本物のぼっち (orphan)
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第1話

「で、君はどうしてここに呼ばれたのか理解しているかね?」

 

 対面に座った女性が口に咥えた煙草に火を点けながらそう尋ねた。俺からの答えは当然

 

「いいえ。そもそも問題を起こさないよう日々大人しく過ごしているつもりですから、今回の呼び出しは完全に予想外でした」

 

 俺のように大人しい生徒は俺の知る限りでも殆どいない。そう断言出来る程度には大人しく生活しているつもりだ。その俺がまさか生徒指導室に呼ばれるとは。放課直前のホームルームで担任教師から呼び出しを伝えられた時の俺の驚愕と言ったら、目の前の彼女に伝えられないのが残念な程だった。それが出来たら俺が本当に驚いていた事を理解してもらえるのだろうが。

 

 しかし、俺の正直な発言にも関わらず目の前の女性の視線には疑惑の影が浮かんでいた。全く正直で誠実でいる事こそを信条としているというのに、こんな視線を向けられることは酷く心外だった。疑問を晴らすため、俺は彼女に逆に問い掛けた。

 

「一体どういった理由で自分はここに呼ばれたんでしょうか。 夜遊びもせず、それどころかまともに遊びにも行かず、日々勉学と労働に勤しむ自分には全く心当たりが有りません。信号無視すら殆どしない男ですよ自分は」

 

 犯罪行為を疑うなら俺よりも余程疑わしい連中が、俺をおいてこの学校にはゴマンといるはずだ。だというのにこうして生徒指導室に呼ばれる理由とは何なのか。犯罪でなければ進路の話だろうか。

 

「提出を義務付けられた書類は全て提出している筈です。直近の進路希望調査書には進学と記入して提出しました。学費だって確認はしていませんが両親が収めているでしょう。それとも授業態度の事ですか? それもこうして呼び出されるような事はしていない筈です」

 

「そうじゃない。確かに君は我々教師から見て何の問題もない生徒だ。今君が言った様な事は何も私は懸念していない。確認した訳じゃないがな。今回こうして呼び出したのはこれについて聞きたい事が有ったからだ」

 

 強気に発言してみたものの、彼女はそれをあっさりと受け流し、カウンターのパンチを浴びせる代わりに一枚のプリントを懐から出して俺と彼女の間に横たわるテーブルの上においた。提出した書類でなければ彼女が差し出したプリントは一体何なのか。彼女俺の方にグッと指で突き出したそれを前のめりになりながら確認すると、意外や意外それは先日現代国語の授業で提出したプリントだった。確かに今俺の前に座っている女性は国語教師、それも俺の居るクラスも担当している人だ。彼女がそれを持っていても全く何の不思議もない。が、しかし彼女がそれを理由に俺を呼び出すことには疑問以外の何物も生じなかった。この授業中に提出した一枚の紙切れの為に態々放課後この様な呼び出しが行われるなど聞いたことがなかったからだ。

 

「これがどうかしたんですか? 何の問題も無いように思いますが」

 

 改めて中身を読んでみても問題が有るような内容には思えない。どこにでも転がっているようなつまらない文章だ。これで何故呼び出しを受けたのだろうか。その疑問を目で訴えかけると女性は心底脱力したようにため息を吐いた。それと一緒に彼女の口内から白煙も流れ出てくる。その煙は一旦息の流れにのって彼女の胸元辺りに貯まると、水中に撃ちだされ推進力を失ったペットボトルロケットのようにゆっくりと上昇していった。彼女はうっとおし気にそれを手で払うと言った。

 

「そうだ。確かにこれには何の問題もない。しかしだ、私には何の問題も無い事こそが問題だと思う」

 

 彼女の言い方は不思議だ。何の問題も無いことが問題というのはどういう意味だろうか。問題が有ることこそが正常という事だろうか。しかし、そういった誘導をするような課題ではなかった筈だ。

 

 首を傾げる俺を見て、不理解を悟ったのだろう。国語教師・平塚静は二の句を継いだ。

 

「比企谷、君には友達はいないだろう」

 

 なんだって。その言葉の持つ衝撃に俺は辛うじて心の中でそう呟くことしか出来なかった。だってそうだろう。まさか学校の教師にお前友達いないだろと指摘されるような日が来ようとは思ってもみないだろう。それも俺を虐めたり、甚振るような目的が存在するなら兎も角、こうして単身生徒指導室に呼び出され優しく指摘される様な事態が起こるなどとは、例え俺をよく知る妹だろうと予測できない筈だ。

 

「ま、待ってください。今何て、今何て言ったんですか?」

 

 俺は現実を受け止めきれず、聞き逃した風を装って平塚先生にもう一度繰り返して貰えるような頼んだ。大丈夫、今のは空耳か聞き間違いだ。そう自分を騙しながら。

 

「君には友達がいない」

 

 が、俺の儚い希望を打ち砕くように先生はそう繰り返した。そこには何の遠慮も躊躇もない。突きつけられた事実に打ちひしがれる俺を他所に、彼女は続けた。

 

「だから、ここで君が語っている友人は存在しない。君はここに嘘を書いたんだ。私も狭量ではないからな。高校生が多少ヤンチャしてしまう位なら目を瞑るのは訳ないが、こう嘘ばかり書かれているのではそういう訳にもいかん。そもそも君の為にもならんだろう」

 

 まさか、まさか彼女にそんな事がバレているとは。そんな驚きが空洞化した俺の体の中をいつまでも反響しながら巡り続ける。遮蔽するものがないそれは減衰するという事を知らず、それが絶えず頭の中を占領してしてしまうせいで、俺にはいつまでたっても口を開くという選択肢を選ぶ事が出来ない。そんな俺の状態を察するでもなく彼女の発言は続く。朗々と、それこそ彼女の言うとおり俺の為を思ってなのだろう、彼女の言葉の端々には俺への優しさと慈しみ、そして真剣さが滲んでいる。淀みなく、それでいて熱量を感じさせる彼女の語り口から紛れも無く彼女という人間が見えてくる。そんな彼女という人間が自分のような人間の為に動いてくれるという事は大変喜ばしい。俺は我に帰って漸く彼女を遮った。

 

「ま、待ってください。確かに俺には友達が居ません。そこに嘘を書いてしまった事も認めます。すいません。しかし、それで生徒指導室に呼び出しというのは些かやり過ぎではないでしょうか。過激で問題を抱えていることを明らかにするような作文を書いているようなら分かりますが、俺のそれは……そうですね、そういった事を周囲の人間に悟らせない、心配させないようにする一種のカモフラージュであって」

 

「それも嘘だろう。君がそういった事を気にするとは短い付き合いながら到底思えん。それに、そういったカモフラージュを行うからこそ私は問題が深刻だと考える」

 

 それはそうだ。そもそも他人が読むことを前提とした文書に、あからさまに他人を貶すような表現を用いたり、批難を書いておきながら何の関心も持たれないと考える事はおかしい。もしもそう考える人が居たとしたら、それは相当考えの浅い人間であり、相当な馬鹿だ。もしも明らかに常識的な振る舞いから逸脱した行動を見せる(重要なのは逸脱した行動を行う事ではなく、そうと分かるように他者にその行動を見せつける事だ。)者が居たとしたらそれは何らかのメッセージとして受け止めるべきだろう。そしてもしも、そのメッセージを発した上で何の問題を感じさせない者がいたら、それは余程の問題を抱えた者かでなければただの構ってちゃんだ。

 

「深刻って何ですか。友達が居ない位今時珍しくないですよ。ネットを見ればどこにでも居ますし」

 

「そういった者も心の中で友人を欲している。君のように心底から友人を欲していない者はかなり稀だろう」

 

「俺が友人を欲していないって何故先生はそう言い切れるんですか」

 

 先生とまともに会話するのはこれが初めてだ。先生がそう判断する様な手掛かりなど与えた覚えはない。が、そもそも今こうして会話している中で手掛かりを与えたのが、彼女にそう思わせた原因ではないだろう。何故ならそう思わせる何かが有ったから今こうして呼び出されている訳だし。何かを危惧したからこそ呼び出したのなら、その原因は今以前になければおかしい。しかし彼女が余程俺を注視していない限りそう思われる原因はないと思うのだが。

 

 だが、先生にとってはそれは自明のことのようだった。

 

「お前のような奴がそんな物を必要としている筈がない」

 

「はあ!?」

 

 思わず教師を相手にしているとは思えない言葉が口を突いた。まさかもまさか。ここまで驚きの連続だったが、今日一番のまさかはこれをおいては他にありえないだろう。言うに事欠いてお前はそんな奴じゃないとは一体どういう事なのか。

 

「授業中はしゃぐ生徒は例外なく黙らせ、時折私語をしたかと思えば他生徒に対して俺はいいんだと言い切り、あまつさえ教師にそれを認めさせる様な奴がそんなまともな訳ないだろうが」

 

「それは誤解ですよ。例外なく黙らせって俺は特にうるさい奴に対して黙ってくれと言ったら他の奴も口を聞かなくなっただけで、俺はいいんだと言ったというのも授業開始時にその時の先生が、俺が説明してる間は絶対に喋るなと言っていたので、その指示通りに喋っても気にしないタイミングを狙って少し話しただけです。それを俺が気に食わないから食って掛かって来た奴に、教師の発言を確認しただけです」

 

「君は、君が言った通りの事しかしていないとしてもそんな事をする奴が普通だと思っているのか? 悪いがそんな奴は私の高校教師生活において君だけだ。それだけでも普通の感性とは言い難いというのに、そんな事をする奴を普通だと思っているなら君の感性は救い難い程ズレているという他ないな」

 

「それは先生がまだ若いからですよ。俺みたいな人間がそう珍しい筈がない」

 

 先生の年齢は知らないが、見た感じでもまだかなり若い。国語教師なのに白衣をいつも着ている謎のセンスと堂々とした風格の為に、印象としてこそそこそこの年齢と思えるが、実年齢は高く見積もってもアラサー入り口位だろう。教員として働き始めてから5年だと見積もっても、公務員である事を鑑みればまだまだ若手と言ってもいいだろう。そんな先生が俺のようなタイプが初だとしても不思議はない。

 

「ふ、そうだろう。まだまだ私は若手だからな。しかし、そうだな高校教師としてのそれで不足なら私の人生全てで見ても君のような奴はレアだと言わせて貰おう」

 

 何故か先生は一瞬嬉しそうな顔を浮かべ、念を押してきた。若いと言われたのがそんなに嬉しいのだろうか。それはまあいい。この程度で納得する俺ではない。

 

「それは先生が見た目にかなり美人だからです。いいですか? 美男美女の周りには往々にして人が集まりますが、俺のような人種は賑やかな場所は苦手ですから自然とそういう人や場所から距離を取ります。おまけに賑やかな場所からちょっと離れたそれなりに活気ある場所も嫌いで、教室の隅っこで細々と地味に穏やかな生活を送るものですから、自然人を集める先生の様なタイプの人とは知り合いにならないものです」

 

 なんだ、この先生俺が話している間にどんどん相好が崩れていく。最初の美人の下りなんかいきなり口が緩んだぞ。教職は大変だと聞くが、ストレスとはこんな風に人を変えてしまうのだろうか。それともなんだろうこの程度の褒め言葉ですら掛けて貰えない職場なのだろうか。それほどまでに潤いの無い職場に務める先生に頭が下がる思いを抱く俺。先生が小さくガッツポーズまで取り出して人生の悲哀を感じてしまいそうだ。

 

「俺が何を言いたいかというと、先生の様な若くて美人な先生には俺のようなタイプは珍しく感じられるかもしれませんが、実際世の中には俺のような人種がそこそこ居るという事なんです。友達が居ないのも今の世でいう個性であって特別問題視されるような事ではなく、先生の優しさや生徒に向けるその真剣さを俺に向けて頂いた事には感謝します。ですが、まあ俺の事はそのような物だと思って頂きたいという事です」

 

 ちなみにだが、俺には友達の居ない知り合いは居ないし、俺自身特殊な事情を除いて本当に友達が一人もいない人間というのはまともじゃないと思っている。まあ特殊な事情というのもかなりのケースで存在するだろうし、個別の事象においてそれぞれ判断していかなければならないだろう。だが一概には言えないというだけで大概の場合友人が一人も居ないという人にまともな人はいないだろう。

 

「そう持ち上げるな。まあ、お前の言うとおりお前の様な奴がそう珍しくないというのも否定は出来ん」

 

 そういう先生の顔には紛れも無い喜びの色が浮かんでいる。なんだろう、本当若い女性に若いというだけで喜んで貰えているとしたら悲しすぎて涙ちょちょぎれそう。そんな先生の語調は先ほどまでより緩いものになってきており、このまま行けば呼び出された俺に待ち受けていた運命を回避出来そうだと喜んだのも束の間。

 

「しかしだ、その調子では将来的に苦労するのは火を見るより明らかだ。友人を欲しがれとは言わんが、一人か二人位は居たほうが良いだろう」

 

 本当どこまで真面目でいい先生なんだこの人。学校を卒業すれば金輪際顔も合わせないだろう相手の将来まで心配してみせるとは。天晴じゃと平安貴族よろしく言いたい気分だが、俺にはその気遣いも不要だ。というか俺に友人が居ない前提で進むのはどうなんだ。

 

「先生、俺にだって友達位居ますよ」

 

「本当か? 教室で二言三言話す程度では認めんぞ」

 

「勿論ですよ。友達ったら友達です。ただこの高校には一人もいないだけで」

 

「中学校の友人という事か。信じ難いな最後に遊んだのはいつだ」

 

「最後に遊んだ日ですか? 去年の3月です」

 

 俺がそういうと先生は煙草を灰皿に乱暴に押し付け火を掻き消した。そして苛立ちを隠さない口調でこう言った。

 

「そんなもんは友人と呼ばん!」

 

 これに憤らない俺ではない。教師が相手であっても時に自らの意志を貫く事、意見を主張する事は必要である。俺は語気を荒げた先生の目を真っ直ぐに見つめ、そして怒りを湛えたその瞳があまりに怖かったので僅かに逸らしてから抗弁した。

 

「先生がなんと言おうと友人は友人です。俺にとってはそれで友人なんです。世間にはペットを指して家族だと言って憚らない輩が居ますよね? それと同じです。俺にとっては彼らは友人なんです」

 

 

 

 

「君は自分の言い分が苦しいと理解した上で、理解していることを匂わせながら発言するのを止めたまえ。やる気が削がれる」

 

 あー、と呻き声を上げながらソファに背中を凭れさせる先生。今の俺の発言はそこまで脱力を誘うようなものだっただろうか。

 

「もういい、君は君で君の問題点を自覚しているようだし、私も君に対する介入を諦める気は無い! ついてきたまえ」

 

 先生は脱力していたその姿が幻影か何かに見えるくらい溌剌とした立ち姿で立ち上がると、俺の腕を掴もうと手を伸ばした。

 

「ひえっ」

 

 驚いた俺は危うくソファ毎後ろに転倒する勢いで仰け反りそれを交わした。ふう、やれやれだ。こんな美人の年上の女性に触られるとかマジ勘弁だ。心臓が持たない。跳ね上がった心拍数を俺に教えるようにドキンコドキンコと耳障りな音を立てながら拍動している心臓に手を当てながら態勢を整える。平塚先生はさぞ充実した学生生活を歩んできたに違いない。でなければこれほどナチュラルに人に接触を図ろうなどとは思わないだろう。そしてそれゆえに俺のような初な人間の精神を解さないのだ。

 

「先生、あの先生みたいな美人にそういう事されると恥ずかしいんで勘弁して下さい」

 

 俺の反応に固まっていた先生にそう弁解する。これだけ言っておけば俺の様な人間と二度と接触を持とうなどとは思わないだろう。そもそも二度目が有るだろうというのも自意識過剰な位だ。気持ち悪がってくれれば相手から離れる。こういう時平凡以下な俺の容姿は役に立つ。

 

「あ、あははは、あははははは。ば、馬鹿を言うんじゃない比企谷。い、今のは単に教師としてだな」

 

「いや、もう本当にそれだけでも凄く照れるんで」

 

 俺の目論見通りに事が進んだかは分からなかったが、取り敢えずこの後物凄いスピードで歩く先生の後を追って、俺は部室棟まで行くことになったのだった。



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第2話

 千葉市立総武高校には正確に言えば部活棟という物はない。

有るのは教室棟と特別棟、そしてそれらとは独立する形で視聴覚棟が有るだけだ。

部活動に所属していない生徒にとっては理科の実験等でしか利用しない馴染みの薄い場所、部活動に、特に文化系の部活動に所属している生徒に取っては部室の有る場所という意味で、生徒達の間では特別棟は専ら部室棟と呼び習わされているのだ。

 

 放課後、とうに部活動が始まっている時間なので他に生徒の姿のないその廊下を、ヒールをかつかつと言わせながら歩く平塚先生の後を追う。

外ではテニスコートやグラウンド、或いは弓道場や剣道場で生徒達が活発に部活に励んでいる。

それらとは対照的に特別棟には静けさで満たされていた。

音を起てる軽音部や吹奏楽部が視聴覚棟に部室を移してからというもの、特別棟内には賑やかさが不足している。

ここに部室をおいている部活動の数を考えればここまで静かな筈も無いのだが、案外うちの高校の部活動は部員数が少なかったり活動が殆どなされていないような部活ばかりなのかもしれない。

 

 俺自身放課後の部活棟に足を踏み入れるのは初めてで、授業の有る日中とは全く違う様相を呈する部室棟に探検しているような感覚を味わっていた。

 

 というか俺はここに連れて来られて何をさせられるのだろうか? 

先程の先生の言動で殆ど正解というか、目的は分かっている。要は俺に友達を作らせる気なのだろう。

しかしだ、友達を作らせる為に部活動? 

まだ4月とは言え学年は2年だ。部活に入るには今更感が有る時期だ。

友達作りに部活動における功績が関係ないのは当然だが、活動が活発な部では人間関係が既にある程度出来上がっているだろう。

俺ならばそういった物を一切解さず我が物顔で割って入る事は出来るだろうが、俺にここまでの気を遣ってみせる平塚先生の事だから、既に所属している生徒にも気を遣ってそういう部には俺を入れないだろう。

では逆に活動が活発でない部活ならばどうだろう。

だが、その場合にも同様に、いや下手をすると活動が活発な部よりも独特で強烈な人間関係が形成されている可能性も有るだろう。

そういった場に自分が投入された場合、場の雰囲気をぶち壊してしまう自分の姿は想像に難くない。

それとも俺はどこかの部に入部させられるのではなく、別の方法で友人を作ることになるのだろうか。

そうなった場合のパターンは……などと考え事をしていると先生は有る教室の前でその歩みを止めた。目的地にあっさりと着いてしまったようだ。

 

 俺が先生の横まで来ると、先生は一度俺の顔を横目で見た。

その先生の横顔は生徒指導室を出た時から変わらず真っ赤なままだ。

もしかしてさっきの俺の行動ですっかり怒らせてしまったのだろうか。

いきなり悲鳴を上げながら避けられれば誰だっていい気分はしないだろう。

それも自分が善意から働きかけようとしている相手ならば尚更だ。

しかし俺にも言い分は有るのだ。

今更ではあるが、もう一度弁解しておいた方が良いのかもしれない。

 

「先生、さっきはすいませんでした」

 

「さ、さっき? はは、なーにきにするな」

 

「さっきはですね、先生が急に手を伸ばしたんで驚いてしまって。先生みたいな美人と体が触れるなんて考えると、えー、その」

 

 ははは、なーに言ってんだコイツ相当気持ち悪いな。

いや実際相当自意識過剰だし、何気なく腕を掴もうとしただけの相手がこんな対応をしたら縁を切りたくなるレベルだろう。

先生の顔も赤みが増して、怒りのボルテージが上がったのが一目瞭然だ。

後1年以上もここに通わなにゃならんというのによりにもよって女性教師を敵に回すとは、俺の処世術はもう使いもんにならんらしい。

 

 だが、先生はその怒りを爆発させる事もなく俺から視線を切ると、ノックもせず教室の扉を開いた。

 中を見た感想は普通の空き教室だった。

教室の後ろ半分には机と椅子が積み上げられている所だけを見ると、使われていない備品の倉庫の一つだと思った事だろう。

しかし、それらの荷物に占領されていない教室の前半分には長机が置かれており、それと窓際に座る一人の少女がここが何かの部の部室である事を示していた。

 

 春とはいえ日が沈み始める時刻、暖かさと寒さ、明るさと暗さの交じり合う教室の中でそれらの均衡よりも尚儚いものが有った。

窓際で一人本を読む少女。それはありふれた情景の中に現れた、今まで俺が見たことのない特別なものだった。

 

 暖かな教室内に廊下から冷気が流れ込んだ。

その風が背中を撫でる感覚を、まるで彼女に引き込まれる自分の魂のように錯覚しながら、俺は我知らず入室していた。

 

 俺はあまりにも馬鹿な思考を頭を振って追い出しながら、先生の肩越しに少女が顔を上げるのを見た。

 

 来訪者が先生であることを確認した少女は手に持っていた本に栞を挟み込んでから尋ねた。

 

「平塚先生。今日はどういったご用件ですか? 入るときにはノックをして下さいとお願いした筈ですが……落ち着かない様子ですし、何か急ぎの用でしょうか?」

 

 沈みゆく陽光を浴びて少女の長い黒髪が黄金色に輝き、流れてしまった一部の髪が彼女の白く細い指によって耳に掛けられる。

その動作の合間、彼女の髪を透かすように夕陽が強く輝き、目が焼かれる。

いや俺の目が焼かれたのはきっと陽の光じゃなく彼女の美しさにだろう。

そんな事を真剣に考えてしまうほど、その少女は美しかった。

 

「あ、ああ、そういえばそうだったな。スマンスマン、次から気をつけよう。それでだな、今回はコイツを」

 そう言って先生の声が途切れた。俺は顔の前に手を翳して恐る恐る目を開いていく。窓際の少女の美しさが瞼の裏側にまで焼きついたかと思ったが、どうやらそんな事は無かったらしい。詩人か俺は。眩しさになれると徐々に教室内の風景が俺の網膜に像を結んでいった。先生が半身でこちらを振り返っている。そして少女も俺を見ているらしい。

「そちらのパッとしない方が?」

 いつまでも固まったままでいる先生を怪しんで少女が先を促すようにそう口にした。

「彼は比企谷。入部希望者だ」

 そう言うと先生は俺の顔を見るが、目を合わせるとサッと逸らされてしまった。が、自己紹介をしろという事なのだろうと解釈した俺は会釈しながら少女を正視した。

「2年F組比企谷八幡です。所で先生、入部って本気ですか」

 が、今は少女以上に俺の関心を買うものが有った。先生の発言だ。確かに予想通りの展開だし、きっとこの抵抗は無意味に終わるだろうが、それでも姿勢ぐらいは示した方が良いだろう。

「あ、ああ、君の性根を変えることは困難だろうが、ここに入れば君も人と人の繋がりに興味を持てるかもしれない。ここで勉強したまえ。ちなみに異論反論抗議質問口答えは認めない」

 先生の厚意を断るなら間違いなく今だろう。先生一人が入部を強制した所で、この学校には部への所属を強制する校則がないので、他の先生なりに訴えかければ後から俺の入部を撤回させることも可能だろうが、厚意をそういう躱し方をするのは流石に仁義に反するし、そうした手段を用いないにしろ一度でも承諾してしまえば俺が約束を一方的に反故にする事になってしまう。それは嫌だ。

 では入部した場合に俺の生活にどんな影響が有るかを考えてみよう。と思ったが、ぼっちの俺には放課後遊びに行くような用事はない。だから今ここで部活を始めたとして影響を受けるのはバイトだけだった。それも基本的には土日のフルタイムか夕方というゆるゆるのシフトだ。大した影響はないだろう。ということはあれか。断る必要ももしかしたら無いのかもしれない。

「ええ、先生の厚意に感謝します。とはいえこれに関しては無為に終わると思いますけど」

 先生は俺の言葉を冗談と受け取ったのか、先生は鼻で笑った。

「彼はなんというか一風変わった人物で、孤立している可哀想な奴なんだ。人との付き合い方を学ばせたいと思ったが、私はそこまで暇じゃないし君の方が適任だろう。そういう訳で頼めるか」

 可哀想な奴だと言われた俺はどんな顔をすれば良いんだ。が、少女の顔にも先生の冗談に対する笑みは浮かばなかった。というか先生今のは冗談ですよね。

「先生なら殴るなり蹴るなりすれば速いのでは?」

 

 え? 先生もしかして結構バイオレンスな方だったり? 

それにこの少女もそういうダーティな方法を認めないで欲しい。

特に俺が対象の時は。

 

「私だってそうしたいのは山々だが最近は五月蝿い連中が多くてな。肉体への暴力は許されていないし、こいつは厄介なメンタルの持ち主でな」

 

 いやいや俺は至って平凡な人間ですよ。それこそ地球で一番と言っても過言じゃないね。

 

「お断りします。そこの男に体を捧げるほど自分の価値を卑下した覚えは有りません」

 

 なんだろう。

思春期女子には有りがちな反応なんだろうか。

最近じゃ道を聞いただけで通報される事も珍しくないと聞くし。

少女は自分の体を抱いて俺に対する拒否感を表現した。

それはもう雄弁に。

 

「いやいやそれは無いって。だってお前のこと好きじゃないもん」

 

 反射的に口を突いて出た言葉に嘘はなかった。

うん、確かに教室に入った瞬間はちょっとメルヘン入っちゃうくらいには衝撃を受けたが、口を開いた彼女を見て、その発言を聞いてすっかり現実に引き戻された。

これが性格まで完璧な少女だったりしたら可能性感じちゃうかもしれないが、この彼女にはありえない。

 

「この通り口は減らないし嘘も吐くが」

 

 そう言って先生の体が動く、と言っても動いたのは肩から先だけで、動きもせずに触れる物といったら俺の体位のものでって。

先生の手が俺の顔に近づいた所で反射的に飛び退く。

 

「この通り肉体的接触に抵抗が有るようだからな、その辺も心配いらないだろ」

 

「いやいや先生みたいな」

 

「言うな」

 

 何故か俺の発言は先生に遮られた。何故だ。

 

「私限定だったりしないよな。いやもしも誰にでもという事だったらそれはそれで悔しいような」

 

「なるほど。つまり女性に手出しするような度胸は無いと」

 

 ブツブツと何か呟きだした先生と一人納得する少女。

ねえ待って、もしかして今ので俺チキン認定されたのかしら。

心外だ。とはいえ女性に手を出す度胸がないのは本当だ。

言い返したいが手を出す度胸が有るって犯罪チックな宣言するの躊躇われる。

結局何も言えないままで居ると少女の中で結論が出た。

 

「分かりました。先生からの依頼であれば無下には出来ませんし、承ります」

 

 さも面倒くさそうに苦渋に塗れた顔でそういう少女に、先生は満足気に微笑んだ。

 

「君なら彼をどうにか出来るだろう。よろしく頼む」

 

 そう言って先生は颯爽と教室から去ってしまった。

いや去り際にチラッとこちらを見たような気もするが、とにかくそれ以上何も言う事なく帰ってしまったのだ。

 

 先生はそれで良いだろう。

元々ここに居た少女もそれで構わない筈だ。

しかし、入部を承諾された俺はどうすれば良いんだろうか。

兎も角あれか、俺も座っていいんだろうか。

取り敢えず先住民である所の彼女にお伺いを立てよう。

 

「椅子出して座っても良いのか」

 

「そう言いながら、許可を得る前に既に動き出しているのはどういう事かしら」

 

「え? 何? もしかして椅子に座るのに許可が必要だったりするの? まあ貰えなくても座るんだけど」

 

 結局少女の許しを得るより先に、教室の後ろに積まれた中から適当な椅子を選び出して座ってしまった。

 

 そのまま長机を挟んで少女と対称的な位置取りになるように椅子を設置して腰を下ろした俺に少女が冷たい目を向けてくる。

廊下の冷気よりも冷えきったそれは初対面の相手に向けるものにしては厳しすぎるような気がしたが、もしかしたらあれか殴ったり蹴ったりとかそういう事が日常茶飯事な女の子だったりするんだろうか。

だからあの時パッとそういう手段を思いついたし、先生も俺をここに連れてきたのだろうか。

だとしたら入部を希望したのは早まった選択だったかもしれない。

見たところ少女の肢体は一般的な少女のそれよりも華奢な位だったが、こちらもただの素人だ。

マウント取られてボコボコにされたら抵抗する手立てが思い浮かばなかった。

少女の次の行動に戦々恐々としている俺を尻目に少女はため息を一つ吐いた。

 

「はあ、そういう事ね」

 

 そういう事ってどういう事と尋ねるのは簡単だったが、その場合結果として殴ったり蹴ったりなんて事が有るのかもと思うと別の言葉を選ばざるを得ない。適当にお茶を濁そう。

そしてこの少女の安全度を測ろう。

 

「所でここって何部なんですかね?」

 

 話しかけられた少女は不快な気持ちになったのだろう。

隠しもせずにそれを表情に浮かべた。なんだろうこれって彼女なりの攻撃だったり?

そう考えると話しかけにくくなるのでこれは攻防一体の一手となり、殴ったり蹴ったりされるんだろうか。

 

「何故そう及び腰になるのかしら。別に手を出したりしないわ。少なくとも何もされない限りはね。それとここが何部か、ね。……そうね、ゲームをしましょう」

 

「それに負けると殴られたりとか」

 

「しないわよ。しつこいわ。それともそうして欲しいという振りなのかしら」

 

「違います」

 

「それなら余計な事は言わず、ここが何部か当ててみなさい」

 

 唐突に少女に提案されたゲーム。或いは唐突にゲームを提案する少女。

どちらも胡散臭いというか意味不明すぎる。

しかも俺を見る少女の放つ雰囲気が真剣すぎる。

何これ入部歓迎の恒例行事とかじゃなくて闇のゲームか何かなの。

それともやっぱり間違えたら殴られるのか。

 

 と下らない事はおいておこう。

 

「分からん」

 

「あら、あっさりと試合放棄かしら」

 

「いや、そうじゃない。……とも言えないな、考えた結果あっさりと試合放棄だ。まず見た感じここが運動部だという事はないだろう。道具が無い。それで行くと道具を必要とするような部活も無い。理科クラブみたいな部だったら部室も理科室辺りになるだろうからその辺もない。軽音楽、吹奏楽共に場所が違う。書道部だとしても作品がないし美術部でもない。文芸部にしては本が無造作に置かれているだけというのはおかしい、よって文芸部もなし。カードゲーム、ボードゲームの類という可能性。しかしこれらは一人では出来ない、部活が始まっているこの時間に部室に一人きりという事は他に部員が居る可能性も低いのでこれも除外。うちにはUFO呼んだりするような部はなかった筈だからここまで当たりがないならもうお手上げだ」

 

 注意深く生活している人間なら、昨年度末の生徒集会で報告された収支報告か何かから、うちの高校に存在する部をリストアップして照会していけるのかもしれないが、そこまで高性能な頭脳は持っていない。

これだけ可能性を列挙できるだけでも俺にしては頑張った方だろう。

そもそも部活に興味が無かった俺は、この高校にどんな部活が存在するのかも殆ど把握してないから。

 

 答えを待つ俺に少女は意外な物を見たというような顔をしてこう告げた。

 

「そうね、それならヒントを出しましょう」

 

 その言葉には残念だと思っているような響きが混じっていて、その真意は分からないまでもどうやら俺は彼女のお眼鏡には叶わなかったらしい事が伺えた。

そして少女はこう続けた。

 

「私がここでこうしていることが活動内容だというのが最大のヒントよ」

 

 勝手にゲームの続行を決め、挑発的な笑顔を浮かべる少女を見る。

これが少女の優しさだというなら、この少女相当にイイ性格をしている。

まどろっこしいやり取りはスルーしてさっさと正解を聞きたいというのが正直な俺の気持ちだが、もしもこれに付き合わなかったら……といい加減しつこいか。

 

 あー、ここでこうしている事が活動内容ね。

つまり今も活動中って事だ。

しかしただ居るだけで活動になるような部活とは。

美術部のデッサンモデル用のモデル部なんて事はないだろうし、他にただ居るだけで仕事になるというのはどういう部活が有るだろうか。

 

むー、と唸りながら少女を観察する。

少女の格好は極普通にうちの高校指定の制服だ。

それを着崩したりせず普通に着ている。

特徴的な装身具を身につけていたりはしない。

と言うよりこの少女を表現する上で最も特徴的なのはやはりその美しさに他ならないのだ。

 

 確かに美少女は存在しているだけで仕事をしているといっても過言ではないだろう。

どこかの神様は美少女は神の創りたもうた芸術品とも言っていたしな。

存在するという、ただそれだけの行いで時に国を滅ぼすのが美女・美少女だ。

では、それが仕事となるような部活とは?

 

「駄目だ、卑猥な妄想しか出てこないな。正解を教えてくれ」

 

「良識を疑う発言ね。セクハラで訴えられたいのかしら」

 

「可愛いというただそれだけで仕事になるというのは分かる。でもそれが部活になるっていうのは」

 

「……人の話を聞く気がないのね。比企谷くん。女子と話したのは何年ぶり?」

 

 それが俺の求める答えと一体何の関連が有るというのだろう。

というか二度も答えを求める俺にまだ答えていない辺り、少女も俺の話を聞いていない。

泥沼の言い合いを始めてもいいが、一先ず少女の質問に答えよう。

 

「昨日ぶりだな。消しゴムを拾ったら礼を言われた」

 

 後は落っことした小銭を拾うのを手伝ったり、移動教室を知らずにギリギリに教室に戻ってきた女子に移動先を教えたりとかそんなんだ。

一昨日は財布も拾ったか。

 

「そういうのは会話と言わないわ」

 

「じゃあこれも会話じゃないだろ。持続性の話をしてるなら、あー、そうだな1週間前に映画の話を聞いた覚えが有るな」

 

「もういいわ。持つものが持たざるものに慈悲の心をもってこれを与える。人はそれをボランティアと呼ぶの。途上国にはODAを、ホームレスには炊き出しを、モテない男子には女子との会話を。困っている人に救いの手を差し伸べる。それがこの部の活動よ」

 

「なるほど、ボランティア部ね。それは良いし俺がモテないというのは否定しないんだけど、別にお前と話したくないな」

 

「なんですって?」

 

「いや別に女の子と話すために生まれてきた訳じゃないからさ、そうしなければならない理由もないし、現時点で特別そういう欲求もないんだ。だから与えて貰わなくて結構だと言ってるんだけど」

 

 俺の発言に耳を疑うと言わんばかりの反応を見せる少女。目が釣り上がり、口調も鋭くなっている。

少女は立ち上がり、俺を見下ろした。

 

「先生には後で文句を言わなくてはならないわね。貴方の様な人間は一風変わっているとは言わないわ」

 

「俺の事はどうでもいいから早くこの部について教えてくれ」

 

「……いいわ、この部は奉仕部よ。平塚先生曰く、優れた人間は憐れな者を救う義務が有る、のだそうよ。頼まれた以上、責任は果たすわ。貴方の問題を矯正してあげる。感謝なさい」

 

 きっとこちらを睨みつけ少女は説明してくれた。

特に憐れなという言葉は強く恐らく俺の事を憐れな存在だと主張したいのだろう。

見下ろした彼我の位置関係といい、腕を組む姿勢といい実に偉そうな少女である。

しかし初対面だというのにエラく見下されたものだ。そんなにこの少女凄い子なんだろうか。

 

「俺に問題なんてないだろ。先生には友達を作れと言われてここに来たけど、それだって問題とは思わない。最低限のコミュニケーションは取れてるんだし」

 

「私はそうは思わないわね。貴方のコミュニケーション能力には重大な欠陥が有る」

 

「自己紹介もしてくれない相手にコミュニケーション能力について説かれる日が来るなんてな。これは審判の日も近いかも」

 

「……チッ、私は雪ノ下雪乃。2年J組」

 

 自分に非が有ることを認めてくれたのか、雪ノ下さんは名前を名乗ってくれた。直前の舌打ちのような音はきっと俺の気のせいだろう。

 

「俺は2年F組比企谷八幡。改めてよろしくお願いします」

 

 雪ノ下さんが立っているのに座ったまま自己紹介するのもなんなので、立ち上がって雪ノ下と目を合わせる。

軽く会釈もする。

というか散々アレな態度にムカついて負けじとアレな態度を取ってしまったが、良かった同学年だった。

 

「本当に変な人。調子が崩れるわ。貴方に友達が居ないというのも得心が行くというものね」

 

「いや、別に友達が居ない訳じゃないんだぞ。俺の携帯電話には中学時代の友人のアドレスも登録されている。ただ、高校に入ってから一度も連絡を取っていないだけで」

 

「呆れるわね、そういうのは友達とは言わないわ」

 

「先生もそう言ってたけど、連絡を取り合っていない期間なんてそんなに重要か?」

 

「少なくとも普通の友人ならそれなりに連絡を取り合うものよ」

 

 雪ノ下さんの言い分にも一理ある。

 

「じゃあ、それでいいや。俺には友人が一人もいない」

 

 俺がそういうと雪ノ下さん、いやもうなんか腹経つので雪ノ下と呼び捨てることにしよう。

その雪ノ下は勝ち誇ったような表情を浮かべた。

 

「私が見たところだと、貴方が独りぼっちなのはその腐った感性が原因のようね。まずは居た堪れない立場の貴方に居場所を作ってあげましょう。知ってる? 居場所があるだけで、星となって燃え尽きるような悲惨な最後を迎えずに済むのよ」

 

 しかしこの雪ノ下、いやに当たりがキツイ。

もしかしてこれはマウンティングと呼ばれる行動の一貫なのだろうか。

個体間の優位性を誇示する為に行われるというあれが、今俺に対して行われているのか。

しかし、現時点で部室に一人の、いや俺含め二人にはなったけれど、俺が来なければ一人だったコイツも友達が居るふうには見えない。

 

「後半は何かの引用か? でも結構だ。別に俺居た堪れない思いはしてないからな。むしろ余りにも自信満々に振る舞いすぎて他のやつに居た堪れない思いさせてるまで有る」

 

「……そのようね。ちなみに『よだかの星』という作品からの引用よ。宮沢賢治位教養の一つとして読んでおきなさい」

 

 ぐぅの音も出ない正論。という訳ではないが、確かに彼女の言ったことが本当なら教養として読んでおくべきかもしれない。

宮沢賢治と言えば有名な作家でもあるし。

 

「後で図書室なりで借りていきますかね。ちなみにそのよだかの星ってのは短編の名前か? それとも本のタイトル?」

 

「……銀河鉄道の夜の新編か宮沢賢治の全集には収録されていると思うわ。……意外だわ」

 

 手を口元に当てて、雪ノ下がぼそりと呟く。

 

「何がだ?」

 

「普通ならあんな風に言われたら腹の一つも立てるものだわ。でも、貴方は」

 

「そんな変でもないだろ。宮沢賢治の雨ニモマケズって言ったら教科書に載ってる位だし、銀河鉄道の夜もかなりの名作だって言われてる。読んどいて損は無さそうだし、ちょっと興味が惹かれただけだよ。ただ読んでみない事には分からないけど、星となって燃え尽きる事が悲惨な最後だとは思えないけどな」

 

「まあそうね。確かによだかの容姿は貴方と共通するものが有るかも」

 

「どんな風に?」

 

「……真実は時に人を傷つけるわ。私の口からはそれだけ」

 

「なんだ俺が不細工だって? まあ、それはその通りだな」

 

「本当どこまでも変な人」

 

「雪ノ下の顔の造形を目にするとお世辞にも整ってるとは言えないだろ。いや、誇張なしにお前滅茶苦茶可愛いから比較対象としてはおかしいかもしれないが。」

 

「反抗的な態度を取ったら次はご機嫌取り?」

 

 またしても雪ノ下が厳しい表情をしている。

さっきから会話のラリーが続く度、種類の差はあれど雪ノ下の表情がマイナス方面で遷移している。

俺は地雷原でタップダンスでもしてるのか。

 

「見たままを言ってるだけだろ。それに褒めるのが気に食わないっていうならお前の性格について言及しようか」

 

「慈悲深い私を褒め称えるだけに終わりそうだからいいわ」

 

 雪ノ下の尺度で言えば、ここでそれを態々否定しない俺の性格もいい加減慈悲深いとか言われてもおかしくない。

ていうかこの女本当スゴイ性格してるわ。

 

「これで、人との会話シュミレーションは完了ね。私のような女の子と会話が出来たら大抵の人間とは会話できるはずよ」

 

 満足そうに達成感を漂わせながら雪ノ下が言う。

突っ込み待ちか。

それとも私のような可愛い女の子と話せて幸せねという意思表示なのか。

 

「これからは素敵な思い出を胸に一人でも強く生きていけるわね」

 

「一生分にはちと足りん。せめてもう少し話させてくれ」

 

「貴方はそんな我儘が言える立場だと思っているのかしら」

 

「誰にだって意見を主張する権利は有る。単にそれが抑圧されるのが当たり前というだけで」

 

「それすら無いのが貴方だという事を心得なさい」

 

 もうなんだろう、嗜虐的な笑顔を浮かべる雪ノ下を見ていると反撃せずにはいられない気持ちになってくる。

これが負けん気というものか。おお初めまして俺の負けん気君。

とか余計な事を考えていないと口を閉じていられない。

 

 これからの部活動に激しく不安を俺が覚え始めた頃だった。前触れ無くドアが荒々しく開かれた。

 

 扉を開いて現れたのは先程消えた平塚先生だった。

先程と同じようにノックについて咎める雪ノ下をあっさり交わすと、先生は雪ノ下に微笑みかけた。

 

「仲良くやっているようで安心した」

 

 眼球でも腐っているんじゃないですか。そう俺が思ったのは当然だろう。

てかこの人廊下で会話を盗み聞きでもしてたのか。

 

「その調子で比企谷の更生に努めてくれたまえ。では、私はこれで戻る」

 

「待ってください。俺ってここに友達作りに来たんじゃなくて、更生に来たことになってるんですか」

 

「お、なんだ友達作りには乗り気になったのか。流石雪ノ下だな。仕事が速い」

 

「それほどでも」

 

「何自分の手柄みたいに頷いてんだ雪ノ下。違いますよ、先生。俺の何処に更生しなきゃいけない所が有るっていうんです」

 

 この教室内で見ても俺より明らかに雪ノ下の方が人格的に問題が有る。

審査員が入れば顔と体で評価は逆転するだろうが、性格単体でみたら誰の目にも明らかな筈だ。

ところがその性格に問題を抱えた雪ノ下さんはそんな事実に気がつかない様子で。

 

「まだそんな事を言っているの? 貴方は変わらないと社会的に不味いレベルよ?」

 

 と仰った。不味い。

何が不味いってコイツが本気でそう思っているだろう事と、ココにはもう一人そう思っていそうな人がいるという事だ。

味方が居ない。

 

「傍から見れば貴方の人間性は余人に比べて著しく劣っていると思うのだけれど。そんな自分を変えたいと思わないの? 向上心が皆無なのかしら」

 

「向上心は皆無だし、他人に押し付けられた変化なんて御免だ。てか俺が劣っているのは人間性じゃなくて社会性だ。それに俺に社会性を身につけさせることが果たして本当に向上か? そんな事が必要なのか?」

 

「自分を客観視した事がないのね」

 

「自分を客観視なんてする必要があるのか? そもそもお前の言う客観は本当に客観か? 何処まで行った所で人間が真の客観性を手に入れることなんて出来ない。だってそれを解釈する主体が主観なんだから。そもそもお前は客観に変われと言われれば変わるのか? どんなにお前の主観がそれを拒否しても客観を受け入れる理由なんてものが有るのか?」

 

「でもそれじゃあ苦しい現状は変わらない。そんなもの逃げてるだけじゃない」

 

「逃げてなんか不味い事が有るのか? 世間様なんて別に俺に何の関心も持ってないんだ、好きにさせてもらうさ。それに苦しい現状を変える為にすべき事は自分が変わる事だけじゃない。現状を変えてやりゃ良いんだ。なんだったらその1手段として逃げるってのも十分に有りだろ」

 

「それじゃあ悩みは解決しないし、誰も救われないじゃない」

 

「そういうのは悩みを持った奴に言ってやってくれ。俺は救いなんて求めてないんだ。少なくとも今は。それに逃げれば逃げた当人位は救われる」

 

いつの間にか俺と雪ノ下のやり取りは怒鳴り合い一歩手前みたいなボリュームになっていた。

お互いにお互いを睨み合い一歩も譲る姿勢を見せない。

どうしてこんな事になってるんだ。

俺はもう何について話してたのかも分かりません。

 

 雪ノ下は兎も角、俺はそうやって身動きが取れなくなって硬直状態に陥った二人の間に白い壁が立ちはだかった。

 

「二人共落ち着き給え」

 

 先生は俺と雪ノ下の顔を見比べてニヤニヤと実に面白そうな顔をしていた。

 

「互いの意見がぶつかった時は勝負で決するのが少年漫画の習わしだ。君たちはこれからここに来る悩める子羊たちを導いてお互いの正しさを証明し給え」

 

 勝者には相手への絶対命令権付きなと俺達を煽る先生。

 

「別に意見がぶつかった訳じゃないでしょ。俺は困ってないのに、コイツが俺は困っていると言ってるから俺は否定してただけです。てか別にコイツにして欲しい事なんか一つも有りません。少なくともこんな勘違い女には」

 

 瞬間雪ノ下が憤怒の表情を見せる。

髪が心なしか逆立ち肩が震えている。

拳はぎゅっと力強く握りしめられており、俺は雪ノ下が暴力主義者だった事を思い出した。

 

「先生、私は乗ります。そしてこの腐れ男に自分がどれだけ変革を必要としているのか自覚させてみせます」

 

「お、おう」

 

 雪ノ下の苛烈な怒気に、あんなに盛り上がっていた先生すらちょっと引き気味だった。良かった俺と雪ノ下の間に先生が立っていて。正面から直視していたら漏らしてたかも。

 

「決まりだな」

 

 ここに来てから無視されっぱなしの俺の意見が届くはずもなく、先生は先生は勝負の開始を宣言した。

 

「勝負の裁定は私が下す。基準はもちろん私の独断と偏見だ。あまり意識せず、適当に……適切に妥当に頑張り給え」

 



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第3話

 翌日、ホームルームを終えて無事放課後に突入した教室からいの一番に出ようとした俺の前に平塚先生が立ちはだかった。

 教室前方の扉その正面に陣取って、これから教室を弾丸のように飛び出していく生徒達を一人一人監視しようというのか。腕を組んで何かを待ち受けていた先生の視線が、扉を開けた俺を素早く捉えた。

 

 取り敢えず昨日からの短い時間で先生を怒らせるような問題は起こしていない。筈だ。断言は出来ない。先生と雪ノ下にははっきりと俺の人間性に問題が有ると告げられたばかりだからだ。でも、昨日奉仕部に入部させられてからたった20数時間、教室の端っこでまるで空気のように過ごしてきたという自負も有る。

 

 俺は声を掛けられる謂れもないだろうと先生に会釈をして前を通り過ぎようとした。

 

「比企谷、部活の時間だ」

 

 が、先生が待ち受けていた相手というのは俺だったらしい。何故だ、殴ったり蹴られたりは御免だぞ。

 

「ええ、これから行こうと思っていた所ですが」

 

「何? そうなのか」

 

「もしかして俺が部活に顔を出さずに帰宅すると思われたんですか?」

 

「あ、そういう訳でもないんだが」

 

 最初の一言は俺の目を見て威圧するような雰囲気を発していたのに、最後は目を逸らされてしまった。マジか、もしかして俺って問題児だと思われてるんだろうか。

 

「先生、不服な事が有ればその場で抗議しますよ俺は。一度でも決まってしまった事を後から覆そうとするのって大変じゃないですか」

 

 人の認識だったり約束だったり。

 前者を裏切ればそんな人だと思わなかっただのと言われて、後者ならばもっと直接的に不興を呼ぶ。

 何かの手続きならば態々取り消しの為の書類を書かなければ行けなかったりと兎に角後から訂正という事には面倒事が付き纏う。

 

「ああ、認識を改めよう。君はそういう人間ではないんだな。……とはいえ、まあここまで来てしまったし君を部室まで連行するとしよう」

 

 先生が白衣を翻して俺が行こうとしていた部室棟への道を先行した。俺も先生の後をそれほど離れずについていく。

 

 こうして平塚先生の後を付いて歩くのは二度目だが、白衣を来た人間の後を付いて行くのというのは新鮮だ。傾いた太陽が放つオレンジ色の光が廊下に窓枠の形を浮かび上がらせる。時にその光を浴びてキラキラと輝きながらゆらゆらと揺れる先生の白衣を追いかけていく。カツカツと先生の履いているヒールがリノリウムを打ち、そのリズムに合わせて俺も歩みの速度を調節。そして眼前で揺れる白衣の揺らめきに合わせて右に左に体を揺らしながら歩く。

 カツカツ、ゆらゆら、ふらふら、カツカツ、ゆらゆら、ふらふら

 

 やがてそれぞれのリズムが俺の中で結び付けられ一つの大きなリズムを形作る。夕方の校舎はノスタルジックな物の一つであると同時に活気を宿したものの一つだ。まだまだ放課後は始まったばかりでそれぞれの教室でそれぞれの生徒達が思い思いの放課後を始めようとしている今は、校舎全体が胎動を始める直前のように思える。その爆発直前の浮ついていながら張り詰めるような空気の先頭を、先生と俺が歩いている。

 

 とてつもない心地よさと、そのエネルギーの余波に俺まで浮ついた気分になりそうだ。

 

 その心地良い感覚がいつしか俺の感覚を更に揺らし始めて、すっかりと現実から遠ざかった頃に唐突に先生が振り返った。

 

「……どうわあっ!?」

 

 夢の国の住人になりかけていた俺がそれに気づくはずも無く、危うく先生に正面から突っ込みそうになる寸前で気付き飛び退った。

 

「ひ、比企谷! い、一体何のつもりだ!!」

 

「あ、え? ……ああ、すいません。ボッーっとしてました」

 

 おお、危ない危ない。……危なかった、んだよな? 

 気付いた時には先生の顔が目の前に来ていてつい反射的に飛び退いてしまったが、気付くのがもう少し遅くなっていたら完全に当たっていた。

 いかんいかん、シラフでしかも徒歩で交通事故とか洒落にならんよ。

 これが妹にでも見られていたらそりゃもう怒髪天を衝く勢いで怒られるが、幸いに目撃者は居ないし、被害者も未遂だ。

 さっさと謝って済ませてしまおう。

 

「大丈夫ですか? 本当にすいません。なんか気持ちよくって前を見てませんでした」

 

「ききききき、気をつけろ。も、もうすこ、もう少しで……」

 

 部室の前でもないのに振り返っていたという事は、何か俺に話しかけるつもりだったと思うのだが先生は途中で口を噤んで歩みを再開させてしまった。

 なんなんだ一体、途中で口篭るなんて先生らしくもない。

 それから部室の前に着くまで俺は先生を注意深く見つめ続けたが、先生は俺の不注意を怒るでもなく、先生の用事を言い出すでもなく歩き続け。

 終いには昨日2回も言われたはずのノックも忘れて教室の扉を開いたのだった。いや、本当何の用だったんだ先生。

 

「先生、ノックをしてくださいといつも言っているじゃ……、先生?」

 

「……あ? あ、ああ雪ノ下か。いや比企谷が逃亡するかもと思ったので連行してきた。それじゃ、私はこれで。あはは、あははは」

 

 結局先生はあの調子で階段から滑り落ちたりしないよなと俺が余計な心配をする程度には、教室を出て行っても様子がおかしいままだった。

 俺はそんな先生が廊下を曲がって踊り場に差し掛かる辺りまで行くのを見守った後、教室の扉を閉めて昨日出した自分の席についた。

 というかもう雪ノ下部室にいんのか。速いな。

 

 放課後真っ直ぐに部室に来たつもりだったが、雪ノ下の居るJ組の方がこちらよりも早く放課したのだろう。

 その構成員の殆どが女子であり、また多数の帰国子女も居るというJ組だ。

 多分あっという間にホームルームを始められるし、終わることが出来るのだ。

 

 一方こちらはむくつけき男子高校生と、姦しい年頃真っ只中の少女たちの群衆である。

 ホームルームの前には既にその午後の間貯めに貯めたフラストレーションを爆発させて喧しいのでホームルームが開始されるまでに時間が掛かるわ、ホームルームが始まっても一旦爆発したテンションを抑制するのが困難なようで隙有らばお喋りが始まってしまう。

 

 今日も退屈なホームルームを終えるまでに20分近い時間が浪費され、一体何度騒音の発生源を縊り殺してやろうと思ったか。

 そんな調子なのでこれからも暫くはこういう場面が繰り返される事になるのだろう。

 つまり雪ノ下にこちらから挨拶をする場面がである。

 

「おはよう、雪ノ下」

 

「おはよう? 比企谷くんもしかして貴方寝ぼけてるのかしら。だとしたら」

 

 昨日の雪ノ下の調子を見ただけで殆ど推測できた事だったが、どうやら雪ノ下という少女は所構わず相手を攻撃せずには居られない質らしい。

 今日も早速、俺の第一声を取り上げてこんな愉快な台詞を吐いてくれやがる。

 

「すまん、バイト先での癖が出た。こんにちはだったな」

 

「……そう。こんにちは。もう来ないのかと終わったわ」

 

 ちっ。先制パンチをキャンセルしてやったと思ったら二の矢が継がれていたらしい。ていうかこいつにも俺は問題児だと思われてるのかよ。

 

「昨日入部を承諾した時から来るつもりだったよ。あ、でも土日はバイトが有って来れないんだけど、奉仕部って土日の活動はどうなってんだ?」

 

「心配しないでも土日は休みよ。依頼に来るのはここの生徒だけだし、部活の生徒しか来ない土日はその依頼者も期待出来ないから。それにしても貴方みたいな人でも務まるバイトなんて有るのかしら」

 

「何故そう俺の社会性を低く見積もる。つまんないコンビニ位なら俺にもこなせるわ」

 

 俺にこなせない仕事なんて肉体労働系の仕事全般と特殊な技能を必要とする仕事と辛い仕事と大変な仕事位なもんだ。

 そしてその台詞こそ雪ノ下に言い返してやりたい。こんな人格破綻者に務まるバイトが有るのか。

 

「普通あれだけこっぴどく言われたら二度と顔を出さないと思うんだけど……マゾヒストなのかしら?」

 

「そんな酷い目に合わされたか? まあ強いて言うならお前の相手させられた位だと思うけど」

 

「あら? こんな美少女と言葉を交わせたのよ。感謝してしかるべきよ。特に貴方みたいな人は」

 

「そりゃお前に好意が有るならそうだろうが」

 

 正直こいつの相手が務まるなら大概の接客系のバイトが務まるだろう。今まで相手したどんな迷惑な客より面倒臭い。

 しかも、いつのまにか俺がこいつに好意を抱いている前提で話を進めてやがる。

 

「違うの?」

 

 態とらしく顔を傾けてきょとんとした表情を作った雪ノ下は間違いなく可愛い。

 平素から飛び抜けた可愛さを誇る雪ノ下が可愛いポーズで可愛い表情を作っているのだ。

 可愛くない訳がない。

 ただ。

 

「んなわけねえだろ。可愛いだけで人の事好きになれるなら今まで100回は惚れてるわ」

 

「あら、それで100回告白していても貴方に恋人が出来るとは思えないわね」

 

 性格が絶望的に可愛くない。両者合算してプラマイゼロになるならまだマシで、個人的にはマイナス方向に突き抜けると推測できる。

 本当どうなってんだこのアマあ。

 

「兎も角、俺はお前の事好きじゃねえよ」

 

「てっきり私の事好きだと思ったわ」

 

 数学の教科書に乗っている数式を読み上げるくらい当然と言い張る雪ノ下の表情は、冗談を口にするような柔らかな表情でも、俺を嗜虐する時の様な悦楽を感じさせる表情でもなく、何の感情も感じさせない表情だ。

 

「お前みたいなヤツの事を好きになる奇特な奴ってのはそんなに沢山居るのか。世の中変態ばっかりなんだな」

 

 確かに雪ノ下は可愛いが、それだけだ。性格が"こんな"女を好きになるなんて世の中の男子という奴はやはり度し難い。同じクラスの女子の方が数段可愛さという意味では落ちるがこいつよりは総体として可愛いと言えるだろう。

 

「あら、私としては貴方ほどの変態が変態という自覚すら持っていない事の方が意外だわ」

 

「あくまでも、俺がお前に好意を抱いているという設定で行きたい訳だ。分かった、そっちはそれでいい」

 

 友達との軽口の叩き合いというならこのまま付き合い続けても良いのだが、昨日今日知り合ったばかりの性格破綻者とでは俺の精神が持たない。

 こんなどうでもいい話題に拘泥せずに、何かこいつを黙らせるような話題に展開させよう。

 幸いこんな性格なら友達も少なかろう。その辺を叩いてさっさと黙らせよう。

 そう思って、雪ノ下の設定に付き合ってやる事にしたのだが、ザザッと雪ノ下が椅子に座ったまま後退った。

 

「嫌だ、貴方もしかしてストーカー?」

 

「もしもこれから犯罪に発展するとして罪状は迷惑防止条例及びストーカー規制法違反じゃない事は確かだ」

 

「大変、幾ら私が魅力的だからと言ってレイプ予告をしてきたのは貴方が初めてだわ。貴方の汚れた瞳で見られている間も汚されている感覚だったけれど」

 

 雪ノ下は通報しなきゃと言って慌てた様子で携帯電話をポケットから探り出した。

 

「待て待て待て、どんなクソゲーだこれは」

 

 まるでどの選択肢を選んでもバッドエンドが確定しているギャルゲー一周目の様な八方ふさがり感。

 ああ、願わくば俺の中の女性観が歪みきる前にこいつとの繋がりが切れますように。

 

「極めつけに現実と虚構の区別もつかないと。残念ね比企谷くん。黄色い救急車は都市伝説の中だけの存在よ。それに貴方がこれから乗るのは救急車ではなく、パトカーよ」

 

「ええい、そこはどうでもいいけどまさか本気か」

 

 雪ノ下の携帯電話を耳に当てる仕草に、俺が腰を浮かせると ここまで散々俺を罵倒してきて満足したのか雪ノ下が掛ける振りをしていた携帯電話を下ろした。

 そして画面を見ながら何事か操作すると、手の中で弄び始めた。飾り気のないスマートフォンの通話画面が表示されていた様な気がするのはきっと俺の見間違いだろう。

 

「馬鹿ね、本当に通報するわけがないでしょう」

 

「そういう冗談はせめてお友達相手にやってくれよ」

 

 何にしろ悪い冗談だ。浮かせた腰を再び椅子に落ち着けるが、立ち上がる前よりもぐっと疲れた気がする。

 そんな俺の目に雪ノ下の肩が急にぴくっと震えたのが映った。

 不幸中の幸いという奴だろうか。このまま雪ノ下のお友達事情に矛先を逸らそう。そこから話題をずらさなければ今日一日をもしかしたら平穏の内に終えることが出来るかもしれない。

 俺は急に明後日の方向を向き始めた雪ノ下に、俺の心の安寧を求めて笑顔を浮かべながら語りかけた。

 

「そうだ、雪ノ下。昨日俺に講釈を垂れてくれたし、今日だって俺を人間関係で弄ってくれてて、おまけに俺の壊滅的人間関係を改善する依頼まで受けてくれたお前の事だ。さぞ立派な友人知人が居ることだろうなあ。教えてくれよ。お前はどうやって友達を作ったんだ?」

 

「そうね。依頼を受けた以上は全力で貴方に友人を作らせるつもりだけど、まず貴方の言う友人の定義を教えてもらってもいいかしら」

 

「一緒に居て、それでいて話すでもなくただ居場所を共有するという行為に苦痛を感じない人間だな」

 

「……そうなるとちょっと難しいかしら。ほら、女性って一緒に居れば会話せずには居られないものでしょう?」

 

最後にぼそっと『その筈よね』とか言った気がしたが、それに雪ノ下の言葉のアクセントが俺に同意を求める物ではなく、半信半疑聞き齧りの知識を披露する時のそれに近い気がしたが、なるほど言っている内容について女性の生態に詳しくない俺ではうんともすんとも言えん。くっ、しかしここで迂闊に同意を返せば知ったかぶりはしなくていいのよとか慈愛顔で言われそうだし、かと言って黙っていてもあら比企谷君に分かるはず無かったわねとか言われそうだ。

となると、同意でも否定でもなく適当な言葉で話を続けさせればいいのだが。

 

「ああ、そういう奴って男女問わず死ぬべきだよな。自分から近寄ってきたくせに話が途切れると気不味そうにしてどっか行きやがる。相手すんのも面倒だから最初から近寄ってくるなと思うよな」

 

「は?」

 

雪ノ下が信じられない物でも見るような目で俺を見つめる。あれ? おかしいな。そんな顔をされる様な事を言った覚えはないんだが。

 

「そういう奴って落ち着いて一緒に居られないんだよな。買い物行っても四六時中くっついてくるか、でなきゃついていかされておちおち自分の買い物も出来やしない。何故お前の買い物に付き合っただけで俺まで帰らにゃならんのか。一人で帰ってろよって……雪ノ下?」

 

「頭が痛いわ……こんな人間が居るだなんて」

 

雪ノ下の同意を得ようと話を続けたが、結果は雪ノ下が頭を抱えるだけに終わってしまった。

 

「あれ? 同意して頂けない?」

「本気……いえ正気かしら? 大変、先生には奉仕部ではなくて誰か良い頭の先生を紹介するよう言っておかないと。それと普通そういう事って思っていても口にしないものだと思うのだけれど?」

 

「勿論本人に言ったりはしなかったぞ。鬱陶しいからそいつを帰らせて一人で買い物続けた事なら有るが」

 

「比企谷君、ごめんなさい。昨日あれだけの啖呵を切っておいて申し訳ないけれど貴方の更生は私には出来そうにないわ」

 

「待って! 待って! お願いだから待って! ……あれ? そんなに変か?」

 

「最早変とかいう次元のお話ではないわね。狂ってると言っても過言ではないわ」

 

あれれれれ? 雪ノ下に自分の話をさせるどころか雪ノ下からの警戒心と可哀想な物に対する態度が強くなったぞ。

 

「ねえ、確認させて貰うけどそれって貴方の知り合いの話かしら」

 

「友達だけど」

 

友達に対する態度かしらそれが。雪ノ下はそう言うけれど。

 

「友達にだって嫌いな部分はある。当然好きな部分も有るが、それだけじゃないだろ。死ぬほどムカつく所が有ったって、げんなりするような所が有ったって、結果がギリギリプラスなら一緒に居たいと思えるもんだ」

 

「……一年も連絡を取らない人間を平然と友人だと言える人間から言われたのでなければ感動的な台詞だわ」

 

そんなに引っかかる所なのかそこは。

 

「兎も角俺の話は置いておいて」

 

「たった今貴方に何を言っても無駄だと悟ったわ。まず取り掛からないといけないのは貴方の意識改革の方よ」

 

俺の発言を遮って雪ノ下が話し始めた。彼女の悟ったという発言も冗談ではないのだろう。俺が目で雪ノ下に抗議してみせると黙って聞いていろと目で語ってきた。

 

「こういうのも異次元人との出会いと呼んで良いのかしら。どうやったら貴方みたいな手合が生まれるのか、この世界の不思議の一つね」

 

こうやって俺を罵倒する文章を吐き散らすのは俺に口を挟んで貰いたいサインだと思う。まさか、まさかこの女俺が黙って言われたままとでも?

