IF GOD - 神は斜陽に打ち震える - 完 (鈴木_)
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プロローグ
もうすぐGW間近という休日に、いつものように誰に知られることなくヒカルと佐為に会っていた行洋は、興奮しながら来月から行われる本因坊戦で行洋ならきっと勝てると応援してくるヒカルに、クスリと苦笑しながら答えた。
「本因坊か」
もちろん、ヒカルに言われるまでもなく、行洋も当然考えてはいる。
本因坊のタイトルは5月から7月にかけて行われる7番勝負。
行洋は1月から行われる棋聖戦を勝ち、一柳からタイトルを奪取したことで前人未到の6冠タイトル保持者となっており、もしこの本因坊のタイトルも手に入れれば7大タイトル全てを制覇することになる。
無言で行洋に寄せられる周囲の期待も分っている。
だが、息子であるアキラはヒカルと同じ歳だが、幼い頃から囲碁に親しみ、碁を打つことの苦しさを知っているせいか、慎重に言葉を選ぶきらいがあった。
タイトルを取ることが、どれだけ難しく困難なことか十二分に分っているので、父親であろうともタイトルが取れるなど軽々しく口にすることはない。
だから、囲碁を覚えて2年、そしてプロになって一ヶ月足らずのヒカルから、臆面なく無邪気に言われると苦笑するしかなかった。
囲碁界に疎いヒカルに悪気はなく、心から行洋に本因坊を取ってほしいと思っているだけなのだ。
「先生ならきっと取れます!」
「しかし、桑原先生は一筋縄ではいかない方だ。そう簡単にはタイトルをお譲り下さらないだろう」
現に去年は緒方が挑戦者として対局したが、惜しいところで手が届かなかった。
緒方は何も言わなかったが、5番勝負で行われる対局で4番勝負まで全て桑原が行っている。
タイトルをかけた対局でこれまで緒方が封じ手を行ったことはない。
最期の第5局目で緒方が初めて封じ手をしていることに、ありえなくはないが、僅かな引っかかりを行洋は覚える。
しかし、それが反則というわけではないので、全ては対局結果が全てだ。
もしワザと桑原が仕組んだとしても、緒方が言いがかりをつける理由にはならず、盤外戦のいい経験をしたと言うしかない。
だが、盤外戦を仕組んでまで桑原は本因坊のタイトルにしぶとくしがみ付いているのだ。
相手が緒方から行洋に代わったところで、桑原がハイどうぞと素直に対局することはないだろう。
そんな行洋の思考が佐為にも伝わったのか、
――あ~…言われて見ると確かに……
行洋の言い様に、佐為はエレベータですれ違った桑原を思い出し、自分も苦手だとばかりに顰めてしまう。
あれほど『年季』と『老獪』が似合う人物も、これまで佐為が知っている者たちの中にもそうそういない。
「佐為まで何弱気になってるんだよ!本因坊ってお前のタイトルだろ!?」
―― うっ……それはそうですけれど……
ヒカルに怒鳴られるも、佐為は言い返すことが出来ず、痛いところを突かれたように言葉を濁す。
本因坊のタイトル戦が創られたのは、最後の世襲本因坊二十一世本因坊秀哉が『本因坊の名は棋界随一の実力者が名乗るべきものである』という思いから、日本棋院に『本因坊』名跡が日本棋院に譲渡されたのが始まりである。
そして江戸時代に『本因坊秀策』として現代に名を残しているからには、『本因坊』のタイトルは佐為のタイトルと言っても差し支えないが、ヒカルが佐為を背負うことを拒んだため、再び佐為が『本因坊』になることは叶わない。
けれど『本因坊』になれないとしても、その名前に名残はある。
虎次郎と佐為が二人で歴史に残した大切な名前だ。
それを行洋が佐為の存在を知った今、『本因坊』は他のタイトルとは違った意味と重みが出てくる。
「佐為のタイトルならば、私も是非頑張らねばならないな」
「ホントに!?絶対『本因坊』取ってねっ先生!約束だよ!?」
念を押すヒカルに、ふとプロ試験で行洋が口にした全勝合格を、ヒカルが本当に果たしてしまったことを思い出す。
あの時は、プロ試験に臨む気構えと目標として行洋は言ったのだが、合格したヒカルは合格が決まったことではなく、全勝合格出来たことをわざわざ電話で行洋に知らせた。
それが二人の間で交わした『約束』として。
タイトル戦で、誰かに必ずタイトルを取るといった見栄や約束をしたことは、行洋はこれまで一度もない。
他の棋士が何と言おうとも、他人は他人であり自分は自分と割り切り、どの対局にも全力で臨んできた。
タイトルを必ず取るなどと無責任なことは行洋は決して口に出さず控えてきたのだが、行洋の目の前にいるヒカルは、反対に行洋が軽はずみで言った全勝合格を約束として真剣に受け止め、そして約束を果たした。
行洋の表情が穏やかに緩む。
「そうだね、約束だ」
ヒカルが行洋に言われて合格ではなく全勝を目指したように、必ずタイトルを取ってみせると自らをより強くするための、ささやかな決意の表れなのかもしれない。
大勢の前ではなく、スポンサーや後援会の付き合いでもなく、ましてや息子のアキラや弟子達でもない。
聞いているのは、見ているのは、恐らくヒカルにだけしか見えない佐為だけ。
佐為だけがこの約束の証人。
行洋は棋士として初めて、最強の幽霊をその身に憑かせた子供と、小さくささやかな約束をした。
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01 存在の在り様
その知らせが緒方に届いたのは、明け方近い5時頃だった。
部屋の戸をドンドンと叩き、同室の芦原と自分の名前が呼ばれているのは酒がまだ抜けない頭でなんとなく気付いたが、重い体は言うことをきかず、芦原が対応に出た。
そしてすぐにその芦原から緒方は叩き起こされ、事の次第を聞かされた。
体に残っていたアルコールや酔いなどは一瞬でどこかへ飛んで行った。
急いでスーツに着替え荷物をまとめると、すでに誰かが呼んでくれたらしいタクシーに芦原と共に乗り込み、そのまま行洋が運び込まれたという都内の病院へ急いだ。
しかし、どんなに急いでも岐阜と東京では距離があり、病院に到着したのは昼前だった。
棋院の関係者が大勢集まる中に、動揺するなと自分に言い聞かせ病室の戸を開く。
そこに泣き崩れる明子夫人とその夫人の隣に寄り添うアキラの姿を見つけ、緒方は愕然とする。
病室に現れた緒方にアキラは視線だけ向けたが何も言うことはなく、堪えるようにぐっと歯をかみ締め俯く。
当人である行洋が寝ているだろうベッドは、入り口に立つ緒方からは白い仕切り用のカーテンに隠れ見えなかったが、二人の姿を見ただけで知らせが真実なのだと緒方は悟った。
行洋が亡くなった。
あまりにも突然で早すぎる逝去だった。
明け方、連絡を受けたときはまだ病院に運ばれたという知らせだったのだが、その3時間後にはアキラからの電話で亡くなったことが伝えられた。
行洋が亡くなったその日の夜に、訪れるであろう弔問者の数を考え広い式場を借りて通夜が行われることになり、急過ぎる死去に誰もが驚き悼んだ。
心筋梗塞で倒れる原因の一端は、やはり対局過多で心労が溜まっていたのではないか、という憶測が誰の口からも上がった。
タイトル戦は1年を通し対局時期をずらしているものの、7大タイトルのうち6つを保持していれば、ほぼ年中タイトル戦を戦っていると言って差し支えない。
そのタイトル戦を戦っている合間にも、大手合などの対局が組み込まれ、若いとは言えない行洋の心身にかかる疲労負担は計り知れなかっただろう。
もう少し対局数を減らし、負担を減らしてあげることは出来なかったのかと、今更ながらに悔やむ声が棋院関係者や後援会関係者からあがる。
しかし、故人を悼む声と同時に、声を潜めてはいても困惑したような声もまた式場内の所々で聞かれた。
現役の6冠の大棋士が突如他界したのだ。
囲碁界の損失は計り知れない。
通夜の最中に不謹慎だというのに、空位になったタイトルをどうするべきか、前例がないだけに今後の運営をどう行えばよいのか、誰もが今後の行方について勝手な推測が流れている。
「おう進藤、来たのか。遅かったな」
通夜に出席していた森下が、弔問も遅い時間にやってきたヒカルを見つけ声をかける。
すでに弟子の冴木や和谷たち低段の若い者達は、夕方5時に弔問が始まった早い時間にやってきて、9時も過ぎようとしている現在はどうしても仕事や用事でこの時間になった者か、居残る親族くらいしかいない。
そこに親族でもない学生服を着た子供が通夜会場のロビーに現れれば、どうしても目立つ。
「俺、さっき知って……それで急いで来て……」
呼吸を乱し、明らかに動揺し不安げに瞳を揺らしながら、ヒカルは森下を見やる。
「何で……?どうして?嘘でしょ?塔矢先生が亡くなったなんて………」
「俺も連絡を受けたときは信じられなかったが……行洋のやつ、くそっ……」
目を伏せ、森下は小さく言い捨てるように言う。
同じ年のプロ試験で合格し、それから頭角を現していく行洋に同期として負けてなるものかと森下は日々囲碁の探求を惜しまなかった。
リーグ戦で戦ったこともあったが、結局森下は一度も行洋からタイトルを奪うことが出来ないまま、行洋は逝ってしまった。
『勝ち逃げしやがって』『俺の許可なく死にやがって』と何度心の中で叫んだか分からない。
もう二度と行洋と碁を打つことが出来なくなったという行き場のない憤りだけが、森下を苛む。
しかし、森下の言葉も何も耳に入っていない様子で、扉の開いた通夜会場の中を真っ青な顔でじっと見やるヒカルに、不審に思った森下がどうかしたのかと声をかけようとして、
「だってっ……この前会ったときだって、すごく元気そうにしてたんだよ?」
「進藤?お前、行洋と会ってたのか?」
ヒカルの口から思わぬ事実が出てきて、森下は目を見開く。
研究会繋がりの森下ならいざしらず、門下でもないヒカルがタイトルホルダーでありトップ棋士の行洋とどこで会う機会があるというのか。
以前、棋院内で偶然行洋とヒカルが一緒にいるところを森下は見かけたことはあったが、そこまで親しいという印象は受けなかった。
行洋というよりも緒方の方とヒカルが何かあって、そこに行洋が間に入っていたという感じだった。
けれど、ヒカルの様子が明らかにおかしいと森下はこの時点で気付く。
真っ青な顔がさらに青ざめ、身体が小刻みに震えている。
会場内を見ているようでその焦点は合っていない。
「その先生がなんで死んじゃうの?変だよ、こんなのおかしいよ!」
ゴールデンウィークに入る前の日曜日に会った行洋の姿が、ヒカルの脳裏に走馬灯のように蘇る。
行洋と佐為が打つとき、二人に持ち時間は無かった。
対局時計が店になかったこともあるが、制限時間に縛られず、自分の納得するまで考えた最善の一手を二人は打った。
聞こえるのは離れの周囲に植えてある竹が風に凪ぐ葉擦れと、石が碁盤に打たれる無機質の音だけ。
世間の喧騒から嘘のように隔たれ、ただひたすら静かで厳粛なこの空間がヒカルは好きだった。
それがつい先日のことだった。
取り乱し、ヒカルは立ったまま拳を握り締め叫ぶ。
「また打とうって言った!別れるときだって塔矢先生は笑ってた!今度は先生が俺に本因坊取るって約束したんだ!!」
「オイッ!?進藤!?」
感極まったようにその場に崩れ落ちるヒカルに、森下はヒカルが叫んだ言葉は当然気になったが、とにかく今はヒカルの気を静めるのが先と
「しっかりしろ!進藤!とりあえず休憩室で少し休め!」
ヒカルの脇に手を回し、支えるようにして立たせると、通夜会場の入り口横にある休憩スペースにヒカルを連れていく。
その間もヒカルの身体は振るえ、何度も『嘘だ』と口から呟かれているのが聞こえた。
ほとんど行洋と会う接点のないように見えたヒカルが、こうして森下の目の前で行洋の死で気が動転しているヒカルの様はただ事ではなかった。
最近の子供は人の死に触れる機会がほとんどなく、死に対する免疫がないとどこかの評論家がテレビで自慢げに話していたが、ヒカルのこの状態は単に知り合いが死んだことに対する動揺ではないなと森下は直感的に感じた。
森下が行洋をライバル視していることで、それに遠慮してヒカルは黙っていたのかもしれない。
しかし、森下の知らないところでヒカルと行洋は親しくなっていたのだろう。
そして行洋の死にヒカルが動転しているのだと推測する。
プロ試験に合格したてのひよっこ棋士と、6冠のトップ棋士のどこに親しくなる接点があるのかと多少疑問が残るとしても。
しかし、尋ねようにも今の気が動転したヒカルの状態ではまともな話は出来ないだろう。
休憩スペースにはまだ数人、人が残っていたが、森下は空いているスペースにヒカルを座らせ、
「飲み物貰ってくるからちょっと待ってろ。動くんじゃないぞ?」
ヒカルの肩を叩き念押ししてから、飲み物を取りにその場を離れる。
――嘘だろう佐為?なんで先生が?この前会ったときだってすごく元気そうにしてたじゃないか!?
――私も信じたくはない!行洋殿が亡くなったなど!しかしっ
見渡す周囲には黒い喪服に身を包んだ者しかおらず、現代で初めて誰かの通夜に訪れた佐為にも、それがどうしようもない真実なのだと分る。
佐為は以前、虎次郎を初めとするごく親しい者たちとの別れを何度か経験している。
しかしヒカルは身近な誰かを初めて失ったのだ。
そのヒカルになんと言葉をかければいいのか、佐為にも分らない。
そうして、ヒカルに声をかけられることも憚れていると、休憩スペースで休んでいた者たちの会話が聞こえてくる。
が、話している内容に佐為は耳を疑った。
「……やはり無理があったんだよ。あのハードスケジュールじゃ塔矢先生でなくても誰でも倒れるって」
「しかし、6冠ともなると手合のスケジュールが詰まるのはどうしようもないじゃないか」
「タイトル戦の一回の対局だって二日がかりだったり、それが地方で行われるならさらに移動だけで疲れる。それで碁を打てって言う方が初めから無理なんだよ」
「まぁな~、本人は碁が好きで打ってたのかもしれないけど、結局は碁に殺されたようなもんだよな」
ハハハ、と笑いながら言う様に、佐為はカッとなって咎めた。
――なんと不謹慎な!!行洋殿が亡くなったばかりで通夜の場だというのに!!
もちろん佐為の声が彼らに聞こえることはない。
全く気付かない様子で会話を続けている。
気付かれることのない憤りに佐為が憤慨し、会話をする二人をギッと睨む隣をヒカルがフラリと椅子から立ち上がり、
――ヒカル!?
おぼつかない足取りでヒカルは話をしている二人のもとへ歩いていく。
俯いたまま近づいてきたヒカルに、話をしていた二人は会話をやめ、怪訝に視線を交差させた。
そのうちの一人が不機嫌な口調で、
「なんだ?」
「……ねぇ、先生はそんなに忙しかったの?打ち過ぎで死んじゃうくらい大変だったの!?」
「知らねぇよ。憶測だけど、みんな話してるしな。あんなハードスケジュールじゃ誰だって倒れるって。6冠のタイトルホルダーなら過密スケジュール組まれても、それはそれで仕方ないのかもしれないけど」
ガキが喧嘩を売ってくる気か、と少し身構えながら、言い訳がましく言う。
故人の通夜に話すことではないと自分達も多少なり分っているのだろう。
けれど己より年若い子供に謝るのもシャクで、自分だけでなく皆も言っているといって責任逃れしようとしている。
その姿にもまた佐為はただならない怒りを覚えたが、肉体を持たない己にはどうしようも出来ず唇をキツク噛み締めるだけだった。
しかし、ヒカルが何か言い返す素振りはなく、無言でその場を離れ休憩スペースからもフラフラと出ていこうとしたので、佐為は慌ててヒカルを追う。
どこに行くとも知れない足取りで、ヒカルは声を震わせながら
「どうしよう……俺、先生がそんなに忙しかったなんて知らなかった……。先生が俺と無理に会ってたから……だから、先生はこんなことに……」
――ヒカルの所為ではありません!行洋殿が亡くなったのが決してヒカルの所為であるはずがありません!
「それに俺、この前会ったとき、全然知らなくて先生に本因坊取ってって我侭言った……。死んじゃうくらい大変だった先生に俺……」
――それはっ!ヒカルが意図したわけではない!ただ行洋殿を応援したかっただけでしょう!?行洋殿もそれは分っていたはずです!
「でもっ!先生は!」
「進藤っ!お前動くなと言っただろうが!」
森下に名前を呼ばれ、ヒカルは何かを言おうとしてビクリと身体を振るわせた。
飲み物を持って戻ったら、いるはずのヒカルの姿が休憩スペースから消えていて、森下は慌ててヒカルの姿を探し回った。
様子がおかしいことは分っていたが、飲み物を取りに行く僅かな時間でさえ待つことができないでいる。
ヒカルを一人にするべきではなかった。
ヒカルを休憩スペースに連れ戻し、持ってきた温かいお茶の缶のフタを開け手渡す。
「少し飲め。気分が落ち着くから」
お茶を受け取り、ヒカルは口の中を湿らす程度にお茶を飲んだが、何も味がしなかった。
ひたすら心を喪失感が蝕み、どうしようもなく不安が襲ってくる。
そこにいつも見慣れた白のスーツではなく、黒のスーツを着た緒方が現れ、
「森下先生、大丈夫ですか?外で何やらもめたと聞いたのですが」
「いや、もめたというほどではないんだ。ただ……」
そうではないと森下は首を横に振り、ヒカルが大人しく座っていることを確認してから、緒方を手招きしその場から少し離れる。
「俺も詳しい事情は知らんのだが、進藤のやつ、どうも行洋と親交があったみたいなんだ。それで行洋が死んで、えらく気が動転しちまってる。緒方君は行洋から何か聞いてたか?」
「いえ、特に何も……」
本当は知っていたが、とても森下に話せるような内容ではなく、緒方は知らないふりをした。
「そうか、だがあれは少し異常だ。ちょっとでも目を離すと何をするか分らん」
「俺が進藤を見ていましょう。進藤を院生試験に推薦したこともありますし、多少なり彼と話したこともありますので、全く知らない仲でもない」
「しかし、いいのか?君は塔矢門下筆頭だし、これからまだ来る客に挨拶とかしなきゃならんだろう?」
「主だった関係者の弔問はひと段落しましたから、俺でしたら大丈夫ですよ。森下先生も早くから来られていらっしゃられて、お疲れではありませんか?今日はもう特にすることはありませんので、森下先生もそろそろ帰られて少し休まれた方がいい」
緒方の勧めに、森下はチラリとヒカルの様子を伺う。
とりあえずは森下が持ってきたお茶を握りしめ、大人しくしているようではある。
「まぁ、そこまで言ってくれるのなら俺としちゃ助かるが……」
けれど、先ほど取り乱したヒカルを目のあたりにしたばかりで、このまま緒方の言葉に甘えていいやら迷ってしまう。
「行洋が……」
「え?」
「どうも行洋のやつ、進藤と約束してたらしいんだ」
「先生が約束ですか?」
「ああ、あの行洋が本因坊を取ると進藤と約束していたらしい」
「本因坊を!?」
緒方は一瞬聞き間違いかと思った。
「ああ、俺も俄かに信じがたいんだが……実は俺も今夜は嫁が留守にしてて、そろそろ帰らんといかん時間なんだ。ほんとに進藤のこと任せちまうがいいかい?」
あの状態のヒカルを誰かに任せて帰るのは当然心配だったが、今夜ばかりは妻が泊まりで家を留守にしているため、父親の森下まで家に帰らないわけにいかなかった。
その点、緒方なら同じプロ棋士として対局に対する姿勢やイベントでの仕事ぶりを何度か見てるので、森下も多少なり信頼出来る。
「はい。進藤は後で俺が車で家まで送りましょう。こんな時間にアレを一人で帰すのは危ない」
緒方が言うと、森下は納得したようにくれぐれもよろしく頼むと付けたし、通夜の会場から去っていく。
その後ろ姿が完全に消えてしまうのを確認してから、緒方は俯き座り込んだヒカルの元へ行った。
先ほど森下が言っていたことは事実なのか、そうではないのか。
複数のタイトルを保有するタイトルホルダーになっても、行洋が特定のタイトルに対して誰かに必ず取るとか、対局前にそういった見栄を言ったり大口を叩くといったことは、これまで一度もなかったからである。
トップ棋士として名を連ね、世界で一番神の一手に近いと言われるようになっても、行洋の謙虚な姿勢は全く変わることがなかった。
その行洋が特定の一人と口約束するとはとても考えられなかったから、緒方同様、森下も約束したというヒカルの言葉に驚いたのだと推察できた。
しかし、緒方には行洋が約束するかもしれない可能性にを知っていたので、その話があながち嘘には思えなかった。
行洋はヒカルがsaiであることを知りながらずっと秘密にし、それがバレそうになるとネット碁を代わりに打ってまでヒカルを隠そうとした。
二人の間には、余人には推し量れず、知ることの出来ない繋がりがある。
その二人の間でどんな約束事が交わされても不思議ではない気がした。
「進藤……」
声をかけ、緒方はヒカルの隣に腰を下ろす。
その声にヒカルは酷く億劫そうに顔を上げたが、声の主が緒方だと分ると何も言わずまた俯く。
お茶の缶を握り締め、下に俯いているせいで前髪がヒカルの表情を隠してしまい、伺い知ることはできない。
まるで親猫を失った子猫のようだ、と緒方は思う。
誰が知らずとも、ヒカルを影から支えていたのは間違いなく行洋だったのだろう。
その行洋が突然他界し、嘆き悲しみ、途方に暮れている。
一度周囲に人がいないことを確認してから、緒方はゆっくりとヒカルに言い聞かせるように話を切り出す。
「塔矢先生が亡くなって動揺するなとは言わん。だが取り乱すな。先生とお前の関係は誰も知らないんだ。お前が自らバラすようなことをしてどうする?」
「……緒方先生はそれを望んでたんじゃないの?」
弱々しく、けれど的確な部分をヒカルは突いた。
saiの正体を求め、ヒカルがsaiであると観衆の目があるところで暴こうとした。
しかし、緒方はあえてヒカルの問いには答えず、
「お前が先生に会いに料亭に行った日、俺も直前に塔矢先生と会っていたんだ。お前の新初段の対局の日に現われたsai、それが塔矢先生であることに気づいて、真偽を確かめに行った……」
「……塔矢先生は、なんて?」
「お前と先生が繋がっていたことはこっちが拍子抜けするくらい簡単に認めたが、お前はsaiであってsaiではない、そう先生は言われた。そしてその意味は教えては下さらなかった。時が来るまで静かに見守れと……。だが、肝心なことは教えてもらえず、ただ見守れと言わたところで到底納得できるもんじゃない。正直、先生とお前の世界に、俺が立ち入れない線引きをされた気分になった」
行洋がsaiであるヒカルを特別視しているのか、ヒカルがsaiの秘密を話した行洋だけを特別視しているのか、それともその両方なのかは緒方には分からない。
しかし、緒方がヒカルを問い詰めたとき咄嗟に行洋の後ろに隠れ助けを求めたり、ヒカルが窮地に立った時は似合わないネット碁を打ってまでsaiであることを隠そうとした行洋に、目に見えない確かな繋がりが2人の間に見えたのは確かだった。
「……イベントの時は悪かった。酒が入っていたとはいえ、他人の目があるところで問い詰めるようなことじゃなかった。俺はもう……saiの正体を追わない。saiが誰であっても構わない……。ただ、もし許してもらえるなら」
言いかけて緒方は口を閉ざす。
自分たちの元へ近づいてくる足音に気付いたからである。
足早に少し焦った様子で芦原が駆け寄ってくる。
「緒方さんこんなところに!隣は進藤くん?」
珍しい組み合わせだと芦原は意外そうな顔をした。
だが、あまりヒカルに触れてほしくなかった緒方は、ヒカルに寄せる芦原の視線を遮るように、
「どうした?」
「いえね、先生の弁護士の方がいらしてて、自分にもしものことがあったら俺達弟子に渡してほしいって先生から頼まれてものがあるらしいんですよ?それで皆集まってるんですが」
「先生が?」
わざわざ弁護士に行洋が託すほどのものとは何であるのか、と緒方は疑問に思ったが、すぐに隣にいるヒカルを思い出す。
「お前も来い。歩けるな?」
森下に任された以上、最期までヒカルを見る責任があると緒方はヒカルを立たせる。
反応のないヒカルを腕を引っ張るようにして、半ば強引にヒカルを連れて皆が集まっているという部屋に緒方は向った。
皆が集まっているという部屋は通夜会場内の一室で、すでに最期の一人だったらしい緒方は畳の和室に入った途端、一緒にヒカルを連れてきたことに集まっていた全員の注目を浴びた。
その中でも特にアキラが一番驚いていたが、緒方は構わずヒカルを隣に座らせた。
「皆さん、よろしいでしょうか?こちらが塔矢先生からお預かりしていたものになります。もし自分に何かあったら葬儀後にでも弟子たちに渡してほしいと頼まれておりました。私は中身を見ておりませんが、確認をお願いしたします」
黒いカバンから出され、すっと寄越される封筒。
弁護士の事務的な言葉に、その場を代表するように息子のアキラがA4の大きさの封筒を受け取った。
後ろを留めてある紐を外し、中身を取り出す。
「棋譜……?」
中から出てきたのは十一枚にもおよぶ棋譜だった。
棋譜は手書きで書かれ、その字から行洋が自ら書いたのだろうと推察できた。
だが、書かれた棋譜の内容はアキラも初めて見るものだった。
何故こんな棋譜が、と疑問に思いながら、兄弟子である緒方や芦原たちにも見えるように棋譜を一枚一枚回していく。
しかし、その棋譜は全て名局といってよかった。
渡された棋譜を見た緒方たちもすぐにそのことに気付いたようで、驚愕の眼差しで棋譜に食い入っている。
「これって誰の棋譜?先生が渡してほしいって言ってたんなら、1人は先生だろうけど相手は誰?」
戸惑いながら芦原が誰に問うとも知れない問いかけをする。
その棋譜の裏を最初にひっくり返したのは誰だったか。
部屋の一角で『あっ』という声が上がったかと思うと、
「sai?」
棋譜の裏の左下に小さく書かれている3文字を緒方は声に出して読む。
部屋の中にどよめきが起こり、それぞれが持っている棋譜を裏返せば、その全ての裏面に『sai』と記されてあった。
――お父さんはsaiと会ってた?saiの正体を、saiが誰か知ってた?
棋譜から視線をそらすこともできず、アキラは愕然とした。
そういえばアキラがsaiと対局して負け、それから後、再び現れるようになってからも興味を示した様子のなかった行洋が、急に緒方にsaiが打った棋譜を頼んだことを思い出す。
それを聞いたとき、確かにアキラはおかしいなと思ったが、深く詮索することはなかった。
しかし、よくよく考えれば、行洋の碁が急に若返り、それまで以上に強くなっていったのもその頃だった。
そしてsaiもまた連勝を続けながらさらに強くなっていった。
だとすれば、行洋はその頃にsaiと知り合い、誰にも内緒でsaiと現実で会って対局していたのかもしれない。
幼い頃から毎朝一局打ってきて、行洋が盤面に相対する相手ではなく別の誰かを見ているような気がしたのは、決してアキラの勘違いではなかったのだ。
行洋が見ていたのはsaiだった。
saiが行洋に新しい風を呼び込み、心境に変化をもたらした。
「じゃあsaiは近くにいるんだ!どうやって先生とこんな関係になったのか分らないけど!」
「待てよ!もしかしたら今日の弔問者の中にsaiがいるんじゃないか!?」
「まさか!?」
「でも可能性は十分あるだろ!?先生と直接会ってこれだけ打ってるんだ!いや、打ってるからこそsaiと名乗らずとも、きっと来てる!」
突然出てきた棋譜に集まった者たちが口々に言い合いう。
ネットの中に潜む最強の棋士が自分たちのすぐ近くにいるかもしれないという現状に、saiの正体を突き止めるこの絶好の機会を逃すまいと皆が騒ぎ立てる。
騒然となった場を静めなければとアキラも頭では分っていたが、行洋とsaiが対局した棋譜がアキラを強く揺さぶった。
アキラがsaiを意識していることは行洋も知っていたはずである。
それを知っててsaiの正体を教えることのなかった行洋に、一抹の不信感を覚えてしまったからだ。
息子のアキラであってもsaiの正体を話せない何かしらの事情が行洋にあったのかもしれない。
しかし、何も語らず棋譜だけを残して逝ってしまった行洋に、裏切られたような気持ちになることはいけないことなのだろうか。
騒然となった部屋に不似合いな淡々とした無抑揚な声が通る。
「……棋譜はこれだけ?」
緒方の隣に座っていたヒカルが、少し身を乗り出し、アキラが並べた棋譜を端から端に一通り目を通す。
棋譜が出てきたことにヒカルは微塵も驚いていない。
直前までの騒ぎとは真逆の静けさと、心ここに在らずなヒカルの様子に、それまで騒いでいた者たちも騒ぐのを止め、ヒカルの言動を注視してしまう。
急に部屋が静かになったことで、アキラもハッと我を取り戻し、封筒の中に何もないことを確認してから
「ああ、そうだね……これで全部だ。全部で11枚」
棋譜を数えた。
「足らない」
ポツリとヒカルが呟いた一言に、アキラは『え?』とヒカルを見やり、隣にいた緒方はギクリと表情を強張らせる。
行洋の死に気を動転させまともな状態ではないヒカルを放置できずこの場に連れてきてしまったことを、緒方は今更だったが激しく悔いた。
ヒカルを連れてくるべきではなかった。
誰かにヒカルを見張っているように頼み、休憩スペースに置いてくるべきだった。
この場には緒方以外にもアキラや塔矢門下の多数の棋士達がいる。
今のヒカルは我を見失い、自分が今どこにいて何を言ってるのかすら理解していない。
ヒカルがこれから何を言おうとしているのか。
ただ酷く嫌な予感だけが全身を駆け巡り、
――やめろ!進藤ッ!!
緒方は声にならない声で叫ぶ。
そしてもう一人。
この場にいて誰にも存在を気付かれず、そして誰よりもヒカルに近しい佐為だからこそ、ヒカルがこれから何を言おうとしているのか真っ先に気付くことが出来た。
それは決して言ってはいけない禁句。
――いけない!ヒカルそれ以上言っては!!
「この前、先生と打った棋譜がない」
ヒカルはそれを口にしてしまった。
あまりにも突然の死で、弁護士に行洋が託す間も無かった行洋と佐為の、最期の対局棋譜の存在を。
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02 『sai』
『この前、先生と打った棋譜がない』
ヒカルがそう言ったとき、もしその場にいたのが緒方1人だけだったならば、せめて緒方とアキラの2人だけだったならば、誰にも他言せず、知らせず、秘密として事は何事もなかったのように隠されたのかもしれない。
行洋の突然の死にショックを受けていたヒカルは、明らかにまともではなかった。
騒然となる室内で、ヒカルは全く我関せずとでも言うように、行洋とsaiが打った棋譜を静かに眺めていた。
そこに、車に碁盤と碁石を積んでいると部屋にいた1人が思い出したように言い出せば、途端にヒカルの言う棋譜がどんなものなのかという流れになる。
通夜の最中だからと、緒方1人でその場の勢いを止めることはできなかった。
棋士であれば、誰でも行洋とsaiの棋譜を一つでも多く知りたいと思うだろう。
そして行洋の1人息子であるアキラもまた、彼らと違わず、もしかするとそれ以上にヒカルの言う一局を誰よりも知りたかったのかもしれない。
父親がsaiと打った一局を。
もし緒方が強引にヒカルを止めようとしたり、どこかへ連れて行こうとすれば、その場にいる全員が緒方に疑いを持つ。
なぜ行洋とsaiの一局を知っているというヒカルに、その棋譜を並べさせないのかと。
並べさせないのは緒方も行洋と同じくsaiを知っているのではないかと、疑いの矛先が、ヒカルだけでなく緒方にも向くだけ+で。
そのため、緒方は棋譜を並べていくヒカルを眼の前にして、指を銜えるようにして眺めているだけで、止めることが出来なかった。
室内に持ち込まれた碁盤と碁石、そしてヒカルを中心に棋士たちが取り囲む。
それまでの騒然とした騒ぎが嘘のように静まり返り、アキラに促がされるようにして朦朧としたヒカルが並べる一局を食い入るように眺めていた。
行洋とsaiが最後に打っただろう一局。
ぱち、ぱち、と規則的に打たれていく棋譜。
並べ終え、石を打っていたヒカルの手が止まると、周囲から感嘆の溜息が漏れた。
黒と白の石が織り成す複雑な石模様は美しかった。
ただ、ヒカルが通夜で棋譜を並べ終えた直後、周囲から尋問のような追及が、誰一人としてされなかったのは、自分が並べた石を、ヒカルは瞳を細めながら眺めて
『塔矢先生は本当に死んだの?』
と嗚咽一つすることなく、静かに涙を流したからだった。
悲しみに打ちひしがれ、泣いている子供。
あれを目の当たりにして言及出来る者はいないだろう。
同じ歳のアキラでさえ、ヒカルにsaiについて尋ねることは出来ず、首を横に振るだけだった。
人の戸口に鍵はかけられない。
ヒカルのこの一言と盤面に並べられた一局は、その場にいた多数の者達から、密やかに、そして速やかに噂は広がった。
通夜で弁護士から渡された11枚の棋譜はその場にいた棋士達に衝撃を与えた。
行洋が弟子達に遺したsaiとの対局棋譜。
ネットにしか現われない最強の棋士と、世界で最も神の一手に近いと言われていた行洋がどこかで繋がっていた。
半ばネット伝説化しかけていた存在は、確かに存在していることがほぼ証明された。
しかしそれ以上に、あまりにも突然の死で行洋が弁護士に託すことが出来なかった棋譜の存在がヒカルの口から明らかとなる。
行洋が遺した棋譜、ヒカルだけが知っていた対局の存在、そして行洋が亡くなった現在、saiと唯一繋がっているだろうヒカル自身に人々の関心が注がれるのに、時間はかからなかった。
ヒカルが棋院に一歩足を踏み入れたとたん、ヒカルの顔を知っていた者から水面に落ちた水滴から起こる波紋のように、囁きが広がっていく。
向けられる視線は、好奇、疑惑、嘲笑と様々な感情だったが、そのどれ一つたりともヒカルに好意的なものはなかった。
痛いほどの視線を浴びながら、ヒカルは研究会の部屋に向かうため、重い足を気取られまいと平静を装いエレベーターに乗り込む。
棋院へ来る前から分かっていたことであり、腹をくくって玄関に足を踏み入れたというのに、いざ好奇の目に晒されると居た堪れず引き返したくなった。
――ヒカル、まだ遅くはありません。今日は体調が優れないということにして研究会を休ませてもらいませんか?
伏目がちに佐為がヒカルに止まるように言う。
そんな佐為を軽く笑い飛ばすように、クスクス笑い、
――ズル休みか?佐為が研究会行きたがらないのって初めて?いつも俺を急かすのに
――私が何を言いたいのか分かっているでしょう?もう一度、家でよく考えましょう?もっと別の道があるはずです
――考えても一緒だ。俺はもう決めたんだ
ヒカルはまっすぐに前を見据え、佐為がなんと言おうとも自分の気持ちは変わらないと続けた。
そのあまりにも喜怒哀楽が消え失せたヒカルの横顔に、例えようのない不安が佐為の胸の奥で燻る。
研究会の部屋の戸を開けると、すでにヒカルを除いた全員が揃っていた。
研究会が始まるにはまだ少し早い。
ヒカルが時間に遅れたということではなかった。
一階のロビーで向けられた視線よりは、いくらか遠慮がちに、けれど彼らよりヒカルを見知り親しい分だけ、好奇よりも困惑が色濃く滲んでいた。
「こんにちは」
「ああ、来たか。体調はもう大丈夫なのか?」
碁盤の前に座った森下が、その場を代表するようにヒカルに声をかける。
森下の言っていることが、通夜でヒカルが取り乱してしまったことを指して言っているのだと、すぐに思い当たり、
「もう大丈夫です。通夜のときは先生に迷惑かけてすいませんでした」
ハハ、と困ったようにヒカルは謝り、空いているスペースに座る。
けれど、その場の淀んだ雰囲気が払拭されることはなかった。
和谷や冴木、白川ですら、これから行われるであろう森下とヒカルのやり取りを、一言も聞き逃すまいと静かに見守っていた。
森下はヒカルを睨みつけるようにじっと見やり、口を開く。
「進藤、研究会が始まる前に聞いておきたいことがある」
「はい」
「お前の耳にもとっくに届いてるだろうが、お前がsaiの正体を知っていると噂になっている。理由は分るな?」
「分ってます」
「行洋の通夜でお前は我を忘れるくらい気を動転させていた。そして俺に『この前会った』と言った。お前は行洋とどこかで会っていたのか?」
「……数ヶ月に一回くらいの頻度でたまに先生と会って打ってました」
ヒカルの返事に森下が小さく溜息をついた。
「そうか、では聞くが……」
「何故、行洋がsaiと対局した棋譜が足らないと知ってた?どうして棋譜の内容まで知っている?お前もその場にいて二人が対局するのを傍で見てたのか?これまでずっとお前に師匠はいないと俺は思っていたが、それはウソで、本当はsaiが師匠だったのか?」
「俺に師匠がいないというのはウソじゃない。本当です。誰に聞いてもいい」
滑らかにヒカルは言う。
森下の声に険が篭る。
「なら、どうして行洋とsaiの棋譜を知っていた?」
「どうして?そんなの簡単だ」
森下の問いを反芻し、そこでヒカルは区切ってから、
「俺がsaiだからだ」
「バカ言え!お前がsaiのわけないだろ!?」
それまで会話に一切口を挟まなかった和谷が、いい加減なことを言うな、とヒカルに怒鳴り迫る。
だが、そんな和谷をヒカルは冷ややかに見やるだけだった。
「でも、それが真実だ」
「だいたいお前がsaiだったらお前の新初段の対局中に現れたsaiは誰なんだよ!?お前が二人いるっていうのか!?」
「あの日は塔矢先生が俺の代わりに打った」
「塔矢先生が!?」
「あの時、俺がsaiじゃないかって芹澤先生に疑われてて、それを誤魔化すために、先生がsaiとしてネット碁を打ったんだよ。俺と対局中にsaiが現れれば決定的なアリバイになるだろ?でもそうなると、ネットのsaiは完全に俺ってわけじゃなくなるのかな。そうすると俺と塔矢先生の2人でsaiだ」
そうヒカルは言いながら、最後の方は、半ば独り言に近く、まるで他愛ない会話でもしているような陽気さだった。
「それと前に和谷に言ったことは訂正する」
「え?」
「俺が院生1組に上がったばっかの頃、和谷とはじめて対局したとき、俺がsaiとzeldaのチャット内容知ってたこと話しただろ?」
「ああ……それが……」
「ウソ言ってた。ネットカフェで見かけたなんてウソだ。Zeldaと対局してたのは俺だ。チャットも後ろからじゃなくて前で見てた」
「ッ―!!じゃあ!これまで打ってきたのは!?お前が院生に入ってきて、プロ試験の最中も打ってきた対局はどうなるんだ!?伊角さんと俺とお前の3人で碁会所巡りだってしただろうが!?」
「バレないように上手く力を抜いてた。全然気がつかなかっただろ?」
和谷がどんなに激しく怒りを露わにしても、ヒカルが熱くなることはなかった。
和谷が熱くなればなるだけ、ヒカルは冷めていくように、能動的に答えるだけで、
「進藤!お前いい加減に!」
「和谷!黙れ!」
森下の一喝に和谷はビクリと身体を震わせた。
ヒカルへストレートに憤りをぶつけてくる和谷とは正反対に、森下は2人のやり取りを聞きながら、じっくりと思案してヒカルをじっと見据えた。
突然の行洋の死去に間を置かず、今回のヒカルの騒動。
行洋がsaiと隠れて打っていたということも森下にとっては驚きだったが、そのsaiとヒカルが通じていると聞かされたときは、あまりに突拍子もない話に二度聞き直してしまった。
しかし、よく考えて見れば、ヒカルの背後にsaiがいるとすれば、ヒカルの急激な成長にも納得できる。
森下がsaiを知ることが出来るのは和谷が持って来る棋譜だけに限られていたが、その棋譜からでもsaiの力は十分測ることが出来た。
ヒカルの成長を影で支えていたのはsai。
だからこそ、森下も和谷と同様に自分がsaiであるというヒカルの言葉が信じられない。
もしそうだとするなら、これまで見てきたヒカルは何だったのだというのか。
和谷に紹介されてこの研究会に顔を出すようになり、院生になりたての危うい碁からめきめきと実力をつけプロ試験に受かったヒカルは、上手く取り繕った偽りだったのか。
しかし、それ以上にヒカルの言葉に森下の逆鱗を逆撫ですることがあった。
「進藤、それは本気で言っているのか?仮にも行洋の名前を出してるんだ。後で冗談でした、なんて言った日にゃ俺は承知せんぞ?」
重々しく森下がヒカルに問いかける。
生前はどんなにライバル視しようとも、プロ試験に同期で受かったときから、森下は誰よりも行洋を知り、その碁に対する真摯な姿勢を森下は見てきた。
その行洋の名前を茶番のネタにヒカルが口にしたのだとすれば、決して許すことは出来ない。
「冗談なんかでこんなこと言いません」
「なら、本気で自分がsaiだと言うんだな?」
再度、森下が確認すると
「そうです」
ヒカルはコクリと首を縦に頷いた。
「……お前の言い分は分った。だが、俺もお前がsaiだと言われて直ぐ信じることは出来ん。ネットのsaiは全く知らんが、これまでこの研究会で打ってきた進藤しか俺は見ていない。だから今から俺と打ってみろ、行洋と打ってきたsaiの実力とやらで。その結果だけを俺は信じよう」
それでいいか、と問う森下に、問われたヒカルではなく、傍で2人の問答を見守っていた白川がコクリと唾を飲んだ。
これから目の前で行われようとしている対局が、もしかすると日本の囲碁界を震撼させる前触れかもしれないのだ。
それと同時に、自分がsaiであると言うヒカルが、ヒカルに似た全くの別人のように見えてくる。
「分りました」
頷き、ヒカルは森下と盤面を挟み対座する。
正座し、背筋を伸ばし、ふぅと静かに息を吐きながら、ヒカルは瞳を閉じる。
――佐為、打て
――……本当にいいのですか?もし私が打てば、ヒカルはこれからずっとヒカルとして打てなくなるのですよ?
この場になっても、どうしても賛成できないと佐為は打つことを渋った。
もし打てば、ヒカルは佐為の影に完全に埋もれてしまうことになる。
ヒカルと出会ってから、石を持ったこともなかったヒカルをここまで導いてきたからこそ、佐為もヒカルの才能が己によって黙殺されてしまうのを見過ごすことは出来なかった。
ヒカルの才能は佐為と出会うことで芽吹き、そして佐為と行洋の2人で育てたのだから。
――分ってるよ。俺がきっと一番分かってる。俺はもう二度と俺として打てなくなるって
――ならば!もっと他に違う方法が!
――でも、塔矢先生が本因坊を取るって俺と約束してくれたのは、きっと本因坊が佐為のタイトルだったからだ。他のタイトルだったら絶対約束なんかしなかった。先生は、佐為にこそ本因坊を取って欲しくて、佐為以外の誰かに本因坊のタイトルを渡したくなかったんだ
――ヒカル……
佐為は言葉を失う。
本因坊秀策であったという自身の存在が、行洋に他のタイトルとは違う想いを頂かせてしまっていたことは、佐為も気付いていたからである。
――取り戻そう。お前のタイトルをお前自身が取り戻すんだ。そして、先生の代わりに俺達が約束を果たす
閉ざしていた瞼を開き、碁盤を見据えるヒカルに、佐為もまた扇子をぐっと握り締める。
ヒカルのこの行為は最善ではないだろう。
しかし、たとえ選択した道が最善でないと分かっていても、ヒカルが決めた道であるならば、どんなに迷いがあっても、そこに佐為が口を挟む余地はない。
――……分かりました。約束を私達が果たしましょう!
佐為の瞳から迷いが消え去り、行洋と対峙し対局するときのような鋭さが宿る。
「お願いします」
ヒカルが頭を下げた。
一種、異様な空気が漂うなか、森下とヒカルが打っていく。
相手がヒカルであろうとsaiであるならば手加減をする必要はない。
全力で打つだけである。
その森下の眉間に皺が刻まれていくにつれ、石を打つ速度が段々と遅くなっていく。
5時間の持ち時間がある大手合があるならまだしも、研究会で打つ一局には長い長考だった。
背中が嫌な汗をかいていた。
ヒカルから受けるプレッシャーは、行洋にも全く劣らない、もしかするとそれ以上かもしれないと森下は打ちながら思う。
森下が棋譜だけでしか知ることが出来なかったsaiそのものの実力であると言っていい。
ただ、相対して対局するとヒカルから向けられる強烈なプレッシャーに、棋譜を見るだけでは知りえない肌が刺すほどのピリピリとした痛みを覚えた気がした。
ヒカルがsaiであったという事実。
そして行洋がそのヒカルを隠し、そして誰にも内緒で打っていたという事実。
けれど、森下の眼前で打たれているsaiとしての実力を、ヒカルと行洋が何故隠してきたのかという疑いよりも、この実力を14歳という歳で保持し存在しているという事実が、森下だけでなく対局を周りで見ている全員を驚愕させていた。
「ありません……」
森下が負けを認める。
ヒカルの中押し勝ちだった。
「ありがとうございました。これで納得してもらえましたか?」
ヒカルの問いに、森下は頷くこともできず、なおも己の負けた盤面をじっと眺めているだけだったが、それだけで十分だった。
saiの実力は証明された。
疑う余地はどこにもない。
「ウソだろ……」と和谷。
「進藤……」
「そんな、saiが本当に進藤くんだったなんて……」
「だって君が囲碁を覚えたのは、僕の囲碁教室に通っていた頃……それから短期間でここまで打てるようになるなんて……」
何も言えない森下の代わりのように、対局を見ていたそれぞれが呆然と呟く。
その中で、渦中の中心であるヒカルは膝に置いた両手をぐっと握りしめて言った。
「佐為(オレ)はもう、誰にも負けない」
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03 最強の初段
年に十数回行われる大手合、そしてタイトル戦での予選やイベントでの対局もあるが、低段者の対局数は高段者に比べて少なく、対局記録も残らない。
水曜に行われる低段者の大手合の日、日本棋院の対局場は不穏な気配を漂わせながらざわついていた。
対局開始時間には時間があるというのに、棋士のほとんどが既に集まり、休憩スペースや廊下などいたる場所で話し込んでいる。
その表情はみな戸惑い、落ち着きがない。
相手と会話しながらも常にチラチラと周りを伺い、誰かが来るのを待ち構えている。
その様子が気に食わないと言わんばかりに、和谷は廊下の壁に背中をもたれながら唇を尖らせ言い捨てた。
「みんな落ち着きなさ過ぎじゃね?こんなんでこれから対局なんて出来んのかよ」
周りが何を噂し、誰を待ち構えているのか、聞き耳を立てずとも分かる。
今までずっと正体を隠してきたネット碁最強の棋士が、行洋の死をきっかけにして表に出てきたのだ。
アマではなかったが、それまで一度も注目されたことのない新人棋士がsaiだったという噂はたちどころに広まり、ネットでも騒ぎになっている。
新初段でヒカルが打った一局はsaiではない。
しかし、ヒカルだけが誰も知らない行洋とsaiが打った棋譜を知り、これまで打ってきた対局は全て力を抑えていたのだという。
本当にヒカルがsaiなのか、それともただのデマなのか。
噂だけが勝手に一人歩きし、真相の是非を確かめるには実際に自分で対局するか、誰かと対局しているのを見るしか方法はない。
「そうか?お前だって、この前の研究会で森下先生との対局見て呆然としてたじゃん。ま、俺も人のこと言えたもんじゃないけどな」
和谷の隣で同じく背中を壁にもたれながら立っていた冴木が、仏頂面の和谷を宥める。
だが、そう言う冴木の口調は楽観していて、自分には関係無いと言っているように聞こえ、和谷は唇を尖らせたままぶーたれて冴木を睨んだ。
「一緒に院生で頑張ってきたのに、実は全部嘘でしたってやつが許せないか?」
「……冴木さんは何とも思わないのかよ?」
「んー、俺は和谷と違って研究会の時の進藤しか知らないしな。その点だと和谷ほどではないけど。でも、進藤が強いことだけは森下先生との対局で証明された。アイツ、本気だろうな。進藤のヤツ、本気で上を狙ってくるぞ」
「自分はもう誰にも負けないって言ってたこと?」
和谷の言葉に、冴木は周囲を見渡した。
「ああ、だからみんな戦々恐々なのさ。去年は塔矢アキラ、今年はsaiだ。これで自分達が上にいくチャンスはまた減りましたってな」
「ソレって笑って言うことかな」
「悲観しようが笑おうが、どうなるもんでもないんだ。進藤は進藤。俺は俺。自分に出来る限りのことをするだけって話だよ」
「俺は、俺か……」
下を俯き、和谷が呟く。
ヒカルが本当の実力を隠していたことを責めても、これから先どうすることも出来ないのだと改めて気付かされる一言だった。
ヒカルも、周りも関係ない。
自分に出来る限り、精一杯打っていくことだけが全てだ。
そういえば、新初段のとき、ヒカルの対局をわざわざトップ棋士である桑原や緒方が観戦しに来て、対局相手の芹澤に至ってはヒカルを指名までしていたことを和谷は思い出す。
今思えば、彼らはまだ本当の実力を隠していたヒカルに、何かを感じ取っていたのかもしれない。
特に緒方はヒカルの対局中にsaiが現われたことに驚いていた。
不意にざわついていた周囲が、さざ波が広がるように静まりかえり、和谷はその静寂に引かれるように顔をあげた。
エレベータのある方から歩いてくる1人に、皆の無言の注目が集まっていた。
その注目に左右されまいとあえて無視するようにしてヒカルが歩み寄ってくる。
ヒカルの姿を瞳に映しただけで、全身に動揺が走ってしまい、微かに和谷の肩が揺れる。
2メートル弱の距離にまで来て、
「おはよ」
と冴木がヒカルに挨拶する。
その言葉に、どこか強張っていたヒカルの表情が緩む。
自身がsaiであると周囲に明かしたことで、ある程度、周りから注目されることをヒカルも予測していたが、考えるのと直に視線を向けられるのでは勝手が違う。
視線が痛い。
何かの小説に出てきそうな表現だが、今のヒカルの心境はその言葉が最も当てはまる。
その視線の中で、以前と変わらずヒカルに声をかけてくれた冴木の存在は、ヒカルを少なからず安堵させた。
周囲の注目を集めたまま、まだぎこちない笑みでヒカルは挨拶を返す。
「おはよう、冴木さん、和谷も」
「……おう」
ぶっきらぼうに言う和谷に、冴木はくすと笑み、
「今日はもう緊張とかしてないみたいだな」
「流石に二度目ともなれば、そんなに緊張なんてしないよ」
「心身ともに万全ってやつか?」
「そうだね」
言いながらヒカルは斜め後ろにいる佐為へ、振り返らず、心の中だけでそっと尋ねる。
――万全かって?
――この場にいる誰にも負ける気はしません
鳥帽子から流れる黒髪がわずかに揺れ、切れ長の双眸が細められる。
もし佐為の姿を周りにいる者たちも見えたとしたなら、その笑みが醸し出す凄みに魅入られて息を呑んだことだろう。
その目は誰も瞳に映していないようでいて、全員を掌中に収めたような、絶対の自信と悠久の歳月が創り上げた尊貴が溢れ出ていた。
「負ける気はしないよ」
ヒカルは自身の感情を込めず、文の意味を必要とされない伝言ゲームの言葉を単に次の相手に伝えるだけの気概心で佐為の言葉を代弁する。
佐為の姿や眼差しの凄みをヒカルが周りにいる全員に語り聞かせることは出来ない。
しかしこの場にいる誰も自分の敵ではないという、暗に言葉に含ませた佐為の意思だけは雄弁に語っていた。
ヒカルの答えに、冴木は思わず目を見張りのまれそうになった。
ヒカルのこの自信はどこからくるのだろうか?
saiとして数多のネット棋士と打ってきた経験と、ネット碁で一度も負けなかったことを裏付ける全勝という高い棋力が、ヒカルを支えているのだろうか?
