真剣で恋について語りなさい (コモド)
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中学生編
青臭い思春期のはじまり


過度の下ネタ、不快になる表現があります。
苦手な方はお戻りください。


「お前……おれがドМだって言ったら、笑う?」

「正直引く」

 

 中学二年の春、大和に性癖を打ち明けた。思春期に、己が内で大事に隠しながら形成されていった宝物を侮辱されておれはショックを受けた。

 大和はアナルが好きだった。正直引いた。

 金曜集会の宴のほてりをアジトの屋上で冷ましながら、星を見上げて語り合った夜、まちがいなくおれたちは青春の只中にいた。

 

「ガキの頃からずっと疑問だったんだよね。なんで毎日毎日姉さんとルー師範代にぶっ飛ばされて、血反吐はきながら川神院の厳しい修行を続けているんだろう、って。そりゃ物心ついた頃からの習慣だからと言えばそれまでだけどさ、おれは姉さんみたいにウォーモンガーなわけでも、ワン子みたいに目標に向かってひたむきに努力してるわけでもない。おれが修行して得られたものは姉さんの折檻に耐えられる体力と、一瞬のチラリズムを見逃さない集中力だけさ。それでも修行を続けているのはなぜか? 日がな一日自問自答してようやく辿り着いた結論がこれだった」

 

 まるで釈迦が苦行を経て瞑想の果てに悟りを開いたかのような心境でおれは語った。大和はどうでもよさそうな顔で聞いていた。

 

「修行が辛くても、体力がつけば慣れてしまう。そうなると物足りなくって、もっと厳しい修行が欲しくなる。苦しいのが気持ちよいと感じるようになって、もしやと思い始めたけど、決定的だったのは中学に上がってすぐの頃、ジジイと姉さんにコテンパンにやられて地べたに仰向けで倒れたおれの顔を、姉さんが椅子代わりにした時だね。おれが疲労と全身が痛くて動けないのをいいことに、姉さんは体重をかけておれの顔にぐりぐりと尻を押し付けた。女に負けた情けなさと躰を物扱いされる屈辱感で胸がいっぱいになってるのに……はは、笑えるだろ? おれ……勃起してた」

 

 闘いの熱気がこもる胴着に包まれた汗ばんだ尻のやわらかさがそうさせたのか、姉と呼んでいた人が、すっかり女の躰になっていたことをそれで思い知らされたのか。

 とにかく、おれはその日、性を知った。大和は優しい声で、「気にするな」と言い、「それは俺でも勃起する」と力強く言った。

 

「俺がアナルに目覚めたのは……千に言ったっけ? ほんと小さいころ、ワン子の裸を見たことがあってさ。そのとき生まれて初めて女の子の裸を見たんだ。その光景が強烈に脳裏に焼き付いて……そういえば、アナルって性器じゃないんだぜ? AVにモザイクがかかってないだろ? あんなにエロいのに。脇と一緒にR18指定すべきだと思う」

 

 気づけば大和が如何にアナルが卑猥で素晴らしいものか談義を始めたので、おれは適当に相槌をうちながら今の話を京にチクってやろうと心に決めた。

 中学の水泳の授業でクラスメートの未処理の脇を見てトラウマになったおれの心のささくれをついでのように障られたのが決め手となった。

 

「いつか……おれが総理大臣になったら、アナルを性器だって法的に認めさせてやる。おれはそんな夢を見てるんだ……」

「できるさ、お前なら」

 

 星を見上げながら、断固たる決意を言の葉に乗せた大和を、おれは「こいつ頭大丈夫か」と不安になった。

 だが神妙な大和の表情と空気にあてられて、ついついおれの舌も回ってしまう。

 

「おれもいつか……身も心も捧げられるご主人様と、曲がり角でシャイニングウィザードくらうような運命の出会いがあればいいな、って」

「会えるさ、お前なら」

 

 目と目が合う。大和は男らしく微笑し、おれもつられて笑った。でもやっぱりこいつバカだと思い、大和もきっとそう思っていた。

 その後も舌は弾み、話題はいつしか世界平和に移り、熱い激論を繰り広げるおれたちを見て、なかなか帰ってこないおれを呼びにきたワン子が、「また二人がむつかしい話をしているわ」と尊敬のまなざしで言った。

 ワン子に気づいた大和は咄嗟に、「ワン子にはまだ早かったかな」と意味深な笑みを浮かべたので、おれもノリで、「でも、いつかわかる日がくるんだよね」と言うと、大和は悲しげに、「何でだろう……どうして、こうなっちゃうんだろうな」と言った。

 

 ワン子が疑問符を顔に書きなぐった表情で頭を抱えたが、おれたちも意味が分からなかったので答えようがなく、特におれは大和とワン子を見比べて、「こいつ、この子のアナルで性に目覚めたんだよな……」と色眼鏡でしか二人を見られなくなっていた。

 

 そして案の定、このやりとりは黒歴史となり、お互い墓場まで持っていくことを誓ったのだった。

 

 

 

 

 

 

「ねえ千、乙女として相談があるんだけど、聞いてくれる?」

「大和はアナル好きのクソ野郎だ。最近包茎の手術をして調子に乗ってる」

「さすが千、話が早い!」

 

 京がニヤリとほくそ笑み、歓喜の声をあげた。おれは墓場まで持っていく男同士の秘密を、大和の人生の墓場に放り投げた。

 前回の黒歴史となった事件から、まだ一週間しか経っていなかった。場所は同じ、星空の下のアジトの屋上で、おれは大和を売ったのだった。

 椎名京は直江大和のことが好き。それは仲間内で公然の事実であり、事情を知る何人かは一途な京を応援していた。

 なお、仲間にも派閥があり、『応援しながらもトランジスタグラマーな美少女に成長した京に慕われる大和が妬ましい派』がガクトであり、『応援しながらも京に密かに好意を寄せている派』がモロ、『応援しながらもあわよくば京をつまみ食いしたい派』が姉さん、『レンアイ? よくわかんないけどお菓子くれるから応援するわ!派』がワン子、『俺だって大和が好きだぞ!派』で京を愉悦に浸らせたのがキャップ、そしておれは『応援する見返りに京に踏んでもらいたい派』に属していた。

 ちなみに、小学校からたびたび相談に乗っているが、未だに踏んでもらったことはない。理由は『大和以外とプレイをする気はない』からだそうだ。友達を足蹴にできないからではない。

 

「大和はアナルが好き。ふふ、みんなにバレたらあだ名はアナル軍師だね」

「相変わらず、京は大和に首ったけか。おれには、恋愛にそこまで夢中になれる気持ちがわからないよ」

「お子様なキャップじゃあるまいし、急にどうしたの?」

 

 もう数年間も一心不乱に大和を想い続けている京の気持ちを応援してはいるが、おれはその心を理解する気もできる気も全くなかった。

 異性には年相応に興味はあったが、恋愛感情を懐くとなると話がちがうのではないかと疑問が頭の片隅でちらつくのである。

 余談だがキャップは先日、ディス○バリーチャンネルの熊さんが過酷な大自然の中でサバイバルを行う番組を見て、「ちょっとアマゾン行って遭難してくる!」と日本を飛び出した。今頃野生に帰ってハッスルしているだろう。

 きっとマゾの素質があるにちがいない、と敢えて過酷な環境に身を投げるキャップに将来性を感じつつ、京の質問に答えた。

 

「恋愛って要は性欲の詩的表現に過ぎないのに、どうしてみんな異性の挙動に一喜一憂して、自分を虚飾してまでよく見せようとするんだろう。心がカラダに従順である以上、与えられる快感・性欲の充実感がすなわち好意に値するというのに、おれたちは恋をお友達から始めて、お互いをよく知ってからようやくカラダを許すことを良しとしている。だから人を上辺だけで評価して、結婚して家族になってから知られざる性癖に直面したら幻滅して離婚なんてことがザラに起こるんだ。恋愛ってそんなものなのさ。どれだけ言葉で取り繕っても、カラダには敵わないんだ。

 だからおれは異性には、おれの性癖を理解してくれて、それに応えてくれる人を求めている。そこに愛がなくてもいい。満足できるプレイがあれば、それでいいんだ。

 だから、心に重きをおく恋愛が理解できないんだよ」

「小学生までの大和みたいなことを言い出したと思ったら、ただの性癖の話だった……しょーもない」

 

 太宰にかぶれていた頃の大和と一緒にされて、おれは打ちひしがれるほどのショックを受けた。おれは芥川にかぶれていたからだ。

 京は呆れたような顔をしてから、やけに達観した表情で話し始めた。

 

「私は、恋愛は、人に期待し続けること思うよ」

「期待?」

「うん。私は大和が好きで、愛しているから、会うたびに告白して、求婚してる。いつも断られるけど、それでもやめないのは、いつか私の好意に応えてくれると期待してるから。

 付き合えたら、いつ抱かれるのか期待して、抱かれたら、次にできるのはいつかと期待するの。そしていつか結婚して、子供ができて、この幸せがいつまでも続きますように、って期待するの」

「期待……」

 

 すなわちそれは、相手に求め続けるということだ。与えられるのを待ち続けるということだ。とても怖いことだ。

 おれの内心を読んだかのように京が言った。

 

「もちろん、その応えられるまでのあいだ、私は恐れ続けるの。大和に嫌われないかな、飽きられないかな、ほかに女を作ったりしないかな、離婚したりしないかな……だからそうならないように自分を磨く。それが相手への誠意になると思うから。それが恋のはじまりになると、私は思ってるよ」

「そうか……おれがいつか理想のご主人様に出会うのを夢見ているのも恋なのか。お預けからの放置プレイをされて、亀甲縛りでいつかご褒美がくるのを待っているような……そう考えると恋愛も素晴らしいものに思えてくるよ」

 

 そう例えるおれを京が蔑むような目で見るので、おれは思わず前屈みになった。

 京は無視して言った。

 

「でもね、私は、恋は、奪うものでもあると思ってる」

「求める立場なのに?」

「うん。私は大和に愛を捧げる側で、大和は与える側だけど、大和から愛された時点で私は大和から奪ってるの。仮にSMでも、如何にハードなプレイが好きなマゾでもプレイ中はサドから奪ってるものだよ。逆もまた然り」

「たしかにその場合には、大和は京の処女を奪ったが、京も大和の童貞を奪ってることになるもんね」

「幼馴染とはいえ、女の子の前でよく臆面もなく言えるよね。これでモテるって何の冗談」

 

 疑惑のまなざしが股間に突き刺さった。心外だった。

 ……ここまでのやりとりから、誰もがおれを節操のない下品なマゾヒストと思うだろうが、平素のおれは文武両道の優等生であり、あの川神百代の舎弟兼お目付役として通っていた。

 お目付役とは巷で武神と呼ばれ畏怖されている姉さんが、欲求不満を起こして可愛い女の子や強そうな奴を手籠めにしようとした場合、その防波堤となって止める役割であり、つまりていの良いサンドバックである。

 その姿は、傍若無人な武神から、体を張って無辜の一般人を助ける苦労人……そのように周りの人には映るだろう。このポジションは傍から見れば、どうしても片方と比較されて常識人的に評価される上に、年がら年中胃痛に苦しんでいる姿を想起させて同情されがちになり、姉さんを止めるたびに懸命になだめるおれを見て周囲は勝手に憐れみを込めたプラス評価をする。

 加えておれは容姿も優れていた。学業も優秀だった。姉さんとちがって、「この世のかわいいナオン、美人のチャンネーはみんな私のものだ」などと性欲を表に出したりもしなかった。(おれの性癖を知るのも大和と京の二人だけである)

 

 つまるところ、人は外見と言葉だけで人を評価するので、肉体を虐める快感の虜になっていたのを一心不乱に修行に打ち込む向上心のある若者と勘違いし、姉さんの鬱憤の捌け口となっていたのを姉の迷惑に振り回される可哀想な舎弟と思い込んだ。

 それだけの話で、単にどいつもこいつも節穴だっただけなのだ。

 

「京、人には二面性がある。普段は一歩引いた立ち位置で冷静な態度で軍師面してる大和がアナル調教プレイ好きの変態であるように、奥手で如何にも女慣れしていないモロが女の子の髪の毛で欲情する変態であるように、みんな人には言えないものを抱えて当然なんだ。

 京や姉さんのように世間体を捨ててる人のほうが珍しいんだよ。そして人は人をそのガワでしか判断しない。だからおれと大和は優等生で、京と姉さんは変態とレッテルを張られるのさ」

 

 人は業を捨てきれない。京の大和狂い、姉さんの戦闘狂いのように、見目麗しい美少女が人としてどこか壊れている一面を持ち合わせているのも、人として当然だ。

 おれと姉さんが普段ジジイ呼ばわりしている川神院総代・川神鉄心でさえ、あの歳になっても女子高生のブルマとスク水を眺めるのが生き甲斐と公言し、これがないと人生は死んだも同然と言い切る始末だ。

史上最強の格闘家と高名な男でさえそうなのだ。一学生のおれたちが、これを御せるはずがない。抗えるはずがない。

だからおれはドMでもいいんだ。

 

「まあ、私も大和限定の一途ビッチだから、人に改めろと言い辛いけど……千は気になるコとかいないの? きっと普通の恋ができれば落ち着くと思うよ」

 

 まるで童貞こじらせた男に言い聞かせるような口調だった。おれは童貞だったから反論した。

 

「普通の恋で満足できないからマゾヒストなんてやってるんだ。普通の男が愛の言葉を囁かれて満足するように、おれは唾を吐かれて罵られないと満足できないのさ」

「しょーもない……じゃあ身近な女子で、ワン子はどう思ってるの?」

「かわいいし、同じ門徒としては努力家で頑張ってると思うよ。でも性的な目で見られるかって言われると無理」

「ならモモ先輩とかどうなの?」

「頻度の高いオカズかな」

 

 おれは蔑まれた目で見下されることを期待していたのだが、これを聞いた京はニヤニヤと意地悪く微笑した。

 

「ほうほう。では性的な目で見てると」

「そりゃあね。あの人は体も性格もエロいし、おれはあのエルグランドな乳に毎日悶々とさせられてるよ」

「いいこと思いついた。モモ先輩に千がドMだってバラせば、きっと望み通りのプレイをしてくれるよ」

 

 何で今まで思いつかなかったんだろう、と京が天啓をひらめいたかの如く晴れ晴れとした顔で言う。

 おれは選り好みする男だったから反論した。

 

「おれは天然ものが好きなんだ」

「ダメだこりゃ」

 



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自分語りは蜜の味

 問わず語りの自己紹介をさせてもらうが、おれの名前は三河千という。

 

 生まれは、日本の北の方の、少し裕福な農家の次男として育った。家族は曾祖母と祖父母、両親と兄と姉の八人。田舎ではありふれた構成だったと思う。少なくとも周りは二世帯、三世帯住宅は当たり前で、近所に遊びに行けば居間でテレビを眺めているじいちゃんばあちゃんがお菓子をくれた。長居するといつも、「メシ食ってけ」と薦められて、好意に甘えると兄姉か母が迎えにきて頭を下げていた。帰り際も「また来い」と笑顔で送り出されたものだった。近所の子供がうちに来ても同じことをしていた。

 この門戸の気安さと顔の広さは、田舎特有の信頼から成り立つものだと思うが、それにしても可愛がられていたと、思い返すたびに妙な気分になる。

 末っ子で家族には甘やかされたが、それ以上に地元の人々にもちやほやされた。まだ歩き始めたころから、『この子は大物になる』と評判だった。

 

 その理由を説明するには、名前の由来から説明しなければならない。

 おれの誕生に際し、奇妙な逸話がある。おれが生まれてから退院まで、郊外の病院の周りを本来渡来しない鶴が取り囲んだ。冬の珍事として注目を集めた鶴は、おれが退院すると家までついてきたという。

 これを偶然と考えなかった祖父は、この慶事に肖って子供の名前は『千』にしようと提案した。先に生まれた兄と姉の名前は、自分たちで決めると頑として祖父母の介入を嫌がった両親も、この時は反対しなかったという。

 

 ……と、ここまでなら珍しいこともあるものだと、親戚の集いで面白おかしく語り草になる程度の話であるが、それからも奇妙なことが起こり続けた。

 まず、産後から元より体が丈夫でなかった母が壮健になったことから始まり、寝たきりが続いていた曾祖母も外に出歩けるまでに回復した。これならまだ新しい家族に誕生に家が活気づいたで済むが、近所の悪ガキ同士の喧嘩で石を投げられた兄の頭のケガが、おれに撫でられてみるみるうちに回復したことで、おれの出生の逸話と合わせて特別視されるようになった。

 

 一度注目を浴びると、次に何か起きるたびにおれの所為にされた。

 今年はコメが豊作だっただの、台風でウチの地区だけ水害が起きなかっただの、遊びに行った家で宝くじが当たっただの、○○さん家が火事になったけどみんな無事だっただの、とにかく何でもおれに結び付けられた。

 人の噂が回るのも早い田舎だから、あっという間におれは有名になり、どこからも有り難がられ、ひっきりなしにやってくる来訪者に、ご利益がありますように、と手を握られたり、頭を撫でられたり、果てには家族の病気を治してくださいと頼み込む者が訪れるようになった。

 

 始めは自慢の存在で鼻高々だった家族も、このころになるとほとほと困りはじめ、毎日知らない人の相手をさせられたおれも、玄関のチャイムがノイローゼになりかけていた。あまりに神聖視されるものだから、逆に天邪鬼になって祟りでも起こそうかと思っていたとき、変なおじさんが音もなく目の前に現れた。

 いかつい風貌の外国人のおじさんはおれを見るなりこう言った。

 

『なるほど。この赤子は赤子だが、なかなか見どころのある赤子だ。今はまだ赤子だが、近い将来赤子から赤子とは呼べない赤子に育つだろう。できるならおれが直々に育ててやりたいが、あいにく今は暇がない。川神院に預けるとするか。なに、話はつけておく。あの男ならきっとお前を骨のある赤子に育ててくれるだろう』

 

 きっと赤子がマイブームだったんだろう。変なおじさんは赤子を連呼して去っていった。

 おれが不法侵入者を通報しようと電話を取りに行くと、おっさんは居間で緑茶を啜っていた。

 おれが姉に兄弟部屋に隔離されたあと、おじさんは長々と家族と話し合っていたらしく、数日後にはおれが川神院に預けられることが決まっていた。

小学校に入学する前に親元を離れることになり、発つ前に家族と別れを惜しんでから、暇がないはずのおじさんがいきなり現れて、川神までの引率を九鬼財閥が引き受けると言い出した。

 九鬼財閥が何なのか当時は分からなかったけれど、家族が絶対に大丈夫だというので、安心してついていった。

 道中、変なおじさんが質問してきた。

 

『小僧、なぜ泣かない。家族との別れが悲しくないのか』

『かなしいけど、それよりうれしいから』

『何がうれしいんだ?』

『これから行くところでは、ぼくよりすごい人がたくさんいるでしょ?』

『たくさんではないが、赤子と呼べないやつは何人かいるぞ』

『それがうれしい。あそこでは、みんなぼくにやさしかったけれど、わるいことをしても誰もしかってくれなかった』

 

 一度、評判を下げるために、悪ガキだった兄の真似をして家のガラスを割った。でも怒られることはなく、心配されるばかりだった。次に、隣の家のガラスを割った。それでも家族はおれを叱ることはなく、隣人に謝り続けた。隣人も微塵の怒気も見せずに、『こんなことしちゃダメだよ』と笑顔で頭を撫でるだけだった。

 同じことをした兄は長い説教をされて、一晩中離れの小屋に閉じ込められていたのに。隣人も人が変わったように怒鳴り散らして修理費用を請求してきたのに。

 

……後に、ジジイに聞いて知ったことだが、川神家のような武道の家ではない家系にも、おれや釈迦堂さんのような突然変異の異形の天才が生まれるというのは、稀にあるらしい。

 親戚筋を何代に渡って遡っても百姓の変哲のない家系で、おれだけがおかしかった。

緩やかに衰退していく緩慢な世界に、常識外れの化け物が生まれてしまった。

 その影響で片田舎の住人の歯車まで狂ってしまった。元に戻すには、原因を取り除かねばならない。

 

『きっとぼくは、あそこにいていけなかったんだ』

 

 そのときは直感的に思ったことを呟いただけだったが、実際に普通に暮らすことは厳しかっただろう。

 あのままならいずれ誘拐されていたと思うし、たとえされなくても知識がつけば自分から故郷を離れていたと思う。

 まあ、おれが天才過ぎたのが悪いわけで、誰が悪いというわけでもないし、こう生まれたことを呪ったこともなく、むしろ感謝もしていた。

 川神に移り住んでからも連絡は取りあっているし、偶に里帰りもしたりと家族仲も悪くないし。

 

『ふん……』

 

 話を聞いたおじさんは、しばらく黙りこくってから、無言で飴をくれた。おじさんは優しいおじさんだった。

 だが渡された飴が嫌いなハッカ味だったので、おれはそれを道端に捨てた。優しいおじさんは怖いおじさんになった。

怖いと思う間もなく、『ミニマムジェノサイドチェーンソッ!』という蹴りが飛んできて、おれのHPはゼロになった。

 動けなくなってから背負われて移動している最中、『小僧、食べ物は粗末にするな』と説教されて拾った飴を無理やり食べさせられた。

 

 たぶん、これも性癖の形成に一役買ったと思う。

 

 

 

ж

 

 

 

 川神院での生活は楽しかった。

 

 ここでは誰もおれを特別扱いしない。新入りのおれは雑用を押し付けられ、おれは悦び、率先して奉仕した。

 兄弟子の修行僧は人格が優れた者も多く、子供にだけやらせるわけにはいかないと積極的に手伝ってくれた。

 おれは仕事を奪われてなるものかと全力で遠慮をしたが、それでも手伝いをしようとするので、雑用を修行並みに消耗する勢いでこなした。

 すると負けるものかと要らん意地の張り合いで修行僧がおれの仕事を奪うので、おれはジジイに泣きついたが、『うむ、皆、励んでおるの。掃除も鍛錬のうちじゃぞ』と宇宙人みたいな笑い声で温かい目で見守っていた。

 そしておれの頭を撫で、『千、頑張りすぎるのもだめなのじゃ。休むのも修行の一環と心得よ。……のう、千や。儂らはそんなに頼りないか? もう少し、人を頼ってもいいんじゃぞ。儂はおぬしのことも、孫のように思っておるからの』となにやら知った風な口ぶりで語り始めた。

 

 いま思うとこのジジイの目も中々に節穴である。

 

 おれが雑用をしようとすると兄弟子が仕事を取り上げるので、おれはおれを舎弟として奴隷扱いしてくれる姉さん――川神百代に懐いた。

 姉さんとの出会いはセンセーショナルだった。川神院に連れていかれた日、ジジイに同じくらいの歳の孫がいると顔を合わせたのだが、開口一番に姉さんはこう宣言した。

 

『お前が千か。私は川神百代だ。これからお前の姉になる。そしてお前は弟、舎弟だ。舎弟は兄弟子に絶対服従、弟も姉に絶対服従するものだ。つまり、お前は私の命令に逆らえないということ。

 お前は一生私の奴隷になるのだ!』

『は、はい!』

 

 おれは意味もわからず赤面して返事をした。姉さんはジジイにしばかれた。

 姉さんは兄弟子に雑用を押し付けられていたこともあり、その鬱憤を晴らす為か、様々なことでおれに奉仕させた。

 パシリから自室の掃除、鍛錬後のマッサージに食事の配膳に本の読み聞かせ、果ては添い寝など、とにかく生活の大半を奉仕するよう言い渡された。

 もちろん、自堕落な生活を許すジジイではないからおれを解放するよう姉さんに言ったが、『私は一人っ子で寂しかった。だから弟がいたらしたかったことをしてるだけ』と言い返されると引き下がった。

 武道家としては並ぶものない川神鉄心も、孫には甘く、弱かった。思い返すとおれや釈迦堂さんにも妙に甘かったが、それは天稟に恵まれていた以外にも身を預かったことで情が生まれ、肉親に近い感情を懐いていたからだろう。

 

 ジジイは釈迦堂さんと姉さんの矯正ができなかったことを、人生における後悔のひとつと言っていた。

 おれの性癖を見抜けなかったことも、そのひとつに加えていいんじゃないかと思う。

 

 

 

 川神院の荒波に揉まれているあいだ、おれと姉さんの与り知らぬところでは、ルーさんと釈迦堂さんの派閥争いが繰り広げられていた。

 もっとも修行僧の大半は真面目で武道の本質を重んじるルーさんを支持し、粗暴で武道は暴力と説く釈迦堂さんは孤立していたが、その釈迦堂さんを支持したのがおれと姉さんだった。

 姉さんは戦闘狂で、強さこそすべてという考えに本能で同調して弟子入りしたが、おれは一番厳しい稽古をつけて痛めつけてくれるのが釈迦堂さんだったので弟子入りした。

 釈迦堂さんは嫌われ者だったが、だからこそ懐いてくる子供がかわいくて仕方なかったのか、おれと姉さんの面倒をよく見てくれた。

 だが一方で、将来有望な幼い二人を懐柔して危うい道に誘い込んだ、と釈迦堂さんへの非難はますます激しくなった。ルーさんは厳格な態度でしばしば苦言を呈した。

 

『千、なぜ心技体のうち、『心』が先にくるのか分かるかイ?』

『語呂がいいからでは?』

『チガウヨ! いいかイ? 武道は――』

『心が重要だというのは分かります。でも、鍛錬は体と技を磨くばかりで、心の鍛錬は気休め程度の瞑想だけです。どんなスポーツ選手も格闘家も心が一番重要だと説きます。でも、実際は体と技の練習しかしません。体技を鍛えた末に心が身につくというのなら、ぼくはまだ未熟なだけなんだと思います。

 僕も姉さんも、学び始めたばかりで未熟なだけなのに、どうして習ってもいないことで怒られるのか分かりません』

 

 姉さんに言っても話を聞かないか癇癪をおこされるかの二択なので、ルーさんは歳に似合わず賢しいおれに諭したが、おれも口を尖らせて反論した。

 ルーさんも大人なのでムキに反駁することもせず、おれが怒る前に身を引いた。この年頃の子供に理屈は通用しない。自分が信じていることを否定されれば、自分そのものを否定されたように感じて、感情的に、反抗的になるだけだ。

 ジジイもまたこう質した。

 

『天才には凡人の心が分からんというが、武道に置いてもそれは変わらんのかもしれんのう。通常の人が長い修練を積んで辿り着く道のりを一足飛びで超えてしまう。それゆえに過程で得られるものが足りておらん。

 じゃが、天才にしか分からぬ苦悩もあるはずじゃ。千、釈迦堂と百代といて何を知った?どう感じた?』

『苦悩と言われてもわかりませんが、知ったことは、人は強い生き物に従う生き物であることと、痛くないと覚えないことです』

 

 そう答えると、まるで獣の如しじゃ、とジジイは憤り嘆いた。いま思うとただの性への芽生えでしかないのに。おれはもっと痛くして欲しかっただけなのに。

 他の修行僧と同じことをしているのに、心を疎かにしていると非難され、保護者には将来を危惧される。姉さんは状況を理解しておらず、釈迦堂さんは弱者の論と取り合わない中、頭が痛くなるような説法がおれに毎日のように降り注いだ。

 

 

 

 風間ファミリーと知り合ったのは、そんな折であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「おいおい、今週号のいちご1000%、西田と真田がエッチしちまったよ!」

「これ絶対西田ルートだよね! どうせ最終的に勝つのは東堂だと思ってたけど、面白くなってきたよ」

 

 金曜日、鍛錬をサボってアジトに行くと、ガクトとモロがジャソプをかじりつくように読みながら興奮気味に語っていた。

 どうやら毎週パンチラを楽しみに読んでいたラブコメが佳境に突入したらしい。隅っこでは京が楚々と小説を読み耽っており、大和はソファに座って携帯をいじっていた。

 姉さんとワン子はまだ稽古の最中、キャップはバイトで遅れている。おれは大和の隣に座ると、ふと変なことを口走った。

 

「そういや何でおれ、風間ファミリーに入ったんだっけ?」

「来て早々にボケ老人みたいなこと言い出したぞ」

「この歳でボケてたらシャレにならないよ?」

 

 おれのつぶやきを耳聡く聞き取ったガクトがツッコミ、モロが呆れた様子で追随した。おれは頬を掻き、気恥ずかしくなって言った。

 

「いやさ、そのころのおれってバカみたいに鍛錬漬けの毎日だったから、川神院以外の記憶がうろ覚えなんだよね。京が入ってからは適度に気を抜いてたから、だいたい覚えてるけど」

「そういや学校ではずっと寝てたんだっけ……」

「懐かしいね。私と同じぼっち仲間だった」

 

 モロが目を細め、京がとても嬉しそうに語った。たしかにおれと姉さんは学校では孤立気味だった。

 おれの質問に、大和たちは遠くを見つめて過去に立ち返る老人のような顔をした。

 

「たしか、上級生と喧嘩中に俺が同級生の千に用心棒を頼んだら、『人の舎弟をこき使おうとはいい度胸じゃないか』ってモモ先輩が襲来してきたんだ」

「あったなぁ。そんで事情を話したらモモ先輩が上級生ボコボコにして、凹された上級生が千に助け求めたら、『こういう輩は、人をいじめたことを将来若気の至りだったと悪びれもなく語って、むしろ楽しい思い出だと主張するような人種だ。人に助けを求めるのは自分が悪いと思ってない証拠。姉さん、もっと痛くしてやって』って煽りやがったんだよなぁ」

「そんで居心地がいいからってモモ先輩が居着いて、モモ先輩に引きずられて千も来ちゃったんだよ」

 

 大和とガクトが怯えた様子で語り、モロはやはりどこか呆れながら言う。そんな感じだったっけ。

 まあ、風間ファミリーが川神院に呼びに来るたびに、ジジイに稽古を抜けてもいいから遊んで来いと放り出されていた記憶はあるのだが。

 話を聞いた京はすこぶる上機嫌に言った。

 

「千はいいこと言うね。人をいじめたのを『俺様も若かったからなあ』なんて言う人は痛い目みないとダメだよ」

「俺様、これ一生言われ続けるんだろうなぁ……」

 

 根に持つタイプのジメジメ系エロ電波ヒロインの京は、数年経つ今でもガクトにチクチク仕返しをしていた。

 ガクトは涙目になったが、まあ自業自得の面もあるので庇えない。

 

「そういえば京って、風間ファミリーに入ったころから千と仲良かったよね」

 

 過去を振り返ると、付随する記憶も思い出すのか、モロが笑って言うと、京にとっては愉快な思い出なのか微笑んで返した。

 

「うん。実は千とは席が隣で、ぼっち同士でよく話してた」

「え? 全然覚えてないんだけど」

「そうだろうね。だって私が、寝てる千に一方的に話しかけてただけだし」

「ええ……(困惑)」

「高度なお人形遊びだな……」

「さすがの俺様もそれは引くわ」

 

 いま明かされる衝撃の真実に男全員がドン引きした。が、京は悪びれるでもなく平然と続けた。

 

「でも話しかけると、千も寝ぼけながら返事してくれたよ? 本の話すると、ちゃんと中身について答えてくれたし、いじめられてぼっちだった私は、それで孤独を癒していたのです」

「まさか小学校でのおれって無意識に会話してたのか……?」

「意識なくてあんな発言する小学生とか怖すぎるよ!」

「なあ、俺様が謝るからこの話は止めにしようぜ。な?」

 

 段々と居た堪れない空気になってきたため、仕切りなおすことにした。ちょっとシーンと静寂が包んでから、ガクトが切り出した。

 

「しかし、今の聞いたら京が大和を好きになったのが不思議だよな。普通、千の方を好きになりそうじゃね、その感じだと」

「これは何度も言ってるけど……私に手を差し伸べてくれたのが大和だから男として好きになったわけで、千に救われてたのも事実だけど、そこはloveとlikeの差があるわけで。

 だから『お友達で』とか『京には千の方が釣り合うと思う』なんてやんわりとお断りされても意志が揺らいだりしないわけですよ」

「大和、お前、おれをだしに使ってたのかよ」

「いや、その……」

 

 おれが大和を横目で見ると、大和は顔を背けた。正直なところ、おれは京に何の不満があるのか分からないが、他人の恋愛に口出ししたくないので黙っていた。

 けど、おれを巻き込まれると黙ってもいられなくなる。いい機会だからひとこと言ってやろうと思ったが、先んじて京が言った。

 

「まあ、色々あったけど、私は風間ファミリーのみんなが大好きだから。大和だけじゃなくて、千もガクトもモロも、ここにいないモモ先輩、ワン子、キャップも、私にとって特別な仲間。

ずっと一緒にいられたらいいって、心から思ってる」

 

現在の京は隣県に引っ越しており、毎週末に、バイトをして得た金で川神市に滞在してまで風間ファミリーとの時間を作ろうとしている。

離れ離れになっても仲間という意識は全員にあったが、そこまではっきり口に出されると、面映ゆいものがあり、口を閉ざしてしまったが、やはりガクトが真っ先に口を開き、ポージングをとった。

 

「俺様も特別な仲間だと思ってるぜ。ところで京、特別なナイスガイである俺様なんて恋人にどうだ?」

「ガクトは椎名菌が感染したら危ないから、もっとお似合いの人を探せばいいと思う」

「本当にこれ一生言われ続けるんだろうなぁ……」

 

 いやらしい笑みを浮かべながら自虐する京に、ガクトは涙を流しながら悔やんだ。

 一方、おれは京が恋人なら、色んなプレイをしてもらえただろうに、と心の中で悔やんだ。

 

 

 



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ああっご主人様っ

 無事に新年度を迎え、おれたちは中学三年生に進級し、姉さんは川神学園の一年生になった。

 おれとワン子が朝の鍛錬を終え、朝食を済ませ、変わり映えのない制服に袖を通し、今日も今日とてつまらない――姉さんがいなくなってさらに退屈な――中学校に向かおうとしたとき、川神学園の制服に身を包んだ姉さんが襲来した。

 

「おニューの制服を纏った美少女登場! 愛しい弟に妹よ! 感想カモンッ!」

「わあ、とても似合ってるわ、お姉様!」

「初登校くらい着崩すのやめない? なんかレディースのヘッドみたい」

「ん~、ワン子~お前は本当にかわゆいな。千はあとで制裁だ」

 

 計画通り――ワン子を愛でながらさらりと告げられた折檻宣言におれの身は歓喜に打ち震えた。

 女子高生になった姉さんのお仕置きに胸を膨らませながら登校する。

 ……川神の春は払暁から黄昏まで美しいまま、夜を迎える。その中でも多馬川沿いの平地に広がる田園風景が、故郷を想起するので好きだった。

 人口第九位の大都市なのに自然も豊かで、独自の生態系の動植物が繁殖しているのも着眼すべき点だろう。

 武士の子孫が多く、その風習を受け継いでいるためか面白い風習も見られ、第二の故郷として愛着が湧くのも当然に思えた。

 川神には郷土愛が強い若者が多いように見えるのは、おれが都会に人口が流出し続けている田舎生まれだからだろう。

 まあ、面白いのは風土だけではなく人材の影響が強いのだが。

 

「学校までの移動中も特訓特訓! 夢に向かって勇往邁進っ!」

「鍛錬に集中し過ぎてコケたりすんなよー」

「あはは、昔ならともかく、今は平気よー!」

 

 例えば、登校中に重しをつけて走り回っているブルマ姿の女子中学生とか。さっき大気を蹴って空を跳んで行ったあだ名が『武神』の女子高生とか。

 世にも珍しい光景が広がるのが川神である。多馬大橋、通称変態の橋に行くともっと面白いものが見られるのだが、川神学園とはルートちがうので残念だ。

 おれは変態(彼ら)が性癖を叫び、人々に退治される一連の流れが好きだった。まるで花火のように一生をかけて培った性癖が世に咲き、一瞬にして無常に散る様は、物語の英雄の最期を彷彿とさせて感動すら覚える。

 変態にその性癖が芽生え、成熟し、内に留まらず曝け出してしまいたくなるまでに多事多難があったはずなのに、世間では異常性癖・マイノリティ・変質者の一言で済まされてしまう哀れさが堪らないのだ。

 彼らに力があったら、きっと性癖も黙認されていただろうに……そう、それこそ齢百を超えて女学生のブルマとスク水姿を視姦するのが趣味のジジイのように地位と実力があれば、逮捕されることもなかったろうに……どうして……

 

「よっ! ほっ! はっ! とおっ! ……千ってば、難しい顔してどうしたの?」

「正義なき力は暴力であるが、愛なき力もまた暴力である。この場合の愛とは何か考えていたんだ。愛とは解釈によってはリビドーにもなるのではないだろうか? 世間では叩かれるようなものであっても、人生を捧げるほどに夢中になったものに対するそれは、他者にとっては異質であっても愛ではないのか? 形は違えども純真な感情で得た力も、世間は暴力と呼ぶのだろうか。そんなことを考えていたんだ」

「おおっ、なんだか哲学的だわ! やっぱり千くらい強くなると、単純な力だけじゃなくって、色々考えなきゃいけないのね」

 

 適当なことを言って誤魔化したが、アホの子のワン子は瞳を輝かせて尊敬のまなざしでおれを見た。おれは目を反らした。

 

「アタシも千を見習って頑張らないと! お姉様が千は毎日倒れて血反吐はくまで鍛錬してたって言ってたもの。それくらい頑張らなきゃダメなのよね」

 

 いや、見習っちゃダメだと思う。やってることは一緒でも、その理由が純真なワン子とちがっておれは邪すぎるし。

 だが幻滅させてやる気を削ぐのも忍びないので、ケガするなよ、とそれらしいことを言って見守った。

 ……物心がついてすぐに姉さんと出会い、姉さんと一緒に育ったから、同年代の普通の女子と接したのはワン子が初めてだった。

 岡本一子が川神一子になってすぐのころ、修行を始めたばかりのワン子を見て思ったこと。

 

『どうしてこんなこともできないの?』

 

 この言葉を口にしなくて本当によかった。

 考えたことも、今は後悔しているから。

 

 

 

 

 

 

「えーと、ここにこれを代入して……代入ってどうするの?」

 

 夜の鍛錬を終え、食事を済ませたおれとワン子は勉強に取り掛かっていた。

 和室の八畳ほどの個室がおれの私室であり、大きめの本棚以外は特筆すべき点もない部屋になっている。

 その中央のちゃぶ台に宿題を広げ、私服姿のワン子は頭を抱えて唸っていた。おれはその横で頬杖をつき、小説を読みながらワン子の勉強を見ていた。

 

「うーん、うーん……分からないわー、ここの答えが全然分からないわー。親切な誰かが優しく教えてくれないかしら……ちらっ」

「教えないよ。大和と京に川神学園に合格できるよう、みっちり家庭教師を頼まれてるから、ヒントは出すけどちゃんと自分で考えなさい」

「うわーん」

 

 基本的にファミリーみんなが甘やかしがちなワン子にも、受験ということで厳しくすることが決まり、中学から飼い主の大和に首輪を託されたおれの手綱もきつくなった。

 かくいうおれも散々甘やかし、稽古疲れでくたくたのワン子にねだられると宿題を教えてあげていた負い目がある。

 その所為でワン子は勉強で困窮すると、すぐおれに頼る癖がついてしまい、自分で考えなくなった。

 ワン子の将来を想えば、ここで厳しくしなければ本人の為にならないだろうことは明白。

 ここは心を鬼にして突き放そうとしたが、

 

「どうしても分からないの! 助けて千~っ! 何が分からないのかも分かんないのー!」

「……しょうがないな。見せて」

「ありがとー! ここなんだけど」

 

 泣きつかれて、たやすく折れたおれはため息をグッと堪え、小説から目を離した。

 一転して喜色満面の笑顔になったかと思うと、ワン子は宿題を抱えて、ストンとおれの膝に腰を落とした。

 ……膝に重なる柔らかい尻の触感と香った甘酸っぱい汗の匂いに、しばし呆然とする。

 

「こら、女の子がはしたない」

「え? 何が? 小学校まで大和に教えてもらうときはこうしてたわよ?」

 

 あー、そういえば大和がそんな調教してたような……中学に上がってから世話してたのおれだから忘れてたが、この子はそう躾けられてたんだっけ。いいなあ。

 ワン子は調教師の大和に様々な調教を施され、自分が突飛な行動をとっても疑問に思わないまでになっている。

 そう聞くと卑猥な印象を受けるが、ワン子自体が、純真な心と幼い肢体で淫猥なイメージが皆無であったため、子犬というか愛らしい印象さえあったのだ。

 だが……

 

「? どうしたの、千」

「あー、いや、なんでもない。ここはね――」

 

 問題を読むために屈んで本を覗くと、ワン子のポニーテールに鼻が触れそうなほど顔が近づき、おれの胸とワン子の背中が密着した。

 朝から晩まで鍛錬をし続けて、たくさん汗を掻いたワン子の体臭が鼻腔を満たした。

 男のそれとはちがい全然不快ではない、むしろ心が揺れるような甘い芳しさ。

 念入りに手入れをしてると思えないのに、艶やかでサラサラな亜麻色の髪から視線を落とすと、健康的な白いうなじが見えた。

 異性の前で無防備に晒された肌は、舐めればしょっぱい汗の味がするのだろう。

 また下に視線を移せば、並みの男の何十倍も鍛えているのに華奢な、小柄の少女の肩があり、細い胴のさらに下には、膝に乗った臀部があった。

 布越しに伝わる感触は、姉さんのような色香が充溢した芳醇なものではなく、肉付きの薄い骨ばったものであったが、それでも女を感じさせるのに十分なものであった。

 

 その、なんだ。ずっと近くにいて、姉さんのように劇的な成長を遂げたわけでもなく、また『ワン子』という小さい庇護対象の先入観が抜けず気づけなかったが、しっかり女らしく成長していたんだな。

 ……ちょっと罪悪感と自己嫌悪。

 

「あっ、ホントだ。千の言う通りにしたら解けたわ! 千はブンブリョードーで偉いわねー。アタシと全然ちがう」

「誇ってもいないものを褒められても嬉しくないぞ」

 

 何を話したか、記憶すらないのだがどうやら正しい説明はできていたらしい。

 偉いと褒められるより気持ち悪いと罵られた方が嬉しいのだが、さて。

 簡潔に今の状態を言い表すと、おれは勃起していた。

 

「アタシからすると千は完璧超人だもの。クラスの女子なんて、お姉様が卒業したから千を狙ってみようかな~、とか話してるのよ。毎日アタシに紹介して、って女の子がいっぱい来るし、誰よりも努力してた千をアタシも尊敬してるもの。千がそう思わなくても千は凄いのよ」

「それも小学校までの話だな。今は時々サボることもあるし、素行だって褒められたものじゃない。尊敬して見習うのはルーさんにしとけ。おれと姉さんは反面教師にするものだ」

「んー、千って自分を過小評価? してる気がするわ。どうして自分を認めてあげないのかしら」

 

 首だけで振り返り、不満そうにワン子はおれを見上げた。

 いや、本当に、自分が人に尊敬されたり、見本となるべき人間ではないと分かっているからなんだが。なぜなら今、勃起しているから。

 昔、川神院に来たばかりのころは、まだ勤勉な子供と見られていたが、釈迦堂さんへの弟子入りと風間ファミリーに入ってから息抜きを覚えたことで、才能に溺れる若者という認識に変わっている。

 実際にそれは正しく、自覚もしている。なぜなら今、勃起しているから。

 自分が人間だと気づいて以来、乾いた砂が水を吸うように何でもこなせてしまったから、壁にぶつかる人の気持ちが理解できなかった。俗に言う『壁を超える』こともあっさりできてしまい、おれにとっての壁は姉さんとジジイだけになった。

 

 しかし、今、おれとワン子のあいだに壁ができている。なぜなら今、勃起しているから。

 おれの膝の上に座るワン子とおれの股間の隙間がジェリコの壁だ。

 たった数センチの壁を、おれは絶対に超えることができない。なぜなら今、勃起しているから。

 デニムに包まれた股間が痛い。なぜなら今、勃起しているから。

 

「自分が、人に褒められるような人間じゃないって判ってるからだよ」

 

 なぜなら今、勃起しているから。

 

「じゃあアタシが褒めてあげるから自信もちなさいよ。あんまり卑屈だと嫌味に感じる人もいると思うし、本当にアタシはそう思ってるもの」

「いや……」

「いっぱい褒めてあげるから、その分アタシには優しくしてくれるとうれしいなー。なーんて……ちらっ」

 

 気遣われているのを感じて、心が痛かった。おれはよりいっそう勃起していた。

 この信頼が、ワン子があと少し後ろに下がるだけで崩れ去ると思うと、そのときワン子に『千の変態!』と罵られる妄想が膨らんでしまい、おれはもっと勃起した。

 

 おれはワン子に優しく勉強を教えてからワン子が退室したのを見届けると、すぐパンツを脱いだ。

 

 

 

 

 

 

 人はどうしてオナニーをするのだろう……

 旧約聖書の創成期でオナンが兄嫁のタマルと寝ても膣外射精を繰り返したことが主の意思に反したとされ、種の存続に伴わない射精を悪とする風潮が生まれた。

 これが転じて、一部の宗教では自慰を禁止にしているところまである。

 もし、自慰をして神の意思に背いたなら、罪を告白して許しを請わなければならない。そして裁きを受けるのだ。鞭叩きとロウソク責めを……

 だが、世間一般が想像する優しい神は、オナニー狂いの罪深き者も慈悲深い微笑みひとつで許してくださるのだろう。

 やっぱり神はクソだ。おれは神を信じない。

 

 人はどうしてオナニーをするのだろう……

 ムラムラするから? 気持ちいいから? 本番への練習? それとも慣習?

 言い方はそれぞれでも、共通していることは、性欲に流されたということだろう。

 そう、人は性欲に勝てない……精神的に未熟な男子中学生は、オナニーを覚えたら、一心不乱にスぺシウム光線を放つ。

 地球のみんなを救うため……愛と平和を守るため……敵をやっつけて、変身が解けて、股間のウルトラマンが人に戻って、だが気づいてしまう。

 敵をやっつけても、世界に平和は訪れないということを……

 

 どうして地球に平和は訪れないのか……

 肌の色、言葉、土地、風習、利権……様々なことで、人は争う醜い生き物だ。

 たしかに争うのには理由があるかもしれない。でも、小さいときに習ったことがあるじゃないか。初心にかえって思い出そう。

 自分がされて嫌なことは、人にはするな。この言葉を……

 

 だが……たった今、おれは、自分がされて嫌なことを、してしまった。

 堕胎を殺人だという主張を何度か耳にしたとき、ふと思ったことがある。

 まだ生まれてもいない赤ちゃんを人として扱うのなら、自分の分身ともいうべきDNAを持つ精子をティッシュに特攻させ無為に殺すのも殺人ではないだろうか。

 しかも精子に同じDNAは存在しないので、一回の射精ごとに約3億人を殺害している計算になる。

 なんて罪深い生き物なんだ……しかも出撃した直後の新兵をティッシュによる包囲殲滅攻撃で虐殺までしている……考えられない……ハンニバルだってやらない。

 精子の気持ちになってみて分かる。人間が如何に残酷な生き物か……

 

 なのに、きっとおれは、明日もオナニーをするのだろう。

 あまつさえ、姉さん・姉さん・姉さん・京・姉さん・姉さん・その他のサイクルにワン子が加わった悦びに、右手によりいっそう力をこめて……

 

 

 

「そういえば左手ですると他人にされてる感じだってガクトが……」

 

 ワン子をオカズにした罪悪感と背徳感、行為後の虚無感と虚脱感に苛まれながらも、好奇心旺盛なおれは更なる快楽を追求し、新たな手段を模索していた。

 首脳会議の前にみんなオナニーを済ませてから臨めば、世界は平和になるんじゃないか。そんな心境で風呂に入ろうと自室を出た。

 すると姉さんに捕まった。

 

「よーう、弟。お前の大好きなお姉ちゃんが来たぞー」

「なんだァ? てめェ……」

「こいつ最近反抗的だな。昔は従順でかわいかったのに」

 

 私服の姉さんが構って欲しそうだったので、おれはお仕置き(ご褒美)欲しさで反抗期の弟を演じた。

 この反抗期は、色気が出てきてから、以前の暴君ぶりが鳴りを潜めてしまった姉さんが、気兼ねなくおれを甚振れるようにと長期戦略的な観点から導き出された性格改変である。

 かつて姉に逆らえず言われるがままだった弟が、思春期になってから急に反抗的になった事例などごまんとある。

 単純な姉さんは素直にハマってくれて、肉体的接触多めの技で折檻してくれていたのだが、どうもあまり反抗し過ぎて苛立ちの他にも寂しさが芽生えているようであった。

 事後ということもあり、平和を第一に考える今のおれは、和平路線に舵を切ることにした。

 

「いや、だってさ、中学生にもなって姉弟でベタベタしてたら……恥ずかしいし」

 

 照れる仕草で目線を外し、たどたどしい口調でぼそっと言うと、姉さんは一瞬驚いた顔をして、愛おしそうに目を細めた。

 

「なら誰もいない所なら恥ずかしくないのか? んー? こいつめー」

 

 パッと笑顔になり、おれの肩を抱き寄せて拳を頭に当ててぐりぐりとした。

 嗅ぎなれた姉さんの匂いと豊満な胸、そして心地よい痛みに挟まれる。これはこれで……

 

「そうかー、千もそういう年頃か。背も伸びたし、声も低くなったし、周りの目が気になったりもするか」

 

 納得したようにひとりごちる。風間ファミリーに加入するまでのおれたちは、川神院の中だけで世界が完結していて、外に目が行く機会も余裕もなかったように思う。

 だからジジイも風間ファミリーとの出会いで人が変わったおれたちを歓迎していて、積極的に遊ぶことを推奨しているが、俗世間に染まり過ぎたきらいもある気がする。

 少なくともおれは怠け癖がつくことも性癖を自覚することもなかったし、姉さんもこんなにシスコンブラコンを拗らせたりしなかっただろう。

 弟離れができない姉は、拳の代わりに頭をこつんとぶつけて、密言を交わすように囁いた。

 

「ふふ、美少女に成長したお姉ちゃんと一緒だと、ドキドキしちゃうか?」

「こんなことされると、もっとドキドキしちゃうよ」

「……ああ。素直なお前は本当にかわいいな……」

 

 今度は頬ずりして、上体をゆりかごのようにぐらぐらとさせた。

 しばらくそのままで好きにさせる。姉さんはおれがマゾヒストであるように戦闘狂の業を背負っており、そのストレスをおれと戦ったり、触れ合ったりといった過度なスキンシップで発散させている。

 要は自制できないわけだが、付き合わされるおれには、姉さんが思春期を迎えてから性的な刺激が増えた。それに伴い加速していく自慰頻度。オカズの割合が圧倒的に姉さんを占めているのもムラムラする原因が姉さんだからだ。

 冷静に考えて、血の繋がらない姉とひとつ屋根の下ってありがちなシチュエーションだけど、ありがちってことは誰もが一度は妄想するくらい定番なエロ要素なわけで。

 おれは正直たまらなかった。誕生日から考えてワン子は妹になるから血のつながらない姉妹がいることにもなる。おれは正直たまらなかった。

 

「あー、そうだ。川神学園な、あまり強いやついなかった。何人か勝負挑んできたけど吹けば飛ぶようなやつらばかりで」

「ふーん」

 

 つまらなそうに語る姉さんの話におれは適当に相槌を打つ。

 

「あ、でもイケメンはいたぞ。和服着てるいけ好かない男だったけどな。たしか京極とか言ったかな」

「ふーん」

「おい、お前のお姉ちゃんが他の男に目移りしてるんだぞ。ちょっとくらい嫉妬しろよー」

「嫉妬するのもけっこう疲れるし、来年には先輩になる人に会う前から禍根を持つってダメじゃない?」

「中二病拗らせて無気力系主人公気取り……なわけでもないもんな。大和と微妙にちがうから面倒だな、こいつ」

 

 またしても太宰かぶれの頃の大和と一緒にされ、おれはげんなりした。

 たしかにおれは、説教されて改心したことも、説教する人を偉いと思ったことも一度もないが、それでもアレよりもマシだと自負している。

 記憶が定かではない時期のおれにも印象に残っているのだから、相当だった。風間ファミリーが中二病に罹らなかったのは、大和が反面教師だったからだ。

 

「……でもな、千。お前が嫉妬しなくても私はするんだぞ」

 

 おれが大和と同一視されて不快な気持ちになっていると、姉さんがおれの耳元で、

 

 

 

「お前、さっきワン子でシコったろ」

 

 

 

 爆弾を投下した。それは地雷原で爆発して、連鎖的な相乗破壊を生み、おれの心を焼き尽くした。

 

「な、なんのことでしょうか」

 

 おれは目の前が真っ白になった中でも誤魔化そうと、機能停止した脳をフル回転させた。

 だが、姉さんは鬼畜だった。つまらなそうな顔をして、絨毯爆撃を開始した。

 

「いや、しらばっくれても無駄だから。ワン子が部屋を出てすぐにオナったろ? なんだ、女らしくなったワン子にムラムラしちゃったのか?」

「バカなっ……そんな、バカなっ……! 部屋の周囲に誰もいないのは気配感知で確認済みっ……! なのに、なぜっ……!」

 

 おれは語るに落ちた。白く染まった頭が、羞恥心で真っ赤に染まり、図星をつかれた焦りで体が震えだした。

 もうどうにも止まらないおれに姉さんはとどめを刺した。

 

「いや、私とお前は昔から片時も離れずに一緒だっただろ? そのせいか、私はお前の気のちょっとした変化で何をしてるのか分かるんだよ。

 だから私が可愛がったあと、その感触で抜いてるのバレバレだったぞ。まあ、私でハアハアするのは可愛いから許したが――ワン子で抜くのはどういうことだお前!

 私で抜けよー! こうして毎日オカズを提供してお姉ちゃんのことしか考えられないよう餌付けしてるのにー!」

 

 ……姉さんが拗ねて喚いているあいだ、おれの頭のなかで『怒りの日』が鳴り響いていた。

 おれが日々、一心不乱にオナニーしているのは筒抜けだったのだ。

 姉さんはおれがオナニーしたのを知りながら、事後のおれと生暖かい視線を向けながら接していたのだ。

 そしてこれからも、オナニーするたびに姉さんに『あ、今こいつシコってやがる』とリアルタイム実況するかのような羞恥プレイを続けなければならないのだ。

 

 よみがえるワン子で抜いた罪悪感と背徳感。傷つけられた自尊心とプライバシー。煮えたぎる羞恥心と怒り。

 許せない……『怒りの日』が大音量で鳴り響く。もっとだ。もっと『怒りの日』を鳴らせ……!!!!!

