戦姫絶唱シンフォギア ~歪鏡に選ばれた少女~ (きおう屋)
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EPISODE 01 「始まりの序曲」

 与えられた部屋のベッドで真っ白なシーツを頭から被り、少女――詞世蛍(ことせ ほたる)は膝を抱えて震えていた。

 赤い瞳からは止めどなく涙が溢れ出た。泣き叫んだ喉は枯れ、掠れるような慟哭が口から溢れる。声にならない悲鳴を上げ続けた。

 そうしなければ、この悲しみに、この絶望に、飲み込まれてしまう。飲み込まれたら最後、きっと自分は戻ってこれない。それを直感で蛍は理解していた。だから、胸の奥から湧き上がるこの感情を吐き出す。涙が、声が枯れても吐き出し続ける。それが今の自分にできるたったひとつのことだと信じて。

 

 どうやら自分は両親に売られたらしい。

 

 少女がそれは理解したのは、体力の続く限り泣き叫び体力が尽きると泥のように眠るということを何度か繰り返した後だった。

 平々凡々な一般家庭に生まれた蛍は、両親に愛されて育ったと少なくとも自分ではそう思っていた。

 毎日温かなご飯を作ってくれた。休日には遊びに連れて行ってくれた。楽しい時は共に笑ってくれた。悲しい時は慰めてくれた。良いことをした時は褒めてくれた。悪いことをした時は叱ってくれた。11年という長い時間を一緒に過ごして、11年分の思い出がある。

 あの幸せだった日々は全て幻だったのだろうか。

 何故両親が自分を売ったのか分からなかった。愛されていたと思っていたのは間違いで、実は疎まれていたのだろうか。

 大好きな歌を歌っていた自分をその大きな手で撫でて褒めてくれた父。優しく抱きしめ陽だまりのような温かさで包んでくれた母。

 記憶にある両親の笑顔を思い浮かべた瞬間、心が最大級の悲鳴を上げた。

 ガチガチと歯を鳴らしながら、バラバラになりそうな震える身体を両手で力の限り抱きしめ、蹲る。声すら出せなかった。張り裂けそうな心臓の鼓動を聴きながら、只々荒い呼吸を繰り返す。

 

 最後に見た大好きだった二人は、その顔に変わらぬ笑みを貼り付けていた。

 

 真実が蛍の小さな身体を食い潰さんと荒れ狂う。それに只管に耐える。口の端から赤い一筋の雫が流れた。どうやら口の中を切ったらしい。仄かな痛みが口の中に広がる。痛いのは嫌いだ。けれど、その痛みが今は狂おしいほどに愛おしかった。痛みを感じることで、なんとか正気を保っていられた。爪を立てて、震える身体に突き刺す。赤い染みが彼女の服の至る所に生まれた。

 もっと、もっと、と。心の傷に比べれば、身体の傷なんて怖くはない。

 

「――ッ! ――ッッ!!」

 

 いつの間にか、白衣を着た大人たちに取り押さえられていた。幼い身体で大人たちの力に敵うわけもなく暴れる手足を抑えこまれ、叩きつけるようにベッドへ組み敷かれた。無理矢理に口を開かされ布のようなものを突っ込まれた。舌を切るとでも思われたのだろうか。

 首筋に何か冷たいものが当たる感覚があった後、チクリとした痛みと共に蛍はブレーカーが落ちるかのように意識を手放した。

 

 

◇◇◇

 

 

 この研究所に連れてこられてから、幾許かの月日が流れた。

 

 時間を置いたことで、色々なことに整理はついた。自身の置かれた現状、親への感情、様々なものに折り合いをつけて、いや、つけた振りをして蛍は漠然と日々を過ごしていた。生きるために、心の底に蓋をして、必死で目を背け続けた。

 その過程で分かったことだが、この研究所はF.I.S.と呼ばれる組織のものであるらしい。なんでも聖遺物と呼ばれるOパーツだかオカルトだかの、胡散臭いことこの上ないものを研究している組織らしく、そんなモノを大の大人が大真面目に研究している狂った場所に売られてしまった自分の不運を嘆いた。

 蛍はレセプターチルドレンと呼ばれる存在であるようだ。研究員たちの説明によれば、遥か昔、人類がまだ統一言語を用い神々と交信していた時代に存在した巫女フィーネの魂の容れ物なのだとか。今代のフィーネが死亡した際、次代の転生先へとするために集められた子供たちの一人が蛍なのだそうだ。

 勿論、蛍はそんな与太話を信じるつもりは毛頭なく、内心では一蹴していた。こいつらは只のマッドサイエンティストの集まりであり、揃いも揃って可笑しな宗教にでも嵌っているのだろうというのが、蛍の彼らに対する認識だった。

 

 そんな蛍の日々は、実験に次ぐ実験であった。

 

 体中のありとあらゆる場所を調べられた。よく分からない薬を何度も飲まされた。

 裸にひん剥かれることも多々あった。薬の副作用で高熱を出して何日も寝込むこともあった。

 未来に対する希望はなく、苦しい実験の日々に歯を食いしばりながら耐えていた。漠然と、彼らの玩具にされこのまま生きていくのだろうと理解した。そして、用済みになったら捨てられるのだ。あの両親たちがしたように。

 

 この世界は理不尽だ。

 

 人が人に優しくない世界。みんながみんな自分勝手で、他人の気持ちを知ろうともしない。だから、笑顔で心にもない嘘を吐き、騙し、裏切る。騙される側の事情など知ったことではないと一顧だにせず、挙句の果てに、「騙される方が悪いのだ」などと厚顔無恥な台詞を声高々に宣うのだ。

 気持ちが悪い。吐き気がする。けれど、これがどうしようもない現実で、なんの力もない蛍の小さな身体では抗うことなど出来はしない。世界に飲み込まれて、咀嚼されるのを待つばかり。

 そして、そんな世界に未練はないと、ばっさり自殺する勇気もない自分のことが、蛍は世界と同じぐらい嫌いだった。

 

 ある日、いつも通りに実験を終えた蛍は、自身を取り囲む研究員たちの様子がおかしいことに気が付いた。白衣に身を包んだ大人たちの会話が頭上を飛びかっている。その声には、どれも熱に浮かれたような歓喜の色を含んでいた。「この適合系数ならば……」「では候補となる聖遺物の選考を……」だとか。話の内容の半分も理解はできないが、何やら自分にはレセプターチルドレン以外にも何らかの特別な適性があるらしい。 生まれてこの方、蛍は自身にそんなものを感じたことはないが、如何にもマッドで普段は淡々と手元のデータと睨めっこしている研究員たちが、どこか興奮した様子で議論をしているのを見て、納得して、ため息をもらした。

 子供を金で買い集めて実験動物として扱うような奴らの研究だ。きっと碌でもないものに違いない。

 これからどんな研究に付き合わされるのであろうか。痛いのは嫌だなと頭の隅で思いながら、研究員たちの呪文のような会話が終わるのを、蛍は淡々と待ち続けた。

 

「痛いのは嫌いですか?」

「えっ……」

 

 無意識のうちに声に出てしまっていたのだろうか。漏れ出た心の声に答えが返ったきた。

 声が聞こえた方向に首を傾けると、そこには車椅子に座り右目に眼帯をした女性が居た。初めて見る人だ。ここまで特徴的な人は一度見れば忘れないと思う。ここの研究員だろうか? しかし、他の研究員とはどこか雰囲気が違う。表情は硬く愛想の一つも見れないのは一緒だが、その瞳にはこちらを思い遣っているようにも見える。

 何を馬鹿なことを、と一瞬でも考えてしまった愚かな思考を破棄する。こんな場所にいる大人が、実験サンプルでしかない自分に優しくするようなまともな人間である筈がないではないか。

 ここの研究員は事務的な用件以外で蛍に話しかけてくることはないし、蛍も彼らと雑談がしたいなどと思ったことはない。

 だから、まさか話しかけられるとは露程にも思っていなかった。思わず素で声を返してしまった。ぽかんと口を開けて、間抜けな表情を晒していることを自覚して蛍はたじたじになった。

 

「あの、えっと……」

「安心なさい。先程少しデータを見ましたが、あのフォニックゲインであればあなたは正当な適合者でしょう。LiNKERを打つ必要もなく聖遺物との適合が可能なはずです。私たちにとっても適合者は貴重です。使い潰されるという心配はありませんし、むしろ待遇がよくなるかもしれません」

「は、はぁ……あの……つまり……」

「実験の頻度は増すでしょうが、どれも痛みを伴うものではありません。セレナ以来の正規適合者です。こちらとしても慎重にならざるをえません」

 

 そう言った女性は僅かにではあるが口の両端を上げてこちらを見た。どうやら微笑んでいるらしい。分かりづらい上に、無理矢理に作ったような笑みであったため、正直ちょっと怖かった。

 けれど、それが彼女の不器用な優しさの顕れのようで、何だが、とても温かくて。

 

 浮上しかけた感情を、理性で押し殺した。

 

 騙されるな。この世界はそんなに優しくない。自己暗示のように何度も何度も心の中で呟き反芻する。

 優しい言葉を疑え、笑顔を信じるな、甘い態度を警戒しろ。

 感情を殺し、蓋をする。

 もうあんな思いは、したくないから、誰も信じるものかと決めたのだ。

 車椅子の女性の微笑みに見ない振りをして、当たり障りのない会話をして別れた。部屋に戻ると、ベッドに突っ伏して声を殺して泣いた。

 後から知ったことだが、あの車椅子の女性は中々に有名な人だそうで、気狂い揃いの研究員たちをして「教授」と呼ばれる聖遺物研究の第一人者らしい。此処とは別のF.I.S.の研究所に勤めていると聞いて、蛍はそっと胸を撫で下ろした。あんな微笑みを会うたびにされては堪らない。

 

 車椅子の女性の言うように、蛍の待遇は目に見えて良くなった。

 

 まず、部屋を移された。あのベッドだけがぽつんと置かれた殺風景な部屋から、そこそこ立派な部屋へと。ベッド自体も質のいいものに変わっていたし、本棚や机もあった。食べ物も美味しいものを食べさせてもらえるようになった。

 実験の内容も少し変わった。今までは薬を飲まされたり、筒状の機械の中で半日ほどベッドの上に寝かされたりなど、特に何かをしろと言われたことはなくじっとしていることが多かった。

 しかし、あの車椅子の女性に出会って以降、歌えと言われることが増えた。歌えというのはどういうことだと初めは困惑したが、本当にただ歌うだけだった。日に何度か研究員たちに聖遺物と呼ばれるモノの前まで連れていかれて歌った。研究員たちの此方を観察する視線の中で歌うことには、少しの慣れが必要だったけれども、既に何度も裸を見られた連中の前だと割り切ると存外楽しいものだった。

 そこで初めて蛍は自分が歌が好きだったことを思い出した。喉を震わせ、旋律に乗せ、詞を歌い上げる。言葉にしてみれば、こんなに単純なことが、今はとても愛おしい。

 歌っている間は辛い現実を忘れられた。両親に笑顔で捨てられた過去も、実験動物のような今の生活も、全てを忘れて夢中になった。

 実験を終え、部屋へと戻された後も歌った。記憶にあるだけのありとあらゆる歌を歌った。どうせこの部屋もカメラか何かで監視されているのだろうが、そんなことはお構いなしだった。この何の自由もない生活で許されたたった一つの自分が自分らしくいられること。誰かに強制される訳ではなく自分自身の意志で何かをするというのは、こんなにも気分がいいものだったのか。

 あまりにも歌いすぎるので、研究員から部屋で歌うことを禁止されてしまった。実験中に枯らした声で歌われては困るのだろう。流石に浮かれすぎたと反省した。だから、部屋では鼻歌を歌うことにした。

 無機質な生活に僅かな色が生まれた。

 

 72の言葉を持つ支配者の杖の前で歌った。

 天より落ちたる巨人の蛹の前で歌った。

 何物をも貫き通す無双の槍の前で歌った。

 狩猟の神が引いた魔弓の前で歌った。

 肉体を切り刻む紅き塵鋸の前で歌った。

 魂を切り刻む碧の獄鎌の前で歌った。

 

 多くの聖遺物の前で歌ったが、どうやら研究員たちのお気に召す結果は得られなかったようだ。日に日に研究員たちの機嫌が悪くなっているのが、言葉にはされずともその態度からひしひしと感じられた。こういう時は自分の扱いが向上したなと改めて実感する。以前であれば、罵詈雑言を山のように浴びせられ、暴力も振るわれていたことだろう。適合者という存在が、彼らにとって如何に重要なものであるかを思い知る。

 蛍自身には、いまいちピンとこない事実ではあった。聖遺物――世界各地の神話や伝承に登場する、超常の性能を秘めた武具の数々。現在では製造不可能な異端技術(ブラックアート)の結晶。それらを基底状態から呼び覚ます歌を歌える人物を、適合者と彼らは呼ぶらしい。世界中を見渡しても両の手ほどにしか存在が確認されていない貴重な人間。その内の一人が、蛍だと言うのだ。

 やはりオカルトめいている。だが、蛍は自分の考えが少しずつ変わりつつあるのを感じていた。決して研究員達の言葉を鵜呑みにした訳ではなかったが、聖遺物と呼ばれるあれ等がただの骨董品ではないことは幼い蛍にも理解できた。

 その最もたる理由は、実験中に感じるおかしな感覚だった。感覚的なもので、自分でも薄っすらと感じる程度のことであるから、初めは気のせいだと片付けていたが、歌う度にそんな感覚を覚えるようでは、さすがの蛍でもその異常性に気付く。

 聖遺物を前にして歌うと何かに繋がりかける感覚があるのだ。

 聖遺物が自分の歌を聴いている。そう思った。

 繋がったその先に何があるのかは分からない。いつもあと少しというところで、結局届いた試しはないからだ。歌う度に、繋がりかけるその感覚がもどかしく思えるようになった。ほんの少し指先を伸ばせば届く程度なのだ。その距離がいつまで経っても埋まらない。いくら声を張り上げても、思いを旋律に乗せても響かない。蛍は単純に悔しかった。お前の歌などその程度だと言われてるような気がして腹が立った。

 

 だから、その聖遺物を前にした時、予感があった。今日こそは、繋がる。何の根拠もなく、只の確信がそこにはあった。

 

 日本から送られてきたというその聖遺物は、鏡に由来するものであるらしい。

 魔を祓う鏡――神獣鏡(シェンショウジン)

 最近になって発掘されたばかりだというそれは、他の幾つかの聖遺物同様に加工され、見た目は只の赤い水晶柱のようであった。しかし、蛍には光を反射して艶やかに輝くその姿が、今までに見たどの聖遺物よりも眩しく見えた。

 どくんと一際大きく心臓が高鳴った。張り裂けそうになるほど胸が熱い。目の前の輝きから目が離せない。

 熱に浮かされるように、神獣鏡(シェンショウジン)が収められた台座にへと一歩また一歩と歩を進める。後ろから研究員達の静止の声が聴こえてきたが聞き流した。蛍には、もう、目の前にある赤い輝きしか見えていなかった。

 呼ばれている。この聖遺物が私の事を呼んでいる。

 早く早くと急かしてくる。蛍の歌を聴かせてくれとせがんでいる。

 震える指先で、ソレに触れる。冷たく硬い感触が、指先から全身を駆け抜けた。壊れ物を扱うように優しく握りしめると、蛍の体温を奪いじんわりと熱を帯びていく。まるで、初めから自分のものであったかのような、得も言われぬ一体感があった。

 不意に、頭の中に歌が浮かんできた。歌と呼ぶには短い、まるで詞のような旋律。発音も、音階も、其処に込められた言葉の意味も。その全てを蛍は瞬時に理解した。何故ならそれは、蛍の内に眠る願いの発露であったから。

 この歌は、自分だけの歌。たとえ他者が真似て口に出そうとも何の意味も持たない歌。蛍だけにしか口にする事の出来ない、蛍だけにしか意味のない、蛍だけの想いの結晶。

 握りしめた神獣鏡(シェンショウジン)を、胸の前に掲げ、胸の奥から生まれたばかりのその聖詠を、蛍は高らかに謳い上げた。

 

 

◇◇◇

 

 

 その日、研究室を訪れた女性は、蛍が今まで見てきた中で最も美しい人だった。

 これがフィーネ。先史文明期から魂の転生――リインカーネイションを繰り返し、現代まで存在し続けてきた永遠の刹那を生きる巫女。存在自体が異端技術(ブラックアート)とも言える生きた神秘。そして、蛍がこの研究所に連れてこられたそもそもの原因。

 不思議と彼女を前にしても、怒りは沸いてこなかった。たとえ原因が彼女にあったとしても、大金を積まれて蛍を手放すことを最終的に決めたのは、他ならぬ父と母であったと蛍も理解しているからだ。そこにフィーネは関係なく、ただ純粋に娘と金を天秤に掛けて、両親がどちらへ重きを置いたのかという個人の価値観における問題なのだ。彼らは金を取って、そしてその結果、自分は此処にいる。

 

「あなたが詞世蛍ね」

 

 彼女の言葉に、沈みかけた思考の渦から浮上し、はっと顔をあげた。

 目が合った。白金の双眸が見定めるように蛍を射抜いていた。その神秘的な輝きに魅せられ、フィーネに心の底まで覗かれるような気がした。蓋をして、自分でも必死に見ない振りをし続けている最奥まで、彼女には見透かされているような気がして、つい目を逸らした。

 いつの間にか握っていた手のひらが汗で濡れて気持ちが悪い。返事をしようとした喉は、蛍の意思に反して何の言葉も発することが出来ずにいた。

 何てことはないと思っていたが、どうやら自分は、この女性を前にして緊張をしているらしい。

 相手は数千年以上の時を過ごしてきた正真正銘の化け物だ。大人達から話を聞いた際には、突拍子がなさすぎて、聖遺物や適合者などの事実を受け入れてきた蛍でも、やはりこいつらは研究者などではなくてカルトな宗教の信徒なのではと彼らの正気を疑ったものだが、フィーネを目の前にしてそんな考えは吹き飛んでいた。

 彼女は本物だと、直感が告げていた。

 高々十数年しか生きていない蛍でも感じ取れるほど、フィーネという存在は圧倒的で神秘的だった。余人とは何もかもが違う。自分たちとは異なる理に生きる存在。

 

「お会いできて、光栄です、巫女フィーネ。私は詞世蛍、といいます」

 

 事前に考えていた拙い挨拶と共に床に膝を突き、彼女の前にかしずいた。自分でも杜撰な挨拶だと思うが、こんなに格式ばった挨拶をしたのは生まれて初めてで、どこかぎこちなくなってしまうのは致し方なかった。ここで蛍がすべきことは、自身が目の前の存在よりも劣っていることを理解していると示し、従順な態度を取ることだ。そうすれば少なくとも、彼女の機嫌を損なうことはないはず。

 一瞬の静寂。自分の心臓の音だけが煩いほどに響いていた。

 気分はまるで判決を言い渡される罪人のようで、頭を垂れて、只々、彼女の言葉を待った。

 

「賢しいな」

 

 刺すような彼女の言葉に顔から火が出るかと思った。子供の浅ましい考えだと見透かされた。身体の内で荒れ狂う羞恥心から顔を上げそうになるのを、理性で必死に抑えつける。瞼を閉じて、唇を噛み締める。呼吸が苦しい。酸素を求めて空中を食むも、息苦しさは一向に消えてはくれない。

 

「だが、愚図ではない。考える脳は持っている」

 

 全く感情の乗っていない声で褒められてもちっとも嬉しくない。むしろ、視線の重圧が増した。冷や汗が頬を伝う。

 逃げ出したかった。彼女の前から一分一秒でも早く立ち去りたかった。部屋に帰って、思い切り歌を歌って全てを忘れたい。

 カツン、カツンとフィーネの履いたヒールの音が静寂に包まれた実験室の中に響いた。そして蛍の気のせいでなければ、その音は段々と大きくなっている。それは、つまり、音源が近付いているということで。

 頭を垂れた蛍の視界の端に何かが映る。それが何かを確かめるまでもなく、冷たい指が顎に添えられ、強引に顔を上げさせられた。

 息が掛かるほどの距離に、フィーネの顔があった。同じ人類とは思えないほど端正な顔立ち。息を飲むほどに美しい腰まで伸びたプラチナブロンド。そして蛍の目をじっと見つめる白金の瞳。魔性の女とは、彼女のような人を指すのだろう。浮世離れした美しさに、一瞬、全てを忘れて見入った。

 そんな蛍の様子を見つめていたフィーネは唇をにやりと釣り上げると、蛍の顎に添えていた指をそのまま輪郭に沿って頬へと這わせた。そして確かめるように幾度も頬を撫でる。彼女の指先が頬を這う度に、ぞわりと背筋が震えた。

 喉はカラカラに乾いていて、声の一つも上げることができない。視線を外そうにも、目の前の彼女の瞳が、獲物を見つけた捕食者のようにギラついた輝きを放ち、言外に目を逸らすことは許さないと告げていた。

 フィーネは、満足したのか頬から手を離し、「可愛らしいな」とこの場にふさわしくない言葉を呟くと、背後で固唾を呑んで二人の様子を見ていた研究員へと視線を投げかけた。

 

「気に入った。この娘は、私が貰い受けよう」

「お、お待ち下さいッ! その実験サンプルは此方としても貴重な正規適合者ですッ! 上層部に相談もせず、そのような勝手をされては……」

「くどい。私は貰うといった」

「今暫くッ! 今暫くッ! お時間を頂きたいのですッ! この実験サンプルの歌が生み出すフォニックゲインは極めて膨大ですッ! 時間をかければ、必ずやソロモンの杖やネフィリムなどの完全聖遺物すら起動させることが可能でしょう。ですから、どうかッ!」

「貴様、トニーと言ったか? そもそも神獣鏡(シェンショウジン)のシンフォギアに適合する装者が見つかれば、私が引き取る手筈になっていたはずだ。その対価として日本政府の犬共に露呈するリスクを犯してまで、F.I.S.にはガングニールの欠片を与えた。契約を反故にしようとしているのはそちらだぞ?」

 

 これは決定だと有無を言わさぬフィーネに、なおも食って掛かる研究員――名前はトニーというらしい――の往生際の悪さに、フィーネが眉を顰める。すると、あれほど弁舌だったトニーの顔がみるみると青褪めていき、ガチガチと歯を震わせて地面にへたり込んだ。見れば、ガラス越しに此方を見ていた他の研究員たちも表情を曇らせている。蛍には彼女の後ろ姿しか見えないが、フィーネが相当に恐ろしい顔をしていることは想像に難くなかった。あのマッド達を震え上がらせる顔とは一体どのようなものなのか。興味があったが、きっと自分が見たら気絶では済まないだろうと自制する。好奇心は猫をも殺すのだ。

 それならばと、蛍は当の本人をそっちのけで交わされた会話の内容について思いを巡らせた。フィーネに頬を撫でられた衝撃のあまり聞き流してしまった部分も多い。ゆっくりと二人の会話を思い出し、そして愕然とした。

 

 どうやら自分はフィーネに連れて行かれるらしい。

 

 実の両親には笑顔で売られて、研究員たちには渋がられるというのはなんという皮肉だろう。

 研究所での待遇が良くなり、生活にもようやく慣れ始めたばかりだというのに、また別の場所に連れて行かれる。それがよりにもよってあのフィーネの側にである。

 先程の射抜くような視線と、頬を撫でられた感触を思い出す。あれは、捕食者だ。蛍という新たな獲物を前にして舌なめずりをする、根っからのサディストだ。そんな奴に連れて行かれたら、自分は一体どのような目に合わされるのだろうか。想像するだけで、恐怖と不安で押し潰されそうになる。痛いのは、嫌いだ。

 この世界は、理不尽だ。いつの間にか口癖になりつつある言葉を、心の中で小さく呟く。

 自分の意志の及ばぬ場所で、自分の人生が他人の勝手な都合で決められていく。抗うこともできず、憤るには、もう疲れた。襲いかかる理不尽に対し諦観を是とし、只管に耐えることで生きていく。そう決めた。

 無意識の内に首から吊り下げた基底状態の神獣鏡(シェンショウジン)を握りしめていた。手のひらの中にある冷たい感触を確かめ、心を落ち着かせるために深呼吸をする。

 私には歌があるからきっと大丈夫。歌さえ歌うことができれば、どんなに苦しいことにだって耐えられる。

 多くのことは望まない。ただ歌だけがあればいい。

 小さな自分の中にあるたった一つのちっぽけな望み。

 

「私は……」

 

 誰も蛍がこの場で発言するとは思っていなかったのだろう。必要最低限の会話と歌う時以外には決して口を開こうとしない蛍が、この殺伐とした空気の中で言葉を発したことに、誰も彼もが驚きに目を見開いている。そんな中で、一番驚いているのは蛍自身だった。

 ごちゃごちゃと頭の中で考えていたのがいけなかったのだろうか。気付けば口を開いていた。この場にいる全員の視線を一斉に受けて、思わずたじろぐ。自分の馬鹿さ加減に嫌気が差して泣きそうになるが、一度、放ってしまった言葉は取り消せない。

 神獣鏡(シェンショウジン)を握った手に力がこもる。それは、蛍にとっての証だった。理不尽なこの世界に、唯一、自分の歌が認められた証。手に入れたのは、つい先日だが、既に手放し難いと思ってしまっている蛍の想いの結晶。

 失うことに慣れてしまった自分が、今更何をと思う。ただそれでも、譲れないものがある。理不尽な世界に、弱くて小さな自分が声を上げる。何も変わらないかもしれない。けれど、未来(むこうがわ)にたった一つの我侭言うぐらい許してくれても良いではないか。

 

「私は、歌うことができますか?」

 

 視線は真っ直ぐにフィーネを見つめて、蚊の鳴くような声ではあったが、はっきりと、蛍は己の願いを口にした。

 視線の先にいるフィーネは、蛍の言葉を聞くと、何かが彼女の琴線に触れたのか肩を震わせて、人目も気にせず笑い始めた。おかしくて堪らないと、狂ったように笑うフィーネに誰も口を開くことが出来ない。

 一頻り笑って満足すると、フィーネは愉悦に顔を歪ませながら、唖然とした蛍の腕を掴み乱暴に立ち上がらせると、歪んだ唇を開き、こう言った。

 

「血反吐を吐いても、歌わせてやる」

 

 これが、蛍とフィーネとの出逢い。

 そして、詞世蛍という少女の、物語の始まり。

 




 始まりはトニーから。グレイザー氏とは別人です。ワイルドアームズのネタもちょくちょく入れていきたいと思います。

 誤字脱字は見つけ次第、修正します。


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EPISODE 02 「少女を殺す言葉」

 フィーネに連れてこられたその屋敷は、奥深い山中にひっそりと建てられていた。とある金持ちが道楽で建てたは良いものの、余りにも山奥に建ててしまったために殆ど利用もせず、売りに出していたものをフィーネが土地ごと買い取って改装したらしい。

 

「さぁ、着いたわ」

「ここが、そう、なんですか?」

「えぇ、あなたの新しい家よ」

 

 蛍は、フィーネが運転していた車から降りると、改めてその浮世離れした光景に目を見張った。

 傍には小さな湖、深緑の木々に囲まれ俗世から隔離された屋敷を見ていると、まるで中世のヨーロッパにタイムスリップでもしたかの様な錯覚に陥る。

 これだけの屋敷を建てておきながら、殆ど使わず売り払ってしまうのだから金持ちの考えることは分からない。それを土地ごと買い取るフィーネも大概だと思うが。

 

「蛍、何をしているの。さっさと付いて来なさい」

「は、はい!」

 

 フィーネに促され、屋敷の中に足を踏み入れる。大きな玄関を潜った先の光景に、今度こそ蛍は言葉を失った。

 

 本来であればエントランスに当たるであろうその場所は、様々な機械に埋め尽くされていた。謎の機械が所狭しと無造作に並べられ、所々に備え付けられた謎のパーツが規則的に明滅を繰り返している様は、屋敷の外見とは別の意味で浮世離れしていた。足元に視線を向ければ、蛍の胴体ほども有りそうな太いケーブルが大理石の床の上を無数に這っている。

 何だこれは。何なのだ。

 これが、こんな物が人が生活する空間であって良いのか。というか、こんな場所で、どうやって生活すれば良いんだ。

 百歩譲って、研究所だとしよう。だが、それにしたってこれはない。

 F.I.S.の研究所は無機質で理路整然として温かみの欠片もない場所だったが、それ故に潔癖にも似た清潔を保っていた。世の研究所とはああいう場所のことを言うのだという認識が蛍の中に出来上がっていたのだが、その認識はどうやら誤りであるらしい。

 この場所は清潔とは程遠い。これではまるでアニメに出てくる悪のマッドサイエンティストの根城ではないか。

 

 「新しい家」というフィーネの言葉が、蛍の胸に重くのしかかる。

 

 今日から此処で暮らさなければならないのかと考えると頭が痛かった。これでは、F.I.S.の研究所の方が生活面では、まだマシだったのではないかとさえ思える。しかし、どれだけ嘆こうとも現実は変わらない。今日から此処が、蛍の新しい家なのだ。耐えるしかない。

 内心の動揺をフィーネに悟られぬ様、必死で顔から表情を消す。自分の住処を貶されて良い気分になる人はいないだろう。此処での自分の立場を忘れてはいけない。F.I.S.の研究者たちとは違い蛍が適合者だからという理由は免罪符にはならない。あの研究所でのやり取りを見れば分かる。フィーネは自分の機嫌を損なう者には決して容赦をしない人だ。

 エントランスを抜け、黙々とフィーネの後を追う。歩幅の違いからかフィーネの歩く速度は早く、蛍は遅れないよう歩を早めた。振り返りもしない背中が、傍若無人な彼女の人柄を物語っていた。

 別に蛍はフィーネに優しくして欲しい訳ではない。むしろ、無関心であってくれた方が嬉しい程だ。初めて出逢った時の頬を這う指先の感触は、今思い出しても背筋が凍る。ただ頬を撫でられただけで、人はあれ程の悪寒を覚えるものなのだろうか。

 アレは、天性のサディストだ。つまり、フィーネに興味を持たれるということは、彼女の加虐心を擽った格好の獲物としてロックオンされるということで。それが見ず知らずの他人であれば、「はぁ、大変ですね」と素っ気のない一言で済むが、その矛先が自分に向いているとあっては気が気ではない。それが肉体的なものであれ、精神的なものであれ、蛍は虐められて喜ぶような奇特な性癖は持ち合わせていない。なんとかせねばと頭を捻ってみるものの、名案というものはそう簡単には浮かんでこないこそ名案なのだと思い知るだけだった。

 

 食堂だと言われ通された部屋で、席に着く。一辺で十人は一緒に食事を取れそうな程大きな長机、対面にはフィーネが足を組んで実に偉そうに座っている。部屋の奥に広がる謎の機械群は見なかったことにしたかったが、つんと鼻を刺すような薬品の香りが嫌でも蛍の鼻腔を擽った。

 「さて、と」と勿体ぶったように前置きしてから、フィーネが口を開いた。

 

「もっと楽になさい。今日からここで一緒に暮らすのだから、そんなことでは気が滅入ってしまうわよ」

「……はい」

 

 既に気が滅入っているとは、口が裂けても言えない。こうして対面に座り、話しているだけで精神がガリガリと削られている気がする。フィーネの口調が砕けているのは、蛍にも気楽にしろという合図なのだろうが、それを馬鹿正直に受け取るわけにはいかない。

 

「警戒するな、とは言わないわ。無理矢理、研究所から連れてこられて混乱しているでしょうし、貴女の境遇を考えれば私を恨んでもいるのでしょうね」

「いえ、そのようなことは決して……」

 

 決して口調を崩そうとしない蛍にフィーネはため息混じりの視線を投げかけてくる。

 少し強情が過ぎただろうか。そんな不安が蛍の胸中を過ぎる。だが、この硬い口調を直すつもりは毛頭なかった。

 幼い蛍がそのような口調で話すことは、きっと周りから見れば酷く奇異に映るのだろう。それは蛍とて理解している。恐らくフィーネもその年齢にそぐわぬ蛍の口調を胡乱げに感じているに違いない。事実、蛍が研究所に連れてこられる前は、歳相応の少女らしい口調だった。蛍がこの口調を使い始めたのは、両親に売られたことを蛍なりに飲み込んだことができた後のことだった。

 この口調は、蛍の身に纏った鎧の一つであった。自身の心を守るため、もう誰も信ずるものかと決めた蛍にとって、他者との距離を必要以上に近づけないための心の鎧。そしてそれは、その口調を意識して使うことにより、自分と他人には距離があると蛍自身にも言い聞かせる一種の自己暗示でもあった。

 

「……まぁ、いいわ。それでは確認になるけれど、私――フィーネのことをどこまで知っているのかしら?」

「先史文明期に生き、リインカーネイションを繰り返すことによって現代まで存在し続ける巫女だとF.I.S.の研究員には教えられました」

「今代の器――櫻井了子(さくらい りょうこ)については?」

「日本政府の聖遺物研究組織に属する考古学者とだけ」

 

 その後、幾つもの質疑を繰り返し、フィーネは蛍が現状持ち合わせている知識の確認を行う。フィーネ、F.I.S.、レセプターチルドレン、聖遺物、そしてシンフォギアについて。フィーネが問いかけ、蛍はその問いに、自分の頭の中で一度整理しながら答えを返していく。問題がなければ、フィーネは矢継ぎ早に次を問いかけ、蛍の認識に間違いがあれば、その度に訂正をした。研究所で断片的な情報しか与えられなかった蛍は、フィーネから与えられた情報を元に自身の知識を繋ぎあわせ己のものにしていく。

 あまりの情報の多さ、突拍子のなさに正直頭を抱えたくなったが、泣き言を言っている場合ではない。情報はとても大切だ。それによって自身の身の振り方が決まるのだから。

 

 「ふむ」と何やら満足そうな表情を浮かべるフィーネを見やる。彼女は蛍に何をさせようというのだろうか。

 

 蛍はレセプターチルドレンである。それはつまり、次代のフィーネを受け入れるための器の候補ということだ。故に、次代のフィーネとして蛍を引き取り教育を施すのかとも考えたが、聞けばリインカーネイションには記憶の転写も含まれるらしい。器はフィーネとして目覚めた時から記憶の転写が始まり、フィーネの人格に元の人格が塗りつぶされ、その際にフィーネとしての知識も同時に取り戻す。教育を施す必要などないのだ。

 さらに、レセプターチルドレンとはいえ、アウフヴァッヘン波形に触れれば必ずフィーネとして覚醒するという訳でもないようだ。だからこそ、フィーネは数多くのレセプターチルドレンを集め、母数を増やした。

 ということは、フィーネはレセプターチルドレンとしての蛍に用はないことになる。であれば、フィーネが求めているのは、適合者としての蛍なのだろう。

 しかし、それでも疑問は残る。蛍とは面識はないが、蛍の他にもF.I.S.は幾人かの適合者を有しているらしい。聞けば、蛍と同年代ほどの少女たちだそうだ。彼女たちも蛍と同様に聖遺物との適合に成功した者たちであるはずだ。しかし、フィーネは彼女たちではなく新参の蛍を選んだ。

 そこまで考えて、フィーネと初めて逢った時の彼女と研究員の会話を思い出した。思えば、あの時、フィーネは「神獣鏡(シェンショウジン)のシンフォギアに適合者が現れた場合フィーネが引き取る」との取り決めを研究員たちと交わしていたと語っていた。

 

「……私は、神獣鏡(シェンショウジン)のシンフォギアで何をすればいいのですか?」

「やっぱり頭の回転は悪く無いようね。話が早くて助かるわ」

 

 蛍の問いにフィーネはにやりと唇の端を釣り上げ笑みを深める。蛍は、なるべくその笑みを視界に収めないよう少しだけ視線を下げた。フィーネの笑みは心臓に悪い。

 

「そうよ。貴女には神獣鏡(シェンショウジン)のシンフォギアを纏って私を手伝ってもらう」

「シンフォギアが、戦うための力だということは理解しました。でも、私は碌に訓練も受けていません。急にノイズと戦えと言われても……」

「いいえ。貴女にやってもらうのはそんな俗事ではないわ」

 

 小学生であった蛍でも知っている特異災害ノイズ。どこからともなく現れ人間だけを襲い、接触した人間を自身の体と共に炭素へと転換してしまうという生物のような形態をした存在。シンフォギアがノイズと戦うために開発されたと聞かされた時は驚いた。自分が首から下げた神獣鏡(シェンショウジン)が、まさかそんな大層なものだとは蛍は夢にも思っていなかったのだ。

 ノイズには物理的な攻撃手段が一切通じないと言われ、その対処方法を問われた時には、ただ自壊するまで逃げ切るしかないという。そのノイズを滅ぼすことの出来る力が、シンフォギアだというのだ。だとすれば、このシンフォギアという力は一体どれ程の価値を秘めているのだろうか。もしシンフォギアの力が本物であれば、人類の持つ技術はまた一つ新たなステージへとパラダイムシフトしたことになるのだ。

 

 しかし、フィーネは、それを俗事と切って捨てた。

 

 ノイズによる人々への被害をなくすための戦い。それをフィーネはただの俗事だと断ずる。

 それを聞いた蛍は、戦わずに済むという安心感よりも、フィーネへの恐怖が勝った。人類をノイズという最悪の災害から守る手段が在るというのに、そのことに対するフィーネの関心の薄さに蛍は身震いをした。

 蛍には彼女の言葉がこう言っているように聞こえたのだ。

 「人がどれほど死のうが興味はない」と。

 

「貴女は、この世界が理不尽だと、そう思った事はないかしら」

 

 いきなりのフィーネの言葉にどくんと心臓が跳ね上がった。だって、それは、蛍が口癖のように内心でいつも吐露している言葉そのままであったから。

 人が人を理解しようとしない、他人の痛みを分かろうともしない世界。蛍の大嫌いなこの世界。

 フィーネの前で、その言葉を口にしたことはない、と思う。以前やらかしてしまった時のように考え込んでいる内にいつの間にか口に出してしまっていただろうか。それとも、フィーネには他人の心を読むような能力でも備わっているのだろうか。有り得ない、とは言い切れない。聖遺物やフィーネといった異端技術(ブラックアート)の存在を知ってしまった今、常識なんてものは、吹けば飛ぶような考えであることを既に蛍は知っている。

 

「人が人と手を取り合うことよりも、人が人を虐げることの方が多いこの世界は、確かに理不尽に満ち溢れているわ。でも、それは、分かっていたとしても、人類にはどうしようない事なのよ」

「傷付き傷付け合うことが、人間の本質だというのですか」

「そうじゃないわ。人類が互いを真に理解し、手と手を取り合っていた時代は確かにあったの。少なくとも、私が生きた時代はそうだったわ。ルル・アメルが統一言語を用い、カストディアンとも語り合ったあの時代には、他者との交わりの中に意思の齟齬など生まれようがなかった」

 

 そう語るフィーネの眼差しはどこか遠くを見つめていて、まるで失ってしまったものを懐かしんでいるように見えた。そしてその表情には深い哀しみがあった。少なくとも、蛍の気を引こうと作った表情ではなく、フィーネが本気で何かを悔いているのだと蛍は感じた。

 人々が傷つけ合うのではなく、手を取り合った時代。本当にそんなものがあったのだろうか。だとしたら、それはどんなに素敵な世界だろう。輝かしい黄金の時代。フィーネの口から語られるそれは、まるで絵本に描かれたお伽話のようだった。

 だからこそ、遥か過去に思いを馳せた蛍は、問わずにはいられなかった。

 

「だったら……何故、世界はこんな風に変わってしまったのですか……」

「……それはね、人類が呪われてしまったからよ」

「呪われて……?」

「遥か昔、創造主と共に有りたいと願った一人の女が居たわ。彼女はそのために、天へと届く塔をシンアルの地に建てようとした。けれど、創造主は、人の身が同じ高みに至ることを許しはしなかった。創造主の怒りは深く、雷霆によって塔が砕かれたばかりか、人類は交わす言葉すらも砕かれた。果てしなき罰、バラルの呪詛を掛けられてしまった」

「バラルの呪詛……」

「私はあの呪いから人類を解き放つ。そして統一言語を取り戻し、今一度世界を一つに束ねる。その為だけに私は転生を繰り返し今を生きている」

 

 フィーネの語った事実は、蛍にとって到底信じられるものではなかった。

 

 けれど、心の何処かでもしかして、もしかしたらと考えてしまっている自分がいる。その先を聞いてはいけないと拒絶する蛍の心情とは裏腹に、耳を塞ぐ為に持ち上げようとした腕はうんともすんともいわない。

 明日に期待などしないと決めたではないか。未来に希望など抱かないと決めたではないか。この世界に夢など見ないと決めたではないか。

 両親の最後の笑顔の意味を知り、蛍の心は一度完全に折り砕かれた。あの笑顔を思い出すだけで、心が軋み悲鳴をあげる。だから、それは他人を信じないと決めた蛍にとって戒めであり、決して忘れてはならないこの世界の象徴だった。なのに、あの笑顔に込められた意味が薄れていく。

 バラルの呪詛があるから仕方ないとは言わない。両親が蛍を捨てたことは、変えようのない事実だ。今更、彼らと分かり合いたいとは思わないし、二度と会いたいとも思わない。

 けれど、もし、孤独に生きていくと決めたこれから先の人生で、もう一度、誰かと心を通わせ、共に笑いあうことができるのならば。

 それは、なんて――。

 

「蛍」

 

 只、名前を呼ばれた。それだけのことなのに蛍の身体はビクンと跳ねた。フィーネの声が、言葉が、蛇のように蛍の身体に纏わりつく。

 蛍には彼女がこれから先、何を言うつもりなのか分かってしまった。それは毒だ。一度聞いてしまえば、もうどうしようもなく、今までの蛍を殺してしまう猛毒。血潮が熱を取り戻し、鎧を身に纏った蛍の身体を内側から焼き尽くし、凍った心を溶かしてしまう。

 蓋をして心の奥底に封じた感情が、頭を覗かせる。理性が必死になって押し殺そうとするも、上手くいかない。今までずっとしてきたことが、フィーネのたった一言で、脆くも崩れ去ろうとしている。

 カタカタと震えが止まらない自分の身体を両の手で掻き抱いた。フィーネの前でこんな弱みを見せるなんて決してしてはいけない事なのに、止まれ、止まれと言い聞かせる言葉も虚しく蛍の身体は言う事を聞いてはくれない。

 

 弱い私は、期待も希望も夢も抱いちゃいけないんだ。

 理不尽なこの世界で生きていく為には、私みたいな人間はそんな眩しい物に縋っちゃいけない。

 裏切られて、捨てられることが怖いから、何も信じちゃいけないんだ。

 

 不意に、暖かい何かが蛍の身体を包み込んだ。見れば、椅子の背もたれの後ろから伸びた二つの腕が、絡みつくように震える蛍の身体を覆っていた。顔が直ぐ隣にあるのだろうか。彼女の息遣いが、耳元でやたら大きく聞こえる。振り返らずとも、誰のモノであるかなんて分かりきったことだった。此処には蛍と彼女の二人だけしかいないのだから。

 暖かかった。じんわりと衣服越しに、フィーネの体温を感じる。こんな風に誰かに抱かれたことは、いつ以来だろうか。母親によくこうして抱いて貰ったことを思い出した。母のような陽だまりのような香りではなく、薬品と香水が混じった酷く歪な匂いだったが、混乱した蛍には不思議と嫌な匂いではなかった。

 これは、駄目だ。この暖かさは蛍を蛍では無くしてしまう。遠い昔に失い二度と手に入る事はないと諦めていたものが、何故今此処にあるのだ。振り払う事は簡単だ。席を立ち、背後の彼女から距離を取ればいい。しかし、そんな簡単な事が、今の蛍には出来なかった。

 いつの間にか、瞼が下がり始めていた。視界が覚束なく、意識が遠ざかる。暖かさに身を任せてしまう。眠ってはいけないと思いつつも、蛍の意志に反してうつらうつらと蛍の小さな頭が船を漕ぎ始めた。

 朦朧とする意識の中にある蛍へと、囁くようにフィーネは止めの言葉(どく)を注ぎ込んだ。

 

「蛍、私と共に世界を変えましょう」

 

 瞳を閉じてフィーネの腕に身体を委ねた蛍は、自身の顔の直ぐ隣にあるフィーネの唇が酷く歪な形を成していることに気付けなかった。 

 

 

◇◇◇

 

 

 寝入ってしまった蛍を、彼女の為に用意した部屋のベッドに寝かせ、万が一にも起こさないようにゆっくりとシーツを掛ける。そのまま、安らかに寝息を立てる蛍の寝顔を観察する為、フィーネはベッドの端に腰を下ろした。肩にかかる程度に切り揃えられた蛍の黒髪を愛でるように撫でる。研究所では、碌な手入れをしていなかったのだろう。お世辞にも手触りが良いとは言えなかったが、それでもフィーネの手が止むことはなかった。

 

 フィーネは、一目見た時から蛍の事を気に入っていた。

 

 神獣鏡(シェンショウジン)の適合者が見つかったという報告を受け、身柄を引き取る為に訪れたF.I.S.の研究所で出逢った少女は、端的に言って、フィーネの好みであった。

 同年代の少女と比べて見ても発育の悪いであろう小柄な体躯、幼いながらも人形のように整った顔立ち、日本人特有の黒髪に、その隙間から覗く赤い瞳に力は無く、全てを諦めているかのような諦観が見て取れた。

 そして、その顔には何も感じていないと言わんばかりの無表情が貼り付けてあった。フィーネは、その表情こそが気に入った。

 調書によれば、この少女は両親に金で売られ、別れ際に見た両親の表情が笑顔であったことがトラウマになっている可能性が高いとのことだった。今でこそ落ち着いているものの、研究所に来たばかりの頃は、よく暴れ、自傷行為にまで及び、研究員たちが薬で無理矢理眠らせていたとの報告も聞いている。

 それが、どういうことだ。そんなやんちゃな一面など面影すら無く、目の前の少女はまるで心が壊れた人形のようではないか。否、その様に振る舞っているではないか。

 数千年の時を生き、様々な時代の、様々な人種を見てきたフィーネだからこそ、人間の心というものは存外そう簡単には壊れないことを知っている。例えそれが幼い少女の物であったとしてもだ。

 事実、彼女の感情は死んでしまっている訳ではない。普段は無表情で必要最低限の事務的な会話しかしない蛍だが、こと歌うという行為に関しては並々ならぬ執着を見せたというのだ。

 実験中であれなんであれ、歌っている最中には面白い程に表情が変化した。あまりにも自室で歌を歌うので、歌うことを禁止すると今度は鼻唄を歌い始めた。例を挙げればキリがないが、これらの事実がある以上、詞世蛍という少女が如何に歌うという行為に執着しているかは推して知るべしだ。

 そもそも、心が死んだ人物が歌った程度の歌で聖遺物が起動するはずが無いのだ。聖遺物を起動させるための歌は、誰の歌でも良い訳では無い。単純な歌唱力の高さは勿論の事だが、それ以上に、その歌に込められた想いこそが重要であり、それこそが聖遺物を起動させるほどのフォニックゲインを生み出すのだ。

 何故ならば、元来歌とは、人類が統一言語を失い他者との相互理解が不可能となった際にフィーネが創り出した、自分以外の何者かに想いを伝える為の送心手段であるからだ。バラバラになった言語を越えて、他者に自分の感情を、想いを、願いを伝える事こそが歌の本懐。結果として、歌という手段はフィーネの望んだだけの結果は得られず、研究・開発は打ち切ったものの、何千年経とうともその本質は決して変わるものでは無い。故に心の篭っていない歌など、ただの雑音(ノイズ)にすぎない。

 

 だとすれば、蛍の歌に込められた聖遺物を起動させ得るほどの想いとは一体何なのか。

 

 蛍の境遇、そして彼女が適合した聖遺物。それらを踏まえて考えれば、答えは自ずと導かれた。そして先程の会話で、フィーネの中でその答えは確信へと変わった。

 答えに達したフィーネは、蛍を手に入れたくて堪らなくなった。小さきその身体の内に秘めた想いの大きさに、そしてそれ程の想いを抱きながらもそれを必死に気付かない振りをしているいじらしさに、思わず達してしまいそうになる程の愛しさを覚える。心の奥からふつふつと嗜虐心が湧き上がってくる。

 躾けることが出来れば、どれ程優秀な駒になるだろう。上手く誘導すれば、バラルの呪詛を解くために身を粉にして働いてくれるに違いない。

 いや、最早、駒で無くともよかった。何の役にも立たない只の愛玩するペットとしてでもよい。例え蛍が神獣鏡(シェンショウジン)の適合者で無かったとしても、手元に置いておきたい程に、フィーネは蛍の事を気に入っていた。

 

 痛めつけたい。傷を残したい。自分の色に染め上げたい。その白い肌に、此れは己の物だという印を刻み付けたい。

 

 どす黒い欲求が胸中を駆け回るフィーネは、歪んだ笑みを貼り付けて、薬を嗅いで数時間は決して起きないであろう蛍の髪を、何度も何度も撫で続けた。




 どうしてこうなった。
 いつの間にかフィーネが暴走していました。

 誤字脱字は見つけ次第、修正します。


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EPISODE 03 「葬世と、創世を望む者たち」

 UA、お気に入りともに無茶苦茶伸びてて何事だと思ったら、何日か前の日刊ランキングに載ったみたいです。嬉しすぎて、眼鏡がずり落ちてしまいそうでした。
 まだ少ない話数にも関わらず読んでくださった方々、本当にありがとうございます。



 蛍は、背後から迫ったノイズの一撃を振り返りもせずに、体を捻り最小限の動きで回避する。凡そ13歳の少女には出来る筈もない挙動を、蛍が身に纏った濃紺の鎧はいとも簡単に可能とする。FG式回天特機装束、別名シンフォギア・システム。聖遺物の欠片から作られたその鎧は、蛍の歌に呼応して、幼い少女に超常の力を与える。

 周囲に配置したミラーデバイスに映った情報を擬似視覚として脳に直接映写する――鏡の聖遺物である神獣鏡(シェンショウジン)のシンフォギアだからこそできる荒技を用い、蛍は周囲に展開したノイズ達からの猛攻を捌き続ける。

 蛍は、ミラーデバイスから送られてくる情報を並列思考(マルチシンク)で処理しながら、その都度に最善の方法で対処を行う。時には回避を、時には迎撃を。戦闘において一つの判断ミスが敗北に繋がりかねない状況で、最善を選択し続ける。

 これがシミュレーターを使ったあくまでも訓練で、そこに実戦のような敗北が死に繋がる危険性がないのだとしても、手を抜く理由にはならない。訓練とは、実戦を想定して行うからこそ意味があり、そこに「どうせ訓練だから」などと言う甘さがあっては許されないのだ。

 特に今日は彼女の見ている前だ。ミラーデバイスから送られてくる視覚情報の中に、ガラス越しに此方を伺う白金の双眸がある。手抜きでもしようものなら直ぐに見破られるし、その後には間違いなく死んだ方がマシだと思えるような()()()()が待っているに違いない。

 腕から伸びた帯を変形させ、アームドギアである扇を閉じた状態で展開し、先端からビームを放つ。凶祓いの力を持った光が、前方に固まっていたノイズを焼き払った。

 どういう仕組みなのか専門家ではない蛍にはさっぱり分からないが、無駄に高性能なこのシミュレーターは、ノイズが炭化するその様子までキチンと描写する。巻き上がったノイズの死骸の奥から、幾つもの白い液体が蛍目掛けて飛び出してきた。

 あれに当たるのはまずい。あの液体は粘性を持っていて、当たったが最後、鳥黐のようにこちらの動きを阻害してくる。その後に待っているのは、ノイズたちによる容赦のない一斉射だ。経験者が言うのだから間違いない。

 蛍は脚部の装甲にギアのエネルギーを込め、イオノクラフトを起動。ビーフェルド・ブラウン効果で発生したイオン風により、蛍の体がふわりと宙に浮かび上がり、滑るような独特の機動により粘液を回避する。粘液が飛来した軌跡からノイズの位置を逆算し、お返しとばかりに閃光を放った。

 

 嫌らしいことをすると内心で悪態を吐く。

 

 蛍が視覚情報に頼った戦闘をしている事に気付いていて、あの様な攻撃パターンを組んでいるのだ。嫌らしいとしか言い様がない。「あのドSめ……」と絶対に彼女に聞こえない様に注意して呟く。

 そして、さらに腹立たしいのは、その意地悪が確実に此方の問題点を突いてきている点だ。数千年の時を生きた巫女としての経験、況してや今代の転生先は、稀代の天才考古学者。その頭脳、叡智の深淵を蛍程度の頭では推し量ることなど出来はしない。

 並列思考(マルチシンク)によるミラーデバイスの使用。確かにこの戦闘スタイルを確立して以降、蛍は視覚情報に頼った戦法を取る事が多くなった。幾ら数を増やそうとも、視覚情報だけではどうしても限界がある。それは、蛍も感じている事ではあった。

 ミラーデバイスの配置によってはどうしても死角は生まれてしまう。死角自体はミラーデバイスの数を増やせば消すことは可能だが、ミラーデバイスの操作を蛍自身が行っている以上、並列思考(マルチシンク)で動かすにも数に限界がある。現に、今の蛍では5機が限度だ。それ以上の数となると、設置は出来ても操作するには脳の処理が追いつかない。

 さらに、並列思考(マルチシンク)にも問題はある。5機というのは、あくまでも蛍が万全の状態で戦闘中に集中して動かせる限界数であり、蛍のコンディション次第でその数は変化する。例えば負傷するなどのアクシデントで集中が乱れた際は、5機分の並列思考(マルチシンク)を維持することは出来ないし、感情の起伏にも影響される。

 解決策自体は蛍とて考えている。一つは、機械的な補助。神獣鏡(シェンショウジン)に搭載されたダイレクトフィードバックシステムを応用した、ミラーデバイスの操作・情報処理の一部代替。だが、これは失敗だった。今迄は自分の手足の様に動かしていただけに、プログラム通りの動きしかできないミラーデバイスには違和感しか覚えず、どうしても慣れることが出来なかった。その証左として、機械的な補助を嫌った蛍のギアには、本来装備される筈であったHMD(ヘッドマウントディスプレイ)がオミットされていた。

 もう一つの解決策はもっと単純で、並列思考(マルチシンク)を更に鍛えることだ。並列思考(マルチシンク)の処理速度とタスク数の増加により、更なるミラーデバイスの操作数を増やす。短所を無くすよりも、長所を伸ばすことによって解決を図る。強引だとも思ったが、結局これ以外の解決策は思いつかなかったのだから仕方がない。

 

 後方で、ノイズたちが一箇所に集まっている様子を擬似視界が捉える。

 

 融合するつもりなのだろう。集まったノイズたちはその身を泥の様に溶かしながら一つに纏まり、爆発的にその体積を増大させていく。見上げる程にまでその体を肥大させたノイズは、大きな胴体に裂けるように開いた口を持つ異形だった。目を耳も鼻も脚もなく、まるで子供の落書きのような出鱈目さ、凡そ生物とは呼べない体。

 シミュレータールーム一杯にまで広がる巨体を引きずりながら、蛍を飲み込まんと大きな口を開いた融合ノイズは、丸みを帯びた胴体から生えたその二本の腕で這う様に此方に迫ってくる。圧倒的な質量を以って此方に迫り来る姿は、宛ら壁を思わせる。

 しかし、そんな光景を前にしながら、蛍は冷静そのものだった。この程度で動揺するほど、蛍の面の皮は薄くない。

 

 機動力の後は火力テストという訳か。

 

 並列思考(マルチシンク)が弾き出した答えは、圧倒的火力による殲滅。ユニットの展開に掛かる時間とエネルギーのチャージまでに掛かる時間を計算し、充分に間に合うとの計算結果を得た蛍は即座に行動を起こした。

 迫り来る融合ノイズに向き直り、まるでその巨躰を受け止めるかのように両腕を大きく広げると、口にしていた歌に更なる想いを込め、詞を歌い上げた。自身から発せられるフォニックゲインが加速度的に高まるのを感じ、呼応する様に、神獣鏡(シェンショウジン)のギアの出力が増していく。

 これがシンフォギア。装者の歌を、そこに込められた想いを、意思を、戦う力へと変える聖遺物の欠片から作られた鎧。蛍の歌に、何処までも応えくれる神獣鏡(シェンショウジン)のシンフォギア。

 蛍はその愚直さに愛しさを覚えずにはいられない。訓練中だと分かっていても、頬が緩む。戦場(いくさば)に笑顔など無用。そのことを、蛍は理解しているし、納得もしている。だが、それ以上に歌うという行為は蛍にとって楽しいものなのだ。両耳に備え付けられたヘッドフォンパーツから流れる旋律は蛍の心象風景の発露、胸の奥から浮かんでくるこの歌詞もまた同じ。それらは紡いだ歌とは、即ち蛍の蛍による蛍のための歌。そんな歌を奏でること以上に楽しいことなど、きっとこの世には有りはしない。

 脚部装甲から円形のミラーパネルを生成、自身を囲むかのように展開し、腕から伸びたエネルギーケーブルを接続する。ギアのエネルギーを注ぎ込まれたミラーパネルが淡い燐光を放ちながらチャージを開始した。

 融合ノイズは直ぐそこにまで迫っているが、蛍に焦りはない。既に試算は終えている。あの顎に、蛍が噛み砕かれることは決してない。

 

《流星》

 

 ミラーパネルから生じた濃紺色の極光が、融合ノイズの巨躰を飲み込んだ。神獣鏡(シェンショウジン)が持つ凶祓いの属性を付与された光が、聖遺物由来のあらゆる防御を討ち祓い、浄化させていく。

 神獣鏡(シェンショウジン)は鏡という武具ではない祭具の聖遺物故か、攻撃性能に関してそれほど優れているという訳ではない。むしろ、聖遺物としてのスペック――格という点では、発見された他の聖遺物に大きく劣る。しかし、こと聖遺物に対する能力において、神獣鏡(シェンショウジン)は他の追随を許さない。

 聖遺物殺しの聖遺物。聖遺物由来の悉くを滅する破魔の光。無垢にして苛烈。それこそが神獣鏡(シェンショウジン)のシンフォギア。

 言葉通り、塵も残さない。炭化することすら許されず、融合ノイズは紫光の奔流に飲み込まれ消滅した。

 蛍が万が一に備え、再びチャージを開始しようとするのと、訓練終了を告げるブザーがシミュレータールームに鳴り渡るのはほぼ同時の事だった。

 

 

◇◇◇

 

 

 この体に転生してからの9年は激動の9年だった。

 

 9年前、偶然、居合わせた第1号聖遺物「天羽々斬(アメノハバキリ)」の起動実験。そこで触れたアウフヴァッヘン波形により、フィーネとしての覚醒を果たした。

 今代の体――櫻井了子が、どのような人物であるかを知った時には、カストディアンに感謝した。考古学者という聖遺物に最も触れる機会が在るであろう立場。更には、異端技術(ブラックアート)を研究するに十分な科学力を有した日本という先進国において、その中枢深くに位置する暗部、政府直属の特務機関「風鳴機関」に所属していたという僥倖。これ程の好条件が揃った転生は、恐らくもう二度とはないであろう。この事実は、フィーネに今代での計画遂行を決意させるに余りあった。

 櫻井了子の記憶を頼りに、現在持っている手札を確認する。欠損しているとはいえ聖遺物には違いない天羽々斬(アメノハバキリ)、イチイバル、ガングニール。そして完全聖遺物たるデュランダルとネフシュタンの鎧。

 

 月を穿つ。一つの計画がフィーネの頭に中に浮かび上がる。完遂には手札が足りない。だが、それに関する知識はある。ならば、探すまでのこと。

 

 何をするにしても資金が必要だった。そこで、フィーネが着目したのが、ノイズであった。その正体は、バビロニアの宝物庫に収められし、先史文明期の負の遺産。統一言語を失った人類が、同じ人類を抹殺するためだけに創り出した自律兵器。フィーネであっても召喚することは出来ても、コントロールすることは出来ない扱いづらい欠陥兵器。

 特異災害と評されたノイズは、科学の進歩が著しいこの時代においてもなお、退けることの出来ない厄災とされているようだった。これを利用する。自身の異端技術(ブラックアート)に関しての持ちえる知識を、「櫻井理論」として纏めた論文を発表し、ノイズに抵抗する術を作れると為政者たちに訴えかけ、活動するために不自由のない資金と立場を手に入れた。

 その結果、生まれたのが、シンフォギア・システム。あのノイズに対抗しうる術が生まれたという事実に、為政者たちの食い付きは素晴らしく、更なる資金の融通を図らせることに成功した。

 櫻井了子として風鳴機関での立場を確固たるものとして暫くすると、風鳴機関が解体され、対ノイズとして編成された政府機関「特異災害対策機動部」その二課として再編される運びとなった。これは、秘匿性の高いシンフォギア・システムの更なる運用・研究を効率よく行うための政府による決定であったが、その裏にはこの技術を他国に渡さず専有したいという為政者たちの浅ましい独占欲があったことは想像に難くなかった。

 所属する機関が変わるというのは、櫻井了子として特異災害対策機動部二課への異動が内定しているフィーネにとっては心底どうでも良いことであったが、その本部が新たに建造されると知ったフィーネは、再び謀略を張り巡らせる。あれやこれやと理由をつけて、その設計に一枚噛むことにした。

 シンフォギアへの適合を見込まれる少女たちを集めるための学園を作るという計画に便乗し、その地下深くに1,800mにも及ぶ広大な施設を建造する。同時に地下へと潜る際に使用するエレベーターシャフトを塔へと見立て、天を突く魔塔――荷電粒子砲「カ・ディンギル」の建造も秘密裏に進める。完成までには十年近くは掛かるであろうし、動力源たるデュランダルの覚醒も未だ成ってはいない。

 

 高々十年、今更気にするほどの刻でもないと割り切り、その間に他の計画を推し進めることにした。

 

 カ・ディンギルによる月の破壊。それにより引き起こされる重力崩壊は、この星の環境を大きく変えてしまう危険を孕んでいた。故に、人類には、新天地が必要だった。新たなる時代に、人類が生き残るための方舟をフィーネは求め、そして見つけた。日本近域の海中深くに、古代の超常術式により封印され、完全にその機能を停止した巨大建造物「鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)」。遥かな昔、カストディアンが異なる天地より飛来してきた際に用いたと伝えられる星を渡る船。何度も口にしていると舌を噛みそうな名前であったため、「人類の新天地」という意味を込め、「フロンティア」というコードネームを名付けた。

 調査を進めると、通常の手段ではどう足掻いても封印の解除及びフロンティアの再起動は果たせないとの結論に達した。異端技術(ブラックアート)には異端技術(ブラックアート)という訳だ。記憶を探ると、おあつらえ向きの聖遺物があったと思い至った。魔を祓う歪鏡「神獣鏡(シェンショウジン)」。そして天より落ちたる巨人「ネフィリム」。この二つの聖遺物があれば、フロンティアの完全覚醒は叶う。そう確信したフィーネは、2つの聖遺物の行方を探し始めた。

 

 神獣鏡(シェンショウジン)は日本国内長野県の山中にある可能性が高いことが分かった。日本政府が保有していないことを考えると未だ発掘されていないのだろう。これは追々確認するとして、問題はネフィリムだった。

 

 様々なデータベースを探った結果、ネフィリムは現在アメリカの管理下にあることが判明した。背には腹は変えられないと、「櫻井理論」を初めとした異端技術(ブラックアート)の情報と二課結成時のごたごたに乗じて盗みだしていたイチイバルを手土産に米国との接触を図った。警戒はされたものの交渉自体は上手く進み「F.I.S.」という聖遺物研究機関を設立するに至った。

 その後、フィーネはネフィリムの米国外への持ち出しは現実的ではないと考え、起動はF.I.S.所属の研究者たちに一任した。米国での聖遺物研究を一手に担うF.I.S.ならば、起動したネフィリムに与える餌を必要量確保出来るであろうことを加味しての判断だった。

 更に、米国にはフィーネの情報を開示した。日本政府にさえ伏せていた情報を何故米国には開示したのか。それは偏に、日本ではやりづらい事を米国で行うためだった。

 フィーネの因子を次ぐ子供たち――レセプターチルドレンの収集と確保。これがF.I.S.の作られたもう一つの目的。フィーネの魂がどの器に宿るかは分からないが、フィーネの因子を持って生まれた子供たちを一同に集め、常にアウフヴァッヘン波形に触れるような環境に置き、リインカーネイションが起こる下地を整えておく。計画を始動させた以上失敗は許されないが、万が一にも、この櫻井了子という体で失敗した場合の保険はかけておく必要があった。

 日本という国はその国民性故か、孤児や人身売買にはいい顔をしない。かと言って、政府の力を借りずに私的に行うには如何せん規模が大きい計画であったし、国内でそんな勝手な真似をすれば遅かれ早かれ、風鳴の人間に確実に嗅ぎつけられる。その点、米国の利用できるものは何であろうという利用するというスタンスは、そういった非倫理的な行動を必要としたフィーネには、非常に利しやすいものであった。

 

 F.I.S.がネフィリムを機械装置を介して起動させるという馬鹿馬鹿しい実験で装者一人を失う失態を演じたその一年後、二課を通じて捜索を進めていた神獣鏡(シェンショウジン)を祀った遺跡らしきものが発見される。

 

 フィーネの予想通り長野県の山中――皆神山にその存在が確認され、捜索チームが派遣される事となった。ある程度の発掘作業が進んでから、ノイズを召喚し捜索チームを全滅へと追い込み、その混乱に乗じて神獣鏡(シェンショウジン)を強奪した。

 ほぼ計画通りだったとはいえ、フィーネにも誤算があった。出土した神獣鏡(シェンショウジン)が完全聖遺物とは言い難く、幾つもの破損が見られた事だ。完全聖遺物としての運用が不可能な時点で、何かしらの対策を講じる必要性が生まれた。機械的に力を増幅させての運用も案としてはあったが、先のネフィリムのように無理矢理に覚醒させて暴走状態になられても困る上、フロンティアの封印を解くだけの出力を得るのは難しいだろうとフィーネは考えた。そこで思い至ったのは、神獣鏡(シェンショウジン)をシンフォギアへと加工してしまうことだった。装者の歌により出力を増した神獣鏡(シェンショウジン)のシンフォギアであれば出力的には問題はない。

 フィーネは神獣鏡(シェンショウジン)をF.I.S.へと持ち込み、シンフォギアへの加工を進めるとともに、装者候補の選出を行った。ガングニールという餌をチラつかせるとF.I.S.は面白いほど従順になった。

 

 そしてフィーネは少女に出逢った。

 

 

◇◇◇

 

 

 シミュレータールームの隣に備え付けられた観察室でガラス越しに行われた訓練を目にしたフィーネは、その内容に浮かべていた笑みを深めた。機動力、火力、判断力そのどれをとっても現段階では、上々の出来だと言える。本来であれば、神獣鏡(シェンショウジン)の装者にはダイレクトフィードバックシステムを用い、此方の意の儘に動く操り人形に仕立てあげるつもりであったが、とんだ拾い物をしたものだ。偽りの意志を植えつけただけの装者ではその運用に些かの不安があったため、正規の装者によるまともな運用が出来るのであればそれに勝ることはない。訓練を開始して、たった1年でこの動き。現状でこの仕上がりならば、将来的には、あの絶刀と撃槍にも届き得るだろう。

 計画のために必要なピースが、徐々に自分の手の内に収まることに、フィーネの心は歓喜の内にあった。長年の悲願が、数千年もの長い刻を掛けた己が想いが成就するまで、あと一歩の所まで来ていることに体が身震いする。

 未だ計画は道半ば。なれど、そこへと至る道筋ははっきりと見えている。古来より不和の象徴とされた月を穿ち、人類をバラルの呪詛から解き放つ。そして、月の崩壊に伴う重力崩壊と天変地異を恐れる人類を、聖遺物の力によって隷属し、世界を今一度一つに束ねる。それこそが、遠き過去、ルル・アメルが統一言語を用いカストディアンと語り合ったあの輝かしき日々の復刻。その時にこそ、数千年の時が経とうとも色褪せることのなくこの胸の内に在る炎のように燃える恋慕を、再び彼の人に伝えるのだ。

 

「フィーネ、入っても構いませんか?」

 

 部屋の外から掛けられた声に、フィーネはデータを打ち込んでいた手元のデバイスから視線を上げ、入室を促す答えを返す。リボンやレースをふんだんに使ったまるで人形が着ているかのような洋服――完全にフィーネの趣味である――に身を包んだ蛍は、訓練を終えシャワーを浴びてきたのか髪は微かに湿り気を帯び、頬は僅かに上気していた。

 

「今日の訓練、どうでしたか?」

「悪く無いわ。適合系数も徐々に伸びてきているし、シンフォギアを纏っての戦闘にも随分と慣れてきたわね」

「ッ! そう、ですか……」

 

 蛍は不安そうな表情をして、先程の訓練の出来を尋ねてくる。

 普段であればフィーネは戦闘訓練の内容を褒めるなど滅多にしないが、計画の進捗状況に気を良くしていたフィーネは、偶には鞭だけではなく飴も必要だろうと蛍の頭にそっと手を伸ばした。少し湿り気を帯びた癖の少ない柔らかな感触が手のひらに伝わり、仄かなシャンプーの匂いが鼻腔を擽った。撫でる度にピクンと反応する小さな体が微笑ましく、ついついその顔を苦痛に歪ませたくなるが、飴を与えると決めたばかりだと自制した。

 そのまま撫でていると、一度驚くように目を見開いた後、不安そうな表情は鳴りを潜め、その顔にはいつもの鉄面皮が貼り付けられてしまった。その無表情こそが、蛍が自身の感情を抑えつけている時の癖だとフィーネは既に見抜いている。不自然な程に色をなくした表情は、逆に秘めた想いがあるのだと語っていることに少女が気付くのはいつの事になるだろうか。勿論、フィーネからその事実を蛍に伝えることは有り得ない。わざわざ彼女の魅力の一つを自ら消してしまうことなど考えられない。

 

並列思考(マルチシンク)もよく使いこなせているわ。訓練を始めたばかりの頃とは見違えるよう」

「ふ、フィーネが桜井了子を演じている時の二重思考(ダブルシンク)のコツを教えてくれたからです。私はそれを参考にしたに過ぎません」

 

 煽てるようなフィーネの言葉に先程よりも僅かに耳を赤らめた蛍を視界に収め、フィーネは随分と絆されてきたなと更なる満足感を得る。まだ完全な信頼は得られていないものの、他人を信じないと心に決めた少女が、こうしてされるがままに頭を撫でられていることを考えれば、随分な進歩だと言える。捨て猫が懐くとはこういうことを言うのだろうか。

 

「可愛い可愛い私の蛍。どうかフロンティアの封印を解くまで、私に力を貸して頂戴ね」

「……はい、フィーネ。この世界が変わるというならば……私は、この力でどんなことでも成し遂げてみせます」

 

 フィーネは、誰にも語っていない己の本当の目的とその手段を蛍に教えていた。無論、己の恋慕や野望の全てを語った訳ではなく、ある程度は耳障りの良い言葉に置き換えた。例えば、月の崩壊に伴う地球環境の変化については、重力を司る聖遺物――フロンティアを再起動させることにより防ぐことが出来るなど、ある意味では真実だと言える嘘を語った。もしそれが偽りだと露呈した場合、彼女の協力が得られなくなる可能性は孕んでいたもの、そうなった場合は当初の予定通りにダイレクトフィードバックシステムによる洗脳を行うだけだ。

 しかし、フィーネはその可能性は低いと考えている。何故なら月が破壊されることによって起こりうる重力崩壊の規模など、碌な物理の知識もない元小学生の蛍には分かり得る訳もなく、それが世界規模での人口の減少をもたらすという真実に蛍が気付ける筈がないからだ。また、調べようにも屋敷内のデータ端末には全てロックが掛かっているし、現段階で蛍をこの屋敷の外に出すつもりもなければ、他人と関わらせるつもりもない。情報の得ようがないのだ。この閉じられた屋敷の中に居る限り、蛍に与える情報の取捨選択はフィーネの思うがままであり、都合の悪い情報の一切を排除するなどお手の物であった。

 

 自分でも気付かぬ内に、フィーネに染め上げられている哀れな娘。まるでフィーネの手のひらの上でくるくると踊り続けるマリオネット。フィーネは、そんな蛍を愛しく思う。裏切りを忌避するこの少女が、初めから騙されていたと知ったら、どんな悲鳴を聞かせてくれるだろう。どんな表情を見せてくれるだろう。期待に胸が高鳴る。

 フロンティアの覚醒さえ済んでしまえば、はっきり言って蛍は用済みだ。むしろ、聖遺物の力によって人類の隷属を望むフィーネにとって、自分以外の聖遺物の力を行使できる存在は邪魔でしかない。

 だから、きっと、決別の刻はいずれ訪れる。

 

 可愛い可愛い私の人形。どうか最後のその刻まで、上手に踊って頂戴ね。




 独自解釈マシマシです。実は今話の執筆中に、資料用として無印のコミカライズを購入したのですが、そこで色々な設定を知りまして(例えば、日本政府上層部がシンフォギアに対して理解を示したのは奏が装者になった後、等々)。アニメをベースに考えていた本作とは、多少設定に齟齬が生じています。

 今話ではクリスの登場を早めたいが為に割とさくさく進めている関係もあり、少し本作の時間軸が分かりづらいかもと思ったので、現段階までのちょっとした年表を書いておきます。

※アニメ本編開始を0とお考えください。

12年前:天羽々斬の起動実験で桜井了子がフィーネとして覚醒
    桜井了子として櫻井理論を発表。シンフォギアの開発に乗り出す
10年前:二課結成。フィーネがどさくさに紛れてイチイバル強奪
    フィーネ、アメリカ政府との交渉開始
9年前 :F.I.S.結成
8年前 :クリス、南米バルベルデにて消息を絶つ
7年前 :セレナのシンフォギアへの適合が判明
6年前 :ネフィリム起動実験が失敗。セレナが死亡
5年前 :長野県皆神山にて神獣鏡を発掘。フィーネがどさくさに紛れて強奪
    奏が発掘チーム唯一の生存者として二課に保護される
    蛍(11歳)、両親に売られF.I.S.に
4年前 :奏がLiNKERの投与により、ガングニールに適合
    蛍(12歳)、適合テストにより神獣鏡の装者になる
    フィーネが蛍を引き取る
3年前 :今話
   
 ざっくりとこんな設定でお届けしています。
 シンフォギア、LiNKERの詳しい完成時期は公式で明記されていませんが、シンフォギアはアニメ本編でセレナがアガートラームを身に纏っていた事から少なくとも6年前には完成していたはず。
 LiNKERは元F.I.S.職員のウェル博士が開発したAnti_LiNKERの開発コードが「ALi_model_K0074_L」でありmodel_Kの名を冠していることから、LiNKERの研究自体はF.I.S.でも行われていたものの、実用に足るものが完成したのが二課にて奏を被験者として開発されたLiNKERのみで、フィーネを経由してmodel_Kを入手し独自の研究を進めたためmodel_Kの名が入っているという設定です。

 なんであとがきで900文字近く書いてるんだろうと若干後悔しています。
 そして書き溜めが尽きたので、恐らく次回更新遅れます。


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EPISODE 04 「雪の音」

 沢山のUA、お気に入り登録、本当にありがとうございます。過分な評価に舞い上がり、土日を丸々使って書き上げてしまいました。
 文字数が多めですので、ご注意ください。



 この屋敷に来てから三度目の新年を迎え三週間程が過ぎたその日、日課となった戦闘訓練を終え自室に戻った蛍は窓の外に広がる一面の銀世界を眺め、静かに溜息を漏らした。

 初めて見た時こそ、山全体を覆うように降り積もった雪が太陽を反射して白銀に輝くその光景に目を奪われたものの、三度目ともなれば流石にその感動も薄れる。さらに言えば、今の蛍にはこの雪景色を美しいと感じる心よりも、今なお降り止まぬ白い塊を憎々しく思う感情が胸中を占めていた。

 蛍の視線の先、屋敷の前庭には真新しい純白の雪がこれでもかと積もり、麓へと続く唯一の道は宙を舞う雪に阻まれその姿すら見ることができない。

 

「この積もり様じゃあ、今日も帰って来ないかな……」

 

 フィーネが最後に屋敷を訪れてから、既にひと月が過ぎていた。今までも一週間や二週間程ならば家を空けることは多々あったが、流石に一ヶ月もの間屋敷に一度も帰らないというのは初めてのことだった。年明けに特機部ニ(とっきぶつ)で予定している大規模かつ重要なプロジェクトの準備のせいで、櫻井了子としての活動時間が増えるとは聞いていたが、まさかこんなにも長引くとは流石の蛍にも予想外であった。

 事前にフィーネから伝えられていたその名を、ぽつりと漏らすように呟く。

 

「『Project:N』、か……」

 

 天羽々斬(アメノハバキリ)のシンフォギア装者たる風鳴翼(かざなり つばさ)と、ガングニールのシンフォギア装者たる天羽奏(あもう かなで)。特機部ニ所属の装者二人によるツインボーカルユニット「ツヴァイウイング」、そのライブを利用して完全聖遺物「ネフシュタンの鎧」を起動させる政府公認の秘密実験。それが「Project:N」。

 完全聖遺物の起動には、莫大なフォニックゲインが必要になる。例えシンフォギアを起動させるだけのフォニックゲインを生み出す装者であっても、容易には満たすことの出来ない程の値が必要とされる。装者である蛍であればこそ、完全聖遺物を起動させることが容易ではないことを誰よりも知っていた。蛍自身、以前F.I.S.の研究所にいた頃に、ソロモンの杖やネフィリムなど幾つかの完全聖遺物の前で歌った経験があるが、なるほど確かにアレは難物だと言えた。他の装者はどう感じているかは分からないが、蛍は聖遺物の起動に必要なフォニックゲインを距離として感じることが出来る。シュルシャガナやイガリマ、ガングニールなどの欠損した聖遺物を前にして歌った時は、後ほんの少し手を伸ばせば届くということが感覚で伝わって来たのだが、完全聖遺物を前にした際に感じたソレは、ちょっとやそっとのことでは埋まらない程の距離だったと記憶している。

 Project:Nは、完全聖遺物の起動に必要なその莫大な量のフォニックゲインを、ツヴァイウイングの歌唱と、それに呼応するライブ会場を訪れているオーディエンスたちから放たれるフォニックゲインにて賄おうという計画である。最悪の場合ネフシュタンの鎧が暴走する可能性がある危険な実験を、観客に一切知らせないまま実施することに、人道的に褒められたことではないと反発した政府上層部に計画を通すため、フィーネが相当な無茶をやらかしたと聞いている。とはいえ、失敗の可能性はほぼゼロだろう。フィーネがそれほどまでに強行するということは、彼女は実験が成功するという確証を既に得ているに違いない。

 完全聖遺物は装者を必要とするシンフォギアとは違い、一度起動させてしまえば適合者という特別な才能を持つ者でなくとも扱うことが可能となる。未だ増え続けるノイズによる被害は、現状で二名しか存在しないシンフォギア装者たちでは防ぎきることができない。それは決して風鳴翼と天羽奏が(なまくら)だという意味ではない。風鳴翼は幼少の頃から戦士としての訓練を積み、防人(さきもり)(つるぎ)として相応しい実力と戦う覚悟を身に付けているし、対する天羽奏も、その類稀なる精神力でガングニールに適合し、風鳴翼に比べ訓練を始めた時期こそ遅いものの、今では彼女と遜色ない戦士へと成長している。一度、彼女たちの戦闘を録画した映像をフィーネに見せてもらったことがあるが、映像の中で繰り広げられる装者二人の戦闘風景は圧倒的であり、フィーネの言に間違いはないと感じたことを覚えている。

 単純に、数が足りないのだ。いつ何処で起こるかも分からないノイズの被害に対して、それに対抗できる戦力がたったの二人だけだというのは、余りにも手が足りていない。加えて、天羽奏という少女はLiNKERによって無理矢理に適合系数を引き上げた鍍金の装者であり、低い適合系数によるギアからのバックファイアとLiNKER常用の負荷が祟り、ボロボロな彼女の肉体はいつ限界を迎えてもおかしくない状況にある。

 Project:Nは、そんな暗雲立ち込める現状を打破するため二課が総力を結集して行う実験であり、もし成功すれば、「世界を守る」なんて重すぎる十字架を背負った年端もいかない少女たちを支えることができる。フィーネは、計画遂行のために精力的に活動する特機部二司令のそんな考えを、「相も変わらず、砂糖菓子の様に甘すぎる」と評していたが、ブツブツと愚痴を漏らしながらも残業のように屋敷に仕事を持ち帰ってまで計画の細部を煮詰めていたことを考えれば、フィーネにとってもネフシュタンの鎧の起動はそれなりに関心のあることなのだろう。

 

 何事もなければ、ネフシュタンの鎧は間違いなく起動し、実験を無事に終えることができる。何処かの誰かさんが実験機材に細工をして意図的に暴走でもさせないかぎりは、だが。

 

 櫻井了子として実験に積極的な協力をする姿勢を見せるその裏で、フィーネには別の目的があった。それは、起動したネフシュタンの鎧の強奪。歌の力により覚醒し、現代では製造不可能な異端技術(ブラックアート)を十全な形として振るうことの出来る完全聖遺物は、フィーネにとっても世界に二つとない貴重な存在であり、シンフォギアを纏えぬ彼女でも扱うことの出来る強大な力だ。「それをみすみす敵にくれてやる道理はないでしょう?」と微笑みながら此方に問いかけてくるその姿に、蛍が身震いをしたのは言うまでもない。

 フィーネから聞かされたその計画は、人々のパニックを利用した火事場泥棒としか言いようのないものだった。まず覚醒時にネフシュタンの鎧から放たれる爆発的なエネルギーを制御するための装置に事前に細工を施し、偶然を装った小規模のエネルギー爆発を起こす。その騒ぎに乗じてノイズを召喚してライブ会場をパニックに陥れる。逃げ惑う人々を救うため装者たちの目線は当然ノイズに向くであろうから、その隙を突いてネフシュタンの鎧を奪取する。

 手伝いが必要か尋ねてみたが、フィーネはその問いに首を横に振った。間違いなく戦場(いくさば)になるであろうライブ会場に蛍を連れて行かなかったということは、彼女一人の力で十分に計画遂行が可能であり、蛍というカードを敵に晒すには時期尚早だということだ。蛍が表舞台に立つのはまだ先になる。

 

 犠牲になる人々に対し、何も思う所はない、とは言えない。

 

 きっと多くの人が死ぬ。ツヴァイウイングのライブを楽しみにして会場を訪れていた無辜の観客たちの命が炭と変わる。

 実際に蛍が手を汚したわけではない。けれど、協力者たるフィーネが召喚したノイズが奪ったその生命は、蛍が摘み取ったも同じことだ。フィーネがそういう手段を平気で用いると分かっていながらも、彼女に協力している蛍の罪だ。

 世界を変える。そんな蛍の我侭で、散っていった命を忘れることは許されない。それは蛍が一生背負うべき十字架だ。

 ライブ会場を訪れた観客の中には、今の世界に満足し、笑いながら幸せの日々を甘受していた人もいたことだろう。蛍には彼らが羨ましいだとか、妬ましいという気持ちは一切ない。只、己が為す不条理に、理不尽に、巻き込んでしまう申し訳なさだけがあった。

 それでも――。

 

 望む明日がある。掴みたい未来がある。叶えたい夢がある。

 血潮が熱を取り戻したあの日から、胸に宿った小さな蛍火は、目を背け難い輝きとなって今なおこの身を焦がし続けている。

 だから、止まれない、止まらない。あるべき世界を取り戻すまで、遥かに掲げし決意の塔の上、血に塗れた歌を独り歌い続ける。

 他の誰でもない自分の為だけの詞を、世界と戦う力に変えて、奏で続ける。

 歌い続けたその先には、きっと誰かの笑顔があると信じて。

 

 

◇◇◇

 

 

 蛍は落ち込んだ気分を払うように、曇った窓ガラスを手で拭った。日が落ち辺りが闇に包まれたのにも関わらず、深々と降り続ける雪は未だ止む気配を見せない。

 

 蛍の記憶違いでなければ、ツヴァイウイングのライブは二週間以上前に終わっている筈である。万が一、ということもある。あの性悪がまさか失敗するとは思えないが、こうも音沙汰がないようでは、要らぬ不安が募るばかりだ。どうせ散々好き放題したせいで後処理に奔走しているか、山道が雪で埋まっていて帰れないかのどちらかだとは思うが、何にせよ連絡の一つぐらい寄越せと思う。決して、フィーネの身を案じている訳ではない。断じて、ない。

 そもそもフィーネは、その戦闘力こそシンフォギアを纏った装者には劣るものの、人の身でありながらノイズの攻撃を防ぐほどの(バリア)を発生させることができるし、数千年を生きてきた経験からか格闘術までこなす。おまけにオツムの出来まで天才だというのだから手に負えない。性格の悪さにさえ目を瞑れば、完璧超人と言っても過言ではないスペックを誇るのがフィーネという女だ。

 

「あの人外がそう簡単にくたばる訳もない、か。……あれ?」

 

 本人が居ないことをいいことに言いたい放題の蛍だったが、ふと、窓の外の景色に異物を見つけた。「なんだろう……」と蛍はガラスに顔を近づけ目を細める。視界を遮る雪が邪魔で良くは見えないが、それは麓から屋敷へと続く唯一の山道を二つの光源が登ってきているように見えた。

 

「まさか……」

 

 呟くと同時に、厚手のコートに手を伸ばし部屋を飛び出す。エントランスに至るまでの最短距離を並列思考(マルチシンク)で叩き出した蛍は、その両足に力を込めて床に這ったケーブルに転ばぬよう注意しながら薄暗い屋敷の廊下を全速力で駆け抜けた。

 辿り着いた扉の前で、手に持ったコートに袖を通し、乱れた呼吸を整える。ドアノブに手をかけ、蛍の身長の3倍はあろうかという玄関を開け放つと、凍てついた風が蛍の全身を打った。吐き出した息が途端に白くなり、暖房の効いた室内の温かさに慣れてしまった蛍の体がぶるりと震える。

 

 扉を開けたその先の光景に、絶句した。

 

 蛍も一度乗ったことがある国内メーカーの有名な3ドアコンパクトカー。フィーネではなく櫻井了子の趣味に合わせたのであろうそのピンクの車体が、ヘッドライトを灯しながら積もりに積もった雪道をこともなさ気に走っている光景に、蛍は開いた口が塞がらなかった。スタッドレスタイヤを履くだとかチェーンを巻くだとか、そういうレベルの問題ではなく、何かしらの異端技術(ブラックアート)でも使っているのだろうか。でなければ、山中深くにあるこの屋敷に、あんな見た目どノーマルのコンパクトカーが、大量の雪が降り積もった細い山道を踏破し、無事にたどり着くなんておかしいではないか。

 屋敷の玄関前に乗り付けたピンクの車の運転席側のドアが開き、一ヶ月ぶりにその姿を蛍の前に晒したフィーネは、彼女本来の姿ではなく、ブラウンのロングヘアーをまるで貝の様にアップにまとめ、トレードマークの眼鏡と白衣を身につけた特機部ニ研究班主任――櫻井了子としての姿だった。蛍の姿をその目に収めると、フィーネは何がそんなに楽しいのだろうぶんぶんと腕を大きく振りながら、スキップ混じりに蛍に向かって駆け寄ってきた。

 

「たっだいまー! 蛍ちゃん元気にしてた? 私が居ないからって訓練サボったりなんかしてたら、お仕置きしちゃうわよ!」

「一ヶ月も留守にしておいて、第一声がそれですか」

「あらやだ、もしかして蛍ちゃんってば怒ってる? ごめんなさいね、こっちもこっちで忙しすぎて身動きが取れなかったのよ。徹夜は美容の天敵だっていうのに、ほら見て、寝不足でこーんなに大きな隈が出来ちゃったんだから。私が幾ら出来る女と評判だからって、皆働かせ過ぎよね」

 

 相も変わぬ普段のフィーネとのギャップに、蛍は顰めそうになった顔を引き締める。

 櫻井了子という人格は既にこの世に存在していない。10年前、櫻井了子がフィーネとして覚醒した瞬間に彼女の意識はフィーネによって塗り潰された。今の櫻井了子という人物は、フィーネが彼女の記憶と知識を基に演じている虚像に過ぎない。

 マイペースで自由奔放、傍から見れば只のお調子者に見えないこともないが、その実、中身は稀代の天才考古学者。天才には変わり者が多いとよく言うが、その典型を地で行くのが櫻井了子という人物だ。これをあのプライドに足が生えたようなフィーネが演じているとは、未だに信じられない。それもフィーネとして目覚めてから、10年近くもの長い期間を、周囲の人間に全く悟らせることなくだ。

 

「それにしても、わざわざ出迎えてくれるなんて、実は蛍ちゃん私に逢えなくて寂しかったのかしらん?」

「……不審な灯りが窓から見えたから確かめにきただけです。おかしな勘繰りはやめてください」

「ふーん、そうなの。……あら? あらあら? まぁまぁまぁッ!」

「な、なんですか、急におかしな声を上げて……」

「うふっ、うふふ、うふふふふふふふふ、別に何でもないわよ?」

「……そんな笑い方までしておいて、何でもないなんて理屈が罷り通るとでも? いったい全体何だというんですか……」

「ふふっ、本当に大したことじゃないのよ。只、蛍ちゃんの足元が随分と寒そうだなぁって思っただーけ」

 

