいな女性だ。
大きな赫い傘と深めの帽子で顔隠した女性だ。
「世辞はいい同志トロツキー、用件だけ聞きたい」
先の冷たく、鋭く、低い声とは違う、鉄をも上回る鋼鉄の強度を持って。
重たく、硬く、鉄の軋むような声の男。鋼鉄の男。
真紅のスーツに身を包んだ男。色素の薄い灰色の髪に青い左瞳と、猫のような
トロツキーと言われた赫い女は、表情も、瞳も揺るぎもしない。しかし、そのわずか二言のやり取りだけでその場の重圧が何倍にも上がった。仮にその重圧に物理的な力があるのなら、
しかし、
「同志スターリン、貴方のその実直なところは、貴方の美徳ではありますがもう少し言いようがあるのでは?
同志トロツキーも、ここは冷静に、貴女が我らに緊急招集をかけるくらいだから余程のことがあるのでしょう。早速お話お願いします」
両者とは違う、静かに、深く、深き海の声の。光さえ通さず、届かず、屈折するほど黒のような青いスーツを纏う細身で長身男。
その男は両者の作り出す重圧を意に介していない、それどころか両者に意見までする。
「成る程、それは善処しよう同志ジェルジンスキー」
赫い女は二人を睥睨し、重たい口を開く。
「では、先日実験中であった被験体番号六番が脱走、サンクトペテルブルク市街で近くにいた民間人を襲うも……
「同志トロツキー、それはどういうことだ」
「――――理想には遠く及ばないが、多少の言語理解ができ、数多の拘束、防壁を突破する戦闘力。このまま行けば量産の目処がつくはずの。アカデミーの軍事機関学の施設に隔離していた被験体だ。だが突然暴走し研究員の制止も停止信号も受け付けず、力任せの脱走だ。所詮は獣どもを掛け合せ、人の脳の一部を移植しただけのキメラにすぎないがな。無論顧問のアレクセイには漏れていない」
アレクセイ。アレクセイ・ニコラエヴィッチ・クロパトキン。退役軍人の家生まれの生粋の軍人。ここでは軍事機関学という
「そうではない。なるほど厳重であろうアカデミー施設からの脱走、多少の言語理解、進捗はいいようだ。が、私の言いたいのそこではない。
鋼鉄の男は赫い女を見る。その眼光はさしずめ銃口、否、戦艦の主砲といっても過言ではない。
その視線を受ける赫い女はなにも言わない、何か思案している。言うべきか、言わざるべきか、目を閉じ、顔の前で手を組み合わせている。
鋼鉄の男はいつまでも口を開かない赫い女から視線を外し、隣の男に問いかける。
「同志ジェルジンスキー、君のところに何か情報は入っていないか?」
「私の所には特に。しかし、わざわざチェルノブイリ
チェルノブイリ複合機関は元々、それらの外部勢力の介入を防ぐための物。ただの
それと被害の方ですが、同志トロツキーが言わないようなので言わせてもらいます。
「数式領域だと――」
今まで何事にも動じなかった鋼鉄の男が、いま、始めて動揺している。
それほどまでの情報、それほどまでの衝撃。
「それは、誰が展開したものだ?」
「そこまでは、しかし、黄衣の王ではないでしょう。彼なら実験体が被害者に接触する前に行動を起こすでしょうし……これは未確認の、確証のない報告ですか、
「……黒い道化師」
鋼鉄の男が呟く、先程よりも重く、硬く、鉄が軋むように呟く。
彼は知らず拳を強く握る。いま、彼の内に渦巻く感情は憤怒か、怨嗟か、二人には伺い知れないが、鋼鉄の男を揺らがせるには十分なのだろう。
しかし、その動揺もすぐに消え、いつも通りの彼に戻っていた。
「……それで、奴が介入しているとして、その目的は?」
「それこそ私にはわかりません。少なくとも今までの経緯から判断するに我々に有益な行動はとらないでしょう」
「同志トロツキー、あなたは奴について感知はしていなかったのか? なぜ直ぐに報告しなかったのか?
もしや――」
ここに赫い女は目を見開き、先まで重く閉じていた口を開く。
「誤解無きよう言っておくが、私が黒い道化師とは関係ない」
「証拠はあるのか?」
「そんなものはない。あえて言うなら閣下への忠誠が証拠だ」
「そんなものは証拠にならない。その身の潔白が証明ができないなら――」
「スターリン――」
再び始まる両者の沈黙、いま、何らかの切っ掛けさえあれば、すぐさま開戦の号令が鳴る。共に譲らず、共に引かず、引き金に指がかかるその時。
「そこまでにして下さい。同志スターリン、同志トロツキー」
両者が共に止まる。このまま数秒後には戦端の火蓋が切られるその時、両者を制止させたのは深き男だ。
彼は両者に目配りをし、矛を納めるよう促す。そして、両者共に矛を納める。
「同志スターリン、貴方が疑わしい者を処断しようと言うのはわかるが、今はまだ確証はない、それに同志トロツキーは優秀だ。私達が同志トロツキーと同じ事を同じ期間にしようとしても無理だろう。それほどまでに得難い方だ。
同志トロツキーも、貴女については私が調査しましょう。やましいことが無いのなら構いませんよね。同志トロツキー」
「――好きにしろ。今日の用件は以上だ。失礼する」
赫い女はそう言うと席を立ち、そのまま闇の中に消えていった。
「――すまなかったな同志ジェルジンスキー」
赫い女が去ったあと、鋼鉄の男が、深き男に謝罪をする。先までと違い、鉄が軋むようではあるが幾分か柔らかい声で話す。正確に、予め用意していたかのように。
「いえ、私はなにも。同志スターリンも
あと、
『ブラヴァツキー夫人、あと数年したら私は極東に渡って主の教えを伝道しに行こうと思います。もしよろしければその伝道を手伝ってもらいたい』とのことです」
「わかりました。しかと我が親友に伝えましょう」
「よろしくお願いいたします。では」
「ああ、待ってください」
立ち去ろうとした深き男を呼び止める。立ち止まる深き男、鋼鉄の男がこのように呼び止めるのは珍しい。故に、深き男は不謹慎ながらも、鋼鉄の男からどんな言葉が出るか少々楽しみに待つ。
だか、
「同志トロツキーは即差にいなくなってしまったから伝え損なってしまったが、一つ報告があります。実は当分の間私はサンクトペテルブルクに来られません」
「それはなぜですか?」
だか、彼から放たれた言葉が、余りにも慮外の言葉で、深き男は純粋な疑問を問いかける。
「貴方も言っていたがチェルノブイリは所詮は実験機、その性能にムラがあり、モスクワの方は効果がいまいちだ。そのため最近結社のエージェントが確認された。
故に私は当分はモスクワに滞在、奴等の監視及び粛清に専念する」
「それは失態を」
「いえ、同志ジェルジンスキーがこの帝国全土に監視の目を光らしているのは重々承知している。たまたまその穴を私が見つけただけのこと。
同志ジェルジンスキー、閣下とサンクトペテルブルクは任せましたよ」
「わかりました。御武運を。同志スターリン」
そう言うと深き男は去っていった。鋼鉄の男が抜けた穴をどう補填するかを検討しながら。
深き男を見送った鋼鉄の男は虚空に問いかける。
「それで返事はどうする。モロトシヴィリ。モロトシュティン?」
「────コーバ。我が親友。答えは決まっています」
鋼鉄の男の背後に一人の女性が現れる。金髪に碧眼の、赤い服に身を包む美しい女が静かに。
「そうか。では、丁寧に返事をしておくのだぞ。
それで、モロトシヴィリ。モロトシュティン。君はトロツキーをどう思う?」
「彼女は優秀だ。今は我々に必要不可欠な存在だ。しかし」
「しかし、なんだ」
「しかし、いずれは我々の障害になる」
「なるほど。なればどうする」
「今は厳重に監視を、時が来れば」
「――ではその時は任せるモロトシヴィリ。モロトシュティン。
そうだな。その時はチェーカーの小僧どもに任せるか。試験運用を兼ねて」
「了解した、コーバ。我が親友」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
窓の外から小鳥の囀りが聞こえる。故郷よりは少ないけど、けれども確かに聞こえる小鳥囀りが。
――小鳥の囀り……ここは……
「――!!」
私は跳ね起きる。いつのまにか私は自室のベッドで寝ていた。慌てて室内を見回す。
そして、私のとなりに、誰かいる。
タマーラが、タマーラ・カルサヴィナがそこにいた。
大好きなタマーラが静かに寝息をたてている。
大切なタマーラの温かい手が私の手を握っていた。
――ああ、タマーラ。アレは夢だったのね。
私は安堵する。大好きなタマーラが息をしている。大切なタマーラの体温を感じる。アレは悪い夢だったと思った。
けれども違った、私の手を離し、寝返りをうつタマーラの額にガーゼが貼ってあった。それで私は気づいた。いや、認識した。アレは夢ではなかった。タマーラが死んだのは夢でも、怪物に追い掛けられたのは夢ではなかった。
そこまで思った瞬間、私に今まで感じたことのないほどの吐き気が襲ってきた。
私は急いでお手洗いに入り、嘔吐をした。内臓すべてが吐き出されたと思うくらい、激しく嘔吐をした。五分か十分かわからない、もっと長かったかもしれないし、もっと短かったかもしれない。少なくとも吐くだけ吐いたあと、落ち着くのにも時間をかけたのは確かだ。
私は落ち着いてから、自分が今どんな状態かに気づいた。上着のしたには下着しか穿いておらず、しかも寝汗か、それとも嘔吐していたときにかいた汗かわからないが上着と下着が肌にベットリと張り付いて気持ち悪い。
シャワーを浴びたいと思い立ち上がると、かごの上に
三十分は浴びただろうか、しっかりと汗を洗い流し、乱れた髪を直し、身だしなみを整える。
結果、私がタマーラの元に戻れたのは優に一時間は経過していたただろう。
それから始めて、彼に気づいた。
「
彼、ユーリー。ユーリー・ハリトンがいることに。
あと一話で終わると言ったがアレは嘘だ! いや、本当は終わらそうと思ったのですがね。長くなりそうなのでここで一旦止めておこうと、
うん? 雷電王閣下、なぜここに? ってなぜ両手から紫電を、ちょっと! まっ!
読者の皆様良き――青空を――
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1-8
照明に照らされる。舞台が照らされる。劇場が照らされる。
黄色を基調とした舞台には扉はない。ここは出ることも、入ることも出来ない。
何者も見たことない程の大きな劇場。誰も見たことない意匠の壁と観客席。如何な人も見たことのない舞台装置。
見たことない観客席、壁、舞台、各所に施された
人を嘲笑うのとも違う感情が込められたシンボル。人も英知や経験を遠く高みから見下ろされている感覚に囚われる。
ならばこの舞台は何の為の舞台か。
ここはたった一つの演目の為の舞台。ここはたった一つの戯曲の為の舞台。ここはたった一つの狂気に彩られた舞台。
その劇場には誰もいない。観客も、楽団も、役者も、裏方も、誰もいない。
あるのは狂気だけ。一人の王が望み、一人の王が見て、一人の王が嗤う。
普段ならば、一人の劇場だ。しかし、
「――人の劇場を乗っ取るとは趣味が悪いぞ」
そう、いま、この劇場の主は黄衣の王ではない、いま、この劇場の主は――
「アハハハハハ、そう言わないでもらいたいな気狂いの王。ただ一人、ただ一つの戯曲に
話す声は、仮面の男だ、薔薇の華の。異形の男だ、黒い僧衣の。周囲を満たす黒よりも尚、色濃い《霧》だ、《闇》だ。否、既にそれは《混沌》だ。
「なんの用だ
「そう邪険しないでほしいな黄衣の王、今日は君を
「寿ぎに来ただと――」
ユーリーは黒い道化師の言葉に訝しむ、この男が他人に祝辞を贈るなど決してあり得ない。この男にそのような感情があるはずがない。
「祝福せよ! 祝福せよ!
ああ、ああ、素晴らしきかな!
盲目の生け贄が今ここに契約を結んだ!
狂気にその身を染めた王と結んだ!
後に訪れる
「だまれ」
「
契約の時が、終末の時が、
日本狼たちと同じ末路が」
「だまれ――」
「しかし、しかし、
生贄よりも盲目なる王よ。
あなたはまだわからないのか。
今回も、いや、以前も、これからも、
あなたに訪れる結末は――」
「――だまれ!!」
着古した黄色とも緑ともとれる外套が、触手のようにうねりながら黒い道化師を拘束、そのまま力任せに圧殺する。されるはずだった。
「あなたに訪れる結末は変わらない。
あなたがどれほど人を愛そうとも、
あなたがどれほど強く握りしめようとも、
あなたの手から零れ落ちていく、
何も残らない」
外套が握りしめた場所に黒い道化師はおらず、ただ彼の声は劇場に響き渡る。誰もいない、ただ一人の王の劇場に。
ユーリーは劇場を見渡す、たしかに感触はあった。たしかに仕留めたハスだった。だがそこには、誰もいない。まるで、彼の
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
私がシャワーを浴びて、汗を流し、気が落ち着いた時、始めて彼に気づいた。
「
部屋の備え付きの椅子に足を組み坐している彼、着古した黄色とも緑ともとれる外套をし、深くフードを被っている少年。ユーリー。ユーリー・ハリトンがいることに。
「ユーリーさん――」
「ああ、今回はちゃんと僕の名前を覚えてくれているんだね。安心したよ」
私が彼のことを覚えているか不安だったようで、ほっと胸をなでおしていた。
――でも、どこか、それ以外の何かが、彼の顔に浮かんだ気がする。
私は彼の何かを見落とした、そう思えてしまう。
「――あの、ユーリーさん」
「ああ、君は聞きたいことが山ほどあるんだろ。わかってる。僕が答えれる限り答えよう」
「……全部では、ないんですね」
「ああ、全部ではない。それは君のためにならない。何よりも僕が教えたくないから、ごめんね」
ユーリーさんは軽く頭を下げて謝罪してくれる。しかし、申し訳なさそうな声色がするも、その芯には何か鬼気迫るものがある。
必ず成し遂げなければならないものが、決して
「――わかりました。では、大まかでいいので教えて下さい。
まず、タマーラは大丈夫なんでしょうか? よく考えればタマーラの寝起きはいい方なのに、その後慌ててお手洗いに駆け込んだ時も大きな音を立てていたのに……あの、あー……ん……今思えば急だったとはいえ、扉を閉め忘れていた私が悪いんですけど、……嘔…………粗相をしていた時に起きず、その後三十分はシャワーを浴びていたのにタマーラは起きない。もしかして、どこか悪いところを打ったんじゃないですか?」
そう、冷静になってみればタマーラは未だに起きないのはおかしい。気付き始めると不安が押し寄せてくる。もしかして打ち所が悪かったのではないか? もしかして一生このまま目を覚まさないのではない? 考え出したら止まらない、留まらない、嫌な想像で心が押し潰れそうだ。
「ああ、彼女は大丈夫だよ。額に、といってもほぼ頭だが小さな裂傷があるくらいだ。適切に治療すれば痕は残らないよ。それに起きないのは僕がメスメルで少し深めに眠ってもらっているだけだからね」
「そうですか――よかった。
でも、なんでタマーラにメスメルを? 貴方の言では安静にしなければならないほど重症という訳ではないのでしょ?」
「簡単な話さ、これから君がする質問の答えには他の人に聞かせたくないし、聞いてほしくないモノばかりだからだよ」
ユーリーさんが組んでいた足をほどき、少々前のめりになり、右腕の肘を足の上にのせ掌で顎を支える。そして空いた左手を私に差し出すように伸ばし、
「――さあ、何が聞きたいのかな小鳥ちゃん。先も言った通り、答えられることには限りはあるが、誠心誠意、嘘偽りなく答えよう」
私は彼の、ユーリーさんの芝居がかった仕草に少々気後れをしてしまう、彼は確かに誠心誠意答えてくるかもしれない、しかし、答えを聞いたら戻れなくなってしまう、今までの生活とは乖離してしまう、そう思えて仕方がない。
でも、それでも、今ここで中途半端に目を背けては危険だと思う。だから、私は彼に問う。右手で胸にある
「私達を襲ったのは何なのですか?」
「ああ、君達を襲ったのはわかりやすく言うとキメラ、人の手により作られた合成獣だ。そして、そのキメラを作ったのは赫い者達だ」
「赫い者達……今世間を騒がせている一団のことですか?」
その話は前に聞いたことがある。しかし、以前の私は彼の言葉が靄がかかったように上手く聞き取れず、記憶しておくことも出来なかった。
だか、あの印を、古風な金の象眼細工が施された黒い縞瑪瑙のメダルを手にし、彼のユーリーの名と共に契約を結んだ時。彼との会話の内容が鮮明に思い出せた。
「ああ、彼等で間違いないよ。でも、その事は他言無用だ。僕があえて君に教えるのは警戒心を持ってほしいからだ。彼等は危険な集団だ。特に黒い雪が降る日は気を付けてほしい。僕自身もいつ黒い雪が降るかはわからないのが心苦しい限りだが――」
彼は歯ぎしりをして苦虫を噛み潰したような顔をして、私から顔を背けた。彼にとってかなり悔しいのか不機嫌さを隠しもしない。目を険しくして左手の握りこぶしから血を滴らせるほど力を込めている。
彼に直接睨まれたわけではないのに、体か震える。冷や汗が止まらない。それほどまでに彼から放たれるモノに私は萎縮してしまう。
――何か言わないと――
「――あ、あの! ユーリーさん手から血が」
彼は私の声を聞いて血に染まった自分の左手と床見る、私と左手を交互に一回見てから左手を袖に隠した。
「ああ、怯えさせてすまないねアンナ・パヴロワ。もう大丈夫だからね。質問を再開するといいよ」
そして、私に向け申し訳なさそうな顔をする。私は彼が、ユーリーさんが本当に私に気を使っている。それがわかると少し、この状況を変えたいと思った。
このままの気持ちでいたら、たぶん話は進みそうにないし、話が頭に入るかわからない。だから、
――私はもう少し彼との距離を縮めたい、これからのことをしっかり話したいから。
「――それで、その……私のことは『アンナ』っと呼んでください。その方が馴れているので」
すると、場を支配していた緊張感が霧散した。それどころかユーリーさんはさっきとは違い照れるような、恥ずかしいような、本当にさっきまでとは別人のような顔をして視線を私から逸らした。その反応はまるで、初めて異性と社交ダンスを踊る少年少女のようで微笑ましく見えてる。
「――――わかった、これからはアンナと呼ばせてもらうよ。それで、他に質問はあるかい?」
なにやら、無理矢理話を戻そうと若干早口になった。今の彼は見た目相応の、背丈そのままのかわいい少年に見えてきてしまう。昨日の、あの時の彼が、怪物を退けた時の彼は、本当に彼なのか疑問に思えてきてしまう程に。
――本当の彼は、本来の彼は、いったいどちらなのだろうか? 私はどっちの彼を信じればいいの?
――分からない。判らない。わからない。でも、いまは、
「――
度々彼の口から出てくる名前、その名前は聞き覚えがある。そう、
――でも、彼が、ユーリーさんが警戒するよう人とは思えない、たぶん同名の別人だと思う。
「君の想像している人物で間違いないよ。黒い道化師、ラスプーチン。世間と宮廷はアレを随分ともて囃すがアレは皆が思っているような人間ではない、祈祷師とか《神の人》とか皮肉にもならない。僕から言えば怪僧だ。そもそも僕でさえアレが何を考えているか検討すらつかない。
――でもわかることがある。アレは決して人が近づいていいものじゃない。だから、もしも、ラスプーチンの名を使う者に遭ったら即座に逃げるんだ。僕もできる限りのことはするが……正直、アレを倒せる気がしない。
無論、単純な力なら僕に分はあるだろう。――けれども、アレはそれだけじゃ駄目だ――」
彼がそこまで言う相手、黒い道化師、正直どんな人物なのか想像もつかない。世間一般では褒め称える話題しか聞こえないし、悪いうわさもあまり聞かない。せいぜい皇帝お抱えの医者たちが不平を漏らしているとかその程度だ。
――何者なんだろう黒い道化師――
「ああ、うん。とりあえずこの話は以上だね。時間は有限だからね、他には聞きたいことあるかい?」
「いえ、特には」
そう、大まかに聞きたいことは聞いた。彼について聞きたいことはあるが今はいい、本当の彼がどうであれ信用できる。なんの根拠もないけど、そう思える。だから、今はいい。また後日でいい。
しかし、彼そうでもないらしい。
「――――――――――――――」
「……………………………………」
「――――――――――――――」
「……………………………………」
「はあ――」
いきなり彼は、ユーリーさんは大きなため息をついた。ユーリーさんは私を呆れた顔をして見つめている。
「え――と、どうしたんですかユーリーさん?」
私は聞く。なぜ、ユーリーさんが大きなため息をついたのか。なぜ、私を少し、呆れたような顔をして見つめてくるのか。私はそんな変な事や顔をしただろうか。
「いや、これは、なんともねえ。いや、いい。僕から言おう」
ユーリーさんは一人で勝手に話を進めると私に、真剣な顔で正面に向き直る。
「アンナ・パヴロワ。先程までの君の体調不良の原因は僕にある」
「―――――――え?」
――なに? どういうこと? もしかしてユーリーさんが私に毒でも盛ったというの?
私はユーリーさんの突然の告白に混乱する。正直、あれほどの嘔吐は今まで経験したことはなかったが、それでも所詮は嘔吐、たまたま食中毒になった程度しか思い浮かばなかった。それがユーリーさんの手によるモノなんて思いもしない。
「アンナ、なにか勘違いしているようだが、僕は別に君に毒を盛ったりはしないよ、王侯貴族でもあるましに。
それにねアンナ、思い出してほしい。僕との契約をした時のことを。僕が君に言ったことを」
契約の時、ユーリーさんは何を言っていたか。そう、ユーリーさんはこう言っていた。
『僕と契約するということはね。死ぬよりも
たしか、そう言っていた。つまり、先程までの体調不良はすべて――
「思い出したようだね。そうだよ。これが僕との契約の代償さ。これからもっと症状が酷くなる、それがどういった症状になるかは僕もわからない。でもね、例外なく、契約者は最後は――」
「いいです! ――わかっています」
私はユーリーさんの言葉を遮った。そう、彼は契約の時もう一つの選択肢も提示ていた。
『――それは、あの怪物に友人もろとも喰われること』
彼がそこまで言うほどなのだから、これはまだ序の口なのだろう。
それでも、
――それでも、
「あんなところで死にたくなかったし、タマーラにはもっと死んでほしくなかった――だから、これで良いんです」
私は胸に、
「――――わかった。すまない。君の覚悟に水を差すような言動をして
最後にユーリーさんがなにか呟いた。あまりに小さい声で聞き取れなかった。
「あの、ユーリーさん今な「さて、そろそろ君の大事な友人を起こすとしようか」」
私の声を遮ってタマーラの頭を優しく撫でて起こすユーリーさん。
「う。うーーーん。あーーーアンナーーどこーーー」
撫で初めて十秒も経たないうちにタマーラがむくりと上半身を起き上がらして部屋を見渡す。余程いい夢を見ていたのか、文字通り夢心地な声を上げながら再度見渡すタマーラ。
――こんなタマーラを見るのは初めて。いつも目覚ましが鳴ると同時に、二人一緒に起きるから私がタマーラの寝顔を見る機会はないもの。
――タマーラがたまに私の部屋に侵入して私の寝顔を覗くことはあるのにね。
「うーーーん。ちょっと深くやりすぎたかな? でも、あと少しもすればしっかり覚醒するだろうから問題ないと思うよ」
私にはユーリーの声は届いていなかった。いま私は微笑ましくって、寝ぼけているタマーラに、普段見ることのできない姿をさらしているタマーラに、いつもならできないようなことしてみたくなった。先日タマーラが私にやったように、私はタマーラの頬をツンツンと指で突っつく。プニプニと柔らかくも指を弾こうとするハリがなんとも癖になりそうだ。
「ツンツン。ツンツン。ツンツン」
――うん。うん。なんか楽しいな。でも、そろそろ起きそうだからやめようかな。名残惜しいけど。
「んーー。んーー? ポテト?」
「は?」
突然のタマーラの
「がじ」
「――――いたーーーーーーーい!!」
私の悲鳴を聞いて完全覚醒したタマーラは私の指から口を離すとすごい勢いで謝られ、消毒と称して再度私の指を咥えるとチュウチュウと五分ほどくすぐるように吸ってきた。くすぐったくって身を捩る私を無視しながら。
後で思えば、アレは私のいたずらに気づいたタマーラの仕返しだったのだろう。
――噛みついたのはたぶん、本当に寝ぼけてたからだ。でも、そのあと状況から私がタマーラに何をしていたか察してあの行動をしたんだろう。
その後、ユーリーさんについての説明でひと悶着があった。でも、今一つ言えるのは――
――もう、休みたい。だれか助けて――
とりあえず第一章終了。長かった。
次回は少し開けてから投稿すると思います。
今回はスゴく難産でした。正直ここ最近で一番クオリティが低いかもしれません。コレが噂に聞くスランプなのか!? まぁスランプするほど長く書いていませんし、ただの実力不足かな。
あと、この作品の登場人物は9割が何かしらの演技をしています。もちろん人間だれしもが自分を演じると言いますが、この作品の場合は自分の本質関わる部分を演じているのです。
黄衣の王も若干悪者ぶっていのも演技です。そうしないといられない理由があるからです。まぁ早速メッキがはがれていますが気にしない。精神は肉体に引きつられると言いますしね。
では親愛なるハーメルン読者の皆様方良き青空を。
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第二章 暖かさのために
2-1
照明に照らされる。舞台が照らされる。劇場が照らされる。
黄色を基調とした舞台には扉はない。ここは出ることも、入ることも出来ない。
何者も見たことない程の大きな劇場。誰も見たことない意匠の壁と観客席。如何な人も見たことのない舞台装置。
見たことない観客席、壁、舞台、各所に施されたシンボル・・・・。疑問符を三つ合わせたようなソレ・・。
人を嘲笑うのとも違う感情が込められたシンボル。人も英知や経験を遠く高みから見下ろされている感覚に囚われる。
ならばこの舞台は何の為の舞台か。
ここはたった一つの演目の為の舞台。ここはたった一つの戯曲の為の舞台。ここはたった一つの狂気に彩られた舞台。
その劇場には誰もいない。観客も、楽団も、役者も、裏方も、誰もいない。
あるのは狂気だけ。一人の王が望み、一人の王が見て、一人の王が嗤う。
「ねぇペルクナス。ねえハヤト。僕はまた間違えるんだろうか。僕はまた過ちを繰り返すんだろうか」
黄衣の王は問う、そこは虚空、聞く者は不在、応えるものも不在、故の黄色の劇場。
「今度こそは、今度こそは、そう願い、思い、長い間繰り返した来た」
これは懺悔か、悔恨か、いや違う。
「ああペルクナス、君は僕を忌避し嫌悪するだろうね。僕は君のようになりたいと、君のようにありたいと行動してきたが、結局のところ結末は一緒、多くの人を助けることはできても、本当に助けたかった人はこの手から滑り落ちる。
ハヤトも僕を恨んでいるだろうね。僕さえいなければ、僕さえ関わらなければ、もっとまともな、もっとましな死に方を出来たかも知れないのだから。特に、ソウジには悪いことをした。本当に………」
これは忸怩だ。慚愧だ。彼は許しを乞うていない。なぜなら、
「――そうだよね。僕は君たちに許してもらう資格はない。だがら、せめて、僕は、救えなかった人の何倍、何十倍、もっと多くの人を救うことを誓うしかない。それ以外に君たちに、みんなに償うことはできないから。
はは、どこまで行っても誰かの真似しかできないね。僕は」
だが、王は気付かぬ。どれだけ己を恥じようとも、どれだけ己の行為を悔いようとも、許しを請わぬとも、真に己を省みても、
それに気づかぬ限り、彼の悲劇は、その連鎖は、どこまでも続く。彼が望まぬ方向へと、どこまでも。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
喧騒が、アカデミーに通う生徒、講師たちの喧騒が大きくなってくる。それが嬉しくって私は頬を緩ませる。あれからそんなに時間は経っていないのに。
私たちがユーリーさんに助けられてから数えて二日、私を取り巻く事情を簡単に教えてもらってから一日。つまり、今日にいたる。昨日はあらかじめユーリーさんが寮監さんに私たち二人がアカデミーを休むことを伝えてもらっていたから、一日暇が出来てタマーラと一緒にゆっくりできた。普段の安息日でも私たちバレエダンサーは練習場で次の公演のための練習をすることが多い。特に公演を控えた時は朝から晩まで練習することが定番だ。もちろん日々の柔軟やバーレッスン(タマーラの部屋には簡易的なバーと折り畳み式の姿見が複数ある)を欠かしてはいない。
しかし、ここで気を付けないといけないのが私たちが休んだ理由だ。私たちは一昨日に暴漢に襲われて、そこに
そうして私はみんなに言えない事を胸に秘め、いつも通りの私を演じる。それがこれからも続くと思うと辛い。
「
後ろから挨拶してきたのはウラジミール先輩だ。そして、私たちは今日は朝から、違う、昨日からずっと手をつないでいる。食事中でさえその手を外すことなく、隣で、しかも利き手とは逆の手で器用に食事をしていた。手を離したのはトイレとバレエの練習の時だけだった。そのことは口外することではないけど、寮の人は知っているから秘密と言うわけでもないけど、でも、ちょっと恥ずかしい。
「おはようウラジミール先輩。ええそうですとも私たちは仲いいですよ。そして、大切なアンナに《悪い虫》が付かないように見張るのも当然ですよ」
悪い虫、それはユーリーさんのことだ。昨日タマーラとの初邂逅でとんでもない自己紹介をして以来、タマーラはユーリーさんに最大限の警戒をしている。
「? 悪い虫? Msアンナ・パヴロワもついに社交界にデビューしたのかな?」
「――アンナにはまだ早いですよ! ただでさえ私がいない隙にあんな男に面識を持ってしまって…………あーーーーあの小僧! 今度会ったらただじゃすまさん」
「……おはようございますウラジミール先輩」
「ああ、おはようMsアンナ・パヴロワ。
ウラジミール先輩が私に小言で話しかけてきた。ウラジミール先輩もあんなタマーラを見るのは初めてだからだ。かく言う私も初めてで、最初は夢ではないかと疑ったくらいだ。
「
私とウラジミール先輩は静かに、なにやら呪詛を呟き始めたタマーラを見る。すると、そんな私たちの視線に気付いたタマーラは襟を正し、話題を変えようとウラジミール先輩に声をかける。
「それでウラジミール先輩あのバ……ゲフン、コンスタンチン先輩はいないんですね」
タマーラの一言で私も気づく、いつもウラジミール先輩と一緒のコンスタンチン先輩がいないことに。
「いやね、Msタマーラ・カルサヴィナ。別に私たちはいつも一緒というわけではない、確かに一緒にいることは多いが大概はコンスタンチン先輩の手伝いだ。それに、いまコンスタンチン先輩は帝都にいない」
「え? それ「それはどういうことですかウラジミール先輩!?」」
ウラジミール先輩に疑問を問いかけようしたらタマーラに先に言われてしまった。というか、タマーラが自分よりも背の高いウラジミール先輩の胸倉をつかんで壁に迫っていた。端から見たらカツアゲに見えてしまいそうなくらい怖い表情をしているからなおさらだ。
「Msタマーラ・カルサヴィナ落ち着て。話すから、話すから」
「ねえタマーラ落ち着いて、ほら周りも見ているし」
当事者たるウラジミール先輩は両掌を自分とタマーラの間にだして落ち着くように説得する。私もタマーラの肩に手を乗せて落ち着くよう促す。そんな私たちの声が届いてタマーラはウラジミール先輩から一歩二歩と引き、深呼吸をして再度ウラジミール先輩に向き直る。
「――それで、ウラジミール先輩。コンスタンチン先輩は今どこにいるんですか?」
「ああ、昨日モスクワに行ったよ」
「なんでですか!?」
タマーラがまたウラジミール先輩をつるし上げようとするのを止めた。なぜかタマーラはコンスタンチン先輩が絡むと沸点というか、感情の振れ幅が極端になるのは不思議だ。
「はぁ。Msタマーラ・カルサヴィナ、最後まで、落ち着いて聞いてくれ。頼むから。
まだ一限目まで時間はあるとはいえ、この調子だったらいつまでたっても話が進まない」
「はい。わかりました。自重します」
ウラジミール先輩は僅かに、ほんの僅かにタマーラをまじまじと観察して安全かどうかを確認してから慎重に口を開く。
「――じゃあ改めて、コンスタンチン先輩はいま飛空艇関連の学会のためにモスクワにいるよ。ほら、この間から飛空艇には門外漢の私をつれては朝早くから研究室に入り浸っていたのはそのためだよ」
「なんだ、そうだったんですね。そうならそうだと早く言ってくださいよ」
ウラジミール先輩はタマーラの言葉に呆れ、右手で顔を覆い左右に振る。
「もういい。兎に角そういうことだからじ「待ってください」――なんだいMsタマーラ・カルサヴィナ」
言うことは言い終えたとして一限目の教室に向かおうとするウラジミール先輩をタマーラが引き止める。タマーラにはまだ聞きたいことがあるようだ。そう、私も一つ聞きたいことが残っている。それは、
「なんで先輩方は私たちに黙っていたんですか? その学会は急に決まったわけではないのでしょ?」
ウラジミール先輩はその事だけは聞いてほしくなかったと、そう言わんばかりに、凄く苦い顔している。その後も腕組をしあっちこっちに目を泳がせて逡巡して、その間ずっとタマーラの鋭い視線にさらされて、うーんうーんと悩んでいると横からその回答が来た。
「コンスタンチン先輩が当日に驚かせようと二人には秘密にしていたんだよ。それでいざ当日に二人は休んでいて肩透かしにあい、わざわざ療養しているだろう後輩たちにいらぬ心配をかけまいと静かにモスクワに旅立ちました。と言ういきさつだよお二人さん」
「シューホフ」
「「シューホフ先輩」」
「おはよう二人とも。あと、僕の事はウラジミールでもいいよ。むしろそう呼んでくれ」
ウラジーミル・シューホフ先輩、気さくで時折私みたいな田舎者にもナンパめいたことをしてくるユニークな人。専攻は構造学と建築学、他にも
「シューホフ、お前いつからいたんだ」
「君がそこの女性に迫られているあたりからだよ。それよりも早く行こう、それなりに時間が迫っているからね」
ウラジーミル・シューホフ先輩が腕時計を私たちに見せる。そう言えば周りの喧騒も随分少なくなっている。このまま遅刻するとまたレフ先生に何されるかわからないからみんな何も言わずに走り出す。
案の定校門の前にはレフ先生がいた。みんなレフ先生とは目を合わそうとせずに通り過ぎようとする。そんなみんなをレフ先生は睥睨している。レフ先生には珍しく、こんなギリギリの登校なのに何も言わずに通すのは本当に珍しい。私はそんな先生が気になってチラリと覗く。
今朝はレフ先生に何かされることはなかったが……そのレフ先生の瞳が、暗い雪のような瞳が、私を見るその瞳が憤怒の炎に燃え盛ってっていた。
私は酷く、全身が凍るような悪寒に襲われた。
一瞬呼吸さえ忘れるほどに。
私はそのまま無呼吸のままレフ先生から出来る限り速く走って教室に向かう。あとになって青い顔をしていることをタマーラに心配されたが、なんでもないと押し通した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ここは帝都サンクトペテルブルクのとある裏路地、ここに大きく歪な獣の影が刻み付けられた裏路地。
そこに一人の男がいる。
血も、目も、服も、思想も、すべてが赫い男。
赫い男は地面に刻み付けられた陰に手で触れ、裏路地全体を見渡す。どんな痕跡も見逃さぬように用心深く。
「ここにおりましたか閣下」
赫い男の背後にもう一人の男が現れる。
静かに、深く、深き海の声の。光さえ通さず、届かず、屈折するほど黒のような青いスーツを纏う細身で長身男。
深き男は赫い男、閣下と呼ぶ男の背後に膝を着き頭を下げる。
「同志ジェルジンスキー。例の件はどうした?」
「は、
そう、モスクワに出来ていた隙は故意に作られたもの、その目的はモスクワに侵入した者たちを泳がせ、その協力者やパイプ役を燻りだし一網打尽にするための作戦。そのため一部の最高幹部にも知らせず、極秘に進めていた。だが秘匿していたばかりに仲間に妨害されると言う誤算が生じた。
「残りの7人はどうした?」
「…………残りの7名は同志スターリンに同行した同志ベリヤの手によって……」
深き男が言いよどむ。彼はその7人の現状を想像しその顔は怒りに染め、今この場にでもその男が居ようものなら即座に殺しているほどの殺意をその身に滾らせている。
「そうか、その7人は子女で、ラヴレンチー・パーヴロヴィチ・ベリヤの辱めうけているのか。それは災難だな。ならば、その苦しみから解放してやらねばならないな」
「――閣下!」
深き男は顔を上げる。その顔は歓喜に、この男が7名の子女を救済しようとしていると、そうしようとしていると思い欣喜雀躍しそうになるの堪える。
しかし、
「ああ、その者たちを我ら管轄のアカデミー
深き男の希望は打ち砕かれる。
「……は? それは、どういうことでしょうか閣下?」
深き男は赫い男に問う、その先は聞くべきではないし、聞いてはならないと理性が訴える。しかし、深き男は理性を叩き伏せて問う。それがどんな不条理でも責任の一端は自分にもあるから。
「以前スターリンから提案された党員の一部の者たちの全身を
「
――――深き男は理解を拒む――――
――――拒むが、それさえ拒絶して叫ぶ――――
「あなたは何を言っているんですか!!!! そんなのできるわけないじゃないですか!!!! 気でも狂ったんですか!!?」
深き男は立ち上がり赫い男に詰め寄る。
「同志ジェルジンスキー。わたしは冷静だよ」
「ならばなぜ!! なぜ!! そのようなことを言うんだ!!?」
深き男は問う。そして、あわよくば止めよとさえする。しかし、しかし、その程度この男は止まらない。
「必要だからだ」
「必要――――だと」
「ああ、必要だ。いくら個が強くともこの国を変えることはできない。それほどにこの国は広大だ。そして、その国のためには数がいる。勿論弱者では務まらない、絶対なる強者でなければならない。そのための機関機械化、
「――そんなこと、神が許されると」
深き男は膝をつき項垂れる。深き男は絶望に陥っている。しかし、赫い男はそんなことに頓着しない。
「神など関係ない、これはわたしの意志だ。
それとわたし一時期帝都を離れる。わたしとスターリンがいないとなれば
立ち去る赫い男に深き男は目もくれない。いま、彼にはそんなこと気にする余裕のないくらい、深く、深い絶望に沈んでいる。
遅くなりました。え?遅くなった理由?実は……章タイトルが思いつかなかったからです!いやーそのあたり何も考えずに始めましたからね。うん。話の大まかな流れや登場人物は決めていたのにね。つまり、
では親愛なるハーメルン読者の皆様良き青空を。
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2-2
轟々と吹き荒れる極寒の大地。燎原の火のごとく大地を埋め尽くす雪。照らされることのない大地。僕はロシア機関帝国のクルスク地方に生まれた。一世紀前ならマイナス10°を下回ることはなかったと老人たちは言う。しかし、今は違う。世界を覆い尽くした灰色の空は太陽だけでなく暖かさまで人々から奪った。
だから、ここでは生きると言うことは戦いだ。このロシアが機関帝国と号するようになってからそう時間は経っておらず、国の隅々まで機関の恩恵を受けることができず、機関の恩恵を受けるのは機関都市とその近隣だけだ。自分のところのような田舎はそもそもそんな望みを持つことさえ無駄だ。だからみんな本格的な寒さが来る前に薪をできるだけ集めて越冬する。
ああ、寒い。ああ、暗い。ああ、辛い。なぜこのような生を送らなければならない。この灰色の世界はなぜこんなに人を、動物を、植物を拒絶する。そんな世界だから毎年冬に凍死する人はいる。次は誰が死ぬのか、そこには赤子も老人も、男も女もない。ただ冷たくなるだけだ。
だから俺はこの国を変える。誰も凍えることなく、誰も飢えることなく、暖かさを享受することのできる国に。その為になんだってやる。そうさ、その為に俺はなんだって――
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
今朝のサンクトペテルブルクの空は晴れだ。いつもより明るく、暖かい。もうすぐ寒い季節の終わりが見えてきそうだ。
コンスタンチン先輩がモスクワに行ってから一週間が経った。特に変わったこともなく時間が過ぎていく。いつものようにアカデミーに行き、授業を終えたらバレエのレッスン。
あの日以来もう来ないと思っていた、そんな繰り返しが、そんな当たり前が、今は美しく、眩しく、尊い。
一部を除いて、
「――ねぇタマーラ。もうアカデミーは目の前なんだし、流石にそろそろ手を離しても――」
「ダメよアンナ。あの男がいつ、どこで、あなたを狙っているかわからないんだから」
タマーラは私が出かける際に必ず手をつないで同行すること以外は。
あの日以来、ユーリーさんとタマーラがあって以来、本当に四六時中手を繋いでいる。正直私は二日三日でこの厳戒態勢が終わると思っていたが見込みが甘かった。それほどまでタマーラの中でユーリーさんは警戒対象なのだろう、周りには笑顔で挨拶しているのに周囲の警戒を一瞬たりとも解いていない。朝も周りのことを警戒してか、普段なら早起きしてアカデミーの部室で練習するのに、今朝もタマーラの自室で一緒に基礎練習をした。練習が終わった後もタマーラは何かブツブツ言っていた。全部は聞こえなかったが音楽がどうのこうのというくたいしか拾えなかった。
そして今現在も警戒は途切れず、それでいて勉強やバレエの練習は精細を欠いておらず、周りには疲れた顔を見せず笑顔でいる。その二重人格のような姿勢はまるでスパイ小説で出てくるエージェントみたいだ。
その標的たるユーリーさんはこの一週間姿を見ていない、もちろんどこからか見守っているとは思うけど、それでもあれ以来姿を見ないのは少し心配だ。
ユーリーさんは、たぶん、いつもどこかであんな怪物たちと戦っているんだと思う。そう思うと、怖くなる。ユーリーさんはユーリーさんで強いと思うけど、でも、私はユーリーさんたちがいる世界を知らない。あの世間を騒がせた《白い男》でさえ二年前から姿を現さない。それはつまり、彼をもってしても敗れた相手がいるかもしれない世界。そんなモノが自分たちのすぐ近くあると思うと怖くなる。本当に。
私はそんな不安を表に出さないように、出ないようにしつつ、タマーラと今日もアカデミーへ行く。
「
ウラジミール先輩が恭しく頭を下げながら挨拶をしてくれた。優しい微笑みを絶やさず、にこやかに。
「おはようございます。ウラジミール先輩」
「おはようございますウラジミール先輩、この一週間同じ挨拶ご苦労様です」
本当にウラジミール先輩はこの一週間、一言一句違わず同じ挨拶をしている。そして、その挨拶している時のウラジミール先輩は普段私たちが見ないニヤニヤした顔をしている。コンスタンチン先輩がいないから少々羽目を外しているのかもしれない。
「これは失礼、いやなに、この一週間満面の笑みを浮かべながら手を繋ぐMsタマーラと少々恥ずかしそうに頬を紅く染るMsアンナを見たらね」
――普段紳士然としたウラジミール先輩にしては慇懃無礼と取れそうな、とれる態度をとるのは本当に珍しい、なにか心境の変化でもあったのかな? それとも、ストレスでも溜まっているのかな?