 

「そういうお前がここで明らかなボッチライフを送っているのはこの世界の条理だな」

 

「失礼ね。何処から見たらそんな事実が明らかになるのかしら」

 

彼女の意向に逆らって発言した俺への苛立ちからだろうか、雪ノ下は俺を睥睨し真っ向からの戦闘態勢を取った。

その苛烈な感情と自信の籠もった雪ノ下の瞳の美しさと来たら、俺の嗜虐心を煽るには十分な物だった。

 

「そうだな。まずその口調。今時そんな話し方をする女は居ない。世に聞く女の習性に横に倣えというものが有るが、女の群れの中で一人だけ明らかにお前の口調が浮くだろう。そうなればお前のその口調はお前自身の反省によるものか、それとも他者からの介入によって修正・淘汰されるだろう。つまりお前には普段から口をきくような人間が存在しないという事だ。第2にお前のその攻撃的な性格。昨日初めて会った時から今と変わらない調子で話し続けるお前がまさか友人達の前でだけ話し方を変えるとも思えない。しかしだ、お前みたいに初対面の相手にすら堂々と罵詈雑言を飛ばす女に友人が居るとは思えない。女の悪口は大概本人の前では口にされないものだからな。次にお前の容姿と現在のこの部室の人口密度。この部室には現在俺とお前の二人しか居ない。そろそろ放課してから時間も経つというのにだ。昨日も同様の状況だった事を鑑みればこの部活はお前と俺しかいないという推測が成り立つ。たった一人しか所属していない部活という事も考えられるが、お前位容姿に秀でていればお近づきになろうという人間が必ず一定数いるはずだ。そんな連中すら姿が見えない事からやはり友人が居ない説が支持される。更に言えば奉仕部という部活。悪いが名前を聞いた事がない。にも関わらず平塚先生は俺の更生を依頼し、また平時施錠されているこの教室も開放されていた。へんてこな名前と活動内容の部活だ。友達のいない俺にもその存在の噂くらいは聞こえてきてもおかしくないというのに俺には憶えがない。つまり教師である平塚先生には部として認知されているものの、生徒に認知されていない部という事になる。態々昨日入部届を書いておけと言われたという事から書類上存在している事は確かだ。そんな部が生徒に認知されていない理由は分からないが、そこに所属する生徒が一人しかいないというならお前が余程特殊な事を期待されている人間か、余程特殊な人間だと推測できる。或いは特別な扱いを受けているという事だ。平塚先生は気安い先生だからその辺よく分からんがボッチだというなら保護する位の事はやってのけそうだ。俺がここに連れてこられたようにな。これだけ根拠があれば少なくとも可能性の一つとしては十分でそれを確信したのは俺の勘だな」

 

「呆れた。結局は推測の域を出ないという事じゃない。その為にこんなに長い口上を垂れるなんて酸素の無駄遣いよ。猛省してその分の呼吸を止めることね。ざっと40分位だったかしら」

 

「死ぬだろ。どう考えても」

 

「「最後まで言わないと分からないのかしら?」 か?」

 

「な!?」

 

他に「私の優しさが分からないのかしら」をこの直前に繋げるパターンや、「そうよ、死ねって言っているの」というパターンが考えられたが、ヤマを張って雪ノ下のs音に被せて言ってみたら上手くいったらしい。台詞をピタリと当てられた雪ノ下の驚き顔は素晴らしいレスポンスと言える。

 

「お前の友達の話をしようぜ。まあでもいないのか」

 

「いないとは言っていないでしょう! それに、もし仮にいないとしてそれで何か不利益が生じるのかしら」

 

「生じるだろ。俺に友人を作るというミッションのオブザーバーが友達一人もいないっていうんじゃ不適格もいいトコだ」

 

「それなら心配要らないわ。友達作りを指南するのに、何も友人がいなければならないという訳ではないのだから」

 

こういうのも語るに落ちたというのだろうか。不適格という言葉に一瞬眉を顰めた雪ノ下の発言は遠回しに友人が皆無な事を肯定してしまっている。が、今はそこを突くよりも興味深い事が有る。

友達のいない雪ノ下が如何にして俺に友達を作らせようとしているのかという事である。こいつの性格のエキセントリックさからしてまともな方法ではないと分かっているが、だからこそ興味が有る。

一体どんな方法なんだろうか。

 

「友人というのは何もこちらから積極的に働きかけなくとも作れるものよ。向こうから寄ってきたってね」

 

「雪ノ下。お前が愛されガールだってのは分かったが、その手は俺には使えない。だって俺はお前ほど可愛くもなければ格好良くもないからな」

 

「それもそうね」

 

あっさりと納得されるとそれはそれで悲しい。

 

「それよりもその不愉快な呼び方をどうにかしなさい」

 

「よっ、愛されガール・雪ノ下雪乃!」

 

「死にたいようね」

 

音もなく立ち上がった雪ノ下の髪の毛が心なしか揺らめいている。ひんやりとした風が俺の頬を撫でるのも果たして錯覚の一言で済ませていいものだろうか。

 

「待て待て、分かった。分かったから。頼むから腰を下ろせ」

 

今にもこちらへの一歩を踏み出しそうな雪ノ下。その華奢な体から発する得体の知れない雰囲気が俺の防衛本能を刺激した結果だった。気迫だけでこれとは恐ろしい奴である。

小動物位だったらそれだけで心臓が止まりそうな容赦の無い剣呑な視線に知らず俺の腰まで浮いている程である。人一人殺した事が有ると言われても雪ノ下相手だったら俺は信じるね。

バックンバックンと情けなく跳ね上がった俺の心臓の音がもしかしたら教室の空気を通じて雪ノ下に伝わったのか、雪ノ下は殺気を収めて元の姿勢に戻った。

その際鼻で笑われたのが見えたが下手な事を言って雪ノ下の撃発を誘う勇気は無く、俺は雪ノ下の沈静にただ胸を撫で下ろすばかりだった。

 

それきり雪ノ下が口を開かず、そんな雪ノ下に俺も話しかけることが出来ず沈黙が放課後の教室に充満した。

何故雪ノ下は愛されガールと呼ばれただけであそこまで起こったのだろうか。その原因を考えた。

確かにコンビニで雑誌棚に陳列された、いかにもなファッション誌に乗っていそうな言葉だが、その事に怒る雪ノ下ではないだろう。

それならばここまでの俺の発言でさっきの様な姿をもう何度も目にしているだろう。

では……

俺の疑問に応えるように、ふと雪ノ下が言った。

それはともするとただの吐息だと勘違いするような弱々しい一言だったが、確かに俺の耳にはこう聞こえた。

 

「本当に、心から愛されていれば良かったかもしれないわね」

 

「はあ」

 

俺に聞かせるつもりが有ったのか無かったのか。それは俺には分からない。しかし彼女のその言葉を俺は聞き逃さなかった。何となく応えた俺に雪ノ下は真っ直ぐな冴え冴えしい顔を見せた。

 

「ねえ、貴方の友達に常に女子に人気のある人がいたらどう思う?」

 

「別に何とも」

 

「きちんと考えてから答えて。どう思う?」

 

「お前こそきちんと俺の返答を聞けよ。何とも思わないよ」

 

俺の答えを嘘だとでも決めつけているのだろう。雪ノ下の顰めた眉が、握りしめた手が、落ちた肩がそれを物語っている。

もしかしたら出会ってから一番真剣だった彼女に、確かに俺の態度はあまりにも不誠実だったかもしれない。

だが

 

「そうやって疑われてもな。意外かと思われるかも知れないけどな、中学まで俺ってそこそこ友達多かったんだぜ。それも結構人気者のな」

「貴方の妄言は結」

「そうじゃなくたってやたらと女好きな奴とかも居てな。全く何が悲しくて修羅場に巻き込まれなきゃいけないのかと思ったことも2度や3度じゃない。それに何となく良いなって子が友達に告ったりとかな。でも、別に何とも思わなかったよ」

 

茶々を遮り、俺は雪ノ下を押さえつけるように言葉を吐き出し続けた。

ここで雪ノ下の思い込みに付き合ってやるのも悪くないと思ったが、彼女相手に嘘を吐くのが何となく憚られたからだろう。

それが何故なのか。この時の俺には分からなかった。いや、これから先長いこと気づくことが出来なかった。

 

「強いて言うならめでたい事だと、そう思って周りの連中と一緒になって冷やかしたりもしたが、はにかんでる友達の顔を見て馬鹿みたいだけど俺も嬉しくなったよ」

 

これでいいか。と俺が雪ノ下を見つめ返すと雪ノ下は何故か目にも留まらぬ速さで目を逸らした。

そうして何故かあさっての方向を見ながら話す雪ノ下にポカンとしてしまった俺を、文字通り脇目にしながら

 

「貴方に通常の人間の尺度を当てはめる事自体が間違いだということがよく分かったわ。貴方がそうでも、多くの人間はそうじゃないわ。大抵そういう場合にはそういう人は排除されるのよ。まともな知性を持っていさえすれば、そんな事したって何にもならないと分かりそうなものだけど。そして私のいた学校にもそういう人が多く居たの。後は分かるでしょう?」

 

こういったのだ。

つまり彼女にとって愛されるという事は、敵を作るという事に他ならないのだろう。仕方のない事である。彼女の事を愛する人を愛する人々もまた存在し、自身より鮮烈に意中の人の心に居座る彼女を疎ましく思うなという方が土台無理なのだ。

だから彼女は、きっと人々の関心の中心であると同時に悍ましい想念の中心でも有ったのだろう。台風とは違い、それらは中心に近づけば近づくほど人を傷つける。

恐らく彼女を傷つけたのは周囲の人間との直接的な関わりと、それと同じ位の間接的な関わりだろう。

 

その渦中に立ったことのない俺には、彼女を襲った悲劇がどんなものなのか想像さえ出来ない。

そんな安穏とした世界しか知らない俺を嘲るように雪ノ下は酷薄な言葉を口にした。

 

「結局私に好意を表していた人でさえ私の周囲には居なくなったわ。そもそも悪意の盾になってくれようとした人さえいなかった」

 

彼女は己に好意を向ける者が原因で窮地に陥り、その原因が自分を慰めることすらせず敵に回ったのだ。しかし、それは雪ノ下以外には決して批難できる事ではないと俺は思った。子供は何より未熟だし、その原始的な情緒に覚悟まで求めるのは酷だと思ったからだ。高校生の俺でさえそう思うのなら、きっとより同調圧力の強い小中学生などではひとたまりもなかっただろう。

 

「この世界はね、完璧ではない人ばかりだわ。弱くて、心が醜くて、嫉妬をすれば他人を蹴落とさずには居られないような人たち。そこでは優秀な人間は不思議なほど行き辛いわ。だからこんな世界変えてしまうのよ。人ごと、この世界を」

 

いつの間にか雪ノ下は俺の事を見ていた。彼女の言葉は今更決意染みた気合が込められるでもなく、それが却って彼女が本気であることを示していた。その言葉はあまりに冷たく、俺には彼女自身を追い込むような響きが感じられてならない。

 

そしてそれと同時に、こうして堅い意思を見せる彼女は俺の目には酷く弱々しいもののように見えた。

世界を変える。強い言葉を使うわりには今彼女が身を置いている環境は、それに似つかわしくない。教室にいる彼女がどんな風かは知らないが、放課後こうして一人先日の平塚先生のように誰かが訪ねてくるのを待ち続ける彼女は、世間に背を向けて自分が傷付かぬよう身を震わせているようにしか思えない。穴熊を決め込み、それでいて自らの理想を語る彼女に、俺はどうしてか酷い違和感を覚えた。

 

まさか、俺がこいつに期待をしているとでも、雪ノ下雪乃にこんな生き方は似合わないとでも言うつもりだろうか? 何様なんだ俺は。そもそも傷付きここまで逃げ延びてきたような彼女にこれ以上頑張れなどと言えるほど、俺は雪ノ下の事を好きでも嫌いでもないはずだ。

結局俺は雪ノ下に当たり障りのない言葉を返す事しか出来なかった。

 

「中二病乙」

 

と。

 

「中二病? どういう意味かしら? 到底褒め言葉とは思えないけれど、まさか比企谷君ごときが私を罵ったのではないでしょうね」

 

文学に造詣が深いだけあってという訳でもないのだろうが、雪ノ下にはこのネットスラングは伝わらなかった。しかし、俺の態度からニュアンスを読み取ったのだろう。

先ほどまでの痛々しいまでの真剣な顔はどこかへ行って、雪ノ下はすっかりこちらを小馬鹿にしたような攻撃的で、何処か突き放したようなそんな表情になっていた。

これもまた不思議な事だが、そんな彼女を見ている俺の胸中には、今の彼女が俺の見た彼女の中で最も彼女らしいなんてそんな確信が生まれているのであった。



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第4話

俺が部室に顔を出すと、やはり雪ノ下が読書に勤しんでいる。

結局雪ノ下の世界征服計画を聞いてからこっち、俺と雪ノ下の勝負は一向に遅々として進みを見せていない。

何故ならば、誰一人として奉仕部を訪ねる人間がいないからだ。俺がそうであったようにそもそも奉仕部などという部活を認知する人数そのものが少ないのか、存在そのものを知っていたとしてこんな所に相談しようなどと思わないのか。

どちらかという事は判然としないものの、兎も角あれから1週間。我々は既にある種のルーティンを築き上げていた。

つまり、雪ノ下が放課後一番に部室の鍵を開けて読書を始め、遅れてきた俺が雪ノ下の読了した本を借りて読む。ということである。

 

この本を借り始めた時には案の定ネチネチと嫌味を言われたが、以外にも貸し出しそのものが渋られる事は無く、以後俺は雪ノ下が読んだ後同じ物を読み続けている。

その間にいつのまにやら雪ノ下が今年度学校内会話回数ランキングトップに躍り出るような事が有ったが、口にしたが最後間違っても賞賛されないので黙っておいた。

元々教室で殆ど誰とも会話をしない俺にとって、例え「うっす」「本お借りします」「ありがとう」程度の会話であっても一週間も続けばこうなるのは自明の事だったのだ。

 

今日も今日とて読書クラブが開催されるものだと決め込んで、いつも通り雪ノ下から本を借りようとした時だった。

とんとん、と教室の扉がノックされた。

その音があまりにも弱々しかったので俺はてっきり風で揺れたものかと思ったのだが、雪ノ下は間を開けずに来訪者に声をかけた。

 

「どうぞ」

 

平塚先生との会話を聞いていてもそうだが、雪ノ下雪乃は相手が誰で有っても堂々たる態度を取る。

こうして名も知らぬ他人が何の前触れもなく訪れても変わらぬその態度は、俺が知る雪ノ下の美点の一つだろう。俺などはもう雪ノ下に促されて扉を開けようとする他人が今すぐ帰ることを祈らんばかりだというのに。

 

「し、失礼しまーす」

 

上ずった声と共に小さく開けられた扉からするりと入ってきたのは俺と同じクラスに在籍する女生徒だった。一番喧しいグループに所属する取り分けアホっぽい少女だったと記憶しているのだが。

相手の方も俺に見覚えが有ったのか忙しなく動く視線が、俺の顔まで辿り着くとひっと小さな悲鳴が上がった。

いやいや、流石に悲鳴を上げられるような覚えはないんだが。それにこういうことやられると結構傷付くのね。

 

「なんでヒッキーがここにいんの!?」

「なんでここにいちゃいけないの!?」

「真似すんなしっ!」

 

ヒッキーという安直な渾名はともかくとして、居ることを責められる程嫌われていたのだろうか。

一度も話したことのない相手に?

相手をよく観察してみる。

ふむ、なんてーかしばしばギャルとまではいかないもののユルそうな女子高生としてイメージされる女子高生像そのものの様な女子だ。短いスカートに胸元の開いたブラウスとそこから覗くネックレス。脱色され茶色になった毛髪となんとも言えない立ち姿。

唯一非凡な物があるとすれば顔の造形だが、それも同じ教室内に雪ノ下というぶっちぎりの逸品が存在する事を考えると見劣りしてしまう。

駄目だ。会話を交わした記憶が全くない。もっというなら俺は今年に入ってから教室で、相手をきちんと認識した上で女子と会話した記憶がない。

このまま彼女がここを訪ねた用件を聞いても良かったのだが、名前を知っておいた方が相談も円滑に運ぶと思った俺は仕方なしにこう尋ねた。

 

「すいません、それでどなたさまですか?」

 

「……」

 

「……」

 

気のせいかも知れないが絶句したのは来訪した女生徒だけではないようだ。雪ノ下の座っている方からも呆れたような視線を感じる。

あれ? あれれ? 何だこの空気。

首を捻る俺を他所に女生徒は動きを止めた。顎が下がりポカーンとだらしなく開かれた口は彼女の驚愕が決してポーズではない事を俺に知らしめたが、だからと言ってそれで俺が相手の名前を思い出す事もなかった。

 

「まあまあ、取り敢えず椅子にでもかけてもらって」

 

気不味い空気を打ち消そうと、教室の後ろに積み上げられた椅子の中から一脚取り出して勧めた。

 

「……」

 

窓際の雪ノ下。中心から僅かに廊下によった俺。そして俺と雪ノ下の中間から黒板に寄った位置に来訪者の椅子を置いた俺が定位置に戻っても、少女はまだ腰を下ろしていなかった。

俺が彼女の名前を覚えていないことがそんなにショックだったのだろうか。

 

「比企谷君、そんな事で誤魔化されるとでも思っているのかしら」

 

見かねた雪ノ下が俺を責める。

 

「すまん、言い方が悪かったな。俺と同じクラスだって事も三浦といつも一緒に居るってことも知ってるけども名前が分からない」

 

「由比ヶ浜結衣さんよ」

 

雪ノ下に名前を呼ばれた少女・由比ヶ浜結衣は壊れかけのロボットを連想させるぎこちない動きで雪ノ下を見つめて、ぎこちなく笑顔を浮かべた。

そのぎこちなさの意味するところについて考えを始めるよりも先に、その瞳から一筋の雫が落ちた。

 

この時、俺の頭を過ぎった言葉は「うおっ、この女泣きやがった」だった。

幸いなことにその一言は声として形を取ること無く終わったが、それは散々爆撃した人口密集地に核兵器を落とさなかったという程度の話だったようで。

 

「比企谷君、貴方一体彼女に何をしたの?」

 

てっきり雪ノ下から敵意を向けられると思っていた俺は、その疑問の声に困惑の色しかないことに肩透かしを食らったような気分になった。或いは俺が平常心を保っていればそれには大量の動揺が込められていることに気付いただろう。

しかし、この時既に俺も一杯一杯だったのである。

 

「わあ、待て待て。何で泣く!? 名前、そう名前知らなかっただけだぞ? お前の事を全く知らなかった訳ではなく。てか知ってたら知ってたでキモくないか? だって一回も話した事ないだろお前と」

 

「そうよ由比ヶ浜さん。その……クラスでどんな事をされているのか分からないけれど警察を呼べば、その男を一瞬で終わらせられるわ。安心しなさい」

 

雪ノ下が痛ましいものでも見るような目で由比ヶ浜を見て、そしておもむろにカバンから携帯電話を取り出した。サイドのボタンを押して点灯した画面に素早く雪ノ下の細い指が触れ、まもなく通話音が教室に響いた。

誓ってもいい。あれは110番にコールしている。

 

「待て待て待て待て。何で通報してる? 何の根拠が有って俺がこいつに!?」

 

「彼女は普段から貴方に性的な暴行を受けており、奉仕部に相談しに来たんでしょう。親にも打ち明けられないことでも、見知らぬ他人なら口に出来ることも有るわ。しかし来てみればそこには貴方の姿が。ギリギリの所で均衡を保ってきた精神が打ち崩された彼女は声もなく絶望の涙を流した。完璧な推理だわ。……もしもし」

 

「くそっ、正気とは思えん。おいっ由比ヶ浜、頼むからあいつを止めてくれ。俺は何もしてないよな!?」

 

出来れば揺さぶって、いや頭を引っ叩いて正気を取り戻させたい所だが、雪ノ下に睨まれた現状ではうっかり由比ヶ浜の肩に触れる事も出来ない。仕方なしに言葉で語りかける俺だったが、何が悪いのか由比ヶ浜の奇行が治まることはない。それどころか俺が身の潔白を示すためにどれだけ俺と由比ヶ浜の関係性が希薄なのか雪ノ下に語って聞かせる度に、心なしか由比ヶ浜の声は大きくなった。

 

「クラスで喋ったこと無い奴の名前なんて普通憶えないだろ? 雪ノ下は特別。葉山は何度か絡まれた事も有るし、他男子とも喋ったことない訳じゃないから名前は分かるけど、女子なんて三浦以外は一言も口聞いた事ないから。だからほらあいつ以外は全員一緒、苗字も分かんねえ。そもそも授業中なんかだと後ろ向いたりしないし、俺の座席が廊下側最前列で有る事を考えれば顔を知ってることすら割と奇跡的というか。そう顔もちょっと見覚えが有るなっていうかそんなもんだから」

 

「バカバカ、ヒッキーのバカ。そうじゃないもん。わーん」

 

こんな調子である。なんだ、俺には顔すらも覚えていて欲しくない的な事なんだろうか。クラスメイトの女子に蛇蝎の如く嫌われてることにも気付かないとは、もしかして俺って鈍感なんだろうか。

そうじゃないっていうのがどういう意味なのか。それを問い質すより先に教室の扉が凄まじい勢いで開かれた。

 

「ひーきーがーやーーーーーっ! 何をしてるっっ!!」

 

スパーンと音を立てて枠に当たった引き戸が元有った場所に戻るよりも速く、風の様に教室内に飛び込んできたのは平塚先生だった。

 

「先生!? ちょ、えっ、まっ。ぐほっ!!!」

 

白衣をはためかせながら由比ヶ浜に近寄っていた俺の所まで一直線に駆け寄ってくる先生は、その登場に驚いた俺が弁解の言葉を思いつくよりも先に俺に鋭いボディブローを叩き込んだ。

 

もうなんなんだ。痛みの余りそう口にすることも出来ない俺は見舞った2撃目によってあっさりと教室の床に沈んだのだった。

 

 

「比企谷、お前の事信じてたぞ」

 

「まず謝れよ」

 

「ああん!」

 

「ひいっ、何でも御座いません」

 

程なくして、というか由比ヶ浜が先生に殴られて崩折れる俺を見て泣き止み、詳しい説明は兎も角俺が由比ヶ浜に何かして泣いていたのではないと証言してからの一言目がこれだった。

白々しい台詞を吐く平塚先生だったが、誤解の上で俺を殴ったという事に対して後ろめたさの様な物を感じている様子は一切ない。俺の発言を黙殺する彼女に俺が感じたのは言いようもない理不尽さだけだった。

 

これが女性、いや大人というものなのか。狡すぎるぜ。

 

「それが大人の女というモノなのだよ、比企谷」

 

まるで俺の心の中を読んだかのようなドンピシャのタイミングで平塚先生はそういった。発言のタイミングは兎も角内容は胸を張って言えるような内容じゃないだろとか命が惜しくてとても突っ込めない。てかこの発言が経験に基づいて行われたものだとしたら、いつもこんな事をしてるんだろうか? 大人として、女として色々心配になってしまうが。

 

「雪ノ下から連絡が来た時は何事かと思ったぞ。後ろから由比ヶ浜の声も聞こえたしな」

 

平塚先生は奉仕部の顧問でありながら、部活中滅多に顔を見せない。俺の奉仕部への入部から一週間、こうして部室に顔を見せたのは俺をここに連行してきた日以来である。奉仕部の活動実態が果てしなく空虚なものである以上、顧問の役割もまた同様という事か。不思議に思った俺が雪ノ下に聞いた所、平塚先生は普段職員室か生徒会に顔を出しているのだと言っていた。部活動と生徒会の顧問の掛け持ち。なるほど、奉仕部に殆ど顔を見せないのも納得である。

 

それに加えて雪ノ下も普段先生と接触を持っている訳ではないらしい。部室の鍵の帯出も顧問教師の許可さえ出ていれば不在でも問題ないらしく、そうでなくとも奉仕部の活動中。つまり放課後の間に雪ノ下が教室を出て行く事も滅多にない以上、日に2回程度の接触しかない訳である。一週間只管読書に打ち込んでいた奉仕部に態々教師に報告するような事柄が有る訳も無く、それ以外の事について雪ノ下が平塚先生に相談するという絵も考えにくい。雪ノ下からのたまの接触が携帯電話での連絡でかつ、泣き声が聞こえたというなら平塚先生の驚きも一入だったに違いない。

 

事実平塚先生の登場は雪ノ下の電話からそう間を置かなかった。普段放任している割にきっちりと気にして貰えているらしい。

 

閑話休題。

俺が殴られたそもそもの原因である由比ヶ浜の涕泣。その原因と由比ヶ浜の来訪の理由が気になった俺は、平塚先生に気にしないよう伝えて自分の定位置に戻った。

 

手のつけられなかった由比ヶ浜も平塚先生の暴挙に呆気にとられてからすっかりと大人しくなっているし、そろそろ話が出来るだろう。

すっかり熱を失っていた椅子に腰掛けると俺は平塚先生を見やった。言外に司会進行役を頼んでいるのだ。

由比ヶ浜を泣かした張本人? である俺よりも、大人? な女性であるところの先生の方が話がスムーズになると睨んだのだ。

先生が居なかったら今頃その役目を負うのが自分だっただろう事を考えると、先生の拳2発分も料金分のように思えてくる。恐らく友達居ない歴16年の雪ノ下さんには到底不可能な作業であろうしな。

そもそも平塚先生を呼ぶ以外に一切由比ヶ浜に対する働きかけをしなかった所を見ると、案外さっきは雪ノ下の奴もテンパっていたのかもしれない。こいつの事だから女を泣かした事自体は幾度も有りそうだが、それをフォローする事など無かっただろうし。

 

「あー、由比ヶ浜。言いたくなかったら構わないんだが、比企谷に何かされたのか?」

 

由比ヶ浜の正面に椅子を置いてそこに座った先生は足を組み、胸元を探りながら話を切り出した。

そうじゃねえだろって!!! 何故俺が何かしたのが前提!?

さっき由比ヶ浜から俺は何もしてないって聞いたばっかりだろうが。そう突っ込みたかったが平塚先生と雪ノ下が一瞬俺の方に向けた眼差しには当然疑念が渦巻いている。酷いや先生。さっき信じてたぞって言ってくれたのに。

てか煙草を出すなよ、流れるような仕草で口に加えてジッポで火を着けようとすんな! おっと、不味い不味いじゃねえよ、一連の流れが格好良すぎるっつうの。

 

雪ノ下の制止すら間に挟まる余地のない平塚先生の所作を他所に、由比ヶ浜はうつむいてもじもじしながら口を開いた。

それはもう本当に言い難い何かが有ったかのように。

 

「あの、その。……特に何かが有った訳じゃないっていうか、私が勝手にそう思ってただけというか。……ヒッキーは悪くないんです」

 

教室での話し声とは似ても似つかぬ細々と小さい声で紡がれる言葉は、由比ヶ浜が途中何度も言葉を切って俺を見るせいで全く逆の意味での信憑性を産んでしまっている。

ぞぞぞっと教室内の空気が不穏な色を纏ったのに気がついたのか由比ヶ浜は慌ててこうも言った。

 

「本当なんです! 前からずっと言いたい事が有ったのに、その、……私が中々言い出せなかっただけで」

 

止めて! それ以上言葉を重ねないで! 俺の無実を確信する教室内唯一の人間である俺でも今のは『本当なんです! 前からずっと(止めてって)言いたい事が有ったのに、その、……(怖くって)私が中々言い出せなかっただけで』と聞こえたくらいだ。

もう、こうなったらその言いたい事とやらを言って貰おうか。そう思い口を開いた俺だったが、突如として総毛立った。雪ノ下の絶対零度の視線のせいである。

それ直死の魔眼だろと言いたくなるような、いやもうこれはバロールの魔眼とでも呼びたくなるような、見られているだけで小心者の俺が死にたくなるような、そんな眼だ。

蛇に睨まれた蛙ならぬ、雪ノ下に睨まれた比企谷である。ヒキガエルの渾名を持つ俺の面目躍如といったところだ。

 

ところが、である。そんな雪ノ下を笑って宥める者が有った。誰あろう平塚先生である。

由比ヶ浜の挙動に俺と雪ノ下とは違うものを見出したのか、平塚先生は何処か困ったような笑顔を浮かべて

 

「雪ノ下、どうやらそれは君の勘違いのようだぞ。しかし……そうか、そういえば君が」

 

状況を把握しきったらしい先生とは真逆に俺と雪ノ下は暫し見つめ合い、そして疑問符を頭の中に浮かべながら首を傾げた。

先生の発言は実に含みのあるものだった。まるで俺が知らない所で俺と由比ヶ浜の間に何かしら因縁があり、それを先生が知っている。俺にはそういった意味に取れた。

しかし、全く心当たりのない俺にとっては意味不明としか言えない。

何か思い当たるフシでもないかと由比ヶ浜の顔をマジマジと見ても、さっぱり何も思い出せない。

強いて言うなら

 

「可愛い」

 

前言撤回である。以下に同じ教室内に文句なしの美人である雪ノ下、そして今は平塚先生が居るからと言って由比ヶ浜自身の可愛さは些かも減じていない。それどころか好みの問題を無視すれば前者二人の美しさと肩を並べるほどの可愛さと言っても過言ではないのではないだろうか。しかも普段は教室の一角を占拠するトップカースト共の中で騒がしくしている由比ヶ浜が肩身も狭そうに、縮こまっていると俺の中の悪魔(という名の嗜虐心)が鎌首をもたげるというか(断じてセクハラ的な意味合いはない)。

 

「ヒッキー!? いいいいいきなり何言っちゃってんの? はあっ?」

「そう嫌がられると傷つくが、別に普段から言われ慣れてるだろお前なら。教室でしょっちゅう聞こえるぞ可愛い可愛いって言われてるのが。初めてまともに見たけど、ああ確かにお前可愛いな」

「ちょっ、えっ? な、ななな何言ってんのヒッキー!」

 

そうそう実際怒ってるか何なのか分かんないけど、こうやって顔を真っ赤にしながら狼狽えてる所を見てしまうと、こうね。漲ってくる(断じてセクハラry)というか滾ってくる(断じてry)というか。

 

「比企谷くんの癖に上から目線ね。もう少し身の程を弁えた発言をお願いしたいのだけど」

「可愛いものを可愛いと言う事に資格が必要か?」

「そういう意味じゃないの。貴方の口からそんな言葉が出ているのかと思うと気分が悪くなってくると言いたいのよ」

 

不細工だから黙っていろという事なんでしょうか。不細工の言論を封殺するのにこれほど強烈な言葉はない。

不細工を自認する俺はあっさりと白旗を挙げる。

べ、別に由比ヶ浜を褒めるのに飽きたとかじゃないんだからね。

 

「比企谷、私には何か言う事はないか?」

平塚先生が物欲しそうな顔でこちらを見ている。

「先生は美人かと思ってましたけど、格好いい美人さんですね」

「ふ、ふふふ。そうかそうか」

 

あんなに鮮やかに煙草を吸い出そうとする人が格好良くない訳がないのである。

満足そうに頷く平塚先生だったが、その向こうで由比ヶ浜がこちらを睨みつけているのに気がつく。狼狽モードを抜けて怒り始めでもしたのか。

とはいえ、もうその話は沢山だし、由比ヶ浜も普通に会話できる事が確認できたのでさっさと話を進めよう。放課後の時間は有限である。いつまでも俺と由比ヶ浜の接点にかかずらっても居られない。

由比ヶ浜がそのうち言い出すつもりでいるらしいので、それまで待てばいいというのもある。

 

「それでどうして奉仕部へ来たんだ?」

「むー、ヒッキーのバカ。いいもん。……先生、ここって生徒のお願いを叶えてくれるところなんですよね?」

 

由比ヶ浜の悪口はともかくとして、俺の人格矯正を請け負う位だから由比ヶ浜の言っていることはある程度正しい事だろう。俺が首を傾げたのはそれがある程度周知されている事についてである。

もしかして俺が知らないだけで、ここって知名度高い部活なのか? そうなってくると俺の世間離れも笑えないレベルになってきてしまうのだが。世間の流行り廃りについていけなくなるのは仕方ないとしても、由比ヶ浜みたいな言っちゃなんだがアホっぽい娘でも知ってる事を俺が知らないのは単純にショックだ。

 

「概ね合っているが、少し違うな」

「あくまで奉仕部は手助けをするだけ。願いが叶うかどうかは貴方次第よ」

 

平塚先生の言葉を引き継いで、冷たく突き放したところの有る雪ノ下が、その特徴を一層強く表して言う。

俺の知る限り初の奉仕部の活動である。今後、或いは今回から俺は彼女のやり方を参考に活動していく事になる。隙有らば貢献するつもりだが、今回は取り敢えず彼女の腕前を拝見させて貰うとしよう。

俺は居住まいを正して由比ヶ浜に向き直った。

 

「それで? 由比ヶ浜さん、貴方のお願いを聞かせて貰っても良いかしら」

 

単刀直入。世間話を挟んだり、丁寧な前説を挟むことも無く、由比ヶ浜にそう切り込む雪ノ下。由比ヶ浜に対する態度は正直女子同士のそれとは思えないが、かといって彼女を馬鹿にした風でもない。これはあくまで彼女にとってのルーティンという事なのだろうか。そもそも奉仕部という名前の割に自発的な奉仕活動ではなく、依頼を受けた上での援助活動に徹する所からして雪ノ下には大分ハードルが高そうである。相談を受付けている割に相談員が優しくも柔和でもなく高圧的な態度を取っているというのに、そんな所に相談などする人間がいるのだろうか。

 

そんなそもそも論的なところに引っかかりを覚える俺だったが、由比ヶ浜が依頼内容に踏み込まれた途端に気まずそうな顔をして俺の顔を見てきた事には気づけた。これがあれだろうか。クラスのボッチキャラと校内にその名の知れ渡った帰国子女かつ成績優秀な超美少女の信頼の違いだろうか。……確かに俺でも後者を選びそうな2択である。話題がなんであれ同姓の方が相談を持ちかけやすいだろうし、こんな所にまで相談に来る様な案件である。複雑な事情も絡むとなれば尚更だ。俺と雪ノ下の間では奉仕部内での活動を前提とした勝負が行われているが、新入部員としてはぐだぐだも言えない立場だ。

俺は財布がポケットの中に入っていることを確認してから立ち上がって言った。

 

「飲み物でも買ってくるけど、何を買ってくる? 先生もいらっしゃるなら先生の分も」

 

雪ノ下としても俺の行動を妥当と思ったのか、特に俺の行動に文句はないらしい。何の躊躇もなく

 

「私は『野菜生活100いちごヨーグルトミックス』でいいわ」

 

などと言ってきた。遠慮の無さまで彼女らしいとか、あって数日で思わされる辺り本当に雪ノ下は雪ノ下である。

結局由比ヶ浜のリクエストを聞き出した所で、元の用事に戻ると言った平塚先生と連れ立って教室を出るのであった。

 

奉仕部から自販機まではゆっくり歩いてざっと5分。往復で10分程度。これだけあれば最低限由比ヶ浜の相談について聞き出せる筈だ。戻って俺が案件に関わるかどうか雪ノ下の判断を聞いてという事になるだろうが、低くない可能性で今回俺はノータッチになるだろう。勝負の最初から相手にリードを許すーーそれも勝手も分からない勝負事でだーーというのも頭の痛い話だ。関与できなければ致し方ない事なのだが、とはいえ無為に過ごすのも……。取り敢えずは由比ヶ浜のお願いが何なのかこのお使いの間に推測してみるとしよう。

 

「比企谷」

 

隣を歩いている先生に呼びかけられる。

 

「中々やるじゃないか。あの場で即座にそんな申し出が出来るとは思わなかったぞ」

 

「普段は気を使うような状況になりませんから。それより先生、本当に良いんですか? 缶ジュース一本ですけどご馳走しますよ?」

 

「君は私を何だと思っているんだ? 教師が生徒から些細でも物品を受け取るのは不味いだろうが」

 

教室内では用事があるからと言って断られたが、ここでもまた断られてしまった。確かにそういう見方が存在するのも事実だが、だというならさっきの暴行も割と洒落になっていない。それ以前に

 

「そうですか? 結構受け取ってくれる先生居ますよ? 英語の田口先生とか」

 

英語の田口は中年の女性教師である。俺と特に繋がりが有るわけでもないが、購買で買いすぎたパンを偶々見かけた折に申し出たらあっさりと持って行かれた。何でも子供に上げるとかなんとか言っていたが、どうあれ教師が生徒から食品を受け取ったことには変わりがない。

 

「まあ自販機まで行ってからだと時間もかかりますんで、代わりにこんなのはいかがですか?」

 

ポケットから徐に取り出したるはビニールに包装されたお菓子。何百という層のパイ生地とその中に入れられたチョコによって独特の食感と味を齎すそれを、大袋から幾つか取り出してポケットに入れっぱなしにしていたのだ。間食にでもと思っていたが特に惜しいという事もない。どうせバッグにはまだ入っているのだし。

先生は既に断りを入れたにも関わらず尚食い下がる俺の熱意に負けたのか手のひらを上に向けた手を差し出してきた。

 

「どうぞお納めください」

 

「君という奴は本当に意外な奴だな。こんな奴だとは思っていなかったよ」

 

こんな奴というのがどんな奴かは知らないが、そんな事はそう珍しくもないだろう。誰だって直接の関わりを持たなければその人の本当の所は分からないし、俺に関してはその辺を推測させるような材料もないのだ。高校進学からこちら校内であまり人と親しそうにした事がないからだ。

 

「やれば出来る子なんですよ」

 

「なるほど、確かに。認識は改めておこう。まあだからといって君の奉仕部勤めは続けて貰うぞ」

 

「分かってます」

 

「それじゃあ比企谷これを受け取り給え」

 

お菓子を受け取ったのとは反対の手をすっと差し出した先生。握りしめられた手の下に俺の手を持って行くと、俺の手の上に先生の手が置かれた。その感触についてどうこう思うよりも先に薄い金属同士の擦れ合う音がして、俺の手のひらに硬貨が乗っているのが分かった。

 

「さっきの口止め料とでも思ってくれ。ではな」

 

そう言って平塚先生は白衣を翻して歩いて行った。

 

俺もまた平塚先生に背を向けて自販機のおいてある通路に向かった。念の為、いや気まぐれで、まあ理由は分からないが、先生から貰った小銭はそうと分かるよう財布の中で他の物とは違う場所に入れておいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「遅い」

 

部室に戻った俺に、開口一番そう言い放った雪ノ下は俺の手から野菜生活をひったくったばかりか、礼も言わない内にストローを刺して飲み始めていた。話は一段落していたらしい、部室内の由比ヶ浜は俺が出て行った時とは違い俺の存在に気付いても話を中断しなかった。雪ノ下の態度について一言物申したいが、言っても態度を改めるとはとても思えない。無駄な事はしないに限ると、俺は由比ヶ浜にリクエストの有った紅茶を差し出した。小銭入れから100円玉を取り出そうとする由比ヶ浜に丁重にお断りを入れ、俺は自分の椅子に座った。先生からお金を貰った事を口にしていいか判断出来ないし、事実と異なると俺が出しておくとも言えなかったが、ここで金を受け取るのは不味い。

 

「ありがとう」

 

と由比ヶ浜は言ったが、俺は反応に困ってしまった。それがお使いに対するものならば良いのだが、奢って貰った事に対してならお礼の宛先が間違っている。由比ヶ浜が何故か紅茶一本貰っただけとは思えない嬉しそうな顔を見せるから尚更である。

先生には今度、貰った分のお返しをして今日のについては俺の持ち出しという事にしておこう。そうして折り合いをつけた俺は、雪ノ下に相談がどうなったか尋ねた。

 

「どこを使うべきかと迷っているのよ」

 

全く要領を得ない返事をする雪ノ下に詳しい説明を求めようとした俺だったが、それよりも早く由比ヶ浜が近寄って来てモニョモニョとしながら言った。

 

「クッキー……をね焼こうかなって」

 

「由比ヶ浜さんは手作りクッキーを食べて欲しい人がいるそうなのだけど、自信がないから手伝って欲しいというのが彼女のお願いよ」

 

由比ヶ浜の補足に雪ノ下が語った。

 

「友達にこういう事してるの知られたら多分馬鹿にされるし、こういうマジっぽい雰囲気、友達とは合わないから」

 

それが奉仕部に依頼した理由か。落ち着きなく視線を動かす挙動不審な由比ヶ浜に俺は首を傾げる。

 

「好きな人にクッキーをあげるとかって鉄板な気がするんだが、それって俺が友達がいないからか?」

 

古今東西女子の関心ときたら色恋沙汰と金の話というのが世間と創作物における女性一般の理解だと思っていたのだが、こういうのは現実の女性には受け付けない話題だったのだろうか。

 

「うぇ、ええええええっ!? ち、ちが、違うよ! 別に好きな人にあげるって訳じゃ……おれ、お礼に。お世話になった人にお礼にあげるの!」

 

まあ、それなら分からなくもない。お世話になった『だけ』の他人に態々手間暇をかけてクッキーを贈ろうというのは確かに現代の、それも年若い女性の行いではないかもしれない。そんな事をしている暇が有るなら恋愛の1つでもしようとするのが普通という事か。

 

「どういうお世話になったのかは知らんが、それはまあ確かに変わってるかもな。普通手作りの品を送るなら好意の有る相手だろうし」

 

「……別に好意が無いって訳でもないんだけど」

 

「え?」

 

「それに! そのあたしみたいなのが手作りクッキーとかなに乙女ってんだよ感じだし」

 

小声が呟かれた言葉が何と言ったのか聞き返そうと思ったが、由比ヶ浜はそれに取り合わずブルーな雰囲気を漂わせながら顔を俯かせて、スカートの裾を握りしめ始めた。肩まで震わせて言っている辺り本当に自信がないらしい。自信の振る舞いがそう有るべきである姿から外れていないか。

昨今の少年少女は自らがこうあれかしと強く思ったり、それと現実とのギャップに悩んだりするらしい。らしいというのはそれが俺自身には何の覚えもないからなのだが、少なくとも目の前の少女由比ヶ浜結衣に関しては事実らしい。

勝手に自分で自分のイメージを作ってそこから逸脱するような行為に対して恐怖を感じる。全く身勝手というか理不尽な鬱陶しさを感じるレベルである。そんな物が周囲から望まれている訳でもあるまいに、彼女は自分が周囲からそう望まれていると勝手に思い込んでいるのだ。

 

「由美子とか真里とかにも聞いたんだけどさ、そんなの流行んないって言うし、私には似合わないっていうのは分かってる。……おかしいよね」

 

全く今日という今日まで名前も知らなかった由比ヶ浜の事だが、それだけは断言できる。彼女のそれは只の思い込みだ。

 

「そうね。確かに貴方のような派手に見える女の子がやりそうなことではないわね」

 

雪ノ下の言うことは間違っていない。由比ヶ浜がそういう事をしそうだとは確かに見えない。なんだか頭の中まで軽そうだと思わせる明るい茶髪。色気とはしたなさを勘違いしたとしか思えないあちこち出過ぎな格好。おまけに礼儀だとか恩義だとかそういうものを一切感じそうにない軽薄さを滲ませる話し方。これでそんな乙女チックな行動を期待する方がどうかしてる。いやまてDQNな彼氏辺りにそうしてる所なら簡単に想像できるが。

 

「でもまあおかしいって事もねえだろ。普通手作りクッキーなんぞ贈る相手としては世話になっただけの奴じゃお礼が過剰になるってだけの話で。お前はどっからどう見たって乙女なんだし乙女ってるのは何の問題もねえ」

 

しかしクッキー作りか。確かに何処で作るのか迷う所だ。今居る学校内にも凡そ製菓をするのに相応しい場所は有る。家庭科室だ。しかし彼処は授業などで使っていない時は施錠されている。料理部があればその鍵も開いているだろうが、肝心の許可が俺達にはない。ガスや刃物も使う事の有る家庭科室の使用許可は簡単には下りないだろう。加えて材料の問題も有る。基本的に調理実習に使う材料は生徒達の持ち寄りなので家庭科室には食品は置いていない筈だ。例外的に油などの保存が容易な物は多少生徒達の不備も想定して置いてあるかもしれないが、クッキーを作るには全く不十分だ。

 

材料は今から調達しても良い。許可も或いは申請するだけなら今日中に出来るだろう。しかし、今日中に家庭科室を使用出来るかは怪しい所だ。となると当然学校外に場所を求める事になるが、校外で製菓が出来る場所などそれぞれの家庭しかない。通学等の関係で移動手段が一致していない可能性。友人でもない人間を家に招く事への抵抗。そして移動の手間を考えると中々難しい問題かもしれない。特に俺の存在が多くの点でネックになりそうだ。

 

が、それも無視できる場所がある。

 

「俺んちならここからそう遠くもねえし良いんじゃねえか?」

 

「ヒッキー!?」

 

「比企谷君、貴方いつからそんな風に自分を勘違いしてしまったのかしら。貴方の顔は、いえ顔だけでなく物腰も知り合って間もない女性を自宅に連れ込めるほど上等なものではないわ」

 

「由比ヶ浜の依頼の為だけに家庭科室の使用許可が下りるとも思えないし、雪ノ下と由比ヶ浜の家の事はよく知らないが親がいるなら男を連れてくのは面倒な誤解を招きかねないだろ。その点俺の家なら両親共働きだから面倒もないし、妹もいる」

 

その妹が我が家の場合両親以上に面倒臭い奴なのだが、あいつもこいつら相手にちょっかいを出したりはすまい。被害に合うのが俺だけならいつもの事なので今更気にもならないしな。

 

「比企谷君、まさかとは思うけれど、その妹さんは貴方の想像上の存在に過ぎないのではないかしら。だとしたら貴方自身が統合失調症であることにほぼ間違いないと思うわ。いえ間違いないわ」

 

「態々言い直してまで断言する必要は有ったんですかねえ。てかまずそこ普通は嘘だとか何とか言っとけよ。いきなり妄想扱いって」

 

「貴方の妹さんが架空の存在だとするなら、貴方の人生上の奇跡も納得が行くもの。妹さんは妄想、お友達も妄想」

 

そんなに俺に友達が居るというのが信じがたいのか。自分に友達が居たことがないからって逆恨みまでするなんて雪ノ下も存外器の小さい女だ。俺ぐらい普通の人間ならむしろ友達の一人もいないとおかしいと思うのが普通だろうに。

 

俺は雪ノ下への反論もそこそこにポケットから携帯電話を取り出して通話履歴を呼び出した。表示された10件の履歴の中からデタラメにタッチして妹の電話番号を表示する。ここ数ヶ月通話した相手は妹だけなのでどれであろうと妹に繋がってしまうのである。呼び出し音がなり始めたのを確認してから雪ノ下に俺の携帯電話を差し出す。

 

「その妹が実在するか確かめてみろよ」

 

雪ノ下は怪訝な顔をして電話を中々受け取ろうとしなかったが、俺も負けじと手を引っめずにいると観念したのか携帯を受け取り耳に当てた。妹の方もとっくに学校は終わっているだろうし直に電話に出る筈だ。

思った通り携帯のマイクから妹の声が聞こえた。

 

「もしもし、お兄ちゃん? 珍しいねお兄ちゃんの方から電話を掛けて来るなんて。どうかしたの? また事故に遭ったなんて言うのは勘弁してよね」

 

「……」

 

俺の妹とは思えない騒々しい声に面食らったのか、雪ノ下が一瞬顔を引き攣らせる。俺が相手だと思っているからだが、第一声で縁起でもない事を言うのはこっちこそ勘弁して欲しい。ともあれこれで俺に妹が居るのは納得して貰えただろう。再び雪ノ下に手を差し出して携帯を寄越すよう示した。が、俺の携帯電話を雪ノ下は微動だにしない。電話を掛けてきておきながら何も言わない俺に妹が不審がって声を張り上げた。

 

「ちょっとお兄ちゃん! 悪巫山戯ならいい加減にして。こういう事して態々心配かけるなんて小町的にポイント低いよ!」

 

「そういう事なんで雪ノ下。悪いけど携帯返して貰えるか?」

 

「お兄ちゃん!? え? 雪ノ下さんてどういう事?」

 

「ちょっと待ってろ」

 

「……ええ……そうね、ごめんなさい比企谷君」

 

いつになく歯切れの悪い雪ノ下の様子は引っかかったが、それより妹の期限を損ねる方が俺には不味い。

 

「悪かったな。ちょっとお前の実存を確認させたい奴が居てな。別に悪戯したかった訳じゃないんだ、帰ったらクッキー焼くからそれで手を打ってくれ」

 

「……ふーん、まあそういう事なら特別に許してあげるけど。雪ノ下さんて誰?」

 

「部活の部長だ。お前今日まっすぐ家に帰るよな? 今から2人人を連れて行くから」

 

「お兄ちゃんが!? 人を連れてくる!?」

 

「別に今までなかった事じゃない。そういう訳なんで家に居てくれよ。じゃな」

 

「え? ちょっお兄ち」

 

人を連れて行くと言ってこれだけ驚かれると、雪ノ下と由比ヶ浜を家に連れて行ったらどうなるか分かったもんじゃないな。早まったかもしれん。後悔先に立たずである。

が、これで妹も家に居てくれるだろうし二人を連れて行くのに障害はなくなった訳だ。

 

「そういう訳なんで妹はちゃんと存在するし家に居るみたいだからな、ちゃっちゃと移動しようぜ」

 

何故か意気消沈している雪ノ下。と、由比ヶ浜を連れて俺は家路に着いたのだった。



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第5話

「ただいま」

 

「おかえりー」

 

自転車を押しながら2人を我が家に案内し終えた俺が玄関を上げて帰宅を告げると今から妹の返事が帰ってきた。好奇心と緊張が込められたその声に再び後悔を感じた俺だったが、電話からこっち突然重苦しい雰囲気を漂わせている雪ノ下と由比ヶ浜の事を考えれば、それを打開しうる妹の存在はむしろ歓迎すべきなのかもしれない。

 

「お邪魔します」

 

「お、おじゃましまーす」

 

だが、そう思ったのも雪ノ下と由比ヶ浜の二人がそう言うまでの間であった。玄関に響き渡る2人の声を聞きつけるやいなやドタドタと足音を響かせ、妹・比企谷小町は玄関に現れた。閉じられていた今の扉をこれでもかと力一杯に開いたのだろう。完全に開いた扉がその慣性を殺しきれずに壁にぶつかり音を響かせながら跳ね返った。小町はそれを気にも掛けずお客様を見つめると

 

「おっ! お兄ちゃん!? 一体全体どういうあれでこんな可愛い女の子を家に! 信じられない、お兄ちゃんの馬鹿、アホ、ごみいちゃん。そんな事までするとは思わなかった! 小町的にポイント低いよ!!」

 

信じられないのは二人の顔を見るなり俺を犯罪者扱いする小町の方である。てかあれとかそんな事とか勝手な妄想で俺を犯罪者扱いする小町に八幡的にもポイントが底をつきそうである。

 

「小町、よく見ろ。二人共ちゃんと目が開いてるだろ? 誘拐とかじゃない」

 

「それじゃ洗脳? 人質でも取ったとか? 何にしろごみいちゃん如きがそこの人達を合法的に家に連れ込むなんて不可能だよ」

 

カッと目を見開いて口の端から白い泡まで飛ばして言っている辺り小町の本気度が伺える。こいつ本気で怒ってやがる。普段から兄である俺に向けるものとも思えないツリ目がちな目が、はっきりと柳眉を逆立ている。

雪ノ下と言い小町と言い俺を何だと思っているのだろうか。この調子だと両親にも同様に思われているだろうから先手を打って今日辺り3人を説教してやるべきなのかもしれない。とはいえ、今は小町を落ち着かせなければ。さもなければすぐにでも俺は警察で臭い飯を食う羽目になることだろう。

 

「おいおいお兄ちゃんがそんな事までして人を攫うと小町は思ってるのか?」

 

「だって……だってそうとでも思わないと中学時代に香水付けた同級生に『お前臭えんだけど』とか耳を疑う発言して女子を的に回したデリカシー0のごみいちゃんが女の子と一緒に居られる訳がないし」

 

「俺だってあの1件から学んだという事だ」

 

「それだけじゃないよ。ごみいちゃんは移動中歩くのが遅いとかいう理由で同じく中学時代のクラス会を1人抜けだして帰ってきたような癇癪持ちなんだよ? そのごみいちゃんが高校からここまで人を案内なんて出来る訳がないんだよ!!」

 

「それはヒール履いてきたとか訳分かんない理由で配慮を求めてきた連中に腹が立ったから帰ってきたんだ。雪ノ下と由比ヶ浜も何とか言ってやってくれよ」

 

俺の過去の所業を熟知しているが故に俺を信じようとしない小町相手に俺が何を言った所で柳に腕押しだ。一気に面倒くさくなった俺は小町の説得に事の発端となった2人の手を借りることにした。話を聞かない人間の相手なんかやってられないしな。

 

「……そうね、妹さんがそう思うのも無理はないと思うけど今回はお兄さんは無実のような気がするわ。まあそれも私の寛大さがあってこそ言える事だけど」

 

今回『は』と、はを強調する雪ノ下。挙句俺に恩を売りつつ俺が問題行為をしでかしたと暗に示している。

 

「そうだよ小町ちゃん。その、今日はヒッキーまだ何もしてないから安心して。」

 

今日『は』と、はを強調する由比ヶ浜。『今日は』、『まだ』というワードはいつもは何かしている様な物言いだ。

 

「お前らなんで初対面なのに息ぴったりに俺を貶し始めるんだよ。流石に俺でも凹むぞ」

 

「お2人がそういうなら。でもお兄ちゃんがまたどうして家に人を連れてきたり?」

 

「なんで俺以外ならあっさり信じるんだよ。洗脳とか何とかはどうした!?」

 

「もうお兄ちゃん何いってんの? そんなの冗談に決まってんじゃん。それよりいつまでお客さんを玄関に立たせておくのかな? 小町的にポイント低いよ」

 

何から何まで本気で言っていたとしか思えないが、ここで抗弁しても雪ノ下と由比ヶ浜の2人含め誰一人同意してくれないのは確実なので、俺は嘆息1つで扱いの悪さで飲み込むと2人に上がり框に上がるよう2人を促した。

 

来客用のスリッパを用意して2人がそれを履くと小町が笑顔で二人を迎え入れた。

 

「どうも! 比企谷小町です。不肖の兄がいつもお世話になってます」

 

女の常という奴なのか、妙に愛想良く挨拶する小町。それともこいつも雪ノ下なんかと同様に俺の扱いだけが悪いのか。家族からすら不遇な扱いという目尻に汗をかきそうな可能性からは目をそらしておくことにする。

 

「あー、こっちの2人は」

 

「比企谷君に紹介されるには及ばないわ。初めまして。雪ノ下雪乃です。比企谷君とは……比企谷君の……比企谷君には……、そうね比企谷君とは加害者と被害者の関係よ」

 

「それは主に俺がお前に言葉で以って加害されているという事だよな」

 

散々言葉に詰まった挙句の一言には必要以上に物騒な表現が込められていたが、俺はそれに首を傾げる。雪ノ下のそれとしては妙というか、気のせいかこいつは俺に対してもっと突き放した態度がなく、冗談とはいえ俺との関係を明示的な言葉で表現するとは思っていなかったのだ。

とはいえ散々迷う辺りは雪ノ下である。俺ならば同じ部活の人とかで片付けている。

 

「あら、私がいつ貴方の事を罵倒したというのかしら。全く失礼な猿ね。頭の上に乗っかっているのは帽子掛けかしら」

 

「記憶か性格のどっちか或いはどっちも狂ってるお前に言われたくないな」

 

「奇遇ね。私もたった今比企谷君の減らず口を二度と聞きたくないと思ったところよ」

 

「なるほど、雪ノ下さんと兄との関係性は大体把握しました」

 

今のやり取りで小町が悟った俺と雪ノ下の間柄はどんなものだろう。八幡的には前世からの因縁が濃厚。本命は狩人と獲物。大穴で仲の良い異性といった所か。最後のはオッズ1000倍は堅いな。

小町はやんわりと俺と雪ノ下の会話を終わらせると雪ノ下の後ろに居た由比ヶ浜に視線を走らせた。

 

「それじゃそちらの方は……うーん?」

 

由比ヶ浜の顔を見た途端、小町は動きを止めじっーっと由比ヶ浜を見つめ始めた。

自慢ではないが小町は可愛い。身内贔屓を差し引いてもご町内のアイドルレベルだ。おまけに俺の知る中でもトップクラスのコミュニケーション能力を併せ持ち、在籍している中学校では生徒会長という要職にも就いている。当然人脈も俺とは比べるべくもない。もしかしたら俺の知らない所で小町と由比ヶ浜には繋がりが有ったのかもしれない。それにしては由比ヶ浜が冷や汗を流しながら目を逸らしているのは不自然だが。

 

「初めましてー、ヒッキーのクラスメイトの由比ヶ浜結衣です」

 

由比ヶ浜の自己紹介は活字に起こせばきっとこんな風になるに違いない。

はじめましてー、ヒッキーのクラスメイトのゆいがはまゆいです。

小町に弱みでも握られているとしか思えない。そんな負い目引け目を感じさせる由比ヶ浜の姿に、教室で幾度か目にした三浦に詰め寄られて俯いている由比ヶ浜の姿が想起した。中学生相手にこれとはリア充軍団の中でもトップカーストに位置している女とは思えない醜態である。

 

「まあいっか。それでは不調法な兄に変わって小町が案内しますね。どうぞこちらへ」

 

「あら、比企谷君の妹とは思えない位気の利いた妹さんね」

 

「小町は自慢の妹だからな」

 

小町の案内に従って居間に向かう雪ノ下が俺の横を通り過ぎざま言った言葉には素直に首肯しておいた。というか俺は我が家では唯一と言っていい程配慮のない男である。それにしたってこうなってくると親父がいつか俺に語って聞かせた俺が橋の下で拾われてきた説が俄に現実味を帯びてきてしまうのだが。

それは置いておいておくとして、小町が移動して居間に姿を消すと露骨に胸を撫で下ろした由比ヶ浜が気になった。決してその手の描いた奇跡が雪ノ下と同じ年の人間のそれとは思えなかったからではないぞ。

 

「小町に会ったこと有るのか?」

 

「う、ううん。そんな事ないよ! さっき初めましてって言ったじゃん」

 

「そっか。でも自分の妹の事だけど家の外じゃ何やってるか知らないからな。何か迷惑掛けられてたりしたら言ってくれていいからな」

 

小町の事だから無いとは思っているのだが、何かが無ければあんな風にはなるまい。自己紹介する前から名前を知っていた理由にもなる。

とはいえ、そう仲良くもない女子の事情など易易と踏み込めるわけもない。俺は気休めにもならない台詞を吐いて話を切り上げると由比ヶ浜を居間に向かわせた。

 

居間では小町が食器用の戸棚から客用のグラスを2つ取り出してテーブルに置き、冷蔵庫から出したオレンジジュースを振舞っていた。俺は2人がそれに口をつけるのを見届けると一言断ってから自室に着替えに向かった。小町の事だから適当な話題でも振って饗してくれるに違いない。

ただ心配なのが女子同士というのは、時として1瞬で意気投合する事が有るという事である。既に玄関でのファーストコンタクトにおいて見られたあれだ。言葉を交わす前からお互いの俺に対する扱いを見てコンビネーションを見せた3人が俺の居ない隙に本格的に徒党を組むという可能性が有る。

俺は一瞬このまま自室から出て行きたくなくなってしまったが、それはそれで長時間3人から目を離す恐怖も生まれてしまうという事で出来うる限りの速さで着替えることになったのだった。

 

 

 

 

無地のシャツに紺のジーパンという大学の教授の様な格好で俺が居間に入ると3人は談笑中だった。俺の居ない間にどんな会話が交わされたか事細かく聞き出したかったが、そんな事をすれば総スカンを食らうのは火を見るよりも明らかである。俺は仕方なしに今日の本題である由比ヶ浜のクッキー製作に取り掛かる事を提案したのだった。

しかしながらこの提案こそが今日最も難儀な仕事の始まりだった。由比ヶ浜結衣という女は俺の予想以上の女だったのだ。

 

まずエプロンを着れば着方がだらしないと雪ノ下に怒られ、てずから格好を整えようとする雪ノ下相手に遠慮を連発して苛立たせる。常温に戻したバターを練っているかと思えばバターの塊を吹き飛ばして雪ノ下の顔面に直撃させ、篩った薄力粉にはくしゃみをお見舞い。2,3回に分けて投入する卵は1度に全てを投入し、バニラエッセンスをこれでもかとぶち込みまくった。

案の定出来上がったのは凄まじく微妙な出来のクッキーであり、製菓経験を持つ俺どころか、趣味がお菓子作りという男の理想とも言うべき女雪ノ下ですら額を抑えているほどだった。

 

ちなみに由比ヶ浜には普段から使っているエプロンを、雪ノ下には俺が小学校の時家庭科で作ったエプロンを着用させた。普段キッチンに立つ小町は兎も角、俺や母親はエプロンをしない人間だったので普通のエプロンの用意が無かった。苦し紛れに引っ張り出してきた俺製作のエプロンだったのだが、サイズはギリギリで入ったものの予想に違わず俺が作ったという事実とそのデザインセンスに雪ノ下が難色を示し、さりとて防御力の低い方をやらかす確率の高いド素人に装備させる訳にもいかず不承不承前述の状態に落ち着いたのだった。エプロンのデザイン? 黒龍だとかBLACK★DRAGONだとかプリントの入った小学生男児垂涎の、今となっては痛々しいそれですよ? 雪ノ下にはそれについても散々扱き下ろされたが、当時俺のクラスではこのデザインを選ぶ男子が大勢を占めた事ばかりは主張させてもらった。本当だよ?