同じ研究会で碁を学び近くで見てきたという親近感が薄れていき、ヒカルがどこか手の届かない遠い存在のように見える。
「上等」
冴木が返せたのはそれだけだった。
しかしたったそれだけでも、じっとりとした嫌な汗が手のひらに滲み出てくる。
「進藤」
不意に呼ばれヒカルは後ろを振り返り、冴木と和谷も顔を向ける。
「塔矢……」
己の名前を呼んだ人物に、ヒカルは行洋と秘密で会っていたという後ろめたさを感じながら、複雑な表情をして小さく呟いた。
通夜で会った日以来だった。
ヒカルが自分がsaiであると認めてから、いつアキラが話を聞きつけて事の次第を自分のもとへ問い詰めにくるだろうかと身構えていたヒカルは、意外にも今日の大手合まで現われるどころか連絡すら寄越さなかったアキラに、諦観が無意識に出たような小さな溜息をつき、ようやく来たか、とひとりごちる。
アキラの眼差しは真っ直ぐで、その瞳に迷いは見えない。
ヒカルがアキラと初めて出会い、そして雨が降り始めた道で二度目の対局をヒカルに迫ったときの強さだけが変わらず映っていた。
「今日の大手合が終わった後、話がしたい」
穏やかな物言いではあったが、そこにはヒカルに有無を言わせない毅然(きぜん)とした響きがあった。
ヒカルの方も断る理由は無かったので、
「分かった。棋院だとあんまり話出来ないから、対局終わったらお前んとこの碁会所で待ち合わせにする?あ、でもあそこだと客がいてゆっくりできないか」
「いや、碁会所でいいよ。今日は定休日だ。店には誰もいない」
「ん、じゃ碁会所な」
「君にも合鍵を渡しておく」
予めアキラも碁会所を考えていたのか、前もって準備していたようにズボンのポケットの中から鍵を取り出す。
そして鍵をヒカルに渡すだけ渡して、アキラは何も言わず対局場の部屋へ行ってしまう。
手のひらに残された鍵にヒカルは視線を落とし、
――逃げるな、っていう脅しかな?
もしヒカルが碁会所に現われなくても、これでどうにかしてアキラに鍵を返す必要が出来てしまったわけだ。
――塔矢はそんなことはしませんよ。話が……父親である行洋殿のことを聞きたいのでしょう。もちろんsaiについても聞きたいだろうとは思いますが、きっと今の塔矢の中では、私の存在はその次の次くらいの重さですよ
対局場に消えてしまったアキラの後ろ姿をヒカルは思い浮かべる。
佐為の存在を隠したままで、どこまで話せるかは分からない。
けれど、出来る限り、可能な限りヒカルがあの竹林に囲まれた小さな離れで見てきた行洋の姿をアキラにも伝えることができればいい。
そう心に決めて、ヒカルは手のひらの中の鍵をぐっと握り締め、アキラの後を追うようにして対局場へ向かった。
すでに対局時間が近くなり、若干名が自分の席に座って待っていた。
そこにヒカルが入っていくとやはりロビーや廊下と同じように視線を向けられたが、ヒカルは構わず自分の席を確認してから、席に座る。
ややあって、対局相手が現われ、碁盤を挟みヒカルと相対して座る。
ヒカルより年上の二十歳前後の印象を受ける相手は、ヒカルが周囲から注目を集めても過ぎるほどに落ち着いた態度を見せるのに対し、明らかに落ち着きがなく対局開始の合図が鳴っても視線が彷徨っていた。
大手合は持ち時間5時間で行われる対局なので、その対局によっては夜にまで時間が及ぶことも少なくない。
多くは夕方近くまでかかるのが常であり、対局する棋士も5時間という時間をじっくり使って碁を打つ。
対局中に私語は全く無いと言っていい。
広い対局場に石を打つ音だけが響く。
石を打つ静寂の場は、碁を打つことを生きる生業とした勝負師たちの真剣な空間になる。
その中で、昼食のための打ち掛けにもうすぐさしかかろうとしていた時間に、
「ありません……」
あまりの驚愕で唇を震わせながら小さく呟かれた投了に、対局場の雰囲気が揺らいだ。
特に投了された碁盤の近くにいて、その声が聞こえたものは、まさかという眼差しで見やった。
大手合の対局が打ち掛け前に終わることなど、よほどのポカをしない限りありえない。
そこに打ち掛けの合図であるブザーが鳴り、ブザーが鳴り止み、係員が打ち掛けの指示をし終わってからヒカルは悠然と口を開いた。
「ありがとうございました」
ヒカルは一礼をしたが、相手はヒカルの声など全く耳に入っていないかのように、碁盤を凝視していた。
対局が終われば場所を変えて検討したり、検討しなくても打った石を碁笥に戻すのが礼儀だったが、打ち掛けに入った棋士たちが周囲に集まり盤面を見始めたので、ヒカルは片付けを言い出すタイミングを失う。
かといって、この盤面を前に検討する意味があるのかどうかもヒカルには疑わしかった。
対局前に佐為が負ける気はしないと言ったとおりに、そしてこれからsaiとしての実力を周囲に知らしめるように佐為は一切手加減をしなかった。
相手を貶めるつもりではない。
だが、佐為は相手の力量を思慮に入れず全力で打った。
これから佐為を背負い打っていくヒカルの決意を、誇示するために。
結果は佐為の圧勝である。
相手も下手に食い下がらず、佐為の力を素直に認め早くに投了した。
もしこのまま打っていれば、無残な負けだけが残されただろう。
対局相手の力量を知り、潔く負けを認めることが出来ただけでも評価出来ると言えた。
「……石、片付けても?」
遠慮がちにヒカルが言うと、対局相手ではなく周りに集まっていた一人が『片付けておくよ』と石をそのままにしておいてくれと言ったので、ヒカルは片づけを任せることにして席を立つ。
対局結果をボードに記入するのは勝った方であり、この場合、ヒカルの仕事になる。
ヒカルが立ち去った後ろで、集まった棋士達は盤面の石を見て、ある者は顎に手をあて低く唸り、ある者は腕を組んだままじっと凝視していた。
口に出せば失礼だが、盤面はアマとプロが打ったのではと思わせるほど、歴然とした力の差が現われていた。
もちろんヒカルと打った相手もちゃんとしたプロ棋士でありアマの実力ということは絶対にない。
相手が弱いのではない。
ヒカルが、佐為が強過ぎるのだ。
ヒカルがsaiだという噂が流れてから、やはりデマではないのかという噂も同じだけ流れたが、この対局でヒカルの実力は証明された。
行洋と人知れず対局し誰もが名局と讃えるであろう棋譜を残していたsaiがヒカルならば、この場にいる誰もヒカルに勝つことは出来ないだろう。
低段者の対局日ではあったが、高段者と渡り合い始めているアキラでもこの実力を前には敵わないと言えた。
ヒカルがsaiであるのならば、その実力は6冠のタイトルホルダーであった行洋と互角以上なのだから。
その6冠のタイトルホルダーと同等の棋力を持つ人物が、現実にプロになりたての棋士として存在する。
投了を宣言してから、ヒカルが礼を言い立ち去っても、盤面から視線を逸らせず無言だった相手が、ぽつりと口にする。
「最強の初段だ……」
それが負け惜しみや過大評価ではないことは碁盤の周りにいた誰もが理解していた。
ヒカルの実力をどんなに多くの言葉で表現しようとも、たったその一言が全てを語っていた。
ヒカルが打ち掛け前に対局を終えてから、数時間後にアキラも碁会所に現われる。
アキラが遅かったのではなく、ヒカルの対局が早く終わり過ぎていただけなので、ヒカルも遅れてきたアキラを責めることはなかった。
ただ、勝手にテレビをつけコンビニ弁当を食べたことだけは、先にヒカルは謝った。
アキラもヒカルに構わないと首を横に振っただけで、気にする様子もなく、ヒカルが座っていた席の向かいの椅子に座ると
「君がsaiだと聞いた」
単刀直入に話を切り出した。
もう少し世間話をしてから本題にはいるとかしろよ、というヒカルは内心苦笑しながらも、回りくどいことを一切しないことが逆にアキラらしいとも同時に思う。
「ああ、本当だ」
「君を強くしたのは父なのか?」
ヒカルは瞼を伏せ、首を横に数回振った。
「いや、違う。塔矢先生は関係ないよ」
「だがお父さんと君は誰も知らないところで打っていた」
矢継ぎ早に質問を重ねてくるアキラにヒカルは多少の戸惑いを覚えながらも、佐為の存在を隠しながらどう言えばいいのか、勢い滑りでそうになる言葉を一つ一つ確認しながら、嘘と真実を織り交ぜ慎重に話す。
「……うん。俺が最初に打とうって先生を誘ったんだ。はじめは先生もアマだった俺を相手にするのはプロとして誉められた行動じゃないって言ってたけど、俺、塔矢に2回勝ってたから、それで興味持ってくれて対局してくれたみたい。それから塔矢先生は内緒で打ちたいっていう俺のワガママ聞いてくれて、数ヶ月に一回くらいの頻度でたまに会ってくれて、対局して、検討して、すごく楽しかった」
「お父さんは君の棋力について何も言わなかったのか?その実力を隠していることさえ……何も言わなかったのか?正直に答えてくれ」
「……言ったよ。でも、俺が嫌だって断った。塔矢先生と打つようになってから、自分の棋力が半端ないこともよく分かったし、それで周りから騒がれるのも嫌だった。それっきり先生が後から何か言ってくることはなかったよ。俺が決めることだから何も言うことはないって」
そこまで言って、ヒカルはふと思い出す。
緒方に佐為のことを話すべきかどうか相談したとき、自分からは何も言えないといいながらも、ヒカルが行洋自身に打ち明けてくれたことを、行洋は感謝してくれた。
「でも、自分に話してくれてありがとうって言われたな。初めて対局したときは、塔矢先生も驚いてたけど、だからって俺を変な目で見たりしなかった。俺を俺として受け入れてくれた」
懐かしむように語るヒカルに、アキラの眉間に皺が刻まれる。
ヒカルの話を完全に信じてはいないことがありありと分かる。
しかし、話している内容もすぐに信じれる内容ではなかった。
数秒の間、黙ってしまったアキラに、ヒカルは急くことなく次の質問を待つ。
「……なぜsaiであることを隠していたんだ?それに、どうして今頃になって自分がsaiであると打ち明けた?君がプロになって初めて僕と対局した一局は、……碁会所でも打った対局はなんだったんだ!?」
最後の語尾の方でアキラの声が荒ぐ。
「ずっと隠してるつもりだったんだぜ。塔矢先生以外に話す気なんてこれっぽっちもなかった。先生さえ知っててくれれば……それで、よかった」
そこで一度区切ってから、ヒカルはアキラの疑いの眼差しを真っ直ぐに見やり、
「だって、変だろ?」
「何が?」
「初めから強いなんて。誰かと初めて対局して、それで勝っちまうとかさ。それもプロ並に強いヤツにだぜ?」
嘲笑交じりに言うヒカルに、アキラはヒカルと初めて打った対局を思い出す。
子供、それも石の持ち方さえなってない素人丸出しの持ち方だったヒカルに、アキラが油断し侮り負けた一局。
しかしどんなにアキラが油断していたとしても、ヒカルの打ち方は指導碁だった。
初めて誰かと対局して勝ち、しかもそれが力を抑えた指導碁ということがあるのだろうか?
ヒカルがプロになりアキラと再び対局してから、こうして碁会所でまた打つようになっても、あの最初の2局は暗黙の了解となりお互い口に出すことはなかった。
アキラとしては聞きたい気持ちは山々だったが、ヒカルの方がその話題を避けている節があり、あえて触れないようにしていたのだ。
しかし、そのヒカル自ら最初の対局に触れた。
これまでずっと聞きたいと思っていて聞けなかった疑問を、アキラはおそるおそる尋ねる。
「本当に君は初めて対局したのか?あの時、僕と対局した一局がはじめて?」
「ああ。誰かと対局したことなんて初めてだったし、自分がどれくらい強いのかも全然分かってなかった。考えてもみろよ?塔矢みたくガキの頃から英才教育並みに勉強してきたわけでもない、数日前に初めて碁石触ったようなヤツがさ、プロ並に強いなんて誰が考える?本人だって考えねぇよ。それで分からないまま適当に打って、変な目で見られて、塔矢と2回目に打って、そこでようやく気付いた。自分がなんかおかしいって」
「信じられない……」
ヒカルの話にアキラは思ったことが無意識に出る。
ヒカルが話していることは普通ならありえないことだった。
よくビギナーズラックで初心者がゲームに勝てたなどという話もあるが、囲碁でその可能性は限りなく無いのだから。
「そんな反応されるって分かってたから隠した。あとは下手なふりをして、周りを見ながら少しずつ上達していっているふりして……正体が分からないネット碁だけは本気で打って……。あとはお前も知っての通り、ネット碁で無敗の最強棋士の出来上がりだ」
ヒカルから語られる話に、困惑しアキラは言葉が出てこない。
ヒカルの言う話を全て理解できているとはとても言い難かった。
なにしろヒカルの話はどれも荒唐無稽で現実離れしていたからだ。
それを罵倒しなかったのは、アキラもまたヒカルと打った最初の2局があったからだろう。
「あと質問に答えてないのって、どうして今頃になって自分がsaiだって打ち明けたかってことだっけ?」
黙ってしまったアキラにヒカルが次の問いを促す。
それにアキラは口を手のひらで覆いながら小さく頷いた。
「欲しいものが出来たんだ」
「欲しいもの?」
「そ。本因坊が欲しい」
「それはどう言う意味だ?」
「そのまんまだけど?本因坊を手に入れるためには本気で打つしかない。となればみんなも自然気付くだろ、俺がsaiだって。だから後で騒がれるより先に白状しただけの話」
軽くヒカルは話してみせたが、アキラはそのまま流さなかった。
ヒカルの話に戸惑い混乱していたが、アキラの問いは知らずヒカルの核心を突いた。
「お父さんも君に本因坊を取ると約束していたと聞いた。何故、お父さんも、君もそんなに本因坊に拘るんだ……?」
問われてヒカルは答えなかった。
ここで誤魔化すなら簡単である。
行洋は7大タイトルで、6つまで手に入れ、唯一手に入れていなかった『本因坊』の獲得を目標として、それで『本因坊』というタイトルを出しただけで、対してヒカルも行洋が最後に手に入れることができなかった『本因坊』に他のタイトルとは違う思い入れがあるのだと。
理由として不自然な部分はない。
だ がそれを口にするのは、ヒカルにはどうしても躊躇われた。
誤魔化したりそのままシラを切りとおすのではなく、俯きじっと考えている様子のヒカルに、アキラはじっと待った。
それからしばらくしてヒカルがふっと笑み、アキラを見やる。
「ひみつ」
これ以上嘘はつきたくなかった。
しかし本当のことも話せなかった。
だからヒカルは正直に言った。
「ごめん、それだけは言えない。大切な約束なんだ……」
言えば約束の根底にあるものに少なからず触れることになる。
本因坊のタイトルに隠された、行洋とヒカルの2人で共有した『藤原佐為』という存在を。
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04 Are you Hikaru Shindo?
自身がsaiであると周囲に明かしてからも、ヒカルはネット碁をやり続けた。
マウスを操作するのはヒカルでも、打つのは佐為。
『sai』の連勝無敗は今も継続している。
『Are you Hikaru Shindo?』
ネット碁の対局終了後に露われるチャット画面。
いつものようにチャット画面を閉じようとしていたマウスの動きが止まる。
――ヒカル?どうかしましたか?これは何と書いてあるのですか?
「……お前は進藤ヒカルか?って聞いてきてる」
ヒカルが能動的にそういうと、佐為は瞳を細め、黙したままじっとディスプレイ画面を見やった。
2人何も言葉を発しないまましばらくして、そこに映し出された英文にヒカルは短い返事を打つ。
『yes』
あとはネットを通じて、この会話はあっという間に世界中に広まるだろう。
■□■□
棋院の事務所からヒカルに呼び出しがあったのは、佐為がヒカルとして対局してから、約一週間後だった。
中学3年でまだ義務教育途中のヒカルを、学校がある平日にわざわざそのためだけに事務所に呼びつけるのは気が引けたらしく、休日の棋院の一般対局室行われる指導碁が終わった直後のヒカルを掴まえた。
事務所に顔を出し、中の個室に入るまでの僅かな距離ですら、遠慮しがちではあるが明らかな好奇心という視線が皆から向けられた。
それらの視線を全く煩わしく思わないと言えば嘘になる。
だが、いちいち反応して目くじら立てていても致し方ないと、ヒカルはあえて無視する形で意識から除外した。
「ごめんね、進藤君。指導碁で疲れているところをわざわざ来てもらって」
そっちに座って、と自身が座るソファーとは反対側のソファーをヒカルに促す。
そのソファーにヒカルは深く腰をかけず、浅く座った。
長い時間話すつもりはないので、これくらいでいい。
「いえ、平気です」
「それで……今日ここに来てもらったのは、進藤君もある程度察していると思うんだけど……」
コホンと、わざとらしい咳払いをして、大事でも言うように畏まり、
「プロ棋士の間で君がネット碁のsaiだと噂されてるのは知ってるよね?」
「はい」
「そこのところ、どうなのかな?プロ棋士のスケジュール調整をする事務所としても噂の真相を確かめて置きたいんだけど、本当に進藤君がsaiなのかい?」
「そうです」
聞かなくてはならない大事(おおごと)を尋ねる仕事を一任され、緊張しながら尋ねた問いだったのに、本人は表情を微塵も崩すことなくたった一言で肯定され、事務員は言葉を失う。
2年前にネットに現われてからというもの、日中韓のプロ棋士をも負かすその圧倒的強さから、日本棋院への問い合わせも数え切れない『sai』
つい先日、行洋が無くなった折には、行洋とsaiが対局したという棋譜まで出てきた。
その棋譜からもsaiの実力は決して行洋に劣ってはいない。
行洋と同格の実力を持っている。
そのsaiの正体が、若干14歳でプロになったばかりの新人棋士として自身の眼の前に座っている。
知らず唾を飲み込み、膝に置いて手がスーツのズボンをギュッと握りしめる。
尋ねた事務員自身、saiであると肯定したヒカルに、驚きよりも畏怖を覚えていた。
6冠であり7冠すら目前にしていた行洋を失ったことは、日本棋院としても当然痛手であったが、代わりのように現われたこの少年は行洋に勝る将来性とスター性があるのではないだろうか。
実力はトップ棋士にも勝るほどなのに、その年齢はまだまだ若い14歳。
韓国や中国に追い抜かれていこうとしている日本にあって、ヒカルがこれからの日本のプロを牽引し、人気に陰りが見え始めている囲碁の世界をあまねく照らす、何にも変えがたき逸材ではないのだろうか。
どうやってそれほどの棋力を身に着けたのかは、この際どうでもいい。
棋力への謎と、ネット碁での戦歴が、逆にヒカルという存在を、テレビや日本中の人の注目を集め彩る材料になるだろう。
ヒカルが活躍すればするほど、囲碁界は世間から注目され、それをもとにして囲碁を始める人も増え、囲碁界にかつての賑やかさが戻る。
それは決して願望や儚い期待などではない。
現実にそれを成し得るだけの実力が進藤ヒカルという少年にはある。
囲碁界はこれからヒカルを中心にして大きく動くだろう。
「………」
突然現われた天才に、事務員が言葉を無くしたままでいると、
「話はそれだけですか?それなら俺もう帰りたいんですけど」
「待って!」
「saiのこともなんだけど、進藤君が塔矢先生と懇意にしていたというのは?君は師匠がいないということになっていたけど、塔矢先生から碁を学んだのかな?」
「……懇意というほど親しい付き合いだったのかと問われれば微妙です。先生と直接会って対局できた数だって両手で足りますよ。でも、」
そこには確かな信頼があった。
会えて対局できた日は少なくても、揺ぎ無い信頼で3人は繋がっていたとヒカルは思う。
けれど、それを口に出して言うわけにはいかず、
「塔矢先生は俺が一番尊敬する棋士です」
瞼を伏せ、細めたヒカルの眼差しは少し寂しそうではあったが、その言葉に迷いは微塵も無かった。
「……わかったよ。これからのことなんだけど、進藤君がsaiだったとしても、それはプロになる以前のプライベートなことだし、棋院側がそれをとやかく言うことは出来ない。ただ、アマではなくプロになったこれからを事務所側もどう対処するべきか皆で相談したんだけれど、君への問い合わせについて、saiであったことだけは認めて、それ以外の囲碁の経歴や対局などについては一切答えないということでいいかな?」
「はい、それでお願いします」
「最後に、進藤君のプロフィール欄の師匠枠はこれまで通り空白のままで?」
「はい」
一言答え、ヒカルは部屋から出て行く。
その後ろ姿がヒカルの抱えるモノに対して小さく感じられ、一抹の不安が過ぎった。
ついさっき、誰もがうらやむ実力と才能がヒカルにはあり、これからの碁界を牽引していくのだろうと思った。
しかし、その実力と才能を背負うには、ヒカルにはまだ早過ぎるような気がした。
そして次にヒカルが自分がsaiであることを隠し、また行洋も同じようにヒカルがsaiであることを秘密にしたのは、それが理由の一つなのではないだろうか。
ヒカルの才能と実力に羨望や憧憬も寄せられるだろうが、同じだけ、もしかするとそれ以上に、言われのない誹謗中傷、嫉妬も向けられるだろう。
好意と悪意が双方同じ量であっても、後者は攻撃的で、ヒカルの心をより深く傷つける。
そのときヒカルは周りに潰されたりしないだろうか。
それとも、ヒカルはそれら全てを覚悟した上で、自身がsaiであると明かしたのか?
関係者とはいえ、プロではなく、事務の1人でしかない己がどうこう言ったところで詮無いことだが、あまりにもアンバランス過ぎるsaiの正体に、考えずにはいられなかった。
■■■
偶然同じイベントに仕事で参加したわけではなかった。
緒方が出ると分かっていて、アキラが棋院の事務に無理を言って、同じイベントに参加させてもらったのだ。
緒方を確実に捕まえるために。
「やけにあっさり引き下がられるんですね、緒方さん」
イベントの休憩時間に、アキラは喫煙室でタバコを吹かせていた緒方へ面倒な回りくどいことは一切せず、一言目から率直に言う。
ヒカルが自らsaiであると公言し、そして大手合でその実力を証明させてからも、緒方がヒカルに対して何か行動を取るようなことはなかった。
驚き動揺する周囲を、いっそ冷ややかに観察しているようにもアキラには受け取れた。
だが、緒方がsaiに興味が全くないというわけではないことをアキラは知っている。
ヒカルの新初段のとき、ヒカルと芹澤の対局中にsaiが現われたことに、緒方は動揺を隠しきれず、そして棋院の帰りの車中で、saiについてアキラと語った。
その緒方が、saiの正体が公に知られても我関せずで、ヒカルを無視している。
同じようにsaiの正体を求めたアキラからすると、緒方が何を考えているのかさっぱり分からなかった。
そんなアキラの心情を察していたのか、緒方も殊更驚くことはなく、かと言って、いつかのようにからかいもしなかった。
アキラの真摯な問いに緒方も真面目に答える。
「通夜のとき、進藤に俺はもうsaiは追わないと言ったからな。進藤が自分で自分がsaiであると認めたところで、俺にどうしろと?」
「saiを追わない?本当にそれでいいんですか?あんなっ……あんなあっけない結末で緒方さんは納得しているんですか!?」
「確かにsaiの正体は明らかになった。だがsaiの真実へ辿り付く道は塞がれた。アキラくんがこれからどうしようとも止めはしないが、俺に出来ることは何もない。」
「真実とはどういうことです?」
アキラが首を僅かに傾げる。
「亡くなる前、塔矢先生は俺にこう言われた。進藤はsaiであってsaiではない、と。その真意までは答えてくださらなかったが、先生がsaiという存在をどう捉えているのかだけは分かった」
ヒカルがsaiであり同一人物と考えていた緒方とは決定的に違うために、行洋との会話にズレを起こした。
「塔矢先生は、進藤とsaiを別人として見ていた。進藤はsaiじゃないんだ」
では誰がsaiなのかと問われたら答えに窮するのだが。
恐らく亡くなってしまった行洋はその答えを知っていたのであろう。
ヒカルは行洋1人にだけsaiの真実を明かし、そして行洋もその真実をヒカルと共有し、誰にも他言しなかった。
「でも、進藤の強さは本物だった。saiそのものだ。2年前、ボクが父の碁会所で進藤と初めて打ったときの進藤だ」
「そう。進藤はsaiの強さだけを周囲に証明して、心は完全に閉ざした」
saiの真実が何かは皆目検討もつかないが、重要なことは直感で緒方も分かった。
どうしてヒカルがあんなにも行洋に絶大な信頼を寄せていたのか。
答えは、至極簡単だ。
行洋がsaiでありながらその棋力を隠し続けるヒカルを、そのままに受け入れたからだ。
saiの真実をヒカルが行洋に打ち明けてから、ヒカルにsaiであることを周囲に明らかにするよう行洋が説得するようなことは、恐らく一度も無かったはずだ。
一度でもしていれば、ヒカルは行洋に不信感を抱いただろう。
けれど説得どころか、行洋は自らの意思でsaiの正体を隠そうとした。
だからヒカルは行洋が亡くなっても、行洋以外にsaiの真実を話そうとはせず、行洋に縛られ続けている。
「saiの正体を隠していた塔矢先生を多少なり恨んだりもしたが、今になるとその恨みは俺の取るに足らない妬みからきていたんだろうな。saiの正体云々じゃなく、心を閉ざさせるほど塔矢先生は進藤から絶大な信頼を勝ち得ていた。それが羨ましかったんだ」
そこまで言って、緒方は指に挟んでいたタバコを咥え、息を吸う。
するとフィルターを通して肺が煙に満たされる。
少し前まで緒方の気持ちを静めたり、時に甘く感じられたソレが、今は酷く苦く感じられた。
「……それだけの何かがあったんだと僕は思うんです」
奥底から搾り出したかのようなアキラの声に、緒方は視線を向けた。
「アキラくん?」
「お父さんがsaiであることを隠していた進藤を受け入れるだけの理由が。そうでなければ、いくら碁が強くても、あのお父さんがそこまでしてsaiの正体を隠そうとするはずがない」
アキラの言葉の端々に迷いがあったが、息子としてそれなりに行洋を間近で見てきた。
行洋がどれだけ真摯に、そして誠実に碁と向き合っていたか、恐らくアキラが一番知っているだろう。
いくら相手が子供だったとしても、事が碁に関係していれば、行洋は生半可な理由や我が侭に付き合ったりはしない。
「そうだとしても進藤は何も話さないだろうし、塔矢先生は亡くなっている。saiの真実に近づく術は何もない」
首を横に振る緒方に、
「あります。一つだけ」
毅然とアキラは言い切る。
「本因坊。お父さんが進藤に約束して、お父さんが亡くなってからは進藤が果たそうとしている本因坊というタイトルが、2人を結び付ける唯一の手掛かりです」
初めてアキラが対局したとき、ヒカルは強かった。
自分と同等どころか遥か上から見下ろされたようなその強さに衝撃を受けたのは当然だったが、印象的だったのは棋風だった。
打ちながら古い印象を何度も受けた。
研究が進んだ現代では打たないような古い定石をヒカルは平然と打ってきた。
そしてsaiがネットに現われ始めた当初。
夏の国際アマチュア囲碁大会で、『本因坊秀策が現代の定石を学んだような』とsaiは評されていたのだ。
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05 少年の見つめる未来(さき)
「君とこうして打つのは3度目だ。1度目はカフェで擦りガラス越しに。2度目の新初段では、君と塔矢先生に見事かわされてしまった」
盤面を挟み、まだ石の打たれていない盤上を眺めているともしれない眼差しで、芹澤は穏やかに語る。
その口調にヒカルを責めるような感情はどこにも見受けられなかった。
ただ、穏やかに、静かに語るだけで。
芹澤はヒカルを批難することは無かった。
いずれ勝ち進めば、トップ棋士である芹澤とヒカルは対戦することになる。
しかし、よりにもよって名人戦リーグの初戦で対局することになるとは考えていなかったが、逃げても致し方ないと、ヒカルは責められるのを覚悟で今日の対局に臨んだのだ。
新初段で打ったのは佐為ではなく、ヒカル自身であり、あの対局も決して手を抜いたわけではなくヒカルの全力を尽くしたものだ。
だから、正確に言うと、芹澤が佐為と打つのは今回で2度目と言うことになる。
新初段のときはまだ行洋は亡くなっておらず、ヒカルも佐為を背負ってはいなかった。
だから、saiを探す芹澤を如何様に誤魔化すか、ヒカルと佐為は懸命に悩んだものだ。
今となってみると、どうにかしなければお先真っ暗とまで思いつめ2人で相談した夜が、懐かしく思い出され、ヒカルの眼差しが無意識に緩む。
「俺も……まさか雨宿りで偶然立ち寄ったカフェで、芹澤先生と対局するなんて予想外でした」
「この対局は、全力で打ってくれるだろうか?カフェで私を負かしたときのように」
芹澤の言葉に、ヒカルの表情から一切の感情が消えた。
その消えた感情を代弁するかのように、膝に置いていた両手がズボンをぐっと握りしめる。
芹澤が尋ねたのはヒカルではなく佐為へむけたものだから、ヒカルが答えるわけにはいかない。
石を打つのは自分なのに、相手が求めているのは佐為。
その間にあって、ヒカルは胸に微かな痛みと疎外感を覚えた。
しょうがないさ。
佐為が打つってのはこういうことだ。
いつかこんな気持ちにも慣れて、何も思わなくなるのかな?
けれど、佐為はいくらヒカルが待っても無言のままで、ヒカルが視線だけ佐為の方を向けると、盤上を見つめる眼差しだけが酷く鋭かった。
■■■
対局を観戦するモニタールームで対局が始まるのを待っているのは、新初段のときの倍以上の観戦者数だった。
とにかく注目度が半端なく、対局が行われる前から海外からも棋譜が欲しいと問い合わせが寄せられたほどだ。
日本だけでなく、saiであるヒカルに、中国韓国も一種異常なほど興味を寄せていた。
囲碁を覚えて2年とは到底考えられない、ありえない成長速度と、早熟過ぎる高い棋力に。
すでに抜き去ったと思われていた日本から、両国を追撃し得る天才が現われたと。
日本のメディアも、すでにヒカルのスター性に気付き、目を付けているところがある。
ヒカルが十代でタイトルを取る日は遠くないだろう。
問題はそれが『いつか』ということだ。
まだ義務教育の中学在籍中にタイトルを獲れば、過去の記録を塗り替える大ニュースだ。
下手して行洋が亡くなったことで空位になった6つのタイトルをそのままヒカルが持っていけば、他の棋士は何をしているのかと揶揄まがいに叩かれる可能性も存分にある。
もちろん、これまで日本の囲碁を牽引してきたトップ棋士達が、いくらヒカルに才能と実力があろうともやすやすとタイトルをくれてやる気は毛頭ない。
タイトル所持経験者である桑原、乃木を始めとして、緒方や倉田もじっとモニター画面を凝視する。
ヒカルの対局を一つでも多く観戦し、研究し、どこかに小さくてもいいから隙がないか探す。
「桑原先生は、進藤くんが騒がれる以前から目を付けていらっしゃいましたよね。新初段でも対局観戦していらっしゃいましたし。どこかで進藤くんの才能を感じられていたということでしょうか?」
週刊囲碁の編集者であり記者でもある天野が、机の上にノートを広げ、右手に持ったボールペンをゆらゆら揺らしながら、桑原に意見を求める。
天野は新初段の記事を毎年担当している。
ヒカルの時ももちろん天野はこの部屋で今と同じように対局観戦したが、思えばあの新初段も普通ではなかった。
プロ試験に受かったばかりの新人棋士に、トップ棋士側から逆指名。
そして対局当日は、本因坊のタイトルホルダーである桑原とリーグ戦では常連となった緒方、そして塔矢行洋の息子でありプロになる前から注目されていた塔矢アキラが観戦していた。
行洋が亡くなり、自身がsaiであると明かしてから、ヒカルは一度も負けることなく連勝を続けてリーグ戦にたどり着いた。
対局内容も圧巻の一言に尽きる。
全て中押しで、対戦している相手がヒカルと自身の力の差に歴然として対局意欲を失ってしまう。
決してヒカルの勝ち方が、相手を貶めるような酷い打ち方だったり、勝ちが過ぎるわけではなく、棋士としての才能の違いを見せ付けられて様々と実感してでの中押しである。
これで初段。
一体何人がヒカルと対局してこの言葉を対局後に呟いただろう。
それを天野も人伝いに聞いている。
ヒカルの才能は非常識で想像を絶するものだと。
プロではない天野がヒカルと対局する機会があるのかは分からない。
しかしこれから先、もし対局する機会があったしても、プロほどの実力がない自身では、ヒカルがどれだけ強いのか対局から伺い知ることは出来ないだろう。
知るためには、プロ棋士に尋ねるしか他ないのだ。
「そんなものないわい。前も言ったがアヤツが院生の頃、エレベーター前ですれ違っただけじゃ」
「すれ違っただけ……?」
「そうじゃ。小僧とすれ違った瞬間、ただならぬ雰囲気を感じての。ワシのシックスセンスもバカにしたもんじゃなかろうて。ひゃっひゃっひゃっひゃっ」
天野の唖然とした問いかけに、桑原は軽く笑い飛ばす。
その様子を向かいの席から眺めていた緒方は、反射的にどちらかといえば桑原の勘はシックスセンスなんて洒落たものではなく、昔話に出てくどろどろしいるお化けか鬼太郎の髪の毛アンテナだろうと思えてしまい、ボソッと
「妖怪が……」
つい、口から滑りでてしまった。
しかし、本当に緒方自身、無意識に呟いたものだったから、隣りに座るアキラでされ気付かないほど小さな呟きだったのに、アキラより遠い位置である向かいに座る桑原の耳には届いたらしい。
「何か言うたか?緒方くん。最近耳が遠くなってのう。どうも聞き取り難いんじゃ。もう少し聞き取りやすいよう大きい声で言ってくれんかの?」
空とぼけて耳を小指で掃除しながら桑原が聞いて、狸ジジイが!と緒方が罵倒してもそれは心内だけで、表にはおくびにも出さない。
さすがに慣れた様子でニコリともせずタバコを吸う振りをしてかわす。
「何も言ってませんよ。空耳ではないですか?やはりお歳なんですよ」
桑原と緒方の間で火花が散り、お馴染みとなった盤外戦が繰り広げられる。
「緒方先生も進藤くんに前々から目をかけていらっしゃいましたね。進藤くんが院生試験を受ける折は緒方先生が推薦されてますし、なによりまだ進藤君が正体不明だったsaiとして打っていたネット碁で2度も対局している」
桑原では記事になりそうな話は聞けないだろうと、さっさと見切りをつけ、天野はちょうどいいと桑原から緒方に話を振った。
「目をかけるというか・・・」
話始めた緒方に部屋中の視線が集まる。
saiの正体について緒方が初めから知っている知っていないは別として、はやり思うところがあってヒカルを気にしていたのがバレてしまい、どう答えるべきか迷い言葉が詰まってしまった。
ヒカルがsaiであることは、言葉の駆け引きが未熟なヒカルを上手くひっかかけ、そうと気付かせずに白状させた。
だが、最初に緒方がヒカルに興味を持つきっかけはというと、
「俺がアイツに興味を持ったのはsaiとは無関係ですよ」
そこまで言って緒方は視線を隣りのアキラに向けた。
緒方がはじめヒカルに興味を持ったのは子供囲碁大会での口出しと、まだ小学生だったがプロ並の実力を持っていたアキラに勝った対局の為である。
それが無ければヒカルに興味を持つことなく、院生試験も推薦しなかったと断言できる。
だが、肝心の対局内容まではアキラが黙秘したことで緒方は棋譜を知らず、曖昧に誤魔化した。
アキラにとってみれば負けた対局。
アキラが言いたくないのであれば、それをわざわざ口にするのは野暮だ。
案の定、アキラは緒方から視線を向けられて、口をぐっと噤み俯いた。
もしその対局棋譜の内容が分かれば、いくらかヒカルの棋力の秘密について近づけるかもしれないと思うのだが、ヒカルとの対局を話すつもりはアキラにはないのだ。
しかし、アキラが秘密にすればするほど興味が募るのは当然だろう。
アキラくんから進藤に矛先を変えるべきか。
あっちは逆にガキの意地で口を閉ざしそうだが、囲碁の棋力と違って言葉の駆け引きはとんと下手だからな。
が、ここでもアキラは口を開くまいと思っていた緒方の予想を裏切り、
「2年前、父の経営していた碁会所で進藤とボクは対局しました。それでボクは初めて進藤を知りました……。」
「えっ!?塔矢君!進藤君と2年前に対局していたのかい!?2年前なら、進藤君もだけれど塔矢君もまだプロになってないよね!全くの偶然?」
ヒカルとの出会いを語り始めたアキラに、それまでブラブラさせていたペンをぐっと握り、天野が身を乗り出し話にくいつく。
驚いたのは天野だけでなくモニター室にいた全員である。
院生になる前の進藤の話は、白川が行っている囲碁教室でヒカルが短い期間通っていたというくらいだった。
そこに全く別の話となれば、アキラは口を割らないだろうという予想が外れた緒方を含め、皆興味を惹かれないわけがない。
全員の注目がアキラに集まる。
「そうです。ボクはまだプロ試験を受けることすら迷っていた時期でした。プロになることに疑問はありませんでしたが、このままプロになってもよいのかとも迷っていたんです。そんなとき、進藤は碁会所にやってきたんです」
「進藤君は碁会所に1人で来たのかい?誰か保護者とか大人の連れは?」
淡々と語るアキラに、記者暦の長い天野が的確な質問を入れる。
昭和の時代なら話は別だが、平成のこの現代で、子供が1人で碁会所に足を踏み入れるには敷居が高い。
碁を打つ席料の問題ではなく、碁をする子供が少なく、大人しかいない店に小学生が入るには気後れするのだ。
だから天野がヒカルが1人で来たのかと問う意図は理解できる。
そこにヒカルが誰が別の大人と連れ添って来たのではないかと いう推測と共に、その人物がヒカルが碁を打つきっかけとなり、碁を教えた重要な人物ではないのかと予測しての質問だった。
しかし、アキラはふるふると2度左右に首を振り、否定した。
「1人でした。碁会所に来ることも初めてだったようで、席料のことも知りませんでした。店にボクしか子供がいなかったので、同じ年頃の相手と打ちたかったらしい進藤はボクを見つけ、一緒に打とうと誘ってきました」
語りながらアキラは脳裏に初めてあったヒカルの姿が思い出される。
明るく活発で朗らかに笑い、小学校の運動場でサッカーをしている同じクラスメイトたちのような、言ってしまえば碁に親しいとは思えない印象だった。
声をかけられたときも、一瞬どうしようかと迷いつつ、アキラを同じ年頃というヒカルの言葉に、無意識に惹かれていた。
同じ年頃の子供と遊ぶという経験が、他の子供に比べ自分が劣っていることくらい自覚していた。
けれど碁の道に進むことを決めていた自分と、まだおぼろげな将来の夢を抱き、碁に興味のないクラスメイトと会話する話題はほとんどない。
自然、クラスの中でも浮いた存在になっていたのだが、棋力は期待できなくても、大人ばかりと打つのではなく同じ年頃の子と碁を打つのもたまにはいいかもしれないと思い、アキラは軽い気持ちで対局を受けた。
「棋力がどれくらいかと尋ねれば、それなりに強いと言い、石を打てば、人差し指と親指で石を持つ初心者丸出しの打ち方。それを見て、僕は彼が囲碁を初めて間もない本当の初心者なのだと思いました。でも……ボクは負けました。それも進藤は明らかに力を抜いていた。彼はボクに指導碁を打ったんです」
「指導碁!?進藤が君に!?」
眼差し鋭く声を荒げたのは、天野ではなく隣りに座っていた緒方である。
師である行洋の息子として、同じ塔矢門下として、アキラが幼いころから緒方は知っている。
だからこそ、アキラがヒカルと初めて対局した時、アキラの棋力がどれくらいのものだったのか緒方は知っているし、アキラが対局に同じ歳のヒカルの負けたことは知っていたが、その対局内容までは知らなかった。
だが、よもやヒカルがアキラに指導碁を打っていたとは全くの予想外だった。
当時のアキラは十分プロ並であり、現にプロ試験に合格し2段だった芦原でさえ負けることもしばしばだった。
そのアキラ相手に指導碁を打てたなら、その時点でトップ棋士かそれに追随するくらいの棋力が無ければ、到底為し得ない芸当だ。
「はい。間違いありません」
はっきり頷いたアキラに、周囲から驚愕の溜息が漏れた。
それを受けて、最初にこの話題の質問を振った天野が、
「緒方先生はそのことをご存知だったんですね?だから進藤君に興味を持たれ、院生試験を推薦したと」
「ええ……。だだ、アキラくんと進藤が対局し、アキラくんが負けたことは知ってても、内容指導碁までは知りませんでしたよ」
道理でアキラがなかなか口を開かないわけだ、と緒方は改めて納得した。
ただ負けたわけではなかったのだ。
それまで同じ年頃の子供相手に負けるどころか、気を使って勝ちが過ぎないように打っていたアキラが、反対に指導碁を打たれたのだから。
同じ指導碁でも緒方や父親の行洋がアキラに指導碁するのとでは全然話が違う。
自分と同じ歳で、自分以上の碁を打つ相手が存在する。
ヒカルと対局した直後のアキラの驚愕は想像を絶するものだったろう。
「初心者同然の打ち方……しかし、進藤君はその時点で、プロ以上の棋力を持っていたわけだ。それなら進藤君がインターネットの碁でsaiとして騒がれ、そして塔矢先生と打つことでさらに実力を向上させることは可能なわけか……」
天野の一見して辻褄は一応通っているように緒方には見えた。
小学6年だった段階でプロ以上の棋力を持ち、それを隠し続けながら棋力を磨き向上させたのだと。
しかし、アキラと出会う前となれば、さらに謎が深まる。
白川の囲碁教室に通い始めたのは2年前。
行洋の碁会所に現われたのも2年前。
そして子供囲碁大会に現われ対局に横槍を入れたのも2年前。
ヒカルと囲碁の接点は、全て2年前から始まる。
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06 敦盛
自分のパンチは効いているのか?
全く効いていないのか?
盤面はヒカルが優勢だが、芹沢も黙って受けているだけではない。
受けない分の損を承知で、ヒカルの石を攻める。
芹沢の攻撃が決して効いていないということはないだろう。
しかし、盤面からも、そして視線だけ向けて対局相手の様子を伺ても、ヒカルの表情からは何一つ感情が読み取れない。
(この子は、こんな目で碁を打つのか?)
冷静、というのも違う。
カフェで打ったときは、間に摺りガラスがありヒカルの表情を見ることはできなかったが、まるで盤面にただ視線を向け、対局を見守るだけの傍観者の目だと芹沢は感じた。
持ち時間三十分を残して、芹沢は投了し、観戦していた桑原や倉田も交えて検討まで終えたのは、夜も8時過ぎだった。
それぞれが家路についたり飲みに出る中、棋院の玄関を出たばかりのヒカルを芹沢が捕まえる。
「進藤君は碁を打つのは楽しいかい?」
「プロになったら、楽しいとか楽しくないとかそんなことは言ってられないと思うんですが」
いつものリュックを背負い、振り返ったヒカルが少し思案して答える。
誰もが納得する模範回答だ。
この回答には、芹沢も同じプロ棋士として苦笑いするしかなかった。
「質問の仕方が間違っていた。すまない。私が聞きたいのは何故君は碁を打つのかということだ。君は強い。しかし、今日打ってみて、君が碁にちゃんと向き合っているのか私には疑問に思えた」
「何故打つのかって、それは……俺にとって碁は絆だから」
「塔矢先生との?」
問われてヒカルは否定した。
違う
塔矢先生と佐為と俺の3人だ
けれど、それは心の中だけの呟きで、現実には芹沢に無言の微かな微笑みを作るだけで。
そんなヒカルに芹沢は言いにくそうに口を開いた。
「もしかしてと思うのだが、進藤君は塔矢先生が亡くなられたのを自分のせいに考えてはいないか?」
息子であるアキラにさえもヒカルは言われていない。
アキラが真実そう思っていないのか、思っていても単に口に出して言わないだけなのかは分からなかったが、ヒカル自身思ってはいても誰かに面と向かって言われたのは、これが初めてだった。
そのため反応が遅れてしまったヒカルが、問われた質問に対して肯定したのだと受け取った芹沢が
「先生は心筋梗塞で亡くなられたんだ。君と打ったことが原因で亡くなったという事実はないんだよ」
事実はなくても、約束はちゃんと現実にあったんだ
そうヒカルは言い返す代わりに
「……楽しかったんです。塔矢先生と打つの、本当に、すごく、すごく楽しかったんです」
過去形で締めくくった後、芹沢の返事を待たず頭を下げ走り行くヒカルを、もう一度引き止めることは出来なかった。
■■■
プロ棋士、それも高段位、またタイトルホルダーやそれに準じる挑戦者、リーグ戦出場者となってくると、スポンサーや関係者たちとの付き合いが、仕事の一部となってくる。
その中で、6冠を有していた行洋が亡くなった今、タイトル保持者は本因坊の桑原以外おらず、その仕事はその他のトップ棋士一同に分配されることになる。
だが、緒方は事務員から戸惑いがちに確認を取られ、吸おうとしていたタバコを、箱の中に戻した。
「梨川先生と食事ですか?それは一向に構いませんが」
変に棋士に絡み、強引に酒を勧めたり、怪しい投資や宗教を誘ってくることもない。
梨川治夫(なしかわはるお)という人物は、棋士たちの間で、性質の非常に良い上客として周知だ。
家柄は江戸時代初期より続くという舞踊の家元で、名は大っぴらに出ないが大会が開催される際は、援助や後援として囲碁界を支えてくれる貴重なスポンサーであることに変わりない。
もちろん棋士達のスケジュールを管理し、相手側と間にたち食事などの日程を調整する事務方も当然、梨川の人となりは知っているだろうから、わざわざ確認を取りにくる理由が分らなかった。
特に行洋とは昔から親しい間柄ということで、弟子の緒方たちや息子のアキラも同席したことが何度かある。
「どうかしたんですか?」
緒方が問い返すと、
「それが、今回は進藤君も一緒にどうかと言われまして……。どうも塔矢先生と進藤君の付き合いがあったことが梨川先生の耳にも入ったようで、進藤君と是非話してみたいということらしいんです」
言い辛そうに事務員は打ち明けた。
塔矢門下と、行洋が内密に会って対局していたヒカルという微妙な関係に、事務員はさしあたり塔矢門下筆頭である緒方の意向を確かめたいらしい。
ヒカルが行洋の隠し弟子というわけではないようなので、塔矢門下との間に波風を立てることはないが、全く何もないということでもない。
己の師が、誰にも、門下にも内緒で打っていたというのは、決していい気持ちはしない筈だろうと。
今回、塔矢門下を食事にと打診してきた梨川の意図は、塔矢門下を引き合いにヒカルと会うのが目的だろう。
自身がsaiであると打ち明けてから、それを証明するような対戦成績と、先日のリーグ戦でも芹沢と打った対局は海外からも高い注目された。
スポンサーの中にはさっそくヒカルの後援会について打診してくるところも出ている。
将来有望な若手棋士を、早いうちに手をつけておきたいのだろう。
囲碁界について多少なり齧っていれば、ヒカルがタイトルを取るのは時間の問題と言われているのも暗黙の周知だ。
タイトルホルダーになるだけの実力を持ち、話題性だって十分過ぎるほどある。
「俺は進藤が一緒でも問題ありませんが、他に呼ばれているメンバーは誰ですか?」
「塔矢君と芦原先生を入れて3人です。他の方はどうしてもスケジュールの都合が合わなくて……」
「では、アキラ君と芦原は梨川さんと何度か会ってますし、俺から話しておきますよ。進藤はそちらから連絡お願いします」
「すいません。助かります」
ほっとした表情で一度頭を下げ、その場から去っていく事務員の背中を見送ってから、緒方はスーツの内ポケットから携帯を取り出した。
■■■
「舞ッ!?そんなの見ないといけないの!?ご飯食べるだけじゃなかったの!?」
スポンサー関係者と付き合い=仕事で食事をするとしか聞かされていなかったヒカルは、待ち合わせ場所にやってきた緒方から詳細を聞かされて、目に見えて不満顔になった。
家に棋院の事務員からかかってきた電話では食事のことしか聞かれていない。
対局で必ず勝ち、リーグ戦へ出場が決まったあたりから、ヒカルの周りに急にそういったスポンサー周りの付き合いという食事会の回数が増えた。
大会の賞金を出してくれるスポンサーがなければ、囲碁のプロ自体が存在できない。
ヒカルだって理屈は分る。
だが、分っていても誰かの機嫌を取るというのは、ヒカルはまだ慣れておらず、どうにも苦手だ。
何度かの食事界で覚えたのは、小奇麗な格好な格好をすることと、『期待している』という言葉に対して、頭を軽く下げて『頑張ります』と返事することの二つ。
そんなヒカルが思っていることを見透かしたように、緒方は呆れ顔で、
「相手は能の家元だ。いつも昼に舞台を見て、そのまま会食という流れだ。覚えておけ」
「のぅ?」
緒方の説明が分らなかったヒカルが、少し斜めに首をかしげた。
「能っていうのは舞とか芝居みたいなものだよ。緒方さんも頭ごなしに言うことないじゃないですか。そんなに心配することないよ、進藤君。梨川先生はとても穏やかな方だし、若手棋士にも変な絡み方なんてしないから」
緒方に一言物申し、不安顔のヒカルに芦原は人懐っこい笑顔を見せた。
――俺、じいちゃんに連れて行かれた芝居でも、始まって5分で寝る自信あるぜ。それなのに全然自信ないんだけど
――私見たいです!
これから碁を打つわけでもないのに、佐為は目を輝かせている。
――お前、舞とか興味あったのか?
――まだ私も生きていた頃はよく舞ったものです。それにこの時代に戻ってからは一度も見ていませんが、虎次郎と一緒にいたときも、年に一、二度くらいの頻度で見ましたが、とても素晴らしいものでしたよ
瞳を閉じ、江戸時代の頃を懐かしく思い出す佐為の隣で、ヒカルはどうやれば寝ないでいられるか無い知恵をかき集める。
その横から鋭い視線を向けて、
「能の内容は分らなくていいから、とにかく寝るな。寝るのが一番失礼にあたる。しかも進藤、梨川先生に初めて呼ばれていることを忘れるな。梨川先生はお父さんとも昔から親しい付き合いのある方なんだ」
つまり塔矢行洋の名に泥を塗るなと、緒方に続きアキラもヒカルを一睨みして釘を刺す。
その名を出されてしまえば、ヒカルも易々と寝るわけにはいかない。
もし眠ってしまい、体が船でも漕いでしまえば、アキラの雷がヒカルの頭上に落ちることは絶対だ。
――佐為、俺が寝そうになったらどんな手を使ってでも起こせっ
――ハイ!任せてください!
――けど、この際、塔矢先生の知り合いなのはいいとして、塔矢門下が呼ばれるのは分るけど、何で俺まで……
『sai』の名前が一人歩きしている気配をここでも感じて、ヒカルは気取られないようそっと溜息をつく。
対局以外のこういった付き合いに呼ばれると、高い確率で遠まわしながら好奇の眼差しで、『sai』として打っていたことと、行洋との密会を聞かれた。
前者は腕試しと軽い遊び半分の気持ちでネット碁をはじめたと答えたが、後者は上手い回答が今でも思いつかず、曖昧に笑うしかできない。
今回も行洋との関係を聞かれてなんと答えるか。
しかも、今日はアキラや緒方ら塔矢門下も一緒だから、下手な嘘もつけないのが、ヒカルの目下一番の悩みだ。
ヒカルが到着し全員揃ったことで、緒方たちの後ろについてヒカルも劇場に入る。
開演間近であり客席もほとんど埋まっていたが、緒方たちは来賓としてゲスト席に案内されたことで埋まった席の合間を通ることなく、着席することが出来た。
客層はやはりというべきか年配相応の顔ぶればかりで、未成年はアキラとヒカルの二人だけの可能性が高い。
照明が弱まり、客席が急に静まり返る。
佐為が座る席は無かったが、席の前は通路であったため、通路との段差に佐為は腰を下ろしながら、幕が上がるのを待つ。
――演目は何なのでしょう?