 フィーネの言葉に、蛍ははっと自分の足元を見る。蛍はこの寒空の下にも関わらず、自分が普段から愛用している部屋履きを履いている事に漸く気が付いた。「い、急いでいたんです。仕方がないじゃないですか」と冷静さを装ってみたものの、恐らく今蛍の顔は羞恥で赤く染まっているのだろう。恥ずかしさから、顔を上げることが出来ない。顔を上げれば、真っ赤に染まった己の顔をフィーネに見られてしまう。既に何度となく見られている気もするが、今日のこれは蛍にとって過去最大級の恥ずかしさであり、とてもではないが直ぐにはいつもの無表情に戻れない。「あぁん、本当におぼこいんだから」とやたら艶めかしい声で宣うフィーネの方を絶対に向かぬよう、蛍は俯いたまま自分の表情筋の不甲斐なさに活を入れるも、顔を染め上げる恥辱の熱は一向に冷める気配を見せてくれなかった。

 

「可愛い蛍ちゃんをもっと眺めていたいけど、残念ながら今日はあまり時間がないの。直ぐに向こうに戻らないと行けなくてね。まったくもう奏ちゃんが死んじゃうなんて予想外もいいところ。此方としては、二課の戦力が削れて万々歳なんだけど、お陰で事後処理が面倒くさいったらありゃしない!」

「は? 天羽奏が死んだのですか? まさかノイズ程度にやられて?」

「逃げ遅れた観客を庇ってね。Project:Nに余計な不確定要素(ガーベッジ)を混入させたくないから、公演前から暫くLiNKERの投与を控えさせていたのが、こんな結果を生むなんて、世の中、何が起こるか分からないものねー」

 

 フィーネの言葉に蛍の羞恥心は何処かへ吹き飛び、その内容がもたらす衝撃に驚愕から蛍は思わず顔を上げた。とんでもないことを何でもないことのようにあっさりと語るフィーネの姿を睨むように視界に収める。年甲斐もなくわざとらしく頬を膨らませて不満を露わにするその表情からは、櫻井了子として2年近く極々親しい距離で接してきた少女の死を悼む気持ちは欠片も見られず、二課の貴重な戦力であるツヴァイウイング――その片翼を屠ったというのにそれを喜ぶような気配もまた皆無であった。天羽奏の死に興味はないというフィーネの本音が、有り有りと伝わってきた。

 フィーネにとってはどうでもいいことなのかもしれないが、蛍にとって天羽奏が死んだという事実は、頭をガツンとハンマーで殴られたかのような衝撃だった。たった一度映像で見ただけで、実際には言葉を交わしたことすらない少女のことを思う。まるで羽毛のような朱い髪を靡かせて、手にしたアームドギアで次々とノイズを屠るその姿は、今もなお蛍の脳裏に焼き付いている。映像を見た蛍は、今までは漠然としかしていなかった戦うべき相手の姿を、初めてその瞳で見定めたのだ。ノイズではない蛍と同じ意志を持った人間こそが、蛍の前に立ちはだかる壁なのだと覚悟を決めた。

 だというのに、遠くない未来、いずれ来る戦場で矛を交える筈であった打倒すべき敵の片翼が、自分の知らぬ間にこの世を去っていた。この事実に、蛍は形容しがたい喪失感を覚えた。倒すべき敵が減ったと喜ぶべきなのに、この胸にある寂寥感は一体何だというのか? 胸の内から湧き出た問いに、返すべき答えを蛍は終ぞ見つけることが出来なかった。

 

「もうッ! そんな終わったことはどうでもいいの。今日はこんな話をするために、わざわざこの雪の中車を走らせてきたわけじゃないんだから」

 

 蛍の心情など知ってか知らずか、櫻井了子を演じマイペースを貫くフィーネに「はぁ……それで要件はなんですか?」と蛍が息混じりの返事をすれば、フィーネは待っていましたと言わんばかりの笑みを浮かべ、蛍に背を向けると未だエンジンがかかったままの車に向けて歩き出した。「ふーん、ふふーん」と鼻歌まで口ずさむフィーネに、蛍は何故こんなにも彼女はご機嫌なのだろうと疑問を覚える。櫻井了子を演じているとは言っても、フィーネのこのハイテンションは幾らなんでも度が過ぎている。思えば、今日のフィーネは出会い頭からして、蛍相手に満面の笑みを浮かべながら手を振るなどおかしな行動が多い。

 そこに嫌な予感を覚えることが出来たのは、蛍が少なからずとも3年という月日をフィーネと共に過ごしてきた経験があったからであろう。彼女の機嫌が良い時は、大抵碌なことにはならない。それを今までの経験から、蛍は身を持って知っている。そしてそれは、今回においても決して例外ではなかった。

 

「じゃじゃーんッ! 紹介するわね。この娘が今日から私たちと一緒に戦う第二号聖遺物『イチイバル』のシンフォギア装者、雪音(ゆきね)クリスちゃんです!」

 

 舞い散る雪の中、フィーネによって開かれた助手席から、一人の少女がゆっくりと降りてくる。「拐って来ちゃった、テヘッ」と舌を出してはにかむフィーネの顔面に《流星》を叩き込んでやりたい衝動を必死に我慢しながら、蛍は少女を観察する。

 警戒心を露わにした紫の瞳で蛍のことを見つめる彼女は、はっきり言って美少女だった。日本人離れした可愛らしい顔立ち。一部分だけが太もも近くまで伸びたクセのある白藤色の髪は、ゴムなどでまとめていないのにも関わらずカントリースタイルのツインテールにも見える。体付きを見る限りでは、蛍よりも幾つか年上だろうか。身長は蛍よりも少し高い程度だが、第二次性徴真っ盛りであるはずなのに3年前からちっとも成長の兆しが見えない蛍の貧相な体とは比べるのも烏滸がましい程に、その肉体は女性らしい膨らみと丸みを兼ね備えている。

 

 その大きな胸に挟まれる様にして赤い輝きがある。蛍はその輝きを知っている。首から下げた赤い水晶柱のネックレス。クリスが身に纏ったそれは、紛れも無く基底状態のシンフォギアに他ならなかった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 雪音クリスは案内された少女の自室で、床に敷かれたカーペットに直に腰を降ろし、座卓を挟んで少女と向い合っていた。

 

「あったかいものどうぞ」

「……あったかいもの、どうも」

 

 「危ないものは何も入っていませんから」という言葉と共に詞世蛍と名乗った少女から受け取ったマグカップには、熱々のホットミルクが注がれていた。マグカップを両手の手で包むようにして持つと、先程まで外気に触れて悴んでいた手のひらがじんわりと温かさを取り戻していく。そのままマグカップを口元まで運ぶと、舌を火傷しないように少しだけホットミルクを口に含む。蜂蜜でも入っているのだろうか、仄かな甘みが舌から伝わってくる。ほっとする優しい味だ。

 

「すみません、あの人、いつもああなんです」

「いや、気にしてねえけどよ……」

 

 申し訳無さそうに蛍が語るのはクリスをこの屋敷に連れてきたフィーネのことであろう。彼女は、目の前の少女に対し碌な説明もしないで、食料やクリスの生活雑貨などの詰まったダンボールを車から降ろすと、「同い年なんだから仲良くね!」と言い残し、さっさと元来た道を取って返してしまった。ぽつんと二人残されたクリスと蛍は暫し唖然としていたものの、「とりあえず、中に入りませんか?」という蛍の言葉に膠も無く頷いた。

 

 クリスの蛍に対する第一印象は「変なやつ」、これに尽きた。

 

 部屋に入って間もない頃こそ、クリスの胸をじっと見つめて「同い年……同い年かぁ……」とよく分からないことをブツブツと呟いていたものの、今ではこうして復活し、クリスの為に無表情でホットミルクを入れてくれている。基本的に無表情で何を考えているのか分からないが、ふとした瞬間に歳相応の少女らしい表情がひょっこりと顔を覗かせる。なんというか、酷くちぐはぐで、その見た目も相まって幼い少女が無理をして感情を押し殺しているようにしか見えないのだ。その「歪さ」に気付いた時、クリスは内心で「あぁ、こいつも私と同類なんだな」とひっそりと納得した。きっとこの少女は、クリス同様にまともな人生を歩めなかった側の人間だ。感情を押し殺すことでしか自分を守れない、生きていけない。そんな陽だまりからは程遠い日陰の中で生きてきたのだろう。

 

 この5年間、クリスは地獄にいた。比喩などではなく、あれは正しく地獄だった。

 

 バルベルデ共和国。南米北西部に位置しカリブ海に面したその国は、長らく内戦状態にあった。クーデターや汚職が蔓延し、政府軍とゲリラとがいつ終わるかも分からない泥沼の戦争を、只管に繰り返していた。

 バイオリニストであった父と声楽家であった母。共に世界的な音楽家だった両親は、「歌で世界を救う」なんてご大層な夢を掲げ、当時まだ7歳だったクリスを連れてその地獄に足を踏み入れた。様々な紛争地域に赴き現地住民のケアを主な目的としたNGO「渡り鳥」のメンバーとして、紛争で心に傷を負った市民のために音楽を奏で続けた両親。だが、その両親もまた、政府軍と現地ゲリラの紛争に巻き込まれ死んでしまった。

 馬鹿だったのだ。愚かだったのだ。叶う筈もない夢を追いかけ、その果てに得たのは、我が身を貫く無数の鉛弾。なんて救いようのない、馬鹿。

 たった独り残されたクリスは、ゲリラに拐われ、長きに渡る捕虜としての生活を強いられた。小さな物置のような建物の中、同じように拐われてきた言葉も通じない子供たちと共に、粗雑な一枚の毛布を胸に抱いて只々震えていた。与えられた食事は一日一食の固いパンと冷めたスープ。温かいお風呂になど入れるはずもなく、建物の中にはいつも悪臭が漂っていた。時折、銃を持った大人たちがやって来て、何人かの子供を無理矢理に連れて行った。連れて行かれた子供は二度とは戻ってこなかった。次に連れて行かれるのは自分かもしれない。そんな不安を子供たち全員が常に抱いていた。連れてこられて初めの頃こそ、周りの子供たちを元気づけようと明るく振舞っている子供もいたが、子供たちの人数が一人また一人と消えていく度に、その声は小さくなっていき、最後には周りの子供たち同様に目から光を失った。

 そんな環境の中、クリスが5年も生きてこられたのは只運が良かったのか、それとも世界的に有名であった音楽家の娘ということで何かしらの利用価値があると思われていたのか。突然現れた国連軍によってゲリラ組織が駆逐され、救出された今となっては確かめようもない。

 国連軍に救出され、5年ぶりに日本の土を踏んだクリスだったが、故郷でもその心が休まることはなかった。特別にチャーターされたという政府専用機から空港に降り立ったクリスを待ち構えていたのは、どこからかクリスの情報を嗅ぎつけてきたハイエナのようなマスコミたちだった。無数のレンズを此方に向けて、獲物を見つけたと言わんばかりに目をギラつかせた大人たちが「5年ぶりの帰国となりますが今のお気持ちは……」だとか「ご両親を亡くされたことについて何か一言……」なんて無神経な言葉をマイク片手に大声で叫びながら迫ってくる姿は、恐怖以外の何物でもなかった。黒いスーツに身を包んだSPたちに周りを囲まれなんとかたどり着いた黒塗りのセダンに乗って、政府が用意した宿舎に到着した時は、ようやく一息つけるかと安心したが、そうは問屋が卸さなかった。

 部屋で一人きりになった時を狙われ、再び拐われた。背後から羽交い締めにされ、薬品の染みこんだ布で口元を覆われ意識を失った。目を覚ましたクリスを待っていたのは、研究者たちに囲まれた実験漬けの毎日だった。様々な薬を飲まされ、無理矢理に歌わされた。だが、幸いにして、その生活は1週間ほどで終わりを迎えた。クリスが研究者も腰を抜かすほどの驚異的な速度でイチイバルに適合したからだ。

 聖遺物が適合したことで、クリスは初めてフィーネに引き合わされた。そして様々な事実を知った。信じ難いことも多々あったが、その度に胸から下げたイチイバルの輝きが目に付いた。フィーネの語ったことが真実であれ、嘘であれ、クリスが手に入れたのは紛れもない力だった。身に纏ったからこそ分かるシンフォギアという力の凄まじさ。それは、まさに絶対たる力と呼ぶに相応しいものだった。そしてそんな力を手に入れたクリスに向かって、フィーネはこう言ったのだ。「その力で、戦争を無くさないか?」と。

 

「あの、大丈夫、ですか?」

 

 此方を心配する蛍の声と差し出されたハンカチに、ふと我に返ったクリスは、自分の頬を温かな雫が伝っていることに気付いた。「な、なんでもねえよッ!」と差し伸べられた手を振り払い、勢い良く目元を拭う。悲哀と羞恥でぐちゃぐちゃになった顔を隠すため、膝を抱えて頭を突っ伏した。

 日本に帰国してからの激動だった日々が漸くひと段落した。そんなことを頭の隅で考えてしまったら、ずっと張り詰めていた緊張の糸が切れてしまった。感情を押さえ込んでいた堤防が決壊し、濁流となってクリスの心に押し寄せる。様々な感情が入り混じったそれは、あっという間にクリスの心を飲み込み、落涙となってクリスの中から溢れ出た。

 流しても、流しても途切れることのない自分の感情に、クリスの心が悲鳴を上げ始める。溜めに溜めた5年分の感情を、クリスの未熟な精神は受け止めきれない。聞こえるはずのない心が軋む音が聞こえる。このままで壊れる。大切な何かを失ってしまう。そう分かっていながらも、最早クリス一人の力では取り返しのつかない所まで来てしまった。

 

 助けて。

 

 声に出しても誰も手を差し伸べてはくれなかった。心の中で祈っても何も事態は好転しなかった。依るべき大人たちは、余計なこと以外はいつも何もしてくれなかった。それでもこの理不尽な世界で、弱いクリスはその言葉に縋るしか無かった。

 しかし、それもついこの間までの話だ。今のクリスには力がある。強者を打ち砕くための牙がある。この力で、戦争という火種を無くしてみせる。そう心に決めてこの場所に来た。

 だというのに、この5年間で何度も口にしながらも、一度も聞き届けられたことのない願いの言葉が胸に浮かぶ。もう二度と他人の力に期待しないと、イチイバルを手にしたあの時、心に決めたはずなのに、シンフォギアという力を手に入れてなお、まだ誰かの手に救いを求める弱い自分がいる。

 だったら、こんな弱い私なんていらないじゃないか。

 いっそ壊れてしまえば――。

 

「何でもなくないじゃないですか」

 

 言葉と共に柔らかくて温かい蛍の体が、膝を抱えて蹲るクリスを包み込んだ。背中越しに感じる彼女の胸の鼓動が、震えるクリスの心に落ち着けと呼びかけてくる。

 すると、どうだろう先程まであれだけ胸の内を荒れ狂っていた感情の渦が、蛍の熱を感じる度に少しまた少しとその勢いを失っていく。

 痛い程に握り締められたクリスの両の拳が、蛍の手によって優しく丁寧に一本一本解かれていく。力を入れ過ぎて痺れすら感じる開いた手に、蛍の手が重ねられる。小さな手だった。クリスのものよりも幾分小さなその手のひらが、何故かとても頼もしかった。

 

「はぁ……ッ!はぁ……ッ!」

「大丈夫です。大丈夫ですから」

 

 過呼吸一歩手前のクリスをなんとか落ち着けようと繰り返される耳元から聞こえる蛍の声が心地良い。先程までの無愛想な声ではない、慈愛に満ち溢れた声に少しばかり驚く。こいつこんな声も出せるのかと考える程度には意識が落ち着いてくると、今度は自分の不甲斐なさにまた涙が出てきた。

 まだ出逢って一時間も経っていない少女に、こんな無様な姿を見せて、挙句の果てに慰められた。加えて、それが蛍の混じりっけのない純粋な気遣いであると分かってしまうことが、酷くクリスを惨めにさせた。蛍だってまともな人生を歩めなかった筈だ。こんな山奥の屋敷でフィーネとたった二人で暮らし、世界を変えるなんて少女が抱くには壮大すぎる目的を大真面目に果たすため、シンフォギアの装者をやっている少女が、陽だまりの中に身を置いていた訳がない。だと言うのに、なんでそんなに私に優しく出来るんだ。憐れみの篭ったどこまでも上から目線の大人たちとはまるで違う。憐れみも打算もない優しさが、酷く身に沁みた。

 

「なんで、そんなに、優しいんだよ……」

 

 

◇◇◇

 

 

「なんで、そんなに、優しいんだよ……」

 

 膝を抱えて頭を埋めたままのクリスから、蚊の鳴くような声が漏れる。ホットミルクを口にしたと思ったら、いきなり涙を零したクリスには驚いたものの、その後の膝を抱えて何かに耐えるような彼女の姿を見て、蛍は気が付けば彼女の身体を抱きしめていた。こういう泣き方は、知っている。押さえ込んでいた感情がちょっとした拍子に溢れ出して、感情を堰き止めていた理性がはじけ飛んでしまう。そんな危うい泣き方だ。

 

「……私は、優しくなんてないです。只、我儘なんです」

 

 優しい。それは蛍から最も遠い言葉だ。蛍は優しくなんてない。優しい人間が、何を犠牲にしてでも叶えたい願いなんて抱くだろうか。何の罪もない人々が自分の所為でその命を散らせることを許容できるだろうか。そんな訳はない。きっと本当に優しい人間というのは、何かを得るために誰かを犠牲にしてしまうなら、そんな道はきっぱり捨てて誰も犠牲にしない道を新たに模索し始める。砂糖菓子の様に甘くて、夢想家で、けれど決して諦めず、誰かのために手を伸ばし続ける。そんな人こそが、真に優しいと呼べる人間なのだ。

 蛍のこれは只の我儘だ。理不尽なこの世界が許せないから、冷えた自分の身体をはちみつ入りのホットミルクで温めたかったから、自分と似た境遇であろう目の前の少女が泣いているのが嫌だから。蛍の行動の根っこには、すべて自分の感情がある。他人の為では、ない。全部が全部自分の為に行うことだ。

 歌だってそうだ。蛍の歌は他人に聞かせる為の歌ではない。蛍が蛍自身の為に歌う自分勝手な歌だ。唯一の例外は神獣鏡(シェンショウジン)だが、あれは物なのでノーカウントだろう。

 

「我侭……?」

「はい。私は、自分勝手で、欲深くて、自分の為にしか歌えない最低の人間です」

「そんなの……当たり前のことだろ……。誰だって、一番可愛いのは我が身じゃねぇか」

「そう、ですね。それが、この世界の『当たり前』です」

 

 「だからこそ、私は――」言いかけた言葉を済んでのところで飲み込む。混乱の只中にあるクリスに聞かせるような話でもないだろうと思い直し、代わりに彼女を抱きしめた両腕に力を込めた。これ以上は語らないという蛍の意思が伝わったのか、クリスはそれ以上口を開くことはなかった。

 静寂(しじま)が、場を満たす。蛍とクリス。二人の鼓動の音だけが、互いの身体を通じて、伝わっている。不思議と、どこか懐かしいこの静寂が嫌ではなかった。フィーネに抱きしめられた時とはまた違う。

 

 そんなことを思いながら、蛍は目の前の少女が涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げるその時まで、その温もりを感じていた。

 




 語尾の最後に☆とか♪を使いたくはなかったので、了子さんの口調にかなり苦戦しました。書いてみて初めて分かる難しさがありました……。

 そして念願のクリス初登場。クリスが日本に帰国した時期は公式で1月5日となっています。1期1話で未来の父親がツヴァイウイングのライブ当日に読んでいた新聞を拡大するとちゃんと日付が乗っててびっくりしました。クリス失踪の記事が恐らくその日の朝刊であろう新聞の一面に乗っていたこととその内容から、ツヴァイウイングのライブはクリス失踪の数日後に行われたと考察し、時系列を組み立てています。
 蛍とクリスの出逢いは雪の中がいいなぁと漠然と考えていたので、思わずガッツポーズしました。

 誤字脱字は見つけ次第、修正します。


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EPISODE 05 「傷は未だ癒えず」

 その為のR15タグ
 その為のガールズラブタグ

 そんな内容なので、注意です。


 雪音クリスは思考する。一糸纏わぬ姿となって、バスタブに張られたお湯の中、膝を抱えて小さく縮こまりながらも、背中に感じる柔らかな感触に絶対に意識を向けぬよう、火照った頭で考え続ける。

 フィーネの屋敷はスケールが大きい。それは屋敷の外観からも見て取れるように、屋敷というよりかは小さな城と言った方が正確なのではないかとすら思える。そして、その内側もまた同じ。至る所に謎の機械が有るものの、それを含めても、フィーネと蛍、大人一人と子供一人が暮らすには、寧ろ広すぎる程だ。そこに雪音クリスという少女が一人加わった所で、何か変わるわけでもなく、数十人規模での生活を想定して建てられたであろうこの屋敷には、充分な余力がある筈だ。実際に、この屋敷に来てから訪れた場所はエントラス、廊下、食堂、個人の私室に至るまで、その何処もが屋敷に見合った大きさを誇っていた。

 だというのに、何故、お風呂だけが、狙いすましたかのように小さいのだ。

 

「お湯加減どうですか?」

 

 背中合わせの少女から、声が発せられる。言うまでもなく、それはクリスをこの場に無理矢理に連れてきた蛍のものだ。掛けられた声に反応し、背中越しに感じた彼女の肌の感触を、理性を持って頭の中から追い出した。要らぬ事に考えが及ばぬよう、どうでもいいことを考えていた思考を再開する。

 西洋では、シャワーやサウナが一般的で、湯船にお湯を張って身体を温めるという風習はないらしい。ずっと昔、彼方の出身であった母が、初めて日本を訪れた際、日本のお風呂事情に酷く驚いたと楽しそうに語っていた事を思い出す。

 この屋敷を建てた人物は、そう言った西洋の文化に憧れを持つ西洋かぶれだったのかも知れない。後付けしましたと言わんばかりのこんな小さなバスタブ一つで満足する人間が、生粋の日本人であるものか。大きなお風呂、素晴らしいではないか。どうして、日本人としての心を、文化を、大事にできなかったのだろうか。そんな所まで、西洋に憧れなくても良いではないか。

 彼、若しくは彼女が、日本人としての心意気を重んじ、屋敷の規模に見合った大きな浴槽さえ作っていれば、こんなことにはならなかった筈なのだ。恨むのは筋違いだと分かっていても、クリスは会ったこともないこの屋敷を建てたという金持ちへの恨み辛みを脳内で垂れ流すことを止められない。

 返事がないことを不審に思ったのか、後ろから「クリス?」と此方を窺う蛍の声が聞こえた。その声に「な、なんでもねえよッ!」と反射的に声を返すも、「さっきもそう言って、何でもあったじゃないですか」と此方を振り向こうとする蛍の気配を感じ、何とかかんとか言い包めてその動きを制する。

 

「いいか? 絶対にこっちを振り向くなよ? 絶対だぞ? 絶対だからな?」

「振りですか?」

「ちっげえよッ!」

 

 出逢ったばかりの少女と2人、明らかに一人用のバスタブの中で背中合わせ。クリスは思考する。どうしてこうなった、と。

 

 

◇◇◇

 

 

 時は少し、巻き戻る。

 

「落ち着きましたか?」

「……ぐすっ、みっともないとこ見せちまったな」

 

 どれ程そうしていただろう。時計のないこの部屋では正確な時間を計ることなど出来はしないが、それは瞬くように過ぎながらも、長く心に残るそんな不思議な刻だった。

 身動ぎし漸く面を上げたクリスは、自分では見えないものの酷い顔をしていた。涙で瞳を真っ赤に腫らし、年頃の少女に或るまじき鼻水まで垂らした散々な顔をしていた。そんなクリスの様子に気が付いた蛍によって肩を掴まれ、無理矢理に身体を彼女の方へと向けさせられると、蛍はポケットからハンカチを取り出して、丁寧にクリスの顔を拭い始めた。「ちょ、お前、やめっ、自分で、自分でやるから!」と再び蛍の手を払おうとするクリスに、「動かないでください、手元が狂います」と無慈悲な言葉を返した蛍はごしごしとクリスの顔を拭うその手を決して止めない。その顔は相変わらずの無表情で、何を考えてるのかさっぱり分からない。「大丈夫、大丈夫」と慈愛に満ちた声でクリスを落ち着かせてくれてた蛍は、何処へ行ってしまったのだろうか。

 

「折角の可愛い顔が台無しですよ」

「お、おまっ、なん、か、かわ、可愛いとか言うなッ!」

「事実です。ここ数年は世俗と関係を絶って流行り廃りには疎い私ですが、それでも断言できます。クリスの容姿は街中を歩けば世の男性の視線を釘付けにすること請け負いです」

「は、はぁッ!?」

「ああ、でも、クリスは顔だけじゃなく体型もいいですから。男性だけではなく、女性から羨望の眼差しを受けるかもしれませんね」

「ば、馬鹿かお前ッ!? 急に何トチ狂ったことを言いやがるッ!?」

 

 羞恥から顔を真っ赤にして顔を俯かせようとするクリスの顔を、蛍は「まだ駄目です」と両手で掴み、無理矢理に上を向かせる。クリスは必死に首の筋肉に力を込めて抵抗するも、悲しいかな、まだシンフォギアを手に入れたばかりで基礎訓練すら積んでいないクリスの体力では、ここ丸々2年を訓練に当ててきた蛍の力には敵わない。この小さな身体でどんな力してやがると慄くクリスを他所に、蛍はクリスの顔を拭く作業を再開する。蛍はぷにぷにと餅のように柔らかいクリスの頬の弾力をハンカチ越しに感じながら、頬を拭った後は、目元を、そして最後には鼻下を、クリスの顔に張り付いた涙のかけらを拭っていく。

 いい加減に我慢の限界だった。クリスの顔が羞恥から怒りに染まり始める。が、蛍はその変化を敏感に感じ取ったのか、怒らせては元も子もないと先程よりも随分と血行の良くなったクリスの顔から両手を離した。

 

「こんのスクリューボールがッ! 言いたい放題の好き放題、あたしを馬鹿にしてるのかッ!」

「そんなまさか。場を和ませようという私なりの小粋なジョークじゃないですか」

 

 クリスがどれだけ言葉にしようと、まるで暖簾に腕押し。ひらりひらりとクリスの言葉を躱し続ける蛍に苛立ちが募るも、蛍にその苛立ちがぶつけようにも、その度に気概を殺がれる。

 

「うーん、やっぱり一度洗い流したほうが良さそうですね」

 

 そう呟くと、蛍は未だ羞恥で顔を染めたクリスの手を取り立ち上がる。そのまま小さな身体に見合わぬ力強さに引き摺られ、クリスはあっという間に部屋の外へと連れ出されてしまった。

 大小様々な機械と、植物の根のように床を這うケーブルに満ちた廊下を、蛍はクリスの手を引き、慣れた足取りでずんずん進む。

 

「お、おい、今度は何だってんだ!?」

「クリス、お風呂に入りましょう」

「風呂だぁ!? なんで今そんな流れになる!?」

「訓練の後で既に一度汗を流しましたが、フィーネのせいで身体が冷えました。一緒に入りましょう」

「一緒に!? 待てッ!? どうしてそうなる!?」

 

 お風呂とは、1人でゆっくりと入るべきものだとクリスは思う。誰の目も気にせず、生まれたままの姿となって温かい湯に身体を浸らせる。ご機嫌な日には、鼻歌なんて口にしながら、その日の疲れを癒す心の洗濯。それが、お風呂というものだ。

 温泉であるならいざ知らず、家庭にあるようなお風呂に、自分以外の誰かと入るなんてことは、少なくともクリスの常識の内にはない。幼い頃こそ、両親と共に入った記憶はあるが、クリスももう15歳になり人並みの羞恥心というものを覚えてしまっている。

 先程から何度となくクリスの頬を染め上げていることからも分かるように、クリスは恥を知らぬという訳でもなければ、今日出逢ったばかりの少女といきなり裸の付き合いをする程、社交性に富んでいるという訳でもない。認め難い事実ではあるが、雪音クリスという少女は、寧ろ、恥ずかしがり屋の部類に入るのだ。

 

「ほら、何時までそうしているつもりですか。服を脱がないと、お風呂には入れませんよ」

「んなこたぁ百も承知だよッ! 入りたくないから脱いでねえに決まってんだろ!」

「むぅ、クリス、そう言う我儘は良くないです」

「どの口が言うかッ!」

 

 辿り着いた脱衣所で、早々に服を脱ぎ始めた蛍の若干天然めいた発言に、クリスは慌てて両手で目を隠しながら声を荒げて反論する。指の隙間から見えた、小首を傾げて心底不思議そうな顔をする蛍に、「こいつ実は天然ちゃんかよ……」と内心でため息を漏らした。

 首から下げた神獣鏡さえ脱ぎ捨てて、一糸纏わぬ姿となった蛍は、タオルで身体の前をこそ隠しているものの、その小さな布面積では全てを覆うことなど出来る筈もなく、彼女の陶器のように白い肌が指の隙間から覗くクリスの視界をチラついた。

 フィーネの言に拠れば、どうやら同い年であるらしい蛍の身体は、随分と貧相――否、慎ましやかであった。大量のリボンやフリルが付けられたまるで人形が着ている洋服、それを脱ぎ捨て現れた彼女の肉体は小さく、細い。触れたら砕けてしまう、まるで氷細工のような繊細さがそこにはあった。

 フィーネが去り際にダンボール一杯に詰まった食料を置いていったことから、少なくとも、フィーネの元に身を寄せてからの蛍の食料事情は然程悪くなかった筈である。だというのに、5年間、一日一食の固いパンと冷たいスープで毎日の飢えを凌いでいたクリスよりも、その肉体が明らかに貧相――否、慎ましやかなのは一体どういうことだろう。

 体質、遺伝と言う言葉が浮かぶ。思えば、クリスの母――ソネット・M・ユキネは、体型的に非常に恵まれていた。欧州出身である彼女は、声楽家でありながらも、どこぞの有名ブランドのファッションショーでランウェイを歩いたことすらあるというその恵まれた容姿から別の意味でファンが多かった。クリスは、その母から髪の色や顔立ちなど色々なものを遺伝子として受け継いでいる。両親が存命だった頃は「クリスは母さんに似てきっと美人に育つ」と口癖のように聞かされて育った。実際、幼い頃はあまり気には止めていなかったものの脱衣所の鏡に写る自分の姿は記憶の中にある母の面影を想起させる。

 蛍のその容姿が、彼女、或いは彼女の環境に問題がないのだとすれば、それはやはり、彼女の体質によるものなのだろう。幾ら羨ましそうな目線を向けられた所で、神ならぬ身のクリスにはどうこう出来る問題ではない。

 

 閑話休題。現実逃避に無駄な思考を費やしている場合ではない。兎にも角にも、蛍と一緒に入浴することだけは何としてでも阻止しなければならない。蛍と出逢ってからというもの、彼女のペースに乗せられっぱなしである。ここらで、挽回しなければ、雪音クリスの沽券にかかわる。

 こうなったら、既に服を脱いでしまった蛍に先にお風呂に入ってもらい、自分は後から入るとでも言って彼女を何とか説得するしかあるまい。一緒には入らないが、後でちゃんと入る。これがクリスに出来る最大限の譲歩だ。

 蛍の目を見て真摯に訴えようと、目を覆っていた両手を外し言葉を紡ごうとしたクリスだったが、指の隙間から部分的にしか見えていなかった蛍の全身を視界に収め、瞠目し、語るべき言葉を失ってしまった。

 

 その、至る所に、無数の傷跡がある。

 

 全身を這うまるで鞭で叩かれたかのようなミミズ腫れの跡、首筋には何度となく打たれたのであろう注射の跡。少女の白い肌には似つかわしくないその傷跡は、紛れもなく、目の前の少女が歩んできたこれまでの軌跡。クリスと同じく、日陰の中に生きてきたという証左。

 

「お前……その傷……」

 

 クリスの視線に気付いたのか、蛍は無表情に努めながら、声にのみ苦笑の色を含ませて「フィーネの()()()()()()()ちょっと……」と言葉を濁す。

 

「平気、なのか?」

「……問題ありません。傷ができて直ぐの頃は、かなり痛みましたが今はもう痛みませんから」

「そっちじゃ、ねえよ」

「えっ」

 

 身体の痛みは、何れ癒える。時が経って、かさぶたが剥がれれば、自然と痛みは薄れていく。だが、心の痛みはどうだろう? 心という目には見えない場所に刻まれた痛みは、傷は、決して簡単に癒えることはない。目に見えないというのは、怖い。自分ではもう治ったと、克服したと思っていても、それは大抵の場合は勘違いで、喉の奥に引っかかる小骨のように、心の何処かに痼となって残り続ける。

 そして、それは、時間が経って、もう大丈夫と安心した時に、膿となって溢れ出すのだ。先程のクリスのように。

 クリスには、蛍がどの様な半生を過ごしてきたかは分からない。けれど、その道筋は、決して楽なものではなかった筈だ。綺麗に舗装された道ではなく、細く険しい獣道を身体に無数の傷を作りながら歩んできた蛍は、身体だけではなくその心にも同じく傷を負ってきた筈だ。

 その無表情の奥にどれだけの傷を抱えているのか、クリスには想像もつかない。

 

 彼女は自分のことを「我侭」だと言った。自分勝手で、欲深くて、自分の為にしか歌えない最低の人間だと自身のことを蔑んだ。

 

 果たして、本当にそうなのだろうか。只の我侭な人間が、何を犠牲にしてでも叶えたい願いなど抱くだろうか。自分本位な人間が、世界を変えるなんて強い想いを、願いを、意思を抱けるだろうか。そんな訳はない。きっと本当に我侭な人間というのは、他人の気持ちを知ろうともしないで、笑顔で心にもない嘘を平気で吐き、騙し、裏切る。この理不尽な世界で自分は強者だと夢想し、弱者の上にあぐらをかいた、驕り高ぶった人間。そんな屑こそが、真に我侭と呼べる人間なのだ。

 だから、蛍のソレは只の我侭などでは決してない。我侭な人間は、誰かの為にと態々蜂蜜入りのホットミルクを用意したりしない。目の前でいきなり泣き始めた出逢ったばかりの少女を抱きしめ慰めたりしない。蛍の行動の至る所には、他者への思いやりがある。自分の為だけでは、ない。他人を想う心がある。

 それが騙りだとは、到底クリスには思えない。無表情という不格好な仮面でしか己の感情を隠すことが出来ない不器用な人間が、そんな器用な真似を出来る筈もない。人の弱みに付け込むような人間は、そういう時は笑うのだ。

 詞世蛍は優しい。それがクリスの答えだ。例え本人が否定しようとも、決して覆らないクリスの正真正銘、心の底からの本音だ。

 そして、思う。そんな蛍が思い描く明日とは、一体どのようなものなのか。世界を変えたその先に、彼女は一体どんな夢を抱いているのだろうか。

 あの時、言いかけた言葉の先に、その答えがあるのだろうか、と。

 

「人の裸体をじっと見つめて、何を真顔になっているのですか」

「ひゃん!」

 

 いつ間にか接近し、服の中に滑り込まされた蛍の小さな手の冷たさに、クリスの思考は断ち切られた。クリスは、自分の口から発せられたらしくもない甲高い声に驚き、誤魔化すように声を荒げた。

 

「人が真面目に考え事をしている時にいきなり何をしやがるッ!」

「油断大敵です。敵を目の前にして考え事とは、感心しません。そんなことでは、何れ来る戦場で、敵の首級を上げるなど出来はしませんよ」

「お前は尤もらしいこと言う前に、鏡で自分の格好を見返しやがれッ!」

「裸の人間に説教されるのは、気に入りませんか? では、一つ尋ねますが、そう言うクリスは人の裸体を前にして、真面目に、何を、考えていたのですか?」

「ぐっ、いや、それは、だな……」

 

 クリスは、言葉に詰まった。まるで、他人に肌を晒すなど慣れているとでも言わんばかりに蛍が堂々とした態度であっても、それをマジマジと見つめてしまったのは他ならぬクリスである。蛍の身体に刻まれた傷跡を見て、彼女の過去を、果ては彼女の為人にまでその考えを及ばせていたとは、流石に言い辛かった。

 

「言えないようなことを、考えていたのですか?」

「ち、違うッ! あー、その、なんだ、つまりだな、えーっと、あー、そ、そうだ! お、同い年だってのになんでお前はそんなにちみっこいのかを考えてた! ち、ちゃんと飯食ってるのかお前? まともな食事にありつけなかったあたしより貧相だなんて、本当にあたしと同い年か?」

 

 やってしまった。そんな考えがクリスの、頭を真っ白にする。今、自分は何を口にした? 咄嗟の言葉とはいえ、あまりにも杜撰な物言いだった。

 蛍の身体が小さい。そんな事を考えていたのは、確かである。だが、それを口に出す必要は全く無かった。幾ら苦し紛れとはいえ、人の身体的な特徴をまるで馬鹿にしたような物言いは、決して褒められるものではない。「お前は優しいよ」なんてこっ恥ずかしい台詞を、改めて蛍に面と向かって言う勇気がクリスになかったとしても、もっと他に誤魔化し方が有った筈なのに。どうしてクリスの口から発せられた答えは、考え得る限り最も口にしてはいけない言葉だったのだろうか。

 とはいえ、クリスの口をついて出たそれが、苦し紛れの答えであることを、蛍とて理解している、と思う。きっと。多分。

 ならば、クリスが心の底から優しいと見定めた彼女のことだ。きっと許して――。

 

「………………」

 

 無表情だった。無言だった。蛍の顔には今までと変わらぬ無表情が貼り付けられ、口は一文字に結ばれている。だが、そのこめかみの辺りには薄っすらと青筋が浮かび、唇の端は何かに耐えるようにひくついているのは決してクリスの見間違いではないだろう。

 沈黙が、痛い。

 

「クリス」

「お、おう!」

「一緒にお風呂入ってくれますよね?」

 

 有無を言わさぬ蛍の言葉に、クリスは遂に陥落した。

 

 

◇◇◇

 

 

 自業自得、その一言に尽きた。どうしてこんなことになったと自問自答するクリスに叩きつけられたのは、自分の苦し紛れの言葉が蛍の機嫌を損ねてしまったいう擁護のしようがない現実であった。だとすれば、きっとこれは罰なのだ。体型という、女性を前にして口にするには、最大限の用心をして然るべき話題を不用意に語り、蛍の逆さ鱗を撫でてしまったクリスに天から与えられた罰。

 

「同性ですし、そこまで恥ずかしがることでもないでしょう?」

「おかしいだろッ! あたしが留守にしたこの5年で、日本の貞操観念はどうなっちまったんだ……」

 

 蛍のこの自分の身体に対する羞恥心の薄さは、どういうことなのか。自分の身体の未発達ぶりを気にしているくせに、それを他人の目に晒すことには如何程の躊躇いも見せない蛍の矛盾を指摘し問い糾したかったが、自分から再び地雷原に突っ込む訳にもいかないと口を噤んだ。

 

「……クリスは、ずっと日本に居なかったのですか?」

「あ?」

「いえ、その、名前と容姿からハーフ若しくはクォーターだとは思っていたのですが、日本語がすごく堪能だったので、日本での暮らしが長いのだとばかり」

 

 彼女の言葉を受けて、そういえばクリスと蛍はお互いに自分の事を全く話していないことに漸く気が付いた。蛍と出逢ってから、矢鱈と濃い時間を共に過ごしてきたため、つい忘れていた。お互いに口にはしなかったものの、似た者同士の気配を感じ取って、なんとなく分かったつもりになっていた。

 クリスは、別段、己の事情を隠すつもりはない。これからこの屋敷で共に暮らすのだとすれば、遅かれ早かれ互いの事情を知ることになる。蛍相手にであれば、不幸自慢になることもあるまい。お風呂に入りながら背中合わせで語る話題としてそれはどうなのだという思考を頭の隅に追いやって、クリスはぽつぽつと己の軌跡を語り始めた。

 

「――と、まぁ、そんなこんなであたしはイチイバルに適合して、あの女に此処まで連れてこられたって訳だ」

「……クリスは」

「ん?」

「両親のことを、恨んでいますか?」

 

 大嫌いだ、と言いかけた言葉を飲み込む。果たして本当にそうなのだろうか? どうしてだかは分からないが、この問いには、よく考えて答えを返さなければならないとクリスは思った。

 もしも、蛍の問いが「戦争のことを、恨んでいますか?」であれば、クリスは間をおかずに首を縦に振ったであろう、クリスが、5年間もの長い期間を捕虜として過ごしていた原因は、この世界に満ちた理不尽――その最もたる戦争にある。人の命を、尊厳を、道端に捨てられた塵にまでその価値を貶める戦争をクリスは憎悪する。だからこそ、戦争を失くすというフィーネの言葉に頷き、この屋敷に来た。

 とはいえ、本来であれば、クリスはその戦火とは程遠い場所で暮らしていた。テレビのニュースで語られるアナウンサーの言葉を、どこか遠い世界の事だと思っていた。そんなクリスが戦火に巻き込まれたのは、幼いクリスを連れてNGO活動を行っていたクリスの両親に問題がある。父と母が分不相応な夢など抱かなければ、クリスを連れてあの国に赴かなければ、こんな事にはならなかった筈だ。幼いクリスを弾丸飛び交うこの世の地獄に引き込んだのは、決して親として褒められる行為ではなかった。

 しかし、クリスにはずっと心に隅に引っかかっている疑問があった。

 何故、両親があの地獄に幼いクリスを連れて足を踏み入れたのか。安全な日本に残すこともせず、危険を承知で、クリスを連れ立ったのは何故なのか。長年考え続けているその問いに、未だクリスは答えを見つけ出せないでいる。

 その問いに答えを見つけられないまま、只両親を恨んでいるとは、クリスにはどうしても口にすることが出来なかった。

 

「……分かんねえ。馬鹿な人たち、だとは思う。叶う筈もない夢を追いかけて、結果自分たちが仏になっちまった。あたしがあの地獄に居たのは、パパとママに手を引かれたからだ。本来なら、恨んでも恨み足りねえ。憎まれたって仕方ねえことをパパとママはしてる。だけど、繋いだその手が、嫌じゃなかった。あったかかった。……それだけは覚えてる」

 

 クリスの分からないけれど分からないなりに出した答えに、蛍が直ぐに言葉を返すことはなかった。返事がないことをクリスが訝しんでいると、ぽつりと呟いた蛍の掠れた声が浴室に響いた。

 

「私と……ぜん……う」

 

 蛍の体が震えている。耳を澄ませるまでもなく啜り泣く彼女の声が、クリスの耳をついた。

 

 クリスの答えの何が蛍の琴線に触れたのか分からなかったが、それでも、彼女が涙を流しているのは確かだった。あわあわと慌てるものの、それで事態が好転する訳でもない。人付き合いというものを、まともに経験していないクリスにはこういう時どうすればいいのか皆目見当がつかない。

 だが、なんとかしたい。傷の舐め合いだとしても、目の前の少女が泣いていることを雪音クリスは、許容出来ない。泣き止んで、欲しい。

 一つの考えが、浮かぶ。だが、それはクリスからしてみれば途轍もなく恥ずかしい。今後、蛍の顔をまともに見れなくなるかもしれない。だが、それで目の前の少女が泣き止んでくれるのであれば――。

 羞恥心を押し殺し、クリスは行動を起こす。雪音クリスにやられっぱなしは似合わない。

 

「くり、す?」

「こ、これで貸し借りは無しだからな」

 

 両手を回し背中から覆いかぶさる。蛍の手に、自分の手を重ねる。あの時感じた頼もしさは、もう無い。そこにあるのは、涙に頬を濡らした小さな少女の手だ。

 衣服越しには感じられなかった蛍の柔らかな全身の肌の感触が伝わる。洗ったばかりのすべすべした肌からは、クリスと同じ石鹸の匂いが香る。その事に、どうしようもない恥ずかしさを覚えるクリスだったが、それでもこの身体を離す気にはなれなかった。

 蛍がそうしてくれたように、彼女の背に自分の胸を押し付け、鼓動を聞かせる。早鐘のように落ち着きのないクリスの心臓の音で、蛍が落ち着いてくれるかは分からなかったが、それでも、クリスには他の方法が思いつかなかった。

 なるべく彼女の裸を視界に収めないよう視線を逸らしたその先に、雫を滴らせて濡羽色に輝く蛍の髪が視界一杯に広がる。クリスのクセが多いふわふわとした白藤色の髪とはまるで違う、その絹のような髪を少し羨ましく思う。こんな時に何をとは思ったが、こんな時だからこそ、そんな事にでも思考を割かなければ、クリスは恥ずかしさで如何にかなってしまいそうだった。

 埋めるように頭を押し付ければ、かかる息がくすぐったかったのか、蛍がピクンと反応する。それが、無性に、可愛らしい。無表情の仮面の下に隠れた小さな少女が、自分には姿を見せてくれているという謎の満足感が、クリスの心を満たしていく。

 この少女は、こんなにも小さい。同い年だということすら忘れて、守ってやりたいと思う。

 優しい彼女を、この理不尽な世界から守ってやりたい。

 

 そう思うと、自然と、口から旋律が溢れた。

 

 歌詞はない。主旋律だけが、溢れるようにクリスの口から漏れた。聞いたこともない音が、胸の内から湧き上がる。

 その旋律を奏で始めると、蛍の身体の震えが止まった。強張っていた全身から、ゆっくりと力が抜けていく。

 その様子を目には見えずとも、触れ合った肌から感じ取ったクリスは、即興に過ぎない拙いクリスの歌で、蛍の哀しみが少しでも薄れるのならばと更に喉を震わせた。

 

 傷ついた誰かの為に歌う。歌で世界(だれか)を救う。それはクリスの両親が夢見た世界の体現だという事に、この時のクリスは気付くことが出来なかった。




 公式で愛され系認定されたクリスに、ヒーロー属性とヒロイン属性が両方そなわり最強に見える。
 
 多分、年内最後の更新になります。皆様、良いお年を。



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EPISODE 06 「絆の意味」

 その為のR15タグ
 その為のガールズラブタグ
 その為の残酷な描写タグ←NEW

 クリス好きな方には、一部不快と思われる箇所があります。
 そんな内容なので、注意です。



 朝焼けが、山の影から蛍の身体を照らす。もうすぐ春に差し掛かるというのに、日が昇り始めたばかりのこの時間帯の寒さは、パジャマに薄い外套を羽織っただけの蛍の身体を早く部屋に戻れと言わんばかりに攻め立てた。

 屋敷の傍にある湖に庭から伸びた桟橋。蛍はその先端にぼーっと座り、湖の水面が朝焼けを反射して、キラキラと輝く様を眺めていた。

 山の何処からか聞こえてくる鳥たちの囀りが、また良い。目で、耳で、肌で、自然を感じる。そこには煩わしい人の世界の柵は一切存在せず、 在るが儘に全てを包み込む自然の雄大さだけが在った。

 この光景が、蛍は密かにお気に入りだった。見ようと思って見れる光景ではない。その日の天候にも左右されるし、早起きを――どちらかと言えば蛍には此方の方が難題だった――しなければ見ることは叶わない。今日は偶々目が覚めたため、見ることが出来たが、次にこの光景を見ることが出来るのは何時になるだろう。

 部屋に戻れば、ベッドの中ではクリスが気持ち良さそうな顔をしてシーツの温かさに身を委ねている頃だ。彼女に気付かれずに、ベッドを抜け出すのは中々に骨が折れた。

 そんな事をぼんやりと考えながら、蛍は目の前の幻想的な光景に目を奪われていた。

 

 どうも最近の自分はおかしい。

 

 クリスと出逢ってからというもの、何処か油断に油断を重ねている自分が居た。出逢った日からして、随分と、彼女には素の自分を見せてしまっている気がする。鎧が上手く着込めていない。

 中でも風呂場での一件。あれが、致命的だった。クリスの言葉に動揺し、小さな自分を曝け出してしまった。あれ以降、どうにもクリスの前では、心に纏った鎧が機能していない様に思える。

 只言い訳をさせてもらうならば、あの日の蛍の精神状態は普通でなかった。一ヶ月もの間を、あの大きな屋敷の中で独りぼっちで生活し、やることと言えば、毎日の訓練と神獣鏡(シェンショウジン)を相手に歌うことばかり。フィーネに気兼ねすることなく、自由気儘に歌えたあの生活が嫌だったとは言わないが、Project:Nのことも有り、自分でも気付かない内に精神が疲弊していたのも確かだ。

 故に、誤解を承知で白状すると、蛍はクリスと出逢って舞い上がっていたのだ。

 久しぶりの同年代の少女との会話は、蛍の心に潤いを与えてくれた。彼女との何気ないやり取りが純粋に楽しかった。加えて、クリスは蛍同様に、日陰を歩んできた人間だった。だからだろうか、自分と似た境遇の彼女になら気兼ねなく接せると心の何処かで思っていた。

 だから、普段ならば、絶対にしないようなことすら、してしまった。似た者同士だと思っていた蛍とクリス。両者の決定的な違いを知り、不覚にも鎧が剥がれ落ちた。今でも、時々、あの時の事を思い出す。だが、不思議な事に、それは自分が未だに両親の事を断ち切れずにいるという不甲斐なさではなかった。彼女の肌の感触を、思い出す。まるで、両親への確執を塗りつぶすかの如く、クリスに抱きしめられた温かさだけを思い出してしまう。その度に、頬が熱を持つのは、致し方ないことだろう。

 

 本当に自分はどうしてしまったのだろう。ふわふわと浮かんでいて、地に足が着いていない。

 

 いつの間にか、あの時クリスが聞かせてくれた曲を口ずさんでいた。啜り泣く蛍を、クリスが宥める為に歌ってくれた温かい曲。一度聴いただけなのに、何故か諳んじることが出来る程、この曲は蛍の記憶に刻まれていた。クリスが蛍の為を想って作った曲。喉を震わせる度に、ポカポカと温かい何かが胸の内に生まれる。

 歌詞は未だにない。というよりも、あれ以来、蛍の前でクリスがこの曲を歌ったことはない。何度かせがんでみたものの、「絶対歌わねえッ!」と顔を真っ赤にして、ぷいっと顔を背けるばかりだった。勿体無い。

 完成しているか、未完成なのか。作曲者ではない蛍には分からないが、こんな曲を即興で作ったという辺り、やはり、クリスには音楽家としての血が流れているのだろう。容姿以外にも、彼女の中には、両親から受け継いだものが確かに芽吹いている。

 

「随分と、楽しそうだな」

「クリス?」

 

 「さっみいなぁ、おい」と腕をさすりながらパジャマ姿のクリスが桟橋を此方に向けて歩いてくる。その顔は何故か少し赤い。薄着で隠しようもない彼女のたわわな二つの果実が歩く度に揺れていたが、理性を持って意識の外に追い出した。

 彼女の歌を歌っていたことが気恥ずかしくて、湖面に映った自分の顔がちゃんと何時もの無表情を形作っているかを確かめてから、蛍はクリスに向き直った。

 

「すみません、起こしてしまいましたか?」

「いや、勝手に目が覚めた。で、隣を見てみりゃ、こんな朝っぱらからお前の姿が見えないからよ」

「心配して探しに来てくれたのですか?」

「はぁッ!? ばっ、んな訳ないだろ!」

「違うのですか?」

「き、今日の朝食当番はお前だろ。飯の心配をしてただけだっての!」

 

 蛍の言葉に、クリスが顔を赤らめる。彼女とのこんなやり取りもお決まりになりつつある。大抵は、クリスの顔が羞恥から怒りに染まる前に、蛍の方から一歩引く。引き際を見誤ると、彼女は不手癖れてその日はもう口を利いてくれなくなるから、そのボーダーは必死に覚えた。と言っても、基本的に直情家であるクリスの表情は、蛍のそれと違って非常に分かりやすいため、それ程難しいこともなかったが。

 

「なに人の顔見てニヤついてやがる」

「ニヤついてましたか、私」

「ああ、ニヤついてるね。ったく、何だってんだ……」

 

 彼女の言葉を受けて、湖面に浮かぶ自分の顔を再度確認してみるものの、そこには愛らしさの欠片もない自分の無表情が映るばかりだ。「ニヤついてるかな……」と首を傾げてみても、答えは出ない。そんな蛍の様子を眺めて、何故かクリスが「くっそ……油断した顔しやがって……」とよく分からない事を言いながら顔を背けた。その耳が赤く染まっているのは、寒さの所為だろうか?

 

 やっぱり、クリスには色々と見透かされている気がする。

 

 自分では、無表情の仮面の下に隠したつもりでいる本音を、彼女は時々、ピタリと言い当ててくる。鎧が意味を為していない。

 自分の気付かぬ間に、無表情が崩れているのかとも思ったが、そういう訳でもない。毎日寝る前に、鏡を前にして無表情の練習なんて自分でもどうかと思うことをしてみたが、あまり効果はなかった。蛍の無表情に問題がある訳ではない。仮面は確かにそこにあり、今も変わらず、蛍の顔に張り付いている。

 かと言って、別段、クリスがずば抜けて勘が鋭いという訳でもないのだ。どちらかといえば、彼女は割と抜けている。フィーネは、時々、此方の心を読んでいるのではないかとすら思える発言をするが、あれはフィーネが数千年を生きて養ってきた経験、そして彼女自身が備える優れた観察眼と天才的な頭脳から弾き出された言葉であって、余人に真似できるものではない。

 クリスとフィーネでは全くタイプが違うし、何よりクリスのそれはあそこまで胡散臭くない。フィーネに心の内を言い当てられた時は、まるで無理矢理に覗き込まれているかのような感覚と共に心臓がどきりとするのだが、何と言うか、クリスは物凄く自然に、蛍の心を言い当ててくるのだ。

 それを心地良いとすら思ってる自分がいるのだから、重症である。

 

 この感情の名前を、蛍はまだ知らない。

 

「そんなに薄着で大丈夫ですか?」

「お前の格好だって大してあたしと変わらねえじゃねえか」

「私は、ほら、これを着てますから」

「薄いだろ」

「薄いですか?」

「薄い」

「じゃあ、温めてください」

 

 ポンポンと自分の隣を叩く。悪態を吐きながらも、蛍の肩と触れるか触れないかの距離に腰を下ろしたクリスは、蛍の視線から逃れるように目の前の景色を眺め始める。朝日を浴びて輝く白藤色の髪から覗くその横顔に思わず見入ってしまった。

 なんだろう。また胸が温かい。彼女が自分の隣にいるという事が、こんなにも嬉しい。

 彼女との距離が、只管に近く感じる。まるで、抱き合ったあの時のように、鎧が意味をなさないほどの目と鼻の先。出逢ってからまだ1年も経っていない。だと言うのに、蛍の中で、どんどんと、雪音クリスという少女の存在が膨らんでいる。

 距離を置こうにも、そんな事など知ったことではないとばかりに、クリスは蛍に接してくるし、彼女の隣は、とても温かくて、離れ難い。蛍自身が、本気で彼女の側を離れようとしていないのだ。離れられないのも道理である。

 ふと、蛍とクリスの関係をなんと呼べば良いのか悩んだ。

 仲間、ではあると思う。共に世界を変えたいと願い、フィーネの元に集まった装者同士だ。同じ目的に向かって協力しながら進む者たちを仲間と呼ぶのならクリスと蛍はまさにそれだろう。

 フィーネに関しては、仲間という言葉よりも、共犯者という言葉がしっくり来た。フィーネは、蛍のことを信用はしているが信頼はしていない。蛍は言わずもがなだ。この世界で蛍が誰かのことを心の底から信頼することなどあり得ない。もしも、そんな日が来るのだとしたら、それはこの理不尽な世界を変えた後、バラルの呪詛を解き、人類の相互理解が回復した未来でしかあり得ない。そこまでしなければ、誰かの笑顔を、蛍は心の底から信じることがもう出来ない。

 だが、クリスは? フィーネと比較してみて分かったが、共に過ごしてそろそろ4年になる彼女よりも、クリスの方が蛍には距離が近しく感じられた。年齢や境遇も関係しているのかもしれない。だが、それはきっかけだ。ここまで、親しくなるには、それだけでは理由不足だ。

 仲間の側だと、こんなに心がぽかぽかと温かいのだろうか。それとも、「仲間」ではない、蛍とクリスの関係を正確に表す言葉が別にあるのだろうか。幾ら頭を捻ってみても、しっくりとする答えは見つからなかった。

 

 その後は特に会話もなく、お互いに目の前の光景を眺めていた。けれど、その沈黙は決して不快なものではなく、寧ろ心地が良い。

 

「綺麗、だな……」

「実は此処お気に入りの場所なんです」

「そうなのか?」

「フィーネにも教えてない秘密の場所なんです。でも、クリスには知られてしまいましたね」

 

 「秘密ですよ」と人差し指を口に当ててみれば、隣でクリスが身悶えていた。どうかしたのかと尋ねてみても、「なんでもねえよッ!」とはぐらかされてしまう。クリスの「なんでもない」は蛍の中で信用ならないワードランキングの上位に名を連ねているので、鵜呑みにするようなことはしない。

 クリスの顔を覗き込む。真っ赤だった。自他共に認める恥ずかしがり屋の彼女だが、今の会話で特に恥ずかしさを感じる部分はなかった筈だ。思えば、桟橋に姿を見せた時から、その顔は少し赤みがかっていた気がする。もしかすると、熱でもあるのかもしれない。

 「じっとしていてくださいね」という言葉とともにクリスの前髪を片手で掻き上げ、もう片方の手で同じように露わになった自分のおでこを彼女のそれにピタリと貼り合わせる。息が掛かる程の距離に彼女の顔がある。恥ずかしさを覚えないでもなかったが、今は自分の羞恥心よりも、彼女の体調が心配だった。

 

「お、おま、な、なな、お、おで」

「日本語が不自由になっていますよ、クリス。恥ずかしいかもしれませんが、少し我慢してください」

 

 目を閉じて、彼女の額に意識を集中する。少し、熱いだろうか。しかし、これが身体の不調からくる発熱なのか、羞恥心からくる発熱なのか、医学的な知識の乏しい蛍には判断する事ができない。フィーネに報告して本格的なメディカルチェックをして貰うべきか判断に悩んでいると、「いい加減にしろッ!」とクリスに突き飛ばされた。

 

 ふわりと、身体が宙に浮いた。

 

 まるで、神獣鏡を身に纏いイオノクラフトを発動させた時のような浮遊感が蛍の身体を包み込む。

 考えてみれば、当然のことでは、ある。それ程横幅が広い訳でもない桟橋に二人並んで居座っていたのだ。押されれば、当然こうなる。

 だから、そんなに驚いた顔をしないで欲しい。元を質せば、クリスが恥ずかしがると分かっていながら行動を起こした蛍が悪いのだから。

 そんな事を考えながら、青く澄み渡った空を最後に見て、蛍は、冷たい湖にその身を投げ出された。

 

 

◇◇◇

 

 

「へくちっ」

「38度2分、風邪ね」

「ずびばぜん」

「今日はそのまま安静にしてなさい」

 

 春先の冷たい湖に落ちて無事に済む筈もなく、蛍は次の日ものの見事に風邪を引いていた。自室のベッドに横になりながら、鼻が詰まっているのだろう普段の彼女とは似ても似つかない濁音だらけの声で、蛍の熱を計っていたフィーネに返事をする様はとても痛ましい。

 幾ら恥ずかしかったとはいえ、彼女を湖に突き落としたのは他ならぬクリス自身だ。蛍は「クリスのせいではありません」といじらしくも言ってくれたが、その言葉に頷ける程クリスは無責任ではない。彼女の為に何かしてやりたかった。そうでもしなければ、クリスは自分で自分が許せない。

 

「だ、大丈夫か? 辛くねえか? は、腹は減ってねえ、か。そうだよな。風邪引いてるんだから食欲なんて湧かねえよな……。そ、そうだ! 水! 喉は渇いてるだろ? えっ、今は要らない? じ、じゃあ、身体でも拭くか? 汗で気持ち悪いだろ? それもいい、か。……はっ!? こういう時は尻にネギをブッ刺せばいいって昔ママが……」

「ぞれやっだらぜっごうじまずよ」

 

 返事をするのも辛いのだろうか、クリスの問いにも蛍は首を動かすだけで、必要最低限の声しか出さない。声を出すことを極力避けているようにも見える。

 蛍の顔には、何時もの無表情はない。流石の蛍と言えども、熱に浮かされながら仮面を被り続けることは出来ないのだろう。仮面の下に隠れた彼女の本当の顔が、いつも以上に顔を覗かせている。それはつまり、クリスが守りたいとあの時確かに願った小さな少女が熱に浮かされ、額に大粒の汗をかきながら、目尻には涙を浮かべ、苦しそうに咳をしながらベッドに横たわっているということで。蛍のそんな姿を目にする度に、クリスは己の良心の呵責に苛まれるのだ。

 

「クリス、少し落ち着きなさい。見苦しいわ。死ぬ訳でもあるまいし」

「で、でもよ……」

「こんなもの、若いんだから1日ゆっくりと休養すれば直ぐ良くなるわよ。寧ろ、貴女みたいにベッドの横でピーチクパーチク囀られては、治るものも治らないわ」

 

 フィーネの言葉にぐうの音も出ないクリスは、「後で見舞いに来るからな! 苦しかったら通信機使えよ! 直ぐ飛んでいくからな!」と蛍に声を掛けながらフィーネに首根っこを掴まれて、部屋を出る。扉が閉まるその時まで、ベッドで苦しそうに横になる蛍の姿から、目を離せなかった。

 

 ぱたりと閉まったその扉を未練がましく見つめていたクリスだったが、そのまま引き摺られる様にして、とある部屋に連れて行かれる。

 

 部屋に入るなり漂ってきた淀んだ空気に当てられて、込み上げてきた吐き気を必死に飲み込んだ。

 電灯が灯っているのにも関わらず薄暗いその部屋は、暗鬱な空気に満ち満ちていた。窓もなく、出入り口も一つだけ。他の部屋とは違い華美な装飾品もなければ、屋敷の至る所にある謎の機械群すらない。部屋の造りだけを見れば、一体何のための部屋なのか、直ぐには理解できないだろう。

 だが、薄暗さに隠された部屋の隅に目を凝らしてみれば、この部屋が何の為に作られた部屋であるかは一目瞭然だった。

 

 壁一面に、ずらりと、拷問用の器具が立てかけられている。

 

「貴女は、()()()()よ」

「…………分かった」

「あら、今日はやけに素直ね? 貴女らしくもない。そんなに蛍のことに責任を感じているのかしら」

「当たり前、だ」

 

 引き摺られながら、フィーネの足が向いた方向にこの部屋が在ることに気付いた時からこうなる予感はしたのだ。彼女のお仕置きは、いつもそこで行われるから。

 フィーネが蛍という自分のお気に入りを害されて、何も感じていない訳がない。この女のことだ。蛍を傷つけて良いのは自分だけだと本気で思っているかもしれない。

 

「じゃあ、どうすればいいか分かるわね?」

「……ああ」

 

 既に何度となく行われてきたことだ。手順は分かっているとクリスは頷く。震える手で自分の服に手を掛け、ゆっくりとその一つ一つを脱ぎ去り、自分の肌を露わにしていく。外気に晒された肌が、粟立つ。そこには、この屋敷に来た時にはなかった傷痕がある。白い肌に幾つものミミズ腫れの線が走っている。鞭で叩かれたかのような――否、実際に叩かれた傷痕。彼女と同じ傷痕。

 クリスは羞恥と屈辱でグチャグチャになった思考で、それでも、大事な部分だけは隠そうと、両手で胸と下腹部を覆った。

 いつの間にかクリスの目の前に迫っていたフィーネが、クリスのそんな様子を目にし、紅の塗られた唇を蠱惑に歪め、うっとりとした嬌声をあげる。

 

「可愛いわよ、クリス。貴女は蛍と違って、素直に羞恥に顔を染めてくれるから、あの娘とは別の意味で唆られるわ」

「……そう、かよ」

「ふふっ、その強気な態度も、今は心地良いわ。ほら、口を開けて」

 

 フィーネの言葉に従い開いた口に、痛みに耐えるための布を噛ませられる。少し息苦しいが、これが有るのと無いのとでは、雲泥の差なので黙って受け入れる。もし、この布が無ければ、食いしばりすぎて、自分で自分の歯を砕いてしまうかもしれない。

 「次は手ね」というフィーネの言葉に、クリスの秘部を覆っていた両手がフィーネの嫌に冷たい手に掴まれて、天井からぶら下がる手鎖に繋がれる。最初の頃は、何故屋敷の一室にそんな物が設置してあるのかという疑問も覚えたが、結局はフィーネだからという理由で呑み込んだ。

 鎖に繋がれ、一糸纏わぬ姿を他人に晒している。現実離れしたこの状況にも関わらず、クリスは自分の顔が更に赤く染まるのを止めることが出来ない。白金の双眸がじっくりと嬲るように、クリスの裸を、その視界に収めていた。

 

「さて、今日は3回かしら」

 

 鞭を手にして、クリスの背後に回ったフィーネの声に、少し安堵する。回数で言えば、そこまで多くはない。それでも、耐え難い痛みなのは確かだが。

 フィーネはやたら滅多と数を打つことはしない。一打一打、丁寧に、心を込めて、その腕を振るう。それが無駄に数を打たれるよりも辛く感じるのは、その一打に込められたフィーネの感情の大きさ故なのだろうか。

 

「まずは、一つッ!」

「――ッ!!!」

 

 振るわれた鞭が、クリスの背中を撫でた瞬間、意識が飛びそうな程の痛みがクリスに襲いかかる。それを口に咥えた布を噛み締め只管に耐える。打たれた場所が焼けるように熱い。皮膚が剥がれ、身体を伝って血が滴り落ちているのが分かる。余りの痛みに涙が溢れ、視界が明滅を繰り返す。

 傷痕が、クリスの身体に刻まれる。

 

「クリス、その痛みを身体に、心に、刻みつけなさい。痛みだけが、人と人を繋ぐ唯一にして絶対の絆。私という傷を受け入れなさいッ!」

 

 痛みだけが人と人を繋ぐ絶対の絆。それはフィーネがお仕置きの際に決まって口にする彼女の持論だ。歪んでいるとは、思う。認めたくないとも、思う。

 けれど、心の何処かでそれがある意味では真実だと理解している自分がいる。

 優しいや温かさと言った絆は、儚く脆い。失う時は、一瞬だ。それは、クリスも両親を失った過去の経験から知っている。

 だが、痛みは傷は、消そうと思っても消えないのだ。それもまた、クリスは過去の経験から知っている。両親を失った時の恐怖を未だに覚えている。倉庫のようなあの建物の中で、次に連れて行かれるのは自分かもしれないと怯え震えたあの日々を、きっとクリスは一生忘れる事が出来ない。

 フィーネが言っているのは、きっとそう言う事だ。身体に、心に刻まれた傷に触れる度に、フィーネに対する恐怖を思い出す。忘れようと思っても忘れられず、フィーネという存在は、クリスの中で永遠となる。

 

 呪いにも似た、繋がり。確かに、それは、絶対の絆だった。

 

 だが、呪いにも似た痛みという絆を知ったからこそ、クリスには、優しさや温かさが余計に尊く思える。儚く脆い絆であっても、それは誰かを思い遣ったものだ。痛みや恐怖の様に、押し付けがましい絆ではない。互いが互いを認め合い、尊重し、必要としたからこそ生まれる尊いものだ。

 だからこそ、失いたくない、守りたいと人は努力する。そうして生まれる人と人の繋がりは、決して、痛みに劣るものではない。

 フィーネの論は、他人を信じることを放棄した人間の考えだ。他人との関係を断ち切り難いと思いながらも、自分という傷を刻む事でしか他人と絆を結ぶ事が出来ない臆病な自分の弱さを他者に押し付ける我儘な考えだ。

 故に、この痛みに屈する訳にはいかない。この胸には、まだ温かさが、蛍の優しさが残っている。

 蛍は、いつもこんな痛みに独りで耐えていたのだ。フィーネの歪んだ考えに晒されながらも、あの優しさを失わなかった。ならば、クリスが此処で弱音をあげることは許されない。

 彼女の代わりに、自分の身体に傷が増える。今迄は、蛍がその小さい身体で一身に受け止めていたフィーネの歪んだ愛情を、肩代わりする。これで、彼女の事を少しでも守れるのならば、この痛みにだって耐えられる。耐えてみせる。

 彼女との、絆を、失ってなるものか。

 

「二つッ!」

「――ッッッ!!」

 

 風を切る音と共にクリスの声にならない悲鳴が部屋に響く。今度は、背中ではなく前。胸から脇腹に掛けてクリスの雪のように白い肌に一筋の赤が新たに刻まれる。

 涙が溢れて止まらない両目で、鞭を振るうフィーネを睨みつければ、彼女は酷く嬉しそうに歓喜の声を上げる。嬉しくて、楽しくて、堪らないのだろう。高らかに嘲笑い声を響かせるその姿は、他人に己を刻みこむというその行為に酔いしれる狂人であると同時に、弱者を屈服させることに悦楽を覚える真性のサディストのものだ。

 

「あっはっははッ!! 良いッ!! 良いわよ、クリスッ!! その眼、ゾクゾクするわッ!!」

「はぁ……はぁ……」

「ほらッ! これで最後よッ! 三つッッ!!!!」

「――ッッッ!! ――ッッ!!!」

 

 最後の一振りは、二振り目に重なり、十字を描く様に刻まれた。既に皮膚が剥がれ落ちた部位に、振りかざされた鞭の痛みは、今までの比ではなく、本当に一瞬ではあったもののクリスは意識を失った。だが、刻まれた傷痕が、そのままクリスが眠りに落ちる事を許さず、痛みとなってクリスの意識を苛む。

 「可愛かったわよ」というフィーネの柔らかな声色と共に、咥えていた布と手錠を外される。痛みから立っていることすらままならず、蹲るようにして地面に倒れ伏した。滴り落ちて床に溜まった自分の血が目に入る。

 

 他人の血に塗れたこの女の行く先に、本当にあたしの――蛍の望む世界はあるのだろうか。

 

 蛍の事情を、既にクリスは知っている。彼女が両親に裏切られた過去も、実験動物のような生活を送ってきた過去も知っている。だから、この理不尽な世界を変えようとしているとも。

 フィーネは語った。カ・ディンギルによって月を穿ち、統一言語を取り戻すことで、人類は争いを止め、互いのことを真に理解し合えるのだと。

 カ・ディンギルが詳しく何かは聞かされていない。只、異端技術(ブラックアート)を用いた月を穿つ為の兵器だとは教えられた。そんな兵器を持ちだして月を穿つことでしか、人類が呪いから開放される術はないと彼女は言う。

 他人を信じず、傷を残すことでしか絆を結べない彼女が、本当に、そんな目的の為に世界を変えると願うだろうか。掠れた意識の中で、クリスは、ふとそう思った。

 




 思った以上に早く書けたので投稿。前半が異常に筆が進みました。
 誕生日にこんな話を書いてしまってクリスには申し訳ないと思っています。

 「痛みこそが人と人繋ぐ唯一の絆」に関しては、本編中で詳しい解説がされていなかったので私なりの独自解釈です。


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EPISODE 07 「漏れいずる不協和音」

 なんとか年内に間に合いました。
 あんまり百合百合させられませんでした。無念です。



 大小様々な機械と床を這うケーブルに埋め尽くされた廊下を、雪音クリスは重い足取りで歩んでいた。

 時刻は昼。太陽は真上に位置している。割と寝坊助なクリスではあるが、此処まで寝過ごすと言うのも珍しい。と言うのも、それは、間違いなく昨日のフィーネのお仕置きのせいである。あの後、フィーネから最低限の傷の治療を受けて、傷の痛みからかまともに動くことも出来ずに、クリスは治療室の寝台の上で一夜を明かした。明かしたと言っても、刻まれた傷痕から感じる焼けるような痛みに、まともな睡眠など出来る筈もなく、夜中に何度も眼を覚ました。漸く、落ち着いて瞳を閉じることが出来たのは、明け方になってからだ。なので、こんな時間に目を覚ましてしまったのはクリスのせいではない。絶対に、フィーネのせいだ。

 しかし、クリスの重い足取りは、刻まれた傷跡に端を発するものではない。いや、多少なりとも、影響がないとは言わないが、それが主だった理由でないことは確かだった。

 

 その重い足取りの向かう先には、クリスと蛍の部屋がある。

 

 クリスと蛍は、二人で一つの部屋を私室として使っている。元々クリスがこの屋敷に来る以前から蛍が使っていた部屋に、クリスが転がり込む形になった訳だが、勿論、そんな恥ずかしいことを、クリスから提案する訳もない。

 全ては、あの雪の日に、クリスを屋敷に連れて来ておきながらも、部屋の一つも用意していなかったフィーネの責任だ。他の部屋は、謎の薬品やら機械やらに埋め尽くされていてまともに生活できる環境ではないと蛍に聞かされ、尚且つ、蛍にはそれらを勝手に片付けて良いかどうかの判断がつかないとの事だったので、クリスは初日から蛍と部屋で、同じベッドで寝る羽目になってしまった。結局、フィーネはそれから一週間近く帰ってくることはなく、なし崩し的に、蛍と同室で枕を同じくしてしまった。それが、何故か、今まで、続いている。

 クリスは、何度も言ったのだ。部屋を分けようと。しかし、その度に、蛍は無表情の仮面の下からどこか寂しそうな空気を匂わせ、フィーネに言ってみても、新たに部屋を用意するのが面倒くさいだの、家具一式を新たに運んで来るのが面倒くさいだのと言って、取り合ってくれなかった。察するに、どうも、フィーネは最初から、クリスと蛍を一緒の部屋で生活させようとしている節がある。なんて事を考えるのだろう。まるで、悪魔のような女だ。

 経緯はどうあれ、クリスが今から向かうのは自分の部屋でもあるのだ。何をそんなに緊張する必要がある。そう自分に言い聞かせてみるものの、クリスの足取りは一向に軽くならない。

 クリスの足取りが此処まで渋っているのは、昨日去り際に放ってしまった自分の不用意な一言が原因だ。

 

『後で見舞いに来るからな! 苦しかったら通信機使えよ! 直ぐ飛んでいくからな!』

 

 結局、クリスはあの後、蛍を見舞いに行けていない。その事が、クリスの心に影を落としていた。

 「後で」というのが、一体何時までを指す言葉なのか。解釈は人によるとは思うが、あのニュアンスで「明日、お昼頃に見舞いに来るからな!」と捉える人はいないだろう。少なくとも、その日の内には訪れると大概の人は考える筈だ。

 蛍はあれでいて、約束事にはかなり煩い。それが、両親に裏切られた過去に依るものなのか、根が真面目な彼女の為人に依るものなのかは分からないが、蛍は約束というものを非常に尊ぶ。

 例えそれが、去り際に思わず口を出た衝動的な一言であっても、彼女にとっては一つの大切な約束であることには変わりないだろう。

 それをクリスは破ってしまった。

 きっとあの言葉は、蛍に届いていただろうし、もしかして、もしかするとだが、ベッドの上で碌に身体も動かせず大好きな歌も歌えない状況でクリスがお見舞いに来る事を彼女が心待ちにしていたらと考えると心が痛む。

 フィーネにお仕置きを受けて、まともに身体を動かすことが出来なかったため仕方ないと言えば仕方ないのだが、それを言い訳にしては、湖に落ちたのは自分自身の所為だと考えている自虐的な彼女の事だ。クリスがフィーネからお仕置きを受けたことすら自分の所為だと思いかねない。そんな事を彼女に思わせる訳には行かない。

 つまり、女々しい言い訳などせずにクリスが大人しく蛍のお叱りを受け入れるしかないのだ。

 

 気付けば、目の前には目的地のドアがある。

 

 意を決して、ドアを数度叩く。自分の部屋でもあるのに、ノックは必要だろうかとも思ったが、一応病人がいる手前、最低限のマナーは必要だろう。

 

「クリス?」

「は、入るぞ」

 

 蛍の返事を受け、ドアを開けて中に入れば、昨日と変わらず彼女はベッドの上に横たわっていた。しかし、その顔色は随分と良くなっているし、濁音だらけだった声も、まだ少し掠れてはいるものの普段の彼女の声に戻ってきている。

 フィーネの言った通り、一晩でかなり回復したようだ。その事に、少しほっとする。顔には相変わらずの無表情が貼り付けられているが、今はそれが蛍が回復した何よりの証左だと思えば、とても嬉しい。

 クリスは起き上がろうとする彼女を手で制し、ベッドの端に腰を下ろした。

 

「調子はどうだ? 辛くないか?」

「悪くないです。熱も下がりましたし、鼻詰まりも治りました。まだ、少し咳は出ますけど、身体の異常はそれぐらいです」

「そ、そうか。良かった……」

 

 「ご心配をお掛けしました」と蛍はぺこりと首を下げる。蛍には何の責任もないというのに態々頭を下げる彼女の律儀さに、クリスは何とも言えない収まりの悪さを感じる。

 蛍が風邪に苦しんだのは、純粋にクリスの体調を心配してくれた彼女の優しさに、恩を仇で返す真似をしたクリスが悪いのだから、どうか謝らないで欲しい。

 謝らなければいけないのは、クリスの方だ。蛍の体調が回復していた事にかまけて忘れていた、この部屋に来て先ずはしなければならない事を思い出した。

 

「あ、あのよ、昨日は――」

「クリスこそ傷の具合は平気ですか?」

 

 クリスが意を決して開いた口は、蛍の先制攻撃を受け、言葉を続けることが出来なかった。被せる様にして放たれた蛍の言葉に瞠目し、思わず、傷跡を隠すように両手を動かしてしまう。しまったと思っても時既に遅く、クリスのその様子を赤い両目でしっかりと捉えていた蛍は「やっぱりそうですか」と苦々しさを含んだ声を漏らす。

 何故、クリスが傷を負った事を蛍が知っているのだろうか。クリスが身体を動かすことが出来なかったように、蛍も又、昨日はベッドの上から立ち上がることすら出来なかった筈だ。情報の得ようがない。

 ぐるぐると回る思考の中で必死に考えを巡らせるクリスだったが、その答えを蛍はあっさりと口にする。

 

「心配性のクリスが、一度も様子を見に来ないなんておかしいと思ったんです」

「そ、それだけか? それだけの理由で?」

「思考の出発点は、そこからです。クリスが何の理由もなく約束を破らないことぐらい知っています。それから、来ないのではなく、来れないのではと思い、その原因を考えていました。確信したのは、今さっきです。カマをかけたら、クリスがものの見事に引っかかってくれたので」

「う、うぐぐ……」

 

 蛍の思惑にまんまと乗せられてしまったクリスは、口から良く分からない音を漏らしながら、自分の顔が赤く染まることを止められない。

 この赤面症は、本当にどうにかならないものか。何とかしようと思って何とか出来るものではない事はクリスとて承知しているが、幾ら何でも自分の顔は朱に染まり易すぎる。

 無表情の下でくすくすと笑う「クリスは分かりやすいですね」という蛍の言葉に、ぶわっと耳まで赤が広がる。

 

「すみません。少し意地悪をしました」

「あ?」

「本当は、午前中に様子を見に来たフィーネが凄くご機嫌だったので、その様子を見た時には答えを確信していました」

「……は? は?」

「クリスにカマをかけたのはですね。酷くビクビクしながら部屋に入ってきた貴女が、とても可愛らしかったので、つい、出来心で」

「『つい、出来心で』じゃねえよッ! んなことで人のことを弄ぶなッ!」

 

 蛍は優しさこそ失っていないものの、フィーネから良からぬ影響を受けているのではないだろうか。クリスはそんなことを思わずにはいられない。

 頭をガシガシと掻いて、少し頭を冷やす。顔を真っ赤にしている場合ではない。一度ははぐらかされたもののクリスには、蛍に言わなければならない言葉がある。

 

「悪かったな。昨日、突きとばしちまって。後、約束も破っちまった」

「……本当に、クリスが責任を感じることなんてないんですよ? 私が湖に落ちたのは自業自得ですから」

「けどッ! あたしがあの時、恥ずかしさを我慢出来てさえいりゃ……」

「クリスが恥ずかしがると予想はしていました。それでも行動を起こしたのは私です。だから、例え突き落としたのがクリスの手なのだとしても、その責は本来私が負わねばならぬもの。それを貴女に押し付けてしまい申し訳なく思っています」

 

 まるで、此方に言い聞かせるように、優しい声色で蛍が言う。だが、その声色に反して、心の内では、自分の所為でクリスがお仕置きを受けてしまったと自分を責め続けている。不器用な無表情の下に隠れた小さな少女が、自分で自分のことを苛んでいる。それが、クリスには分かってしまう。

 そんな顔をさせなくなかった。だから、黙っていようとしたのに、いつの間にか、聡明な彼女は自力で答えを見つけ、勝手に納得してしまった。

 それは彼女の悪い癖だ。

 

「お前は悪くねえ」

「クリスは悪くありません」

「あたしが悪い」

「私が悪いんです」

「分からず屋」

「頑固者」

「…………」

「…………」

 

 これ以上の会話は平行線だと分かったのか、クリスと蛍はお互いに口を閉ざす。何とも言えない気まずさが、場を満たす。

 蛍と出逢って以降、クリスと蛍の間にあった空気は、温かく柔らかなものだった。その空気を、クリスは心地良いと感じていたし、また守りたいと願っていた。だというのに、そんな温かな空気が脆くも失われようとしている。

 クリスは、自虐的な蛍がその身に全ての咎を背負い込もうとすることを看過できない。そんなことを続けていたら、何れ彼女は自分の優しさに食い殺される。そうはさせないと、小さな彼女を守ってみせると、あの日あの時にクリスは誓った。だから、よりにもよって、雪音クリスの罪を、詞世蛍に背負わせる訳にはいかないのだ。

 譲れぬ想いがある。相手を思い遣ってのことだと言うのに、どうしてこんなにすれ違ってしまうのだろう。

 クリスの紫の瞳と、蛍の赤い瞳がぶつかり合う。まるで、先に逸らした方が負けだと言わんばかりに、互いに意地を張っていた。

 

 詰まる所、どうやらこれは、クリスと蛍の初めてのケンカであるらしい。

 

 

◇◇◇

 

 

 フィーネは、東京スカイタワー、その特別展望室でゆっくりと待ち合わせの相手を待っていた。

 この場所をどういう意図で相手が指定してきたかはわからないが、この上から地上を眺める景色は悪くない。常から他人を見下した態度を取る彼女は、物理的にも眼下に群がる人の群れが豆粒の様にしか見えないことに気を良くしていた。この矮小で愚かな人々がいずれ自分の元に帰順すると考えると、唇が釣り上がることを止められない。

 大変に気分がいい。見下すという行為の何と甘美なことか。

 昨日、クリスにお仕置きをした時の事を思い出す。両眼に涙を溜めながら、此方を睨む彼女は非常にそそられた。全てを抱え隠そうとする蛍とは違い、普段から勝気なクリスは、フィーネに他者を屈服させる快感を強く与えてくれる。表情が素直に顔に出るのも良い。ある意味では、蛍以上にお仕置きをして愉しめる相手ではあるが、それは蛍の魅力がクリスに劣っているという意味ではない。蛍は蛍で、本当は痛みが苦手で有るにも関わらず、必死にそれを隠そうと耐え忍ぶ姿が、フィーネの背筋を震わせる。

 本当に、二人とも、可愛らしくて堪らない。

 

 最も、それらのことを抜きにしても、今日のフィーネは大層機嫌が良い。

 

 何故ならば、今日この場で、フィーネの計画に必要なパズルの1ピースが漸くこの手に収まるからだ。頑なな米国政府とF.I.S.上層部を長年の交渉で何とか説き伏せ、起動実験という名目で漸く国外への持ち出しを許可された完全聖遺物。フィーネの計画に、必ず必要かと言われればそうではないが、これがあるのとないのでは、計画遂行の難易度に雲泥の差があり、もし起動させることができれば、目指すべき頂への道がぐっと楽になる。そんな一品が、我が手に落ちることに、フィーネは胸の高鳴りを抑えることが出来ない。

 

「申し訳ありません。少し遅れましたか」

「……気にしてはいない。そちらもその身体での移動は難儀だろうからな」

「ご配慮痛み入ります」

 

 待ち人来る。自動ドアが開く音と共に、車椅子に乗った女性が一人の少女を伴って姿を見せる。待ちに待ったその姿を視界に収めて、フィーネは思わず目を細めた。

 車椅子に乗った女性、此方は、まぁ、問題はない。元々彼女が来るとは連絡を受けていたし、頭の悪いアンクルサムの相手をするくらいならば、F.I.S.の中でも多少は理知的な彼女が引き渡しの場に現れるというのであれば、フィーネにも文句はない。

 だが、その後ろに立ち、この場まで彼女の車椅子を押してきたのであろうピンク髮の少女――と言うには少し年齢が行き過ぎているかもしれないが――は何だ。知らぬ相手ではない。女神ザババの二振りとは違い、データでしかその姿を見たことはないが、少女の首から下げたペンダントが彼女が本物だと語っている。本来であれば、研究所内すら自由に出歩けない筈の彼女が、何故この場に居る。

 

「ナスターシャ、貴様、装者を施設の外――況してや、二課のお膝元であるこんな場所に連れ出すなど、何を考えている」

「F.I.S.の存在は未だ日本政府には知られてはいないのでは? なれば、それ程神経質になる必要もないと愚考しますが」

「それは些か浅慮に過ぎる。貴様らしくもないな、ナスターシャ。籠の鳥に空を飛ばせてやりたいとでも思ったか」

 

 ギロリと不服さを隠さぬ目で、ナスターシャの背後でオロオロと狼狽える少女に睨み付ける。少女はピクリと身体を震わせたものの、何とかその震えを押さえ込み、ナスターシャの隣に並ぶ様にして前に出ると、怯えた顔をひた隠しにしてフィーネに頭を垂れた。

 

「御目通り叶って嬉しく思います、巫女フィーネ。ガングニールのシンフォギア装者を務めていますマリア・カデンツァヴナ・イヴと申します」

「もう一振りの撃槍、いや烈槍か。データには目を通している。適合係数こそ、正規の装者には及ばぬもの、その戦闘力には目を見張るものがあるな」

「勿体無いお言葉です」

「天羽奏といい、貴様といい、ガングニールの装者はそういう星の下にあるのかもしれんな」

 

 天羽奏とマリア・カデンツァヴナ・イヴは共に正規の適合者ではなく、LiNKERによってその身を無理矢理に聖遺物と適合させた鍍金の装者だ。にも関わらず、その戦闘力は、風鳴翼や詞世蛍、雪音クリスといった正規の装者たちに決して引けを取るものではないというのだから畏れ入る。

 もしくは、ガングニールの好みがそう言った少女に限るのか。馬鹿な考えだと、思考を放棄する。高々、聖遺物の欠片から作られたシンフォギアにそんな人間の意志の様なものなど、存在する訳がない。

 

「自己紹介はそのぐらいで結構。装者を安易に外に出したことについて、色々と言いたいことはあるが、それは今は置いておくとしよう。本題に入るぞ。例の物は?」

「此方に」

 

 ナスターシャが、抱える様に膝に置いていたアタッシュケースを、フィーネに向けて差し出す。厳重な電子ロックを解除し、ケースを開ければ、其処には、一振りの棒らしき物が収められている。持ち手の前には盾のようなパーツが取り付けられ、先端は刃のように鋭い。一見すれば、特殊な槍か何かに見えないことないこの物体の正体が、「杖」であることをフィーネは知っている。

 未だ基底状態とはいえ、発する気配に含まれた神秘性は、フィーネに勝るとも劣らない。流石はこの世に現存する貴重な完全聖遺物の一つとでも言うべきか。

 

「『ソロモンの杖』、確かに受け取った」

 

 完全聖遺物「ソロモンの杖」。旧約聖書に記されし古代イスラエルの王の名を冠したその杖の機能は、バビロニアの宝物庫の扉を開き、ノイズを任意に発生させること。それだけならば、フィーネにも可能ではあるが、ソロモンの杖の機能は、フィーネの能力の更にその上をいく。ゴエティアに記された72柱の悪魔を操ったとされるこの杖は、72種類のコマンドを組み合わせることによって、本来、人間を襲うことに終始した単調な行動パターンを取るノイズを意のままに操ることを可能とする。

 バビロニアの宝物庫に収められしノイズの総数は無尽蔵とも言われ、正確な数はフィーネですら観測することが馬鹿馬鹿しくなる程に膨大である。この杖を持つということは、現代において認定特異災害と評されるノイズの軍勢の支配者になるということで、それは、この杖一振りで世界を相手取ることすら可能になるということに他ならない。

 ソロモンの杖は、フィーネの計画の障害を廃すると共に、月崩壊後の人類統治を盤石なものとするだろう。来るべき未来に思いを馳せて、フィーネは唇を釣り上げた。

 

「新たに装者を一人得たと聞きましたが、詞世蛍と合わせてもその数は二人。完全聖遺物の起動に必要なフォニックゲインを得ることが本当に可能なのですか?」

「そちらが鍍金の装者三人がかりで数年掛かっても起動できなかったとはいえ、此方もそうだという保証はないだろう? 何より此方には、ネフシュタンの鎧を起動させた時の正確なデータが残っている」

「そのデータさえ渡していただければ、此方で如何様にも対処するのですが」

「交渉のカードを切るタイミングは私が決める。焦ることはない。遠からず、そちらにもデータを回すことになる」

「……分かりました。とは言え、上層部は今回の国外への持ち出しを快く思っていません。あまり時間的な猶予はないと思って頂きたい」

「随分と性急なことだ」

「貴重な完全状態の聖遺物を、一時とはいえ手放すのです。気が気ではないのでしょう」

 

 「そんなものか」とナスターシャの言葉に適当な返事を返し、もう用は済んだとばかりにそそくさとその場を後にしようとしたフィーネであったが、ドアへと向かっていたその足をピタリと止めた。

 

 そういえば、米国政府に依頼していたもう一つの事案はどうなっているのだろうか?