 

 

 

 

 

 

「本日、みなさんに集まってもらったのは他でもありません!」

 

 金曜集会の翌日、姉さんを除く風間ファミリーの面々に収集をかけ、おれは叫んだ。

 

「おれは引っ越す! その相談に乗ってもらいたい!」

「ええぇぇぇぇぇっ!?」

 

 ワン子が叫んだ。

 

「えらい急な話だな」

「どうして今? 来年川神学園に進学してからでよくない?」

「そ、そうよ! 千がいなくなったら、アタシどうしたらいいか分かんない!」

 

 大和と京が冷静に意見を述べ、ワン子が動揺しながら追従した。おれは怒鳴り返した。

 

「うるせえ! 来年までなんて待てるかッッッ!!!!」

「ひいっ! うわーん京ぉ、千が、千がっ」

「おー、よしよし」

「何だか知らんが、こいつ真剣(マジ)だぜ」

「うん……というか、こんなにキレてる千みたことないよ」

 

 激昂するおれにガクトとモロは引いていた。キャップはコーラを飲みながら言う。

 

「いーんじゃねえの? 一人暮らし。俺も興味あるし」

「よくないわよ! 千がいなくなったら誰がアタシに勉強教えてくれるのよ!」

「キャップ担当が大和で、ガクト担当がモロ、ワン子担当が千だっけ」

 

 京が肉欲にまみれた視線を男衆に向けた。この組み合わせは家が近いからという合理的理由で決まったものであり、別に『ぬふぅ』的な力は一切働いていない。

 

「元の飼い主の大和が二股すればよくね?」

「何だと!? 大和は俺のだぞう!」

「……っ!」

 

 ガクトの提案にキャップが拗ねて反抗し、京が息を呑んで身悶えた。おれはガクトに乗っかった。

 

「キャップはマークなら鉛筆ころがせば受かるだろ。てなわけで、大和。あとは任せた」

「ちょっとぉ! 大和ぉ、助けてぇ!」

 

 見捨てられたワン子に泣きつかれ、収集がつかなくなってきた場に頭を痛めている大和が渋々いう。

 

「そもそも何で急に引っ越すことにしたんだ?」

「そ、そうよ。アタシ、なにかした……?」

「別に、ワン子に問題があるわけじゃないよ」

 

 あるのはおれだし。

 

「てことはモモ先輩か」

「なに? 喧嘩でもしたの?」

 

 京が興味津々で聞いてくる。理由……話してもいいが、その前に、

 

「ここから先の話はピュアなワン子には聞かせられない……ワン子の耳を塞いでもらえないか」

「ワン子、いいって言うまでおとなしく耳を塞いでてくれ」

「ぎゃーっ! アタシ当事者なのにー!」

 

 文句を言いつつも、大和の言いつけを守って耳を塞ぎ、おとなしくなる。

 キャップは理解できないだろうからいいや。

 

「どうしたの? モモ先輩とワン子に手を出しそうになったからとか?」

「ケッ、どうせ痴話喧嘩か何かだろ」

「ちがう」

 

 京が恋バナを期待して胸を膨らませ、ガクトが忌々しそうに腕組みしながら思いつく理由を否定する。

 

「じゃあなんだよ」

「オナニーを監視されてた」

「……は?」

「おれがオナニーをしてるのが姉さんに筒抜けだったんだ。それが今後も続くのが耐えられない。だから一人暮らしをする」

 

 時が止まった。全員、おれが語った内容を咀嚼できずに固まっていた。

 

「おなにー? なんだそりゃ」

 

 キャップだけが分かっていなかった。

 

「えと、それはどういうこと? モモ先輩が千の部屋を覗いたり、隠しカメラつけたりしてたってこと?」

 

 意外にも一番早く再起動したのはモロだった。発想の内容からしてムッツリが隠しきれていない。

 

「いーや、気の揺らぎでオナニーしてるのが分かるらしい。つまり、リアルタイムで『今オナニーしてますよ』って姉さんにメールしてたも同然の毎日を送ってきたわけだよ、おれは」

「そんな理由で引っ越すのかよ!」

 

 お前バカだろと顔に書いてあるガクトの声におれは声を荒げた。

 

「ならガクトは麗子さんにオナニーしてるのが筒抜けで、今後家で普通に生活できんのかよ!」

「想像しちまったじゃねーかやめろ!」

 

 ガクトが顔を青ざめさせのたうち回った。他のドン引きしてる面々にも、おれの苦悩を知らしめる。

 

「お前らも想像してみろ! 家族に自慰行為をしてるのがバレたときの気まずさを! しかもこっちは血の繋がらないお姉さんにだぞ! それが今後もずっと続くんだ! おれは無理だ、耐えられない! こんな羞恥プレイ、おれにはまだ早すぎる!」

「はい、先生。私は大和にならバレても構いません!」

「ほう。なら京くんは川神流肉体改造で、ガクトにオナニーしてるのが筒抜けになっても平気なんだね?」

「はい、ごめんなさい無理です!」

「え、できんの!?」

「ガクトも興味もたないでよ!」

 

 話がずれた。

 

「理由は以上だ。プライバシーもくそもない、こんな生活から脱したい。おれが言ってることはおかしいか?」

「まあ、それなら仕方ないな」と、大和。

「おかしくないけど……千ってこんなキャラだっけ」と、モロ。

「モモ先輩だと逆に羨ましいような……いや、ないな」と、ガクト。

「個人的には反対したいけど、千の気持ちを考えると……」と、京。

「俺ははじめから賛成だし」と、キャップ。

 

 

 

「というわけだ。ワン子、あきらめろ」

「ぎゃーっ! 蚊帳の外にされたと思ったら、いつの間にか引っ越し決定!?」

 

 懸念していたオナ禁案は誰も言い出さず、ワン子が泣き出した。

 事の発端がワン子でオナニーしたことだと知ったら、ワン子は責任を感じてしまうだろう……だからこれでいいんだ。

 その後もワン子は大和と京に泣きつき、おれにも再三考え直すように言ってきたが、おれは断固として断った。

 オナニーをする時はね、誰にも邪魔されず、自由で、なんていうか救われてなきゃあダメなんだ。

 してるなんて分かってる。だけどそこにも自由がないと安心できないんだ。

 

 おれはワン子に引っ越し当日まで、姉さんやジジイたち川神院の人たちに口外しないよう口止めをさせ、一人暮らしへ向けた準備を大和と始めた。

 大和も川神学園進学後は寮生活をする予定だったから、良い予行演習になると言ってくれた。

 おれは良い友をもった。

 

 

 

 

 

 

 数日後には、ネットで何件か条件に合う物件をリストアップしてもらい、不動産に連絡して見学に行くところまで話が進んでいた。

 あれ以来、おれはオナ禁を徹底し、修験者の心境に至る心持ちで引っ越しに臨んでいた。

 姉さんは、オナニーしてるのがバレたから恥ずかしがっているな、と微笑ましい様子でおれを見つめている。

 おれはそれに対し、無言で川神院を去ることで復讐しようとしていた。

 ジジイを言い包めることは容易いとおれは見積もっていたし、姉さんが後から何を言ってきても、「年頃の男女が同居しているのはおかしい」とか適当な理由で突き放すつもりだった。

 

 そう、これは繊細な少年の心を傷つけた姉さんへの復讐。おれのオナニーが奪われた恨み、その1/100でも味わわせてやる――

 

「せ、千。入るわよ?」

 

 部屋で暗い気持ちに陥っていたところにワン子がやってきた。またおれを止めにきたのだろう。

 だが無駄だ。資金は実家からの仕送りで万端だし、キャップのコネでバイトも始める。保証人だって両親に相談すればいいし、おれを止めることはできない。散々説明したつもりなんだがな。

 

「千、本当にやめるつもりはないの?」

「ああ、何を言っても無駄だぞ」

「そう――」

 

 ふと、ワン子の視線が険しくなった。怒らせてしまった、と思った。ワン子に罪はないので申し訳ない感情が湧く。

 怖い顔のワン子が言った。

 

 

 

「このアタシがやめろって言ってるのに、ご主人様の命令が聞けないなんて、なんて生意気な豚なのかしら」

「へ?」

 

 ワン子の口から似つかわしくない言葉が発せられて惚けていると、ワン子は手首のスナップをきかせて勢いよくおれをビンタした。

 

「一人暮らしなんてやめて、アタシに奉仕しなさい。命令よ」

「わ、ワン子。お前、いったい」

 

 口答えすると、ワン子は再びビンタしてくださった。

 

「ぴーぴーうるさいわよ豚野郎。返事はハイでしょう」

「は、はい……」

 

 恐縮し、震えながらワン子を仰ぎ見ると、ワン子は不遜に顎をしゃくり、ちゃぶ台を差して言う。

 

「なにグズグズしてんのよ。勉強するからお茶の用意して、アタシの椅子になりなさい豚野郎」

「はい、ただいま!」

 

 おれはすぐに茶を淹れると正座してワン子様の椅子になった。

 

「いい椅子ね。褒めてあげるわ、豚野郎」

「ありがとうございます! ありがとうございます!」

 

 

 

 ――おれはその日、ワン子で抜いた。とても気持ちよかった。

 一人暮らしも中止した。

 姉さんは不機嫌になった。

 



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優情

「特技はベホマズンとありますが?」

「はい。ベホマズンです」

「ベホマズンとはなんですか?」

「魔法です」

「え、魔法?」

「はい。味方全員のHPを全回復します」

 

 おれはキャップに紹介された飲食店のバイトの面接に来ていた。

 面接官は履歴書に書かれた文章を懐疑的に眺めて、胡乱げにおれを見つめてきた。

 

「えーと、それで、そのベホマズンで君はなにができるの?」

「はい。御社の社員を疲れ知らずの超人に変え、休みなく働かせ続けることができます」

「いや、うちはそこまでブラックじゃないから……」

 

 残念ながらベホマズンはあまり評価されなかった。面接官は頭を掻き、学生が悪ふざけで書いたんだな、と困った顔をして続けた。

 

「ほかにオート・リジェネとかエスナとかあるけど、これは何なの?」

「はい。リジェネは私がいるだけで社員全員のHPが徐々に回復して行き、健康が維持されます。エスナは状態異常回復魔法です。病気や具合が悪い人がいても一瞬で治せます」

 

 面接官のおじさんは苛立った様子で履歴書を机にたたきつけた。

 

「あのねえ、君。ここはゲームの世界じゃないんだよ? いくらバイトの面接だからって、受かれば君もお金をもらって社会に出るんだ。お友達同士で遊ぶのとはちがうって分からないのかい?

私が学生の頃はもう少ししっかりしてたものだがねえ」

「いえ、ふざけてるつもりはないんですが」

 

 信じてもらえずに困惑して答えると、面接官は鼻で笑って腕組みし、椅子に背もたれにもたれかかりながら言った。

 

「これでふざけてないなら、もっと困るんだけどね。じゃあ試しにやってみてよ。できるんでしょ、ベホマズン」

 

 煽られたので実際に使ってみた。

 

 

 

 

 

 

「バイト面接で落ちたぁ?」

 

 土曜日の秘密基地。キャップのコネで紹介してもらったバイト先の面接結果を報告すると、キャップは愕然として端正な顔をゆがめた。

 

「キャップのコネで、人手が足りないので誰でもいいから見つけてきて、という条件の個人経営店のバイト募集にどうやったら落ちるんだろう……」

 

 キャップと同じくバイト経験者ということで相談に乗ってもらっていた京が呆れてため息をついた。

 

「あのおっちゃん、四十肩とぎっくり腰と痔の三重苦で若いのなら誰でもオッケーだって言ってたのになぁ。よっぽど失礼なことでも言ったか?」

 

 ああ、だから治したら飛び上がって喜んでたのか。

 疑われたうえ小馬鹿にする感じで挑発されたから、イラッとしてやってしまった。

 すると面接官のおじさんはおれの手をとってお礼を言い、「健康ってこんなに素晴らしいものなんだなぁ」と泣き始めた。

 おれは採用を確信してほくそ笑んだのだが、「いつから来ればいいですか」と尋ねると、面接官は真顔になり、「なに言ってるんだい! 君はこんな所で遊んでていい人材じゃないよ。もっと世の為、人の為になる所でそのベホマズンを活かさなきゃダメだって!」と熱く説教された。

 これが不採用になった経緯である。余談だが、髪の毛は生えなかった。

 

「店長が体調不良だから人手が欲しい店で、店長を全快させちゃったら、そりゃ不採用になるよね」

 

 京が呆れ果てた声音でつぶやいた。おれは背筋がゾクゾクした。

 

「そういうわけで、悪いけどキャップ」

「オーケー。また別の探しとくわ」

 

 気さくに笑いかけてくれる。キャップは良い男だ。学校では問題児だが、情に熱く、リーダーシップもあり、おれや姉さん、京と言った存在を纏められるのもこの男の存在が大きい。

 風間ファミリーに入ってすぐのころ、姉さんに猿山のボス理論で『私にリーダーを譲れ』と脅されても屈しなかったハートは尊敬に値する。

 おれはその件でちょっと怒ってたのとキャップが羨ましかったのもあって、ジジイにボコられた姉さんに、『姉さんって行動がボス猿と同じだよね。これからは僕、ゴリラ語で会話しようか? ウホ、ウホウホ、ウホホホ、ウッホホホホホホホォ!』と挑発して半殺しにされた。

 あのころは若かった。

 

「もういっそのこと、バイトするより、その能力で金儲けした方がいい気がする」

「それはジジイに禁止されてるからな。あくまで『おれを雇うメリット』のひとつとして扱い、ホイミ系のみ身内で使用可。この能力自体で商売するのは世間への影響が強すぎるからダメだそうだ」

「あぁ……現代医療崩壊レベルの気功だもんね。モモ先輩と一緒に川神院に閉じ込めておいた方が世界の為かも」

 

 ぶっちゃけ技の名前は効果を的確に表現した魔法があったから適当につけただけで、生まれついて持っていた異能みたいなものだ。ジジイとルーさんは梁山泊とかいう異能集団の能力に近いって言ってたかな。

 京はおれの顔をまじまじと見つめてから、ぽつりと言った。

 

「千ってちがう時代で生まれてたら、一国か一大宗教の開祖になってたかもね」

「まあイエス・キリストもドMだし、ありえない話じゃないな」

 

 『右の頬をぶたれたら、左の頬も差し出しなさい』と言い残し、全人類の罪過を

を背負って死ぬなんて、筋金入りのマゾヒストでないとできない。

 神をも恐れぬおれに京は侮蔑のまなざしを向けて言った。

 

「そんなこと言ってると天罰が当たるよ……って、それじゃ悦んじゃうか」

 

 

 京の言う通りで、神は中々罰を与えてくれないのだ。イエスはドMだが神はサディスティクにちがいない。やはり三位一体は矛盾する。

 

「千ってなりたい職業とかねえの?」

 

 バイトの話をしていたからか、紹介する仕事先の参考にしようと思ったのか、キャップが尋ねた。おれはキャップの質問にちょっとばかし逡巡して答えた。

 

「そういうの考えたことないや。思い返したらこっちに来てから修行した記憶しかないし、将来の夢と言われても何も思いつかない」

「やーい、千の現代っ子ー」

「あー、千が将来の夢の欄に『公務員』って書いてるぞー。こいつ夢がないなー」

 

 おれはその手の項目にその場しのぎで『公務員』と書いていたので、ムッとして言い返した。

 

「じゃあ京の夢はなんだよ」

「大和のお嫁さんっ!」

「聞いたおれがバカだった……」

 

 頬を染めて即答する京に我に返る。職業は、と聞いても専業主婦と答えるから意味がないんだろうなぁ。

 

 

 

 

 

「あぁ、ところでさ、京」

「ん? なぁに」

 

 しばらく三人で世間話をしてから、話す話題もなくなり、間が空いてきたときにおれは切り出した。

 

「ワン子に、色々と吹き込んだの……京だろ」

「Exactry. よく分かったね」

「まあね」

 

 なぜかおれは得意げに言った。答え合わせは簡単だ。大和はおれに協力して、積極的に一人暮らしの準備を手伝ってくれた。

 大和は打算的で時には知人も利用する男だが、風間ファミリーを裏切ったりはしない。だから、この場合はおれの性癖を知り、かつワン子に縋られ個人的に反対と明言していた京以外にないのだ。

 

 そう……あのあまりに鮮烈なドSワン子……

 あれ以来、おれのオカズサイクルはワン子・ワン子・姉さん・ワン子・ワン子・姉さん・京に変化していた。

 性に目覚めて以降、その圧倒的割合を占めていた姉さんをしのぎ、ハーラートップに躍り出たワン子のビンタは、その衝撃が血流に乗って全身を甘く痺れさせ、血管を巡る長い旅を経て股間を勃起させた。

 ワン子のかわいらしい声とたどたどしい口調から紡ぎ出される『豚野郎』という名前も、おれに屈辱と被征服感の快楽を、じわじわと耳から浸透して脳を陶酔させてくれた。

 ワン子を膝に乗せる行為も、自分が椅子になったという前提があるだけで、ワン子様に支配され、お役に立てている悦びに満ち満ちた。

ドSなワン子という意外性とギャップが、出会い頭のシャイニングウィザードに似た快楽をもたらしてくれて、当時のおれは人生の絶頂にいた。

 

だが――勉強を終えてから、改めて引っ越しをやめると宣言すると、ワン子は平謝りしてきた。

 

『ごめんね千~! 痛くなかった? こうでもしないと千がいなくなっちゃうと思ってアタシ……もうしないから許して! ……でも千がいなくならなくてよかった~』

 

 元に戻ったワン子は抱き着いてきて、嬉し泣きをし、おれの胸元を濡らした。おれは失恋に似た喪失感を味わっていた。

 瞬時に、『やっぱ引っ越す』と言えば、ワン子はおれを止めようと再びビンタしてくれたかもしれない。だが、一度宣言してしまった手前、翻すわけにも行かず、また世間体を捨てる勇気もないおれは、『実はおれマゾやねん。もっとぶってや』とお願いすることもできなかった。

 

 ドSワン子は、一夜の幻になった。

 

 

 

「あまりワン子に変なことを仕込まないでくれ。あの子にはきれいなままでいてほしい」

 

 まだ賢者モードが続いていたおれは、保護者面をして京にもっともなことを言った。

 京はそんなおれを見て、いやらしく唇の端をつり上げた。

 

「ほうほう。で、本音は?」

「すごくよかった……」

 

 京は満足げに頷いた。

 

「ちなみに、なんて吹き込んだの?」

「えとね」

 

 以下、回想。

 

 

 

『ふぇーん、助けてミヤえもーん! 千がアタシを捨てて一人暮らししちゃうよー!』

『それは困った。このままじゃ大和とキャップの蜜月の時間がなくなっちゃう。妄想が捗らなくなる』

 

 利害が一致した二人。ブリーダー京は秘策を伝授した。

 

『いい、ワン子? もし千が要求を断ったら、怖い顔をして見下しながら、豚野郎と罵りつつ思いっきりビンタして』

『ビ、ビンタ?』

『うん。命令を訊いて従順になるまでビンタすれば、あとはワン子にされるがままになるよ』

『ほ、本当に? 千が怒ったりしない?』

『ダイジョーブ、むしろ悦んで言いなりになってくれるよ、フフフ』

『本当の本当に大丈夫なのよね? し、信じるわ』

 

 

 

 回想終了。

 

 

 

「ワン子になんてことを教えてるんだよ!」

 

 あまりの内容におれは憤った。コウノトリやキャベツ畑を信じてる女の子にポルノ画像を見せつけるような下卑た行為だった。

 自分がそれで興奮したことを棚上げして怒るおれもまちがいなく同類だった。

 

「でも気持ちよかったんでしょ? この豚野郎」

「うっ」

 

 おれはたまらず勃起した。

 

「なに言ってるか分かんねえけど、お前ら仲良すぎじゃね?」

 

 おれと京のやりとりを眺めていたキャップが、唐突に口を挟んだ。

 アホのキャップにしては声色がちょっと真剣だったので、おれは背筋を正した。股間はまだ勃起していた。

 

「そうかな?」

「そうだろ。京が金曜にこっちに来るようになってから、土日は予定が合う限りみんなで遊んでるけど、お前らいつも一緒にいるじゃん。

 下手したら大和より話してるよな」

 

 京が首をかしげる。が、キャップの指摘に思い当たる節があったのか、眉をよせて考え込んだ。

 

「……あー、そういえば」

「別にメンバーで仲良くするなと言わねえけどさ、京は大和が好きって言ってる割に、千とばかり話してるし、二人きりでいることも多いだろ?

 京の気持ちを疑うつもりはねえけど、そういう事実があるから、大和が京と千がお似合いだなんて思うのも無理ないんじゃねーの?」

 

 鋭い観察眼におれは感心した。放浪癖があっていないことも多いキャップだが、なんだかんだファミリーのことは良く見ているんだと。

 ちなみにおれと京が一緒にいる理由は、京が川神市に泊まりに来ていてファミリー以外の知り合いがいないのと、おれがファミリー以外に親しい知り合いが居らず、暇を持て余しているために境遇が一致しているからである。

 話が合うというのもあるにはあるが、土日に秘密基地に足を運ぶとたいてい居るので必然的に会話が弾んでしまうのだ。

 

「んー……あのー、他意はないの。だから勘違いしないでほしいんだけど……私、千のこと大好きなんだよね」

「ん?」

「お?」

 

 難しい顔をして思案していた京が訥々と語りだした内容に、男二人が変な声を出した。おれはまだ勃起していた。

 

「私がいじめられてたころの話したでしょ? 実はあの話、私が風間ファミリーに入る前からなんだ。絶対に千は覚えてないだろうけど、小学校の半分は私と千は同じクラスだったんだよ」

「へえ、じゃあ京と千って意外と付き合い長いのな」

「うん。寂しさを紛らわすために寝てる千に話しかけるのが楽しかったから、たぶん癖になってるんだと思う」

 

 ……その話を聞くたびに思うが、普通に起こして話しかければいいのに。当時の京は意識があるおれだと拒絶されるかもしれなくて、起こすのが怖かったのだろうが、寝てるおれに向かって延々と独り言をつぶやいている京を想像すると恐ろしくて仕方がない。

 背筋に怖気が走っているおれに気づくことなく、京は続けた。

 

「それにね、風間ファミリーで同級生だったことのあるガクトはもちろん、大和も私をいじめたことがあるけど……千はそういうことしなかったから、マイナスな感情が全然なくて……まあ、見て見ぬふりどころか見てすらいなかったんだけど」

 

 話しながらも結論が出せていないのか、首を捻ったり、目をきつく瞑ったりを繰り返していた。

 

「もちろん嫌なこともあったよ? 性癖を知ったときは、千を清らかな存在だと思ってたからかなり幻滅したし、ぼっち時代も話しかけたら千のファンに見つかって余計にいじめられたりもしたし……あー、思い出すと鬱になる。

 うーん。恋愛感情はない……ないけど……うー、親友じゃダメ?」

「どうだろう。おれは普通に京で欲情するし」

「千って、女の人に蔑まれたいからってわざと明け透けな物言いするよね。ホント最低だと思うよ」

 

 京が期待に応えてくれるのが悪いのだと反論したかったが、今回は京も真面目だったので視線に怒りがこもっており、空気を読んで口を閉ざした。それでもまだ勃起していた。

 

「ま、お前らが納得してるならいいんだけどな。別に恋愛するななんて言わねーし、難しい話は分かんないからよ」

「人をもやもやさせといて投げっぱなしにするとは……でもキャップだしなぁ……」

 

 恋愛に興味のないキャップは、忠告はするが話についていけないので着地点を見出さないで放り投げた。

京が消化不良を起こして唸っていたが、当のキャップはバイトがあると風のように去っていった。

まあ、キャップだしな。

 

「うー……ねえ千」

「ん?」

 

 しばらく頭を抱えていた京は、不意にビシッとおれを指差し、勝気な声と赤らんだ顔で、

 

「か、勘違いしないでよね! 千のことは親友だと思ってるだけで、全然好きじゃないんだからっ!」

「……ダメだ、興奮しない」

「ツンデレは効かないか……」

 

 おれが静かにかぶりを振ると、京はツンデレはNG、とメモかなにかに書いていた。

 もしこれに暴力があったら興奮していたかもしれない。

 だが、昨今の暴力系ツンデレヒロインは肩身が狭いのであった。

 こういうやりとりがあって馬が合うから、誰よりも早くおれも性癖をカミングアウトしたのである。

 

 ああ、言わなくても分かるだろうが――もちろんおれも大好きだ。

 



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姉、ちゃんとしろよ

 

 夢の中で見覚えのないスキンヘッドの学生がおれを見ていた。

 夢だと分かったのは、変態の橋のど真ん中でおれとスキンヘッドの学生――めんどいからハゲでいいや――が対峙しているという、現実的なんだか非現実なんだかよく分からない光景を客観視しているおれがいたからだ。

 ハゲは肉体的にそこそこ鍛えてはいるが、学生の域を超えてはおらず、おれから見れば赤子もいいところ……なのに、おれは手を出せずにいた。

 夢の中のおれは相対しているだけで滝のような汗を掻き、精神を足元から切り刻まれているかのような感覚を味わわされている。

 これほどのプレッシャーはジジイや姉さん相手でも感じたことがない。これほどの剛の者が川神にいたか? いや、ない。

 いったい、こいつは、何者……?

 

「ふん、雑魚が……」

「!?」

 

 ハゲはおれを鼻で笑うと、悍ましい形相で言った。まるで天上から愚民を見下しているかの如き物言いだった。

 ハゲは人治主義国家で暴君に恐れおののきながら生きる民を見るような目でおれを見る。

 

「あわれな奴だ……まだ世間体を気にしているとは」

「なんだと!?」

「俺は自分を偽ることをやめたんだ……」

 

 ハゲは悟りきった声でそう言うと、念仏を唱えるときにやる祈りの所作をした。

 ハゲから後光が差し、迸る穢れ切った白い光が世界を覆い尽くす。

 

「くっ……!」

「誰もがはじめは自分をノーマルだと思う……」

 

 ハゲはそう呟くと同時に結跏趺坐(座禅の座り方)の態で宙に浮いた。すると、光の中から蓮の花が咲き、ハゲは神々しく巨大な蓮の上に座しておれを諭した。

 

「しかし、裏を返せば、ノーマルであることは性について初心者であると告白するも同義。女の人の裸を見て、なぜおちんちんが固くなるのか分かっていないお子様から何一つ進歩していないと打ち明けたに等しい。

 そもそも、人は平等ではない。十人いれば異性の好みからオカズの媒体、竿の扱き方に至るまでちがって当たり前。歩んできた人生がそこに如実に現れ、結集しているものだ。

そう、性においても人は進化する――」

 

 ――まさか、このハゲは神なのでは?

 圧倒的なオーラに呑まれ、打ちのめされるおれに神は言った。

 

「潔癖な処女厨が、好きなヒロインが薄汚いおっさんに犯されたショックでNTRに目覚めるように……

 可愛いと思ったヒロインが実は男で、ショックを受けるどころか男の娘に目覚め、いつしかショタでも抜けるようになり、気づけばバイになっていたように……

 普通のオナニーで満足できなくなり、アナニーに挑戦して前立腺を開発すると、ドライオーガズムでしか満足できない体質になってしまうように……

 己の性的嗜好を自覚し、それを極めてようやく半人前。それを昇華して、人はやっと一流になれる――」

 

 神はゆっくりと瞳を開けて、この上なく優しい目でおれを見た。

 

「業を背負いし者よ。世間に媚びへつらうのをやめよ。ありのままの自分になれ。

 そして世界に向けて叫ぶのだ。自分の性癖を――」

「えー。おれはハゲのお前とちがってモテるから、世間体捨てるメリットなくね?」

「……」

 

 そのひとことで神は魔王になった。半狂乱になった魔王は、これでも昔はモテていたこと、寝てるあいだに幼馴染に毛根を死滅させられたこと、それがきっかけとなり開き直ってロリコンをカミングアウトしたことを体育座りで愚痴り、おれは隣に腰を下ろし、その肩を叩いて励ました。

 

「まー、ロリコンを隠す必要がなくなって返ってスッキリしたけどな」

「その頭みたいに?」

「こやつめ。ハハハ」

 

 おれと魔王は打ち解けた。魔王はロリコンであることを明かし、おれはドMであることを素直に話した。

 おれと魔王は橋の上で世界が暮れ色に染まるまで語り明かした。

 夢の中とはいえ、充実した時間だった。変態の橋に現れる人物は、彼のような些細な子出来事でタガが外れてしまった被害者なのかもしれない。

 世界が夜闇に染まるにつれて意識が現実に引っ張られるのを感じ、物寂しい感慨に浸りながら。

そういえば、ハゲの名前、聞きそびれたな……と、おれは心友を思った。

 

 

 

 

 

「夢、か。夢の世界の住人にしておくには惜しいヤツだったな……」

 

 うたた寝から醒める。周りを見渡すと自分の部屋だった。どうやら小説を読んでいる途中で寝てしまったようだ。

 強烈な印象を残した夢だったが、細部はすでに曖昧な記憶となっていて断片的にしか思い出せない。

 だけど、あのハゲとは仲良くなれそうな気がした。あれもまた、カルマを背負いながら、おれとは異なる道を歩んだ者……ロリコンの性犯罪者予備軍として人に後ろ指を指され、愛する幼女には触れようとするたびに防犯ブザーを鳴らされる宿命を義務づけられた男だ。

 似たカルマの持ち主として同情せずにいられない。

 現実で会ったら警察に通報してやろう。

 

 仰向けで寝転んだ胸元に開いた小説が重ねてあったので、読みかけのページに栞を挟んで畳に置き、携帯で時計を確認すると、ワン子との勉強会の時間になろうとしていた。

 起き上がるとあくびをして、のそのそと準備をする。ワン子の学習用に自作した、問題集と要点・解説をまとめたプリントやノートをちゃぶ台に置くと、お茶と甘味を用意して正座しながらワン子の到着を待った。

 

 ……待ち惚けているあいだの長閑な静寂に、クビキリギスの鳴き声がわびしく初夏の訪れを告げていた。

 学校は部活に励んでいるものは総体に向けて慌ただしく動き、そうでなくても受験勉強が本格化しだし、教師も生徒も騒がしくて煩わしい。

 川神院はいつも通り、修行僧の熱気と血気と元気とやる気が充溢していて鬱陶しい。

 こうして時折物思いに耽ると、集団行動に向かない自分が恨めしくなる。運動系の部活レベルでは、おれや姉さんのような存在は返って邪魔になるだろうし、部活の指導レベル程度で得られるものも少ないだろう。

 思うに、部活の存在意義は、集団が協力して目標に向かい努力することによって得られる、友情やら絆やら連帯感などと呼ばれるイデオロギーで人を縛ることなのだ。みんな頑張っている、みんなもやっている、みんな我慢しているのに……お前はやらないの?

 この意識が刷り込まれることによって社会に出て辛い場面に直面しても折れない精神が出来上がる。ハードなスケジュールにもめげないし、上からの無茶ぶりにも周りが同じことをやっているのだから、とやり遂げることができるのだ。

 レギュラーを目指すなどして競争を勝ち抜く向上心もここで磨かれる。

 

 上記の意識がおれには著しく欠落していた。

 きっと川神院でも、それらを学ぶことができるのだろう。川神院は人間性を磨くステップアップの場として、経歴に箔をつけるなどの理由で修行に来る者も多い。彼らの優秀さは輩出したOBでも保証済みだ。

では、なぜ長く川神院に預けられているおれにそれが身につかないのかと言えば、天才だから。このひとことに尽きる。

 ここから先は何を語っても嫌味にしかならないと思うから仔細は省くが、結局、凡人に天才の心は分からないし、凡人の心も天才には分からないのだ。

 おれと姉さんと釈迦堂さんの共通点は、武道の天賦自然の才が備わっていたことだが、お互いのことなんてこれぽっちも理解していなかった。それでも惹かれあったのは才能があったからだ。

 もっともこれは武道のみの、極めて感覚的な話で、人間性の理解者なら風間ファミリーにいる。姉さんはおれの武道における理解者だが、人間性は理解できていない。一方で京や大和はおれと武道の話になってもさっぱり話が合わないだろうが、人間性は理解と共感ができている。

 ……人が努力する意味をワン子で知れたのも大きかった。ガクトやモロで俗っぽい価値観が得られたし、ジジイが風間ファミリーとの付き合いを大事にしろ、と口を酸っぱくして言った意味もようやく分かってきた。これだけでもキャップには感謝だ。武道家としては大きくマイナスだろうが。

 

 ま、あれこれ考えたところで栓無きこと。今は初夏の訪れを肌で感じて安らごう。

 日本は山と田園、そして季節の虫の鳴き声はどこでも在るのがいいね。こうして故郷を思い出せる。故郷で過ごした時間より、川神で過ごした時間の方が長いけど、まあ生まれた土地の補正ってのは変えようがないんだろうなぁ。

 

「千、入るわよー」

「あ、はい」

 

 ワン子の声が障子越しに聞こえたので立ち上がって迎えにいった。開けさせる手間をかけさせられない。

 

「今日は遅かったね」

「あはは……うん」

 

 時間が思いのほか経っていたため、嫌味ではないが挨拶代わりに言うとワン子は歯切れ悪く返事をした。

 疑問に思う暇もなく、ワン子の背後に女性にしては高い背丈と人間にしてはデカすぎる気の圧力を感じて目を向けると、姉さんがいた。姉さんはおれと目が合うと、無理のある声で舌をちろりと出して、

 

「来ちゃった♪」

 

 と言った。おれはワン子を部屋に入れるとすぐさま障子をピシャリと閉めた。

 

「来ちゃった、ニャーンッ!」

 

 障子が壊れんばかりの勢いでオープンザドアした姉さんが悪鬼羅刹の如きオーラでおれを威圧したが、おれは怯むことなく睨み返した。

 

「帰れよ」

「断る」

「せ、千、お姉様はアタシたちが勉強に集中してるか監督してくれるんだって」

「は?」

 

 一触即発の空気に間に割って入ったワン子だが、その仲裁の言葉におれはますますカチンときた。

 

「ワン子、姉さんがいて勉強に集中できるか?」

「え? で、できるわよ」

「なら、姉さんが勉強の邪魔をしないと断言できるか?」

「それは……」

 

 ワン子は閉口した。普段の姉さんを見ていて、勉強に集中だとか片腹大激痛ベルリンの壁崩壊クラスの冗談としか思えない。

 追い返す気満々のおれに姉さんが口を尖らせて言う。

 

「おーい、そんなこと言うなよー。誓って邪魔したりしないさ。ただ姉として不安になってな。来年、ワン子が川神学園に入学できるか……勉強会と言いながら遊び呆けてたりしていないか。千はちゃんとワン子に勉強を教えられているのか。普段どんな感じで勉強してるのかこの目で見れば安心できるだろ?

 もしダメだと思うところがあれば口出しさせてもらうし、何も問題なければ千を信頼して帰るから、な? いいだろ?」

 

 嘘つけ。おれがワン子との勉強会のあとでオナニーしてるから気になって堂々と覗きアンド釘差しにきただけだろ。

 おれは言い返そうとしたが、ワン子がいるために口に出すことができず、歯噛みした。

 

「お姉様は心配してくれているのよ。だからここでマジメに勉強してるところを見せて、安心させてあげたいの」

「……邪魔したらソッコーで追い出してやる」

「そんなことしないニャーン。私は隅っこで漫画読んでるからがんばれよー」

 

 ごろんとはしたなく寝っ転がった姉さんは、公言通り秘密基地から持ってきたと思われる漫画を読み始めた。ああ、追い出したい。

 

「じゃあ始めましょうか、千」

「うん」

 

 いつも通り、おれが座るのを確認したワン子が、ストンと膝の上に腰を下ろす。と、

 

「はいアウトーッ! そんないやらしい恰好で勉強に集中なんてできませーん!」

 

 起き上がった姉さんがイエローカードを提示して、ワン子を引きはがした。

 

「え? え?」

「邪魔すんなって言っただろうがっ!」

 

 引きはがされたワン子は困惑して周りをキョロキョロし、初っ端から邪魔されたおれはキレて姉さんに食って掛かった。

 

「邪魔っていやらしいことの邪魔ってことかっ? そうだよなーこんなことしながら勉強教えてたらムラムラするよなー。どうしても女の子を膝に乗せたいなら私を乗せろよー、乗ーせーろーよー!」

「あー、うっさいなぁ! 構って欲しいならあとで相手してやるから、今は口出さずおとなしくしてろ!」

「構うって、このやろ、お姉ちゃんをペット扱いしたなー!」

「にゃーにゃーうるさい駄猫だにゃ。猫草と爪とぎプレゼントしてやるから、毛玉でも吐いてろにゃ」

 

 姉さんの血管が切れる音がした。おれは涙目で怯えているワン子を退避させてから、久しぶりの喧嘩にドキドキしていた。

 このあと滅茶苦茶殴り合いした。おれはかなりボコられた。

 ちょっと気持ちよかった。

 

 

 

 

 

 

 部屋のなかを飛び出して中庭で大喧嘩したあと、姉さんがジジイに説教されているあいだ、おれは部屋で謹慎を命じられたので片づけを済ませてから瞑想で気を静めていた。

 おれは腹が立っていた。股間が、ではない。ムシャクシャしていた。無性に腹が立っていた。

 あの傍若無人さがダイナマイトでエロスな姉さんに滅茶苦茶腹が立っていた。腹がいきり立っていた。

 この猛りを鎮めるにはどうすればいい。怒りのオナニーで気を落ち着かせようか。

 思案した末、かわいかった昔日の姉さんを思い出して溜飲を下げることにした。

 

 

 

 

 

 ……姉さんは会ったばかりのころから、しきりにおれを独占したがった。

 川神院に来た当初のおれは、素直で、明るく、可憐な、特異な出自ゆえに親元から引き離れたかわいそうな少年だった。これは自惚れでも何でもなく、川神院の大多数がこぼしていた評価をまとめたものであるから、客観的な事実である。

 人に命じられる新鮮さに嬉々として働いていたのが素直に、田舎から都会に出て真新しいものに眼を輝かせていたのが明るく、整った美しい目鼻立ちが可憐という印象を残したのだろう。

 そんな年端もいかない子供が自分たちと同じ稽古をこなしながら、雑用も一生懸命やっていたら、大人たちはどう思うだろうか?

 おれは気味が悪いと思うが、兄弟子はかわいくて仕方なかったらしく、いらないと言っているのにたいそう面倒を見てくれた。隣にいる川神百代という我が儘が擬人化したような存在が比較対象になったのも少なからずあるだろう。

 

 この姉さんがほかの兄弟子をやたらと煙たがった。稽古の合間に兄弟子がおれに話しかけたり、おれが教えを請うたりすると割って入って、自分のものだと主張した。

 川神院の修行僧は大人だから、嫉妬する幼い姉さんをかわいいものだとあたたかく見守ってくれたが、同年代相手でもこの独占欲は翳ることがなかった。

 鍛錬疲れで寝てばかりいた小学校時代でも鮮明に覚えている。放課後にクラスの女子に呼び出され、瞼をこすりながら足を運んだ先で、照れた様子の彼女に告白された。どうしようかと返事を考えていると、いつの間にか背後に現れた姉さんが、おれをその子から阻むようにして仁王立ちして言った。

 

『お前、私から千を取ろうとしてるのか?』

 

 そう難詰された女子は、しどろもどろになって何か言い返していたが、姉さんに睨まれると泣きながら去っていった。

 こういうことが何度も繰り返されるうちに、おれの小学校生活はとても静かになった。

 大和の話を聞いているとずいぶんと世紀末な小学校で、いじめられるのが当たり前みたいな状況のクソの掃きだめみたいなところだったから、おれは姉さんのおかげで風間ファミリー以外と関わり合いにならずに済んで感謝しているが、中学でも似たようなことをやらかしている。

 おれはこれを動物が縄張りを荒らされないように威嚇するのと同じ行為だと認識していた。実際、おれは小便をかけられたことがある。

 

 

 

 幼いころの出来事として、お風呂事件があった。

 姉さんは弟ができたらやってみたかったことを一通りおれで試した。添い寝だったり、オママゴトだったり、背丈を競ったり、そういった微笑ましいものの一つにお風呂があった。

 姉さんはおれに背中を流すように命じ、おれは姉さんが心地よいと感じる強さを探求しつつ、毎日懸命に奉仕した。

 それに気をよくした姉さんはある日、『今日は私がきれいにしてやる』と言い出した。

 気まぐれに一抹の不安を覚えつつ、姉さんのされるがままになるおれ。従順なおれにさらに機嫌を良くした姉さんは、『前も洗ってやろう』と言った。

 

 そこで曝け出されるのは、男女のちがいを明確に表す、股間のゾウさんである。

 姉さんは上から隈なく洗っていき、その先でショタちんを見つけると、おれに気をつけの姿勢でいることを命じ、中腰でガン見した。

 

『おかしい。じじいのとカタチがちがうぞ……?』

 

 包皮付きのショタちんとジジイのジジちんを一緒くたにされても困るが、姉さんは疑問に思ったらしく、首を捻ったり、手で触ったりして長い時間注視した。

 そうやって弄るうち、皮を引っ張ると形が変わることに気づいた姉さんは、

 

『えい』

 

 と、躊躇なく、思いっきり、おれの皮を剥いた。そうして悲劇が起きた。

 

『ぴぎゃあああああっ!!!!』

 

 おれは体験したことのない激痛に泣き叫んだ。包皮と亀頭の癒着がベリベリと剥がされ、むき出しの陰部が外気に晒される痛みは、修行の痛みとは比にならないほど痛かった。

 しかし、おれが痛みに泣き叫んでいるのをおかまいなしに、姉さんはじーっと股間を凝視して、

 

『うわ、なんだこれ、きたないな。ここもきれいにしてやるか』

 

 溜まっていた垢――チンカスを見かねて、シャワーを最大にしておれの股間にあてがった。

 

『○△◇□●◆~!!!?????』

『よし、とれた! あとはせっけんでゴシゴシして……』

 

 追加で刺激性の強いメントール入りのボディソープで力をこめて丹念に洗う畜生行為までやらかしてくれた。

 おれは絶叫したが、姉さんはうるさいのひとことで済ました。

 後に騒ぎを聞きつけたジジイが姉さんを叱りつけたが、その内容が、

 

『バカもん! そこは男のデリケートゾーンなんじゃ! モモも女なら金時様には優しくすることを覚えなきゃダメじゃぞ!』

 

 と見当違いの説教だったので、おれはこのとき始めて偉大な武道家・川神鉄心に不信感を懐いた。

 よくジジイは、モモが儂を敬わないから千も真似をした、というが、これは日々のエロジジイ発言の積み重ねで培われたものである。

 これ以後、おれと姉さんが一緒に風呂に入ることを禁止された。正直、このできごとは思い出すと興奮はするのだが、痛みと恐怖もセットでよみがえるので抜けない。いや、マジで無理。これと爪の痛みで興奮するのはどんなマゾでも無理。

 

 

 

 

 

 中学時代になると、姉さんも色気づき、性についての知識が身についていた。

 思春期を迎えてからの姉さんはそれまでの暴君ぶりがなりを潜め、おれに対し気遣いやら甘えるといった異性を意識した行動が見られるようになり、肉体もけしからん成長をしておれを惑わせた。

 この変化を大和や京、ガクトにモロは恋だと言っていたが、おれは獲物を騙して捕食するためだと思っていた。キャップも同じことを思っていた。ワン子は気づいていなかった。

 基本的に姉さんは可愛い女の子も大好きで、たびたび京を食べようとするが、妹のワン子に性的な興味を持つことはなく、おれも対象外だと思っていた。

 性的な目で見られると妙な気分になり、変化の記憶を頼りに色々と考察してみたが、たぶん、中学生になって視野が広まり、色んな男を見たがおれより上の男がいなかったんじゃなかろうか。

 おれはそう結論付けた。それはどうでもいいが、このころの姉さんの行いは目に余るものがある。

 

 たとえば、AVの話だ。

 姉さんはエロいのを公言している。AVだって見ちゃうエロエロな女をアピールしている。

 そんなエロ女は、深夜におれを自室に呼び出すと、AV鑑賞をしようと言い出した。

 

『千はどんなジャンルが好きなんだ? 気になるのから観ていいぞ』

 

 そういって姉さんが出したAVは全部姉ものだった。おれは恣意的なものを感じたが、適当に選んで無感情で観続けた。

 姉さんはその間、ぴたりと横に張り付き、時折おれの股間に視線を注いだ。おれは勃起していなかった。

 AV女優の喘ぎ声が響くなか、姉さんは思い出したように質問してきた。

 

『この女優かわいいな』

『整形して豊胸もしてるね』

『お前いちいちそんなこと気にすんなよ』

 

 おれと姉さんは徹夜して観続けたが、結局おれが勃起することはなく、姉さんは悔しそうにしていた。

 またある日、姉さんは言った。

 

『千……おねショタってどう思う?』

『なにそれ?』

 

 部屋にやってきて早々に姉さんがおれに差し出したのは、おねショタのエロ漫画だった。

 

『千、おねショタはいいぞ。なにせ姉ちゃんはかわいいし、ショタもかわいい。汚い男がいない優しい世界だ。きっと千も気に入るはずだ』

 

 なに言ってんだこの姉は。姉さんはモロ辺りから集めてもらったと思しき大量のおねショタもののエロ漫画をおれの部屋に置いて行った。

 おれは大半が興奮できなかったが、中に姉がショタを縛って無理やり筆下ろしするものがあって、それだけは使えた。

 

 

 

 

 

 

 ……振り返るとロクな思い出がないことに絶望した。

 現在進行形でオナニー監視やオカズの強制までされているし、おれと姉さんっていったい何なのだろう。

 いっそのこと射精管理してくれないのか。それは恥ずかしいから無理なのだろうか。

 瞑想したら怒りは収まったが、また微妙な気分に落ちた。なぜ人は分かり合えないのか……みんな、夕焼けの河原で殴り合えば分かり合える生き物ならよかったのに。

 

「千、入るぞ?」

 

 欝々としていると姉さんの声がした。促すと静々と障子が空いて、気落ちした表情の姉さんが入ってきた。

 珍しいものを見られて驚いているおれに姉さんは頭を下げた。

 

「さっきはすまなかった。ちょっと不安になってて……」

「次からは邪魔しないでね」

「ああ……」

 

 棘のある声色で言うと、ますます落ち込んで、しょんぼりとしだした。

 辛辣な言葉に手が出てこない姉さんに違和感バリバリのおれの顔色をうかがいながら、姉さんは逡巡して、おっかなびっくりと、

 

「その、なんだ。千は、ワン子が好きなのか?」

「……好きだけど、姉さんが思ってるものとはちがうよ」

「そ、そうか」

 

 望んでいる答えだったのか、少し顔を綻ばせる。それで緊張が解けたのか、きわどい発言を投げ込んできた。

 

「お前、私に知られてるのにためらいなく抜くようになったな」

「どうせ気配を消しても、それで悟られるから無意味だしね」

 

 ずっと気配を消すのも億劫だし、姉さんに疑似露出プレイしていると考えれば、わりかし興奮できた。

 だから隠すこともせずに堂々と言うと、姉さんは顔を赤らめてもじもじとして、

 

「あー、千。その、だな」

「?」

「今まで黙ってたが、お前がしてるのと合わせて、私もしてたぞ……オナニー」

 

 ……は?

 

「私だけ知ってるのもフェアじゃないと思ったんだ。……それだけだ、じゃな」

 

 気恥ずかしくなったのか、そそくさと姉さんは退室した。

 ……不覚にも今のはちょっとドキンとした。ドキンとしたが……

 

「なんかちがうくね?」

 

 いま言うことか、それ?

 あまりにかみ合わないおれと姉さんの歯車に、歯痒く全身がむず痒かった。

 



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番外編:せんのなつやすみ

三人称視点となります。


 三河千は里帰りの身支度をしていた。中学最後の夏休み。お盆休みの帰省を前にして、彼の姉を自称する川神百代のスキンシップは以前にも増して激しくなった。

 

「川神流・姉絡みぃ」

 

 衣類をボストンバッグに詰めている千の背後から四肢を絡みつかせ、百代が密着する。夏である。薄着である。百代である。巨乳である。薄布二枚だけの隔たりを介して、千の背中に豊満な胸が押し当てられていた。

 まだ朝の日が昇ったばかりだというのに、その日は素晴らしく熱かった。真夏の熱気と湿気で茹だるような室内で二人の熱が触れ合う。じわりと汗ばんだ千の左腕を同じく汗がにじんだ百代の手がとらえた。百代の右手は千の胸を這い、探し当てた乳首をもてあそんでいた。

……障子の向こう側では、蝉の一団が、短い成虫の命を燃やして大合唱を奏でていた。

蝉が鳴くのはオスだけである。鳴く理由は、メスに見つけやすいようにするため。それだけである。蝉の成虫は生殖をおこなうためだけに存在する。つまり彼らは発情しているのだ。

総じて、蝉の鳴き声は思春期の少年が、『彼女欲しいなー!』と全力で叫んでいるのと同義なのである。恥ずかしくないのだろうか。

蝉が鳴く。百代に絡みつかれた千の股間も泣く。絡みついた百代の股間も泣いていた。登場人物全員が発情していた。

 

「姉さん、あとでかまってあげるから少し離れて……」

「えー。やだよ。おまえ今から帰っちゃうじゃないか」

 

 百代は拗ねて唇を尖らせた。密着して熱がこもる千の背中が汗をかいた。

 千が焦っているのには理由があった。なぜなら、今日、進学するために上京した実姉の帰郷に伴って実家に帰ることを忘れていたからだ。

 忘れた原因は、姉にその旨を告げられてから今日までに、風間ファミリーと旅行に行ったり、夏休みの宿題を全くやっていなかったワン子が泣きついてきたり、百代の暇つぶしに付き合ったり、キャップと一緒にバイトしたり、ガクトのナンパに付き合ったり、百代に一日中付き纏われたり、大和とモロと買い物に行ったり、京と書店荒らしに行ったり、百代の遊びに付き合ったりして遊び倒していたからである。紛うことなき自業自得だった。

 里帰りを完全に忘却の彼方に追いやっていた千であるが、当日の早朝に姉から電話がきて、ようやく思い出した。手当たり次第バッグに荷物を詰め込んでいた千。そこに暇をもてあました百代がやってきた。

 百代は千に甘えたかった。だが千は相手にしない。あろうことか実家に帰ってしまう。

 窮地に陥った単純一途な百代は、一石二鳥の手段をひらめいた。全身を委ねて千に密着すれば、千に甘えることも身支度の妨害もできる。これで千が新幹線に乗り遅れれば千はいなくならない、千が欲情して百代を襲えばなおよし。百代はそう考えた。百代はアホだった。

 

「千……このまま、お姉ちゃんとだらだら怠惰な夏休みを過ごさないか?」

 

 熱っぽい吐息を耳に吹きかけ、淫靡にささやいた。千は胸が熱くなり、背筋がぞくぞくし、もっと乳首を思いっきりつねって欲しかったが、それらを寸でのところで飲み込んで嘆息した。

 上半身にまとわりつく百代の腕をほどくと、手首を掴み、縄跳びの要領で百代を大道芸のように自分の前に移動させた。

 

「お?」

 

 ストンと尻から着地して千に背後をとられた百代は、虚をつかれたが、千がかまってくれることを期待して口角をつり上げた。が、千が後ろから抱き着くという予想外の行動をとってきたために全身が硬直して何も考えられなくなった。

 

「……!?」

「ねえ、姉さん。これで作業ができると思う?」

 

 百代の長い黒髪に頬を埋めながら、先ほど百代がしたように妖艶に耳元でささやいた。

 百代は耳まで赤く染めながら、

 

「で、できない……」

「うん。ならいい子の姉さんはおとなしくできるよね?」

「うん……」

 

 千の誘導に反射的に答えて、ご褒美とばかりに頭をなでられると言われた通り動かなくなった。千は百代を放置して身支度を済ませると部屋を出た。

 普段、攻めるばかりで攻められたことのない百代は一転攻勢に弱かった。思わぬ不意打ちにぽーっとしていた百代だが、千に置いて行かれたことを悟るとすぐに部屋を飛び出した。

 

 

 

 

 

 

「で、誰が本命なの?」

 

 緩慢に流れてゆく新幹線からの遠景を瞳に映しているだけの千に駅弁を食べながら姉が言った。

 姉の顔は好奇心にあふれてにやけていた。千は細く美しい眉を寄せて、窓側に座る姉から離れるように通路側のひじ掛けに頬杖をついた。

 

「親戚って連中は久方ぶりに会えば、人の詮索ばかりしたがる」

「久しぶりだからこそ弟の成長が知りたいのよ。あんた自分のこと全然話さないでしょ」

「便りがないのは元気な証拠っておれには何の連絡もよこさないのに、自分たちだけは知りたがるってのはねえ」

「あんただって電話も手紙もよこさないじゃないの」

 

 痛いところを突かれた千はむくれて固く口を閉ざした。千は里帰りそのものは嫌いではなかったが、何をしているのか、変わったことはなかったか、好きなコはできたか等、根掘り葉掘り質問攻めされることにうんざりしていた。

 姉が言う本命の内訳が風間ファミリーの武士娘三人なこともそれに拍車をかけた。

 姉が川神院を訪れた際、千の見送りに鉄心とルー、百代とワン子、そして夏休みのあいだ滞在費節約のために川神院に逗留していた京が出てきた。

 女の影を全く見せなかった千に、こんなに可愛くて親しげな女の子の知り合いがいたのかと姉は驚いた。しかも皆、友人以上の親愛を感じさせ、百代に至っては千に恋をしているのが初対面の姉の眼にも明らかだった。

 おまけに、姉が挨拶を済ませ、千の姉ですと自己紹介すると百代は、

 

『千の“姉”の川神百代です。こちらこそよろしくお願いします』

 

 と、姉を強調して実姉に対し謎の対抗心を燃やす始末。姉は頬を引き攣らせた。百代は鉄心にゲンコツを落とされた。ワン子と京とルーは普通に挨拶をした。千は垢抜けた姉に驚いていた。

 芋臭さのなかに素材のよさが光っていた田舎で健康的に育った実姉はもういないのだ。都会と大学という環境によって田舎のくびきから解き放たれた女は、こうも変貌するのだと千にショックを与えていた。

 化粧品の匂いがする姉が言う。

 

「ちょっとは男らしくなったかと思ったのに……あんたなら女の子よりどりみどりでしょう。あのお寺はそんなにストイックなの?」

「別に。女人禁制でもないし、むしろ推奨してたような」

「だったら食べちゃいなさいよ」

 

 長生きの秘訣はエロと豪語する鉄心に同性愛の気がある美少女を侍らせている百代が脳裏を過ったが、その直後に放り込まれたど真ん中直球に千は難色を示した。

 千にとって百代は、実の姉よりも近しい、家族とも友人とも恋人とも言えない、言葉では言い表せない存在だった。たとえ百代が『来いよ、カモン!』とバッチ来いな状態であっても、肉体関係をもって以後どう接すればいいのか、考えれば考えるほど不安になった。

 千は肉親の男女関係、それも姉弟のそれなど想像するのも憚れるのに、姉がぐいぐい口を挟むのが不思議だった。

 

 姉からすれば、千が未だに手を出さないのか不思議で仕方なかった。どう見ても百代は千に手を出して欲しそうだったのに、抱かれない百代が不憫で女として同情していた。

 実姉の欲目抜きにしても千は艶美な少年である。物憂げな横顔を一瞥してから、姉は帰省ラッシュを回避してきてもなお混雑していた駅ですれ違った人々を思い浮かべて、少し誇らしくなった。

 幼少の千は少女然とした美少年だった。母と姉はこの見目麗しい弟を溺愛し、父と祖父母は年端も行かぬ頃から頭角を現していた才能を愛した。

 歳を経つにつれ中性的な容貌が徐々に男らしくなる様に、姉は成長を喜ぶ気持ちと、あのかわいらしかった弟がいなくなる喪失感をいっぺんに味わったものだ。

 

 姉が知る限り、千は人生で危うい時期が二度ほどあった。一度目は故郷で鬱屈としていた幼少期だ。

川神院に修行に出される前の弟は、今のようにずっと気難しい顔をしていた。それが川神に移ってからは生まれ変わったように笑うものだから、手元を離れて寂しいながらも新天地に送り出したことを喜んだ。

 二度目は十歳前後のころ。この時期は里帰りしてもイライラしていた。話しかけられても、それ自体が鬱陶しそうな態度をとった。年長者がその態度を咎めると、論点をずらした正論を理路整然と淀みなくまくし立てるのが厄介で、千は感情をぶつけられると喜ぶが、それに持論を曲げる内容が混じっていると怒るという面倒な性質の持ち主であった。

 次に会った時は友達ができたことを報告し落ち着いていたが、むしろ小学校も半ばを過ぎてまだ友達がいなかったことを悲しんだ。

 

 姉は千にはもっと人生を謳歌して欲しかった。

せっかく恵まれた容姿と能力をもって生まれたのだから、それ相応の優れた友人と美しい女性との出会いを楽しんでもらいたかった。

 せっかく田舎を飛び出したのだから都会の洗練された娘と開放的に遊べばいいのに、千は自分のなかに埋没して閉塞するのが好きだった。

 今も姉の追求にうんざりして、バッグの中から小説を取り出して黙々と熟読している。

 

 姉は心配だった。猫かわいがりしてきた弟の鞠育をよそに任せる。それで弟が誤った道に進んだりしないのか、悩ましかった。

 具体的には千が小説を取り出す際に、バッグ口の隙間から、SMもののAVパッケージを見つけて、この弟がいったいどんな道に進もうとしているのか、考えると夜も眠れなかった。

 

 

 

 

 

 

「よーし、全員そろったな」

 

 風間ファミリー、秘密基地にて。太陽が中天にかかり、猛暑を物ともせずに集まった変わらぬ顔ぶれを見渡して百代は満足げに頷いた。

 

「例年通り、千が帰省した。というわけで!」

 

 昼前の秘密基地内では、テーブルにピザやオードブル、コーラなどが雑然と並び、ちょっと奮発したパーティの様相を呈していた。

 各々グラスを持ち、乾杯の音頭をとっていた主催者の百代が言った。

 

「あいつの悪口言うぞ」

「え!? これそんな集まりなの!?」

 

 突然告げられた陰険な目的にモロがすかさずツッコんだ。他のみんなは特になにも触れずに乾杯して飲み食いを始めた。

 

「ちょっと! ボク、千の悪口とか言いたくないんだけど!?」

「まぁまぁ。どーせモモ先輩の愚痴がメインだろうし、気楽に楽しもうぜ」

「そだね。女子会で席を立ったコの陰口を一斉に言い始めるようなものだと思って」

「全然よくないでしょ!」

 

 良識あるモロが叫んだ。キャップは騒げるならどうでもよい風で、京は全部わかった上で冗談を言っていた。

 

「ちなみにこの宴の資金源は、だいぶ前に千が商店街の福引で当てた商品券だ。期限が切れるからと詫び代わりに渡された。気兼ねなく飲み食いしていいぞ」

「朝になったら突然、『実家帰る』だもんね。びっくりしてビンタしそうになっちゃったわ」

「おい、誰だワン子にビンタ教えたの」

 

 ワン子のセリフにトップブリーダー大和が過敏に反応した。京はしれっとタバスコまみれのピザに手を伸ばしていた。

 百代が不満そうに言う。

 

「ほんといきなりだったからな。朝の稽古終わったら急に帰り支度始めて、『実家に帰らせていただきます』だぞ? 信じられるか? 普通前もって言っとくだろ、常識的に考えて」

「モモ先輩がまともなこと言ってる」

「今の言い方、嫁に逃げられた亭主みたいだね」

「ははは、大和と京は面白いなあ!」

 

 いつも傍若無人で無茶ぶりしてばかりの百代の口から出た愚痴が、今回は筋が通っていたので二人の口から本音がぽろりと零れ落ちた。

 百代は襲い掛かった。大和はすかさず京を盾にした。

 

「ああ、そんな……!」

「お、生贄か。頂いておこうかにゃーん」

 

 百代がガバっと京のマウントを取る。押し倒される京は、なぜかうれしそうだった。

 横で乱痴気騒ぎが始まっているのに、ほかの面子は平常運転で食を貪っていた。

 

「ぐまぐま! まぐまぐ! ぐまぐま!」

「おー! けっこうイケるな」

「うわ、早すぎて攻撃が目で追えないや。こういうときはいつも千が止めてくれてたんだけどなぁ」

「いないと武力でモモ先輩が無双するし、抑止力の重要さが身に染みるぜ」

 

 エネルギーが足りないのか、ワン子が見境なくジャンクフードを詰め込む。育ち盛りのキャップも並んで次々と口に放り込む。

 モロが遠い目をし、京を生贄に捧げ、無事逃げおおせた大和がさりげなく安全地帯に入り浸る。

 その視線の先では、京のけしからん胸を揉もうとマウントポジションで手を伸ばす百代と、その魔手を、両手を縦横無尽に奮って払いのける京の乱闘が繰り広げられていた。

 見世物気分でそれを眺めていたキャップが言う。

 

「なんか京、強くなってね? モモ先輩が手加減してるのもあるけど、けっこう持ってるじゃん」

「ぐまぐま! ……ごっくん。そりゃ、京は夏休み中、川神院で稽古してたもん。男子が三日なら、女子は毎日括目して見なきゃダメよ! アタシたちは日々成長してるんだから!」

「難しい故事成語だがよく覚えてたな」

「えっへん」

 

 口元に食べかすをつけたワン子が、大和に褒められ誇らしげに胸を張った。京は逗留のあいだ、基礎鍛錬のみであるがワン子、百代、千と朝夕の稽古に付き合っていた。泊めてくれるよう頼む際に鉄心から勧められたのがきっかけであるが、京はこれを快く承諾した。

 その成果が如実に表れ、もともと優れている眼も相まって百代の早すぎて残像が見える手捌きもなんとか凌げていた。が、如何せん実力差が開き過ぎている。百代が緩急をつけると、防いでいた両手を難なく掴まれ、完全に無防備な肢体を晒すことになり、京はあわくって助けを求めた。

 

「助けて大和、食べられる」

「お友達で」

 

 フライドチキンを齧りながら、大和はパブロフの犬よろしく条件反射で119番通報を拒否した。

 百代が悪魔めいた微笑で右手をワキワキさせ、胸に手を伸ばそうとする。ガクトが鼻の下を伸ばしてガン見する。モロが顔を赤らめて視線をそらして、やっぱりチラ見する。

 興味のなかったキャップが何気なく言った。

 

「そういやガクト。こないだ千とナンパ行ったらしいけど、首尾はどうだったん?」

「うわ、バッ!」

「ぬわぁにぃ~!? ガクト、話せ。今すぐ話せ」

 

 耳聡く反応した百代は、あとは料理するだけの京を解放してガクトに詰め寄った。

 

「お前~、私が千に女を近づかせないために、どれだけ苦労してると思ってるんだ。

揚羽さんにだって、会うたびに千に会わせろってせがむから、揚羽さんと予定がある日は千をよそに預けてるんだぞ」

「九鬼関連ならスカウトだろうし、会わせるくらい良くない?」

「ダメだ。揚羽さんは姉属性持ちで私とかぶる」

「さすが、千のお姉さんにまで嫉妬する女……思考回路が常人とちがう」

 

 自由になった京が嫌味を言った。千を見送る時のやりとりを横で見ていた京は、思わず百代の頭を叩きそうになった。

 百代はしゅんとした。

 

「最近、後輩が私に冷たい。みんな反抗期なのかな」

「モモ先輩は千で中和しなきゃ危なっかしくて、つい」

「私は薬品かなにかか。まあいい。ガクト、ほら話せ。内容次第では許してやる」

「だー、もう! キャップ! あれほど言うなって言ったろーが!」

「そうだっけ?」

 

 キャップは素知らぬ顔でコーラの入ったグラスを揺らした。大粒の氷がカランと鳴った。それがガクトの年貢の納め時を告げるゴングとなった。

 追い詰められたガクトは顛末を苦々しく語った。

 

 

 

夏休みが始まってしばらく経った頃、偶然、男だけが基地に集まった日があった。皆、思い思いに過ごす中、ガクトがふと呟いた。

 

『あー、彼女ほしいな』

 

 中古で大人買いした小説を十数冊テーブルに山積みし、冒頭だけをパラパラと流し読みしていた千が、本を閉じて言った。

 

『ちがうだろ、ガクト。おれたちは恋をしたいんじゃない。セックスをしたいんだ』

 

 千はオナニー事件以降、性を隠し立てすることをやめていた。性癖――マゾヒスト――こそ打ち明けていないが、ガクトの粗野なエロトークに進んで混ざるほどであった。

 図星をつかれてはしごを外されたガクトは意図せず声を荒げた。

 

『もうちょっとオブラートに包めよ、お前は!』

『事実だろ。おれたちは精神的な結びつきなんて求めていないんだ。おれは特定の女の人を思い浮かべて、胸が張り裂けそうなほど苦しくなったり、目を閉じればまぶたの裏にその顔が浮かんだり、会いたくて会いたくてバイブレーションしたりしない。

ただ、海綿体が膨張して、無意味にティッシュを消費するだけ……その虚しさからいち早く脱したいだけなんだ。ちがうか?』

『だな、いい加減童貞とはおさらばしたいぜ』

 

 ガクトは千の話が理解できなかったが、最後のティッシュのニュアンスだけで言いたいことを汲み取っていた。日本語の妙である。

 

『おれもこの非生産的な日常から早くおさらばしたい。けど、風俗で初体験なんてしたくない』

『気が合うな。俺様の夏の目標は女子大生のお姉様とひと夏のあやまちだぜ』

『千、もしかしてガクトとナンパしに行くんじゃないよね?』

 

 オナニー事件から、唐突に人が変わったように下心を隠さなくなった千に困惑しているモロが口を挟んだ。彼は千が女遊びする軽い男になってほしくなかった。

 だが千は涼しい顔で言った。

 

『試しにやってみるのもいいかな。もう少し外の世界を知るのもいいかもしれないから』

『お、いいねえ。最初はキャップを誘おうかと思ってたけど、女に興味ないキャップよりやる気ある千の方が頼りになるぜ』

『モモ先輩はどうするんだ?』

 

 大和が口にした。名指ししてはいないが、千は自分に尋ねているのだと思い、間をあけて返した。

 

『モモ? ワタシ、ソンナ人シラナイアル』

『おい』

『コトバ、ワカラナイ』

 

 素っ頓狂な発音で明後日の方向を見つめた千は、大和に怪訝な眼差しを向けられた。その目は、どうしてお前はモモ先輩に不満があるんだ、と言っていた。

 あんな美人に好意を寄せられて何の不満があるのだ。一方で、千も、大和が京に好意を寄せられてなぜ受け止めないのか分からないという同様の思いがあった。

 彼らはお互いに、お互いの置かれた状況が不可解であった。ガクトもまた二人の状況が気に食わなかったが、ただの嫉妬であったので相手にされていなかった。

 

『冗談はおいといて、ガクトがかわいそうじゃないか』

 

 千が短く嘆息した。

 

『女の子は過度な筋肉を求めていないのに、相手を威圧するほどのマッチョになって、おまけに普遍的なボディビルダーらしくナルシストで自分大好き。

 素材は悪くないのに、自分から世の女の子の好みから外れていこうとする。それでモテないと嘆くのに自分が大好きだから受けが良い風貌には決してスタイルチェンジしない。追加で、需要がありそうな年下には一切興味がないし、マッチョがモテるアメリカに生まれない悲劇まである』

『このやろう、自分がモテるからって』

 

 ガクトが恨みがましい眼差しを向けた。ほかの面々は言い過ぎだと思っても、言っていること自体は事実なので同意していた。

 

『みんなも中学生なってから毎日のように、彼女欲しいって聞くの辟易してたろ?