 

出来上がったギリギリクッキーの領域を逸脱しない、それでいて決して美味しくないクッキーを毒味と称して(由比ヶ浜は抗議の声を上げたが雪ノ下はそれに取り合わず、俺が口にクッキーを放り込むとそれきり黙り込んだ)雪ノ下に食わされた今となっては、エプロンを着た美少女2人が我が家のキッチンに立っているという奇跡のような状態で今日という日を終えておくべきだったと後悔するばかりである。

 

全くの余談だが制服にエプロンこそ至高だとか言い出すのは間違いなくオッサンで、高校生男子としては強く裸エプロンを希求するものである。だって制服来た女子とか学校に居れば毎日見れる訳で、俺のような女子に縁のない男子含めリビドー全開な少年としては裸の方が圧倒的にレアかつエロスを感じるのである。

閑話休題。

 

思えば開始直前、「家庭的な女の子ってどう思う?」と由比ヶ浜が俺に聴き出した段階でこうなる事を予想して積極的に介入すべきだったのだ。叶うならあの時の俺をぶん殴ってやりたい。何が「男の理想だな」だよ! 理想は理想でしかないと何故気が付かなかった。予兆に気を配ってさえいれば、きっと雪ノ下の顔面直撃バター事件だけは防げたものを。俺が方針を変えるべきだと気がついた時には既にクッキーの生地が出来上がってしまっていたのだ。そこからはもうオーブンを使っての作業だ。不注意で目を離すという愚挙にでも及ばない限り失敗の無い工程だが、逆にここまで至ってしまえば手を出すこと殆ど無く、ミスのリカバリも出来ないという事。時既にTHE ENDという訳だ。生地だけに。

 

念の為の少量生産が功を奏してクッキーの処理をつつがなく終えると、そのまま反省会が行われることになった。

勿論戦端を開いたのは雪ノ下だ。

 

「さて、ではどうすればまともなクッキーが作れるか考えてみましょう」

 

「目標そこなの!?」

 

「替え玉作戦はどうだ? 由比ヶ浜以外に作らせて由比ヶ浜は渡すだけ」

 

「私全然関係なくなっちゃうじゃん!」

 

「最後の作戦としてなら十分に検討の余地ありね」

 

「結衣さんのクッキーを焼き上がったタイミングですり替えるのは?」

 

「それなら由比ヶ浜も文句ないだろ」

 

「文句ないっていうか私まで騙しちゃうの!?」

 

初対面の小町までが参加しての袋叩きに有った由比ヶ浜はクッキーを食べた直後より落胆した。もしかしたら誰か1人くらいは慰めてくれると思っていたのかもしれないが、その考えは甘すぎると言わせてもらおう。

 

「やっぱり、あたしって料理に向いてないのかな。才能とかそういうのないし」

 

この程度の失敗でそこまで落ち込むか。繊細というかなんというか、面倒臭いやつである。別に殺人的な不味さの物が出来上がった訳でもなし。才能がどうこう言うならこんな普通に不味すぎてネタにもならないレベルのものでなく、もっと笑うしか無いような物を作るべきである。最低限雪ノ下が泡を吹いて倒れる位に。小町には絶対食べさせないけど。

 

そんな由比ヶ浜を前にしても雪ノ下は決して慰めるような真似はしなかった。その逆に無意味に甚振るような事もせず当たり前のようにこう言い放ったのだ。

 

「努力有るのみね」

 

確かにそれしかないだろう。結局のところ自作のクッキーを渡すのが目標だというなら自分で作れるようになるしかないのだ。お手軽さを求めるなら市販の物を買って渡せば済む所だが、それでは目的に適わない。由比ヶ浜は一度も作ったことのないクッキーを作ってでも感謝の気持ちを示そうとしたのだから。大体この程度の事で劇的な改善を見込めるような手段を期待すること自体が間違っているのだ。歩くのを面倒臭がっているようではいつまでたっても走りだすことなど出来はしないのだから。

 

幸いなことに彼女の努力が無為に終わることはないだろう。何故なら彼女のそばには奉仕部部長雪ノ下雪乃がいるからだ。酔狂としか思えない、そんな部活を先週までたった1人で全うし続けた雪ノ下雪乃がいる限りどうあれ彼女の努力は報われるだろう。

恥ずかしながら今じゃ俺もその部活の一員で、更に今日限定で小町も一緒にいるのだ。これだけの人員が集まって由比ヶ浜にクッキー1つ作らせることが出来ないなんて、そんな事はありえないのだ。

 

「由比ヶ浜さん、あなたさっき才能がないって言ったわね? その認識を改めなさい。何の努力もしない人間には才能がある人を羨む資格はないわ。成功できない人間は成功者が積み上げた努力を想像できないから成功しないのよ」

 

「そうそう。それにな、この程度の事に才能なんて要らないんだよ。お前は単に誰でもするようなつまんないミスをしただけ。小石に蹴躓いたって歩く才能がないなんて事にはならないだろうが。きちんと足を上げて歩くように気をつけりゃ良いんだよ」

 

とはいえ、由比ヶ浜本人はそうは思わなかったようだ。雪ノ下と俺の言葉は受け取り手のないまま何処かに消えて、残ったのはいじけてしまった少女だけだった。

 

「でもさ才能なんて要らないような事でさえ失敗しちゃったんだよ。……やっぱりこういうの向いてないんだよ。それにさ、優美子達が言ってたけどこういうの最近みんなやんないっていうし、別に出来なくても」

 

由比ヶ浜の発言に、俺の中でスイッチが入りかける。

本当に何処まで鬱陶しい。こいつの動機も目的も努力も挫折も究極俺には何の関係もない事だというのに、何故こいつは俺の目の前でウジウジとしているのだろう。慰めればやるのか、励ましてやればやるのか。だとして、どうして俺がこいつの為にそこまでやってやらなければならないのだろうか? クッキーを作りたいから手伝えというのなら良いだろう。納得が行くまで幾らでも手伝ってやる。だが、お前がクッキーを作ること自体に疑問を持つというのならさっさと諦めて帰って欲しいものだ。

苛立ちに全く歯止めが効かない。自分を誤魔化すように笑う由比ヶ浜が1から10まで気に食わず、0から10まで許し難い。

 

知らず拳を握り込んでいた。弁明する訳じゃないが別に手を出すつもりはなかった。単なるフラストレーションの発露だ。口を開いてしまえば、場にそぐわない事を口にせずにはいられなくなるだろうと耐えていると、カップが置かれる音が響いた。音の発生源は雪ノ下。彼女はとても静かな物音でその場にいた俺達の注目を集めると、もしかしたら俺以上の怒気を湛えながら冴え凍る声音で話し始めた。

 

「貴方に足りないのは一にも二にも努力なの。才能の有り無しなど関係ないわ。最低限の努力。それが有って初めて才能なんてものを語るべきなのよ。ところが貴方は始めた直後からどうのと。成功者が積み上げた努力なんて全く想像もしないのでしょう?」

 

「そうやって周りに合わせているのが好きなら一生そうやっていなさい。お礼を言う為に作ろうと決めたクッキーを周りに合わせて諦めるなんて、由比ヶ浜さんて本当に友達思い。さぞ助けてくれた人にも感謝しているんでしょうね」

 

あくまで物腰は冷静だった。雪ノ下の声と言葉だけが、聞いているだけで震えを覚えるほどに大きな怒りと嫌悪を宿していた。その音声に冷水をぶっかけられたみたいに一瞬で頭を冷やされた俺が雪ノ下を見ると思わず声が漏れた。いつもなら冷ややかで、かと言って悪意を感じさせない瞳が真っ赤に燃えていると錯覚するほどの怒りに燃えていた。それは俺の人生で最も激しい、赫怒と言い表すに足るものだ。

 

俺の隣に座っていた小町も小さな悲鳴を漏らしたっきりピクリともしなくなった。多分動いたら殺されるとでも思ったのだろうが、それも強ち勘違いと笑い飛ばすことが出来なかった。

 

「それってそんなに楽しいのかしら。自分の無様さや愚かしさの、したい事を諦める理由を周囲の人間に求める生き方は。貴方のやりたい事ってその程度の物なの?」

 

雪ノ下の痛烈な皮肉に由比ヶ浜が言葉を失って肩を震わせていた。さっきの冗談の比じゃない打ちのめされ方だ。じっとテーブルの縁を見つめる彼女の面持ちを窺い知ることは出来ないがひょっとすると泣いているかもしれなかった。

 

由比ヶ浜結衣という少女に関して俺が知っていることなどたかが知れている。彼女は我がクラスのトップカースト葉山グループに所属していて、そのグループ内での彼女はとても控えめだという事。かと言って彼女の交友関係は葉山グループに終止することなくクラスの誰とでも話している場面が見られる事。その程度である。時折三浦が機嫌を悪くした時なんかに矢面に立たされて、その間中黙って嵐が通り過ぎるのをやり過ごそうとしているのを見るに彼女は気が弱い。それは臆病と言い換えても良いかもしれないが、多くの場合優しさと呼ばれるのだろう。だから彼女は誰とでも繋がりを持てるのだ。

だからこそというべきか、彼女には譲れないものがない。人とぶつかればあっさりと意見を曲げてしまう。自信がない。

 

優しくなく、人に譲るということを知らず、人とぶつかれば打ち倒すことしか考えない。自信過剰としか思えない。そんな雪ノ下とは正反対の女の子なのだ。

 

両者のパワーバランスは武装した猟奇的殺人鬼と保育器の中の乳児並。すわ解体ショーの始まりか、すまん由比ヶ浜俺にはお前の安らかな眠りを祈ることしか出来ない。と心の中で十字を切っていると思いもかけない言葉が聞こえた。

 

「か……格好いい……」

 

発言者の感動がこちらにまで伝わってくるような、余韻と情感のたっぷりと篭った一言だった。

 

「はあ?」

 

俺と雪ノ下、そして小町の声が重なった。

あれか。追い詰められすぎて精神の平衡を失ったのか。元々残念な子だったが、とうとう行き着く所まで行き着いてしまったのだ。

 

おいおい雪ノ下やっちまったな。そう茶化そうとした俺だったが、元々テーブルの隣同士だった由比ヶ浜がぐっと雪ノ下の方に乗り出して、そしてそれから逃れようと狭い椅子の上で精一杯体を仰け反らせている雪ノ下に気付くとそんな言葉は霧散してしまった。落ち込んでいたさっきまでとは打って変わってキラキラと光りながら雪ノ下を見つめる由比ヶ浜の熱っぽい視線が、そんな横槍を許さない程真摯で、つまり真剣だったのだ。由比ヶ浜は正気で、本気で言っているのだ。

 

そんな由比ヶ浜に雪ノ下はすっかり飲まれてしまっていた。やはり饒舌だった先程とは打って変わって口をぱくぱくと開閉させるばかりで言葉らしい言葉が1つも聞こえない。全く内実が異なるものの、直前とは正反対の立場で同じ状況に陥っているのだ。

まあ、由比ヶ浜と雪ノ下の体の近さもその一因となっているのだろう。2人の体と来たら真横から見てもぴったりとくっつくような近さになっていて、その筋の人がここに居たならば『キマシタワー』と叫ぶこと請け合いな状態だからだ。

 

「由比ヶ浜さん、あなた一体何を言っているのかしら?」

 

「え? ゆきのん私の事励まそうとしてくれたんでしょ? 言葉とか言い方とか色々軽く引いたけどさ、怒りながらでも私の事考えてくれてるんだ。って」

 

「……ええ、……そうだったかしら?」

 

由比ヶ浜のポジティブシンキングにたじたじの雪ノ下は最早そうではないとも言えず、一人首を傾げ、そんな雪ノ下を他所に由比ヶ浜がヒートアップし始めた。

確かに字面だけ追っていけば、雪ノ下の言葉はそう受け取ることも可能か不可能かで言えば不可能ではないのだが。真剣に由比ヶ浜の事を思っていたのかというのはちょっと疑わしい。全部が全部とは言わないが半分くらいは苛立ちだったと俺は睨んでいるのだが。

 

だが、どのみち言葉の受け取り手である由比ヶ浜がこの調子で、前向きに受け止めているのなら水を差す事もない。罪悪感か後悔か由比ヶ浜と目を合わせられないらしい雪ノ下も、由比ヶ浜の態度自体には関心したのか、目を合わせられないなりにチラチラと由比ヶ浜を見つめている。

いつの間にか蚊帳の外に置かれてしまった俺も気を取り直して、椅子から腰を上げた。

 

「今度はきちんと1から10までお手本を見ながらやってみるか」

 

初の奉仕部活動。由比ヶ浜を改心させた雪ノ下には及ばないだろうが、俺も場所の提供で終わらず何か一つ位役に立って終わろう。そう思いながらレシピ本を広げ直す俺の前を横切って雪ノ下が颯爽とキッチンに入っていく。

袖をまくりあげ、エプロンを付け直した雪ノ下は一言。

 

「一度お手本を見せるから、その通りにやってみて」

 

それだけ言うと口を差し挟む余地のない手際の良さであっという間に材料の計量を済ませ、更に粉を振るい、バターをこね回し、かき混ぜた卵とそれらを混ぜ合わせていった。

由比ヶ浜とは比べるべくもない手際の良さには、由比ヶ浜と一緒になって俺も舌を巻いた。

 

出鼻をくじかれた形になってしまったが、俺の出る幕はない。へーとか、わーはやーい、とかお兄ちゃんよりずっと上手だねとか言っている女子2人と大人しくそれを見守っていると、あっという間に。一度目のそれを考えると本当にあっという間にクッキーが焼き上がったのだった。

 

雪ノ下がクッキーを移し振る舞うと由比ヶ浜が電光石火の速さで飛びついた。

 

「うわあああーー、すっご、すっごい美味しいよこれ」

 

「本当ですね。おいしいー。これはお店に並んでいても不思議じゃないですよ」

 

由比ヶ浜に続いた小町までがそのクッキーを絶賛した。余程美味いのだろう。2人の顔が零れんばかりの笑顔がになって、口々に雪ノ下のクッキーを褒め称えている。ひょいひょいと手を伸ばす2人の間を縫って俺も一枚頂戴する。

 

「う、うますぎる! なんだこれ本当にうちにおいてあった材料で作ったとは思えないな」

 

例え何度俺が作ってもこうはならないだろうという、明らかに基本の範疇を超えた味わい。ほんのりとした甘さと同時にバターの香り高さが口中に広がった。

標準的な大きさのクッキーだったが、油断していると1ダース位ペロッと食べてしまいそうな美味しさだ。

 

「でもそれは本当にレシピ通りに作っただけなのよ。だから由比ヶ浜さんも同じようにすれば同じように出来ると思うわ。だから頑張りましょう」

 

賞賛に嫌味のない笑顔を浮かべた雪ノ下がそう言って、今度こそ本当に由比ヶ浜を励ました。

目指す目標と具体的手段を手に入れた今由比ヶ浜の快進撃が今始まる。

 



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第6話

 となるようであればこの世の中からあらゆる悲劇が無くなっている事はこの俺比企谷八幡でさえ知っている。だが現実現在この世の中に悪と闘争が蔓延っている事は明らかであり、つまり由比ヶ浜のクッキー作りは失敗に終わったのだった。

 

 いや、確かに当初俺と小町、由比ヶ浜、そして雪ノ下でさえ由比ヶ浜の成功を信じていたのだが。

 

「いい? 由比ヶ浜さん。何度も言うようだけど粉を篩うのに力は入れなくていいの。むしろ腕から力を抜いて軽く左右にって、はみ出してるわ」

 

「大事な事は素早く切るように混ぜることなの。ここで普通にかき回してしまうと中に入っている空気が潰れてしまうわ。……いえそうではなくて。それと全体が混ざるようにボウルは少しずつ回転させて」

 

「由比ヶ浜さん、間違っても水気を切っていない器具を使わないこと。些細な事かもしれないけれどお菓子作りにおいて水分の管理は死活問題なのよ。だから洗った手をそんなてきとうに拭いて作業を続けないで貰えるかしら」

 

 と細かい所で突っ込みが入り、終わってみれば全体として作業時間は短くなったものの劇的というほどでもなく、手際もさして改善された風には見えなかった。

 

 当然焼き上がったクッキーの方もどうにか前回よりもマシな出来、普通に食べられる領域には届いたが雪ノ下レベルとまでは口が裂けても言えなかった。

 

「どうして上手く行かないんだろう?」

 

 なまじ雪ノ下という理想形を目にし、かつその指導を受け、雪ノ下のクッキーを味わったばかりに目標が高い所に行き過ぎたのだろう。まるで最初の失敗の時のように落ち込んで見せる由比ヶ浜。俺としてはマイナスがないだけで後は女の子の手作りというプレミア感だけで十分だと思えたのだが、送る相手のいる由比ヶ浜にとってはそうではないという事か。納得の行かない様子の彼女に果たしてその様な意見が取り入れられるかは想像に難くないだろう。雪ノ下が居る段階で美味しいなどと嘘を吐くのは論外だろう。彼女が協力する訳がない。何故ならば彼女もまた由比ヶ浜の隣で首を捻っているからだ。

 

 ぶつぶつと何かを呟きながら時に手を縦に振ったり、何かを捏ねるようにしたり。多分由比ヶ浜の調理の過程を一つ一つ振り返っているのだろう。勿論問題が有るという事は前提で、何処をどうやって改善するかという事なのだろうが、しきりに首を傾げている。しつこく横から指図しながら作業した結果があれだったので、どう教えるべきなのかが分かっていないのだろう。

 

 数学の出来る人間と出来ない人間にそれなりに複雑な数式を解かせた時のようなものだろう。両者同じ公式等を使って問題を解こうとするだろうが、数学の得意な人間には脳内で無意識の内に処理される内容が、そうでない人間にとっては四苦八苦するような作業となる。結果作業の工数が増え、それだけミスの機会が増え、間違った結果に辿り着きやすくなってしまう。これこそ努力の賜物というべきなのだが、染み付いた身体感覚とも言うべきレシピを実行していくテクニックまでは、そう簡単に教えられるものでもないらしい。

 

 この場にはもう一人俺より料理の美味い人間が居たのだが、自分より腕の良い雪ノ下が指導に悪戦苦闘しているのを目にしてあっさりと、「あ、小町ちょっと宿題が有るので」とか抜かして一抜けしやがったので、華麗な解決策とやらには期待できない。

 

 取り敢えず俺としては雪ノ下に言っておくべきだ事が有るので伝えておこう。

 

「雪ノ下はさ、さっき成功者の努力って言ってたけどさ、成功できない人間だって別に努力してない訳じゃないんだぜ。確かに成功した人間の努力を軽んじているかもしれないけど、だからといってそれを言っている本人も努力自体を軽んじてる訳じゃない」

 

「何よ突然?」

 

 唐突な俺の批判に雪ノ下が目を丸くした。

 

「いや、さっきの由比ヶ浜はやってもいない事に対して才能どうこう言ってたけど、やったって出来ない人間も居る事位は覚えておいて欲しいと思ってな」

 

 確かに世の中の大半の事はやれば出来るかもしれないが、かと言って全てがそうという訳じゃない。努力するという事はとても難しい事だが、努力すればなんて言葉で片付けてほしくない事も有る。

 

 俺の言いたい事が分かって貰えたのか分からないが、雪ノ下はそれについて反論して来なかった。

 

「……そんな事は分かっているわ。それより由比ヶ浜さんにどう指導すれば良いかという意見は無いのかしら」

 

「それなら俺は雪ノ下の言った通りにするのが一番良いと思うぞ。努力有るのみだな」

 

 そうだ。努力有るのみ。そして最も分かりやすい努力の形というのは反復だ。繰り返し繰り返し上手くいくまで繰り返す。直前にそれで上手く行くとは限らないなんて言っては見たものの、やはり取り敢えずはそれしかないのだ。

 

「雪ノ下、悪いけどもう一回作ってもらえるか?」

 

「良いけれど、由比ヶ浜さんが失敗する度には出来ないわよ」

 

「雪ノ下さんひどい! そんなに何回も失敗しないもん!!」

 

 うんうん、俺も同じ事考えたけど口にはしないよ。というかこれからやることというのはそれを切っ掛けにして思いついたんだけどな。

 

 頬に空気を溜めて膨らませる由比ヶ浜。まなじりも多少持ち上がっているが本気でない事は明白で、雪ノ下も「あら、本当にそうなら私が一回一回お手本を見せてあげても良いかしら」と返した。直ぐに成功させる自信がないのか由比ヶ浜は言葉に詰まる。

 

 クッキー作りを通して仲良くなったのかじゃれあう二人に、多少の疎外感を覚えつつ俺はポケットから携帯電話を取り出してある機能を起動させた。

 

「ネットによく動画で作り方なんかを撮ったのが上がってるだろ。それと同じだよ。雪ノ下が作ってるところを撮ってお手本にする。ってもまあイメージトレーニングをするってのが本題なんだけどな」

 

「イメージトレーニング?」

 

「ああ、実際にはやらないでその動きなんかを頭の中とか、体を動かして」

 

「その位知ってるよ!? バカにすんなしヒッキー!」

 

「冗談だよ。流石にそう何回もクッキー作ってると材料代も馬鹿にならないしな。取り敢えず雪ノ下がどんな動きをしてるか。どんな手順で段取りを組んでいるか。生地がどうなっていればいいのか。一番分かりやすい視覚情報を記録に残しとけば参考にもしやすいだろ? それに雪ノ下が作ってる所を撮ればその味なんかも知ってるわけだしモチベーションも上がるだろ。」

 

 ネットの動画では肝心の味が分からないので、作ってみても自分好みの味ではなかったりする事も有る。おまけにこうしてじゃれあえる位仲の良い人間が作っているなら親近感とか一緒に作っているような錯覚とか色々が手伝ってくれるだろう。

 

 俺としては由比ヶ浜個人の姿勢こそが最も重要だと思えたので、その点を加味しての提案だったのだが2人は何と言うだろうか。

 

「妥当な解決策ね。ただ面白みの欠片もないというか詰まらないというか。正に比企谷君らしい解決策と言えるわね」

 

「ヒッキーなんかキモい。…・・・てか女の子がお菓子作ってる所撮るとか普通にキモッ!」

 

「はっ!? まさか比企谷君、貴方の携帯で合法的に私の姿を撮影しようという魂胆じゃないでしょうね。汚らわしい」

 

「はあ!? ヒッキーマジ最低! 大体女の子のお菓子作ってる所が撮りたいんだったら私が、ってああ違う。……もう、とにかくヒッキー最低、キモッ!」

 

「由比ヶ浜さん、撮影は貴方の携帯を使いましょう。あの男の携帯で撮られたらその後一体何に使われるか」

 

「ふんっ、ヒッキーのバーカ。もうクッキーあげないんだから」

 

 このように え? あれ? そんなに非難轟々吹き荒れる意見だったの? って位罵倒された俺は、この後何の冗談でもなくキッチンを追い出され、俺の代わりに小町が2人に合流した。

 

「結局お兄ちゃんがクッキー作ってくれる訳でもないし、約束を破るお兄ちゃんの事は許してあげられませんなあ。という訳で小町が呼びに行くまでお兄ちゃんはお部屋で待機! それじゃ」

 

 そう言って笑顔で手を振る小町に見送られ自室に戻った俺は、女子という生き物の理不尽さを再認識させられた衝撃と徒労感、そして怒りでふて寝を決め込んだのだった。

 

 それから一時間。完璧なまでに寝入っていた俺を起こしたのはドアがノックされる事も無く開いた音によってだった。

 

「お兄ちゃん、お客さん放っておいて一時間も寝てるとか小町的にポイント低いよ」

 

 寝起きに聞かされるにはちとヘビーなギャグだったが、突っ込みも拳を振るう気にもならなかった。寝て起きたらすっきり爽やかな気分になれるというのが俺の数少ない特技だからだ。本当に、こいつの兄が俺で良かった。でなかったら比企谷小町という女は既に亡き者となっていただろうから。

 俺の寛大な心、というよりも偶然に助けられた小町には返事をせず、気持ち重たい瞼もそのままに俺はベッドを抜け出た。窓の外はまるっきり暗くなっていて、部屋の中も肌寒くなっている。そろそろ2人がお暇するという事か。

 誇張抜きに今日の俺は場所を提供する以外に何の役にも立たなかったらしい。というか小町がたった今お越しに来た辺り、小町は1時間の間俺の部屋に踏み入っていないという事で3人でよろしくやっていたという事なのだろう。俺は身が震えるような寂寥を感じずには居られなかった。

 

「分かった。送ってくって伝えておいてくれ」

 

 とはいえ、どれだけの孤独を味わわされようとも最低限の義務というものも有る。家が何処だか知らないが適当な所まで送っていく位せねば男が廃るというものだ。俺は薄手のジャケットをつっかけてから、居間に向かった。

 

 居間に入ると雪ノ下と由比ヶ浜の2人が帰り支度を済ませて丁度腰を上げた所だった。

 

「よう、由比ヶ浜のクッキーはどうなった?」

 

「あら、無責任な比企谷君らしくないわね。由比ヶ浜さんなら心配しなくてももう大丈夫よ。手順を何度も確認しながら要点も説明したし、今の彼女なら十分に美味しいクッキーが作れると思うわ」

 

「雪ノ下が太鼓判を押すほどか」

 

「ふっふーん。ヒッキーが泣いて喜ぶようなクッキー作っちゃうもんね。それにそれにお菓子作りって結構楽しいし、次はもっと凄いやつを」

 

「由比ヶ浜さん、申し訳ないけれど貴方にはまだクッキー以外は早いわ」

 

「ゆきのんひどっ! もう、私だってやれば出来るんだから。今度美味しい、美味しい……美味しいお菓子をご馳走してあげるから」

 

 そこで具体的な名称が上がってこない所が由比ヶ浜の怖い所である。しかし。

 

「しかし、どうして俺が泣いて喜ぶクッキー?」

 

 お世話になった人にお礼にあげるのではなかっただろうか。無論くれるというなら貰う所存だ。雪ノ下が心配ないと言うくらいだから味の方も期待出来るし、俺とて男。女の子の手作りクッキーならそれこそ金を出してでも手に入れたい。

 

「うえええっ!? ち、違うよ? その位美味しいって事で別にヒッキーにあげるなんて」

 

 くれないのか。落胆を表には出さないが、非常に残念だ。慌てながら、間違っても勘違いすんなよと言外に伝わってくるような由比ヶ浜の反応も。せめて雪ノ下がもう一回作ったというクッキーを一枚だけでも味わいたいが、今探すのは止めておこう。傷心の俺に雪ノ下が塩を塗り込めて来ないとも限らない。さり気なく、特に何の意味も無くキッチンの方を確認したが、クッキーは見当たらなかった。

 

「でもまあ、そこまで美味いクッキーなら貰う相手もお前が感謝してるって分かってくれるんじゃないか」

 

 感謝の気持ちを伝える意味合いが無いのなら、もっと簡単な手段が有ったのだが、この行為の真の目的は由比ヶ浜の自己満足である。いや、真の目的と言ってしまうと悪意が有るか。ともあれ感謝の気持ちを伝えるというだけなら態々クッキーを作る必要など無い。コンビニにでも行って千円そこらのクッキーの詰め合わせでも買って渡せば良いのだ。では何故由比ヶ浜は手作りという手段に至ったのか。簡単だ。感謝以外に伝えたい事が有るか、でなければ自分が相手に感謝している・お礼を言う為に努力しているという実感が欲しいかのどっちかだろう。

 

 感謝以外に伝えたい事、最も想像しやすいのが好意だが、その好意を伝えるというならそこまで努力せずともいい。男なんて生き物は悲しいかな可愛い女の子に弱い。それは吸血鬼に対する聖水、人間に対する拳銃みたいなもので、視界にちらつかされれば否応無しに目で追ってしまう位だ。そんな女の子から手作りのクッキーが貰えるとなったら、それが例え多少味が悪くとも相手の男は心穏やかには居られないだろう。が、今回俺は由比ヶ浜の具体的な依頼について何も知らない。そもそも相手が男なのかも分からない状況だったので、単に彼女の感謝が伝わる。もしくは彼女自身がそれに納得できるお礼にする為の援助をしたつもりだ。

 

 これでどっちに転んだ所で由比ヶ浜がそのお礼に不足を感じる事はないだろうし、相手も美味しいクッキーを受け取れてWINWINという訳である。

 

 雪ノ下の思惑は気になる所だったが、依頼人の目の前で聞くわけにも行かず、こうしてごく普通に背中を押してしまった訳だが、由比ヶ浜としては当然色々心配することが有るのだろう。

 

「本当? ヒッキーでもそう思ってくれる?」

 

 こうして自信無さげに彼女が質問してくるのは今日何度目だろうか。俺でもいい加減気付く。彼女が本当に臆病な質だという事に。そしてそれが意味する彼女の優しさにも。自分のバッグを持つ彼女の手がぎゅっと固く握られる。そのバッグの中には彼女の作ったクッキーと彼女の気持ちが詰まっているのだ。今となってはもう彼女のその優しさと気持ちを知っている人間の一人として、こんな言葉を言うくらいは良いだろうと思う。

 

「ああ、心配すんなよ。相手も絶対分かってくれる。……まあヒッキーでもってのはちと引っかかるが。相手が男ならひょっとするとお前に惚れるかもな」

 

「ええ!? この位で?」

 

「相手にもよるだろうけどな。でもまあ、その位相手も喜ぶだろうって意味合いだ」

 

 男の子のちょろさは異常だ。なんだったら目と目が合うだけで運命感じちゃう事も有る。こいつが本当に謝意しか持ってないとしたら相手の男も少し気の毒だ。なんせこんな可愛い女の子がクッキーをくれてもただの義理だって言うんだからな。俺なら血の涙を流してもおかしくない。その点雪ノ下なら少しは理解してもらえるだろう。大分悪い記憶にはなっているだろうが、雪ノ下は好意を寄せられる事に関しちゃ一家言有るようだったし、そういったケースの経験も有ってもおかしくないからな。

 

「気をつけなさい由比ヶ浜さん。男子も女子も簡単に勘違いする生き物よ。特にその男なんかは日頃のモテない鬱憤を晴らそうと、ここぞとばかりに勘違いしそうだし」

 

「愛されガールはよく分かってらっしゃる」

 

 案の定由比ヶ浜に注意を呼びかける雪ノ下。その矛先は俺にも向いているようだが如何せんこればかりは俺でも否定しかねる。俺も素直に首肯を返したのだが何故か悪寒が走った。

 

 中に何が詰まっているのかは定かではないものの、標準的なスクールバッグ。その持ち手を握った雪ノ下と俺の間で殺伐とした空気が流れる。皆さんご存知の事と思うがバッグというのはごく身近に存在するものの中でも、最も簡単に凶器に変貌するアイテムだ。中に重量物が入っていれば容易く鈍器に変わり、そうでなくとも取っ手を持って振り回せば簡単な長物として使える。遠心力を活かせば威力は大の大人でも悶絶する程だし、ストラップやアクセサリーは目潰しとしても有効だ。そんな物騒な代物を剣呑な雰囲気の雪ノ下が構えているという、その事実そのものすらも恐れ戦くに十分だ。

 

 ご家庭内、しかも俺の家で小町の目まで有る。理性の有る雪ノ下ならば当然自重して然るべき状況だが、数日一緒に居た俺の所感ではちょっと怪しい。そもそも反撃を許容しない癖に攻撃を加えてくる人間性そのものが、あまり円熟しているとも言い難いのだ。想定される雪ノ下の攻撃パターンから反撃、あるいは武器を取り上げる方法を脳内シミュレーションして身構える俺。比企谷家のリビングダイニングは突如として一触即発の様相を呈したのだった。

 

「ちょっ、ストップ。ストーーーーップ。いきなり喧嘩始めないでよゆきのん、ヒッキー」

 

 俺と雪ノ下。緊迫した視線を交差させる2人の間に腕を広げた由比ヶ浜の体が舞い込んだ。なんという頼り甲斐の有る後ろ姿。思わず惚れそうだぜ。そしてそのまま雪ノ下を宥めてくれ。これがリア充のなせる技だろうか、その行動力と勇気に尊敬の念を覚えると共に情けない事を考えていると、雪ノ下が溜め息を吐きながら肩の力を抜くのが見えた。

 

「冗談に決まってるでしょ、由比ヶ浜さん。人様の家庭でそんな無礼な事をする訳がないじゃない」

 

「だよねー。あー、びっくりした。ゆきのんがこんな事すると思わなかったから驚いちゃったよ」

 

 俺には場所が違えばやっていたと聞こえるそれも、由比ヶ浜にはそう聞こえなかったらしい。多分俺の対人経験値が由比ヶ浜のそれよりも低いことが原因だと思う。ついでに雪ノ下の視線が由比ヶ浜の肩越しに俺を追尾しているのも、唇が意味ありげに持ち上がっているのもそれ故の錯覚だろう。そうであって欲しい。

 

 由比ヶ浜はそのまま雪ノ下にじゃれつき始め、抱きついてくる由比ヶ浜を困った顔をしながら引き離そうとする雪ノ下の抵抗も無視して、今日のクッキー作りの感想とそのお礼、そして手順について質問を始めた。俺が部屋に戻る前とは見違えるようなやる気と、そして仲の良さである。

 

 しかし、雪ノ下に対してハグをしながらお礼を言うなら、俺相手にも同じ事が有ってもおかしくない。いやまさかな。そんなラッキーな事が起こるはずが……由比ヶ浜さん少しふしだら過ぎるんじゃ。

 

「お兄ちゃんにもきちんと友達が出来たみたいで小町も一安心だよ」

 

 妄想に耽っている俺の肩を誰かが叩くので振り返ると、一連のやり取りの間も無言無鑑賞だった小町が俺の顔を見上げながら感慨深い声でそういった。お前は俺の保護者かと突っ込みを入れても良かったが、小町の場合冗談なのか本気なのか生意気にも頷きそうなので止めておく。実際、俺の人間関係と対人能力に関してかなりの部分を把握している小町は、いつの頃からかお節介を焼こうとしているようなので強ち間違いとも言えないのかもしれないが。

 

 実の妹にそうまで心配されているという事実に俺の心は若干落ち込んだ。とはいえ。

 

「もうこれでお前にも心配されないで済むな」

 

「甘い! お兄ちゃん甘いよ!! お兄ちゃんの事だからすぐに地雷踏みまくって嫌われるのがオチなんだから。でも、そうなっても小町だけはお兄ちゃんの味方だからね。今の小町的にポイントたかーい」

 

「その状況を心配してんのか、それとも期待してるのか。後者だったらお兄ちゃんとしては怖いんだけど」

 

 雪ノ下の殺気よりもなおはっきりと俺の背筋を凍らせた小町の言葉の本意は何処かに置いておいて、改めて俺は部屋の中を眺め回した。

 

 テーブルの上、キッチンのシンクと水切りカゴに置かれた調理器具。後片付けまでしっかりと済ませてしまっているらしい。これは重ね重ね奉仕部員としては立つ瀬がない。が、済んだことは気にしてもしょうがない。気を取り直して用件を切り出した。

 

「雪ノ下と由比ヶ浜、もう帰るんだろ? 何の役にも立てなかったんで、せめて送って行くくらいはさせてくれ」

 

 すっかり日も沈んで星も見える時間帯だ。治安の悪い街ではないが、気分的に暗い中女の子を家に帰すというのも悪い。住んでいる場所も交通手段も分からないが、せめて公共交通機関などが使える場所まで送って行きたかった。

 

 荷物を抱えようとしていた2人を見つめる。由比ヶ浜はどうか知らないが雪ノ下は素直に頷くとも思えない。そうなった場合はしつこく食い下がる訳にも行かないので、心配だが玄関でお見送りしかないだろう。てか今の段階でも割りと気持ち悪がられたりするんだろうか? 分からん。

 

「比企谷君、世界の何処にストーカーに態々自分の家を案内する人が居るのかしら」

 

 毎度の事ながら言葉の裏を読もうとする女雪ノ下雪乃。はっきり言ってその手の心配は完全に誤解なのだが、こうして毎回忘れずに言ってくる辺り冗談めかして本気という可能性が否めない。この女なら帰り道で本気で俺のストーキングを警戒していても不思議じゃないと思わせる何かが有る。

 

「敵情視察にストーカーの家に潜入する女の数もそう大して多くもないと思うが。てかまだ俺がお前の事好きな設定続いてるの?」

 

「ええっ!? ヒッキーってゆきのんの事好きなの?」

 

 俺からすればあからさまな嘘に、大袈裟に驚く由比ヶ浜。小声でそうだったんだと勝手に事実化しながら俺と雪ノ下。そしてバッグを幾度も視線が行き来している。雪ノ下も雪ノ下で、由比ヶ浜が嘘を真に受けても気にもしない。

 

「話を聞けよ、設定って言ってるだろうが」

 

「ええ分かっているわ。そういう設定という設定なのでしょ? 受け入れてもらえない好意を打ち明けるというのも辛いでしょうけど、そうやって予防線を張るのは関心しないわ」

 

 雪ノ下の奴、もういっそ俺が雪ノ下に好意を抱いていると利益でも有るのかと勘違いする位ぐいぐい来る。間違ってもそんな事は有り得ないので何か裏が有るのだろうが、俺の考え付く答えと言ったら俺のバッグに眠るお菓子を狙っているとかそんなものである。自前であれだけ美味いお菓子を作れるというのに、他人のお菓子を狙うとは雪ノ下は欲張りな女のようである。

 

「不愉快な考え違いを犯していそうな顔をしてるわ。言っておくけど間違っても私が貴方に好意を抱いているとは思わないでちょうだい」

 

 左手の掌をこちらに向けて突き出しこちらを牽制。同時にもう右手を頭に当てて頭痛を訴えてみせる雪ノ下。やれやれこれだから童貞は。家に連れ込んだ位で調子に乗りすぎ。と言われている気分だ。

 

「それって今のお前みたいな顔か?」

 

「そっか、確かにヒッキー教室とは全然違うもんね。……そっかあ」

 

「由比ヶ浜さんも気をつけなさい。送り……狼という程格好良くないわね。送り比企谷君にはね」

 

 雪ノ下に構えばその隙に由比ヶ浜が勝手に理解を深め、由比ヶ浜の誤解を解こうとすれ

ば雪ノ下から流言が止まらず。心なしか部室に居た時より元気な雪ノ下と、何故か徐々に萎れだした由比ヶ浜に事態の収集が不可能であることを悟った俺は、汎用ヒト型インターフェース小町を頼ろうと視線で助けを求めた。ところがである。

 

「ほっほう。なるほどなるほど。由比ヶ浜さんはそういう……。しかし、お兄ちゃんの様な不良品をみすみす押し付けてしまうのは人間として……。確かに妹としては喜ばしい事だけど……」

 

 と深い懊悩に包まれているようで小町は俺のアイコンタクトに全く気が付かない。ぼそぼそ聞こえる言葉の端々に俺に対するぞんざいな扱いが表れているが、俺の周りの女性はこんなばっかである。むしろ小町で耐性が付き過ぎて気にならないレベル。

 

「ゆきのんも凄く楽しそうだし、もしかして私って邪魔なのかな?」

 

「馬鹿を言わないで、由比ヶ浜さん。その男が部室に来るたび私は貞操の危機に晒されているのよ」

 

「でもゆきのんも普段は男子と一緒にいないのにヒッキーとは同じ部活だし」

 

「それは先生が無理矢理に。大体私はクラスがクラスだから普段は男性が周りにいないだけで私だって依頼がなければ」

 

「雪ノ下さんならお兄ちゃんをばしばし矯正していけそうだけど、ライバルも多そう。お兄ちゃんとかそうなったらすぐ見捨てられそうだし」

 

「ヒッキー最近は放課後すぐに教室から出て行くし、凄く楽しそうだったけど」

 

「俺が最近教室で時間を潰さなくなったのは事実だし、楽しそうにしていたのも事実だが、それは断じて雪ノ下に会えるからじゃなくて雪ノ下から借りる本が面白かったからだぞ」

 

「無知で無学な比企谷君な比企谷君の成長の助けになることは、先生からの依頼の為にも必要な事だから」

 

「比企谷君なってどういう意味の形容詞だよ。待て、言うな。言わんでも大体分かるから」

 

「やっぱり2人って仲いいよね」

 

 ええいどいつもこいつも勝手か事ばかり抜かしやがる。

 雪ノ下と話せば必ず脱線し、それを見て勝手に由比ヶ浜が納得。俺がそれを止めようとする様を小町が遠巻きに頷きながら観察している構図が中々崩れない。かくなる上は。かくなる上は。

 

 まるで天恵といわんばかりにチャイムの音が聞こえてきた。誰だか分からないがナイスなタイミングだ。時計を確認すると時刻は6時半過ぎ。帰りを切り出してから10分程度経過している計算になる。平日のこの時間に来客など滅多に有ることではないので多分宅配便か何かだろう。俺は2人に断りを入れると玄関に向かった。

 

 暗くなった玄関に明かりを灯し、靴にきちんと足を通すのも面倒くさがって踵を踏み潰したまま扉を開けると。

 

「はじめまして。私雪ノ下陽乃と申します。先頃の事故の件改めてお詫びに参りました」

 

 雪ノ下を名乗る、雪ノ下雪乃そっくりの、似ても似つかない女が現れた。




残弾が尽きました。
しばらくお待ちください。


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第7話

 八幡の目の前が真っ暗になった。

 

 そんな文章が目に浮かぶような一日を終え翌日になって何事も無く授業を消化したものの、回復しきれなかった疲労感を抱えて奉仕部の部室前に立った俺はかれこれ5分もこうして部室に踏み入れないまま立ち尽くしていた。それもこれも全て昨日の雪ノ下陽乃来襲に端を発する、一連のやり取りのせいだ。思い出したくもない30分。そのたった30分のおかげで俺は……。

 

 汚れちまった悲しみに。そんなつい先日目にした詩集には書いてあったが、今の俺もそんな気分である。ああ、叶うなら昨日という日が無かった事にならないものか。そんな事を願った所でファンタジー小説の中のようには行かない。結局俺は幾ら時間を掛けたとしても部室の扉を開けるか、それとも平塚先生との約束を破って踵を返すかという選択をせずにはいられないのだ。

 

 ああ、どうしてあんな事に。

 

 そんな思考のループを楽しんでいる俺に声をかける者があった。

 

「比企谷君」

 

 俺が二の足を踏む原因、誰あろう雪ノ下雪乃その人であった。

 

 浮かない顔で(思い出してみてもうきうきとした雪ノ下など見たことはない)、俺に話しかけたその言葉にはそうする事に対する申し訳なささえ滲ませて(尊大な雪ノ下らしくない態度だが、普段からもっと見せてもよい。特に俺を罵った後には)、俺の後ろに立っていた。スクールバッグを小脇に抱えた雪ノ下は俺と目が合うと視線を廊下に這わせる。それきり、もうその言葉の続きも彼女の歩みも止んでしまう。

 

 彼女が俺より遅く部室に来る事など今までに無かった。俺はてっきり彼女はもう教室の中で、俺自身の心の準備が出来てから入れば良いと思っていただけに、思いもかけないタイミングで顔を合わせてしまった彼女に対してどうすればいいか決められない。

 

 俺と雪ノ下の間柄など、ここ1周間同じ部室に居た程度の物であり、吹けば飛ぶような関係だ。だからこういう事が起こるとお互いに相手の考えを推察することも出来ない、お互いに歩み寄ることさえ出来ずに沈黙し続けるような薄っぺらいものでしか無いのだと実感してしまう。実感してしまうのだが……そんな事を寂しく思う事は無い。少なくとも居心地の悪さを感じて逃げ出してしまいたくなる事もまたないのだから。

 

 それに、こうして雪ノ下も俺同様に動きを見せない今、昨日のことを整理する機会が得られたとも考えられる。

 

 俺は脳裏に昨日の顛末、雪ノ下陽乃の来訪から、今日気まずい再開を果たす原因となった最悪の別れまでを回想した。

 

 

 

「はじめまして。私雪ノ下陽乃と申します。先頃の事故の件改めてお詫びに参りました」

 

 そう玄関を開けた俺に切り出した女性、女性だ。先生程でも無いが俺達よりは確実に年上だと分かる、そう思わせる雰囲気を持った女性は突っ込みどころ満載の台詞を、しかし全く反論も思いつかせぬまま話を続けた。

 

「こうしてお詫びに来るのが遅れてしまい大変申し訳ありません。諸般の事情により両親から固く止められておりましたが、雪乃が部活でお世話になると聞いて居ても立っていられなくなり。その後お加減は如何でしょうか?」

 

 作り自体は活発さを感じさせるが、何処か冷たさを感じる相貌。怜悧で狡知、生意気さを感じさせる口元。シュッと通った鼻筋。明りが有るとはいえ夜闇の中でパッと光っているようにさえ見える瞳。俺が見てきた中でも間違いなく5本指に入る美人だ。見覚えが有るように感じる事だけが引っかかりを覚えるが。それが春らしいデニムシャツの上にコート、白のパンツというカジュアルなファッションで頭を下げる。おまけにヒールの入った靴。この顔でこの苗字、雪ノ下の血縁に間違いないだろう。彼女には似合いそうも無い格好だが、目の前の女性にはよく似合っている。一目でそう思わせるほど2人の雰囲気は違っている。そう、顔の形は似通っているというのにである。

 

 下手に顔付きが似ているからこそ、却ってそこに宿ったものが違っていることを強く主張している。恐らく中身の方は雪ノ下とは似ても似つかない筈だ。そうそうあんな女が居ても困るという話でも有るが。

 

 その雪ノ下陽乃が何故か俺の家の玄関で、俺に謝罪しこういう時の常套句を述べている。振る舞いにはきっと文句のつけようがないのだろう。彼女の謝罪には心が篭っているように『見えた』し、彼女の言葉には心配の響きが有るように『聞こえる』。が、何の冗談だと俺でなくとも思っただろう。何せ俺が事故ったのは1年も前の話で、この時間アポもなしに唐突に謝罪に現れ、格好も相応しくなく、両親の同席もない状況、おまけに相手が事故を起こした張本人でもないときてる。これは十中八九謝罪などではない。何か他に目的が有るのだ。

 

 ちなみに何故俺が雪ノ下さんを事故の加害者でないと思うかといえば、俺を轢いたのは正真正銘男だったからである。それも中年の。入院中に病室まで挨拶に来たその相手と言葉も交わした事が有る。それでは勘違いのしようもない。当時身代わりでも立てていなければという前提が必要になるが。

 

 標的は容易に特定可能だ。俺とは初対面だし、由比ヶ浜も雪ノ下とのやり取りを見てる限りでは、雪ノ下さんとの面識はないと見ていいだろう。消去法で雪ノ下が残る。姉妹という関係から見ても彼女がやはり最有力。だが目的は分からない。状況が状況だ。雪ノ下が我が家に居ることを承知で来たのか、それとも知らなかったのか。そもそもそんな事に意味が有るのか無いのかも分からない。

 

 分からないし、姉妹の間の出来事に俺を巻き込んでも欲しくない。どのみちここまで来られた時点で巻き込まれるのは確定的だが、態々雪ノ下の盾になってやるほどの義理もないだろう。そう思った俺は早速手っ取り早い方法を採ることにした。

 

「よく分かりませんが、中へどうぞ。妹さんも中にいらっしゃいますし」

 

 火災が起きた油田はニトロで派手に吹き消すそうである。収集の付かない居間の状況にどう考えても揉め事の気配のする人物を放り込む。おまけに雪ノ下さんの標的が雪ノ下だと言うならウチで長期戦を繰り広げる訳もない。というかあまり長居されると両親も帰ってくるし、そうなれば両親も雪ノ下さんの家に何かしらの申し立てをする筈だ。そうなれば雪ノ下さんにとっても良くない事になる筈だ。悪くない手だと思えた。謝罪してさっさと帰る位ならこのタイミングでの来宅もおかしい。いや怒鳴り散らして追い返せば良いのかもしれないが、俺が彼女に何を怒鳴り散らせば良いのか分からず、どの道他に手がない。

 

 望み通りの展開の筈なのに怪訝な反応を見せる雪ノ下さんもしかし、俺が有無を言わさず中に招くと大人しくそれに応じた。

 

 それにしても妙な日だ。妹の知り合いでもない年若い女性が3人も我が家に集結しているのである。はっきり言って異常事態だ。まあそれも向こう十数年に渡ってもうない事だと思えば僥倖なのかもしれいが。

 

 雪ノ下達にそうしたようにスリッパを用意して、居間の扉も開けて中に入るよう手で示すと甘やかな香りをさせながら俺の前を通り過ぎて行く。当然予期しない来客に中に居た3人が驚いた。特に身内が来たという雪ノ下の驚きは大きかった。

 

「姉さんがどうしてここに!?」

 

 女性3人しか居なかったからだろう。いつも油断のない表情をしていた雪ノ下が弛緩した顔を見せていたというのに、一瞬で表情を強張らせ信じられない物を見るような目で雪ノ下さんを見つめている。その顔は最早当惑を滲ませる由比ヶ浜と小町のそれとは一線を画す、戦慄と敵意を感じさせるものだった。対する雪ノ下さんも雪ノ下の存在に驚きが『感じられる』声を上げた。

 

「雪乃ちゃんこそどうしてここに?」

 

 何てことはない。何処にも疑問の余地のない、至って当然の台詞。だが今の雪ノ下さんの言葉にどうしてかザラッとした、ヤスリで削られた様な不快感を感じた。雪ノ下も、リア充故か空気に敏い由比ヶ浜と小町もきっと同じように感じたのだろう。2人が驚きとは別の種類の感情に微かに身構えたのが見えた。そして最も劇的な反応を見せた雪ノ下はと言えば。

 

「……」

 

 口を噤み、姉を睨みつけるばかりである。但し、色白の顔を真っ青にさせて。

 

 俺の予想を遥かに超えて雪ノ下陽乃という人物は強力な爆薬だったという事だろう。ともすれば油田ごと吹き飛ばすような。

 

 その雪ノ下さんは雪ノ下の視線など柳に風と受け流し、それでいて強力無比な一撃をお見舞いした。

 

「私は今日、雪乃ちゃんが乗っていたウチの車が比企谷君を轢いた事故のお詫びに来たの」

 

 やはりというべきか雪ノ下の反応は激烈なものだった。髪の毛を逆立てんばかりの形相を浮かべ、白く透き通るようだった顔がまるで怒りで膨れさせその怒りのままに何事かを言おうとした。しかし、全く意外なことに彼女を観察していた俺と目が合うと、みるみるうちに萎れていくのだ。いやいや先程俺をドン引きさせるような追い込みを見せた雪ノ下とは思えない、常人らしい反応に俺も驚きを隠せなかった。

 

 そして理解できた事が1つ、雪ノ下が俺を轢いた車に乗っていたというのは本当のことらしいという事である。

 

 俺は視界の端に小町を捉えて慌てて言った。

 

「小町、悪いけど今度はお前が部屋に戻れ。終わったら呼びに行ってやるから」

 

「お兄ちゃん。……でも」

 

「デモもストライキもありません。良いから。何だったら今日の夕飯も代わりに作ってやる」

 

「……分かった」

 

 本当に納得して貰えたかは分からないが、どうにか首を縦に振ってもらえた。夕食当番の交代は面倒くさかったが、この場に同席させれば暫く尾を引くような面倒な状況にもなりかねない。どちらが面倒臭いかを考えればこれが正しいだろう。大人しく居間を出て行く小町の背中を見送りついでに由比ヶ浜も家に帰そう。雪ノ下姉妹の諍いに巻き込まれるのは俺一人で十分である。というか偶々居合わせただけで面倒な場面に巻き込まれるのも可哀想だからか。出来れば彼女を送っていくという事で俺も家を出て行きたいのだが、流石にそうもいかんだろう。いや、待てよ。そう言って雪ノ下姉妹を家から出せば俺も離脱可能なのではないだろうか。

 

 妙案が浮かんだ俺がそれを実行に移そうとした時、それを制するように雪ノ下さんが声を発した。

 

「偶然ですが、ここに由比ヶ浜さんにもお尋ねします。 ペットの犬はその後何ともないなかったでしょうか?」

 

 本日2回目の大爆発。由比ヶ浜は標的に入っていないという俺の目算は外れ、爆撃を食らった由比ヶ浜は見ている俺が哀れに思うほど狼狽えた。

 

「比企谷君のお陰で何とも無かったと思いますが、その後怪我とかが見つかっていればその分の治療費は出させて頂きますので」

 

 もう一度俺にしたように頭を下げる雪ノ下さん。泡を食って由比ヶ浜が反応した。

 

「ぜ、ぜんぜん平気でした。だから……」

 

 だから何だと言うのだろう。由比ヶ浜も俺と目が合うと二の句を継げなくなり、結局由比ヶ浜が言おうとした言葉は空気を震わせることなく終わった。

 

 居間は雪ノ下さんの二言で先程までの大混乱が嘘のように静まり返り、通夜のようにしめやかな雰囲気となった。見習いたい場の収集能力である。ちなみに今から由比ヶ浜を帰そうとするとそれもまた面倒な事になりそうな事は承知している。単にその誘惑に抗いがたいだけで。

 

 なので由比ヶ浜の早急な送還は諦めて、せめて色々誤解を解いてからさっさとお帰り願うことにしよう。

 

「何が目的か知らないですけど、俺の家を舞台に勝手な事をするのは止めてください。貴方別に俺に謝罪に来た訳じゃないんでしょう?」

 

 由比ヶ浜の方を向いていた雪ノ下さんが俺の方に向き直る。俺がこんな態度を取っていることに驚いている風だが、口元に微かな笑みが浮かんだのを俺は見逃さなかった。あれ? もしかして藪蛇か? 

 

 雪ノ下さんの目的の分析は出来なかったが、もしかしたらこの人只単に雪ノ下を攻撃するのが目的でついでに視界に入った由比ヶ浜にも致命傷を与えたくなったという可能性が頭に過ぎった。だとしたら大変に不味い。俺は嵐が過ぎ去るのを待たず、家から飛び出してTMごっこを始めた少年のように飛来物で大怪我をこさえてしまうかもしれないのだ。

 

「そんな事はありません。私は」

 

「雪ノ下、聞きたいんだけどお前のお姉さんて頭いいだろ?」

 

「……ええ」

 

「そんな人が事故が起こってから1年も経ってから謝罪に来るわけがない。さっきは両親に止められていたと言ってましたが、それもおかしい。何がおかしいって貴方が俺に謝る理由がない。家族が起こした不祥事だから? 今更被害者感情を掻き立てるような方法で謝罪を? 違うな」

 

 矢継ぎ早に言葉を繰り出す。一度開いた口を閉じてしまう訳にはいかなかった。下手に由比ヶ浜や雪ノ下のように弱みがないだけに、何をされるのか全く予想が着かないからだ。雪ノ下さんが口を開いても言葉を被せて先を言わせない。

 

「話を」

 

「由比ヶ浜。俺が怪我したのは100%俺の責任だ。確かにあの時犬が車道に飛び出したのは事実だが、それを見てアホみたいに犬を助けようとした俺が悪い。あ、アホみたいというのは運良くリードを掴めたものの、犬を引き戻そうとしてバランスを崩した俺のアホという意味だ。それから雪ノ下。運転手は確かに前方不注意だったかもしれないが、あんなの俺だって事故る。普通突然チャリが倒れてくるとは誰も思ってないからな。しかも乗ってただけのお前にはどう考えても責任はねえな」

 

 まあ事故後聞いた話によると、自動車の運転手には前方を走る自転車の転倒をある程度予測する義務が有るので過失が無いとは言えないだろう。とはいえそれも運転手にしか及ばない話。強いて言うならあの車の落ち度はさっくり俺を轢き殺しておかなかった事である。

 だと言うのに何が気に入らないのか2人が口にするのは「でも」という言葉である。デモクリトスもカントもない。

 

「いいから、何も気にするな。というか今更そんな事を気にされてもぶっちゃけ迷惑だ。怪我は治ったし、俺の留年の危機も回避された。まあまる3週間学校を休んだお陰で英語は壊滅的な点数を取ったが、元々の点数考えたら目くそ鼻くそだしな。……よし、いいな。納得したな。納得したと言え。ついでに私は悪く無い位言っておけ」

 

 そんなに他人の事故に関わった責任を持ちたいのか二人はそれでも中々頷こうとしなかったが、詰め寄って強引にでも頷かせた。これで一先ず攻撃の材料はなくなった筈である。

 

「これで雪ノ下さんも文句無いでしょう? 雪ノ下に責任がない以上、貴方が俺に謝る必要もないんですから。さて、話が一段落した所でもう時間が時間だし帰れ。駅までなら送って行ってやろう」

 

 2人の後ろに回って背中を押す。そう押そうとしたのだが、こいつらが女であることを思い出して思いとどまった。代わりに由比ヶ浜が背負っていたバッグを軽く押した。危ない危ないセクハラを働いてしまう所だったぜ。

 

 羊を追い立てる牧羊犬の様に2人を玄関に誘導した俺は、続いて雪ノ下さんを玄関に誘導しようと振り返った。

 

「ぴゃっ!?」

 

 俺の意識より早く体が反応し、神速で飛び退った。着地に失敗し強かにケツを打ったが、痛いのはむしろ驚きで跳ね上がった心臓の方だった。

 

「ぷ、……あははは、あははははは」

 

 俺の心臓が早鐘を打っている。その原因を作った雪ノ下陽乃が口から空気を漏らしたかと思うと笑い出した。その笑いは収まるどころか徐々に勢いを増していき、最初は顔が笑っているだけだった雪ノ下さんは徐々に肩を震わせ、俯向いたかと思うと膝に手を置いて体を支えない事には立っていられない程の勢いで笑い始めた。

 

「な、な、な」

 

 何がそんなにおかしい!? と言おうとしたが上手く口が回らない。それほどまでに強い驚きを俺に齎していたのだ。彼女が俺に近づいていたという事実が。

 

「え? え? 何? どうしたの?」

 

「比企谷君?」

 

 玄関にも響き渡る雪ノ下さんの笑い声に振り返った2人が疑問符を連発する。

 

「ひ、比企谷君、ひぃ、ひいい」

 

 遂には引き笑いまで始めた雪ノ下さんが俺を指差して笑いながら玄関に出てきた。その目が蛍光灯の光を反射した訳でもなくきらりと煌めいたのを見て、俺の生物的本能が悟った。や、殺られる。

 

 玄関の方を向いていた俺に背中に音もなく近づいていたのはやはり俺に対する殺意の発露。面白おかしく玩具を蹂躙するという遊戯が邪魔されたのがそんなにも気に喰わないのだろう。とはいえ、俺の家でやりさえしなければ無視出来るが、俺の家でやられては堪ったものではない。俺の家は戦場ではないのだ。半ば不可抗力だと訴えたかったが、この種の目をした人間には最早それは命乞いにしか映らないことを知っている。

 

 腰でも抜かしたか立ち上がろうとする俺の足に力が入らないので、仕方なしに匍匐前進を開始したが、そのような牛歩の歩みで音速を超える鷹から逃げ切る事など出来はしない。あっさりと捕まった俺は自然の掟に従い無残な最期を迎えたのだった。

 

「うりゃうりゃ、あははは比企谷君って本当面白いね」

 

「あははははっ、あははははあはははははは。ち、ちぬ。あはははは」

 

 

 

「ごめんなさい。あんなにも気持ち悪いものを見たのは初めてで、今日どんな顔をして貴方を部室に迎えれば良いのか分からなかったの」

 

 雪ノ下からこんなにも真摯な、心底からの謝罪を受けたのも初めてだった。だからだろうこんなにも目頭が熱くなるのは。決して羞恥心で俺の顔が赤くなっているのではないと思いたい。

 

「まさか男子高校生があんな醜態を晒してそれでも生きているとも思えなかったけど」

 

 ええ、そうね。いっそ殺してええええと叫びたいよ俺も。

 

 一日日を置いてもそう思いたくなるような有様だったのだ昨日の俺は。

 

 情けなく地面に這いつくばる俺を人差し指でただ突き回す雪ノ下陽乃。そして、恐らくはその場にいた誰もが目にしたこともないほど擽ったがる俺。危うく呼吸困難に陥る一歩手前まで追い込まれた俺を見つめる2対の瞳が、それはそれは雄弁にその感情を俺に伝えていた。あんまりにも激しくのたうち回る音で階下に降りてきた小町にまで汚物でも見るような目で見られた事はきっと一生忘れられないだろう。

 

 雪ノ下陽乃許すまじ。彼女を俺の尊厳を蹂躙した怨敵と胸に刻む。

 

 が、どうした所で今更昨日起こった事は変えられない。俺は勇気を振り絞って雪ノ下に語りかけた。

 

「何でも良いから鍵を開けてくれ」

 

 そうして部室の中でいつも通りの部活を始めさせて欲しい。俺も雪ノ下も互いに言葉を交わさず、静かにページを送る音だけが響くそんな時間を。

 

 今日を、今日という1日さえ過ぎ去れば、この2人の顔も見られるくらい俺も回復する。そうなればこいつらが。

 

「ふふっ」

 

 こいつらが。

 

「あ、ひっきー。……ぷっ」

 

 こいつらが幾ら俺を笑っても俺は平気で居られるだろう。

 

 由比ヶ浜が廊下に現れ部室前に佇む俺と雪ノ下を、正確には俺を見つめるなり笑いを堪え始めても俺は顔を背ける以上の事はしなかった。雪ノ下が、由比ヶ浜が思い出し笑いをする程度で逃げていては、教室という一種の閉鎖空間で由比ヶ浜と一緒に居られないからだ。

 

「うふふふ、ご、ごめんなさい比企谷君。べ、別に笑っているわけでは。……うふふ」

 

「あははは。ひ、ヒッキー昨日は、き、き、キャハハハ」

 

 朝のHRから由比ヶ浜の失笑を聞いた俺は、今日何度目になるか分からない帰宅衝動に襲われる。座席の関係上授業中には俺の後頭部しか見えない筈の由比ヶ浜が、それでも度々微かな笑い声を上げる。それに気が付いた俺が由比ヶ浜の方を向くと更にその声は大きくなる。俺の顔を見る度耐え切れずに笑い出すので完全にお手上げだ。結局俺は高校生活で初めて休み時間に教室から避難するという行動に出ざるを得なかった。

 

「由比ヶ浜、いい加減笑いすぎだろ」

 

「だって、昨日のヒッキーマジでキモかったんだもん」

 

 こんな短いやり取りの間にも2回笑いを噛み殺す由比ヶ浜。下手に笑いを耐えようとするのを見るのが却って辛いので、俺はもう由比ヶ浜が失笑する度それを記憶から消去することにした。また気軽に何か言い返すことも出来ない。俺が必死の形相で笑いながらフローリングの床をのたうち回る様など気持ち悪いに決まっているからだ。

 

 俺は話題を逸らそうと何故由比ヶ浜がここにいるのか尋ねた。

 

「昨日帰ってからまたクッキー焼いたの」

 

 そう言って由比ヶ浜が鞄から取り出したのはセロハンの包みに入ったクッキー。金色の葉っぱの模様の入った包みに赤いリボンをあしらったそれは、明らかに誰かに手渡す物であることを示している。どうやら帰ってから納得のいくものが作れたようだ。透けて見える中身もなるほど綺麗な出来だった。それはそれとして昨日俺の家でも何回か作って家に帰ってからもまた作り、昨日1日で由比ヶ浜が作ったクッキーは凄い量になっていそうだ。何処を探しても発見できなかった雪ノ下の作ったクッキーを合わせると1日2日で食いきれる量ではなくなってしまうだろう。全部持ち帰ったという事なのか、本当に何処にやったのだろう。何故か登校前の小町はほくほく顔だったが。

 

 由比ヶ浜はそのクッキーを照れくさそうに胸の前で持ち、俺の顔を見つめた。

 

 ラッピングまでされたクッキーが今ここに有るということはまだお礼のクッキーは手渡されていないという事になる。相手はこの学校の人間ではないのか。それとも単に渡していないという事なのか。それともこれから一緒に渡しに行ってくれとでも頼むのか。何にしろ面倒臭い、さっさと済ませてこのにやけ面とおさらばしたい。

 

 ともあれ奉仕部に来たのだからこいつの相手をするのは俺でなくとも良いだろう。そう思い雪ノ下に目配せすると、雪ノ下は意味深なにやけ面で俺を見つめ返した。注意して欲しいのは意味深はにやけ面に係っていない点だ。

 

 ぶっ飛ばしてえ。そして逃げ帰りたい。がどちらも選べない。

 

「だったら早く渡した方が良いだろ」

 

「うん、だからここに来たの」

 

 ここに来ても居るのは俺とぼっちの雪ノ下だけだ。雪ノ下ならいざ知らず俺には由比ヶ浜に礼を言われる義理など無い。と言う事は由比ヶ浜は雪ノ下にクッキーを渡しに来たのか。

 

 雪ノ下ならそこに居るぞ。そう言おうとして俺と由比ヶ浜の視線がかち合う。全くブレることなく真っ直ぐに俺を見つめる眼。緊張した面持ち。しかしいつだったか見せたような気の弱そうな、自信の無さそうな由比ヶ浜はそこにはいない。今ここに居るのは強い意志を持った女性だった。

 

「ヒッキー。サブレを助けてくれてありがとう」

 

 そう言って由比ヶ浜の手が俺の胸元に向かって伸びる。ぐんぐんぐんぐんと彼我の距離を縮めるそれは一呼吸の間に俺の胸板にふれんばかりの近さになった。

 

 俺の目が自然とクッキーに吸い寄せられ、それから由比ヶ浜の顔を2回往復する。それでも由比ヶ浜は揺るぎなかった。

 

「昨日も気にするなって言ってくれてありがとう。それといつも私を助けてくれてありがとう」

 

「私の気持ち受け取ってください」

 

 感謝の気持ちと受け取って良いのだろうかとか、気にするなってそういう意味じゃないんだがとか、いつもっていつだとかまあ色々言いたい事が有る。それに助けるというのも昨日のを指して言うのならば全くの的外れだ。俺は由比ヶ浜の気持ちなど全く斟酌することなく、ただ俺が面倒だからというだけで気にするなと言ったのだ。あの時お前がきっと罪悪感を感じていたのだと言う事も後から何となく分かっただけで、自分から言い出しにくい事を他人に暴露されたお前の気持ちなど俺にとってはどうでも良かったのだ。

 

 だからお礼なんか言わないで欲しい。

 

 先程とは別種の逃避衝動が俺を襲う。それは羞恥でも苛立ちでもなく嫌悪に起因するものだと簡単に気が付いた。だが、それを口にする事は出来なかった。

 

 由比ヶ浜が何を見て、俺をどう思ったのか分からない。だが、その由比ヶ浜の見た俺の姿が、真実の俺の姿を捉えていない事だけは確かだ。それでも由比ヶ浜の差し出したクッキーをここで拒絶することは出来ない。ならば俺はここで己を否定しなければならないのだ。後ろめたい真実(俺)を包み隠して、由比ヶ浜の中の事実(俺)を肯定する。その胸を掻き毟りたくなるような行為を。

 

「ああ、まあくれるっていうなら頂きます」

 

 クッキーの入った袋に手が触れると、それは奇妙な温かさを持っていた。それが胸に沁みて一瞬ズキズキと痛んだ。その痛みが無くなると俺は袋を掴み取った。俺も由比ヶ浜も多分おっかなびっくりだっただろう。クッキーを落とさないよう、そこに込められた何かを取りこぼさないように。

 

 やがて完全に袋から由比ヶ浜の手が離れた。

 

 そのまま10秒程誰も喋らず時が過ぎたが、袋からずっしりとした重みを感じながら、俺は未だに由比ヶ浜の目から視線を離せないでいた。というのも由比ヶ浜のはにかんだ表情が、潤んだその眼が何かを待っていたからだ。

 

 えと、ありがとうと言われ私の気持ち受け取ってくださいと言われた。感謝の印だろうクッキーを受け取った。うんうん。

 

 で、これで何か返さないといけないのか?