――俺にとっちゃどれも子守唄だ
投げやりに返事して、ヒカルは客席に入る前に、気休めにでもなってくれればめっけもんと自販機で買ったコーヒーを一口飲む。
そこに幕の内側からポンと一つ包みの音が鳴り響き、開幕した。
幕が上がると、本格的な堤や太鼓の音と共に、重低音の声を長く響かせた歌が響き渡る。
そして舞台脇から能面をつけ顔を隠した舞い手が現れる。
劇場に入る前、ヒカルが危惧したとおりすぐに眠気が襲ってきたものの、慣れないブラックコーヒーを飲んだお陰か眠気に負けてしまうまでには至らなかった。
これなら、もう一本ブラックコーヒーを買っておけばよかったかとヒカルは思ったが、舞台の真っ最中にプルトップをぷしゅっと音を立てて開けるわけにもいかないかと考えを改め、舞台が終わる最後までもたせるために、コーヒーをちびちび飲むことにする。
そうしてヒカルが眠気と戦い三十分たった頃だろうか。
舞台が始まってしばらく楽しそうに能を見ていた佐為が、口元を袖で隠し、少し怪訝な表情になっていることにヒカルは気づき、
――佐為?どした?
――……この今、舞台で舞っている『敦盛』……私が知っている『敦盛』とは少し舞い方が違っているのです
――『敦盛』?これ幸若舞っていう舞なんだろ?
開演前に渡されたパンフレットに、ヒカルは軽く目を通したが、今日行われる能舞は大きな文字で『幸若舞』と書かれていた。
――『敦盛』は幸若舞の演目の一つです。かの織田信長公が本能寺の変で最期に舞った舞も、この『敦盛』の一文なのですよ
――人間五十年とかいう?
――そうです。『人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり』
じっと舞台から目を離さずに佐為は答えた。
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07 縁
なんとか2時間の公演を眠ることなくヒカルは乗り越えられた。
眠らずに済んだ最大の要因は、開始30分あたりで佐為と話したことだろう。
舞い方どころか、芝居以上にゆっくりとした動きの能の舞台は、ただ歩いて扇をパタパタ扇いでいるようにしか見えなかった。
眠気が最も襲ってくる舞台開始30分に佐為と会話したことで、随分と眠気が紛れてくれた。
お陰でヒカルはアキラのお小言を聞かずに済むと、心の中で胸をなでおろす。
能の舞台が終わって、緒方たちの後をついていくと、劇場から歩いて数分のところにあるホテルへと辿り着いた。
30階あるという高層ホテルの会席料理の店。
すでに予約してあり、待たされることなく奥の座敷部屋へとスタッフに案内される。
ヒカルも何度か仕事としてこういった場所で食事したお陰で、体がカチカチになるほど緊張することはなくなったが、それでもアキラのように完全に慣れたわけではない。
下手に動くのではなく、分らないことは分らないと言い、自分以外の他に誰かがいればその者をよく見て真似ればいいのだ。
ただ、今回は食事する店が会席料理専門店なので、フレンチなどの洋食の店より、安堵していた。
和食系なら行洋と会っていた店でよく昼の御前でヒカルはいろいろ珍しいものを食べさせてもらっていたから、それの素材が何で、どういう風に調理され、どういう作法で食べるのか、行洋とお店の女将さんに教えてもらっている。
部屋に行洋とヒカルと佐為だけだったので、ヒカルは何も恥ずかしがることなく、尋ねることが出来た。
当然ながら、ヒカルたちの方が店に先に着き、お茶とお茶受けの菓子だけ出された机に座り、待つこと15分ほどして相手方が到着し、70近くと思わしき老人を先頭に部屋に入ってくる。
緒方が挨拶をしている後ろで、もっと待たされるだろうと思っていたヒカルは、予想外に早く着いた先方に、軽く頭を下げながら佐為に話を振る。
――えらく早かったな
――舞台に出ていたのではないのでしょうね。もし出ていれば、舞手も謡い手も着替えるのに時間がかかるでしょうから
――それもそうか。あんなゆっくりした舞でも、あんなじいちゃんなら衣装着るだけで大変そうだし
恐らく、今日ヒカルたちを食事に招いた能の家元で梨川本人であろう老人に視線だけ向けて、ヒカルはひとりごちる。
上品な色合いの着流しと羽織を着て、背は曲がっておらず真っ直ぐな姿勢で正座している。
髪の毛は真っ白だったが、はげているところはなく、短く切りそろえた髪をオールバックに流していた。
顔には歳相応の皺があり、芦原から聞いていた通り穏やかそうな顔立ちに、伏せ目がちな目元だった。
けれど、食事に招いてもらったことに、緒方が棋士の代表となって会話している傍で、不意にヒカルは梨川と呼ばれる老人と視線が合い、ドキリとした。
ついっさき舞台ではもう舞うことは出来ないだろうと思えたのに、静かで揺ぎ無い強さが瞳の奥にあった。
こういう瞳をヒカルはよく知っていた。
二人だけしかいない小さな離れで、碁盤を挟んだだけの近い距離から眺めては、その瞳の強さに憧れたのだ。
ヒカルの思考をよんだ佐為も、ヒカルと同じことを思う。
碁と舞という違いはあるが、梨川という老人も高みを極めんと志す者なのだと察する。
――行洋殿に似てますね
――うん
ヒカルは視線を逸らせなかったが、梨川の方が小さく微笑み、話をしている緒方の方を向いたため視線は逸れてしまう。
部屋に全員が揃ったことで、時間を計ったように懐石料理が運ばれてくる。
お腹が空いていなくても、食事が前に出されれば無かった空腹も、ヨダレを垂らすのが成長期だ。
隣に座るアキラが食事に箸を付けたのを見計らって、ヒカルも自分の食事に失礼にならない程度に気を付けながらがっつく。
何かを口に入れていれば、間に困って自ら話さなくていいというのも、これまでの経験から覚えた知恵である。
会話はもっぱらヒカル以外の塔矢門下と先方で、談笑を交えながら和やかな雰囲気が流れる。
何度か会って食事しているだけあり、相手方に下手に気を使わず会話できるのが大きい。時折、アキラも気の利いた相槌を入れている。
何も話さずヒカルは黙々と食事していたが、何を離せばいいのか分らないし、無理して会話に入る必要もなさそうなので、話は緒方たちに任せるのが最良だろう。
「もう現役は退いたよ。今は後輩の指導ばかりだ」と梨川。
「勿体無いですね。梨川先生の舞がもう見られないなんて」
「煽てられても困るよ、緒方君。どうにも歳には勝てんのが人間の限界なのだろう。だが、引退したからこそ、これまで舞台スケジュールやどうにもついて回る周囲のしがらみからも開放されて楽になった部分もある」
「先生は今、後輩の指導と同時に、舞の研究をされていらっしゃるんです」
と梨川の隣に座っていた上野という40代くらいのスーツを着た男が説明を付け足す。
会話の流れに乗って緒方も問い返す。
「舞の研究?」
「昼間、『敦盛』をごらんになったでしょう?だが、あれは古く江戸時代に舞われていたものとは微妙に違っているのです。戦時中に一度『敦盛』の舞が廃れたことで、現代に伝わっている舞と平安時代に舞われていた『敦盛』は舞が違うのです」
「なにしろ口伝で伝わってきた文化だ。残っている文献も限りがあって作業は難攻しておるが、やりがいはある。私が生きているうちにどうにか復活させたいものだ」
上野の言葉を浚い、梨川がこれから自らが選んだ道を語る。
――それで舞の内容が所々違っていたのですね
ヒカルの中学の教科書でしか、世界が二つに分かれて戦ったという戦争を佐為は知らなかったが、それで一度能の文化が廃れてしまったのは素直に驚いた。
虎次郎と一緒に読んだ書物に、戦国の世でも人心が廃れたと書かれてあったが、それと同じように能だけでなく他の文化も廃れたのかもしれない。
――そういや先生が戦時中は娯楽は敵だったとか言ってたな
――残念なことです。でもこうしてまた能舞の文化が復興したのは素晴らしいことです。もう二度と廃れることがないよう大切にしないと
梨川たちの会話を聞きながら、佐為と二人でヒカルはそっと話をする。
おかしなことに、梨川は自らヒカルに話を振ることはなかった。
最初に緒方がヒカルを紹介したのと、途中、上野が連勝を続けるヒカルの話題をさらりと振っただけで、他のスポンサー関係者のようにしつこく碁の勉強方法や、行洋との関係について聞いてくることはなかった。
しかも食事が終れば、相手方持ちでタクシーで家まで真っ直ぐ帰ることが出来たのだ。
さすがにそれはとヒカルは断ろうとしたが、梨川は気にしないでほしいといい、横から緒方が何度も断るのは失礼だとヒカルを下がらせた。
まさに至れり尽くせりの食事会だった。
仕事として付き合いで食事してきたこれまでと比べようがない。
満腹になったお腹をさすりながら、ベッドに仰向けに寝転び、昼間の出来事を思い出す。
――単に塔矢門下の前だから、話したくてもできなかっただけかも
――それも全く無いとは言い切れませんが、あのご老人は自身の好奇だけを優先して場の雰囲気を省みない会話はしないと私は思います
――どうして?
――あの老人がヒカルたちを招いたのです。招いた相手に気持ちよく会話してもらい美味しい食事をしてもらいたいというおもてなしの心ですよ
――おもてなし……スポンサー関係とかでする食事の相手も、みんなこんなだったらいいのに
心底思ってヒカルは大きな溜息をつく。
その場にいるみんなで食事と会話を楽しむ場だったと思う。誰も気分を害すことなく、気を張らず楽しめた。
その空気を作っていたのは、恐らく梨川という老人の存在であろう。
どこか一本筋が通っているような梨川の姿勢が、周囲に良い雰囲気を作り出していたのだとヒカルは思う。
□
塔矢門下らと共にヒカルが梨川と会食してから約3週間後だった。
断れる指導碁は全て断ってほしいと事務方には伝えてある。なのに連絡してきたということは事務の方では指導碁を断り難い相手からの申し込みだったということになる。
指導碁の予約が入ったと連絡を受けた直後、一瞬誰だろうとヒカルは首を捻ったが、相手が梨川と聞かされ、安堵と不安が心の中で激しくせめぎあった。
梨川なら会食のときのように相手が聞いて欲しくないことを好奇心で強引に尋ねてくることはないだろうと思う反面、指導碁という名目で二人っきりになれたからこそ尋ねてくるようにも考えられる。
前回と同じように、今度はヒカルの家までタクシーがやってきて梨川の自宅まで連れて行ってくれる。
指導碁をする客にそこまでさせていいものか、心苦しいヒカルの後ろで、見送る美津子は手を振りながら頭を押さえていた。
「こ、こんにちは」
梨川の家にやってきたヒカルが玄関先でペコリと頭を下げる。
会食の時にも思ったが、大人の付き合いに慣れているアキラと対称的なほど、落ち着かない素振りのヒカルに、梨川は歳相応の幼さと未熟さが入り混じったような印象を受けた。
大人の付き合いに不慣れな部分があるとしても、ヒカルの碁の実力までが未熟というわけでない。
行洋の突然の逝去と同時に現れた稀代の才能の持ち主は、小さい頃から知っているアキラ以上の、200年に一人の逸材と言われるほど、早熟で圧倒的な実力を秘めているというだから。
――さて、塔矢先生はこの子に何を見たのか
梨川が舞を一生の生業と決めたのと同じで、行洋にとってそれは碁だった。
目指すものは違っても、ただ一つを極めんとする志は何も変わらない。
その所為か、歳は少しばかり離れていたが、梨川と行洋は気が合い、親しい付き合いをするようになったのだ。
先日の会食で初めて梨川はヒカルを見た。
話すのが苦手なのか、話しかけられたくないのか食事を黙々と口に運んでいたヒカルを無理に会話の中に入れることはしなかった。
もちろん梨川とてヒカルから直に話を聞いてみたい気持ちはあったが、緒方たち他者がいる前で無理に聞いて、ヒカルを気分を害させてしまい、次から誘って断られても困ると気持ちよく食事だけしてもらうことにしたのだ。
ヒカルを自宅に招き入れ、碁盤が用意されてある部屋に案内する。
案内されたヒカルは立ったまま中庭を眺め、
「キレイな庭ですね」
中庭に面している部屋であるため、外の景色が一望できる。
そこの広がる日本庭園にヒカルは懐かしそうに呟いた。
行洋と会っていた店の庭もきれいに手入れされていたが、梨川の自宅の庭も、負けず劣らずの見事さで、ヒカルの心に懐古の気持ちが沸き起こる。
薄い雲が流れる快晴の天気のお陰で日当たりのよい部屋は、とても気持ちいい。
「ありがとう。いつもね、この部屋で庭を眺めながら塔矢先生に指導碁を打ってもらっていたんだよ。塔矢先生もよく庭のことを褒めてくださった」
そう言い終わると、梨川は碁盤の向かいに置かれた座布団に座るようヒカルを促す。
ヒカルも素直に応じて碁盤の前に正座する。
――梨川さんの棋力がどれくいらいか分りませんが、ヒカルが指導碁打ってみては?
――でも……
ヒカルは指導碁を渋る。
――アキラたちプロの棋士らは誰も見てません
だからヒカル自身が打っても恐らくバレはしない、とGW前のセミナーでヒカルが佐為に言った言葉を、今度は佐為が返す。
それに複雑な気持ちになりつつヒカルは碁笥を手元に引き寄せた。
打ち始めて20手目近くで、梨川の棋力を大体把握する。
アマ4段はあるだろう。それよりヒカルだけでなく佐為も目を見張ったのは、梨川の打ち筋が変な癖がなくとても真っ直ぐで筋が良かったことだった。
変な癖がある相手を指導するより、遥かに指導しやすい。
行洋と親しい付き合いをしていて、時々指導碁を打ってもらっていたというからその所為だろう。
行洋がどれほど丁寧に梨川に指導をしていたか、碁盤から伺い知れた。
打っている碁はヒカルが指導碁を打つという内容だったが、手入れされた庭を見たときからずっと。もっと遡れば会食で梨川の瞳に行洋と同じ瞳の強さを見つけてから、ふわふわと心地よい概視感にヒカルは満たされていた。
離れの部屋で指導碁を打ってもらった行洋の姿が梨川に重なる。
ヒカルの打つ番になったとき、
「……梨川さんは、他の人のように俺がどうやって碁の勉強してたとか、塔矢先生とどうやって打つようになったのかとか、聞かないんですね」
「その様子だと、すでにたくさんの人から聞かれたみたいだね」
「オレは梨川さんも知っての通り、塔矢先生と誰にも内緒で打ってました。内緒にって最初にお願いしたのはオレです。誰にも知られたくなかった」
聞かれてもいないのに、ヒカルはポツリポツリと話し始める。
梨川が察したように、すでに数え切れないほどヒカルはウンザリするほど聞かれて、その全てを曖昧に誤魔化した。
なのに、目の前の梨川には何も聞かれていないのに、ヒカル自ら話そうとしている。
梨川と行洋の姿が重なるからだ。
だから、懐かしさが嬉しいのに、梨川の目が見れなくなる。
「そうか」
ヒカルの話にそれだけしか返さない梨川に、ヒカルは俯きながら
「何故って、どうして内緒にしたのか?って聞かないのですか?」
「知りたくはあるが、それを承諾したのは塔矢先生ご本人なのだろう?それを私がどうこういう筋合いはないと思う」
「先生はたくさんタイトル取ってて、対局スケジュールもすごくつまって、でも佐為(オレ)と隠れて打つことで、そのスケジュールはもっと大変になっていたと思う」
梨川は黙ったままだった。だが、無言がヒカルの話を肯定していることになる。
「オレが先生に内緒にってお願いしなきゃ、……最初に塔矢先生と会って対局したいって手紙なんか出さなければ、先生はっ……」
死ななかったかもしれない、と言葉を続けることは、奥歯を噛み締めることで出来なかった。
佐為もまたヒカルが心の奥底で蟠(わだかま)り続けていることに気付いていたが、最初に行洋と打ちたいと願った佐為だからこそ、ヒカルにかける言葉が見つからなかった。
――ヒカル……
自分が行洋と打ちたいと願ったばかりに、ヒカルの心に深い傷を負わせてしまったという負い目が佐為の中にもあった。
実際にヒカルが言葉にして言うと、直接言葉を向けられたわけではないのに、直接責められたように胸が苦しくなる。
やや置いて梨川は閉ざしていた口を開く。
「進藤君が塔矢先生以外とは、インターネット碁という世界でのみ本来の実力で打っていたという噂を聞いたが、塔矢先生はそれに影響されたのかな」
「えっ?」
パッとヒカルは顔を上げた。
「塔矢先生が亡くなられる前、3ヶ月くらい前になるだろうか。私は先生と打った。もちろん、互戦には程遠い、こうして君と打っているような指導碁だがね」
「先生に会っていたんですか?先生はどんな感じでしたか!?」
何か体調の変化を訴えてはいなかっただろうか、おかしなところは無かっただろうかと、問い重ねるヒカルに、梨川は首を横に振った。
「特に変わった様子は見受けられなかったよ。いつものように、この縁側でこうしてのんびり碁を打った。何故だか分らないのだが、なんとなく打っているときに、塔矢先生が楽しそうにしているような気がしてね。対局中だったが聞いてみた。何か面白いことでもあったのかと」
そこまで言うと、梨川は碁笥に置いていた手を胸の前で組み、思い出すように瞼を下ろした。
「そうしたら初めてインターネット碁を打ったと笑って言われるんだよ。今まで疎遠にしていたが、たまたま機会があって打ってみたら意外に面白かったと。もし機会があればまた打ってみたいとまでおっしゃって驚いた。自分が長い年月積み重ねてきたもの以外の、全く知らない新しい何かを受け入れることはとても難しいものだ。インターネットというものが便利であることは認める。しかし、どうしても塔矢先生が碁盤ではなくパソコンに向かい合っている姿が想像できなくてね、失礼だったがつい笑いが堪えきれなかった。しかも臆面なく面白かっただの、また打ちたいだの言われるものだから、アレにはさしもの私も負けたと思ったよ」
「ハハ……」
思い出し笑いをする梨川に、ヒカルも緊張していた表情が緩み笑みが零れた。
梨川が驚き笑ったように、ヒカルも行洋がネット碁をする姿が思い浮かばなかったのだから。
「後輩への指導も確かにやりがいがあるものだ。先代から譲り受け、生涯を賭けて培ってきた技術の全てを後の者に託すのだから。しかし、まるで自分で自分の幕を引いているような感は否めない。もう自分は終ったのだと自ら認めているようで。だが、本当に自分は終ったのだと認めたくない自分も確かにいるのだよ。まだやれる、もっと、もっとやれると思っている自分が体の奥底にくすぶっている。だが、思っているだけで一歩が踏み出せなかった」
梨川の瞳が開かれ、老いても決して衰えが微塵もない強い瞳がヒカルを射る。
「今の世界に満足せず、新しい世界を受け入れていく塔矢先生の姿勢に、足踏みするだけの私の背中を塔矢先生に押してもらった気がしたよ。そうしたときに、『敦盛』の古い文献を見せていただく機会を頂いて、これだと思った。これは私でなければ出来ないものだと。失われた『敦盛』を再び現代に蘇らせる。それが私の次の目標だ」
自信溢れた顔で梨川は断言した。
舞うことは体力的に無理かもしれない。
しかし、無理になるまで舞続けたことで得たものも確かにあるのだ。
「もし、誰にも内緒で打たなければ、もし塔矢先生と対局したいと思わなければ……全部がもしも、という今更変えることの出来ない仮の話に過ぎない。だが、仮に変えれるとして、塔矢先生がインターネット碁を打つ機会を進藤君と知り合うことで得られたのなら、それ無しで今の私はなかったことになる」
「それは……」
「君が塔矢先生と会って対局していたことは、少なくとも私にとって変えたいと願う過去ではない。それに、塔矢先生を昔から知っている私だから思うのだが、もし進藤君と打たなかったらということの方を塔矢先生は残念がると思うよ?」
梨川の言葉に許されたような気がしたのはヒカルだけではなかった。
佐為もまた許されたと感じた。
ヒカルが行洋に他言無用と頼んだのは、佐為の存在を隠すためだった。そして元はといえば、佐為がヒカルに行洋と打ちたいと願わなければ、ヒカルが手紙を出すこともなかった。
不思議な縁を感じた。
佐為がヒカルに願い、行洋と打つようになり、行洋が亡くなり碁を打つことに疑問を持ったとき、行洋と知り合いの梨川が過去を肯定してくれた。
これはアキラや緒方らでは、決して無理だったろう。
プロ棋士でなく、親しい知人としての立場であった梨川の言葉だからこそ、ヒカルと佐為の心に届いた。
梨川の家から帰るタクシーの中、窓の外に視線を向けたままで
――佐為、お願いがあるんだ
ヒカルのお願いに佐為は何も答えなかったが、口元にたたえている微笑が、その願いを受け入れていた。
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08 一夜の夢幻
『どうした?』
もうすぐ夜の7時になろうかという時刻に、これから劇場に来て欲しいと上野から電話を受け、梨川は首を捻った。
自主的な練習を弟子の誰かがしていて、それで自分を呼んでいるのかもしれないと思い当たったが、例えそうだとしても時間を考えず、己が出向くのではなく相手を呼び出すというのは礼を欠いている。
『稽古か?だがもうこんな時間だし明後日も舞台があるのだろう?稽古も大事だが、舞台中はしっかり休憩を取ることも』
『稽古ではありません。梨川先生に是非見ていただきたいものがあるのです』
『見て欲しいもの?何だね?』
『夢です』
『夢?』
『見られればきっと分ります。今夜だけの、夢です』
用件を得ない内容だったが、上野の声が常になく上ずり興奮していることだけは、電話口から聞こえてくる声で梨川も分った。
己の付き人として長い付き合いもある。
上野はくだらないことで自分を呼び出すような性格ではない。
上野が何を自分に見せたがっているのか、梨川には全く検討もつかなかったが、ここまで乞われて断るのも忍びなく、簡単に出かける支度を整えると、迎えにきた上野の車に乗り劇場へと向うことにした。
だが、その劇場で思わぬ人物の姿を見つけ、梨川は目を見開いた。
「塔矢君?君も上野に呼ばれたのですか?」
足早にアキラの元へ梨川は歩み寄った。
するとアキラも梨川に気付いたのか、ペコリとお辞儀をして困惑気味に
「いいえ、上野さんではありません。理由は聞かされていないのですが、見て欲しいものがあると進藤から突然電話がありまして」
「進藤君から?」
次から次へと予想だにできなかった名前が出てきて、梨川は今度こそ顎に手をあて頭を捻った。
その様子にアキラも梨川がここへ呼ばれた目的を、自身と同じように知らされていないのだと察する。
家で棋譜並べをしていたところに突然きたヒカルからの電話。
こんな時間にどうかしたのかと問えば、一拍置いて、
『理由は言えないけど、言えないから、見せることだけしか出来ないから、お前には見て欲しいんだ』
『何を?』
『……夢、かな』
電話口の向こうにいるヒカルが、少しだけ笑ったような気がした。
理由を聞かされぬままアキラが劇場へ到着すれば、同じように呼ばれたらしい梨川も現れた。
(君は何をやりたいんだ?だいたい舞台劇場で君が何を出来るというんだ?)
今回の首謀者はまず間違いなくヒカルだろう。
しかし、アキラを呼んだ当人であるヒカルの姿は見えず、疑問だけが増えていく中、上野に案内され、梨川と共に観客席の一番舞台がよく見える中央の席へと腰を下ろした。
すぐに客席を含めた舞台の雰囲気が、これまで見てきたものと違うことにアキラは気付く。
稽古ではないというわりに、舞台の幕があがり、楽奏者と謡い手が舞台本番の衣装を着込んで、客を入れて行われる舞台に劣らない真剣な眼差しから、ピンと張った緊張感が伝わってくる。
舞台本番以上の用意と心構えだ。
アキラたちが座ったのを見計らい、客席の照明が弱められる。
鼓の一拍を置いて謡い手が歌いはじめると、舞台袖からしずしずとした足運びで舞い手が現れた。
鳥帽子、平安時代に貴族が着ていた直衣。
顔は能面を付けている。
薄い紫の地に、銀糸で刺繍が施され、照明の光に刺繍が輝き美しい。
しかし舞い手を見て、アキラはふと違和感を覚えた。
舞い手の身長が若干大人に比べ低いような気がしたのだ。
才能があれば身長など関係ないと完全に言い切れないのが舞台だ。
客によく見てもらうため、舞をより大きく見せるため、舞い手の身長は高いことに越したことは無い。
だが、今、舞台で舞っている舞い手の身長はアキラと同じぐらいの高さしかないように思える。
これまで何度か会食に招かれ能舞台を見たことがあったが、そのどれと比べても今舞っている舞い手が一番低い。
(ボクと同じ年頃の子供?しかも舞が演目の途中からだ)
舞われているのはアキラも先日見た『幸若舞』だが、初めの部分が飛ばされている。
舞い手が舞っているのは恐らく『敦盛』だろう。
恐らく、という不確定な言葉になってしまったのは、舞い方がこれまで見てきた舞と少し違う気がしたからだ。
舞う仕草の細部までアキラも全てを覚えているわけではないから、舞から受ける漠然とした印象だったが。
その違和感に、アキラは隣に座る梨川をチラリと見やり、梨川がアキラも初めてみるような驚きの表情で目を見開き舞を見ていることに気付く。
「まさか、これはっ………」
舞から視線を離さないまま、無意識に梨川は立ち上がった。
文献の中でしか存在しなかった『敦盛』が目の前で舞われている。
ただでさえ難しい古文は、解釈となるとさらに輪をかけて困難で、文が表す舞の細部がどういう仕草なのか全く分らない部分ばかりだった。
元々が舞を後世に伝えるために書かれた古文ではなく、大名公家屋敷で舞われる舞いの一つ、その美しさを讃称するために書かれた文献であることから、舞を美しい修飾語で並べ立てた比喩表現から舞の動きを手探りで探るしかない。
だが、今、目の前で舞われている舞は、文献の中で比喩された通りの舞だった。
扇の動き一つ、開きから手を返していく初動に至るまで、文献を読み漁るだけでは分らなかった舞が、一つ一つ丁寧に具現されていく。
雅(みやび)な舞だ。
謡い手の歌に合わせて舞われる『敦盛』
舞われる動きに沿って翻る袖の軌跡さえ、舞の一部となっている。
パッと目をひく派手さが落ち着き、流れるような優雅さで人を惹きつけはなさない。
「これが真の『敦盛』か……」
貴族や大名が愛し、織田信長が死を目前にして舞った舞。
その梨川の隣で能面をつけているため顔は分らなかったが、
「進藤?」
漠然とアキラは呟く。
顔を能面で隠しているため舞い手がヒカルである確証はない。
ヒカルが能舞を舞う姿など一度も見たことがなく、聞いたことも無い。
先日、一緒に舞台を見たときだって、興味の欠片もない様子で眠気と戦っていた。
なのに、
――舞っているのは、進藤だ!
舞は素人のアキラにも分るほど見事な舞で、軽やかに謡や鼓の楽に合わせて舞っている。
「アレは進藤君ではない。夢だよ。これは、夢だ。とても素晴らしい夢を、私達は見ているのだ」
舞台から視線をそらさず、陶酔したように梨川はアキラを止める。
その様子を、アキラと反対の隣から見守っていた上野が、昼間の出来事を思い出す。
何の連絡も無く突然劇場にやってきて、舞台スケジュールの打ち合わせをしていた上野を捕まえたのだ。
しかも開口一番、
『梨川先生に俺の舞を見て欲しいんです』
『舞?進藤君は舞をどこかで習ったことが?』
全く知らない相手ではなかったので、無碍に断ることはせず、とりあえず話だけでもと劇場内へ通した。
『習ったことはないです。でも、知ってるんです。江戸時代の『敦盛』を』
自信に溢れた顔でそういうヒカルに、上野はどう言ったものかと反応に困ったものだ。
舞を習ったこともないのに、江戸時代の『敦盛』を知っているとは、ヒカルが碁のプロ棋士で梨川が会食に呼んだことを知らなければ、その場で会場外に追い出していた。
『楽は鼓(つつみ)だけでいいです』
ヒカルに引く様子が見られず、少しだけならいいかとヒカルの要望通り少しだけ舞ってもらうかと、舞台に上がらせた。
それから10分後、己を含め自主的な稽古に来ていた楽奏者、舞師全員の注目をヒカルが集めるとは予想もつかずに。
一通り、舞い終えたヒカルに
<どうしてこの若者は、この舞を知っているのか?>
同じ疑問を抱いていたのは上野だけでなく、楽を奏で、謡った者たち全員が、同じ疑問を抱き、驚愕でヒカルを見ていた。
突然現れた若者が、誰も知らない『敦盛』を見事に舞って見せたのだ。
それは自分達が練習し数え切れないほど見てきた『敦盛』と違うものだったが、若者が舞った舞も間違いなく『敦盛』だと感じた。
囲碁がマグレが起きて素人がプロに勝てないように、能舞もまた素人が見よう見まねで舞うことの出来ないものである。
定石と同じで能にも基本がある。
それを少しでも外れれば、プロにはすぐに分るのだ。その舞が適当に舞っているものか、真面目に基本を押さえ舞われたものなのか。
ヒカルはまさしく後者だった。
何故、『敦盛』を知っているのかと上野が驚きを隠せないまま尋ねると、ヒカルは少し淋しげな顔で
『佐為(オレ)はこの敦盛しか知らない』
と答えた。
他の舞は舞い方知らないから、舞えないんだ、と笑って付け足して。
だが、今は鼓一つで舞われた昼以上の、驚きと興奮と畏怖を上野は覚えていた。
舞台の『敦盛』の舞が終る。
梨川とアキラ、上野しかいないガランとした舞台客席が静寂に包まれた。
それからパチパチと拍手が響き渡った。
梨川が舞い手に最大の賞賛を篭めて拍手を送っているのだ。それに続くようにして上野も拍手を送っている。
機械音と友に幕が下ろされる。
完全に幕が下りても、梨川が拍手を止めることはなかった。
ヒカルの『敦盛』を見た帰り際、タクシーを待つアキラをヒカルがバタバタと慌てて走ってくる。
その慌てようにアキラははっとして、もしかしてこんな時間に梨川を呼び出しておきながら挨拶一つしないで帰るつもりではと問う。
アキラはいいとしても、梨川に礼を欠いては大変なことになる。
そんなアキラの心配を他所に、ヒカルはムッとした顔で
「梨川先生にはちゃんとバイバイしたさ!」
「バイバイじゃなく、挨拶だ!君ってやつは……」
舞に詳しくないアキラでさえ、見とれ視線が外せないほど、さきほの『敦盛』はすごかったと思うのに、ヒカルの態度が普段通りすぎて、ついさっき見た舞は、ヒカルではない別の誰かが舞った舞に思える。
劇場から帰る方向は同じだからと、同じタクシーに二人乗り込み、帰りのタクシーの中でも話題はもっぱら囲碁についてで、『敦盛』については一つも上がらなかった。
それはヒカルが最初に電話でアキラを呼び出したとき、『言えないから、見せることしかできない』と言った言葉があったからだ。
(進藤、君は何者なんだ?)
だからこそ、心の中だけで何度も問いかけ続ける。
アキラがヒカルが舞った『敦盛』について何かを尋ねても、ヒカルは決して口を割らないだろう。
それを踏まえて、ヒカルはアキラに『敦盛』を見せたのだ。
「俺たちは碁を打ってもいいのかもしれない」
不意に窓の外を眺めていたヒカルがポツリと呟いた一言に、アキラは振り返る。
「進藤?何か言ったか?」
「なんでもない!」
ただの独り言だとヒカルは笑った。
□
高段者が対局が行われる木曜日。
昼食が取られる打ち掛けの時間、休憩室で食事を取っていたところに、どこかに行っていたらしい桑原が面白そうな顔で戻ってくる。
「進藤の後援会スポンサーが決まったらしいの。これでいちいち問い合わせしてくるスポンサー関係者の顔色を伺わんで済むと事務員が喜んでおったわ」
「そうなのですか?誰ですか?しかし、彼への問い合わせは一つではなかったんでしょうに。他を納得させ、かつ波風を立てないだけのものを別に用意したんですかね?」
乃木が桑原の雑談に乗って軽い気持ちで尋ねると、
「梨川の家元じゃ」
「梨川先生が!?」
予想外の人物の名前が出てきて、乃木は思わず声が大きくなってしまい、すぐに口元を手のひらで押さえた。
梨川が表立ってスポンサーとして名は上げないものの、棋院とは長いこと付き合いがあり援助してもらっている相手であることは、それなりに歳を取った高段者であれば、梨川の名前を知らない者はいないだろう。
家柄が家柄だけに派手に表立つことをよしとしなかった部分もある。
だが、あくまで裏方から棋院を 援助し守り立てる側の立ち位置で、表立つのを避けていた梨川がヒカルの後援として名を上げてきた。
どういう気の変わりようかと、怪訝に思わない者がいるだろうか。
「今ちょうど事務所に上野くんが打ち合わせに来て事務方と話しておった。小僧もとんでもないところを落としたものよのう。金なら誰でも用意出来るじゃろうが、家元に張り合うだけの家柄はそうそう用意できんじゃろて。ひゃっひゃっひゃっひゃ」
今のうちにヒカルを囲っておきたかったほかのスポンサー企業や個人主は、今頃歯軋りさせていることだろう。
それを想像したのか、愉快そうに桑原は高笑いする。
その話を部屋の角で昼食を取りながら聞いていた緒方は、打ち掛けの時間の終わりが迫っているにも関わらず、休憩室出て事務所の方へ向う。
そこにちょうど打ち合わせが終ったらしい上野の姿を見つけ、
「上野さん、進藤の件聞きました。梨川先生自らの意向ですか?」
挨拶もそこそこに歩み寄りながら緒方が話しかける。
緒方の姿を見つけた上野も、ペコリとお辞儀を返し、
「……そうです」
「上野さん?」
常に無く、どうもにも口が重そうな上野の様子に、緒方の眉間に皺がよる。
「緒方先生、進藤ヒカルとは何者なのですか?」
「え?何者ですか?進藤は、そうですね……前の会食で見られたとおりの子供としか」
碁のプロではない上野がヒカルの棋力について尋ねたのではなく、進藤ヒカルという人物について尋ねたのだろうと緒方は判断した。
そのため、薄い言葉であると承知でその通りにしか、緒方には言い様が無かった。
「進藤が梨川先生に何か失礼なことでも?」
いくら碁が強くても、それ以外のヒカルとなると、本当に礼儀がなっていない子供というのが緒方のヒカル像だ。
まだヒカルが院生だったときは、プロ棋士である己にむかって『あっかんべー』という悪戯までしでかした悪ガキでもある。
そのヒカルが緒方の知らないところで梨川に何かしでかしたのならば、今日の対局が終わり次第急いで謝罪しに行くと緒方が申し出ると、
「先日の会食で先生が『敦盛』の復興に努めていることは話しましたよね」
「ええ、それがどうか?」
「これは他言無用でお願いします。進藤君は、その『敦盛』を……江戸時代まで舞われていた正しい『敦盛』を舞って見せたんです」
「まさかっ!?」
ありえない、と緒方は咄嗟に否定した。
しかし、緒方の否定に上野は首を横に振ってさらに否定し、
「それに……」
言い悩みながら上野はポツリポツリと話し始める。
「私はこういう仕事柄、神社などで神や仏に対して奉納舞を舞ったり、誰か別の舞に立ち会う機会が多々あります。そこで、たまに何かの気配を感じることがあるんです。神や仏、幽霊が存在している、と明言はしませんし、何かとしか言いようがありませんが、確かに人ではない何かの存在を感じる瞬間があるのです」
緒方も神や仏、幽霊の類はあまり信じていないので上野の言い分は分る。
そして上野が言った『何かの存在の気配』も聞いたことがある。
舞に集中し神経が高ぶったことで、周囲の気配に敏感になり、闇夜に紛れた動物や昆虫の気配でさえも感じることが出来るのだと。
特に神事に関わる者たちはそれが顕著になるのだという。
その気配が、本当に動物や昆虫だけの気配なのか、それ以外の別の何かの気配なのか、現代の科学は説明出来ずにいることことも知っている。
だが、あくまで緒方は見えないものは信じないという主義だ。
幽霊を信じるという相手を頭ごなしに否定はしないが、相手は相手、自分は自分の考えがある。
「しかし、進藤君が舞っているとき、それと同じように何かの気配を感じ、そして……視界を掠めるのです。ほんの一瞬です。目で姿を捉えることができないくらいの。断片的な姿が、視界を掠めるのです。」
「姿?何が見えたのですか?教えてください」
「……はっきり姿を捉えることは出来ませんでしたし、あくまで断片的な一部分なのですが、腰を超えそうな長い髪の一部であったり、翻る直衣の裾であったり、笑う口元であったり、……とにかく、私も長く能に関わってきましたが、こんなことは初めての経験です。あの時、進藤君が『敦盛』を舞っていたとき、………確かに彼の傍で、見えない何かが舞っていた」
重々しい口調から、上野が決して冗談で緒方をからかっているわけでないことは明らかだ。
しかも気配を感じるのではなく、断片的であろうとも上野はその姿を見たのだという。
獣や虫ではなく、人の姿を。
しかもそれがヒカルの隣で舞っていたということに、緒方も驚きを隠せなかった。
「……梨川先生は何と?」
「笑って決して悪いものではないから放っておけと。梨川先生でしたら、恐らく私以上にアレが見えていたと思いますが」
「まさか梨川先生はそれで進藤の後援会会長になろうと決められたわけでは……」
上野の話を聞きながら、今回、梨川がヒカルの後援会に名乗りを上げたのはそれが理由なのかと恐る恐る尋ねる。
「それは、私からはなんとも言えません。でも、進藤君の舞を見た帰り、塔矢先生が魅せられたはずだ、と呟かれておられたんです。もしかしたら塔矢先生も何か気付いて、……いえ、私のつまらない憶測です」
行洋の弟子である緒方に確証もないことを自身の憶測だけで言ってしまったと上野はすぐさま謝り、ペコリと再度お辞儀をして棋院を後にする。
緒方も打ち掛けの時間が終わり、対局が始まったので対局場に戻らなければならず、上野の後を追いかけることができなかったが、対局中も上野から聞いた話が頭から離れなかった。
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09 『天才』ゆえに
行洋が突然亡くなったことで、行洋が保持していた6つのタイトルホルダーは空位となっている。
7大タイトルのうち、桑原の保有する『本因坊』のタイトル以外の複数のタイトルを持つ棋士の死去により、タイトルの座が空位になるという事態は、過去にも前例がなかった。
日本棋院はこの問題をどうするのか話し合った結果、リーグ戦の勝敗結果から上位2名を暫定的にタイトル戦という形にすることに決定した。
そして今期の特例となった『名人』のタイトル戦で上位2名のタイトル挑戦者となったのは、一柳とヒカルの二人が勝ちあがっている。
成績的にはヒカルがリーグ戦全勝の1位、それに一柳が2位に続いた。
すでに囲碁に寄せるメディアの関心度は例年に無く異常なほど高い。
各局のニュース番組がこぞってヒカルを取り上げ、特集を組む番組まで出てきた。
中学を卒業したばかりのヒカルが、誰よりも『名人』というビッグタイトルに近いのだ。
プロ試験に合格するまで、ネット碁で正体を伏せたまま海外のプロ棋士たちを打ち破り、亡くなった行洋と隠れた交流まであったという話題性も抜群だ。
これで周囲通りにヒカルが『名人』となれば、世界に通じる稀有な棋士としてさらに話題はうなぎ登りになるだろう。
対して日本棋院側というと、テレビや雑誌新聞で取り上げられ、多くの人に囲碁に関心を持ってもらうことこそ喜ばしかったが、実際にヒカル自身への取材となると受けていいのか、それとも断るべきか悩んだ。
初のタイトル戦で対局に集中したいだろうヒカルの気持ちもあるし、対局過多の疲労が否めない行洋の死去というまだまだ世間の記憶も新しい前例がある。
ヒカルの実力を考えれば、今回の『名人戦』以外の他のタイトルでも対局数は確実に増えていくことだろう。
いくら年齢的にまだまだ若いといっても、いきなりヒカルにまで倒れでもされたら、今度こそ棋院は世間から責められかねない。
全ての取材を断るわけにはいかない。
しかし、どの番組のどの取材をとなると、他と不平が出てしまう。
簡単にコレと決めるのも、取材内容によってはタイトル戦直前のヒカルの集中を邪魔する可能性がある。
嬉しいが同時に悩みは尽きず、ヒカル自身直接の取材は、タイトルそのもののスポンサー関係か、以前より棋院と親しく、難しい精神状態にある棋士への注意に慣れた取材関係者筋のみの限定取材に絞られた。
「新聞、いままでほとんど取り扱わなかったところまで進藤の名前がトップで出ていますね」
棋院のロビーで囲碁関係の週間雑誌や新聞が置かれているラックから、適当に新聞を取り広げた伊角が、表紙のトップに大きく載ったヒカルの姿を広げながら言う。
それを伊角の隣に腰を下ろし、横目に見やった門脇が
「テレビつけて進藤君の名前出てこない番組なんてもうないんじゃないか?アナウンサーの決まり文句は『天才進藤』だろ?彼のお陰で、この前、同じ囲碁のプロ棋士ってだけで、囲碁のルールも全く知らない女の子たちにキャーキャー騒がれたよ」
ハハハ、と門脇がまんざらでもない様子で軽口を続ける。
それは門脇だけではないだろう。
ヒカルがメディアに取り上げられる頻度が高まるほどに、世間の囲碁への関心が高まっている証だ。
現にセミナーや初心者教室は申し込みが殺到して予約待ちばかりだという。
伊角を挟み、門脇と反対側に座っていた和谷も想像を膨らませ、
「十代でタイトルか~、いいな~。十代で年収億越えとか俺も一度でいいからなってみてー」
己がタイトルホルダーになった時のことを想像する。
すでに想像の中の和谷は、多くの報道陣に囲まれながらインタビューの受け答えまで考えている。
しかし、ふと想像から現実に戻れば、イッキに覚めてしまう反動も大きい。
タイトルに手をかけたヒカルと、まだまだ予選の一番下にいる自身との差に、落胆して溜息をつかずにはいられない。
「なんか、マジで俺たちとは違う世界に行ったような感じだな」
「和谷、違うだろ?進藤が行ったんじゃなくて、俺たちが取り残された気分なだけだ」
すかさず的確な指摘が伊角から入る。
「痛いっ!痛いとこ伊角さんに突かれた!」
「あははは」
心臓のあたりを両手で押さえ、大仰に痛がる振りをする和谷に、伊角だけでなく門脇も笑みを零す。
「でも、和谷が俺は羨ましいよ」
「なんで?」
「実力を隠していた蟠(わだかま)り云々は別にして、あれだけの実力者と同じ研究会なんだ。話聞いてるだけでも勉強になるだろ?」
伊角に尋ねられ、和谷ははじめムッと顔を顰めたが、しばらく悩み、口をへの字にして頭をクシャクシャに掻いた。
院生の頃から付き合いの長い伊角に、今更見栄や虚勢を張っても仕方ない。
「……勉強になりすぎて、実力差を思い知らされない日はないよ。研究会行くたび、がっつり凹んで家帰るのも慣れた。伊角さんじゃないけど、同じ研究会ってだけで知らないやつから変な因縁つけられるのも、進藤のサイン強請られるのも、もう慣れ過ぎた!」
「あ、ソレ俺も。ちょっと知り合いって話しただけで、すごい形相で進藤のサイン頼まれて断るの大変なんだよな~」
とくに楊海からはヒカルとの対局まで伊角は頼まれる始末で、中国棋院でたくさん世話になった手前、他と同様に断るわけにもいかず、様子を見て頼んでみると返事したがまだヒカルに話せず仕舞いだ。
楊海も日本でのヒカルの対局スケジュール状況はネットで分っているだろうから、無理に対局を頼んできたりしないことで、とりあえずは助かっている。
伊角の賛同に和谷はうんうん神妙に頷く。
「とにかくアイツの読みの深さが半端じゃないんだよ。白川先生や森下先生とか研究会に顔出してるメンバーは誰も言わないけど、ウチの研究会で進藤の読みについていけてるヤツは一人もいない。あそこまで実力差を見せつけられたら、悔しがる暇もないんだぜ?まだ相手が塔矢先生や桑原先生あたりだったら納得出来るけど」
「後援スポンサーも企業じゃなく家柄正しい能の家元に決まったらしいな。ホントに進藤君はどこからそんな相手見つけてくるんだ?いや、百歩譲って見つけてもいいけど、そんな相手をどうやって落としたのか、秘訣でもあるんだったら是非教えてほしいよ」
和谷の後に続いた門脇が、開いている新聞から身体を起こし、簡単に畳んでから両腕を上で組み、大きく背伸びした。
ヒカルが相手を落としたのか、相手がヒカルに惚れて率先してなったのかまでは分らない。
けれど通例、棋士の後援会会長などのスポンサーは企業の社長や重役、地域の名主がなるのがほとんどである。
江戸時代から続く能の家元が後援会会長になったという前例は、過去、囲碁関係者の誰一人聞いたことがなかった。
それほどの名家なら援助するだけの金は持っているのだろうが、能という日本古来の伝統芸能を守る相手が、個人のスポンサーになり、表に堂々と名前を出すということは極めて異例だ。
「でも俺は、多分これが普通なんだと思うな。実力隠していた頃の進藤君が逆におかしかった気がする。こっちの方がしっくり来る」
「門脇さん?」
急にどうかしたのかと、隣に座っていた伊角は門脇の方を振り返った。
「……俺、実は前に進藤君が院生だったとき通りがかりに一局打ったことがあってさ」
「進藤が院生だったときって、まだ実力隠していたときですよね?」
「そう。プロ試験に申し込みに来たついでに、力試しに適当な院生捕まえて打ったんだ。そしたら……」
「そしたら?」
「偶然捕まえた相手は進藤君で、コテンパンに返り討ちされた」
アハハ、と言ってる門脇の口調こそ軽いものではあったが、内容そのものは決して軽くない。
まだヒカルが院生で、隠していた実力を垣間見せた貴重な証言なのだ。
聞いた伊角と和谷は二人同時に目を見開き言葉を失う。
特に和谷は門脇がネットで、プロ試験受験を一年遅らせたという噂を聞いていた。
その理由として『自分より年下の子供に完敗して、自分を鍛え直すため』という聞いた当時こそ、そこまで深く考えていなかった噂が、実は真実で、しかも門脇を負かした相手がヒカルだと分り、納得出来るような気がした。
門脇は強いが、ヒカルが本気で打ったのなら足元にも及ばなかったことだろう。
「俺の勝手な考えだけど、俺がすれ違いに捕まえたのと一緒で進藤君も警戒を解いてたんだと思う。相手の実力がどれだけとか全く分らない、偶然の通りがかりの一局だ。だから進藤君は隠していた実力を開放して俺は見事に負けた」
「そんなことがあったんですか……」と伊角。
「俺としては逆にコテンパンにされて良かったと思ってるよ。あのときの俺はハッキリ囲碁を甘く見ていた。そんな俺を進藤君が冷水ぶっかけて目を覚まさせてくれた。だから……ずっと変だなと思ってたんだよ。どうして進藤君の話題が上がらないのか。プロ試験全勝で合格とか新初段の対局とか、俺を負かしたときの実力があればもっと話題になってもいいだろうにって」
「門脇さんにしてみればそりゃそうでしょうね」
プロ以上の実力がある自らをコテンパンに負かした子供が、プロ試験全勝とは言え、それ以外で全く話題にならなかったら、和谷でも首を捻るだろう。
「まさかネットで千人斬りとか塔矢先生とこっそり打ってたことまでは知らなかったけど、今のこの状況の方が彼の実力を考えると自然な気がして、俺的にはしっくりくる」
しみじみした口調をそこで一度区切り、門脇は自分を負かしたときのヒカルの姿を脳裏に思い浮かべながら呟く。
「囲碁を覚えて一千年」
「は?なんすか?それ」
意味不明な呟きに、和谷がすぐさま問う。
「俺が負けたとき、進藤君が言ったセリフさ」
「一千年って、そんなわけ」
「もちろん子供の冗談だって分ってる。けどそう言った彼に、あの時、歳とか関係なく俺は憧れたね。自分じゃ一生かかっても追いつけないくらい圧倒的な実力で、彼がどこまで高みに上るのかその先を見てみたいって理由なく思った」
性別に関係なく自分以外の誰かに憧れを抱くのは突然で、その一瞬が記憶の中に深く刻みこまれる。酷く鮮やかで強烈で、抗(あがら)う術もなく無償に惹きつけられる。
一生に一度あるかどうかの出会いだ。
院生と侮った子供が、己が決めた道で誰よりも高みに立ち、神に愛されたとしかいいようの無い類稀な才能を持っていた。
同じプロ棋士としてヒカルの才能へ嫉妬や妬みが全く無いとは言わない。
しかし、実力を表に出し、周囲から天才の賛美されるヒカルと出会えた奇跡を、門脇は感謝せずにはいられなかった。
プロ棋士としてヒカルと同じ道を歩み、遥かな高みを目指すことが出来る歓びは何にも勝るだろう。
「もしかして門脇さん、進藤のファンだったりするんですか?」
満足そうに語る門脇に、伊角が何気なく尋ねれば、神妙な顔つきをパッと明るくさせ、
「もっちろん!彼と初めて対局したときからずっとファンだぜ。もしかすると俺が進藤君のファン一号かもな。お、噂をすればだ」
廊下の向こうから伝わってくるざわめきを耳が捉え、視線を向けたさきに、ざわめきの犯人を見つける。
玄関から入ってきたヒカルの姿に一般客がざわつき、それまでやっていたことなど忘れたように、一心にヒカルの姿を追っている。
今日はヒカルの対局はなかった筈だ。
となれば何か取材か何かで棋院に来たのだろうが、メディアで大注目を浴びるヒカルが突然現れ、棋院内がにわかに沸き立つ。
そのヒカルが、伊角たち3人の姿を見つけ、年相応の笑顔で頬をほころばせた。
「伊角さん久しぶり。こんにちは、門脇さん」
研究会で頻繁に会っている和谷には、軽く手を上げる。
「こんちは」
と、ポーカーフェイスのふりをして涼しい顔で門脇は挨拶を返す。
しかし、伊角はというと、少し考える素振りを見せた次の瞬間、ニコリと微笑み
「ちょうどお前の噂してたところだ」
「俺の?影口?」
「違う。聞いて驚け」
いやにもったいぶった言い方をする伊角に、ヒカルが無防備に近づく。
「何?」
「門脇さんがお前のファン一号ということが判明した」
「ちょっと伊角君!?」
伊角の一言に、それまでポーカーフェイスのふりを決め込んでいた門脇が身を乗り出し、いきなり何を言い出すのかと慌てて伊角の口を押さえた。
確かに、さきほど自らヒカルのファン一号かもしれないと言ったが、それをわざわざ本人の前で言わなくてもいいだろうと、門脇の顔は真っ赤になる。
「……何ソレ」
同じプロ棋士の門脇が自分のファンだと言われても、ありがとうと言うしかないが、反応に困る会話だ。
引き気味のヒカルの反応に気を良くした伊角が、口を押さえる門脇を横へそらし
「ということで、俺と一局どうだ?時間があればだが」
「うん!いいよ!今日は取材2つだけだから、それが終れば時間ある!」
「あ!伊角君!俺をダシにして進藤くんと対局が狙いか!?」
ヒカルのファン一号というのをネタに、ヒカルの関心を引きつけ、多忙でなかなか打つ機会がないヒカルと対局するのが目的だったのかと、門脇もだが、隣で大人二人で何遊んでいるんだと呆れていた和谷も食いつく。
研究会でヒカルと打てても、自分より強い相手と一局でも多く打てるのに越したことはない。
しかし、自分こそがヒカルと打つのだと言い争う3人を前に、
「大丈夫だよ、4人で打とうよ」
きょとんと無垢にのたまったヒカルのこの一言に、3人は言い争うのをピタリとやめ、お互いを交互に見やる。
「4人って、それは、俺は和谷君とってことかい?」
さすがに今日これから3人順に対局するだけの時間はない。
この場合、最初にヒカルが打つ相手を言いだしっぺの伊角と考えた場合、残る門脇と和谷が対局することになる。
和谷と対局するのもいいが、これから名人のタイトルをかけて戦うヒカルと天秤にかければ、見劣りしてしまうのは致し方ないだろう。
それは和谷にしても同じだったようで、門脇を見て固まってしまっている。
だが、ヒカルはさらなる言葉で3人を呆気に取らせた。
「違う違う。多面打ち。俺が3人同時に打つから」
たっぷり10秒は沈黙が流れただろう。
3人のうちで一番早く正気に戻った和谷が、額に血管を浮かび上がらせ、拳をぐっと握り締める。
「……お前」
ヒカルの実力はこの場にいる誰より、同じ研究会メンバーの和谷が知っているだろう。
しかし、アマならいざしらず己と同じプロ棋士相手3人に多面打ちをすると平気でヒカルは言ったのだ。
これで闘争心を掻き立てられなくては、プロの肩書きが泣くというものだ。
「言ったな、進藤……。やってやろうじゃん!舐めやがって、お前の長っ鼻を根元からボッキン折ってやる!伊角さん、門脇さん絶対勝つぞ!」
ついさっきまで言い争っていた3人がヒカル打倒を掲げ一致団結した瞬間だった。
□
帰りの電車の中で
「アイツは、人間じゃねぇ……」
そう呟いたのは和谷である。
そして和谷の呟きを隣で聞いていた伊角と門脇も、和谷に賛同するように無言を貫きそれを否定しなかった。
偶然棋院で出くわし、ヒカルに多面打ちで挑んだまではよかった。
3人のうち一人だけでも勝って、周囲から『天才』と囃し立てられるヒカルの鼻を折ってやろうと意気込んだ。
しかし、対局結果は3人ただ負けただけではなく、3人ともジゴ。
通常なら互先でジゴにはならないが、3人共に3目半で負けたのならジゴ同然のようなもの。ヒカルがワザと3つの盤面で巧妙に帳尻を合わせたのが明らかだ。
一人で対局してジゴなら自信に繋がっても、3人ともジゴとなると下手に負けるより、ショックは拡大に大きい。
そして勝った本人は、棋院を出る玄関で、再度、事務員に捕まって事務室に連れて行かれた。
「高段者と打つようになってから、進藤君さらに強くなったと思っていたけど、……あれに勝てる奴なんているのか?」
「和谷が進藤と同じ研究会でうらやましいって言ったが、撤回するっ……。お前よく進藤と同じ研究会で精神挫けないでいられるな……尊敬するぞ、俺なら無理だ」
「そんな見直し方されたくねぇよ、伊角さん」
ははは、とシャレにならない評価に和谷は乾いた笑みを浮かべるだけだ。
「今日見てた新聞にさ、進藤が『本因坊秀策』の再来だって書かれていた理由よく分かったよ。あんなヨミ、秀策以外例えようがなかっただけで、誇張表現じゃなかったんだって」
今日、棋院で開いていた新聞は囲碁新聞ではなかったが、新聞トップにヒカルの姿が映っていて何気なく伊角は取ったのだ。
キャッチは『本因坊秀策の再来』。
一般人が『本因坊秀策』と聞いたところで、頭を捻るだけだろうが、記事を書いた記者も、一般人受けするありきたりな単語ではなく、ヒカルに相応しい言葉がそれしか見つからなかったのかもしれない。
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10 名人戦第一局
名人戦第一局は大阪府のホテルで二日間かけて行われる。
二人の対局者は前日に大阪入りし、軽い前夜祭に出席して、送られた花束を抱いて各局各社の取材に応じ、翌日の朝から各時8時間の持ち時間で鎬を削っていくことになる。
挑戦者を決めるリーグ戦の時もそうだったが、同じ公式手合いでも棋譜が残らず中継もされない手合いと違い、ヒカルはフォーマルなスーツを着ている。
はじめこそ着慣れていない雰囲気が抜けなかったそれも、手合いに勝ち進み上に上がることでスーツ、もしくはそれに準じるフォーマルな格好をする機会が増えた。
ヒカルが対局に際し、そこまで身だしなみに頓着していないことは、ヒカルに何度か接している者であればすぐに分かる。
しかし、さすがにテレビ中継されて全国に対局風景が映し出される画面に、パーカーやチェックシャツなどのラフな格好でカメラの前に立つのは控えろと、アキラに指摘されてのことだった。
もちろん指摘されても、キョトンとしてよく分かっていない様子のヒカルだったが、アキラに言われた通りリーグ戦に着慣れないスーツ姿で棋院に現れたときは、その姿を見つけた事務員たちが一斉に胸を撫で下ろし安堵する光景に、周囲が自分の装いを心配していたのだと理解した。
そして今のヒカルは、名人戦のタイトル挑戦者に決定した時、これからスーツを着る機会が増えるだろうからと母の美津子と一緒に新調した真新しいスーツに袖を通し、ホテルから少し離れた場所にいた。
対局開始までにはまだ時間がある。
今朝は早くに目が覚めてしまったので、気分転換を兼ねてホテルの外へ足を伸ばした。
まだ夏の残暑が残っているが、早朝ということもあり、初秋の涼しさが感じられる。
「いよいよだ」
――はい
行洋と約束した『本因坊』のタイトルではないにしろ、ヒカルと佐為が臨む最初のタイトル戦が、行洋が長く連覇し続け保有していた『名人』のタイトルというのは、不思議な縁を感じずにはいられない。
いよいよだ、と思う反面、このタイトル戦の挑戦者になるまでを振り返ってみれば、行洋が急逝してヒカルが自身がsaiであると周囲に打ち明けたことで、世間から注目を浴びたり、数多くの取材を受けたりと様々なことがあったはずなのに、あっという間の出来事だったようにも思える。
実感がないんだろうな
自分で打ってるわけじゃないから余計に
自身がsaiであると打ち明けてから、全ての対局は佐為が打っている。
対局中の肌をピリピリ刺し、心臓を圧迫されるような緊張感と空気はヒカルにも伝わってくるが、あくまでヒカルの立ち居地は第三者だ。
ヒカルの頬に一粒の雨が落ちる。
――雨か……
その雫を人差し指で拭ってヒカルは空を見上げた。
ホテルを出るときは薄曇といった空が、どんよりとした濃い灰色の厚い雲となり空を覆っている。
――戻りましょうか。雨に濡れて風邪を引いては大変です
「ああ」
そう頷いたものの、ヒカルの足がホテルの方角に向くことはなく、じっと一方向見ている。
――猫?