 本当は女と遊ぶより、男と遊ぶ方が楽しいくせに、あわよくばファミリーに女を紹介してもらおうって魂胆が見え見えで鬱陶しかったろ?』

『俺様も若かったからなあ』

『ガクト、辛いのは分かるが逃避するな』

 

 思いのほか千がボロクソに罵倒するのでガクトが遠い目をして現実から目をそらした。大和は何度も女を紹介してくれと言われていい加減鬱陶しかったので、ガクトに辛く当たった。

 口が弾む千は調子に乗っていた。

 

『それに、ここもそろそろ牛乳拭いた童貞の臭いがするようになってきたからな。衛生的に誰か卒業しなきゃダメだろ』

『あ、今のはイラっときた』

『うん、千は変わっちゃったね』

 

 同意していた大和とモロの目が据わり、殺意のこもった視線を向けた。千がタチが悪いのは、それが言ってはいけないと分かっていても、人が感情を発する瞬間が見たくて口にして反応を楽しむくせがあるからである。

 尤も男に怒られても嬉しくないので千はすぐに殊勝な態度をとった。

 

『ま、ガクトには世話になってるしね。あいにく紹介できる女はいないし、ナンパに協力しようと思ったんだ』

 

 千に近づく女は百代が原因でいないため、彼の電話帳には風間ファミリー以外の異性が登録されていなかった。

 夏になり、物思いに耽った千は、風間ファミリー以外の女子と接触したことがない現実に気づいてしまったのかもしれない。

 

『腹が立つところはあるが、今回ばかりは目を瞑って感謝するぜ。俺様に千が加われば鬼に金棒だ』

『ガクト要らないよね』

 

 力こぶを作って白い歯をきらりと輝かせたガクトに、ボソッとモロがツッコんだ。

 

『どいつもこいつも女、女……わっかんねー。男同士で遊ぶ方が楽しいじゃん』

 

 蚊帳の外のキャップは寂寥感をにじませて天を仰いだ。

 

 

 

 

 

「で? 結果は?」

 

 百代がどうでもよい他人の苦労話を聞かされたような顔で続きを促した。ガクトは半ばキレながら言った。

 

「見りゃ分かんだろ! 何もねーよ!」

 

 ナンパ自体はすこぶる上手く行った。街に繰り出せば、千をみんな振り返り、向こうから誘ってくる者がいた。

 その中からガクト好みの者を選んで実行したが、その都度、千がやらかした。

 

「あのやろう、成功したお姉様に、ビッチとか尻軽だの罵りやがったんだよ。そのせいで逃げられるわビンタされるわ、最悪だったぜ」

「それでこそ千だね!」

「やっぱり千は、はしたない女が嫌いなんだな!」

 

 なぜか京と百代は歓喜した。大和は、『マゾヒストの欲望を満たしたかっただけなんだろうな』と得心した。

 実際に千は刹那的な欲望を満たすためだけに、気の強そうな女を見つけてビンタするよう誘導していた。ガクトよりも千の方が、性欲が強いのではないだろうか。

 

「千はなにがしたかったんだろう……」

「ほんとだぜ。俺様は殴られただけじゃねーか」

 

 事情を知る大和や京はともかく、何も知らない人が傍から見れば、千の行動は支離滅裂なのでモロが懐疑的な声をあげた。

 ついで被害者のガクトが同意して険悪なムードになりかけたので、百代が思い出したように言った。

 

「そういえばワン子、千のお姉さん美人だったな。いま女子大生だったか」

「そうね。あまり千と似てなかったけど、キレイで上品な人だったわ」

「うおぉぉぉ! 千! カムバァァァァックッ!!!!!」

 

 ガクトは叫んだ。

 

「ガクト、そっちは西だよ」

 

 モロがツッコんだ。

 

「見てください、これが性欲に踊らされた男の浅ましさですよ」

 

 京が呆れた。この場に千が居たならこう言っただろう。「女には男の浅ましさを受け止める包容力があってほしい」、と。

 

 

 

「最近の千って変じゃない?」

 

 モロが憂いをにじませて言った。

 

「元から変だろ」

 

 ガクトは言い返した。

 

「たしかに千はちょっと変わり者だったけど、ガクトみたいなオープンスケベじゃなかったでしょ!」

「ンだとこのムッツリスケベ!」

「千が絡むと荒れるわねえ」

「千は風間ファミリーの火薬庫だからな」

 

 たくさん食べて眠くなったワン子が遠巻きに眺めながらしみじみと呟き、大和が揶揄した。

 千には、たとえばキャップなら奔放なリーダー、大和なら軍師、ワン子ならペット枠のような明確なイメージがない。ファミリー内では、頭脳担当が大和、荒事担当が百代とガクトとされていたが、千は有事の際に誰かが欠けていても、とりあえず千がいれば何とかなる、と万能キャラ扱いが常であり、現在のファミリー発足時にはたいてい眠っていたために隠しキャラのような存在だった。

 千は一見掴みどころがなく、何を考えているか分からないと言われる。外での対応は京のそれに近く、ミステリアスな雰囲気があった。それがモロには憧れに似た感情を懐かせ、ガクトは気に食わなかった。

 実像を知るのは大和と京のみ(キャップも見たことはあるが理解はしていなかった)だが、京は幼少時の先入観が強く、今の千を見るにもフィルターがかかっている。よって大和の対応と評価が最も実像に近いと言えた。

 すなわち、美少年に天がデバッグを間違えたとしか思えない二物を与えたついでに度し難い性欲と性的嗜好を追加したのが千である、と。

 

「千が最近変な理由は見当がつくけどね」

 

 それにしても、この夏の千は、モロの言う通り、性欲に忠実過ぎると大和が疑問視していると、京が言った。

 

「たぶん、この夏休みのあいだずっとオナ禁させてるからおかしくなってきてるんだと思う」

「なにやってんだよお前は!」

「千をおもちゃにし過ぎでしょ!」

 

 言い争っていたガクトとモロが口を揃えて批難した。奇行に走った原因が、抜けなくてムラムラしていた。ありがちかと思わせて、幼馴染にオナ禁させられていたという二段構えは開いた口が塞がらない。

 百代が言った。

 

「いや、溜まった状態なら私の誘惑にかかるかと思ったんだが」

「千が抜く気配をモモ先輩が察したら三人のうち誰かが千の部屋に遊びにいって邪魔してました」

「千のプライベートなしかよ」

「そういうことばかりしてるから千が反抗期になるんだよ」

 

 実際は百代が性に目覚めて優しくなったのが物足りない千が、変態よろしく性格を変化させたのだが、二人は知る由もない。

 百代は少ししおらしくなって肩を落とした。

 

「そういうがな、千の好きなタイプが分からないから迷走してるのが現状なんだよ。ほら、お前ら。千に変なことするのやめてほしいなら情報よこせ」

「今度は脅迫だぜ」

「しかも好きな人を人質に取るエキセントリックぶりだ」

 

 相変わらずの斜め上な言動にあっけにとられるが、いつものことなので平常運転だった。

 

「あ、そういえば千はツンデレが好きみたいだよ。ジャソプのラブコメ読んで、『いいなあ』って呟いてた」

「え?」

 

 モロの情報に声をあげたのは京である。先日、千自身からツンデレは好きじゃないと否定されていた為だ。しかし、モロが「ほら、ここ」と探したその漫画のキャラとコマを見て「ああ……」と、納得した。

 主人公がヒロインの裸を見て殴り飛ばされるシーンだったからだ。

 これじゃ参考にならないなぁ。京は悩んだが、説明するのが面倒だったのでやめた。

 

「もう押し倒せばいいだろ」

「千ははしたない女が嫌いだから悪手だろ」

 

 その後もこのようなやりとりが続き、答えを知っている大和と京が黙っていたために明瞭な意見が出ないまま時間が過ぎた。

 そろそろお開きの時間に差し掛かって、大和が言った。

 

「もういいんじゃない? モモ先輩より千の好感度高い人いないでしょ」

「んー。そういうがな、あいつは他の女に目が向き始めてるし……」

 

 つまるところ百代は不安なのである。片思いの辛さ、千が自分をどう思っているのか、千が誰を好きなのか。考え始めると胸が張り裂けそうになり、目を閉じると千の顔が浮かんで、触れてほしくてたまらなくなるのだった。

 そんな百代に、ふと京が言った。

 

「ねえねえ、ずっと謎だったんだけど、なんで千の故郷に仲いい女の人がいるって思いつかないの?」

 

 盲点だったとばかりに百代がハッと目を見開いた。その発想がなかったのか、他の風間ファミリーも驚いていた。

 

「千の故郷は田舎といっても数万人の人口がある市……近所の幼馴染だっているだろうし、同じく帰省した従姉妹とも……千はモテるからね。一夏の思い出をこの機に作ろうと企んでいる女の子が故郷にいないと、なぜ言い切れるのか」

「京……お前、まさか」

 

 百代が震える声で言った。千のオナ禁を提案したのは京だった。百代も面白がって賛成したが、それは――

 

「そう……千にオナ禁させたのは、溜まりに溜まった性欲を、故郷の安心感のなかで解放させるためだったんだッ!」

「なんてことを……!」

「くくく……信じて送り出した弟が、実家ののんのんとした田舎娘で一皮むけるNTR感をモモ先輩は味わうんだッ!」

「こいつ、味方だと信じてたのに! きついお仕置きが必要だな」

「あれ?」

 

 一瞬で百代にお姫様だっこされた京は、身動きがとれない状態で嬲られようとしていた。

 

「大和、オオカミが! オオカミがでた」

「お友達で」

「くだらねえこと考えてっからだよ」

 

 京はただの思い付きでこれを実行したが、当の本人も他のメンバーも千が大人になって帰って来るとは誰も思っていなかった。

 彼らが知る中で一番美人の百代でも落とせない千が、他の女になびくとは露ほども思わなかった。

 

 京は百代に(ねぶ)られた。

 

 

 

 

 

 

 

 千が実家に帰ると、千は“おじさん”になっていた。

 玄関を開けると赤ちゃんの泣き声がした。首をかしげて居間に足を運ぶと、昨年、兄と結婚した義姉が赤ちゃんに母乳を与えていた。

 目を丸くした千に義姉は、先月生まれた姪だと語って名前を告げた。千は初耳だったので拗ねた。

 

「みんな帰ってきた千を驚かせようと思って内緒にしといたのよ」

 

 と、事情を知っていた姉がにんまりと笑って言った。千はますます拗ねた。

 昨年、突然帰って来るよう催促された先で結婚式があり、その場で兄が結婚するのを知らされたのと状況が全く同じだったからである。

七つ歳の離れた兄と千は確執があった。といっても、優秀で可愛がられる弟を兄が一方的に妬んだものであるが、千は兄が嫌いではなかった。

結婚してからは兄が丸くなり、千を嫌う素振りを見せなくなったそうだが、幼いころから悪ガキで有名だった兄は、年の離れた弟と比較されるのが嫌で、だがその反骨心から努力することもなく、ろくに勉強もしなかった。

千がまだ小学生のときに、帰ってきた千に喧嘩をふっかけ、逆にボコボコに返り討ちにされてからは表立って唾棄することもなくなったが、やはりろくでなしと見られていた。

兄は地元の農業高校に進学して、祖父の農業を継いだが、制服を着崩し、髪を染めて不良ごっこをする兄のようになりたくなくて、姉は真面目に勉強して進学校から都会の大学に進んだ。

姉からして、兄は反面教師となった馬鹿なのだが、その兄が妻をもって人の親となっているのがどうしてか感慨深かった。嫌いな兄の子でも赤ちゃん、姪は可愛いものである。

姉は義姉にお願いして抱かせてもらったりして心底楽しそうだったが、千はおっかなびっくり頬をつついたり、戦々恐々としていたのが印象的だった。

 

 

 

 盆休み前に帰省したので、実家には姪の面倒を見ている義姉しかいなかった。ほかは仕事に出ていた。

 父は農業を継がずに大学を出て中学教師をしていた。今日は部活の引率でいないらしい。曾祖母、祖父母、母に兄は畑に出ており、暇だった姉は取り立ての免許を千に見せびらかして、車に乗ると買い物に出かけた。

 実家には軽トラも含めて車が七台もあり、それらを収納する敷地面積と農地面積を含めて、三河家が如何に裕福か物語っていた。

 義姉は千と二人きりになると、千の容姿と家族から聞かされた活躍を手放しで褒めた。千は褒められるのが苦手なので微妙な反応をしたが、兄とは中学からの恋愛結婚だという義姉は気をよくして色々と語りだした。

 赤ちゃんの夜泣きがひどくて寝不足なことや、おむつの交換といった世話が大変なこと。曾祖母、祖母、母は手伝ってくれて助かるが、夫である兄は手伝ってくれないことなどの愚痴。中学時代の友人はキャンパスライフを満喫しているのが羨ましいなど、同年代への羨望を矢継ぎ早に口にした。染色した明るい茶髪に、まだ遊びたりない未練が残っている気がした。

 千は新しい家族といっても、血の繋がりのない義姉との距離感が分からずドギマギしていたが、義姉は千を一目で気に入って離そうとしなかった。

 やがてスーパーで買い物をしてきた姉が、一人暮らしで鍛えた料理の腕前を見せると豪語してやっと解放されたが、千は突然二人も増えた家族に困惑しきりだった。余談だが、ネズミ対策に飼っていた猫も子供を産んでいて、千は浦島太郎の気分だった。

 

 

 

 

 

 夜に家族が勢ぞろいしての夕食会では豪勢な振る舞いで歓迎された。が、その会合で最も盛り上がったのは姪や義姉の話ではなく、姉が面白がって口にした千のガールフレンドの話題だった。

 酒精も相まって気を良くした祖父や父、兄の酒臭い詮索がいやになった千は自室に引きこもって追求から逃れた。

 盆の親戚一同が集う酒の席では、これがさらにひどくなるのかと思うと、億劫になる。

 千は畳の上に寝っ転がって和室天井版の木目を数えた。

 

 酔っぱらった祖父は、いつか千がビッグになるのだと口癖のように言った。ビッグの意味が分からなかったが、大出世して人様に自慢できるような人物になれと発破をかけているのだと認識していた。

 千はプロ野球選手のような存在になればいいのだと思った。思うに、この家は金に一切不自由しておらず、大富豪のような生活は敵わなくても何不自由ない生活はできる。だから金ではなく名誉欲が欲しいのだと考えた。

 だが、千は名誉が欲しいわけでもなく、金に不自由したこともないために物欲も薄かった。残ったのは性欲だが、こんなものを公開できるわけがない。

 家族は千が立派に成長して、一家の誇りになることを望んでいる。その重圧が年頃の千には煩わしかった。

 そう考えながらパンツを下ろそうとして――

 

『こんばんはー。あの、千くんが帰ってきてるってお母さんから』

『あら、いらっしゃい。千なら――』

 

 玄関にほど近い千の部屋に、快活な少女の声が届いた。出迎える母の声がして、どたばたと近づいてくる足音がする。千はすぐパンツを履いて身支度を整えた。

 ノックがして、返事が終わる前に引き戸が開いた。

 

「あ、千くん。久しぶりー!」

 

 ショートカットの黒髪の、まだ全体的にあどけなさの残る少女がとてとてと仰向けに寝ている千のもとに歩いてきて、女の子座りで千を覗き込んだ。

 彼女は千の家の向かいに住む、二つ年下の女の子で名前は信子といった。小さいころは近所なのでよく一緒に遊び、千が川神市に移り住んでからも帰省するたびに遊びに来た。

 千は起き上がって歓迎した。信子は破顔して、中学生になったことを報告した。

 

 信子は口を開くと、急かしてもいないのに早口で色んなことを話した。

 学区の中学が統合によって廃校になり、新設された中学校に通っていること。制服がかわいくないこと。部活はバスケットボール部を選んだこと。今日もその練習に励んできたこと。隣町に住んでいる千の一つ年上の信美が妊娠して高校を中退したこと。

 千にはもう関係のない世界の話だったが、信子は自分のことを千に知ってほしくて、あのね、それでね、と間に挟みながら語った。

 話を聞きながら、千は小さかった信子が、成長期を迎えて少し女性らしくなったことに驚いていた。

 なだらかだった胸も膨らみ、腰も丸みを帯びているのが、キャミソールとショーパンという薄着ではっきりと分かった。

 部活を終えて、シャワーを浴びてからきたのだろう。髪はさらさらで華やかな匂いがした。

 

 千は誘っているとしか思えなかった。

 

(これ絶対誘ってるよな、ノーブラだし)

 

 半月に渡って、武士娘の周到な妨害によりオナ禁していた千は、非常にムラムラしていた。

 無邪気な笑顔で話している信子の顔から、視線が胸元に落ちてしまう。視線に気づいた信子は顔を赤らめて、腕で胸を隠した。

 

「千くん、どこ見てるのー?」

「あー、悪い」

「もー」

 

 と、嫌がる素振りを見せながらも、悪い気はしなかった。信子は千に憧れていたからだ。

 そして、もしかしたら、と淡い期待もしていた。

 信子にとって、千は幼い自分に良くしてくれた、程度の記憶しかない。だが、物心がつくにつれ、正月と盆に帰省する千が憧れのお兄さんとして、彼女の心に根付いていった。

 それが恋心だと知るのは時間の問題で、そうなると帰省の短い期間にしか会えないもどかしさが彼女を積極的にさせた。

 もう自分も中学生となり、制服を着て大人になった気分でいた。だから、千が自分をいやらしい目で見てくれたことが嬉しかった。

 ずっと子ども扱いされてきたが、今年こそ先に進める気がしていた。

 

「……」

 

 話題が尽きると無言になり、千と信子は見つめあった。信子は期待と気恥ずかしさが綯い交ぜになった表情で、すすっと千の隣に寄り添った。

 そのまま肩を触れ合わせて、上目遣いに見つめてみた。信子には千はいつも通りに見えた。

 だが、千は勃起していた。

 

(もうよくね? 中学生なら大丈夫じゃないかな。ダメ? 愛はコンビニで売ってるし大丈夫だろ)

 

 千は支離滅裂な思考で自分を正当化させようと必死だった。

 女の子がここまでしているのなら問題ないと思う。百代がアウトで信子がセーフな千の基準がいまいちはかりかねるが、過ごした時間の差なのだろう。

 

「あ……」

 

 千が信子の肩を抱き寄せた。信子は心の中でガッツポーズした。心臓ががなり立てる。鼓動が千に伝わっていないだろうか。心構えはしてきたが、いざ鎌倉となれば緊張してきた。

 千はオブラートに包めないほど勃起していた。先ほどまで難しいことを考えながら、溜めに溜めた性欲を発散させようとパンツを下ろしたときに信子がきたのだ。

 千にとっては最悪で、信子にとっては最高のタイミングだった。千の整った顔が近づいてくる。性欲に支配された千は、艶やかな唇を動かして、

 

 

 

「信子は……ムチってどう思う?」

「……え?」

 

 信子は、きっと愛の言葉をささやかれるのだと思った。そしてキスされて、体に触れられるのだと思っていた。

 だが、千の口から出てきたのは、一般的に人を痛めつける道具についての感想だった。

 

「ど、どうって言われても」

「じゃあロウソクは? 縄でもいいけども」

 

 そこまで言われて、信子はやっとSMプレイを要求されているのだと勘付いた。

 信子は絶望した。初体験は年上の千に優しくしてもらえるのだと、乙女心に夢見ていたからだ。

 ムチで叩かれ、ロウソクを垂らされ、縄で縛られながら痛い思いをして初体験をする度胸はなかった。

 

「あ、あたしには、まだ早いと思う……」

「……そうか」

 

 信子は力なく答え、千はがっかりして肩を落とした。

 信子は、都会は進んでいると感じた。多くの刺激に触発される都会で育った千は、二つしかちがわないのにSMプレイを嗜むまでに成長しているのだと。

 まだまだ幼い信子には、それを受け止める自信がなかった。

 そして、まさか信子も、自分が千をムチで叩いて、ロウソクを垂らして、縄で縛ることを要求されているなどとは夢にも思わなかった。

 

 その後、信子は気落ちして岐路につき、やがて千はおもむろにバッグからSMのAVを取り出した。

 中学最後の夏は、こんな感じで終わりを告げた。

 




信子ちゃんの名前の由来はモブ子をもじったものです。
もう出ません。


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Fuckin' Perfect!!

 夏が過ぎ、秋が来て、冬になる。そしてまた、春が来るのだろう。

 季節はあっという間に過ぎた。おれが夏休みの半分を禁欲して過ごした地獄の焦熱の日々が、今となっては懐かしい。

 あれは辛かった……川神院にいるあいだ、三人娘の誰かが必ず傍に付き纏っている一種の拷問にも似た日々。

 おれがパンツを脱ぐタイミングをピンポイントで狙って突撃してくるワン子。特に意味もなく部屋にやって来ては本を読むだけの京。必要以上にベタベタして発情させようとする姉さん。

 一人になるタイミングは寝るときだけしかなかった。深夜にこっそり抜こうと考えた。だが、それを察知した姉さんは寝ぼけながら部屋に向かってきた。プライベートスペース以外では落ち着いてオナニーできないおれは、帰省した際に狂ったように抜くまで悶々と白んだ頭で過ごす羽目になった。

 まだ慣れがあるワン子と姉さんならまだしも、夏服の京はきつかった。急成長した胸と比例して丸みを帯びて肉付きのよくなった京の色気ときたら……それが肌の露出多めで、おまけに視線に気づくたびに挑発的に流し目で薄く笑うものだから、ちくしょう。

 追い打ちをかける夏の暑さが、思考力と冷静さを奪い、おれを奇行に走らせた。思い返してみると、ビンタしてもらうためにナンパするのは頭がおかしい。信子の誘いにもたやすく乗ってしまったし……定期的に抜いておけばあの悲劇は生まれなかったのに。

 

「つーわけで、あんま人をおもちゃにすんなよな。するなら性的なおもちゃにしてくれよ」

『全然上手いこと言えてないしキモイよ、千』

 

 電話口の向こうで呆れている京の顔が浮かんだ。おれと京はかれこれ三十分は話し込んでいた。

 年が明けて、年末年始の休みで帰省していたおれに京から電話がかかってきた。新年の挨拶にやってきた親戚との挨拶と宴会から解放されたときには、時計は夜の十時を回っていた。

 酒飲みの威勢の良い野太い声に馴染みきった耳に、京の鈴の鳴るような声は、清涼剤みたいに胸にしみた。

 内外の気温差で結露がしたたる窓ガラスの向こうでは、深々と雪が降っていた。予報では、夜は大雪になるが、朝には晴れるそうだ。

朝になれば、視界一面に広がる新雪が、朝陽を純白に染めて輝きを増すだろう。

おれはこたつに足を深々と入れて、暖房が効いた部屋のなかで仰向けに寝っ転がりながら言った。

 

「勉強の方はどんな感じ? 行けそう?」

『モチ。真剣で行きます』

 

 力強い宣言がきた。京は川神に戻るために、川神学園の奨学生制度を勝ち取るべく鉄の意思で努力していた。

 風間ファミリーの他のメンバー、特に入れるか怪しいワン子とガクトは死に物狂いで机に向かっている。大和はキャップを勉強の席に着かせるのに苦労しているようだった。

 まあキャップはいざとなれば強運で何とかなるだろう。鍛錬と両立しているワン子はかなり辛そうだったが、きっとやりとげてくれると信じてる。

 

『それで、優等生の千様は受験一月前でも余裕で女の子と長電話ですか?』

「まあね。話相手も切羽詰まってるのに男と長電話する女の子だし、おあいこじゃない?」

『千と話すとご利益がありそうで』

「お賽銭くれないと祟るよ?」

 

 なんて益体の会話を繰り返す。今年の風間ファミリーはキャップの見つけた初日の出が綺麗に見える海岸線で夜の海を眺めながら年を越したらしい。その足で川神院に初詣に行ったとか。

 おれは毎年正月には帰省するので参加できないのが残念だ。川神武闘会や風鈴市のような人が大勢集まる場所に赴くのは騒がしくて苦手だが、それに、友達と、という装飾がつくだけで楽しそうに思える。

 風間ファミリー全員と遊ぶ機会を除けば、個々で遊ぶメンツが限られるからなぁ。

 ファミリーにも派閥というか、仲の良いグループがあって、キャップ・大和・ワン子の最古参、ガクト・モロの凸凹コンビ、おれと姉さんの川神院組の加入順のグループがまず存在し、そこから男、女、川神院、バカ、知性派、根明、根暗などで細別化される。

 おれが特に仲が良いのは、やはり一緒に暮らしている姉さんで次にワン子、そして京だが、実はモロとも男、知性派、根暗で接点が多かったりする。一方でガクトとは男の会話以外で接点がなかったりするのである。

 仲が悪いわけではないが、ウマが合わないのはしょうがない。あいつに彼女ができれば変わるのだろうが。

 

『小学校から不思議だったな。千って授業中寝てるのに、先生に問題出されても答えられるじゃない? あれどうやってるの?』

「わかんない。無意識に答えてる」

『もしかして、もうひとりのボクでも心の中に飼ってたりしない?』

「うーん。一応名指しされて起きると、意識は戻るんだけどね。そのとき勝手に口が動くんだよ」

『なにそのホラー』

 

 なぜ寝ているのに授業の内容を把握しているのか、隣の席になった人や教師に尋ねられたことがある。おれは川神流の睡眠学習とお茶を濁したが、どうも眠りながらも漠然と内容を見聞きして記憶しているらしい。私生活では経験がないが、なにかの拍子で思い出すため、テスト中に「あ、ここどっかで習ったところだ!」と記憶の奥底に沈殿していた正答が閃くのだ。

 思ったよりも長電話になった。京にだけ通話料を嵩ませるのも何なので、一端切っておれからかけ直した。

 

『ところで千、女の子と長電話してると股間がむずむずしてこない?』

「しない」

『えー。性欲魔人の千はテレセしたくて電話しながら股間いじってると思ったのに』

「おれの性癖これ以上増やすのやめてくれない?」

 

 何の前触れもなくお前欲情してるだろと言われ、おれは即座に反論した。京は不服そうだった。

 

『でも電話って見方を変えれば女の子に耳元で囁かれてるのと同じでしょ? 興奮してこない?』

「え? 罵ってくれるの?」

『結局そこに発想が飛ぶのか……』

 

 一を聞いて十を知るおれは、即座に意味することを理解し、京に耳元で罵られる期待をした。願いは叶わなかった。

 話題がなくなってくると、基本受け身のおれは京の聞き専に徹することが多くなる。

 

『そういえば噂の信子ちゃん……だっけ? あのコとは、その後どうなったの?』

「年末に会ったら、『千くん! あたし、何されたって平気だよ!』って迫られてさ、もっと自分を大事にした方がいい、って諭して慰めた」

『かわいそうに……こうして千への憧れを募らせて青春を台無しにするんだろうね』

 

 盲点だった。あとでおれのことは忘れるようにとでも言っておこう。……恋は残酷だ。小さいころから知っている幼馴染にもこんなことを言わなければならないなんて。

 

『青春で思い出した。受験が終わってすぐにバレンタインがあるよね。今年の千はモモ先輩がいないから、学校でたくさんもらえると思う』

「いらねー。毎年キャップと姉さんとおれの分を処理するの、どれだけ大変だか分かってんの?」

 

 感傷に浸っているところを現実に引き戻されたおれはひどくげんなりした。あのクソ甘ったるい胸焼けと食っても食っても減らない量におれは毎回吐く寸前まで追い込まれるのである。

 ジジイに作ってくれた人の真心と親愛を無駄にするなと怒られたが、今年は絶対に捨てるつもりだった。

 実を言えば、吐くのも排泄のひとつなので意外と快楽が伴い、気持ちよいのだが、健康に悪そうだからやめる。リビドー分析論関係ない過食嘔吐で本当に悪そうだ。

 

『処理するのめんどいもんね。それも込みだけど、私たち以外のチョコ食べない方がいいよ』

「? まあ、捨てるかガクトにあげるつもりだったけれど、なんで?」

 

 暗に知り合いの女子からもらったもの以外は食べるな、と注意され、おれは意図を知りたくなった。京がさらりと言った。

 

『たぶん、変なものが入ってると思うから』

「……え? マジで?」

 

 予想の範囲だったが、想像したくなくて選択肢には入れていなかったことをずばりと切り出され、おれは顔を引き攣らせた。京は訥々と続けた。

 

『モモ先輩やワン子、市販のものは大丈夫だと思う。でも手作りは絶対だめ。髪の毛とかラブジュース入りが必ず混じってるから』

「何で断言できんの? つーかそういうことする人本当にいるの?」

『年頃の女の子の考えてることって似通ってるから、千に片思いしてるコの思考パターンが想像つくよ。千の場合、小学校時代、千の髪の毛とか集めてるコがいたから』

「うぇぇええ……」

『寝てる千のよだれを拭いたハンカチとかティッシュを大事そうにしてたコもいたね。千を好きな女の子は、モモ先輩が怖くてアタックできなくて鬱憤が溜まってる人が多いからけっこう過激だよ』

 

 おれは胃からこみ上げる猛烈な吐き気を耐えていた。なぜ、なぜ起きなかった当時のおれ。ああ、でも寝てる最中に誰か口元を拭ってくれたような記憶が、うっすらとある。

 そのよだれは、果たしてどうなったのだろう。先を知るのが怖くて、そこで思考は止まった。

 京がまだ何か言っている。

 

『――でね、私が千に話しかけるでしょ。するとさっきまで床に落ちた千の髪の毛を集めてた女子が、千が汚れるから近寄るな、気持ち悪いって私を追い払うの。……あー、思い出したら鬱になってきた。気持ち悪いのはどっちだよっていう』

 

 過去を語って、自分でトラウマをぶり返した京が陰鬱な声で愚痴りはじめた。

 おれは、またか、と思いながらも付き合った。機嫌が悪くなった京は、攻撃的な声色でおれにきく。

 

『千は普通の恋愛もできるのに、どうして変な方向に突っ走るの? バカなの?』

「何回も言ってるじゃん。普通の恋愛じゃ満足できないって」

『恋愛したことない童貞のくせに、物足りないなんてどうして言い切れるかなぁ』

 

 京は若造の分際で愛を語るなんて滑稽だと言っていた。言いたいことはわかる。言いたいことはわかるが、イライラしている京の声で言葉攻めされている気分に陥っているおれには届かなかった。

 

『断言してあげるけど、千に寄ってくる女の子って、千の能力に惹かれて、包容力で夢中になって依存してくるコばかりだよ』

「包容力ぅ? なにそれ?」

『わかんないならいいよ』

 

 やけっぱちになった京が、言った。

 

『千が女の子ならよかったなぁ。そしたら最高の親友になれたのに。川神流に性転換の術とかないの?』

「あったら姉さんが男になって女の子食い散らかしてるよ」

『残念』

 

 ……それからもグダグダと内容のない会話が続き、京が寝落ちしてやっと区切りがついた。

 おれは携帯を布団に放り投げ、長い溜息をついた。日付はとっくに変わっていた。

 

 ――普通の恋愛がつまらないのは、至極当然のことではないか。

 おれは冷え切った頭で思案した。思い当たる節など腐るほどあった。

 これまで出会った中に、冴えない青年、ろくでなしの中年、つまらない風体の中身が見え透いた連中がいた。たとえば、店員に怒鳴るような、下手に出る者には何をしても良いと思っているやつ、やたら卑屈で謝ってばかりいるうだつの上がらないやつ、権威に弱く周囲に流されるだけのやつ……不思議だったのは、そういった人が、みな所帯を持っていることだ。

年端も行かない子供のおれでも、思わず顔をしかめたくなる程度の低い大人も、多かれ少なかれ恋をして、その味を占めてきて、その果てに家庭を築いたのだ。

極論、普通に生きて、普通に恋をして育つと、おれが見てきたくだらない大人に成り下がるのではないか。おれはそう邪推しながら育った。

 

嫌いな小説家が、小説とは何でもないことを面白おかしく文章にするものだと語っていた。言い方を変えれば、面白おかしく書けないなら、非日常を題材にする他ないともとれる。

だが、それも当然だ。一学生が、学校に通って、放課後には友達と談笑し、家に帰ると勉強してオナニーを済ませて寝る。そんな日常のどこが面白いだろう。

ラブコメは、普通の男子学生が、現実では手が届かない美少女に理由もなく好かれるのが主流だ。ファンタジーも現代人が自己投影できる題材こそ人気が出る。

畢竟、普通であることを求められるのは主人公だけで、テーマもイベントもヒロインも非現実的なドラマが求められている。現実的じゃない、ありえない、常識的に考えないことこそ面白い。

つまり、おれが求めているものは、落下型ヒロインがおれにかかと落とし食らわして着地するラブコメであり、異世界の女王様の優秀なマゾ奴隷に転生して、現代のSM道具を開発し、現代知識で女王様にプレイ中に無双していただく作品なのだ。

そして、そんなものは存在しない。

 

 なぜ誰も書かないのか。書けないのか。書きたくもないのか。

 憤懣やるかたない――だけど、理由なんてとっくにわかってる。そう。需要がないから誰も書かない。マイノリティであることも承知で、でも納得いかないように。

 正しいことを教えようとおれに説く、ジジイとルーさん、京の助言が気に食わないのは。

 

 おれは、ただ、大人になりたくないだけなんだ。

 

 

 

 おれは微睡み、霧がかかった思考の狭間で思った。

 ……しかし、長電話って、有意義な時間の過ごし方じゃ、決してないよなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 一月も半ばを過ぎて、雪化粧に彩られた景観にも慣れたころ。受験生の追い込みも苛烈になり、ワン子にガクト、キャップの必死さも燃え尽きる前の火花に似た具合になってきた。

 取り立てて勉強の必要もないおれは、ワン子の詰め込み学習を見ながら、ガクトを見ているモロを手伝い、自由を求めて旅立つキャップを捕まえて大和の待つ勉強机に引っ立てる八面六臂の活躍をしていた、と自負している。自分で言うのもなんだがよくやってると思う。

 空いた時間で姉さんの相手もしているのだから。自室で一息つくと、必ず姉さんはお邪魔してきた。

 姉さんは全員合格のために合格奔走しているおれを労うと、頑張っているおれへのご褒美だと言って抱きしめてきた。

 嗅ぎ慣れた姉さんの匂いに包まれる。そうして頬が胸に沈むたび、背中にしなやかな細い腕が回されるたびに、その都度、夏の実姉の言葉が去来した。

 露骨な恋だった。稚拙な愛だった。おれは幼いころの気儘に暴力を奮い、おれを私物扱いし、思い出したように優しさを見せる気まぐれな姉さんが好きだった。

 けれども時は無情にも少女を女に変えてしまった。姉さんがおれに優しくなったのは、姉さんなりに、おれの理想の女性を想像してそうなろうとしたからだろう。まるでない母性を豊かな胸で懸命に演出しているのも、おれが親元を離れ、肉親の情を欲していると思ったからだろう。

 

 だが、それは大きなまちがいで、おれは人に褒められても素直に喜ぶことができない人間であり、優しくされるとむしろ戸惑う人種であった。

 おれへの好意をあからさまにしながら、姉さんのこういった行動におれはよく失望させられた。それでもおれは姉さんから離れられずにいた。性欲が湧いたからではない。

 おれを好いてくれる姉さんの慕情に何か報いてあげたい感情が、胸を打って強く心に働きかけた。

 おれは身じろぎして、姉さんの慈しむような眼を見上げた。

 

「どうした?」

「姉さん、なにかしてほしいことある?」

 

 姉さんは一瞬きょとんしてからいたずらっぽく笑った。

 

「ふふ、ならキスしてほしいな。なーんて」

 

 本心を冗談で茶化そうとした姉さんの隙をついて、姉さんの腕をほどき触れるだけのキスをした。自分のそれとは異なる体温と柔らかさを唇に感じた。

 目を瞑っていたからその時姉さんがどんな顔をしていたのかは分からない。離れた時には惚けた表情で熱い息を吐いていた。おれは舌で姉さんの残滓を舐めとった。

 

「ほ、本当にするなよぉ」

「しろって言ったのは姉さんじゃないか」

「そうだが……」

 

 姉さんは困った顔をしてためらいがちに視線を何度もおれの顔と胸元を行き来させた。おれはそれをじっと眺めていた。

 姉さんは見るからに上気した頬を気の毒なくらい赤くしていた。対しておれはひどく落ち着いていた。

 

「昔、ふざけてキスしたね」

「子供のころの話だぞ、それ。もう私たちは、あのころとはちがうだろ」

 

 姉さんは声を震わせていた。低学年の時に見ていたドラマの真似をして姉さんが戯れに試したのだ。おれはキスに驚くよりも、それ以前に実姉が同じくテレビに影響されておれにキスしたこととの相似に、女性は発想が似通うのだと感想をいだいた。

 おれはキスが特別なものだと思えなかったし、あまり感じるものがなかった。けれども姉さんは期待を込めた眼でおれを見つめた。

 震える長い睫毛と吐息がおれの肌を舐めた。形の良い唇が物欲しげに動き、固く結ばれたかと思うと、艶めかしく白いのどが動いた。生唾を呑む音がはっきりと聞こえた。

 

「せ、千……」

 

 名前を呼ばれたが、おれは何も答えることなく、ただ姉さんの眼を見つめていた。

 姉さんの眼はしばらく迷う素振りを見せたが、その長くしなやかで美しい腕でそっとおれの肩に触れた。

 また姉さんは問いかけるような眼差しをおれに向けてきた。おれはかすかに微笑み、目を閉じて顎をあげた。息を呑む気配がして、姉さんはおっかなびっくりとキスしてきた。

 姉さんのキスは先ほどのおれのそれよりも深く、唇をしずめた。姉さんは微動だにしない。抑えた震える鼻息があたたかい。

 息を吐き終えると、姉さんはゆっくりと離れた。長い一呼吸分のキスだった。

 目を開けると、胸が動くのが分かるほど息を荒げている姉さんがいた。瞳には御しきれない情欲が灯っている。

 するりと腕がおれの首に回り、今度は歯と歯が音を立てるほど深くキスをしてきた。当たる鼻息は激しく一切加減がなく、姉さんの開いた唇はおれのそれを食むように動いた。

 

「千……千……」

 

 もう一度離れた時、姉さんはおれの両肩を力強く掴み、おれに必死に何かを問いかけているかのように据わった瞳で凝視した。背後で赤いオーラが立ち上っているような気炎を空目した。その先を期待して、タガを外して欲しくて堪らないようだった。

 あまりにもがっついている姉さんの変貌ぶりに驚きつつ、おれは返事の代わりに右手で姉さんの髪をなでた。

 

「……! 千ッ!」

 

 姉さんの眼から理性が掻き消え、おれは押し倒された。

 

 

 

 心は姉さんを受け入れていて、されるがままだった。

 

 

 

 体は巴投げで応戦していた。

 

「あ」

 

 気づいた時には姉さんは押し倒した勢いに投げの力が加わって、凄まじい速さで障子を突き破り、中庭の雪原をごろごろと転がり、塀にぶつかってようやく止まった。

 姉さんは雪だるまになっていた。火照っていた肌を冷気が冷ましてゆく。振動でどさりと塀の上から落ちた雪が雪だるまにトドメをさした。

 断っておくと、これは長年に渡る姉さんとの喧嘩で染みついた反射的な行動であって、意地の悪い意図があったわけではない。

 通常の巴投げとちがい、投げと同時に足で吹っ飛ばすのも態勢を立て直す時間を稼ぐための手段であって、この惨状を生み出すために演出したわけではない。

 

 何故こんな運命になったのだろう。おれは世界に問いかけた。

 

 それからはもうぐだぐだだった。

 

 

 

 

 

 

 あれから、おれはいじけた姉さんを宥めようと一晩中慰めた。

 いかがわしい意味ではなく、お化けの話をされた時のように気落ちして本当に泣いたので、胸を貸して抱きしめながら背中をさすり、頭を撫で、おれが如何に姉さんを慕っているか、あの巴投げが故意ではなく事故であるかを語って誤解を解いた。

 それから時は流れ、一月も終わろうとしていた。姉さんが少し変わった。

 先日のキスで、キスは許してもらえたと捉えたらしく、積極的にキスを求めてきた。おれも拒まなかった。

 躊躇いがちに唇を割ろうと舐める舌も、また拒まなかった。けれども、それ以上は決して手出ししなかった。姉さんもまた、それより先に進もうとしなかった。

 そうしてキスを終えたあとに名残惜しそうで、切なげな、なにか訴えかけるような眼で姉さんはおれを見つめてきた。

 

 姉さんは先に関係を進めたがったが、このあいだ巴投げでおれに吹っ飛ばされたことで、キス以上の関係を許してもらえないと思っていた。

 だからキスで妥協して、けれどもおれが欲情することを期待して、おれに許しを得たがっていた。

 おれはそれが分かっていて、オナニーを知った男子中学生みたいにキスしてくる姉さんを受け入れて、そしてあえて何もしなかった。

 物足りない顔をする姉さんが見たかった。おれはこの感情が、年上の女性が童貞をからかって反応を楽しむのと同じ心境であると勘付いた。

 

 勘付いたおれは、おれと姉さんの立場を逆にしてこれをされたかったのだと悔しくて悔しくて歯ぎしりした。

 だってそうだろ? 相手の意見なんて無視して傍若無人に理不尽な要求をして勝手気ままに振る舞うのが姉さんなのに、なに年下の童貞に手玉にとられてんの?

 押し倒せよ! 裸にひん剥いて、抵抗するおれをビンタして言うこと聞かせて、手足を縛りつけて、無理やりされているのに勃起しているおれを言葉攻めして、もう滅茶苦茶にして写真撮って脅して奴隷にするのが姉さんじゃないのか!?

 なぜこうなった……おれは絶望した。ツーカーの仲には程遠い。

 おれが眉間にしわを寄せて、縁側から薄っすらと雪化粧した中庭を眺めているとジジイとルーさんが近づいてきた。

 

「難しい顔をしておるのう。考え事か?」

「おれにだって悩み事くらいあるさ」

「うむ。悩める時間があるのも若い者の特権じゃからな」

「大人になってからの方が悩み事は増えるものじゃねえの?」

 

 吐いたため息が白く染まる。縁側は暖房がきいていない。外気とさほど変わらない寒さなのに二人は袴とジャージだった。

 たしかに気を使えば余裕で耐えられるが、平素くらい気候に合わせた格好できないものかね。

 おれはまた説教かと身構えた。

 

「悩みは増えるが、悩めなくなる。そういうものじゃ」

「ふーん。それで、何か用?」

 

 おれはぞんざいに返したが、ルーさんも特に咎めることなく、ジジイが切り出した。

 

「おぬしがここに来てからもう九年になるかのう。昔はモモと姉妹のようじゃったが、今は立派に男らしくなった」

「はあ」

 

 たしかにショタ時代のおれは二人の姉が第二次成長期の到来を惜しむほどキュートだったが、それがなんだ。

 

「春には高校生になる。それで提案なんじゃが、これを機に一人暮らししてみる気はないか?」

 

 なんだとうとう厄介払いする気になったのか。おれが口にするより早くルーさんが口を挟んだ。

 

「言っておくガ、千を疎んじているつもりは一切ないヨ。ただ良い機会だと思ってネ」

「義務教育が終わったから放り出したくなったわけじゃないなら、姉さんか?」

「ご明察のとおりじゃ。千は話が早くて助かるわい」

 

 ジジイは好々爺めいた笑顔で頷いた。少なくとも百歳は生きていると思われるのにしわが少ないのが返って漫画の仙人めいた珍妙な風貌を際立たせていた。

 やっぱり姉さんか。おれは納得して二人から視線を外した。最近の姉さんの色ボケぶりは目に余るものがあったからなあ。

 

「先に言っておくが、儂は千を孫のように思っておる。なにより人様から預かった子じゃ。儂にはおぬしを立派に育て上げる責任がある。じゃが、今回ばかりはそうした方がいいと思うのじゃ」

「おれは姉さんを邪魔だと思ったことはありませんが」

「そういうがネ、千を寝る時しか一人になる時間がないくらい束縛しているだろウ?」

 

 申し訳なさそうにルーさんが言った。

 

「あれは千が来てから精神的に落ち着いた。モモにとって、千は己の欲求不満をすべて受け入れてくれる存在だったのじゃろう。よくあの我が儘と戦闘衝動に付き合ってくれたものだと、儂はおぬしに感謝しておる。おぬしもモモのせいで歪むかと思ったが、友人との出会いでずいぶんと変わった。

良い友達を持ったのう。ぶっちゃけ、以前のおぬしはモモより危うかったぞい。まあ、今のサボり癖がついたのもどうかと思うがの。どうして極端から極端に流れるんじゃ」

「うっせーな」

 

 小さいころの修行キチだったおれは、言うなればオナニーを知らないのにおちんちんがこすれると気持ちいいことに気づいた小児性欲の萌芽であって、女の子が一輪車やのぼり棒を好むのと同じだって。

 おれが憤慨しているのを流してルーさんが続いた。

 

「でモ、百代は良くないネ。千に依存し過ぎているヨ」

「そう見えますか?」

「間違いなくネ」

 

 断言されて、おれは京に言われた予言が脳裏を過った。

 

「これまで千はモモの求めに何でも応えてきたじゃろ。モモは幼少期から自分と切磋琢磨できる才能を持つ千が、思春期には自分の理想的な男に育ってくれたものだから、今度は恋愛でも自分の求めている通りに動いてくれると思い込んでいるのじゃ」

「ワタシたちも子供の恋愛に口を挟みたくはなイ。けれど、受験生の千を四六時中縛りつけるのは頂けなイ」

「元はと言えば、監督責任を果たさない儂らが悪いのじゃが、言ってもきかんからのう。高校生活は千の将来に大きく関わる。千が自分の進みたい道をじっくり考えるためにも、モモとは引き離した方が良いと思うのじゃよ」

 

 おれは口元に手をあて思案する素振りをした。そんなにおれは姉さんに甘かったか?