 

 こういう時きっと出来る奴は過去の経験から正解を見つけ出すのだろうが、俺にはこんな状況に陥った経験が無い。だから俺は出来ない奴なんだ。

 

 俺はクッキーをしげしげと見つめて何かヒントが隠されていないか探したり、頭を掻いてさり気なく分からない事をアピールしてみたが状況は好転しなかった。

 

 こんな事ならリア充のお友達から女子と接する上でのいろはでも習っておけばよかったと後悔しても遅きに失している。

 

 俺は最後の手段として雪ノ下に助けを求めた。この人非人が俺の救援に答えてくれるとも思えないが、場を壊してくれるだけでも十分だ。後は適当に場を濁せばこんな居心地の悪い雰囲気からは逃れられる。

 

「そうね、昨日のあれを見せられただけでも比企谷君には随分貸しを作ったつもりだけど。これ」

 

 雪ノ下が億劫そうにバッグから取り出した物。それはやはりセロハンの包みに入ったワッフルだった。それを叩きつけるように俺に押し付けると雪ノ下は胸を撫で下ろしてこうも続けた。

 

「比企谷君が女子から贈り物なんてきっと一生に一度しかないでしょうけど、私と由比ヶ浜さんから同時に貰えたんだもの。これで思い残すこともなくなったでしょう」

 

「え?」

 

 これ幸いに俺は雪ノ下の軽口に乗っかった。

 

「まるで俺がもうすぐ死ぬみたいな不吉な事を言うのは止めろ。てかその場合間違いなく死の原因はお前にあるだろうが」

 

「え?」

 

「あらいやよ。どうして渡した比企谷君の為に一生を台無しにしないといけないのかしら。ただそうね、私なら完全犯罪を行える自信が有るわ」

 

「え?」

 

「お前なら罪悪感とか感じ無さそうだしな」

 

「え?」

 

「比企谷君、貴方蟻を踏み潰して可哀想だと思った事は有るのかしら」

 

「え?」

 

「俺は昆虫と同類かよ! いや、一寸の虫にも五分の魂と言ってだな」

 

「え?」

 

「言っておくけどその言葉には命の平等を訴える意味合いは全く無いわよ。まあバカ谷君には分からないでしょうけど」

 

「もう完全に直球じゃねえか。初めて言われたぞそんな事」

 

「比企谷君が人類と初めて会話を持ったのだからそれは当然よ」

 

 気がつけば雪ノ下との罵り合いが始まっていたが、これこそが平常運転というものだろう。うん。由比ヶ浜が信じられない物を見たような目で俺を見ているが、もう最近その類の視線を何度も浴びせられているせいで何も感じなくなってしまっている。

 

 何かを致命的に間違えてしまったらしい。ぼっちである雪ノ下に助けを求めたのは失敗だったというのか。

 

「勘違いしないでちょうだい。由比ヶ浜さんからは純粋な謝意、私からは、……やっぱり比企谷君に謝るのは癪に障るわね」

 

「お前ね、あんだけ狼狽えてた人間の言う事じゃねえぞ、それ。由比ヶ浜はありがとうな。美味しく頂きます。いやー、いいことってしてみるもんだな」

 

 こっちからも感謝したりしてみたが、どうにも違うらしい。由比ヶ浜が肩を震わせながら叫んだ。

 

「ヒッキーのバカ! 最低! もう死んじゃえ!!!」




地の文において雪ノ下と雪ノ下さんが混じっているのは仕様です。
読みにくいかもしれませんが比企谷君の心内語ママだとこうなるって感じで。

それと雪乃のキャラが原作と全く違うものになってきてしまっているような。


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第8話

 今日も今日とて放課後がやって来た。退屈な授業が終わり青春の只中に有る少年少女がそれぞれの本分に立ち返る時間が来たのだ。

 

 勿論俺もその一人である。授業時間と清掃の時間を除いた全ての時間を睡眠に充てたお陰で体力も充実している。これならば完全下校時刻までの間一心不乱に読書に邁進することが出来るだろう。

 

 由比ヶ浜からクッキーを貰ってからはや6日。奉仕部は既にいつもの日常を取り戻している。だからと言う事もないが読書が捗る捗る。やはり家で一人静かに本を読んでいるよりも放課後教室で静かに本を読んでいる方が性に合っているという事なのだろう。最大の難敵であるベッドが無いのが功を奏しているのだ。これが恐ろしく退屈な勉強をしている間などは微塵も寄り付かないのだが、如何せん読書中はリラックスしようとして寝転がるせいで気付けば寝落ちしていること多数。見開き1ページも進まずに寝てしまう事が有るのを考えれば、放課後の間に薄い本1冊読み終えたというのは記録的な快挙と言える。

 

 そういう訳で奉仕部での部活に自分なりの意義を見出してからというもの、俺の放課後も人並みに色付いた物となった。今日辺り先日雪ノ下が読んでいた中原中也の詩集が貸してもらえる筈なので、お洒落に紅茶など嗜みながら過ごすとしよう。

 

 そんな事をあれこれと考えながら椅子から立ち上がる。教室の賑わいも最高潮で周囲は大小幾つかのグループに固まって放課後の一時を談笑に講じていた。

 

 それは例えば俺のすぐ後ろの席の男子4人組のグループであり、彼らは携帯ゲーム機を持ち寄って協力プレイなる未知の集団遊戯に耽っているようだった。ガチャガチャとボタンやレバーをいじりながらやれ「悪いけど俺の素材集め手伝ってくんね?」だとか「じゃあ俺はヘビーボウガンで」などと言葉を交わしながら実に楽しそうである。生憎と俺がその手のゲームに手を出せるようになったのは高校生になってからで、高校生活始まって以来友人という物が出来た事のない俺にはその楽しみが分からなかったが、彼らのそれも実に結構な事だと思う。彼らには彼らの、俺には俺の放課後が有るのだ。

 

 そういった一団の中には当然由比ヶ浜の姿も有った。むしろ彼女の属する一団こそがこの教室内で最も存在感の大きい一団だ。先日来彼女の存在をきちんと認識するようになった俺にも漸くそれが分かった。

 

 このクラス、いや学年全体、いや下手すれば学校全体にその名の通ったスーパーイケメン葉山隼人と彼を中心とする三浦なんとか、海老名さん、戸部、あと男子2人と由比ヶ浜。葉山を除いた男子は兎も角女子はいずれもトップクラスの美少女達、らしい。クラスで漏れ聞こえる男子達の会話では少なくともその様だ。そんなトップカーストに君臨する集団にしては男子3人のランクが落ちるような気がするが、戸部はサッカー部だったと言うし、他の2人も運動部だ。何かしらのシンパシーが有ったという事なのだろう。或いは葉山がそれとなく選別でもしたのか。しかしながら教室内を見渡しても、彼らのグループに馴染みそうな者は見つからない。やはり自然に似た者同士がくっついたという事なのか。

 

 もしかするとそれは教師達の都合なのかもしれない。葉山は聞く所によるととても大きな影響力を持っているらしいし、そんなカリスマ性を持った男子生徒の周りにそれに同調する人間を多数配置すれば、いざという時教師達も手を焼くだろう。そういった事態を防ぐための配慮としてのクラス構成と考えてみることも出来た。

 

 そう考えると、気のせいか彼らの他は殆どが少し地味な男子が集められているような気もする。その中でもぶっちぎりで地味で目立たない男の俺も居ることであるし。

 

 さて教室を出ようと荷物を担いで振り返ると、その途中由比ヶ浜と目が合った。教室内での彼女をきちんと認知するようになってからは初めての事だったが、彼女が俺と目が合った事に気がつくと勢い良く顔を背けられてしまった。どうやら随分と嫌われてしまっているらしい。が、それを気に病んだ所で詮ない話だ。俺と彼女の間にもう接点が生まれることも無いだろうし。

 

 俺も由比ヶ浜にならって彼女から顔を背けると、誰に挨拶をすることもなく教室を後にした。

 

 

 

 奉仕部の部室は相変わらず閑散とした特別棟の中でも、最も静寂に満ちた空間だった。部室の前に来ても物音一つ感じられない。それも当たり前と言えば当たり前か。雪ノ下1人の教室から話し声が聞こえてきたら、俺は雪ノ下を心の病院に送ってやらなければいけない訳だし。

 

「おっす」

 

 ガラガラと引き戸を開けながら挨拶をするとそっけない挨拶が返ってくる。入室して適当な場所に荷物を下ろすと、俺はいつもの様に雪ノ下のすぐ近くの机から本を拝借した。勿論この時にも声は掛ける。雪ノ下はこの時もそれをちらと横目に見て「どうぞ」と言葉少なに許可を出してくれるので、本を手にしていつも通り俺の席に着席するのだった。

 

 それから本を広げて読書を始めると、大抵もう部活が終わるまで俺達の間に会話はない。例外と言えば俺が自販機に行くときについでにお使いを頼まれる時と、俺の食料をお礼に雪ノ下に進呈する時位のものだ。

 

 遠くの喧騒が扉や窓から染みこんでくる以外には、静かでまったりとした時間がただ流れていく教室。それは先程まで居た人の活気に満ち溢れた教室とは対照的だったが、同様に心地良さを感じさせる。人に囲まれている時は自分が世界の一部となっている感覚が、この教室のように静まり返った場所ではそこから自分が浮き彫りになっていく感覚がして、そのどちらもが俺にとっては快感なのだ。だから種類こそ違えど教室に居る時も、奉仕部室に居る時もどちらも俺にとってはとても楽しい時間だ。

 

 由比ヶ浜以降の依頼者はまだ姿を見せないが、この調子なら俺も卒業までの高校生活をここで送ることが出来ると思えた。

 

 ただ1つ問題が有るとすれば、当初俺がここに連れてこられた理由である友達が出来そうにない事だけで。

 

 そんな俺とは対照的に雪ノ下には友人が出来た。

 

 何を隠そう由比ヶ浜結衣がそうである。俺と教室で目が合ってもすぐ逸らす癖に雪ノ下とは友誼を結んだのは腹立たしいが、雪ノ下雪乃というぼっち少女に友人が出来た事それ事態は大変喜ばしい。元々あの容姿故に近づいてくる人間は多かったらしいが、どうせあの性格が周囲との軋轢を生んだのだろう。そこに耐えうるジュラルミン合金の様な頑丈さを誇る由比ヶ浜ならとも考えられた。ただその下地を育んだ一要素として三浦という女子生徒の影響が有った事は否めない。そういや最近は見られなくなったが、去年も定期的にあの女王様の吊し上げの被害に遭っていたのは由比ヶ浜だった。

 

 まあ過去の事はどうでもいい。話の焦点は雪ノ下雪乃という少女の周囲に人が増えたという事だ。雪ノ下は俺達とはクラスが異なる。おまけにそのクラスが国際教養科という、俺達普通科よりも平均して偏差値が2か3高い連中が集められた空間だというのが問題だ。この辺じゃそこそこの進学校で名のしれた県立総武高校、その中でも格段とは言わないまでも歴然とした偏差値の違いが有るJ組に、総武高校バカ代表みたいな由比ヶ浜が踏み入るのは中々難易度が高いらしい。あれできちんと受験して入学したようだから最低限の学力は有るはずなのだが。そうなると雪ノ下と由比ヶ浜が顔を合わせられるのは昼休みと放課後位のものだ。下手すれば登校する前から連絡を取り合い、それが就寝寸前まで続くような濃密なコミュニケーションの取り方をする今時の女子高生由比ヶ浜が、昼休み程度の短い時間で、雪ノ下との会話に満足できる筈もなく、当然放課後も顔を合わせようとするだろう。しかし雪ノ下には奉仕部という部活が有る。さて、漸くの結論だ。ここまで来れば明白の事と思うが、由比ヶ浜が奉仕部に出没し始めたのである。

 

「やっはろー」

 

 俺に遅れること30分。由比ヶ浜が片手を上げて挨拶の文句を唱えながら入室した。普通に考えれば完全に遅刻なのだが、依頼者が来なければ開店休業状態の我が部にそれを指摘する人間はいない。由比ヶ浜はさして悪びれることもなく、そのままスタスタと教室の中に歩みを進めたかと思うと雪ノ下と俺の丁度中間地点に置かれた椅子に着席した。

 

「また椅子動いてる」

 

「だって貴方私のすぐ隣に座ろうとするんだもの」

 

 下手をすれば接触を忌避しているとも受け取れる雪ノ下の発言。

 

「ぶー、ゆきのんってもしかして私の事嫌い?」

 

 だが由比ヶ浜はあっさりとそれを受け止め、口を尖らせた。

 

「嫌いじゃない……わ。苦手なのかしら」

 

「それ女子言葉で嫌いと同義だから!」

 

 言葉面とは裏腹に言葉の響きは実に優しい雪ノ下。由比ヶ浜も突っ込みを入れながら猛然と雪ノ下に抱きついた。本当いちゃいちゃと仲のいいことだ。これで俺をシカトするのさえ止めて貰えたら、後は教室から出て行ってくれるだけで良いのだが。

 

 そう、俺が今どうにかしたいと思う問題の本質がそれだ。

 

 彼女は俺と全く言葉を交わさない。目を合わせない。耳を貸さない。そのくせ静かに読書している俺を時折盗み見ているのだ。それは携帯を弄りながらだったり、雪ノ下とじゃれつきながらだったり、教室中央にある長机に突っ伏しながらだったりするが、兎に角見られているのだ。俺も殆どの場合気がつかないが、時々本から目を上げるとこちらを見ている由比ヶ浜と目が合ったりしてしまう。それが非常に落ち着かないのである。既に5回、それをどうにかしようと話しかけたが顔を真っ赤にするばかりで二進も三進もいかないのが現状だった。

 

 出来たばかりの友人雪ノ下が看過できずにそれを指摘してもどうにもならない以上、これ以上手の尽くし様がない。

 

 そうした結論に辿り着きとうとう放置をし始めたが、だからといって気にならないというものでもない。教室のような人の多い場所ならともかく、3人しか人のいない部室でやられるととてもかなわなかった。

 

 終いにはその由比ヶ浜の視線が気になりすぎて、読書も覚束なくなり俺の方も由比ヶ浜を盗み見るようになっていた。全く中原中也も台無しである。

 

 今だって、つい2ページ前を読んでいた時由比ヶ浜と目が合った時の事を考えているし、その前は買ってきていた紅茶を飲んでいる時あちらの視線に気が付いた時の事を、更にその前はチョコを口に入れながら由比ヶ浜を見ていたら向こうに気が付かれた時の事を。今までどんな状況でもモブに徹してきた人間には人に見られているという事が過大なストレスなのだと感じられた。お陰で背筋はムズムズするし、落ち着きなく貧乏揺すりなどしてしまう。

 

 とうとう耐え切れず自販機前に逃亡しようとした時、いつだかと同じように教室の戸を叩く音が響いた。

 

「どうぞ」

 

「お邪魔します」

 

 浮かしかけた腰を椅子に落ち着け直しながら、入室した生徒を見る。背は低かった。俺もそう高い方じゃないが大体平均身長である170センチ半ばで有ることを考えると160センチ位だろうか。ふんわりと柔らかそうな髪が天使の輪っかを作っている。

 

「さいちゃんじゃん。どうしたの?」

 

「あれ? 由比ヶ浜さんって奉仕部だったっけ?」

 

「んーん。でも気にしないで。そいでさいちゃんの用事は?」

 

 由比ヶ浜がここに居ることを疑問に思ったのか『さいちゃん』が首を傾げる。偶々俺が居た方の首が顕になったが、驚くほどその肌が白く、首も靭やかだがほっそりとしている。バッグを持つ手も小さいし、そこから生えた指など人形のように可愛らしい。青色のジャージを肘まで捲り上げていて……って学校指定ジャージの色が青いって事はこいつ男なのか。

 

 親しげに会話する由比ヶ浜とさいちゃんから、2人が顔見知りだという事が分かったがクラスメイトにこんな奴が居ただろうか? こんな時間にここに居られる由比ヶ浜が、部活動に所属しているとは考えにくい。だから最も考えやすいこの2人の繋がりと言えばクラスが一緒という事なのだが、どうにも見覚えがない。こんな女子みたいな中性的な見た目の奴が男と居たら逆に目立って記憶に残っていそうなものなのに。

 

 はっ!? そういえば生まれて初めて中性的とか言う言葉を使ったな。まさか本当にそういう人にお目にかかれるとは思っていなかったが、こういう性別を見間違いそうな人間が実在するとは、新鮮な驚きを覚える。確かにそう考えると短パンから除く脚なんかは、女子にしては少し逞しすぎる。その脚にしたって静脈が浮くんじゃないかと思うほど白いのでちょっと直視はしにくいが。

 

「うん、この間テニス部の子が雪ノ下さんと一緒に帰ってる所見たって言ってたから……やっぱり居た。比企谷君」

 

 そのさいちゃんの瞳が俺を捉える。真正面から見ても目がくりくりっとしていて、口が小さく鎖骨の辺りがいやに艶めかしい。これで女装していたら100%俺は性別を間違えていただろう。そう断言出来る。とはいえ、その程度にこいつをマジマジと見てもさっぱり記憶にヒットしない。やはり由比ヶ浜さえ覚えていなかった俺の脳味噌って割りとポンコツなんじゃないだろうか。

 

 ついでにこいつが俺を探し求めて奉仕部なんぞに来る理由についても心当たりが無かった。

 

 だが、灰色の脳細胞を持つ我が校最高の頭脳雪ノ下雪乃には有ったらしい。

 

「流石比企谷君ね。まさかとは思ったけど可愛ければ性別も無視するなんて。ここはせめてその蛮勇を称えておくべきかしら。安心しなさい戸塚君。貴方の犠牲は無駄にはしないわ」

 

 ああ、案の定だ。由比ヶ浜、俺ときて雪ノ下もそこそこのポンコツだったようだ。それとこの生徒の苗字は戸塚というらしい。やはり聞き覚えもない。

 

「俺の名誉をどれだけ貶めようとお前の勝手だが、こいつの名誉までついでに貶めようとするのは止めて貰おうか」

 

「……それもそうね。でも意外だわ。真っ先に否定してくると思ったのに。まさか本当にそっちのケが?」

 

「好きな人が出来た事がないもんでな、そうと分かるまで断言せんでも良いかなと」

 

「ええっと」

 

 声のした方を向くと戸塚が困った顔で頬を掻いていた。や、その仕草までが可愛いのは分かったから。

 

「ごめんなさい。どうぞ、話をしてもらって構わないわ」

 

 そういう雪ノ下の視線はイヤに冷たい。由比ヶ浜の依頼の時は雪ノ下の様子にまで気を配っている余裕が無かったけど、あの時もこんな目をしていたのだろうかこいつは。

 

 雪ノ下の視線に促されるように戸塚が口を開いた。とはいえ戸塚の口の動きは鈍い。それがどんどん酷くなっていく。無理もない。雪ノ下は基本美人だが、無愛想で迫力が有り過ぎる。急かされるように口を開いたはいいものの、今度は逆に雪ノ下の視線に口が開けなくなってしまうのだ。

 

「えっと、そのー……、あ、あの、テニスを強くして、貰いた……いんだけど?」

 

 それに気が付いた俺はいち早く動き出し戸塚と雪ノ下を結ぶ射線上に躍り出ると、持っていた文庫本で戸塚から雪ノ下の目の当たりが見えなくなるように視界を遮った。

 

「比企谷君、一体何のつもりかしらそれは」

 

「お前が美人の癖に怖い目してるから話しにくいのかと思ってな。」

 

「ひ、比企谷君、セクハラは止めて欲しいのだけど」

 

 この時俺は戸塚の視界を想像していた。その像が偶然にも彼女の発言と噛み合ってしまったが為に、何も言えなくなってしまう。

 

「……」

 

「比企谷君。その、あまり見つめないで、ふ、不愉快だわ」

 

 いつもなら彼女は口にした言葉通り心底不愉快そうな表情をしているのだが、今回彼女は顔を背けた。万に一つの可能性としてそれが照れ隠しかとも思ったが、朝から他人に顔を背けられっぱなしの俺としては他のそれと同じに見えて意図が読めない。

 

「雪ノ下さんと比企谷君は仲いいんだね」

 

「そ」

 

「それは違うんじゃないかなー!! ヒッキーもゆきのんもいっつも馬鹿にしあってばっかだし!」

 

 何を見ていたというのか戯けた事を言う戸塚に、俺と雪ノ下よりも早く由比ヶ浜が否定の言葉をぶつけた。ああ、全くその通りだ。俺と雪ノ下が同時に頷く。

 

「そうね。それに野蛮で下品な比企谷君と穏和で文化的な私とではそもそも会話が」

 

「確かに雪ノ下の読む本は実に文化的と言えるだろうが。その読者たる雪ノ下までそうだとは」

 

「やっぱり。比企谷君教室じゃ誰とも話さないのに、ここではとってもお喋りだし」

 

「何故その事を」

 

 地味な面子ばかりの我がクラスでも、相当に地味なポジションに居る俺の生態に詳しい奴が居るとは。いやまてよ。誰とも話さないというのは案外目立つのか? 未だイジられた経験はない、と思っているだけで結構そういう話題のネタにされていたりするんだろうか。

 

 恐々としながらの俺の言葉に戸塚が笑いながら答えた。

 

「だって比企谷君目立つもん」

 

「そうなのか?」

 

「戸塚君、この男に気遣いは無用よ。率直に浮いていると言ってあげなさい」

 

「貴様、薄々気付きながら気付かない振りをしてるんだから直球を放り込むなよ」

 

 少なくとももう1周間以上教室では誰にも話しかけられていない。つい2週間前位までは……よくよく考えてみたらもう1月位教室ではまともな会話をしていなかった。

 

「まあ違うとは言えない、かなあ」

 

「そりゃあれだけの事をすればねえ」

 

 戸塚と由比ヶ浜が追い打ちを掛けて来る。お前らまで。男子が1人居れば違うも思ったが、俺の味方にはなってくれないらしい。それどころか容姿が下手に女っぽいので余計に肩身が狭くなったような気さえする。

 

「俺の事は良いから依頼の事を話せよ」

 

 本題から逸れた話題で甚振られるというのも気分が悪かったので軌道を修正しよう。ついでに雪ノ下の顔を伺うと、意識してか表情を和らげていたので目隠しを止めて自分の席に戻る。

 

「テニスが強くなりたいんだっけか」

 

 直前の戸塚の発言を思い出す。

 

 しかし奉仕部にまでそんな事を頼み込みに来るなんて、うちのテニス部はそんなに弱かったのか。

 

 その不甲斐なさを改めて感じたのか戸塚の頬が赤らむ。それでもじもじしながら「うん」とか言うもんだから男の俺でさえ可愛いとって何を考えてるんだ俺は。

 

「平塚先生に何と言われているのか分からないけど、奉仕部は便利屋ではないの。だから貴方が強くなるかどうかは貴方次第よ」

 

「そうなんだ……」

 

 雪ノ下の発言は当たり前の話だ。努力すべき人間が努力しないで力など付く訳がない。だが、逆に言えば努力さえすれば大抵の場合力が付くものだ。勿論その目的達成に足るほどのものかは別として。

 

 だからここで戸塚が落ち込むのは気が早い。

 

「さいちゃん、今のはお手伝いしてあげるから頑張りなさいって意味なんだよ」

 

 突き放されたと思った戸塚のフォローには由比ヶ浜が回った。まあ由比ヶ浜の翻訳はちょっとばかり優しいニュアンスにしすぎだが、由比ヶ浜のクッキー作りを手伝った雪ノ下がこの依頼を断るとも思えない。

 

「いいわ。戸塚くん、貴方のテニスの技術向上を手助けしましょう」

 

 やっぱり請け負った。大体俺の人格矯正とか無茶苦茶な依頼を受ける時点で、こいつが依頼を選ぶ訳もなかった。

 

「ありがとう。僕頑張るよ」

 

 ギュッと拳を握って気合を入れる戸塚。そんな所まで可愛く見えているという事は俺の網膜か脳は完全にやられてしまっているらしい。戸塚ウイルスとでも呼びたい何かのせいに違いない。罹患した所で幸せになるだけなので問題にはならないだろうが。

 

「でもゆきのんてテニス出来るの?」

 

 由比ヶ浜が雪ノ下に疑問をぶつける。確かにそれは気になる所だ。よもやテニスが出来ないのに請け負ったという事もなかろうが。

 

 と同時においおい戸塚の手伝いなんだから同じ男の俺に聞けよ。とも思ったが俺がテニスの経験が無いことくらい同じクラスの由比ヶ浜には筒抜けか。この場合聞かれた方が逆に不味い。

 

「あら、愚問ね由比ヶ浜さん。自慢じゃないけど高校程度で習うスポーツなら大概出来るわ」

 

 雪ノ下の胸を張った言い方と台詞はとても自慢じゃないとは言えない気がしたが、それよりも。

 

「サッカー、バレー、バスケ、野球、ラグビー、他にもチームワークを要するスポーツは軒並み駄目そうだけど」

 

「私という存在に嫉妬して手を抜いたり、足を引っ張ったりという低俗な真似をする方が悪いのよ。まあどうあがいた所で敵う訳がないのだから、そうなってしまうというのも分からなくはないけど」

 

「それで寛大さをアピールしたつもりか。チームワークを乱す事は認める所はまだマシなんだろうが」

 

「話の腰を折ろうとする比企谷君を生かしておいてあげるんだもの。これ以上を望むのは無謀というものだわ」

 

「まあまあ2人共。その辺で、ね。ゆきのんがテニス出来るのも分かったし」

 

「それに比企谷君もフォームはとっても綺麗だし」

 

 俺と雪ノ下の間に割り込んだ2人がそれぞれフォローを入れてくる。俺には戸塚が、雪ノ下には由比ヶ浜が。俺もくだらないことで横槍を入れた事を反省した。依頼人の前でやることではなかった。

 

 これが日常茶飯事、そもそもお互いに喧嘩とも思っていない事だったので俺達は謝罪はせず、次の話題に移った。

 

「トレーニングメニューは至って単純よ。死ぬまで走ってから死ぬまで素振り、死ぬまで練習。ね、簡単でしょう?」

 

 本当にそれが簡単な事のように言ってくる雪ノ下を目の当たりにして、俺は戸塚に憐憫を、戸塚は只管に後悔を、由比ヶ浜は新しいコスメの事を胸に抱いた。そんな俺達の心模様にも気が付かない雪ノ下は続けてこうも言った。

 

「放課後は部活が有るでしょうし、特訓は昼休み。場所はコート集合。但し部活が終わった後にもきちんとトレーニングをしてもらうわ。カロリー消費的には無酸素運動を先にした方が良いらしいけど、その必要も無さそうだし放課後は筋トレを重点的に」

 

 次々に段取りが組まれていく。強豪校でも無ければむしろ貧弱と言っていいテニス部の普段の活動との落差を想像したのか、戸塚が軽く身震いを始めた。それを目にして雪ノ下が念押しに。

 

「勿論、ここまで依頼に来た戸塚君の事だものね。きちんとこなせるでしょう?」

 

 と薄い唇を横に伸ばして笑ってみせる。が、この笑顔もまた恐怖を想起させるに十分な迫力と恐ろしさを持っているのである。どんな表情をしていても怖いとかもうね。

 

「比企谷君、僕死んじゃったりしないよね」

 

 雪ノ下からこちらに視線を移動させた戸塚が、不安そうに見つめてくる。その潤んだ揺れる瞳とか、自分の体を抱きしめようとしている腕とかどこもかしこもか弱そうに見える戸塚に、俺の中の保護欲が掻き立てられた。

 

「まあ、部活以外は俺も付き合ってやるから」

 

 決して大丈夫だとは断言してやれないのが残念でならなかった。



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第9話

 あれから早朝のトレーニングまで追加しようとした雪ノ下を必死に制止して自主トレに留めさせたり、テニスコートの使用許可についてテニス部顧問とやりあったりと、色々些事があったものの無事に開始することが出来たのは平塚先生の助力のお陰だろう。特に顧問を説得する際には奉仕部という怪しげな部活に使わせるのを渋られた。雪ノ下の協力という決定打こそ有ったが、平塚先生の執り成しが無ければそもそも交渉にも辿り着けなかった程だ。後から戸塚から聞いた話では、今のテニス部顧問はテニス部があまりにも弱いのをいいことに、活動を縮小させようとしていたらしい。地域の進学校として知られた総武高校としては強くなる目の無いテニス部の連中には勉学に専念して欲しい、少なくともあまり熱の入れるような事にはなって欲しくないという話が有ったというのだ。そのせいかつい最近までテニス部員にさえ昼休みのコート使用許可を出していなかったと聞いた時にはらしくなく戸塚を応援してやりたくもなった。

 

 そんな顧問に使用許可を出させる雪ノ下のテニスの腕というのも未知数だが、確かに期待してもいいらしい。殆どが過去この学校に在籍していた雪ノ下の姉が、在学中あちこちで大暴れした結果の期待だというのはその時平塚先生に聞いた話だ。俺はあの悪魔の様な女を思い出さないよう話を遮ったので、具体的な逸話までは耳にしていないが、雪ノ下が人知れず拳を握りこんでいたのが見えていた。あれきり雪ノ下さんについて話題にすることも無かったが本当に姉妹仲は険悪なようだった。

 

 何はともあれ特訓が始まった。そんな出来事を瑣末な出来事とも思えるような地獄の期間が幕を開けたのだ。

 

 雪ノ下は嘘を吐かなかった。

 

「死ぬまで走ってから死ぬまで素振り、死ぬまで練習」

 

 そう言ったのは殆ど誇張抜きだったと思えるほど激しく扱かれたのだ。

 

 初日の昼休みからありったけのボールをかき集めて、ひたすら打つ、走るの繰り返し。少しでもフォームに違和感が有れば容赦なく修正し、そして容赦なく走らせた。スーパーなどで目にするカゴ3つ分を打ち終わると、球拾いをしそれを50分間只管繰り返させる。昼休みという短い時間を有効活用させるために戸塚と俺には早弁を強要し、一人楚々としながらサンドイッチを摘んでいた雪ノ下の姿を俺は一生忘れないだろう。打ち込み中、常に目標とすべきコースを指定し、僅かでも集中をが欠けばすかさず戸塚を叱責する雪ノ下の恐ろしさも。

 

 結局1時間足らずの間で戸塚と、ボール出しを続けた俺までがへとへとになり、雪ノ下には基礎体力の不足を指摘されて翌日からの早朝トレーニングメニューもその日の内に作成されたが、部活終了後帰ろうとする戸塚を捕まえて筋トレをさせた雪ノ下に鬼のような女だと思った俺を誰も責められないだろう。ぼろぼろになった戸塚にした約束。早朝トレーニングを学校で一緒にやるという約束が少しでも慰めになってくれればと思いながら、その日は学校を後にした。

 

 翌日からは日に3度のトレーニングを挟みながら、戸塚は本当に頑張っていたと俺は思う。相変わらず休み時間は寝ていたので、教室での戸塚がどうだったのかは分からないが、トレーニングに現れる戸塚はいつも元気で、自販機に飲み物を買いに行った際などはテニス部男子の先頭を切ってランニングしてる姿も目にした。

 

「ありがと。本当に来てくれたんだ、比企谷君」

 

 朝のトレーニングの為にいつもより早く登校した時は、そう言って満面の笑みを浮かべていたし(妹には彼女でも出来たのかと信じられない事を言われた。世間では彼女が出来ると登校時間が早まるらしい)。それ以降も朝会えば。

 

「おはよう比企谷君。今日もよろしくね」

 

 などと話しかけてくる。その笑顔が早朝の澄んだ空気の中であまりにも眩しく輝くものだから、危うく俺のモチベーションが上昇しかねないのだが彼は全くお構いなしである。

 

おまけに戸塚ときたら顔形から中性的だというのに、その振る舞いが輪をかけて色っぽいものだから頭痛までしてくる。

 

 太陽に焼かれてなお白く、細い首筋を汗が一雫垂れていき、誘われるままに視線が首を伝う汗と共に鎖骨に導かれると、俺は今まで他人に感じたことのない衝動に胸をざわめかせた。

 

 しかも、戸塚は何故か知らないが距離が近い。気がつくとすぐ近くで練習の汗を拭いていて、上気した頬や汗で透けた体操服とその向こうに息づいた柔らかな肉体を見せつけられているのかと思った事は数知れなかった。

 

 男にこのような感情を覚えるなど、まさに不覚である。

 

 と俺の胸中に渦巻く感情など露知らず、戸塚は練習に励んだ。戸塚自身も飲み込みはいい方らしく日に日に上達していくのが素人目にも分かった。

 

 絶望的になかった筋力も直向きに取り組んだおかげか徐々に改善しつつあるし、戸塚の依頼は順調にいっていると言ってもいいだろう。

 

 今朝のトレーニングでも初日に比べて随分とメニューをこなす回数も増えていた。

 

「腕立て30回も終わったし、次は腹筋な」

 

「うん。でも比企谷君凄いね。僕と同じ時間で50回もやるなんて」

 

「でもこれ以上は絶対に無理だし、お前より回数が多いのも単に俺の体がデカイからだと思うぞ。お前もどんどんこなせる回数増えてるし」

 

 そうなのだ。戸塚の筋力はトレーニング開始当初本当に無かった。これは体自体が細いのも原因だと思うが、腕立て伏せ10回で四苦八苦していた時は、本当に女みたいだと思ったもんだ。

 

 戸塚とは対照的に運動もしてないくせにそこそこのガタイをしていた俺が脇で50回を終わらせるのを、本当に羨ましそうに見つめていた。だからと言って上腕に触ろうとした戸塚からは距離を取っておいたが。

 

 より効率的に筋肉に負荷をかけるために腹筋運動はペアで行うように。雪ノ下からそう指示を受けて戸塚の足を抱え込む俺の眼前で、戸塚の顔が近づいたり遠ざかったりを繰り返す。

 

 大した数ではないが、戸塚にとってはまだ辛い数なのだろう。序盤こそ平気な顔をしていたが、徐々に苦しげな表情を浮かべ始め、終盤には時折苦悶の表情が浮かんでいた。もしかしたら筋肉痛なのかもしれない。

 

 何故かそれでもいい匂いがする辺り、戸塚という存在はつくづく不思議である。

 

 「テニスの方はどうなんだ? 多少でも良くなったか?」

 

 役割を交代して今度は俺の足を押さえる戸塚に問い掛ける。

 

 「うん。まだ自慢できる程じゃないけどね」

 

 男子テニス部の部員が何人か知らないが、4面しかないコートを女子テニスと共同で使用し、かつ他の部員もいるなかで練習することを考えると、コートを占有して只管にボールを打ちまくる時間はたとえ昼休み程度でも馬鹿にならないということだろう。

 

 とはいえ、こうして戸塚が練習しているというのに他のテニス部員が姿を見せないことには悲哀を感じざるを得ない。

 

 だからこそたった一人でも奉仕部の扉を叩いたのだろうが。

 

 上体起こしが終わり今度は背筋を、更にはスクワットやコアトレーニングなどに移行していく。正直な所朝っぱらから、しかも学校の始業前からやらされる運動としてはかなりうんざりさせられる類の物ばかり。だというのに戸塚はこれが始まってからまだ一度も弱音を吐いていない。俺なんか日に1度と言わず、朝のうちに1度、昼休みには2度3度、奉仕部の活動中にも1度は口にしているというのにだ。ちなみに初日以降奉仕部でその事を口にする度、雪ノ下から舌打ちと同時に「男の癖にぐちぐちと五月蝿い」というような論旨の言葉を頂いている。全くそのとおりだ。

 

 そこを見てみてもやはり戸塚という男には疑問を覚える。これだけのトレーニングを黙々とこなせる奴が何故奉仕部に来るまで同じことをしていなかったのだろうかという疑問を。

 

「比企谷君、行こ?」

 

 ああ、この天使は俺を何処に誘ってくれるのだろうか、とか阿呆な事を考えている場合ではない。首肯を返して走りだした戸塚の横に並ぶ。ここからは始業まで只管ランニングのお時間である。

 

 軽快な戸塚の足音と、ドスドスと鈍重な俺の足音が暫く横並びに響いてやがて離れていった。

 

 そんな風にトレーニングと、戸塚は余程雪ノ下の奴よりも可愛いという実感を重ねながら時間は過ぎていった。途中土日を挟んだが、俺達の行っているトレーニングの負荷はそう重いものではない。それは徒に筋肉量を増やしても、アスリートの体として不必要な筋肉まで身につけてしまっては意味が無いという雪ノ下の判断によるものだ。そしてその負荷の軽いトレーニングという物は基本的には休日を作らなくても良いものらしい。どうせ戸塚ならばやってくるだろうと考えると俺一人サボっているのも気分が悪いので、らしくなく運動をしていると小町の奴には「どうしたのお兄ちゃん、今更スポーツマンに転向? うーん小町にはさわやかなお兄ちゃんって想像つかないよ」とか言われたのもまあどうでもいい事だろう。

 

 そして週明けの月曜日。俺と戸塚は抜けるような青空の下、昼休みだというのに部活さながらのハードワークを強いられていた。何故か由比ヶ浜まで同席しており、雪ノ下が指示を出し、由比ヶ浜がボール出し、戸塚が打ち、俺が拾うという完全分業制が敷かれると、球拾いというインターバルが発生せず一際キツイトレーニング環境の出来上がりである。情け容赦のないコースを指定する雪ノ下と、それに応えるつもりが、狙いが甘いのか毎回さらにキツイコースに投げ込む由比ヶ浜という史上最悪のコンビネーションに、開始10分で戸塚の額からは汗が吹き出し、肩で息をする様になっていた。だが、その程度で手を緩めるような雪ノ下では無かった。このトレーニング風景を流行りの4Kビデオカメラで撮影するための費用と、銀行口座の残高を調べようなどと考えていた俺の目の前でついに力尽きた戸塚が倒れこんだ。

 

 幸い勢いこそ無かったが、心配する由比ヶ浜と一緒に戸塚の体を検めると膝小僧がすりむけている。「いたたた」と言って膝を撫でながらも俺達に大丈夫だと笑顔で伝えてくる戸塚の健気さに胸を打たれていると、すぐ後ろから足音が遠ざかって行く。振り返ってみれば雪ノ下が後者の方へと歩いて行く姿が見えた。

 

「雪ノ下さん呆れちゃったのかな」

 

 戸塚が何処かしょんぼりとした風に言う。

 

「あいつが? 馬鹿言うなって、マジギレした相手でも見捨てない様な奴が、あんなもんで呆れたりする訳無いだろ。なあ?」

 

「え、うん。そうだと思うけど。ゆきのん何処行ったんだろうねー」

 

 何故か棒読み気味に話す由比ヶ浜を他所にクッキー作りの時の雪ノ下を思い出す。心の底から震え上がりそうな声で皮肉を言って由比ヶ浜を詰った雪ノ下。けれど彼女はそれでも由比ヶ浜に愛想を尽かさなかった。それはきっと由比ヶ浜が自らの意思で努力することを決めたからなんだろうが、それは今の戸塚も同じだ。なら雪ノ下が戸塚を見捨てるということもないだろう。

 

 それだけ分かっているなら雪ノ下が今何処に行ったかなど瑣末な問題だった。

 

「取り敢えず水で流しとけよ。で唾でもつけたら絆創膏だな」

 

「うん」

 

「えー、絶対消毒液使った方が良いよ! ヒッキー不潔!」

 

 コートに併設された蛇口まで歩いて行った戸塚が靴を脱ぎ、靴下も脱いでから冷水に脚を晒した。どんなに折り曲げても膝を濡らせば、脚を伝って靴が濡れる。それを避けるための方策なのだろうが、土の汚れが落ちた戸塚の脚が、水に濡れ太陽光線を眩しく跳ね返す白い脚が、その足先までを完全に露出させているというのは非常になんだ、その……

 

「あははは、冷たくて気持ちいい」

 

 止めろ、止めるんだ。脚をぶらぶらさせて蛇口から放射される水を蹴ってみたり、無邪気に笑うのは。俺は有害指定ボーイ戸塚から目を逸らさんとポケットに入っていた財布からある物をを取り出した。

 

「ヒッキー何やってるの? お財布?」

 

 不思議そうな顔で見つめる由比ヶ浜。俺は取り出した物を戸塚に差し出した。

 

「ありがとう比企谷君」

 

 戸塚に笑顔で礼を言われる。礼を言われるような事でもないが、やはりこうされると俺も嬉しくはなる。照れくさくなって頬を掻く俺に由比ヶ浜が言った。

 

「お財布に絆創膏入れてるんだ」

 

「いつ怪我するか分からんからな。随分前から持ち歩くようにしてる」

 

「あ、……そうなんだ」

 

 俺の不用意な発言で由比ヶ浜の顔が曇りかけたので慌ててフォローを入れる。嘘は言っていない。財布の中の絆創膏は事故以前から入っていたものだ。しかし何故こうも怪我をした俺が気を使ってやらなければならないのか。そこだけが不満だ。

 

「よし、それじゃあ雪ノ下さんが来るまでさっきのを続けようか」

 

 タオルで汗やら水やらを拭いて靴を履いた戸塚がそう言って立ち上がった。念の為に後で保健室に行くことだけは進めておきたいが、膝の方も問題無さそうだし、練習を再開しようという戸塚の意見には賛成だ。雪ノ下が戻ってきた時に俺達が座って休んでいる所を見たら何を言い出すか分からない事も有るし。

 

「……ひどーいヒッキー。ゆきのんそこまで怖くないから」

 

「ある程度怖いってのは認めるのな」

 

「う、だって」

 

 無理もない。一言の鋭さだけを取り上げれば、三浦の吊し上げよりも鋭い一言を平然と投げかけてくる女である。怖くって当然だ。

 

 噂をすればという奴だろうか。コート入り口のフェンスが開いた音がした。雪ノ下が戻ってきたのだろう。やはり聞かれていれば無事では済まない会話をしていた所だったので慌てて振り返ったが、そこに居たのは雪ノ下ではなかった。

 

「あれー、ゆいたちじゃーん。テニスしてんの? いいな、あーしらもやろ」

 

 雪ノ下というただ話しているだけでも誰にでも緊張を強いるような女とは全く対称的に、間延びした話し方をするその女は同じクラスの三浦だった。

 

「って、げえ、比企谷。なんでアンタが」

 

 俺を発見するなり露骨に嫌な顔を見せる三浦。げえなんて今時の女らしくない台詞を吐く位には俺の事が嫌いらしい。 安心して欲しいというのも変な話だが、俺も全く同じ気分だ。そんな存在と敢えて口を聞くことも有るまい。由比ヶ浜も居ることだし、交渉役は彼女と戸塚に任せてだな。

 

 俺なりの平和安全策として三浦から距離を取る。すると三浦の関心が俺から逸れ、由比ヶ浜をちらりと見てから戸塚に向かった。

 

「ふーん、ねえ戸塚。あーしらもここで遊んでいい?」

 

 但し答えは聞かないと言わんばかりに三浦は戸塚の答えも待たずにコート内にズカズカと入り込んでくる。戸塚が断るとは夢にも思っていないという態度だ。

 

 その三浦の後ろに葉山、戸部、男子2人と海老名さんが続く。いつもの面子で昼休みの暇潰しでも探していたのだ。教室で話し込んでいれば昼休みなどあっという間だと思うのだが、この辺がリア充がリア充たる所以という奴なのだろう。刺激や遊びを探しまわるのも大変結構である。今回に限っては傍迷惑という他無いが。

 

 そう彼女こそは我がクラス、いや学園でもトップカーストに所属している三浦、みうら、三浦某なのだ。女子の平均よりも少し高めの身長。ゆるふわウェーブのロングヘアを校則違反の茶髪に染め上げ、これまた校則違反のだらしない着こなしとペンダントだのイヤリングだのと言った装飾品。その気の強さが外面に現れた鋭い目付きと、これでもかと言わんばかりの女王様気質。口を開けばあーしあーしと言う彼女はその実頭も割りと良い筈なのだが、これが彼女のオリジナリティなのだろう。あれか、強さと幼稚さが合わさって最強に見えるという奴か。そんなものがなくても十分に最強の風格漂わせし猛者なのだが。

 

 そんな彼女は少なくとも俺の先だっての紹介通り、かなり我が道を往くタイプ。彼女の中ではもう今日の昼休みはテニスの時間なのだろう。勝手知ったる様子でラケットなどが置かれた倉庫の方に移動しようとしている者もいる。

 

「え、ええと、三浦さん」

 

 戸塚が三浦に声を掛けた。三浦と戸塚の視線が交錯すると、戸塚の方が震える。雪ノ下の時も思ったが、戸塚の気も相当に小さい。俺も人の事を言えた義理ではないが。とはいえ、戸塚もその程度で引くわけもない。

 

「ああ、何? 用件が有るならさっさと言って欲しいんだけど。時間なくなっちゃうっしょ」

 

「僕ら、別に遊んでる、わけじゃ」

 

「え? 何? 聞こえないんだけど」

 

 特段戸塚の声が小さすぎるという訳でもないのに三浦が聞き返す。

 

 若年性難聴か。雪ノ下や平塚先生のように薦められる医者はいないけど、取り敢えず早めの手術をおすすめしたい。

 

 戸塚は敬老精神故か親切にもう一度言い直して聞かせた。

 

「れ、練習してるんだ。僕達」

 

 とはいえその程度では三浦は全く意に介さない。それどころか反論までしようとする始末。

 

「でもさ、部外者混じってるじゃん。ってことは別に男テニだけでコート使ってる訳じゃないんでしょ? じゃあいいじゃん」

 

 俺と由比ヶ浜を指していう三浦。葉山は彼女の後ろで困ったような顔をしているが止める様子もない。悪いけど言うとおりにして欲しいとでも言いたげな態度だ。戸部他2名の男子も非難がましい目でこちらを見ていた。

 

 無理もない。昼休みに他人が娯楽に興じている姿を見て、自分もと思うのは当然の心理だろう。しかしながら俺達にはそれを許してやる事は出来ない。本当に残念である。ああ、残念だ。

 

「それとも何? そこの2人は良くてあーし達は駄目な理由でもあんの?」

 

「えっと、そのー」

 

 三浦に正面から見据えられ、戸塚が言葉を接げなくなる。そして何故か俺の方を横目で見やるのである。助けでも求めているのだろうか。或いは由比ヶ浜の活躍を期待しようにも女王様のご下命の前に、ってか普通に首を傾げていた。

 

 そういや、由比ヶ浜は職員室に来てなかったな。

 

「悪いがお前らにここを使わせる訳には行かん。顧問から厳命を受けてるんでな」

 

「ちっ。はあ? あんたも部外者なのに使ってんじゃん」

 

 俺が話しかけるや即座に舌打ちとドギツい視線を向けてくる三浦。蛇蝎の如く嫌われているらしい。しかしどうだ蛇蝎の如くって字面が格好良くないか? 蠍はともかく蛇ってのは陰湿臭いが。

 

「俺は奉仕部ってなボランティア活動を主とする部活に所属してて、今回のこれはテニス部戸塚からの正式な依頼に基づく部活動だ。テニス部顧問からも正式な許可を受けてる」

 

「別にあんたたちが全部のコート使ってる訳じゃないでしょ? 空いてるコートも使えない訳?」

 

「ああ無理だ。ボールやらコートの管理の問題でな」

 

「別にボール無くさなきゃいいんでしょ?」

 

 諦めろと言っているのに尚も三浦は食い下がる。そんなにテニスがしたいのか、それとも単に俺の言うとおりにするのが嫌なのか。苛立ちを深める三浦はヒートアップしていく。

 

「知るかよそんな事。ボールも無くさない。コートも傷めないって顧問の長塚の所行って来い。体育教官室辺りに居るだろ」

 

 体育館の傍の小屋を指差す。そこは文字通り体育の教師が詰めてる部屋で、体育倉庫の鍵やその他体育用具の管理をしている場所でも有る。俺とて顧問が許可を出すので有れば文句はないのである。まあそんな事を言った所で許可が下りるとも思えないが。

 

「はあ? 別にいいじゃん。今だって使ってないし。意味分かんない。キモいんだけど」

 

 来ました伝家の宝刀意味分かんない。続いて最終兵器キモいんだけどであらゆる議論を捩じ伏せる最強の兵装である。対抗手段として最も有効なのは暴力である。平塚先生が俺に振るっている所をよく見るあれである。まあそもそもの原因であるテニスコートの閉鎖性はテニス部顧問長塚の物臭が原因である以上、三浦に同情すべき点が無いとも言えないので今回使用はしない方針である。

 

 かと言って、俺はこんな暴論を唱えられて腹を立てないほど器の大きい人間でもない。議論が出来ないなら罵詈雑言でもって対応すれば良いだけの事だった。

 

 そう思って口を開こうとした矢先葉山が俺と三浦の間に割って入る。

 

「まあまあ、あんまヒートアップすんなって。みんなでやった方が楽しいだろ? 今回だけだと思って使わせてくれないか?」

 

 葉山は三浦の顔を覗きこむようにして宥めると、背中越しにこちらを振り返ってそう言った。一見して三浦を止めようと話に入ってきたのに、提案が三浦の意見ゴリ押しってなどういう事だ? 俺は三浦よりも葉山のこの態度に腹が立った。

 

「お前ね、テニス部員の戸塚が長いこと直談判した結果、漸くテニス部員限定で開放されたようなコートを部外者に使われて使用許可取り消されたらどうすんだよ」

 

 総武高校の部活は軒並みさして強くないが、葉山の所属するサッカー部は別だ。葉山が入部した去年の成績は知らないが、今年は奴を中心にして随分盛り上がっているようだ。テニス部顧問の目から見てもウチで唯一県大会上位・全国を狙える部活動らしく、進学校の総武高校としては珍しい快挙達成に燃えたサッカー部顧問が朝練をしている風景はここの所のトレーニングで何度も目にしている。そこに参加している葉山とて、まあ在り得ないだろうが朝練時グラウンドの使用許可が取り消されたら困る筈だ。だから葉山は何も言えない。

 

「それとな、何がみんなでやった方が楽しいだろ? だよ。アホか。遊びでやってんじゃねえんだよ。俺は仕事だし、戸塚だって上手くなろうって必死になってやってんだ。楽しくなんかなくていい。ああ、それでも結構、みんなでやろうってんならどうぞお願いしますよ。俺がこれから顧問の所行ってきて許可取ってきてやるから存分にテニスを楽しんでくれ。但し、朝昼夕3回のトレーニングには必ず参加しろ。これから戸塚が納得するまでずっとだ。いいな」

 

 葉山は運動神経抜群だし、戸部やその他男子2人も俺よりは運動神経がいいだろう。それに風に聞いた話じゃ三浦はかなりテニスが上手いとか。俺よりも戸塚の練習相手としては望ましいだろう。こいつらが戸塚のトレーニングに参加してくれるというなら願ってもない話だ。

 

 俺は持っていたラケットを持ち替えて葉山に差し出したが、受け取ったが最後練習には参加して貰うという俺の意図を読み取った葉山はそれを受け取ろうとはしなかった。戸部やそれ以外の連中も同様である。

 

「おいどうした三浦。練習手伝ってくれんのか? それが嫌なら今から許可貰ってこい。それともまた意味分かんないか?」

 

「っ!!!」

 

 くるくるくるー、ぱー。と頭の横でバブリーなジェスチャーをしてやると三浦が激発しかかる。親父直伝のこの仕草が三浦に通じるか疑問だったが馬鹿にするニュアンスは最低限伝わってくれたのだ。が、やっぱり葉山がそれを制止する。

 

「昼休みだけなら構わないんだけど」

 

 その一方で反撃も忘れない所には感心するが。

 

「なんで俺がお前の要求を飲まなきゃならん。俺は顧問の意向に従ってるだけ。俺の代わりになるってんなら1日3回の練習。それが出来ないならコートの使用許可を取ってこいって話をしてるんだが。許可が貰えたら俺は何も言わねえよ」

 

 取引する相手がそもそも間違いである。あくまでテニスコートの利用の主体は戸塚である。この場合戸塚に申し出るのが筋だろう。それか顧問。

 

「分かった。コートは諦めるよ」

 

 取り付く島もない事を悟ると、葉山はあっさりと憤懣遣る方無い三浦の背中を押しながらコートの出口に向かって歩き始めた。彼の取り巻きもそれに逆らう様子もなく従った。唯一人異論が有りそうな三浦だったが、葉山に促されると静かにそれに任せたようだ。

 

 カシャンとフェンスが音を立てて閉じると、漸く練習の事が頭を過ぎった。緊張のせいかすっかり体は冷めてしまっていたが気を取り直して戸塚に声を掛ける。

 

「練習再開しようぜ」

 

「あ、うん」

 

 頷いてコートに走っていく戸塚。葉山の協力の申し出を俺が断ってしまったことについて、何か思う所がないか聞いてみたかったが、それよりももっと気になる事が有った。その背中から由比ヶ浜に視線を移して、謝罪した。

 

「悪かったな。お前が居るのにあんな風に言って」

 

「う、うん。でもしょうがないよ。顧問の先生に言われた事なんでしょ?」

 

「ああ、でも三浦はお前の事めっちゃ見てたけどな」

 

「ウソっ!?」

 

 気づいてなかったのか。既にいなくなった三浦が立っていた場所を見る由比ヶ浜。当然だが、今更確認そんな事をしても三浦の視線が何処を見ていたのか確認することは出来ない。だが本当である。男子はそうでも無かったが、三浦は俺に何も言わない由比ヶ浜を見ていた。俺の挑発に引っかかって激怒していたので案外忘れているかもしれないが。

 

「うわっ、うわっ……どうしよう」

 

 そう言って頭を抱える由比ヶ浜に、掛ける言葉も無い俺はそっとその場を後にした。

 

「ちょっ、ヒッキーのバカバカ。どうしてくれんのさ!」

 

 うん、本当にやってしまったかもしれん。

 

 ちなみにこの後雪ノ下のテニスの腕が気になったので、すこしばかり披露してもらい俺の懸念は見事に晴れたのだった。

 

 俺はこの日初めて雪ノ下雪乃が嘘偽りなく才能の塊であるという事を知った。



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第10話

「いらっしゃいませー」

 

「しゃーあっせー」

 

 ティロンティロンティロンと客の来店を告げる電子音に続いて二つの声が店内に響いた。前者は俺の声。もう一つは同じ時間帯勤務の女の子の声である。気の抜けたいかにもやる気なさげな声だったが、無理もない。時刻は午後2時を過ぎた辺り。コンビニエンスストアにおける山場の一つであるお昼時、それも最も忙しい1時間半を乗り切ったのだ。それに他人の耳で聞いた俺の声もきっと似たり寄ったりだったに違いないからな。

 

 納品に次ぐ納品と怒涛のごとく押し寄せるお客様。いらっしゃいませ。そちらの商品でしたらこちらにございます。お預かりいたします。こちら○点で○円です。お弁当は温めますか? お湯はあちらのポットをご利用ください。ありがとうございました。と定型句を半自動的に口にしながら只管に手を動かし、足を動かし、顔を動かして、会計をしたり商品を品出ししたり、ホットスナックと呼ばれる店舗調理の商品を調理したり、或いは糞忙しい時間に訪れる宅配便等の応対に忙殺される1時間半。もうかれこれ半年以上繰り返しているが、いくら経験を積もうとも疲れ難くはなっても疲れなくなることはない。

 

 お客様がはけ切ってガランとした店内で、うんざりとした溜め息を吐きながら穴だらけになった商品棚にバックヤードから商品を補充する作業を開始しようとしていた俺は、声を掛けながらも足を動かし続け銀色のドアをくぐった。そして視界に広がるポテチやせんべいその他スナックの袋や、カップラーメンにパンの在庫まで。目の前に広がる雑然とした風景の中から適当な山を選び出し、一山丸々を台車に載せる。出来ることならこのまま数分間油を売りたい気分だが、少しでも早く売り場に商品を出して真の安寧を得るべく颯爽と売り場に向かう。どうせここからは大した客入りではないので、早々に品出しを終えてしまえば後は5時の上がりまではマッタリタイム。そこまではノンストップだぜ。

 

 ガラガラガラと車輪の音を鳴らしながら店内を進む。ここはパン、ここは弁当、ここはお菓子。と幾つかのコーナーを過ぎて目的のカップ麺コーナー目前、そこで台車の前にぬっと2本の足が現れた。どうせお客様も居ないのだしと高をくくって台車を見ながら歩いていた俺は謝罪の声と共に顔を上げながら一礼。

 

「申し訳ありません。失礼致しました」

 

 商品を落とすことも無く急停止。客に道を譲り、再び視線を台車に向けた。さあ行くのだお客人。何人も俺を止めることは出来ねえ。とかハイテンションに心の中で叫びつつ、その足が動くのを待つ。高いヒールの入った靴とそこに収まる素足。白く透明感の有る美しさを持ち、健康的な柔らかさを見ただけで予感させるような素晴らしい足の持ち主だ。女の足は齢を映すというが(俺が個人的に思っているだけという可能性も有る。何せそんな話をする友人が俺にはいない)、キュッと細くしまった足首から7分丈のスキニーパンツに向かって伸びる脛まで含めこの足はその美貌までこちらに期待させる極上の足である。さぞや美人に違いない。でもさっさとどいて欲しい。

 

 そのまま1、2、3と3つを数え、それが5つになっても一向に退く気配が無い。商品を選んでいるのだろうかと思っても、足の向きからしてこの女性は棚ではなく俺の方を向いている。

 

「こんにちは比企谷君」

 

 何とも珍しい事である。俺と同じ苗字を持つ人間が、こうして俺の職場に来て、俺の背後に立って俺の前に立った人間に呼びかけられる事が有ろうとは。比企谷という苗字は珍しいのではないかと密かに自慢に思っていたのだが、やはり井の中の蛙。自分とそっくりの人間が3人は居るという世の中に出てみれば、こうして俺と同じ珍しい苗字を持つ人間に出逢うという事も往々にして有るという事なのだ。

 

 人生とはかくも奥深い物なのだなあと感心してしまう。しかし、その呼び声に応える声が聞こえてこないというのも不思議な話だ。これは一体どういう事だと振り返ってみてみても誰もいない。導入したてのLEDのライトから昼日中だというのに目も眩まんばかりの光が溢れ、それをピカピカに磨き上げられた床が反射しているだけで、そこには影一つ差していないのだ。今は俺の背後に立つ女は一体何を見て、何に呼びかけたというのか。恐ろしくなった俺は台車から手を離して、元来た通路を戻ろうと。

 

「比企谷君? 比企谷君てば。あれれー、無視は感心しないなー。この前はあんなに可愛がってあげたのに」

 

「ひぃっ」

 

 女が再び声を発した。だから誰に話しかけているというのだ!? 最早一刻の猶予もない。ホラー現象に巻き込まれるのだけは御免である。俺はチーターもかくやという速度でその場を後にし、ようとしてそれを阻むように肩を掴まれた。

 

 冷たい。制服越しに掴まれた肩に伝わる掌の温度がまるで寒風吹きすさぶ中を歩いてきたかのように。そしてその手の感触が曰く言い難い程に、そう凄い。滑らかだとかたおやかだとかそう言った形容詞も思い浮かぶには思い浮かぶが、どれだけ言葉を尽くしてもそれが追いつかない程心地良い感触。それはもうこの世のものとは思いがたい程に。

 

 その感触にあっさりと俺の体が屈服してしまう。どれほどに俺が逃げようと心を砕いても体が動かないのだ。そして俺の意志に反するかのように体を捻じり始める。そうだ、この動き。振り返ろうとしているのだ俺の体は。頭(俺)の事など露知らず、肩に置かれた手の、たったそれだけで俺に与える恐ろしい程の快楽に負けている。恐怖に身を浸している訳ではない。だからこそ俺が振り返るのに掛かった時間は、一瞬で、俺には覚悟を決めることしか出来ない。

 

 ここまでか。

 

「う、うわっ、うわああ……ってなんだ雪ノ下さんじゃないですか。驚かせないでくださいよ」

 

「いやいや、君が勝手に驚いただけだから」

 

 安堵の溜息とともに吹き出た冷や汗を拭う。全く振り向いた拍子に心臓が止まるかと思ったぜ。とんだ肩透かしを食らった気分である。

 

「ていうか君、私が君に話しかけたの全く気がついてなかったの?」

 

「ええ、まあ。アルバイト中に声掛けて来る様な知り合いの声とも違いましたんで。すいません」

 

「私の声覚えてなかった訳でもないんでしょ?」

 

「はい。ただあれっきりお話する機会も無いと思ってましたし」

 

 確かに言われてみれば聞き覚えの有る声だ。いつかと同じ、茶目っ気とサドっぽさと元気の良さ、それから強さを持つ声。足も今こうしてみれば、成る程見覚えの有る足である。ちなみに俺の予想では平塚先生も同じくらい綺麗な脚線美をしている。

 

「ふーん、そうなんだ」

 

 興味が無いんだったら聞かなきゃ良いのにと言いたくなるようなテキトウなふーんだった。

 

「ちなみにさ、私が結構ここのお店来てるって言ったら信じる?」

 

「は? そうなんですか? まあ俺平日はシフト入ってないんで」

 

「違うよ。日曜、は滅多にないか。でも土曜日は時々お昼に来てるんだけど」

 

 初耳である。それどころかそんな姿を目にした記憶もない。それもこれも糞忙しいというのにシフトの人数を増やさないオーナーのせいである。仕事に気を取られて接客した相手の顔を見てる余裕もない。何が言いたいのかというと時給をあげるか、人数を増やせという事である。

 

 だが台詞の割に雪ノ下さんの言葉には咎めるような響きがない。それも当然か。俺と彼女は知り合いですら無いわけだし。

 

「ちなみにさっきは私、比企谷君のレジに並んだんだけど、本当に覚えてない?」

 

 態々顔を近づけて問い掛けてくる雪ノ下さん。顔をよく見ろという意味合いだろうか。それにしてもしつこいな。若干拗ねているのか? 雪ノ下と同じタイプの自意識過剰かもしれないが、何故接客した程度の、我が家まで乗り込んで傍若無人に振る舞った程度の相手の事をそこまで強く意識しなければならないというのだ。姉妹揃って理不尽な美貌と性格をしている。

 

「すいません。もうレジと品出しでそれどころでは無くってお客さん1人1人の顔までは」

 

「そっか、大変だったんだねー。確かに凄いお客さんだったし」

 

 駅の近くかつ大学が近く、その上オフィスビルまで有るので、この店平日の朝、昼、夕方は土日を凌ぐ地獄の様相を呈するというが土日にしたって大概である。それでも2人で捌けるには捌けているが。雪ノ下さんに分かって貰えて嬉しいよ。だもんでさっさと会話を切り上げたい。

 

 だが雪ノ下さんはまだ俺の傍を離れない。仕方がないので話しながら作業をする事にしようとダンボールに手を掛けた。

 

「比企谷君はさ、雪乃ちゃんの事どう思う?」

 

 開きかけのダンボールから今週発売の新製品を取り出す。なんでもこのコンビニチェーンと有名店のコラボ商品らしいが、売上としては微妙である。何せ不況真っ只中のこの御時世にカップラーメンの癖して300円付近という価格帯、量は大型の物にしては少し少なめ。調理に異常な手間が掛かり、その上味が価格に見合っていないというんだから至極当然か。かく言う俺もその値段に惹かれて1度は買ってみたもののリピートはすまいと誓っている。それと同じパッケージの商品を棚から探し出し、個数を調べる。はあ、昼のピークに1個しか売れていないとは。これは来週の新商品が来たら棚を圧迫する不良在庫化しそうだ。今度のシフトまでに消えてくれることを願おう。ええとそれから、雪ノ下の事か。

 

「特に何も。普通の人だと思います。ま、確かに口は悪いし性格も普通とは言い難いし容姿も抜群に良い。才能も非凡な物が有るみたいですけど。おっ、あったあった」

 

「その並びで美人だって言っちゃうんだ。ふーん、へえー。でも可愛いとは思ってるんだね。じゃあ由比ヶ浜ちゃんの事は?」

 

「特に何も。普通の人だと思います。ま、確かに馬鹿っぽいし、事なかれ主義の付和雷同的な精神の持ち主でかなり可愛いとは思いますけど。はー、これは売れてないのね」

 

 棚に商品は置かず、代わりに手箒で棚の埃を払っていく。それにしても何を聞きたいのかよく分からない質問だ。あの2人がどんな人間かなど俺に聞いた所で分かる訳がないし、雪ノ下さん自身の方が余程簡単に調べられるだろう。それともあれか? 2人の悪評でも立てるために、弱点でも嗅ぎ回ってるとか。

 

 ダンボールに入ってる分が終わった。次はコンテナに入った分。こっちは重なってたりして見通しが悪いので何が入ってるかを確認するのも手間が掛かる。しゃがみ込んで1つ1つを手に取りながら棚に空きが無いかみていく。

 

「比企谷君としては2人の可愛い女の子に何も感じていないと」

 

 雪ノ下さんもしゃがみ込んだのか、聞こえてくる声が近い。ってか本当に近い。耳元から聞こえてくるんじゃないかと勘違いする距離ですよもう。立ち上がって商品を置くついでに、一歩離れた所に移動してそこにしゃがみ込んだ。この前もそうだったけどこの人は他人との距離感が由比ヶ浜以上に短い。十中八九計算だろうと確信してるが、だからと言って思春期の少年の動悸はどうにか出来るものじゃない。というか前回の事も有ってか、この人の近くに居ると違う意味の動悸もするな。ドキがムネムネして落ち着かない。

 

「雪乃ちゃんが男の子の家に行くなんて滅多にないからね。最初は彼氏かと思っちゃった」

 

「彼氏の家に来てあんな事してたら仲悪くなるのも当然ですね」

 

「あんなの君だけだよ。まさか知り合って一月もしない内に家に誘うほど仲良くなったのかと思って焦っちゃった」

 

 予想外の事態に動転して苦しみ紛れの邪魔立てがあれだったと言いたいのか。しかし雪ノ下の姉だという情報と前回の所業を鑑みるに本当かどうかは疑わしい。この人の言う事は何処までも疑ってかかるべきだという直感が有る。が、という事は何処までも疑ってかかっても仕方がないという事でも有る。結局気にかけるだけ無駄だろう。どうせもう関わり合いになることもない。

 

「そうなると何か不味いんですか? もう雪ノ下も高校生だし、いや高校生だからこそ心配だというのも分かりますけど雪ノ下なら心配要らないんじゃ」

 

 心にもないことを言う事で話を無難な流れで運ぶ。内心は正反対。あいつにはきちんと目をかけてやったほうが良い。世界征服宣言といい馬鹿な事を言い出す頭も心配だが、それ以上にあいつの友達のいなさっぷりが、ちょろさの裏返しの様に思えてならない。案外本当に下心だけで近づいたら上手く行ってしまうんじゃないかと考えてしまう位である。下心があれば面従腹背もやろうと思えてしまうものだし。由比ヶ浜との絡みを見ていても、あの性格に耐えさせすればすんなり近づけている。

 

「うふふふ、本当にそう思ってる? それとも何か下心が有るのかなー? うりうり」

 

 一歩雪ノ下さんが俺との距離を詰める。これでまた俺と彼女は手を伸ばせば届く距離。雪ノ下さんが動く気配を察知して急いで立ち上がると、すんでのところで雪ノ下さんの指が俺の膝に突き刺さった。大方俺の頬にでも指を突き立てて掘削機のごとく抉るつもりだったのだろう。油断も隙も無い。が安心したのも束の間、うりうり攻撃が俺の膝を直撃して痛みを走らせた。

 

「いったあ、もう何するんでですか?」

 

「うーん、比企谷君はそっちの方が好きなのかなって。さっきっから私の事ずっと避けてるし」

 

 喜んでくれると思ったんだけど、ごめんね。と舌を出す雪ノ下さん。この間とは行動も印象も違いすぎる。やばい、この人雪ノ下よりうっとおしい人だ。具体的に言うと性格が壊滅的に終わってる。だってこの人単に俺のこと甚振りたいとしか思ってなさそうだし。おっかしいな。この人に気に入られるような真似をした覚えはないんだけど。今度はコンテナを持って2歩遠ざかる。もう棚の端っこだ。これ以上逃げると仕事に差し支えてしまう。

 

「比企谷君にはあんまり隠し事をしたくないから正直に言うとね、私って雪乃ちゃんの事大好きなんだよね」

 

 マジかよと言いたくなるような衝撃の事実である。普通大好きな妹の人間関係ぐちゃぐちゃにはしないと思うんだが。やっぱりこの人相当面倒臭い人だ。てか何故俺には嘘を吐きたくないなんて事になるんだ? 嘘をつくのも面倒とかそういう評価ならまだ納得しようもある。俺など雪ノ下や雪ノ下さんからすれば、路傍の石同然の人生において何の意味も持たない人間だ。付き合いがないので殆ど憶測の域を出ないが、俺はこの考えが殆ど間違っていないと確信している。今この高校生活という時間俺と偶々居場所が重なった事さえ奇跡みたいなものなのだ。

 

 だというのに雪ノ下さんはたった2回しか面識のない俺に、妙な価値を見出しているようである。或いは誰にでもこんな事を言っているのか。

 

 でもね、と雪ノ下さんが言葉を続ける。

 

「だから雪乃ちゃんの事構いたくて構いたくて仕方ないんだよね」

 

 これはあれか。学生時代いじめをやってた奴が何十年も経ってから、よく遊んでたよなというような奴なのだろうか。当の雪ノ下本人も周囲の人間である俺も間違ってもその記憶を共有できそうにない。それとも雪ノ下さんの中じゃ構うってのはいじめるとかルビが振って有ったりするのか。

 

 どちらにせよ、雪ノ下さんはロクでもない人間決定である。

 

「でね、ずっと後ろをちょろちょろ付いて来てた雪乃ちゃんも大きくなって、今度は私を越えようと躍起になってるのがもう可愛くて仕方ないんだよね」

 

 出来るわけがないのにね。言外に絶対の自信を滲ませながら雪ノ下さんは笑う。俺はその気配だけを感じながら相変わらずカップ麺の品出しを続けていく。どうやら発注がポカしたらしく一部の商品が大量に在庫を抱えているのだ。それがあっちこっちにちらばって邪魔で仕方ない。これは一先ず商品をざっと分類してしまった方がやりやすそうだ。後雪ノ下に雪ノ下さんが超えられないというのは同意だ。雪ノ下もそこらの奴を相手にすれば敵なしの逸材だが、雪ノ下さん相手では流石に分が悪い。役者が違いすぎるのだ。片や自分の外面まで偽ってしまえる、その上で尚微動だにしない自我を築いた人間と、何もかも、自分の内面すら偽れない雪ノ下。始末に終えない事に能力の方まで雪ノ下さんの方が上なのだろう。でなければこれ程自信満々に彼女を嘲笑する事など出来ない。

 

 しかし、この難敵を向こうに回して戦おうと言うのだから雪ノ下の方こそ誰かの助けを借りるべきである。同じ部活の誼でその相手探し位なら手伝ってもいいが、これの相手を出来るような人間か。心当たりがないな。

 

「でもさ、雪乃ちゃんたら弱っちくて、直ぐに諦めそうになっちゃうの。周りの人の影響も受けやすいし。そんな所に君みたいな味方が居るとちょっと面白くなさそうな事になりそうなんだよね」

 

「俺が雪ノ下相手に何が出来るっていうんです? あいつに手を貸してやれるほど、俺は凄くないんですけど」

 

 あいつだって努力をしていない訳じゃない。むしろ人一倍努力を惜しまない奴だろう。だからこそ俺という怠惰と惰弱の塊のような人間からは何の影響も受けないはずだ。しかし、雪ノ下をよく知る、雪ノ下さんの読みでは異なる見方が出来るようだ。

 

「でも雪乃ちゃんの味方にはなれるでしょ?」

 

「そんなの誰だってなろうと思えばなれるでしょう。特にあいつの味方だっていうんならなりたがる奴も多いと思いますけど」

 

 小林多喜二はこう言っている。ーー困難な情勢になってはじめて誰が敵か、誰が味方顔をしていたか、そして誰が本当の味方だったかわかるものだ。ーーそしていつだったか雪ノ下はこう言っていた。「心から愛されていれば良かったかもしれない。結局私に好意を表していた人でさえ私の周囲には居なくなったわ。そもそも悪意の盾になってくれようとした人さえいなかった」。なるほど確かに雪ノ下には今まで本当の意味での味方は居なかったかもしれない。だからこそあいつは今のように生きていくしかなくなったと考えることも出来る。だが、根本の所で躓いてしまう。俺が雪ノ下の味方になれるって?