公園のベンチの下に誰かが捨てたのだろう子猫がダンボールに入れられ、ダンボールから抜け出すことも出来ず、顔だけ出して力なく啼いているのを佐為は見つけた。
公園と道路を仕切るフェンス横の道を、猫の鳴き声に気づいても、朝の忙しいサラリーマンやOLたちは足を止めることなく通り過ぎていく。
雨脚がだんだんと強くなっていることに構わず、ヒカルは佐為が止める間もなく小走りに公園に入り、ベンチ下を覗く。
ダンボールの底にバスタオルが敷かれ、生まれたばかりだろう真っ白な毛並みの子猫と、食べることが出来るのかも怪しいキャットフードが小皿に盛られ入っている。
そして毛が混じったミルクも。
その子猫をヒカルは脇に手を入れたかと思うと、ヒョイと持ち上げ、着ていた新品のスーツの上ボタンを2個外し、スーツジャケットの中に子猫を入れてしまう。
入れられたスーツの中に子猫も驚き少し暴れはしたが、すぐに安定する定位置を見つけ、白シャツ越しに伝わってくるヒカルの体温に安心したのか大人しくなった。
それを確認して、ヒカルはニコッと微笑む。
――その子猫、連れて行くのですか?
「ウチ一軒家だし庭あるし、ペットダメなマンションでもないから多分大丈夫と思う」
本当は母の美津子は、あまり毛のあるペットの類は毛が部屋中に落ちるから好きじゃないと以前言っていた気がするが、アレルギーでダメというわけでもなかった筈だ。
ちょっと迷惑かけるかもしれないが、ダメ元で頼んでみるくらいいいだろう。
「んじゃ、急ぐか。雨強くなりそうだし」
――ええ、急ぎましょう
雨の勢いは段々と、けれど着実に強くなろうとしていた。
□
東京千代田区、日本棋院。
大阪で行われている名人戦第一局の中継連絡が、インターネットを通じ即座に棋院に届けられ、棋院の一室に、やってくる時間はバラバラではあったが集まったプロ棋士たちが対局の検討をしていた。
手番は先手の黒が一柳、後番の白がヒカル。
「今のところ盤面穏やかに進んでいるけど……」
盤面を覗きながら、胸の前で両腕を組み、うーんと倉田が唸る。
ぎりぎり穏やか、ではある。
対局序盤の布石段階で、限界ギリギリを見定めて地を広げ囲おうとしている。
まだどちらが優勢とは判別つけられず、これから中盤になってどういった局面になっていくのか、検討をしている誰も想像がつかない。
「塔矢くんは今日はもう来ないのかな?」
正午になっても現れないアキラに、対局観戦・検討に来ていた守口が時計と周囲を交互に見渡した。
ヒカルと同じ年で、これからプロ棋士として対局回数を重ねるのは、アキラがもっとも多いだろう。
現段階での実力こそヒカルが一歩も二歩も先を行っているが、今後、アキラが対局を重ね自身の碁を磨き続けることで大成すれば、ヒカルのライバルとなる最有力候補だ。
プロ棋士として生きていくからには、アキラとしてもヒカルは避けて通れない大きな壁だろう。
「さあ。でも見に来なくても気になってはいるさ。気にせずにいられる性質(タチ)じゃない」
同じく盤面を囲んでいた緒方が、師の息子にして長年の付き合いの弟弟子の性格を見越しているように断言した。
今ごろ何をしているのか。
家で一人、ネットの対局中継を見ながら検討をしているのか。
だが、緒方が知る限り、誰よりもヒカルの謎めいた強さを追い求めているのは、他ならないアキラだ。
「進藤くんが仕掛けてきた!」
パソコン画面が更新され、新しい点に白石が打たれる。
右下の黒石を囲い攻め立てながら、中央、左上辺へと伸び、地を広げる戦略にヒカルは出たらしい。
「進藤の思惑は見て取れるが、一柳先生がどう動くか……」
年齢の老いは否めないが、それを踏まえてトップ棋士に名を連ねリーグ戦を戦い、培ってきた碁が一柳にはある。
リーグ戦ではヒカルにやられたが、タイトル戦本番では同じ二の鉄は踏まないだろう。
ヒカルが仕掛けたのはまだ一手目だ。
この一手に一柳がどう応えるか。
一柳が長考に入ったのを見て、集まったそれぞれが予測を立て盤面に石を打っては、その石の検討をしていく。
だが、
「ええっ!?」
「マジで!?」
持ち時間8時間のうち30分以上かけて考え抜いた上で一柳が打ったのだろう一手に、日本棋院の一室に集まっていた者たちが、驚きと戸惑いの声を次々と上げた。
まさか一柳がヒカルの思惑に気づいていないとは考えにくい。
何を考えてここに打ったのかは、対局が終わってから一柳に訪ねるしかないが、
「これって進藤が望む展開でしょ?」
倉田の呟きに唸るだけで誰も賛同の声を上げなかった。
だが、反対の意見が一つも上がらないのが、賛同に他ならないだろう。
一柳の考えが読めない。
その後もヒカルの狙い通りに盤上が進んでいるように見えた。
右下に打ち込んできたヒカルの白が、その下の黒を下辺に追いやり、左上辺の白が右に地を広げていく。
しかし、緒方が不意に声を上げた。
「いや、待て!」
何かに気づいたように下にズレ下がりそうになったメガネの位置を中指で正し、頭の中に閃いた考えを確かめるように黒石を取り盤上に打った。
そこで一柳の意図に気づけた周囲が、あっと声を上げる。
「すごい!進藤の思惑通りのように進んでいるようだったのに」
「いつの間にか一柳先生の黒が優勢になってる!!」
始めこそヒカルの思惑通りの展開のように見えた盤面が、一柳がじわじわとボウシから攻めていくうちに、盤面の形勢は決して黒に悪くないものへと展開が移り変わっている。
先ほどの長考で一柳がここまで考えていたとは、緒方や倉田をはじめ誰も気づけなかった。
おそらくヒカルもまた気づかなかったのだろう。
気づけなかったからこそ、一柳の狙い通りの盤上が出来上がっているのだから。
「プロ棋士として碁をずっと碁を打ってきた意地か。棋士としてのプライドをかけて一柳先生は進藤と戦っているようだ」
それまで静かに周囲の検討に耳を傾け、盤上を見つめていた芹沢が誰に言うでもなくポツリと呟く。
ヒカルがどうやって脅威というのに相応しいこれほどの棋力を身に付けられたのか。
密会していたという行洋が、こっそりヒカルを指導していたのか。
そんなことは現在進行形でヒカルと対峙し打っている一柳にとっては、どうでもいいことなのだろう。
だが、突然現れた新星に、容易くタイトルを渡すことだけは一柳のプロ棋士としてのプライドが許さないのだ。
一柳がトップ棋士となりタイトルを初めて勝ち得たとき、勝ち上がるごとに恐ろしさを増していく鬼たちに何年も揉まれながら、ようやく一つのタイトルを得るまでになったのだ。
それがヒカルは初めからトップ棋士以上の強さを見せつけ、何百段もある階段を一足飛びに駆け上がり頂上に立とうとしている。
ヒカルの強さは一柳も認めさずるをえない。
誰かが打った棋譜を取り寄せ並べるだけでなく、この名人戦のリーグ戦でヒカルと対局することで、直にヒカルの強さを肌に感じることが出来た。
ヒカルの強さは本物だ。
だからこそ、これまでトップ棋士の一人として囲碁界にあり、次の世代の幕開けとも言えるヒカルに一矢報いるくらいの気概と、新しい波に抵抗するプライドが今までのタイトル戦以上に奮い立つ。
□
窓の外は大粒の雨が降り、ガラス窓を雨の粒が叩く音がホテルの一室に響く。
その部屋の中で温く暖めた牛乳を子猫が美味しそうにぺろぺろ舐めていた。
眺めているだけで、こちらが癒されそうな光景だが、子猫を拾ってきた当人は、ホテルの間で名人のタイトルを賭けて、一柳と神経すり減らす真剣勝負の碁を打っている。
本降りになりかけた雨の中を髪から雫を滴らせホテルに駆け込んできて、そのスーツジャケットの中から、子猫が顔をぴょこっと出した時は、ヒカルを見つけた事務員も驚き飛び退きかけた。
ホテルは盲導犬などの補助犬以外ペットは禁止されている。
だが、毎年タイトル戦でホテルを指定してくれている義理がある。
ペットが苦手な客たちだって当然いるだろう。
そこに捨て猫を拾ったから自分の対局中見ていてほしいと言われて、スタッフの誰もが困惑したが、ホテル側の配慮で、客室として使われていない一室を貸してもらえることになった。
いきなり猫の番をしていろと命じられた事務員は、最初こそいい迷惑だと思ったが、なってみれば仕事は猫を見ているだけで、あとはお茶をゆっくりすすりながら、パソコンのネット中継を見ることが出来る高待遇だ。
それに猫の様子を見に、ちょくちょく誰かしら部屋に来るので、一人寂しいと思うこともない。
「もうすぐ名人になるかもしれない人に拾ってもらえるなんて、お前運がいいな~」
パソコンが置かれた机の隣に、猫の入ったダンボールを置き、中で幸せそうにミルクを舐める猫を眺める。
ヒカルに拾って貰わなければ、そのまま誰にも拾ってもらえず死んでしまう運命だって十分ありえたのだ。
「お、虎次郎元気になったじゃないか」
対局検討室から部屋にやってきた壮年の事務員が、ミルクを飲んでいる子猫の傍に来て、慈愛の眼差しで子猫の頭を人差し指で撫でた。
だが、猫を見ていた事務員はというと、いきなり出てきた名前に目を見開く。
「虎次郎?」
「進藤君がこいつにそう名づけたんだよ」
「そりゃまたすごい名前ですね」
猫の毛並みは全身真っ白で、虎模様ですらない猫に、『虎次郎』なんて古風な名前をよくヒカルが考えついて名付けたものだと思う。
「猫の身分にしちゃ大層な名前だが、囲碁棋士の飼い猫なら、とても良い名だ」
「何かあるんですか?」
「江戸時代の本因坊秀策の幼名がなぁ、虎次郎というんだ」
「へ~、そうだったんですか。進藤くんよく知ってましたね」
「そうだな」
過去の棋士の棋譜をヒカルが並べていく過程で、江戸時代の本因坊秀策のことを知っていてもおかしくはない。
しかし棋譜と棋士の名前を知っていても、幼名となると知っている者は棋士の中でも少ないだろう。
自身はプロ棋士にはなれなかったが、壮年の事務員は打たれた棋譜と同程度に、その棋譜を打った棋士の半生や生い立ちにも興味を持ち、様々な棋士を調べた。
ヒカルがそれを知った上で猫に『虎次郎』という名前を付けたのかまでは分からないが、何故か知っているような気がするのだ。
ミルクを全て飲んでお腹いっぱいになったのだろう。
人差し指で首元を撫でられていた子猫は、そのまま気持ちよさそうに眠り始めた。
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11 運命
「いくら塔矢先生のご子息の方でいらっしゃられましても、ウチの店では一歩店の門をくぐった瞬間から店を出るまで、お客様が過ごされる時間は守秘すべきプライベートとして誰であっても他言できません」
昨日に続き、今日も店を訪ねてきたアキラに店の女将は、邪険な対応にならないよう気をつけながら、しかし昨日同様に毅然と断り続ける。
それまで何を考えていたのかもあやふやだが、アキラは母親の明子と家で夕食を食べていたとき、不意に行洋とヒカルはどこでこっそり会っていたのだろうかと疑問に思ったのだ。
普通に考えればホテルの一室だが、大勢の客が出入りする場所に碁のタイトルホルダーが頻繁に出入りすれば、年配のホテル客の中には行洋の姿に気づく者が出てくるだろう。
行洋の性格を考えれば、静かに騒がれることなく碁を打てる環境と場所を選ぶはずだ。
となるとホテルは選択肢から除外される。
家は論外。
では、それ以外のどこで?となると検討がつかない。
母親の明子に尋ねても、知らないと首を横に振るだけで、残す心当たりは、塔矢門下中の筆頭で行洋がなくなる前にもsaiについて話したという緒方しか残されていない。
そしてアキラにとって意外なほど緒方はある店を教えてくれた。
行洋に指示され、一度だけ緒方も行った事があり、そして紛れも無く行洋とヒカルが会っていた店を。
ただしその店は一見は入れない高級料亭であり、その店柄ゆえ客の息子だろうと聞いても何も話してもらえないだろうと、忠告付で。
案の定、アキラが店を訪ね、女将に行洋の様子を尋ねても、『お教えすることは出来ません』の一点張りだった。
しかしアキラを応対する姿勢は、粗雑にあしらうものではなく、きちんとアキラと正面から向き合い変に「分かりません」「知りません」と答えるより、毅然と「答えられない」と拒む方が決然とした潔さを感じられた。
店はそれなりの覚悟と誇りを持って客のプライバシーを守り、客もそんな店だからこそ贔屓にするのだろう。
「そこをどうかお願いします!父のことを知りたいのです!」
もう何度下げたのか分からない頭を、アキラは下げて頼む。
昨日も昼過ぎに来て、今日と変わらない問答を続け、客が来たことで『また来ます』と言い残し引き下がったが、今日は朝10時からすでに3時間この問答を続けている。
アキラのしつこい粘りもだが、女将も冷静さを失うことなく、平静さを顔に貼り付け断り続ける。
「話すことはありません。申し訳ありませんが、どうかお引取りを」
恭しく女将が頭を下げる。
しかし、アキラは女将以上に頭を下げ、
「お父さんと進藤が会っていたとき、緒方さん以外に、もう一人誰か訪ねて来たりしませんでしたか!?どんな些細なことでもいい!教えていただきたいのです!お願いします!」
「………」
昨日から話を聞きに来て、即答で女将が断らず、黙ったのは初めてではないだろうか。
その差異にアキラはすぐに気づいたが、すぐに頭を上げて女将の様子を確か見ようとせず、頭を下げたままの姿勢でずっと待ち続けた。
「……本当にお二人以外、誰とも会っていないので聞かれても何もお話することはないのです」
声を低めながら、控えめに話す女将に、今度はアキラが無言になる。
「…………」
「お二人が碁を打っている間、店の者は誰も部屋に近づきませんからどんな会話をされていたのかも分かりませんし。店に来られると朝から夕方まで二人でずっと碁を打っていました」
アキラはぎゅっと顔を顰め、唇を噛み締めた。
これが女将の知る行洋とヒカルの全てなのだと直感で分かる。
いくらアキラが問い重ねようと、女将はそれ以外何も知らないのだ。
例え何も知らなくても、知らないことすら『話すことはできない』として第三者へ話さないという徹底を犯して、女将はアキラの嘆願に話してくれた。
これ以上の問答は、無駄でしかない。
ゆっくりとアキラは顔を上げた。
「そうですか……」
「ご期待に添えず、申し訳ありません」
「いえ、何度もおしかけてご迷惑をおかけしました」
押しかけ迷惑をかけて申し訳ない気持ちと、何も手がかりが掴めなかった落胆が隠し切れず、アキラは唇をきゅっと結び伏目がちの複雑な表情になる。
「……ただ……お茶をお運びするとき、何故かお茶を一つ多めに頼まれておりました」
「お茶?」
不意に女将が呟いた一言をアキラは反芻する。
「余分に運んだお茶は最後まで飲まれることはありませんでしたが 、いつも必ず一つ多めにご用意させて頂いておりました。しかし、多めに用意したお茶は一度も飲まれることはありませんでしたが」
それだけ言うと女将は一度ペコリと頭をさげ、店の母家の方へ戻っていく。
――お茶を多めに頼んでおいて最後まで飲まない?
そのお茶に何の意味があるのか皆目検討もつかない。
一見して繋がりのないピースの一つだ。
しかし何でもにないことに思えるそれが、ひどく重要なことのようにアキラは思う。
アキラは女将の後ろ姿に深く頭を下げた。
□
テレビ中継に映されたヒカルの姿に、一人暮らしをする和谷のアパートに院生の頃からの付き合いがあるメンバーが集まり、名人戦第一局が決する二日目を皆で観戦・検討していた。
プロ試験に合格した者も、まだ院生でプロ試験合格を目指している者も、タイトル戦の対局となれば、チェックしない者はいない。
特に今年は、和谷の家に集まった全員が知っている棋士が、名人のタイトル挑戦者として出場するため、否が応にも例年になく関心が高まる。
対局観戦の情報はテレビ中継と、ネット中継、そして携帯の棋譜速報の3つから。
携帯は棋士が打ってすぐに打った場所が更新され、一番早く棋譜情報が手に入り、次にネット中継だと対局会場のホテルに集まった立会人を含むプロ棋士たちの検討した意見なども中継ブログに記載される。
中継ブログは棋譜以外に、対局場の画像や挑戦者の様子などもUPされるので、対局中の様子がよく伝わってくる。
そしてテレビ中継は録画したものをダイジェストで少しずつ放送するのだが、見ているこちらまでTV画面を通り越して緊張感が伝わってくるようだった。
「この進藤と数年前まで院生手合で一緒に打ってたとか夢みたいだ」
昼のテレビ中継ダイジェストに映されたヒカルの姿に、本田が長いため息をつきながら呟いた。
片やテレビや新聞に取り上げられない日はないほど日本中から注目され、タイトルに手をかけた挑戦者。
そして己はまだ低段者の棋士に揉まれる毎日。
同じプロ棋士でも正しく天と地の差だ。
まるで他人事だと言っているようにも受け取れる姿勢の本田に、隣に座っていた奈瀬がムッとした表情になり、本田の脇を肘で突く。
「あら?私だって院生手合いで手加減されてたなんて、全然気がつかなかったわよ。てゆーか、同じプロ棋士なのは変わらないんだから、夢なんて悠長なこと言ってる暇ないじゃないの?」
「進藤くん、対局する前に、今日は何目で勝つとか負けるとか決めて打ってたのかな?」
と、本田と奈瀬のやり取りをスルーして、テレビに映るヒカルの姿を見ながら福井がぼんやりと周囲に問う。
ヒカルは自身の実力を隠し偽っていたことを、周囲に騒がれたくなかったから、としか言っていない。
確かにヒカルが本気を出したとたんに、今のこの状況であり環境の変化だ。
本能的に騒がれたくないと忌避したヒカルの気持ちが分からなくも無い。
だが、
「天才の気持ちは凡人には分かんねーよ」
ぶっきら棒に、そう言い捨てたのは和谷だった。
今、和谷の部屋に集まっているメンバーの中で、院生の頃から今も含めて誰よりも和谷がヒカルと親しいだろう。
それを踏まえて、ヒカルが実力を偽って院生時代に打っていたというのは、頭では昔のことだと割り切ろうとしても、根底の部分でなかなか納得出来ない。
ヒカル本人の前では口に出さないが、和谷と伊角とヒカルの3人で碁会所巡りをした思い出は偽りだったのかと、なんとも言えない気持ちになる。
そんな和谷に伊角は苦笑いして、話題と空気を変えるべく、「凡人だって悩みを大勢で共有できる特権くらいあるさ」と軽い口調で言って、携帯に送られてきた一柳の一手を打つ。
「形勢は一柳先生が優位のままか」
昨日の後半で一柳がじわりと仕掛けた展開と流れが、二日目の今日になっても流れを変えれないでいる。
「昨日のあの展開、俺鳥肌立ったぜ。一柳先生カッコイイとか思っちゃったもん」
「俺も。最初は進藤の狙い通りに進んでるように見えたのになー」
「まだ第一局目でしょ?これに負けても次があるからまだまだ分からないわ。ちょっとは進藤応援しなさいよ、二人とも!」
小宮と本田が一柳を褒める中、奈瀬の一喝がまた入った。
その様子を視界の端に映しながら、伊角の機転に感謝しながらも、はやりどうしても和谷の胸の奥に何かが燻っている。
じっと無言で碁盤に並べられた棋譜を見つめ、和谷は何が引っかかっているのだと自問する
本当にこのまま進藤が何もしないで終わるか?
研究会でいつも進藤の碁を近くで見ているだろうが
進藤のヨミはズバ抜けている
このまま何も出来ずに終局を迎えるなんて流れになるか?
心の中でそう自問自答すれば、答えはNOだ。
「進藤がこのまま終わるとは思えない。全てを読みきった上で、必ず……アイツは必ず自分の碁にする何かを仕掛けてくる」
「ここから?」
と問う伊角に和谷はコクリと首を経てに振った。
対局は中盤の終りに差し掛かろうとしていた。
ヒカルの逆転を捨てていない和谷に、集まった全員が怪訝な眼差しになった。
いくら天才と言われるヒカルでも、盤面に作り上げられたこの状況から、何が出来るというのか。
アマがファンのプロ棋士のタイトル戦を応援するのとは訳が違う。
曲りなりにも、正式にプロ棋士になっている者、プロ棋士を本気で目指している者たちが集まった場だ。
希望的観測で物事を言うアマと違い、勝負を厳し過ぎるほどにシビアな目で見て判断出来るのだ。
「まさか、ここから逆転なんて、一柳先生が何かポカするとかヨミ間違えでもしない限り無理よ」
「それでも、進藤なら絶対に勝負を捨てない。ここからでも勝つ気でいる筈だ」
和谷がそう言ったときだった。
伊角の携帯に、最新の一手が届く。
それを何気なく見た伊角の目の色が一瞬で変わった。
「……いい手だ」
「伊角さん、どうしたの?」
次はヒカルの打つ番だ。
ヒカルがどこに打ったのかと待つ周囲に、伊角は携帯を傍に置き、険しい眼差しで白石を碁盤に打った。
途端に部屋の空気が沈黙した。
「この白は取れないわね……」
「こんな一手があったなんて……」と本田。
黒の地と思われていた場所に、白の矛先が鋭く突き刺さる。
「気合いの踏み込みだな。打たれてみると、この場面、ここしかないという絶対の一手に見える。しかし、どれだけの人間がこの一手に気づけたか」
言い終わった後、伊角は唾を飲み込む。
和谷の言う通りだった。
ヒカルはまだ勝負を捨てておらず、本気で逆転を狙っていた。
しかもただ、一柳のミスを待つだけでなく、自ら勝つ道筋すら探し見つけていたのだ。
連勝を続ける勢いだけではない、ヒカルの底力と言ってもいいかもしれない。
「形勢がいつの間にか互角になってる!進藤くん、すごいやっ!」
興奮して福井が立ち上がって叫ぶ。
こんな碁を見せ付けられて興奮しない棋士がいるだろうか。
ネット中継のブログでも、検討しているプロ棋士の批評の大半が一柳優勢だったのに、ヒカルの一手を皮切りに逆転を長い批評と興奮気味の感想で記載された。
恐らく対局場にいるプロ棋士の誰もヒカルの一手に気づかなかったのだろう。
名人戦、第一局の勝敗が、ヒカルの反撃で大きく揺れていた。
□
残すのは小寄せのみ
複雑で手順を間違えやすいものの、正しい道は一本。
最後まで読みきれば、己の半目負けだ
瞼を閉じ、ゆっくり息を吐いてから、一柳は体の一部に等しい扇子を畳の上に置く。
「ありません」
頭を下げ自身の負けを認めた。
記録係を含め、まさかここで一柳が投了するとは誰も予測しておらず、カメラマンは誰一人いなかったため、その様子を収めたのは対局室を映し出していた中継用のカメラだけだった。
一柳の投了を知らされ、バタバタと対局観戦室から立会人が部屋に入ってきて、係員がまだヒカルが礼を返していないのだと耳打ちすると、姿勢を正し正座してヒカルの言葉を静かに待つ。
ここまで打って自身で負けを認めるというのは、悔しくないと言えば嘘になる。
ヒカルには上を行かれたが、自身の持てる全てを出し切った良い碁が打てたと一柳は碁盤に描かれた黒と白の石を眺めながら思った。
まだタイトル戦の第一局目であり、完全な負けが決まったわけではない。
次の第二局こそは、と気持ちを切り替えようとするが、
「……ここ、確かに必要な一手だって誰でも思う」
対局相手が負けを認めても、礼に応じず、そのままじっと盤面を見ていたヒカルが指で盤上を指し示す。
ヒカルが対局相手の投了に応じない限り、対局は続いているのだ。
そしてヒカルが応じる前に一柳が次の一手を打てば、対局は続行される。
にも関わらず、ヒカルは独り言に近い呟きを続けている。
「進藤くん?」
「でも、その前にこっちにのスミにオキを打つのは?それだけで一目得してる」
「あっ!」
ヒカルに指摘されて、一柳は声を上げた。
ヒカルの言うとおり、確かに半目逆転している。
――なんだ……勝っていたのか……
何故、こんな簡単なことに自分は気がつかなかったのだろう、と一柳は張り詰めていた気がゆるゆると抜けていく。
しかしすぐに盤面から顔を上げ、逆転の一手を指摘したヒカルを見やれば、
「逆転してる、一柳先生の勝ちだ」
ヒカルは残酷なまでに無垢に純粋に微笑んだ。
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12 バタフライ
佐為の眼差しが厳しいままであることにヒカルは気づいていた。
そして、佐為をそうさせている理由にも同じく気づいていた。
先ほど黒の地に踏み込んだ一手で、佐為の白石は大きく黒に追いついた。
しかし―――
石を打てない佐為の代わりにヒカルは石を打っているだけの対局だったが、二人の間で、誰よりも一柳の狙い、佐為のヨミをヒカルは感じ取ることが出来た。
最後まで読みきると、佐為が半目届かない。
佐為もそれを理解しており、刻々と終局へ向かおうとしている盤上から、それでも起死回生の死活を探そうと必死になっているのだ。
「ありません」
頭の中は佐為の半目負けで盤上を判断していた為、一柳の投了がヒカルには少しの間、理解できなかった。
――投了?でも……
確認するようにヒカルは視線だけ佐為の様子を見やったが、佐為もまた一柳の投了に驚いたように目を見開いている。それからすぐにヒカルの視線が己の判断を伺っていることに気づき、佐為は複雑な表情で瞼を閉ざす。
――気づかなかったのですね、一柳殿。けれど……
閉ざした瞼を開き、ヒカルを見やれば、このまま一柳の投了を受け入れていいのかどうか迷い、佐為の答えを待っている。
ヒカルも佐為同様気づいているのだ。
この一局、一柳の黒に逆転の一手が潜んでいるということに。
だから、ヒカルは一柳の投了を受けて、どうするべきか佐為の応えを待っている。
佐為は無言で頭(こうべ)を横に振った。
それを見て、ヒカルは口を開いた。
「……ここ、確かに必要な一手だって誰でも思う」
□
『今日の名人戦の一局すごかったですね』
大阪で行われた名人戦第一局の検討が一通り終り、和谷のアパートから帰る道すがら、携帯を取り出し、大阪まで観戦しに行っている門脇に電話をしたのだ。
ネット中継や中継ブログでもある程度棋譜について分かるが、会場にいて直に対局者二人に混じって検討するのでは全く違うだろう。
ついでに第一局目を勝利したヒカルの様子も聞ければというとことだ。
けれど、電話口に出た門脇の口はいやに重い。
『………』
『門脇さん?どうかされたんですか?』
『……これはまだ大阪の会場関係者でしか知られていないんだが、……やったんだよ、進藤くんが。こんなの間違いなく前代未聞だろうな』
ようやく口を開いたと思っても、門脇の話は要点が抜けていて、伊角には何を話しているのか全く分からない。
『やった?進藤が何か?』
『一柳先生が投了した直後に、逆転の一手を指摘して一柳先生の勝ちだって、負けを宣言した相手を逆に勝ちだと笑顔で言ったんだよ』
『……なんですか、ソレ?え?でも、あそこから逆転が?』
言われてすぐに伊角は理解できず、家への歩いていた足が止まる。
対局の終了中継をテレビで見たが、そんな様子は何も映されていなかった。
確かに、テレビ中継の映像が、おかしな編集がされていると、伊角以外にもテレビを一緒に見ていた和谷たちも同じように首をひねっていた。
最初に一柳が投了し頭を下げて、そこで一度映像が編集され、次にヒカルがアップで映され礼をとる画面へと変わった。
通例らば、1画面に二人が入った状態で、両方が交互に礼を取る映像が映されるのに。
けれど、それを指摘するより、碁の棋士として聞き逃せないことを門脇は言った。
ヒカルが逆転の一手を指摘したのだと。
一柳の投了後に指摘したというからには、その一手は一柳が持つ黒石の一手なのだろう。
『整地が極端に細かくて俺にも完璧には理解できていないんだが、どうもそうらしい』
『ええええ!?それって対局中に指摘したってことなんですよね!?それで一柳先生はどうされたんですか!?けど対局は進藤が勝って!?』
『どうもこうも、狐に抓まれたような顔になったと思ったら、いきなり爆笑し始めて』
『ソレで?』
『あとは、どっちが勝ちか言い争いだ。一柳先生も一度言った自分の投了を引っ込めるつもりはないの一点張りだし、進藤君は逆転しているんだから一柳先生の勝ちだって言うし』
『じゃあ、結果はどうなったんですか!?』
『手番は一柳先生だから、そのまま打たずに時間切れを待てば自然進藤君の勝ちだ。進藤君が勝ちを認めないなら、時間が切れるまでお茶飲んで待つって一柳先生が言い始めて』
『それで進藤が勝ちを認めたんですか?』
『渋々ね……』
もはや門脇の口調は呆れている。
『渋々で一勝……』
タイトル戦の一勝を渋々で認める棋士など、過去の棋士にもいないだろう。
テレビとネット中継でしか経過を知らなかったが、大阪の会場ではそんな騒ぎになっていたのかと、伊角は開いた口がふさがらない。
和谷のアパートで皆と集まっていたとき、和谷が『天才の気持ちは凡人には分からない』と言っていたが、今の伊角の気持ちは正しくそれだった。
対局後の検討で、逆転の勝ち筋を正直に伝えるのならまだ分かる。
気づいてしまった一手を、自分の中だけの秘密にせず、ちゃんと相手に言うことの出来る勇気も、すごいと思う。
しかし、投了した直後に、勝ち筋を教えて相手の勝利を笑顔で言ってのける天才の気持ちは、凡人には皆目分からない。
『検討会の後にさ、進藤君が退室したあと一柳先生が言ったんだが……』
『門脇さん?』
『もしも、どこかに碁の神様がいて、その神様が愛す棋士がいるとしたら、それはきっと進藤君だろうな、ってさ』
『一柳先生がそんなことを……』
その時の一柳の顔を伊角は直接見ていなかったが、どうしてか穏やかに晴れ晴れとした顔で一柳は言ったような気がした。
□
名人戦は第一局目の問題以外は、何事もなく終わった。
世間の期待通りに、世間の関心を集めるネタを欲するメディアの希望通りに、ヒカルがストレートで一柳を下した。
まだタイトル戦が終わるまではと、第一局でヒカルが起こした問題は公に伏せられていたが、タイトル戦が終わって『名人戦』のダイジェストと特番が組まれる中に、その前代未聞の事件は天才ゆえの事件として、メディアを賑わせた。
投了した相手に、逆転の一手を笑顔で指摘した棋士。
15歳という歳で名人というタイトルを取ったニュースに、さらなる華を添える形になった。
各局のテレビの中で、これから囲碁界はしばらくヒカルの時代が続くだろうと解説者が語るとともに、世界に遅れを取っている日本の代表として、再び世界で戦える棋士として活躍が期待されると熱弁している。
そのテレビ取材にヒカルもプロ棋士の仕事の一環としていくつか出演したが、棋院側も名人戦が終わっても次のタイトル戦が控えているヒカルに配慮して、最低限の取材数に抑えた。
テレビの特番で、どこにでもいるような若者がよく着ている私服姿で、しどろもどろにアナウンサーの質問に答えるヒカルと、対局中のスーツに身を包み真剣な眼差し碁盤に向き合うヒカルと、より対比が目立つように交互に映される。
ヒカルが名人のタイトルを取って、メディアの熱がまだ冷めやらぬ中、ヒカルはスケジュールの合間を縫って都内のとある墓地にいた。
来る途中の電車の中で、テレビの中で持て囃されるヒカルの姿に気づいた者も幾人かいたが、囁かれるまでに留まり、声まではかけられることなく辿り着くことができた。
墓石に彫られた『塔矢家の墓』の文字。
そしてサイドにある墓標の列に『塔矢行洋』の名がある。
この墓に行洋は眠っている。
一通り墓石に桶の水をかけ、持参した花と線香を添える。
「先生、今日は報告に来たんだ。もう誰か先に来て言っちゃってるかな?」
テレビの中では一度も映されなかったような、自然で親しみのある笑顔を浮かべ、ヒカルは行洋の眠る墓石に語り続ける。
「いい報告だよ。佐為がね、名人に」
――ヒカル、『私』ではありません
言っている途中で佐為の訂正が入り、ヒカルは隣を振り返った。
「佐為?」
――『私たち』です。ヒカルと私が二人で『名人』になったのです
そうでしょう?と首をかしげて問いかける佐為に、ヒカルはきょとんと無防備な表情になった。
佐為に言われるまでそんなこと考えたこともなかったのだ。
碁を打つのは佐為であり、ヒカルは石を置いているだけに過ぎないのだといつも思っていた。
『二人で名人』
その言葉が、ヒカルには新鮮であり、どうしてか胸の奥が熱くなる。
対局中、いつも除け者のような疎外感を感じていた風穴を佐為の言葉が埋めていく。
クルリと行洋の墓に振り返り、
「ごめん、さっきの訂正する。佐為と俺が、二人で名人になったんだよ。でもそんな実感全然無いんだ。みんなが俺のことを『名人』って呼ぶんだけど、変な感じ。名人って言ったら、塔矢先生のイメージしかないし」
逆に名人と呼ばれるたびに、自分のことではなく、行洋が呼ばれているのだとその姿を探して振り向いてしまうほど、ヒカルの中で『名人のタイトル』は行洋に浸透している。
「来年は、いよいよ本因坊だ」
本因坊のタイトル戦は5月から7月にかけて7番勝負で行われる。
行洋が亡くなったのが、ちょうどタイトル戦の真っ最中であったことで、ヒカルの本因坊への挑戦は2年越しになってしまった。
行洋がヒカルと佐為に『本因坊』を取ると約束してくれた日のことが、昨日のことのように鮮明に思い出される。
佐為の存在を受け入れてくれた行洋と、何も隠すことなく、ヒカルのありのままで碁を打つことが出来た。
3人だけの閉ざされた空間で、一番碁を打つのが楽しく嬉しかった時間。
「また来るね。次は、本因坊を取ってから。必ず取ってみせる。だから……」
ヒカルの表情が、ここに来て初めて引き締められる。
「……だから、先生、俺たちのこと応援しててね」
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13 Turning
名人就位式。
壇上で真新しい羽織袴姿のヒカルに、名人の允許(いんきょ)状が授与され、記者たちのカメラがフラッシュを焚くと同時に、集まった参加者たちからも年若い名人に大きな拍手が送られる。
それから、タイトル賞金の授与、名人戦を振り返っての感想、そして来年は挑戦を受ける側になった心構えなどをスピーチし、集まった取材記者の質問に一定時間答える。
それが終われば、立食パーティとなり、親しいもの達や関係者と談笑しながら楽しいひと時となる。
「梨川先生!!」
ヒカルが着慣れていない袴を蹴るようにして、就位式に出席してくれた梨川の元まで走り寄る。
子供ではないのだから会場で走るなと小言の一つ言いたくなる光景だが、その当人の式なので普段目くじらを立てる周囲も多少のことは目を瞑ることにする。
「先生、来てくれてありがとう!」
子供の雰囲気が残る笑顔でヒカルは梨川が来てくれたことを喜ぶ。
しばらくタイトル戦やリーグ戦の対局が続いて、梨川の元へ久しく顔を出すことが出来なかった。
碁の棋士ではないが、行洋と同じ眼差しをした梨川に会えることはヒカルにとって、心が安らぐ一時だ。
けれど、
「おめでとう、進藤くん。いや、もう進藤名人と呼ぶべきかな」
「ッ―!」
ほんの一瞬、ヒカルの表情が歪む。
しかし、梨川がどうかしたのかと問う前に、表情の歪みは消え去り、どこにでもいるような若者らしい笑顔に切り替わる。
「やめてよ。進藤のままでいいですよ。梨川先生に名人なんて呼ばれたら、おれ萎縮しちゃって何も出来なくなっちゃう。」
そうヒカルが惚けるので、梨川も深く追求することはなく、ヒカルの申し出を受けることにした。
梨川は気づいていた。
ヒカルは笑顔の裏に、深い闇を持っている。
誰もが羨ましがるほど碁の才能に溢れ、世間からもこれほど脚光を浴び注目を集めているというのに、ヒカルはそれらをどこか他人事のように見ている節がある。
圧倒的な囲碁の強さもそうだが、誰も知らない筈の敦盛の原型を知っていたりと、ヒカルには謎めいた部分がたまに垣間見える瞬間があった。
自身が後援を勤める相手に対し、それが気にならないと言えば嘘になるが、追求できるだけの理由も持ち合わせていない。
ヒカルを後ろから支えてやる立場の自分が、何の理由もなくヒカルの動揺を誘うわけにはいかないのだ。
「名人戦で猫を拾ったそうだね」
「え?あ、うん。白猫なんだけれど、虎次郎って名づけたんです」
「白猫なのに、虎とはまた面白い名前を付けたね」
「江戸時代の本因坊秀策っていう棋士の幼名が虎次郎で、そこから貰ったんです」
「江戸時代の棋士の幼名とは、猫もいい名前を貰ったものだ」
世間話に過ぎない会話だったが、それが本当に嬉しかったようにヒカルは微笑む。
その笑顔ゆえに、余計にヒカルが奥底に抱える闇とのアンバランスさが際立つように感じられる。
しかしそのまま会話を続けようとして後援を勤める梨川への取材が入り、次いでヒカルにも個別の取材が入ったことで、短い再開はお開きになってしまう。
「そんな顔をするな、進藤」
不意に声をかけられて振り向いたヒカルの横に、森下の姿があった。
「森下、せんせ……」
「お前が名人なんだ」
ヒカルを名人だと断言した言葉に、ヒカルの体がビクリと怯える。
「少なくとも、行洋は前を見ていた」
「……はい」
「分かったなら行って来い」
トンとヒカルの背中を軽く押して、森下は取材チームが待っている方へヒカルを送りだす。
そこに先ほど梨川に走り寄った浮いた雰囲気はなく、しっかり地を踏みしめ、顔も前を向いているように見える。
「自分が彼に対して今更こういうのはもう失礼に当たるかもしれませんが、立派になりましたよね、進藤くん」
まだ名人って言われ慣れてなくて戸惑っているのかな、と就位式に出席していた白川が、羽織袴姿のヒカルを微笑ましそうに見やる。
囲碁教室でシチョウを教えていた子供が、あれよあれよという間に自身を追い抜き、囲碁界の頂点の一つに立ってしまった。
だが白川と正反対に、森下の表情は晴れないままだった。
「立派なものか」
「森下先生?」
「アイツはまだ子供(ガキ)のままだ。どんなに囲碁が強かろうと、今でも行洋の背中を泣いておっかけてるような子供なんだよ」
「森下先生、それは……」
半ば侮辱とも取れる言葉だったが、下手に目上の森下に対してかける言葉が見当たらず、白川は言い淀む。
「……わかっとる。言い過ぎた……。進藤をあんな風にしたのは行洋だ」
ヒカルが隠していた真の実力を知っていながら、行洋も共になって隠そうとした。
行洋が何も考えなしに、単なる遊び半分でヒカルの実力を隠すことに手を貸したとは森下も思わない。
隠さなければならなかっただけの理由が、きっと在ると思う。
だが、信頼しきっていた行洋が突然亡くなってしまったことで、ヒカルは一人しかいない頼る相手を失ってしまった。
行洋が自らの胸の内一つに収め、大切に隠し守ろうとしたことが、逆に仇になってしまった結果だ。
最後まで責任を持って守ることが出来ず、たった一つしかなかった保護の手を失ったヒカルには喪失だけが残った。
せめてもう一人。
森下自身でないにしろ、行洋以外にもう一人、ヒカルの秘めた実力を知ってる誰かがいて、ヒカルを支えてやることが出来ていれば、きっと今より少しはマシだったのではないだろうか。
そう思うと、行き場のない憤りに、森下は唇をかみ締めるのだ。
「そして、それを許したのは私たちなのでしょうね。プロ棋士が誰一人進藤くんを止めることができずに、進藤君は名人にまでのぼりつめてしまった」
森下を諌めるわけでもなく、いつの間にか傍にやってきていた芹沢がただ静かに森下の言葉を補足する。
芹沢の視線は取材を受けているヒカルへと注がれている。
「アイツもとんだ置き土産残して逝きやがったもんだ」
□
朝と言うには少し遅い10時過ぎ、トントントンと階段を下りてきたヒカルは、居間で猫じゃらしにじゃれつく虎次郎の相手をしてやっている平八の姿を見て、
「じいちゃん来てたんだ?おはよー」
寝ぼけ眼のあくび交じりに挨拶した。
「おはよう」
「来てたんなら、起こしてくれてよかったのに」
「いや、昨日も夜遅くまで囲碁の仕事が入っておったんじゃろう、ヒカル。だから起こさんでいいとわしが美津子さんを止めたんだ。頑張っとる孫を無理やり起こすなんて出来んさ、おっと!」
ヒカルに気を取られている隙をつかれて、虎次郎に猫じゃらしを奪われてしまう。
まだまだ非力な子猫と侮った、と頭を掻く。
しかし虎次郎はフイとヒカルの方を見ると、夢中でじゃれついていた猫じゃらしなど興味無くなったとばかりに離し、トテトテと短い足でヒカルの傍まで歩いてくる。
拾ってきた当初こそ生まれて間もなく、首もようやく据わった感が漂っていた虎次郎も、名人のタイトル戦が終わるまでの一ヶ月で、一回り以上大きくなった。
最初は首の負担にならないようリボンだけ巻いて、最近ようやく猫の首輪らしい布製の首輪をつけたのだ。
「ちゃんと拾ってくれた恩人が分かるなんて賢いじゃないか」
「ハハ、まぁね」
そう言ったものの、傍まで寄ってきた虎次郎が見上げているのは、ヒカルではなく隣にいる佐為だ。
――虎次郎のやつ、お前のこと見えてるのかな?
――どうでしょう?猫は昔から妖になったり不可思議な力があると言われておりますが、ホント見えてるんですかね?私のこと
――江戸時代の虎次郎の頃はどうだった?猫くらいいただろ?
――虎次郎は猫を飼っていませんでしたし、指導碁で赴いた家々でも、猫は碁石を散らかすと遠ざけられてて……、えいっ!
佐為が急に袖を虎次郎の前で振ってみせたが、虎次郎は驚いた様子もなく、かわいらしく首を斜めに捻るだけだ。
佐為の姿が見えているとも見えていないとも判別つかない。
もう少し虎次郎が大きくなれば、また違った反応が見られるかもしれないが、今はまだ無理のようだと諦め、ヒカルは遅くなった朝食を出してくれる食卓へとつく。
だが、ヒカルの朝食の準備をしながら、平八とヒカルのやりとりを聞いていた美津子はというと、朝食を出しながら困り顔で苦言をこぼした。
「義父さん、そんなにヒカルを持ち上げないでください。大阪からやっと帰ってきたかと思ったら、いきなり猫拾ったからウチで飼っていいかなんて言い出すんですから……」
世間一般の家庭のように美津子も同じく拾ったところに戻してきなさいと言えば、なんと大阪で対局前に拾ったのだと言うのだ。
さすがに美津子も、子猫を戻すためだけに大阪までもう一度行ってこいとは言えない。
猫のお世話グッズや餌代は自分が出すだの、頭を下げて頼み込むヒカルに、半ばなし崩しのように飼うことになったのだ。
「いい?ヒカル、動物はこれっきりよ!また拾ってきてもウチでは飼えません!アンタは囲碁の対局で地方に行くことがただでさえ多くて、世話をするのは結局お母さんなのよ!?」
「わかってるよ」
「まぁまぁ美津子さん、そんなに言わんでもヒカルももうわかっとるさ」
小言が止みそうにない気配に、平八が二人の間に入り、義理の父親に間に入られては美津子も小言を続けることはできない。
「しっかし、まさかお前が本当に名人になるとはなぁ~」
「見えないって?」
朝食のパンを口に詰め込みながらヒカルが問えば、
「いやいや立派な名人じゃ。近所でも評判になってわしも鼻が高いわい!」
やんちゃで外で遊んでばかりいたヒカルが、何が機転になったのか急に碁に興味を持ち出し、いつの間にかプロになっていたかと思うと、ついには名人というタイトルを取ってしまうまでに成長したのだ。
孫馬鹿でなくとも、自慢に思わない爺婆はいないだろう。
近所の人にすれ違うたび、町内の囲碁大会に顔を出すたび、いろんな人からヒカルの話を振られ自慢するまいと思っていても、つい自慢話の方向に話が流れてしまう。
いつかヒカルが自叙伝でも出したときに、祖父に初めて碁盤を買ってもらったなんて書かれた日には、まず間違いなく泣く自信がある。
「じゃあ、ヒカルの顔も見れたしそろそろ行くか」
虎次郎が興味を無くして床に落ちている猫じゃらしを机の上に置きながら、平八はソファから腰を上げる。
「何?じいちゃん、もう帰るの?」
「ちょっと届け物があっただけだからな」
「一局くらい俺と打っていけばいいのに」
「そうしたいのは山々だが、ばあさんとこの後待ち合わせて芝居に行く予定なんじゃ。時間が空いてるなら、お前も行くか?」
「芝居は~……いいや、遠慮しとく。ばあちゃんと二人で楽しんできなよ」
「そうか。じゃあな。対局頑張れよ、応援しとるから」
「うん」
平八を玄関まで送り、残った朝食も手早く胃に収めれば、
「ほら、虎次郎。上行くぞ」
ヒョイと虎次郎を小脇に抱え、美津子の小言がまた出ないうちにとヒカルは二階へ退散する。
虎次郎ももう少し大きくなれば、階段を上がれるようになるのだろうが、まだ子猫の短い足では、段差に足が届かない。二階の部屋に入って下ろしてやれば、さっそく床に置いていた座布団に的をつけたのか、いっちょまえに体を伏せて獲物を狙うポーズをするので、クスリとヒカルから笑みがこぼれた。
――ネット碁、久しぶりに打ちませんか?
「ネット碁したいのか?」
今日は次の対局相手の打った棋譜でもゆっくり並べてみようかと思っていたヒカルは、佐為の何気ない申し出に意外そうに返す。
――私が打つのではありません。ヒカルが打つのです。ここ数ヶ月、ヒカルは私としか打っていないでしょう?