 最近は反抗期を演じて姉さんには辛辣だった覚えがあるだけに、依存していると言われても首をかしげてしまう。

 だが、おれの将来を案じているのは確かだった。引っ越し騒動もあったし、一人暮らしをしてみたい気持ちも確かにあった。

 

「……分かった。いいよ。あ、でも二人に知らせるのは受験が終わってからにしてくれ」

「初めからそのつもりじゃ。すまんのう。……時におぬし、もう少し言葉遣いどうにかならんのか? なぜルーには敬語で儂にはタメ語なんじゃ」

「川神学園の体操服のブルマの色、紺から赤に変えたら考えてやるよ」

「未熟者めがッ! ブルマは紺が至高だと分からぬかッ! スク水も白などもってのほかッ! 紺色のエロスを分からぬものに女を語る資格なぞないッ!!!!」

「総代、そういうところだと思いまス」

 

 

 

 

 

 

 二月十三日、川神学園の受験も終わり、公立受験を控えている者はともかく、風間ファミリーの面々は受験が終わった解放感と合格発表を前にしたそわそわした気持ちに踊らされていた。

 ガクトなどはバレンタインデーを前に、チョコへの期待で気持ち悪くなっていたが、モロや大和などの余裕なメンバーは解放感でハイになっているようだった。

 各自担当していた教え子の三バカトリオの合否が気になるものの、全員手ごたえはあったとのことなので大丈夫だと思う。

 

『……というわけで、ファミリーへのチョコは金曜集会のある15日に渡す手筈となりました』

「辛いのいれるなよ」

『それはフリ? フリだよね?』

「入れたら大和に、京はチョコに髪の毛や愛液混ぜる異常性癖だって言いふらしてやるからな」

『なんて外道。でもそれが大和には愛の深さだと伝わるはず』

「はあ……」

 

 目前に迫ったバレンタインデーに京は帰って来られない。それで金曜集会で女性陣は義理チョコを渡すことになったらしく、その報告を京から受けた。

 おれは憂鬱になった。もしガクトが学校でチョコをひとつも貰えなかったら、やさぐれながら義理チョコを受け取ることになるだろう。ついでにキャップ、姉さん、おれの貰ったチョコを晩御飯がわりに処理することになる。あれはとても申し訳なくなるのだ。

 大和は義理も本命もちょくちょく貰っているようだが、ガクトとモロは……美少女三人にもらえるのだから比較的恵まれていると思うのに、やはり満足できないのだった。

 

『ワン子とモモ先輩は、今日か明日に必死こいて作る予定だから、劇物作らないか千が監視してね』

「なんで男のおれが……まあいいけど」

 

 あんなのチョコを湯煎で溶かして型に流して冷やすだけなのに、どこに劇物が出来上がる工程があるのやら。まあ二人でも問題ないだろうが、京の言う通り、あの二人は運動以外の不安要素が多すぎるよね。

 不安になるのは分かるよ。

 

「――千ッ!」

 

 と、思ったらワン子が息を切らして部屋に入ってきた。廊下を走る足音が轟いていたのですぐ分かったが、鬼気迫る表情をしていた。

 おれは携帯を耳から離して言った。

 

「どうしたのワン子」

 

 おれはてっきり、明日がバレンタインデーなことを失念したワン子が慌てておれに縋ってきたのだと思った。クラスの男子に配るチョコを作る手伝いをしてくれと頼まれるのだと思っていた。

 

 だから、大股で距離を詰めてきたワン子が、再びビンタしてくれるなんて思いもよらなかった。

 

「……Why?」

「きいたわよ、千。一人暮らしするって」

 

 ワン子様・ワンスモア。アイリメンバー・ワン子様。ドゥユーリメンバー・ワン子様。

 おれはぶたれた頬を抑え、夫に殴られて呆然としている妻のような弱弱しいポーズになり、お怒りになったワン子様を見上げた。

 ああ、ジジイから一人暮らしの件をきかされて……おれは得心しながら、悦びに打ち震えていた。

 

「そ、そうだけど、ひどいよ! どうしてぶつんだよ!」

「アタシ、前にも言ったわよね。引っ越しちゃダメって」

「う、うん。でも今回はジジイが」

「アタシはダメって言ったのよ、このバカ豚!」

「うああっ!」

 

 おれが左の頬を差し出すと、ワン子様はすかさずビンタした。

 

「やめてよ! どうしてこんなひどいことをするんだよ! お願いだから話をきいて!」

 

 おれは必死に訴えかけるふりをしながら両頬を差し出した。ワン子様は力強く往復ビンタした。

 おれは辛抱堪らなかった。

 

「はあっ……はあっ……!」

「アタシだってこんなことしたくないわよ! でも千が……この!」

 

 気持ちのこもった渾身の一発が決まり、おれは上体をよろめかせ、両手を畳について荒い息をこぼした。

 

「くぅ……! も、もっと……」

「そこまでじゃ!」

「!? お、おじいちゃん!?」

 

 おれが無意識におねだりしようとしたその時、ジジイが乱入してきた。後ろに姉さんもいた。驚いたワン子の手が止まる。

 

「一子、千が家を出ることになり、それが納得いかぬのはわかる。だが暴力に訴えるのはいかん」

「で、でも前は……」

「私だって寂しいさ。でもな、ワン子。千が川神からいなくなるわけじゃない。会おうと思えばいつでも会えるんだ。そこまで深刻にならなくてもいいだろ?」

 

 ジジイと姉さんがワン子を諭す。意外にも姉さんはおれの一人暮らしに反対しないようだった。

 三人で話し合って、ワン子だけ納得いかなくて、力づくでやめさせようとしたらしい。

 それからも説教が続き、ようやく納得したワン子が落ち込んだ表情でおれに頭を下げた。

 

「ごめんなさい、千。アタシ、千が家からいなくなると思うと、目の前が真っ暗になっちゃって……」

「ううん……おれも内緒にして悪かったし……」

 

 おれは名残惜しい気持ちを胸に秘めたまま、ワン子の手のひらを見つめた。

 まだ胸には熱い衝動が燻ったままだった。

 

 三人がいなくなってから、おれは途中で落とした携帯を拾った。当然だが京との通話はとっくに切れていた。

 しかし、メールが一通届いており、フォルダを開くと京から無題で、こう綴られていた。

 

『プレイ中くらい通話切れよ キモいんだよ豚』

 

 おれは電話でそう読み上げてほしかったと返信した。

 返事はかえって来なかった。

 



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そしてあたりさわりもなく彼らは高校生になる

 

 四月を目前にして、姉さんと九鬼揚羽さんの死合いが行われようとしていた。

 月下の川神院で対峙する二人の雄姿は、神々しくもあり、また美しい。

 真珠のように澄み切った月の光の海に漂う二人の闘気は真冬の冷気のごとく肌を刺した。

 まちがいなく世界の頂点にいる武人同士の決闘に、おれは立会人の一人として立たされていた。

 実際に取り仕切るのは川神院総代・川神鉄心だが、おれは是が非でも間近で二人の闘いを見ろとジジイに命じられて、この場にいた。

 

 おれは九鬼揚羽さんを初めて見たが、風貌に関しては凛とした意志の強そうな瞳が印象的な美人、強さに関しては川神院以外でルーさんくらい強い人を初めて見た、というのが率直な感想。

 姉さんが勝つ。真っ先に彼我の戦力差を比較して、早くもそうおれは断じていた。それよりも九鬼の人は本当に額に×印つけてるんだなあ、と庶民的な感想が思考の上澄みに先んじた。

 というか何で制服着てんだろう。そんな恰好で動いたらパンツ見えるよ。こんな事を神妙な顔して考えているおれは絶対に武人ではなかった。

世の武に携わる者なら、この決闘を前にすれば血沸く興奮にさらされる筈なのに。

こういうところで、おれはつくづく自分が農民の子で代々武士の家系の生まれではないと思い知らされるのであった。

 まあ、戦国大名や武将の子孫という連中の中には直系か怪しいのがいるが、傍流だろうが武家は武家だ。

 おれは落ち武者狩りをする農民の心境に想いを馳せながら、二人の死合いを目で追っていた。

 

 ……闘いは終始、姉さんの優勢で進んだ。この死合いを最後に引退して仕事を優先するらしい揚羽さんとの拳の交わりを惜しむように、姉さんは一挙手一投足を瞬きもせず、とても楽しそうに拳で語り合っていた。

 楽しむかぁ……おれは楽しめそうにないな。おれの場合、痛めつけられての楽しいであり、それも喜ぶじゃなくて悦ぶっていやらしい字になる。

 修行だって、その過酷さ、辛さ、痛みが癖になり、病みつきになったから真っ当な人が危険視するほど夢中になれたのだ。酸素が足りなくて喘ぐように息を吐くことが鞭に、吸うことが飴になり、動けなくなるほど限界まで鍛え上げて這いつくばる自分の無様さに背筋がゾクゾクし、格上の人物に為す術もなく痛めつけられて嬲られるのが好きで好きで堪らなかった。

 釈迦堂さんに善戦できるようになってからは、修行がつまらなくなった気がする。釈迦堂さんは子供相手にも容赦なく叩きのめしてくれるから好きだった。いま思うと男に痛めつけてもらっても気持ち悪いだけだが、あのころは純粋に感触だけで悦に浸っていられた。

 童心に帰るというのは、こういうのを指すのだろうか。ちがうんだろうな。

 

 勝負は体感的には長く闘っている気がしたが、終わってから腕時計で確認すると意外にあっさりと決着がついていた。

 結果は姉さんの圧勝だった。瞬間回復を使うまでもない、純粋な力量差が勝敗を分けた。

 ま、予定調和ではある。あの人、初見の技を放たれる過程で見切って反撃してくるから、単純に重くて速い技の応酬でダメージを与え続けるしかないんだよね。

おまけに苦労して削っても瞬間回復して全回復するんで徒労感が凄まじい。ジジイが過去に稽古にて、電撃を纏った手刀で回復を司る機能をマヒさせる手を使っていたが、それ喰らっても姉さん平気だったし、何発撃ち込めばいいのって話で。

 世界最強の武闘家に上り詰めたジジイでも、瞬間回復ありだと手詰まりになるのを見て改めて思う。やっぱラスボスがベホマ使うのは反則だわ。攻守カンストしてるくせに直接攻撃のみ有効で守備力下がらないってふざけてるよね。急所も効かないから長引いて面倒なんだよなぁ。回復薬で薬漬けになっても立ち向かう勇者はよくやるわ。

 

 姉さんと九鬼揚羽さんは決闘が終わってから、二人で何やら話し合っていた。お互いに思うところがあるのだろう。

 深甚な様子で向き合う二人のあいだに入れず、ただそれを眺めていると、立ち合いを務めていたジジイが静かに歩いてきた。

 

「どうじゃった、あやつらの仕合を目の前で立ち会ってみて」

「綺麗な決着だったね。九鬼揚羽さんの散り様、楽しそうに見えたけど、武人としての未練が垣間見えて儚かった」

「そういう感想を求めているのではないんじゃがのう」

 

 ジジイはため息混じりに言う。おれは長い話が始まる前に口火を切った。

 

「武人としての意見を求めてるなら無駄だよ。おれ、こういうのを大晦日に見る総合格闘技と同じ感覚で観てるから。胸が滾るとか、闘ってみたくて疼くとか、そういう気分は全くない」

「……競争心に欠けておるのぉ。野心、向上心こそ人を成長させる原動力じゃ。その道で好敵手との出会い、競い合うことで人は大成する。百代にとっておぬしは良き好敵手であったが、千にとって百代はそうはなりえなかったか」

「おれ、闘いよりも人の死に様を見るのが好きなんだよ。項羽の四面楚歌からの自害や弁慶の立ち往生とか、高橋紹運、大谷吉継みたいな。戦いよりもその最期に想いを馳せて散る姿に美学っていうか、憧れを感じるんだわ」

 

 おれは視線を外して姉さんと九鬼揚羽さんを見た。まだ二人は話していた。

 

「ぶっちゃけさ、おれの武闘家としての才能ってどうなんだ?」

「なんじゃい、藪から棒に」

「いいから言ってくれ。あぁ、気を使わないで、ばっさり酷評してくれていいよ」

 

 ジジイは怪訝そうだったが、普段は閉じている眼を険しく眇めておれを見つめながら言った。

 

「……才能だけでいうなら、儂の見てきた者のなかでもピカイチじゃ。まさか儂が生きているあいだに釈迦堂を超える才能の持ち主が再び現れるとは思わんかった。どの時代に生まれても、その時代の頂点に立てる逸材じゃろう。事実、現時点でもおぬしに勝てる者は儂やヒュームのような爺を除けばおらぬ。紛れもなく不世出にして至高の才じゃ。

 ――同時代に百代が生まれていなければの」

「まあ、そんなもんだよな」

 

 おれはあっけらかんと現実を受け入れていた。おれの才能は姉さんに遠く及ばない。これは体が成長したころから感じていたことだった。

 ルーさん曰く、姉さんの強さはようやく覚醒し始めたばかり。対しておれは第二次性徴で体格が大人になって、伸び幅が拡大しても姉さんに未だ届かない。

 おれが地球リーグで無双して満足してるのに対して、姉さんは宇宙リーグでMVP取って称賛されてる。そんなレベル。

 つーか、人生で姉さんに勝ったこと一度もないし、初めから差は歴然だったような気がする。ただ人間的な総合力で肉薄できるから善戦できていただけで、武人としての能力では……

 

「千、まさかその歳で天井が見えたなどと抜かすわけではあるまいな?」

 

 諦観をにじませていたおれを鋭い目でジジイが射抜いた。おれは気まずくなって頬を掻いた。

 

「なまじ頭が良いばかりに、すぐ物事を知ったふうな気になって満足するのがおぬしの悪い癖じゃ。おぬしがどこまで伸びるかなど誰にもわからぬわい。その才を活かして輝かしい功を成すのも、錆びつかせて腐らすのもすべて千の心もち次第じゃ。

 じゃが、悪事をはたらくことは許さぬぞ。モモも同様、おぬしらが邪悪に堕ちれば儂が命がけで止めるからの」

「大袈裟だなぁ。心配しなくても親不孝はしないさ。努力することそのものに意味があるのも分かってるよ」

 

 努力は簡単なようでいて、継続することは何よりも難しい。教師がよく部活を頑張れたものは勉強も頑張れると受験シーズンになると言うが、これは努力のコツを知っているからだ。

 なにかひとつにさえひたむきに打ち込めないものは、なにをやらせても長続きしない。怠惰の誘惑に打ち勝つのは、長くそれに浸っていた奴ほど難しい。

 今まで頑張って走っていたやつは、前が坂道になっても走り続けるが、休んでいたやつは前が下り坂でも、ゴールまでの道のりが短くても自分からは走ろうとしないものだ。

 ワン子など良い例で、あの子は武道以外の道でも努力で成功すると太鼓判が押せる素質を持っている。全力で走っている分、転んだときに起き上がるのが大変そうだが、それでも必ず立ち上がるだろう。

 そして悪い例がおれなのだが、努力以前に自分がなにをしたいのか、おれには将来のビジョンが全く見えず、加えて主体性がないため努力の方向性さえ定まっていないのであった。

 鍛錬をサボってまで世俗的な価値観に迎合してキャップの伝手で様々なバイトに手を出して、やりたいことを探してみたはいいが、どれもしっくりこない。ぶっちゃけおれが世の中を一番舐めている。なりたい職業も夢もないし、なんなんだおれは。

 

「まあ、儂から堅苦しい話をしておいてなんじゃが、そう思い詰めることはないぞい。武力にぶーすとしたモモとちがって、千はあらゆる分野に秀でておるからのう。おぬしは選ぶ側の人間じゃ。じっくり考えなさい。相談にならいつでも乗るからの」

 

 思考が顔に出ていたのか、ジジイが優しい声色で言う。ワン子やおれに見せる孫想いの爺さんのような笑顔で接するときと武道家としてのジジイは、素直に尊敬できた。

 肝心なのはここからで、ジジイは少し見直したおれに露骨なため息をついてから言った。

 

「にしても、神様ももうちーっとばかし、モモの胸の栄養を頭に回してもよかったと思うんじゃが、千はどう思う? 女としては良いと思うが、人の上に立つにはもう少しばかり学が必要だと思うんじゃが」

「聞こえてるぞ、ジジイ。小学生の千に巨乳はバカって吹き込んだのやっぱりお前だな」

 

 いつの間にか背後に現れていた姉さんがジジイの頭を叩き、そのまま二人は喧嘩をおっぱじめた。

 あれわざとやってんのかな。ジジイの評価がちょっと上がるたびに次の瞬間にはジェットコースターの如く暴落する現象に名前をつけたい。

 殴り合いながら段々と宙に浮いていく二人を見上げていると、九鬼揚羽さんがボロボロの体を引きずりながらこちらに向かってきていた。

 

「動いても大丈夫なんですか?」

「ああ、大事ない。……お前が三河千か」

 

 頬や足に見える擦り傷やら青アザが痛々しい九鬼揚羽さんは、おれと目が合うと、少し間をあけてから豪快に笑った。

 

「フハハハハ! 噂通りの美男子だな。あの百代が夢中になるのも頷ける。そういえば自己紹介がまだだったな。九鬼揚羽だ。揚羽、と呼んでくれてかまわんぞ」

「三河千です。噂はかねがね聞いています」

 

 差し出された手を握り返す。気丈に振る舞っていたが、やはり痛そうだったのでベホマをかけておいた。

 たちどころに傷が癒え、揚羽さんは目をぱちくりさせていた。手がするりと離れる。揚羽さんは信じられない様子で自分の体を注視してから不服そうにおれを見た。

 

「……これが噂の瞬間回復か。信じられんな。闘う前よりも調子が良いではないか。……我は死合いの余韻としてこの傷にしばらく浸りたかったのだが」

「あれ? おれ余計なことしました?」

 

 どうも武人の気持ちがわからないので、良いことをしたつもりでも裏目にでるようだ。

 きまりが悪い空気になったが、揚羽さんは包み込むように微笑んだ。

 

「いや、驚きと感動で吹き飛んでしまった。素晴らしい力だな。傷だけでなく体力、気力まで全快とは。今すぐもう一戦臨みたいところだ。百代はこれを使えるのか……ずるいな」

「ずるいですよね。ラスボスならまず『よくきたな、体力を全回復させてやろう』と言う器量と直前でセーブポイント設ける良心が必要なのに、あの人わかってないんです」

 

 おれは茶目っ気たっぷりにボケたが揚羽さんはこれをスルーした。

 

「お前は自分だけでなく他人にも使えるではないか。いったいどこまでの怪我なら治せるのだ?」

「んー、試したことはありませんが、たぶん体からなくなったものは治せません。血液だとか四肢の欠損とかは無理です。くっつけることはできると思いますが」

「……なるほど。興味深いな。ヒュームがお前を褒めていたのも納得だ。我は以前から会いたかったのだが、百代が渋って機会がなくてな」

 

 揚羽さんが眉尻を下げた。揚羽さんがくるたびに姉さんに風間ファミリーと遊んで来いと放り出されてたが、なんだ。揚羽さんにおれをとられるとでも思ったのかな。

 

「まったくあやつは……百代には我が土をつけてやりたかったのだが、我が一伸びる間に五も十も伸びよる。敗北を知るのも糧になるものだが、それが必要か悩む域に達したな、百代は」

 

 ジジイと殴り合っている姉さんを遠目に見る。おれとジジイが事前に張った結界が被害を防いでいるけど、そのジジイが抜けたからそろそろ壊れるかもしれない。

 視線を戻すと揚羽さんはおれを見ていた。眼には多分の期待がこめられていた。

 

「お前では勝てぬのか」

「無理です」

 

 おれは即答した。揚羽さんは納得のいかない様子で眉根をよせた。

 

「ヒュームはお前を次世代筆頭の逸材と買っていたが」

「ジジイ同士の自慢大会でしょう。川神鉄心の孫の姉さんに対抗して、『ワシが見出した』っておれを引き合いにだしてるんですよ」

 

 どうしてか人は年をとると自分を誇るのではなく息のかかった下の人間で見栄を張りたがる。

 ジジイは姉さんが誇らしいどころか悩みの種になっているが、あの赤子おじさんは田舎でおれを見つけて川神院に預けたいわば発見者だから、おれが如何に優れているか主張してどや顔したがるのだ。

 そして不甲斐ないと理不尽に怒るのである。つーかあれ以来会ってないんだが、どうしてそこまで過大評価できるんだか。

 

「ヒュームにそこまで言われるなど滅多にないぞ。武人としてはこれ以上ない誉れであろうに、お前は嬉しくないのだな」

「褒められるのに飽きてるんです。揚羽さんも初対面のおれの容姿を褒めたでしょう。みんなおれを褒めそやすもので、どれだけ偉い人に称賛されても何のありがたみも感じないんですよ」

 

 ただし妄想のなかのご主人様、女王様からのご褒美は除く。

 意訳すれば「お前らに褒められても嬉しくねーんだよ」と失礼極まりないことを言っているのだが、揚羽さんは豪放磊落に高笑いした。

 

「フハハ! おかしなやつだな。我など褒められるのは誰であっても嬉しいものだが、ふむ。そういうものもいるか」

 

 器でかいなー。大財閥の長女となると懐が広くないとやっていけないのかねえ。ラーメンを食べて「こんなに美味しいもの食べたことないですわ!」と仰るステレオタイプを想像していただけに意外だった。

 三大欲求に正直で刹那的な姉さんと比較して、姉度を示す指数があったら姉さんは遥かに負けてるだろうな、と益体のないことを考えていると、揚羽さんから名刺を渡された。

 

「我の名刺だ。怪我を治してもらった礼に、何か困ったことでもあれば相談に乗ってやろう」

「はあ、どうも」

「まあ、スカウトも兼ねている。鉄心殿から将来が未定と聞いてな、それなら誘ってみるかと思っていたが、会ってみて気が変わった。是非ともお前がほしい。その力、九鬼で活かせ」

 

 求められている力が武力なのか知力なのか能力なのか検討がつかなかったが、この場合は能力の方か。

 九鬼財閥に就職したら家族も喜ぶかな……家族の期待値に応えられるか勘定しつつ、名刺をじっと見ていると、いつの間にか揚羽さんの背後に姉さんが立っていた。

 

「あのー、揚羽さん。私がいなくなった途端にうちの弟を誘惑しないでもらえますか?」

「将来有望な若者の選択肢を増やしているだけだ。……百代も、もう少し弟離れした方が良いな。姉バカにも程があるぞ」

 

 縄張りを荒らされた肉食動物みたいな姉さんに揚羽さんが呆れ顔になった。やりあっていたジジイはわりかし平気そうだった。

 まさか第二ラウンド開始とかないよな。深夜でもう眠いんだけど。

 そんなことを考えていると、正門から誰かが走ってきた。

 

「揚羽様ぁぁぁあああっ! 死合いが終わったときいて迎えにきましたっ! 揚・羽・様ぁぁぁぁぁっ!」

 

 つんつん髪の執事服をきた青年が大声を張り上げた。おれの眠気は吹き飛んだ。姉さんとジジイが白い目を向けた。

 面識はないが、一目で九鬼の従者とわかる彼を見とめて、揚羽さんは嵐の前の静けさを思わせる声で言う。

 

「……小十郎、いま何時だ?」

「はっ、午前零時半です」

「ならもっと静かに迎えに来ぬかッ! 近所迷惑だろうがこの馬鹿者がぁ!」

「ぐはあぁぁっ! 申し訳ありません揚羽様ぁぁぁ!」

 

 いや、主従共々うるさいですからね?

 でもミスすると揚羽さんに折檻してもらえるのは羨ましい。おれならわざと失敗して殴ってもらう。

 きっと小十郎さんは同志なのだろう。発言するたびに殴られて星になる彼をみて、おれはとても親しみを感じた。

 

 余談だが、帰る際に揚羽さんに弟をよろしく頼むと言われた。

 おれは九鬼の人はキャラが濃いから風間ファミリーの男の影が薄くならないかと危惧して高校生活が不安になった。

 



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川神学園 一年生編
限りなく変態に近い普通


 川神学園の制服に袖を通しての感想は、汚れが目立ちそう、だった。

 真っ白の制服は陽光にきらめく無駄に爽やかなデザインをしており、私立っぽい自由な印象を受けた。

 洗面台の鏡に映る自分はそれとなく気障っぽい。眉にも髪型にも田舎臭さ、芋っぽさもない。血の繋がったがり勉時代の女子高生だった実姉は顔立ちはともかく、容姿は垢抜けていなかったのに、これが都会で育った影響なのか。

 そういえば川神育ちのおれは当然として田舎で育った実姉も方言が話せなかったりするが、これはネット世代と教育が影響しているのかも。兄はバリバリ訛っているが、あれは育ちが悪いからだろうし。

 川神では神奈川弁を話している人もあまり見ない。というかおれには神奈川弁と若者言葉の区別がつかない。~べ、はともかく~じゃんとか、「違う」をちげー、「かったるい」

をたりーとかは若い人ならみんな使っている印象があった。

 人口が多いところの影響力は怖い。

 

 おれが身なりを整えてリビングにいくと、既に制服を着こんだ姉さんがだらしない恰好で寝そべりながらテレビのニュースを観ていた。

 

「ずいぶん着替えるの遅かったな。なにしてたんだ?」

「鏡に映った自分に見惚れてた」

「うわ、ナルシストだなこいつー」

 

 と言葉では蔑みつつも姉さんは満更でもなさそうだった。制服姿のおれを気に入ったのだろう。

 昨夜、姉さんとワン子がおれのマンションに遊びに来て泊まっていった。一夜にして冷蔵庫を空にしていった。夕食後、おれは調味料だけが残された冷蔵庫を前に立ち尽くした。

 姉さんがおれの一人暮らしに反対しなかった理由は、予想がついていたが、川神院とちがって人の目を気にすることなくおれと二人きりになれるからだった。小うるさいジジイとルーさんの目が届かない空間がよほどお気に召したらしく、姉さんはおれが越してからほぼ毎日のように遊びにきていた。

 ファミリーの連中も冷やかしにちょくちょく来ていたのだが、姉さんの頻度は抜けている。おまけに姉さんに随伴してワン子までやってくるため、先月の我が家のエンゲル係数は一人暮らしとは思えない高さを記録した。

 この二人は細いわりに健啖家だから食べる量が半端じゃないのである。そして出さなきゃいいのにおれは喜んで食べる顔が見たくて料理を奮発してしまうのであった。

 いい加減自重しなきゃならないか。

 

「しかし良い部屋借りたよな、高校生の身分で2LDKのマンションとか、お姉さん憧れちゃうなー。特に壁が厚くて多少は大声あげても平気そうなのがいい」

「でもここ事故物件だよ」

「うわわ、朝っぱらからそういう冗談やめろよー!」

 

 ジジイの紹介で引っ越した今の住居は、川神院にほど近く和洋五畳ほどの居室と八畳のリビングがある賃貸マンションだった。立地と設備のわりに格安だったので、おれは事故物件だろうと勝手に思っている。さすがにジジイもそんな物件を紹介しないだろうが、こう言っておけば姉さんの足がこっちを向く頻度が低くなるかもしれないから。

 実家がそこそこ裕福なので仕送りも潤沢なのに加えてキャップの伝手で奇妙なバイトもしているため、家賃は気にしていなかったが助かった。

 

「あいつらも家出てる時間だろ。ほら、行くぞ」

 

 事故物件の話にビビったのか、おれの腕をひいてそそくさと家を出る。オートロックって便利。実家、川神院と和風の家で育ったおれは引っ越した時、ちょっとばかしカルチャーショックを受けた。

 おれたちは早朝の朝練をこなしてからマンションに戻ったのだが、ワン子は体操服でタイヤを引いて走り込みにいったので二人で登校だ。

 

「やっとファミリー全員で同じ学校に通えるな」

「そうだね」

 

 おれの首に腕を回してぐでっとぶら下がっている姉さんを引きずりながら道を歩く。すれ違う人に見られているが気にしない。

 姉さんは学年がちがうし、京に至っては住んでる都道府県までちがった。そのファミリーがまた同じ学校に集うのは感慨深いものがある。

 姉さんは一人だったし、なんだかんだ寂しかったんだろうな。

 

「あれー、三河君にモモ先輩。おはよー、二人そろって登校?」

「おはよ、そだよ」

「おお、制服カワイイなチカリン。ふふ、そうだぞー。最近の私は健気な通い妻なんだ。今日も千のマンションから朝帰りして、家で制服に着替えてからわざわざ迎えにいってあげたんだ」

「健気な通い妻は男に朝起こしてもらった上に料理まで作ってもらうんだね。えらいなー」

「あははは……はぁ、ずっとべったりだなぁ」

 

 仲見世通りにある老舗和菓子屋の看板娘、小笠原千花さんが挨拶をしてから、少し悩ましげな顔をして先にいった。

 近所なので仲見世通りにはしばしば足を運んだことがある。その際に何度か話した程度の、顔見知りという表現がしっくりくる女の子。売り子姿しか見たことがなかったが、女子制服に身を包むとそこらの女学生から抜きんでた高めの女って感じのオーラがあった。

 あのコは人気出るだろうなぁ。容姿で京やワン子にひけをとってないし。なんて考えながら姉さんを引きずっていると、河川敷で島津寮組とモロと合流した。

 

「おーす、お前ら。今日から正式に私がお前らの先輩だ。敬い傅きひれ伏すがいい」

「普段と何も変わらねえじゃねえか!」

「機嫌いいなー、モモ先輩」

 

 ツッコミ役をこなせるようになったガクトとモロが上機嫌な姉さんに言う。そのセリフおれに言ってほしいんだけどな。

 

「あれ? キャップは?」

 

 鍛錬から戻ってきてないワン子はともかくキャップの姿もなかったので尋ねると大和が言った。

 

「昨日入学式が終わったあと寮に帰ってから『なめろうが食いたい』って言っていなくなった」

「まだ旬じゃないのになぜこの時期に……」

「日帰りで帰って来るって言ってたから大丈夫だろ」

 

 このキャップへの妙な信頼は何なのだろうか。まあ、キャップだし深く考えるだけ無駄か。姉さんは制服姿の京に興奮してちょっかいをかけていたので、おれはモロに声をかけた。

 

「モロ、このあいだはありがとう。パソコンのことわかんなかったから助かった」

「ああ、あれくらい全然いいよ。千にはおじいちゃんのことで世話になってるし。今度はボクおすすめの設定にしてあげるよ。千が良ければPCの弄り方も教えてあげるし」

「おい、モロロが暴走する前に止めろよ」

「千の家の無駄グッズまた増えたの?」

 

 姉さんに後ろから抱き着かれている京が言った。おれは越してから必要家電を買うついでに目についた必要かと言われれば決して必要ではない便利グッズのような家電やらを買いあさっていた。

 理由の半分は楽したいから。そしてもう半分は衝動買いである。その中のひとつにノートパソコンがあり、モロに相談したところコストパフォーマンスが優れているらしい一品を探して設定やらなにやら手取り足取り教えてくれた。

 なお用途はもっぱらエロサイト巡りである。胸を揉もうと伸ばした手を京に掴まれている姉さんが言う。

 

「うちに住んでたときは殺風景な部屋だったのに一人暮らし始めた途端にこれだもんな。まあ多機能シャワーヘッドやアロマは私も気に入っているから良いが、マンションでスピーカーとかいるか?」

「さあ。実家から一人暮らしに必要なものをこれで揃えろって送られてきたお金で手当たり次第買い込んだだけだし。まあロマンはあるよね」

「うーん、この小金持ち」

 

 京と姉さんがおれに白い目をむけた。むしろ今までが倹約してきただけなのに、集団生活から解放され自由の身となってから、好きに買い物して何が悪いのだろう。

 あと姉さんがシャワーヘッドを気に入ってるのってあれでしょ。オナニーに使えるからでしょ? 水圧を変えられるから刺激の強弱しやすいし、それにお風呂長いもんね。

 

「あとはワン子か」

 

 おれはブルマ姿で川神院から遠ざかっていったワン子の小振りな尻を思った。

 

 

 

 春はあけぼのと清少納言が言った。

 春は出会いと別れの季節と誰かが言った。

 また別の誰かが言った。春は変質者が増える。

 木の芽が芽吹くように。クマが冬眠から目覚めるように。彼らは桜前線より正確に日本に春の訪れを告げてくれる。

 多馬大橋、通称変態の橋を前におれは感慨深いものがこみ上げ、目を閉じた。

 かつてここで散っていった兵たちへ黙祷を捧げ、二度とシャバに出てくんなよと語りかけた。

 捕まる変態は二流だ。おれはもっと上手くやる。こんな公衆の面前でカミングアウトしてぶっ飛ばされる奴らとはちがう。奴らは変態の恥さらしだ。

 捕まる変態は悪い変態だ。捕まらない変態はもっと悪い変態だ。死んだ変態だけが良い変態だ。変態死すべし、慈悲はない。ただし、おれだけは除く。

 

「みんなー! おっはよーっ!」

 

 快活な声がして振り向くとタイヤを引いて走って来るワン子がいた。汗がきらめいている。修行って素敵。

 

「おはようワン子」と、モロが言った。

「高校の登校初日からよくやるぜ」と、ガクトが感心しながらも茶化した。

「カラダ動かし続けてないと鈍っちゃうのよ。あ、そうだ大和、小腹すいたから何か食べられるもの寄こしなさいよ」

 

ワン子は調子に乗っていた。大和はぎろりとにらんだ。

 

「まだ餌の時間じゃないでしょ」

「ひいっ」

「これ、甘やかされるのに慣れて増長しちゃってるよ。再調教が必要だね」

 

 京の冷ややかな視線がおれに刺さる。ワン子は大切に厳しく育ててきたつもりです。

 

「しっかし、みごとにバラけたな」

 

 ガクトが両手を頭の後ろで組みながら言う。クラス分けのことだろう。風間ファミリーは誰一人クラスメートになることなく一年生が始まった。

 

「千がSクラスだからガクトとモロ、ワン子は三年間千と同じクラスにならないね」

「あっ! そっか、毎朝千に宿題写させてもらえなくなっちゃうのね……」

「甘やかしすぎだろ」

 

 京がさらりとつぶやき、それを聞いたワン子がしゅんと肩を落とし、大和がおれをじろりと見た。こらワン子さん、あなたがしゃべるたびに私が怒られていますよ。

 京の発言が癪に障ったのかガクトが反論した。

 

「失礼なこと言うんじゃねえよ京。千が試験で五十位以内に入れなくて落ちてくるかもしれないだろ」

「自分が実力でSクラスに入ると言わないあたり謙虚だよね、ガクト」

 

 まあそれは二十五メートルのプールに時計の部品投げ込んでかき混ぜるだけで組み立てるくらい低い確率だろう。

 おれがSクラスになったのはジジイの意向によるもので、闘争心やら競争心が足りないから選民思想の強いエリートに囲まれて向上心を磨いてこいと、半ば強制で入らされた。

 あのジジイは若者の自由意志を尊重すると言っておきながら、おれや姉さんのやることには御小言と説法をかますダブルスタンダードなところがある。

 おれたちにも問題があるので何も言えないが、ああして叱りつける教育が前時代的な川神院らしい。無論、川神院の方針にケチをつける気はないが、おれや姉さん、釈迦堂さんが正道を進めないあたりに全体を底上げすることに重点を置く川神院の指導の欠陥が垣間見えていた。

 

 足並みをそろえて歩いていると橋の中腹にさしかかった。道も賑やかになり、おれらと同じ川神学園の生徒もいれば主婦や児童、通勤中のリーマンもいた。

 その大勢のすれちがう人々の一人であるダークブラウンのスーツを着た立派な口髭をたくわえた紳士はおれたちを見て目を細めた。

 

「おはようございます」

「おはようございまーす!」

 

 紳士は落ち着いた声で挨拶をした。ワン子が元気に返した。他のみんなは身構えた。紳士は朗らかに笑って言った。

 

「ははは、元気があっていいですね。ところでお嬢さん、私はこう見えて学生時代は野球部で腕を鳴らしていましてね。丈夫さに自信があるのですが、どうです。私をタイヤの代わりに引いてみてはくれませんか?」

「ぎゃーっ!」

 

 変質者だった。ワン子が涙目になって悲鳴をあげた。

 

「そぉいッ!」

 

 姉さんがアッパーで紳士を星にした。

 その発想はなかった。おれは感心していた。歳をくっているだけはある。おれが知らない世界をたくさん知っているのだろう。

先人の知恵と発想に敬意を表しながら車田飛びで星屑になった変質者が塀の中で改心することを祈った。

 

「まったく、相変わらずこの橋は変態が多いな」

「外見は人がよさそうなおじさんだったのに中身がアレ」

 

 姉さんとモロがぼやいた。この橋はまるでゲームのフィールド上を歩いているときのように際限なく変質者とエンカウントするのである。

 百四十万人も人がいれば変質者もそれなりにいるだろうが、それがこの橋に集まるのはハッテン場のような存在として変態界隈で有名だったり、彼らを惹きつける何かがあるとしか思えないのだが原因は何なのだろう。

 おれはこの先にある川神学園の学長を勤めているジジイが原因だと睨んでいるのだが、誰か科学的に証明してもらえないだろうか。

 多馬大橋の磁場が歪んでいて抑圧されていた性癖が解放されるというオカルトな電波が飛んできたとき、おれの後ろから親しげな男女の声が聞こえた。

 

「おーおー。人が飛んだぜ。治安悪いなぁ。ユキ、知らない人に声かけられてもついていくなよ」

「その理屈だと準と一緒にいられなくなるのだ」

「それなりに長い付き合いでしょうが! ったく……」

 

 おれは男の声に既視感を抱いていた。水の中に落とした石が底の泥を舞い上げる感覚。自分が物事を始めるきっかけになったコンテンツに再会したときの懐かしさ。それに近いものを感じた。

 おれが振り返る。男と目が合う。男はハゲだった。おれの目は一度つるっぱげの頭部に行き、再び目が合った。

 

「ん?」

 

 男は前にいるおれが急に振り返ったのできょとんとしていた。おれは叫んだ。

 

「うわあ! ロリコンだぁ!」

「なんだァ!?」

「おや、準の性癖が一目で看破されましたよ」

「きっと類は友を呼ぶってやつだよ。こいつもきっとロリコンに違いないのだ」

 

 スキンヘッドの横にいる浅黒い肌をした色男と色素の薄いかわいこちゃんが何か言っていた。

 おれは自分が何を言っているのかわからなくて困惑していた。

 

「ちょっとちょっと、人聞きのわるいこと言わないでもらえます? あんたとどこかで会ったっけ?」

「いや、夢の中で会ったような気がして……」

「電波くんかよ」

 

 スキンヘッドことハゲは怪訝な顔をした。おれはもっと当惑していた。だいぶ前に夢で見たかもしれない。だが夢なんていちいち覚えていないのに咄嗟に口から出たのだ。

 正夢……予知夢の類を見たのかも知れぬ。お互いにどんな顔をすればいいのかわからないおれとハゲに不思議ちゃんっぽい少女が言った。

 

「あー! 準ー、この人同じクラスの人だよ。お金みたいな名前の」

「三河千くんですね。高名な武神と負けず劣らずの腕前の達人で有名な」

 

 色男は柔和に微笑みながらおれに近づくと腰に手を回してきた。

 

「葵冬馬です。クラスメートとして、一年間よろしくお願いします」

「ん? ああ、どうも」

 

 おれはそっけなく返事をしてハゲをみた。

 

「ところで君、ロリコンってわけじゃないの?」

「いや、ロリコンだけど?」

「胸張って言うことじゃないのだ」

 

 失言だと思い念のため確認したが、合っていた。マジかよ通報しなきゃ。

 

「そちらの性癖をカミングアウトした方が井上準。かわいい女の子が榊原小雪です。私の親友です。二人もよろしくお願いします」

「よろしくなのだー」

「あ、ああ」

 

 おれの腰を抱き寄せながら微笑みかけてくる葵冬馬とかいうどっちが名前でどっちが苗字なのかわからない男は、抵抗しないおれに気をよくしたのか尻に手を伸ばしてきた。

 おれは、なんだこいつ馴れ馴れしいな、と思いながらも無視して井上準と呼ばれていたハゲに話しかけた。

 

「今のご時世、ロリコンって肩身狭くて大変でしょ。オカズの調達も一苦労なんじゃないの?」

「そうでもないぜ。外に出るだけで愛くるしい少女の無邪気な姿はいくらでも転がってるしな」

 

 やっぱりこいつ通報しよう。ほかの性的嗜好に理解がありながらも常識も兼ね備えているおれは良識に従おうとした。

 その前に井上はおれから視線を外して罰が悪そうにおれの尻を揉む葵冬馬を見た。

 

「つーかお前、さっきから若にケツさわられてるけど何で平気なんだ?」

 

 若とは葵冬馬のことかな。おれは平然と答えた。

 

「別に男にさわられたって減るもんじゃないし、どうでもよくね?」

「そうか。お前すげーな」

「おや、良いんですか? なら失礼して……」

 

 葵は手つきを怪しくいやらしいものに変えた。ぞわっと臀部から怖気が走り、得も言われぬ快感が葵の指から迸る。

 あれ、こいつ……巧いぞ……!?

 身震いするおれを助けようと、今まで静観していた姉さんがおれと葵のあいだに割って入り突き飛ばした。

 

「おっと」

「コラ、よくも人の弟に好き勝手セクハラしてくれたな。その尻は私のだぞ」

 

 なに言ってんだろう、この人。おれは姉さんの背中を見て呆れた。そしておれの尻に執着する姉さんに、昔日の出来事を思い出していた。

 

 小学生のとき、姉さんはおれの尻を枕にしてくつろぐのが好きだった。おれは尻枕が子供心に嫌で仕方なく、ある日姉さんが尻に顔を埋めた瞬間を狙って屁をかまし大乱闘に発展した過去がある。

 それは屁が微粒子状のうんこであることを考慮すれば、一時とはいえ姉さんの顔におれのうんこが付着していたということであり、疑似的なスカトロと取れないこともなくはないのではないか。

 なお、この回想と姉さんの尻に執着していることに関連性はまったくない。ただ思い出しただけである。

 

 突き飛ばされてよろめいた葵は、姉さんのセリフをきいておれに視線を送った。

 

「そうなのですか?」

「違うよ」

 

 おれは即答した。葵はしたり顔になり、姉さんは心外そうに眉をひそめた。

 

「でしたら私がさわっても問題ありませんよね?」

「あるに決まってるだろ。だいたい何だお前。男の尻さわって嬉しいのか?」

「ええ。私はどっちでもイケますので」

「うわ! 気持ち悪ッ!」

 

 おれは言い争いを始めた二人を無視して井上に話しかけた。

 

「話を戻すけどさ」

「え、この状況で!? 俺は武神に絡まれてる若を助けたいんだが」

 

 親友らしい葵が口より先に無双正拳突きが飛んでくることで有名な姉さんにイチャモンつけられているのが心配で仕方ないらしい。

 おれは二人を一瞥し、ヒートアップしている姉さんに言った。

 

「姉さん、手出しちゃダメだからね」

「なにぃー!? なんでだよー! 変質者に甘いぞー!」

「ふふ、どうやら彼は私の味方をしてくれるようです」

 

 安全が保障された途端に葵は姉さんを煽っていた。にっこりと微笑む葵に姉さんは頬を引き攣らせた。

 井上の懸念を取り除いたおれは再び井上に向き直った。

 

「気を取り直して……ロリコンってやっぱり無垢な少女が好みなんだよな?」

「どうなってんだこれはよ……ついていけねえぜ。んー、まあそうだな。それも重要な要素のひとつだが、小さいこと。起伏のない体をしていること。かよわいこと。かわいいこと。それが大事だぜ」

 

 井上は戸惑いながらも神妙な顔つきで口を開いた。

 

「無垢なことが必須でないならロリビッチはあり?」

「二次元ならありじゃね? 現実なら許せないが、妄想の世界ならロリというだけですべて許せる」

 

 はじめは状況に理解が追いついていけなかった井上も途端に饒舌になった。おれも持論を展開した。

 

「でもロリの魅力って無垢であることが最も大切だとおれは思うんだ。

 男はみんな、綺麗なものがいずれ時間と人の手によって汚されていくのを知っているから、せめて自分の色に染めようとする。その優越感と征服感こそが、若さに嫉妬する年増がロリに勝てない絶対的な要素だと思うんだけど」

「おいおい、ロリコン嘗めんな。俺たちは現実で手を出してしまう犯罪者たちとはちがう……無邪気で可憐な幼女をやさしく見守り続けたい……そういう父性愛がロリコンの源にあるんだぜ」

 

 まるで高尚な使命だとでもいうような口ぶり。ニュースで非難される奴とはちがうと訴える眼差し。

自己の正当化を感じ、おれはばっさり言った。

 

「それっておかしくねえ? だってお前さっき幼女をオカズにしてるって自白してたじゃん。性欲じゃん。それって性欲じゃん」

「いや、それはケースバイケースだろ? 児ポを取り締まる政治家や警察だって性欲が高まったとき、目の前に裸の少女がいたら手を出すさ。

 それと同じで、昂った俺はだらしない肢体じゃイケないから幼女で抜く。何がおかしいんだ?」

「だってお前、幼女で勃起するんだろ?」

 

 おれは社会的に軽蔑されるひとつの要素を一身に煮詰めたような男を見た。

 その男――井上準はきまりが悪い様相で答えあぐねていた。おれは畳みかけた。

 

「幼女見て欲情する、幼女を性愛対象として見ている奴が父性愛だなんて耳障りの良い言葉でごまかそうったって、そうは問屋が卸さないぞ。

 認めろよ。お前はペドフィリアじゃないか。心の中ではエッチしたいって思ってるんだろう?」

「人聞きのわるいこと言うなよ! 俺は精々いっしょにお風呂入ったり、『お兄たま、大好き~』って抱き着かれたり、『眠れないから今夜だけはいっしょに寝て……?』なんて言っちゃう涙目の幼女と添い寝したりしたいだけだっつーの!」

 

 ロリコンはね、決して悪いことではないんだよ。男はみんな本心では若い子がいいと思っているから。

 三十代、四十代の女は絶対に十代の少女に勝てない。十代の少女に欲情する男性を、若さを失った女性は声高に異常者と糾弾するが、彼女たちは十代のときにちやほやされて若さの恩恵を得ていたにも関わらず、その恩恵が自分の魅力によるものではなく若さ所以のものであったと認めたくないから、若さに惹かれる男を批難するのだ。

 つまり、若さに嫉妬しているのである。

 性癖・性的嗜好は生まれながらに十人十色なのであって環境によっても左右されるのだから他人がとやかく言う問題ではないのであるが、おれは俗物的人間なので、年増の女性がロリコンを口汚く罵るように、世間で蔑視される人を同じように罵倒したくなるのであった。

 加えておれはマゾヒストであるが、井上のように他人に迷惑は(まだ)かけていないために、幼い娘をもつ全国のお母さんお父さんを不安に陥れているロリコンを見ると道徳観が正義を果たせと轟き叫ぶのだった。

 

 おれは本性をあらわにしたロリコンから目を離し、姉さんと葵を見た。

 

「だーかーらー! あれは私のものなんだよ。十年前から契約してるんだぞこっちは」

「ですが、彼は違うと言いました。これは口頭で果たされた口約束に過ぎず、また彼はその契約を不服に思っているのではないですか?

 彼が否定しているのですから、彼のお尻は誰のものでもないシュレディンガーの尻であり、実際にさわってみないと彼の尻が誰の尻かわからない状態にあると言えるでしょう」

「あはははは! ごめんなに言ってるか全然わかんない」

 

 男の尻の所有権をめぐって言い争う男女がそこにいた。恥ずかしい。みにくい。気持ち悪い。

 変態ってああいうものなんだ。おれは肩をすくめて視線を外して――数多の視線がおれにも向いていることに気づいた。

 その視線はまるでおれが井上や姉さん、葵を見ているものと全く同一のもので、冷たく、けがらわしいものを見るような目をしていた。

 

 世間が、おれたちを見ていた。

 

 道行く人はじっと見ていた。変態の橋の真ん中でロリコンについて語り合う男たちと男の尻を取り合う男女の言い争いを見ていた。

 幼馴染たちはじっと見ていた。初対面の男とロリコンについて造詣が深い口ぶりで話す幼馴染を見ていた。

 おれはふと幼女と目が合った。幼女は指を口にくわえておれを見ていた。おれは控えめに手を振った。

 するとお母さんが幼女を抱きかかえて去っていった。おれは居た堪れなくなった。

 顔が熱くなり、冷や汗が背中を滝のように流れた。汗といっしょに血の気が引いて、正気に戻ったおれは空を跳んで変態の橋を立ち去った。

 

 この一連の出来事を目撃した人は、おれを救いようのない変態と思うだろう。けれども覚えておいてほしい。

おれもまた、変態の橋に踊らされただけの犠牲者のひとりに過ぎないってことを。

 

 

 

 

 

 

「はぁ……」

 

 Sクラスの教室に着き、席に座るとおれは長く嘆息した。おれは悔やんでいた。変態の橋でやらかしたことを思い出し、顔を覆っていた。

 莫大な羞恥心と傷つけられた自尊心がおれの心を苛み追い込んでいた。

 あれではおれがロリコンでかつ処女厨だと勘違いされてしまう。それは看過できない。

 だが人の口に戸が立てられぬように、たちまち校内で周知の事実になるだろう。井上の同類、もしくは処女厨をこじらせたさらにおぞましい何かと思われる可能性もある。

 ああ、なんてこった……高校デビューに失敗した気持ちは、こんな感じなのか。

 

「おい、そこのお前」

 

 絶望に打ちひしがれていると近くで女の声がした。首をめぐらすと華美な着物をきたツインテールと目が合った。

 怪獣の方ではないツインテールの少女は、整った童顔を意地悪く歪めた。

 

「風の噂で聞いたが、登校中に派手にやらかしたらしいのう。程度の低い連中と付き合っていると言うし、華麗な此方の入学早々にSクラスの品位を下げられても困るのじゃ。

 自分が選ばれた存在である自覚をもって行動することじゃな。でないと嘗められるぞ」

「はぁ……」

 

 私服で登校していることから金持ちなのは想像がつく。今のは居丈高な物言いだったが、好意的な見方をすればクラスメートへの忠告なのだろうか。

 他人に口出しされることでもないし、おれが変態だからといって同級生の評価が下がる意味がわからなかったが、周りの連中はクスクス笑っていた。

 もう噂になってやんの。しかし笑い方も悪意に塗れてて小学生のいじめみたいな空気が蔓延してる。嫌なクラス。

 感情を露骨に顔に出していたら話しかけてきた少女が不機嫌になった。

 

「なんじゃ、その顔は。せっかく高貴な此方が忠告してやったというに」

 

 面倒くさいのに絡まれた。どうしてやりすごそうか考えていると、少女は悪戯を閃いた童子みたいな含み笑いをした。

 

「ふむ……お前、ちと手を見せてみい」

「?」

 

 腰から上をじろじろと見られてからの一言に首をかしげながらも右手を差し出した。

 少女は手にとって裏返したりしてじっくり観察してから、つまらなさそうに鼻を鳴らした。

 

「ふーむ……きれいな手をしておるな。つまらん」

「なに?」

 

 おれが尋ねると少女は不遜に言った。

 

「なに、農家の倅と聞いていたからの。土が爪の間に挟まっていたり、指先がボロボロだったりしないか確認したかったのじゃ」

「……」

 

 イラっとしたおれはデコピンの要領で指弾を放ってデコを狙い撃ちした。

 

「にょわっ!? な、なにをする!」

 

 威力は普通のデコピンと大差ないので食らった少女は怒気をにじませて睨んできた。おれは鼻くそを飛ばす感覚で指弾を連射した。

 

「にょわぁぁぁっ!? や、やめい! やめるのじゃ! やめ……やめぇ!」

 

 ぺしぺしぺしぺしと連打をデコに食らった少女は両手でデコを抑えながら涙目になって懇願してきた。

 可哀想になってきたので止めると、少女はまたキッと睨んできた。

 

「よくもやってくれたな! 此方を誰と心得る! 恐れ多くも名門不死川の娘じゃぞ! それを貴様のような輩が――」

 

 反省していなかったのでまた指弾連打した。泣くまで連打した。泣いてからも連打した。不死川さんは泣き出して逃げ出した。

 

「うぐっ……ひぐっ……お、覚えておれこのバカァァ! うわああああああ!」

 

 捨て台詞を吐いて教室を飛び出した不死川さんの背中を視界からきって、おれは再びため息を吐いた。

 この人とあの三人組と同じクラスか……面倒な。

 先を思い悲観に暮れていると、近くの席の男が声をかけてきた。

 

「少し腕っぷしが優れているからっていい気にならない方がいい。ここはSクラス。不死川や九鬼のような名家、大企業の社長の子息たち。日本の未来を支えるエリートが集まっている選抜クラスさ。

 底辺とバカ騒ぎしたいならやめてもらってけっこうだよ。騒がしい人が消えて僕らは助かるからね」

 

 嫌味たっぷりにケレン味皆無の歓迎の言葉をかけてくれた。

 なんだか嫌な人ばっかりだ。

 おれは長くデカいため息を吐いて応えてやった。

 



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たった一人の怒れる男

 ガクトはキレていた。腕組みし、はち切れんばかりの筋肉の代謝で熱気をムンムンとさせてむさ苦しい大男は激怒していた。

 横に座るモロは居心地悪そうにそわそわとしていた。大和は我関せずと携帯を弄っていた。隅っこに座る京は黙々と本を読んでいた。姉さんはおれの頬に爪先を押し付けてご機嫌だった。

 ワン子は大量の寿司を前に「待った」されてお腹をすかせてよだれを垂らしていた。キャップは宅配寿司のバイトを終えて、廃棄なのか賄いなのかわからないが大量の寿司を調達してきたのに雰囲気が悪い秘密基地内に面白くなさそうな顔をしていた。

 そしておれは――どうしてだろう。ガクトの怒りがおれに向いていて気まずい思いをしていたのだ。

 高校生活が開始して初めての金曜集会だというのに空気が最悪だった。

 どうしてこんなことになったのだろう。おれはこの一週間を振り返った。

 

 

 

 

 

 ――月曜日。

 

 登校時に黒歴史確定の痴態をさらすも持ち直す。にょわにょわ言ってる不死川さんが一度泣かしたあとは目に見えてびくびく怯えているのが可愛かった。

 彼女は虚勢を張るタイプのようで、一度牙を折ったら威嚇しながら後ずさりする子猫のようだった。

 Sクラスは選抜クラスという割に特筆する人が少なかった。葵、井上、榊原さんの他に不死川さん――そして揚羽さんの弟の九鬼英雄とその御付のメイドさんくらいか。

 特段発奮する要素が見当たらないクラスに肩透かしをくらう。彼らの選民思想とエリート気取りは自称ドSのような薄っぺらい虚栄心を感じる。膨らみきった自尊心と虚栄心は中身がないから突けば風船みたいに割れそうだ。

 

 学校が終わってから秘密基地に行くとモロとガクトがいたのでおすすめのオナホとバイブ、ローターについて尋ねるとドン引きされた。

 何に使うんだよ、と訊かれたので「一人暮らしなんだし色々冒険したいじゃん」と答えた。オナホはその通りなのだが、後者の二つについては将来、アナルを滅茶苦茶にされたとき感じることができるように開発に勤しむためである。

 だが自分で開発して目覚めさせたい人がいるかもしれないのが悩みの種だ。

 ガクトはしばらく開いた口が塞がらなかったのか呆然としていたが、戸惑いながらふやけたカップ麺がおすすめだと言った。食べ物は粗末にするな。

 モロは何かショックを受けたようで、konozamaで買えと言い残して去っていった。

 おれは帰ってから泊まる気満々な姉さんを追い出して、ネットで注文したあとオナニーしてから寝た。

 

 

 

 ――火曜日。

 

 九鬼英雄とメイドの忍足あずみさんと知り合う。

 姉上からお前の話をきかされたとか何とか、生まれついてそうであったかのような傲岸不遜な物言いの自己紹介だった。他の選民思想に被れたクラスメートと違ってどこか憎めない。

「愛しき庶民よ。今日も今日とて勉学に励んでいるな。殊勝な心掛けだ。我も王としての勤めに一意専心しているぞワハハハハ!」なんて初対面のクラスメートA君に言っちゃう天然さは揚羽さんに似ている。権力者としての責務を同い年で果たしているから、畏敬だとか感嘆の念が憎しみより先立つのだ。

 メイドのあずみさんはいい年してぶりっ子だ。しかし何かがおれの琴線に触れ、後ろ髪を引かれる思いになる。なぜだろう、無性に年齢のことで煽りたい。そうすれば彼女はおれが望む、社会的に許容されるギリギリのラインの行為をしてくれる気がする。

 凄腕の忍者……かな。足運びが達人のそれだった。でもこれで九鬼従者部隊の一位ときくと人材不足なのかもと思う。

 

 女生徒の何人かに連絡先をきかれる。快く了承すると後続の女生徒がぞろぞろと列を成した。その列に葵冬馬が並んでいた。

 おれは夜食をたかりに来た姉さんとワン子に餌を与えてから追い出すとオナニーを済ませてから寝た。

 

 

 

 ――水曜日。

 

「女性にはサディスティックに、男性にはマゾヒスティックに接することで倒錯した情愛を得る。なかなか乙なものですよ? その逆もまた良いものです」

 

 葵冬馬と猥談する。猥談は朝の教室の真ん中で起きていた。

 

「男とするのってどんな感じ?」

「女性とするのとは違いますね。私はタチもネコもどちらもいけますが、たとえばネコのときは男性が私の体を必死に求めているのが伝わって、相手を慈しむような感情が芽生えます」

「あぁ、経験豊富な女性が童貞をリードする気持ちね」

「ええい! 朝っぱらからなに悍ましい話してるのじゃ! TPO弁えんか馬鹿者ども!」

 

 不死川さんに怒られた。葵とは初対面がかなり特殊で気持ち悪い印象があったが、実際に話してみると気が合った。葵は性的な事柄に精通していて経験値が並みの学生と桁違いであった。彼の実体験は情事の最中の生臭さが、ありありと伝わってきた。彼の中には彼に関わってきた男女の営みが生き生きと輝いており、経験を積むということが如何に人を育てるか実感させられた。

 経験人数一万二千六百六十人とか軽蔑を通り越して男として尊敬してしまう気持ちに似ている。

 

 昼休みは九鬼主従に声をかけられ屋上に向かった。

 

「突然呼び出してしまい申し訳ありません」

「別に構いませんが、何の用でしょう」

「我の腕のことだ」

 

 聞けば九鬼英雄は不慮の事故で肘に完治しない古傷があるらしい。どんな名医にかかっても治らなかったとか。

 おれの噂は耳にしたことはあったが、接点のある揚羽さんを姉さんがおれに近寄らせなかったりしたのが曲解されて選択肢から外れていたらしい。

 

「揚羽様から三河さんの力をお聞きしました。最新医療でも完治が見込めないと匙を投げられた怪我ですが、三河さんならば」

「そういうことね。うん、いいよ」

「ありがとうございます! ではこちらのスケジュールを変更してそちらの都合に――」

「いや、すぐ終わるから」

 

 ちちんぷいぷいいたいのいたいのとんでいけ! 九鬼英雄の腕は治った。

「おお!」九鬼英雄は驚嘆の声を漏らすと腕を回して全快した右腕のみなぎる活力に感動しているようだった。「この感覚は怪我をする以前の……」

 主人が回復したことをあずみさんは嬉しがるより、これまでの治療が無意味だったかのように、一瞬で治ったことにドン引きして自分の目を疑っていた。あなたの気持ちはよくわかる。

 九鬼英雄は感激して喜んでいたが、興奮が冷めてきたのか瞑目して口惜しそうに言った。

 

「できれば、もう三年……いや、二年早くお前と会いたかったが……」

 

「英雄様……」あずみさんが切なそうにつぶやいた。事情がつかめないが深刻そうな雰囲気だったためにおれは口を挟めなかった。

「いや……」九鬼英雄は頭を振って思い詰めた顔を晴れやかに変えた。

 

「怪我をしたことで得られたものもある。それは我にとって何物にも代えがたいものであった……そう思えば耐え忍んだ甲斐もあった」

 

「英雄様」あずみさんがきりっとした顔でつぶやいた。何の話かわからなかったがシリアスっぽかったのでおれは黙っていた。

 

「それに今の我は世界中の庶民の暮らしを背負って立つ王よ! その我がくよくよしていては下々の者も口を開けて笑えんわ! フハハハハハハ!」

 

「英雄様ぁ!」あずみさんは陶酔したような顔で叫んだ。おれはついていけなかったが空気を読んで「あはは」と愛想笑いでお茶を濁した。

 

「三河千、借りができたな! 我は恩を忘れぬ。困ったことがあればいつでも我を頼るがいい!」

 

 多忙な九鬼英雄はあずみさんを引き連れて風のように去っていった。恩で昼ご飯を奢ってもらえばよかった。鳴り響く腹の音を聞きながらおれはポツンと立ち尽くした。

 

 その日はやっと到着したおとなの玩具にウキウキし、早く試したくて疼いていたので、文句を言う姉さんとワン子を追い出してオナホの初体験を済ませた。びっくりするくらい具合が良くて、寝る前に三回もオナニーしてから寝た。

 

 

 

 ――木曜日。

 

「お前は呪われている」

 

 井上が念仏を唱えながらおれに忠告してきた。霊感商法かと思いきや、幼女が表紙に描かれた雑誌を手渡された。

 

「これはコミックえるおーという俺の聖典だ……年上に絡まれるお前を不憫に思って持ってきてやった」

「いらないよ。お前の精液でカピカピじゃん」

「まだ使ってねえよ!」

 

 おれは突き返した。井上は宣教師だったが、おれは既に別の神を信仰していたため惑わされなかった。

 おれはだいぶSクラスに馴染んできたと自負していたが、おれが勉強ができてなおかつ顔が良くて武力も最高クラスだから嫉妬している連中がいたらしい。

「君は調子に乗り過ぎだね」と挑発してきた同級生に決闘を挑まれた。一手三十秒の早指し将棋で戦う羽目になった。よほど自信が合ったらしいが四十七手目で向こうが投了した。観客を飽きさせないためとか見栄張って早指しなんてするからミスをするんだよ。

 余談だが観戦していた京に、「千は能力が高すぎてナチュラルに人を見下しているからSがお似合いだよ」と言われた。ちょっと傷ついた。

 

 おれのメアドや電話番号が女子のあいだで拡散されているらしい。知らない人からメールが来るようになり、誰からきいたか尋ねると一昨日に教えた人たちだった。

 そのせいでたくさんの人からメールがくる。主に女性と葵だ。返しても返しても終わらないし、ひとりひとり次の返信を考えるのも億劫になる。よく大和はこんなのやってられるなと感心した。

 このメールを送って来る女性が皆おれを好いていると思うと気分がいいが、興味のない相手だと思うと嬉しくもない。

 

 放課後、家に帰ると程なくして京がやってきた。家に上がるや否や京はおれのAVコレクションを物色し始め、その数をなじった。

 

「親からもらった仕送りでAVを買いあさるなんて、千って本当に最低なクズだわ」

「ち、ちがうんです。そのAVはキャップに紹介してもらった、マイナス十℃の倉庫の中でイカの入った箱を延々運ぶ時給五千円のバイトで溜めたお金で買ったんです!」

「なにそのバイト、怪しすぎるでしょ」

 

 その後も散々おれの性癖を詰り続け、なぜかガクトとモロまで遊びにきて、おれの収集したAVの数々を目撃したガクトは愕然として目を移ろわせ、モロは顔を青ざめさせていた。

 その日は姉さんが来る前に京の言葉攻めを思い出しながら四回も抜いた。追い出されなかった姉さんは調子に乗って夜這いしてきたが、お母さんが子供を窘めるように「だめ」と言うとしゅんとして不貞寝していた。

 さすがにかわいそうに思えたので、おでこにおやすみのキスをして頭を撫でてあげた。翌朝の様子を見る限り、姉さんは眠れなかったようだ。

 

 

 

 ――金曜日。

 

 エレガンテクワットロ、俗に言うイケメン四天王におれが選ばれたらしい。

 他のメンバーについて尋ねると、京極先輩、葵、キャップ、ワン子の幼馴染のたっちゃん、そしておれ。

 五人いた。四天王なのに五人いるのはおかしいだろとツッコんだが、古今東西、四天王が五人いるのは珍しくもないらしい。竜造寺四天王も五人いるし、最上四天王なんて六人いるからイケメン四天王が五人いてもいいじゃない、そういう結論になったらしい。よくわからない。

 

 学校では特筆すべきことがなかった。教室でも同様……けれどもおれは心臓が別人のように早打つ出来事に遭遇した。

 九鬼英雄がトイレに席を立った途端に、あずみさんが「はーっ、どっこいしょ」と年寄り臭い声をだし、ちょっと焼きそばパン買って来いよと井上をパシリにした。おれは井上が羨ましく、また妬ましくなり、気づけば目を見開いて凝視していた。

「どうして三河は俺を睨んでいるのかしらん」井上が半分恐々半分おどけながらつぶやくと、榊原さんが「準の頭が太陽光を乱反射させて目障りだって」と言った。

「近頃のユキは俺に厳しいなぁ」井上は変わり果てた幼馴染を憂いていた。「普段の自分の言動を顧みてみろハゲ」榊原さんは正論を言っていた。

 彼らを見ているとおれと京の関係を彷彿させられる。おれは井上に比べればまだまともだけど。

 とりあえずそのパシリポジションおれと代われよ。

 

 金曜集会の前に島津寮に行き、大和の部屋で時間をつぶす。メールの区切りをつけた大和がヤドカリを恍惚とした表情で眺めていたので、おれも一緒になって観察した。

 あんまりにも動きがトロいので、「ヘイストかけて十倍速にしていい?」ときくと大和に「殺すぞ」ゅぁれた。。。

 自分の趣味の話になったとたん饒舌になる男みたぃ。。。キモい。

 おれと大和はしばらく黙々とヤドカリを眺めていたが、やはり面白くない。可愛くもないし、赤い蜘蛛みたいでキモい。

 でもよくよく考えたらエビやカニの仲間だし、食べられることを思い出してうっかり「ヤドカリっておいしそうだよね」と口にしたらやっぱり「殺すぞ」ゅぁれた。。。

 ャドヵㇼゎ十脚目異尾下目でタラバガニやャㇱガニの仲間……カニは十脚目短尾下目で厳密にはタラバガニはカニじゃなぃ……

 タラバガニとヤシガニはおいしいからきっとヤドカリもおいしいよ。……大和ってヤドカリ関連だと冗談が通じないんだな。いったい何が彼をこんなふうにしてしまったのだろう。

 

 大和が小一時間もヤドカリを眺めているあいだ、暇だったので部屋にあった漫画を読んでいた。わりと丁寧に描写していたスポーツ漫画が超人ギャグ漫画になっていく過程は勢いで誤魔化されるが、冷静になると傾げた首が元に戻らないレベルで疑問符がつく。

 文句が出るのにそこそこの巻数を熟読してしまった。だって面白いんだもの……なんて思ってると背後の大和が我に返る気配がした。

 

「京が『千は今のうちに矯正しとかないとトンデモナイ変態になるよ』って言ってたぜ」

「またまたご冗談を」

「自分じゃ気づいてないのかもしれないが、お前川神学園に入学してから加速的に変態化が進んでいるぜ」

 

 日に日にやせ細ってゆく病魔に蝕まれた人を心配するような話し方だった。そんなこと言われたって、うちどないすればええのん?