 

「ナスターシャ、例の物の進捗はどうなっている? 2機目の打ち上げ以降、此方にこれと言った報告が上がっていないのだが?」

「現在、3機目のロールアウト待ちです。完成次第、打ち上げ準備に入ります。詳細はこのメモリーチップに」

 

 ナスターシャに視線で促されたマリアから、指先程の小さなメモリーチップを手渡される。事前にフィーネから質問が来ることを予想していたのだろう、ナスターシャの準備の良さに、フィーネは満足感を覚える。やはり、交渉事や報告は有能な人間と行うに限る。異端技術(ブラックアート)の深淵すら知らぬ猿共を相手にしてきた時とはまるで違う、ナスターシャの打てば響く受け答えに、フィーネは笑みを深めた。

 故に、続くナスターシャの言葉にフィーネは眉を顰めることとなる。

 

「報告書は読ませて頂きましたが、本当にあのような事が可能なのですか?」

「今更、何を言っているのだ。異端技術(ブラックアート)という超常の技を研究する我等が、常識などという詰まらぬ鎖に縛られてどうする」

 

 現代の科学では成し得ない奇跡を可能にするからこその異端技術(ブラックアート)。それらを前にして、只人の常識などという詰まらぬ考えで疑問を挟むなど愚の骨頂。異端技術(ブラックアート)の深淵は深く、それを理解できるのはフィーネのようなほんの一握りの天才のみ。凡人は、只、黙ってそのお零れに満足していればいいのだ。

 ナスターシャは確かに優秀だ。5年前にF.I.S.で行われた、機械装置を介しての完全聖遺物「ネフィリム」の起動実験。歌を介さずの完全聖遺物の起動など成功する筈もない実験に、F.I.S.の職員の中で彼女だけは最後まで反対していたと聞いている。

 だが、それはあくまで只人の中ではという話だ。高々、十数年しか生きていない只人が、数千年を生きてきたフィーネに並び立てる筈もない。

 とは言え、ナスターシャは理知的な人物だ。そんなことフィーネに言われる筈もなく、彼女は理解していると思っていたのだが。

 

「ですが、あれ程の事象を引き起こすのです。如何な神獣鏡(シェンショウジン)と言えど、装者へのバックファイアが甚大な筈。絶唱発動時とほぼ同等のエネルギー量を必要とするなど、例え完成したとしてもまともな運用が出来るとは思えません」

「成る程。貴様が引っかかっていたのはその部分か」

 

 自己紹介以後口を開かず、最低限の働きだけをして隠れるように壁の花を決め込むマリアをチラリと見遣る。どうやらナスターシャは、随分と、装者という存在にご執心のようだ。

 

「情に絆されたか。それは人としては正しいのかもしれぬが、科学者としては失格だな」

「……では、やはり、彼女に絶唱を歌わせるつもりなのですか?」

「どんな道具だろうと、使わねばそれは置物と変わらぬ。そして、目の前に未知の技術があるのなら、それが如何に人の道を踏み外したものだとしても、試さずにはいられないのが科学者という人種だ。技術とは、そういった狂人たちが、今日まで歩んできた血に塗れた道の果てにあるものだ。甘さに溺れて、そんな初歩的なことすら忘れてしまったか?」

 

 膝の上で震える程に握り締められたナスターシャの両の拳が視界に映る。きっと、ナスターシャとてその程度のことフィーネに講釈されるまでもなく、理解しているのだ。彼女の中で、人としての自分と、科学者としての自分が鬩ぎ合っていることが手に取るように伝わってくる。随分と、おぼこいことだ。

 ナスターシャは、以前から「異端技術は人類を救う」という科学者としては夢見がちな信条を掲げていたが、此処まで甘い人間だっただろうか。

 少し考えて、その原因に思い当たる。5年前のネフィリムの起動実験。あの実験の際に、アガートラームの装者が絶唱を用い、その命と引き換えに暴走したネフィリムを基底状態へと押し戻した筈だ。確か名は――。

 

「その人としての心は、セレナ・カデンツァヴナ・イヴに端を発したものか?」

「「――ッ!」」

 

 その言葉に何故か、ナスターシャのみならずマリアまでもが反応を示す。そう言えば、セレナはマリアの血の繋がった妹だったか。

 セレナ・カデンツァヴナ・イヴ。マリア・カデンツァヴナ・イヴの実の妹にして、聖遺物「アガートラーム」の正規適合者だった少女。5年前、彼女は機械装置を介しての無理繰りな強制起動により暴走したアルビノ・ネフィリムを、「エネルギーベクトルの操作」という他に類を見ない稀有な絶唱特性を活かし、その命を対価とすることで基底状態にまでリセットすることに成功した。

 ナスターシャの両足と右目はその際の怪我に依るものだと聞いている。

 

「度し難いな。命を救われ、人としての感情を取り戻したとでも言うのか」

「――セレナはッ! 貴方みたいに、私たちのことを実験サンプルとしてしか見ていない大人たちを助ける為に、その命を散らせたッ! そんな言い方――」

「マリア、お止めなさい」

「けどッ! マムッ!」

「マリア」

 

 此方を射殺さんばかりに睨みつけるマリアの視線を、フィーネはそよ風のように受け流す。

 実験サンプルを実験サンプルとして扱って何が悪いというのか。そんな人としての情を今更、フィーネに求めるなど、頭がお目出度いにも程がある。

 詞世蛍という少女のことを確かにフィーネは個人的に気に入っている。だが、何処までいこうとも彼女が、フィーネにとって駒であることには変わりなく、その価値がフィーネの創造主への恋慕を上回ることは決してない。

 詞世蛍にしても、セレナ・カデンツァヴナ・イヴにしても適合者という点で見れば、替えの効かぬ存在という訳ではない。失ったのならまた、補充すれば良いだけの話だ。幸いにして、人と言う資源は、この地上に70億と満ちているのだ。時間と手間さえ掛ければ、見つからぬ訳がない。

 替えの効かぬアガートラームにしても、破損状態を見る限りでは、コンバーター部分を新調し、フィーネが手ずから修理すれば復元は可能だろう。そもそも、アガートラームのシンフォギアなどフィーネにとっては毛程の価値もないものだ。彼女の計画に銀の左腕は必要ない。だからこそ、未だにアガートラームはその輝きを失ったままな訳だが。

 

「マム、か。家族ごっこは他所でやって欲しいものだな」

「貴様ッ!!」

「マリア、それはいけませんッ!」

 

 ガングニールを手にし今にも聖詠を口にしかねない勢いで吠えるマリアに、フィーネは眉を顰める。こんな場で、そんなものを取り出そうとするマリアの浅慮が腹立たしい。この娘は、フィーネがこの場を「二課のお膝元」と評したこと聞いていなかっただろうか。

 東京のど真ん中、おまけにこの東京スカイタワーは、日本政府の非公式組織が活動時に使用する映像や交信といった電波情報を統括制御する役割が備えられた隠れた軍事拠点だ。

 こんな場所で派手な騒ぎを起こしでもすれば、数分足らずで政府の特殊部隊に包囲され、その身柄を確保されるだろうし、ガングニール装着時のアウフヴァッヘン波形を感知した二課から装者が派遣される可能性すらある。

 もし、ガングニールの力でこの場を切り抜けたとしても、ガングニールを身に纏っている限り二課のレーダーに捕捉され続けるし、かと言って、ガングニールを身に纏わなければ、只の少女に過ぎないその身で、足の不自由なナスターシャを連れて、調査部の追跡を躱すことは不可能だ。日本国内から脱出するどころか、東京都から脱することすら叶わぬだろう。未だ櫻井了子の正体に気付かぬ調査部とはいえ、そこまで無能ではない。

 

 つまり、この場で、ガングニールを身に纏った時点で、マリアは詰みなのだ。

 

「貴様のその行動は己の身だけでなく、母と慕うナスターシャの身まで危険に晒すことになると何故気付けない? そんなことすら解らぬのか、マリア・カデンツァヴナ・イヴ」

「クソッ! クソッ! クソッ!」

「フィーネ、どうかその辺りで、言葉の矛を収めては頂けませんか? 至らぬ我が身の未熟が、貴女の気に障ったというのであれば謝罪します」

「必要ない。これ以上、孺子の相手をする程暇ではないのでな」

 

 そう言い残し、ソロモンの杖が収められたアタッシュケースを手にしてフィーネはその場を立ち去る。閉まった扉の向こうから聞こえるマリアの慟哭が、フィーネには、耳障りな雑音(ノイズ)にしか聞こえなかった。ソロモンの杖を手中に収め、折角気を良くしていたというのに、頭から冷水を浴びせられた気分だ。「まるで興が冷める」と吐き捨てるように呟いた言葉は、誰に届くこともなく、不機嫌さを隠そうともしない荒々しいフィーネの靴音にかき消された。




 そろそろ話を進めようと、伏線を撒きました。
 フィーネは何だかんだ言っていますが、今のところフロンティアの封印を解くまで蛍を切り捨てるつもりはありません。騙すのはフィーネの専売特許ですから。

 初登場にも関わらず、マリアさんには悪いことをしました。


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EPISODE 08 「大切な貴女へ」

 明けましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願いします。

 ちょっとポエム要素強いです。



 乾いた音が、二度、実験室に響く。遅れてやって来るのは、熱を持った鋭い痛みだ。頬に感じる痛みに思わず、泣きそうになる。痛いのは、嫌いだ。

 蛍は、顰めそうになった顔を何とか無表情に保ち、目の前で憤怒の表情を浮かべるフィーネを見遣る。彼女の妖艶で端正な顔立ちは、面影すらない。そこには、振り抜いた右腕をそのままに、悪鬼の様に顔を歪めた彼女が佇んでいた。

 蛍の隣に立ち、同じ様に頬を打たれたクリスは無事だろうか。様子を伺いたいが、今少しでも余計な行動とれば、間違いなくフィーネの腕が再び振るわれる。もしかしたら、足かもしれない。昨日から、クリスとの間には気まずい空気が流れているというのに、それでも、彼女の心配をしてしまう自分は本当に馬鹿だと思う。

 

「これは、一体どういうことだ?」

「申し訳ありません」

「…………」

「言葉が、理解できないのか? どういうことだと私は聞いている」

 

 謝罪の言葉が口をついて出た。それ以外にフィーネに語る言葉を、蛍は持ち合わせていなかった。クリスは言葉こそ発していないものの、彼女の怒気が肩越しに伝わってくる。どうやら無事ではあるらしい。だけど、その怒気は、拙い。普段のフィーネであれば、クリスの反抗的な態度に歪んだ悦楽を覚えるのだろうが、今の彼女は、4年間共に生活してきた蛍ですら初めて見る程に憤怒の念を滾らせている。その証左に、彼女の口調はF.I.S.の職員たちと会話する際などに使っている酷く硬いものだ。そこには微塵も遊びがない。このままでは、拙い。具体的にフィーネがどういう行動を取るにせよ、何とかしなければならないと頭の中で警報が鳴り響いている。

 

「二人ががりで、この見るも無惨なフォニックゲイン値は何だ? まるで噛み合っていない。聞くに堪えん歌だ。いや、最早、歌に非ず。只の雑音、不協和音だ。貴様ら、それでもシンフォギアの正規適合者か? これなら、あの紛い物共の方がまだマシな歌を歌うぞ。特に蛍、貴様のこの様は何だ?」

「……申し訳、ありません」

「貴様はそれしか口に出来んのか?」

 

 言うや否や、前髪を掴まれ俯きかけた顔を無理矢理に上げさせられる。目の前には、憤怒に染まった白金の双眸がある。その瞳を見て、蛍の身体と心に刻まれた傷が疼き出す。どうしようもないフィーネへの恐怖を思い出してしまう。身体が震え始める。だが、心が恐怖に塗りつぶされぬよう精一杯な蛍には、その震えを止める術はない。

 

「なぁ、蛍。貴様の歌とはこの程度なのか? 貴様があれ程拘り、心の寄る辺にした歌とはこの程度の音色しか響かせることが出来んのか?」

「私の、歌、は……」

「この程度の歌で本当に世界を変えることが出来るとでも思っているのか? 貴様はあの時、言ったな。『歌うことが出来ますか?』と。貴様の執着は、覚悟は、こんな雑音を奏でるために有ったのか? 血反吐を吐いてでも歌わせてやると言ったが、こんな耳障りな歌しか歌えぬのなら――」

「おいッ! やりすぎだッ!」

「クリス、貴様は少し黙っていろ」

 

 フィーネは、空いた手に(バリア)を発生させるとそのまま叩きつける様にしてクリスへと振り抜く。鈍い音と共にクリスの身体が宙を浮き、諸々の機材を吹き飛ばしながら、背中から壁へと叩きつけられた。

 

「クリスッ!?」

 

 悲鳴の様な叫びが、蛍の口から漏れる。幾らクリスがイチイバルのシンフォギア装者だとしても、シンフォギアを身に纏っていないその身は只の15歳の少女のものだ。あんな衝撃を受けて、無事でいられる筈がない。只でさえ、クリスはフィーネのお仕置きによって刻まれた傷がまだ癒えていない。実際に見た訳ではないが、昨日のクリスの様子を見る限りでは、傷が刻まれたのは胸と背中。あんなに背中を強打しては、傷が悪化してしまう。

 痛みから、地面に蹲るクリスの姿が見える。顔色こそ見えないものの、身体が小刻みに震えて、口からは苦悶に満ちた声が漏れている。本当に、拙い。早く手当をしてあげないと。

 

「貴様は人の心配をしている場合か?」

「あぐッ!?」

 

 フィーネが蛍の髪を掴んでいた手に力を込めて、一切の手加減なく持ち上げる。何時だったか、クリスが顔を真っ赤にしながらも褒めてくれてから、少しだけ自慢になった蛍の黒髪が、ブチブチと嫌な音を立てる。髪の手入れはキチンとしなさいと言ったのはフィーネのくせに、自分からそれに反する様な行動をする彼女に、どうしようもなく苛立ちが募る。

 しかし、余りの痛みから、その苛立ちを押しつぶすフィーネへの恐怖が押し寄せてくる。クリスと生活するようになってから何故か薄れていたフィーネへの恐怖が、蛍の身体を蝕む。蛍の身体と心に刻まれた傷は深い。

 

「蛍、このソロモンの杖が私の計画に必要だと言うことは既に説明したな。私も装者二人のたった一度の歌で、完全聖遺物を起動出来るとは考えていない。だがな、普段の訓練よりも、フォニックゲインの値ががた落ちしているのはどういうことだ? まさか今更怖気付いた訳ではあるまい」

「……申し訳、ありま、せん」

 

 蛍にとって歌を歌うとは、特別なものだ。歌さえ歌うことが出来れば、どんな辛いことも忘れて夢中になることができた。歌が無ければ、蛍はあの研究所での生活を、この屋敷での生活を、耐えることなど出来なかっただろう。

 歌を歌うことは本当に楽しい。歌っている時だけは、蛍は仮面を脱ぎ捨てて、自分を曝け出すことが出来た。自分を偽ることすら忘れて、夢中に慣れた。研究所にいた頃は、歌さえ歌うことが出来れば、他には何も要らないとすら思っていた。

 蛍はフィーネと出逢って、血潮が熱を取り戻した。クリスと出逢って、ポカポカとした温かさを取り戻した。蛍は、随分と、我儘になった。もう、歌だけがあれば良いとは思えない。しかし、蛍にとって歌が特別なものであることに変わりない。歌が好きだという感情は、今も昔も変わらず蛍の胸の内にある。

 

 だからこそ、蛍自身も先程のクリスと二人で歌った歌が酷かったのは自覚していた。

 

 ソロモンの杖の起動実験。フィーネからの指示は、「二人一緒に歌いなさい」といういきなりの無茶振り。そもそも蛍とクリスでは、知っている曲が違いすぎて一体何の曲を歌えば良いのか大いに悩んだ。蛍はJポップだとか民謡だとか一般的な日本の曲しか知らなかったが、逆にクリスは音楽家の娘らしくクラシックだとかオペラだとかどちらかといえば海外の曲にばかり詳しかった。

 そんな二人で昨日から続く気まずい空気にも耐えながら相談して決めた曲は、片翼を失い解散した今は亡きツヴァイウイングのナンバー。蛍もクリスも敵の資料として何度も曲は聴いていたため、歌詞は頭に入っていた。敵の曲を歌うということに、クリスは余り良い顔はしなかったものの、曲自体は嫌いではないらしく、お互いに練習も無しにデュエットで今すぐ歌える曲も他にないと説得した。

 歌い始めて直ぐに違和感に気付いた。蛍は歌うとなれば、研究員達の観察する視線に晒されようが、フィーネの刺すような視線を一身に受けようが、全てを意識の外に追い出して、自分の歌に集中できる。例え裸で歌えと言われようとも気にせず歌えるだけの自信が蛍にはある。だと言うのに、今日は隣から聞こえるクリスの声にばかり意識が割かれる。戦闘訓練を共にこなし、幾度となく聞いた彼女の歌声に気を遣ってしまう。

 歌っていてあんなに心が踊らないのは初めてだった。どんな辛い状況でも歌さえ歌えば、乗り越えられた筈なのに、蛍は初めて歌ではどうしようもないことが有るのだと知った。力を込めて震わせれば蛍が思うがままの旋律を奏でてくれた喉は、まるで調律されていないピアノの様に外れた音ばかりを発し、これが本当に自分の歌声なのかとすら思った。蛍の歌声に困惑し、引き摺られて調子を崩すクリスの歌声を耳にして、なんとかせねばと思いつつも、彼女に合わせようと発した筈の声はさらに音を外したもので、それを聞いたクリスがさらに調子を崩すという悪循環が生まれていた。

 蛍は怖かったのだ。もし、いつも通りに全てを曝け出して歌った時に、それを今のクリスが受け入れてくれるのかどうかが怖かった。クリスの歌は、彼女に似て素直だ。機嫌が良い時はとんでもなく嬉しそうに歌うし、逆に機嫌の悪い時はそれを包み隠そうともせず如実に彼女の感情が歌声に現れる。そんなクリスが、蛍と一緒に声を合わせて歌ってくれるだろうか。そんな考えを思い浮かべてしまったら、もう普段通りに歌うなんて蛍には出来なかった。

 

 クリスに嫌われたくない。

 

 クリスと蛍は、ケンカをしている、と思う。だが、これが果たしてケンカと呼べるものなのか。蛍は判断に困っていた。本当に些細なことで、一晩も経てばお互いに頭を冷やして、今まで通り普通に接することが出来ると考えていた蛍の予想は現在進行形で裏切られ続けている。

 仲直りとは、どうすればいいのだろうか。今朝ベッドの中で目を覚まして、自分の隣にクリスの姿がないことに愕然としてから、蛍はそのことばかりを考えている。

 蛍は誰かとケンカをした経験がない訳ではない。研究所に連れてこられる以前は、普通の子供らしく小学校に通っていたし、多くはなかったが友人と呼べる同年代の少女たちも居た。あれからまだ数年しか経っていないのに、名前も顔も思い出せはしない彼女たちは本当に友人だったのだろうかと今でこそ思うが、それは彼女たちには何ら責のない話で、全てはそんな可愛らしくないことを考える程に変わってしまった蛍が悪い。

 兎も角、そんな蛍と彼女たちではあるが、基本的には仲良く一緒に遊んだり、会話に花を咲かせたりしていた。しかし、やはりお互い精神的に幼かったということもあり、時にはケンカをすることもあった。その場合、お互いに自分の非を認めて、「ごめんなさい」と口に出して真摯に謝れば、それで仲直りだった。

 けれど、クリスとのケンカは少し違う。初めから蛍もクリスも既に自分の非を認め謝罪の言葉を口にしている。

 だと言うのに、寧ろ、それが原因でケンカが始まってしまった。

 お互いに意地を張り合っていたのは確かだ。「自分が悪い、貴女は悪くない」と互いに言い合った。蛍がどんなに言おうともクリスがその言葉を認めることはなかったし、クリスの言葉に蛍が頷くこともなかった。

 何故クリスがそこまで意固地になっているのか、蛍には分からなかった。蛍は、本当に心の底から、湖に落ちたのは自分の責任だと考えているし、その後、クリスがフィーネにお仕置きを受けたと知った時など、思わずフィーネに抗議した程だ。詞世蛍は、他の誰かが自分の罪を肩代わりすることを許容できない。

 表面的に仲直りをするだけならば、蛍がクリスの言葉に頷き、彼女の非を認めれば良いのかもしれない。一歩引くのは、いつも蛍の役目だったけれど、蛍は何故かそれをしたくなかった――否、出来なかった。クリスと仲直りをするなら微塵の後腐れなく、真っさらな気持ちで彼女とは接したい。

 今更相手の非を認めて「やっぱりあれは貴女が悪い」などと心にも思っていない言葉で相手の謝罪を受け入れる。そんな恥知らずな真似をして、クリスと元の関係に戻れるとは思えなかった。

 

 そんな状態で、クリスと共に歌うなんて土台無理な話だったのだ。

 

「どうした? 私を前にして、それ程考え込んだのだ。言い訳の一つでも思いついたか?」

「……いいえ。今回の結果は、私の自業自得です。だから、どうか、お仕置きなら私に。クリスは……悪くありません」

「お前はまたッ!」

「お願いします。フィーネ。どうか」

 

 クリスの咎める言葉を無視して、蛍はフィーネに懇願する。フィーネは蛍とクリスのやり取りを見て、更に不機嫌さを増す。底知れず天井知らずに高まるフィーネの怒りが、蛍の肌をピリピリと刺激した。

 「そういうことか」と大きな舌打ちと共に、蛍はフィーネに髪を掴まれたまま投げ飛ばされる。また嫌な音が聞こえる。はらはらと宙を舞う自分の髪に意識を割かれた為か、碌に受身を取ることも出来ず、背中から床に叩きつけられた。肺の空気が全て吐き出される程の衝撃が蛍の小さな身体に襲いかかる。酸素を求めて空気を食もうとするも、口からは空気が漏れるばかりで、まともな呼吸をすることが出来ない。

 

「装者の精神が安定するならばと思い捨て置いてきたが、まさか裏目にでるとはな」

「かはっ……ぁ……」

「何処もかしこも甘すぎて反吐が出る。……痛みこそが、人と人を繋ぐ唯一の絆だとあれ程教えてやったというのにッ!」

 

 語気を荒げたフィーネが、未だ強打した背中から伝わる痛みから回復していない蛍の横腹を、力任せに蹴り上げる。フィーネの履いた赤いヒールが蛍の横腹に突き刺さり、蛍は耐えることも出来ずに床を二転三転した。

 今度は空気だけではなく、胃に収まったものまで、吐き出した。吐き出してはダメだと思いつつも、込み上げてくる酸っぱいものを我慢できずに、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、捻じ切れそうな臓腑の痛みに頭の中が真っ白になる。

 

「明日、もう一度起動実験を行う。その時また今日のような無様を晒してみろ。その温かさ二度と取り戻せないと思え」

 

 薄れる意識の中で、フィーネのそんな台詞が、聞こえた気がした。

 

 

◇◇◇

 

 

 目を覚ますとそこは見知った天井だった。蛍とクリスの私室。昨日、一昨日と散々横になったベッドにまたも蛍は寝かされているらしい。喉がひりひりと痛み、口の中は酸っぱさに満たされていて気持ちが悪い。ぶち撒けた胃の中身がかかったのか、髪からは吐瀉物独特の嫌な臭いが漂ってくる。身体を起こそうと四肢に力を込めると、背中と横腹から酷い鈍痛が伝わり、顔を顰めた。

 窓から射す陽の光を見る限りでは、お昼を少し過ぎたぐらいだろうか。ソロモンの杖の起動実験が行われたのは、午前中であったため3、4時間程意識を失ってしまったのかもしれない。

 蛍は背中と横腹から伝わる痛みに見ないふりをして、目が覚めたばかりで霞がかった思考で、何故自分はこの部屋にいるのだろうかと考える。蛍の記憶が確かであれば、蛍は実験室でフィーネからのお叱りに耐え切れず、少女にあるまじきゲロを床にぶち撒けて意識を失った筈である。普段のお仕置きであれば、フィーネが自分で刻んだ傷を恍惚の表情で眺めながら治療するまでがワンセットなのだが、今日のあの様子では、恐らくこの部屋まで意識のない蛍を運ぶなんて甘さは見せないだろう。だとすれば、蛍を運んでくれたのはクリスなのだろうが、部屋を見渡しても彼女の姿は見えない。

 あんな無様な歌声を晒した蛍とはもう顔も合わせたくないということなのだろうか。蛍を部屋に運んでくれたのはクリスの最後の温情だったのだろうか。あり得ないとは思いつつも、なんだか酷く疲れていて、蛍の思考は悪い方へ悪い方へとぐるぐると転がり落ちていく。

 横たわったベッドの上で、ふと視線を隣向ければ、クリスの枕が目に入る。隣にクリスの姿はない。今朝もそうだった。もう二日もその枕は使われることなく、ポツンと蛍の枕の隣に置かれている。昨日だって、風邪が治りかけの蛍に遠慮して別の場所で寝ると言われたが、それが蛍とクリスとの間にある気まずい空気に端を発したものであることは言葉にされずとも伝わってきた。

 普段蛍が目を覚まして初めに目にするのは味気のない自室の天井などではなく、何時だってぽやぽやと幸せそうにシーツの温かさに身を任せたクリスの寝顔だった。と言うのも、自分では全く自覚がないのだが、どうにも寝ている間に無意識で蛍はクリスに抱きつく癖があるらしく、目が醒めるといつもクリスに抱きついているのだ。本当に意識してのことではないので、蛍にはどうしようもないことではあるのだが、申し訳ないとは思いつつも、クリスの温かさに包まれながら迎える朝は蛍にとって至福の時であったため、蛍は密かに眠っている間の自分を良くやったと褒めていた。

 クリスは最初の頃こそ「そんなおかしな寝相があってたまるかッ!」と顔を赤らめていたものの、何度言おうとも毎朝目を覚ませば自分の胸にすっぽりと顔を埋めて寝息を立てる蛍を見て諦めたらしい。

 

 クリスとのそんな温かな時間が失われてしまうと考えたら、無性に泣きたくなってきた。

 

 この部屋にいるのが蛍独りきりだということもあり、仮面を被っていなかったのがいけなかったのかもしれない。気が付いた時は、瞳からぽろぽろと、涙が溢れていた。我慢しようとも思わなかった。どうせこの部屋には自分しかいないのだ。何を我慢する必要があるだろうか。

 

「嫌だ……嫌だよ……クリス……」

 

 蛍はフィーネと出逢って、血潮が熱を取り戻した。クリスと出逢って、ぽかぽかとした温かさを取り戻した。蛍は、随分と、我儘になった。そして、蛍は弱くなった。

 もうこの手が温かなものを掴むことはないと、研究所での生活で確かに諦めた筈なのに、蛍は再び温かさを知ってしまった。その温かさに身を委ねてしまった。

 そしてまた、その温かさを失おうとしている。クリスが自分の隣から居なくなる。抱きしめてくれた彼女の肌の温もりが、触れ合った彼女の肩から感じる温もりが、眠っている蛍を包んでくれたあの温もりが、失われる。

 

「クリス……寒いよ……」

 

 シーツは確かに被っている筈なのに、寒くて寒くて堪らない。身体が震えて、止まらない。ガチガチと歯が鳴り、身体が芯から冷えていく。思わずクリスの枕を手繰り寄せ顔を埋めるようにして泣いた。手放したくない、失いたくないと力を込めるも、枕から香るクリスの残り香と、冷たさを同時に感じ取って、また涙が溢れた。

 今までであれば、こういう時には歌を歌っていた。歌さえ歌えれば、蛍は全てを忘れて夢中になれたから。けれど、先の実験で歌ではどうしようもないことがあると、蛍は知ってしまった。きっと、今歌っても、あの時の二の舞で酷い歌になる。ちっとも楽しくならない。そんな確信が蛍にはある。

 

 抱きしめて欲しい。隣に座って欲しい。包み込んで欲しい。

 他人の温かさを知ってしまった私の我儘な願い事。思い出してしまった私の弱さ。

 凍える寒さに身を震わせて、貴女の残滓に縋り付く。

 身に纏った鎧すら脱ぎ捨てて、小さな私は泣き喚く。

 空虚で空っぽなこの心で何を歌えばいいのだろうか。何を成せばいいのだろうか。何を伝えればいいのだろうか。

 温かな雪の音が聞こえない。

 嗚呼、どうか、どうか――

 

「……私を、独りにしないで」

 

 

◇◇◇

 

 

 蚊の泣くようで声で漏らした蛍の言葉に、応えるかのように扉が開く音が聞こえた。その音に反応してピクリと蛍の身体が一際大きく跳ねる。入ってきた人物がクリスなのか、はたまたフィーネなのか、シーツを頭から被りクリスの枕に顔を埋めた蛍には分からなかったが、どちらにしても今の蛍の姿を見られる訳にはいかない。今の蛍には、身を守る鎧はない。無表情も固い口調も脱ぎ捨てた決して誰にも見せないと決めたありのままの自分だ。こんな姿を、他人に晒す訳にはいかない。

 かと言って、今の状態から直ぐに鎧を着込める筈もなく、蛍には涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった自分の顔をクリスの枕に更に押し付けることしか出来ない。幸いにして、蛍の姿はシーツに隠れて見えない筈。寒さに震える身体を、他人に小さな自分を見られることへの恐怖で何とか抑え込み、息を殺して寝たふりをする。そんな自分が酷く惨めで、また溢れそうになった涙を必死に堪えた。

 

「……まだ寝てるか」

 

 シーツ越しに聞こえるのは、ずっと聴きたかった彼女の声。戻ってきてくれた。たったそれだけのことで、蛍の身体を震わせていた寒さが和らぐ。胸の内が、ぽかぽかとした温かさを取り戻す。ケンカ中であることなんて既に何処へとやら吹き飛んでしまって、身体と心が彼女の温もりをもっと感じたいと求め始める。我が事ながらなんて、現金な身体と心なのだろうか。

 お見舞いの際にそうしてくれたように、ギシギシと音を立てながらベッドの端に腰を下ろした彼女は、「なんであたしの枕抱きしめてんだ?」と最もな疑問を口にする。

 

「やっぱりこいつ寝てる時に何かを抱きしめる癖でもあんのか……?」

「…………」

「待てよ。だったら、身代わりに人形でも用意すりゃ、もしかして毎朝のあの小っ恥ずかしい抱きつきを何とか出来んじゃねえか?」

「…………」

 

 「今度試してみるか」という彼女の言葉に、蛍は「今度」があると舞い上がると同時に、まるで眠っている時の蛍が見境もない抱きつき魔のような彼女の物言いに異を唱えたくなるのをぐっと堪える。余り無意識の蛍を舐めないでもらいたい。例え無意識下だろうと蛍が抱きつくのは、きっと彼女だけだ。

 そんなことを考えていた蛍の頭にぽんと柔らかな衝撃と共にシーツ越しに彼女の手が置かれる。そのまま、ゆっくりと、優しく撫でられた。蛍を起こさないよう慎重に慎重にという彼女の心の声が聞こえてくる。彼女の優しさが、凍えた蛍の心を温めてくれた。

 

「お前はさ、一人で何でもかんでも抱えすぎなんだよ。全部が全部自分の所為だと思い込んで、そんなに自分を追い詰めなくたっていいじゃねえか。お前はその優しさを、他人じゃなくて、少しは自分に向けてやれよ」

 

 また彼女は蛍が優しいなんてよく分からないことを言う。何度も口にしている通り蛍は優しくなんてない。只の我儘で弱い少女だ。蛍の中で、それは既に結論の出た問題で、そこには疑問を挟む余地など微塵もありはしない。

 寧ろ、優しいという言葉は、蛍ではなく、目の前で蛍の頭を撫でてくれている彼女にこそ相応しい。今の彼女からはそんな空気は全く感じないが、一応蛍と彼女はケンカ中で、加えてあんな無様を晒したのにも関わらず、変わらず接してくれる彼女こそ優しいと蛍は思う。

 さすがに、これは聞き逃せないと、いつの間にか泣き止んだ自分の顔に無表情を着込んで、蛍は顔を上げようとして、続く彼女の言葉にその動きを止めることになる。

 

「でも、そんなことを言っても、どうせお前は聞きやしねえんだろうな。お前は筋金入りの分からず屋だから。それが今回の一件でよーく分かった。だからさーー」

 

 一呼吸おいて、彼女は宣誓する。

 

「あたしが側で見ててやる。お前の隣に立って、お前が無茶しそうになったら止めてやる。その度に昨日みたいなケンカをするかもしれねえ。けど、多分、きっと、それで良いんだと思う。言いたいことも言えず我慢して、余所余所しい関係にはなりたくないから」

 

 普段の彼女であれば、顔を真っ赤にして絶対に言わないような台詞に驚く。そして遅れて彼女の言葉の意味を理解し、ぽかぽかとした温かさで胸が一杯になる。けれど、今日のこれは何か違う。温かさが臨界を越えて、温かいと言うよりも熱い。焦がれるように、胸の中で、何かが生まれる。

 彼女の言葉が耳に届く度に、胸の中に生まれた何かがどんどん大きくなって、無性に彼女に触れたくて、堪らなくなる。どくんどくんと煩い程に、鼓動が高鳴る。恐らく、今、蛍の顔は耳まで真っ赤だ。顔を真っ赤にして恥ずかしがるのは、いつも彼女であった筈なのに、これではいつもと立場が逆転してしまっている。

 こんな顔を彼女に見られたくないと思いつつも、身動ぎ一つ出来ない今の蛍には、シーツをもっと深く被り直すことすら出来ず、どうか彼女に気付かれませんようにと祈るばかりだ。

 彼女に気付かれずもっと彼女の言葉を聞いていたいという感情と、今すぐにでも彼女を抱きしめたいという相反する感情が蛍の頭の中で鬩ぎ合っている。

 

「あたしはお前みたいに頭が良い訳じゃねえから、仲直りの方法なんてあたしにはわっかんねえよ。一晩頭を冷やして考えてみたけど、結局答えは出なかった。あたしにも、お前にも譲れないものがある。けど、それはお互いを思い遣ったあったかいもんで、どっちが悪くて、どっちが間違ってるなんて問題じゃないんだ。きっと、どっちも良くて、どっちも正しい。あたしたちが、ケンカしたのは、それを相手に押し付けちまったからだ」

 

 思い遣りの押し付け合い。蛍は彼女が大切で、彼女は蛍が大切で。だから、起きてしまったすれ違い。

 なんて馬鹿みたいなことでケンカをしてたんだろうと笑いが込み上げてくる。気付いてしまえば、それはとても温かく微笑ましい。こんなことで、蛍と彼女の関係がどうこうなる筈もないのに、先程の自分はどうかしていた。

 仲直りの方法なんて、蛍にだって分からない。彼女は、蛍のことを頭が良いと言うけれど、蛍だって馬鹿だ。大馬鹿だ。けれど、蛍が彼女を想うことを忘れなければ、きっと、大丈夫。何度ケンカしても、その度に、気付いて想い出せるから。

 

 私は、こんなにも貴方のことが大切だって。

 

 柔らかな音色が耳に届く。彼女が歌を歌っている。心地の良い彼女の歌声が、あの曲を奏でている。

 泣いた蛍を慰める為に歌ってくれた曲。彼女が蛍の為を想って作った曲。完成しているのか、未完成なのか蛍には分からない曲。

 せがんでも決して歌ってくれなかったあの曲を今彼女が歌っている。また、蛍の為に歌ってくれている。

 

 これが、私にとっての雪の音。綺麗で、可愛くて、優しくて、あったかい大切な音。

 

 ずっと歌って欲しかったのだ。彼女がこの曲を歌ってくれることを心待ちにしていたのだ。そんなことをされたら我慢なんてできる筈がない。だから、彼女の名前を呼ぼう。沢山のありがとうと、沢山のごめんなさいを込めて。

 

「クリスッ!」

 

 蛍は頭に被っていたシーツをガバッと振り払い、涙と鼻水でぐしゃぐしゃで、おまけに耳まで真っ赤な冗談みたいな顔も何のその、目をパチクリと開いて白黒させているクリスの手を引き、抱き寄せて、そのまま二人揃ってベッドに倒れ込む。

 「お、おま、起きてッ!?」と耳元で叫ぶ彼女の声すら心地よくて、ぎゅとその腰に手を回して、何時もの様にその胸に顔を埋める。2日ぶりの彼女の体温は、やっぱりあったかくて、気持ちがいい。

 多分、クリスは独り言を聞かれていた恥ずかしさと、不意打ちで抱きしめられた恥ずかしさで、顔を真っ赤にして混乱の只中にあるのだろう。それぐらい見えなくたって蛍には分かる。でも、今日ばかりはどうか、蛍の好きにさせて欲しい。もう少しだけ、この温かさに包まれていたいのだ。

 「やっぱり私は我儘だ」と小さく呟いて、蛍はクリスの傷に響かぬよう絶妙な力加減で、腕の中の温もりを抱きしめ続けた。




 ガチGLにするつもりはないです。

 次回からアニメ1期突入します。


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EPISODE 09 「覚醒の鼓動が聞こえるその前に」

 すみません。感想欄で指摘を受けて、読み直して見たのですが、創世が弓美と詩織のことを普通に下の名前で呼ぶことに違和感を覚えたので、修正しました。

 公式では、創世が弓美と詩織の事を直接名指しで呼んだシーンはなかったと記憶しているので完全に創作になりますがご容赦ください。
 もし、公式で創世が弓美と詩織につけた渾名をご存じの方が入れば、感想欄もしくはメッセージにて知らせて頂けると助かります。



「あっざしたーまたおこしくださませー」

 

 店員のやる気のない挨拶と店内BGMとしてかかっていた今日発売だという風鳴翼の新曲を背に受けて、蛍はコンビニ――レベルアップルという全国チェーンの店らしい――を出る。久しぶりに買い物という行為をしたが、あれで良かったのだろうか。少し自信がない。何やら店員にジロジロと姿を見られていた気がするので、もしかしたら何かおかしな所があったのかもしれない。

 だが、それも仕方のない話ではある。なにせ蛍がお店に入って物を買うなど、実に5年ぶりのことなのだ。少しおどろおどろしくなるのも致し方ないというものだ。加えて、それ程高い買い物をした訳でもないのに、蛍が会計時に支払ったのは、なんと一万円札だ。蛍は一万円札なんて触ったのは初めてで、店員に差し出す時など、少し手放すのを躊躇ってしまった。フィーネも、セーフハウスでの滞在費用とはいえ、こんな大金をぽんと渡さないで欲しい。おまけに、蛍が肩から下げたポーチに入った財布の中には、まだ諭吉が大量にいる。外に不慣れな蛍にこんな大金を預けるなんて、フィーネも不用心にすぎる。

 しかし、何はともあれ、買い物に成功したのは確かなのだ。手にしたリンゴのマークが印刷されたビニール袋がカサカサと音を立てる。戦利品は確かにこの手にある。

 

「ふふん」

 

 ビニール袋の中には、幾つかのあんぱんとパックの牛乳が入っている。これでセーフハウスで待つクリスへのお土産はバッチリだ。蛍は何となく誇らしい気分になって胸を張ってみる。すれ違うようにしてレベルアップルに入った客が怪訝な顔をしていることに、無表情の下で満足感に満たされている蛍は気が付かない。

 

「さて、と」

 

 ビニール袋と、もう片方の手に持ったバイオリンケースを持ち直して、気を取り直す。あまり油を売っている暇はない――とは、言ってみたものの、久しぶりの外なのだ。蛍は少しばかり浮かれているのは承知の上で、どうしてもキョロキョロと街並みを眺めるのを止められない。麗らかな春の陽気に当てられて、ぶらぶらと歩きながら目的の場所を探しつつも、その視線は熱に浮かされたように彼方此方へと行ったり来たりしている。コンビニ、ゲームセンター、ファミリーレストラン、カラオケ、映画館、どれもこれも見たことがある筈なのに、今の蛍には全てが目新しく見える。

 街の中央には、この街のシンボルとも言うべき前衛的なデザインのドームがある。その場所を蛍は知っている。過去にツヴァイウイングがライブを行い、天羽奏が絶唱を歌いその命を散らせた土地だ。戦闘による被害は既に修繕されているらしく、あれからもう2年も経つのかと少ししんみりする。

 海に面した小高い丘の上を見れば、私立リディアン音楽院その高等科のキャンパスがある。風鳴翼も通うというその学院は、小中高の一貫教育を掲げた女子校であり、高等科だけで生徒数は1200名を越えるマンモス校である。そしてその1200名全員が、潜在的にシンフォギアへの適合が見込まれる少女たちだと言うのだから驚きだ。彼女たちは何も知らないまま、自分たちの足の下に潜む者たちに利用され続けている。

 近代的な街並みを暫く歩くと、どこか懐かしい雰囲気の商店街に差し掛かった。モノレールなどが走る近代的な街なのに、未だこんな商店街が残っていることを不思議に思い、ふらりふらりと足が自然とそちらに向く。平日の昼間だと言うのに、結構な人が行き交っている。その人混みに混じって、蛍はずんずんと進んでいく。

 様々な飲食店が店を連ねる商店街の一画で、蛍はとある店の前で足を止めた。「生ビール350円!」とでかでかと書かれたノボリに「それは高いの? 安いの?」のなんて本当にどうでもいい感想を抱きながら、居酒屋なのだろうかと思い店の看板を見上げてみれば、「お好み焼きふらわー」と書かれている。「花の形をしたお好み焼きが出てくるのでしょうか」と呟き、店先をじーっと眺めていると、ガラガラと音を立てて、店の入り口が開いた。

 

「おばちゃーん! 美味しかったよご馳走様!」

「商店街にこんな隠れた名店があるなんて、入学早々ナイスな発見をしました」

「これは今度ビッキーとヒナも連れてこなくちゃね。きっとビッキーのことだ、この味を知ったら人の三倍は食べるよ」

「はーい、ありがとね。友達も連れてまたいらっしゃい。おばちゃん、腕によりをかけて焼くからね」

 

 扉から姿を見せたリディアンの制服に身を包んだ3人の女学生が店内に向けて声をかけると、中からは店長らしき女性の声が返ってくる。非常にフレンドリーな店のようだ。今度機会があったらクリスと食べに来ようかとも思ったが、こういう明るい雰囲気の店に愛想の欠片もない自分は多分合わないだろうと思い直す。

 踵を返し、辺りの散策を再開しようとした蛍に、絶叫にも似た声が届いた。

 

「うわっ! なにこのゴスロリ美少女ッ! アニメッ! アニメなのッ!? ついに現実がアニメに追いついたのッ!?」

 

 声に驚き振り返れば、先ほどふらわーから出てきた三人娘の一人――ツインテールの小柄な少女――が蛍を指差し何事かを叫んでいる。初対面の人をいきなり指差すとは、中々に無礼な少女だ。言ってる言葉の意味も良く分からないし、もしかしたら頭が少し残念な子なのかもしれない。文句の一つでも言ってやろうかとも思ったが、あまり騒ぎを起こすのもまずいと思い、蛍は早々にこの場を後にする――否、しようとした。

 蛍の後方への転進は許されなかった。蛍と目が合ったツインテールの少女が、凄まじい勢いで蛍に接近し、万力のような力で蛍の肩を掴んだからだ。

 

「あなたそれコスプレ!? コスプレなの!? ロー◯ンメイデンなの!? 水◯灯なの!? 乳酸菌取ってるの!?」

「こ、コスプレ? ろ、ろーぜん? えっ、あの、いや、その、ちが」

「違うの!? 普段着なの!? まるでアニメじゃない!! はっ!? バイオリン!? バイオリンまで弾けるの!? どれだけ属性盛ってるの!? お金持ちなのね!? お嬢様なのね!? きっとそうだわ!! アニメならバイオリンはお嬢様の嗜みだもんね!!」

 

 まるで機関銃のように押し寄せる彼女の言葉の嵐に、蛍はまともに返事を返すことすらできない。目の前には、鼻息荒く、血走った目で蛍を見つめる少女の顔がある。正直、怖い。

 

「はーい、板場さんそこまでですよ」

「バキュラ、あんた少し落ち着きなって」

「待って! 目の前に! ゴスロリが! バイオリンが! お嬢様が!」

 

 実力行使も止むなしかと蛍が本気で身の危険を感じ始めた時、ツインテールの少女――ハーフなのだろうか? 板場バキュラと言うらしい――が連れであるらしい二人の少女に抑え込まれて、蛍から引き剥がされる。引き剥がされてなお、視線を決して蛍から外そうとしないバキュラが怖くてたまらない。フィーネ以外にも、蛍にこれほどの恐怖を刻み込める人物がいるとは思わなかった。

 

「いいから、少し大人しくしなって、あんた傍から見てるとかなり危ない人だから」

「安藤さんの言う通りです。今の板場さんは下手をすると警察のご厄介になりかねません」

「分かった! 分かったから、創世(くりよ)詩織(しおり)も離してってば!」

「本当に分かってるのかねこの子は。あのさ、人の服装の趣味をとやかく言うのはマナー違反だし、バイオリンだって学校で見慣れてるでしょ。後、どちらかと言えば、あの子よりもテラジの方がお嬢様っぽい」

「あの、安藤さん、お嬢様扱いはどうか止めて頂けると……」

「あぁ、ごめんねテラジ。つい」

 

 バキュラを、創世と呼ばれたボーイッシュな少女と詩織と呼ばれたおっとりとした雰囲気の少女が宥めているのを視界に収めて、蛍は混乱した思考を落ち着けることに努める。

 

 やはりこの恰好が、物珍しいのだろうか。

 

 耳に残るバキュラの言葉を、断片的ながらも解読していくと、どうやら彼女があそこまでおかしくなった理由はどうも蛍の服装にあるらしい。

 改めて、自分の恰好を見回してみる。フリフリで白黒だった。黒を基調としたワンピースは、フリフリとしたリボンとレースに彩られて、最早、ワンピースと言うよりかはドレスと呼んだ方が正しいのではないかとさえ思える。肩からは可愛らしい黒のポーチを下げて、片手にはバイオリンケースと小物も完璧だ。加えて今日は、耳につけた通信機を誤魔化す為だと言われ、ヘッドドレスまで身につけている。髪で十分に隠れているから、正直無駄だと思うのだが、フィーネに怖い目で見られたら蛍には反論など出来よう筈もなかった。何故かクリスまで、少し顔を赤らめながらも嬉々として手伝っていたのが印象的だった。

 そんな恰好をした蛍は、小柄な体格が相まってまるで西洋人形のような見た目になってしまっている。髪は黒いままなので、姿見で自分の恰好を確認した時はなんとも中途半端な印象だったのだが、服は基本的に白と黒のモノトーンで統一されているので、ある意味ではこれはこれで服に合っているのかもしれない。

 蛍とて薄々は気付いていたのだ。もしかしたら、この恰好は非常に目立っているのかもしれないと。周りを見渡しても、蛍と似たようなファッションの人物は皆無であったし、他人の視線をそれ程気にしない蛍ではあるが、街を歩く度に、男女問わずチラチラと窺う視線を向けられれば、嫌でも気付くというものだ。そう言えば、男性には何度かお茶に誘われたが、あれはいったい何だったのだろうか。

 

「ええと、怖がらせちゃってごめんね。バキュラ――えっと、あっちの髪を両側で縛ったお姉ちゃんね、アニメが大好きで、時々今みたいな発作を起こすんだ。あー、発作って分かるかな? うーん、病気! そう、病気なの!」

「本当に申し訳ありません。私たちからも強く言って聞かせるので、あまり気を悪くしないでくださいね。ほら、板場さんも」

「うぅ、わ、悪かったわよ。ちょっと自分を見失ってたわ。で、でも、今のあたし、ちょっとアニメっぽかったかも!」

「こら、まだ言うか」

 

 反省の色を見せないバキュラの頭を、創世がぽかりと叩く。その様子を見て、詩織は「仕方ないですね」と言わんばかりの表情で微笑を浮かべている。凸凹トリオかと思えば、意外とバランスの良い三人組なのかもしれない。

 そんな三人の様子を眺めて、多少はバキュラの恐怖から立ち直った蛍は、このままでは事態が一向に進まないと悟り、渋々ではあったが口を開いた。

 

「あの、少し面を食らっただけですので、お気になさらず」

「おー、凄い丁寧な言葉遣い。出来た子だー」

「あんたは感心してないで、ちゃんと謝りな! あー、えっと……」

「……蛍です。詞世蛍」

 

 少し悩んだが、蛍は本名を告げる。もう二度と会うこともないだろう少女たちに名前を知られた所で、任務には毛程も影響はないだろう。

 これはフィーネから聞いた話ではあるが、蛍は公には5年前から行方不明という扱いになっているらしい。あと2年も経てば、死亡扱いだ。娘を金で売るような親が熱心に捜索活動をする訳もなく、そんな蛍の名前を知っている人物がこの街にいるとは思えない。

 

「分かった。じゃあ、こたるだね。ほらバキュラ、こたるちゃんにきちんと謝って!」

「いや、あんたも大概失礼だから。その誰彼構わず、変な渾名つけるのやめなさいよね」

「詞世さん、本当に申し訳ありません。二人には私から強く言って聞かせるので」

 

 実はこの三人、漫才トリオとかだったりするのだろうか。人が真面目な空気を作り出そうとしてるのに、全く気にせず各々のペースを崩そうとしない三人に開いた口が塞がらない。どうやら、バキュラと呼ばれる彼女のそれも創世がつけた渾名であるようだが、実は芸名だったりするのだろうか。

 唯一、詩織だけはまとめ役として、まだ僅かな良識を残しているように思える。彼女に適当に挨拶をしてこの場を離れよう。そう決意し、視線を詩織へと向けて蛍は口を開く。

 

「私は本当に気にしていないので、問題ありません。謝罪も結構です」

「いえ、そういう訳にも参りません。非は完全に此方にあります。初対面にも関わらず、あれ程の無礼をしたのです。なにか償いを……」

「そうだ! 何かふらわーを眺めていたみたいだし、あの店のお好み焼きを一枚奢るってのはどうよ?」

「板場さん、それナイスな考えです!」

「……………………いえ、そこまでしていただく訳には」

「悩んだわね」

「悩んだね」

「悩みましたね」

「こ、これから用事があるものですから。あまり時間に余裕もないのです」

「あー、そうだったんだ。ごめんね。引き止めちゃって。えっと、それじゃあ……」

 

 言うや否や創世は手にした鞄からメモ帳とペンを取り出して何かを書き連ねると、その部分をビリビリと破り、蛍に手渡してきた。「そこまでして頂かなくても……」と渋る蛍に、「いいからいいから」と強引にメモの切れ端を創世が押し付ける。

 

「これ、私たち三人の連絡先だから、時間に余裕が出来たら、誰でもいいから連絡してみて。ここのお好み焼き本当に美味しいから、ちゃんとご馳走させて」

「あの、本当に困ります。この街に来たのは今日が初めてで、この近辺に住んでるわけではないんです。次にお会いできるのは何時になるか分かりません」

「へぇー、道理で見かけないわけだ。まぁ、あんたみたいに目立つ奴一度見たら忘れないだろうしね。何処から来たの?」

「えっと……」

「板場さん、この子も困ってるじゃないですか。詮索のし過ぎもまたマナー違反ですよ」

 

 山奥の屋敷です。なんて言える訳もなくバキュラ――本名が分からないので致し方ないがこう表記する――の質問に蛍が言葉を濁すと、詩織が援護してくれた。やはり、彼女はこの3人の中でも、比較的常識を兼ね備えた人物ようだ。もっと言ってやって欲しい。

 蛍がこの街に住んでいないのは事実だ。今でこそ、フィーネからの任務で都内に幾つかあるフィーネが用意したセーフハウスに腰を据えているものの、この任務が終われば屋敷にとんぼ返りだろう。任務の内容が継続的なものである為、月に何度かはこの街に足を運ぶかもしれないが、それもフィーネの命令があってこそなので、蛍が決まった期日にこの街を訪れるのは難しい。そんな環境に身を置いた蛍が、現地の住人と気軽に会食の約束など、結べる筈もない。

 加えて、蛍は個人で使用できる通信機器を持ち合わせていない。耳に取り付けられた通信機は、あくまで蛍、クリス、フィーネの三者が任務中に連絡を取り合う為だけのものだ。恐らく彼女たちが想像しているのは携帯電話などの通信機器なのだろうが、安易に外との連絡を可能にするそんな危険なものをフィーネが蛍に買い与える訳もなかった。屋敷にならば、流石に電話はあるものの、あれは基本的にフィーネが米国との交渉に使用しているものなので、蛍は使用を許可されていない。

 出来もしない約束はしたくないので、気軽に出歩けない立場であることと、連絡手段を持っていないことを、ぼやかしながら説明すると、三人は酷く驚いた表情を見せながらも、なんとか納得してくれた。

 

「じゃあ、あたしたちはこれで。一応、メモは渡しておくから、もし、またこの街に来て時間がありそうだったら連絡ちょうだい。お詫びも兼ねて、この街の案内もしてあげたいし」

「約束は出来かねますが、機会があれば」

「それでいいわよ。ね? 二人とも?」

「はい。気軽に連絡してくれて大丈夫ですから」

「うん。私も全然大丈夫。いやー、こたるちゃん本当にごめんね。長々と引き止めちゃって」

「いえ、それでは――」

 

 漸く立ち去れると思い、歩を進めようとした蛍だったが、彼女たちにどうしても言っておかなければいけないことを思い出して足を止める。会話の節々から感じてはいたのだが、言えばまた話が長くなると必死に我慢してたのだ。

 別れ際の捨て台詞になってしまうが、それでも、蛍は言わずにはいられない。

 

「言い忘れていましたが、私は16歳です」

 

 子供扱いは勘弁して欲しい。

 

 

◇◇◇

 

 

 不審に思われない程度に辺りを見渡してから、人気のない路地裏へと入る。まさか尾行などされていないとは思うが、蛍の恰好は非常に目立つらしいので、用心するに越したことはない。やはりこのフリフリは駄目だと思うのだ。フィーネの趣味で着せられてはいるものの、正直に言えば蛍の趣味ではない。フィーネは何を思ってこんな服を蛍に着せているのだろうか。誠に遺憾ながら小学生程度にしか見えない蛍の体型も相まって、周りの人間からやたらと注目を集めてしまった。

 蛍の背丈は、散々の説明にはなるがかなり小さい。年齢が二桁に入った頃から全くの成長を見せていない。これで「私はまだ成長期に入っていないだけです」と言い訳出来れば良かったのだが、ちゃっかり月の物が来ている辺り、蛍の身体はしっかりと成長期とやらに突入しているらしい。何が成長期だ。名ばかりではないか。

 自然と視線が下がる。胸元にあしらえられた大きなリボンで隠されてはいるが、よく見れば、そこには殆ど膨らみがないことが分かる。

 

「はぁ……」

 

 蛍に比べ、同い年のクリスはどうだ。出るとこは出ていて、引っ込むところはしっかり引っ込んでいる。実に女らしい膨らみと丸みに溢れている。この2年ほぼ毎朝、クリスの胸に顔を埋めている蛍には分かる。あれは、成長している。出逢った頃よりも、更に大きくなっている。同じ年の彼女は、確実に成長期の恩恵を得ている。溜息も吐きたくなるというものだ。

 蛍は余計な思考を追い出す為に「いけない、いけない」と頭を振る。こんな事に思考を費やしている場合ではない。為すべきことを、為さねばならない。

 これは、逃げだ。目の前の現実を放棄して、どうでもいい思考に逃げるなんて。全く虫のいい話である。

 もう一度だけ、辺りを見渡してから、蛍は手にしたバイオリンケースを地面に置く。バイオリンケースにしては、厳重な幾つかのロックを外して開き、中に収められている物を眺めて蛍は少し逡巡する。

 

 フィーネから言い渡された任務は単純だ。

 

 目的は、リディアン高等科校舎その地下に深くにある特異災害機動部二課本部に保管されたサクリストDの強奪。サクリストDとは、日本政府によるコードネームであり、その正体は、ネフシュタンの鎧やソロモンの杖と同じ完全聖遺物「デュランダル」。その名は「不滅不朽」を意味し、起動後には圧倒的なエネルギーを無尽蔵に生む出す剣として機能すると言われている。カ・ディンギルの動力源として使用を予定しているそれは、月を穿つ為には必要不可欠なものであり、何としてでも手に入れなければならないものだ。

 しかし、デュランダルは二課本部、その最奥区画アビスにて厳重に保管されており、櫻井了子として二課中枢に位置するフィーネであろうとも簡単には手出しができないらしい。各種防御機構は勿論の事、シンフォギア装者たる風鳴翼に加え、何やらよく分からないが人外じみた強さを持つ人間――あのフィーネが人外と評するとはどんな人物なのか気になったが詳しいことは教えて貰えなかった――がいるようで、幾らフィーネであっても敵の本拠地で、お得意の火事場泥棒は不可能のようだ。

 

『穴熊が出てこないのならば、燻り出すまでだ』

 

 単純にして、究極。持ち出せないのであれば、向こうから出てくるよう仕向ければいい。

 フィーネが立てた計画は、デュランダルを二課本部から移送させ、その移送中に襲撃し強奪を行うというものだ。移送先は、永田町最深部の特別電算室「記憶の遺跡」か政府直轄の異端技術に関連した危険物を収める管理特区「深淵の竜宮」のどちらかになるだろうとのことだったが、櫻井了子を通じて移送計画が此方に筒抜けであることを鑑みれば、移送先が何処であれ、奪取するのは然程難しくはないだろう。

 

 問題は奪取そのものではなく、穴熊を燻り出すその方法にある。

 

 フィーネが穴熊を燻り出す為に採用したのは、ソロモンの杖を用いた無作為を装ったリディアンを中心とした周辺地域へのノイズの異常発生。周辺地域への被害を度外視したその手法は実に彼女らしいと言える。

 13年前に国連にて、認定特異災害と認められたノイズではあるが、その被害に遭う確率は決して高くはない。民間の調査会社によるリサーチによれば、東京都心の人口密度や治安状況、経済事情をベースに考えた場合、 そこに暮らす住民が、一生涯に通り魔事件に巻き込まれる確率を下回ると、試算されたことがある。フィーネというノイズを自在に召喚できる存在を知っている蛍からすれば、その調査結果の信憑性には疑問が残るものの、世間一般に知られているノイズに襲われる確率はその程度だということが重要なのだ。

 ノイズの異常発生に対し、二課はその原因を探る筈である。そして、それがリディアン周辺、即ち自分たちの本拠地を中心として発生していることに遠からず気付く筈だ。

 しかし、これだけでは、その原因をデュランダルだと断定するには、些か理由不足だ。そこでフィーネは、最近関係が悪化しつつある米国政府を利用することにした。

 米国政府は、以前より日本政府に対し、安保を盾にしたデュランダルの引き渡しを再三要求している。加えて、最近では、フィーネに対する不信感が増しているのか、独自に聖遺物のデータを探ろうと二課本部へのハッキングを繰り返しているらしい。随分と勝手なことをしてくれると憤っていたフィーネであったが、それを逆手に取ろうと言うのだから、あの煮ても焼いても食えない魔物と長年通じている米国政府の心労は相当なものであろうと蛍は少しばかり同情する。

 要するにフィーネは、全ての責任を米国政府に押し付けて、美味しいところは全て自分が持って行こうという腹なのだ。

 

 そして今日、蛍は、初めて直接己の手を汚す。

 

 蛍は、震える手で、バイオリンケースに収められたソロモンの杖を手に取る。蛍とクリスの歌により励起した完全聖遺物を手にして、余りの冷たさに放しそうになった手をぐっと堪える。ソロモンの杖を握った手から伝わる冷たさが、5年ぶりの外の世界に浮かれていた蛍の身体と心を震えさせる。

 蛍の我儘で、また多くの人を殺す。何の罪もない人々の命が灰になる。コンビニの店員が、お茶に誘ってくれた男性が、ふらわーの店主が、あの三人が、死ぬかもしれない。そんなことを考えていたら、商店街から随分と離れ、人通りの少ない海沿いのコンビナート付近まで歩いてきてしまった。まだ初日だというのに、この様では先が思いやられる。毎回こんなことを繰り返すようでは、ノイズの発生地点が人通りの少ない場所に限定されると二課に法則性があることが露呈し、網を張られる可能性もある。

 やはり会話などせずに、無視して立ち去れば良かったのだ。そうすれば、こんなに悩むこともなかったのかもしれない。

 

 なんて、愚か。なんて、偽善。

 

 蛍の手は既に血に塗れている。2年前のライブ会場で失われた12874人を忘れることは許されない。いや、きっと、それ以上の人数を、間接的に蛍は殺している。今更悩むことなど蛍には許されない。それは、失われた命を無価値にしてしまう。

 やっぱり、クリスを置いてきて正解だった。こんな気持ちを彼女に味あわせたくはない。優しい彼女は、弱者が犠牲となることを決して許せないだろうから。

 

 放たれた緑の閃光を、その目に焼き付けて、蛍は暫くその場を動くことが出来なかった。




 まさか原作に突入して、最初に登場するキャラがあの3人だとは思うまい。
 蛍は三人娘のまとめ役を詩織だと思ったみたいですが、個人的には創世だと思っています。

 書き終わってから気付いたのですが、シンフォギアの世界って電子通貨が主流で、本編中には紙幣って一度も出てきていないんですよね。ゲーセンのクレーンゲームですら電子通貨に対応していますし、源十郎がクリスに渡した通信機にまで電子通貨の支払い機能が搭載されている程でした。
 ですが、世界観的に近未来ではありますが、異端技術を抜きにして考えれば、人々の生活レベルは然程現代と変わりがないという印象を受けたので、だったら、紙幣が完全に廃れる程でもないだろうと思い、紙幣に関しての修正はしませんでした。ご了承ください。

追記:
 創世が付けた渾名は、弓美(バミュー)、詩織(おりん)となります。バミューは自分でもどうかと思ったのですが、クリスの事をキネクリ先輩と呼ぶ創世ですので、これぐらいぶっ飛んでてもいいかと開き直りました。本当に即興でつけたので、後日また修正するかもしれません。

追記の追記:
感想欄にて情報を頂き、弓美の渾名を「バキュラ」、詩織の渾名を「テラジ」に変更しました


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EPISODE 10 「思考の迷宮」

 フィーネは、特異災害起動部二課本部その司令室にて、驚愕のあまり目の前のコンソールを叩きつけんばかりの勢いで立ち上がった。驚愕から不覚にも櫻井了子を演じることすら忘れたそれは、普段の冷静で彼女とは似ても似つかない酷く狼狽した姿だった。

 しかし、そんなフィーネの様子に気付くものは誰一人としていない。誰もが皆、目の前の大型スクリーンに表示されたその文字に目を奪われていたからだ。

 

「過去のライブラリーとの照合完了ッ! この波形パターンは――」

 

『code:GUNGNIR』

 

「ガングニールだとぉ!?」

 

 そんな中で、冷静さを失わずに情報処理という自分の仕事を完うするオペレーター藤尭朔也(ふじたか さくや)の声を、それとは真逆、驚愕に満ち満ちた絶叫で二課司令官風鳴弦十郎(かざなり げんじゅうろう)が引き継いだ。

 組織の長がそれ程簡単に感情を露わにしていては下の者が動揺すると、何度となく櫻井了子として苦言を呈しているのだが、その取り繕わない快活さこそが彼の魅力であり、ある種のカリスマとも言うべき統率力を発揮しているのだから度し難い。

 只、今回のコレに関しては、彼を責めるのはお門違いというものだろう。こんな事は誰にも予想できなかった。自らを天才だと自負するフィーネの深謀を持ってすら、読みきれなかった完全なイレギュラーなのだから。

 

「そんな……だってそれは……奏の……」

 

 フィーネの後方で、ノイズ発生の報せを受け司令室に駆け込んできた風鳴翼が茫然自失といった様子でぽつりと呟く。

 

 第三号聖遺物「ガングニール」。

 

 過去、風鳴翼とツインボーカルユニットを組み、共に戦場を駆けたシンフォギア装者、天羽奏が身に纏った聖遺物。しかしそれは、2年前のProject:Nが行われたライブ会場にて彼女の命と共に失われた筈だ。本来であれば、既に、この世に存在してはいけないものだ。

 だが、フィーネは同じ聖遺物の欠片から作られたもう一振りの烈槍を知っている。フィーネがF.I.S.に横流しシンフォギアに加工され、現在ではマリア・カデンツァヴナ・イヴがその身に纏っているもう一振りのガングニールは、身に纏った際のプロテクターにこそ差異があるものの、発せられるアウフヴァッヘン波形は奏が身に纏った際のそれと同一のものだという研究結果が出ている。

 であるならば、あの場に居るのはマリアなのだろう。しかし、それでも疑問は尽きない。何故、F.I.S.の研究所にいる筈の彼女があの場にいるのだ。脱走でも行ったのかという考えが頭をよぎるも、それ程の大事となればフィーネにも何かしらの連絡が来る筈である。F.I.S.からは特に何の報告も受けていない。

 ナスターシャが籠の鳥を逃したのかとも思ったが、幾ら情に絆されたと言っても、彼女はそこまで愚かではない筈だ。例えマリアを研究所から逃したとしても、米国政府は何としてでもマリアの行方を捜索するであろうし、研究所というある意味での温室で育った彼女がその魔の手から逃げ切れる筈もない。

 様々な可能性がフィーネの頭の中で浮かんでは消えていく。しかし、そのどれもが事実とは認め難い荒唐無稽なものばかりで、フィーネが納得出来るような回答は只の一つも見つけ出せない。驚愕から立ち直り、多少の考える余裕が生まれたフィーネの頭に、その余裕を塗りつぶすかの様に沸々と苛立ちと焦りが募る。

 

 情報が不足している。判断する為の材料が足りていない。

 

 もし、フィーネの懸念した通り、あの場から発せられたアウフヴァッヘン波形がマリアの纏ったガングニールのものである場合、それがもたらす影響はフィーネの計画に大きな影を落とす。

 いや、最早、誰がガングニールを纏ったかどうかなどは些細な問題である。例えそれが誰であろうとも、二課が知り得ぬシンフォギア存在し、またそれを纏うことができる装者が存在すると彼らに知られた時点で、手遅れなのだ。本来二課しか持ち得ぬシンフォギアという兵器を、何処の誰とも知れぬ者が身に纏っている。その時点で、二課からシンフォギア、延いては異端技術に関する情報が流出しているのは疑うべきもない事実なのだから。

 そして、異端技術の研究は決して個人で出来るものではない。そこには莫大な費用と最先端の研究施設、歌女(うため)という人的資源が必要になる。フィーネとてそれを個人で賄うことは出来ず、米国からの支援を受けている状態だ。つまり、異端技術の研究には何かしらの強力な――それこそ国家規模の後ろ盾が必要となるのだ。

 その存在が露呈する。それだけの力を持つ組織となれば自然と候補は絞られ、調査部は遠からず米国とF.I.S.の存在を突き止めるだろう。それはつまり、フィーネの存在が露呈するも同じことだ。フィーネと櫻井了子を結び付けるには些か情報が不足しているが、「櫻井理論」を完全に理解していると言えるのはその提唱者である櫻井了子のみであり、その理論に記された技術をふんだんに使用したシンフォギアシステムを相手方が実用化していることを考えれば、内通者として真っ先に疑われるのは自分であろう。

 

 あの孺子ではないが、どうやら私は限りなく詰みに近いらしい。

 

 どれ程時間に猶予があるかは分からない。だが、櫻井了子としてフィーネに残された時間は多くはないだろう。カ・ディンギルの完成は目前にまで迫っているものの、最終工程に必要な本部改築は当たりの強い議員連により反対を受けて未だ着工に至っていない。多少強引な手段を用いなければ、着工は不可能だ。そして、着工に漕ぎ着けたとしても、二課本部のエレベーターシャフトを隠れ蓑に建造している以上、櫻井了子という立場を失えば、その完成は絶望的と言える。

 12年を費やしたフィーネの計画が、たった今水泡に帰そうとしている。それを悟った時、フィーネの中から、驚愕も、怒りも、焦燥も消え去って、「あぁ、またか」という諦観の念だけが残った。今までに何度となく感じてきた懐かしい感情に、フィーネは肩を落とした。

 

 また、あの方に私の胸の内を告げることは叶わないのか。

 

 フィーネは、人類が統一言語を失って以降、あらゆる手段をもって、創造主と再び交信を果たそうとした。他者に己の想いを伝えるという観点から歌という技術を生み出した。万象を理解するという観点から錬金術という技術を生み出した。だが、そのどれもが、創造主に届くことはなかった。その度に、この諦観を感じてきた。

 人の身でありながら、創造主に並び立つなど、恐れ多いことだとはフィーネとて理解している。寧ろ、遥か昔、フィーネはあの方に仕える巫女であったのだ。その事は、誰よりもよく理解している。だが、そうせずにはいられなかった。

 あの頃のフィーネは、あの方に仕えることが何よりの幸せだった。あの方の言葉を受け取ることが何よりの喜びだった。あの方の宣託を真っ先に受けることが何よりの誇りだった。そんなフィーネの創造主への親愛と信仰と尊敬が恋慕へと昇華したのは、ある意味では当然の帰結だったのかもしれない。

 だからこそ、創造主に並び立とうとシンアルの地に建てた塔が雷霆に砕かれ、バラルの呪詛により統一言語が失われた際の、フィーネの絶望は深かった。創造主に拒絶されたという事実に、身が引き裂かれる思いだった。まだ己の秘めた想いすら、告げていないという激しい後悔に、心が押し潰されそうになった。

 だが、それでも、フィーネは諦めることだけはしなかった。どれだけの絶望と後悔に苛まれようと、胸に抱いた創造主への思慕の情が消えることはなかったからだ。それは、何度もリーンカーネイションを繰り返し、何千年という時を経た今でも、変わらずこの胸の内に在る。

 

 この胸の炎が消えない限り、フィーネが創造主に胸の想いを届けることを諦めるという選択肢を選ぶことは決してない。

 

「映像出ます!」

 

 櫻井了子としての今代の人生に価値を失い始めていたフィーネの耳に、女性オペレーター――友里(ともさと)あおいの張り上げた声が届く。その声に反応し、せめて今代の計画を台無しにしてくれた人物の顔ぐらい拝んでおくかとフィーネは視線を上げる。

 

「これは……」

 

 誰の口からともなく言葉が漏れた。それ程に目の前の光景は異常だった。

 湾岸部に位置したコンビナート区画から、獣の如き少女の咆哮と共に、橙色の光の柱が闇夜に染まった天を衝いている。計器が観測したフォニックゲインは異常な程の数値を示し、その数値の高さはまるで装者が絶唱を口にした際のそれと同等だ。

 「ありえない」というフィーネの呟きは、司令室に満ちた混乱からの喧騒に包まれて、誰の耳に止まることなく掻き消える。

 シンフォギアシステムの根本を為す櫻井理論、その提唱者であるフィーネ自身だからこそ断ずることが出来る。シンフォギアを装着するだけで、これ程の莫大なエネルギーが発生するなどありえないと。通常の装着時にもエネルギーの力場は発生するが、目の前のこれは度が過ぎている。

 天を衝いていた光の柱が中心に向かって収束し始める。光が晴れたその中から、先の光と同色の橙色を基調としたスーツとプロテクターを身に纏った少女が現れる。細部は異なるものの、奏やマリアが纏った時のそれを想起させるその意匠は、間違いなくガングニールのシンフォギアだ。

 

「ッ! 現場に向かいますッ!」

「待て! 翼!」

「司令、此処は僕が! 司令が席を離れては指揮系統が麻痺しかねません」

「くっ、頼んだぞ緒川。あのじゃじゃ馬が無茶をしでかす前に何とか手綱を握れ!」

「心得ています!」

 

 我慢の限界に達したのであろう翼が、弦十郎の制止の声に耳も貸さず、司令室に備え付けられたエレベーターに乗り込む。勇み足の弦十郎を押し留めて、彼の右腕とも呼ぶべき黒いスーツに身を包んだ青年――緒川慎次が翼を追って司令室を後にする。

 その様子を傍目に眺めながら、フィーネはガングニールを纏った少女をスクリーン越しに睨みつけていた。

 

 マリアでは、ない。これは、誰だ。

 

 少なくとも、フィーネの記憶の内にはないと言うことは、F.I.S.の関係者ではない。だが、フィーネが櫻井理論を提示したのは日本政府と米国政府のみであり、それ以外の国家、または組織がシンフォギアを所持している筈がない。両政府が、フィーネに秘密裏に二課やF.I.S.以外の研究機関を設けた可能性もあるが、現状シンフォギアの作成は櫻井理論を全て理解したフィーネにしか不可能であり、フィーネの知らぬシンフォギアなどこの世に存在してはいけないのだ。

 加えて、スクリーンに映った少女が纏ったシンフォギアはガングニールだ。日本政府が所持していたガングニールの欠片は、2つのシンフォギアへと加工する際、その全てを材料として使い切っている。新たにシンフォギアへと加工するだけの量は既に残っていない。新たにガングニールの欠損部位が発掘されたか? だが、そうだとしても先述の通り、フィーネの技術協力無しにシンフォギアの完成はあり得ない。

 この少女自身にも疑問が残る。一般人らしき幼女を腕に抱き、ノイズと戦うその姿は、訓練を受けた者のそれではない。アームドギアを展開しないばかりか、体捌きは素人同然であり、シンフォギアを身に纏った際の飛躍的な身体能力の上昇に戸惑っている節すらある。

 

 思考の歯車が噛み合わない。何らかの情報が致命的に欠けている。いや、見落としているのか。

 

 今代での宿願達成を殆ど諦めかけていたフィーネであったが、次代に望みを託すのはガングニールを纏った謎の少女の正体を確かめてからでも遅くないのではないかと思い直す。恐らく、フィーネの次代の器となるのはF.I.S.の集めたレセプターチルドレンの内の一人となるだろう。櫻井了子としての計画を引き継ぐにせよ、新たな手段を模索するにせよ、情報は多く持っているに越したことはない。

 そしてフィーネの思考は、少女の正体ではなく、少女にどう対処するかということに切り替わる。このままであれば、少女は翼によって二課本部に連行されるだろう。未だ過去を断ち切れずにいる翼が、かつて己の片翼が纏っていたシンフォギアと同じものを纏う少女を見逃す筈もない。ノイズとの戦闘を見る限りでは、少女の戦闘技術は翼に遠く及ばない。抵抗したとしても、天羽々斬(アメノハバキリ)を纏った翼であれば難なく鎮圧することが可能なレベルだろう。

 だが、果たしてそれで良いのだろうか。正体を知るだけならば、二課に少女をみすみすくれてやる必要もない。尋問であれば、蛍やクリスに少女を確保させ、屋敷でフィーネが行えば良いだけの話だ。寧ろ、尋問の対象が少女であるという点を考慮すれば、砂糖菓子のように甘い源十郎が率いる二課よりも、フィーネ自身の手で尋問を行った方が効率が良い。

 諦観の淵にあるフィーネの心に、再び焦りという感情が生まれる。だが、フィーネは今度こそ、その焦燥を理性をもって押し殺す。思考は怜悧であるべきだ。今代での作戦を続行すると決めた以上、リスクとリターンの計算はキチンとするべきで、それを蔑ろにして軽々しく結論を出すのは早急に過ぎる。

 

 果たして今、蛍とクリスという手札を二課に晒すのは得策だろうか。

 

 ネフシュタンの鎧、神獣鏡(シェンショウジン)、イチイバルといった此方の戦力を晒すだけの価値があの少女にあるかと言われれば、少女の存在が謎に包まれている以上、答えは保留せざるを得ない。しかし、少女の存在を二課に預けるか手中に収めるか悩んでいる――と言うよりも、フィーネとしてはどちらに転んでも構わない――現状で、フィーネという存在に直結しかねない駒を敵の目に晒すのは時期尚早ではないだろうか。

 ネフシュタンとイチイバルは元々日本政府の管理下にあった聖遺物だ。起動時のエネルギー波長、装着時のアウフヴァッヘン波形などの様々な研究データは、二課のライブラリーに保存されており、それを探知されれば、先のガングニール同様、その正体は即刻白日の元に晒されるだろう。そしてそのどちらもが櫻井了子の内通を仄めかす判断材料となる。

 では、神獣鏡(シェンショウジン)はどうだろうか。二課の発掘チームにより発見された神獣鏡(シェンショウジン)ではあるが、二課の手に渡る前にフィーネが強奪したため、その詳細なデータを二課は所持していない。二課の記録では、あの時出土した聖遺物はノイズの予期せぬ襲撃により失われたとされており、その聖遺物の名前は疎か、何を由来とした聖遺物なのかすら二課のライブラリーには記されていない。

 正体が分からないという点だけ見れば、神獣鏡(シェンショウジン)が最もフィーネの正体に遠い。だが、ここで神獣鏡(シェンショウジン)の特性が仇となる。「凶祓い」という聖遺物由来の力を悉く滅する破魔の力。それは相手が、聖遺物の欠片から作られたシンフォギアにも無論作用する。

 少女が身に纏ったガングニールは、フィーネにとって未知のシンフォギアだ。フィーネが開発に関わっていない唯一のシンフォギアだと言ってもいい。出来れば無傷で入手したいが、神獣鏡(シェンショウジン)はその特性の苛烈さから、少女が身に纏ったガングニールを破壊しかねない。かと言って、手心を加えてまごつけば、翼との三つ巴の戦闘になりかねない。

 そこまで考えて、やはり、まだ時期尚早だと結論を下す。あの二人を動かすのは、せめてカ・ディンギルの完成に目処がついてからだろう。米国政府に依頼した「多少強引な手段」、米国内でも賛否両論であるらしいが、あれの認可が下りるまでは、表立った行動は控えたい。

 であれば、ここでフィーネが取るべき行動は――。

 

「弦十郎君、私も現場に向かうわ」

「了子君!? 君まで何を!」

「私の知らないシンフォギアが存在するのよ。座して待っているなんて出来るわけないじゃない」

 

 翼に倣い、弦十郎の言葉を聞き流したフィーネは、エレベーターに乗り込み、司令室が見えなくなってから白衣のポケットから通信機を取り出す。それは、櫻井了子が普段使用している二課職員に配布された無骨なものではない。フィーネが個人的に用意した耳に嵌める小型なタイプだ。

 フィーネは慣れた手付きで通信機を耳に嵌めると、口を開いた。

 

「あっ、もしもし蛍ちゃん?」

 

 

◇◇◇

 

 

 緑の閃光が辺りに降り注ぎ、ノイズに怯える人々の悲鳴が聞こえなくなるまで蛍は身を隠した路地裏から一歩を動けずにいた。本来であれば、ノイズを召喚した後は、人々の混乱に乗じてセーフハウスに帰還する予定だった。だというのに、ノイズに襲われる人々の悲鳴を聴いた瞬間、頭が真っ白になって、踏み出した足がぴたりと止まってしまった。

 蛍がまともな思考回路を取り戻したのは、何処からともなく聞こえてきた、獣の様な少女の咆哮を耳にしてからだ。突如として聞こえてきたその声に漸く目を覚まし、路地裏から飛び出した蛍の目に飛び込んできたのは、湾岸部に位置するコンビナート区画から立ち昇る一筋の光の柱だった。

 橙色に輝くその光の奔流が、淡い燐光を巻き上げながら、星よりも明るく、月よりも鮮烈に、暗闇に支配された空を照らしている。

 

「あれは、なに……?」

 

 光の柱に目を奪われまたも足を止めた蛍だったが、耳に嵌めた通信機から聞こえる篭った衣擦れの音に気付き、身を隠す為慌てて路地裏へと戻る。蛍が壁となった建物の室外機の影に隠れて身を潜めるのと、通信機から櫻井了子を演じるフィーネの声が聞こえてくるのは、ほぼ同時だった。

 

『あっ、もしもし蛍ちゃん?』

「は、はい、何でしょうかフィーネ」

『ちょっとお願い事があるんだけど、現在地はどの辺り?』

「すみません。逃走に手間取り、未だ市街地郊外の湾岸部、コンビナート付近です」

『……何故、手間取ったかは今は聞かないでおきましょう。怪我の功名という訳ではないけれど、今はそっちの方が都合が良いからね』

 

 フィーネ相手に馬鹿正直に惚けていましたと言える筈もなく正確な報告を避けた蛍だったが、彼女相手には無駄な努力だったようだ。しかし、フィーネはそんな蛍の失態を今は問わないと言う。恐らく後でお仕置きなのだろうが、それでも今は蛍を口頭で罵るよりも重要な事があるということだ。

 通信機越しのフィーネからは彼女にしては珍しく焦りの感情が見て取れる。彼女をそれ程追い込む異常事態が発生したということに、じわりとソロモンの杖を握った右手が汗ばむ。

 それはきっと先程発生した光の柱と無関係ではないのだろう。あれは目に見えて分かる異常事態だ。その証左として、ソロモンの杖を通じて感じるコンビナート付近に放っていたノイズの反応が次々と消えている。ある地点から次々と途絶えるその反応は、まるでノイズがその地点にいる何者かによって倒されているようで。

 

『蛍ちゃんの位置からなら確認出来たかしら? ついさっきコンビナートから光の柱ようなものが立ち昇ったんだけど』

「はい。先程視認しました。現在は収まっているようですが、此処から4時の方角、何かの建物の上から立ち昇ったように見えましたが……」

『えぇ、それで間違いないわ。あまり詳しく説明をしている暇はないから、端的に言うけれど、未知のシンフォギア装者が現れたわ』

「…………それはフィーネですら知らないシンフォギアが存在するということですか?」

『その通りよ。おまけに確認されたアウフヴァッヘン波形は奏ちゃんが身に纏っていたガングニールと寸分違わない同一のもの。映像で装者の姿も確認したけど、F.I.S.側の装者ではなかったわ』

「そんなことが――」

『あり得るから困ってるのよね』

 

 あり得るのですかと口にしかけた蛍に、フィーネが先を読んだ様に言葉を被せる。「一々驚くな、話が進まん」という彼女の心の声が漏れ聞こえて、蛍は口を噤んだ。

 

『既に二課からは翼ちゃんが現場に急行しているわ。ガングニールを纏った謎の少女を此方で確保したい所ではあるけれど、三つ巴になることは避けたいの』

「つまり、今回は二課に譲るということですか?」

『えぇ、あの娘の正体は二課に探ってもらいましょう。私も櫻井了子として、彼女のシンフォギアには興味があるわ』

「では、私は何をすれば?」

『翼ちゃんが到着するまでの足止めを。相手がシンフォギアを所持していることから、何処かの国、若しくは大規模な組織がバックボーンにいること想定されるわ。何かしらの離脱手段を用意していると見て動くべきでしょう』

「離脱手段……海、でしょうか」

『その可能性が高いわねん。潜水艦か、小型の高速艇でも用意しているかもしれないわ』

 

 『まぁ、そうじゃない可能性も……』と呟いたフィーネの言葉の先を蛍は聞き取ることが出来なかった。その言葉を聞かなかったことにして、彼女の言葉に是と返す。思考を止める訳ではないが、現状で蛍はフィーネ以上の情報を持ち合わせていない。彼女の判断に、異を唱えるなど出来る筈もなかった。

 

「風鳴翼の到着を待って撤退ということは、基本的に隠密での作戦行動になるのでしょうか?」

『そうなるわね。だから、神獣鏡(シェンショウジン)とネフシュタンの使用は厳禁よ。あれを使ったら二課のレーダーに一発で引っかかるから』

「…………現在のノイズの残数でコンビナート付近一帯を封鎖することは不可能です。活動時間にも不安が残ります」

 

 ソロモンの杖に意識を移し、伝わってきたノイズの情報をフィーネに伝える。先程よりも数が減っている。恐らく、ガングニールを纏った謎の装者によるものだろう。その残数は、決して多いとは言えない。この数でコンビナート区画の全てをカバーすることは不可能だろう。

 加えて、ノイズを召喚してから既にある程度の時間が経過してしまっていることが気掛かりだ。バビロニアの宝物庫からこの世界に現出したノイズは、その活動に時間制限が設けられている。何故ノイズにそのような機能が搭載されているかは不明ではあるが、ノイズは現出し、一定時間が経過するとその身体を炭と変える。個体差はあるものの、それは2時間から3時間程だと言われている。

 蛍が最初にノイズを召喚したのは夕暮れであったが、辺りはすっかり闇に包まれており、あれから少なくない時間が経過していることが伺える。今、蛍が操作しているノイズに残された時間はそう多くはないだろう。

 

「ノイズの追加召喚は許可して頂けますか?」

『今、二課の目はコンビナート区画に集中しているわ。下手にノイズを召喚して、召喚時の発光現象を観測されると面倒だからだーめ』

 

 随分と簡単に言ってくれると内心で悪態を吐き、頭の端で試算した彼我の戦力差に絶望する。ガングニールを纏った少女の力量は定かではないが、それでもシンフォギアを纏っている時点でノイズには天敵とさえ呼べる存在だ。ノイズが特異災害と呼ばれる由縁たる、位相差障壁を突破出来るシンフォギアは――対ノイズ用として開発された兵器であるため当たり前ではあるのだが――ノイズにとって相性が最悪の相手だ。なので、ノイズの運用に辺りシンフォギアに対抗する為には、一体一体のスペックが劣っている以上数に頼るしかないのだが、今回はそれすら出来ないという。

 

「コンビナート区画の封鎖を断念し、遅滞戦闘に専念したとしてもそう長くは持ちません。……風鳴翼の現在位置はどの辺りですか?」

『ちょーっと待ってね。…………たった今、二課本部からマネージャーの制止を振り切って、ヘルメットも被らずにバイクで出撃したそうよ』

 

 『うーん、緒川君も大変ねー』というフィーネの呟きを無視して、蛍は思考を再開する。

 翼の移動手段はバイク。ノイズの発生警報は既に発せられ、市民はシェルターへと避難している。交通量は皆無と言っていい筈だ。信号や法定速度などの規則を全て無視し、二課本部からコンビナート区画までを最短距離で突っ切ったとして、到着までにかかる時間はどれ程だろうか。この街の地理に明るくない蛍には、正確な時間は分からない。

 

「彼女の到着にはどれぐらい掛かりますか?」

『血相変えて司令室を飛び出して行ったから、相当飛ばすと思うわ。20分……いいえ、もしかしたら15分を切るかも』

「それなら何とか保つかもしれません」

『うーん、多分、蛍ちゃんが心配してる程、彼女強くないわよ? 映像を見る限りアームドギアも展開してないし、体捌きも全くの素人。逃走されない様に周りを囲むだけでも、かなり時間稼げると思うわ』

 

 シンフォギア装者が何の訓練も積んでいないズブの素人など、普通であればあり得ない話だ。幾らアームドギアを展開できない程の未熟者だとしても、シンフォギアを身に纏い、何らかの組織に属している以上、戦闘訓練を受けていない筈はない。

 だが、先程からのノイズの殲滅速度を見る限りでは、それも事実なのではと思ってしまう。余りにも、殲滅速度が遅すぎるのだ。もしあの場に居るのが蛍やクリス、そして翼であれば、あの程度の数のノイズは遠に灰へと姿を変えている。

 

「……情報がちぐはぐ過ぎて頭が混乱しそうなのですが」

『そうなのよねー。私にも訳が分からないわ。でも、だからこそ、彼女の正体は突き止めないといけないの』

 

 正体不明のシンフォギア装者。存在自体が出鱈目で、その実態はフィーネであっても掴み切れないと言う。

 そんな存在を相手取って、蛍はこれから最低でも15分の遅滞戦闘を成功させなければならない。それも神獣鏡(シェンショウジン)ならいざ知らず、ソロモンの杖を使ってのノイズ頼りの戦闘だ。自信があるとは、とてもではないが言えない。

 

「……分かりました。最善を尽くします」

『うんうん。結果で示してね』

 

 フィーネの容赦のない「失敗したらどうなるか分かっているだろうな?」発言に、肩に掛かる重圧がずしりと増した気がする。兎も角、少女の姿を視認出来ないようではノイズに指示の出しようもない。そう考えた蛍は、吐き出しそうになった溜息を飲み込んで、右手持ったソロモンの杖はそのままに、左手にバイオリンケースとビニール袋を持ちなおすと、身を隠していた路地裏から飛び出しコンビナート区画へと駆け出した。

 




 フィーネによる盛大な勘違い。でも、実際響が融合症例だと判明するまでフィーネって内心ビクビクだったと思うんですよね。


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EPISODE 11 「勇気の歌」

 長らくお待たせしました。



 辿り着いたコンビナート区画で建物の物陰に隠れた蛍は、額から流れ出る汗と口から漏れる荒い呼吸を落ち着かせるためにゆっくりと深呼吸を数度行った。慣れない潮の香りが肺いっぱいに広がるが、それでも深い呼吸を続ける。

 シンフォギアを身に纏っていない蛍は只の16歳の少女だ。幾ら訓練を積んでいるとはいえ、全速力で走ればこうなる。そしてそんな状態でまともな思考などできる筈もない。これから謎のシンフォギア装者を相手取って、限られた戦力で最低15分の遅滞戦闘を成功させなければならない蛍にとって、最も頼りになるのは自分の頭だ。手持ちの武器は万全の状態で運用するべきだろう。

 

「……やっぱり戦ってる」

 

 耳に届くのは、コンビナート中央区画から聞こえてくる何かが崩れるような音とノイズが発する不協和音、そして歌。未知のシンフォギア装者に関して半信半疑だった蛍であったが、戦闘音に混じって微かに聞こえる少女の歌を耳にして漸くその存在を確信する。戦場で歌を歌うなどシンフォギアを纏った者以外あり得ない。

 

「よし。行こう」

 

 呼吸を整えた蛍は、夜の闇に紛れて移動を開始する。此処からは更なる慎重を期さなければならない。二課の目が集中する戦場に身を投じるのだ。フィーネから隠密行動を義務付けられている以上、見つかる訳にはいかない。

 逸る気持ちを抑えてこそこそと建物の隙間を縫うように移動していた蛍だったが、少し開けた広場のような場所に差し掛かり足を止める。工場などの建物やコンテナが立ち並んだコンビナート区画の中にあるぽっかりと空いた空白地帯。

 身を隠しながらもノイズ達に細かい指示を送らなければならない以上どうしても目視での確認が不可欠となる。本来であれば、コンビナート区画という建物のジャングルを利用し、物陰からの奇襲を繰り返して敵の足を止めたいが、そこまで細かな指示を出す術が今の蛍にはない。コンビナートの地図すら手元になく、戦場の全体を見通すことも出来ない現状、その様なゲリラ戦術を取ることは出来ないだろう。

 であれば、フィーネの言に従い、対象にも分かりやすく包囲を完成させることで、時間を稼ぐことが有効だろう。視覚的にも分かるよう包囲を完成させれば、相手の戦意を削ぐことも可能かもしれない。その点、目の前の広場はうってつけだ。大きさも程よく、ざっと見渡す限りでは残存するノイズでも無理なく辺りを囲むことができるだろう。

 そう結論付けた蛍は、ソロモンの杖を通して、コンビナート区画に散らばるノイズ達に指示を送り始めた。

 

「来て」

 

 散らばったノイズ達を広場に集めると共に、ガングニールの装者の近くにいるノイズ達には彼女を広場に追い込む様に展開させていく。どうにも積極的な戦闘を行おうとしない彼女のことだ。恐らく逃げ込む形でこの広場にやってくる筈。

 そうなってしまえばもう此方のものだ。広場をノイズで封鎖し、翼の到着までズルズルと戦闘を続けさせてもらおう。

 

 歌が近づいてくる。

 

 先程までは距離がありはっきりとは聞き取れなかった甲高い少女の声が、蛍の耳に届く。その歌声に浮かぶのは、困惑。なんで、どうして、訳がわからない。そんな少女の心の声が歌にありありと現れている。

 

「……これが彼女の歌? こんな困惑に満ちた歌でシンフォギアが纏えるの?」

 

 覚悟もなく、戦う意思も感じない。けれど、そこには何かの想いがある筈だ。戸惑いなんて温い感情だけでシンフォギアが身に纏える訳がない。

 

「そんな此処にも!?」

 

 歌声が途絶え、代わりにその身に橙色のシンフォギアを見に纏った少女が驚愕に満ちた声と共に、ノイズに依る包囲が完了した広場へと駆け込んでくる。そして蛍は初めて謎の装者の姿を瞳に映した。肩程で切り揃えられ外側に跳ねるようなクセをもった色素の薄いブラウンの髪、見に纏ったシンフォギアと同色の瞳。見た目で年齢を計ることができないのは重々承知だが、それでも敢えて言うならば、昼間に会った三人娘と同じぐらいの年齢だろうか。あまり蛍と年齢に差はないかもしれない。

 少女が見に纏ったシンフォギアは細部こそ異なるものの、ヘッドギア、ボディスーツ、四肢に纏った機械装甲、そのどれもが奏が身に纏ったガングニールに似通っている。

 

 大きく違う点と言えば、その手に持ったものが槍型のアームドギアではなく、小さな幼女だという点だ。

 ノイズに怯えるその様子から恐らく一般人なのだろう。幼女――蛍とは違い恐らく本当に幼い――は、目に一杯の涙を溜めながら不安そうな顔で、自分を抱き抱える少女を見上げている。そんな幼女に向かって、ガングニールの少女が「大丈夫、大丈夫だから」と笑いかける。端から見れば、恐怖を押し殺した不恰好な少女の笑顔が、腕の中の幼女の為に取り繕った笑顔である事は一目瞭然だ。

 どうやらガングニールを纏った少女は、幼女を守りながら戦っているらしい。そしてそれならば、ノイズの殲滅スピードが遅かった事も少しは合点がいく。生身の幼女を抱えたままで、まともな戦闘ができる筈もない。

 アームドギアを展開しないのも、腕の中の幼女を慮っての事なのだろう。アームドギアを用いての全力戦闘を行えば、戦闘の余波だけで幼女の身体にどのような影響が出るか分かったものではない。

 その様子を見た蛍は、反射的に耳に手を当て通信機のスイッチを入れた。通信機の向こう側から微かに聞こえる音に、通信が繋がったことを確認してから、感情を押し殺した声を発した。

 

「一般人を連れているなんて聞いていないですよ、フィーネ」

『あら、ごめんね、蛍ちゃん。伝え忘れてたわ』

「……只でさえ状況は未だ不透明なんです。せめて判明している敵の情報ぐらいは正確に報告して貰いたいです」

『そんなに怒らないでってば。ほんのチョットど忘れしてただけじゃない』

 

 白々しいフィーネの台詞に、鳴りそうになった歯の根を何とか押し込める。ど忘れ? あのフィーネが? ありえない。意図的に伝えなかったに決まっている。

 フィーネは装者の姿を映像で確認したと言っていた。ならば、二課は既に装者の動きをトレースしてる筈で、櫻井了子として二課の情報を得ているフィーネが、幼女の存在を知らない訳がない。

 

『でも、別に戦闘には大して影響しないでしょう? と言うか、どちらかと言えば蛍ちゃんに有利よね?』

「それは……そうですが……」

『あの装者は、どうやら女の子を守りながら戦ってるみたいだし、それで動きが鈍っているなら都合が良いじゃない。こっちの目的はあくまでも翼ちゃんが来るまでの時間稼ぎ。相手が自ら力をセーブしてくれるなんてラッキーね。それとも、なーに、あんな小さい子にノイズを差し向けるのは気が引ける?』

 

 フィーネの此方を試すような声にドクンと心臓が跳ねる。蛍の迷いを見透かすように、フィーネが言う。蛍が撤退を渋った理由をフィーネはきっと察している。こういう時の彼女は神がかって蛍の心情を読んでくる。

 

「まさか」

 

 覚悟は既に決めたのだ。どんな事をしてでも、成し遂げたい想いが蛍にはある。立ち止まる事も、迷う事も、もう蛍には許されない。既に、蛍の手は赤く染まってしまったから。

 昼間に召喚したノイズで、少なくはない人数の人々を蛍は殺した。街中に散ったあの灰は 間違いなく蛍の手によって生み出されたものなのだから。コンビナート区画に到着するまでのあの光景に見ないふりをすることは許されない。きっと犠牲となった人々の中には、あの少女のような年端もいかない子供も含まれている筈だ。

 

 今更選んで殺すなんて、虫がよすぎる。

 

「……ノイズによる包囲は完了しました。遅滞戦闘に移ります。風鳴翼の到着までに後何分程かかりそうですか?」

『10分と言ったところかしら。今の所、周辺区域に不審な船やヘリなどは見当たらないけれど、どんな脱出経路を用意しているか分からないわ。最後まで油断しないようにねん』

「了解しました。保たせてみせます」

 

 蛍は手にしたソロモンの杖を握りしめて、物陰から広場の様子を伺う。コンビナート区画の夜間照明に仄かに照らされた広場では、ガングニールの少女が震える幼女を両手で抱きしめて、周りをぐるりと囲んだノイズ達に右往左往している。歌うことすら止めて、なんでもない風を装って腕の中の幼女を只管に励ますその姿は酷く痛ましい。

 その様子を見て、蛍はガングニールの少女が戦い慣れていないことを悟る。

 

「フィーネの予想は正しかったということでしょうか」

 

 彼女のガングニールがどういった特性を持った聖遺物であるかは分からないが、本来のシンフォギアのスペックであれば、こんな周囲をぐるりと囲っただけの薄い包囲網など一点突破することは造作もない。

 シンフォギアは素材となった聖遺物と装者の技量やバトルスタイルに合わせてその特性や装備を大きく変える。総数301,655,722種類ものロックが、系統的、段階的に限定解除され、装者が最も力を発揮しやすいように自動的に調整されるのだ。

 彼女の身に纏ったガングニールも、シンフォギアである以上その機能は搭載されている筈であり、少女の資質に合わせて最適な調整がなされ、何かしらの特徴がある筈である。

 蛍の神獣鏡であれば凶祓いによる防御不可能の破壊力。クリスのイチイバルであれば豊富な遠距離武器による圧倒的な殲滅力。翼の天羽々斬であれば卓越した近接戦闘技術から繰り出さられる正確無比な斬撃。

 そのどれもが一級品の武器であり、この場を満たす程度のノイズなど、歯牙にも掛けない強力無比な力だ。しかし、少女が身に纏ったガングニールからは、そういったオンリーワンの特徴は今の所見られない。

 それどころか今の少女からはシンフォギアの基本的な機能である身体能力の向上すら、その恩恵を使いこなしている様には見えない。幾ら人一人を抱えているのだとしても、シンフォギアを身に纏った今の彼女であれば、これだけ多くの大小様々な建造物があるのだから、もっと立体的な機動だって可能な筈だ。蛍はその可能性を考慮して大型のノイズを控えさせていたものの、この様子では杞憂だったのだろうか。

 これでは、まるで、今しがたシンフォギアを身に纏ったばかりの只の素人の様ではないか。

 

 どの程度戦えるのか確かめてみるべきでしょうか?