 

「そう? 雪ノ下ちゃんの周囲を取り囲む敵でも、友達でもなく、雪乃ちゃんの単なる味方になってあげられる子がそんなに沢山いる?」

 

 雪ノ下ならばまず味方の定義から始めそうな問答だ。とはいえ、それは間違いでもない。俺と雪ノ下さんの間で味方という言葉の持つ意味が食い違っているような違和感が有る。

 

「雪乃ちゃんの事を大切にも粗末にもしない、雪乃ちゃんの事を突き放しも抱きしめもしない、雪乃ちゃんの事を綺麗な女の子なんて思わないで、羨まないで嫉まないで、安息も平穏も与えないまま、休息を与えてあげられるかな?」

 

 ニーチェは『ツァラトゥストラはかく語りき』の中でこう語った。すなわちーーもし君が悩む友を持っているなら、君は彼の悩みに対して安息の場所となれ。だが、いうならば、堅い寝床、戦陣用の寝床となれ。そうであってこそ君は彼に最も役立つものとなるだろう。ーー。多少違ってはいるが、求める所は同じだろう。それにしたって、まるで彼女が上げた要素全てが雪ノ下を堕落させるような口振り。いや、彼女は雪ノ下を可愛がるのが目的なのだからそれも当然か。それらが雪ノ下に与えられるというのは彼女にとっては紛れも無く堕落なのだ。腐敗で、悪徳なのである。

 

 漸く合点が行った。雪ノ下さんはRPGの魔王もかくやという態度で、己の敵対者を育成しているのだ。違う点と言えばこれが現実で確実に勇者が魔王に敗れるという所だ。だから雪ノ下さんは、雪ノ下に最終決戦の時まで決して腐ることも倒れる事も許すまいとしているのだ。今回のこれは勇者ただ1人を対峙させる為の作戦。雪ノ下さんは俺に雪ノ下を自分の前に差し出せと言っている。

 

「雪乃ちゃんはね、別に強い子じゃないんだよ。だから簡単に変わってしまえる。でも私はそれじゃ面白くないの」

 

 変わっていくこと。それは雪ノ下が、いつか肯定した事だ。変わっていかなければ苦しいままだから、変わらなければ痛いままだから。その痛苦の原因の言う事は、どこまでも自分勝手な言い分だが、この人はきっとこれからも色々な物事を自分の思いのままに進めていくだろう。だから雪ノ下は変わらなければいけないのだ。でなければ逃げ出せない。だが、逃避の原因がそれを許さないなら。それが自分よりもずっと強烈に、強固に自分を自分のまま押し留めていたら。

 

「俺にあんまりあいつを甘やかすなって言いたいんですよね。最初からそんなつもりありませんよ」

 

「それは嘘だね」

 

 この人はきっと何処ぞの暗殺拳の継承者とかに違いない。硬い床の上をヒールの入った靴で音も無く動くのだから。余所見をしていた俺に実感されるのは、突如目の前に現れる雪ノ下さんだけ。

 

 視界いっぱいに見覚えがある顔にそっくりで、でも何もかも決定的に違う雪ノ下さんの真剣な表情が広がる。そのそれぞれが微妙に記憶の中の雪ノ下と異なるパーツの中でも一番違うのはやはり目だ。雪ノ下と正面から話してみると分かるが、あいつはどんな相手であっても話す相手の事をとても意識している。被虐者の習性か、ぼっち特有の習慣か。どちらであってもいいが、根っこにあるのは防衛行動だろう。対してこの人は、相手の事にさして興味がない。あるのはそれを使って何が出来るかという事だけだ。今も雪ノ下さんの視界には俺の視界に映る雪ノ下さんと同じ位、俺が映っているが、俺が何をした所でこの人が狼狽える所など想像も出来ない。それはこの人の中にあって、俺が同等の存在ではないからだ。

 

「何が見える?」

 

 そんな物は決まっている。

 

「雪ノ下さんが」

 

 同時に雪ノ下さんの瞳に写り込んだ自分が見える。

 

「相手の目を覗き込んで、相手の事を分かった気になるなんて比企谷君もまだまだ青いなー。それで見えてくるものなんて、相手の目に映る自分だけなんだよ」

 

 嫌に哲学的な話だ。

 

「君はね、自分が関与した相手の事なんか心の底からどうでも良いんだよ。だから甘やかそうと思えば、可哀想だと思ってしまえば、際限なく相手を甘やかす。相手が自分1人で立てなくなっても気にしない。相手が比企谷君をどれだけ求めたって関係ない。君は君のしたいようにして、用がなくなったらさようなら。おろおろしてる迷子が家に帰れなくたって構わないんだ」

 

 貴方こそ、一体俺の何を分かった気になっているんだ。どうせ、俺のことなんて何も知りもしないくせに。

 

 普段の俺ならこんな事を考えつきもしなかっただろう。だが今日は、雪ノ下さんの言っている内容が胸に刺さりすぎた。俺の知っている、俺の嫌いな俺の事を、こんなに簡単に言い当てる雪ノ下さんに動揺して、恐怖して、戦慄して思わず距離を取らずにはいられなくなった。だからこんな事を。

 

 すっかり作業の手が泊まり、もう何分も同じカップ麺を握りしめたまま俺の動きは止まっていた。作業に戻らないと。そう言って雪ノ下さんから離れたい。見透かされないよう俺の姿を隠したい。まぶたを閉じれば、どうせそこに映っているのが雪ノ下さん自身の姿で有っても、それを閉じれば彼女に見通されている自分の姿が掻き消える。そう思ってもまぶた1つ動かなかった。

 

 雪ノ下さんは更にぐっと彼我の距離を詰めた。それは鼻先がぶつかりそうなほど近い、俺と他人の線を越える距離。それでも俺は動けない。

 

「分かるよ」

 

 心臓が止まる。

 

「君と私はそっくりだよ。まるで鏡に写った自分みたい」

 

 俺の考えが、心が読まれているのかと思ってしまう。そんなドンピシャのタイミングで雪ノ下さんがそう言った。

 

 そう、さっき雪ノ下さんはこんな近さでは自分しか見えないと言った。だから今雪ノ下さんの瞳には雪ノ下さん自身の姿が映っている。だが、その姿が本当に俺そっくりだったとしたら。鏡に映る自分の心を読むことなんて造作も無い。

 

「でもね、そんな君だからこそ雪乃ちゃんの味方になれる。2人で1つの方向を見る為じゃない。2つの方向を見ながら正しい道を歩いていける。そんな味方にね」

 

「俺を炊きつけるつもりとしか思えませんね」

 

「嘘つき」

 

 それだけ言って漸く雪ノ下さんは俺から顔を離した。こんなに近くに息を呑むような美しい顔が有るというのに全く嬉しくならない。鼻先をくすぐる微香も、眩しく光るデコルテも今の俺には気にしている余裕が無い。

 

 只々どうするべきかがわからない。

 

 別に雪ノ下さんを恐ろしいとは思っていない。だから彼女の思惑に楯突こうとする事は可能だ。だが、それは同時に雪ノ下と深く関わりあうという事でも有る。そしてまた俺には雪ノ下に肩入れする理由もない。同じ部活の誼という程度の理由では、人生相談にも、この人との闘いにも参加出来ない。俺は雪ノ下の事が好きだろうか? それはNO。では雪ノ下さんの事は? それもNOだ。どちらも正直どうでもいい。ならば、今こうして選択を迫られている俺が選ぶべきなのは。

 

「分かりました。雪ノ下さんが、こうして俺に話しかけるという手間を掛けてまでそうする理由は分かりませんが、雪ノ下の味方はしません。これでいいですか?」

 

 むべなるかな。ここで俺が雪ノ下の味方をするという選択肢は無かった。そもそも何の恩義も無ければ友誼を交わした記憶もない。単に同じ部活の女生徒だ。彼女の巻き込まれる諍いにも、彼女の苦悩にも興味はない。同情はない。悲哀はない。

 

 あるとすれば……。

 

「うん、ありがとう。比企谷君。別に雪乃ちゃんと仲良くする事に関してはどうこう言わないから、これからもよろしくしてあげてね。何だったら私の事お義姉ちゃんって呼んでくれる関係になっても」

 

 お姉ちゃんプレイ? ってそんな訳はないか。昼日中から何という勘違いをしてるんだ俺は。幾らなんでも盛り過ぎだ。結局そんなプレイに及んだ所で極悪非道な姉に隷従を強いられる展開しか想像できずげんなりしてしまう。それとも俺が弟になってもこの人の歯牙には掛からないか。そちらの方が可能性としては十分にありそうだが、万が一のリスクが高すぎる。

 

「ごめんですよ。俺には妹1人で十分過ぎます」

 

「えー。私は義弟(おとうと)も1人欲しいんだけど」

 

 手のひらを返したように笑顔を浮かべて拗ねたような声を出し始める。どうやら彼女を満足させることが出来たらしい。いつの間にか動くようになっていた体は、何事もなかったかのように仕事に戻っている。これはシーフード、これはカレーと商品の種類毎にコンテナの中で商品を選り分けていく。頭の中も切り替わりは速い。頭の何処かに引っ掛かりを感じていても時間を確認して、時間にどの程度の余裕が有るかなんてことを計算できる程度には。

 

「それじゃあ私そろそろ行くね? 友達待たせてるから」

 

 この人この後友達と遊ぶっていうのに、こんな事してんのかよ。あたかも飯を食べながらエロ動画を見るような食合せの悪さを感じてしまう。改めて雪ノ下さんの非人間性を目の当たりにしてしまった。

 

 雪ノ下さんは、ドン引きしている俺に手を振ると足取り軽く店を後にした。俺はといえばその背中を見送ることはせずに、カップ麺の山をバックヤードに戻していた。そして時計を見て、在庫の山を確認して、売り場を見て。

 

「どっと疲れた」

 

 そんな事を言った所で仕事をサボるわけに行かない。普段から仕事に手を抜く夕勤をボロクソ言っているせいで、夕勤と店長には目をつけられているのだ。今日のサボりを反撃の糸口にされては適わない。虚脱感すらある手足を気力で動かして品出しを続ける。

 

 そのままお菓子とパン、お弁当の在庫を陳列し終わった頃、5時の納品物を置いて置くためのスペースを作っている間、俺の迂闊さを呪いたくなるような出来事が有った。

 

 思い出してしまったのだ。雪ノ下に肩入れする理由。雪ノ下さんの不興を買うに足る理由というやつを。つい30分前の自分を呪い殺したいと後悔しても無駄である。俺は雪ノ下さんに言ってしまったのだ。雪ノ下の味方にはならないと。

 

「でもま、いいか。どっちにしろあの人の言う事には逆らうことになるわけだし。変わんない変わんない」

 

 そうだ。未だ俺に何の利益も恩恵も齎していないが、雪ノ下雪乃。あの女は俺に友達を作ってくれるという依頼を請け負ってくれた。そもそも真面目に話を聞いていたかも謎だが、少なくとも承知されてしまっているならこれはもう恩だろう。それに対して報いないのは道徳心溢れる人間のやる事ではない。

 

 そう。それにだ。雪ノ下がそうそう簡単に味方を必要とする機会も訪れないだろう。今じゃもう由比ヶ浜という友人もいる。もしもこれから先同じように雪ノ下という人間の周囲に人が増え続けるなら、遠からず俺が何をしなくとも雪ノ下さんが危惧していた様な状態に雪ノ下が陥る可能性だってある。だから、だからもしもの時があれば、雪ノ下の味方にはなるけれど、出来たらそんな時は来てほしくないなあ。

 

 




 自分で言うのも何ですが今回は微妙な出来です。
 いやー個人的には陽乃が一番好きなんで陽乃ヒロイン、あるいはいろはメインなんて事も考えたりしてるんですが、難しいですね。

 皆様のそれぞれのキャラ像なんかを聞かせてもらえると参考に出来るかもしれません。


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第11話

 かように面妖な接触があったからと言って世界が終わってくれる訳ではない。どれだけ気が重くとも、物語の主人公たりえない俺の都合で時間が止まったりしないのと同じ理屈である。であるからして、やはり2連休は終わり、またスクールライフが始まるのである。

 

 いつも通りの通学路、いつも通りの通学風景、いつも通りの通学。人によってはSAN値が目減りしそうな退屈な日常。間違っても数日前の報復に三浦とか葉山とか戸部が待ち伏せを掛けているという事もない。5月の訪れを早々に予感させるような仄かに暖かい風が吹くいい天気の中を、たった1人自転車で疾走する。スピードメーターなどという便利なものはないので憶測混じりになるがざっと時速25キロオーバー、全力疾走だ。これで自宅から学校までおよそ20分足らずを走り切れば遅刻とは無縁でいられる。もっと早くに出ろとかいう向きもあるだろうが、遅刻ギリギリを攻めるのが俺のスタイルだ。もっと言えば1秒でも長く布団と愛し合っていたいのである。

 

 幾つかの坂を登ったり下ったりしていると、ちらほらと総武校生の姿を目にし始めた。俺と同じ様に遅刻が、って違った。そう言えば俺は今朝練に向かっているところだった。という事は俺の前を走っている彼も俺と同じ様に朝練にでも向かっているのだろう。でなきゃ朝勉という奴か。いずれにしろほんの数秒でそれも抜き去り、次の背中を目指す。校門までに同様に5人を抜いて到着。駐輪場に自転車を止めると早速待ち合わせ場所に向かった。

 

 そこは昇降口近くの足場の上。縁側の様にせり出した、コンクリートで出来ている場所だ。ここも当然野ざらしなのだが、不思議な話で地面と隔たっているというだけで、何故か清潔なものだと錯覚を覚えて使っている。まあ地面やリノリウム、あるいは教室の床でやるより精神的に楽だという程度の理由で選んだ場所だ。幸いな事に昇降口からは死角に有るので登校する生徒にジロジロと見られる心配もない。そこに俺と戸塚が並んで、もしくは一緒になってトレーニングをしている。

 

 今日も戸塚は俺より早く到着いていて、いつもと変わらない笑顔で俺を出迎えてくれる。本当これがあの雪ノ下さんと同じ人類から発生する笑顔とは思えない位に、爽やかさが有って親しみが湧いてくる表情だ。しかし、特段俺が遅刻魔という事もない筈だが、俺が待ち合わせをすると大抵相手が先に来て待っているな。これが雪ノ下辺なら容赦のない罵倒が飛んでくるので、勝手にプラマイゼロにさせてもらう所だが、戸塚がどう思っているのかは正直気になるな。一応俺が協力しているという体だが、こう2週間近くも続いてくるとそういう感覚も薄れてくる。ちっ、こいつおっせーな。とか思われてたら嫌だ。

 

「おはよう比企谷君」

 

 実際の所どう思っているかは不明だが、今日も戸塚の眩い笑顔に癒される。

 

「おっす戸塚。悪いないつも遅くて」

 

「ううん、付き合ってもらってるのは僕だし」

 

 担いで来たバッグを置いて早速準備をする。とはいっても家からジャージで来ているので、寝っ転がる位しかする事はないが。戸塚も既にジャージとハーフパンツの格好になっていて準備万端だ。全く関係ないが、戸塚の脛は高校生男子のそれとは思えない程綺麗だった。臑毛なんか一本も見当たらないし、白くてスラッとしていてその上引き締まっている。所謂スポーツ男子のそれとは全く違う魅力を秘めた、男の俺から見ても酷く扇情的な脚だ。俺は常々公衆の面前で脛を出している男子の廃絶を唱えているが、戸塚だけは例外に加えてもいいね。

 

「んな事言うなって、もう半月も一緒にやってんだし、俺も嫌な訳じゃないからさ。元々運動不足だったし、丁度良かったんだ」

 

 好い加減真剣に減量を検討しないといけない頃合いでもあったし、これからも美味しいお菓子ライフを送るなら健康の為にもある程度の体重をキープしておきたかったのだ。渡りに船とまではいかないが、一石二鳥ではあるだろう。それに戸塚を応援してやりたいという気持ちがないではないのだ。

 

「どうした?」

 

 ところが、戸塚の面持ちは晴れやかとはいかなかった。日が陰るようにすっと戸塚の表情が曇る。

 

「比企谷君がテニス部に居てくれたら良かったなって」

 

「お、なんだ。そうやっていってくれるのは嬉しいけど」

 

 その言葉には現テニス部員達に対する非難にも聞こえる。戸塚自身そういう自覚も有ったのだろう。嫌な事聞かせてごめんねと前置きをしてから、胸の内を語ってくれた。

 

「こうやって比企谷君が手伝ってくれて朝練をしてる事、他の子にも話したんだけど、やっぱり参加は出来ないって断られちゃって。部活中は僕も一生懸命やってるから触発されて、頑張ってくれてるんだけど」

 

 こうして戸塚が率先して練習に励んでも、続く部員がいないか。まあそんな事はこうして俺と戸塚だけの朝練が2週に渡って続いた段階で知れている事だ。というか、そんな奴がいればそもそも俺は必要ない訳で。そういや戸塚だけテニスに熱心なようだが、何か理由はあるのだろうか?

 

「理由? えっとね、僕……」

 

 そんなに言い難いことを聞いてしまっただろうか、戸塚が急にもじもじとし始めた。何がそんなに気になるのか視線も俺の顔と明後日の方向を行ったり来たりしている。

 

 はっ!? これはもしかして、告白か!!

 

 そうか、そうに違いない。そもそも戸塚が奉仕部に来た時も最初に確認したのは、俺の所在だった。それも今回の依頼が俺に近づくための手段だったとしたら合点が行く。それでさっきも、俺もテニス部に誘うような事を。

 

 全く戸塚の照れ屋さんめ。だったらもっと早くそうと言えばいいものを。そうすれば俺も、……俺も?

 

 とまあ、妄想は一瞬で行き詰まりを見せたが、戸塚が口を開いたのも同時だった。

 

「僕夏になったら部長になるんだって」

 

「うん、それが?」

 

 何故そんな恥ずかしそうに告白する必要がある。

 

 そう聞くと戸塚は一層身を縮こまらせ、俺を上目遣いに見た。おいおいこの男、トレーニングのせいでほっぺたが紅くなっていたり、呼吸が荒かったりして半端ないエロスを漂わせ始めやがった。男子テニス部の連中が衆道に落ちてはいまいかと心配になりそうだ。え? こんな事考えるの俺だけだって? そんなまさか?

 

「僕がこの事言うと、皆信じてくれなかったり、信じてくれてもよく頑張ったねって頭撫でたりするから」

 

 当ててみせよう。前者は男子で、後者は女子だ。多分頭を撫でられた事でも思い出していたんだろう。

 

「パパとママなんてお祝いしようって言い始めちゃって困ったよ。僕ってそんなに頼りなさそう?」

 

 その傾げた首が黄金比なんじゃねえかってくらい、可愛いのが原因だと俺は思うぞ。戸塚両親のそれは、選ばれたのが弱小テニス部の部長だという事をかんがえると、多少行き過ぎな気がするが、こんな可愛い息子が人に認められたとなったら、その位してやりたい気持ちになるのが人の親というものなのかもな。

 

 それは兎も角。

 

「お前は十分頼れる男だ」

 

 ただ、お前が女だったらこの国が滅びたかもしれないとは思うが。いや、そうなったら戸塚がこんな性格になることも無かったかもしれない。そう考えるとこいつはこのままがベストだな。しかし、性格の悪い戸塚か。想像してみたが、それはそれで有りだな。雪ノ下みたいなのは駄目だが、もっと普通に「何調子乗っちゃってんの?」とか罵られたら……。これ以上は止めておこう。鼻血が出そうだ。

 

「今だって率先して部活を盛り上げようと努力してるし、そうじゃなくてもお前は1人で奉仕部の扉を叩いて、助けを乞いに来た人間だ。責任感も有るし、目標のために努力する行動力も有る。それにお前は今も、テニス部の連中が付いて来なくても、1人で努力してる」

 

 弱小テニス部の部長に任命されるのも、それが決まったからと言って部活をもり立てるのも、誰も追従しないのに自分1人努力するのも、俺だったら金を積まれても御免だ。俺は群衆に紛れる一般人で居たいし、何より怠惰な生活を良しとしているし、頑張るのも嫌だ。

 

「個人的な見解になるが、俺は努力ってのは天才にしか出来ない事だと思ってる。お前がやるどんな努力も間違いなく俺には再現不可能だ。だから俺はお前の事を尊敬してる。もっと胸を張ってもいいんじゃないか? 少なくとも俺相手にだったら迷うことないな」

 

「そんな、こんな事位誰にだって出来るよ。天才っていうのは雪ノ下さんみたいな」

 

 俺の発言に戸塚が恥ずかしそうに首を振って応える。確かに、戸塚の言うとおり雪ノ下は天才だ。先日披露された雪ノ下のテニスの腕は、毎日部活でやっている戸塚のそれを遥かに凌駕していた。サーブを打てば、超高速のドライブサーブがセンターライン上に着地して、戸塚や俺は為す術もなくそれを見ているだけだったし、ストロークやロブ、ボレーの技の冴えも素人目に見ても大したものだと分かった。戸塚にボレーを仕込む際に見せたサイドパッシング(後衛が正面にいる相手前衛の、相手後衛とは逆側の脇を抜く技)などと来たら、完全に戸塚の裏をかいていた。それらの技術を彼女はたったの3日で習得したという。だが、それが戸塚の事を天才ではないと否定する材料には成り得ない。

 

「あのな、天才が極少数しかいないなんて誰が決めた? もしも根拠なくそう思ってるんだったら考え直した方がいいな」

 

 唐突な俺の語りに、戸塚は呆然して俺を見つめた。褒め殺しの次はいきなり演説を打ち始めるってんだから分からなくもない。が、この際だ。言いたいことを言わせてもらおう。

 

「この世の中には想像以上に碌でも無い奴が居るんだ」

 

 俺とか俺とか俺とか。その他全世界1人の俺とかである。

 

「そんな中で世の中の平均以上で有ることなんてのはな、お前らみたいな天才だからこそ難しくないってだけの話で、そういう連中にはどう頑張っても不可能なんだ」

 

 ぶっちゃけて言わせて貰えば生きてることが苦しい。別に保証なき明日にも、保障のある明日にも興味はない。そもそも明日など来るだけ迷惑なものなのだ。何処ぞのラノベ主人公は植物になりたいと言っていた。恐らくパスカルの言葉を受けてのものだろう(自明の事とも思うが念の為、パスカルは人間を考える葦だと表現した)と思うが、俺なら空気になりたい。別に空気のように普段意識しないだけで、それが無ければ生きていけない重要な物だとか言いたい訳じゃない。というか、それなら注釈して窒素になりたいとでも付け加えよう。窒素はあれはあれで中々使い途が有るようだが、って延々と繰り返すのも煩わしいな。兎も角、誰にも干渉せず、誰にも利用されず、誰にも意識されないまま、出来るなら消えてしまいたいとさえ思っている。気体ならば意識もなさそうだし。

 

 そんな風にイマイチ人生というものを謳歌しきれない俺のような人間からすれば、己の為、一意部活に励む戸塚などは羨望の対象と言えるだろう。

 

「こう言うと特別ってな意味合いは薄れるかもしれないが、でもな、そうじゃない奴からすればお前だって特別だ。お前だって凄い奴なんだ。だからお前より凄い奴が居たくらいの事で一々怯むな。世間様よりお前の事を知ってる俺が保証してやる。お前は天才だってな」

 

 これで伝わっただろうか。これで励まされてくれただろうか。これで自信を持ってくれただろうか。そんな俺の心配を吹き飛ばすように戸塚がにっこりと笑う。まさに花が綻ぶような笑顔という表現の似合う、柔らかさと力強さを持ち合わせる面持ちだ。

 

「ありがとう、比企谷君。僕もっと頑張れるよ」

 

 戸塚の言葉はそれだけだった。

 

 俺だってその気になれば空気を読める。だから今は言わないでおこう。程々にな、なんて決意に水を差すような言葉は。

 

 そういや努力といえば戸塚と正反対のスタンスの男が奉仕部に依頼に来ていた。

 

 名を材木座義輝というその男は、体育の時間よく所在なさ気にしている所を目にしている太った男で、校内で黒のコートを羽織って徘徊する変人でも有る。

 

 雪ノ下とは別の次元にコミュニケーション障害をこじらせたようなその男とは、そんな体育の時間、孤立した彼に声を掛けたことから始まった縁で話しかけられるようになった。聞く所によればネットの世界に世界を変革しようという同志達の集いを持っているらしい(是非雪ノ下を招待してやってほしい所だ)彼は、校内には友人と呼べるような存在がいないらしい。幾度かその奇抜な格好と話し方とその内容を修正するようアドバイスしたが、それは嫌なのだと聞いてからはその手の話題は避けることにしている。馬の耳に念仏というが、実際問題人間に同じ対応をされた場合に抱くのは徒労感ではなく殺意なのだから。俺とてこの若い身空で材木座を殺して収監されるような羽目にはなりたくない。

 

 さて、そんな彼がつい先日、俺が奉仕部などという無償奉仕を謳うキチガイ集団に所属していることを何処かから嗅ぎ付けて依頼に来た。内容は書いた小説を読んで感想を聞かせて欲しいというものだ。その段になって明らかになった、材木座の女性に対する覚束ない通り越して不審なまでの女性への接し方等は置いておくとして、その小説というのが厄介だった。パソコン全盛のこの時代に万年筆を使って原稿用紙に書くという古式ゆかしいスタイル。衝動のままに書きなぐられた文章の誤字脱字、そしてそもそも汚すぎる文字の乱流の解読。文章表現という言葉へ喧嘩を売っているとしか思えないマナーを無視した書き方に、不適格な接続詞の使用、感嘆詞の連続。おまけに何処かからパクってきた(本人はインスパイアだと頑なに主張したが)設定、あらすじ、キャラクター、台詞、文章。挙句にこれが数万字続いていく中で渾然一体となって、あからさまに主人公に投影された材木座を礼賛し始めた時は材木座の腕を折ってやろうかと思った。

 

 そんな彼であっても、どんな駄文で有っても、その作業がどれだけ写経に近い作業であったとしても、己の手を動かし、頭の中の妄想をこの世に具現せしめたばかりか、それを自慢気に俺以下奉仕部の人間+1に晒したのだから大したものである。

 

 あれで実は超繊細な性格をしていて影で泣いていたりしても、全く魅力を感じないが、戸塚も彼の10分の1位は自分に自信を持って欲しい。

 

 その為に今行っているトレーニング以外に何かしてやれる事はないものだろうか。

 

 

 

「いいよー、練習試合を企画してあげる」

 

 奉仕部に朗々と響き渡る声。これで発言者が平塚先生か雪ノ下ならば喜んでお願いする所だが、残念至極。発言者はそのどちらでもなく、それ以外の中でも割りと最悪の部類に入る方だった。

 

「どうしてこんな所にいるのかしら、姉さん」

 

 雪ノ下が刺々しい声でその声の主に問いただしても、それが質問を装った早く出て行けというメッセージだとしても何処吹く風。雪ノ下さんは肩を竦めて。

 

「いやー、それが突然講義が休講になっちゃってさ、母校でも見に行くついでに雪乃ちゃんの顔でも見ていこうかなってね」

 

 と雪ノ下の十八番、睨みつけるも無視してずかずかと部室内に侵入を許してしまった。

 

 春の陽気と西日によって、眠たくなるような温かさだった部室が、スーッと冷え込み始める。陽乃の妖気かもしれない。……サムいな。

 

「それなら目的は達したでしょう。今は部活中だし、申し訳ないけど部外者は」

 

「うん、だから今は比企谷君とお話中。どう? 比企谷君。よく分かんないけど校外で試合の相手を探してたんでしょ?」

 

 バッサリと雪ノ下を切って捨てると同時に俺にだけ話の矛先を向けることで、あたかも雪ノ下には関係ない話をしていますよという空気を醸し出し、雪ノ下の干渉をシャットアウトする雪ノ下さん。魂胆は読めないが、この人の至上目的は雪ノ下を甚振ることだというのなら、これもその目的に適う行為なのだろう。

 

「本当ですか? でも一応奉仕部としての活動ですから、部全体で意見を一致させてからですね」

 

「でも、練習の成果を実感するのに試合以上のものって有るかな?」

 

「無いと思いますけど」

 

「だったら」

 

「俺のような腰抜け事勿れ主義者には、そのような決断出来ようはずもございません。という訳で奉仕部の長、雪ノ下の裁可を受けたいと思います」

 

 本当面倒臭い人だ。俺を使って雪ノ下を甚振るとか、間に挟まれた俺が可哀想だから止めて欲しいのに。そういう訳で雪ノ下に水を向けてやる。と、この場はやり過ごせたのは良いが、雪ノ下さんが「ふーん」とか言いながら俺を見ている。いやいやいや、これ俺悪くないだろ。雪ノ下の味方云々抜きにしても、針の筵に座らされるのを許容した覚えはない。だからそこの雪ノ下も俺を見るの止めてくれませんかね。

 

「本来ならその程度の事、個人の裁量で判断してもらわないといけないのだけど、しょうがないわね」

 

「……」

 

 以上に恩着せがましい雪ノ下と、今日も何故か部室に来ている由比ヶ浜が居住まいを正して話し合いの格好を作った。雪ノ下さんも依頼者用の椅子に座っていて、今ここに雪ノ下さんを頂点とした二等辺三角形が出来上がる。もしもこの三角形が立体で、かつ重力がパワーバランスを表すならぺったんこになっているところだ。雪ノ下の胸みたいな。雪ノ下の胸がぺったんこで、雪ノ下が本来成長すべき分を吸い上げたかのように普通より少し発育している雪ノ下さんの胸と奇妙な一致が見られるな。

 

「比企谷君、何か邪悪な思念を感じるのだけど」

 

 こいつは胸の事にかけては超能力者としか思えない直感をしてるな。

 

「本当だよねえ。触りたいなら言ってくれればいいのに」

 

 訂正、この人達は胸の事にかけては超能力者としか思えない直感をしてるな。濡れ衣だけど。

 

「ヒッキーのバカ」

 

 お前は最近そればっかだな。てかお前の胸に関しては考えの中でさえノータッチだ。胸を隠すんじゃねえよ。

 

 これだから女というやつは。例えお互いの中が悪くとも他人を貶める時だけは奇跡的なコンビネーションを見せやがる。まあ、雪ノ下さんは歪んでるなりに雪ノ下の事を愛してるそうなので、嫌悪の感情は雪ノ下から雪ノ下さんへの一方通行なのだが。

 

 一瞬で出来上がった対比企谷八幡包囲網・女性同盟に離反作戦を実行するとしよう。

 

「それで戸塚の特訓の成果の確認の件ですけど」

 

 俺は部外者である雪ノ下さんにも話の筋が掴めるように事のあらましを話して聞かせた。排除を諦めた今、今は雌伏の時とでも思っているのか雪ノ下は何も口を挟まなかったし、雪ノ下さんも雪ノ下を挑発することもしなかった。だが、部室内の空気がこうゴリゴリっと音を立てているような気はする。

 

「それでですね。もう特訓開始から2週間は経過してますし、そろそろ戸塚にも成長を自覚させてやった方がモチベーションも上がるだろうという事で試合を」

 

「ふーん。なるほどね」

 

 出来るなら特訓のパートナーを務める俺かコーチ役の雪ノ下が試合の相手になれば手っ取り早いのだが、ここの所の特訓でそれらしく動けるようになったとはいえ俺はまだズブの素人だし、雪ノ下相手では戸塚の意識上成長の実感が得にくいだろうと考えたのだ。だが、校内に友人の居ない俺と雪ノ下に校外の友人など居るわけがない。いや、俺に関して言えば友人自体はいるが、テニスが出来る友人はいなかった。最悪由比ヶ浜を頼ることになるが、それ以前に何かいい考えが無いかと話を持ちかけたのが雪ノ下さん登場直前の事だ。

 

「いいよー、私が練習試合を企画してあげよう。雪乃ちゃんのお仕事なら手伝ってあげたいしね」

 

 この期に及んで、俺達3人の前で良い姉アピールとか気が狂ってるとしか思えなかったが、雪ノ下も同感らしい。

 

「結構よ。姉さんの伝手に頼らなくても、私達で何とかしてみせるわ」

 

 雪ノ下さんの助成をすげなく断る。だが、条件反射としか思えない、論拠に弱い言い分が雪ノ下さんに通じる訳もない。

 

「友達の居ない雪乃ちゃんに紹介できる知り合いなんていないでしょ?」

 

 実の姉とは思えない遠慮会釈のない、それでいて俺や雪ノ下には反論できない一言。それに、と雪ノ下さんは言葉を付け加える。

 

「別に伝手なんて使わないよ。相手は私がしてあげる」

 

「姉さん、貴方!!」

 

 雪ノ下さんの言葉に掴みかからんばかりに雪ノ下が激情した。それに驚いた由比ヶ浜が立ち上がり、雪ノ下に駆け寄って雪ノ下さんに向かっていこうとしたのを押し留める。

 

「ちょっ、ゆきのん!? 落ち着いて! どうしちゃったの?」

 

 そんな雪ノ下を見ても尚表情を笑顔のまま変えない雪ノ下さん。雪ノ下が立ち上がっても、その目的に気が付いている筈なのに、そんな事を気にも留めない。いや、コンビニでの遭遇を経験した俺にははっきりと分かる。雪ノ下さんがそれを喜んでいるということが。

 

「それとも雪乃ちゃんが相手をしてあげるっていうんなら、私がやらなくてもいいと思うけど」

 

 あからさまな挑発。しかし、雪ノ下さんには雪ノ下がそう出来ないという確信があった筈だ。そして雪ノ下自身にその自覚が有るという事についても。だから雪ノ下は由比ヶ浜に肩を抱かれながら項垂れ、雪ノ下さんはそんな雪ノ下を見てせせら笑う。

 

 当たり前だが、雪ノ下雪乃という人間について俺が知っていることは少ない。それは雪ノ下相手に限ったことではないが、もしかすると俺が校内で最も会話した回数の多い相手が雪ノ下になった今も、俺が雪ノ下について知っていることは校内の誰よりも少ないだろう。例えば誕生日、例えば血液型、例えば趣味、例えば好きなもの、例えば住んでいる場所、そして過去も。俺は雪ノ下がどんな幼少時代を過ごしたか知らないし、どこの小学中学に通っていたかも知らない。かつてはどんな友人が居て、どんな風に過ごし、どんな風に笑っていたのかも知らない。

 

 だからこんな時、雪ノ下が何故何も言えず黙り込んでしまうのかも、そもそも何故雪ノ下さんとこうした一種の戦争状態に陥っているのかも分からない。一般的に言えばそれは隔絶であり、俺が彼女に対して覚えるべき感情は、彼女の現在の境遇に対する同情と、俺になんの相談もしない悲しみであるべきだ。

 

 だが、俺は雪ノ下に味方すると決めた今も、雪ノ下について何も知らない現状を否とは思わない。どうせこれからも放課後の一部を共有していくのだし、そうでなくとも矢張り俺は構わない。

 

 彼女と俺との距離はこんなもの。そんな事は最初から今まで一度として変わっていないからだ。

 

 その点優しいことで定評のある由比ヶ浜は多少なりとも雪ノ下さんに反感を覚えたらしい。声を挙げられない雪ノ下に変わって声を挙げようと言うのだ。

 

「あの、ゆきのんのお姉さん。え、ええっと、その、ゆきのんのお姉さんも色々大変だろうし、あ、あの、私の友達に声掛ければ」

 

「ああ、貴方あの時のクッキーの。何々浜ちゃんだっけ?」

 

 すっとぼけた顔をしているが、その裏にどれだけの悪意を隠していればこんな事が言えるのか。先日の俺の家に現れた時には、その結果どんな風に由比ヶ浜が傷付くかまで理解した上で、平然とその名を呼んだ女がである。そんな事が出来る神経への不理解が恐怖となって由比ヶ浜を遅い、その肩を、声を震わせる。

 

「ゆ、由比ヶ浜です」

 

「そうそう、由比ヶ浜ちゃん。ありがとう、でも心配しないで。理系の大学生って言っても、週に1日位は休みが有るし、私だって雪乃ちゃんの為なら頑張っちゃうんだから」

 

「で、でもでもっ。あの、そのっ!」

 

「大丈夫だって。お姉ちゃんここにありって所見せてあげるから」

 

 元々が俺の欲していた助けでも有るし、由比ヶ浜も雪ノ下の窮状をきちんと理解してはいないのだろう。お断りの為のカードなど早々に尽きた由比ヶ浜は、力こぶを作ってにっこりと笑った雪ノ下さんにそれ以上何も言えなくなった。

 

 直接その笑顔を向けられた訳じゃないが、俺の背筋にも怖気が走る。何故って雪ノ下さんの笑顔が本当に綺麗だったからだ。鼻梁の通った鼻筋の両脇に三日月の様な目、その眼窩が落ち窪んで光を吸い込む闇がそこに溜まっているのではないかと錯覚するような瞳が、直視すれば悲鳴を上げたくなるようなそれが顔の真ん中に収まっているのにも関わらず、その事に何の違和感も感じないからだ。

 

「比企谷君は何かある?」

 

 それはつまり何か異議が有るのかって事ですよね? 雪ノ下さんの頭がグリンと動いて今度は俺を見つめる。

 

「是非是非お願いしたいです」

 

 この時初めて俺は拳銃を突きつけられた人間の気持ちを理解できそうだと思った。それも、何度も引き金を引いてきた凶悪殺人鬼に突きつけられながら笑うことを強要された人間の気持ちがだ。頭の中身が、電子の動きまで止まったかのようなのに勝手に口が動くのである。人間の条件反射の偉大さを知った時間でも有る。

 

「うんうん、提案したお姉さんもそう言って貰えると嬉しいよ。それじゃ比企谷君、その戸塚君のスケジュールが確認できたら雪乃ちゃんを通じて私に伝えてね」

 

 その心は、唇を食いちぎらんばかりに雪ノ下を追い詰め、その上で自分に頼み事をさせる為ですね。分かります。

 

 太陽というのは水素の核融合反応によって熱と光を発する恒星らしいが、雪ノ下さんは光を発しているくせに以上に薄暗く、その上絶対零度の冷気を撒き散らす果てしなく迷惑な存在だ。一体何を燃料にしていたらそんな事が出来るのか疑問に思うほどに。

 

 それから雪ノ下さんは、しんと静まり返った戦場で己の戦果を確認するように俺達を見渡すと満足がいったのか、もう一つ花も恥じらう乙女にのみ許されたとびきりの笑顔を浮かべると、ひらひらっと手を閃かせながら別れを告げて部室を後にした。

 

 残された俺達3人は、それぞれがそれぞれの理由から口を開くことも出来ず、徒に時間を過ごし、結局ただの一言も口を聞かぬまま家路に着くのだった。




原作を読み返したりしたいですし、久しぶりに図書館で本を借りてきたりしたので更新は2週間後かもしれません。

しかしなんだこの最初から殺す気満々の魔王さまは。勝てる気がしない。


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第12話

 さて、大魔王雪ノ下さんの来襲によって部室の空気がスゴイ事になった翌週の日曜日。俺達奉仕部プラス戸塚プラス由比ヶ浜の4人が総武高校テニスコート前に集合していた。そう、何を隠そうレンタルコートの類は借りていない。だって高いんだもの。1時間うん千円とかね、そんなん出すくらいだったらとどうにか学校のそれを借りれないか相談してみた結果。それがどうにか通ったらしい。通ってしまったらしい。前もって平塚先生に話を通しておいて良かった。そもそも土曜日の練習が無いという段階でこのテニス部のやる気の無さがよく理解出来るというものだが、案の定テニス部顧問が土曜のコート使用許可を出すのを渋った。テニス部の練習という名目でも首を縦に振らず、雪ノ下さんの名前も出すには出したが今度は効き目が薄かった。顧問の覚えは良かったものの如何せん部外者を土曜日にコートに招き入れて、挙句使用する人間の大半がテニス部員ではないというのが不味かったらしい。

 

 部活動の活発でない我が校では土日の練習なしの部活など珍しくはないが、そこに部外者を招き入れて少数で使用しているのはいかにも遊んでいる風に見えてしまう。ただでさえ開放されていないテニスコートである、他の学生への体面も有るという理由で担任は頑として頷かず、あわや財布の緊急出動かとも思ったが、この辺の反応も前もって予想済みだった平塚先生は、ならばとその日のテニスコートの使用許可をテニス部としてではなく、奉仕部として取るのならどうでしょうと提案したのだった。当日の監督も平塚先生自身が行い、道具の遺失等に関しても責任を持つと言うと顧問は渋い顔をしながらも了承し、どうにかテニスコート使用のめどが立った。本当平塚先生さまさまである。当日は泡の出る麦茶でも差し入れようかと思ったがよくよく考えてみると平塚先生は車通勤だったので、お礼の方は今度別のものを考えるとして、先生には俺が購買でゲットしたデザート系のパンを献上しておいた。

 

 この際聞こえた「これで実家に帰らずに済む口実が出来た。くっ、最近はプレッシャーが。……私だって」という言葉は聞こえていなかった事にしてやるのが武士の情けという物だろう。何だか込み入った事情が有りそうだが、実家に居辛いというのはさぞ辛いだろうからな。

 

 幸いな事にその日は俺のバイトも休みが取れた。週に2回しかない貴重な出勤日だったので、これが削れると俺の給料に大打撃が加わってしまうのだが、欠席する訳にもいくまい。万が一雪ノ下さんが高笑いしながら戸塚をこてんぱんにして自信喪失させる様な事になったら迅速に止めに入らなければならないからな。そうなった時、雪ノ下や由比ヶ浜では少々不安が残るし、平塚先生にそこまでの手間を掛けてしまっては申し訳ない。雪ノ下さんが相手なら戸塚が試合中にイップスになっても不思議ではないとさえ俺は思っている位だ。

 

 雪ノ下は雪ノ下であれからずっと顔色が優れず、部活においてもいつもの精彩を欠いていた。いつもなら何か罵詈雑言が飛んできてもおかしくない状況でも雪ノ下が黙っているものだから、奉仕部はいつもに輪をかけて静寂を深め、静かにしているのが苦手な由比ヶ浜ですら言葉を発するのを遠慮するようになってしまった。それでも欠かさず奉仕部に顔を出す辺り、由比ヶ浜と雪ノ下の間の友情は俺の知らぬ間にしっかりと厚くなっているようだった。

 

 そうして迎えた決戦の土曜日。またしても総武校側の面子の中で最後に到着した俺は、しかし集まった皆の格好を見た途端猛烈に帰りたくなってしまった。なんで皆テニスのユニフォームを来てんだよ!!

 

「あ、はちまーん。こっちこっちー」

 

 と、太陽にも負けない眩しい笑顔の戸塚は男子テニス部のユニフォームを着ているし。

 

「…………」

 

「ヒッキー遅いよー。早く早く」

 

 と雪ノ下と由比ヶ浜は何処から引っ張り出してきたのかピンク地に肩の部分が赤くなったシャツと白いスカートを身に着けている。

 

「比企谷か。陽乃の奴が遅いな。悪いが一服してくる、すぐ戻ってくるが陽乃が来たら先に始めてくれて構わない」

 

 例外的に平塚先生だけは黒のジャージを来ていたが、それだって平塚先生のスタイルの良さを際立たせるようなタイトさや程よく入った白のラインが決して平塚先生の格好良さの足を引っ張っていない。

 

 こんな美少年美少女美女の集まりで、雪ノ下曰くパッとしない俺だけが衝撃的にダサい学校指定ジャージを着ているのである。これで帰りたくならない奴が居るだろうか。見物人がいないだけマシだとせめて自分を慰めないと、踵を返そうとする足を前に動かすことも出来なかった。サッカー部が練習しているグラウンドを横目に脇目も振らずにコートにひた走った。

 

「雪ノ下さんはまだ来てないのか」

 

「……」

 

 血縁である雪ノ下と雪ノ下さんはてっきり一緒に来るものかと思ったが、集まっているのは雪ノ下だけ。態々別々に出てきたのだろうか。去年の春俺を跳ねたハイヤーなりで一緒に来れば良かったのに。そう思ったのだが、雪ノ下は俺の言葉に俯向いた顔を上げる事もなく、無視を貫いた。ここまで雪ノ下さんの事を警戒されると俺までビビってしまう。どうせ過去のトラウマを掘り返されているのだろうが、どれだけ凄惨な光景を目にしてしまうのかと。そんな雪ノ下に寄り添うようにして立っている由比ヶ浜も困惑と緊張を隠せない表情をしていて、そうなってくると今回の練習試合の主役戸塚も浮かない顔で珍しく2人から少し遠巻きに立っていた。いつもなら女子と戸塚の距離は肩が触れ合うほど近いのに、男子としては普通の光景だが、こと戸塚に限ってはちょっとした異常事態である。

 

 その戸塚が俺に近づいてきて顔を寄せてくる。

 

「あの、僕何か悪いことしちゃったかな?」

 

 やはり雪ノ下の様子が気に掛かるのか、耳打ちされた内容もいつになく元気の無い雪ノ下に関する内容だ。事情を知らないなりに色々察してくれているのだろう。だが、依頼者であっても戸塚の練習試合自体は俺発案だし、それに雪ノ下さんが乗っかってきたのも彼女の思惑である。戸塚に責任などない。

 

「心配すんなって。まあちょっと姉妹仲が悪いんだ」

 

 戸塚には練習試合の相手が雪ノ下の姉である事は説明してある。雪ノ下のテニスの腕を見て以来すっかり感銘を受けた様子だった戸塚に、雪ノ下より上手いかもしれんと説明した時には恐縮しながらも喜んでいたのだが、今じゃすっかり意気消沈してしまっていた。参ったな、練習試合の相手が雪ノ下さんという意味じゃ最初からぶち壊しにされるリスクも有るが、始まる前からこう暗雲が立ち込めているようじゃ、今日の提案も意味を無くしてしまいそうだ。

 

 そう思って俺なりに精一杯戸塚に声を掛けてみても、そんな物はなにの役にも立たなかった。

 

 俺の気も重くなって溜め息を吐きながら校門の方を見やる。こうなったら先生か雪ノ下さんが来るまで黙っていよう。下手に口を開いても地雷を踏みかねないからな。

 

 そうして雪ノ下さんが現れたのは待ち合わせ時間ぴったり、俺が集合場所に着いてから5分後の事だった。

 

 

「お、皆揃ってるなー」

 

 こんな呑気な事を言いながら雪ノ下さんはやってきた。久しぶりの母校に何処か自信無さそうな顔をしながら校門に入り、コート前に集合する俺達を認めるなり手を振りながら近づいてくる。恐ろしくも無駄な演技力だ。

 

 そんな雪ノ下さんに平塚先生がちくりとお小言を。

 

「皆揃ってるなー、じゃない。集合時刻ぴったりに来る奴が有るか。お前もいい加減大学生になったんだ、それなりに自分の立場に自覚を持ってだな」

 

「わはっ、静かちゃん久しぶりー。そのお説教も」

 

「静ちゃんとか呼ぶな」

 

 先生がまるで先生のようである。と新鮮な驚きを感じる一場面だ。俺や雪ノ下相手には教師という枠を超えた個人としての干渉を強く感じるが、陽乃さん相手では教師的な顔も見せる。それはそれで親しみの現れのようにも感じられるのだから不思議なものだ。現に雪ノ下さんも先生のことを静ちゃんと読んでいるし、向ける表情も俺達の誰に向けるそれとも違っている。ただ、どうあれ先生は雪ノ下さんについては手を焼いていそうだった。

 

 まるで反省した素振りもなくごめんねと謝りながら手を立てる雪ノ下さんに初顔の戸塚を紹介する。

 

「雪ノ下さん、今日は来てくれてありがとうございます。こいつが今日の練習相手の戸塚彩加です」

 

「戸塚彩加です。よろしくお願いします」

 

 待っている間雪ノ下達に見せていた顔とは違う。緊張しながらも喜びを伝える表情で挨拶する戸塚。本当にこいつは出来た人間だ。切り替えが速い。勿論心中では雪ノ下や由比ヶ浜の事を心配しているだろうし、2人にあんな表情をさせている雪ノ下さんについて、何かしら思う所は有るだろう。だが、戸塚の態度はそれを全く感じさせないものだった。

 

 それに比べて雪ノ下と由比ヶ浜は、全く話にならなかった。雪ノ下は絶対に顔を上げないと言わんばかりに俯いているし、由比ヶ浜は怯えの色を隠そうとしない。だが、それも当然といえば当然か。雪ノ下の方は長い付き合いだし、由比ヶ浜は初ファーストインプレッションからして最悪なのに、先日も雪ノ下の異常な態度を目の当たりにしたばかりだ。しかし、こう雪ノ下さんて人はまともな人間関係築けているのかちょっと心配になる人だな。俺とだって多分まともな関係とは言えないだろし。

 

「君が戸塚君? うわー、女の子みたい。かわいいー」

 

 普通の女の子みたいな言動してる所みるといっそ吐き気がするんじゃないかという程、俺の中では歪んだ人物として評価されている位だ。

 

「OK、着替えてくるからちょーっち待っててね」

 

 戸塚に飛びかかるんじゃないかと思ったが、ちょっかいを掛けるのも束の間、そう言ってかけ出した雪ノ下さんに平塚先生が着替えの場所を指示していた。その傍らでテニスコートの扉を開けて、中に荷物を運び込む。ほんの少しでは有るが、先にウォーミングアップを始めてしまおうと言うのだ。小さく胸を撫で下ろしている戸塚にも声を掛けてコートの左右に分かれて立った。

 

 パコン、パコンと乾いた音を立てて俺と戸塚の間を黄色いボールが行き交う。最初は緩やかに、徐々にスピードを上げて。硬式のテニスボールというものは思った以上に硬い。それが高速でラケットにぶつかれば、当然それを持っている手は痺れる。授業で素人と打っているくらいでは感じられない感覚だが、俺は戸塚と練習をするようになってから何度もそれを感じている。ちっちゃい体だというのにそれを上手く使って俺なんかよりも速い打球を打ったりするのである。見上げたものだ。

 

 そうやって暫くラリーのスピードを上げていき、ある程度体が暖まってきたら少しずつボールの軌道や回転に変化を付ける。クロスだったコースがストレートに、ドライブの中にスライスを加えたりして体も移動させる。

 

「ねえ比企谷君。今日は練習試合だって言ってたけど、陽乃さんってやっぱり」

 

 ボールの行き来の合間に戸塚が話しかけてくる。やはりそこが気になるか。

 

「ああ、俺も詳しくは知らないがご心配の通りだと思う」

 

 戸塚を驚嘆させた雪ノ下、その指導を受けている戸塚の試合相手を買って出るくらいだ。本気を出されたら、否、遊び半分でも嬲り殺しにされる危険がある。とはいえ、雪ノ下さんも今回の練習試合の趣旨については了解した上で参加している。戸塚の腕に合わせて振る舞ってくれる事だろう。最初のうちは。

 

 化けの皮が剥がれた雪ノ下さん相手に戸塚がどうなるかは、火を見るより明らか。テニスは最も番狂わせが起きにくいスポーツの一つなのだ。

 

「骨は拾ってやるぜ。安心して散ってこい」

 

「えええぇ。僕死んじゃうの?」

 

「比企谷くーん、聞こえてるぞー?」

 

 戸塚への冗談を、いつの間にかコートに出現していた雪ノ下さんに聞き咎められてしまう。いやだなー、冗談じゃないですか。普通なら雪ノ下か由比ヶ浜に雪ノ下さんのアップの相手をして貰うのだが、今回はどちらにも頼めない。由比ヶ浜は下手くそだし、雪ノ下はあの調子だからだ。気掛かりになって2人を見ていると、打ち返されたボールに対する反応が遅れた。無駄な抵抗になると知りつつも聞こえないふりをしてボールを打ち返すと、それがふわりと浮き上がって空高く昇っていく。やってしまった。

 

 頃合いだった事もあって戸塚がその絶好球、浅めのログを容赦なくスマッシュする。勿論それは俺が到底触れないコースを通って行き、フェンスにぶつかって止まった。

 

 

「うーん、それじゃどうしよっか。戸塚君はもう体暖まってるみたいだけど、私のアップは誰が付き合ってくれるのかな。やっぱり、ゆ」

 

 死体蹴りも甚だしい雪ノ下さんの行動を止めようと手を挙げて立候補する。いつもの凛とした空気など欠片も感じさせず、らしくなく気怠そうに、既に抵抗を諦めた人間特有の絶望感を漂わせながら、ただそこに立っているだけの雪ノ下に雪ノ下さんの相手はさせたくない。

 

「はーい、俺がやります。どうせこの後試合も有りませんし」

 

 戸塚の手伝いが出来ない事を詫びると、戸塚は「気にしないで」と言われてしまった。

 

 本当にどうしたものだろうか。頭を抱えて幾ら考えた所でやれることなどそう多くはないし、雪ノ下の現状の分析など手付かずで、おまけに相手はあの雪ノ下さん。主役は戸塚だし、何事もなく終わってもらうのが奉仕部としては一番なんだろうが、このまま終わってもらっても俺が困る。とはいえ、やはり今は。

 

「お、比企谷君今日も元気いいね。よーし、それじゃ戸塚君の体が冷えちゃう前にパパっと済ませちゃおうか」

 

 雪ノ下さんがコートの一方に近い場所に立っていたので、反対側に向かって走る。そう俺は運動しながら考え事が出来るほどよく出来ていない。

 

 そこから数分間、のっけから俺が返せるか返せないかというギリギリのラインの速球を繰り出してきた雪ノ下さんは、俺に息もつかせぬ攻勢を見せた。尽くが俺が反応できるギリギリのラインまでギリギリの速度で振り回し、どうにかそれを返球しても体勢を立て直す前に次の打球がやってくる。雪ノ下さんは俺にとっちゃかなり苦しいレベルのラリーを鼻歌交じりにこなしながら、俺の残り体力まで読み取り、最後の一滴までスタミナを使い切った俺をバッサリと切って捨てた。

 

「よっし、準備運動終わり。それじゃー、戸塚君? 試合始めよっか」

 

「は、はいっ!」

 

 俺と雪ノ下さんのラリーで何かを感じたらしい戸塚の声は、折角のウォーミングアップの甲斐なくガチガチに緊張している。無理もない。俺の貧弱な想像力も問題だろうが、俺程度の人間が想像できる天才というレベルすら軽く振り切ってしまっている雪ノ下さん。あれとこれから試合をするのだ。

 

 ああ、しかしそうか。遂に戸塚と雪ノ下さんの試合が始まってしまうのか。

 

 雪ノ下さんに近づいていきコートとサービスをどちらから始めるか等の手続きを始める戸塚を横目に、コートから出た俺は置いてあった荷物の中からタオルを出して吹き出した汗を拭っていた。まさか高校入学以来1年間をぼっちで貫いた俺がこうやって休日他人と爽やかな汗を流すことも無いと思っていたが、やってみるとこの爽快感に少しハマってしまいそうにも思えてしまう。やはり一月に満たない期間では運動不足など解消しようもないのか体力は底を突いてしまったが、悪くない。

 

 そんな清々しい気分の俺の隣で鬱屈とした空気を垂れ流す雪ノ下。こう普段気の強い奴が項垂れていると追い打ちを掛けたくなるのは男の子の性なのだろうか。手と言わず足と言わず口と言わず、そっちの方を向きたくて仕方がない。こうなってくるともう良心と悪心の鬩ぎ合いなのだが、俺には極端に良心が少ない。よくアニメ等で見られるような天使と悪魔をオマージュしたようなキャラクター同士による掛け合いなど起こるまでもなく、行動は決定されてしまうのである。

 

 詰まる所悪心の言いなりだ。

 

 いやいや、大抵この悪心というのは男の助平心の言い換えだが、今回は正真正銘紛れも無く悪心。これに従ってしまって良いのかと思う方も多いだろう。俺も多分平素ならばそう考える。だが有言不実行が世の習わしであるように、例えいつかそのように言っていたとしても、いざという時そう振る舞える訳ではないのだ。

 

 だから、だから、もうゴールしても良いよね?

 

「お」

 

「さいちゃーん、頑張ってー」

 

 くそっ、意気地なしが意気地なしなりに勇気を振り絞ったというのに、由比ヶ浜に機先を制される。見ればコート決めが終わって、戸塚のサービスが始まろうと言う場面。知らぬ間に平塚先生が審判台の上に登って審判役に収まっていたようだ。来てもらった手前戸塚にしか声援が飛ばないというのも申し訳ないので、申し訳程度の声援を送ったら由比ヶ浜から若干睨まれたが、これは致し方ない。

 

 それよりも、平塚先生の問題があった。そうだ、全く失念というか話が持ち上がらなかったので考えが及ばなかったが、テニスには審判が必要だ。てっきり練習試合だしいらんだろとか思っていたのは、全くの部外者ならではの舐めすぎた考えだったらしい。この点と、その審判を誰が言い出すでもなく先生が引き受けてしまっているのは俺の反省点だ。これは雪ノ下を弄っている場合ではない。急いで校舎に向かう。

 

 一番近い場所に有った昇降口は閉鎖されていた。体育館との連絡通路も駄目だった。仕方なく校舎正面の一番大きな正式な昇降口に向かう。どのみちここに向かう羽目になるとはいえ舌打ちは止められない。締め切りになっていた扉に手を掛けると、やった、ここは開いていた。俺は直ぐ様自分の下駄箱近くの傘立てから自分の傘を取り出すと、ついで自販機に向かう。校内に設置された自販機というのはこういう時にありがたい。500ミリペットポドルに入ったスポーツドリンクを購入して、テニスコートに取って返す。

 

 試合はまだまだ序盤。雪ノ下さんとしても全力を出して戸塚を潰すという魂胆でもないらしく、試合は実にまったりとした出だしだ。戸塚と雪ノ下さんのラリーが暫く続き、戸塚の浅いクロスを雪ノ下さんが深いストレートに打ち返した事で点が決まった。俺はその機を逃さず平塚先生に話しかける。

 

「先生、日傘と飲み物です。申し訳ないんですが、黒いのしか無いんで暑くなってきたら閉じって貰った方がいいかも知れません。それと飲み物は熱中症対策に」

 

「おお、ありがとう。しかし、馬鹿に丁寧だな。もしかして」

 

「こうして日曜日に監督を買って出てくださるんですから、これくらいの事はさせてください。それにすいません。審判代わらせて下さい」

 

「いいさ、こうしてもう代金を頂いてしまったからな。それに教師として立ち会っているというのに何もしない訳には行くまい。君達は試合を観戦していればいい。それか、雪ノ下の事を見てやってくれ」

 

 早速日傘を刺した先生はペットボトルを振ってから雪ノ下の方を顎でしゃくってみせた。そういうのこそ先生の領分ではないかと思うのだが、昨今教師の仕事というのは増加傾向に有るらしいという事を思い出す。事務仕事や本来教師に任せるべきとも思えない生徒の極個人的な用事にかかずらっているせいで、中々仕事が捗らないとか。そう考えると確かに雪ノ下のあれは極個人的な用事と言えなくもない。尚更俺の為すべき事でもないとも思ったが、ちょっかい自体は出そうと思っていたのだ。これで失敗したとしても免罪符が出来ると思えば、後ろめたさも幾らか減じる。

 

 俺は玉虫色の返事をしてから、雪ノ下達の方に戻った。とはいえ、先生に指示されたとしても、やはり今の雪ノ下に話しかけるのは躊躇われた俺は、暫く普通に戸塚と雪ノ下さんの試合を観戦した。

 

 試合は非常に淡々と進んでいく。例えばあるゲームは戸塚のサービスから始まったが、雪ノ下さんはレシーブをお手本通りにダウンザラインを決めて戸塚を走らせたり、センターにボールを集めた後、鋭く左右にボールを振って反応しきれない戸塚に運任せの2択を迫ったし、またあるゲームでは強く深いボールで戸塚をベースラインに釘付けにしながら、ドロップショットで点を決めた。それらをどれも決して戸塚を圧倒するのではなく、あるいは戸塚の機転によって回避できるようなギリギリの領域で行っていく。時折ラッキーで点を貰いながらも淡々と戸塚は失点を重ねていった。

 

 それを時に由比ヶ浜が声を上げ、時に俺が賞賛、鼓舞しながらラストゲームへ突入した。

 

 それは非常に奇異なゲームだった、ほぼストレートゲームの進行で、かつ戸塚は疲弊している。それ事態は1セットマッチが主流のアマチュアテニスにおいては珍しい事ではない。元々大会上位決定戦のそれのように長丁場を想定していないので、こうしたセットの終わり際にはまま見られる光景なのだ。おかしいのはここにきてゲームの進行が遅く、いや拮抗し始めた事である。2者の間をボールが行き交い、雪ノ下さんが得点したかと思えば次には戸塚が得点を決めている。そんな事が続いた。そして、そのゲーム初めてのデュースが宣言されても暫くは、そんな状況が続いた。俺も由比ヶ浜も、そしてプレイしている戸塚自身もその奇妙な感覚を感じながらも、ただ何も出来ずゲームは続き、やがて当然のように雪ノ下さんの勝利によって締めくくられた。

 

 試合を終えた2人がコート脇に戻ってくるのを俺と由比ヶ浜が出迎える。雪ノ下は座り込んだまま、ゲーム中と同じように斜め前のアスファルトを見つめ続けていた。

 

「お疲れ様ー。さいちゃん凄かったよー。とっても上手じゃん」

 

「うん、でも雪ノ下さんのお姉さんの方が上手かったよ。ありがとうございます」

 

 由比ヶ浜が戸塚を賞賛する。俺も彼女と全く同じ感想だ。以前の戸塚がどうだったかは知らないが、ミスも少なく門外漢の俺から見ても弱いとは思えないプレイだった。そんな言葉を受けた戸塚は、それを軽く受け止めながら同じ言葉を試合相手に向けた。それも確かに心からの言葉だったのだろう。それを向けられた雪ノ下さんは謙遜するように手を振りながら戸塚の健闘を称えたのだった。

 

「戸塚君も良かったよー。もう基本はバッチリかな。後は試合の定石なんかを勉強していくと良いんじゃないかな」

 

 そう言って雪ノ下さんは試合中の戸塚のプレイの良かった点や悪かった点を幾つも上げていく。一見試合に見えてはいても、彼女にとっては真実『練習試合』だったのだろう。その歴然とした力の差以上に、試合をしながらもそこまで細かく相手を分析していたという事実に驚く。それこそ戸塚の心の中まで読んでいたんじゃないかと思ってしまうほどに正確に、試合中の挙動の意図を読み取りその上で試合をしていたのだ。俺なんかボケーっと見ていただけだというのに。

 

 雪ノ下さんに若干の敵愾心を抱いていた由比ヶ浜も、ポカンとして雪ノ下さんの指導を受ける戸塚を見ている。

 

「大した奴だろう? 本当に優秀な奴だよ、陽乃は」

 

 審判台から降りてきていた先生に話しかけられる。そう、全くその通りだ。一度だけ目にした雪ノ下のプレイと比較しても、雪ノ下さんの今回のプレイは良くはなかった。

 

「最終ゲームの戸塚君の最初の得点を決めた時はどういう風に動いてたか思い出せる? あの時はその一打前の戸塚君の打球がサイドラインギリギリに決まってたから、大抵ああいう苦し紛れの返球になると思うの。そしたらあの時みたいに逆サイドに軽く押し込んであげるだけで……」

 

 しかし、身振りを交えながら戸塚に向かって話す雪ノ下さんの発言には、最終ゲーム戸塚に気持ちよくプレイさせたというニュアンスが感じ取れる。実際戸塚がどう感じていたか分からないが、もしかしたら戸塚自身にも雪ノ下さんに動かされていた自覚が有ったかもしれない。戸塚の練習となるように。プレイ中にそこまでの配慮をしていたというのなら、どちらが凄いのかというのは最早俺には判断できない問題だ。

 

「あれで優等生でさえあってくれたら言うことは無かったんだが」

 

 今も戸塚に対しては優等生的な顔を見せている雪ノ下さんを見つめながらの平塚先生の言葉には、思いの外痛切な響きが篭っている。予想に違わず彼女の在学中には苦労させられたという事だろう。怖いので声には出さないが、俺も同意しておこう。何故あんな性格になってしまったんだ。

 

 だが、内心はどうあれ雪ノ下さんと仲の良い平塚先生に賛同する形であれ、雪ノ下さんの前で頷くわけにもいかないだろう。そもそも今日のこれだって雪ノ下さんの善意(染みた悪意)による物なのだから。

 

「あはは、そんな事ないですよ。雪ノ下さんめっちゃ優しいじゃないですか」

 

「そんな優しい雪ノ下さんが、あんなに試合中手を振ってあげたのに全く振り返してくれなかった子が居るんだけど」

 

「何処の怖いもの知らずでしょうね?」

 

 気付けば戸塚へのアドバイスをしていた筈の雪ノ下が、俺の直ぐ側まで近づいてきていた。条件反射ですっとぼけたけど本当怖い。ちなみにその怖いもの知らず、俺じゃないよ? だって、だって……。兎に角俺じゃないんだよ。きっとそうだ。多分雪ノ下だな。俺の近くに座ってたし、俺に向かって手を振っていたのも勘違いだ。

 

「駄目だよ八幡。無視したら」

 

 可愛く怒る戸塚が言うのであれば、もうしない。というか、戸塚の中では俺がやったの決定なのか。まあ状況証拠的にも俺しかいないのだが、信じてくれるという選択肢は戸塚の中に有ったのか無かったのか。それが問題だ。

 

「ていうか皆雪ノ下さんとかお姉さんとか余所余所しくない? もっとフランクに陽乃でいいよ。比企谷君限定でお義姉ちゃんでも可。むしろ推奨?」

 

 そう言って俺の腕を取ろうとする雪ノ下さんから、パッと飛びのいて距離を取る。少し動いてとかではない、マジ逃げである。そのまま戸塚を間に挟んで、心の中で詫びながら生け贄に捧げるように突き出す。コンビニでの一件以来、この人は俺のATフィールドにバリバリ反応するので、何とか逃げ遂せた。但し本気になられたら絶対に捕まる。アブソリュート。

 

「折角お義姉ちゃんとくっつく機会なのに。冷たいぞー」

 

 とはいえ、一難去ってまた一難。獲物が逃げ回ると却ってやる気が出るタイプなのか雪ノ下さんの瞳がキラリと煌めく。てか、こんな話題なのに雪ノ下が一言も喋らない。いつもだったら即座に気持ち悪いだの、昆虫と交際なんて御免だとか言いそうなものだが、顔も上げない徹底ぶりだ。雪ノ下には是非復活して対雪ノ下さん最終防衛ラインになって欲しいのだが。

 

 俺はにじり寄り始めた雪ノ下さんから逃げようと、戸塚の肩を掴んだまま平塚先生の後ろに隠れる。もういつもの女性恐怖症とかではなく、単純な反射での逃避である。なんだか分からんが、至って真剣に怖い。

 

 この本能的な感覚が誤りではないと気付くのは、直後平塚先生と戸塚という2枚の壁を抜かれたばかりか、テニスコート上に引き倒され逆マウントポジションを取られて酸欠寸前まで擽り倒された時だった。

 

 

 俺が褥で枕を濡らす初夜の女性のような咽び泣きから復活した時には、戸塚と雪ノ下さんの第2試合が始まっていた。第1試合と同様に平塚先生が審判を務め、由比ヶ浜が応援をしていた。今度はそれなりに雪ノ下さんにも声援を向けていた。

 

 俺は陵辱の限りを尽くされた後という事もあって、応援には加わらずに雪ノ下の隣に腰を下ろした。

 

「お前の姉ちゃんてアレな。本当アレだよな」

 

 雪ノ下さんの適当な表現が思い付かず、見切り発車で口を開いた結果がこれである。しかしながら、中々どうして俺の心情としては的を射ていると言えるだろう。美人だし、軒並み能力と呼べるような物は高そうだし、運転手付きのハイヤーで娘の送迎をしていたという事はお金持ちの家の娘である。そしてそう言った長所が全て台無しになる位性格が悪い。妹とそっくりである。妹の方が性格は可愛げが有るが、胸が無いという違いは有るが。無理を通せば道理が引っ込む的な感じだろうか。胸が出れば性格が裏返るとか。とはいえ、俺の気持ちなど雪ノ下に伝わる訳もない。

 

「……」

 

 黙りを決め込む雪ノ下を見てもそれは明らかである。もっと共感しやすい話題の方が良いのかと思案すると、1つうってつけの物が見つかった。

 

「そういえばさ、お前の姉ちゃん3つ位年上だと思うんだけど小学校って6年制だろ。被ってる時ってのはどうだったんだよ」

 

「……」

 

「あの性格じゃ放っておくって事は無いよな。でも、同時に他人に虐められてるお前を良しとするタイプでも無さそうだよな。そういう意味で言えば独占欲強そうなタイプだし。それともお前のいじめの首謀者が雪ノ下さんだったりするのか?」

 

 これまでの接触で嫌ってほど分かるが、、あの人は好きな物は虐め殺すタイプだ。真実相手を愛おしく思っているかは別として。その性癖がいつから開花したかは俺には預かり知らぬ所だが、高校生になった今がこれなら小学校の時にも何かされている可能性は大いにある。余談だが、年齢の推定方法はうちの高校に入学した当初にも雪ノ下『姉妹』の噂を耳にした事が無かった所と大学生という証言から。

 

「あの人があんな風になる前ってのが本当に有るかは一旦置いておいて、もしそうだとしても大変そうだよな。性格の良い雪ノ下さんって事だろ? そんなの最強じゃんか」

 

「……っ」

 

「どっちか知らんが、どっちにしてもさぞや人気が有ったんだろうな」

 

「……」

 

「関係ないんだけどさ、微妙にモテる奴が、格段にモテる奴の登場で日陰者に転落する展開ってリアリティ有ると思う?」

 

「っ!!」

 

 ふわっと雪ノ下の髪の毛が風に舞ったかと思えば、凄まじい衝撃と共に俺は地面に倒れていた。喧嘩した経験も無かったので初めて知ったのだが、こういう時っていうのは痛み云々よりも先に眩暈が来るもんらしく、頭が地面に何かにくっついているから辛うじてそれを地面だと認識しているだけで、実際それが天地のどちらかと聞かれてもはっきりと答えられないような状態になっていた。

 

「ヒッキー!?」

 

 由比ヶ浜の声がして、足音が近付いて来た。遠くの方で戸塚の声もしたような気がする。が、正直それどころの話ではない。乗ったことは無いがジェットコースターってのはきっとこんなもんだろうと納得するような、自分の体が大地ごとぐるぐると倒れかけた駒のように回転するような感覚と、視界の明滅。この歳にして人生初の失神というのを経験しようとしているらしい。これはこれで面白い感覚だが、立ち上がった方がもっと楽しそうだ。

 

 天地がどっちか分からなくとも、体が押し付けられている方向に垂直に力を入れれば案外立ち上がれるものだ。そのまま脳味噌がジャンプ台から滑走していきそうな錯覚と共に立ち上がる。真っ直ぐに立っていられたのは精々1秒といったところだろう。そこから

先は視界も足元の感覚も失って、ただ仮初の重力に従って自由落下するのみだ。

 

「大丈夫!? ヒッキー!」

 

 いえいえ、大丈夫じゃありません。でもご心配には及びません。こちとら、こちとら、あれ? 私は誰でしょう? まさに意識の自由落下といった所だろう。自分の名前が意識から剥がれ落ちて、何処か離れた場所に言ったまま戻ってこない。まあいい、そんなものは地面に落着してからゆっくり探せばいいのである。それよりは傾いでいく体の支え方の方が重要なんじゃありゃしませんか?

