聖闘士星矢~ANOTHER DIMENSION 海龍戦記~改訂版 (水晶◆)
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プロローグ/CHAPTER 0 ~a desire~

2021/2/26 誤字修正。ご指摘ありがとうございました。


 ――西暦1014年。

 

 冥界の王――冥王ハーデス。

 

 冥王に付き従いし戦士たちは冥闘士(スペクター)

 神話の魔獣を模した冥衣(サープリス)と呼ばれる鎧を身に纏い、地上に生を受けながら、魔星の宿命に従いハーデスを守り戦う者。

 

 地上界の護戦者――女神アテナ。

 

 女神の下に集いし戦士たちは聖闘士(セイント)。星座を模した聖衣(クロス)と呼ばれる鎧を身に纏い、アテナと地上の平和を守るために戦う者。

 

 神話の時代より繰り返された神々の意思(ビッグウィル)を宿した“人間たち”による地上界に住む人々の存亡を賭けた戦い――聖戦がここに一応の幕を閉じた。

 

 冥王の野望――地上に住む人々の尽きぬ悪行に絶望したが故の粛清――を防いだ、という点ではアテナの勝利とも言えたが、多くの犠牲を払ってもなお冥王ハーデスを滅ぼせたわけではなかった。

 

 冥王ハーデスが支配する冥界は死者の国。

 神話の時代より多くの神々の力の及ばぬ世界であり、それは戦女神たるアテナも同じ。

 冥界に乗り込めぬアテナ側は、ハーデスが冥界に隠した真の肉体にまで手を出す事が出来なかった。

 

 ハーデスが地上に干渉する為に用意した“依り代”――神々の意思を宿せるだけの器を持った人間――を、どうにか出来ただけに過ぎなかったのだ。

 

 とはいえ、ハーデスの――神々の意思を宿せるだけの――器を持った人間など早々現れるはずもなく。

 

 冥闘士は死の概念から解き放たれた存在ではあったが、それもハーデスの力が及べばこそ。いかに彼らとはいえ、ハーデスの力無くして死の概念から解き放たれる術は無い。

 加えて、アテナの加護を受けた聖闘士たちや教皇がその命を賭して施した封印により、少なくとも二百十数年はハーデスの力が地上へと干渉する事も無い。

 

 神々から見れば二百数十年など些細な時間にすぎなくとも、この今を生きる人々にとってはかけがえのない時間である。

 

 

 

 苛烈を極めた戦いの傷跡は深い。

 聖戦に参加した多くの聖闘士が倒れ、若くしてその命を散らし、女神アテナでさえもがその力を使い果たし、今は長い眠りについている。

 そして、聖闘士の最高位であり最をうたわれた十二人の黄金聖闘士(ゴールドセイント)もその数を三人にまで減らしていた。

 後に史書に残されていた記録により判明した事であるが、この時聖戦に参加した聖闘士は教皇や黄金聖闘士も含めて七十一名。

 聖戦後にその生存が確認されたのは僅か七名であった。

 

 

 冥王の力による陽の昇らぬ朝、明けない夜は、雲の切れ間より差し込む陽光と共に終わりを告げた。

 闇がふり払われ、平和を取り戻した地上には再び光が差し込み。

 枯れ果てた森からは新緑が芽生え、隠れていた獣たちがその姿を現す。

 河川は流れを取り戻し、誰かが見上げた空には、鳥たちがその翼を広げて悠々と舞っていた。

 陽の光に誘われた子供たちの、どこかで生まれた赤子の声が、生命の躍動が人々の心を安らぎで満たしていた。

 

 誰もが感じていたのだ。

 

 戦いは――終わったのだと。

 

 

 

 

 

 CHAPTHR 0 ~a desire~

 

 

 

 

 

 季節はうつろい時は流れる。

 

 多くの戦士たちの命が散った聖戦の終結より一年。

 先達を失い、仕え、支えるべきアテナが長き眠りにつき、聖域を導くべき教皇の座も空位となっていた。

 この為、その運営に多くの支障を抱えていた聖域(サンクチュアリ)であったが、生き延びた者たちや次代を担うべき若き力たちの尽力もあって、どうにか再建の目処が立てられるまでには落ち着きを取り戻しつつあった。

 これには、聖戦以前から次期教皇と見なされていた双子座(ジェミニ)の黄金聖闘士カストルが生還を果たしていた事も大きい。

 支柱になる者の存在は、多くの犠牲を払った聖域にとって不幸中の幸いであったと言える。

 

 前教皇の遺志と聖域の人々に望まれた事もあり、新教皇となったカストルはその人望と優れた手腕によって新たなる聖域を纏め上げていた。

 聖闘士候補生達も良く育ち、次代を担うに相応しい才覚を発揮し始めた者もいる。

 この事は、今は亡き射手座(サジタリアス)の黄金聖闘士アルナスルが残した成果によるところが大きい。

 アルナスルは聖戦以前から後進の育成について意欲的であり、また、当時の聖域において目前に迫っていた聖戦の“その後”を見据えていた数少ない人物の一人であったのだ。

 

 そうしてしばらく後、カストルが教皇の補佐役たる助祭長の職に任命した祭壇座(アルター)白銀聖闘士(シルバーセイント)エイリアはもまた、アルナスルが見出していた若者たちの一人であり、つい先日に聖衣を与えられたばかりの十四歳の少年であった。

 

 過ぎ行く季節が樹々の葉を落とし、花を散らせ、そしてまた芽生えさせる様に。

 若き力に満ちた聖域は、再生を経て新生への道を進もうとしている。

 

 

 

 それは日も暮れ始めた頃。

 今や日課となった聖闘士候補生たちの訓練の視察を終えて“十二宮”、その先にある“教皇の間”へと向かっていたエイリア。

 その彼を呼び止めたのは、先程の視察の中でも特に気にかけて見ていたグループにいた少年であった。

 聖域には指導者が不足している事もあり、基本的な訓練は一人の教育者に対して十数人のグループ毎に行われている。

 その中でも、その少年がいたグループの者たちは多くが早くも小宇宙(コスモ)の片鱗を感じさせていた事もあって、エイリアも注目をしていたのだ。

 

 小宇宙(コスモ)――全ては一つの塊から始まった。

 星も、銀河も、命さえも。宇宙は一つの塊から爆発(ビッグバン)によって誕生したものであり、故に己という存在も爆発(ビッグバン)によって生まれた小さな宇宙の一つ。

 真の聖闘士はそれを理解し、己の体内にあるその小宇宙を感じ取り、高め、燃焼し、爆発させることによって超常の力を発揮する者。その拳は空を引き裂き、その蹴りは大地を割る。

 聖闘士の強さは己の内なる小宇宙をどこまで高められるか、どれ程大きく爆発させられるかに尽きる、と言っても過言ではない。

 

 

 

「手紙、ですか?」

 

「はい。実は、ボクは家族と――父さんと口論の果てに故郷を飛び出してしまったので。せめて母さんだけにでも近況を知らせたいと」

 

「……ふむ」

 

 そう呟くと、エイリアは口元に手を当てて瞑目した。

 少しクセのあるブロンドの髪が風に揺れる。

 それだけで華になる美しさがエイリアにはあった。

 もっとも、本人は自分の小柄な体格と少女のような容姿を快くは思っていない。

 こうした仕草にしても、若くして助祭長となった自分に少しでも威厳や貫禄のようなものがつけば、との思いで始めたのだが……。

 その成果の有無については、エイリアのその姿に見入ってしまったこの聖闘士候補生の少年が雄弁に物語っている。

 知らぬは本人ばかり、である。

 

「……その、規律に反している事は分っているのですが……」

 

 黙したまま語ろうとしないエイリアに対して明らかに委縮した様子で少年が続ける。

 

 聖闘士を目指す者はその修行中は外界との接触を大きく制限される。

 家族との連絡を行う、という行為も制限の対象であった。

 聖闘士は超常の力をもって地上の愛と正義を守る者。

 その修行は過酷を極める。命の危険などあって当然であり、むしろ本格化する修行では死と隣り合わせでもある。

 世俗の情を断つ。その程度の意思と覚悟すら持てないようでは到底耐える事などできはしない。無駄に命を散らすだけ。それが古くからの聖域の考えである。

 エイリア自身もその事に対して思うところは――。

 

「分っているのならば、是非を問うまでもないでしょう」

 

 凛とした声でハッキリと。

 少年の目を真っ直ぐに見つめてエイリアは言った。

 覚悟はしていたのであろうが、やはり面と向かって否と言われた事に堪えたのか。

 

「申し訳ありません」

 

 失礼致しました、と。そう続けて一礼し、踵を返す少年の足取りは、本人は隠しているつもりであるのだろうが明らかに――重い。

 

「……ああ、そうでした」

 

 背後から聞こえた声に少年の足が止まった。

 周囲には他に人影はない。

 ならば、これは自分に声が掛けられたのだと、少年はエイリアへと振り返った。

 

「……私の記憶が正しければ、君の出身はサロネ村でしたか?」

 

「あ、は、はい。そうです!」

 

 助祭長、そして正規の聖闘士であるエイリアが、自分のような一候補生の故郷の事を知っていてくれた。

 その事が少年の心を高揚させ、返事にも力がこもる。

 

「あの村の近くでは、他の土地にはない珍しい植物が育っています。薬草の一種なのですが、昨日切らしてしまいましてね」

 

「え? え、ええと……」

 

 故郷を必死に思い出そうとするが、少年にはその様な薬草の心当たりはない。

 ひょっとすれば聞いた事があったかもしれないが、草木を愛でるよりも走りまわる事が好きだった自分が気に留めているはずもない、と結論に至る。

 

「すみませ――」

 

「あの辺りの地理に詳しい者が皆出払っていまして」

 

 すみません、と。

 少年が口にするよりも速くエイリアは続ける。

 

「君さえ良ければサロネへの使いを頼みたいのですよ」

 

 

 

 勢いよく駆け出して行った少年の背中を見送ったエイリアは、やがて人知れず深く溜息をついていた。

 エイリアが少年に言った言葉は彼に口実を与えるための嘘ではなかったのだが、急を要する用事ではない。

 全ては詭弁に過ぎなかったのだ。

 

「まったく、お前は甘過ぎる」

 

 そんなエイリアの身体を、背後からぬっと巨大な影が覆った。

 

「万事がその様では他の者に示しがつかんぞ?」

 

 そう言ってハハハハと、豪快に笑いながらエイリアへと近付くのは隻腕隻眼の巨漢であった。

 

「……どこから見ていらっしゃったんですか?」

 

「フッ、それに気が付かんようではお前もまだまだ修行が足りん」

 

 先の聖戦を生き残った黄金聖闘士の一人、タウラスのエルナトである。

 百を超える冥王の冥闘士、その三十近くをただ一人で打ち倒した聖闘士。

 三十二歳という聖闘士としては高齢であり、聖戦の中で右目と利腕であった右腕を失っているが、それでもなお、だからこそ今でも“闘将”と呼ばれ続けている男である。

 

「面目ありません」

 

「気にするな、とは言わん。だが、まあ……」

 

 父親が子供にそうするように。

 

「オレはそういう甘さは嫌いではない」

 

 くしゃりと、エルナトは項垂れたエイリアの頭を撫でた。

 

 

 

 

 

 十二宮。

 黄道十二星座を基にした白羊宮から双魚宮まで続く十二の宮である。その先は教皇の間とアテナ神殿へと続く聖域の要とも言える砦である。

 その十二の砦を守るのは聖闘士の最高位であり最強の黄金聖闘士たちであった。

 

「教皇様ですか?」

 

「ああ。大した用ではないのだが。カスト――いや、教皇に少々、な」

 

 今はその多くが無人となった十二宮を繋ぐ長い階段を二人は並んで歩く。第一の宮である白羊宮を過ぎ、エルナトの守護する金牛宮を抜けてその先へと。

 

 夕日の淡い明かりに照らされ、肩肘を張る事なく自然体で話すエイリアは一見たおやかな少女にしか見えない。

 そして、豪放磊落(ごうほうらいらく※度量が大きく快活であり、些細な事には拘らない)を体現しているエルナト。

 その二人が並ぶ姿はどう見ても父と娘のそれ。

 ここに蟹座(キャンサー)の黄金聖闘士アルタルフがいれば、その姿を見て腹を抱えて笑っていた事であろう。

 その様子が脳裏にありありと思い浮かびエルナトは眉を顰める。

 

「――もう一年と言うべきか、まだ一年と言うべきか」

 

 今は亡き友たちの姿を思い出し、エルナトがぽつりと呟いた。

 我が強く、一癖も二癖もある者たちばかりであり、中には確かにその考えが理解できず、気に食わない者もいた。

 それでも、同じ場所を目指し駆け抜けた仲間であり友であった。

 

「……エルナト様?」

 

「ん? ああ、何でもない」

 

 エイリアの気づかいに、らしくない、と頭をふる。

 そうしてエルナトは目前に迫る双児宮を見た。

 

 一体いつ現れたのか。

 

 いつからそこにいたのか。

 

 

 

 そこに――男が立っていた。

 

 黄金聖衣とは異なる、黄金の輝きを放つ鎧を身に纏った男が。

 その手には身に纏う鎧と同じ黄金に輝く三又の鉾が握られていた。

 二人を上から見下ろす男の顔は(マスク)に隠れており、その素顔を窺い知る事はできない。

 男の身から発せられる強大な小宇宙は、かつてエルナトが対峙した強敵たちと、友たちと比較しても劣るものではなかった。

 

「何者ですか!」

 

 エイリアが一歩踏み出し、そう叫んだ。

 どこかヒステリックささえ含んでいたのは、それが恐怖を誤魔化すためのものであったのか。握り締めた拳が震えている。

 

「――フッ」

 

 その姿勢が虚勢であると気が付いたのか、最初からエイリアを脅威とも感じていないのか。

 側に立ち様子を窺っていたエルナトはマスクから覗いた男の口元が僅かに笑みの形を浮かべた事に気付く。

 

「答えな――」

 

 答えなさい、とエイリアが続ける事はできなかった。

 何かが光った、と。

 そう感じた瞬間、ドン、と大気が震えて瓦礫が舞っていた。それを理解した時には、既にエイリアの身体はエルナトに抱きかかえられて上空にあった。

 エルナトに支えられて着地したエイリアが見た物は、それまで二人が立っていた場所に生じた巨大なクレーターである。

 

「な、何が……」

 

 エルナトには見えていたのだろう。

 しばし呆然としていたエイリアの耳に、ため息交じりのエルナトの声が通り過ぎる。

 

「……どうやら、軽い挨拶だけのつもりであったようだな」

 

 二人が向けた視線の先、先程まで男が立っていたその場所には、今はもう何者の姿もなかった。

 

「……敵、ですか」

 

「さて、な。敵意も殺気もない相手。それを敵と決めつけるのも早計だとは思うが」

 

 二人はそう話しながら双児宮へと進む。その様子は実に対照的であった。

 周囲を注意深く警戒するエイリアに対し、エルナトは特に何かを警戒しようというそぶりさえ見せてはいない。

 エルナトには先程の男が既にこの十二宮から姿を消している事を薄々であるが感じ取っていたのだ。

 

(勘にしか過ぎん……。が、この類の勘が外れた事もないからな。しかし……あの鎧、黄金聖衣にも似たあれは――もしや、伝承に聞く鱗衣(スケイル)か?)

 

「敵意、って。実際に攻撃されたではありませんか!」

 

 エルナトの様子に、こうして気を張っている自分がどうにも間抜けのように思えてしまい、八つ当たりと分っていても、つい口調が荒くなってしまう。

 

「本気であれば、足下など狙わず心臓か頭を狙っていたであろうよ」

 

 それに、とエルナトは続ける。

 

「この地にはアテナの結界がある。確かに徐々にその効力は弱まってはいるが、だからといってそう易々と敵の侵入を許したとは思いたくはない。今後の対応が尋常ではなく面倒になるぞ?」

 

「それはエルナト様が楽をしたいだけではありませんか」

 

 危機感が足りていません、と先を行くエルナトに駆け寄りながらエイリアは続ける。

 

「由々しき事態です。この事は急いで教皇様に――っぷ!?」

 

 突然歩みを止めたエルナトに気付くのが遅れ、勢いのままにその背にぶつかってしまう。

 

「~~って、急に止まらないで下さいエルナト様!」

 

 赤くなった鼻を押さえ抗議する。

 エイリアは何事ですか、と問いかけようとして――

 

「――いや、その必要は……ない。教皇に知らせる必要はない」

 

 これまでの快活な雰囲気から一転し、厳しい表情を見せたエルナトの様子にエイリアは言葉を失う。

 何があったのかとエルナトの視線を追う様にその背中から顔を出し、先程の男が立っていた場所に古めかしい箱が置かれていた事に気付く。

 それはエイリアにも、いや聖闘士であるならば誰もが馴染みのある物であった。

 

聖衣箱(パンドーラ・ボックス)! それに、このレリーフは……天馬(ペガサス)!?」

 

 聖衣箱(パンドーラ・ボックス)

 神話の時代より聖衣を守り、保護してきた箱であり、内に収めた聖衣に応じたレリーフが施されている。

 善悪を見定める力があるとされ、収められた聖衣を身に纏う資格のない者には決して開く事がない、と伝えられている。

 

 駆け寄ったエイリアが確認すれば、その青銅の箱には天駆ける天馬のレリーフが施されていた。

 

「どうしてこんな所に? ペガサスの聖衣は、確か今はジャミールに……」

 

「いや、違う。レリーフを良く見るんだ、同じ天馬でも槍を咥えたそれはペガサスではなく――子馬座(エクレウス)だ」

 

「エクレウス!? 聖戦後に姿を消した――あのエクレウスですか? 確か、天馬(ペガサス)シェアトの弟……」

 

 天馬(ペガサス)シェアト。聖戦の最初期よりアテナの側にあり、その最期の時までアテナの側にあった男。心・技・体に優れ、やがては聖域を背負うのでは、とまで期待されていた男であった。

 

「……そうだ」

 

 エルナトは険しい表情のまま聖衣箱を見つめる。

 その頬に、ぽつりと水滴が落ちた。

 ポツリ、ポツリと。

 天から降る雫は徐々にその数と勢いを増していく。

 それは、やがてざあざあと音を立てて雨となり、聖域を濡らし始めた。

 

「雨? さっきまで雲は出ていなかったのに……。取り敢えず双児宮に入りましょうエルナト様。このままでは濡れてしまいますから」

 

「……ああ、そうだな。こいつは俺が運ぶ。お前は先に行け」

 

「え? あ、分りました。お願いします」

 

 一瞬逡巡したエイリアであったが、そう言うと双児宮へと向かい駆け出した。

 

「……雨、か。あれが鱗衣であったとするならば、この符合は――」

 

 エルナトは動かない。

 雨に濡れるのも構わず、ただじっとエクレウスの箱を見つめ続ける。

 レリーフを伝う雨水は、そんな筈はないと分っていても、まるでエクレウスが涙を流しているように見え――

 

「――これが、お前の答えか?」

 

 そう呟いて、エルナトはエクレウスの箱に手を伸ばした。

 

 

 

 

 

 スターヒル。

 聖域の奥深くに存在するその丘は代々の教皇のみが立ち入る事を許された場所である。

 教皇は十二人の黄金聖闘士の中から人・知・勇を兼ね備えた、いわば最も優れた者が前任の教皇より任命される。

 任命を受けた黄金聖闘士はその座を後進へと譲り、十二宮の奥にある教皇に間においてアテナの名の元に各地の聖闘士に勅命を下し、聖域を統括する事となる。

 スターヒルはその険しさから教皇以外――いわば聖闘士の頂点足る存在――には登れぬ場所と言われており、ここには聖域の歴史が、封じられし記録が、英知が、全てがあった。

 故に、禁忌の地ともされている。

 

 そして、聖域の中で最も夜空に近い場所でもあった。

 

 

 

 満天の星空に煌びやかに輝く数多の星々。

 その輝きを受けながら、先代のジェミニの黄金聖闘士であり現教皇であるカストルは何をするでもなくただ静かに佇んでいた。

 

 風が吹いた。

 

 身を包む教皇の法衣が風になびき、アッシュブロンドの長い髪がふわりと流れた。

 陰と陽、金と銀。

 左右に異なる光を宿したその双眸に映るのは、遥か眼下に在るはずの聖域に暮らす者達の営みか。

 

「あの日から今日で一年、か。我々はあの戦いを経て、ようやくこの一時の平和を得た。これは、多くの戦士たちの命の、アテナの願いの果てに得たかけがえのないものだ。

 しかし、その為に失った命も、またかけがえのないものであった事に違いはない。何かを得るために何かを失い、しかし、何かを失ったからといって何かを得られるとは限らぬ事を思えば――」

 

 視線を夜空へと移し、カストルが独りごちる。

 

「今でも時折考える。なぜ私は“あの時”、お前を止めなかったのか、と」

 

 冥王との聖戦の陰で、もう一つの戦いが行われていた事を知る者は少ない。

 最初の神々である大地(ガイア)の子、“神々の力によって滅ぼされる事はない”という力を備えた大地と冥界の狭間に封じられし巨人族(ギガス)との戦いである。

 この戦いの結末を知る者は、今や聖域ではエルナトとカストル、そして天秤座(ライブラ)の黄金聖闘士黒竜(ヘイロン)だけとなっていた。

 

「……貴方の悪い癖だ。なまじ力があるからそのように考える。あの時、エキドナの宿命を負わされたフェリエ()を殺すのは、俺でなければならなかった。それだけは誰にも譲れなかった」

 

 背後から返された言葉に、カストルはゆっくりと振り向いた。

 

「何度も言ったはずですよ、俺は貴方を恨んでなどいない、と」

 

 教皇以外立ち入る事ができぬはずの場所に、黄金の鎧を身に纏い右手に三又の鉾を持った男が立っていた。

 双児宮の前でエルナトたちと対峙した男であり、ギガスとの戦い――ギガントマキアを誰よりも知る男。

 

「よく……ここまで来れたものだ。予感めいたモノはあったが半信半疑でもあった」

 

「険しいとはいえ、貴方が訪れる事の出来る場所。ならば、俺が行けない道理はないでしょう?」

 

 そう言って男が左手を掲げる。ぐにゃりと、その周囲の空間が水面に浮かぶ波紋の様に歪みを見せる。

 

「とはいえ、流石に一歩一歩とは時間もかけられませんからね。これを――“アナザーディメンション”を使った反則ですが」

 

「これはどうしたものかな? 咎めるべきか、成長を喜ぶべきか」

 

 左手に生じた力場を消し去り、男がマスクをゆっくりと脱いだ。吹き付ける風に、男のブロンドの髪が揺れる。

 それはカストルの記憶にあった頃よりも長く伸びていた。澄んだ青色の瞳は、その奥にどこか陰を帯びている様にも見えた。

 

「師としては喜んで頂いても結構ですよ? 教皇としては咎めるべき、でしょうがね」

 

 ふふっ、とカストルと男が笑い合う。

 そこには、まるで知己の旧交を温めあうかの様な穏やかさがあった。

 

「一年振りだなキタルファ」

 

「貴方は……少し痩せられましたね。我が師カストル」

 

「フッ、やはり慣れぬ事はすべきではないと後悔し始めているところだ。私には教皇の座は荷が勝つよ。もう少し気心の知れた者の補佐でもあれば、と思わずにはいられないな」

 

黒竜(ヘイロン)には、そういったことは期待できないでしょうからね。申し訳ありませんが俺も、です。今日、こうして貴方の前に姿を見せたのはこれをお返しする為ですから」

 

 男とカストルの間に黄金に輝く聖衣箱が置かれていた。

 刻まれたレリーフは互いに向きあう双子の姿。

 

「――双子座の黄金聖衣」

 

 黄金の鎧を身に纏った男の名はキタルファ。

 カストルの弟子であり、共に聖戦を戦ったエクレウスの青銅聖闘士。

 聖戦後は次代のジェミニの黄金聖闘士としてその座を譲られるはずでありながら、しかし突如として聖域から姿を消した男であった。

 

「正直に言おう。双子座の座を断られる可能性は考えていた。が、まさか鱗衣を纏って現れるなど考えもしなかった」

 

「俺は――元々、地上の平和だの何だのに興味はなかった。故郷の連中やフェリエが笑って暮らせる世界があれば良かった」

 

 ついでにシェアトの奴もね。そう言って苦笑する姿はカストルの知るキタルファの姿と変わらない。

 

「フェリエやシェアトが死んで俺の中に戦う理由はなくなった。それでも最後まで聖戦に付き合ったのは、戦場で名も知らぬ聖闘士たちから託された願いがあったから。アテナを、地上の平和を――と」

 

 変わらないからこそ、変わっていないのだと、理解ができた。

 

「聖戦が終わり、貴方が教皇になる事を知り、俺は託された願いを果たしたと考えた。一度故郷の様子を見て、その後はさっさと五老峰に戻った黒竜(ヘイロン)のように世捨て人でも気取るかと考えていましたよ」

 

 そこまで言ってキタルファは一度大きく息を吸うと、ゆっくりと吐き出した。まるで自分の中に澱み溜まった“重い何か”を吐き出すように。

 

「――神の意志に因らずとも人は人同士で戦い殺し奪い合う。私利私欲、宗教、人種、貧富の差から、好きか嫌いか、その程度の事でも。分ってはいましたが、さすがに故郷が戦争で“焼き払われて”いたら考えもしますよ。

 これが平和か、と。失ったモノと残ったモノが割に合わない――そう思ってしまった。ならば、どうするか」

 

 澄みきっていたはずの夜空は、いつしかその光を、星々の煌めきを失おうとしている。

 夜の帳よりも暗い闇が、ゆっくりと迫ろうとしていた。

 

「失われたモノに見合うように、託された願いをかなえる為に。平穏を乱す者、戦乱を生む者と俺は戦う。戦い打ち砕く。それが“神の意志の宿らぬ”人であっても。

 人の善性を信じるアテナの、聖闘士のやり方では救えない者が多過ぎる。救われない者が多過ぎる。悪しき者を粛清し、心清き者が住まう理想郷をつくり上げる必要がある。海皇は俺にそう言いました」

 

 降りしきる星座の煌めきを遮るように、対峙する二人の頭上をいつしか雨雲が覆い隠していた。

 

「故に、今の俺は海皇ポセイドンに従う海将軍(ジェネラル)

 

 ぽつりと、天から落ちる一滴。

 それは、やがてざあざあと音をたて、勢いよく大地に降り注ぐのだろう。

 

「――海龍(シードラゴン)のキタルファ」

 

 

 

 雨は止まない。



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CHAPTER1 ~GIGANTO MACHIA~
第1話 聖闘士せいや!~シードラゴン(仮)の憂鬱~


 ――西暦1975年。

 

 頬を伝わる水の感触に、まどろみの底にあった意識がゆっくりと浮かび上がるのを男は感じていた。何か夢を見ていたような気がするが、それがどのような内容であったのかは思い出せない。

 思い出せないが、胸の奥に奇妙な喪失感があった。

 馬鹿馬鹿しい、と思う。喪失感など、失うモノのない自分にあるはずのないモノだ、と。これまで生きて来た十七年間で得たモノなどありはしない、と。

 

「……涙?」

 

 ますます持って訳が分らない。

 濡れた頬が気になって手で触れてみれば、それは確かに自分の目元から流れていた。

 どうやら自分は仰向けに倒れているらしいと現状を把握するも、激しい頭痛と全身を包む倦怠感にこのまま起き上がる事が億劫に感じてしまい、男はそのまましばらく何をするでもなく空を見上げていた。

 

「俺はまだ夢でも見ているのか?」

 

 自分がどこの誰で、さっきまで何をしていたのか。なぜこんな所に居るのか。

 

「記憶喪失? まさか」

 

 見上げた先には、どこまでも広がる深い青。

 それは水の天蓋。この海の世界の空。

 

「水が空を覆う? どんなファンタジーだ。まさか海の底だとでも――」

 

 周りを見れば、そこには古代ギリシア時代の神殿を思わせる建造物が建ち並んでいた。

 新しい物もあれば今にも朽ちそうな古い物もある。まるで過去と未来が混在しているような違和感があった。

 

「――アトランティス……神殿? ここは、幾多の……そうか、海底神殿の一つ、か」

 

 知らない場所だ。

 そもそも海の底など、生身の人間が訪れる事ができるような場所ではない。

 それがどうだ。たった今、自分の口からこぼれた言葉が正しいという確信がある。

 

「正しい。そう、この感覚は正しい。俺は、そうだ、知っている? いや、知っていた。思い出した……のか?」

 

 どうにもハッキリとしない。

 深く考えようとすればする程に頭痛と倦怠感が増してくるようだった。

 

「余計な事は考えるな、って事か?」

 

『――此方へ』

 

 突如、脳裏に響き渡った男とも女ともつかない声に、男は何者かの意志を感じ取る。

 周囲に命の気配は感じられない。怪しい事この上なかったが、いつまでもここにいても何の進展もないと悟り、男は聞こえてくる指示に従い歩き始めた。

 

 

 

 脳裏に浮かぶ声に従い、コツ、コツ、と自分の足音だけが響く無人の神殿を進む。

 

「こいつは……」

 

 やがて、男の目の前に現れる巨大な壁。よく見れば、それは三又の矛の紋章が刻まれた巨大な扉だった。

 ゆっくりと手を伸ばし扉に触れる。

 すると、頭の中に知らないはずの知識が流れ込んでくる。

 こちらの都合などお構いなしに詰め込まれるソレによって、今まで以上の激しい頭痛と嘔吐感に襲われる。

 

「ぐっ、あっ……!?」

 

 この感覚はあり得ないと、流れ込む情報を遮断すべく扉から手を離そうとするが、まるで張り付けられたかのように離れない。

 

「じょ、冗談じゃない……ッ!!」

 

 意識しての事ではなかった。ただ、この苦痛から逃れる為にはどうすればよいかと考えた時であった。

 三又の矛の紋章が淡く光り、彼の手があっさりと壁から離れる。地響きのような重い音を立てて扉がゆっくりと開いた。

 

「ハァハァ……クソッ」

 

 ふらつきながらもどうにか室内へと足を踏み入れた彼の目に、幾つもの眩い輝きが飛び込んできた。

 

「これは……鱗衣」

 

 金色に輝く美しい彫像。それは神話の魔獣や英雄の姿を模した七つの鱗衣が台座の上に安置されていたのだ。

 初めて見るはずのそれらに、何とも言えぬ奇妙な懐かしさを感じていた。

 これが、脳裏に刻まれた知識によるものではない事だけは感覚が理解していた。

 

海馬(シーホース)セイレーン(海魔女)、クリュサオル、スキュラ、リュムナデス、クラーケン、海皇(ポセイドン)

 

 台座に書かれた名を見ずとも、彼の口からは鱗衣の名前が澱みなく出る。

 永きに渡る眠りから目覚めつつあるのだろう。鱗衣は彼の目の前で静かに輝きを放ち続けている。

 

「……海龍(シードラゴン)

 

 海龍、大海の魔獣。その名が鍵であったのか。

 その言葉を口に出した瞬間、激しい頭痛や嘔吐感が嘘のように消え去り、彼は自分が海皇ポセイドンを守護する海闘士(マリーナ)として選ばれた事を理解した。

 海皇とは何か、海闘士とは何か。

 海闘士として知らねばならない事が、次々と脳裏に浮かび上がる。

 

「シードラゴン、海将軍シードラゴン。それが俺の役割、か」

 

 呟きと共に、自分の内側、奥底から沸き上がる未知なる力を感じ取る。

 

 地上の守護者たる女神アテナの聖闘士は、過酷な修行により聖闘士としての資格を得るが――海闘士は違う。

 鱗衣に選ばれ、自身が海闘士であると自覚する事で覚醒を果たす。

 

 超常の力の覚醒。

 全身を包み込むのは、まるで世界の全てが己の物になったとさえ錯覚するような高揚感。全能感にも似たそれを感じ、彼は口元を歪めていた。

 しかし、同時に決定的な何かが足りていない。そんな漠然とした不安感に襲われる。それが何なのか。

 

「……おかしい」

 

 拭いきれない違和感を覚え、もう一度光り輝く鱗衣とそれらが安置された台座を見る。

 台座は八つ。しかし、その上に安置された鱗衣は七つ。

 

「シードラゴンだ。俺の鱗衣が――無い? そんな馬鹿な!?」

 

 どういうことだと、周囲を見渡す。どこにもシードラゴンの鱗衣は見当たらない。

 しかし、近くにある事は間違いない。その存在は確かに感じている。

 覚醒した海闘士が、自分の纏うべき鱗衣の気配を間違えるはずがない。

 確実に近くにある。

 

「どこだ?」

 

 感覚を研ぎ澄まし、場所を特定しようとした――その時だった。

 

「探し物はコレかな?」

 

 それは若い男の声だった。

 

「誰だ!?」

 

 話しかけられるまで人の気配は感じなかった。

 無人の地であると認識していただけにその驚きは大きい。

 その声に振り向けば、柱の影から人影が現れる。

 いつからそこに居たのか、シードラゴンの鱗衣を身に纏った男が、悠然とこちらを見つめていた。

 

「答えろ、お前は何者だ? なぜ、俺の鱗衣を身に纏っている!?」

 

 百歩譲ってこの場に他の人間がいた、それは構わない。だが、目の前の在り得ない状況に彼は冷静さを欠いていた。

 鱗衣はただの鎧ではなく、力の増幅器でもある。事の真贋はともかくとして、鱗衣を、それも海将軍クラスの物を身に纏った相手を前にして取るべき行動を誤ったのだ。

 

「俺の鱗衣、だと? ほう、そうか。貴様が今世の“シードラゴンだった”男か。その問いの答えは――見ての通りよ。このオレこそがシードラゴンだからだ」

 

「ふざけるな!」

 

 シードラゴンを名乗る男に対して彼も素早く身構えた。

 力の奔流をイメージして両の掌に力を集中する。

 目の前の男を倒すために何をどうすればいいのかが分る。戦う術は既に自分の中にある。

 例え鱗衣が無くとも繰り出す技の威力は必殺。

 広げた両腕を目の前で交差させた瞬間、溜めこんだ力を解き放つ。

 

「大海嘯に呑み込まれて消え去れ“ダイダルウェイブ”!!」

 

 荒れ狂う大海の津波の如く、全てを呑み込み粉砕する破壊のエネルギーがシードラゴンを騙る男へと放たれた。

 

「むっ!? これはっ!」

 

 嘲笑を浮かべていた男の表情が変わった。

 

 ドゴォンン!!

 

 破壊の波濤が男を包んだが、その破壊の力はそれだけに留まらない。余波は男の周囲の石畳を砕き、舞い上がらせ、放たれた進路上の柱や壁が次々と崩壊する。

 想像通りの破壊の力。狙いは寸分違わず。

 しかし、その光景を見ても彼の表情は晴れなかった。眉間に皺を寄せ、むしろ苦々しくあった。

 破壊は一瞬の内。直ぐに終える、そのはずが終わらないのだ。

 見れば、男の立っていたその場所だけは傷一つなく。

 

「ク、クククッ。流石は海将軍の資格を持った奴よ。覚醒直後でありながら……これ程までの力を見せるとは思いもしなかった」

 

 破壊のエネルギーは男の両手によって押し留められていた。

 

「……受け止めた、だと……ッ!!」

 

「見くびっていた事を認めよう。そら、返すぞ!!」

 

 男の身体から尋常ではない、巨大な小宇宙が立ち昇る。

 

「そして消し飛べ!」

 

 宣言の通り、男はダイダルウェイブの破壊エネルギーの全てを跳ね返して見せた。

 

「ぐ……くっ!!」

 

 拙い、と感じた瞬間、身体が動いていた。

 右拳に小宇宙を集束させて眼前に迫る破壊のエネルギーへとぶつける。

 

「“エンドセンテンス”!!」

 

 青く輝く無数の光弾が散弾の様に解き放たれた。

 咄嗟に放ったその技はシードラゴンの知識にはない技。彼の魂の内から放たれたモノ。

 しかし、故にそれを理解できない彼は戸惑う。

 

「何?」

 

 それが致命となった。

 

 どうにか相殺出来たものの、その余波で彼と男は激しく吹き飛ばされる。

 

「ガハァ――あッうぐぅう……」

 

 柱をへし折り、壁をぶち抜き。

 神殿の壁を突き破り外へと放り出された彼は、そのまま受け身も取れずに石畳に叩き付けられ、全身を襲うダメージに身動きが取れなくなってしまう。

 戸惑い無防備となった状態。鱗衣のない生身の彼には余波ですら致命傷となっていた。

 

「咄嗟に切り返して見せたのは見事。だが……鱗衣もなく生身で俺に勝とうなどとは。思い上がりも甚だしいと言わざるを得んな」

 

「……ぐッ、うぅ……」

 

 たちまち飛びそうになる意識をどうにか繋ぎ止め、どうにか立ち上がろうと足掻く。が、それよりも相手の動きの方が遥かに速い。

 

「この鱗衣と海将軍としての立場は俺が有効に使わせてもらう。その為には――お前の存在は邪魔だ」

 

 彼には男が何を言っているのかが分らない。

 ただ、赤と黒に染まり、霞がかった視界の中で、男の手が三角の軌跡を描いたのが分った。

 そこから感じる異様な力。彼の脳裏に警鐘が鳴り響く。

 

「……な、何だ? く、空間が? まさか、アナザーディ――」

 

 またもや知らない言葉が口をつきそうになる。何故だ、何なのだこの感覚は?

 だが、それ以上彼が考えを進める事はなかった。

 

「お前の存在をこの世界に残しておくわけにはいかん。本来のものとは形が違うが――消えろ、時の狭間、次元の歪、時空の彼方へと」

 

『ゴールデントライアングル!!』

 

 その声を最後に、彼の意識は闇へと沈んだ。

 

 

 

 

 

 第一話 聖闘士せいや!~シードラゴン(仮)の憂鬱~

 

 

 

 

 

『――誰か?』

 

『時の静寂を妨げるそは何者か?』

 

『――そうか』

 

『青の星雲から赤の星雲に彷徨いし塵芥、憶えているぞ。あの“時”においては戯れに記憶を奪い見逃してやったあの魂』

 

『でありながら二度も此処に彷徨い着くとは実に――不快よな。千々に引き裂き一千光年の彼方へと消し飛ばしてやっても構わんが――ほう、再び青に向かうか』

 

『青で生まれし者は青で死すべきが正しき運命。在るべきモノが在るべき場所に戻るだけ』

 

『――ならば徒に時を乱す必要もなし』

 

『余の前に二度現れたその奇跡に免じ、青に生まれる新たな命として祝福をしてやろうではないか』

 

『さあ、去れ。そこで再び業を繰り返すかどうかは――お前次第よ』

 

 

 

 

 

 ――西暦1980年。

 

 遥か神話の時代より、邪悪から女神アテナと地上の平和を守るために戦う戦士。

 繰り出す拳は空を切り裂き、放たれた蹴りは大地を割る。

 そんなトンデモ人間――聖闘士となるべく、おれたち孤児は各地から集められたのだと目の前の爺さんは語っている。

 

「ふわぁっ……」

 

 その爺さんの横では、おれたちよりも幼いお嬢様が退屈そうに欠伸をしていた。

 それに気が付いているのかいないのか。

 爺さんは世界の平和だの正義だのとご大層でご立派な事を語り終えると、ようやく長い話が終わったのかと飛び付いてきたお嬢様の手を引いて屋敷へと戻って行った。

 去り際の、お嬢様が見せた“やっと終わった”とでも言いたそうな表情が印象深い。

 こっちも退屈で仕方がなかったんだから、恨めしそうに睨まれても非常に困る。きっと爺さんが自分の事よりもおれたちに関心を見せた事が気にくわなかったのだろう。

 ここにいる誰も彼もが、お嬢様の大好きなお爺様を取ったりなんかしないってのに。むしろ嫌っているのだが。

 

「なあ海斗(カイト)、あいつが何を言っていたのか分ったか?」

 

 そんな事をぼうっと考えていたら、隣に立っていたお仲間からボソボソと声が掛かった。あいつ、ってのはあの爺さんの事だ。

 

「孤児院から拾い上げてやったんだから、お前らは強くなってグラード財団の兵隊になって役に立て、って事だろ」

 

「ああ、そう言う事か」

 

 違うと思うが似たようなもんな気もする。

 何せ、あの爺さんは世界に名だたる“グラード財団”の実質的な支配者である城戸光政様。

 日本全国から、いや外国も混じっているみたいだが、とにかく各地から『見どころがありそう』というだけで、手段を問わずに百人近い孤児を集めた超の付く変人だ。

 中には人攫い同然の手段を取った、って話も聞いている。

 普通、そんな事をすれば警察やら何やらから色々と問題にされそうなものだが、少なくともこれまでそんな話は一度も耳にした事がない。

 法治国家日本ってのは嘘だな。そんな馬鹿げた相手の言う事だ。

 どんな大層なお題目を語られたところで、おれからすれば金持ちの道楽がまた始まった、その程度の事としか思えなかった。

 

「那智! 海斗! 誰が私語を許可したかっ!!」

 

「す、すいません!」

 

「……」

 

 お嬢様の護衛兼おれたちの教育係でもあるハゲ――辰巳の一喝に、周りのやつらが身体を縮こまらせたのが分った。

 無理もないと思う。

 ここにいる百人は『お優しい城戸光政様によって城戸家に引き取られた身』として、特に『沙織お嬢様には絶対服従せよ』を辰巳によって骨身に叩き込まれている。文字どおりに。逆らえば体罰だ。

 なのに、お嬢様の我が儘に従えば犬や馬として扱われる。まるで家畜か奴隷だ。体罰と変わらない。逆らっても体罰、従っても、とやらだ。そんな仕打ちを受けても邪武だけは嬉々としてお嬢様に従っていたが……。

 おれとしては、そのあまりの理不尽さにお嬢様を何度ぶっ飛ばしてやろうと思った事か。

 もっとも、まだ六歳だか七歳だかのお嬢様を殴るわけにもいかなかったので、その矛先を殴り飛ばしても全く良心の痛まないオッサンである辰巳に向けた事もあった。

 あったのだが、連帯責任だと言って関係のない奴らまで罰を受けさせられては我慢するしかなくなる。

 日々、訳も分らず繰り返される虐待と言う名のトレーニングに戦闘訓練のおかげで身体だけは丈夫になったが。

 

「だんまりか海斗? フン、お前といい星矢といい一輝といい。まあ、今日は特別に許してやろう。こうして顔を合わせるのも、これが最後になるかも知れんのだからな」

 

 そう言って、壇上に上がった辰巳が取り出したのは、くじ引きで使うような穴の開いた大きな箱だった。

 どうでもいいが、十歳のガキ相手に大人げないとは思わないのかコイツは。

 

「順番にくじを引け。それに書かれた場所がお前達の向かう修行の地だ。そうだな……海斗、お前から引かせてやるぞ」

 

 この時の辰巳の嬉しそうな顔は、きっと一生忘れる事はできないだろう。

 

「ギリシア……聖闘士発祥の地か。お前ならデスクィーン島を引くと思ったんだがなぁ。フン、つまらん」

 

 

 

 こうして日本からギリシア・聖域に送られたおれは、かの地で牡牛座の黄金聖闘士と名乗る男アルデバランに出会った。

 2メートルをゆうに超える巨体は圧巻以外の何物でもない。見上げていて首が痛くなる相手なんて初めてだった。

 

「ほう、お前が日本から聖闘士になるべくやって来たという少年か。黒髪に黒い瞳に眼つきが悪い、と。資料の通りだな。確か――星矢と言ったかな?」

 

「……海斗です」

 

「ん? ははは、スマンスマン」

 

 気さくに笑うアルデバランはその巨体もあって確かに強そうに見える。見えるが城戸の爺さんが言っていた『空を切り裂き岩をも砕く』程には見えない。

 いや、確かに岩なら砕きそうなんだが。

 おれの向けた微妙な視線、その意図に気が付いたのか、アルデバランはフムと頷くと「ついて来るといい」と俺の手を取って歩き出した。手を取られたら逆らえない。

 

「聖闘士についてのおおまかな説明は受けていると聞いたが、口で言われただけでは信じる事ができないのも分る。やはり実際に見て体験しなければ本質は分らんものだ」

 

 着いた場所は朽ち果てた古代の神殿跡地。

 聖闘士の存在に半信半疑だったおれの目の前で、アルデバランは直径三メートルはあろうかという巨大な石柱を何気ない腕の一振りで――粉砕して見せた。

 

「……嘘……」

 

「聖闘士とは――原子を砕くという究極の破壊の術を身に付けた者よ。己の内に眠る小宇宙を感じ、それを燃やして爆発させる事ができれば……お前もこれと同じ事ができるようになる」

 

 唖然とするおれの肩に手を置いてアルデバランは続ける

 

「もっとも、こんな表面的な力を会得しただけでは聖闘士となる事はできんぞ。アテナと地上の平和を守る。正しき心と正義の意思があって初めて真の聖闘士となる事ができるのだ」

 

「……なれますか、おれは?」

 

「それは分らん。全てはお前次第だ。修行は辛く日々が命懸けのものとなる。それでも望むのであれば、一歩でも聖闘士に近づけるよう、このアルデバランが全力でお前を鍛えあげる事を約束しよう」

 

 正直、聖闘士になる事に興味は無かった。ただ、あの閉塞感の漂う城戸邸から外の世界に出られればそれでよかった。

 おれの目を正面から見据えるアルデバラン。

 その目には子供だからと侮る様子はなく、思い上がりかもしれないが“対等の人間”として接してくれたように思えた。

 

「――よろしくお願いします」

 

 この日から、おれはアルデバランを師と呼ぶようになった。

 

 

 

「むぅ、師匠か。悪い気はせんが……まだ若輩の身ではこそばゆい感じがするな」

 

「え? 若輩って、師匠はお幾つなんですか?」

 

「十四だが?」

 

「……」

 

 ――俺と四つしか違わないの? どう見ても高校生以上ですよね!?

 俺は喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。

 

「海斗、お前の歳は?」

 

「十歳です」

 

「……嘘はいかん、嘘は」

 

「――お互い様、と言う事で」

 

「……ああ、そうだな」

 

 城戸邸では、集められた孤児達の中でも年長という事で、おれは一輝と共に何かに付けて目の敵にされていた。

 年齢の割に可愛げがないだの生意気だのと散々言われて育てばこうもなろう。

 

 はははははと乾いた笑いを浮かべる師匠とおれ。

 師匠とは分かり合えそうだと心の底から思った。

 

 この時は。

 

 

 

 翌日、与えられた部屋で目を覚ましたおれは愕然としたよ?

 

「なんてリアルな夢……じゃない、な。何の冗談だよこれは。聖闘士を目指すって宣言した翌日だぞ?」

 

 自分が海皇ポセイドンの海闘士(マリーナ)、海将軍シードラゴンだったと知ってしまったのだから。



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第2話 聖闘士の証!エクレウスの聖衣の巻

 神話の時代より、大海を統べる海皇ポセイドンと地上を守護する女神アテナは地上の覇権を巡り対立を続けていた。

 汚れきった地上を破壊して、そこに神話の時代のように心清き人々だけの理想郷を創り上げようとする海皇ポセイドン。

 人の善なる心を信じ、ポセイドンの粛清から逃れられぬ人々や弱き者たちの為に、地上の破壊を阻止しようとする女神アテナ。

 

 どちらが正しいのか。

 

 考える。

 

 夢の中、いや、あれは恐らく時間も空間も次元すらも超えた、こことは違う別世界だ。

 そこでシードラゴンを騙る男が最後に繰り出した技によって四散し、肉体を失ったオレはどんな力が働いたのかは知らないが、この世界で再生を果たしたのだろう。

 霞がかった前世界の記憶とここ最近の生活を思い出し、前のオレからすればこの世界は数年ほど過去にあたる事も分った。

 ならば過去に戻ったのか、とも思いもしたが、どうも様子が違う。

 ――便宜上、前のオレとするが、前のオレは城戸光政と面識はないし城戸邸に足を踏み入れた事もない。

 前のオレが育ったのは白い墓(ホーム)と呼ばれた施設だった。もっとも、そこはとある男の手によって完膚なきまでに破壊された。特に思い入れもない場所だったのでどうでもよかったのだが。

 思考も口調もあの世界のオレに引っ張られている気がするが、今更そんな事もどうでもいい。

 前のオレが奴と戦ったのは1975年、確かイギリスで初の女性党首がとか何だかでテレビの報道が騒いでいたのを覚えている。

 そして今は1980年。あの時から五年後だ。

 しかも、今のおれは十歳の子供。前のオレの五年後なら二十二歳のはず。

 輪廻転生。概念としては理解していても、まさかアテナやハーデスといった神でもない自分がそんな体験をする事になるとは思いもしなかった。

 

「しかも前世の記憶持ち、か?」

 

 前のオレの知識が確かであれば、確かこの地の近くには風化して朽ち果てたとはいえ海皇ポセイドンの地上神殿があったはず。

 

「……師匠の小宇宙を感じたせいか? それともポセイドン縁の地が近い事がそうさせたのか?」

 

 海闘士だけが感じ取れる海皇の力の残滓、そして八十八の聖闘士の最高位である黄金聖闘士タウラスのアルデバランの強大な小宇宙に触発されて覚醒した、そんなところか。

 

「ん~~、どうにも納まりが悪いな。知っている事を“知っている”のに……思い浮かべられない。辞書が在るのに調べ方が分らない、そんな感じか?