「ええそうですとも私たちは仲いいですよ。だから、ウラジミール先輩には悪いですけど私たちの間に入れる隙間なんてないんですよ。ええそうですとも、あの小僧にも入れる隙間なんかないんだから」
タマーラはもう開き直るを通り越して、威張る、いや、威嚇をしている。
そんな私たちをウラジミール先輩は手を顎に添えて見くる。正確には私たちが繋いでいる手を見ている。そこになにか面白いものでもあるようには見えないが、なぜか見ている。
そして、妙に神妙な顔でタマーラに
「――しかし、以前から気になっていたんだが、君にそこまで言わせる男とはいったいどんな奴なんだMsタマーラ・カルサヴィナ? 興味が尽き」
ウラジミール先輩の言葉が途中で止まった。止めたのはタマーラの眼光だ。先程まで演じ、被っていた笑顔と言う仮面を脱ぎ捨て、ただ、思ったことを聞こうとしただけのウラジミール先輩をまるで仇敵のような目で見ている。その威圧感たるやウラジミール先輩どこか周囲の人たちにまで伝わり、みんな一歩引いて固まっている。
その原因を作り出したウラジミール先輩は額に汗を滴ながらもこの空気を打破しようと思考している。しかし、あの秀才のウラジミール先輩をもってしても正解が見つからないのか黙っている。そのまま異様に長かつた五秒をある人が打ち破った。
その人は、
「おはよう。かわいい後輩たちと親愛なる同輩、今日は良い天気だね。最も前世紀を知る人たちからすれば《曇り空》と言うだろうけどね。
それはそうと、なんだねこの空気。妙に剣呑としているがそれはいけない。ああ、大いにいけない。なぜならこれほど綺麗な空のした、こんなにギスギスした雰囲気は繊細なMsアンナ・パブロワの精神衛生上によくない。と言うわけでMsアンナ・パブロワ、速くアカデミーに行こう。そして今度君のバレエを僕一人に見せてほ」
ウラジミール・シューホフ先輩だ。シューホフ先輩は流れる水のように私の手を握っていた手をほどき、ほどかれた手を自分が握りアカデミーに私を連れて行こうと歩き出そうとする。”歩き出そうと”したら、
「待てシューホフ」「待ってくださいシューホフ先輩」
空いている私の手をタマーラが、シューホフ先輩の襟をウラジミール先輩ががつかんで止められた。その際シューホフ先輩は
「おいシューホフ、なにMsアンナ・パブロワを連れて行こうとしているんだ」
「そうよシューホフ先輩、アンナは私と
二人とも私の心配よりも、私を連れて行こうとしたシューホフ先輩の行動を問題視している。シューホフ先輩は単純に私を気遣ってとってくれた行動だと思う。だけど二人には違うように見えたのか、さっきとは違う空気だけど、でも、今度は私が完全に逃げられないようになった。周りはと言うと場の空気の変化に、正確にはタマーラの矛先がシューホフ先輩に向いたので今のうちにとそくさと逃げていった。
――ああ、こんな時にコンスタンチン先輩がいてくれたら……少なくともこんな空気にはならなかったかな?
「いやいや、僕はさっき言った通りMsアンナ・パブロワの精神衛生上よくないから連れ出そうとしたんだが、何か問題でも?」
「問題も何も、その言い方だとまるで私たちがアンナをいじめているみたいじゃないですか」
「そこまでは言いていない、けれども
するとシューホフ先輩は絵本で出てくる王子様みたいに膝を地面に着け私の手の甲に口づけをする。地面に接したズボンの膝部分が煤こけた雪で汚れても気にすることない。その様は以前このアカデミーでは珍しい異文化学習に際に見た合衆国の
周りも動き出していたその動作を止めて、止めて見ている。タマーラとウラジミール先輩も見ている。見ているが、二人ともシューホフ先輩を目を細めて見ている。まるで、何かを確かめているかのように。
――ただ、本当にシューホフ先輩が映画の俳優さんみたいに振る舞う者だから、もっと、合衆国の色々な映画が見たいなと思う。だってにこの国の映画は記録映画ばかりで、少しつまらないから。
「――おいシューホフ、なぜかMsアンナ・パブロワが落ち込みだしたぞ。お前何かしたのか?」
「え、いや、そんなことはしていないつもりなのですが……」
「アンナ、シューホフ先輩に何かされたの?」
私がこの国の映画に関して落ち込んでいるのをみんなが勘違いし始めていた。
「ち、違うよ。ほら、シューホフ先輩がこの前の合衆国の映画の俳優さんみたいに見えて、それでこの国の映画ももう少し、英語でいうところの『エンターテインメント』な物もできないのかな~~って、ちょっと落ち込んだだけで。あ、もしもそうなったら私でも映画に出れるかな。うん。そうなっても恥ずかしくないようにもっと練習しなきゃ。
そうと決まればタマーラ、今から走っていけば五分くらいは練習できるよね?」
「ええ、たしかに急げばそれくらいは練習できるけど」
「じゃあ急ぎましょタマーラ」
――だって、もしそうなったら、みんなに、今よりももっと多くの人にあの《輝き》を《美しいもの》みんなに届けれると思うと、頑張らなきゃって、みんなに伝えたいから。
私は戸惑っているタマーラの手を強く握りしめ走り出す。後ろで、そんな私たちを見て苦笑いしている二人に見送られながら。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ここはロシア帝国のとある場所、そこに一人の男がいる。
「やっと見つけたぞ
血も、目も、服も、思想も、すべてが赫い男。
全てを、この街も、この国も、この大地でさえ赫く染めようとする男がここに。
しかし、次の瞬間、辺りいったを《闇》が覆う。
「おやおや、おやおや。これはこれは《赤鉄》の、いや、《赤錆の男》ではあ」
話す声は、仮面の男だ、薔薇の華の。異形の男だ、黒い僧衣の。周囲を満たす黒よりも尚、色濃い《霧》だ、《闇》だ。否、既にそれは《混沌》だ。
その言葉が途中で切られた。否、潰された。赤鉄の右腕が、赤く、全てを溶解させ、染める右腕にのど元を握り潰ぶされようとしている。
しかし、
「熱い、嗚呼、熱い、なんて熱い
黒い道化師は喋り続ける。まるで何事もないように。
「ふん。このような所にいたのが運の尽きだ。あのまま無能な皇帝の傍を侍っていればよかったものを」
赫い男も喋る。まるでいつもの事でもと言うように。さして珍しくもないように。
「ああ、彼の出番はまだ先」
また潰される。否、喉を握りつぶした。勢いに任せて握ったその反動で顔は上へ飛び、胴体は地面へと落ちる。
だが、
「あはははははははは、本当に君はつまらないね。ああつまらない。滑稽だ。しかし、君の部下たちは面白い。だから、ああだから今度は君の部下たちに挨拶でもしてこよう」
声が響く。赫い男とは違う声。黒い道化師の声が響く。
「そして、彼の行く末が、この国の行く末が楽しみだ。いったいどんな風に僕を
では赤錆の男、良き青空を」
黒い道化師の声がやむ、そこにあった黒い道化師の胴体も、首から上もなく。《闇》も晴れた。
そこになんの痕跡もなく、ただ、どこにでもある街の風景があるだけだ。
赫い男は再度辺りを見渡し、なんな感慨もなく、
遅くなりました。うん。遅くなりました。
あと、前から度々出てくる単語の説明忘れを一つ。
メスメル学。通称メスメル。
《碩学協会》の一員であった天才碩学メスメルによって確立された学問。別名を心理学という。
人間の心理、精神の全容を解き明かすための学問であり、現在では結社の碩学であるフロイトによって継承されている。
世界中の大学、高等教育機関で扱われている。
『黄雷のガクトゥーン』用語集より引用
実際の心理学よりも応用が利く、というかスチームパンクシリーズ全般でなんでもありな所がある。
では親愛なるハーメルン読者の皆様良き青空を。
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2-3
「さあアンナ。今日は思いっきり楽しむわよ! ええ、愉しみ。満悦し。満足いくまでいくわよ!」
「ええ、わかったからちょっと落ち着いて」
私たちは今帝都で一番有名な通り、帝都の目抜き通りとしても知られるネフスキー大通りにいる。ネフスキー大通りには国内外に有名な建物が多くあり観光客なども多くみられる。主に有名どころは建築家バルトロメオ・ラストレッリにより建造されたストロガノフ宮殿。アール・ヌーヴォー様式のシンガー書店、別名”本の家”。そこは元々ミシンの製造でロシアでも有名なシンガーのロシア支社ビルであったが2年前に旧・
他にも祖国戦争(ナポレオンのロシア遠征)の戦勝記念施設としても有名なガザン大聖堂。五つ星ホテルのグランド・ホテル・ヨーロッパ、ネフスキー・パレスなど一般庶民がある国は少々肩身の狭い高級な店が立ち並ぶ通りだ。
そんな私とタマーラの目的の場所は帝都一、いや、ロシア一といっても過言ではない百貨店ゴスチーヌィ・ドヴォールだ。
そもそも、なぜ私たちがここに来ているかと言うと、それには少々時間を遡ることになる。
あれは何日か前のアカデミーでタマーラと四六時中手をつなぎ始めてそろそろ二週間になろうとしていた頃。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
その日の朝もタマーラと手を繋ぎ登校した。そしていつもの通り笑顔の裏で警戒を怠らない辺り本当にスパイではないかと思ってしまう。そして今日も、いや、あの日以来ユーリーさんに会っていない。
そんなユーリーさんを心配するも、どこかあの人なら心配ないとも思える。そんな矛盾したことを思いながらその日の選択科目の第三文学の時、第一図書室(このアカデミーにはいくつもの図書室があり、それぞれの分野に特化した内容になっているが、この第一図書室は新大陸風に言うとオールマイティ。別の言い方をすると広く浅くといわれる図書室である)に事務の人が来た。
「失礼します。ここにウラジミール・ベルナツキーはいるか?」
「……私がウラジミール・ベルナツキーですが、どういったご用でしょうか?」
「ああ、君がウラジミール・ベルナツキーか。君宛に電報が届いている。送り主はコンスタンチン・エドゥアルドヴィチ・ツィオルコフスキーだ」
ガタン!
「「「!」」」
タマーラが勢いよく立ち上がり椅子が倒れる。タマーラの突然の行動に事務員さんに集まっていた視線がタマーラに向けられた。
タマーラも自分に集中している視線に気づき、ついさっき自分が何をしたのか思い出し、倒れた椅子を戻して静に座りなおした。しかし、読んでいる本が上下逆なのに気づいていない辺り相当コンスタンチン先輩の電報が気になるようだ。
「えーと、コンスタンチン先輩からですね。確かに受け取りました。お仕事ご苦労様です」
ウラジミール先輩が事務員さんから電報を丁寧に受け取ると事務員さんは軽く会釈して出て行った。
そして、扉が閉まった刹那に、タマーラが凄い速さでコンスタンチン先輩から電報を強奪していた。
それは、目にも止まらぬ速さで、私の向かいに座っていたにもかかわらずタマーラが、僅かに椅子が動いた音がして視線を向けた時にはもうすでにいなかったくらいだ。
斯く言うウラジミール先輩も全く反応することなく、違う、反応できずにいた。その証拠にタマーラが通り過ぎた後に電報の紙が気付いて辺りを見渡していた。
そして私はタマーラに失礼な事を、いや、たぶんこの部屋にいる人全員が思ったことだと思う。
――本当にタマーラって良家のお嬢様?
それは置いておくとして私もコンスタンチン先輩の電報は気になるのでタマーラに聞いてみる。
「あのータマーラ、コンスタンチン先輩はなんだって?」
私がそう言うとタマーラは無言で私に電報を渡す。どうやらあの短時間に全部読んでしまったようだ。
おずおずとタマーラから電報を受け取り読み始める。ウラジミール先輩も内容が気になるの、少々強引だが頬が触れ合いそうな形だが横から一緒に読む。
『
私は今モスクワにいるのは周知だと思いますが、今現在モスクワは厳戒令が出されており、学会の発表どころか外出すらままならない。出かける際にはわざわざ警察に届け出る必要があり、もうこの都市は戦争中のような雰囲気です。というか、それもこれも全部頭のイカレタ奴らの仕業なんだがな。
アンナはともかく、コンスタンチンとタマーラは知っていると思うが、今モスクワでは十人以上の殺害及び行方衣不明事件が起きていて、その関係で学会はいったん中止、新作飛空艇用の
一応はあと一週間以内に収まらなければまた後日に機会を設ける形になるらしい。
あと、出席日数とか減らされることはないから心配するな。年齢的にいくらか余裕はあっても流石に俺も後輩たちと一緒に卒業とかしたくないしな。
ではな皆の衆!
追記
お土産はちゃんと用意するから楽しみ待っているといい』
以上がコンスタンチン先輩の電報の内容である。
――うん。途中から文章が砕けたのは丁寧に書くのが面倒になったからね。でも、この電報でタマーラが不機嫌になるのかしら?
タマーラは私たちが読んでいる間に元の席に戻っており、本を読み進めている。読み進めてはいるが、時折ノートに何やら筆を走らせている。気になって覗いてみるとその中には普段のタマーラからは想像できないほど口汚い言葉が書かれており、その内容はここで割愛するが内容はコンスタンチン先輩にたいするものだった。
覗いている私にコンスタンチン先輩が肩に優しく手を置いた。私はゆっくり振り返るとコンスタンチン先輩は首を横に振り呟く。
「
そう言うコンスタンチン先輩に私はうずくと自分の席に戻って読むのを再開する。因みに今読んでいるのはメアリー・シェリーの作品でタマーラから『偶には違うジャンルの本も読んだら?』と言われて読み始めた。
メアリー・シェリー。幼いながらも小説家として活躍する少女。敵性国家の小説家の作品がこのアカデミーに置いてあるのは東方の国の故事『敵を知り己を知れば百選危うからず』を実践するためらしい。もっとも、娯楽小説がそれに役立つかは私にはわからない。豆知識だが翻訳は第一文学がしている。
その後、バレエの練習中ずっと不機嫌なタマーラが寮に帰る途中、いきなり、とびっきりの笑顔である提案をしてきた。
「ねえアンナ、今度の安息日にゴスチーヌィ・ドヴォールに行かない? 二人で」
「え? どうしたのタマーラ急に――」
急な提案、タマーラにしては珍しい提案。
「ダメ?」
「うーん。今月はちょっと厳しいし」
「大丈夫よ見て回るだけだし、それに私いますっごい鬱憤が溜まっていて、どこかで発散しないと暴発しそうなの」
拳を強く握りしめ体全体を小刻みに震わせるタマーラの背後に赤い湯気のようなものが幻視した。理由はまだわからないがコンスタンチン先輩の電報が相当腹に据えかねたらしい。
――なにか二人だけがわかる暗号でもあったんだろうか? でもウラジミール先輩はわかったみたいだし……なんなんだろう?
「お願いアンナ。私を助けると思って、ご飯くらいは奢るから」
タマーラは両手を合わせて頭を下げる。極東でいう土下座よりも一段軽いが、それでもかなり重大なお願いの仕方、タマーラもかなり参っているようだった。
――タマーラも相当参っているみたいね。うーーん。仕方ない今月は厳しいけど親友のためだものね。
「わかった。今度の安息日一緒に行きましょ」
「アンナ!」
私が返事を言った瞬間、タマーラはおとぎ話で出てくる星のようにとてもキラキラとした笑顔で私に抱き着いてきた。
「ありがとうアンナ! 優しくって、可愛くって、私が嫉妬してしまうくらいきれいな演技をする。大切で、大好きなアンナ!」
「! ちょっと落ち着いてタマーラ! あと、食事代くらいは自分で払います。その代り安いところにしてね。私のお財布でも大丈夫な所で」
「わかったわ! 飛びっきりの所に行きましょ!」
タマーラは、本当に心底嬉しそうに答えた。そして私の話を聞いてくれたか不安だ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
そんなこんなんで、私たちは目的の場所百貨店ゴスチーヌィ・ドヴォールにたどり着いた。
相変わらずこの百貨店には富裕層の人たちが多く、周りの人はみんなきらびやかな服やシュッとしたタキシードなど一見しただけで高級とわかる服を着た人たちばかりで、自分みたいなのこの場にいるのは身分不相応な気がしていたたまれなく感じる。
この百貨店は欧州で言うところの『ドレスコード』があり、私とタマーラは普段着ることのない学生服で来ている。タマーラは自分の服を貸すから、むしろあげるからそれを着て行こうと言っていたが私は遠慮した。
アカデミーには一応学生服が制定されてはいる。が、学生服の着用義務はなく、着用するのは催事や外からの来訪者を招くときのみ着用する。それも礼服での代用してもいいし、特定の生徒以外は休んでも許されるという寛容さだ。
そもそもの話、この制服を着用したくない人たちの最大の理由は、この制服を着ると言うことはロシア機関帝国に忠誠を誓うと言うことと同義だという認識だからだ。
私から言えばそんな認識はないのだが周りは違うらしい。
因みに私の近くで真っ先に着ない人を挙げるならコンスタンチン先輩とシューホフ先輩だ。コンスタンチン先輩の場合故郷はその昔ロシア帝国の前身のである
逆に着る人と言えば帝都出身のウラジミール先輩だ。タマーラ曰く、アカデミーの全体で着る着ないを比率で言うと8:2の割合でこの国の不安定さを実感させられる。
しかし、それならばなぜ学生服の着用義務が無いのに制定されているかと言うと、それはロシア機関帝国の歴史が関わってくる。
この国は昔から周辺国及び地域を武力などで占領と併合を今に至るまで繰り返してきた歴史がある。そして現在のアカデミーには帝国全土の優秀な人材が集められ、その集められた人たちには今の帝国に不満不平を感じている者も多くいる、噂ではその中には犯罪者予備軍といってもおかしくない思想の持ち主もいる。
いや、もっと不穏な噂でいうなら既にアカデミーには《赫い者》達が潜伏し、着々と賛同者や協力者を増やしているというモノまである。
――もしも、もしもその噂が本当なら、あの楽園のようなアカデミーが……
正直、アカデミーがそういった不穏な場所だと思うと気が気でない。なによりもその人たちが私の大切な人たちに危害を加えないかが心配で仕方ない。
「アンナ! せっかくゴスチーヌィ・ドヴォールに来たんだからそんな顔しないで楽しみましょ。
ほら、あそこの服、アンナに似合いそう」
そんな事を考えて気落ちしている私をタマーラは周りに対して気後れと勘違いして励まそうと手を掴んで(と言うよりもここ最近ずっとだが)走り出す。
アカデミーや街中では楚々としているタマーラからは想像できないはしゃぎよう。なるほど、相当溜まっているものがあったのであろう。
それとも、未だにコンスタンチン先輩のことを根に持っているのだろうか? その辺りに疎いと(主にウラジミール先輩に)言われる私に出来ることはなく、今はタマーラの気が晴れるように付き合うだけだ。
――それに、私が落ち込んでいたらタマーラも楽しめないだろうから私も思いっきり楽しもう。予算の限りで!
私を引っ張るタマーラに、大好きなタマーラと、大切なタマーラ・カルサヴィナと一緒にゴスチーヌィ・ドヴォールを駆けまわる。
――そうだ。今はこの瞬間を、この刹那を、この代えがたい《きれいなもの》を《うつくしいもの》を、
「うん。やっとその気になった、
「もう。小鳥ちゃんって呼ばないで」
――久しぶりに聞いたタマーラの小鳥ちゃん。普段は二人きりの時だけ呼ぶ愛称。最近はタマーラ自身が気を張っていたせいか呼んでくれなかった愛称の一つ。
――子供っぽいその呼び方は好きじゃないけど、でも、私をそう呼んでくれる時のタマーラは好きだから。
だから、いつのもタマーラが戻ってきて嬉しい私は頬を緩ませながらタマーラに付いていく。
その後も私とタマーラは午前にウィンドウショッピングと軽めの昼食、午後からは本屋でこんどやる劇の関連本を物色した後お菓子屋さんで間食してあとは帰るだけと言う時。
彼に会った。
「やあご機嫌麗しゅう
「げ。この声は……」
「
ゴスチーヌィ・ドヴォールの出入り口近くで私たちは着古した黄色とも緑ともとれる外套を深々と頭に被った少年と、黄衣の王たるユーリー・ハリトン、ユーリーさんと会った。
「ああ。こんにちはMsアンナ。それとMsタマーラ。人の顔を見て開口一番が『げ』は淑女としてどうしたものかと思うよ」
「……あらごめんなさい
タマーラは笑顔で応対している。そう、笑顔ではあるが目が、目が笑ってない。
むしろ、その笑顔よりも背後から黒いオーラが滲み出ていて、周りの人が遠巻きに、あからさまに私たちを避けている。もはや通行妨害しているみたいで申し訳ない。
タマーラと同様に終始笑顔でいるユーリーさんにはタマーラの背後の”それ”が見えないのか、それとも気にしていないのかタマーラとは対照的に楽しそうに話している。いや、むしろそのタマーラを見て愉しんでいるかもしれい。
「なに、私も人の子。たまの気晴らしに買い物の一つもしたくなるのですよ。
しかし、モスクワであんな凄惨な事件があった後で女性二人だけで出かけるのは感心しないな。ここは不肖ながらこのユーリー・ハリトンが寮までお送りいたしましょうか?」
「あら。不肖なら結構です。ええ。たしかにモスクワでの出来事は怖いですがここは天下に名高い帝都サンクトペテルブルクでそうそう荒事は起こるとは思えません。
しかもここは人が多く行き来するネフスキー大通りです、治安は万全。あったとしてもスリのようなコソ泥くらいでしょう。
だからこちらには気にせず買い物を続けられてはいかがでしょうか?」
恭しい対応(根は慇懃無礼)なユーリーさんと楚々としながらも黒いオーラを隠そうとしないタマーラを見ていて私はあることを思った。
――だれか、たすけて。
ただただ、このいたたまれない空間から離れたいと思いつつも、二人から私が離れようものならまた別の火種が燃え上がりそうで動くに動けず、さりとて口を挟むには二人の雰囲気が圧倒的で出来ず途方に暮れ始めた。
結局夕暮れ近くまで二人は歓談(に見えなくもない)続き、時間的にこれ以上話し合っても埒が明かないということになり三人で帰ることになった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
今日、俺は新たな理解者を得た。
その人も俺の研究に賛同してくれた。
アンナに続いて二人目の、愛してやまないアンナと同じ女性の理解者。
ほかの奴らがカダス製の
口だけの連中とは違う本当の理解者。
コンスタンチン先輩たち以外で初めの理解者。
ああ。これもそれもアンナのおかげだ。
今でも鮮明に思い出せる。
初めてアンナに俺の夢を語った時の彼女。
始まりは灰色の雪が降る夕暮れだった。その時のアンナは一人で校門に立ち尽くしていた。その日のタマーラ・カルサヴィナはバレエ講師との次の劇についての相談や準備で遅くなっていた。
そして、俺がアンナを通り過ぎようとしていた時、アンナが声をかけてくれた。
当時の俺は今よりも暗かったと思うし、基本的に誰とも話すことなくいつも自分の理論のことしか考えていなかったか俺に声をかけるアンナを訝しんでいた。
そんな俺に彼女はこう言った。
『あの。ウラジーミル・シューホフ先輩ですよね?』
『ああ。そうだが、誰だお前? なんで俺の事を知っている?』
その時の俺は本当にぶっきらぼうに、粗忽な対応をしていた。
しかし、彼女はそんな俺に嫌な顔せずに話を続けてきた。
『失礼しました。私はアンナ・パブロワです。私が先輩を知っている理由はコンスタンチン先輩の、コンスタンチン・エドゥアルドヴィチ・ツィオルコフスキー先輩の話の中に出てきて知っていたからです。
それでですね。コンスタンチン先輩の話が興味を引いたんで声をかけてみたんです』
『ふーんコンスタンチンの事だからどんな罵詈雑言を言っていたんだ?』
『いえ。コンスタンチン先輩はそんなことを言っていませんでした。
ただ、シューホフ先輩は周りと交流せず、自分勝手な人と周りがいうけれどアイツは夢の為に真っすぐな男だと言っていました。俺はそんな奴が好きだし友人になりたいとも言っていました。
それでですね。コンスタンチン先輩がそうまでいう人はそう多くないので興味が出たんです。
失礼ですよね。そんな理由で声をかけられたら。すいません』
その時の俺は少し浮かれていたのかもしれない。このアカデミーに来てから変人扱いされてきたし、ましてや女の子に声かけられたことなんて連絡事項くらいしかない。
今の俺はそんな浮かれた自分を褒めてやりたいくらいだ。
初めはアンナも他の奴らと同様の反応をすると思った。
アカデミーには帝国全土から天才秀才が多く集められており、なまじ学がある分俺の話を否定的な意見ばかりする輩が大半だった。学友だけでなく講師たちもそうだったのだ。
そんな中、アンナは違った。
俺の建築物と機関に関する理論を語った時の彼女の反応。
所々専門用語を使ったところは首を傾げていたが、それでも俺の話を笑顔で聞いてくれたアンナ。
それどころ俺の話を聞き終えて彼女は真剣に応援してくれた。
初めてのことだった。
誰かから、家族以外でそんな反応をしてくれたのは初めてだった。
そして、そんな俺を応援して、時に笑顔で応えてくれるアンナはその灰色の雪と相まって妖精のように綺麗だった。
そうしてしばらくするとタマーラ・カルサヴィナと合流して途中まで一緒に帰った。
もっともタマーラ・カルサヴィナはあまり楽しそうではなかったが。
それからだ。俺が変わったのは、後日にはコンスタンチン先輩に勇を鼓して話してみると学科の違いはあれど驚くほど話が合い、お互いの夢を応援し合って将来俺の機関が完成したら飛空艇に使うことを検討してくれると約束してくれた。
無論その飛空艇がどんな形になるかわからないから検討の域はでないが、それでもこれだけ反応をしてくれる人も初めてでうれしかった。
その後はウラジミール・ベルナツキー先輩をはじめコンスタンチン先輩の飛空艇研究会の面々と交流を持つようになり、俺は周りか明るくなったと言われるようになった。
そう。全てが順調になっていた。
それまでと違い、アカデミーにいるのが苦ではなくなった。
それもこれも全部アンナのおかげだった。
ああ。だから、アンナ。
俺は、君の為に、なんでも、どんなことでも――
よっしゃ! 連続投稿四日目突入!
っとわけのわからないテンションで頑張っているジンネマンです。
はい。遅くなりまた。いつもセリフですね。
うん。テンションが、一定しない。
まぁ。そんなこんなんでアンナの知らないところで誰かが狂い始めています。
誰でしょうね?
あと、ユーリーさんがアンナたちと会ったのは偶然です。彼は帝都をいろいろ歩き回って何かを探しているので、その一環で偶然会っただけです。
では、親愛なるハーメルン読者の皆様方。良き青空を。
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2-4
ロシア機関帝国の首都、心臓部にして頭脳、目にして足、そして剣であり盾である都市。その名も帝都サンクトペテルブルク。
地政学的にも鉄道と航路の交通要地であり、バルト海沿岸であるから欧州各国に行くにも容易で、特に北欧や欧州各国に睨みを利かせる軍事的要地としても重要な役割を果たす大都市だ。
もっとも、欧州が好きどころか崇拝の域まで達していたことで有名なピョートル一世が欧州に行きやすいように造ったという話もないわけではない。
そういうピョートル一世が造ったため、この街は建築物の国様式と年代がごちゃごちゃしている。
あるところでは英国式、あるところではオランダ、またあるところではドイツと、当時ピョートル一世が好んだであろう建築様式があちこちに並んでいる。
そして、ピョートル一世の欧州崇拝の最たるものが都市の名そのものであり、その名の由来はドイツ語だ。
中でもこの国における頭脳で心臓。
かのエカテリーナ大帝が建てた絢爛たる宮殿。
ロシア皇帝一族の王宮、冬宮殿。
だか、この都市を覆う灰色は、
この都市を包み込む黒色の雪は、
ありとあらゆるモノを隠す、
それは人を、命を、意思を、真実を隠す。
それは
この国の誰もが知りながら、
この国の誰もが知らない。
ここは、この国における真の頭脳で心臓。
いや、ロシアそのもの。
そうであるはずの場所、冬宮殿。
一般的にはこの国を支配する皇帝一族の宮殿。
されど、その姿は
外観の美麗さとは裏腹に、
エカテリー大帝が愛したであろうロココ建築の表層とは違い、
その
数。それは欧州よりも果て地からもたらされた
数。それは碩学協会からもたらされた
数。それはこの国を、世界を灰色に染めた
その王宮のもっとも深き場所にある玉座の間。
正常なる者は誰一人として入ることの出来ぬ広間。
複雑にして優美、繊細にして豪奢なロココ建築を黒く染め、健常なる者を蝕む黒煙の空間。
その数と黒煙の最奥の玉座に座す男。
数はもとより、数多の
大きなマスクと玉座、それらと一体となった男。
闇がもっとも暗い玉座のような男。
その者はアレクサンドル三世。アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ。前ロシア帝国の
嘗ての最先端の
既に隠居した身でありながら、真に皇帝たる男。この国そのものにして、世界有数の富豪にして、この国をここまで近代化させてた傑物。
この皇帝のみが存在する空間に、異物が紛れ込んだ。
「ご機嫌麗しゅう。皇帝陛下。
ああ、相も変わらずの皇帝陛下。
貴方はある意味機械卿よりも機械的で、ある意味赤錆よりも人間的で、数多のものを無差別に詰め込んだピロシキのような皇帝陛下。
ああ、嗚呼、あー、その内にどんなモノを詰め込んでいるのか、どうなっているのか、この国のようにどう煮詰まっているのか、私は興味が尽きず、敬愛の念を持さずにはいられない。
そう。その中身からあふれ出すモノはどれ程甘美で、芳醇で、豊潤で、
『――ラスプ ーチンか、何の 用 だ』
話す声は、仮面の男だ、薔薇の華の。異形の男だ、黒い僧衣の。周囲を満たす黒よりも尚、色濃い《霧》だ、《闇》だ。否、既にそれは《混沌》だ。
その混沌に対する男の声は黒煙を響かせる暗い黒色の声だ。もとより、彼には既に声帯はなく、生体機能も大半が機関を介した機械だ。故にその言葉は途切れ途切れに紡がれる。
いや、そもそも初めは脳の一部のみ接続が目的であった実験であったが、後に身体機能に多くの障害が起こり、それを補助するために、それを補助するために命がけの、刃の上を歩くような確率の手術を次々とした結果が彼だ。
そして、この広間は、彼そのものにして、彼の一部。
そこに突如現れた《仮面の男》に、彼は意識を向ける。
目も、口も、彼はどれ一つ動かすことなく、それを認識する。
「いえ、貴方が求めてやまない《解放》が偶然にも《赫い者》達の妨害にあい遅延している。それは貴方にとっては由々しき事態であり、これまでの苦労が水泡に帰す可能性もある重要案件だ。
そんな憂慮すべき事態にありましては、そろそろわたくしめの占いが欲しい頃合いかと思いまして参上した次第です皇帝陛下」
『いら ぬ。既 にそのよ うな時 代は終わっ た。
現 実が占 いたくば 機 関を使えばい い。既 に《ふるきも の》の時代 は終わ りを告げてい る。
た しかに、貴様 の占いは 役に立 った。しか し、そ の役 目も既に終 焉を迎 えてい る。
《解 放》と て、多少の遅 延なら 織 り込み済 みだ。なら ば、お前 がここ にいる意 味もなく、こ こに置いてい るのはた だの恩 情に過 ぎぬ。弁 えよ』
「恩情。恩情、くくくくく、あーーーーははははーーーーはあはーーーはははあああははは。
なるほど、なるほど、なるほど。恩情ですか、それはたいそう嬉しゅうございます皇帝陛下。
しかし、しかしながら、本当に用済みなら貴方は私を放逐するでしょう。貴方は幼少期に軍人として育てられたなら無駄は廃するべきと教わったはずだ。
ああ、それなのに、それなのに出来ない理由は明白だ。
それは、貴方自身を見れば明瞭だ。
貴方は昔から自分にはあらゆるものが足りないと自覚している。
そう、自覚しているからこそ、補おうとする。その結果が今の貴方だ。
わざわざ健常な身体でありながら幾度にも及ぶ機関化手術の決行、機関の呼吸たる排煙と叡智結晶たる数を満たす玉座の間。
これらは全て貴方がその手を伸ばしても届かないモノだ。
そう、貴方は足らないモノを補う。だからこそ、私を手放せない。
だからこそ、貴方は自身を管で巻いて引きこもる。
そのために碩学協会を招き入れ、工業を発展させて、社会矛盾を剥き出しにして、この国を強くして、
そして、
《解放》する
私がいればそれが叶うと思っているから傍に置いているのでしょ?
哀れで、
脆弱で、
醜い、
皇帝陛下」
《仮面の男》はこの場を染める黒煙の中に置いても、一層の存在を示しながらも恭しく礼をし、謙りながらもこの国の皇帝に
そこで初めて彼は《仮面の男》に視線を向ける。
その瞳は機関化の影響か、それとも広間に満ちている黒煙の影響か、彼の瞳は黒い。
その黒さは東洋人のそれとは違い、暗く、重く、濁っている。
《仮面の男》その黒い瞳を見れて満足したのか、恭しく頭を下げながら黒煙に溶けてゆく、まるで初めからそうであったかのように。
「では、失礼します。我が敬愛なりし皇帝陛下、私めに御用あらば即座に駆け付けます。
ですので、遠慮なく、その内に秘めたる
私はいつでもお待ちしているので」
『――――――――』
黒煙に残響する声に耳朶を震わせながら、かの皇帝は静かに目蓋を落とす。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
――その日は朝から忙しそうだった。
今日はコンスタンチン先輩とウラジミール先輩が所属している飛空艇研究会に足を運んだ。
目的はモスクワにいるコンスタンチン先輩についてだが、それを聞くのも憚れるように、訪れた私たちに気づく様子もないほど研究会の人たちは忙しそうにしている。
あちこちから、『あの資料は何処だ』とか『アイツは今どこにいる』とか様々言葉が、相手に正確に伝わっているかどうか怪しく行き交っている。
そんな中、その場に立ち尽くす私とは違い、タマーラが目の前を通ろうとしたウラジミール先輩を(少々強引に)捕まえる。
ウラジミール先輩はと言うと、タマーラがウラジミール先輩を捕まえる際に襟をつかんだので『ぐぇ!』と
「やっと止まってくれましたねウラジミール先輩」
「ケホン。
「すいません。これからはそうします。相手が穏便な方法で止まってくれるなら」
引き止められた際に落ちた眼鏡を拾いながらタマーラを糾弾するウラジミール先輩だが、タマーラの迂遠な文句にウラジミール先輩も自分の失態に口を閉ざすしかなかった。でもタマーラのやり方にも問題はあったけれど、部屋の前ノックしたり、声を掛けたりしたのに反応がなかったのもやはり問題だったと思う。
しかし、それほどまでに部屋の中は忙しようで、止まってくれたウラジミール先輩を呼ぶ声もあり、ウラジミール先輩にしては珍しくどう動いたものかと視線と体の向きがあちらこちらに動き、本当にどうしたものかと思ったとき、
「実はねMsアンナ、モスクワに行った同志たちが『今のモスクワは物騒すぎて帰ります』とか言って、コンスタンチン先輩一人残して帰ってきてしまったのだよ。
そのために急遽モスクワに行く人員を選抜という名の押し付けが終わった途端、向こうに持っていく資料と機材などの手配で右往左往しているのだよ」
「シェーホフ。またお前――」
いつものように背後から――とはいかなかったが、私の横からシューホフ先輩が事を説明してくれた。
――なんだかシューホフ先輩はいつも私の死角から現れている気がするけど、気のせいかな?