 

 そう考えてみた所で時既に遅し。思考は解体され、気流に揉まれる快楽に解され、バラバラバラバラバラバラ。

 




1巻相当最終話のつもりで書いていたら普通に1万字をオーバーして、下手すると2万文字とかになりそうだったので分割。
感想での事もそうですが、文章を1つ1つ取り上げてあーだこーだ言ってしまう性格だから何でしょうかね。

しかしおかしい。いつになったらヒロインの1人でもデレるのか全く予想がつかない。


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第13話

「いててててて」

 

 パッと目の前が明るくなって、電源が入るように意識が戻ってくる。それと同時にガンガンズンズンジンジンと頭痛が。いや、さっきは悪く無いとか言ったけど今なら言える。最悪です。

 

「大丈夫なの!?」

 

 目の前に由比ヶ浜の顔が迫ってくる。寝起きに見るにしては幸福度の高い光景である。だが残念な事にこれは寝起きではない。アスファルトを転がって由比ヶ浜の接近を躱すと、膝と手を地面について起き上がる。眩暈はしないのでもう大丈夫だろう。

 

 何故か試合が中断していて、皆さんお集まりのようである。沈鬱とした雰囲気をエンジョイしてる所悪いが、俺が知らない間に何が有ったのだろうか。

 

「戸塚戸塚、これは一体何事でおじゃる?」

 

「大変! 比企谷君やっぱりおかしいみたい」

 

 頼れるものは同性である。取り敢えず声を掛けてみたのだが、言ってくれるじゃねえか戸塚君。まさかの毒舌キャラらしい。

 

「待て待て、冗談だ冗談」

 

 どうやら戸塚には悪巫山戯が通じないらしい。俺も不自然に高かったテンションを元に戻した。体にはまだ力が入りきらないが、どうにか上体を起こすと少し離れた所に雪ノ下と平塚先生、そして雪ノ下さんの3人が立っているのが見えた。まだ起きない方が良いんじゃないかな? とか、頭は大丈夫? とか聞いてくる2人を押し返して立ち上がり、3人の方に近づいていく。そちらでも俺の無事は確認されたが適当に頷いていおく。そんな事よりも。

 

「あの、これは一体」

 

「あんな事が有って試合をしている訳にも行くまい。試合は中断。雪ノ下には少し説教をだな」

 

「そーそー、私もびっくりしちゃった。いきなり由比ヶ浜ちゃんがおっきい声で比企谷君の事呼び始めたと思ったら倒れてるじゃない?」

 

 長閑な休日のコートが一変、俄に騒然としたらしい。悲鳴にも聞こえる由比ヶ浜の声と、失神する俺。そしてそれをただ見つめる雪ノ下。試合は即座に中断されて、先生と雪ノ下さんで雪ノ下の事情聴取が始まった。由比ヶ浜の証言を皮切りに雪ノ下が凶状を自白した事で、俺の覚醒を待って俺は病院に移送が決定。しかし多くを語らない雪ノ下に、こちらは一先ず俺との隔離の意味合いで離れた所に居たらしい。

 

 とはいえ、今こうして俺が近寄っても雪ノ下は平静を保っているし、これ以上凶行を重ねる様子もない。一旦俺を病院に連れて行こうという話になっていた所だとか。

 

「それでは比企谷、荷物をまとめ給え。私が病院に連れて行く。校門前に車をつけるから、そこまでは歩いていけるか?」

 

 有無を言わさない平塚先生の指示。そこまで強くないものの吐き気も感じるし、頭のふらつきも出てきた。格闘技の経験もない俺には脳震盪の危険性も殆ど理解できていないが、きっとそれほど楽観視して良いものでもないのだろう。だが、それでも俺はその指示に従わない。折角こんな絶好のチャンスが来たというのにみすみす逃すものかと思えば、これもまあどうにか我慢の効く範囲だ。

 

 俺は歩き出そうとする先生の前に立ちはだかって言う。

 

「待ってください、先生。あれを雪ノ下のせいだと断じられてしまうと俺としては困ります」

 

「雪ノ下を庇うつもりか?」

 

「いいえ、そうじゃない。あれは、半ば俺がけしかけてやらせたと言ってるんです」

 

「君はあんな状況で自分を失神させてくれるように雪ノ下に頼んだとでも言うのかね」

 

 まるでナンセンスな話だと平塚先生はまるで取り合う姿勢を見せない。確かに意味不明だ。人目のあるテニスコートで練習試合をしている脇で、同じ部活の少女に自分を殴って気絶させろと頼む奴が居たら真性の変態である。もしくは神聖な変態である。しかし、接近禁止命令が出たら多分13万キロメートルとか出るに違いない、想像するだに恐ろしい変態像はさておき事実である。雪ノ下のような乱暴者にあんな風にいかにもトラウマを抱えている部分に無遠慮に踏み込めば、揶揄すればあの程度の事を想像できない方がおかしいのだ。

 

「そういう訳じゃ有りませんが、ああなってもおかしくないようなことを俺は雪ノ下に聞きました」

 

 何だったらもう一回聞き直したい位素の疑問だ。今度は雪ノ下さんもいるし距離を十分に取っているのでさっきのようにはならないと思うし。

 

「どちらにしろ手を出した段階で雪ノ下も悪い。その辺は病院の行き道で聞いてやるから行くぞ」

 

 動こうとしない俺の手を引こうとする平塚先生。その迷いのない素早い動きに今の俺は対処できない。あっさりと手を掴まれてしまう。それでも、例え成人女性相手でも俺もいい加減大人の仲間入りを果たそうと言う高校生男子、体重はむしろ俺の方が上だ。俺が動こうとしない限りは、先生も全力を振り絞らなければならないだろう。だからまだ話を進める余地がある。

 

「ゆ、うおおおっっと」

 

 そう思っていたのだが、案外重症だったのか手を引く先生に全く抵抗を示せないばかりか、千鳥足で2,3歩進んだかと思ったらバランスを崩して尻餅を着いてしまった。目の前は一瞬極彩色に彩られるし、俺が思っているのよりヤバイのかも。そうは思うが、やはり今この場におけるキャストを越える場面などいつ出会えるか分からない。石にかじりついてでもこの場に残る必要がある。

 

 転倒した俺の右手を握る平塚先生の掌に力が篭もる。この人には後できちんと謝っておこう。休日出勤の挙句に生徒がこんな事になってしまっては心配を掛けるだけではなく、責任問題に発展してしまうかもしれないから。だが、良型とは言えないまでも都合の良い展開を引き出せそうなので、今はもう少しこのままで居てもらおう。

 

 そんな、聞かれたら多分雪ノ下以上に無事では済まされなさそうな事を考えていた俺の左手に誰かの指が触れた。

 

「大丈夫、比企谷君? ほら、雪乃ちゃん? 比企谷君はああ言ってたけど謝っておいた方が良いんじゃない?」

 

 顔を上げるのも辛い俺の確認の手間を省くように、その指の持ち主が俺のすぐそばでそういった。雪ノ下さんだったみたいだ。その雪ノ下さんが雪ノ下に優しく言い含めるような調子でこんな事を言っている。ああ、これこそ顔を上げなくても分かる。この人今最高に喜んでるって。雪ノ下さんはこうなった以上雪ノ下の事をかなり手酷く嬲るだろう。俺は知らない、何故雪ノ下がこうなってしまったのかを知っている雪ノ下さんならそれこそ弱点を骨までしゃぶり尽くす筈だ。

 

 俺の見えない所でやりとりは続く。

 

「陽乃、お前は」

 

「静ちゃんは少し黙っててー。ちょっと位雪乃ちゃん懲らしめておかないといけないからさ。ねー、雪乃ちゃん。そういえば雪乃ちゃんは事故の事比企谷君に謝れた? まさかそんな訳ないよね。雪乃ちゃんの事だもん自分が悪くない位考えててもおかしくないよね」

 

 ジェノサイドモードに入った雪ノ下さん相手には平塚先生も分が悪いらしい。それにしたって平塚先生が口を噤んだのは元々暴力を振るった雪ノ下に対しての叱責という事も有るのだろうが、それ以上に邪魔をしたら何をしてくるか分からない雪ノ下さんの恐ろしさのせいだろう。しかし平塚先生黙らせるって本当怖いもの知らずだな雪ノ下さん。もうこの人が地元ギャングの元締めとかやってても驚ける気がしない。

 

 だが、話の内容自体はとっくの昔に決着が着いているとしか思えないものだ。今更この事について雪ノ下を責める事など誰が出来るだろうか。何せ被害者本人である俺が雪ノ下に気にするなと言っているのだ。

 

「比企谷君は考えた事無いかもしれないけどさ、由比ヶ浜ちゃんなんか犬のお散歩してるような早い時間に、なんでうちの車があそこを通ったと思う?」

 

 雪ノ下さんは俺に言っているのだろうか。余計なことにリソースを割いていられる程余裕が有るわけでもないが仕方なしに、この糞重い頭を少し使って考えてみる。

 

 事故に遭った時間。それは確か入学式が開始する1時間以上前だったかと思う。入学式当日の俺は何を考えていたのか、恐らくはまだ新入生など1人も来ていないだろう時間に初登校をしようとして事故に遭ったのだ。あまりにも間抜け過ぎて、以降まだ俺は異常に早い時間の登校はしていない。事故現場が高校から徒歩10分程度の事を考えると、由比ヶ浜の家がどの辺りかもまあ見当はつく。あの辺りなら確かにあの後家に帰って準備をしても十分に間に合おうという時間でも有る。逆に言えば彼処に住む由比ヶ浜だからこそそんな真似が出来るとも言える。

 

 なるほど、確かに奇妙だ。俺が突然の気まぐれによって彼処を通りがかり、また由比ヶ浜はまだ登校の準備すらしていないあの時間に車に乗っていた雪ノ下。余程急ぎの用事でも無かったら入学式まで1時間足らずという時間で、別件であそこを通ることはないだろう。学校の近所に用事でも有るなら別だが。

 

 もう一つ、容易に想像出来、かつ納得の行く仮説が立てられる。つまりあの時雪ノ下は俺と同様何の意味も無く早出したという可能性だ。聞けば世の中には高校デビューを期待する人種も多く居るというし、そうでなくともあの日の朝には無闇矢鱈と元気を煽るような何かが有った。雪ノ下もそうした人間の1人で有ったとして、何の不思議が有るだろう。

 

 だがそれでも雪ノ下にはまだ後ろめたさの根拠たる罪が無い。何の意味もなく行動する事を責められるというなら、真冬の早朝から校門の前で3時間もうつ伏せで寝続けて警官を呼ばれたことの有る俺の方が余程それに相応しい。

 

 しかし、雪ノ下さんの告発は堪え切れない笑いを漏らしながらも続いた。

 

「雪乃ちゃんってば運が悪いっていうかさ。高校の入学式に浮かれすぎて早起きして、運転手を叩き起こして早出したら事故に遭っちゃうなんて聞いた時はちょっと笑っちゃった」

 

 心底それが可笑しいと言いたげに、というより腹を抱えて笑い転げるんじゃないかと思う程強く笑い出す雪ノ下さん。

 

 ええ、俺もそう思いますよ。それが真実なら俺が思っている以上に雪ノ下は馬鹿だったという事にもなるし。こんなにも気分が悪くなかったら雪ノ下を指差して嘲笑している所である。

 

 とはいえ、未だ吐き気冷めやらない俺にそんな事が出来るはずもなく、その代わりに由比ヶ浜がおずおずとではあるものの割って入る。

 

「でも、それって別にゆきのんが悪いって訳じゃ」

 

「その通り。なんだけど、雪乃ちゃん自身はどうもそう思えていない。っていうか、そう思えなくなってきてるのよね」

 

 ねえ? と問い質すように言いながら俯く雪ノ下の顔を覗き込もうする雪ノ下さん。なんというか、妹の気持ちが手に取るように分かるなんて素晴らしい姉妹愛としか言いようが無い。そういうのは他所でやってくれよ。

 

 戸塚は初対面の人間含む修羅場にすっかり飲まれているようだし、平塚先生は雪ノ下さんにきつくマークされてるしで、マグロ状態の雪ノ下を守れる唯一の人間。こいつは初め周囲にただ流されるだけの奴かと思っていたのだが、意外や意外今のように誰かが槍玉に挙がっていると率先してそれを防ごうとする優しい奴なのだった。ただ。

 

 あの事故の当事者の1人でも有る由比ヶ浜もやはり完全に罪悪感を払拭出来ている訳ではないようで、話がそれに触れた途端居た堪れない表情を浮かべて閉口してしまった。きっかけになってしまった1人として彼女も雪ノ下に罪がないとは言えないという事なのかもしれない。

 

 俺の中に雪ノ下さんが喜色満面で雪ノ下の頭を押さえつけようとしているイメージが浮かぶ。頭を押さえつけられる雪ノ下はいつもなら平気そうな顔をしてその手の下をくぐり抜けていくか無表情に耐えようとするのだが、今日に限っては苦悶の表情を浮かべてその手の中に収まっている。俺を殴ったという罪悪感からだろうか。それともそれを見られていたという諦観か。はたまた由比ヶ浜に何かを言われたのか。何にしても本当に馬鹿な奴である。

 

 いつだったか部室での問答を思い出してみても、雪ノ下は逃げるという事に強烈な忌避感を抱いていた。それの出自すら俺には明らかではないが、現在それが原因で今この場でこんな窮地に陥っているというのに、それでも逃げるという選択肢に手をかけることすらしようとしない。頑固だ。頑迷で愚直だ。俺や戸塚の前でテニスの腕を披露した時に放っていた輝きを見れば分かる程綺麗な奴なのに、泥に汚れ、悪意に穢され、誹謗に侵されようとも身を守る術など知らぬ赤子のように立ち尽くしている。

 

 ああ、ああ、ああ。ああ、こんな最高のおもちゃを独り占めするなんて意地が悪いんじゃないですかね。雪ノ下さん。

 

 俺は漸く重たい頭を持ち上げながら、1つ息を吸った。それに合わせるように、お昼時海に近いこの高校を訪れる風が俺の体を冷やした。相変わらず頭の中身がペットボトルの中の液体を振った時みたいにばしゃばしゃと波立つのを感じるが、これなら人の顔を見て話をする程度出来るだろう。

 

 全く高校に入ってから、いや2年に進級してからというもの面倒臭い事ばかりが起こっている。訳の分からない部活には入れられ、そこには去年の事故の関係者ばかりが集まったかと思えば、そいつらはそいつらで俺の目の前でこれみよがしに困った顔をしてみせる。うんざりだ。これじゃあ何のために友人も作らず今までやってきたのか分からない。俺にはそんな事にかかずらっている暇は無いというのに。少しでも早く手に入れたい物が有るというのに。

 

正直言ってこれ以上あの一件に振り回されるのも面倒だ。今日のように後から後から罪を告白されてその都度許すなんて真似は御免こうむるからな。流石にこれ以上あの事故を負い目に感じている奴等いないだろうし、早速今日にでも事態の収束を図ってしまおう。

 

「なんだ、雪ノ下。そんな事気にしてたのか。だったらまあ話は早い。1つ頼みごとを聞いてくれれば、もうこれ以上何が有っても、あの件に関してお前が気にする必要ないって、そう俺が認めてやる。実際がどうだかなんて事関係ない、お前が悪かろうが、そうでなかろうが、気にしなくて良いってな」

 

 雪ノ下とて罪悪感を感じない鬼畜という訳ではない。それは雪ノ下さんの発言から理解できる。その他にもこいつがその実その辺の女と対して変わらないパーソナリティの持ち主であることもこの短い付き合いで何となく分かりつつある。こいつの場合、それがちょっとまともではないくらい捻くれていて、おまけに攻撃性が高く、更にそれを十二分な被害に消化させるだけの能力を有しているというだけの話なのだ。更に今は天敵と対峙している最中でかつ先程の狼藉を教師に目撃されている。

 

 今までこいつがどんな風に生きてきたかなんて事は俺には知りようもないが、出会った当初の述懐を思い出せば雪ノ下が清く正しく生きてきた事が予測される。そう友達がおらず、肉親である姉にも頼れなかったこいつにとって自分の身を守るすべは正しさと能力の高さしかない。こいつ自身の主観混じりの記憶に何処まで信用が置けるかは謎だが、正しい人間ほど生きにくいとまで抜かし、周囲の人間に迎合することも許容できなかった潔癖さを鑑みるに特に雪ノ下は正しさ、誠実さというものに執着が有るはずだ。

 

 だからこそ、こいつは今ひたすらに俺のサンドバッグにならざるをえないという訳だ。例えどれだけ承服しがたい命令であっても今のこいつはそれを飲まざるをえない。何故なら正しくない事をしてしまった自分を正当化してしまったら、雪ノ下が雪ノ下自身を否定してしまうからだ。

 

 視線を上げた今、雪ノ下がどんな風に立っているのかが見えた。姉と教師が俺に寄り添い、友人である由比ヶ浜は先ほどの凶状も有ってか少し遠巻きに佇んでいる。いや、もしかしたら雪ノ下さんに睨まれることを恐れているのかもしれない。こいつ自身もあの事故に負い目を感じている1人なのだから。この場合唯の依頼者である戸塚に雪ノ下に味方しろというのも無茶だろう。孤立無援、四面楚歌。今まで何度となく雪ノ下が味わってきただろうシチュエーションだ。その度敗北し、傷つき、逃げることも出来ずに耐え続け、屈折し、それが今の雪ノ下雪乃という人間を構築したのか。なるほど、こんな面白人間に育つのも無理からぬ事である。俺ならこんな状況2秒で逃げ出す自身が有る。

 

 尊敬とも親愛ともつかない感情が俺に笑顔を浮かべさせる。それを雪ノ下が垂れ下がった前髪というベール越しに見つめるのが分かった。雪ノ下の表情が動く。果たしてそれが意味する物が失望なのか諦観なのかは俺にも分からない。

 

 だが、どうあれ俺の行動には一変の差し障りもない。もう決めてしまった事に、雪ノ下がどんな気持ちを味わうかは関係ない。俺自身が考え俺自身が決定を下したのだ。

 

 笑い出す膝を手で握りしめ、どうにかこうにか立ち上がる。まだ酔っ払った経験など殆どないが、飲酒の齎す酩酊感がこんな物だとしたら俺は生涯酒を飲まないだろうと思うような、酷い気分。救いは青々とした空が頭上に広がっている位のものである。

 

 徐に差し出された手を握る。溺れる者は藁をも掴むというが今の俺は正しくそれで、馬鹿みたいな話地上で溺れている俺にとっては窮地に差した一条の光だった、それは雪ノ下さんの手だった。

 

 この人の事だから、俺が素直に従うとは思っていないだろう。だが、同時に俺のような一般人Hが何か出来るとも思っていない筈だ。だから、握り締めたその手がどんな目的や感情の下差し出された物なのか。俺の顔を見つめる瞳は俺の動向を観察するためだけの物なのか俺には判断できない。理解できるのはこんな状況なのに、こんな性格なのに雪ノ下さんの手は柔らかくてきめが細かく最高の感触だという事だけだった。

 

 世の中ってのが間違ってる事だけは同意するよ。雪ノ下。

 

「お前と雪ノ下さんでやって見せてくれよ、テニスを。戸塚の参考にもなるだろうし、良いだろ?」

 

「比企谷、お前そんな事よりも病院へ」

 

 雪ノ下さんが立っている方とは反対側の方に手が置かれる。安定しない俺の体を支える柔らかく力強い感触と心配する声。間違いない、平塚先生だ。やっぱり先生は良い先生である。そんな先生には申し訳ないが、今はその心配を無下にせざるを得ない。俺抜きで2人にゲームをやって貰っても良いが、それじゃあ俺の望む方向へと事態を導くことが出来ない。まあ殆ど直感だけで行動しているので、それが上手く行く公算など全く立ったためしがないのだが。

 

「もうちょっとだけ待って下さい、先生。これが終わったら絶対に行きますから。大丈夫ですって、本当はそこまで酷くないんですよ、これ」

 

 腕を引こうとする先生に抗って、大丈夫なことを装おうと笑顔を笑ってみせる。多分普段の不細工さに輪をかけて見れたもんじゃないと思うが、気持ち悪くなって手を話してくれるのでも別に俺は構わない。すると目論見が上手くいったのか先生は観念するように溜め息を吐いて、俺の腕を離した。

 

「やると決めたなら最後までやり通せよ。何事も中途半端が一番悪い」

 

 何処かの漫画かアニメで聞いたような台詞だが、俺にはお似合いの台詞だ。その通り。何でも中途半端が一番悪い。つまり中途半端な俺は最悪って事だ。

 

「そう、分かったわ。……貴方がそれを望むというならそれに従うわ」

 

 雪ノ下が俺の提案を承諾した。その言葉にどんな裏が込められているのかは雪ノ下を見れば一目瞭然。声も目も立ち振舞も俺を拒絶し、攻撃する。目出度く雪ノ下の敵認定を受けたという事だ。

 

 

 

「雪ノ下さん。お疲れの所悪いんですが」

 

「いいよ。私が雪乃ちゃんにお灸を据えてあげる」

 

 片一方の参加が決まった所でもう片方に声を掛けると、こちらも承諾を得られた。彼女と俺の企みには相違が有ったが、今は言うまい。時に芝居をする上でスタッフが役者に嘘を伝えるように、俺もまた彼女の勘違いを正さない。というか雪ノ下さんなら気付いていてなお気付いていない演技をしていても不思議ではない。

 

「では、私は審判を。悪いが戸塚と由比ヶ浜はこいつを見てやってくれ。どんな些細な事でも様子がおかしくなったら伝えてくれ。その時は病院に引きずってでも連れていくからな」

 

 平塚先生が戸塚と由比ヶ浜を呼び寄せて俺を預ける。細かい配慮まで行き届いていて感謝です先生。実際、立ってるのも相当に辛いので。

 

 体調の心配をしてくれる2人に適当に返事をしながら、コートの脇に戻ると俺は地面に倒れこんだ。座っているよりこっちの方がずっと楽なのだ。野外なので勿論埃や砂は有るがハードコートなので心理的な抵抗も少ない。そのまま90度回転した世界で俺はコートに立った雪ノ下と雪ノ下さんの2人を見た。

 

「ヒッキー、ゆきのんに何したの?」

 

「怒らせるよう事を言ったんだ。雪ノ下は悪くない。だからお前はあいつの味方をして良い」

 

 横たわる俺を心配そうにしながらも事情を聞こうとする由比ヶ浜。説明が手間だし雪ノ下のプライバシーもあったので、重要な事だけを伝えると由比ヶ浜は不満も露わに「そうじゃないってば」と憤ったが今はそんな彼女の相手をしている余裕は無い。由比ヶ浜の相手はまあまあと由比ヶ浜を諌める戸塚に任せてコートに意識を移す。

 

 コートの中は春の陽気とは対称的に息も凍るほど冷め切っていた。片方は死刑執行を待つ身で、もう片方がギロチンを振り下ろす死刑執行人なのだからそれも当然か。

 

 雪ノ下はある程度俺の意図を読んでいるだろう。雪ノ下が雪ノ下さんとゲームをしてコテンパンにされるという展開を俺が望んでいることを。正確に言えばそれは少し的外れで、俺は雪ノ下と雪ノ下さんのゲームの結果に関して確信など微塵も持っていない。先日の部室でのやりとりや姉妹の関係から、何となく推察している程度。なので実際ゲームが始まってしまえば意外とあっさり雪ノ下が勝ってしまうという目が有ることを俺は否定しない。だが、もしもそうならなかった場合に俺はしてみたい事が有るだけなのだ。

 

 加害者たる雪ノ下が被害者たる俺の目の前で雪ノ下さんに蹂躙される。それも誰の目にも明らかな彼我の戦力差を抱えたこの組み合わせなら万に一つも勝ち目がないと雪ノ下が思っているのなら、彼女はこのゲーム自ら負けを選ぶだろうか? それこそが俺の目的、贖罪に繋がると信じて彼女はこの暴力に身を任せるだろうか? きっとそれは否だ。雪ノ下は高潔で馬鹿だが、同時に負けず嫌いでも有る。加えて雪ノ下さんと真っ向勝負をせざるを得ないこの状況で、彼女がただ諦めるとは思いたくない。戦うことを選ぶと言った、変わり続けると言った彼女ならばたとえ惨めにねじ伏せられる事が分かっていても抵抗を諦めたりはしないと信じたい。

 

 そして3者の思惑が交錯したままゲームは始まった。

 

 

 ゲームの内容については割愛させて貰おう。それは予定調和とも言えるスムーズさで雪ノ下が雪ノ下さんに追い詰められた事も理由の1つだし、2人のテニスの腕が俺の幼稚な表現力でカバーできる範囲を易易と逸脱していたというのも有る。が、それ以上に気持ち悪くってそれどころではなかった。俺がボーッとしている間に雪ノ下は1ゲーム取られ、2ゲーム取られ、とうとう3ゲーム目までをストレートで落とし、雪ノ下の敗色濃厚な状況に由比ヶ浜と戸塚が沈黙。テニスコートで笑っている人間は雪ノ下さん1人になっていた。

 

 7ゲームマッチの試合なら後1ゲーム落としたら敗北決定。しかも雪ノ下という人間はスタミナがからきし無いらしく途中からすっかり動きに精彩を欠いている。試合運びは虐殺と言っても過言ではない程の一方的。それでも雪ノ下は諦めていない。ふらふらの体に気力を充溢させてラケットを構えていた。

 

 恐らくは最終ゲームになるだろう第4ゲームを前にしてコートチェンジが審判に告げられる。ネットを挟んでコートの反対に立つ姉妹はそれぞれコートの反対側を通って移動する。それぞれが位置について先生がゲーム再開を告げる直前。

 

「戸塚、悪いけど付き合ってくれ。俺1人じゃどうやっても役に立てそうにないけど、お前と一緒なら」

 

「うん。練習に毎日付き合ってくれた比企谷君と雪ノ下さんの為だもん。僕も頑張るよ」

 

 唐突なお願いだったが戸塚は快く頷いてくれた。

 

 俺は少しマシになった体を奮い立たせ戸塚を伴ってコートにずかずかと入った。

 

「どういうつもり? まだ試合は終わってないわよ? それともそんな事も分からないのかしら」

 

「誰も試合をしてくれなんて頼んでないぞ。俺はテニスをしてくれとしか言ってないんだからな」

 

「はあ?」

 

 刺々しい雪ノ下との対応もそこそこに俺はコートの反対側に居る雪ノ下さんに声を掛ける。

 

「雪ノ下さん。俺達も混ぜて下さいよ。昼前には解散のつもりなんですけど、俺もウォーミングアップだけじゃ不完全燃焼なんで」

 

「ふーん。比企谷君はそういう事する子なんだ」

 

 雪ノ下さんの視線が、俺のしようとしている行為が雪ノ下さんの意志に反するがそれで良いのかと問いかけてくる。俺は今できる精一杯で頷いて返事を返す。

 

「ええ、俺が楽しくないのに俺以外の人間が笑ってるなんてとてもじゃないけど許せない質なんですよね」

 

 最早値踏みの価値無しと評価されたのか雪ノ下さんの声色が変わる。実際俺の心づもりがきちんと伝わったというサインでも有る。後はこのゲームを雪ノ下さんにも飲ませなければならない訳だが。

 

「そっか。そういう事なら良いよ。でもそっちが3人でこっちが1人だけなんて不公平じゃない?」

 

「ええ、だからこっちには由比ヶ浜にも入ってもらいます」

 

「話し聞いてたのかな? 比企谷君」

 

「雪ノ下さんこそよく考えてみてくださいよ。俺はこの通り立ってるのもやっと。雪ノ下はスタミナ切れで実質戸塚と貴方の1対1みたいなものなんですから、さっきの試合の結果を考慮してもまだ足りない位です」

 

 雪ノ下さんがこの状況で逃げるわけがない。信頼と言い換えても良いくらいの気持ちで俺はそう考えていた。

 

 これでこの人がゲームを承諾しなければ俺と戸塚が雪ノ下の味方をしたという事実だけが残ってしまう。それではこの人の最初の狙いである雪ノ下を孤立させることが出来ない。この人が去った後、裏切りに遭ったと思っている雪ノ下と俺の雰囲気は最悪なものになるだろうが、それでもそれだけは疑いようのない結果として残る。加えて、その雪ノ下さんが下りれば内実はどうあれ雪ノ下は雪ノ下さんに敗北を喫しないまま今日を終えてしまう。それでは雪ノ下さんのイニシアティブが揺らいでしまうのだ。圧倒的なまでに強く、他人を惹きつける事で雪ノ下を隅に追いやってきたのに、今日に限って言えば自分だけが隅に追いやられる。

 

 それだけは出来ない筈だ。きっと、多分、恐らく。

 

 結局大した自信もない博打だったが、雪ノ下さんは「つまんないの」と一言漏らした後俺の提案に乗ってくれた。

 

 最初から俺が何かするつもりでいることを予見していた先生に試合の続行をお願いしつつ、由比ヶ浜をコート内に呼び寄せ4人で作戦会議をした。

 

「なになに? 一体どういう事なのこれ? ヒッキーはゆきのんと喧嘩してたんじゃないの?」

 

「別に和解した訳じゃないから安心しろ」

 

「安心できないし! ちゃんと説明してよ」

 

「はいはい、後でちゃんと説明してやるから今は話を聞け。いいか、俺と由比ヶ浜が前衛、雪ノ下と戸塚が後衛だ。由比ヶ浜は俺と反対サイドのベースラインに思いっきりよって外側のコースを潰せ。動かなくて良いからボールが来たら何でも良いから打ち返せ。俺も正直立ってるだけで一杯一杯だから、由比ヶ浜より役に立たんだろう。だから雪ノ下と戸塚で後ろに来たボールをどうにかしろ」

 

「突然しゃしゃり出てきたと思ったら今度は上から命令? そんなものに私が従う理由が有るのかしら? それにその杜撰な作戦。そんなもので姉さんに勝てるわけないでしょう」

 

 雪ノ下が冷ややかな視線でこちらを睨む。少しは平素の自分を取り戻したらしい。ここ数日萎縮しきったまま見せなかったいつもの迫力の有る目だ。まるきり敵に向けるようなそれは、出会った時向けられた無関心なそれよりも尚冷たい。今なら普段のそれが精々液体窒素位のもんだったとよく分かるものだ。

 

 いやこいつを虐めてた連中もよくもやったものだと感心してしまう位の凄然たる様だよ。俺なら間違ってもこんな奴標的にはしないね。

 

「別に従わなくても構わないぞ。俺と由比ヶ浜と戸塚のポジションが決まってりゃお前の担当なんて自然と決まってくる訳だし。てかお前はそんなぜいぜい息を切らしてんのにまだ1人でやるつもりかよ」

 

 雪ノ下は忙しなく肩を上下させて呼吸を整えることもままならない。今まで知らなかった事だが、こいつの弱点は体力らしい。それが問題にならない程度には色々と上手なんで表面化こそしなかったものの、そんな雪ノ下をして格上の雪ノ下さんとのゲームでは、頭に血が昇ってしまったせいで1点を落としてスタミナを温存する事さえしなかった為にパフォーマンスがガタ落ちしている。今のこいつじゃコートの左右にボールを振られるだけですぐにボールに追いつけなくなるだろう。

 

 それでも額に汗を浮かべて前髪を張り付かせながら、いつも通りを装うために虚勢を貼り続ける雪ノ下には尊敬の念さえ抱けそうだ。

 

 雪ノ下は腕を組み、見下ろしている筈の俺が逆に見下されているような錯覚を覚える態度で言った。

 

「これは……演技よ。姉さんを油断させるための。大体貴方一体何を考えているの? 私を怒らせたり、私と姉さんにゲームをさせたり。貴方は姉さんと」

 

 キッと俺を睨みつけ責め立てるように質問をする雪ノ下を遮る。

 

「何も考えてねえよ。俺達4人でやったって勝てるもんとも思ってない。俺は単に自分とこの部長があんまりにも情けない負け方しそうなもんだからお茶を濁そうとしてるだけだ。年末年始の特番とか見ないの?」

 

 超豪華ゲストを呼んでおっさんが滅茶苦茶するあの番組。終盤になるとなんちゃらチャレンジだのと子供まで出てきてそれはそれは素晴らしいお茶の濁し方をして終わるのだが、最初から無茶の有るマッチメイクなだけに最初から誰もガチな試合を期待してないのでなんだかんだ笑って見ていられるのだ。あんな風に最後笑っていられるかは別として、悲惨な現状を茶化す事くらいは俺にだって出来るだろう。さっき言った通り、俺以外の誰かが笑って終わるくらいだったら俺含め全員が沈痛な表情を浮かべていて欲しいのだ。

 

「貴方、……貴方は……」

 

「おーい、いつまでそうしてるつもりだ。試合を続けろ」

 

 再度雪ノ下の言葉が遮られる。今度は平塚先生だ。しかし審判からそう催促されては逆らうわけには行かない。俺達4人はコート内に散った。




本当だったらこの話で第1部を終わらせるつもりだったのですが、予想以上に間隔が開いたりした結果こんな結果に。どうにか来月末までに次を公開したいと思います。

それにしても忙しくてまともに執筆出来なかったのですが、世のSS書きさんとか兼業作家さんは本当に凄いですね。


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第14話

 天気は快晴、風はそよ風。程々温まった男子高校生の体を冷やすには物足りなかったが、すっかり冷えきって何故か微妙に寒気すら感じる今の俺には丁度良い。これでコート内の雰囲気が和気藹々としたものなら文句など付けようもないのだが、現状はそれとは正反対のそれだった。雪ノ下と由比ヶ浜は揃って困惑状態、雪ノ下さんは殺気を発している。平塚先生は審判台の上で静観の構えだし、これだけ女性がいるというのに唯一の癒やしが男の戸塚だというのが残念だ。まあ可愛いから一見気にならないのだが。

 

「ゲームカウントスリーゼロ」

 

 平塚先生がゲームカウントを告げてゲームが始まる。やばい。早速の溜息が出る。

 

 何も考えずに乱入したはいいものの、このゲームはサーバーが雪ノ下さんだ。先程のゲームで見て分かったが、彼女のサーブは雪ノ下以上。鋭く早いフラットサーブや変幻自在のスライスサーブ、意表を突くバウンドのスピンサーブと種類に富み、威力も雪ノ下のそれに見劣りしない。戸塚ですら受けきれずにいたそれを俺と雪ノ下が返せるとは思えない。詳しい取り決めなどしていないが雪ノ下さんがレシーバーをローテーションさせるよう要求されたらそこでこのゲームが終わってしまう。

 

 しかし、その辺まで既に折り込み済みだったのか、雪ノ下さんは勢いそのまま魂まで抜けていきそうな俺の溜息が終わらぬうちにボールをトスしていた。レシーバーは雪ノ下。空高く舞い上がったボールが一瞬しんと沈み込むような静けさをコート全体に齎し、僅かに最高点から落ちたそれを雪ノ下さんのラケットが捉える。淀みない一連の動作から生み出されるパワーとスピードは真っ直ぐに打球に乗って、ボールが高速でこちらのコートに飛来する。闘争本能のなせる技か、いまいち乗り気で無かった雪ノ下の体が臨戦態勢に入るのが分かった。お手本のようなパワーポジションから流れるようなスプリットステップで雪ノ下さんの放ったボールに食らいついて行く。雪ノ下のフォアハンド側一杯の角度深くに突き刺さった雪ノ下さんのサーブだが、雪ノ下はこれを危なげなくリターンした。ボールが俺のすぐ横を通り過ぎてストレートへ。駆け引きをしない迅速な試合展開で人数の利を活かそうとしているのだろう。コートの反対側にいたはずの雪ノ下さんは当然走ることを余儀なくされる。この1往復の間にどれだけの時間が流れたかは定かではないが、コート上の俺には瞬きの間の事のように感じられた程の速さ。だというのに雪ノ下さんもまた涼し気な顔であっさりと雪ノ下のリターンを返球した。今度はセンターライン付近へ。4人がコートの同じサイドにいるという変則的な形式故にダブル前衛、ダブル後衛とそれぞれのポジションに2人がいる現状ではこうした担当領域の隙間を狙うボールはプレイヤーの混乱を招くものだ。しかし、これもまた雪ノ下は戸塚のそれを遥かに上回る反応速度で解決した。本来コートのサイド一杯に振られた雪ノ下よりも動いていない戸塚の方が早く対処出来た筈なのに、その戸塚が踏み込むよりも早くボールに肉薄しバックハンドで打ち返したのだ。雪ノ下の体力が俺達の乱入で多少回復したとしても後先を考えない猛攻。おまけに、俺の体が目隠しになったのか多少雪ノ下さんの反応が遅れた結果、雪ノ下はこのゲーム始まって以来初めてのポイントを決めたのだった。

 

「比企谷君、何のために入ってきたのか知らないけれどただ突っ立っているだけなら見物でもしていたらどうかしら?」

 

 雪ノ下さんから初めてポイントを取ったというのに喜びも見せずにちくりと嫌味を言う雪ノ下。これが照れ隠しなら可愛いもんだが、雪ノ下の事だから素にこう考えていたとしても何もおかしくない。事実終始棒立ちしていた俺としては耳が痛い発言でも有る。俺の体調不良の元凶の癖してこれだけ言えるのだ。こいつが悪魔のような女だという事は確かだろう。だが、そんな事は全く気にならないのだろう、由比ヶ浜が大喜びしながら雪ノ下に駆け寄って抱きついた。

 

「ゆきのんスゴーイ! 何今の? ボールがズバッて来たと思ったらビューンて行って、ああもう凄かったよー。ゆきのん格好良い!!」

 

 由比ヶ浜の勢いに面食らって雪ノ下が避けもせずにハグの餌食になる。

 

「ちょっ、由比ヶ浜さん!?」

 

 突如としてコート上に聳え立つ百合の塔はおいておいて、俺も膝に手をついて安堵の溜息を吐いた。どうにかお通夜のような雰囲気になることは回避できたらしい。緊張が解けたせいか脂汗と悪寒と耳鳴りが酷かったが、死力を尽くしてそれに耐える。が、一瞬視界が虹色に染まる。

 

「大丈夫? 比企谷君」

 

 心配そうな戸塚の声がした。まるでパソコンが処理落ちしている時のそれのようにクルクルと回る虹色のそれが落ち着くまで待つと、俯いた俺の顔の傍に戸塚の顔が見えた。しゃがんだ姿勢でこちらの顔を覗き込んでいるのだ。上目遣い、心配そうな視線とこれで戸塚が女なら俺の心を大層揺るがしている所だが、残念戸塚は男だ。俺は後ずさりながら顔を上げてどうにか無表情を作ってみせる。

 

「ああ、まあどうにかな。それより、どうせ直ぐ雪ノ下の体力も尽きるだろうし俺と由比ヶ浜は役に立たないだろうからお前が頼りだ。悪いけど頼むな」

 

 そういえば今日の最初の趣旨は戸塚の為の練習試合だった筈なのだが、いつの間にかすっぽりとその事が頭から抜け落ちていた。が、そんな事を今更言い出しても何も始まらないし、何より今暫く戸塚にはこちらの事情に付き合ってもらうしかない。その事が申し訳なく思われて戸塚に頭を下げる。

 

 これだけの加勢を受けてもあっさりとそれを拒否して1人でポイントを決めた雪ノ下と、完全にやり込められた雪ノ下さん相手では荷が重いだろうに戸塚はそんな事を気にした素振りも見せずに気持よく頷いてくれた。

 

「うん。練習に付き合ってくれた比企谷君に恩返しもしたいし、僕も頑張るから比企谷君はあんまり無理しないでね」

 

 多少の無理をしている事はお見通しなのか、それとも多少無理をする位なら構わないという意味なのか。どちらにしろ今の俺には随分と男前な台詞に聞こえる。本当こんな可愛い顔してんのに格好良い奴だよ。お前って奴は。

 

 笑顔の戸塚に釣られてつい俺の表情も緩んだ。膝についていた手も離して背筋を伸ばす。最低でも後4回のポイントのやり取り。気の遠くなるような長さに感じるそれもどうにかしてしまえそうなそんな気分が何処からか湧いてきているように感じる。

 

「由比ヶ浜さん、次のサービスが始まるわよ。戻りなさい」

 

 雪ノ下達の方に目をやると、そういって由比ヶ浜を引き離している雪ノ下と目が合った。

 

「比企谷君も、……比企谷君も早くポジションに着きなさい」

 

 ふいっとそのまま俺と雪ノ下の視線がすれ違い、雪ノ下さんの方を向いた俺の背中にそんな声だけが届いた。お前は本当に可愛くねえ女だよ。雪ノ下。

 

 そんなふらつく頭に一本芯が入るような気持ちもこうしてポジションに着けば否応なく水を差されることになる。

 

「大丈夫、比企谷君? 顔真っ青だよ? 座ってたほうが良いんじゃないかな?」

 

 心配至極といった表情の雪ノ下さん。ポイントを落としたことも、4体1の状態も全く気に掛けた様子がないというか、この人はこの人でこの状況に何か狙いが有るとでも言うのか抗議の様子がない事が不気味で仕方ない。もしかしたら極真っ当に俺の心配をしているのかも知れないが、そういう考えが浮かんでこないのは俺の心が汚れているのか、それともそう思わせないこの人が凄いのか。どっちにしろ頭痛が酷くなりそうな結果しかない辺り本当に頭が痛い。

 

「こんな状況でも俺の心配してくれるなんて優しいなあ雪ノ下さんは。良かったらテニスの方にも手心を加えて貰えると助かるんですが」

 

「あはは、ダメダメ。それは駄目。たとえ4体1でも勝ってお義姉ちゃん凄いんだぞって所を見せてあげないと」

 

 当然のように勝つつもりなのかよ。そういう所はそっくり姉妹か。それとお姉ちゃんてなんか漢字違わなかった?

 

「あははは、比企谷君面白い顔。それじゃ行くよー」

 

 勘違いじゃなかったらげっそりとした顔の俺を笑い飛ばした雪ノ下さんの手からテニスボールが軽やかに浮かび上がる。これでコート上にさえ居なければ見とれてしまいそうな美しいトスだ。こんな1所作でさえこれだけ強く人を惹きつけられるのだからやはり雪ノ下さんは(雪ノ下も)、特別という事なのかもな。

 

 センターラインギリギリから先程と同じ種類のボールが放たれ、今度は殆どコートを垂直に真っ二つにするような鋭いコースでこちら側のセンターラインに突き刺さった。強く早い真っ直ぐ。まさしく先程の雪ノ下と同じ戦法。いや、先程の雪ノ下さんと同じ戦法。二人の気性を現すようなプレイスタイルと言う事が果たして可能かどうか。それは試合の後のお楽しみだ。今は戸塚がリターン出来るかどうか、それにかかっていた。

 

 この瞬間、ただの傍観者でしかない俺が息を呑むような緊張に襲われた。

 

 戸塚。さっきはああ言ったが、本当の所俺はお前に期待しちゃいない。それはお前の事が好きだとか嫌いだとかいう話じゃなく、多分俺が冷酷無比な人非人だからだろう。冷静に戸塚という男のテニスプレイヤーとしての実力を鑑みた時、戸塚のそれは雪ノ下や雪ノ下さんのそれに大きく劣る。雪ノ下という天才は言うに及ばず、同様の才能を持った雪ノ下さんに至っては俺達の3つも年上だ。その間どれだけテニスをしていたのかはさしたる問題じゃない。それだけの時間の分あちらの方が肉体的にも成熟しているし、俺達凡人と天才のそれじゃ時間の価値が全く違うという事が重要なのだ。

 

 それは先の戸塚と雪ノ下さんの試合で戸塚自身も悟っているだろう。だから残酷かもしれないがこの状況で戸塚が雪ノ下さんのサーブを返せるとは思っていない。思わない。その筈だった。

 

 だが、実際にその場面がやってきたらどうだ。俺はみっともなく戸塚に期待している。依存している。寄生している。その後の展開が十中八九どうなるかまで読み切って、それでも情けなく縋り付いているのだ。これならば自分の実力不足を呪っている方が100倍マシ。

 

 最初から、そう戸塚に頼んだ時からこうなる運命だったと冷徹にそう判断していた。だから今こうして戸塚の握るラケットが黄色い閃光の遥か遠くを空振りするのを見て失望など感じている訳がない。ないのに。

 

 これが友情などと世に言われる物なのだとしたら、世の中ってのはさぞ暮らしやすいに違いない。だが、俺が俺が追い求めかつて雪ノ下が手に入れられなかっただろう物がこんなものでは在っていい筈がない。

 

「戸塚君、動き出しは悪くないけれどボールの動き以外にももっと目を配りなさい。サーバーの姿勢やラケットの軌道、ラケットとボールの接し方でサーブの種類を判断しながら大凡の着地点とボールの変化を予想すれば貴方なら今のも返せるようになるわ」

 

 雪ノ下のアドバイスに首肯する戸塚。だが、1ゲームという短い時間でそう簡単にそんな真似が出来るのはお前と雪ノ下さんだけだ。これでレシーバーが俺達にまで回されるようなら戸塚には次のチャンスすら回ることなくゲームが終わる可能性すら有る。

 

 機械的に計算を始める頭を振って馬鹿な考えを振り払う。今はどう転ぶにせよゲームに、そして雪ノ下さんの企みについて集中しなければならない。

 

 ドンマイと一言戸塚に告げて俺は平塚先生のコールを待った。これも頭のふらつきが原因だろうか。さっきまでは頭の中身が渦を巻いているような感覚だったが、今はそこに俺の思考まで一緒になってぐるぐると回っているようにさえ感じて、いやに1秒1秒が長かった。

 

「うーん、由比ヶ浜ちゃんと比企谷君にレシーバーをって言うのはちょっと荷が重いかな。いいよ、じゃあレシーブは雪乃ちゃんと戸塚君の2人で。その代わりお姉さん手加減しないからねー」

 

 こちらから提案するまでもなく雪ノ下さんがこちらに都合の良い展開を作ってくれる。雪ノ下がそうだったからとしか言えないが、雪ノ下さんも本来的には一切の容赦をしないタイプだろう。間違いなく遊ばれている。ただ単に甚振られているだけというのも希望的観測に過ぎるだろう。

 

 が、それ以上の思索を行おうとする隙はなかった。3度目のサービスが始まったのだ。

 

 投げ上げられたボールが今までよりも明らかに高い位置まで上がる。そしてその差を無くすように雪ノ下さんが飛び上がる。ジャンピングサーブだ。それも単に打点を高くする程度の物ではない。体が反り返り引き絞られた弓が開放されるように、力強く加速されたラケットがボールを打ち出した。一段と力強いその一発の弾丸は黄色い尾を引きながら雪ノ下の正面に着弾する。それを迎え撃つ雪ノ下の気合の入り方も先程以上だ。キュキュッとテニスシューズが鳴ったかと思うと、雪ノ下の体が駒みたいに回転してバックハンドを見舞った。スライス気味に回転しながら小さな弧を描いたボールは雪ノ下さんの足元でワンバウンドしたかと思うと、僅かにだが間違いなくその進行方向を変化させる。慌てた様子も見せずに雪ノ下さんはそれを返球し、ボールは再び雪ノ下の元へ。

 

 そのままボールが何回もコートを斜めに横切った。お互いに攻めあぐねている? いや、相手が確実な隙を晒すのを待っているのか。雪ノ下がコースを変えてストレートに打ち返しても、雪ノ下さんは雪ノ下のいる方向にボールを返した。雪ノ下は今度はクロスに打ち返し、雪ノ下さんをコート内で振り回す。が、それでも雪ノ下さんは雪ノ下にボールを集めた。本気になったというのが本当だったのか、雪ノ下は最初の様に行かないようだった。

 

 雪ノ下さんの狙いはこれだろうか? 雪ノ下のスタミナ切れが? そんな詰まらない追い詰め方が、あの人の眼鏡に適うかそもそも疑問だ。もっと深遠な狙いが有るのか。

 

 言ってしまえば単調なボールのやり取り、その上雪ノ下さんからの返球はコースが決まっていて判りやすい。焦れたのかジリジリと由比ヶ浜がセンターラインに近づいてきていることに気が付いた。入っていこうとするタイミングを計っているのが体の動きでバレバレだ。後衛の位置からでは更に分かりやすいのか戸塚が由比ヶ浜を止めようと声を発した。

 

「由比ヶ浜さん!」

 

 が、時既に遅し。雪ノ下さんがラケットでボールを打つ寸前のタイミングで由比ヶ浜がコート中央に躍り出る。ボールの速度を考えればタイミング・コース共にドンピシャ。確実に俺よりも上手いボレーが打てると確信できるそれだったが、雪ノ下さんはそんな由比ヶ浜の動きを見越していたのだろう。体の開き方を微妙に変えてストレート、戸塚のいる方向に打ち返した。ダブルスならばケチの付けようのないサイドパッシング。だが今回に限って言えば、壁は前衛だけではない。

 

「えいっ」

 

 と掛け声と共に戸塚のラケットが今度こそボールを捕まえ、打球はクロス方向に向かった。雪ノ下さんから逃げる方向へ向かう打球はしかし、それを上回っているのかと錯覚させる雪ノ下さんの移動速度に負けた。ボールは今度こそ雪ノ下の居ない方。つまりクロスに向かったが、そこは丁度ボレーをすかした由比ヶ浜が立っていた。ボールに対して正面に構え、ラケットを踏み込みと共にボールに押し当てるように使う。これはと思う絶好の機会。が、カンッと音を立ててボールがあらぬ方向へと飛んでった。フレームに当たってしまったのだ。

 

「アウト」

 

 コート脇に落ちたボールが勢いを失ってボテボテと転がっていく。由比ヶ浜は直ぐ様振り返って、雪ノ下を見て表情を繕おうとするのを止めた。由比ヶ浜が雪ノ下に何を見たのかは分からないが、それを見た由比ヶ浜は申し訳無さそうな顔さえ作れなくなってしまったのだろう。出来ればという言い方では控えめになりすぎか、こんな状況でさえ勝ちたいと思っている雪ノ下が意図せず由比ヶ浜を追い込んでしまった形になるだろう。とうの雪ノ下はゲームの事に意識を取られていて由比ヶ浜の顔が曇った事には気がつかない様子で、先程の戸塚にしたのと同じようにアドバイスを送っている。

 

 ボールボーイなど当然いやしないので、転がっていってしまったボールを拾いに行った。幸運な事にそう動くまでもなくコートの外周を囲うフェンスに引っかかっていたのでそれを拾って、雪ノ下さんの方に送ったが視界に映った雪ノ下さんはご満悦顔を浮かべている。俺が送ったボールに気がつくとそれも止め、表情を変えて礼を言われた。

 

 しかし、その御礼の最後にも微かに口角が上がったのを見ると、笑っている所を見られているのにも気がついているというか、態と見せているのではないかという疑惑さえ持ち上がってくる。あの笑顔の意味がゲームの展開そのものに対してなのかそれともコート上に立つ俺達の踊りっぷりに対してなのかは判然としないが、あの人はテニスとはまた別にゲームをしているという事なのだろう。それもまた、俺達がどうやって盤上から逃げ出すかという事を楽しみにしているような節さえ感じさせ、とことん雪ノ下さんの底知れなさを感じさせる。

 

 俺は背筋を走る寒気が何に由来するものかという事には気を向けず、コートに戻って由比ヶ浜に適当な言葉を送った。

 

 そこからはどうにも煮え切らない展開が続いた。ポイントは確かに動いた。第4ゲーム、第5ゲームと連取した。しかし、俺達には気味が悪いほどその達成感と熱が無く、雪ノ下さんには余裕が有った。試合の展開にもおかしな点が有った。雪ノ下ばかりがポイントを上げ、反対にポイントを取られる時は雪ノ下以外が狙われている。いや、確かに実力を勘案すれば当然の展開だが、実際にゲームの内容を目にするとそれは違和感以上の確信を誰の目にも齎すに違いない。

 

 現に平塚先生も審判台の上から苦み走った顔をしている。そう、コートを俯瞰していれば誰もが気がついただろうそれに、雪ノ下達3人だけが気がつかない。雪ノ下は言うまでもなく戸塚は生来の真面目さから、由比ヶ浜も雪ノ下に味方したい一心でこのゲームに没入している。だから唯一こちらで冷め切っている俺だけがその事実に気が付いている。こういうのも一種の孤立というのだろうか。気がついた所で誇れるものが有るわけでも無いのだから気が付かない方がお得だというのに、こういう時ばかり察しが良いのも困りものである。とことん貧乏くじを引くというか何というか。

 

 さて、では現在俺が取り得る手段は2つしか無い。気が付いた事を雪ノ下達に伝えるか伝えないかである。とはいえ、実質的にはこれは選択とはいえないだろう。何故ならこれを伝えた所で決して状況が好転する訳ではないからだ。それどころか雪ノ下により大きな敗北感を植え付ける原因にも、由比ヶ浜と戸塚に無駄な罪悪感を感じさせる原因にもなりかねない。

 

 ではカカシ・オブ・ジ・イヤーにも輝ける程の無能っぷりを現在進行形で発揮する俺に出来ることとはなんだろうか。ゲームが雪ノ下さんの手のひらの上で進行している状況で、全てを御破算にする方法とは。そんなもの今の俺の状態を考慮すれば一つしか無い。こうして雪ノ下を雪ノ下さんとのゲームに巻き込んだ事ももしかしたら振り出しに戻ってしまうかもしれない。だが、変な話こうして今雪ノ下さんに立ち向かう意思を見せた雪ノ下ならばもうこの数日のように俯いたまま、抗うことを諦めたりはしないだろうと信じることが出来た。

 

 最早ゲームの始まりから微動だにしない俺が、今になって動きを見せるなどとは誰もが思っていないだろう。その油断を突く。狙いを気取られれば雪ノ下さんには容赦なくその機会を奪われてしまう。だからチャンスはこの一回。いい感じに意識が朦朧としているし、きっと顔色の方も最悪だ。だからこそ準備万端。雪ノ下のサービスが予備動作に入った時には既に俺の頭の中で覚悟は完了していた。

 

 ラケットがボールを打つ音とともに、冷たい風が背中から吹き抜ける。その冷たさも、つれなさも何処か温かい。不可解な相反する属性のようでいて、それらが同時に存在することには今は何の疑義も持てない。ただ一つ断言出来るのはそれがとても快いものだという事。

 

 ここから先のことは、実を言うと殆ど空覚えだ。体調が悪かったとか、直後の出来事とか色々とその原因を列挙することは出来るが最も大きな要因はきっと俺の近視眼的な集中力のせいに違いない。一つ目的を定めると後先も周囲の状況も顧みずに猪突猛進してしまう俺の悪い癖。そもそもこの状況が出来上がった最大の理由。徹頭徹尾それに振り回され、初志貫徹それを振り回した辺りが俺らしいとだけ言っておこう。

 

 体力が殆ど空っぽになった雪ノ下のサービスは、彼女の持ち味である切れの良さを失っていた。未だ完璧なパフォーマンスを魅せつける雪ノ下さんの前では無様とさえ言えるそれを、雪ノ下さんは強烈なフォアハンドでもって雪ノ下に叩きつける。雪ノ下は負けじとその強烈な威力の玉を打ち返したが、力負けしボールはロブ気味にストレートコースへ向かった。俺の正面にどうにか着地したボールは高く舞い上がり雪ノ下さんにとってこれ以上ない絶好球となり、高く構えられたラケットはさながら俺達の喉元に突きつけられたナイフ。切れ味鋭いそれで俺達を絶命させるべく鮮やかに閃いた。

 

 テニスでは一度着地し、高く上がったボールをスマッシュすることをグランドスマッシュという。ノーバウンドのボールよりも緩やかに落ちるそのボールは、それを打とうとするプレイヤーに相手プレイヤーを十分に観察するだけの余裕を与え、より確実なポイントに繋がる。雪ノ下さんにとっては品定めの時間だ。由比ヶ浜や戸塚に到底触れることさえ許さない剛速球を見舞うもよし。体力の付きかけた雪ノ下の目の前にギリギリ追いつけない速度で落としてやるのもよしと、雪ノ下さんの嗜虐心はこれでもかと言わんばかりに刺激された事だろう。

 

 だが試合も終盤を迎え今まで散々に戸塚や由比ヶ浜を振り回した雪ノ下さんにとっては、2人はさして魅力ある獲物と思わないに違いない。徹底的に、だが息の根を止めない程度に雪ノ下を甚振り尽くす為に彼女は雪ノ下を標的とする筈。そしてそんな雪ノ下さんの視界には最早俺などという路傍の石は映っていない。

 

 万に一つもその失点の責任が戸塚に及ばないよう雪ノ下さんは打球のコースを目一杯外に振る。そこまで思考が辿り着いた時、俺の体は半自動的に動き出しボールの軌道上に踊り出ていた。

 

 瞬間、強烈な磁気嵐に巻き込まれた俺はボールを見失い、身体の感覚を見失い、天地の感覚すらも喪失した。遥か彼方でラケットがコート上に落ちる音がして、真っ白に染まった視界は、しかし何の基準点も無しにそうと分かるほど目まぐるしく回転する。

 

 最後に感じたものは膝が地面に着いた感覚と、変わらず肌を撫でる風、そして微かに肌を暖める太陽の光だった。

 

 そして目が覚めると俺は病院に居た。




まだ終わんないってどういう事なのか。書きたいシーンは色々有るのですが、そこに辿り着くまで延々とこうして文章を付け足しつけたし繰り返していきそうで恐怖を覚える今日このごろ。
もっとぱっぱとシーンを展開させていただきたいです。

恐らく今度こそ次回で終わるはず。
皆さんの感想などお待ちしております。


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第15話

 去年少なくない日数を病院で過ごして分かったことだが、案外病室で迎える目覚めというのは悪くない。それは俺が重篤な病気に掛かっていないからこそ出来る楽観的な考えに違いなかったが、世の中の少なくない人間に同意して貰える意見だと俺は考えている。何せここに寝転がっている限り、俺の惰眠と怠惰を妨げる物が何も無いからだ。学校も塾もここにいる限りは遥か彼方の世界の出来事でしかない。小生意気な妹に朝食の用意をねだられることも、両親にゴミ出しを頼まれることもない。思う様惰眠を貪り、重力の虜になっている事が出来るのだ。ああ、これで出席日数などというものさえ無かったらもっと心穏やかにベッドの柔らかさを堪能できるのだが。

 

 覚醒した俺の意識を真っ白の光が焼いて、今が夜中でない事を知る。反射的に強く目を瞑りながら目の痛みが取れるのを待ってゆっくりを瞼を持ち上げた。天井もカーテンも掛け布団までもが白に統一された懐かしささえ感じる風景に出会って、俺は朧気な直前までの記憶を元にして現状を推測していく。病院特有の何処か時間の流れが遅くなったかのような雰囲気に流されるまま、俺は体を起こすでもなく考えを巡らせていった。

 

 どうやら狙い通りの結果が得られたらしいが、どっちかといえば上手く行き過ぎたのかも知れない。それは気絶する直前に俺を直撃しただろうボールの感覚が無い事からも察せられる。あの時、俺はゲームを強制的に終了させる手段として雪ノ下さんの打ったボールにぶつかって気絶する方法を選んだ。それはその時、もっとも大きな衝撃を持って雪ノ下の中に鬱積した感情をリセットする方法として最も適したやり方だと考えたからだ。おまけに、俺が気絶したとなれば直後雪ノ下さんが雪ノ下にちょっかいをかけるチャンスも潰せる。一挙両得の妙案だと思ったのだが、俺が考えていた以上に俺の体は重症だったらしい。ボールの射線上に飛び出した俺は、しかしボールに当たるまでもなく意識を失ったのだろう。病院に運び込まれた患者がどういうプロセスを通じてベッドに寝かされるのかは分からないが、静けさと日の明るさから言って今がまだ日曜日という事もあるまい。学校に行けなかった事自体はとても残念だが、なに折角平日他の連中が学校に言っている中太平楽にボーッとしていられるのだからそう悲観する事でもない。そう考えた俺は今一度の眠りに就く前に一目くらい空の様子を見ておこうと考えベッドの脇に目をやった。

 

 寝ぼけ眼を陽の光が焼いたように、外は燦々と日光が降り注ぐ快晴だった。雲も少なく、見える範囲では1つ大きな雲海が遠くの方の空を動力のない船が水面を行くような速度で横切って行くのが見えるきりだ。太陽は中天を過ぎ、傾き始めたそれが高層ビルに大きな影を落とさせているのが見える。だが、やがては西の空に消える太陽もあと数時間は陰りを見せないだろう。正にこれ以上ない穏やかな日常という奴だ。思わず病院のベッドの上で人生のピークを迎えているんじゃないかと錯覚させるその風景を一通り楽しんだ俺は、そのまま視線を横に移動させて丁度俺の正面まで動かした。窓の端でまとめられたカーテン、白い壁、花瓶に活けられた名前も知らない花、そして雪ノ下さん。

 

 うん、実に標準的な病室の風景だ。これ以上はこの機会を俺に与えてくれた神様にも失礼だろう。誰に憚るでもなくこんな時間からベッドに横になれる時間を有効活用すべく、俺は起こしていた状態を再びベッドに横たえて深く毛布を被った。

 

「やっはろー、比企谷君」

 

 何処かで聞いたような挨拶をしてくる雪ノ下さん。参ったな、話しかけられた以上このまま二度寝する事が出来なくなってしまった。

 

 俺は小さな幸せを放棄して上体を起こし、俺の正面で椅子に腰掛けた雪ノ下さんに視線を向けた。

 

「こんにちは雪ノ下さん」

 

 ついでに身の回り品がその辺に無いかと探ったが、財布もケータイもベッドの近くには置いていないようだ。しかし、何でこの人が俺の病室に居るんだ? パッとこういう時に見舞いに来る人間をリストアップしてみたが、そもそもこの人は候補にすら上がってこない。まあ、リストっても二桁に満たないような数なので誰も居ない可能性の方が余程高いのだが。

 

「どうして雪ノ下さんがそこにいらっしゃるんですか。今日平日ですよね?」

 

 失礼とも取られかねない素朴な質問だったが、この人相手に今更気を使うというのも変な話だ。散々俺の学生生活を引っ掻き回してくれてる訳だし、もう少し無遠慮に接していきたい。そう思い思ったままの事を聞いてみた訳だが、雪ノ下さんの解答は予想だにしていなかいものだった。

 

「いやー、今回の件で両親に絞られちゃって」

 

 あんたを叱るような人が居るとはな。平塚先生すら平気な顔して跳ね除けてみせた、俺からすれば怪物級のメンタルの持ち主である雪ノ下さん。それを黙らせる雪ノ下の両親ってのは、やっぱり雪ノ下さん以上の化物なんだろうか。

 

 俺の中で雪ノ下家の勝手なイメージが出来上がっていく。そういえば雪ノ下の家庭事情など全く知らないが、雪ノ下さんより更に恐ろしい大人が就くような職業と言ったら士業か政治家辺りしか思い浮かばない。

 

 そんでこの人が順当に親の背中を見て育った場合にゃ、絶対君主制でも復活しかねない勢いである。

 

「静ちゃんも居たとはいえ、学生の中では年長さんだったしね。それで暫く自宅謹慎を命じられちゃったから、しおらしい顔してお見舞いに行きますって言って抜け出して来ちゃった」

 

 いやいや、この人今俺を目の前にしてしれっとしおらしい顔してとか言ってくれてますけど。てへぺろっとやってみせる雪ノ下さんの顔には悪びれた様子など欠片も見られない。俺自身雪ノ下さんに何かされたとは思っていないのだが、それはそれで納得の行かないものが有る。

 

「両親も真っ青な顔してここに駆け込んできてさ。そりゃ娘2人揃って同じ男子学生を連続で失神させたなんて事聞いたら慌てるかー」

 

「字面だけ追ってくととんでもなくバイオレンスな感じですね。実際は雪ノ下さん殆ど関係ない訳ですが」

 

「えー、どうしてどうして? 私の打ったボールで気絶したわけじゃないの?」

 

 ずっと寝ていた俺には分からないが、雪ノ下さんの両親は大した醜態を演じたらしい。それが可笑しいと言いたげに雪ノ下さんは口角を持ち上げる。ぞっとするような冷気が唇の間から漏れるような、そんな笑みだ。雪ノ下と雪ノ下さんの事ですら頭が痛いというのに、この人は自分の両親にさえ何か思う所が有るらしい。是非他所でやって欲しい。そしたら5000円払って見物に行くから。

 

「ゲーム始まった段階でもだいぶグロッキーでしたからね。咄嗟に動いたらさーっと血の気が引いてボール食らう前に意識なんか大分なくなってましたよ」

 

 痛い思いも少なくて幸いというか何というか。これも俺の日頃の行いという奴だろうな。見ている人は見ていると。

 

「ふーん、そうなんだ」

 

 いつだかも聞いた気の無い返事。だが、あの時と違って面と向かって話しているせいか行動に伴う印象が違う。単に興味が無いというよりもこっちを観察しているような、目をこちらに向けていないのに凝視されているような感覚とでも言おうか、そういう印象を受ける。

 

「まあ、雪ノ下の事も特に恨みに思ってるとかじゃないんで。どっちかっていうと気がかりなのはこれから起こる色々ですかね」

 

「あははは、そこまで考えが至らないとは君もまだまだだねー。静ちゃんに普通に病院に連れて行ってもらえば良かったのに、あんな風になるまで我慢するんだもん」

 

 今回の1件で平塚先生と雪ノ下の両親には迷惑と心配をかけてしまう結果になった。両者純粋に俺の心配をしてる訳でもないだろうが、平塚先生にはお世話にもなっているというのに大変な不義理を働いた。登校したら頭を下げに行かなければ。

 

「でも残念。比企谷君ってば私の期待よりもずっとしょうもない人だったんだね」

 

「……ええ、期待して貰ってたとこ悪いですけど俺の自慢出来る所なんか小町が可愛い位ですからね。それ以外はてんで駄目、並以下の男です」

 

 見舞いに来たという割には毒気たっぷりの雪ノ下さんにいきなり罵られる。どう反応するか迷った結果雪ノ下にしてる様に謙って同意してみせると、雪ノ下相手にした時とは反対にその効果は芳しくなかった。雪ノ下さんがムッとした表情を作る。

 

「面白くないなー。そこは何か一つ位自慢できる所を挙げようよ。徹底的に否定してあげるのに」

 

「いや、それが本当にひとっつも無いんですよ。誰相手にしたって自慢できる所なんか。だってそうでしょ?」

 

「何が?」

 

「自慢てのは他人の事を知って、その上で自分が他人よりも上だと吹聴するための行為でしょ? でも、俺他人が何が出来て何が出来ないのか全然分かんないですし」

 

 流石に大抵の人間が歩く走る考える話す位の事が出来るのは知っているが、それ以外はあんまり。そもそも自慢したい相手もいないしな。

 

「何それ? 普通自慢する時そんな事考えないよ」

 

 雪ノ下さんはそこで一呼吸おいた。視線が俺から外れて明後日の方向を向いたまま雪ノ下さんは話を続けた。

 

「そっか、でも他人の事が分からないから自慢出来ないっていうのは少し面白いかも」

 

「何処がです?」

 

「その無関心ぷりがさ。だって多少一緒に居れば相手の大体の事なんか分かりそうだし、分かろうとするでしょ? なのに君ってば家族に対しても同じ事言いそう」

 

「自慢じゃないですが、家族の誕生日なんて1人も分からない薄情者ですよ俺は」

 

「お、比企谷君にも自慢出来ることが有った」

 

「良いじゃないですか、家族なんて単なる血の繋がった赤の他人でしょ?」

 

 息を呑む音が聞こえた。が、その発生源は俺じゃない。いつの間にか雪ノ下さんの瞳が俺を捉えていた。真っ直ぐ一直線に俺を見つめている雪ノ下さんの目はいつものような光にあふれたキラキラした目でも、薄暗い闇がこぼれる目でもない。一切の揺らぎを失い、意識の全てを奪われたかのように一心に俺を見る。

 

「何か変な事言いましたか?」

 

「そりゃ変だよ。なーに? 血の繋がった赤の他人て。そんなの聞いたこと無いよ」

 

 抑揚を失った平坦な声で雪ノ下さんが喋り始める。そんな調子の癖にその声自体は今まで聞いたことが無いほどに『重い』。未体験の普通に話していて正面から圧されるような感覚。

 

「そりゃそんだけ俺が薄情者で、そんな事を四六時中考えてるってだけの話です」

 

「そんな事言って、どうせ家族の事が大好きな癖にー。ツンデレかな?」

 

「馬鹿な事言わないで下さいって。まあ好きか嫌いかなら好きだとは思いますけど、だからって俺に他所様みたいに家族が大事に出来るかって言うと首を振らざるを得ないですね。両親共に俺よりも小町の方を可愛がるのが好きみたいですし、そういう意味じゃお互い様と言えるかもしれませんが」

 

 そればかりは自分にとっては幸いだ。ウチの親が小町にしているような事を俺にされた日には鬱陶しくて仕方がない。今のように猫を放し飼いにするようなスタンスを今後も貫いてくれることを祈ろう。かと言って両親の世話になっていない筈がないので、やっぱりこれは俺が厚顔無恥なせいなのだろう。

 

 しかし、先程から雪ノ下さんとの会話は多分殆ど見ず知らずの顔見知りとの話題にしては地味で詰まらないネタばかりだ。雪ノ下さんと俺はこんなだらだらとした会話を楽しむ友人の様な関係ではなかったと思ったが。

 

 俺が首を傾げてみせると。

 

「何か変な事が有った?」

 

 と尋ねて来た。普段なら人の心など難なく読んでみせる雪ノ下さんがこんな事を聞いてくるなんてな。本当に余裕を失っているか、それともまたこれも演技なのか。そんな事を病院のベッドに居ながら考えるのは馬鹿のやることだ。俺はもう雪ノ下さんのなすがまま、会話に臨む。

 

「俺と貴方がこんな世間話をしてる事が奇妙だと思いまして」

 

「世間話って、いっつもこんな話してたら友達いなくなっちゃうでしょ」

 

「あれ? 知らなかったんですか? 俺って友達居ないんですけど。少なくとも雪ノ下はそのつもりで俺に友達を作ってくれるらしいですよ」

 

 友達の作り方を教えてくれるんだっけか? まあどっちにせよ些細な違いだ。俺はそれ以前だからな。しかし、これは朗報か? あの日雪ノ下が部活で俺の家に来ていたことを突き止めていた雪ノ下さんが俺に関心を持っていたら、今頃俺の個人情報は丸裸にされている。俺がぼっちだという事を今初めて知ったのが本当だとしたら、この人は俺に興味が無いと言えるんじゃないだろうか。

 

 唯でさえ臆病な質の俺である。分かりきっている事でも安心できる材料は1つでも多い方が良い。

 

 現に雪ノ下さんの意識はここには居ない妹に注がれているようで、そこから飛び出す毒々しい言葉に似つかわしくないたおやかな唇で。

 

「へえー、雪乃ちゃんがお友達作りのお手伝いをねえ」

 

 などと感慨深げに呟いていた。

 

 このままその注意を雪ノ下に逸らしてしまおうと俺は話を続ける。逃げ場のないこの病室でいつまで居座るつもりかも定かでない雪ノ下さんに見据えられているのはやはり具合が悪い。

 

 くわばらくわばらと胸の内で呪文を唱えてから口を開いた。しかし、この場合は雪ノ下を避雷針代わりに差し出そうとしているので人身御供の方が近いな。

 

「今のところ目に見えた成果は挙がっていないことは今言った通りですけど。あの時は雪ノ下の奴が黙っていても人が寄って来るとか言ってて」

 

 どんだけ自信過剰なんだよ。そう続けようとした俺の言葉よりも早く、雪ノ下さんが言葉を継いだ。

 

「その通りになっちゃうんだよね。雪乃ちゃんだけじゃなくて私もなんだけど」

 

 そりゃそうだ。あの雪ノ下の周りに人垣が出来るなら、当然雪ノ下さんにも同じような物が出来るに違いない。

 

「でも雪乃ちゃんの方がマシかな。あの子、あんまり愛想よくないからね。時代めいた言葉で石姫(いわひめ)ってアダ名を付けた人が居たくらいだし」

 

 少なくとも小学生中学生のセンスじゃない。多分学校の先生か、雪ノ下さんの親の知り合いの誰かなんだろうが、普通愛想が悪いってだけの子供にそこまで言うかね?