 あ~~、ヤバいな。前のオレの名前すら分らないって何だこれ? ……ルファ? いや、オレは日本人だったはずだ」

 

 わからん。

 おれはお手上げだというように両手を大きく広げ、そのまま勢いよくベッドへ倒れ込む。

 昨夜は気付かなかったが少々硬いベッドだったようで背中が痛い。

 

 

 

 海皇による地上世界の浄化、その後にもたらされる理想郷。心惹かれるモノがあったのは確かだが、おれは夢の中のオレ程にそれを強くは願っていない。

 はっきりとは思い出せないが、夢の中のオレは常に一人だったと思う。

 何のしがらみも無く、チンピラ同然に好き勝手に生きていたようだが、おれは違う。おれには僅かながらも繋がりがある。繋がりができてしまっていた。

 城戸の爺さんや辰巳あたりがどうなろうと正直言って知った事ではなかったが、短いながらも城戸邸で共に過ごした百人の孤児たちは違う。

 皆の仲が良かった訳ではないが、それでも、おれたちには同じ孤児としての、有無を言わさずに連れ去られた同類としての奇妙な仲間意識があった。

 海闘士として生きるという事は、アテナの聖闘士となるべく各地へ送られたあいつらと敵対する事を意味する。

 必ずしもそうなると決まったわけではないが、楽観する要素もないのもまた事実なのだから。

 

「それは……さすがに気が引ける」

 

 半ばおれの勝利を確信した上から目線である事は否定しないが、現状を考えればあいつらと戦って負ける要素がない。スタート地点が違ってしまっている。

 

「逃げる、関わらない、ってのも……」

 

 それはそれでありかとも思ったが、きっと一生引き摺りそうな気がする。

 今を守りたいと思うならばアテナ、今を破壊して変革を望むのならばポセイドン。つまりはそういう事。

 どう考えても行き着くのはそこだ。

 今はこれ以上考えてもどうしようもない事だと思い、別の事を考える事にする。決して現実逃避ではない。

 むしろ、もっと重要な事かもしれないのだ。

 

「……それにしても、あの男は何者だったんだ?」

 

 記憶の探索の中で思い浮かぶのはシードラゴンの鱗衣を身に纏ったあの男。

 今のおれにとっての最大の懸念。

 そもそも、海闘士はこの時代に目覚める予定ではなかった。少なくともあと二百年は。

 神話の時代、アテナに敗れた海皇はその魂を封印され、その効力が無くなるまではまだ時を必要としたのだから。

 アテナによって施された封印を海闘士が解く事はできない。それを行えるのはアテナ自身か聖闘士、もしくは力無きただの人間だけである。

 その効力が失われる時まで、海皇と共に海闘士も眠りにつくはずだったのだ。

 あの時は、訪れた海底神殿内には海皇の気配は感じなかった。

 イレギュラー的な目覚めかとも考えたが、あの場に安置された七つの鱗衣も眠りから目覚めていた。

 それは海将軍の目覚めの兆し。

 他の六人の海将軍も覚醒するのであれば、その目覚めは海皇の意思であるはず。

 

 つまり、何者かが海皇の封印を解いたという事。

 

「怪し過ぎるな」

 

 海闘士の聖域とも言える海底神殿に潜み、シードラゴンの名を騙り、覚醒直後であったとはいえオレを圧倒したあの男。

 海闘士ではない。当然ながら力無き人間でもない。

 ならばアテナか。違う。

 人として降臨するとはいえ、アテナは女神。その肉体は女性の物。

 残る可能性はただ一つ。

 

「――聖闘士、か?」

 

 鱗衣のマスクに隠れて顔も分らず、あの男の名前もおれは知らない。

 この世界にあの男と同一の存在がいるのかも、それ以前にこの世界があの世界と同じ流れに沿うのかも分らない。

 事実、オレの知る世界から既に五年が経過している。碌に思い出せない過去の記憶など当てになるはずもなく、これから先は完全に未知の世界だ。

 

「あいつはオレよりも強かった」

 

 あの時の戦いを思い出す。

 鱗衣の有無は問題では無い。

 純粋な力量でオレはあの男に敗れた。

 

「この世界にあの男がいるかどうかは分らない、あの世界の流れに沿っているのかどうかも分らないが……用心に越した事はない、か。

 ここなら聖闘士の動きも情報も分り易そうだし、強くなって損はない。それに――」

 

 海闘士に鱗衣があるように、聖闘士には聖衣と呼ばれる鎧がある。

 聖闘士として認められれば聖衣を与えられるらしいが、聖衣もまたその所有者を選ぶ。

 仮に聖闘士として認められ聖衣を与えられたとしても、海闘士であるおれがそれを纏えるのかどうかは分らない。

 分らないが、海闘士として地上粛清を目指すより、海闘士が聖闘士を目指す事の方が面白そうではある。

 首尾よく聖衣を手に入れ、それを纏う事ができれば。

 仮にこの世界でもシードラゴンの鱗衣が奪われたとしても、あの時の二の舞になる事は避けられるかもしれない。

 

「……やってみるか」

 

 どう振る舞うべきか。

 そうして小一時間ほど悩んだ後、おれはこのまま聖域に留まり聖闘士となるべく修業を受ける事に決めた。

 

「そういえば、この世界にもオレはいたのか?」

 

 

 

 

 

 第2話

 

 

 

 

 

 聖域に来て早四年。

 

 俺は今日、聖闘士となれるかどうかの運命の日を迎えていた。

 教皇の御前にて行われる聖闘士候補生たちとの試合。それに勝ち、教皇に己の力を見せる事により俺は晴れて聖闘士として認められる事となる。

 試験の場所である闘技場には、新たなる聖闘士の誕生を見届けようと多くの者達が集まっていた。

 しかし、その中に師匠の姿は無い。

 師曰く――

 

『この聖域内で、今のお前と正面から戦って勝てる者はそうはおらん。白銀(シルバー)、いや黄金聖闘士であれば話は別だがな。俺は勅命を受けたのでお前の試合を見届けてやる事はできん。

 が、まぁ問題はなかろう。ああ、一つだけ忠告だ――やり過ぎるなよ?』

 

 との事。

 それを聞いた時は素性がバレたかとも思ったが、どうやら純粋に俺の力量を認めた上での言葉らしく。

 高く評価してもらえた事は、弟子としては素直に喜びたくもあるが、実際のところは……微妙だ。

 言葉のままに受け取れば、あの世界でオレを倒した男は少なくとも黄金聖闘士クラスの力量があったという事になる。

 

「それでは、これより最終試練を始める。ゴンゴール、海斗よ、準備はよいか?」

 

 その教皇の宣言で、闘技場内にいた者達が歓声を上げる。

 壇上に立つ教皇の横に、神官たちの手によって聖衣が収められた箱が置かれた。

 

「聞け! この戦いの勝者に栄誉ある聖闘士の証である聖衣を授けよう。この子馬座(エクレウス)の青銅聖衣を!」

 

「――ブッ!?」

 

 教皇の宣言に、皆の前にその姿を見せた聖衣の存在に、場内のざわめきが増した。

 ある者は感嘆の声を、ある者は畏怖を、ある者は羨望を。

 候補生や雑兵達にとって、それはまさしく喉から手が出るほどに欲する物。

 それを目の当たりにして浮つく気持ちは分らなくもない。だが、俺はその聖衣の名を聞いて思わず噴き出しそうになっていた。というか噴いた。

 

 子馬座。ギリシア神話ではペガサスの弟ケレリスの姿とされ、伝令神であるヘルメスがカストルに与えた名馬である。

 そこまではいい。

 問題は、神話には複数の解釈があるように、子馬座にも幾つかの由来があるという事。

 海神ポセイドンが三又の鉾で砕いた岩の中より飛び出しただの、その槍で突き殺しただの、と。

 海皇由来の聖衣など洒落になっていない。

 でき過ぎ、あるいは作為的とすら思えるこの巡り合わせに呆然とする俺。

 洒落になっていないが、同時に“やっぱりな”という奇妙な思い、確信があった。

 何がやっぱりなのか、何に納得しているのかは俺自身分らないが。この微妙な、歯の奥にモノが詰まった様な感覚は久しぶりだった。

 

 今の俺の姿を見て緊張をしているとでも思ったのだろうか。

 

「頑張れよ海斗ーッ!」

 

「うるさいよ星矢。お前には他人の心配なんてしている余裕はないだろにさ」

 

 聞きなれた声に視線を向ければ、魔鈴に小突かれ頭を抑えて蹲っている星矢と、何食わぬ様子でこちらを見ている魔鈴(マリン)の姿があった。

 俺は軽く手を振ってそれに返す。それぐらいの社交性はあるのだ。

 鷲星座(イーグル)の魔鈴。星矢の師匠であり白銀の位にある女聖闘士。

 聖闘士の女子は仮面を着ける事を掟とされているため、常々その無愛想な仮面の下にどんな素顔があるのかが気になって仕方がなかった。

 三年ほど前に、駄目で元々と「素顔を見せてくれ」と頼んだ事があったが「死にたければ見せてやるよ」と拳とともに凄まれては引き下がるしかない。あれは殺す気だった。

 それから暫くの間は、何故か聖闘士候補正の女子たちから親の仇を見るような目で睨まれ続けた。

 あまりの居心地の悪さに師匠に理由を尋ねたのだが「分らん」の一言で済まされた。それでいいのか最高位。

 いや、知っていて教える気がなかったような気もする。(メイ)の奴が腹を抱えて笑っていたような気もするし。

 盟は俺や星矢と同じく城戸光政によって聖闘士となるべく世界各地に送られた孤児の一人だ。境遇の割に明るく、いかにもお調子者なノリの軽い奴だったが、ここ二年ほど姿を見ていない事を思い出す。

 

「おや、星矢に魔鈴じゃないか。ああ、確かアイツはお前たちと同じ日本人だったね。同胞が気になるのかい? 東洋人同士仲の良い事で」

 

「わたしは別に興味なんてないさ。星矢が“どうしても”と言うから来てやっただけ。そう言うお前こそ、こんな所に来るなんてらしくないじゃないか。一体どうしたんだいシャイナ」

 

「ハッ、確認に来ただけさ。所詮東洋人如きが神聖なるアテナの聖闘士になれるはずがない、という現実のね」

 

「その通りですシャイナさん。ふしゅらしゅらしゅら~」

 

 そう言って魔鈴に近づいたのは、蛇遣い星座(オピュクス)のシャイナとその弟子カシオス。

 シャイナは魔鈴と同じく白銀の位に位置する女聖闘士。

 魔鈴の無地の仮面と異なり、隈取が入った仮面が特徴的だ。

 聖闘士の女子は――以下略。

 

 掟とは言え、仮面など視界を遮り呼吸の邪魔にしかならないと思うんだが、この辺りの事は聖闘士を目指し四年経った今でも俺には良く理解ができない。

 服装のセンスも……理解ができない。

 常々思うが……なんだ、あのけしからん恰好は。

 恥ずかしくはないのだろうか?

 魔鈴はどうみてもレオタード。

 シャイナに至っては革製ビキニの水着姿にしか見えない。

 俺と同じ十四歳らしいがそのプロポーションは小娘のものではないぞ。

 

「アレか、戦意高揚のためか? 仮面で素顔が分らなければ恥ずかしさも三割減とか? けしからんな聖闘士、実にエロい」

 

 やはりこのまま聖闘士として生きてみるかと、あっという間に過ぎ去った四年間の日々に思いを馳せる。

 

『いいか海斗。この世の全ては原子でできている。人も草木もこの石も、だ』

 

 聖域での修業の日々は、ハッキリ言って肉体的には辛くも苦しいモノでもなかった。

 当然だろう。

 どれ程過酷な修行の内容であっても、それはあくまでも『小宇宙に目覚めていない者が聖闘士を目指す』為に組まれたモノ。

 小宇宙を感じ取る事を最優先とされた内容なのだ。

 

『我々聖闘士の闘技とは、己の内にある小宇宙を極限にまで高め爆発させる事で――原子を砕く事にある』

 

 自分の内に眠る宇宙、すなわち小宇宙を感じる事ができるかどうか。聖闘士の必須条件であるそれに目覚める事こそが修行の目的。

 海闘士として目覚めていた俺からすれば、与えられた修行は全て解答片手に問題を解いているようなモノだった。

 

 辛かったのは主に俺の精神面。

 

 ここ聖域は聖闘士の総本山。

 俺自身は聖域を破壊してやろう、だの、聖闘士をどうこうしてやろう、などとは思ってもいなかったのだが本来海闘士と聖闘士は敵同士。

 下手をすれば敵の本拠地となり得る場所という状況に加え、俺を聖闘士とするべく真剣に取り組んでくれる師匠には申し訳なかったが、

 

「小宇宙にはとっくに目覚めてます。俺、実は海闘士だったんです」

 

 なんて言えるはずもなく。

 負い目というか、引け目もあった。

 加えて、聖域の人間は妙なプライドがあるのか、東洋人である俺や星矢に何かに付けては「東洋人の癖に」と難癖を付けて来る候補生や雑兵共。

 その都度、相手を裏路地や暗がりに連れて行きボコる日々。大人げない気もするが、俺は大人ではないのだから構うまい。

 そんなこんなで他人との関わりを可能な限り避け続けたこの四年間。そのおかげで友人らしき友人もなく。

 強いて言うなら、俺と同じようにここに送られた星矢とその師匠である魔鈴ぐらいか。精々が知人を両手で数えられる程度の素晴らしい人間関係。

 前世のオレを独りぼっちの寂しいヤツだと思っていたが、今の俺も大概寂しい奴だと気付いてしまい軽くへこむ。

 

「――あ、その中に居たなお前。確か……権三さん?」

 

「ゴンゴールだ! あの時の恨みも込めて叩き潰してくれる!!」

 

 そう叫び、ゴンゴールが文字通り飛び掛かって来た。

 過去を想っている間に、どうやら試合が開始されていたらしい。

 その跳躍はゆうに十メートル以上。普通の人間では不可能な跳躍であっても小宇宙に目覚めた聖闘士にとっては驚くには値しない。

 

「……少なくとも、小宇宙を燃やせるだけの力は得たのか」

 

「抜かせ! 喰らえ、この俺の必殺技“スタンピングタップ”を!」

 

 俺としては褒めたつもりだったのだが、馬鹿にされたとでも思ったのか。

 上空からゴンゴールが繰り出したのは、両足を使っての無数の蹴りだ。

 小宇宙が込められたその蹴りは、衝撃波を伴って雨あられの様に俺目掛けて降り注ぐ。

 

「逃げ回るだけか? そらそらそらそらぁあっ!!」

 

 攻撃を避け続けてはいるものの、一向に攻め手を見せない俺の姿を見て手も足も出せないと思ったのか。思ったんだろうなあ。

 ゴンゴールは完全に調子に乗っている。

 戦いを観戦している者達の中には「いいぞゴンゴール!」だの「東洋人に聖衣を渡すな!!」等と煽り立てる者の多い事。

 どうも聖闘士と雑兵との間にある意識の差が激しいというか。

 比較できる程多くの聖闘士を知っている訳ではないが、一応は女神アテナと地上の平和のために戦う仲間であるはずなのに、この空気の悪い事。人種は関係なかろうに。

 

「なっ、なんだよこいつ等!」

 

「よしな星矢」

 

「だって魔鈴さん!」

 

「落ち着いてよく戦いを見るんだね。心配はいらないさ。お前も気付いているだろうシャイナ?」

 

「……フンッ」

 

「相変わらず仲が悪いな、あの二人。いや、むしろ仲が良いのか? さて……」

 

 幼馴染とも言える星矢と俺達の事情を知る魔鈴はそんな空気に不快感を表していたが、チラリと教皇を見ればただ静かにこの戦いを見ているだけ。

 海闘士としての知識があるだけに、これを俺が言うのもなんだが「大丈夫か聖域?」と思わず心配してしまう。

 

「くく、クククッ。ひはははははっ!!」

 

 ゴンゴールは圧倒的優位ともとれる状況に、己の力に酔いしれて自分を見失っている。聖闘士としての表面的な破壊の力に触れた者が陥りやすい状態だ。

 俺は奴から放たれる攻撃に悪意ある小宇宙が纏わり付き始めたのを感じ始めていた。

 

「手も足も出ないのか? くははははッ、随分と差が付いたようだな、ええっ海斗ぉっ! 俺たちはなぁ、自分は何でもできる、みたいにスカしたその態度が気に喰わなかったんだよ!」

 

「ああ、つまり人種とかではなく、単純に嫌われていたわけだな俺は。納得した」

 

 繰り出される攻撃は、今では一秒間に七十五発。

 その攻撃を前にしても俺に焦りはない。

 衝撃波を伴う攻撃は俺の師匠であるアルデバランが得意とする闘法であり、必然的にその弟子である俺もその手の闘法は熟知している。

 相手が悪かったと言ってしまえばそれまでだが、ゴンゴールには状況を引き寄せる力とやらが足りなかったのだろう。

 言い替えれば、俺と戦う事が決まった時点で全ては終わっていたのだから。

 大体、海闘士最強である海将軍が聖闘士ですらない候補生相手に負けたとあっては他の海闘士に示しが付かない。

 

「……示しを付ける気もないけどな」

 

「ええいっ、ちょこまかと逃げ回りやがって! だったらこれでトドメにしてやるぞ!!」

 

 叫び、ゴンゴールは跳躍した。これまで見せたどの跳躍よりも高く、高く。

 どうやら必殺の一撃を放つようだと感じた俺は、何をしてくるのかと、ある種の期待を込めて上空を見上げた。

 

「喰らえ! 超高高度からの――“スタンピングタップ”!!」

 

 俺は、この戦いで始めて拳を握り――振り抜いた。

 

「高く跳び上がる意味がないだろうが!!」

 

「げぴょん!?」

 

 グーパンチ。

 思わず繰り出したツッコミは空を切り裂き音速を超え、その衝撃波はゴンゴールを遥か空の彼方へと吹き飛ばしていた。

 ついでとばかりに――闘技場も。

 

 

 

「な、何という強大な小宇宙!」

 

「し、信じられん!? 敷き詰められた床石が……いや舞台が全て吹き飛んでいるではないか!!」

 

「流石はアルデバラン様の弟子という事か!」

 

 クレーターと化した舞台の中央。

 そんな外野のざわめきに反し、俺はその場で項垂れがっくりと膝をついていた。

 目立たないようにと気を配ってきたこれまでの努力を無駄にする一撃を、よりにもよってツッコミで放ってしまった。

 

 内心の動揺を隠しつつゆっくりと立ち上がり周囲を見渡す。

 腰を抜かした神官に右往左往する雑兵たち。

 余波に巻き込まれて頭から瓦礫に突っ込んだ者もいれば、呻き声を上げて助けを求めている者もいる。

 

「……何という阿鼻叫喚」

 

「ペッペッ。うわ~、凄いぜ海斗!!」

 

「ぐむぅうぅうう……おぉおおおぉおお……」

 

 瓦礫にまみれながらも素直に俺の勝利を喜ぶ星矢。

 その横で股間を抑えて蹲るカシオス。

 何と言うか……スマン。

 

「……」

 

 その横で、じいっとこちらを見て――いや、睨みつけてくる魔鈴とシャイナ。気付かなかったふりをして慌てて目を逸らそうとしたが遅かった。

 俺と目が合った二人は、無言で自分の身体に付いた埃を払い始めた。

 表情は分らないが、仮面越しでも分る。アレはヤバい。二人のその身から怒りの小宇宙が立ち昇るのが見える。星座のビジョンが見えそうな辺りかなりヤバい。

 

『――見事だ海斗よ』

 

 そんな浮ついた気分が、ただの一言によって容易く吹き飛ばされた。

 威厳と迫力、そして威圧感に満ちた――そんな声だった。

 その声を聞いた瞬間、ゾクリとしたものが俺の背筋に走る。

 

「ッ!?」

 

 素早くその場から飛び退いた俺は、声の主を正面に捉えて身構えた。

 視線の先に悠然と立つのはこの聖域の統治者である――教皇。

 ワイバーンを模されたマスクに隠れてその表情は分らない。が、俺の中の何かが――本能とも言えるそれが、目の前の存在に対して激しい警鐘を鳴らす。

 

「まさか――これ程の力を持っていたとはな。アルデバランから才能のある者を育てていると話には聞いていたが……」

 

 動悸が激しくなり視界が歪む。

 試合の前では感じる事のなかった圧倒的なまでの存在感に押し潰されそうになる。俺と教皇の間にあるこの異常な空気を他の誰も気付いてはいない。

 一歩、また一歩。

 教皇が近付く、ただそれだけであるはずなのに、俺の身体は意思を無視して臨戦態勢を整えようとする。

 海闘士としての本能的なモノなのか、生物としての防衛本能なのかは分らない。

 拳を打込み、蹴りを繰り出そうとする肉体の衝動を抑え込み、俺は目の前の“得体の知れない”存在を睨みつけた。

 こいつは、本当に先程まで試合を観戦していた教皇か?

 

「そう緊張せずとも良い。女神アテナに代わり教皇の名の下に新たな聖闘士の誕生を祝福する」

 

 静まり返った闘技場。

 ようやく俺と教皇との間にある不穏な空気を感じたのだろうか。誰ひとりとして口を挟もうとする者はいなかった。

 

「聖闘士の証である聖衣を授ける。海斗よ、ただ今を持ってお前はアテナの聖闘士となった。これよりは『エクレウスの海斗』と名乗る事を許そう」

 

 異論の声も、祝福の声も――ない。

 

「さあ、聖衣をここへ」

 

 どれ程の時間が過ぎていたのか。

 一瞬だったのかもしれない。

 教皇の言葉で慌てて動き出す神官達。

 それは、温かみと包容力に満ちた穏やかな声だった。

 先程の光景がまるで嘘のように、場内は喧騒を取り戻す。

 

「……は、ハッ、直ちに!!」

 

 暫くして、神官や雑兵達の手で子馬座の聖衣が俺の前に運ばれる。

 握り締めていた拳から力が抜けた。

 その時にはもう、教皇から感じていた得体の知れぬ威圧感もなくなり、俺の中にあった燃え盛る様な猛りも静まっていた。

 

「……確かに受け賜わりました。アテナのため、地上の平和のためにこの力を振るう事を――」

 

 その時だった。

 聖衣を前に誓いの言葉を述べる俺の肩に、そっと教皇の手が置かれたのは。

 

「フフフッ、実に興味深い。青銅の器では抑えきれぬその猛々しいまでの小宇宙。これからの働きに期待せずにはおれんな」

 

 教皇は親しげに俺の肩を軽く叩く。

 

「――ハッ」

 

 俺の返答に頷きを見せると、教皇は纏った法衣を翻し神官たちを引き連れてこの場から立ち去って行く。

 俺はただじっとその背を眺めていた。

 



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第3話 教皇の思惑!の巻

2013/02/13 ご指摘のあった誤字を修正しました。事なる→異なる


 聖闘士と認められてから一週間。

 聖闘士としてある程度の行動に自由が認められた俺は、旅行者を装い自らの意思としては実に四年振りに聖域から外の地へと足を運ぶことにした。

 

 ギリシャの首都アテネの東南、アポロコーストの海岸沿いを進む事しばらく。

 地図上ではエーゲ海に突き出たアッティカ半島の突端部――その最南端の場所に俺が目指す場所がある。

 スニオン岬である。

 岬の先端には白い大理石の柱が大小多々にそびえ立つ。数千年の時を過ごした神殿の遺跡があり、観光名所として世界中から様々な人々が訪れている。そういう場所だ。

 その遺跡はかつて海神を祀る神殿であった。

 

 ――海皇ポセイドンを。

 

 

 

「あそこから見る夕日はまた格別だからねえ。テレビのおかげなのか、最近はあんたみたいな若い人も大勢来るようになったし」

 

 カフェのおばさんが言った通り、道中は若者の姿が多かったようにも思えたが、その事に関しては常日頃を知らないので気のせいかもしれない。

 元々、実年齢よりも高く見られがちな俺の外見から“未成年の一人旅”と思われていない事は都合がいい。

 いくら観光地とはいえ、この時期に真昼間から日本人の少年が一人でうろうろ、というのはさすがに目立つ。

 善意にしろ悪意にしろ、声をかけられたところでどうこうなる訳でもないが、面倒事は極力避けたくもある。

 実際、先程から何者かがこちらをちらちらと窺っているのを感じていた。

 

「それに比例してゴミやらガラの悪い奴等も増えたような気もするけどねぇ。お客さんは……ええと、ソツギョウリョコウってやつかい?」

 

「まあ……そんなところです。そんなに増えているんですか、若い人」

 

 今の俺は薄手のジャケットにシャツにジーンズというシンプルな服装だ。

 聖域を出てすぐ近くの町で買った安物ではあるが、四年振りの“普通の服”なので大切にしようと思っている。

 なにせ聖域はアテナの結界のおかげで『一般人には立ち入る事も出来なければその存在すら知覚できない』ある種の異界である。“現代の普通”という物が手に入りにくい。

 それにより遥か神話の時代からその在り方を変える事無く現在まで引き継げているのだが、衣食住まで引き継いでいるのはやり過ぎではないかと思う。

 

(海闘士も似た様なモンだったか?)

 

 そう考えてどうだったかな、と思い出そうとするが――そもそも現代の海闘士の事を何も知らない。

 おぼろげな記憶と知識から分っているのは海闘士最強である七人の海将軍、その筆頭であるシードラゴンは誰よりも早く海闘士として覚醒を果たし、海皇から全権を委ねられる――はずだった。

 生憎と、前世のオレは海皇に会う前に殺されているし、今の俺は覚醒から四年間聖域というアテナの結界の中で過していたので『外』からの接触もない。

 

(――ああ、そういえば)

 

 接触ついでに思い出した。

 聖闘士になったら財団支部に赴き報告しろ。四年前、俺達を送り出す時に辰巳がそう言っていたが……どうしろと?

 所在も連絡先も聞いた覚えがない。

 グラード財団は世界中にその支部を置いているらしいから、誰かに聞けばわかるだろうが。

 

(財団の支部ってこの辺りにあったか? さすがに観光地にはないよな)

 

 素直に従うのも癪だったが、よくよく考えてみれば報告してやる必要があるのか?

 あの当時ならともかく、今の俺には生きていくのに財団をあてにする必要は全くない。

 全くないが、黙っていてそれがバレれば……社会的にどうこうされそうな気もする。

 俗世に関わらない聖闘士として生きるとしても、現代社会を生きる人間なのだから表の顔はいるだろう。そうなるとやはり少し困る事になりそうだ。

 

「……別にいいか。何かあれば向こうから連絡を取るだろ」

 

 そもそも俺達を送り出したのは財団であり、修行についての話を通したのも財団だ。

 俺たちの居場所や連絡先が分らない、なんて事はないだろう。

 多分。

 

 と、そこまで考えて、今更ながらに引っかかる点があった。と言うより、ようやくそれを考えるだけの余裕ができたとも言うが。

 

(百人の孤児をかっ攫ってまで、俺たちを聖闘士にして財団に、いや、城戸光政に何の利がある?)

 

 あの時、あの爺さんは『聖闘士とするべく俺達孤児を集めた』と、確かに言っていた。

 グラード財団の私兵にするのではないか、と思っていたが、原則として聖闘士を従える事が出来るのは女神アテナと教皇のみ。

 ただの財界の一個人の意志によって好き勝手に動かせる存在ではない。

 まさか、世界の平和のために一人でも多くの聖闘士を、とでも考えているのだろうか。

 そもそもとして、城戸光政はどこでどうやって聖闘士の事を知った?

 確かに要人警護や世界的に重要な施設の警備などの勅命を受けて『外』へと出る聖闘士はいる。

 グラード財団の実質的な最高権力者であるあの爺さんになら、そういったところで繋がりがあってもおかしくはないし、関わりがなかったとは言い切れない。

 しかし、聖闘士の存在もそこで起きた事も全て秘匿する事が条件である以上、仮にそうだったとすれば爺さんの行動は聖域と交わされた約束に反する事。

 この辺りの秘匿性は時代が進むにつれて多少緩くはなっていたが、聖域から刺客が放たれるぐらいの報復は覚悟せねばならない。

 命を奪うまでには至らずとも、社会的に消される可能性は十分にある。

 

「……暇な時にでも調べてみるか」

 

 仮定に仮定を重ねたところで意味はない。

 

「ホラさ、最近ニュースでも取り上げられている『若き天才音楽家ソレント』って子がいるだろ?

 そしたらさ、この前ね、あたしあそこで会っちゃったのよ! サインも貰ったんだよ――」

 

「ははは……いや、俺はあまり音楽には興味がなくて」

 

 頬を染めて何やら語り出したおばさんの勢いに曖昧な返答を返し、昼食の代金を支払うと俺は店を出た。

 服の代金と今の食事で元々軽かった財布が更に軽くなっている。

 正直小遣い制ってのはどうかと思う。

 

 ホテルに戻り、預けていた聖衣箱を受け取った俺は、沈みゆく夕陽を眺めながら人影がまばらになった海岸をのんびりと歩いていた。

 夏場、それも週末であれば海水浴に訪れる人で賑わうらしいが、温かくなり始めているとはいえ四月ではまだ早い。

 気が付けば、いつの間にか日は落ち、遺跡を照らしていた照明も落とされ始めている。

 辺りは夜の闇に包まれようとしていた。

 

 

 

 

 

 第3話

 

 

 

 

 

 ――聖域十二宮。

 

 黄金十二宮とも呼ばれるそれは、聖域の更に奥に存在する。教皇の間とアテナ神殿へと続くただ一つの道であり、道中の十二宮は聖闘士最強の黄金聖闘士が守護するまさしく聖域の要とも言える場所である。

 白羊宮――牡羊座(アリエス)から始まり黄道十二星座に沿って金牛宮――牡牛座、双児宮――双子座と続く。

 神話の時代より、黄金聖闘士が揃った十二宮を正面から突破した人間は誰一人いないと伝えられている。

 

 

 

「これはアルデバラン様。さすが、お早いお着きですな」

 

「うむ、教皇はどちらに?」

 

 その十二宮の奥、教皇の間へと続く扉の前に、黄金聖衣を纏い純白のマントを身に着けたアルデバランの姿があった。

 聖闘士にとって聖衣は正装であり、聖域の聖闘士の多くはこうした重要な場では常に聖衣を纏っている。

 

「先程、瞑想(メディテーション)を終えられて教皇の間へ。アルデバラン様がご到着されましたらお通しする様にと申しつかっております」

 

「分った」

 

 そう神官に返すと、アルデバランは奥へと進む。その先には、細やかな意匠が施され見る者に荘厳な雰囲気を与える巨大な扉がある。

 教皇の間である。両脇に立つ衛兵がアルデバランの姿を確認すると、ゆっくりと扉を開き彼を奥へと促した。

 

「タウラスのアルデバラン、只今戻りました」

 

 そい言ってアルデバランは片膝をつき、正面に座す相手へと頭を垂れる。

 

「おお、戻ったかアルデバラン。ご苦労だったな、さあ面を上げよ」

 

 労いの言葉を掛けるのは、未だ幼い女神アテナの代理として聖域を、聖闘士を統括する教皇であった。

 純白の法衣を纏い、歴代の教皇に代々伝えられる兜とマスクを身に着け玉座に腰掛けている。

 

「何か……私が不在の間に良い事でもあったのですかな?」

 

 アテナの加護により奇跡的な長寿を得て、二百数十年前の前聖戦から生き続けていると噂される教皇の素顔をアルデバランは知らない。

 マスクによって表情は分らないが、それでも醸し出される陽の雰囲気は分る。

 顔を上げたアルデバランの問い掛けに、どこか楽しそうに教皇は答えた。

 

「フフフッ、そうだな。だが、それはお前も喜ぶべき事なのだぞ?」

 

 ちなみにマスクで素顔を覆っているとはいえ、教皇は女性聖闘士ではない。

 それはアテナのため、地上の平和のために己という個を殺し仕えるという覚悟の証とされていた。

 教皇としての役割を終えるまで、人前でそのマスクを取る事はない、と。少なくともアルデバランはそう聞かされている。

 側近すら知らないとされるその素顔を知る者がいるとすれば、それは仕えるべきアテナか、同じく前聖戦の生き残りとされる中国五老峰の老師――天秤座の黄金聖闘士だけであろう。

 

「お前の弟子である海斗が先日の試合を経て見事聖闘士となった。エクレウスの青銅聖闘士としてな」

 

「……青銅ですか? いや、あの者の力から試合そのものは左程心配しておりませんでしたが――」

 

 それでも師としては嬉しい事です、と。思わず出た失言を誤魔化すかの様に豪快に笑うアルデバラン。

 そこに――

 

「フッ、些か本音が出たなアルデバラン」

 

 八十八の聖闘士。黄金、白銀、青銅と続く聖闘士の位としては最下層とはいえ聖闘士は聖闘士。

 その事に釘を刺したのは、この教皇の間に静かに現れた一人の黄金聖闘士であった。

 

「確かに聖衣には階級が存在する。だが、それを身に纏う者の力量が必ずしもそれに等しいわけではない。弟子が可愛いのは分るが――自重しろ」

 

「ははは……。いや、いやいや、そんな事はないぞ!?」

 

「なら、そう言う事にしておこうか」

 

 そう言ってアルデバランの横を通り過ぎた男は、教皇の前で静かに片膝をつく。

 

水瓶座(アクエリアス)のカミュ、只今参上致しました」

 

 水瓶座(アクエリアス)のカミュ。

 氷の闘法――凍気を極めた十八歳の若き黄金聖闘士である。

 

 偶然か、必然か。はたまた神の意志であるのか。神話の時代より、アテナを守り共に闘う聖闘士の多くは少年であったとされている。

 アテナがこの地に生を受けて既に十一年。

 それに合わせるかの様に、現在聖闘士として認められている者たちの多くはアテナと同じく十代の少年少女が半数以上を占めていた。

 

「うむ、よく来てくれたなカミュ。そうアルデバランを苛めてやるな。お前とて弟子を持つ身だ、いざその時になれば――どうなるかは分らんぞ?」

 

「……お戯れを」

 

「あ~、ゴホンゴホンッ!」

 

 どうやら二人からからかわれていると悟ったアルデバランは、わざとらしく咳をしてこの流れを止めようとする。

 その様子にからかい過ぎたかと、カミュは表情を改めると本来の要件に移ろうとした。

 

「それで教皇、今回シベリアから私を召喚されたのは何故でしょうか? このカミュだけであればまだしも、ここにはアルデバランがいる。

 黄金二人をもってして当たらねばならない様な事でも起きたのでしょうか?」

 

 聖闘士としての基本的な存在が青銅とするならば、白銀は聖闘士として完成された存在であり、聖闘士最上位である黄金はそれすらも超越した究極の存在である。

 黄金聖闘士一人の前では、青銅聖闘士や白銀聖闘士かどれ程集まったところで掠り傷一つ負わせる事は出来ない。

 身に纏う聖衣の能力に圧倒的な差があるのは確かだが、もっと根本的に聖闘士の力の根源である小宇宙の大小、その桁が違うのだ。

 通常、聖域からの勅命は白銀を中心としてそのサポートに青銅が就く形で行われており、大概の用件はそれで事足りる。

 故に黄金聖闘士が新たに勅命を受ける頻度は遥かに少なく、この教皇の間に於いて黄金聖闘士同士が顔を合わせなど稀な事でもあった。

 

「いや、そう緊張する必要は無いカミュよ。アルデバランとお前がこの場で顔を合わせたのは偶然だ。本来、アルデバランが此処に来るのはもう少し後であったからな」

 

 余程弟子が心配だったのだろう。そう言って笑う教皇に、先のアルデバランの様子を思い浮かべ成程と納得するカミュ。

 その二人の様子にまだ引っ張るかと、アルデバランは不機嫌も露わに顔を背けムスッとしていた。

 

「フッ。さて、カミュよ。お前に頼みたいのはブルーグラードについてだ」

 

永久凍土(ブルーグラード)……つまり氷戦士(ブルーウォリアーズ)ですか。しかし、彼らが隆盛を誇ったのも今や遥かな過去の話。

 一度滅びを迎えた彼らはその力を、北極圏から他の地域を支配するというかつての野心を失っています。現当主ピョートルも争いを好まぬ男です。

 正直に言ってしまえば――今の彼らはこの地上の脅威とはなり得ません」

 

「それは分っている。杞憂で済めばそれで良い。だが、最近彼の地から良くない気配を感じるのだ。お前を向かわせる程でもないとは思うのだが、場所が場所だけに他に適任者がいなくてな」

 

 雪と氷に覆われ、草木すら育たず命を育む事の無い極寒の地ブルーグラード。

 であれば、確かに自分以外の適任者はいないとカミュは考え、しかし、ならばと進言を行う事にした。

 

「畏まりました。しかしながら教皇、ならば――」

 

「お、おいカミュよ、何を考えている! 教皇の命に対して……」

 

 カミュの無礼とも言える発言を諌めようとしたアルデバランであったが――

 

「よい、アルデバランよ」

 

「は、ハッ」

 

 教皇自身が構わぬと言うのであれば、彼には何も言う事は無い。

 

「解っているカミュよ。――以後、氷戦士の件はお前に全て一任する。弟子が可愛いのはカミュもまた同じという事だ。弟子に与える試練としてふさわしいかどうかは分らんが……な」

 

「――ハッ」

 

 恭しく頭を下げたカミュの姿に頷いた教皇は、次いでアルデバランへと視線を向けた。

 向けられた視線に気付き、アルデバランは姿勢を正す。

 

「待たせたな。では聞こうかアルデバランよ」

 

「……ご報告致します。五老峰の――老師からのお言葉は『七百十八』との事です」

 

 そう伝えられたものの、アルデバラン自身この言葉の意味は分らない。疑問もあったが、教皇や老師のお考えなど自分如きに推し量れるモノではないと考える事を止めていた。

 自らの高齢と、アテナからの直々の勅命である事を理由としてこの十数年間、教皇からの聖域への召喚に一切応じようとしない五老峰の老師。

 だが、完全に聖域との関わりを絶っているわけでもなく、使者が訪れれば助言や苦言を呈する事もある。

 

「そうか。いよいよ……なのだな。ご苦労であったアルデ――」

 

 アルデバラン、そう続けようとした教皇の言葉が止まった。

 

「教皇?」

 

 何事かと訝しんだアルデバランが顔を上げれば、玉座から立ち上がり微動だにしない教皇の姿があった。

 カミュを見れば、彼もどうしたのかと分らぬ様子でアルデバランを見た。

 教皇と、もう一度声をかけようとしたアルデバランであったが――

 

「……何だ、この異様な小宇宙は? いや、消えた?」

 

 突如感じた巨大な小宇宙に思わず周囲を見渡していた。カミュもそれを感じたのか、普段冷静な彼には珍しくどこか緊張した様子でその出所を探ろうとしていた。

 ほんの一瞬であったが、二人が感じた小宇宙は黄金に迫ろうかとする程。白と青。異なる二色が螺旋を描き混ざり合う様なイメージ。この特徴的な小宇宙の持主をアルデバランは知っていた。

 

「海斗……か? しかし、どこからだ? それにあの小宇宙の感じは……」

 

 まるで戦いの場であったような。

 感じられたのは僅か一瞬の事であったが、そこに宿る激しさは平時にはあり得ぬものを秘めていた。

 

「……ふむ。やはり興味深いな」

 

 その呟きに、落ち着きを取り戻したアルデバランが視線を向けた。教皇は何かを考えるようなそぶりを見せた後、再び玉座に腰を下ろす。

 

「気にする事はない。二人は知らぬであろうが、この教皇の間は古の秘術により周辺の小宇宙を感じ取り易くなっている」

 

 そう言って教皇は続ける。

 

「海斗が聖闘士となって七日。そろそろ己の小宇宙が聖衣によってどれ程高められるのかを知りたくなる頃だ。許可も与えてある。己の限界を知る、それは悪い事ではない。だが――」

 

 これは早々に昇格を考えねばならんかと教皇が笑う。

 アルデバランとカミュが顔を見合わせた。二人とも先程感じた小宇宙をその様には感じていなかったのだが、教皇がそう言うのであればそうなのであろう。

 どこか納得できないモノを抱えつつ、二人は片膝をつくと教皇へと頭を下げた。

 

「教皇様、そろそろ……」

 

 そんな二人の背後から、教皇の側近が姿を見せた。短く刈り上げられた髪と鍛えられた体躯を持った巨漢だ。

 聖闘士にはなれなかったが、そのアテナへの忠誠心と誠実さから教皇に見出された者だったかとアルデバランは思い出す。

 

「女神アテナ様に拝謁なされるお時間にございます」

 

「そうか。では二人とも下がってよい。ご苦労だった、お前も下がっていよ」

 

「ハッ!」

 

 そう言って皆を下がらせた教皇は、しばらく玉座に腰掛けたまま彫像に様に身動ぎ一つしなかった。

 

 

 

 しんと、教皇の間に静寂が広がる。

 

「……神の一手先、か。目先も読めぬ男に成せるモノではない。成せると本気で考えているのならば、それはお前の愚かな驕りにしか過ぎん」

 

 やがて、教皇はどこか気だるそうに立ち上がると――

 

「愚かなのは私も、か」

 

 玉座の背後――アテナ神殿へと続く扉を覆う巨大な天蓋を潜り、その向こうへと姿を消した。



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第4話 シャイナの涙!誇りと敵意の巻

2021年2月10日 誤字修正。ご指摘ありがとうございます。


 ――教皇の間で行われたやり取りから時は僅かに遡る。

 

 

 

 ホテルの宿泊費を支払った時点で、悲しい事に俺の財布はその役目を終えてしまった。

 気分転換の散策、その程度の名目で渡された金額では当然と言えば当然だったが。

 

「必要な物は経費で落ちるとしても、自分の買い物一つ自由にできない、ってのは面倒臭いよな。適当な金策でも考えるか」

 

 考え事に没頭していたせいか。俺が“それ”を確信したのは、既に日は沈み辺りは夜の闇に包まれようとしていた頃だった。

 

「昼間に感じていた視線から、ひょっとしたら、とは思っていたんだがな」

 

 聖域から出れば、俺に対してグラード財団やあの男(シードラゴン)からの何らかのアクションがあるのでは、と期待をしていたのだが。

 

「お前らさ、『聖域の聖闘士候補たる者みだりに聖域を離れてはならない』って、この掟ぐらい知っているだろうに」

 

 どうやらハズレがかかったらしい。

 落胆する気分を隠すことなく振り返った先には、聖域で見覚えのあった顔がちらほらと。

 岩影から、海岸から、出るわ出るわ。あっという間に二十人近くが集まって来た。よくもまあと呆れるやら感心するやら。

 聖域の年若い雑兵たちだけではなく、その中には聖闘士候補生やゴンゴールの姿もあった。

 

 ……皆、聖域での服装のままである。

 

 百歩譲って服はまあいい。しかし、プロテクターやらヘルメットやらで武装した姿は目立ち過ぎやしないだろうか?

 まさかそれらを身に着けたまま聖域からここまで来たのだろうか?

 秘匿義務はどこへ行った?

 いや、むしろあまりにアレ過ぎて、何も知らない人からは古代ギリシアをモチーフにした仮装とか、テレビや映画の撮影だとしか思われないだろうから逆に大丈夫なのか?

 恐るべし聖域。俗世から離れ過ぎて現代との感覚のギャップに気が付いていないのか?

 確かに聖域はそこだけで完結できる箱庭めいた場所でもあったが。聖域生まれではない俺には真似できない。

 

「フンッ、馬鹿なことを言うな! 俺達は勝手に聖域を離れた貴様を捕えるためにやって来たのだ!!」

 

 俺を指差し見得をきるゴンゴールに、周りのやつらも「そうだそうだ」と気勢を上げる。

 

「勝手に、って。許可は取ったぞ? 助祭長のサインだってある正式な物だ」

 

 これは嘘ではない。幾らなんでも聖闘士になって直後にそこまで好き勝手やる程馬鹿ではないつもりだ。体裁に拘る神官連中と諍いを起こすのは面倒以外の何物でもない。

 ジーンズのポケットから取り出した書状を見せると、何がおかしいのかゴンゴール達が一斉に笑い始めた。

 

「正式ねぇ。それが本物ではないとすれば?」

 

「……ナルホドね。そういう筋書きか」

 

 つまり、俺は嵌められた訳だ。この間の件で俺は自分で思っている以上に連中から嫌われていた事は分っていたが。

 

「許可証を偽造して勝手に外に出て行った俺を、それを口実に私刑にかける、ってか。お前ら、自分のやった事が分っているのか?」

 

 聖闘士を、身内を騙しただけではなく、聖域の発行する書状を偽造するなど最悪死罪となってもおかしくはない大罪だ。それを理解していないはずがないだろうに。

 どうしたものかと頭を抱えたくなった俺の前に、意外な事にシャイナまでもが姿を現した。

 

「……おいおい……」

 

 聖域での服装のままで。

 シャイナよお前もか、と突っ込もうかと思ったが、どうにもそういう空気ではない。

 

「ハッ、馬鹿を言うな。そんな書状など知らんなぁ。俺達はただ無断で聖域を飛び出した貴様を連れ戻しに来ただけよ。力尽くで、だ」

 

 そう言って出てきた大柄な男に俺は見覚えがあった。

 確か――ジャンゴといった名だったか。

 候補生の中でもずば抜けた実力を見せつけており、その小宇宙は既に正規の聖闘士の域に達している、と聞いた事がある。

 

 それにしても、これ程までの無茶をしでかしてまで恨まれる覚えは全くなかったのだが。日々を地味に過ごし、人付き合いも最低限に留めていたというのに。

 訝しむ俺の視線に気が付いたのか、一人の候補生が激昂しながら唾を飛ばす。

 

「テメエ、人気のない所で散々俺らをボコった事を忘れてやがるのか!」

 

 仕掛けて来たのはそっちからだろうに失礼な事を。人前でやらなかっただけ優しいと思え、と言いたい。

 他人に泣いて土下座する姿を見られんで済んだだろうが。

 

「……シャイナ、お前も同意見か?」

 

「さてね。その書状が本物か偽物か、嘘か真実かなんてあたしが知るワケないだろう? こいつ等に事の顛末を見届ける様に頼まれただけさ。まあ、お前の言葉が嘘であった方が面白いんだけどね」

 

 俺の問いにシャイナは肩を竦めてそう答える。

 

「このサディストめ。……後で覚えとけよ」

 

 どうやらシャイナには連中を止める気はないらしい。

 こうなるともう書状の真偽は問題ではなくなってしまった。あいつらにとっては何だってよかったのだ。切欠が欲しかったのだろう。

 

「余所見をするとは余裕だなぁっ!」

 

 ジャンゴはそう言い終えるや否や、俺目掛けて拳を放つ。右のワンツーだ。成る程、確かに速い。

 ブチッ、と聖衣箱を担ぐ為のベルトが断ち切られた。

 ドスン、と音を響かせて聖衣箱が足下に落ちる。

 

「フフフッ、見えたか? 気付いたか? 今は手加減をしてやった。理解できたろう? たかが青銅に選ばれた程度の日本人如きが、このジャンゴに適うなどとは思わん事だ!」

 

 悪いがハッキリと見えていた。

 

「ス、スゲエ。俺には全く見えなかった!」

 

「さすがはジャンゴさんだ!」

 

 盛り上がるゴンゴールと雑兵達。

 周りからの賞賛の声に気を良くしたのかジャンゴは胸を張って続ける。

 

「俺の小宇宙は青銅を超え白銀の位まで高める事が出来るのだ。やがては黄金の域に達し、聖域を、いやこの地上を手にしてくれるわ!!」

 

 ジャンゴ、ジャンゴ、ジャンゴ!

 取り巻きの連中の喝采が一層ジャンゴを高揚させていた。

 

「フフフフッ、うわはははははははっ!!」

 

「…………」

 

 もう、何と言えば良いのやら。若手がこれで本当に大丈夫なのか聖域は?

 思わず瞼に込み上げて来る熱いモノを抑え、俺はシャイナを見た。お前だけは、と期待を込めて。

 

「……好きにしな」

 

 俺の視線に気付いたシャイナは、こめかみを抑えながら投げやりに言った。

 この場にまともな感性の人間がいた事を神に感謝したくなった。

 

 ――どの神に感謝すればいいのか分らなかったので止めた。

 

 取り敢えず、馬鹿騒ぎを始めた有象無象は無視して俺はゴンゴールに話し掛ける事にする。

 一週間前の試合で直接俺とやり合ったお前なら理解しているだろうと。

 

「お前、この間負けたのに……またやるのか?」

 

「アレはオレの本気ではなかった!」

 

「……」

 

 その答えに、俺はもう何もかもどうでも良くなった。

 

「お前らさ、泳げるか? 泳げない奴がいたら手を上げろ」

 

「ハァ? イキナリ何を――」

 

「……泳げるのかどうかと聞いている」

 

「ちょ、ちょっと待ちな。落ち着きなって海斗!?」

 

 シャイナが慌てているがどうしたというのか。

 冷静だ。至って俺は冷静だ。

 

「ようし、誰も手を上げていないな。ならば遠慮はせん!」

 

 何やら有象無象共が直立不動で固まっている。

 誰一人として口を開こうとはしていない。静かなのは良い事だ。

 右腕をゆっくりと振り上げる。

 エクレウスを構成する四つの星をなぞる様にして描かれる小宇宙の軌跡。

 軌跡の描く歪な台形はやつらへ向けた俺の手の前で完全な四角形となり、その内側では高められた小宇宙が集中し、集束し、圧縮を繰り返し――限界を迎えたそれは今にも爆発しようとしている。

 無論、本気で放つつもりはない。有象無象共は確かに馬鹿者共には違いはないが、まだ笑って済ませられる馬鹿共だ。

 ただ、今の自分にどの程度の事が出来るのかを試すだけだ。

 

「寝覚めが悪くなる……かもしれないからな。死ぬなよ? 冥府へ向かいしヘルメスの足となりお前達に終焉を告げる――受けろ“最終宣告”(エンドセンテンス)

 

 

 

 

 

 第4話

 

 

 

 

 

 海斗の拳が光った。そうとしかジャンゴには感じる事が出来なかった。

 

「い、一体な、何が起こった?」

 

 まぶしさに思わず目を閉じてしまったジャンゴであったが、身体には何のダメージもない。

 警戒しつつ目を開けば、腕を組みこちらを見ている海斗と、その横で立ち尽くしているシャイナの姿があった。

 

「チッ、目くらましか? 小癪な……真似……を?」

 

 そこで、ジャンゴは何かがおかしい事に気が付いた。自分の周りが余りにも静か過ぎる事に。

 気配がない。

 自分の後ろに控えていたはずの者たちの気配が。

 ぞくりと、背中を流れる冷たい汗にゆっくりと振り返ったジャンゴは――

 

「な、なんだと……!!」

 

 言葉を失っていた。そこには誰もいなかったのだ。まるで最初からここに来たのが自分一人であったかのように。

 ここに来るまでに夢でも見ていたのかと、現実を疑いそうになったジャンゴであったが、海岸や砂浜に残された足跡が確かな痕跡となってこれが現実であると雄弁に物語っていた。

 

「あ……ば、ばば……」

 

 呂律の回らぬまま、全身を襲う震えを必死に抑え込み、ジャンゴは海斗へと振り返る。それは理解が追い付かないモノへの恐怖であった。

 そのジャンゴの眉間に、ピタリと海斗の人差し指が付き付けられていた。

 

「どうやらお前が主犯かな? いや、多分神官連中の誰かも手伝っているんだろう? 聖域に保管された聖衣はギリシア人にこそふさわしい、って考えが透けて見える奴が多かったからな」

 

 突き付けられたその指を掴もうと手を伸ばしたジャンゴであったが――

 

「まあ、その事は聖域でゆっくりと話してもらうさ」

 

 その直後、脳裏に巨大な波に呑み込まれる自分の姿を幻視する。

 波は迫り来る無数の海龍の頭となり、大きく広げられた口腔から覗く巨大な牙がジャンゴの全身を貫きその全てを咀嚼した。

 

「ぃぎゃあっ!?」

 

 あまりにも現実離れしたそのヴィジョンからジャンゴはそれが幻覚であると理解していたのだが、眉間から全身を貫く様に走った激痛が脳裏に浮かぶ惨殺された自身の姿と一致してしまう。

 それがあたかも現実であると誤認させられたジャンゴは耐え切れずに意識を失いその場に崩れ落ちた。

 

 

 

「か、海斗、アンタ一体何を? いや、それよりも今見せた力は……」

 

「何って、ちょいと軽く海へと吹っ飛ばしただけだ。ジャンゴに関しては精神感応(テレパス)に現実の痛みを組み合わせた……幻通拳とでも名付けるか?」

 

 エンドセンテンス――四角形の中で極限にまで高めた小宇宙を破壊のエネルギーとして変換し、その波動を対象目掛けて一気に放出する技。

 前のオレのダイダルウェイブもそうだったが、どうやら俺は小宇宙を高め拳と拳をぶつけ合う聖闘士の王道的な闘法よりも、高めた小宇宙を相手へと解き放つこういった闘法が向いていた。

 とはいえ、四年前の当時は小宇宙の更なる圧縮という工程に手間取っていたが、“溜め”と“放出”というのは師アルデバランが得意とする分野であったのが幸いだった。

 居合拳から学びコツを得てモノにしたのだが、思った以上にしっくりきた事を不思議に思ったのも懐かしい。

 

「あいつらも鍛えてるんだから、その内泳いで戻って来るだろうよ。それにしてもコイツ重いな」

 

 二人ぐらいはこの場に残しておけばよかったか。そう軽く後悔するが今更だ。

 

「取り敢えず、アテネまでタクシーにでも乗せて……いや、金がない。バスも……駄目だな。なあシャイナ金持ってない?」

 

「質問に答えなよ。こっちは真面目に聞いてるんだ。一瞬だったけど確かに馬鹿げた小宇宙を感じた。あの時も、今も。それに今の技だ。試合の時にも思ったけどね、確信を持った」

 

 一言一言を噛み締める様に、シャイナは静かに俺へと詰め寄って来る。

 

「アンタは聖域で過ごしたこの四年間ずっと手を抜いていたワケだ」

 

 確かに手を抜いていたと言われれば否定は出来ない。自分の力を高める事には本気だったが、少なくとも聖闘士となる事に全力で取り組んではいなかった。

 それに、理由など話せるはずもなく、言ったところで到底納得出来るモノでもないだろう。

 

「……ふざけんじゃないよ。アタシらはね、聖闘士となるために命懸けでやってきたんだ!」

 

「落ち着けって、そんなに興奮して叫んでいたらマスクが外れるぞ?」

 

「そんな事はどうでもいい!」

 

 どうでもいいって、お前自分が何を言っているのか分っているのか?