「俺が?それはそうだけど」
――私の名前ではなく、前に打っていたみたいにヒカルの名前ですれば、誰も分かりませんよ
一瞬、佐為が碁の勉強をしなくていいのかとヒカルは思ったが、佐為以外と対局するという響きは、いつも佐為の対局を見ているだけのヒカルには抗い難く、
「……そうだな。お前以外と久しぶりに打つのもいいかな」
しばらく入れていなかったPCの電源を入れたのだった。
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14 第二のsai
都内で行われる大きなイベント当日、会場となるホテルのホール控え室で、ヒカルはイベントの当日スケジュールの紙に目を落とし流れを追っていた。
今日のヒカルの仕事は午前に女流棋士と一局打って、午後は3面打ちでの指導碁となっている。
通常なら名人を初めとしたタイトルを保持するトップ棋士が、一般客に指導碁をすることは滅多にないが、下手にヒカルに解説をさせてまた死活をポロリされても困るのだ。
イベントにヒカルが対局解説者として参加すれば、客寄せとしてネームバリューは大きく、実際若く才能溢れる棋士に客は喜ぶ。
しかし、以前ヒカルはイベントに解説者として大盤の前に立ち、突然黙り込んだかと思うと、解説アシスタントが止めるまもなく、いきなり対局中の黒石の一角を殺してしまった前例があった。
解説もプロ棋士の仕事の一環とはいえ、ハプニングはたまにある。
大盤解説がリアルタイムでテレビ中継されていなかったのが救いだった。
白石を持っていたプロ棋士は、ヒカルが見つけた筋に気づけず、結果負けてしまった。
対局の勝敗を分けた原因は、決してヒカルの見つけた死活だけではないだろうが、白石を持っていた者がせっかくの勝ち筋に気づかず見逃してしまったのは否めない。
客はハプニングを他人事と面白がったが、あの後の対局者たちとの気まずさといったら無かったという。
あれ以来、イベントにヒカルを引っ張り出すときは、棋院の事務方が最新の注意を払い、 出来るだけ対局者としてのみの仕事を振るようになった。
故に今日のイベントも解説なしの対局と指導碁のみ。
何しろ、今日のイベントは対局している隣で大盤解説をするため、解説の一言一句が対局者に聞こえているし、解説を聞いている一般客の反応も全て丸分かりなのだから。
指導碁を打つにしても、プロ棋士はヒカルだけでなく5人以上はいるのに、それでも運よく『名人』に指導碁を打ってもらえれば儲けものと、指導碁の希望者が殺到したのを抽選で行った。
「相変わらず、森下先生の研究会以外には、どこにも顔出していないのか?」
今回ヒカルと女流棋士の対局の解説することになった緒方が、同じくスケジュールに慣れた様子でさっと目を通し、椅子に座って丹念にチェックしているヒカルへ話しを振る。
「うん。とくにに誘われないし、伝(つて)のある親しいプロ棋士も他にいないから。な~んかみんな、俺のこと遠巻きな感じで見てるんだよね~」
スケジュールから顔を上げることなく迷いなくスッパリ言い捨てたヒカルに、緒方は内心肩を落とした。
――だから今日の解説にお前とセットで俺が振られたんだろうが
努力に努力を積み重ね、ようやくプロ棋士になったものの低段者の中でもまれている者、そのまま段位を上げてもタイトルまで手が届かない者たちが、囲碁界に颯爽と現れタイトルをかっさらっていく若年の天才にそう気安く声をかけられるとでもヒカルは考えているのだろうか。
院生時代、実力を隠していたことへの嫉妬や僻み、しこりは多少なりあるだろうが、タイトルを取るだけの実力はヒカルの打った棋譜が証明している。
弱い者が何言ったところで、所詮は負け犬の遠吠えでしかないということは誰でも分かっている。
それでも努力を重ねてプロ棋士になり、棋士として生きている上で、いかに自分より才能がある相手であろうと年下の棋士に易々と頭を下げることが出来ない自尊心があるのだ。
そんなヒカルと気兼ねなく話(意思疎通)ができ、かつイベント事に慣れていないヒカルをフォロー出来る人数は限られてくる。
同じ森下の研究会に出ているメンバーか、緒方またはアキラなどだ。
そして今日のイベントで、ヒカルのフォローとして緒方が当てられた。
「別に研究会に誘われるのを待つんじゃなくて、お前が自ら研究会を開いてもいいんだぞ?」
「俺が研究会……」
緒方に言われてヒカルが思い浮かべたのは、自室の6畳間に男6人でいっぱいいっぱいな部屋だった。
それに加え、ヒカルの部屋に碁盤と碁石は1セットしかない。
その一つを6人で囲むとなると、窮屈過ぎるだろう。
「そんな性格でもないし、第一、俺の部屋、人が大勢入るには狭いよ。あ、でも森下先生のように棋院の部屋を借りるって方法も」
「それだけはやめろ。お前が棋院で決まった時間に研究会を開けば、お前見たさの一般客が殺到して棋院が迷惑する」
「それもそっか」
疎いヒカルでも、タイトルを取ってからの周囲の変わり様はよく分かっている。
どんなに強くても、それがタイトルを持つ者と持たない者の差だとヒカルに教えたのは誰だったか。
特にタイトルの中でも『本因坊』と並び立つ『名人』を持つヒカルは、どの対局でも上座に座るようになった。
現状、ヒカルの対局者として上座に座ることが出来るのは、『本因坊』のタイトルを持つ桑原だけだ。
「進藤」
「ん?」
「何故、敦盛の舞を知ってたんだ?」
問うと、一瞬だけヒカルは目を見開き、すぐに誤魔化すのを諦めたように小さく溜息を零した。
「……誰かから聞いたんだね」
「それも言いたくないか」
ヒカルは囲碁そのものの強さ以外にも、内側に隠した秘密がふとした時に垣間見えた。
その中でも、行洋と共有した秘密こそが最大の秘密であることは緒方も確信している。
だが、決してヒカルは行洋以外に秘密を話そうとはしなかった。
「教えてもらったんだよ」
緒方の眉間に皺がよった。
文献の中だけの舞を、能の家元である梨川さえ知らなかったのに、他に誰が知っているというのか。
しかし、緒方の脳裏に上野が言っていた言葉が過ぎる。
神事に長く携わった者でしか視ることが出来なかっただろう何か。
視界を掠める人に在らざる存在。
緒方自身が幽霊や神仏の類を信じていないため、上野の話を全面的に信じるということは出来なかったが、ヒカルが敦盛を舞ったという現実は否定できない。
「教えてもらった?誰に?幽霊にでも教えてもらったか?」
カマをかけた。
次に、ヒカルの瞳に怯えが瞬間映り、後悔した 。
「……幽霊が見えるなら、塔矢先生にも会えればいいのに」
ポツリとヒカルが呟く。
――焦った……そういう意味か……
表情には出さないよう意識しながら、緒方はほっと安堵する。
最初にカマをかけたのは緒方自身だったが、まさかヒカルが『幽霊』の単語一つで怯えるとは思わなかったのだ。
一瞬、本気でヒカルが幽霊が見えるのかと考え、冷や汗が出てしまった。
幽霊の類が見えるのなら、ヒカルが真っ先に行洋に会いたいと願っても不思議ではない。
そこに二人の会話をさえぎるように、
「おはようございます。本日はよろしくお願いします」
ホテルに着いて早々、係員から説明を聞かされていたヒカルの対局相手が、遅れてしまった挨拶を述べれば、ヒカルは椅子から立ち上がり頭を下げる。
相手の女流棋士に『進藤名人』と言われると、苦笑とはどこか違う曖昧な笑みで受け答えた。
□
緒方から急にどこかで話がしたいと電話が来て、アキラは家からそれほど遠くない喫茶店で緒方と待ち合わせた。
頼んだのはお互いホットコーヒーのみだ。
外で改まって話がしたいと言うからには、ゆっくりケーキを食べるほど悠長な話ではないだろう。
「ネット碁に強いプレイヤーがいる?saiではなく?」
「そうだ」と緒方。
「また進藤じゃないんですか?saiとは違うアカウントで登録してこっそり打っているとか。懲りないヤツだ」
くだらない話だとアキラは興味なさげに頭を振る。
だが、同時にアキラと同様のことを緒方も考えたハズだ。
その上でアキラに話すだけの何を気にかけているのかという疑問を抱く。
「進藤の……saiの強さじゃない。そのプレーヤーは確かに強いがsaiにはまだまだ及ばないがアマじゃない。プロだ」
「saiではないなら、何が気になるのです?」
「棋譜を見れば分かる。だが、実際俺も判断しかねている。進藤がまた打っているのか、誰か別人なのか」
持っていた封筒をアキラの方へ差し出した。
差し出された封筒には棋譜が数枚入っていた。
公式の手合いを記録した手書きの棋譜ではなく、ネット碁で打った対局のログをパソコンが自動的に印刷した棋譜。
アキラが目を通す間、緒方はじっと静かに待った。
そしてアキラの目がしだいに見開かれ、棋譜に釘付けとなっていった。
「……これは……え?しかし……まさか、進藤?」
「アキラくんもそう思うか?」
苦々しく思いながら、緒方は注文した自分のコーヒーに口をつけた。
世界中で騒がれたネットのsaiの正体が明かされて、もう二度とこういう騒ぎは起こるまいと思っていたのに、再び現れたネットの棋士。
ヒカルではない。
公式手合いはもちろん、非公式でも緒方はヒカルと何度も対局している。
ヒカルの強さはまさしく百戦錬磨された老練な打ち筋だ。
研ぎ澄まされた鋭さと、底冷えするプレッシャーは、甘さなど微塵もない。
対してこの棋譜から受ける印象は、プロ以上の実力は伺えるがそこまでた。
けっしてそれ以上ではない。
緒方から見ても、所々に小さな甘さがまだ残っている。
しかし、初めて緒方がヒカルと碁会所で対局した一局。
あの頃、ヒカルはまだ実力を隠していた。
ヒカルが力を抑えながら緒方と打った一局が、ネット碁で打たれた棋譜と不思議に重なる。
アキラも緒方と同じ印象を受けたのだろう。
実力を抑えていた頃のヒカルと対局した回数は、アキラの方が圧倒的に多い。
「緒方さんは、このプレイヤーと対局したことは?」
「ない。俺も第二のsaiだとネットで騒がれていたのに興味を持って、なんとなくソイツが打ったという棋譜を覗いたらそれだったんだ」
ネットのプレーヤー達が、第二のsaiと騒ぐのも、緒方には理解できるような気がした。
saiであったヒカルと似た棋風。
プロ以上に強い棋力。
正体不明の棋士。
saiとしてネットで打ってきたヒカルを真似たようなスタイル。
プレーヤーのハンドルネームは『light』
もしヒカルでなかったとしても、この名前をつけた誰かが、わざとsaiであったヒカルの名前をひっかけて登録したとしか思えないようなHNだと思った。
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15 未熟な覚悟
『light』がヒカル本人か否か。
直接聞いたところでヒカルは否定するだけだろう。
解決策は、直に対局してみるのが一番いい。
――saiとして散々打って騒ぎを起こしておきながら、今更HNを変えて打つなんて愚の骨頂だ。だいたいタイトル戦の対局スケジュールで詰まっているくせにネット碁を打ってる余裕なんて。もうすぐ本因坊戦だって始まるのに
対してアキラ自身も対局やイベントの出演で忙しく、碁の勉強だっていくら時間があっても足りない。ヒカルを追う立場だからこそ寝食を惜しんで勉強こそすれ、戯れにアマと打っている余裕はこれっぽっちも無いのだから。
「ねぇ、アキラさん。ちょっと待って」
これから囲碁のイベントに出席するべく玄関で靴を履こうとしていたアキラを母親の明子が引き止めた。
「お母さん?」
「ごめんなさいすぐ終わるから。形見分けって程でもないんだけれど、名人のお祝いにこれを進藤君に譲ろうかと思ってるの」
遠慮がちに明子が差し出したのは長方形の桐箱だった。行洋の形見分けというからには、生前に行洋が使用していたものだろうと推察できた。
イベントの開始時間まで十分余裕がある。少し玄関で話したところで遅刻することはないだろう。差し出された桐箱を受け取りそっと開けて、さらに紫雲色の絹布の包みを捲りアキラの目が見開かれる。
「これは……」
「アキラさんさえ良ければだけど。でも最近の若い棋士の方はこういうものはもう古いって持たないかしら。緒方さんや芦原さんも持ってらしていないし、渡されても迷惑ならやっぱり止めて」
「いえ、僕も賛成です。今日のイベントは進藤も参加するからついでに渡しておきます。きっと進藤も喜ぶと思います」
渡すのをやめておいた方がいいかと否定的になりかけた明子を止めて、アキラも渡すことに賛同する。桐箱を開けた瞬間は確かに驚いた。と同時にこれを手に持つ行洋の姿が思い浮かんだ。
棋士としての行洋と常にその手にあったもの。
一瞬自分がこれを持つ姿を想像して、すぐに首を軽く横に振る。
――僕にはまだこれは相応しくない
代わりにヒカルが持った姿を想像すると、いつものTシャツにGパン姿で決して似合うとは言い難いのに、その手にあるのが不思議と自然に思えた。ヒカルの手の中にあることをそれ自ら望んでいるような。
「よかった。じゃあよろしくお願いするわね」
賛同してくれたアキラに、心配げだった明子がパッと表情を明るくさせた。父親の愛用品を息子のアキラが自ら譲るのではなく、自分から譲渡を提案するのはなんとなくアキラに悪い気がしていたから言い出すのをこれまで何度も躊躇してしまった経緯があった
しかし機嫌を悪くすることなくアキラが提案を受け入れてくれたことに、ホッと胸をなでおろす。
「でもお母さん、どうして今頃これを進藤に?」
絹布に包み直し、桐箱の蓋を締め直しながらアキラが尋ねると、明子は苦笑いして斜めに俯く。
「……行洋さんがまだ生きていた頃、たまに行き先も告げないでふらっと出かけていく時があったの。でも心配はしなかったわ。あの人、すごく嬉しそうな顔して出て行くものだから。自分では気づいていなかったんでしょうけど、前の日から変にそわそわしてて明日はまた出かけるのねって。アキラさんよりよっぽど行洋さんの方が子供みたいよね」
「全然気づかなかった……」
行洋がヒカルと内緒で会っていたのは既にアキラも知っていたが、明子の言うような行洋の様子の変化には全く気がつかなかった。
「行洋さんは進藤くんに会っていたのね。アキラさんにも誰にも内緒で」
どこか遠くを見ながら独り言のような明子の呟きに、アキラはどう言葉をかけてやるべきか逡巡する。
妻である明子にも行洋は話さなかった。それに明子が寂しさを全く感じない筈はない。
「正直、お母さんもこれを進藤君に渡そうかどうかずっと迷ってたの。でも行洋さんが持ってた名人に進藤くんがなって踏ん切りつかない気持ちに整理がついたというか、これを持つのに進藤君こそふさわしい気がしたのよ。彼ならきっと誰よりも大事にしてくれる気がして、行洋さんもそれを望んでいると思う」
そこで明子がアキラを振り返り、
「アキラさん」
「はい」
「いつか進藤くんの心の傷も癒える日が来るといいわね」
思いがけない明子の言葉に、思わずアキラは手に持っていた桐箱を持つ手に力がこもる。そのまま桐箱をバッグに入れ玄関を出て戸が締まってから空を仰ぎ見た。
「そんな日が本当に来るのか……」
むしろヒカルは傷が癒えることを望んでいないように思えて仕方なかった。
■
イベントそのものはイベント会場を借りて午後から行われるもので、中央でプロ棋士が対局し、それを別棋士か大盤で解説。そこから少し後ろでプロ棋士による指導碁が行われるというごく一般的なイベントだった。
対局者はヒカルと7段の都築、解説が畑中。そして指導碁にはアキラを含めた若手の棋士が割り振られている。
6冠の棋士が出演するイベントということで、参加する一般客は用意した椅子だけでは足らず壁にそって立ち見が出るほど盛況だった。
特に7大タイトルのうち残り一つ、本因坊タイトル戦を控えてマスコミ取材まできている。
それだけでなくイベント会場が東京ということで、本来こういったイベント対局はテレビ中継はしないのだが中継の問い合わせが棋院に多数寄せられたことで、公式対局でもないのにネット配信が行われていた。
ヒカルが碁盤が用意された壇上袖から出てくるだけで、会場から沸く拍手喝采。季節はまだ肌寒い4月なのに夏を思わせる異様な熱気がある。
そして「進藤名人」だの「進藤王座」など会場のいたるところから上がる歓声に、壇上に上がったヒカルは困惑を隠せないようで戸惑っていたが、棋院関係者はもっと囲碁が盛り上がってくれたらと決して悪い顔はしていない。
「進藤名人はまだトークするのは慣れていらっしゃらないですし、トークもお客さんは喜んでくれるんですけどやっぱり直接目の前で名人が対局している方が全員見れますし喜ばれますね」
満員御礼の会場にこちらも満面の笑みで係員が客の対応をする。
それを横目に見ながら、
――あれを手渡すのは帰り際でいいか
イベント前は打ち合わせで忙しく、忙しいイベント中に手渡されても困るだろう。
帰り際に手短に渡そう。
勝敗真剣勝負の対局ではなく来てくれた一般客に分かりやすい対局内容が対局者に求められるため、ヒカルも勝ち過ぎることはなく、森下の研究会で一緒の都筑もヒカルの意図を組んだ流れで打ち返す。
それを解説の畑中が冗談を織り交ぜながら、客たちにわかりやすく説明していく。
一回目の指導碁が終わり、会場脇で壇上の解説を見ながら休憩しようとして見知った人物を見つけて、昔からの付き合いの長さで自然と挨拶をと歩み寄る。
「こんにちは、梨川先生。いらっしゃっていたのですね」
舞台で主立って舞っていた頃は多忙でこういうイベントに顔を出すことは中々なかったが、引退しヒカルの後援会スポンサーになってからはヒカルが出演する都内のイベントにたまに顔を見せるようになった。
「塔矢くんお疲れ様です」
梨川の隣には上野もいて、アキラに軽く会釈した。
行洋と友人でもあった梨川と会うと、どうしても脳裏に蘇る記憶がある。
今思い出しても確かにそれは現実で見た光景なのに夢のようなひと時。
恐らくあれがきっかけで梨川はヒカルのスポンサーになると決めた。
能という一つの世界で芸を磨き頂点を極めたといって差し支えない人物が動くだけの大事だった筈なのに、表面上は何も騒がれない。記憶だけが頼りで、いっそう夢幻を見ていたような不気味な気分になる。
「次の王座リーグ戦出場、おめでとう」
「ありがとうございます。でもこれからが本番です。どうにか挑戦者になっても現王座があれですからね。王座だけじゃない他のタイトルも全部……」
壇上で次の一手を考えているヒカルを見やり、アキラは苦笑する。
自分はようやくリーグ戦でTOP棋士だちと戦うようになったのに、一年遅れてプロになったヒカルはすでに6冠の棋士となり残る一つ、本因坊も手に入れようとしていた。
対局するときは常にヒカルが上座に座り、挑戦者たちを迎え打つ側である。
「勝てる気がしないかい?」
「正直、僕と彼の実力差は否めません。でも勝ちたいと思う気持ちだけは捨てずに最期まで打ちます」
視線だけアキラに向けて微笑む梨川に、アキラは首を横に振った。
勝つ気持ちを無くし勝負を捨ててしまったら、プロ棋士失格だろう。まずはリーグ戦を勝ち抜く、そうしてようやくヒカルと対等な場に座ることが出来る。
「進藤はあれから舞うことはありましたか?」
「いや。一度きりだ。だがそれでいい」
「それでいい?どうして進藤があの舞を知っていたのか、知りたいとは思われないのですか?そうすれば敦盛の復興にもっと役立つのに」
素朴な疑問でアキラは尋ねてしまっていた。
能を極めたからこそヒカルの舞に興味を持たない筈はないのに、それでいいと言及する気はないと言う梨川がアキラには信じられなかった。
能ではなく囲碁でもヒカルはその謎めいた強さを内側に秘めている。恐らく行洋だけが知っていたその秘めた謎を知りたいと思わない日はない。
だがアキラの一言にぎょっとしたのは梨川ではなく隣に座る上野で、けれど直ぐに触れてはいけない部分に触れてしまったような複雑な表情でうつむき加減になる。
「休憩時間はまだあるかな?余裕があるなら少し外に出ようか。進藤くんが出演するイベントは盛況で結構だが、年寄りにこの人の多さは少し体に堪える」
アキラの疑問に梨川は一度深く目をつぶり、隣に座る上野にここで待っているように行ってから立ち上がった。次のアキラが担当する指導碁までまだ30分余裕がある。上野にも聞かれたくない話なのかと軽く上野に頭を下げてから、アキラは梨川の後を追う。
「いい天気だ。こういう日は外を出歩くと気持ちいい」
廊下でアキラの姿に気づいた客たちがチラチラと向けてくる視線に気づきながら、会場のホールを出ると一気に会場の
熱気から開放され4月らしい暖かな日差しと涼しい気温、会場ビルのすぐ隣に整備されている遊歩道に植えられた青々と茂った桜の葉に視線を奪われる。
2人以外まわりに人がいないことを確認し、
「私もね進藤くんの秘密を全く知りたいと思わないわけじゃないよ。だがこの距離でいい。私から何か言う必要はない。彼らが気まぐれに見せてくれるもので満足しよう」
どうしてヒカルが戦前に失われた敦盛の舞を知っていたのか、もし知ることが出来るなら知りたい。
これまで生きてきた能の世界で自分の知らない世界がそこにあるかもしれないのだ。興味を惹かれないわけがない。
だが、そこは恐らく人が土足で踏み込んではいけない場所ということも、同時に察することが出来た。分を弁えず欲を出した者には相応の罰が降りかかる。
しかしそれをアキラが理解出来るはずもなく、
「彼らと今おっしゃいましたか?梨川先生は進藤から何か聞いているのですか!でしたらどうか教えてください!」
「何も聞いてはいない。ただそこに在るのを感じるだけだ。それについて、これから先も尋ねる気はない。私は彼を後援し支える立場の人間を選んだ。彼を悪戯に動揺させる気は微塵もない」
「だからこれまでずっと表立つことを避けていらっしゃったのに、進藤のスポンサーに梨川先生は名乗りを挙げられたのですか?下手なスポーンサーがついて利益だけに目がくらんで進藤を追い詰めさせないように」
アキラの問いに梨川は微笑むことで肯定した。
自分がヒカルのスポンサーとなる理由はそれが全てではないが、スポンサーになるだけの金を持っているだけに人間は欲に走りやすい。そんな者たちにヒカルを巻き込ませたくなかった気持ちはアキラの言うとおりあったのだから。
「昔からそういった類のモノに人は畏敬の念を向け恐れたものだ。それらは見る者次第で鬼にも神にもなった」
ヒカルの傍に感じる気配。悪いものではないということだけは分かる。そしてヒカルもその気配を大事にしている。
梨川のように元々能の家柄で幼い頃から能に深く関わることで、そちらの気配に敏感になってしまった背景を別として、全く無関係だった行洋はどうだったのだろう。
「塔矢先生にそれはどう映り、結果として何故隠そうと考えたのか。きっかけは進藤君の方から塔矢先生に話したようだが、塔矢先生は図らずも知ってしまった事実を幸福と捉えたか不運と嘆いたか。私ならばきっと感謝しよう」
「感謝、ですか?」
アキラの瞳が大きく見開かれる。
「自分を選んでくれてありがとう。話してくれてありがとう。代わりに自分に出来る限りのことをしよう。君たちを必ず守ろう。私ならそう考える」
「だからお父さんは出来る限りを尽くして、saiを隠し守ろうとした……」
自分の胸一つに全てを納め、誰にも話さず、ヒカルが窮地に立たされれば慣れないネット碁を打ってヒカルのアリバイを作った。
「先ほどの上野は済まなかった。私の身近な者には普段から気づいてもそちら側には決して自ら立ち入るなと皆に言い聞かせてある。塔矢くんに深い意図はなかったのは分かっているが、いきなりで驚いたんだろう」
だから気にしないでくれと前置きしてから、
「人は強欲な生き物だ。だからこそ自分を律し、分を弁えなければいけない。でないと魅せられるだけなく、魅入られて囚われるかもしれないよ。塔矢先生のように」
話の途中まで桜の木を見ていたのに、後半に振り返りアキラをじっと見据えて言った一言に、アキラは急の手のひらに汗が滲み出してくる。
そして何故梨川が自分を外に連れ出したのか理由もここに至ってようやく察することができた。
――進藤にこれ以上深入りさせないための釘差しか
行洋という影の庇護者は失ったかもしれないが、それに勝るとも劣らない怖い支援者をヒカルは確かに得たらしい。
「脅し、ですか?」
「年寄りの忠告だと思って聞いて欲しい。恐らく進藤くんが背負うものは私たちが思う以上に重いものだろう。それでも塔矢くんが知りたいと欲するなら進藤くんを酷く傷つけることを覚悟なさい」
「そうして進藤が回りを振り回すことは黙っていろと梨川先生はおっしゃるのですか?ただ振り回されて我慢するだけなんて!」
思えば、小学生の頃初めて駅前の碁会所であった時からアキラはヒカルに振り回されっぱなしだ。
プロ以上の実力があった自分に指導碁を打ち、ネット碁で騒ぎを起こし、行洋が亡くなってからは自身がsaiであることを認め怒涛の快進撃を続けている。
「逆に問うが、君は真実を知った後どうするつもりなのだね?」
「知った後?」
問われてアキラは咄嗟に何も言い返せなかった。
だた真実だけを欲して、知った後のことなど何も考えていなかった。
「真実を知ることが出来て満足するか、知ってしまった真実に今よりも進藤君を責めるか、そういうことを考えたことは?」
「考えたことがありませんでした………」
「本人の望む望まざるに関わらず選ばれたのは進藤君だ。背負っているのは進藤君だけで、他人がどう足掻こうと共に運命を背負うことは出来ない。真実を知りたい君の気持ちは分かる。しかし無理やり誰かが聞き出したところで進藤くんが今のように心を閉ざすだけでなく、二度と碁を打たなくなるかもしれないことを覚えておきなさい」
静かな声に言葉を返すこともできなかった。
自分が目先のことしか考えていなかった自分の未熟さを様々と目の前に突きつけられる。
「……………」
「そういえばイベント前に進藤君と少し話したが明日久しぶりにゆっくり休めると言っていたよ。皆には内緒にしてくれと口止めされたが、タイトル戦ばかりでたまにこっそりネット碁を打つと息抜きになると。どうやら彼は塔矢先生の姿を私に重ねているようだ」
急に口調を明るくさせて梨川が話題を変えてきて、咄嗟に話題についていけなかった。
「梨川先生?」
「君に本当の進藤くんが捕まえられるかな?塔矢先生が真に守ろうとした進藤くんを君は何を犠牲にしても見つける覚悟はあるかい?」
「進藤を見つける……?」
ヒカルがまた懲りずに素性を隠してネット碁を打っているらしいということに怒りを覚えるより、謎かけのような梨川の問いかけの方がアキラの頭の中を占めていて反応できない。
そんなアキラに、
「そろそろ会場に戻ろう。君の休憩時間もあるだろうし、私もいい加減戻らないと上野が探しに来てしまう。今夜は進藤君と食事をする約束をしているんだが、よかったら塔矢くんもどうかな?」
「いえ、今夜はちょっと用事が……」
「それは残念だ。今度は是非塔矢くんも一緒に何か美味しいものを食べにいこう」
朗らかに微笑んで会場の方へと戻っていく梨川の後ろ姿が消えてから、たっぷり5分はその場に立ち尽くしていただろう。
だが、前へと歩み出したアキラの眼差しには一片の迷いも消えていた。
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16 『light』
ネット碁の中にも強い相手はいた。強いと一括りに言ってもアマの範疇が大多数だったが、稀にプロだろうなと思われる相手も見かけられた。
佐為にネット碁を打たせていた時以上に、素性を隠して碁が打てるインターネット碁の便利さとありがたみをヒカルは身に染みて実感する。
久しぶりに佐為ではなく自分で他人と碁が打てる喜び。と同時にやはり自分は碁が好きなのだと改めてヒカルは思う。
しかし、『sai』があまりにも世間で有名になり過ぎたため、いくら楽しくてもやり過ぎだけは注意しなくてはならない。
――この前もsaiの真似かってチャットされたしなぁ
特に勝ちが過ぎてはいけない。勝っても5目以内に収める。
既にネット碁の段位が8段のヒカルに、対局相手が盤面の優劣が分からない初心者ではなく、アマでも実力のある者たちばかりだったのも助かった。
対局相手との実力差を悟り、勝てないと悟ったら投了する判断力があり、勝てもしない差が広がるばかりの対局を続ける手間がない。
5月から始まる本因坊の挑戦者も佐為が勝ち取り、現本因坊である桑原の7番勝負が控えている。そんな大事な時期に派手に打って、不必要に騒ぎを起こすわけにはいかない。
棋院の方も何十年に一度あるかないかの対局に常になくピリピリしているのが伝わってきて、大仰な気遣いに何度佐為と顔を見合わせ苦笑したか知れない。
しかしいくら世間の注目を集めても苦手な取材を詰め込まれることはなかったので、正直感謝した。
既に6タイトルを持っていることでヒカルは大手合いの対局はなかったが、地方対局のために月に何度も移動することになり移動だけで疲労してしまう。対局会場となるホテルに到着しても前夜祭があり、スポンサーや関係者との会食に付き合わなければならず、これで次の日朝から対局となれば身体共に相当の負担がかかるだろう。
ヒカルはまだいい。移動するのは自分でも対局するのは佐為である。
つい先日まで十段戦を戦ったが、来月の5月から7月は本因坊戦。少し先の9月から11月にかけては名人・天元・王座の3つもタイトル戦が重なる過密スケジュールになる。
だが行洋はヒカル同じ6つのタイトルを取って、なおかつ地を含めた方対局を1人でこなしていたのだ。実際我が身になって始めて実感するその負担。相当な負担が行洋にかかっていたのは想像に容易い。
最近ではテレビに映る機会が多くなったヒカルの顔を覚えている一般人が増え、気軽に外を出歩くことも憚られるようになった。不用意に外に出て、ヒカルに気づいた一般人に囲まれてしまった回数はもう片手では足らない。
その公式対局の合間に佐為以外誰も見ていない自室で打つネット碁は、ヒカルにとって疲れを忘れることのできる大事な気晴らしだった。
「ネット碁もこれでしばらく休みだな。10日間後には本因坊戦が始まる」
現在の本因坊は桑原だ。棋院に残っていた公式対局の棋譜は全て取り寄せ、近い時期のものから順に佐為と共に検討し続けてきた。20代でプロ棋士になってから豊富な対局経験で得て、あの歳でタイトルの座に居座り続けるだけの老獪な碁を桑原は打つ。
決して忘れてはいけないのが、戦いが盤上だけではないということだろうか。どんな盤外戦を仕掛けてヒカルや佐為の動揺を誘ってくるか分からない。
ネット碁は楽しかったが、本因坊戦に集中しよう。
絶対に本因坊を手に入れるために。
「akira?」
ふとディスプレイに映し出された対局申し込み相手のHNに、マウスを持っていたヒカルの手がピタと止った。
『akira』の名前に塔矢アキラの姿が脳裏に思い浮かぶ。
次いでありえないと首を横に振った。
――まさか、塔矢のわけがない………
ヒカルのようにタイトルを持たずとも、アキラは既に高段者との手合いをこなしタイトル挑戦者を決めるリーグ戦も戦っている。他にセミナーなどで大盤解説や司会、指導碁もしているのだ。決して暇ということはありえない。
それに昔からネット碁に親しんでいる和谷と違って、アキラの性格を考えれば時間が少しでもあれば碁の勉強をしているだろう。間違っても酔狂でアマ相手にネット碁を楽しむような性格じゃない。
けれど、実際に佐為を追いかけてアキラはネット碁を打っていた過去がある。
ネット碁のアカウントは持っている。
「塔矢なわけがない」
見ていたディスプレイから視線を落とし、ヒカルは自身に言い聞かせるようにポツリと呟く。
そんな奇跡のような偶然があるわけないと、微かに抱いてしまった期待を打ち消そうとする。もう二度と打てないと覚悟した相手なのに、ディスプレイに<akira>の名前が出てきただけでまた打てるかもしれないと喜んでしまった自分が情けなくて仕方ない。
――アキラではないかもしれません。でもアキラ本人である可能性がほんの僅かでもあるなら対局してみては?落胆するかもしれませんが、どうせ後悔するなら対局して後悔するほうがいい
一部始終をヒカルの傍で見ていた佐為が、対局申し込みを断ろうとしてる気配を察して引き止める。
行洋との約束を果たすために普段の対局は佐為が打っていても、決してヒカルが全く打ちたくない訳でないことは言わずとも伝わってくる。
本因坊を取るために佐為がヒカルとして碁を打つことになったのは後悔していない。言い訳と取られるかも致し方ないが、そうしなければあの時のヒカルは自責の念で自身を保てなかった。
そして佐為自身、次の対局のための勉強など準備をしなければならないことは分かっていたが、自らが打つことでヒカルが影に隠れてしまった負い目を承知で、ヒカルにもどうにかして打たせてやりたい。
その一心で佐為はネット碁を薦めたのだから。
「やって後悔、やらずに後悔………、どうせならやって後悔の方が諦めがつくか」
佐為に背中を押されて、対局申し込みキャンセルしようとしていたのを寸前で留まる。
いつもならヒカルはネット碁の持ち時間は30分から1時間程度で設定していた。アマ相手にそこまで長考する必要はなく、相手も趣味で打っている対局で3時間の持ち時間いっぱいいっぱい長考していたら、大切な休日が1日潰れてしまう。
趣味でちょっと打つ程度なら30分から1時間がちょうどいい。
しかし、もしもう一度アキラと対局することが叶うなら―――――。
設定ウィンドウをクリックしお互いの持ち時間を再設定する。
その上で対局申し込み了承ボタンをクリックした。
■
『君に本当の進藤くんが捕まえられるかな?』
忠告と共に梨川が教えてくれた情報。
ヒカルが隠れてまたネット碁を打っている。有名になりすぎたsaiのアカウントではすぐにバレて騒ぎになる。saiではない別のアカウントを作りログインしている。そのアカウント名が何なのか、アキラに心当たりが一つあった。
(本当にlightは進藤?)
緒方が教えてくれた情報と棋譜。
プロ以上の棋力と6冠棋士となったヒカルと似た棋風を感じさせる打ち回し。
だが棋譜のところどころに甘さが見つけられ、ヒカルには届かない。何よりヒカルと対座し対局する時に感じる、あのえも言われる気迫と圧迫感が棋譜からは感じられなかった。
静寂の中、対座するだけで震えてしまいそうになるあのピリピリとした空気。
姿の見えないネット碁であろうとlightが本当にヒカルなら、棋譜だけでもあの気迫がわずかでも感じられるだろう。そうでないのなら、lightはヒカルではないということなのだが、梨川が言っていた<本当の進藤>という意味深な言葉が引っ掛かった。
6つものタイトルを取ったヒカルとは別の、もう一人のヒカルがいると取れる言葉。
そして梨川はヒカルを指して<彼ら>と言った。
まるでヒカルが2人いるかのように受け取れる。
――プロになって初めて進藤と大手合で対局した時、進藤の中にもう一人進藤がいると直感的に思った。梨川先生は僕が感じたことと同じことを言っているのか?
その真偽を確かめる術と道は梨川が示してくれた。
「犠牲か、確かに時間の浪費で無駄になるかもしれない。気がおかしくなったと思われても仕方ないな」
自嘲気味にアキラは笑む。少し前の自分だったなら、何を馬鹿なことをしていると今の自分を怒鳴り散らしたことだろう。
『light』と対局申込みを約束する連絡手段はなく、ヒカルに面と向かって『君がlightなのか?』と尋ねたら警戒してネット碁から離れる可能性がある。
気合と根性に物を言わせる根気との戦いである。自分の心が折れて諦めるか、どんなに時間を浪費しようと探しつづけるか。
碁の勉強そっちのけで、いつネットに現れるかも分からないアカウントをひたすら探し待ち続けるのだ。しかもシステムの仕様上、既に8段の『light』と対局するためには、アキラが作ったアカウントの段位を最低5段にまで上げなければ対局申込みできない。
初期の自己申告で1級まで設定できるが、そこから段位を上げていくにはネット碁にいるほかの高段位ユーザーと何度も対局し、段位を上げていくのである。もちろん対局相手は99%アマと考えていい。
――だが自分に出来ることは『light』とどうにかして対局することだけだ。見つけなければ何も始まらない。分からないままだ
新しいノートパソコンを新調し、手合やイベントなどの仕事以外、アキラの時間の許す限りネット碁に入り浸る生活が始まった。母親の明子も最初はどうしたのかと不振がったが、アキラが手合だけは決して休まなかったので、気の済むまでさせることにしたらしい。
不幸中の幸いで、同じプロ棋士のアキラは、棋院が関連するヒカルのスケジュールを把握することが出来た。平日であっても自身の対局や仕事が重ならない限り、ある程度の融通が利く。
十段戦が終わったばかりだが、5月からは本因坊戦が始まる。
行洋との約束を果たすために、本因坊を得るために自身がsaiであると明かしたヒカルなら、並々ならない意気込みで本因坊戦に臨むだろう。息抜きにネット碁をする余裕はなくなる。
――タイムリミットは本因坊戦が始まるまで。それまでに捕まえられなかったら、次に進藤がネット碁をまた始めるのは本因坊戦が終わる7月以降になる。
すでに4月に入り、本因坊戦が始まるまでの時間はあまり残されていない。
『light』がヒカルだった場合を考え、少しでも気を引くためにHNは『akira』。研究会の誘いは全て断り、そして時間の許す限りネット碁で『light』を探し続けるアキラの生活が始まった。
ヒカルにイベントなどの仕事が入りログイン出来ないだろうと思われる日にアキラがフリーな日は、一人棋譜並べや詰碁を解いて勉強する。
『light』自体は探し始めて数日後に見つけることが出来た。しかし対局となると他のユーザーとの早い者勝ち勝負となり、なかなか対局申込みできない。頻繁にログインするとは決して言い難いlightが、他のユーザーと対局しているのを観戦するだけだ。
ようやく対局が終わるやlightに素早く対局を申し込むのくり返し。
ディスプレイ上には確かにlightがいるのに捕まえられないジレンマともどかしさで苛立ちだけが増す。たった一度でいい。一回対局できれば結果を別としてそれで全てが分かる気がする。
そうしてようやくアキラがlightに対局申込みできたのは本因坊戦が始まる10日前だった。
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17 扇子
大手合の対局を終えて、アキラが廊下のベンチに座っていたところに
「調子はどうだ?」
返事を待たずすっとアキラの隣に腰掛けた白スーツの相手に、振り向きかけた顔を正面に戻す。
「まぁまぁです」
「対局そのものは勝っているものな。だが明子さんが心配していらっしゃった。家にいれば四六時中君がパソコンに噛り付いていると」
「緒方さんがあんな棋譜見せるからですよ」
アキラに直接言ってくることはないが、やはり明子は心配で緒方に相談したのだろうと察せられた。だが今回の原因は緒方も絡んでいるから、普段なら聞きたくない小言でも軽く受け流せる。緒方が『light』の棋譜をアキラに見せなければ、ヒカルが隠れてネット碁をしていようと、探す手がかりが何もなかったのだから。
「止めはしないが、寝るのと食事だけは抜くなよ。本当に対局できたとき、集中できず無様な碁になる」
「ご忠告、ありがたく。一回だけです。一回対局出来たらやめますよ」
それだけ聞くと緒方は立ち上がり、
「違っていても落胆するなよ?」
そう言い、最初に隣に座った時と同様さっさと立ち去って行く。
――落胆するのはもう慣れた。けど諦めることだけはしない。諦めたら全部終わりだ
■
対局申込みされたlightが先番の黒。アキラが後番の白となり、持ち時間はlight側から再設定された3時間。これまでアキラが観戦していたlightの対局は全て持ち時間30分から1時間だった。
そしてこうして対局ウィンドウが開いた対局開始時間は夕方6時過ぎ。これから持ち時間を互いに使い切って打ったとなると、対局が終わるのは日付を越えるかもしれない。
なのに『light』は『akira』にだけ持ち時間を3時間で再設定してきた。増々『light』がヒカル本人なのかと疑いが濃くなる。
互いに一手目は星。
お互い相手を警戒し、正体を見定めようと試してくるような手堅い碁がしばらく続く。
先に動いたのはアキラだった。次にいつ対局できるか分からない一度きりの相手に、いつまでも出方を待つだけではせっかくの好機を無駄にしてしまう。
相手が動かないなら、自分から動けば嫌でも動くだろう。
仕掛けてきたアキラにlightもすぐに反応した。
それまでの手堅かった碁が嘘のように碁盤全体に戦いが広がっていく。相手の薄いところに多少強引であっても打ち込み、地を荒らす。しかし自分の地が荒らされようとしていても、守りに入らず攻撃の手を休めない。
もはや乱戦だった。
気を抜けば、一気に崩れる危険性が黒白どちらにもあり、ほんの数ミリ踏み外せば転落する綱の上で戦い続けるような緊迫感。
――強い。lightは絶対にアマじゃない。だけど進藤の強さじゃない。誰だ?僕はこの棋士を知ってる!
打たれる一手ごとにディスプレイ上の碁盤から伝わってくる対局相手の気迫と情熱。
と同時に胸の奥から込み上げてくるどこか懐かしい気持ち。
対局はお互いの持ち時間3時間を使い切った夜の12時半近くに終わった。アキラが3目半で勝った。しかし、逆に考えれば高段者に混ざってリーグ戦を戦っているアキラが気晴らし程度ではなく真剣に打って3目半で負けるような相手なのだ。
アマの域を超えた棋力であるのは間違いない。
saiとネットで打った時とはまた別の驚愕。
あの時は想像していたより遥か高みから見下ろされる強さと、ヒカルと重なった一手に混乱が増すばかりだった。
だが、先ほど打った対局は驚きと共に、ずっと自信のなかった疑いが確信に変わっていた。
「進藤だ……」
――以前は初めて碁会所で僕を負かした進藤を追って追って逃げられて、ようやくネットの中で捕まえた気がした。実際、saiの正体は進藤だった。けど、これも確かに進藤だ
お互いプロになってから再び対局し、駅前の碁会所で何度となくアキラと対局した進藤ヒカル。アキラから見てもまだ甘いところが少しあるが、自分の生涯の好敵手として認めた相手。
しかし、行洋が亡くなってヒカルがsaiであると判明してからは、二度と打つことのなくなった相手が、ネットの闇の中にいた。自分の生涯唯一人の好敵手であると認めた相手だ。対局者の姿が見えないネット碁であろうと間違えはしない。
ネット碁の『light』は進藤ヒカル。
「どういうことだ?なんだこれは?どうして進藤がネットに?」
囲碁界で破竹の勢いでタイトルを総なめにしている最強の実力ではなく、碁会所でアキラと共に検討し切磋琢磨していた頃の、アキラの目にも甘さが見つけられた実力で打っている。
久しぶりに打つことのできたライバルとの対局に、心の片隅で懐かしさを感じ、喧嘩しながら打っていた光景が思い出された。
――saiが表に出てきて、代わりに進藤がネットの闇に消えた?
「進藤の中に進藤が2人いるんだ………」
アキラに初めて挫折を覚えさせたsaiと、全くの初心者から碁を覚えアキラを追ってプロになったヒカルの2人が一人の人間の中に混在している。
混在というには正確ではないかもしれない。一人の人間が二つの棋力を完璧に打ち分けているのだから。
そしてsaiが打つとき、ヒカルは盤面に碁石は打っても対局観戦者になる。
今、アキラを含めたプロ棋士たちが対局しているのはヒカルではない。
自分たちが打っているのは、ヒカルの中に潜むヒカルではないもう一人のヒカル:saiと打っている。
――お父さんは進藤と打っていたんじゃなかったんだ……。あなたは進藤ではなくsaiと打っていたんだ……
行洋が何故他人に内緒でヒカルと対局していた理由をずっと考え続けてきた。と同時にどうして何事にも厳しい厳格な性格の行洋がsaiを隠そうとしたのか、その訳をずっと知りたかった。
正直、息子のアキラにも黙っていた行洋を恨んだこともある。
だが、その行洋の意図を、先ほどの対局でようやく掴んだのかもしれない。
闇にいたsaiが表に出てきたせいで、本来表にいるべきヒカルがこうして闇に消えてしまった現実。
棋士たちを打ち破る圧倒的な棋力に目を奪われてしまった周囲。
――お父さんはこうなることが分かっていたんだ。saiが表に出てくれば本当の進藤に誰も見向きしなくなって闇の中に消えてしまうって。分かっていたからsaiを隠そうとしたんだ
ようやく父親のことが理解できたかもしれない喜びと、そしてヒカルが闇の中に消えてしまいもう二度と表に出て打つことができなくなってしまった悲しみと虚しさ。
――お父さんの判断は正しかった、そして………
天井を見上げ、両腕で目を覆う。
その重ねた腕の隙間から涙が一筋伝い落ちた。
■
待ち合わせ場所はヒカルの自宅がある最寄駅から2つ先の駅のカフェだった。朝9時にアキラがヒカルの家に電話して、どうしても手渡したいものがあるからと待ち合わせを約束し、待ち合わせの昼1時より15分遅れてヒカルは到着した。
カフェの店内を見渡し、すぐに先に到着して座っていたアキラの姿を見つけて小走りにやってくる。
「ごめん、待たせた。電車でちょっと捕まって」
「別にそこまで待ってないから気にしないでくれ。だから少しは変装しろと言ってるだろう?帽子1つでも十分君のその特徴的な前髪は隠せるんだ。それにこっちもいきなり朝から呼び出してすまなかった」
昼間のワイドショーや夕方のニュースでも取り上げられるようになったヒカルが、偶然すれ違った一般人に捕まることは決して少なくない。今日はまだプライベートの待ち合わせだから良かったが、仕事がある日にサイン攻めに合い遅刻寸前で会場に滑り込むという話をアキラは何度となく聞いていた。
その度に服装を変えろと忠告するのだが、ヒカルは一向に自分の服装に頓着せず、今日の服装も長袖のパーカーにGパンとごくラフな装いで、気づいたファンに捕まってしまう。
「別に用事はなかったしいいよ。新しい碁の本とかついでに見たかったし」
はに噛みながら、ヒカルは通りがかった店員にコーラを頼む。
余所余所しさな不自然なところはどこにも見つけられない。しかし、このヒカルの中に2人のヒカルが存在する。
(君の中に君が2人いるのは分かった。お父さんが隠れて進藤ではなく本当は誰と打っていたのかも。何故隠そうとしたのかも理由は分かった。けど、だとするなら進藤の中にいるsaiとは何者なんだ?)