 

「それにさ、私は父の名代なんかも努めたりするから大人の人も結構居てさ」

 

「お父さん、そんなに偉い人なんですか?」

 

「あれ? 比企谷君もしかして気づいてない? うちの父県議会議員やってるんだけど。卒業式にも出てた筈なんだけどなあ」

 

「卒業式なら寝てました」

 

 練習、予行、本番とどれ一つとして寝落ちしていない物がない。幸いな事に親切な隣席の男子生徒が起立する直前に起こしてくれるので先生に咎められる事も無かったが、その彼は今年はクラスが別れてしまった。今年は多分葉山辺りが隣に座ることになると思うのだが、彼は果たして目覚まし時計役を担ってくれるだろうか。

 

 まあ、そんな他所事はおいておいて雪ノ下さんの親が県議会議員をやっていて、学校行事にまで顔を出してくるというなら周囲の人間もそれを意識せざるを得ないだろう。まさかお偉いさんの子供だからという理由で人と親しくなろうなどという奴が現実に存在するとは思わなかったが、きっとそれなりの数が居たのだろう。おまけに雪ノ下さんは学校外でまで、今度は大人に囲まれるような経験をしてきたと。

 

 想像するだけでげっそりするような話だ。

 

「うへえ」

 

 思わず声にまで出してしまう程だ。それを見た雪ノ下さんが微かに相好を崩す。

 

「比企谷君はやっぱり私の期待には答えてくれないなあ」

 

「そりゃ自分の為に生きてますから何でもかんでも他人のお眼鏡には敵いませんよ」

 

 雪ノ下ならば『まるで貴方に幾らかは他人の眼鏡に適う所が有ると言っている風に聞こえるけれど、そんな所有ったかしら?」とか言われそうな場面だが、雪ノ下さんの場合その目がそっと細められた。だからなんでさっきから反応がクリティカルなんですかね。もっと戸塚に対してやったみたいなほわほわっとした対応をされたいよ俺も。そもそもこのシチュエーションで貴方が俺に期待していたリアクションてどんなだよ。

 

「基本的には外面は良くしておけと思っている俺ですら想像しただけで辟易しますよ。いつもお勤めお疲れ様です」

 

「比企谷君のそれは外面を良くしてるんじゃなくて単なる素でしょ、殆ど。でも、ありがと」

 

 頭を下げてみせると雪ノ下さんはいつもの調子に戻って鷹揚にそれに応える。今のところ怒ってはないみたいだが、他人の、特に女性の逆鱗など何処に有るのか皆目検討がつかない。びくびくとしながらもそうは見えぬよう気を張って会話を続けた。

 

「でもあれですね、大人に囲まれてるっていうんなら年頃の女の子なら嬉しかったり……しないか」

 

 しかし話題のチョイスが最悪すぎた。いや、おかしいぜ、流石に。女子相手なら恋バナこそ鉄板、雪ノ下さん程の美人ならそれこそ浮き名を流していてもおかしくなさそうな雰囲気だけに俺はこれなら安牌かと思って切ったのだから結果として地雷を踏んだというのが正しいか。兎に角一瞬にして全身鳥肌が立ち、雪ノ下さんの放つオーラが様変わりした。ひええええ。なんで? 年頃の女の子って年上の男性が好きとか、同年代の男子はガキっぽくて駄目とか言っているイメージなんだが。

 

「そういうのが無い訳じゃないけど、両親の知り合いなんて皆おじさんおばさんばっかりだから。たまに、子供を私に紹介する人もいるけど私の母がそういうの許さないからね。まだ、それこそ眼鏡に適う人が現れていないってだけだと思うけど」

 

「へえー、雪ノ下さんでもお母さんの言う事には逆らえないんですね。結構好き勝手やってそうに見えますけど」

 

「母は怖い人だからね。って、比企谷君ひどーい。私ってそんなに自分勝手に見える?」

 

 まるでそこら辺で交わされている会話のようだが、雪ノ下さんの声と表情の乖離が水と油のようである。試したことはないが、それをそのまま口に含んだら吐くほど不味いだろう。

 

 声だけ聞けば、雪ノ下さんは笑っているように聞こえるだろう。だが、顔の方は全く能面のように平坦で全く内心が読めない。そもそも雪ノ下さんの内面など覗き込んだこともないが、それにしたってこれは。

 

「好き勝手と自分勝手じゃ随分イメージ違いますよ。雪ノ下さんは……まあ、そうですね。周りに迷惑は掛けずにだけど自分の意見を押し通してるというか、自分の都合のいいように展開させてそうというか」

 

「いやいや、母の方が私よりずっと怖いからね」

 

 親子、あるいは親子ほど歳が離れていれば、この人の怖さもまた感じないという事か。それとも雪ノ下さんの言うように雪ノ下母が本当に怖い人なのか。今時自由恋愛も許されないなんて時代錯誤と思うが、偉い人達にとっては時代なんてものは無いのかもしれない。そもそも支配者層である彼らにとって時流というのは認識として常に自分の下にあるものであるからして。

 

「だから、雪乃ちゃんが一人暮らしを始めるって言った時も父を味方にしたとはいえ、結果としてそれを許された時もちょっと意外だったんだよね。まあ何より意外だったのは雪乃ちゃんがそこまで強硬な姿勢を取った事なんだけど」

 

 それはまた。雪ノ下さんですら逆らえない雪ノ下母に、雪ノ下さんにすら勝てない雪ノ下がそれを要求するのは大変な覚悟が要ることだろう。それとも案外雪ノ下さんのいない所では雪ノ下母は雪ノ下に甘いとか?

 

 しかし、雪ノ下家の人間関係に思いを馳せる前に気にかかった事を確認しておこう。

 

「あの、もしかして俺に愚痴ってません? さっきからさりげなく私可哀想とか、雪乃ちゃんずるいみたいなそんな風に聞こえるんですけど」

 

「あー、やっと分かってくれた?」

 

 今日初めての笑顔を浮かべる雪ノ下さん。それも俺が初めて見るような邪気のない笑顔だ。それが何故だかとても恐ろしい物の様に感じられるのは何も俺の錯覚ではないだろう。非常に失礼な物言いとなるのであくまで心の中に留めるが、この人が普通の人っぽいことしてると薄ら寒いというか、不気味というか。まあ雪ノ下さんも只の人間には違いないのでそういった面が有ることは想像はついていたが、それを受け止められる度量は俺にはない。

 

 困った俺は曖昧な笑顔を浮かべてご機嫌の雪ノ下さんと向き合った。

 

「やっと気付いてくれたね。露骨にそう仕向けてたのに反応が悪いからどうしようかと思ったよ」

 

 どうしよう、がどうしてくれように聞こえるような錯覚を覚えても、やはり雪ノ下さんは笑顔のまま。お。怒ってないんだよな?

 

 ベッドの上の俺はこれ以上雪ノ下さんとの間に距離を取ることも出来ず、かと言って大の男が布団に隠れるというのも恥ずかしく凶悪な(気がする)雪ノ下さんの視線に身を晒し続ける。緊張で体が震えたりしてるけど、ダイエットになったりしないかしら。

 

 目線を雪ノ下さんから逸らして狼狽えていると、雪ノ下さんが組んでいた足を下ろして上体をこちらに倒した。ベッドの正面の椅子からなのでさして距離が縮まった様な感覚はないが、シャツの胸元から除く鎖骨が強調される。

 

「で、どう思う?」

 

「どう思うとは?」

 

 質問の意図が上手く飲み込めない。どう思うとは何をどう思う事を指しているのか。単なる疑問なのか、それとも何かのテストなのか。この人との会話をしていると常に会話の裏に意識を取られすぎてこんな間抜けな事を考えだしてしまう。そんな事どっちだっていいのだから簡単に答えてしまえばいいものを。

 

「雪乃ちゃんを虐める私が雪乃ちゃんを羨んでいるという事。雪乃ちゃんの事を大好きだと語った私が雪乃ちゃんに嫉妬しているという事について」

 

「そんな事ですか。それに対して何を思えっていうんです? 勝手だとかふざけるなとか、雪ノ下可哀想とかです? いやー」

 

 肩を竦めて否定のポーズを取る。何か理由が有るにせよ確かに雪ノ下さんの雪ノ下への仕打ちは理不尽と言わざるをえないものだろう。だが、それは雪ノ下さんの境遇や心境にもっと通じた人間が判断出来ることで、俺じゃ彼女が何故そうするのか想像する程度しか出来ない。

 

「なるほど。まあ単純な愛憎による行為だとしたら相当ヤバイ人なので、それに比べたら万倍マシって所ですかね」

 

 近年問題視されていることだが、日本の政治家は世襲が多い。雪ノ下両親もそれに外れず娘にそれを引き継がせようとするなら雪ノ下さんは正に格好の標的という訳だ。親の名代でパーティなどに顔を出すなら顔繋ぎが目的と言えるだろうし、これに関しちゃそう的はずれな推測でもないだろう。

 

 政治家ってのは3つのバンが必要と言われている。地盤・看板・カバンだ。最後のカバンは金の意味だが要するに現地との結び付きと強固な血縁と資金力。これらは全て親から受け継ぐことが出来るものだし、最近じゃ4つ目のバンとして評判が加えられたらしいが、雪ノ下さん家はこの4つを兼ね備えた後継者を手に入れているわけだ。これだけ美人ならマスコミってもんが騒がない訳が無いからな。

 

 雪ノ下の家に生まれた事で、生まれながらに自由を奪われることが決まっている雪ノ下さん。支配的な母親。最終的に雪ノ下さんが政治家になる道を志す可能性も有るにせよ、束縛を嫌うような性質の人には耐えられないような事だ。だが、そんな彼女とて母親には逆らえない。とくれば身近にいる自分に憧憬を抱く自由な妹、これを標的に鬱憤を晴らすというのも考えられなくはないだろう。

 

 陳腐で詰まらないありきたり以上の感想を持てない状況だが、渦中に有る人物にとっては悲劇でしか無いだろう。雪ノ下さん然り、雪ノ下然り。

 

 しかし、本当に雪ノ下の家が権力に貪欲だというなら雪ノ下の将来も似たようなものだろう。これだけの美貌、将来性を秘めた雪ノ下さんはまだ結婚という道具を使う場面にない筈だ。それこそ下手に政治家として頭角を現す前に、別の政治家とくっついてしまえば家ごと飲み込まれる結果すら有るからだ。しかし、雪ノ下は、雪ノ下ならばそういった事を気にする必要がない。何せ政治家としての座は姉が継ぐのだ。妹である雪ノ下は他家との強力なコネクションとして十分に機能するだろう。

 

 雪ノ下さんがその事に気がついてないとは思えないが、そうなってくると雪ノ下への態度、その原因はまた単純な嫉妬とも言えなくなってくる。そもそも目的が別で、妹と自分の立場をそっくりそのまま入れ替えるのが目的か。いや、だとしても根本的な解決にはならないだろう。何せどちらにしろ家からの束縛からは逃れられない。

 

 あるいは、あるいはそもそも両親の目的が雪ノ下さんの躍進ではなく、雪ノ下さんを自分達の為の道具として扱うならば雪ノ下さんの結婚というのもあながち否定出来ない可能性を帯びてくる。

 

 子は親の心を実演する名優である。子は親の鏡という言葉が示す通りだとすれば雪ノ下姉妹の関係と歪みから両親の人間性も透けて見える。

 

 雪ノ下両親の年齢を大体50代だと推定すれば政治家としては油が乗り始めた時期と言えるだろう。何にしろ愉快な未来が見えない材料が揃いすぎていると言っても過言ではないだろう。

 

「それで、俺に可哀想って思ってもらって雪ノ下さんは何がしたかったんです? 言っときますけどその辺のボンクラ以下の私には何も出来るとは思えないですけど」

 

 謙ってみせる事で興味を逸らそうとするというよりは冷静な自己評価を述べたつもりだったのだが、雪ノ下さんは却って目を輝かせた。

 

「何かしてくれようと思うことが重要なんだよ。流石に私もただの冷血人間とは組めないからね」

 

「組むってなんですか組むって」

 

「私と一緒に私の未来を勝ち取るために戦って」

 

 何処かのファンタジー小説並の台詞が雪ノ下さんの口から語られた。しかもその口調が間違っても懇願や哀訴の響きを持つものではなく、命令や要求の類だとは。何処までも自分勝手なお姉さんである。

 

 そして事ここに至って、雪ノ下さんは真面目以外の何者でもなかった。居住まいを正すでも、頭を下げるでもなく、しかしいつもの調子とも僅かに違い馴れ馴れしさを感じさせるような事もない。

 

 雪ノ下さんと俺の位置や姿勢は全く変わっていないのに、ぐっとこちらに乗り出してきたような距離感が近くなった錯覚を覚える。

 

 が、誰に頼まれようと、どんな事情があろうとも俺が雪ノ下さんの為に何かをする理由にはならないだろう。とっとと、とっととお帰り願おうと俺は雪ノ下さんを突き放すことにした。

 

「……」

 

 そう心で決めたというのに、俺はどんな言葉を口にすべきか決めかねていた。嫌です、とそう一言言えば済みそうな話なのだが、どうにも俺にはそれが出来そうにない。そんな言葉を発声しようとする発想すら生まれてこないのだ。

 

 あるいは口を動かせば自然と言葉が出て来ることを期待してみたが、なんてことはない阿呆みたいに口を開閉しただけに終止してしまう。

 

 この怪現象は一体? 雪ノ下さんが妖術を体得していたとでも言うのだろうかと現実から目を逸らすのも止める。

 

 認めよう。俺は最初からそんなつもりなどないのだと。

 

「うんうん、比企谷君が優しい男の子でお姉さん嬉しいよ」

 

 満足気に頷いてみせる雪ノ下さんにはこうなることはとっくにお見通しだったという訳だ。それにしたってもう少し殊勝な態度を取ってみせて欲しい物だが、雪ノ下さんを屈服させて遊ぶなんて、腹を空かしたライオンの檻に生肉をぶらさげた腕を差しこむような遊びに講じる勇気は俺にはない。素直に諦めておこう。

 

「でも、優しいだけの男の子だから今までぼっちだったんだろうね」

 

「他人の口から俺の分析なんて聞かされるのはゴメンですって。俺が単なるコウモリ野郎だってのは割りと自覚も有りますし」

 

 そしてこの人が折角協力関係を築いた相手を握手しながら虐げる性癖だという事にも目を瞑ろう。本当俺、こんな人とこれからも上手くやっていけるのだろうか。

 

 普通の笑顔を浮かべ続ける雪ノ下さんにふと疑問を思いつく。

 

「そんな風に俺を頼ってもらえるのは嬉しいんですが今までにも助けてくれそうな人なら幾らでも居たでしょう? なんでその人達に頼らなかったんです?」

 

「ああ、それ?」

 

 そんな事? とまるでごく簡単な問題の解法を問われた時のような顔をする雪ノ下さん。ちらっと悪魔のような舌先が悪戯そうに顔を見せる。

 

 ちなみに俺は常々後悔先に立たずって言葉の意味を噛み締めてる。間が悪いんだか、俺の頭が悪いんだか、兎に角日に1度は必ずああ、あんな事しなければ良かったと思うようなことをやってしまうからなのだが。この日最高の後悔先に立たずは間違いなくこの一言だったと断言できる。ああ、俺って本当に馬鹿。

 

 雪ノ下さんは太陽の光を反射してるんじゃないかって程素敵に目を輝かせながらこういった。

 

「そんなの居るわけないじゃない。だって、私や雪乃ちゃんを見て眼の色を変えない、可哀想な雪乃ちゃんに同情しなかったり私の雪乃ちゃんへの態度を知って怒らない、私の母相手にしてまともに口を聞けそうな抜けてる所が有って、尚且つ私に協力してくれそうな馬鹿にお人好しな人なんてそうそう見つかりっこないよ」

 

 えー、順に男としてどうかしてる。冷酷非情、礼儀知らず、馬鹿と翻訳すればよろしいんでしょうか? そう尋ねるのだけは踏み留まった俺グッジョブ。いや、もう既に散々地雷を踏み荒らした後ではあるが。

 

 まあ、どれだけ俺が貶されていようと雪ノ下さんが嬉しそうなのだし別にいいだろ。そう納得しようとする俺のベッドに、雪ノ下さんが近づいてきて腰掛ける。

 

 ウブなねんねじゃあるまいしその程度の事で驚く俺でもなかったが、雪ノ下さんが態々近づいてきた事には首を傾げた。

 

 普通交渉事なんかの時には相手と距離を開けずに座ったほうが親近感やプレッシャーを感じさせやすかったりで成功率が高いと言うが、もうその段階は終わっているというのに今更になって接近してくるのは。

 

 これもまた俺の悪い癖の1つだろう。危険が迫っている時や、逆にチャンスを物に出来そうな時怖気づいて考え込み始めてしまう癖。これもまた幾度と無く反省を促しているのだが俺の鈍さというのは筋金入りらしい。

 

「……っ!?」

 

 コンビニでの接近を遥かに上回るお互いのまつげが触れ合う程の距離感に雪ノ下さんの顔が。

 

 ばかばかしいと思うかも知れないが、その状態で俺は雪ノ下さんにこれほど近づかれているというのに俺自身全くドキドキしない事に驚いていた。そのせいで眼球よりももっと下、先程まで吐き出す事ばかりを考えていた器官からねっとりと生暖かく甘い匂いを発するが流れ込んでいる事に気が付くのが遅れてしまった。

 

 直ぐ様方を押し退ければまだ脱出の余地が有ったのかもしれない。が、時既に遅く、俺が呆然としているのをみるや逆に雪ノ下さんが俺の方を押しており、気づいた時には俺は病院のベッドに押し倒されたばかりか体の上に雪ノ下さんが乗っかっているという異常な事態に直面していた。

 

 慌てて首を捻って唇を逃がそうと試みるも、これもまたいつの間にか頭をガッチリと抑えこまれて身動ぎ1つ出来ない。

 

 そうして退路も進路も塞がれ、最早乙女のように抵抗することすら許されない俺は大人しく時が過ぎるのを待つことにしたのだった。

 

 そうして待つ間、下らない事だが雪ノ下さんについて分かった事が幾つか。

 

 まず、雪ノ下さんは恐ろしく軽いという事だ。身長自体がそもそも女子の平均よりもやや大きめの彼女は何処とは言わないが体の一部が平均を大きく逸脱していたり、あれだけの運動を支えるだけの筋肉を持っている筈なのだが俺の体が感じる圧迫感は人1人が乗っかっているとは到底考えられない程度だ。そもそも女子の重さなんて実感した事もデータとしても知りはしませんが。

 

 次に、雪ノ下さんは甘い匂いがするという事。鼻先まで近づかなくとも女性って生き物ははっきりと分かる程匂いを発しているものだ。シャンプーの匂いだったり、香水の匂いだったり。だが、今初めて知った事だが、女性そのものが持つ体臭というのはそれらよりもずっと、ずっと強く香る。それも雪ノ下さんの人間性を裏切る爽やかで温かみを持った匂いだ。男とは違う種類の人間臭さ。今まで嗅いだことの有るどんな匂いよりも鼻腔を刺激する芳香。安らぎと落ち着かない気持ちをブレンドしたような。

 

 後はそうだな。雪ノ下さんが思いの外頼りない体格をしている事。倒れ際何かに掴まろうと反射的に雪ノ下さんの背中に手を回したが、その感触が思ったよりもずっと頼りない。勿論雪ノ下さんが非常識な程に痩せすぎているという事もないだろうし、これが世間一般の女性の感触という物なのだろう。それがあまりにも予想とかけ離れていたがために、一瞬雪ノ下さんが非現実的な存在の様にすら感じられてしまう。俺はそのまま雪ノ下さんの体を抱き寄せようとする両腕を制止する為に神経の何割かを割かなければならなかった。

 

 いかんいかん、これは童貞こじらせ過ぎだろう。幾ら経験が無いからといって女性の体に触れただけで色々と想像し過ぎである。世の男性は女性に幻想を抱き過ぎと言われる事も有るだろうが、まさか俺は現実すらまともに受け止められないとはな。もう3次元を捨てて2次元に走るしか。ところでパンさんて性別はなんなんだろうか。あのロックな格好からして順当にオスなのか。それともクマ科らしく気性が荒そうな風貌からしてメスなのか。うーん、謎だ。

 

 そして唇同士を触れ合わせたまま数十秒、何の準備もなしに息を止めれば苦しくもなってくる。鼻で息をすればよいという向きも有るだろうが、考えてみて欲しい。目の前の美女の顔面に俺の鼻息など掛けられるだろうか。うん、無理だ。

 

 その状態は身動きも呼吸も出来ず、俺が意地のあまりそのまま昇天しかける寸前になるまで続いた。

 




書いてたらまたしても膨らみすぎる。
大体テニスの話が始まってからが長すぎである。

でも大丈夫。今日中に後半も上げるから。そしたら長すぎるけど形式上2話に分けただけになるから次こそラストは嘘にならない。


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第16話

「ぷはあ」

 

 と俺同様に息を止めていたのか雪ノ下さんが勢い良く息を吸い込みながら俺から離れる。俺もそれに続く形で呼吸を再開。どうにか事なきを得る。キス中に息が出来なくなり死亡とか伝説を残さずに済んで本当に良かった。

 

 そう荒い息と共に胸を撫で下ろしていると、その手に雪ノ下さんの手が重ねられた。俺の指よりも細いそれが、それぞれの指に絡みついていく。そのえも言われぬ感触ときたら、俺はそれが麻薬だと言われても納得しそうな心地になった。

 

「触れてるだけなのに結構気持ちいいんだね」

 

「心臓が止まりそうになるのでこういうの勘弁してもらっても良いですかね」

 

「えー、私のファーストキスを奪った感想がそれ?」

 

 拗ねたように言ってみせる雪ノ下さんだが突っ込みどころが有り過ぎる。てかファーストキスだったのかよ。全く恥じらいとか躊躇とか見えなかったし、おまけに今だって照れた様子すらないじゃねえか。こんなのがファーストキスなんて絶対詐欺だ。

 

 雪ノ下さんはそのまま俺の上からどけばいいものを、上体を起こしはしたものの俺の体を跨いで腰を下ろした。こ、これじゃベッドから這い出して逃げることも出来ん。更なる暴虐の嵐が吹き荒れる予感に俺のこめかみをを冷や汗が伝う。

 

 不幸が起こるときには連続して起こるものである。特に不注意で起こるタイプは正にそう。自己成就的予言とも言えるこの手の予感はなんだかんだ外れた事がないのに、そんな事を思ったりもした。これ以上の失態とは何が有るだろうか。

 

「大体今のはなんですか? こんな事して俺が貴方のいいなりになるとでも思ってるんですか?」

 

「んーん。こんな事しなくても君は私のお願いを断ったりしないと思ってるよ。それに今のはご褒美」

 

「何に対するご褒美ですか。キスなんて恐れ多くてあまり受け取りたい類のものじゃないですが」

 

「そりゃ勿論雪乃ちゃんを裏切る事に対しての」

 

 言いにくそうな事をはっきりと仰る雪ノ下さん。そういうのはもっとオブラートに包んで欲しいと思っても、この人の悪意ならそのオブラートにも大穴を開けそうだと1人納得する。

 

 それにしたって雪ノ下を裏切るとは穏やかじゃない。人を虐めるのが嫌いとは言わないが、相手くらい自分で選びたいものである。だもんでそういうお願いは誰のどんなお願いであろうとお引き受け出来かねますが。

 

「心配しなくても雪乃ちゃんを虐めてなんてお願いしないよ。でも、ここまで私が白状してるのに私のお願いを聞いてたら、それって立派な雪乃ちゃんに対する裏切りだと思わない?」

 

「俺に関与しようがなかった虐めが、俺が関与できる虐めになるって話でしょう? それに俺があいつの庇い立てをする義理もありませんし」

 

 何より、この人の雪ノ下へのスタンスを改めさせるなら雪ノ下をどうこうするよりはこの人へアプローチした方が手っ取り早そうだ。雪ノ下の暴力沙汰など耳にした事はないが、昨日雪ノ下さんに関してデリカシー皆無の話を振っただけであの反応。間違いなく雪ノ下から雪ノ下さんへの意識も尋常なものではないだろう。

 

 トラウマの治療に付き合ってやる義理など、それだけは間違いなく無いのだ。

 

「って、いつの間にか俺がお願いを聞く前提に」

 

「だって君、断れないでしょ?」

 

 そう言うや否や、雪ノ下さんの顔が、晴天の空のような晴れ晴れとしたそれが曇る。伏し目になり、唇が耐え難い物を耐えているとでも言いたげに真一文字に引き結ばれる。偶然にも太陽に雲がかかって俄に日が陰る。誤解しようのない落ち込んでいる表情を作ってみせたのだ。

 

 それが作りものである事なんて百も承知だし、きっと雪ノ下さんが俺がそう思うことだって知っていると俺は知っている。

 

 それでも反射的に俺の手は動いてしまう。雪ノ下さんに手を差し伸べようと。

 

「うんうん、やっぱり君は『優しい』ね」

 

 動かしたのは雪ノ下さんに握られていない方の手だった筈だが、そう言った雪ノ下さんによっていつの間にか捉えられている。マウントポジションで両手を塞がれている格好になったのだ。

 

 最早どんな抵抗も無駄と悟る。いや、そう悟らされたのか。またの名を諦念という。

 

 俺は腕の力を抜いてやけになったこういった。

 

「分かりました。俺の気が乗る範囲で雪ノ下さんのお手伝い、させて貰いますよ」

 

「そう嫌そうな顔をしないでって。代わりにお姉さんが比企谷君の悩みも解決してあげるから」

 

 正に頭痛の種が何をと思わないでもなかったが、雪ノ下さんの言葉には茶化すような調子がない。

 

 天井を見上げる格好の俺の視界に雪ノ下さんが乗り出してきて、真っ直ぐに俺を見下ろしながら言った。

 

「それじゃ、ご褒美の前払いを」

 

 今度も近づいてくる唇を見逃すほど俺は間抜けではなかった。このような状況でも実はまだ反抗の手段は残されている。彼我のウェイトの差、これを利用するのだ。

 

 俺の腹部に乗っている雪ノ下さんの顔が俺に接近するということは、当然重心は前へ移動する。膝の辺りに軽く力を入れてみると、よし雪ノ下さんの体が持ち上がった。それを確認すると俺は間髪をいれずに更なる力を脚に込めた。

 

「おっ?」

 

 驚きの声を上げる雪ノ下さんを他所に、そのまま腹筋や背筋、首にある僧帽筋に力を入れて全力で反り返る。一般にブリッジと呼ばれる運動を行おうというのだ。ここまでの感覚からも言って雪ノ下さんの体は問題なく持ち上がるだろう。そうしたら前傾気味に倒れる雪ノ下さんの体をベッドから転げ落ちないよう補助しながら自分は股の間から抜け出せばいい。或いは雰囲気さえぶち壊しに出来れば相手も諦めるに違いない。驚き硬直した女性相手ならその程度の事は出来るとも自負している。

 

 勝利を確信した俺は、驚いた表情の雪ノ下さんを見上げながら心の中で勝利宣言をする。

 

 そう簡単に何度も唇を許すほど童貞を甘く見るなと。

 

「よっと」

 

 そう雪ノ下さんが言うと同時にふっと腹の上から重みがなくなった。膝で立つことによって姿勢を制御しようというのだろう。だが、如何に雪ノ下さんの脚が長かろうとも俺の体をまたいだ上で何十センチも余裕が有る訳じゃあるまい。更に。

 

「うおおおっ!?」

 

 と高さを出そうと踏ん張った瞬間。何かが俺の脚に絡みついて曲がっていた脚を強制的に伸ばした。いや、これは脚を払われたのだ。

 

 衝撃とともにベッドに着地する俺の体と混乱する俺。そのどちらにもこの段階で言えた事は、上には上がいるという事だ。

 

「いやー、小癪だねえ比企谷君。それに愚かだよ。この程度で私の事をどうにか出来るつもりだなんてさ」

 

 先程とは真逆に勝利を確信した雪ノ下さんが微笑んだ。嗜虐的な輝きを宿した瞳と下弦の月を思わせる唇に悪寒が走った。

 

 駄目だこのままでは人間としての尊厳まで奪われる。そう予感した俺は、そう判断して本当に本当の最後の手段に出た。この際地獄に落ちるのが数刻遅れるだけでも構わない。

 

「だれ」

 

 叫ぼうとした矢先口を塞がれた。お陰で途中からくぐもった音が雪ノ下さんの指の間から漏れるだけで、人を呼ぶことが出来ない。くそっ、昼間とはいえ声さえ廊下まで届けば通行人位居るだろうに。それに普通ここまでやったら離れる位はするだろうに、どうしてこの人はここまで頑ななんだ。

 

「しっ、静かに。じゃないとそれはもう人に言えないようなあんな事やこんな事をしちゃうけど」

 

 冗談めかしちゃいるが、嘘ではない。避けようとしていた筈の雪ノ下さんの顔が口吻も出来る距離まで近づいてそう告げた。

 

 思春期の男子高校生の期待に答えてエロい事をしてくれるなら万々歳だが、この人の事だからマジで人に言えないようなことをされそうだ。俺のような口の軽い人間がこの歳で墓まで持っていく秘密を抱えるというのもしんどい。

 

 とうとう心の底から白旗を揚げた俺は、目配せと頷きで雪ノ下さんの要求に従う事を伝えた。

 

 それを信じたかは分からないが雪ノ下さんも俺に微笑を浮かべて答えた。あっさりと手製の口枷は外されたが二度目はないと思った方がいい。叫び声の代わりに冗談を1つ。

 

「とても女性から男に対する脅迫とは思えない文句ですね。普通こういうのって男女逆なんじゃ」

 

「あら? 比企谷君がお姉さんにこういう事してくれるっていうんなら大人しく組み伏せられるけど」

 

「その前に姉さんは警察に出頭すべきよ。知っているかしら? 日本の法律では女性には強姦罪は適用されないけれど、強制わいせつ罪は適用されるのよ」

 

 気が付くと、病室の入り口に雪ノ下が立っていた。学校の制服を来てスクールバッグも肩に掛けている。その割にまだ放課後でもなさそうなこの時間にここにいることには疑問を覚えるが、今はそんな事はどうでもいいだろう。俺の救いを求める心の声が神に聞き届けられたのだから。

 

「雪乃ちゃん。遅かったね。もう来ないかと思ってたのに」

 

「あのー、俺の腹の上で話を続けようとする止めて貰っていいですか?」

 

 そのまま、何事も無かったかのように会話を続けようとする雪ノ下さんに突っ込む。もう、ここ数十分の間に雪ノ下さんの人間像がぼろぼろである。てか雪ノ下もこの状態の姉を見て驚くとかなんかないのかよ。

 

「そんな訳ないでしょう。見た瞬間軽く気を失ったわ」

 

「疑問に答えてくれてありがとう雪ノ下。でも俺の心の中を読むのは止めて欲しい」

 

「貴方の心の中なんて例え読心術を身につけていたって見ようと思わないわ。それに貴方程度の考えなんて顔を見れば大体分かるわ」

 

 恐ろしい洞察力だ。それなら大変結構な事だが、雪ノ下さんだけでなく俺まで汚物を見るような目で見られているのは何故だ。

 

「だらしなく伸びた鼻の下を見れば分かるわ。全く、これだから童貞は」

 

 やれやれと首を振る雪ノ下だが、それはもう男が背負った原罪のようなものだ。それを咎立するのはむしろ人として狭量とさえ言えるだろう。それを表すかのように雪ノ下の懐が浅いというか小さいのも納得出来る。これだから貧乳は。

 

「比企谷君? 私今から帰ってもいいのだけど」

 

 全く同じ仕草を返した俺にミラーリング効果とやらで好感を抱く筈の雪ノ下が刃物のように鋭い視線を向けてそう脅してきた。いやだなあ、冗談じゃないですか。

 

「ぶーぶー、お姉ちゃんを置いてけぼりにして2人で仲良くするなんてズルいぞー」

 

 雪ノ下さんが口を尖らせてブーイングをするが、全世界にこれが『直前まで妹を妹の友人を抱き込んで虐めようとしていた姉が白々しい台詞を吐く瞬間』として発表したい。

 

 が、雪ノ下が来たことで漸く雪ノ下さんも気が変わったのかスルスルとベッドから降りて元居た椅子の上へと戻っていった。

 

 俺はというと乱れた掛け布団を払いのけ、ベッドの下からスリッパを見つけ出すとそれを履いて丁度雪ノ下を間に挟むようにして雪ノ下さんと距離を取った。ぶっちゃけ雪ノ下を盾にした。

 

 雪ノ下は眉間を揉みながら溜息を1つ吐いた。

 

「比企谷君、貴方には女性を盾にするという事に倫理的抵抗を感じたりしないのかしら?」

 

 気のせいか雪ノ下のこめかみには青筋が浮いている。なんだ? 何故俺が怒られる。

 

「俺はフェミニストなんだ。だから俺より腕っ節の立つお前を女性だからという理由で理不尽にその実力を発揮する機会を奪いたくないんだ」

 

「そうね、私もたった今比企谷君に私の実力を……」

 

 雪ノ下の言葉が尻切れトンボになる。原因は不明だが、視界の端で雪ノ下さんが楽しそうに笑っている。雪ノ下さんが楽しそうなのが妙に癪に障った。

 

 私の実力をどうしたいのか。台詞の続きを待ってみても雪ノ下は所在なさ気に視線を動かしたり、俺の目を見ては怯えるようにして目を逸らした。

 

 いつだかの由比ヶ浜とそっくりである。鬱陶しいこと甚だしい。 

 

「雪乃ちゃんは比企谷君に謝りに来たんじゃないの?」

 

 横合いからちょっかいを掛ける雪ノ下さん。正直その気持ちは痛いほどよく分かる。俺だって昨日の今日でなかったら謝れコールで場を凍らせてる所だからな。

 

 しかしなんだ。人目の有る所で謝罪というのもやり難かろう。

 

「あー、なんだったら俺は席を外すか?」

 

 小粋なジョークのつもりだったのに姉妹揃って射殺さんばかりに睨まれた。

 

 本当に面倒くさい奴らだ。

 

 立ち尽くす雪ノ下を前にして脳内でカウントダウンを始める。何故ってそりゃこれからする事には心の準備が必要だからだ。

 

 息を吸って吐く間にゆっくりとカウントを進め、5つで動く。よし、よし、よし。やるぞ。

 

 バクンバクンとうるさい心臓の合間にワンツースリーフォー、5つ数えて雪ノ下の腕に狙いを定めて一直線に。

 

「比企谷君?」

 

 狙いは惜しくも逸れたが、それでも長袖のシャツの袖を掴んだ。俺って本当にヘタレと自重しながらも決して離さず、そのまま病室の外に釣れ出す。もうね、この段階で腕を振り払われやしないかと心臓ドッキドキです。明日は筋肉痛ですよ。

 

「行くぞ。取り敢えず逃げるんだ」

 

 雪ノ下さんが居たんじゃ雪ノ下との会話はままならない、そして格好の餌食を前にした雪ノ下さんはテコでも動かないだろう。ならば戦略的撤退しかない。

 

「急げ、追いかけられたら病院内で鬼ごっこだ。お説教が追加されたら堪らん」

 

 雪ノ下の反応を確認する事までは出来なかったが、手を引いてみても抵抗は感じなかった。それを了解のサインと受け取って俺は雪ノ下の袖を掴まえながら病室を後にした。

 

 雪ノ下さんが立ち上がったかどうかは分からない。あの人なら音1つなく椅子から立ち上がるくらい訳無いからだ。

 

 とはいえ、幸いな事にあの人ヒール履いてたからな。追いかけて走るにしろかなり苦労はするはずだ。おまけに今度病院内で俺と騒ぎを起こしたら親からも大目玉を食らうだろう。

 

 2分ほど掛けて何度も通路を曲がり、人通りがそれなりにある所で、人目が切れた瞬間を狙ってさりげなくリネン室に侵入。追跡者の気配を探ったが、足音は通り過ぎるだけでこの部屋の前で止まったりはしなかった。

 

 ラブコメ漫画よろしくいつまでも袖を掴んでいるような愚を犯す程俺は愚かじゃない。速やかに雪ノ下の長袖から手を離して逃避行の無事を喜んだ。

 

「最悪病院から出て行くしか無いと思ったけど、思いの外でかい病院で助かったぜ」

 

「昨日父が顔の効く病院に移したのよ。万が一にも騒ぎにならないようにって」

 

 罪悪感なんて物が目視可能ならば、今の雪ノ下の顔に付着してるのがそれだろう。はっきりとそう分かる顔をして相変わらず俯いている雪ノ下。口を聞いたからには完全復活してくれたものと期待したが、流石にそこまで単純でもないらしい。由比ヶ浜ならきっともう直前の事など忘れてあっけらかんと笑っているだろうに。

 

「ほう、流石地方議員。病院に顔が効くとか一般人のスケールじゃねえな」

 

「そうね。だから前の時だって」

 

 雪ノ下の口角が右側だけ持ち上がり皮肉な笑顔を形作る。気のせいか室内の湿度が増してくる辺り、こいつのその場の空気を作る能力はとんでもないレヴェルだ。

 

「待て待て、もうその件に関しちゃ決着が着いただろうが。俺が蒸し返すなら兎も角、お前がそんな事口にしてどうする」

 

 虐めてオーラを発する生物ユキノシタを前にして、俺は脊髄の辺りで何かがウズウズと蠢くのを感じながらもユキノシタを慰める。あ、但しこれ俺基準だから。相手がどう受け止めるかとか全くワカンネ。

 

 大体こいつボッチの癖に孤高の存在として学校中にその名が知られていた割に本当に豆腐メンタルというか紙装甲というか。紙しか纏ってない女子高生とかなにそれ最高だな。

 

「で、お前何しに来たの? まだ学校終わって無くね?」

 

 受付前を通った時に確認しておいたが時刻は昼過ぎ、学校の昼休みも半ばを過ぎた辺りだった。学校を抜け出してお見舞いに来るなんて、いつの間に雪ノ下にフラグを立てたのか心配になる行動である。

 

「それは……」

 

 また黙りかよ。こういう時人はどんな風に言われても追い込みを掛けられているようにしか感じない。俺がそうなんだから全人類的にきっとそう。葉山の様なリア充オブリア充ならばここで笑顔の1つでも浮かべて緊張を解すのかもしれない。俺に出来ることなんか薄気味悪いニヤけ顔を作る位だ。いやん、もっと湿っぽい空気になりそう。

 

 はっぱが必要だ。誤解するなよ。ヤバイ葉っぱの事じゃない。発破だ。この場の雰囲気全てをぶち壊しにするもの。そう俺だ。

 

「お前は俺に一体何を期待してるんだろうな?」

 

「え?」

 

「俺みたいな根暗で引っ込み思案で事なかれ主義のザ・モブ相手にこんな所で2人きりで押し黙るとか、時間の無駄にしかなりませんよって言ってんの。モブってのは顔も名前も分からねえ、何の役にも立たないからモブってんだ。もうあれだ壁相手に話しかけた方がなんぼかマシってもんだ」

 

 やまびことか返ってくるかもしれないからな。でも俺じゃそれすら期待できない。もうね、相槌とか打つ前に相手の悪い点指摘しちゃうからね。おかげで女子とか敵ばっかよ。

 

 キツイ言い方になったが、姉もいない現状で多少はこいつの負けん気も復活したのか今度はきちんとリアクションが返ってくる。

 

「貴方が一般人だなんてぞっとしない世界ね。3日で世界が滅びる所が目に浮かぶわ」

 

 今すぐ核戦争が始まったって3日間は人類が存続しそうな事を考えると俺って核以上の影響力って事か。とても高評価貰ってんだな俺。

 

 それに会話が成立すればオールオッケー。しかし、毎度この調子だと俺の貧困なボキャブラリーが直ぐに枯渇しそう。てか既にしてる。

 

「まあ、お前がよくやってるのも分かるけどな。何回か話して思ったけどよくあの人と姉妹やってるな」

 

 あれの相手してたら仏陀じゃなくても悟り開きそうだ。そこいくとまだ生きてる雪ノ下とか仏陀以上。

 

「姉さんの事をそんな風にいう人初めて見たわ。大抵の人は褒めそやしてばかりいたのに」

 

「そりゃあのえげつねえとこ見てない人ばっかって事だろ。それとも何? あれを見てそんな事言うやついんの?」

 

 ブレインウォッシャーかよ。俺の目より先にこの世界の秩序の乱れを心配してしまう程。それとも何世の中筋金入りのドMばっかかよ。

 

「確かにそうね。姉さんが初対面から一貫して外面を使わない相手なんて初めて見たわ。貴方もしかして人じゃないのかしら?」

 

「もしかしたら神様かもしれない」

 

「少なくとも正気じゃないことだけは確かなようね」

 

 いつもと同じような会話の応酬が始まる。こうなって漸く一安心。やっぱり美少女と密室で2人きりとか精神衛生上よろしくないからね。だからさっきから心がチクチクするのは雪ノ下に対する殺意とかじゃない。

 

「俺が新世界の神になったら」

 

「日本では災いしか為さない神は調伏されるものなのよ」

 

 便所の神様とか多分そういう系統よね。虐げられた結果便所に押し込まれるとか何そのいじめられっ子。日本神道の時代からそれとかマジ現代のいじめっこも随分トラディショナルないじめやってんのな。温故知新て奴か。

 

 さて、ここからが問題だ。雪ノ下がまともになったのは良いが話をさせるにはどうしたら良いか。

 

 リネン室ってのは大概ちょっと薄暗い。ご多分に漏れずこの部屋もそうなのだが、そこに居る雪ノ下は思いの外違和感が無い。このリネン室特有の物置感というか、うらぶれた感じが奉仕部っぽく感じられるからだろう。そんな所でしか生育できない植物を外に連れ出す方法なんて俺は知らない。

 

 雪ノ下が組んだ腕は己を抱きしめる抱擁か、それとも外界を拒絶する鎧か。

 

 他人との距離感が上手く取れないこいつと、何もかもお構いなしの俺とじゃ相性が悪すぎる。そんな事初めて会った時から一目瞭然だったのに、こうも居心地が良かったから長く一処に留まりすぎたのかもしれない。

 

「悪かったな」

 

「……何のことかしら?」

 

 俺は雪ノ下さんみたいに雪ノ下に思うところなどない。こいつが強くなれば良いとか、弱くなったら嫌だとかそんな事はどうでもいい。こいつの喜怒哀楽も性格も知っちゃこっちゃない。

 

 結局の所俺には友達を作る資格すら無かったのだ。誰一人他人を気に掛けない俺になどそもそも友達を作ろうとすら思えない俺になど。

 

 だからこれは俺からの精一杯の恩返しである。こんな俺にすら友達を作ると約束をした馬鹿な女への。

 

「昨日の事だ。お前を怒らせるような事を言ったろ。誓って言うが態と怒らせるような事を言った訳じゃないぞ。あれは素だ」

 

 雪ノ下の肩が震える。

 

 やはり雪ノ下さんの言った通りなのか。当たり前といえば当たり前だが、俺相手なら不要だとも思う。そもそも人に頭を下げられるような存在じゃないからな俺は。

 

 そんな俺の事は置いておいて中々話を切り出せなかった雪ノ下としては驚きと共に気不味さを覚えたことだろう。客観的に見て罪の大小は明らかだ。それに世間様でも言われている事だ、どんな事が有っても手を出したら負けだと。

 

「べ、弁明になっていないわよ比企谷君。普通ならそういう時態とやったと言う所じゃないかしら?」

 

 動揺が簡単に現れる。これじゃあ駄目だ。

 

「お前に好かれようとは思ってないからな。それとその後お前にテニスをやらせたのは単なる思いつきだ。何か考えが有っての事じゃないぞ」

 

 本当はこれは嘘だ。余りにも的確に雪ノ下の急所を抉ったあの一言こそ完全に天然だったが、ああされた時には既に思いついていたのだ。そして我慢の限界だった。

 

「待ってちょうだい。貴方何を言っているの?」

 

 こんな薄暗い部屋でも明かりを点けなくても分かるほど顔を青褪めさせた雪ノ下が顔を上げる。いつもの自信と冷気を湛えた瞳からは想像も出来ないほど頼りなく揺れる瞳には、もうなけなしの怒りが一滴しか残っていない。

 

 それでもお前は戦わなきゃいけない。俺はもう諦めるが、お前はきっと諦めてはいないから。

 

 あの時ああ言った時から俺はお前がその言葉を実現するのを心の何処かで期待しているから。

 

「何って、別にお前に昨日の事を謝っただけだ。あれは俺が悪かった。もうこれで良いだろ。戻るぞ」

 

 そう言ってドアに手をかける。俺の病室が何号室だったかも、そこまでの道筋も覚えてないが受付に聞きゃ分かるだろ。楽観は得意だ。時々失敗もするが上手くいくこともある。

 

 だが、ドアに掛けた手はドアを開くことは無かった。雪ノ下の手がそれを妨げたからだ。俺の直ぐ側に居た雪ノ下が俺の来ていた服の袖を摘んでいる。

 

「姉さんと何を話したの?」

 

「お前には関係ねえよ。言いたかった事はそれだけか?」

 

「……いいえ、違うわ」

 

 まるで力の篭っていない雪ノ下の手は、その気になれば簡単に振り払えるものだったが俺はその手を振り払わなかった。背中を向けた先の雪ノ下とその朧気な繋がりだけが俺を繋いでいる。それは申し訳ないことに彼女からの歩み寄りが有っての物だったが、贅沢は言ってられない。何せ俺だからな。

 

 室内に大袈裟な呼吸音が響く。深呼吸でもしてるのだろう。即断即決など強者にしか出来ない行為だ。俺や雪ノ下の様な弱者には怯えながら一歩ずつ確かめながら歩いて行く道しかない。だから俺は雪ノ下を笑わない。こいつは歩いていける人間だから。

 

「……ごめんなさい」

 

 その一言言うのにどんだけ迷ったんだか。もしかしたらこいつは人生で一度も謝った事が無いんじゃないかと思ってしまうほど、苦々しげに呟かれたそれは、しかしどう取り繕った所で唯の謝罪だった。

 

「貴方の言った通り、私は姉さんに友達を奪われ続けてきた。私より綺麗で、私よりずっと快活で、私より頭が良くて、私より優しくて、私よりなんだって上手く出来た姉さん」

 

 所々つっかえながらも、もう雪ノ下は口を噤まない。決壊したダムの様に溜まったそれを受け止めるのは蟻の一穴を開けた俺の責任だろう。ヘドロの中に鬱積した口触りの悪い何かを、それでも吐き出し続ける雪ノ下の話をただ黙って聞き続ける。

 

「姉さんが居れば、どんな場面でも姉さんが主役だった。姉さんが居れば、もう私は要らなかった。勉強も、ドッジボールもサッカーも、縄跳びやバスケットボールでも何をしていても姉さんに奪われた。私なりに努力して上達を図ったけど、それでも姉さんには敵わなくて。姉さんがいない所ならって頑張ったけれど今度は私自身がやり方を間違えた」

 

 集団にはトップが必要だが、それは1人で十分だ。雪ノ下さんが常にトップで居続けたなら、彼女がどんな人だって惹きつけるならば、彼女はその数だけ敵対する集団のトップを吸収していった筈だ。それが屈従なのか恭順なのかは別として。それを手本に出来るほど雪ノ下が器用だっただろうか。答えは多分ノーだ。そしてこいつ自身のやり方にしろ、今のこいつを見てる限り上手い方法じゃなかったのだろう。

 

 だから。

 

「孤立したわ」

 

 雪ノ下に掴まれた袖が小刻みに揺れている。雪ノ下の声も。

 

「姉さんから友人を取り戻そうと躍起になればなるほど私は失敗した。そして私は私の友人だった人とも衝突した。姉さんに盗られたのが悔しくて、姉さんを慕うあの人達が憎くて仕方なかったから。別に誰彼構わず好かれたかった訳じゃない。私が可愛いからって近づいてきた人達なんかどうでも良かった。私は私の友達が欲しかったから」

 

 これは傷だ。雪ノ下の心の傷。触れただけで開いて出血するようなまだ癒えていない傷。見ているだけで、思い出すだけで身を切られるような痛みを思い出す傷。それに今雪ノ下自身が触れている。

 

 痛くない訳が無い。望んだわけでもなく、赤の他人のこの俺が無思慮に踏みつけて出血させた。今だってその傷を塞ぎ切れず、雪ノ下の心は血を流し続けている。

 

「姉さんは凄い人よ。母さんだって父さんだって姉さんには期待してる。……でも、私がいくら姉さんに近づこうとしても姉さんは私を受け入れてくれなかった」

 

 そしてここがこの姉妹の行き違いだ。雪ノ下は雪ノ下さんを羨んで後を追い、雪ノ下さんは雪ノ下を妬んで突き放した。どうしようもなくすれ違っていて、どうしようもなくお互いに一方通行だ。

 

「こうやって私がひとりぼっちになって、姉さんは殆どちょっかいを掛けてこなくなったわ。でも、でも……。奉仕部に貴方が来て、由比ヶ浜さんが来て、いつの間にかまた姉さんが。姉さんがまたテニスをやるって言ったの。小学校の頃、私の友達の前で言ったみたいに。だから怖くなった。あんな風に私や由比ヶ浜さんに接しておきながら、また姐さんは私から由比ヶ浜さんや、……貴方を奪っていくんじゃないかって」

 

 何だか全身が痒くなるような話を聞いてしまった。素直に光栄だと思っておくつもりだが、やっぱりこういうのはどうにもな。

 

「貴方に言われた時、昔の事が頭を過ぎったの。それで頭が真っ白になって、貴方が姉さんに盗られた気がした。そしたら」

 

「カッとなってぶん殴ったか。なんだ単に腹立ち紛れに殴られたのかと思ったら随分上等な理由で殴られてたんだな俺」

 

「ごめんなさい」

 

 二度目のそれは一度目に比べてはっきりとした響きだった。ふっと空気が揺らいで、振り返ると雪ノ下が頭を下げていた。腰まで長い髪の毛が重力に負けて雪ノ下の頭から垂れ下がっている。謝罪の姿勢まで綺麗だってんだから本当にこいつらと来たら。俺はその長い黒髪が万が一にも床に触れやしないかと場違いな心配をしながら頭を下げる。

 

「許すよ。それに俺もごめん。無神経だった」

 

 女性に頭を下げられるという前代未聞の珍事件にうっかり土下座しそうになったのは俺だけの秘密だ。

 

「さっきお前に好かれようと思ってないつったけどな、俺はお前の事割りと好きだ」

 

「え? あ、あの比企谷君?」

 

 リノリウムの白い床に視線を落としながら告白する。

 

「世界を変えるなんて言ったお前があんな奉仕部の教室にしか居場所が無かったり、雪ノ下さん相手とはいえ手も脚も出さないままやられるの見てるとそうじゃねえだろって言いたくなったんだ。世界を変えるなんて土台無理な話だ。こてんぱんにやり返される事だって有るに決まってる。だけどそう言ったお前が、不覚にもちょっと凄えなと思わされたお前が戦いもしないまま終わるのは勝手な話だけど嫌だった」

 

 らしくもない話だ。

 

「期待してたって言うのかね。俺にゃどう頑張っても自分を変えることも世界を変えることも出来ねえ。でも、お前なら出来ると俺は思った。世界だか自分だかどっちかなんて関係ない。お前なら精一杯やって何か変えちまうと思ったんだ」

 

 男の癖に女々しくて、その上情けない話である。他人に自分の願望をおっ被せた挙句に、それが叶わないとなると八つ当たりなんて。

 

「だからあれは八つ当たりだ。お前には俺を怒る権利がある」

 

 俺を詰って、罵って、張り倒す権利も有る。

 

 ところが雪ノ下は控えめに。

 

「もう、分かったから頭を上げてちょうだい」

 

 と言った。あれか、顔を上げた所をビンタだろうか。

 

 おずおずと頭を上げると、雪ノ下も俺と同じように頭を上げてこちらを見ていた。

 

「比企谷君」

 

「は、はひっ」

 

 いかん、声が震えた。情けない声を上げた事を恥じる異常に歯を食いしばるべきだろうか。

 

「ありがとう。私の事許してくれて。だから私も貴方の事許すわ」

 

 パッと目の前で光が弾けたのかと思ったら雪ノ下が微笑んでいた。月光の下で咲いた花を連想させる儚さを帯びたその笑顔は、奇しくもこの部屋の中でなら絶対に見逃しようもなく輝きを放った。

 

 それからその花弁に紅が差した。

 

「それと、その。比企谷君、ああ言ってくれたという事は、その……」

 

 さっきまでの嫌な沈黙ではなく、色々とその内心を放出させている不思議な沈黙の中で雪ノ下がくねくねと不思議なダンスを踊った。

 

「別に、その嫌という訳じゃないのよ。けれど、その私達まだ知り合って日も浅いし、私は別に貴方の事そういう風に思っていた訳でもなくて」

 

 うん? なんだ? 何か致命的な誤解を招いてしまったような。そんな悪寒がするぞ。それも比喩や冗談じゃなく文字通り致命的な誤解を。だって、後ろにある扉からカリカリ、カリカリって音がするし。なにこれ!?