 そう軽口を叩こうとした俺だったが、ジャケットの襟元を掴みそのまま首を締め上げようとするシャイナの尋常ではない様子に、何も言うことが出来なかった。

 

「再起不能になった奴もいれば死んだ奴だっている!! それを何だアンタはッ!?」

 

 ギリギリと締め付けられる力が強くなる。

 

「それだけの力があったんなら、アンタにとってアタシらが必死になっている姿はさぞ滑稽だったんだろうね? 陰で笑っていたんだろう?」

 

 パシンと、乾いた音が鳴った。

 

「アンタは凄いよ、天才って言葉が相応しいのかもしれない。でもね……馬鹿にするのもいい加減にしな」

 

 掴まれていたジャケットの襟元が破れ、行き場を失ったシャイナの手が俺の横っ面を叩いた音だ。

 

「……なんで避けないのさ? 同情かい? 憐れみかい? それとも、余裕過ぎて避けるまでもないって?」

 

「……」

 

「何とか言ったらどうだい?」

 

 俺を見上げるシャイナのマスク、その隙間から流れる涙が見えた。

 言えるはずがない。何を言ったところで言い訳にしかならない。

 俺がここで謝罪の言葉を述べたところで、それは侮辱にしかならない。そんな気がする。

 そのまま、互いに無言で向かい合う。目を逸らしはしない。それをしてはいけない事ぐらいは分る。

 

 

 

 そうして、しばらく経った頃。ハァと大きく息を吐いたシャイナが拳を握り――トンと俺の胸にその拳をあてた。

 

「……悪かったね。あんまりだったからさ、ちょっと驚いちまってね。黄金の弟子なんだから才能や力があってもおかしくはない」

 

 才能のない人間のやっかみだとでも思ってくれて構わない。そう言ってシャイナは倒れているジャンゴの下へ歩み寄りその身体を担ぎ上げる。

 

「心配しなくても聖域にはちゃんと事実を報告してやるさ。ただ、野心を持つのは勝手だがジャンゴの言った言葉は聞き逃せるもんじゃない。コイツには何らかのペナルティが与えられるだろうね」

 

「……ああ、そうだな。頼む」

 

 俺とシャイナはそれ程親しいわけでもなかったが、さすがにさっきまでの空気を引き摺り続けるのはキツかった。

 身に纏う雰囲気が俺の知る普段のシャイナに戻った事で、気持ちが少し軽くなった気がした。

 

「アンタもさっさと聖域に帰りな。これで知っただろうけどね、アンタも星矢も『上』の連中から目を付けられているんだ。今日みたいに難癖を付けられるのが嫌なら、もうしばらくは迂闊な行動は控える事だね」

 

「俺だけではなくて星矢も名指しか? 連中の国粋主義も大概だな」

 

 聖闘士はギリシア発祥とは言え、閉鎖的にも程がある。

 あくまでぼやきであって、特に誰かに返答を期待したものではなかったのだが、シャイナには聞こえていたのだろう。

 

「確かに聖域の連中には快く思われていないけど、意外と聖闘士の中にはギリシア人以外も多いさ。まあ、ほとんどは聖域の外で聖闘士になった奴らだけどね」

 

 つまりは肯定ってわけか。東洋人以外で、俺と星矢に共通する点といえば城戸光政かグラード財団ぐらいしか思い付かない。

 こうなると、ますます城戸の爺さんが聖域の反感を買う様な、余計な事をしていたんじゃないかとの仮定が信憑性を帯びる。

 

「ご忠告感謝するよ。それにしても、今日は随分と優しいな」

 

「フン、殴った分はこれでチャラにしといてやるから――他言は無用だよ」

 

 みっともない所を見せちまったからね。そう言い残し、ジャンゴを担いだシャイナはこちらを振り向く事無く去って行った。

 

 

 

 

 

「意外といい女かもねアイツは。あれでもう少しキツさがなければ……想像出来んな」

 

 人気のなくなった砂浜に腰を下ろし、星座の輝く夜空を眺め打ち寄せる波の音を聞きながら、俺はシャイナに言われた事を思い出していた。

 

「馬鹿にするな、か。全く、痛い所を突く」

 

 あえて考えない様にしていた事だけに、それを指摘されて心情的にかなりクルものがあった。

 

「俺は……どうしたいんだろうな」

 

 ずるずると先延ばしにしていた結論。

 地上粛清を完全に否定する気はないが、海闘士として生きるには俺にはオレ程の熱意もない。

 現世では海闘士の活動自体が時期尚早であるという、オレと俺の知識から得た確信もある。

 海皇の完全なる覚醒にはあと二百年程は必要であり、不完全な覚醒状態の海皇の下ではその加護をどれ程得られるのかが分らない。

 神の意志に完全に覚醒してこそ、その魂を宿した人間は現世において神の力を正しく行使できるのだ。

 姿を見た事はないが、アルデバランからアテナは既に聖域に光臨していると聞いている。ただ、今はまだ幼い少女であり、女神アテナとして正しく覚醒を果たすまではアテナ神殿で教皇に守られながら学び日々を過ごしている、とも。

 いつ覚醒してもおかしくはないアテナとその加護を得られる聖闘士。不完全な海皇でも神話の時代よりアテナと戦ってきた神だ。負けるとは思わないが、正しき加護を得られぬ海闘士が勝てると思えない。

 追い詰められた海闘士がどんな無茶をしでかすかもわからない以上、聖闘士との不必要な開戦は避けるべきだ。

 

「降りかかる火の粉は払うべきだが、徒に火を付けて回るのは違う」

 

 こう考えてしまう時点で、俺はかなり聖闘士寄りになってしまっている。

 だが、シャイナにも言われた通り、俺が聖闘士を目指したのは力を得る為の打算であり成り行きに過ぎない。

 海闘士となってやがて聖闘士になるであろう星矢たち孤児仲間に拳を向けるつもりもない。

 アルデバランには育てて貰った恩義はあったが、だからと言って真実を打ち明けるつもりもなければ、海皇にも女神アテナに対する忠誠もない。

 どちらにもなるべき理由が、目指すべきモノが俺にはない。

 

 これまでも考えなかった事はないが、思考はいつもぐるぐると同じところを回る。

 些細な変化もなくただ回り続けるだけであるならば、それはある意味で停止しているのと変わらないのではないかと考える。

 

「結局、中途半端とは分っていても今のままが良いのだろうな」

 

 ある種ぬるま湯のような。現状維持、行き着くのはそこだ。

 

「なら、せめて現状維持への最高の一手は無理でも最善の一手は打たせてもらおうか」

 

 聖衣の箱に手を伸ばす。

 箱の正面に描かれたレリーフ――馬の口に咥えられた握りを捻り、一気に引き抜いた。

 ジャッという音を立てて鎖が引き出され、ドンという空気を震わせる衝撃を伴って聖衣箱が開かれる。

 立ち昇るのは、夜空へと向かい飛翔するエクレウスのオーラ。長き眠りより解き放たれたかの様に、高く、高く舞い上がる。

 残されたのは、槍を咥えた天馬を模した白いオブジェ――エクレウスの青銅聖衣。

 オブジェ形態から、弾かれるように四散した聖衣が俺の身体へと装着される。

 (レッグ)(ウエスト)(チェスト)(アーム)(ショルダー)そして(サークレット)へと。

 海将軍の鱗衣や黄金聖衣に比べて必要最低限の部位の保護しかない鎧であったが、それでも内なる小宇宙の高まりに応じる様にエクレウスの聖衣が俺の力を増しているのを感じる。

 

「聖衣は……コイツは俺を聖闘士として認めた、か」

 

 嬉しくもあり悩ましくもあり。思わず苦笑してしまった。

 これでは、ますますどちらの道を選ぶべきかの判断に迷う。いっそ拒絶されていれば悩む事もなかっただろうに、と。

 

「どちらにせよ、やるべき事は一つだけだ」

 

 ゆっくりと視線を動かす。

 スニオン岬の崖下には一般人が気付かぬ様に張られた結界があった。そこに隠されているのは懲罰房だ。聖域が捕えた敵や、過ちを犯した聖闘士を懲らしめるために使ったとされる岩牢だ。

 波が岩肌にぶつかり、飛沫を散らして海へと帰り、再び波と化して岩肌へ。大きな波がぶち当たれば、大きな飛沫を撒き散らす。

 

 舞い落ち散る飛沫の中に影があった。人の影だ。

 

 ゆっくりとこちらに歩み寄る人影は、夜空に輝く星々の煌めきに照らされて闇の中からその姿を晒し出す。

 それは黄金の輝き――シードラゴンの鱗衣を纏った男だった。

 その身から立ち昇る小宇宙は間違いなく前世のオレを殺した男と同一。あるいは、この世界とあの世界の過去は違うという期待もあったのだが。

 十中八九、この世界でもこの男が海皇復活に関わっているのは間違いないだろう。

 

「ほう、奇妙な小宇宙に興味を持ってやって来たが、まさか聖闘士とはな」

 

「そういうお前も、鱗衣で上手く誤魔化している様だが――俺には分る。海闘士とはやはり少し違う。思った通り――聖闘士か?」

 

 ハズレを引くは忠告を受けるはと色々あった一日だったが、最後に大当たりが来てくれた。

 

「……貴様、何者だ?」

 

 その男の問い掛けに、俺は笑いを抑えきれなかった。

 

「何がおかしい」

 

「ハハハハハッ! いや、あの時とはまるで逆だと思ってな。気にするなよ、『お前』には分らない事だ」

 

 拳を握り、真っ直ぐに相手を見据える。

 

 あの時と同じ。

 いや、あの時と今の俺とでは決定的に違う。

 

「俺が誰かって? 見て分らないのか? お前が言ったじゃないか」「聖闘士さ、お前を倒す為の聖闘士――エクレウスの海斗だ」

 

 この世界で何を成すにしても、シードラゴンで終わった俺は、この男(シードラゴン)から始めなければならない。



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第5話 宿敵との再会!その名はカノン!の巻

*ご指摘頂いた誤字修正しました。「聖堂聖衣でありながら」→「青銅聖衣でありながら」
*2013年2月16日15時 ご感想にあった「真の持主~」のくだりを改訂前の言い回しに修正し、それに合わせて文中の表現に加筆修正を加えています。



「エクレウスの聖闘士――海斗か。若いな、聖闘士になりたてのヒヨッコが――」

 

 そう呟き、奴が一歩を踏み出した。

 初対面の俺が奴の事を知っているそぶりを見せた事に対しての警戒は見せているが、敵としては明らかに見下しているのが分る。

 俺にとっては好都合だ。侮ってくれているのならそのままで良い。一分の隙も見逃さない、先制の一撃を入れてやるさ。

 

 しかし、敵を侮っていたのは俺も同じだったと即座に思い知る事となる。

 

「聖衣を得た事で思い上がり、ハネッ返って見せた。そういったところか?」

 

 その瞬間、奴の姿が輝き俺の視界から消え――

 

「がッ!?」

 

 全身に、まるで正面から巨大な壁にぶち当たった様な衝撃を受けて、俺は吹き飛ばされていた。

 奴の繰り出した左拳の一撃だ。それも、当てる瞬間にわざと止めて見せて、だ。

 俺の中にあったイメージよりも速い。その拳速は、青銅や白銀の域を容易く超えている。

 

 聖闘士の基本として、青銅聖闘士(ブロンズセイント)はマッハ1の速度で動き、秒間に百発近い拳を繰り出す事を可能とする。

 その上位である白銀聖闘士(シルバーセイント)は、マッハ2~5の速度を持つ。

 青銅と白銀、この両者の時点で既に埋め難い差があるのだが、黄金のそれは比較するのもおこがましい。まさしく超越している。

 光り輝く黄金聖衣を纏う彼らの早さは――光速。

 光の拳と光の鎧を持ち、光の速度で活動する究極の聖闘士。

 

 俺自身に油断があったとはいえ、手を抜かれた一撃でこれだ。

 おそらく、奴が本気で拳を繰り出せばマッハを超えた光速の拳に達するのは間違いない。

 ならば、それを振るえる奴の力は、まさしく黄金聖闘士に匹敵する。海皇の海将軍としても、だ。

 

「ぐっ!」

 

 砂浜に叩き付けられる前に身体を捻り体勢を立て直す。

 許容量を超えた一撃で聖衣が軋みを上げている。聖闘士の力量は必ずしも纏う聖衣とイコールではないが、青銅聖衣、白銀聖衣、黄金聖衣ではその材質からが異なる以上聖衣の耐久力には明らかな格差が存在している。

 青銅聖衣でありながら先の一撃で砕けずにいるこのエクレウスの聖衣の頑丈さにまだ持てよと、俺は着地と同時に奴目掛けて左右の連打を繰り出した。

 

「だが、フッ……しかし青銅如きに本気になろうとしたオレも大人気なかった」

 

 それを奴はまるで意に介した様子もなく、僅かな動きだけで繰り出す拳を避ける。

 

「成る程、青銅とは思えぬ程に――速い。ならば……そうだな、この左拳一つで相手をしてやろう。少しは戦いらしくなるかも知れん」

 

 その言葉通り、奴は避けるのを止め、左手一つで俺の繰り出す連打を全て捌き始めた。いいさ、そのまま調子に乗っていろ。

 

「速いだけではなく威力もある。これならば思い上がるのも無理はない。オレの知る限り白銀クラスの中でもこれ程の使い手は――ムッ!?」

 

 バシンと、音が響いた。

 

 俺の右拳が奴の左手に受け止められ――

 

「今世の海闘士は随分と詳しいんだな、聖闘士の事を」

 

 奴の右拳を俺の左手が受け止めていた。

 

「どうした? 左拳だけで相手をしてくれるんじゃあなかったのか?」

 

「……ぬかせ小僧が」

 

 そのまま俺と奴は視線を逸らす事なく睨みあう。

 

「オレの事を、いや海闘士の事を知っている……小僧、お前は――何者だ?」

 

「海闘士の敵が聖闘士ならば、聖闘士の敵は――海闘士だろう?」

 

「……!? まさか、小僧――お前は!!」

 

 俺の言葉に奴はその意味を悟ったのだろう。

 奴に僅かな動揺が見えた瞬間、俺は己の内で抑えつけて、高め続けていた小宇宙を解き放つ。

 

「なッ!? 何だこの小宇宙は!? これ程までの攻撃的な小宇宙を秘めていただとッ!!」

 

 鱗衣の(マスク)越しでも奴の驚愕が分る。

 前世のオレを殺した男と、この目の前の男が異なる存在だと頭では理解していても感情は別。

 

「オレの仇を取らせて貰うッ!」

 

 奴には俺が何を言っているのか分らないだろうが、これは俺自身の区切りだ。

 この期に及んで隠し続ける必要はない。俺は、この生において初めて己の小宇宙を極限にまで高め燃焼させる。

 

 俺を中心に螺旋を描いて吹き上がる小宇宙。それは砂塵を巻き上げて風の渦を生み出した。

 小宇宙は激流となって立ち昇り、奴はこの渦から逃れようとしたが俺がその右手を掴んでいる為に逃げる事もかなわない。

 

「ええぃッ! 何をするつもりかは分らんが、このまま大人しくやられてやるとでも思ったか! その前にその首を叩き落としてくれるわ!!」

 

 この場から逃れるのは無理と判断したのだろう。奴の左拳が俺の顔を打ち貫こうと放たれる。

 だが、その一撃は届かない。

 

「これは、拳が……弾かれるッ!? か、身体が捻じれっ、こ、これでは!? この威力――」

 

 小宇宙の激流が生み出す巨大な竜巻。贄を天へと捧げる聖なる柱。

 俺の小宇宙の高まりに応じて破壊の螺旋に巻き込まれた奴の身体を引き裂かんと勢いは激しさを増す。

 

「シードラゴンを名乗るつもりなら知っておけ。これが――」

 

 海将軍シードラゴン必殺の拳。

 

「ぐっ!? こ、この、これしきでッ!! この程――ぐ、ぐわぁああっ!?」

 

 破壊の力場に捉えられた奴の顔が苦痛に歪む。

 全てを消し飛ばす。奴も、俺の中にわだかまり燻り続ける何もかもを。

 

「“ホーリーピラー”だ!!」

 

 そして、俺は小宇宙を爆発させた。

 

 

 

 

 

 第5話

 

 

 

 

 

 打ち寄せる波の音が聞こえた。

 

 足下を濡らす水の流れを感じて、俺は自分の意識が飛んでいた事に気が付いた。

 急激な小宇宙の消耗によって気を失っていた様だ。始めて全力を出した事もあり、一切の加減が利かなかったのだろう。

 

「……奴は?」

 

 周囲を見渡すが、そられしき姿も気配もない。

 

「倒した……倒せたのか?」

 

 一切の手加減なし。全身全霊、全力を込めて放った一撃だ。いくらなんでもあれの直撃を受けて無事に済んだとは思えない。

 とはいえ、技を放った俺がその反動で気を失う様では。

 

「まだまだ制御が甘い、か」

 

 想像以上に高まりを見せたからといって、己の小宇宙に振り回される様では師に未熟と笑われる。

 

「師……ああ、そうだいつも困ったような顔で笑……う?」

 

 笑う? 誰が?

 俺は自分の全力をアルデバランに見せた事はないはずだ。

 

「駄目だな、意識がまだハッキリしていないのか? 全力を出す度にこれでは……。まあ、今はその事は置いておくか。しかし――」

 

 さすがに、ホーリーピラーを放った事は聖域に気付かれたかもしれない。

 掟により、聖闘士は聖衣を纏っての私闘は禁じられている。

 奴との戦いは、確かに私情が十割の私闘ではあったが、聖闘士と海闘士の戦いでもあった。

 これは屁理屈ではあるが事実だ。

 問い質されても困る事はないが、面倒な事に違いはない。できれば気付かれてはいないと思いたいが。

 

「それにしても、よく持ってくれたなコイツは」

 

 そう呟いて聖衣に触れる。聖衣はただ身を守る為のプロテクターではない。持ち主の精神と力に呼応して、その小宇宙を高める力がある。

 青銅から白銀、そして黄金と、位が上がる毎にその効果は顕著であると話にも聞いている。

 海将軍でもあった俺の全力を受け止めきれるか不安もあったのだが、聖衣は見事に応えてくれた。

 

「とりあえずは……戻るか。あまり遅くなるとシャイナ辺りが戻ってきそうだしな。旅行者が来ないとも限らないし、誰かが来る前にさっさと――」

 

 離れるか、と。

 この場から立ち去ろうとした俺は、突如感じた巨大な小宇宙にその歩みを止めた。

 

 

 

「謝罪しよう。お前をたかが青銅、たかが聖闘士と侮った事を」

 

 

 

 俺の中でまさか、という思いと、やはり、との相反する思いがあった。

 聞こえた声に振り返れば、そこにはゆっくりとこちらに歩み寄る人影。シードラゴンの鱗衣を纏ったあの男だった。

 一目見てダメージが有る事が分る。纏った鱗衣には亀裂が奔り、その身体からは血を流し、確かに傷を負っていた。だが、感じる小宇宙に衰えはない。

 どれだけ傷を負おうとも、小宇宙の炎が衰えぬ限り戦える、戦うのが聖闘士であり海闘士だ。

 

 つまりは――奴はまだ戦える、という事。

 

「ここは聖域に近い。今はまだ我ら海闘士の動きを聖闘士に気付かれては困る。お前にも聞きたい事があったからな。そう思い、やり過ぎぬ様に手を抜いたが」

 

 奴の拳が放たれる。

 俺も一撃を放つ。

 撃ち合わされた互いの一撃が――弾けた。

 

「どうやら――そうも言ってはおられん様になったな」

 

「……ホーリーピラーは直撃だった。だというのに随分と元気そうだな」

 

「フッ、無事ではないぞ。恐るべき威力だった。見ろ、黄金聖衣に匹敵すると言われる海将軍の鱗衣がこれ程までに破損をしている。お前の相手がオレでなければ、他の海将軍であれば倒れていただろう」

 

 奴の小宇宙が急速に高まるのを感じる。

 このまま黙って見ているのは拙いと、俺は直感に従い拳を放つ。

 

「“エンドセンテンス”!」

 

 拳が描くエクレウスの軌跡。四角形より放たれた無数の光弾が奴目掛けて集束する。

 

「青銅の身で、いや海闘士でありながら第六感の先にある小宇宙の真髄――セブンセンシズに目覚めたか。確かにお前はシードラゴンだ」

 

 しかし、その一撃が奴を捉える事はなかった。

 

「何!?」

 

 奴が突き出した両手の前に、エンドセンテンスの破壊の波動が全て受け止められていた。

 俺の脳裏に『あの時』の光景が浮かぶ。この流れは――拙い。

 

「海斗と言ったな。認めよう、先程のお前の力は黄金に匹敵した。まさしくシードラゴン足るに相応しい。その力に敬意を表し、オレの名を教えてやろう。カノンだ、今からお前を殺す男の名よ」

 

 カノン。それがこの男の名。

 

「お前の纏う聖衣が青銅ではなく黄金であれば、この鱗衣であれば、この勝負どうなっていたかは分らん。だからこそ、お前という存在はオレの野望にとって大きな災いとなるだろう」

 

 奴――カノンの小宇宙にエンドセンテンスの力が呑み込まれ、その突き出された両手に尋常ではない程の小宇宙が集束して行くのを感じた。空間が歪んで見える程に凝縮された小宇宙が見える。

 

「聖域に気付かれるリスクなど最早構うまい。お前は今、このカノンの全力を持って、この場で倒さねばならん敵よ!!」

 

 それを宿した両腕を、カノンがゆっくりと掲げる。その身から放たれた小宇宙が周囲を侵食し、気が付けば俺は奴が生み出した銀河の中に立っていた。

 そして俺はカノンの小宇宙にこちらへと迫り来る広大な銀河の星々を見た。

 同時に悟る。これに対抗するにはあれしかない、と。この技によって一度命を落としたからこそ確信を持てる。

 身体が動く。俺の意識してのものではなく。それは鏡に映したかの様にカノンの構えと同じもの。

 

 

 

 命を落とした?

 俺が?

 そうだ、俺と師は互いにこれを――

 

 

 違う。俺が命を落としたのはカノンが放った次空間を操る技によってだ。この技では――ない。

 それを認識した事で、身体は俺の意志に従い構えを解く。ここで頼るべきは“俺の知る”最速の拳のはずだ、と言い聞かせて。

 

「くっ、エンド――」

 

 しかし、俺がエンドセンテンスを繰り出すよりもカノンの方が早い。

 

「受けよ、銀河の星々すら砕くこの一撃を!! “ギャラクシアンエクスプロージョン”(銀河爆砕)!!」

 

 打ち合わされるカノンの両手。

 限界まで凝縮された小宇宙がぶつかり合い爆発を起こし、それはまさに銀河の星々すら砕く破壊の奔流と化し俺を目掛けて襲い掛かった。

 大爆発(ビッグバン)の圧倒的な奔流の前に俺が耐える事が出来たのはほんの一瞬だけだったのかもしれない。

 

「ぐ、くぅう!? が、あああああぁ……!!」

 

 閃光の中で亀裂と共に砕け散るエクレウスの聖衣が見える。

 薄れ行く意識の中、すまないと、俺は聖衣に詫びた。

 

 

 

 

 

 纏った聖衣は半壊し、血を流し倒れ伏した海斗に意識はない。その前で、カノンは砂浜に膝をつき荒い呼吸を繰り返していた。

 

「聖衣も肉体も残ったか。しかし――」

 

 オレでなければ倒されていた、海斗に向けてそう言ったカノンの言葉に嘘はなかった。

 海斗の放ったホーリーピラーはカノンの肉体に多大な負荷と大きなダメージを与えていた。

 カノンがギャラクシアンエクスプロージョンを全力で放った事に間違いはなかったが、仮に万全の状態で放たれていたならば海斗の身体は消し飛んでいてもおかしくはなかった。

 それ程の力を秘めた正しく必殺の技であったのだ。

 

「……恐るべき敵であったが、オレの方が上だった。力も、技も、経験も、全てがだ」

 

 自身に言い聞かせるように。立ち上がりながらそう漏らしたカノンであったが、その時ピクリと、僅かながらも海斗の身体が動いた事を見逃さなかった。

 

「まだ息があるのか。いいだろう、せめてもの情だ。この場で一思いに止めを刺してやる」

 

 右手を手刀の形としゆっくりと振り上げる。

 狙いは海斗の首。

 

「お前という存在に興味がわいたのは否定せんがな。……さらばだ」

 

 振り下ろされる手刀。それが今まさに海斗の首に触れようか、というその時だった。

 

「貴方は一体何をしているのですか?」

 

 波の音だけが響き渡る中で、その声は確かな力を持ってカノンの動きを止めていた。静かでありながらも凛とした声であった。

 カノンが振り下ろした手刀は、海斗の首の薄皮一枚を切り裂いたところで止まっていた。

 

「……海魔女(セイレーン)海将軍(ジェネラル)セイレーンのソレントか」

 

 手刀を解き立ち上がる。

 カノンが睨み付ける様に見据えた先には七人の海将軍の一人、セイレーンを司る海闘士ソレントがその身に鱗衣を纏って立っており、カノンへと鋭い視線を向けていた。

 

「地上に出るのは構わん。しかし、どうしてお前が鱗衣を纏いここにいる?」

 

「それはこちらのセリフですよ。シードラゴン、まだ動く時ではないと我々に力を振るう事を禁じた貴方が鱗衣を纏い地上へ出た」

 

 それに、と続けてソレントは視線を聖域へと向ける。

 

「この地はあまりにも聖域に近過ぎる。貴方のその姿からここで何があったのかは想像出来ます。だが、だとするならば我々の存在を聖闘士に気付かれた恐れもある」

 

 海魔女(セイレーン)のソレント。彼は海闘士として覚醒するまでは世界でも有名な音楽生であり、彼が奏でるフルートの美しく澄んだ音色は聞く者の心を癒す奇跡の音色と賞賛されていた。

 彼はおよそ戦いには向かない穏やかな心の持主であったが、海闘士としての使命に対する姿勢は誰もが認める程に強い。

 そんな彼の問い質す様な視線、言葉の端々に含まれる怒気を感じ、厄介な奴に気付かれたとカノンは内心で舌打ちをしていた。

 

「……この男は海闘士として目覚めながらアテナの聖闘士となった、言わば我らの裏切り者よ。ならば始末を付けるのは当然の事ではないか?」

 

「馬鹿な!? 海闘士として目覚めた者がアテナの聖闘士に!?」

 

 ソレントの抱いた驚愕、それはカノンも同じである。

 もっとも、裏切り者の存在に驚いているソレントとは違い、カノンのそれは相手が本来のシードラゴンであった事だが。

 

「……事実だ。それに聖闘士から海闘士になった者もいる。ならば、その逆もまたあり得ぬ話ではあるまい」

 

 だから、これは正当な制裁なのだとソレントに告げ、カノンは再び海斗へと視線を向けた。

 再び手刀を振り上げて海斗の首筋へと狙いを定める。一刻も早く止めを刺さねばならない。

 聖域に気付かれては拙いのは確かであったが、それよりもソレントに海斗の事を知られる事だけは絶対に避けねばならないとの思いからだ。

 自分が偽りのシードラゴンである事を。眠りから目覚め半覚醒状態であった海皇に偽りを語って手に入れたシードラゴンの座。

 カノンの抱く野望の第一段階である海闘士の掌握が未だ完了していない現状で、海皇すら知らぬこの事実を誰一人として知られるわけにはいかなかったのだから。

 十一年をかけた。

 己の野望――大地と大海、この二つの世界を手中にすべく費やしたこの十一年間を無駄にする事など出来るはずがない。

 

「待てシードラゴン!」

 

 なのに何故、こうも邪魔が入るのか。

 振り上げられたカノンの腕を、ソレントが掴む。さすがにカノンもこれ以上冷静を保つ事は出来なかった。

 

「何故止めるセイレーン!」

 

 声を荒げて非難を向ける。怒気に紛れて殺気すらも漂わせていたかもしれない。

 しかし、ソレントはそれに動じることなく語る。

 

「貴方の言葉が真実なら、裏切り者とはいえ彼は海闘士なのだろう? 貴方にそれ程の手傷を負わせる程の、だ。だとするならば、彼は未だ覚醒者が現れていない海馬(シーホース)かスキュラ、クラーケンの海将軍である可能性もある。いや、海将軍でなくとも他の鱗衣の適合者かもしれない」

 

「この男は裏切り者だぞ!」

 

「私は海闘士に裏切り者はいないと信じている。きっと何か理由がある筈だ。それに貴方が言ったのだぞ、聖闘士から海闘士になった者もいる、と」

 

「ぐっ、くく……!!」

 

 どうして、どうしてこうなるのだと、カノンは怒りに身を震わせる。

 この十一年間、全てが上手く行っていたはずだったのだ。

 

 そんなことはあり得ない、と。

 この男は自らシードラゴンだと言ったのだ、と。

 

 そうソレントに言ってやりたかった。

 カノンにとって、ソレントの海闘士としての使命感と仲間に対しての信頼の強さは“海将軍としては”非常に頼もしくあったが、この時ばかりは恨めしくあった。

 こうして問答を繰り返している間にも、時間は刻一刻と過ぎて行く。

 

「……分った。この場でこの男の命を取る事は止めよう」

 

「そうか。ならば彼の説得は私が行おう」

 

 カノンの言葉に安心したのか、ソレントは掴んでいた手を離す。

 

「ならば、せめて海皇が目覚めるまでこの世界から消えて貰う事にしよう。その時には、この男が残る海将軍であったかどうかの答えが出ているはずだからな」

 

 そう言ってカノンは右手を高く上げると、その手で巨大な三角形の軌跡を描く。

 

「何を言っているシードラゴン! 待て、何をする気なんだ!!」

 

「言ったはずだ、暫くこの世から消えて貰うと。命までは取らんのだ、黙って見ていろセイレーン!!」

 

「ううっ、これは!? シードラゴンが描いた三角形の軌跡、その内側の空間が歪んで見える!!」

 

「セイレーンよ、お前はバミューダトライアングルの伝説をを知っているか? その海域に侵入した船や飛行機が突如として消えてしまうという魔の三角地帯の伝説を」

 

「何? ……まさか、それが!?」

 

「そのまさかよ。時の狭間に落ちろエクレウス!」

 

「――ッ!? ま、待て! 待つんだシードラゴン!!」

 

 ソレントの制止の声も、今のカノンには通じない。

 

「“ゴールデントライアングル”!!」

 

 幾重にも重なる三角形(トライアングル)が、時空の狭間へと導く力が倒れ伏した海斗目掛けて放たれた。

 

(消えろ、海斗よ。オレこそがこの世界のシードラゴンなのだ!)

 

「フ、フフフフフッ、フハハハハハハハハッ!!」

 

 ソレントにはああ言ったが、海斗を呼び戻すつもりも生かしておくつもりもカノンにはなかった。

 最大の危惧であった己の野望を脅かすであろう敵の消滅。それを前にして、カノンは込み上げる笑いを抑え込む事が出来なかった。

 

 

 

 そう、この時のカノンには海斗を消し去る事しか頭になかった。仲間であるはずのソレントも自分の邪魔をする存在でしかなかった。

 だからこそ、ソレントの制止の意味を間違えて捉えてしまっていた。

 

「今すぐ――その場から離れるんだシードラゴン!!」

 

「なん――」

 

 カノンにはそこから先の言葉は継げなかった。

 

 突如として周囲を埋め尽くしたのは圧倒的な光量。夜の闇を消し飛ばす目も開けられぬ程の眩い光がカノンの視界を奪い去る。

 今にも海斗の身体を呑み込もうとしていたゴールデントライアングルの力が、巨大な黄金の小宇宙によって打ち砕かれる。

 その余波によってカノンは吹き飛ばされ、事前に気配を察知していたソレントは咄嗟にガードした事でどうにかその場に踏み止まる事が出来ていた。

 

「くっ、いったい何が!? シードラゴン?」

 

 視界を守る為に両手で顔を覆っていたソレントがその隙間から目を凝らせば、倒れ伏した海斗の前に黄金の輝きを放つ何かが見える。

 ソレントには宙に浮かぶそれが、四つの腕を持った異形の姿に見えていた。

 

「……あれは何だ? 四つの腕を持った異形とは」

 

「あれは黄金聖衣、だ」

 

「シードラゴン、無事だったか!? しかし、あれが黄金聖衣と呼ばれる物か」

 

 しかし四つの腕を持つ異形とは何を象徴するのか、そう思ったソレントは目の前に現れたそれを観察してみることにした。

 それは右と左、陰と陽、表と裏。同じ身体でありながら、決して向き合う事のない双子の姿。

 カノンは憎悪の炎を宿した瞳で、海斗を護るかの様に現れた黄金聖衣を睨みつけていた。

 

「あれは――双子座(ジェミニ)の黄金聖衣だ」

 

「……あれがジェミニの黄金聖衣。しかし、何という輝きだ。まるで太陽の――」

 

 ソレントが呟いたその瞬間、オブジェ形態であったジェミニの黄金聖衣が弾け飛び、あたかも聖闘士が身に纏っているかの様に人の形へと姿を変えた。

 装着者のいないジェミニの黄金聖衣から立ち昇る巨大な小宇宙に圧倒され、知らずソレントの足が一歩下がる。

 それに対してカノンは一歩も引く事なく、むしろ望むところとばかりに獰猛な笑みを浮かべていた。

 

「フッ、クククッ、クハハハハハハッ!! 良かろう、今日のところはこのまま大人しく引き下がってやる」

 

 そう言ってその身を翻したカノンは、倒れ伏した海斗を一瞥すると、この場から立ち去るべく歩き出した。

 

「シードラゴン? 一体何を……」

 

「風向きが変わった。この場は退くぞセイレーン」

 

(フン、貴様が交換条件を出すとはな。エクレウスを見逃せば今日この場の事は忘れる、か)

 

 カノンはもう一度だけ双子座の黄金聖衣へと振り返った。

 

「……良いだろう、今回だけは貴様の提案に乗ってやる」

 

 

 

「だが、いずれはオレの手でその首を貰い受ける。その教皇の椅子ごとな。そして、お前の愚かさとオレの正しさを今度こそ教えてやるさ。首を洗って待っていろ――我が兄(サガ)よ」

 



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第6話 分かたれた魂!の巻

 そこは白が全てを覆い尽くす、そんな場所であった。

 見上げる空も、見下ろす大地も、その全てが吹き荒ぶ雪によって。

 

 その白の中にあって、異質さを感じさせる白があった。

 それは生命の輝きを、艶を失った白――エクレウスの聖衣。それを身に纏い、ただこの場に立ち尽くす人影である。

 

 ビュウと音を立てて、一段と強い風が吹き抜ける。

 ざあっと空の白が流され、そこに星々が煌めく夜空が姿を現した。すると、どこからともなく現れた一羽の白鳥が空を舞い、星々の彼方へと姿を消す。

 白鳥が飛び去った後には、ただの白だけが残った。

 エクレウスの聖衣を纏った人影は動かない。

 

「ここは現実と虚構の狭間。魂と魂が触れ合うことのできる刹那の場。初めまして、先代のシードラゴン」

 

 それは、若い男の声だった。

 白の世界にその声が沁み渡る様に広がり、瞬く間にその世界の姿を変える。

 

 見渡す限りの本の山であった。

 蔵書が詰み込まれた棚は幾重にも積み上げられ、その上限がどこにあるのかも窺い知れぬ程に高い。

 

「まさか、こうして話をする機会を得られるとは思いもしなかった」

 

 そうして。この場に現れる新たな人影。

 それは、紫がかった銀色の髪と大海の青を瞳に宿した青年であった。

 穏やかに笑みを見せるその姿は一見すると学者の様でもあった。

 

「僕の名はユニティ。君の事は鱗衣が教えてくれていたから知っているよ。恐らくは“君自身”よりもね。こうして出会えたのも何かの縁、少し話さないか――キタルファ」

 

 キタルファと呼ばれた、エクレウスの聖衣を身に纏った男がユニティへと振り返る。

 身に纏われたエクレウスの聖衣は、いつの間にかその姿を大きく変えていた。

 必要最低限の箇所を覆うだけであった簡素な鎧は、今はほぼ全身を包み込んでおり、流線形を多用したフォルムとその背に備えられた翼が大きくシルエットを変えていた。

 黒い髪はブロンドに、黒い瞳は澄んだ青へとその色を変える。

 

「……まさか、再びその名でオレを呼ぶ者が現れるとはな」

 

 

 

 冥王ハーデスと女神アテナの戦い、前聖戦の中盤においてその趨勢は大きく冥王へと傾いていた。

 天空へと昇りし冥王の居城――ロストキャンバスへと至る道を見出せぬまま、聖闘士と地上は消耗をし続けていたのだ。

 その状況を打破すべく打ち出された案が東シベリアの最果て、極寒の地ブルーグラードにて封印された海皇ポセイドンの助力を得る、というものであった。

 敵の敵は味方。そう単純な事でもなかったが、地上を死の静寂に満たそうとする冥王の行為は海皇にとっても容認できるものではなかった。海皇は死者の国を統べる気はなかったのだから。

 利害の一致が認められる以上、交渉の可能性はゼロではないとしてアテナは二人の黄金聖闘士をブルーグラードへと派遣する。

 アテナによって施された封印を解き、アトランティス海底神殿へと向かった二人はそこで冥王軍と海闘士と遭遇し、暴走した海皇の力と戦いを繰り広げた。

 

 それが、今から二百数十年前の出来事である。

 

「僕はそこでシードラゴンとしてアクエリアスの黄金聖闘士と戦い――自分の弱さと愚かさを思い知った。その後の僕がどうなったのかは知らない。心折れたまま朽ち果てたのかもしれないし、或いは――。いや、今となっては、だね」

 

 淡々と、自身の事をまるで人事であるかのように、ユニティは語る。

 

「所詮、今ここにいるこの僕は、鱗衣に宿ったユニティという男の願いの、想いの残滓にしか過ぎないのだからね」

 

「……確かに今更だな。それで、わざわざこんな場まで用意した理由は? 用件はそれだけか?」

 

「まさか。言ったはずだよ『思いもしなかった』と。これは鱗衣を、シードラゴンの資格を継承する為の儀式の様なものさ。先代の意志に、記憶に触れて力と技を継承するんだ。とはいっても、今のシードラゴンは随分と自我が強いせいか鱗衣からの干渉を一切受けていない。力でねじ伏せて従えているのさ。それは君も同じだったみたいだけどね」

 

「全てはあの男の実力か。まあいいさ。継承の儀式と言ったな。では、“俺”はまだ死んではいないのか。運のいい事だ。いや、いっそ死んでいた方が良かったのかもな」

 

「随分と素っ気ないものだ。君自身の事だろうに、まるで他人事だ」

 

「オレ自身の事だからさ。所詮こいつもオレでしかなかったという事だ。力があっても何も救えず、その手から全てを取り零すのだろうよ。それに気付く事なく、絶望を知らずに死んでゆければ幸せだろう」

 

「――成る程、どうして僕と君がこうして出会う事ができたのかが解った気がするよ。あの男との戦いでのシードラゴンの鱗衣との直接的な接触だけが原因かと思っていたが――違う」

 

 スッと、ユニティの目が細められる。その視線は、まるで何かを観察する様な、嫌な視線だとキタルファは感じた。

 

「あの男、カノンは強靭な、揺るがぬ自我によって鱗衣の干渉を抑え込んだ。それはかつての君も、だ。それが、今の君はこうして鱗衣からの干渉を受けている。揺るがぬ自我、君が君であり、君たらしめていたモノが欠けている。君は――何かを背負わなければ生きていけないんだ。それは兄の夢であり、妹の幸せであり、戦場に散った聖闘士たちの願いであり、託された希望だ。誰かに必要とされなければ――君は自分に価値を見出せない。生の実感を得られない。今の君には背負うモノが何もない。だから目の前に迫る死にもそんな淡白でいられる。容易く死を受け入れようとしている」

 

「……分った様な事を言う」

 

「分るさ。そして、君も僕の事が分るはずだ。見えているのだろう、君には僕の過去が」

 

 ユニティの語る事は正しい。

 魂が理解をしている。

 

「無二の友が僕の元を去り、僕にとって太陽の様な姉も死んだ。人は太陽がなければ生きてはいけない。極寒の地ブルーグラードでは太陽なくして生きていく事は、希望を持つ事なんてできはしなかった。世界を憎み、妬み、父を殺してまでも力を欲した心弱き愚か者、それが僕だ」

 

 シェアトを亡くし、フェリエを殺した。故郷を失い、ならばと託された願いを理由として力を振るい――カストルに敗北したのがキタルファだ。

 力を持ちながら、それを振るう理由を他者に求めた続けたキタルファと、己の憎悪を吐き出す為に力を欲したユニティ。

 

「隠していてもしょうがない事だから、君の記憶の影響がなかったとは言わないよ。こうして全てが終わったからこそ、傍観者となった身だからこそ言える事だけれどね。お互い愚かだったと」

 

 ザッ、と周囲にノイズの様なモノが走り、積み上げられた無数の本棚が音もなく崩れ始め、光の粒となって白の中に消えてゆく。

 

「ああ、もう時間のようだ。もっと気の利いた話をしたかったのだけれども」

 

 ユニティの身体も同様に、四肢の末端から光に粒となって周囲の白に溶け込むように消え去ろうとしていた。

 

「君と僕は間違ったんだ。それは変えようのない事実さ。そして、過去でありながら現在に繋ぎとめられた君が自分に絶望するのは分らなくもないが、それを君自身(海斗)にまで重ねるのはどうかと思うよ」

 

 ユニティの腕が消え、脚が消える。胴体が透明度を増し、輪郭がぼやける。

 

「過去でしかない(キタルファ)現在(いま)を生きる君自身(海斗)は違うのだから」

 

 

 

 

 

 そう言い残し、ユニティと名乗った記憶の残滓はその全てを白の中へと消した。

 後には、ただ立ち尽くすキタルファのみが残された。そして役目を終えた白の世界が、周囲からあふれ出た黒の中へと呑み込まれる。

 これで現実に戻るのかと思った時、そうなればこの意識はどうなるのかとキタルファは考えた。

 キタルファに海斗の記憶はあるが、海斗にキタルファの記憶はない。実際はあるのだろうが、それが表面に出る事はないだろうとも思っている。

 それは、キタルファが己の背後に背中合わせに立つ海斗の存在を感じているからだ。自分と海斗は違う。それを認識した時、海斗はキタルファの背後にいたのだ。

 カノンとの戦いで負ったダメージによるものか、海斗に意識はない。

 

「……キタルファ(オレ)海斗()は違う、か。ならば、俺のこの手は――」

 

 誰かを救う事ができるのか?