 

 少女の正体は未だに謎に包まれている。何故フィーネさえその存在を知らないシンフォギアを身に纏っているのか。どういった組織に所属しているのか。どのようなアームドギアを展開するのか。敵か味方かすら定かではないが、どちらにしろ現時点での彼女の力量を測ることは必要だろう。

 翼の到着まで時間を稼ぐならば、このままノイズによる包囲を続けることが最適ではある。しかし、それは人を襲う事に終始する単調な行動パターンをとるノイズには相応しくない行動だ。少女の姿が二課にモニターされている以上、ノイズに露骨な組織だった行動を取らせ二課に余計な不信感を抱かせるのは得策ではない。適度な攻撃は必要だ。

 

「ごめんなさい」

 

 名前も知らない少女とその腕に抱かれた幼女に、通信機が音を拾わないよう声を潜めて、蛍はただ一言謝罪する。

 酷く身勝手であることは分かっている。しかし、それでも、その言葉は蛍の口をついて出た。

 

 

◇◇◇

 

 

 目の前の光景に、立花響の胸中は困惑の只中にあった。学校の成績が芳しくない響でも知っている特異災害ノイズ。色も形も大きささえもバラバラではあるものの、自身の周りをぐるりと囲むこの異形の者たちは、間違いなくノイズだった。

 ノイズは触れた人を炭素へと変える。大人も子供も男も女も関係なく、ノイズはその身を道連れに人を炭へと変換する。どんな防御手段を用いてもそれを防ぐことはできない。だから、運悪くノイズに遭遇してしまったら逃げる以外に選択肢はない。

 

 人はノイズに勝てない。それがこの世界の常識だ。

 

 だが、響の右腕は、そのノイズを打ち砕いた。触れれば体が炭と変わるしかない筈のノイズを打ち砕いたのだ。身に纏った橙色の機械的な鎧は、響に超常の力を与えた。歌を歌う度に、体の奥から力が溢れてくる。

 それ程力を込めずに踏み抜いた足は硬いコンクリートの地面を砕き、響の身体はふわりと体が宙を舞った。

 

「わっ! わわっ! おおうっ!」

「お、お姉ちゃん!」

 

 腕に抱えた少女が響の腰に回した手に力を込める。その様子を見た響は、空中でなんとか姿勢を保ちながら、目の前に迫るノイズの攻撃への恐怖を押し殺して、努めて明るい声を出す。

 

「平気へっちゃら! お姉ちゃんに任せなさい!」

 

 眼前に迫ったノイズは、その体を細く変形させて体当たりしてくる。それに対して響が行った行動はまさかの迎撃だった。

 間違ってもノイズが少女に触れないよう、両手でしっかりと少女の体を抱きながら、響は遮二無二に右足を振り抜いた。空中で碌にバランスを取れず、本来であれば十全な威力を発揮できない筈のその右足は、迫り来るノイズの体を粉々に打ち砕いた。

 砕かれたノイズの体が炭へと変わり、潮風に吹かれ散ってゆく。橙色の両眼にその光景をしっかりと捉えながら地面に着地する。ビル3階分は有ろうかという高さから着地したにも関わらず、その際に感じた衝撃は驚く程に微々たるものだ。

 先程の跳躍といい、ノイズを砕くこの力といい、今の響の身体能力はあまりにも人間離れしている。最近できた友人の言葉を借りれば、「アニメじゃないんだから!」というやつだ。

 

「お姉ちゃん! 前! 前!」

 

 少女の言葉に視線を上げれば、3体のノイズが先程と同じように身体を細く槍のような形状に変化させながら、響達を貫かんと殺到している。

 

「うわっ! ひぃ! ぎゃー!」

 

 避けないと――そう頭で考える前に、体が反応した。少女を腕に抱えて、飛び込むように横へと跳ねる。数秒前まで響達が居た場所にノイズが突き刺さり、轟音と共にコンクリートの地面が砕けた。

 右手で地面を押して、空中で一回転。まるでテレビで見る体操選手のような動きで体勢を立て直し、地面に着地した響は、ノイズの着弾地点を見る。活動限界だったのか3体のノイズは、その体を炭へと変え、ボロボロと崩壊していった。

 少女の手前、なるべく怯えを顔に出さないよう努めているが、響の心は未だにノイズの恐怖に震えている。それでも体が動いてくれる。

 まるで、自分の体ではないように、力強く、それでいて軽やかに。

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 もう少しだッ!

 

 昼に響がノイズに遭遇してから、かなりの時間が経過している。日はすっかり落ち、空には満天の星空がある。先程のノイズが活動限界で炭になったのだとすれば、他のノイズに残された時間もそう多くはない筈だ。

 ノイズに囲まれ、孤立無援という絶望の真っ只中に、小さく細い希望という光が生まれる。

 幾ら自分が身に纏ったこの鎧が、ノイズに対抗できるのだとしても、辺りを囲んだノイズ全てを倒せるとは響も考えてない。

 響にとって、大切なのはノイズを倒すことではない。腕の中の少女と共に生き延びることだ。

 生き延びる為の希望が生まれ、響の心に少しの余裕が生まれる。

 

 それがいけなかった。その心の弛緩は、明確な隙となる。

 

 その場に居たのが、蛍やクリス、翼のように訓練を受け戦士としての心構えを身につけた者であれば、決して気を抜くことはしなかった。

 だが、響は只の15歳の少女だ。過去にノイズに襲われ、生き残った経験があったとしても、立花響は戦場(いくさば)に身を置く戦士ではなく、普通の女子高生だ。

 だから、背後から迫るノイズの一撃に、響が反応出来ないのは、至極当然のことだった。

 

「かはっ!!」

 

 肺の中の空気が全て吐き出される程の衝撃と共に、響は訳も分からず吹き飛ばされた。それでも、腕の中の少女を手放さず、庇うように両手で抱え込んだのは響が響たる所以だろうか。

 

「あ、ぐっ……痛っ……」

 

 まともな受け身も取れずに、地面を転がった。至る所を地面にぶつけたが、身に纏った鎧の効果か痛みは思ったよりも少ない。只、それでも、ノイズに穿たれた背中からは、鈍い痛みが伝わってくる。

 

「お、お姉ちゃん……」

「平気、へっちゃ――ッ!!」

 

 腕の中で怯える少女に笑顔を返そうとした響だったが、頭上から迫り来る気配を感じ取り、形振り構わず身体を宙へと投げ出した。

 その直後、衝撃と砕かれたコンクリートの欠片が、腕の中の少女を守るために晒した響の背中へと襲いかかった。

 

「がっ……!」

 

 痛みから溢れそうになる涙を必死に堪えた響の瞳が映したのは、緑色をした見上げるほどに巨大な人型のノイズだ。両腕の先から生えた巨大な鋏は、直前まで響がいた地面に振り下ろされ、大きなクレーターを生み出している。

 甘かった。たった数瞬油断しただけで、先程まで感じていた希望が吹き飛んだ。

 相手は、人類の天敵だ。過去、世界中の多くの人々を炭へと変えてきた正真正銘の化け物だ。そんな化け物を相手に、一瞬でも気を抜くなんて愚行を響はしてしまった。

 そして、頭の片隅で考えてしまった。本当に逃げ切れるのか、と。

 頭の中でぽつりと湧いた疑問は、瞬く間に響の心に広がり、暗い影を落とした。努めて忘れていた感情が――恐怖が、響の足元に這いよってくる。

 手足が竦み、歯の根が鳴り始める。頭の中は真っ白で、恐怖という感情だけが響の胸中を満たしていた。

 

 ぐちゃぐちゃになりそうだった心を鎮めてくれたのは、腕の中の温もりだった。

 

 響の腕の中で、少女は顔を青褪めながら、小さな身体を震わせている。そのことに、ふと、気付いた。

 響は、今、一人ではない。助けなければならない人がいる。

 胸に火が灯る。体の奥から力が湧いてくる。

 諦めるなんて、立花響らしくない。そう、らしくないのだ。

 

『生きるのを諦めるなッッ!!』

 

 瞳に焼き付いた彼女の姿を思い出す。赤い羽毛のような髪をたなびかせ、閃光のようにノイズを屠った彼女は、響に諦めない意思を教えてくれた。どんな状況でも生きることを諦めない意思を、響はあの時確かに彼女から受け取ったのだ。

 だから、まだ、がんばれる。まだ、立ち上がれる。彼女から貰った諦めない意思が、挫けそうになった心を支えてくれる。

 あの日、生き残った自分は、あの人の代わりに、もっと沢山の人を助けなければならない。こんなところで、膝をつくなんて許される筈がない。

 「へいき……へっちゃら……」といつの間にか、口癖になった言葉を、震える唇で無理矢理呟く。響が辛く苦しい時にいつも支えてくれた魔法の言葉を。少女に聴かせる為に、そして、なにより自分自身に言い聞かせる為に。

 目の前に立ちふさがる巨大ノイズを睨みつけながら、響は四肢に力を入れて立ち上がる。背中から伝わる痛みに泣きそうになるも、奥歯を食いしばって耐えた。

 これから先は、もう一瞬足りとも気は抜かない。余計なことは考えない。生き残ることに全力を尽くす。

 

 ――私には、まだ出来ることがある。

 

 難しいことは分からない。身に纏ったこの鎧はなんなのか。なぜノイズが必要に自分たちを追いかけてくるのか。なぜノイズに触れたこの体が無事なのか。

 なぜ、なぜ、なぜ。分からないことだらけだ。

 けれど、分かっていることもある。

 抱えた腕から温もりが伝わってくる。此処に震えている子がいる。泣いている子がいる。助けを求めている子がいる。

 理由なんてそれだけでいい。難しいことなんて、意識の外に追いだせ。そんなことは後で考えればいい。後先考えるなんてらしくない。

 

 あの日、あの時、あの場所で、彼女に命を救ってもらった。生きる為の指針をもらった。

 それは、無理でも、無茶でも、無謀でも、貫き通さなきゃいけない立花響の根っこだ。

 生きることを諦めない。それが立花響の生き方だ。

 困っている人がいたら助ける。それが立花響の在り方だ。

 

 だから――

 

 ――私がこの子を守らなくちゃいけない!!

 

 

◇◇◇

 

 

 思ったよりも戦える。それがガングニールの装者の戦闘をこの目で見た蛍の感想だった。

 確かに体捌きはなっちゃいないし、些細なことで油断し戦場での心構えも身についているとは言い難い。だが、それでも、度重なるノイズの攻撃を避け、時には迎撃し、既に10分近く腕の中の幼女を守り切っている。戦闘訓練を受けていない素人だと考えれば、充分すぎる程の働きだろう。

 蛍は、あの装者が殆ど戦闘訓練を受けていない素人だという確信を得ていた。もしかすると、これが初めての実戦なのかもしれない。アームドギアに関しても、出さないのではなく、出せないのではないかとすら考えている。

 果たして、シンフォギア装者でありながら戦闘訓練を受けていないなんて馬鹿げたことが、本当にあるかどうかこの際おいておく。百聞は一見にしかずとはよく言うが、蛍は自分がこの目で見た情報を信じることにした。

 彼女の力量に関してはほぼ把握した。もし敵対することになったとしても、蛍とクリスの脅威には成り得ない。フィーネの計画が始動するまでもう間もなくだ。筋は悪くないが、彼女がどんなに努力したところで、計画始動までに蛍やクリスの力量に彼女が追いつくことはないだろう。

 それさえ分かれば今は十分だ。彼女の所属する組織や背後関係などの面倒な事柄は、二課に任せてしまえばいいのだ。情報が不足している現状でどれだけ頭を悩ませたところで、答えが出るものでもない。シンフォギアの情報流出元としてフィーネがまず間違いなく疑われるだろうが、彼女であればのらりくらりとやり過ごすだろう。その程度には、蛍はフィーネのことを信用していた。

 

 彼女の歌が聴こえる。最初に聴こえた困惑に満ちた歌声ではない。それは、自分を鼓舞し、迫り来る脅威に抗おうとする拙いながらも力強い歌だ。

 

 戸惑いも恐怖も消えたわけではない。歌声の節々に、そういった感情が見え隠れしている。腕の中の幼女を不安にさせないよう必死に押さえつけている。

 戦う意思も覚悟も足りない。歌唱技術が特別優れている訳でもなければ、歌うことを楽しんでいるわけでもない。

 だというのに、蛍は彼女の歌に惹かれていた。もっと聞いていたいとすら感じた。今まで聴いたどの装者の歌とも異なる彼女の歌は、拙いながらも心に響く、そんな歌だった。

 初めはガングニールが、何故彼女の歌に応えたのか分からなかった。だが、今なら分かる。ガングニールは彼女の「勇気」に応えたのだ。

 装者の歌う歌は心象風景の発露。歌を聞けば、装者の人となりはある程度分かるものだ。まっすぐで明るい正義感の強い娘。それが、蛍の感じた少女の人となりだった。

 そんなことを考えていた蛍だったが、彼女の歌とは違う荒々しい音を耳が捉え、意識を戦場へと戻す。けたたましいエンジン音を響かせて、一台のバイクがノイズの包囲を強引に食い破った。

 そのバイクに跨った人物を見て、蛍は漸く自分の仕事が終わったことを知る。ノイズの活動時間的にも、ギリギリのタイミングだ。辺りに所属不明のヘリや船といった不審な輸送機も見られない。

 

「満を持してのご登場。流石とでも言いましょうか。漸く肩の荷が下りそうです」

 

 2年前のライブ会場での戦闘映像を見た限りでは、もっと慎重な気質だと思っていたのだが、この2年で性格が変わったのだろうか。天羽奏という片翼を失ったのだから、それも仕方のないことかもしれない。蛍も、もしクリスを失ったらと考えると、今までの自分でいられる自信はない。

 ワンサイドアップに纏められた腰近くまで伸びた青い髪をたなびかせバイクを駆るその姿は、まるで一振りの刀のように美しい。薄く紫がかった青い瞳は険しく細められ、眼前のノイズと、そしてそのノイズと戦うガングニールの装者を睨みつけている。

 

「幾らガングニールのバリアコーティングが働いてるからって随分と無茶をしますね」

 

 ガングニールの装者が抱える幼女を見て一瞬で状況を把握したのか、彼女はバイクのスピードを更に上げガングニールの装者の隣を通り過ぎる。そしてそのままバイクを乗り捨て、空へと飛び立った。それはまるで舞い散る羽根のように。

 

Imyuteus amenohabakiri tron(羽撃きは鋭く、風切る如く)

 

 第一号聖遺物「天羽々斬(アメノハバキリ)」のシンフォギア装者――風鳴翼の聖詠が、ノイズに満ちたコンビナート区画の空に凛と響き渡った。

 




 蛍が操作しているせいもあって、響が原作よりも若干苦戦してます。
 只、その分、響の成長が早まるフラグがたった気がしますが多分気のせいです。


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EPISODE 12 「歩みを共に」

 お待たせしました。


「ただいま帰りました」

 

 風鳴翼の戦闘を最後まで見届けることもなく、フィーネの誘導に従いながら二課が敷いた包囲を潜り抜け、蛍が漸くセーフハウスに帰還できたのは、日付けが変わり、夜も更けきった時間帯だった。

 ノイズの発生によりモノレール等の公共交通機関は運転を停止しており、僅かな望みを託したタクシーも捕まえられずに、蛍はセーフハウスである町外れにあるホテル――海側とは反対に位置する――に徒歩で辿り着かなければならなかった。

フィーネから通信にて逃走経路を指示されていたとはいえ、道中は常に周囲に気を配っており、その筋では有名な忍者の影に怯えながらの逃避行は、流石の蛍も堪えた。

 身を蝕む重たい疲労を感じながら、ふらふらと覚束ない足取りで柔らかなベッドを求め、歩を進める。

 シャワーを浴びようかとも思ったが、今はとにかく泥の様に眠りたかった。着替えるのすら億劫で、今日一日で何度となく脱ぎたいと思ったフリフリのワンピースさえ脱ぐ気力が湧いてこない。

 蛍は限界だと言わんばかりに、両手に持っていたソロモンの杖の入ったバイオリンケースとクリスのお土産にと買ってきた牛乳とあんパンの入ったビニール袋を無造作に床に落とした。どちらも大切なものだった筈なのに、それらを気遣う余裕が今の蛍には欠片も残っていなかった。

 

 今日は色々なことが、起こりすぎた。

 

 6年振りの外の世界。クリス以外の同世代の少女たちとの会話。初めての殺人。謎の装者の出現。二課の包囲網の突破。

 6年間、フィーネとクリスの2人としかまともに接してこず、屋敷に引きこもっていた蛍には些か刺激が強すぎる出来事の連続だった。

 

「すぅ……すぅ……」

 

 欲望の赴くままに、ベッドに倒れこもうとした蛍だったが、ベッドの縁に腰をかけ、うつらうつらと頭で船を漕ぐクリスの姿を瞳に映して足を止める。

 白藤色の髪がクリスの頭の動き合わせてふわりふわりと揺れている。薄紫色をした瞳は瞼の裏に隠れ、桜色の唇からは可愛らしい寝息を立てている。今にもこてんとベットに倒れこんでしまいそうだ。

 普段の勝気な態度からは想像もつかない安らかなその寝顔に、蛍は堪らない愛しさを覚え、心に溜まっていた黒い泥が少し洗い流された気がした。その寝顔が頑張って自分を待っていてくれた結果のものなのだから、その愛らしさも一入だ。

 無性にクリスに触れたくなった。しかし、そう思った蛍の手は彼女に触れる直前にピタリとその動きを止めた。

 

 この手で、本当に、彼女に触れても良いのだろうか。

 

 白く、純粋で、真っ直ぐな彼女に、血に濡れた自分の手で触れてもいいのだろうか。

 必要な犠牲だと蛍は、既に覚悟を決めた。けれど、多分、クリスは未だに割り切れていない。表面上は理解したつもりになっているかもしれない。しかし、クリスはあの光景を見ていない。

 

 街中に轟く、怒号と悲鳴。

 ノイズが発する不協和音。

 風に舞う炭。

 

 自分の指示でノイズが無垢な人々を炭へと変えていく。誰かの意思じゃない。自分自身の意思で人を殺した。あの感覚は、体験した者にしか分からない。蛍とて、実際に体験するまでは分かったつもりになっていたのだ。

 皆神山の発掘現場、2年前のツヴァイウィングのライブ会場、他にもフィーネが引き起こした殺人の全ては、蛍自身が殺したのも同じことだと考えていた。

 だが、違った。それは大きな間違いだった。他人の意思で殺した殺人と、己の意思で犯した殺人とには天と地ほども差があり、伸し掛かる責任の重圧は小さな蛍の両肩を押し潰さんとしている。

 

 報いなければならない。償わなければならない。

 彼ら、彼女らの命をこの手で炭へと変えたことを、無意味にしてはならない。

 蛍が歩んできた道は、これから歩む道には、多くの炭が舞っているのだから。

 

 人類の相互理解。取り戻した統一言語により、人々が誤解なく分かり合える世界。そんな世界を夢見た。だから蛍は此処にいる。

 その為になら、どんな事でもすると決めた。どれだけ多くの人を傷つけようとも、自分の我儘を押し通す。

 だが、「新しい世界の為に」などと取り繕った所で、蛍は人殺しなのだ。犯してはならない罪を――業を背負った。

 何も握っていない両の手が、真紅に染まっている。地面を覆い尽くす炭の上に立っている。

 

 こんな世界に身を置いた私に、クリスは変わらず接してくれるでしょうか。

 

 クリスもいずれは人殺しを経験することになるのだろう。フィーネに付き従いこの計画に参加している以上それは避けようのないことだ。

 だが、叶うことならば、クリスにこんな想いはして欲しくない。何の罪も無い弱者に力を振るうということは、彼女が厭う戦争と何ら変わりの無いことなのだから。

 クリスはこの世界で彼女が最も忌避することを、自ら行おうとしている。そんな事を、彼女にさせる訳にはいかない。

 蛍が全てを代替わりできるものならば、喜んで引き受けよう。クリスの為ならば、人殺しの罪も罰も全ての咎を背負ってみせる。

 だが、現実問題としてそれは不可能だ。クリスがシンフォギア装者としてフィーネの下にいる限り、いつか必ず彼女は戦場に駆り出される。クリスに利用価値がある以上、フィーネは彼女を徹底的に使い倒す。

 

「いっそこれさえなければ……」

 

 蛍は小さく独りごちると共に、その視線をクリスの胸元へと向ける。その先には、天井から降り注ぐ蛍光灯の光を反射して赤く煌めく基底状態のシンフォギアがある。

 シンフォギアさえなければ、クリスはフィーネから解放される、かもしれない。装者が適応できる聖遺物は基本的には1つだけであり、幾ら高い適合係数を誇るクリスとは言え、他の聖遺物とイチイバル以上に適合することは不可能だ。

 故にこの聖遺物さえ壊してしまえば、クリスは戦う手段を失う。

 フィーネは、神獣鏡(シェンショウジン)にてフロンティアの封印を解くという使命のある蛍とは違い、クリスの事を純粋な戦闘要員としてみている。神獣鏡(シェンショウジン)とイチイバル。フィーネにとってより重要なのはどちらかと問えば、何の迷いもなく彼女は神獣鏡(シェンショウジン)だと答えるだろう。

 当初の計画では、蛍1人でツヴァイウイングの2人――天羽奏と風鳴翼――を相手取る予定だったのだ。もし、謎のガングニールの装者が敵に回ったとしても、相対するのはツヴァイウイング時代抜群のコンビネーションを誇ったあの2人を相手取るよりは余程楽に決まっている。蛍1人でも充分に対処可能な筈だ。

 

 私が頑張れば、クリスは戦わなくてもいい。

 

 普段であれば、一蹴したであろうその馬鹿な考えを、鈍った思考の蛍は止めることは出来ない。グルグルと回る思考の渦が、蛍を飲み込まんと勢い付く。

 可能なのだ。蛍には。今、此処で、クリスを解放することが。

 首から下げた神獣鏡(シェンショウジン)が、とくんと脈打った気がした。

 凶祓い。神獣鏡(シェンショウジン)に備わった聖遺物由来のあらゆる力を悉く滅する破魔の力。

 その力が及ぶのは、聖遺物の欠片から作られたシンフォギアさえ例外ではない。この力があればこそ、蛍はフィーネからツヴァイウイングとも互角に渡り合えると評価されていたのだから。

 いつの間にか、クリスに伸ばしかけていた右手が、神獣鏡(シェンショウジン)を握りしめていた。

 冷たく、硬い、蛍の力の結晶。

 あとは聖詠を歌い上げるだけ。己の内に眠るその歌を奏でれば、この手の中の結晶は蛍に唯一無二の超常の力を与えてくれる。

 一度力を振るえば、基底状態のシンフォギア程度、一瞬にして無に帰す。

 無垢にして苛烈。それこそが神獣鏡(シェンショウジン)のシンフォギア。

 

 「クリス……」と小さな声で彼女の名を呼んだ。答えが返ってくる筈もなく、蛍の呟きは部屋に満ちる静寂に溶けて消えた。彼女は変わらず静かな寝息を立てている。

 右手に、力がこもった。

 

「rei……」

 

 唱えかけた聖詠がピタリと止まる。意識した訳ではない。無意識の内に蛍は歌うことを躊躇った。そして、遅れてとある考えが頭をよぎった。

 その一瞬が蛍の頭を冷やした。濁流の様な思考の渦の中から、彼女本来の怜悧な理性を取り戻す。

 神獣鏡(シェンショウジン)を握り締めていた右手から徐々に力を抜き、開きかけていた口を一度閉じてから、大きく息を吐き出した。

 

「私は一体何を……」

 

 普段の無表情を崩し自虐的な笑みを浮かべた蛍は、先程まで考えていた馬鹿な考えを振り払うかのように一度だけ大きく頭を振ると、クリスを起こさないように慎重に――直接触れないようにシーツを被せてから――彼女の体をベットに寝かせた。

 幸いにもその時の衝撃でクリスが目を覚ます様子はなく、一仕事終えたとばかりに蛍は額を流れる汗を拭った。

 

 今日はもう寝よう。寝てしまおう。

 

 クリスのお土産にと買ってきた牛乳を部屋に備え付けられていた冷蔵庫の中に入れ、部屋の電気を消してから、窓際に置かれたソファーにとすんと腰を下ろす。

 流石にクリスと同じベットで眠ることは躊躇われた。普通に触れることさえ憚られたというのに、いつも通り体を密着させ合い彼女に抱きついて眠るなんてとてもではないが今の蛍には出来そうにない。

 

 眠ろう。今日はもう眠ってしまおう。

 

 瞳を閉じて自分に言い聞かせる。蛍はぐったりと体を弛緩させ、その身をソファーに沈ませる。今日一日を通して体と精神を共に蝕んだ極度の疲労は、蛍をあっさりと眠りへと誘った。

 考えなければならないことを投げ出し、目が覚めたら少しは心の整理も付いているだろうと僅かな期待を胸に、蛍の意識は微睡みへと溶けていく。

 

 意識が溶ける寸前、ふと蛍は思う。やはり私は我儘で自分勝手な人間なのだな、と。イチイバルを破壊する直前、思い止まったその際に自分の頭を過ぎった考えが、何故か今再び蛍の胸中に去来した。

 

 只の少女になったクリスは、もう私の側には立ってはいられない。

 私はまた温もりを失ってしまう。

 

 それだけは、嫌だ。

 

 

◇◇◇

 

 

「2年前のライブの生存者、胸に天羽奏のガングニールの欠片ですか」

『うーん、おまけにそれでシンフォギアを身に纏っちゃうんだから、イレギュラー中のイレギュラーよねー。流石に私もそんな可能性は考慮してなかったわん』

「それで? そのトンデモちゃんは結局あたしらの敵っつーことでいいのか?」

『彼女は二課に協力することになりそうよ。でも、暫くは様子見ね。二課で気兼ねなくデータを取れる内になるべく多くのデータを取っておきたいの』

「では、これから私達はどう動けば?」

『計画通りに事を進めるわ。リディアン周辺で散発的にノイズを発生させて二課の不安を煽りなさい。戦闘データも取れるし一石二鳥だわ。ただし、くれぐれもシンフォギアとネフシュタンは使わないこと』

「まどろっこしい。あんな奴らとっととぶっ潰しちまえばいいのに。あたしとこいつなら一捻りだ」

「そう簡単な話ではありませんよクリス。そうやって直ぐ短絡的になるのは悪い癖ですよ」

「わぁってるよ。ちょっと言ってみただけじゃねえか」

 

 謎の装者が現れてから、既に2日が経過している。その間、クリスと蛍はホテルでの待機を余儀なくされ、いつ来るかも分からないフィーネからの連絡を待ち続けていた。

 今朝になって漸く連絡をしてきたフィーネ曰く、謎の装者――立花響のメディカルチェックに時間がかかったとのことだったが、それを聴いた蛍の感想は「新たな研究対象を見つけて夢中になっていたに違いない」と諦観に満ちたものだった。

 世界を変えるなどとまるで救世主の様なことを言いながらも、フィーネの根っこは科学者だ。それは今代の憑代である櫻井良子の影響を受けたものかもしれないが、これまでフィーネと共に過ごし彼女のことを少なからず知っている蛍は、フィーネの研究に対する情熱のようなものを感じ取っていた。そんな彼女の前に、未知のシンフォギアを纏った謎の少女。加えて、その少女はシンフォギアを只身に纏っているのではなく、その身を聖遺物と融合させているというのだ。

 そんな未知を目の前にぶら下げられて、自他共に認める聖遺物研究の第一人者が自制する訳もなく、寧ろ嬉々として研究室に篭っていたに違いない。

 

「しかし、フィーネ、ソロモンの杖を使うのであれば、一報して欲しかったです」

『やーん、蛍ちゃんも初めての実戦で疲れてるだろうから、休ませてあげようと思っただけよ』

 

 絶対に嘘だ。どうせ直ぐにでも新しいデータが欲しくなり、我慢出来なくなったに違いない。

 

「保管してあった筈のソロモンの杖がいつの間にか消えた。私とクリスがどれだけ焦燥に駆られたか分かりますか?」

『次からは善処するわ』

「……そうして下さい」

 

 「絶対に治すつもりないだろこいつ」というクリスの小さな呟きに全力で同意しながら、蛍は溜め息混じりの言葉を漏らす。フィーネが他人にどうのこうの言われて簡単に自分の態度を改めるような殊勝な性格でないことは、言葉にする迄もなく蛍とクリスの共通認識だった。

 

『そろそろお仕事に戻るわ。取り敢えずひと月は様子を見るつもりだから、そのつもりでお願いねん』

「はい。それでは」

「次は早めに連絡くれよな」

『ばいばーい」

 

 『全く弦十郎君に隠れてコソコソ動くのも大変なのよ』と、少しだけ愚痴を溢して、その言葉を最後にフィーネからの連絡は途切れた。

 フィーネがぼそりと溢した「弦十郎君」という言葉。時折、フィーネが口にする人物の名であるが、その正体を知ったのはつい最近だ。

 風鳴弦十郎。特異災害対策機動部二課の司令にして、日本政府の暗部を司ってきた風鳴の一族、その現長の弟。フィーネから漏れ聞く話を総合すると、かなりの切れ者で、かつ優れた身体能力を持ち、中国拳法などの武術に精通しているらしい。その強さは、フィーネも認める程で、戦闘になった際はノイズを主戦力とし、直接戦闘は可能な限り避けろと言い付けられたことから、推して知るべしだろう。

 人の身でありながら、シンフォギアと同等の戦力とフィーネに評される人物。そんな化け物もまた、蛍が戦わなければならない敵の一人なのだ。

 それでも蛍は立ち止まるわけにはいかない。立ち塞がるというのであれば、誰であっても容赦はしない。破魔の光を持って、その一切を滅するだけだ。

 

 例え、1人でもやり切ってみせる。クリスの力を借りなくても1人で。

 

 蛍はそう決意を固め、そろそろお昼ご飯でも食べようとクリスに声を掛けようとした。しかし、それをクリスの厳しさを含んだ声が遮った。

 

「なぁ、あの日何があったんだ?」

 

 

◇◇◇

 

 

 蛍の様子がおかしい。この2日ほどずっと悩んできたことではあるが、クリスにとってそれは言葉を交わしたこともない謎の装者などよりも余程重大な案件だった。

 違和感に気付いたのは、蛍が初の実戦を終えて帰ってきた次の日の朝だった。あの日、蛍の帰りを待っていた筈のクリスは、どうやら睡魔に抗えず待っている途中で眠ってしまったらしい。ベッドの上でキチンとシーツを掛けられていることを考えると蛍がクリスをベッドに寝かせたのだろう。礼の一つでも言わなければならないと思い、隣に目を向けるがそこに彼女の姿はない。その事に言いようのない焦りを感じ、いつも目を覚ませばそこに居た彼女の姿を探し、部屋の中を見回す。幸いにして蛍は直ぐに見つかった。窓際に備え付けられたソファーに、身体を預け小さな寝息を立てている。その顔には眠っていても判る程の深い疲労の色が刻まれていた。

 普段であれば、クリスが嫌がっていても無理矢理に一緒に寝ようとする蛍が、その日に限っては1人ソファーで眠っていた。その事実に、きっと昨夜の戦闘で何かあったに違いないと考えたクリスは、蛍が目を覚ましてからというもの、何度となくその事を尋ねてみたが、その度に無表情の鎧を着込んだ蛍にのらりくらりと質問を躱されていた。

 

 あの日以来、蛍はクリスと共に眠ろうとしない。

 

 何かがあった筈だ。今日こそはそれを聞き出さなければならない。無表情の鎧の下で彼女が苦しんでいる。それがクリスには分かる。だからこそ、意を決してクリスは口を開いた。

 

「なぁ、あの日何があったんだ?」

「……特に問題はありませんでしたよ。報告した通りです。立花響の登場がイレギュラーと言えばイレギュラーでしたが……」

「そういうことじゃねぇよ! 分かってるだろ!」

 

 思わず荒げてしまった声に、蛍の肩がビクリと揺れた。違う。そうじゃないんだ。クリスは決して怒っている訳ではない。

 

「悪い……怒鳴るつもりじゃなかったんだ……」

「いえ……」

 

 蛍が何かを隠している。そしてそれがクリスには聞かせたくないことであることも分かっている。それでも話して欲しい。相談して欲しい。

 クリスはあの時蛍の隣に立つと決めた。誰よりも優しいこの子の味方になると誓った。共に戦い、共に悩み、共に進むと、蛍を決して一人ぼっちになんかさせるものかと心に決めたのだ。

 だからこそ、この状況をクリスは看過出来ない。

 蛍がまた1人で何かを抱え込み、自分の殻に閉じ籠ろうとしている。無表情の鎧で全てを隠したつもりになって、自分で自分の感情を殺し続ける。そんな生き方を蛍にさせる訳にはいかない。そんな生き方を続けていたら、いつか蛍が蛍自身を見失ってしまう。クリスは蛍の笑顔を知っている。蛍の涙を知っている。その全てを仮面で覆い隠して、フィーネの人形として生きる生き方を蛍には歩んでほしくない。

 

 蛍に笑って欲しい。

 

 人類が統一言語を取り戻し、人々が誤解なく分かり合える世界で、強者が弱者を虐げない争いのない世界で、彼女に笑って欲しい。そんな世界で、クリスは彼女と共に生きたいのだ。それが、今のクリスの――。

 

「話してくれよ。私は、知らないままで終わりたくない」

「クリス……」

「私じゃ頼りにならないか? 私じゃ力になれないか?」

「違います。そんなことないです。クリスはいつだって優しい。私はそんなクリスにいつも助けられています。そんな貴女だから、私は……」

 

 「戦って欲しくないんです」。消え入りそうな声で蛍はそう言った。そして、ぽつぽつとあの日のことを語り始めた。

 街中に轟く、怒号と悲鳴。ノイズが発する不協和音。風に舞う炭。初めてその手で人を殺したこと。

 

「後悔、してるのか?」

「……していない、と言えば嘘になります。でも、立ち止まることは出来ません。私には、罪を成してでも辿り着きたい場所がある。その為ならば、どんなことだってしてみせます。どんな敵だって滅してみせます。今、その歩みを止めることは、犠牲にした命を無為にしてしまう。そんなこと出来る筈もありません」

「お前は……」

「クリスは優しいから、きっと私以上に苦しみます。こんな思いをクリスには味合わせたくないんです」

 

 そう言って苦笑する彼女は、その小さな肩にどれだけの重荷を背負うつもりなのだろうか。世界を変えるなんて子供1人が背負うには大きすぎる目標を掲げ、その上、その過程で犠牲になる人の事すらも背負う。

 全てを1人で抱えて、罪の意識に押し潰されそうになっている蛍の心を知り、クリスは頭が沸騰しそうな程の怒りを覚えた。蛍にではない。彼女の事を少しでも知っているならば、気付けたであろうその事に、今の今まで自分自身が気付けなかったことにだ。

 

 詞世蛍はこういう人間だ。だからこそ、あたしはこいつの隣に立つと決めたのに。

 

 考える前に身体が動いた。目の前で所在なさげに苦笑する蛍の両手を、自分の両手で包んだ。「く、クリス!? や、やめっ、汚いから!!」という蛍の声に「汚くなんてねえ!!」と言い返し、握った両の手に力を込める。透き通るような白く柔らかい手だ。クリスの目には、そこに拭い取れない程の真っ赤な血も見えなければ、灰色をした罪の残滓も見えやしない。けれど、蛍にとってはそうではないのだろう。きっと彼女の目には、自分の手は今も真っ赤に染まり、舞い散る灰色の残滓を掴んでいるのだろう。

 

 だったら、あたしもその色に染まろう。

 

 掴んだ蛍の両手を、ゆっくりと自分の頬に沿わせる。何度も何度も、肌の色を塗りつぶすかの様に。

 

「やめて、やめて下さい……クリスが汚れちゃう……」

 

 無表情の鎧を脱ぎ捨て必死に首を横に振る蛍の目には、うっすらと光る欠片が見える。それでもクリスは手を止めなかった。自分の頬と手に何度も、蛍の手を擦り付ける。彼女と同じ色に染まる為に。

 

「お願い……クリス……もう……」

「いいや、まだだ」

 

 クリスは蛍の両手を離すと、そのまま蛍の身体を抱き締めた。蛍の小さな身体をすっぽりと己が両腕の中に収めて、力の限り自分の身体を押し付けた。ふわりと舞う蛍の濡羽色の髪に自分の顔を埋め、反対に蛍の顔は白藤色をした自分の髪に押し付けた。

 蛍の全てを受け止めて、蛍は決して1人ではないと、彼女に知ってもらう為に。

 

「前にも言っただろ。1人で抱え込むなって」

「でも、クリスは絶対に苦しみます! 罪のない無関係な人を殺してクリスが平気でいられる訳がない!」

「かもな。けどさ、その苦しみをお前1人に味合わせる訳にはいかねえだろうが。あたし達は、同じ場所を目指してる仲間だろ。だってえのに、その責任をお前1人が抱え込むのは違うだろ」

「でも……でも……!」

「でももヘチマもねえ。進むときは二人一緒だ」

 

 クリスはいつかの風呂場での様に、彼女を抱き締め続けた。初めはクリスの腕の中から逃れようと暴れる蛍だったが、段々とその動きは小さくなり、終いには、肩を震わせ、小さな嗚咽を漏らした。

 そんな蛍の頭をポンポンと叩き、クリスは彼女の気が済むまで抱き締め続けた。珍しく蛍が無表情の鎧を脱ぎ去って、自身の感情を露わにしている。吐き出させてやろう。蛍は自分の感情を限界まで溜め込んでしまう質のようだから、これからも偶にこうして吐き出させてやらないといけない。そう思った。

 

「……あの曲、歌ってください」

 

 どれ程、そうしていただろう。静かに涙を流していた蛍の口から、そんな言葉が聞こえた。

 どの曲だ? なんて訊き返すようなことはしない。彼女が「あの曲」といえば、それはあのお風呂場でクリスが蛍を慰める為に即興で作った曲の事に他ならない。歌詞もなく、主旋律だけのあの曲を、何故か蛍はふとした時に口ずさむ程に気に入っていた。何度も歌ってくれと頼まれたが、何となく気恥ずかしくて、その度に断っていた。

 

「お前、本当にあの曲好きなんだな」

「いいから歌ってください」

「いや、でも自分で作った歌を自分で歌うって結構恥ずかしいんだぞ」

「いいから」

 

 こんな風に我儘を通そうとする蛍が珍しくて、「まぁ、今日ぐらいはいいか」と、クリスは喉を震わせる。これだけ近くにいるのだ。声量は必要ない。その代わりに込めるのは想いだ。

 

 ふと、歌詞が浮かんだ。

 

 本当に、唐突に、自分でもよく分からないけれど、胸の内から言葉が溢れた。まるで、シンフォギアを見に纏った際の歌の様に、自然と言葉が口をついて出る。

 フィーネ曰く、シンフォギアを見に纏った際に浮かぶ歌は、装者の心象風景の発露であるらしい。装者の心を曝け出す歌。それこそがシンフォギアの歌。

 だとすれば、この歌もまた、クリスの心象風景の発露と呼べるのかもしれない。

 

 歩みを共に。

 

 そんな小っ恥ずかしいことを、自分が心の底から考えているとは、クリスは夢にも思わなかったが、不思議と悪い気分ではなかった。

 蛍と2人で、共に進む。これまでも、この先も、そして2人が目指す世界でも、彼女と共に。

 

 それが、今の、あたしの――。

 




 次回は、原作無印3話、4話ぐらいを出来たらなと思います。


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EPISODE 13 「星の降る夜」

 感想欄にて、今回の話は、アンチ・ヘイトに該当しないのではないかというご指摘を頂き、自身でもアンチ・ヘイトの定義を調べなおしてみた結果、前書きにあった注意書きを削除しました。また、それに伴い作品へのアンチ・ヘイトタグを外すこととしました。
 余計な心配を与えてしまい申し訳ありませんでした。


「クリス、今日は流れ星が降るそうですよ」

 

 沈みゆく夕日を2人で眺めていると、隣に座る蛍が急にそんな言葉を漏らした。場所は、街中に立ち並ぶ無機質なビルの一つ、その屋上。頬を撫でる風が、仄かな潮の香りを運んでくる。眼下には近代的な街並みにはそぐわない緑豊かな公園が広がり、老若男女様々な人々が各々の時間を過ごしている。1日の終わり。それを沈みゆく夕日を見て、皆が共有しているかのように、ゆったりとした弛緩した空気が、街全体を包んでいる。

 

「なんだよそれ。今話すことか?」

「2人で見たいです」

「……」

「見たいです」

「分かった。分かったからその目やめろ」

 

 クリスよりもひと回り小さな蛍が、図らずも上目遣いになった真っ赤な瞳で、期待するような眼差しで此方を覗き込んでいる。蛍の視線から逃れる様に、朱に染まった頬を見られたくなくて、恥ずかしさから顔を逸らした。

 「顔赤くないですか?」と蛍が無自覚に問うてくるので、「お前のせいだ!」などと言える筈もなく、況してや「なんでもない!」といつもの癖で答えてしまえば、いつぞやの二の舞になることは目に見えている。なので、クリスに出来る精一杯の抵抗としては、「……夕日のせいだろ」と何処かで聞いた様な苦し紛れの台詞を口にすることだけだった。

 

 一ヶ月程前のあの日を境に、蛍は、時折、こうしてクリスに甘える様になった。

 

 クリスの腕の中で啜り泣く蛍に、「共に歩みたい」と語り掛けたあの日。今思えば、なんて青臭くて、小っ恥ずかしいことを口にしているんだと、思い出す度に恥ずかしさで顔から火を噴きそうになるが、それでもあの時語ったことは、紛れもなくクリスの本心で、その結果が今の隣に座る蛍なのだとすれば、この頬に宿る熱も決して無駄ではなかったのだと、少しばかりの誇らしさと心地よさを感じるのだ。

 あの蛍が、他人に甘える。その事が、どれだけ得難く、また難しいことか。似た者同士のクリスと蛍。だからこそ、他人に期待して、他人に己が望みを預けるという行為が、自分達のような人間にとってどれ程難しいかは、多少なりとも理解出来る。

 他人に甘えるというのは、その他人に信頼を寄せることと同義だ。こうして欲しい、ああして欲しいといった期待を他人に寄せて、「きっとこの人ならば……」と自分の心の何処かに在るそういった願いを、他人が読み取ってくれることを信じる。

 きっと蛍は、未だに、他人に全幅の信頼を抱くことが出来ずにいる。それは、クリスとて同じことで、これだけ互いの事を想いあっていながらも、クリスと蛍は互いのことを完全に信じられないのだ。過去の経験が、2人の心の底にまで根を下ろし、信じるという行為に縛りを掛けている。

 けれど、それでも、クリスは蛍の事を信じたいのだ。心の底から、一点の曇りなく、彼女の事を信じたい。信じて欲しい。だからこそ、クリスは統一言語を求める。きっと、蛍も。

 かつて、人と人が、人と神が、誤解なく分かり合える世界を実現した究極の言語。バラルの呪詛により妨げられ続けている人類の相互理解を回復し、失われた統一言語を取り戻すことでしか、クリスと蛍は互いを完全に信じ合うことは出来ない。

 必ず手に入れる。彼女と夢見た地平に辿り着く。その為ならば、クリスは血と灰に染まることを厭わない。

 

「こと座流星群って言うそうです。ここ数年で、1番の観測条件を満たしているとテレビのニュースで言ってました」

 

 興奮の色を隠そうともせず、嬉々を含んだ声で語る蛍。チラリと視線を向ければ、蛍の真紅の瞳が夕日の朱を反射して、爛々と輝いている。その無邪気にはしゃぐ姿は、彼女の貧そ――慎ましやかな見た目も相まって、本当に幼い子供のようだ。とは言え、間違ってもそれを口に出すような愚は犯さない。クリスとて、学習するのだ。

 

「流星群ねぇ……そんなに期待する程か?」

「クリスは捻くれてます。見たこともないのに、決めつけるのは良くないですよ」

「要は流星の群れだろ。一瞬で見終わっちまって、味気なさそうだ」

「むー、そうやって斜に構えても、別に格好良くないですよ」

「格好付けてる訳じゃねぇよ! 人を思春期真っ盛りの餓鬼みたいに言うんじゃねえ!」

「誰もそこまで言ってません。そこまで反応するということは、もしかして、自覚あるんですか?」

「どういう意味だ! おい!」

「いえ、その、だ、大丈夫です。私はクリスが急に『右目が疼くッ……!」って言っても受け止める覚悟は出来ています」

「おーまーえーなー! 今日という今日は許さねえ!」

「こ、これがキレる若者世代。でも、駄目。否定するんじゃなくて受け容れることが大切だってテレビのニュースで言ってました」

「うがー!!」

 

 この人をおちょくる様な態度は、確実にフィーネの影響を受けている。普段は人形の様に大人しく、大和撫子然とした出で立ちなのに、時折、その背に小さな蝙蝠の羽を幻視するのは、クリスの見間違いなのだろうか。

 

「このッ! 待てッ!」

「嫌です。捕まったら、クリス怒るじゃないですか」

「もう怒ってるんだよッ!!」

 

 夕日に照らされたビルの屋上で、自分よりも背の低い少女を追い回す。側から見れば、姉妹が巫山戯て、追いかけあっている様に見えるかもしれない。だが、追いかける此方は本気も本気だ。今日こそは、蛍に何としてでも、一矢報いなければ気が収まらない。

 そんな決意を胸に秘め、彼我の距離を詰める為、腕を大きく振り、脚に力込めて堅い地面を踏み抜く。

 クリスの全力疾走に、只ならぬ気迫を感じ取った蛍が振り返り、驚愕で瞳を見開く。急いで速度を上げようと前を向くももう遅い。手を伸ばせば届く距離に、彼女の背中が迫る。

 蛍が加速を始める前に、彼女の腰に狙いを定めて両の手を伸ばし、逃してなるものかと飛び込んだ。

 

「く、クリス!? 嘘!? はや……きゃ!」

「ぜぇ……はぁ……ぜぇ……はぁ、捕まえ、た!!」

 

 堅いコンクリートの地面を2人でもつれ合いながら転がる。少しばかり痛みを覚えたが、普段の訓練やフィーネのお仕置きに比べれば何てことはない痛みだ。クリスは直ぐさま体勢を立て直し、仰向けに倒れる蛍の身体に跨り、マウントポジションを取った。

 

「き、今日は随分と気合が入ってますね」

「誰かさんに毎回いい様にされてきたからな。今度ばかりはと、気合の入れようが違うっての」

「……あは、あはは」

「さーて、どうしてくれようか。随分と好きに勝手にしてくれたな。仏の顔も三度までたぁ良く言うが、あたしの堪忍袋の緒はとっくの昔にブチ切れてるんだよ!」

 

 パキパキと拳を鳴らし、口元にニヤリと笑みを浮かべる。今の今まで散々に煮え湯を飲まされてきたのだ。千載一遇の反撃の機会、これを機に雪音クリスがやられっ放しの女ではないと蛍に分からせる必要がある。

 さてどうしてくれようか。様々な可能性を考慮に入れて考えを巡らせるクリスであったが、耳に聞こえた蛍の声に思考を一刀両断された。

 

「その、優しくしてください。は、初めて、ですから」

 

 陶磁器のような白い肌に薄っすらと朱が差し、熱を孕んだ潤む流し目で此方を見つめる蛍の姿は酷く情欲的なものだった。倒れこんだ衝撃で衣服がはだけ、露わになった首筋にはうっすらと汗が滲み、彼女の絹の様な濡羽色の髪が、その色が示すように、薄っすらと湿り気を帯びて、白い肌に張り付いている。

 空気中の酸素を食むように、苦しそうに肩で息をするその様は、冷静を常とする彼女にしてはとても珍しいもので。クリスや他の同世代の女子に比べ、体型こそ劣っているものの、その造形は人形の様に整っていることも相まって、沸々と背徳感が湧き上がってくる。

 そんな状態の蛍に跨り、健全とは言い難い笑みを浮かべ、舌舐めずりの一つでもしそうなクリス。どこからどう見ても犯罪である。

 

「ば、馬鹿! やっ、違っ、そんなつもりじゃ! 違う! 違うからな!」

「クリスがしたいって言うなら、いい、よ?」

「――――ッ!?!?!?」

 

 桜色をした小さな唇から、呟く様にした漏れた蛍の言葉に、クリスは全身の血が沸騰する程の羞恥を覚えた。これ以上はマズイ。何がマズイのか分からないが、兎にも角にもマズイ。熱に浮かされたクリスの頭でも理解できる程にマズイ状況である。全力疾走に苦しむ己が肉体の全機能を十全に、いやそれ以上に発揮して、クリスは神速を以ってしてその場を離脱する。

 

 飛び跳ねんばかりの勢いで、蛍の上から離脱したクリスの耳に、クスクスとした笑い声が聞こえた。

 

 その声が聞こえた方向を見遣れば、先程までの情欲的な雰囲気は何処へやら、口元に手を当てクスクスと笑い声を漏らす蛍の姿がある。その背には小さな蝙蝠の羽がパタパタと嬉しそうに揺れている。

 パクパクと魚の様に口を上下させ、震える指で蛍の姿を指す。「あ、人を指差したらいけないんですよ」と本当どうでもいい事を、なんでもないかの様に話す彼女の姿を見て、クリスは漸くどうやら自分が再び蛍の掌の上で転がされていたことを知った。

 

「お、おまっ、おま、お前ーー!!」

「ふふっ、クリスは可愛いなぁ」

「流石に質が悪すぎるだろうがッ!! お前、絶対フィーネの悪影響受けてるだろ!! その笑い方、あいつソックリだぞ!!」

「む、心外な。私はあそこまで性根が腐っていません。…………多少、参考にしたことは認めますが」

「やめろ!! あいつを参考にするのだけはやめろ!!」

 

 子供は成長する為に、まずは近くの大人の模倣から始めると言うが、蛍は参考にする人選を大いに間違えている。フィーネは絶対に参考にしてはいけない人種だ。寧ろ、反面教師と呼ばれる部類の人間であり、「人の振り見て、我が振り直せ」のお手本の様な存在だ。他人を虐めることに心の底から喜ぶような変態に、蛍をさせる訳にはいかない。今日という今日は、少しばかり本気で怒らないといけないみたいだ。

 

 しかし、クリスが怒りの矛先を振り下ろす前に、耳にはめた通信機から「ジジ……」というノイズが聞こえた。

 

 蛍にもそのノイズは聞こえた様で、2人の間に流れていた暖かな空気は霧散し、寒々しい緊張感が辺りに満ちる。

 噂をすればなんとやらという奴だ。口にした瞬間に、登場するとはタイミングが良いのか悪いのか。

 

『さぁ、二人共、準備は良いわね』

 

 陽は沈み、夜の帳が下りる。

 邂逅の時が来たのだ。

 

 

◇◇◇

 

 

 立花響は、その身に超常の力を纏いながら、地下鉄構内を邁進する。立ち塞がるノイズの群れには、その拳を以ってして対応し、その悉くを打ち砕く。

 響の拳は今まで何かを守る為に振るわれてきた。だが、今の響の拳に込められた思いは、「誰かの為に」という立花響の在り方から大きく外れた「怒り」という名の激情だ。

 

 ――流れ星、見たかった。

 

 「流れ星を一緒に見る」。親友である小日向未来との大切な約束。その為に、未来に手伝ってもらって、ない知恵を絞り、補習免除のレポートを頑張って書き上げたのだ。只でさえ、最近は二課での出動が多く、未来と共に過ごす時間は以前より格段に減った。遊びの誘いを断ったり、寮の門限ギリギリの時間に帰宅する度に、未来の寂しそうな笑顔を見てきた。この一ヶ月で何度も、何度もだ。

 

 だから、この約束だけは何としても守りたかった。

 

 ずっと一緒にいた。大切な友達なのだ。あのライブ会場での惨劇を乗り越えて、父が居なくなり、学校でも孤立したあの時期でも、未来は変わらずにずっと側に居てくれた。そんな人は、母や祖母以外では未来只一人だけだった。

 響にとって、未来は帰るべき場所であり、暖かな陽だまりなのだ。そんな陽だまりが陰るようなことはしたくない。けれど、響にはやらなくちゃいけない事がある。

 一ヶ月前、突然手にしたシンフォギアという超常の力。その力で誰かの為に、誰かを守れるのならばと今まで頑張ってきた。勿論、楽な道ではなかった。

 戦うための術なんて、少し前までは只の女子学生にすぎなかった響は知りもしない。戦う覚悟だとか、胸に秘めた想いだなどと言われてもピンとこないし、その所為なのか未だに響の手にアームドギアが握られたことはない。

 

 憧れの人との――翼との仲も上手くいっていない。

 

 最初は一緒に戦えることを嬉しく思った。だから、失った彼女の片翼になろうと思った。あの日、あの時、あの場所で、命を燃やして人々を守って逝ったあの人の代わりに。それが、あの人から、命と、在り方と、この胸に宿るシンフォギアを受け取った響のやるべきことだと思った。

 でも、翼はそんな事を望んではいなかった。彼女を泣かせてしまった。涙を零すその瞳で、刺すように此方を睨む彼女のことを思い出すと今でも身が竦む。憐憫、同情、好奇心、忌避、悪意、そういった感情の篭った瞳なら今までも散々見てきたし、その視線に晒されてきた。けど、それ以外の感情で、他人からあんな風な瞳で見られたのは初めてのことだった。彼女の大切な領域に、土足で上がり込んでしまったのだと、後になって気付いた。怒られて当然だ。誰にだって踏み込んで欲しくないことはある。

 

「こんのおおおおおおおおおおッッ!! アンタ達がッッ!! アンタ達みたいな奴がいるからッッ!!」

 

 溜め込んでいた不安や不満といった感情を怒りという激情に変えて、響は咆哮する。

 目の前にいる存在が憎い。ノイズ――国連にて認められた認定特異災害、人類共通の脅威、そして人々の何気ない日常を犯し侵食するもの。

 許さない。絶対に。そんなこと、許してはいけない。

 

「アンタ達が、誰かの約束を犯し、嘘のない言葉を、争いのない世界を、何でもない日常を略奪すると言うのならッッ!! 私が、アンタ達をぶっ壊すッッ!!」

 

 響の中で燃え盛る怒りの炎を力に変えて、ガングニールはその出力を更に高める。それに伴い、ドス黒い破壊衝動が響の胸の内から湧き上がる。

 眼前に在るのは、壊すべき敵。湧き上がる破壊衝動に身を任せ、その一切合切を破壊し尽くす。その為に、今はこの拳を振るう。故に響は気付けない。自分の身体が、湧き上がる破壊衝動同様に黒く変色してしまっていることに。

 

 最後に残ったのは、通常のタイプとは形状の異なる新型のノイズだった。その背に葡萄の果実のような球状の物体を張り付けている。どのような攻撃手段をとるのか、てんで分からないが、それでも響のやる事に変わりはない。どんな敵だろうが破壊する。それだけだ。

 

 さぁ、来い。どんな攻撃が来ようとも突破して、お前を徹底的に破壊し尽くして、塵へと帰してやる。

 

 ノイズが動いた。その背を向けて、葡萄型の球体を此方に向けて突き出してくる。攻撃に備えた響だったが、ノイズの次の行動は響の予想だにしないものだった。その行動の意味に気付いた時、響はあまりの怒りに咆哮した。

 

「逃げるなあああああああああッッッ!!!! 戦えええええええええええッッッ!!!!」

 

 あろう事か背を向けてそのまま逃げ出したノイズに対して、響は逃がしてなるものかと追撃をかける。

 ノイズが恐怖したとでも言うのか。巫山戯るな。そうやって逃げ出した人々をお前達は何人、何十人、何百人、何千人を炭へと変えてきた。今更、我が身可愛さに逃げ出すなんて――。

 

「許される訳ないだろうがあああああああああああああッッッッ!!!!」

 

 獣の如き俊敏さで葡萄型のノイズの背に迫る。あと一歩で手が届く。しかし、その手は届くことはなかった。

 眼前で、光が爆ぜた。目を焼く閃光と、身体を焼く爆発をその身に受けて、後方へと吹き飛ばされる。ノイズの背に付着していた葡萄型のパーツが切り離されて爆発したのだ。

 咄嗟に目を瞑り、腕を交差することでダメージは最小限に抑えたものの、それでも戦闘に――痛みに未だ慣れていない響にとって、その痛みはあのライブ会場で負った怪我以来と言っていい程の激痛だった。

 

「ぃ……がっ……っ……」

 

 しかし、幸か不幸か、その痛みによって響は正気を取り戻した。先程まで胸の内でグツグツのマグマの様に煮え滾っていた憤怒の念が嘘の様に引いていた。それに伴い、纏った鎧の色も彼女のガングニール本来の色で橙色へと戻った。しかし、自分が先程まで真っ黒に変色していた自覚などない響は当然その事に気付ける訳もない。そんな響の様子をモニター越しに眺めて、唇を三日月に歪めた研究者がいたことにもまた気付ける訳がないのだ。

 

「あっ!? ま、待て!!」

 

 先程の爆発の影響だろうか。天井に大きな穴が開いている。そこから覗く満天の星空を眺めて、未来との約束を破った事を思い出し、不安が再び振り返しそうになる。しかし、その縦穴を登り、外に出ようとするノイズの姿を視界の端に捉えると、1度だけ大きく頭を振り、声を上げてノイズの後を追う。

 地上までは十数メートルはあるだろうか。しかし、シンフォギアを纏った響にとって、この程度の高さは何ら問題にならない。足に力を込めて一足で踏破出来るだろう。

 ノイズの警戒警報が既に発令され、このエリアに人はいない筈だが、逃げ遅れた人々がいるかもしれない。あのノイズを外で暴れされる訳にはいかない。響は逸る気持ちもそのままに、「急がないと!」ともう一度天井に空いた穴を仰ぎ見る。

 

 そして、夜空を駆ける一筋の光を見た。

 

「流れ星……?」

 

 

◇◇◇

 

 

 風鳴翼はその身を蒼い彗星と化して、夜空を駆ける。その身に纏うは、絶刀。かつて須佐之男命が八岐大蛇を屠った際に振るったとされる天下に名高き名剣。天羽々斬(アメノハバキリ)のシンフォギア。脚部に取り付けられたスラスターを全開で吹かすその姿はまさに夜を駆ける一陣の風。

 蒼き髪を棚引かせ、満天の星空の下、早く、もっと速くと疾く駆ける。この身は(つるぎ)。敵に振るわれてこそ価値がある。故に翼は駆ける。己という剣を振るうに値する戦場(いくさば)へ。即ち、ノイズが蠢く八面六臂の戦場へと、剣たる己が身を曝け出す為に。

 

『翼! 地下鉄構内から1匹逃げ出した! 迎撃を頼む!』

「了解しました」

 

 眼下に見下ろすのは、月明かりに照らされた薄暗い公園だ。鬱蒼と茂る木々が風に揺られまるで生き物の様に蠢いている。その様は不気味の一言に尽きる。だが、この程度で臆する程、翼は柔な精神をしていない。そもそもこの身は剣だ。恐怖などという感情とは無縁である。

 

「あれか!」

 

 公園の中心に位置する広場にぽっかりと不自然な穴が穿たれている。その穴から1匹の葡萄の様な物体を背負ったノイズが這い出てくる。

 立花響が逃がしたというノイズはあれだろう。みすみす敵を取り逃すとは、やはり彼女はガングニールの装者に相応しくない。戦う覚悟もなく、意思も持たない彼女が奏の何を受け継いでいるというのだ。

 認めない。認めてなるものか。あんな何も持たない只の少女が、奏の遺したガングニールに選ばれるなど、他の誰が認めても、風鳴翼だけはそれを認めてはいけない。

 あれは、奏の力だ。翼や響のように偶然から手に入れたものではない。奏が家族の仇を討つ為に、血反吐に塗れながらも手に入れた彼女だけの尊いものだ。そんな彼女のことが眩しくて、彼女の片翼として恥じないよう翼は更なる修練を積み重ねた。

 

 では、立花響(あなた)は?

 

 響がガングニールという超常の力を手に入れて既にひと月近く過ぎている。彼女は何か一つでも努力をしただろうか。戦う為の術を身に付けようと、戦士としての心構えを身に付けようとしただろうか。

 答えは否だ。彼女は今日に至るまで何の努力もしてこなかった。戦闘訓練なども、源十郎達が響の日常をこれ以上壊すのは忍びないと、無理強いはしなかった。そして、彼女もそれを受け入れた。

 何だ、それは。巫山戯ているのか。戦場にその身を置くと決めておきながら、その身に宿る力を使いこなす為の努力すらしない。その癖、率先して戦場には出たがるのだ。ノイズとの戦いは子供の飯事(ままごと)とは訳が違うのだと、何度も叫び出したかった。それでも声を上げなかったのは、学ぶ意志のない者に無理矢理鍛錬を積ませた所で身につくものも身につく筈がないからだ。そんな者に掛ける時間など、誰も持ち合わせていない。

 

「はあああああああああああッッ!!」

 

《蒼ノ一閃》

 

 乾坤一擲。巨大化させた刀型のアームドギアから指向性を持たせた衝撃波を放ち、眼下のノイズを一刀の下に切り捨てた。身体を真っ二つに裂かれたノイズは、その身を炭へと変える。その残滓すら、風に攫われ夜の闇へと溶けていった。

 何度となく目にしてきた光景だ。刀を振り、敵を屠る。翼はこれで良い。只一振りの剣として在れば良いのだ。

 残心を終え、燻った心を落ち着かせる。しかし、今頃になって漸く穴から這い出してくる響の姿を視界に収めて、この程度の相手に彼女は梃子摺ったのかと考えると、響への怒りがまた沸々と湧き上がってくる。

 響を視界に留めるからいけないのだ。彼女を目にする度に、自分の心に要らぬ(さざなみ)を立てることになる。そう考えた翼は、響が目に映らないのであれば何処でもいいと言わんばかりに視線を上げて、周囲への警戒だと取って付けた様な言い訳を自分に言い聞かせる。

 

 しかし、どうやらその言い訳は無駄ではなかったらしい。

 

 公園に隣接するビルの屋上に人影が見えた。ノイズへの警戒警報が発令され、既に周囲の避難は完了している筈だが、もしかすると逃げ遅れた民間人かもしれない。

 翼はスラスターを再び全力で吹かし、目的のビルへと着地する。翼の予感は的中した。ビルの上に居た人影の正体は、まだ年端もいかぬ幼い少女だったのだ。闇に溶ける濡羽色の髪を腰まで伸ばし、まるで人形の様に整った造形をした少女は、幼いながらも将来はきっと美しい女性に成長することが約束されていると言っても過言ではない容姿をしている。ゴスロリというのだったか。リボンやレースといった華美な装飾をふんだんに使用したワンピースを見に纏っている。女性的な魅力を磨く努力を重ねなくなって久しく、そういった感性に乏しい翼ではあるが、それでもこの少女は一種の完成された美しさを持っていると思えた。

 只、その手に握った槍のような物だけが気になった。彼女の格好に比べて、その槍のような物だけが酷く浮いている様に思えたからだ。しかし、翼は自分の感性が世間一般でいう普通とはかけ離れていることを自覚していた。昔からそういった流行り廃りの世情には疎いので、最近はあのような玩具が子供たちの間で流行っているのかもしれないと直ぐにそれから意識を逸らす。翼のマネージャーである緒川慎二からは、「翼さんは一応芸能人なのですから、世情に対するアンテナは常に張っていなければいけませんよ」と常々言われているが、今の所翼に改善するつもりはない。

 

 少女がその真紅の瞳を大きく見開き、翼の事を見つめている。

 

 それもそうだろう。いきなり空から人が降ってきたのだから。おまけにその人物はバトルスーツを見に纏い、その手に刀を所持しているのだ。まともな感性をした人間ならば、驚愕で声も上げられないのも頷ける。

 

「風鳴……翼……」

 

 少女の口から自身の名前が紡がれる。こういった時に翼の歌女(うため)としてのネームバリューは非常に役に立つ。世間一般に広く知られている自分であればこそ、この様な異常事態の最中でも、最低限の信頼を直ぐに獲得することが出来る。

 

「司令、要救助者を発見。年端もいかない少女です。ノイズの残党がいるかもしれません。私が救護施設へと移送します」

『分かった。最寄りの救護テントに誘導する。呉々も油断するなよ』

「分かっています」

 

 司令部への連絡を済ませ、再び少女に意識を向けると、「少女……年端もいかない少女……」と何やらよく分からないことをブツブツと小声で呟いている。

 

「驚かせてしまってごめんなさい。大丈夫? ノイズの警戒警報は聞いたでしょう。ここは危険よ。安全な場所まで運ぶわ」

「……予想外です」

「えっ?」

「予想外だと言ったのです。風鳴翼。まさか貴女が私に気付くとは思いませんでした」

「貴女、何を言って……」

「最近の貴女はノイズの殲滅に固執し、民間人への配慮など二の次だと思っていたのですが、どうやら防人としての心構えはまだ忘れていなかったようですね」

「――ッ!?」

 

 少女の口から放たれた言葉の意味を理解した時、翼は自身の中の警戒を最大限に引き上げた。

 この少女は、風鳴翼を知っている。歌女としての翼ではない。シンフォギアを身に纏いノイズと戦う戦士としての翼を知っている。国の最重要秘匿事項である筈のシンフォギア装者の自分をだ。

 

「貴様、何者だ」

「私は、貴女の敵です」

 

 そして少女は、胸元から赤く光る水晶柱を取り出す。その結晶を翼は知っている。FG式回天特機装束、別名シンフォギア・システム。翼や響が身に纏い、今も尚、この身に超常の力を与える聖遺物の欠片から生み出されたノイズを屠る為の人類の叡智の結晶。

 

「そんな馬鹿なッ!?」

 

 紡がれるのは、短い詞。

 奏でられるのは、少女の想い。

 少女の歌を鍵として、新たなる超常の力が今ここに顕現する。

 

Rei shen shou jing reveal tron(小さきこの身を暴いて)

 

 聖詠を口にした少女は、その顔に、満面の笑みを浮かべていた。

 




 祝・初聖詠。やっとこさ、書けました。


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EPISODE 14 「戦場に刃鳴裂き誇る」

 更新は来週だと言ったな。あれは嘘だ。



 風鳴翼の眼前で、幾何学的な紋様が幾重にも重なり合い白銀の繭を形成している。それは紛れもなく、シンフォギア装着時に発生するエネルギーフィールドだ。神々しいまでの眩い光を放ち少女を包む繭は、外界からの影響を遮断する防壁であると共に、少女に超常の力を授ける役割を担う。

 生半可な攻撃では、その繭を破る事は叶わない。あれはノイズの攻撃にすら耐え得るのだ。聖遺物が持つ人智を越えた法則により紡がれた繭は、装者が鎧を纏い終わるその時まで、決して解れることはない。

 その繭に変化が訪れた。時間にして数秒程度だろうが辺りを眩いまでに照らしていた光が収束し、弾けるようにしてその役目を終える。翼は余りの眩しさに目を細めるも、決して目を反らさずに、その光の爆発を睨み続けた。

 

「こんなお披露目になるなんて、あとでお仕置き確定じゃないですか」

 

 そんな溜息混じりの声と共に、光の中から少女が現れる。その身に纏うは濃紺の鎧。濃紺と白に彩られた肌にピッタリと張り付くバトルスーツを上半身に身に纏い、腰には先程少女が手に持っていた槍の様な物体、両脚には濃紺の厳つい機械装甲を装着している。上半身と下半身のアンバランス差が嫌でも目につき、それは彼女のバトルスタイルに由来するものなのだろうか。考えを巡らせてみるものの答えは出ない。

 そもそも少女がその身に纏うシンフォギアが、何の聖遺物を元に作られたものかすら定かではないのだ。翼のシンフォギアの素材となった天羽々斬(アメノハバキリ)は、伝承にもあるように須佐之男命が八岐大蛇を屠った際に振るわれたとされる(つるぎ)の聖遺物だ。故に、翼が用いる獲物はその殆どが刀剣の類である。響が身に纏うガングニールは、未だアームドギアの生成には至っていないが、以前の――本来の持ち主である奏が用いていた際は、アームドギアは槍の形状をとっていた。シンフォギアは担い手によりその性質を大きく変えるが、武装に関しては、基になった聖遺物の性質を大きく逸脱することはないというのが、開発者である櫻井良子の弁であった筈だ。

 

戦場(いくさば)で悠長に考え事とは。かの絶刀は、本当に(なまくら)に成り果てたのでしょうか」

 

 呆れる様な少女の物言いに、翼の意識は漸く思考の渦から浮上する。此方に敵意を持つ相手を前にして思考に耽っていたことに、そして何よりそれを敵に諭されたということに、頭を掻き毟りたい程の羞恥に襲われる。何という未熟。この身を剣と定めていながら、余計な思考に囚われるなどと。

 翼は身の内から湧き出る羞恥の念を誤魔化すように、口早に言葉を紡いだ。

 

「……どういうつもりだ」

「何がですか」

「貴様は、私の敵だと名乗った。この私を――風鳴翼を相手取っておきながら、敵に情けをかけるだと。巫山戯ているのか」

「……言葉にしなければ、伝わりませんか?」

「――――ッ!!」

 

 その少女の一言で、翼は目の前が真っ赤に染まった。少女は言外に「貴女程度の相手にそんな隙を突くまでもない」と言っているのだ。この少女は、剣を交えるまでもなく翼を己よりも格下だと断じたのだ。それは戦士たる翼に対して、これ以上はない侮蔑の言葉だった。

 怒りに身を任せて、手に握ったアームドギアを振りかぶる。両耳に備え付けられたヘッドフォンパーツから、弦十郎やオペレーターの制止の声が聞こえたが、それらを無視し、脚部スラスターにより彼我の距離を詰め、己が激情を刀に込めて眼前に佇む少女に――敵に振り切った。

 しかし、今まで数多くのノイズを一刀の下に切り捨ててきた翼の大上段からの一撃を、少女は腕から伸びた帯を変形させ閉じた扇状のアームドギアを現出させ、事もなさげに捌いてみせた。刀の腹を扇でそっと押し、その(きっさき)を逸らしたのだ。力による強引な防ぎ方ではない。卓越した技術により完璧なまでに受け流された。

 言葉にすれば、何とも陳腐な響きだが、シンフォギアを身に纏い、身体能力が飛躍的に上昇した翼の神速の剣をとなれば、その技術が如何に尋常でないかが窺い知れる。

 

「鉄扇!?」

「こんな安い挑発に乗る様では」

 

 少女は失望したと言わんばかりの視線を翼に向けて、その右足を振り抜く。腹部に強烈な衝撃は受けて、刀を捌かれ体勢の崩れた翼がそれに耐えられる筈もなく、固い地面を無様に転がる。歯の根を噛み砕かんばかりに食いしばり、胃の中の物が逆流するのを堪えながらも追撃に備え翼は素早く立ち上がる。だが、そこに来る筈の追撃はない。

 絶好の機会であったのにも関わらず、少女は変わらず、悠然とその場に佇んでいた。その姿からは、強者故の余裕を感じる。己こそが、この場の絶対者であるという自信。だが、それが驕りでも騙りでもないことを、少女は先の一撃で示して見せた。

 

「ぐっ……強い……!」

「そうですね。少なくとも今の貴女よりは、私は強い」

「今の、私……?」

「えぇ、手ずから凌いで良く分かりました。貴女、昔の方が強かったですよ。過去の貴女と実際に手合わせした訳ではありませんが、天羽奏が健在であったならば、そんな固いだけの剣にはならなかったでしょうに」

「貴様が何故、奏のことを知っている!?」

「まさか、私が貴女方のことを何も知らずにこの場に立っているとでも? 情報収集は戦の常。いずれ矛を交える相手の事を調べるのは当然の事ですよ」

 

 敵は我々の事をよく知っている。その事実が、言い様のない悪寒となって翼の背筋を震わせる。

 この少女は一体何者だ? 日本政府が独占している筈のシンフォギアを自在に操り、口振りから察するに一般には公開されていない二課内部の情報にも明るい。個人の所業ではない。少女の背後には、必ず何らかの国や組織がいる筈だ。しかし、その様な組織など翼の知る限りでは存在しない。シンフォギアを実用化する程の技術力を持つ組織であれば、二課――引いては風鳴の情報網に引っかかる筈。身内贔屓をする訳ではないが、風鳴の家の情報収集能力は優秀だ。名のある組織であれば、例えそれが地球の裏側の物であろうとも、父は詳細な情報を握っているだろう。そんな父達に、今の今まで、その影すら踏ませることがなかったというのか。

 

「貴様は、一体何者だ」

「先にも言ったでしょう。貴女の敵だと。今はそれだけ分かっていれば充分では? それとも、防人の剣は既に何者をも断てぬ程、錆び付いてしまったのですか?」

「……その形で、随分大きな口を叩く」

「……その形?」

「童子の様なその容貌で、大仰な大言壮語を吐くと言った」

「……」

 

 瞬間、チリッと肌を焦がす程の気配が少女の小さな体から発せられた。

 少女がその肩を震わせる。その拳は強く握られ、額には薄っすら青筋が浮かんでいる。挑発に挑発で返した積もりが、虎の尾を踏み抜いてしまったのかもしれない。

 翼はマズイとは思いながらも、一度口にした言葉を今更鞘に戻すことは出来ず、こうなっては舌戦にて相手の冷静を少しでも乱す他ないと、更なる言葉を重ねていく。

 

「そういえば、先程も随分と興味深い事を言っていましたね。私の事を、と、年端もいかない少女だとか」

「事実だろう。貴様がどれだけ歳を重ねてきたのか知らんが、その姿、小学生だと言われても信じるぞ」

 

 ブチリと何かが千切れる音がした。其れがなんであるのかは、最早確認するまでもない。怒髪が天を突くとはこういう事を言うのだろうか。

 目の前の少女が満面の笑みを浮かべている。本来であれば、その笑顔は同性の翼であっても思わず見惚れてしまいそうな程愛らしい筈なのに、その笑顔を見てからというもの、翼の背には嫌な汗が止まらない。いつ間にか少女の背後には、鏡状のデバイスが幾つも宙に浮かび、淡い燐光を放ちながら明滅している。

 

「良い事を教えてあげます、風鳴翼。その耳に、胸に、魂に刻みなさい。私は16歳ですッッッ!!!!!!」

 

《光芒》

 

 鏡状のデバイスから放たれるのは、幾房もの濃紺の光の筋。その全てが明確な殺意を持って、翼を貫かんと殺到する。腹部から伝わる鈍い痛みに耐えながら、翼は己が体躯を行使する。

 激情に駆られながらも正確無比に急所ばかりを狙い撃つその射撃に、再び背筋を震わせた翼だったが、急所を正確に狙ってくるからこそ、回避は容易であった。

 翼が急所への《光芒》を回避すると、少女は更に笑顔を深め、直様狙いを修正した第二射を放ってくる。再び迫り来る光の群れは、第一射の時の様な狙い済ましたものではなく、ランダムな弾道を描く。一見して当たり散らしたかに見える射撃だが、あれだけの技量を持つ彼女がそのような射撃をする訳もない。良く良く観察すれば、翼が回避する事を見越して、態とタイミングをズラして放たれた偏差射撃が含まれている。

 避けきれないと判断した翼は、その意識を回避から迎撃へと切り替え、手にしたアームドギアの柄を握り込む。放つのは、先にノイズを一刀で屠った翼が得意とする蒼の一撃。アームドギアを巨大な刀へと変形させると同時にその鋒から指向性を持った衝撃波を放つ。

 

《蒼ノ一閃》

 

 剣撃が形を成し、蒼き衝撃波となって濃紺の光を迎え撃つ。超常の力がぶつかり合い、辺りに破壊を撒き散らす。しかし、タメも無しに放った一撃では全ての濃紺の光を迎撃するには至らず、幾つかの濃紺の光が蒼の衝撃波を食い破り、翼へと襲い掛かる。

 翼はその光の群れを、巨大化したアームドギアを盾にして受け止める。《蒼ノ一閃》を受けて、威力の減衰した《光芒》であれば充分に耐え切れるだろうとの判断だったが、結果としてそれは、この少女を相手取った際に最も選択してはならない悪手であった。

 拮抗したのは一瞬。《光芒》がまるで翼のアームドギアを侵食するかの様に、じわりじわりとその接触面を融解させる。過去最大級の嫌な予感を覚えた翼は、咄嗟に脚部スラスターを全開にして身体に掛かる負荷も厭わずに真横へと飛んだ。

 瞬間的に凄まじいGが翼の身を襲うも、その形振り構わぬ行動が、翼を生き長らえさせた。

 

 盾として構えたアームドギアに、幾つもの穴が穿たれている。

 

 馬鹿な。幾ら少女が、その身に超常の力を纏っているのだとしても、翼が身に纏うのもまた超常の力だ。聖遺物の欠片によって作られたシンフォギアが、こうも容易く貫かれるなどあって良い筈がない。事実、過去に奏と模擬戦をした際にも、互いに死力尽くしていなかったとはいえ、アームドギアが破壊されをる等という事態に陥ったことはなかった。加えて、先程の少女の技は、直前に翼の技とぶつかり合い、その威力の大部分を削いだ筈だ。それが目に見えて分かったからこそ、翼は回避ではなく防御という選択をしたのだ。

 にも関わらず、翼の予想を裏切り濃紺の光は、絶刀・天羽々斬(アメノハバキリ)に傷を負わせた。単なる威力云々の問題ではない。あの光には、そう言った特性が付与されていると考えるべきだ。そして、恐らくそれはあの技に宿った性質ではなく、その基になった聖遺物由来の性質である筈。

 

「アームドギアを穿つだと!? 貴様のシンフォギアの基になった聖遺物とは一体……」

「態々、敵に手の内を晒すなど、期待しないで下さいね」

「……はっ、成る程道理だ。ならば、話はベッドで聞かせてもらうッ!」

「情熱的なお誘いですが、私の床の相手は貴女ではないッ!」

 

 少女の戯言に耳を傾けることなく、翼は左右の脚部装甲から計6本の小太刀を取りだし投擲する。狙いは少女の背後に浮遊するデバイス群。当然の様に放たれた濃紺の光により、全ての小太刀が迎撃されるもそれで構わない。基よりこの程度の攻撃で撃墜出来るとは考えていない。

 先程の射撃で、第二射までに数瞬の隙があることは確認済み。ほんの僅かな隙ではあるものの、近接戦闘に重きを置いたこの天羽々斬(アメノハバキリ)の機動性ならば届き得る。

 小太刀にて作り出した刹那の間を、脚部スラスターを全開にして、疾く翔ける。再構成した刀型のアームドギアを握り締め、少女の喉元を食い破らんと迫る。

 

「はああああああああああッッ!!」

 

 気迫を込めた怒号と共に上段からアームドギアを振るう。しかし、翼の渾身の一撃を、先程の再現の如く、鉄扇を用いて少女は涼しい顔で受け流す。それでも翼に焦りはない。こうなる事も折り込み済みだ。

 翼は体勢を崩す振りをして、刀を振り抜いた勢いをそのままに、両手を地面に着き、逆立ちの体勢を取る。両手を起点として駒の様に身体を回転させ、脚部のスラスターを吹かし更に加速。脚部スラスターを刃に見立て、鍛え上げられたそのしなやかな足から鋭い斬撃を放った。

 

《逆羅刹》

 

 殺った。防御も回避も間に合わない完全に相手の意表を突いた一撃。少女がどれ程卓越した技術を持とうともこの一撃は躱せまい。

 足から斬撃を放つという常軌を外した技。剣士として正道とは言えない技だが、翼は剣士ではなく剣である。剣は只敵に振るわれる為にあり、其処に正道も邪道も有りはしない。斬る。剣に求められるのは、その一点のみだ。

 

 だが、その一撃さえも、少女には届かない。

 

 少女が脚に纏った装甲が部分的に展開し、新たな超常の力を発動する。

 少女は()()()。ふわりと、まるで重力を感じさせない滑る様な独特の機動で、予備動作の一つもなくその場でくるりと回転。《逆羅刹》の届かぬ空へとその身を舞い上がらせる。

 ここで逃しては勝機を失う。少女が自在に宙を舞えるのだとしたら、空は彼女の領域だ。翼も脚部スラスターにより一時的な飛行紛いの事は出来るが、どうしても直線的な動きになり、地上に比べ自由度は下がる。

 今、彼我の距離が開けば、2度と刀を振るう間合いには近づけまい。恐らく、少女の鉄扇を使った近接戦闘はあくまでも自衛手段に過ぎず、彼女の本来のバトルスタイルは、手の届かぬ上空からあの防御を許さぬ必殺の射撃を放つ、中遠距離戦に重きを置いたものだ。

 シンフォギアの膂力を以ってして、翼は両の手で地面を押し、その身を宙に投げ出す。体勢を立て直し、脚部スラスターを吹かせることで、眼前の少女に追い縋る。

 

「この勝機、逃す訳にはッ!」

「私の空に、態々飛び込んでくる。その愚直さがッ!」

「何ッ!?」

 

 少女の腕から伸びる帯が、まるで意思を持った生き物の様に蠢き、翼の利き手に巻き付く。翼は未だ鉄扇以外の近接戦闘手段を隠し持っていた少女の狡猾さに驚き、空中で碌に抵抗する事も出来ず、少女に追いすがった勢いを利用され投げ飛ばされた。

 

「まずはその足を奪います!」

「ぐっ!」

 

 満天の星空の下に投げ出された翼へと追撃の《光芒》が放たれて、脚部スラスターが破壊される。これで翼にはもう空中での移動手段はない。必然、後は堕ちるのみ。

 だが、其れを善しとしない者がいる。翼の視線の先、星空を背にピタリと宙で静止し、此方を見下ろす少女だ。先程の舌戦以降、翼に対し、一切の容赦を捨て去った少女が、この機を逃す訳がない。

 少女が歌う。喉を震わせ、美しい鈴の様な歌声を、闇夜に響かせる。その顔には、満面の笑み。先程の背筋が凍る様な笑みではない。本当に歌うのが楽しくて楽しくて堪らないと、少女は詞を歌い上げる。

 少女の身に纏ったシンフォギアが、少女の歌に応えて、その出力を爆発的に増す。溢れ出るフォニックゲインが、濃紺の光となって少女の周囲を染め上げる。脚部装甲の側面から円形のミラーパネルを生成され、少女の周囲を囲む様に展開し、腕から伸びた帯をまるでエネルギーケーブルの様に接続。凄まじい量のフォニックゲインが注ぎ込まれたミラーパネルが明滅を繰り返し、チャージを開始する。

 

「――――ッ!? 南無三ッ!!」

 

《天ノ逆鱗》

 

 本来の使い方ではないが、形振り構ってなどいられない。今までの比ではない一撃が来ると悟った翼は、遮二無二、自身と少女の間に何本もの巨大な大剣を召喚し、即席の盾とする。

 だが、予感があった。この程度の盾ではあの一撃を防ぎきる事など到底――。

 

《流星》

 

 少女の歌が一段とその響きを高鳴らせると、全てを滅する濃紺の光の奔流が、ミラーパネルから放たれる。光の奔流が、一枚、また一枚と大剣の防御を食い破り、翼の身体を飲み込んだ。

 

 

◇◇◇

 

 

「何を遊んでるんだか」

 

 通信機から漏れ聞こえる怒号と、ビルの屋上から幾重にも立ち昇る濃紺の光の筋から、彼方がどの様な状況になっているのか十全に把握したクリスは肩を落として溜息を漏らす。

 あまり時間的な猶予はないというのに、時間稼ぎに徹しようと手を抜き過ぎるから余計な挑発に乗ってしまうのだ。いや、これは寧ろ、滅多な事では感情的にならない蛍をあそこまで怒らせる事が出来た翼を称賛するべきなのだろうか。あれ程的確に蛍の一番のウィークポイントを一切の容赦なく抉るとは、並大抵の人間に出来る事ではない。

 

 あいつ本来の目的忘れてないよな……?