そんなシューホフ先輩と私たちの間に入る形でタマーラがシューホフ先輩に問いかける。
「シューホフ先輩、それってあの事件がまだ長引いているからって、この研究会で一番年長者で、この研究会で一番熱心なコンスタンチン先輩を置いてきた人たちがいるってことですか?」
普段とは違う、バレエの真剣さとは別の真剣な顔でタマーラがシューホフ先輩に、いや、研究会全員に静かに問いかける。
けっして大きな声ではなかった、けれどもその存在感のある声はさっきまで忙しそうにしていた研究会の人たちはみんな足を止め、声を静め、その場に顔を下げた。
下げていなかったのはウラジミール先輩とシューホフ先輩だけだった。
私も、この嫌に重い空気を変えたくって、咄嗟に口を開く。開きかけた。
「ぅ、ウラ――」
「――Msタマーラ・カルサヴィナ、そう言ってやらないでくれ。
誰だって自分の命は大事だし惜しい。それに今もモスクワでは行方不明者は見つからず、殺された人は今も増え続けている。
そんな中に居続けるの大変な心労だろうし、正直そんな処にコンスタンチン先輩を置いて行くのは心苦しかったに違いない。
いや、彼らもコンスタンチン先輩を説得していた。が、あの人はそんなことで動くわけもなかった。あの人の情熱はそれほどまでに強い。だから、彼らにそんなこと言ってくれるな」
「そうだよMsカルサヴィナ。同行した彼らも本当はこんな形でアカデミーに帰って来たくはなかった。
しかし、学会の運営が解散宣言をしない以上誰かは留まらなければならないし、帰るにしてもこの国の国土と準備などの関係上不参加と言うことになりかねない。
それにこの飛空艇研究会もそれほど潤沢な資金を提供されているわけではない、このアカデミーは基本的に軍事的、もしくは国家に直結貢献さそうな処ほど資金が回される。
この研究会は基本的にそう言ったのを度外視して作っているし、将来的には軍事的に貢献できるかもしれないがコンスタンチン先輩の方針は知っての通り、あの永遠の灰色を突き抜けて
そのためにも何らかの功績を残すためにコンスタンチン先輩はモスクワに残ることを選んだと思う。
だから、しょうがないのだよ」
ウラジミール先輩とシューホフ先輩がコンスタンチン先輩に同行していた人たちをを擁護する。
たしかに今のモスクワは危険で、必要最低限の買い物以外で屋内から出ることは無いほどだという。
そんなところに留まると決めたコンスタンチン先輩、帝都に戻ってくることを決めた会員たち、どちらも責めることは出来ないと思う。責めてはいけないと思う。
元々の原因はそのようなことをする人たちにあり、それから逃げることは何にも間違っていない。
――だって、この国は貴族やそれに属する人たちと富裕層以外の人の命は軽いのだから……
――だから、『自分の命は、自分で守らないといけない』って、みんなは言う。
――ここは、そう言う国だから……
――それだけじゃないって、そうじゃないって思っても、違う、と言っても、私自身の命すら守れない。
――黄衣の王、ユーリー・ハリトン、ユーリーさんに守ってもらわなければ、ここで息をすることさえ出来なかったのだから。
知らず知らず他の会員同様に視線を下に落としていた私の肩に誰かが手を置いた。
視線を上げた先にいたのはシューホフ先輩だった。
「すまないが二人とも、さっきはモスクワに行く役割の押し付け合いと言ったが、本当は行く人員は私とベルナツキー先輩に決まっているんだ。
いや、ほんの冗談のつもりだったのだが、気分を悪くしたのなら謝るよ。
すまなかったMs.アンナ。Ms.カルサヴィナ」
「シューホフ! お前――」
ウラジミール先輩がいきなりシューホフ先輩の肩を乱暴に掴む。
シューホフ先輩はそんなウラジミール先輩を気にすることなく言葉を続ける。
「いいではないですかベルナツキー先輩。いずれバレるのなら今言おうが明日言おうが変わりません」
「そう言う問題ではない! さっき決めただろ、二人には後日、もしくは帰ってきた時言うとみんなで」
「違いますよベルナツキー先輩、今の精神状態でモスクワに行って大したことは出来ず、僅かな手違いですべてを台無しにしかねません。
なら、そういった心配事や不安をここに置いていった方が賢明だと思いますよ?」
「だからと言って――」
私は二人の言葉に、二人の話に一つの安心と幾つかの不安を覚えた。
安心したことはみんながコンスタンチン先輩を見捨てていないと言うこと。
でもそれは同時に不安へとつながる。
それは、今このロシアで一番危険であろう場所に、一番安全とはかけ離れた場所に行く人がいるというのだから。
それはもう二度と会えないかもしれないということ、この研究会の人たちはみんな顔見知りだし、なによりもみんなが夢に向かってひたむきに頑張る姿は好きだから。
そんな人たちが今のモスクワに行くのはすごく怖い、けれどもコンスタンチン先輩一人をモスクワにいさせるのも怖く、誰かが迎えに行くか、そうでなければ発表の手伝いをするしかない。
そうでなければ今行く意味もないし、私たち二人にできることはないかと思案する。
そして、私が思い至ったことを、タマーラが先に口にする。
「――ねえ、そのモスクワに私も付いて行っていいかしら?」
「あの、私も付いて行っていいですか?」
「……はあ!? 何を言っているんだ二人とも! 今のモスクワは危険なんだぞ! そんなところに女の子を連れていけるわけないじゃないか!」
普段温厚で紳士なウラジミール先輩が激怒している。髪の毛が逆立っているようにも見えるその形相は、以前本で読んだ極東の化け物
しかし、そんなウラジミール先輩にひるまない勇気ある者がいた。
タマーラ・カルサヴィナだ。
「――お言葉ですけどウラジミール先輩、アンナはともかく、私は連れて行った方が良いですよ。
だって、コンスタンチン先輩はもとより、ウラジミール先輩やシューホフ先輩も生活力低そうですもの。
いいえ、低いですね。それはこの部屋の惨状を見れば一目瞭然」
私は部屋全体を見渡す。
たしかに部屋の中はあちこちに紙の束や分厚本などが散乱し、端っこの方には……汚れた衣服の類がひっそりと積まれていた。
研究会の人たちはそれらから視線を逸らす、中には口笛なんかを吹いて誤魔化そうと強いる人までいる。
そんな現状を放置する人たちに抗議も弁護も出来ず、私は沈黙するしかなかった。
ただ一つを覗いて、
「――ねぇタマーラ、さっきの『
そんな私の抗議にタマーラは笑顔で応えてくれる。
「そうね。アンナは何もなければ、何の問題は無いわよ。
ただね、私が注意しなきゃ練習や台本に集中するあまり、食事や睡眠をおろそかにしてしまうことを除けばね」
「はい。すいません。タマーラにはいつもお世話になっています」
深々と頭を下げた。
「と言うわけで、私は将来世界中でバレエの公演をすることを目標にしてるの、だから普段からの自己管理等々厳しくしているからいて損はないわよ。
まぁ、アンナもバレエさえ関わらなければ品行方正だから付いてきたも問題ないと思うわよ」
「! それはダメだ。よしんばMsタマーラが来ることはあってもMsアンナまでもが来ることは容認できない!」
それまで静かに聞いていたウラジミール先輩が再度激しく抗議をする。
私たちのことが心配なのは嬉しいが、それでも、私はついていきたいと思う。それを伝える。
「ウラジミール先輩、私も付いていきたいです。そして、みんなの役に立ちたいんです」
「しかし――」
「大丈夫ですよウラジミール先輩、私が常に一緒にいますし、もしものことがあっても護身術のシステマでどうにかします。私、結構強いんですよ」
「そうは言うが、君はついこの前も暴漢に襲われた時、たまたま通りかかった人がいなければどうなっていかわからないのか?」
「あれは――裏路地で不意を突かれたからです。今度はそんな不用意な場所には入らないし、警戒もするので大丈夫です」
「ああ、君のその強気で自立したところは嫌いではないが、それも場所と時世を弁えるべきだよ」
なおも、私たちの同行に反対するウラジミール先輩。
だが、それを隣のシューホフ先輩が制す。
「まあまあいいじゃないですかベルナツキー先輩、コンスタンチン先輩も可愛い女の子の後輩二人と自分を尊敬する研究会の後輩二人がくればいつも以上に頑張るだろうし。
もっとも、私たち二人は非正規会員みたいな、食客みたいなものですが」
「シューホフ先輩――」「シューホフ!」
「と、いうわけで、二人ともベルナツキー先輩と研究会の説得、事務手続き諸々私がしておくので研究会に同行申請書類だけ書いてきなさい。
あと出立は明日の午前六時にアカデミーの校門前に集合だ」
「ありがとうございますシューホフ先輩。じゃあアンナ行こうか」
タマーラは私の手を強く握ると、シューホフ先輩の言葉を研究会の了解を得たと強引に解釈して、申請書類を提出するため総合事務室へ走り出す。
ウラジミール先輩は私たちを追い掛けよと扉の外まで出るが、その間にも私たちどんどん速度を上げて総合事務室へ向かう。
典型的な碩学見習いのウラジミール先輩はそんな私たちに追いつけないと悟って部屋に戻りシューホフ先輩を叱ることに向きを変えた。
「シューホフ! お前は――」
それから私たちは総合事務所でモスクワへの一週間特別休学と寮に帰ってからの準備でその日を終えた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
そう。みんなでモスクワに尊敬する先輩の手伝いにいくのね。
素晴らしいわ。ええ。なによりも、あなたが熱心な子も連れてくることが特に。
ねえウラジミール・シューホフ。前も言ったけど私はあなたの研究に理解がある、頑張って欲しいと思っている。
でもね、それだけじゃ駄目なの……
あなたには決定的に足りないモノがあるの、
それはね、
《黄金瞳》
すべてを見抜くであると言われている《黄金瞳》それさえあれば、あなたは、あなたの理論は完成する。
そう、それさえあれば、ね。
大丈夫、あなたの思い人は、あなたの理解者なのでしょ。
なら彼女は喜んで協力してくれるわ。
ええ、そうよ。
それはもう。涙を流しながら協力してくれるわ。
モスクワに行って、二人きりになって、ここ来なさい。
ここには必要な物が揃っているから、ええ。そこは凄腕の検視医が根城にしていた場所だから設備は万全よ。
そう。だから、彼女と二人で、二人きりで来ると良いわ。
さあ、約束の時は近いわ。
あなたの悲願が、達成される日も、私の悲願も、
だから、頑張ってね。ウラジミール・シューホフ。
と言うわけで、遅くなりました。
うん。これがテンプレになってきましたね。
本当はFate/ Thunderbirdの方を先に投稿するつもりだったのですが、なんかうまく書けず、こちらを書くことにしたんですよ。
あれですかね、これがいわゆるスランプなのかな? それとも私の雷電王閣下への思いが足りないせいかな?
用語
総合事務所。
その名の通りアカデミー全体の運営に関わる大きな事務所、その他にも宗教関係や特許、外国からの入学者転校生(本来の意味の転校生)などを専門に扱う事務所など、一言に事務と言っても多岐に渡り、それらすべてがアカデミーを支えている。
最後に、予定ではあと3、4話で2章は完結予定です。
まぁ長くなることはあっても、短くなることはないので、取り敢えず頑張ります。
あと、今回初めてプーさんが攻撃を受けていません!
快挙です!
では親愛なるハーメルン読者の皆様方。良き青空を。
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2-5
モスクワ。帝都サンクトペテルブルクより南東に位置するロシア機関帝国第二の都市。ロシア国内で数少ない
ロシア機関帝国の、ロシア帝国の前身モスクワ大公国の首都であり、後のロマノフ朝第5代皇帝ピョートル1世がサンクトペテルブルクに遷都されるまでのロシアの心臓部であり頭脳であった。
土地そのものは肥沃ではないが、この街を流れるモスクワ川は上流に遡るにつれオカ川、サンクトペテルブルクにも支流がある欧州最大の河川ヴォルガ川に通じる好ましい位置し、その好立地さで金や銀など流通の要地としてその後の安定した拡張に寄与した。
サンクトペテルブルクに次ぐロシア第二の都市として製造中心地であったモスクワ。その市内の労働力の職業の種類は多様性に富んでいたが、繊維関係に集中していた。
されど、その歴史は繁栄だけではなかった。
幾度となく起こる飢饉、火災、戦禍など壊滅的な被害に見回れた、一番近いものでフランス皇帝ナポレオンの祖国戦争(ロシア遠征)よる焦土作戦や市内の全域の火災がある。この時に至っては市街は灰燼ときし、フランス軍は和平交渉の決裂、撤退まで1ヶ月滞在した。
しかし、災禍の度この都市は復活を遂げ、今日までロシア有数の大都市として続いてきた。
そう。まるで不死鳥のように。
そんな古都モスクワに私たちは来た。正確には着いた。
――長い時間をかけて…………
モスクワ・サンクトペテルブルク鉄道、19世紀半ばに完成した鉄道で二つの都市を結ぶ大動脈たる道路が二コラエフスキー道路と呼ばれ、車線がその沿線にあったことから通称ニコラエフスキー鉄道とも呼ばれる鉄道に乗ってきた。
八時間掛けて。
――うぅ。寝台特急なんて聞いてないよ……
昨日の夜遅くに私とタマーラ宛でウラジミール先輩の電報が届いた。
なんでも、連日のモスクワ事件の関係一部の職員が休暇届をだしたせいでダイヤが混乱、その結果早朝の便が欠便になり、その次の便も運航はするものの満席、私たちが乗れるは明日の夕方となり流石にそれは不味く、急遽寝台特急の切符が人数分奇跡的に取れたので今すぐ出立となった。
一度アカデミーに集合した後駅に向かい、列車に出発したのは日付変更の五分前だった。
――うぅ。本当ならモスクワまでの道中、写真を撮りながらゆっくり行くはずだったのに。
――こんなにも暗かったら何にも映らないよ。
ウラジミール先輩の電報が来る直前に点検し終えたし写真機、本来ならそれで車窓から流れる風景を撮影しながらちょっとした旅行気分で行くつもりだった。
少なくとも、列車の移動中くらいはそれくらい浮かれてもいいと思っていたのだ。
その後も波乱続きで、急ぎだったので四人部屋一つしか取れず、その日初めて家族以外の男性と一緒の部屋で寝た。その際にタマーラは散々文句を言った。だが背に腹は代えられないと一緒の部屋に寝るのを了承した。
本当に波乱だったのは全員が寝ようとした時だ。ウラジミール先輩たちの身じろぎや寝返った時の音がやけに大きく聞こえて、それは部屋に備え付けの時計の秒針と相まってすごく緊張した。
チクタク。
チクタク。
チクタク。
ごそごそ。
ごそごそ。
ごそごそ。
――異様に耳朶に響く音に睡魔が勝つまで数時間、ずっと気になって本当に寝づらかった。
――かと言って、タマーラが寝ているかどうか聞くのも気が引けるし、この静かな空間を壊してお手洗いに行くのも恥ずかしい。
そんな私が寝たのは、最後に時計を確認した五時頃だった。
それから終点のモスクワに着いた頃には空は少し明るく、時間的には八時を少し過ぎた頃の街には自分の工業に向かう人で駅の前は混雑していた。
私はというと、タマーラが普段の私にするような起こしかたはせず、ユサユサと肩を控えめに揺すられて起こされた。もう二人は改札口で手続きを行っているとのことなので急ぐように促された。
が、私が覚醒直後に一番感じたのは『お手洗いに行きたい』という、痛切な生理現象だった。
タマーラは予想していたと言わんばかりに、というか予想していたのだろう。呆れたようにため息をついて、
「ほら、早く行ってきなさい。そのために二人を追い出しておいたのだから」
――ああ、タマーラ!
その言葉に、一瞬タマーラが天使様のように見えた。
「まったく。夜のうちにちゃんと行っておかないからよ。じゃあ正面改札口で待っているから、早めにね」
そう言ってタマーラは手ぶらで部屋を出て行った。
――? 手ぶら?
「ねえタマーラ。荷物は?」
「ん。二人に持たせておいたわよ。男なんだからそれぐらいはやらせな「ありがとうタマーラ。それじゃ行ってくるね」――って、ちょっと待ちなさい。まずは身だしなみを整えてからにしなさい。
すぐ済むからじっとしていて、列車もすぐには車庫に行かないから」
タマーラに感謝をしつつ、急いでいこうとしたら腕を掴まれて椅子に座らされた。
そして、予め用意していた櫛で髪を梳いてくれる。夜中に何度も寝返りをした後シーツを頭まで被って寝たせいか、所々髪が乱れていた。
「まったく緊張感のない子。まったく危機感のない
いい。女の子はね、一歩外に出た時から周りの目を気にするものなの、いえ、自分以外の人がいる時点で気にするの。もちろん、気の置けない人には例外だけど、それでもあんまりみっともないのを晒すものではないのよ。
それにもうここはロシア有数の大機関都市モスクワ、煤や排煙も帝都と同じくらいあるのだから、そのあたり気を付けるの。
なによりも、もうここは安全地帯とは言えない、昼も夜も関係なく殺人鬼が活動している。
だから、いつも以上に気を付けるのよ。特に、絵になりそうだからって所かまわず写真機を取り出さないように!」
タマーラは私に注意喚起を促しながらも、黙々と私の髪を梳いてくれる。
――タマーラが優しく、丁寧に、まるでハープを奏でるかのように梳いてくれるから、とても心地よい。
――ああ、今だけ。そう。今だけはこのままでいたい。
この瞬間だけ、今だけ、誰かに、『この風景を撮ってほしい』っと、言いたい。
今の私は、タマーラに髪を梳かれている身だから、写真を撮ろうとしても変なのになってしまう。
だから、今だけ、誰かこの部屋に来てほしい。このかけがいのない物を、このとてもとても《きれいなもの》、この何物にも代えがたい《うつくしいもの》を、
――一つの形に、
――一つの絵に、
――一つの思い一緒に、
――残したい。
しかし、タマーラの手が止ってしまった。名残惜しくはあるが、終わってしまったものは仕方がない。
私は振り向きタマーラにお礼を言おうとしたら、肩にタマーラが手を静かに置いた、先程とは違うモノものが、少し重たい雰囲気で。
「………今のうちに、正直に言うとね、本当はアンナも連れてくるかどうか迷ったの。でもね、この間も帝都で危険な目に遭ったばかりだからね、だから、私が一緒にいれば少しは安全だと思ったから、ちょっと強引に、あなたも連れてきてしまった。
うんうん。違う、あの時私がいながらアンナを危険な目に遭わせてしまった。
本当は帝都の方が安全かもしれない、だって、あいつがいるから、私は選択を誤ったかもしれないから。
だから、
ごめんね――」
肩に置かれた手が震える。手が、震える。
私はタマーラの手に、自分の手を重ねる。
手から伝わる体温は普通なのに、なのにとても冷たく感じてしまう。
――まるで今のタマーラの心みたい。
「大丈夫だよ。タマーラ」
「アンナ――」
「うん。だって、私は自分の意志でみんなに付いて来たんだから。
たしかに最初はタマーラの強引さにされるがままだっけど、それでもタマーラは本当に私が嫌と言ったら、ちゃんと聞いてくれるでしょ?
だから、何にも気にしなくっていいの。
私はちゃんと、自分の意志でここにいるんだから。
それにね、私自身もコンスタンチン先輩のことが心配だったのもあるけど、こんな機会がないとモスクワに来ることもなかったかもしれないから。
だからね不謹慎だけどね、タマーラには感謝してるの。
もちろん。危ないところには近づかないし、みんな一緒に行動するれば安全だと思うから、思うから、大丈夫だよ」
重ねた手から震えが止まった。止まってくれた。
止まってくれた。止まる前に、ほんの少しだけ、震えて。
手が離れるのを確認すると、私はタマーラに振り向きお礼を言う。
「ありがとうねタマーラ。じゃあ御手洗いに行ってくるから先に待っててね」
「
部屋を出ていく瞬間、タマーラが何か言った、私には聞こえないように、小さく、ささやいて、呟くように。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
嘆きの夜。
悲鳴の雨。
慟哭の夜明。
だれもが悲嘆にくれる夜を過ごし、悲鳴は豪雨のように降り注ぎ、慟哭は新たな悲劇の幕開け。
誰もこの連鎖を止められない。
止めようとした男もいたが、ついには敗れ、行方知れず。
世間では彼は死亡したと思われているようだが、僕は違う。彼は必ず生きている。
生きている。はずだ。
だが、今、ここに彼はいない。
ならば、僕がどうにかするしかない。
彼がいないなら、誰もいないなら。
僕が、やるしかない。
そう、僕しか――
「! アンナがいない!?」
少し時間、この数時間の間、別のことに気を取られてアンナが帝都からいなくなっているのに気づかなかった。
いや、いくら他のことに気を取られていたからと言って、僕がこの帝都からアンナがいなくなっているのに気づかないなんておかしい。
黒い雪も降っていない。つまり、チェルノブイリの暗示迷彩は効いていない。
――そもそも、こういったことを防ぐため、無理をして《印》を渡したのに。だが、どうして…………まさか!
思い至る。こと人の精神については、あのメスメルすら凌駕しうる存在を、この国の影で暗躍する一人の男を、《黒い道化師》を、
――く、《
碩学の習性で思考に耽りそうになるのを振り切って、アンナを追う。
――《印》がある限りアンナを見失うことはない。向かっている方向から目的地を…………モスクワ!? なんであんなところに!
黄衣の王は駆け出す、全力で。
現在時刻は深夜二時、既に夜行列車は出発し、その蛇を想起させる巨体は既に闇の中。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ここは寒い、ここは暗い、ここは狭い。
ああ、なんて寒さだ。
あまりの寒さに体がうまく動かない。
ああ、なんて暗さだ。
どんなに目を凝らしても、何も見えない。
ああ、なんて狭さだ。
あまりに狭くって息すら出来ない。
そもそもここは何処だ?
そうだ。外に出ないと。
そう思い、身動きすら難しいこの場所から、もがき、あがく。
自分がなんと弱っていることに、今更気付いて、それでもなんとか脱出する。
そして、外に出た。
そこは灰色に覆われた世界。
そこは天も地も灰色に覆われた街。
そこはすべて覆い隠し、消し去る街。
本来自分のいた場所とは正反対の土地。
そこに迷い込んだ異邦者は、ただ、空と地を見渡し、
ただそこを行き交う人を見上げ、それは、歩み出す。
誰か、助けて。
それは動き出す。人を、車輪を駆動させる機械を、降りしきる灰色の雪を避けながら。
どこ行くはてもわからず、だれのあてもなく、ただ、生きるために。
最近の自分にしては早めの投稿。
さて、実は来月から私用ですこし、いえ、だいぶ投稿が遅くなるやもしれません。
出来る限り頑張りますが、それでも遅くなる可能性が大なので、すいません。
さて、アンナ一行はロシア帝国の第二都市モスクワに行きます。
一応モスクワを舞台にするのには多少理由があるのですが、それは、今後にと言うことで、
それと、最後の語りですが、あれは、え~~と、うん。
取り敢えず人間ではないのであしからず!
ではとりとめもない話はこれくらいにして、
親愛なるハーメルン読者の皆様方。良き青空を。
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2-6
「いやーあのビーフストロガノフ美味しかったですね。
ごちそうさまですコンスタンチン先輩」
「そうですね。僕は一緒に盛ってあったサフランライスが良かったです。
いや本当にごちそうさまコンスタンチン先輩」
「そうね。あのビーフストロガノフはこの辺りでは見ないやつだったわね。どこ風かしら?
でも、本当に美味しかったわ。誰かの
「……ええ……そう、ね――」
私たちは今、モスクワ市街を五人で歩いている。
五人で食事の帰りだ。
本当は六人の予定だった食事。
そのこれなかった一人の少年。金髪で溌剌とした少年。
『夢は灰色曇の向こう、宇宙に行くこと』と豪語した珍しい少年。コンスタンチン先輩と話しが合う明るい少年ユーリィ・アレクセーエヴィチ・ガガーリン君。
彼も飛空艇学会の発表会を見に来ていたところ、コンスタンチン先輩と会って意気投合、その後もコンスタンチン先輩とのいるモスクワ郊外の宿泊施設まで足しげく通うって語り合ったんだとか。
もちろん彼の親は止めた、止めはしたのだが、聞かずに通うものだから最終的に諦めてしまったらしい。
それからコンスタンチン先輩とガガーリン君は暇な時間がある度に語り合い、笑い合い、騒ぎ合った。
その間、二人はお祭り騒ぎで食べ物を消化、研究会の人たちが帰る時も後先考えず消化。
結果今回の外食につながる。
しかし、ガガーリン君も夜の外食となると話は別で、今現在危険地帯であるモスクワで夜に外を出歩くのは流石に看過出来ず、両親から待ったがかかり、ガガーリン君を家まで送っていったあと、改めてモスクワ市街の飲食店に向かった。
が、そもそも街がこんな状況で、夜に営業しているお店も少なくなっていたので、探すだけで苦労してやっとの思いでお店を見つけたのが夜八時。この街に来てから時間が掛かってばかりだ。
コンスタンチン先輩が彼を気に入っている理由は、彼が灰色曇の
そう。彼は自分が行くことを夢見ている点、それに感心、いや感銘を受けたと言っていた。
なまじ学問を学んだがために有人による突破を諦めていたコンスタンチン先輩に衝撃が走ったと言っていた。
次にビーフストロガノフのお皿に一緒に盛り付けてあったサフランライスの感想を言うシューホフ先輩。
シューホフ先輩は純粋に美味しいものを食べさせてもらった感謝をのべているだけで他意はない。
最後に、お淑やかに歩きながらも、自分たちよりも後ろをトボトボと歩く人を、コンスタンチン先輩を時折睥睨しながら歩くタマーラ。
タマーラの
ウラジミール先輩はそんなコンスタンチン先輩に憐れみの視線を向けている。
私はというと、やはり少しコンスタンチン先輩が気の毒だと思ったので『少しは出しましょうか?』とは言ったが、先輩は『大丈夫だ』と、ひきつった笑顔で強がっていた。
――なんか、ごめんなさい。
そんな私の肩にタマーラの手が置かれた。タマーラは目を伏せて無言で首を振る。
「いいのよアンナ。むしろこれで少しは計画性と言うものを学んでほしいくらいよ」
「ああ、確かにコンスタンチン先輩は設計や計算力は素晴らしいものがありますが、それ以外は本当にダメですからね。ええ、そこさえどうにかなるなら手放しで尊敬できるんですけどね」
「いや、それを言うなら生活態度というか、私生活そのものがいい加減ですよね。いい加減ですが、不思議と結果的にはちょうどいい具合と言うか、予め誤差を計算に入れているような事をするから侮れないんですよね。
実際、どうなんですかコンスタンチン先輩?」
ウラジミール先輩とシューホフ先輩がタマーラの後に続くが、毀誉褒貶の判断がしずらい物ばかりで、全部ではないものの、一部についてはわからないが、少なくとも私が知る限りでも正鵠を射ているあたり弁護がしづらい。
コンスタンチン先輩はしょげていた顔をあげ、私たちに向き直り声をあげる。
「う。うるさいな! いいじゃないか別に、万事は滞りなく済んでいるんだから。
それに、俺は電報に来てくれなんて書いてないぞ。それなのに勝手に来た後輩たちに飯を奢らさせられる身にもなれ。
まあ。来てくれたのは嬉しいけどよ。
でも、俺は資材や資料を送ってくれとは頼んでも、来てくれなんて書いてない筈だ」
「え?」「は?」
私とタマーラが同時に疑問符を浮かべる。
コンスタンチン先輩は呼んでいないと言う。しかし、ウラジミール先輩たちは呼ばれたと言っていた。いったいどちらが正解なのか? それとも双方に誤解があるのか? どちらにせよウラジミール先輩たちに視線を向ける。
ウラジミール先輩たちはお互いに視線を交わしてから、一緒にため息をつき。
先の動作でずれた眼鏡を直したウラジミール先輩が滔々と喋りだした。
「コンスタンチン先輩、たしかにあなたは『来てくれ』何てことは一言も書いてありませんでした。
けれどね、逆に言えば、一言も言及してないのがいけないんですよ。さっき言った通り貴方は設計、計算、組立までこなす正に将来碩学になるに相応しい方です。残念ながら」
「おい。最後一言は余計だぞ」
「されど、そんな貴方でも一人で飛空艇の整備、あるかもしれない発表会当日の作業を全部こなすのは不可能だ。でも、あなたはそんなことを承知の上で、私たちに応援の一言もなく残ることを選んだ。
それは勇気と言える。
それは無謀とも言える。
それは無責任と言える。
貴方は私たちに居場所をくれた。違う貴方が居場所だ。
そもそも研究会は貴方が初めて、貴方が集めて、貴方が回しているんだ。貴方は研究会の
貴方は私たちに居場所だけでなく、友を、同志を、夢を与えてくれたんだ。今回私たち二人が来たのだって立候補したからなんだ。無論、他の者たち、研究会の大半が立候補した。それでも私たち二人だった理由は直接的に飛空艇に携わることが少ないからだ。
変えは効く、とは言いたくないが、少なくとも私たち二人がいなくっても飛空艇の研究には差し支えない。
帰ってきた者たちも本当はコンスタンチン先輩が強制的、いや、自分も一緒に帰るとか言いながら列車が出発する直前に降りて彼らを帝都に帰したんでしょ? この研究会に属する者がコンスタンチン先輩を置いて行くわけがありません。
そんな貴方を私たちが放っておけるわけないじゃないですか。
だから、貴方は責任をとって私たちが手伝うのを了承するしかありません」
「……ウラジミール先輩、私、あなたがこんなに饒舌に話したの初めて聞いたんですけど――」
そうだ。普段喋る時は端的に、親交ある人には少々言葉を増やして、コンスタンチン先輩には辛辣なウラジミール・ベルナツキー先輩が、コンスタンチン先輩を褒めている。
――いったいどいう風の吹き回しだろう? ん? でも一部まだ辛辣な気が……
「――まぁ、たまにはこの残念ながら尊敬してやまない先輩に自分の価値と、認識の甘さを確認してほしくってね。
それに、あなたたち二人いた時の方が堪えると思いましたからね。
本来この手の役回りはシューホフに任せたんだろうけど、少々この色々無自覚な男が癪に触って、つい、ね。
というわけで、私が柄にもないことまでしたんですから、おとなしく手伝わせてください。
残念ながら敬愛してやまないコンスタンチン先輩――」
「……まったくですよベルナツキー先輩、そういういい場面は僕にこそ相応しいのに――」
「シューホフ先輩が相応しいかどうかは別にして、私たちをダシに使ったのは感心しませんけど、しませんけど、私とアンナも三人の手伝いをしにここまで来たんですから、今更追い返すなんてことは無しにしてくださいね。コンスタンチン先輩」
ウラジミール先輩が、タマーラが喋りだ終えるとコンスタンチン先輩に手をさしのべた。
その表情は暖かく、柔和な笑みを浮かべて、普段コンスタンチン先輩や私たちでも見ることのない。見たことのないウラジミール・ベルナツキー先輩の顔がそこにあった。
件のコンスタンチン先輩はと言うと、
「……ウラジミール。お前本当にウラジミールか? 偽物じゃないか?」
「…………はぁ。全くこの人は、人がせっかく本心からの言葉を掛けたのに――」
後輩を疑っていた。
――たしかに、さっきのウラジミール先輩はいつもと違って、ううん。いつもとは違っていたけど、コンスタンチン「先輩に対して真剣に向き合って説得するウラジミール先輩はとても素敵でした」
「な!?」「!」「――!」「――」
四人が一斉に振り向いた。四人の表情。
顔を紅くして、口をパクパクさせているウラジミール先輩、
そんなウラジミール先輩と私を交互に睨むタマーラ、
なにか、酷く困惑しているシューホフ先輩、
なぜかニヤニヤし始めたコンスタンチン先輩、
四者四様のそれに、私は疑問を覚える。
――あれ? 私何かしたかな? 特に何もし……
「……もしかして、私、口に出てました?」
口に手を当てて、恐る恐る聞いてみる。
「おいおいウラジミール、お前も女の子に褒められたからってそんなに顔を紅くして、初心だな~~」
「ちょ! や、あ、アン、な。ってやめてくださいコンスタンチン先輩! だか」
コンスタンチン先輩がウラジミール先輩の左腕で捕まえ脇腹を突くも、ウラジミール先輩はうまく言葉でず身を捩るばかり。
「――ウラジミール先輩、あとでお話が」
タマーラは……怖い顔をしている。
「……………
シューホフ先輩は、先程よりも暗く、何か呟いている。
「あ、あの私は――」
私は何か話題を変えようとした時、すぐ近くの角から大きな音がした。
その音は、爆発音と粉塵と共にボロボロの男が転げながらも立ち上がり、私たちに気づく様子もなく走り去ろうとした。
だが、逃げ惑う男の足が、突然、何らかの圧力により、理解の外にある力により。まるで雪を握り潰したかのように膝から下が細くなった。無論そんな足で自分の体重を支えられるわけもなく転倒し、片足が使えないせいか先程のように上手く受け身が取れず、そのまま転がり壁に激突した。
――――そして
粉塵の中から足音がする。
その足音はなんら変わった音と言うわけではない。
――――近づいてくる
そう。なんらおかしいということはない。ただの足音、
ただ、冷たく、硬く、思い、人が歩いているとは思えない足音にも聞こえる。
――――だめだ、早く、みんなと逃げないと
未だ晴れぬ粉塵の中、その容貌すら見えぬ粉塵の中、それほとの粉塵を巻き起こす暴威を受けながら平然と歩いてきた
それは、転げた男の前で止まると、喋り出す。
それは、人の発する声と到底思えないモノだ。
鉄をも上回る鋼鉄の強度を持って。
重たく、硬く、鉄の軋むような声で。
「逃げても無駄だ。おとなしく話せ。すべてを」
思ったよりも早く書けたので投稿。
うん。というか、休みに一気にやろうと決めて、そのままの勢いで書いてみたから、うん。いろいろアレかもしれない。
コンスタンチン先輩をしばらく書いていなかったからこんなんで良かったか自分で不安。それとコンスタンチン先輩がなんで慕われているかを軽く説明の回でした。
一応年長者だし、みたいな理由で慕われているわけではないのですよ!
まぁそんなことは置いといて、誰だ! 小鳥ちゃんが鋼鉄の人に会わないなんて言ったのは! あ、俺でした。
うん。会っちゃいましたね。さて、どうなるやら、とにかく、鋼鉄の人から逃げるには一目散に、気付かれぬように逃げるのが肝要だ。もしも気付かれたら逃げれない。
うん? あれ? なんで俺そんなこと知ってるのかな? うう、頭が……
うぅでは、親愛なるハーメルン読者の皆様方。良き青空を。
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2-7
「逃げても無駄だ。おとなしく話せ。すべてを」
そう言う声が煙の中から聞こえる。転がった男に、鋼鉄の強度を伴う声を響かせる。
視認さえ困難な程濃い煙のなか、音さえ遮ってしまいそうなほど濃い煙のなか、異様ともいえる存在感を放つ声で、片足の潰れた男に問う。
「……知らんな。何のことかも、どういうことかも、すべてといこ――」
言葉途中で切れた。切られた。潰された。
問われた男の片足が、無事であった片足が潰れた。
その凄絶な痛みに悲鳴さえ出ることなく、声にならない悲鳴を上げてのた打ち回る男。それを平然と見下す男、そして、再度その超重量の声を発する。
「二度目はない。すべてを、話せ」
「知らない! なにも知らないんだ!」
涙を流し、知らぬと言い張る男。
嘆きのながら、首を左右に振る男。
いや、口が。口角が、鋭い。
「ああ、知らない――貴様等に教えてやるようなことは、何一つな!」
男が懐から小さな、コーヒーカップくらいの大きさの物を相手に投げる。
こんなシーンを見たことがある。アレは、映像学科の自主製作篆刻動画披露会で見たシーンと似ている。
ならば、アレは爆弾だ。一動作で暴発するように作られた小さな機関、それに火薬や鉄の破片を詰め込んだソレだ。追い詰められた男は逃げられないと悟り、自爆を選んだんだ。
回りに何が、誰が、いるとも気にかけることなく。動画では映像を重ねることにより、実際に爆発に巻き込まれたように見せたが、アレは違う。
人を害する為の発明。人を傷つける為の知恵。人を殺す為の
瞬間、私は機関が爆発するのを幻視する。皆も咄嗟のことに動けず、棒立ちの状態で巻き込まれるかと思われた。
だか、そうはならなかった。
いつの間にか、男の側に立っていた小柄の男が、帽子を深々とかぶり赤いコートに身を包んだ男が。
身動き一つとれない男の側にメモ帳に何か書き記しながら、自爆を選択し座り込んでいた男を片足で大地に叩き着けた。
腹部にちょうど、爆弾が隠れるように、腰から押さえ付けて。小さな音がすると男は動かなくなった。
「……ニコライ・エジェフ」
「は! 我が主」
自爆を選択した男を殺した男は、主と言う男に跪き、深々と頭を下げる。
大袈裟なほど畏まり、胸に添えた手にはメモ帳を握りしめ、平静を保っているようで
「なぜ殺した」
「は! 恐れながら申し上げます。かの者は我が主の質問に誠意をもって応えることをせず、ましてや害をなそうとしたため、存在する価値無しと判断。処断しました。
そんな些事よりも我が主、そこにいる拝聴者どもはどうしますか? 尋問しますか? それとも殺しますか?」
エジェフと呼ばれた男が顔を上げることなく、視線すら臥したまま提案する。凶悪なまでの、慈悲もなく、喜悦の笑みを浮かべながら、提案する。
そんな状況で、コンスタンチン先輩が私たちにしか聞こえないような小さい声を出す。
「
私の足元の、灰色の雪を赤く染める液体が飛散する。それとほぼ同時に、コンスタンチン先輩の小さい声が、逃げるための相談が、一発の銃声で途切れた。
コンスタンチン先輩は悲鳴を噛み殺し、出血を抑えるために撃ち抜かれた箇所を、右太股を両手で押さえる。
跪き頭を下げていた男の手には銃が握られていた。今尚も下げ続けているのに、視線さえ向けてもいないのに、冷たい意思が此方に向く。
「……おい、貴様等。我が主の声が拝聴できる貴重な機会に、なに囀ずっている。
いや、それどころか、なぜ痛みを感じている?」
立ち上がる男。傍目からも小柄なのが伺えたが、立ってみてその身長は私たちと同じくらいで、見る人が見れば子供と勘違いされるだろう。
だか、見たことのない制帽の向きを直している時に見えた顔には、まるで大型の犬科を思わせるギラギラした瞳と犬歯。
――違う、あれはどのような狼さえ食い殺す
「……そこの奴、なぜ痛みを感じているのだ? お前は畏れ多くも我が主の声を、御姿の輪郭を瞳に映したのになぜ痛みを感じている?
我が主を拝謁し、拝聴したのならば。痛みを忘れ、痛みを凌駕する歓喜にうち震え、恐悦至極するが当然であり、道理であろう。
そうでないのなら、貴様に生きている価値は、ないッ――!」
激昂とともに銃をコンスタンチン先輩の頭に向ける。その胸に手帳を抱きしめながら。
その人差し指が、引き金にかかる。
「――待て、ニコライ・エジェフ」
ニコライ・エジェフを静止する声が響く。それはあと、コンマ数インチも引き金が動けば弾丸を銃口から射出されたであろう動作を、寸分の誤差無く静止させた。
ニコライ・エジェフと呼ばれた男は銃を下げると声の主に向き直り、跪く。
先程まであれほどの怒気が噴出していのが、いまでは見る影もなく、なりを潜め、歓喜震えている。
ニコライ・エジェフが跪くのと同調するように、あれほど無風だったこの場に、風が吹く。
――――舞台の幕が
――――鯨幕が上がるように
――――煙というベールに覆い隠されていた存在が
――――今、太陽亡き大地に、晒される――――
先の逃げていた男の時とは違う、それは鉄をも上回る鋼鉄の強度を持って。
重たく、硬く、鉄の軋むような声の男。鋼鉄の男。
真紅のスーツと制帽に身を包んだ男。制帽の端から見え隠れする色素の薄い灰色の髪に青い左瞳と、猫のような
その、黄金の瞳が、私たちを見ている。いや、
そのおかげで助かったとも言える。もしも、アレが真に私たちを見ていたのだとしたら、敵対者として見ていたとしたら、私たちは、それだけで絶命していたのかもしれない。
――いや、そもそも、先程まであの人は、
「ニコライ・エジェフ。あの者たちに危害は加えるな」
「…はい、いいえ――。ですが、目撃者たちをこのまま」
「ニコライ・エジェフ。お前は誰の部下だ?」
「我が主の忠実なる者なれば」
「ニコライ・エジェフ。お前に命令できるのは誰だ?」
「我が主のみ」
「ならば、わかるな」
その言葉に、私は少しの安堵を覚える。このまま見過ごしてもらえば、助かる。
だが、そんな淡い期待は、浅はかであった。
「あの女二人を除き」
無慈悲なる判決。
ただ重く、硬く、鉄の軋むような。
抑揚のない、感情のない、鋼鉄の強度を持った声で裁断を下す。
「――は!」
「特に、あの黄金瞳の娘を徹底的に、
それだけ言うと、鋼鉄の男は懐から紙を取り出し、目を通し始める。指示を出し終えて、次の仕事に移るための下準備のように。
――
唯一私だけを名指しした鋼鉄の男のことを、私は知らない。けれども、この黄金瞳が関係しているとなると、考えられる人は少ない。でも、そんなことを悠長に考えている暇ない。
此方に向き直るニコライ・エジェフは。その表情は歓喜そのものであり、その口角は絵本で出てくる三日月を彷彿させるほど高く。今の彼は主の敵を、いや、障害を排除することに至上の悦びとする番犬だ。
先程とは違うのは、銃を懐にしまい、手帳を胸に抱き。此方に進む。
一歩。
一歩。
一歩。
また一歩。
私とタマーラに近づいてくる。最短で、無駄なく、最速で主に献上できるように。
そんな状況で、コンスタンチン先輩が私たちとニコライ・エジェフの間に、視線を遮るように立ちはだかる。その足からは未だに血が零れ落ち、腰から下は震えている。なのに、
「……なんのつもりだ? 貴様はさっさと止血をして大人しくしていろ。邪魔だ。
せっかく我が主の恩情で永らえた命を無駄にするつもりか? そうならそうと早く言え、即座に断罪してやろう。主の御心を
「……ふん。弱り切った男か、弱い女にしか強気になれないヤツが偉そうに。おまえアレだろう、子供のころから人付き合いが下手で、小動物をいじめることしかできなかった可哀想な子供だったんだろ?
そんな卑劣漢に後輩たちを触らせるほど俺は男をやめちゃいないんだよ! とっとと消えろ! この下衆が!