 自身も黒に呑み込まれながら発せられたその呟きに答える者はいない。

 

 いないはずであった。

 

 

 

「一つの器に二つの魂。限りなく同一に近くありながら、その性質は水と氷の如く、か。その歪められた輪廻にも何者かの力を感じる。これは、教皇が気になされるのも頷ける」

 

 瞬く間に黒が弾け飛び、黄金の輝きが周囲を埋め尽くす。

 黄金の輝きに満ちた海の中から幾つもの蓮の花が芽生え、その花弁を開いてゆく。

 

「この輝きは……まさか、黄金聖衣か? この異界ともいえる空間に黄金聖闘士だと!?」

 

 色とりどりの無数の蓮華の中、黄金の輝きが人の形となってキタルファの前に姿を現した。

 腰まで届く金色の髪、両眼を閉じたその姿は海斗がアルデバランから聞かされたとある黄金聖闘士の特徴と一致する。

 アルデバランは海斗に言っていた。その男は聖域で最も恐るべき男であると。そして、その強大な小宇宙から『最も神に近い男』と呼ばれていると。

 

「フム、まるで天秤の支柱だな。確固たる己を持たず、秤の重さで己のあり様を決める。その秤が善に傾く内は良し。しかし、悪に傾くのであればその魂、この場で六道輪廻へ落とすのみ」

 

「くっ……やつの両手の内に小宇宙が……!」

 

「君が何者であるか興味深くはあるが、少なくとも今の君の成長という点においては害悪でしかない。君という過去が未来の可能性を閉ざしてしまうのだ。それは我々も、君も望むべき事ではあるまい」

 

「小宇宙が燃焼し爆発する!? こ、これは!!」

 

「さあ、眠りたまえ。この乙女座(バルゴ)の手によって――“天魔降伏”!」

 

「う……おぉおおおおっ!?」

 

 放たれた小宇宙がキタルファ目がけて炸裂した。

 

 

 

 

 

 第6話

 

 

 

 

 

 聖域黄金十二宮、その第二の宮――金牛宮。

 

 自身が守護する金牛宮の中で、黄金色の小宇宙を全身から静かに立ち昇らせるアルデバラン。

 瞳を閉じ、腕を組んだ姿勢で立つその様は、彼と相対する者に巨大な壁を連想させる。

 

「……むぅ……」

 

 それからしばらく。陽が落ち、十二宮が夜の闇に閉ざされた頃。

 しばらくしてアルデバランは眉間にしわを寄せて一つ唸った。

 教皇の間から金牛宮へと戻った彼は、それからこれまでの間ずっと海斗の小宇宙を探り続けていたのである。

 しかし、教皇の間で感じ取ったあの時を境として、一向に海斗の小宇宙を感じ取る事は出来なかった。

 

「……どういう事だ?」

 

 続けたアルデバランの呟き。それは海斗の事についてだけではない。

 

「ありえん。この十二宮にいる他の黄金聖闘士の小宇宙すら感じ取れぬとは」

 

 現在十二宮にいるはず他の三人の黄金聖闘士。

 彼らの小宇宙も感じ取れなくなっている。その事態にアルデバランは更なる困惑を隠せない。

 教皇の間から金牛宮へと戻る際に、確かに彼らの存在を確認していたのにも関わらず、である。

 

「まるで十二宮全体が深い霧に包まれた様な……。これでは、万一の事態でも起きてしまえば対応が遅れかねん」

 

 目を開き、おそらくはこの事態の元凶であろう人物のいる場所へと視線を向ける。

 黄道十二宮、その第六番目の宮――処女宮へと。

 

「やはり……お前もこの異様な気配を感じたのかアルデバラン」

 

 背後からかけられたその声に、アルデバランはそれが誰のものであるのかを確認するよりも速く、己の意識を戦闘のソレへと切り替えた

 感覚が狂わされているとはいえ、己の守護する宮にこうも容易く侵入を許す、侵入を果たした相手を警戒しない道理はない。

 

「――何者だ」

 

 タイミングも悪い。故に、アルデバランの声には一切の温かみもなく、鋼の如き冷たさと鋭さがあった。

 

 その鋼を熱い何かがするりと抜けた。

 熱は燃え盛る炎の様でもあり、凍えた身体を癒す暖の様な温かさがあった。

 

「あまり怖い事をするなアルデバラン。いかに俺でも聖衣のない生身でソレを受けてはただでは済まんのでな」

 

 己の組んだままの腕を静かに抑え込んだその熱を――目の前に立つ男が誰であるのかに気が付いたアルデバランは相好を崩して笑った。

 

「おお、アイオリアか! いや、ウワハハハハハッ!!」

 

 組んでいた腕を解いたアルデバランは、豪快に笑いながら「すまん」と加えて相手に詫びた。

 

「ハハハッ、まあ細かい事は気にするなアイオリアよ」

 

「……全く、こちらとしては笑い事ではないのだぞ?」

 

 そう言って苦笑したのは聖域で活動する聖闘士の一人であった。

 身に纏う衣服こそ聖域で活動する雑兵たちと同じ物であるが、その眼差しの鋭さと、醸し出される気配は彼が“モノが違う”事を雄弁に知らしめていた。

 

アルデバランと同じく、当代の黄金聖闘士の一人――獅子座(レオ)のアイオリアである。

 十二宮五番目の宮“獅子宮”を守護する彼であったが、普段は主に聖域周辺における警護の任に当たっている。

 女神アテナ、そして教皇への忠誠も厚く、聖域では『聖闘士の鑑』として尊敬の念を集めている男でもある。

 聖闘士にとって王道ともいえる“拳による闘法を極限にまで極めた男”とも呼ばれ、実力者の集う黄金聖闘士の中でも一目置かれる存在であった。

 

「だが、うむ。良い所に来てくれたなアイオリア。俺は今より少し金牛宮を離れる。この十二宮を覆う小宇宙も気になるが――」

 

「先の巨大な小宇宙は俺も感じていた。お前の弟子である海斗が聖域から離れる許可を求めていたらしいが、それに関係しているのかも知れんな」

 

「何だと? あいつめ、俺が戻るまで待てぬ事でもあったのか? まあいい。教皇は気にするなと言われたが、やはり気になるのだから仕方があるまい」

 

 頼んだぞ、と。アルデバランはアイオリアにそう頼もうとし、アルデバランが何を頼むのか予想の付いていたアイオリアもまた、構わんと、そう答えようとした。

 

 その二人の動きが不意に止まった。止められた。

 

 

 

 ――それは無用ですよアルデバラン。

 

 

 

 突如として脳裏に響いた声によって。

 

「……俺の脳裏に、いや、小宇宙に直接語りかけるこの声は……」

 

「まさか!? いや、あの男ならば十二分にあり得る。この十二宮を覆う異様な小宇宙、この様な芸当が出来るのは聖闘士の中でも“あの男”しか考えられん」

 

 キッと、アイオリアは射抜く様な鋭い視線を処女宮へと向けた。

 

「これはお前の仕業か。乙女座(バルゴ)の黄金聖闘士――シャカ!」

 

 乙女座のシャカ。

 彼は自ら五感の一つである視覚を封じており、常にその瞳を閉じ、結跏趺坐を組んだままの姿勢で己の守護する処女宮で静かに小宇宙を高めながら瞑想を続けている人物である。

 最強を誇る十二人の黄金聖闘士にあって『最も神に近い男』と呼ばれており、また女神アテナを護る聖闘士でありながら、異国の宗派を改めず、その絶大な小宇宙によってあらゆる空間を自在に行き来し、神仏と対話を行うとさえ言われることから『仏陀の生まれ変わりである』とすら呼ぶ者もあった。

 聖闘士でありながらシャカは明らかに異質な存在であり、シャカ自身もそれを自覚しているのか他の黄金聖闘士達から一歩引いた場所に己を置いている。

 シャカが一体何者であるのか、それを知る者はいない。その意がどこにあるのかも。しかし、その実力に異論を挿む者もまたいない。

 

『フッ、そう気を荒立てるものではないアイオリア』

 

 シャカの声にはまるで赤子をあやす様な穏やかさがあり、二人は緊張から我知らず握っていた拳を解く。

 

「……では、この十二宮を覆う小宇宙は何なのだ?」

 

「うむ。これでは十二宮はおろか『外』で何が起こっているのか、それすらも分らんではないか。それに、海斗を探しに行く必要がないとは――」

 

『二つお答えしよう。まず一つ。十二宮を覆う小宇宙についてはこのシャカの落ち度である事を認めよう。先程教皇より新たな結界を求められて試してみたが――どうやらアテナの結界と作用し合った事で必要以上に君達の感覚までもを狂わせてしまった様だ』

 

 ――今解こう。

 そのシャカの言葉と共に、パンという柏手を叩く音が鳴り響く。十二宮を覆う様に感じていた小宇宙が瞬く間に消えた。

 

「ん? おお、分る。感じるぞ小宇宙を」

 

 十一番目の宮“宝瓶宮”にカミュの、処女宮にシャカの、そしてこの金牛宮にいるアイオリアの小宇宙を。視界が晴れ渡るような感覚に、シャカの言葉が真実であったと納得するアルデバラン。

 しかし、アイオリアは未だ難しい顔をしたままである。その顔を上げてシャカに問う。

 

「シャカよ。お前は先程海斗を探しに行こうとしたアルデバランに無用と言った。では、お前は知っているのか? 何があったのかを」

 

『二つ目だ。それを君が気にする必要はないよアイオリア。それは君もだアルデバラン。教皇は気にするなと言われたのだ。聖闘士にとってアテナに次いで教皇の御言葉は絶対。素直に従いたまえ』

 

 穏やかな口調に反し、その言葉の中に秘められた拒絶の意思。

 

 そこに隠さねばならない何かがあった事は明白。それをシャカは知っている。

 生来から、隠し事や謀といったものを嫌う一本気な性格であると自他共に認めているアイオリアである。だが、と食い下がろうとするアイオリアの肩を、しかしアルデバランが抑えていた。

 

「アイオリアよ、俺の弟子の事を気にかけてくれるのはありがたいが、そこまでにしておけ」

 

「……アルデバラン……だが、しかし」

 

「シャカよ、お前の言うことは分った。その言葉に従おう。何があったとも問わん。だが、これだけは聞かせて貰いたい――海斗は無事か?」

 

『……フム』

 

 アルデバランの問いに僅かの逡巡を見せたシャカであったが、この程度ならば構うまいと、こう答えた。

 

『彼は教皇の勅命を受け数日の内にこの聖域から『外』へと向かう事となった。私が伝えられるのはそれだけだ』

 

 

 

 

 

 聖域の端には、一見すると廃墟同然の朽ち果てた一角が存在する。古の古戦場の跡でもあると言われているがその真偽は不明である。

 そこでは、聖闘士を目指す多くの若き候補生達が昼夜問わずに激しい修行を行っていた。

 早朝であるにもかかわらず、周囲からは大地を砕く音や、気合いの声が聞こえて来る。

 

 彼らと同じ様に、聖闘士を目指す星矢は師である魔鈴と共にここで修行を行っていた。

 

 突き出された拳を、蹴りを、避ける、躱す、受け止める。

 十字に交差させた両腕で受け止めたにもかかわらず、その衝撃は星矢の内臓を激しく揺らし、込み上げる嘔吐感に堪らず大地に膝をつく。

 

「~~ッ!? ッぐぅ~~うえぇえ……」

 

「何をぼさっとしてるのさ」

 

 吐しゃ物を撒き散らし、いかに苦しんで見せたところで魔鈴の攻撃の手が緩む事はない。

 目前に迫る爪先を、どうにか身体を逸らした事で回避した星矢であったが、そこで油断した。

 

「……フゥッ……。全く、成長しない奴だね」

 

 そのまま振り下ろされた魔鈴の踵の一撃を背中に受け、顔面から地面に叩き付けられてしまう。

 

「……な、なにおぅ……!」

 

 嘲りと呆れを含んだその声に、こなくそと闘志を燃やして立ち上がろうとした星矢であったが――

 

「キャンキャン吼えんじゃないよ。よわっちいお前なんかがいくら吠えたところで喧しいだけさ。吼えるだけならそこらの番犬の方がよっぽどマシだ、って事を叩き込んでやったろ?」

 

 忘れたのかい、と。駄目押しとばかりに星矢の頭を踏みつける。

 普段の修行であれば、組手であれば魔鈴はここまではしない。

 事の発端は、切欠は海斗の試合である。自分と同期である海斗が聖闘士となった事で星矢にも思うところがあったのだろう。自分もそろそろ聖闘士になれるのではないかと、思わず口にしてしまったのだ。

 それを魔鈴に聞き咎められたのが星矢の運の尽きであった。あわれ、この四年間で得たちっぽけなプライドごと完膚なきまでに叩きのめされた星矢はその意識を失った。

 

 

 

「痛テテテッ。魔鈴さん、これ絶対コブになってるって。もうちょっと手加減してくれたって……」

 

「したさ。でなきゃあお前の頭は――」

 

 こうだよ、と。

 拾い上げた石を軽く握り潰して見せる魔鈴。

 それを見た星矢の顔から血の気が引く。

 

「今の組手の採点をしてやるよ。喜べ星矢、零点だ」

 

「な、何でだよ! 今日はいつもよりも持った筈だろ!?」

 

 星矢と魔鈴の修行はこの早朝の組手から始まる。

 この結果によってその日の修行内容が決定され、魔鈴の採点が低ければ低い程、その日の修行は辛いものとなる。ちなみに、零点は二年間ぶりであった。

 その時の地獄を思い出す。それだけに、この採点は星矢にとって到底受け入れられるものではなかった。

 しかし、この星矢の態度は減点要素になりこそすれ加点要素になるはずもなく。

 

「げふっ!?」

 

 魔鈴の繰り出したパンチの衝撃波を受けて吹き飛ばされた星矢は、瓦礫の中に頭から突っ込む事となる。

 

「ケツの青いガキが生意気言ってんじゃないよ。この間教えてやった事をもう忘れたのかい?」

 

「ペペッ、そうやってすぐに暴力を振るってたんじゃ、魔鈴さんには絶対嫁の貰い手が――あぶしっ!?」

 

「――今、何か言ったかい?」

 

 気にしていたのかいないのか。

 折角這い出せたものの、余計な一言を言った星矢は再び瓦礫の中へ。

 先程よりも深くめり込んでいる様に見えるのは気のせいか。

 

「昔教えてやっただろう? 聖闘士は原子を砕く破壊の究極をモノにした存在だって。そんな相手の攻撃を、生身で受けたいのかい? 自殺したい、ってんなら止めやしないけどね」

 

 バタバタと動いていた星矢の足が止まる。

 

「もっとも、小宇宙を極めた連中――黄金聖闘士であれば可能かもしれないけどね。まあ、あいつらは例外だ。避けるか、間合いを潰すか、相手よりも先に当てるか、大人しく死ぬか。お前が選べる選択肢はそう多くはないさ」

 

 しょうがないね、と呟いて魔鈴は星矢の足に手を伸ばす。

 

「……あんたたちはいつもこんな事をやっているのか?」

 

 その時、そう言って現れたのは、どこか呆れた様子を隠せないシャイナだった。

 

「成程ね。毎度毎度カシオスにあれだけこっぴどくやられておきながら、翌日にはぴんぴんしているのはこのせいか」

 

 瓦礫の中で「それは違う!」と星矢は声にならない抗議の声を上げる。でも、内心そうかもしれないと思っている事は絶対に口には出さない。

 それを言ってしまえば、このドSの師匠は嬉々として自分をいたぶるだろう。猫がネズミをいたぶるよりもヒドく。そんな脳内未来予想図を全力で破り捨てる。

 

(姉さん、美穂ちゃん。オレ絶対に生きて日本に帰るからな!)

 

 でも、その前に引っ張り上げて欲しい、この状況は地味にキツイから。そう願う星矢の声が二人に聞こえるはずもなく。

 魔鈴は星矢の足へと伸ばした手を引くと、シャイナと向き合った。

 

「なんだシャイナかい。よその候補生の修行を覗きに来るなんて、あんまり良い趣味とは言えないよ」

 

「フン、別にあんたたちの修行に興味はないね。同じ日本人なんだ、ここに海斗がいるかと思って来ただけさ」

 

「……何で海斗の名前が出るのかが分らないけど。あんたとあいつに大した接点なんて……ああ、ひょっとして昨夜のアレかい?」

 

 昨夜、二十人近くの若手の候補生や雑兵たちが聖域を離れた事は魔鈴の耳にも入っていた。その中には海斗に敗れたゴンゴールやジャンゴの姿もあったと。

 何をしようとしていたのかは知らないが、どうせロクでもない事だろうと魔鈴は当たりを付けていた。

 

「どうだっていいだろ、そんな事は。で、魔鈴。あんたは知ってるのかい?」

 

「知らないよ」

 

「使えないね」

 

 魔鈴の返事を予想はしていたのか。それ以上何を言うでもなく、シャイナは周囲を見渡した。

 

「あっちにも……いないか。おい星矢」

 

 魔鈴の横を通り過ぎたシャイナは星矢の足を片手で掴むと、まるで道端の雑草を抜く様にあっさりと瓦礫の中から引き抜いた。

 

「ぶへっ、ぺぺぺぺっ。口の中が砂利だらけだよ、って。何だよシャイナさん?」

 

 片手で吊り下げられた星矢が見下ろしながら見上げた先には自分を見下すシャイナの姿。

 引き上げてくれた事には礼を言いたいが、男としてこの体勢はいかがなモノかと悩む。

 

「あんた、海斗とは親しかったよね。アイツが普段どこにいるのかを知らないか?」

 

「海斗? さあ? そりゃあ、オレはあいつと同じ所から来たけど、聖域ではそんなに頻繁に会っていたわけでもないし。むしろ、あいつが普段何をしているのかを知っている奴っているのか?」

 

「そうかい」

 

 なら用はないと言わんばかりに、シャイナは星矢の身体を放り捨てた。

 

「邪魔したね。精々無駄な努力を頑張んな」

 

 再び瓦礫に突っ込んだ星矢が何か文句を言っている様だが、シャイナにとっては既にどうでもいい。

 振り返る事なくこの場を後にすると、ならば海斗はどこに行ったのかと考える。

 しかし、いくら考えたところで思い付くはずもない。

 つい先日まで海斗とシャイナはお互いの顔と名前が一致する、その程度の間柄でしかなかったのだから。

 

「チッ、ジャンゴの事を教えておいてやろうと思ったのに」

 

 不機嫌さを隠そうともせずに呟くシャイナ。

 そもそも、自分がこうして探してやっているのに姿を見せないのが気に入らない。

 

「全く、どこに行ったんだか」

 

 呟き足を止める。見上げた空には雲一つない。

 だと言うのに気分は晴れない。それが何故なのかが分らない。

 

「ハァ……ならアイオリアにでも聞いてみるか。それで駄目ならもう知ったこっちゃないね」

 

 

 

 結局、シャイナはこのまま海斗の捜索に丸一日を費やしたが、結局アイオリアに出会う事も、海斗の行き先を知る事もなかった。



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第7話 新生せよ!エクレウスの聖衣!の巻

 例えるならば、カーテンを閉めてぐっすりと眠っていたはずが、なぜか開かれたカーテンの隙間から差し込まれる朝日の眩しさによって叩き起こされる事になった。

 

 その時の海斗の心境はまさしくそれであった。

 

「うおぉおおおおおおおおっ!?」

 

 意識を取り戻した海斗の目前にいきなり現れた眩い光。それに込められた強大な小宇宙は畏怖すら感じさせ――状況の理解よりも先に海斗の身体を突き動かした。

 ここがどこで、なぜ黄金聖闘士が自分に攻撃を仕掛けて来るのか。先程まで戦っていたはずのカノンはどこへ、自分は死んではいないのか。

 そもそもこれは現実なのか。

 脳裏に次々と浮かび上がる疑問は、握り締められた拳の中で霧散する。

 

 敵であるならば――倒すだけ。

 

 あるのは意志。

 己を脅かす者へと、奪おうとする者へと、迫り来る死へと向けられる、抗う為の意志。

 絶望を知り、諦観を得たキタルファとは異なる生への鼓動。

 熱く燃やされた小宇宙は前へ、前へと突き進み――爆発する。

 

「“エンドセンテンス”!!」

 

 

 

「……ほう、迷いの無い良い攻撃だ。加減したとはいえ、まさかこのシャカに一撃を届かせるとはな」

 

 怯えも、戸惑いも、一切を感じさせない真っ直ぐな拳撃。

 自らの放った“天魔降伏”にぶつけられる海斗の小宇宙。そこに込められた確かな意志を感じ取り、シャカは驚嘆の声を漏らしていた。

 

「シャカ? まさか、乙女座(バルゴ)のシャカか!?」

 

 突き出された海斗の拳の先でバルゴの(マスク)が宙を舞う。

 しかし、そこにシャカの姿は見当たらない。

 バルゴのマスクが地に落ちるより先に、掻き消える様にして消えた。

 

『敵であるならば倒す。単純ではあるが、つまらぬ大義を芯とするより余程強い。だが、それでは獣と変わらぬな』

 

「生憎と、ご立派な主義主張なんて持ち合せてなくてね。日々を平穏無事に過ごせればそれでいいんだよ、俺は」

 

 声は聞こえるが姿は見えず。シャカの姿を求めて周囲を見渡していた海斗は、いつしか自分が酷く薄暗い場所に、草木の生えぬ荒野の様な場所に立っている事に気が付いた。

 

『フッ、随分と欲深いのだな君は』

 

 どこからか轟々と鳴り響く音も聞こえる。その音を認識した途端、海斗は足下にぬるりとした何かが纏わり付いているのを感じ取り、それが黒い水の様な物だと知る。

 

『獣と変わらぬと言ったが訂正しよう。実に……人間だ』

 

 その流れを辿って視線を向ければ、そこには巨大な瀑布が見えた。

 

「あれは滝か? まるで血の大瀑布だな。星も、雲も、月も何も見えない空に黒い水が流れる大地……まるで――」

 

 地獄の様だと繋げようとして海斗は口を噤んだ。

 カノンとの戦いで負ったはずのダメージはない。しかし、身に纏った聖衣や衣服には戦いの傷跡がありありと見て取れる。

 瀑布が近いせいか些細な大気の震えはしっかりと感じ取れている。触覚は問題なく、視覚や聴覚といった五感におかしなところはない。

 その不自然さが自分の推測を後押ししている様で、否が応にも気が滅入る。

 もしも、ここが本当に地獄であるならば自分は死んでいる事になる。人が死んだらどうなるのか、魂というモノが存在するのであればそれはどこに行くのか。

 これまでこういった事を考えた事がなかった訳ではない。が、その回答が今の状況であるならば二度と死にたくはないとは思う。

 

「思うんだが……死んでいるなら、二度も三度もないか?」

 

『そうなるかどうかは君次第。君は殆ど死んでいるが、ほんの少しだけ、まだ生きている。諦観と共に死を受け入れるのであればそれまでと思っていたが、“君には”機会を与えるだけの価値はあると認めよう』

 

「俺はまだ生きている? だったらここは、いや、そもそも何がどうなって……」

 

「ここは黄泉比良坂より落ちた者が訪れる、言わば冥府の入り口。君が立つこのステュクス河を越えてレテ河を渡ってしまえば、最早生前の己を保ったまま地上に戻す事など誰にもできぬ事であっただろう」

 

 背後から確かに聞こえた声に海斗が振り向く。

 そこには弾き飛ばしたはずのマスクを装着し、まるで何事もなかったかの様に瞼を閉じ、結跏趺坐を組むシャカの姿があった。

 

「……状況が全く分らないんだが、俺を試したってのだけは分る。それで、俺は地上に戻れるのか?」

 

「これを持ちたまえ」

 

「っと、これは……剣か。随分古いな。それに西洋剣とも違う。鞘の形からして片刃の曲刀っぽいが」

 

「先々代のアテナが加護を与えた武具の一つだ。刀身には亀裂が走り、武具としては使い物にはならぬがそこに込められた聖闘士への祈りは、加護はまだ生きている。それを持ってあの瀑布を目指し、その頂で己の小宇宙を極限まで高めるのだ」

 

「それが最後の試し、か。ま、いいさ。ここでいつまでも燻っていても仕方がないしな。それでアンタは……」

 

 これからどうするのか、そう問いかけようと手にした剣から視線を動かせば、既にシャカの姿はそこになく。

 神に最も近い男、あらゆる時空を渡る男、神仏と対話をする男等々。師アルデバランから、かつてシャカという男について聞かされた時には誇張されたものと話半分に聞いていた海斗であったが。

 

「臨死体験だが幽体離脱だか、そんな状況であろう俺が冥府に居るのはまあ分る。だったらアイツは何なんだ? まさか本当に釈迦の生まれ変わりだとでも?」

 

 前世や転生、生まれ変わりといったものを自分が証明している以上、“まさか”という思いが“もしかしたら”という可能性に大きく振れる。

 

「……他にする事もないしな、今は言われた事をやってみるか」

 

 

 

 

 

 第7話

 

 

 

 

 

 ヒマラヤ山脈――中国とチベットの国境近くに存在する山岳地帯。

 そこにジャミールと呼ばれる場所がある。

 

 標高六千メートルを超えるその場所は高所ゆえ極端に空気が薄く、その険しい道のりもあって地元の者たちですら容易く足を踏み入れる事はない。

 また、その地に住むジャミールの一族と呼ばれる者たちの多くが常人とは異なる特殊な力を持っていた事もあり、古くから迂闊に近付けば二度と返っては来れぬ魔の山として、周辺のチベット族の人間から恐れられていた地である。

 口伝ではさらにこうとも伝えられている。屈強な聖闘士ですらジャミールに辿り着くには命を賭ける必要がある――とも。

 

 ジャミールの一族が進んで外界との接触を図ろうとせず、故にその地に向かおうとする者も数を減らし、やがて長い歴史の中で伝承にのみその名を残す事となった。

 今や何人たりとも訪れぬ秘境。それがジャミールであった。

 

 

 

 そのジャミールの奥深く。

 深い霧に閉ざされたその場所に、少女とまだ幼い少年の姿があった。小さな平たい岩の上で向かい合うように腰掛けている二人の間には、数冊の本が置かれている。

 よく見れば気付くだろう。腰掛けている岩が自然に平たくなったものではない事に。

 まるで鋭利な刃物によって切られたかの様な断面に。

 

 少女は透き通るような銀色の長い髪を、時折吹く風に揺らせながら、見る者の心を温かくする、そんな笑顔を浮かべて少年を見つめている。

 彼女の対面に座る少年はやや吊り目がちではあるが、くりっとした大きな眼をした、いかにも活発そうな男の子である。

 

「……そんな彼らの眠りをさまたげることがないように、生きのこった人たちが結界をはることでここに迷いこむ人があらわれないようにした。……で、合ってる?」

 

「ええ、正解よ貴鬼。でも、その手元に隠したメモを見ないで読めていれば満点だったのにね」

 

 どうやら、少女が貴鬼と呼ばれた男の子に勉強を、この場合は文字の読み書きを教えているようだ。

 今より二百数十年前。ここジャミールの地はアテナと冥王の繰り広げた前聖戦、その地上における最後の戦いの場であった。敵味方問わず、多くの戦士たちの魂が眠る場所でもある。

 

「うぅえ? あはははは……ムウ様にはナイショだよ?」

 

 笑ってごまかそうとする貴鬼。少女は人差し指を顎に当てて首をかしげてみせる。

 

「ん~、どうしようかな?」

 

「いじわるだよセラフィナお姉ちゃん」

 

 貴鬼と呼ばれた子供は不満そうに頬を膨らませる。

 その様子にしょうがないなと、少女――セラフィナは苦笑した。

 

「ふふふっ。それじゃあ、ここからここまでを間違えずに読めたら、さっきのはムウ様に内緒にしておいてあげよう」

 

「え~~っ……」

 

 肩を落とし、目に見えて落ち込んだ貴鬼の姿にちょっと可哀そうかな、と思ったセラフィナであったが、彼女の師匠――ムウより貴鬼の教育を頼まれた以上、ここは心を鬼にするところ、と考え直して厳しくする事に決めた。

 

「ううう~~っ」

 

 捨てられた子犬のような、涙目でセラフィナを見上げる貴鬼。

 

「……む……むむっ……」

 

 厳しくするのだ、決心したのだと、セラフィナはその視線に耐える。

 

「うううううううう~~ッ」

 

「……それじゃあ、ここからここまでね……」

 

「あはっ、やったあ! だからお姉ちゃんは好き!!」

 

 視線に耐えきれず、セラフィナは一分も持たずに陥落した。

 嬉々としてはしゃぐ貴鬼と、がっくりとうなだれるセラフィナ。

 

 それはいつもと変わらぬ風景。

 繰り返される日常の一コマ。

 

「へへへっ。……アレッ?」

 

 はしゃぎまわっていた貴鬼がピタリとその動きを止めて、じっと空を見上げる。

 

「貴鬼? どうしたの、空に何か見えるの?」

 

 貴鬼の視線を追ってセラフィナも空を見上げたが、特に何かが変わった様子はない。

 そこにあるのは霞がかった、いつもの見慣れたジャミールの空である。

 

「そう言えば、あなたもムウ様と同じような超能力が使えたものね」

 

 自分では感じ取れない何かを感じているのだろうか。

 そう思い、セラフィナが貴鬼に声を掛けようしたその時であった。

 

「――来るよ」

 

 貴鬼の言葉に何がと問う事は出来なかった。

 その時にはセラフィナも何かが起きている事に気が付いたのだから。

 

 

 

 二人が見つめる先から眩いばかりの黄金の輝きが、強大な小宇宙が降り注ぐ。

 その輝きに、セラフィナは黄金聖衣には太陽の光が宿っているとムウが語っていた事を思い出していた。

 光はやがて人の形となり、二人の前にその姿を現した。

 黄金に輝く聖衣を纏い、艶やかな絹糸の様な黄金の髪がふわりと広がる。

 その人物は瞳を閉じている。しかし、まるで自分の全てを見透かされる様だと感じてセラフィナは無意識の内に胸元を握り締める。

 彼女は目の前の人物から威圧感とは違う、奇妙な圧迫感の様なモノを感じていた。存在の密度が違う、とでも言えば良いのか。

 

 人影が地上へと降り立った。

 そこで、ようやくセラフィナは目の前の人物が聖闘士である事に、黄金聖闘士である事を認識した。

 そして、その両手には負傷した黒髪の少年が抱き抱えられている事にも。その顔に生気はなく、まるで死者の様だとセラフィナは思った。

 少年は最低限の治療はなされているようではあったが、それでもそのままにしておいてよい程度の負傷ではない事は一目で分る。その胸元には一振りの古びた刀剣が置かれていた。

 

「ッ!?」

 

 少年に向かって慌てて駆け寄ろうとするセラフィナ。その腕を貴鬼が掴み、止めた。

 貴鬼の表情にはつい先ほどまで見せていた子供らしい活発さはなく、むしろ怯えの色が濃い。

 

「ダメだよ、お姉ちゃん。あの人は――違う」

 

「貴鬼? あなた何を――」

 

 自分よりも鋭敏な感覚を持つ貴鬼だからこそ、自分以上に目の前の黄金聖闘士に対して感じるモノがあるのだろうか。

 貴鬼の怯えが理解出来るだけに、セラフィナは縋る様な貴鬼の手を振りほどく事が出来なかった。

 

「ほう、君はその年齢で『感じ取る事』が出来るのか。成程、ムウが手元に置くにはそれ相応の理由があったという事か」

 

「さて、それを決めるのは私ではなくあの子の意志ですよ。それにしても、久しぶりですねシャカ、まさか貴方が動くとは思いもしませんでしたよ」

 

「ッ!? ムウ様!」

 

「ムウ様~~っ」

 

 そう言って、セラフィナたち二人の背後から現れたのは彼女たちの師である青年、ムウであった。

 ややつり目がちな目元と青い瞳、流れる様な金色の髪は一見して女性と見紛う美しさがある。

 落ち着いた物腰と澄んだ眼差しはシャカを前にして揺らぐ事はない。

 彼を知るものは、この青年をジャミールのムウと呼ぶ。

 そして、その中でも極僅かの人間がこう呼ぶのだ。

 牡羊座(アリエス)のムウ、と。

 聖域十二宮、第一の宮“白羊宮”を守護する黄金聖闘士と。

 

「それと、少し力を抑えて貰えないでしょうか、二人が怯えてしまっている」

 

 そう言ってムウが二人の肩に手を置くと、セラフィナたちがそれまで感じていた奇妙な圧迫感が嘘のように消え去っていた。

 

「すまないが理由は先刻話した通り。急いで貰いたい。肉体が死んでしまっては元も子もないのでな」

 

 傷付いた少年――海斗の身体を地に横たえてシャカが言う。

 その言葉にムウは静かに頷いて見せた。

 

「貴鬼、杯座(クラテリス)白銀(シルバー)聖衣をここに。セラフィナはあの少年を」

 

「は、はい!」

 

「分りました」

 

 ムウの指示に従い、貴鬼は自らの念力(サイコキネシス)によりムウの館から杯座の聖衣をこの場所へと呼び寄せる。

 セラフィナはシャカの足下に横たえられた海斗の元へ。

 

 変わらぬ風景、繰り返される日常。

 彼女たちのそれは今、終わりを迎え様としていた。

 この時を境に、緩慢に進んでいた彼女たちの時間は大きく進み始める事となる。

 

 

 

 ドンという音が鳴り響き、僅かに大地を震わせた。貴鬼の横には聖衣の収められた聖衣箱が出現している。

 そこに描かれレリーフは杯。

 

「お姉ちゃん」

 

「ええ」

 

 貴鬼の進めに従いセラフィナが聖衣箱に手を伸ばす。

 指先が触れる寸前で躊躇する様に手を引いたが、横たわる海斗の姿を、自分を見つめるムウの視線を確認すると、瞳を閉じ一度だけ大きく深呼吸すると迷う事なく聖衣箱に手を触れた。

 セラフィナが触れると聖衣箱が音を立てて開き、その中から白銀の輝きを放つ杯の形をしたオブジェが姿を現した。

 杯座(クラテリス)の白銀聖衣である。

 

「……クラテリス」

 

 セラフィナの言葉に応える様にオブジェが弾け、彼女の身体へ形を変えて次々と装着される。

 聖衣を纏ったセラフィナは横たわる海斗の元へと進むとその場で膝をつき、両の掌で器を形作る。

 セラフィナは静かに小宇宙を高め、掌から湧き出る水をイメージする。

 

「ほう、やはり彼女が杯座の聖闘士か。神の酒を注いだ杯、その杯で汲んだ水には癒しの力が宿ると言われるが」

 

「そうです。しかし、杯座の聖闘士であれば、己の小宇宙によって癒しの水を生み出す事が出来るのです」

 

 ムウの言葉を証明する様に、セラフィナの掌からまるで星屑を散りばめられたかの様な輝きを放ちながら美しく澄んだ水が溢れ出し、傷ついた海斗の身体に降り注ぐ。

 すると、みるみるうちに海斗の傷が塞がり、血の気の失せていた顔に赤みが戻り始めていた。

 

「そうか、ソーマ(※インド神話上での神々の霊薬。口にした者に活力を与え、寿命を延ばし、霊感をもたらすと言われる)と同質の力か。ごく稀に、聖闘士の中に戦いの力ではなく癒しの力を持つ者が現れる事がると文献にもあったな。しかし、過去の聖戦では杯座の聖闘士は終ぞ現れなかったと聞いていたが?」

 

「杯座の聖闘士の力は聖戦の行方を左右しかねないものです。過去幾度かの聖戦に於いても真っ先にその命を狙われたと聞いています。故に、アテナの命によりその聖闘士の存在は秘匿とされていました。それに――」

 

 ムウが視線を向ければ、快方に向かう海斗の様子に反してセラフィナの小宇宙が急速に低下し、その表情に苦悶の色が現れ始めている。

 まるで己の命を分け与えているかの様に。

 

「そこまでです。良く頑張りましたねセラフィナ」

 

「……ハァ……は、はあッ……ムウ様? この人、は……?」

 

 崩れ落ちそうになったセラフィナの身体を優しくムウが支える。

 

「大丈夫ですよ。貴女のおかげで彼の傷は癒されています。安心なさい」

 

 穏やかに語りかけるムウの言葉で張り詰めていたモノが切れたのか、セラフィナは微笑みを浮かべるとそのまま意識を失った。

 それと同時に杯座の聖衣が役目は終えたとばかりにセラフィナの身体から離れ、再び杯の形となって聖衣箱へと納まり、開かれていた聖衣箱が再び閉じられる。

 

「貴鬼、この二人を館へと連れて行きなさい。私は今しばらくここでする事があります」

 

「は、ハイ!」

 

 事の成り行きを黙って見つめていた貴鬼であったが、ムウに名を呼ばれるとハッとした様子で急ぎセラフィナの元へと駆け寄った。

 貴鬼の手がセラフィナと、僅かな逡巡の後に海斗に触れる。

 瞳を閉じ、集中する貴鬼。イメージするのは皆で暮らしている家だ。これから行うのは貴鬼の超常の能力の一つ、テレポーテーションである。

 

「んっ!!」

 

 シュンと、気合いの声を残して貴鬼たちの姿がこの場所から消えた。

 

 

 

「今の通り、相手の傷の深さに比例する様に小宇宙を激しく消耗するのです。その献身故に命を落とした者もあったと伝えられています。こういう能力なのか、ただセラフィナの力量が不足している為なのかは分りませんが。そうそう気軽に試せるものでもありませんから。あの娘はまだ正規の聖闘士ではありませんしね」

 

「事が済めばエクレウスを彼女の護り手にでもすると良い。アレは大義よりも恩や仇といった価値観で動く男だ。異論は唱えまい」

 

「セラフィナは必要ないと言いますよ。あれはそういう娘です。……さて、ではシャカよ。彼の、エクレウスの聖衣をここに」

 

「うむ」

 

 ムウに促される様に、シャカがその手を天へと掲げる。

 すると、瞬く間にムウの目の前に聖衣箱が現れていた。

 誰が触れるでもなく、まるで聖衣から働き掛けたかの様に、ひとりでにエクレウスの聖衣箱が開かれる。

 聖衣は感じ取っていたのかもしれない。これから起こるべき事を。

 

 牡羊座(アリエス)の黄金聖闘士であるムウ。彼にはもう一の顔があった。

 この地上に於いてただ一人、破損した聖衣を修復する技術を伝えられたただ一人の伝承者としての顔である。

 

 開かれた聖衣箱。そこにあったのは、かろうじて形を保っているとしか表現できない程に破壊されたエクレウスの聖衣。

 

「……私も長く聖衣の修復を手掛けてきましたが、これ程までに破壊された聖衣を見るのも随分と久しぶりですよ。ここまで破壊されていては……」

 

「ムウ、君程の者でも厳しいか?」

 

「人に例えるならば四肢をもがれたも同然。今はまだ僅かな生命の鼓動こそ感じられますがそれも……」

 

 エクレウスの聖衣は間もなく死ぬ。ムウにはそれが一目見ただけで分った。

 

 聖衣にも命がある。永遠にも等しいモノが。しかし、不死ではない。

 例え持ち主が死亡したとしても聖衣が死ぬ事はない。新たなる持ち主が現れるまで眠りにつくだけである。

 その間に、軽微な損傷程度なら自らの力で修復を行い、場合によっては自らその形を変える事もある。

 しかし、それにも限界がある。

 

「足りない物を補おうにも材料が足りません。いや、量的な物ではなく質という意味で、ですが。ハッキリ言ってしまえば、同等の聖衣を一つ用意できるだけの物が必要です。それに、死んでしまった聖衣を生き返らせる事は、このムウにも出来ぬ事。それを知らない貴方や教皇ではないでしょうに」

 

「それは承知の上。だからこそ教皇は手を打たれている。見たまえ」

 

 シャカの言葉にムウがもう一度エクレウスの聖衣を見た。

 

「な、これは!?」

 

 ムウの表情が驚愕に変わる。

 エクレウスの聖衣に近付くと、何かを確かめる様に触れ始めた。

 

「死んだ聖衣を生き返らせるためには聖闘士の、小宇宙が宿った大量の血を必要とする、だったか」

 

「聖衣から微かに感じる生命の鼓動、消え去るばかりの末期の炎かと思ったが――違う。これは今まさに燃え上がろうとする命の鼓動! それにこの聖衣にこびり付く血は、一見彼の流した物かと思っていましたが……無数の亀裂に沁み込む様に与えられたこの大量の血液は……まさか!?」

 

 あり得ないと言う思いと、それ程の価値がこの聖衣に、いやあの少年にあったのかと。

 立ち上がったムウはその視線を自らの住まう館の方へと向けていた。

 

「そう、その血は教皇の物。エクレウスの聖衣へと流された物だ。そして――」

 

 シャカの手に握られたのは海斗の胸元におかれていた剣だ。それは冥府でシャカが海斗に渡した物と同じ。

 かつての加護は失われているがその残滓は確かに宿り、鞘から抜かれ白日の下にさらされた亀裂の入った刀身からは強大な小宇宙が、命の力が満ち溢れていた。

 

「足りない材料は、質はこの剣が十二分に補うはず」

 

 ムウの驚愕を余所に、シャカは淡々と語る。

 そして、全てを伝え終えると役目は終わったとばかりにその身体が色を失い、まるで空間に溶け込むかの様に薄れ始める。

 

『その血と剣と君の力でエクレウスの聖衣を蘇らせて貰いたい。そして彼に新たなる力を』

 

 

 

 ムウが剣を手にした時には、既にその場にはシャカの小宇宙の残滓が残されているだけであった。

 

「シャカよ。君は、いや教皇は何を考えている?」

 

 ムウのその問いは風の中に紛れて消えた。

 

 

 

 

 

 聖域、教皇の間。

 光の差し込まぬ暗闇の中、ただ一人玉座に腰掛けた教皇――サガは何もない宙をじっと見つめていた。

 

「……やはり生きていたか、我が弟(カノン)よ」

 

 その呟きに応える者はいない。

 

「スニオンの岩牢から姿を消して十一年。いつかは姿を現すと思っていたが、まさか海闘士となっていたとはな」

 

 聖域から一人の聖闘士が離れて海闘士となり、一人の海闘士が聖闘士となった。

 そこに何かの因縁めいたものを感じ、サガは深く溜息をつく。

 

『何故あの場で殺さなかったのだ? 袂を分ったとは言え、やはり弟は可愛いのかサガよ』

 

「あの場で争えば海斗は確実に死んでいただろう。あれ程の小宇宙の持主を殺すのは惜しい。その事は“お前”にも分っているはずだ」

 

『シャカの言っていたギガントマキアの再来か。あの小僧をそれに当てるつもりか?』

 

「敵は冥王軍だけではないのだ。イレギュラー相手に黄金聖闘士を動かす事は出来る限り避けるべきだ」

 

『フンッ』

 

 いや、応える者はいた。

 それは、暗闇の中でサガにのみ聞こえる声で続ける。

 

『しかし、だからと言ってだ。たかが一聖闘士の命と海皇軍とを秤に掛けるとは――愚かな事を』

 

「アテナの施した封印はそこまで柔な物ではない。仮に海皇が目覚めたとしても、目覚めたばかりの神であるならば如何様にもやりようはあるものだ」

 

『あの小僧を助ける理由にはなっていないが……。フン、まあ良かろう。だがサガよ、これだけは忘れるな』

 

「……」

 

『貴様が俺に隠れて何を企もうとも、俺を出し抜ける等とは思わん事だ。何故なら俺は――』

 

「黙れッ!!」

 

 玉座から立ち上がり叫ぶサガ。そこには教皇として見せていた落ち着きも威厳も何もない。

 ただ、苦悩に顔を歪める一人の男の姿があった。

 法衣の裾を翻して振るわれる拳はただむなしく空を切る。

 どれだけ拳を振るおうとも、その拳がサガの“敵”を捉える事はない。

 

『お前自身なのだからな。クククククッ、フハハハハハハハハハッ!!』

 

 脳裏に響き渡るのは、サガが最も憎むべき男の――己の上げる笑い声。

 己の内から湧き上がるドス黒い意志。

 

「黙れッ、黙れ黙れ黙れ黙れ黙れッ!!」

 

 

 

 暗闇の中、己以外誰も居ない教皇の間にサガの慟哭だけが響き渡っていた。

 

 

 

 

 

 溜息を一つ吐き、ムウはその長い髪を掻き上げる。

 

「いや、今は何も言うまい。私は私に課せられた使命に従い、ただ目の前にある聖衣を修復するだけだ。そう、その時が訪れるまでは」

 

 そう呟くと、ムウは瞳を閉じて――念じた。念動力(サイコキネシス)である。

 すると、ムウの前に色とりどりに輝く無数の鉱物が出現する。神話の時代、伝承の中にのみ存在するとされている鉱物が。

 

「オリハルコン、スターダストサンド、そしてガマニオン……」

 

 そこから必要と思われる鉱物を見繕う。

 

「……これ程までに破壊された聖衣を元の形とする事はこのムウにも不可能。大幅に形を変える必要がある」

 

 シャカは言った、新たなる力をと。

 

「求められるのは青銅を超えた青銅、と言う事ですか。やれやれですね、これは一筋縄ではいきそうもありません」

 

 懐から黄金に輝く槌と鑿(のみ)を取り出したムウは、その刃先をそっと聖衣に当てる。

 言葉とは裏腹に、ムウの表情は真剣そのもの。

 ふうと一息を吐くと、その顔から表情が消え去り、その視線はただ聖衣にのみ注がれる。

 

「再生、いや新生の時だ――エクレウスの聖衣よ」

 

 そうして振り上げた槌を、ムウは鑿の柄へと振り下ろした。

 

「新たなる力を宿し、新たなる翼を得て、今再び――飛翔せよ!」



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第8話 一時の休息の巻

 三途の川。

 東洋の、仏教的概念としては、現世と彼岸の境目にある人が死んで七日目に渡るとされる川だ。

 善人はそこに架けられた橋を渡り、軽い罪を負ったものは浅瀬を、重罪人は深みを渡るとされている。

 しかし、長い年月の中で“橋を渡る”という考え方が消え、料金を支払い渡し船によって渡河するといった考え方へと変化する。

 西洋、ギリシア神話にも類似の概念があり、ここでいう三途の川はステュクス河やアケローン河となる。そこにも渡し守がおり料金を支払って渡河するのだ。

 古くから川というものは境界として見なされる事が多く、こういった考え方は洋の東西を問わず共通する部分が多くあった。

 

「――以上、タメになる雑学講座でした、っと」

 

 冥府と河。この二つが揃っている時点で“あるだろうな”とは考えていた。

 だからこそ、海斗は目の前の河に一隻の小舟が浮かべられている事にも、その小舟の側に人影がある事にも、それ程驚く事はなかった。それだけであるならば。

 

「いよ~ぅ、少年。お前さんも、あそこ(血の瀑布)まで行きたいんだろう?」

 

 海斗のイメージしていた三途の川の渡し守は白い襤褸を見に纏い、寡黙な年老いた老人だった。

 ギリシア神話で言うところのカロンのイメージだ。

 目の前の人物は海斗のイメージ通りの白い髪に白い髭。それはいい。

 しかし、白のシルクハットに白のタキシードを着こなした老人、というのは違う。正誤を問うものではないのだろうが、これは誤だ。日本人ではあるが、これには誤と言いたい。

 

「こいつならあっという間だ。どうよ、乗ってくかい? 欲張りなタヌキさんの選んだ泥船よりは安全さ。お~っと、そんなコワい顔をしなさんな、コッチは見ての通りのヨボヨボの爺ィだよ?」

 

 しかも、それが喧しいぐらいによく喋り、妙に馴れ馴れしい。

 

「……いや、別に――」

 

「ああ、手持ちがないのか。大丈夫、だいじょ~ぶ。お代の六文銭は結構よ。服を差し出せ、なんて事も言わないから。ちょっくらこのサビシイ爺ィの話し相手になってくれりゃあそれでいいんだ。何せこの二百数十年間、こ~んな薄ぐら~いトコに引き籠ってたせいでうえ(地上)の話に飢えちゃってるワケ。少年もここに来るまでに見ただろう? 白いもやっとした影をさ。ありゃあ死と共に自我を失い自分のカタチすら留められなくなっちまった奴等の魂なのさ。人型を保っている奴等も似たようなもんでな、話し相手になんかなりゃしない。あーとかうーとかそんなもんよ?」

 

「そういう事か」

 

 老人の言葉で海斗はここに来るまでに見た光景を思い出す。

 何をするでもなく、ただ呻きを上げ続けるマネキンのような人型と靄の正体はそれかと。

 

「ほら、乗った乗った! 一名様ごあんない~っと」

 

 老人は海斗の手を取ると勢いよく小舟へと乗り込んだ。

 海斗の意志などお構いなしであった。

 

「それにしても、そのボロボロの聖衣は酷いねぇ。一体何と戦ったのやら。上ではもう聖戦が始まっているのかい? だったら、ここいら一体も賑やかになるなァ!」

 

 明らかに怪しく、胡散臭い相手である。

 

(……冥闘士(スペクター)か? だが、仕掛けて来る気配はないし、わざわざ老人の姿を取るはずがない。奴等は全盛期の肉体を維持していたはず。まあ、冥界はハーデスだけの世界じゃないからな。敵であるならば……その時はその時だ)

 

 思考する海斗の姿に、ああと、老人が手を叩き、思い出したとばかりにこう続けた。

 

「ああ、この爺ィのコトなら時の翁とでも呼んでくれりゃあいいや。川の流れは時の流れの如し、ってな。洒落ているだろう?」

 

 

 

 

 

 聖闘士星矢~ANOTHER DIMENSION海龍戦記~

 

 

 

 

 

 海斗は自分が夢を見ているのだと直ぐに理解した。

 

 夢は情報を記憶として整理するためのものと聞いた事があった。ならば、これはまた懐かしい記憶だと。目の前の光景を見てそう思う。

 

『海斗、お前に聞いておきたい事がある。まあ、今更ではあるがな』

 

 確か、三年程前だ。

 その日の修行を終え、宿舎に帰ろうとする俺を珍しく師であるアルデバランが呼び止めて、

 

『お前は本当に聖闘士になりたいと思っているのか?』

 

 そんな事を聞いてきたのだった。

 俺は、何と答えたのだったか。

 聞けば誰もが納得する様な、模範的な、当たり障りのない事を答えた様な気がする。

 

『アテナのために、地上の平和のために、この力を正しく振るう事こそが我ら聖闘士の本分だからな』

 

 脈絡もなく場面が飛ぶ。

 

『ウワハハハハッ! こうも早く、まさかオレが下がらねばならんとは思いもしなかったぞ!?』

 

 これは……二年程前だったか?

 初めてアルデバランを後退させた時の記憶か。

 

『拳の引きが遅い。聖闘士にとってその隙は致命となる』

 

 かと思えば、これはいつの事だったか。

 さすがは夢。見ている俺も繋がりの意味が分らん。

 

『お前は小宇宙こそ強大だが、あまりにも制御が雑過ぎる。そうだ、もっと意識を集中させろ』

 

 次々と浮かび上がる光景。

 僅か数年間の出来事がひどく懐かしく感じる。

 

『出来が良過ぎるのも考えモノだな。これではオレの教える事がないではないか。ワハハハハハッ』

 

 また場面が変わった。

 古戦場跡だ。そこで俺とアルデバランが組手をしていた。

 師の攻撃を避け、その懐に潜り込んだ俺がボディーブローを放とうとしている。

 

「そうだ、この拳は受け止められた」

 

 呟きの通り、アルデバランは難なく俺の拳を受け止める。

 

「そしてカウンターの一撃を貰ったんだ」

 

 あの一撃は効いたなと、その時の事を思い出して腹に手を当てた俺は、そこで違和感を覚えた。

 直後に放たれたはずの一撃がいつまで経っても来ないのだ。

 アルデバランは俺の拳を受け止めたまま、微動だにしていなかった。

 それだけではない。

 傍観者であった筈の俺が舞台に立ち、アルデバランと向かい合っていた。

 

 黄金聖衣を纏ったアルデバランの右手が俺の、破損したエクレウスの聖衣を纏った今の俺の拳を掴んでいたのだ。

 

『お前の拳は――軽い』

 

「……何?」

 

 目前に立つアルデバランの口から出た言葉。それは俺の記憶にはない言葉。

 夢の雰囲気が変わった。

 俺の周り、いや周りだけではない。俺の拳を掴んでいたアルデバランの姿が消え、全てが闇に包まれて何も見えなくなる。

 

『お前は何のためにその拳を振るうのだ?』

 

 暗闇の中で声だけが響く。

 アルデバランの声ではない。

 

「チッ、キタルファ……だったか?」

 

『お前は強い。同じ条件の下で戦えば、オレとて容易く勝てるとは思わん。だが、その力でお前は何を望むのだ?』

 

「別に、大層な望みなんかありゃしない」

 

『己のためだけに振るう拳は空しいぞ』

 

 この声は違う。

 

『言葉は悪いかも知れんがな、お前の拳には執念がない。命を賭してでも何かを成そうとする覚悟、とでも言えば分り易いか。それが他の者達と比べて感じられんのだ』

 

 これはアルデバランの声だ。覚えている。アルデバランに弟子入りして直ぐの頃に言われた事だ。

 

「……まさか、夢の中で説教を喰らうとは」

 

 そうぼやいた俺の背後に、暗闇の中であっても眩い輝きを放つ黄金聖衣を纏ったアルデバランの姿が浮かび上がる。

 いつもの様に両腕を組み、どっしりと構えたその姿は、しっかりと大地に根付いた一本の大樹の如く。

 胸を張り、常に前だけを見ているその姿勢、その力強さは俺にはないものだ。

 今思えば、俺はその姿に憧れを感じていたのかもしれない。

 

「今更言えんわな、本人の前では」

 

 何と言うか恥ずかし過ぎる。言えるわけがない。

 

『女神アテナは戦を司る神ではあったが、その戦いは常に護る為の戦いであった』

 

 アルデバランの言葉が続く。

 

『デスマスクやシュラ、ああ、俺と同じ黄金聖闘士だがな。彼らは勝利にこそ意味があると言う。何に於いても勝たねば意味がないと』

 

 それはそうだ。負けてしまえば何も言えない。勝たなければ何も成せない。

 そう、あの時だって俺は勝たなければならなかったのだ。

 

『真理ではあるが、オレはそれだけが全てだとは思ってはおらん。何かを護る事、誰かを護り抜こうとする意志こそが重要なのではないか、とな』

 

 この言葉は、一体いつ聞いたものだったか。

 覚えていない。

 馬鹿馬鹿しいと聞き流した言葉だったか。

 

 そんな事を思案していると、気が付けばアルデバランの姿は消え去り暗闇の中で俺は再び一人となっていた。

 

「フッ!」

 

 何もない空間に、全力を込めた拳を突き出す。

 

「はははっ、無いな。孤児院連中やシャイナ、師匠たちとはただ戦いたくないだけだ。何かを護ろうなんて考えちゃいない」

 

 海闘士の事だってそうだ。

 戦いたくないと思いこそすれ、彼らを護ろう等とは考えていない。

 

「師の意志を継げない、ってのは弟子失格かね」

 

 不意に自分の身体が浮き上がるような感覚を覚えた。

 

『何かを護ろうとするその想いこそが、己の拳に力を与える。オレはそう考えている』

 

 周囲の闇を消し去る様に、白い光が俺の周りから溢れ出す。

 

『アテナのため、それを強要はせんよ。そうである事が望ましくはあるがな』

 

 ああ、目が覚めるんだなと、漠然と考える俺の下に再び師の声が響いた。

 

『お前も早く見つける事だ、お前自身の護るべきものを、な』

 

 

 

 

 

 第8話

 

 

 

 

 

 ゆっくりと瞼を開く。

 視界に映るのは一面の白。

 まだ夢の中にいるのかとも思ったが、よく見てみればそれは天井の色だった。

 

「ここは病院……か? カノンに負けた俺は……」

 

 どうなったと、その後の事を思い出そうとするが、意識を失っていたのだから思い出すも何もない。

 

「いや、三途の川は……あれこそ夢か?」

 

 そんな事は、という思いと、いやしかしのせめぎ合い。

 それをじっくり五分程繰り返し、結論を出した。

 

「取り敢えず起きるか」

 

 棚上げである。

 身体に掛けられたシーツをどけようとして、俺は自分の右腕が動かせない事に気が付いた。

 

「ん?」

 

 何か温かいモノが俺の腕に乗っている。

 犬か? 猫か? 病院に? いやまさか?