 

 今回の2人の作戦目的は、散発的に行っているノイズによるリディアン周辺地域への攻撃ではなく、聖遺物と生体の初の融合症例――立花響の確保である。二課にて響の身体を隅から隅まで研究していたフィーネであったが、遂に二課で行える実験に満足出来なくなったのか――要は人道に反した実験に手を出したくなったということだ――彼女の捕獲へと乗り出し、その命をクリスと蛍の2人に下した。

 翼が芸能活動で現着するのに時間がかかる日時を見計らっての計画だったのだが、此方が当初予定していた計画は、蛍が翼に捕捉された時点で、脆くも崩れ去っている。本来であれば、蛍の主な役目はソロモンの杖によるクリスのサポートだ。目標の確保自体はネフシュタンの鎧を纏ったクリスが担当し、蛍はソロモンの杖でノイズを操り、目標を広場に誘導した後は、翼の動きを封じる為にノイズによる物量作戦を展開する筈だった。

 翼の足止めという戦術的な目的は達成しているものの、用いられている手段が、現段階では秘匿されるべき神獣鏡(シェンショウジン)なのだから、手放しで喜べる状況ではないことは確かだろう。屋敷に帰り次第、フィーネによるお仕置きがあるのはまず間違いない。

 神獣鏡(シェンショウジン)を敵に晒すという事は、ネフシュタンの鎧を敵に晒すのとは訳が違う。何故ならば、神獣鏡(シェンショウジン)を敵に晒すという事は、此方にシンフォギアを作成する技術があることを二課に知られる事を意味するからだ。まず間違いなく内通が疑われ、その疑いの眼差しは、自他共に認める聖遺物研究の第一人者、櫻井良子へと向けられることは想像に難くない。

 それがフィーネの計画にどれ程の影響を与える事になるかは分からないが、フィーネが二課内部にて、暗躍する事の障害となるのは確実だろう。

 故に、神獣鏡(シェンショウジン)の露見はフィーネの機嫌を大きく損ねる。手土産の一つでも持ち帰らなければ、どんな仕打ちが待っているのか分かったものではない。

 

 だからこそ、目の前の雛を取り逃がす訳にはいかないのだ。

 

「逃げ足だけは一丁前ってか!」

「や、止めようよ! こんな、人間同士で争うなんて!」

「戦場で何を馬鹿なことを! お前もシンフォギア装者だってんなら、その黄色い嘴で歌ってみせろよど素人!」

 

 蛍がシンフォギアを身に纏いビルの屋上で風鳴翼と戦闘を行っている時を同じくして、クリスもまたネフシュタンの鎧を身に纏い、戦場にその身を置いていた。いや、果たして、それは本当に戦場と呼んでいいのだろうか。攻撃するのはクリスばかりで、相対する敵――立花響は避けるだけで一切反撃をしてこない。こんな緩い戦闘を、果たして、戦場と呼んでいいものか。クリスは心底疑問に思うのだ。

 

「このいい加減、大人しくしろ!」

「ひっ!」

 

 苛立ちを隠そうともせず猛るクリス。それもその筈で、先程からクリスが放つ攻撃は、その悉くを響に避けられているのだから。

 幾らクリス本来の力たるイチイバルではなく、使い慣れないネフシュタンの鎧を身に纏い、手加減に手加減を重ねた攻撃とはいえ、戦闘訓練も碌に受けていない素人にこうも避けられては、然しものクリスとしても面白くない。

 時間的な猶予がある訳でもない。そろそろ本腰を入れなければならないだろう。時間をかけ過ぎれば、二課の連中が群がり、風鳴弦十郎が出張ってくるかもしれない。装者2人に加えて、フィーネが直接戦闘を避けろと言う程の男を同時に相手にすれば、目的遂行は非常に厳しいものになると言わざるおえない。

 

「あー、もう、面倒くせえ! なるべく無傷で手に入れろと言われていたがもう知るか。おいお前! ここから先はちっとばかし本域だ。腕の一、二本は覚悟しろよ」

「ひぅ!? 私何もしてないのに!?」

「あの性悪に目を付けられたのが、運の尽きだ。諦めて、とっととお縄につきやがれ!」

 

 ネフシュタンの鎧、その刺々しい肩部装甲から伸びる刃が列なりあった鞭を振るう。伸縮は自在。腕と手首を上手く使い放たれるその鞭は、先端の速度が音速にも届き得る。

 先程よりも格段に速度の上がったその一撃に響が対処出来る筈もなく、橙色のバトルスーツに一筋の朱が刻まれる。

 響がこの速さに対応できないと分かったクリスは、響のバトルスーツに傷を刻む為、振るう鞭の数を増やし、再びその腕を振るう。

 

「っが……いっ……」

「おら! さっきまでの威勢はどうした! 蛙の真似はもう終いか!」

 

 何度も打ち付けていると、痛みに耐えかねた響が遂にその膝を地面に着く。そんな響の姿を見て、「ちっ……所詮こんなもんか……」とクリスは落胆の声を漏らす。この程度の痛みにも耐え切れない様な奴を連れ帰った所で、何の役に立つのか。フィーネの好奇心を満たす為だけに、危ない橋を渡る此方の身にもなって欲しいものだ。無理な願いだとは分かっているが、クリスは願わずにはいられない。

 

 さっさと気絶なり何なりさせて連れ帰ろう。

 

 クリスは自分の仕事を手早く片付ける為に、少々強引な手段を用いる事を決める。腕の一、二本では済まず、暫くはベッドの上で生活する事になるだろうが、どうせフィーネの下に来れば、身体中を弄り回されベッド生活を強いられる。遅いか、早いかの違いでしかない。

 鞭の先にエネルギーを集中し、白い球状の力場を生成。力場の内部には黒い稲妻が迸り、直撃すればタダでは済まないことを伺わせる。

 クリスは腕を振りかぶり、その力場を響に目掛けて投げ付け――ようとした。

 

「増し増しでいくぞ。気張って耐え――って何だぁ!?」

 

 驚きの声を上げるクリスの眼前に、空から人が――風鳴翼が降ってきた。

 

 

◇◇◇

 

 

 やってしまった。

 

 今まさに決着がつこうとしていたクリスの戦場へと吹き飛ばされた翼の姿を見て、どうしようもない程のばつの悪さと、何処かの性悪に似てしまったのかもしれない自分自身の間の悪さを、蛍は同時に感じていた。

 目の前の光景に空いた口が塞がらないと言わんばかりの表情をしたクリスが、『お前はあれか。実は馬鹿なのか』と通信機で呆れた声を漏らしている。「……面目次第もありません」と気まずそうに蛍は答えを返し、クリスの下へと飛ぶ。

 風鳴翼に発見され、神獣鏡(シェンショウジン)を使う事態に陥るイレギュラーはあったものの、二課所属の装者達の分断と足止めという戦術的な目的は達成していたのに、自分の手によってみすみす翼と響の合流を許してしまったのだ。

 女性の年齢、及び身体的特徴という決して触れてはならない聖域に、翼が土足で乗り込んで来たのだとしても、その挑発に乗ってしまったのは蛍自身であり、《流星》の一撃を以ってしてなお、翼を仕留めきれなかったのは、言い訳のしようがない失態だった。

 

「らしくもなく熱くなりやがって。5回、いや6回は固いぞこれ」

「……分かっていますよ。今から気が重くなるようなこと言わないで下さい。大体、貴女だって他人事ではないんですよ?」

「……………………」

「何ですか、その顔は」

「…………呼び方」

「えっ?」

「その呼び方何だよ」

「いえ、一応敵の前ですし。と言うか、今言うことですかそれ」

 

 「大体、未だに名前を呼んでくれないのは、そっちじゃないですか」と言えば、「そ、そんなのあたしの勝手だろ!」と顔を赤くしてソッポを向いてしまうクリスに、思わず此処が戦場である事を忘れてしまいそうになる。

 蛍は、クリスが隣に居てくれるならば別に呼び方なんて特に気にはしない。しかし、それでも出会ってから一度も名を呼んでくれないのは、それはそれで寂しいのだ。何時になったら彼女の口から、「蛍」と名を呼んで貰えるのだろうか。

 

「戦場で、随分と姦しいな、貴様ら。私がいることを、忘れたか」

「つ、翼さん、その傷じゃ……」

「っ……黙りなさい。この身は剣、この程度の傷で手折られる程、柔ではない!」

 

 蛍とクリスの間に流れる弛緩した空気を、響の制止の声を一蹴し、アームドギアを支えに立ち上がった翼が断ち切った。

 その姿はまさに満身創痍。身に纏う天羽々斬(アメノハバキリ)は、《流星》の一撃を受けて至る所に罅が入り、今にも崩れ去りそうな程に傷付いている。

 凶祓いの力を付与された蛍の全力の一撃を受けてなお、立ち上がる翼の姿を見て、蛍とクリスは己の仕事がまだ終わっていないことを思い出し、その意識を戦場のそれへと切り替える。

 

「強がりはそれぐらいにしておけよ。その様で、今さらてめえに何が出来るってんだ」

「たとえ、脚を奪われようと、まだ刀を振るう力が残されているならば、私は倒れる訳にはいかんのだ。そこの童女が身に纏うシンフォギア、失われた筈のネフシュタン。貴様らに問わねばならない事は、山程ある。こんな所で、膝を着く訳にはいかんのだ」

「はっ、ご立派。だったら、どうするってんだ。刀を杖代わりに漸く立ち上がるお前が、あたしら2人を相手取って打倒するってか。さっきの衝撃で遂にお頭までイカれたか」

「……応とも。それが剣の在り方なのだから」

「――――お前、まさか!?」

「させませんッ!!」

 

 比類なき覚悟を秘めた翼の瞳を見て、蛍とクリスは同時にその場を飛び出す。翼がもし()()()を歌おうとしているならば、何としても阻止しなければならない。蛍はミラーデバイスを生成し即座に凶祓いの力が付与された一撃を放ち、クリスは肩部から伸びた鞭を手に取り全力で振るう。

 シンフォギアには、確かにこの絶望的な迄の状況を打破し得る、一つの決戦機能が搭載されている。

 その名は、絶唱。シンフォギアの力を限界以上に引き出し、アームドギアを介して放つ究極の一撃。その威力は、過去に天羽奏が証明してみせた通り、無数のノイズをも一度に殲滅し得る絶対たる力だ。

 

 ――Gatrandis babel ziggurat edenal

 

「うぐっ……つ、翼さんの邪魔はさせない!」

「立花響!?」

 

 翼の詠唱を止めるために放った2人の一撃を、響がその身を挺して受け止める。負った傷の痛みで瞳から涙を零し、震える足で立ちながら、ここから先は通さないと、両手を大きく広げて彼女は蛍たちの前に立ち塞がる。

 きっと、彼女は翼を信じているのだろう。本人からあれ程、冷たく接されながらも、翼であれば、この状況を何とかしてくれると、心の底から信頼しているのだ。彼女がしようとしていることの、真の意味すら知らぬままに。

 満天の空から月が覗いている。これもまた、バラルの呪詛が(もたら)す人の不和の結果だとでも言うのか。あの空に輝く月は、何処まで蛍の行く手を遮るのだ。

 

 ――Emustolronzen fine el baral zizzl

 

「絶対に、ここは、通すもんか」

「退きなさい立花響! 貴方のその行動が何を齎すか本当に理解しているのですか!?」

「えっ……」

「あの歌を――絶唱を歌えば、彼女は死ぬのですよ!」

 

 絶唱は絶大な力を装者に齎す。しかし、そんな強大な力を何のリスクを負わずに使える訳がない。

 絶唱は、装者の命を燃やす。限界以上に力を引き出されたシンフォギアからのバックファイアに装者の身体が耐え切れないのだ。だからこその、決戦機能。己の全てを賭してでも負けられない。そんな戦場でのみ歌う事を赦された最後の切り札。それが絶唱。

 翼は、今日この場所で、その命を燃やすつもりなのだ。

 

 ――Gatrandis babel ziggurat edenal

 

「えっ……そんな……嘘……だって……」

「嘘なものですか! 貴女も天羽奏の最期を見たでしょう! 風鳴翼が歌おうとしているのは、あのライブ会場で彼女の片翼が命を散らせた歌なのですよ!」

「つ、翼さん!? 嘘ですよね!? 翼さんッッ!!!!」

「くっそッッ!! 間に合わねえッッ!!」

 

 ――Emustolronzen fine el zizzl

 

 「来るぞッ!!」というクリスの叫び声が響くの同時に、翼はその歌を歌い終える。瞬間、彼女の身体から溢れ出す膨大なフォニックゲインを感じ取り、蛍は咄嗟にクリスへと覆い被さる。「ば、馬鹿野郎ッ!!」というクリスの罵声に耳を貸さず、彼女の身体を強く抱き締め続けた。

 

「立花ッ!! これが、防人の生き様ッ!! これが私の覚悟だッ!! 貴方の胸に焼き付けなさいッ!!」

 

《絶唱・天羽々斬真打》

 

 戦場に刃鳴裂き誇る。鮮血が舞う。抜刀術にて放たれた音を置き去りにする無数の剣閃が蛍の身体を切り裂いた。

 腕の中で泣き叫ぶクリスの声が聞こえる。なんでだよとか、馬鹿野郎とかそんな蛍の事を責める言葉ばかりが聞こえる。馬鹿なことをしたとは自分でも思っている。神獣鏡(シェンショウジン)よりも、ネフシュタンの鎧の方が格段に防御性能が上で、庇うとしても、その立ち位置は本来逆である筈なのだ。でも、身体が勝手に動いたのだ。仕方ないではないか。

 クリスに何か言おうとするも、上手く喉に力が入らない。口からは言葉の代わりに、掠れる様な息と血泡が漏れ出した。

 身体中が痛む。痛いのは嫌いだ。しかし、自業自得とはいえ、この腕の中の温もりを守りきれたのならば、後悔はない。

 瞼が重く感じる。微睡みが蛍の意識を飲み込まんと押し寄せてくる。

 

 意識が沈むその直前、何故かその言葉だけは蛍の耳にしっかりと届いた。

 

 たった3文字の短い言葉。でも、今はその言葉が彼女の口からは発せられたことが何より嬉しくて、幸せの内に蛍は意識を手放す。

 目が覚めたら、お礼を言おう。やっと、呼んでくれたね、と。

 




 ざんねん!!
 ほたるの ぼうけんは これで おわってしまった!!
 とはならないのでご安心を。

 翼の絶唱に関しては、漫画版の技を使わせてもらいました。
 クリスには真・月光ツインサテライトバスターライフルというちゃんとした絶唱技があるんだから、SAKIMORIにだって自爆じゃなくてちゃんとした絶唱技を使わせてあげたかったんです。


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EPISODE 15 「この残酷な世界で」

 クリスの目の前で、蛍の命の灯火が輝きを失っていく。蛍の身体に刻まれた無数の剣閃の傷跡から血が流れ出す度に、彼女の暖かな身体は熱を失う。止まれ、止まれと、傷口を必死に抑えるも、全身に渡る傷口全てを抑えるには、クリスの両の手ではとても足りない。

 ぽたぽたと蛍の身体を伝い、地面に滴る真紅の液体が、血溜まりを作っている。クリスの背中に回されていた彼女の両腕がダラリと垂れ下がった。もたれかかる様にしてクリスに倒れ込む蛍を、血塗れになることも厭わず抱き締めた。その表情は虚ろで、蛍の意識が朦朧としている事は明らかだった。

 クリスは彼女の耳元で大声で呼びかける。しかし、返事はない。徐々に落ちるその瞼を見て、悲鳴にも似た声を上げた。

 頭の中がぐちゃぐちゃで、訳が分からなかった。何故、蛍はクリスの事を庇ったのか。何故、蛍がこんなに血みどろにならなければならないのか。何故、何故、何故。疑問の嵐がクリスの頭の中を掻き回す。

 赤く染まった蛍の姿に、かつて大好きだった人達の姿が重なった。遠い異国の地にて、クリスの目の前で無数の鉛玉を受け、命を落とした父と母。確かあの時も、彼らは今の蛍の様に、真っ赤に染まっていた。

 

 またあたしは失うのか。温もりを、陽だまりを、大好きな人を。嫌だ。それだけは絶対に嫌だ。もう一度、あの時の気持ちを味わうなんて、あたしにはきっと耐えられない。

 

 何時まで経っても名前を呼んでくれないと拗ねた彼女。クリスとて何度となく呼ぼうと思ったのだ。けれど、その度に恥ずかしさが勝ったり、近くにフィーネが居たりと魔が差した。いや、そうではない。それは、全て言い訳だ。今になって漸く判った。結局の所、クリスは 彼女の名前を呼んで、彼女に近付き過ぎるのが怖かったのだ。

 それはあれだけ慕っている蛍であっても、クリスが心の底から信頼を寄せきれない最大の理由。

 人は、死ぬ。どんなに善人であっても、どんなに悪人であっても、人は死からだけは、決して逃げられない。人には寿命がある。肉体の老衰には、あのフィーネですら抗うことが叶わないのだ。

 だが、寿命で逝けるならば、それはその人にとって天寿を全うしたと言える。自身も、周りの人間も納得のいく人として正しい終わり方だ。

 だが、人の死に方はそれだけではない。人は、唐突に、死ぬ。何の前触れもなく、何者かにその命を奪われる。それは他者であったり、ノイズであったり、自然であったりと理由は様々だが、総じて言うならば、世界に奪われるのだ。

 この世界は理不尽だ。蛍が良く口にしていた言葉を思い出す。それは、真理だ。蛍が思い描く理不尽と、クリスが思い描く理不尽は別の物であったが、それはそれだけ多くの種類の理不尽がこの世に蔓延っているということだ。

 それをクリスはあの地獄で学んだ。この世界は理不尽で、クリスがどんなに信じ、大好きな人であっても簡単にこの手から零れ落ちる。

 失うことは恐ろしい。それが大好きな人であれば尚の事で、両親との唐突な死別を経験したクリスは、もう一度、あの時の喪失感を味わえば、自分は確実に狂うと思った。

 だから、蛍を両親と同じ位置に置くことを、無意識の内に嫌がった。それが名前を呼ぶことへの忌避という形で顕在化した。

 

 蛍だって、いつかきっと、あたしの前から居なくなる。

 

 そんな事を心の片隅で自分がずっと考えていた事に、絶望した。何が守るだ。何が共に歩むだ。それを何より諦めていたのは、それを口にした自分自身ではないか。なんて厚かましくて、浅ましい。こんな自分に、彼女の名前を呼ぶ資格なんて、ない。

 

 蛍の瞼が完全に落ちる。その青白い顔を再び見た。心が騒めき立った。自分が、一瞬でも諦めてしまったことを恥じた。

 

 雪音クリスが世界を変えると決めた切欠は何だった? こういう理不尽を少しでも減らそうとしたからではなかったか。またこの世界に屈するのか?

 巫山戯るな。雪音クリスはやられっぱなしの女ではない。

 震える唇を開き、ゆっくりと喉を震わせた。

 

「蛍」

 

 呟く程の小さな声。あれ程、忌避してきたその言葉は、存外するりとクリスの喉を通り抜け、空気を震わせた。

 

「蛍……蛍! 蛍ッ! 蛍ッ!! 蛍ッ!!!」

 

 一度、口にしたらもう止まらない。彼女の名前を紡ぐ度に、その声は段々と大きくなり、やがて、先程までの忌避感はどこかへ薄れていった。

 クリスが蛍の名前を呼ぶ事に忌避感を持っていたのと同時に、彼女の名前を呼びたいという感情もまたクリスの中には確かにあったのだ。

 理不尽に、世界に、こんな所で屈して良いのか。蛍はこんな所で終わる女なのか。否、断じて否。詞世蛍はそんなに簡単に世界に咀嚼される程、弱くもなければ、諦めてもいない。何故なら、彼女は足掻いていた。一度は手折られた筈の心に薪をくべ、この理不尽な世界に牙を突き立てんと、立ち上がり前を向いた。傷つきながらも、前に進もうともがく彼女の姿をクリスは、この2年間ずっと側で見続けてきた。

 だから――。

 

「こんな所で終わって良い筈がねえだろうがッ!」

 

 

◇◇◇

 

 

 ノイズの避難警報が発令され人の気配が無くなった夜の街を1台の黒塗りのセダンが猛スピードで駆け抜ける。その車のハンドルを握るのは、特異災害対策機動部二課司令、風鳴弦十郎だ。助手席に同僚であり、長い付き合いの友人でもある櫻井了子を乗せて、弦十郎は険しい面持ちでアクセルを踏む。

 

「弦十郎君もっと急いで!」

「無茶を言うな! これでも精一杯飛ばしている!」

 

 何時も己のペースを崩さない飄々とした了子の焦りを含んだ声に、自身もまた焦りの声を返す。彼女とは、10年来の付き合いであるが、これ程までに動揺する了子を見たのは初めてかもしれない。

 しかし、それも致し方無い事だろう。斯く言う弦十郎もまた、これ迄の人生の中で一二を争う程、混乱の只中にあった。

 謎のシンフォギア、そして2年前に失われたネフシュタンの鎧を身に纏った少女達の強襲。

 二課本部施設にて、モニター越しにその衝撃に打ちのめされた弦十郎は、何とか我に帰ると居ても立っても居られずに、指揮権を自身の右腕である緒川慎次に譲渡し、いつの間にか助手席に乗り込んでいた了子と共に現場に急行した。

 

 弦十郎には、特異災害対策機動部二課こそが、世界で最も異端技術に対して進んだ研究を行っているという自負があった。だが、その自負は今日を限りに捨て去らなければならないらしい。

 

 FG式回天特機装束。別名、シンフォギア・システム。了子により提唱された櫻井理論に基づき、認定特異災害ノイズに対抗する為に開発された異端技術の結晶。適合者と呼ばれる少女の歌を鍵として起動するそれは、日本政府の最重要機密であり、その製造方法、装者、各種データなどは厳重な情報封鎖の下に置かれ管理されている。

 だからこそ、本来であれば、二課が知らぬシンフォギアなど存在する筈がないのだ。響が纏うガングニールもイレギュラーではあったが、あれは奏が纏ったガングニールの欠片が響の胸に宿った結果であり、その出自はハッキリしていた。だが、翼と相対するあの少女が身に纏ったシンフォギアは違う。濃紺の鎧から放たれるエネルギーの波形パターンは、二課のライブラリーに登録されたどの聖遺物の物とも一致しない未知の物だ。

 加えて、あのネフシュタンの鎧だ。2年前、Project:Nによって覚醒を果たした完全聖遺物であるあれは、その後の暴走、そしてノイズ襲撃により行方不明となった筈だった。二課調査部と研究班による懸命な捜索が行われたものの発見には至らず、暴走による自壊か、若しくはノイズの攻撃を受けて破壊されたものだと思われてきた。今日までは。

 響に相対する少女が身に纏う鎧から発せられるエネルギーの波形パターンは、二課のライブラリーに残るネフシュタンの物と完全に一致している。それは、少女の身に纏うそれが紛れもなくネフシュタンだという証左に他ならない。

 これらの事象が、ここ一ヶ月に渡るリディアン周辺地域へのノイズの異常発生、数万回にも及ぶ本部施設への再三のハッキング、米国政府による安保を盾にしたサクリストD――デュランダルの引き渡し要求などと関連がないと考えるのは、楽観が過ぎるというものだろう。

 だが、何かが引っかかる。謎の少女2人による襲撃は別にして、その他の事象にはどれも裏を読めば、遠からず米国に辿り着く。派手に動くのが彼の国のお家芸ではあるが、こうも簡単に尻尾を踏ませるものだろうか。

 弦十郎の勘が、安易に全ての事柄を米国に結びつけて考えるのは、危険だと訴えている。どこを見てもチラつく米国の影に何らかの作為を感じるのだ。この一件、もっと深い闇の底で、何かが蠢いている。確証はない。だからこそ、弦十郎はこの考えを部下に伝えず、自分の心の内だけに留めていた。

 

「一体何が起こっている……」

「それを今から確かめに行くんでしょ! ほらもっとスピード出して!」

「これ以上は無理だ!」

「何言ってるの! この子のポテンシャルはこんなもんじゃないわ! ちょっと、弦十郎君、そこ退きなさい。私が運転するから」

「や、やめるんだ了子君! 運転中だぞ! おい、聞いているのか了子君!」

「えい! この! 弦十郎君も私のドラテクは知っているでしょう。私が運転した方が手っ取り早いわ!」

「君の運転は乱暴過ぎる!」

 

 了子との激しいハンドル争いの末、何とか無事に――途中何度も命の危険を感じた――目的地に辿り着いた。

 

 其処は既に戦場ではなかった。

 

 目にしたのは、血だらけの黒髪の少女を抱きながら慟哭するネフシュタンの鎧を身に纏った少女と、絶唱を口にし地に倒れ伏した翼に涙ながらに呼びかける響の姿だった。

 夜の闇にネフシュタンの鎧を纏った少女と響の悲痛な叫びが木霊する。子供達が地獄の中で、苦しみの声を上げていた。

 拳に力が篭る。砕かんばかりに握り締めた拳から、赤い血が流れ出た。

 こんな世界に少女たちを連れ込んでしまった己を出来ることなら殴り飛ばしてやりたい。替われるものなら、替わってやりたい。

 弦十郎が己を磨き、地位を築き上げたのは、決してこんな光景を見たかったからではない。

 ネフシュタンの鎧を纏った少女が弦十郎達に気付いたのか、ピクリと肩を震わせて此方を見た。

 

 助けて。

 

 少女の顔がそう言っていた。

 大切な子なのだろう。少女にとって、腕に抱いた黒髪の少女は、とても大切な存在だと言うことは一目で分かった。だからこそ、何としても助けたいのだということも。

 医療班への連絡を了子に任せ、源十郎は再び目を伏せた白藤色の髪をした少女へと歩を進めた。

 ニ課司令として役割を果たす為に、大人としての責任を果たす為に、そして何より友の為に涙する少女を救う為に。

 

「……俺は特異災害対策機動部ニ課司令、風鳴弦十郎だ」

「…………」

「投降してくれないだろうか。悪い様にはしないと約束する。君も、君の大切な人も」

「…………」

 

 少女からの答えは返ってこない。瞳は以前、黒髪の少女へと向けられている。

 

「その出血量では、急がないと手遅れになる。ニ課の医療設備であれば、救える筈だ。だから――」

 

 敵に手を差し伸べることを、了子であれば「甘い」と断ずるかもしれない。だが、甘いと言われようとも、これが風鳴弦十郎だ。これが、風鳴弦十郎の生き方だ。

 大人は、子供の手本となるべき存在だ。彼ら、彼女らよりも歳を重ねているからこそ、常にその先に立ち、背中を見せて道を示してやらねばならない。時には叱り、時には褒めて、時には共に笑い、時には共に泣き、時には振り返りそっと手を差し伸ばしてやる。それが年長者として、少しばかり長く生きている先駆者としての義務だろう。

 

「俺は、子供に手を差し伸べてやれない様な、格好の悪い大人にだけはなりたくない」

 

 しかし、差し伸ばした手は、乱暴に振り抜かれた少女の手によって拒まれた。

 

「大人? 大人だって? 余計なこと以外はいつも何もしてくれない大人が偉そうにッ!」

 

 少女の心からの叫びに弦十郎はピタリと動きを止めて、額に深い皺を刻んだ。

 少女はそんな弦十郎の様子に忌々しいとばかりに眉を顰め、憤怒の形相で弦十郎を睨みつけると、黒髪の少女を抱いて後ろへと跳躍し弦十郎から距離を取った。

 

「痛いと言っても聞いてくれなかった。止めてと言っても聞いてくれなかった。あたしの話しなんかこれっぽっちも聞いてくれなかったッ! そんな大人があたしと蛍を救うだと!? 舐め腐るのも大概にしろッッ!!」

 

 少女の手には、いつの間にか、銀色に光る槍の様な物が握られている。それは先程まで、「蛍」と呼ばれた黒髪の少女が腰に身に付けていたものだ。

 

「あたしが蛍を助けてやるんだッ! 誰にも邪魔はさせねぇッ!」

 

 少女の咆哮と共に、彼女が手にした槍状の物体から緑色の光が放たれる。思わず、身構える弦十郎だったが、その光線は弦十郎を狙った物ではなかった。

 少女と弦十郎とを別つかの様に放たれた緑色の閃光。その先から、不協和音が漏れ出した。

 

「ノイズ、だとぉ!?」

 

 緑色の閃光から、人類の天敵が現れる。耳障りな不協和音を響かせながら現れるのは、認定特異災害ノイズ。人を炭にする為だけにこの世に現れる厄災が、少女の手によって次々と生み出されている。

 予兆はあったのだ。ニ課本部施設直上、私立リディアン女学院高等科を中心とした地域へのピンポイントな出現。加えて、先のこの公園まで響を誘導するかの様な不自然な動き。どちらも、通常のノイズではありえない不可解な行動だ。

 翼は、何者かの意思がニ課に向けられている証左だと言っていたが、その誰かというのが目の前の少女だと言うのか。

 

「てめぇらはこいつらの相手でもしてな!」

 

 そう言葉を残し、少女は蛍を連れて夜の闇へと溶けて消えた。

 同時に、少女によって生み出されたノイズが一斉に動き出し、弦十郎達を炭にせんと殺到する。

 

「オオおおおおおおおおおおッ!!」

 

 追いかけたい気持ちはある。しかし、今、弦十郎の後ろには翼達がいる。彼女達を守る事もまた、弦十郎が為さねばならないことだった。

 全身に気を充実させて、その拳を地面に叩きつける。打ち込んだ気により、地面を隆起させノイズの突進を受け止める。

 

「響君!!」

「は、はい!」

「翼のことは了子君に任せるんだ! 君は目の前のノイズを! 俺では時間稼ぎしか出来ん!」

「わ、分かりました!」

 

 風鳴弦十郎ではノイズに勝てない。歯痒いながらも、それは認めなければいけない事実だった。

 シンフォギアによるバリアコーティングが働いているとはいえ、それはノイズの炭素転換能力があくまで一時的に減退しているだけであり、周辺の物体を利用した時間稼ぎ程度ならば出来るものの、それは対ノイズ戦において決定打たり得ない。この拳を叩きつけられるなら話は別なのだが、人の身である弦十郎にとってノイズに触れることは炭になる事を意味する。

 弦十郎の脇を抜け、ノイズへと突進する響を見て、弦十郎は己の無力さを噛み締めていた。

 

 

◇◇◇

 

 

 296……297……298……299……300!

 

 心の中で数えていた数字がフィーネに言われていた数字を示したとき、町外れを全速力で駆けていたクリスはその足を止めた。姿を隠す為に路地裏へと身を潜めると、両手に抱えた蛍をゆっくりと地面に下ろす。蛍の顔色は、先にも増して蒼白く、彼女の容体が以前として予断の許さない状況であることを告げている。シンフォギアは既に解除され、蛍が身に纏っているのはいつものゴスロリ服だが、その所々が蛍の血を吸い赤黒く変色している。

 視界が滲む。けれど、堪えた。今は、そんな事をしている場合ではない。

 

「急がねえと……」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()、5分後にフィーネが二課のレーダー端末に介入し、一時的にその機能を麻痺させるので、その間に蛍を連れて二課の作戦領域から離脱し、屋敷まで撤退すること。フィーネが二課のレーダー端末に介入している内に、蛍の()()を終え、二課のレーダーの探査領域外へと脱出しなければならない。

 これから行うことに対して、クリスは未だに迷いがある。本当にこれしかないのか。もっと他にやりようがあるのではないか。考えを巡らせてみたものの、クリスにはフィーネが示した治療方法以外を思いつくことが出来なかった。

 ギリッと歯の根を噛み締める。今はフィーネに従おう。蛍の命を救う為に。

 クリスは身に纏っていたネフシュタンの鎧を脱ぐ。白銀の鎧が、光の粒となって弾ける。クリスが念じると周囲を漂っていた光の粒が、クリスの掌の上に集まり、一つの球となった。

 掌の上に作られた光の球を見て、クリスは眉間に皺を寄せる。それでもそれを断ち切る様に、意を決して、その光の球を蛍の胸に押し付けた。

 光の球が紐解け、再び粒子となって、蛍の体に纏わりつく。粒子が一段とその輝きを強くすると、次の瞬間には蛍の身を包む漆黒の鎧となった。カラーリングこそ変わっているものの、それは紛れもなくネフシュタンの鎧だ。

 世界に現存する数少ない完全聖遺物であるネフシュタンの鎧。その特性は、無限の再生能力である。多少の損壊どころか、完全に粉砕された状態からでも復元するその常軌を逸した再生能力は、完全聖遺物の名に相応しい驚異的な能力だ。

 

 しかし、その能力は、身に纏った者すら喰い潰す。

 

「あああああああああぁあぁぁあぁあ!!!!」

「ッ!! 蛍!!」

 

 意識を失っていた蛍が突然に目を開き、その小さな唇から絶叫を漏らす。その悲鳴を聴き、痙攣する蛍の身体を手繰り寄せ、抱き締めた。何の意味も無いかもしれない。けれど、抱き締めずにはいられなかった。

 蛍は、狂乱の声を上げ続ける。その瞳には、クリスの姿は映っていない。今の彼女は、只管に身の内から湧き出る痛みに支配されていた。

 痛みに耐える様に、クリスの背に蛍の腕が回され、万力の如き力で締め付けられる。クリスは「大丈夫、大丈夫だ」と、蛍の耳元で、彼女に、そして自分にも言い聞かせる様に言葉を紡ぎ、それに耐える。

 突き立てられた爪が、クリスの背を抉る。疾る激痛に顔を歪めるも、それでもクリスは蛍を抱きとめた両腕を決して解こうとはしなかった。

 ぐじゅぐじゅと、生理的嫌悪を齎す音が聞こえる。鎧が蛍の身を蝕む音が聞こえる。その音をこれ以上耳にしたくなくて、クリスは喉を震わせた。

 

Killiter Ichaival tron(銃爪にかけた指で夢をなぞる)

 

 口にするのは、聖詠。紡がれた詞に反応して、クリスから下げた赤い水晶柱が白銀の輝きを放つ。その輝きは繭となり、クリスを包み込んだ。

 身に纏うのは、真紅の鎧。イチイバルのシンフォギア。かつて、狩猟の神ウルが引いたとされる魔弓の力を身に纏ったクリスは、湧き上がる力をそのままに、未だ半狂乱で暴れる蛍を抱き締めたまま夜の闇にその身を投げ出す。

 近くのビルの屋上に着地したクリスは、辺りを見回し二課の追っ手がいない事を確かめると、蛍の背をぎゅっと抱き締め、歌を歌い上げる、

 両耳に備え付けられたヘッドフォンパーツから流れる旋律に乗せ、胸の内から湧き上がる詞を、感情の侭に響かせる。

 

《MEGA DETH FUGA》

 

 背中から大型のミサイルを生成し、夜空に放つ。その後を追う様にして、クリスは地面を蹴り、ミサイルの上に着地。二人乗りをするのは初めてで、少しだけバランスを崩すも直ぐに立て直し、じゃじゃ馬を乗りこなす。

 本来であれば、2基生成する筈のミサイルを単独に絞り、エネルギーをその1基に集中することで、航行距離と巡航速度を飛躍的に上昇させた。このミサイルであれば、フィーネの屋敷まで一息で到着することができるだろう。多少目立つかもしれないが、今のクリスに手段を選ぶ余裕はなく、隠蔽などの後始末はフィーネに全て丸投げするつもりだった。

 ふと空を見上げれば、幾つもの光の筋が流れては消え、流れては消えていく。美しい光景だった。蛍がそれに気付いた様子はない。彼女は、その身を苛む痛みに悶え苦しんでいる。

 また、彼女との約束を守れなかった。

 

 夜空に一筋の白い軌跡を描きながら、星の群れにその身を隠した。瞳から溢れた光の欠片が、誰に知られることもなく、流れては消えていった。

 

 

◇◇◇

 

 

 屋敷に辿り着くと、クリスは時間が惜しいとばかりに、ロビーへと続く扉を蹴破った。大小様々なケーブルが蔓延る廊下を慣れた足つきで足早に駆けていく。目指す場所は、食堂だ。

 

「もう直ぐだ。もう直ぐ着くから」

「…………」

 

 蛍からの返事はない。蛍は瞳を閉じて、再び意識を失っている。しかし、その顔色は土色をした死へと向かう者のそれではない。額に大粒の汗を浮かべ、荒い呼吸を繰り返す。泥臭くも生きる者特有の熱を持った蛍の表情を見て、クリスは少しだけ安堵の息を漏らした。

 だが、それも一瞬のことだ。これから行うことを考えると、心に葛藤の渦が巻き起こる。直様、クリスは顔を引き締めると、食堂へと続くドアを開き、目的の物を探した。

 それは直ぐに見つかった。扉を開けて正面に位置する窓側、食堂の中には似つかわしくない物々しい装置が、壁に沿う形で鎮座している。台形の土台と、その上に角ばった円形の鉄塊を無理矢理に取り付けた様なその装置は、3m近い巨大さを誇り、シャンデリアからの光を反射して鈍い輝きを放っている。

 重々しい足取りでその装置の前まで歩を進めたクリスは、蛍を床に寝かせると、イチイバルのシンフォギアを解除する。続けて、右手を蛍の胸の前に翳し意識を集中する。すると、蛍が身に纏っていた黒いネフシュタンの鎧が光の粒子へと姿を変え、再びクリスの掌の中に球を成して収まった。クリスは、その光の球を憎々しげに睨みつけ、右手に力を込めて握り潰した。光の球が弾け、霧散していく。

 その様子を最後まで見ることなく、クリスは蛍へと視線を戻す。ゴスロリ衣装に戻った蛍を目にして、クリスは一度、目を伏せる。顔を上げたクリスの瞳は、決意を秘めた眼差しへと変化していた。

 震える手で、荒い呼吸を繰り返す蛍の服に手をかける。蛍の血を吸い、所々が赤黒く変化した彼女の洋服を、四苦八苦しながら脱がせていく。衣服の下に隠された彼女の白い肌が露わになる度にピクリと腕が震えたが、それに気付かない振りをしてクリスは作業を進める。

 そう、これは作業である。普段であれば、忌々しい赤面症が発症して余りある状況ではあるが、今のクリスはこれを医療行為だと考えている。その清廉な行為の前には、同年代の少女を脱がせることへの羞恥心などという邪な感情が入る隙間など全くない。ないったらない。

 

「傷は……塞がってるか」

 

 蛍の露わになった肢体には、翼の絶唱により負った傷はどこにも見当たらない。その代りに、傷があったであろう箇所にはジグソーパズルの様な痛々しい模様が――ネフシュタンの鎧による身体への侵食の跡が浮かび上がっている。

 ネフシュタンの鎧による再生は驚異的だ。しかし、それは纏った者を喰い潰す諸刃の剣でもあった。

 傷口から入り込んだ鎧の欠片が蛍の身体もろとも取り込んで再生をしている。鎧を脱いだ後も、その欠片は体内に残り続け、蛍の身体を蝕み未だ増殖を繰り返している。

 事前にフィーネからネフシュタンの鎧の運用にあたって、肉体を乗っ取られる危険は示唆されていたのだ。ネフシュタンの再生能力を過信し、下手に傷を負えばその肉体を食い破られると。

 だからこそ、その対応措置も用意されていた。クリスの目の前にある装置がそれだった。電流を浴びせることにより、体内で増殖を続ける鎧の欠片を一時的に休眠状態とし、その隙に除去するのだ。

 当然、生身の身体にそれ相応の電流を流すのだ。処置には、激痛を伴う。痛みを絆と考える実にフィーネらしい反吐の出るような装置だった。

 

 今からクリスは、蛍にその痛みを味合わせなければならない。

 

 本来は、フィーネが手ずから処置をし、痛みに苦しむクリスや蛍のことを眺め悦に浸る為の装置なのだろう。真性のサディストである彼女が使えば、それはそれは愉快な装置――クリスは微塵も理解したいとは思わないが――だったに違いない。

 だが、生憎とクリスはフィーネのような歪んだ性癖など持ち合わせておらず、誰かが痛みを感じる様に興奮など覚えない。加えて、その対象が守りたいと願った少女であるならば尚更だ。

 蛍はもう充分に傷付いたではないか。両親から捨てられ、科学者たちのモルモットにされ、挙句の果てにフィーネの被虐の対象とされた。世界は、まだ彼女に傷を負えと言うのか。それも、クリス自身の手で、彼女に新たな傷を、痛みを与えろと。

 狂っている。平和な世界に身を置きのうのうと暮らす人々が大勢いる中で、何故世界はクリスや蛍にはそんな仕打ちをするのだ。

 そんな理不尽を許せる筈がない。

 

「くそッ! くそッ! なんで、なんでこんな……」

「くり、す……私なら、だいじょぶ……だから……」

「蛍!?」

 

 いつの間にか目を覚ました蛍が、弱々しい声を漏らし、此方を見上げていた。苦痛に顔を歪めながら、起き上がろうとする彼女を、クリスは必死に制した。

 

「馬鹿! 無理すんな!」

「私の、傷を治すために……ネフシュタンの鎧を、使ったの……ですよね。大丈夫、です。痛みには、慣れています、から」

「馬鹿蛍! そういう問題じゃねえだろ!」

 

 聡明な彼女は、自身の置かれた状況を正しく把握していた。その上で、「痛みには慣れている」と口にしたのだ。その言葉が強がりである事は明白だった。

 身体と心に多くの傷を負ってきた彼女は、確かに痛みに慣れているのかもしれない。けれど、それは裏を返せば、それだけ痛みを受ける恐怖を知っているという事に他ならない。

 だからこそ、誰よりも痛みの恐怖を知っている彼女は、今も尚、その身に鎧を身に纏っているのだから。

 しかし、怒りを露わにするクリスに対し、蛍はふるふると首を横に振る。そして、ポツリと呟いた。

 

「…………私、うれしいんです」

 

 嬉しい? この状況の何が嬉しいと言うのだ。その身は鎧の欠片に侵され、これから待つのは電流による地獄の苦しみだというのに。

 どうして、彼女は笑みを浮かべるのだ。

 

「名前、やっと、呼んでくれたから」

 

 嗚呼、今、それを口にするのか。ちくしょう。そんな幸せそうな顔をされたら、もう何も言えないじゃないか。

 

「だから、へっちゃら、です」

「……馬鹿蛍」

「へへっ……知ってます」

 

 両腕を広げて待つ蛍を抱き上げる。首に回された手が、ぎゅっとクリスの服を掴んだ。「心配しなくても落としゃしねぇよ」と言えば、「……うん」と彼女は短く返した。

 クリスは、装置へと続くタラップを登り、両腕を拘束する為に備え付けられた枷に蛍の腕を嵌めた。支えていた手を離せば、蛍はだらりと装置に吊るされる形となり、それはまるで磔の様だった。

 制御パネルの前に立ち、磔にされた蛍を見遣れば、不安が顔に出ていたのか、蛍が「大丈夫だから」と微笑む。その笑顔に胸が締め付けられた。

 震える手で、レバーに手を掛ける。

 意を決してレバーを倒せば、蛍が絶叫を上げた。これを何度も繰り返す。

 電流を止める度に、蛍はクリスに向けて微笑んできた。滲む視界の中で、何故かその笑顔だけが、眩しく輝いて見えた。

 




 少し詰め込み過ぎたかなと思ったり思わなかったり。
 構成に悩んだ回でした。


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EPISODE 16 「不滅不朽」

 【悲報】主人公出番なし



 二課本部施設内、その管制室にて二課主要メンバーを中心としたミーティングが開かれていた。司令である風鳴弦十郎、弦十郎の懐刀であり風鳴翼のマネージャーを兼任している緒川慎次、ガングニール奏者である立花響、オペレータである藤堯朔也と友里あおい、そして、櫻井了子に擬態したフィーネの6人だ。本来であれば、この席に同席している筈の翼は、絶唱を歌った後遺症により、未だ病院のベットの上であり、今回の出席は見合わせられている。

 フィーネが辺りを見回せば、周囲の雰囲気は暗く、皆一様に眉間に皺を刻んでいる。

 

「サクリストD――デュランダルの移送、ですか。ですが、ここ以上の防衛設備なんて……」

「移送先は、永田町最深部記憶の遺跡ならばという話だ。どの道、俺達が木っ端役人である以上、お上の意向に逆らえんさ」

 

 苦言を呈す朔也に、肩を竦めながら溜息混じりの答えを返す弦十郎。そんな彼らの様子を眺めていたフィーネは、溢れ出る笑みを隠す為に、右手で口を覆った。待ちに待った穴熊が、漸く巣穴から顔を出すと言うのだ。これが笑わずに居られようか。

 完全聖遺物デュランダル。日本政府が保有する希少な完全聖遺物の一つであるそれは、数年前、EUが経済破綻した際に、不良債権の一部肩代わりを条件に日本政府が管理することになった経緯を持ち、現在は二課本部最奥区画アビスにて厳重に保管されている。

 その名は「不滅不朽」を意味し、起動後に生み出される無尽蔵の圧倒的なエネルギーは、カディンギルの動力源として必要不可欠なものだ。長年、追い求めてきたもののアビスの厳重な警備はフィーネを持ってしても破り難く、強引な手段を用いれば二課本部に偽装した建造中であるカディンギルを傷付ける可能性があった。

 故に、周辺に頻発するノイズの発生ケースを理由に移送計画が発案された時など笑いが止まらず、そんなフィーネの事をクリスが胡乱げな目で見ていた事は記憶に新しい。

 とは言え、フィーネが此処まで上機嫌なのは、それだけが理由ではなかったが。

 

「それが、広木防衛大臣の弔いになるだろう」

 

 弦十郎が苦々しく呟くと、フィーネ以外の皆が顔を俯けた。皆のそんな様子が可笑しくて、思わず了子を演じる事を忘れかけ、顔を背けて肩を震わせた。

 広木防衛大臣の死。それがフィーネが機嫌を良くするもう一つの理由であった。

 広木防衛大臣。改定九条推進派の一人であり、二課の後ろ盾でもあった人物。二課やシンフォギアの存在を「秘匿された武力」ではなく、「公の武力」として機能するよう働きかけてきた経緯があり、その為、フィーネにとっては何かと目障りな人物であった。

 カディンギル建造の為の二課本部施設の拡張工事も、彼の「国民の血税を秘匿された組織に大量に投資する訳にはいかない」という意見により、長らく着工出来ずにいたが、これで漸く推し進める事が出来る。

 米国を焚き付けた甲斐があったというものだ。フィーネの笑みは更に深まった。

 

「……犯行グループの特定はまだされていないんですか?」

「事件後、複数の共産革命グループから声明が発表されたましたが、どのグループも只の活動アピールだろうとの事です。風鳴、緒方両家にも確認を取りましたが、まず間違いないだろうと」

「つまり、真犯人は別にいると?」

「はい。二家に加えて、二課調査部も総力を挙げて調査を続けていますが、今の所、特定には至っていないそうです。公安も動き出したそうですが、結果は芳しくないようですね……」

「風鳴にも、緒川にも、尾を踏ませない相手か。やっかいだな」

 

 二課の面々が難しい顔で会話を進める中、会話に入れずに聞きに徹していた響がおずおずといった様子で手を挙げた。

 

「あ、あのー、今更な質問ではあるんですけど、司令や緒川さんのお家って……」

「あぁ、そう言えば、響君には話していなかったか。俺や緒川の実家は、昔からこの国の国防を担ってきた一族でな。日本中、いや、世界中に表、裏を問わず、情報網を持っている。その情報収集能力はちょっとしたものだぞ」

 

 風鳴家と緒川家。この2家は共に古くから日本の国防を影から支えてきた家系であり、国防の要と言っても過言ではない存在である。

 風鳴家は明治以降、多くの政治家を輩出してきた家系であり、代々日本政府の要人として国防を担ってきた。しかし、あくまでも表には立たずに、大臣などのポストは他人に譲り、世間への露出が少ない内閣情報官などを歴任する傾向がある為、表での知名度はそれ程高くはない。

 対する緒川家は、その起源は風鳴以上に古く、飛騨出身の隠忍の末裔だと言われている。古くは、まだ木下藤吉郎と呼ばれていた頃の豊臣秀吉に仕えていた記録すらある、由緒正しい忍者の一族である。明治維新以降、日本政府に仕える事となり、古くから伝わる忍法を現代の型に当てはめ昇華させた現代忍法を用い、諜報員としてありとあらゆる場所に赴き、影から日本の情報収集を担っていた。その存在は海外にも知れ渡っており、日本政府の忍者と言えば、その筋では有名である。

 

「ほへー、凄いんですねー。という事は、他の人も実は凄い家の出身だったり?」

「全然。俺やあおいさんの家は至って普通の家だよ。あれ? そう言えば、了子さんの実家の話って聞いた事ありましたっけ?」

「私の家も平凡な家だったわよー。只、父が聖遺物の研究者でね。朝から晩までずーっと聖遺物の事で頭が一杯な人だったわ。そんな父を見て育ったから、私もこの道を志したって訳」

「へぇ、そうだったんですか」

「了子君のお父上は、とても優秀な考古学者でな。政府の研究機関に所属して、精力的に聖遺物の研究をされていた」

「聖遺物バカだったのよ」

「成る程ー。今の了子さんみたいな人だったんですね」

「ん? 余計な事を喋るのはこの口かしら? ん? ん?」

「いひゃ、いひゃひでふ。りょうこひゃん」

 

 失礼な事を口にする響の頬を両手で摘み、ぐにっと伸ばす。そのまま餅の様に伸びた響の頬を上下左右に振り、最後にはパチンと音がする程に力を加えながら離す。「うぅ……酷い……」と真っ赤になった頬を押さえる響に、「お姉さんを馬鹿にするからよん」と言えば、朔也と慎次が「えっ……」と不思議そうな顔をしたので目で射殺した。乙女の年齢に疑問を抱くとは失礼な奴らである。

 そんな様子を見た弦十郎とあおいが溜息を吐きながらやれやれと肩を落とした。いつの間にか、管制室を包んでいた重苦しい空気は消え去り、いつものお気楽な二課の空気が室内に満ちている。

 まさか狙ったのか? と思い響を見遣ると、彼女は頬を押さえながら、僅かな笑みを浮かべていた。

 

 あの夜から、立花響は変わった。

 

 自身の眼の前で翼が己の命を賭けてでも敵を討とうとしたあの夜。響は何も出来ないばかりか、自身の無知の所為で翼の命を危険に晒した。結果的に翼は無事だったものも、蛍との戦闘によりダメージを負った状態での絶唱は、正規適合者である翼の適合係数を持ってしても少なくないダメージを彼女に与えた。翼はICU(集中治療室)に1日以上篭り、医師達の必死の治療により一命は取り留めたものの、暫くは絶対安静であり、戦場から遠ざかることを余儀なくされた。

 一時は自分の所為で翼を傷付けたと落ち込んでいた響だったが、己の無力さを痛感したのか弦十郎を武術の師と仰いで戦闘訓練に力を入れ始めてからは、持ち前の明るさを取り戻し、精力的に翼の抜けた穴を埋めようと努力している。

 その甲斐あってか、響の戦闘スキルは弦十郎をも驚かせる程の成長を見せている。恐らくは体内のガングニールが何かしらの作用をもたらしているのだろうが、詳しい検査はまだ行えておらず、推論の域を出ない。

 

 全くもって忌々しい話だ。

 

 あの夜、立花響を捕らえていれば、こんな思いはせずに済んだだろうに。そんな考えがフィーネの頭を過ると、先程までの上機嫌が嘘の様に、沸々と怒りの念が心の底から顔を覗かせる。

 あの夜、蛍とクリスは敗北した。戦闘自体は此方が圧倒していたものの、響の確保に失敗したばかりか、現段階では秘匿すべき神獣鏡(シェンショウジン)を敵に晒すと言う失態を犯した。また翼を重症に追い込んだとは言え、蛍もまた翼の絶唱により多大なダメージを受け、傷こそネフシュタンの鎧により塞がっているものの翼同様に未だベッドの上であり、戦線からは遠ざかっている。

 目的は達成出来ず、敵に情報を与え、勝てる筈の相手と相打ち。なんて無様。勿論、クリスには、蛍の分までお仕置きを与えたが、それでも思い出す度に腹立たしさが蘇ってくる。

 とは言え、一ヶ月前ならいざ知らず、この段階で神獣鏡(シェンショウジン)が二課に露見したのは、実はそれ程問題ではない。あの夜の段階で、既に広木防衛大臣の暗殺は計画されていた。それによる計画の加速。少なくとも、カディンギルの完成まで了子の裏切りを隠し通すだけの自信はあった。なにより、弦十郎は甘い。仲間を疑うという事に、彼は忌避感を覚えるだろう。それが彼の思考を鈍らせる。

 計画の見通しが立ったからこそ、ネフシュタンの鎧を二課に晒したのだ。神獣鏡(シェンショウジン)の露見は完全にフィーネの思惑の外の事であったが、それはフィーネの裏切りが判明するまでの時期を多少早めることになるだけだ。これが二課から失われたイチイバルであれば、話は別なのだろうが、露見した神獣鏡(シェンショウジン)は、二課にデータを採らせる前にフィーネが強奪したものだ。まだ誤魔化しのしようはある。

 

「り、了子さん、そんなに怒らなくても……」

「……やん。乙女の年齢を気にするような奴にはこれぐらいがちょっどいいのよ」

「今のは二人が悪いですよ」

「流石あおいちゃん! よく分かってるぅ!」

「……何かそこはかとなく馬鹿にされた気がします」

「他意はないわよん?」

「お前達、それぐらいしておけ。今はデュランダルの移送計画を詰めるのが先だ」

 

 弦十郎の言葉に、皆ピクリと反応し、真面目な顔付きへと戻る。しかし、そこには先程までの暗澹とした雰囲気は微塵もなかった。

 その所為もあってか、その後の話し合いはとてもスムーズに進行した。移送経路、運搬車両の数、護衛の人数、関係各所への事前通達。移送計画に必要な様々な項目が着々と決まっていく。その全てが、襲撃者に筒抜けだとは、気付かないままに。

 

「注意すべきはやはり、ネフシュタンの鎧を身に纏った少女と謎のシンフォギアを身に纏った少女の二人。彼女達の狙いがデュランダルにあると決まった訳ではないが、襲撃されると仮定し動くべきだろうな」

「しかし、これだけ秘密裏に考えられた作戦が漏れるとは考え難いですが……」

「彼女達は、我々二課の事情に明るい。奏君や響君の事を知っていた事からも明らかだろう。今回ばかりは大丈夫だと安心は出来ない」

「内通者……ですね。一体誰が……」

「目下、調査部が捜査中だ。今は気にしても仕方がないだろう」

 

 再び暗くなりかけた雰囲気を察した響が、「だ、大丈夫です! この立花響、翼さんがいない穴をなんとかかんとか塞いで見せます!」と空元気を見せれば、大人達はそんな響の様子を見て、僅かに頬を緩ませた。

 

 

◇◇◇

 

 

 ハイウェイを7つの影が駆け抜ける。一台のピンクのコンパクトカーの周囲を5台の黒塗りのセダンが固め脇目も振らずに駆け抜けている。その後を追随するかの様に一人の少女が猛追していた。

 前を走る車は、アクセルを全開で吹かしており、その速度はハイウェイと言えど、法に定められた速度を大きく超過している。大凡、人の身で出せる速度ではないその車を追いかけるのは生身の人間。あり得ない筈の光景を現実せしめるのは、少女が身に纏った白銀の鎧。完全聖遺物ネフシュタンの鎧を身に纏い超常の力をその手にした少女――雪音クリスは己の目的を達成すべく、その脚に力を込めた。

 

「退けぇ! 邪魔すんじゃねぇ!」

 

 クリスは怒号と共に、ネフシュタンの鎧の肩部装甲から伸びた鞭を黒塗りのセダンへと振るう。一台、また一台と鞭か振るわれる度に、車は真っ二つに裂け爆散していく。

 残るは2台。ピンクのコンパクトカーの脇を固めてその2台に向けて、ソロモンの杖を振るいノイズを現出させる。そのまま指示を与え、2台のセダンに襲い掛からせる。2台を瞬く間に破壊したノイズ達は、塵となって爆風に拐われた。

 

「残るは!! 一つ!!」

 

 ハイウェイを駆け抜けながら、クリスは前を走るピンクのコンパクトカーを睨みつける。リアガラスから覗いた先、運転席側に見えるのは、特徴的な巻貝の様な髪型。ハンドルを握るのは、櫻井了子に扮するフィーネ。その反対、助手席側には立花響が座り、その外側に跳ねた特徴的な茶色の髪を揺らしながら、忙しなく此方を振り返り、後方を気にしている。

 

『うわわわわわ、了子さん! 後ろ! 後ろ! もう直ぐそこまで来てます!』

『私のドラテクを信じなさい! これでも昔はブイブイ言わせてたんだから!』

 

 フィーネは自分が死ぬとは微塵も考えていないだろうし、響は相変わらず鈍臭いことを言っているのだろう。声は聞こえずともそんな会話が聞こえる様だった。追われているというのに、随分と悠長な物だ。

 ここで響が足止めとして飛び出してこないのは、ノイズの遠隔操作を警戒してのことだろうか。フィーネとしては、それは願ってもいない状況なので、彼女の指示とは考え難い。ということは――。

 視線を上げれば、眩い程に輝く青空に一機のヘリコプターが飛んでいる。フィーネから齎された情報によれば、風鳴弦十郎があのヘリに乗り現場で指示を出しているらしい。フィーネではないとすれば、あの男なのだろう。叩き落そうにも距離が離れ過ぎている。これでは、鞭が届かない。ならば、ノイズでとも思ったが、今回科せられている任務を思い出す。

 今回、クリスに科せられた任務は立花響の誘拐でもなければ、風鳴弦十郎の殺害でもない。あくまでデュランダルの奪取である。それ以外の事は、全て二の次だとフィーネからの厳命を受けていた。忌々しいながらも、今は捨て置くしかない。

 

 二課の手前、手を抜く訳にはいかなかったのだろうが、フィーネの逃げっぷりは凄まじかった。

 

 デュランダルを傷付ける訳にはいかない為、小回りの利かないノイズによる襲撃を諦め、クリスは主にタイヤ周りを狙って鞭を振るったが、まるで未来予知をしているかの如くその悉くを避けるフィーネには呆れてものも言えない。もう少し、当たろうという気配を見せても良いのではないだろうか。此処まで、見事に避けられては、当たる気がないのではないかとすら思える。

 クリスの鞭が漸くピンクの車体を捉えたのは、ハイウェイを降り、市街地を駆け抜け、大小様々な煙突と数々のガスタンクがある工場地帯へと入り込んだ頃だった。

 縦で駄目なら横ではどうだと地面と水平に放った鞭が、コンパクトカーの右側後輪を切り裂き、コントロールの効かなくなったピンクの車体がけたたましい音と共にスリップし、クルクルと回転しながら、近くの建物へと突っ込んだ。

 

 やり過ぎたなどど、思う事はない。コンパクトカーが建物に突っ込む寸前、その歌はクリスの耳にもしっかりと届いていたのだから。

 

「大丈夫ですか了子さん!」

「平気よ響ちゃん。でもまさか女の子にお姫様抱っこされるなんて。響ちゃん意外と男らしいのね」

「へへっ、師匠に鍛えられてますから!」

 

 ガングニールのシンフォギアを身に纏った響が、デュランダルが収められたケースを手にしたフィーネを抱きかかえて、コンパクトカーの天井を蹴破って、宙へと躍り出た。右足を振り抜いた状態で飛び上がった響は、そのまま着地。フィーネを地面に降ろすと、フィーネを庇う様にして、クリスと対峙した。

 

「今日こそは物にしてやる! ど素人は引っ込んでろ!」

 

 此方を見る響の目には、以前には見られなかった意志や自信と言ったものが見てとれた。それが何故だか、無性に腹立たしい。

 目の前の少女は、クリスと戦えるなどと思っている。今の自分であれば、クリスと戦いになると。つい先日、相対した際のあれは、とてもではないが戦闘と呼べるものではなかった。だと言うのに、先日とはまるで別人の様に、目の前で闘志を滾らせる少女は一体どういう事だ。

 

 何が変わった? 覚悟か?

 

「そんなもんで、自分が強くなったとのぼせ上がるなッ!!」

「――ッ!!」

 

 全力で振るった鞭を響はフィーネを巻き込まない為か大きく跳躍して躱す。以前はまるで反応できていなかった筈のクリスの全力の鞭を、響は躱してみせた。なんだそれは。この短期間で成長したとでも言うのか。

 驚愕に顔を染めるクリスだったが、着地の瞬間地面を這うパイプに足を取られる響の姿を見て、思い過ごしか? と訝しむ。響の致命的な隙をクリスが見逃す筈もなく、すかさず右手に握った鞭を再び振るう。響の身体に一筋の朱を刻む為に放たれたその一撃は、然して響の身体を傷付けることは無かった。

 

「ヒールが邪魔だッ!」

 

 響はそう叫ぶと同時に両足の踵を地面に叩きつけ、足に纏っていたブーツからヒール部分をパージした。

 そして歌を歌い上げる。何時だったか、響の歌を聴いた蛍が、「勇気の歌」だと評したそれを、全身全霊で奏で上げる。高まるフォニックゲイン。出力を増したガングニールのシンフォギアにより、響はクリスの一撃を無理矢理に()()()()()

 

「何ッ!?」

 

 クリスは響が自分の一撃を受け止めた事に驚き、咄嗟に手にした鞭を引っ張るもまるで巨大な岩石を引っ張っているかの様で、彼女はピクリともしない。次の瞬間、逆にクリスの身体が凄まじい勢いで引っ張られた。何とか脱出しようとするも、鞭はネフシュタンの鎧の肩部装甲から直接延びている為切り離す事は出来ない。抗う事も出来ず、響の攻撃に備え防御の姿勢を整えるクリスだったが、響はクリスが予想だにしていなかった手段に出た。

 あろう事か、響は鞭を握ったままその場で回転し、ハンマー投げの要領でクリスをぶん回した。視界がぐるんぐるんと周り、襲いかかるGと遠心力により、頭に血が上り意識が朦朧としてくるも、歯の根を食いしばり何とかそれに堪える。

 クリスの身体が横ではなく、初めて縦に揺れた。上空から見下ろす様な形で眼下を見遣れば、背負い投げの形で鞭を肩に担ぐ響の姿がある。それがクリスを地面に叩きつける為の動作だと気付いたのは、背中から地面に叩きつけられた後だった。

 

「がはっ!? がっ……ぎっ……!」

 

 背中から伝わる激痛が、クリスの脳を焦がす。固いコンクリートの地面を無様にもがき、のたうち回った。視界にはパチパチと光の粒が見え、明滅を繰り返している。空中を食むも、肺は呼吸の仕方を忘れてしまったかの様に空気を取り込んではくれない。

 追撃は来ない。明滅する視界の端に、響の手を離れ元の長さへと戻る鞭が見えた。さらに、その先、響の後方に立つフィーネの姿を瞳が映った。

 

 その顔は、汚物を見るかの如く侮蔑の色に染まっていた。

 

 ぞくりと背筋が震える。命じた仕事すら満足にこなせないのかとその瞳が雄弁に語っていた。

 クリスは結果を残さなければならない。ネフシュタンの鎧の後遺症で戦場に立てない蛍に代わり、デュランダルを手に入れて、計画を推し進めなければならない。クリスと蛍が望んだ世界の実現の為に。故に、こんな所で足踏みをしてはいられないのだ。

 痛む身体を無視して、クリスは立ち上がる。目の前には、手に入れなければならない物とそれを拒もうとする邪魔者がいる。

 

「ぐっ……痛っ……」

「もうやめよう! その身体じゃ……」

「ハッ、たった一撃決めただけでもう勝った気分ってか。随分と甘く見られたもんだ。ちっとばかし、戦えるようになったからって、調子に乗ってんじゃねぇ!」

「調子に乗ってなんかないッ! 私は、私に出来ることを全力でやってるだけだよ! 翼さんがいない間、私が皆を守るんだ!」

「そのいい子ちゃんぶりが気に入らねぇって言ってんだよッ!!」

 

 クリスは、響に向かって駆け出す。先の攻防で、響が鞭に対する対抗する術を持っている事は分かった。加えて、遠距離から攻撃しようにも、《NIRVANA GEDON》の様な大技は、周囲にガスタンクが乱立するこの場所では誘爆の危険があり、デュランダルの事を考えれば使用出来ない。つまり、ネフシュタン唯一の武装である鞭はこれで封じられたという事だ。

 ならば、やる事は一つである。最後に残る武器は何時だって、自分の拳なのだから。

 対する響は、クリスが接近戦を挑んでくると分かると、左足を引き右半身を前に出しながら、右手を前に突き出し、左手は口に添える様にして構えた。

 

「カンフースターにでもなったつもりか? そんな付け焼き刃でッ!!」

「付け焼き刃でも、刃は刃だよ!」

「あぁ、そうかいッ!! だったら、精々その鍍金が脱げない様にするこったな!!」

 

 ネフシュタンの鎧により齎される膂力を以ってして、クリスはその拳を振るう。繰り出される拳の嵐は、固い地面を砕き、空気を震わせる。当たれば如何なシンフォギアとはいえ、ダメージは避けられないであろう拳打の雨を、時には受け流し、時には受け止め、直撃を避けながら、響は只管に防御に徹する。

 しかし、それでも少しずつではあるものの着実にダメージは積み重なっていたのか、響がガクリと膝を落とした。

 その隙をクリスが見逃す筈もない。右手で手刀を作り、指先までを覆う鋭い爪を持った手甲を槍に見立てて、響の顔へと突き出した。

 

「これでッ!!」

「はああああああああああああ!!」

「ぐっ!?」

 

 響はその一撃を避けた。クリスでさえ必中のタイミングだと確信したその突きを、響は掻い潜る様にして避けると、そのまま右足で大きく踏み込み、クリスの脇へと潜り込んできた。

 

 鉄山靠。

 

 クリスは自分が誘われたのだと気付くと同時に、上半身に響の背中を用いた打撃を受けて吹き飛ばされた。痛みに耐え、空中で態勢を整えると、地面に爪を立て、ガリガリと地に5本の線を刻みながら勢いを殺す。

 ネフシュタンの防御性能のお陰か、ダメージはそれ程ない。だが、クリスの胸中は穏やかではなかった。

 クリスは2年間、戦闘の訓練を受けてきた人間だ。シンフォギアを身に纏っての射撃、格闘は言うに及ばず、ネフシュタンの鎧が起動してからは、シンフォギア程ではないにしても、それなりの時間を訓練に費やしてきた。その自分が、シンフォギアを身に纏ってまだ一ヶ月程度のひよっ子に遅れを取る。これ程、屈辱的な事があるだろうか。

 目の前の此奴は何だ? 本当にあの立花響なのか? 彼女はつい先日まで、碌に戦えないズブの素人だった筈なのに、今ではクリスに膝を着かせる程の成長を見せている。

 胸のガングニールの力ではない。確かに以前と比べ、気迫も闘志も増してはいる。そして彼女が身に纏うのは、そういった意志が篭った歌に応え、出力を増す奇跡を宿した機械仕掛けの鎧だ。だが、あれは出力がどうのこうのといった物ではなく、彼女が身に付けた歴とした技術の賜物だ。学ばねば身に付かない敵を打倒する為の戦う術だ。

 クリスの目には、眼前の響が酷く異端の存在に映った。一朝一夕で身に付く筈がない技術を、この短期間で学び用いる相手を異端と言わずして何と言う。

 クリスは響を異端だと断じると共に、油断して勝てる相手ではないと響の評価を吊り上げる。目の前の此奴は、狩りの獲物でもなければ、行く手を阻む邪魔者でもない。打倒すべき敵だ。

 認めよう。雪音クリスは、この時初めて、立花響を敵だと認識した。

 クリスは、もう響に対して油断もしなければ、慢心もしない。事ここに至って、クリスは、響を翼以上の脅威だと認識していた。

 顔を上げて、前を向く。敵は未だ其処にある。ならば、倒さなければならない。撃ち抜かなくてはならない。任務の為、計画の為、そして、蛍と共に歩む為に。

 しかし、その敵は、クリスを見てはいなかった。彼女の視線の先には、フィーネがいる。いや、そうではない。響の視線は、フィーネが手にしたケースに注がれていた。

 

 ――唐突に、戦場に一つの音が鳴り響いた。

 

 

◇◇◇

 

 

 鉄山靠にて吹き飛ばしたネフシュタンの鎧を身に纏った少女を視界に映しながら、響は残心として深い息を吐き出す。

 上手くいって良かった。響の胸中にあるのは、安堵の念だった。弦十郎を師と仰いで、戦う術を身に付けた響であったが、実戦で中国拳法を試すのは初の事だった。それが成功した事への安心感と、弦十郎と組手をしていてもあまり感じられなかった自身の成長を噛み締める。

 とは言え、勘違いしてはいけない。響の実力が少女の実力を上回った訳ではないのだ。この短期間で響が此処まで少女に対抗出来るようになったのは、一つ種があった。

 それは、弦十郎が響に課した修行というものが、徹底したネフシュタンの鎧対策だったからだ。弦十郎は、翼の絶唱により深手を負った謎のシンフォギア装者への対策を後に回し、前回の戦闘を参考に、ネフシュタンの鎧を身に纏った少女のバトルスタイルを徹底的に分析した。そしてその弦十郎により勝つ為の術を響はこの身に叩き込まれた。その術は大きく分けて二つ。

 

 まず一つは、相手の武器を封じる方法。ネフシュタンの鎧の主武装はあの刺々しい肩部から伸びた鞭である。独特の軌道を描く特殊な武器であり、加えて伸縮が自在という事が非常に厄介だと弦十郎は語っていた。その対策として、弦十郎が響に叩き込んだのは、その鞭を掴む方法である。

 避けるのではなく掴む。弦十郎の見立てでは、あの鞭は肩部と直接繋がっており、他の武器などと違い手放せないことが大きな特徴であり、また弱点でもあると彼は言っていた。そこを突くのだと。一度、鞭を掴んでしまえば、相手の身体を掴んだも同じ事で、そこから引き寄せるなり、振り回すなりは自在であり、一度成功すれば、相手が鞭を使う事への大きな牽制になるのだ。

 修行の大部分は、この特訓に割かれた。まずは相手の武器を封じなければ勝機はないだろうという弦十郎の言葉に従い、響は昼夜を問わず、弦十郎の振るう鞭を掴む特訓に励んだ。

 

 そして二つ目は、近接戦闘の訓練だった。鞭が封じられた以上、相手が取る手段は徒手空拳による近接戦闘か、遠距離からの射撃に限られるのだが、相手は後者を選択しないだろうと弦十郎は語った。

 何故ならば、伸縮自在の鞭というのがそもそも中遠距離の武器であり、ネフシュタンの鎧にはそれ以外の武装が積まれている様子もないからだ。前回の戦闘で響に止めを刺そうとしたあの技こそが、恐らくは飛び道具であるものの、鞭の先端から放たれるという性質上、鞭の軌道さえ分かれば避けるのは不可能ではなく、鞭を素手で受け止める程自身の技が見切られていると分かれば使ってこない筈。故に、相手の行動は徒手空拳による近接戦闘に絞られるのだと。

 未だアームドギアを生成出来ない響に合わせて弦十郎から教わったのは、徒手空拳にて只管に敵の攻撃を耐えて相手の大振りを待ち、それに合わせてカウンターを仕掛けるという一撃に重きを置いた戦闘スタイルだ。防御は地に足を着け、飛び込むなどの大きな動作はせずに、手と足を駆使しなるべく小さな動きで敵の攻撃を防ぐ方法を学んだ。

 これに関しては、完全に弦十郎の趣味であり、教材とした某カンフー映画を参考にしたものだった。攻撃用の技もまた然りだ。

 

 弦十郎の立てた作戦は見事成功したと言える。近接戦闘にて与えたダメージ思いの外、少なかったという事を除けばだが。ネフシュタンの鎧の防御性能を甘く見ていたのか、それとも只単に響の技術の問題なのか、少女へのダメージは思った以上に少ない。これならば、先程の鞭を振り回し地面に叩きつけた時のダメージの方が大きい様に感じる。

 もう一度、同じ手は通用しないだろう。少女が未だ響よりも高みにいるのは確かであり、自分が未熟である事は、他の誰よりも響自身が知っているのだから。

 強くなりたい。目の前の少女に負けないぐらいに。奏の代わりにではなく、自分らしく、翼の隣立てるぐらいに。

 

 不意に、何かに呼ばれた気がして、背後を振り返った。戦場で何を馬鹿な事をと罵られても仕方のない行動だったが、その感覚がどうしても響には無視出来なかった。

 

 振り返り目に入ったのは、不思議そうな顔をした了子。彼女ではない。自然と響の視線は、了子の腕に抱かれたデュランダルの収められたケースに向けられる。

 鈴の様でもあり、鐘の様でもある音が、聴こえた。音はケースの中から響いている。その音に導かれる様に、響は口を開き、喉を震わせた。胸の内から湧き上がる戦慄に乗せ、詞を歌い上げる。それに応える様にして、音がもう一度鳴った。

 

「この反応……まさか!?」

 

 了子から驚きに満ちた声が聞こえる。それでも響はデュランダルから目を離せず、その口もまた歌を紡ぎ続けた。

 ピーピーという警告音と共に、ケースが開いた。中から現れたのは、剣先の欠けた鈍色の剣。ケースから飛び出したデュランダルが、その柄を此方に向けて、まるで握れと言わんばかりに、響の目の前でピタリと宙に浮いて静止した。

 正面では了子が恋する乙女の様なうっとりとした笑みを浮かべている。背後からは、焦りに満ちた少女の静止の声が聞こえる。だが、その全ては今、響の意識の外にあった。

 歌を紡ぎながら、自然と手が伸び、その柄に手が触れた。

 

 ――瞬間、世界が止まった。

 

 誰も彼もが静止した白黒の静寂の中で、響の歌声とデュランダルの放つ音だけが、色鮮やかに輝いている。響の歌声とデュランダルの放つ音が共鳴し、世界を満たす。

 黄金と翡翠の音が混ざり合い、デュランダルを彩った。剣先が再生し、鮮やかな翡翠の紋様が刻まれた黄金の剣が現れる。これが、デュランダルの真の姿。英雄ローランが振るった何者をも切り裂く不滅の刃。その内から溢れ出る神秘は、少女のネフシュタンの鎧に勝るとも劣らない。

 デュランダルが覚醒を果たすと、世界に色が戻り、戦場の喧騒が再び響を包み込んだ。握った柄を通して、溢れんばかりの力が響に流れ出してくる。今の自分であれば、何でも出来る。そんな全能感が湧き上がる。

 

 響はその溢れ出る力に身を任せてしまった。

 響は知らなかったのだ。過ぎた力は、その身を滅ぼすと。

 

 無尽蔵に生み出されるエネルギーが、響の中に流れ込む度に、心の底からドス黒い闇が這い上がってくる。手を離そうにも、デュランダルを握った右腕は、柄を握り込んで吸い付き離れない。

 暗い闇が、響の意識を塗り潰していく。目の前が真っ暗に染まる。全てを壊せと、訴えかけてくる。

 

「違うッ! 違うッ!! 違うッ!!!! 私は壊したいんじゃないッ!!!! 守りたいんだッ!!!!」

 

 黒く染まる心に耐え切れず、口からは悲鳴が漏れる。響が力を求めたのは、壊す為ではなく、誰かをこの手で守る為だ。翼の様に、奏の様に、響はこの力を、守る為に使いたいのだ。

 だが、幾ら叫ぼうとも、心の奥から湧き上がる黒い泥は止まらない。

 

 思い出すのはいつかの情景。

 窓ガラスを割り、投げ込まれる石。

 落書きだらけの教室の机。

 ひそひそと呟かれる誰かの声。

 疲労を隠しきれない母と祖母の寂しい笑顔。

 遠ざかる父の背中。

 

 ――響は、もう、陽だまりを、思い出せなかった。

 

 響の全てが黒に染まる。心も体も魂さえも黒く塗りした破壊衝動は、その力を振るうべき相手を求め、視線を彷徨わせる。

 ふと、背後を振り向けば、其処に敵がいた。ニタリと、笑みが浮かんだ。先ずは、アレを壊そう。その後には了子を、弦十郎を、二課を、学校を、全部全部壊そう。そして最後には、この世界すら壊そう。全部消えて無くなってしまえば良い。

 手にした黄金と翡翠の剣を天に掲げ、その力を解放する。一筋の黄金の光が天を衝き、雲を切り裂き、空を分かつ。

 湧き上がる破壊衝動のままに、全てを切り裂く不滅の刃を振り下ろす。永い時を経て目覚めた遥けき過去の超常の力が、黄金の極光となって、万物悉くを切り裂き、世界に破壊を撒き散らした。

  

 辺りを地獄へと変えた黄金の光と、遠ざかる銀の背中を目に焼き付けて、響の意識は闇に落ちていった。

 




 響を余りにも強く書きすぎたので、響視点でフォローを入れる始末。
 構えは詠春拳なのに、決め技は鉄山靠とはこれ如何に。あと残心は基本的に日本の武術の考え方らしいです。なんという闇鍋っぷり。


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EPISODE 17 「差し出された手」

 窓から射し込む麗らかな春の朝日を身に浴びて、蛍はぼんやりと瞼を開いた。「はふっ……」と自分でもよく分からない寝起き特有の謎の言語を口にして起き上がろうとするも、暖かいシーツの魔力が微睡みとなって蛍に襲いかかってくる。

 少しばかり抵抗してみるも、もう少しぐらい良いだろうかと、蛍はあっさりとその魔力に屈し、再び瞼を閉じて、その手で温もりを手繰り寄せる。しかし、本来あるべき柔らかな二つのマシュマロが何時まで経ってもこの手に収まらない。代わりに手にするのは、すべすべとしたシーツの感覚。違う。これじゃない。確かに、シーツの温もりは蛍を以ってしても抗い難い魔力を放ってはいるが、蛍が求めているのはこの温もりではない。

 

「……あれ?」

 

 何時まで経っても手繰り寄せられない事に業を煮やし、渋々ながら瞳を開くと、そこには真っ白いシーツと枕が目に映るだけで、蛍の探し求めた温もりの姿は何処にもない。

 

「……クリス?」

 

 呼びかけてみるも返事はない。むくりと身体を起こし、部屋の中を見渡してみても、必要最低限の家具が置かれた殺風景な部屋があるだけで、彼女の姿は何処にも見当たらない。

 蛍の朝は、クリスの柔らかな身体に包まれながら至福の時を過ごすというのがお決まりだというのにこれは一体どういう事だ。

 朝日の射し込み具合を見るに、時刻は未だ日が昇って間もない。今日の朝食はクリスの当番である筈だが――最近は身体の不自由な蛍に代わりに専らクリスが家事全般を担っている――朝食の準備にしては少しばかり早過ぎる。

 起き上がろうとすると、足にピシリと痺れが走った。つま先から足の付け根まで痺れが広がり、上手く動かす事が出来ない。それは、未だ蛍を蝕むネフシュタンの後遺症だ。フィーネからはあくまでも一過性のものだと診察されてはいるが、その所為で蛍はここ最近の作戦行動からは除外されている。本来であれば、死んでもおかしくはない程の傷を負ったのだ。この程度の後遺症で済んでいるだけ、マシと考えるべきなのかもしれないが。

 思い通りに動かない自分の足を忌々しく思いながら、蛍はベッドの脇に立て掛けてある杖を手に取り立ち上がった。

 

 何はともあれ、クリスを探さなくてはならないだろう。蛍の朝はクリスの顔を見て、漸く始まるのだから。

 

「キッチン、ではないですね。クリスが料理の為にこんな朝早くに目を覚ますとは考えにくいです」

 

 ぼんやりとした頭を叩き起こし、並列思考にてクリスの居場所について、考えを巡らせる。様々な候補地が蛍の頭の中に現れては消え現れては消えていく。食堂、訓練室、トイレ、バスルーム、フィーネの私室。

 考えてみるも答えは出ない。頭で思考を続けながらも、最早見慣れた大小様々なケーブルが張り巡らされた屋敷の廊下を、蛍は杖をついて四苦八苦しながら歩く。自分の身体が万全であれば、歩き慣れたと言えるその廊下も、今の蛍にとっては数々のトラップが仕掛けられた酷道である。

 普段の倍以上の時間をかけて、候補に上がった場所を訪れてみるも、其処にはやはりクリスの姿はない。ここまで探しても居ないという事は、緊急の任務でも入ったのだろうか? と訝しむんでいると、ふとある場所が蛍の脳裏を過ぎり、足は自然とその場所へと向かい歩き出した。

 

 山陰から顔を覗かせた朝日を反射した湖畔。その湖へと伸びる桟橋の先に彼女は居た。

 

 いつだったか、クリスと一緒に見た蛍の大好きな風景。その風景をクリスが独りで眺めている。その事に少しばかりの不満を覚えた。「誘ってくれればいいのに……」とポツリと呟き、蛍は桟橋の先端に座りぼーっと景色を眺めるクリスの背に向けて歩を進める。

 

「今日は随分と早起きなんですね」

 

 声を掛けながら、クリスの隣に腰を下ろす。すると、クリスは今気付いたと言わんばかりに少し驚いた顔をして、蛍の顔を見る。クリスがこんなに近くに接近するまで、誰かの気配に気付かないというのも珍しい。

 

「ん……あぁ。ちょっと目が覚めちまってな。お前こそあんまり無理すると、体に障るぞ」

「クリスは心配のし過ぎです。ずっとベッドの上じゃあ身体が鈍ってしまいます。只でさえ1週間以上訓練をサボってるんです。これ以上は怠慢です」

「その身体じゃ仕方ねえだろ」

「痺れが残っているのは、下半身ぐらいです。イオノクラフトを使えば、射撃訓練ぐらいなら問題ありませんよ」

「……頼むから大人しくしてくれ。隣でそんな訓練されたら、あたしが集中出来ねえ。大体、フィーネからも大人しくしてろって言われてるんだろ? だったら、今は傷を治す事を優先させろって」

「クリスが頑張っているのに、私一人が楽するわけにはいきません。それに、フィーネの計画の始動が近いです。その時に万全を期せないのでは、今まで何の為に訓練をしてきたのか分からないじゃないですか」

 

 立花響によるデュランダルの起動。あの驚愕の出来事により、フィーネの計画はさらなる加速を果たした。本来であればデュランダルの覚醒は、奪取後に蛍とクリスの2人の歌により励起させる予定だった。ネフシュタンの鎧とソロモンの杖の起動データから、ある程度の時間が掛かることも視野に入れての計画であったが、先日のデュランダル奪取任務の際、響がたった一度の歌でデュランダルを起動せしめた所為で、その計画は脆くも崩れ去った。

 あの後のフィーネは、本当に機嫌が良かった。あれ程機嫌の良いフィーネは、長年共に暮らしてきた蛍でさえも初めて見る程で、デュランダルの奪取に失敗したクリスへのお仕置きも忘れて高笑いしていたと言えば、その異常性は推して知るべしである。

 現在、デュランダルは二課最奥区画アビスに再び収納されている。クリスによる襲撃、及び想定外の覚醒により、移送計画が一時凍結された為だ。これにより、蛍達によるデュランダルの奪取計画もまた一時的に棚上げされる事になった。

 フィーネ曰く、デュランダルが覚醒を果たしているのであれば、現段階で無理に奪う必要はないとの事だ。フィーネがデュランダルの強奪を目論んだのは、蛍とクリスによる覚醒も含めての話であり、それが既に成されているのならば、デュランダルが必要となるのはカディンギル完成後だ。カディンギルが完成してしまえば、フィーネは最早櫻井了子として振る舞う必要はなく、フィーネの協力を得た蛍とクリスならば多少強引な手段によりアビスからデュランダルを盗む程度やってやれない事はない。

 カディンギルの完成度は既に90%を越えている、らしい。カディンギルがどの様なものであるのか、どの様な異端技術が用いられているのか、どの様な場所に建設されているのか。未だフィーネから詳しい情報は与えられていないものの、それがどういったものであるかに蛍はさして興味を持っていなかった。例え詳しく説明されても、異端技術の専門家ではない蛍にはちっとも理解出来ないだろうし、する必要もないだろう。重要なのは、カディンギルが月を――バラルの呪詛を破壊し得る兵器であるというその一点のみ。

 

「立花響によるデュランダルの起動には驚きましたが、此方としては、ある意味僥倖でしたね。あれのお陰で、スケジュールが大分前倒しになったと、フィーネも喜んでいました」

「……そう、だな」

「……まだ彼女に負けた事を気にしているんですか?」

「…………」

「試合に負けて勝負に勝ったというやつですよ。確かにあの時の戦闘はクリスの敗北かもしれません。けれど、それがデュランダルの覚醒に繋がったと思えば、此方にとってはむしろプラスです。だからこそ、フィーネもクリスにお仕置きをしなかったのだと思いますよ?」

「分かってる。分かってるけど、悔しいんだよ」

 

 顔を顰めながらクリスは言葉を漏らす。クリスのそんな表情を見たくはなくて、蛍は更に言葉を重ねていく。

 