 

 

 

 数秒後、扉が勢い良く開け放たれて雪ノ下さんが現れた後、聞くも涙語るも涙の修羅場が演じられた事は今はもう思い出したくもない過去だ。

 

 それらについて語る事が有るとしても、それはきっと今じゃない。

 

 俺が今言いたいことは1つだけ。他人と関わるなら他人に関心を持つことだ。他人が好きなら好かれる為に何をすべきか。嫌いなら細心の注意を払って何事もなく過ごすために。自分の事しか考えていないと良かれ悪しかれ酷い目に遭う。

 

 俺みたいにな。




もうね。雑ってもんじゃないですよ。

でもね、終わりました。終わりにします。

やったね。これで話に一区切り付けた最初の作品が出来たよ。

いやー、駄目だ。いろはすとか絶対出せねえ。てかまずこの雪ノ下誰だよと自分自身突っ込みたい。合体事故かと。

とはいえ、ここまで来てしまった以上引き返しはすまい。

読者の皆さんには申し訳ないですがこれ以上手元に留めておくと削除してしまいそうなので、これで第1部終了とさせて頂きます。

お付き合い下さり誠にありがとうございました。


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第17話

 溜め息が漏れる。その理由は至極簡単だ。今日から学校に通わなければならないからだ。とはいっても別に引きこもっていた訳でも長期間通学できなかった訳でもない。

 

 たった1日でも学校を休んでいる間に俺の体が怠惰な生活に味をしめてしまったのだ。お陰で俺は通学中誰にも挨拶はしなかったし、教室に入った時だって誰とも言葉を交わさなかった。どうにも頭がボーっとするので休み時間中だって机に突っ伏していたりして、こうして放課後を迎え、奉仕部の部室に着いてから漸くこの日最初の言葉を紡いだ。

 

「あー、疲れた」

 

「ってヒッキー疲れるような事何かしてた!? 1限から6限まで完全にずっと寝てたじゃん! 起立礼着席すやーってな感じで休み時間中まで寝てたじゃん」

 

「開口一番周囲の士気を下げるような発言なんてもう少し空気を読んだらどうかしら? いえ、ごめんなさい。貴方にそんな事出来る訳が無かったわね」

 

 すかさず既に部室に詰めていた女子生徒2人から心ない言葉で突っ込まれる。それに後者、申し訳無さそうな台詞の割にしれっとした顔をしてるのはどういう事だ。

 

「生存競争という言葉が有るだろう? つまり生きていること自体が闘争な訳だ。四六時中緊張しっぱなしでは心身ともに疲弊を防ぐことは出来ない。その為人間は適度な休息を取るわけだが、その休息だってただ安穏としている訳にはいくまい。いつ何時誰に襲われてもいいように警戒を怠ることは出来んのだ。よって寝ていた俺もまた疲労を感じることに何の違和感もないという事になる」

 

「休み過ぎで人間性を腐らせてしまったようね。それは単なる寝過ぎよ」

 

「何だと? たかが20時間寝ていただけだというのにか?」

 

「完全に寝過ぎだから!!」

 

 由比ヶ浜に突っ込まれるという精神的ダメージは俺に二の句を継がせない。俺は崩れ落ちるようにして椅子に着地、いつからか部室中央に置かれるようになった長机に突っ伏した。

 

「って、また寝るつもりだし!?」

 

「由比ヶ浜うるさい」

 

 子供は風の子というがいい加減高校生にもなって落ち着きというものを身に着けていないのはどうなんだ? 俺を見習えとは言わんが、せめて体育の時間バスケットコート内で孤立する材木座位には静かにしていて欲しいもんだ。

 

 とはいえ俺の切なる想いが由比ヶ浜に伝わることはなく、ヒステリックに「そんな訳ないし!」とか言われると確かにその通りとも思う。

 

 なのでそれ以上の追求を止め、俺は孤独な思考の沼へと沈み込んで行こうとした。

 

「ってヒッキー、ちょっと待ってってば」

 

「なんだよ、何か用か?」

 

 誰にも話しかけれらない事に定評の有る俺だが、今日の由比ヶ浜は一味違う。執拗に俺の睡眠を妨害し、注意を惹こうとしてくる。これはつまり俺に何か用が有るということなのだろう。

 

 渋々俺は至高の頭置きと化していた腕から別れを告げ、由比ヶ浜を見た。

 

 初めてこいつを認識した4月から早一月が経とうという今、こいつの変化といったら服装が多少ラフになった程度だ。上着は椅子の背凭れにかけられ白いブラウスの胸元から色白の肌が覗いている。

 

 それに比べて雪ノ下の変化ときたら。

 

「こっちを見ないで貰えるかしら比企谷君。貴方に見られていると貞操の危機を覚えるのだけど」

 

 全く容赦が無い。というか女子の口から貞操の危機なんて言葉を聞くのにも抵抗を覚える俺によくもそんな台詞を吐けたものだ。確かに先日は姉と病院のベッドで絡みあうというショッキングな場面を見せてしまったが、あれの責任は俺にはないと弁明をさせて貰いたい。

 

 肩まで震えさせる芸の細かさには真に迫るものを感じてしまう。待って、それ本当に震えてたりしないですよね。

 

 そのまま数秒固まったように雪ノ下を見つめていた俺の視界に、何故かむっとした口調の由比ヶ浜が視線を遮るように割り込んだ。

 

「ヒッキー何処に行ってたの? 教室に居なかったから部室かと思ったのに居なかったし」

 

 机に突っ伏する俺の視界一杯に由比ヶ浜の腹の辺りが映る。俺の頭上からこっちを見下ろしているのだろうが、視線を上げるのすら面倒な俺はそのまま答えを返す。

 

「何処って職員室だよ。平塚先生に面倒を掛けた事を詫びに行って来たんだ。ま、俺の親も騒ぐつもりはないみてえだから先生もお咎めは無かったみたいだが」

 

 失神させられたのが戸塚辺りだったならば、それはもう大変な事態に発展していたことは予想に難くない。俺だって烈火のごとく怒っただろう。だが、今回被害に遭ったのは俺である。両親も説得に応じてくれたのでこれであの日曜日の出来事は一件落着だ。

 

 尾を引いているのも雪ノ下さん関連のあれこれと、俺の親父への殺意。そして。

 

「そう、それだよヒッキー。大丈夫だったの?」

 

 気遣わしげな声は俺からすれば行き過ぎた心配によるものだろう。だが、それだけ俺の事を気に掛けてくれた事そのものには喜びと感謝を感じる。

 

「全然平気だ。むしろその後の親父に殴られた場所の方がヤバイ位だ」

 

 雪ノ下が幾ら天才的な才能を秘めていると言っても、素人にあれほど綺麗に人を気絶させる拳が打てるとも思えない。何かしらの格闘技の心得でも有るのだろう。それにしたって惚れ惚れとする腕前だ。目が覚めた時には既に痛くも痒くもなかった。殴られた時のことは何も覚えていないが。

 

「あの糞野郎。何が心配させるなだ。脳震盪後の人間の頭を殴るとか正気とは思えん」

 

 それを目撃した母親が激怒して親父の小遣いは今月分全額カットになった。ざまあみろだ。

 

「へ、へえ。そうなんだ」

 

 でも良かった。と由比ヶ浜が安堵の溜め息を吐く。なんだ、そこまで心配してもらうとちょっと面映ゆくなってしまう。ていうか、こいつ俺に気が有ったりするんじゃねとか馬鹿な事を考えてしまいそうになる。

 

「そんでもって、それ以上に頭が痛えのがこれだ」

 

 まあ、そんな訳もないのでここは目を逸らしておくことにしよう。直視してるとまた益体もない事を考えてしまいそうだ。

 

 話題を変えるためにも俺はバッグの中から茶色の封筒を取り出した。

 

 高さ約1センチのその封筒はそれを持つ俺の手に、実際の重み以上の重みを伝えている。

 

「なにこれ?」

 

 由比ヶ浜が首を傾げる。まあそりゃそうだ。この段階でこの中身に勘付いたりするような能力を持っていたら嫌すぎる。

 

 俺は封筒を机の上に置いて由比ヶ浜に開けて確認するように示した。

 

「母さん……」

 

 興味津々で封筒に飛びついた由比ヶ浜、一方雪ノ下はやはり肉親だけあって心当たりが有るらしい。

 

「な、なにこれ!? い、いちまんえんさつがいっぱいだ!」

 

 見た事のない金額に驚いたのだろうか。由比ヶ浜が封筒を取り落とす。机の上に落ちた封筒の口からこの国最高金額の紙幣が顔を出している。

 

「数えてみたが100万有った」

 

「ひゃ、ひゃくまんえん」

 

 由比ヶ浜の相好が崩れる。現代社会に生きる人間たるもの資本の重要性は重々承知しているだろう。この反応も無理からぬ事だろう。俺だってちょっとニヤけてしまう。

 

 これ以上視界に札束が存在すると人様にお見せできない顔をしてしまいそうなので、俺は封筒をさっとバッグの中に戻す。こら由比ヶ浜残念そうな顔で封筒を追うんじゃない。

 

 金の恐ろしさを噛み締める俺。が、苦み走った雪ノ下の表情で正気に戻った。いかんいかん。

 

「ごほん。お前が帰った後、っても随分後。夜になってからだけど、家の親とお前んとこの母ちゃんが病室に来てな。置いてった」

 

 訪れた着物姿の女性はなるほど、間違いなく雪ノ下姉妹の母親だと納得するそっくりさんだった。雰囲気こそ姉妹のどちらとも違うが、攻撃性みたいな所は隠しても隠し切れない辺りそっくりだった。

 

 その高い気品を感じさせる所作で、完璧な作法に則った謝罪は俺のみならず社会人として働く両親に取っても度肝を抜かれるものだったようで、当初雪ノ下の母親を迎撃するつもりだった両親は一瞬にして気圧されていた。

 

 てか、そういう場が設けられるのなら前もって俺に言っておいて欲しかった。いきなり修羅場が演じられそうになった時は別の意味で驚いたぜ。

 

 丁寧な口上に始まって、両親が口火を切ろうとした所で差し出される独特の威圧感を持った封筒。そして現れる現金という最強の誠意の形。

 

 明らかに尋常ではない相手の攻勢に一家揃って生唾を飲み込んだ段階で、既に全てが雪ノ下母の掌の上だった。

 

 怒気という種火は、あっという間に吹き消され俺達が納得するだけの謝罪と、俺の治療に関する保証をすると俺と俺の両親の3人をきちんと納得させた上で颯爽と病室を去って行かれた。

 

 残された3人と札束が沈黙の中で様々な思惑を生み、親父と母親の多少のやり取りの末現在この封筒は俺の手の中に収まっているのだった。

 

 人間慣れない大金を持つものではないらしい。家に置いておくことも出来ず、帰り際にでも銀行によって入金しようと思っていたのだが、1日中これのお陰で落ち着くことが出来なかった。

 

 本当金って怖い。

 

「てかこれを自分の物にするのも怖いんでお前からお前の母ちゃんに返して貰えるのが最高のパターンなんだが」

 

 俺がまだ子供なせいか金のやり取りを他人とするのには抵抗が有る。というか、金を貰うのはお年玉の時だけで十分である。それも赤の他人から金を受け取るなんて負けた気になるからな。

 

 だが、雪ノ下は首を横に振った。

 

「無理よ。家の母がそれを受け取るとは到底思えないわ。それに例え受け取るとしても賢いやり方とは思えないわね」

 

 一般的な視点からすればこれは慰謝料、あるいは和解金という事になるだろう。それを突っ返されるということはつまり宣戦布告とも取られかねないからな。

 

 金を受け取ってこんなに嫌な気分になるとは昨日という日まで思いもしなかった。出来るならもう二度と味わいたくない気分だ。

 

「ごめんなさい」

 

 皮肉的なを込めたつもりは無かったが加害者としてはそう受け取らざるを得ないのだろう。雪ノ下の顔に影が射す。

 

「あー、別に報告以上の意味合いは無かったんでそう申し訳無さそうな顔をされるとこっちとしても困る。悪い」

 

 デリカシーが無いと開き直るのもこの場合は雪ノ下に悪いだろう。考え至らなかった俺も悪いと頭を下げる。

 

「貴方以外から言われたらとても信じられないけれど、貴方がそう言うのならきっと、そういう事なのね」

 

 どういう事なのよ。

 

 雪ノ下がそう呟いたのが聞こえるが、俺にはその意味が理解できなかった。取り敢えず許しを貰えたものと判断して顔を上げると雪ノ下と視線を交わした。

 

 完全に雪ノ下の罪悪感を払拭したい所だが、口を開くには気を逸していた。俺と雪ノ下の間には既に口を開きにくくなるような沈黙が。

 

「あ、あのさヒッキー。その、メルアド交換しない?」

 

 由比ヶ浜が唐突な話題転換を図る。流石トップカーストに所属する人間。気不味くなった場を素早く察して空気を変えようとするなんて俺にはとても出来ない芸当だ。

 

 その助け舟にすかさず乗っかる。

 

「ああ、良いけど。突然どうしたんだよ」

 

 こいつが奉仕部に来るようになってから、もうそれなりに時間が経つが今の今までそんな雰囲気など全く無かった。それどころか、教室内でも話しかけるでもなし俺と由比ヶ浜の関係性は、この奉仕部室内で完結していた。

 

 雪ノ下とはメールのやり取りをしているようだったが。

 

「だって、一昨日ヒッキーが病院に運び込まれてからずっと心配してたのに連絡取れないんだもん。昨日もゆきのんのお母さんとヒッキーの両親の話し合いが有るからってゆきのんに止められちゃったからお見舞いにも行けなかったし」

 

 俺の事を心配していたというのに、俺からアドレスを聞き出そうとするのはそんなに恥ずかしいのだろうか。由比ヶ浜が腹の前で手を組みながらもじもじと身悶える。

 

 そうだな。あの場に居た人間の1人として由比ヶ浜にも無事を伝えるべきだった。面倒くさいので次が有ったとしても間違いなくそんな事を思いつかないだろうが、それはその通りだ。

 

 こうして一時的なもの以上の縁を築いてしまった以上、その手段は最低限持っているべきなのだろう。

 

 目の毒すぎる光景から逃れようと由比ヶ浜の顔を見上げると、由比ヶ浜の顔の手前に2つの丘陵が立ちはだかった。いや、前言撤回だ。これは丘陵などではなくれっきとした山だ。有り体に言うとデカい。

 

 糞、この位置関係が最悪過ぎる。反射的に視線に込めた意味を悟られる前に椅子を引いて正常な視界を取り戻す。

 

 危ない、後1秒遅かったら社会的に死んでるところだった。

 

 既に社会的にはリビングデッド扱いを受けている事はこの際小さい事だろう。

 

「ほい。俺の携帯赤外線ついてねえから番号教えてくれよ」

 

 ポケットから取り出したる俺の電子書籍リーダー兼携帯電話に半年ぶりに本分を果たす機会が訪れた。家族とも連絡を取らないせいで一個前の着信履歴が半年前とかになってるんだけど、手放さなくて良かったぜ。

 

「えっとね」

 

 デコトラみたいなキラキラピカピカした携帯電話を取り出した由比ヶ浜が言うままに、番号を打ち込み発信する。間もなく目の前の携帯電話が震えだした。

 

 ふう、良かった。この状況で嘘の電話番号とか教えられてたら多分死んでた。

 

 って、何で電話切らずに出てんだよ。

 

「もしもしヒッキー?」

 

 目の前で紡がれた言葉が、俺の手元からも響いてくる。なんだ、なんだ。なんなんだ。俺にどうしろと言うんだ。

 

 戸惑う俺に由比ヶ浜がチラチラとこちらを見て追い打ちを掛けてくる。

 

 体のあちこちがむず痒くなってくる。

 

 矢も盾もたまらず俺は携帯電話を耳に押し当てた。

 

「も、もしもし由比ヶ浜か。……かーっ駄目だ、耐えられねえ」

 

 携帯電話を通じて由比ヶ浜の息遣いが耳元で聞こえた瞬間、反射的に通話を終了してしまう。

 

 なんだこれは。恐ろしい異空間に飲み込まれてしまったような感覚だ。具体的に言うと惚れそうになる。

 

 世の中のリア充ってのはきっとこんな事を四六時中してるからあんなに頭がおかしいのだろう。こんな事を繰り返していては俺とていずれは危うい。いや、その前に由比ヶ浜に告った所で俺の精神が崩壊する程手酷く振られるか。

 

「あーん、ヒッキーってば何で切っちゃうの?」

 

 マジトーンで怒ってる由比ヶ浜には申し訳ないが、脇目を振らずにメールアドレスを電話番号宛にCメールで送信する。

 

 もしかしたら由比ヶ浜は俺の命を狙うアサシンなのかもしれない。この心臓の高鳴りがお分かり頂けるだろうか。こんな事を繰り返していては早晩心臓が破裂して死にかねない。

 

 頬が紅潮しているのが鏡を見ずとも分かるほど顔を火照らせながら、雪ノ下に駆け寄った。

 

「雪ノ下のも教えてくれ」

 

 朱色の夕日で俺の顔色が誤魔化されてくれる事を祈る。俺が顔を赤らめてるとか本当キモいから。

 

「嫌よ」

 

 スパっと、達人が日本刀で巻藁をぶった切るみたいに断られた。が、これは予想された流れだ。だが俺はこいつに言う事を聞かせるネタを握っていることを忘れているようだ。

 

「よく考えるとお前にはお前の姉ちゃんの事で相談する機会が有りそうなんだが」

 

「……ちっ、そういえばそうだったわ。仕方ないわね」

 

 こいつの態度、考えてみるとよくよく昨日のあれと同一人物とは思えないほど酷いな。照れ隠しとかそういう疑念も斬り殺されてくレベル。そんなに気に食わなかったのだろうか。

 

「なんだよ。まだ怒ってんのか。何勘違いしてたんだか知らないけど」

 

「黙りなさい」

 

 バッグから無垢な携帯を取り出した雪ノ下が視線と言葉で威圧してくる。恥辱を受けた屈辱か。こいつもマジトーンで怒っている。

 

 言われた通り黙ると、雪ノ下は携帯に視線を落として操作をし始めた。合間合間に舌打ちを挟みながら。

 

「携帯電話を寄越しなさい」

 

「ほい」

 

 差し出される白魚のような雪ノ下の手に俺の携帯を乗せると、雪ノ下はそちらも躊躇なく操作を始めた。何度も指が動いている辺りアドレス帳に直打ちしているのだろう。

 

 由比ヶ浜のそれとは違い雪ノ下の携帯電話はスマートフォンだ。俺のとは機種こそ違うが基本的な操作が似通っているからだろう。手慣れたものだ。

 

 それにしても今時バーコードリーダーアプリなりで簡単に連絡先を交換できるだろうに、アドレス帳に手打ちしている所から察するにこいつはそういう機能には全く通じていないらしい。

 

「どうぞ」

 

 素っ気なく返されたものを確認すると俺のアドレス帳に2件人名が増えている。

 

「貴方のアドレスに私の名前が入っているなんて。屈辱だわ」

 

「たった2人しかいない異性のアドレスだしな。っていたあっ!」

 

 向う脛に鋭い痛みが走る。見ると雪ノ下の上履きの爪先が突き刺さっていた。

 

「そもそもあの時鼻の下を伸ばしていた貴方に姉を撥ね付ける気が有るか疑問ね」

 

 いやらしい。雪ノ下が呟く。その心底軽蔑の篭った声には背筋が冷えたが、火照った頬を冷やすには丁度いい。

 

「バッカお前、思春期の男が年頃の女性とくっつけば鼻の下が伸びるのは当然だ。物理法則みてえなもんなんだ」

 

 そうだ俺は悪くない。悪いのは雪ノ下さんの方である。

 

「不潔ね」

 

 短いが、それ故に雪ノ下の内心を端的に表すその一言は何故か俺の心を深く傷つける。

 

 だが、反論のしようもない。

 

 目的だった雪ノ下のアドレスも手に入れたことだし退却しようと踵を返した時、由比ヶ浜が溜め息を漏らした。

 

 いつも脳天気に、あるいは無理矢理にでも笑っている印象の有る由比ヶ浜にしては珍しい。

 

 これは聞いても良いものなんだろうか? それとも踏み込まないほうが懸命か。え? なに? ヒッキーに関係なくないとか言われたら立ち直れないよ。という訳で近寄らんとこ。

 

 しかし、臆病な俺とは違いこの部には積極的な女がもう一人居たようだ。

 

「どうかしたの? 由比ヶ浜さん」

 

 雪ノ下は怒りで視野が狭くなるという事が無いらしい。何こいつ水の心とか使える感じですか。どっちかっつうと氷の心、ってか液体窒素の心って感じだけどな。

 

「えっと、その、……。なんかうわって感じのメール来て」

 

「そう。通報しておくわね比企谷君」

 

 問答無用で犯罪者扱いかよ。俺が何をした何を。

 

「貴方が生まれた事自体が罪なのよ。分かるでしょう?」

 

 そこで俺に同意を求められても。

 

「だから貴方は比企谷君と呼ばれるのよ」

 

 乗るにせよ乗らぬにせよ罵倒はされるらしい。てかそれ俺の苗字だから。別に悪口とかじゃないからね。

 

 触らぬ神に祟り無し。触らぬ雪ノ下に罵倒無し。俺が無抵抗を貫くと最後に舌打ちをしてから雪ノ下は由比ヶ浜に先を促した。

 

「でもヒッキーが犯人じゃないよ」

 

「証拠は有るのかしら?」

 

 俺を擁護しようとする由比ヶ浜を問い詰める雪ノ下。そこまでして俺を罵りたいのか。

 

 まだ口実を探そうとするだけ良いのかもしれないが、こう剣呑な雰囲気を引きずられても困る。落ち着いたら和解をしよう。

 

 そんな雪ノ下に多少引きながら由比ヶ浜が考えを述べた。

 

「だってうちのクラスの事が書いてあるんだもん。それも名指しで」

 

「それでは比企谷君には犯行は無理ね」

 

「ああ、確かに。俺がフルネーム分かるの葉山とお前だけだし」

 

 動かぬ証拠という奴だ。流石に雪ノ下といえどこれを前にしては俺を犯人扱いする訳にもいかず、彼女の関心はあっさりと読書に戻った。潔いまでの関心の無さ。どうやら何かにかこつけて俺の事を罵倒したかっただけらしい。

 

「葉山くんと私だけ、か」

 

「由比ヶ浜?」

 

「え、な、何でもない! 兎に角、時々こういう事あるし気にしない気にしない」

 

 前時代的パカパカケータイにも利点は有る。こういう時パカっと携帯を閉じると心の方も切り替えが効く所だ。ボタン一つでフィーチャーフォンよりも大きく鮮明な画面にその何かを浮かび上がらせる今のスマホは下手するといつまでも同じ通知が残り続けたりして鬱陶しいことこの上ない。

 

 由比ヶ浜はそれきり、普段なら肌身離さず持ち歩く携帯を机の上に放置して手持ち無沙汰な様子で椅子に座ったまま仰け反って背伸びをしたり、髪をいじったり、アクセサリーを弄ったり。

 

 そんな由比ヶ浜を尻目に読書をしていると、学校のチャイムとは違う種類のチャイムが鳴り始めた。いわゆる夕焼け小焼けとか5時のチャイムと呼ばれる奴である。

 

 4月なんかはこのチャイムが聞こえる時間には既に日が沈み始めてたりして茜色の空をボヤッと眺めていたものだが、ゴールデンウィークも過ぎると随分明るい。

 

 奉仕部の終了時間は雪ノ下のさじ加減一つだが、この1ヶ月の経験則から言うと大体6時だ。その辺で雪ノ下の読んでいた本が終わったり、キリが良かったりするとお開きになる。

 

 そんな有るんだか無いんだか分からんような定時までざっと1時間。集中して読書に取り掛かろうとする俺だったが、意外な事に雪ノ下がこんな事を言い始めた。

 

「今日はこれで部活は終了よ。悪いけれどこの後用事が有るの」

 

「えっ!? なになに? どっか遊びに行くの?」

 

 放課後用事と言えば遊びという発想が由比ヶ浜らしい。そりゃ確かにリア充連中ならば十中八九その通りなのだが、相手は雪ノ下だ。それだけは有り得ない。

 

 かと言って他に思いつくような塾やアルバイトというのもピンと来ない。全教科全科目においてそこそこの進学校である総武高校でトップという化け物じみた成績を誇る雪ノ下に、今更塾もないだろう。こいつなら塾講師に難題吹っかけてその無知を嘲笑う位の事はしそうだ。てかやる。間違いなく。それにこいつは金には困っていないだろう。親は地方議員だというし、こいつ自身それほど物に執着するタイプにも見えない。おまけに化粧っけもないときてる。

 

 それにこれからも定期的に組み込まれる予定であれば前もってそう告げる事位はするだろう。そうなると今日の用事は特別な用事という事になるが。

 

「母が来るのよ」

 

「えっ? ゆきのん一人暮らししてるの? お母さんが来るって、あっ……」

 

 その理由に思い当たった由比ヶ浜が言葉を失う。

 

 つまり雪ノ下の用事というのは事後処理の一貫という事だ。

 

「悪いな。俺のせいだ」

 

 完全に失念して要素がまだ有ったとは。黙らせる必要があったのは俺の両親だけではなかったのだ。

 

 どちらかと言えば雪ノ下の親の方が重要ですら有る。

 

「根本的に私が手を出したのが悪いのだから貴方が気に病むことないわ」

 

 そうは言うが雪ノ下は今日一番の暗い表情を見せる。

 

 雪ノ下さん曰くあの母ちゃんは雪ノ下さんより恐い人だという。それが嘘偽りでない事は昨日俺が確認済みだ。あの母ちゃんはマジで恐い。極道の妻とか言われたら全然信じちゃいそう。

 

 それにお説教されるというのだから、営業職の人間が上司に激詰めされるのと似たような心境にもなる。雪ノ下の今日の刺々しさの一因はそこにも有るのかもしれない。

 

「それじゃあ私は鍵を職員室に返してくるから。2人は先に帰って頂戴」

 

 そう言って1人廊下を歩く雪ノ下を見送る。俺が原因とはいえ、雪ノ下の家まで付き添って弁明をする訳にもいくまい。それに完全に雪ノ下母の説教の鉾を収める事が出来れば御の字だが、それが出来なかった時雪ノ下は怒られている場面を俺に目撃される事になる。男女の違いがあれど、やはり良い気はしないものだと思う。

 

 こうして自分の考え足らずが原因で人に迷惑が掛かる時程落ち込むことはない。

 

「ヒッキー、帰ろ?」

 

 立ち尽くしていた俺の袖を由比ヶ浜が引いていた。

 

「おう、そうすっか」

 

 だが俺が落ち込んでいた所で後の祭りだ。意味のない感傷に浸っていれば雪ノ下の怒りも買ってしまうだろうし。

 

 声を掛けてくれた由比ヶ浜を置き去りにして帰る訳にもいかず、俺は由比ヶ浜のゆっくりとした歩調に合わせながら家路についた。

 

 まだ喧騒と人の気配が残る校舎を後にするというのは、つい1ヶ月前までの日常だった筈だが、その割に随分と久しぶりな感覚だった。

 

 やはり人との触れ合いというのは意識せずとも人を変えてしまうらしい。このコミュ障の俺ですらここまで変わってしまうとは。

 

 俺はもう1ヶ月前までの俺ではない。こうして歩いた廊下も、昇降口から見えるグラウンドの風景も、そして隣でローファーを履いている由比ヶ浜もそれ以前のそれとはっきりと別物に見える。

 

 何が変わったと特別に言えることもない。けれど何かが確かに変わってしまっているのだ。

 

「どったの? 早く行こ?」

 

 同時に変わらない物も有る。

 

 昇降口から校門までの道はグラウンドと隣接しているせいで砂埃がよく舞っている。

 

 元々海が近いこの学校で、グラウンドと校舎をこういう位置関係にした設計者は頭が悪いと断言できる。なにせ砂埃を遮るものが何もない。おかげで風の強い晴れの日なんかは目が潰れるんじゃないかと思うことさえある。

 

 今日は比較的風の弱い一日だったと言える。

 

「きゃっ」

 

 が、時々突風が吹くことも有る。

 

 慣れたもので反射的に目を瞑って眼球への異物の混入を防いだ。

 

 肌に砂粒がぶつかる感覚がなくなるのを待ってから恐る恐る目を開くと、由比ヶ浜が制服のあちこちを叩いていた。

 

「もう最悪ー。口の中入っちゃった」

 

 そりゃあんな風に声を上げてれば当然だ。こういう時は目も口も閉じてじっとしているに限る。そうすりゃ鼻の穴以外からの侵入は防げるんだから。

 

 だが問題は、更に時々しつこい砂嵐に巻かれそうになる時だ。

 

 10秒程度なら目を瞑ってやり過ごせばいいが、それ以上なら多少の痛みを覚悟して目を細めて前に進む必要が有る。

 

 でなきゃ、目を開けずに出鱈目に前に進むか、そのまま佇んでいるか。

 

「あれー? 比企谷くんだ。おーい」

 

「え? あ、陽乃さんだ」

 

 校門の向こう側に黒塗りのハイヤーが止まっていて、その窓から雪ノ下さんが手を振っていた。その奥にちらりともう1人女性の姿が見える。間違いない、雪ノ下の母親だ。

 

 雪ノ下の逃亡防止に迎えに来たのだろう。

 

 この場に雪ノ下が来て無駄に居心地の悪い思いをさせるのを避けるためにも、出来るならさっさと通り過ぎたい所だが呼び止められてしまった。素通りすれば雪ノ下さんにも雪ノ下母にも悪印象を与える事になるが、後者は特に俺への影響が強く、前者にしたって先日雪ノ下さんから受けたお願いにも影響を出しかねない。

 

 まるで熱々のコーヒーを一気飲みした直後のような胸焼けを感じながらハイヤーに歩み寄る。

 

「こんにちは雪ノ下さん。雪ノ下のお迎えですか?」

 

「そうそう。って言いたい所だけど、私もどっちかっていうとお迎えされた口で」

 

「ごめんなさいね、比企谷君。遅くなってしまったけど雪乃にはよく言って聞かせておきますから」

 

 流石地方議員御用達のハイヤーと言っておこうか。高級感漂わせる黒革のシートと同じく黒のマットが広い後部座席に3列。運転席の有る前部座席は見えないが、我が家の車とは段違いの快適そうな空間から降りて来た雪ノ下さんと話していると、反対側のドアが開いて雪ノ下の母親が降りてくるなりそういった。

 

 昨日と同じ和装と結い上げた髪の毛。現代的な服装の雪ノ下さんと並んでいるとそっくりなのにややちぐはぐな雰囲気だ。これで雪ノ下まで加わったら、この不思議な不調和は更なる違和感を産むことだろう。

 

 幾分か病院で見たよりも柔らかい表情をしているが、雪ノ下への叱責の念が滲み出ているのか迫力は増している。こういう攻撃的な人間ばっかりの家庭ってのがどんなだかってのは正直想像もしたくないね。

 

 だが、こうして言葉を交わすチャンスが手に入れられた幸運を逃す手もまたない。

 

「昨日も言いましたけど、雪ノ下は挑発されたから怒ったんであって、責任は自分にも有りますからそこまて怒らないであげて欲しいんですが」

 

「比企谷君は優しいのね。でも雪乃を甘やかすつもりはないわ。どちらにしろ手を出したのは雪乃なんですから」

 

 聞く耳持たない雪ノ下母。それも当然か。彼女の言う事は至極当然の事だ。これが馬鹿親相手なら5秒で態度を変えそうなもんだが、極妻相手に翻意を誘うのは流石に無理だ。材料も動機も無さすぎる。

 

 微かに表情を緩めて嬉しそうな顔を作る雪ノ下母。こうして話すと雪ノ下母は雰囲気は雪ノ下に、所作は雪ノ下さんに似ている。

 

 だが、その両者とも似ていないものが有る。それは大人の余裕だ。

 

「雪乃はこんな事をする子じゃないと思っていたのに」

 

 俺達と彼女を決して超えることの出来ない壁で隔て、その向こう側から俺達を観察する上位者の態度。

 

 それがある限りは、俺の意見などこの人にとっては視界を彷徨う蝿や蚊の様なものだ。煩わせる事は出来ても行動を変えさせる事は出来ないし、その気になれば一瞬で捻り潰せる。そう思われている。

 

 頬に手を当てて目を伏せる雪ノ下母からは怒りが感じられなかった。有るのは無念と悲嘆だ。失望と言っても良いかもしれない。

 

 雪ノ下と雪ノ下さんのやり取りから推測すると、雪ノ下と雪ノ下母の関係もまあ似たようなもんだろう。雪ノ下さんから雪ノ下への憎悪が無いだけ気持ち良好といった所か。

 

 とはいえ、雪ノ下母は雪ノ下さん以上に恐ろしいとも。今だってこれが狙ってのものかは判然としないが、雪ノ下を最も萎縮させる行動を取っている。

 

 天然の鬼畜か普通の鬼畜か。どっちかしか選択肢がないようだ。

 

「あの子を信じていたから自由にさせてきたけど、まだ早かったのかしら。……いいえ、これも私の責任、私の失敗ね」

 

 世の中には時としてこういう事を言い出す人がいる。経験的にはそれは2つのパターンに分別出来る。

 

 1つは自分を悲劇のヒーロー、ヒロインだと思っている馬鹿。

 

 そういう自罰、自戒は心の中でやっておけと突っ込みたくなるような行動で周囲の同情や憐憫を買おうとする奴だ。

 

 この手の奴は望んでいない言葉を耳にすると、180度態度を変えて激怒するのが常だ。結局のところ自分が悪いなどとは微塵も思っていないのだ。

 

 もう1つのパターンはこうして自虐的な言動を取ることで、自分ではなく周囲を非難する奴。

 

 先制して自虐することで、相手からの非難を躱すとともにそれ以外の言論を封殺しようとする。そうする事で内心に後ろめたい物を抱えた人間を密かに攻撃しているのだ。

 

 何を言っても、否定してもすかさず自分のせいと言う事でその度他人を傷付けるトラップ。非常に狡猾で、ある種の人間にとっては何よりも効果的な手段だ。

 

 共通して言えるのは、どっちも自分が悪いとは思っていない点だ。

 

「そんな事ないですよ」

 

 雪ノ下母は確実に後者だ。あの姉妹の母親で馬鹿って事も考えにくいし故意犯だろう。割りとそれだけで殺意が湧くってもんだが、性格の悪さじゃ俺も人の事を言えた義理じゃない。

 

 色々と感情は押し殺したが、せめて言葉くらいは吐き出しておこう。

 

「もう女子高生。それも入学ほやほやの新入生って訳でもない2年生で、周りが馬鹿ばかりとか見下してる癖してミスをした、間違いを犯したって言うならそれはもうアイツの責任でしょう」

 

 位置関係上間違いなく見えないと確信している雪ノ下さんが口角を上げて笑顔を作る。それは俺の蛮勇を嗤うものに他ならないだろうが、同時に期待に答えていると考えてもいいのだろう。

 

「それに親が無条件に子供を信頼することにどんな瑕疵が存在するっていうんです。アイツもアイツで別に問題を起こそうと思って起こした訳でもない。俺みたいな無神経な馬鹿がいる可能性を考慮する方が寧ろ馬鹿ってなもんで、今回のアイツは単に不運だっただけですよ」

 

 親の躾、家庭の事情といった他所様に口出しのしにくい領域の話を、おまけで干渉を許さない雰囲気で話された所で俺には関係の無い話だ。

 

 今回に限って言えば俺こそが被害者であり、俺だけが真に加害者である雪ノ下を責める事が出来るからだ。そして俺のみを発端とする事件だったからだ。

 

 引っ込んでいるべきなのはむしろアンタの方だと言外に匂わした俺だったが、これでもまだ雪ノ下母を挑発するには足りなかったらしい。

 

「そう。雪乃の事庇ってくれるの。良かったらこれからも仲良くしてあげて頂戴ね」

 

 それだけ言って話を打ち切られてしまう。こう出られると俺としてはすっかり手詰まりになってしまう。自分の中で答えを決めた人間が黙りこんでしまったら、もうどうあってもその考えを改めさせることなど出来ないからだ。

 

 俺の方からこれ以上詰め寄った所で何の発展も得られないとなると、雪ノ下が来てしまう前に帰るのが得策だろう。職員室に鍵を返す程度の時間はとっくに使ってしまっていた。

 

 後ろを振り返ると由比ヶ浜もまだそこに居た。雪ノ下さんを前にして萎縮していた所に雪ノ下母の怒涛のラッシュをかまされたら口も挟めないか。

 

 ぽっかーんと口を半開きにしたまま固まっている由比ヶ浜に目で合図をしつつ2人に別れの挨拶をした。

 

「それじゃ俺はこれで失礼します。……行くぞ」

 

「ばいばい比企谷君、由比ヶ浜ちゃん」

 

 ハイヤーの脇をすり抜けて行く。艶やかなその色合いは俺を引いた車と瓜二つだ。もしやと思い横目で探ってみても当然へこみの類は見つからなかったのが残念だ。自分が轢かれた痕跡ってのがどんなもんなのかちょっとだけ興味が有ったので。

 

 それっきりとぼとぼと後ろを付いてくる由比ヶ浜を一言も話さず駅まで送って別れた。

 

 このまま雪ノ下さんとの付き合いが続いていけばあの極妻と少なからずやり合わなければならないというのか。

 

 命の取り合いにだけは発展しないよう祈りつつ辿る家路は、これからの未来を暗示するように不運まみれなものになった。




 ネギまのSSの続きがどうにも思い浮かびません。放置していた期間が長すぎたのでしょうか。それとも設定が駄目駄目なのか。

 逃げるように書いてたらこっちは1日で書き上がってしまった。


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第18話

 明くる日の学校も、いつもと変わりなく時間が過ぎていった。

 

 誰とも言葉を交わさず、誰とも視線を交わさず、誰とも交わらない。こんなざまで友達が出来る日など来るのだろうかと甚だ疑問だったが、それもしかたない。俺はまだその前段階にすら立てていないのだから。

 

 教室内で交わされる話に耳を傾けてみると話題は先日発表された職場見学についてのものが主だった。

 

 既にそれぞれの生徒から希望の見学先についてのアンケートが提出され、直に学校側からアポイントの取れた企業の名前が知らされるだろう。そうなったら目前に迫った本番までに行きたい職場と一緒に見学に行く生徒2名を決めなければならない。話題の中心はその3人組を誰と組むのかという話だった。

 

 この話が出た時からやれ一緒にやろうぜや、やれ何処そこに行きたいんだけどといつものメンツが固まって話し合いが始まっていたが、いつものメンツが3人以上のグループは中々悲惨な模様を繰り広げていた。

 

 1クラス30人強の人数構成で、男女比を5:5だと想定すると男女それぞれ15、6人。それに対してクラス最大派閥である男子のグループは7人を要するゲーム系男子である。このクラスの男子が15人ぴったりでなかった場合、当然余った1人か2人が組み込まれるグループは4人組になるだろう。そうなればこのグループも3人と4人にグループを割ることで何事も無く過ごせるわけだ。しかし、もしも15人ぴったりだったならば7人の中から1人を選んで島流しにしなければならない。

 

 こういったグループでの行事というのは地味にそれぞれのグループの連帯感に影響を与えるため、その後の学校生活にも尾を引くことだろう。そうなるとグループの所属員達は当然自分だけは弾かれまいと気張って3人組を構築する事になる。最悪なのはそのグループ内での明確なパワーバランスが決定されていないパターンだろう。

 

 決まってさえいれば自然とそいつが島流しになるだけですむ。本人として自覚さえ有ればほんの僅かの期間孤独に耐えさえすれば良い。しかし、もしもそれが決まっていなければどうなるだろう? 答えは疑心暗鬼だ。

 

 誰と誰がグループ内でも仲がよく、初動において2人組をあるいは3人組を作るのか。もしも2人組が出来た場合に3人目である自分の加入が許可されるか否か。自分の知らぬ所で既に結託が始まっており、自分だけが阻害される結果が為す術もなく出てしまっているのではないか。そして誰を島流しにすれば最も波風を立てずにいられるか。あるいはもっと別の可能性、そもそも別のグループにも所属していてそちらの方が仲が良かったりとか。そういった疑いを持ったまま彼らは3人組の構築という難行に立ち向かわされる訳だ。

 

 そう考えるとぼっちというのはこういう時に楽だ。最初から所属すべきグループが無く誰とも仲が良くないなら、誰と組んだって同じな訳で最後の最後枠の余った所に組み込まれるまでいつも通りの日常を遅れるのだから。

 

 と、実在するクラスの住人達を使って勝手な妄想を楽しむのもここまでにしておこう。血で血を洗う政争まで妄想が発展してしまったら現実の平穏さに耐え切れなくなるかもしれないから。

 

 しかし現実問題教室を見渡してみても、それぞれのグループが完璧な3の倍数を構成していない訳だが彼等彼女達は職場見学までに、俺が妄想したようなドラマを繰り広げたりしてしまうのだろうか。

 

 もしも自分が同じような立場になったら、真っ先に切り捨てられ絶望に打ちひしがれるのが想像出来る。マジでボッチでよかった。腹いせに教室で大暴れしかねん。

 

 孤立を恐れる自らの精神に、その健全性を見出しながらもぞもぞと動き出す。今日も奉仕部の活動のお時間です。

 

 寝ぼけ眼を擦りながら教科書で一杯になった机から、読書用の小説を取り出して鞄に詰める。これで俺の帰りの準備は完了だ。教科書の殆どは置き勉するし、英語と数学は参考書が家に置いてある。

 

 そんな訳で殆ど空っぽのスクールバッグを方に掛けて教室を出ようとした時だった。

 

「比企谷君、ちょっと待って」

 

 教室内で話しかけられる可能性など全く考慮していなかった俺は、名前を呼ばれているのにも関わらず教室出口に向かって3歩程歩き、それから自分が呼ばれていることに気がついた。

 

 いや、まだ自分の苗字を空耳しただけという可能性も残っていた俺は、振り返った先でその実誰にも呼ばれていなかった場合を考えて肩口に頭だけを後ろに向けた。

 

「戸塚か、どうしたんだ?」

 

 不安は見事に裏切られた。他人が俺に話しかけるなどという奇妙奇天烈摩訶不思議な現象は実在し、そしてその相手は戸塚彩加だったのだ。

 

 これで油断した所を懐から取り出したナイフでグサーっとやられ、これは顔見知りの犯行ですねと言われる事の無いように、近づいてきた戸塚から半歩距離を取った。

 

「比企谷君、大丈夫?」

 

 駄目です。寝起きなせいか完全に頭がおかしい。とはいえ、寝惚けた頭にこいつの0距離笑顔など食らったら男相手にうっかり頬を染めかねない事を考慮すると、やはり俺の対処は間違っているとは言えない筈だ。

 

「ああ、何の問題もない。それより何かようか?」

 

「比企谷君は職場見学の場所、もう決めちゃった?」

 

 両手を後ろで組みながら、何処か心配そうな不安そうな雰囲気を醸し出しながら上目遣いに尋ねられた。

 

 身長差の関係上何もしなくとも戸塚と話す時は大抵上目遣いをされる訳だが、もじもじされたりなんかしちゃったりすると途端にその上目遣いが威力を増したりする。

 

 その度俺は心の中で戸塚が男だという事を再確認しようと念仏のように唱えるのだ。戸塚は男、戸塚は男、戸塚は男。

 

 その甲斐あってか最近じゃ戸塚が男だと分かっているのにドキがムネムネしたりするようになった。あれ? これって駄目な変化じゃね? 徐々に耐性が低くなってね?

 

 変わらない部分とか格好つけている場合ではなかった。変わっては行けない部分まで変質してしまいそうな事態だった。

 

「いや、決まってない。一緒に組む奴が居ないから、余り物同士組まされた連中の決めた所になるとは思うが」

 

 一刻も早くこの危険な状況から脱しよう。具体的には会話を早く切り上げる。

 

「そうなんだ。良かったあ」

 

 胸を撫で下ろす戸塚。その言葉の真意は兎も角として、俺が1人ぼっち決定している様を嘲笑っている訳ではないと思いたい。

 

 だが、そもそもこいつがこんな事を言い出すのは何故なのか。戸塚の交友関係は把握していないが、この顔にこの性格、とっくのとうに3人組が決まっていてもおかしくはないと思うのだが。

 

「お前は? 誰と一緒か決まったのか?」

 

「ぼ、僕? 僕も、まだなんだ、けど」

 

 意外なことも有ったのものである。俺がまともなら真っ先にこいつを誘っている自信が有るのに、まだ誰からも声を掛けられていないとは。このクラスの男子が何を考えているのか分からなくなった。

 

 戸塚はテニス部員だし、このクラスにも1人か2人テニス部の奴がいるだろう。そうでなくとも普段から仲良くしてる奴もいるだろう。こいつなら女子と組んでたっておかしくはなさそうだし。

 

 これだけ近距離で見ても可愛いという感想しか持てない状態だと特にだ。

 

 何かを言いにくそうにしている割に、それを俺に伝えようという意思は有るのかチラチラと視線がこっちを向くのが煩わ可愛い。

 

「なんだ? どっか入りたいグループがあんのに言い出せないとかか?」

 

 それを俺を通じて伝えたいというのなら、確かにその女々しさに恥ずかしさを覚えもするだろう。だが、こいつがその程度の事も言い出せない性格だったら奉仕部の扉もまた叩かれなかっただろう。

 

 得体の知れない奉仕部などという集団と例えば葉山達のグループ。どちらが話しかけやすいかなど聞くまでもない。

 

「あの! ……比企谷君、僕と一緒に行かない?」

 

「良いぞ。俺なんかで良かったら」

 

 戸塚の提案は意外なものだった。何で俺なんかと、と思わなくも無かったが俺も全く知らない奴に比べれば戸塚の方が良いに決まっている。考えるまでもなく即答した。

 

「やった。それじゃ比企谷君、よろしくお願いします」

 

 胸元で小さくガッツポーズをする戸塚。そこまでして喜んでもらえると俺もクラスメイト冥利に尽きるというか。

 

 あまりの喜びように違うものをよろしくされている気さえしたが、こいつによろしくされたら何であれ断れる気がしない。

 

 かと言って疑問が無くなった訳でもない。

 

「でもこのクラスのテニス部の奴とか良いのか?」

 

「それが、このクラス僕含めてテニス部の男子4人居て」

 

 なるほど、こいつの性格だから人数の事を聞くなり辞退でもしたのかもしれない。見上げた善人である。とても俺には真似できないね。

 

「あ、でも、比企谷君と組みたいからっていうのが一番なんだけど。……駄目かな?」

 

 俺の事まで気遣ってこういう台詞を言う辺り、こいつのお人好しさ加減は底なしだ。勿論俺としては否やはない。

 

「そんなん気にしねえって。こちらこそよろしく頼む」

 

 もとより俺と戸塚とは友人ですらないのだから。

 

 

 そんな事が有ってからの奉仕部でも、職場見学の話題は持ち上がった。

 

 議題の提出者は勿論由比ヶ浜だ。

 

「職場見学、ヒッキーは何処行くの?」

 

 流石リア充。流行の話題を持ち出すのも自然だ。昨日の憂鬱な表情は何処へやら、いつもと変わらぬ挙動不審ぶりというか妙に力んだ顔をしていた。

 

 今になって気付いたんだけど、こいつは俺相手に話す時、戸塚や雪ノ下、その他葉山やらを相手にそうしている時とは違う表情をしている。緊張しているというか、こちらの様子を探るような視線をしている風に見える。

 

 同性である雪ノ下や同性っぽい戸塚相手なら兎も角、葉山や戸部と会話している時とすら違うのは不可解だ。嫌々話しかけているというのなら納得もできるが、俺に話しかける罰ゲームなど面白くもないだろう。

 

 その理由を解明しようと由比ヶ浜をジーっと見つめる。

 

「まだ決まってないな。戸塚と組むことになったんで、もう一人と戸塚の意向に従うつもりだけど」

 

「う、うわー、人任せだ」

 

「正直職場見学なんて何処言ったって良いからな」

 

「やる気全然ないね、ヒッキーは。でも、何処行くか決まってないんだ」

 

 由比ヶ浜が最後まで言い終わってからちらっとこちらを見た。すると由比ヶ浜の顔をマジマジと見つめる俺と目が合う。がっちりと磁石同士がくっついたかのように、由比ヶ浜の視線がこちらに釘付けになった。

 

 いつも俺が気がつかない時にこうして横目に見ていたのだろうか。少なくとも妹から直視できない顔面をしていると言われた事はないのだが、それは身内贔屓というやつで実は3秒以上見ていると目が腐るとか言われているんじゃ。

 

 試しに目が有った状態のまま、暫く視線を交錯させてみる。

 

 1秒、2秒、3秒。3秒目を数え終わる前に由比ヶ浜が俺との間に携帯電話のバリケードを作った。

 

「ひ、ヒッキー、こっち見過ぎだし!? な、な、なにしてんの!?」

 

 顔は見えないが慌てている様子は伝わってくる。つまり、俺に見られているというのは慌てて顔を隠したくなる程不愉快という事か。

 

 ターゲットを由比ヶ浜から雪ノ下に切り替えて同様の実験を試みる。チャンスはそう待たずに訪れた。由比ヶ浜の狼狽に反応したのだろう。文庫本から一瞬だけ持ち上げられた視線を捕まえる。

 

「比企谷君、貴方の視線は既に猥褻物の領域に踏み込んでいるのだけど。それを他人に向けるという事について、……ちょっとこっちを見ないで貰えるかしら」

 

 由比ヶ浜程の拒絶反応ではないが、言葉通りあまり愉快そうには見えない。最初から笑顔を向けられたりは期待していなかったが、女子2人の反応が揃ってこうだと落ち込みたくもなる。

 

 俺は昨日の由比ヶ浜と同じように溜め息をついて読書に戻ったが、誰も構ってはくれなかった。くすん。

 

 そのまま読書を続けること暫く。由比ヶ浜が雪ノ下にも職場見学の話題を振ったり、それに煩わしげに雪ノ下が答えて時間が過ぎていった。

 

 何やら途中雪ノ下がシンクタンクという場所を希望しているという話を小耳に挟んだが、話に参加していたら雪ノ下に由比ヶ浜同様馬鹿にされている所だった。やはりぼっち最高。沈黙は金である。

 

 そうして読書に没頭していると、時間はあっという間に過ぎてしまう。過ごしやすい季節のここがちょっとした難点だ。

 

 丁度今のように天敵の接近に気が付かなかったりするからだ。

 

「御機嫌よう、雪乃ちゃん、比企谷君、由比ヶ浜ちゃん。元気してるかね?」

 

 ガラガラと音を立てて扉が開かれると、その向こうには雪ノ下さんの姿が。スリッパを履いてるくせに足音一つ立てないとか暗殺者かよ。

 

 その脳内ツッコミが終わるよりも先に雪ノ下さんは教室の中に進入すると、部長である雪ノ下に断りも入れず俺の隣に椅子を用意して着席した。

 

 いやいや、近いよアンタ。びっくりする。由比ヶ浜よりも戸塚よりも距離感近いとかどうなってんの?

 

 肘が触れ合うような距離に接近されたことに驚きつつも、椅子を引いて冷静に距離を取る。

 

「どうして姉さんがここにいるのかしら?」

 

 雪ノ下が氷のように冷たい声で問うと、雪ノ下さんはそれと拮抗する冷たい声を出して応酬した。

 

「雪乃ちゃんの監視と、比企谷君へのお詫びを兼ねてかな。昨日お母さんに言われたの。暫く放課後は一緒にいるようにって」

 

 カウンターは深々と雪ノ下の体に突き刺さる。たった一言で雪ノ下は意気消沈してしまった。

 

 昨日は余程酷い目に有ったらしい。

 

「比企谷君のお陰で謹慎は解かれたんだけど、やっぱり責任が無いわけじゃないってさ。それに去年の事故の事も有るしね」

 

 そうは言うが、年頃の男女を近い距離で置いておく理由としては不十分だ。如何にも胡散臭い雪ノ下さんの口から告げられた事も有るし、前者は本当の事だろうが、後者はそうは思えなかった。

 

 本当だったとしたら、多分俺と雪ノ下の接触を減らさせる目的も有るのだろう。あそこのお宅の子と仲良くしちゃいけません的なあれである。その為の防波堤として雪ノ下さんを派遣した。

 

 引き起こされた事件と、昨日の俺の挑発で俺と雪ノ下の間柄でも勘ぐられたのだろう。

 

「いやー、お姉さんも結構大学大変なんだけど、そうも言ってられないよ。という訳で暫くの間よろしくね」

 

 とはいえ、ここまで突っ走る雪ノ下さんを止める動機もない。暗黒微笑を浮かべる雪ノ下さんには逆らえないし。

 

「あ……、う……」

 

 有無を言わせない電光石火の電撃強襲作戦によって、トップである雪ノ下を抑えられてしまった以上、構内立ち入りの許可が下りてんのかとか、部活に参加するってそんなの出来んのかといった文句も意味を成さないだろう。その気になったらこの人本気で許可を取ってきかねないしな。

 

 こうして再び奉仕部は雪ノ下姉妹の抗争の舞台になった訳だが、やはり美女には運命力とでも言うものが有るのか。気まずい雰囲気を割ってドアをノックする音が聞こえてきた。

 

 この段階でまず平塚先生という可能性は潰えた。あの人はノックをしない。雪ノ下が口喧しい母親のように口を酸っぱくしても無駄だったのだ。良い人なのに、いい大人になりきらない辺り親しみを覚えればいいのか、残念な人だと憐れめばいいのか。

 

 見ず知らずの人間がこの場に加わることで、この居た堪れない空気の被害者になってしまう事は本来憂慮すべき事態だが、この際そんな理想論を唱えている場合ではない。悪いが犠牲になってもらうぞ!

 

「どうぞ」

 

 来客の際は今まで雪ノ下が入室の許可を出すのが常なのだが、勝手に返事をしてしまう。

 

 入室してきたのはイケメンだった。葉山という名のイケメンだった。やったぜ、葉山今日からお前の事はクソイケメンと呼んでやってもいい。

 

 由比ヶ浜などというキョロ充的なリア充などではなく、真のリア充、リア充オブリア充葉山隼人。こいつならば前後の文脈も無視していい感じの雰囲気を構築してくれるに違いない。

 

 何だったらイケメン特有の運命力を駆使して、俺以外のメンツが抱える問題を根こそぎ解決してくれたっていい。

 

 そんなクソイケメン葉山隼人は、運動部員なら誰しもが持っているような無個性なエナメルバッグを肩に担ぎ、ガムのCMに出てくる俳優の様に爽やかな笑顔で。

 

「やあ」

 

 などと挨拶をした所で驚きに声を上げた。

 

「陽乃!? どうしてここに?」

 

 葉山のイケメンは伊達じゃないらしい。まさか俺の願望以上の強い因縁が雪ノ下さんと葉山の間には有るようだ。ということはそう低くない可能性で。

 

「……、やっぱり雪乃ちゃん……」

 

 誰に聞かせるつもりもない独白のような音量だったが、確かに雪ノ下の名前を呟くのが聞こえた。そう喜ぶと同時に、この場面の危険性が俺の予想以上だという事にも気付かされる。何せあの無茶苦茶な三浦とつるんでいて葉山が動揺したという場面など見たことも聞いたこともないからだ。

 

「どうしたの? 隼人。用があるんだったら私の事は気にしないで話をしたら?」

 

 驚きの余りエナメルバッグの肩紐を二の腕に引っ掛けたまま停止した葉山に声を掛けたのは雪ノ下さんだった。

 

「あ、ああそうだな。そうさせてもらうよ」

 

 葉山はぎこちなく頷くと、何処か固さのある笑顔を作った。つまり全然いつも通りを装えていないという事だ。

 

 葉山はそのまま教室内を歩くと依頼者の為に置いてあった椅子に腰掛けた。視線は雪ノ下さんでも、由比ヶ浜でも、ましてや俺でもない。雪ノ下に心配そうに注がれている。そしてついと雪ノ下さんの方を見た時には一瞬、ほんの僅かに眉を顰めてみせた。

 

 あれは怒りの反応という事で正直に受け止めていいものだろうか? 少なくとも葉山の態度からしても雪ノ下と初対面などということはあるまい。

 

 葉山は雪ノ下さんとは敵対関係に有るという事か? いや、流石にそこまでの明確な対立は有るまい。でなければ雪ノ下さんの言う事に大人しく頷くわけがない。

 

 だが、あの雪ノ下さんに向けられた視線。とても親愛が込められた物とは思えない形相をしていた葉山。そして、雪ノ下を見てからの反応というタイミング。

 

 あの理解不能なモンスター三浦を手懐ける葉山ですらここまでの動揺を見せるなんてな。

 

 俺は意味もなく手に汗を握りながらこの場の行末を見届けることにした。

 

「えっと、ここは奉仕部で有ってるんだよな? 平塚先生に悩み事を相談するならここだって紹介されたんだけど」

 

 その言葉に反応すべき雪ノ下は顔をあげようとすらしない。てか何なの? 昨日までの雪ノ下とは別人の様な覇気の無さ。たった一晩で尊厳を粉々にされたとしか思えない有様なんですが。テニスコートで挑発した時のそれよりも更に無残な状態だ。

 

 昨日の雪ノ下母の口振りが、先日の病院での雪ノ下の吐露が脳内にリフレインする。両親は姉さんには期待しているとか言ってたけど、こいつ自身が同じように期待されたいと思っていた存在に、あんな風に言われたとしたら。

 

 頭を抱えたくなるというのは正にこの事だろう。俺の軽率な言動のお陰でどんどんと雪ノ下が追いつめられてしまっている。誰にも迷惑を掛けず社会の隅っこでひっそりと消滅したいという俺の願いに反してである。

 

 

 

 全くそんな積りもないのに次々と積み上がっていく借り程気分の悪いものもない。

 

「ああ、それで合ってるよ。それで悩み事ってのはなんなんだ?」

 

 葉山がどうにかしてくれる。とは思いたくない。俺が作った借りは俺が返さなければ気が済まないからだ。その為にもこいつの依頼は速攻で終わらせる。

 

 決意を新たにして、雪ノ下の代わりに話を進めていく。

 

 俺が口を開いたことに葉山は最初、面白くなさそうな顔をした。大方気になっている女子が落ち込んでいるんで、自分の話をしつつ力になってやりたい所に普段から反抗的な態度を取っている男に邪魔をされるのが面白くないのだろう。だが誠に申し訳ないが、そんな事は俺の知ったことではない。

 

「これなんだけど」

 

 葉山もムッとした顔を見せはしたものの気を取り直して、ポケットから取り出した携帯を差し出してきた。俺と由比ヶ浜が画面を覗き見ると、そこには名指しで人の中傷を行う文章が書かれていた。

 

「あっ」

 

 由比ヶ浜が小さく漏らした声。

 

 話を聞くと由比ヶ浜の携帯にも同様のメールが来ているらしい。

 

 しかも、由比ヶ浜の携帯にはそれ一つきりでなくいくつもいくつも似たような内容のメールが届いていた。

 

 差出人を見ると殆どは捨てアドだが、中には名前が表示されているものも有り、由比ヶ浜の友人が転送しているものも含んでいた。詰まる所所謂1つのチェーンメールという奴である。

 

 いや、こんなんが未だに世の中の人間によって行われているとは。まだ小学校に上る前にワイドショーでネタになってたような行為だぞ。

 

 そう俺なんかは思ってしまうのだが、これはあくまで傍観者の感想だ。当事者にほど近い人物である葉山や由比ヶ浜の表情は悪意に対する疲労を示していた。

 

 見えない第3者に誹謗中傷される行為というのは、はっきりと行為者の分かるそれとは違うらしい。

 

 俺なんか教室でしょっちゅう陰口を叩かれているが全く気にかからないのだから間違いない。

 

「こいつのせいでクラスの雰囲気も悪くなってるし、友達の事を悪く言われて俺も腹が立ってる。止めたいんだよね」

 

 流石イケメン。友人の為に義憤しているらしい。だが、こいつのイケメン具合が半端ではない証左に、こんな事まで言い始める。

 

「犯人探しがしたい訳じゃないんだ。丸く収める方法を知りたい」

 

 俺はもう葉山は実は宇宙人なんじゃないかと思ったね。こんな不愉快極まる状況に置かれて、それでも悪意ある第3者を気遣うなんて誰にでも出来ることじゃあない。

 

 これも葉山隼人という人間が俺なんかとは比べ物にならない器のデカい人物という事なのだろう。

 

 俺はすっかり葉山に感服してしまっていた。

 

「じゃあ、犯人を突き止めるしかねえな」

 

 七面倒臭いやりとりなど御免被りたい。この件について反論をしようとする葉山を黙らせるために話を進める。

 

「時間が掛かるし他人の協力もいるが確実に犯人を特定する方法と、動機から犯人を推定して犯行の事実で脅して止めさせる方法の2つが有るな」

 

 どちらも同時に実行できる手段だが、それならば時間のかからない方から試みるか。

 

 一緒にいるとは言ったものの加わる気のなさそうな雪ノ下さんと、雪ノ下の2人を蚊帳の外に置いたまま、俺はこちらを見る由比ヶ浜と葉山に語りかけた。

 

「前者はこのメールが来たやつ全員を見つけて、メールを着信した時系列や人物から辿る方法だ。3人しか被害に遭ってないところを見ると多分メールの拡散した範囲もクラスに留まってる筈だ。転送されたメールなんかを省いていって確実に犯人から送信されたメールの受取人全員のアドレスを知ってる奴が犯人だ。後者は動機や目的から推測する方法。このメールで3人を中傷することにどんな意味が有るのか。その目的、発生した時期なんかから絞り込む。こっちは早けりゃ今日中に犯人を特定できる」

 

 俺に話を聞くつもりがない事を理解すると、葉山もしつこく食い下がりはしなかった。

 

 あっさりと話に乗ってくる。

 

「メールが送られ始めたのは先週末からだった。だよな結衣?」

 

「うん、私の所に来たのもその位だったかな」

 

 葉山の口振りじゃ先週の間にその話題が話題に上ったみたいだが、それなら少なくとも金曜の放課後までには第1弾が送信されているという事だ。

 

「このメール自体の目的は論じるまでもない。3人の体面を傷付けることだな。この3人てどんな奴なんだ?」

 

 戸部は分かるが、大岡と大和はうちのクラスの人間って事しか俺は知らない。戸部と仲の良い2人と言えば葉山のグループのあいつらなんだろうが。

 

「全員同じ部活か? それとも同じ趣味とか? 友達でもいい共通点は有るか?」

 

 男の事なので葉山の方が詳しいだろうと葉山に尋ねると困惑した様子が見て取れた。

 

「3人共いつも俺と一緒にいるんだけど」

 

「じゃあ最終目標はお前だな」

 

「ええ!? どういう事だよそれ?」

 

「他に共通点の無い3人の男子がこうしてチェーンメールの標的にされて、それが全員お前の友人だなんて偶然だと思うか?」

 

 由比ヶ浜の携帯に届いていたメールは1通や2通じゃない。全てが3人を標的としていて、これをまだ確認を取っていないが10数人にバラ撒いたとしよう。無差別に選ばれた標的がここまで明示的な繋がりを示すことが有るだろうか?

 

「この3人の部活は?」

 

「戸部は同じサッカー部、大和はラグビー部で大岡は野球部だ」

 

「放課後とかお前がいない時でも3人は一緒か?」

 

「分からない」

 

 同じグループの由比ヶ浜ならどうだろう。

 

「えっと、どうだろう? 優美子とかと一緒にいる時は大体隼人君も一緒にいるし。……でも、考えてみるとあんまり3人で遊んでるとかって聞いたことないかも」

 

「つまり3人が、この3人だけで恨みを買う機会もないって事だ。そんでもってチェーンメールの標的がどうなるかっていうと」

 

 雪ノ下みたいに孤立した人間を発生させる訳だ。

 

「こういうのも離反工作っていうのかね。このメールはお前と3人を引き離す目的で送られたんだろう。つまり犯人はお前らと3人がそんなに仲良くないって事まで知ってる、あるいはそう思ってると考えられる」

 

 新学級がスタートしてから1ヶ月経って、グループの形成は完全に終わっている。今は成熟期間と言った所だが、リア充連中の仲良くなる速度ってのは信じられない物が有るからな。傍目にしか知らない俺は兎も角、一緒のグループに所属していて、今の今までメンバー間の結束の弱さに気が付かなかった由比ヶ浜が存在することを考えると犯人はかなり絞られる。

 

「葉山、この何日かでお前に近寄ってきた人間は?」

 

「は?」

 

「お前と仲良くなりたそうにしてた奴は居るかって意味だ」

 

 葉山と3人を引き離して、この犯人は何をするつもりなのか。恨みという線がないのなら、その目的は葉山に取り入るというのが最も有力な候補だろう。

 

 だが、葉山にそう聞いてみても反応は良くなかった。

 

「いや、そういう人はいなかったと思う」

 

 つまりまだそのタイミングにないと思ったのだろうか? しかし、こいつが今日ここに相談に来たように、葉山と3人の間に有る隔たりは大きくはなっていない。手をこまねいていれば却ってグループの結束は強くなると思うのだが、果たして犯人がそこまでの予想も出来ない馬鹿かどうか。そもそもこんな事を考えつく段階で大概馬鹿なのだが。

 

 他に犯人を推測できるような材料がないか考えていると由比ヶ浜がこんな事を言い出した。

 

「戸部っち達も隼人君と仲良くしてただけなのにどうしてこんな事する人がいるんだろう」

 

 優しい由比ヶ浜らしい感想だ。しかし、こんな事はそう珍しい事でもない。好きな人が自分以外と仲良くしていればそれを妬まずには居られないのが人間だ。雪ノ下しかり、この犯人しかり。そしてきっと由比ヶ浜や葉山ですら例外ではない。雪ノ下さんなんかはそれはもうこの犯人が真っ青になりそうなえげつない手で嫉妬を表現しそうですら有る。

 

 そして嫉妬といえば、雪ノ下には似たような過去が有ったはずだ。

 

 確か友達が好きな人が雪ノ下に告白したのだとかそんな話をしたような気がするが。

 

 俺から言わせればそんなもの友達ではないような気がするが、友達同士ですら嫉妬の対象となるものなのだ。勿論俺も単に嫉妬する事までは有ると思うが、それを実行に移すとなると余程希薄な友情を結んでいたとしか。

 

 ああ、なるほど。

 

「お前と仲良くなりたがっていて、グループ全体がそれほど仲良くないことを知っていて、3人をお前から引き剥がしたがっている奴か」

 

 しかし、最後の1つはまだ材料が弱い。どうして4人ではいけないのか。どうして3人じゃなくてはいけないのか。

 

「3人か。2人でも4人でもなく3人。何か3人組って数字で思いつくもん有るか?」

 

 4人組ではいけないし、折角他人を出し抜くつもりが有るならいっそ葉山と一番仲良くなれた方が良いに決まっている。だったら犯人があいつらの中に居ても葉山に取り入ろうとはするだろう。しかし、犯人はその素振りを見せず、誰か1人が省かれればそれで良いと思っているかのようだ。

 

 だったら確実に3人という数字に意味が有る筈だ。それも学外での3人を葉山がよく知らないというので有れば、確実に学内でのイベントだ。

 

「3人ていうと職場見学が3人1組だけど」

 

「それだ。あー、グループ分けのせいだ」

 

 ぼやっとした由比ヶ浜も正解に辿り着いたようだ。本人も何かグループ分けに苦い思い出が有るのか、由比ヶ浜は少し陰鬱な表情をする。

 

「そんなことでか?」

 

 いまいちピンと来ない表情の葉山。由比ヶ浜より鈍いとは思えないが、友人への信頼が盲目にさせているのかもしれない。

 

 そのお陰で偶然だが、葉山の要望に(一見)適う展開になりそうだ。解説しようとする由比ヶ浜の方を叩いて制する。

 

「葉山、3人についてお前の口から少し聞かせてくれ。それぞれどんな奴なんだ?」

 

 釈然としない顔の葉山だったが、悪いようにはしないと誓うとそれで納得してもらえたが。流石度量が広い方は違う。

 

 そんな葉山の口から語られる3人の人物像も葉山という人物の主観が、いかに善人かを知らしめるような内容だった。

 

 友人の性格を彼処までポジティブに捉えられるなんてな。俺なら例え友人でも良くないところしか口に出来そうにない。つくづく人間としての格の違いを感じさせる野郎である。

 

 だが、これで推理の材料は出揃った。面倒なんでいっそ3人共脅迫して犯人を燻り出そうかとも思ったが、そんな手間をかけずに済む。

 

「比企谷君は凄いねー。もう解決策思いついちゃった?」

 

 漸く口を開いたかと思えばこんな事を言い出す雪ノ下さん。その賞賛には他意が有り過ぎて喜ぶ気にもならない。

 

「こんなのはただの偏見と妄想ですよ。実際に当たるまではね。それに当たった所でどうということもないでしょ」

 

 それに真面目に犯人を探したいというのなら迷うこと無くメールアドレスからの捜査をすべきだ。主観に主観を重ねた捜査なんてのは嫌いな奴を吊るしあげるための手段でしかないのだから。

 

「言うねえ、比企谷君。確かに今回のはそういう所が強いみたいだけど」

 

 犯人の特定だって科学的プロファイリングが行われているわけではない。勘という名の当てずっぽうと言っても良い。

 

 だが、そんなものは些末事だろう。

 

「それに、俺が何やった所で結局の所は犯人の人間性に掛かってます」

 

「犯人のこと信じてるんだ。比企谷君ってばやっさしいー」

 

「何でそうなるんです? 犯人が犯行を止めなかったら止めるとこまで追い込めばいい。そもそも犯行のスタイルから言っても自分の犯行がバレるのは避けようとしているみたいですし」

 

 直近に迫った職場見学のメンバー決めという問題に対して、チェーンメールという時間の掛かり過ぎる解決策を選ぼうとする辺り、この犯人も必死さが足りていない。

 

 同じチェーンメールを回すにしても葉山の性格を知っていたら、俺なら全く関係ない生徒数人と自分を標的にして葉山の同情を買う作戦を立てるね。そんでもって葉山の前でこう言えばいい。

 

『職場見学のメンバーの中にこれの差出人がいたらどうしよう』

 

 とかな。もしくは『間違ってもそうはなりたくないから自分と組んで欲しい』でもいい。事情が有れば極自然に他2人より優勢に立てるという訳だ。

 

 これでも確実性が低いのでもっと別の策を用意した方がいいとは思うが。

 

「うんうん。比企谷君らしくて安心する一言だね。私は止めないけど2人はそれでいいの?」

 

 俺らしさという物がどういう認識をされているのか、雪ノ下さんに聞いてみたくなったが止めておいた。俺だって雪ノ下さんらしさを聞かれても困る。主に口に出来ない単語のオンパレードが原因で。

 

「俺は比企谷君を信じるよ」

 

 葉山は雪ノ下さんの問いにあっさりと同意した。いやいや、俺のことなんか信頼されても。とは言い返さなかった。今まで殆ど会話らしい会話など無かった俺と葉山の間で信頼という言葉が用いられたならば、それが嘘だという事が明らかだからだ。言ってみればジョークのようなものだ。その面白さが分からなくても決して聞き出そうとしてはいけない。

 

「私は、……ゆきのんはどう思う? ……ゆきのん?」

 

 由比ヶ浜は、嫌そうな表情をしていた。友人を真っ向から疑って掛かるのだから、まあ良い気はしないというのは俺にだって理解できる。それにこいつはこういう行為の対象として自分が選ばれたとして、その犯人までが明らかでも糾弾にまでは及ばない臆病さみたいな物を感じさせる奴だ。自分を押し殺してでも笑っている。そういうスタンスの優しさだ。

 

 そんな由比ヶ浜とは対称的な性格の雪ノ下は、水を向けられて迷いなく頷いた。

 

「そうね、それで構わないと思うわ」

 

「本当に?」

 

「ええ、私でも同じように推理したと思うわ」

 

 何処か雪ノ下らしさを感じさせない機械的な同意に、由比ヶ浜が食って掛かってもその態度は変わらなかった。

 

 葉山が来てから初めて言葉を発したというのに、雪ノ下はそんな自分がいつもと変わりないと主張しているのだ。如何にも無理がある話だったが、雪ノ下は頑なだった。

 

「そういう事じゃないのに」

 

 ぼそっと呟く由比ヶ浜。拗ねた響きは間違いなく取り合おうとしなかった雪ノ下に対するものだろう。いつもなら、こんな風に言われると雪ノ下はおろおろと取り乱したように振る舞うのだが。 

 

「それじゃ、作戦決行は明日の昼休みで」

 

 時間を確認すると葉山の来訪から既に1時間近くが経過していた。日が長くなってきていると言っても既にとっぷりと日が暮れて辺りも暗くなっている。これ以上の進展も仕掛けも今日は出来ない以上解散の流れで問題無いだろう。

 

「比企谷君は本当に優秀だね」

 

「心にもないこと言ってないで、雪ノ下さんはもう帰って下さい。雪ノ下とちょっと話したい事が有るんで」

 

 俺に対する皮肉であり、雪ノ下への嘲り。葉山の退出後、鞄を肩に掛けた俺に、にやっと笑いながら見え見えな当てこすりをしてくる雪ノ下さんには冷たい対応をしておく。

 

「私、一応雪乃ちゃんの監視を頼まれてるんだけど」

 

 一ミリも母親からの命令に対する忠誠心を感じさせない雪ノ下さん。俺の勝手、というか俺と雪ノ下の接触を見逃す見返りでも要求されているのだろうか。不穏なワードに雪ノ下の方が震えた。

 

「俺が出来る範囲で何かやらせてもらいます。それじゃ納得頂けません?」

 

「いいよー。でも雪乃ちゃんの為に比企谷君がそこまでのするなんて、ちょっとジェラシー感じちゃうかな」

 

 試しにてきとうな提案をしてみたが、対価はそんなもんでも構わないらしい。それよりも顔を近づけて聞かされた発言の後半部分が引っ掛かる。

 

 言ってみれば俺自身の戦後処理みたいなものだというのに、一体何処に羨むような所が有ったのだろうか。大方また出鱈目な事を言っているのだろうが、文脈的な妥当性から導かれただろう言葉には納得しかねるところがあった。

 

 まあそれは置いておこう。雪ノ下さんの許可が得られた。それでよしとするのだ。

 

 しかし、雪ノ下さんがこういうという事は、命令違反がバレるリスクが低いという事だろうか。雪ノ下へのお説教は昨日ので一段落したと考えても良いのだろうか。

 

 だとしたら、そう確信できるだけの干渉を受けた雪ノ下に、いつかのような闘争心を取り戻させてやることが俺に出来るのだろうか。

 

「それじゃ、またね」

 

「ヒッキー、ゆきのんの事お願いね」

 

 申し訳ないが由比ヶ浜には先に帰ってもらうよう頭を下げて教室から見送ると、俺は椅子に腰掛けたままだった雪ノ下にこう言った。

 

「それじゃ、悪いけどちょっと付き合ってくれよ」

 



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