 

「……つかぬこと訊くけど、千はモモ先輩のことどう思ってるんだ?」

 

 急な転換に面食らったが、大和の声音が真面目なトーンだったから、おれも真剣に考えて答えた。

 

「おれにとって一番美人で一番好きな女性だけど、付き合うとなると一番ためらう人」

 

 大和は短く「そうか」と言った。なんだよこのこっぱずかしいやりとり。青春っぽいじゃんか。

 

 

 

 

 

 ……そしていまに至る。

 振り返ってみたが、やはりガクトを怒らせた覚えはない。あきれさせた覚えは多々あるが、決して今のガクトのように激怒するほどのものではないはずだ。

 つまるところさっぱりわからない。なんでガクトこんなにおこなの?

 

「ガァクトー、むさ苦しいぞ。空気が悪くなるだろうがー」

 

 怖いもの知らずの――いやお化けが怖かったり取ってつけたような狙いすぎなかわいい要素もあるのだが――強い怖い恐ろしいの代名詞の姉さんが、歯に衣着せぬ態度ではっきり言った。

 

「というか何で怒ってるの」京も続いた。

「ガクトのなかの千と現実の千がちがい過ぎてキレてるんだよ」モロが答えた。

「要するに女子に人気がある千にムカついただけか」大和がため息をついた。

「なんだそんなことかよ」キャップが呆れた。

「そんなことより早く食べましょうよぉ」ワン子が腹を鳴らした。

「そうだな食べるか」

 

 そしてみんな寿司に手をつけた。

 

「あいかわらず俺の扱いが軽いな、このファミリー!」

 

 案の定ガクトは盛んに怒った。

 

「真面目な悩みだったり、深刻な問題なら真剣に考えてやるが、今回は理由が下らないからな」

「ガクトって心狭いわよねー。だからモテないのよ」

「別にモテたって嬉しくねえけどなー」

 

 寿司を貪りながら大和、ワン子、キャップが追い打ちをかける。おれは空気を読んでずっと黙っていたが、まだガクトは納得いってないようだった。

 

「でもなー、やっぱ世の中おかしいだろ。どうしてこんな変態の千が学校一モテてるんだ」

「「「「顔」」」」

「世知辛い世の中だぜ……」

 

 無慈悲に一致した見解にガクトは涙した。

つーか、おれが一番人気あったのね。まだ入学して一週間なのに。順当に京極先輩だと思ってた。

 タバスコ醤油とかいうデスソースよりエグそうな液体に寿司を漬けて口に運んでいる京がふと手を止めて言った。

 

「ガクトは自分がモテない理由、千がモテる理由を分かってないようだから恋愛マスター京先生がレクチャーしてあげようか」

「自分の恋愛が成就してない奴に言われたくないが、背に腹は代えられねえ。んじゃ京、頼むわ」

「ひとことうるさいなこの男は」

 

 気持ちよく講釈たれようとしたのに水を差され、不服そうながらも京は言う。

 

「とりあえず、女性からの評価は耳タコだろうから、男から見て、もし自分が女だったらファミリーの誰と付き合いたいか考えてみてよ」

「なんじゃそりゃ!」

「つべこべ言わず答える。はい、モロ」

「え!? 僕!?」

「自分が女になった気持ちで、3・2・1、ゴー」

「え、ええ、えっと」

 

 突然話を振られ、しどろもどろになりながらモロが言う。

 

「うーん……千、かな。キャップは奔放的で付き合うのは体力的にきついし、ガクトは乱暴だから壊されそう。大和は……なんだかねちっこそうだから、千がいいや」

 

 具体的な批評されてみんな引いた。

 

「モロ、女の子になりきってたね」

「え?」

「一人挙げれば良くね? わざわざ全員と付き合うシミュレーションまでしなくても」

「ふーん、ねちっこいねえ」

「乙女メンタルだなぁモロロ」

「うわぁぁぁ! 何でそうなるのさ!」

 

 やけに生々しかった。おれは消去法で選ばれていた。あー、モロ。男は体を求められることに自尊心を鼓舞されて満たされる生き物だから、女になって男に犯されたいと考えるのも異常ではないから。性転換して美少女になり、男にモテたいと思うのは男性の思考からいって何らおかしくない。

 他の人からみれば気持ち悪いけどな!

 モロをいじってから他のメンバーも答えてゆく。

 

「んー、ガクトかな。遊んでておもしれーし」とキャップ。

「もちろん俺様だぜ!」と馬鹿。

「千」と大和。

「……大和で」とおれ。

 

「さて、ガクトと千が二票、大和一票となりましたが、無効票がございましたため、感性がまともな大和とモロが投票した千が一位になりました」

「はーいせんせー! 目の前で不正がありましたー!」

 

 京、集計をちょろまかす。ガクトが弾劾するが女子の圧力に揉み消された。これも社会の縮図である。

 

「つーかこれ意味あんの?」

 

 大和が尋ねた。京はしれっと、

 

「ないよ。ただ男がお互いをどう思ってるか知りたかっただけ」

「そんなことだろうと思ったぜ!」

「ククク、これからお互いに意識しあうといい……」

 

 京は悪い顔をしていた。そしてすこぶる愉快そうであった。仲の良い友人同士が胸の内を明かして気まずくなる空気に愉悦を感じる人種なのだろう。とてもいいと思う。

 

 

 

 食べ盛りのワン子とキャップが寿司をデデデでプププな球体のごとく口に放り込み、姉さんもこちらに耳を傾けながらもやはり寿司を頬張っているなか、京の恋愛講義が始まった。

 

「男がモテる要素って大きく分けて二つあると思うんだよね。先天性と後天性」

「はいせんせー! センテンセーとコウテンセーってなんですかー?」

 

 ガクトくんがげんきいっぱいにきょしゅした。みやこせんせいはむしした。

 

「先天性は無論、顔や身長とか、遺伝子的に優れたところ。生物学的にメスは本能的に強い遺伝子を残したいから。キャップや千がモテるのはこの先天性の要素が大きいわけ」

 

 まあそれはわかる。人が異性に求めるのはまず顔だからな。人は顔だよ。だっておれ、ブスに罵られたら興奮しないもん。でもブスに強引に犯されたら興奮するかもしれない。そこらへんのさじ加減が自分でもわからない。

 京先生は人差し指を立てる。

 

「では後天性が何なのかっていうと……不細工のヤリチンっているよね。先天性のモテ要素で劣っているのに、どうして彼らはたくさんの女の子とエッチできると思う?」

 

 ガクトが手を挙げた。

 

「はいガクトさん早かった」

 

 大喜利かな?

 

「まぁ無難に性格だろ」

「付き合う前に性格なんて大してわからないでしょ。性格より人当たりのよさって言った方が的確じゃない」

 

 京はちらりとおれを見た。なぜおれを見る。大和がすかした顔で手を挙げた。

 

「月並みだが、ヤリチンだからモテるんだろ」

「はい、大和さん正解」

「は?」

 

 これに大和とおれ以外の全員が怪訝な顔をした。たしかに意味がわからん。どうして不細工がたくさんヤれるのか聞かれているのに、ヤリチンだからヤれるが正解だと言われたら因果関係が逆に思える。

 けれどもおれは京の言いたいことが今の大和の答えで、やっとわかった。グッピーの実験だこれ。

 見てくれの優れたオスと悪いオスではメスと交尾できるのはもちろん優れたオスだが、悪いオスをたくさんのメスと交尾させると優れたオスではなく悪いオスを選ぶようになるっていう。

 

「女の子ってさ、人気がある男子が好きなんだよね」

 

 と言う京はいつも以上になに考えてるかわからない声音だった。

 

「決断力がないから決定は誰かに委ねるし、買い物は長いし、要するに主体性がないんだよ。だから他の女の子が好きな男なら大丈夫だろうって保証? 安心感? に食いつくわけ」

「あー、女子って買い物なげえよなぁ。俺、途中で帰っちまったよ」

 

 キャップだけが同意した。ファミリー以外の女子とデートしたことがあるのはキャップだけだった。

 そのキャップは女の子を悲しませたという理由で姉さんに制裁されていた。誰も助けようとしなかった。

 

「極論、今まで見たこともない男性アイドルグループが、『いま渋谷のJKに大人気!』とか『国民的アイドルグループ』とか宣伝して、サクラにキャーキャー言われてる所見せれば、女の子はそれに靡くんだよね」

「言われてみたら大半の女ってそうだな」

「ウチの女性陣はあまり女の子らしくないよねえ」

 

 ガクトとモロが同意した。ワン子と姉さんが口を尖らせた。

 

「どういう意味よ!」

「そうだそうだー! こんな美少女たち捕まえといてー!」

「可愛らしいの外見だけで中身はバキや世紀末世界に生きてる連中みたいじゃん」

 

 おれは殴られた。姉さん、そういうところですよ。

 

「この理屈、納得いくこと多いんだよね。子供ができた男性って既婚なのにモテるようになるし、少女漫画でもヤリチンって多いし人気あるじゃない。典型的なスイーツ小説なんて主人公はたいていヤリチンだし、女性はたくさんの女性とセックスできる男に魅力を感じる生き物なんだって。

 歴史を見ると妾をもてるのは権力者か金持ちだったし、当然といえば当然だね」

 

 少女漫画は悪魔の書物だからね。あれは一部の作品以外は男性、特に草食系は読んじゃダメだよ。あれを読むと女性も積極的な男性を求めているのだとよくわかる。

 草食系男子と同じで女子も受け身の恋愛、棚ボタ的な出会いと好意を好んでいるのだと。

 

「まとめると、千は容姿が良くて先天的に優れているからモテる。顔目当てに多くの女性が集まって来て、それを見た他の女性も皆が好きだから好きになる。

 ガクトはモテないからモテない。終了」

「にべもねえ!」

 

 京は端的に結論だけ述べて恋愛講座を終わらせた。たぶん飽きたんだろう。しかしそれでガクトが納得いくはずがない。お前はモテないからモテないんだぞ、と言われて「はいわかりました」となるわけがなく、ガクトは京に食って掛かった。

 ガクトの、要約すれば「どうすればモテるのか」という質問に京はうんざりしていたが、姉さんを一瞥すると、

 

「まあ、あるにはあるけど」そう言っておれを見て、「千が異常にモテるのってモモ先輩にも原因があると思う」

 

 名指しされた姉さんはきょとんとしてから、自分を指さして「私か?」と聞き返した。京は首肯した。

 

「千は容姿が良いから目立ってたんだけど、その千に、ある意味千以上に有名なモモ先輩がべったりだったでしょ? それで余計に千が注目を浴びて、噂通りの美少年だって益々評判になってるのが現状で、おまけにどう見てもモモ先輩が千にべた惚れじゃない?」

「京ちがうぞ! こいつが私の所有物だからだ!」

 

 姉さんが声を張り上げたが京は無視した。

 

「武神と名高いモモ先輩が惚れてるってすごい宣伝効果があるよね。あの武神が、あんな美人のモモ先輩が惚れてるならよほどの大人物なんだろうって想像しちゃうし、一応それに見合うだけの容姿と能力はあるじゃない千は。モモ先輩が怖いから表に出さないだけで、憧れている女の子かなりいると思う」

「で、それがガクトとなにか関係あるの?」

 

 おれはこっぱずかしくなり先を急がせた。

 

「んー、まあ、ぶっちゃけると影響力のあるモモ先輩がガクトを好きだと盛大に喧伝すればワンチャン」

「絶対にいやだ」

「ですよねー」

 

 姉さんが真顔で拒否した。京は端から無理だとわかっていたのかすぐさま、「これは提案したくなかったんだけど……」と前置きして次の案をだした。

 

「グッピーの近縁種はね、モテないオスはメスの気を引くためにモテるオスとメスたちの前で交尾するんだって」

 

 じゅるりと舌なめずりして熱っぽい視線をおれとキャップに向けた。

 

「つまりガクトはキャップや千を女子の目の前でガン掘りすればワンチャンある……」

「するわけねえだろ!」

「ちっ」

 

 露骨に舌打ちする京。「ガン掘りってなに? 釣り堀みたいなもん?」と大和にきくキャップ。「ガクトみたいなマッチョはむしろ受けが多いよな」と京に乗る姉さん。

 よくよく考えれば全員童貞処女の集まりで、恋愛に役に立つわけがないことにようやく気付いたガクトは、最後の最後に憎くてたまらなかったはずのおれに縋りついてきた。

 

「頼む、千! お姉さんを俺に紹介してくれ!」

「いいけど、もう彼氏いるよ」

 

 ガクトはくずおれた。そこは寝取るくらいの意気込み見せてくれ。

 




A-5まだですか。


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ジャストライクユー!

"待"ってたぜェ!!この"瞬間"をよォ!!


 

 もし人格というものが一度のミスもなく続けられた一連の演技だとすれば、性癖は役者を飾る衣装やアクセサリーに類するところがあって、仮に演技が一流ですばらしいものであったとしても、衣装がみすぼらしかったり、役者や演劇に合っていなければケチがつけられてしまう。

 おれが性癖をカミングアウトすると人格まで否定されるのは、第一印象が良すぎるために各人が勝手に連想するイメージと乖離しているからなのだろう。

 同年代の京や大和はともかく、人生の先達にまで引かれるのは、少し心外だった。

 

「お前、その顔その歳でその性癖って前世でなにやらかしたんだ?」

 

 胡散臭い見てくれで痩身の、くたびれたスーツを着込んだ中年教師・宇佐美巨人はおれの性癖を知ると難しい顔をして眉根に力を入れた。

 大和に面白い先生がいる、と言われてついていった第二作茶道室で寝っ転がっていたのがこの人間学とかいう哲学的な授業名のわりにリアルな題材を取り上げる、うだつの上がらなさそうな教師だった。

 生徒からの愛称はヒゲ。蔑称もヒゲ。特徴もヒゲ。ダンディズムを微塵も感じさせない申し訳程度に伸びたあごひげが彼のトレードマークである。

 ひょろひょろで何とも頼りがいがないが、体は締まっていて動作に我流の洗練された光るものがあった。意外と修羅場をくぐっているのかもしれない。大和の言う通り、彼の話は含蓄があって面白い。

 爛れた青春を過ごしていそうな中年オヤジは、やれやれとでも言いたげなため息をついて語りだした。

 

「マゾっ気がある、リードされるのが好きとかならまだ分かるが、中坊の時点で万能ハードマゾを自覚するって人としてどうよ?」

「奉仕系も苦痛系も羞恥系も何でもいけます」

「いや、おじさんにアピールされても」

 

 ヒゲは珍しく困惑していた。ヒゲはあごひげを撫でて、遠くを見つめながらまた嘆息した。

 

「おじさんが三河の顔だったら人生楽しくて仕方なかっただろうなぁ。葵みたく手当たり次第若いコ食い漁って、大学まで遊び呆けて卒業間近に金持ちの女たらしこんで逆玉で今頃ウハウハだったろうぜ」

「逆玉婚、格差婚は男の尊厳捨てなきゃダメらしいけど」

「おじさん、そんなもの端から捨ててるから」

 

 ヒゲは誇らしく情けないことを宣う。おれはそのどや顔にイラっとしてきつい声で言った。

 

「ねえ、なんか面白い話してよ」

「三河、それ女から振られて一番困る無茶ぶりだからな? 特に関西人と芸人にプライベートで言うとブチ切れられるから気をつけろよ」

 

 貫禄の経験談を忠告しつつ、ヒゲは澄ました態度で、「ま、おじさん大人だからしてやるよ」と話し始めた。

 

「おじさん、これでも昔は三股とかしてたプレイボーイだったんだが、素人だけじゃなくてプロ、俗に言う風俗も足繁く通う下半身の持ち主でもあったんだぜ? 今じゃ見る影もないが」

「千なら持続力も回復力も全盛期に戻せるよ」

「マジかよ。おじさん頑張っちゃう」

 

 誰も治すと言ってないのにヒゲは張り切り始めた。授業中でも気づけば勃起しているおれにはわからないが、中年の下半身事情はかなり切実らしい。

 このあいだ九鬼英雄を安請け合いで治療したのがじじいにバレて、世界中の人間を救うつもりでもないなら気安く力を使うなと御叱りを受けたばかりなので、少なくとも学校では使いたくないんだけれど。

 

「前回は三股がバレたときの切り抜け方を教えたんだっけな。なら、今回は風俗の話でもするか」

 

 これは興味深いですねえ。おれは身を乗り出して傾聴した。

 

「まぁお前らの歳で行くことを薦めたりしないが、将来先輩から奢ってもらったり、童貞捨てるためだったり、性欲を発散するために利用することがあるかもしれない。そのときなるべく失敗しないようにする参考程度に聞いておけ」

「そんなにいいものなの?」

 

 大和が乳臭い口調で尋ねた。おれたちはオナニーしか知らなかった。

 

「そりゃあ、一人虚しく自家発電するより良くないと誰もカネ落とさんだろ」

 

 ヒゲは乾いた笑いを浮かべた。童貞の高校生を憐れむというより、微笑ましく見てる笑みだった。

 

「おじさんの後輩に二十代半ばなのに童貞の男がいてな、これがモテないくせに妙に潔癖で、童貞は捨てたいけど商売女は嫌だって駄々こねる面倒なヤツだったんだわ。

 彼女欲しいって口癖みたいに言うけど女と接した経験がないからどうにもならない。それが見てられなくて、奢ってやるからソープで素人童貞にランクアップして来いって無理やり連れてってやったんだよ。

そいつの童貞最後の言葉は、『せめて高級店がいい』だ」

「それでどうなったん?」

「出てきて開口一番、『次はいつおごってくれますか!?』だ。ノンスキンの高級ソープだったし、よっぽどサービスよかったんだろうな」

 

 純粋なおれにはノンスキンの意味が全くこれっぽっちも見当がつかなかったが、彼がとても晴れやかな顔をしていたのは容易に想像がついた。ちなみに川神は全店ゴム着用である。

 ヒゲは目を瞑りながら言う。

 

「ま、お前らは筆下ろし目的でいく必要なさそうだが、気をつけろよ。風俗は女に困ってなくてもハマるヤツはハマる。要は風俗は疑似恋愛だから、惚れて貢いだり、逆に通常の恋愛で得られない女性を金で買うことの感覚に病みつきになったり、色んなヤツを見てきた。

 金が絡むと面倒だぞー? おじさんから言えるのは、楽しいが程々にしとけってことだ。性病の危険もあるしな」

 

 それで終われるとでも思ってんの? おれと大和は話を畳もうとしているヒゲに抗議の声をあげた。

 

「なに綺麗に終わらせようとしてんだYO!」

「おれたちが聞きたいのはもっと生々しい体験談だー、キレが悪いのは尿だけにしろー」

「いや、おじさんと君たちは一応教師と生徒だからね? だから十八歳未満を風俗に行くよう促したと思われるのはちょっと……あと三河、おじさんそれも悩みなんだ。助けてくれ」

 

 あんたの下半身ボロボロじゃないか。おれは少し同情した。目頭をおさえて頭を抱える中年男性の肩はとても狭く見えた。

 

「全部出したと思ってしまってからチョロっと漏れたときの悲しさ……あなたたちにわからないでしょうね」

「素直に泌尿器科行けば?」

「泌尿器科とか肛門科ってハードル高くないか? まだ日常生活に支障をきたしてないから躊躇っちゃうんだよなぁ」

 

 今までたくさんの風俗嬢に全身さらして、現在生徒に自身の情けない下半身事情を打ち明けておきながらなに恥ずかしがってるんだろう。

 ヒゲのメンタルの回復を待ってから、お楽しみの失敗談が始まった。人の不幸は蜜の味である。

 

「とりあえず、ソープで嬢を選ぶ際に、ほぼ確実に地雷な要素がある。おじさんからの忠告は、巨乳は選ぶなということだ」

 

 指名するときにスリーサイズと顔隠した下着姿が映ってるアレのことか。

 

「おじさんも若いころは巨乳が好きでね。プロフに巨乳と書いてあったら真っ先に選んでた。胸がデカけりゃ顔は多少我慢できるって思ってたわけよ。実際に出てくるのはぽっちゃりが多いのはご愛敬で、理想の痩せ巨乳が出てくることはなかったけどな」

 

 それくらいなら全然妥協できる。というより地雷でもない。高望みしなければ十分いけるラインじゃないか。おれはそう思っていた。ヒゲは言う。

 

「忘れもしない。その日指名した嬢のスリーサイズは92-63-88だった。溜まっていたおじさんは数字だけを見てこの娘に決めた。ウキウキして浴場に行ったら……トロールが出てきた」

 

 いつから中年オヤジがファンタジーの世界にトリップする話になったんだ。

 

「おかしいよな、癒されにいったのに終わったあと、俺は疲れ切って昏倒してたよ。それ以来公表スリーサイズ60以上は指名してない」

 

 ヒゲは手短に語った。その苦々しい表情は思い出したくもない内容の悲惨さを物語っていた。

 

「おじさんからの助言としては、事前にちゃんと予約か下調べしていくことだな。人気のコは予約が多くて待たなきゃならんが、その分サービスは期待できる」

 

 ついでに客引きがいる店はたいしたことないとも言った。ヒゲは裏稼業に詳しそうで、踏み込めば色々な事情も教えてくれそうだが、興味半分で尋ねるには危うい気がした。

 なんというか、そう。深淵を覗く覚悟がなかった。覗き返されたら怖いし。

 ヒゲは顎を擦りながら天井を見上げた。

 

「あとは……そうさな。地方のセクキャバやおっぱぶも用心しとけ。地方はそっちも高齢化が深刻でな、近場に大学があるところはそうでもないが、店員の年齢を逆鯖してるところがままある。

 おじさんが出張したときにふらっとセクキャバに入ったら、メデューサが出てきたんだ」

 

 ヒゲ、ペルセウスだった。

 

「メデューサは俺を見るなり、『あら、かわいいわねえ』と言って舌なめずりをした……それ以降の記憶がない」

 

 負けてんじゃねえか。

 

「お前ら、中年男性のトラウマほじくり返して楽しいか?」

「すっげえ楽しい!」

 

 ここにドSがいる。彼は大和だった。

 

「最近の子供はおっかないなぁ。これがジェネレーションギャップってやつか」

「おれは子供を子供扱いする大人が嫌いだ。具体的には三十代後半~六十代が嫌いだ」

「おじさんはギリギリセーフだな。しっかし、最近の若年層は上の世代に敵愾心ありすぎだろ。いや、おじさんたちも若いころは反発したものだけど」

「校舎の窓ガラス割ってないだけマシだろ!」

「行儀よく真面目なんてできなかったんだ、おじさんたちは」

 

 ヒゲは目頭を押さえた。どうでもいいけど近頃の若いもんは~発言する前に若いころ自分たちが何してたか思い出してもらいたい。

 オナニー以外に罪を犯していないおれを見習ってほしい。性欲に忠実なおれはヒゲに向かって声を張り上げた。

 

「ヒゲ! SMの話が聞きたいわ! SMクラブの話はまだなの!?」

「おじさんそっちはあまり趣味じゃないんだよなぁ。友人に聞いた話じゃ、立ったまま全裸で壁に縛りつけられた状態でゴムボールを先っちょに投げつけられるプレイがよかったらしいが」

「そんな、ゴムボールだなんて……いやらしい……」

「どう考えてもネタだと思うが、おじさん、真剣で三河が悪い女にだまされないか不安になってきたよ」

 

 アイマスクとボールギャグされて両手両足縛られた状態でドSなお嬢様に何から何まで世話される監禁生活を送りたい……そんなささやかな幸せを願っているだけなのに、どうしてそこまで言われなければならないのだろう。

 おれは何もわかっちゃくれない大人への反骨心を胸の内に養いながら、今日のおかず何にしようか考えた。

 

 そのとき、精通を迎えて以降、賢者になるとき以外は性欲に支配されていた頭が、反骨心に刺激されて耳元でこうささやいた。

 

 

 

『YOUも彼女つくっちゃいなよ!』と。

 

 

 

 

 

 

 おれは今まで姉さんの理不尽な暴力やエロス、京の言葉攻めやワン子のビンタに欲情してきたが、最近になって複数の女性に責められて興奮するのは不誠実ではないかと考えが変わってきた。

 おれが本当に誠実で忠実なマゾヒストなら、女王様以外の異性に罵られたり、ビンタされて発情する節操のない豚であってはならないし、そんな移り気では女王様にも愛想を尽かされてしまうだろう。

 相方は一人いれば十分十分! というか彼女ほしい。切実にほしい。今まで気にも留めなかったが、そういえばおれってモテるじゃん。川神学園イケメン四天王(五人いる)筆頭じゃん。

 そのおれが未だにオナニーに甘んじているなんて、世界の損失ではあるまいか。

 まだ川神学園に入学してから告白されたことはないが、メールと電話がひっきりなしにくる顔と名前が一致しない女の子ならたくさんいる。入れ食いでござる。撒き餌も、糸を垂らす必要もなくあっちからクーラーボックスの中に飛び込んでくる状態だ。

 求められているのだから応えてやるのがせめてもの礼儀ではないか?

 おれを好きな人の中に運命の人がいるかもしれないし、相性もあるから試しに付き合ってみるのもいいのでは?

 

 ……いや、自分を正当化して取り繕うのはやめよう。正直になるべきだ。

 

 

 

 好きとか恋とか、そういうのはよくわかんないけど、とりあえずエッチしたい!

 めっさスケベしたい! めっちゃセックスしたい! めちゃくちゃズッコンバッコンしたい!

 キスしたい! お尻さわさわしたい! おっぱい揉みたい! 太ももに頬ずりしたい!

 男が穴があったら入りたくなるのは神話時代から続く人類の伝統であり、くわえておれは性欲に忠誠を誓った騎士なので、性欲に命じられたらどんな禁忌だって犯しちゃう狂信者系ナイトなのだ。つまるところ性欲がとどまるところを知らないのである。

 ヒゲが言っていたじゃないか。

 

『おじさんが三河の顔だったら人生楽しくて仕方なかっただろうなぁ。葵みたく手当たり次第若いコ食い漁って、大学まで遊び呆けて卒業間近に金持ちの女たらしこんで逆玉で今頃ウハウハだったろうぜ』

 

 これを参考にしていいかわからないが、大半の男は似たような願望を抱いているに違いない。

 かくいうおれもヨコシマな感情は人並みにありましてね。女子高生という存在を前に抑制がきかなくてですね。

 それに葵やヒゲの猥談も重なって大変なことになっていましてね。もう、羨ましくてですね。こう……ムラムラっとね。辛抱たまらんのよね。

 それにね、ガクトとか嫉妬団が恨み言述べてくる程度に女の子寄って来るのよね。姉さんがいるといっても、赤信号みんなで渡れば怖くないの精神で学校でも徒党を組んで群がってくるし、学校を離れれば携帯にひっきりなしにね。

 

 そんな状況が毎日続いたらさぁ! ちょっとくらいつまみ食いしてもいいかなって思うじゃん!

 なんかぐいぐい来るからさぁ! 突き放そうとゲスいリクエストしたらさぁ! ノリノリで要求に応えてくれるんだもん!

 これがバレたらおれのあだ名が『写メセン』になっちゃうよ……別にエロ写メ強要したりしてないけど。

 でもこの誘惑に屈するのが十代の自然な姿なんだよな。最近の主人公は自制心が強くて困る。

 美少女に迫られたらとりあえずエッチして後のことは賢者になってから考えればええんや。

 せやろ?

 

 

 

 というわけで彼女つくろう。

 おれの立場だと、誰かと付き合うのは選り好みしなければたやすい。

 迫って来るコに「どうせおれの身体が目当てなんでしょう!? 好きにすればいいじゃない! エロ同人みたいに!」って言えばいいだけだ。

 けれどもおれは割りと面食いで、身近にいた異性が姉さん、ワン子、京とハイレベルな幼馴染なのもあって理想が高かった。この時点でかなり選り好みしているように思えるかもしれないが、童貞が選り好みするのはごく自然の行為なので何ら不思議ではない。

 

 だったらその三人を狙え、とおれの心のうちを知った者は口を揃えるだろう。

 しかし、性欲に流れに流され、恋なんてちんぷんかんぷんなおれが女の子と【自主規制】なことをしたいというだけで付き合うには、その三人は身近過ぎたし、何より不純な動機で付き合うには不誠実だという後ろめたさが勝った。

 身体目当てで付き合いたいおれには、おれというアクセサリーがほしい異性がお似合いだ。

 

 おれは危うい影響の受けやすさがあったが、それでも選り好みする図々しさと理想の高いある種の潔癖な貞操観念があったため、その相手も丁寧に選んだ。

 というか、はじめから気になってる人はいて、これまでのすべてはその後押しだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あたいは焼きそばパン買って来いっつったろーがハゲッ! なにグラタンコロッケパンなんて炭水化物の塊買ってきてんだ、あたいのスタイル崩れたらどうしてくれんだアァ!?」

「いやぁ、正直焼きそばパンもたいがい……それに歳も歳だし食べ物に気をつけんと太りますよねそりゃ」

「太ってねえよ! お前の髪といっしょで体に栄養いってねえんだよボケ!」

「とうとう自虐まで……かわいそうに。あと二十年若ければ慈しみながら慰めてやったのに……うごぁ!?」

「なんで妙に上から目線なんだよテメェ!」

「こうなるの分かっててあずみに言い返すあたり、準は誘い受けのマゾとしか思えないよねー。ハゲでロリコンでペドでマゾでハゲって何重苦なんだよーって感じー」

「何で二回も言ったし。だいたいハゲにしたの君だし、俺はペドじゃないし、年増好きでもないから」

「誰が年増だボキャァ!!」

 

 昼休みの九鬼英雄不在時に、お付のメイド・忍足あずみは本性をあらわにして井上をパシリにし扱き使っていた。おれはその光景を歯ぎしりしながら眺めていた。

 井上はあずみさんに後ろ手に捻られて、関節を極められながら悶絶している。できることなら代わってあげたい。どうしてあのポジションにいるのがおれじゃないんだろう。というか代われよ。今すぐ代われよ。はよ代われや。

 年上のドSのメイドに折檻されながら、幼馴染(たぶんS)に言葉攻めされる高校生。どこのギャルゲの主人公だよ……

 おれは井上を嫉妬のあまりどうにかしてしまいそうだった。

 あずみさんは本性をあらわにした際の標的を井上にロックしたまま固定し、事あるごとに下僕扱いで従わせては気に食わなければ折檻していた。その矛先がおれに向くことはなかった。

 

 だいたいおかしいのだ。なぜ前世で日本中の地蔵を蹴っ飛ばしたかのような業を背負っている井上がSっ気ある女性に囲まれて、

 

「千くん、相変わらず良いお尻をしていますね。細めのスラックスにうっすらと浮き出たラインがセクシーで素敵です」

 

 神が懇切丁寧に設計したおれにはホモが付き纏っているのだろう。世の中絶対にまちがっている。

 神様、あなたの最高傑作の尻がピンチですよ。

 おれは葵を適当にあしらいながら、世界への憎しみを募らせていた。気づけばその憎悪を井上に向けていた。

 身震いした井上が挙動不審におれを一瞥した。

 

「また三河が俺を睨んでるんだが、俺なにかしたか?」

「準は呼吸してるからなー」

「そんなダンスしてるからみたいな気安さで人の生を否定しないでくれませんかねえ」

 

 榊原さんの毒舌は日に日に磨きがかかっており、最近は井上が口を開くたびに存在を否定するまでになっていた。

 無論そこには親しいからこそ言える友情と、弄りを許容できる井上の懐の広さがあっての関係が垣間見えて、傍から見てコントとして通じる温かみがあった。

 きっとこれまでも榊原さんが井上にとんでもないことをやらかしても、そのたびに井上は許してきたのだろう。その積み重ねたイジラレオーラがあずみさんのサディズムを刺激して、その鬱憤の捌け口として井上を標的にしているのだ。

 

 対して、おれは誰にも弄られたり、からかわれたりすることがなかった。なぜだ。

 いつも京には罵倒されてるのに。姉さんのおもちゃとして幼少期を過ごしてきたのに。去年はワン子の椅子になっていたのに。年上の女性に好き放題されたいと毎日思っているのに。どうしてだ!?

 やっぱ井上の頭みたいな明確なネタ要素がないと弄りがいがないのか?

 おれも井上のロリコンカミングアウトみたいにドMをカミングアウトしないと弄ってもらえないのか?

 だがおれの性癖暴露は、あずみさんのようなドSなお姉さんに身も心も調教された末に、捨てるついでに周りにマゾを言い触らされるまでがプレイの交際で、と心に決めている。

 

 もう説明する必要もないだろうが、おれは九鬼英雄のメイドさん、忍足あずみが気になっていた。

 あのにじみ出るサディスティックなオーラと素のときの笑みに、おれのマゾヒズムなメンタルはもう闇堕ちさせられていたのである。

 いやでも好きじゃないよ。恋愛とかじゃないよ、たぶん。

 グラビア雑誌を眺めてスタイルの良い女性に欲情する男の心情に近しい心の動きだと思う、きっと。

 付き合いたいとは思うけれども、実際のところはかわいいなー、と頭の片隅に残っている遠い世界のアイドルと、できたら付き合えたらいいなー、なんて漠然と妄想してるものに近い、おそらく。

 これは恋愛感情ではなく性欲に突き動かされているのであり、井上に抱いている嫉妬心は、性的に魅力を感じている女性がもしかしたら取られるかもしれないという危機感に由来したものに過ぎない、メイビー。

 

 だから下っ端として扱き使われてる井上と、あずみさんを従えてる九鬼英雄が憎いなんて醜い感情持っていても仕方がないんだなぁ、これが!

 

「あのー、やっぱり三河が俺のこと睨んでるんですけど、俺だいじょうぶ? 殺されたりしない? マジで」

「きっとあずみの尻に敷かれてる準が羨ましいんだよー。準はハゲでロリコンのくせに隅に置けないねー」

「いやぁ、それはないだろ。だってこの人俺たちと干支いっしょなんだぜ。女の子が小学校卒業してババアになるのと同じ時間分、歳食ってるんですよ。ないわー」

「テメェほんとに死にてえらしいな……」

 

 煽り上手の井上さんは、怒りで震えているあずみさんの手で直々に肩の関節を外されていた。

 もう我慢できない。おれは行動に移すことにした。動くことを決心してからは物事が進むのは早かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 放課後の屋上でおれは手持無沙汰で佇んでいた。

 あのあと、おれは誰にも書いているのを悟られないように慎重に手紙をしたため、誰にも察知できない速さですれ違いざまにあずみさんの懐に手紙を潜り込ませた。

 恐ろしく早い手渡しであり、姉さんかジジイでなければ見落としちゃう代物で、手練れのあずみさんも衣服の違和感でようやく渡されたことに気づいたくらいだ。

 

 手紙の内容は、『放課後、一人で屋上に来てください。待っています。 三河千』

 

 思い返すだけで全身がむず痒くなる文章から意図が丸分かりだろうが……そう、おれは告白する。

 もう辛抱ならなかった。一刻も早くあずみさんにおれのご主人様になってもらいたくて疼いてたまらなかった。

 井上が折檻くらっている姿が、かつて姉さんの下僕として過ごしていたおれを彷彿とさせて、腹からせりあがる熱い情欲に頭が煮えたぎって何も手につかなかった。

 だってあずみさん凄いドSなんだもん! 学校生活を観察しても、Mの気質を微塵もちらつかせないレベルでドSなんだもん! こんな人見たことないんだもん!

 女の子ってどんなに強がっていても、心のどこかでは強く頼もしい男に支配されたがってる節があって、武神の姉さんでもその片鱗はあったのに、あずみさん全然ないんだもん!

 ……うわぁあああああああ! ……やばい、今のおれ頭おかしい。ちょっと落ち着こう。

 おれは空を見上げた。空はとても綺麗な青色で、まるでおれの心を投影したかのように澄んでいた。よかった……曇ってない。小説的には曇ってたり雨が降ってたら先行きが危ぶまれるから、晴れてて助かった。天もおれの味方をしている。

これでおれの告白を妨げるものは何もない。授業が終わったと同時に気配を消して行動したから姉さんに気取られる心配もないし、周囲に人もいないから聞き耳立てられる不安もない。

 

おれは大きく嘆息した。よし、告白の内容を確認しよう。まず第一声で、『おれのご主人様になってください!』と土下座する。あとは流れで。完璧だ。

ここに来るまでに今までに蓄積したあずみさんの行動パターンから、あずみさんの反応をシミュレートして、成功に至るまでの過程をいくつか検討しておいた。

さて、もう一度誤りがないか確認して……しようとしたらあずみさんの気がかなりの速さでこちらに向かってきていた。

思ったより早い! 忍者自重しろよ! 廊下走るなよ! やっべ、考えまとまらない。どないしよ――

 

「お待たせしました、三河さん☆」

 

 きゃるーん、と薄ら寒いポーズと猫なで声であずみさんがドアを勢いよく開けて登場した。

 全然待ってねえよ、もっと遅く来いよ。

 

「それで、どのような御用でしょうか? できれば手短にお願いして頂きたいのですが」

 

 ああ、そうだよね、英雄待たせてるもんね。あいつ忙しいし、それに付き従うあずみさんも同じくらい多忙だから、時間かけないようにしないと。

 

「あー……その、あずみさん……」

「はい」

 

 ――おれのご主人様になってください!

 

「あの……す、好きです!」

 

 

 

 

 

 ……あれ、今おれなんつった?

 

「はい! ……んん?」

 

 おれの勢いに釣られて元気に返事をしたあずみさんは、声を出してからしばらくフリーズして、言われた言葉の意味を理解するのに時間がかかり、それの意味することが分かって再びフリーズした。

 おれもまた自分が口走ったセリフに思考回路がショートして固まっていた。

 

「……」

「……」

 

 見つめ合ったまま互いに無言で、ただ時間だけが過ぎる。おれはいったい何をしているんだ。テンパって事前の内容とちがうセリフを口にしてしまった。

 しかも内容が、あんな……顔を覆いたくなるようなこっぱずかしい……!

 おれは羞恥心に耐えきれなくなり、視線をそらした。それと同時にあずみさんが再起動した。

 

「……それって、あたいに言ってるのか?」

「……はい」

 

 尋ねられたので答えた。あずみさんは猫被りをやめた顔つきで辺りを見渡した。

 

「ドッキリってわけでもなさそうだし……て、ことは……真剣かよぉ」

「……はい」

 

 あずみさんは心底戸惑った様子で、それでいて心底不思議そうにおれを見た。

 

「何であたいなんだよ……自分で言うのもなんだけど、歳が一回り離れてるし、それに、お前なら武神とか、もっと良い女選り取り見取りだろ」

「そんなことないです。あずみさんは綺麗で、仕事してる姿も凛々しくて、頼りがいがあって……憧れています」

「お、おぉう……そ、そうか」

 

 狼狽して、幽かに頬を赤くしたあずみさんは満更でもなさそうな顔をしていた。

 おれは頭を無視して勝手に先走るおれの口を信じられなくなっていた。まるで自分の身体じゃないかのようだ。条件反射で答えんじゃねえよバカ口。

 

「……な、なんていうか……嬉しいもんだな、そこまで素直に好かれると」

 

 ちがうんです! 素直なんかじゃ全然ないんです! 首輪つけて飼ってほしいんです! 好き勝手調教した末に飽きたら周りに性癖暴露して捨ててほしいんですぅぅぅ!

 心の叫びと裏腹に口は堅く結ばれて動かなかった。

 

「じゃああれか、井上をパシリにしてるとき睨んでたのは、友人をコケにされて怒ってたわけじゃなくて、嫉妬してたのか」

「……はい」

 

 おれは壊れたレイディオように返事をした。もう自分が信じられない。この世で自分ほど信用ならないものはないと言い切った主人公がいたが、その通りだった。おれはいったい何をしているのだろう。

 

「おぉう……ま、マジか。マジか……」

 

 噛みしめるようにあずみさんは小さく繰り返した。

 

「……」

 

 暖気を帯びた生暖かい吐息にも似た風が頬を撫でて、前髪を舞い上げた。あずみさんの頬は紅潮していっているのに、おれの頬からは血の気が引いていった。

 あずみさんは何度か切り出そうと躊躇ってから、男気を感じる仕草で頭を掻いてから、逡巡を繰り返して、やっと紡ぎ出した。

 

「あー……その、なんだ。先に返事だけ言っとく。悪いな、三河とは付き合えない」

「そ、う、ですか」

 

 声に詰まったが、なぜ詰まったのか理解が及ばなかった。

 

「あたいは英雄様に忠誠を誓ってるから、他の人は考えられないんだ。だから三河に悪いところがあるとか、そういうわけじゃねえぞ?」

 

 ああ……九鬼英雄への態ってビジネスじゃなかったんだ……いなくなった途端にキャラ変わるから嫌々やってるのかと思ってた。

 

「むしろお前みたいな若くて人気ある男に好きって言われて嬉しかったし……いや、なに言ってんだろうなあたい」

 

 何度も言うけど、どうでもいいと思ってる人に人気があっても嬉しくもないわけで……なに言ってんだろうおれ。言っても意味ないのに。

 

「……付き合ったりできないが、お前は英雄様の恩人だ。個人的に恩義も感じてるし、困ったことがあるならいつでも頼ってくれ。こちらもクラスメートとして仲良くやっていきたいとは思ってる。

 これからも友人として頼む。……ま、友達って呼ぶには歳が離れてるけどな!」

 

 ニカっと半ば強引に微笑んで、あずみさんは締めくくった。おれは自分がどういう表情をしているかわからなかった。

 

「英雄様待たせてるから、もう行く。……んじゃな」

 

 そそくさと立ち去るあずみさんの背中をボーっと追って、誰もいなくなった屋上でおれは風に吹かれていた。

 いや、ダメで元々だったし、そもそも恋とかじゃなくて性欲に突き動かされたからだし、下手な鉄砲数打ちゃ当たる理論で行こうとして、その最初に一番理想的な人に狙いを定めただけだし、恋愛感情とかないし、ダメだったらダメだったで別の娘に行けばいいだけだし、おれのこと好きな娘はたくさんいるし、だからこんなの全然平気だし。

 

「ふぐぅぅううう……」

 

 胸がギュウって……ギュウってしただけ……ギュウって……

 

 

 

 おれは次の日、生まれて初めて学校を休んだ。

 




お待たせして申し訳ございません。
これからA-5プレイします。
ヒャア 我慢できねぇ 旭ちゃんだ!


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番外編:せんのらんしん

 

 

 あれから、千は三日もオナニーしていなかった。

 

 初日は倦怠感と虚脱感から学校へ行く気が起きずにサボタージュ、飯を食べる気も起きず飲まず食わずで一日を終えた。人に会う気力もなく、心配して家に来た百代を帰るよう促したが、強引に入ってこようとしたため力づくで追い払った。

 二日目は登校こそしたが終始憮然としており、シリアスブレイカーとして定評がある井上準と榊原小雪の漫才コンビが話しかけても、心ここにあらずな反応しか返さなかった。小雪は「全然ウケないよー! 準のバカ、解散してやるー!」と泣き喚いた。一人だけ事情を知るあずみは気まずそうな顔をしていた。葵冬馬も空気を読んで口説かなかったが、空気を読まずにちょっかいを出した心はデコピンで返り討ちにあった。

 三日目になると、放っておけば治るだろうと楽観視していた風間ファミリーも心配し始めたが、傷心を引きずった千の心はまだ修復できていなかった。神童の誉れ高き千にとって、人生で挫折と呼べる経験は武道に於いて百代に絶対に届かない事を悟ったただ一度のみであり、此度の失恋はそれに並ぶ自信の喪失だった。

 

 千は並ぶ者のない輝かしい才能と美貌をもって生まれたが、精神は生まれの身の丈にあった程度の凡庸で世俗的な、自身の才というピカピカの豪奢なドレスを着飾っては見せびらかして誇ることで根付いた、成金で貧乏性な一面が根底にあった。恵まれた家庭と注がれた身内のありったけの愛で育まれた純真な精神は、千の才能を食い物にしようとする連中によって途中で折られてしまったけれど、その後川神院で培われた才能を土台にした歪な心が、千を支えていたのである。

 だが、拾われた先に百代という武における絶対的な頂点が常に目の上のたん瘤としてあったことは、どのような分野でも天狗になれる素質をもった千に、努力ではどうにもならない壁と捻くれた価値観と奇妙なコンプレックスを意識させた。

 歳も近く、仲も良く、共に圧巻の才能に恵まれた二人だが、彼らの強さについて行ける者は誰もいなかった。二人の違い――百代にとっての幸運と千の不幸は、いつも後ろを振り返れば百代のすぐ後ろには千がいたけれども、千の後ろには遥か遠くに雑多な影がたくさん並んでいるだけだったことだ。

 

 努力すれば遥か高みの存在になれる。だけど頂点には決してなれない。

 孤独ではない。だけど理解者はいない。人に自慢できる、でも誇ることはできない。

 いつも上には百代がいて、見上げるのに疲れたとき、ふと下を見るとどう頑張っても届かない人の群れが二人に近づこうと必死に手を伸ばしていた。

 この環境が、千に才能を笠に着て他者を見下す悪癖と、絶対的な存在への劣等感、それによって生じる卑屈な感情を養うことになった。

 もし、鉄心やルーがそれに気づいて息抜きに武道以外の物事を教え、見聞を広めていれば、千は他の分野で自信を身に着け、武道でのコンプレックスを意識することなく成長できただろう。

しかし、鉄心とルーもまた武道一辺倒に生きた人間であったこと、千に他の道を歩ませるのは武道に携わる者としてあまりに口惜しいほど才に恵まれていたこと、百代の孤独を癒やせる唯一の同年代であったことが、千を縛り続けた。

 この経緯が、百代にとって武道は誇りであったが、千にとってはそうでもなく、百代にとっての千は唯一だが、千にとっての百代は相対的に大切なもののひとつという相違を生む原因となった。

 

 千は何でもできるが、自ら進んで行動することは稀だった。

 小学生の活力に満ち溢れていた時代に、好奇心から初めて作った料理が、母の手料理よりも美味しかったことが子供心にひどくショックだった。本人は覚えていないけれども、これが進んで動こうとしない遠因になった。

 千はその聡明さ故に、常に思考していると思われていたが、実際は何も考えていなかった。

 後手に回っても能力の高さで全て対処できたから、事前に細やかな策を練る必要がなかった。

 千はこれまでに積極的に、主体性を持って動いたことが何度かあったが、全て失敗に終わっていた。

 百代にオナニーがバレて引っ越そうとしたとき、百代の求めに応じようとしたとき、そして今回の告白……

 千は受け身なら冷静に物事を捉えて対処できるが、自分から動くときは後先考えずに我欲に流されるため、悉く失敗した。単純に女が絡むと弱いのかもしれなかった。

 ともあれ、世俗的でいながら傑出した、超常現象が人の形を象っているような百代、鉄心らと同一視される千が、唯一と言って良いほど執着したのが性欲と(本人は否定するが)恋愛感情なのである。

 長年続けた武道で挫折しても、自信は失ったが落ち込んだりはしなかった。今回は男としての自信を失ったばかりか、胸に穴が空いたかのような喪失感と、もう先が見えない、未来が失われたと錯覚する不安まで湧き上がって心を苛んだ。

 というか気が付いたら泣いていた自分の情けなさにますます涙が出てきて、千は闇堕ちする寸前だった。たかが失恋程度でダークサイドに堕ちかけるメンタルは、要は自分を否定されることを厭う甘ったれた性分に由来しており、一方で幼少期に見た持たざる人の乞食ぶりに端を発する人間不信が、褒められるなどして肯定されても全く嬉しくない捻くれた性格に育った原因である。

 

 その捻くれた性格は、三日三晩落ち込んだ末にこんな結論を出した。

 

 

 

「恋愛してる奴らはキモい」

 

 正直色ボケした姉さんはキモいし、京も慣れたけどキモいし、ガクトは言わずもがなキモいし、おれにアピールしてくる女子もキモいし、年がら年中発情しているおれもキモい。

 恋愛なんぞに現を抜かしているから、いい年してメールで『おはよー!チュッ(笑)』なんて送っちゃうおめでたい頭になってしまうのだ。

 おれはああなりたくはない。やはり男女関係は互いの性欲解消だけを念頭に置いた付き合いにすべきなのだ。恋なんてするから人は傷つくし、熱に浮かされてバカみたいな行為をして社会的な地位を失う。

 おれは二度としないぞ。いや、別に恋とかしたことないけど戒めとして改めて誓う。

 もう絶対に恋なんてしない――! 絶対にしてやらないからな!!