「聞けば、立花響は風鳴弦十郎から徹底したネフシュタン対策を教え込まれたそうじゃないですか。風鳴弦十郎は、あのフィーネが直接戦闘を避けろと言う程の人物。そんな彼にピンポイントに対策されては、例えクリスでも手こずるのは仕方のないことですよ」

「でも、ほんの少し前まで碌に戦えもしなかったあいつに……あたしはッ!」

「だとしても、です」

 

 ギリッと握り込んだクリスの拳を、蛍は優しく包み解いていく。爪が食い込んだ痛々しい赤い痕を覆うように、自分の掌を、クリスのそれに重ね合わせ指を絡める。

 

「彼女の実力を見誤っていたのは私も同じです。あれはどうしようもない規格外ですよ。誰にだって予想出来なかった理不尽の塊です」

 

 聖遺物との融合然り、戦闘力の急激な成長然り、デュランダルの起動然り。立花響は蛍の、クリスの、そして何よりフィーネの予想すら悉く覆したイレギュラーだ。

 けれど――。

 

「2人ならきっと大丈夫です」

 

 ぎゅっとクリスの手を握る。指と指の間に自分の指を滑り込ませる。撫でるように指を絡ませる度に、頬を少し赤らめてピクンと震えるクリスが愛らしくて堪らない。やはりクリスはこうでなくては。落ち込んでいる姿なんて、彼女には似合わない。どこまでも真っ直ぐで、自分の感情を隠したくても隠せない程純粋で、直ぐ顔を赤く染めてしまう恥ずかしがり屋なクリスが蛍は大好きなのだ。

 

「こんな後遺症あっという間に治して、直ぐに戦線復帰します。そうしたら、立花響なんて私達2人のコンビネーションでイチコロです」

「……そうだな。あんな付け焼き刃の鍍金装者、あたしとお前なら余裕だな」

「ですよ。私達の歌は、決して彼女に負けたりなんかしません。デュランダルの起動がなんですか。こっちだってソロモンの杖を起動した実績があります。あんなインチキ染みた子に、負けてなんてやるものですか」

「だな。あんな頭の中ぽやぽやした様な奴に、お前と2人で負ける訳ないもんな」

 

 顔を少しばかり赤らめながらニコリと笑うクリスの姿につられて、蛍の顔にも笑みが浮かぶ。もうクリスの前では、蛍の無表情の鎧は殆ど機能していない。基本的には蛍はいつでも無表情の鎧を着込んでいるが、クリスの前では努めてそれを維持しようとは思わなかった。笑いたければ笑うし、泣きたければ泣く。どうしてだか、クリスを相手にするとそれが出来てしまう。もう誰にも見せるものかと決めた小さな自分が、自然と顔を覗かせる。いつの間にか、それ程までにクリスとの距離は縮まっている。

 

 それがとても心地よくて、暖かくて――苦しい。

 

 これだけ近くにいるクリスにも、最後の砦を崩せずにいる自分が歯痒くて、もどかしい。曝け出したい。気づいて欲しい。自分の全てを暴いて欲しい。

 けれど、それを拒否しているのもまた蛍自身なのだ。心の何処かで、クリスを信じていない自分がいる。そんな自分を消し去りたくて堪らない。しかし、その度、あの笑顔がチラつくのだ。自分を捨てた両親の笑顔が。脳裏にこびりついて剥がれない彼らの笑顔が、蛍の願いを押し殺す。

 だが、それももう直ぐ終わる。カディンギルにて月を穿ち、統一言語を取り戻す事によって、人と人が誤解なく分かり合える世界を作り出す。そうすれば、蛍はもうあの笑顔に怯えなくて済む。クリスを心の底から信じられる。

 

「ふふっ、それにしてもこんなにしおらしいクリスは久し振りですね」

「は、はぁ!?」

 

 心の中から染み出す苦い感情を誤魔化す為に、蛍はクリスに揶揄いの言葉を投げかける。いつものやり取り。蛍がからかい、クリスが顔を赤くする。お決まりになったその温かいやり取りが心地良くて、心の底から湧き出した弱い自分に見て見ぬ振りをする。瞳に映るのは彼女の愛らしい姿だけ。今はそれだけでいい。この弱い自分と向き合うのは、もう少しばかり時間が必要だから。

 

「この点だけは立花響に感謝してもいいかもしれません。普段の勝気なクリスも愛らしいですが、しおらしいクリスもこれはこれで……」

「やめろ! お前絶対フィーネに毒されてるぞ! そのニタァって笑い方ほんとやめろ!」

 

 最近の鉄板ネタであるフィーネの真似は今日もクリスに好評だった。必死になってフィーネの真似をやめる様に言ってくるクリスの反応がいじらしい。最近、クリスには「お前の背中に蝙蝠の羽が見える」と言われるが、蛍としてはフィーネの様な大魔王になるつもりは更々ない。偶々フィーネをちょっとばかり参考にしてみたら、思いの外クリスの反応が良かったから続けているだけである。蛍は、フィーネの様な相手に傷を刻む事に喜びを見出す程の苛烈な加虐心は持ち合わせていない。只、クリスに対して少しばかりの悪戯心を持っているだけである。

 

 真っ赤になったクリスの顔は、誰が見ても抜群に可愛らしいのだから仕方がない。仕方がないったら仕方がないのである。

 

 

◇◇◇

 

 

 その日、立花響はご機嫌だった。学生寮へと帰るその足取りは軽く、今にもスキップをしてしまいそうな程だ。親友である小日向未来の誘いを断ってしまった事は心苦しかったものの、埋め合わせはキチンとするつもりであるし、それを差し引いたとしても今の響はここ1ヶ月で最も自分が浮かれている自覚があった。

 

「ふっふっふっ、翼さんに褒められたー!」

 

 翼のマネージャーである緒川慎次から彼女のお見舞いを任された時は、戦場に赴くかの如き心境だったと言うのに、我ながら実に単純だと思うが、憧れの人である翼に褒められた響にとって、そんな感情は全て遠き過去の事である。

 『私が抜けた穴を貴女が良く埋めているという事もね』。翼の言葉を思い出す度に、頬がにやける。あの翼に少なからず認められた。それが今は何よりも嬉しかった。『奏さんの代わりになります!』と今思えば無神経にも程がある言葉を投げかけ、自分の無知さ故にその身を危険に晒させてしまった翼の穴を埋めようと今日まで頑張ってきた。それがあの一言で報われた気がした。決して見返りを求めての行動ではなかったが、それでも誰かに褒められるというのは嬉しいもので、それが翼ともなればその嬉しさも一入だ。

 翼に初めて立花響を見てもらえた気がしたのだ。自分らしく強くなりたいと願い、その為に弦十郎から教えを請い、自分自身の戦い方を模索した。未だ戦う意思や覚悟と言われてもイマイチピンとこないが、それでも誰かを守りたいという自分の根っこを見つめ直すことが出来た。只漠然と、手に入れてしまったシンフォギアという大きな力に振り回されるのではなく、力の意味とそれを振るう理由を再確認した。それを翼が認めてくれたのだと思った。

 加えて、部屋の片付けが出来ないという翼の意外な一面を知り、彼女の事をより身近に感じる事ができる様になった。今までは、学校でも二課でも、凛としていてどこか超然とした雰囲気を纏っていた翼の事を、雲の上の存在だと思っていた。何の取り柄もない自分とは違う、特別で選ばれた人間だと心の何処かで勝手に決めつけていた。だが、それは間違いだった。彼女だって人間なのだ。彼女は決して完璧超人という訳ではなく、自分よりも二つばかり年上の、弱点の一つや二つは持っている、恥ずかしい時には顔を赤らめて俯いてしまう可愛らしい人だった。翼が初めて響の事を見てくれた様に、響もまた今日初めて色眼鏡を外して、風鳴翼という一人の少女と向き合った気がした。

 今日一日で、今まで離れていた翼との距離がぐっと縮まった気がして、何だがとても心がぽかぽかと暖かい。

 

「るんたったーるんたったー」

 

 くるくると回転などしてみたり。友人に見られれば悶死物であるが、人通りが少ない道である事も相まって、今のご機嫌な響は周囲の視線を然程気にせず、気の向くままに手足を動かす。

 

 そんな時、ぶるぶるとポケットの中の携帯電話が震えた。

 

 「う、うぇ!?」と実際に誰かに見られた訳でもないのに動揺が口から飛び出し、あたふたとしながらポケットから携帯電話を取り出す。ディスプレイに表示されるのは、特異災害対策二課の文字。まさか二課の誰かに見られていたのではと首をぶんぶんと左右に振り辺りを見回すも誰かの影を見つける事できな――。

 

「随分とご機嫌じゃねぇか? え?」

 

 ネフシュタンの鎧を身に纏った少女が道路脇の林から飛び出し、響の目の前に着地した。

 少女の急な登場に動揺と先程までの自分の奇行を見られていた羞恥で、首から上が急速に熱を持ち始めるのを感じる。

 

「あな、あな、貴女、な、な、なん――」

「あ? 何でってお前、そりゃ目的は一つだろうが。こちとら、テメエを連れてこいってどやされてるんだ。ここらで決着をつけようじゃねぇか」

「み、み、み、みみみみみ」

「み?」

「………………うわーん!! 見られたー!! もうお嫁にいけないー!!」

「はぁ!? ちょ、おま、敵の前で何トチ狂ってやがる!?」

「うわああああああああ!! 恥ずかしいいいいいい!! なんで私はあんな事をおおおおおお!!」

「聞けよ!! お前何なんだよ!! 少しは緊張感持てよ!! だー! くそ! 調子狂う!」

 

 「もう知るか!!」という少女のやけくそ気味な声と共に、ネフシュタンの鎧に備え付けられた鞭が振るわれる。響が生身な事を考慮してか以前に比べると随分と威力は抑えられている。その一撃を遮二無二飛び込んで回避する。携帯電話が手から零れ落ちたが、流石に拾う余裕はない。

 

「うわわっ、あ、危ないでしょ!!」

「ちっ、お前ホント避けるのだけは上手いな」

「なっ! だけって何さ! この間、私の鉄山靠見事に食らった癖に!」

「はっ、あんなへなちょこタックル痛くも痒くもなかったってぇの!」

「ぐぐぐ……でも、一発は一発だもんね! これでも日々成長してるんだから!」

 

 「いくよ、ガングニール!」と声を上げ、胸に手を当てれば、とくんという音と共に鼓動が高鳴った。胸の内から歌が溢れ出る。湧き上がる詞を歌い上げた。

 

Balwisyall Nescell gungnir tron(喪失へのカウントダウン)

 

 銀の繭が響を包み込み、奇跡を宿した機械仕掛けの鎧が響の全身を覆っていく。身に纏うのは、ガングニールのシンフォギア。かつて、北欧神話の主神オーディンが振るったとされる撃槍。

 橙色の鎧を身に纏い、響は眼前の少女と対峙する。

 

『響くん無事か!!』

「師匠! 大丈夫です!」

 

 ヘッドフォンパーツから聞こえる弦十郎の声に応える。

 市街地が近い。ガングニールとネフシュタンの鎧がぶつかり合えば、関係のない人々を巻き込む危険性がある。思い出すのは、黄金の光。自分が振り下ろしたデュランダルにより破壊が撒き散らされたあの光景。聖遺物とは、あれだけの力を秘めているのだ。無闇やたらと振りかざしていい力ではない。

 まずはここから離れないと。そう結論付けた響は、足に力を込めて先程少女が現れた道路脇の林へと足を向ける。

 「一丁前に挑発してるつもりか!」と追いかけてくるネフシュタンの鎧を身に纏った少女を肩越しに見て、響は木々の隙間を駆け抜けた。

 

「響……?」

 

 その光景を影から見つめていた親友の姿に気が付かずに。

 

 

◇◇◇

 

 

 風を切り裂き迫り来る鞭を、立ち並ぶ木々を天然の障害物として利用し、響は避け続ける。足を止めて、しっかりと少女の動きを注視すれば、鞭を掴む事は出来るかもしれないが、市街地が近いこの場所で本格的な戦闘は避けたい。故に此処は逃げの一手である。

 

「くっそ! ちょこまかと!」

 

 背後からは少女の苛立つ声が聞こえる。響が逃げに徹している上に、周りに立ち並ぶ木々が邪魔で思う様に鞭が振るえていない。少女の振るうネフシュタンの鞭は確かに驚異的な性能を誇っているが、鞭という武器の特性上どうしても一度振り被るという動作が必要となり、その動作中の鞭には大した攻撃力を持たせる事は出来ない。鞭がその最大の威力を発揮するのは、腕を振り下ろした後の引き戻す時である。その引き戻した際のしなりこそが、鞭の先端に音の壁を突破する程の速度を齎すのだ。全て弦十郎の受け売りではあるが、その知識は確かに今の響に確たる恩恵を齎している。源十郎との特訓を日々重ねる響は、鞭を受ける側として確かな成長を遂げていた。

 

 そろそろ良いだろうか。市街地から充分に離れたと確信を持てる場所まで、少女との鬼ごっこを繰り広げた響は、額から流れる汗をそのままに、先程まで全力で駆けていた足を止めて、背後へと振り返った。そんな響の様子を目にした少女は、訝しみながらも攻撃の手を止めて、鞭を振るえる距離を保ちつつ響と対峙した。

 

「鬼ごっこはもうお終いか?」

「ここまで来れば、もう市街地に被害は出ないから」

「あたしを相手取って周りを気にする余裕があるたぁ、随分と成長したじゃねぇか。ちょっと前までは、碌に戦えもしなかったど素人の癖によ」

「無関係な人達を巻き込みたくないから必死なんだよ! 私は守る為に戦うって決めたんだ!」

「……テメエのその砂糖菓子みたいに甘っちょれぇ考えには反吐が出そうになるが、その誰かを守るって考えだけは分からなくもねぇ」

「えっ……」

 

 少女の口から漏れる言葉に、響は思わず耳を疑った。まさかあの少女が――出会えば問答無用で遅いかかって来る――響の言葉を一部分ながらも肯定してくれるとは思わなかったのだ。以前の様に「良い子ちゃんぶりが気に食わねぇ!」と脇目も振らずに襲いかかってくると身構えた響にとって、少女の言葉はまさに寝耳に水であった。

 だが良く良く思い出してみれば、今日に限って少女は出会い頭からいきなり襲いかかって来るのではなく、多少なりとも響と会話を交わそうという気配があった。その違いが何を意味しているのかは分からない。だが、少なくとも、少女の中で響に対する評価が少なからず変化した事は、先の言葉からも窺えた。

 

 誰かを守る。その気持ちが分かると少女は言った。

 

 思い浮かべるのは、あの流星群が降った夜に翼と対峙したもう一人の襲撃者。謎のシンフォギアを身に纏った黒髪の少女――蛍が、響と翼の二人を前にしながらも、目の前の少女と親しげに会話をしていたのは記憶に新しい。あれ以来、蛍が戦場に現れた事はない。翼の絶唱により負った傷の数々は、医学の知識に乏しい響の目を以ってしても重症と呼べるものであり、翼が未だ入院を強いられている様に、彼女もまたあの時の傷が癒えていないのかもしれない。

 

「それって蛍ちゃんの事?」

 

 響の言葉に少女がピクリと反応する。その反応が答えだった。いや、あの夜の光景を思い出してから、答えは既に出ていた。傷だらけの蛍を抱えて叫ぶ彼女の慟哭は、あの時呆然とするしかなかった響の耳にもしっかりと焼き付いていた。蛍、蛍と何度も彼女の名前を必死に呼ぶその姿を見て、少女が蛍と呼ばれたあの子の事を大切に思っていることは、突き刺さる程に伝わってきた。

 敵対している相手だと分かっているのに、それでも少女とは争いたくないと思ってしまう。相手はノイズではない。目の前の少女は、誰かの事を守りたいと、誰かを思い遣る事が出来る同じ人間なのだ。戦うという事に固執し、その術や意味ばかりを考えていただけでは気付けなかった事に、今になって漸く気付く事が出来た。

 

 彼女も人で、私も人。だったら、まずは拳を握るのではなく、言葉を紡ぐべきだったのだ。相対するのではなく、分かり合う為の努力をするべきだったのだ。私達はノイズではない。言葉を紡ぐ事ができる人間なのだから。

 

 故に響は、全身を覆っていた緊張を解きほぐし、息を大きく吸って、言葉を紡いだ。

 

「私は立花響15歳! 誕生日は9月の13日で、血液型はO型! 身長はこの間の測定では157cm、体重はもう少し仲良くなったら教えてあげる! 趣味は人助けで、好きなものはご飯アンドご飯! あと、彼氏居ない歴は年齢と同じ!」

「な、なに? 何を言っていやがる?」

「私のプロフィールだよ! 私は貴女の事をもっと知りたい! でも、人に名前を聞くときは、先ず自分からって言うし、貴女の事を知るだけじゃなくて、貴女に私の事も知ってもらいたい! だから、自己紹介! これが、私――立花響だよ!」

 

 訳が分からないと困惑する少女に向かって、響は更に言葉を続ける。彼女の事を知る為に、彼女に自分を知ってもらう為に。

 分かり合えたと言うにはまだ交わした言葉は少なく、互いの事を理解しているとはとても言えないが、すれ違っていた翼とだって、相手を知る事でお互いに見つめ直す事ができた。自分で勝手にかけていたフィルターを外して、翼という個人を見る事ができた。そしてそれは、多分、翼も同じ。あの病室でお互いがお互いを感じ合えた。そう思う。

 

 だから――。

 

「話し合おうよ! 私達は、戦っちゃいけないんだ! ノイズと違って私達は人間なんだよ! 言葉を紡げる! 話し合える! そうして交わした言葉は、きっと誰か(貴女)に届くから!」

 

 ――私は、貴女と、分かり合いたい!

 

 肩で息をしながら、伝えたい事は言ったと響は目の前の少女を見遣る。戦場で何を馬鹿なことをと思われるからもしれない。それでもと口にしたのは響の心の底からの思い。

 立花響にとっての戦いは、決して誰かを傷付ける為のものではない。何時だって響は、誰か守りたいと思いこの拳を握ってきた。その気持ちが分かると、少女は言った。そんな彼女の事を知りたいと思う。誰かを思い遣る気持ちを持った彼女が、そうまでして戦いの先に何を求めるのか。それはどうしても響達と敵対しなければ成し遂げられないものなのか。もしも、手を拳として交わすのではなく、手と手を繋ぎ絆を紡ぐ事が出来るのならば、響はその道を歩みたいから。

 

「……雪音クリスだ」

 

 唖然と響の言葉を聞いていた少女が躊躇いがちに口を開いた。小さな声だった。遅れてその口から発せられたのが、少女の名前だという事に気付く。

 

「クリスちゃん?」

「ちゃん付けはやめろ」

「や、やったー! クリスちゃんが名前教えてくれたー! ひゃっほう!」

「この馬鹿! 見てるこっちが恥ずかしいからやめろ!」

「うふふー、そっかー、クリスちゃんって言うのかー。クリスちゃん、クリスちゃん、クリスちゃん。よし、覚えたよ。私、あんまり頭は良くないけど、クリスちゃんの名前はしっかりと覚えたから!」

「そういうのをやめろって言ってんだよ!」

 

 雪音クリス。それが少女の名前。顔を覆うバイザー越しにもクリスの顔が朱に染まっていることが分かる。いつも険しい表情しか見せてくれなかったクリスが、初めて見せてくれた彼女らしい一面に頬が緩む。

 実は恥ずかしがり屋なのかもしれない。普段の乱暴な口調と勝気な態度とのギャップに驚くと共に、クリスの事を知る事が出来たという事が嬉しくてたまらない。

 

 その幸せのままに何度も彼女の名前を呼ぶ響だったが、次のクリスの言葉に冷水を浴びせられた様な気がした。

 

「何か勘違いしてそうだから、言っておくけどな。人間は分かり合えねぇよ」

 

 淡々と語るクリスの言葉が、響の熱を冷ます。此方を真っ直ぐと見つめるクリスの瞳が、それが彼女の本音である事を伝えていた。

 

「な、何で? だって、名前教えてくれたのに」

「名前を教えた程度でのぼせ上がるな。名前は、これからの事に必要だと思ったから教えただけだ」

「これからの事? どういう事?」

「お前、あたしと一緒に来い」

 

 にべもなく発せられたのは、勧誘の言葉。クリスが響の事を連れ去ろうとしているのは知っていたが、まさか此処に来て直接誘いの言葉を受けるとは思わなかった。今までは無理矢理に連れ去ろうとしていたのに、今になって響の意思を問うてくるクリスの意図が分からない。予想外の出来事に、響の頭は混乱でグルグルと回る。

 そんな響の様子に気付いたのか、クリスは更なる言葉を重ねていく。

 

「お前はこの世界が理不尽だと思った事はないか?」

 

 クリスの言葉に、ドクンと心臓が跳ねた。心の底にしまいこんだ黒くて醜い感情が顔を覗かせる。

 デュランダルを握った時に思い出した光景が、再び響の意識に映り込む。生き残った事がそんなにいけない事なのか。あの地獄を経験していない赤の他人が、何故響を――響の家族を悪し様に罵るのか。どうして父は、全てに背を向け、響達を置いていってしまったのか。

 ジクリと、黒い感情が、響の心に広がっていく。気付きたくない。認めたくない。けれど、その泥の様にドロリとした黒い感情は、響の心の中に根を張り存在していた。

 

「強者が弱者を虐げる。信じる人に裏切られる。善人ばかりが損をして、それを陰から笑う悪人がいる。この世界は、そんな理不尽に溢れている。人を、人だと思わない様な、畜生ばかりが我が物顔でそこら中にうようよと闊歩してやがる」

「そ、そんなこと……」

「違うって言い切れるか。断言出来るか? 出来ないだろう? 今のお前の顔を見りゃ分かる。お前だってこっち側の人間だ。世界から、理不尽を押し付けられた側の人間だ」

 

 言い返せなかった。響は多少なりとも、クリスの言葉に「そうだ」と感じ入る部分がある事を自覚してしまった。自覚してしまえば、後は堕ちるだけ。この世界への不満が、響の心を満たしていく。

 

「歴史を紐解いてみろ。何時かの時代も、何処かの場所も、争いに満ち満ちていやがる。ずっとずっと昔から、人類は誰かと手を取り合うんじゃなくて、誰かと争うことばかりしてやがる。飽きもせずに、何度も何度も何度も。何でだと思う? 分かり合いたいと、信じ合いたいと願っている奴だっていた筈なのに。何時だって人間は、最後にその手を振り払う」

 

 顔を顰め、世界への怒りを露わに、クリスの言葉は紡がれていく。

 

「人間は分かり合えねぇ。それはどうしようもない事だ。だって、世界がそういう風に作られちまってるんだからな」

「世界が、作られてる……?」

「だから、あたしは――あたし達は、足掻くんだ。人類に科せられた呪いを解く為に。そしていつかあいつと笑い合うんだ」

「それがクリスちゃんのやりたい事?」

「そうだ。あたしは世界を変える。人と人が手を繋ぎ合える世界を作り出す」

 

 クリスが、その手を差し出す。

 

「お前が誰かと本気で分かり合いと思うんなら、あたしと一緒に来い」

 




 クリス「もし あたしの みかたになれば せかいの はんぶんを おまえに やろう」
 違う。そうじゃない。

 本当は今回で原作7話Aパートまで終わらせる予定だったのですが、思ったよりも文量が多くなったので分割しました。予定は所詮予定だと言うことです。



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EPISODE 18 「陽だまりと太陽」

 唐突な未来さん回です。
 難産だった上に、全然話が進まない……何故だ……。

 追記:感想欄で指摘を受け未来の幼馴染設定を中学校→小学校に修正


 小日向未来にとって立花響は一番の親友だ。未来が響と出会ったのは9年前。小学校に入学して、同じクラスになり、直ぐに仲良くなった。切欠は特にない。気が付けば、いつも一緒にいた。しいて言うならば、彼女の側は心地良かった。底抜けに明るくて、彼女が笑えばいつの間にか周囲も笑顔になる。そんな太陽のような人。響はよく未来の事を陽だまりだと評してくれるが、そんな陽だまりをいつも照らしてくれるのは、彼女という太陽だった。

 

 だが、未来はそんな太陽を陰らせてしまった。

 

 2年前、未来が響と出会って7年目、中学校に入学してから迎える最初の冬。響は大怪我を負って長い入院生活を余儀なくされた。未来の所為だった。あの日、未来が響をツヴァイウイングのライブに誘わなければ、盛岡の叔母の所になど行かなければ、あんな事にはならなかったのに。

 ノイズによる襲撃。12874人という多くの人が犠牲になったあのライブでの惨劇は、日本におけるノイズの被害としては過去最大のものであり、連日テレビや新聞で取り上げられた。未来はその報せを初めて知らされた時、自分の足元がガラガラと音を立てて崩れ落ちた気がした。震える手で携帯電話を手にして、何度も何度も響の携帯電話にコールした。けれど、繋がらなかった。今朝にはきちんと繋がり、彼女の声を届けてくれた携帯電話は、無機質なコール音を響かせるばかりだった。響の家にも電話をかけてみたが、それも繋がらない。未来は両親の反対を押し切り、事件があった次の日には1人電車で響の家へと向かった。居ても立っても居られなかった。

 響の家には、彼女の祖母が居た。普段はとても優しい響の祖母が、今にも泣きそうな顔をしているのを見て、未来は目の前が真っ暗になった。滲んだ視界と震える声で、「ごめんなさいごめんなさい」と繰り返す未来に、彼女は「未来ちゃんの所為じゃないわよ」と抱きしめて宥めてくれた。

 響は生きている。嘆くばかりの未来を、響の祖母はそう言って宥めてくれた。響の生存を知り、嬉しさからまた涙が溢れた。しかし、謗られ罵られても仕方ない事をした未来に優しい言葉を掛けてくれた彼女に響の姿を重ねて、未来の嘆きと後悔は更に深まった。

 響の容態が安定し、面会謝絶の文字が病室から剥がされたその日に未来は響を見舞った。病室でベットに寝かされた響を見て視界が滲んだ。驚く彼女の事を他所に、未来はあの日の事を謝った。謝って許される様な事ではない。未来がライブに誘わなければ、響を一人にしなければ、彼女が傷を負うことなどなかったのかもしれないのだから。全て、未来の責任だった。怒って欲しかった。蔑んで欲しかった。罵って欲しかった。未来を罰して欲しかった。けれど、響は、いつもの様に、明るく、太陽の様に微笑んだのだ。

 

「未来の責任じゃないよ。こんな事で未来を嫌いになったりなんてしない。小日向未来は、今までもこれからも、ずーっと私にとっての陽だまりだよ!」

 

 その言葉を聞いて、未来は恥も外聞もなく彼女の病室で大泣きした。陽だまりだと――友達だと響が言ってくれた。たったそれだけの事なのに、その時の未来には、それが何より尊いものに思えて、声をあげて響に泣きついた。その時、決めたのだ。これから先、何があっても、この子の側に居ようと。罪の意識でもなければ、責任感でもない。そんな後ろめたいものではなく、立花響という一人の少女の存在が、眩しくて、暖かくて。

 

 響の言葉で漸く落ち着きを取り戻すと、泣き喚いていた自分が恥ずかしくなり、それを誤魔化す為にお見舞いの品を差し出した。普段であれば、花より団子の響であるから、お見舞いの品は果物にしたと言えば、プリプリと怒りながらも「流石未来は私の事をよく分かってるぅ!」と笑ったので、未来は瞳を拭って笑って見せた。

 

 その日から、未来はずっと響の側に居続けた。響が苦しいリハビリに励んでいる時も、退院して学校に彼女の居場所がなくなった時も、近所の人々が彼女の家族に対し腫れ物を扱う様に接し始めた時も、あの惨劇で亡くなった人々の遺族が響を口汚く罵り彼女の家に石を投げ込んだ時も、彼女の父親が響を置いて逃げ出した時も。

 何時だって、何処だって、小日向未来は、立花響の陽だまりであり続けた。それがあの病室で決めた小日向未来の在り方で、生き方だったから。

 

 健やかなる時も、病める時も、富める時も、貧しい時も、響を愛し、響を敬い、響を慰め、響を助け、この命ある限り、真心を尽くす。

 

 まるで、結婚式の誓いの言葉。けれど、其処に迷いもなければ恥じらいもない。小日向未来にとって立花響は太陽で。そんな彼女が、未来の事を陽だまりだと呼ぶのだ。響の側にいる事が、未来の当たり前になり、日常になった。

 

 あの事件の後、響は人助けに力を注いでいた。元々、響は誰かと競い合う事が得意ではなく、自分の事を平凡だと卑下することが時々あった。その度に、そんな事はないと、未来は声を大にして反論したが、響は「未来は優しいなぁ」と微笑むばかりだった。

 勉強もスポーツもそれ程得意ではない響が、誰かと競い合うことなく出来ること。それが人助け。響のたった一つの趣味。別に競い合う必要のないことなんて、人助け以外にも沢山ある。だと言うのに、何故人助けなのかと、一度だけ聞いたことがある。未来の疑問に響は、恥ずかしそうに顔を赤らめながら、ポツリポツリとその理由を語ってくれた。

 

「あの日、私はある人に救ってもらったの。命を賭けて、見ず知らずの私を助けてくれた。あのライブ会場でその人だけじゃなくて、他にも沢山の人が亡くなった。でも、私は生き残って、今日もこうして笑ったり、ご飯を食べたり、未来と過ごせてる。だから、せめて、誰かの役に立ちたいんだ。明日にまた、笑ったり、ご飯を食べたり、大事な誰かと過ごしたいから――人助けをしたいんだ」

 

 そんな事を言われては、未来は何も言えなくなってしまった。未来もまた、響に救ってもらった一人だったから。それからは、響自身の身を顧みない余りにも行き過ぎた行動こそ咎めたものの、基本的には響の人助けを特に止めなくなった。それは決して、咎めるべきものではなく、その無償の献身は彼女の美徳なのだと気付いたから。他者はそれを偽善と呼ぶのかもしれないけれど、少なくとも一人、その偽善に救われた人がいる。そこに真贋は関係ない。残るのは、響によって救われた人は確かにいるという純然たる事実のみ。だったら、それはきっと正義だろうが、偽善だろうが、尊ぶべきものだ。それを否定することなんて、誰にもさせない。未来がそれを許さない。有象無象が立花響を否定をしようとも、小日向未来は立花響を肯定し続ける。

 

 人助けと言って、平気で授業に遅刻する少し抜けた部分のある響を甲斐甲斐しくサポートする様になった。未来が部活の記録に伸び悩んだ時には、自分の事の様に悩んでくれた響の事を愛しく思った。響が、響らしくある事が、未来の何よりの喜びだった。

 順風満帆とは言えず、辛く悲しいことも多々あったが、それでも共に青春を謳歌した中学を卒業し、地元を離れて県外の高校に進学した。

 

 当然、進学先は一緒である。私立リディアン音楽院。設立こそ10年前と確固とした歴史こそないものの、海を臨むその真新しい校舎は美しく、最新の設備を整えた学校だと全国的に有名な音楽学校だ。基本的には小中高の一貫教育を掲げているが、中等科、高等科への切り替え時に外部の生徒を募集する。響と2人でその外部進学枠に滑り込んだ。

 この学園を選んだのは、未来ではなく響だ。確かに響は歌う事が好きだったが、声楽を詳しく学んでいる訳でもなく、未来の様に過去に楽器――未来の場合はピアノである――を学んでいた訳でもない。加えてリディアンは特に音楽教育に力を注いでおり、一般高校の様に普通科や商業科といった一般教科ではなく、声楽科やピアノ科、ヴァイオリン科といった音楽の専門的な知識を学ぶ意味合いの強い学校だった。言ってしまえば、将来的に音大を志す様な女子達が通う学園なのだ。

 そんな学校に何故と問えば、響は「翼さんが通っているの!」と目を輝かせて答えた事を覚えている。確かに響はあのライブ以降、風鳴翼の――もっと言えばツヴァイウイングの――熱狂的なファンになった。あんな出来事があったのにも関わらず、響は彼女達の歌をいたく気に入っており、新曲が発売されるとなれば発売日に店頭に赴き、ダウンロード販売が全盛のこのご時勢に特典目当てでCDを買う程だ。

 であれば、翼が在籍するタレントコースに通うのかと問えば、両手をアワアワと振りながら「わ、私が芸能人になんてなれる訳ないよ!」と顔を赤くするのだ。もしも、響がタレントコースを志すと言うのであれば、全力でサポートする心算であったが、響の答えにほっとすると共に、煌びやかな衣装に身を包んだ響を想像して少しばかり残念に思った事は一生の秘密だ。

 響が行くというのであれば、未来は何処にだってついて行くつもりだった。これでは翼に憧れて学校を選んだ響と大差ないなと自嘲したことは今でも覚えている。

 

 響から大まかな概要こそ伝えられたものの、自分も通うとなれば、更に詳しい情報が必要だと、パンフレットを取り寄せ、学校のホームページを熟読した。その過程で、響がリディアンを選んだ本当の理由を知った。

 

 リディアンは学費がとても安い。普通の私立高校とは比べるまでもなく、公立高校と比べてもかなり安いというのだから驚きである。加えて、遠方の学生には家賃無料の学生寮まで完備しており、至れり尽くせりだった。

 響の家は、決して裕福ではない。その家計状況ははっきりと言ってしまえば、貧乏とも呼べるものだった。元々がそうであった訳ではない。それもやはり、あの惨劇が原因だった。響の手術代や入院費用は莫大であり、それはノイズ被害者に配給される政府からの補償金が出たとしても、一般家庭には重い負担だった。加えて、立花家の稼ぎ頭であった響の父である洸が、家族を捨て失踪したことも大きく影響していた。今では、響の母が土日を問わずに働き家計を支えている。響は確かに天然で抜けた部分もあるが、決して馬鹿ではない。自分の家の家計が厳しいことだって、彼女は理解していた。翼と同じ学校に通いたいという気持ちが嘘だとは言わないが、恐らく響にとって、リディアンを志した理由は学費の安さが大部分を占めている。

 それを口にしなかったのは、多分、響の優しさだ。未だ未来があの日の責任を感じている事に響は気付いているのだろう。口にすれば、未来が気にすると分かっているから、あえて翼の事を理由としてあげたのだ。そんな響の気遣いに胸が熱くなり、絶対に彼女について行こうと決意を新たにした。

 同じ寮に入り、ルームメイトとして響と2人での共同生活はまるで夢の様な生活だった。食事も、お風呂も、ベッドも全てが、響と一緒の生活。親に無理を押し通して、リディアンに入学した甲斐があったというものだ。

 

 しかし、そんな響との生活は長くは続かなかった。リディアンに入学して、漸く生活にも慣れ始めた時分――リディアンの近郊にノイズが頻繁に現れる様になった頃から、突然響の様子がおかしくなった。

 

 朝はいつの間にかベッドから抜け出し、帰宅は寮の門限を過ぎてからなんて事を繰り返した。授業も頻繁に抜け出し、放課後の友人との付き合いも悪くなった。

 誰かと畏まった口調で、頻繁に電話で連絡を取り合っていたから、初めはバイトでも始めたのかと思った。響の家庭事情を考えれば、バイトをしてお金を稼ぎたいという気持ちは理解できた。しかし、リディアンでは基本的にバイトは校則で禁止されていたから、もし、本当にバイトを始めたのだとすれば、きちんと学校側に事情を説明し許可を貰うべきだと言うつもりだった。だが、よくよく観察して見れば、どうにもそうではないらしい。

 次に思い描いたのは、自分でもどうかと思うが、万が一、いや億が一、いや那由多の彼方にミジンコレベルで存在する程度の確率ではあるが、響に――彼氏が出来た、とか。リディアンは女子校で、響は寮生活であるし、未来も常々目を光らせているので、男子との出会いなど皆無である筈だが、響は世界一可愛らしいし、もしかして、もしかするとという可能性も捨て切れなかった。だが、朝昼晩と引っ切り無しに呼び出す男などきっと碌でもないに違いない。少しばかりお話しなければならないだろう。とはいえ、響がオシャレに気を使い始めるだとかそういった兆候は見られないので、恐らくこの可能性もない。

 

 色々と悩み一ヶ月程が過ぎた。そして今日、私はその理由を知った。

 

 まるでアニメやマンガに出てくる様な銀色の鎧を身に纏った少女と対峙する響は、少女のそれと比べて何処か機械的なパーツが四肢に散在する橙色のスーツを身に纏っている。

 これは果たして現実なのだろうか。風鳴翼の病室で、彼女と響が楽しげに会話をしていたことのショックを引き摺り、荒唐無稽な幻を見ているのではないかと頬をつねってみるも、伝わってくる確かな痛みが、これは現実だと未来の疑心を揺さぶった。

 響が道路脇の林へと姿を消し、少女も響を追いかけ姿を消す。続いて、林の中から響くのは断続的な破壊音。

 先程まで響が立っていた場所に目を向ければ、コンクリートの地面を無理矢理に抉り取ったかの様な一筋の跡。その脇に、響の携帯電話が落ちている。駆け足でそれを拾い上げ、ディスプレイを覗き込めば通話中の文字。表示された連絡先は「特異災害対策機動部ニ課」という見慣れない文字。スピーカーから微かに漏れ聞こえる誰かの声に、未来は震える手で携帯電話を耳に添わせた。

 

『響ちゃん、交戦に入りました。現在、市街地を避けて移動中』

『そのままトレースをしつつ、映像記録を照会! 絶対に見失うなよ!』

 

 聞きなれない女性と男性の声が、訳の分からない事をずっと喋り続けている。その内容は、重要ではない。未来の耳に届いたのは、「響ちゃん」という親友の名前だけだ。やはりあれは響なのだ。他人の空似でもなければ、未来の空想でもない。立花響という世界で一番大切な未来の親友が此処に居た。

 

「……響。やっぱりあれは響なんだ」

『これは響ちゃんの携帯から? 司令、付近に一般人が! 貴女、そこを動かないで! 直ぐに救助――』

 

 スピーカーから聞こえる若い女性の声を最後まで聞かずに携帯電話を閉じて、ポケットに仕舞い込む。

 足は自然と、未だ鳴り止まない破壊の音へと向いていた。舗装されたコンクリートの地面を蹴り、草木が生い茂る雑木林へと駆け出した。危険なんて百も承知だ。だが、響が彼処にいる。ならば危険は、未来が足を止める理由にはなり得ない。

 誰かと争うなんて、響が最も厭う事を何故彼女がしているのか。あんな響を未来は知らない。ずっと側にいたのに、彼女があんな事をしているなんて未来は思ってもみなかった。

 

 恐い。響が遠くに行ってしまう。嫌だ。私を置いて行かないで。

 

 空気を震わせる鋭い音と、それにより引き起こされたであろう破壊の爪痕を道標として、未来は林の中を駆けていく。ローファーが走り辛くて仕方がない。陸上競技用の運動靴をこんなに恋しいと思ったことは初めてだった。生え茂った草と地面から顔を覗かせる木の根に何度も足を盗られそうになる。まだ一ヶ月程度しか着ていない新品同然だったリディアンの制服は、枝に引っ掛けたのか所々が解れ、葉っぱ塗れの無惨な姿になっている。手入れを欠かしていないローファーは土に塗れ、光沢を失っている。だが、未来はそんな自分の姿を気にも留めなかった。未来の心の内にあるのは、響を遠くに感じる恐怖心。響が自分の知らない何処か遠くへ行ってしまうという強迫観念にも似た思いが、焦燥の念へと転じて未来の身体を突き動かす。

 

「はぁ……はぁ……響……響!」

 

 いつの間にか、破壊音が止んでいる。まさか響の身に何かあったのではとは、更なる焦りが未来の胸中を焦がし荒ぶらせた。

 なぎ倒された木々と引き裂かれた地面を頼りに足を動かしていると、誰かの声が聞こえた。その声に導かれる様に進めば、其処には先程の様に向かい合って対峙する響と少女の姿があった。

 

「話し合おうよ! 私達は、戦っちゃいけないんだ! ノイズと違って私達は人間なんだよ! 言葉を紡げる! 話し合える! そうして交わした言葉は、きっと誰か(貴女)に届くから!」

 

 真っ直ぐに少女の瞳を見つめて、響は言葉を紡ぐ。それは疑うまでもなく、立花響の本気の想い。その言葉を聞いて、未来は自分の思い違いを恥じた。響は変わってなどいなかった。他者を思い遣り、優しく強い、決して諦めない強い貴女。あの惨劇の後、周りにどれだけ虐げられても変わることのなかった立花響の在り方は今も枯れずに、彼女の心を形作っている。

 少女の名を知り――響も初めて知ったらしい――浮かれた声を上げる響。そのはしゃぎっぷりに少しばかり胸がモヤモヤするのを感じるものの、今は胸の取っ掛かりが取れた安堵に浸りたかった。

 何故そんなアニメみたいな服装をして、こんなとんでもない事態に巻き込まれているのかだとか、特異災害対策機動部ニ課とは何なのかだとか、風鳴翼や銀色の鎧を身に纏った少女とはどういった関係なのかだとか、勿論後々問いたださなければならない事は多いが、多分どんな理由だろうと未来は受け入れるのだろう。例えどんな姿をしていようとも響は響であり、彼女が彼女らしくいてくれるならば、未来はそれで十分だった。

 

 だからこそ、続くクリスの鋭い声を未来が受け入れるなど到底無理な話だった。

 

 クリス曰く、人間は分かり合えない。この世界は理不尽で、人は誰かと手を取り合うのではなく、誰かと争いあう事を運命付けられている。強者が弱者を虐げ、信じた人には裏切られて、善人ばかりが馬鹿を見る。世界は変わらず、昔からそうあり続けている。

 確かにそうだ。人の歴史は争いの歴史と良く揶揄される様に、遥か昔から人は愚かな争いをずっと続けてきた。けれど、それは果たして人と人が分かり合えないという事とイコールなのか。否、断じて否だ。

 だって、それを認めてしまったら、今までの響を否定する事になる。誰かの為にと人助けに精を出し、何でもない日常の尊さを誰よりも知っている響が間違っていたとは未来にはどうしても思えない。少なくとも、そうして未来は響に救われ、彼女の手を握ったのだから。

 

「響!!」

「未来!? 何で此処に!?」

「聴きたいのはこっちよ! 後できっちり全部聴かせてもらうから覚悟しておきなさい!」

「ひぅ! 未来が怒ってる!?」

「当たり前でしょ! 響、あの子の言葉に飲まれかけてたでしょ? そんなに簡単にあの子の言葉を信じてどうするの!」

「ご、ごめんない!」

 

 クリスが響に差し出した手を遮る様に、未来は両手を広げて2人の間に飛び出した。驚く響を他所に、いきなり現れた未来を警戒するクリスと向き合う。

 

「お前……誰だ。二課の連中の仲間か? いや、それにしちゃ若過ぎる。それにその制服、リディアンの生徒か」

「そうよ。私は小日向未来。立花響の親友よ。ニ課って人達は知らない。私は、響や貴女みたいな特別な力なんて持ってない。只の一般人よ」

「……で? その一般人とやらが、戦場にのこのこと出てきて、一体何の用だ」

「一つは、今にも貴女の手を握り返しそうになっていた私の親友を止める為。もう一つは、少し前から貴女と響の会話を聞いていて、どうしても言いたい事があるから出てきたの」

「生まれたばっかりの子鹿みたいな足で、随分と大層な事を言うじゃねぇか。……良いぜ。聴いてやる。テメエがそうまでして、言いたい事ってやつをな」

 

 クリスの言う通りだ。未来の足はプルプルと震えて、正直、立っているだけで精一杯だ。目の前の少女が怖い。クリスが身に纏った銀色の鎧、その肩から伸びる刺々しい鞭は、未来の身体よりも太い木々を軽々なぎ倒し、固いコンクリートの地面を抉り取った。もし、アレが自分に向けて振るわれたらと考えるだけで背筋が震え、額に大量の嫌な汗が浮かび上がる。

 それでもこの恐怖に屈する訳にはいかない。背中からは「未来……」と驚きと不安と心配がごちゃ混ぜになった親友の声が聴こえる。彼女の存在が未来に恐怖に立ち向かう勇気をくれる。

 だから、伝えよう。目の前の少女にこの胸の想いを届けよう。彼女の様に。立花響は小日向未来にとっての太陽で、小日向未来は立花響に照らされた陽だまりなのだから。

 

「私は響を信じてる!!!!」

 

 人は人を完全に信じることが出来ない。それは当たり前の事だ。だって、分かり合いたいと願う誰かはどうしたって自分とは別の人間なのだから。考え方も違えば、趣味嗜好だって違う。完全に一緒な人間なんてこの世には存在しない。そんな人間を完全に信頼するなんて、土台無理な話だ。未来だって響の全てを理解している訳ではないし、それは響にも言える話で、響だって未来の全てを知っている訳ではない。お互いに隠し事だってあるし、嘘を吐く事もある。

 他人を完全に理解できるなんて考えこそが傲慢なのだ。それは出来なくて当たり前の事で、でも、だからこそ、未来も響も相手を思い遣る事が出来る。理解出来ないからこそ、相手の事を考える努力をして、お互いを尊重し、手を取り合い、笑い合える。そうやって相手を理解しようとする自分を信じるのだ。

 この暖かさは、相手を思い遣ってこそ生まれたものだ。手を繋いで、笑い合って紡いだ未来と響の掛け替えのない絆だ。

 

「確かに、不安になる事もあるし、喧嘩をした事だって一度やニ度じゃない。けど、その度に私と響はお互いの手を取り合った。最後には笑い合えた。その時に感じた暖かさは心地良かった。例えお互いを完全に理解し合えなくても、人はそんな優しい気持ちを胸に抱く事が出来る。だから、私はこの胸の想いを信じるの!」

 

 拳を握り込んで、前を向く。堂々と真っ直ぐに。言葉を紡ぐ。

 

「世界は貴女が思っている程、冷たくもなければ、理不尽でもない! 世界には悲しくて辛い事も沢山あるけど、それと同じ位明るくて楽しい事に溢れてる! 私と響の世界は――何でもない日常は、あったかくて眩しいんだから!」

 

 クリスは何も言わなかった。顔を俯け未来の言葉を黙って最後まで聴いていた。下を向いた彼女の表情は見えない。けれど、その拳がわなわなと震えている。誰かと手を繋ぎたいから世界を変えると語ったクリスは、未来の言葉を聴いてどう思うのか。未来は静かにクリスの言葉を待った。

 顔を上げたクリスは、一度だけくしゃっと顔を歪めて、泣きそうな顔で何処かを見た。その眼差しは遠くにいる誰かを見つめる様で。漠然とその視線の先には、クリスが手を繋ぎたい誰が居るのだと分かった。クリスの唇が小さく動き、「蛍」と未来が知らない誰かの名前を呼ぶ。

 クリスがもう一度、此方に目を向けた時、その眼差しはもう先程までの弱々しいものではなかった。涙の代わりに込められたのは、燃え上がる憤怒の炎。全身から激情を滾らせたクリスに睨まれて、未来はビクンと身体が震えた。

 

「お前たちはいつもそうだ」

 

 ポツリと地の底から這う様な声が、クリスの口から溢れる。

 

「そうやって正しさを振りかざして、そう在ろうとしてるのに、それが出来ない奴のことなんざ気にも留めない。あたし達が求めて止まないものを易々と見せ付けてきやがる」

「そんな……私は……!」

「気に入らねえ! 気に入らねえッ! 気に入らねえッ!! 気に入らねえッ!!!! 暖かさを失った事もない癖にペラペラと知った風に口にするお前があああああああ!!!!」

「――ッ!? 未来、危ない!!」

「ぶっ飛べよッ!! アーマーパージだッ!!」

 

 クリスの叫び声と共に、未来は響に抱き抱えられて地面に押し倒される。その直後、激しい閃光と共に、クリスが身に纏っていた銀色の鎧が弾け散び、無数の弾丸となって未来と響に襲いかかった。

 迫り来る銀の欠片を前にして、未来は響に抱きつき、目を瞑った。しかし、待てども待てども、その痛みはやってこない。不思議に思い、固く瞑っていた瞳を薄く開けば、未来の目の前には2人を守る様にして大きな壁が立ち塞がっていた。

 

「……盾?」

「――剣だッ!」

 

 漏れ出た声に答えが返ってきた。何処かで聞いたことのある凛とした声に視線を上げれば、其処には夕日を背にした蒼い人影。響のスーツと何処か似ている蒼いスーツを身に纏い、まるで刀の様に凛と佇む風鳴翼が其処に居た。

 




 あれ? 未来さん神獣鏡使ってないよね?
 未来さんの愛が重い……。

 シンフォギア二次小説で書いてみたかった台詞ナンバー3には入る「盾?」「剣だ!」のやり取りが出来て満足です。

 響の壮絶な過去に関しては、公式HPの用語集に書かれているので、読んだことのない方は是非。アニメ本編では、ぼやかされていた響の過去が、結構詳しく載っています。


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EPISODE 19 「銃と、拳と、剣と」 

 詰め込みに詰め込みを重ねて、気付けば過去最多の18500字。本当は分割しようかとも思ったのですが、文字数の関係から上手いこと区切ることが出来なかったので1話分として投稿します。なので、今回は普段の2倍近い文量で、増し増しをお送りします。

 蛍の霊圧が、消えた……?


 クリスが激情と共に撃ち放ったネフシュタンの鎧は、上空から現れた巨大な剣により防がれた。ネフシュタンの鎧を無理矢理に解き放った代償として一糸纏わぬ姿となったクリスは、駆られる激情からか、恥部を隠そうともせずに憎々しげな視線を巨大な剣の柄頭に佇む乱入者――風鳴翼へと向ける。

 

「死に体がッ! 邪魔をするなッ!」

「もう何も失うものかと決めたのだ。仲間の危機に臥せっているなど、風鳴翼が出来よう筈もない!」

「テメエも其処の女も、皆皆邪魔なんだよ! あたしと蛍の邪魔をする奴は一切合切撃ち貫いてやる!」

「頼みのネフシュタンを脱ぎ捨てた今の貴様に何が出来る。裸の王が張る虚勢で怯むなどとは思うてくれるな!」

「ハッ! 裸! 裸だと!? 今のあたしが、テメエには裸に見えるのか! 鳥目になるには、少しばかりお天道様が眩しすぎんぞ!」

「何を世迷言を!」

「幸い今日は使って良いと言われている。だから、目に物見せてくれる! その目ん玉かっぽじって特と見晒せッ!」

 

 クリスが握った拳の力を少しばかり弱めると、その掌から、紐に繋がれた赤い結晶が零れ落ちた。夕日を反射して爛々と輝くその赤い結晶は、今のクリスの心の内を現すかの如く、その赤を炎のように燃え上がらせている。

 それを見て、「馬鹿な!? まさかそれは!?」と驚愕に目を見開く翼を余所に、クリスは両手で紐を握り締め、胸の高さまで上げた腕を真っ直ぐに伸ばす。

 歌い上げるのは聖詠。眼前の敵を――クリスと蛍の夢を妨げる敵を撃ち貫く力をと祈りを込めて喉を震わせる。

 

Killter Ichaival tron(銃爪にかけた指で夢をなぞる)

 

 白銀の繭が辺りを眩く照らし、クリスに超常の力を齎す。何百、何千と見たその光の奔流に身を任せ、クリスはその身に真紅の鎧を身に纏う。頭部には(いかめ)しいヘッドギア、胸部を強調した赤と白のボディスーツがピッタリと肌に張り付き、腰部背面には鋭く尖った菱形のアタッチメント、太腿にはスカートにも見える丸みを帯びた装甲。

 少しばかり可愛げが過ぎると何度となく思った――何故か蛍とフィーネには大絶賛された――イチイバルのシンフォギアが、クリスの身を包んでいく。

 

「見せてやる。これがあたしの本当の力――イチイバルのシンフォギアだッ!」

 

 クリスは叫ぶと共に両手の手甲を変形させ、アームドギアを2梃の巨大な三連ガトリング砲として出現させる。銃身は1梃につき2門。計4門12もの銃口が一斉に火を放ち、翼を打ち貫かんとその火線を天へと向けた。

 

《BILLION MAIDEN》

 

「イチイバルだと!? 失われた第二号聖遺物までもが、敵の手に落ちていたというのか!?」

「こいつが本物かどうかは、その身で確かめてみろッ! 蜂の巣にしてやるッ! 10億連発ッ!」

 

 銃口を向けられた翼は堪らず柄頭を蹴り宙へと身を翻すと、手にした刀と脚部スラスターを駆使して、殺到する銃弾を捌き躱す。

 

「くっ、立花! 貴女は早くその子を安全な場所へ!」

「でも、翼さんまだ身体が!」

「えぇ、私も十全ではない。だから、待ってる。……その、なんだ、頼りしているぞ、立花」

「――ッ!! は、はいッ!! 最速で、最短で、真っ直ぐに、一直線に戻ってきますッ!!」

 

 未だ大地に佇む大剣の前に着地した翼が、大剣を隔てて向こう側にいる響に向けて声を上げる。頼りにしている。翼にそう言われて、嬉しそうに声を返す響に、またクリスの苛立ちが増す。

 そのクリスの怒りを体現するように、12もの銃口が激しいマズルフラッシュを放ち、更なる弾丸の雨を降らせる。

 

「大人しく病院のベットで寝ていれば良いものを。そんな身体で戦場に出てきてまで見せつけてくれるな! どこまでも人の神経を逆撫でする!」

「生憎と、加減が出来る程傷が癒えていないのでな。仲間を頼りして何が悪い」

「馬鹿にして! ベッドに――いや、地獄に叩き送ってやるから、閻魔様への挨拶を考えとけ!」

 

 殺到する銃弾の嵐を、翼はその火線から逃れることで的確に躱していく。先の「十全ではない」という翼の言葉が嘘に思える程その動きはしなやかで、羽のように軽やかだ。銃弾は翼の身に只の一つも届くことなく、周囲の木々や地面にばかりその破壊の爪痕を残す。以前の蛍との戦闘の時よりも格段に動きが良くなっている。今の翼にはあの時にあった固さや焦りといったものがまるで見られない。

 取り回しの重いガトリング砲では埒が開かないと、クリスはアームドギアをクロスボウへと変形させる。シンフォギアのエネルギーを基に生成された桃色の弦に、同じく生成された大量の矢をあてがい放つ。弓形を描きながら放たれた矢は、曲がる矢に驚きながらも足を止め両手で刀を持ち直した翼に全て斬り伏せられる。

 

「テメエ……何が十全ではない、だ。三味線を弾きやがって。前より動きが良くなってるじゃねぇか」

「不思議と身体が軽くてな。存外、背中を預けられる仲間が居るというのは良いものだな。奏を失って、意固地になっていた私は、そんな事すら忘れてしまっていたらしい」

 

 そうだ。この動きは、今までの翼の動きではない。2年前、まだ彼女の片翼であった天羽奏が生きていた頃の動きに良く似ている。風のように戦場を疾く駆け、羽のように軽やかに舞い、立ち塞がるノイズの悉くをその手に握った刀で斬り伏せたあの頃の翼の動き。片翼をもがれ只の固い剣に成り下がった今までの翼とは似ても似つかぬ鮮やかな動きに、クリスは相手の認識を改める。今の翼は、クリス本来の力であるイチイバルを身に纏ったとしても、打倒し難い強敵だ。死に体などと、侮ることはもうしない。故に、クリスは、己が切り札の一つを敵に晒すことを決めた。

 

「だとしても、あたしとイチイバルに勝てるなどと思い上がるなッ!」

 

 再び両手に握ったクロスボウに矢を番え放つ。敢えて、狙いを甘くしたその矢を、クリスの想定通りスラスターを吹かし前へと突進することにより翼は回避する。

 翼が身に纏った天羽々斬(アメノハバキリ)は、その基になった聖遺物が剣という近接武器である事に加え、翼が近距離での高速戦闘というバトルスタイルを好むが故に遠距離での攻撃手段が乏しい。反して、クリスのイチイバルは、近距離装備がほぼ存在しない代わりに、豊富な遠距離武器による面制圧こそが持ち味である。近づきたい翼と、近づけさせたくないクリス。どちらもお互いの得意な距離での戦闘を狙い、そうはさせまいと相手はその動きを妨げる。それは当然の動きだ。己の領域で戦った方が、圧倒的に有利なのだから。

 だが、クリスは、敢えて翼を近づける。戦闘のセオリーを無視して、翼の領域へとその身を投げ出す。脚部スラスターの推進力を以ってして、圧倒的な加速により翼がクリスの眼前へと迫る。

 振りかぶられる刀。シンフォギアが齎す超人的な膂力と、翼の持つ研ぎ澄まされた技量により放たれた刃が、神速の風となってクリスに振り下ろされた。

 遠距離こそが己の距離であるクリスが、近距離戦闘の達人である翼に近づかれた時点で本来であれば必敗は確実。此処から再び距離を離す手段をクリスは持ち合わせておらず、もし、何があったとしても、翼が易々とそれを許す筈もない。故に、本来であればこの状況、クリスは詰みである。

 だが、クリスは望んでこの状況を作り出した。それは、つまり、近距離であろうともクリスは翼に劣らないという事の証左である。

 クロスボウを手放し、新たな武器をその手に握る。新たに握るアームドギアは、2挺のマシンピストル。この2挺こそが勝利の鍵。クリスのとっておきだ。

 

 迫り来る鋒を、クリスは左右の銃で挟み込むように受け止めた。想定はしていても、初めて受ける翼の刃は重く鋭い。

 

「受け止めただと!?」

「よく言うだろう。銃は剣よりも強しってなッ!」

 

 驚愕の声を上げる翼。それもその筈で、如何なアームドギアとは言えども本来であれば、両断されてもおかしくはない程の剣撃であった。それを遠距離武器である銃で受け止める。対銃戦闘の訓練も勿論行っているであろう翼には理外の行動であろう。精密な機械である銃器でそんな事をすれば、両断されなかったとしてもフレームが歪み使い物にならなくなる。だが、クリスの手に持ったマシンピストルは歪む所か傷の一つも付いてはいない。

 それを証明するかの如く、刃先をそのまま滑らせて自ら翼に肉薄したクリスは、射線に入った翼の両腕に向けてトリガーを引く。マシンピストルは焼き付くようなマズルフラッシュを放ち、銃口から弾を吐き出した。その銃弾を刀から片手を離し、半身になる事で翼は辛くも回避する。しかし、刀から片手を離したが故に、2艇の銃と噛み合ったままの刀からは先程までの圧力はない。両手と片手。比べるまでもなく、どちらの力が強いかは明白である。シンフォギアが齎す膂力にて、翼の刀を搗ち上げると共に、クリスは足を蹴り上げその場で回転。翼の顎に目掛けてサマーソルトを放つ。しかし、これも顎を反らせることで回避される。

 だが、翼の体勢は崩れ、重心は後ろへと傾いている。クリスはその隙を見逃さず着地の後に今度は地を這うように横に回転し、翼の足を払い転倒させた。傾いた重心にどうすることも出来ずに、背中から地に倒れ伏す翼。クリスはすかさず2艇のトリガーを引くも、翼は脚部スラスターを全力で吹かし、地を滑るようにその銃弾を躱すと共にクリスから距離をとった。

 

「ちっ、仕留めきれねぇか。……今までのお前だったら今のでお陀仏だった筈なんだが、思っていたよりも反応早い。ちっとばかし、修正が必要か」

「はぁ……はぁ……それは、此方の台詞だ。己の間合いまで距離を詰めたにも関わらず、攻めきれなかった所か、逆に攻められる始末。剣として、これ程屈辱的な事はない。銃で接近戦をこなすだと? 出鱈目が過ぎるぞ」

「私もあいつも遠距離タイプ。接近戦というチームの弱点をそのままにしておく訳ないだろうが」

 

 クリスのイチイバルも蛍の神獣鏡(シェンショウジン)も、近距離戦での決め手に乏しい。特にクリスは、蛍のように鉄扇や自在に動く帯などの接近戦で使用できる武装を所持しておらず、クリスが生み出すことの出来るアームドギアは銃火器に限定される。しかし、高速戦闘を得意とする風鳴翼を相手取るとなれば、幾ら弾幕を張ろうともそれを全ていなされ、接近される事は避けられない。故に、近付かせない術を磨くよりも、近付かれた際にどうするかという対策が重要であった。

 クリスは苦悩した。手持ちの武装では、どう足掻いても翼の剣を捌ききれない。蛍と共に試行錯誤しながら訓練に明け暮れていたが、答えは意外な所から齎された。迷走するクリスに、「そもそも何故銃では、接近戦が出来ないと決めつけているの?」とフィーネから差し出された映像媒体の中には、とある映画が映し出されていた。

 それは感情の抑圧された世界で、一人の男がもがき苦しみ、感情を取り戻す物語。手にした2艇の拳銃で、並み居る敵をバッタバッタと撃ち貫く至高の銃撃戦。彼にとって、距離は問題ではない。近中遠全てが彼の距離であり、彼はまるで舞を踊るかのように一対多を物ともせず敵を殲滅する。彼の放つ銃弾は、正確無比に敵を貫き、しかして敵の銃弾は一発たりとも彼の身体を掠りもしない。

 目から鱗が落ちるようだった。銃では接近戦が出来ないとは、クリスの思い違いであった。銃には、クリスが考える以上の可能性がある。少なくとも、その可能性を追い求めた先達がこの映画には映し出されている。所詮は映画、所詮はフィクションなどと侮るなかれ。およそ現実離れした動きであろうとも、それを可能にするだけの力をクリスは既に身に纏っている。

 

 その名はガン=カタ。あらゆる銃撃戦における弾道パターンを数理的に解析し、それを古来より究明されてきた東洋武術の“カタ”に組み込み完成された銃撃戦の一つの頂である。

 

 迫り来る剣撃を銃で逸らし、もう片方の手に持った銃で翼の頭部を狙い撃つ。カタに嵌った行動。しかし、それは徹底的に翼を研究したクリスが繰り出す最善手の繰り返しだ。必然、翼は徐々に一手、また一手と追い詰められていく。それはさながら詰将棋の様で。詰みに至るまでの道筋が今のクリスにはハッキリと見えている。

 ガン=カタは、本来であれば、一対多を想定した戦闘方法であり、膨大な銃撃戦を統計学的に分析する事により、敵の攻撃の軌道と射程を数理的に導き出す事によって成立する一種の未来予知にも似た技能を求められる。故に、この戦い方は、相手を熟知していなければ使えない。相手の攻撃方法、思考パターン、戦術パターンなど、相手を知り尽くしていなければ取れない戦法なのだ。

 恐らく、立花響を相手取って、この戦法を用いれば、彼女との戦闘に慣れていないクリスは、回避を上手くこなせずに、直ぐに彼女の拳を打ち付けられるだろう。だが、風鳴翼を相手取ったのならば、話は異なる。

 この2年、クリスは常に対翼を想定して訓練を重ねてきた。フィーネから齎された過去から現在に至るまでの翼の戦闘映像を目に穴が開く程見返し、彼女の戦闘スタイルを徹底的に分析し尽くした。だからこそ、翼が次にどう動くのかが予見できる。

 翼では、クリスに勝てない。だが、それは決して翼の力がクリスに及ばないからではない。地の実力であれば、恐らくは翼に軍配が上がる。何故なら積み重ねてきた年月が違う。クリスが訓練に費やした時間はおよそ2年だが、翼はそれこそ物心付いた時から、風鳴の家の人間として、将来護国の剣となる為に人並みの生活を手放して、戦士としての訓練を積んできた。その積み上げてきた努力は決して嘘を吐かない。加えて、実戦経験も豊富であり、その身に蓄えた総合的な経験値はクリスを遥かに上回る。

 翼とクリスの明暗を別ったのは、単にその努力の方向性の違いだ。翼は基本的な対人戦闘、そして装者として天羽々斬(アメノハバキリ)に適合してからは主にノイズとの戦いを想定して研鑽を続けてきた。それに対し、クリスは翼を倒す事だけを目標に訓練を重ねてきた。フィーネが計画を完遂する上で、最も邪魔になるであろう翼を倒す事。それがクリスに求められた役割であり、果たすべき使命であった。響がネフシュタンの鎧への対策を打ち立てたように、クリスもまた翼に対抗する為の術をこの2年で磨いてきたのだ。

 

「さぁ、来いよ、人気者。きっちり“カタ”に嵌めてやる」

 

 

◇◇◇

 

 

『響ちゃん、そのまま真っ直ぐ進んで。林を抜けた先の通りに二課の職員を待機させているわ』

「分かりました。ありがとうございます、あおいさん」

 

 オペレータである友里あおいの声に導かれて、響は立ち並ぶ草木の群れを踏破する。腕の中には、先程までクリスにあれだけの啖呵をきっていたとは思えないぐらいしおらしい未来の姿がある。しっかりと両手を響の首に回し、震える身体で響の胸に顔を埋めている。生身であのネフシュタンの鎧を身に纏ったクリスの前に立ったのだ。恐怖を覚えるのも無理はない。何故か耳まで真っ赤に染まり、若干呼吸が荒い事が気になったが、自分に抱き付くことで未来が落ち着きを取り戻し、安心するというのであれば、それは響にとって歓迎すべきことで、拒む理由など何処にもありはしなかった。

 未来が落ち着くまでずっとそうしてあげていたかったが、響には未来にどうしても言わなければならない事があった。既にシンフォギアを纏っている姿を見られた後ではあるが、それでも言葉にしなければ伝わらない事はきっとあるのだから。

 

「……ごめんね、未来」

「響?」

「隠し事をしないって約束したのに、私未来にとっても大事な事を言えなかった」

 

 謝罪の言葉を口切りにして、響は今までの事を語り始める。偶然からシンフォギアを身に纏ったこと。翼や特異災害対策機動部二課の面々のこと。この一ヶ月、ノイズと戦い続けてきたこと。

 これからきっと二課の職員による情報秘匿などの説明が未来にはなされるのだろうが、それでも知っていて欲しかった。未来は響を救う為に、危険な戦場にその身を曝け出した。ならばこれは、他の誰でもない響自身の口から未来に説明しなければならないことだと思った。だから、響は言葉を紡ぎ、自分に分かるだけの情報を未来に伝えた。

 全てを語り終えた響は、判決を待つ罪人のような面持ちで、未来の答えを待つ。この一ヶ月余り、未来の寂しげな表情を何度も見てきた。こんなに大切なことを黙っていたのだ。未来の怒りはきっと深い。

 しかし、未来はそんな響に向けて微笑んだ。

 

「許すわ」

「えっ……未来今なんて?」

「だから、許すわ。響が危ない事をしているのは嫌だけど、でも、それが響がやりたい事なんでしょう?」

「……うん。手に入れたのは偶然だけど、この身に宿った力は、きっと誰かを助けることが出来るから。私は、戦うよ。何でもない日常の中にある誰かの笑顔を守る為に、私はこの拳を握るんだ」

「……やっぱり響は響だね」

「どういう意味?」

「何でもないよ。只、響は何時でも、何処でも響らしくあり続けるんだなって思っただけ」

「うーん、もしかして馬鹿にされてる?」

「馬鹿。褒めてるのよ。これ以上はないってぐらいにね」

 

 それでもどこか納得できずに眉はハの字にしていると、「だから、ほらいつまでもショボくれた顔していないでいつもみたいに笑って?」と言いながら、未来は響の頬をむにゅむにゅと摘み、無理矢理に笑顔を作ろうとする。

 

「いひゃいいひゃい! やへて、みふ! いひなり、にゃにすふの!」

「ふふっ、何言ってるのか全然分からない。でも、うん、漸くいつもの響に戻った。やっぱり響はそうやって笑っているのが一番ね」

「むぐ、もがが――っぷは! もう未来の馬鹿! 腕の中で暴れないでよ!」

「あら、私の王子様はこれぐらいでお姫様を落っことす程、貧弱なのかしら」

「……未来、何だかすごくご機嫌だね」

 

 何故だか物凄く機嫌の良い未来に釣られて、響の顔にも自然と笑みが溢れる。何でもない未来とのいつものやり取りに、 胸がポカポカと暖かくなる。顔を見合わせて、クスクスと笑い合う。そして改めて思うのだ。立花響にとって、小日向未来は陽だまりで、帰るべき日常なのだと。

 暫く、そうやって笑い合っていると、鬱蒼とした林を抜け、眩く光る暖かな夕日が二人の姿を照らし出した。林を抜けた先の道路には、あおいの言葉の通り黒いセダンが止まり周辺を封鎖している。響に気付いた黒服を着た二課の職員の一人が、未来を受け取る為に一歩前へ出てくる。彼の元まで歩を進めて、腕に抱きかかえた未来をゆっくりと下ろした。

 

「未来を、お願いします」

「はい。響さんもお気をつけて」

 

 未来を二課職員に預けた響は踵を返し、未だイチイバルのシンフォギアを身に纏ったクリスと対峙する翼の下へと駆け出そうとする。そんな響の背に、「響!」と投げかけられた未来の声に、踏み出した足をピタリと止めた。

 

「あの子を――クリスをお願い。さっき話してみて分かった。あの子はきっと、ずっと世界に裏切られてきたんだと思う。私が知らないような辛くて悲しい事を沢山経験してきたんだと思う」

 

 投げかけられたのは言葉は、クリスを頼むという願い。真っ直ぐと、響の事を見つめてお願いと。先程殺されかけたばかりの少女を気遣う言葉を未来は紡ぐ。

 

「でもね、だからこそ、あの子に教えてあげたい。この世界にもあったかくて、眩しいものはあるんだって。他人を信じ切れないのは、世界の所為じゃない。自分と他の誰かとの間に壁を作っているのは世界じゃない。貴女と他人との心の壁は何時だって、貴女が作り出している事を忘れないでって」

「未来……」

「私じゃ、駄目だった。力のない私じゃ、彼女の前に立てない。だから、響に頼むの。お願い、響。あの子の心の壁を打ち砕いてあげて。繋いだ手はあったかくて、心地良いんだって思い出させてあげて。恐怖なんかに負けない眩しい勇気を、あの子に見せてあげて」

 

 振り返った響の両手が、未来の両手に包み込まれる。グローブ越しにじんわりと、未来の熱を感じる。「出来るかな」と響が問えば、「大丈夫、きっと出来るよ」と未来が後押ししてくれる。何時だって未来は響の事を、肯定してくれる。その絶対の信頼が、響に残った僅かな不安を優しく溶かしてくれた。もう迷いはない。

 

「行ってきます!」

「うん、行ってらっしゃい」

 

 蛍と手を握りたいと願っているクリスに、響の――否、響と未来の想いを届けに行こう。最速で、最短で、真っ直ぐに、一直線に。クリスの胸にある心の壁をぶち破り、二人分の温かさで彼女の心を温めよう。そして、手を繋いで、笑い合うのだ。響と未来のように、どれだけ喧嘩しても、きっと人は手を取り合い笑い合えると信じて。

 

 そして、今度は響が手を差し伸べるのだ。「友達になろう」と。

 立花響は、雪音クリスの友達になりたいのだ。

 

 

◇◇◇

 

 

 風鳴翼には、斬撃武器を扱うものとしての矜持があった。幼い頃から防人としての訓練に励み、現在では刀を己の一部のように取り扱うことができる自負があった。未だ若輩の身であり、武の頂に至っているなどとは――風鳴弦十郎という武術家を知っているからこそ――口が裂けても言えないが、それでもそこらの不逞の輩には決して遅れを取ることはないし、例え生身であろうとも銃弾を捌く程度の実力を身に付けているつもりだった。

 翼は銃という武器を脅威とは考えていなかった。確かに遠距離からあのスピードで放たれる銃弾は驚異的ではあるが、銃口から放たれた弾は真っ直ぐにとしか飛ばず、その軌跡は点である。しっかりと見極めれば、対処は容易であると思っていたのだ。加えて、銃には弾数という限りが存在し、弾が切れてしまえば無用の長物と化す、何とも頼りのない武器だとすら思っていた。正直に言おう、翼は刀こそが至高の武器であり、銃など所詮は玩具であるとすら考えていた。銃は剣よりも強し。クリスの言うその言葉は、翼にとっては世迷言に他ならなかった。

 だが、それは驕りだったと認識を改めてなければならないようだ。先から何度となく、繰り返された攻防の数々は、翼にとって、銃という武器に対しての考えを一変させて余りあった。

 放たれる銃弾を、火線から逃れることで避ける。翻ったその身で流れるように横薙ぎの一閃を放てば、クリスが手に持った左右の拳銃を噛み合わせるようにして受け止める。既に何度も見たその特徴的な構えからの防御方法を翼は未だ突破出来ずにいた。否、突破などという段階の話ではない。先程から感じる違和感。その正体に翼は漸く気付く。

 

 私の一刀が、処理されているだと!?

 

 翼の技術の粋を結集した剣戟の数々を、事もなさげに防ぐクリス。シンフォギアの膂力を遺憾なく発揮した剛剣は左右の拳銃により受け止められ、ならばと速度をさらに上げた神速の一閃を見舞えば、予め来ることが分かっていたとばかりに躱される。そうして気付いたのだ。自分の一挙手一投足がクリスによって、誘導されているという恐るべき事実に。クリスの紫色の瞳が、翼を射抜いている。その視線に全てを見透かされているような錯覚を覚えた。

 抜け出そうとしても抜け出せず、その行動すらも予見していたとばかりに、クリスは淀みなく対応していく。決まり切った攻撃。決まり切った防御。まるで演舞のように翼とクリスは動き続ける。カタに嵌まるとはこういう事か。

 クリスの手の平で踊らされている。それが分かっていながらも抜け出せない。生綿で首をジワジワと締め付けられているかのような感覚に焦燥が募る。だが、その焦りに身を任せることはできない。翼の今の動きが崩れた時、それはクリスの弾丸にこの身が撃ち貫かれる時に他ならないのだから。

 

 だが、そんな均衡がいつまでも続く訳はない。翼は人の身であり、其処には体力という絶対的な限界が存在する。

 

「ぐっ……」

「おらどうした! チンタラしてたら鎌首もたげるぞ!」

 

 顔に向けられた銃口の先から逃れるのが僅かに遅れ、焼けるような痛みと共に一筋の朱が翼の頬に刻まれる。翼は自分の反応が、僅かにではあるものの遅れ始めていることを自覚した。失った体力が翼の動きから繊細さを奪っていく。

 此処にきて、翼が病み上がりであることが災いした。あたかも平気な振りをしているが、本来であれば翼はまだベッドの上で安静にしていなければならない身体なのだ。クリスの襲撃を知り、居ても立っても居られず病院を飛び出して戦場へと赴いたものの、翼を蝕んだ絶唱のバックファイアによるダメージは完全に癒えた訳ではない。その無理が祟り、翼から継戦能力を奪っていた。

 

「だが、この程度で手折られる程、防人の剣は柔ではないと覚えろッ!」

 

 己を鼓舞する言葉と共に、放つのは神速の突き。だが、やけに頑丈な2挺の拳銃がそれを遮る。刃を挟み込み滑らせ、鋒がクリスの腹の直ぐ真横を通り過ぎる。あとほんの数cm横にズレればクリスの脇腹に突き刺さったであろうギリギリを見切り、無駄のない精密な動きでクリスは防人の剣を捌き続けている。

 刀の鋒が引かれると同時にクリスの銃口は翼を追い、響き渡るけたたましい音共に放たれる銃弾を刀の平地で弾く為、翼は柄を握り締める。激しいマズルフラッシュが焚かれ、放たれるのは2発の銃弾。マズイと思った時には既に遅く、右の拳銃から放たれた一発目の銃弾こそ想定通り刀の平時で受け止められたものの、もう片方、右の銃口よりも数瞬遅れて放たれた左の銃弾が刀の鋒を正確に捉えた。両手が痺れる程の衝撃が、柄を通して翼の腕に伝播する。天高く搗ち上げられた刀を、直ぐに振り下ろす事も出来ずに、此処にきて翼は致命的な隙を晒す事となる。

 

「これで詰みだッ!!」

 

 銃口が、翼の心臓を捉える。時間にして1秒にも満たないその僅かな刹那の間が、翼の瞳にはまるで引き伸ばされたスローモションの映像のように写し出されていた。その瞳は、しっかりと、捉えていた。クリスの引き金に伸ばした指を、ではない。

 

 翼の視界の隅。クリス目掛けて投げられた巨木が、彼女の身体を諸共に吹き飛ばすその光景を、翼の瞳はしっかりと視界に収めていた。

 

「翼さんッ!!」

 

 待ち望んだ声が聞こえる。それは、背中を預ける仲間の声だ。戦場に舞い戻った立花響が、足早に翼の名を呼びながら此方に駆けてくる。

 

「立花か! すまない助かった!」

「翼さん顔に傷が……」

「この程度、なんて事はない。只の擦り傷だ」

「只の擦り傷だ、じゃないですよ! 女の子の顔に傷を付けるなんて絶対に絶対、やったら駄目なんですよ! もう! 翼さんはもう少し女の子としての自覚を持つべきです! 帰ったら直ぐに治療してもらいましょう! もしも翼さんの顔に傷が残ったりなんてしたら、私は全国の風鳴翼ファンのみんなに顔向け出来ません!」

「べ、別に私は、歌女なのだから、其処に顔の美醜は関係ないと思うのだけれど……」

「またそう言うことを言う! ……病室の件でも思いましたけど、翼さんって意外と女子力低いですよね」

「なっ!? 病室の一件は関係ないでしょう!?」

 

 痛い所を突かれて、思わず防人としての言葉遣いが崩れ、少女然とした普段の口調が口をついて出た。頬が朱に染まるのを感じながら、しかし、それを止めることも出来ず、誤魔化すようにして口を開いた。

 

「私は防人。力なき人々を護る剣だ。身体の傷は戦士にとっての誉れであり、其れを恥じる気持ちなど風鳴翼は持ち合わせていない! 加えて、此処は戦場! そんな姦しい会話など無用だ!」

「……翼さん、そんな急にキャラ作らなくても」

「キャラとか言うな! 私は常に防人としての心構えを忘れないようにだな!」

「私は普段の口調の翼さんも好きですよ?」

「はぁ!? 好き!? 貴女、戦場で何を口走っているの!? この口! この口が悪いのね! 余計な事をペラペラと囀るこの口が!」

「いひゃい! にゃんで、まはわたひのほっぺがひょんなめひ!?」

 

 むにむにと意外な程に触り心地の良い響の頬をパチンと離せば、「うぅ……今日は私のほっぺにとっての厄日だよぉ……」とよく分からないこと口にしながら、響は少し涙目になって赤くなった頬を両手でさすっている。その光景に僅かながらの罪悪感を覚えるものの、元はと言えば、戦場で余計な事を口にする響がいけないのだ。決して、翼の所為ではない。響の自業自得である。

 

 瞬間、そんな2人を咎めるように、銃弾の雨が降り注いだ。

 

 「立花ッ!」と未だ頬を撫でている響を突き飛ばし、その反動を利用して自身も横へと大きく跳躍する。土煙を上げながら、破壊を撒き散らせる無数の銃弾を尻目に、銃弾が飛んできた方向を見遣れば、憤怒の炎に顔を歪ませたクリスが、翼と響を撃ち砕かんと両手にガトリング砲を構えている。

 

「やってくれたなたくらんけがッ! いつもいつも此処ぞというタイミングで邪魔してきやがってッ!」

 

 クリスの怒号に応じるようにモーター音を響かせ回転する銃身が、左右に構えた砲門をそれぞれ翼と響に向けて、圧倒的な破壊を吐き出し続ける。

 

「バーゲンセールだッ!! 食らっとけッ!!」

 

《MEGA DETH PARTY》

 

 クリスの太股に装着された丸みを帯びた白い装甲が横に展開し、中から大量の小型ミサイルが放出され、翼と響に向けて殺到する。

 ジェット音を響かせて此方に向かってくる小型ミサイルの群れを再び躱そうとするも、翼が左右に動けば、ミサイルもまたその進行方向を変え、翼の後を追随する。避けきれないと判断した翼は、思考を回避から迎撃へと切り替えた。スラスターを吹かし宙へと舞い上がった翼は、視線の先――ミサイルに追われ大慌ての響と一直線になるように位置を調整し、響を追うミサイルを巻き込むようにして技を放つ。

 放つのは、翼の持つ数少ない遠距離かつ広範囲に効果を及ぼす技の一つ。

 

《千ノ落涙》

 

 翼の背後から現れた大量の蒼い短剣が、剣の雨となって降り注ぐ。短剣とミサイルがぶつかり合い、激しい閃光と共に生まれた爆風が、翼の頬を撫でた。しかして、生身であれば肌が焼き付く程の熱量を持ったそれは、シンフォギアを身に纏った翼を害するには至らない。

 翼はミサイルを全て破壊したことを確認すると、爆風で吹き飛ばされ頭から地面に突っ込んでいる響に向かって声を張り上げた。

 

「立花! 無事か!」

「うー、ぺっぺっ、だ、大丈夫です。ちょっと口の中に砂が入っちゃいましたけど、平気へっちゃらです!」

 

 翼は、響の無事を確認すると、彼女の側に降り立ち、《天ノ逆鱗》で2人の周囲をぐるりと囲い即席の障壁とする。眼を丸くして驚く響を他所に、翼は響へと語りかけた。

 

「聞け立花。彼女は強い。刃を交えてよく分かったが、恐らく今の私では勝てないだろう。いや、この身が十全であったとしても、勝ちを拾えるかは五分にも満たない。それ程までに、彼女は己が纏うギアを使いこなしている」

「クリスちゃん、そんなに強いんですか……」

「私一人では、駄目だ。……だから、力を貸して欲しい」

 

 そう言って翼は、右手を差し出す。自分でも身勝手な事をしている自覚はある。あれ程、響に対して冷たく接しておきながら、今更手を握ろうなどと厚顔無恥も甚だしい。だが、それでも、翼は響へ手を伸ばす。

 初めは響の事が気に入らなかった。奏のシンフォギアを身に纏っていながらも、戦う意思も覚悟も見せない。そんな彼女の事を疎ましく思った。奏の代わりになるなど言われた時は、怒りで目の前が真っ赤に染まった。

 だが、翼が絶唱を歌ったあの日から、響は変わった。リディアンの校庭を走る彼女の姿を病室から何度も見かけた。マネージャーである慎次からの報告で、弦十郎に師事し始めたと聞いた時など、何かの間違いではないのかとすら思った。だが、病室から動くことの出来ない翼に定期的に届けられた報告書には、響の目覚ましい成長の跡が見て取れた。

 そして今日、翼は初めて響と向かい合った。慎次の代わりに翼を見舞いに来た彼女と、面と向かって語り合った。そして、彼女の戦う訳を知った。それは戦士としての心構えとしては、余りにも自虐的で、ともすれば、それはあの惨劇で生き残ってしまった彼女の自己断罪の現れとも呼べるものであった。しかし、それを成そうとする響の気概は本物だった。振り返らず、常に前を向いて、一歩を踏み出す勇気を、翼は響に教えられた。

 立花響の歌は、勇気の歌。聴く者を、照らし暖める太陽のような歌。特別歌唱力が優れている訳でもなければ、歌うことを楽しんでいる訳でもない。けれど、その快活な歌声は聴く人に勇気を与える。彼女の勇気が伝播するように、前へと踏み出す勇気を貰える。

 そんな歌を歌う響にならば、背中を預けられる。手を繋げる。いや、そんな彼女だからこそ、翼は響と手を繋ぎたい。

 

 差し出した右手が、ふわりと暖かな何かに包まれた。

 

「私、未来に頼まれたんです。クリスちゃんの心の壁を打ち破ってあげてって。私もあの子に教えてあげたい。この胸の想いを、この手の温もりを届けたいんです。でも、私一人じゃきっと難しいから……」

 

 ぎゅっと、翼の右手を握った響の両手に力が込められる。其処に込められた二人分の想いを感じて、翼はコクリと首を縦に振った。

 

「ふふっ、相も変わらず、立花は砂糖菓子のように甘いな」

「あはは、親友にも『響のお人好しをは度が過ぎてる』ってよく言われます」

「……そうだな。立花は度が過ぎるほどのお人好しだ。けど、悪くない。うん、悪くないな。何故だろうな。今なら心の底から思いっきり歌える気がする」

 

 奏がいた頃は、彼女と音を奏でることが楽しくて歌っていた。彼女を失ってからは、只ノイズを屠る為に歌を歌っていた。もしかしたら、翼がこんなに本気で誰かの為に歌うなんて初めてのことなのかもしれない。

 「私も立花に中てられたかな」と独り言ちて、翼は響の手を握り返す。

 

「やるぞ立花。私達の歌で彼奴に届けてやろう。最早止められぬと言うのであれば、私達が止めてやろう。温もりを見失った迷い子に、私達のありったけの想いを歌に乗せて奏でてやろう」

「はいッ!!」

「――時に立花、貴女は私の歌を良く聴いてくれていると緒川さんに聞いたのだけれど」

「は、はい! 私、翼さんの歌が大好きです!」

「あ、ありがとう。面と向かって言われると恥ずかしいものだな。……立花は私が奏と歌っていた頃の曲は知っているか?」

 

 一応の確認も込めて翼は響に問うてみると、響は眼を爛々と輝かせながら鼻息荒く「勿論です!」と答えが返ってくる。

 

「ツヴァイウイング時代のCDだって初回限定版を東西南北駆け巡って全部揃えてあります!」

「そ、そうか。では、歌詞は頭に入っているな?」

「うぇ!? 翼さんまさか!?」

「そのまさか、だ。まさか私のパートしか歌えないなんて、情けない事は言わないだろうな」

「いえ、歌えますけど。その、良いんですか? だって、この曲は翼さんと奏さんの……」

「良いんだ。私は今、立花と歌ってみたい。それでは不服か?」

「いいえ! そんな全く! 立花響、全身全霊で歌わせて頂きます!」

 

 ぐっと胸の前で両の拳を握り、響は翼の願いを聞き届けてくれる。何処までも真っ直ぐな彼女に「そうか、ありがとう」と感謝の言葉を口にして、翼は大剣の壁の先に待っているであろうクリスへと視線を向ける。

 ここから一歩踏み出せば、其処は再び戦場だ。しかし、そこで行われるのは今までのノイズとの戦いのように、只敵を切り伏せればいいといった単純なものではない。胸の内に響く想いを、誰かに伝える為の戦いだ。こんな戦場は初めてで、戸惑いがないと言えば嘘になる。けれど、それ以上に、今は響と共に歌を奏でることが楽しみで仕方がない。いけないとは思いながらも、口元が綻ぶのを止められない。

 

 嗚呼、本当に、こんな気持ちで歌うのはいつ以来だろうか。

 

「良し、征くか、立花」

「って、翼さん、ちょーっと待ってください。つかぬことをお伺いしますが、具体的な作戦があったりは……」

「ない」

「えぇ……」

「ふふっ、まぁ、そう結論を急くな。流石に冗談だ。私とて何も無策という訳ではない」

「おぉ! それで具体的にどんな作戦なんですか?」

「うむ。立花が私の一撃に合わせてくれればそれでいい」

「……それだけ、ですか?」

「そうだが? ん? どうした立花、急に頭を抱えて……」

「いえ、偶像っていうのは人の祈りが生み出した儚い夢なんだということを、ヒシヒシと感じているだけです」

「うん? 何故急に悟りを開いた求道者のようなことを言い始めるのだ?」

「あぁ、良いんです、気にしないでください。私はどんな翼さんでも、翼さんが翼さんらしく在ってくれているのなら、それを受け入れますから」

「よく分からんが、立花がそれで良いのなら、私はいつまでも私らしく在ろう」

「はい。それで大丈夫です。私も親友を見習って寛容な心を持つことにします」

 

 何故か溜息混じりにガクリと肩を落とした響が、「それで、話を戻しますけど、一撃に合わせろと言われても、私どうしていいか全然分かりませんよ?」と問いかけてくる。その問いに翼はゆっくりと、響の胸を指差し答えた。

 

「やり方など知らなくても分かる。分かる筈だ。その胸に聞け。問いかけろ。湧き上がる旋律に身を任せて、自分の思うがままに動けばいい」

「言ってること全然分かりません……」

「大丈夫、立花とならできるさ。共に歌を歌うんだ。きっと歌が私たちを繋いでくれる。さぁ、待ちぼうけを食らった守株が痺れを切らしたようだ。あまり時間は残されていない」

 

 先程から翼と響を囲う大剣が、クリスが放つ銃弾の嵐に攻め立てられている。この様子では、遠からず壁は食い破られるだろう。打って出るには今しかない。

 

「さぁ、立花。私と一緒に飛んでくれ」

 

 再び、翼は手を差し出す。差し出された手を見つめて、「あぁ、もう!」と響は頭をガシガシと掻くと、吹っ切れたように顔をすっきりとさせて、翼の手を握り返した。

 

「ウダウダと悩むのは止めにします! 師匠の戦術マニュアルでも見たことがあります。『考えるな、感じろ』、蓋し名言です! 私は彼の言葉を信じます!」

「よし、それでこそ立花だ」

 

 翼と響はお互いに見つめ合って呼吸を合わせる。同時に二人が身に纏ったシンフォギアが装者の想いに応え、耳に備え付けられたヘッドフォンパーツから旋律が流れ始める。軽やかなシンセサイザーの音色と共に始まる懐かしいイントロに、瞳を閉じて少しばかり懐かしさに浸る。翼がこの曲を歌うのは、奏が命を散らせたあのライブ以来初めてのことだ。元々、デュエットで歌うことを前提に作曲された曲なので一人で歌うことは出来ず、翼が奏以外の誰かとこの曲を歌いたいなどと思うこともなかった。

 

『逆光のフリューゲル』

 

 この2年で一度も耳にしたことはなかった出だしの歌詞が耳に届く。聴こえるのは、響の歌声。かつての片翼の歌声ではない。けれど、その歌声は決して不快ではなく、むしろ、どこか奏に似ているとすら思える。声質も歌唱力も似ても似つかないのに、彼女の歌の中に、奏を感じた。

 

 嗚呼、漸く分かった。戦い向こう側にあるものってこういうことなんだ。

 立花が誰かの為にと人助けをするのは、決してあの惨劇を生き残った負い目などではない。あの時、奏から託され、立花が受け取った気持ちなんだ。

 私に意地悪だった奏はもういない。けれど、奏を近くに感じるか、遠くに感じるかは私の想い次第なのだ。あの子の中に、奏の気持ちが根付いているように、私の胸の中にも、奏から受け取った沢山の気持ちと沢山の思い出がある。それに気付くか気付けないかのほんの些細な違いでしかない。

 思い出はいつか過ぎ去っていかなければないものなんだ。そうじゃないと、人は未来に踏み出せない。奏、いつも後ろを振り返っていてばかりでごめんね。でも、私はもう大丈夫だよ。あの子の歌に、振り返らず、前を向く勇気を貰ったから。

 だから、もう行くね。ありがとう奏。私は貴女に出逢えて幸せでした。

 

 響を抱き寄せ、見上げる茜色の空に飛び立つ。現在(ここ)から駆け出して未来(むこう)に羽ばたく時だ。瞳から溢れる光の粒が夕日を反射してキラキラと輝いた。ぎょっとした顔をする響に、なんでもないと首を振る。そんなことよりも集中しなさいと視線で促せば、響はピクリと身体を震わせて、顔を引き締め直した。不思議な感覚だった。言葉にしていないのに、自分の気持ちが響に伝わる。響の気持ちが理解できる。歌が二人を繋いでいた。

 眼下を見下ろせば、ガトリング砲を構え唖然と此方を見上げるクリスの姿。自然と二人の身体が離れる。お互いに示し合わせた訳ではなく、翼も響も胸に流れる旋律のままに身体が動く。翼はアームドギアを大剣の形で生成し、響は腕部装甲をまるで撃鉄を起こすかのようにスライドさせる。

 翼の持つ大剣が蒼い稲妻を迸らせ、響の腕に収束されたエネルギーが橙色の槍を形作る。放つタイミングを態々示し合わせる必要など無い。この時、この場所において、翼と響はお互いを完全に理解し合っていた。

 

双星ノ鉄槌(―DIASTER BLAST―)

 

 風よりも疾く、太陽よりも高く重なりあった剣と拳により放たれた莫大なエネルギーの奔流が、嵐となってクリスの身体を飲み込む。荒ぶる嵐は留まる事を知らず、大地を削り、立ち並ぶ木々を根ごと吹き飛ばす。嵐の過ぎ去った後に残るのは、まるで爆心地のように剥き出しになった地面と、辺りに立ち込める土煙。

 想像以上の威力だったのか、「つ、翼さん、これ幾らなんでもやり過ぎたんじゃ……」と顔を青くしている。だが、そんな響に翼は顔を硬くして首を振った。

 

「いや、やり過ぎなものか。構えろ立花。まだ終わっていない」

「そんなまさか防がれたッ!?」

 

 驚愕の声を上げる響。響の手前、何とか冷静さを保とうと努めているものの、翼とてその胸中は穏やかではなかった。今の一撃は、重なりあった二人の気持ちを込めに込めた想いの結晶。奏と共に放った時と比べても遜色ない程の、今の翼と響が放つ事が出来る至大至高の一閃だった。それが防がれたというのか。信じたくはない。しかし、技を放った後にこの手に残った違和感が、《双星ノ鉄槌(―DIASTER BLAST―)》がクリスの喉元に届き得てないという認めがたい事実の何よりの証左であった。

 

「今の一撃があの子に防げたとは思えない。いい加減に姿を現したらどうだ」

「あら? 気付かれていたの。残念ね」

 

 土煙の中から、声が返ってきた。クリスの声ではない。妖艶な艶のある女性の声だ。その艶めかしい声に、嘗て味わったことのない程の悪寒が全身を這いずり回り、翼の背筋をぞわりと震わせる。只、声を聞いただけなのに、この全身を逆なでされたような悪寒は一体何だと言うのだ。ひたりと翼の額から一筋の冷や汗が頬を伝う。翼は手にした大剣を構え直すと、未だ晴れぬ土煙を睨み続けた。

 

 土煙が漸く晴れたその場に立っていたのは、金色のネフシュタンを身に纏い意識を失ったクリスを抱きかかえた妙齢の女性だった。

 

 腰まで伸びた美しいプラチナブロンドを棚引かせ、白金の双眸で此方を伺うその女性は、まるで此処が戦場だと理解していない程に自然体であった。その余裕の正体を翼は知っている。何故ならば、以前にも似た雰囲気を感じたことある。星の降る夜、ビルの屋上で対峙した蛍という名のもう一人の適合者。あの時、彼女が放っていた強者故の余裕を、翼は目の前の女性から感じ取っていた。

 直感ではあったが、《双星ノ鉄槌(―DIASTER BLAST―)》を防いだのは彼女だという確信が翼にはあった。

 

「あぁ、そんなに構えなくてもいいのよ。今日はこの子を回収しに来ただけで、貴女達と争うつもりはないわ」

「その言葉を信じろと言うのか?」

「この場で矛を交えたとして、どちらに勝利の天秤が傾くか。分からない程、貴女は愚かではないでしょう?」

 

 「どちらにしても、そちらの雛鳥は既に限界のようだけれど」という女性の言葉に視線を移せば、其処には地面に膝をつき、苦しそうに息をする響の姿があった。「立花ッ!?」と悲鳴のような声を上げ、翼は直ぐさま響に駆け寄り寄り添うも、彼女の意識は曖昧で、掛けられた声にすら気付いていないようだった。

 

「アームドギアを生成する為のエネルギーを無理くりに放出、制御した反動でしょうね。一種の極度の疲労状態かしら。命に関わる程のものではないでしょう。それにしても、本当おもしろい子。本来、アームドギアは基となった聖遺物の性質を大きく逸脱する事はないというのに、その子はその手に武器を握ることを良しとせず、繋ぐ拳をこそ己のアームドギアと定義しようとしている」

 

 誰に聞かせる訳でもなく、淡々と響の状態に対する見識を述べ独り言を呟く彼女は、その口元に蠱惑の笑みを浮かべて、まるで恋する乙女のような瞳で、苦しむ響を眺めている。しかし、その瞳の奥に潜むえも言われぬ淀みを感じ取り、翼の精神はざわめき立った。

 そんな翼の心の機微を感じ取ったのか、彼女は響から視線を外し、翼へとその白金の双眸を向けると、おもむろに口を開いた。

 

「私はフィーネ。いずれこの世界に葬世と創世を齎す者の名よ。覚えておく価値がある」

「フィーネ? 終わりの名を持つ者? 貴様は一体……」

「問答は、この辺りにしておきましょう。その雛鳥を持ち帰りたいのは山々なのだけれど、あまり長居が過ぎると余計な草が現れそうだから、今日はこれでお暇するわ」

 

 そう言って、フィーネと名乗った女性は、翼に無防備な背中を向け歩き出す。

 胸の奥から湧き上がる追いかけたいという気持ちを、理性を以って押し殺す。翼の傍らには、苦しそうに喘ぐ響が居る。今の翼がこんな状態の響を放っておける筈もない。加えて、仮にフィーネを追いかけたとして、今の消耗し切った翼では、フィーネの喉元に鋒を突き付けるには至らないだろう。

 故に、今この場で翼が取れる唯一の行動は、歯痒いながらも黙ってフィーネの背を見送ることだけであった。

 

「では、またね風鳴翼。いずれまた戦場で相見えましょう」

 

 沈む夕日にその身を溶かしたフィーネの後ろ姿を、翼は歯の根を噛み締め、何時までも睨み付けていた。

 

 




 ヒャッハー! みんな大好きガン=カタの時間だよ!
 この回を書く為だけに、リベリオンとウルトラヴァイオレットの動画を漁り、虚淵御大の浄火の紋章に関しても勉強しました。ガン=カタかっこいい。

 双星ノ鉄槌は漫画版で奏と翼が用いた協力技です。後に、翼と和解した響が、翼と共にこの技を使いフィーネを撃退しました。

 逆光のフリューゲルに関しては、シンフォギア装着時に歌う曲は、装者の心象風景の発露であるらしいのですが、別に既存の曲を歌ったって構わんのだろう? という独自解釈です。


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EPISODE 20 「軛は解かれ、夢を哮る」

 今回から物語が大きく動きます。序破急でいえば、急の序盤、エンディングへと至る為の最初の加速。かなりの急展開になりますが、シンフォギアだから許されるよね?