 昔見たTVドラマや漫画であれば、この重さの正体は――期待せざるを得ない。

 細心の注意を払い、俺が目を覚ました事を気付かれない様に、ゆっくりと視線を動かした。

 

 そこには、俺の腕を枕にして――

 

 涎を垂らして気持ちよさそうに眠る見知らぬ男の子の姿があった。

 

「まあ、現実なんてこんなモンだろうさ」

 

 冷静に考えれば、この十数年の人生にそんな女っ気などあったはずがない。

 数少ない例外もある事はあるが、看病どころか見舞いにすら来ないだろう。むしろ気にもしないと思われる。そんな連中だ。

 

「……うぇへへへ~」

 

「……」

 

 一体どんな夢を見ているのか。

 微妙に落胆する俺に対して、この見知らぬお子様は実に幸せそうでいらっしゃる。

 

「……いただきま~す」

 

 さて、そのお子様は大口を開けてシーツごと俺の腕に噛み付いた。ガブリ、と。

 虫歯はない様で実に結構な事だ。

 

「ふむ」

 

 上半身を起こして周囲を見る。

 俺のいるベッドの横には簡素なテーブルに椅子が二つ。

 奥には古びたクローゼットと思わしき家具が一つだけという、聖域も真っ青の質素かつシンプルな部屋だと言う事が分る。

 

「病院では……ないな。それにこの空気の薄さは、聖域でもない」

 

 自分の姿を見れば、貫頭衣の様な服を着せられており身体の所々に包帯が巻かれていた。

 それは別に構わないのだが、思っていた程の傷がない事の方が気に掛かった。

 まさか、ここまで回復する程眠り続けていた、等という事はないと思うが。

 

「分らない事をいつまで考えていても仕方がない」

 

 ならば分る人間に聞けばいい。

 俺は未だ腕をかじり続けるお子様を見た。

 

「ムグムグ……マズい~……」

 

「……これは虐待ではない。教育だ」

 

 自分でも何を言っているのか分らなかったが、俺はこの幸せそうなお子様に目覚めの一撃をプレゼントする事にした。

 

 

 

「まあ、良かった。目が覚めたんですね! それに、人見知りな貴鬼を相手にもうそんなに仲良くなるなんて!」

 

「んがががか~~っ!!」

 

「あん?」

 

 ドアを開け、取っ組み合う俺とお子様の姿を見たそいつの第一声がこれだった。

 胸の前で両手を合わせて心の底から嬉しそうに笑う銀髪の少女。

 

 これが、俺と少女――セラフィナとの何とも締まらない出会いであった。

 

 

 

 

 

「つまり、俺はシャカって黄金聖闘士の手でここ――ジャミールに運ばれて来た、と」

 

「そーだよ、五日前にね。なんかおっかない人だったケド。にーちゃんの知り合いじゃないの?」

 

「シャカさん、ね。……三途の川は夢じゃなかったか」

 

『……あうぅぅう……』

 

 軽く自己紹介を済ませた俺は、早速貴鬼にこれまでの経緯を尋ねる事にした。

 貴鬼は第一印象と見た目に反して意外としっかりしている様で、六歳児とは思えぬ利発さを見せている。

 

「知り合いっちゃあ知り合いになるんだろうなぁ。次に会った時に礼を言うべきかどうか迷うような相手だが」

 

 それにしても、乙女座のシャカか。

 最も神に近い男、だったか。

 何を考えているのかまるで分らない男だと、師はそう言っていた。納得だ。

 俺を助けたと言う事は、あの時の戦いを知られたと思って間違いはない。

 知られるのは構わないが、だとすればカノンや海闘士の事はどうなったのだろうか。

 海皇の事までは知られていないのか、それとも既に手は打たれた後なのか。

 

「なあ貴鬼。シャカは、その、俺の事で何か言っていたか?」

 

「さあ? おいらはムウ様の命令で直ぐににーちゃんたちをここに運んだから知らないよ」

 

 貴鬼は、傾けた椅子の上で器用にバランスを取りながら遊んでいる。

 確かに、これ以上聞いても分らないだろう。

 

「ところで、さっきから言ってるムウ様って、もしかして――」

 

 ならばと、俺は次の質問をする事にした。

 かつて聞かされた事がある。

 ジャミールのムウ。聖闘士となるのならば覚えておくべき名前だと。

 

「にーちゃんはさ、お姉ちゃんに感謝しなよ」

 

 しかし、貴鬼はそんな俺の言葉を遮って話し始めた。

 

「死にかけてたにーちゃんの怪我を治したのはお姉ちゃんなんだからな」

 

 杯座(クラテリス)の白銀聖闘士。

 自らの小宇宙によって傷付いた者を癒すという、八十八の聖闘士の中でも極僅かな者しか持ち得ない治癒の力の持主だという。

 

「ずっと付きっきりだったんだぞ。感謝しろよ!」

 

『……バカバカ、私の馬鹿……ッ!』

 

「ああ、それは……そうだな、感謝するよ。でもな、何でお前がそんなに偉そうなんだ?」

 

「おいらだって看病してやったんだぞ?」

 

 思いっきり寝てたじゃねーかと言ってやりたかったが、気分良さ気にしているところに態々水を差す必要もない。

 

「ありがとな」

 

 素直に礼を言うと、貴鬼は照れくさそうに笑っていた。

 

「へへっ!」

 

 この素直さは癒しかもしれん。

 

 

 

「セラフィナお姉ちゃんの淹れてくれるお茶はおいしいんだよ、お茶は」

 

 それから暫く。貴鬼の分る範囲ではあったが、あらかたの質問を終えた俺は、セラフィナが持って来てくれていた茶を飲みながらのんびりと雑談に興じていた。

 

『……うぅぅぅ、どうしよう、どうしよう』

 

「お茶を二回言うのが気になるが。まあ、確かに美味いと思う。正直、味の良し悪しは分らんが」

 

「なんだいそれ」

 

『……そうだ、さっきのはナシって事でもう一回始めからやり直せば……』

 

「……」

 

「……お姉ちゃん……」

 

 いい加減、無視するのも疲れて来た。

 ちらりと貴鬼に視線を送る。

 サッと目を逸らしやがった。

 

 ……仕方がない。

 

 かれこれ三十分は経っているだろうか。覚悟を決めた俺は、こちらに背を向けたまま部屋の隅でしゃがみ込み、ずっと何かをブツブツと呟いている不審者に声を掛ける事にした。

 瀕死であった俺の治療をしてくれたと貴鬼から聞かされている以上、このまま放っておくわけにもいかない。

 

「……セラフィナさん」

 

「ひゃい!?」

 

「いや、そこまで驚かれても困るんだが」

 

「な、何でしょうか、か、海斗しゃん?」

 

 ピンと背筋を伸ばして立ち上がったセラフィナだったが、その言葉は噛みまくりで気が動転しているのが良く分る。

 おまけに顔をこちらに向けようとしない。

 理由は分らんでもないが、今更気にしても仕方がないと思うのだが。

 

「……見なかった事にしておいてやるから気にするな。俺か貴鬼が言わなければ分らない事なんだからさ。素顔を見られた事なんて」

 

「あぅううううううう」

 

 滅多に人が訪れる事のないジャミールという立地。そして、この館の周囲には人避けの結界まで張られているらしく、セラフィナは普段から仮面をつけていなかったらしい。

 

 がっくりと肩を落とすセラフィナ。

 ずっと観察していて思ったが、随分と喜怒哀楽の激しい奴だ。見ている分には面白い。

 聖闘士の女子は――以下略。

 貴鬼から聞かされていたが、このお間抜けなお嬢様は、俺は今でも信じられないが聖闘士だと言う。

 しかも白銀の。セラフィナ曰く、正式に認められた聖闘士ではないとの事だが。

 更に十六歳だと言う。今の俺よりも二つ上だ。精神年齢はどうか知らんが。

 

「親兄弟、家族や師匠の前では外してもいいんだよ」

 

 とは貴鬼の弁だ。それもどうかと思うが、最初から素顔を知っている間柄ならそれでもいい様な気もする。掟については知らん。

 で、普段から館では仮面をつけない事が当たり前となっていたセラフィナは、素顔のままで俺の様子を見に来てしまった、と。

 

「まあ、掟だか何だか知らないが、別にそれで死ぬわけでも――」

 

 ないだろうと、そう続けようとした俺は目を見張った。

 

「じゃあ、責任とってくれますか!?」

 

「――は?」

 

 イキナリ何を?

 部屋の隅でうなだれていたかと思ったら、俺の目の前へとあっといいう間に移動したセラフィナ。

 成程、さすがは白銀聖闘士(仮)、良い速さだと感心していた俺の肩ががっしりと掴まれた。かなり痛い。

 

「責任とってくれますか!?」

 

 ずいっと身体を乗り出して俺に迫って来る。

 男なら喜ぶべきところなのかもしれないが、そんな色気のある状況ではない。

 正直言おう。眼が怖い。

 この感覚は、闘技場を吹っ飛ばしてしまった時の魔鈴やシャイナから感じた威圧感に匹敵する。

 否とは、とてもではないが言えない。

 言っている意味は分らないが、つまりは「素顔を見た事を悪いと思うなら、この事を一生他人に口外するな」と言う事なのだろうか。

 そんな必死に念を押さなくても、元々言いふらすつもり等はない。

 

「あ、ああ、分った」

 

 だから、もう気にするな。

 そういうつもりで言ったのだが。

 

「~~ッ!?」

 

 セラフィナは俺の肩を掴んだまま、何故か顔を真っ赤にして動きを止めてしまっていた。

 

「オイ貴鬼?」

 

 コイツ大丈夫かと、そう思って貴鬼を見れば、何とも生暖かい視線をこちらに向けていた。

 

「あのさ、にーちゃん。意味分って……ないね。分ってたらそんな間抜けヅラじゃいられないもんね」

 

 誰がマヌケか。

 六歳児にマヌケと言われる日が来るとは思いもしなかった。

 

「聖闘士の女子はね、素顔を見られたら相手を殺すか――愛するのが掟なんだよ。ムウ様が言ってたもん」

 

「……ちょっと待て。何だそのぶっ飛んだ掟は!? やはりおかしいぞ聖闘士!!」

 

「にーちゃんだって聖闘士じゃん」

 

 どこから出て来るんだ、そんな二択が。極端にも程があるだろうが!!

 じゃあ何か、昔俺が聖闘士候補の女子達に白い目で見られたのはそういう事だったからか?

 知っとけよ師匠!

 そりゃあ、聖域の女子から敵視もされるわ!!

 

「そんなトンデモな掟なら館の中でもつけろよ仮面を!!」

 

「ええっと、海斗さんは日本の人なんですよね。こういう時は……二日物ですが、でしたっけ?」

 

「分ってたんなら止めろよ貴鬼! それから、二日物じゃナマモノだ! 違うからな、俺はそういうつもりで言ったんじゃないからな!?」

 

「そんな!? それじゃあ、私は海斗さんを殺さないと!?」

 

「だからその発想がおかしい事だと気付け!!」

 

 

 

「……騒がしいですね、何をしているんですか貴方たちは?」

 

 結局、騒ぎに呆れたムウが止めに入るまで、延々とセラフィナとの噛み合わない問答が続けられた。

 貴鬼はただ面白そうにケラケラと笑っていた。

 

 

 

 外衣を纏い現れたムウを見て、俺は一瞬彼を女性だと見間違えてしまった。

 長い髪を後ろで結んだ、長身の美しい大人の女性だと。

 静かで穏やかな物腰、その落ち着いた様子は俺の知る聖闘士像とはまるでかけ離れており、一見しただけではとても戦いを行う人間には見えない。

 ちなみに、聖域だけかと思ったが、古代ギリシアを彷彿とさせる内衣(キトン)と外衣《ヒマティオン》という服装は、どうやら聖闘士にとっては普段着に等しいらしい。

 とはいえ、さすがに現代の『外』の事情も考慮する気はあるのだろう。当然下着とズボンは着用している。

 

「……やれやれですね。阿呆ですか貴女は」

 

 外見に反して、随分と辛辣な言葉を仰る方の様だ。

 

「いざ戦いとなった時にマスクが外れるかどうかを気にする者がいますか? 本来、女性聖闘士にとってのマスクとは、聖闘士である事の証であり、誇りの様な物でしかありません」

 

 ムウの言葉に、俺は貴鬼を見てセラフィナを見た。

 二人ともぶんぶんと首を振っている。

 

「他人の手でそのマスクを外されると言う事は女性聖闘士にとっては誇りを汚される事と同意。そして自らの手でマスクを外すと言う事は、相手への、相手にとっても、これ以上ない信頼の証となるのです」

 

 納得した。

 成程、それが長い年月の間に徐々に歪んで伝えられた結果があの究極の二択になったと。

 

「ヒドイですよムウ様。それならそうと教えておいて下さっていれば!」

 

 セラフィナが頬を膨らませてムウに詰め寄っている。

 その点は同意だ。

 

「わたし子供の名前まで考えちゃったじゃないですか! 男の子だったらユニティとか、女の子だったら――」

 

「……」

 

「……」

 

「……さて、海斗でしたか。君には少々聞きたい事があります。後ほどで構いませんので下まで来てもらえませんか?」

 

 貴鬼は課題を済ませておくように。

 そう言ってムウは踵を返し、この部屋を後にした。

 何食わぬ顔で。

 

「は~い、分りました」

 

 ひょいっと、軽快に椅子から飛び降りた貴鬼がその後に続く。

 その際、俺を見て手を合わせ――ニヤリと笑いやがった。

 

「……」

 

「そうですね、犬を飼うのも良いかもしれませんね。大きい子だったら子供達の枕代わりになって貰うんです。こう、おなかのところに――」

 

 少女がやがて年老いて、ひ孫に看取られて息を引き取る。

 とある家族の半世紀上にも渡る壮大な物語が語り終えられるまで、俺はそのまま一人でセラフィナの相手をするハメになっていた。



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第9話 狙われたセラフィナ!の巻

 履き慣れない靴の感触に戸惑いながら、一歩一歩を確かめる様に階段を下りる。

 身体の節々に筋肉痛の様な痛みはあったが、五日も寝ていたと言われた割には、思った程身体がなまっている様には感じられない。

 

「血液の流れをどうこうってレベルじゃない。癒しの力か。単純に、凄いな。小宇宙の譲渡か? 相手の小宇宙に同調させて? ……それはそうとして」

 

 頭を掻きながら溜息交じりに呟かれる海斗の言葉に返事を返す者はいない。

 

「傷の手当てや看病をしてくれた事、それ自体には感謝しているが……」

 

 タイミングと言うのは重要なもので、先程の馬鹿騒ぎのせいでセラフィナに礼を言う機会を逃してしまっていた。

 今更面と向かって礼を言うのも気恥ずかしく思う。

 

「それでも……どこかで言っておかないとな」

 

 海斗はそう独りごちながら目の前に見えた扉の前に立つと、古びた木製の扉に手を掛けた。

 ギイと軋んだ音を立てて扉がゆっくりと開く。

 

「こいつは――」

 

 しんと静まりかえった無人の室内に、海斗の呟きが波紋の様に広がる。

 一歩を踏み出し、広間へと足を踏み入れた海斗が見た物は、部屋中に散らばった大小様々な無数の欠片だ。

 海斗は室内を見渡すと、足下に転がるそれを一つ拾い上げる。

 

「これは……ヘッドギアか? そうだ、あそこに見えるのは手甲、あそこにあるのは肩当ての部分か。あれも、あれも、ここにある物は全て――聖衣か」

 

 一つや二つでは済まない。

 形が残されたパーツの数から推測しても、恐らく十や二十では収まらないだろう。それが分る。

 

「……まるで聖衣の墓場だな」

 

「同時に、再生の場でもあります」

 

「――ッ!?」

 

 背後からの声に海斗が振り向けば、そこには先程と変わらず、落ち着き払った様子で佇むムウの姿があった。

 

(今の今まで人の気配は感じなかった)

 

 内に湧く驚愕を押さえつつ、海斗は緩み過ぎたかと気を引き締める。

 

「いつからですか? あまり趣味が良いとは言えませんね、牡羊座(アリエス)のムウ」

 

「アリエスの、ですか。フッ、どうやらアルデバランから多少は私の事を聞いていたようですね。しかし、そう呼ばれるのも実に久しぶりです」

 

 ついて来なさい、そう言ってムウは広間を奥へと進む。

 手にした聖衣の欠片を足下に置き、海斗は無言のままその後に続いた。

 

 

 

 広間を抜けて館の外へ。

 まるで石で出来た五重の塔だなと、背後の館を一瞥する。

 

「こちらです」

 

 ムウの指示に従い先に進むにつれて、辺りに立ち込める霧がその濃さを増す。

 霞がかった視界は方向だけではなく、時間の感覚すら狂わそうとしている様だと海斗は感じていた。

 聖域とチベットの時差は五時間程だったかと、おぼろげな記憶を頼りに思いだそうとするが、どうでもいい事かと、先を進むムウの背中を追う。

 

 それからどれ程進んだのか。

 二人の間には会話らしい会話もなく、あるのは精々があちらに、こちらへと言った指示程度。

 その事自体は海斗にとっても特に気にする事ではなかったのだが、聞きたい事があると言ったのはムウである。

 まさか、あの場から離れるための方便であったわけでもあるまいに、と。ならば、と海斗は自分から話を振る事に決めた。

 

「そこで止まりなさい」

 

 しかし、話とは、と口を開こうとした海斗よりも先に言葉を発したのはムウ。

 

「ここより先に、あなたの聖衣があります。新生したエクレウスの聖衣が」

 

 ムウが指し示した方向をじっと見たが、深い霧の為か、うっすらと道がある様にも見えるがその先がどうなっているのかまでは分らない。

 

「……聖衣がここに? かなり手酷くやられていたが……そうか、あなたが修復してくれたのか」

 

「修復ではありません。新生と言いました。そう、エクレウスの聖衣は新たに生まれ変わったのです」

 

「――生まれ変わった」

 

「そうです」

 

 感慨深く呟いた海斗とは異なり、ムウの言葉にはどこか鋭いものが含まれていた。

 ゆっくりと海斗へと振り返るムウ。

 その醸し出される雰囲気こそ『静』であったが、その奥底から感じる気配は激しいまでに『動』。まるで一回りも二回りも大きくなった様な、それ程までの、圧倒的な存在感を放っていた。

 

 ジャミールのムウ。聖域との関わりを断ち、だた黙々と人里離れた奥地にて聖衣の修復を手掛け続ける世捨て人の様な男。

 かつて、アルデバランは海斗にそう話した事もあった。

 

「さて海斗、あなたには色々と尋ねたい事はありますが」

 

 だが、と海斗は目の前に立つムウの小宇宙を感じて思う。

 一見すると物静かで優雅ささえ感じさせるこの男。

 その本質はやはり聖闘士――戦う者なのだと。

 

 スニオン岬でカノンと対峙した時点で、こうなる事は覚悟していた。

 だからこそ、海斗に動揺はない。

 来るべき時が来た、その程度の事。

 

「軽度の破損であればともかく、命を失った聖衣を蘇らせるには命を必要とします。命、つまりは生きた聖闘士の大量の血です。当然、エクレウスの聖衣を新生させる為にも必要とされました。それを提供したのは――教皇だと聞いています」

 

「待ってくれ。エクレウスの聖衣を修復するために血が必要となるのは分った。だが……教皇だって?」

 

「あなたをこの地へと連れて来たシャカの言葉です。彼が言うのであれば真実なのでしょう。しかし、だとすれば腑に落ちない点が一つ。故あって、私は教皇の事であれば誰よりも知っていると言う自負があります。ですが、エクレウスの聖衣に与えられた大量の血から感じられた小宇宙は私の知る教皇のものとは違うのです。ならば、今聖域にいる教皇は――」

 

 しかし、ムウの口から出た言葉は、その海斗をして驚きを隠せないものだった。

 

「――一体誰なのでしょうか?」

 

 

 

 

 

 第9話

 

 

 

 

 

 海斗がジャミールの地で目覚めてから更に一週間が経っていた。

 

 最初の数日こそ物珍しさも手伝って、海斗は周囲の散策などを行う事で退屈を紛らわせていたのだが、それも今では過去の事。

 ならば本でも読むかと、ムウの蔵書から何冊か借りはしたものの、難解過ぎて三十分もしない内に返却していた。内容が、ではなく、書かれた文字が理解出来なかった為だ。

 

「あれは文字じゃない」

 

 こうなってしまっては、途端にする事がなくなってしまう。それを自覚してしまうと、途端に暇であるという事が苦痛に思えてしまう。

 いわゆる居候の身である以上、何もしていないというのはどうにも居心地が悪かった。この辺りで自分が日本人なんだなと意識する。

 聖域からの迎えが来るまでゆっくりすると良いでしょう。ムウはそう言っていたが、生憎とジャミールは海斗にとっては聖域以上に娯楽のない退屈な場所である。

 長く居れば、それなりに楽しみも見い出せるのかもしれないが、そこまで厄介になるつもりもなかった。

 

 

 

 館から少しばかり離れたところにある広場。

 広場と表現したが、むき出しの岩肌に囲まれた少しばかり開けた場所でしかない。が、この地に住むジャミールの民からすれば十分に広場である、とは貴鬼の弁であった。

 

「――暇だ。しかし、もう二週間近くか。迎えってのはいつ来るのやら」

 

 手頃な岩を見つけて腰掛けていた海斗が、霞がかった空を眺めながら呟く。

 その横にはエクレウスの聖衣箱が置かれていた。

 

『私と貴鬼は今日から数日程ここを離れる事になります。その間は工房を閉めますので、聖衣はあなたが持っていなさい』

 

 ムウからそう告げられたのが、今から約二時間前。

 そこで、留守番を任さたセラフィナに捕まり、ずるずると表へと連れ出されて今に至る。

 

「だったら一緒に修行しましょう!」

 

 海斗の呟きが聞こえたのだろう。

 瞑想を終えて、四肢の柔軟を始めていたセラフィナが、名案だとばかりに申し出た。

 

 暇を持て余していた海斗にとって、ムウとセラフィナたちの修行を見学する事だけが唯一の日課とも言えたのだが、これまでその中に加わる事はなかった。

 傷も癒え、身体を動かすには何の支障もないはずであるのに。

 その事がセラフィナや貴鬼にとって疑問であったのだが、ムウはそれについて特に何も言う事は無なかったので深く追求はしていない。

 

「ね?」

 

 そう言って、セラフィナが空を見上げていた海斗の後ろから覗きこむ様に身を乗り出す。

 大きな瞳を輝かせ、何かを期待する様に海斗を見る。

 

「ふわぁあ……あふっ」

 

 それに対しての返答は欠伸を一つ。

 

「いや、止めとくわ」

 

 そう言って身体を起こし、立ち上がる海斗。

 

「もうっ、またですか?」

 

 セラフィナにとって、この海斗の答えは予想通り。

 今迄であれば、ここで引き下がる所ではあったが、今日は違った。

 一人で修業を行う事は珍しくはなかったが、それでも一人より二人で行う方が良い。

 目の前に普段目にする相手とは異なる存在がいるのだ。傷の癒えた海斗がいつここから去るか分らない現状で、これを逃す機会はない。

 

 よしっ、と気合いを入れ、もう一度海斗に言ってみようと顔を上げたセラフィナ。

 すると、先に立ち上がっていた海斗がじっと自分を見ている事に気が付いた。

 そして、何かを確かめる様に自分の拳を握り、開きを繰り返す。

 

「海斗さん?」

 

 どうも様子がおかしい。

 何かを言いたそうで、しかしそれが言葉にならない、纏まらない。

 そんなもどかしさ、とでも言うのか。何かを迷っている、そう感じられる。

 

「あ、まさか!?」

 

 慌ててセラフィナは自分の身なりを確認する。

 何かおかしなところでもあったのかと。

 

「……何をやっている?」

 

「え? あれ?」

 

 違うのか、なら何なのだろうと考える。

 そう言えば、貴鬼が出掛ける前に何か言っていたはずだと思い出す。

 確か二人きりだのなんだのと。

 

「ハッ!? 駄目ですよ海斗さん!?」

 

 両手で身体を抱きしめる様にして後ずさる。

 さすがにそれは早過ぎる、と。

 顔を真っ赤にし、涙目で睨み付けるセラフィナであったが、海斗はまるで気にした様子もなく淡々とした口調で話し掛けた。

 

「なあ。お前は、どうして聖闘士になろうとしたんだ?」

 

 

 

 あの日、城戸光政に集められた孤児たちは、半ば強制にも近い形で聖闘士となる事を命じられた。拒否権などあろうはずもない。

 その中には星矢の様に交換条件を提示した者もいれば、海斗の様に力を得る事に目的を見出した者もいるだろう。だが、それはあくまでも稀だ。

 ふと、海斗はこの争いとは無縁としか思えない少女が何故、と聞いてみたくなったのだ。

 

 セラフィナはぽかんとした様子で海斗を見ている。

 理由や目的は人それぞれ。その様子に、あえて聞く様な事でもなかったかと、海斗は苦笑する。

 

「悪い。忘れてくれ」

 

「……陽光(ひかり)です」

 

 しかし、セラフィナは一言一言を自分の中で確かめる様にして答え始めた。

 

「ムウ様が仰られました。やがて、この地上を闇に包み込もうとする存在が現れると。私達聖闘士はアテナの下でその闇と戦う事になるのだと」

 

 その言葉に、闇とは海皇の事かと海斗は考えたが、何かが違う様にも感じる。

 

(闇、ね。あえてそう表現したのなら、冥王の事だけじゃあなさそうだな)

 

「この地上に生きる全てにとって陽光は必要なものでしょう? それが無くなるのはとても悲しい事」

 

 セラフィナは真っ直ぐに海斗を見つめた。

 

「わたしは争いは望みません。戦う力も抗う力もあるとは思えない。でも、そうと分っていながら何もせずにただ見ている、そんな事は出来ないから」

 

「……」

 

「わたしにどれ程の事が出来るかは分りません。何の役にも立たないのかもしれない。それでも、こんなわたしでも出来る事があるのなら」

 

 それが理由です。

 そう言って、照れくさそうにセラフィナは微笑んだ。

 

「出来る事、か」

 

 

 

 ――役には立つ

 

 突如として周囲に響き渡る誰ともつかぬ声。

 一瞬、空耳かと、セラフィナが視線を動かし――

 

「え? わっ!?」

 

 視界がぶれた。

 セラフィナが腕を引かれたのだと気付いたのは海斗に抱き寄せられた後であった。

 自分の方が年上であったが、今更ながらに自分よりも海斗の方が背が高かった事を自覚する。

 

「苦情は後でな」

 

 そう言って海斗が拳を放った。

 衝撃がむき出しの岩肌を、大地を穿つ。

 

 ――フフフッ、どうやら威勢の良い者がいる様だが

 

「チッ、ここまで近付かれていながらな。鈍ったか? お前たち何者だ?」

 

 ――お前には用はない

 

「……どこだ?」

 

 海斗は瞳を閉じ、小宇宙を探る事だけに意識を、感覚を集中させる。

 周囲から炎の揺らぎの様に感じる攻撃的な小宇宙は一つではない。

 二つ、三つと複数の存在を感じ取れるがそこまでであった。

 

「チッ。感覚がおかしい。この歪む様な感じ、……これでは」

 

 詳しい気配を探ろうにも、この地に張られた結界の影響か上手く掴む事が出来ない。まるですりガラス越しに遠くを眺めている様な不確かさに海斗は眉を顰める。

 小宇宙の感覚だけに頼る事を諦めて、視覚も用いて相手の姿を探る。

 霧のせいで決して良好とは言えなかったが、それでもノイズ交じりの気配だけを頼りに探るよりはマシだと。

 

「こんな時に……」

 

 ムウが、いやせめて貴鬼がいれば。そう思う。

 超常の力により他者の転移を可能とする二人であれば、この場からセラフィナだけでも逃がす事は出来ただろうが、と。

 

「海斗さん!?」

 

 異様な小宇宙をセラフィナも感じ取ったのだろう。

 胸元から離れ、海斗に背中を預ける様にして周囲を窺う。

 

「いや、むしろ不在であるからこそ、か? だとすれば、随分と嘗められたな」

 

『甞めてなどいない』

 

 ――その価値すらない

 

 その言葉と共に、突如として海斗達の足下が激しく隆起した。

 

『そら、どこを見ている。足下が留守だぞ』

 

「え? きゃああああああぁっ!?」

 

 突然、二人の足下が爆ぜた。

 大地から巨大な影が飛び出したかと思うと、それは海斗とセラフィナの身体を宙へと吹き飛ばす。

 

「セラフィナ!?」

 

『他人の心配をしている余裕があるのか?』

 

 体勢を立て直そうとした海斗の背後から聞こえる声。

 振り向く間もなく、轟、という衝撃を受けて、海斗の身体が岩肌へと叩き付けられた。

 

「海斗さん!」

 

 着地して駆け出そうとしたセラフィナであったが、そうはさせぬと幾重にも重なった人影が立ち塞がる。

 

「そこをどきなさいっ!!」

 

 それは、二メートルはあろうかと言う大柄な男たちであった。

 全員がその身に、鈍い輝きを放つ聖衣の様な鎧を纏っている。多面体で構成された結晶のような外観である。

 

「構わんぞ? お前が大人しく我等に従うのであればな」

 

「我等はギカス。古の時代より蘇ったギガス(巨人族)

 

「我らの王の命により、女、貴様を連れて行く」

 

 ギガス、その言葉をセラフィナは知っていた。

 神話の時代、この地上を我がものにせんとしてオリンポスの神々と激しい争いを繰り広げたガイアの子ら。

 その身には、聖衣の素材として用いられる希少金属オリハルコンすら凌駕する高度を持つ金剛衣(アダマース)を纏っていたとされている。

 

「そんな!? あなたたちギガスは神々の力によって冥府に封じられていたはず……」

 

「ほう、我等ギガスを知るか。フン、確かに我らの魂は封じられた。しかし――」

 

 セラフィナの呟きに、ギガス達は醜悪な笑みを浮かべて見せて答える。

 

「こうして我等は此処にいる」

 

 リーダーと思わしき男が手を上げると、その巨体からは信じられぬ速度で散開していたギガスたちがセラフィナを囲む。

 

「あの人間が心配か? ならばこう言おうか。お前が抵抗すれば――あの小僧を殺す」

 

 輪から外れた三人のギガスが、海斗が吹き飛ばされた岩肌へとその足を向けた。

 

「あなたたちは!!」

 

 セラフィナは小宇宙の大きさこそ白銀聖闘士の域に達していたが、聖闘士としての戦闘力と言う点では自身が言っていた通り今は下位である青銅級に等しい。

 ましてや、今は聖衣すらない生身。

 自分一人の事であれば、敵わぬとしても立ち向かおう。

 しかし、卑劣にも相手は海斗の身を人質としている。

 ギガスが自分を求める理由が何であるのかは分らないが、セラフィナに選べる選択肢等はなかった。

 

「分り――」

 

 

 

「――黙って聞いていれば、お前ら、何を好き勝手ぬかしていやがる」

 

 

 

 セラフィナの言葉を遮ったのは立ち昇る巨大な小宇宙であった。

 怒気すら孕んだそれは水面に広がる波紋の様に広がり、物理的な風となってギガスたちの動きを止める。

 海斗が吹き飛ばされた岩影から白と青の輝きが放たれると、ドンと、音を立てて“内側から”爆発した。

 

「ぐわぁあああ!?」

 

「おごぅ!!」

 

「げわばあぁ!?」

 

 海斗の元に向かっていた三人のギガスたちが同時に悲鳴を上げた。

 砕けた金剛衣と血反吐を撒き散らして巨体が宙を舞う。

 

「グラウリュス!? ソルトー!」

 

「何だと!?」

 

 巨体が地に落ち大地が揺れる。

 あり得ない光景にギガスたちに動揺が走る。

 

「俺はやられたらやり返す主義でな。忘れるなよ、仕掛けたのはそっちか先だって事をな」

 

「海斗さん!」

 

「まったく。不意打ちだからといって、あの程度で俺がどうこうなるとでも思ったのかセラフィナ」

 

 白く輝く新生したエクレウスの聖衣をその身に纏い、巻き上がる砂塵の中から海斗が姿を現した。

 

 膝と踝程度しか保護されていなかった脚部は、まるでブーツの様に膝から下を包み込んでいる。

 左胸を覆う程度であった胸部は、肩当てと一体となって胸部全体を覆い、ベルト状であった腰部には前垂が加えられ、側面にも追加されていた。

 手甲は肘から下を包み込み、サークレット状であった頭部はヘッドギアとも呼べる形へと変化していた。

 その外観はもはや身体の必要部分だけを覆う青銅聖衣のそれではない。

 上位聖衣である白銀聖衣と表現しても過言ではない姿となっていた。

 

 人を心配させておきながら、しかもギガスと未知の敵に囲まれたこの状況。

 緊張感もなく、何食わぬ顔で現れた海斗の様子に、セラフィナは思わず笑ってしまいそうになる。

 だったら、せめてこれぐらいは言ってやろうと思った。

 

「思いましたよ。わたしはボロボロの海斗さんしか見てませんから!」

 

「……そりゃそうか」

 

 カッコつかないなと肩を竦めると、海斗はさてと一息入れてギガスたちへと身構えた。

 

「お前たちが何者なのか、目的もどうでもいい。だがな、人質を使ってまで女一人を攫おうとするそのやり方が気に入らん。そのだしに俺を使った事も、だ」

 

 だから――

 

 

 

「テメエら全員叩きのめす。泣き言はその後に聞いてやる」



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第10話 新たなる敵、その名はギガス!の巻

 ギリシアから北西部へと向かった所にピンドスと呼ばれる山脈がある。

 そこはアルプス山脈最南端の分嶺であり、標高二千メートル級の山々がギリシア本土を貫く様に連なる延長約百八十キロに及ぶ山脈である。

 その麓には、世界遺産にも登録されているメテオラの町が広がっている。無数の奇岩群に囲まれた静かな町であった。

 メテオラとはギリシア語で『宙に浮く』と言う意味があり、平地から四百メートルもの高さのある岩峰の上に建てられた修道院は、その岩肌が深い霧に包まれた時にはまるで宙に浮いている様に見えるという。

 

「ほう」

 

 起立した岩峰や奇岩群に囲まれた山中。町から離れたその場所で一人足を止めてその風景を眺めていた若者が感嘆の声を漏らした。

 

 黄金に輝く聖衣を纏ったこの若者の名はアフロディーテ。十二人の黄金聖闘士(ゴールドセイント)の一人、魚座(ピスケス)のアフロディーテ。

 美の女神の名を称する彼であるが、その名に違わずその美しさは八十八の聖闘士(セイント)の中でも随一と言われ、天と地の狭間に輝きを誇る美の戦士とも呼ばれていた。

 性別に依らぬ外見上の美しさだけではない。ただ観るというその佇まいが、長い髪を掻き上げるその仕草ですらが目にした者を魅了する。

 

「水の浸食作用によるものか、風食作用によるものか。この地形を生み出した謎は今をもって解き明かされていないと言うが」

 

 利便性だけで考えるのならば、この様な高所に修道院を造る事など不便でしかない。だが、戦乱を疎み俗世から離れて少しでも天に近い場所、神々を感じられる場所で修業をしたいと願った修道士たちにとってはこれ以上の場所はなかったのであろう。

 

「神を感じる為に費やされた敬虔なる修道士たちの努力、彼らの信念に基づいたその行為は賞賛に値する」

 

 まるで演劇の場に立つ役者の様に。

 アフロディーテは眼下に映るその光景に対して、まるで愛おしいものを抱きしめる様に、包み込む様に、両手を伸ばし広げてみせた。

 

「この光景は――美しい。その結果こそが重要なのだ、彼らにどの様な意図があったにせよ。この光景は私を飽きさせる事がない。いつまでもこの地に留まり続けたいと思わせる程に。しかし――」

 

 しかし、と。両手を下ろしたアフロディーテは、その表情に憂いにも似た陰を落とし、誰かに言い聞かせるように言葉を紡ぐ。

 

「それは叶わぬ願い。私には果たさねばならぬ役目がある。ふむ、限られた時間であるからこそ、かな。こうまで私の胸に強く訴え掛けるのは……」

 

 そう呟くと、アフロディーテはゆっくりと背後へと振り返る。

 その右手の人差し指と中指の間には、一本の紅い薔薇があった。

 

「分るかな? 限りある時間の中にこそ見出せる美しさ、というものもある。その点で言えば、君達は醜いと言わざるを得ない」

 

 アフロディーテの視線の先には、金剛衣(アダマース)を纏ったギガスの姿があった。

 彼の背後には巨大な空洞があり、ぽっかりと漆黒の口を開けている。その暗闇の中から一人、また一人と姿を現すギガスたち。

 

「君達の時間は遥か神話の時代に既に終わりを迎えているのだ。偽りの命を宿した“そこの土くれ”共々大人しく地の底――タルタロスへと還りたまえ」

 

 アフロディーテが手にした薔薇をギガスたちへと突き付ける。

 先頭に立ったギガスがアフロディーテの存在に、そして、足下に打ち砕かれた無数のギガスであったモノたちの躯が散乱している事に気付きその歩みを止めた。

 

「終わりなど迎えてはおらぬ。此処より始まるのだ。小癪な女神(アテナ)の雑兵に過ぎぬ聖闘士(セイント)如きが知った様な事を語る……実に――」

 

 歩みを止めたギガスがゆっくりと巨腕を振り上げ――

 

「――度し難い!」

 

 叫びと共に振り下ろした。それを合図として背後にいたギガスたちがアフロディーテ目掛けて襲い掛かる。

 

「フッ、ならば私も言わせて貰おう。遥か神話の遺物でしかない君達ギガス、その雑兵である土くれ如きではこのアフロディーテに触れる事すら――」

 

 アフロディーテの手にした薔薇の色が変わる。紅から黒へと。

 

「叶わぬ、と」

 

 色を変えた黒薔薇を手にした右手を振り上げる。すると、アフロディーテの周囲に無数の黒薔薇が姿を現し、

 

「この黒薔薇は、触れた物全てを噛み砕く。醜悪なる物に存在する価値などない。灰燼と化せ――“ピラニアンローズ”!!」

 

 あたかも意志を持つかの様に、その全てがアフロディーテへと迫り来るギガスたちへと降り注ぐ。

 

「な、これは!? 薔薇に触れた金剛衣に亀裂が奔る!? 馬鹿なこの金剛衣(アダマース)がたかが薔薇如きに打ち砕かれるだとぉおお!!」

 

「馬鹿な!? こ、こんな――うおおおおおおおっ!?」

 

「フッ、愚かな。このアフロディーテの手にした薔薇が、ただの薔薇であろうものか」

 

 その身に纏った金剛衣を破壊し、むき出しとなった身体を文字通り吹き飛ばした。

 まるで浜辺で作られた砂の城が波にさらわれて崩れていく様に。五体を砕かれ、砕けた欠片を次々と砂塵へと変えていくギガスたち。

 いつしか周囲を包み込む程に展開されたピラニアンローズはギガスたちに避ける事を許さず、迫る黒薔薇を弾き飛ばそうにもその黒薔薇に触れた時点でダメージを負う。

 ならばと、アフロディーテを叩こうにも黒薔薇の壁がその行く手を阻む。なす術もなく倒されるギガスたち。

 やがて、数十人近くあった人影はその全てを砂と化し、アフロディーテの腕の一振りによって生じた風に吹かれて散って行った。

 

「……土くれ故に醜い死骸を残さない、その点だけは評価しよう。さて、残るは君だけだ」

 

 全てが砂と化したと思われた中で、人のカタチを保っていたギガスがいた。そのギガスの周りには、無残に散らされた黒薔薇のなれの果てがあった。

 そのギガスは明らかに他のギガスたちとは違った。

 金剛衣の輝きが違った。身に纏う小宇宙が違った。(マスク)の隙間から覗く双眸に宿る意思の輝きが違った。その肉体の在り様が違った。

 血色が有った。鼓動が有った。

 そのギガスは土くれなどではなく――人の身であった。

 

「成程、教皇やシャカの言った通りか。ヒトの器を――命を得て現世に蘇ったギガスの力は強大である、と。まさかピラニアンローズを耐えるとはな」

 

「……何者だ貴様は?」

 

「君が覚える必要はないが聞かれたならば名乗ってやろう。私はピスケスのアフロディーテ。ああ、君が名乗る必要はない。美しくない者を記憶に留めるのは、私にとって苦痛でしかないのだ」

 

 ギガスに対して向けられたアフロディーテの右手には、再び紅い薔薇があった。

 それを口元に運び静かに銜える。

 

 その仕草に一瞬足りとは言え見とれてしまったギガスは、頭を振って目の前の敵を睨みつける。

 

「このギガス十将パラスを前に、よくもほざいた。よかろう、ならばお前にはもっとも醜く惨たらしい形での死を与えてくれるわッ!」

 

 パラスから立ち昇る小宇宙が物理的な風となって吹き荒れる。

 周囲に散った黒薔薇が同胞の亡骸ごと吹き飛ぼうとも、パラスが感傷を抱く事はない。

 

「神を前に大言を吐いた事、後悔するがいい」

 

 凄味を見せるパラスを前に、アフロディーテは僅かに眉を顰めていた。

 

「だから君は美しくないと言うのだ。その様に殺気を剥き出しにする等と。戦いとはもっと優雅に美しく行われるべきものだ、力有る者であれば尚更にな」

 

 風によって吹き上げられた砂塵を、降りかかる黒薔薇の花弁を払い落しながらアフロディーテは告げる。

 

 

 

「良いだろう。特別にこの私がそれを君に教えて上げよう。その身をもって――学べ」

 

 

 

 

 

 第10話

 

 

 

 

 

(この聖衣(クロス)は――違う。まるで別物だ)

 

 目の前に迫るギガスの巨腕。突き出された拳を片手でいなし、繰り出された蹴りは僅かに身をよじる事で避ける。

 四方から襲い掛かるギガスたちが繰り出す攻撃を海斗は冷静に捌き、隙を見ては痛烈な一撃を加えていく。

 

(カノンと戦った時とは明らかに違う。聖衣(クロス)自体の総重量は増しているはずなのに、むしろあの時よりも――)

 

 突進してきたギガスの背を蹴り、宙へと舞い上がる。

 

(小宇宙のノリが違う。俺の力を増幅するだけではない、まるで奥底から沸き上がる様なこの感覚……)

 

「新生は伊達ではないと言う事か!!」

 

 眼下を見下す海斗の表情には薄らと笑みが浮かんでいた。

 よく見れば、自分が吹き飛ばしたギガスたちの身体が砂塵となって崩れ去って行くのが見える。

 

「わらわらと……」

 

 上空にあってようやく海斗は襲撃してきたギガスたちの全容を知った。

 残るギガスは九体。

 その内、自分を見上げる者が三体、セラフィナの周りに三体、まるでこちらを観察する様に、離れた場所に立つ者が三体。巨人の中にあって、その三体は確かに巨漢ではあったが、まだ人の大きさと呼べる範疇ではあった。

 

「石像だけじゃない? あの三体は人間なのか? だからと言って――遠慮する必要はないな」

 

 右脚に小宇宙を集中させて狙いを付ける。

 目標はセラフィナの周りにいるギガス。

 

「我が脚は大地を穿ち天空を駆け抜ける――砕け散れ天翔疾駆(レイジングブースト)!!」

 

 大地を踏み抜き天へと駆け上がる天馬の震脚。

 それによって生じた波動が大地へと向かって放射線状に広がりギガスたちの動きを封じ止める。

 

「ぐ、うぉおおおお!?」

 

「ひ、光が!?」

 

 上空から叩きつけられた圧力がその身を大地に縛り付け、海斗へと向けた憤怒と憎悪の瞳に――光が奔った。

 

「避けきれん!! うわぁああああああああ!!」

 

 ドン! ドン! ドン!

 

 星空に流れ落ちる流星の様に。光の矢と化した海斗の小宇宙がセラフィナを囲むギガスたちを次々と撃ち貫く。

 大地諸共に砕け散り四散する金剛衣。

 穿たれたクレーターの中心で人のカタチを失いながら崩れ去る三体のギガス。

 

「か、海斗さん!?」

 

 周囲で巻き上がる砂塵と瓦礫、鳴り響く轟音。レイジングブーストの余波によって視界と聴覚を奪われたセラフィナが非難の声を上げた。

 周囲のギガスが反応出来なかった様に、セラフィナも反応出来なかったのだ。

 

「黙ってろ、舌を噛む」

 

 そんな彼女の横に音もなく着地した海斗は、未だ視覚と聴覚を回復しきれていない彼女の身体を左手で抱き寄せる。

 

「苦情は後で聞いてやるさ」

 

 セラフィナの動揺を無視して海斗は残るギガスたちへとエンドセンテンスを放つ。

 光弾と共に吹き飛ぶギガス。しかし、その影は三つ。

 或いは受け、或いは避け、或いはその威力を自ら放った拳撃で相殺し。

 残ったのは少し離れた場所からこちらの様子を窺っていた三体のギガスであった。

 

「どうやら、お前達はこいつらみたいな石人形(ゴーレム)ってわけではなさそうだな」

 

 あらためて観察してみれば、成る程と納得した。

 目の前の三体、いや三人のギガスは明らかに血の通った生身の人間であろう事がわかる。

 これまでに倒したギガスたちからは“小宇宙が纏わり付いている”事を感じていたが、この三人のギガスは明らかに“内側から”小宇宙を生じさせていた。

 身に纏う金剛衣(アダマース)も、例えるならば青銅聖衣(ブロンズクロス)白銀聖衣(シルバークロス)と言った様に、その造形の精度からして他のギガスたちとは異なっていた。

 

「兵隊と指揮官、って言ったところか?」

 

「……あの、海斗さん、この体勢はさすがに恥ずかしいんですが……」

 

 この状況でそんな呑気な事を気にしていられるセラフィナに海斗は呆れ半分と関心半分を抱いたが、誰が悪いかと言えば非は自分にあったので非難めいた視線を向けてられていても黙殺する事に決めた。

 

(……それに、だ)

 

 大地を割って現れる、というふざけた登場をした相手である。

 しかも、狙いはセラフィナであると言っていた。迂闊に離れるわけにはいかない。

 

「お前たち、巨人族(ギガンテス)だと言ったな? 巨人族と言っても色々あるが、北欧系って感じじゃあないな。さしずめ神話の時代にオリンポスの神々と勇者ヘラクレスの前に敗れたギリシアの蛮神の方か?その魂は神々の力により冥府の底(タルタロス)に封じられた、って話だったか」

 

 目の前に立つ三人のギガスに注意を払いつつ、海斗は自分の拳を見た。

 先程、エンドセンテンスを放った際に気が付いた事だが、新生された聖衣の手甲には三又の鉾と思わしき装飾が施されていた。

 子馬座の由来を考えればおかしくはない装飾だが、狙ってやったのだとすればムウは随分とイイ性格をしていると、こんな時であっても苦笑してしまう。

 

「そう言えば、その戦いでは女神アテナや海皇ポセイドン、冥王ハーデスですら共闘したらしいな。まあ、どうでもいい話だが」

 

 そう言って肩を竦めてみせる海斗に対してもギガスたちは動かない。

 

「ここまで来てダンマリか? ああ、確かその戦いは――」

 

 ――ギガントマキアだったか?

 

 海斗がその言葉を発した直後であった。

 それまで大きな動きを見せなかったギガスたちが、まるでその言葉を引鉄として放たれた銃弾の様に一瞬の内に海斗の目前まで迫る。

 

「我はグラティオン」

 

「アグリオス」

 

「トオウン」

 

 そこには海斗に対して当初見せていた侮る様な雰囲気はない。立ち塞がる、排除すべき敵として、認識していた。

 

「――我らギガス十将なり」

 

「エクレウスの海斗。聖闘士(セイント)だ」

 

 名乗りを上げると同時にギガスが散開する。海斗の正面からグラティオンが、アグリオスとトオウンが側面から襲い掛かる。

 その攻撃は、これまで海斗が倒したギガスたちとは根本から異なっていた。

 速さも違う、重さも違う、一撃に込められた小宇宙が違う。

 

「――チッ、コイツは!」

 

「きゃあッ!?」

 

 突き放すか下がらせるか。僅かな逡巡の後、海斗はセラフィナを抱き寄せていた腕に力を込め、このまま攻撃に応じた。

 グラティオンの拳撃を空いた右拳で内から外へと打ち払いその体勢を崩す。右側から迫るアグリオスには反動で右側に開いた身体をそのままに、体勢を崩したグラティオンの身体ごと腰だめに引き絞った右拳での掌底によって吹き飛ばす。

 

「むおぅ、貴様!」

 

「ぐっ!?」

 

 必然的にグラティオンを受け止める形となり、海斗に向かっていたアグリオスの勢いが止まる。

 しかし、掌底を放った事で動きを止めたのは海斗も同じ。

 背を向ける形となった海斗の背後からトオウンが迫る。

 

「フォオオオ――」

 

 息吹ともとれる呼吸音と共にトオウンの拳が膨れ上がり、海斗の背中目掛けてその巨椀が振るわれた。

 

「何!? 小僧、貴様!!」

 

 しかし、当惑の後に怒りの声を上げたのは拳を振り抜いたトオウンであった。

 

「小娘ェ!!」

 

 怒りの眼差しのままに宙を睨む。そこには大きく跳躍した海斗とセラフィナの姿が有った。

 

「……私でもこれぐらいの事ならッ!」

 

 海斗は動けなかった。だから、セラフィナが動いたのだ。

 

「想定外は俺もだよ。ま、コイツを頭数に入れてなかったのは俺もお前らも同じだが、だからって――狙われたセラフィナ本人が手を出さないなんて道理はないわな!!」

 

 海斗がそうしていた様に、セラフィナがその両手で海斗の身体を抱きしめて跳躍したのだ。

 

「数はそっちが多かったんだ、卑怯だなんてぬかすなよ? “レイジングブースト”!!」

 

 

 

 

 

「……予想以上に硬いな。先刻までの連中なら粉々になったって言うのに」

 

 そう言って着地した海斗が振り向けば、新たに生じたクレーターから何事もなかったかの様に立ち上がるギガスたち。

 身に纏った金剛衣には所々に亀裂こそ入っていたが、完全に打ち砕くところまでには達していない。

 

「ダメージは……あるのかないのか分らんな。伊達に巨人族を名乗ってはいない、と。呆れたタフさだな」

 

 セラフィナに一度は助けられたとはいえ、あれは敵もこちらもが想定外であったが故の偶然だったと海斗は考えている。

 先の言葉とは裏腹に、海斗自身にセラフィナを戦わせる気はないのだ。

 

「なら、徹底的に叩きのめすまでだ。あまり俺から離れるなよセラフィナ」

 

「……分りました」

 

 一拍置いた後に返されたセラフィナのその返事には若干含む様なものがあったが、彼女は海斗から数メートル程距離を取った。守られている、という事への葛藤なのだろうという事は海斗にも想像は出来たが、だからと言って現状出来る事はない。

 

(可能な限り早急に終わらせる、それもダメージなしで、ってところか。下手に不安がらせるのも、な。……ムウに丸投げするか)

 

 どうやって神々の封印を解いたのか、どうしてセラフィナを狙うのか。十将と名乗ったからには同レベルの存在があと数人は存在するのか、その上はいるのか。気になる事は多々あったが、海斗に出来る事は目の前の敵を排除する事のみ。

 

 そうして目の前の敵に集中しようとした海斗であったが――

 

「海斗さん! 後ろ!!」

 

 目の前にグラティオンの姿が無い事に気が付いた。

 海斗から離れていた、背後にいたセラフィナはそれに気付いた。隆起する大地に。

 

「同じ手を!」

 

 背後から再び大地を割って現れたグラティオンに忌々しげに吐き捨てると、海斗は全力を込めた一撃をグラティオンに打ち込んだ。

 

 ドンッ!!