 

 

 

 

 

 

 

 ……などと千が決意を固めているころ、秘密基地では学校帰りの百代と京が二人きりで時間を潰していた。

 京が文庫本をパラパラとめくっていると、百代が悩ましげにため息をついて言う。

 

「京、千にはエロい姉ちゃんみたいな小悪魔めいたところがあると思わないか?」

「そうだね(どこが?)」

 

 京は京に罵られて興奮する情けない千を思い浮かべて、気のない返事をした。恋する乙女は盲目なのだろう。ずいぶん長いこと片思いしている同士として百代に相槌を打つ。

 百代は同意されて気を良くし、饒舌に語りだした。

 

「京もわかるか? あいつは悪い男だぞー。キスは好きにさせてくれるのに、その先は絶対に許してくれないんだよ。つれないよなぁ」

「モモ先輩と千、もうキスしてるの?」

「あれ、言ってなかったか?」

 

 京は少し目を見開いて尋ねた。聞いてない。千のヤツ、黙ってたな。

百代は色ボケした表情で京の返事を待たずに続けた。

 

「今年の初めくらいに、千に冗談でキスして、とお願いしたら本当にしてくれてなー。それ以来、二人きりになったらいつもしてるぞー」

 

 武神の威厳も凛然とした美人の名残もないとろけきったデレデレの顔で宣う百代に、京は白けた目を向けたが百代は上の空だった。

 京の非難はこの場にいない千にも向いていた。あのガワと性能だけは人類最高峰のポンコツは、京に気持ち悪さだけをアピールしている間に姉のように育った女性としっぽりしていたのである。許せない。今度会ったらあの集めに集めたAVを目の前で割ってやろう。

 京の気持ちをどこ吹く風の百代は不満そうに口を尖らせた。

 

「でもなー、キスはOKなのにそれ以上はダメだって言うんだよ。ひどいよなー、生殺しもいいとこじゃないかー」

「あの性欲が人の皮かぶって歩いてるような男がモモ先輩相手によく我慢できるね」

「あ……いや、うん……どうだろう」

「?」

 

 言い澱んで視線を泳がせる百代に首をかしげる。百代は頬を赤らめて言った。

 

「実は私のことを大切に思ってるから手を出さないんじゃないかと、最近は思ってるんだ」

「んー……」

 

 そんなわけない、と断言しようとして京は難しい表情で黙考した。去年の夏休み、猿のような男子中学生がオナ禁させられた挙句、薄着の女子中学生と間近で暮らしていても手を出さなかったあたり、三人娘は千の中で他の女性とは一線を画しているのかもしれない。

 実際、故郷の信子ちゃんにはすぐ手を出そうとしたのだし。特別でないのなら、それはそれで怒るのだけれども。

 頭を悩ます京に百代が上擦った声で言う。

 

「このあいだ、ちょっと邪険にされてショックだったから、泊まったときに思い切って夜這いしてみたんだ」

「さっすがモモ先輩、肉食系」

「そしたら、千は寝顔にキスしようとした私の唇を指で止めて、優しい声で『ダメ』って言って……」

「ん?」

「不貞腐れて布団に戻った私のおでこにキスして、頭を撫でながら『おやすみ、姉さん。好きだよ』って耳元で囁いてくれたんだ」

「……」

 

 果たしてそれは、京の知る三河千と同一人物なのだろうか。千に相手されない百代が寂しくて生んだ妄想ではないのか。京の知る千の人物像と乖離し過ぎていて、京は眩暈がした。

 しかし、百代は百代で、年下の弟に手玉に取られて、掌の上でコロコロと転がされているのに、これでいいのか。お前武神だろ、と一言いってやりたくなったが、当の百代がポワポワと緩みきった顔で頬を弛緩させているので京は何も言えなくなった。

 

「悪い男だよなー、まったく。魔性の男だよ。私が美少女を千の魔の手から守ってやらないと何人泣かすか分かったもんじゃない」

「やぶさかではないって顔してるよ、モモ先輩」

 

 そもそも千に女が近づけないようにして女を泣かせていた側だった気がするのだが、百代も千と同様でそこらへんは棚上げする人種だった。

 

「今も千をマーキングして近づく女の子を威嚇して追い払ってるんだっけ?」

「言い方が気にかかるが……昔ほどじゃないぞ。まぁ、弓子とかが紹介してくれってせがんできたりするのをあしらったりはするが、他の子も千を純粋に好きなんだ、私と同じくな。それを妨害したり、付き合ってもないのに独占欲丸出しなのも、狭量な女に思われるだろ?

 想いを伝えるくらい許すさ」

「ふーん」

 

 百代に以前とちがって余裕ができていたが、それが年齢を重ねて成長したのか、恋愛で誰よりも先を行っている自信から来るのか京には分からなかった。

 

「ま、その千はいま絶賛引きこもり中ですが」

「どうしたもんだか……大和とキャップでもダメだったらしいな」

 

 百代が頭を抱えた。千はこの数日、登校のほかは部屋に引きこもってうずくまる生活を続けていた。百代が気で確認したからまちがいない。何があったのか誰も知らない、千も話さない、聞き出そうとするとはぐらかす、連れ出そうとすると暴れると手がつけられなかった。

 放っておけば勝手に立ち直るとは思うものの、放っておいたらおいたで、明後日の方向に思考が飛んで、立ち直ったと思ったら性根が猫背になっていたなんてことがありうる。『REVOLUTION』とか言い出しかねない。

 あの男は予測できる範囲内で、かつどうしてそうなるのと途轍もなく疑問に思う突飛な方向に思考が転ぶため、京は不安でならなかった。百代は不安のベクトルが違ったが。

 

「天照の岩戸隠れにあやかってみんなでパーティーでも開いて騒いでいる様子を逐一メールで実況してみるか?」

「やめといた方が……絶対あとで根に持つし」

「そうか? あっさり流しそうだが」

 

 どうも百代と京で認識に齟齬が見られる。百代にとって千は心を許した人に対してのみ女たらしの素養を見せる優男だったが、京にとっての千は女々しくて気持ち悪い男だった。

 恋のフィルターで曇った眼鏡では千はそう見えるのか。いや、そもそも本性をあらわにしてなかったっけ。京がむず痒く思う中、腕組みして考え事をしていた百代が、名案を思い付いたとばかりに口を開いた。

 

「もういっそのことワン子を送り込むか。あいつ何だかんだワン子に甘いから、強くお願いされたら出てくるだろ」

「んー」

「そうだ! ついでにワン子に千の好みのタイプでも探ってもらおうかな。あいつそういうの恥ずかしがって口割らないけど、無邪気なワン子になら本音で語ると思う」

 

 十年間一緒にいる百代にさえ打ち明けないのに、なぜ似たような立場で付き合いの短いワン子になら話すと思ったのだろう。京と大和が千の性癖を知れたのは、読書家、表の顔はクール系、中身はエロエロ等、共通点が多く、友情の度合いが大きかったからだ。

 千は百代を性癖が合わないからダメだと言っていたが、あれは方便で事実は家族として見ているから、素の自分を公にできないのだと京は分析していた。親兄弟には言えないが友人には話せる。よくある話だ。

 ともあれ、百代の思い付きは見当違いなので正さなければ。

 

「モモ先輩、そんなことしてたら盗られるよ」

「誰に?」

「ワン子に」

「……いやいや、あのワン子だぞ? 性に興味がない純粋なワン子に限って、そんなわけ」

「あの犬を放ったら男を仕留めるまで帰って来ないよ」

「ひどい言い草だな」

 

 同い年で仲の良いほぼ唯一の友達だろうに、そこまで言うかと百代が引き気味に咎めようとしたが、それより強い口調で京が言った。

 

「分かってないのはモモ先輩だよ。恋で他力本願は絶対にやっちゃいけない。それで男をシーフされても文句は言えないよ」

「一理ある……ような気がしないでもないが、ワン子と千が恋仲になる過程が想像もつかないんだが」

「それ本気で言ってるの?」

 

 京にじっと見つめられて百代は、ウッとたじろいだ。

 

「仮に今の落ち込んでる千にワン子を送り出したとするでしょ? 元気いっぱいに慰めるでしょ? ワン子の天真爛漫な優しさに千が心を開くでしょ? デレるでしょ? この後めちゃくちゃ」

「言わなくていいから。んー、ありそうな気も、なさそうな気も」

「ワン子に偵察を頼むのなんて愚策も愚策だよ。普通の男なら、『この子俺に気があるのかな?』って勘違いするし、千が相手だと――」

 

 

 

『ねえねえ! 千ってどんな女の子が好きなの?』

『ワン子みたいな女の子かな』

『……え!? あ、アタシ……?』

 

 

 

「――絶対こうなるから、これがきっかけでワン子が千を意識しちゃってモモ先輩を裏切るまであるよ」

「……」

「そして、『お姉様には千よりふさわしい男の人がいると思う』とか言い出して、男が絡むと女の友情なんて儚いものなんだなって、妹に実感させられることに」

「……」

「挙句の果てに男の良さを知ってしまったワン子に、『愛し合うって素敵ー♪』とか鼻歌口ずさまれて、『お姉様はこんなに綺麗なのに、千は見る目がないわよねえ』と上から目線で惚気られるんだ」

「やめろよー! 本当にありそうに思えてきたじゃないかー!」

 

 京に妙にリアル感のある彼氏持ち女の勝ち誇った顔と自慢話を想像させられて、千がワン子でオナニーしていたことを思い出した百代は、自分の取ろうとした手段が悪手であると感じ始めた。

 京の話し方には、健康的で無自覚な色気しか持たない少女が、悪い男に染められて、きらめく瞳よりも艶やかな唇に自信を持ち、愛情を寄せられたことを誇らしく思い、自分の男と他の女のそれを比較しながら胸を張るようになる過程を面白おかしく語っていたが、それでも心をざわつかせるものがあって、百代の危機感と独占欲を刺激した。

 かといって、百代には千をどうにかする術はなかった。つい先日も千を慰めようとして叩き出されていたからである。

 

「ワン子はダメ、私もダメ、男共もダメときたらもう打つ手なしだぞ」

「放っておいて時間に解決してもらうのも手だよ。学校にはきてるんだし、明日の金曜集会には治ってるでしょ」

 

 京は楽観的な物言いをした。百代は、千が落ち込んでいる姿などこれまで一度も見た覚えがなかったから納得しなかったが、口にだすことはしなかった。

 口では呑気な見方をしていた京も、千の曲がった性根がさらにねじれることを危惧して、帰りに様子を見に行くことを考えていたが、こちらも口にだすことはしなかった。

 京は否定していたが、こうして離れていても千のことが頭に浮かぶあたりに、百代の言う魔性めいた魅力があったのかもしれない。京は決して認めることはなかったが。

 

 

 

 

 

 

 一人暮らしには広すぎて、学生の身分には過保護すぎる千の住む賃貸マンションに京は足を運んだ。途中で住人とすれ違ったが、同棲していると思われる男女だった。作りから考えても一人暮らしの住人の割合の方が少なく、学生に至っては千だけではないだろうか。

 川神学園と川神院のちょうど中間あたりに位置し、風間ファミリーが帰りにふらっと寄ってみたり、百代とワン子が、特訓が終わってから休憩を兼ねて遊びに行くのに絶妙な立地だったが、気安く入るにはセキュリティが少々手間だった。

 百代やワン子には質素な生活を心がけるよう言い聞かせている鉄心が、いざ千が手元から離れた途端に与えたプライベートスペースが、学生の身分には贅沢過ぎる2LDKのマンション。親元を離れた千の実姉が、東京で絢爛な大学ライフを送っているのと同額の仕送りと、百代に束縛されていた千が伸び伸びと生活できるようにという鉄心の気遣いとの兼ね合いの結果が、無駄な小物を買い漁り、AV収集という年齢的にアウトな趣味に目覚めさせるきっかけになった空間である。

 一般的には過保護に過ぎ、Sクラスのボンボンからすればたいしたことはなく、京からすれば余計なものを与えたとぼやきたくなる千の秘密基地は、来るたびに新しいものが増えていた。

 それはまとめ買いした本の山だったり、必要ないインテリアだったり、白い目を向けたくなるAVだったりしたが、川神院の本棚以外は何もなかった千の部屋を思い起こすと、かなり抑圧ないし自制していたことが薄々感じ取れて、本来は衝動的な欲求が多い性分なのが窺い知れた。

 性癖を告白されたときから分かってはいたが、千は浮世離れした完璧超人でもなんでもなくて、実際はひどく俗っぽい男子学生の一人だった。

 

 

 

「……なに?」

 

 部屋に入ると、陰鬱な顔をした千が出迎えた。制服の上着だけを脱ぎ、Tシャツにスラックス姿の千は対応するのも億劫だという態度を隠しもせずに京を半開きの目で見た。

 

「元気なかったから、どうしたのかなーって様子を見に」

「……おれそんなに構ってオーラ出してた?」

「や、別に。構ってほしいなら構うけど」

「要らないから帰って」

「やだ、私を構ってもてなしなさい」

「えー……」

 

 拒み気味の千を押し切ってリビングに入った。八畳の空間にはクッションが不必要なほど置かれた革張りのソファに同色のローテーブルがあって、飲みかけの冷めたコーヒーが寂しそうにテーブル上に鎮座していた。

 締め切ったカーテンの隙間から夕陽の明かりが滲んでフローリングを照らしているほかは明かりが点いていなかった。京が入ってから遅れて点灯したが、千は今まで薄暗い室内で何をしていたのだろう。

 まさか本当に膝を抱えて落ち込んでいたのだろうか。コーヒー豆と紙の匂いが満ちたリビングの床には、無造作に文庫本が散らばっていた。掃除が行き届いている反面、こういうところで千は粗雑だった。

 

「几帳面なのかズボラなのかはっきりしなよ」

「仕舞うのがめんどくさい」

 

 答えるのすら面倒そうに言うと、千はのそのそと冷蔵庫から缶コーヒーを取り出すと京にひょいと投げた。

 

「自分は淹れたコーヒーを飲んでるのに、客には缶を飲ませるの?」

「ぶぶ漬けいかがどすか?」

 

 遠回しに帰れと言われ、京はムッとしながら、どっかとソファに腰を下ろした。かつてないほど陰湿さを全快にした千は、嫌そうでいながらどこか虚無的な感情が見え隠れする表情で、人二人分離れた位置に腰かけた。

 

「実はそこ、ぼくのオナニーの定位置なんですよー」

「ふーん、で?」

 

 千が子供っぽい嫌がらせをしてくるので京も同レベルで煽り返した。千が頬をひくつかせたのを見て、京はクッションを顔面に投げつけた。やわらかい音をたてて跳ね返ったクッションは、千と京のあいだに落ちた。

 千は片手で目を覆った。

 

「いや、マジで帰って。しばらくしたら立ち直るから。それまでに人と話すと当たり散らしそうなんだよ」

「いったい何があったの? まるで失恋したみたいな落ち込み方だけど」

「失恋というか……やりたくて仕方ないから告白したら振られたというか」

「え、本当に失恋してたの?」

「失恋じゃない!」

 

 京の目が点になった。京にとっての千は、ワン子やキャップと同じ、恋愛からは程遠い住む世界のちがう人種としてカテゴライズされていて、仮に恋愛感情を抱いていたとしてもそれをおくびにも出さず、意地を張りながら生きていくものだと思っていた。

実像は意外と普通なのだと勘付いてはいても。驚きはそこだけではなかった。いつ、誰を好きになったのだろう。まったく気づかなかった。

呆気にとられているあいだ、千は恋じゃないと長々と理屈っぽく筋の通らない言い訳をしていたが、右から左へ流れていった。一通り癇癪が治まってから京はたずねた。

 

「千の告白を断る人なんているんだ。どんな人?」

「……誰でもよくない?」

「小島先生とか? ムチ使いだし」

「あの人は鞭術の達人ってだけでSMに造詣深いわけじゃないし、あの手の真面目で厳しいタイプは恋人には甘えたがるものと相場が決まってる。あと絶対M。おまけに男性経験少なくて悪い男に騙されるタイプだから何かちがう」

「誰もそんなこと聞いてないんだけど」

 

 京にジト目で睨まれると千は罰が悪そうな顔をした。京は弾みで思ったことを口にした。

 

「ていうか、振られたショックで数日間凹むって、女の子みたい。すごい乙女メンタル」

「うぐっ」

「普通の恋なんてしたくないって言ってたのに、本当は心のどこかで憧れてたりしてたの? やーん、千ちゃんオットメー」

「いやあああああああああ」

 

 いつもの調子で弄ってみると、千は顔を覆って取り乱した。捻くれ者の千をからかうのは鬼の首を取ったようで面白かったが、千はしばらくするとムスッとして露骨に目を合わさなくなった。

肝心なところは意地でも話すつもりがないのだと悟った京は、尻をずらして一人分距離を詰めた。

 

「ねえ、誰?」

「……」

 

 上目遣いに顔を覗き込んでみたが、千は京から距離を取るために肘掛けにもたれかかり、頬杖をついてそっぽを向いた。京は意地でも聞き出したくなった。

 が、経験則からこうなった千の心を氷解させるには時間がかかると知っていたので、短くため息をついて話を変えた。

 

「誰だか知らないけど、千に好きって言われたコは嬉しかったと思うよ」

「……そうかな」

「うん。だってモモ先輩とか他の学校中の女生徒より魅力的ってことだもん」

 

 百代の名前が出た途端、千の眼が憂いを帯びた。長い睫毛が揺れる。お世辞ではなく、京は、その女性は舞い上がったと思う。

 同時に、心が傾いたはずだとも。学年一の美人である百代や矢場弓子、小笠原千花ら容姿が優れている女性を自由に選べる立場の千が、その誰よりも好きだと言い寄ったのだ。

 これで心が揺れなければ女として枯れている。大方、彼氏持ちの女に衝動的に告白してしまったのだろうが、どのような女性なのか知りたかった。

 

 幼少時から、京は千のことをしきりに知りたがった。

 千が誰よりも早く京に性癖を打ち明けたのは、京が誰よりも早くたずねたからだ。

 

 

 

「ねえ、誰なの?」

 

 さらに距離を詰めて京は訊いた。千は動かなかった。

 

「ねえねえ」

 

 急かすように肘で千の二の腕をつつく。我ながらデリカシーに欠けると思うが、千との関係は気の置けない、お互いにブラックなジョークも言い合える恥も思慮もない間柄だったから、いつも通りそうした。

 それでも千は無視したから、つねっても痛くない肘の皮を指で引っ張ってみたが、やはり千は口を開こうとしなかった。

 

「むー!」

 

 京はいじけて、マゾの千が悦ぶ行為をして体に聞いてやろうとしたが、やがて千は深くため息をついて低い声で言った。

 

「悪いけど、今日は帰って。明日には元に戻ってるから」

「やだ」

 

 きっぱりと京が即答すると、千の表情がこわばった。今まで千は、何をしても許してもらえたからだ。

 千は頬杖をついていた手を下ろすと、初めて京を見て言った。

 

「帰らないと襲うから」

「冗談でしょ?」

 

 本当に襲う気ならわざわざ口にしない。それに襲う気があるなら去年の夏だって、今年になってからもいつだって襲えたはずなのに何もしなかった男が何を言っているのだろう。脅しにもなってない。

 罵倒の言葉でもかけてやろうと思ってまばたきをした。目を開けると、京は天井を見上げていた。戸惑いの声を上げる隙も疑問に思う時間も与える前に、京に覆いかぶさった千は左手で京の右手を押さえつけると、京の顔のすぐ横に右手を叩きつけた。

 苛立ちを音にしたかのような衝撃がソファを揺らして、京は身をすくめた。

 恐る恐る見上げた先に見覚えのない冷たい顔をした千がいて、ようやく京は押し倒されたのだと気づいた。

 

「あのさ、一人暮らしの男の家に一人できて、そんなに無防備な姿見せといて何もされないと本気で思ってんの? おれ、京で興奮するって言わなかったっけ?」

 

 京はとっさに言い返そうとしたが、手首を掴む千との膂力の差と押し倒された事実、その圧力から声が出せなかった。何よりこういう千を初めて見たから、どうしたらよいのか京には分からなかった。

 千は感情の読めない眼差しで見下ろしながら言った。

 

「だいたい、好きでもない男にすることじゃないよね。おれなら大丈夫だと思ってたの? そんなわけだろ。むしろ他の男とちがって京が力で敵わない分、危ないに決まってんじゃん」

 

 今みたいにさ、と後ろめたさを隠すように小さく呟いて千は身を起こした。

 離れる際、京の体が小さく震えているのが見えて、千は背を向けて寝室に歩き出した。

 

「これに懲りたら余計な詮索しないように。じゃ、また明日」

 

 にべもなく千が言い放つ。京は長いこと黙っていたが、やがてのそのそと起き上がると、動き出した。

 やっと帰るかと千が肩を下ろすと、――京は助走をつけて千に目掛けて飛び蹴りをかました。

 

「おぶえ!?」

 

 背中に直撃をくらい、床に全身を叩きつけられた千は、やりすぎたとは思ったけどそこまでするか、と文句のひとつでも言おうと顔を上げたが、その顔を踏みつけられた。

 

「おぶふ!?」

 

 床に濃厚なキスをし、後頭部に京の足裏でぐりぐりと体重をかけられた千はジタバタもがいたが、本気で抵抗しなかったため、京は無言で力を強めた。

 京が怒りから鼻息を荒くして思い切り踏みつけ、千が呻く時間がしばらく続き、それでも怒りが収まらない京はとどめに尻を蹴飛ばした。

 

「死ね!」

 

 捨てセリフを吐き、床を鳴らして京が家を出ていく。扉が閉まる音を確認してから、千はごろりと寝返りを打ち、天井を見上げた。

 そのまま暫しの間ぼーっとして、思い出したように顔を覆うと、

 

「やってもうた……うわあああああああああ!」

 

 もんどりうって部屋中を転げまわった。後悔しても後の祭りであった。

 

 

 

 翌日、京は何も言い触らしていないのに、千が失恋したという噂が学園全体に広まっていて、ガクトを筆頭に男子生徒が千に優しくなった。

 千は頬を引き攣らせた。

 



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マゾヒスト夜を征く

 

 

「まぁ元気だせよ、三河。今日の昼飯おごってやるぜ?」

「おや、顔色が優れませんね。私が保健室まで付き添いましょうか?」

「元気だせよー。ウェイウェーイ」

 

教室に着くと、Sクラスの仲良し三人組が、半分は優しさでもう半分は愉悦でできている表情で話しかけてきた。

学園にはおれが誰かに振られたという実話が拡散していた。

というのも、否応なく注目を集めるおれが、あずみさんに振られて以降やさぐれていたから、その原因は何だろうと噂好きの学生の間で話題になったのが始まりらしい。

とはいえ、クラスではおとなしい美人……じゃなかった、美少年で通っているおれの実情を知るやつはいないし、大半の者は安直に失恋でもしたんじゃない? と考えた。

 失恋だとしたら、相手が川神学園の生徒の場合噂になってないのがおかしいので、中学生か大学生以上、年下は想像しにくいから相手は年上、少なくとも姉さんより美人でないとおれが惚れる理由が納得できない、という結論に至り。

 まとめて、年上の半端ない美人のOLにおれが一目惚れし、告白して玉砕したという噂が広まったのだった。

 安直極まりないのに、正鵠を射ているのがムカつく。

 

 まぁ、ここまでは信憑性のないゴシップのひとつに過ぎなかったのだが、今朝、風間ファミリーの面々と登校している最中、まだ噂が耳に入ってないときにガクトから声をかけられた際、

 

『よう千、振られたからって落ち込むなよ。女なんて星の数ほどいるぜ』

『……なんでガクトが知ってんだよ』

『え、やっぱあの噂マジなのかよ!?』

 

 先日の件で京と冷戦中だったおれは、てっきり京がバラしたのだと思って疑心暗鬼に返してしまった。風間ファミリーは目立つ。周囲にはおれたちの会話に聞き耳立てている生徒もいて、学園に着くころには登校した生徒全員が知っているのでは、というほど周知されていた。

 そんなに人の恋愛事情が気になるのか。

 ……まぁ、おれは有名人だからな! かーっ! つれーわー! 人気者はつれーわー! 実質学園一くらいしかモテてないからなーっ! おれがもうちょっと不細工で頭悪くて要領が悪かったらこんなに騒がれなかったのになー! かーっ!

 

 おれは話を耳にして絡んでくるやつらと一通り話をした。

 

 

 

「ヒュホホ、あの三河が女に振られるとはのぅ。どぉぉぉしてもと頼むなら此方が慰めてやってもよいのじゃ。どぉぉぉぉぉしてもと頼むなら」

「フハハハハハハ! 青春しているな三河千! こうして若人は苦い思いを力に変え、酸いも甘いも噛み分けた漢になるのだ……そうであるな、あずみ!」

「そ、その通りでございます英雄様ぁ!」

「ま、これも経験さ。愚痴こぼしたくなったらだらけ部に来い。話くらい聞いてやるぜ」

「ふふ、青春してるわね。甘酸っぱい匂いと、ほろ苦い味がする」

「OH! モモヨ! シンデル!」

「よーう、色男! 影のある良い表情するじゃねえか! 普段は野郎なんて撮らねえんだが、ピンときちまってよ。コンクールの題材に使いたいんで協力してくれ、見返りにお宝何枚かやるからよ」

「ふっ……君も失恋なんてするんだね。ま、恋に現を抜かす暇があるなら、己を高めることに時間を注ぎこむ方が有意義だと僕は思うがね」

 

 

 

 生暖かい目がウザい。平時は嫉妬と羨望が入り混じった視線と態度で敵対しているSクラスの連中も、今日ばかりは優越感と余裕に満ちた上から目線でおれに接してきた。

 唯一の救いは相手があずみさんだとバレていないことと、あずみさんが英雄にも秘密にしてくれていることだが、おれはかつてない屈辱を味わっていた。

 女に振られるだけでこんなに見下されなきゃならんのか!? お前ら一晩でおれより偉くなったんか!? 核兵器より恐ろしいとか言われるジジイやMOMOYOと同格のおれより凄いんか!? おぉん!?

 

 おれは昂った気を静めて、短く息を吐いた。そのとき、三人組の榊原さんと目が合った。榊原さんはにっこり笑って、

 

「ウェイウェーイ」

 

 と挨拶? をしてきたので、

 

「ウェーイwwwwwwwwww」

 

 と、元気に返事をしたら、

 

「うわーん! とりあえずそれ言えばコミュニケーション成り立つと思ってる大学生みたいにおざなりな挨拶されたよー!」

 

 泣かれた。なんなのもうむーりぃー。

 

「あーあ、泣ーかせた。ちょっとぉ、ウチの子が泣いてるじゃないですか。責任とって泣き止ませなさいよー」

「そうだそうだー」

 

 悪ノリする井上と便乗する榊原さん。すでに泣き止んでいる。なんだこの茶番。

 

「……どうして人は泣くんだろうな」

「お?」

「どうした、急に物思いに耽って」

 

 おれは遠くを見つめた。人が涙を流すのは生理的機能と感情の大きく分けて二つに分類される。赤ちゃんは生まれたことが辛いから泣くのだと誰かが言ったが、あれは身も蓋もないことを言えば効率的に肺呼吸をするために泣いているに過ぎない。

 でもリアルティを追求すると面白くないのが現実だ。生まれ落ちた瞬間に世の無常を悟って泣く赤ちゃんがいてもいいじゃない。おれなんて一歳のころには物心ついてたからな。初めての離乳食を母親の手からスプーン奪って食べてたし、そんなおれなら人の姿に生まれ落ちた悲しみに泣いたという可能性もかなりの確率でありうる。記憶にないけど。

 

「私の股間は千くんを想うと泣いてしまいます」

「若、三河への恋心は痛いほど分かったから少しは空気をね」

「あれも涙みたいなものだよね。生理的な要素と感情の昂りで出るんだから」

「乗るんかい」

 

 井上はおれを気遣っているようだが、男は辛い時に優しくされると余計惨めになって落ち込む生き物なのだ。慰められてコロッと行くのは女だけだ。

 そもそもみんながおれに口々に言う『青春してる』ってなんだ? 青春ってなんなんだ?

 青春って要するに人間の未熟さ故の計画性のない行動の連続であって、それを実感できるのはヒゲくらいの年齢になってからだろう?

 同年代のお前らはおれの行動を見て青春を感じれるほどに達観してるのか?

 青春は甘酸っぱい? ほろ苦い? ちがうね。青春は男の子の味がするのさ。

 どんな味かって? ネット小説サイトみたいな味さ。

 若さだけが取り柄で、活力に満ち溢れてて、世間知らずで向こう見ずの少年が願望に忠実に行動して一喜一憂した過去が青春だ。『今』にはなくて、何年か経ってから、ふと振り返ったとき初めてそこにあったと気づけるものだ。

 青春が終わらないと人は青春に気づけない。そして青春は子供の特権だから、青春を知る大人は青春を感じたとき、大人と子供の立場から必ず見下しているものなのだ。

 思い返してみるといい。今回のおれのように失恋した人を見るとき、部活動で汗を流している者、試合に敗れた者を見るとき、人間関係が上手くいかなくて悩んでいる若者を見たとき、傍観者は「青春してるねえ」と言う。

 その声には過ぎ去った過去への羨望と若さへの嫉妬、努力して思い悩む者を食った歳の分だけ見下した感情が綯い交ぜになった複雑な彩をしているはずだ。

 

 だからおれは青春を語る大人が嫌いなんだよ!

 同年代で青春青春うるさいやつも嫌いだ。夢中になれてないなら青春できるわけないだろ!

 

「涙と先走りの相関性が証明されたところで、続いての議題です。青春という美しい光の影にある欲望の醜さに焦点をあてましょう」

「やべえ、話についていけねえ」

「話題が飛びますね。こちらの話は断片的に聞いているだけで、何か考え事でもしているのでしょう」

「どうせろくでもないこと考えてるのだ。千って準やトーマと同じ匂いがするもん」

 

 思春期の男の子はみんな汗と栗の花の臭いがするものさ。

 

「女の子はどちらかというと自分を邪険にする男に惹かれますけど、男の子は自分に懐いてくれる女に惹かれますよね。そして女の子は体目当ての男を嫌いますけど、男は体目当ての女は大好きです。

 女の子の悩みは自身の魅力が男性の性欲と切っても切れないところにありますが、男性は最大の魅力が自身にはではなく、付属物にすぎない金や地位にあるところにあるのが、人間の面白いところではないかとおれは思います」

「そうですか? たいていの女性は私が真心をこめて口説けば堕ちてくれますが」

「女ってクズな男を好きな層が多いしな……でも少女漫画は奥手な主人公にグイグイくる男も多いぜ」

「前者は売れないミュージシャンを支える自分、暴力を振るわれながらも男に尽くす健気な自分が好きなだけ。後者はイケメンだから許されるだけで不細工なら通報されてる」

「よくここでど真ん中直球投げる勇気あるねー」

 

 おれは顔面死球も平気で投げられるぞ。打たれたってへこまないからな。

 

「女の子が可哀想なのは、男はモテる要素が小学校は足の速さ、中学時代は容姿、高校では頭のよさ、そして就職先や年収へと歳を経るごとに変遷するけど、女の子は一貫して容姿が評価されることだね。家柄? 育ちの良さ? 性格の良さ? 頭の良さ? それら全部の前に『美人で』がつかなきゃ魅力にならないんだよ! 女は顔、顔、顔! 色の白いは七難隠す。昔の人は為になること言ってくれますねえ」

「それ千のことだよね」

「ブーメラン刺さってるよな」

「つまり千くんは、多少の性格の不一致や欠点を受け入れてくれる懐の広い人なんですね」

「物は言いようだな」

 

 やだー、あたしのこと黙ってれば美人だって思ってるんでしょー? もう、顔に出てるぞっ☆

 

「ぶっちゃけ都合のいい男扱いして散々弄んだ末に手酷く振ってほしい」

「ひっでえ願望持ってんな」

「さっき自分で言ってたクズな男に入れ込む女そのものだよ」

「好きな人には尽くすタイプなんですね、素敵です」

「身内にきついこと言いたくないけど、若も大概だよなぁ」

 

 お前も大概だぞ。

 

「……人生は物を知らないからこそ輝くのであって、知ってしまうとたちまち輝きを失って、色褪せて見えるものなんだ。何も知らない子供が人生を謳歌しているように見えるのも、大人がくたびれて見えるのも、その所為だ。人は知るごとに世界が狭く、堅苦しくなってゆく。

 ……ところで、お前たちはおれが振られたことを知ってしまったが、そのときどう思った? ぷぷ、千のヤツ振られてやがんのって思った? ざまあwwwって思った? これでお前も魍魎の宴の一員だなって思ったか?」

「お前どこでそれ知った?」

「なんか目がぐるぐるしてるよー」

 

 おれは榊原さんに詰め寄って両頬をぎゅむっとわしづかみにした。

 

「学園一の美少年が女に振られるような男だと分かって、幻滅しました三河君のファンやめます言われた気持ちが分かるんか!? 本当のファンなら苦しい時こそ応援するべきじゃないのか!? さっきからおれが支離滅裂なこと言ってるけど内容分かってるか!? ええ!? 分かるのか分からないのかどっちなんや!!」

「知らないよー」

「三河、お前大丈夫なのか? 具体的に頭とか」

「あんしんしろ おれは しょうきだ」

「絶対に裏切るじゃねえか、信用できねえ」

 

 おれは情緒不安定のまま午前を乗り越えた。ちょくちょく葵が心の隙間に付け込んで、おれの体を好きにしようと画策していたが全て跳ね除けた。

 落ち込んでるからといっておれが安易に慰めックスすると思ったら大間違いだ。

 

 

 

 

 

 

 ある晴れた昼下がり。おれは屋上の給水塔に乗って空を見上げていた。空はこんなに晴れて澄み切っているのに、おれの心はどす黒く濁っていた。

 昼下がりと聞くと体を持て余した人妻を連想してしまうのは、刷り込みだと思う今日この頃。団地妻も同じく。

 これらの単語には男心をくすぐって奮い立たせる淫靡な響きがある。おっぱいという響きに男が乳房の形や張り、柔らかさや乳首の色を想起してしまうのと同じくらいのエロスがあるように。

 だがニュアンスを変えると言葉は意味合いを全くちがうものに変質してしまう。

『弄る』という言葉にもそこはかとないエロい響きが内包されているが、これが『いじり』となるとイジメに似た響きを含有して、面白くないものになるのだ。

おれがハートブレイクしたと知った途端に連中ときたら、慰めるふりをして近づいてきて、隙あらば弄ってやろうという魂胆が見え見えなのである。

もしかして、みんな機会さえあればおれを弄り倒したくてウズウズしていたのだろうか。弄るなら俺の乳首を弄ってほしいのに、みんなが弄りたいのはおれの自尊心。

このすれちがいにおれは耐えきれなくなって屋上でひとり黄昏ていた。だって男の子だもん。無性にひとりになりたい時もあるよね。

おれは無心に、無人の屋上でぼーっとしたかった。だが無粋な気の持ち主が屋上に向かってくる。おれはげんなりして身構えた。

 

「千……」

 

 来訪者は姉さんだった。扉を開けて、給水塔の上にいるおれを見上げている。本日、知らない間に弟に好きな人ができていて、いつの間にかフラれていたことを知り、間接的に失恋した川神百代さんである。

 おれは屋上の影になるところに飛び降りると、姉さんも遅れてついてきた。

 気まずい。いや、別にフッたフラれたの関係じゃないけど、間接的とはいえ、あなたに恋愛感情はありませんと打ち明けたに等しい異性に面と向かって何を話せばいいのか、恋愛経験のないおれには判断がつかなかった。

 キスとかペッティングはしてたけれど、おれの場合は性欲の延長と、姉さんへの好意に応えただけに過ぎなくて。男は自分を好きになってくれる女を好きになる。その理論が作用していただけだった。

 性を知った時、美人の姉がいたら身近な女体を意識してドギマギしてしまうだろう? 実際に姉がいるヤツが「女と思ったことない」とか「裸見ても何とも思わない」とか言うが、それは女と認識する機会に恵まれなかっただけだ。

 関係を迫られれば、嫌でも意識する。まぁ、おれたちの場合は血縁がなかったり、姉が超絶美人だったりとかなり特殊だけど。結局のところ、男と女なのだから。

 おれだって姉さんの蠱惑的に過ぎる肢体を好きにしたい、セックスしたいとは思うけれども、ヤリ目で付き合って、性欲が冷めた時を想像すると、家族・風間ファミリーとがんじがらめになった関係性が壊れるのが怖くなる。

 だって絶対に別れるから。

 

「なに?」

 

 壁を背にしておれはおざなりに答えた。今朝、おれがフラれたことを知った姉さんはショックで茫然自失としていたが、おれは敢えて声をかけなかった。

 弟離れする気がない姉さんに、それを決心させる良い機会かもしれなかったから。姉さんの白桃色の唇が訥々と開いた。

 

「好きなコ、いたのか?」

「いないよ」

 

 たぶん。

 

「でも告白してフラれたのは本当なんだろ?」

「だったらなに?」

「……どうして、私じゃないんだ?」

 

 さて、困った。おれは目をそらした姉さんの自己主張の激しい胸元に視線を向けた。

 

「姉弟だから。じゃ、ダメ?」

「血は繋がってないだろ。それに……普通の姉弟は、キスしたり、しないじゃないか」

「そうなの? おれ、お姉ちゃんともキスしたことあるけど。あと、おれは女の子がキスを特別視する気持ちも理解できないから、姉さんの言ってること全然わかんない」

 

 実姉は兼ねてから可愛がっていた弟のおれを、小学校高学年の頃に異性と認識したようで、男を試してみる感覚でおれにキスしていた。当時の姉は素材を活かし切れていない優等生の真面目ちゃんで、その真面目さ故に表に出せない欲求が身内で逆らえない弟のおれに向けられていたのだと思う。

 おれと実姉の関係も奇妙と言えば奇妙で、血縁関係にあるのに会えるのは年に数回しかない、幼少期に離れ離れになった容姿端麗な弟は、ストイックな日々を送っていた姉には目に毒な存在だったのではないか。殆ど他人のように暮らしているのに、明確に近親者な異性が、会うたびに異性として魅力的になってゆくのは、想像すると辛いものがある。

 これが家族のように暮らしているのに、明確に他人の異性だと、話はとても簡単で、姉さんはすんなりと芽生えた恋心を受け入れられた。

 すなわち、姉さんにとってこの姉弟関係は形式だけのもので、おれを私物化できる体のいい方便なのだ。

 つーか、弟に欲情する姉とかないわー。優しいお姉ちゃんだと思ってたのに、ある日突然豹変した身内に襲われるとかトラウマなるっつーの。やっぱ恋してる人間ってないわー。キモい。

 ……実姉にキスされたときはともかく、姉さん相手には勃起したが、これは生理現象だから仕方ない。

 

「……好きなんだ。千が好きなんだ。だから」

「おれも好きだよ。姉弟として」

 

 おれが努めてそっけなく言うと、姉さんは唇を噛んだ。まともに取り合う気はさらさらなかった。恋愛ごっこはまっぴらごめんだった。

 こうも縋り付こうとする姉さんを見ると、一度突き放す方が得策に思えて、おれはジジイの方針通りに距離を置く気でいた。風間ファミリーとしての仲は維持したまま、家族、異性としての関係をうやむやにするつもりだった。

 姉さんは苦虫を噛み潰したような表情でおれとの距離を詰める。なんだ、キスでもするのか。それとも抱き着いて同情でも誘おうとするのか。

 してきたら唇を離して唾を吐いてやろうと思案したその矢先、おれの胸がトンと軽く押された。壁に背を預ける形になり、退路を断たれたおれは抗議の声をあげようとした。

 

 あげようとしたけれど口を開けた瞬間、姉さんの手がおれの顔の真横を通過し、壁に叩きつけられた。びっくりして竦みあがったおれは口を噤んでしまった。

 え? なにこれ壁ドン? どっちの意味の壁ドン? ていうか壁大丈夫? 姉さんの馬鹿力で殴られて崩壊してない?

 おれの懸念をよそに姉さんはぐいと迫り、唇が触れそうな近さでおれの目を捉えて離そうとしなかった。至近距離で見つめ合った眼は、近年おれに向けられた覚えのない険しいものになっていた。

 

「私は男として千が好きなんだよ」

 

 吐息と声と感情とが生々しく肌を伝う。男女逆じゃないのこれ。ああ、でもなんかゾクゾクする! 退路を断たれた状況、おっかない姉さん、びっくりして増えた心拍数。

 姉さんの熱気が肌を這ってくるような至近距離で、誰もいない昼下がりの屋上、年上の美女に迫られているシチュエーション。

 おれのなかに眠るマゾっ気が刺激されて、告白されているのに性欲がアップを始めていた。

 手始めに、おれはじっと睨みつけられているのに耐えきれなかったような素振りで目を逸らそうとした。すると、

 

「目を逸らしたらキスする」

 

 抑揚のない声で姉さんが釘を刺してきた。おれは一度だけ視線を合わせると、反抗的にぷいとそっぽを向いた。姉さんはおれの顎を掴んで強引に振り向かせると、勢いに任せて唇を触れ合わせた。

 触れ合うだけの幼いキス。唇が合わさったまま、目が合う。おれが反抗的な目をすると、姉さんは目を閉じて口を開くよう舌で催促してきた。

 幾度となく舌を絡める深いキスをしてきたが、おれは頑として拒んだ。おれの意地とMの素養が更なる快楽を求めそうさせた。

 強引に口を割り入ろうとする舌に抵抗し続ける。やがて姉さんは唇を離して、耳元でこう囁いた。

 

「口開けろ」

 

 冷たい命令口調に背筋が恍惚と震えた。おれは一度生唾を嚥下させると、ゆっくりと距離を詰める姉さんの唇を前にして、瞳を閉じて受け入れた。

 こちらの意思を全く意に介していない舌と自分のそれを絡めながら思う。ちがう。いつもしてるキスと全然ちがう。めっちゃ興奮する。

 いつもは姉さんが求めてきて、それに応える形でしていたが、主導権はおれが握っており、培った経験の中で掴んだコツを総動員して姉さんの要求を満たすという、なんというかそういうお店のような形式だった。

 でもこれはちがう。この無理やりされて、男として大切な部分とか尊厳とかが奪われているような感覚。

 これはあれだ。モロに借りたエロゲやエロ漫画のNTRもので、ヒロインが小汚い太ったオッサンに犯された時に、負の感情で鬱屈としているのに興奮している自分がいることに気づいたあの感覚だ。

 畢竟、おれはきれいなものが汚されることに性的興奮を覚えるのだ。だから非現実的な素材で作られたような精緻な美しさを誇るおれが、甚振られて壊されそうになる危うさに背筋がゾクゾクするし、舐られて穢される背徳感に体が火照るし、能力に裏打ちされた自惚れた人格を否定されると屈辱に心が昂るのである。

 

 みんなが授業を受けている中、誰もいない学校の屋上で、姉のように育った女性に無理やり犯されて、おれは勃起していた。

 密着していた姉さんももちろん気づいていた。唇を離した姉さんは屈むとおれのズボンに手をかけた。

 おれは情事の最中に男性に恥をかかせないよう感じたフリをする女性の如く演技をした……

 

 

 

 

 

 ……そして、おれが青空の下で果てた結果だけが残った。

 姉さんに散々に弄ばれたおれは、人気のない水場で体の一部を洗うと、保健室に行って学校が終わるまで仮病を使って不貞寝した。

 直前まで誰かが寝ていたのか、生暖かさが残る気持ち悪い布団に包まりながら、おれは自己嫌悪に浸っていた。

 どうしておれは事前にしていた主張や決意を簡単に翻意してしまうのか。性欲に流され過ぎではないか。これでは行動に一貫性がない情けない男ではないか。

 いや、性欲に勝てないことは一貫してるけど、それでいいのか三河千。

 他人の体液で汚された。でも、それに興奮する。頭から爪先、果てはチ○コに至るまでイケメンなおれの体が汚れることに下腹部が熱くなる。

 不甲斐ない。これはおれが未熟だからだ。つまるところ、童貞だから制御できないでいるのだ。

 童貞を卒業することは目標でもなければ終わりでもなく、通過儀礼であって、それを終えてようやくおれは男としてスタートラインに立てる。

 こんなんじゃダメなんだ。今のままではダメなんだ。決意を固めてすぐ性欲に屈する。軟弱で愚かな自分でいては人としてダメになる。そう思わずにはいられなかった。

 おれはおれが貶されて落差に興奮できるように、他者に誇れる、誰から見ても美しく優れた男でなくてはならなかった。女からフラれたことをネタにされて嗤われる男であってはならなかった。

 そしておれは決意する。童貞からジョブチェンジすることを。

 

 

 

 

 

 

 学校が終わるとおれは自宅に直帰して、シャワーを浴び、そういえば金曜集会があることを思い出して気乗りしないながらも重い足を動かして秘密基地に向かった。

 金曜集会での風間ファミリーの面々は、どこかぎこちない。おれがフラれたことが今週最大のニュースで話題になるはずなのに、姉さんがいつも以上におれにべったりで、いつもなら真っ先に先陣を切る京があからさまに不機嫌に唇を尖らせていたからだ。

 昼間の一件で気を良くした色ボケの姉さんは、一発ヤっただけで彼女ヅラする女の如く、私の女だと喧伝しているようにおれを侍らかした。

 これが恋愛脳か。おれの精子脳とどちらが酷いんだろう。というか、おれと姉さんの現状を見てジジイは何も思うところがないんだろうか。頭の中エロいことしか考えてないのに。ジジイと同じじゃないか!

 ……ジジイがそうなんだから疑問に思うわけないわな。

 つーか大丈夫か川神院。トップからナンバースリーに至るまで全員色欲の権化だぞ。やっぱり強い人はどっかおかしいんだね……強いってなんだろう。誰か教えてください。

 おれが脳内で川神流の天才みんな頭おかしい説を提唱し審議していると、横に座るガクトがおれを肘で小突いて小声で質問してきた。

 

「なぁ、もしかしてお前がコクったの、京?」

 

 おれはちらりと京を一瞥した。クール系なのか不思議ちゃんなのか、属性がよくわからないロリ巨乳に分類するべきかさえも迷う彼女は澄ました顔で読書に耽っていた。

 今日はひとことも口をきいていない。明らかに何かあったと分かる空気なので、おれが落ち込んだ原因は京にあるのだと勘ぐるのも無理はなかった。

 まぁ見当違いも甚だしいのだが。

 

「ガクトは、昔イジメてた女の子が成長して美人になったから掌返して『好きだ、付き合ってくれ』なんて言うような男をどう思う?」

「ん? ……まー、サイテーだな、としか」

「だろ?」

「? 今の話、千のことか? お前イジメてねーだろ」

「そうだっけ。ま、おれがフラれたの京じゃないから、そう詮索すんなよ」

 

 ガクトはしきりに首を傾げた。テキトーに言っただけなのに深く考えられても困る。

 ただ、イジメの加害者にとっては過ぎたことでも被害者は覚えているから、普通は加害者が被害者を好きになることはあっても、被害者が加害者を好きになるのは非現実的だと思っただけ。

 いやぁ、シャレにならないくらいイジメてた女の子が美少女に成長してから優しくしたら惚れられたって普通ないよね。普通根に持つよ。

 そして例に漏れず、根に持つタイプの京とおれは話すきっかけが見つからないまま、金曜集会を終えたのだった。

 

 

 

 

 

 

 帰宅後、ネットで情報収集したおれは、土曜日、童貞を捨てようと風俗街に足を運んでいた。

 これでおれは女への幻想を捨て、ワンランク上の男になる。童貞から素人童貞へのジョブチェンジを果たす心づもりだった。

 幸い、おれは状態異常無効と状態異常回復の特技を習得しているため、性病が効かない……はずで、変な病気をもらう心配もなく、心置きなく入ることができる。

 親の金で通うソープは気持ちいいか? と馬鹿にされたくなかったのでキャップから紹介されたバイトの金を握り締めて、おれは決意を新たにしていた。

 ぶっちゃけおれの童貞ならオークションに賭ければ葵冬馬や姉さんが熱心に競ってくれるんじゃないか。なぜおれが金を払わなければならないのか、むしろ風俗嬢さんサイドが金を払うべきじゃないかとも思うところもないが、手っ取り早く童貞を卒業できるのがソープだった。

 ナンパしてもいいけど、童貞だってバレたら馬鹿にされそうだし、するのも面倒だし、その点風俗は指名すれば最後までしてくれるの確定してるし。

 トロールやメデューサが出てきたら、そのときはそのときだ。天井のシミを数えよう。

 にしても治安悪いな。風俗街を歩きながら、おれは治安の悪い川神でも有数のアレな連中が集まる地域で、すれ違う人々の顔を眺め思う。

 世紀末じゃないだけマシと思うべきか。でも明らかに向こうから肩ぶつけてきて、因縁つけてくるヤツとかちょっとダメだよね。コラ、親が泣いてるゾ☆

 

「なんだ、三河じゃねえか。なんでこんなところにいんだ?」

 

 童貞喪失を前にテンションが上がって、喧嘩吹っかけてきた不良をにこやかに追い払ったおれに誰かが声をかけてきた。浅黒い肌に、ワイルドっぽい、何か不良っぽい、何か悪そうな雰囲気のイケメン。

 

「あれ、タっちゃん。なんでここにいるの?」

「それはこっちのセリフだ。それとタっちゃんって呼ぶんじゃねえ」

 

 ワン子の幼馴染で島津寮に住んでるタっちゃん……じゃなくて、ええと……ゲンさん、ゲンさんだ。島津寮に遊びに行ったときに何度か会話したことがある。

 ワン子がタっちゃんタっちゃん言うんで本名忘れてしまった。ていうか本名をきいた覚えがない。いったいなんて名前なんだろう。タっちゃんとゲンの組み合わせて、ゲンタくんかな。

 ゲンタくんはいささか驚いた様子だった。

 

「何でいんの? 性欲発散?」

「んなワケねえだろ、仕事だ」

 

 ゲンタくんは不機嫌そうに吐き捨てた。プリプリしてんなぁ。

 

「お前こそ何でいんだよ。ここはお前みたいなヤツが来るところじゃねえぞ」

「いやぁ、ちょっとソープでも行こうかなって」

「……お前が?」

 

 ゲンタくんはきょとんとした。その目は、お前は女に不自由してないだろと語っていた。少し間をおいてゲンタくんはいつものツンツンした目つきに戻った。

 

「アホか。高校生が行くようなもんじゃねえだろ」

「それはあなたが決める事じゃない。おれが決める」

 

 おれが煽るとゲンタくんはイラっとしたのを隠さなかった。これ汎用性すごい。

 

「……まぁ、他人がとやかく言うことでもないけどよ。真っ当に生きてる学生が入り浸るもんじゃねえぜ。見てのとおり、ここいらは治安も相当悪い。危険な誘惑もたくさんあるしな」

「やだ、心配してくれてるの? タっちゃん優しい! 好きになっちゃいそう!」

「何で三河が直江みてえに……気味悪いな……」

 

 テンションが上がっていたおれはゲンタくんを前にした大和みたいになっていたが、ゲンタくんは素で引いていた。

 それから二言三言交わして別れた。ゲンタくん、口は悪いけど人はいいよね。次に会ったら名前を聞こう。

 おれは初陣を控えたもののふのように気分が高揚していた。

 プロのテクニックとサービスはいいぞ、とヒゲが言っていたのでウキウキなのであった。

 ルンルン気分で歩いていたおれだったが、ポン引きが立ち並ぶエリアに差し掛かると、周囲がざわつきだした。

 何だろうと思い、原因を探すと、もう少し前にあるSMクラブから小太りのオッサンが目隠しにボールギャグ、首輪にリードをつけられた状態で、パンツ一丁のままハイハイして出てきたのだ。

 いったいどういうプレイなの……おれは生で見るSMプレイにぎょっとして固まってしまった。

 いや、ほら、公園で青姦してる男女を見ると驚いちゃうじゃん。そんな感覚。

 でもこれ大丈夫なのかな。公然わいせつ罪で絶対捕まるよね。やる方もやられる方も勇者だなぁ。

 

 どよめく野次馬に混じってどんな女王様に虐めてもらってるのだろうか気になって、事の顛末を眺めていた。

 オッサンに遅れて、相方らしき女性が悠々と姿をあらわす。

 ――窮屈なボンテージ衣装に収まりきらないメリハリのあるワガママボディに、睨んだものを虜にする妖艶な瞳、獲物を前に舌なめずりをする蛇を彷彿とさせる赤く長い舌……

 

 

 

 ――トクン……

 

 

 

 おれは生まれて初めて出会った真正のサディスティックな女王様に、胸が高鳴るのを自覚した。

 

 

 

 



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一匹の子豚

 

 おれが性に目覚めたのは、ご存じのように姉さんに武闘家として負け、仰向けに寝っ転がっている顔に尻を押し付けられ、椅子代わりにされたことがきっかけだが、決して姉さんの尻の柔らかさと運動後の熱と股間の匂いに欲情したわけではない。

 いや、ぶっちゃけ興奮したし、後でかなりの頻度でオカズにしたが、それは添え物に過ぎず、勃起を促したのは実力で完膚なきまでに叩きのめされ、武人としての自信を折られたこと。

 そして、万人が褒めそやすおれの美貌を、うんこやしょんべんを出す汚い部位で踏み躙ったこと。

これに尽きる。女の柔らかさや匂いとか、そういった性的興奮を感じる要素に先んじて、おれは自分を穢されることに興奮を覚えたのだ。

 おれは自分が大好きだ。誰と比べても、顔、スタイル、武力、知能のどれかが必ず勝る自分におれは大変優越感を抱いている。それが過信ではなく、自惚れにならないほど傑出している自分が大好きだ。

 そして持って生まれた才能を鼻にかける自分を諫める、もう一人の僕的なおれの良心とも呼ぶべき心の声も存在するのだが、彼はおれの理性とも呼ぶべき部分で、欲望にすぐ膝を折る。

 こんなこといけないのに……! ダメだってわかってるのに……! 悔しい……でも!

 と、容易く快楽と誘惑に屈する。そんなおれだから、自制心がない養われることなく育ち、基本的に後先考えない人間になり、目先の餌にすぐ食いついてしまう男になった。

 

 だから、恋は一目惚れがいい。一目見た時点で恋に落ちて、盲目的に慕って、悪い部分が見えて冷める前に燃え尽きたい。

 一目惚れした女性が、おれの顔にビンタ食らわしたついでに罵ってくれるとなお良い。消える寸前のロウソクのように激しく燃え上がるだろう。

 どっかの偉い学者さんが、人の印象の七割は第一印象で決まると言っていました。その理論から行くと、三河千は初対面の美女にビンタされたり罵られると七割の確率で惚れてしまうんじゃないでしょうか。

 これってトリビアになりませんか? 

 

 

 

 実際にやってみた。

 

 

 

 SMクラブから出てきた女王様は、豚さんのリードをぐいと引っ張って歩き出した。豚さんは人間が発したとは思えない奇怪な鳴き声をあげた。

 女王様と豚さんは道のど真ん中を我が物顔で闊歩している。道行く人は関わり合いになりたくないのか、道を空けて遠巻きに恐々と眺めていた。何アレ~、キモい、ウエー等々、えげつない恰好で四つん這いになって犬の散歩をさせられている中年のオッサンを厭う声が聞こえる。

 女王様については聞こえてこない。中年小太りハゲオヤジがパンツ一丁という悍ましい姿なのに対して、見立ては美人だし、悪口が耳に届いたら持ってるバラ鞭で打たれそうだからだ。

 豚さんは女性のキモがる声が聞こえたのか、息を荒げて興奮していた。

 スリル満点の羞恥プレイにとても悦んでいる。羨ましい限りだ。いくら払ったんだろう。どことなく社会的地位のある人の貫禄が見え隠れするのだが、今はどう見ても豚さんだった。

 さて、ガラの悪い風俗街の面々もそそくさと道を空けるなか、おれは道のど真ん中でボーっと立ち尽くしていた。

 生まれて初めて見る生の公開SMに見惚れていたのもあるが、半分は期待と打算だった。

 悠然と歩いてくる女王様を前にしてもおれは突っ立っていた。女王様は距離を詰めても退こうとしないおれをじろりと一瞥すると、つかつかと歩み寄ってきて、一歩手前で足を止めた。

 

「鈍臭い坊やだねぇ」

 

 言うや否や、女王様は手の甲でおれの頬を叩いた。おれは思ったより勢いが強くて、叩かれた頬を抑えて蹲った。

 

「邪魔だよ」

 

 そう吐き捨てると、おれなど眼中にないかのように通り過ぎてゆく。すれ違った際、豚さんが同情しているのか、はたまた羨んでいるのか、「ぷぎぃ」と鳴いた。

 ――おれはDVを受けた女のような恰好で茫然としながら……嬉しさのあまり震えていた。胸が熱い。目頭が熱い。漏れ出る吐息が熱い。頭に血が上って思考が真っ赤に染まった。遅れて全身も煮えたぎったように熱くなる。

 まさか……まさか初対面の人に躊躇なくビンタする人が実在するなんて! しかも手の甲で! 殴られた人も痛いけど殴った人も痛いよあれ!