 暗鬱とした薄暗い部屋の中、天井に取り付けられた僅かな光源に照らされて、雪音クリスは一糸纏わぬ姿をフィーネに晒していた。何時ものように、天井から吊り下げられた手鎖に両手を吊られ、恥部を隠す事も出来ずに、顔を俯け羞恥の念に耐える。

 部屋の外では、暖かな春の陽気が新緑に芽吹く山々を照らし暖めているというのに、この部屋の中には、冷房器具が取り付けられている訳でもないのに、冷ややかな空気が満ち満ちている。肉体だけでなく、精神まで冷やし凍えさせるようなそれが、クリスの白い陶磁器のような肌を粟立たせた。

 

「命じた事も出来ないなんて、貴女はどこまで私を失望させるのかしら」

 

 クリスの眼前で、その手に鞭を持ち、クリス同様に一糸纏わぬ姿となって、己が裸体を惜しげもなく晒すフィーネが、口元を三日月に歪めながら口を開く。彼女の言葉に、返す言葉をクリスは持っていなかった。

 フィーネの言う通りだった。先の戦闘は失望されたとしても仕方がない失態だった。イチイバルというクリス自身の本当の力を身に纏っておきながら、激情に駆られ本来の目的すら見失って、敗北を喫した。

 勝てる筈の戦いだった。クリスは翼に対して徹底した対策を身に付けていたし、響に関しては、例えネフシュタンの鎧を身に纏い敗北したとしても、クリスがイチイバルを用いれば、その実力の差は明白だった。けれど、勝てなかった。

 響と翼が奏でた歌が耳にこびり付いて離れない。『逆光のフリューゲル』。かつて、翼が奏と共にツヴァイウイングとして歌ったナンバー。

 響と翼が奏でたその歌は、決してツヴァイウイング時代に奏でられた旋律に劣るものではなく、其処には紛れもなく、彼女達が紡いだ絆が存在していた。あの力の奔流がこの身を包み込んだ時、確かにその想いは、クリスの胸に届いたのだ。込められていたのは、3人分の暖かな温もり。それが、どうしようもなく眩しくて、悔しくて、羨ましかった。

 この残酷な世界で、あんなに温かな曲を歌える2人の姿が眩しかった。この理不尽な世界で、心の底から手を繋ぎ合える2人が羨ましかった。それは、クリスと蛍が渇望しながらも、決して手の届く事のない温かな絆だった。

 

「失敗は誰にだってあるわ。けれど、そこから学ばないのは愚者よ。一度の失敗ならば、私も許しましょう。二度目の失敗は、此方にとっても益となるものがあった故、心優しい私は許したわ。けれど、これで三度目。貴女は正面から立ち会い、立花響と風鳴翼に敗北した」

「……言い訳はしねえ。あたしの歌は、奴らの絆を撃ち砕けなかった。あたしは、弱かった」

「殊勝な事ね。……とは言え、私の与えたギアを纏っておきながら、星を取りこぼしたとなれば、その挫折は正しいのでしょう。しかし――」

 

 フィーネが鞭を振り被る。続けて、乾いた音と共に、痛みがクリスの肌に刻まれる。

 

「役割をこなせぬ駒になど、価値はないッ!!」

「ああああぁぁぁぁッッッ!!!!」

 

 振るわれた鞭がクリスの腹を撫で、朱を刻む。焼けるような痛みが全身を駆け抜け、クリスの脳を焦がす。何度この身に受けようとも、決して慣れ親しむ事はない痛みが、クリスの瞳に在らぬ光の粒を写し出し、激しく明滅を繰り返した。

 痛みに耐える為の布を噛ませてさえ貰えない。それ程までにフィーネの怒りは深いのだろうか。そんな事を熱に犯された頭で薄ぼんやりと考えながら、クリスは歯の根を噛み砕かんばかりに噛み締めて、落ちかける意識を保っていた。

 

「っぁ、がっ、は………」

「なぁ、クリス。その様で、本当に世界を変えられるなどと思っているのか? その程度の歌しか歌えない貴様が、未来を夢見ることなんて烏滸がましいとは思わんか? えぇ?」

 

 荒い呼吸で汗を垂れ流しながら俯くクリスの顎に、フィーネの細く長い指が沿わされ、無理矢理に顔を持ち上げられる。息がかかる程の距離で彼女の白金の双眸が、クリスの瞳を捉えて、離さない。

 未来。昔は、そんなものは幻想だと思っていた。あの地獄で両親を失い、まるで奴隷のように扱われる日々を過ごしたクリスは、世界に絶望し、夢を抱くことを諦めた。きっと自分は、このまま人間としてではなく物のように扱われ、生を終えるのだろうと思っていた。しかし、クリスは国連軍によって助けられ、フィーネにより再び拐われた。そこで世界を覆う呪いを知った。バラルの呪詛。人類の不和の象徴。

 自身から、両親を奪った戦争を憎み、イチイバルという力を手に入れたクリスは、「世界を変えよう」と言うフィーネの手を取り、この屋敷に来た。そこで、出逢ったのだ。クリスによく似た、真っ黒な少女――詞世蛍に。

 今でもよく覚えている。屋敷の扉から顔を覗かせたその少女は、深々と降り積もる真っ白な雪景色の中、浮かぶただ一点の黒。その濡羽色の髪から覗く紅い2つの瞳が、クリスの事を驚きと共に見つめていた。

 

 白いあたし(クリス)と、黒いあいつ()

 

 蛍と出逢い、クリスの願いは変容した。争いをなくしたいというあの時抱いた憎しみが消えた訳ではなかったが、それ以上に、蛍ともっと分かり合いたいと願うようになった。無表情でそっけない、ともすれば冷たいとも評されるであろう彼女は、その実、その真逆で、無表情の仮面の下では様々な感情を現していて、誰よりも優しい、小さな女の子だった。それに気付いたから、クリスは彼女を守りたいと思った。この理不尽で、残酷な世界から振りかかる蛍を害する全てを打ち砕き、いつの日か、バラルの呪詛を解き、彼女と心の底から笑い合いたいと渇望した。そんな未来を、夢見た。

 それは烏滸がましいことなのだろうか。クリスと蛍が世界に望むたった一つの願いすらも、弱いクリスには抱く資格がないというのか。

 

「……けんな」

「何?」

「……ふざ、けんな。そんな事、認めてなるものかよ」

 

 認めない。認めてなるものか。この胸に抱いた、夢は、未来は、希望は、決して間違いなんかじゃない。クリスは激痛に苛まれながらも、胸の内から燃え上がる情炎に薪を焚べ、大火となった想いのままに、眼前のフィーネに向けて哮った。

 

「何時かの未来、何処かの場所で、あいつと手を繋ぎたいと思うのが、そんなにいけない事なのかッ!? 弱いあたしにはそんな夢を抱くことすら許されねぇのかッ!? その夢を――未来を幻視させたのは、他でもないあんたじゃねぇかッ!!」

 

 クリスはフィーネのことを信じてなどいない。こちらの事情などお構いなしに無理難題を吹っ掛けて、失敗すれば、喜々としてその手に握った鞭でのお仕置きが待ってる。屋敷では基本的にいつも全裸で、何度文句を言っても聞き入れる事はなく、そんなフィーネの姿に顔を赤らめるクリスを愉悦の表情で眺める。痛みこそを至上の絆とするそんな彼女を、信じられる道理はなかったし、それを受け容れる程の被虐趣味をクリスは持ち合わせていなかった。

 

 けれど、そんな彼女にも、クリスは少なからず感謝の念を抱いていた。

 

 フィーネが居なければ、クリスはあの地獄から本当の意味で抜け出すことはなかった。フィーネが居なければ、クリスはイチイバルを手にすることはなかった。フィーネが居なければ、クリスは再び夢を見ることはなかった。フィーネが居なければ、クリスは蛍に出逢うことはなかった。

 クリスと蛍を繋いだのは、紛れも無く、フィーネという存在だったのだ。そしてそんな彼女は、蛍を除けば、あの地獄から抜け出した後に、最もクリスと関わり合った人なのだ。バラルの呪詛を解いた世界で、クリスが最も分かり合いたいのは、一片の疑問の余地なく詞世蛍という少女だ。けれど、もし、他に分かり合いたい人は居ないのかと問われれば、クリスは、多分、フィーネと答える。そう考える程度には、クリスは、フィーネとの間柄は浅からぬものだと心の何処かで感じていた。この2年という月日を、クリスは少なからず彼女と共に過ごしてきたのだから。

 だというのに、それをフィーネが否定するのか。クリスに何もかもを与えてくれたフィーネ自身が。

 

 思いの丈を感情のままに吐き出したクリスに対し、フィーネは変わらず冷ややかな態度であった。フィーネは小さな声で「……そろそろ潮時か」と呟くと、クリスの手鎖を外し、その細腕でクリスを抱きかかえた。

 

「なっ……えっ……」

「興が削がれたわ。今日は此処までにしておきましょう」

 

 急にそんな事を言われて、クリスは戸惑った。フィーネがお仕置きを途中で中断するなんて、今までに一度もなかったからだ。どんな時でも口元に笑みを浮かべて、実に楽しそうにクリスに痛みを刻み込むフィーネの姿は何処にもなく、どこまでも冷淡な研究者然としたフィーネの態度が嫌に気になった。

 クリスは、お仕置きの際に脱ぎ捨てた衣服と共にフィーネに抱きかかえられて屋敷の中を渡り歩く。思い出したように痛み始める身体の傷に顔を歪めながら、クリスはフィーネに縋り付き、彼女の腕の中で揺られていた。

 フィーネの歩が向かう先は、普段傷を癒す為に使用するメディカルルームではなく、屋敷の2階の隅に位置するフィーネの自室だ。いつもと違うフィーネの行動に、再び僅かな違和感を覚えながらも、痛みに耐える頭では、まともな考えも纏まらず、されるがままにクリスは運ばれていく。

 ほどなくして、クリスはフィーネの部屋へと辿り着く。扉が開かれ、中を覗き込めば、思わず眼を細める程の眩い輝きに彩られた絢爛豪華な家具の数々。部屋の片隅には、巨大なモニターとそれに備え付けられた操作用の端末。2年間共に過ごしていても、数えるほどしか入った事のない、フィーネの自室は、桜井了子としてではなく彼女自身の趣味が全体に反映されており、その相も変わらぬ悪趣味っぷりにクリスは眉を顰めた。

 

「さぁ、着いたわ。傷口を見せて」

 

 柔らかな革張りのソファーにクリスの事を下ろしたフィーネは、恥部を覆っていたクリスの手を問答無用で退かせると、白金の瞳でクリスの身体を検分していく。蛍であれば、顔色の一つも変えずに終えるであろうその作業は、恥ずかしがり屋のクリス――認め難いが事実である――にとって、顔を真っ赤に染めるに余りあった。

 だが、耳まで赤く染めて、俯く顔を少しだけ上げて、視線をフィーネに移せば、やはりどこか様子のおかしい彼女の姿が眼に映る。おかしいのはフィーネの表情だ。普段のフィーネであれば、治療の前段階として己の刻み込んだ傷を恍惚の笑みを浮かべてうっとりと眺める筈なのだが、今の彼女は何の感情も映さない無感情な瞳で、只クリスの傷の様子を確かめているだけだ。

 ありえない。あの人を虐める事こそが己が趣味だと言って憚らないフィーネが、被虐対象を前にして何の反応も見せないなんて、余りにもおかしい。

 

「なぁ、おい――」

「傷の程度は把握したわ。消毒液とか包帯を持ってくるから暫く待っていなさい」

 

 掛けようとした言葉は、フィーネの感情の乗らない一言に遮られた。言葉を続けようとしたクリスに背を向けて、フィーネは部屋を後にする。

 

「……一体全体、何がどうなっていやがる」

 

 此処に来て漸くクリスは、これが異常事態である事を飲み込んだ。何かが起こっている。その事は間違いない。けれど、何が起こっているのか。それが分からない。嫌な雰囲気だった。不安ばかりがクリスの心に積み重なって、それがどうしようもなく焦りを募らせる。

 

 そんな時、部屋の片隅に置かれた巨大なモニターの電源が入れっ放しである事にクリスは気付いた。

 

 これもまたおかしい。屋敷にある端末の全てにはロックが掛けられており、フィーネにしか操作が出来ないよう設定されている。クリスや蛍に余計な情報を与えない為の処置であったが、それは徹底されており、電話の一つですら満足に使えない程だ。

 だというのに、クリスの視線の先にあるあのモニターは起動状態であり、そのロックすら外れているように見える。

 痛む身体をおして、何かに導かれるようにクリスはその端末の前まで歩を進めた。フィーネの様子がおかしい理由が、何か分かるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて、モニターに視線を移すと、遠目には見えなかった文字が読めた。それは、どうやら何かの計画を示した計画書であるらしい。

 

「ライブリフレクター計画……?」

 

 訳も分からず、端末を操作する指が震えていた。傷の所為ではない。自分でも何故だか分からないが、これを読めば、もう後戻りは出来ないと、クリスの直感が告げていた。

 しかし、湧き上がる好奇心を抑えられず、クリスは震える指で端末を操作し、映し出された文字を瞳で追った。

 

 計画書を読み終えたクリスが胸に抱いたのは、今までに感じたことがない程の――怒りだった。

 

 

◇◇◇

 

 

「あら、見てしまったのね」

 

 いつの間にか、部屋へと戻ってきたフィーネが白々しいまでの台詞を口にした。そんなフィーネの態度に、クリスの胸の内嵐は更に勢いを増した。当然、その手には、()()()()()()()()()()()()()

 

「白々しいんだよッ! これだろう!? あんたが私に見せたかったのは!?」

「ふふっ、さぁ、何の事かしら」

「猿芝居はよせッ!! アンタはこんな物をあたしに見せて何がしたいッ!? こんな、あいつの命を消耗品みたいに扱う真似をあたしが――雪音クリスが許せる筈がねぇだろうがッ!!」

 

 先程までの様子とは打って変わって、クスクスと本当に楽しそうに嗤うフィーネを射殺さんばかりにクリスは睨み付け、猛る。

 

「巫山戯るなよ……あいつは……世界を変えて、そこで漸く誰かに愛してもらいたかったんだッ!! それをテメエはッ……!! 踏み躙るつもりかッ!!」

「所詮は駒。駒はその役割をきちんと果たしてこそ駒を足り得る。蛍は、私の為に最後まで働いてくれるだろうさ。不出来な不出来な貴様と違ってな」

「させるか、させてたまるかよッッ!!!!」

 

 沸き立つ怒りが、クリスの身体を突き動かす。クリスは素早く駆け出すと、ソファに置かれた自分の衣服の中から、己が力の結晶を掴み取り、胸に浮かぶ聖詠を口にした。

 

Killter Ichaival tron(銃爪にかけた指で夢をなぞる)

「ハッ! 良いぞ、クリス。相手をしてやる。先に抜いたのは、其方だという事を忘れるなよ?」

 

 クリスが白銀の繭に包まれ、その身に真紅の鎧を身に纏うと同時に、フィーネの身体が青白い光の柱が立ち上る。フィーネが纏うのは黄金の鎧――クリスが身に纏った時よりも、随分と禍々しさを増した黄金色のネフシュタン。

 

「私に弓を引く。それが何を意味しているか分かっているのか? お前が、望んだ明日は永遠にやって来ない。強者が弱者を虐げない争いのない世界も、誰かを心の底から信じ、愛する事の出来る世界はもう2度と訪れることはなくなるのだぞ?」

「其処にあいつがいないんじゃ、意味がねぇんだよ!! あたしは誰よりも、蛍を信じ、愛したいんだッッ!!!!」

 

 クリスはこの世界を憎んでいる。強者が弱者を虐げ、信じた人には裏切られて、善人ばかりが馬鹿を見る。そんな理不尽で、残酷な世界。この世界を変える為ならば、この手を血に染めることすら厭わない。そう決意して、真紅と灰色に塗り潰された道を此処まで歩んできた。

 けれど、それは、分かり合いたいと願う人が居たからだ。誰よりも優しく、不器用で、小さな彼女が居たからだ。人々の不和が解消された世界を、彼女と共に歩みたいと祈り、願ったからだ。クリスが信じたいのは、愛したいのは蛍なのだ。彼女の居ない世界になんて、何の意味もなければ、価値もない。

 もう二度と失うものかと決めたのだ。もしも、クリスが望んだ新たな新天地が、蛍の犠牲の上に成り立つ世界ならば、そんな物は、もう、要らない。

 蛍を失うくらいならば、この理不尽で、残酷な世界で、彼女と共に生きた方が万倍マシだ。

 それに、もしかしたら、いつの日か、クリスと蛍も、あの2人の様に、手を繋ぎ合えるかもしれない。この世界には、あんな風に、歌を歌える奴らもいるのだから。

 

 故に、クリスは引き金を引く。こんな奴の所に、蛍を置いてはおけない。それは、近い将来、遠からずして蛍の生命を磨り潰す。

 

 真紅と黄金がぶつかり合い、超常の力を辺りに撒き散らす。クリスは手にしたクロスボウに矢を番え、フィーネに向けて撃ち放つ。迫る幾本もの矢を、フィーネは狭い室内にも関わらず、巧みに鞭を使い叩き落とした。

 室内という狭い限定空間。中遠距離向けの武器である鞭が主武装のネフシュタンに取っては戦いづらいフィールドである。だが、それ以上にクリスのイチイバルにとって、この空間は鬼門だった。広範囲・高火力というイチイバルの特性が完全に殺されてしまっている。爆発系の武装は自分へのダメージを避けられず、取り回しの重いガトリング砲では、フィーネの動きを追い切れない。

 本来であれば、こういった場面でこそ、翼を相手に使ってみせたガン=カタが輝くのだが、あれは翼を徹底的に研究したからこそ使えるものであって、クリスはフィーネの思考パターンも知らなければ、戦闘のスタイルも知らない。それどころかフィーネが戦う姿を見る事自体が初めてなのだ。常に相手の動きを先読みしなければならないガン=カタなど、用いれる筈もない。故に、クリスが手にするのは、比較的取り回しが安易なクロスボウ。しかし、これもご覧の有様で、フィーネの防御を抜くには能わない。

 加えて、屋敷の中には蛍がいる。彼女の部屋の位置は覚えているが、クリスとフィーネの戦闘音を聞き付けて、直ぐにでも此方に向かって動き出すだろう。万が一にも彼女を傷付けることなどあってはならない。

 

「だったらぁ!!」

 

 クリスは、早々に、屋敷内での戦闘を放棄。窓ガラスをぶち破り、太陽に照らされた庭へとその身を投げ出した。暖かい春の日差しをその身に受けながら、クリスは着地。そのまま駆け出し、森の中へと身を投じる。屋敷から十分に距離を置いた所で、背後から迫る鞭の気配を感じ取り、振り向きざまに矢を放った。

 

「ちょっせぇ!!」

「フン、何処までも、蛍を気遣うか。その甘さが気に食わないと何度も教えた筈だが、終ぞ貴様がそれを改めることはなかったな」

「当たり前だ。あたしと蛍の絆は、決して痛みで繋がれた物じゃねぇ。何処かの誰かさんみたく、痛みこそが唯一絶対の絆だなんて、あたしにはどうしても思えなかったし、あたしと蛍が求めたのは、もっとあったかくて眩しいものだ。アンタのそれは、人を信じる事を放棄した人間の考えだ。誰よりも信じる事を求めているあたし達とは、どの道相容れない思想なんだよ」

「随分と噛み付いてくれるな。だが、貴様の言う『あったかくて眩しいもの』とやらに縋った結果出来上がったのが、この世界だ。貴様の憎むこの理不尽な世界だ。月が変わらず宙に浮かんでいる限り、人はその温かさを信じ切れる程強くある事など出来る筈がない」

「あぁ、そうだろうともよ。そんな事は、言われるまでなく、誰よりもあたしが良く知っている」

 

「けどな――」と前置きし、クリスは向き合うフィーネへとクロスボウを構える。

 

「あたしにとって一番何が大事か漸く気付いたんだ。それは強者が弱者を虐げない争いのない世界でもなければ、誰かを心の底から信じられる世界でもない。あたしが望んだ世界――それは、あいつの隣で、共に歩める世界なんだ。私にとっての世界は、あいつなんだよ」

「……よもや、其処まで依存が進んでいたとはな。だが、その関係は遠からず破綻するぞ」

「テメエに是非を問われる筋合いはねぇよ。こうなるように仕向けたのは、テメエだろうが。依存? そんな事あたしも蛍もとっくの昔に気付いてんだよ。だから、あたしは、あいつの為になら何だってするんだッ!」

 

 屋敷からは十分は距離を取った。もう何に遠慮する必要もない。全力でフィーネを――蛍に仇なす敵を、撃ち貫くだけだ。

 クロスボウを手放し、新たに両手に握るのは、3連ガトリング砲。この遮蔽物の多い森の中でならば、フィーネの機動力を阻害した上で、遮蔽物ごと撃ち抜くだけの火力をこの銃は秘めている。

 

《BILLION MAIDEN》

 

 12の銃口が火を吹き、破壊の嵐を撒き散らす。立ち並ぶ木々を薙ぎ倒して、フィーネへと迫る無数の銃弾。しかし、その銃弾はフィーネを貫くには至らない。クリスの視界に映るのは桃色の壁。フィーネはその銃弾を、左手を前に突き出し(バリア)を発生させる事で防ぐ。

 

「あたしの銃弾とテメエの(バリア)、どっちが強い張り合おうってか!」

「真っ向勝負で私の(バリア)を越えられるとでもッ!!」

「超えるんだよッ!! ありったけでぇッ!!」

 

 喉を震わせて、歌を奏でる。クリスは先程まで結果の分かりきった無為な問答をフィーネと重ねていた訳ではない。その間、シンフォギアのエネルギーを内に止めて、解き放つ時を今か今かと待っていたのだ。それを、歌声に乗せて、一気に解き放つ。行き場の失ったエネルギーが臨界を超えて、極大の火力となって顕現する。

 本来であれば、蛍とのコンビネーションを前提とした技。チャージまでの時間が長く、単独ではまともな運用はする事は叶わない。しかし、チャージの時間も充分に与えられ、敵が防御に専念して足を止めている今ならば、この技は成立し得る。

 

《MEGA DETH QUARTET》

 

 両腕に握ったガトリング砲をそのままに、背中からは巨大な4基のミサイル、加えて太腿部装甲を展開し中から小型のミサイルを全段発射する。今のクリスが持てる最大火力が、群を成してフィーネの(バリア)を食い破る。

 激しい閃光を伴って、山中に轟く爆発音。爆炎が周囲の木々を燃やし、焦土と化していく。

 

 焔の中に、人影が浮かぶ。

 

「その再生速度は!? フィーネ……テメエ……人としての在り方まで捨て去ったのか!!」

 

 クリスとてこの一撃で倒し切れるとは思っていなかった。完全聖遺物ネフシュタン。その防御性能は折り紙付きであり、それはクリスも身に染みて良く知っている。

 故に、目の前の光景は異常だと断言できた。穴だらけの肉体、焼け焦げた肌、捻れた脚。人であれば致命傷。いや、本来であれば、最早その生命は失われている。それ程までの傷。だが、死に体である筈の見るも無惨なフィーネの肉体が、ぐじゅり、ぐじゅりと、生理的嫌悪を齎す音と共に再生していく。

 

「私と一つになったネフシュタンの再生能力だ。面白かろう?」

「まさか、融合!? 受け入れたのか、ネフシュタンを!?」

「あっははははは!! 素晴らしいだろう!! この無限の再生能力、完全聖遺物の名に相応しい力だッ!! 私は人類を超越したのだッ!! 言祝(ことほ)ぐがいいッ!! 新霊長の誕生だッ!!」

「そうか、あの馬鹿に拘った理由がそれか!!」

「然り。立花響は人類初の聖遺物との融合症例。奴のデータはとても役に立ったよ。惜しむらくは、奴の絶唱発動を観測出来なかったことぐらいか。貴様がいつまで経っても、あの雛鳥を連れ返らぬからな。本来であれば、あの雛の代わりに貴様を腑分けの検体とするつもりだったのだが、今となっては、最早、どうでもいい。この身もまた聖遺物との融合体。実験するのであれば、己が肉体を使えば良いだけなのだから」

 

 焼け焦げた顔を歪めて、フィーネは嗤う。狂っている。人としての在り方を捨て、人外へと至ったフィーネ。まるで彼女の底知れぬ妄執が、そのまま形を成した化け物。非道。残虐。猛悪。人の道を外れた、邪慳の権化。

 

 ダメだ。こんな奴の側に、蛍を置いておくなんて、絶対にダメだ。

 

「……もう後戻りは出来ないんだな」

 

 ポツリと、呟く。

 何時かの未来、何処かの場所で、もしかしたら、あり得たかもしれない風景。蛍とフィーネがあたしをからかって、クスクスと笑う。フィーネと2人で、蛍に色んな服を着せて悦に浸る。ガミガミと煩いフィーネに、蛍と2人肩を竦めて辟易する。そんな何でもない日常を、この屋敷で、クリスと、蛍と、フィーネの3人で過ごす。手を取り合い、笑い合う。そんなあたしの、儚い、夢。

 

 そんな未来を今、クリスは、完全に捨て去った。

 

 フィーネの歩む道の先に、クリスが望んだ明日はない。クリスは、蛍と共に歩む世界を選んだのだ。クリスにとって、一番大切なものを、定めたのだ。

 それはフィーネでもなければ、クリス自身でもない。詞世蛍という、たった一人の女の子。全てを失ったクリスが、この理不尽で、残酷な世界で、もう一度出逢えた、たった一つのあったかい宝物。

 詞世蛍は、雪音クリスにとっての夢であり、未来であり、希望だった。

 

「――それ以外の何かを望むなんて、欲張りが過ぎる」

 

 瞳を閉じて奏でるのは、生命を燃やす破滅の歌。自身の生命を薪として、燃え上がらせる最期の灯火。

 

 Gatrandis babel ziggurat edenal

 Emustolronzen fine el baral zizzl

 Gatrandis babel ziggurat edenal

 Emustolronzen fine el zizzl

 

 ――絶唱。

 

《THE FREE SHOOTER》

 




 また予定の箇所まで書ききれませんでした。全然、思った通りの文字数に収められない……。最終話までのプロットを書き上げた段階で、ずっと書きたかったシーンも次回に持ち越し。

 クリスによる盛大な愛の告白。なお、作者はこれでもガチじゃないと言い張る模様。ほら? 愛にも色々あるじゃないですか(言い訳)

 《THE FREE SHOOTER》は作者の完全なオリジナル。
 元ネタはWA1に登場するゴーレムの一体、バルバトスのハンドル「魔弾の射手」の英語訳。
 どんな技かは次回に。バルバトスが元ネタってバラした時点で、分かる人には分かるんでしょうが……。

 以前。活動報告にも書いたのですが、次回から更新速度が落ちると思います。
 楽しみにしてくれている読者の方には申し訳ないのですが、ご理解ください。


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EPISODE 21 「雪の音、溶けて、消えて」

 ふとお気に入りを見たら888件と何ともキリの良い数字で、ラッキーだと思いました。沢山のお気に入り登録ありがとうございます。



 焔の中心から歌が紡がれる。歌声を上げたのは、真紅の鎧を身に纏った少女。その歌声は、燃え盛る炎の音に埋もれることなく、赤く染まった山に涼やかに響き渡る。

 瞬間、少女を中心に光の柱が立ち昇った。クリスの歌に応えたイチイバルが、限界を越えた力を少女に齎す。クリスの身体から溢れ出したフォニックゲインが暴風となって、周囲を焦がし尽くしていた赤を吹き消した。

 その歌こそ、絶唱。装者の生命を燃やし奏でられる歌声が、クリスの喉を通り抜けて、空気を震わせる。

 一節、一節を口にする度に、クリスの中から大切な何かが燃えて、尽きて、失われていく。それをほんの少しだけ、惜しむ自分がいる。もし、この生命を、蛍と過ごすことに使えたならば、どれ程良いだろうか。例え、お互いがお互いを完全には信じられないこの理不尽で残酷な世界の中にあろうとも、きっとそれはあったかくて眩しい時間になったに違いない。その希望を、クリスはあの2人の歌から感じ取った。

 だが、既にクリスは選択をした。己の中で最も大切な物を選んだのだ。天秤は既に傾き、その傾きを誇らしいとすら思っている。絶唱を歌い助かる保証など何処にもない。如何にクリスが聖遺物に対して高い適合係数を誇っていたとしても、この歌は容赦なく装者を蝕み、その生命を薪とする。

 故に、クリスは歌う。詞世蛍(一番大切な物)を守る為に、自分の生命を薪とする。守りたいと願った小さな少女。彼女の未来を掴み取る為に、今、此処で、雪音クリスは歌声を響かせるのだ。

 

 最後の一節を歌い終える。

 

 自身の内側から溢れ出る荒れ狂う力の奔流を、両の手に握ったアームドギアへと注ぎ込む。現れるのは、長い砲身。二俣に別れたその砲身の間を、幾筋もの稲妻が迸り、放たれる瞬間を今か今かとばかりに待ち構えている。腰から伸びた菱形の装甲から、体勢を固定する為のアンカーが地面に打ち込まれ、クリスは変形したヘッドギアのバイザー越しに目標(フィーネ)を見据える。

 クリスの絶唱を前にしても、フィーネは変わらず嗤っていた。未だ身体の大部分を欠損しながらも、裂けた口元を三日月に歪めて、不敵な笑みを浮かべている。それがクリスに一抹の不安を与える。

 ネフシュタンの鎧と同化し、人としての在り方を捨て去ったフィーネ。それはつまり、フィーネはあのネフシュタンの脅威の再生能力の恩恵を、何のリスクをなく扱える事に他ならない。彼女を倒すには、その細胞の一片足りとも残さない火力が必要となる。そうでなければ、今の彼女を殺し切ることは出来ない。《MEGA DETH QUARTET》が防がれた今、クリスの手札でそれを上回る火力を成せるのは、絶唱だけだ。これにすら、耐えるのであれば、今のクリスでは、フィーネを殺し切ることは出来ない。

 そんな不安が現れたのか、トリガーを握る指先がカタカタと震えていた。その様子に気付いているのかフィーネは、更に笑みを深め、此方を挑発してくる。

 グッと、不安を怒りで押し殺した。シンフォギアの力は、想いの力。歌に込められた想いを変換し、装者に超常の力を齎す。クリスの蛍への想いが、フィーネの悪意に屈するなど、あってはならない。この想いは、誰にも負けない。クリスの全身全霊の想いを――生命を賭すのだ。負けてなど、なるものか。

 クリスはフィーネをもう一度力強く睨みつけると、蛍への想いを胸に、自身の生命を燃やして、その引き金を引いた。

 

《THE FREE SHOOTER》

 

 全てを打ち貫く魔弾が放たれる。音を置き去りにする弾丸が、その軌跡に稲妻を残し、フィーネを打ち貫かんと飛翔する。

 対するフィーネは、依然として口元に笑みを浮かべて、その再生仕切っていない右腕をクリスに向けて突き出した。ネフシュタンの肩部から伸びた鞭が格子状に重なり合い、フィーネの眼前で盾となって立ち塞がる。

 

《ASGARD》

 

 その盾は三重。桃色の六角形をした盾が重なり合い、魔弾を防ぎ切らんと立ち塞がる。銃弾と盾。二つの超常の力がぶつかり合う。まるで、先程の焼き増し。結局のところ、クリスとフィーネの戦いとは、クリスの魔弓が、フィーネの鎧を撃ち貫けるか。その一点に尽きた。

 

「ぶち抜けええええええええええッッ!!!!」

 

 一枚、一枚と魔弾が、桃色の盾を食い破り、最後の一枚に差し迫った所で、クリスは吼えた。クリスの声に後押しされるように、魔弾が桃色の盾に食い込み、ミシリと蜘蛛の巣状の罅が広がる。そして程なくして桃色の盾は欠片と砕けた。

 轟音と共に着弾した魔弾は、地面を抉り、土砂を巻き上げる。その光景を目にしても、クリスの不安は消えることはなかった。これで終わったのか? 本当に? そんな思いがぶり返し、クリスの心中を掻き乱した。

 そして、その不安は現実となってクリスの前に現れる。巻き上がった土砂の向こうから、か細いながらも確かな声がクリスの耳に届いた。

 

「……惜しかった、な」

 

 四肢が千切れ、胴体に大きな風穴を開けながらも、フィーネは健在だった。地面に倒れ伏し、彼女らしからぬ醜態を晒しながらも、顔だけは此方を向いて、変わらぬ嘲笑をクリスに見せ付けてくる。未だ傷の一つもないクリスと、満身創痍なフィーネ。しかし、フィーネはクリスに向けて、私の勝ちだと言わんばかりに笑みを浮かべるのだ。

 

「がはっ……ぐっ……ぎっ……」

 

 まだだ。まだ終わっていない。そう叫ぼうとした口からは、代わりに真っ赤な鮮血が吐き出された。限界を越えた代償が、クリスの身を苛み始めたのだ。

 痛い。痛い。身体中のあらゆる箇所が、絶唱からのバックファイアに悲鳴を上げ始める。立っていることすら儘ならず、クリスは堪らず膝を着いた。瞳から、口から、溢れ出した血が、ポタリポタリと赤い雫となって垂れ落ちる。

 痛みからか、朦朧とする意識の中、視線を上げれば、其処には既に再生を始めるフィーネの姿がある。

 届かなかったのか。限界を越えてなお、クリスの力はフィーネに届き得なかったのか。あとほんの少し、もう少しだと言うのに。そんな失望と慚愧の念が湧き上がる。

 

 だが、身体と精神を蝕まれながらも、クリスは立ち上がった。震える四肢で地面を踏みしめ、両の足でしっかりと大地の上に立った。

 

 思い出すのは、一番大切な誰か()の笑顔。共に歩みたいと願った道の果て、何でもない日常の中で、暖かく微笑む蛍の姿を幻視した。

 その微笑みが、クリスに最後の力を分けてくれる。まだ、負けていない。まだ、終われない。望む未来を掴む為に、クリスは此処で屈する訳にはいかないのだ。

 

「まだ……まだ、だ。あたし、は……まだ……やれる……戦えるッ!」

 

 クリスは血を吐きながらも哮り、自身の身に残った限界を越えた力の欠片を掻き集める。

 ギアが重たい。既にいつ装着が解けても可笑しくない状況にある。ギアのバックファイアから装者の安全を守る為のセーフティ機能が、クリスからイチイバルを無理矢理に引き剥がそうとする。しかし、クリスはそれを意思の力で強引に引き止めた。

 

「これで……本当に、最後だ。もう少しだけ、力を貸してくれ、イチイバル」

 

 掻き集めた最後の力を、右手に集める。仄かな光と共に生み出すのは、小さな拳銃。これが、今のクリスに生み出せる精一杯のアームドギアだった。だが、これで、充分だ。フィーネとて、本当にギリギリの所でクリスの絶唱を防ぎ切ったのだ。あと一手、それだけで、彼女を終わらせることが出来る。それが分かるからこそ、クリスはこうしてあらん限りの力を振り絞っている。

 銃口をゆっくりと、フィーネへと向ける。人の神経を逆撫でする笑顔を貼り付けたその顔へと銃口を合わせて、その引き金を引く――否、引こうとした。

 

 その瞬間、空から降り注いだ濃紺の光が、クリスが手にした最後の力を打ち砕いた。

 

 

◇◇◇

 

 

 蛍はその身に濃紺の鎧を身に纏い、覚束ない体勢で、神獣鏡に搭載された飛行機能――イオノクラフトを用い、空を駆けていた。それは、普段の蛍からは考えられない程、杜撰な飛行で、かつて風鳴翼を相手取った際の、宙を滑るような軽やかさは微塵もない。未だ上手く力の入らない両足で何とかバランスを保ちながら、蛍は焦燥を隠そうともしない表情を浮かべていた。

 

「何が、何が起きているの!?」

 

 蛍がその異常に気付いたのは、自室のベッドの上で歌を奏でていた時だった。両足の麻痺が未だに完治していない蛍は、フィーネから訓練を禁じられ、クリスからは家事を禁じられ、何もする事がないと、最近は自室のベッドの上で横になっている事が多かった。両足の麻痺は以前に比べて、大分マシになったと言っても、心配性なクリスが有無を言わせぬ表情で、蛍をベッドに押し込むのだ。多少は動かなければ、リハビリにならないと言っても聞いてはくれず、「家事も戦闘も、暫くはあたしに任せておけ」とクリスは問答無用で蛍をやり込めていた。

 ベッドの上で出来ることなど、高が知れていて、その中で蛍が気を紛らせられる事など、歌を歌う程度だ。早く足を治さなければという焦燥感と、クリスにばかり戦わせることへの罪悪感を紛らわせる為に歌う歌など、歌っていてもちっとも楽しくはなかった。そんな暗鬱とした気分で歌を歌う自分に嫌気が差したりもしたが、結局、ベッドの上でじっとしていることにも飽きて、また喉を震わせることを繰り返していた。

 屋敷全体が轟音と共に震えたのは、蛍がそんな冴えない歌を奏でていた時だった。始めは、地震かとも思ったが、それは違うと直ぐに頭を振った。断続的に響き渡る音の正体は、唯の音ではなく、慣れ親しんだ戦場の音であった。そして、何よりクリスの歌が聞こえた。激情に満ちたクリスの歌声が、只事ではないことをこれでもかと言わんばかりに伝えてきた。

 胸の内から湧き出る不安から、蛍は急いでベッドから跳ね起きたものの、両足の麻痺にまごついて、フローリングの床に身体を打ち付けた。思い通りにならない足を、今程憎く思った事はない。蛍はグッと歯を噛み締めた。

 這いつくばって何とか壁に立て掛けた杖の元まで辿り着いた時には、音が移動している事に気が付いた。その音は屋敷を飛び出し、屋敷の周りに広がる森へとその音源が移り変わっていた。杖を突いて窓際にまで辿り着き外を覗き込めば、土煙と木々を撒き散らし、屋敷から遠ざかるようにして戦闘の爪痕が移動している。

 

 誰かが戦っている。その一人は、クリスだ。その銃口を誰に向けているのか確かめなければならない。

 

 「けど……」と小さく呟き視線を下げれば、其処には自身の思い通りに動かない両足がある。この足では、到底追いつくことなど叶わないだろう。自身の無力さに、思わず、拳を握り込んだ。

 どうにか、どうにかしなければと、焦る蛍の首元で、きらりと赤い水晶柱が輝いた。まるで、使えとばかりに輝いた神獣鏡に、「そうか、イオノクラフトなら……」と顔を上げ、聖詠を唱える。

 

Rei shen shou jing reveal tron(小さきこの身を暴いて)

 

 濃紺の鎧を身に纏った蛍は、直ぐ様、イオノクラフトを起動して、窓から飛び出し、未だ戦闘音が鳴り止まぬ森へと向かう。

 脚部装甲にイオノクラフト機構が搭載されているせいか、いつも通りとは呼べない飛行に蛍は四苦八苦しながら、音源へと徐々に近付いていく。

 

「この! お願い、言うことを聞いて! 嫌な予感がするの! 早く、早く行かないと――」

 

 ――間に合わなくなる!

 

 何が間に合わなくなるのか、蛍に自身にも分からない。けれど、間に合わなければ決定的に何かが終わってしまう。そんな漠然としながらも、胸中を騒めき立てる焦燥感に蛍は苛まれていた。嫌な予感ばかりが、蛍の心に積み重なり、早く、早くと蛍を戦場へと駆り立てるのだ。

 蛍のその予感は最悪と言ってもいい形で具現化した。

 

 戦場から、歌声が聞こえる。

 それは、自身の限界を超えて、シンフォギアから力を引き出す為の起動の鍵。それは、装者の生命を燃やす滅びの歌。

 その歌の名は――。

 

「絶唱!? そんな、クリス!?」

 

 燃え盛る森の中から、一筋の光の柱が天を突く。クリスの歌声から発せられた膨大なフォニックゲインがピリピリと痛い程に蛍の肌を刺す。伝わってくるのは、クリスの覚悟。自分の生命を賭してでも勝たなければならない。絶唱を口にするということは、クリスにとってこの戦場が、そういう意味を持っていることの何よりの証左だった。

 

「止めてッ!! お願いッ!! クリスッ!!」

 

 蛍の絶叫も空しく、最後の一小節が蛍の耳に届いた。直後、一筋の光が、森を穿った。その余波は、衝撃となって蛍の全身を揺さぶる。崩れそうになったバランスを何とか立て直し、光の着弾点付近を見る。

 生え茂っていた草木が薙ぎ倒され、周囲に燃え盛っていた炎が掻き消されていた。山肌が露出し、削り取られた土砂がまるで雨のように辺りに降り注ぐ。

 辺りに撒き散らされた破壊の嵐に思わず、息を呑んだ。これが、クリスの本気。訓練では知ることのできなかった、クリスの絶唱。

 

 それでも、蛍は、諦め切れなかった。

 

 クリスの絶唱を目の前にしても、クリスの相手が死んでいない筈だと。蛍とて何となく予想は付いているのだ。クリスが誰を相手にしているのか。それに必死に気付かない振りをしているだけなのだ。

 だからこそ、何故あの二人がこんな争いを――それも、クリスが絶唱を口にする程の戦闘を――しているのか分からなかった。眼前の戦場で一体何が起こっているのか蛍は確かめなければならない。知らなければならない。そんな脅迫観念にも似た焦りが、唖然と佇むしかなかった蛍の身体を突き動かす。

 焦燥に駆られた蛍が漸く戦場に辿り着いたその時、蛍は、目を背け続けていた予想が、現実であることをまざまざと突き付けられた。

 見下ろした眼下で、クリスとフィーネが対峙している。その姿は互いに満身創痍と言っても過言ではない。クリスは、目立った外傷こそないものの、絶唱のバックファイアからか、口と目から血を流し、苦しそうに顔を歪めながら地面に膝を着いて荒い呼吸を繰り返している。対するフィーネは、クリスの絶唱を直接その身に受けて、四肢がもがれ、胴体には大きな風穴が開いている。フィーネに至っては、何故生きているのか不思議な程だ。恐らくは、その身に纏ったネフシュタンの鎧の再生能力に依るものなのだろうが、人体にこれだけの損傷を受けて尚、ネフシュタンの鎧はその効果を発揮するものなのだろうか。

 自身がその恩恵にあやかった経験があるからこそ、蛍は断言できた。そんな事は、あり得ない。アレは、そんなに都合の良い代物ではない。

 ネフシュタンの鎧は、身に纏った者を食い潰す。あれだけの再生を行うとなれば、ネフシュタンによる身体への侵食が深刻なレベルで進行している筈だ。完全聖遺物との融合。それは、人を人では無くしてしまう。人としての在り方を損なってしまう。

 

「フィーネ……貴女……まさか……」

 

 目の前の光景を唖然と見つめるしかなかった蛍。だが、状況は蛍の理解など待ってはくれない。絶唱からのバックファイアにその身を苛まれて、満身創痍である筈のクリスが立ち上がったのだ。その手には、小さな拳銃型のアームドギアが握られている。クリスは、震える手で銃口をフィーネに向けた。

 

 気付いた時には、手に扇型のアームドギアを現出させ、濃紺の閃光を放っていた。

 

 手にした拳銃を打ち貫かれて、驚愕に顔を歪めたクリスが視線を上げる。その視線を正面から受け止め切れず、誤魔化すように声を上げて、蛍は二人の間に降り立った。

 

「二人とも何をやっているんですか!?」

「……蛍」

「クリスもフィーネも、喧嘩にしては度が過ぎていますよ!? 一体、何を考えているんですか!?」

「……退け、蛍。あたしはそいつを殺さなきゃいけない。今、やらないと、手遅れになっちまう」

「クリス!? 何を言っているんですか!?」

「お前に恨まれてもいい。憎んでくれてもいい。だから、今はそこを退いてくれ。あたしは、そいつを……フィーネを殺さなくちゃ……」

「訳も知らずに、退ける訳がないでしょう! 何が……一体、何があったんですか……」

 

 決して引こうとはしないクリスの不退転の決意を目の当たりにして、蛍の思考はぐちゃぐちゃにかき回されていた。訳が分からない。何故、クリスとフィーネが互いの生命を賭けあった殺し合いをしているのか。何がそこまでクリスを駆り立てるのか。分からないことだらけだ。

 

「お願いです、クリス。せめて理由を話してください。私には、何も分からないんです。気が付いたら、こんな事になっていて、頭の中が滅茶苦茶なんです」

「……決めたんだ」

「……何を、ですか?」

「あたしにとって、一番大事なものを決めたんだ」

 

 そう言って、蛍を見つめる紫の瞳は、先程までの苛烈さは形を潜めて、只々蛍のことを慈しむような温かい優しさを宿していた。唐突なクリスの変貌に驚く蛍に、クリスは口を開き、小さな、けれども、確固とした意志を感じさせる声を滔々と響かせた。

 

「蛍、あたしは、もう、フィーネの計画に賛同出来ねえ」

「えっ……」

「あいつの歩んだ道の先に、あたしの望んだ明日はない。それが漸く判ったんだ」

「う、そ……だって、そんな……」

「確かに、バラルの呪詛を解いて、統一言語を取り戻せば、人類は誤解なく分かり合えるのかもしれねえ。けど、フィーネの望んだ世界の先には、あたしが分かり合いたいと願った誰かはもう居ないんだよ。そんな明日、あたしは要らねえ。そんな未来を選択するぐらいなら、あたしはこの世界で生きる。この理不尽で、残酷な世界で、歯を食いしばって生きてやる」

「何で!? 約束したじゃない!! 二人で世界を変えようって!! そうじゃないと私は、私達は……!!」

 

 クリスの言葉に、最後の鎧(敬語)すら捨て去って蛍は叫ぶ。

 人類が統一言語を取り戻し、誤解なく分かり合える世界。そんな世界を作り出さなければ、蛍もクリスも、他人を心の底から信じることが出来ない。だからこそ、フィーネに付き従って、血と灰に塗れた道をこれまで歩んできた。だと言うのに、何故、今になって、そんなことを言うのか。何故、こんな世界で生きていくなんて選択をするのか。

 蛍には、そんなことは耐えられない。こんな世界で、誰かを信じることも、誰かから信じられることもなく、孤独に苛まれながら、生きていくなんて、今の蛍には耐えられない。

 F.I.S.の研究所にいた頃であれば、そんな生き方にも耐えられたかもしれない。只々、只管に襲いかかる理不尽を是とし、世界に咀嚼されるのを待つ。あの頃の蛍は、未来に夢も希望も抱いてはおらず、そんな眩しいものに縋ってはいけないと思っていた。けれど、蛍はフィーネに出会い、再び熱を取り戻した。世界を変える為の手段がある事を知って、それを成す為の力を手に入れた。

 そして、蛍はクリスに出会った。蛍とよく似た白い少女に出会って、温かさを再び知った。蛍とクリスは、お互いに世界に裏切られて、その理不尽を身を以て経験してきた。だからこそ、そんな世界を変えようと志を共にして、フィーネの旗の下に集った。世界を変えたその未来で、誰かと再び心の底から笑い合えると信じて。

 

「分からない……分からないよ……クリス……」

「……ライブリフレクター計画」

「えっ、なに?」

「ライブリフレクター計画、だ。聞き覚えは?」

「……ない」

 

 ライブリフレクター計画。混乱する思考で、記憶の何処を掘り返してみても聞き覚えのないその単語に、蛍は首を横に振った。

 蛍もクリスもフィーネの計画の全容を把握している訳ではない。フィーネは自身の計画の全容を決して蛍とクリスに語ろうとはしなかったし、此方からフィーネに問うても、冷たい視線で黙殺されるばかりだった。カ・ディンギル計画ともフロンティア計画とも違うフィーネがひた隠しにした第三の計画。その計画が、クリスがフィーネと共に歩むことが出来ないと決めた理由なのだろうか?

 困惑する蛍を他所に、蛍の返事を聞くや否や、クリスは再び顔を憤怒に歪め、蛍の背に隠れ身体の再生を行っているフィーネを見遣る。紫の瞳は、怒りの情炎に燃えており、クリスが何故、そこまで憎しみを込めた視線をフィーネに向けるのか益々分からなくなり、蛍は紡ぐべき言葉を失ってしまった。

 

「やっぱり言う訳がないよな。そりゃそうだ。人柱となる人間に、おいそれと話せる内容じゃあねえもんな。なぁ、フィーネ、お前、蛍が従わなかったらどうするつもりだったんだよ」

「…………」

「当ててやろうか。ダイレクトフィードバックシステムで蛍の意志を奪うつもりだったんだろう? こいつの意志を捻じ曲げて、自分の思い通りに動く操り人形に仕立て上げるつもりだったんだろう? なんとか言えよッ!! フィーネッ!!」

「……当然だろう。駒は駒らしく在るべきで、指し手の思い通りに動かぬ駒に価値などない」

 

 背後から聞こえた絞り出したかの様な苦悶の声に思わず振り向けば、そこには未だ身体の再生を行い地に倒れ伏すフィーネの姿があった。胴に空いた大きな風穴こそ塞がっているものの、四肢の再生は未だ成されておらず、覗く肉の断面がぐじゅぐじゅと蠢動を繰り返している。

 そんなフィーネの様子にクリスも気付いたのか「再生が早過ぎる! クソ!」と吐き捨てると、彼女は眉を顰めて瞬巡し、蛍に向けて、何も握っていない右手を差し出した。

 

「説明なら後で幾らでもしてやる! 蛍、あたしと来い! お前はそいつの側にいちゃダメだ! そいつの創る未来は、あたしが望んだものでも、お前が望んだものでもない!」

 

 差し伸ばされた手。その手を握った温かさを思い出す。柔らかくて、優しくて、ずっと握っていたいと、手放したくないと思ったクリスの綺麗な手。

 握り返したい。その温かさを感じたい。ライブリフレクター計画がどういったものかは分からない。けれど、クリスの言葉の通りならば、蛍自身を犠牲にして成り立つ計画なのだろう。

 ここに来て、蛍はクリスが何故あれ程までに怒りを露わにしていたのかが理解出来た。クリスは、蛍の為に怒ってくれたのだ。それを理解した瞬間、蛍の頭を掻き回していた思考の渦が、急速に萎んでいった。代わりに湧き上がるのは、ポカポカと温かかくて、いつまでも浸っていたくなるような心地の良さ。

 

 愛しい人。貴女は、私に温かさをもう一度与えてくれた。貴女と過ごす日々は、こんな世界の中にあっても、眩しくて、あったかくて。凍える私を包んでくれた。思い出すのは、貴女の笑顔。だから――。

 

 そう、だからこそ、私は貴女の手を握れない。

 

「無理、だよ……」

 

 伸ばしかけた右腕が、支える力を失い垂れ下がる。視界が滲んで、クリスの顔がよく見えない。けれど、きっと傷付いた顔をしているのだろう。それだけは、分かった。

 

「無理だよ……クリス……私には、その手を握り返すなんて……できないよ……」

 

 これは、弱さだ。他人を信じる勇気を持てない蛍は、結局、クリスを信じることが出来なかった。

 

 誰よりも信じたかった。誰よりも愛して欲しかった。そう強く願っていた筈なのに。しかし、差し出されたその手を握り返さなかったのも、また蛍自身なのだ。相反する想いが、蛍の心中で渦巻き、ぶつかり合う。その痛みに、小さな蛍は耐えられない。

 統一言語を取り戻した世界で、クリスと心の底から笑い合う。詞世蛍は、その夢を捨て切れない。僅かに残るその希望に縋らずにはいられない。

 裏切られた。騙された。捨てられた。かつて、温かいと思っていたあの笑顔は幻想だった。この世界でもう一度生きるなんて、そんな世界に期待するようなことを詞世蛍が許容出来る筈がない。

 だが、辿り着いたその先で、一体誰が蛍を愛してくれるというのだろうか。血と灰に塗れて汚れ切ったこの小さな身体を、誰が抱き締めてくれるというのか。一番愛して欲しかった相手が差し出した手を、たった今、自分で拒絶したというのに。

 

 気付いてしまったその矛盾に、押し潰されそうになる蛍の瞳を、何かが覆った。

 

 本来であれば、機械的な補助を嫌った蛍の神獣鏡(シェンショウジン)からはオミットされていた筈のヘッドマウントディスプレイが、蛍の意思とは関係なく、まるで牙が噛み合うかのように蛍の眼前で組み合わさり、視界一杯に現れた突然の暗闇が、蛍の瞳を塞いだ。

 真っ暗だった画面に、明かりが灯る。上から下へ、アルファベットと数字の羅列が流れ、続いて映し出されるのは、在りし日のクリスとの記憶。蛍が初めてクリスに出逢ったあの雪の日からの2年の月日が映像となって、蛍の瞳に映し出される。

 

「な、何? 何をしているの神獣鏡(シェンショウジン)?」

 

 困惑の声を上げる蛍。自身の手足同然に扱う事が出来た神獣鏡(シェンショウジン)が、蛍が命じてもいない挙動をすることに堪らない気持ち悪さを覚えて、咄嗟にギアを強制的に解除しようとするも、神獣鏡(シェンショウジン)はその意思にすら応えてはくれない。ならばと、頭に嵌められたヘッドマウントディスプレイを取り外そうと両手を伸ばしてみるも、頑強に嵌められたそれはびくともしない。

 映像に、変化が現れた。映像の一部に黒い染みが現れ、まるで、写真が燃えるかのように、蛍の記憶を侵食し始める。クリスとの思い出が、黒に塗りつぶされていく。

 

 記憶が、想いが、温もりが、蛍の中から、消えていく。

 

「いや! やめて、神獣鏡(シェンショウジン)! 私が、私じゃなくなっちゃう! 私の想いを歪めないで!」

「蛍!?」

「お願い、逃げてクリス。私が私じゃなくなっちゃう前に、私このままじゃ――」

 

 ――貴女を、殺してしまう。

 

 その願いを、最後に口にして、蛍の意識は反転した。

 

 

◇◇◇

 

 

 ポツポツと、冷たい雫が頬をうった。釣られて視線を上げれば、澄み渡っていた青空には、いつの間にか鈍色をした雲が広がっている。

 意識がぼんやりとしている。私は何をしていたのだろうか。思い出そうとしても、霞みがかった頭はまともに働いてくれず、まるで透明なフィルターがかかっているかの様に、思い出すことを拒んでいる。

 周囲の森には、激しい破壊の爪痕が残り、何かが焦げ付く匂いが、ここがつい先程まで戦場であったことを教えてくれている。戦っていた? 誰と、誰が? 目の前には、誰も居ないというのに?

 降りかかる雨はいつの間にか勢いを増していた。額に当たる水滴は痛い程だ。あぁ、服が濡れてしまう。折角、フィーネと■■■が選んでくれた服なのに。早く屋敷に戻らないと。

 

 ■■■?

 

 私は今、誰の事を思い浮かべたのだろう? おかしな話だ。あの屋敷には、私とフィーネの2人しか住んでいないと言うのに。

 ずきりと頭が痛んだ。雨に当たりすぎただろうか。風邪を引いたかもしれない。以前、風邪を引いた時は、フィーネにとても心配をかけた。あれから、体調管理には人一倍気を使うようになったと言うのに、これではフィーネに笑われてしまう。

 そう言えば、前は何故風邪を引いたのだったか。庭から伸びる桟橋で、■■■を揶揄いすぎて、それで――。

 

 ■■■?

 

 まただ。私の脳裏を誰かの姿が横切る。思い浮べようとすると、ずきりと頭が痛んだ。何だろう。さっきから、随分と頭が痛む。昔を思い出そうとする度に、その痛みはやってくる。

 

 何かを忘れている? でも、何を? いや、誰を?

 

 何故だろう。以前にも、似た気分を味わった。どうして、今更、あの人達に捨てられた時の事など思い出すのだろうか。心にぽっかりと穴でも空いてしまった気がする。とても大切な物を失ってしまったような。

 

 冷たい雨に濡れた頬を、温かな雫が流れていく。その雫は、訳も分からずに、絶え間なく溢れ出てきて、冷たい雨に混じって消えていく。

 不意に、後ろから誰かに抱き留められた。ふわりと、薬品と香水の入り混じった香りが、雨の香りを打ち消して、私の身体を包み込んだ。

 

 溢れ出た涙は、いつの間にか、止んでいた。

 




 難産でした。特に後半。ずっと書きたかった回なのに、いざ筆を取ってみると驚くほど筆が進まないものですね……。文才が欲しい。

 ダイレクトフィードバックシステムは拡大解釈。正直、記憶を弄るのはやりすぎたかなと思わなくもないです。

 あと全然関係ありませんが、ハーメルンの文章雰囲気類似作品という機能を初めて使ってみました。文字通り、文章の雰囲気が似ている作品を表示するという機能らしいのですが、そこに何度も読み直した大好きな作品が表示されていて驚きました。自分でも影響を受けやすい性格をしているとは思ってはいましたが、知らず知らずの内に影響を受けていたようです。


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EPISODE 22 「そして、広がる世界」

 なにやら推薦文を書いて頂けたようで、嬉しくて眼鏡がずり落ちました。ブラスティングビニールさん、本当にありがとうございます。



 休日の喧騒に包まれる街の中心街。駅前に堂々と座するこの街らしい前衛的なデザインをしたモニュメントの前に、小日向未来の姿はあった。いつも以上に気合の入った服装に、いつも以上に凝った化粧。頭の天辺から爪先まで、乙女にとっての戦装束に身を包んだ未来は、端から見れば、「あぁ、これから彼女はデートなんだな」と誰しもが思うであろう気合の入れっぷりである。

 しかし、当の本人はそんな周囲からの生暖かい目線は毛ほども気にせず、時折、手に持った可愛らしいポーチから手鏡を取り出し、自身の最終チェックに夢中であった。

 

 今日は、久しぶりに響とのデートなのだ。

 

 ここ最近、響は二課での任務や弦十郎との特訓に多くの時間を割かれ、休日をゆっくりと過ごすなんてこととは無縁であった。未来とて事情を知った今となっては、ノイズとの戦いに響がどれだけ本気で取り組んでいたかも理解している。だが、それでも、朝はいつの間にかベッドを抜け出し、授業を頻繁に休むようになり、門限を平気で破るようになった響に不安を覚えない訳ではないのだ。

 響が危険な事をしている。それはとても重要な――それこそ国家規模の――仕事で、誰かの命令でそうしているのではなく、響は自分の意志で戦場に望んでいる。響は人助けという、彼女が彼女らしくある為の、当たり前の事をしているにすぎないのだ。

 未来は、その事にあれこれ文句をつけるつもりは無い。そんな響を許すと――受け容れると未来は既に決めたのだから。

 故に、この不安は、響に対する不安ではなく、未来自身に対する不安なのだ。

 未来には、特別な力なんて何一つない。響や翼の様に、聖遺物を起動させる歌を歌える訳でもなければ、弦十郎の様に武術に精通している訳でもない。得意な事と言えば、中学の時に打ち込んだ陸上ぐらいなもので、少し足が速くて、槍投げが出来るぐらいである。とは言え、それも記録が伸び悩む程度の才能しかなく、足の速さに至っては、最近になって遂に響に抜かれてしまった。

 そんな只の女子高生に過ぎない未来は、響に何をしてあげられるのだろうか。戦場で、生命を賭して、歌を歌う親友に、未来は何をしてあげられるのだろうか。未来は、いつまで響の陽だまりであり続けられるのか。

 

 そんな事を最近は良く考える。

 

 悶々と悩んでいた未来だったが、手にした鏡に映る自分のどんよりとした暗い顔を見て、ぶんぶんと大きく頭を振って余計な考えを追い出した。

 折角のデートだと言うのに、何を暗い顔をしているのだろうか。こんな顔をしていては楽しめるものも楽しめないし、何より忙しい中、態々時間を作ってくれた響に失礼である。

 悩みは一旦脇に置いて、今は、今日という日を楽しむ。そう決意を新たにした未来は、もう一度だけ手鏡を覗き込み、先程までの暗さを吹き飛ばす為にニコリと微笑んでみる。鏡の前でそんな事をしている自分が可笑しくて、自然な笑みが溢れた。

 

 携帯電話を取り出し、時間を確認する。いつの間にか待ち合わせの時間を10分程過ぎている。

 

 辺りを見回してみるも、響の姿は見当たらない。この人混みだ、未来が見落としているという可能性もあるが、恐らくはいつもの寝坊だろう。思えば未来が部屋を出た時には、響はまだ夢の中だった。着飾っている姿を披露するのは、デート中が良かった為に響を起こさなかったのは失敗だったかもしれない。

 

 同じ部屋に住んでいるのだから、一緒に家を出ればいい? 馬鹿を言ってはいけない。

 

 待ち合わせも一つのデートの醍醐味である。大好きな人と今日一日どんな時間を過ごそうかと想像を膨らませて、精一杯おめかしした自分の服装におかしな点はないかとそわそわしながら相手を待つ時間は、とても心がポカポカとしてふわふわとして幸せな時間だ。そんな時間を態々無くすなど以ての外である。

 ただでさえ、未来と響は同じ部屋、同じクラスであり、1日の殆どの時間を――最近は少なくなったが――共に過ごす。その時間が決して嫌だとは言わないが、それでも偶にはこうして、響から距離を取って、彼女の事で頭の中を一杯にすることは、未来にとって響が自身にとって如何に大切な存在であるかを再確認する良い機会なのだ。

 

 今日はどこに連れて行ってくれるのだろうか。

 

 未来が響と出掛ける際のエスコート役はいつも響だ。勿論、お互いに話し合って、「彼処に行きたい」「あれを食べたい」などとデートの行き先や目的を決めることは多々あるものの、今日に限っていえば、未来はデートコースの全てを響に一任していた。

 今日は飽くまでも、響が未来に隠し事をしていた事へのお詫びデートである。響がそのデートコースを決めるのは当然のことだろう。

 別に未来は、響が隠し事をしていた事に対して、怒りを引きずっている訳ではない。二課の職員から諸々の説明を受けた今では、シンフォギアという強大な力に対して響が口を閉ざさざるを得なかった理由にも得心がいっているし、何より、響のこれまでの数多くの無理無茶無謀に付き合ってきた未来はそこまで狭量ではない。

 

 だが、そんな未来でも、限界という物がある。これは、あんまりではないだろうか。

 

「あ、未来ー! お待たせー!」

「こ、こら、立花、あまり引っ張るな! 服が伸びるだろう!」

「ふふふ、翼さんとっても気合の入った一張羅ですもんね!」

「べ、別に気合など入っていない! ごく普通の普段着だ!」

「またまた~、今日遅れたのは翼さんの所為じゃないですか。着る服が決まらなかったんじゃないんですかー?」

「なっ、ち、ちがっ、そ、それは! 立花が今朝になって急に遊びに行こうなどと誘うから、準備に手間取っただけだ!」

「ほほーう、それはつまり手間取るぐらいには準備に手間暇かけたという事で宜しいですかな?」

「たーちーばーなー!!」

「いひゃい! つばさひゃんもみふもにゃんでわらひのほっぺをまっしゃひにねりゃうんれふか!?」

 

 ――ナニコレ。

 

 響の呼び声に反応して其方を振り向けば、未来の視界に映るのは、仲睦まじく隣り合って歩く響と翼の姿。2人共におめかしをして、キラキラと眩しく輝いている。

 翼は言わずもがな、アーティストとして活躍し、歌声だけでなく、その容姿からもファンが多い。スレンダーな体型を活かしたすらっとしたハーフパンツのパンツルックを見事に着こなし、顔を隠す為か大きめの帽子を深めに被っている。

 響は、彼女らしいピンクのワンピースを身に纏い、動く度にふわりと揺れるスカートの裾が非常に愛らしい。普段の快活な響も可愛らしいと未来は思うが、今日の服装は可愛らしさを前面に押し出しており、少なからず、響がおしゃれに気を使い、彼女なりに気合の入った衣装である事を窺わせる。

 

 これが、未来とのデートの為に響が頑張った姿であれば、どれだけ胸が温かくなっただろうか。

 

「……いたた、もう翼さん、少しは手加減してくださいよ。って未来、どうかした?」

「………………別に」

「あ、あれ? 何か機嫌悪い? もしかして待ち合わせに遅れたこと怒ってる?」

「……なぁ、立花。今日私が来る事を小日向は知っていたのか?」

「いえ、サプライズの方が、未来も喜んでくれるかなーっと」

「……すまん、小日向」

「……いえ、翼さんは一切悪くありません。私も翼さんとこうしてお出掛けできるのはとっても嬉しいです。只――」

 

 ――どこかのお馬鹿さんの余りの鈍感さに、どうしたものかと。

 

 「私は馬に蹴られるのはごめん被るぞ」と言った翼に対して、「大丈夫です。まず馬に蹴られるべきは、別の人です」と未来は返す。当の本人である響は頭の上に大量のクエッションマークを浮かべ、こてんと首を傾げている。

 響は周りの空気が読めない訳ではない。自身への好意に鈍い訳でもない。だと言うのに、どうしてこう肝心な所では鈍感になるのだろうか。響の昔からの悪癖の一つではあるが、治せと言って治るような物ではない事を、未来は今の今まで忘れてしまっていた。

 

「はぁ、もういいです。響は、昔からそういう子でした。それを忘れて、2人きりで、と言いくるめなかった私にも油断があったんだと思います」

「……小日向も苦労しているんだな」

「小学生の頃からの付き合いです。もう慣れました」

「何かあれば言ってくれ。詫びになるかは分からないが、出来る限り力を貸そう」

「あ、あのー、お二人共、一体何の話を……」

「はぁ、これですよ。翼さん、どう思います?」

「うむ、よく分かった」

「???」

「……こんな子ほっといて行きましょう翼さん」

「……そうだな。立花は少し反省が必要だろう」

「ちょ、ちょっと待ってよー! 2人共、置いてかないでー!」

 

 

◇◇◇

 

 

 不穏な空気に包まれながら始まった翼達3人の休日だったが、それでも始まってしまえば最初の気まずい雰囲気は何処かへ吹き飛び、楽しい1日を過ごす事が出来た。

 駅に隣接するショッピングモールでは、時には冷やかし、時には財布の紐を緩めて、色々な店を巡った。次に向かった映画館では、今話題の恋愛ものの映画を見て、3人共瞳を潤ませた。

 他にも、美味しいと有名なソフトクリームを食べたり、服屋で相談しながら服をお互いに選びあったり、ゲームセンターでは響が奇声を発したり、カラオケでは翼の意外な演歌好きが発覚したりと充実した1日を過ごす事が出来た。途中、翼の正体が露呈しかけて、ファンから逃げるなんて一幕もあったものの、それを含めても楽しいひと時だった。

 

 そんな楽しい時間を過ごした3人は、街を一望できる高台にある公園を目指して、長い階段を登っていた。

 

 肩で息をする翼の視線の先には、響と未来の2人の背中が見える。何故幼い頃から鍛錬を重ねてきた翼よりも、あの2人は元気があるのだろうか。翼ですら疲労困憊だというのに、響と未来は仲睦まじくお喋りをする余裕すら感じられる。

 

「はぁ……はぁ……2人共、どうしてそんなに元気なんだ……」

「翼さんがへばり過ぎなんですよ!」

「こら響、そんな言い方しないの。翼さん、今日は慣れないことばかりだったから……」

 

 幼少時から風鳴の人間として相応しくなる為の教育を受け、天羽々斬(アメノハバキリ)に適合してからは厳しい訓練と戦場に加えて、歌女としての芸能活動に追われていた翼にとって、今日経験した所謂普通の女の子らしい遊びなど、確かに人生で初めてと言ってもいい経験だった。

 奏とだってこんな事はした事がない。

 奏は基本的には両親の仇であるノイズを討つ為の訓練に当てていたし、翼同様にツヴァイウイングとしての芸能活動に忙しかった。

偶の休日には、翼は政府から特別に許可を貰った免許証を手にバイクに跨っていたが、奏はその休日でさえも訓練に当てていた。何度かツーリングに誘ってみた事があるものの、奏がその誘いに応えたのは片手で数える程しかない。その鬼気迫る訓練に弦十郎も頭悩ませていた。

 それでも、奏が翼とは違い固いだけの槍にならなかったのは、きっと、戦いの向こう側にあるものに、奏が気付いていたからだ。受け継がれる想いと生命。奏の槍は何時だって、敵を屠る為ではなく、誰かを守る為に振るわれていた。翼などよりもよっぽど彼女の方が防人らしかった。

 翼はもう奏よりも年上になってしまったというのに、彼女の背中はまだ遠い。けれど、最近になって、漸く彼女と同じ目線に立って物事を考える事が出来るようになった気がするのだ。

 固いだけの剣ではなく、絶刀の名に恥じない剣として撃槍の隣に立つ事が出来る。

 

 奏を失ってから凍っていた時間が漸く動き始めた気がした。

 

「ありがとう2人共」

 

 自然と翼の口から感謝の言葉が漏れた。本当に楽しい1日を過ごさせてもらった。だからこそ、心の底から溢れ出た言葉だった。

 

「今日は初めてだらけの1日だったけど、本当に楽しかった。貴女達に沢山の初めてを貰って、今日1日で私の世界が広がった気がする。私は知らないことばかりだな」

「そんな事ないですよ」

 

 響は翼の手を掴むと勢い良く階段を駆け登り始めた。「ちょ、ちょっと!? 立花!?」という翼の制止の声を聞きもせず、翼の手を引く響は、公園のフェンスの前で漸く足を止め、口を開いた。

 

「見てください。此処から見える景色全部が翼さんが守った世界です。此処から見える景色だけじゃありません。翼さんは、今までもっと沢山の場所で、もっと沢山の人を助けてきました。昨日に翼さんが戦ってくれたから、今日に皆が暮らせている世界です。翼さんが気付いていないだけで、翼さんの世界は、翼さんが思っているよりも、ずっとずっと広くて大きいんです。だから、知らないだなんて言わないでください」

 

 響の言葉に翼は視線を上げ、夕暮れに染まる街並みを初めてその瞳に映した。綺麗だった。橙の光を反射して、人も、建物も、木々も、海も、全部がキラキラと輝いて、日が落ちるその寸前の仄かな哀愁と儚さを宿している。

 待ち合わせをした駅前。不覚にも目が潤んだ映画館。評判通りの味に舌鼓をうったソフトクリームの屋台。少しだけ恥ずかしいワンピース姿を晒した服屋。響が散財した街中のゲームセンター。思い切り演歌を歌う事が出来たカラオケ。今日訪れた場所が、全部この景色の中にあって、そこには沢山の人がいて、響や未来、そして翼もその中にいて。

 この景色が、翼の守った世界。翼が残した戦いの証。翼にとっての戦いの先にあるもの。

 

 「……奏もこんな気持ちだったのかな」と思わずポツリと呟いた言葉は、誰に聞かれるでもなく、吹き抜けた優しい潮風に攫われて溶けて消えた。

 

 柄にもなくセンチメンタルな気分になった翼の意識を現実に引き戻したのは、バッグから鳴り響く飾り気のないコール音とバイブレーション。このコール音は普段翼がプライベートで使用している携帯電話の物ではない。その証拠に、翼のバックからだけではなく、響のバックからも同じ音が響いている。

 

「ちょっと響、いきなり走らないでよ。びっくりするじゃない……って何か鳴ってる?」

「翼さん、これって……」

 

 翼は響の言葉に頷き、2人してバックから無骨な通信機を取り出し耳に当てた。同時に聞こえてくるのは、オペレーター――友里あおいの焦りを含んだ声。

 

『翼さん、響ちゃん! 休日にごめんなさい、実は今しがたレーダーがイチイバルのエネルギー波形を感知。トレースしようとしたら、直ぐに反応が途絶えたの!』

「イチイバル……ってことは、クリスちゃん!?」

「発信源はどこですか?」

『それが……翼さんと響ちゃんの現在位置から2時の方角、直ぐ近くなの。直ぐに二課の職員たちを急行させるけど、2人には先行して周辺の調査をお願いしたいの』

「了解しました。直ぐに現場に向かいます」

 

 翼は通信機に送られてきた座標を素早く確認すると、響に一度目配せをしてお互いに頷きあい、周囲に自分たちの人影がないことを確認してから聖詠を口にした。

 

Imyuteus amenohabakiri tron(羽撃きは鋭く、風切る如く)

Balwisyall Nescell gungnir tron(喪失へのカウントダウン)

 

 白銀の繭が二人を包み込み、超常の力が顕現する。天羽々斬(アメノハバキリ)とガングニール、蒼と橙の鎧に身を包まれて、翼と響は地に降り立つ。

 

「響……翼さん……」

「すまない、小日向。休日はこれまでのようだ」

「ごめんね、未来。埋め合わせは今度必ずするから」

「ううん、気にしないで。じゃあ、私は直ぐに避難するから」

 

 寂しげに微笑む未来に少しばかりの申し訳無さを覚える。一瞬、未来を連れて行くべき悩んだが、状況が不透明であり、この先に待ち受けているのがクリスであるならば、そこは戦場になる可能性が高い。イチイバルを身に纏った彼女の実力は翼に追随する程であり、翼とて一対一であれば、確実に勝利を収めることは敵わないだろう。加えて、謎のシンフォギアを身に纏う蛍と呼ばれる少女とネフシュタンの鎧を身に纏ったフィーネ。あの2人のどちらかがクリスと共に居るのならば、苦戦は免れないだろう。特にフィーネの事が気がかりだ。彼女の実力は定かではないが、《双星ノ鉄槌(―DIASTER BLAST―)》を防いでみせたことから、かなりの実力者であることは確かだ。未来には悪いが、翼には彼女を守りながらあの3人と戦うだけの余裕はない。

 休日を楽しんでいた意識から、戦場で戦う防人の意識へと切り替えて、翼は響を伴い、座標に示された地点へと急ぐ。

 

 故に、翼は、思っても見なかったのだ。

 

「つ、翼さん! あれ!」

「あれは!?」

 

 戦場だと思い飛び込んだその場所に、血に塗れた裸の少女――クリスが横たわっているなどと。

 

 

◇◇◇

 

 

 クリスが目を覚まして、初めに目にしたのは真っ白な天井だった。微かに鼻腔を擽るのは薬品の匂い。屋敷のメディカルルームに似ているが、純白のカーテンから覗く景色は木々が生い茂った森林ではなく、小高い丘から見下ろす近代的な街並みとその先に広がる青い海。少なくとも、クリスが知る場所ではない。

 

「あたし、生きてる……のか……」

「少なくとも此処が天国でも地獄でもない事は確かだな」

「ッ!? てめえは――っ痛!?」

「無理をするな。絶唱の負荷がまだ治りきっていない。随分と無茶をしたらしいな。医者が頭を抱えていたぞ」

 

 呟いた言葉に返事が返ってきた。窓とは反対側、声が聞こえてきた方を振り向けば、そこには熊のようにがっしりとした体格の偉丈夫が居た。ライオンの鬣のように逆立った赤い髪に、同色の顎髭、ワインレッドのワイシャツ。何処に視線を向けても赤、赤、赤。だが、その派手な外見は決して嫌みたらしくはなく、この男の気勢をものの見事に表している。

 この派手な人物をクリスは知っている。フィーネをして人外だと言わしめる特異災害対策機動部二課司令――風鳴弦十郎がそこに居た。

 

「ハッ、てめえが居るってことは、此処は差し詰め二課お抱えの病院の一室って所か」

「その通りだ。怪我については安心してくれていい。一時は危険な状態にあったが、峠は越えたそうだ」

「……敵に情けをかけて、何が目的だ」

「やれやれ、三日も目を覚まさなかったとはいえ、起きるなりにこれとは。とんだじゃじゃ馬だな」

「あ゛? 喧嘩売ってんのか? ……待て、三日? 三日だと? あたしはそんなに眠りこけていたのか?」

 

 三日。それだけの時間が過ぎて、何故自分は生きているのだろうか。此処は二課のお膝元で、それだけの時間があれば、櫻井了子に扮したフィーネが死に体のクリスに止めを刺すには十分過ぎる時間だろう。

 

 蛍がダイレクトフィードバックシステムに呑まれかけたあの時、クリスはあの場所から逃げ出した。

 

 蛍を連れて行きたい気持ちはあった。だが、あの場でこれ以上クリスに何が出来ただろうか。ダイレクトフィードバックシステムに意識を乗ったられた蛍と身体を高速で回復させつつあったフィーネ。あの2人を相手取って、絶唱を歌い満身創痍だったクリスに一体何が。

 諦めた訳ではない。怖くて逃げ出した訳でもない。クリスは、彼処で終わる事だけは出来なかった。あの場所で果てる事だけは、あってはならなかった。だって、それは、蛍を救う機会を永遠に失う事を意味している。それだけは、駄目だ。だから、クリスは自分の情けなさと、惨めさと、怒りを全て胸の内に理性で押し留めて、朦朧とする意識の中、只管に足を動かし続けた。追撃に放たれたノイズを何体か倒した気がするが、それも全て曖昧な記憶の彼方だ。

 

「了子君には、連絡していない」

「……なに?」

「君を発見してからの3日間。徹底した情報封鎖を行った。君が保護された事を知っているのは、極々限られた人間だけだ」

 

 弦十郎から放たれた言葉が、驚きと共にクリスの疑問を氷解させていく。弦十郎の言を信じるならば、未だクリスが生命を繋いでいることも納得がいく。だが、何故? 納得すると同時に、新たな疑問が湧き上がる。何故、二課の重要な地位にいる了子にだけ知らせないのか。それでは、まるで――。

 

「お前……知っていたのか……」

「…………疑念は以前からあった。只、俺が信じたくなかったんだ。君達が、俺たち二課の情報に明るいこと、君の身に纏うイチイバルとネフシュタン、そして蛍という子の謎のシンフォギア。疑わしい事は、挙げればキリがない」

「…………」

「確信はなかった。確たる証拠は何一つなかったし、米国の存在も無視出来るものではなかった。だから、この考えは部下にすら教えていない。俺がこの考えを口にしたのは、君が初めてだ。……そして、君の反応が、何よりの証拠になった」

 

 「話してはくれないだろうか」、そう言って此方を真っ直ぐに見つめる弦十郎。その真摯な眼差しは、敵であったクリスの事を微塵も疑ってはいない。どうして、そんな目をクリスに向けられるのか。クリス達と弦十郎達との関係は、そんな簡単に清算できる程、温い因縁ではなかった筈だ。クリスは、今まで多くの二課職員の生命を灰にしてきたし、翼を重症に追い込んだ事もあった。逆に、此方も蛍がネフシュタンを使わなければならない程の傷を負った事もあった。生命のやり取りを――殺し殺されの関係だったのだ。

 

「……あたしが口を割ったとして、あんたはそれを信じるってのか」

「信じよう」

 

 弦十郎の間を置かずはっきりとした答えにクリスは絶句した。弦十郎の飾らない言葉、茶色の双眸から伸びた視線が、余りにも、真っ直ぐで。

 

「なんで……」

「大人が子供の言うことを信じてやれなくてどうする」

「……あたしが大人が嫌いだって知ってて、それを言うのかよ」

「応とも。子供に胸を張れないようでは、大人なんざ務まらん」

「……ハッ、あまっちょれえ」

「よく言われる」

 

 ポンと急に頭に手のひらが置かれた。そのまま乱暴に、頭を撫でられる。それがなんだか無性に懐かしくて、温かくて、振り解けない。この包み込むかのような温かみを、クリスは、確かに昔、感じたことがある。顔を崩して、朗らかに笑う弦十郎の姿に、何故か姿形は似ても似つかないのに、父の姿を幻視した。父はこんな熊のような大男ではなかったし、頭を撫でる手つきだって、もっと優しく繊細だった。けれど、こんなにも、心地良いと感じるのは何故なのだろうか。

 

 この世界は残酷で、理不尽だ。人は誰かと手を取り合うのではなく、誰かと争う事を運命付けられている。強者が弱者を虐げ、信じた人には裏切られて、善人ばかりが馬鹿を見る。世界は変わらず、昔からそうあり続けている。

 

 けれど――こんなにも温かいものだって、この世界には確かに在るのだ。

 

 今、此処にある温かさを、嘘だとは思いたくない。あの時聴いた二人の歌が、何時まで経っても耳から離れない。蛍と紡いだ絆は、決して、紛い物などではない。

 あったかくて、眩しいものは、何時だって、クリスの側にあったのだ。それを受け容れることを拒んでいたのは、信じる事に怯えていたクリス自身。

 

 目を背けるのは、もう止めよう。

 疑う事に慣れるのは、もう止めよう。

 自分の弱さを世界の所為にするのは、もう止めよう。

 この胸に宿すのは冷たい疑心ではなく、温かさを信じる一握りの勇気であるべきだ。

 希望を持て、理想を掲げろ、夢を哮れ。

 

「あの、さ――」

 

 一握りの勇気をもって、雪音クリスは、最初の一歩を踏み出した。

 




 多分、最後の日常回です。此処から先はノンストップ。
 プロットでは、残り6話ぐらいの予定。但し、EPISODE 17~21がプロットの段階では2話だった事を考えると、倍以上に膨れ上がる可能性が無きにしも非ずです。


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EPISODE 23 「葬世と創世の始まり」

 Q.中旬っていつの中旬よ?
 A.中旬って今さッ!