 

 金剛衣を打ち砕いたその拳がグラティオンの腹部に突き刺さる。拳が筋肉を引き裂き、衝撃が内臓を破り、振動が骨を砕く。

 その魂が神話の時代の神のものであろうとも、その力を振るう為の寄り代は生身の肉体。

 腹部でくの字に折れ曲がった巨体が、海斗に覆い被さるように倒れ込んだ。

 

「……終わりだ」

 

 これでは二度と立ち上がれまい。敵は後二人。ならばと海斗が拳を引き抜こうと力を込めたが、グラティオンの腹部から拳を抜く事が出来ない。

 

「これは!? くッ、まるで万力で絞め付けられている様な――」

 

 海斗の言葉にニヤリと口元を歪めてグラティオンが笑った。

 

「嘘、そんな!?」

 

 動けるはずがないと、セラフィナがその光景に息を飲む。

 

「フフフッ、残念だがこのグラティオンに『痛み』はない。痛みによって怯む事は決してないのだ」

 

 くの字の折り曲げていた身体を真っ直ぐに伸ばすと、腹部に拳を突きいれたままの海斗を見下しながら言い放った。

 

「そして我等真のギガスには母なるガイアより与えられた限りない不死性がある。この程度の傷など瞬く間に癒えるのだ」

 

 海斗の一撃に意を介した様子もなく、グラティオンは両手を組み合わせると頭上へと振り上げた。

 

「脆弱な肉体しか持たぬ人間と我らギガスでは戦いに等なるはずがなかったのだ。だが、お前は人の身でありながら我等三人を相手に短い間とは言えよく戦ってみせた。褒美として我が最大の拳で葬ってやろう。そこの女はその後に連れて行く」

 

 グラティオンの身体から立ち昇る小宇宙が組み合わされた両手に集束する。集束した小宇宙は二メートルを超えるグラティオンの巨体すらかすむ程に巨大な鉄鎚の姿を見せる。

 

「受けろ、人間よ。これが――破壊の鉄槌(ハンマー)だ!」

 

 振り下ろされるグラティオンの破壊の鉄槌(ハンマー)

 無慈悲に振り下ろされるそれは、未だ身動きの取れない海斗の身体を圧壊させる死の一撃。

 

「受け入れよ――己が死を」

 

 宣告と共に、鉄槌は寸分も違う事なく海斗の脳天へと振り下ろされる。

 振り下ろされる拳と共に、海斗の瞳に一条の閃光が走った。

 

 

 

 

 

 鳴り響く轟音と、大地を揺るがす震動。

 大地が裂け、岩壁にまで走った亀裂によって崖が崩れ地形が変わる。

 その破壊の中心では吹き上がる鮮血が大地を赤く染め上げていた。

 

「……あ、ああ……」

 

 呆然と、その場に立ち尽くすセラフィナ。

 アグリオスとトオウンも微動だにしない。

 

「……」

 

 全身を赤く染めた海斗の前で、ぐらりと、グラティオンがその身体を揺らす。

 振り下ろされた両腕には、その先にあるはずの組まれていた両拳が無かった。

 

「……ぐ、がぁぁあぁ……」

 

 血の混じった吐しゃ物を撒き散らし、呻きともつかぬ声を上げて、グラティオンが天を仰ぎ見る様に倒れ伏した。

 その全身に残るのは無数の拳の痕。

 それは、海斗の放ったエンドセンテンスによる破壊の痕跡であった。

 

「痛みを感じず、限りなく不死に近い肉体か。大した能力だが……“不死ではない”なら、どうとでもなるさ」

 

 身じろぎ一つしなくなったグラティオンの身体を見下し海斗が呟く。

 

 

 

「――余計な手出しだったか?」

 

 それはピンと張りつめた、刀剣の様な鋭さを感じさせる男の声であった。

 二人のギガス、アグリオスとトオウンすら言葉を失い、しんとした静寂の中。

 海斗に向けて掛けられた誰も知らぬこの第三者の声はその場にいた誰の耳にも届き、故にその場にいた全ての者の注意が向けられる事となる。

 

「むッ? 貴様、何者だ」

 

「その身に纏っているのは聖衣(クロス)か? 金色の聖衣だと!?」

 

 そこには黄金の輝きを放つ聖衣(聖衣)を纏った若い男――黄金聖闘士(ゴールドセイント)の姿があった。

 

「いえ、助かりましたよ。こちらの拳よりも速く振り下ろされる可能性もありましたからね。それにしても、師から聞かされてはいましたが――」

 

 その海斗の言葉を合図とする様に、空からナニかが落ちてきた。

 

「……ッ!?」

 

 セラフィナが息をのんだのが気配で分る。

 さすがに刺激が強かったか、と。海斗はセラフィナに近付くと僅かに震えのあるその手を取り、移動する事でその視界を遮った。

 

「さすがは聖剣と称される手刀。拳圧ですらこうも容易く――切り裂く」

 

 セラフィナの前に落ちてきたモノ。それは組み合わされたままのグラティオンの両拳であった。

 

「ムウから俺の迎えが来るとは聞いていましたが、まさか黄金聖闘士(ゴールドセイント)が来るなんて思いもしませんでしたよ、山羊座(カプリコーン)の――シュラ」

 

 山羊座(カプリコーン)のシュラ。

 鋼の如く研ぎ澄まされた両手から放たれる手刀は、触れた物全てを切り裂く聖剣(エクスカリバー)と称される程の切れ味を誇る。

 力を貫く事こそが正義であると、決して折れぬ刃である事こそが自身の正義であるとして常に己を律し鍛え続けている。彼を知る者は言う。その生き様すら鋼であり刃である、と。

 

「シャカが言っていた。お前には数奇な星の巡りがあると。成る程、言い得て妙と言う事か。本当にこの様な場に出くわすとは思いもしなかったがな」

 

 セラフィナを一瞥したシュラは、そのまま海斗の横に立つ。

 

「しかし、本望ではある。ギガスは我ら聖闘士にとって倒さねばならぬ敵だ」

 

 自然と二人の背に護られる事になり、セラフィナの緊張がほぐれたのを感じた海斗はその手を離すと、シュラと共に残った二人のギガスを見た。

 二人の視線を受け、アグリアスとトオウンが身構える。

 

「必然的に一対一か」

 

 そう口に出して一歩前へ。

 僅かに歩を進めた海斗であったが、何者かにぐいと後ろに引かれ、シュラの背を見る事となる。

 

「海斗と言ったか、お前はそこで見ているがいい」

 

「……シュラ?」

 

 海斗を下げ、ギガスたちの前にシュラが立つ。

 

 

 

「敵を前にして他者に戦いを任すのは性に合わんのでな。折角の機会だ、学ぶと良い。小宇宙の真髄――セブンセンシズを極めた黄金聖闘士(ゴールドセイント)の戦いを」



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第11話 黄金結合!集結黄金聖闘士の巻

 物言わぬ躯と化したグラティオンを一瞥し、アグリオスの表情が歪む。

 

「ふざけた事を……我等を相手に、一人で立ち向かおうと――そう言うのか?」

 

 ギガス()に対してどこまでも変わらぬ不遜な態度。海斗やシュラの言動が、その佇まいが、その存在その全てがギガスの誇りを地に落とす。

 

「人間如きの――分際でッ!!」

 

 ギガスの人間に対しての意識がこの一言に集約されていた。

 自分達が『上』であり、お前たち人間が『下』なのだ、と。

 

「その思い上がり、貴様の魂魄諸共に粉砕してくれるわ!」

 

 憤怒の形相を浮かべて巨人――トオウンが動く。大地を踏み砕き、天へと突き出した両の拳に力を込める。

 

「コォオオオ!!」

 

 息吹と共に巻き上がる小宇宙がトオウンの身体を包み込む。

 ギチギチと音を立てる金剛衣(アダマース)。膨れ上がる筋肉によってその巨体が更に大きく膨張する。

 変化を見せたのはトオウンだけではなく、アグリオスもまた自らの小宇宙を高めその体躯を更に巨大なものへと変えていた。

 

「なるほど、確かにより巨人(ギガント)らしくなったものだ」

 

 その光景を見てもシュラに動じた気配はない。むしろ、更に一歩海斗の前から歩を――ギガスとの間合いを詰めていく。

 

「先程、お前から感じた小宇宙は――」

 

 その最中、シュラが淡々と言葉を紡ぐ。

 視線はギガス達に向けたままであったが、海斗はそれが自分に対して向けられた言葉だという事を理解していた。

 

「まるで大海のうねり……いや、荒れ狂う嵐の如く苛烈だった。激し過ぎる程にな。片鱗は掴んでいる、それは間違いなかろうが、お前自身がソレが何であるのかを認識し、自覚する事が出来ていない」

 

 トオウンが、それにやや遅れてアグリオスが動いた。

 

「いかに切れ味が鋭くとも抜き身の刃では意味がない。それでは使い手だけではなく周りをも傷付ける。刃とは――振るうべき時に振るうからこそ意味がある」

 

 迫るトオウンの巨体の陰に隠れる形となり、背後のアグリオスの動きが海斗達からは掴めない。

 

「我が鞘とは理だ。己の全てを掛けるに足る、決して揺るがぬ正しき理。そして振るう刃は決して折れぬ我が心、我が意志よ」

 

 シュラは動じない。ただ真っ直ぐに正面を見据えるのみ。

 

「お前の鞘を意識しろ、そして研ぎ澄ませ――戦う意志を。小宇宙を高めるだけでは、命を燃やすだけでは辿り着けぬ境地がある。意識しろ、感じ取り自覚せよ。それが――小宇宙の真髄。五感を超えた第六感、その先にある第七感――セブンセンシズ」

 

 突き出されたトオウンの拳がシュラの心臓を穿つ。

 トオウンの背後から跳び上がったアグリオスの蹴りがシュラの顔面を打ち貫く。

 

「ッ!?」

 

 海斗の側にいたセラフィナが幻視したその光景――その幻想を、シュラは正面から打ち砕いた。

 

 トオウンの拳が触れた瞬間、身体を後方へといなす事でその威力を殺し、勢いのまま前に進むトオウンの身体を回転のエネルギーを加えた蹴りで打ち上げる。

 

「ば、馬鹿な!? 俺の拳速より――うばぁああああ!?」

 

 正中線をなぞる様に奔った一条の光が金剛衣もろともにトオウンを両断する。

 それは、瞬時に相手の攻撃を見切り、その勢いを利用して攻撃するシュラ必殺のカウンター。

 

超絶飛翔(ジャンピングストーン)

 

「トオウン! おのれぇえ!!」

 

 吹き飛ばされたトオウンの身体が壁となり、跳び上がるタイミングを逃したアグリオス。

 

「ならば、この手で粉砕してくれる!」

 

 組み合わせた両手を振りかぶりシュラ目掛けて振り下ろす。

 それはグラティオンの放った鉄鎚と同種の技。破壊の槌がシュラへと迫る。

 

「今はまだ未熟なれば――戦いの場に在ってはただ一つのみを考えよ。一意専心。揺るぎなく、ただ己が成すべき事に集中し感覚を、小宇宙を研ぎ澄ませろ」

 

 そう言ってシュラは手刀の形とした右腕を振り上げた。

 

「武骨であろうが歪であろうが――決して折れぬ刃の様に」

 

 振り下ろされる鉄鎚に合わせる様に、シュラは振り上げた右腕を腰だめに構える。その姿勢は例えるならば刀による抜刀術――居合いのソレ。

 

「――聖剣抜刃(エクスカリバー)!!」

 

 手刀は光の刃となり、一条の閃光がアグリオスの身体を奔り抜けた。

 

「ふ、ふふふ、ふはははは! なにが聖剣だ、この身体にはキズ一つ……ま、待て! なぜ背を向ける!?」

 

 そのまま立ち去ろうとするシュラの背に、「ふざけるな」とアグリオスが拳を振り上げる。

 その瞬間、アグリオスの視界に映る光景が縦にずれた。

 

「お、おおおお!? こ、これは……まさか!?」

 

 アグリオスの眼前で両断される世界。

 

「まさか、既に断たれて――」

 

 最後まで言葉を発する事は出来なかった。

 ずるりと、右と左に分かたれたアグリオスの巨体が音を立てて大地に崩れ落ちた。

 

 

 

 

 

 第11話

 

 

 

 

 

 同日、同時刻――聖域(サンクチュアリ)

 ジャミールとの時差は約四時間。聖域では今ようやく日が昇ろうかという時間である。

 

 女神アテナの元、地上の平和を守る聖闘士が在る場所とはいえどもそこで暮らす人全てが闘いを行う者という訳ではない。

 いかに超常の力を振るう聖闘士とはいえ、最低限の衣食住は必要である。結界によって外界とは必要以上の接触を断っている聖域ではそれらを賄う為の職人や商人、関係する者達の家族等も暮らしている。

 そんな聖闘士の存在を知っていると言う事を除いては一般人と変わらぬ彼らの居住区は、聖域の中央――アテナ神殿を守護する十二宮から最も離れた外界との結界付近に幾つかの区画に分かれて存在していた。

 

「おや、星矢じゃないかい。今日は随分と早いねぇ」

 

 とある区画のとある一画。小さな商店街ともいえるその場所は料理の仕込みや開店の準備等で早朝からにわかに活気づき始めている。

 

「ああ、おばちゃんか。はは……ハァ。早いって言うより、今訓練が終わったとこなんだよ」

 

「ああ、一周回って遅いってことかい。魔鈴ちゃんは真面目だからねえ。でもさ、それもアンタの為を思っての事なんだろ? ほら、こいつをあげるからシャンとしな」

 

「いや、それは違うと思うケド……おっと、ありがとおばちゃん!」

 

 果物屋の女主人から手渡されたリンゴを受け取った星矢はお礼の言葉を言うや否や噛り付いた。

 この聖域で魔鈴と星矢が共に暮らし始めてから四年。共同生活の中で食材の調達はいつからか星矢の仕事となっていた。

 こうして毎朝商店に向かうのはもはや日課であり、それもあってここでは顔馴染みとなった星矢に対してこうして気さくに話し掛けて来る者もいる。

 雑兵や候補生達からは外国人と言う事で何かと目の敵にされている星矢であったが、ここではそういった事はあまりなくある意味では落ち着ける場所でもあった。

 

「へへっ、うめえや! あ、でも……」

 

「分ってるよ。魔鈴ちゃんには内緒にしといてやるさ」

 

 魔鈴の折檻を思い浮かべて動きを止めた星矢であったが、女主人の言葉に安心したのか再びリンゴへと向かう。

 

「それにしてもさ、なんだかここ数日聖域全体がピリピリしている様に感じるんだよねぇ。見回りの人員も回数も多くなっているし。アンタ何か知らないかい?」

 

 星矢のそんな姿を微笑ましく見ながら椅子に腰掛けていた女主人であったが、ふと最近感じる様になった不安を星矢に問い掛けていた。もちろん確たる答えは期待してはいない。

 本当に、ただなんとなく思った事を口にしただけだったのだろう。

 

「ん? さあ、おれは知らないよ? 魔鈴さんだったら何か知っているかもしれない――」

 

 星矢がそう言った瞬間であった。聖域全体に一つの音が響いたのは。

 ボン、と何かが燃え上がる様な音が。

 それはボッ、ボッ、ボッと規則正しい感覚で続く。大気を震わせたそれが合計五回。

 

「な、何だ、この音は? 一体何が燃え上がったんだよ?」

 

「あ、あれは!? あれを見なよ星矢!」

 

 女主人が指示したのは聖域の中央部――十二宮。その中央部にそびえ立つ一つの建造物。

 

「火時計だ! ここからでもはっきりと見えるよ。あの巨大な火時計に炎が灯ったんだよ!!」

 

 時刻を表す文字盤には黄道十二星座を模した記号の刻まれた、聖域のどこからでも見る事の出来る巨大な火時計である。

 一体どうやって、何者が灯したのか。今は牡牛座、蟹座、乙女座、蠍座、水瓶座の五つの枠に炎が灯されている。

 

「……すげえ。あれに火が灯ったのなんておれ初めて見たよ。飾りじゃなかったんだな、あれ」

 

「驚いたよ。……確か、以前見たのは十年近く前だったかね? 嫌だよ、あの人達がいなくなっちまったみたいに、また今度も何か起こるんじゃないだろうねぇ……」

 

「一、二の、と。五つって事は、さっきのあの音はあの火時計の炎が原因なのか? でも、あれじゃあ時間も何も……」

 

「あれは、黄金結合(クリューソスシュナゲイン)だ」

 

 分らないと、そう続けようとした星矢の背後から、若い男の声が掛けられた。

 その声の持ち主は、星矢にとってこの聖域での数少ない知人の一人。

 

「どうやら聖域のみならず、世界各地の黄金聖闘士全てに召集が掛かった様だな」

 

「アイオリア、どうしてあんたがここに?」

 

 星矢が振り向いた先には、雑兵たちと同じ簡素な闘衣を身に纏った青年――アイオリアの姿があった。質実剛健を体現したような青年である。

 毎日こうして見回って下さっているんだよ、と女主人に耳打ちされて星矢は思わず呆れた声を出していた。

 

「見回りなんて部下にでも任しとけばいいじゃないか」

 

「まあそう言うな。こればかりは性分でな、この目で確かめん事にはどうにも落ち着かん。そのおかげでこうして面白いものも見れたからな」

 

 そう言ったアイオリアの視線の先には、星矢が手にした食べかけのリンゴがある。アイオリアと魔鈴の仲が良かった事を思い出し、星矢の顔がしまったと言わんばかりに引きつった。

 

「フフッ、安心しろ。つまみ食いの一つや二つでどうこうは言わんよ。人から好かれるという事は誇るべき事だ」

 

 より一層精進しろ星矢。そう言い残すと、アイオリアは星矢達に背を向けて足早に立ち去って行った。

 

「何だ? 急ぎの用事でもあるのか?」

 

「ほら、アイオリア様もああ仰ってるんだから頑張りなよ星矢!」

 

 女主人にバンバンと力強く背中を叩かれて星矢の身体がつんのめる。

 

「あ痛タタタッ!? わ、分ってるさ! おれは絶対に――聖闘士にならなくちゃいけないんだからな!!」

 

(そうさ――そのためにも)

 

 炎の灯った火時計を眺めながら、星矢は己の中の誓いを確かめるかの様にその拳を強く握り締めていた。

 

 

 

 

 

 薄暗い教皇の間にあっても、その黄金の輝きには一切の翳りも無い。

 玉座に腰掛ける教皇を中央として、その左右に並ぶのは五人の黄金聖闘士。

 灯された明りによって、その場に居並ぶ黄金聖闘士達の姿がよりはっきりと露わとなった。

 

 黄金の野牛、牡牛座(タウラス)のアルデバラン。

 現世と冥府を行き来する事が出来る聖闘士であって最も死に近き男、蟹座(キャンサー)のデスマスク。

 最も神に近い男と称される、乙女座(バルゴ)のシャカ。

 真紅の一指、蠍座(スコーピオン)のミロ。

 氷結の小宇宙、水瓶座(アクエリアス)のカミュ。

 皆が二十代前後の若き青年であり、彼らこそが当代の黄金聖闘士たちである。

 

 そして――

 

獅子座(レオ)のアイオリア、只今参上致しました」

 

 黄金の獅子が加わった事で、教皇の間に黄金聖衣を纏った黄金聖闘士が六人揃った事となる。

 

「遅いぞアイオリア」

 

「そう言ってやるなミロ。アイオリアは先程まで居住区の見回りをしていたのだろう? 十二宮にいた我らより遅れるのは仕方あるまい」

 

 アイオリアに対してのミロの叱責を、アルデバランが諌める。

 

「何を悠長な事を。黄金結合の意味を忘れたかアルデバラン。聖域の危機が迫っていると言う事だぞ?」

 

 スコーピオンのミロ。

 彼は十一年前に起きたとある事件により、アイオリアに対してある懸念を常に抱いている。

 普段はそれを表に出す事は控えてはいるものの、実直過ぎる性格が災いしてか時折こうしてその感情を表に出し、アイオリアに対して強く当たる事があった。

 

「落ち着けミロよ。聖域に住まう者達の安全を守る事も、聖域に迫る危機を防ぐ事も同意だ。ならばアイオリアはこの場にいる誰よりも早くこの聖域を護っていた事になる」

 

「むぅう。……カミュよ、お前にそう言われては、これ以上は何も言えんではないか」

 

 ミロ自身、アイオリアの黄金聖闘士として力量を認めている。嫌っているわけでもないのだが。

 

「ハッ、そいつは詭弁だカミュよ。まあ、そんな事は些細な事だ。どうでもいいさ。現にアイオリアはここに来た。呼ばれたのに来ない奴等よりは遥かにマシってもんだ」

 

 何かを含む様なデスマスクの物言いに、それまで黙っていたアイオリアの眉が僅かに動く。

 

「――静まれ」

 

 にわかに険呑な雰囲気となったこの場を収めたのは、心の奥底にまで響き渡る様な重さを持った教皇の一言であった。

 教皇に向かい、この場の全ての黄金聖闘士達が膝をつき頭を下げた。

 

「黄道十二星座の内射手座(サジタリアス)は現在空位。双子座(ジェミニ)の黄金聖闘士は十数年前より消息不明だが、聖衣がこの地に残されている以上もはや空位と考えても良いであろう。牡羊座(アリエス)のムウは聖衣修復の材料を得る為にしばしジャミールを離れるとシャカが連絡を受けている。天秤座(ライブラ)は先代アテナの命により今もまだ五老峰を動けぬそうだ」

 

 玉座から立ち上がった教皇に合わせる様に、黄金聖闘士達も立ち上がる。そんな彼らを見渡して教皇が続ける。

 

「アフロディーテはピンドスの地にて一足先に任に当たらせている。シュラには万一の場合に備えて子馬座(エクレウス)の迎えと、ある者の護衛を命じている。これで良いかデスマスク」

 

 教皇の言葉にデスマスクが頭を下げる。

 

(……実質総動員って事か。さて、一体何が起こったのやら。退屈はしなさそうだが)

 

 デスマスクが胸中でその様に思いながら頭を上げると、教皇の言葉に首を傾げる者たちがいた。

 アルデバランとアイオリア、そしてカミュである。

 その中で口を開いたのはアルデバランであった。

 

「失礼、教皇は今エクレウスと仰られましたが……」

 

 教皇の間でアルデバランが海斗の小宇宙を感じ取ってから既に二週間近く経っていたが、その消息について語られる事は無かった。

 どうやら無事であった様だと内心胸を撫で下ろしつつも、この場で教皇の口からその名を聞く事になるとは思ってもいなかった為にアルデバランは動揺を隠せない。

 

「うむ、これまで黙っていてすまなかったなアルデバラン。この際だ、皆にも伝えておこう。エクレウスの青銅聖闘士――海斗の事を。青銅聖闘士となって日は浅いが……私はその者に現在空位の黄金聖衣を任せようと考えていたのだ」

 

「な、何と!?」

 

「黄金聖衣を……。その様な者がこの聖域にいたのですか!?」

 

 アルデバラン達とは異なり、海斗の存在を知らないデスマスクとミロはその言葉に驚愕した。

 これが他の者の言葉であるならば、戯言であると一蹴も出来たがそれを発したのは他ならぬ教皇である。異論など挿める筈も無い。

 

「知っている者もいるであろうが、あれにはそれだけの力がある。見極めも含め相応の試練を課してその成長を促し、やがてはジェミニの黄金聖衣を任せようかと考えていたのだ。皆も知っての通り、聖闘士は己の守護星座を持ち、身に纏う聖衣はそれに準じた物となる。ここにいる皆は幼少時より黄道十二星座を守護星座としていた者ばかりであるが、稀に例外が存在するのだ。歴史もそれを証明している。青銅から黄金へと昇格を果たした聖闘士は決して少なくはない。多くもないが、な。アルデバラン、海斗の師であるお前に無用な心配をさせぬ為にと思い秘密にした事を許せ」

 

 教皇の言葉であったが、これにはさしものアルデバランも空いた口を塞ぐ事が出来なかった。

 

「……は、ハッ。いや、教皇のお心遣いには感謝致しますが……。その、海斗を黄金聖闘士と認めるには実力は兎も角、その精神面においてはまだまだ……」

 

 しどろもどろとなるアルデバランの肩に、「落ち着けよ」とデスマスクが手を置く。

 その表情は玩具を前にした子供の様に、好奇心を隠そうともしていない。

 

「何を言っているんだアルデバラン。海斗と言ったか、そいつが使える奴だってんならオレに異論は無い。何よりも、だ。教皇が直々に目を掛けられた奴ならば、むしろ歓迎するぜ?」

 

 そうだろうと、デスマスクが同意を求める様にミロ達に視線を向ける。

 

「オレはその海斗と言う聖闘士の事は知らん。教皇のお言葉に従うのみよ。その男に共に闘おうという意思があるのならば拒みはせん」

 

「――やれやれ、気の早い方達だ」

 

 ミロの言葉が終わるのを待っていた様に、これまで教皇の横で黙したまま一言も話さなかったシャカが口を開いた。

 

「教皇は成長を見極めたうえで、やがて、と。そう仰ったはず。ならば話はそこで終わり。ここからは黄金結合の意味を伺うべき時では?」

 

 穏やかでありながらも、どこか逆らい難い力の籠ったシャカの言葉に、黄金聖闘士達はその身を正して教皇へと改めて向き直る。

 

「うむ。ここ数カ月の間、人知を超えた怪異や、神話に語られる魔物と思わしき異形の報告が急激に増えている。その事は皆も承知であろう」

 

 地上の平和を守る事が聖闘士の使命とは言え、彼らが表立って国家間の争いに等に関わる事は無い。

 さすがに人類の存亡に関わる様な致命的な事案であれば動きはするが、基本的には不干渉であった。

 関わろうと思えば如何様にも出来るのだが、人の行く末は人の手に委ねるべきとするアテナの意向に従っている為である。

 これは、一見すると放任しているだけの様にも取れるが、その実人はそこまで愚かでは無いと、人の心の善性を信じようとするアテナの強い想いに因る。

 

 であるならば、聖闘士にとっての敵とは何か。それはアテナの想いを踏みにじろうとする邪悪なる意思であり、人の手ではどうする事も出来ない人知を超えた存在である。

 神話の神々――神々の意思を宿した人間や聖闘士、海闘士達が実在する様に、伝説の中にある怪異や魔物もまた実在していたのである。

 

星詠の丘(スターヒル)から視た星の動きは、この聖域に古の邪悪が迫り来る事を告げていた。シャカにも調査を頼んでいたが、どうやら事は杞憂では済まぬ確かな事態となっている」

 

「かつてゼウス率いるオリンポスの神々と、地上の覇権を掛けたギガンテスと呼ばれる巨人達の戦い――ギガントマキアがあった事は皆知っているか?」

 

 教皇の言葉を引き継ぎ、皆に告げる為にシャカが一歩前に出る。

 

「オリンポスの神々を敗北寸前まで追い詰めた大神ウラノスと大地の女神ガイアの子――ギガス。神の力では決して倒れる事は無く、人の力を――半神半人の英雄ヘラクレスの力が無ければ倒す事が出来なかったとされる神々の敵」

 

「オリンポスの神々の力により封じられていたギガスが、何者かの手によってその封印を解かれていた事が発覚したのだ。ここ数カ月の異変はそれに呼応した物であったのであろう」

 

「神々の敵だと? それは真実か、シャカよ」

 

 教皇の言葉を受けたアイオリアの問いに、さして動じた様子もなくシャカは続ける。

 

「ええ。このシャカ、北ギリシアの洞窟に隠れ住んだと言う曰くの通り、先日ピンドスの地にてギガス十将ポリュボテスを名乗る者と戦った。十将と名乗った彼がギガスの中でどれ程の地位にあったのかはもはや分らんが、少なくとも並の白銀(シルバー)では太刀打ちできん。今頃はアフロディーテが彼らを呼び出したと思われる門を封じているはず」

 

「封印に関してはカミュの方が適任であったかも知れんが、アフロディーテが自ら名乗り出たのでな。任せる事にしたのだ」

 

「とは言え、既に門は開かれた後。どれだけのギガスが冥府からこの地上に蘇ったのかは不明だ。既に彼らの王は目覚めた、ポリュボテスはそう言っていたが」

 

 淡々と、事実をあるがままに語るシャカの様子は普段と何ら変わる事はない。

 

「クククッ、勿体ぶるなシャカ。つまり、俺達にそのオリンポスの神々ですら手を焼いた過去の遺物をぶちのめせって事だ」

 

 十将だかなんだか知らんが、と呟きデスマスクが続ける。

 

「歯応えのある相手と出会わなくて久しいんだ。教皇、このデスマスクにお命じ下さい。今すぐにでもそのギガス共を冥府へと送り返して見せましょう」

 

 なんならば教皇のお心を乱す者――全てを

 そう言って恭しく一礼するデスマスク。

 

「フフッ、頼もしいなデスマスク。しかし、この件に関してはお前一人だけに任せる訳にはいかぬのだ。ギガスの狙いはどうやらこの聖域にあるらしいのでな」

 

 再び玉座に腰掛けた教皇の傍にシャカが並ぶ。

 

「今はその力の大半を封じられている為に左程脅威とはならない。だが、ある物を手にした時、かつて神々すら恐れた彼らの不死の力が甦るのだ。ギガスの真の恐ろしさはその不死性にある」

 

「……そのある物とは一体何なのだ、シャカよ」

 

「それは教皇の間の先、古の――」

 

 カミュの問い掛けにシャカが答えようとした時、それが起こった。

 

「――!?」

 

「何だ!!」

 

「こ、この纏わり付く様な不快な小宇宙は!」

 

 上空から圧しかかる様な不快な、悪意そのものとしか感じられぬドス黒い小宇宙にアイオリア達が反応する中、法衣を翻して教皇が玉座から立ち上がる。

 

「―――来たか、ギガス共よ」

 

 その呟きに応えるかの如く、ズンと圧し掛かる様な黒い小宇宙の圧力が強まりを見せる。

 

「この小宇宙は……十二宮の周辺だけではないぞ。聖域全体に広がりつつあるのではないのか!?」

 

 アルデバランの危惧は正しい。

 

『聖域にいる全ての戦士に告げる! 雑兵と候補生、青銅聖闘士は聖域の民を護れ! 白銀聖闘士は即刻侵入者を排除せよ!! これは――勅命である』

 

 教皇の思念波が聖域全土に響き渡る。

 聖域の平和の時が終わりを告げた瞬間であった。

 

 

 

 

 

「クッ!」

 

 教皇の間から外へと駆け出すアイオリア。それを追う様に、ミロ達も続く。外へと出たアイオリア達が目にしたのは、空一面を覆い尽くす不気味な黒雲であった。

 そして地を見れば聖域のあちこちから悪意に満ちた幾つもの小宇宙が立ち昇っている。夜明けを迎えていたはずの聖域は今まさに漆黒の闇に包みこまれようとしていた。

 

「馬鹿な、結界の張られたこの聖域に侵入されただと!?」

 

「黄金聖闘士が六人もいて気付かなかったとは! 何が最強の黄金聖闘士か、これでは只の無能ではないかっ!!」

 

 聖域の守護を任されていたアイオリアと、黄金聖闘士である事に強い誇りを持つミロ。

 至る過程は違えども、その心に沸いた感情は同一であった。己に対する不甲斐無さと怒りである。

 

「この小宇宙、これがギガスの先兵なのか? クッ、一つ一つはどうとでもなるが、数が――いかん! あそこは居住区に近い!!」

 

「急ぐぞアイオリア! オレは向こうに現れた連中を片付ける!!」

 

「ま、待てお前達!!」

 

 アルデバランが手を伸ばすが、駆け抜けて行った二人の背には届かない。

 

「ええいッ! 気持ちは分らんでもないがあれは明らかに陽動だ。アテナと十二宮の護りはどうする気だ!」

 

「ハン、聖域に侵入した事は褒めてやるが……この十二宮周辺の結界を破る事は出来なかったみたいだな。だったら、ここはお前らの誰かが居れば充分だろ? 待つのは性に合わないんでな、オレも出るぜ?」

 

 手を伸ばしたままのアルデバランの横を、デスマスクもまた駆け抜ける。

 

「デスマスク!? ええいっ、どいつもこいつも――」

 

 人の話を聞けと、思わず叫びたくなったアルデバランの横をスルリとまたも人影が通り抜ける。

 

「……任せるぞ」

 

「カミュお前もか!?」

 

 冷静沈着、常にクールたれと皆を抑える役割のカミュまで。

 思わず抜けそうになる気力を奮い立たせ、「ならばなおの事」と、オレがしっかりせねばとアルデバランが気合いを入れる。

 

「……アルデバラン」

 

 その肩に触れる者があった。

 

「いい加減にせん――」

 

 ここまでの流れから、次はシャカかと、反射的に叫んだアルデバランであったが、その叫びが途中でピタリと止まる。

 アルデバランの肩に触れたのはシャカではなく――教皇であったのだから。

 

「アテナの護りは私とシャカが務めよう。行くが良いアルデバラン」

 

「きょ、教皇!? し、失礼致しました! しかし……構わぬのですか? 敵の狙いがはっきりせぬ以上は」

 

「……君は妙なところで責任感が強いのだな。構わぬよ、この場は教皇とこのシャカに任せて行きたまえ」

 

 二人の言葉にアルデバランが見せた逡巡は一瞬。

 

「では、お言葉に甘えさせて頂きます」

 

 教皇に一礼し、頼むぞとシャカに告げてアルデバランもまたこの場から駆け出して行った。

 

 

 

 

 

「若さ、か。彼らを軽率と諌める事は出来ん。さて、この流れをどう見る、シャカ?」

 

 聖域の各地から立ち昇る無数の小宇宙。黒は広げる版図を白が塗り返そうとしているのを感じ取りながら教皇が問う。

 

「この侵攻は予想していたモノよりも早く、ギガスの王の復活だけとは考えられません。何かギガスを勢い付かせるだけの事があったと――」

 

 そこでシャカが言葉を止めた。その表情に浮かぶのは僅かな困惑であった。

 

「考えられる事は一つ。ギガスはソーマ――ネクタールの力を持つあの少女を手に入れた」

 

「馬鹿な!? ムウが不在とは言え、いや、だからこそセラフィナの傍には海斗だけではなくシュラも置いたのだぞ!」

 

 

 

『――そこな』

 

 

 

 その時、ビシリと、何も無いはずの空に亀裂が奔り、

 

『美しき男の言う通りよ』

 

 パリンと、まるでガラス細工を壊した様な音を立てて空が割れた。

 聞こえた声と音に教皇が視線を上げる。空いた穴からはまるで這い出す様に人のカタチをした何かが現れていた。

 それは、色素の抜けた白い髪に漆黒の仮面、大蛇を模した意匠の施された金剛衣を纏った女であった。女性体である事を強調するかのように、胸元は開かれ、大腿を曝け出している。

 妖し過ぎる色気があったが、その身から感じる小宇宙は深く暗い。澱みに満ちたおぞましい物だと感じる。

 

「何者だ」

 

「我が名はデルピュネ」

 

 教皇の問いに女はそう名乗り、ゆっくりと地上に降り立った。

 仮面の為か、くぐもった声からは女の正体を窺い知る事は出来ない。

 

「あの小癪なヘルメスの使い――エクレウスの名を宿した小僧も、黄金の山羊も所詮は人の子。神すら倒して見せた我等の前では余りにも――無力」

 

 空に向かって掲げたデルピュネの右手に燃え盛る炎が現れると、それは劫火となってデルピュネの身を包み込む。

 炎はその内にあるデルピュネを守るかのように渦を巻き、舞い散る火の粉が火種となって周囲に次々と炎の柱を生み出していた。

 

「さて、ネクタールの力を宿した娘は手に入れた。後はこの地に封じられたアンブロシアさえあれば、憎き小娘(アテナ)に掛けられた我等ギガスの不死の力が甦る。大人しく渡すならば苦痛を感じる間もなく――灰塵と化してやろうぞ?」

 

 デルピュネの纏った炎の勢いが足下を、十二宮に敷き詰められた石畳を融解させ始めていた。

 吹き付けられる熱波から教皇を護るべく、シャカがその身を盾として二人の間に立つ。

 

「シュラと海斗を倒したと? しかし、お前の言葉が真実であろうが偽りであろうが、このシャカが成す事には何の変わりもない。選びたまえ、再び冥府へと送り返されるか、魂諸共に消滅するかを」

 

 その手で印を組み、力ある言葉を静かに呟く。

 

「――不動明王迦桜羅焔(カーン)

 

 シャカの周りから吹き上がる小宇宙の炎。それは不動明王の浄化の炎。悪意を焼き払い、敵を焼き尽くす迦桜羅の炎。

 デルピュネの熱波とカーンの熱波がぶつかり合う。

 

「むぅ、二人の生み出すこの炎、まるで巨大な炎の壁だ。シャカの炎とあの女の炎がぶつかり合い互いを喰らっている為か」

 

 その余波は、シャカの背に守られていた教皇の身体すら押し下げる。

 

「ほう、凌ぐかえ」

 

 デルピュネの言葉に喜色が混じる。

 

「ふむ。アンブロシアについてはそこな仮面の男に語らせるとしよう。喜べ、美しき男よ。お前はこの我が直々に喰ろうてやろう」

 

 宣言と共にデルピュネが左手を掲げた。

 そこから生じた炎は巨大な蛇のカタチとなり、炎の壁へとその身を投げ込む。

 生み出されては炎の中へ。次々と姿を消して行く。

 

 均衡が崩れた。

 

「むっ!? くっ、まさかこのシャカが押される!?」

 

「いかんシャカ!!」

 

 シャカに迫る炎の壁。駆け寄ろうとする教皇の身体をぶつかり合う小宇宙が奔流となって弾き飛ばす。

 

「ふふふっ、さあ、骨も残さず――喰ろうてやろうぞ」

 

 互いを喰らい合っていた炎の壁は遂にデルピュネのものとなり、それは、さながら巨大な大蛇の如くその姿を変えていく。

 

 炎蛇が巨大な口を開き、シャカの身体を呑み込んだ。



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第12話 ぶつかり合う意志!の巻

 地中海最大の島――シチリア島。

 

 ギリシア時代からの遺跡が数多く残されており、温暖な気候も手伝って現在では観光地として名高い場所。

 島にはヨーロッパ最大の活火山であるエトナ火山も存在している。

 過去幾度か噴火した事のある活火山ではあるが、他の活火山と比べてその危険性は低いとされている事も有り、その周囲では多くの人々が生活を営んでおり、その山の麓では土壌の特性を生かした果樹園なども広がっていた。

 

 それらは――全て表の顔である。

 ギリシアの地に古からの結界に隠された聖域(サンクチュアリ)がある様に、このシチリア島にも神話の時代から続く結界によって人々に知られる事無く今も存在し続けている場所があった。

 それは、エトナ火山の火口部に存在する。地下へと続く洞窟であった。日の光の届かぬ地の底でありながらも、幽玄を感じさせる淡い輝きに満ちた場所である。

 例えるならば、月夜の静寂。

 月明りに照らされた大地の様に、全てを見通せる程ではないが、周囲が見えない程でもなく。

 全てが眠る夜の如く、しんと静まりかえってはいるが、決して無音と言う訳でもない。

 その淡い輝きは、この場所が広大な洞窟である事を、カチャリ、カチャリと鳴り響く音が、この場所に何者かが存在している事を示していた。

 

「只今……戻りましたアルキュオネウス様」

 

 闇色のトパーズの金剛衣を纏ったギガスが恭しく頭を下げる。

 大柄なギガス達の中でも、この男の体躯は小さいと言える。無論、ギガスの中では、という前提ではあったが。

 再び頭を上げた事で、その容姿が淡い輝きに照らされて露わになる。こけた頬、窪んだ眼窩、まるで皮を被った髑髏を思わせる風貌である。

 このギガスの名はエンケラドゥス。ギガス十将の一人である。

 

「デルピュネ様はかの地より聖域へ。エキドナは、あの娘を連れて先に戻った筈ですが……」

 

「知っておる。エキドナはあの娘を連れてガイア宮殿(パレス)へと向かわせた」

 

 答えたのはアルキュオネウスと呼ばれたギガス。

 東洋の鬼を思わせる面を着け、黄金に輝く金剛衣を纏った男。漲る覇気、金剛衣越しからでも分る逞しい体躯。

 ただ見られている、それだけの事であるのにエンケラドゥスは魂の奥底から湧き上がる震えを押さえる事ができない。この男が放つ雰囲気は、明らかに十将のそれを凌駕する。

 

「ネクタールの娘の側にいた青銅聖闘士をデルピュネとエキドナが、黄金聖闘士をお前が倒したと聞いたが……それは真実か?」

 

「ハハッ。多少は……抵抗されましたが、しかし、当代の黄金聖闘士があの程度とは……些か拍子抜けでありました。やはり、所詮は人間。所詮は小娘の使い走りに過ぎませぬ」

 

 何かを思い出すかのようにエンケラドゥスの瞳がぎょろりと動き、そうして報告を終えると「ククッ」と声を押し殺して嗤ってみせる。

 

「所詮、か。グラティオン、アグリオス、トオウンの三人は敗れたのであろう? そうして、だ。さらに三人掛りで――ようやく聖闘士二人だ」

 

「お言葉ですが……最初からこのエンケラドゥスに全て任せて下されば、奴等にあの様な無様を晒させる事は――」

 

「釣り合わん。そう言っているのだ」

 

 十将の中でも体躯に恵まれていないエンケラドゥスは、それ故に他の十将よりも手柄を立てる事によってでしか自分の自尊心を満たせない。

 それが、吉報であるはずの勝利の報告を諌められては。知らずエンケラドゥスは眉を顰めていた。

 

「何故この私が王の座すパレスを離れ、地上との境であるこの場まで出向いたのか。それを疑問には思わなかったのか? お前たちの労をねぎらう為だとでも?」

 

「は?」

 

 何をと、首を傾げるエンケラドゥス。その横をさして気にした様子もなく、ゆっくりとアルキュオネウスが通り過ぎる。

 

「プロメテウスのもたらした因果は、まだ我等を縛っている。思い出せ、オリンポスの神々を追いつめた我等を滅ぼした毒が何であったのかを」

 

 やがて、歩みを止めたアルキュオネウスは、自身の右拳を腰だめに構える。視線は闇の中を向きながら、エンケラドゥスに背を向けたまま言葉を続ける。

 

「毒――それは人間だ。大いなる母ガイアの加護によりオリンポス十二神では我等を滅ぼす事は出来ぬ。しかし、その意を受けた人間であるならば……」

 

 構えた右腕に力を込める。集束した小宇宙が密度を増す。ぐにゃりと、アルキュオネウスの右腕の周囲が歪み――そのまま『何も無い空間』に拳撃を打ち込んだ。

 歪みが巨大な拳となって闇の中唸りを上げる。

 

 

 

『そう、人間であるならば――お前達ギガスを打倒す事が出来る』

 

 キンッと、澄んだ音と共に暗闇に一筋の光が奔る。

 パンと、周囲に衝撃波を撒き散らし、アルキュオネウスの放った拳撃が閃光に――両断された。

 

「ふむ。やはり、な」

 

「な!? 馬鹿な!!」

 

 その光景に、さも当然と呟くのはアルキュオネウス。

 

「何故だ!? お前は確かにこのエンケラドゥスが倒した筈!」

 

 対して、振り返ったエンケラドゥスは声を荒げた。

 あり得ない、と。

 

「私がここまで出向いた事の答えが――これだ。尾けられていたなエンケラドゥス」

 

 閃光が幾重にも奔り、空間が切り開かれる。

 

『一つ、言っておく。貴様に殺された覚えは――ない』

 

 そこから溢れ出すのは眩いばかりの黄金の輝き。

 

『海斗には悪いが、当たりを引いたのはこのシュラだったな』

 

 それは、太陽の輝きにも似た黄金聖衣の輝き。

 光を纏いエンケラドゥス達の前に立ったのは――シュラ。

 傷一つ無い聖衣、微塵のダメージも感じられぬその姿はエンケラドゥスの記憶とはかけ離れ――

 

「何故生きているのだ! 黄金聖闘士!!」

 

「……フッ。言ったはずだ“貴様に殺された覚えは――ない”とな。ジャミールの地では時折り『性根の曲がった亡霊』が彼の地に踏み入る者を惑わせるとも聞くが」

 

「亡霊だと!? 馬鹿な! それでは我らが倒したのはまやかしだとでも言うのか!? 認められ――」

 

「止せエンケラドゥス」

 

 冷静さを欠いたエンケラドゥスの耳に制止の声は届かない。

 

「ならば! 今度こそ貴様を魂ごと四散させてくれる!! “ハウリングボマー”!!」

 

 突き出された両手から放射状に広がるリングのビジョン。

 それは無数に連なりながらシュラへと襲い掛かる。

 

「そのリングは触れた物全てを破壊する。原子の結合すら砕く超振動! 灰燼と化して消え去れ!!」

 

「奇遇だな」

 

 そう呟き、シュラが右手を掲げる。

 

「このシュラのエクスカリバー(聖剣)――」

 

 迫り来る無数のリング。

 目前に迫るそれを前にしてもシュラは揺るがない。

 

「抜かば――」

 

 振り下ろされる手刀。

 

「――斬る」

 

 それは一条の光と化して迫り来る破壊の力を両断する。

 断たれたリングは放たれた勢いのままにシュラの横を通り過ぎ……光の粒子となって霧散した。

 

 

 

「言った筈だエンケラドゥス。釣り合わん、とな。不死の力を封じられた貴様ら十将では、黄金聖闘士の相手は荷が勝つと言う事だ」

 

 ピシリと音がした。

 

「あ、あああぁああ……」

 

 エンケラドゥスの金剛衣に浮かび上がる一筋の線。

 

「いや、ここはシュラと言ったか。お前の力量を認めるべきなのだろうな」

 

 アルキュオネウスの言葉が終わると同時に、エンケラドゥスは鮮血を噴き出して崩れ落ちた。

 

 

 

「エクスカリバーか。余波ですら金剛衣を切り裂く。見事な切れ味だ、聖剣を名乗るだけの事はある」

 

「先を急ぐのでな、理解したのなら大人しく下がれ。逃げる者を背後から斬る真似はせん」

 

「……ふむ。驕りや増長と笑う事は出来んな。お前の強さには大言を吐くだけの資格がある」

 

 そう言ってアルキュオネウスがシュラへと向かい歩を進める。

 

「このアルキュオネウスと戦う資格も、だ。お前の聖剣程ではないが、この右拳には少々自信があってな」

 

 一歩一歩、その歩みが進む毎にアルキュオネウスからの威圧感が増大する。

 それは意識や感覚を超えて、物理的な圧となってシュラに重く圧し掛かる。

 

「どうやら、貴様はこれまでに見たギガス達とは違う様だな」

 

 そう、このギガスは違う。その身から感じる小宇宙は自分と同等か――それ以上。

 理屈ではなく己の感覚に従いシュラが身構える。

 

 じりじりと狭まる互いの距離。あと一歩、もう半歩で互いの間合いに入る。

 そんな場所でアルキュオネウスがその歩みを止めた。

 

「我が名はアルキュオネウス、我らが王ポルピュリオン様に仕える神将アルキュオネウス」

 

 先程放った拳撃の様に、アルキュオネウスが右拳を腰だめに構える。

 

「黄金聖闘士、山羊座のシュラ」

 

 対するシュラもまた右腕を掲げ、その手は手刀の型に。

 

「いざ――」

 

「――参る」

 

 互いの間合いへと踏み込み、両者は同時に必殺の拳を放った。

 

「エクス――カリバーー!!」

 

神屠槍(カタストロフ)!!」

 

 

 

 

 

 第12話

 

 

 

 

 

 巻き上がる炎の螺旋。舞い散る火の粉。

 燃え盛る火柱は周囲を赤く染め上げる。

 

「クッ、これはなんという炎……シャカ!」

 

 勢いを増した炎から放たれる熱波が、駆け寄ろうとする教皇の行く手を阻む。

 

「ぬぅっ!」

 

「ふふふっ。どうじゃ、この炎の色こそあやつの命の色よ。燃え上がり燃え盛り。しかし、これ程の炎は見た事がない。実に美しい光景とは思わぬか?」

 

 炎を背に、デルピュネが教皇へと向き直る。

 

「さあ、後はお主だけよ仮面の男。この地に秘されたアンブロシアの場所、答えて貰う」

 

 悠然と進むデルピュネ。その歩みを前にして教皇――サガは己が決断を迫られているのだと理解した。

 デルピュネの脅しにではない。

 

(……もはや、逡巡などしてはおれんか?)

 

「何、先にも言ったが、大人しく従うのであればこの場で命を取る事はせぬ」

 

 降伏するか否かでは無い。己の力を見せる、力を振るう。その事実に対してである。

 教皇となって十一年。己を、サガと言う存在を亡きものとし、正体を隠し続けた十一年。ここで戦ってしまえば、その築き上げた年月を、捨ててきたモノを無為にしかねない。

 

(早過ぎるのだ、まだ時期ではない。せめて――アテナが成長するまでは!)