 殴っていい顔の造形してないのは一目で分かるだろうに……このパーツと配置にするのに神様がどれだけ試行錯誤とリセマラ繰り返したと思ってるんだ。

 それを躊躇なく殴れるなんて……なんて素敵なんだ。これこそ運命ではなかろうか。

 彼女なら、誰よりも特別なおれを特別扱いせずに、むしろこき下ろしてくれる。そう思えてならなかった。

 再起動したおれはすぐさま立ち上がると、稲妻よりも早く動き、女王様の目の前に回り込んだ。

 

「なっ!?」

 

 目を剥いて固まる女王様の両手を胸元で握り、唇が触れるほど顔を近づけ、サディスティックな瞳を見つめて情熱的に告白した。

 

「あなたに一目惚れしました! 主従関係を前提にお付き合いしてください!」

 

 女王様は固まった。おれの海綿体も固まった。殴られたおれに同情的だったギャラリーはざわついた。豚さんは鳴いた。

 

「プギィ! プギィ!」

 

 NTRの気配を感じ取ったのかもしれない。豚さんの悲鳴に我に返った女王様は即座に豚さんに向き直った。

 

「誰が声を出していいと言ったんだい、堪え性のない豚だね」

「んォォォ!!」

 

 豚さんはお仕置きが欲しくて身悶えした。でも鞭は飛んでこなかった。おれが女王様の手を掴んでいたからだ。

 勤勉な女王様はバラ鞭を振るおうとし、強欲な豚さんはご褒美を心待ちにしていたが、おれはその手を離さなかった。

 おれもまた、強欲な豚さんだったからだ。

 

「坊や、手を離しな」

「いやです」

 

 諌めるような女王様の声をおれは頑なに拒否した。

 ビビビッときて、コロっと行った。目と目が合う前に好きになった。

 愛は真心で恋は下心だとかいう、最初に言い出した奴の反吐が出るようなドヤ顔を想起させる言葉があるが、おれはちがうと思う。

 

 恋は落ちるものだから下に心があって、愛は育むものだから真ん中に心があるのさ。

 

 まぁ、おれには下心しかないけどね。

 

「くっ……悪ふざけもいい加減に」

「冗談や悪ふざけでこんなこと言いません」

 

 女王様はおれを振り解こうとしたが、おれは決して手を離さず、見つめているだけでMっ気がうずく瞳を覗き込んで口説いた。

 仕事中だということもあって迷惑そうだった女王様だったが、次第におれの力の強さに気づいて抵抗を緩めた。

 力むことをやめて冷静になったのか、表情に余裕が出てきた女王様はおれの顔を品定めするように、舐るような眼差しで観察し始めた。

 

「へえ」

 

 じゅるりと舌なめずりして、女王様はおれに寒気のする微笑を送った。

 

「かわいい顔してるじゃないか。それに……途轍もなく強い」

 

 するりとおれの手を抜けて、女王様の手がおれの頬を慈しむように撫でた。冷たく、すべすべの指がおれの頬に触れる感触とシチュエーションにおれはぞくぞくした。

 これだよこれ。こういうのでいいんだよ。

 

「アンタ、学生かい?」

「は、はい! 高校に入ったばかりです!」

「ふぅん……それなのにこんな所にきて、お姉さんをナンパなんて、イケない子だねぇ」

「ご……ごめんなさい。でも……居ても立っても居られなくなって」

「私に一目惚れだって? ふふ、面白い坊やだこと」

 

 自分が優位にあると察した女王様は、幼気な男の子をからかうお姉さんポジションにシフトしていた。

 調子が出てきた女王様の獲物を見定める視線に、純情な少年を装うおれの演技も加速する。

 

「フー! フー! フー! フー!」

 

 それに伴って豚さんの鼻息も加速していた。豚さんの顔は真っ赤に染まっている。怒りかと思ったら、あれは興奮している男の紅潮具合だった。

 なんてことでしょう。敬愛している女王様を目の前でどこの馬の骨にNTRようとしているこの状況に、豚さんはこの上なく興奮していたのです。

 おれは偉大な先達に敬意を抱きつつも、自分の欲望を優先し、口説き落とすことに集中した。

 

「坊や、名前は?」

「三河千って言います!」

「ミカワセン……あぁ、アンタがあの……」

 

 名乗ると女王様は心当たりがあったのか、ひとりごちると、自己完結して頷いていた。おれは傾国の美少年として有名だから、川神に住んでいるならどこかで耳にしたことがあっても不思議じゃない。

 女王様は不敵で素敵な笑みを浮かべた。

 

「私の下僕になりたいんだって?」

「はい!」

 

 おれが食い気味に答えると、女王様は愉快そうに「フフッ」と短く笑った。

 

「師匠や辰より強い男は初めて見たよ。そんな男が自ら飼われたいと申し出てきた……壊れそうにない男も初めてだから、どうなるか楽しみだねぇ」

「こ、壊されちゃうんですか?」

「壊されたいのかい?」

 

 はい、ぜひ! ――そう即答するのを寸での所で堪える。どう答えたらよいかビビって返答に詰まったふりをした。たぶん、こっちの方が女王様の好みだろう。

 またしても気のよさそうに微笑んだ女王様は名刺を取り出すと、裏に何やら書き始めた。

 それをおれに手渡すと、おれの耳元で秘め事を話すように囁きかけた。

 

「明日の九時にそこに来な。仕事が終わったら、たっぷりかわいがってあげるよ」

 

 それはプライベートってことですよね!? おれは歓喜のあまり叫びそうになったが、首を縦に振る程度で収めた。

 やべえ、こんなに順調に事が運ぶなんて、おれ凄すぎない? イケメンって得だわー。

 

「ほら、行くよ。一人で盛ってないで、とっとと歩きな豚!」

「フゴッ!?」

 

 リードを引っ張られながら、豚のお散歩を再開する。おれはその凛々しい背中を見つめ、見えなくなってから手に持った名刺に視線を落とした。

 亜巳さんっていうのか……素敵な名前だ。

 おれは恋する乙女の如く、名刺を胸元で抱きしめて、熱に浮かされたため息をついた。

 憧れの女王様のお家にお呼ばれしちゃった……これは初体験のチャンスでは?

 三河千、十五歳。数多くの機会と誘惑にさらされながらも、童貞を貫き通してきたが、ついに……ついに色を知る歳か!

 こうしちゃいられない! おれは遠巻きに眺めていた野次馬を一睨みすると、明日の準備を始めた。

 

 

 

 

 

 

 薬局で近藤さんを買ったおれは、明日持っていくSMグッズの選別を済ませた。

 買ったはいいものの、使う機会に恵まれなかった逸品たちが日の目を見ることに感慨深くなる。が、期待に胸が逸る一方、童貞喪失するという未知にそわそわして、もどかしくなり、落ち着かなかった。

 落ち着かないでいると考え事に耽る時間もできて、色々余計なことを思い浮かべてしまう。

 そもそも、おれは亜巳さんの家にお呼ばれしたけれど、付き合ってすらないし、いきなりそんなことするか、とか。

 仕事で色んな豚さんとプレイしてるプロが、こんなガキに本気になるわけないじゃん、遊ばれてるんちゃう、とか。

 冷静になった途端にネガティブになるが、亜巳さんのエロい肢体を思い出して悶々として、細かいことはいいからエッチしたいと再び性欲に流されるループを延々繰り返し。

 紆余曲折を経て、明日本番をするかもしれないのに抜くのはダメだという結論に至ったおれは、川神院に足を運んで精力的に汗を流していた。

 性欲を昇華させる腹積もりであった。

 

「シャッ! くたばれエロジジイオラァ!」

「邪念まみれじゃ戯け、エロガキがッ!」

「わー。千ったら気合い入ってるわ。あんなに気迫のこもった組手してるのいつ以来かしら」

 

 あくまで本気を出さない組手で、性欲を発散させようとジジイに相手してもらっていたが、さすがスケベジジイ。

 おれが性欲に突き動かされているのを見抜いていた。ま、姉さんではなくジジイに相手してもらっているのも、姉さんだと暴発するかもしれないからなのだが。

 その姉さんはというと、なぜかドヤ顔で胸を張っていた。

 

「フフフ、何かいいことでもあったんじゃないか。千はお姉ちゃんっ子だからな!」

 

 ……姉さんは、おれが稽古に精を出しているのは、昨日の屋上での出来事が原因だと勘違いしていた。

 なんだか可哀想になってきた。確かに、おれたちは姉弟の一線を越えることをしたけれども、おれからすれば無理やり襲われただけに過ぎず、半年前から続けてきた関係の延長から逸脱していなかった。

 何というか、姉さんからは一発ヤッただけで彼女面、彼氏面する連中と近しいものを感じる。

 同時に依存体質も。拒絶しても縋り付いてきて体の関係に持ち込もうとする辺りにどうも危ういというか、おっかないというか。

 

「お姉ちゃんっ子だとやる気になるの?」

「あぁ……ワン子にはちょっと早かったかな」

「? ? ?」

 

 得意げに語る姉さんにワン子は首を傾げた。早い、遅い関係なくその説明じゃ全くわからないよ、姉さん。

 ジジイの相手をしながら、姉さんとの関係について考えた。

 

「隙だらけじゃぞ」

「イテテテテッ!!!」

「目の前の相手に集中せんかバカ者」

 

 気を逸らしたところに関節を極められ、思考が途切れた。

 技をかけられながら説教を受ける。いや、でもジジイだって童貞を卒業する前の日はこんな感じだったろ?

 常に思い悩んでるくらいでいいんだよ、童貞はさ。

 

 

 

 

 

 

 翌日、満を持して家を出たおれは、亜巳さんの名刺に書かれていた住所に向かっていた。

 ……向かっていて、不穏な気配に気づく。どんどん中心街を外れて、工業地帯の方に進んでいる。

 人が少なくなり、おまけにガラも悪くなる。先行きが不安になるが、亜巳さんがSM嬢なことを思い出し、そんなものだろうと納得する。

 が、住所に近づけば近づくほどスモッグが酷くて視界が悪くなった。空気も体の弱い人には厳しいのでは、と思うほど汚い。

 なんだよこれ。十九世紀のロンドンかよ。段々と心細くなっていくが、おれは亜巳さんとエロいことができるという目の前にぶら下がった餌を求めて前進した。

 そして目的地につく。こじんまりというにはちょっとボロっちい一軒家だった。借家かな。

貫禄のある女王様な亜巳さんからは想像がつきにくい家だ。あの人なら金持ちの豚を垂らしこんで高級マンションに住んでそうだと勝手に思ってた。

 

「……」

 

 まあ、細かいことはいいんだよ。おれの性欲は些事など気にせず、亜巳さんとしっぽりくんずほぐれつになれれば、あとはどうでもいいと訴えていた。

 おれの理性も同意していた。彼らに背を押されたおれは、ドキドキしながらチャイムを探した。見当たらなかったので扉をノックした。

 ガンガン、と建付けの悪い音が響く。しばらく待ったが返事がなかった。寝ているのかな。

 おれがもう一度ノックすると、人が動く気配がした。おれは身構えた。あれ、この気、亜巳さんのじゃないぞ……?

 

「ンだよ、朝っぱらからうるせーな!」

 

 ――おれはフリーズした。

 粗雑に扉を開けて出てきたのは、タンクトップを着た筋骨隆々の大男だった。

 凄まじくガラが悪い。私は不良です、反社会的な人間ですと宣伝して回っているような男だった。

 何でこんな人が亜巳さんの家にいるの。

 緊張と思いがけない出来事に固まったおれをぎろりと一瞥し、大男は声を荒げた。

 

「なんだテメエは、アァ!?」

「あ、あの……亜巳さんに、今日ここに来いと呼ばれたものでして」

「ハア!? なんだってテメエなんぞ――」

 

 おれがしどろもどろに答えると、男は初め、難色を示して追い払う素振りを見せた。

 が、おれの顔をじっくりと眺め、視線が下に降り、舐めまわすようにゆっくりと再び顔に視線が戻ってくると、

 

 

 

「まぁ上がってけよ」

 

 にこやかにおれの肩を抱いて家に招き入れた。

 

 



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まだ性の悦びを知りたいだけの子どもだったあの日のぼくたちへ

大変お待たせして申し訳ありませんでした。
シカゴ・カブスがヤギの呪いに打ち勝ったので投稿します。
どうでもいいですがポケットモンスターS&Mが、
ポケットモンスターS(サド)&M(マゾ)に見えました。
たぶん買いません。



間隔が空きすぎて忘れてしまった人の為のあらすじ
・主人公、メイド(28)に振られる
・主人公、女王様と出会う
・主人公、ホモに連れ込まれる




 

 

 

 上がってみると、安普請な造りだが、中は掃除が丁寧に行き届いていた。綺麗にはしているけれど劣化が隠しきれない畳とか、頑固おやじにひっくり返されるために存在するちゃぶ台とか、あまり経済状況は良くないのが窺える。

 そんなに広くはないが、ここで亜巳さんが暮らしているのだと思うとそわそわして、どこで寝てるのか気になってキョロキョロと見渡してしまう。

 ここでいつも亜巳さんが寝泊まりして、飯を食べ、無防備な姿を晒しているのだと思うと言いようのない興奮が胸を襲ってきた。

 こういう生活感漂う一室でだらだらとセックスするのも、それはそれで下半身を熱くさせるものがある。

 亜巳さんが留守でなければ、今頃若さ故に憤るおれの息子と、愚かさ故に迸るパッションを詰り、足蹴にし、唾を吐きかけながら、おれの性欲と貞操と憧れを奪い取ってくれた筈なのだが、留守だったんだから仕方ない。

 きっと仕事で忙しかったんだろう。そうにちがいない。いないのだからこうなるのも仕方がないのだ。

 

「ワリィな、こんなもんしか出せなくてよ」

「あ、お構いなく」

 

 御茶請けにせんべいと葬式饅頭が出され、おれは反射的に受け答えした。

 おれの横には色白で筋骨隆々の大男がいる。ガクトよりは実戦的な筋肉の付き方がしてると、タンクトップのみの上半身から戦闘力を読み取ってしまう。

 この辺は川神院で育った弊害というか、無条件で作動するスカウター的な考えで視覚から判断してしまうので、職業病みたいなものである。

 

「ちょっと前は豚や舎弟からの美味い貢ぎ物があったんだが、全部食っちまったからなぁ。シケてるが勘弁してくれや」

「いえ、全然! こちらこそ突然おたずねしてしまって申し訳ないです!」

 

 おれは恐縮して肩を縮こまらせながら矢継ぎ早に言った。

 豚とか貢ぎ物とか、軽い調子でポンポン出てくる恐ろしいワードにこの男のガラの悪さから、おれはコイツがヤクザか半グレのおっかない人なのかと邪推してビクビクしていた。

 おれはどこまで行っても根が小市民なので裏社会の怖い人を見るとどうしても腰が引けてしまうのだ。

 本気を出すと次元が崩壊するレベルのチートバッカーズの作中最強候補がそこら辺のチンピラヤクザに勝てないのと一緒で、普段から武神だの核より存在が恐ろしい爺だのビーム撃つ万年ジャージの片言中国人だのと一緒にいても怖いものは怖いのだ。

 ……つーか、コイツはいったい亜巳さんの何なんだろう。何で亜巳さんが住んでる部屋にいるんだろう。

 あれか。亜巳さんがコイツの愛人だったとか、そういうオチか。亜巳さんホステスだし、借金抱えて色々やってるとか、そういうのですか。

 

「見たとこ学生みてえだが、高校生くらいか?」

「あ、はい」

 

 おれは考えなしに返事をした。チンピラは細い目を炯々とさせておれを見ている。その視線は湿っぽく、じっとりと、絡み付くようで、すこぶる居心地が悪かった。

 

「いいねえ、学生ライフ! 若くてイキの良いかわいい子がたくさんいるんだろうな」

「若いのが好みなんですか?」

「おお! 特に細くてやわらかそうな子なんて最高だぜ。ま、俺は何でもいけるけどな」

 

 おっかない人に学生だと明かすのもどうかと思ったが、下世話な話になるとついつい舌が弾んでしまうもので、おれは次第にこの怖いお兄さんと打ち解けていった。

 十代半ばの男ほど性欲に忠実な生き物はいない。人間以外にはいるかもしれないけど、彼らは本能に忠実なのであって性欲に忠誠を誓っているわけではないから人間の男が最も性欲に逆らえないのだ。

 おれはよそよそしく距離感を測りかねながらも、性癖を話すことで安っぽい親近感を得た気分になって談笑に耽った。

 

「学校ってよう、どんなところなんだ? 楽しいのか?」

「学校が楽しいと感じたことはないですね。人がいるから面白いと思いますけど」

 

 思い返してみると、おれは小中とずっと寝てばかりの不毛な学校生活を過ごしてきたから、学校を楽しい場所だと思ったことは一度もなかった。

 義務教育の記憶の大半は、川神院での鍛錬で占められていた。交友関係もまた川神院と、そこから派生した風間ファミリーとの思い出ばかりで、学友と呼べる人物が全く、これぽっちと言っていいほど存在しなかった。

 勉強だってそうだ。目の前に出された問題の多くは、それを眺めた瞬間に答えが分かった。学校が勉強するところだと言われても、おれにはいまいちピンと来なかった。

 

「話聞いてると、学生も俺らとたいして変わらねえな。気に入らない奴がいたらぶん殴って、気に入ったコがいたらヤりてえなって思うんだろ? やってることに大差ないじゃねえか」

 

 おれとの話を通して、チンピラ――竜兵さんと言うらしい――が得た感想はこうであった。

 おれはそんなものかと思った。川神学園にいてちょっとしか経っていないけど、Sクラスの連中と来たらやることが勉強しながら、他者を見下すか嫉妬するかして、やたらと攻撃的で傍から見てつまらない人間の集まりだ。

 退屈しない人は異常性癖を垂れ流す要注意人物で、或いはこれらに該当しない尊敬に足る人も中にはいるけれど、常識外れにも程があってやはり変人のカテゴリーに収まるし、大半は竜兵さんの言が当てはまるだろう。

 学生は生活の大半が家と学校の往復になってそれより広い世界を知らないから無理もないが、たとえ知る機会があったとしても、世の中というのは狭い世界が無数に点在しているだけなのかもしれない。

 下らない感慨に浸るおれに竜兵さんはゲスい顔で質問を投げてきた。

 

「ところでよ、お前くらい顔が良いとめちゃくちゃモテるだろ? 浮ついた話の一つや二つじゃきかないくらいあるだろ? お兄さんに話してみろや」

「……」

「? どうした?」

「ないんです……何も」

「……」

 

 おれがこれまでの灰色の恋愛を思い浮かべ、半生を憂いながら答えると竜兵さんは罰が悪そうに沈黙した。

 キスやオーラルセックスは姉さんとしたが、これはおれにとって黒歴史だった。姉さんは関係を持つには重すぎる。ワン子や京も近すぎて恋愛関係になるのが怖すぎる。

 小学校・中学校時代は姉さんの威光と威圧のせいで誰も近づいてこなかった。高校では失恋するわ、家にお呼ばれしたと思ったらチンピラヤクザが出てくるし……なんなんだろう、おれの青春。

 おれの容姿に対して内容が塩辛すぎませんか。

 

「ま、まあ元気出せよ。これから幾らでも楽しいことあるって。な?」

 

 バンバンと肩を叩いて、不作法に慰めてくれた。楽しいことがあると思っていたら、アンタが出てきて予定が狂ったんだけどね。

 

「しっかし、最近の高校生ってなぁ、思ったより真面目なのな。ケダモノみてえにヤることばかり考えてると思ってたぜ。ま、おれは中卒てか小卒だし、それすらもまともに通ってなかったから学校自体がよく分からねえんだが」

 

 小卒って今の日本でありえるんだろうか。義務なんですが。世の中にはおれの常識では計り知れない出来事や人生があるということなのだろうが、いざアウトローな世界に生きている人を前にしてもそのような生き様があると実感できなかった。

 小学校に入る前に親元を離れて修行に出されたおれも大概なのだが、自分だけは例外でまともなのだと、高校生特有の万能感と特異な環境に育ったおれは信じて疑わなかった。

 おれは戸惑いつつも冷めた感傷を抱きながら、竜兵さんの言葉に、風間ファミリーの男共を思い浮かべた。彼らは童貞だった。おれも童貞だったが、なぜか彼らを見る心の中のおれは、フフンと笑いながら上から目線だった。

 

「女漁りに精を出している人たちだと、想像通りの生活をしてるかもしれませんが、おれの周りの奴らは違いますね。みんな何か真剣になれるものがあって、それに夢中で女の子と遊ぶ暇がないですから」

「ほお、いいじゃねえか。なんか青春してるみてえで」

 

 竜兵さんは感心していたが、該当するのはキャップ一人だけで、他の面々は彼女が欲しいと願望を垂れ流すだけ垂れ流していたり、まだ夢を探していたり、夢を忘れていたり、けっこう中途半端だったりする。

 かくいうおれもそうなのだからとやかく言うつもりはないが、確固たる夢や目標がある女性陣に比べて情けないなウチの男。

 

 

 

 それから――おれと竜兵さんの、亜巳さんの帰宅までの暇つぶしトークは続いた。

 竜兵さんは学生生活に興味があるらしく、おれに適度に話題を振っては、時折自身の武勇伝を面白おかしく話した。

 他人の武勇伝なのだと聞いてもつまらないだけなのだが、話に出てくる叩き潰される敵というか被害者の人間のクズっぷりや竜兵さん自身の度を越した野蛮さがアクセントになり、おれは退屈しなかった。

 今までいい子ちゃんとして生きてきたから、悪いことをするのに憧れていた部分もあったのかもしれない。清楚な美少女がDQNな彼氏に影響されて擦れていくのに似ている。

 退屈はしなかったが、その分、時間は無為に経過していった。

 

 ――約束の時間から三十分経った。亜巳さんはまだ帰って来る気配がなかった。

 お茶はとっくに飲み干していたから竜兵さんが再度淹れてくれた。

 

 一時間経った。まだ亜巳さんはまだ帰って来なかった。

 会話の合間を埋めるためにたびたび御茶請けを口にしていたから無くなってしまった。

 

 一時間半経った。亜巳さんはまだ帰って来ない。

 おれはだんだん居た堪れなくなった。

 

 おかしくないか? 何でまだ来ないんだ? 仕事が長引いているのか?

 それともあれか? わざと遅刻して相手の態度や誠意を見る駆け引きか? こんな怖いお兄さんを相手にさせて様子を見てるのか?

 好意のある女性の家に行ったらヤクザが出てくるって、そうそうないぞ。ていうかトラウマなるぞ。なんで憧れの女性と爛れた昼下がりを過ごせると思ってきたのにこんなことになってるんだよ。この人、十五歳の少年が接していい人じゃないだろどう見てもヤーさんの末端のチンピラじゃねえか!

 時間が経つにつれて、おれの清純な少年の心は裏切りによって汚れていった。デートでは恋人を待つ時間も楽しみのひとつとか抜かした色ボケは反省しろ。何も面白くない。

 

「亜巳姉おせえなぁ」

 

 竜兵さんが染みのついた天井を見上げながら呟いた。おれもまた心の底から同意した。

 これも放置プレイなのだろうか。こんな放置プレイがあっていいのだろうか。こんなものを放置プレイと呼んでいいのだろうか。

 最近はお預けされることを何でもかんでも放置プレイと呼ぶ傾向があるが、放置されて興奮するのは目の前に餌がぶら下がっているのを知っているからであって、ご褒美があるか定かではない状態で放置するのは、砂漠に置き去りにするのと同義の拷問である。

 少なくともこんな猛獣がいる檻の中に放り込まれたような環境で性的に興奮できる人はいまい。

 

 というかだ。待たされているおれがイライラするならまだしも、時間が経つにつれてこいつも機嫌が悪くなってゆくのはどういうことだ?

 段々と話題も尽きてくると、何をするでもなく気まずい沈黙の帳が下りるようになったが、このときおれをチラ見しては苛立ちを隠さないようになってきているのだ。

 彼はなぜ苛立っているのだろう。おれは訝しんだが、自身の疑問を満足させる答えを導き出せなかった。

 あまりの気まずさと反社会的な方々への恐怖で、亜巳さんが早く来てくれることをひたすら願って時間が無為に過ぎて行ったのである。

 

 そして、何度かチラチラと様子を窺っていた竜兵さんが、ついに口を開いた。

 

「あーあ、こうも暇だとなんか眠くなってるか。なぁ、そろそろ眠気とか出てこねえか?」

「いや、大丈夫ですけど……」

「マジか。おかしいなー。即効性のある睡眠薬を三回も盛ったのに」

「あ、僕、そういうの効かないんですよー。状態異常無効なんで」

「マジかよ、すげえな! はははははは」

「あははははは」

 

 豪快に笑う竜兵さんに、おれは釣られて笑った。発言の意味することを判っていたが、迫りくる危機を前にしてマヒした脳が認識するのを拒否していた。

 

「じゃあ無理やりヤるしかねえな!!」

「イヤァ!」

 

 え、マジなの? そういうことなの? 男同士だぞおれたち! いくらおれがそんじょそこらの女より綺麗だからって、そういうのありなの!?

 おれは這う這うの体で逃げ出そうとしたが、背を向けた瞬間に肩を掴まれて引き留められた。

 身の危険を感じた身体が正当防衛の拳を繰り出そうとする――その最中、この男と亜巳さんの関係を邪推する思考が脳裏に湧いた。

 

 もしコイツが亜巳さんの男だったら、恋人を殴り倒したおれを見てどう思うだろう。

 つーか本当にコイツがヤっちゃんだったら後々面倒くさいことになるのは確実だし、武力で解決するのは悪手ではなかろうか。

 人に睡眠薬盛ってレイプしようとする輩でも、同じ人間なのだから話し合うことくらいは可能なはずだ。だからひとまずここは暴力ではなく言葉で解決しなくては――

 

 ここまでの思索の間、身体が硬直してしまい、その隙に肩を抑えつけられ、うつ伏せに押し倒されてしまった。

 だが力はたいしたことない。マウントを取られたが余裕で挽回できる。とりあえずは実力ではおれの方が上だということを見せてから話ができる状況にまで持っていかないと。

 

 

 

――そう考えていたおれの尻に、ゴリッ、と、熱く、今にもはちきれそうな瑞々しく屹立する猛りが押し付けられた。

 それは引き締まりながらも至福な弾力を失わないおれの尻を押し潰し、物理的に、肉体的に侵略の意思を明確にしていた。

 下着、ズボン、両者合わせて四枚の布に隔てられながらも存在感を失わず、さらに深淵へと突き進もうとする男性の冒険主義の結晶にして怒涛の象徴。

 それはおれがあの日、姉の肢体に欲情し夢中になって夕闇の中で慰め、心に深い影を落として以来、毎日のように慈しんできたものと同一の、熱い血潮であった。

 それはチンコだった。同年代の男子のそれと見比べて、思わず惚れ惚れするくらいイケメンなおれのペニスと同じ、性欲が滾ると否応なく反応してしまう若気の至りだった。

 毎日触って弄っているチンコと同じチンポなのに、どうして今、おれの尻に密着しているポケットモンスターは汚らわしく、吐き気がするほどの違和感がするのだろう。

 

「おほっ、たまんねえ。たまらなくいやらしい腰しやがって。我慢するのが大変だったぜ」

 

 頭上で陶酔した男の声がする。

 ――おれは尻に男根が触れた瞬間、宇宙の始まりを見た。

 皮膚から神経を伝って背骨から脳髄にかけて電流が迸り、感覚として伝播した刹那を確かに知覚した。

 人類の歴史が走馬灯のように一瞬を駆け巡った。瞬きひとつの間に人々の一生が何千も廻り巡った。おれたちの一生など一瞬の流れ星と同義であり、その眩さが人の価値なのだと悟った。

 そして短く儚い奔流が終わって、現実に帰ったとき、おれは思った。

 

 ――やっぱホモは無理。

 

「うわあああああッ!!!!!」

 

 正気に戻ったおれは、反射的に上体を起こして、姿勢を崩した男の顎を裏拳で砕いてノックアウトした。

 畳に沈む男を前にして激しく息を乱したおれは、息が整うにつれて沈痛な気分とやっちまったという衝動に駆られて激しく後悔した。

 完璧にKOした男を見て頭を抱える。

 

「やべえ、どうしよう! 亜巳さんの男? かもしれないのをやっちゃった!」

 

 あたふたと動揺して、口に出したところで、ハッとする。抑圧から解放された思考能力がすんなりと結論を出した。

 

「あれ、もしかしてコイツ、亜巳さんの弟じゃないの……?」

 

 『亜巳姉』とか言ってたし、家にいる理由も説明つくし……どうしておれは亜巳さんを愛人にしているヤーさんだと思い込んでいたんだろう。

 妙に冷静になったおれは、ホモレイパーの傷を治すと途方に暮れた。

 亜巳さんはまだ来ない。約束の時間から二時間が経とうとしていたが、姿を見せる気配は一向になかった。

 だいたい、今更帰ってきたところで、どうなるというのだ。おれは亜巳さんの弟かもしれない男を殴って気絶させてしまったし、身内をボコボコにされて気分の良い人はいないだろう。

 それにこのホモは亜巳さんとの関係を続けていれば今回の事件を盾にして、今後も関係を迫ってくる恐れがある。初対面の客人に睡眠薬を盛ってレイプしようとする男なのだ。手段は選ばないにちがいない。

 

「……」

 

 おれは居た堪れなくなって、亜巳さんの家を逃げ出した。

 グスッと鼻を鳴らす。きっと涙は出ていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……おれは失意の中、昼下がりの川神市内をあてもなくぶらぶらと彷徨っていた。

 腹立たしいことに天気は快晴で太陽が陰る気配は微塵もなかった。まるで暗黒面に落ちたおれの心を光で浄化するかの如く燦々としていた。

 天にすら追い打ちをかけられたおれは立ち直れないほどのショックを受けた。

 あのさ、なんでおれのスペックで寄って来るのがホモだけなのよ。おれここしばらくホモにしか言い寄られてないんだけど。おかしくない?

 神はもう少しおれに優しくしてくれてもいいだろうに、どうしてかおれに不都合なことばかりする。姉さんとの関係だって実の姉より近しいものじゃなくて、もっとボーイミーツガール的なものだったら強者に飢えた姉さんはおれにメロメロゾッコン首ったけでおれも躊躇なくくんずほぐれつできただろうし、京にしたって小学校時代におれが起きるか京が声をかけるかしてたら今頃京はおれ好みの女になってたんじゃないかと思う今日この頃ではあるし、ワン子も……うーんワン子か勃起しといてなんだけどワン子で抜いたときの罪悪感半端ないんだよねごめんワン子、本当にごめんワン子、一生懸命がんばるワン子が汗まみれになってる姿に欲情したりしてほんとごめんうなじとか汗で変色したスパッツの尻が健康的でいいとか考えたりして本当にごめん許してくれ、こんなおれがワン子と恋仲になるとか妄想でも考えて本当にごめんなさい、でもレベル高い風間ファミリーがいけないんだよ他の女が有象無象に思えるレベルでかわいいんだもんちくしょう。

 

「……なにやってんだろう、おれ」

 

 自嘲して、乾いた笑いが口元から漏れた。

結局のところ、おれは理想が高すぎるあまり結婚できない勘違い行き遅れババアと同じなのだ。

 三十路も過ぎてなお年収一千万で高身長イケメンで家事も率先して殆どやってくれて優しい=自分に都合のよい男性じゃないと嫌だと自分の価値を客観視できずにいる女性と一緒なのである。

 社会的地位と金を持っている男とたくさん接してきた水商売の美女が、十代半ばの童貞小僧を本気で相手にするはずがないのだ。

たしかにおれは適当に弄んで捨ててほしいと思ってはいたが、それは思春期の少年に大人の世界を教え導いて、子供相手では満足できない道に足を踏み入れさせておきながら、意地悪く手放して幼気な青少年を路頭に迷わせる役割をこなしてこその願望だった。

 まさか約束を果たしもせず、ホモの身内への生贄に捧げられるなど夢想だにしなかった。

 意図してはいなかったと思いたいけれども、おれの心には拭っても容易に消え去ることのない傷がついた。

 というか未だに尻にはチンチンの感触がこびりついていたし、屈強な男に組み敷かれるという経験はやわらかい姉さんにされるのとはまったく異なる恐怖として焼きついていた。

 それはこれまでの道程にさしあたって躓くこともなく育ち、思春期特有の万能感に陰りがさしてささくれだったおれの不安定な精神にしばらく立ち直れない頚木になった。

 

 ……思えばおれはとんでもない贅沢をぬかしていた。

 姉さんのようなこれ以上の造形美は見込めない美少女の好意を一身に受けていながら、姉弟として育ったから抵抗があるだの、性癖上の理由で嫌だの、ロリコンでもないのに小さい頃の方がかわいかっただの……

 立て続けに女性に袖にされてきた今となっては、好意をあらわにして、それを断られる側の失意を、身を持って思い知った今となっては、おれがあしらってきた姉さんや大和に振られ続ける京の気持ちが痛いほど理解できて、申し訳ない想いで胸がいっぱいだった。

 何様のつもりだったんだ……一週間に二度も振られて落ち込んでいる、こんなクソマゾでメンヘラクソメンタルのクソガキを好きになってくれる奇特な人なんて、滅多に出会えないのに。

 おれは卑屈に、惨めで、無様な男の気分を味わいながら徘徊を続けた。どこをどう歩いたのか記憶にない。気づけばおれは川神院の門前で足を止めていた。

 

「……」

 

 無言で門を見つめた。ここに行けば姉さんとワン子がいる。おれを心配してくれていた二人がいる。

 きっと今のおれを見つけたら、何事かと駆けつけて、「どうしたの?」と優しく声をかけて慰めてくれるはずだ。

 ……そんなことを考えているおれがますます情けなく思えて、おれは唇をかみしめながら川神院に背を向けた。

 このとき、地上で最も価値のないものが自分だと思っていたおれは、会わせる顔がなかった。

 そうして足を引きずるようにしてあてもなく歩き出した先で、見知った顔と出会った。

 

「あ、三河クーン! こんにちはー、珍しいね一人でいるの」

 

 半被姿で売り子をしている小笠原千花さんだった。そういえば和菓子屋の看板娘だったっけ。

彼女は気まぐれに飼い主に媚びる猫のような表情ですり寄ってきた。今のおれにはそれが客に下手に出る態度なのか、意中の男に媚びる痴態なのか判別がつかなかった。

 

「三川君ならサービスしちゃうよー。飴とかおすすめだけ、ど……えと、三河君……?」

 

 おれが顔を向けると小笠原さんは眉をひそめて困惑した様相を呈した。

 

「あの、どうしたの? 元気ない、みたいだけど」

「……どうしたんだろうね、よく分かんないや、おれも」

 

 おれは捨て鉢に自嘲気味に吐き捨てた。本当に分からなかった。こんなのおれじゃない。そう気づいていたけどどうしていいか分からなかった。

 とりあえず時間を置かなければこの傷が癒えないのは分かっていたが、それ以外にどう対処していいのかも分からない。

 そんなおれをしばらく見つめていた小笠原さんだが、憐れんでいるような顔から一転して意を決した面持ちになると、「ちょっと待ってて!」と言い残し、店に引っ込んでいった。

 店番代わってー! と声がして、何度か会話のやりとりがあってから半被を脱いで私服姿の小笠原さんが出てくる。

 

「少し歩かない?」

 

 これは誘われているのか、狙われているのか。

 思うところはあったものの、考えるのが面倒になり、おれは彼女の提案に頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「えー! 三河君がフラれた!? うわぁ、びっくり」

 

 道中、彼女の振る話題に適当に相槌を打ちながら、多馬川の河川敷を訪れていた。

 緩やかに流れている水面を見つめているうちに、荒んでいた心が浄化されてゆく感覚に陥って、破れかぶれになったおれは、何もかもを吐き出したくなって、いつの間にか打ち明けていた。

 小笠原さんはわざとらしく驚いたふりをした。どうせ噂で聞いていたくせに、律儀なことだ。

 

「……言っておくけど、学校で流れてる噂の人のことじゃないよ。ついさっき、振られたんだ……別の人に」

「え、ええと……」

 

 別に振られたわけじゃないんだが、もう振られたようなものだしと開き直ってぶっちゃけると、小笠原さんは言葉に窮した。

 そうだよ、一週間で二人に振られてるんだよ、おれ。1weekに2personsだよ、すげえだろ? 見たことねえだろ、こんなイケメン。

 返答に困りながらも、愛想笑いを浮かべて小笠原さんがおべっかを振り絞った。

 

「その人たち見る目ないなー。アタシなら絶対、三河君を放っておかないのに」

「……」

 

 間接的に告白を受けて、おれの心に邪悪な、褒められたものじゃない感情が渦巻いた。

 おれは顔を膝に埋めて、極力感情を押し殺した声で言った。

 

「誰でもよかったんだよ……」

「え?」

「誰でもよかったんだ、ヤらせてくれるなら、誰でも……」

 

 小笠原さんの声には、おれの口から出たとは思えない、思いたくないという感情が含まれていた。

 だが本心だった。

 紛れもない本心だった。

 もしおれが好きになった人を挙げて、それを聞いた心ない誰かは、「年上の女性が好きなんだ」とか「一皮むくと普通の人なんだね」とか「実はマザコンの気があるんじゃないの」とか言うかもしれない。

 恋愛感情もそりゃ告白するくらいなんだから心のどこかにはあったかもしれないけど、根底にあるのは『望み通りの初体験をさせてくれそう』と言う願望・欲望なのだから、ヤらせてくれるなら誰でもよかったというのは間違いじゃないのだ。

 ただ、性癖を打ち明けなくても、率先してやってくれそうなのがその二人だっただけなんだ。

 姉さんやワン子じゃダメなんだ。別れてから人間関係に支障が出そうな相手とセックスは後腐れが酷そうだからダメなんだ。

 おれは気兼ねなくリスクもない、責任や後腐れのない気軽なセックスで童貞が捨てたかっただけなんだ。

 

 そもそも恋愛ってなんだよ。あれがクソだろ。

 人が想い人と結ばれた時に日常が鮮やかになったと錯覚するのは、先見性や判断力が嬉しさのあまり弾け飛んで、性欲に視界を塗り替えられてしまうからだ。

 楽しいことばかりじゃないのに、辛いことのほうが多いのに、それでも男が女と付き合うのはセックスの快楽と充足感が、それまでの面倒や苦痛に勝るからだ。

 だから、女の子と付き合うのは、日常にいるのに、これから監獄で生活しなければならないのだと絶望するのに似た覚悟がいる。

 ただ男の子はエッチがしたいだけなのに……

 

 というか、恋愛を素晴らしいものだと錯覚させるプロパガンダは今すぐやめろ。

錯覚させるということは詐欺と同じく悪なのだ。たとえば青春に想いを馳せ、恋愛は良いものだと思わせる小説、ライトノベル、アニメ、漫画、それら全て悪だ。

 『こんな青春を送りたかった』『こんな娘と恋愛したかった』『この主人公のような学校生活を過ごしたかった』……

物語を享受する者にそう思わせることは悪だ。なぜなら、そう思わせることで、彼らの 歩んだ人生がつまらないものだと錯覚させている。これから青春を過ごす者に、成長すればこんな未来があるのだと希望をもたせてしまっている。

 これは詐欺であり、悪だ。

 食パンをくわえた転校生と曲がり角でぶつかる出会い、毎朝起こしにきてくれる隣に住んでいる幼馴染、身分の差を乗り越えて結ばれようとするお嬢様、エッチで綺麗なお姉さん……

 そんなもの現実にいないじゃないか。いつでも男が夢中になって捜しているのに。

 ほんとふざけんなよ……なんでこんな辛い思いをしなきゃいけないんだ。恋愛なんてしても良いことなんて全然ないだろ。

 

 

 

 ……あれ、いま何の話してたっけ……?

 

「えっと……」

 

 呆気に取られていた小笠原さんが、考える素振りをしていた。おれは失言したことを悔いていたが、もうどうでもよくなっていたので言い触らされようが開き直るつもりでいた。

 しばらく考え込んでから、再度口を開いた小笠原さんは、真剣な表情をしていた。

 

「まあ、この年頃の男子ってみんなそんなもんだよね。可愛い女の子見たら、ヤることしか考えてないじゃん。猿かっつーの。三河君も他の男と変わらないんだ」

「はは……幻滅したでしょ」

「いやぁ、幻滅したっていうか、三河君もそこらの男と考えてること同じなんだって驚いたってのが本音かなー。モモ先輩のバリアーで近づけなくて、完璧超人のイメージがあったから」

 

 ……ああ、なるほど。そもそもおれ、風間ファミリー以外の女子と話したこと殆どないし、それもあって勝手なイメージが広まっていたから憶測で人格を膨らませて人気が出ていたんだろう。

 それも今日で終わるけど。清々しい気分だ。今日から変態を公にできる。開き直って変態の橋で性癖を暴露できるんだ。失うものがなくなった人ほど恐ろしいものはないのだと世界に知らしめてやれるんだ。

 魍魎の宴とやらにも参加して猛威を奮ってやれると思うと興奮してきた。あれ、意外と悪くないな。イメージが悪くなるのも。

 

「……でもさ、女子も似たようなものだよ、男子の恋愛観と」

「……ん?」

 

 もう会話が終わったつもりでいたおれは、そこから会話が繋がったことに首を捻った。

 小笠原さんはけっこう真面目な顔で話を続けている。

 

「アタシもさ、本気で誰かを好きになったことなんてないよ。でも、付き合いたいって思った人はけっこういる。そういう人って、すごいイケメンだったり、他のコがいいな、って言ってる人だったり……なんていうか、その人と付き合うことで、みんなが羨ましがる人がいいんだよね」

「……あぁ……うん、分かる気がする」

 

 男は体と寝て、女は肩書と寝るからね。五百年前から変わらない男女の本質だろう、これは。

 

「まぁ、コレクションって訳じゃないんだけど、おばさんがよく井戸端会議で夫の年収とか甲斐性を自虐風に自慢してるじゃん。ああいうの見ると女の子っていくつになっても変わらないんだなと思う。

 自分の恋人がかっこいいと誇らしいし、みんなに自慢したい。アタシの彼氏はこんなに凄いんだ、ってみんなに知ってほしい。

 逆に、アタシも彼氏が他の男に羨ましがられるような女でいたい。あんな良い女が彼女で羨ましいって。そうすれば独占欲も湧くし、ますますアタシの価値に気づいて離したくなくなるでしょ?

 ……どうかな。アタシ変なこと言ってる?」

「……ううん、小笠原さんの考えは間違ってないと思うよ」

「ほんと? えへへ、よかったぁ。でさー、その……三河君から見て、アタシってどう?」

「……」

 

 今度はおれが返答に窮した。一週間で三人はさすがに気が引けた。恋愛はもうこりごりだと心が叫んだのに舌の根も乾かぬうちにそういう話になるのは嫌だった。姉さんたちに申し訳ない。

 色々理由は思いついたけれど、とりあえず気が乗らなかったのは事実だった。

 口を噤むおれに小笠原さんが矢継ぎ早に言う。

 

「あの、好きとかそういうのじゃなくて、三河君からエッチしたいかどうかって話でね!」

「小笠原さんは、十分綺麗でかわいいと思うよ。スタイルもいいし」

「よっし! ……アタシも三河君のこといいなって思ってるんだ。川神学園で一番かっこいい男の子だと思う」

 

 なんだこの流れ。小さくガッツポーズをして、強引に話を自分のペースに持っていこうとする小笠原さんに押され、おれは引き気味だったが、彼女はガンガン押してきた。

 

「アタシね、学生のうちはたくさん遊びたいって考えててね。自分磨きや人生経験を積む為に男の人と付き合うのも悪くないって思うんだ。ほら、エッチなことが上手いのも男にはポイント高いでしょ?

 女の子とエッチなことがしたい三河君と、かっこいい男の子と付き合って女磨きがしたいアタシ。なんだかお似合いじゃない?」

 

 いや、お似合いじゃない? とか言われても、顔見知り程度でろくに知りもしないのに付き合うとか、ちょっと怖いし。

 そりゃエロいとは思うし可愛いとは思うけど、恋愛は嫌だ。なんかスイーツ(笑)っぽいし、女の嫌なところを煮詰めたような恋人のやりとりを容易に想像できて、セックスのメリットをデメリットが凌駕している気がしなくもない。でもエロい体をしている。かなり可愛い。おれもそろそろ性の悦びを知りたい。どうしよう。

 逡巡するおれに、小笠原さんはさらに押してきた。

 

「……恋人が嫌なら、セフレでもいいよ。お互い、本当に好きな人ができたら円満に別れられる関係でも。束縛もしないし、体だけの関係でもいいから」

 

 え、そんなに都合の良い関係でもいいの!?

 おれの心は揺れた。想いが揺れるあまり丹田からこみ上げてくる衝動に生唾を飲んでしまった。

 俯いていたから気取られなかったと思うが、確かにおれの心は傾いていた。

 AVで学んだあんなことやこんなこと、できたらいいなと妄想していた大好きなことをこんなに可愛いコとできるのだ。

 これ断る理由なくないか……?

 性欲が怒涛の勢いで勢力を盛り返し、恋愛を厭う精神を駆逐して回っている最中、次に発した言葉がとどめとなった。

 

「三河君のしたいこと、なんでもしていいから……」

「……いいよ、付き合っても」

 

 おれがまだ傷心から立ち直れないふりをしてやけっぱちに答えると、小笠原さんは何度も「ほ、ホント!?」と聞き返してきて、しばらく忘我と立ち尽くしていたかと思うと、「っっっしゃッ!!!!!」と渾身のガッツポーズをした。

 あらゆるスポーツでも見たことのない迫真に満ち満ちた男らしいガッツポーズだった。

 

 ……小笠原さんは恐らく恋愛に勝った。

そしておれは、性欲に負けたのであることをここに追記しておく。

 

 




超絶美少年三河千さんの華麗なる一週間

・月曜日……あずみさんに告白、失恋
・火曜日……登校拒否
・水曜日……失恋のショックで鬱
・木曜日……京と喧嘩する
・金曜日……百代に屋上で壁ドン後、フェラされて泣く
・土曜日……風俗で童貞を捨てようとして亜巳さんと出会い一目惚れ
・日曜日……ホモに掘られそうになって自暴自棄になる。初めての彼女ができる。


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こんな思いをするのなら花や草に生まれたかった

私の右の頬をぶった後に左の頬もぶってください。


 

 おれがあずみさんに振られた傷を慰めようと向かった風俗街で出会ったSM嬢の亜巳さんにホイホイと釣られて訪れた先でホモに掘られそうになり、やけっぱちになった挙句に出くわした行きずりの女の子と付き合うことになるという正気を疑う顛末の夢を見た。

 朝起きて鏡の前に立つおれの顔はひどかった。ひどいと言っても普段が100点だから総合的に82点あるのだが陰りが見られた。

 あんな夢を見たせいだ。幾ら何でもあれはない。おれは面食いだ。選り好みだってするし、決してホモじゃない。

 あんな夢を見るなんてフロイト先生にかかったら男に身をゆだねてみたい破滅願望があるとかとか、おれがまるであの夢でも発情する変態かのように診断されてしまうではないか。

 

 夢は実生活で抑圧された願望の表れであり、人は無意識のリビドーによって突き動かされているとエロい人は言ったけれど、男なんて十分に一回くらいはエロいこと考えてるじゃん。

 そもそも抑圧されてない人なんている? 自分を曝け出したい願望を抱えながらも意識してリビドーを迸らせてる人が大半じゃないの?

 まったく、おれが抑圧してる願望を夢にしたら、R18じゃないと描写できないことばかりになるに決まってるだろうに。なぜあんな夢を見せたんだ。

 無意識に夢の中でもおれを苦しませようとMの本能が暴走でもしたのだろうか。さすがにそれはおせっかいが過ぎるし全然嬉しくないぞ、もうひとりの僕。

 

 

 

 

 

 記憶がないほどろくでもない週末を過ごした所為か、月曜日の登下校はうんざりしていた。踵を返してサボタージュしたかった。

 風間ファミリーの面々はいつも通りだった。先週喧嘩した京、壁ドンふぇらのコンボですっかりおれを落とした気でいる姉さん以外は平素と変わりない。

 ただ河川敷を我が物顔で歩く風間ファミリーを見る川神学園生の目がいつもと違った。

 見られてる……注目を浴びて然りのメンバーが集まっているとはいえ、その視線は普段のそれとは質が違った。

 おれはこの視線の正体を知っている。先週ずっと苛まれてきたからだ。

 彼らはおれを見ているのだ。みんなのアイドルだったおれの無様っぷりを眺めているのである。

 まぁ、振られたからね……仕方ないよ。

 

 しかしである。一過性の視線だと思って知らんふりをしていた先週のそれより、今日の視線とひそひそと耳障りな噂話は、再燃したかのように熱を取り戻していた。

 なぜだろうか、検討がつかない。

 さっさと飽きないかな、とうんざりしていたおれに大和が神妙な顔をして言った。

 

「千が小笠原さんと付き合ってるって噂が広まってるんだが、本当か?」

 

 奇しくもそれは夢の内容と合致していた。

 

「すごい偶然もあるものだな。今朝、おれも噂と同じ内容の夢を見たよ」

「それ本当に夢か?」

 

 大和が疑心に満ちた目でおれを見た。おれは何も答えられなかった。

 昨日の記憶が薄氷のごとく曖昧模糊で、現実感が皆無だったからだ。そもそも昨日の記憶がなく、夢の方しか覚えていない。

 ――あれ?

 嫌な結論に達した脳みそをシェイクして振り払い、おれは言う。

 

「大和、おれは愛とは大勢の中から一人を選び、他の者を顧みないことだと思っている」

「なんだよいきなり」

 

 新興宗教の勧誘に引っかかったような顔をする大和に真面目に問いかけた。

 

「そんなおれが、昨日今日出会った女と付き合うような男に見えるか?」

「うん」

 

 大和は即答した。おれは天を仰いだ。空はとても青かった。視線を戻し、ジトッと大和を睨んだ。

 

「おれのケータイを見てくれ。連絡先に小笠原さんの名前がないだろ? 付き合ってない証拠だ。なのにどうして大和はおれを信じてくれないんだ?」

「いや、どこを信じていいか分からないんだが」

 

 おれはどうしてコイツと友達だったんだろう。お互いの性癖を打ち明け合った仲じゃないか。確かにおれはすぐ京に大和がアナルファッカーだということをバラしたけれども、それはそれ、これはこれだろう。

 秘密を明かしても良い間柄だということ、信頼関係を築けている事実が大切で、おれたちはそういう友情を育んできたはずなのに。

 おれは悲しくなった。最近、おれを取り巻く人間関係が、おれに厳しい気がするのだ。振られるし、京と喧嘩するし、姉さんに襲われるし……誰かおれに優しくしてくれてもいいのよ?

 いや、ほんとに。

 

「ところで、その噂の出所はどこ?」

「さぁ。知り合いの女子から、俺に確認のメールがうんざりするほど来たけど、誰が広めてるのかまでは」

「ふーん」

 

 人間関係かき混ぜ棒になる人っているよねー。そういう人はたいてい愉快犯のくせに自分たちに正義があると思い込んでるからたちが悪いんだよなぁ。

 

「何の話をしてるんだ、千」

「大和が『恋愛はただ性欲の詩的表現を受けたものに過ぎない』って言うから議論してたんだよ」

「言ってねえよ! 言ってねえよ!!」

「そうだぞ千。大和は『愛など幻想に過ぎない』派じゃないか」

「やめろ。やめろ」

 

 大和の黒歴史をからかいながら日常を演出する。もしかしたらおれの黒歴史は今かもしれない。そんな考えがふと頭を過ったが、深く思考することを感情が拒否した。

 風間ファミリーの日常は何事もなく回っている。あとはおれと京が仲直りすれば元通りだ。

 おれの風評が著しく被害を被ったが、じきに元通りになるだろう。おれはイケメンだし。

 

 そんな感じに軽く物事を考えていた。事実、おれの見通しは甘かった。

 

 

 

 

 

 

 校舎に入ってすぐひそひそと話す雑音は大きくなった。聴覚を強化する修行でもしようかと思ったが、全部聞こえたらおれのメンタルが死ぬかもしれないのでやめた。

 姉さんと別れ、一年生の階に足を運ぶ。すると廊下で頭の赦そうな派手な女子グループが喧々に盛り上がっていた。

 

「チカリン、いい加減嘘だって認める系。今なら冗談だったって誤解を解くの手伝ってあげるから」

「だーかーらー! 全部ホントだっつーの! てか何で一晩で学年中に広まってんだよ! 見世物じゃないってば」

 

 小笠原さんが質問攻めにされて面倒そうに受け答えしていた。おれは足を止めて大和と顔を見合わせた。

 

「なんだなんだ。女同士で吊し上げかよ、おっかねえ」

「うわあ……あんまり関わりたくないなぁ」

 

 ガクトとモロが敬遠気味に言う。嫌な予感がした。というか悪寒がした。

 悪夢が現実になる恐怖というか、現実だと思いたくなくて夢だと思っていたことがやはり現実だったというか――

 

「チカリンいつまでも意地張ったってしょうがない系。ていうか妄想にしても三河千は夢見すぎ系。川神先輩が何年も落とせない男をチカリンが食えるわけねえし」

「嘘じゃねえしって何回言わせんの。めんどいなぁ、早く三河くん来て――」

 

 ふと小笠原さんと目が合った。風間ファミリーの面々もおれの名前が出たのでおれに目を向けた。

 目が合った瞬間に小笠原さんの顔が明るく染まった。おれは血の気が失せた。小笠原さんが軽快な足取りで駆け寄っておれの腕を抱いた。

 

「ねえ三河くぅん。あたしたち付き合ってるよね?」

「え? マジで!?」

 

 ガクトが吠えた。みんなも一様に驚いた顔をしていた。おれは押し付けられている真新しいおっぱいの感触に打ち震えていた。

 慣れ親しんだ姉さんのそれとはちがう新鮮なサイズとやわらかさ。それだけで男は興奮できるんだ。

 ご満悦な気分に浸っていたおれだが、周囲と小笠原さんに無言で返答をせっつかれて視線を落とした。

 え、あれ夢じゃなかったの? エッチさせてくれるからって理由で傷心してた所を狙って襲いかかってきた肉食系女子に告白されてOKしたの?

 これじゃおれ、ただのスケベじゃん。いいのか、それで。お前は自分の性癖に誇りを持っているんじゃなかったのか。こういうカースト上位の気の強い女の子が変態なプレイに付き合ってくれるとほんとうに思うのか。きっと普通のエッチの延長戦上にあることしかさせてくれない。それでもいいのか。お前の性癖にかける情熱はそれまでだったのか。

 いったいどうなんだ、三河千――ッ!