行洋の考えが理解できても、最後に残り続ける謎。それはいくらでも推測は出来ても、ヒカル自ら話さなければ真実を知ることは出来ないだろう。
じっとヒカルを見やるアキラに、様子を伺っていた佐為が口元にそっと扇子をあて、
――やはり先日の相手はアキラだったようですね
――みたいだな
すでにヒカルもネット碁で対局した『akira』が、目の前に座っているアキラである確信はあった。1年以上ぶりに打ったアキラとの対局。自分の甘いところは決して見逃さない。そして多少不利でも地をもぎ取る粘り強さ。記憶の中のアキラよりさらに強くなっていた。
ヒカルがオーダーしたコーラはすぐに運ばれてきた。
それに一口つけて
「で、俺に渡したいものって?」
「これを」
脇に置いていた紙袋をアキラは差し出す。
「何だこれ?」
差し出された紙袋に入っていたのは、長方形の桐箱だった。袋を覗き込み、それからちらりと開けていいのか確かめるようにチラリとヒカルはアキラを見た。
「遅れてしまったが、お母さんから君が名人になった祝いを渡して欲しいと頼まれた」
「塔矢のお母さんが?俺に?」
予想していなかった名前が出てきて、ヒカルは顔を傾げて桐箱を箱から取り出す。そして丁寧に包まれた絹布の中から一本の扇子が現れた。
「これ……」
「お父さんが生前ずっと使っていたものだ。対局の時はいつも持っていた」
「塔矢先生が!?こんな大切なものお前こそ持ってなきゃ!ダメだ!受け取れない!」
慌てて絹布で包み直し、ヒカルは桐箱の蓋をしめてアキラの方へと突き返す。棋士として行洋が使っていたものを自分が貰うわけにはいかない。息子のアキラこそこの扇子を持つのが当然だとヒカルは思う。
しかし、突き返された桐箱にアキラは目もくれず、
「僕も君に譲るのが最もいいと思った。君が名人だ。お父さんと同じ。君以上にそれを持つのにふさわしい人物は考えられない。お母さんもそれを望んでいる。どうか受け取ってくれ」
ヒカルをじっと見ながら静かに語りかけ、アキラが引くつもりがないのは伝わってくる。だがこの扇子を本当に自分が受け取っていいものか迷ってしまう。
――ヒカル、ありがたく受け取りましょう。それが行洋殿のご家族の気持ちならありがたく受け取りましょう。
優しく微笑みながら、遺族の気持ちを無碍にしてはいけないと諭す佐為に、ヒカルはぎゅっと瞼を閉ざしてから再び瞳を開き、そっと桐箱を引き寄せた。
「ありがとう。塔矢、大切にする」
もう一度そっと桐箱の蓋をあけ、そっと絹布を開く。純白の和紙と竹で作られ、タイトルはもちろん公式対局でも、そして離れの部屋でも行洋の手に必ずあった扇子。
それがこれからは常に自分と共にある。
「次の本因坊戦、頑張ってくれ」
あえてヒカルの名前は言わずにアキラは激励した。
石を置くのはヒカルであっても、本当に対局しているのはヒカルではないともう分かっている。
そのアキラの心中に気づくことなく、ヒカルは扇子の入った桐箱を両手で握りしめ
「必ず、本因坊取ってみせるよ………」
急にヒカルの眼差しが細められ鋭さを帯びる。
――まるで君は本当に本因坊に取り憑かれているようだ
そしてヒカルの中に潜むsaiが本因坊を奪おうとしている。
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18 A‐N interval
「いよいよ来週から因縁の本因坊戦か」
手合いの打ちかけで昼食を食べ終えた休憩時間、緒方は休憩室で出前の掛けそばを食べたがアキラは昔からの習慣で昼食を取らずにお茶一杯だけ机に置いて、畳まれた囲碁新聞の表紙をただじっと見降ろしていた。
表紙は左右に分かれて対局中のヒカルと桑原の姿が映され、見出しは大きく『迫る本因坊戦』である。
「進藤との年齢差を考えれば体力的にキツイものがあるが、しかし桑原の爺もいい加減本因坊に居座ってきた鬼だからな」
過去に何度か桑原と対局した経験がある緒方は、その対局のことを苦々しく思い返す。棋力だけで考えれば決して劣っているわけではなく、若さという勢いもあった。しかし勝てなかった。
桑原お得意の盤外戦にまんまと嵌められて、小さなミスを桑原に待ってましたとばかりに突かれてしまった。
その隣で、
「進藤は勝ちますよ。必ず」
アキラは断言する。
「桑原先生は鬼かもしれない。けど人が本物の鬼に叶うわけがない」
「鬼?どういう意味だ?」
アキラの言葉の真意を測りかねて緒方がその意味を尋ねるがアキラは答えることなく、じっと新聞のヒカルを眺め、
――鬼が本気で本因坊を狙ってる
ヒカルの中にヒカルが2人いると確信し、今ヒカルとして打っているのが本当はsaiであると分かってしまえば、新聞に映ったヒカルは姿形だけそっくりな全くの別人にしかアキラには見えない。
「進藤はsaiだけどsaiじゃなかった。saiを隠そうとしたお父さんの判断は正しかったんです」
「先生が言っていた意味が君はわかったのか!?」
意味深で不可解な行洋の謎かけ、そしてヒカルの隠された真実へ繋がるヒントだったのだろうが、結局緒方はその謎を解くことが出来なかった。それをアキラが解いたのかと目を見開く。
『light』がヒカルなのか。アキラがlightと直接対局出来たことは緒方も知っているしその対局棋譜も手に入れたが、肝心のアキラは何も言うことはなく、前に言っていた通りネット碁に入り浸るのをやめたため緒方もそれ以上追及することはなかった。
だが、ここは棋院の休憩室で部屋にいるのは緒方とアキラだけではない。少し離れた位置に棋士たちがそれぞれ休憩を取っており、突然大声を上げた緒方に何事かと振りむく。
その注目に気づいてはっと我にかえった緒方がしまったと口元を抑えたところで、アキラは冷静さを保ったまま静かな声で
「でも、愚かだった……。守ろうとしたものをお父さんは最後まで守りきれず、鬼が表に出てきてしまった」
そうして本当に守ろうとしたヒカルは闇に沈んだ。
■
一人暮らしをしている和谷の家に、院生時代の仲間とプロになったばかりの若手棋士たちで集まる研究会。未成年の多い院生だと平日は学校があり、プロは手合がある。集まれるのは自然と休日に限られる中、研究スペース提供者の和谷の仕事や用事が入っていない日に、皆が集まる形となる。
「う~ん」
すでに和谷のアパートに一番乗りして、皆を待つ間、パソコンで囲碁関係のネットニュース記事を読んでいたフクが珍しく神妙な唸り声をあげる。まだ研究会の約束時間までまだ少し余裕があり、部屋には家主の和谷を含めて数人いる程度だ。
その中で近くにいた奈瀬がフクの声に気づき、
「どうしたのよ、フク。唸っちゃって。そんなに面白い詰碁でも載ってた?」
囲碁関係のネットニュース記事下にはオマケのように詰碁が載っていることが珍しくない。だから一瞬、詰碁が解けなくてフクが悩んでいるのかと考えたのだが、
「記事っていうかこの写真、進藤くんっていつも扇子なんて持ってたっけ?」
ホラ、とディスプレイに映された画像をフクは指さす。そこには対局中の様子ではなく、扇子を持ち対局相手のいない盤面と向き合うヒカルの横顔が映されていた。
「ほんとだ。扇子持ってる」
フクの言う通り、院生時代からヒカルを知っている奈瀬もヒカルが扇子を持っているところを見たことは一度もない。
写真に写っているヒカルは、ベージュがかったオフホワイトのパーカにGパン姿で、片膝だけ立ててその上に顎を乗せる形で一手も打たれていない盤上をじっと見つめていた。それだけならプライベートを取った一枚なのだろうと流していただろうが、扇の持ち手を右手で逆手に持ち、その上に左手を乗せている光景から目が離せなくなる。
「進藤くんが扇子?似合わないような、どうも想像できないな」
「……そうかしら、この服装に扇子だから絶対不似合いな筈なんだけど……でもすごく様になってると思うわ」
ははは、と皆が集まるまでと本を読みながら苦笑する門脇に、奈瀬がむっとして自分も見てみろと手招きする。
それに苦笑いしたまま子供の我が侭に付き合う大人の素振りで、門脇はもったいぶって重い腰を上げたのだが、実際に椅子に座るフクの背後からディスプレイを見た瞬間、それまでの笑みがピタリと消えた。
「確かに……様になってる………」
扇子以外でヒカルに変わった様子はどこにも見つけられない。公式対局のようにスーツ姿でもないし、髪型を変えたわけでも、派手なアクセサリーを付けているわけでもない。見慣れたオフのヒカルの姿だ。
なのに、たった一つ、白い扇子がヒカルの手にある姿が、符号が合うかのように様になっていると門脇も認めざるをえない。
「流石は6冠の貫録ってやつか?トップ棋士たちと対局しまくりで、もう雰囲気からして俺たちの知ってる進藤くんじゃないな」
先ほどまでの少し小馬鹿にした苦笑いではなく、驚きと称賛でディスプレイから視線を外すことなく門脇は小さく笑み顎を撫でた。
画像に映っているのはヒカル一人である。ヒカルはプロ棋士であり決して歳が若いからと扇子を持っているのが不自然というわけではない。
けれども、誰も干渉できない世界でヒカルが一人碁を打っているような印象を画像から受ける。
「なんだか進藤くん、かっこいいね。勝負師って感じがする。僕も扇子買ってみようかな」
「扇子一本持っただけで強くなれたら世話しないわよ」
間延びしたようなフクの感想に、奈瀬は思わず大きなため息をついてしまった。
「どれ?」
ヒョイと。皆から遅れて台所横に置かれている冷蔵庫からジュースを持ってきた和谷が、皆が集まるパソコンを隙間から覗き込み、途端に眉間に皺が寄る。
「あ~、あん時のやつか……マジで使ったのかよあの記者……」
その言葉はこの画像をネットニュースに掲載した記者に対して『余計なことをしてくれた』という本音が隠すことなく伝わってくる。
「あの時?」
フクが首を傾げるのを視界の端に映しながら、和谷は無言で前に出て手を伸ばしマウスを取って、記事の内容や掲載期日を確かめる。
掲載日は今朝。タイトルは『本因坊戦直前』とある。流し読みで記事の内容にざっと目を通せば、来週から始まる本因坊戦に関する短いコラムのような内容。下へとスクロールさせれば、去年本因坊を防衛した桑原の画像も載せられていた。
ヒカルの画像が撮られた森下の研究会は3日前で、記者は鮮度感のある最も新しい写真を使ったのだろう。これでヒカル本人に画像掲載の承諾を取っていなかったら棋院から文句を入れてもらおうと和谷は頭の隅で思う。
ただし、記事事態はあくまで本因坊戦に関することがメインであり、画像が撮られた時の様子は一言も触れられていないことに和谷は内心ほっとする。
マウスから手を離し、
「進藤の真似ならやめとけ。アイツはそういうカッコつけとかでこの扇子持ち始めたわけじゃねぇから」
「そうなの?」
と、奈瀬が意外そうな声を上げる。若い棋士が扇子を持つきっかけとして、安直だが尊敬する棋士への憧れや棋士らしさを演出するオシャレしか思いつかなかったせいである。
ならばどういう心境の変化でヒカルは扇子を持つ気になったのか。
画像が一枚ネットに載っただけで不快そうな顔をする和谷なら、いくらか事情を知っているのだろうという流れになる。
その空気に和谷は居心地悪さと共に、少し思案してから口を開く。この場にいるのは和谷の他にフクと奈瀬、門脇の4人だけだ。まだ他のメンバーはアパートに着いていない。
―このメンバーならベラベラ吹聴するような性格じゃないから大丈夫か
院生時代からヒカルと直接付き合いのあるメンバーだ。間違ってもお調子者の真柴あたりに知られたら、自分が見たことのように喋りまくる光景が簡単に想像できる。
「ソレ、塔矢先生が使ってたものらしいんだ。それを塔矢アキラが形見分けと名人の祝いで進藤に譲ったんだと」
「うそっ!?えっ!ほんとに!?」
「本当に塔矢先生の使ってた扇子なのか!?」
咄嗟に声を上げたのは奈瀬で、直後に門脇はさらに顔をディスプレイに近づけ画像に小さく映っている扇子を瞠る。いきなりヒカルが扇子を持つようになった理由を知りたいとは思ったが、あくまで軽い興味本位程度のもので、それほど深く考えてはいなかったのだ。
「だからその扇子は進藤にとって特別大事なものなんだと思う」
和谷がそこまで言うと、水を打ったように部屋が静まりかえった。
――やっぱ誰でもそうなるよな。俺だって知った時は何も反応できなかったし
研究会でヒカルが俯き加減に話した時も、今と同じように誰も言葉を発することが出来なかった。もっとも、その時部屋には研究会のメンバーしかおらず、記者は扇子の元の持ち主については知らないはずである。
知っていたら、間違いなく画像と共に元の持ち主のことも記事にしていただろう。
「……俺なら塔矢先生が使っていた扇子なんて、譲られる以前に触れるのも憚られるな。なんていうか……えっと……」
ごくりと唾を飲み込む門脇の口元は平静を取り繕うと笑みを作ろうとしているが、微妙に震えてしまっている。そして最後に、自分の気持ちを上手く言い表す言葉があと少しのところで出てこない。
「勿体ない?」
と和谷が適当に当たりをつけるがピンとこない。
「ちがう」
顔を横に振る門脇に、次は奈瀬とフクも思いついたままに言ってみる。
「身に余る?」
「恐れ多い?」
「相応しくない?」
「そう!それ!相応しくないだ!」
最後に和谷が言った言葉が門脇の中にストンと落ちて、正解とばかりに和谷をつい指さしてしまう。
「6冠の大棋士が愛用していた扇子なんてプロなりたてのひよっこがおいそれと軽い気持ちで持てる代物じゃない。公式対局で使うどころか大事に机ん中に仕舞って終わりだ」
何も知らない者であれば『たかが扇子一本』と大げさ過ぎると笑うかもしれない。しかし囲碁打ち、中でもプロ棋士であれば誰も門脇の言葉を馬鹿にする者は一人といないだろう。
例えタイトルを取るようなトップ棋士であっても、おいそれと受け取るのを憚れる代物だ。6冠を保有した状態で突然亡くなった大棋士の扇子なのだ。息子のアキラなら話は違ってくるかもしれないが、内弟子である緒方でもその扇子を受け取るのは躊躇うかもしれない。
そんな大層な代物をヒカルはラフな格好で持っているにも関わらず、扇子の事情を知ってなおその手にあるのが不自然ではなく、既にヒカルの手にあるべきだと考え始めている自分に気づいて門脇は内心驚いていた。
またそれは門脇だけでなく、羨望と呆れを滲ませ奈瀬が
「プロとかそんなの関係ないと思う。きっと進藤以外に相応しい人なんていないわよ。扇子の方が進藤を選んだからこんなに様になってるのね」
「これで本当に進藤君が本因坊取ったらどうなるんだろうね?もう想像出来ないや」
フクののんびりとした口調は生まれつきなので変わることはなかったが、それこそ7冠になればヒカルが行洋の扇子を持つことに文句をつける者は誰もいなくなるだろう。
「この写真撮られた師匠の研究会の日にもさ、進藤のやつ一般人に捕まらないよう2時間前に棋院来て研究会の部屋入ってたらしくて。俺が準備とか事務所用事あるからだいたい1時間前に行くんだけど、その時にはもうすっげぇ自分の中入り込んでてさ、ピクリとも動かないで一手も打たれてない盤面睨んでまじで集中半端ねぇんだよ」
扇子の事情を話すかどうか初めは迷ったが、この様子なら3人とも気軽に吹聴することはないだろうと確信しつつ、和谷はヒカルの画像が撮られた時の様子を話し始める。
ヒカルが森下の研究会に参加しているのは棋院関係者にかかわらず一般も周知だが、そのせいで棋院にヒカル目当てでやってくる一般客が決して少ないわけではないことを和谷は知っている。
タイトルを取り始めた当初はそこまで警戒しておらず、いつも通りにやってきたヒカルをサイン用色紙とマジックペンを持った一般客たちが囲み騒ぎになってしまい、慌てて出てきた棋院の事務スタッフが注意したのも1度や2度ではない。
そんな経験を何度かして、ヒカルも騒ぎを起こさない対策として時間に余裕をもって研究会に来るようになっていたのだが、先日は別の意味で騒ぎになってしまった。
「一手も打たれてない盤面?」
とフク。
「そ。鬼気迫るってやつ?先生たち来ても全然気が付かねぇし、そんときの偶然棋院来てた記者が撮ったやつだよ。もうすぐ本因坊戦あるし森下先生も進藤ほっといて別の部屋で研究会を始めようって段階になって、そこでやっと進藤が反応してさ。一手目の黒石ばしっと天元だ」
「て、天元って真ん中の!?」
今度こそ驚きで奈瀬は開いた口が塞がらず、かろうじて開いた口に手を添えて隠すので精一杯である。
別に天元に打ってはいけないというルールはない。どこへ打とうと自由だが、打った人物が6冠の棋士で来週から本因坊戦を戦う棋士となると、一手の重みが全く変わってくる。
「その天元。その一手でやっと集中切れたみたいでこっち気づいて、『みんなもう来てたの?早いねどうしたの?』だぜ?もうとっくに研究会開始30分以上経ってるってのに」
その時の様子を思い出して、和谷はもうため息しか出てこない。最初部屋に入ったとき、和谷も一言声をかけてはいるのだ。
しかし、ヒカルから返事が返ってくることはなく碁盤を眺めたままで、その時点でヒカルが尋常ではない程集中しているのだと和谷は気づいて皆が来るまではと放置を選んだのだが、それがまさかあんな大事になるとは考えもしなかった。
どんなに待っても集中が切れる様子のないヒカルと、その集中を邪魔してはいけないかとこのまま研究会を開いていいものか迷う周囲。
研究会の主催者である森下が、タイトル戦前のヒカルを気遣い別室を取ろうと判断して事務所に問い合わせた時、たまたま偶然事務所に居合わせた記者がこのことを知り部屋にやってきたわけなのだが
――いきなりケイタイ向けて写真とった時は、コイツどういう神経してんだと思ったぜ
まだ囲碁記者になって年数が浅いだろうと思われる20代前半の記者だったが、仮にもプロ棋士が集中して碁盤と向き合っているところに何の承諾もなく写真を撮る神経を和谷は疑った。
勿論それは和谷だけでなく、森下や白川も同じでシャッター音でヒカルの集中が途切れてしまったのではと真っ先に危惧した。
タイトル戦は何度経験しても、対局前は神経が高ぶるものだ。ピリピリした神経は普段気に留めない些細なことにも過敏に反応し、本番の対局に影響する。
だがヒカルはシャッター音も耳に入っていない様子で碁盤に向き合ったままだったので、皆ほっと胸をなでおろしたものだ。
そして写真はダメだと白川が記者を注意したところで、ヒカルが碁笥から黒石を取ったのだ。
「ほんとすごいわね、シャッター音にも気づかない集中力とか私もあやかりたいものだわ」
「他のタイトルも勝つ気だったけど、今度の本因坊戦は今までと意気込みとか覇気が比べ物になんねぇよ。アイツ本気で本因坊取る気だ」
実際、写真が撮られた経緯を別として、ディスプレイに映ったヒカルは本因坊戦に対する意気込みが見事に現れているいい一枚だと写真には素人の和谷も正直思ってしまう。
「7大タイトル制覇か。そんなことが実現したら後世まで進藤の名前が残ること間違いなしだな」
いつか自分もタイトルを取れるような棋士になりたいと思うが、まずは目の前の現実である。当時にヒカルの棋力に多少文句はあれど、同じ院生時代を共に過ごした仲間である。
応援せずにはいられない。
「でもここまで来たら進藤くんに獲ってもらいたいよね、本因坊!」
「それで未成年で7大タイトル制覇よ!」
フクと奈瀬も両手を握りしめ興奮気味に言うその隣で、反比例したように消沈気味の門脇がぽつりとつぶやく。
「しかし……プロ棋士になってみたものの、進藤君と同世代になって俺たちは嬉しいような悲しいような複雑だなぁ~」
「どうして?門脇さんが老けてるから?」
と、年上の門脇であろうと平然と言えるのは女性という特権を持った奈瀬である。例え年下の院生でも女性に手をあげるわけにはいかない。もしこれが和谷かフクだったなら、すかさず後頭部をはたかれていただろう。
「違う!俺が老けてるのはほっとけ!俺が言いたいのはだな!プロ棋士になって何万と対局して勝ち進んでも行きつく先はこれが全部ラスボスだってことだ!」
ディスプレイのヒカルを指さし、違うか!?と迫る門脇に、和谷たちはハッと各々顔を見合わせる。門脇の言う通りだ。今は応援する立場かもしれないが、いずれ自分自身が強くなり倒さなければいけない相手なのだと思い出す。
しかもヒカルが7冠となれば、確かにラスボスは全部ヒカルとなる。それも史上最強のラスボスと向き合うことになるわけだ。
「こいつが7大タイトル全部ラスボスかぁ~……」
はぁと和谷がため息をつくと、他3人もうつったかのよう一声にため息をつく。先ほどまでの応援の雰囲気が一気に消し飛ぶ。いつかはとは思うが、今の段階でヒカルに勝てる気が全くしないのが悲しい。
そこにタイミングを合わせたかのように、鍵のかけていなかった戸が開き、伊角が入ってきて、
「入るぞ、和谷。……て、どうして研究会始まってもいないのにみんな沈んでるんだ?」
決して広いとは言えないアパートの一室でパソコン前に集まり凹んでいる4人に、伊角は思わず室内にあがるのを躊躇ってしまった。
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19 神の一手
本因坊戦の対局は全て地方でおこなわれる。持ち時間は8時間であるため対局は2日がかりで行われた。
対局が行われる会場もホテルから旅館だけでなく神社や時には海外で打たれたこともある。そこへ出場者は前日入りしてまず大会関係者が集まった前夜祭パーティーが催され、次の日から対局本番となる。
今年の第一局は広島県のホテルで行われ、その前夜祭。
去年の1.5倍はいようかという人数がパーティーに参加していた。前夜祭パーティー自体は参加費を支払えば誰でも参加できるとはいえ、本因坊戦スポンサーや棋院、後援会関係者だけでなく記者の数も相当数いる中、
「あれじゃあ対局打つ前に取材で疲れて碁なんて打てないんじゃないか?」
偶然にも本因坊戦第一局の記録係になった伊角が、多数の記者たちに囲まれて取材攻勢にあっているヒカルにそうため息をつく。前人未到の7冠棋士が誕生するかもしれない対局だ。注目されるのは分かる。
しかし明日から2日間かけて対局する棋士に対して、もう少し配慮してもいいのでは?と思うのは自分の感傷に過ぎないのだろうか。インタビューだけでなくずっとフラッシュを近くで焚かれ続けて、少し疲れ始めている気がする。
対して挑戦者のヒカルを迎え撃つ側である桑原の方も、当然記者に囲まれてはいるが既に慣れたもので、既に見知った者も多いのか談笑交じりに楽しそうにしていた。
「伊角君、聞いたかい?」
「何をです?」
明日の対局で同じ記録係になった辻岡に肩をたたかれ、伊角は振り返る。
声を幾分低めている気配を察して、伊角も自然と小声になった。
「明日の対局だけど、すでに結構な数の高段者が観戦の為にホテル入りしているらしい。俺もさっき倉田先生が入っていく姿を見たよ。他にも緒方先生や芹澤先生も来られているらしいぞ」
「それって相当なメンツじゃないですか!?」
思わず声が大きくなりかけて伊角は慌てて口を塞いだ。辻岡が上げた名前はどれもタイトル戦を戦う常連だ。ヒカルがいなければ、誰がどのタイトルを取っていてもおかしくない。タイトルを持っていなくても挑戦者リーグなどの対局で過密スケジュールのトップ棋士が、家でも見られる中継ではなくわざわざ地方にまで足を運び観戦しようとする。
むしろトップ棋士だからこそ、自分たちが勝たなくてはいけない相手の対局を少しでも近くで観戦しようとしているのかもしれない。
注目しているのは世間だけでなく棋士たちも同じなのだと様々と思い知らされる。
「今日でそれだけの棋士が来てるということは、明日の対局当日もまだ何人か来るんじゃないか?」
「なんだか本当にすごい対局になりそうですね」
「歴史に残るのは確実だろうな」
普段から落ち着いている辻岡らしくなく、僅かに興奮をのぞかせ、取材陣に囲まれているヒカルをチラと振り返る。
そんな大事なタイトル戦第一局の係りとして、対局を間近で見ることの出来るのは棋士として間違いなく自分は幸運なのだろうと伊角は思う。
■
記者たちの取材がひと段落し、関係者への挨拶も終えたヒカルはそっとパーティー会場の窓際に立って外を眺めていた。ホテルは海にほど近い山中に建っており、窓から海岸線を見下ろすことができた。
明日から対局が控えている対局者は、明日に備えて20時前には退出する。
パーティー中にゆっくり出来るのはほんのわずかな時間だろう。
「どうした進藤?もう疲れていては明日の対局が目に見えるようじゃ。パーティーで疲れて打ち間違えても待ったは聞かんぞ?」
コーラ片手にぼんやり海の方を眺めているヒカルに桑原が声をかけた。現在の7大タイトル戦で最も歴史が古い本因坊戦に初めて挑戦する棋士は、特有の雰囲気と桑原の雑談(盤外戦)に大概呑まれてしまう。
だがヒカルは表情を変えることなく、チラリと桑原を見ただけで視線を暗い海へと戻し、
「因島はどっちかなって」
「因島?本因坊秀策か?」
「秀策知ってるんですか?」
島の名前を言っただけで秀策の名前が出てきた桑原に、ヒカルだけでなく佐為も目を見張る。
「当たり前じゃ。昔からよく秀策の棋譜は並べたもんじゃ。因島は秀策の生まれた土地じゃな。若いくせによう知っておる。お前も並べるのか?」
まさか島の名前を出しただけで秀策の名前が出てくるとは思っていなかった。
それに『並べるのか?』と聞かれても、秀策本人が後ろにいては
「たまにですけど。秀策か……」
曖昧にはぐらかすしかない。
その心内で、
――因島で虎次郎と出会ったんだったよな?
――ええ。まだ幼かった虎次郎が私が宿っていた碁盤を蔵で見つけたのです。それから対局を重ね江戸に出たんです
――いつか時間が取れたら行ってみようか、因島。多分お前が知っている頃と今は全然変わってるだろうけど
――ほんとですか!?いつかと言わず、必ず行きましょうねヒカル!
喜ぶ佐為の反応に気分を良くしつつ、そこでヒカルは体ごと桑原を振り返る。そこで周囲がちらちらと自分たちを見ていくことに気づく。
対局者同士が話しているのを邪魔しないよう気を使っても、関心と興味はそそられるのだろう。
「知らなかったな。桑原先生がそんなに秀策が好きだったなんて」
「今でもたまに耳赤の一局は並べるぞ。研究が進んだ今なら見つけられるかもしれんが、あの時代、あの場、あの対局で、それを見つけられた棋士が秀策の他にいたかどうか」
桑原が口にした<耳赤の一局>が何なのか分からず反応出来ないでいるヒカルに、佐為が補足する。
――耳赤の一局とは江戸の頃、私と井上殿が打った対局のことをそう呼ぶのです。
江戸時代に打たれた対局が、当時から耳赤の一局と呼ばれていたのは佐為も知っているが、この時代にまで伝わっていると分かり説明しながら感慨深いものが込み上げる。
「良し悪しに関係なくあれは見事な一手じゃ。だから今も語り継がれとる」
「もしも秀策が現代に蘇ったら、桑原先生は秀策と打ちたい?」
「む?いきなり面白いことを言う。そうじゃな、本因坊秀策と打てるものなら打ってみたいが」
突拍子もないヒカルの問いかけに、桑原も一瞬目を見開く。自身が本因坊を持ってるとはいえ、桑原に面とむかって既に遥か昔に亡くなっている本因坊秀策と打ちたいかと尋ねられたことはなかった。
それをヒカルは雑談の中で普通に尋ねてくる。
普通の大人でも桑原相手に話すのは緊張するというのに、義務教育を終えたばかりの歳でごく自然に問う。
やはり碁の強さだけでなく、人間性の面でも普通の子供の枠に当てはまらないということかと桑原が内心思案していると
「……打てるよ」
「進藤?」
――ヒカル?
独り言に近いヒカルの呟きが聞こえたのは傍にいた佐為だけだったろう。上手く聞き取れなかった桑原は片眉をピクリとさせつつ話題を別方向に持って行く。
自分から本因坊の座を奪おうとしてきている相手と何の意味もない雑談をするだけに話しかけたわけではない。
「じゃが、飛ぶ鳥を落とす勢いじゃないかのう?進藤。6冠か、欲張って調子を崩しては元も子もないぞ?それでも本因坊が欲しいか?」
「うん」
あまりにも迷いのない即答。
それもたった一言『うん』。
胸を借りるとか、大人らしい言い回しに聞きなれていた桑原にとって新鮮過ぎた。
「ひゃっひゃっひゃっひゃ!正直な小僧じゃ。だが簡単に本因坊は渡さんぞ?そう容易くワシから奪い取れると思わんことじゃ」
「………取りたいんじゃないよ」
僅かに目を細めたヒカルに影がよぎる。緩慢に首をふるふる横に振ってからじっと桑原を見った。そこに若手の棋士にありがちな桑原の挑発に乗るのを警戒した様子はどこにもない。
ありのままの自然体。
タイトル戦の場数を踏んだ棋士でも隠せない挑戦者側が保有者に向ける対抗意識すら全く見つけられなかった。
いくら相手が既に本因坊以外の6タイトルを勝ち取り才能に溢れた早熟の天才であろうと、たった十代の棋士だ。これから挑戦する対局相手に闘争心や対抗心を向けない棋士がいるだろうか?先ほどまでの雑談といい、ヒカルからは何も感じられない。
――こやつ、本当にわしと打つ気があるのか?
思わず桑原は本気でヒカルの姿勢を疑ってしまう。
その桑原の心中にヒカルはいくらも気づくことなく、
「返してもらうだけだ」
「何じゃと?」
「本因坊(アレ)はもともと佐為(オレ)のものだ」
「まるで自分が前は本因坊だったかのような言い方をする」
「打てるよ、秀策と。でも本因坊秀策は絶対負けない。返せ、あれは佐為(オレ)のものだ」
ヒカルは桑原を向いている。だが、その言葉の半分は桑原に、残り半分は背後にいる佐為に対して向けられていることにすぐに佐為も勘付く。
虎次郎のように初めから佐為が打ってきたわけではない。ヒカルは自分を殺して佐為に打たせている。その覚悟と犠牲の上に自分は今打っているのだというプレッシャーは、本因坊秀策だった時よりも遥かに重い。
――ええ、必ず勝ちます。私は負けません
それだけに佐為にとっても行洋との約束を果たすのと同じくらいに、ヒカルの為にも絶対負けるわけにはいかない対局なのだ。
「約束したんだ………必ず取るって………先生は『俺たち』に約束してくれたんだ…………」
ヒカルはもう桑原を見ていなかった。桑原を通り越して、誰もいないそこに別の誰かの姿を見ていた。軽く頭を下げ、桑原の横を通り過ぎていく。
■
対局検討室で、まだ一手も打たれていない碁盤が中継テレビに映し出されている。
少し離れた位置には対局室全体を映したテレビが置かれ、盤面に向かい合う桑原とヒカルの様子を見ることが出来た。
和服の桑原が上座に座り、同じく和服に身を包んだヒカルが対面に正座し、扇子を碁盤の手前に置いて対局が始まるのを静かに待っている。
そして棋士たちが対局検討する部屋には本因坊のタイトルを賭けた第一戦に、緒方やアキラ、倉田、森下など段位を問わず多数のプロ棋士たちがつめかけていた。
そのなかで、ベテランに入るだろう記者の天野が
「勢いで言えば圧倒的に進藤くんだ。普段囲碁に見向きもしないテレビ局まで今回の対局は多数の取材班を出してきている。速報を中継する局もいくつかある。世間の期待も進藤君が7冠になるのを待っている。しかし何が起こるか分からないのが対局だ。こんな何十年に一度あるかないかの名場面、桑原先生もずっと本因坊に居座ってきた甲斐があるというものでしょうね」
そして自らもそんな一世一代の対局を記者として観戦できることに、常になく気持ちが昂るのを抑えられない。棋士たちが対局会場に足を運び検討することは決して珍しくないが、ここまで集まったとなると部屋の熱気も自然と上がってくる。
部屋の中央に置かれた長机に碁盤を用意し、それを中心にして各々座り、棋士たちは対局が始まるのを待っている。
「緒方さん、進藤が勝つと思ってるでしょ?」
「そういう自分はどうなんだ?他人の意見を聞くならまず自分の考えを先に言ったらどうだ倉田」
桑原とヒカルが映ったテレビ画面を、悠然とした態度で見やっていた緒方がフイに話を振ってきた倉田に問い返す。緒方も内心はヒカルが勝つだろうと思っている。何しろヒカルの本因坊に対する執着が半端ではない。これまで獲ったどのタイトル戦より全霊を込めて打ってくるだろう。
ただし、記者である天野が同席している場で、対局が始まってもいないのに本音を言うのは躊躇われた。
しかし、緒方とちがって倉田の方は記者が同席していようと隠すことをする性格ではなかった。
「もちろん進藤が勝つと思ってますよ。桑原のじいさんも大概しぶとく本因坊にしがみついてきたけど、進藤は執念とか執着とかそんなものでタイトル守れるような相手じゃない。ただあえて言わせてもらうなら、俺は進藤の碁は認めない」
「自分より強くてもか?」
元々明るく裏表のない(時にふてぶてしい)性格の倉田が、ハッキリと他の棋士を否定することは滅多にない。それが自分が対局し負けた相手であれば尚更に。
「自分より強くてもですよ。他のタイトル戦とかで何度か進藤と打ったけど、盤面挟んでいてもアイツと本当に打ってる気がしないんですよ。進藤通りこして別の誰かと打ってる気分になる」
ピクリと反応したのは緒方だけではなかった。この場にいてヒカルと対局したことのある棋士なら、薄々感じていたのと同じ印象を倉田も受けていたのかと、自分の気のせいではなかったのか?という反応だった。
盤面向かい合い、対局しているのはヒカル以外の誰でもない。自分の打った一手に対してヒカルが応え石を打つ。
なのに、ヒカルの盤面を見やる眼差しや気持ちの面での姿勢というべきか、自らがヒカルに向ける威圧感や闘志は全て通り抜けていく。
反対にヒカルから受けるプレッシャーや強さはホンモノだったのだが、対局後も違和感は拭えなかった。
「……行洋もそうだったな」
ポツリと森下が零した名前に、緒方が反応する。
「森下先生?」
「死ぬ前あたりにアイツが打ってた碁も対局相手を見ていなかった。碁の強さ云々の問題じゃあねぇ。最善の一手でも最強の一手でもない。対局相手を無視して盤上にいつも探してた。そんなところまで似なくていいのによ、くそったれめ」
忌々しそうに言うが、それもヒカルを院生時代から見てきた過去があるからこそだろう。自分の研究会に参加していたごく普通の子供が、本当の実力を隠し、隠れて行洋と打っていた。胸に一物抱えたものは必ずある筈だ。
ただそれでも森下がヒカルを心配し現状を憂えている気持ちだけは誰にも伝わってくる。
「塔矢先生は盤上に何を探していらっしゃったのですか?」
ずっと棋士たちの会話を聞いていた天野が持っていたノートとペンを机に置いて尋ねる。自分がこの話題に関して記事にするつもりはないという意思表示である。
それを見て森下が話を続ける。
「神の一手。アイツは本気で神の一手を求めていた」
恐らくヒカルと隠れて打つようになってからだろう。急に行洋の碁は若返り強くなった。しかし、行洋の碁そのものも同時に変化し始めた。
盤面に誰かを探し、神の一手など求めてしまえば、対局相手であろうと人間など見れなくなるだろう。
行洋が生きていた頃は森下も深く考えることなく馬鹿なことをと呆れたものだが、こうして行洋が亡くなりヒカルが高みに昇りつめようとしている今となると、深く考えなかった自分に対しての後悔と溜息しかでてこない。
「僕も生前父に一度だけ尋ねたことがあります……」
「塔矢くんも?」
思いがけないアキラの告白に森下が目を見開く。
あれはまだアキラがプロになった最初の年だった。
急に強くなり始めた行洋に戸惑い、また森下と同様の印象をアキラも感じて尋ねたのだ。
『お父さんは誰と碁を打っているのですか?』と。
その質問に行洋が答えることはなかったが、代わりに問われたのは<神の一手>の存在だった。
行洋自身が神の一手を求めながら、人には決して打てないという矛盾。
「何故神の一手を求めるのですか?と僕は問いました。そして父の答えは………」
僅かに間を置いて、
「神が神の一手を打つところを見たいがため、だと」
本当のヒカルをネット碁の中で見つけることの出来た今ならば行洋が誰を指してそう言ったのか理解できる。
ずっと最善の一手を探求し続けてきた行洋にとって、saiはそれだけ魅力あるものだったのだろう。
しかし、
(進藤の中に潜むsaiをお父さんは神と捉え、僕は鬼として見ている)
見ているものは同じ筈なのに、見る者次第で神にも鬼にも変わる。
梨川の言う通りだ。
「なぁ、俺たちは進藤を通して本当は誰と打ってるんだ?」
誰に言うともない緒方の疑問に答えられる者はこの場には一人もいなかった。それこそこの場にいる全員が一番に知りたいと思っている疑問だからだ。
本当は自分は誰と対局しているのか。自分と対局している相手の正体を見極めたいのだ。
『進藤くんはsaiであってsaiではない』
緒方の脳裏に料亭の庭で行洋が言っていた言葉が蘇る。
――塔矢先生、貴方は一体誰と打っていたのですか?
緒方は真実にたどり着くことは出来ていないが、今の全てのタイトルを手中にせんとしているヒカルの全てを受け入れた行洋に一種の畏れすら緒方は抱き始めていた。
例え緒方がヒカルから真実を話してもらえたとしても、行洋と同様に受け入れることが出来るかどうか疑わしい。
対局室を映したテレビ画面で、桑原とヒカルが交互に頭を下げる。
「時間だ、対局が始まった」
本因坊戦第一局が始まる。
モノローグにあげていた内容に到達したので、
モノローグを下げました。
この勢いのまま完結いきたい
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20 本因坊戦第一局
打ち始めて10手打った頃だろうか。部屋を満たす只ならない気配と威圧感に桑原は盤面から顔を上げた。
(これは………)
ヒカルから発せられる鬼気迫る気配。
対座する盤面を通して、桑原に向けられるピリピリとした気迫と威圧感は着物越しにも肌を刺し、部屋を満たす静寂と密度を増した空気は息苦しさすら覚える。
ピクリとも動かず、長考していた間、ヒカルはすっと膝上で両手で持っていた扇子を脇に置き、碁笥から石を一つ挟み、盤面にパチリと打つ動き。
迷いや淀みが全くない一連の動作の後、また扇子を手に取り膝上に持ってくる。
そしてこれまで桑原が何千と対局してきたどの棋士とも異なる気配。まだヒカルが院生時代にエレベーター前で偶然すれ違ったとき、ヒカルから何かを感じた気がしてシックスセンスと揶揄した只ならない気配が気のせいではなかったと確信する。
気の迷いや勘違いと流してもよかったような微かな気配が、数年経ってこうして対座するヒカルからはここまで大きくハッキリと感じ取れた。
しかし気づけるのは実際に気配が向けられている対局者の桑原だけで、傍にいる係りの者や観戦者ではこの人外の気配は感知出来ないだろう。目の前で対局が行われている緊張感で精一杯だ。
ましてや高段の棋士に揉まれてもいない年若く経験の浅い棋士では、ヒカルと対局しても鬼の発する威圧感に飲み込まれて気づけもしないだろう。
高段者であってもヒカルから発せられる人に非ざる気配に気づける者は、数える程かもしれない。
――儂も随分と狸やら鬼やら言われてきたものじゃが、本物の鬼がきよったわ
まだ十代という年若いヒカルの姿を借りた鬼が、鋭い牙を剥き出しにして桑原が守り続けてきた本因坊の座を奪わんとしている。
けれども反面納得できた点もあった。
静かな面差しで盤面を見つめているヒカルを上目使いに薄く見やり、
――なるほどのう。あの男(行洋)、妙に目移りし始めたかと思えば通りで。鬼に惹かれておったか
ならば無理もないと、いっそ冷めたような淡然な気持ちになる。
声高にする気はなかったが、行洋ほどの棋士が何故?と桑原も考えないことはない。ただし噂や詮索好きの周囲と違って、桑原は行洋と何度も対局し、その人となりを知っていた為、勝手に耳に入ってくる噂は全く信じなかった。
だが、まさか自らの対局者から鬼の気配を感じる日が来るとは人生何が起こるか分からない。
そして昨夜の前夜祭パーティーでヒカルが言っていた言葉を思い出す。
ヒカルは桑原に亡くなっている本因坊秀策と打てると言っていた。普通なら死んだ棋士と対局することは絶対に適わない。けれど、こうしてヒカルは人に非ざる気配を放ち、本因坊を桑原から奪おうとしている。
それが真実ならば、
――だからこそ長いこと本因坊にしがみついてきた
「甲斐があったということか」
自分の人生で最大の舞台がやってきた。
それも本来ならどんなに望んでも打つことの出来ない相手とだ。
相手に不足なし。
■
棋士たちが集まっている検討室では一手打たれるごとに、小さな歓声と共に打たれた一手の狙いや今後の流れを検討していたのだが、
「どうしたんだ?桑原のじいさんらしくない。下手な小細工なしで、ガチで正面から進藤と相打つ気なのかよ」
腕を組んだ倉田が思わず意外そうに言う。盤外戦は別として囲碁で小細工はほとんど打ちようがないのだが、定石を踏んだスマートな対局を好む桑原にしては、打つ手がどれも好戦的だった。
すなわち盤面が複雑な様相を呈し始めているのだ。複雑になればなるほど長考が増え体力を使う。決して若いとは言い難い桑原にとって、長考は大きな負担となるだろう。しかもまだ本因坊戦第一局目でだ。
どういう心境の変化だ?と首を傾げずにはいられない。
「桑原のじいさんもまだあんな碁打てるんだな。見慣れてないせいか見てるこっちまでどきっとするというか」
「桑原先生もまだお若い頃はかなり力碁を打たれたものですよ。年齢と共に体力浪費が激しい力碁はあまり打たれなくなって寂しい気がしてたが。天才と言われてる進藤君に桑原先生も触発されたかな」
首をひねる倉田に、昔から対局取材をしてきている天野がハハハと懐かしそうに話す。倉田もまだ低段だったころに桑原の若い頃の対局棋譜は並べてきたが、実際に桑原と対局してみた印象と最近の棋譜から受ける棋風はどうしても異なる。
それに、これまでにないほど本因坊戦が注目されているとしても、あの桑原がたったそれだけで打ち方を変えてくるとは考えにくい。
「そうは全然見えないんだけど」
信じられないなと眉間に皺を寄せる倉田の隣に座っていたアキラが、無言で立ち上がる。
検討室に集まったメンバーはそれぞれ自分の考えを口にしていたが、アキラだけはずっと黙ったまま対局室の中継画面と皆が並べていく盤面を交互に見るだけだった。
アキラが周囲の意見に圧されて、黙っているわけではないことはすぐ傍に座っていた緒方も分かっている。思うところがあって、敢えて何も言わずに対局を観戦しているのだ。
アキラが部屋を出たのを見計らい、緒方も腰を上げそのあとを追う。
恐らく、ヒカルの強さの秘密にもっとも近いのはアキラだ。
緒方が廊下をでてしばらくしてアキラは建物の外れで立ち止まり、庭の方を見やっていた。その数歩後ろに緒方も立ち止まり、けれど声をかけることはない。
隠れて後をついてきたわけではない。足音も気を付けなかったから、自分の後ろから誰かがついてきていることくらいよっぽど鈍感でない限り気づくだろう。
聡いアキラなら、その足音が聞き慣れた緒方の靴音であることにもすぐ勘付けると、緒方は勝手に考えている。
だから声をかけることもしなかった。
瀬戸内の海風がふいて気持ちいい。これが何もない日の休暇であればドライブを楽しめたかもしれない。
「緒方さんには話しておきます。先日、僕がlightと対局してみた感想です。そして対局してみた結論でもあります」
緒方の方を振り返ることなく海の方を見下ろしたままアキラは話始める。本因坊戦が行われるホテルだが全くの貸切というわけではなく、普通の一般客もいるだろう。しかしホテルの敷地内でも建物の外れまで足を向けるものは少ない。
囲碁関係者にしても、連絡があればすぐ戻れるように休憩のためだけに関係者用部屋からあまり離れはしないだろう。
「聞こうか」
腕を組み、緒方はアキラの話に耳を傾ける。
「進藤の中に進藤が2人います。普段表に出ているのは進藤。そして碁を打つ時だけsaiが現れる。お父さんが亡くなるまで進藤はそのもう一人の自分をネット碁だけで打たせていて、それがsaiだったんです。ただ誤解しないでほしいのが、saiが一般的に二重人格と呼ばれる人格的なものではないということです」
振り返ったアキラの表情は険しい。冗談で言っているのではなく、アキラは真剣にヒカルの強さをそう考えているのだ。
本気で言っているのか?というのは愚問だろう。
ヒカルの強さが普通の常識で測れないことは緒方も既に熟知していたからである。
「僕がまだプロになる前、駅前の碁会所で進藤は初めて他人と対局した。誰かと初めて対局し、石を打ったのは進藤でも本当に対局して僕を負かしたのはsaiだった。けれど中学囲碁大会で僕に大敗し、そこから実力をつけてプロになったのは表である進藤本人。その間、進藤は相手の見えないネット碁でだけsaiを打たせていたんです」
一通りアキラは結論を述べる。緒方以外の誰かに話せば、正気を疑われても仕方がない話をしているという自覚がアキラにもあった。
自分が決して勝てないから。ヒカルの才能に嫉妬して。それでそんな馬鹿らしいことを言い出していると、普通ならまともに取り合ってもらえない話である。
だが、アキラがヒカルと初めて出会った頃からネット碁でsaiが出現し、それから今までの不可思議な出来事を振り返り、自分の考えと照らし合わせていくとバラバラだったピースが綺麗にはまっていく。
たった一つ、『もう一人のヒカルであるsaiは何者なのか?』というピースを除いて。
「奇抜な推論だが、俺にはどうにも二重人格との差が分からないが?」
ふむ、と頷いてから、緒方は適格にアキラの説明の不足点をつく。
「二重人格は人格の違いであり、人格は同じで囲碁の強さだけ異なるというのはその症状に当てはまりにくいそうです。仮に人格が別々にあっても、特定の分野で突出した強さが現れることは限りなく少ない」
そして知識も。抑圧されるなどのストレスで人格が複数形成されても、1個人が得た知識以上のものは別人格も持てない。しかしヒカルは梨川でさえ知らない敦盛を知っていた。それは囲碁の強さとか常識では説明がつかないのだ。
アキラの補足に緒方は一応の納得を見せる。通常では考えられない話ではあるが、そう考えれば辻褄が合う点が確かにあるのを、緒方は素直に認める。
<突出した強さ>とアキラは表現したが、ヒカルの強さはすでに囲碁界で誰よりも強く高みにある。そんな強さを二重人格などの症状・病気で得られるとは、素人考えではあるがそちらの方が考えられないと思ったからだ。
「人格は同じで、けれど実際に打っている相手は違う。対局中、向かい合ってる進藤と対局している気がしないのはその所為ということか?」
「はい。進藤は恐らくsaiの指示通りに石を打っているだけで、実際は対局当事者ではなく観戦者なのです。だから相手の打ちこみにも全く動じない。第三者の視点で盤面を見ている」
それによって対局者の打つ石に込めた気迫は、全てヒカルを通り抜けてしまう。
これは確証のないアキラの全くの想像だが、対局者の気迫が相手に全く届いていないわけではない筈だと思う。
けれど、saiの姿は、声は、自分たちには見えないし聞こえない。
saiの代わりに石を打っているヒカルの姿だけしか見えず、困惑し、真の対局相手を見誤ってしまう。
「理解に苦しむ内容だが、saiが進藤の二重人格でないなら何だというんだ?」
「分かりません。それは進藤本人にしか分からないでしょう。でも」
「でも?」
「お父さんはsaiを神として捉え、僕は鬼として見ています」
対局相手が違うと分かっていつつ、盤面にsaiの影を探し続けた行洋と、ヒカルを裏に追いやり表に出てきたsaiをアキラは鬼と見る。
かと言って行洋の時とアキラの状況が異なっているのは理解している。ヒカルの裏に隠れて大人しく打っていた頃のsaiならば、アキラがその真実を知っても行洋と同じように神のように見て、鬼として見ることは無かったかもしれない。
――全てはお父さんが亡くなったのが、歯車が狂い始めた切欠なのか。
もし行洋が亡くならなければ、今もsaiはネットで打ち続け、アキラはsaiの正体を探し続けながらもヒカルは表にいて自分の碁を打ち続けていられたのかもしれない。
saiを表で打たせてまで行洋との約束を果たそうとしているヒカルに対して憤りはあれど、そう考えれば全てが全てヒカルが悪いわけではないのだとアキラの胸はやり場のない無常感に苛められた。
父親と息子、ヒカルの強さを正反対の言葉で表したアキラに、緒方は小さなため息を漏らす。
確かにヒカルの今の強さは『鬼』のような強さだ。
「それはまた両極端な例えをする。」
「例え同じものでも見る者次第で神にも鬼にもなる。梨川先生にも忠告されました」
「梨川先生に?」
脈絡のない人物の名前が急に出てきて、緒方はピクリと反応した。ヒカルの後援会スポンサーであり、行洋の旧友。そしてヒカルが失われた敦盛を舞ったことで、少なからずヒカルの中に別の何かを見たのだろう人物。
緒方は直接ヒカルが舞っている姿を見たことはないので、上野から話を聞かされても半信半疑だが、梨川がヒカルの後援会スポンサーになっている事実は現実である。
その梨川本人が棋士のアキラに何の忠告をするのかと思案する。
「あまり不用意にsaiに近づいてはいけない。saiとはそういう存在なのだとも。もしそれでもsaiを求めるなら相応の覚悟が必要だと忠告されました。恐らくですが進藤に元々そういう意図はなかったと思います。けれどお父さんは知らずsaiの正体を知ってしまい、結果として魅入ってしまった」
人は誰しも強さに惹かれずにはいられない。しかも元々ネットの闇に隠れていた頃からsaiは強さだけでなくその秘匿性も相まって、世界中の棋士を魅了していた。勿論アキラ自身、例外なくsaiに惹かれた一人だ。
それだけsaiは棋士を魅了し惹きつける存在だったのだとアキラは思う。ただし決して近づき過ぎてはいけない存在で、もし近づき過ぎれば行洋のように囚われる危険性があった。
そしてヒカルと交代するように表に出てきたsaiは、人とは思えない強さで棋士たちを圧倒していっている。
「これが僕がlightと打ってみて辿り着いた結論です。lightは本当の進藤です。元々表にいて僕と出会ってから囲碁を始めプロになる実力を付けた進藤。そして今ホテルの対局室で桑原先生と本因坊戦を打っている人物こそ、進藤の姿を借りたsaiなのです」
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21 本因坊戦第一局・二日目
五月の早朝はまだ冷える。陽は上り始めたが朝食にはまだ早いそんな時刻。
既に和装に着替え、ホテルロビーに面した庭先にヒカルは手に持った扇子を、一枚開いては閉じ、一枚開いては閉じを黙々と続けながら一人立っていた。
「昨日の対局中も思ったがいい扇子じゃな、どこのだ?」
後ろから声をかけてきた相手に、ヒカルは一瞬驚きながらもゆるりと手にある扇子へと戻す。急に声をかけられたのは驚いたが、扇子を褒められたのは素直に嬉しい。
ヒカルの口元がほころぶ。
「知らないんです。譲ってもらったものだから。でも俺にとってすごく大事なもので」
言ってからまた一度、一枚開いてパチリと閉じる。
「塔矢先生が使ってた扇子なんです」
「行洋が?」
どこかで見たような扇子だとは桑原も内心思っていたが、だから見覚えがあったのかと合点がいく。
大多数の棋士なら譲られることはおろか、受け取ることも憚れるだろう品だ。それをヒカルは静かな面差しで扇子を手にし、先ほどまでのように一枚ではなく、パタパタパタと全て開く。
瞬間、ちょうど上って行く朝日のまぶしい日差しが桑原の視界を奪い、瞳を細める。その一瞬、逆光になったヒカルに行洋の姿が重なった気がした。
■
本因坊戦第一局二日目。
一日目が終わった段階では、やはりというべきか対局前の大方の予想通りゆっくりじわじわと形勢はヒカルの黒石へと傾いていく。それでも桑原の白石は始終ぶれることがなかった。最近の桑原には見ることの少なくなった妙手が次々と打たれ、その度に観戦室では唸り声がいくつも上がる。
形勢がヒカルの方へ傾いたのは、桑原が強く出過ぎて悪手を打ったからではなく、ヒカルの応手が非常に丁寧かつ冷静で堅かったからというのが、一日目を終えて検討した感想を占めてだった。
そして二日目に入り、対局再開30分にして桑原が打った一手にヒカルの片眉がわずかに反応する。それから視線を斜め横へと移したものの、すぐに視線は盤面へと戻った。そしてずっと碁盤手前に置いていた扇子を手に取り、正座した膝の上に置く。
――今、少し進藤くんの表情が険しくなった?