ほらお前たちも早く逃げろ! こいつは俺がどうにかしておくから! 特に男二人は必ず女どもを逃がせよ。俺たち男はまだエイダ主義に屈してはいないって所を見せつけてやれ!」
コンスタンチン先輩が私たちに逃げるように怒鳴りつける。本気で一人であの男を止めるつもりだ。
足を銃で撃たれて、止血もまともに出来ていないのに、私たちを逃がすためにニコライ・エジェフに立ち塞がっている。腰より下は震えているのに、声は少しも震えておらず、視線を逸らすことなく、私たちの盾になろうとしている。
――でも、
「何言っているんですかコンスタンチン先輩! 先輩も一緒に逃げるんですよ!」
そうだ。私たちだけが逃げてもダメだ。みんなで逃げないと、じゃないと、日常に帰れなくなってしまう。
暖かで、優しく、失われた春のような演目は、まだ終わっていない。終わってほしくないんだ。
「……無茶言うなよアンナ。こんな足じゃ文字通り『足手まといだ』。それじゃ二人は逃げきれない、だったら誰かが時間稼ぎをしないといけないだろ。
ほら、俺は男で先輩なんだからさ、たまにはかっこつけさせろよ」
そう言っている間も、コンスタンチン先輩はニコライ・エジェフから目を逸らさない。むしろ、決意を固めたのか、声が力強くなった。奇しくも私の言葉が先輩の後押しをしてしまった。
「そうか、命は惜しくないか。しかし、我が主は貴様らを殺すなと命じられた。故に殺しはせん。
――だか、手を出すなとは言われなかった。だから――殺さぬ程度にしておいてやる。ついでに止血もしてやろう、死なれては私が困るからな。ついでに言っておくが、私が恩情をかけることはないぞ、私は主のように寛大ではないからな。
小娘ども、逃がしはしない――」
ニコライ・エジェフは姿勢を低くし始めた。四足の猛獣の如く低く、両手を大地に伸ばす、手を伸ばしてコートから覗く彼の腕からは赤い毛が、口からは在りえないほど犬歯が伸た。
――まるで民謡に出てくる
「さて、行くぞ小僧。死ぬなよ――」
――――ニコライ・エジェフが弾丸の如く駆ける。
――――その全身紅い様相からまるで、大地を駆ける大きな火の玉が、
――――道行くすべてを、進路上にある悉くを砕く弾丸が、
――――コンスタンチン先輩に、迫る。
しかし、その火の玉とコンスタンチン先輩の間に、
黄色い星が、今は見ることのない流星が舞い降りた。
「ガっ――!」
――二人の間に割って入った星が、火の玉を、弾き飛ばした――
その光景を、私は一度見たことがある。
――そこには少年がいた――
――着古した黄色とも緑ともとれる外套をした少年が――
「やあ。こんなところで奇遇だね
「あ、あなたは――」「あんたは――」
――――そこにいたのは、黄衣の王。ユーリー・ハリトン。あの日、私たちを救ってくれた人だ。
はい。そう言うわけでコンスタンチン先輩アゲアゲ回二弾終了。
ユーリー・ハリトンさんこと、黄衣の王は間に合いました。まだ一難残っているのですが、それはそれで、うん。コツコツ書いて、やっと出来ました。だいぶペースが乱れていますが、まだまだ頑張ります。
そんなわけで、金銭事情が厳しく、再来月にはヴァルーシアをやることを目標にしたいとここで宣言します!
それと、はやくSFF(スチームパンクフルボイスファンディズク)ダウンロード販売しないかな~~と思うこの頃。
では、親愛なるハーメルン読者の皆様方。良き青空を。
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2-8
彼はまるで、道端で偶然顔見知りにあったかのように声をかけてくる。
それが、このような凄惨な場所であろうとも。
たとえそれが、すべてを覆い隠す、
「さて、一生言いたくはなかったが、はじめまして、こんにちは鋼鉄の男。自己紹介は……不要かな、まあ《黄衣の王》とでも呼んでくれればいいよ。呼ばれたくはないけどね」
ニコライ・エジェフが主と崇める男に、ユーリーさんは慇懃無礼な態度で応対した。
しかし、そんなユーリーさんを看過しない者がいた。
「き、貴様ーー! 我が主に対して! その無礼な物言い、万死すら温いと知れ! いや、そもそも私の執行を止めたということはつまり、主に対する反意と見なし、一族皆すべて、友人、恋人、教師、先輩後輩に至るまで刑の対象とする!」
先に蹴られ顔の中心がへこみ、鼻血だけではなく口からも血を垂らしているのに、それらに一切の関心はなく、止血しようとすらしない。
いま彼にあるのは怒り、憤怒、赫怒のみ。それが痛みを超越している。
「……煩いぞ駄犬。鋼鉄の男、飼い犬の躾くらいちゃんとしておけよ。僕はね、好嫌は別にしてお前のことを少なからず評価していたのに、これじゃあ買いかぶりだったのかな?」
わざとらしく、仰々しく、嘲るような仕草をする。
「貴様! 言うに事――」
「下がれニコライ・エジェフ」
制止の声、それは今まで沈黙をしていた鋼鉄の男から発せられた。
「しかし、わ」
「下がれ」
再度告げられる制止の声、先程よりも密度を増した、鋼鉄の声。
告げられた命令にニコライ・エジェフは苦悶と苦渋、歓喜と光悦の相反する表情をしながら、声どころか歯ぎしり一つ無く鋼鉄の男の後ろに下がる。
「……さて、黄衣の王が、このような所に何の用だ?」
「何の用だとは、なんとも。ただこの街の用があったまでのことだが。それよりも先程のことを訂正しよう鋼鉄の男。ちゃんと飼い犬の躾は出来ているようでなにより」
手をパンパンと叩いて鋼鉄の男を嘲笑するユーリーさん。鋼鉄の男の背後で制帽を深々と被るニコライ・エジェフの表情は見えないが、握られた拳から血が滲み出ている。
まるでニコライ・エジェフを相手しないユーリーさんは、ただ鋼鉄の男のみを見ている。挙動一つ見逃さぬよう注視している。
「戯れ言はよせ、私はその女二人に用がある。邪魔はしないでもらおうか」
鋼鉄の男が一歩踏み出す。同時に周囲の空間が重くなる。鋼鉄の男が私たちを明確に認識しただけなのに、それだけで心が
「なおのこと退けないな、彼女たちは僕の知り合いでね。その彼女たちに危害を加える気なら、僕も黙ってはいられない。
君たちと事を構えるのは本意ではないが、仕方ないね」
ユーリーさんが左手を突き出す。それだけで周囲の空間が熱くなる。ユーリーさんが鋼鉄の男を明確に敵と認識しただけなのに、それだけなのに肌がチリチリとして、熱いはずなのに冷や汗が止まらない。
二人の間の空間が、重圧で、灼熱で、まるで異界に迷い混んだみたいだ。
そのまま、
しかし、
「退くぞニコライ・エジェフ」
鋼鉄の男が踵を返した。
「な! なぜです我が主! あのような不敬の輩に生きる価値など――」
「黙れ、お前もあの者たちに関わるな」
「しかし」
「黙れニコライ・エジェフ。今奴と事を構えても益はない。奴が本気になったら私とてただではすまない。
それに、いや、もう遅い」
突如、鋼鉄の男とユーリーさんの周囲にけたたましい銃声と共に煙が立ち込める。
私たちはその音に
『我々は帝国陸軍だ。全員武器を捨てて、膝を地面に着け両手を頭の後ろに回し投降しろ。これは警告ではない、最後通告だ。繰り返すこれ――』
周囲一体に大きな声が響く。拡声器から響く声は意図的に加工されていた、それこそ男か女か子供か大人かさえもわからない程に。
私たちはどうするべきか、そう思考を走らせようとした時。鋼鉄の男とニコライ・エジェフの辺りに立ち込めていた煙から、
そこには、丸いものが転がっていた。独特の光沢からヘルメットなのがわかり、ただヘルメットが落ちただけかと思った。
けれども違った。そのヘルメットから
瞬間、私は、私の目の前に落ちているのが、なにかわかった。
わかり、激しい吐き気が込み上げた。
「帝国の狡兎どもが! 貴様らは今、神に弓を、いや、それより尊き方に弓引いたのだぞ! わかっているかーーーーーーー!!!!!!」
建物から上から雄叫びが響く。そこには両手を紅く染めたニコライ・エジェフが赫怒に猛り狂っていた。自分の主に弓引いた逆賊に、先ほどユーリーさんに向けていたものとは比べ物にならないほど。あまりにも興奮で、背後から陽炎らしきものが幻視するほどの憤怒。
即座、ニコライ・エジェフに向かって四方八方から銃弾が殺到する。だが、着弾の音が瞬間にはニコライ・エジェフの姿はなく、また一つ、
「学習能力のない愚劣かつ
空を縦横無尽に駆け回り、目にも
「アンナ呆けているな! 今のうちに逃げるぞ!
お前たちも早く!」
コンスタンチン先輩が、みんなに逃げるように激を飛ばす。
しかし、あの
「小娘ども! 誰がにげることを許可した!」
ニコライ・エジェフが、私たちに飛びかかる。
「お前こそ、誰が彼女たちに触れることを許した?」
ユーリーさんがニコライ・エジェフを蹴り飛ばし、大地に叩き付けられたニコライ・エジェフは叫喚する。
「また邪魔をするか、黄色の小僧!」
「ちょっと待て! 俺は一人で走れる」
「そんな足で走れるものなら走ってみてください。できませんよね。できないなら『足手纏い』らしく、大人しくしてください。コンスタンチン先輩」
「そうよ。強がりするなら後にして。
シューホフ、アンナを頼んだわよ!」
「行くぞアンナ!」
私の手を取り走り出すシューホフ先輩、コンスタンチン先輩は強がりをするも、先ほどの覇気はどうしたのかたいして抵抗をすることなくタマーラとウラジミール先輩が肩を貸して走り出していた。
私たちは駆ける。ユーリーさんたちから背を向けて、鋼鉄の男たちから逃げる。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ああ、何故だ。
ああ、なぜだ。
ああ、ナゼダ。
何故、ここにいる者たちは、蒙昧たちはあの方の威光に跪くことをしない。銃が向けなれる。
なぜ、こんな奴らが生きていられる。生を受けることが出来んだ。
ナゼ、こいつは《王》を僭称し、
ナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼ
「なぜ邪魔をする黄色の小僧! 我が主の道を妨げる!」
「さてね。僕自身は鋼鉄の男に興味が欠片もない。それに、初めに言った通り関わりたくないくらいだけどね。
それにさ、主の命令に背いていてもいいの? 駄犬」
私に二度も土を付け、不遜にも我が主に敬語を使わず、不敬にも膝を屈さない愚か者。
なにより、我が主に、我が主を、まるで市井のごとく扱うことに、愚かという言葉では表せない程の愚か物。
我が主と共を僭称するモロトフの
「主の意向を察し、遂行し、完遂するのは臣」
「ニコライ・エジェフ」
「は!」
主が呼ぶ、脊髄反射よりも早く駆けつける。
「警戒を厳」
刹那、黒い雪が降り始めた。それを見た黄衣は後ろを振り向き、駆け出した。
私は奴を仕留めるために体制をとる。
「ニコライ・エジェフ」
「しかし――」
視線が向けられる。それで制止はする。制止はするが、今すぐ飛び出したい衝動に駆られる。だが、我が主の命は絶対だ。だから、耐える。
「……はい。いいえ。これはジェルジンスキーの仕業でしょうか? それともベリヤの」
「――それはない。ジェルジンスキーならば一言あるだろう。それにベリヤ如きにそんな権限はない。ジェルジンスキーが許すはずもない。なによりも、チェーカーが今もわれらを監視している。
そのチェーカーどもから来ないということは、ジェルジンスキーの関与はない。ならば――――」
「
瞬間、空間が重くなる。
重圧が、空間を軋ませる。
私は無言となる主に侍り、厳戒態勢を維持する。
次に、仕留める目標を、定めて――――
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
手に伝わる温かな体温。鼻腔をわずかにくすぐる甘酸っぱい匂い。耳に届く息遣い。
今俺は、アンナの手を引いてる。そうた。今俺とアンナは一蓮托生、いや互いを思いあって、互いに互いを必要とする相思相愛だ。そうだ。これが、これこそがあの人の言っていた《その時だ》。
だから、彼女をあそこに、彼女とあそこに行こう。そこで、そこで彼女からもらうんだ。あの人も言っていた、アンナなら喜んで協力してくれるって、献身的とも言える思いで応えてくれる。そう言っていた。
だから、
だから、
だから、
だから、
アンナ――一緒に行こう。
途中で三人とははぐれたが問題ない。あるはずかがない。だって、これが正解だから。これがあの人の導きに違いない。
俺は何て幸福者なんだ。これこそが神の導きなんだ。俺は今始めて神を感じた。
そうだ。これから、俺たちは一歩を踏み出すんだ。
これから、二人の世界が、時間が始まるんだ。
ああ、嗚呼、アア、アンナ――――
愛しい、愛しい、アンナ――――
俺が、見せてあげるよ。俺の、夢を。俺の、傑作を。
来月にはヴァルーシアを買う予定のジンネマンです。
今回はちょっと早めに書けて少し安堵してます。
さて、本来なら今ごろ二章を終わっている予定だったのですが、まあいつものことだ。
一応は全体としてあと四章で終わる予定。来年には完結させたいね!
では、短いですが、親愛なる皆様、よき青空を。
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2-9
見つけた。見つけた。見つけた。
その身に宿す灼熱。その身を焼く烈火。その身を焦がす業火。その身を滅ぼす劫火。
この灰色雲の極寒、この白でも黒でもない雪降る寒冷の地、すべてを拒絶し世界を暗く染める大地、ある種の原生にして永遠を体現する極北。
私は、私を見つける。私の見つける。
待っていた。この者を――
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
――失態だ。また、失態を繰り返した。
――駄犬の追撃を防ぐためとは言え、あれだけ近くにいたのに、またアンナを見失うなんて…………
――ソウジ。彼の、彼との時のようにはならない。
――救うんだ。今度こそは、必ず。だから、ペルクナス、ハヤト、力を貸してほしい。
歯を食いしばり、険しい表情で、口角を鋭く。
アンナがいるであろう方向へ向かう。まだ遠くには行っていないはず、まだ微かに鼓動するアンナとの繋がりを懸命に探りながら――
あの日の誓いを、数限りなく契約した自身への悔恨を、今度こそ違えなくないこの思いを――
自身の不甲斐なさに対する怒りを押し込めて、いっそすべてを灰塵と帰したくなる
アンナの元へ駆ける――
自分が、今どのような顔をしているか――
知らずに――
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
私はシューホフ先輩と逃げている。二人で逃げている。痛いくらいに私の手を強く握るシューホフ先輩と一緒に走る。
途中黒い雪が突然降りだして、気付けばタマーラとコンスタンチン先輩とウラジミール先輩を見失った。
以前にも、似たような状況にあった。
しかし、以前とは違う。違うのは私の手を握る人がタマーラではない、シューホフ先輩だということだけではない。
違うのは、顔だ。
私の手を握るシューホフ先輩の顔は、笑顔だ。
違う。たとえ、どこまで遠くに逃げても、どれだけ速く逃げても、あの鋼鉄の男の人からは、決して逃げれない。なぜだか、そう思えて、そうとしかわからない。
けれどもシューホフ先輩は違った、恐怖なんて微塵もなく、なにか焦燥に駆られている。何処かに向かっている。何処かに。
私はシューホフ先輩に問いかける。
「シューホフ先輩、ど」
「なにも心配はいらないよアンナ。俺が、必ずや叶えるから!」
「――――」
返事はしてくれた。してくれたが、そこ思考も、意思も私には向いていない。ただ、《目的》のために走っている。背中がぞわりとする。アノ二人の時とは違う悪寒が走る。
今私の手を握り、引っ張るように走っているシューホフ先輩は、いつもの役者さんみたいな立ち振舞い、私やタマーラに優しいシューホフ先輩じゃない。あの時、私に夢を熱く語った。夢に向かって
今の先輩と一緒にいたくない。
だから――。一瞬、ここでシューホフ先輩の手を振り払って、別々に逃げたい。ほんの一瞬、そんなことが思考に横切った。
――ダメだ。そんなこと絶対に、ダメだ。今の先輩は混乱しているだけだ。そうに違いない。
――だから、そう。だから、私が止めなきゃ、止めなきゃいけないんだ。
「ッシューホフ先輩!」
「アンナこっちだ」
私の声に気づきもせず、目的地に着いたと告げると、扉を開けて地下へと進む階段を下る。暗く狭い階段をところどころ足元がもつれて転びそうになるのをどうにかして付いていく。その間もシューホフ先輩を呼び続ける。でも、帰ってくる返事は、「もう直ぐだよアンナ」と言うばかりで私の声が届かない。目が暗闇に慣れた始めると、降りる先に鉄の扉があった。
シューホフ先輩は扉を勢いよく開けて、私を中に引き入れる。
瞬間、サウナに入る時のような熱気と、嗅いだことのない臭気が鼻腔を突き抜け、脳を激しく揺さり、反響し、残響する。同時に意味がわからないくらいの吐き気に涙目になり、全身の鳥肌が立って足から力が抜けて膝を着きそうになるのを堪える。本当は膝を着いて、うずくまってしまいたいのに、吐き気を催した時に下を涙目越しに見た時――
見えてしまったのだ。
地面に浮かぶ
全身から暑さによる汗とは別の、とても冷たい、雪降る帝都の日のような冷や汗が吹き出る。
黄金の眼とは別に、いや、それらすべてを通り越して、すべての感覚が、危険信号を鳴らす。
なによりも、私を揺さぶったのが、部屋に入っても、平然と進み、踏みつぶし、私の手を引き続けるシューホフ先輩だ。
「さあ、ここだよアンナ。これだよアンナ」
聞きなれたはずの声が、とても高揚して異質で別人のように聞こえる。
初めて話した時も握った手は、骨が折れてしまいそうな程に強く握られている。
いつも真っ直ぐな瞳は、私を見ているはずなのに何処か別の人を見ているようにビントが合ってない。
手を離したシューホフ先輩が振り向く。声を高らかに、腕を目一杯に広げ、爛々とした瞳が私を射貫く。
その後ろに、人に似た、成人男性に似たシルエットの
それは響いた。
──
──
──
何かが聞こえた。違う、網膜に響かないが何かが聞こえた。
それは一度聞いたことのあるようで、聞いたことないほど濁ったそれだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「ふ――ははは――アハハハハ。ハハハハハハハハハ
遂に! 遂に追い詰めたぞ小娘!
ああ、これで、やっと、あの方は、私をみてくれる。あんな小娘ではなく私を頼ってくれる。私を――」
冷たく、鋭く、女性にしては低い声が、場に響く。
赫いドレス身に纏ったきれいな女性だ。
大きな赫い傘と深めの帽子で顔隠した女性だ。
彼女は一人、哄笑する。すべては事象は自分の掌で踊っていると。鋼鉄の男も、黄衣の王も、白く小く儚い小鳥も、何もかも、すべては自分の掌の上の演者と――
彼女の演出した歌劇は滞りなく、前回のような不測の事態もなく、すべては計画通りに回る悲劇、回転悲劇――
「そうだ。そうだ! そうだ!
ここまできて、失敗はあり得ない! そうだとも、たとえ黄衣の王が小娘の元に来ようとも、いや、そうなる前にあの小僧が小娘を燃く! わがメスメルは強固! あの小僧はなんの躊躇なく必ず小娘を灰にしている。
ああ、さすれば黄衣の王は我々に干渉できん! いや、たとえ新たな契約者が出来たとしても、その頃には、閣下が、我々が、すべてを終わらせている――」
哄笑する。
哄笑する。
哄笑する。
誰憚ることなく、一人嗤い続ける赫い女。
されど、女はしらない。嘗て、ある碩学がとある少女に人造心理を施すも、最後には破れたことも、人にそれほどの力があることも――
人の誰もが持つ輝きを――
人の強さを――
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
景色が変わっていた。以前と同じ街並みの、壁という壁に大小様々な時計が刻まれた街だ。
そして、景色が変わって、シルエットしか見えなかった
顔はプラナリアのように真ん中から割けて、額に書かれている奇妙な図形は半分にされた五角星形。
普通ならそれで動けるはずないのに、その異形は人間の造形はしていなかった。
なによりも、その両腕が、左腕がない代わりなのか右腕が酷く異状だ。肩から手首にかけて太い蛇のような鉄線で雁字搦めにするように、皮膚どころか肉を巻き込んでさえいる。其ほどまでに厳重に縛ってある。それは歪に膨らんでいて、赤く点滅している
そして、その右側から焼ける不快な異臭が立ち込めている。まるで、
左右に割れた喉元から異臭交じりの排気された湯気が、周囲の温度をただ上げている。
――いや、人の体温だけで、呼吸だけであんな白い息が出る筈がない。だったら、アレは――
「驚いたかいアンナ、これは《ハボリム》。
僕の最高傑作だよ!」
シューホフ先輩は嬉々として笑顔で誇り。
シューホフ先輩は鬼気とした笑顔で叫び。
シューホフ先輩は高らかに
「ああ、アア、嗚呼! そうだ!
ついに俺は夢をひとつ叶えた! この国から凍えを殺し、この国から氷轍を揮発させ! この国から飢えを抹消する!
その為に、その為に、その為に、その為に、その為に、その為に、その為に、その為に、その為に、その為に! これを完成させた! この
君との約束のために!」
シューホフ先輩が手舞足踏と語る。
夢。
約束。
叶うと。
――約束、夢、それって……
思い至る。シューホフ先輩の約束とはなんなのかを。初めて話した時のことだと。
そう想起すればするほど、目の前のシューホフ先輩が、以前のシューホフ先輩と、著しく乖離している現実に震えが止まらない。
そんな私に、震える私にシューホフ先輩が気付いた。
「ああ、ごめんなアンナ。かわいいアンナ。素敵なアンナ。愛しいアンナ。
きみがそんなに寒がっているのに気づきもしないで、そうだよな。今日のモスクワは冷えるからな。
だが、心配するな。ハボリムで暖めてやるよ。その為の
シューホフ先輩は笑顔で命令する。《ハボリム》に、異形にして異状なソレに。元々は人であったソレを、
《ハボリム》は肉を、皮膚を、鉄線で破裂させながら、腕を持ち上げ、私に向ける。
向けられた手のひらの中心に黒い円形が、円形の穴が穿たれていた。穿た穴を視覚に捉えた刹那、ナニかが訴えかけた。『右に跳べ』と、それは本能かもしれないし、他の感覚かもしれない。
穴の奥が明るくなる、その僅か前。
訴えが聞こえた時には思考することなく、右に勢いよく、受け身も何もなく必死に跳んだ。
直後、右肩と背中に激痛が走った。
受け身もとれず、地面に滑り込むように跳んだため、掌から肘にかけて皮膚がボロボロになった痛みより、ずっと強い痛み。
肩と背中に比喩ではなく焼けつく痛みが全身を駆け巡る。少しでも動かしたら皮膚が裂け、血と体液が溢れる。
《ハボリム》が放たれた。圧倒的な熱を纏った線。すべてを焼き尽つす熱量光線。
この時の私は知らなかったことだが、熱線を放った機関は、先進国の軍に配備されているこの世に壊せぬモノ無しと言われる圧縮蒸気砲、それを小型化し、人に埋め込んだ。それが《ハボリム》なのだ。
感覚も、認識も、意識も削ぎ落とした。人を入れ物にした人型兵器。故に頭蓋を切り開き、中身を入れ替え、従順とした。そうしなければ兵器として扱えないから。
裂ける皮膚と、火傷による激しい痛み。それらが骨を伝わり脳に、鐘を乱暴にガンガンと鳴らすように、思考を痛みという赤色に染め上げる。
今までに味わったことのない痛みに悲鳴を上げてしまいそうになる。それでも、悲鳴は上げない、あげてしまえばその場から動けなくなってしまいそうだから。
だから、歯を食い縛り、全身に、脳に、あらゆるところに
――今は、逃げないと。シューホフ先輩を助けるために――
「おいおい。どうしたんだアンナ? 寒いんじゃなかったのか?
あ~~そうかそうか。遠慮しているんだな、そんな謙虚にならなくってもいいよ。
俺が、君を、芯の底まで暖めてやるよ。絶対に――」
笑顔。凄絶な笑顔。凄惨な笑顔。
今のシューホフ先輩のレンズに私は場どう写っているのか?
笑っているの?
泣いているの?
怒っているの?
少なくとも、私が苦痛に喘いでいるのも、焼かれた肩と背中には気付いていない。
悲鳴を圧し殺し、吐き気を堪えて、覚束ない足取りでいるのにも気付いていない。
痛みと吐き気、動揺による酩酊感にも似たふらつき。
そうしている間にも、《ハボリム》は最初よりも小規模ながら、熱線を放ち続けている。
冷却のため、大質量エネルギーを放ち続けるのは不可能だというのは用意に想像がついたし、構造上の問題で機敏には動けないこともわかっていた。証拠に次第に連射速度も落ちてきた。
――なら、路地を曲がり続ければ逃げ切れる。シューホフ先輩を説得する機会も
刹那、右前方の壁が橙色になるのに気付き、右足にありったけの力を込めて後ろに跳ぶ。無理な体制からの急制動で足に僅に痛みが走ったが、あと少しでも遅ければ熔解した壁が自分に降り注いでいた。
――連射が少なくなっていたのは充填するため!?
「――!!」
咄嗟に立ち上がろうとして、足に先程よりも強い痛みが走る。
足首に触れると再度は痛みが走る。先の急制動で足を捻ってしまったようだ。走るどころか立ち上がることさえ困難なほどの痛み。
それでも逃げなければならないから、悲鳴ならぬ悲鳴をあげ、叫びたくなるほどの痛みに耐えて、立ち上がる。
――本当のシューホフ先輩に戻ってきてほしいから……
歩く。歩く。歩く。壁に体重をかけて歩く。
移動速度が歩くよりも遅くなってしまったが、痛みに声が出そうになるが、それでも歩き続ける。
が――
「見つけたよアンナ。さあ、その震えを止めてあげるよ」
後ろからシューホフ先輩の声と《ハボリム》の右腕を引き摺る音がする。《ハボリム》は四足の獣のような低い姿勢で近づいてくる。
動きを止めて、腕を上げる。鎌首をもたげる。
立ち込める臭気、人の焦げる不快に臭い。十ヤードほど離れているにも拘らず臭うその異臭。
腕が、赤く染まり、駆動音が一体に反響する。
「やめてシューホフ先輩! 先輩の研究は、そんなことのためにやってきたではないでしょ!」
「ああ、そうだよなアンナ、これが終わったらみんなに見せないとな。この機関はあの人に貰った設計図を元に小型化した試作型でまだ出力は安定しないが、それでもこれだけ動くなら成功だ。俺の研究は成功したと、これからは誰も凍えることのない、失われた春が訪れるって――
だから、アンナ。君には、寒い思いは、させないよ」
「!」
聞こえてない。聴こえてない。届かない。
私の声が、思いが、伝わらない。
無力さに、至らなさに、弱さに、震える。
――どうすればいいの…………このままじゃ、シューホフ先輩が…………
道を違えようとしている人を止めたい。夢が歪んでしまったあの人を止めたい。いつものあの人に戻ってほしい。
「さあ、アンナ。行こう。
俺と君の夢へ。楽園へ」
告げられる宣告。別れの言葉。
もう、私の知っているシューホフ先輩はいないのかもしれない。
もう、私の尊敬するシューホフ先輩はどこかに行ってしまったかもしれない。
もう、私の大好きなシューホフ先輩は死んでしまったかもしれない。
――いえ、そんなことない。
――違う。そんなわけない。
――だって、いつか見た。いえ、あの日見たシューホフ先輩の輝きは、そう簡単に色褪せるものではない。無くなるものでもない。ましてや死んでしまうものでもない。
――だって、シューホフ先輩は『諦めない』って言ったから。その言葉に宿っていた熱量は、私は覚えがある。
――それは、タマーラ、コンスタンチン先輩、ウラジミール先輩、マリインスキーのみんなや飛空艇研究会のみんな、アカデミーので出会った多くの人たちが同じ熱を持っていた。
――だから、私は、以前のシューホフ先輩に戻ってほしいから。
「そんなこと……」
何処からか響く声に、私は反論ができず、しぼんでしまう声、意思、思い。
私の声――
思いを――
気持ちを届けたい――
目が涙で滲む。諦めたくない。諦めないけど。でも、このままじゃ届かない。
――シューホフ先輩にそんなことしてほしくない
進む、一歩よりも短く、儚い距離を、
――あの時の私の感じた。この国の人の為に、誰かの為になりたいと言ったシューホフ先輩の、《きれいなもの》を《うつくしいもの》を、あの感動を
手を伸ばす。
――この気持ちをシューホフ先輩に知ってほしい
ふっと、右手のほんの先に何かある。
――なに? あれ?
私は手を伸ばす。滲む視界にはなにかはわからないが、手を伸ばす。
――これは?
私は固い感触の
――これは、あの時の――
「シューホフ先輩!」
「アンナ――」
無我夢中の叫び、シューホフ先輩が私に応えるように私の名前を呼ぶ。でも、その瞳は私ではない私を見ている。私には見えない私に微笑みを絶やさない。
そして、《ハボリム》が、その右腕から、圧縮蒸気を、致死の炎を、放つ。
出力の大きい一撃は、迫り来る熱と共に、まばゆい光で私の瞳を貫く。
私はいつまでも来ない致死の焔に、まばゆさに閉じた瞳を開く。
「ごめんねアンナ、待たせちゃって――」
と言うわけで、次回はテンプレ戦闘回。
それと、スチパンとは関係ありませんが、皆さんは何かに癒されていますか? 私は、毎週月曜日に癒されています。
え? なんの話かって、もちろん『月曜日のたわわ』の話です!
原作者の比村奇石さんは昔からのファンで、初期の同人誌の一本を除き全部(会場限定除き)揃えているくらい大好きな作家さんなのです!今はプロとしても活躍していて、SAO本編の前日譚となるソードアート・オンライン プログレッシブの漫画版を執筆されているのです!なお、アスナの胸は原作より大きいいです!
まあ、これ以上は長くなるので、近況についてですが、というか、今年中にはヴァルーシアを買う予定でしたが、予定外の出費のせいで、買えなくなりました。マジで悲しいです。
うん。来年こそは買ってやる!
それと、前回の話でニコライ・エジェフが自虐ネタを言ったのは、誰か気付いてくれましたかな? これはロシア史を知ってないとわかりずらかったかもしれないので仕方ないんですけどね。
そんなこんなんで、今年もあとわずか、どんどん寒くなってい参りましたが皆さん体調には気をつけてください。
では、親愛なるハーメルン読者の皆様方。良き青空を。
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2-10
ああ、暖かい。
アア、癒される。
嗚呼、おいしい。
この
私のための止まり木。
暗く、昏い、灰色雲の天空。
冷たく、固く、灰色雪の大地。
赫き鉄と黄色の破壊が交差する街。
黒い道化師を擁する奇っ怪な数式の国。
そこにおいて、私が留まれるのは
だから、消えないでほしい。そのために、私が少しだけ、治からを貸そう。
ああ、アア、嗚呼、だから、
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ここは深淵。
星の深淵。
生命の深淵。
ここはすべての起源。
ここはすべての始まり。
ここはすべての終わり。
中央には蒸気をあげる軟泥の佇む灰色。浮遊する石板を見守るように佇む灰色。その灰色は手もない、足もない、首も、目も、なにもかもない。
誰もいない。誰も来ない。そこにいる灰色には知恵なく、知性はなく、ただ何かを吐き出し続けるだけの灰色。
しかし、
「初めまして。お久しぶり、《無形なる白痴》」
話す声は、仮面の男だ、薔薇の華の。異形の男だ、黒い僧衣の。周囲を満たす黒よりも尚、色濃い《霧》だ、《闇》だ。否、既にそれは《混沌》だ。
途端に灰色が蠢く、捕食対象として、否、敵対者として灰色が蠢く。
知恵なき灰色が、知性のない灰色が、ただ佇むだけだった灰色が、その身から触手を吐き出し鞭のようにしならせ仮面の男を攻撃する。――するはずであった。しかし、灰色は不動、沈黙、自若。揺るぎもせず、蠢きも収まった。
「……おや? どうしたんだい《無形なる白痴》。
今日はやけに静かだね。なにか悪いものでもたべたのかい? ん? あ~もしかして以前言っていた手土産でも期待していたのかな? ん?
――ははは、はははははははあーーーははははははははははははそんなわけないよね。君にはそんな知性も、知能もない。正真正銘の――
その目には、なにかを求めるように、なにかを諦めるように、なにかに焦がれるのうに、灰色を見つめる。
しかし、そうしていたのは刹那、次には――
「そうだ。手土産はないが土産話ならあげるよ。
実はね、あと幾分かすればその石っころを読めそうなんだよ」
瞬間、それまで沈黙していた灰色が動く。その動きは獰猛かつ苛烈。仮に、灰色に顔や感情かあったなら赫怒に染まり、空間を破壊する咆哮を上げていただろう。
灰色が動いた理由、それは原生生物である真性粘菌が迷路を最短でクリアするように、仮面の男に対して攻撃は無意味と察したからだ。だか、灰色は攻撃をした。
それは灰色にとって触れてはならないモノに触れたから。越えてはならない一線を越えたから。
先ほどまでの沈黙が嘘のように、触手を打ち続ける灰色。今度は怪しげな粘液を滲ませながら、打ち続ける。
しかし、仮面の男はその光景を嗤いながら眺めている。
「なんだ。起きているなら返事くらいしてくれないか《無形なる白痴》。てっきり、死んでいるのかと思ったよ。
まあ、君がそう簡単に死ぬとは思っていないから、君が死んだ姿が見えなかったのは、残念ではあるがね。
ん」
仮面の男が天井を仰ぎ見る。
「あれは――」
「そうか、─────ふっ、フハハハハハハハ! フフフフハハハハハハハハハハハハ!! フッハハハハハハハハハハハハハハ!!! 」
「滑稽かな。滑稽かな。懲りずに動き出したか、憐れなる赤錆どもよ。
そして、おめでとう黄衣の王よ」
「そういうわけだ。私はこれで失礼するよ《無知なる白痴》よ。今度来るときはもっと私を楽しませてくれよ。
ではな、良き青空を。《無知なる白痴》」
仮面の男は灰色に背中を向ける。その間にも殴打続く、しかし、仮面の男はもう灰色に興味がなく、消え失せていた。
そして、そこに残るは、灰色だけ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
《ハボリム》が、その右腕から、圧縮蒸気を、致死の炎を、放つ。
出力の大きい一撃は、迫り来る熱と共に、まばゆい光で私の瞳を貫く。
私はいつまでも来ない致死の焔に、まばゆさに閉じた瞳を開く。
その背中には見覚えがある。
かつて、不可思議の街で、悪魔の名を冠するキメラに襲われたとき。
いや、それ以前に、街中で擦れ違った時のように、変わらず彼は、優しい声色でいう。
「ごめんねアンナ、待たせちゃって―」
「ユーリーさん……」
「………………誰だお前は…………誰だ貴様は!
誰だ! 誰だ! 誰だ! 誰だ! 誰だ! 誰だ! 誰だ! 誰だ! 誰だ! 誰だ! 誰だ! 誰だ! 誰だ! 誰だ! 誰だ貴様は!
知らない! 知らない! 知らない! 知らない! 知らない! 知らない! 知らない! 知らない! 知らない! 知らない!お前なんか知らない聞いてない!
あの人からなんにも聞いてないぞ貴様!」
シューホフが怒声を上げる。極東のオークのように顔を真っ赤に染め上げて、頭皮が剥けるほど激しくかきむしり、視線だけで人を殺さんばかりに、ユーリーさんを睨み、自身に問いかけ続ける。
私は震える声で、少年の名を呼ぶ。沸き上がる疑問の数々、この街は何なのか? なぜシューホフ先輩がこんな風になってしまったのか? 色々と聞きたいことが頭の中に溢れるが、上手く言葉にできない。
それを察した少年が、私に振り向いて、広げた右手で制止する。よく見ると少年の外套が、着古した黄色とも緑ともとれる外套が私たちを覆うように拡がり、断続的に放たれる致死の光線を防いでいた。外套は薄く、そよ風に靡きそうなほどなのに、燃えたり焦げたりするどころか、熱による膨張や変色さえない。
「ああ、聞きたいことがあるんだろうけど少し待ってもらえるかな? すぐに済ませるからね」
少年は笑顔でそう言うと、怪物に向き直る。
「しかし、相変わらず不細工な
何よりも君だよ《ハボリム》。
旧き聖書に記されし王に使役された72の魔神が一柱。26の軍団を指揮する序列23番の地獄の大公爵。毒蛇にまたがり、手に火のついた松明をもち、人・猫・蛇の三つ首の人間の姿で現れる。
火事を司り、その手に持つ
そんな知性は感じない。
何一つ真実を口にしてないじゃないか。
しかもその右腕がひどく醜い。松明というにはあまりにも硬質的で、そもそも人の腕に無理やり入れるものだから本当に醜穢で意味がわからない。まったく、中途半端な情報でこうなったのか、中途半端な技術でこうなったのか、ある種の興味はあるが、でもね」
「…………わかった――わかったぞ。貴様は、あの人が言っていたアンナを
殺せーーーー《ハボリム》! そいつを殺してアンナを救い出すんだ!」
「ーーーーーーー」
シューホフ先輩の声に呼応して、《ハボリム》が声なき声を張り上げる。いつまでも焼失しない
「なにより君はぬるい。そんなマッチ棒じゃあ火焔地獄どころか藁一つ燃やせない」
少年は空いていた左手で迫りくる《ハボリム》の顔を殴り飛ばした。《ハボリム》は10ヤードほど飛ばされて地面を打ち付けられて、鈍いながらも態勢を直し、こちらを凝視する。
「ふう。見た目より硬いな、やっぱりペルクナスみたいに徒手空拳では無理か」
少年は殴った左手をプラプラしている。地面に赤い水が滴る。その甲は赤く染まっており、骨が一部むき身出ていた。その光景を唖然と見ている私に少年が笑顔で振り向く。
「それで今のうちに聞いておきたいことがあるんだ
――一つ目は、僕の力をもってあいつを薙ぎ払う。
しかし、その場合一つ問題ができる」
「――問題? ――」
「そう。問題。それはね、彼の精神に
だから、もしもいま《ハボリム》を消すと彼の精神は異常をきたして最悪植物状態になる」
「そんな――」
「彼の場合それを回避し、正常に戻すにはメスメルにかけられたキーワードをこなすことだと思うけど、多分それは君の死だね。
でもね、それは君との契約に反するから、ここでもう一つの選択肢。それは彼を殺すこと――」
「――――――――――!!」
――殺す……シューホフ先輩を…………
理解が追い付かない。突然の、提案。ユーリさんの提案する選択肢は、どちらも――
「冷静に聞いてくれ
なら、いっそ一思いに死なせてやった方が、彼のためではないかと思ったんだよ」
「―シューホフ先輩のため…………」
右手にある《印》を強く握る。古風な金の象眼細工が施された黒い縞瑪瑙のメダル、それには
「そう。この先に待っているのは彼の人としての死か、アンナの死しかない。
ならば、いっそのこと彼を殺すのは救いだよ。たとえ植物状態は免れても脳に後遺症が残るのは確実、それは彼の夢が潰えることを指し、彼にとっては死んだ方がマシと言えるほどの事態と思える……いや、思う。
だからこその選択――これは、僕にとっての慈悲なんだよ。アンナ――」
「シューホフ先輩にとって慈悲……」
――夢、シューホフ先輩の夢が潰える……あれほどの情熱と、あれほどの熱量をもったシューホフ先輩の夢が潰える。
そんな、の見たくない。
「そう、これは慈悲だよ。彼がどういった夢を持っているか具体的には知らないけど、碩学を目指す者にとって、いや、碩学だけではない。その身を焦がすほどの大望を持つ者にとって、その望みが叶わなかった時の絶望は計り知れない。
ただの例外もなく、その絶望は逃れられない。むしろそれだけにとどまらず自分だけではく周りすべてを巻き込む暴威となる。なりえる。
故に、僕は、死こそが彼に贈れるただ一つの慈悲だ」
目指す夢が潰える絶望。それは、想像もできない恐怖だ。それは、その人の破滅に他ならない。それが、今、私の手の中にあると思うと冷汗が止まらない。
でも、
「――私は」
――そう。私は。
「――どちらも、選ばない」
――決して、諦めない。
私はメダルを強く握りしめる。
――だって、あの人は優しいから。
いつの間にか、首にかかっていたメダルを、強く握る。
――あの優しいシューホフ先輩が、自分の手で作り出した物が直接人を傷つけたと知ったら、その道を諦めてしまうかもしれない。それにシューホフ先輩の夢を、将来必ず実現する《きれいなもの》を《うつくしいもの》を、その光景をみんなに見てもらいたいから。
前にいる少年を見据えて。
――あなたなら知っていると思うから、
「教えて下さい! シューホフ先輩を助ける方法を!」
――なによりも、わたしは、シューホフ先輩の夢見る春が見たいんだから。
「…………ふははは。アーハハハハハハハハハハハハハハハハハ!! 素敵だよアンナ・パヴロワ! 嗚呼。その意志に溢れた瞳、言わなっくても伝わってくる友への思い!