 

『――この期に及んで』

 

「!?」

 

『この期に及んでお前はまだ偽善の仮面を取り繕う気かサガ』

 

 内から響く声。

 その声を聞いた、認識した瞬間、サガの意識が白く弾ける。

 サガの周囲から一切の音が、光が消え去った。

 

 

 

 

 

 そこは見渡す限りの闇。

 上も、下も、右も、左も、何も――無い。

 何も無い中心に、ただ己だけがある。

 それだけが分る。

 

『目を覚ませサガよ』

 

「目なら覚めている」

 

 そう、闇の中心にあるのは己だけ。

 ならば、そこで向かい合う存在もまた己。

 違うのは身に纏う色。目の前の己が纏うのは夜の闇より暗き黒。

 

『十一年だ。お前は教皇として良くやった。居もしないアテナを祭り上げ、虚飾に塗れながら。それでもこれまで聖域を纏め上げたのは紛う事無くお前の力だ。アテナ不在を明かす程度の事であれば、今更お前に逆らう者はおるまい』

 

 黒の己が口を開く。

 

『フフフッ、下らぬ良心とやらの呵責に悩み続けるのは心苦しいのだろう? ならば――オレを出せ。お前以上に上手くやって見せよう。だから、お前はもう休め』

 

「……上手くやる、だと? ふざけた事を。状況を生みだしたのは貴様だ!! 生まれたばかりのアテナ! 幼き黄金聖闘士! 老師は動けぬ!! ならばこそ、だからこそ、やらねばならなかったのだ! この地上を邪悪から護る為には、このサガがやらねばならなかった事だ!!」

 

 慟哭にも似た叫びを黒いサガはせせら笑う。

 

『ハハハッ、今更何を言っている! 状況を生みだした? 違うな、全ての発端はお前だ。オレであったがお前でもあった。アイオロス、教皇とその手に掛けた――サガなのだよ』

 

「……ッ!? 黙れッ!!」

 

 激情に駆られるままに繰り出されたサガの拳が目前に立つ黒いサガを貫いた。

 しかし、拳を打ち込まれた胸を中心に、まるで小石を落とした水面に浮かぶ波紋の様に黒いサガの身体が揺らぐのみ。

 

『今でもはっきりと思い出せる。屈辱だったろう? 仁智勇全てを兼ね備えた者として次期教皇に選ばれたのはお前では無く、互いに友と呼びあった――』

 

 伸ばされた黒い手がサガの肩に触れる。

 

「言うな!!」

 

射手座(サジタリアス)のアイオロス、だ。言ったな、アイオロスこそが相応しいと。本当に? 違うだろう? 心の奥底では思っていたはずだ、選ばれるべきは自分だと。故に、心からの祝福など出来るはずもない」

 

「違う! アイオロスは仁智勇を兼ね備えた男。次期教皇にふさわしいのはあの男だった!!」

 

『この期に於いても綺麗事か。己の自尊心と野心のために教皇を手に掛け、幼いアテナを亡き者にしようと企み、その罪をアイオロスに被せた者は……さすがに言う事が違う』

 

「黙れ! 黙れッ!! 黙れ黙れッ!! 私は正義の為に戦いたかった! アイオロスと共にアテナの為に戦うと誓った!! その全てを狂わせた貴様が言う事かッ!!」

 

 両腕を交差させ上段に構える。

 それは、かつてカノンが海斗に向けて放った技と同じ構え。

 

「そう、私は罪を犯した。貴様を抑える事が出来ずに教皇と親友を殺めた! アテナの身を危機に晒した! 報いは受けよう。だが、それは今ではない!!」

 

『何を言ったところで、所詮は我が身可愛さの保身にしか聞こえん。その言葉をお前が裏切者の汚名を着せたアイオロスの弟――アイオリアの前で言えるのか?』

 

「言ったはずだ、報いは受けると。今私が出来る事は一刻も早くアテナを見つけ出し、来るべき邪悪との戦いに備え一人でも多くの聖闘士を育てる事。それが成されればこの身、この命が引き裂かれようと構いはせん!!」

 

『大した覚悟だが、それでは困る。この身体はお前だけの物ではない。それを忘れてもらっては、な』

 

 黒いサガもまた、両腕を交差させ上段に構える。それは鏡映しの様に同じ構え。

 

『大人しく従うならば良しと考えていたが、言っても分らんのならば、ならば力尽くで眠らせるまでよ――』

 

 サガの掲げた両腕に光り輝く小宇宙が集約される。

 そして現れる銀河の星々の輝き。

 

「くどい! 私は――アテナの聖闘士だ!!」

 

 漆黒の闇を小宇宙が生み出した銀河の星々の輝きが照らす。

 

「貴様を表に出すわけにはいかん。我が内で砕け散り永遠に眠れ!!」

 

 打ち合わされ、振り下ろされる両手。

 

「――“ギャラクシアンエクスプロージョン”!!」

 

 銀河爆砕。それは、銀河の星々を打ち砕く破壊の瀑布。

 爆砕した銀河の奔流が互いの銀河を埋め尽くさんとぶつかり合い、削り合い、喰らい合い、膨張し、そして――

 

『フン。いいだろう、この場はお前に譲ってやるさ。だが、忘れるな。お前という光が強くなれば、それだけ俺という影はその濃さを増すのだ。既に兆候は表れている。そう遠くない内に、この身体の主導権は完全に俺のモノとなる事を』

 

「分っている。貴様は私なのだからな。だが、そう思い通りに事を運ばせるとは思わぬ事だ。貴様の全てを私が理解出来ぬように、貴様もまた私の全てを理解する事は出来ないのだ」

 

 ――爆発した。

 

 

 

 

 

「――ッ!?」

 

 肌に感じる熱波と吹き上がる炎の音で、サガは自分の意識が現世に戻った事を確信した。

 歩み寄るデルピュネの位置から、もう一人の自分に囚われたのは時間にして僅か数秒にも満たぬ間であったと推察する。

 

「さあ、返答は如何に?」

 

 それは、己が絶対的強者であるとする余裕からか。

 漆黒の仮面越しであっても、醸し出す雰囲気からデルピュネが嗤っている事がサガには分った。

 

「この私が、その様な言葉に大人しく従うとでも思っているのか?」

 

 そう告げるサガの言葉に迷いはない。

 

「来い、我が――」

 

 双子座(ジェミニ)の聖衣。喉元まで出ていたその言葉をサガが止めたのは周囲の変化に気が付いた為であった。

 身を焦がさんばかりに押し寄せていた熱風が止み、空に舞っていた火の粉はその姿を消していた。

 宙を舞っていた赤い粉は、その色を白へと変え、幾何学模様の結晶となって灼熱した地に優しく降り注ぐ。

 

「これは……雪か。火の粉が雪に変わって行く」

 

 それはあり得ぬ変化、あり得ぬ異変。それを目の当たりにしたデルピュネも「何事か!?」と周囲を見渡す。

 そして、空を舞う雪の結晶よりもこの地に起きた異変を雄弁に示す光景がその目に映った。

 シャカの身を包み燃え盛っていた筈の炎の螺旋。それが瞬く間に凍りつき、巨大な氷柱と化してそびえ立っていたのだ。

 

「あ、あり得ぬ! 炎が、我の炎が凍りつくなど!!」

 

 デルピュネからは、つい先程までの余裕が失われていた。己の力への自信がどれ程のものであったのかがその狼狽する姿から読み取れる。

 

「一体何者が!? む、これは、氷の柱に亀裂が――」

 

 動揺が、デルピュネの判断を鈍らせた。

 

「う、ああああああーーっ!!」

 

 亀裂を奔らせ砕け散った氷柱が、無数の氷塊の散弾となってデルピュネを襲う。

 直撃こそ免れたものの、吹き荒ぶ凍気と氷塊の勢いが女の身体を弾き飛ばした。

 

「この場の護りを薄くすれば、それに誘われる様にして姿を現すのではないか。ある意味賭けの様なものだったが、存外上手く行ったものだ。先の勝手な行動、申し訳ありません教皇」

 

「いや、責めはせぬ。良い判断だ」

 

 砕けた氷柱の影から姿を現したのは水瓶座の黄金聖闘士――カミュ。

 氷の闘技、凍気を極めた男。凍気を纏った彼が一歩一歩とその歩みを進めるだけで、燃え盛る炎が、熱波が消えてゆく。

 

「ありがとうございます教皇。しかし、お前には余計な事であったかな――シャカよ」

 

 カミュが視線を向けた先には、炎の螺旋に呑み込まれたシャカの姿があった。

 両足を組み合わせ、両腿の上に乗せた結跏趺坐の型で瞑想するその身には、先程まで業火の中にあったと言うのに、炎に晒された痕跡は一切見受けられない。

 

「いや、助かったと言わせてもらおう。おかげで、結界に阻まれていた迷い子を上手く呼び込む事が出来た」

 

「……迷い子だと?」

 

「タイミングが悪かったのだ。あのままここに現れていては、先の炎の渦に巻き込まれていたのでな」

 

 カミュの疑問の声に対して、シャカが微かに笑みを浮かべた。

 結跏趺坐を解き、立ち上がるシャカ。

 瞼を閉じたままでありながら、まるでその先が見えているかの様に澱みのない自然な動作であった。

 シャカの閉ざされた眼には、聖域の各地に立ち上る無数の小宇宙、命の輝きがハッキリと見えていた。

 そこに、突如として現れた巨大な光。その輝きは青と白の螺旋を描き、群がる闇を消し飛ばす。

 

「デルピュネと言ったか。ピンドスで出会ったギガスもそうであったが、聖闘士を甘く見過ぎではないのかな?」

 

「……く、ククッ。ほざくなよ人間如きが!!」

 

 怒号と共に、爆炎を噴き上げて立ち上がるデルピュネ。

 その身に傷は無い、だが己の矜持を傷つけられた事への怒りがあった。それは周囲に広がる炎の勢いが如実に表している。

 吹き付ける熱波は先程の比では無い。宙を舞っていた雪の結晶は再び炎の粉と化し、この場を紅蓮の世界へと染め上げていた。

 

「我が凍気を侵食するか。意趣返しのつもりか? よかろう、ならばこのカミュが――」

 

「カミュ、その必要はない」

 

 そう言って、デルピュネとの間に立とうとするカミュをシャカが下がらせる。

 そうして再びシャカとデルピュネが対峙した。

 

「元より、彼女の相手を務めるべきはこのシャカなのだ」

 

「ク、ハハハハッ!! かつて、一度はゼウスすら封じて見せたこの我を! たかが聖闘士如きが、神でもない人間如きが相手にすると!? ハハハハハハハハッ!!」

 

 言霊という概念がある。

 声に出した言葉が現実の事象に影響を与えるという、言葉に宿る霊的な力。

 

「――黙りなさい」

 

 それは静かな一言だった。

 しかし、その言葉には逆らい難いまでの力があった。

 シャカの言葉にはデルピュネをして動きを止めさせるだけの何かがあった。

 

「気付かないのか? 感じる事は出来ないか? この地に現れたあの小宇宙を。お前が無力と嘲った聖闘士――エクレウスの小宇宙を」

 

「小宇宙だと? 馬鹿な事を、あ奴は確かに我らが――」

 

「おかしな事だ。ゼウスすら封じたと豪語しておきながら、たかが一聖闘士の生死すら判断する事が出来ないとは。これではシュラを倒したとの言葉もどれ程信憑性のある物か」

 

 デルピュネはそれ以上を言う事が出来なかった。シャカの言う通り、結界越しにでもデルピュネには感じ取る事が出来たのだ。

 ジャミールで遭遇し、拳を交わしたのはつい先程の事なのだ。忘れられるはずが無い。

 

 

 

「もう一度言おう。聖闘士を甘く見るな――と」

 



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第13話 外伝~幕間劇(インタールード)~

 ギガスと対峙するあの二人には油断も隙も無かった。

 襲い掛かる敵を倒したとはいえ、未だ歪められたジャミールの結界はそこにいる者の感覚を狂わせようとしている。

 現状では、あらゆる攻撃が不意打ちとなるのだ。

 とは言え、あの二人にとってそれは左程脅威にはならないだろう事は、これまでの戦いを見て十分に理解できた。

 問題とするならば、それはあの少女の事であろう。

 守らねばならない存在、それがエクレウスとカプリコーンの枷となる。

 それを二人が理解しているからこそ油断は無いのだ。

 

「ふぅん」

 

 さてどうするかと思案する。

 見れば、あの二人は次の行動に移ろうとしている。

 

『一刻も早くこの地を離れる』

 

 そう言う事であろう。

 エクレウスが少女の手を取る。カプリコーンが僅かではあるが先行する。

 

「うん、いいねぇ」

 

 笑みが浮かぶ。

 僅かでいい。

 その距離が欲しかった。

 

 カプリコーンがエクレウスを認めたからこそ生まれた距離。

 エクレウスがカプリコーンを信頼したからこそ生まれた距離。

 

「さぁて、と」

 

 ここに来るまでに少し乱れてしまった黒のタキシード。

 埃をはたき落とし、皺を伸ばし、お気に入りのシルクハットをかぶり直す。この白いラインがオシャレポインだ。

 これを悪趣味だと断じたアリエス。彼の美的感覚こそがおかしいと言わざるをえない。

 

「第一印象は大事だからねぇ」

 

 ま、エクレウスとはあの世で一度は会っちゃあいるが、と含んで笑う。

 一瞬、その姿を白い老人と化して、また今の姿へと。

 さあ行くかと身を乗り出せば、どうやら場に変化があった模様。

 

「おほっ」

 

 ガラスが割れたような甲高い音が響き空間が割れた。

 そこから現れたのは新たなギガス。

 黒き仮面の竜女デルピュネ、白き仮面の竜女エキドナ。そして十将エンケラドゥス。

 

「おやおや、彼女等も必死と言うか何と言うか。ふむ、まあこれぐらいのアクシデントがあった方が面白いわな」

 

 どうやらこの場での演目はまだ続くらしい。

 

「でも……ありゃあ駄目だな。あのままじゃあ直ぐに終わる」

 

 何せ、お姫様を守る騎士が強過ぎる。

 せっかくの舞台の延長が、このままあっさり終わってはツマラナイ。

 主演は彼らであり今の自分は観客だ。

 だが、この脚本の無い舞台の演出家になってみるのもそれはそれで面白そうだ。

 三途の川から仕込んでいた演出――愉快な挨拶の機会は失われそうだが、この際我慢しよう。

 それに役者が演目を続けようとしている。それを止める事は出来ない。

 

「う~ん、でもなぁ……。このままエンディングじゃあヒネリが無いからさァ」

 

 この地の結界を再び弄り場を少々乱す事にする。

 カプリコーンとエンケラドゥスを離し、エクレウスとあの少女の前にデルピュネとエキドナを向かわせる。

 

「後は――そうだな、いっその事挨拶も済ましちゃおうかね」

 

 裏方が出張るのは宜しくないし、観客が舞台に上がるなど以ての外。

 だが、演出的にはとても良い。時にはこういった突発的なアクシデントがスパイスとなるのだ。

 彼もきっと気に入ってくれるはずだ。

 

「聖戦までの暇潰しと思っていたが……これはこれで楽しくなってきたなァ」

 

 

 

 

 

「――下がっていろセラフィナ」

 

「あ、はい」

 

 そう短く放たれた海斗の言葉は、これまでセラフィナが聞いた事の無い程に緊迫した物を含んでいた。

 拙いと海斗は感じていた。

 一体何が起きたのか、気が付いた時にはシュラと分断されていた。

 お互いに不意打ちは警戒していたはずであったのだ。

 明らかに――異常。今の海斗に細かな口調等を気にしていられる程の余裕は無い。

 

「え?」

 

 何かが起きている事は分っても、それが何かが分らない。

 状況を把握できぬままであったセラフィナの肩がトンと押された。

 何を――と、海斗へ問う間も無かった。

 その瞬間、全身を舐め回す様な不快な視線を感じ、その嫌悪感に眉をしかめたのと同時に柔らかな衝撃がセラフィナの身体を包み込み、その場から弾き飛ばす。

 

「海斗さん!」

 

 勢いこそあったものの、セラフィナの身にダメージは無い。

 右手を地に着け、そこを軸として回転。宙に浮かぶ身体を翻して体制を整えたセラフィナが顔を上げる。その視線の先では、仮面を着けた女達の攻撃を両手で受け止めている海斗の姿。

 

「……ッ!」

 

 加勢すべきだ。

 海斗は下がれと言った。

 大人しく下がるべきだ。

 海斗だけを戦わせて?

 

 これがシュラであったのならば、セラフィナは迷わず下がっただろう。

 一月にも満たない短い期間ではあったが、共に過ごした時間が情となりセラフィナの判断を鈍らせた。

 

 僅かな逡巡。

 しかし、その僅かな逡巡こそが致命となる。

 迷うセラフィナの思考の隙を狙い、漆黒の仮面の女――デルピュネが動いた。

 空中で器用に反転し、海斗の身体を蹴りつけてセラフィナへと跳ぶ。

 

「俺を踏み台に!? させるかっ!」

 

「それは――貴方も同じ」

 

 デルピュネを追撃しようとする海斗。その動きを、白い仮面の女――エキドナが阻む。

 

 黒い艶やかな髪に表情の無い白い仮面が際立つ。

 蠱惑的な肢体を強調するデルピュネに対し、エキドナは纏う金剛衣こそ似ていたがその体格は少女のもの。

 見た目通りであるならば、自分と同年代か。

 女性を殴る事に抵抗が無いわけでもないが、海斗にとって優先順位は明らか。

 正体、素顔がどうであれ、自分の行く手を遮ろうとするならば倒すのみ。

 

「貴方に……用は無い。大人しくして」

 

 同じような仮面を着けながらも、どこかくぐもった様な感じのするデルピュネの声とは明らかに違う。

 纏わり付く様な炎を連想させるデルピュネとは違い、エキドナの抑揚の無い声はまるで人形。

 

「もう一度言う。大人しくして」

 

「大人しくして欲しいなら俺の邪魔をするな!」

 

「ならんぞエキドナ。つまらぬ禍根は消さねばならぬ。そ奴は殺せ!!」

 

 耳障りな声に海斗が視線を動かせば、そこには苦悶の表情を浮かべるセラフィナが見えた。

 デルピュネに片手で首を掴まれて吊り上げられた姿が。

 

「どけっ!! エンドセンテンス!」

 

 エキドナ目掛けて放たれる青い閃光。

 無数の光弾は、しかし、その全てが空を切る。

 

「避けられた? いや、これは……くッ!? セラフィナ!」

 

「私は避けてはいない」

 

 そう言って左手を掲げるエキドナ。

 その手首には、真紅に輝くルビーが填められた腕輪があった。

 エキドナがそのルビーに触れると、まるで心臓の鼓動を思わせる様に妖しく明滅を繰り返す。

 

「貴方が外した」

 

「……エキドナ……神話上では魔物の母、だったか」

 

 海斗が体勢を崩し、攻撃を外した原因となったモノ。

 唸りを上げて海斗の足に食らいつくモノ。

 

「グゥルゥウウウウッ」

 

 喰らいついた海斗の脚を噛み砕かんとする頭と、胴体目掛けて喰らいつこうとする頭。

 二つの頭を持つ神話の魔獣。

 そこにいたのは二メートルはあろうかと言う巨大な魔獣――オルトロス。

 新生聖衣のおかげか、噛みつかれた脚にダメージは無いがこのまま無事でいられる保証も無い。

 

 いつの間に、どうやって。

 疑問はあったが、今優先すべきはセラフィナを救う事。

 

「グゥアアァアアアアアッ!!」

 

「この!」

 

 胴体に食らいつこうとするオルトロスの頭を抑えたものの、海斗の動きはこれで完全に止められてしまう。

 

「フフフッ、よく堪えるのう。そのまま喰らわせい。続けよエキドナ」

 

 デルピュネの声に従い、エキドナが再び左手を掲げる。

 本来ならば美しさを感じさせる筈の宝石の輝き。

 明滅を繰り返すそれは、まるで脈打つ心臓。

 視界に入っただけで倦怠感を、直視すれば嘔吐感が襲い掛かる。

 それが一体何であるのか、海斗には分からない。

 ただ、おぞましい物である事は分かる。

 ルビーが明滅し、そこから巨大な影が生み出される。

 影は徐々に形を変えると、獅子と山羊の頭、蛇の尾を持った巨大な魔獣の姿を形作る。

 

「キマイラ……だと……!?」

 

 広げられた巨大な顎。

 唾液を撒き散らし向かって来る。

 

「ケダモノ風情が……調子に――乗るなああああッ!!」

 

 咆哮と共に解き放たれる海斗の小宇宙。

 大地が鳴動し、立ち昇る小宇宙が螺旋の渦を描き天を突く。

 吹き荒れる小宇宙は物理的な衝撃を伴い、海斗に身に触れようとする魔獣達の尽くを粉砕した。

 

「今のは……確かに……」

 

 エキドナは見た。

 小宇宙の高まりに呼応するかの様に、エクレウスの聖衣が黄金の輝きを放った事を。

 

「……聖闘士……」

 

 人形であったエキドナの感情がブレた。

 そこに現れたのは戸惑いという感情であった。

 

「セラフィナ!」

 

 動きを止めたエキドナを無視し、四散する魔獣の血潮に構わず駆け抜ける海斗。

 

 異変に気が付いたデルピュネが振り返ろうとするが、遅い。

 

 伸ばされるセラフィナの手。

 

「海――」

 

 伸ばされる海斗の手。

 

「セラ――」

 

 指先が触れ合う。

 

 互いの手が――

 

 

 

『      』

 

 

 

 届く事は無かった。

 

「――な、に?」

 

 海斗の伸ばした手の先には何も無かった。

 目の前にいた筈のセラフィナがいない。

 セラフィナに手を掛けていたデルピュネも。

 

 次いで衝撃。

 それが背後からの攻撃だと気が付くのに海斗は数瞬を要した。

 幻術はあり得ない。 

 確かにお互いの指先が触れ合った感触があった。

 自分の知覚を超える超スピード。

 そんな事が出来るなら、今頃自分は死んでいる。

 

 

 

 何が起こったのか分らない。

 

 

 

「――それがどうした!」

 

 意識はある。身体も動く。

 今考える事はセラフィナを助ける事。

 それだけでいい。

 

 頭を振って立ち上がった海斗が見た物は、エキドナの手に抱えられた意識の無いセラフィナの姿。

 現れた時と同じ様に、空間を割ってその姿を消そうとしている。

 このまま転移されては――拙い。

 全力で駆け全力で跳ぶ。

 

「その娘を連れて先に行けエキドナ。この小僧はこの場で燃やし尽くすでな!」

 

 そうはさせじと、行く手を遮る様にデルピュネが立ち塞がる。

 掲げられた右手に燃え盛る炎が現れると、まるで矢の如く姿を変えて海斗へと向かい放たれた。

 しかし――

 

「その程度の火で俺を焼けるか!」

 

「馬鹿な!? 水の壁が我の炎を喰らうなどと!!」

 

 海斗の小宇宙によって生じさせた水が壁となり、次々と放たれる炎の矢を呑み込んでいく。

 それは海将軍シードラゴンとしての力。

 海闘士の特殊能力は鱗衣を纏う事で発揮される物が殆どであるが、この力は海斗の持つ資質による能力であり、鱗衣に依存する能力では無い。

 だからこそ聖衣を纏っていても使う事が出来る。

 余計な詮索を受けぬ様、聖域では隠してきたこの能力であったが、この期に及んで形振り構うつもりは今の海斗には無い。

 

「小癪な真似を! ならば、その全てをこの炎で呑み込んでくれる」

 

 両手を掲げ、これまで以上の炎を燃え上がらせるデルピュネ。

 しかし、海斗はそれに構わない。

 海闘士だの海龍だの聖闘士だのとゴチャゴチャ考えていた時とは異なる。この戦いの場で海斗の取るべき行動、やるべき事は明確でシンプルであった。

 セラフィナを救う。その事だけに集中する。

 仮面越しであろうと海斗には分った。エキドナが自分の動きを知覚している事が。知覚していても、自分のこの速度には追い付けない事も。

 

「セラフィナーーッ!」

 

 手を伸ばす。

 

 届く。

 

 

 

『             』

 

 

 

 伸ばされた海斗の手の先には――何も無かった。

 

 掴めた筈の手のぬくもりはそこには無かった。

 

「……そうか……そう言う事か……」

 

 セラフィナの姿はそこに無く、エキドナの姿も無かった。

 視線の先ではデルピュネがその身を空間に溶け込ませていた。

 周囲では紅蓮の炎が自分を取り囲むように渦を巻いていた。

 

 全てが過去完了形。

 

 周囲の全てが『留まった』中で「ああそうか」と、海斗はこの異常な状況を理解して納得をしていた。

 辻褄は合うな、と。

 

 いつの間にかシュラと分断されていた事。

 届いた筈の手が届かなかった事。

 

 カチリ、と小さな音がした。

 

「時間よ留まれお前は美しい。なあ少年、この言葉をどう思う?」

 

「……悪い冗談だ」

 

 若い様で年老いている様な、兎にも角にも軽薄で碌でも無い男には違いない声だ。この声には覚えがあった。

 そんな事を考えながら海斗が首を動かせば、そこには懐中時計を手にした黒づくめ。随分と場違いな男が、何が嬉しいのやら笑みを浮かべて立っていた。

 

 黒い髪に肌の色。そして雰囲気から東洋人だと言うのは分る。恐らくは日本人。

 無精ひげのせいで若干老けて見えるが、二十代後半から三十代半ばの様に見える。

 黒いシルクハットにタキシード、赤い蝶ネクタイを着けた一見紳士然とした男。

 

「初めまして少年。いや、エクレウスの聖闘士さん」

 

 懐中時計をポケットに押し込み、帽子を取って恭しく一礼する男。

 

「本当に、な。一応こう言っておこうか? 初めましてオッサン。いや、時の翁。そして、さようなら――“エンドセンテンス”!」

 

「うおっとォ!? いきなり御挨拶だねェ、エクレウス!」

 

 放たれた無数の光弾を器用に避けながら男は続ける。

 

「おいおい、まったく聖闘士ってのは気の短い奴らしか居ないのかァ? ここは何だとか、お前は誰だとか色々聞く事があるでしょうが!」

 

「この状況で理解できた。お前が俺の邪魔をしていた。少なくとも3回。テメェが誰かなんて――どうでもいい」

 

「うおッ、とっ、ハッ! キミ本当に青銅(ブロンズ)聖闘士? 嘘でしょ? あ~っと、訂正しとこうか。邪魔したのは色々合わせて6回ね」

 

 避ける、避ける、避ける。

 男はそう言って軽口を叩きながら、威力と速度を増し続ける海斗の攻撃を避け続ける。

 

「と言ってもさ、ここでやったのは3回だけだよ。カプリコーンと分断して、君の手から彼女を引き離――」

 

 パァンと乾いた音が鳴り響き、男の軽口が止まった。

 無数に放たれた海斗の拳。光弾が閃光と化し、その一つが避け続けていた男の動きを捉えたのだ。

 

「……良いね。うん、スゴク良い」

 

(想像以上。コイツぁ、ひょっとすればひょっとするんじゃねえのか?)

 

 突き出される海斗の右拳。

 それを受け止める男の右手。

 

「あの子の事を言おうとしたらパワーアップ? まるっきり物語の勇者様だなァ。あの子は囚われのお姫様。キミはそれを助ける騎士様――」

 

 男はそれ以上を言えなかった。

 ゾクリ、と背筋に奔った悪寒に従いその場を飛び退く。

 再び黄金に輝くエクレウスの聖衣。

 刹那、男の立っていた場所に巨大な破壊の渦が立ち昇った。

 

 カノンを窮地に追い込んだ技“ホーリーピラー”。

 海将軍シードラゴン最大の拳。

 

「おいおい! なんてぇモンをぶっ放しやがる!! って、終わらねえ! 勢いが!! こンの、引きずり込もうってかァ!?」

 

 破壊の渦に引き込もうとする力の奔流は凄まじく、この場に留まる事は危険だと即座に男は判断する。

 

「だからって、コイツをこのままにしとくワケにもいかねえしなァ!」

 

 男は右手を突き出すと、掌をホーリーピラーへと向ける。

 

「わりいけど――消させて貰うぜ」

 

 男を中心として空間が歪んだ。

 歪みは陰陽を思わせる二色の光を放ちながら回り出し、男の背後に巨大な渦を描く。

 

「な、馬鹿な!? ホーリーピラーのエネルギーが――光の粒子になって消えていく!? それに――」

 

(身体が……動かんッ!)

 

「マーベラスルーム! ――この渦の生み出す先は時間も物質も無い世界。一度入れば量子レベルで分解されてその世界にバラ撒かれる、ってさァ!! 安心しな、消すのはその厄介なエネルギーだけだ」

 

 ズレた帽子を左手で抑えながら、ケラケラと笑い男は続ける。

 

「正直な、今度の聖戦にはあんまり期待してなかったのよ! いやいや、それがどうして分らんものだなァ、ええっオイ。触れ合ってみて初めて分る事、ってか」

 

「……誰だ、お前は」

 

 ホーリーピラーが消滅した事を確認すると、男はパチンと一つ指を鳴らした。

 陰陽の渦はその姿を消し、それと入れ替わる様に男の周囲に黒い霧の様な物が滲み出す。

 黒い霧は一つの塊となり、黒から白へ。やがてはその姿を翼を持つ白馬――天馬へと変えていた。

 

「観客さ。君達の繰り広げる物語を――特等席で眺める、ね」

 

 そう言って男が天馬に跨る。天馬はその翼を大きく広げて嘶いた。

 

「今日のところは挨拶だけ、な。お前さんが生きていれば、また顔を合わせる事もあるだろうさ」

 

 そう言い残し、男は天馬と共にこの場から姿を消した。

 

 

 

 

 

 男が姿を消すと『留まって』いた時間が再び動き出し、動けない海斗へと燃え盛る炎が迫る。

 その窮地を救ったのは、異変を察知しジャミールへと戻ったムウであった。

 

 そして、戦いの舞台は聖域へと移る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……アリエスは間にあったか。随分とタイミングのいい事で。これもお花ちゃんの――アテナの加護ってか?」

 

 こっちの神様にも見習って欲しいものだ。

 

「過保護と言うか、甘ちゃんらしいと言うべきか」

 

 お気に入りのシルクハットを指先で器用に回しながら男は呟いた。

 

「今回も主演は天馬座(ペガサス)とアテナだと思ってたんだが……エゲツないねぇ、あのお花ちゃん。意図したものとは思えないけど、いくら兄弟星だからって……」

 

 ――神殺しの業、ペガサスだけではなくエクレウスまで引っ張り出すか。

 

 男は笑う。

 両手を広げ、楽しそうに、可笑しそうに、まるで無垢な子供の様に。

 

天馬座(ペガサス)の兄弟星である子馬座(エクレウス)。俺の因果とするにはそれだけで十分な理由だ」

 

 男は嗤う。

 両手で自らの身体を抱きしめ、愉しそうに、堪らないと。

 

「舞台は俺が用意しよう。どんな演目であろうと素敵に演出してやるさ。踊れエクレウス、踊れ演者諸君! 神も、魔も、人も――」

 

 

 

「――この冥闘士(スペクター)天魁星メフィストフェレスの掌でさァ!」

 



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第14話 激闘サンクチュアリ! 立ち向かえ聖闘士(前編)の巻

 神話の時代より常に噴煙を立ち昇らせる火山島。そこでは今より二百数十年程前に一度大きな噴火があったと歴史は記している。

 幸いにして大きな被害が出る事もなく、一説には噴火を食い止めたのは若き少年――聖闘士であったとも言われているが、今となってはその真偽について語れる者はいない。

 常に熱く滾る大地の力に満ちたこの島は、効能高い湯治場として現在も遠方から多くの人々が訪れている。

 

 そこは、地中海に浮かぶ島々の一つ――カノン島。

 人々の知る表の顔と、神秘によって隠され裏の顔を持つ島である。

 

 

 

 噴煙と熱波に満ちたその火口。

 煙とガスに満ち、生身の人間では立ち寄る事の出来ないその場所で、時折りゆらりと動く影――人影があった。

 金色の鱗衣を身に纏った男の姿があった。

 まるで『そうするために』あつらえられたかの様に形作られた岩に腰を下ろし、静かに瞑目をしている。

 海斗との戦いの後に何処かへと姿を消した男――カノンの姿がそこにあった。

 

「驚いたな。肉体の負傷だけではなく、まさか鱗衣の破損まで修復されているとは」

 

「……何の用だ?」

 

 知己の声に、カノンが億劫そうに閉じていた瞼をゆっくりと開く。想像通り、その目には鱗衣を纏ったソレントの姿が映る。

 

「湯治と言うものは知っているが、噴煙の中七日七晩身を置くならば、だったか。カノン島の伝承、まさかこれ程のものだったとは。しかし、普通の人間ではそれに気付く前に命を落とす」

 

 穏やかな笑みを浮かべるソレント。その表情はカノンの知るソレントに違いはない。

 

「ならばそれに気付けるのは普通ではない存在。人知を超えた存在なのだろう。海闘士には伝えられてはいない伝承であるならば、それを伝えているのは――」

 

「もう一度聞く。何の用だ」

 

 しかし、ソレントの言葉の中に含む様な“何か”を感じ取った事で、カノンの言葉にもどこか棘の様な物が含まれる事になる。

 僅かに立ち昇ったカノンの小宇宙はまるで拒絶の意思を示すかの様に、周囲に斥力を伴った力場を生じさせていた。

 

「お見舞だよ。しかし、『傷付いた聖闘士が噴煙に身をひたし再び立ち上がる』だったかな」

 

 力場の圧が増し、周囲の岩肌に亀裂が奔る。

 その力場はソレントをも巻き込んでいたが、当の本人には全く意に介した様子もない。

 ソレントは海闘士の中でも早期に覚醒した事も有り、海闘士の中ではカノンとの付き合いが最も長い人物である。

 カノンが見せるこの不安定さには最早慣れたものであった。

 

「伝承が……伝えるものなど真実の一端にしか過ぎん。“聖闘士の様な”力ある存在しかこの場所に留まる事が出来なかった、ただそれだけよ」

 

「……アテナの加護故の奇蹟、その可能性は? 我等海闘士にとってこの地は、この場は毒であったかも知れん」

 

「くどいぞ。言いたい事があるならばハッキリと言ったらどうだ」

 

「別に。ただ疑問に思った事を口に出しただけ。他意は……ないさ」

 

 肩を竦めてそう言うソレント。

 カノンはそれを苦々しく思いながらも一瞥すると、「そうか」と呟きゆっくりと立ち上がった。

 

 お互いに無言。そのまま暫く。

 

「フッ、まあいい」

 

 ややあって、先に口を開いたのはカノンであった。

 

「それよりも、だ。俺は言ったはずだ、迂闊に動く事は控えろ、と」

 

「言ったでしょう? 貴方を心配して、ですよ」

 

「ぬかせ。『俺に成代わるために命を取りに来た』そう言われた方がまだ納得できる」

 

 軽く腕を振り調子を確かめながら、カノンはシードラゴンの鱗衣の状態も確認する。

 

「状況は把握している。この纏わり付く様なドス黒い不快な小宇宙。やはり――ギガス共が目覚めた様だな」

 

「地上支配を目論む彼らの存在は、我等にとっても見逃す事は……」

 

「お前の言いたい事は分る。だが手出しは無用だ。他の海将軍達にも――そう伝えておけ」

 

「……静観するのか? 手遅れになる可能性も有る。私としては……承知しかねる、と言わせてもらう」

 

 海将軍シードラゴンのカノン。

 その力は海闘士の中でも群を抜く、言うなれば絶対的強者。

 

「ギガントマキア、それを知らない貴方ではない。そう認識してるのだがな」

 

 最も早く海闘士として目覚め、海皇の名の下に全ての海闘士を統べる者。

 それがソレントの知るシードラゴンの全てである。

 海闘士の誰もがシードラゴンの事を知ってはいても、“カノン”の事を知らない。

 

「ギガス――奴等が万全であれば或いは、な。だが、今の奴等ではさしたる脅威にもならん」

 

 そう言って、カノンは聖域のある方向へと視線を動かした。

 それは、ソレントが知る限り普段の傲慢とも思える程に自信に満ちたカノンから一切の色が失われる瞬間。

 

「聖闘士共には精々頑張って貰うさ。露払いには丁度良い」

 

 しかし、それも一瞬の事。

 

「では戻るか、我らが城に」

 

 カノン自身意識しての事ではなかったのか。踵を返すとこの場から離れるべく歩き始めた。

 

「シードラゴン、貴方は――」

 

 そこまで口に出しながら、ソレントは続ける事を止めた。

 

(貴方には謎が多過ぎる)

 

 先日の事である。

 シーホースとスキュラの海将軍が覚醒を果たし、遂に六人の海将軍が揃った。残る海将軍はクラーケン。しかし、未だクラーケンの鱗衣は覚醒の兆しを見せてはいない。

 ソレントはそこにどうしても引っ掛かるものを感じていた。

 

(それでは、スニオン岬でシードラゴンと戦った彼は一体何者だ? あれほどの力量であれば間違いなく海将軍だ。しかし、残るクラーケンであるならば、鱗衣が反応を見せているはず)

 

「……まさか、な。トリトンなど、あれこそ伝説、伝承に過ぎん」

 

 海闘士でありながらアテナの聖闘士であり、シードラゴンを追いつめる程の力量を持つ存在。

 彼への執着、双子座の黄金聖衣の介入、多くを語ろうとしないシードラゴン。

 本の口から語られぬ以上、何を思ったところで全ては推測でしかない。

 

(「海闘士を纏め上げる力量。シードラゴンとしての貴方は信用出来る。しかし、“カノン”としての自分を隠し続けるならば)

 

 そこまで考えながら、ソレントは頭を振って浮かび上がる疑念を振り払う。今はまだ詮無き事だと。

 だから、ソレントは当たり障りのない、しかし気にはなった事を尋ねてみる事にした。

 

「聖闘士が敗れる様な事があれば?」

 

 答えを期待していた訳ではない。

 ソレントにとっては自分の気を紛らわす、その程度のつもりでしかなかった。

 

「それが起こり得るとするならば、可能性としてはアレの復活か、それとも……。いや、それを許す程に間抜けでもあるまい」

 

「……説明義務という言葉を知っているか?」

 

 その言葉に歩みを止めたカノンは、ゆっくりとソレントへと振り返り――

 

「フッ、憶測に過ぎん事をベラベラと喋る物でもなかろう? まあ、万一にでもその様な事態になれば……」

 

 ハッキリと言った。

 

「俺が片を付ける」

 

 

 

 

 

 第14話

 

 

 

 

 

 聖域には聖闘士となるべく修行する多くの聖闘士候補生達がいる。

 その大半は十代の少年少女である。

 そして、聖域を守る雑兵の多くは、聖闘士を目指し修行を積んだ者達である。

 その多くは青年から壮年であった。

 これには、少年期を過ぎた者の小宇宙の体得率が著しく低下する事が関係している。

 少年期の内に小宇宙を体得出来なかった彼等にとって、聖闘士は絶対であり、憧れであり、夢であり、希望である。

 聖域に於いては最下級とされる彼等ではあるが、修練により得たその力は“普通の人間に比べて”遥かに高みにあり、だからこそ自分達も『聖衣さえあれば』と思い願う。

 

 その想いが自らを高める糧となるのか、妄執として枷となるのか。それは、誰にも窺い知る事は出来ない。

 

 

 

 聖域東側の城楼。

 聖域を守るのは結界だけではない。物理的な城壁もまたぐるりと周囲を覆う様に建てられている。

 

「くっ、ひ、怯むな! 怯んではならん!!」

 

 物見台に立った雑兵――兵士長が声を張り上げる。

 迫り来るギガスの徒兵を前に、ここを守る兵士たちの気合の声が響く。

 突然の襲撃に即座に対応できた者は極僅か。指示も何もあったものではない。

 

「うおおおおおお!!」

 

 眼前の恐怖から自らを鼓舞すべく、雄叫びを上げて立ち向かう兵士たち。

 

「くそっ! 何なんだあの鎧は!? 硬過ぎる!!」

 

「おい! そっちに行っ――逃げ――」

 

 彼ら兵士たちに迫るのは雑兵に過ぎなくともギガス。

 人間を凌駕する身体能力、聖衣を彷彿とさせる鎧、倒しても倒しても立ち上がるその姿。

 前聖戦から今日まで、かろうじて保たれていた平和。故に、聖域の兵士達の多くは人ならざる者との戦いを経験していない。

 

「こ、こいつら痛みが無いのか!?」

 

「くっ、わあああ、うわああああっ!!」

 

 突然の襲撃、未知なる敵に成す術無く兵士たちが倒れる。

 しかし、その命は無駄ではなかった。

 

「敵は多くはない! 一人で向かおうとするな! 三人で掛かれ!! 倒せない相手では!!」

 

 そう、決して“倒せない”相手ではない。

 数人掛りであるとは言え、確かに“倒せている”のだ。

 その事実が彼らの闘志を支え――希望を繋ぐ。

 

「お前達――下がれ!」

 

 大気を切り裂く拳圧がギガスの身体を弾き飛ばし、次いで白銀の輝きが兵士達の傍を駆け抜けてギガスへと向かう。

 

「ここからは我々の仕事だ!」

 

「おお!! 皆! 白銀聖闘士様だ!!」

.

 戦場に現れた白銀(シルバー)の輝き――聖闘士達の姿が希望となる。

 

「ここは聖域! 貴様等の勝手がまかり通る等とは思わぬ事だ! 行くぞアルゲティ! ディオ!」

 

「応!」

 

「おうよ!」

 

 巨犬座(カスマニヨル)白銀聖闘士(シルバーセイント)シリウスの堂々たる宣言に、ヘラクレス星座の白銀聖闘士アルゲティが、銀蠅座(ムスカ)の白銀聖闘士ディオが応じる。

 先頭を走るのはシリウス。

 白銀聖闘士屈指の敏捷性を持つ男。

 

「シリウス! 何人か抜かれているぞ!!」

 

 天高く飛翔したディオが叫ぶ。

 その星座が司る様に、ディオの得意とするのは空中戦であり、その跳躍力と滞空時間は白銀聖闘士の中でも上位に位置していた。

 上空から見れば良く分る。既に戦域は聖域全体に広がっている事が。

 

「構うな、向こうはシャイナやモーゼス達に任せておけ!」

 

「俺達はここにいる奴等を叩きのめす! まとめて喰らえ、このヘラクレス星座アルゲティの必殺技を!」

 

 目前へと迫るギガス達を前に、アルゲティがその身を屈めて地面に両手を突き刺す。

 

「そうれっ! 天高く舞い上がり叩きつけられて砕けろ!! “コルネホルス”!!」

 

 コルネホルスとはギリシア語で棍棒を持つ者の意。

 アルゲティは白銀聖闘士の中でも最も大きな体躯とパワーを持ったヘラクレス星座に恥じぬ剛腕の持主。

 裂帛の気合と共に、ギガス諸共地面をめくり上げ天高く放り上げた。

 

「うおぉおおおお!?」

 

「ぐああああああっ!!」

 

 高速で吹き飛ばされる事で身動きを封じられたギガスは、受け身を取る事も許されず、舞い上げられた土砂と共に次々と地面へと叩き付けられる。

 コルネホルスから逃れたギガスも、体勢が崩れた隙をシリウスとディオに狙われ打倒されていく。

 

「おおっ!」

 

「凄い、これが聖闘士の力か!?」

 

 劣勢から転じての圧倒的な逆転劇。それは見守る兵士たちの士気を否応もなく高める。

 

「フッ、伝説のギガスとはこの程度か。精々が青銅レベルより、と言ったところだな」

 

「くくく、まあ所詮は過去の遺物だ」

 

 それは、シリウス達とても同じ事。

 かつて、神話の時代にオリンポスの神々すら退けて見せたギガスとはこの程度かと。

 

「……お、おい?」

 

 高揚に沸く中で、周囲を確認する余裕が生まれたのか、ある兵士が奇妙な事に気が付いた。

 

「ちょっと見てみろよ。死体が……」

 

 倒されたギガス達の身体が次々と土くれと化して砕けて行く事に。

 

「人間じゃ……生物でも無い? こ、こいつ等は!?」

 

 

 

『――この程度、その認識は間違ってはいない。なぜならば、そいつらは全て土くれ(木偶)に過ぎんのだ』

 

 その“声”は、その場にいた者達全ての脳裏に響いた。

 

『――貴様等虫けらを掃除するためのな。虫けらを始末するのに態々我が手を汚す必要がどこにあるのか』

 

「――!? 巨大な小宇宙」

 

「い、いかん! 避けろアルゲティ!! お前達も下がれッ!」

 

「う、うわあ――あああああっ!!」

 

「こ、これは!? 何だ、この強大な……異常な小宇宙は!?」

 

 

 

「我が名は紅玉(アントラクマ)の鉄《ジギーロス》!」

 

 

 

 それは、紅く輝く巨大な鉄鎚を持った、黒く輝く金剛衣に全身を包んだ巨人であった。

 腕も、脚も、胴も、全てが巨大。

 

「こ、コイツは!? こ、この小宇宙は我等を遥かに――いや、違う! これは、これではまるで――」

 

「――“光槌破砕”!」

 

 ジギーロスの手に握られた鉄鎚が紅の輝きを纏って振り下ろされる。

 目を焼かんばかりの閃光、耳をつんざく様な爆音が周囲を埋め尽くす。大気と大地が激しく揺れる。

 巨人の名乗りと共に振り下ろされた鉄鎚は大地を穿ち、光を纏った衝撃波が水面に浮かぶ波紋の様に周囲へと広がり弾けた。

 

 そして、静寂が訪れる。

 

 破壊の中心にて悠然と立つジギーロス。

 破壊の波濤は触れた物全てを粉砕していた。

 岩も、城壁も、残っていたギガス達ですらも。

 

 自らの一撃で更地と化した足下の様子に、いつもの事と、さして気にするでもなくジギーロスが歩を進める。

 目指すは遠くに映る六つの炎を灯した火時計。

 巨体の動きで風が吹き、その流れが粉塵を舞い上がらせる。

 

「う、ううぅう」

 

「……あ、ぐく……」

 

 僅かながらも聞こえた呻きの声にジギーロスはその歩みを止めた。

 

「ほう」

 

 その口から感嘆の声が漏れる。

 粉塵が晴れた先には倒れ伏した白銀聖闘士たちの姿。

 聖衣は砕け、肉体的にも重傷を負ってはいたが、その身は城壁やギガスの徒兵の様に砕け散ってはいない。

 しかも、その後ろには意識を失くした聖域の兵士たちの姿もある。

 

「余波とは言え、我が紅玉槌の一撃を受けて消えぬとは中々大したもの。だが――無駄な事。倒れたその身で何ができるのか。ただ――無力」

 

 そう言ってジギーロスは鉄鎚を振り上げると、一切の躊躇をする事なく振り下ろした。

 

 

 

 

 

 聖域の外れにある修練場。

 打ち砕かれた資材や鮮血に赤く染まった大地、粉砕され、めくれあがった石畳がこの地で起きた戦いの凄惨さを物語っていた。

 この場にいたのは聖闘士を目指し修練を積んでいた若者たち。

 希望に満ちた声、情熱が生みだしていた熱気。今やその全てが失われていた。

 僅かに聞こえるのは怨嗟の声か、苦痛にむせび泣く声が、呻きが、生への渇望が。それだけが辺りに響き渡る。

 

 むせかえる様な濃密な死の香りが漂うその中心に、全身を返り血で赤く染めた巨人の姿があった。

 中世の騎士が身に纏った甲冑の様な、全身を黒い金剛衣に身を包んだ巨人。そして白い甲冑の様な金剛衣に身を包んだ巨人。

 そして、剣闘士を思わせる軽装な金剛衣に身を包んだ巨人。

 

「ヒヨコですらもっとマシではないか? レウコテース()アネモス()よ」

 

「そう言うな。育てれば卵を産む分、ヒヨコの方が遥かにマシだとは思わんか? メラース()ブロンテー()

 

 ハハハハハ、そう声を大にして笑う白と黒のギガス。

 その様子を見て、意識のあった候補生や兵士達には、あるいは恐怖に震え、あるいは悔しさに唇を噛み締める事しか出来なかった。

 そう、この場にはまだ絶命した者はいない。彼らはほんのちょっぴりではあったが、まだ“生かされて”いたのだ。目の前の巨人達はいつでも自分達を殺せるのだと、その事がハッキリと分っていた。

 瓦礫に半身を埋められながら、見ている事しか許されない男は涙していた。

 死を恐れているのではない。

 戦士となるべく聖域に来た時点でその事は覚悟していた。

 悔しかったのだ。

 絶対的な力を前にして余りにも無力な自分が。

 恐ろしかったのだ。

 このまま“何も成す事なく”死を迎える事が。

 このままでは只の犬死。受け入れられる訳がない。

 意味が欲しかった。どんな小さなことでも良い。戦士として生きると決めた以上、死ぬ時には意味が欲しかった。

 

(力だ! 何者にも屈さない圧倒的な力!! それさえあれば、それさえ……あれ……ば俺だって――)

 

「さて、では我等も動こうか。お前はどうするのだ、ポインクス()リュアクス(熔岩)よ」

 

「そうだな、ここにいる雑魚共ともう少し遊んでから動こう」

 

「それは構わんが、程々にしておけよ? 我等の使命は聖域の破壊だけではないのだからな」

 

「分っている」

 

 そう言ってアネモスとブロンテーがこの場を去ると、リュアクスは生き残っている者達の下へと向かい歩き出した。

 

(力、力、力、力、ちから、ちか――)

 

 目前に迫る血に濡れた巨大な拳。

 男が意識を失う直前に見たのは、醜悪極まる笑みを浮かべた暴力の具現たる存在であった。

 

 

 

 

 

「余波とは言え、我が紅玉槌の一撃を受けて消えぬとは中々大したもの。だが――無駄な事。倒れたその身で何ができるのか。ただ――無力」

 

 そう言ってジギーロスは鉄鎚を振り上げると、一切の躊躇をする事なく振り下ろした。

 

「“光槌破砕”!」

 

 爆音が響き閃光が再び周囲を覆い尽くす。

 衝撃は光り輝く波濤となって、全てを粉砕せんと倒れたシリウス達に迫る。

 

「……何だと!?」

 

 光を受けた者達はその身を砕かれて塵となる。

 そうなるはずであった。

 

 振り下ろしたその手に握られたのは鉄鎚の柄のみ。

 

「紅玉槌が折れた? いや、この痕跡――これは!?」

 

 その事実にジギーロスが到達した時、ドゴンッ、という轟音を響かせて鉄鎚が落ちた。

 

「これ以上、無差別な破壊を振り撒かせる訳にはいかんのでな。先ずは、その武器を破壊させて貰った」

 

「……何者だ!」

 

 聞こえてきた声にジギーロスが視線を向ける。

 現れたのは、黄金に輝く聖衣を身に纏った巨漢であった。

 

「黄金に輝く聖衣、黄金聖衣。そしてマスクにある巨大な二本の角と聖衣に施された意匠。そうか、……貴様がこの時代の黄金の野牛――タウラスか」

 

「人に名を尋ねるのなら、先ずは自分が名乗れ。それが礼儀だ。いや、所詮は旧き蛮族でしかないギガスに礼儀を求めても無駄か?」

 

 ならば、そう言って男はジギーロスに向かい真っ直ぐに歩を進める。

 

「この俺が――タウラスのアルデバランが、貴様に礼儀を叩き込んでやろう」

 

 ジギーロスの前に立ち、両腕を組んだアルデバラン。

 見上げねばならない巨人を前にして、まるで見下すかの様に悠然と言い放つその態度は大胆不敵。

 それは、明らかな侮辱。ジギーロスにとって、アルデバランのその姿勢は神をも恐れぬ許されざる不遜であった。

 

「虫けら如きが何たる不遜! 万死に値する! 神をも恐れぬその厚顔、言葉の如く討ち砕いてくれるわ!!」

 

 激昂したジギーロスが掲げた両腕に紅い輝きが宿る。

 その輝きは紅玉槌と同じ輝き。

 

「紅玉槌を破壊した程度で思い上がるでないわぁっ!!」

 

 鉄鎚をそうした様に、ジギーロスは己の両腕を大地へと叩き付ける。

 

「光腕破砕!!」

 

 放たれる紅い輝き、鳴り響く轟音。

 紅い衝撃破がアルデバランに迫る。

 

「己の傲慢を悔いあらた――」

 

 悔やめと、思い上がるなと言い捨てようとしたジギーロスの声が驚愕に震えていた。

 

「――な、何だとぉおっ!?」

 

 全てを破砕するはずの破砕光が押し止められている事に。

 腕を組み、不動のままのアルデバランの目の前で。

 不可視の障壁。目の前の光景をジギーロスにはそう表現する事しか出来なかった。

 

「フンッ、この程度の涼風が如何程のモノか……。この程度、この程度で――このアルデバラン揺らぎはせんッ!」

 

 アルデバランの一喝。

 それを切欠として、密度を増した障壁と光腕破砕のエネルギーが消滅する。

 

「う、うう、うおおおおおおおおおっ!!」

 

 人は、己の理解の範疇を超える存在と対峙した時に恐怖を覚えずにはいられないという。

 それを受け入れるのか、拒絶するのか。対峙したその先に取る行動にこそ、人の真価が現れる。

 ならば、このジギーロスの上げた咆哮は、未知への存在に対する恐怖であったのか、それとも……。

 

「矮小な人間如きが! 神に刃向うと言うのかあぁあああっ!!」

 

「むうっ!? この速度は!」

 

 無数に繰り出されるジギーロスの連撃。

 巨体から繰り出されるその連撃の速度にアルデバランは驚愕する。

 

「そうか、貴様の闘法は鉄鎚を用いた物では無く――」

 

「我が名はアントラクマジギーロス! 紅とは血、鉄とは我が拳! この拳こそが紅の鉄よ!!」

 

 矢継ぎ早に放たれる拳がアルデバランを捕える。

 鋼と鋼が打ち合う様な音を響かせてジギーロスの連撃が続く。

 アルデバランの足下が連続する衝撃と圧力に耐え切れずに砕け始める。

 

「ぬぅおおおおおああああああ!!」

 

「くっ、速い!」

 

 砕けた大地は土砂となり、アルデバランを中心として舞い上がる。

 

「砕け散れ人間よ! 神に逆らった己の愚かさを悔やめ!!」

 

 ジギーロスが振り上げた巨碗は言わば撃鉄。

 その腕に込められた破壊の力を打ち出すための。

 

「光腕破砕!!」

 

 破砕光を纏った拳がアルデバランに振り下ろされる。

 

 ドンッ、という音が鳴った。

 

 打ち出された光輪は拳を伝い、アルデバランの身体を包み込む。

 圧力に押される様に、大地に巨大なクレーターが作りだされた。

 

「く、くくく、くはははははは――!?」

 

 振り下ろされた拳は確かにアルデバランを捕えていた。

 直撃。無事で済むはずが無い。粉微塵に砕け散っている。

 

(ならば、この拳に“感じている”手ごたえは何だ!?)