たまたま盤面の中継画面ではなく、対局室全体を映しているテレビ画面を見ていた芹澤がヒカルのほんの僅かな変化に気づく。
すぐに盤面が映し出された画面を見やり、滅多に表情に出ることがないヒカルが反応した桑原の一手を確認する。
「進藤君が打ったこの一手に対して、桑原先生が打たれた一手がこちらのトビコミですよね?」
「ええ、これが何か?」
芹澤の確認に森下が頷く。桑原の白石が少し強引に出た感はあるがハネてしまえばしのげるように思える。
「進藤が長考に入りそうだぞ」
「ここで?」
倉田もテレビ画面に映るヒカルの様子に、長考に入る気配を察する。直ぐさま、緒方たちは桑原のツケの狙いを検討し始め石を並べ始める。
最初は何故ヒカルがここで長考を?と疑心暗鬼だった一手だが、それぞれの考えと今後の流れの可能性を潰していくうちに、次第に皆の表情が変わり始めた。
「黒がこう打てば……いや、手にされるな」
「これだと黒地がだいぶ削られますね」
芹澤の考えに、アキラも神妙に頷く。
そして緒方がニヒルな笑みを浮かべて結論を締める。
「ここにきて癪だが、黒は妥協せざるを得ない」
それこそがヒカルが長考に入った理由だろう。
「まだまだやるじゃん!桑原のじいさん!」
「あの狸じじいにしては気合の一手だな」
興奮気味に倉田は扇子をたたき、緒方もニヤリと笑む。もし自分が打たれていたなら見逃していたかもしれない。
それから時間を置かず、ヒカルは黒をツギに入った。決して気持ちの良い手ではないが、黒地が大きく削られる痛みを考えれば、今は堪えて緒方の言う通り妥協するしかないと踏んだのだろう。
対局室から少し離れた部屋で行われているテレビ中継用の解説でも、ヒカルが黒をツイだことでようやく桑原の狙いに解説者も気づいたようで興奮気味に解説をはじめだした。
■
本因坊戦第一局はヒカルが1目半で勝利を収める。途中のトビコミでヒカルの黒地が削られ白が勢いを取り戻しそうに思えたが、それに動じることなくヒカルは終局まで冷静沈着に打ち逃げ切った。
棋譜だけ見て対局相手を交互に想像したなら、桑原の方が年若い棋士だろうという印象を受けるかもしれない。負けた碁ではあったが、桑原の評価は非常に高かった。
反対にこの大舞台でも揺らぐことのないヒカルの底力に、観戦室で実際の会場の雰囲気を肌で感じていた棋士たちは改めて考えさせられた。既に6つのタイトルを得ているとはいえ、ヒカルはまだ16歳である。囲碁棋士は早熟であればあるほど良いと考えられがちだが、それを差し引いてもヒカルの早熟さはどうだろう。
たった16という若い歳で何十年と碁を打ち続けてきた棋士を打ち破り、決して若さゆえの勢いだけではない熟達した碁を持っている。
特に他の追随を許さないがごときズバ抜けた計算とヨミが、ヒカルの強さの根底であることはどの棋士に聞いても認めるだろう。
そして夕刊で本因坊戦第一局目を勝利した和装姿のヒカルが一面を飾ったのだ。
二日目の対局が終わったのち、両対局者がその日の内に帰るか泊まるかは本人の意思である。二日がかりの対局に疲れ切っていても、その日の内に帰宅する棋士もいれば、疲れて一泊する棋士もいる。
対局を終えた直後に一言づつ対局内容をコメントしただけで、対局者同士の検討はなかった。検討室でも散々緒方たち対局を見ながら検討していたので、それ以上検討することはなく碁笥を片付けてお開きとなる。
対局を観戦しにきた棋士であれば、大概が朝の内に荷物をまとめ泊まらずに帰宅するものなのだが、緒方だけは東京へ戻らずもう一泊することにした。
検討するだけならそこまで体力は使わない。本因坊戦を観戦する以外に広島に用はない。だがこの本因坊戦で、二日目勝っても負けても桑原が一泊することを知っていた。
「ふ~、年甲斐もない碁は打つもんじゃないわい。なんじゃ?緒方くん、そのもの言いたげな顔は?ハッキリ言ったらどうじゃ?」
腰掛けた桑原の傍まで来ておきながら、声をかけることなく無言の緒方に桑原の方から声をかける。勝負事は必ず勝者と敗者がいる。勝者ならばおめでとうございますと気軽に声をかければいいかもしれないが、敗者にかける言葉は誰しも迷ってしまうものだ。
しかも、緒方もプロ棋士で、負けた時の悔しさは身を以て知っている。
負けたことを全く気にしないわけではないが、まだ本因坊戦は終わったわけではないのだ。次の対局にすぐ気持ちを切り替えていかなくてはならず、一時の慰めの言葉など何の役にも立たない。
何と声をかけようか迷っていたが、桑原から声かけてくれたのなら有難く受け応える。
「ああいう碁も打てるのなら、日頃から打ったらどうですか?」
「はっ!あんな碁そう何度も打ってたらこっちが参ってしまうわ。ああいう体力任せの碁は若いもんが馬鹿のように打てばいい」
声高らかに桑原は笑うが、やはりというべきか久しぶりに打ち慣れない力碁を打った桑原から疲労は隠しきれない。
もしかするとヒカルも桑原の疲労に気を使って、対局後の検討をしなかったのかもしれないと緒方は頭の隅で思う。
「どうぞ」
ロビー横の自販機で買ってきた缶コーヒーを桑原に差し出す。足は値段相応だが、疲れているなら少しでも採った方がいい。それを片目だけ開けるようにして桑原は見やり、
「今はコーヒーよりタバコが良かったんじゃが、まあいい」
妥協感を垂れ流しにして缶コーヒーを受け取った。
桑原が素直にありがとうと受け取るような性格でないのは緒方も知っているので、今さらイチイチ表情に出すこともなく、文句をつけることもないが、
―― 一言余計だ。クソジジイ
胸の内で悪態をつくくらい許されるだろう。これくらいでイチイチ目くじらを立てていては、桑原の盤外戦など敵にもならない。
空いていた桑原の隣に緒方も腰掛け、今日の対局の感想を伝える。
「今日のトビコミは良かったですよ」
一見してハネだけで良さそうに見えて、かなり奥が深かった。ヨミがスバ抜けているヒカルがあそこで30分以上長考して結局妥協したのがその証拠だ。
「よく気づかれましたね。あのトビコミはもっと先から狙ってたんですか?」
「ああ、あれか?あれはな、秀策になったつもりで考えてみたんじゃよ」
「秀策?江戸時代の本因坊秀策ですか?」
意外過ぎる人物の名前が出てきて、緒方は目を見開く。
「その秀策じゃ。あの局面で秀策ならどう考えるか、どこを狙ってくるか考えてみたらあそこが見えた」
過去の棋士になりきって考えるにしろ何故秀策を?と疑問に思いつつ、当人はあっけらかんと笑う。イベントや指導碁などの気晴らしで試したというならまだ話は分かる。
しかし大事な本因坊戦で秀策になりきり、本当に桑原があの一手を見つけたとしたなら、
「酔狂にもほどがある。たまたまいい手だったからよかったものの」
呆れるしか緒方はできない。
「まだ第一局ですよ?そんなんで今後の対局打てるんですか?」
第一局目から他力本願では今後の対局が知れるというものだ。
だがどんなに疲れていても桑原の悪態が止まることはなく
「緒方くんより少し骨を折りそうじゃが、わしの相手に不足は無しじゃ、ひゃっひゃっひゃっひゃ」
「それだけ軽口叩ければ心配する必要はなかったですね」
「なんじゃ?儂を心配しておったのか?」
「いつ倒れてもおかしくないお年頃でしょう。このタイトル戦を期に引退されてゆっくり養生されるのをオススメしますよ」
「減らず口を。それに小僧もよう覚悟しとる」
急に口調を変えて、桑原は満足そうに口角を斜めに上げた。あれだけの気配を放つ鬼を背負いながら、終局まで盤面を見つめるヒカルが揺らぐことはなかった。
この本因坊戦にたどり着くまでに、他に得た6つのタイトルを鬼に打たせ続けてなお自分を見失わないだけの覚悟をあの歳でしたのだろう。
並大抵の人間に出来る覚悟ではない。
――あの目は鬼に誑かされて碁を打っとる目ではないわい。小僧め、自分を殺して鬼背負う覚悟したか
鬼の甘い誘惑にほだされてタイトルを軽はずみに欲しただけなら、周囲からのプレッシャーや自身を持ち上げようとする周囲に簡単に自分を見失うだろう。
タイトルを一つとるだけで数千万の金が入る。普通の人間なら強さではなく金に目が眩む。
しかし、ヒカルは自分を見失うことなく桑原の対局者として盤面向かいに座った。
けれど、
「覚悟?」
桑原が何の話をしているのか咄嗟に分からず、緒方が聞き返す。
「緒方君にはまだわからんか?」
「何の話です?」
桑原が何を言いたいのか、さっぱり話が見えないと緒方は眉間に皺を寄せるが、『ヒカルが覚悟している』の一言だけで桑原の意を全部酌めというのが土台無理な話である。
しかも緒方が分からないと言っているのに、桑原はさらさら説明する気はなく、これで塔矢門下一番弟子なのだからと思いながら、桑原は盛大なため息をつき、
「これだから儂はいつまで経っても引退出来んのじゃよ」
勝手に自分ひとりで納得して話を切ってしまう。
それにずっと耐えてきた緒方の忍耐の尾がプチっと音を立てた。
棘が生えた口調で、
「さっきから何をブツブツ言われているんです?今日の対局でボケが進行しましたか?引退祝なら喜んでお贈りしますよ」
「まだまだ若いと言っとるんじゃ。進藤の方がよっぽど肝と根性が座っとるわい」
「あ?口の減らないクソジジイが」
ついに緒方の忍耐の尾がブチっと完全い切れて、辛うじて保っていた丁寧語も剥がれてしまった。最初の方はいいとして、桑原を相手にして元から緒方の口調が素に戻るのは時間の問題なのだ。
これがもし緒方ではない別の若手の棋士だったなら、目上の棋士相手にどうすればいいか分からず泣いて逃げるだけだろうが、そこはもう何年も桑原にしごかれてきた経験の差がある。
一方的にやられているだけでは対局も勝てない。
しかも緒方が本性を出したところで、桑原はさっさと矛先を変え、和装の袂の中からたばこを取り出す。
「ほれ、火」
「ちっ」
一本口に咥えて火を催促されれば、しぶしぶと緒方もジャケットからライターを取出し、たばこの先に火をつけてやる。
そして緒方もタバコを一本咥え、
「で、進藤と対局してみてどうでした?」
「どうとは?」
「……打っている最中、進藤と打っているのに進藤ではない別の誰かと打っている気分になったりとか……いえ、なんでもないです。聞かなかったことにしてください………」
平静を装い尋ねようとするも失敗してしまい、せめて桑原と顔を合わせまいと緒方はそっぽを向く。
桑原にヒカルの何を緒方が尋ねようとしているのか。
まったく気づいていないのかと思えば、そうでもないらしい。
しかし、緒方が何を聞きたいのかわかった上で、たった缶コーヒー1本で教えてやるにはいささか安い気もするが、今の桑原は非常に機嫌がよかった。
負けてしまったが、久しぶりに自分でも納得出来る碁を打てたからだろう。
「返せ、と言われたわい」
「返せ?」
「本因坊を返せとな、あれは元々自分のものだと一丁前に睨んできおったわ」
緒方の表情が怪訝なものになる。
一瞬、もし行洋が生きていれば今頃行洋のものだったから、それを返せと言っているのかとも考えたが、文脈からするとまるでヒカル自身が以前本因坊だったかのような言い方だ。
しかしヒカルが本因坊だった事実はない。
神妙な顔つきで考え込み始めた緒方に、
「儂らが打っている相手は、そういう相手ということじゃよ。ひゃっひゃっひゃっひゃ」
意味ありげに桑原は笑い始める。
「何か知ってるんですか!?」
「缶コーヒー1本じゃあのう、まぁあまり深く考えぬことじゃ」
安すぎて話にならないと、問い詰める緒方からプイと顔をそらす。
ああいう類は、近づき過ぎず、踏込み過ぎず、そこにあるのを疑わず受け入れるのが最も最善なのだから。
++++++
夜中更新はダメダメですね・・・・
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22 還りたい場所
対局中に着ていた和服を脱ぎ捨て、洋服に急ぎ着替えて財布が入ったリュックを背負うとヒカルは他の荷物には見向きもせずに部屋を飛び出す。
――ヒカル!?どこへ行くのですか!?対局が終わったばかりなのに今からどこに!?
カエリタイ
「進藤本因坊!おめでとうご、って、どちらへ!?」
カエリタイ
「どちらに行かれるんですか!?これから7冠達成の記者会見が用意されて!?進藤本因坊!?待ってください!」
カエリタイ
「誰か!進藤本因坊を止めるんだ!」
――こんな時間からどこへ帰ると!?ヒカル!?
「還りたいんだ、佐為………早く、一分でも一秒でも早く!」
もう二度と戻らない時間へ
もう二度と会えない人へ会いに
もう二度と還れないあの場所へ
「還りたいんだっ……!」
今にも泣き出すのではと思えるほどの悲痛な叫び。
―――……還りましょう!ヒカル!きっとあの者も待っててくれているはずです!
後ろから慌てて引き留めに追いかけてくる関係者に構わず、ホテル玄関前に駐車待機していたタクシーにヒカルは乗り込む。
「出して、急いで」
急かされて、とりあえずタクシー運転手はサイドブレーキを上げて発信する。
その後ろからスーツを着た数人の男たちが焦った顔で追いかけてきた様子だったが、発進してしまったものは仕方ない。
「どちらまで?」
メーターのスイッチを入れながら尋ねると、乗車した客は短く、
「東京」
「東京!?今からですか!?って、え!?進藤名人!?」
男たちに追いかけられていたこともあり、運転手は念のためにと振り返ったのだが、後部座席に座っている相手を認識して、思わず、素っ頓狂な声を上げてしまった。
よそ見をしていては事故ってしまうと、前を見ながらも、バックミラーで何度も後部座席を確認する。間違いない、さっきまで携帯電話で生中継を見ていた棋士が自分が運転する後部座席に座っている。
自分の聞き間違いでなければ、今日の対局で勝者が決まるかもしれない本因坊戦で、もし進藤が勝てば、そのまま記者会見になるはずだったが当の本人がホテルを出て行って本当にいいのだろうかと不安になった。
しかも行先は東京だ。この時間ともなれば東京に向かう手段は、深夜バスや運良くて飛行機に限られる。タクシーでも決して行けなくはないが、名古屋のこのホテルからともなると東京に入るだけで4時間以上はかかるだろう。
これだけの有名人で身元もハッキリしている。タクシーの無賃乗車の心配はないが、脳裏を過るのは、はやりホテルから追いかけてきたスーツ姿の男たち。
まず間違いなく、後部座席に座っており、今日の対局を勝利して晴れて本因坊になった進藤ヒカルは関係者に断りなくホテルを抜け出してきたのだと察せられた。
戻らなくて大丈夫なのか、声をかけるべきか迷う。
けれど、
「急いで、お願い」
「わ、分かりました」
どこか追い詰められたような、真っ青に青ざめた顔で急かされ、運転手はハンドルを握りは直した。
■
常にないほど日本棋院は事務員が詰めかけていた。
名古屋で行われている本因坊戦第5局目のホテル会場にもそれなりの関係者が詰めかけているが、不測の事態のためとして普段ならもう帰宅してしまう事務員たちも、朝から事務所に残り、対局の結果を見守り続けた。
本因坊戦は第三局目を桑原が勝ち、残りの第一局、第二局、第四局とヒカルが勝利している。そして今日行われている第五局二日目でもしヒカルが勝てば、ヒカルが新しい本因坊となり前人未到の7冠棋士が歴史上に誕生するのだ。
しかもプロになって3年足らずであり、未成年という若さでの偉業。
ネット碁で力を磨いたらしいというのも初めこそ胡散臭さがられたが、ここまでくれば世代を反映した新しい棋士像だ。
近年、人気の衰えが著しい囲碁界にあって、ヒカルのような話題性のあるニュースは光明に等しい。テレビのニュースでも連日取り上げられ、囲碁に関心を持ち始めた人で、囲碁教室は連日満員状態だ。
この勢いのままに、ヒカルが7冠を取ればさらに話題になるだろう。
それだけではない中韓と追い抜かれ差が広がり始める一方の日本にあって、ヒカルがその反撃の狼煙に必ずなるだろう。Saiとしてネット碁を打っていた頃から中韓のプロ棋士を打ち破り、なんと言っても未成年という若さ。可能性は十分すぎるほどあり、囲碁界からの期待も大きい。
「7冠か……、実現すればそれは正直すごいことなんだが問題も増える」
「何が問題なんです?」
「対局スケジュールだ。他にもイベント事だってタイトルホルダーとして引っ張りだこなのに、一人しかいないんだぞ?」
と、低い声音で含みを持たせた年配事務員の物言いに、年若い方の事務員は、『あ』と声を詰まらせた。分かっていたはずなのに、目先のエサに釣られてつい忘れがちになってしまう。
しかし決して忘れてはいけないのだ。数年前に当時現役6冠だった棋士が心筋梗塞で急性したという事実を。因果関係あるなしの確証がなくとも、過密スケジュールで疲労がたまっていたのは間違いない。結果、タイトルホルダーが急逝したことで一度に6つのタイトルが空位になった。
それまでタイトルが空位になった前例はなく、差し迫るタイトル戦をどう行うべきか、今後のことも踏まえ関係者でかなり話し合った経緯がある。
「これでもし次に進藤君が倒れでもしてみろ?間違いなく日本棋院は世間からバッシング受けるぞ」
7冠棋士の誕生は喜ばしい反面、決して行洋の二の轍を踏むわけには絶対いかないのだ。ヒカルの健康状態は最優先で考慮されるだろう。
出演するイベントも今以上に制限される。
特に8月からは3つのタイトルが重なるという最もスケジュールが過密する時期にはいるのだから。
白黒両者とも一手打たれるごとに上がる歓声。
本来なら対局や研究会などの用事がない棋士まで、皆で本因坊戦第五局を観戦するために棋士たちが詰めかけていた。この場に来ていない棋士も違う場所で集まったり、家で対局中継を間違いなく見ている。
盤面は小寄せまで入って形勢はヒカルの方がわずかに優位だ。上座に座る桑原は、盤面を睨んだままピクリとも動かない。対してヒカルは正座した膝の上で扇子を握り、静かに見据えていた。
長いことタイトル戦を見てきた事務員や記者も、ヒカルほどに落ち着いて対局に臨む棋士を見たことがないだろう。
『ありません』
桑原が頭を下げたのに続いて、ヒカルも応じるように頭を下げる。
途端に中継画面を見ていた事務員たちから『おおお~』という歓声が上がった。棋院の公式サイトではすぐさま対局結果と新しい本因坊が誕生したことがヒカルの写真と共に更新掲載される。
また、つけていたニュース番組でも速報でヒカルが本因坊になったことが報じられる。
今この瞬間、7大タイトル全てを持った棋士が誕生したのだ。
<全7大タイトル棋士誕生!!進藤ヒカル7冠!!>
次々と棋院の電話が鳴り始める。こんな時間に一度に大量の電話など、普段なら滅多にあるものではない。
用件はすぐに察せられた。7冠になったヒカルへの取材、インタビューだ。しかしいくら事務員が普段より集まっていても用意された電話回線には限りがある。すぐに全部の電話回線はいっぱいになった。
それまでテレビ中継画面を見守っていた事務所が急に慌ただしくなる。しかし、決して嫌な慌ただしさではない、むしろ喜ばしい忙しさだった。
このまま対局会場のホテルでは勝者であるヒカルの記者会見が開かれることだろう。
ホテルにはテレビ局のカメラも多数やってきていると聞く。それが全国放送されれば、さらに囲碁界は注目され賑わっていく。それを考えると、気持ちも浮き立ってくるものだ。
だが、対局検討をした後、そのまま記者会見に入る予定だったのに、なかなか記者会見が始まらない。すでにテレビはいつ記者会見が始まってもいいように中継の様子が映し出されている。しかし本人が現れる様子は一向になく、進行係が何の説明もなく『もうしばらくお待ちください』を続けるだけだ。
「どうしたんですかね?対局で疲れたのかな?」
石を打つだけと見えて何時間も集中して頭を使う囲碁は、考えている以上に疲労するゲームだ。対局中におやつタイムがあるのは空腹だけでなく頭の働きを保つための糖分を摂取するためでもある。
特に7冠がかかっていたヒカルのプレッシャーは推して量られる。そのプレッシャーに打ち勝ち勝利したのだ。記者会見にすぐ出られないほど疲れ切っていても不思議ではない。
そこに事務員の一人に、私物である携帯電話が鳴る。
すでに棋院の電話は鳴りっぱなしで問い合わせが止まる様子はない。
電話をかけてきた相手を確認し、通話ボタンを押す。相手は同じ棋院関係者で、本因坊戦第五局が行われたホテルに行っている相手だ。棋院の電話はすでに問い合わせでつながらないから、こちらに電話してきたのだろうと軽く考え、
「はい、もしもし」
きっと会場では7冠棋士の誕生ですごい騒ぎになっているのだろうと想像しながら答える。
しかし、
「どうしたんですか?進藤君から何か連絡ですか?こっちに?」
電話相手の用件が分からず、首をひねる。しかも電話の後ろからはバタバタと人が忙しなく走っている足音が聞こえてくる。
『だから!進藤君がいなくなったんだ!対局終わってタクシー乗り込んでいなくなったんだよ!』
「え!?進藤君がホテルから姿を消した!?」
それまで電話対応をしていた者たちまで、何事かとバッと振り返った。
■
予定していた記者会見は本人が不在では始まらない。会見開始予定時間を1時間を過ぎて、体調不良を理由に記者会見の中止が発表された。
もちろんカメラを構えていた記者やカメラマンたちからはほんの少しだけでも姿を映させてもらえないかと要望はあったが、すでに本人は部屋で安静にしているとだけ伝える他ない。
その裏側ではいなくなったヒカルの行方をスタッフが探し、ヒカルの携帯電話にも電話してみたが電源が切られているのか応答はなかった。ヒカルが向かっているかもしれない心当たりは片っ端から電話していく。
ヒカルの実家はもちろん祖母の家、後援会の梨川、藁を掴む思いで同じ研究会の森下にも電話したがヒカルからの連絡はないという。
ヒカルは疲労で安静にしていると言ったところで、ネタになる情報に敏感なマスコミだからこそ不測の事態に慣れていない棋院スタッフの慌てように、何か異変があったのではと勘付いている記者も少なくないだろう。
だが、それすらも構っている余裕はなかった。
「もし進藤君から連絡がありましたら、すぐにこちらにもお知らせください!おねがいします!」
院生になるとき推薦したという緒方にまで電話をまわしたらしい。あまり情報をまわせばその分だけ漏れるのも早いというのに、そこまで頭が回らないようだと、出されたお茶を飲みながら桑原は思う。
だがヒカルの行方を案じる関係者とは別に、桑原にも懸念はあった。
ふぅ、と息を吐いてから、やれやれと重い腰を上げる。
「電話の相手は緒方くんか、オイ代われ」
「桑原先生!?」
まだ会話途中だった電話を、有無を言わせず強引に代わらせる。
そして電話を持ったままスタスタと廊下へと歩きつつ
「儂じゃ、桑原じゃ」
『桑原先生!?進藤がホテルからいなくなったというのは本当なのですか!?』
電話口から聞こえてくる慌てふためく声に、一度電話口から耳を離す。
少し置いて、
「声を荒立てるな。耳に響くわい。話はほんとうじゃ、対局終わって少し休憩すると言って一人にしたきり、タクシーに飛び乗って出て行ったらしい。部屋は脱ぎ捨てられた着物が散らばってな。記者会見の用意をしていたこっちは、本人がいきなりいなくなってしもうて蜂の巣をつついたような騒ぎじゃ」
『こんな時間にどこへ……』
「心当たりはないか?」
『心当たり?俺が進藤の向かった先にですか?そんなの俺にあるわけ』
「対局終わったすぐあと、『カエリタイ』と進藤が小さく呟いたのが聞こえた」
桑原が投了を告げた直後、礼を返したヒカルが本当に小さな声でつぶやいた一言。恐らく盤面向かいにいた桑原ぐらいにしか聞こえなかっただろう。
だがまさかホテルを抜け出すとは流石の桑原も予想しなかったが。
桑原も当然ヒカルの行先に心当たりはない。
しかしヒカルに潜む鬼に少なからず気づいているのだろう緒方なら、心当たりがあるかもしれないと当りをつける。
普通の棋士なら桑原も放っておくそれも、普通から少し逸脱してしまっているヒカルでは何が起こるか分からない。
『カエリタイ?東京の家にですか?』
「さぁのう。君は進藤がわざわざ家に帰りたいためだけに、関係者に何も告げずホテルを抜け出したと思うか?」
問われれ逆に緒方の方が答えに窮した。いきなり棋院事務員から電話がありヒカルがホテルからいなくなって、桑原にその行先に心当たりはないかと問われる。
本因坊戦を戦い抜き、記者会見をすっぽかしてまで帰りたい場所など、心当たりがあるわけがない。
――帰りたい?どこへ?どこへ帰りたい?いくらなんでもこんな時間から東京の家に帰りたいとごねるような子供じゃない。行先は間違いなく家じゃない。だとしたら、どこに帰りたい?どこに向かっている?
分かる訳がないと半ば自棄に思いながらも、どこか、どんなに可能性が低くてもいいからヒカルが向かいそうなところがないかと緒方が必至に思案している中、
「進藤の選んだ道は針のムシロじゃ。一歩歩くごとに足裏に針が深々と突き刺さり、血が滴り流れる。自分の選んだ道に後悔はしていないだろう。それでも後悔しない道を選んだとて、胸の奥深くに還りたい場所は誰しもあるものじゃ。心当たりはないか、進藤の還りたい場所に」
いつもからかい口調が混ざる桑原に珍しく、淡々と語るようによく考えろと緒方に説く。
その一言に、ふと思考が止まる。
『還りたい、場所?』
行洋がまだ生きていた頃の、ヒカルとsaiと3人でいられた楽しかった、嬉しかった、幸せだった頃に、還りたいのか?
+++
一個前の21話のラストにも少し加筆いたしました。
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23 ヒカルと佐為
ヒカルが東京に到着したのは日付が変わってからだった。まだ未成年だが、地方対局のために一人で向かわねばならないこともあり、父親が何かあった時用にとカードを1枚渡されていた。
すでにヒカルの年収は億を超えているが、まだ未成年ということで資産管理は両親がしており、旅費の他にも囲碁関連の書籍やシャツなど必要なものはカード払いでいい許可はもっている。
おかげで名古屋からタクシーで東京まで18万以上かかっても、カードのおかげで支払いに困ることはなく、寺の前に乗り付けると迷わず墓地の方へと走っていく。
人っ子一人いない真っ暗な真夜中の墓地。寺の住職などが見回りなどのために墓地の隅にいくつか街灯があったお蔭で真っ暗ということはなかったが、明るい夜に慣れた東京にあって薄暗くどこまでも不気味な雰囲気である。
土地の少ない東京で200基以上並んだ墓石の中から、目的の場所へと脇目もふらずヒカルは目的の墓の前にたどり着く。
二日がかりで対局し、休むことなくタクシーに乗り込み東京まで5時間。疲労は蓄積し、一秒でも早くたどり着きたくて全力で走ってきたせいでヒカルの呼吸は激しく乱れていた。
数回深呼吸をしてから、疲れ顔でニコリと墓石に微笑む。
「こんばんは。こんな時間に来るとか先生だったら子供は早く帰れって怒るかもしれないけど、今日だけは許してね」
簡単なあいさつと詫び。
料亭で会っていた頃はまだヒカルも中学生1年で帰りが遅くなってはいけないと、陽が沈む前に家に帰らされていた。なのにこんな夜中に来ては決して行洋は良い顔をしないだろう。
けれど、今日だけは特別である。行洋との約束をようやく果たせたのだから。
「今日の対局見ててくれた?先生との約束果たしたんだよ。俺たち、本因坊になった」
満面の笑みで報告する。
自分たちが行洋の代わりに本因坊になると決意してから2年近くかかった。
「桑原先生、ほんと強かったよ。先生が前に『簡単には譲ってくれない』って言ってたの分かった。すっごくしぶといんだ。気を抜いたら一瞬で引きずられそうになる」
第三局を落とした一局も、その1日目は忍耐碁だった。勝負時がなかなか掴めず、じっとりと対局が進んでいく。桑原の表情だけが、普段と変わらず飄々としていたのがヒカルの記憶の中で印象深く残っている。
七番勝負で、第一局、第二局、第四局、第五局と佐為が4勝し、晴れて本因坊になった。なのに、対局直後の足で急ぎ名古屋から行洋の眠るこの墓地に急ぎ帰ってきても、望んだ結果にならないのはまだ何か足らないというのだろうか。
「塔矢先生、どこいるの?もう成仏してこの世にいないの?」
軽く周囲を見渡しても、ヒカルの傍にいるのは無言でヒカルを見つめている佐為だけで、他には誰も見つけられない。
墓前に着いてからずっとにこやかだったヒカルの表情が目に見えて沈み、右手で額を押さえた。
「佐為は見えるのに、どうして先生は見えないんだろう……」
何の抑揚も籠っていない平坦な口調でつぶやく。
姿だけでも見えたなら、扇の示す位置にヒカルが石を置けばいい。
声だけでも聞こえたなら、指示された位置にヒカルが石を置けばいい。
そうすればまた3人で碁を打てる。
佐為と同じく神の一手を求めていた行洋なら幽霊になって現世にとどまるのではないか?
もしかしたら行洋はヒカルに見つからないようどこかに隠れているのではないか?
本因坊を取るという約束を代わりに果たせば、行洋が喜んでくれて姿を見せてくれるのではないか?
いつの間にか、何の根拠もないのに幽霊である佐為が見えるならば、きっと行洋の姿も自分なら見える筈と勝手に思い込んでいた。
<ジャッ、ジャリッ>
風が墓石の間を通る音と、植えられた木の葉が揺れる音しかしなかった場所で、ジャリという地面を踏む確かな人の足音を耳が捉える。
幽霊である佐為が歩いても足跡どころか足音一つ立てない。すぐにその足音が幽霊だろう行洋のものではないとと直感で察しつつ、足音がした方へヒカルは緩慢に振り向いた。
「塔矢……緒方先生…………」
■
「どうだった!?」
車の運転席に乗ったまま、料亭から戻ってきたアキラに結果を問う。しかし、問う前から料亭の門から出てきたアキラの表情が、向かう前と何も変わっていないことに有力な情報は得られなかったのだろうと
「だめです。進藤から連絡は来てないそうです」
「ちっ」
案の定な結果に緒方は忌々しそうに舌打ちし、握っていたハンドルを拳で叩く。
ホテルから姿を消したらしいヒカルが向かいそうな場所を考えて、真っ先に思い当たったのがこの料亭だった。行洋とヒカルが皆に隠れて碁を打っていた店。
楽しかっただろう思い出がこの店にはたくさんあるだろう。
普段なら客のプライバシーについて口の堅い店だろうと、本人が行方不明になって行方が分からない状況と尋ねてきた相手が、身元のはっきりしている行洋の息子であるアキラなら流石に冷たく追い返しはしない筈である。
紹介でしか客を取らない高級料亭だけあって電話帳やネットに店の電話番号が載っているわけもなく、アキラを連れて直接足を運んだのだが無駄だったらしい。
「女将には今の進藤が普通ではないことを伝えておきました。進藤から連絡があればこちらにすぐ連絡できるよう携帯の番号も伝えてきました」
助手席に乗り込んだアキラが早口で伝える。
本因坊戦第5局を自室で一人検討していたところに緒方からかかってきた電話。こんな時間にどうしたのか?と問うより先に、家に向かっているから出かける用意をしておけと言う。
用件は車の中で話すと言ったきり電話はブツリと切れ、訳の分からないまま明子にこれから緒方に会うと断りを入れて家を出たが、まさかヒカルが記者会見をすっぽかすだけでなくホテルからも姿を消したとは全く予想外だった。
――どこに行ったんだ!?分かってるのか!?自分のしていることを!
日本中が注目していると言っていい。7冠棋士が誕生するかもしれない本因坊戦第五局で勝利して晴れて新本因坊になっておきながら、対局後の記者会見をすっぽかし、関係者に一言の断りもなく行き先も言わず姿を消すという愚行。
どれだけの数の人間に迷惑がかかっていることだろう。そして今もどれだけの人間がヒカルを心配し行方を捜していることだろう。
まだニュースにはなっていないようなので、ヒカルが行方不明ということは表に出ていないのだろうが、このままヒカルが姿を現さなければ、マスコミにバレるのも時間の問題だった。
7冠達成の華々しいトップニュースがそのまま、7冠棋士失踪という醜聞ニュースになりかねない。
「他に進藤の向かいそうな場所に心当たりはないか?どこでもいい!」
緒方の唯一の心当たりが空振りして、アキラにも心当たりがないか声を若干荒げて問いかける。
「多分、塔矢先生が関係している場所だ」
ヒカルが強く還りたいと望む場所。
険しい表情で思案していたアキラが『あ』と小さく声を出す。
「お父さんのところ?」
「墓か!?夜中の墓場だぞ!?」
咄嗟に緒方は否定してしまった。葬儀のとき、ヒカルは寺にまでついてきていた。行洋が眠る墓は知っている。
しかし悪戯目的か気がおかしい人間でなければ、人の骨が埋葬された夜中の墓地など薄気味悪いだけで絶対に近寄らないだろう。まともな人間であれば、墓参りする時間帯は朝か昼間だ。夕方も極力避ける。
だが、他に心当たりはなく、確かに行洋に関係した場所で今のヒカルはまともではない。料亭の女将にはヒカルから連絡あればこちらにも伝えてほしいと伝言しある。
ならば行くだけ行ってみる価値はあるかもしれないと考え直し、サイドブレーキを引いた。
ヒカルがホテルから失踪したと緒方連絡を受けてから既に2時間以上経っている。電話をしてきた事務員の話を信じるなら、タクシーに飛び乗りヒカルがホテルを出て行ったのは、対局終了直後。そこからタクシーでまっすぐ東京へ向かったのなら、渋滞に捕まらない限りあと2時間前後で着くだろう。
緒方と一緒とはいえ、未成年のアキラを日付が変わる時間まで外を出歩かせてはいけないかと、
「君は一度家に帰った方がいい。明子さんが心配する」
「進藤を見つけるまで帰りません。緒方さんがどうしてもと言うなら、自分ひとりで探します」
案の定な答えに、だろうなとアキラを家に帰らせるのを早々に緒方は諦める。せめて連絡だけは入れておくかと、今夜はもう遅いため緒方の家に泊めるとメールしておく。
これでアキラの方はひとまず問題ないだろう。
塔矢家の墓がある寺にたどり着き、すぐに母屋の方へ行き住職に本人の名前は伏せつつ事情を話す。いきなり夜にやってきた2人に寝るところだった住職も最初は戸惑っていたが、話を一通り済ませると快く承諾し、緒方の車を母屋の前に留めておくよう勧めてくる。
寺の前に車がずっと留まっていては、見回りの警察に不審車両か路上駐車で通報されると心配されては緒方もひたすら頭を下げることしか出来なかった。
本当にヒカルがこの寺に来るかどうか、勝率は限りなく低い。
だが棋院からは、その後ヒカルが見つかったという連絡は何もなく、まだ誰も行方を掴めていないのは明らかだった。その中でいつヒカルがいつ来ても気づけるよう、墓が見える寺の縁側に腰掛ける。
――こんな夜中に自分が墓地を張り込むことになろうとはな
平素の自分には考えられない程、馬鹿なことをしていると緒方は自嘲する。ヒカルが行方不明になろうと、本来なら関係ないことなのだ。家族が探すなり棋院関係者が探すなりすればいい。
同門でもない棋士の自分は家でその連絡を待つだけでよかったのに、こうしていてもたってもいられず車を走らせ、夜中の寺の縁側でタバコをふかして大馬鹿もいいところだ。
風が強くないのがせめてもの救いだったかもしれない。夜に外に出るということでアキラも薄いジャケットを羽織ってきていたが、日付が変わるようならアキラだけでも寺の中で休めるよう鍵は預かっていた。
ヒカルが見つかったという連絡が来ないまま、2人無言で縁側の端から墓場の方を見張り続けて日付が変わった頃だった。
ヒカルが来れば起こすから、そろそろアキラに寺の中で横になるよう言おうとして、寺の門の前に車が止まるブレーキ音を耳が捉え、緒方とアキラが同時に反応し俯きがちだった顔を上げた。
バタンと乱暴にドアを閉める音と、母屋ではなく墓地の方へと全力で駆けてくる足音。人の気配だけでなく、大多数が寝静まる夜中で生活音もほとんど聞こえてこないため、人の走る足音は昼間の数倍大きく響いた。
まさか本当にヒカルはこの墓地に来たのかと緒方とアキラは顔を見合わせる。
身体を柱の陰に隠し、じっと塔矢家の墓がある位置を見張る。その墓の前にやってきた人影。墓地の隅に立っている街灯の薄明りの中、うっすらとその人物の前髪が明るく反射する。
そして夜中の墓場に似つかわしくない明るい声。
「こんばんは。こんな時間に来るとか先生だったら子供は早く帰れって怒るかもしれないけど、今日だけは許してね」
ヒカルの声だった。
「今日の対局見ててくれた?先生との約束果たしたんだよ。俺たち、本因坊になった」
足音だけでもあれほど響いたのだ。人の話し声もハッキリ聞き取れた。
行方が分からなかったヒカルを見つけて安心する気持ちと、本因坊になったことを行洋に報告するくらい明日になるまで待てなかったのか?と呆れ果てた気持ち。
言いたいことは多々あれど、ひとまずヒカルは見つけたと夜空を仰いで、安堵のため息が漏れる。
しかし、『俺たち』と言ったヒカルの一言が流れそうになる寸前で引っ掛かる。
「桑原先生、ほんと強かったよ。先生が前に『簡単には譲ってくれない』って言っての分かった。すっごくしぶといんだ。気を抜いたら一瞬で引きずられそうになる。塔矢先生、どこいるの?もう成仏してこの世にいないの?」
アキラたちに全く気付くことなく、ヒカルは墓石へ語りかけ続ける。
「佐為は見えるのに、どうして先生の姿は見えないんだろう……」
ヒカルの一言にアキラと緒方は同時にギクリとする。
今までもずっと2人はsaiの正体を追ってきた。アキラが確信したヒカルの中にいるもう一人のヒカル。梨川が不用意に近づき過ぎてはいけないと忠告し、桑原が深く考えるなと曖昧にした存在。
ソレがヒカルの先ほどの言葉で、それまでの曖昧で漠然として不明瞭だったものが、より確かな形へと一気に近づく。
――この世?成仏?進藤はお父さんの幽霊を本気で探しているのか?saiは、幽霊?
心の臓が冷える、というのはこの瞬間を言うのかもしれない。場所が夜の墓地だからというわけではない。侵入してはいけない領域に自分が足を踏み入れたかもしれない後悔。
もしかしたらという想像はしたが、実際にヒカルの口から出るのでは大きな差がある。
Saiが何者であるか。
ヒカルを通して自分たちは本当は誰と打っているのか。
盤面を挟み、確かにそこにいるのに姿の見えない対局者は、まさしくネット碁のようだ。
意を決し、縁側からヒカルのいる墓石の方へとアキラが向かうと、その数歩後ろを緒方もついてきた。静かな足取りだったが、地面を踏むジャリという音に、ヒカルは驚いた素振りもなく緩慢に振り返った。
酷い顔だ。
墓地の数少ない街灯の明りの中、薄らと見えるヒカルの顔を見てアキラは思う。
生気のない瞳と薄明りのせいで顔の陰影が増し、死人のような土気色だ。悲観している筈なのに嘆く気力すらなく、アキラたちが姿を現しても反応らしい反応も見せない。
行洋ですら成し遂げられなかった7冠制覇という偉業を達成し一日も経っていないとは到底見えなかった。寧ろ真逆。
ヒカルにはひたすら深い絶望があった。
「満足したか?進藤」
アキラが静かに声をかける。行洋との約束を果たし本因坊を手に入れ、こうして行洋の墓に報告もしたというのに、ヒカルが本当に願ったものは手に入らなかったのだろうと察せられた。
7冠になって周りがどんなに祝福しても、なんと虚しいのだろう。恐らくこのヒカルに、誰のどんな祝福の言葉も何一つ届かない。
「君がプロになって僕と初めて対局した日のことは覚えているか?」
何も答えないヒカルにアキラはゆっくりとした口調で話続ける。
「君と対局しながら、君の一手に何度もsaiの影がチラついた」
「当たり前だろ?オレがsaiなんだから」
「違う。君はsaiじゃなかった」
薄く嘲笑したヒカルを、真向から否定する。するとずっと虚ろだったヒカルが、ピクと微かに反応した。
「もう一度言おう。今度は取り消したりしない。君の中にもう一人君がいる。進藤ヒカルとは別のもう一人。それがsaiだ」
疑問形ではなく確固とした言葉でアキラは断定する。
「塔矢……」
ヒカルも全く驚かなかったわけではない。しかし、視線だけチラと見やった佐為の驚きはそれ以上のようで、眼を見開いたままアキラをじっと見ていた。
ほぼ正解に近い答え。
――塔矢に佐為をほぼ気づかれたな……
元々確証はないまま、アキラは薄々ヒカルの中にいた佐為に気づいていた。それをヒカルがsaiとして表で打つようになって、すっかり忘れてしまっていた。
行洋と共有した秘密『藤原佐為』という存在を、行洋が亡くなってからも秘密にし続けることで変わらず繋がっている気がした。
だが、行洋との約束をヒカルと佐為が果たしても行洋は戻ってきてはくれなかった。
そしてアキラに気づかれてしまった。証拠は何もない。ヒカルが話さない限り『藤原佐為』は誰にも見らはしないし、誰にも知られることもない。
しかし、アキラに確信されてしまった。
そこに、ずっとアキラの後ろで無言だった緒方が、
「俺は正直全部を信じたわけじゃない。元から目に見えないものは信じない主義だ。だが一つだけ聞かせてくれ。後悔はしなかったのか?saiとして打つことに」
ヒカルが質問に答えてくれるかはヒカル次第だ。アキラの話を全て信じるには、どうしても常識が邪魔をする。
それでも自分自身がもう表で打てなくなると分かっていながら、saiを表で打たせることに後悔はなかったのか知りたいと思った。自分なら、他人に打たせて二度と自分として打てなくなるなんて絶対に嫌だ。そして他人が打った碁で得たタイトルなど断固辞退するだろう。
そんな緒方の思考を見透かしたかのように、ヒカルが小さく嘲ったのが肩がくっと揺れたので見て取れた。
「………全然後悔してないって言ったらきっと嘘になるのかなぁ…………。でも料亭で初めて先生と打ったときは怖かった。信じてもらえなかったらどうしようって。けど皆から背を向けるように隠れてであっても先生と打って良かったって今でも思う。先生との約束を果たすためなら、俺の後悔なんて些細なことだ」
今でも正体を隠し続けてネット碁を打っていたヒカルに、後ろ指を指してくる者が一人もいなくなったわけではない。
しかし梨川のように肯定してくれる人も確かにいる。
行洋と密会し隠れて打っていたことは全てが否定されることではなかった。
「囲碁を打つのが楽しくて、楽しくて、たぶん先生の前でだけ何も隠し事してない自分でいられた。父さんや母さん、家族にだって話せなかった」
現に今もヒカルは自分の両親と祖父母、家族の誰にも佐為のことを話していない。
話そうとも思わない。
「俺が誰かに話すことも話さないことも、自分がとやかく言うべきことじゃないって笑ってた。塔矢先生だけは俺を否定しなかった。先生だけがありのままの俺を受け入れてくれた」
拒まれたらどうしようと脅えながら佐為のことを話した時のことを今でもハッキリ思い出せる。後に行洋に『ありがとう』と礼を言われた瞬間はどれだけ救われただろう。
ただし、遠い先ヒカルが死んであの世で行洋と再会できたなら、ヒカルと佐為の判断を行洋は黙って少し苦笑いする気がする。
「否定する?」
アキラの表情が怪訝になる。『だけ』というからには、比較対象が存在することになる。
そんなアキラをヒカルはまっすぐに見やりながら、
「最初に俺を否定したのは塔矢、お前だよ」
「僕が君を否定したと?」
「覚えてないか?中1の囲碁大会でお前は俺を否定した」
中学1年の海王中と葉瀬中の対戦。はじめ佐為が打っていた対局を、途中からヒカルが打った。佐為にアキラと打てと言っておきながら、いざとなると他人の対局に割り込んだヒカル自身が最も悪いのは承知している。
しかし佐為だけを必要とされ、ヒカル自身を否定された気持ちになったのは確かだった。
見返してやりたい相手は佐為しか見ておらず、あの時、いつか自分を振り向かせたいとアキラにだけは決して佐為の存在を話してはいけないと思った。
そのアキラが今頃ヒカルの中にいる佐為に気づいたからと言って、今さらだろう。
しかし、
「君の言う通りだ。僕は君を否定した」
そこまで言ってアキラは一度区切り、ヒカルが訝りながらゆっくり自分の方を見やるのを待ってから、
「だからこそ言おう。僕はまた君と打ちたい。saiではなく進藤ヒカルと対局したい」
「俺と、打ちたい?」
アキラを見やるヒカルの眼差しは猜疑心しかない。
自分を否定した相手が、望み通り佐為と打てるようになったのに、ヒカルとまた打ちたいと望む気の変わり様が理解できなかったのだろう。
「昼の打掛けのとき、君は僕に『いつか話すかもしれない』と言った」
結局、あれからヒカルがsaiであることを明かし、圧倒的な実力で打つようになってから一度もそういった話をヒカルにされたことはない。
「だが君は恐らく話さないだろう。多分もう死ぬまで話してはくれない気がする。でも、それでもいい。僕は君を否定しないと決めた。進藤ヒカルもsaiも君自身だ。そうなんだろう?」
ヒカルを取ればsaiを否定することになる。反対にsaiを取ればまたヒカルを否定することになる。そうではない。
行洋がどうしてこんなにもヒカルから信頼をされたのか。理由は至極簡単なことだったのだ。
一方だけを見るのではなく二人を否定しなかったからだ。行洋は2人を別々に見ながらも同時にかけがえのない一つだと受け入れた。
「お父さんがsaiを隠そうとしたことは確かだ。でも、そうまでして本当に守りたかったのは君とsaiだよ。お父さんは『進藤ヒカル』と『sai』という2人の棋士を守るために、ネットのsaiを隠したんだ」
ヒカルがsaiを現実に打たせたせれば、今の現状がそうだ。saiがどんなに打とうとも名声は進藤ヒカルに向けられ、後世へもsaiではなくヒカルの名前しか残らない。ネット碁に隠れたままであれば、正体不明の棋士ではあるがsaiはsaiとしていられ続けた。
対してヒカル自身も自分が打った碁ではないのに、saiの栄光に塗りつぶされ表で打つことは不可能になってしまった。
もうアキラの憶測でしかないが、そうなるのを行洋はどうにかして防ぎたかったのではないだろうか。ヒカルをヒカルとして、saiをsaiとして、2人の棋士を守ろうとして『ネットのsai』を隠した。
ヒカルに本当に必要だったのは、2人の否定でも、片方への否定でもない。両方への肯定なのだ。
saiを表で打たせ、7冠にまでなってしまった現状を考えれば、ヒカルが再び表に出て打つことはそれこそプロを引退しない限り、不可能だろう。
しかし、そんな現状でも打つ環境にこだわりさえしなければ、全く個別に打つ方法がないわけではないとアキラは考える。
ネット碁がある。ヒカルはネット碁で『light』として正体を隠し打ち、これからも碁を打ち続けることが出来る。
――僕は人間だ。欲を出せば際限がない。でも、どう変えることも出来ない過去ばかりを見ていては、何も変わらないんだ。前を見なければ。ありのままを受け入れて、そこからもっとも最善な道を探さなければ誰も前に進めない
「………」
ヒカルの眼差しから、それまで道満ちていた猜疑心の色が消えていく。初めて佐為のことを話した時から、行洋も佐為の存在は内密にした方がいいとヒカルの考えに賛同してくれた。
けれども、それはまだ囲碁を覚えて間もなかったヒカルを守るためだとばかり思っていた。
「だから見せてくれ。話せないから見せることしか出来ないと君が言ったように。僕たちにこれからも『君たち』を見せ続けてくれ」
ヒカルの瞳がゆっくりと閉ざされていく。
――塔矢が俺を否定したみたいに、俺も気づかないうちに佐為を否定していたのか……。なんだよ、人のこと言えた立場じゃねぇじゃん………。
行洋との約束を果たすために佐為を表で打たせた結果、ヒカルが表で打てなくなったように、それまで佐為が佐為として打てていたのを殺してしまっていたのだと、アキラに言われてようやく気づかされる。
それだけでなくアキラは『君たち』と言った。アキラはヒカルと佐為の両方が碁を打ち続けるのを望んでくれている。
行洋のように。
―――盤上に打たれる佐為の一手を1人でも多くの人に見せ続ける……。佐為と打った対局棋譜を残した塔矢先生のように…………。
行洋との約束を果たし、だが行洋の姿は見えず、もう何も繋がりが無くなってしまったような空白しかなかったヒカルの心に小さな光が灯る。
フイとヒカルは横を振り向く。
そこには誰もいない空間だけである。アキラはもちろん緒方にも何も見えない、何も聞こえない。
だが、きっとヒカルにはそこにsaiの姿が見えているのだろう。
「俺が打つことになるけど、これからも俺として打ち続けてくれるか?」
――もちろんです……当たり前じゃないですか。ずっと、ずっと打ち続けます。ヒカルと一緒に、私は打ち続けます……
微笑む佐為の目じりに薄らと涙がにじむ。
「うん……ありがとう………」
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エピローグ (完)
青々とした芝生は綺麗に刈られ、見事な枝ぶりの松や、秋には燃えるような紅に染まってくれるだろう紅葉が植えられている日本庭。青い空には薄い雲が流れ、風にサワサワと擦れる木の葉ずれの音も耳に心地良い。
住宅街にある料亭はヒカルがいつ来ても東京のど真ん中にいるとは思えないほど、静けさに満たされていた。
「取り戻したな、本因坊」
――はい
「他のタイトルは別にいいけど、それだけは絶対誰にも渡すなよ」
――もちろん。誰にも渡す気はありません
本因坊を取ると自分たちに約束してくれた人はもうこの世にはいないけれど。
今はヒカルが手にしている扇子を手に持ち、毅然とした強い眼差しで佐為と対局することは叶わないけれど。
この料亭で会って対局したのが、全ての始まりだったように思う。
そこに
「ヒカル君、梨川先生がお見えになられましたよ」
後ろからかけられた声にヒカルが振り返れば、店の女将に案内されて来たのだろう梨川の姿があった。被っていた帽子を取り、小さく会釈した梨川にヒカルもそっと会釈する。
この店に誘ったのはヒカルだったが、既にこの店のことを梨川は知っていて何度か来たことがあったらしい。
「この店で塔矢先生と打っていたとは、確かに秘密を隠すには最適な店だ」
昔馴染みの客の紹介でしか客を取らない料亭。今時客を選ぶ料亭はそれこそ珍しい。だが、店に紹介する相手は逆に自分の信頼が掛かっており、本当に信頼のおける人物しか紹介しない。それが積み重なって、逆に客と店双方の信頼で成り立つ、貴重な店になりえた。
人の目を逃れ、人外のモノと碁を打つには打ってつけの場所だ。まだ何も知らなかった筈の行洋がこの店にヒカルを招きいれたのは、やはり運命が働いたように梨川には感じられた。
「庭の感じとか梨川先生の家の庭と似てるでしょ?ほら、あの奥の紅葉とか」
無邪気にヒカルが指さす紅葉を見て、
「いい枝振りの紅葉だ。秋になればさぞ紅葉が美しかろう」
紅葉は樹木の中でも幹が太くなりやすいとは言えない部類の木だが、この店に植えられている紅葉の幹は太くがっしりとしており、四方に大きく伸びてしな垂れている枝を、添木無しで支えている。
紅葉したところを梨川は見たことはなかったが、想像するだけでも素晴らしい色づきを見せてくれる気がした。
そんな梨川の感想が嬉しかったのか、ヒカルははにかんだように小さく笑ってから、無言のまま手に持っていた扇子を開いていく。
――人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり――
一年ぶりかにヒカルが舞う。
歌い手はおらず、堤の音もない。
開かれた扇子を手に、ヒカルの腕が空を薙ぎ、地を踏み、失われた筈の舞型を蘇らせていく。
「久しぶりだと全然ダメだな。ほとんど忘れてる」
「そんなことはない。いい舞だったよ」
パチパチと手を叩く梨川に、一通り舞い終えたヒカルが、ハハハと恥ずかしそうに扇子を閉じた。すぐ傍で佐為も同じように舞うのを見ながら舞ってみたが、忘れているところだらけだった。梨川以外誰も見ていないからと、なんとなくな気分で舞ってみたが間違いだらけの舞になってしまった。
「結局話さなかったのだね」
パチパチと叩いていた手をゆるりと止めた梨川が、誰にともなく話し始める。
誰に、何を、結局、話さなかったのか。
問うた梨川の真意をすぐに察して、ヒカルはチラリと佐為を見やる。もちろんヒカルは梨川に何も話してはいない。佐為のことを話したのは、行洋ただ一人である。
だが梨川は佐為の姿に気づいて、気づいていながら気づかないフリをしてくれている。
だから、先ほどの問いも『何が』が抜けていた。
「1人でいいんです。知っているのは。それに俺の存在に気づいてくれただけで十分です」
佐為を表で打たせるかわりに、ネット碁でしか打てなくなった自分(ヒカル)の存在に、アキラと緒方の2人だけは気づいてくれた。それ以上を望むのは欲張り過ぎだ。藤原佐為を知っているのは行洋一人だけでいい。
「君がそう決めたのなら私はもうこの先何も言うまい」
「俺の知らないところで、何かしたんですか?」
「結局は年寄の冷や水だよ。散々皆に分を弁えろと口酸っぱく言っておきながら、いざ自分となるとつい余計なことをしてしまった」
ヒカルの影の存在に気づきつつ見知らぬ振りを決めていた筈なのに、いざアキラと向き合った時、ヒカルがネット碁をしていることを話してしまっていた。あの時はヒカルの為を思っての判断だと考えていたが、今になって振りかえってみると人外の存在近くにある歓びに釘を刺した自分こそが我を律しきれていなかった気がする。
「……今の俺は、話す気はないんです。誰にも。ずっと誰にも話さないってそう決めてました」
黙って梨川の話を聞いていたヒカルがぽつりと零す。
行洋と打つようになって、そして行洋が亡くなってからはそれに増して、誰にも話してはいけないと頑なに思いこんでいた。
それは独り言に近いくらい、小さな声だった。
「でも、最近になって、この先もしかしたら……と思わなくもないんです。矛盾は分かってます。話す気はないけど、でも、………これから先、遠い未来でいつか自然に話せる日がくればいいなと思うようになりました」
たどたどしい声でそこまで言ってから伏せていた顔を上げたヒカルは、無理して作ろうとした笑顔が少し失敗して、梨川には泣き顔のようにも見えた。
■ IF GOD - 神は斜陽に打ち震える - エピローグ(完)
子供囲碁大会のイベント。
全国から予選を勝ち抜いてきた12歳以下の少年少女小学生が全国1位を決める大会。場所は東京の日本棋院で地方から来る参加者であれば、当然保護者もついてくる。会場の脇に並べられた椅子はほとんど満席で、会場の各席で真剣な眼差しで碁を打つわが子を見守っていた。
子供たち真剣に石を打つ音と、それを見まわる関係者の足音、碁を打つ邪魔にならないよう僅かな小声だけが室内に響く。
そして子供大会の優勝者が決まる子供大会で会場が日本棋院ともなれば、棋院事務員だけでなくプロ棋士たちも多く補助として参加していた。
大 会会場を出て、違う部屋に移動すれば指導碁の席が用意され、対局に負けて時間が余った子供だけでなくイベントを見に来た大人も打つことが出来る。地方から やってきた出場者であれば、テレビやインターネット以外で直接プロ棋士を見たり言葉を交わすのは、それだけでいい刺激になる。
今年の大会で司会アシスタントを務めているのは伊角。そしてメイン司会は緒方が務めていた。
対局中であれば、対局の様子を見まわる以外に司会アシスタントの仕事はない。
自分もこんな時期があったと懐かしく思い出しながら見回っていたところで、トントンと腕を叩かれ振り返る。
「ちわ」
「し、んッ!?」
咄嗟に名前を呼ぼうとした口を、伊角は手のひらで塞ぎとどまった。直後周囲に気づかれなかったか見渡し、誰にも気づかれなかったことに思わずほっと溜息が漏れた。
麻のニット帽に黒縁のメガネ、そしてTシャツにチェックシャツを羽織ったラフな格好。
今日の大会に出演予定のなかったヒカルが来ていると周囲にバレたら、途端に騒ぎになって大会どころではなくなる。
バレないうちにと無言手招きして、会場脇の関係者席へヒカルを連れて行く。幸いにも子供たちは目の前の碁盤に集中しているし、保護者もその子供を見守るのに必死だ。関係者席に引き入れてしまえば、早々ばれるということはないだろう。
関係者席に連れて行くと、伊角の後ろからやってくるヒカルの姿に事務員や他のプロ棋士たちもすぐに気が付き、伊角と同じようにあっと驚きつつも騒ぎを起こさないよう平静を装い、ヒカルを席の奥へと引き入れる。
「子供囲碁大会に出演する予定はなかっただろ?いきなり来るとかこっちが驚いた」
「ちょっと寄ったら子供囲碁大会やってるっていうから覗きにきた」
「寄ってみたじゃない。全く。こっちの心臓が止まるかと思ったぞ」
「ははは」
ヒカルは軽く笑って、伊角の机に置いてありまだ使っていない紙コップ一つだして、途中で買ってきたのだろうペットボトルのコーラを注ぎ、目の前ではなく隣に置く。
出演予定の無かった7冠棋士が連絡なく会場に来るというのは十分過ぎる程に大事だ。
既に対局過多であるヒカルの負担を減らすためにイベントは本人と相談の上でスケジュール調整されているとはいえ、事務院たちの胃を常にキリキリさせる悩みの種である。
なにせヒカルには本因坊戦対局後、記者会見ドタキャン&ホテル脱走という真新しい前科がある。
そ れまでのストレスやプレッシャーから解放されて無我夢中で覚えていないとヒカルは曖昧に誤魔化したが、ヒカルを東京まで送ったらしいタクシー運転手から 『真っ青に青ざめて今にも自殺しそうだった』と連絡を受けていた事務員関係者は、ヒカルを保護したと緒方から知らせを受けるまで生きた心地がしなかった。
今回の子供囲碁大会も、本来ならタイトルホルダーが一人参加する予定だったのだが、中国で行われる天元戦直前のヒカルは、移動などの疲労も考慮に入れて、負担を減らすために出演を除外されていた。
「俺はそろそろ2回戦の対局が終わり始めてるから司会戻るけど、あまり騒ぎは起こさないでくれよ」
子供たちが真剣に打っている大会だ。ヒカルが来ていると知れば皆喜ぶだろうが、それで集中力を切れさせたくはない。
「司会?伊角さんが?」
「俺はアシスタント。メインは緒方先生だ」
ほらと檀上に首を振ると、緒方が薄い冊子に視線を落とし、次の司会進行のスケジュールを確認している。
「どうしたんだ?君は今日出演の予定はなかっただろう?」
伊角と入れ替わるようにして、各対局席を見回っていたアキラが関係者席に戻ってくる。
「んー、ちょっと。用事あって、って何だよじろじろ見やがって」
「……それはまさかとは思うが、変装のつもりか?」
「コレか?7冠祝いに院生一緒だった皆からもらった」
怪訝な眼差しで見てくるアキラに似合わないかな?とキャップを目深に被りなおす。自分でこういうものを買うタイミングがなかなかな無く、めんどくさがりなヒカルの性格を見越して和谷たちは7冠祝いでくれたのだろう。
帽子とメガネくらいでどれくらい変化があるものか疑っていたヒカルだったが、こうして公共の場ではない子供囲碁大会の場であっても、帽子とメガネを被っているだけで気づかれることなく関係者席に潜り込めた。
全くしないよりは、それなりに効果はあるのだろう。
「君はこういう子供囲碁大会に出場したことはないんだろう?」
「ないよ。ないけど一回だけ見に行ったら、つい対局中に口挟んで、怒られて終わった。帰り道にお前に捕まって碁会所連れて行かれたやつだよ」
「あれか。君らしい」
強引に駅前の碁会所に連れて行って、佐為が一刀両断した対局である。アキラもすぐに思い出して納得して頷く。
市河にパンフを渡されたらしいヒカルが、大会が終わる時間でもないのに駅前に戻ってきたところをアキラが捕まえた。あの頃のヒカルは碁の強さは別として、ルールなどは基本的な部分が本当に疎かった。
軽いはずみで口を挟んでもおかしくない。
「用事は事務所に?」
「それもある。飛行機のチケット受け取りと、それとは別でパスポート受け取りと、必要なもん買い出し」
「ああ、そういえば君は今週末から天元戦にでるんだったか」
「そ、明日から中国」
「随分早く行くんだな。天元戦は金曜からだろう?対局前に観光でもするつもりか?」
別に対局前をどう過ごそうとその棋士の自由である。今日が日曜で明日から行くとなれば天元戦までに3日も余裕がある。しかし飛行機に乗って移動するだけでも体力を使うのに観光までとなると肝心の対局に支障が出ないか、アキラの目に避難の色がにじむ。
それを『相変わらず真面目過ぎだなぁ』と内心思いつつ、ヒカルはすぐに否定した。
「時間あればちょっと観光できればとは思うけど別用。伊角さんが向こうで世話になったっぽい中国の楊海8段って人と打とうって話になってて、ちょっと早めに行くことにしたんだ。あと他にも中国のプロの人といろいろ打ってみたい」
前から伊角から中国武者修行で世話になった人がいると聞いていたのと、滅多に中国に行く機会もないので、他国の棋士と打てるのはチャンスである。
しかも相手は日本語が非常に流暢で通訳の心配もないというのだ。
だが、アキラは別の部分で反応する。
「楊海?それって君がネット碁で対局した中国棋士の名前じゃないか」
「塔矢よく知ってんな~。俺だって言われなきゃ思い出せなかったのに」
実際にネット碁を打ったのが佐為だった所為もあるだろう。伊角に楊海を紹介された時も、ヒカルより先に佐為が反応した。
それですでに一度対局したことがある相手ならばと、天元戦前の対局を了承し、事務所に当初の予定より早い日程で飛行機のチケットを手配し直してもらったのである。
子供大会2回戦の対局が全て終了し、整地した地の数を各スタッフが確認し勝敗の結果を記録していく様子を、ヒカルはぼうっと見やりつつ、
「塔矢は今、どっか研究会参加してるのか?」
「研究会なら芹澤先生のところと、若手棋士で集まってるくらいかな。君が参加しているのは森下先生のところだけだったか。自分で研究会を開いたりはしないのか?」
「研究会したいなとは思うけど、する場所がなぁ。棋院で部屋借りようかと思ったら緒方さんに騒ぎになるから止めろ言われたし」
自分の狭い部屋は論外。
今の収入があれば和谷のように一人暮らしして少し広い部屋を借りれなくもないが、そうなると家事炊事が億劫に思えてくる。
「場所がないなら、ウチでするか?部屋なら余ってる」
「えー?塔矢んち?」
アキラの誘いに、ヒカルは当人の前であろうと隠すことなく口をへ字にして難色を示す。いくら場所がないからと、自分が開く研究会で他人の家を使うのは避けたい。
しかし、コーラをヒカルが一口飲んだところで、アキラの提案に態度を一変させた。
「お父さんがよく並べていた棋譜集とか詰碁の本も部屋にたくさん残って」
「いく」
――行きます!ぜひ読みたいです!