そうでなくっちゃいけないよ人間は、人は、君たちは! ペルクナスが愛してやまない輝きたちよ!
嗚呼、それじゃ僕も君の意志に、思いに、輝きに応えなければね」
少年は歓喜していた。両腕を大き広げ、声高らかに謳う。会いたくって、遭いたっくて、逢いたっくてたまらない相手にやっと会えた悦びに打ち震えている。
「では。アンナ・パヴロワ! 答えよう、教えよう。あの男に、ウラジミール・シューホフに呼びかけろ!
あのメスメルは、
だが、一つ言うことがある。君は他人ばかり気にしているが、君自身もひどい火傷でこのまま適切な治療をしなければ臓器不全で命の危険がある。だから、僕もそう長くは待っていられない…………」
ユーリーさんが私を心配そうに見る。その瞳には信頼と不安と幾つかの感情が織り交ざって、うまく判断はできないけれど、ユーリーさんは待ってくれると言った。呼びかけることで救えると教えてくれた。
――呼びかける。呼び戻す。私がユーリーさんの言う悪辣なメスメルからシューホフ先輩を助け出すことができる。本当にできるかどうかわからない、でも、ユーリーさんができると言うなら、私はやる。
「シューホフ先輩! 私の話を聞いて!」
「大丈夫だアンナ! その悪漢から、すぐに助け出してやる!」
《ハボリム》に攻撃命令を出し続けるシューホフ先輩、
文字通りの血眼になって叫び続けるシューホフ先輩、
喉が枯れるほど叫び続けるシューホフ先輩、
必死に、私のためを謳いながら人を傷つけようとするシューホフ先輩――
――ダメだ、届かない。
《ハボリム》の攻撃を、戦闘用のガーニーの装甲さえ融解させるであろう熱線を、涼しげに受け続けるユーリーさん。けれども、その涼しげな顔の下は焦りが見えた。なにに焦っているかは、私にはわからないけど、それでも時間がないことはわかった。わかってしまった。
いえ、まだ諦めてはいけない。ユーリーさんも言っていた、呼び戻せると、だから――
「ごめんなさいユーリーさん」
「!!」
私は、ユーリーさんの黄色い外套から抜け出し、熱線降り注ぐ死地へと、その身を晒す。
一瞬、ユーリーさんの反応が鈍り、その隙に《ハボリム》が私に熱線を向ける。慌てて私を護ろうとするユーリーさん、けれどもその熱線は、私を襲った。
大部分はユーリーさんが防いでくれたけど、ほんの少し、当たってしまった。
そして、私は、シューホフ先輩を掴まえた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
今、アンナが、俺の胸の中にいる。
今、アンナが、俺を抱擁している。
俺は、アンナを、強く抱き…………
瞬間、鼻孔に異臭がさす。同時に手にはねっとりとした感触と背中から覗く、醜く焼き爛れた肌と少し焦げた白い髪が脳を揺らす。
誰だ? 誰だ? こいつはアンナか? いや、僅かに香るこの甘酸っぱい匂いアンナ――アンナ?
いや、嫌々いいやいや、これがアンナか? いや、背中から僅かに覗く白い肌、触れている箇所は違えどこのなめかな肌、一世紀も前に消えた純白の雪を彷彿させる肌はアンナだ。
なによりも、少し焦げてはいるが、それでも、その純白の肌に勝るとも劣らぬ綺麗な髪。雪のような白い髪はアンナ・パヴロワのものだ。
ならば、なぜ、彼女はこんなことになってる。
なぜ彼女はこんなひどい火傷を全身に負っている。
火傷、炎症、焔………………
まさか、まさか、まさか、まさか、まさか――
「アアアア、アン、ナ。お、俺は――あああああ、あああああああああああああああああアアアアアアア!」
手が震える。全身が震える。心が泣き叫ぶ。
抱き締めた腕が知らす知らずアンナから離れる。そのまま離した手が顔を覆おうとして、
アンナが、俺を、強く抱き締めた。先程よりも強く、幼い子供が母親に懸命に抱き付くように、強く。
「――――シューホフ先輩、私、大丈夫ですから」
「え?」
何をいっているイルンダこの子は。
「……アンナ、冗談はやめろ。君は、俺を糾弾するべきなんだぞ。むしろ殺しても」
「大丈夫です! 気にしませんから!」
更に強く抱きついてくるアンナ、俺は、そんなアンナが怖くなってきて、突き放そうとした。
「バカを言うな! 俺は、君の夢を奪ったんだぞ!」
「待ってください! 大丈夫ですから!」
俺は更にアンナを引き剥がそうと、腕に力を込める。
俺から離れようとしないアンナを、アンナから離れたくって、突き飛ばそうとする。
それでも、離そうとしないアンナ、そんなアンナから驚愕の言葉な、俺を襲う。
「大丈夫ですよシューホフ先輩! …………だって! 実験には失敗が付き物じゃないですか!」
「何を……何を言っているんだアンナ……俺は…………俺は、君の…………」
力が抜ける。この子が、この女の子が、アンナの言っていることに、 理解が追い付かない。
「シューホフ先輩が飛空挺研究会に来る前、私がアカデミーに来たばかりの頃、タマーラと知り合って間もない頃、部活の勧誘祭を二人で回ったんですよ。その時の飛空挺研究会のデモンストレーションで、初めて私とタマーラはコンスタンチン先輩と知り合ったんですよ。
でも、その初めてがとんでもなかったですよ。題目は小型機関のお披露目で、始めは上手くいっていたのに、コンスタンチン先輩が調子にのって出力をあげた結果、機関が大きく火を吹いてしまって、尚且つそれが運悪く私たちの所に転がってきて大騒ぎだったんですよ。
その際、タマーラの髪と服が少し焦げて、コンスタンチン先輩はタマーラに平謝り、極東で言うところのドゲザをしてました。
それで、コンスタンチン先輩は知ってのとおりあまりお金を持っていないからタマーラの服の弁償は難しくって。タマーラは許す条件を、こう言ったんですよ。
『あんたがこの服を弁償する甲斐性がないのはわかったから、条件付きで特別に許してあげる。
いいこと、あんたは絶対に夢を諦めないこと! 絶対に夢を叶えること! その瞬間を私に見せること! それができるなら許してあげる! いい!』
ですよ――だから、私もタマーラに倣ってシューホフのこと怒ってません。それに今は医療技術もすごく発達しているから大丈夫てす。
もしも、それでも気になるなら私ともう一度、約束してください。いつか絶対に、私に、この国に、
それまで俺の胸に、顔を埋めていたアンナが、顔をあげた。
そこには、笑顔があった。
頬の一部に、酷い火傷のある笑顔――
綺麗な笑顔。気丈な笑顔。儚い笑顔。
涙をこらえた笑顔。嗚咽をこらえた笑顔。痛みをこらえた笑顔。
何をこらえた笑顔なのか、何が痛いのか、何が苦しいのか、それさえわからないほどの笑顔。
俺は――こんな笑顔を、こんな辛い笑顔をさせたかったんじゃない。こんな笑顔を見たかったんじゃない。
俺は――君に、失われた春のように、朗らかに笑ってほしかったんだ。花のような笑顔が見たかったんだ。
咄嗟、アンナを強く抱き締める。皮膚の焦げた悪臭も、体液と血液の感触も気にならない。
自分の内側から、何かにヒビが入る音がした――――
ただ、ただ、涙が止まらない。アンナをこんなにした自分が憎くくって、アンナにあんな笑顔をさせた自分が嫌で、そんな自分をまだ応援してくれるアンナに嬉しくって、涙が止まらない。
自分の内側にあった、分厚いレンズのようなものに大きな亀裂が走る――――
怖がることなんてなかった。アンナはただ単に、俺を信じてくれているだけだ。たった一度しか語らなかった夢を、熱意を、情熱を、信じてくれていた、覚えていてくれただけなんだ。
自分の内側から覆っていたモノが、砕け散った――――
あんな他愛ないことを、子供の戯れ言と謗られても文句の言えない夢を、信じてくれただけなんだから。
散ったその先あったのさ、笑顔のアンナと、俺の罪。アンナ――俺は――
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
シューホフ先輩が私を強く抱き締める。強く。強く。
だけど、それ以上にとても優しく抱き締めてくれた。
私が痛くないように、私をいたわってくれる。大きな優しさで抱き締めてくれている。
――ああ、お兄さんがいたら、こんな風に抱き締めてくれるんだろうな。
「――アンナ。俺はここでもう一度約束する。いや、誓う。
絶対に夢を叶えると。そして、後世に俺の発明が兵器に転用されることがあるだろう。
けれど、だけど、俺自身は絶対に兵器を作らない。誰かを傷付ける物は造らない。俺の発明はアンナに、この国を、笑顔にするためだけに――
だから、俺は、お前を受け入れるのと同時に、拒絶する」
その声が、その宣言が響くのと同時に、《ハボリム》の攻撃が、止んだ。
シューホフ先輩が私から顔を合わせないように離れ、《ハボリム》の攻撃から守っていたユーリーさんが移動し、シューホフ先輩は、《ハボリム》に一歩近づく。
その一歩に、ユーリーさんを押しきろうとしていた《ハボリム》が、
「そうだ。お前は、俺が作った。お前は俺が産み出した。技術提供はあったと言えど、お前を完成させたのは俺だ。
だからこそ、お前を否定する。同時に、お前を記憶に刻む。戒めとして、二度と兵器を創らないというアンナの誓いのために」
また一歩踏み出し、一歩引く。
その度に、シューホフ先輩は力強く、《ハボリム》は慄く。
「《ハボリム》――お前は、この世界から、
消えて無くなれーーー!!」
「◼◼◼◼◼◼◼◼◼◼◼◼◼◼◼!!!!」
それまで、声一つも発しなかった《ハボリム》が、明確な。悲鳴をあげた。
悲痛な声を、まるで内臓を引き裂かれたような末期の悲鳴。
形振り構わず右腕を降ります《ハボリム》が、断末魔の声をあげている。
「やったぜ。アン――――」
「シューホフ先輩!」
宣誓した反動か、メスメルを打ち破った反動か、そのどちらにせよシューホフ先輩は力尽きるように倒れる。私はシューホフ先輩を抱き留め――れるわけでもなく、倒れ込んでしまった。
そして、その瞳と右腕が、シューホフ先輩を捉えようした時――
「見事だウラジミール・シューホフ。君こそ、君たちこそペルクナスが愛してやまない者たちだ」
《ハボリム》を横合いから殴り飛ばしたユーリーさん、再度私たちを《ハボリム》から遮るように立つ。
「見ものだったぞ三流、なかなかに見事な引き立て役、もう満足しただろう?
さあ、哀れで醜い化け物よ。終焉の時刻だ」
《黄衣の王》が左手を前に突き出す。
「灼えいる暁に想わしめよ
我等なにをなすべきか
この蒼き星が滅びて
全てを見遥かしうる時に」
その声はあの小さな体から発せられたとは思えないほど、重く、暗い声だ。
二度目だというのに、なおも重く感じる声だ。
――外套の一部が切り離れた。
――それは初め生物のようだったそれが、
――今は鉱物のような質感をしている。
黄衣の王が左手を上にあげる。
――外套の欠片が高く、高く、高く上がる。
――上がったそれは熱を灯す。
――それは周りの風景を、空間を捻じ曲げるほど熱を発している。
それは、かつて人々が覆い隠したもの。
それは、かつて人々が仰ぎ見たもの。
それは、人々が遠く、忘れ去ったもの。
「機関の御業より生み出された幻想なるモノよ。
見えるか、これは機関の御業とは違う、
機関とは異なる科学の闇より生まれ出る
黄金の目が訴える。あれは、決して私たちが隠した物ではない。
黄金の目が訴える。あれは、生命すべての毒だ。
黄金の目が訴える。あれは、世界を脅かす《炎》だ。
「これぞ新たな科学の黎明。
これぞ新たな力の夜明け。
これぞすべてを凌駕する《炎》」
欠片がどんどん小さくなっていくのに反比例してどんどん熱量は上がっていく。
臨界の時は近い。夜明けの時は刻一刻と迫る。
そして、ついに、
「さあ、我が、破壊の風で
二度目だから気付いた。一度目では気付かなかったこと。
彼は、王が左手を握りしめるのと同時に、その右手は顔に添えてあった。それは、仮面を外しているようにも、着けているようにも見えた。
王の外套が私たちを包み込む。
――――瞬間――――
――――すべての音が――――
――――すべての風景が――――
――――白く、染まった――――
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
再び私が音と視界を取り戻した時、私たちがいたのはあの陰湿な地下室ではなく、その地下室があった建物の前だった。
私の上には気を失ったシューホフ先輩がいて、そこから呼吸と体温、重みを感じながらも一安心した。
そして、私は上半身だけ起き上がり回りを確認する。ユーリーさんがすぐに見つかり近くには、
《ハボリム》がいたであろう場所に
「大丈夫だった……とは言えないね。遅れてすまなかった
「ユーリーさん」
ユーリーさんが、私の頬を、火傷おった頬を撫でようとして、しかし触れずに離れた。
その顔には、苦痛と悲痛、悔恨の念でひどく歪み、泣きそうなものだ。
「でも、もう大丈夫だからね」
「――大丈夫?」
「そうだよ。君の友人はたいした傷はない、君の火傷も僕がすぐに治療するから」
――そう言われた瞬間、こわばっていたのか体の力が抜けていくのと同時に意識が急に遠のいていく。
「おっと」
私はユーリーさんに支えられる。いつもよりも優しく、労るように、いつものなら慌てて離れるところだけど、そんな力が出ない。
「いいよ――はゆっ――休み。大丈夫、君とその友――責任を持って――」
もう私には彼がなんと言っているか聞こえず、そのまま意識を手放した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「くっそ! くっそ! なんでだ! なんでまたあの瞬間に! あの場所に! あの男がいるんだ!」
誰かが憤っている。
赫いドレス身に纏ったきれいな女性だ。
大きな赫い傘と深めの帽子で顔隠した女性だ。
しかし、その女性は壁を殴りつけ、罵倒し、自身の手が真っ赤に染まっても気に止めさえいない。ついには骨さえむき出しなっても気に止めない。
「はぁはぁはぁはぁ。今度こそ完璧だったはすだ。前回のように逃げ場の余地がある路上ではく密室に、ジェルジンスキーの目を盗みチェルノブイリを無理に動かし、時間も完璧だった。
なのに、なぜだ…………なぜ、またあの瞬間に
肩で息をしているのに、あれだけ罵倒し、荒れ狂ったのに、気が収まらない。
――否、今回に限って言えば相応に
女性は思案する。親指の爪を噛み砕き、さらに手が血で汚れるの気にかげず。そして、思い至る。
「やはり、やはりやはりやはりやはりやはりやはりやはりやはりやはり! 貴様の仕業か!
赫き女性は吠える! それを見ている道化師を嗤わせているとも知らず。それを見ている道化師を愉しませているのも知らず。
という訳で、テンプレ戦闘回。思ったよりも時間がかかった。と言うか年末には投稿したかったのに…………
毎度毎度テンプレ戦闘回は異様に疲れる。進まない。不安になる。
この調子がまだまだ続くと思うと…………
まあ、そんな話は置いといて、さっきカバネリ後編観てきました!いやー新作カット良かったです!
おお、喝采せよ! 喝采!
おお、おお、素晴らしきかな!
少年は、自身の誇れる自分へとなった。
ああ、アア、嗚呼、そうだとも! 誰もが成れない、誰もが成りたい者へとなったのだ!
世界よ、震えるがいい!黄金螺旋階段の果てに、スチパンブームの、幕が開く!
っと、短めに締めまして、では、親愛なる皆様。良き青空を。
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2-11
熱い。熱い。熱い。
焼けている。灼かれている。燃えている。
周囲一体が焔に包まれている。
息をする度に喉の粘膜が焼ける。
いや、それよりも止まらないものが、止められないものが溢れる。
涙が、泪が、止まらない。
燃え盛る街は、私の暖かさの象徴。《うつくしいもの》と《きれいなもの》を見せてくれた街。
サンクトペテルブルク。そのなかでも、もっとも大切なアカデミーが、帝国サンクトペテルブルグ碩学アカデミーが爛々と燃え盛っている。
炎が走る街中には人はいない。あるのは
もはや体温すらなく、触れなくとも風が吹くだけで、脆く崩れて灰塵となるだけの、炭素の塊。
死体とも呼べない。死体というには、あまりにも哀れなカタチ。
何も残らず何も残せない。誰であるか誰だったか。男なのか女なのか。家族なのか友人なのか。何もわからない。ただの炭素の塊。
それらの光景に涙が止まらない。
けれども声が出ない。悲鳴どころか、嗚咽さえ出てこない。
そんななか、背後から足音が聞こえる。
カツカツ。カツカツ、炭素の塊と化したら人を踏み砕きながら、まるで雪を踏みしめるように、なんの躊躇もなく近づく足音に私は振り返る。
『アンナ』
どこか役者が演じるような優しい声、その声はシューホフ先輩だ。いや、
一歩一歩、確かな足取りなのに、その表情は見えない。火はシューホフの表情を隠し、刻一刻と炭化させていく。それでもシューホフ先輩は平然と近づいてくる。
『アンナ寒くないかい?』
『シューホフ先輩!』
私はシューホフに近寄る。走りながら上着を脱いでシューホフ先輩を灼く火を消そうとする。
そうして上着で
脆く、儚く、砂の造形物のように、粉々に砕け散った。
私は砕け散ったシューホフの欠片をかき集める。集めても、触れる度に砕け、手や服に煤が付くだけだった。最後には熱風が駆け抜け、シューホフ先輩だった残骸を灰塵とした。
蹲り嗚咽が漏れだした。先程まで実感が持てなかった悲しみが、目の前で知っている人が消えていったことで溢れてきた。周囲の炎で酸素が燃焼されてだけではない、激しい嗚咽で呼吸がままならない。
「初めまして。お久しぶり
そんな私の前に声がかけられる。話す声は、仮面の男だ、薔薇の華の。異形の男だ、黒い僧衣の。周囲を満たす黒よりも尚、色濃い《霧》だ、《闇》だ。否、既にそれは《混沌》だ。
「
悲嘆にくれる私に彼の言葉は届かない。それでも、彼は話し続ける。まるで、初めから私のことは眼中にないように。
「しかし、悲しい。なんて悲しいんだ。この
だか、今はその事はどうでも良い。今日はアレの調子を観に来たんだよ」
仮面の男は私の髪をむしり取るように引っ張り、無防備な私を押し倒し胸に手を当てる。
そして、その手が、私に埋没する。
私の体が、私の中が、まさぐられていく。
――苦しい、辛い、熱い、痛い。
あからさまに、苦しんでいるのわかりきっているはずの彼は、そんな私におかまいなくかき混ぜ続ける。五分か、一時間か、数日か、時間的感覚がわからないくらいの苦しみが、いつの間に消えていた。
「なるほどアレは無事に孵ったか、良かったねアンナ。これで君が死ぬことはない。
そう、
「死ぬことはない」
「死ぬだって─────ふっ、フハハハハハハハ! フフフフハハハハハハハハハハハハ!! フッハハハハハハハハハハハハハハ!!!」
「死ねるわけないだろ! 君はあの気狂いの王と契約したんだからな!」
「ああ、じゃあねMsアンナ。良き青空を」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ここはサンクトペテルブルクにあるであろう地下室。
でも本当にあるかどうかもわからない地下室。
一般人は決してたどり着けない地下室。
そこはとても深く、暗く、黒い場所。
階段も、扉も、天窓も、照明さえもないこの場所において、その中心は明かりがともっている。
否、これは明かりなのか。
その中心は赤かった。紅かった。朱かった。
しかし、そこに、赫き主はおらず、三人の男女がいる。
「急な招集に応じていただき感謝する同士モロトフ。同士ルイコフ」
男が口を開く。静かに、深く、深き海の声の。光さえ通さず、届かず、屈折するほど黒のような青いスーツを纏う細身で長身男。
「はい。いいえ。気にすることはありません。わが親友がモスクワにいる間、代行たる私が応じるのは当然ですジェルジンスキー殿」
一人の女が口を開く。金髪碧眼の、赤い服に身を包む美しい女が静かに、低く、怜悧な声の。金髪碧眼の女が、鋼鉄の男と同じ鉄の強度を持って。
もしもこの場に普通の人間がいたのなら、それだけでも失神は免れ得ぬほどの威圧と共に。
だが、この場に普通の人間などいなかった。その証拠に
「そうですよ。ジェルジンスキー殿。貴方の招集とあらば駆け付けぬわけにいきませんよ。ハハハハハハ。
むしろ諸事情があるとは言え、我が友たるトロツキーが来れないとは言え、不肖にもこの私が来ることになりましたが、友の代わりが勤まるか些かながら気後れしてしまいそうですよ。いやはや、まったく、我が友にも困ったものだね。ハハハハ。
という訳でよろしくお願いします。二人ともハハ。
――して、ジェルジンスキ殿ー。どういったご用件で我々を呼んだのかな?」
陽気に、笑顔で、軽薄な、この場にそぐわない明るい声を出す。緋色の背広にシルクハットを身に付けた中背で風船のように大きく腹の出たカイゼルの男。
笑う男は愉しそうな笑みを浮かべたまま、二人へ慇懃にお辞儀をする。しかし、人の警戒心を
「それでは早速。先程チェルノブイリ
そのわずか数分後に
「それは本当ですかなジェルジンスキー殿?」
笑う男は先程の笑みとは正反対に口許を険しくして問う、されど、深く隠されたその目は歓喜に歪んでいる。
「はい。間違いなく」
「ジェルジンスキー殿、それは
そんな彼の笑みに気付かなかったのか、気にしいないのか、男と女は表情一つ変えることなく、話を続ける。
「それは依然として調査中です。が、お二人の耳に入るのも時間の問題なので、報告しましょう。
まず間違いなく内部からかと」
「ふむ。ジェルジンスキー殿、一応念のために確認するが、それは我らのなかに
「その通りです同士ルイコフ。チェルノブイリ内部に潜入させた工作員の一人が予定にない行動、後にそれを自分の操作ミスで起こした不祥事として、自責の念にかられ自殺。遺書も残しております。ですが、まがりなりにも私の部下がそのような杜撰なミスを犯すはずもなく、何よりもその事に対する報告が私のところになかったのは不自然極まりない。
そうなると、
可能性三つ。
一つは脅迫、二つ目は反意、三つ目はメスメル。
そのなかで一つ目の脅迫はまずないでしょう。チェルノブイリの工作員には身内や親しい友人とも言える者達がいない又は縁を切ったを者達を選出しており、そもそもの脅迫材料がないのです。
二つ目も同様に、その者達の身辺調査、活動内容、メスメルによる心理鑑定を通った者を選出しています。
残る三つ目のメスメル。これが本命ですが、掛けられたと思われる本人がいない以上その事に対して確認の仕様がありません。が、その者を含め工作員にはある程度のメスメルは修めさせています。それでも対抗できなかったとなると――」
深き男の言葉、それを聞いた笑う男は二人に視線を這わせ、深き男と怜鉄なる女は沈黙する。
しかし、笑うはは止まらない。
「ならば簡単な話ではないですかジェルジンスキー殿。これは
笑う男は断言する。この事件は黒い道化師の仕業に違いないと。
だか、二人は違った。
「お言葉でが同士ルイコフ。その線は薄いと思われます」
「私も同意だ」
「……お二方それは、どうしてかな?」
「簡単ことです。そもそもの話、これが黒い道化師の仕業なら我々は今日まで彼に手を焼くことは無かったでしょうし。それどころか今頃彼はこの世にはいない。
未だに私たちは彼の真意も目的も把握していない。そんな彼がこんな杜撰な行動を、とるとは思えません。
――何よりも今回の件には
「
「ええ、私怨です」
露骨に訝しむ笑う男と表情には出ないものの視線だけ深き男に向ける怜鉄の女。二人の異なる視線と重圧をものともせず深き男は語る。
「なぜそう思われるのかなジェルジンスキー殿?」
「"過程"と"結果"が釣り合っていないからです。
この件の首謀者はチェルノブイリの強制稼働をさせるために多大なリスクを背負うという"過程"と、その"結果"がモスクワ一帯のみに障害を発生させるというリターン。
労力と報酬。この二つが釣り合わない。私なら工作員にはメスメルをかけずにその工作員を拘束、情報という情報を徹底的に搾り取ります。仮にメスメルをかけるにしてもやはり情報を得た後に内部工作させます。
しかし、首謀者はそれらのことはせずにチェルノブイリを無茶な稼働させた。
それは何故か?
それは首謀者が一個人ないし少人数を狙ったがための行動です。その際の目標が同士スターリンたちかどうかは判断できません。が、先程も言った通り労力と報酬釣り合いがとれない行動をする人間の心理はそう多くない。
端的に"怨嗟""怨讐""嫉妬""憎悪"。それに"私怨"これらの負の感情は報酬という結果を度外視する傾向がある。故に獅子身中の虫がいると私は判断しました」
深き男の言を清聴していた二人。いや、怜鉄の女は聴いているのと平行して裏切り者の特定と粛清を思案。
対する笑う男は相変わらずニヤニヤと笑っている。これ
「なるほど確かにその理屈でいくなら内部に裏切り者がいる気がしないでもありません。が、逆に言うと陸軍内部や他の革命家どもの犯行とも言えるのではありませんかな?
彼らの同胞たちを私たちは、特にスターリン殿やニコライ・エジェフの狂犬が多くの者たちを殺している。まあ、そこにいる同士モロトフも大概ですがね。
おっと、話が逸れましたな。ともかく、我々の中に裏切り者いるなどと、しかも根拠が私怨を感じるなどと言う曖昧模糊なモノでは、いかにジェルジンスキー殿と言えどいかがなものかと思いますよ? もちろんジェルジンスキー殿を軽視している訳ではありませんよ。
ただ、言葉選んだ方がよろしいと言うだけなどで、深い意味はありませんよ。ハハハハ」
嗤いながら、確かに敵意をさらして深き男に意見する。
これは諫言。いや違う、牽制だ。あまり嗅ぎ回るな。そう言外に言う笑う男。
嗤う。勝利を確信した笑み。二人に、強いては組織内での発言権を強くした。そう、確信していた。
しかし、怜鉄の女が、守勢に回っていると思われていた女が、動く。
「同士ルイコフ。その可能性はない」
「なに? 同士モロトフ。私の推論に意義がおありかな?」
笑う男から怪訝な顔をする。主導権を握ったはずの自分にら怜鉄の女が攻勢に出れるはずはないと、思っていたゆえの不意。その不意を、逃さない怜鉄の女。
「はい。いいえ。まず革命家どもですが、あれらにチェルノブイリを動かせるほどの組織力も人材もいない。なによりもあれらは大した理想も思想なく、大義を理由に死にたがる蒙昧の集まりだ。そもそも議論の価値すらない。
陸軍に関してはもっと単旬だ。彼ら軍人で、基本理念が帝国の利益だ。しかし、今回チェルノブイリを動かしたところでなんの利益もない。たとえ我が親友が標的であったとしても、長期的に見れば不利益にしかならない。
陸軍も内部粛清には走ってはいないだろう。かりに内部粛清という内輪揉めが始まっているのなら、ジェルジンスキー殿と
あの方は、勝てる戦いしかしない。いや、
沈黙。笑う男は表情を固めていた。反論することが出来ないから。
沈黙。深き男はなにも言わない。すべてを肯定しているからだ。
深き男とあの方が動かない。それは、今が動くときではないということ。
笑う男と怜鉄の女が静まり、深き男が告げる。
「では、今回の集まっていただいた本命を告げます。
内容は至極簡単です。これよりチェーカーは組織全体の強制捜査及び粛清。
平行して、同士スターリンたちの捜査、場合によっては救出を視野に入れて行動します。
なお、妨害並びに拒絶は許されません。これは閣下と同士ボグダーノフの了承を得ています。
……最後に、閣下から勅です。
命があるまで一切の活動を禁ずる。
以上で解散します」
深き男は二人に脊を向け、闇に溶ける。
怜鉄の女はなにも言わず、この場を去る。
残るは笑う男。嗤う。笑う。ニヤニヤと、誰もいなくなった虚空に、笑みを浮かべ、闇へと消える。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
窓の外から小鳥の囀りが聞こえる。故郷よりは少ないけど、けれども確かに聞こえる小鳥の囀りが。
いや、外だけではない。ごく至近に、まるで自分の内側から聞こえるような、それほど近くからも聞こえる。
――小鳥の囀り……ここは……
重たげな瞼を開けて、視界に写った天井と壁は、見慣れないモノで、私は帝都の自室ではないと、慌てて跳ね起きる。
起きて、少し冴えた意識でここがモスクワにアカデミーが生徒用に用意したアパートの一室だというのを思い出した。
そして、自分がなぜ寝ていたのかも。
「シューホフ先ぱ――」
声を出した。声が途切れ、声が激痛となった。
喉を震わせた。それだけで肺が、胸筋が、食道が、声帯が、舌が、顔の筋肉すべてが、痛みを反響させる。
筋繊維という筋繊維が、そのすべてが毎秒ごとに断絶して、それが四肢の先まで、絶え間なく続いているかのような痛み。
涙が流れる。流れる涙腺すら痛みが溢れる器官でしかない。それだけではない、体から液体が出る器官すべてが痛みを噴出させた。
「――――!!」
悲鳴さえでない。震える体が痛みを乱反射させる。
五分か十分、もしかしたら一時間や二時間。何日も残響しそうなほど痛み。
あまりの痛みに、吐き気が込み上げる。以前から度々あった契約の反動とは違う吐き気。単純な、あり得ないほどの痛みによるある種の俯瞰。自分の体が違う人の体に思えて、痛みが違和感に違和感が痛みに。
そうして、しばらく、痛みが多少引いた時。産まれたての子鹿のように、震える体でトイレに入る。
膝を付き、姿勢を傾けた。瞬間、堰が崩壊する。その行為は内臓が裏返ったと思った。
吐瀉物は胃液だけのはず、だけど、私にはその胃液が赤く染まっている。そう、幻視してしまそうなほど痛い。その痛みは、私の意識を黒く染めた……
意識が浮上したのと同じく、痛みと嘔吐が治まった。治まった時には、何故か、私の服が変わっていた。
――無意識のうちに着替えた? うんうん違う。汗が引いたのとは違う。明らかにシャワー浴びた後のようにスッキリしていた。残痛はあるものの、我慢できる程度におさまっている。
――落ち着いた。なら、シューホフ先輩を探さないと……
扉を開ける。
開けた先に、彼が、少年が、椅子に座っていた。
当然のように、自然と、平然と、そこいた。
「
彼、ユーリー。ユーリー・ハリトンがいることに。
遅れまして候う。最近、仕事のペースが変わって、なかなかうまく書けない。
うん。なんか書けない。一月に一回とか死にたくなる。
今後はもっと早く更新でるように頑張りたいです。
ちなみにあと一話で二章はおわり、三章に突入!
三章は……ひどい話になると思うので、色々と頑張るので、うん。頑張ります。
では、ハーメルンの皆さま方良き青空を
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2-12
照明に照らされる。舞台が照らされる。劇場が照らされる。
黄色を基調とした舞台には扉はない。ここは出ることも、入ることも出来ない。
何者も見たことない程の大きな劇場。誰も見たことない意匠の壁と観客席。如何な人も見たことのない舞台装置。
見たことない観客席、壁、舞台、各所に施された
人を嘲笑うのとも違う感情が込められたシンボル。人も英知や経験を遠く高みから見下ろされている感覚に囚われる。
ならばこの舞台は何の為の舞台か。
ここはたった一つの演目の為の舞台。ここはたった一つの戯曲の為の舞台。ここはたった一つの狂気に彩られた舞台。
その劇場には誰もいない。観客も、楽団も、役者も、裏方も、誰もいない。
あるのは狂気だけ。一人の王が望み、一人の王が見て、一人の王が嗤う。
普段ならば、一人の劇場だ。しかし、
「また、貴様か、卑しく人を嘲笑う道化師」
「アハハハハハ、相変わらず辛辣だね気狂いの王。 ただ一人、ただ一つの戯曲に
話す声は、仮面の男だ、薔薇の華の。異形の男だ、黒い僧衣の。周囲を満たす黒よりも尚、色濃い《霧》だ、《闇》だ。否、既にそれは《混沌》だ。
「なんの用だ
「ああ、つれないな。私と貴方の仲ではないか黄衣の王。今日は友として君に吉報を届けに来たんだよ」
「友として、吉報だと…………戯れ言は死んでからにしろ黒い道化師」
「喝采せよ! 喝采せよ!
ああ、ああ、素晴らしきかな!
盲目の生け贄が、次なる階梯を昇る!
狂気にその身を染めた王と共に!
後に訪れる
「だまれ」
「悍ましき《歓喜なる》未来は訪れる。必ず訪れる。
契約の時が、終末の時が、
日本狼たちとも違う未来が」
「なに?」
「そうだ。そうだ。
狂気なりし王。破滅の王。
生贄は、哀れなる少女は、
「どういうことだ道化師」
「ああ、ああ。
歓喜なる瞬間は、そう遠くない」
「貴様! 答えろ」
着古した黄色とも緑ともとれる外套が、触手のようにうねりながら黒い道化師を拘束、今度こそは逃がすまいと以前よりも多くの外套が巻き付き逃がさない。逃がさないはずだった。
「さあ。
私からのささやかな贈り物。
どうか、存分に、盲目の生贄と共に。
味わってください」
外套が握りしめた場所に黒い道化師はおらず、ただ彼の声は劇場に響き渡る。誰もいない、ただ一人の王の劇場に。
ユーリーは劇場を見渡す、たしかに感触はあった。たしかに仕留めたハスだった。だがそこには、誰もいない。まるで、彼の
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
私があの激痛が落ち着いて、シューホフ先輩を探そうと動こうとした時、始めて彼に気づいた。
「
部屋の備え付きの椅子に足を組み坐している彼、着古した黄色とも緑ともとれる外套をし、深くフードを被っている少年。ユーリー。ユーリー・ハリトンがいることに。
「――ユーリーさん」
「ああ、調子が良いようで何より。うん。火傷の痕も包帯やファンデーションで隠せて、時間を置けば消える程度みたいだし安心したよ。
でも、まだ病み上がりなのだから早くベットに横になった方がいい。痛みもまだ残っているだろ? 無理をせずに、さあ」
火傷の傷が目立たないか不安だったようで、ほっと胸を撫で下ろしている。
そして、私よりほんの少し小さい彼は、私の腰に手を添えてベットまで介添えするように付き添って、寝かせてくれた。でも、私を心配する彼の表情に、何かを感じた。
――まただ。またどこか、別のモノが混ざってる。
以前感じた違和感、まだ彼の何かを見落とした。そう思えた。でも、その正体がわからない。
「――あの、ユーリーさん」
「ああ、君は聞きたいことが山ほどあるんだろ。わかってる。僕が答えれる限り答えよう」
「…………まだ、全てではないのですね」
「すまない。全ては話せない、君のためにならないから。君に危険が及んでしまうから」
ユーリーさんが頭を下げて謝罪してくれる。しかし、その声の中になにかが混ざっている。それは、煮え滾るほど熱く、灰色雲のように
大切な何かを護るように、大事な何かを守るために、その熱量に比例する重さを伴って、本人は意識することのない意思を伴って、声を出していた。
「いいんです。ユーリーさんには感謝してますから。
でも最低限、シューホフ先輩無事なのか教えて下さい? いえ、コンスタンチン先輩とタマーラとウラジミール先輩も大丈夫なんですか?
だって、あの二人は――」
とても怖い二人。お伽噺の
そして、ニコライ・エジェフを従える男。重たく、硬く、鉄の軋むような声の男。鋼鉄の男。
真紅のスーツと制帽に身を包んだ男。制帽の端から見え隠れする色素の薄い灰色の髪に青い左瞳と、猫のような
その二人から追われていたのだ。私たちは。
あの二人が早々に私たちを見逃すとも思えず、帝国陸軍に捕縛されたとも、ましてや殺されたなんて想像がつかない。あの二人、いやニコライ・エジェフが主と呼んだ男が負けるなんてもっての他だ。
ニコライ・エジェフ以上に、あの鋼鉄の男に人間が
そんな者たちに狙われて無事なのが不思議でしょうがない。今、この時にでも殺されてもおかしくない。
いや、ニコライ・エジェフなんて比ではない程に、鋼鉄の男から逃れられない。それこそ黒き海の深淵、灰色雲を突き抜けた彼方まで行かなければ安心できない。
いや違う。たとえ、どこまで遠くに逃げても、どれだけ速く逃げても、あの鋼鉄の男の人からは、決して逃げれない。なぜだか、そう思えて、そうとしかわからない。直感かもしれないし、それ以外の何かかもしれない。
だから、この不安を払拭したくって、ユーリーさんの言葉を待つ。
「そんなに震えなくって良いよアンナ。少なくとも今のところ彼らが君たちに執着した感じはない。と言うよりも彼らがその気ならこんな悠長に寝ていられない。だから当分の心配はないよ。
それと、君の友人二人なら無事だよ。足を射たれたコンスタンチン・エドゥアルドヴィチ・ツィオルコフスキーは静脈や動脈などのには損傷はないし、骨にも当たらず貫通したからね。
もう一人のウラジミール・シューホフもたいした外傷もなく、脳に至っては記憶に少々の混乱が見受けられるがその程度だ。
まあ、それとは別に僕がメスメルをかけはしたがね」
「そうですか――よかった。
でも、なんでシューホフ先輩にメスメルを? シューホフ先輩は――」
「そうだね。ウラジミール・シューホフは自分の罪悪を受け入れて前に進むと言った。夢を歪められて兵器を造り、アンナを傷つけたその過ちをすべて。
でもね。すべてを覚えている必要はない。彼が背負い続けるべき罪は、兵器を造ったこととアンナを傷付けたことの二つだけだ。それ以外は、彼奴等と接触したことやあんな醜い化け物を造ったことは覚えていなくってもいいことだ。
むしろ、その彼奴等は人の世には不要な存在だ。
まあ、メスメルと言っても僕の実力でできるのはせいぜい全体のほんの一部の上書きと書き換えることくらい。その点今回は奴等に感謝だね。
元々ウラジミール・シューホフの中にあった奴等に関しての記憶はひどく曖昧で、たぶん後々のことを考えてそういうふうにメスメルを施したんだろうけど、そのおかけで僕の実力でも容易に《ハボリム》を彼手製の"手榴弾"に改変する事ができたからね。
いやー。今回ばかりは奴等様様だね」
ユーリーさんはケラケラとひどく愉しそうに、"奴等"赫い者達を蔑み嘲笑っている。
彼にしては珍しく。いや、初めての顔で、とても嫌な顔。それはレフ・ダヴィードヴィチ・トロツキー先生やニコライ・エジェフの笑顔とは違う。脊髄が氷柱に変わっていしまったと錯覚してしまう程の――
――とても怖い。こんなユーリーさん見ていたくない。変えないと。別のことで、話題で変えたい。
「! つまり、シューホフ先輩は『追手から私を守るために使った"手榴弾"に何らかの不手際があって私を傷つけた』ということですか?
でも、なんで《ハボリム》を手榴弾と錯覚できたんですか?」
「ん。ああ。大体そんな感じだね。《ハボリム》に関してはまあ、ウラジミール・シューホフが《ハボリム》を単純に兵器として認識していたからかな? いざやってみると《ハボリム》の姿は認識していなかったかのか、出来なかったはわからないけど。拍子抜けするほど容易だった。
多分ウラジミール・シューホフが生き残った際に機密が漏れないように措置したんだろう。おかげでどうにかなったんだけど、結局はそれが僕の限界でもあるんだけどね。
本当はウラジミール・シューホフから奴等に関連する記憶全て消し去りたかったんだけど、印象強いものはいじり辛いからね。全く儘ならない」
急な質問にユーリーさんは答えてくれた。先程の怖い雰囲気は成りを潜め、いつもと変わらない役を演じるように答えてくれた。
それから私は特に聞くことが無くなり一息つくと、ユーリーさんはため息を吐いた。
「本当に君は自分のことを気にかけないんだね。もう少し自分を大事にしてもいいと思うよ。僕はね」
「? なんのことですか?」
突然のため息。それも私に対してのため息。
失礼だと思う。女の子に前ぶれなくため息を吐かれて失礼だ。もちろん私が到らないだけだということも考えられるが、それでも失礼だと思う。
「…………アンナ。君のその痛みは」
「わかってます。これも契約の内なんですよね――」
ユーリーさんがため息をついた理由がわかった。彼は私が自分をないがしろにしていると思い、私のためにため息をついたのだ。
契約。ユーリーさんと私が交わした契約。それは必ず訪れるある未来、決して免れられない未来、確定した未来。
死よりも悍ましい未来。
前回は生涯一度も経験したことも無いような激しい吐き気と嘔吐。
今回は全身に走る激痛、それこそ全身の筋繊維すべてが断絶したかのような痛み。
今後、どのような災厄が私を襲うか想像も出来ない。
それは恐怖でしかない。恐怖でしかないが、後悔はない。
後悔、そう。後悔なんかするはずがない。だって、彼は私だけでは助けられなかったモノを、守れなかったモノを、救ってくれた。だから、後悔なんか
「大丈夫です。大丈夫ですからーー」
「アン」
コンコン。
「はーい」
「――アンナ僕だ。シューホフた。今大丈夫か?」
「シューホフ先輩、はいだい……」
――大丈夫?