 お待たせしましたッ!



 屋敷の食堂に散在する機械群、その一角にそれはあった。円筒状の形をしたその機械は、側面がぐるりとガラス張りになっており、中は緑色の液体で満たされている。その液体の中に、少女――詞世蛍は浮かんでいた。ぷかぷかと、ふわふわと。衣服を纏わぬその体躯は、同年代の少女と比べると小柄であり、些か凹凸に欠けている。少女の持つ黒髪が、緑色の液体の中を波打つようにして棚引いている。口元には機械から伸びた呼吸器が取り付けられており、それが水中での蛍の生存を許していた。

 森で冷たい雨に打たれたあの日から、こうして日に何時間かこの機械の中で過ごすことが蛍の日課になっていた。それは、今までの日課であった戦闘訓練よりも優先されており、蛍にとってみれば歌えない事へのフラストレーションが溜まる時間でもあった。

 だが、蛍はこの液体で満たされた空間が嫌いではなかった。この液体の中に浮かんでいる時は、不思議と幸福感に満たされた。ふわふわと水中に浮かび、脱力する。たったそれだけの事をしているに過ぎないのに、この液体の中で過ごしている時だけは、憂いも、恐れも、不安も何一つ感じない。酷く静かで、心安らぐ世界だった。あの日以来、苦しめられている突発的に起こる酷い頭痛もこの時間とは無縁であった。

 閉じていた瞳を薄っすらと開けば、シリンダー越しに蛍を見上げて、満足気に微笑むフィーネの姿がある。

 水中で薄く目を開いて、その姿を瞳に映す。相も変わらず、フィーネは蛍とは違う豊満な肢体を惜しげも無く晒している。冷暖房が完備された屋敷ではあるので、寒くもなければ、暑くもない適温ではあるのだが、彼女が頑なまでに服を着ないのは何故なのだろうか。蛍への当て付けのつもりなのだろうか。人を虐めることに関して右に出る者がいないフィーネならばありえると思えてしまう。

 

 蠱惑の笑みを浮かべるフィーネ。ここ数日の彼女は、今までに類を見ない程機嫌がいい。

 

 それは、恐らく、彼女の計画が最終段階に入っている事と無関係ではないだろう。既にカディンギルは完成し、その動力源たるデュランダルも覚醒を果たした。後は、動き出すのみ。人類不和の象徴たる月を穿ち、統一言語を取り戻す。人類に黄金の時代を、人が人を信じられる世界を作り出す。腐り切った今世を葬世し、輝く未来を創世する。

 蛍は、既に計画の全てを知っている。月を穿つ魔塔――カディンギルがどういったものであるかも、月が破壊された後に待ち受ける地球の重力崩壊も、蛍に科せられた使命も、全て神獣鏡(シェンショウジン)が教えてくれた。頭の中に流し込まれたその知識は、本来驚くべきものであった筈なのに、何故かすとんと心の中に落ち着いた。憂いも、恐れも、不安もない。只、それを為さねばならないという使命感が、心の内から湧き上がった。

 世界規模で起こるその厄災は、自然の秩序を破壊し、この星に致命的な傷を齎す。きっと多くの人命が失われる。だが、それでも蛍は決して止まらない。既に賽は投げられ、最早、後に戻る道などない。蛍は自身の望みを叶える為に、夢見た世界を作り出す為に、己のエゴを貫き通す。

 

 天を突く魔塔も、星を渡る箱舟も、宙より落ちる雷霆も――全てはこの為に。

 

 眼前に佇んでいたフィーネが不意に窓の外へと視線を向けた。静寂に満たされた世界で、己の使命を再確認していた蛍だったが、彼女の視線を不思議に思い、自らもその視線を窓へと向ける。だが、そこから見えるのは、見慣れた木々の風景のみで、不審な点は見当たらない。

 フィーネは、窓から視線を戻し、顎に手を当て暫く考え込むような仕草を見せた後、薬品に浮かぶ蛍をチラリと見た。そして口元を三日月に歪めると、蛍が納められた機械の端末を操作し始める。

 静寂に満たされた世界に、ごぽりと久方振りの音が生まれ、機械の中に満たされた液体が上から下へとその嵩を減らしていく。蛍の足が機械の底に届くと同時に、口元に嵌められていた呼吸器が外され、薬品の匂いに染められた空気が肺一杯に広がる。

 咽せ返りそうなその匂いに耐えていると、蛍の周囲を覆っていたガラスが開かれ、フィーネが蛍の名を呼んだ。

 

「招かれざる客人が来たみたいね」

「こほっ、こほっ、客人、ですか?」

「ええ、大方、頭の足りないアンクルサム共ね。以前から、彼の国が焦れていたのは知っているでしょう? 遂に痺れを切らしたか、強硬策に打って出たようね。彼我の戦力差も分からず、仕掛けてくるなんて本当にあの国は野蛮人の集まりだわ」

 

 痛烈に毒を吐くフィーネ。何時もの事なので、そこはさらりと聞き流す。

 

「米国ですか? では、F.I.S.の装者が襲撃者の中に含まれている可能性も?」

「どうかしら。今の所、アウフヴァッヘンは感知出来ないけれど、可能性としてはあり得なくもない。とは言え、上層部には以前釘を刺しておいたから、まぁ、あり得ないでしょう」

「まさか只人だけですか。些か此方の戦力を侮り過ぎではないでしょうか」

「自分達こそが世界の天辺に立っていると勘違いしてる愚か者達よ。どれだけ慢心していても不思議じゃないわ」

 

 少なくとも、此方にはシンフォギアを纏う装者がいることは彼方も承知しているだろうに。そう言った荒事を専門にしている部隊ではあるのだろうが、まさか通常の兵器でシンフォギアに立ち向かおうと言うのだろうか。夜の闇に紛れるでもなく、真昼の太陽が頭上に輝くこの時間帯に攻めてくるとは、理解に苦しむ連中である。

 

「可愛い可愛い私の蛍。貴女に任せるわ。私と貴女の城を荒らす無粋な輩にはお帰り頂いて?」

「――はい、フィーネ」

 

 耳元でそっと囁かれた艶めかしい声に、蛍は是と頷く。

 薬品に塗れた蛍の小さな身体をフィーネの両腕が優しく抱きしめる。薬品と香水が混じった嗅ぎ慣れた匂いが鼻腔を擽る。身長差故に、フィーネに真正面から抱き留められると、蛍の頭はすっぽりと彼女の胸に収まってしまう。その感覚が何故だか無性に心地良くて、懐かしい。だが、同時に頭の奥が痺れるように痛んだ。またこの痛みだ。この頭痛は決まってこういう時に襲い掛かってくる。心地よさだとか、懐かしさだとか、温かさだとか。そういった物を感じる度に蛍の頭は痛みに悩まされた。

 襲撃者に中断されたせいで、機械の処置が完了していないのかもしれない。そう考えると、沸々と襲撃者に対する怒りが湧き上がって来た。だがそれを表情に出すことは決してしない。思考は怜悧であるべきだ。

 多少、並列思考の精度は落ちるだろうが、戦闘に致命的な支障はない。この程度の枷で、蛍が只人程度に遅れを取ることなどあり得ない。

 

 温かな人肌の感触が、冷たい薬品に冷やされた蛍の身体に染み渡っていく。4年間、蛍を温め続けてくれたこの温もりを蛍は信じたい。だから――。

 

Rei shen shou jing reveal tron(小さきこの身を暴いて)

 

 蛍が聖詠を唱え終わるのと、食堂の窓が破壊され近代的な武装に身を包んだ男達が屋敷に踏み込んで来たのは、ほぼ同時の出来事だった。

 

 

◇◇◇

 

 

 クリス達3人の装者と弦十郎を乗せたジープが細く曲がりくねった山道を駆け上がる。ハンドルを握るのは弦十郎。助手席には誰も座っておらず、クリスは後ろの席に響、翼と共に並んで座っていた。クリス達の乗るジープの後方には、二課職員を乗せた同型のジープが続き、列を成している。

 車内は重苦しい空気に包まれていた。弦十郎はハンドルを握りながら額に深い皺を刻み込み、翼は腕を組み精神を集中するかのように瞳を閉じている。特に響などは、未だ信じられないとばかりに拳を強く握り締め、困惑の表情を浮かべていた。

 

 明らかになった敵の正体。仲間だと思っていた櫻井了子――フィーネの裏切り。クリスが洗いざらい吐いた真実を考えれば、彼女達の困惑は当然だと言えた。

 

 そんな中、クリスは冷静に己の身体の状態を確かめていた。未だ絶唱の負荷に蝕まれボロボロの肉体に鞭を打って、この場にクリスは居る。自分がどの程度動けるのか、それを把握する事は、これから戦場に向かうクリスにとって何よりも優先すべき事柄だった。協力関係を結んだ彼女達に配慮する余裕は微塵も無い。この面子の中で、足を引っ張る可能性があるとすれば、それは傷を負った自分に他ならないからだ。

 クリスは無理を言ってこの場に居る。本来であれば、病室のベットで寝ていなければならない身体であるにも関わらず、これから戦場に向かうのはクリスの我儘に他ならない。蛍をこの手で救い出したいというクリスの譲れない想い。作戦前の交渉では、クリスを連れて行かないのであれば、フィーネの本拠地を教えないとすら言った。大口を叩いた手前、自身の所為で作戦が失敗したとなれば、クリスは己を許せないだろう。

 

「……ねぇ、クリスちゃん、その、了子さんが裏切ったって本当なの?」

 

 重苦しい空気に耐えかねたのか、はたまた、未だに了子を信じたいという願いからか、響が躊躇いがちにクリスに問いかける。

 

「認めたくないのも分かるけどよ、あたしが話したのは全部事実だ。今まで敵だったあたしの言葉を信じられないのは仕方がない。けどよ、こうやって、二課の連中が速さを尊ぶのは、あらかじめ準備が出来ていたからだとは考えられないか? 実際、お前らの所の頭は、前々から疑っていたみたいだしな」

「師匠?」

「……その通りだ。俺は以前から了子君を疑っていた」

「師匠……そんな……」

 

 弦十郎自身も未だに信じ切れていないのか、その言葉には普段の覇気がない。絞り出された弦十郎の言葉に、響が愕然とする。

 

「敵は我々二課の事を知りすぎていた。内通者の存在は決定的だった。それが了子君だと疑い始めたのは、ネフシュタンの鎧と我々の知らないシンフォギアが敵の手にあると分かったときだ。確信に変わったのは、クリス君がイチイバルのシンフォギアを纏った時だな」

 

 失われた筈のネフシュタン、そして日本政府が秘匿している筈のシンフォギア。了子は両者に深く関わっており、シンフォギアに至っては櫻井理論を完全に理解した了子でなければ未だ製作することが出来ない。加えて、二課設立時に失われたイチイバルまでもが敵の手にあるという。二課設立時から研究主任として席を置いていた了子に疑いの目線を向けるのは当然のことだろう。探せば疑いの種は、至る所に散りばめられていたのだ。

 フィーネが自身に繋がるヒントを二課に晒した時期には、全てそうせざるを得ない理由があった。ネフシュタンと神獣鏡(シェンショウジン)を用いたのは――神獣鏡(シェンショウジン)の使用は予定外ではあったが――、翼を抑えつつも響を攫う為には、ノイズのみでは戦力不足であった為。イチイバルの使用を許可したのは、ネフシュタンへの対抗手段を身に付けた響に相対する為。

 己の疑心を語る弦十郎の苦々しい声色に、響は俯き、拳を握った。

 

 だが、そんな響を叱る様に、今まで沈黙を保っていた翼が口を開いた。

 

「顔を上げろ立花。受け入れ難い、認めたくないと俯き思考を止めていては、未来を掴めない。そこで止まってはいけないんだ」

「翼さん……」

「奏を失い私は、只の固い剣に成り下がった。彼女の死を認めたくなくて、その事実から目を背けてばかりいた。防人の剣ではなく、只ノイズを――敵を屠る剣をこの2年振るってきた。それは決して私の目指した剣ではない。過去に固執し、自ら目指した理想すら忘れて、盲目になっていた。だから、立花、私の様にはなるな。受け入れ難くても現実を直視しなければ、未来を掴むことは出来ないんだ」

「でも! 良子さんは、仲間です! 沢山お喋りして、沢山助けてもらって、沢山優しくしてもらいました! それが全部嘘だったなんて私は、信じたくありません……」

「……ならば、問うしかあるまい」

「問う?」

「そうだ。彼女の前に立って、彼女自身に問いかけろ。彼女を見て、聞いて、感じて、自分で判断するんだ。そして彼女と過ごした時間が嘘で塗り固められたものかどうか、自分自身が納得出来る答えを見つけるんだ」

「私の納得出来る答え……」

「大事なのは、自分がどう感じるかだ。物事は自分の捉え方一つで見方が万華鏡の様に移り変わる。気付くか、気付けないか。たったそれだけの事で、世界は変わって見えるものだ」

 

 そう言って翼は、柔らかな笑みと共に響の胸を指差して、再び口を開いた。

 

「後は、胸の思いを届けるだけ。いつかの屋上で貴女が言っていたように」

「最速で、最短で、真っ直ぐに……」

「そう、貴女の胸の想いを、届けるの。それはきっと彼女の胸にも響く筈だから」

「…………はい! 私、頑張ります!」

 

 何処までも真っ直ぐで、何処までも暖かい。そんな光景を目の当たりにして、クリスは幻視せずにはいられない。いつか、自分も響達の様に、彼女と通じ合うことが出来るのだろうか。この理不尽で、残酷な世界で手を取り合い、歩みを共にすることがクリスと蛍に出来るのだろうかと。

 クリスはフィーネの計画を否定した。確かに統一言語を取り戻し、人類が相互理解を取り戻した世界であれば、それは叶うのだろう。だが、その新たな世界に蛍はいない。クリスが誰よりも通じ合いたいと願った少女は、新たな世界を創造する為の人柱として、その生を終える事が宿命づけられている。

 許せる事ではない。彼女を犠牲として成り立つ世界など、クリスは認めない。己の1番大切なものを定めたクリスにとって、それはなによりも否定すべき世界だ。

 故に、クリスが歩むのは、この理不尽で残酷な世界だ。この憎むべき世界で、蛍と共に歩むことこそが今のクリスの夢だ。だが、それには大きな壁がある。人を心の底から信じられないクリスと蛍。どうしようもない程に凝り固まった他者への疑心。これ程までに愛している蛍にですら、クリスは全幅の信頼を寄せられずにいる。

 クリスの夢を達成する為には、どうすればいいのだろうか。いや、今はフィーネから蛍を助け出す事が先決であり、そこから先を夢見るには、些か欲張りが過ぎると言うものだ。絵に描いた餅は食べることは出来ないのだから。

 

 ――だが、そう、もし、蛍を助け出す事が出来たのならば、この世界で真っ直ぐに生きる彼女達に倣うのも良いかもしれない。

 

「胸の想いを届ける、か……」

「あれ? クリスちゃん何か言った?」

「……ハッ、何でもねえよ」

「お喋りはそのぐらいにしておけ。見えてきたぞ」

 

 先程までとは打って変わり、厳しいながらも2人の成長を喜ぶかのように仄かに笑みを浮かべた弦十郎の言葉に視線を上げれば、クリスにとって2年間もの時を過ごした洋館が道の先に薄っすらと見えてきた。荘厳な雰囲気を身に纏っていた洋館は、クリスとフィーネが戦った余波の影響か、遠目からでも分かる程に至る所が傷つきボロボロになっている。なるべく屋敷には影響に出ない様に戦ったつもりだったが、イチイバルとネフシュタンという超常の力のぶつかり合いの前には無駄な努力だったのかもしれない。それでもクリスと蛍の部屋がある区画付近には、殆ど被害が出ていない辺り、全くの無駄という訳でもなかった様だが。

 

 しかし、屋敷に段々と近付くにつれ露わになっていく細部に、クリスはどうしようない違和感を覚えた。

 

 クリスとフィーネが屋敷内で主戦場としたのは、2階にあるフィーネの自室だった。加えて、室内での戦闘が不利と見るや否や、クリスは直ぐに戦場を外の森へと移した。たったあれだけの戦闘で、これ程の被害が屋敷に及ぶものだろうか。

 屋敷に近付き、その被害の全容が明らかになるにつれ、クリスの意識の底から確信にも似た違和感が湧き出してくる。

 

 何故、1階の食堂付近に被害が集中している? 何故、屋敷の外には武装した男の死体が転がっている? 何故、イチイバルやネフシュタンの装備からは考えられない幾筋もの光に穿たれたかの様な穴が空いている?

 

 クリスが屋敷を留守にした数日の間に何かが起きたのだ。それも蛍が生身の人間に向けて神獣鏡(シェンショウジン)の力を振るう程の何かが。

 弦十郎達の制止の声に耳も貸さず、屋敷の前に停車したジープから飛び出したクリスは、被害の酷かった食堂目掛けて一目散に駆けていく。

 

「なんだよ……これ……」

 

 そこで目にしたのは、目を背けたくなる様な惨状だった。見渡す限りの赤黒い液体が床一面に広がり、むせ返る様な鉄の匂いが部屋中に充満している。

 至る所に転がる男達の死体。屋敷の外にあった分も含めれば、十数人だろうか。

 四肢を砕かれたもの、体に無数の穴を穿たれたもの、全身を黒く焼かれたもの。そんな馬鹿なと否定したくても、喉元まで出かかった叫びを、目の前の光景が否定する。何故ならば、この戦い方は、この傷口は、彼女によるものだと、2年を彼女と共に訓練を積んだ他ならぬクリスが認めてしまっている。

 だが、何故? 彼女は此処まで理不尽な迄に力を振るう人物だっただろうか。近代的な装備に身を包んでいるとはいえ、只人相手に超常の力を一切の容赦なく振るう人物だっただろうか。否、断じて否だ。

 彼女の本質は優しさだ。他者への不信を抱きながらも、他者と繋がることを求め続けた彼女の心の底には、いつだって変わらずその暖かさは存在した。

 だが、その優しさは、この光景の何処にも存在しない。あるのは、理不尽な迄に命を刈り取られた残酷な冷たさのみ。

 何が彼女を変えてしまったのか。言うまでもない。あれこそが、神獣鏡(シェンショウジン)に搭載された人の心を歪める忌避すべき機能――ダイレクトフィードバックシステム。クリスが蛍と対峙したあの時、本来であれば、蛍の神獣鏡(シェンショウジン)からはオミットされていたヘッドマウントディスプレイが、蛍の意思に反して現れたのが何よりの証左だ。あの装備には、ダイレクトフィードバックシステムを補助する機能があった筈。

 

「……ダイレクトフィードバックシステム。ここまで、ここまでするのか、フィーネ」

 

 呟きと共に握った拳からは、赤い雫が零れ落ちる。湧き上がるのは、フィーネに対する怒りと言う名の激情。蛍の尊厳を塗り潰し蛍の心を侵すフィーネに対して、紛れもない殺意がクリスの全身を支配する。

 許さない。絶対に許してなるものか。

 

「落ち着け。怒りに身を委ねるな」

 

 憤怒の念を滾らせるクリスの肩に、落ち着けと熊の様な大きな手が置かれた。その手に驚き振り返れば、部屋の惨状に顔を曇らせた弦十郎がいつ間にかクリスの後ろに立っている。

 ただ肩に手を置かれただけなのに、包み込まれる様な安心感を覚えるのは何故なのだろうか。弦十郎のその態度と言葉に、怒りに染まったクリスの頭が、急速に冷静さを取り戻していく。

 

「君の目的を見失うな。君の目的は、了子君を害するのではなく、蛍君を助け出すことだろう? その怒りに染まった心で、蛍君の心を取り戻せると思うか?」

「……見失っちゃいねえ。あたしの目的は、あいつを救って、そして――」

「あぁ、それでいい。だからこそ、俺達は君を信じるんだ」

「……甘っちょれえ。信じるなんてあたしの前で軽々しく口にすんな」

「だが、言葉にしなければ伝わらないものもある。黙っていても通じるなんてのは幻想だ。本気で想う気持ちならば、それを口に出すことになんの問題がある。君も偶には素直になってみたらどうだ」

「………………余計なお世話だ」

 

 「いつまで触ってやがる!」と苦し紛れの言葉と共にクリスは弦十郎の手を振り払う。やれやれと言わんばかりに肩を竦める弦十郎の態度に、あの病室でも感じた懐かしさと暖かさが胸に去来する。それが何故だか無性に気恥ずかしくて、クリスは弦十郎から視線を外し顔を背けた。

 

 クリスがこの気恥ずさとどう向き合ったものかと苦心していると、大声と共に焦燥した様子の響が食堂に飛び込んで来た。

 

「師匠、クリスちゃん!! 大変!! 大変なんです!! 未来から連絡があって、リディアンにノイズが!!」

 

 

◇◇◇

 

 

 板場弓美は必死になって校舎を駆けていた。周囲に響き渡る爆音と悲鳴の只中を、必死になって駆けていく。目指す場所すら分からず、何が起こっているのかすら分からず、それでもこの歩みだけは決して止めてはならないと、湧き上がる恐怖から逃げ出す為に四肢を動かす。

 凡そ日常的とは呼べる筈もない異常事態。まるで、アニメの様に現実味のない支離滅裂。けれど、これはアニメじゃない。目に焼き付く破壊の爪痕。耳に届く鳴り止まない破壊音。それが何よりの証拠であり、空想など歯牙にもかけない圧倒的なリアル。それは、この場にいる弓美自身が誰よりも実感していた。

 

「な、なんなのよッ!! 一体全体なんだっていうのよッ!!」

「バミュー! 泣き言は後にして今は逃げないと!」

「周りがこんな有様で何処に逃げろっていうのよッ!」

「……落ち着いてください、板場さん。一先ずシェルターを目指しましょう。リディアンのシェルターは、ノイズの被害を想定された物です。そこまで逃げ切れればきっと!」

 

 本当に? 逃れられるの? この地獄から? 隣を走る創世と詩織の励ましを聞いても、弓美には自身の生存に対して前向きな考えが何一つとして浮かんでこない。自分の命が助かる。そんな保証は、この地獄の何処にも有りはしないのだ。

 だが、そんなちっぽけな希望にも縋らずにはいられない。ダメかもしれない。助からないかもしれない。そんな不安と絶望を置き去りにする為に、弓美は僅かに見えた光明に向かって足を止める訳にはいかないのだ。

 

「何でこんなことにッ! 何だってノイズがリディアンに!」

 

 校舎の窓から覗くのは認定特異災害ノイズにより、瓦礫と化していく弓美達の学び舎。黒煙が至る所から立ち上り、校舎を徘徊し人間を見つけ次第襲いかかるノイズ達。つい先程まで授業を受けていた学び舎が破壊され、自分達と同じ制服に身を包んだ少女達が炭素と変わるこの目を背けたくなる光景を地獄と呼ばず何というのか。

 

「アニメじゃないんだからッ!!」

 

 弓美が常々口にしている口癖とはまるで反対の言葉が喉から吐き出される。憧れていた非日常。弓美には、アニメの主人公達のように特別な力など何もない。精々画面の端に描かれるモブとしてのポジションでしかない。だからこそ、画面に映る華々しい主人公達の物語に憧れ、惹かれたのだ。けれど、実際に直面しているこれは、アニメのような画面越しに眺める物ではなく、只々恐ろしい現実であった。

 

「バミュー! そこ左!」

「板場さん、もう少しです !頑張りましょう!」

「分かってるわよ――って、わぷ!?」

「きゃっ!?」

 

 創世の指示に従い曲がった角の先で、弓美は誰かにぶつかり地面に転がった。こんな所で立ち止まる訳にはいかないのに、一体どこのどいつだと、ぶつけた鼻を撫でつけながら文句の一つでも叫ぼうとした弓美だったが、眼前の人物が誰かを認識すると、思わず視界が滲みそうになった。

 

 ぶつかった相手は同級生の小日向未来だった。ノイズ襲撃の混乱に巻き込まれ、いつの間にか別れてしまった友人の1人だ。

 

「ヒナ! 無事だったんだね!」

「みんなも無事で良かった……! 姿が見えないから心配してたのよ……」

「ビッキーは? 今朝から学校には来てなかったけど、もしかして寮? 連絡は取れた?」

「響は……今日は街を出てるの。電話は1度繋がったんだけど、直ぐ切れちゃって……」

「……そっか。ノイズの被害が何処まで広がっているか分からないけど、街の外にいるなら大丈夫そうだね」

「これだけの混乱ですもの、電話回線もかなり混雑しているのかもしれませんね」

「それ簡単には助けを呼べないってことじゃないの……」

 

 思考が後ろ向きになっていることを自覚しながらも、弓美は考えずにはいられない。未来と再会することができて、喜ばしい気持ちになったのはほんの一瞬で、不安と恐怖が、足を止めた弓美の心を塗り潰そうと迫る。

 

「本当に私たち助かるの……?」

 

 不意に漏れたのは、抑えきれなかった未来への不安。シェルターに篭った所で、ノイズから逃げ切ることが出来るのか? この地獄から生きて帰ることが出来るのか?

 

 だが、呟いたその不安を、友の言葉が真っ向から打ち砕いた。

 

「――大丈夫」

「えっ……」

「絶対に大丈夫だから」

 

 震える手がいつも間にか、暖かい未来の手に握られている。恐怖に凍える弓美の心を、真っ直ぐと此方を見つめる未来の視線が射抜いている。彼女の薄緑の瞳には、微塵の絶望も映っておらず、強い意志を感じさせるその眼差しが、まるで太陽のように眩しくて暖かい。

 

 ――諦めないで。

 

 彼女の暖かな掌と強い眼差しから、言葉にせずとも伝わったその意思に、弓美の心に再び希望の火が灯る。

 そうだ。こんな所で死んでなんてたまるものか。ノイズなんて訳のわからない災害に見舞われて、15年しか生きていない一生を終えるなんて御免被る。第一、今期のアニメの最終回を見ないままに死ぬなんて、死んでも死に切れない。

 それにリディアンにアニソン同好会を作るという野望もまだ叶えていない。アニソン同好会がリディアンに無いと知った時は絶望したものの、無いなら作ればいいのだ。高校生活という青春を二次元に捧げると決めた弓美には、その程度の困難の壁は何の障害にもなりはしない。そう、板場弓美は諦めの悪い女だった筈だ。

 

「そうよ! 諦めてなんてたまるもんですか! バンはどんな苦境にあっても諦めなかった! おやっさんが宇宙犯罪ギルドと通じ合ってバン達を裏切っていたと知った時も! 敵同士でありながら心を通わせたノワールが唐突な死を迎えた時も! 彼は何度でも立ち上がったわ! スポンサーの倒産? 出演声優の逮捕? 関係ないわ! 1クール目のバンから私は一体何を学んだの! 14話以降のヘチョイ路線が何だっていうのよ!」

「…………何の話をしてるの?」

「…………いつもの病気でしょ。気にしない方がいいよヒナ」

「…………板場さん」

 

 友人達から寄せられる生暖かい視線などなんのその。バンの教えを思い出した弓美には、馬耳東風である。弓美の脳内には「現着ッ!電光刑事バン」が鳴り響いている。胸にエレキが走り抜けた弓美は止まる事を知らないのだ。

 諦めの悪さを取り戻した弓美は、勇ましくシェルターへの道のりを再び歩み出そうとした。

 

「あぁ、まだ生き残りがいたのですね」

 

 だが、踏み出された足は、背後から聞こえたどこか聞き覚えのある鈴のような少女の声に、再びその歩みを止めることとなった。

 驚きと共に振り向けば、其処には、入学して間も無かった頃にお好み焼き屋ふらわーの前で出会った少女――詞世蛍が、あの時と同様にゴスロリ服に身を包んで佇んでいた。相変わらずの鉄面皮を顔に貼り付けた彼女だったが、その表情が以前にも増して色を失っているように見えるのは気のせいなのだろうか。

 「蛍……?」と呟いた弓美の声に、何故か未来がピクリと身体を震わせ反応した。

 

「詞世さん!?」

「こたるん!? なんでリディアンに!?」

 

 口々に蛍の名前を呼びながら、彼女に駆け寄ろうとする弓美達だったが、「待って!!」と未来の放った悲鳴の様な静止の声が彼女達の歩みを制した。

 

「貴女は……貴女は、クリスの知っている蛍?」

 

 

◇◇◇

 

 

 計画は最終段階に差し掛かっている。

 自身の記憶に刻まれた計画の内容を反芻しながら、詞世蛍はゆっくりとした足取りで、悲鳴と爆発音に彩られたリディアン校舎内を散策していた。その足取りに淀みはなく、他者の絶望に縁取られたこの地獄の様な光景を目にしても、蛍の心には微塵も漣立つことはない。

 計画の最終段階。それは特異対策機動部二課本部の基地機能の掌握、及び、本部最奥区画――通称アビスに保管されたデュランダルの奪取。つまりは、二課との全面抗争を意味していた。

 雌伏の時は過ぎ去り、表舞台へと登る時が来たのだ。

 基地機能の掌握に必要なシステムのバックドアは、櫻井了子として潜伏していた頃にフィーネが作成済み。アビスを守る防衛システムにしても、基地機能を掌握してしまえば、無効化は容易である。

 用意周到なフィーネが、その辺りの細工に手を抜くはずもなく、ノイズ襲撃による混乱に乗じ、基地機能の掌握はあっさりと達成された。計画の通り事が進んでいるとすれば、今頃フィーネは、悠々とデュランダルの確保へと向かっていることだろう。

 本来、二課本部に居る筈の特記戦力である立花響と風鳴翼の両名、及び風鳴弦十郎の引き離しには成功している。どうやって屋敷の位置を二課に漏らしたかは不明であるが、司令官自らが赴くとなれば、相応に信憑性の高い情報ルートを用いたのだろう。考えられる限りでは、先に屋敷に襲撃を掛けて来た米軍の動きを逆手に取り、日本政府にその尻尾を踏ませたとかだろうか。フィーネならざる蛍にその答えは分からず、神獣鏡(シェンショウジン)に与えられた知識にもその答えはない。

 どの様な手段を用いたにせよ、今現在、二課本部に彼女達が居ないことを確かであり、教えられていないということはそれ程重要視するものでもないのだろう。蛍に科せられた任務は、二課職員の掃討、及び特記戦力が援軍に間に合った場合の迎撃である。余計な思考には囚われず、今は任務に集中するべきだ。

 

 思考の渦から意識を浮上させた蛍の耳に、微かな話し声が届く。ノイズによる飽和攻撃により、かなりの人員が炭素と化した筈だが――。

 

「あぁ、まだ生き残りがいたのですね」

 

 耳に届く声を頼りに歩を進めれば、程なくして、蛍はリディアンの制服に身を包んだ4人の少女達を発見する。驚きと共に蛍の名前を口にする少女達を見れば、その内の3人はいつしか任務中に出会った漫才トリオに酷似していた。「成る程、不思議な縁もあるものですね」と呟くと同時に、彼女達と出会ったお好み焼き屋を思い浮かべると、蛍は微かな頭痛を覚えた。まただと思いながら、その頭痛を振り払う様に見覚えのない最後の1人へと注意を払う。すると、暗緑色の髪をしたその少女は、何故か狼狽した様子で蛍を見つめていた。

 

「あなたは……あなたは、■■■の知っている蛍?」

 

 少女の口から発せられた誰かの名前が、殆ど変わることのない蛍の無表情に変化を齎す。誰の名前かは知らないが、その名前を聞く度に酷い頭痛がする。まるで、思い出すことを脳が拒んでいるようで。

 故に、蛍の行動は素早かった。この少女は蛍の障害になる。蛍が目指すべき世界、人と人が分かり合える世界を取り戻すその障害足り得る。

 今更、犠牲を厭うことはない。子供であろうと、大人であろうと、男であろうと、女であろうと、善人であろうと、悪人であろうと、蛍の邪魔をするというのであれば容赦はしない。どんな犠牲を払ってでも、蛍はこの血と灰に塗れた道を歩み続けると決めたのだから。

 

Rei shen shou jing reveal tron(小さきこの身を暴いて)

 

 奏でるのは、聖詠。蛍の歌声によって起動した異端技術(ブラックアート)の結晶が、小さなその身に超常の力を齎す。

 

「シン……フォギア……じゃあ、やっぱり……」

「シンフォギアを知っている? なるほど、二課の関係者ですか。ならば、余計に見逃す訳にはいきません」

「ま、待って! 貴女は……!」

「問答は無用。貴女は此処で果てなさい」

 

 アームドギアを生成し、その鋒を少女へと向ける。突きつけられた扇に表情を強張らせた少女に向かって、蛍は何の躊躇もなく濃紺の光を放つ。余程の人外ではない限りは、人の身で避ける事は叶わない速度で、破魔の光が少女へと殺到する。

 只人たる少女にそれを避ける術はなく、ノイズさえ屠る一撃を耐える事など出来るはずもない。少女には子鹿のように震える足で、眼前に迫り来る死を待つことしかできない。故に、少女の死は確定している。

 だが、死が少女を飲み込むその前に、どこからともなく現れた人影が少女を抱えてその死を避けた 。

 

「……緒川慎次。勝てるとでも、思ったのですか。風鳴弦十郎なら兎も角、貴方の戦闘力ではシンフォギア装者に及ばないのは分かっているでしょうに」

「二課職員として、一般人を見殺しには出来ませんよ。勝てないとしても、彼女達が逃げる時間稼ぎ程度なら出来ますから」

 

 飛び出してきた人影は、黒いスーツに身を包んだ物腰の柔らかい男性。若いながらも風鳴弦十郎の右腕とも称され二課の裏方を担う実力者――緒川慎次は、腕に抱えた少女をゆっくりと地に下ろすと、スーツの内ポケットから拳銃を取り出し、少女達を庇うように前に出て、神獣鏡(シェンショウジン)を身に纏った蛍と対峙した。

 




 気付けば13,000字……また文字数増えてるよ……
 執筆をしたのが大分時間を空けてだったので、文章等おかしかったらすみません。

 なお、忍者戦はカットする予定の模様。


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EPISODE 24 「銃爪にかけた指で夢をなぞる」

 久しぶりにイチャイチャを書いた気がします(虚偽にあらず)
 いつもより少し短め、ポエム要素強めです。



 緒川家。それは戦国の世から現代にまで、生き長らえた隠忍の家系だ。飛騨地方にその起源を持ち、古くは木下藤吉郎と呼ばれていた頃の豊臣秀吉に仕えていたと言われている。

 関が原の合戦以降、その姿は表舞台から消えるが、明治維新の後、風鳴の家と共に日本の国防を内外の敵から退けてきた。

 彼らは、脈々と受け継がれた秘伝の忍術を現代風に昇華させた――飛苦無や手裏剣を銃に置き換える等した――現代忍法を用いる。それは人の身でありながら、影を縫う、水上を駆けるといった超常の技を可能とする。人間の生み出した技術の粋と言っても過言ではないだろう。

 だが――。

 

「所詮は人の身。真の超常を――異端技術(ブラックアート)を前にしては、その技も人の域を出ることは適いません」

 

 感情の篭もらない声に乗せ、蛍は覆し難い現実を口にすると共に、眼前で膝を着く緒川慎次に視線を投げかける。《光芒》により撃ち抜かれた右足を押さえ、苦悶の声を漏らす慎次。悲しいかな、如何にその技術が素晴らしかろうとも、それは人の技に過ぎず、神々の時代に用いられた超常の力の――絶対たる力の前に、人間は屈する他ない。

 とは言え、彼はあくまでも忍者であり、隠密行動に長けた者だ。直接戦闘が不得手であっても――と言っても並の人間では相手にならないだろうが――それは仕方のない事だと言える。もしも、相手が風鳴弦十郎であれば、如何な神獣鏡(シェンショウジン)を纏った蛍と言えども、結果は分からなかったかもしれない。それ程までに、彼の戦闘力は突出し過ぎている。

 あのフィーネをして、人外だと言わしめる弦十郎。記録映像を見た限りではあるが、天羽々斬(アメノハバキリ)を身に纏った風鳴翼の《天ノ逆鱗》を拳一つで受け止めるなど、人間を辞めていると言わざるを得ない。ソロモンの杖によるノイズの遠隔操作という人間に対する圧倒的な鬼札がなければ、彼が直接戦場に出てきたかと思うと頭が痛い。

 とまれ、当の彼は二課所属の装者と共に遠く離れた山奥だ。もしも、間に合うようであれば、作戦前にフィーネに渡された()()を使うことも考慮に入れるべきだが、間に合うにせよ、間に合わないにせよ、今この場に居ない事だけは確かである。

 故に、今この場に蛍を止められるものは存在しない。早々に任務を果たすべきだろう。少女達にはまんまと逃げられた為、其方も追う必要がある。あの漫才トリオに関しては放置しても問題ないが、あの4人目の少女だけは駄目だ。言葉一つで自身に不調和を齎す存在。あれは蛍の障害足り得る。

 地に伏せ、撃ち抜かれた右足からの痛みに喘ぐ慎次。蛍はその姿を瞳に映すも、何の感慨も持つことはない。これは果たすべき任務だ。これは滅すべき敵だ。ならば、後は手にした鉄扇を振り下ろすのみ。

 

「何を遊んでいる蛍、貴様には増援に備えろと命令していた筈だが」

 

 迅速に、そして正確に、その首を断とうとした蛍だったが、背後から聞こえる声にその手を止めた。

 冷たさを孕んだ聞き慣れた声に振り返れば、其処には黄金の鎧ーーネフシュタンを身に纏ったフィーネの姿があった。その手には、今もなおこの地に破壊と殺戮を撒き散らすノイズを従える為のソロモンの杖が握られている。

 

「? 二課職員の殲滅も任務に含まれていた筈ですが?」

「…………融通が効かないのも考えものだな。そんなものノイズに任せておけば良い。この場にノイズに抗う術も持つ者など皆無だ。であれば、増援に即応する為に外で待機すべきだろう」

「はい、フィーネ。貴女がそう言うのであれば直ちに」

 

 よくよく考えれば、フィーネの言う通りではあるのだが、何故自分はその様に思考を停止していたのだろうか。殲滅を任せるのであれば、ソロモンの杖を蛍に委ねた筈だ。任務の優先度を履き違えるとは、これは叱られても仕方がない。

 

「フィーネ、デュランダルは?」

「確保した。今はカ・ディンギルとの間にエネルギーラインを繋ぎ起動に必要なエネルギーをチャージしている」

「では、屋内にいるのは危険ですね」

「あぁ、だから外に出ていろと言ったであろう」

 

 ――カ・ディンギル。その正体は、特異災害対策機動部二課本部施設内に広がるエレベーターシャフトを砲身とした超巨大荷電粒子砲である。地下1800mにまで届くそのエレベーターシャフトは、カ・ディンギルとして起動した時、その真の姿を現し、天を突く魔塔として屹立する。

 起動に際し、地上にあるリディアン校舎は全てとは言わないが、その殆どが崩れ去る予定である。この場に居ては、その崩落に巻き込まれる可能性があるのだ。

 

「了子さん……やはり、貴女が……」

「緒川慎次、おまえを無能だと罵ることはしまい。所詮は只人。我が叡智とは比べるまでもないのだからな」

 

 膝をつく慎次に向けるフィーネの目線は、只管に冷たく侮蔑と侮辱に塗れている。それもその筈で、この場にいるのは、彼らの仲間としてあった二課研究部主任の櫻井了子ではなく、月を穿ち統一言語を取り戻す為に永遠を生きる巫女フィーネなのだから。

 彼女の言動からそれを痛感したのか、慎次は沈痛の面持ちを浮かべる。しかし、次に顔を上げた時、彼の顔に浮かぶのは悲痛を押し殺した決意の眼差しだった。

 

「僕は貴女を止めなくてはならない。二課情報部として貴女の裏切りを事前に察知出来なかった責任を果たさなければならない。けれど、それ以上に、間違った道を歩もうとする嘗ての仲間を、そのままにしておく事は出来ません。この命に替えてもッ!」

「ハッ、凡夫が我が覇道を否定するか。矮小な存在に過ぎぬ貴様等如きが幾ら足掻こうとも、我が覇道は小揺るぎもせぬわ。身の程を知るがいい、俗人」

 

 フィーネは、慎次の決死とも取れる覚悟を鼻で笑い一顧だにしない。それはネフシュタンを身に纏った己と只人たる慎次の間に存在する隔絶された力の差を、誰よりも理解しているからこその行動だった。

 

「殺しはしない。貴様らにそんな安らぎなどくれてやるものか。貴様はそうやって地べたを這い、己の無力さを嘆きながら世界の葬世と創世を見届けるがいい」

 

 膝を着く慎次に対し、フィーネはそう吐き捨てる様に言葉を投げかけると、もう用はないとばかりに背を向けた。

 

「宜しいのですか?」

「構わん。捨て置け」

 

 蛍個人としては、禍根は此処で摘み取るべきだと思うが、フィーネが捨て置けと言うのであれば是非もなし。蛍にとってフィーネの言葉は絶対だ。4年前、全てを失った蛍の前に現れ、全てを与えてくれたのは彼女なのだから。彼女が黒を白だと言うのであれば、蛍は首を縦に振るのみだ。

 

 慎次に背を向け歩き始めたフィーネを追い、蛍もまた歩を進める。足早に廊下を歩き、階段を登る。辿り着いた先は、屋上だった。

 

 日は既に落ち、辺りは闇に包まれている。ノイズの警戒警報が発せられた為か眼下に見える街には最小限の灯りしか灯されておらず、周囲にある光源はノイズにより火の手が上がった校舎と空に瞬く星々のみ。その中に一際大きく輝く月が見えた。憎むべき人類不和の象徴が、蛍の頭上から此方を見下すかの如く、静かに、けれども爛々と怪しげな光を放っている。

 蛍は宙を見上げ、その輝きを睨みつける。今に見ていろと、忽然とした決意の眼差しで。

 

「――私が、私達が世界を変える」

「そうだ。月を穿ち、統一言語を取り戻す。そうでなければ、あの輝かしき日々を取り戻せはしないのだ」

 

 思わず呟いた声に返ってきた返事に驚き、隣を見遣れば、フィーネもまた蛍と同じ様に空を見上げていた。その視線には、様々な感情が含まれている。懐古、寂寞、希望――そして焦がれる様な恋慕。彼女は、その焦がれる視線の先に、何を、否、誰を見ているのだろうか。

 その問いに対する答えを蛍は知らない。実際、蛍がフィーネについて知っている事などほんの僅かだ。フィーネ自身に関する事で蛍が知っている事と言えば、ドSだとか、服を着ない露出狂であるとか、そう言った趣味嗜好ぐらいであり、過去に何があったかだとか、フィーネが何の為に統一言語を取り戻したいのかなんて知る機会はなかったのだ。

 

 だから、だろうか。気付けば、口を開いていた。

 

「フィーネは誰かを愛しているのですか?」

「…………何だ、藪から棒に」

「いえ、そう言った目をしていたので」

 

 蛍の問いにフィーネは、彼女にしては珍しく、少しばかり目を開いて、驚きを露わにする。それが何だかおかしくて、思わず笑みを浮かべそうになった笑みを無表情の鎧で覆い隠す。

 愛情。それは蛍がこの世で最も信じられない感情だ。両親に捨てられて以来、彼らに与えられたその暖かな感情は、蛍を縛る呪いに変わった。愛する事も、愛される事も、怖くて怖くて堪らなかった。温もりが脆く崩れ去り、冷たい刃となって胸を刺すその痛みを、蛍は誰よりも知っていたから。

 だが、ここ数年で蛍は変わった。フィーネと出逢って血潮が熱を取り戻した。そして、彼女は、蛍に再び温もりを与えた。その温もりは恐ろしい、けれど、縋らずにはいられなかった。もう一度、それを手放す事を蛍は何よりも恐れた。だからこそ、蛍は確かめたい。その温もりが、本物であるのかどうかを。この温もりが、彼女に届いているのかどうかを。信じたいのだ、他者を。

 では、フィーネは? 彼女は何の為に、統一言語を取り戻したいのだろうか。輝かしい黄金の時代を取り戻すのだと彼女は言う。それは、きっと、彼女がフィーネとして生きた遥か過去への憧憬だ。統一言語を失う前の人と人が誤解なく分かり合えた最後の時代。それを取り戻すのだと。

 だが、それは残酷にも過ぎ去った過去の時代だ。人は時の歩みを戻すことは出来ず、フィーネが生きたその時代に生きた人など、とうの昔に息絶えている。では、彼女は統一言語を取り戻して、誰と分かり合いたいのだろうか。

 

「――愛している。焦がれている。この数千年、変わる事なく。私は、あの方を想っているわ」

 

 まさか答えが返ってくるとは思わず、今度は蛍が目を見開いた。柔らかな声色と、遠くを見つめる双眸。長い間生活を共にしてきたが、こんなに穏やかな彼女は蛍は初めて目にした。

 

「どうした? 意外か?」

「いえ、その、まさか答えてくれるとは思わず……」

「ふん、自ら問うてきた事だろうに。答えが返ってきて驚くとは、可笑しな奴だ」

 

 不機嫌そうに眉をひそめるフィーネ。だが、そこに普段の苛烈さは見られず、冷たさもまたない。不機嫌そうに顔を背けるその態度に、胸の内が温かくなるのを感じ、思わず頬が緩みそうになる。それが何だか無性に嬉しい。まさか彼女とこんなやり取りが出来るだなんて蛍は思ってもみなかったのだ。ほんの少しだけ、フィーネを知る事が出来た。そんな気がした。

 

 そうか、私は()()()()()分かり合いたいんだ。

 

 自身が抱いたその想いのおかしさに、上機嫌な蛍は気が付かない。その小さな綻びは、蛍に認識されることなく、淡い泡沫となって溶けて消えた。

 蛍が問い、フィーネが答える。作戦中だと分かっていても、フィーネと何気ない会話をしている今この時が、とてもかけがいのないものに思える。

 いつ間にか鎧を纏う事も忘れて、フィーネとの会話を楽しむ蛍だったが、その表情は直ぐに曇る事となる。鎧を纏っていない事が災いし、突如として襲いかかってきたその痛みに、蛍は我慢という言葉を忘れて喉が裂ける程の悲鳴を上げた。

 

 ――歌が聞こえた。

 

 月が輝き浮かぶ夜空に、蛍の知っている(知らない)歌声が響き渡る。その歌声を耳にした瞬間、蛍は頭が割れるかと思う程の痛みを覚えた。先程の少女の言葉により引き起こされたものなど比ではない程の痛み。痛みには慣れている筈の蛍だったが、頭の中から際限なく溢れるその激痛に泣き叫び、のたうち回る。

 

「ああああアあああぁぁああああ嗚呼あああアアアッッ!!!!」

 

 痛い。痛い。痛い。

 脳がこの歌を聞くことを拒否している。旋律が鼓膜を震わせる度に、耐え難い頭痛が襲い掛かってくる。叶うならば、自ら耳を切り落としてしまいたい。視界が滲み、悲鳴が溢れる。

 恥も外聞もなくのたうち回る蛍を包んだのは、薬品と香水が入り混じった何時もの香りだった。暴れる四肢を抑え込まれ、彼女の顔が間近に迫る。

 

「落ち着きない。あんな歌に耳を傾ける必要なんてないわ。貴女は、私の声だけを耳にしていればいいの」

「……がっ……ぎぃ……ふ、フィー、ネ」

「あれは貴女の、いえ、私達の敵の歌。私達の計画を害する邪魔者の歌」

「て、き……わたし、たちの……てき……」

「そう。あれは、敵よ。その敵を、貴女は、知らない。名前も、顔も、声も知らない只の敵。敵の言葉に耳を貸す必要はない。何を言ってこようとも、それは敵の言葉なのだから。私達が望む明日を否定する滅すべき敵の言葉なのだから」

「てき、は……倒す……滅する……」

「そうよ、蛍。敵は打ち倒すもの。一切の感慨なく、無情を以ってして相対すべきもの。そこに温もりはなく、冷酷さだけが在れば良い」

 

 歌声を塗り潰し耳元で囁かれるフィーネの声が蛍の中に染み渡り、掻き回された頭を癒してくれる。彼女の言葉をまるで呪文の様に繰り返し、口にする。何度も、何度も。口にする度に、蛍を苛む頭痛は収まっていく。代わりに湧き上がるのは、フィーネへの親愛。彼女だけが、蛍を助けてくれる。彼女だけが、蛍を抱きしめてくれる。彼女だけが、蛍に温もりをくれる。

 

 彼女の為に、敵は、滅ぼす。

 

「そう。それでいいのよ、愛しい愛しい私の蛍。さぁ、最後の戦いを始めましょう」

 

 頭痛は、もう感じなかった。

 

 

◇◇◇

 

 雪音クリスは彗星の如く夜空を駆ける。自ら創造した一基のミサイルに乗り、数多の星が瞬くを切り裂きながら、戦火の鳴り止まぬ戦場へと。

 それは、以前翼の絶唱により蛍が重症を負った際にも用いた移動手段だった。攻撃手段である筈のミサイルを、移動手段として用いる狂気の沙汰。だが、現状クリスにとって手段を選べる程の余裕はなく、使える物はなんであれ使う必要があった。今何より優先すべきは、手遅れになる前に、一刻も早く、リディアンに――蛍の元へ辿り着く事なのだから。

 

「あわわわわわわ、く、クリスちゃん、飛んでる! 飛んでるよ!?」

「ぐっ、何というジャジャ馬っぷり! だが、この程度乗りこなせなくて何が防人か!」

「お前等、御託は結構だから、大人しくしろッ! こちとら、慣れねえ3人乗りで制御に手一杯なんだよッ!」

 

 同行者は2人。初めての空中飛行におどろおどろしい声を上げる響と、ミサイルの上で何とかバランスを保とうと四苦八苦する翼。どちらもクリス同様にシンフォギアを装着している。

 

 リディアン襲撃の報を受けてからの、クリス達の行動は素早かった。

 

 まず屋敷を隈なく捜索すると共に、二課本部に連絡をいれ現状の把握に努めた。その結果として、屋敷はデータ端末すら破壊され人っ子一人いないもぬけの殻であり、二課本部との通信も繋がらない事が分かった。

 その時点で、弦十郎はリディアン襲撃の報が誤報ではないと確信し、自分達がまんまと釣り出された事を悟った。弦十郎は直ぐに本部へと取って返すように指示を出したが、そこに待ったをかけたのがクリスだった。

 

「行きと同じ足じゃ到底間に合わねえ。あたしにいい案がある」

 

 そう言って、クリスは弦十郎らに、ミサイルによる超長距離移動を提案した。一度に多くの人員こそ運べないものの、一分一秒が惜しいこの状況で戦闘要員である装者三人を短時間で現着させるには理想的な手段だった。一基のミサイルに対し、シンフォギアを身に纏った装者が三人乗りという、積載量オーバー所の話ではないが、そこはクリスの腕次第であり、クリスは最悪途中でミサイルを乗り継げば問題ないと考えていた。

 しかし、今度は弦十郎がその作戦に待ったをかける。何と彼は自分も連れて行けというのだ。「生身でミサイルに乗れるものかよッ!」とクリスが反論すれば、彼は自信満々の表情で「問題ないッ!」と正面から言い切った。結局、「相手がソロモンの杖を持っている以上、ノイズと相対する可能性がある」と部下達に反対にされ、弦十郎は後続として車で移動する事になったものの、彼のその自信が何処から湧いて出てくるのかクリスには最後まで疑問だった。

 

「見えたぞ、リディアンだ!」

 

 鋭い翼の声にクリスは姿勢制御に必死だった意識を浮上させ視線を上げる。小高い丘の上に建てられた真新しい校舎は見る影もなく、所々が崩れ落ち、至る所にノイズが徘徊している。その光景を目の当たりにしたクリスは、僅かばかり身を強張らせながらも喉を震わせて、ミサイルが万が一にも墜落しないよう出力を上げた。

 

「リディアンが……私達の学校が……未来……みんな……」

「立花、気持ちを乱すな。本部には緒川さん達が居る。きっと皆無事だ」

「翼さん……」

 

 果たして、そんな甘さをフィーネが許容するだろうか。翼の言葉にクリスはそんな疑問を抱くものの、それを口に出すのは愚策だ。響は幾らひよっ子と言えども、今は手を組んだ此方の重要な戦力だ。態々味方の士気を下げる言葉を口にする必要はない。

 これを人は打算と言うのだろう。だが、クリスの調子が万全とは言い難い以上、形振り構ってなどいられないのだ。これから相対するのはあのフィーネであり、本来ならば、万全に万全を重ねてそれでも足りないと最大限の警戒をして相対すべき相手。例え万全であろうとも、フィーネはそう言った相手の間隙をつく事に非常に長けているので、備える事は無駄だと言えばそれまでだが、少なくとも、心構えだけは済ませておくべきだろう。

 

 「降りるぞ!」という言葉と共に、クリスはミサイルの上から飛び立ち、校舎敷地内の広々としたグラウンドに着地する。一拍遅れて、響と翼もクリスの後に続き、グラウンドへと降り立った。

 その直後、クリスは背筋が凍る悪寒を覚え、遮二無二横へと跳ねた。無茶な身体の使い方をした為か、四肢に痛みが走り顔を歪める。次の瞬間、幾房もの濃紺の光の筋が先程までクリスが立っていた場所に撃ち込まれ地面を穿った。

 安心する間も無く、直ぐ様第二射、第三射がクリスへと迫り、まるで雨の様に濃紺の光が降り注ぐ。その全てを、クリスは身体にかかる負荷を無視して避け続けた。

 

 この攻撃をクリスは知っている。何故ならば、これは彼女が好んで用いた技の一つだ。

 

 その名は《光芒》。 周囲に浮かべたミラーデバイスから光の筋を放ち、敵を撃ち貫く彼女の十八番。一つ、一つの威力は然程でもないが、シンフォギアがーー聖遺物が相手となれば話は違う。魔を祓う鏡、神獣鏡(シェンショウジン)。その特性は、聖遺物を殺す聖遺物。三次元的に配置されたデバイスから放たれるオールレンジ攻撃は、防御する事叶わず、その一つ一つがシンフォギア装者に取って致命傷足り得る。

 降り注ぐ濃紺の光の雨を回避しつつ、クリスは射出点を探る為、周囲を見渡す。

 響と翼は健在。作戦前のミーティングで、決して彼女の放つ光に触れてはならないと忠告したのが幸いしたのか、翼は天羽々斬(アメノハバキリ)の機動力を以ってして安定した回避を、響は脚部装甲に装着されたパワージャッキを用いた緩急による回避方法で危なっかしいながらも生き長らえている。

 

「お前ら無事か!?」

「何とかな! しかし、このままではジリ貧だ! 射手は何処だ!?」

「さっきから探してる!」

「うわ! ほぁ! っとと! ……あれ!! クリスちゃん! 翼さん! 彼処! リディアンの屋上!」

 

 響が指差す方に目を向ければ、闇世の中にうっすらと佇む二人の人影が見える。その人影を見た瞬間、それが 誰か確認するまでもなく、クリスは吼えた。

 

「蛍ーーッ!!!!」

 

 その声に反応したのか、降り注いでいた光の雨がピタリと止んだ。次いで、雲の隙間から漏れ出た月の光が、二人の姿を照らし出した。

 

「遅かったな、とでも言うべきか? よくもまぁ、あの屋敷から間に合ったものだ。余程、自分達の世界が滅びゆく様を見届けたかったと見える」

「………………」

 

 現れたのは黄金の鎧を身に纏い唇を三日月に歪めたフィーネと、その傍に黙して付き従う蛍の姿。蛍の周囲には淡い燐光に彩られたミラーデバイスが幾つも浮遊しており、いつでも発射体制に移行できる事が仄めかされている。

 彼女の姿を眼にして、クリスの胸中に浮かび上がったのは悔恨の念だった。何故、自分はあの時彼女を残して屋敷を去ってしまったのか。何故、もっと早くフィーネの企みに気付く事が出来なかったのか。守ると誓った。共に歩む事を夢見た。そうありたいと、クリスが心の底から願った少女が、()()()()()()を浮かべている姿を見て、クリスは悔やまずにはいられなかった。

 だが、だからこそ、クリスはその悔恨を決意に変えて、宣誓の言葉を紡ぐのだ。フィーネに向けて、蛍に向けて、そして何より自分に向けて。

 

「フィーネ、蛍を返してもらうぞッ!」

「何を馬鹿な事を。この娘は、今も昔も変わらず、我が手中にある。それを返せとは、盗人猛々しいとはこの事か」

「ダイレクトフィードバックシステムで蛍の意思を歪めておいてよく言う」

「差し伸ばした手を拒絶されたのは貴様の方だろうに。貴様が抱くその希望こそが、この世界で最も愚かで、最も無意味な想いである事を貴様は既に知っているだろう? 故に、一度は私の手を取り世界の変革を目指した。月が変わらず、空に浮かんでいる限り、貴様のその願いは決して実ることはない」

 

 確かにあの時、クリスは蛍に拒絶された。差し伸ばした手は、彼女が握る事はなかった。あの時抱いた絶望は今も変わらず、この胸の内にある。拒絶されることは恐ろしい。もう一度手を差し伸べて、それすらも振り払われたらと心が震える。

 

 だが、それでも、クリスはもう一度、いや、何度だって手を伸ばすのだ。

 

「あぁ、そうだとも。一度は拒絶された。伸ばした手は振り払われた。けどな! それは、あたしが諦めていい理由にはならないッ!」

 

 この胸の内にある温かく、けれども熱く滾る彼女への想いをクリスはまだ蛍に伝えていない。この世界は、確かに理不尽で、残酷だ。人が人を信じられない不和に塗れた呪われた世界だ。だが、それを言い訳に、己の想いを伝える事を恐れてはならないのだ。伝わらないからと初めから諦めて口を噤んでいては、伝わるものも伝わらない。伝わらないのであれば、伝える努力をすべきなのだ。相手の心へと踏み込む勇気を、自分の心に相手を踏み込ませる勇気を、一握りの温かさと共に胸に抱き、冷たき疑心を乗り越えた先に、クリスの夢見た未来がある。

 

 故に歌おう。この胸の想いを。

 故に奏でよう。この胸の高鳴りを。

 旋律に乗せ、世界に見せつけてやる。

 曲がらず、歪まず、一直線に。

 疑心を暴き、想いよ、届け。

 まだ見ぬ夢の果てに、あたしの隣を歩く彼女を想い歌う。

 小さく、けれども、温かい。

 その手を今度こそ掴んでみせる。

 

 今こそあたしは、銃爪にかけた指で夢をなぞる。

 




 次回からは本格的に戦闘の予定。
 恐らく残り3~4話で完結すると思います。
 ……ただ、あくまでも、予定なので鵜呑みにしないでください。
 未だに構成で悩んでいる部分があるので、もしかすると話数増えるかもしれません。

 もしも、司令がミサイルに乗っていたらどうなったかって? そりゃWA5のあの人だよ。


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EPISODE 25 「小さきこの身を暴いて」





「カディンギルの最終調整に入る。それまで時を稼げ」

「はい、フィーネ」

 

 蛍とフィーネの言葉短いやり取りがクリスの耳に届く。フィーネの命令を受けた蛍が校舎の屋上から飛び立ち、星空を背景にクリス達を見下ろす。その瞳に何を映しているのか、どんな色を浮かべているのか。牙が噛み合ったかの様なバイザーに阻まれ、クリスはその奥を知る事は出来ない。

 この後に及んでフィーネが直接手を下さないのは驕りか余裕か。はたまたそれ程までに蛍を信頼しているという事だろうか。

 否と浮かび上がった自身の考えを首を振って否定する。あのフィーネが他者に信頼など寄せるものか。痛みこそが唯一の絆と断ずる彼女が、他者を信じて頼るなどあり得ない。

 あるとすれば、それは信用だ。信じて用いる。フィーネにとって他人とは、頼るものではなく、用いるものなのだ。道具を扱う様に只使うだけだ。彼女が関心を払うのは、道具が性能通りに効果を発揮するかという一点のみ。

 

 喉を震わせ、歌声を響かせる。想いは旋律となって、クリスに超常の力を与えてくれる。真紅の鎧――イチイバルのシンフォギアはクリスの想いに応えてくれる。

 蛍を取り戻すのだ。彼女に打ち込まれた軛を解き放ち、共に歩む明日を掴む。その為に、クリスは初めて本気で彼女に向けて、銃爪を引く。

 

「あたしは、お前を取り戻すッ!」

 

 裂帛の声と共に、蛍の元へとクリスは駆け出す。身体の痛みを意志の力で無理矢理に押し込み、疾く駆ける。

 両の手に握るのは、二挺のクロスボウ。威力的にはガトリングに及ばないクロスボウではあるが、中距離戦闘における取り回ししやすさでは群を抜いている。神獣鏡(シェンショウジン)の特性を考えるならば、その反動故に足の止まりがちなガトリングは愚策だろう。彼女の一撃はまさしく必殺。あの濃紺の光に貫かれれば、それは致命的な傷となる。

 本来であれば、彼女に中遠距離戦を挑む事自体が愚策である。この距離はイチイバルの得意な距離でもあるが、彼女が得意とする距離でもある。加えて、イチイバルと神獣鏡(シェンショウジン)では得意とする相手が異なるのだ。

 イチイバルは豊富な武装による広範囲に渡る殲滅力。対する神獣鏡(シェンショウジン)は射程、攻撃範囲こそイチイバルに劣るが、聖遺物に対する絶対的な迄の攻撃性能を有している。故にイチイバルはノイズなどの群を相手とした戦闘を得意とし、神獣鏡(シェンショウジン)は対シンフォギア戦において圧倒的な優位を誇る。それこそ、天羽奏と風鳴翼の二人を相手取っても勝利を収める事が出来るとフィーネが判断を下す程に。

 加えて、此処は屋外。屋敷の訓練室の様な、閉鎖的な空間ではない。頭上に広がる空は、彼女の領域だ。自由自在に宙を舞い、上空から一撃必殺の光を放つ彼女の戦闘スタイルは、この拓けた戦場でこそ輝くものだ。

 圧倒的なまでに不利な相性、距離、地形。だが、それでもクリスはこの場に留まり、蛍と撃ち合う姿勢を見せる。詰んでいるとも言えるこの状況で、クリスの瞳には、微塵も陰りは見られない。

 

 何故なら、今この時、この場所において、雪音クリスは一人ではない。

 

「行くぞ、立花!」

「はい、翼さん!」

 

 牽制の矢を放つクリスの傍を、蒼と黄の影が駆け抜ける。クリス一人では、蛍に勝てない。だが、此処には肩を並べる他者がいる。

 心の底から信じている訳ではない。情に流された訳でもない。つい最近まで、敵同士だったのだ。そんな簡単に絆される程、クリスは軽い女ではない。

 けれど、クリスは、彼女達の歌を聴いた。あの太陽の様に温かく、空へと羽ばたく意志を聴いた。あの旋律が、嘘だったとは思えない。歌により通じ合った響と翼――眩く輝くあの姿に、クリスは希望を見たのだから。

 故に、共に戦場に立つ。仲間と言う程、信頼し合っている訳ではない。友達と言う程、親愛の情を抱いている訳ではない。それでもクリスは、共に背中を任せる程度には、彼女達に信を置いている。敢えて言葉にするのであれば――戦友。それが、今のクリスが響と翼に抱く距離感だった。

 

「あたしが牽制する! お前らはその隙に!」

「作戦通りに、だね!」

「背中は預けるぞ雪音!」

 

 すれ違いざまに言葉を掛け合い、黄と蒼の背中が遠ざかる。降り注ぐ濃紺の光の雨の中を縫うように駆け抜け、蛍の真下目指して。

 必然、近距離戦闘が主である2人に近付かれる事を蛍は看過できず、放たれる《光芒》は響と翼に集中する。上空から放たれる破魔の光に、遠距離攻撃手段の乏しい天羽々斬(アメノハバキリ)とガングニールでは回避に徹する他なく、遅々として蛍との距離は縮まらない。

 だが、此処には雪音クリスがいる。中遠距離攻撃に特化したクリスは、単身では蛍に勝てない。だが、1人でなければ――クリスが援護に回れるという状況であれば、それは逆転し得るのだ。

 クリスは自身へと向かう《光芒》の数が減ったこの隙を逃さず、手にしたアームドギアから桃色の矢を放つ。狙うは、蛍の周囲に浮かぶミラーデバイス群。彼女の剣であり、彼女の目でもあるそれらは、蛍の戦闘スタイルを支える根幹だ。まずは、それを奪う。

 

「そこだッ!」

 

《QUEEN's INFERND》

 

 放たれた矢が無秩序に動き回るミラーデバイス達を寸分違わず撃ち貫く。その事に僅かながらも目を見開く蛍。

 この程度、クリスにとっては朝飯前だ。クリスが何年蛍と共に暮らし、何百、何千回模擬戦を繰り返してきたと思っている。蛍の癖、考え方、戦闘時の動き、殆ど動かない無表情の仮面の下に隠れる表情を見分ける方法も、全部、全部、知っている。

 

 雪音クリスは、詞世蛍を知っている。

 

 僅かに驚愕を浮かべた蛍だったが、その立て直しは迅速かつ的確であった。すぐ様、ミラーデバイスを再生成すると共に、先程とは異なるパターンでの回避行動を指示。夜の闇の中、淡い燐光を放つミラーデバイスが、縦横無尽に駆け回る。その矛先は未だ多くが翼と響に向けられているものの、クリスに狙いを定めさせない為に実にいやらしいタイミングで此方を狙撃してくる。

 

 だが、それは隙だ。

 

「翔ぶぞ、立花!」

「はい!」

 

《天ノ逆鱗》

 

 蛍の真下まで移動した翼が並走していた響を抱き抱えると同時に、彼女達の前に巨大な一振りの蒼の大剣が召喚され地に突き刺さる。翼は脚部のスラスターを吹かせると、その大剣を駆け上がり、速さと勢いをそのままに、空へと飛び立った。

 薄くなった弾幕は、翼達の進撃を止めるには至らない。一陣の風となった翼と響は夜空を駆け、蛍へと迫る。

 

「猪口才です」

 

 無機質な声色でポツリと蛍は呟くと、牙の様に噛み合わさったバイザーの隙間から紅い光が溢れ、その視線が翼と響の2人に向けられる。

 

「敵は、倒す。敵は、滅する。故に、貴女達は、此処で倒れて下さい。私の、私達の夢の為、徒花となって舞い散るといい」

 

 蛍が動いた。その手に握られるのは鉄扇。腕から伸びた帯は、まるで意思を持っているかの様に蠢き、翼と響への迎撃体制を取る。

 蛍の自衛能力の高さを知っている翼は、僅かに顔を強張らせながらも、その緊張を振り払う為に声を張り上げた。「立花!」と抱きかかえた響の名をただ呼ぶ。響がその声にコクリと頷くと、翼はそのまま、響を()()()()()()()()()

 シンフォギアの膂力とこれまでの加速が加わり、響は尋常ではない速度で蛍へと迫る。

 

「蛍ちゃん、私達は貴女を必ず助ける! だから――」

「助ける? 可笑しな事を。何から助けるというのですか。私は自分の意志であの人の元にいます」

 

 響の言葉を遮り、迎撃に放たれた帯が彼女を打ち付けんと殺到する。だが、響はそれを空中を蹴る事で回避した。脚部に備え付けられたパワージョッキにて、空中を蹴るという荒技。クリスには、何をどうやっているのかさっぱり分からないが、あの規格外の装者はそれを可能とする。

 蛍の様に滑らかな軌道ではなく、ジグザグとした鋭利な軌道を空中に描く。その姿は、さながら稲妻の様で。

 蛍の眼前に響が迫る。振るわれる鉄扇。だが、響は再び空中を蹴る事で鉄扇を回避すると、三角飛びの要領で蛍の頭上へと躍り出た。

 

「はあああああああッ!!」

「それで背後を獲ったつもりですか。私に死角はありません」

 

 頭上から迫る響の拳を蛍は振り返ることなく、腕から伸びた帯で受け流す。そのまま響の腕に帯を巻き付けると、打ち付けられた拳の勢いをそのままに、身体を回転させ響の身体を眼前へと迫りつつあった翼へと投げつけた。

 

「お返しします」

「ぐっ……!」

「ちぃ……! やはりそう上手くはいかないか。だが、時間は稼いだぞ! 雪音!」

「任せろッ!!」

 

《MEGA DETH FUGA》

 

 待ち侘びたとばかりにクリスは喉を震わせ歌を奏でる。高まるフォニックゲインを集中させ二基のミサイルを生成し撃ち放つ。

 

「本命は、こっちだッ! ロックオンアクティブッ!」

 

 追尾効果を伴ったミサイルが蛍へ向かう。

 

「2人は陽動? ですが、それでも、まだ足りない」

 

 響と翼の挟撃により反応が遅れたものの、それでも蛍は迫り来るミサイルに僅かな動揺も見せず、宙を舞う事で回避しようと試みる。しかし、追尾効果を付与されたミサイルを振り切れないと感じたのか、手にした鉄扇から濃紺の光を放ち、難なくミサイルを撃墜する。

 爆発による炎と煙が夜空を彩り、蛍の小さな身体を飲み込む。直撃はしていない。あの程度では、シンフォギアを相手にダメージを与えるには至らないだろう。

 

 だが、それでいい。全て作戦通りだ。

 

 響と翼による接近戦も、それを囮に利用したミサイルによる攻撃も、全てはこの状況を――蛍の視覚情報を封じる状況を作り出すことへの布石に過ぎない。

 

 クリスは両手に握ったクロスボウを手放すと新たにアームドギアを生成する。生み出すのは、スナイパーライフル型のアームドギア。クリスの身長程もある巨大な銃身を構え片膝を着くと、天へと向けて銃口を向けた。

 頭部バイザーが変形し、クリスの眼前にスコープが展開される。バイザーの両端から伸びた高解像度カメラが夜空を照らす爆炎を捉え、視覚情報として拡大映像をクリスの網膜に映し出す。

 

 クリスは考慮する。蛍の癖を。

 クリスは予想する。蛍の考えを。

 クリスは思考する。蛍の動きを。

 

 分かる筈だ。否、分からなくてどうする。雪音クリスは詞世蛍を知っている。世界中の誰よりも、彼女の事を知っているという自負がある。ならば、この弾丸は当たる。翼相手にすら出来たのだ。蛍の動きを未来予測する程度出来なくてどうする。

 深く鼻から息を吸い、ゆっくりと口から吐き出す。身体を弛緩させ、肩の力を抜く。思考は怜悧に。いつか彼女に聞いた心構えを心中で唱え、銃爪に指をかけた。

 

 爆炎と煙が晴れる。

 瞬間、クリスは銃爪を引いた。

 

《RED HOT BLAZE》

 

 銃口から吐き出された二つの弾丸は、吸い込まれる様に蛍の左右の脚部ユニットを撃ち貫いた。

 

 

◇◇◇

 

 

 蛍は困惑に包まれていた。

 

 撃ち抜かれた両足の脚部装甲。それはつまり、飛行継続は困難だという事に他ならない。

 敵は、蛍を知っている。でなければ、あの動きはあり得ない。

 神獣鏡(シェンショウジン)の特性である破魔の力。聖遺物が相手であれば、一撃一撃が必殺足り得る力だが、彼女達はその攻撃を一撃も受け止めることなく、全て躱す事で対応した。如何な防御であろうとも、それが聖遺物に由来するものであれば、問答無用で滅するだけの一撃だが、当たらなければ意味はない。

 しかし、これはまだ理解出来るのだ。以前の風鳴翼との交戦時、蛍は敵に神獣鏡(シェンショウジン)の力の一端を晒してしまっている。あの戦闘により、神獣鏡(シェンショウジン)の特性を解析されたと仮定すれば、敵の不可解な動きも納得がいく。

 

 だが、これは何だ。

 あの真紅のシンフォギアを身に纏った少女は誰だ。

 

 爆炎と煙による蛍の視覚を塞いだ上での長距離狙撃。それも銃声は爆炎と煙が晴れた同時に、ほぼタイムラグ無しに聞こえてきた。これは、蛍の動きを予想していなければ不可能だ。蛍の視覚が塞がれていたということは、あの少女から見ても蛍の姿は視認出来なかった筈。だというのに、彼女は蛍の両足を正確に撃ち抜いてきた。

 いや、それ以前に、それまでの戦闘の流れもおかしいのだ。蛍自身ではなく周囲のミラーデバイスを狙った射撃や響や翼に因る蛍の意識を割く為の挟撃。まるで、蛍の視覚を削り、並列思考のリソースを奪う為の戦い。

 ミラーデバイスの視覚共有も、並列思考によるそれらの制御も、実戦で使うのは今回が初めてなのだ。破魔の光とは違い一目見て判断出来るものでもない。にも関わらず、敵は蛍の能力を知っているとしか思えない戦い方をとってくる。

 

 私は彼女を知らない。

 彼女の名前も、顔も、声も知らない。

 けれども、彼女は蛍の事を知っている。

 名前も知らない少女が、知らない筈の私の名前を呼ぶ。

 

 バイザー越しに少女の姿を視界に納めて、蛍は初めて彼女の顔をしっかりと認識した。綺麗だと、素直に思った。白藤色の柔らかな髪も、日本人離れした顔立ちも、真っ直ぐに此方を見つめる紫の瞳もその全てが美しいと感じた。

 倒すべき敵にこんな感情を抱くことを不可解に思いながらも、心の内から湧き出たのは、締め付けられる程の懐かしさ。

 それが無性に蛍の心を騒めき立てる。拭いきれない違和感が、蛍の脳を掻き回し、並列思考が上手く保てない。何かが致命的にズレている。その齟齬に気付きながらも、蛍はその解に辿り着けない。

 分からない。分からないのだ。幾ら思考を重ねてもあの少女が何者なのかが、全く予想出来ない。彼女の事を考えると、まるで頭が霞みがかったかのように思考が鈍る。いつの間に怜悧を誇っていた筈の自分の思考回路は、こんなにも錆つき、鈍臭くなってしまったのだろうか。

 

「あれは、敵。倒すべき敵」

 

 だが、たった一つ分かっている事もある。あれは、敵だ。蛍達の夢を阻もうと立ち塞がる敵だ。

 分からないことは、一旦脇に置くべきだ。問題はどうすれば、敵に勝てるのかという一点のみ。

 

 フィーネの言葉を心に刻み付け、何とか地面に着地した蛍は少女と対峙する。状況を確認。少女の両隣には、翼と響が控えており、3人ともに目立った消耗は見られない。

 対する蛍は、足を奪われ、己の領域を失った。少女の弾丸により撃ち抜かれた脚部装甲はパチパチと火花をたてており、飛行機能は完全に潰された。シンフォギアを再展開でもしない限りは復旧は見込めないだろう。そしてこの状況でそれが許されるなどとは、蛍も考えてはいない。

 ふと手が震えている事に気が付く。これは任務を果たせない事への恐怖か。それとも、真紅のシンフォギアを身に纏った少女への不安からか。この震えがどんな感情からくるものなのか蛍には理解出来なかった。

 拳を握りしめ、歯の根を噛み締める。震えよ止まれと言い聞かせるも、身体は蛍の意思に反するばかりで、一向に収まる気配はない。

 フィーネの声が聞きたい。彼女の声を聞けば、この震えは止まるだろうか。分からない。けれど、きっと、何かしらの解を彼女は示してくれる筈。この胸の内に巣食う不安を消し去ってほしい。

 なんて脆弱な精神なのだろうか。人の温もりを思い出してしまった蛍は、その温もりが、かつてこの心をバラバラに引き裂いたものであると分かっていながらも、彼女に縋らずにはいられない。

 

「蛍ッ!!」

 

 目の前の少女が蛍の名を呼ぶ。蛍の知らない少女が蛍の知らない声で、蛍の名を呼ぶ。

 思考が鈍る。酷い頭痛がする。

 

「その声で私の名を呼ぶなッ!!」

 

 蛍は衝動的に声を荒げて、周囲に展開したミラーデバイスへと命令を下す。目の前の敵を滅せよと。

 風鳴翼も立花響も後回しでどうとでもなる。蛍ならば、打ち倒せる。それだけの訓練も積んだ。それだけの意思と覚悟も持っている。

 だが、目の前の少女だけが、蛍の計算の埒外にいる。蛍の戦術を、計算を、意思を狂わせる不確定要素。彼女だけは、真っ先に、何が何でも倒さなければならない。

 

「貴女は、敵。私の、私達の夢を邪魔する敵ッ!」

「違うッ! 思い出せッ! あたしは――」

「問答は無用ッ! 敵の言葉に耳を傾ける必要はないッ! フィーネがそう言ったんだッ! だったら私はそう在るだけだッ!」

 

 そうだ。フィーネがそう言ったのだ。であれば、その言葉を、命令を蛍は果たさなければならない。斯くあるべし。夢の為、彼女の為に。この力は――この歌はその為にあるのだから。

 息を大きく吸い込み、喉を震わせる。この世界を変える為の詞を高らかに口にする。

 

 あらゆる神秘を滅する破魔の光を此処に。眼前の敵を打ち破らんが為に。己が夢を叶える為に。いつかの時間、何処かの場所で、誰かと繋がる為に。

 

 私は、歌を、歌う。

 

 自身をグルリと囲う様に円形のミラーデバイスを脚部装甲から周囲に展開し、腕から伸びたエネルギーケーブルを直結。蛍の歌により出力を増した神獣鏡のフォニックゲインをありったけ注ぎ込む。チャージを開始。濃紺の燐光が蛍の周囲を舞い散り、夜の闇を淡く照らす。

 

「――ッ!? させんッ!!」

「邪魔をするなッ! これは――これは私と彼女の戦いだッ!!」

 

 以前食らった経験からか、蛍のチャージを止めようと翼が即座に反応し、脚部スラスターを吹かし接近してくる。蒼い疾風となって迫る翼に対して、蛍はチャージの演算を並列思考にて維持しつつ、《光芒》による射撃にて牽制。 当てる為の射撃は必要ない。翼の足を止められさえすれば充分なのだ。彼女の足を止める為に威力を度外視して、射線を増やし攻撃の密度を高める。

 

「ぐっ、これでは!」

「風鳴翼、貴女はそうして踊っていろ!」

 

 翼への足止めの射撃に並列思考の大半を割く蛍だったが、ミラーデバイスにより広がった視界の中、響の姿が消えていることに気が付く。

 視覚共有をしたミラーデバイスの配置を変えながらその姿を探せば、程なくして黄色い影を捉える。その位置は上。星空を背に脚部パワージョッキを用いた擬似的な空中飛行により蛍へと響が迫る。

 

「やあああああああああああッ!!」

「次から次へと鬱陶しい! 落ちなさい!」

「またこの帯! あぁ、もう、避けにくい! あぅ!」

 

 上空から迫る響を腕から伸びた帯で再び迎撃し地に叩き落とす。普段は上空を警戒する必要性が薄い事から対応が遅れた。敵が的確に此方の弱点を突いてくる点に歯噛みする。

 

「私を忘れてんじゃないのか!」

「――ッ!?」

 

 耳障りな声と共に銃声が轟き、周囲に展開したミラーデバイスが撃ち抜かれる。驚きと共に銃声が鳴り響いた方角を見遣れば、其処にはスコープを覗き込み大型のスナイパーライフルの銃口を此方へと向ける赤い少女の姿。

 先程から何度も回避パターンは変えている。だというのに、何故だ。何故、あの少女はいとも容易く此方の動きを捉えられる。

 

「くっ、演算も再生成も追いつかない」

 

 やはり敵の狙いは、波状攻撃による蛍の並列思考を処理限界まで飽和させる事。多数のミラーデバイスを同時に操作する事を主戦法とする蛍にとって、自身の思考能力は戦いの中で最大の武器であり、生命線とも呼べる。だからこそ、この武器を4年間磨き続けてきた。初めは3つしか同時に操作出来なかったミラーデバイスも、今では14個まで同時に操作出来る程になっている。

 だが、蛍の現状は芳しくない。只でさえあの真紅のシンフォギアを纏った少女の事を考えると思考が鈍るというのに、加えて、装者3人による連携攻撃。頭の中に注ぎ込まれる情報は膨大であり、蛍の処理能力は既に限界を超えている。

 更に敵は蛍の思考の癖を知っている。蛍の動きを先読みし、的確に対応してくる。ミラーデバイスは幾ら再生成が出来るとは言っても、それには時間が必要になる。平時であれば、それは僅かな時間に過ぎないが、戦闘中ともなればそれは致命的な隙になりかねず、それにかまけていてはいずれ息切れを起こすのは自明の理であろう。

 

 このままでは勝てない。命令を果たせない。ならば――

 

「…………ダイレクトフィードバックシステムによる演算処理の一部代替を実行。ミラーデバイスを手動操作から、自動操作へ変更。バトルパターン設定――実行。アシスト開始」

 

 敵が此方の動きを知っているというのであれば、その動きを変えるまで。その為ならば、多少の無茶は押し通す。

 周囲に浮かんだミラーデバイスが蛍の意思を離れ、予め決められていたバトルパターンに則り展開を始める。

 

「これはッ!? 何だこの動きはッ!?」

 

 急激なミラーデバイスの動きの変化に赤いシンフォギアを纏った少女から驚きの声が上がる。どうやらこの動きには対応出来ないらしい。少女の放つ弾丸の命中率が目に見えて落ちた。

 その様子を見て、フィーネの組んだバトルパターンは優秀だと蛍は心の内で称賛する。だが、やはり自分の意思で動かしていた時と比べるとどうしても違和感を拭えない。自身の手足をもがれ、無理矢理義肢をつなぎ合わせたかの様な違和感が蛍を苛む。ミラーデバイス達の意図しない動き、攻撃、視界。そしてその違和感は、蛍の行動のズレとなって現れる。

 ミラーデバイスが蛍に追随するのではない。蛍がミラーデバイスに合わせるのだ。

 操り人形の様に決められたバトルパターンに沿う動き。普段の自分の動きとはまるで異なる機械じみた行動。

 ダイレクトフィードバックシステムから意識に流し込まれるバトルパターンを只管に繰り返す。

 

「ダメ! 近付けない!」

「この動き、先とはまるで違うぞ! どうなっている、雪音!?」

「あの馬鹿、ミラーデバイスの操作をオートに切り替えやがった! 普段はちっとも使いたがらないから、あたしにも動きが予想できねえ!」

 

 少女のまるで普段から蛍と接しているかのような言は気になったものの、さしたる問題ではない。重要なのは、この戦法が敵に有効だというその事実のみ。

 少女達への迎撃をミラーデバイスに任せ、蛍は再び喉を震わせる。チャージを再開。戦場に響き渡る歌声が、淡い燐光となって周囲を照らす。

 高まるフォニックゲイン。ありったけを注ぎ込み、臨界に達したミラーデバイスは明滅を繰り返す。

 

「私の前から消えてなくなれええええええええッッ!!!!」

 

《流星》

 

 全てを滅する濃紺の極光が少女に向かって放たれる。蛍の想いの結晶が、力の奔流となって闇夜を切り裂き、少女を飲み込まんと疾走する。

 正真正銘、今の蛍に可能な最大火力。この攻撃を受けて、無事でいられる聖遺物など存在しない。たとえ相手が不滅を謳うネフシュタンの鎧であろうとも、再生する前に滅するだけの力をこの光の奔流は有している。

 だというのに――

 

「何故――何故貴女はまだ其処にいる!?」

 

 濃紺の光は尚も照射され続けている。だが、少女は健在だった。流星の直撃を受けながらも、その身は変わらず真紅の鎧を身に纏い超常の力を行使している。

 よく観察すれば、《流星》は少女に直撃してはいない。少女の正面に展開した透明の水晶状の物体が、濃紺の光を弾いているのだ。

 ただ正面から受け止めているだけではない。仮にただ真っ正面から受け止めているだけであれば、例えあの武装が光を反射することが可能なのだとしても、シンフォギアが聖遺物を元にして作られている以上、神獣鏡(シェンショウジン)で突破出来ない筈はない。

 だが、あの水晶は錐体状に配置され、《流星》を受け流すかのように配置されている。錐体の頂点に触れた濃紺の光は、切り裂き受けながされ、少女の身に届くことはない。

 両腕を顔の前で交差して、濃紺の奔流の中を少女は一歩、また一歩と確固とした足取りを蛍へ向ける。

 

「な、なんで……」

 

 距離が近づくにつれ、少女の姿が露わになる。それは無事とは言い難い姿だった。幾ら直撃を避けているとは言っても、神獣鏡の破魔の光を相殺仕切れず、流星の余波を受け少女が身に纏うシンフォギアのアーマーはドロドロと溶け出し、その顔は苦悶に歪んでいる。

 痛い筈だ。辛い筈だ。苦しい筈だ。だというのに、少女は歩みを止める事はない。

 

「なんで、そんなに……」

「決まっているだろ!」

 

 力強い言葉と共に濃紺の光を退け眼前にまで迫った少女が蛍に抱き付いてくる。少女の予想外の行動にその衝撃を支えることが出来ず、蛍は少女と共に地面に倒れ伏した。

 息の掛かる程の距離に少女の顔がある。紫色の強い意志を秘めた双眸が、蛍の紅い瞳を捉えて離さない。その真っすぐな視線から感じるのは、身を焦がす程に燃え盛る情炎の熱。

 

「そんな顔で歌うお前をあたしが見過ごせるものかよ!」

「か、お……?」

 

 目の前の装者の言葉に、戦闘中に押し倒されたという事も忘れて、自分の顔に手を当てる。特に違和感は感じられず、ミラーデバイスから送られてくる視覚情報に映った自分の顔を確認するも、映るのは、何の色も感じさせないいつもの鉄面皮。己の心を覗かせない為に、蛍が身に纏った他者との壁。いつも通りの自分だ。これの何がおかしいというのだ。

 

「分からないのか!? お前はいつだって歌う時は――笑っていただろう!!」

 

 少女の言葉に愕然とする。そうだ、詞世蛍にとって歌を歌うという行為は特別だった。幼い頃、研究所での生活を支えてくれた唯一の救い。あの無機質な生活の中でたった1つ、蛍に許された自由な行動。歌を歌う時は、全てを忘れられた。喉を震わせ、旋律を紡ぐ。たったそれだけの事が、楽しくて堪らなかった。

 フィーネとの生活の中で歌だけではどうしようもない事もあると学んだ蛍だったが、それでも蛍にとって歌を歌うという行為は楽しくて、心踊るものであった筈だ。

 それをたった今思い出した。どうして忘れていたのだろう。そして何故、蛍の根幹とも呼ぶべきこんな大事なことを見ず知らずの他人の言葉で思い出すのだ。

 蛍を蛍以上に知っている目の前の少女。蛍は彼女を知らない。それが無性に腹立たしく、堪らなく気持ちが悪い。

 

「五月蝿いッ! 五月蝿いッ! 五月蝿いッ! 貴女は誰!? 人の心にずかずかと入り込んでくる貴女は!? 知らない!! 私は貴女みたいなやつなんて知らない!! やめて!! 私の心を暴かないで!!」

「あたしは知っている!! お前が楽しそうに歌を歌う姿も!! お前が人の体に抱きついて幸せそうに眠る姿も!! お前が誰よりも優しい事を!! あたしは――雪音クリスは、この世界の誰よりも詞世蛍を知っている!!」

 

 雪音クリス。知らない。そんな名前の人物は知らない筈だ。知らない――筈なのに。そのたった6文字の音の響きが、蛍の耳に焼き付いて離れない。

 

『こ、これで貸し借りはなしだからな』

 

 ――頭が痛い。

 

『あたしが側で見ててやる。お前の隣に立って、お前が無茶しそうになったら止めてやる。その度に昨日みたいなケンカをするかもしれねえ。けど、多分、きっと、それで良いんだと思う。言いたいことも言えず我慢して、余所余所しい関係にはなりたくないから』

 

 ――頭が痛い。

 

『でももヘチマもねえ。進むときは二人一緒だ』

 

 ――頭が、痛い。

 

『説明なら後で幾らでもしてやる! 蛍、あたしと来い! お前はそいつの側にいちゃダメだ! そいつの創る未来は、あたしが望んだものでも、お前が望んだものでもない!』

 

 知らない筈の誰かの顔が、知らない筈の誰かの声が、知らない筈の誰かとの思い出が、知らない筈の誰かに貰った温もりが、蛍の意識をかき回す。

 

 どうしてこんなにも懐かしい。

 どうしてこんなにも愛おしい。

 どうしてこんなにも暖かい。

 両の瞳から溢れ出るこの雫は何だ。

 締めるつけられる程に苦しいこの胸の鼓動は何だ。

 響き渡る雪の音が、積もり、重なり、私の心を白く染め上げる。

 分かってしまう。気付いてしまう。思い出してしまう。

 

 私が狂おしいまでに――貴女を求めていたことを。

 

「――――クリ」

 

 口から溢れ出したその言葉は、最後まで紡がれることはなかった。蛍が最後の一文字を紡ごうとしたその直前に、けたたましい轟音と共に大地が揺れたのだ。砂埃が舞い散り、崩壊の音が鳴り響く。

 

 ――天を衝く魔塔が屹立する。

 




 申し訳ありません。3月に間に合いませんでした。
 急いで書いたのでちょっと荒い部分があるかもしれません。

 遂に4期AXZの放送時期が発表されましたね! タイトルロゴくそかっこいいです!


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