ヒカルと隣で話を聞いていた佐為が同時にアキラを振り返り、途端に話に乗り気になる。
「やる。研究会。する」
――しましょう!研究会!!是非とも!
真剣な眼差しを向けてくるヒカルにアキラは心の中でそっとため息をついた。
自分から提案したことではあるが、ヒカルの態度の変わり様を冷ややかな眼差しでアキラは見つつ、
「君の扱い方がなんとなく掴めた気がして喜ぶべきなんだろうが、無性に腹が立つ」
最初は全く乗り気でなかったくせに、行洋の名前を出したとたんこの態度の変わり様だ。最早呆れるしかできない。
そこに、
「オラ、そこの関係者席。俺が壇上で喋ってんのに私語とはいい度胸だ」
檀上で3回戦の組み合わせと場所を指示していた緒方が、不機嫌交じりの低い声で突如矛先を関係者席へと向けたせいで、会場に集まっている子供たちと保護者たちの視線が一斉に向けられた。
「第一それで変装したつもりなら、アキラくんと関係者席で堂々喋ってるんじゃない。バレバレなんだよ、進藤」
「げ」
しかもせっかくバレていなかったのに、思いっきり堂々とバラされる。
途端に大歓声があがって、咄嗟にヒカルは両耳を押さえた。関係者席から遠い位置に座っていた子供などは立ち上がって生の7冠棋士を見ようと身を乗り出す。
アシスタントとして隣に立っていた伊角の顔色は真っ青だ。自分の配慮が全くの徒労に終わってしまったのだから。
「ということでせっかく来ていることですし急きょではありますが、本日の子供囲碁大会で勝ち上がった上位4名に進藤7冠と対局してもらいましょうか」
緒方のこの予定外の一言に、上がる歓声の多くは子供たちによる歓喜の声だ。16歳という歳で7大タイトルを制覇した天才棋士を一目だけでも見られたらと淡い期待を抱いていたのが、まさか対局まで適うとなれば喜ばない筈がない。
既に対局に負けた子供も、すぐそこに日本で最も強い棋士がそこにいるというだけで目を輝かせはしゃいでいる。
ここでヒカルが断っては、せっかく喜んだ子供たちを落胆させてしまうことになるのは明白であり、元を正せば緒方がバラさなくても、ヒカルの下手な変装がばれればその時点で騒ぎになっていた。
それが嫌なら最初から子供大会の会場に顔を出さなければよかったのに、ふらっと興味本位で顔を出してしまったヒカルの自業自得だ。
子供たちのキラキラとした羨望の眼差しと、対局を期待する期待が一心にヒカルへと注がれる。
バレてしまったのなら仕方ない。
――子供4人と指導碁だって。いい?
――もちろん私は構いません
佐為に確認を取りまわりを見渡すも近くにマイクはない。代わりに両腕を上にあげて丸を作り、ヒカルが関係者席から対局了承をジェスチャーで表すと、2度目の歓声があがる。
子供大会で1位になるだけでなく、次の対局に勝てば4位内が確定する。そうすれば憧れの天才棋士と対局することが出来るのだ。
それまで以上の意気込みと真剣さで出場者たちは対局開始まであと少し時間があるのに、盤面をさっそく睨んでいる。
ヒカルとの指導碁はアクシデントではあったが、より子供たちの集中力を高める方向に行ってくれたらしい。
「子供相手の対局なら少しくらいいいだろう。普段あんまりイベント出てないんだから少し付き合え」
司会進行をアシスタントの伊角にバトンタッチして、檀上から脇の関係者席へと、緒方が降りてくる。
予定外ではあるが子供4人と指導碁を打つことはそこまで負担ではなし、全然かまわない。
構わないのだが、どうにもやられっ放しというのは何か性に合わない。
「進藤くん、このコーラどうするんだい?自分でコップについでおきながら自分はペットボトルの方を飲んでこっちは一口も飲んでないだろう?なんのために隣に置いて」
後ろで見ていたスタッフが、自分でコップに注いでおきながら、自分で飲むわけでも誰かに分けるわけでもないコーラを不審思ったらしいスタッフが問いかける。
誰も飲まないのなら、コップに入っただけのコーラは放置していても誰がぶつかって零してしまうか分からない。さっさと片付けておきたいのだろう。
アキラと緒方の2人だけは何故ヒカルが自分で飲みもしないコーラを隣に置いたのか理由を薄々察する。恐らくヒカルにしか見えないsaiのためだ。
結局ヒカルはsaiの正体を話すことは無かった。無理にsaiの正体を話させようと言う気はもう2人とも全くない。そこは人が不用意に踏み込んではならず、明確にせず曖昧のままであるべき場所なのだ。何しろヒカルにしか見えない存在なのだから。
恐らくそこにいるのだろうと漠然と考えるしかないかった。
世界中の碁を打つ棋士達を魅了し、行洋が神の一手を求めた存在が、何も見えないヒカルの隣にいる。
故に、特にコップのコーラについてアキラと緒方が不審に思うことは無かったのだが、何も知らない者であればヒカルの行動は不可解でしかないだろう。そして今回も適当にヒカルは誤魔化すだろうと考えていた。
「何のため?」
問われて、一瞬ヒカルはきょとんとした顔で反芻し、次いで静かな笑みを湛えた。
一度深く閉ざされた瞼が薄く開き、口角が僅かに上がった口元、満足そうな微笑み。
そして、見逃してしまいそうなほど刹那に過る闇。
「そんなの、『本因坊秀策』のために決まってる」
ゾワ、と。底冷えた何かが緒方とアキラ、2人の背筋を一気に駆けた。空調の効いた室内でスーツもきっちり着込んでいる。寒くて冷えているなんてことはない。
なのに、体中の毛という毛が逆立ち、急に血の気が下がっていく気配、そして心臓の脈の音が耳傍近くに聞こえる。
「本因坊秀策って、江戸時代のかい?」
「そう」
「江戸時代の棋士のために、コーラを?」
「うん」
コーラを片付けようとしたスタッフが満面の笑みで答えるヒカルに、何事もなかったかのように笑って会話を続ける。突拍子もなく出てきた江戸時代の棋士の名前に驚くが、ヒカルが冗談を言って自分はからかわれたのだと思ったのだろう。
しかし仮に冗談だとしても、現代にまで名を残す棋聖の名前を出されては、その人物のために出された飲み物を下げるわけにはいかない。ヒカルはコーラが注がれたコップを、誰も飲まないとしても下げられたくはないのだと、冗談の意図を察し、『分かったよ』とだけ言って、スタッフはそれ以上コップについて言うことなく離れていく。
そうして誰も、何も気づかない。
ヒカルの傍に在るのだろう何かに。
目に見えない何かは、そうしてごく自然に現実に溶け込んでいく。
だが、ヒカルと共にあるsaiの正体が『本因坊秀策』なのかと、行洋の墓の前でも決して話さなかった真実を不意打ちのように知らされた心地だった。
あまりにもごく自然な会話で、ヒカルの真意は分からない。他愛ない会話の一端に過ぎないと自らに言い聞かせながら、緒方とアキラは目を合わせ、自分たちが同じことを考えているのだと察する。
「2人とも、そんな幽霊でも見たような顔してどうかした?」
急に真顔になった2人にヒカルが声をかける。そこに先ほど一瞬過った影はどこにも見当たらない。見慣れたヒカルだ。
しかし、確かに自分たちは近づき過ぎてはならない何かの鱗片を垣間見たのかもしれないのだ。
「まさか、さっきの本気で考えたとか?」
ニヤリとヒカルが人を食ったように笑み、そこでようやくアキラはハッと目を見開いた。
(わざとだ!進藤にからかわれたのはさっきのスタッフじゃない!僕たちこそがからかわれたんだ!)
それも心底性質の悪い悪戯で。
ついさっき下がった血の気が、今度は一気に頭に血が上る。
しかしアキラが口を開くより、同じく自分がヒカルにからかわれたのだと悟った緒方の怒号が響くのが早かった。
「進藤ぉぉぉっ!」
「ごっめーん」
緒方の堪忍袋の尾が切れる音を聞くや、ヒカルは素早く両手を顔の前で合わせてその場しのぎな詫びを入れつつ、机を飛び越え逃げ会場脇を走り逃げる。
その後ろから、同じく机を飛び越えた緒方が猛然と追い駆けだした。
「こんのっ、クソガキがぁあああ!!!」
「緒方先生!?進藤本因坊!?」
司 会進行をバトンタッチされていた伊角が何事かと止めようとしても、全速力で会場から走り飛び出していく2人を止めることは不可能である。しかも、子供たちも追いかけっこを始めたヒカルと緒方に気を取られ、ざわついたこの会場をどう収めるかは司会進行をしている自分にかかっていると言っていい。
戸惑いながら他の事務員たちやプロ棋士たちがヒカルたちのあとを追いかけ始めたが、
――俺にどうしろって言うんだこの場を!?
兎に角、会場内の雰囲気を少しでも落ち着かせるために、強引にでも話を別方向にもっていくしかない。
「えー、 囲碁とはずっと碁盤に向かって石を打つゲームですが、頭を使い非常に体力を消耗します。碁の勉強をするのはもちろん大丈夫ですが、体力もしっかりつけておきましょう。次の予定対局開始時間まであと少しですし、せっかくですから進藤本因坊を院生時代から見ていらっしゃった森下先生に当時の様子など聞いてみま しょうか」
長年子供囲碁大会に参加し、育成に携わってきた森下ならこの場を助けてくれるだろうと藁をも縋る気持ちで伊角は話を振ったのだが、
「進藤か?様子も何も今と何も変わっとらんぞ。昔も何か悪さして棋院の中で緒方君に追いかけまわされてあげくに行洋ん背中隠れて、今と何も成長しとらんな」
涼しげな表情でパタパタと扇子を仰ぎながら、同じような光景を以前も見たなと森下は思い出す。森下が偶然出くわした時には、すでにヒカルは行洋の背中にべったり張り付いていたが。後で聞けば原因はヒカルの子供っぽい悪戯だからと、あの行洋が苦笑して気にするなというのだから森下も呆れたものだ。
目上の緒方をからかえるヒカルの悪ガキ根性も、冷静と見えて実は熱くなりやすい性格の緒方にも、そして数年経とうと2人は全く変わっていない。
それでも本因坊をヒカルが取る間際の、何かに取り憑かれたような影が少し潜めただけマシかもしれない。時折ヒカルが垣間見せる影が全く消えることはこの先もないのかもしれないが、今はそれで良しと受け止めておくべきだろう。
「まぁ、決勝が終わるまでには2人とも戻ってくるだろ、放っておけ」
さすがにそこはプロだ。自分たちの騒ぎが聞こえるような大会会場の近くで追いかけっこはしないだろうし、仕事の出番までには帰ってくるだろうと森下は話を終らせたのだが、どうにか会場内の雰囲気を落ち着かせたいと助けを求めた伊角としては全く助けてもらえず、もうどうしようもないと諦める他ない。
「以上、進藤本因坊の懐かし思い出でした。では予定時間となりましたので、対局に戻りましょう。対局を初めてください……。」
マイクを握りしめ、弱弱しい口調で伊角は3回戦の対局開始を告げるのだ。
その後、3回戦の対局が終わった直後に、拳骨が落ちたのだろう頭を押さえたヒカルと、ジャケットを脇に持ち不機嫌な顔の緒方が会場に戻ってくるのである。
消化不十分な点も多々ありますが、一応これで斜陽は完結となります。
また、あと1話だけどこに入れるか迷った番外が続きます;;;
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番外 - White -
勝負師たるもの苦手意識を持つのは良くないと頭では分かっている。が、人間であればどうしても苦手なモノの一つや二つあるもので。
緒方精次の場合、どうしても克服できない苦手なものが三つあった。
一つ目は現本因坊の桑原。理由は人間ではないから。
二つ目は猫。毛がつくから。
そして三つめは倉田厚。周りを巻き込み、手がかかるから。
この内、一つでも憂鬱になるというのに、3つも重なったとなれば一日の運命は決まったも同然だろう。
―ガチャン!!
陶器系の何かが落ちて割れる音に緒方は振り返る。直前振り返りざま、肘に何かぶつかった感触がしたのは、もしかしなくても自分が触れてそれは落下したのだろうか。
床に落ちている湯呑だったのだろう破片に、
「………湯呑?誰だこんなところに湯呑なんか置いてる馬鹿は」
場所は棋院のロビー受付である。真っ先に職員の誰かが休憩中に飲んでいたMY湯呑をそのまま受付に置き忘れたのだろうかと考えた。
確かにぶつかって割ってしまったのは悪いが、元々そんなところに湯呑を放置している方が悪い、というのが緒方の言い分である。
しかし、受付をしていた事務員2人が床で真っ二つに割れた白い湯呑の残骸を見下ろしながら急に顔を青ざめた。
「これってもしかして、桑原先生が愛用してる……」
「本因坊戦の副賞で贈られたやつじゃ……」
関わりたくない嫌な単語が聞こえて、緒方はその場をどう言い逃れるのが最善か思案する途中で、持ち主が部屋の奥から出てくる。
「馬鹿とは儂のことか?」
――ちっ、ジジイの湯呑だったのか、めんどうな
本人が出てきて、本格的に面倒になってきたと顔に出さず内心思う。持ち主も面倒だか、どうやら壊してしまった物の由来も面倒な二重苦。桑原が棋院に入り浸るのは有名だが、まさか愛用の湯呑まで棋院に置いているとは知らなかった。
「申し訳ありません。まさか、こんなところに桑原先生の湯呑が置いてあるとは知らず」
言外に緒方は『こんなところに湯呑なんか置いてる方が悪い』と遠回しに言ったのだが、言った相手は普段から妖怪だの狸だの揶揄される老人である。遠回しな非難が通じる筈もなく、
「(本因坊の)副賞で貰って気に入って使っておった湯呑だが、物はいつか壊れるものよ。永遠に壊れぬものは存在せん。存在せんが『初めて本因坊を取った』時の思い入れのあるものが割れるのは、寂しいものよのぉ~」
職員たちの前でわざと侘しそうな口調で嫌味3倍返しで緒方に返ってくる。
――早々に割った湯呑に見合うものを用意しなければ、このジジイ、俺が割ったことをしつこく寝に持つな
根に持つだけならまだいいが、桑原の性格を考えると何気ない会話の中でぼそっと愛用の湯呑が割れてしまったことを話すだろう。相手は当然、残念だったと慰め、その過程で割った相手が緒方であることをそれとなく吹き込む。
もちろん桑原は緒方に悪気はなかったと庇うだろうが、庇うことで余計に桑原の心象は上がり緒方は下がる。
そこまでを1秒足らずで予測した緒方は
「そんなに(老い先短い老人の)思い入れのあった湯呑とだったとは、『知らなかったとはいえ』失礼しました」
もちろん緒方の顔は笑顔だが、全く笑っていない。
「全く同じ湯呑はご用意できませんが、是非代わりのものをご用意させてください」
これでいいだろう?と申し出れば、顎を撫でもったいぶりながら桑原は『緒方くんがそこまで言うならの』とさっきまでのワザとぶった侘しさを微塵も感じさせない素っ気なさでスタスタと部屋へと戻っていく。
床で割れたままの湯呑には見向きもしない。本当に思い入れがあったのかどうかさえ、緒方には疑わしく思える。
「緒方先生……」
不安げな眼差しを向けてくる職員に、
「すまないがこれを片付けてもらえるだろうか?」
「それは全く構いませんが」
「いや、気にしないでくれ。何があるにしろ、俺がぶつかって湯呑が落ちて割れたのは紛れもない事実だ」
2割程度、割ってしまったものはどうしようもないと投げやり気味に断る。苛立ちはあるが、後は少しでも早く代用品を見つけて桑原に渡してしまえばそれで終わりだ。棋院での用事は終わっているため、後は帰るだけだがその帰りにどこか店に寄って代用品を見繕えばいい。
予定外の用事(それも全く乗り気ではない)が出来てしまったと内心愚痴りながら、駐車場に止めてある愛車に緒方は乗り込んだ。
代用品を買うのに選択肢は2つあった。一つ目は無難なデパート。有名デパートであれば偽ブランドにも厳しく一定の安心感がある。そして贈る相手の年齢と予算を伝えれば、担当の店員が品を見繕ってくれる安全牌と言ったところだろう。
――だが、デパートだと袋でバレるか
深く考え過ぎな気はするが、どうにも桑原相手だと裏や先の先まで考えてしまう。
――見てみるだけ見てみるか
それでいい品が見つかればラッキー。それで特に何も見つからなければ、若干懸念はあれどやはり無難なデパートで代用品を購入しよう。
性格ひねくれた桑原ではあるが、少々難癖つけられても、お詫びとしてちゃんと贈った品物を突き返すことはしない筈である。
「さて、来たもののオレは湯呑とか皿とかさっぱりだが」
近場の骨董屋で検索し、カーナビが案内してくれた店の前に立ち、ショーケースに並べられた皿や壺を眺めたところで知識も興味もない分野に全くピンとくるものはない。
少し見てみるだけ見てみるかと立ち寄ってみたものの、見たところでどうにもならないか?と緒方は心内で思う。
そこに、何かが足に擦りよる感触に下を見下ろすと、
「猫?ずいぶん人に慣れてるな」
真っ白な毛並みの猫が緒方の足に顔を擦り寄せ、長い尻尾を絡ませてくる。
首輪をしているからには誰かが飼っている猫なのだろうが、元来警戒心が強い猫が全く見ず知らずの人間にここまで懐くのは珍しい。緒方自身、決して猫好きというわけではない。寧ろ苦手な部類で自ら近寄ろうと思わず、記憶の中でも猫にこれほど懐かれたことはないのだが、
「どこの猫だ?その前に俺のスーツにすり寄るな、毛がつく」
軽く猫を足で払い、あっちへ行けと追い払う。しかし追い払おうとしてもまた白猫はまた足に絡みつく。
このままでは店に入ることもできないと鬱陶しく思っていたところに、
「緒方先生!!捕まえて!!」
見知った声に突然名前を呼ばれ、つい反射的に緒方は足に絡んでいる猫を抱き上げた。
「ありがと助かったー、動物病院脱走してずっと探しててさ」
はぁはぁと息を切らせて走り寄ってくるのはニット帽に黒縁メガネをかけたヒカルだ。右手には猫を入れていたのだろうペット用の籠を持っている。
そして肝心の猫は両脇に手を差し入れられ、だらりとした情けない格好で暴れることもなく抱きかかえられている。
「お前の猫か」
「そ。虎次郎」
聞いた瞬間、今時聞かない古臭い名前の猫だと思う。それも虎には全く似ていない白い猫だというのに。
そんな緒方の内心に気づくことなく抱きかかえられた猫を受け取り、逃げないうちにと籠の中に入れて鍵をかける。
そして
「緒方先生は何してんの?この店?」
緒方が眺めていたショウウィンドウをヒカルも覗く。当然ながらヒカルもウィンドウに並べられた皿や壺には、描かれた模様が綺麗だなと思う程度で全く興味はない。その骨董店の前でばったり出会い、緒方がこういった類に関心があるのか?と意外に思う。
「用事というほどではないんだが……」
見られて悪いことはないのだが、気まずいところを見られてしまったと緒方は言葉を濁す。
だが、割ってしまった湯呑と何かつり合いの取れた代用品を用意しなければ、桑原に一生根にもたれて末代まで祟られそうだ。
「桑原先生の湯呑を不注意で割ってしまってその代品探しだ」
ヒカルに見られてしまったが、見られたからには尚更いつまでも店前でウダウダしていても致し方ない。見てみるだけだと自分に言い聞かせ、骨董屋の玄関をくぐる。
それをヒカルの後ろから見ていた佐為が、
――ヒカル!私たちも少し見ていきましょうよ!
――えー?茶碗とか皿だぞ?オレ全然分からねぇよ。それに虎次郎だっているのに
面倒くさそうにヒカルは言うのだが、佐為の目は店の中を興味津々で眺め、少しだけ少しだけとヒカルに頼み込んでくる。
――いいじゃないですか、見るだけですから。ね?別にこの後、用事はなかったでしょう?
見るだけと言われても、ヒカルの今日の予定に骨董屋は全く入っていないのだが、確かにこの後に用事は入っていない。
それに一人で入るには気後れする店だが今なら緒方がいる。付き添いのふりをして入れないことはないだろう。
――しかたねぇなぁ
――ありがとうございます!ヒカル
軽く頭を掻いてから、店の門をくぐればそこまで広くない店内に緒方の姿をすぐに見つけられた。緒方の隣に立っているのは店の店主だろうか。
失礼な例えだが、一見してガマガエルに似た顔の和服を着た男の店主がいる。店内の棚や机に並べられた皿などに虎次郎が入った籠をぶつけないよう気を付けつつ傍まで行き、
「何探してるの?」
「あ?湯呑だぞ?お前、こういうのに興味があるのか?随分年寄な趣味をしているな」
「ないけどちょっと面白半分見てみるだけ」
「別にそれは構わんが、商品に触って割ったりするなよ?」
「分かってるよ」
と断りつつ、ヒカルが入ってきた時に店主が一見の客が入ってきたと嫌そうな顔を瞬間したのを見逃さない。実際ヒカルに購入意欲はなく佐為に乞われるまま入って見るだけなので間違ってはいないが、一応客相手に心象は決して良いものではない。
そのまま別れて店内に並べられている皿を見ていると、店主は緒方がプロ棋士であることを知っていたようで、上客と踏んだらしくヒカルに聞こえてくるだけでも歯が浮くような世辞やおべっかで持ち上げようとしている。
店主がヒカルのことに気づかなかったのは、帽子を目深に被りメガネをしているのと、先ほど緒方の方もヒカルの名前を言わなかったおかげだろう。店前で偶然出くわしただけのヒカルがこの商売根性著しい店主に捕まらないよう配慮してくれたのかもしれない。
――それなら俺も少し見るだけ見て、佐為が満足したらバレないうちに出ていくか
広い店内ではないのだ。軽く店の中を一周すれば佐為も満足するだろう。見る前から分かっていたことだが、やはりヒカル自身、どんなに美しい模様がえがかれた皿や壺であろうと、あくまで食器の類でしかなく骨董に興味は持てそうにない。
そうして店主がせっせと緒方に皿を売り込んでいる場所から少し離れた位置にヒカルが来たところで、
――これは……
商品を見渡していた佐為の視線が、平置きされていた一つに止まる。
――どうした?佐為?
――この花器、覚えてます。一度だけ京の御所に虎次郎と指導碁に行った時、見たことがあります。
佐為が指さす皿をヒカルも見てみるが、他の皿のように煌びやかな柄が描かれているわけでもなく梅の枝が描かれただけの八角のごく普通の皿にしか見えない。
――かき?別にふつーの皿だと思うけど?
――花器とは花を生けるための皿のことです。一見ごく普通の皿に見えますが、この皿には仕掛けがあるのです。それは……
昔を懐かしむように、皿の仕掛けについて話し始めた佐為に、話が進むにつれてヒカルの目が驚きで見開かれている。
佐為の話が本当だとするなら、確かにすごい皿だ。
「まじで?ホントだったらすごいじゃん!」
「何を独り言言ってるんだ?」
急に背後から声をかけてきた緒方に、あ、とヒカルは振り返る。そして少し緒方の表情が辟易していることに気が付く。
その後ろからは当たり前のように店主がついて来ていて、店主の商品の売り込みや見え透いた持ち上げ、世辞に参っているのだろうと察せられた。皿の類は全く分からないが、適当に一人で店内を見ていたヒカルにも、ぼった価格をさも価値があるように勧めていたのが聞こえていた。
――佐為、これ緒方先生にすすめていい?
――それは構いませんがこの花器をですか?緒方が探していたのは湯呑では?
――ダメだったら俺が買う。値段分かんねぇけど。なんか勿体ねぇじゃん。そんなにスゴイ皿なら花活けてやろうぜ
知ってしまったのなら、佐為の言う仕掛けを自分の目でも見てみたい。
「緒方先生、俺これがいいと思う」
机の上に並べられた多種の皿の中から、一つのヒカルは指さす。ただし勧めはしても仕掛けについては話せない。最初に、皿や骨董品に興味がないと言ってたのに、何故皿の仕掛けを知っているのか?と疑われてしまう。
「どれだ?」
「これ」
さらに皿に指を近づると、緒方の目が怪訝に細められる。
「皿?俺は湯呑を探して……まぁいい、これのどこが気に入ったんだ?」
「皿じゃない花器。花を活けたりするやつ。きっと桑原先生も気に入ると思う」
どう?と勧めてくるヒカルに、緒方もふむと思案する。
軽い気持ちで店に入れば、まさか店主がアマの免許持ちで緒方のことを知っており、鴨が来たと言わんばかりに熱心に高額な商品を勧めてくるのに辟易していたところだったのだ。
――店主の説明もなんか嘘っぽいし、ジジイが気に食わなかったら進藤のせいにできるか
価値が分からない高額な食器を店主の推しに負けて買うより、ヒカルの勧める皿にした方がいいかと自己結論に達する。
「店主、これはいくらだ?」
「これでっか?これは5万の安物の皿ですわ。緒方先生ともなるとやはりもっと他の」
緒方がヒカルに勧められた皿の値段を尋ねると、店主が驚いたような顔をして値段を答えながらも、恐らくゼロが1つ2つ多のだろう別の商品を勧めてこようとして、
「これでいい。これをくれ」
「え?」
「5万だな。これでいい。会計してくれ」
店主が取り付く暇を与えず、緒方はさっさと店の奥に見えるレジの方へスタスタと歩いていく。その後ろを店主が慌てて追いかける途中、ヒカルの方をチラと見て『余計なことを』と小さく舌打ちしてたのを見逃さず、小さくヒカルは舌出しして先に店を出た。
緒方の性格を考えれば、一度決めてしまえば会計で店主が何を言おうと他の商品に変えることはない筈だ。
しばらくして店から出てきた緒方の手には、紙袋の中に紐で結ばれた木箱が入っていた。
「待たせたな」
――これでひとまずジジイへの代用品は買えたか
当初の目的の湯呑ではないが、一応は代用品は手に入れられた。桑原に渡すときもそれとなくヒカルと一緒に選んだことを伝えておけば、そこまで悪い方には受け取られないだろう。
「緒方先生、これを桑原先生に渡すとき、一度だけは絶対花を活けるように言ってね」
「それくらいいが、何かあるのか?」
「花器は花を活けてこそ花器。せっかくの花器なんだから花をいけてやらなきゃ可哀想でしょ。俺も見てみたい」
自信めいたヒカルの言い用に『随分とそれらしいことを言う』と内心思いつつ、確かにヒカルの言うとおり、花を活けるための皿なら、ただ棚に飾っておくより実際に花を活けた方が有効活用だろう。
そして選んだ本人に一度くらい花を活けたところを見せてやるくらい桑原も断りはしない筈である。
「進藤、お前これから用事はあるか?」
「ないよ。今日は虎次郎を病院連れて行くだけだったから」
「なら皿選びに付き合ってくれた礼に家まで」
車で送ってやると緒方が言い終える前に、
「あれー?緒方さんと進藤じゃん!?2人して何してんのー?」
これまた見知った声がして、緒方の眉間に皺が寄る。声でも分かるが、その体系に相応しいドタドタとした足音も、まだ自分の名前を呼んだ相手を振り返ってもいないのに、個人を簡単に特定する。
――今日は何の厄日だ?用事で行った棋院ではジジイに絡まれ、店の前で(ヒカル付の)猫に絡まれ、次は倉田だと?
自分の苦手なもの3つが次々揃うなど、今日は呪われているんじゃないか?と緒方は本気で疑う。同じく名前を呼ばれたヒカルが駆け寄ってくる相手に振り向く。
「倉田さん?」
「別に何もしていない。用事が終わったから今から進藤を送ってやるところだ」
だからこれ以上自分たちに絡んでくるんじゃない。放っておけ。とまでは言葉にせずに、ヒカルを連れてさっさと立ち去ろうとするのだが、
「用事終わったんだ?じゃあ2人して暇なんだったらちょっと打とうぜ」
「お前は人の話を」
「近くに俺行きつけの碁会所あってさー」
話を聞け、という緒方に全く構うことなく倉田の方はすでにこれから3人で碁を打つ気満々である。
「でも俺、猫連れてるし」
籠に入っているとはいえ、動物も一緒に碁会所に入れるのかとヒカルが遠慮気味に言うも、
「大丈夫大丈夫、そこの店主大のすごい猫好きで店ん中に猫いるから、別にもう一匹猫増えたってかまわないって!ほらそこの角の店―」
「ちょっ、倉田さん!?」
「待て倉田!」
ヒカルの腕を取って倉田は行きつけだという碁会所に向かって歩いて行ってしまえば、緒方も渋々着いていくしかなくなる。
「いらっしゃい、倉田プロ」
「やっほ、親父さん」
ビルの2階に入っている碁会所に入るなり、店内の席の方で客たちが打っている対局を見ていた店主が椅子から腰を上げ、親しそうに倉田を出迎える。
「おや、珍しい。今日はお連れさんもですか?」
「そ、進藤と緒方先生。奥で打たせてー」
店主に構うことなく倉田は部屋の奥の席へと行ってしまうのだが、碁会所の店主と店に偶然居合わせた客たちの視線が一斉に後から入ってきたヒカルへと向けられた。
「え!?進藤って……」
「進藤って名人の?」
「ほんとか?」
店主と客たちが口々にヒカルの名前を上げる。決して悪気はないのだ。この倉田の性格は元々だ。けれど、悪気はなくても急に自分が来たことで、今まで対局していたのを邪魔してしまった申し訳ない気持ちになる。
「どうも……、急にすいません……お邪魔します……」
被っていたニット帽子を脱いでヒカルはペコリと頭を下げた。その後ろからやや仏頂面の緒方も少し頭を下げる。
「いやこれは参った!本当に進藤名人と緒方先生がウチの店に来てくださるとは!是非ぜひ打って行ってください」
「本因坊戦頑張ってください!応援してますよ!」
「親父さん!ここ色紙とか置いてないのか!?」
「後で握手してもらってもいいですか!?あ、あと出来たら一緒に写真も!」
さっきまで自分たちが打っていた対局のことはすっかり忘れたように、店内がにわかに湧き上がる。
ヒカルが最年少で囲碁の名人になってニュースで取り上げられるようになってから、こうしてヒカルに気づいた人々に騒がれることが度々あった。応援してくれるファンは有難い。求められれば握手もサインも可能な限り応じるようにしているがどうにも慣れない。
「サインは後後!こっちこっち!早く打とうぜ!」
陣取った奥の席で早く打とうと急かす倉田に、
「あの猫一緒なんですが、大丈夫ですか?」
倉田はああは言ったが、先に一言断っておくべきだろう。
「猫ならほら!ウチで飼ってる猫をいつも連れて来てますから、全然かまいませんよ。名前はなんて言うんですか?」
ほら、と指さす方には囲碁関連の本が並べられた本棚の上に竹かごが置かれ、その中でブチ猫が丸まって眠っている。
「虎次郎です」
「ほーそりゃまたすごい名前の猫ですね。出しても構いませんか?打っていくなら、ずっと狭い籠の中ってのも可哀想だ」
「どうぞ。あの席料は?」
「席料なんていりませんよ!また近く通ることがあったらまた店に来てくださいな」
ニコニコと上機嫌の店主が、ヒカルの了承を得て虎次郎を籠から出してやる。電車などの移動中は仕方ないが、これから1局2局打つ間ずっと籠の中に入れっぱなしにするより、帰る時にまた籠に入れる時まで、少し外に出してやるほうが虎次郎のためにもいいだろう。
ずっと室内で一匹飼いしてきた虎次郎が、他の猫と一緒の部屋で大丈夫か少し不安はあったが、猫だけでなく犬もいる動物病院でも虎次郎は特に毛を逆立てるなど、強い警戒心は見せなかった。
――最悪、喧嘩になりそうだったら籠にまた入れるか
籠から出してやると、窮屈だったのか虎次郎はさっそく背伸びをしている。
「俺はホント大丈夫なんだけど、緒方先生は予定大丈夫だった?」
念のため小声で後ろからついてくる緒方に確認を取る。
「予定はないしもういい。倉田が手がかかるのはいつものことだ。慣れたくなかったがもう慣れた」
ボソと本音が出た緒方に、ヒカルは思わずぷっと吹き出す。倉田の碁の強さはホンモノであり、自分のペースで回りを巻き込んでしまうマイペースな性格が決して悪いものではないことを緒方も知っているのだろう。
「俺一番、誰から打ちます?」
最初に自分と打つのは誰か、緒方に確認をとってきて、まずはヒカルから打てと順番を譲る。自分が打ってもいいが、ここは一般の碁会所で店の客たちも無冠の自分より名人のヒカルが打つのを期待している空気を感じ取っての判断だ。
自分よりヒカルを取られる悔しい気持ちはあれど、そこは大人として周囲の空気を読んで、プロとして観客にサービスしておくべきだろう。
倉田とヒカルが座る席の隣から椅子を寄せて腰掛ける。
「ん?」
途端に膝の上に、トンと飛び乗ってきた物体に緒方は足を組むのを咄嗟に止めた。若干不安定な膝の上で、チラと緒方の顔を見上げて、安定する位置を確かめるとそこに勝手に丸まってしまう白い毛玉の物体。
――俺の断りもなく……
ムッとして虎次郎を膝から下すも、すぐにまた懲りずに膝の上に飛び乗ってくる。
白い毛と同色で目立ってはいないが、絶対にズボンに毛がついてしまっただろう。
「その猫、進藤んチの猫でしょ?えらく緒方先生に懐いてますね。緒方先生も猫飼ったりしてるんですか?」
とこれまた悪気のない倉田が虎次郎を膝に乗せた緒方を珍しそうに見やる。
「飼ってない。それに今日初めて見た猫だぞ。元々人懐っこいだけだろ」
「その割には俺のところには全然来なくて、緒方先生しかすり寄ってませんよ」
「知るか。飼い主に聞け」
どうして今日会ったばかりの猫にこんなに懐かれるのか、理由があるなら緒方の方が知りたい。しかし話を振られたヒカルは、顎に手をあて緒方を頭の先から靴の先まで見下ろし、
「……たぶん、緒方先生が白いからじゃないかな?」
「白い?俺のスーツがか?」
「そう」
「自分の毛が白いから、同じ白のスーツの俺に懐いてるということか?」
「そういう意味じゃないんだけど、こいつがすごく懐いてるヤツがいつも白い服着てるから、それでだと思う」
なんだそれは?という反応に困るヒカルの説明に、これ以上、虎次郎を膝の上から下すのを緒方は早々に諦めることにした。膝の上で虎次郎は大人しく丸まっていて、撫でろとひっきりなしに手を舐めてくるわけではない。
どうせまた膝から下しても、この調子ではすぐにまた虎次郎は緒方の膝上に飛び乗ってくる。それを繰り返していては対局の観戦にも集中できない。
――仕方ない。あとでこのスーツはクリーニングに出しておくか
言葉が通じない動物相手である。観戦の邪魔をせず、大人しくさえしてくれればいい。猫は苦手だが嫌いではないのだ。ただ服に毛が付くのが嫌なだけで。
「ま、打とうぜ!ってあれ?」
「石がどっちも白だ」
机の上に置かれた碁笥を倉田とヒカルがそれぞれ引き寄せ、蓋を開いてすぐにどちらの碁笥も白石であることに気づき声を上げた。
すぐ傍で観戦しようとしていた観客もそれにすぐ気が付き、店主が申し訳なさそうに隣席に置いていた黒石と交換しようとする。
「ありゃ、これは失礼しました。すぐに黒石と取り換えて」
「いや、いいよ。このままで打とう」
と、店主が碁笥を取り替えようとしたのを倉田が断り、向かいに座るヒカルは『このまま打つ』の意味が分からずきょとんとする。
「え?」
「まさか一色碁を打つ気か?」
隣に座っていた緒方はすぐに倉田の意図に気が付いたらしい。『一色碁』という言葉が直ぐにでてきたということは、緒方は以前自身で打つか見たことがあるのだろう。
残るは一人だが、ヒカルの反応はまだ困惑している。
「そう。進藤は一色碁って打ったことある?」
「い、一色碁?」
初めて聞く言葉である。
――佐為!お前はある!?
――聞いたことはありますが実際自分で打ったことはありません!確か、白石か黒石、どちらかの石だけで打つ碁だと
声に出さず心の中でヒカルは佐為に確認を取れば、ふるふると顔を横に振る。
しかし、困惑するヒカルを置いて、倉田はさっさと自分の碁笥から石をニギリ盤面に置いてしまう。
「じゃ、俺ニギルな」
「えっ!?あ!」
つい日頃の条件反射で、ヒカルは碁笥から石を二つ置けば、
「じゃあ俺が後番てことは進藤の白石が黒ってことで。よろしくお願いします」
「よ、ろしくお願いします」
説明らしい説明もなく対局が始まってしまった。
盤面に広がっていくのは、一見して白模様のみ。初めて一色碁を打つというヒカルの表情も最初こそ戸惑いが抜けきらなかったが、次第に冷静さを取り戻していく。
「こんな……どっちも白石でよく打てるな」
「進藤名人の方が黒なんだろ?」
「ちょっと黙ってくれ、わかんなくなっちまう!」
傍で見ている観客たちの方は、すぐに白石と黒石の区別が出来なくなり始めた。それぞれに腕を組んだり、首をひねったりと頭を抱えている。
「緒方先生、これどちらが優勢なんですか?」
「黒です」
「黒ってことは、進藤名人が優勢なのか?わしらにゃさっぱりだ」
両腕を組んで白石だけが打たれる盤面をじっと見つめながら、躊躇なく形勢を判断する緒方に、さらに『分からん』と盤面を睨んだところで一度見失ってしまった形勢はもう理解不能である。
「どうやって見てるんだかさっぱりだ」
「形で頭に入れていくんです。石のカタチで」
「石のカタチねぇ…」
緒方の説明に頷きつつも、既に盤面は中盤を終ろうとしていた。白一色で染められた盤面。
緒方もプロになる前、何かの機会に数回打ったことがあったが、普通に白石と黒石で打つだけではない緊張感と慣れない頭の使い方に戸惑った記憶がある。
簡単に石のカタチで頭に入れていくと先ほど言ったが、やはり同色の石というのは見間違いしやすく打ち間違えやすい。
――初めて一色碁を打ってここまで打つか。しかも倉田相手に
自分から言い出したからには倉田はそれなりに一色碁を打ち慣れているのだろう。公式対局と変わらない判断の速さである。
しかし、初めて一色碁を打っていながら形勢はヒカルの黒が優勢だった。
そのまま打ち間違えることなく対局は終局する。
「ふぅ……緊張した……」
対局を終えて胸をなで下ろし最初のヒカルの一言だ。
「うーん、ここは先に受けておくべきだったかなぁ」
「そこは俺も判断迷いました。地合いが微妙だったし、こっちを手厚く膨らんでおくべきかどうか」
口を尖らせ、白石の塊を指さす倉田の指摘に、ヒカルもすぐさま考えを述べていく。しかし、その微妙な地合いの形勢が勝負の流れを作ったと緒方も見ている。
だが、とりあえず対局は終わり、緒方膝の上の虎次郎を下すと椅子から立ち上がった。
「すまん。トイレに」
「手洗いでしたら、受付のほら、あそこです」
「ありがとうございます。お借りします」
店主の指さす方向に目的の戸を見つけ、ひとまず先に用を足しに行く。
検討は始まったばかりだ。トイレから出たらもう終わってしまっているということはないだろう。
――しかし今日は本当に予定外のことばかり起こるな
桑原の湯呑を割ってから、骨董屋の前でヒカルとばったり出くわしたかと思えば、次は倉田に連れられ碁会所で一色碁だ。
どれも偶然の重なりでしかない。だが考え過ぎかもしれないとしても、偶然にしては重なり過ぎている感がある。
手早く用を済ませトイレから出る。と、すぐ真下に白い毛玉を見つけた。『ナァー』という猫の鳴き声。
「お前、そんなところにいたら踏まれるぞ」
トイレの戸の前に座っていた虎次郎に緒方はため息をつきながらも、あちらの人だかり中心で検討している飼い主より、トイレに行った自分を待っててくれたのかと思うと決して悪い気はしない。
すでにクリーニング行は決定している。これ以上スーツに毛がついたところで今さらかと虎次郎を抱きかかえた。
けれど、じっと緒方の方を見ていた虎次郎が、抱きかかえた途端ふいと斜めを向いた。虎次郎の顔を正面から覗き込んでいた緒方が、虎次郎の瞳をつい目で追ってしまったのは無意識のことだった。
「え?」
猫の瞳に小さく映った人だかりの中。その中心に立つ人物。ヒカルの後ろに立ち、高さのある帽子を被り白い衣装を着た人影。
背筋がぞっと冷たく冷え、咄嗟に緒方はばっと振り返る。
「いない……」
虎次郎の瞳越しとはいえ、一瞬確かに見えた白衣装の人影。全速力で走った後かのように心臓がバクバクと大きく脈打っている。
なのに頭から血の気が急に引いていく。
――単なる見間違いか気のせいだ……今日は朝から桑原のジジイに会ったり猫にすり寄られたあげく倉田に捕まったりと不運続きだから精神が疲れてるんだ……
現に店の中には帽子を被った白装束の人物はいない。そんな人物がいたら店に入って真っ先に気が付く。
「おっと」
それまで大人しかった虎次郎が急に暴れて緒方の手からするりと落ちる。そしてどこへ行くかと目で追えば、そのままヒカルのすぐ隣まで行き、少し離れた位置に座り上を見上げた。
チョウが飛んでるわけでも、天井から釣り下がった紐が揺れているわけでもない。何もない宙をじっと見つめて、スリ、と何かに顔を摺り寄せるようにして顔を傾げ、気持ちよさそうに目を細める。
――そういえば、割れた湯呑も白だった
白い湯呑、白い猫、白石での一色碁。
刹那の瞬間見えた、白衣装の人影。
そして自分が着ているのは白のスーツ。
「白………」
ポツリと緒方が呟く。
「緒方先生?どうしたんですか?そんなところに突っ立って。次は緒方先生も一色碁打ってみます?」
人垣から少し離れて棒立ちしてこちらを見ている緒方に倉田が気づき声をかける。ヒカルとの対局検討はまだ続いていたが、公式対局でもない遊びの対局でそこまで深く検討する必要はない。時間だって限られている。
せっかくだから次は緒方がヒカルと一色碁を打ってみては?と促されるも
「いや、俺は遠慮しておく……」
とても打つ気にはなれなかった。
■
「緒方くんがこの花器を?」
受付で湯呑を割ってしまったことを再度詫びて、骨董屋で購入した花器を桑原に手渡す。目に見えないものは信じない主義の緒方だが、何か因縁か呪いでもかけられたのでは?と思えるような一日の産物だ。出来るだけ早く手渡してしまうに限る。
手合い日が重なる日を見逃さず、緒方は棋院に花器が入った袋を持参し、桑原の対局検討が終わるまで別部屋で待っていた。
手渡した紙袋から花器を取り出した桑原は、一通り皿を表裏見回し、視線だけ上向かせ緒方に問う。
「選んだのは進藤です。正直自分はこういう類は全く疎いので価値の方は自信ないのですが」
「進藤が?」
「偶然出くわして、暇だからと店に一緒に入ったんです」
「ふむ。進藤は何か言っておったか?」
嫌味の一つもなく、ヒカルの名前を出した途端、素直に緒方の差し出した花器を受け取った桑原を意外に思いつつ、
「何かって、…そういえば『花器は花を活けてこそ花器』とかそんなこと言ってたかな。せっかくの花器だから一度くらいは花を活けてやってくれとか」
「花をのぅ」
意味深に桑原が呟くのを見て、緒方の眉間にさらに皺が寄る。車のカーナビが案内した骨董屋であり、ヒカルは動物病院から脱走した虎次郎を探して偶然店の前で出会ったのだ。
あまり深く考えると、そのあとの白い人影まで思い出してしまうのであまり思い返したくない記憶だが、桑原が何をそんなに気にしているのか分からない。
けれども、花器を近くの机に置き、座っていた畳からスクと立ち上がると床の間に飾ってあった花瓶をおもむろに此方へ持ってくる。
「桑原先生なにを!?」
「黙って見とれ」
緒方の静止を無視して桑原は花瓶から花を抜いて、中の水をゆっくりと花器の中へ注ぐ。そしてまだ注がれたばかりの水が揺れる中、ゆっくりと花器の底に浮かび上がる紅色の花模様に、緒方は驚愕の表情を浮かべ、反対に桑原はニヤリと口角を斜めに吊り上げる。
「これは!」
「見事じゃ。緒方くん、進藤に助けられたな。下手なものを持ってきたなら目の前で割ってやるところじゃった」
一見してごく普通の花器と思ったが、選んだのがヒカルであるということに桑原のシックスセンスが反応したというべきだろうか。さらには『花器は花を活けてこそ花器』その一言が無ければ、桑原も花器の仕掛けに気づくことは出来なかった。
恐らくこの花器を売っていたという骨董屋の店主も、一度も水を入れることなく仕掛けに気づかなかったのだろう。
「………早合点ですね。水を入れたら花模様が浮かび上がるくらいで。これくらい現代の技術なら可能ではないんですか?価値あるものとは限りませんよ?」
驚きがまだ完全に冷めやらない状態で緒方が判断には早いと断りを入れる。
自分で贈ったものではあるが、贈ったものだからこそ予想外の展開に一言二言言いたくなるものである。熱い湯を入れると絵柄が変わる湯呑なら珍しくない。ならば水でも反応する皿が開発されていてもおかしくはないのだ。
しかし、桑原は判断するには早いと止める緒方を鼻で笑い、
「減らず口を。だが鑑定に出してもいいが、それはやめておこうか」
「何故?やはり自信がありませんか?」
「せっかくの興が醒める。では緒方くんが古美術に知識のある者にでも尋ねるといい。水を入れると花文様が浮き出る花器を知っているかと。もちろん花器の所在は黙ったままでだ。聞いた結果は当然儂にも教えてくれ」
「いいでしょう。調べてみましょう。価値が無いと分かっても返品したり割ったりしないとお約束してくださいね」
そこまで言われたなら、調べてやらずにいられようか。売り言葉に買い言葉の反応速度で緒方は鑑定を決意する。鑑定士に見せる気はなかったが、念のためにと携帯で写真も撮った。
骨董屋で緒方が支払った5万の価値があれば十分。2,3千円の価値だったとしても、それはそれで桑原の鼻をへし折れたと思えば悪い気はしない。街のどこにでもあるような骨董屋で平置きされていた花器である。いきなりゼロが何個も増えるような価値などあるわけがない。
そう高を括って知人伝いに紹介された鑑定士に花器の仕掛けを尋ね、反対にどこかで見たのかと緒方がしつこく追及されるハメになるのが1週間後のことだった。
桑原は花器を自宅に持って帰ることはしなかった。
代りに棋院の幽玄の間で、花を活けるようにした。
花を活け、水を張った水底に浮かび上がる花模様。
幽玄の間で対局が行われるたびに花が活けられるその美しい花器の噂は、ゆっくりと広がっていくのである。
うまく差し込めるタイミングがなかったのと、内容の雰囲気が他とかみ合わなかったので番外として。
斜陽の中で虎次郎を出して白猫にしたのはこれを書きたかった為でした……。
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