シューホフ先輩の突然の来訪。この時になって私は始めて自分の状態を認識した。身だしなみが大丈夫か確認する。寝間着はいつの間にか着替えていた。でも、汗の臭いや髪の毛が少し荒れている。
「! ちょっと待ってください!
ユーリーさんは外に出てってください! 今すぐ!」
「ふう。何を今更……とは言え、僕はペルクナスと違って女性との接し方は心得ているからここは大人しく退散するとしよう。
まあ、彼とは積もる話もあるだろうしね」
先程ユーリーさんが何か聞き捨てならない事を言っていた気がする。が、今は自分の状況を再確認し、最短の時間で最少の工程で準備をする。
体の痛みはあるものの、我慢できるレベル。なら次に急いでシャワーを浴びる。降り注ぐ水滴が暖かくなる時間すら無視して最低限汗の臭いを流すくらいに、暖かくなるころには髪も軽く洗う、そのあとは少々乱暴にでも髪を乾かして調えて
シューホフ先輩には悪いが、女の子は身だしなみがとても大事なのだ。少々心苦しいがここは待ってもらう。
最後に鏡で確認。
――うん。大丈夫。
「どうぞ」
所要時間は五分ほど。いつもならもっと時間が掛かる、具体的には十五分ほど。でも、そのことをタマーラが知った時の驚愕と怒った顔は今でも忘れられない。
――タマーラ曰く『女の子が、いえ。女性はもっとお化粧に時間をかけるものなの!』と怒鳴られた時、今度は私が驚いた。だって、故郷にいた頃はもっと簡素で、帝都に来てからいろんな化粧品を見て、その中から自分に必要なものを予算内に収めて、その結果が十五分なのだ。
それでもタマーラは納得しなかった。それからは大変で、初めはお金を出すとか自分の化粧品をあげるとか言っていたけど、タマーラの化粧品はどれも高価で私は気安く使えないし、返せる見込みのないのにお金を出してもらうなんて論外だ。
時には口喧嘩までして、このままではタマーラとの友情が壊れてしまうと思った。それはタマーラも同じで、お互いに話し合いと言う名の討議の末に妥協案として幾つかの約束をした。
①タマーラから受け取る化粧品は企業の試供品のみ。
②化粧品の貸し借りは基本的(ほぼ私が一方的に渡される)に無しで、緊急時のみあり。
③女の子としてタマーラは私の現状が納得いかないので、タマーラからいまある化粧品だけでより良い使用法を教えてもらい。それが実践できているか抜き打ちで検査を受ける。
他にも細々した決まりはあるが、基本的にはこの三つだ。
しかし、この決まりのおかげでタマーラから『前よりもきれいになったよアンナ――』と言われて時は嬉しかったし、緊急時の短縮法も今この時に生かされておりとても感謝している。
そして――
「……失礼するよアンナ」
控えめに、それどころか怯えるようにシューホフ先輩は入ってきた。手にはお見舞い用の造花の花束(この国で生花は大変高価で、お水気温空気などの関係ですぐ痛み枯れてしまう)を持って、なにかを恐れるような顔をして入ってきた。
「シューホフ先輩。立ってないでそこに座ってください」
呼んだ。シューホフ先輩の名を呼んだだけで俯き震える。震えながらも私の近づき止まる。そのまま無言で立ち続けそうなので、もう一声かける。
「座ってください」
その一言に逡巡してから、僅かに頭を振って近くの台に花束を置いてからゆっくりと座ってくれた。
「……その、アンナ。大丈夫だろうか? 何か後遺症など、は、ない、だろうか?」
オドオドと視線をあちこちに揺らしながら、目に見えて顔を汗だくにして声をかけてくれた。でもその声は語尾が聞き取りずらくなるほど小さかった。全部聞き取れはしなったが、何が言いたいかは見当がついてる。
「落ち着いてシューホフ先輩。私はなんの問題はありません。後遺症もありませんし、傷跡も時間を置けば大丈夫らしいので、シューホフ先輩はなんの心配はいりませんよ」
笑顔。なんの淀みなく、シューホフ先輩に安心してほしいと、思いを込めた笑顔。未だに残響する痛みを堪え、今にでも唐突に襲ってくる吐き気にえづきそうになるのを耐えて、笑顔をつくる。
――大丈夫。私だってバレエダンサーの一人だ。これくらい演じて切ってみせる。
優しく、過去においたをした私を母が笑って許してくれたのを思い出して、泣きそうな顔をやめてほしいから。
「でも、アンナ。俺は――」
「シューホフ先輩。私との約束。覚えてくれてますか?」
シューホフ先輩の懺悔ないし自虐の声を遮る。そんなのは聞きたくないから、私の知っているシューホフ先輩に戻ってほしいから。
「でも――――」
シューホフ先輩が言葉を止めた。いや、私が止めた。
シューホフ先輩は自分でも気づかず、ベットに身を乗り出していた。そして、乗り出して喋っていたシューホフ先輩の上唇に私の人差し指を添えた。
目を丸くして言葉も表情も止まったシューホフ先輩、そんな彼を私は抱擁した。
決して力を込めずに、母が私にしてくれたように、優しく抱きしめる。
「シューホフ先輩、私は気にしてません」
シューホフ先輩の背中をさすり、心音が伝わるようにさらに密着させる。
そして、あの時の言葉を、もう一度言う。
「それでも気になるなら私ともう一度、約束してください。いつか絶対に、私に、この国に、
――春を見せてください――」
「ああ。アア。嗚呼。そう、だね。俺たちは、約束、していたね」
肩が濡れる感覚がある。もう一度、今度は強めに抱きしめる。シューホフ先輩が落ち着くまで、少なくともこの嗚咽が収まるまでは。
それか嗚咽が収まったシューホフ先輩は若干私から顔を背けつつ静かに座っていた。座っているものの、時折そわそわと落ち着きなくするのは気になるところだが、私はシューホフ先輩が何か話してくれるのを待つ。待つ。
「そう言えば! アンナはいつもいい匂いがするね! やっぱり女の子はみんなそうなのかな!?」
突然の大きな声、たぶん沈黙に耐え切れず強引に話題を作ろうとしたんだろう、普段のシューホフ先輩からは想像できないが、もしかしらこれが本当のシューホフ先輩かもしれな。だって一人称が"俺"って言うのだってあの時が始めてだった。
――そう思うと自分も役者としてまだまだね。
でも、
「ふふふ」
「なに、どうしたんだアンナ。急に笑い出して」
「だって、シューホフ先輩がおかしなことを言うんだもの」
――もしかしたらシューホフ先輩は女の子が砂糖と果実でできていると思っているのかもしれない。
「シューホフ先輩女の子だって汗をかくんですから、そんな生理的にいい匂いが出るわけないじゃないですか」
「でも、あの時も今日もいい匂いが――」
「それはこれですよ」
私は引き出しに入れてあった香水を取り出し見せる。
私のお気に入りの香水。とある人から貰った香水。ラベルには――
「……
ロマーシカ。かつては野原や道端、土手などでで短い夏の間に小さく白い花が日光を浴びて良い香り漂わす花。二つある国花のうちの一つ。
しかし、機関文明がもたらした灰色雲と雪はこの国とって短くも貴重だった春と夏を消し去った。前世紀でいう夏の季節にも咲かせることもなく、咲こうにも灰色の雪に覆われた大地に花は芽吹くことはまず無い。たとえどのような花であろうともほぼ例外なく。
「ええ。たしかに今のこの国では花は希少で高価なものです。特にそれこそ昔のオランダのチューリップみたいや値が付くこともあるとも言いますが、流石にそれは都市伝説の類いですけど、19世紀に季節になればどこでも見れたこの花も、今では見つけると幸運になれると言われるくらい珍しい花になったんですよ。
かくいう私も見たことは無かったんです。このアカデミーに来るまでは」
「……来るまでは?」
「ええ。ロマーシカを見れたのも、その香水を使えるのもシューホフ先輩のお陰です」
「? なんの事だアンナ。俺はそんなことした覚えが」
「え? でも、『この香水を作ることができたのはシューホフの発明あればこそ』って、コンスタンチン先輩が……」
疑問。シューホフ先輩と預かり知らぬところで、シューホフ先輩の発明が使われている。でもコンスタンチン先輩が無断でそんなことするとは思えない。いや、そもそもそれなら『シューホフの発明あればこそ』って言わないはず、なんで?
「それはねアンナ。あのお人好し先輩が頑張ったからよ。自分の研究そっちのけでね」
私たちの疑問に答えてくれる声が扉の方から聞こえた。
「タマーラ。ウラジミール先輩」
そこには扉を乱暴に開けてずかずか私に近づくタマーラと、その扉が閉まる寸前に部屋に滑り込み、切り分けた"プリャーニク(ロシア伝統の焼き菓子)"をトレイに乗せたウラジミール先輩がいた。
「アンナ大丈夫? どこか悪いところはない?」
「ちょっと! タマーラ、待って!」
タマーラは左手で私の手を握り、残りの右手は体のどこかに異常はないかとあちこちを触る。
たまに服の一部を引っ張り隙間を作っては、そこから背中や胸の辺り、果てにはシーツどころか服まで捲り始めた。
「やめて! タマーラ、後で、後で思う存分確認していいから、今は待って!
先輩たちも見ないでーーーー!」
そんな、私の悲痛な叫びを聞いてはくれず、タマーラが触るを通り越して
――死守したよね。死守できたよね!?
「――ふう。なんとも無さそうね。怪我をして運ばれたと聞いた時は心配したけれど、火傷の痕もこれくらいならファンデーションでどうにかなりそうだし、完治すれば目立たないってお医者さんも言っていたし。うんうん。よかった」
「うぅ。よくないよ~」
シーツで身を隠し、少し息が切れて汗だくになった。さっき身嗜みを調えたばかりなのにこの有り様だ。
先輩たちも途中からは後ろに振り向いてくれたのを確認できたけど、どこまで見られたか、そもそも部屋から出てってもらえばよかったと今更ながら思った。かなり不安だ。
と言うか、先輩たちが未だにこちらに向かないのはなぜか気になる。心なしか耳まで赤くなっている気がする。ウラジミール先輩も未だにトレイを持ち続けている。不安だ。
「あの、先輩。見ました?」
「いや! ナニも見てない! 鎖骨から際どいところなんて見てない!」
「そうだ! 膝から太ももの辺り何て見てない!」
――それ見ていたっていうことじゃないですか!
二人の馬鹿正直な、焦っているせいか声がかなり上ずっていて、地が出てきたシューホフ先輩はともかく冷静沈着なウラジミール先輩も動揺しているのがとても新鮮で、こんな時でなければ写真に納めたいくらいだ。
「ちょっとあんたたち! 病人のアンナをいやらしい目で見ないで!」
――タマーラがそれ言うの!?
タマーラもタマーラで、自分のことを棚に上げて二人を糾弾する。このままだと話があらぬ方向に行きそうなので、強引に話題を変える。
「そう言えばタマーラ! さっきのコンスタンチン先輩が頑張ったってなんの事!?」
ウラジミール先輩がトレイをガチンっと、少々大きい音を鳴らして机に置いたところで話題を挟む。
「うん――それね、それは以前にシューホフ先輩がコンスタンチンに飛空挺用の動力管を提出したんだけど、結果は不合格。
理由は部品の規格と出力は安定するものの管が長くないと難しいのが問題で、飛空挺に載せるこに各部品は最小最軽量が理想だけど、その点でシューホフ先輩のは不適合で却下されたんだけど、そのあとコンスタンチンが他のなにかに使えないかってアカデミーの知り合いに片っ端から声かけていったの。
んて、農林学科の目に留まっていくつか研究会等に提供できた。しかも名義はシューホフ先輩でね」
話はそれたけど、私も細かい経緯までは知らなくってコンスタンチン先輩がそんなことをしていたのは驚いた。
「でもタマーラ・カルサヴィナ。俺のは飛空挺用に作ったものだから農林関係に役立つとは思ってないんだか」
シューホフ先輩の疑問も最もで、機関で農林関係にあること、聞いた話ではフランスのマルセイユ洋上学園にはある人工庭園は前世紀の緑を疑似太陽と空調によって再現してるのと……
「動力管、出力、人工庭園…《small/》あ!」
「!!」
思わず手を思い切り合わせてしまいヒリヒリするも、シューホフ先輩の発明がそのまま夢に繋がっているとわかって興奮してしまう。いや、興奮がおさまらない。
「お。アンナはわかったんだね」
――わかった。わかったわ。シューホフ先輩の発明がどのように使われたか。
「どうしたんだアンナ。そんな大声を上げて」
「わかったんですシューホフ先輩! 先輩の発明がどのように使われたか! 温室栽培ですよ! 温室栽培!」
「温室、栽培……」
「そう。温室栽培だ。シューホフの動力管は長ければ出力が安定して、もともと飛空挺用のやつだから高出力にも耐えれるから無理が効きやすい。
なによも評価されたのが既存の動力管よりも材料が少なくってすむのが大きい。コンスタンチン先輩はそこを売りにあちこちに触れ回って契約を取ってきたんだ。シューホフ名義でな。だから後で自分の残高見とけよシューホフ、今月辺りから入金されてるはずだから凄いことになってるはずだ」
ウラジミール先輩は得意気に、まるで自分の誇れるものを自慢するみたいに、とても嬉しそうに言う。
もっとも、隣のタマーラが何故か、途端に不機嫌な顔になったのは気がかりだが。
「でも、なんでコンスタンチン先輩は俺の動力管を評価しているんだ? 飛空挺には使えなかったのに」
シューホフ先輩の困惑、自分の発明が評価されているのに実感が持ててない。それはとても悲しいことで、原因は私の傷の事だと思う。たぶんそう。
私はそんなことでシューホフ先輩に止まってほしくない。シューホフ先輩はいま自分の夢に近づいているのをわかってほしい。何よりもシューホフ先輩はコンスタンチン先輩のことをまだよくわかってない。
だってコンスタンチン先輩は
「それは簡単だよ。あの人がお人好しで、不採用をくらって落ち込んだ後輩のことが放っておけなかっただけの話だ。まあ、純粋にお前の動力管が良かったから倉庫に埋もれるには勿体無いというのもあったんだろうけど。
それとシューホフお前はまだ研究会に入って短いからわからんだろうがコンスタンチン先輩は足許、つまり後輩や研究会のやつらのことはちゃんと見ているし、自分の目標に向かうことができる人なんだ」
そう。コンスタンチン先輩は誰も見捨てない。あの人は誰よりも他人の夢を応援する人、自分のことは多少おざなりになるけども、それでも他人の夢も自分の夢も諦めない。
そういう人だから、あの人が輝いている。
「もっとも、あの人が上と下が見えても自分という名の中間が見えてないのが問題なんだけどね」
「それだけじゃなくってあの人は、女の子のことが何にもわかってないのも忘れないで」
ウラジミール先輩とタマーラは最後にコンスタンチン先輩をなじる。ウラジミール先輩は笑いながら冗談のように言うけれど、タマーラはなんか恨み節にしか思えない低い声で言う。コンスタンチン先輩はタマーラに何かしたんだろうか?
その疑問はウラジミール先輩がまたも笑いながら教えてくれた。
「タマーラ。タマーラ・カルサヴィナ。いくらコンスタンチン先輩に香水を貰えなかったからってそんな言い方はどうかと思うぞ。女心がわかっていないのは賛同するが」
「な! そそそそそ、そんなことないわよ!」
うろたえるタマーラ。顔どころ首や耳まで真っ赤に染めて、防音性の高さが災いしてかタマーラの声は反響して耳がキンキンする。その後もタマーラが何が言っているがうまく聞こえない。少し回復してところで私はそばにいたウラジミール先輩の袖を引いて耳元に顔を近づけて聞いてみる。タマーラに聞こえないように小声で。
「《small》どういうことですかウラジミール先輩?」
「ああ。その香水を彼女は貰えなかったのを根に持っているんだよ。僕もその場にいたんだが、ほらアンナはこの手の物をあんまり持ってないだろ、だからコンスタンチン先輩にしては珍しく気の利いた親切なんだが、彼女はそれを知って自分も欲しいと遠回しに言ったんだが、それは上手く伝わらなかっただけでなく『お前その手の物いくらでも持ってだろ?』って言ってあげなかったんだ。
まぁその後、鳩尾に回し蹴りをくらって医務室に速攻したんだけどね
もっとも、コンスタンチン先輩も素直にあげれなかったのもどうかと思うけど」
ああ。その光景が目に浮かぶ。なんで二人はいつも喧嘩ばかりしているんだろう? あと、ウラジミール先輩は最後になんて言ったかよく聞こえなかった。
でも、今手元に写真機がないのが寂しい。この騒がしくも、暖かな光景を。《きれいなもの》と《うつくしいもの》を留めてたい。
あの怖かったのが嘘のように、夢幻のように、いつかそう思えるようになってほしい。
しかし、そんな私の淡い希望は、泡沫と消え失せた。
突如、扉が叩きつけられるように開かれた。
「おいお前たち! 今すぐラジオをつけろ!」
「コンスタンチン先輩どうしたんですか急に」
二つある松葉杖の片方でバランスを取りつつ、もう一本で手摺を叩きつけるように開けたせいか、扉から少し離れており部屋に入ろうとした時に扉に挟まれ、そのまま肩で体当たりするように開けた拍子にこけそうになって撃たれた足で踏ん張り、部屋には何とか入ったもののうずくまって動かなくなった。
「……あの、コンスタンチン先輩大丈夫ですか?」
「っっ! どのチャンネルでもいいからラジオつけろアンナ! 帝都が大変なんだよ!」
「はい!」
コンスタンチン先輩のあまりの必死さに、慌てて部屋に備え付けのラジオつける。
そして、聞こえてきた
『……緊急速報です。現場からお伝えします。本日2月23日の早朝から行われていた
それと未確認ですが、この暴動帝国各地に波紋を広げ、各都市でも暴動が発生しているとの報告があります。善良なる帝国市民は暫くは不用意に家の外には出ず、この混乱が収まるま――キャー――――』
キャスターの悲鳴と共に放送が途絶えた。
その後各地に広まった暴動も警察と軍の迅速な行動により一週間と経たずに収束する。一月前に起きた《血の安息日事件》と関連が囁かれるこの騒動。しかし、これはほんの序章にすぎなかった。この事件がきっかけとなり、この国は激動たる終焉が始まる。
そう。この2月23日の事件、後の世に言う《二月革命》からこの国は音を立てて崩れ始めたのだ。いや、もしかしたらあの安息日から始まっていたのかもしれない。
後に歴史家たちはこう言う。
『終焉の一年』『終末の一年』『激動の一年』『ロシア機関帝国の最も短く、最も長い一年』『ロシア機関帝国最後の一年』
そして、一部の人たちはこう呼んだ。
遅れました。うん。最近これしか言ってない気がするジンネマンです。
ほんとに、月一投稿とか嫌になる。せめて月二もしくは二週間に一回としたいですが、当分は努力目標にしかなりませんね。
それはともかく、物語が大きく動きます。次章は主に「血の安息日事件」私たちの歴史で言うところの『血の日曜日事件』を発端に色々なことを起こします。
具体的には、アンナたちの出番がほとんどなくなるということですね。
まあ、何があるかわ見てのお楽しみと言うことで(自分でハードルを上げる愚行)
ただ言えることは、次章にはテンプレ戦闘はありません。
では、今夜はこのくらいにして、
親愛なるハーメルン読者の皆様方。良き青空を。
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三国戦争
3-1
二月二十五日
冬宮殿
この国を支配する皇帝一族の宮殿にして、心臓であり頭脳。
いや、ロシアそのもの。
そうであるはずの場所、冬宮殿。
されど、その姿は
外観の美麗さとは裏腹に、
エカテリー大帝が愛したであろうロココ建築の表層とは違い、
その
数。それは欧州よりも果て地からもたらされた
数。それは碩学協会からもたらされた
数。それはこの国を、世界を灰色に染めた
その王宮のもっとも深き場所にある玉座の間。
正常なる者は誰一人として入ることの出来ぬ広間。
複雑にして優美、繊細にして豪奢なロココ建築を黒く染め、健常なる者を蝕む黒煙の空間。
その数と黒煙の最奥の玉座に座す男。
大きなマスクと玉座、それらと一体となった男。
闇がもっとも暗い玉座のような男。
それは謁見をするための措置、玉座から離れ、入り口から20ヤードほどの距離に黒煙を遮る強化ガラスに守られた一区画。冬宮殿において唯一健常者がいられる空間、謁見を赦された空間。
その隔絶された広間には二人の人間がいる。拘束されている男と、そのそばでまぶたを閉じて直立不動の男。その二人のいる空間に突如、大音量の音が響く。玉座と一体となった皇帝たるアレクサンドル三世は体の一切を、指やまぶたどころか声帯すら動かすことなく、途切れ途切れの合成音声が部屋全体に響き渡る。
「ガポ ンよ。なぜ ここにい るか わ かってい るか」
「はい。委細承知しています皇帝陛下」
両手両足を拘束され祈るように
通称ガポン神父と呼ばれるこの男は正教会の司祭にして、先の『血の安息日事件』と
「……では聞 こ うガポン。正教会の司祭にして、帝 国の治安 維持の 要たるオフ ラーナに籍を 置くお 前がな ぜあの ような 事を した」
「この国の為に――いえ世界の為に」
「こ の世界 の為だ と」
「はい。私はこの国の、いえ衆生すべてを救済したいと思っています。同時に衆生すべてを救済できないことも知っています。
人は誰しもが平等にあれず、その差異が争いを生みます。ではどうすればいいでしょうか? 簡単な事です。平等にすればいいのです。しかしそのためには力が必要であり、その邪魔をする者たちを排除しなければならない。そのための行動が先の答えです。
もちろん労働条件など改正もして頂ければ幸いですがね。無論市民を鎮静するための手はぬかりません、私も暴徒を市民とは呼びたくありませんからね。まあ、この件の前に
ガポン神父はなおも顔を上げず、先程と同じ声色で語る。『この国の為』だと。しかしアレクサンドル三世も訝しむこともなく未だに目を閉じたままと言葉をかける。わかっり切った答えだと、予め想定されていた答えを確認するように。
「まずはこの国の害悪を一掃してすべてを
そのためにはまず第一歩が革命家を名乗る者たちの一掃。奴らはこの国に、いえ世界の害悪です。彼らがいては世界が平和に、すべての衆生を救済できない。故に一般人を扇動して、それに乗じて出てきた奴らを一網打尽にする。これであとは少しの労力ですみます。後は皇帝陛下さえいればすべて成ったも同然。
お分かりいただけましたでしょうか皇帝陛下?」
「ああ。わか った。とこ ろでガポ ン、それにつ いて幾つ か 聞きたい こと が ある答え よ」
「はい喜んで」
「何の為 に」
「衆生の為に」
「ど この為に」
「この国、ひいては世界の為に」
「――誰の為 に」
「それは
「……
「はい皇帝陛下。閣下とは…………閣下とは誰だ?」
瞬間。それまで平静であったガポンが乱れた。伏せたままで顔は見えないが、その身は震え床には汗が滴っている。目に見えて動揺しているガポンが初めて顔を上げた。
「皇帝陛下、
教えてください皇帝陛下! 閣下とは誰のことですか! 私は何をやっていたのですか!? 私は何がしたかったのですか!?
アレクサンドル三世がまぶたを少し上げ、玉座の手すりを人差し指で小さく叩く。
瞬間。ガポンの側に立つ軍服の男。ニコライ・ニコラエヴィチが腰に携えた軍刀を一閃。ガポンの首をはねた。
苦悶と懇願。後悔と悔恨。嘆きと悦び。様々な感情が混沌とした表情のガポンの首には見向きもせず。ニコラエヴァチは血の付いた軍刀を一度払い鞘に収る。
「死因はどのように?」
「革 命家ども の内輪 揉めとして おけ、奴等 はその手の 闘争を好 いてい るかな。それより もどう思 うニコ ラーシャ」
「はい。皇帝陛下まず間違いなく
「そう か。奴等は オフ ラーナの中枢 近くま で手を 伸ばしてい たか」
「残念ながらそのようです」
「して、アレは 誰の仕 業だ? 赫い 女か? それと も
「はい。十中八九赤鉄の男の方かと。あやつの業はメスメルとは全く別物です。あれは洗脳の類いと言うよりは染め上げていると言った方が的確です。
本人の意思も思考も一方的に、一方向のみに向かうように染められる。どれ程思案しようとも最終的には同じところに行き着くようになる。恐ろしいものです」
「過ぎた こと よい。そ ちらに 関し ては別 の者に任 せ る。
して 本題だ。お前を呼 んだ理由 はわかる なニコラ ーシャ」
ニコラエヴァチがガラス越しに皇帝を見る。まるで東洋の
その黒煙の帳越しに互いの意志が通じ会っているのを確認するかのように一秒、二秒の沈黙。
「昨日同時に宣戦布告並びに侵攻を開始したオスマン機関帝国。大日本帝国。独立を主張するフィンランドを中心とした北欧諸国連合との事案についてですか?」
「そう だ。お前の意 身を聞きた いニコ ラーシャ」
「オスマンについては私が行きましょう。あれらの戦い方は熟知しています。
北欧諸国連合と合流した反逆艦ポチョムキンにはグリゴーリイ・パーヴロヴィチ・チュフニーン海軍中将率いる黒海機関艦隊が鎮圧を向かってます。もっとも、あの中将は少々精神状態が特殊で御しがたいですが、本領を発揮すれば瞬く間に事を成すでしょう。陸地の制圧にはドン・コサック軍が適任かと。
そして極東
しかし日本は極東の島国とは言えあの大国シンを陸海ともに破った強国。侮れません。そこでオスカル・フェルディナント・グリッペンベルク大将率いる騎兵隊。ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー少将のバルト機関艦隊を向かわせることを進言します」
「よかろ う。軍事はお 前に 一任す る」
「では、わたしはこれで失礼します陛下」
「ニコ ラーシャ。あ やつを頼 む」
「言われるまでもなく存じております皇帝陛下」
ニコラエヴィチはそう言うと真っすぐ部屋を出て行った。そして、静寂が漂うこの場に、あまりに不釣り合いな笑いがこだまする。
「あーーーーはははハハハハハ。フハハハハハ!
ご機嫌麗しゅう。皇帝陛下。
ああ、相も変わらずの皇帝陛下。
話す声は、仮面の男だ、薔薇の華の。異形の男だ、黒い僧衣の。周囲を満たす黒よりも尚、色濃い《霧》だ、《闇》だ。否、既にそれは《混沌》だ。
堂々と、この国の至高たる皇帝陛下を嗤う男。爛々と、喜々と、嬉々と、嘲笑する男。数に満たされ、数に繋がれた男を嘲笑する男はゆらりと黒煙に満ちた部屋に降り立つ。
「お 前が関 与し て いるの か」
「いえいえ。私は皇帝陛下に忠誠を誓った身です。そのような大それたことはとてもとても」
「戯言 は よい。な んの用 だ」
アレクサンドル三世は未だ不動でありながら、その全身で《仮面の男》を警戒する。
「おお。そんな剣呑に構えないでくださいよ皇帝陛下。
ええ。今日ここに来たのはあることがあることが聞きたくって来たのですよ。私にとっての懸案事項をね。
時に皇帝陛下。あの子たちは大丈夫でしょうか?」
「なぜ おまえ が その ような ことを 気に する」
「それはもちろん。陛下の親族のことが心配だからですよ。この胸が張り裂けそうなほどに――」
《仮面の男》は自分の胸に手をで掴み、その身を捩じり顔を伏せる。あたかも、全身全霊で人のことを心配しているかのように。だが、アレクサンドル三世はそれらに意に介すことなく黒い道化師に問う。
「もう 一 度言う。何 の用だ ラス プー チン」
「おやおやつれないですね皇帝陛下。ふむ。では本題に、私はね皇帝陛下。
「それ 以上は 口にする なラス プー チン」
静かに、されど重く、硬い声が《仮面の男》の言葉を断つ。それまで泰然自若であったアレクサンドル三世が初めて感情を表に出した。
それは敵意か、害意か、殺意か、閉じていた瞳を見開いて、《仮面の男》を睥睨する。
「ふふふ。やっと私のことを見てくれましたね皇帝陛下。
ああ、なんとも
「あの 者た ちには
「アレですか? あの痩せ犬が、あの負け犬が、
ええ。ええ。貴方が名だけとは言え、
たしかに、普通なら問題はないでしょうね。否。仮にあの者たちが
仮面の底。混沌の奥。闇の最奥。《仮面の男》の顔が歪む。余人には決して見えないその顔は、その口は確かに弧月に歪んでいる。
アレクサンドル三世の語る狼。かの皇帝は絶大な信頼を置いている男。しかし、《仮面の男》は嗤う。まるで確定しているのを知らずに健気に励む幼子の失敗を待つ悪辣な悪魔のように笑う。
「なるほど。皇帝陛下は人を見る目がないのですね。それどころか、先見の明さえないとは、嗚呼おいたわしや皇帝陛下。かの男は過去にあの
そんな憐れな皇帝陛下に私が一つ予言を差し上げましょう」
「いらぬ」
アレクサンドル三世の拒絶を聞かなかったように、いや聞いてなお了承と捉えて哄笑とともに
「祝福せよ! 祝福せよ!
おお。おお。悲しきかな。
偉大にして栄光なりしロシア機関帝国に火が灯る。
それは《赫く》すべてを侵す炎。
それはこの国のすべてを染め上げる赤色。
たとえ強大なる《黒》さえも。
だが炎が灯るのが一度ならばいい。
しかし、もしも、二度の目の炎が灯るならば、
貴方の大切なものが、すべて。失われるだろう」
《仮面の男》その宣告を終えて満足したのか、恭しく頭を下げながら黒煙に溶けてゆく、まるで初めからそうであったかのように。
「さて、本日は貴重な皇帝陛下からの
では、皇帝陛下良き青空を」
『――――――――』
黒煙に残響する声に耳朶を震わせながら、かの皇帝は静かに目蓋を落とす。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
二月二十四日 サンクトペテルブルク 裏路地。
永遠の灰色雲からわずかに指す陽光さえ届かぬ暗いその場所に、一人の若い青年が幾つもの人の形に似た
そんな彼ら彼女らを、青年は優しく撫でている。愛おしい我が子を愛撫するように、降積った灰色の雪をどけて、まざまざと
そこに一人の影が降りる。
「ここにおられましたか同志ボグダーノフ」
男が口を開く。静かに、深く、深き海の声の。光さえ通さず、届かず、屈折するほど黒のような青いスーツを纏う細身で長身男。
深き男の呼びかけに、青年は振り返る。先とは違う。まるで親しい友人の一人に遭ったかのような
「やあ待っていたよジェルジンスキー」
「遅れしまって申し訳ありません同志ボグダーノフ」
「いやそんなこと気にすことはないよ。彼らとゆっくりと語り合うことが出来たからむしろ感謝したいくらいだよジェルジンスキー」
朗らかな笑顔を深き男に向ける。青年は顔を深き男に向けながらも路傍に転がる人の残骸を撫で続ける。笑顔のまま、そう。笑顔のまま撫で続ける。以前の彼とは異質な造形の笑顔で。
――やはりこのお方は、この男の表情や感情表現は
――生物的ではあっても人間的には程遠い。決して人間とは言えない存在。
――だが、
「先の案件では大変ご迷惑をおかけしました」
「そんなこと気にしなくってもいいよジェルジンスキー。彼らは今までに会ったことのないタイプの人たちで、とても実りある時間だったよ。
ああ。やはり人間は素晴らしい。素敵だよ人間。愛おしいよ人間。だから君たちは愚かだ。けれどもそれを差し引いても興味が尽きないよ人間。
だから先も言ったが、僕から言わせてくれ。ありがとうジェルジンスキー。
でも、僕の力のことはみんなに言わないのはなぜだい? みんな知っていた方がいろいろ楽だと思うけど――――これも親友の命令かい?」
「はい。閣下は貴方のことをとても大事にしていまし、その力が知れ渡ると様々な弊害が発生します。故に貴方のことは幹部にでさえ秘匿されてます。
ですかこれからも穏便に――」
「ああ。わかっているよ。親友の言うことはどれも正しいことばかりだからね。そう、彼言うなら間違いはない。けれども寂しいものだ。もっと人間と関わりなりたいし、いずれは」
「雑談はそれくらいにして、わかったことを教えてください同志ボグダーノフ」
とても柔らかな笑顔をするボグダーノフ。そんなボグダーノフにあくまでも無表情で対応する深き男。それこそ一切の感情さえ捉えられないよう。ボグダーノフを最大限に警戒して。
「……ああ。そうだったね。
わかったことはあの中にはオフラーナはほとんどいなかったよ。いても末端の下級工作員ばかりで大した情報は無かったよ。でも、ガポンはよく働いてくれたよ。そこは親友に報告しておかないとね。おかげで他の革命家たちの大半が死んだよ。
これで親友の目標にまた一歩近づいたね」
「そうですか。それは閣下にご報告いたします。では私はこれにて――」
「ああ。ご苦労様ジェルジンスキー。それと僕は君のことも親友と呼びたいんだが、了承してくれないか? 君は僕が理想とする人間に、親友とスターリンにもっとも近い存在だ。そんな君を僕は」
「いえ。ご遠慮します。あの方々と同列にしてほしくないですからね」
深き男は二人に脊を向け、闇に溶ける。
深き男を見送ったボグダーノフは一通り残骸を撫でた後、興味を失ったかのように立ち上がり、
「さてと、そろそろ帰るか」
進行方向の邪魔になった
お疲れ様です。
結局間に合わなかった! 本当は三日前に投稿したかったのに! まあしょうがない。間に合わなかったのはしょうがない。
と言うわけで(どういうわけ?)で今回の補足。
まず三国がロシアに戦争吹っ掛けてますが、それぞれ露極戦争(日露戦争1904年) 露土戦争(妄想) 冬戦争(1939年) をモデルにしています。
露土戦争とはオスマン帝国とロシア帝国との戦争のことで、ウィキで調べると約12の欄がありましたが、今回は完全妄想の戦争ですね。
そして冬戦争に関してはだいぶ先……是非もないよね!
そもそも元のライアーのスチームパンクの時点で史実とは違うので、まあない頭で頑張りはしますが、それでもいろいろアレですが、ご了承下さい。
さて、今月も目標で二本投稿できるように頑張ります。
では、親愛なるハーメルン読者の皆様方。良き青空を。
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3-2
二月二十七日。
旅順近郊
「ドっせいっ!」
獣の咆哮と号砲を思わせる豪声と同時に重機関砲でなければ傷つけるどころか破壊さえ困難な重装甲戦車が一瞬僅に金属が擦れる音と共に穿たれる。
穿ったのは槍だ。だがただの槍ではない。石突きから刃の尖端まで十四尺(約4.2㍍)の雷電を纏った槍だ。
刃の部分もただの刃ではない。螺旋だ。尖端の部分は長さ四尺(約1.2㍍)、横幅が二尺(約60センチメートル)の大きな螺旋の刃。小さな子供がすっぽりと入りそうな巨槍を振り回すのは一人の老人。
後ろで一つに纏めた長い白髪と無造作に伸びた髭、顔は僅に皺があるものの精悍で歳を感じさせない生命力に満ちており、そしてこの寒空の中半裸で、実際の年齢からは想像できないほど
そう。
嘗てこの空が灰色に覆い隠される前にはいたとされる肌。黒人の黒い肌とは違った色合いの肌。その肌を視ただけでこの男は相当な年齢なの想像に難くない。故に周りからは『怪物ジジイ』『妖怪ジジイ』『化け物ジジイ』等々名誉なのか不名誉なのか判断つかない名称で絶えない。
ただ、《超人》《英雄》《豪傑》《老黄忠(古代中国に活躍した老将に因んだ言葉。老いて益々盛んの意)》などと、前向きなのを聞かないのはその豪胆というにはあまりにも粗雑な性格が大きいからであろう。
「ふん。この辺りは片付いたな。まったく、露助には骨のある奴はいないのか?」
その老人の周りには幾つもの巨大な鉄の残骸と夥しいロシア兵の死体が散乱していた。しかし、老人の槍にはほとんど血は付いていなかった。
瞬間、老人の背後に一人の影が現れた。
「やれやれ。サノさんは相変わらず大雑把ですな。こんなにも伏兵がたくさんいたのに全無視とか馬鹿なんですか?
それにそろそろ潮時ですからあんまり突っ込まないで下さいね。乃木さんに怒られるのは私なんですから」
『サノさん』さんと呼ばれた老人の背後にもう一人、筋骨隆々な先の老人とは正反対の老人が一人そこにいた。
文字通りの正反対、日本人の平均より小さい体を防寒着で完全武装した老人。髪の毛はサノよりも少なく、むしろ
「ん? 別にいいだろお前がいるんだら”新八”」
「やれやれ私をその名で呼ばないでくださいよ。今の私の名前は『杉村治備』なんですからね。それにね私もいつまでもあなたの側にいるわけじゃないんですよ。だからですね、もう少し周りをよく見て欲しいんですよ。
わかります? わかってますか? わかってるのサノさん?」
「あーあー小言は聞きたくない! てかな、俺はいつまでお前の小言を聞かなきゃならんのだ。もうかれこれ半世紀近くは聞いているぞ。いい加減にしろよ!」
「そう思うのなら文字通り
全く」
大きなため息を吐く新八の言に、サノは両手で耳を押さえて喚く。まるでここが死山血河の戦場ではなく実家の居間で親に叱られている子供の反応だ。傍から見たら巫山戯ているようにしか見えないが、その瞬間にも遠くは近くと砲弾銃弾機関砲が飛び交い刃が交わる戦場において当の本人たちはいたく真面目にやっているのだから質が悪い。
当事者たる二人にもその数多の凶刃が文字通り殺到している。が、互いに意に介すことなく説教してされている。
わずかでも擦れ接触すれば人を粉砕する砲弾と圧縮砲をサノは螺旋槍で逆に粉砕し霧散させる。飛び交う銃弾にたいしては頭部を護るのみで他は無視している。対極に矮躯の新八と呼ばれた老人はその一切を躱し、接近してくる敵兵をその一切を視認することなく薙いでいく。
互いに異質、互いに異様、互いに鬼神とも呼べる心技体の顕現。
「にしてもな。乃木の小僧はなんでこんな無謀な特攻ばがりしかけんだ。馬鹿なのか?