 

 

 

 

 

「あ、うん……昨日そういうことになった……ような」

「嘘ォ!?」

「マジかよ!?」

「ちょっと、何で黙ってたのさ千!」

 

 自信のない最後の言葉は途中でさえぎられた。おれはエロには勝てなかった。おれにカノジョが出来たと知って、風間ファミリーやその場にいた女子が大騒ぎになった。

 小笠原さんが得意げな顔をしていたが、おれは彼女の丁寧に手入れされた髪から香る匂いや躰のやわらかさ、高校一年生とは思えない色気の方が気になっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「三河くん、誰でもいいのなら、私が恋人になって慰めてあげてもよかったの――」

「うるせえだまってろ」

 

 おれはホモを一蹴して席についた。おれと小笠原さんが付き合ったことは瞬く間に拡散され知らぬ者のいない事実になった。

 S組の鼻持ちならないエリート軍団も聞き耳を立てているようだった。他人の恋愛事情がそんなに面白いかお前ら。

 

「人気者はつらいね~」

「泣いてる女子もいたぜ。やっぱ年増はダメだな。女の嫉妬はかわいくむくれる程度じゃないと」

「準は修羅場になって刺される心配しなくていいもんね」

「すぐ傍に嫉妬した武神に殺されそうな人がいるしな。いやぁ、ロリコンでよかったぜ」

「……姉さん学校にいないよ」

「ああ、川神先輩なら、泣きながらトイレに駆け込んで、しばらくえずいたあと帰ったそうです。よほどショックだったんでしょうねえ」

 

 気配がないからどうしたのかと思えば、あの武神メンタル弱すぎないか。おれも人のこと言えないけれど。

 

「なんとなく想像つくが、どういう経緯で付き合うことになったんだ?」

 

 ロリコンのくせに他人の恋愛話に興味がありそうな井上が言った。

 

「ナンパしたお姉さんの家にお呼ばれして、そこでホモに掘られそうになって命からがら逃げ帰ったところでばったり出会って、そんで告白されてなんとなくOKしてしまってさ……」

「ちょっと何言ってるかわかんない」

 

 井上は引いていた。

 

「ねえねえ、それで君は後悔しないの? 恋人にこだわりがあったんじゃないの?」

 

 榊原さんが小首をかしげながらおれの目をじっと見据えた。おれは自嘲気味に笑った。

 

「そりゃあったけどさ……でも、おれ、童貞じゃん。童貞が愛だの恋だの偉そうに語ったても何の説得力もないじゃん。しかも恋人はできないんじゃなくてしないだけって格好つけてる一番かっこ悪いタイプの童貞じゃん、おれ。童貞でかっこいい男なんてニュートンとかダヴィンチとかカントくらいだよ。ほんと、情けないよな、童貞って。童貞と書いておれと読むくらい情けねえよ」

「ええい、人の席の横で童貞童貞やかましい! そういう猥談は此方の耳に入らない場所で山猿たちとしておれ! 存在がS組の恥じゃ、このスケベ!」

「うっ、くぅぅ……!」

「な、なぜ顔を赤らめておるのじゃこやつー!」

 

 不意に罵られて性的に興奮してしまったのはさておき、それでもおれは童貞を卒業したかったのである。

 最短の道のりを敢えて避けて、回りくどい道のりをさまよって時間を無駄にし、それを何度となく繰り返しても、童貞喪失を諦めようとしなかったのである。

 十五歳になったかくいう今もおれは童貞を捨てる方法を探していた。

 それもただの童貞卒業ではない、特別な始まり方を、だ。だから理想を追い求めて、ドラスティックかつサディスティックに全てを奪った上で捨てられるという、荒唐無稽な脱童貞の夢を叶えてくれる年上の女性を探し求めていたのである。

 一番かっこ悪い童貞から非童貞へ。少年から男へ。いつか羽ばたく姿を夢見る芋虫から一足飛びにパピヨンへと。0から1になりたくておれは童貞から男になる術を探し求めていたのである。

 その最善の方法が失われたけれど、それでも目的が達成できるなら何でもいいと思い始めてもいたのである。

 風俗で童貞を捨てようと思った。けれど商売女でも捨てられず、挙句の果てに何を血迷ったか処女を失いそうになった。そして学年のマドンナに告白されてOKしたんだけど……。

 もう、いいじゃん。これだけやったんだからさ、ちょっとくらい、妥協しても……ええやん。

 

 非童貞になったら世界が変わる……そんな気がするんだ。具体的には風間ファミリーの全員を鼻で笑えるようになれると思う。

 月曜日の朝は嫌いだが、今だけは好きになれる気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 やっぱり月曜日は嫌いだ。放課後に秘密基地に呼びだされてから心変わりした。毎日が日曜日でいい。

 

「ただいまより、三河千の裁判をとり行うッ!」

 

 なぜかおれは立たされていた。テーブルを挟んで対面に座る京裁判長が何かを強いられているかのような威厳ある声で叫んだ。

 

「裁判の一連の流れはめんどいからカットだッ! 島津検事、事件の説明をお願いします」

「はい。被告人、三河千は風間ファミリーに内緒で女の子と付き合い、それを秘匿していました。しかもその相手が学年で一番ヤりたい女ランキング暫定一位の小笠原千花でした。我々風間ファミリーとしても、学年の野郎ども代表としても、とても看過できるものではありません」

 

 ガクトが真面目な顔で馬鹿なことを言っていた。いつものことだった。

 

「あ、被告人には弁護人いないからセルフ弁護してね」

「おい、なんだそ――」

「静粛にしなさいッ!!」

 

 おれが抗議すると迫真の声でうやむやにされた。なんだよこれ……モスクワ裁判かよ。この裁判は早くも終了ですね。

 言論が封殺されているこの裁判とも呼べない、帰りの会での晒しあげられているかのような状況におれはうんざりしていた。

 やたらと張り切っている京が、急に相好を崩して言った。

 

「島津検事、罪状はテキトーにでっち上げるからさっさと求刑してよ」

 

 なに言ってんだこいつ。

 

「異議あり!」

「却下します、島津検事どうぞ」

 

 ひでえ。

 

「あー……じゃあ、とりあえず死刑で」

「ガクトてめえ、よく分からないからってノリで死刑にするのやめ――」

「だまらっしゃいッ!!」

 

 京裁判長に怒鳴られて、おれは口を閉ざした。なんなんこれ、マジで。

 

「では判決を言い渡します」

「異議あり!」

「【有罪】。被告人を死刑に処する」

 

 判決が決まったと同時に脇に控えていたモロとワン子がクラッカーを鳴らした。

 

「……」

「三河死刑囚、最期に何か言い残すことは?」

「なんすか、この茶番」

「羨ましいんだよこのバカ!」

「ほんとビックリしたよ。何で報告とかしなかったの?」

「千、千! お姉様が大変なのよどうしよう!」

 

 終了と同時に詰め寄られて腰が引けた。そういや姉さんがいないが、結局お家に帰ってからなにしてるんだろう、あの人。

 

「あ、モモ先輩は千を寝取られたショックでゲロ吐いて寝込んでるから来てないよ」

「メンタルよわっ」

 

 というか夫婦や恋人でもないのだから寝取られとは言わないのでは。釈然としないものの半泣きのワン子をなだめる。

 

「姉さんはおれが何とかしとくから落ち着け。ったく、情けない姉だな……」

「千も失恋しておかしくなってたし、似た者姉弟だろ」

 

 大和が呆れた調子で何か言っていたが、おれの都合のよい耳には届かなかった。

 

「いや、モモ先輩がああなるのは無理もないよ……何年も片思いしてたんだしさ」

 

 モロが姉さんに同情的のようだった。おれを責めるつもりかとも思ったが、言葉の節々にそういったニュアンスは見られなかった。

 

「最近は妙に舞い上がってたしなぁ。しかしモモ先輩じゃなくてチカリンに行くとは、ウチの色男はやるねえ」

「うぅ、お姉様。アタシ、恋愛はよく分かんないけど本当にかわいそうだったわ。千、早く慰めてあげてね」

 

 ガクトは嫉妬と祝福半々、ワン子は姉さんが気がかりでそれどころじゃない。

 

「分からん……どうして人は色恋なんぞに現を抜かすのか……分からん」

「そろそろキャップに性教育した方がいいのかな、でもなー」

 

 キャップは馬鹿なりに必死に考えて頭がおかしくなっており、大和は無関心を装っていてよく分からなかった。

 

「あー。ちくしょう、羨ましいぜ。チカリンが彼女とか。絶対エロいし、意外と尽くすタイプとみた。毎日のように盛るんだろうなこいつ」

「ちょっと、やめてよガクト。あまり千のそういうとこ考えたくないんだからさ」

「お前は千にどんなイメージ持ってたんだよ。こいつドが三つつくくらいのドスケベだぞ。性欲に関しちゃ俺様より上かもな」

「ガクトと千じゃ全然ちがうんだよ。同じことしてても嫌悪感とか気持ち悪さが。だからこそ、もう少し落ち着いてほしい」

「なんだ。あまり言いたくないが、モロや京は昔の千への思い入れがアレだな」

 

 妖精だった頃のおれが美化されているのはさておき、おれが袋叩きにされるのかと思ったがあまり反発は見られなかった。人望って大事ね。

 

「もう帰っていい?」

 

 気が抜けたことに加えてリア充の仲間入りをしたおれにはやることがあった。彼女を家に呼ぶために自室に溢れているAVやアダルトグッズを片づけなければいけない大仕事が待ち受けていたのだ。

 それに彼女と寝落ちするまでメールや電話をしたり、デートの予習もしなければいけない。かーっ! やることが多くて困っちゃうなー、かーっ! リア充も大変だぜ。

 

「いやいや待て待て。これから一応大事な話もしなきゃならねえんだ」

 

 慌てた様子のガクトに呼び止められ、それに京が続けた。

 

「とりあえず、千は小笠原さんと別れなよ」

「は?」

 

 声に出したのはおれではなくガクトだった。一人だけ納得いってない顔をしていたが、突然なに言い出すんだこのキノコ女。

 

「どうせヤらせてくれる女の子なら誰でもよくて、深く考えずにオーケーしちゃったんでしょ。付き合っても後悔しかしないだろうから、早めに謝って別れなよ」

「いやいや、急になに言ってんだ京」

「なにって、ここ最近メンタルがおかしくなってた千が、斜め上の方向に着地したから矯正しようとしてるだけだよ」

「だからって何でそれで別れさせようってなるんだよ。おかしいだろ」

 

 京とガクトが当事者であるおれをそっちのけで言い争いを始めた。話についていけない。

 

「何がおかしいの。千がモモ先輩以外と付き合って、今後ギスギスしそうなのをどうにかしようってことでしょ」

「それがどうして別れさせることになるんだよ」

「だって上手くいかないの分かり切ってるし、それなら傷の浅いうちに止めてあげるのが有情かなって」

「だめだ、さっぱり理解できねえ」

 

 何となくだが、拗らせた姉さんが不和の元となりそうなので、それを巡っての方向性の違いで揉めているらしいことは把握した。

 と言っても、結局はおれと姉さんの問題なのでおれ以外にどうこうしようがない筈なのだが、どうして揉めているのかイマイチ分からない。そして京にめちゃくちゃ失礼なことを言われている気がする。というか言われてる。

 身に覚えがありすぎて反論できないけど。

 京はやれやれとばかりにため息をついた。

 

「ぶっちゃけさ、みんなだって納得行ってないでしょ。モモ先輩じゃなくて、昨日今日知り合った人と付き合うの。モモ先輩なら喜んで祝福できたよ。それなのにどうして? 自暴自棄になってたのなら、うじうじ悩んでないでファミリーの誰かに相談しなよ。どれだけ馬鹿なの」

「私は馬鹿ではございません」

「うるさいよクソ馬鹿」

 

 ちょっと空気を和まそうと茶目っ気を出してみたが、取り付く島もなかった。本気で怒ってるな。最近喧嘩してたのを差し置いても怒ってる。

 あまり見覚えがないくらいキレてる京は、他のメンバーにも目をやった。

 

「モロとワン子もそう思うよね」

「え!? うーんと、えーと」

「……いや、ぼくはそこまで思ってないよ。モモ先輩が元気になって、元通りになりさえすればいいや」

「なんでそうなるかな……ワン子は?」

「あの……あ、アタシはその、千が楽しそうなら別に……お姉様が悲しんでるのはかわいそうだけど、千が選んだことなら応援するわ」

「ダメだね。全然わかってない」

「わかってねえのは京、オメーだろうが」

 

 ガクトが眉を吊り上げながら再度京に食って掛かった。京は不服そうに眼を眇めた。

 

「わたしが言ってること間違ってる? もし傷心中のワン子がそこらへんのDQNにナンパされて付き合い始めたら止めないの? それでも仲間?」

「ワン子が悪い男に騙されてるなら止める。もちろん千でもな。でも千のカノジョがそういう悪い女か? むしろ羨ましくて千をド突きたくなるくらいエロくて良い女じゃねえか! 俺が彼氏なら自慢しまくる自信があるね」

「これだから下半身で物事を考える男は」

「言ってろ。だいたい今の京こそ、俺様には、千を他の女に盗られて嫉妬してるようにしか見えないけどな」

「は?」

 

 京の表情と声は、虚をつかれた驚きと怒りが入り乱れていて判断に困った。

 いつ「やめて! 私のために争わないで!」と介入するか機を窺っていたのだが、場が段々とマジトーンになっていって居た堪れなくなった。

 今まで黙りこくっていた大和が口を開く。

 

「京、落ち着け」

「何なの、大和まで」

 

 京は心外と言わんばかりに視線を送ったが反応は芳しくなかった。

 

「あのー。小笠原さんは店がウチの近所だから知ってるけど、そこまでワルイ人じゃないと思うわ」

 

 ワン子がおっかなびっくりに言った。

 

「ぼくはあまり関わりたくないけど、千がいいなら、まぁ大丈夫だと思うし」

 

 視線を合わせずにモロが続いた。

 

「俺は前々から恋愛は自由だって言ってるし?」

 

 腕組みして頭を悩ませているキャップが喧嘩はよくないと言うが、なぜ揉めているのはまではわかっていないようだった。

 

「先に言っておくが、もし俺様にカノジョが出来て、そのコをお前らが気に食わないから別れろと言ってきても俺様はカノジョの味方をするぜ。当然だろ、惚れた女を信じたいと思うのはよ」

「……」

「その仮定は無意味だと思うけどね。ガクトに言い寄る女の人なんて宗教勧誘のコくらいだろうし」

「うるせえ! 騙されても良い思い出になるならいいんだよ!」

 

孤立した京は口を噤んだ。瞳にはまだ何か納得していない感情が見え隠れしていた。

得心がいかない京を気遣ってか、場は漫才でいつもの空気を取り戻しかけようとしていた。

騒動の発端であるおれと、納得のいっていない京とこの場にいない姉さんを置いてではあるが。

 

 

 

「京、このあと少しいいか?」

「……いいけど」

 

 大和が京を呼び出す。それをきっかけに臨時集会は解散になった。

 京は大和に任せていいと捉えていいのかな。

 

「じゃあ、おれは姉さんのケツを叩いてくるわ」

 

 気が進まないけれど、行かないとどうにもならないので重い足を踏み出す。

 おかしい、童貞を捨てたかっただけなのに、どうしてこんなことになってるんだ。

 ワン子の激励を背にふと後ろめたさが過ぎった。

 

 




ネギま……いちご100%……ハヤテのごとく……うっ、くぅ……


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M’s

 

 

 川神院の前に着くとおどろおどろしい陰鬱とした気が辺りを覆っているのが窺えた。

 まちがいなく姉さんのものである。川神院は実力者が集結しているために遠くからだと個々の気が判別しづらいが、近くに来れば流石にわかる。

 触れているこっちの気が滅入る。武神と呼ばれているくせにメンタルが貧弱にもほどがあるだろう。入りたくねえ。

 気後れして門の前で立ち往生しているとジジイがヒョイと現れた。

 

「おお、待っておったぞい。千に振られて……いや、彼女ができたと聞いてからご覧の有様じゃ。皆、この気にやられてげんなりしとるわい。修行にならなくて困ってたんじゃ」

「可愛い孫娘が振られて傷心してるってのにドライだな、ジジイ」

 

 突き放すように邪険に返したが、責められるどころか同情された気配がした。

 

「まあ、モモの片思いなのは傍から見て明白だったからの。思うところがないわけでもないが、恋愛は個人の自由じゃ。好きになさい。そして大いに悩みなさい。何となくじゃが、お主ら二人は、色事で苦悩すればするほど人間として伸びる気がするからのう」

「PTOのみなさーん。ここに不純異性交遊を推奨する教育者がいまーす。今すぐクビしましょう」

「どうせ禁止にしても隠れてやるだけじゃし、風紀を乱さないなら見逃すのが大人じゃろ。禁止にしたら暴れるのがPTOから生徒になるだけだしのう」

 

 ジジイは伸びすぎてL字に垂れ下がる眉をさらに落とした。切り落としたい眉だった。

 

「とりあえず、早いとこ慰めてやってくれんか。正直しんどいんじゃが」

「いいぞ姉さん、もっとジジイを(精神的に)痛めつけろ」

「……育て方をまちがえたかのう」

 

 やっと気づいたのか……今度おれと姉さんと釈迦堂さんで育成失敗トリオとして売り出そう。

 ぼかぁね、小学生の子供を危険人物視するのはないと思うんですよ。天才なんだから凡人といっしょくたにしないで特別に指導しとけばよかったと思うんですよ、ぼかぁね。

 肩まで落としたジジイを置いておれは姉さんの部屋に向かった。

 

 

 

 

 

「姉さん、入るよー?」

 

 ノックをしても返事がなかったので一声かけてから久しぶりに姉さんの部屋に入った。

 色気のない部屋に色気ムンムンの姉ちゃんが色気のない恰好でこちらに背を向けて横向きに寝ていた。

 

「姉さーん? おーい」

 

 呼びかけても反応がない。小さい背中にきゅっとくびれた腰、引き締まって大きく丸い尻にすらりと伸びる、どこにあの恐ろしい筋肉が詰まっているのかわからない瑞々しい足が力なく横たわっている。

 おれは姉さんの尻を見ると叩くより敷かれたくなるが、今は背中を蹴りたい気分だったので爪先で背を小突いた。

 

「おーい。起きろ、愛しの弟が来たぞー」

「……耳に卵子がかかる」

「あたまだいじょうぶ?」

 

 姉さんはぼそぼそと何か言っていた。なに言ってんだこいつ。

 

「童貞線から声が出ていない」

「あたまだいじょうぶ?」

「こんな思いをするなら男に生まれて美人なチャンネー侍らしたかった」

「気持ちは分かるけどせっかく美少女に生まれたんだから、女としての人生謳歌しなよ」

 

 おれは少年から男になるけど。姉さんはまだぼそぼそ言った。

 

「知るかばーかばーか。あほー。帰れー。童貞に生まれ変わってから出直して来い」

 

 おれは聞こえるようにため息をついた。何て面倒な姉なんだろう。何て無様な武神なんだろう。何でこの人はおれのことを好きなんだろう。何でおれはこの人を放っておけないんだろう。

 おれは現代っ子だが、帰れと言われて本当に帰る教育を受けていなかったので、姉さんの背中に声をかけた。

 

「いいの? このまま帰っても。本当に?」

「……帰れ。千なんか嫌いだ」

「少し話そうといっても聞かない?」

「きかない。顔も見たくない」

 

 意地を張り続けているから、いっそう優しく語りかけた。

 

「……姉さん、話す気がないならこのまま帰るよ。そして、今まで通りの関係でいてあげる。話すなら、抱きしめてあげる。どうする?」

 

 返事は訊くまでもなかった。姉さんは獲物を前にした肉食動物を彷彿とさせる動きで飛び掛かってきた。もとい抱きついてきた。

 そのしなやかな身体を抱きとめて頭を撫でた。

 

「千……千、千、千……っ! うううぅぅぅ!」

「よしよし」

 

 しがみつくように胸に顔を埋めて泣きじゃくる姉さんをひたすらあやす。

 どうしてこの人はこんなに弱くなってしまったのだろう。間違いなくおれが原因である。だがおれが悪いわけでもない気がする。

 お腹に当たる大きな胸や艶やかな髪から香る女の匂いに、刹那的におれが惑わされているが、姉さんはどうしてか常日頃からおれに惑わされているのである。

 おれたちの関係はどう見ても尋常ではなかった。義理の姉弟として育ち、実の兄妹よりも親しい仲にありながら、それゆえに誤った関係性にずるずると転がり落ちていった。

 姉の女性としてこの上ない美貌に劣情を催しても、おれは家族としての一線や性欲で汚したくない感情が押し留めるのに、男女の感性のちがいなのか、姉さんはその辺のブレーキが一切ないのだ。

 幼子を慰めるつもりでおれは頭を撫で続けた。

 

「そんなに嫌だった?」

 

 あえて何が嫌だったのかは口にしなかった。姉さんはおれの服を握り締めて答えた。

 

「いやだ……千がほかの女のものになるなんて耐えられない。どこにも行かないでくれ……私の、私だけの千がいい」

「ずっと姉さんの弟だよ。それだけじゃ不満なの?」

「弟……だけじゃ、いやだ。私は、中学生になってから……その前からずっと千が好きだったんだ。ずっと……千を男として見てたんだ」

 

 沈痛な告白に胸がちくりと痛んだのは気のせいではないと思う。考え方のちがいを突き付けられて、男としてのちっぽけな矜持や、今までの短くて長い時間を否定された気がしたおれの声は、少しだけ刺々しくなった。

 

「男なんて、どこにでもいるだろ。京極先輩とか、身内ならキャップとかさ」

「……ほかの男のことなんて、一度も考えたことない」

 

 顔が胸に隠れて見えなかったが、声色は深刻で、胸の痛みを忘れそうになった。

 

「私と対等に喧嘩できる男で、千よりもかっこよくて、賢くて――千よりも好きになれる男なんて、どこにもいなかった。千だけなんだ……私には千しかいないんだ」

 

 胃に黒いものが沈んでいく。どうしてこう、対照的に育ったのか。やはりおれたちの育成は失敗だ。ジジイのジジイらしい部分が受け継がれてない。

 

「そうは言ってもさ、いつかおれが姉さんじゃない別の誰かと結婚したらどうするの? 川神院の跡継ぎとかあるでしょ」

「そのときは……責任がどうとか、認知しろと迫ったりしないから、種付けだけしてくれないか」

「こら」

 

 顎を落として頭を小突く。思春期の男子よりも発想がゲスい。どうしてこう……こう、説明し難いものに育ったのか。

 顎を姉さんの頭に乗せて言う。

 

「ほかに選択肢あるだろ。……おれにこだわるよりも、ちゃんと家庭を持ったほうが、きっと幸せだって」

「……千は、私が別の男に抱かれても平気なのか?」

 

 ……それはそれで、まあ、なんというか、複雑で尾を引く気がしないでもないが、進んで想像したいものでもないけれど、少なくとも病んでそうな姉さんがシングルマザーをしているよりも幸せそうだから認めると思う。

 ただどう答えても姉さんはさらに拗らせる気がしたから口にしなかった。おれの胸の中で姉さんが喉を詰まらせた気配がした。

 

「……ほかの男に触れられると思うと、吐き気がする」

 

 抑揚の感じられない声で姉さんが言った。吐いた息が衣服を伝って胸が熱くなる。

 

「ダメなんだ、千じゃなきゃ、もう。千が私を大切に思ってくれているのは知ってる。だけど、私はよかったんだ。遊びでも、興味本位でも、身体だけの関係でも」

 

 やっとのことでそこまで言い終えて、姉さんは嗚咽をあげて泣き始めた。何も言わずに抱きしめて背中をさすった。

 弟としてそれっぽいことを言っても、普遍的な価値観で教え諭そうとしても頑なに跳ね除ける確信があったから、もう何も言わなかった。

 弟としてのおれは姉さんの「もの」だ。だが世間一般的な見解でいえば、おれは姉さんではなく血のつながった姉の「もの」だろう。家族としてなら、なおさら。

 姉さんは寂しかったのかもしれない。家族として育ったのに、家族ではないし、姉弟と認め合っているのに、姉弟でもない不確かな関係だから。

 だから、今までよりも優しくしてあげようと思った。……本当は突き放して自立させてあげるべきだと分かっていたけれど、この人はひとりで立てなさそうだったから。

 

 

 

 

 

 

 

 落ち着かせて寝付いた姉さんを置いて、部屋を出た。縁側を歩いていると所在なさげなワン子が立っていた。ワン子はおれに気づくと駆け寄ってきて、

 

「千、お姉様は!?」

 

 と切羽詰った顔色で言った。おれは「大丈夫だ」と言った。ちょっとそっけない言い方だったかもしれない。

 

「今は泣き疲れて寝てる。ま、問題ないよ。起きたらいつもの姉さんに戻ってる」

 

 おれが頑張れば。あとはワン子の癒しパワーにも期待しておこう。

 おれの言葉にワン子は大きく胸を撫で下ろして「はあぁー」とため息を吐いた。

 

「よかった~。千、ありがとう。お姉様が元気になってくれるのね」

 

 我が事のように喜ぶワン子を見ていると、如何に自分が薄汚れているか実感する。何て純粋なんだろう。

 おれと姉さんとジジイに囲まれて育ったのに、どうしてこんなに純真な子になれたんだろう。

 リーさんの情操教育は正しいのかもと一瞬血迷うが、高校生にもなって性知識がないのはおかしいのでやはり間違っていると思う。

 

……そういえば、ひとつ聞きたいことがあった。

 

「ワン子」

「ん? なあに?」

「おれが一人暮らしを始めて寂しいか?」

「え?」

 

 質問されたワン子は短く唸って、

 

「言われてみると、そんなに寂しくないかも……。あ! べつに千がいなくなって嬉しいとかそういうんじゃないからね!?」

 

 答えてから大慌てで取り繕おうとしてきた。おれは苦笑した。

 

「毎日会ってるから、寂しいと思う暇もないもんな」

「そうそう。千が家を出るって聞いた時は不安でしょうがなかったけど、あまり変わらないものなのね」

 

 ……きっと、人によるのだろう。統計を取れば男女によってちがうのかもしれないし、性格によってもだいぶ異なると思う。

 だから一概には言えないけれども、自分のことなのでこれだけは確信をもって言える。

 

「おれはワン子や姉さんはもちろん、風間ファミリーのみんなと離れることになっても、寂しいなんて思わないけどね」

「え!?」

 

 唖然とするワン子に「じゃーねー」と背中を向けた。人それぞれと言われたらそれまでだし、薄情と言われたらそうなんだろうけれども、おれはそういうものだと思うんだけどね。

 慌てふためくワン子を置いて、秘密基地に向かう。先ほど嫌な思いをしたばかりなのに再び秘密基地に戻ったのは、きっと気まぐれだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 京はアジトの屋上で落下防止の柵に腰掛けながら夕日を見つめていた。おれは来たのが聞こえるように扉を開けて、近づいてくるのが分かるように足音を立てて歩いた。

 

「みーやーこーちゃーん。なにしてるのー?」

「そっちこそ、なにそのキャラ」

 

 京はこちらを振り向かずに夕日を見ながら言った。赤い陽光が眩しくて、おれには小柄な彼女の小さな背中の形だけが見えた。

 

「どこかの誰かさんの放つ空気が重たくて息がつまるから、気を紛らわそうと思って」

「余計なことしなくていいよ。ていうか何で来たの」

「ほっといたら飛び降り自殺でもしそうな気がしたからさ」

 

 会話は軽口の応酬のような雰囲気だったが、ここでピタリと止まった。京がなかなか口を開かなかったのでおれから切り出した。

 

「そう思い詰めるなよ。何度フラれても諦めないのが京だろ。愛に生きる女が愛を見失ってどうするんだ」

 

「愛かぁ」京が他人事のように呟いた。「千ってデリカシーないよね」

 

「なかったらここに来てねえよ」

「そういうとこがデリカシーないんだよ」

 

 無茶苦茶な言い分だ。おれより繊細な男の子はいないのに。言い返そうとしたが、そういう無意義なやりとりをしても、京を元気づけられないと思い口を閉ざした。

 京がずっと夕日を眺めていたから、おれはその後ろ姿を見ながら、京の次の言葉を待った。

 

「大和にフラれたんだ」

 

 ああ、そうだと思った。やっと口を開いた京の言葉への感想は声にしなかった。

 

「大和、好きな人がいるんだって」

 

 深く傷ついた過去を語る声は他人事のようで実感が感じられなかった。

 

「だから、京の気持ちには応えられないから、もうそういうことはやめてくれ、って」

「それで泣きそうになって黄昏てたの?」

 

 茶化すように言う。発奮させるつもりで、いっそのこと悪者になりきって、怒りでもいいから元気になってほしかった。

 だが京からは何の反応もなかった。静かに気の流れがさざ波立っていく。

 

 

 

「私ね、千のほうが好きなんだって」

 

 長い静寂のあとに絞り出したはずの京の言葉は、何の重みもなくてどこまでも他人事のように聞こえた。

 声から感情の色が消えて、儚い虚脱の響きが耳に届く。京の背中の輪郭が透き通っていっている気さえした。またおれではなく、落ちていく夕日に向かって京がつぶやく。

 

「大和に助けてもらったから大和を好きだって言ってるけど、京は、本当は千に助けてほしかったんだ。恩があるからって、それを理由に自分をごまかすのはやめろって」

 

 短く息を飲む気配がした。何もかける言葉が思いつかなかったから、次の言葉を待った。

 

「なんでそんなことわかるんだろうね。私じゃないのに。私だってわからないのに」

 

 おれにもわからないよ。けれど口に出せないから、足元に伸びる京の濃い影に視線を落とした。

 

「……でも、千が助けてくれたらいいな。そう思ってたのは本当なんだ」

 

 いまさら言われても困るよ。でも京には言えない。

 

「考えたら、私、千と一緒にいる時間のほうが多かったし、夏休みや冬休みに千が遠くにいったら必ず長電話してた。千のことは何でも知りたくて、とにかく話をしたくて……あの頃から何も変わってないんだ、私」

 

 京から吐き出される言葉が心をかすめた。何が引っかかったのかは、すぐわかった。

 

「私、ずっと……千の隣にいたかったんだよ」

 

 ああ、うん……そうだね、京はいつもそうだった。

 

「大和が好きなコがいるって言ったとき、私は『あ、そうなんだ』としか思わなかったんだ。変だよね、千に彼女ができたら、あんなに嫉妬したのに」

 

 少し声に悲嘆の色が混じった気がした。顔を上げると、夕日は水平線の奥に沈もうとしており、かすかに揺れながら深い藍色を空に残している。

 

「大和にフラれてから今まで、どうして千は目を覚ましてくれなかったんだろう、って。逆恨みしてた。だって、眠りこけてる王子様を、助けられるお姫様が起こさなきゃいけないお話なんて、女の子は憧れないし」

「……困ってたなら言えばよかっただろ、おれが起きてるときにでも。本当に助けてほしかったなら叩き起こせよ。今更言われても、おれにどうしろっていうんだ」

 

 おれの知りもしないところで勝手に憧れられて、勝手に失望されても、おれにはだから何? と返すことしかできない。

 胃に溜まった熱い塊が言葉に乗せられてきつい言い方になった。けれど、京からは笑う気配がした。

 

「うん。千は悪くはないよね。勇気が出せなかった私が悪いだけ。――でも、怖かったんだよ。嫌われて、いじめられてる私に話しかけられて、千は迷惑じゃないか。……淫売の娘だって知られたら、千に嫌われないか。不安で仕方なかったの」

 

 もう夕日は僅かしか残されていなかった。紅い陽光が瞬いていた。京の顔が上を向く。

 

「だけど、風間ファミリーに入った千は、私の事情を知っても変わらずに接してくれた。それどころか一番ウマが合って、モモ先輩も知らない裏の顔も見せてくれた。私の不安は結局、全部杞憂で……だから、後悔してる」

「……」

「何でこうなっちゃったんだろうね」

 

 寂寥感をにじませながら京がつぶやく。――どうしようか。言うべきか迷ったが、隠し事をする場所でもなかったから打ち明けることにした。

 

「実は、京がおれのことを男として好きなんじゃないかって、気づいていた」

「なにそれ」

 

 一瞬、驚いたように間が置いて、京が苦笑する。

 

「キャップとおれに昔のことを話しただろ。そのとき思ったんだ。おれのほうが先だって。自惚れや勘違いかもしれないから、すぐ気のせいだと思い直して忘れたけど」

「……なにそれ」

 

 京は自嘲しているようだった。未完成で、不確かで、あやふやな少女が所在なく自分の馬鹿さ加減に呆れている。おれにはそう見えた。

 

「私のことなのに、何で大和や千のほうがわかってるんだろう」

 

 ――友達だからじゃないの。

 

 京のつぶやきに浮かんだ言葉は残酷すぎたから、頭のなかに留めた。でも、風間ファミリーの面々も薄々疑問に思っていたのだ。

 キャップやガクトもそうだし、モロももしかしたら勘付いていたかもしれない。純粋なワン子と盲目な姉さんの目が曇っていただけで、京とおれの距離が近すぎたのは周知の事実だった。

 ぽつりと京がつぶやく。

 

「大和にも千にもひどいことしてる。最低だ、私」

 

 思春期の女の子にありがちな自傷行為の一種じゃないかとも思う。この年頃の女の子は、気を惹きたくて、さみしくて、捨て身になって、取り返しのつかないことを平気でやったりする。

 京の背中を見ていると、自分が色々なものを切り捨ててきたのだという後悔に襲われた。

 せめて、京の顔が見たかった。それならもう少し、適切な言葉のひとつでもかけてやれたかもしれないのに。

 

「なのにさ、疚しいよね、私。ひどいことしてる自覚があるのに――いま一番後悔してることは、千を起こさなかったことなんだ」

 

 夕日はもう水平線の向こうに消えていた。昏い藍色が視界に滲んでいく。

 

「私、ずっと……千に助けて欲しかったんだよ」

 

 その声は未練がましく、おれを咎めるように聞こえた。だからなに。と反芻したくなる自分と、いや、でも……と言い淀む自分がいる。

 何かかける言葉はないか思考を巡らせてもまとまらなくて歯噛みして、一瞬視線を逸らした。

 戻したとき、目を疑った。京が前かがみになり、手を放そうとしている。背筋が凍りつき、血の気が引いた。

 

 ――飛び降りる気か!?

 

 いや待て幾ら何でも京はそこまで馬鹿じゃない、そこまで短慮でも浅慮でもない、彼女は頭がいい、そういうことをするような人間じゃない、馬鹿ばかりな風間ファミリーのなかで一歩引いて立場にいられるモラリストだ、色ボケだけど決して愚かではない、そのような行為を選ぶほど愚かな少女じゃないのだ。

 目まぐるしく思考が廻る。目の前で起ころうとしている出来事を見たくない頭が懸命に否定する材料を探して騒いでいた。

 

 だけど、それを嘲笑うかのように、京の体は宙に浮いた。そこでぱったりと思考が止んだ。

 限界まで引き絞られた弓から放たれたかのように地面を蹴った。京がゆっくりと視界から消える。一瞬一瞬が永遠に感じる。極彩色に染まる景色。

 自由落下さえも途方もなく遅く感じる世界の中で、ただ京だけを見ていた。

 強かに体を柵に打ち付けて、それを支えに右手を伸ばす。掴んだ。京の手を。重さでぐらりと揺れる。

――右手に伝わる京の小ささと軽さにハッとする。

 

「この――なに考えてんだ、馬鹿野郎っ!」

 

 安堵と同時に怒りがこみ上げた。早鐘を打つ心臓の鼓動と軽く息切れしている自分に気づく。

 男に振られたくらいで死のうとするなんてとんだ大馬鹿だ。それも人のいる前でやろうとするなどかまってちゃんのメンヘラ糞女だけだ。

 ありえない。京を罵倒する稚拙な単語が脳裏を駆け巡り、どのようにして散々に詰ってやろうかと煮え立った頭が考える。

 怒りで喉が詰まっていたおれに先んじて、京がつぶやく。

 

「――やっと」

「あ?」

「やっと……助けてくれたね」

 

 京が顔を上げる。目が合った。おれが手を離せば死んでしまうというのに、腕の下にいる京は、泣きながら笑ってた。

 そういえば、初めて京の顔を見た。泣き腫らした目、さらさらと流れ落ちる涙。なのに悲しそうに、嬉しそうに笑っている、様々な感情が入り乱れた顔。

 その表情に見惚れているあいだに怒りは霧散していた。直前まで思い浮かべていた罵声の数々も忘れて、何も言えず。

 握り締めた右手のあたたかさが、やけに胸を締め付けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 薄闇の空の下で背中合わせに星を見上げていた。

 あのあと、京を引き上げてからずっと無言だった。京の顔を見られなくて、何を話せばいいかよくわからなくて、けれどもお互いに帰ろうとすることもなく、気づけばこの形に収まっていた。

 星を見上げているのはおそらく京だけで、おれは胡坐をかいて頬杖をつき、やり場のない感情を持て余したまま、時間だけが過ぎていた。

 京に合わせる顔もなければ、かける言葉も思いつかなかった。小学校時代のおれに過失があったとは全く思わない。その頃の京なんて知りもしないし興味もなかったが、今は友達の京を助けなかった事実だけは変わらないから、何も言えない。

 好きだと言われても、恋人がいるおれが言えることも限られている。

 息苦しくはなかった。けれども出来ることがなくて、無意識に下唇を噛む。

 

 沈黙を破ったのは京だった。

 

「千は、大人な女性が好きなんでしょ」

「は?」

 

 脈絡もない話題に当惑する。

 

「自立して、しっかりしてるキャリアウーマンみたいな人がタイプなの。色々考えたけど、告白してフラれたのも、自分を尻に敷いてグイグイ引っ張ってくれる人だったでしょ」

「いや、おれは付き合う人には性癖の相性を重視するから」

「周りにいるのが私やモモ先輩みたいな、誰かに支えてもらわないとダメなあやふやな女子ばかりだったから、千も頼りがいのある女の人に寄りかかりたくなったんだよ。つくづく裏目に出てばかりだね、私たち」

「無視かよ」

 

 異性の好みを分析されても困る。おれにもよくわかってないのに。

 

「わかるよ、ずっと見てたから」

 

 不意をつかれた気分になって、思わず振り向いてしまう。

 

「昔の千は近寄りがたくて表情も読めなかったけど、モモ先輩に連れまわされて無茶ぶりされてたときが、いちばん楽しそうに見えた。きちんと輪郭がある女性に手を引いてもらいたいんだよ。そういえば千は受け身で、あまり自分から動く性格じゃないもんね」

 

 面を喰らったものの、京がおれの好みを分かった気でいるというよりも、昔を懐かしんでいるのに気づく。

 晴れ晴れとした声音で京が言う。

 

「なんかすっきりした。卑怯な手段を使った、我ながら最低な方法だったけど、悲願達成。何でこんなことで悩んでたんだろう。そう思わずにいられないくらい夢心地。……こんなことで悩んでたことが、馬鹿みたい」

 

 京が笑う気配がする。だけどおれは無理に笑っている気がした。ひどく気に食わない。おれのことをわかったつもりでいるのも、勘違いされるのも。

 

「京は昔のおれを美化してるようだけど、ちがうよ。今となにも変わらない。だって、いつも負けてるから」

 

 京が振り返る気配がした。打ち明ける自分の声は想像以上にそっけなかった。

 

「姉さんには一度も勝ったことがないんだ。そして、これからも一生勝てない。川神院の前時代的な連中もドン引きするくらい鍛錬しても、天辺に届かなかった負け犬なんだよ。……こう見えても人並み以上に、コンプレックスが多いんだ」

 

 口にして、そういえば劣等感を人に吐露するのは初めだったと気付く。いつもは卑屈な面は見せずに誇るようにしていた。

 弱みを見せると、そんなことない、謙遜するなと否定されて、嫌味に取られると知ったからだ。

 

「実は国語が苦手なんだ。特に現代文。筆者の主張も登場人物の心情もよくわからなくて、反吐が出るほど嫌い。先生に質問しても常套句はいつも同じだった。皆『よく読めば書いてある』という。だけどおれは納得いかなくて、よく先生と口論になった。……おれが本を読んでるのは読書が好きだからじゃない。読解力を養うために嫌々読んでるんだよ」

 

 小さい頃は、大人は何でも知ってると思っていた。でも初めの頃は喜んで教えてくれたものが、質問が高度になるにつれて、表情は曇ってゆき、次第に相手にしてくれなくなった。

 学校で寝てばかりいたのも、疲れのほかに学ぶことがないという理由があった。悩みを共有してくれる先生はなかったし、友達もいなかった。悩みを理解してもらうつもりもサラサラなかった。

 そういえば、小学生の中ごろから、人を憐れんで見下す癖がつくようになった気がする。

 

「苦手なものがあるのに、そのほかのことは誰よりも得意だったから誰もかれも馬鹿に見えた。そういうやつだから、心だって綺麗じゃなかった。ワン子が養子になって、門弟になった時、おれは才能がないから辞めればいいのに、って思ってた。言わなかったのはおれとワン子の派閥が違ったからで、そうでもなければ『もっと時間を有意義に使えば?』とでも言ってたと思う」

 

 神父に懺悔する人の心情が少しだけ理解できた。罪悪感が潤滑油になってすらすらと言葉が流れてくる。

 

「いじめも、いじめられる人の気持ちがわからなかった。大和はいじめられないよう上手く立ち回ってたし、ガクトはいじめをねじ伏せる腕力があったし、ワン子とモロはキャップたちの庇護下にいた。いじめられる人は、いじめられない努力をしないだけだと思ってた。

 だから――京がおれに助けを求められても、おれは助けなかったと思う」

「――なにそれ」

 

 ふっ、と京が笑う。告白を終えて、どうして言わなくてもいいことをわざわざ打ち明けたのか不思議な気持ちになった。でも瞬時に答えは思いつく。

おそらく、正直でいたかったのだと。楽になりたかった。偽り続けるのは疲れるから。性癖まで打ち明けているのだから、いっそ過去も全て曝け出せば肩の重荷がなくなると思ったのだ。

幻想を砕けれた京が口を開く。声にはわずかに寂寥感が滲んでいた。

 

「私の中の千は、身も心も天使みたいに清らかな存在だったのになぁ。思い出くらい綺麗なままで残させてよ」

「幻滅してくれた?」

「残念。もう幻滅してるから下がりようがない」

 

 痛快だった。どこか得意げに答えた京がおかしくて吹き出したら、背中を肘打ちされた。

 期待されるよりも軽蔑されたほうが気負わなくて済む。どんどん軽くなる心。口が滑らかになり、ずっと胸のうちに容れてあったことも吐露してしまう。

 

 

「中学校のとき、京が毎週金曜日になると川神に遊びに来てたよね。今だから言うけど、会いにくる京の気持ちが全く理解できなかった」

「千のことだから、どうせお金がもったいないとか、そういう理由でしょ」

「それもあるけど、本質は友情についての考え方のちがいでさ」

 

 京のなかのおれがまるで情を介さないドライな人間になってるのは置いておき、本題に入る。

 

「京はやっとできた友達と離れ離れになるのが嫌で、わざわざ県を跨いで会いにきてたんでしょ? 一人でいるのが寂しいから」

「だからなに? 普通でしょ。ずっと一緒にいたいと思える仲間が友達。友達に会いたいと思うのがそんなに変?」

「変だとは思わないけど、おれは京と考え方がちがう。友達がいるから、一人になっても寂しくないんだ」

 

 ムッとしていた京が面食らう気配がした。

 

「極論だけどさ、おれは明日実家に帰ることになり、向こうの学校に転校して、そこで友達が一人もできなくても寂しいと思ったりしない。離れてもお前らがいるからな。孤独ではない。それだけで平気になるものだよ」

「それは千が強いからだよ。普通は、仲の良い人と離れたら我慢できない。クラス替えにさえみんな一喜一憂するし、それで疎遠になる人もいる。学校生活で友達と会えなくなるより辛いことないよ」

「おれは距離で変わるような関係を、友達とは思わないけど。会えなくなって変わる関係って、恋人とかそういう不安定なものだろ?」

 

 京が何か言いたげにしていたが、やがて口を噤んだ。

 

「京の言いたいことも、当時の京の気持ちもわかるよ。やっと友達ができたのに、転校して、また一人になるのが辛かったんだよな。でも、それはただの依存だろ。一方的に寄りかかって、善意に甘える関係を友情と呼ぶのか?」

 

 言いすぎて怒らせてしまうかと思った。予想に反して京は黙ったままで、言い負かすために想定していた反論の数々は無駄になった。

 視線を手元から夜空に移す。都会の星は、やっぱり、田舎のそれに比べると見劣りした。

 

「京も、高校を卒業してからも、金曜集会を続けられるなんて思ってないだろ。みんなそれぞれの夢があって、そのために勇往邁進してる。それこそ集まる時間も惜しいくらいに忙しくなる。会う機会も少なくなって、きっと段々疎遠になってゆく。

 でも、顔を合わせれば空白の期間が嘘だったみたいに、今みたいに、童心に帰って、ははしゃぎながら打ち解けられるよ。友達ってそういうものだと思う」

「……千は、風間ファミリーをモラトリアムで卒業するべきだと考えてるの?」

「ちがう。もっと広い視野を持てと言ってんだよ。おれたちの世界は、今は風間ファミリーだけかもしれないけど、時間が経てば職場や家族とコミュニティは増えていくんだから、固執するのもよくないってことだ。

京はもう少し自立精神を持て。コミュ障だから初めは失敗するかもしれないけど、失敗してもおれたちがいるんだから、当たって砕けて、前向きに生きてみろよ。目の前で飛び降りされて、京の将来が不安でしょうがない、おれを助けると思ってさ」

 

 最後の我ながら情けない一言は本音だった。正直、姉さん、京と胸が痛む展開の連続で参っていたのだ。ここで後ろ向きな答えを返されると非常に困る程度には。

 けれども、京はおかしそうに、くすくすと笑ってくれた。

 

「千が助けてほしいなら仕方ない。自分なりに頑張るよ。……実はね、弓道部に誘われてたんだ。時間を取られるのが嫌で断るつもりだったけど、体験入部してみようと思う」

「へえ、いいんじゃない」

「それとね、Sクラス目指すことにした。自分を磨くために」

「……お、おう」

 

 全力で前向きな京に押され気味になる。なんだこの180度な変わりよう。

 明るい声で京が言う。

 

「あのね、ひとつだけ反論させて。私は、一人になるのが辛かったんじゃない。忘れられるのが怖かったの。風間ファミリーに椎名京がいた記憶が、離れてる間に薄れていくかもしれない。それが不安で怖かった。全部、杞憂だったけどね」

「それはまあ、ぼっちで人間不信になってたから仕方ないんじゃないの?」

「そうだよね。ついさっき、好きな男の子に『お前なんか、どうでもいい存在だった』ってメンタルブレイク食らって、思い出を汚されたばかりだもん。人間不信になっても仕方ないよね」

「……」

 

 

 

 その夜は、遅くまで取り留めのない話をした。何も上手くない、面白くもなければ、つながりもなくて、纏まりもなかった。

 けれど、胸の内を明かした関係の友達との会話は、やけにさわやかで、無駄話をするのにも小さな幸せを感じた。

 きっとこれも将来、心の中の最も深いところに息づく輝かしい記憶の一遍になるにちがいない。

 

 男女に友情は成立しないと思っているけれど、今だけは、信じてみたくなった。

 




_(:3 」∠)_


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エロゲの主人公に必須なものってあるよね

 

 

 

 え、おれにマジチンないの?

 

 

 初体験を終えたおれは打ちひしがれていた。

 AVやエロ漫画で予習バッチリなおれは、挿入できれば勝ち確だと思っていた。

 自慢だが、おれのマイサンは雄々しくも美しい。こんなので突かれたらどうなっちゃうんだろうと持ち主であるおれでも思わず生唾を飲むほどの、惚れ惚れする芸術品だ。

 挿れた瞬間、どんな女の子でも「んほぉ」と喘がざるを得ない……そう思っていたのに。

 

 現実は上手く入らないし、強引に入れたら滅茶苦茶痛がられて、止むを得ず回復して痛みを消してから、落ち着くのを待って、やっとのことで初体験を済ませた。

 行為に及ぶ前の昂りはどこへ行ったのだろう。ベッドを突き抜けて地の底まで沈みそうな意識の中で、ひとつの現実が突きつけられた。

 

 おれは、セックスが下手だ。

 

 

 

「そ、その千くん。最初は痛かったけど、途中からはちゃんときもちよかったよ」

 

 裸の千花はぎこちない様子でおれを労わってくれた。それがおれの自尊心をいたく傷つけた。

 気を遣わせてしまっている。あんなに痛がっていた彼女に気を遣わせてしまっている……!

 こんなに自分を不甲斐ないと思ったことはない。こんなことは二度とあってはならない!

 おれは千花の肩を掴んで向き直り、彼女の目をまっすぐに見て言った。

 

「おれ、頑張るから! 千花が気持ちよくなれるように努力するから!」

「う、うん。その気持ちは凄く嬉しいけど……」

「だから千花もどこをどんな感じで刺激されたら良いのか教えて!」

「え?」

 

 千花は怪訝そうな顔をした。

 

「えっと、待って。どういうこと?」

「たとえば、してる最中にもっとこうしてほしいって要望を出し合ったり、終わったあとに反省会をして、あのときはこうしてこうすればよかったって、改善点をお互いに指摘しよう。それを続けていけば必ず満足なエッチが出来るようになる」

「えー……」

 

 千花は不満げだ。というより嫌そうだ。

 

「あの、普通にエッチするんじゃダメなの?」

「千花だって気持ちいい方がいいでしょ。それに初心者同士なんだし、スキルアップも兼ねて楽しみながらしようよ」

「……あたしの知ってるピロートークって、将棋の感想戦とかテストの答え合わせみたいな乾いたものじゃなくて、もっと愛があってしっとりとしてるんだけどなぁ」

 

 千花はめんどくさそうだった。なぜ意見が割れるのだろう。

 おれはただ、彼女に気持ちよくなってもらいたいだけなのに。

 

「本番中ずっと演技した徒労感に苛まれながらピロートークするより、一緒に気持ちよくなったあと、その余韻に包まれながらのピロートークの方がよくない? それにおれ、下手くそなのにセックス上手いと舞い上がる勘違い馬鹿になりたくない。それに男だけ気持ちいいのは不公平じゃん。オナニーじゃないんだから、女の子にも気持ちよくなってもらわないと」

「う~……しょうがないなぁ」

 

 説得の末、千花も渋々と納得してくれた。

 

「でもさ、わたしはエッチが上手くなくても、好きな人に抱かれてるだけで女の子は満足すると思うんだけどなあ」

 

 それは千花が若くて性欲が薄いからで、年を取ったらエッチ下手な旦那に失望して浮気したくなると思うんだ。

 何より「あいつはセックスが下手」という噂を流されたりしたら溜まらない。それに自分本位な独りよがりのセックスはおれの流儀に反するのだ。

 おれは千花が帰ったらセックス指南書やAVを買い漁ることを決意した。

 

 

 

 

 

 

 

 

「彼女が出来て、最初の休み明けの千の空気が変わってやがる……これは!」

「いや、そういう空気じゃなくない? 何か修行僧みたいになってるし」

 

 月曜日、いつものメンバーで河川敷を歩いていると合流したガクトとモロがおれを見て言った。思い悩むあまり近寄りがたい空気を醸していたようだ。

 

「ピリピリしてるから話しかけられなかったんだけど、なに。もう喧嘩したの?」

「なんだなんだ、もう別れたのか?」

 

 京と姉さんが嬉しそうに言う。先週はあんなにシリアスな感じになっておれを悩ませたのに、なんだこいつらは。

 おれはため息をついてかぶりを振った。

 

「あなたたちには分からないでしょうね」

「なんだこいつ」

「なにその態度」

「大和、あれどう見る?」

「俺が童貞卒業したらお前らが子どもに見えてあんな態度を取る自信はある。だがあんなに思い悩まず晴れやかな心地になるはずだ。だから分からん」

 

 ふっ……そうだろうな、この童貞と処女の集まりにはわからないさ。おれが、セックスが下手だから悩んでいるなんて。

 恥ずかしいから精神的に、未経験ばかりだから技術的な面でもこいつらには打ち明けられないので、おれの心の憂いは晴れなかった。

 

「ヤったのか!? ヤっちまったのか千!? あのエロスの塊と!」

 

 ガクトがおれを揺さぶって暑苦しい顔で問い詰める。

 誰が誰とヤっただのヤってないだの、その程度のことでこんなにも必死になるとかなんて滑稽なんだろう。地球はこんなに広いのに。多馬川の水はこんなに澄んでいるのに。

 どうしてこんなに小さいことにこだわるんだろう。そんなことを気にするより、もっと自分を磨くべきではないか。このおれのように。

 

「ハァ……」

「だからなんだその憐れむような面は!」

「やっぱり童貞卒業したようにしか見えないんだけど、なんか違う気もする」

「変人が世間一般的な行動を取っても、常人のそれに当てはめるの難しいからな。最近情緒不安定だったから尚更判断できない」

 

 ガクト、モロ、大和の童貞三人衆はまだおれを計りかねていた。まあ……おまえらじゃわからないか。この領域の話は。

 

「千が、私の千が別の女と……? うぷっ――だめだ、吐きそう……!」

「モモ先輩、逆に考えるんだ。『私が素敵な初夜を迎えるための練習台になってくれてありがとう』と発想を逆転させるんだ」

「京、お前よくそんな発想できるな。私ちょっと引いたぞ」

 

 姉さんと京の領域には足を踏み入れたくなかった。この人たちやべえな。性別が逆なら通報されてたぞ。

 おれはおれの貞操が気になる変態な友人から目を背け、ワン子とキャップを見た。

 ワン子は逆立ちしながら、キャップは寝ながら歩いていた。純粋な二人は多馬川や青空に負けず綺麗だと思った。

 そう思えたのは、この二人以外が人の貞操に執着する醜態を晒していたからに違いない。

 

 真面目な話をするなら、将来を見据えて努力しているのがこの二人だからかな。

 このおれのようにな、ふふっ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうすればエッチ上手くなるのか教えてください!」

「教師に訊くことか、それ?」

 

 放課後、だらけ部でおれはヒゲに頭を下げた。ヒゲは困惑していた。おれはキレた。

 

「若いころ何股もしてたって言ってたじゃねえか! だからお願いしてるのに、なんだよ、あれは吹かしかよ!」

「落ち着け。あーアレか。初体験で失敗した口か?」

 

 ヒゲが困ったような、それでいて口元が釣り上がったなまあたたかい表情で言う。

 

「よくあることさ。興奮し過ぎて挿入する前に誤射とかな。精神的にも肉体的にもまず慣れなきゃだめだぜ、そういうのは」

「早漏で悩んでるんじゃなくて、彼女が痛がって楽しめないから困ってるんだけど」

「いや向こうも経験ないなら当たり前でしょうが。焦らないでビギナー同士徐々に慣らしていきなさいよ」

「似たようなことをおれも彼女に言った。でもそれとは別に個人的にスキルアップしたいんだよ。ゴッドフィンガーって呼ばれたいんだよ! ほら、何かないの。房中術とか、女の子がおれの身体なしで生きていけなくなるテクニックとか、感度3000倍にする術とかさあ」

「それこそ学園長にでも聞けばいいだろ。高名な川神流なら、そっち方面も万全だろうに」

「身内にそんな恥ずかしいこと相談できるか! アンタだって息子から同じこと言われたら困るだろうが」

「あいつに限ってそれはないと思うがな。そもそも教師に相談するのだっておかしいだろ。堂々と不純異性交友をカミングアウトするな」

 

 話が堂々巡りになり、熱くなった頭を冷やすべくしばし黙る。

 何故か童貞卒業の話題になると、どいつもこいつも男が昂っていた前提で話すが、おれはエッチをしている最中、心の底からビビッていたのだ。

 あれほど童貞を捨てたかったのに。

 相手がどんな風に思っているのか、感じているのか不安で気が気でなかった。挿入する直前なんて、これからすばらしい体験をするという期待より、上手くできるか、失敗したらどうしようかと不安だったのだ。

 美少女との初体験が死刑の階段を上がる心境で行われていたなんて、チンコの波動に支配された同年代には到底理解できないに違いない。

 そう思って爛れた方面で経験豊富そうな大人に相談を持ち掛けたのに、これではおれの恥部を知られただけではないか。

 苛立って畳を指で叩くおれをふっと笑ってヒゲが言う。

 

「まあ、そう焦るなよ。お前さん、あれだろ。昔から何でも最初から上手くこなせたり、すぐに上達してた人種だろ。そういう優等生が見えない小石に躓いて慌てふためいているだけさ、今の三河はな」

「はあ」

 

 適当に相槌を打ったが、本当は何度も躓いたことがあるし、苦手なものもたくさんあった。

 確かにたいていのことは人並み以上にこなせたけど、それで誇るより苦手意識のほうが心を占める割合は多いというのに。

 おれの内面など知る由もないヒゲはニヒルな笑みを向けてくる。

 

「まずは人聞きの情報に頼らず、恋愛を楽しんでみろ。初めての彼女だろ? 飾らない自分で接して、男女のやりとりを覚えるところから始めてみるんだな。手痛い目にあっても、一度女に受け入れてもらえた自信は大きな糧になる。

 肩の力抜いて、もっと気軽に、ありのままで彼女と触れ合うところからスタートするのがいいと、おじさんは思うがね」

 

 話半分に聞いていたが、どうしても看過できないところがあっておれは反駁した。

 

「でも、本当の自分、ありのままの自分なんて他人に受け入れてもらえるわけがない。おれはわかってるんだよ。みんな口では素顔の君が好きと言って、みんな心では素の自分を好きと言ってもらいたいけど、ありのままの自分を曝け出すとドン引きするんだ」

「分かってるなら上辺を磨いとけよ」

「分かってるからとりあえずテクニックを磨いて、性癖を打ち明けても受け入れてもらえるくらいベッドで優位に立てるようが頑張ってるんだよ!」

「訂正。お前は先に内面を磨いておくべきだな」

 

 ほらね、ありのままの自分なんて受け入れられないでしょう?

 ささくれだったおれは梅先生とヒゲが結ばれない呪いを心の中でかけ、肩をいからせて退出した。

 

 

 

 

 

 

 

 家に帰るとリビングで姉さんと京が寛いでいた。

 

「やっほ」

「お邪魔してるぞ」

「帰れ」

 

 イライラしていたおれは当然のようにソファでふんぞり返っている二人にそう吐き捨てた。

 

「幼馴染と義理の姉にそういうこと言う?」

「育て方が悪かったせいだな。ジジイ最低だな。あ、宅配便来てたから受け取っておいたぞ」

 

 おれは無言で段ボールを開けると、Blu-rayの包装を解き、再生機器に入れると、二人を押しのけてソファに座った。

 再生が始まると、有名な男優が長々と持論を語りだした。いつもはインタビューも飛ばすのだが、今回は傾聴し一挙手一投足も見逃さないつもりで視聴する。

 

「なぜこの男は家に帰るなりAVを見始めたのだろうか」

「美少女が二人も一人暮らしの男の部屋にいるのに、見向きもせずAV見るか、ふつう」

 

 外野がうるさい。無視してAVに集中する。

 

「どうする。見入ってるぞこいつ」

「溜まってるのかな。しょうがないにゃあ」

 

 画面に注視するおれの耳元に京が顔を寄せ囁く。

 

「それオカズにしてオナニーしなよ。イくところ見てあげるから」

「え!?」

 

 予想に反して魅力的な提案を囁かれて、おれは思わず振り向いてしまった。そこには鼻で笑う京と呆れた顔の姉さんがいた。

 

「ほら、こういう男なんですよこやつは」

「お前……そういうのが好きなのか。ちょっと予想外だったぞ今のは」

 

 おれは舌打ちして画面に向き直った。視界の端でにやつく京の顔がどうしても目に入る。

 

「興味ないふりなんてしないで、早く出して扱いてみなよ。見られて興奮する変態のくせに」

「ひとりで出来るか、お姉ちゃんが見ててあげるぞ。ほら、パンツ脱ぎ脱ぎしましょうねー」

「よーし、ゲームでもするかぁ! ケーキとお茶の準備のしてくるから少しだけ待っててね!」

 

 挟まれてしまい、このままだとオセロのようにひっくり返ってしまいそうだったので立ち上がって笑顔を振りまく。

 ちくしょう、性別が逆だったら通報できたのに。そもそも彼女持ちになんてことをやりやがるこの痴女共め。

 

「いいけど、桃鉄とか運の要素が多いのにしてね。千とゲーム対戦するのつまらないから」

「ロボットと対戦してるみたいだもんな。プレイしてるのを観る分には面白いが、一緒にゲームしたくないよな」

「本当に血が通ってるのか疑わしいキモい動きするしね」

 

 なぜおれは身内にまでここまで貶されなければいけないのだろうか。

 振ったからか。その仕返しにしてもやり口が汚すぎるでしょう。

 

 

 

 今日のおれは酷く傷ついたので千花と夜、長電話をして週末デートする約束をした。

 それで気づいたことが三つある。

 

 ひとつは、彼女とのデートがあると思うと、約束の日までの平日も楽しみに思えること。

 

 もうひとつは、いつでも話せると分かっているのに、彼女とのそれだと電話を切るのが名残惜しくて中々できないこと。

 

 そして、幾ら名残惜しくても、明日も電話をする約束をして「またね」と言うのは、不思議と心地よいものだ。

 

 

 

 



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