てかな、あちこちに散発的に攻撃しかけて何がしたいんだあの小僧は。やっぱりアホなのか?」
「そんなわけ無いでしょうに。あの人はあの人でちゃんと考えているんですよ。少なくとも
「新八! ッ!」
突如発生した斬撃と衝撃。余波によって巻き上げられた粉塵。新八とサノの会話が途切れた。否、
「ほお。あの攻撃で倒れぬとは」
「ねえ~ご主人」
「わかっている。久しぶりに骨のある獲物だ。せいぜい楽しむさ。
あと、『ご主人』はやめろと何度何年言わせれば気がすむんだ」
「え~。だってご主人は私の命の恩人で、雇い主で、生涯の相棒で、生涯の反応伴侶なんですからね」
「…………」
戦場と言う場からあまりにもかけ離れたふざけた会話。されどその間二人に隙はなく、無闇に動くのを憚られる程の威圧を伴っていた。
両者ともにロシア機関帝国陸軍の碧色の軍服を惑い、自分達を岡の上から好奇心と僅かにだ友好的な感情が折り混ぜこちらを
片や"主"と呼んだ方は私よりも頭一つ分大きな女。男と同じく碧色の軍服の上から全身を大蛇のようなカートリッジを巻き向け、顔を幾つものレンズが嵌め込まれた仮面で覆い隠し、その手には先程新八を襲った武器。尖端が奇妙な形状をした
――このままでは埒があかない。ここはひとつ話し合いで情報を引き出すか。
「あなた方は?」
「ん。ああ。すまんな最近は名乗る間もなく終わってばかりで忘れていた。いやなに貴様等程の相手は久しぶりでついな。
俺はロシア機関帝国陸軍旅順要塞司令官コンスタンティン・ニコラエヴィチ・スミルノフ中将だ。まあ司令官っと言っても野戦担当というなんともみょうで締まらん肩書きが付くがな。
それでこいつが部下のロマン・イシドロヴィチ・コンドラチェンコだ。何と呼ぶかはそちらの好きにするがいい。どうせ今回限りの出会いだ」
「ほう。それはどういう意味でしょうかな」
途端。それまで本の僅かであるが友好的なそれが獰猛で歓喜に満ちた野獣のモノへとに変わった。
――しくじったか。
「そんなもん簡単な話だ。お前ら二人とも今日、ここで死ぬからだよ」
「そうだよそうだよおじいちゃんたちは今日ここで死ぬんだよ。ね~ご主人」
何言っているんだ? と言えんばかりの口調。否、二人はこの戦いをすでに勝ったと思っているし疑ってないし疑ってない。この周囲の惨状を見ても彼我の戦力差を疑っていないのだ。
常人では再現不可能なこの惨状を見て尚だ。周囲に散乱している重火器を使わねば破壊することが困難なロシア製の重装甲戦車の残骸、夥しい数のロシア人兵士の死体。その光景に反して傷一つついていない老人が二人。その現状でもロシア人の二人は不遜にも勝つと宣言している。
「…ぷ」「――」
「あん」「ん?」
そのロシア人二人を見て当の日本人二人は、サノは少し吹き出し新八は『やれやれ』と首を横に振り笑みを浮かべている。日本人二人はかつての友人を思い出した。もっともその友人とは似ても似つかないのだが。
「何がおかしい」
「いえね。その厚顔不遜なところが昔の友人を彷彿させましてね。いや、お二人を馬鹿にしているつもりは微塵もありませんよ」
「おう。悪かったな露助ども」
「ふん。まあいい。どうせ今日限りの相手だ、多少の無礼は許そう」
「ほう。気前がいいですねスミルノフ中将殿は」
スミルノフは『ふん。』っと、鼻で笑う。
「言っただろ。『今日限りの相手だ』とな。さて、世間話そろそろ終わりとしよう。こいつも早く殺りたくってウズウズしているかな」
スミルノフが隣のコンドラチェンコを指差す。コンドラチェンコは爛々と瞳を輝かせて、笑顔で待ちきれないと長銃を握り締めてそわそわとしている。
そう言うスミルノフも剣の柄に強く握り締めて腰を落としている。
「ええ。そうしましょう。
もとよりここは戦場。私たちとあなた方は敵同士。なら答えは自ずと見えてくもの」
「そうさな。お互いもう語り合うこともないからな」
かく言う新八とサノも二人と対峙してから一切の戦闘態勢を解いていない。むしろ先程よりも鋭く相手を観察していた。
「「「「……………………」」」」
そして、互いに無言。
交差する敵意と殺意の視線。
唐突に、自然と、同時に動く四人。
互いが互いの敵に向かって、言葉よりも過激な意思表示。
ここに、老練なる日本武士と新鋭のロシア軍人。後にこの旅順の戦を左右するピースの一つである四人が、今ここで、初めて激突する。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
3月5日。
カレリア地峡。
「かーー。やっぱ極寒の機関量産製の不味いウォッカは身に染みるねーーやーー寒い!」
カレリア地峡は今、絶賛猛吹雪の真っ只中。そんな人類を容易に殺す自然の猛威に対し、ウォッカを飲んだくれている男がいた。短く切り揃えた髪とキリッとした顔立ちは知性と勇猛さを醸し出す男、髪は薄こけた茶色で肌は少しくすんだ白色の男は大した防寒着も着けずに熱帯地帯に赴くような軽装でいた。
その頓珍漢な言動をとる男の左後ろに完璧な防寒着を着た黒髪で青い瞳の女性軍人が大きなため息を吐いた。
「アホなことやってないでちゃんと指揮してください隊長殿。てゆーか寒いんで早く幕舎に戻ってください。それともこれはパワハラですか? それともセクハラですか? もしくは両方ですか?
どうなんですかラーヴル・ゲオールギエヴィチ・コルニーロフ隊長殿?
…………はあ。なんで私の周りの男はこう、禄でもない男ばかりなんですかね。真面目で勤勉って聞いていたのに、実際には――はあ。」
ため息と一緒に辛辣な言葉を容赦なく叩きつける女性軍人。マリア・レオンチエヴナ・ボチカリョーワは言うほど寒そうにはせずに、目を瞑り直立不動でコルニーロフを上官にも関わらず物理的精神的な意味で見下している。
厳格な規律があっての軍隊にしてこの態度は異様で奇妙だが、見下されている上官はそんなことを気にする風もなく鼻歌交じりに、ニヤニヤしながら見上げている。
ラーヴル・ゲオールギエヴィチ・コルニーロフ。ドン・コサックの指揮官にして探検家、少年期に僅かしか教育を受けていなかったにも関わらず軍学校を優秀な成績で卒業。言語学に明るく五カ国語を習得し外交官の経験を持つ秀才。なのだが、
「それにね。僕はいまでも勤勉で真面目だよ。ほら、こうやって前線近くで敵情視察しているし、そこで戦っている兵と同じ状況に身を置くことで状況理解を深めようとしてるしね。うん。勤勉勤勉。それにね探検しているとある程度はおおらかにならないと大変なんだよ。
あと君の恋愛遍歴の話だけどさ、そりゃね。簡単話だよ。それは君のその性格のせい以外にないよ。うん」
「はあ゛。何言っているんですか隊長殿。不味いウォッカ飲みすぎて脳まで逝ったんですか」
マリア・レオンチエヴナ・ボチカリョーワ。彼女は農家の生まれでそれまでの人生で幾人かの男と結ばれるもどの相手からも長続きせず、彼女自身は相手のことを献身的なのにも関わらず相手は暴力やギャンブル。しまいには相手が犯罪で捕まり最低気温が-50℃にもなるロシアにおいても極寒と言われる流刑地に送られた。が、普通ならここで諦めるか家で待つのだが彼女は送られたあと彼を追いかけた。しかも彼女は免許もなければお金もないと言いって遠く離れた流刑地まで着の身着のままで踏破したのだ。
その後その男とは別れるも、そんな流刑地にたいした就職先があるわけもなく故郷でもつまはじきされ困窮したので仕方なく男社会の軍隊に入隊した。が、そこで彼女は生来の気概の強さと勇猛果敢さでメキメキと頭角を現す。その後も様々な戦地を巡り、そのすべてで結果を出してきた女傑……なのだが、
「いやね。マリアちゃんが恋愛に熱心なのはわかるけどね。君の思いはすごく重いんだと思うよ。想いが重いんだよ。
だからもう少し気軽でふんわりと接した方が良いよ。愛はもっと広く浅くが良いんだよ」
「はあ? 愛する人を愛するのに重いも軽いもありませんよ。広く浅く? 相手のことは狭く深く深く愛するものですよ。身を焦がすほどの愛? なんですかそれ? そんなの一夜の火遊びと何が違うんですか? そんなの愛じゃありません。狂おしいほどの愛? なんで狂わないんですか? そんなの子供のママゴトと何ら変わりませんよ。そんなこともわからないんですか上官殿。何言っているんですか上官殿? やっぱり脳髄がもう手遅れなんですか?
……ああ。なんでみんな私から逃げるんかね。私はこんなにも愛していたのに、みんな運命の人だと思ったのに違うし、世の中なにか間違っていますね。絶対。
それとマリアちゃんとか気安く呼ばないでください。ボチカリョーワか階級で呼んでください」
「いやね。それが重いって言うんだよ。それに相変わらずワタシに手厳しいな”ヤーシカちゃ」
「死にたいんですか”ラーヴル・ゲオールギエヴィチ・コルニーロフ”」
突然の銃声。未だにウォッカを飲んでいる上官に向かって頬を掠める銃弾を放ち、後頭部に銃口を突きつけるボチカリョーワ。しかし、コルニーロフはウォッカを飲む手を止めず平然。むしろ上機嫌に楽しげでもある。
「やっぱこれがないといつもの調子にならないね」
「私を肴にしないでください。
それで、どうしますか?」
「ん。ああ、それで確認取れた? 敵の全容」
瞬間。コルニーロフは未だにウォッカを飲みんでいるが、顔つきも変わらないのだが、その声色も変わらないのだが、その瞬間から彼の声から温度が無くなっていた。
ボチカリョーワもいつの間にか銃口を下ろして直立不動に戻っていた。
「はい。っと言いたいですが、初めにあった『フィンランドを中心とした北欧諸国連合』とのことでしたが諜報部並びに偵察部隊からの報告ではフィンランド以外に敵影なし、その事について上層部に問い合わせてみましたがそのあの宣戦布告後すぐにフィンランド以外の北欧諸国から『そのような事実はない。我々は無関係』だと宣言があったとの報告もあり、しかし物資や資金の一部がフィンランドに流入した形跡との報告もありますがその痕跡は確認できず、否定形ばかりで恐縮ですが、敵の全容はわからずじまいです。
わかっていることと言えば――」
「敵がまともに戦う気がないということくらいか」
「はい」
開戦から今日までまとも衝突したのは初日のみで、それも双方に被害が出ていないと言っていいほどの小規模だ。いや、フィンランドからすれば痛手かもしれないが、少なくともロシア側からすれば衝突と言ってもいいのかと思うほどの小ささで、それ以降フィンランドは徹底的なゲリラ戦を展開。こちらの物資を奪いながら戦線を維持している。
中にはロシア側の軍服に扮して見方撃ちや奇襲に使われる始末で、そのため攻撃にすらためらわれる。しかし敵からしてみればそんなものは関係なしに襲ってくる。唯一敵はごく少数なので被害も軽微なのが幸いだがそれも長期化すれば話は別だ。
「何が目的なんだが、オスマンと日本と繋がっているのは確かだろうからどちらが勝つための時間稼ぎなのは確かだけども、そんなことの為に
敵の通信の傍受は?」
「全くできてません。もとよりこの地は前世紀後半から豪雪や吹雪が多くなり通信するには」
「そうなんだよね。こちらも味方との通信状況は芳しくない。でも、それは敵も同じなのになんでこんなに動けているんだろね。おかしいよね。
うーーんまあ、それはこれからわかるからいいや。んで、他の方面はどう?」
「
「なるほどね。まあ旅順の日本はともかくオスマンは強敵だからしょうがない。でも、この分だとワタシの立場が危うい?」
「そうですね。あの極貧国のフィンランドに手こずっていると知れれば――言わなくってもわかります。が、ニコラエヴィチ大将も話が分からない人ではありませんから、ちゃんとした理由を言えば問題ないでしょう」
「そうだね。あの人は物事がわかる人だから問題ないよね。それにしても今日のマリアちゃ『バン』痛い!」
「頭と心臓を撃たなかったのは慈悲です。次はありませんよ」
突然の銃声。コルニーロフは左肩を撃ち抜かれた。
撃ったボチカリョーワは上官を撃ったというのに平然どころか、周囲の気温よりも冷たい視線でコルニーロフを見抜いていた。
「あ、あああああ。流石はワタシの愛しいマリアち……ボチカリョーワ副官の愛は痛いね。ああ冗談だからもう撃たないで」
しかし、コルニーロフは懲りたという表情ではなく、むしろ嬉しげで悶絶している。
「はあ。バカなことやってないで今後のことを考えてください」
コルニーロフはいつの間にか座り直しウォッカをまた飲み始めている。
「ハイハイ。まあもう暫くは様子見だ。それで、終わらせるよ」
ほくそ笑むコルニーロフ。態度と言動が一致しない上官を見るボチカリョーワもまたため息を一息して。
「すごむのもかっこつけるのもいいですけど、寒いから幕舎に帰りましょう。さもないと引き攣っていきますよ」
「…………君は本当にしそうだから怖いよね本当に」
こんには。こんばんは。
遅れまして更新です。今回から架空戦記が始まります。な・ぜ・か!?
うん。本当になんでこうなった! まあ始まってしまったのはしょうがない。やるしかない。ちなみ今回からタグが少し増えます。
あと、もう今月中上げるのは難しいかな? できればあと一本はしたいけど無理かな。うん。
では、今回はこれくらいにして、親愛なる皆様方良き青空を。
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3-3
二月二十七日
旅順要塞から十里(約四十キロ)地点。
拝啓。故郷の小樽にいるお父様お母様。不肖の息子こと私杉村
突然ですが、私は祖父の杉村
父が柔道を教えようとした時は『そんなものくその役にもたたない』っと言って僕に直々に剣を教えてくれて、それは今このときに絶賛、すごく役に立ってます。
祖父は本当に色々な所に連れてってくれました。活動写真や歌舞伎に能、落語にオペラやコンサート。果てにはお二人には内緒で遊郭にも連れてってくれました。遊郭では着物が少しはだけた綺麗なお姉さんや可愛い
まあ、そんなこんなんで祖父にはこの年ではなかなか経験出来ないこと、苦労や楽しみをたくさん教えていただいのは本当に感謝してもしきれません。
今回は両親には内緒で初の海外旅行に連れていってくれると言って、無論このご時世に気安く海外旅行には行けないものとわかっておりますし、僕は海外の言葉もよくわかってはおりません。それでも祖父は『そんなものどうとでもなる』そして、初の海外旅行に不安な僕に祖父は行く切欠にる魔法のような言葉を言いました。
そんな祖父に僕は、今、声を大にして言いたい。
「あのくそジジイ覚えてろよーーーー!!」
そんな祖父はやけに古ぼけた一枚の篆刻写真とある言葉を言った。
『この可愛い女の子と一寸刺激的な旅行だぞ』
――ああ、刺激的、なるほど刺激的。確かにここは刺激に満ち溢れている。むしろ刺激が過剰供給し過ぎて濁流のごとく僕等に襲い掛かってくる。物理的に。
ほら、今屈まなかったら僕の頭は真夏の浜辺のスイカを体現していたことだろう。ほらまた、今度は雨のように銃弾が降り注いできた。僕は咄嗟にその銃雨の掃射範囲から離脱した。逃げ遅れた人たちはみんな無様な躍りをしたあとに倒れ物言わぬ死体となった。
初めて眼にしたときは吐き気と全身の痙攣と目眩がした光景だ。でも、祖父と知己たる原田さんの一喝でそのすべてが治まった。
そして、とどめ(本当の意味で)に祖父が僕にある
『いいですか道男。あんまり無様を晒すようなら今から私が鍛えてあげましょうか?』
それは、死刑宣告と同義だ。その瞬間からこの地獄のような光景が遊戯施設に見えてきた。そう。祖父には《教える》と《鍛える》を使い分けている。
《教える》は比較的に優しい………うん。大人の人が何人も逃げる程度には優しい。しかし、《鍛える》は違う。これは死ぬか死なないかのギリギリを行ったり来たりする地獄の所業だ。いや、地獄そのものだ。これは実際に死人はいないものの、肉体的や精神的に再起不能になった若手の剣道剣術家もいるほどに苛烈で、それをこの人は今、この場でしようと言うのだ。
僕は戦場を駆ける。無論闇雲にではない。祖父からあることを言いつけられており、それを果たさなければここよりも酷い地獄か待っているのだら。
そしていま、僕は非常にまずい状況にたたされている。目の前には手練れのロシア兵が三人。いずれも祖父程ではないが幾多の戦場を駆け抜けた歴戦の貫禄だ。まったく隙がなく、逃げることも攻めることも出来ずに防戦一方。
三人は互いに言葉を交わすことなく見事な連携で僕に傷を追わせていく、祖父の稽古の成果で回避と防御だけなら新撰組の副隊長に匹敵すると太鼓判をされた。
祖父との稽古は今、皮肉にもこの場でものすごく役に立っているのだ。だか、それもここまで、いつも祖父とは一対一ばかりで多対一をやってこなかったからどう動いていいかわからない。
――その結果が今だ。全身血塗れ(すべて掠り傷)でもう満身創痍だ。
正直、稽古では打撲等はあっても切り傷などはなかったし、ましてや自分からこれほど多くの血が流れることなどなかった、切り傷特有の焼けるような痛みと汗に混じって粘度のある液体が不快感をもたらす。
――しかしこの三人強い。
もうかれこれ一時間は交戦している。三人とも祖父程の威圧感ではないがなかなかの手練れで、攻撃する隙も逃げる隙もない。三人が三人で互いの隙を補完しあいまったく勝てる気がしない。
それでもまだ生きている理由は祖父のしごきとと言う名の地獄を経験したからだ。あの人は
やはり祖父には敵わないと思いながらも、この場に祖父とその悪友たる原田さんがいないのは怨めしくって仕方ない。
ここは戦場。二人には自分達と違い任務があり、一緒に行動するわけにはいかないのだ。かりに一緒にいては足手まといになるのが明白だからだ。
だが、その余分な思考が集中力の切れてきた証左だった。後ろに跳び引くとなにかに躓いた。倒れていくわずかな時間、同じ日本人の死体に足を引っ掻けたのは皮肉な話とも終えて、そんな絶好の機会を逃す相手でもなく。
三人の内二人は追い討ちを掛けてくる。
――ああ、ここで終わるのか。
一瞬。生への諦め。走馬灯が脳内を巡る。
と、思ったが、なぜか自分が死ぬ気がしなかぅた。
目の前には自分を殺そうとする敵軍の手練れが三人。
彼らに油断も満身もない。三人同時ではなく一人が辺りを警戒しているからだ。だから、圧倒的優位にたっているこの状況でもなお慎重だ。
そんな三人に自分では勝てるはずもなく、一対一にでも持ち込めればギリギリで勝てる気はするもののその後に二人とも戦えるかと言えば否であり、結局は死んでしまうのだが、やはり祖父との稽古中に度々経験した死に直面した時の焦燥感とか諦観などか来ない。つまり、いまの自分は死ぬとは予感していないのだろう。
そして、その予感は正しかったことが次の瞬間証明された。
目の前通りすぎる一陣の風。吹き抜けた風の後には二つの首のない死体と足元に転がる生首。次の瞬間、軽快していた残りの一人はその顔を怒りに染め上げ風を起こしたその
しかし、その凶刃は少女に触れることなくすり抜け、ロシア兵は脳天から股下まで真っ二つされた。
硬い頭蓋、背骨、肋骨、股関節。腕力の要となる背筋。それ以上に銃弾を弾くヘルメットと戦場を飛び交う凶弾や凶刃から身を守る防護衣。それらすべて、なんの障害もなく両断にした。
それは人体を模したすべてを切り裂く刃風の化身。
そう表するにはあまりに華奢で美しい少女がいた。
短く切り揃えられた絹のような黒髪。まだ成人(14才前後)してまもない年月の少女。日本人形を彷彿とさせながらも、愛らしくくりっとした黒い瞳と唇は見るものすべてを魅了してやまない少女。
だが、彼女は普通と違った。
もとの色がわからないほど血で、返り血で赤黒く染まった着物と、身の丈以上の野太刀をまるで木の棒を振り回すように軽々と扱い。その顔をには
「ふう。危なかった」
彼女は僕に笑顔で振り向く。
なによりも異様なのは彼女は僕を見ているようで、別のものを見ていることだ。その視線の先にあるのは――
「大丈夫でしたか?」
彼女は僕を、僕のことを――
「もう。油断しすぎですよ
祖父の昔の名前。彼女は、市村鉄は、僕を通して過去を見ている――
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
3月8日。
カレリア地峡 フィンランド陣営。
♪〜♪ ♪〜♪
音楽だ。外の吹雪からなる心胆凍えそうな騒音ではなく、弦楽器独特の澄んだ高い音が外の騒音に埋もれること、外の喧騒とも隔離された失われた春の牧歌が幕内に響き渡る。
「ねえ〜」
♪〜♪ ♪〜♪
そんな幕内には数人の男性と三人の少女がいる。
音を奏でているのはその三人の少女の一人。肩ほど伸びた薄い銀髪を結ってトンガリ帽子で隠し、厚手のごわごわした安物のセーターにズボンと周りから言えば寒々しい格好だ。一応はテントの中にも暖房はかかっているが諸事情があって移動させやすい軽量型でお世辞にも性能はよくない。この場合はあまり暖かくならないの方が的確だが。
なによりもテント自体がボロボロのためすきま風が容赦なく中の温度下げ、奪っていく。
「ねえミカ! ミカエラ! ミカエル!」
「なんだいアキ。人の名前をそんなに連呼して。ああ、寒いんなら私のコートを羽織ると良い、なに遠慮はいらない。なんなら支給された砂糖もあげよう、私は甘いのが苦手だからね」
ミカ。そう呼ばれた齢15、16の少女。車椅子に座るミカは弦楽器、カンテレを弾くのを止めることなく自分を呼ぶ少女、アキの相手をする。
アキ、ミカよりも頭一つ分背の低い少女。肩ほど伸びたくすんだ茶色の髪は短く三つ編みに結って、その溌剌とした顔立ちは見ているだけで朗らかな笑みがこぼれそうな少女。そんなアキとミカの違い、それはテントの中でも薄目ではあるものの、コートを着ているアキ。それでも寒々しく震えている。いや、ミカを見ていて余計に寒くなっている。
そんなアキを見たミカは我儘を言う妹をあやすように(二人は年子で同じ年)優しく、老成してるともとれるような穏やかな声色で話す。
「ありがとうミカ! うーん。甘くって美味しいよ~〜………じゃなくって! なんでミカはもっと攻勢にでないの!? こんなんじゃやる意味ないじゃない! みんなが無駄死にになっちゃうよ!」
「まあ、そう言ってくれるなアキ。これは《あの人》の指示だし、この戦場に立っている者達みんな死ぬことがわかっていて来た志願者たちなんだ。
だからしょうがないよ」
《あの人》その単語を聞いた瞬間にアキはそっぽ向き、酷く苦々しく顔をしかめた。
「わたし。あの人嫌い。みんなが大変なこの時に、あっちこっちふらついて――」
この少女が人を露骨に嫌いと言うのは珍しい。彼女はその感性から直感的に善人悪人(本人倫理的な)をかぎ分けるのだが、《あの人》についてはまた別の事情がある。
その事をわかっているミカは微笑ましいっと、暖かな眼差しをアキに向ける。
「《あの人》にたいしてそう言うものではないよアキ、《あの人》は《あの人》なりの理由があって各地を転々としている。それが十年先を見越したこの戦闘の真意だ。
それに普段は《あの人》の帰りを一番待っているのは君じゃないか」
「そ、そんなことないし! あの人のお土産なんて微塵も期待なんかしてないし!
ほら、シムナもなんか言ってよ」
「ZZZ」
「寝てるよこの娘! こんな寒いなか寝てるよ! ねえ起きてよシムナ」
シムナ。ミカよりも背は低いがアキよりは高い。二人の中間くらいの背丈、灰色の髪は大雑把に短く切られているが、それからは粗雑な印象はなくむしろ絶妙な加減で気品をすら感じる少女。シムナは椅子に背を預け、一挺の大型銃を支えに寝ている。
シムナはアキのかん高い声には一切反応せずに静かに寝息をしている。差し詰め『眠れる森の美女』と言わんばかりに、
「こらこら。そっとしておいてあげなさいアキ」
「でも〜〜」
「確かにシムナたちが動けばこの戦いも良い方向に進むだろうけど、それは良い方向に進むだけで勝てる訳じゃない。
だから勝つためには下準備が必要なんだよ。この先に起こる、起こされる戦争に勝つための下準備。そんな些事にシモを使う気なんてさらさら無いよ。私も、《あの人》もね。
それに今のシムナはシムナで咄嗟のために英気を養っているんだよ。だか」
「!」
瞬間。シムナの目が見開くとその場にいる全員が躊躇なく手持ちできる機材を手に取りり、アキはミカを抱え、シムナは銃を携えてテントの外に躍り出る。
直後。それまでミカたちがいたテントが爆発炎上した。
「やれやれ。テントだってタダではないのに、酷いことをする」
「そんなの気にしている暇があるなら次の指示と合流地点を教えてよ!」
アキはミカを所謂お姫様抱っこをして、ミカに文句をいれる。アキは器用にミカ抱き抱えながらブーツのカカトだけで雪積もったほぼ直下の崖を滑り降りている。
しかし、その後ろにも前にも誰もおらず、無人の崖を駆け降りる。そんな自分だけはぐれたのではという不安を叫んで吐露するアキだが、当の問われたミカ『しょうがないな』と言わんばかりの優しい声で答える。
「心配要らないよアキ。みんなにはこの後どこに合流するかは伝えてあるから」
「な! なんで私だけ除け者にするの!」
「だってね。アキは物覚えワルいじゃないか。それに方向感覚も怪しいところがあるから言ったて意味がないんだよ」
「むむむっ。そんなことないもん」
「じゃあ北ってどっちだい?」
「北。上! もしくは寒い方!」
「あははは。それじゃあ道案内は頼めないな」
「そ、そんな事ないもん! 今のはわざとだもん!」
ミカの言に不機嫌に頬を膨らますアキ。膨らんだ頬をミカ人差し指でつつく。プニプニ。プニプニ。シュー。その柔らかな感触と時折桜色の口から漏れる空気の音がおもしろくって何度もつついている。
ミカは極寒の、凶弾飛び交う戦場、極地とも言える悪環境にも関わらず二人に恐怖も緊張もない。
この場において不謹慎とも言えるじゃれあいを終わらせたのは数発の銃声。
「あれはシムナのだよね」
「そうだね。シムナが撃つということは追手に追い付かれたというのと同時に――」
「追手は全滅するっていうことだよね」
「そういうことだね。そう時間は掛からないと思うけどシムナは少し合流には遅れそうだね」
二人は一人の少女を心配していない。せいぜい遊ぶ約束した友人が待ち合わせ時間に遅れる程度の認識。むしろ敵対した相手側を哀れに思っている。シモ、彼女に狙われたが最後、不慮の事故でもない限り相手はシモから逃れることはできないのだから。
そして、豪々と吹きすさむ吹雪のなかに、わずかに聞こえる銃声。そのなかにあるであろう悲鳴は一切誰にも聞こえることなく、雪と灰が折り混ざった世界の悲鳴にかき消されいった。
「やあ、このロシアの何処かにいるであろう狼さん」
話す声は、仮面の男だ、薔薇の華の。異形の男だ、黒い僧衣の。周囲を満たす黒よりも尚、色濃い《霧》だ、《闇》だ。否、既にそれは《混沌》だ。
「気に入ってもらえたかな狼さん。
これは君が置いていったもの。
これは君が忘れていったもの。
これは君が犯した罪そのもの」
「ああ、そんなに
アア、そんなに
これは私からのささやかなクリスマスプレゼントであり、コース料理でもある」
「そう。コース料理。これは言わば
来年の1月7日に間に合うように準備している君のためのコース。
気に入ってもらえて何よりだよ狼さん。
そう言えば知っているかな狼さん。一匹狼というのは群れからはぐれたか追い出された個体のことを言うのだよ。狼は群れでしか生きていけない。一人では狩りをすることも繁栄も出来ない。
一匹の狼はただ朽ちて、ただ衰えて、ただ惨めに、ただ哀れに、死んで逝く狼」
「嗚呼、そんなに
まだ君は、早い。その
そのまだまだ良くなる瞬間。甘美となる時はまだ先だ。
だから、今は君には用はない。ただ私の好意に甘えほしい」
「だから、だから、それまでは心行くまで楽しんでいってくれ、脆弱で、哀れな狼さん。
ふははは。ふははははは。ふふふははははははは。はーははははははははあーははははははははは。
では良き青空を」
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3-4
またもや月一投稿を破ってしまった………………もう無理なのかな………………
まあ、時間がかかった理由を言い訳するなら、プラモ!仕事!
最後に、日記をつけはじめたのです。
その名も『アンナの日記』………………まあ、日付をつけ初めて時系列とか色々や整理しつつ、その日のアンナの心情を軽く書いた者なんですがね。本当にこの作品書いていくために始めたんですが、これがなかなか大変です。
あと、今回は久しぶりにアンナたちを書きました。半ば無理矢理に、ですのでバランスが悪かもしれませんがすいません。
三月二日
日本軍 旅順要塞攻略部隊を一望できる丘にて
「新八、この戦勝てるのか?」
十四尺(約4.2㍍)の雷電を纏った異様なる巨槍を担いだ男が静かに一人ごちる。
後ろで一つに纏めた長い白髪と無造作に伸びた髭、顔は僅に皺があるものの精悍で歳を感じさせない生命力に満ちており、そしてこの寒空の中半裸で、実際の年齢からは想像できないほどに筋骨隆々な老人、サノと呼ばれる老兵が佇んでいる。
普段のおちゃらけている彼からは想像できない剛毅木訥な言葉、今正に眼下で広がる死線を睨み発せられたその言葉にはいくつかの苛立ちと懸念が含まれていた。
「さて、乃木さんは負ける戦を好んでするような凡愚ではありませんが、
サノの言葉に対応した老人、筋骨隆々のサノとは正反対の男。日本人の平均より低い背と贅肉の類は無いモノの目に見えて筋肉があると言えば最低限あるとしか言えない体格。
一言で言えば子供と形容しても差し支えない体格。
だが、その小さな体からはサノと引けを取らない覇気と風格がある。サノとは違った視点で戦場を睥睨するものの、その姿は歴戦の
「だがな新八、この戦には
「………ええ。確かにこの戦には時間がありません。
かつての内戦で二つに分断された我が国は常に反目しあっている。その中でロシア帝国という共通の敵を撃退する大義名分のもとに一つの軍として機能はしてます。ですが、軍としての体裁もそう長くは続きません。
国内には未だにこの遠征に反対する者たちも多く、暇さ………こほん。隙さえあれば相手の寝首、挙げ足。護国のために一致団結せねばならないこの時に足を引っ張る事しか頭にない愚鈍どものせいでね。
お陰で両上層部は自国内に目を光らせているので精一杯、その分現場指揮に全権委任という博打的な状況となっていますがそれを任せられるだけの人間がいたことは雀の涙程の感謝でしょうね」
数十年前、この国はかつてそのすべてを二分する内戦があった。
異境カダスから欧州大英帝国、そして極東日本に伝わった蒸気機関は世界を変えた。文字通りの変化。
文明文化に止まらず政治経済何よりも思想、国はもとより人としての在り方を変えた。必然偶然を問わず極東を混沌へと変えたのだ。
結果は見るも惨憺たるもの。いや、『最悪の結果だけは避けられた』と余人は言うが混沌の最中の者たちから言えばそうではない。
みな最良の結果を求めて戦ったのに、最悪を回避するしかできなかったのだから。
無論最悪とは国の
最悪の回避、それくらいしか亡くなっていった同胞を慰めることしかできずに忸怩たる思いが彼岸此岸の者たちを苛む。
故にこそ、遺された者を、遺されたも物を、遺された
「全く、世の中阿保どもばかりで嫌になるな。
いつの時代も影でこそこそと鬱っとしい連中ばかりで張り合いのない。遺恨も禍根もかなぐり捨て、世界に目を向けて、立ち向かわねばならない時もわからんとは憐れでもあるがな。
まあ、俺様を召集した点は賢明だ。そう。俺様が参戦したからにはこの戦は勝ったも同然だかな!」
サノが『ガハハハハ』と笑っている横で新八は神妙な顔をした。これが絵巻なら頭に疑問符が出そうなほど首をかしげた。
「………そう言えばサノさんはなんでこの戦に出たんですか?」
その言葉にサノは固まった。先程までの笑いが嘘のように巌のごとく固まっていた。心無し剥き出しの背中や額に冷や汗が浮かんでいるが、それには突っ込まず新八は続ける。
「たしか以前『日本は飽きたし狭いから大陸に行くぜ!』とか言って妻子を連れて移住、自由で悠々自適な生活を満喫しているとか貴方にしては珍しい近況報告の手紙に書いてあったはずですが………無論サノさんが戦馬鹿なのは知ってますが、それならそれでこちらと合流せずに個人で暴れまわる方が無鉄砲なあなたらしい。
なのにここに居るということは――」
「な、なんだよ。俺様だってかつては十番隊隊長として少なくない部下を預かった身、ならセンリャクテキ判断? をしてもおかしくないだろ!」
言動が怪しくなりつつあるサノを無視して新八は思考に耽る。耽て答えが出たのか、何気ないように会話のように問う。
「
「!!」
今度こそ、完全に固まった。先程までは四肢が震えていたのが嘘のように、完全に固まった。されども未だに冷や汗は止まらず、
幾分、一分に満たない程度の時間の硬直を経て、視線をあちこちにふらつかせて、無機物じみていたサノからやっと出た言葉が、
「ナ、ナンノコトダ?」
「………………………………はぁ。
大方戦が始まる前に一さんがあなたの元を訪れてここに来るように言われたんでしょうね」
「そう! その通りだ! 斎藤の奴がどうしてもって土下座までするもんだから仕方なくだな。ほら、俺って頼まれたら断れないたちだからな。うん。うん」
サノのあからさまに誤魔化すための早口、だが新八はどこ吹く風、むしろ憐れみと呆れを混合したため息が吐かれた。
「……決闘なり模擬戦なりで『俺様に勝ったら言うこと聞いてやる』とか言って負けたからここに居るんでしょサノさん」
静かにサノを見つめる新八、その目は
「そう言えば小僧は元気にしていたか!?」
小僧、その単語に複数の心当たりのどれを指しているか検討すること幾ばくかの間を置いて新八は検討をつける。
「――小僧? ああ、
サノのあからさまな話題逸らしに、再度のため息、
「ん? いやそっちの方は心配してねえよ。そうじゃなくって
「小僧って、また
「って言ってもよ。あいつ俺が男扱いしても女扱いしても怒るし、どうすりゃいいんだよ。
そのくせお前や山南が君づけで読んでも怒らねし」
「まったく。昔屯所であれだけ家族自慢ばかりしていたのに鉄くん一人のことはわからないんですね」
「うるせい。夫婦仲最悪だったお前に言われたくない」
それっきり沈黙する二人。
その話題逸らしに、今度はどんなくだらない話をと思っていた新八だったが存外に、軽い口調で話せる内容でなかったため、少々口喧嘩ぽくはなっているものの二人の市村鉄に対する思いは共通でもあり付随する思いも共通だ。
共通する後悔。
共通する悔恨。
否応なしに共有する忸怩。
あの時、あの場所、あの事、変えられぬ過去が今も彼らを追いかけ、見せつけられる。
流す涙は荒れ果て、慟哭する声に意味はなく、復讐の刃を振るう相手もいない。
何もかもが手遅れ。なにも取り返せない。なにも取り戻せない。
あの残光を、あの残影を、あの暖かさを、あの冷たさを、彼女を見る度否応なしに強制的に浮上する。
怒りで歯を噛み砕き、悔いで拳から血が滴り、懺悔したくともすることができない亡き
だから偶然、否意図して孫の道男を連れてきた。どれだけ歳をとっても、どれだけ時間が経とうとも彼女を見るのはあまりにも忍びない。それは自分にではなく亡き戦友たち、
だから、そんな自分が恥ずかしく今でさえも彼らの墓前に立ったことはない。立てるはずがない。
「新八。俺らは、どこて間違ったんだ?」
「どこ? ですって? そんなもの私にわかるはずないじゃないですか。伊東
少なくとも、山南の時が決定打だったのは確実だったとは思います。
あの時」
――そう。あの時、明確に、確実に、彼女は壊れはじめた。
初めて会った頃から少し情緒が不安定になところはあったが、それ以降から顕著に記憶が前後して、人を間違えた。あの時分に珍しかく眼鏡をかけた人を見ては『山南さん』と呼んで、亡き彼らの面影を他人に見つけては誰彼構わず呼び止める。
それは今直も続き、私と孫の区別さえつかずに呼び慕う。最も残酷なのは彼女が精神だけでなく肉体さえ――
「………全く、土方。あなたは」
突如、新八の言葉を押し潰す轟音が駆け抜ける。
駆け抜け、その直後に二人は爆心地へと駆け出していた。さきに零れそうになった言葉と想いを隠すために、慚愧の念を降り積もる黒雪で覆うように。
「今日も出ましたね。やれやれ、少しは年寄りを休ませてほしいものです」
「ああん。てめえに勝てる奴は日本に十人もいねえだろう怪物が年寄りとはどんな冗談だ」
「それは全盛期の話ですよ。いまなら確実に十人以上はいますよ。
少なくとも、彼ら二人なら私たちを殺しうる強敵なのですからね」
「ガハハハハ! そりゃあちげえねえ! さて、そろそろかたつけないとな!」
未だに荒れ狂う豪嵐の中心にもう一つの颶風が衝突し敵味方を巻き込んで飲み込む天変地異と化し、戦場を縦横無尽に蹂躙する。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
3月15日
モスクワから北に数十キロ離れた 第○○回全ロシア機関帝国学術会臨時関係者寄宿舎棟。第1研究棟
私たちは今、この場所にいる理由。去る2月23日、あの日起きた事件の直後から帝国全土で同時多発する暴動と軍の一部が呼応する形で叛乱、最後に周囲三国との戦争。
これらの結果
モスクワの市街を北に少し離れた場所にある学会の屋外試験場近くの関係者が利用する宿泊並びに実験や整備をするための寄宿舎と工房が立ち並ぶ場所。
だから、この周辺はここにいたるまでの大きめの街道と鉄道があるのみでなんら面白いものはない。もちろん各方面の人々か学会で発表する予定ないし披露するための機材など、そういったものは私でさえ興味をそそられるが今無断で撮ろうものなら非常に不味いことになるので自重している。
でも、ここから東に行くとあるヴォロコラアムスコエ街道にの近くにはイストラという町があり、実はその町にはユニークな形の修道院がある。その名もノーヴィ・エルサレム復活修道院。《新しいエルサ レム》という意味を持つ修道院だ。
この修道院は、かつてのトルコ帝国に征服されたビザンチン帝国の復興を担うべく、『第三ローマ帝国』をモスクワに興すという宗教的目的から、ロシア正教会最高位の総主教ニコンによって1656年に建設が始められた。パレスチナにあるオリジナルのレプリカを目指し、教会建造物のみならず周囲の地形もパレスチナをそっくり再現しているところがすごく、私は写真機片手に走り出したい衝動に駆られた。
しかし、それは無理だった。
いまこの帝国は三つの国との戦争と国内の叛乱や暴動に陸軍や警察が神経質になってる。そんなシューホフ先輩曰く火が十分って破裂寸前のポップコーンだと。軽率な行動は即逮捕か陸軍による拘束が待っている。
例えそれが屋内であろうとも近隣住民や同居人が通報すれば即座に警察や軍が駆け付ける。隣人や友人、家族でさえも関係なく――
私は街全体、いや帝国全体が張り詰めているのを感じている。だからだろうか、コンスタンチン先輩が此処に移動しようと言ったのは。
ラジオを聞いたあと暴動が広まりつつあるも、それは波紋のように徐々に拡がるなら今のうちに逃げた方が得策でむしろ此処モスクワに留まった方が危険、寄宿舎には缶詰になる学生や講師碩学のために食料と水が多く備蓄され騒音、たまに危険な実験もすることがあるため建物が全体的に強固に造られていて安全だと判断したからだ。
そのあと私たちは急いで身支度をしてモスクワを離れた直後、帝都の暴動事件の数時間後には国外に外遊されている現
もしも、戒厳令や外出禁止令の後に私たちも警察や陸軍拘束されていたかと思うとゾッとしない。それから半月以上が経つ。その間に数多の革命組織が鎮圧殲滅の報道が多く齎されて同じ寄宿舎にいる人たちは少し安堵をしていたが私はそうではない。
報道のなかには《赫い者》達の情報がほとんどされていなかったからだ。そのことにユーリーさんに意見を聞こうとしたらその本人も此処にはいなかった。
そんな状況に心細くなるも、それをみんなに知られていないから必死に平静を、日常を、ただ今を怖がるだけの少女を演じる。
《赫い者》も呪いも全部全部みんなが知らなくっていいことだから、私が全部隠し通せばいいだけなのだから。
でも、そんな私の強がりがわかったのか察したのか不明だけどタマーラが数日前に突然『アンナ。柔軟だけじゃなくってバーもやるわよ! だからあんた達バーを設置しなさい!』と言い出した。
私たちは普段から熱心にバレエの練習はしている。アカデミーが休みの日だってタマーラの部屋でバーレッスンは欠かさなかったのだが、ここモスクワに来てからは出来ていない。
最終手段としてモスクワにあるバレエ教室や碩学院などの施設で借りるなんてのも意見としてあったが、私たちが来る頃から物騒だったモスクワでそんなことを言えるはずもなく不本意ながら柔軟だけですませていた。
だか、そんな我慢も限界に達したタマーラが先のことを言い出したのだ。
当然先輩達は面食らって動作が数秒停止していた。停止していた先輩達を正常に戻したのは私の写真機だ。たまたま工房の一角で整備して手元にあった写真機で普段は絶対に見えない先輩達の顔を写せてちょっと満足している。
正常に戻ったウラジミール先輩はタマーラの言葉に難色を示したものの、コンスタンチン先輩とシューホフ先輩はやることも無いかいいと言って私を置き去りにして小さな論争が起きた。
結果は設備を弄くるのは駄目だから、使わなかったり余ったりした資材で障害物競争のハードルのような物を造ってもらった。さすがに鏡まではどうにもならなかったのでお互いに姿勢を確認し合った。
そんな日々が数日続いて今、あれからも革命組織や戦争と内乱のニュースはひっきりなし報道される。
そして、戦艦ポチョムキンの内乱と北欧諸国との戦争終結が報道された頃には少し、ほんの少しの楽観が生まれていた。
このまま《赫い者》たちや戦争が無くなって、暖かく眩しい、うつくしくもきれいな演目が再演されると、思っていた。思えていた。
でも、現実はそう優しくなかった。
東方と西方の戦争が激化の一途を辿っているのを知らなかった。
この戦争がすべて仕組まれていたことを知らなかった。
先代皇帝陛下のアレキサンドル三世の願いを知らなかった。
全てが赫く染められているのを知らなかった。
全てが全て、誰の思惑で、誰の思想で、誰の画策で、
現在と未来を誰が手にしているのか知らずわからなかった。
だから、この一連の騒動が終わったときに、誰が残っていて、その誰かが起こす悲劇を私は知る由もなかった。
初めまして、お久しぶり狼さん。
すまないね狼さん。クリスマスに間に合うようにとは言ったのに――――
ああ、そんなに
………………ふふ、ははははは。
滑稽かな。滑稽かな。
見たくないものを、直視したくないものを、まざまざと晒されて、腹いせに攻撃的な態度をとる。
『河原に送る』?アーーはははははははは!河原が似合うのは君たちの方だろ
その時は多くの人だかりが出来たそうだね?それはお祭り騒ぎだっただとか、ああ、カトーキンがうらやましいよ。その前後には極東にいたんだろ。
ならばその時の河原も、君たちの同胞も!君自身もみているかもしれない!!
その時、君たちはどんな顔をしていか。
その時、君たちはどんな声で哭いていたか。
どれ程の怨嗟を撒き散らしたか。
興味に尽きないよ。狼さん。
ああ、だから、次には期待してくれ。
いずれは君の期待に応えることを誓おう。
だからね、
いくら負け犬でも少女一人くらいは守ってくれよ。
期待しないで待っているからね。
ては、良き青空を――
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3-5
とある少女の話をしよう。
その少女はとある浪人の一家の長女として生まれた。家族構成は父母と兄が一人の四人家族。裕福ではないが貧しいというほどでもないごく普通のありふれた一家。
変わっているところと言えば父が新しいもの好きで、
先のとおり裕福ではないが余裕があるほどではないため先祖伝来の物を少し売っては割高で粗末な機関や機械を買っては調べて感心して満足したら売って次の物を買う、と家計に極力負担をかけずに自身の趣味に没頭する父親、されど家族を省みないわけではなく妻も兄妹等しく愛しており趣味の合間ではあるが、暇を見つけては釣りや自慢の碩学機械のショーを開いたりと彼なり不器用ではあるが家族を愛していた。
妻も夫の浪費にいくかいかないかギリギリの趣味には苦笑いだが、家庭を省みに危ない時には手持ちの碩学機械を躊躇なく売り払っているのを知っているから公認しているし、自分と兄妹を愛しているのを理解しているからこのままでいいと思っていた。
兄も妹のことを可愛いげっており、本当に幸せな時だった。
時代という濁流がすべてを飲み込むまでは――
最初は両親の死だ。団欒を踏み荒らしに来たのは武士の皮を被った野盗だ。父親が時折碩学機械を購入するのを知ってある程度の資産があると踏んで真夜中に襲ってきた。
襲撃をいち早く察した父親は兄妹を軒下から逃げるよう言い含め、妻を裏から逃がそうとし、自分は三人が逃げるための時間稼ぎをするために最後の最後まで残すように妻が引き留めた刀を手に立ち向かう。
だが遅かった。
野盗は一人ではなかった。複数人が村そのものを襲っていた。
男も女もなく。
赤子も老人もなく。
殺し
犯し
奪う
地上に顕現した餓鬼道。尽きぬ飢えを満たすために貪り呑み喰らう悪鬼羅刹を幻視する所業。
兄は一瞬剰りにもの惨劇に自身を喪失するも、即座に意識を取り戻し妹の瞼隠し『みるな』と小声で怒鳴る。だが、兄は妹の鼻を塞ぎ『きくな』とも言うべきだった。
家が、作物が、家畜が、人が、隣人友人………家族の悲鳴がこだまつる。
運悪く野盗に見つかった母親は身ぐるみ剥がされ犯された。助けようとする父親も剣の達人でもなければ名人でもない、故に多対一ともなれば結果は瞭然だった。
妹は声さえ上げられなかった。脳が目の前の惨劇を拒否して悲鳴や逃げようとする衝動を停止させたからだ。それでも音と臭いという情報は残忍なまでに妹を侵す。
血と人の焼ける臭い。
人と物が焼ける音。
老若男女の悲鳴。
「いやぁぁぁぁぁぁぁ」
「お願いします!助けてくだッ」
「痛い!いたい!イタイ!イた」
声ならぬ悲鳴が妹の内に乱響する。外では地獄絵図の阿鼻叫喚が乱響する。
終わることのない禍害。燎原は留まることなく広がり、残虐は妹の世界を赤く染める。
だが、地獄は永遠ではなかった。
女を犯し嬌声をあげていた男数人が鉄の刃風に両断され、斬殺に悦に入っていた男たちが鉄の斬突で吹き飛ばれていく。
これには喜悦に染まっていた野盗たちも静まりかえる。
「貴様ら、何者だ」
頭目らしき男が仲間を殺したであろう十人にも満たぬ男たちに問う。
「■■■だ」
それが妹の、
それが彼女の、
それが市村
始まりでもあり、終わりの円環。
杉村
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
3月11日
カレリア地峡 ロシア機関帝国側
「さてさてさて、やっとこさ奴等の意図が読めたよマリアちゃ――っとわ!」
「ねえ隊長殿、あなたの頭は腐ったピロシキなんですか? それとも蛆でも涌いているんですか? いい加減に私を『マリアちゃん』っと呼ばないで下さい。
そう呼んでいいのは私の伴侶ただ一人です。ソレ以外の有象無象には呼んでほしくないんです。
わかりましたか
カレリア地峡戦線のロシア機関帝国陣営指令部、その奥、指揮官席に座すラーヴル・ゲオールギエヴィチ・コルニーロフは変わらず機関量産性ウォッカを片手に飲みながらもう片方の手で副官のマリア・レオンチエヴナ・ボチカリョーワの腰に回そうとしたが、その手があった場所に銃弾が通過した。
「危ないな〜マリ………うおほん。副官殿は本当に私のことを上官と思っているかどうか怪しいくらい怖い愛情表げ………ってあぶ!」
コルニーロフが飛び引く数瞬後、彼の正面にあった机と広げられた地図を幾つもの銃弾が穿った。正確に言えば彼の心臓等の臓器が
コルニーロフの背後に控えていた副官のボチカリョーワは無表情で愛銃の
「ッチ! ………隊長、早く話を進めてください。私は早く運命の殿方を探さないといけないので、こんな下らない些末事に
直後ボチカリョーワが吐いた言葉にコルニーロフはもとより、周囲にいた部隊長達の時間と思考が一瞬凍った。
「………あのさ、親愛なる副官殿。俺が言うのも何だけども、一応ここは国防の最前線であって『下らない』ものでも『些末事』でもないはずなんだけど理解してます?」
「は? 愛のために人は生きているんですよ。だから私の愛を邪魔するものは全て障害物であり取るに足らない些末事、ちょっと突起の出た路傍の石程度モノでしかありません。それが戦争だろうが仕事だろうが何だろうが同じです。
まあ、その愛を得るために、育むために、逃がさないためにお金がいるからしょうがなく仕事をするんですが、本当に最低な仕事ですよね。軍隊って、いいのは給料だけで、しかも士官になってからやっとって辺りが本当に最低。何よりもこんな
だから隊長殿、はやくこの仕事終わらせてもらえませんか? そうしないと私、いつ銃が暴発するかわからないんですよ♪」
笑顔で答えるボチカリョーワに周囲にいる人間全員の心境はただ一つ。『今までの発泡はカウントしてないのか!?』もっともそれを問うたところで愚問にしかならず、触れず、気にする素振りも無いよう話を進める。
「うん、まあ、確かに此処は寒いし敵は鬱陶しいことこの上ないから早く仕事を終わらせたいのは賛成だけども、その敵が我々をここから離れられないように立ち回っているからそうはいかないんだよね。
しかも奴らはこの戦闘に執着しならがらも、この戦線どころか他の戦線の勝敗にすら頓着していない。明らかに異常事態だ」
「そんな事はわかりきってます。
問題はなぜ敵がそんなことをするか、そしてどうやったら早く仕事を終わらせられるかです。耄碌するなら仕事を終えて私を帰してからにしてください」
「あははは。いやーさすがにこの歳で耄碌はないよ副官殿、いや、でも副官殿が介護してくれるな――」
爆音と衝撃音がテント内に発生した。擬音で説明するなら『ドガガン』っと、発生源と発信源の場所と時間がほぼ同じであることと、そこには一瞬ながら限界異常の反応速度で回避し息も絶え絶えなコルニーロフと粉砕された椅子、その椅子に向けて人一人分はあろう大きさの
「ねえ副官殿! 流石にバンカーは洒落にならないと思うよ! いくら俺でも当たったら死んじゃうし、掠めるだけでも欠損する案件だからね!」
「ッチ。すいませんでした隊長殿があまりにも不快な言動をとるので試運転もかねて手が滑りました。反省しています。すいませんでした。
今度は避けられないタイミングで
「うわー反省するゼロですね副官殿は」
「何か問題でも隊長殿?」
「いえ、何も問題ありませんよ。親愛なる副官ど、いえ、真面目に話をしますあらバンカーを構えないで下さい」
「フン」
「え~とだね。北欧連合、正確にはフィンランドは今回の戦闘を
「………どういうことですか隊長殿」
「なに、簡単な話。要は自分達が弱者であると、ゲリラ戦もまともにできない狡兎でしかないとアピールするため戦い。それが今回の真相さ。
一時期から頻発するようになった撤退するタイミングを逸した損害も、無謀な特攻も、こちらに被害を出せない兵器で戦闘も全部自分達が取るに足らない雑魚だと錯覚させるための作戦。
これがやつらの全容だよ」
「――それは、次の戦争に勝つための布石――」
「
そして、次の戦争で勝つ。
何に確信を持っているのか、
人物。
兵器。
同盟国。
何れにしろこの戦争は九割が無駄で一割は利がある。その一割が」
突如テント内に備え付けの通信機が外の吹雪に負けない音量で鳴る。
普段なら誰かが2コールか3コール内に取るハズだが誰も取ろうとはしない。正確に言えば通信機に一番近い隊長たるコルニーロフが取ろうとして直前で手を止めていた。しかも苦い顔で手を停めていた。
「取らないんですか隊長殿?」
今もなおけたたましい騒音を発する通信機にイラつくも、苦い顔で通信機を取ろうともしないコルニーロフを
訝しんでボチカリョーワに通信機を取るように催促する。
が、依然としてコルニーロフは取ろうとしない。
「いや、ね。なんかイヤ予感がするんだよ。コレを取ろうと取ろまいとスゴくイヤな予感が………って!」
「はい。こちら対北欧連合軍指令部ラーヴル・ゲオールギエヴィチ・コルニーロフ将軍
――はい。わかりました。
隊長殿グリゴーリイ・パーヴロヴィチ・チュフニーン海軍中将率が用があるそうです」
「………………は~。イヤな予感が当たった………。
もしもし、なんのようだ――――………………はあ!
ふざけているのかグリゴーリイ・パーヴロヴィチ・チュフニーン中将、貴官のその行為は帝国に対する反逆行為ともどれ………………くそ!」
取る素振りを見せようとしないコルニーロフに代わり通信機を取り渡した直後怒号と悪態。状況を察せない周囲に困惑と動揺が広がる。
そして、数秒の沈黙、コルニーロフが口を開く。
「――状況が変わった。我らはこれより帝都に行く」
「それは戦線を放棄するという意味ですか?」
「違う。チュフーニンの阿婆擦れに一杯喰わされた。あの女は情報の一部を妨害して断片的にしかこちらにようにしていたんだ。特に帝都の情報に関して徹底的に。
だがら初動の遅れを取り戻すべく
ただ一人を覗いて、
「――――やっと、私たちの出番ですか。隊長殿」
ボチカリョーワは口角をあげる。獰猛に、なお凶暴に、喉から漏れる呼吸は炎熱となり空気を白く染める。
「ああ、さっきの話の続きだけどね。利のある一割がこの戦場いる仕掛人、いや黒幕の首だ」
「いるのですか、元凶がここに?」
「いるとも。負けるにしても匙加減は必要だからね。将来有望な新人に経験を積ませたり育てたりで、戦場を俯瞰しないことには判断できないからね。
それに本人はいないにしても代行できるだけの人材は確実にいるからそいつの首を所望するよ副官殿の――マリアちゃんのアマゾネスに」
先のボチカリョーワに呼応するかのようにコルニーロフほ笑う。普段なら禁句を口にした瞬間攻撃されているはずコルニーロフは悠々とテントの外へ向かう。
残されたボチカリョーワはバンカーを担いでコルニーロフの反対方向へ、互いに背を向けて歩き出す。
「今は気分がいいので今の戯れ言2つは聞かなかったことにしてあげます隊長殿」
「おや? ボチカリョーワ副官殿になにか気に障ることを言ったかな?」
「ええ。私を『マリアちゃん』と呼称するのと私の部隊、『婦人決死隊』を
何度でも言いましょう。私のことは『ボチカリョーワ』か『副官』と、間違っても『マリア や『
何よりも
「ハイハイ。何でいいから頑張ってきてね期待してるよ。最愛たる
「ええ。その任務完遂してきますよ。最悪なる
最後、互いがテントを出る瞬間、吹雪の音にかき消されるように、二人は呟いた。
お久しぶりです。遅くなってすいません。
色々なことで立て込んでいて、というか仕事が忙しくなったという言い訳をしつつ、この三国戦争編はあと三話くらいで完結予定です。じゃないとぜんぜん終わらないからです。てか、終わらせないと私の脳内キャパが粉砕する。
あと様々な言い訳がありますが割愛して、
親愛なる皆様、良き青空を。
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3-6
三月五日
スミルノフの号砲と見紛おう声と同時にコンドラチェンコがその長銃から一般兵のそれとは威力も速度も数も段違いの弾丸が風雨のごとく降り注ぐ。
そう。それは正しく弾丸の
サノは螺旋槍を振り回しながら致命傷を避けてスミルノフに一直線。新八は掃射範囲から逃れつつコンドラチェンコへと突き進む。
「やるね~おじいちゃん。じゃあいっくよ~~」
「!」
コンドラチェンコが掃射を停めると、新八に
「ドーーン」
「なんと!」
正面から打ち合う。否、新八はコンドラチェンコに三間(五メートル以上)打ち飛ばされた。
打ち飛ばされた新八は体勢を整える間もなく右へ無理矢理飛ぶと同時に、先程まで新八がいた場所に爆音を伴って小さなクレーターが出現した。
――どうやらあの長銃はいくつも弾丸を瞬時に使い分けれる物のようですが、あの連射もそうですが先程まで徹甲弾並みのソレも相当な反動があるはずなのに全く苦もなく射ち続けるとは。
そう。今も新八に向かって人一人が扱うには些か以上に過剰な火力が注がれている。仮にあの長銃を一般兵たちに向けたのならものなら五分もしない内に一個中隊は全滅する破壊力。
縦横無尽に駆け回り迫り来る破壊の凶弾を掻い潜る新八に、コンドラチェンコは追走と砲撃の手を一切休めない。
「やれやれ。コンドラチェンコ嬢よ、あなたは老い先短い老骨一人にこれだけ攻撃とか少し酷すぎではありませんかね?」
「アハハハ。おじいちゃん面白いこと言うね。あれだけの攻撃を避けているのに老い先短いとか、もしかしておじいちゃんは芸人かなにか?」
「そんなつもりは全くないんですがね」
無駄とわかりつつも会話の中から今戦っている二人の情報を聞き出せないかと、淡い期待を持ちつつコンドラチェンコに問う。
――そろそろ他の部隊も退き時、最悪時間稼ぎくらいにしたいものだが、はたしてそう上手くいってくれるか。
先程から新八は無駄に逃げ回っていたわけではない。敵と味方の陣形や配置を確認するためのもの。
サノとスミルノフからコンドラチェンコを引き離し連携をとらせぬ為の逃走。
「おじいちゃんは、私とご主人を引き離そうとしてるみたいだけどさ、むしろ私がおじいちゃんに付き合ってあげてるんだよ。
だってあんなに楽しそうなご主人を見るのは久しぶりでね、それに水を指すほど私は空気を読めないわけじゃないよ。
だからおじいちゃんはあのゴッツイおじいちゃんが死ぬまで私ともう暫く付き合ってね」
「おお。こんなヨボヨボの年寄りにそんな熱いアプローチをしてくれるとは、なんとも奇特な人ですね」
「アハ。あんまり笑えない冗談言ってと、殺すよ――
それよりもあのゴッツイおじいちゃんの心配してあげたら? 友達なんでしょ? 以外に
「――くわばらくわばら。最近の若者は老人のお茶目に付き合ってもくれないのですね。
それにですね。なんで私はサノさんの心配しなければならないのですか?」
「何でって。だって相手はご主人よ。心配しない方が変じゃない?」
「やれやれあなたはまだ若いから老婆心ながら言わせてもらいますがね。あなた方西洋の、白人という人種はほとほと黒人や黄色人種、自分たち以外を見下す気来がありますが、そう言うのは慢心を招きいずれ痛い目をみますよ」
「ッ!」
瞬間、コンドラチェンコか驚愕し本能を全開にして飛び引いた。その数瞬もない刹那、飛び引く直前まで自分の頸があった空間に鉄の刃が過ぎ去った。
十メートル以上は離れていた新八が目の前に接近してコンドラチェンコの頸を
その間、コンドラチェンコは一切油断はしていなかった。口は軽跳で緊張感など一切伴っていなかったが一人の戦士として目の前の日本人を侮ってはいなかった。
それなのに接近を許した。
「う~ん。やはり歳は取りたくないですね。若い頃なら一殺だったはずなのに、やっとできた隙を逃すとは、いやはやなかなかどうして」
「………ふーん。おじいちゃん今まで手加減してたんだ」
「手加減。そんなことありませんよ。いつだって全開で避けていましたとも。
貴女が油断する時を刻一刻と待ちながらね。これでも昔から慎重なので」
「ふ~ん。おじいちゃんも相当の手練れなのはわかっていたつもりだったけど、全然底を見せてくれてなかったんだね。
全く、これだから年寄りは、前途有望な若者に花を持たせる余裕もないなんて」
「いやいや、若者に世の中の厳しさを教えるのも年長の勤め。心を鬼にして、痛む良心に耐えて接していたまでのこと。気にする必要はありませんよ。若人、はははは」
「アハハハハ。流石は日本最後にして、敗残の
快活に笑っていた新八が黙る。黙りコンドラテェンコを見据える。その瞳は驚きともう一つの、ある感情を宿して。
「う~ん? 間違ってたかな? おじいちゃんってシンセングミの人だよね? いまの新政府に負かされた負け犬の」
「――ええ。確かに新政府との戦いで散っていた者の1人ですが……よくご存じでお嬢ちゃん。ふむふむ、ロシアの情報網もなかなかに侮れませんね。自分達のような小さな集団の事をしらべあげるとは――
ええ、我々は確かに散り散りになりましたが、それは必然であり必要だった話。別段激情に駈られるほどの事ではありませんよ」
再度、笑みを浮かべる新八にコンドラテェンコは怪訝な面持ちで新八と対峙する。普通なら過去の自分達、こと無駄にプライドが高い(コンドラテェンコ視点で)サムライなら侮蔑の一言でも言えば隙だらけになると踏んでいたのにも関わらず、新八は平然としていた。
自身の正体を看破された事に最初こそ驚いていたが、隙ありと判断するソレではなかったし、一切警戒を解いていなかった。驚愕したのは事実だか、ソレを餌にカウンターを食らうのが幻視したのは気のせいではない。
「ふーん。おじいちゃんって本当に冷たいんだね。嘗ての仲間が謗られているのに平気でいるなんて、サムライって薄情なんだ」
「別段私が薄情というつもりではなく、ただ事実を有りの侭受け入れているだけなんですがね。我々が戦略戦術的に政治的に敗北したのは事実であり、否定のしようがありませんし、
故に、どのような形であれ我々は引ざるを得なかった。その中で散り散りになったのも詮無きこと。趨勢というものです」
「うわー理解できない。自分達の局長が斬首されても平気いるとかサムライは冷徹漢の集まり?
それにさっきから敗軍て言うのを頑なに認めないのは、老害特有の頑迷? あははははは、これだから年寄り気取りの老害はイヤだね~~」
ドン引き。そのまま意味不明、理解不能。思考回路そのものを疑う視線に晒されても何らかわりない新八。
変わらず。
怒らず。
平静とする。
していたはずの彼が――
そんな彼が、初戦から今日まで感じることの無いほどの圧を滲ませる。
「一つ、たった一つだけ訂正するなら、我々は本当の意味で敗北していない。
戦略的
戦術的
政治的
歴史的
物理的
数多の事実において負けていてもそれは国のために、各々の心中に《信念》《正義》は違えども定めていた時に退いたに過ぎない。
私は後世に、語り継がれるべき逸話でもなく、偉業を讃えるためでもない。あるがまま己が《信念》のために戦った。
他の隊士たちも各々のすべきこと、なすべき事のために離れたにすぎない。
負けるのが怖いだの、死ぬのが恐ろしいだの、そんな惰弱な動機で隊を抜けたものは誰1人としていない。死の恐怖など幕末の京都で飽きるほど感じていた。それも敵よりも身内の方が恐ろしいという矛盾ですが。
それでも、ああ、それでも。
その魂に恥じない、己が信念を手放なさない限り
「……意味不明。マジで意味不明。
東洋の戦士、サムライはアタマが
信念とかいう訳の分からないモノのために命かけるとか理解不能。地位も名誉も金も情愛一切の執着がない……違う、そのために味方
野蛮を通り越して、異星人か異世界人、人外としか思えない
しかも、敗北を認めないとか何考えているかわかんない。
首をかしげて問うコンドラチェンコ。単純な疑問を解消しようとするのではなく、もっと別の何かを、問う。
平坦な声で
平素な声で
抑揚のない声で
去れども
確かなる意志と覇気を込めて
「
「はぁ~~考えるのが馬鹿馬鹿しくなっ『ーーーー』」
コンドラテェンコの言葉が汽笛の騒音で塗り潰された。
その瞬間、明らかに空気が、戦場が塗り替えられた。
ロシア軍はなりふり構わない撤退を始めた。蜘蛛の子を散らす逃げ様。規律も何もない我先にと走る。敵も味方もなく押し退け、踏みつけ、斬りつけ撃ち払い、日本軍が追撃の手を忘れるほどの阿鼻叫喚。
新八も戦場の異変を感じ周囲を観察する。隙は無けれども周囲を引切り無し見渡し状況把握に努める。その表情は生存本能に訴えかける危機感がある。
「あ~あ時間切れか……。
おじいちゃん。今生の別れだね」
「いたい、なにが、来るというんですか?」
答えを期待したわけではない。少しでも情報を得ようという常套
手段。誰もがするありふれた行動。
だが、その思惑は意外な形で裏切られた。
「悪魔の到来♪ おじいちゃん達もも早く逃げないと死んじゃうぞ」
直後、戦場を
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
3月11日
カレリア地峡 フィンランド陣営
「ふむ。不味いな」
「へ?
生命の生存を拒否する暴風雪、テントの外5ヤード*2の知覚が困難な脅威。そんな外とは違いテントの中はすきま風が吹きすさみ暖があまりとれないにも関わらず朗らかに昼食を取っていた。
内容は黒パンに『ニシンの酢漬け』『千切りした茹で卵』『サワークリーム』『マヨネーズ』を混ぜたものを挟んだサンドイッチと
通信機片手に昼食をとっていたミカは露骨に顔をしかめた。そんなミカを見て昼食に物足りなさを感じていたアキは有り余る食欲を隠さずミカに催促する。
「ああ、私には少々多いからサンドイッチとグロギを半分あげるよアキ。でも今のは味の話ではない。
「モグモグ……それのどこがいけないの? これでこんな戦場から帰って家でゆっくりできるんでしょ?」
あっけらかんと答えるアキ、アキを憐れみと優しさの混ざったなんとも言えない表情で見つめるミカ、傍らで無言無視表情無関心で黙々と食事を続けるシムナ。その他数人が
周りが忙しない中での一幕、戦時であることわ忘れそうな一時、そんなアキのボケにツッコミ者がいない。空気が弛緩せず周り続ける。
「ふえ? なんか私変なこと言った?」
「いや、アキはそのままのアキでいてくれれば、なんの問題もない、それでいいよ」
「うーんそんならそれでいいけども――っ!」
撃ち破られた戦場に不釣り合いな平穏、そう、文字通り
ロシア機関帝国の深緑色の軍服を纏った長身の女性、長い黒髪を防寒具で覆い
冷静に――
冷徹に――
青い瞳がテント内を一瞬に睥睨して既に奇形な機関製車椅子ごと回避したミカとアキを、粉塵が晴れる前から視線と蒸気式鉄杭噴射機の照準を合わせていた。
「一先ずお疲れさま、そして、よく戦っていたわ誉めてあげる。
私の愛路(誤字じゃない)を邪魔するお邪魔なお邪魔虫♥️」
「お褒めに預り光栄のいたり。
ならお礼としてグロギでも如何がでもどうだい? ロシアの高貴な方々には粗野な味かもしれませんが、なれるとなかなかどうして病み付きだよ」
「ふふ。口がうまいですね。ええ、貴女がもう少し年を取って男なら少しは見込みがありました。
ついでです、なにか質問があれば受け付けますよ。時間稼ぎに付き合ってあげます」
「おや、時間稼ぎとわかって付き合って頂けるなんてどういった風の吹きまわしで? ロシア機関帝国の軍人さんは相当に余裕かあるようでうらやましい」
普段とは違った口調で喋るミカ、緊迫の場面でさえ愛器のカンテレを弾きながら、笑みさえたたえ、それに応答するマリア・レオンチエヴナ・ボチカリョーワ。
アキ変わらずミカの車椅子の後ろに立ち、アキとミカに狙いを定めているマリアの背後、アキとミカに被らないよう照準を定めようとしているシムナ、シムナは確信していた。目の前の女軍人は一撃で仕留めるのは不可能だと。手持ちの銃では火力不足している。特殊合成繊維の軍服を全身纏ったボチカリョーワの露出している部分はなくどこを狙っても致命傷になることなくアキかミカのどちらかを蒸気式鉄杭噴射機で粉砕する。
ならばなぜボチカリョーワは突貫しないか、ボチカリョーワは生存を至上、正確には愛する者と生を謳歌するのを至上とするため慎重になる。互いに互いを牽制して身動きが取れない拮抗した状況。
しかし、四人、いや、マリアは生母の如く優しげに朗らかさえ感じさせる笑みで三人と会話をする。尤もその瞳の奥には愛する夫との
「ではまず、なぜこの場所が? 今までのアナタ達の襲撃は探索して発見襲撃のある種の偶発的戦闘に過ぎなかったのに今回は違う。アナタ程の戦力、このテントを包囲しているであろう兵士達は間違いなく虎の子。取って置きだったはず、
だからこそ此方としても注意深く、決して悟られぬように、ダミーを多く配置して狙いを絞れないようにしていたのに、見つかった。
正直驚いています」
「簡単な話ですよ。アナタ達の目的が私達をこの戦場に釘付けにすること、ある程度の被害と戦果、まるで『もう少しで勝てたのに!』っと思わせるような高揚を誘い、敗走しないし勝つこともできないよう絶妙な加減の一撃離脱。針の穴を通すような指揮をするためには緻密な戦略と状況を俯瞰理解しできるギリギリの場所に無ければならい。
ここは視界も耳も連絡網でさえマトモに機能しないし、機能しても範囲はかなり狭いなら尚更戦場の近くでないといけない。
でも、私の
実際の地形と地図が整合してないとね。
此処は常冬で常に暗雲に覆われ、たいした路でもなければ人も住まない最果ての地。おあつらえ向きにこの季節は常に吹雪いている。
この条件なら相手は奇襲撤退し放題のワンサイドゲーム。まったく趣味が悪い」
「御明察。秘境探索好きで僻地が得意、不真面目な酔いどれとの噂だっけど過小評価だね。正直、あと五日間は引き付けられると思っていんだけども貴女が来たということは――」
「ええ。隊長は現地と地図の誤差隠蔽改竄を全てを修正した上で指示を出すのに最適な場所を特定して今に至ります。ただ秘境探検僻地好き酔いどれは事実ですので訂正の必要は
「それはつまり」
「お前たちはここで死ぬ」
瞬間。テントが蜂の巣になる。
瞬間。マリアは
轟音。マリアの目の前にはクレーターが出現した。
目の前には項垂れたミカとミカの後ろに立つアキを見上げるマリア。大地の勾配差ではない、身長差でもない、純然たる高低差。
「おばさん、ここらが本番だよ」
項垂れたミカに変わり、無邪気な笑顔で、アキが嘯く。
明けましておめでとうございます。
長らく、永らく。放置していましたが、絶対に終わらせたい作品ですのでエタルことはない!……ッと思います。
遅れた理由は色々あるんですが、伝えたいことがうまく書けなくって長々となってしまいました。
ただ、前もって言わせてもらえば、新撰組は永遠に不滅だ!
ッと言いたかっただけでこんなに時間がかかったとういう体たらく。
あと、文章が不安定(いつものこと)ですがお目汚しすいません。
待っていた人がいるかどうかは定かではありませんが、もしもいたなら幸いです。
では、親愛なる皆様方、良き青空を
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3-7
3月11日
カレリア地峡
豪雪舞う渓谷にて、高熱弾の着弾音と鉄塊の破砕音。共に岩鉄を打ち砕き破散させる暴力。人が受けたならば、例え掠めただけであろうとも致命傷になりかねない必殺が応酬する。
着弾音はミカとアキ。破砕音はマリアが発生源。視界不良、聴界不良、不整地、超低温の悪条件のフルコース。戦地以前に生存困難なこの地で2組は初動から些かも鈍ること無く動き続ける。
ミカとアキの特殊機関製車椅子は2対の脚と2対の腕で縦横無尽に、マリアは立地と手数の関係で防戦気味ではあるが隙をみて鉄槌を撃ち込む。
この時点では互いに無傷。息が上がることもなく、焦燥感もなく、ただ避けて打ち、ただ躱すしては撃つの応酬。
「フィンランド人は血も涙もないのね」
「なんのことおばさん」
「その特殊機関車椅子よ。あなた、
「うん。わかってるよ。大事な友達のミカエル、ミカエル、ミカを車椅子に繋いで酷いことしてるのは馬鹿な私でもわかってるよ。
でもね。私たちは友達なんだよ。今おばさんたちの部下を殺しているシムナも、大切な友達。だから、こうして一緒に戦えるだよ。
おばさんにはわからないだろうね」
「そう。お友達を使い潰してゴミにするのがフィンランド人の友情なのですね。友情もなにもあったものではない。第一、その子、1人ではろくに生活できないのね。
友人をそこまでに酷使するなんて人でなし、友情なんてくだらない」
「訂正しろ」
刹那、空気が変わった。事前にミカに指示されたことは3つ。
1つ、シムナ1人で処理できる敵ならアキはミカを連れて脱出。
2つ、シムナ1人で対処しきれない敵と遭遇したら時間稼ぎに徹する。
3つ、絶対に攻勢にでない。命を大事に、一撃が来たら反撃をしてを繰り返しするくらいに消極的に相手が撤退するまで我慢。
その3つめ、攻勢に出ないを破った。怒髪天を衝く。余裕のあったアキ、アキはミカに絶対の信頼をおいている。彼女の言うとおりすれば全て上手くいく。仮に予想外の出来事があってもミカなら何とかしてくれる。そう盲信する程度には彼女を信じている。
そんな激昂していても自分に知恵と
腕を、
脚を、
頸を、
頭をフルフェイスのヘルメットごと、
フルフェイスの隙間から液体が垂れる。顔から無防備に垂れる体液。外気触れると凍り霧散する人として無様な状態を強要されている
だが、アキは違った。
「訂正しろクソババア! あたしとミカの、あたしたちの友情を馬鹿にするなクソババア!!!!」
激昂。殺意の気炎吐き散らすはもはや理性無き獣。しかし、無謀な特攻をしない狡猾な獣。
対するマリアの
《移動要塞》《人間城塞》《二足歩行型軍事基地》慎重で手堅く破格の攻撃力を持つマリアを
そんな彼女とその部隊は確実に戦功を上げてきた。戦略的ではなく戦術的に。そんな彼女が、今初めて顔をしかめた。
「友情はずっとすごいんだ!! 愛なんていうゴミよりも!!! ね!!」
「うっせんだよ愛の至高を知らん餓鬼が!」
否、しかめた程度には収まらなかった。赫怒。
冷静というより冷徹無比な印象だったマリアが、激情をあらわにしている。温存していた弾薬と体力を一気に放出する。
「あたしたちは、あたしは、ミカのためならなんだって出来るんだ! 脚は動かないからずっと車椅子を押してあげるし! 体の筋肉が上手く動かないからトイレのお世話をしてあげるし! 体を洗ってあげるのもごはんも全部全部あたしがするんだ! これ以上のスゴいものはない!! 友情すごいいんだよクソババア!!!!」
「はっ! そんなのただの要介護者と介護士! 雇用関係! ただの利害関係でしかない! アホか小娘! 友情ごときが愛に勝るなどありえない! 身の程をしれゴミが!」
「だったら夫婦なんかゴミ以下だ! 勝手にあたしたちを産んで勝手に愛想尽かして! 気に入らなければ棄てて、平気でいる笑える害悪だ! ゴミ以下だ!」
罵詈雑言。相手をこれでもかと口汚く罵り、自身の奉ずる思想を至高と断じ。それ以外をすべて、全て、総べてを格下とする。
決して混じり合わぬ思想と情愛と思考。
その
もはや人の言語ならざる呶鳴り、咆哮。
激化する戦場。声を荒げては互いに攻撃頻度が増え地形を変えていく。後先を考慮せず、されども敵を確実に仕留めるために最後の最後まで狡猾に、老練ともとれる攻防が繰り広げれる。
そして、ついに、マリアは被弾した。違う、被弾覚悟の乾坤一擲の一撃を叩き込むために被弾したのだ。マリアは最初から無傷ですむとは思っていなかった。マリアの揮う蒸気式鉄杭噴射機を使用するには上司ラーヴル・ゲオールギエヴィチ・コルニーロフの認可が必要となる。
コルニーロフからいえば銃弾ならまだしも、蒸気式鉄杭噴射機のツッコミが怖いから防衛の点で認可式にしているのだが、別の側面でいえばコルニーロフが必要になると判断した戦場は例外なく苛烈を極める戦場だった。それでもなおマリアは顔だけは完全に無傷で帰還していた。
そんな彼女が、初めて顔に傷を負った。
目の下。右眼窩下孔から頬骨にかけて1cm程抉るように。
同時に、アキとミカも被害を受けた。蒸気下鉄杭噴射機の一撃ではない。
後の世に《街道上の怪物》と呼ばれる要塞が如きKV−Ⅱカーヴェー・ドヴァー重戦車がある。
マリアが灰色の雪の大地を踏む。踏ん張るにしても、踏み込むにしても半端な動作。だが、雪の中から長い砲身が躍り出た。決して人に向けていい規格ではない砲身。装甲車や要塞などの城壁を対象にした大口径の鉄塊。
それをマリアすくい上げるようにミカに照準を合わせて放った。
放った一撃はミカに当たる前にアキがミカを特殊機関式車椅子から脱出させて地面に放り投げた。そうしなければ致命傷、否ほぼ確実に命を奪う凶弾からミカを守るためにそうせざるをえなかった。アキはミカを守るので精一杯で追撃の蒸気式鉄杭噴射機を掠めて左肋骨2本と内臓を持ってかれた。致命傷たりうる大きな痛手。去れども表情は苦痛よりも安堵が大きい。《友達を護れた》ただそれだけを優先しての結果。
仮にミカを犠牲にすればマリアに致命傷を与えることはできたかもしれない。だが、アキはしない。絶対に――
「……………………………………………」
マリアにとっても最後まで使う気もなかった必殺の攻撃を紙一重の結果とはいえ防がれたことに歯噛むも、思考を切り替えアキに近付く。明らかに致命傷を負ったアキには警戒すら必要はない。無防備ともとれる足取りで歩き、構え。
「シネ」
獲物を潰す。抵抗することのできない敗者を、蹂躙するのではなく処理する。振り下ろすだけの簡単で瞬時に終わるはずだった……
「ッ!」
振り下ろそうする構えからKV−Ⅱの砲身を盾として庇う。数発の弾丸がマリアの急所を穿たんと放たれたのだ。
防いだマリアは空砲を撃つと身を翻し撤退を開始した。マリア既に察していた、味方の被害と成果を、その釣り合いが全くとれていないことも。敵方の狙撃手は仕留められず自身も指揮官を仕留められずにいた。
失態。空砲は撤退の合図でそこからは保身第一に指定地点まで迅速に急行する。
ロシア側の成果と言えばミカ、アキ、シムナの戦闘力と容貌。アキに再起不能の致命傷を負わせたことだけだ。カダスからの流入した技術いかんでは再起する可能性は否定できない。ここで確実に始末するのが最善だが、最後に横やりをいれてきた狙撃手は部下達が対しているのと同格と判断して撤退。
あまりに無様。マリアは今まで任務成功率100%と言うわけではない。失敗もそれなりしているし、むしろ成功率の方が低い。だが、今回の失態は毛色が違う。あの
――なのにこの汚辱。いえ、恥辱。アキには。
――フィンランドの屑ども……いずれはこの雪辱は何倍にもして返す、絶対に果たす――
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
同日フィンランドside
スロ・コルッカは撤退するロシア軍に追撃することなく静観する。アキに向かう。駆け足で。
「アハは〜ーだいじょうぶ! ねえダイジョウブ! アキ大丈夫!」
涙目。声が震え、悲しみが滲んでるのに――顔は
チクハグ
矛盾
声と表情が乖離した童子。
スロ・コルッカは真に負傷した仲間を心配しているのと同時に、自身の存在意義を噛み締めていた。
(仲間のために戦う。仲間が傷付き介抱する。嬉しい)
(仲間が傷付いた。血を流して息も絶え絶え、悲しい)
苦痛と塊根を自責と歓喜で陶酔するスロ・コルッカがアキを的確に処置をしている間に、アキによって放り出されたミカはシムナが特殊機関式車椅子と共に回収してこちらに近寄ってきた。
「了解。ミカは軽症。車椅子は半壊。被害は想定内。結果は上出来。撤退する」
無言のシムナとミカを見て状況確認し淡々と見送り、アキの治療を再開する。
あまりに大差。
ありえない格差。
驚愕の対処。
だが常軌を逸する対応に異議異論もなく周囲の者達は警戒し撤収作業をすすめる。なにもなく、何事となく、当然の光景を目を向ける事無く時針の如く動く傍らアキの口が動く。
「ああ、悲しいな。
嗚呼、苦しいな。
アキもミカこんなに傷付いて、なんて楽しみなんだ!
私は役に立つ。皆の助けることができる。仲間に必要とされている。
なんて幸せなんだろう~。ふふん。
早く戦争にならないかな〜〜〜ふんふんふーん」
無邪気に重傷の同胞を労り。同時に傷害を望む。スロ・コルッカは歪な自分を顧みることなく、平然と当然に――鼻歌交じりにこれ以上もなく丁寧に、慰撫して同胞を合流地点まで運んでいく。
その後、シムナとコルッカが撤退している最中にもマリアの部下『婦人決死隊』は殿としてKV−Ⅱカーヴェー・ドヴァー重戦車の装甲板と砲身を1班数人単位で運用して追撃部隊を殲滅には成功するも、肝心のフィンランド側の幹部たちは誰一人として仕留めてないことに臍を噛みカレリア地峡を後にした。
お久しぶりです。
一応これでフィンランド方面の戦闘は終わりです。
次に日露の方も戦闘を終わらせたら、今回の戦争の全体像とその他諸々を書いていく予定です。
隊長さんはなんで戦線離脱したかもその時に書きたいと思います。
あと、とある作品のリスペクト(?)を少しでもしようとしたんですがなかなかうまくいかない(いつものこと)のと無理矢理感が半端ないですがご了承ください。
最後にフィンランド側のキャラが幼い理由は後の冬戦争に参加してもらうためですね!いやー楽しみだ!
では、親愛なる皆様方へ良き青空を
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