 

 全てが終わったのであれば感じるはずの無い感触。

 そこに在る、と。ハッキリと判る感触。

 

「ば、馬鹿な……」

 

 金色の輝きが在った。

 大地に根差す大木の様に両の足で大地を踏みしめ、腕を組み仁王立ちするアルデバランの姿が。

 

「む、むぐぅううう……!」

 

 それだけではない。

 アルデバランから立ち昇る小宇宙は衰える事が無く、今この瞬間も高まりを見せている。

 ジギーロスにはアルデバランがギガスである己すら圧倒する程の巨人に見えていた。

 

「貴様の拳は確かに早く力強い、まさしく暴力。だが、そんな拳では――このタウラスを怯ませる事など出来ぬと知れ!」

 

 知らず、ジギーロスの足が動いていた。後方に――一歩。

 

「我の拳が……効いていないと言うのか!?」

 

 ダメージは有るのだろう。

 よく見れば、聖衣の隙間から覗く肉体には擦り傷や打撲の痕が見て取れる。

 だが、それだけでしかない。

 全身全霊を込めた一撃で“この程度の”ダメージしか与える事が出来なかった。

 

 アルデバランが一歩を踏み出す。

 ジギーロスが一歩下がる。

 アルデバランが一歩を踏み出す。

 ジギーロスが二歩下がる。

 

「冥府へと戻れギガス。地上に我等聖闘士が在る限り貴様等の好きにはさせん!!」

 

 アルデバランの背後に浮かび上がる黄金の野牛。

 それは、小宇宙の生み出す力のビジョン。

 

「神を騙る者よ。聖闘士が、このアルデバランが信じる神はただ一つ……」

 

 それは、極限まで高められたアルデバランの小宇宙が生みだす力の具現。

 

「女神アテナただ一人よ!」

 

 それは、対峙する者に抜き手の動すら見せぬ――神速の居合。

 極限にまで高めた小宇宙を両腕に集束させ――肉体と言う鞘から一瞬の内に解き放つ。

 

「う、うおおおおおおおおおおおおおお!?」

 

「受けよ、タウラス最大の拳!!」

 

 そこから生み出される衝撃波はあらゆる物を撃ち貫き破壊する。

 それは破壊の暴風。

 

威風檄穿(グレートホーン)!!」

 

 その瞬間、ジギーロスは己に迫り来る――猛れる黄金の野牛を見た。

 

「た、耐えきれん! 押し切られ――」

 

 堪えようとするジギーロスの眼前に迫る巨大な掌底。

 

「ぐぅわあああああああああああああああ!!」

 

 感じた衝撃は一瞬。ジギーロスはその先を知る事はなかった。

 

 

 

「――愚かさを悔やめ、貴様はそう言っていたな?」

 

 風がジギーロスの巨体を吹き飛ばし、その意識を四散させ――

 

「確かに悔やまねばならん。な。貴様の所業にどうにも加減が出来なかった。倒す前に――礼儀を叩き込む事を忘れていたわ」

 

 ジギーロスという存在そのものを破壊した。



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第15話 激闘サンクチュアリ! 立ち向かえ聖闘士(中編)の巻

 人が地を這う蟻の生死に何の関心も抱かぬ様に。旧き神族であるギガスにとって人間とはその程度の存在である。

 リュアクスに関して言えば、他のギガスに比べても特にその考えが強い。

 

「くくくっ。そうだ、その表情だ、その嘆きだ」

 

 だから、であろうか。

 オリンポスの神々の加護を受けていたとは言え、かつて自分達を冥府へと封じたのはその取るに足らぬとしていた人間の戦士。

 

「もっと見せろ、もっと聞かせろ。絶望と恐怖に満ちたその情念こそがオレの渇きを満たすのだ!」

 

 その記憶が、人間への憎しみが、憎悪の記憶がリュアクスの嗜虐性を加速度的に高めていた。

 無関心が反転し、歪みの果てに辿り着いた思考――ヒトの存在を無価値と断じ、その全否定へと。

 

「グフフフッ。辛かろう、苦しかろう? さあ、このまま死にたくなければ抗ってみせろ」

 

 生かさず、殺さず。全てはこの時の為に。倒れた者達の中から意識を保っている者を見付けるとリュアクスは嗤った。

 

「抗えぬのならば死ぬのみよ。恨むなら己の弱さを恨むのだな。弱いとは――」

 

 目が合ったのは幼い少年。彼の頭部を鷲掴みにすると、周囲に見せ付ける様に掴み上げジワリジワリと力を込める。

 

「それだけで罪よ。そうらどうした? ほんの少し力を入れただけだぞ?」

 

「あ、あが、ぎ……ゃぁあああ……」

 

 ある者は目を閉じ、ある者は耳を塞ぎ。

 無力な己を呪いながら、目の前の暴力を見ている誰もが少年の死を確信し、訪れる惨状を幻視していた。

 反応の無くなった少年に向かって「つまらん」と呟き、リュアクスは手にした少年を放り投げる。

 あのまま地面に落ちれば死ぬ。それが分っていても動ける者はいない。

 

 だが――

 

 何時まで経っても少年の身体が地に落ちる音が、その気配が無い。

 誰かが恐る恐る少年の行方を捜した。

 

 そして、見た。

 

 宙に浮かぶ少年の姿を。意識は失っている。だが、上下する胸元が少年の生を示していた。

 

「弱さは罪、か」

 

 それは、若い男の声だった。

 少年の背後から眩い輝きが溢れ出し、それを見ていた者が瞬きする間に輝きは人の形となっていた。

 砕けた石畳の上を、音も無く歩む男。

 黄金に輝く聖衣を身に纏い、薄く笑いを浮かべたその表情、その雰囲気は不敵にして傲岸不遜。

 

「同感だ。良い事を言うな。そう、弱い事はそれだけで罪だ」

 

 現れた男の声に、リュアクスは己の意識を瞬時に戦いのソレへと切り替えた。

 気配を感じさせる事無く現れた男を無意識の内に警戒したのだ。

 

「だがな? それをそう断罪する権利が――資格がお前にあるのか? そんなにお前は強いのか? オレにはな、とてもそうは見えないんだよ」

 

「……その聖衣、貴様黄金聖闘士か。何者だ?」

 

蟹座(キャンサー)だ。キャンサーの黄金聖闘士デスマスク。ああ、名乗らんでいいぞ? オレに滅ぼされる雑魚の名前なんざ一々覚えていられんのでな」

 

「雑魚……だと? このオレが、神であるこのリュアクスを貴様の様な虫けらが“弱い”と――ほざくかぁあっ!!」

 

 リュアクスの巨体から繰り出す剛腕の一撃は、全てを薙ぎ払う嵐の如く。

 

「ハッハァーッ! この程度の挑発でブチ切れるのか? 流石は神様、気が短いなぁ!」

 

 その嵐をデスマスクは笑みを浮かべたまま涼しげに避ける。

 

「おうおう、オッチョロピーってな。それで、どこが弱いって? まず一つ、頭が弱い」

 

 遠巻きに眺めていた兵士の下へ、気絶した少年を送ってみせる余裕すら見せて。

 

「技法も何もあったもんじゃないなぁデカブツ。扇風機ならもっとマシな風を送ってくれるぞ?」

 

「があああああっ!」

 

「ハッ、阿呆が」

 

 滅殺の意が込められた攻撃は、成程、当たればただでは済まないのだろう。

 

「当たれば、な」

 

 だが、それも全ては怒りに身を任せての単調な攻撃。

 それを避ける事はデスマスクにとっては造作も無い事。

 

「まあ、空振りの余波だけで大地が抉れるってのは……流石は自称神様って事か」

 

 巻き上げられた土砂は散弾と化し、周囲に破壊の雨を降り注ぐ。

 散弾の中には息絶えた兵士達の遺体も混ざっていた。

 リュアクスは人間を虫けらと蔑んだ。遺体の事など気にもしていない。

 

「……チッ、面倒臭い……」

 

 そう呟きながら、デスマスクは飛散する“それら”を自らの拳や蹴りで次々と撃ち落とす。

 弾かれる散弾には赤い色が混じっている。その事に気が付いた者達の中には目を逸らす者も、嫌悪感に顔を顰める者もいた。

 しかし、デスマスクを非難する事は誰にも出来ない。

 その行為のおかげで、自分達が破壊の雨から守られている事を解っている為だ。

 

「うがぁらぁああああああっ!!」

 

 薙ぎ払う様に振るわれたリュアクスの拳を掻い潜り、デスマスクは無防備となった胴体を力任せに蹴りつける。

 

「二つ、技量が低い」

 

 ギシッ、という軋みを響かせて金剛衣に亀裂が奔り、衝撃が波となって浸透しリュアクスの巨体を浮かび上がらせていた。

 そして、自らの身体を反転、宙に浮くリュアクスに背を向けるとサッカーで言うところのオーバーヘッドキックの要領で大地へと蹴り飛ばす。

 

「ガァああああああああああっつ!!」

 

 大気と大地を震わせて瓦礫の中へと叩きつけられたリュアクスであったが、憤怒の表情を浮かべて即座に立ち上がる。瓦礫を吹き飛ばしながら拳を振り上げてデスマスクへと迫る。

 

「ぐ、ぐぐぐっ、ば、馬鹿なああ!?」

 

 響き渡るリュアクスの声。

 己の一撃がデスマスクの手に受け止められていた為に。

 

「三つ、動きが遅い。ウスノロが」

 

「何故だッ! こんな事が――」

 

 それだけでは無く、逆に押し返されようとすらしている事に。

 

「四つ、まるでなっちゃあいない。馬鹿力だけでこの俺の相手が務まるか」

 

「ぬあっ!?」

 

 瞬間、デスマスクが手を引いた事で、リュアクスは押し込もうとするその勢いのまま前のめりになり、体勢を大きく崩した。

 

「ほれ、間抜け」

 

 踏ん張ろうとした足を払われ、頭から地面へと倒れるリュアクス。

 起き上がろうと手を着けば――

 

「――頭が高い」

 

 笑みを浮かべたデスマスクが右脚を振り上げ――リュアクスの頭を踏み抜いた。

 

「ぶぐああああっ!!」

 

 顔面を地面に打ち付けられるリュアクス。

 

「ハハハッ、い~い土下座だなぁ。ハハハハハ! 総評だ! 弱過ぎるぞカミサマ!」

 

 巨人の後頭部を踏みつけながら、デスマスクの嘲笑が響き渡る。

 その言葉の通り、両手を地に付けて頭部を地面へと埋め込まれたリュアクスの姿は土下座以外の何物でもなかった。

 

「おいおい、どうしたよ神様? マンモス哀れな姿だなぁ? 下に見ていた人間から見下される気分を教えてくれよ。それとも、虫けら相手じゃあ本気を出せないのか? それともこの程度が全力か?」

 

 この光景を見ていた者達は言葉を無くしていた。

 聖闘士という存在に、自分達を歯牙にもかけなかったあのギガスを相手に見せたデスマスクの圧倒的なまでの強さに。

 

「チッ、神と聞いて多少は期待していたんだがな……」

 

 不満気に呟かれるデスマスクの言葉。皆がデスマスクの勝利を確信していた。

 これで終わったと。そう誰かが安堵の息を吐いたその時であった。

 

「がぁああああああああぁっ!!」

 

 獣の如き咆哮を上げてリュアクスが立ちあがった。

 その手はデスマスクの左足を掴み取り、彼の身体を一気に引き上げるとまるで小枝の用に軽々と振り回す。

 

「殺す! 捻り潰す!! 叩き潰す!!」

 

 憤怒、屈辱、恥辱。リュアクスの顔は鬼の形相と化していた。

 デスマスクを振り上げて大地に叩き付ける、振り上げて叩き付ける。何度も、何度も何度も。

 

「その身を引き裂き四肢を捩じ切る!! 臓物をばら撒き魂魄すらも破壊する!!」

 

 頭上に振り上げたデスマスクを両手で掴み、その身を引き裂こうとリュアクスが力を込める。

 赤黒い靄の様な何かがリュアクスの両腕に纏われると、それは瞬時に業火となってデスマスクを包み込んだ。

 紅の熔岩、その名が示す通りリュアクスは炎を、熱を操る力を持つ。

 

「虫けらが! 脆弱な人間が! 弱者が強者に逆らうな!! 神が人に屈するなどあってはならんのだ!! 貴様の罪は――」

 

 重い。その一言を口に出そうとしたリュアクスが動きを止めた。

 生きたまま炎で焼き、その身を引き千切る。そうするはずであった。リュアクスにとって決定事項であった。

 この期に及んで手を止める理由は無い。なのに、腕が動かない。

 腕だけではない。脚が、首が、全身が動かない。動けない。

 視覚と聴覚、味覚、嗅覚は正常。しかし、触覚のみが絶たれているという異常。

 耳からは不快な音が、声が響き始め、それが摩耗し始めていたリュアクスの精神をより一層掻き乱す。

 そして“デスマスクの身を包んでいた炎の色が変わる”という、目の前で起きているあり得ない光景に思考が追い着かない。

 赤い炎がその色を徐々に蒼へと変える。蒼が赤を侵食する。

 

「俺の罪が何だ? 強過ぎる事か?」

 

 炎がその全てを蒼へと変えた時、リュアクスの前には依然変わらぬ不遜な笑みを浮かべたままデスマスクが立っていた。

 

「な、何だと! 何だこの蒼い炎は!? なぜオレの身体が動かない! この音はなんだ! この不愉快きわまる声は何なのだッ!!」

 

「積尸気」

 

 そう言って、デスマスクが右手を掲げる。人差し指を立て、まるで天へと道を示す様に。

 デスマスクから立ち昇る異様な小宇宙に、リュアクスは言い知れぬ何かを感じていた。

 遥かな昔に感じた事があったこれは一体何であったのかと。

 

「どうやら声は聞こえても、姿は見えてはいないのか。ならば見せてやろう」

 

 デスマスクがその指先をリュアクスへと向けた。

 すると、リュアクスは周囲に浮かび上がる幾つもの燐光を見た。

 それを認識した途端、これまで以上に悲鳴とも叫びとも、咆哮とも感じ取れる音がリュアクスの脳裏に響き渡る。

 

「ぐぅああああああ!? 煩い、五月蝿い、うるさい!! 何だこの声は!! 何だこの光は!!」

 

 分らない、解らない、判らない。

 己の知の範疇を超えた事態にリュアクスは激しい混乱状態に陥っていた。自分の身体が震えている事にも気が付かない。

 

「その燐光は鬼火。死体から立ち昇る燐気、肉体を離れたヒトの魂の炎。そして、お前が聞いている音はこの場で息絶えた者達の怨嗟の声。どうだ、全てお前が聞きたがっていた声だぞ?」

 

 その言葉を肯定する様に、遺体から、血に染まった大地から次々と燐光が立ち昇り、それらは全てリュアクスへと向かう。

 まるで生者に群がる亡者。燐光はその姿をヒトの形へと変えて、リュアクスの腕へ、脚へと縋り付いていた。

 これが、リュアクスが動きを止めた理由。

 精神を掻き乱す音の正体。

 

「虫けらと嘲り、弱者として一蹴した人間。その魂がお前の動きを封じ、精神を掻き乱していたのだ。知っているか? 一寸の虫にも五分の魂という言葉がある」

 

「う、うわぁ、うおわあああああああああああああああああああああッ!?」

 

「そいつらの怒りと憎しみは余程のものだな。よ~く燃えている。ああ、勘違いはするなよ? 俺は火種を与えてやっただけにすぎん。炎の勢いはお前の所業によるものよ、まあ、自業自得と言う奴だ」

 

 リュアクスに取り着いた燐光が次々と蒼い炎となって燃え上がる。

 その炎がリュアクスの肉体を傷付ける事はない。

 

「これが――“積尸気鬼蒼炎”だ」

 

 蒼い炎が燃やすのは魂。

 リュアクスは肉体ではなく魂そのものを焼かれていた。

 

「おぉぉおおおぉおおおおお!?」

 

「このまま“鬼蒼炎”で焼き尽くしてもいいんだが……丁度良い、カミサマ相手にコイツが通用するか試させてもらう」

 

 蒼い炎に照らされながら、デスマスクが再びリュアクスへと指先を突き付ける。

 

「積尸気とは――中国での蟹座の散開星団プレセペの事。霊魂が天へと昇る穴。そして積み重ねられた死体から立ち昇る鬼火の燐気の事でもある。それが積尸気」

 

 デスマスクの指先に小宇宙が集束する。

 集束した小宇宙は白いオーラへとその姿を変えた。

 

「さあ、時代遅れの骨董の神よ。積尸気を通って再び冥府へと帰れ」

 

“積尸気冥界波”

 

 デスマスクの指先から放たれたオーラがリュアクスへ迫る。

 オーラが身体に触れた瞬間、リュアクスの全身を激しい虚脱感が襲い、次に己の目が映した光景にリュアクスは絶叫した。

 

『う、うぉおあぁあああああああ!? 馬鹿な、なぜオレの身体がそこに在る! オレはここだ! ここにいるのだぁあ――』

 

 それは“力無く崩れ落ちる身体を上から自分が眺めている”という状況に。

 己の魂が肉体から切り離されたという事実に。

 積尸気へと急速に引き上げられる感覚に、リュアクスは自分が再び冥府へと送られる事を理解した。

 あの暗くて寒い場所に戻される。

 一度は光を手にしていながら。

 今度はいつ光を手にできるのか。

 口惜しい。許せない。

 自分をこの様な目に遭わせたあの人間を許す事など出来はしない。

 

(ああ、そうだ。人間の寿命など我等に比べれば余りにも短い。ならば、奴の魂が冥府に来た時に――)

 

「なんて事でも考えているのか? サービスだ。コイツも試させて貰う」

 

「な――に!?」

 

 肉体から切り離されて積尸気へと向かっていたリュアクスの魂。

 その行く手を遮る様に、リュアクスの目の前にはデスマスクの姿があった。

 デスマスクがその両腕を大きく広げた。指先は鉤爪の様に曲げられている。

 そこに灯されている蒼い炎を見て、リュアクスはこれから己に何が起こるのかを理解した。

 

「肉体という鎧を失くした剥き出しの魂。神様とはいえ、コイツに耐えられるか?」

 

 理解して――絶望した。

 

「直に喰らえ――」

 

 耐えられるはずがないと。

 

「じゃあなカミサマ。“積尸気鬼蒼炎”」

 

 意識が消え去る刹那、リュアクスは言い知れぬ感情の正体が“恐怖”であった事を思い出していた。

 

 

 

 

 

 第15話

 

 

 

 

 

「うわわわわっ!?」

 

 ジャミールからセラフィナを攫った者達の小宇宙を辿り行った長距離テレポーテーション。

 幼い貴鬼にとって負担の大きな能力の行使であったが、セラフィナを助ける為とあれば躊躇う理由はない。

 テレポーテーション自体はこれまでにムウの指導の下で幾度も成功させている。ここ半年の間に限れば失敗した事は一度もなかった。

 異なる点はムウが傍にいない事。万一の事態に対する保険がない。つまりはそういう事なのだが、貴鬼には失敗はしないという自信があった。

 能力を発動させた瞬間に分るのだ。感覚が成功したと教えてくれていた。

 

「うわあ~~っ、お、落ちるぅうううう!?」

 

 それが、どういう事か“失敗”した。

 転移中に感じた普段とは異なる感触。それは全身を包み込む様な抵抗感と、引っ張り上げられる様な奇妙な感覚。

 イメージするならば、水中から何者かによって引き上げられる。腕ではなく足首を掴まれて。

 その異様な感覚に戸惑い、そして目の前に飛び込んできた光景に、貴鬼は混乱し悲鳴を上げていた。

 

 一言、運が悪かった。

 これは、聖域に張られた結界による影響であり、決して貴鬼が失敗したという訳ではなかったのだが、そんな事を本人が知る由もない。

 もう一つ。目的地が聖域だと分っていれば、貴鬼に代わってムウが行っていた。しかし、小宇宙を目印としてのテレポーテーションではそこまで分るはずもなく。

 結果、シャカの誘導もあってテレポーテーション自体は成功したものの到達場所に問題が残った。

 

 聖域の上空である。

 

 失敗したとショックを受けた矢先にこの状況。

 全身に受ける風圧。

 迫り来る建造物。

 敷き詰められた石畳。

 完全に、パニックに陥った貴鬼にはただ叫ぶ事しか出来ない。

 

「ひッ、ひぃやぁああああああ!? ム、ムウ様ぁあああ!? おねえちゃぁあああん!!」

 

 もう駄目だと、貴鬼が諦めかけたその時――ぐいっと、力強い何かが貴鬼の身体を掴んでいた。

 

「……耳元で叫ぶな」

 

 海斗である。貴鬼の身体を小脇に抱え、迫り来る眼下を見据えながら空いた手で聖衣の肩をトンと叩く。

 その瞬間、ガシャンという音を立て、聖衣の背中から純白の翼が展開する。

 

「この程度の高さならコイツでいける……か?」

 

 広げた両手よりも更に大きなそれは天馬の証、天駆けるエクレウスの翼。

 身に纏う際には動きの邪魔にならない様、背中に収納されているパーツである。

 

「うわあぁあ――って。あ、あれ?」

 

 グンと、上へと引っ張られるような感覚と、自分の身体に感じていた風圧が急速に収まった事で、貴鬼は恐る恐る目を開く。

 先程とは異なりゆっくりと迫る石畳。自分を抱えている海斗。その背に広がる聖衣の翼。

 

「すっげぇえ~~」

 

 安全が確保されたと分った途端に余裕が生まれたのか。

 貴鬼はきょろきょろと眼下の光景を見渡し始める。

 真下には巨大な神殿の様な建物が幾つも在り、その建物同士を繋ぐ様に一本の長い階段が続いていた。

 少し視線を動かせば巨大な火時計が見えた。時間を示す場所には幾つかの炎が灯っている。

 貴鬼が見慣れない風景にせわしなく首を動かしていると、その耳に海斗の呟きが聞こえた。

 

「ひょっとしたらパラシュート代わりになるかと駄目元でやってみたが……。翼は飾りじゃなかったワケだ、さすがムウ」

 

「……え?」

 

「黙ってろ、舌を噛むぞ」

 

 何やら聞き捨てならない事をさらっと言われた気がした貴鬼であったが、海斗が聖衣の翼を収納した事を確認すると、急いで口を閉じて落下の衝撃に備えた。

 

 しかし、速度を感じたのは一瞬。何時まで経っても貴鬼が予想していた様な衝撃を感じる事がない。

 

「ん~~んんっ……あれ?」

 

 ふわりと、羽根のように柔らかく海斗は静かに着地を果たしていた。

 

 

 

 

 

 上空からの光景と慣れ親しんだ空気、炎が灯された火時計と回廊によって繋がった宮。

 海斗はここが聖域であり、今自分達が居る場所が十二宮である事を即座に把握した。

 

「ねえ兄ちゃん、ここって?」

 

「……聖域だ。しかも、よりにもよって――十二宮とは」

 

「十二宮?」

 

「怖~い聖闘士の居る場所だ」

 

 貴鬼の問い掛けに返事を返しながら、その実海斗は周辺の様子を窺う事に集中していた。

 自分達の侵入に反応がない事からここが無人の宮だとは推察できたが、何れにせよ海斗としてはあまり長居したい場所ではなかった。

 

「……どうにも妙な感じだな。重苦しい、いや息苦しい感じ、か?」

 

 十二宮はそれぞれの星座に因んだ装飾やオブジェが、各宮の入り口にはそれぞれの星座を示す刻印が刻み込まれている。

 鏡映しのように左右対称に作られた宮。そして入り口に刻まれた双子座の印。

 

「……双児宮、か。だったら、この下が金牛宮で上が巨蟹宮」

 

 この先にアテナが住まう神殿が在る。

 

(今はどうでもいいか)

 

 ふと、脳裏に浮かんだそれを海斗は軽く頭を振って片隅に追いやると貴鬼に問う。

 

「貴鬼、セラフィナの小宇宙は?」

 

「……ううん、この辺りにお姉ちゃんの小宇宙は感じない。でも、とんでもなく大きな小宇宙をあちこちから感じるよ!」

 

「こういう感覚は一流だよなお前。正直、俺はそういう繊細なのは……って、この感じは戦闘の真っ最中か? それで、一番近いのが……」

 

「あっちだよ、大きな小宇宙が四つ。ジャミールで感じたイヤな小宇宙と……バルゴの小宇宙!?」

 

「シャカか。ああ、俺にも分る。で、この纏わり付く様な感じは――エキドナ、いやデルピュネか」

 

 逃がすかよ。そう言って駆け出す海斗。

 

「ちょ、兄ちゃん!?」

 

 待って、と続けて貴鬼もその後を追い――

 

「ふぎゃ!?」

 

 突然その足を止めた海斗。

 走り出した貴鬼は急には止まれない。

 海斗の足――聖衣にぶつかり鼻を抑えて涙目の貴鬼であった。

 

「~~ッ!?」

 

 文句を言おうとした貴鬼であったが、不意に“気が付いて”しまう。

 この場に急速に接近しつつある悪意に満ちた小宇宙に。

 予感に従って背後を、金牛宮を見る。

 

「に、兄ちゃん! 後ろからいっぱい来るよ!!」

 

「時間が惜しいんだがな。ま、後ろから邪魔されるのも面白くないか」

 

 うざったい。そう小さく呟いて背後へと振り返る。

 そこには金牛宮を抜けて駆け上って来るギガス達。

 

「白羊宮はともかく、金牛宮を素通りしたのか? あの人(アルデバラン)は不在なのか」

 

 ギガス達も双児宮の前に立つ二人の姿に気が付いたのであろう。

 明確な敵意と殺意に満ちた攻撃的な小宇宙が二人へと向けられた。

 

「ひいっ!? う、うわわわわっ!?」

 

 遊びでも訓練でもない、貴鬼にとって初めて向けられた敵からの明確な殺意。

 圧迫されるような感覚。

 吐き気を催す様な不快感。

 全身が震え、思わずその場にしゃがみ込んでしまいそうになる。

 未だ幼く、戦闘経験のない貴鬼には、戦いの空気を平然と受け止められるだけの余裕がない。

 

「……え?」

 

 その感覚がぷつりと途絶えた事で貴鬼がゆっくりと顔を上げた。

 

「ほれ、双児宮の中で隠れてろ貴鬼」

 

 そう言って海斗が貴鬼の前に立つ。

 それだけの事で貴鬼の身体からは震えが消えていた。

 貴鬼が見上げた海斗の表情からは、不安も緊張も浮かんでいない。

 むしろ、何がおかしいのか口元には笑みを浮かべてすらいた。

 

「クッ、ククッ。いやいや、まさか俺が十二宮を背に戦う日が来るとは。全く、人生何が起こるか分らない、ってか?」

 

 双児宮を前に、ギガス達を見下す様に立ち塞がる海斗。

 その身からゆらりと立ち昇る青と白の小宇宙。

 海斗の戦意を示すかの様に、徐々にその大きさを増す。

 

「……来たな」

 

 そうして遂に、海斗の目前までギガス達が到達する。

 その数は十人以上。

 

「ほう、ここまで無人の宮が続いたので、我等に恐れをなして逃げたものと思っていたぞ」

 

「……退け小僧」

 

「十二宮にはそれを守護する聖闘士が居ると聞いたが? 小僧、お前がそうか?」

 

「苦しみたくなければさっさと退け。痛みを感じる間もなく殺してやろう」

 

 海斗を前に口々に語り出すギガス。言っている事は違えども、その根底にあるものは同じである。

 

「まあ待て」

 

 その時、両者の間に一際屈強な体躯のギガスが歩み出た。

 

 十二宮がアテナを守る為の砦である以上、それらを繋ぐ回廊には当然の様に侵入者に対する備えも考慮されている。

 この場で最もギガス達に影響を及ぼした事は通路の幅の狭さである。

 並の人間よりも一回りも二回りも巨大な体躯を持つギガス。それが十人も集まれば、同時にはまともに動けるものではない。

 どれ程の数を引き連れようとも正面から対峙するしかなく、仕掛けられる人数も限られる。

 そこまで考えての行動であったのか、単なる驕りであったのか。

 

「たかが聖闘士の小僧一人に我らが全員で掛かる必要もあるまい。このギガス十将の――」

 

「黙れ」

 

 口上を待ってやる義理はないとばかりに海斗が口を開き、相手が名乗りを上げるよりも早く、抜き放った拳がギガスの顔面を打ち抜いた。

 

「ガッ!?」

 

「――遅い」

 

 大きく仰け反り、がら空きとなった胴体に追撃を加える。

 左のボディーブローを受け、巨体をくの字に折り曲げて崩れ落ちようとするギガス。その身体を「邪魔だ」と蹴り飛ばす。

 そして、海斗は密集状態にあったギガス達の中心へと自ら飛び込んだ。

 

「な、何いっ!? エウリュ――」

 

 小僧と侮っていた相手からの予想外の先制攻撃を受けて、ギガス達から余裕が消え去った。

 

「き、貴様あぁあッ!?」

 

「許さんぞ小僧!!」

 

 拳を振り上げて次々と海斗へと迫るギガス。

 

「兄ちゃん!!」

 

 危ない、と。その光景を見ていた貴鬼が叫ぶ。

 

 死ね、と。ギガス達が叫ぶ。

 

 

 

(集束させる……もっと鋭く、もっと速く!)

 

 シュラは言った、小宇宙を研ぎ澄ませと。

 その言葉を思い浮かべ、海斗がイメージしたのは“エクスカリバー”であった。

 求めるのはあの鋭さと速さ。目の前に立ち塞がる全てを撃ち貫くための力。

 突き出された海斗の右拳を中心として放たれる青い光弾。

 

「“エンドセンテンス”!!」

 

 それは海斗の小宇宙の高まりに、意志に応じる様に徐々にその形を変えていく。

 

 細く、鋭く。

 

「な、何だこの光は!?」

 

「ひ、光が……」

 

 光弾が閃光と化し、ギガス達の身体に無数の軌跡を奔らせる。

 

「ッ!?」

 

 眩いばかりの輝きに思わず目を閉じてしまった貴鬼。

 だから分らなかった。黄金の光を放った聖衣の輝きを。

 海斗の身体から立ち昇った小宇宙のビジョンを。

 天駆ける天馬がその姿を変えようとしていた事を。

 

「うぎゃああーーーーーーッ」

 

 嵐の様に吹き荒れる巨大な小宇宙。

 爆発にも似た轟音と、それに混じるギガス達の絶叫。

 巨体が弾かれるように次々と宙へと舞う。

 光は深く、鋭く、金剛衣をものともせずに、ギガス達の肉体に破壊の力を刻み込んでいた。

 砕け散る金剛衣。弾き飛ばされ、舞い上げられたギガス達が次々と大地に叩き付けられていく。

 呻き声もなければ、身動ぎ一つする気配もない。

 

 静寂が双児宮の前に訪れる。

 

「……分っちゃいたが、あの切れ味は俺には無理だな。さすがに門前の小僧、とはいかないか」

 

 海斗から激しく吹き荒れていた小宇宙は、まるで凪の様に穏やかな静まりを見せていた。

 

「貴鬼、終わったぞ」

 

 静寂を破ったのは海斗の声であった。

 ポンと、頭の上に置かれた手の感触に貴鬼が顔を上げる。

 

「どうやら上でも戦闘が始まったな。俺はこのまま行くが貴鬼、お前は――」

 

「おいらも行くよ! 大丈夫、危なくなったら隠れるからさ」

 

「巻き込まれても知らんからな。……離れとけよ」

 

 ジャミールへ戻れ、と言おうとした海斗であったが“言われると思った”とばかりの貴鬼の反応に、隠れてコソコソされるよりはマシかと妥協した。

 

 

 

 

 

 ジャミールを離れる前、ムウは海斗にこう尋ねた。

 

『海斗、君は地上の平和にもアテナの意志にも興味はないのでしょう?』

 

 拳を握り締め、ただ前だけを見る。

 

『己の力を何にどう揮うのかは君の自由。その思想も。しかし、以前にも言いましたが聖衣には意志があります。君を守り、死の淵から新生したエクレウスの聖衣。それを再び身に纏い戦うのであれば、聖衣の意志を裏切る様な真似だけはしないように』

 

 セラフィナは気にもしてはいないだろうが、海斗は命を救われた事を恩だと感じているし、大きな借りが出来たとも思っている。

 やられた事はやり返す。恩を受けたのであれば恩を返す。

 一度死んだ身だからこそ、やれる時にやれる事をすべきだと思うようになって来た。そこには聖闘士も海闘士も関係ない。あるのは“そうしようとする”己の意志だ。

 

「……ちゃんとした礼の言葉もまだだったからな」

 

 そう呟いて、海斗は十二宮を駆け上がる。

 目指すのは十二宮最奥、教皇の間。

 



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第16話 激闘サンクチュアリ! 立ち向かえ聖闘士(後編)の巻

「どうやら、この辺りは片付いたみたいだね」

 

 瓦礫に腰掛けた魔鈴が聖衣についた埃を払い落しながら呟いた。

 その身に纏うのは鷲星座(イーグル)白銀聖衣(シルバークロス)

 純粋なプロテクターとしての防御性能を特化させた物が多い白銀聖衣にあって、魔鈴の身に装着されたイーグルの聖衣は敏捷性を重視した必要最低限の部位を纏う程度に留められていた。

 その形状は丸みを帯びた女性的なものであり、どう見ても男性が身に纏う事を考慮された形状ではない。

 所有者を失い聖衣箱の中で眠りについた聖衣は、次の所有者が現れた際にはその者に相応しいカタチとなって目覚める。聖闘士を目指す者に人種や性別、年齢といった制限がない事の理由であった。

 

「……フン」

 

 魔鈴の呟きに答えるシャイナもその身に聖衣を纏っている。

 それは蛇遣い星座(オピュクス)の白銀聖衣。

 イーグルの聖衣と同じく敏捷性を重視している為か、身に纏う部位は青銅聖衣並に少ないが、上半身だけで言えばイーグルの聖衣よりもパーツが多く身を守る範囲も広い。

 それは相手の懐に飛び込み接近戦を仕掛けるシャイナの特性に合わせたカタチとも言えた。

 

「まあ、所詮コイツらはギガスにとっても雑兵なんだろうさ。こんな風に、ね」

 

 そう言ってシャイナは足下に倒れているギガスの徒兵の身体を蹴り転がした。

 邪魔な小石を蹴飛ばす、その程度の動作。その僅かな衝撃で、倒れ伏していたギガスの身体が崩れ去り塵となった。

 風が吹き、塵を空へと舞い上げる。

 それを目で追いながら、「そう言えば」と、シャイナは魔鈴にふと気になった事を問うてみた。

 

「……アンタ、星矢はどうした?」

 

 今二人が居るのは居住区から少しばかり離れた小高い丘であった。

 ここからは居住区全体を見渡す事が出来るのだ。幸いにも、居住区への被害は最小限に抑えられた事が見て取れる。

 聖域からは未だ戦いの気配は消えてはいないものの、悪意ある巨大な小宇宙が次々と消えている。

 その事を感じ取っていたからこそ、こうして世間話を持ちかける程度の余裕が生まれていた。

 

「身の程もわきまえずにおれも戦う、なんてふざけた事を言ったから寝かしつけてきたさ。今頃良い夢でも見ているだろう」

 

「へぇ、そりゃあまた随分と過保護な事で」

 

「どう足掻いたって勝てない相手に挑んで殺されるのは星矢の勝手。でもね、この四年間の苦労が無駄になるのは面白くない。……それだけさ」

 

「無駄、ね。だったら一日も早く聖闘士になる事を諦めさせてやったらどうだい? 星矢じゃあたしが育てたカシオスには勝てないよ。今までもそうだったように、これからもそうさ。変わりはしない」

 

「それが出来れば楽なんだろうけどね。諦めろと言って諦めるような奴ならとうの昔に日本に帰っているよ」

 

 魔鈴はそう言うと、無駄話は終わりだと言わんばかりに立ち上がり周辺の様子を窺い始めた。

 意識を集中し、感覚を広げる魔鈴。その身体からは、うっすらと小宇宙が立ち昇っている。

 これはシャイナには分らない感覚であったが、空から周囲を俯瞰する、そういうイメージなのだと魔鈴から聞いた事があった。

 

(……こういう繊細さはあたしにはないな)

 

 好きか嫌いかで聞かれれば、迷う事なく嫌いと答える。シャイナにとって魔鈴はそういう相手であったが、その能力は認めている。

 状況把握を魔鈴に任せ、手持無沙汰となったシャイナは「何もしないよりはマシか」と呟き、魔鈴の真似事をしてみる事にした。

 イメージするのは水面に落とした一滴の雫。そこから広がる真円の波紋。

 

「何だ? 今感じた小宇宙は……」

 

 何かに当たり、真円がその形を歪めた。歪みが生じたのは十二宮の方向。

 僅かに感じたのは覚えのある小宇宙。白と青、二つの色が螺旋を描く特徴的な小宇宙だった。

 そちらに視線を向ければ煌々と炎を灯す火時計が見える。そこで何かが起こっている事は分っていたが、それが何かまでは分らない。

 一種のトランス状態となっている今の魔鈴には、話し掛けたところで返事が返る事はない。

 

「まさか、ね。この辺りならまだしも、十二宮に海斗が?」

 

 それはないか、と。あらためて意識を集中させてみるが、今度は何も感じない。

 やはり自分には向かないかと、さてどうするかとシャイナが視線を動かし――視界に映る違和感にその動きを止めた。

 

「……何だ? あたしは何に違和感を覚えた?」

 

 見晴らしの良い丘の上。

 ここにいるのは自分と魔鈴の二人だけ。

 周囲にあるのは朽ちた遺跡の瓦礫と塵と化していくギガスの骸。

 四方へと撒き上がる塵。

 

「四方に? 一方ではなく? 風は……吹いていない。なのに――塵が撒き上がる!?」

 

 魔鈴は何も捉えてはいないのか動きを見せる様子はない。自分も何も感じてはいない。

 シャイナは静かに魔鈴へと近付き、半身を下げて身構えた。

 周囲には他の気配は無い。

 それでも、このままでは拙いと、感覚が訴える。

 

(……こういう時は直感に従う)

 

 感覚に従い思考を打ち切る。

 今は考えるよりも動け、と。

 塵が撒き上がる場所。何も無いはずのその場所へ空を引き裂く拳を撃ち込む。

 二発、三発と続けて放つ。

 拳撃は空を切り裂き、雷を纏って大地を穿つ。

 手応えは――ない。

 

「シャイナ!」

 

 背後から焦りの籠った魔鈴の声。

 何だ、とシャイナが問う間もない。

 

「~~ッ!?」

 

 四方から迫る圧迫感。

 脇目もふらず、シャイナはその場から急ぎ飛び出した。

 その直後、大地に十字の亀裂が奔る。

 背後から吹き付ける熱波と飛礫、そして轟音によって宙に浮いていたシャイナの身体が成す術なく吹き飛ばされる。

 

「っぐぅううう!!」

 

「シャイナ!?」

 

 コンマ数秒、シャイナより早く動いていた魔鈴は回避に成功。叫び、シャイナのもとへと駆け寄ろうとして気付く。

 

(飛礫が――砂塵が“あの場所にだけ”届いていない)

 

 遮る物が何もない、見晴らしの良いこの場所で、そこだけが何かに遮られているかのように影響を受けていなかった。

 

「まさか、小宇宙によって姿と気配を消しているのか? 自身の小宇宙を周囲と同化させる事による完全なる陰行……」

 

 右足を引き右拳は腰だめに。構える魔鈴から立ち昇る小宇宙は先程までとはうって変わって攻勢的なものとなる。

 

「……試してみるさ」

 

 相手の正確な位置が分らない以上、必要となるのは手数。

 回避できぬ程の弾幕だ。

 

「“流星拳”!」

 

 それは、秒間百発以上の拳を放つ音速の連撃。その全てがほぼ同時に相手へと突き刺さる拳はまるで小宇宙の散弾である。

 広域へと広がる散弾が、無数の拳撃が空を切る中、鈍い音が響く。数発の拳が見えぬ敵を捉えた。

 

「でかした魔鈴! そこだねッ! 倍にして返してやるよ!!」

 

 立ち上がったシャイナが好機とばかりに追撃を仕掛ける。

 今まで見えなかった敵の姿が、流星拳によって巻き起こされた風によってじわりと浮かび上がろうとしていた。

 

「コイツを喰らった奴は口を揃えてこう言うのさ――まるで、電撃を喰らったようだ、とね」

 

 右手の指先を鉤爪の様に曲げ小宇宙を込めて大きく振り上げる。

 

「受けてみな! “サンダークロウ”!!」

 

 帯電し、バチリバチリと音を立てながら輝くその腕を振り下ろす。引き裂かれた空間に沿って雷光が走った。

 雷の爪。その名の通り、シャイナの繰り出した拳は落雷にも似た轟音を響かせて見えざる敵へと打ち込まれる。

 

「ハッ、見たか!」

 

 確かに感じた手応えにシャイナは勝利を確信し――

 

 

 

『ほう。私の存在に気が付くとは、女の身でありながら――見事』

 

「な、何だ!? 声が、直接脳裏に響いてくるこの声は!」

 

『しかし……神である我に対して拳を向けるその姿勢、やはり人間は邪悪よな』

 

「小宇宙が、巨大な小宇宙がヒトの形を!? お、大きい……十メートル以上? マズイ!! 駄目だ! そこから離れろシャイナ!!」

 

 距離を置いていた魔鈴だからこそ気が付く事が出来た。

 シャイナでは近過ぎて気付けなかった。

 そこに現れたのは群青の炎を纏った巨人。

 

「我が名は群青(キュアノス)の炎《プロクス》也。神の前ぞ。さあ、平伏せ娘よ」

 

 無造作に振るわれる巨腕。

 ただそれだけの動きであったが、巨人が身に纏う破壊の小宇宙はそれすらも必殺の技とする。

 

「――ッ!?」

 

 目前に迫る破壊の力。

 シャイナがそれに気付いた時にはもう遅い。

 先のダメージもあった。

 受けるのか、避けるのか、相討つのか。思考が身体に追いつかない。身体が思考に追いつかない。

 

「あ、あ……」

 

 視界の中、魔鈴がこちらへと飛び出そうとするのがシャイナには分った。

 無駄だ、と言ってやりたいがそんな猶予が無い事は理解している。

 迫る拳。

 この時、不思議な事に、シャイナはこの場を中心として聖域全体の様子が手に取る様に解る、そんな奇妙な感覚を経験していた。

 

(死を前にして小宇宙が爆発したって事か、この感じは)

 

 身体は動かない、なのに思考は澄み渡る。

 今まで感じ取れなかった各地の小宇宙が判る。

 生命と小宇宙は必ずしもイコールではないが密接な関係にある事に違いはない。

 実際、極稀ではあったが五感の一部を失った聖闘士の中には、以前よりも遥かに小宇宙を高める事が出来る様になった者もいたという。

 

(だからってこんな時に。あ~あ、こんなのがあたしの終わりとはね)

 

 悔いは有る。やりたい事もすべき事も。自分は死を目前にしても生き足掻く。

 そう思っていただけに、妙に達観している今の自分に苦笑する。

 

 迫り来る死の瞬間。

 

 ふと、自分が死んだと聞いたらあいつはどう思うのか、と。瞳を閉じたシャイナはそんな事を思い浮かべて――

 

「……?」

 

 何時まで経っても訪れない衝撃。

 痛みすら感じる間もなく死んでしまったのか。

 ならば、今こうして思考している自分は何なのか。

 死を意識した瞬間のあの奇妙な感覚は既にない。

 焦点を取り戻したシャイナの目に映ったのは、視界に広がる一面の赤であった。

 風に吹かれて空へと舞い上がる赤――薔薇の花弁。

 その中で悠然と佇むのは黄金の輝きを纏いし聖闘士。

 純白のマントを翻し、彼は右手に持った一輪の薔薇でプロクスの拳を止めていた。

 

「急ぎ戻ってみれば、何とも無様な状況ではないか。……全く、情けない。シャカやアイオリア、黄金聖闘士が顔を揃えていながら。聖域を汚らわしい巨人族の血で染める事になるとは。実に嘆かわしい」

 

「……何者だ貴様」

 

 問い掛けるプロクスの口調が固い。

 それも当然であった。花一輪で自分の拳を止める。そんな事が出来た相手など話にも記憶にもない。

 

「我が名はアフロディーテ。魚座(ピスケス)のアフロディーテ」

 

 羽織っていた純白のマントを翻し、アフロディーテが名乗りを上げる。

 それに応える様に、宙を舞っていた薔薇の花弁が螺旋の渦と化して一斉にプロクスへと迫る。

 

「ぬうっ!? この様な目眩ましで……ッ!?」

 

 視界を埋め尽くさんばかりの赤。

 小宇宙の込められたそれは、プロクスの視界を奪っただけではなく、感覚すら狂わそうとしていた。

 

「チッ、小賢しい真似を」

 

「そこのシルバー二人、あのギガスの相手はこのアフロディーテが行う。安心して立ち去るが良い」

 

 敵の姿を見失い動きを止めたプロクスを前に、アフロディーテはシャイナ達へ「邪魔なのだ」と言い放った。

 

「なっ!」

 

 助けられた事は感謝するが、邪魔だと、こうもハッキリ言われて素直に引き下がれるシャイナではない。

 

「……よしなシャイナ。相手は黄金聖闘士、言う事には大人しく従うものさ」

 

 いきり立つシャイナを抑え「ほら行くよ」と魔鈴がシャイナの腕を取る。

 

「フッ、分れば良い。それに、どうやらまだ戦闘を続けている地区もあるようだ。そこに向かいたまえ。非力なシルバーでも出来る事はあろう」

 

 

 

「……素直に自分に任せろと言えばいいのにねぇ」

 

「何か言ったかイーグル?」

 

「いえ、別に」

 

 

 

 

 

 第16話

 

 

 

 

 

「ええい、この程度!!」

 

 プロクスが拳を引き構えをとった。腰を沈め両手を正面へと突き出す。

 プロクスの小宇宙によって生じた炎が拳を包み込む。

 炎を宿した両手を広げ、宙を舞う花弁目掛けて振り下ろした。

 

「我らギガスは大地(ガイア)の加護を受けし者! 大地に宿りし炎の力の前にこの様な花弁など!!」

 

 その言葉の通り、次々と燃え上がり灰と化していく花弁。

 視界が晴れたプロクスの視線の先にはその場に立ち尽くすアフロディーテの姿が見えていた。

 握り締めていた拳を開き、その手に纏った炎を指先へと伸ばす。

 

「敵を切り裂き打ち砕く我が炎を受けろ――“焔爪鞭”!!」

 

 それは片手に五本、計十本の炎の鞭となってアフロディーテへと襲い掛かった。

 アフロディーテは動かない。

 

「神の裁きを受けろ!」

 

 振り下ろされる炎の鞭。

 空を裂き、大地を抉り、アフロディーテの身体を捉える。

 炎が引き裂き、粉砕し――その身を燃やし尽くした。

 

「愚かなり、人間よ」

 

 業火の中で崩れ落ち灰となったアフロディーテの姿を一瞥すると、プロクスはその場から立ち去るべく踵を返す。

 先程から共に聖域へと侵入した十将や兵神達の小宇宙を感じ取れなくなっている。

 その事がプロクスに若干の苛立ちと焦りを生んでいた。

 

「千年の封印から目覚めたばかりとはいえ、たかが人間に敗れたのか?」

 

 あり得ぬと、逸る気持ちを抑えて一歩を踏み出し――

 

『――ほう、万全であれば負けぬと? 自ら攻め込んでおきながら、その言い訳は実に見苦しい』

 

「何!? 馬鹿な!! 何故貴様が生きている!? 灰と化した筈だ!!」

 

 聞こえた声に振り返る。

 そこには目の前で灰と化したはずのアフロディーテが何事もなったかの様に悠然と立っていた。

 焔爪鞭で砕いた筈の聖衣には傷一つ無く、焼き尽くしたはずのその身には火傷の痕一つ見当たらない。

 

「こ、これは一体? 我は幻でも見ていたとでも!? それに……何、だ? 力が……入らぬ……」

 

 突如として全身を襲う脱力感。

 膝をつき頭を垂れるプロクスの目に、自らの四肢に突き刺さる紅い薔薇が映った。

 

「その真紅の薔薇は“ブラッディローズ”。お前の血を吸って紅く染まった白薔薇だ。そしてこれが――」

 

 我が身に起こった異変に動揺するプロクスを前に、アフロディーテは続けて一輪の赤い薔薇を差し出した。

 

「これが“デモンローズ”。良い香りがするだろう? と言っても、本来のデモンローズに比べて色も香りも劣る物だがな。この香気を吸った者は幻に囚われ、まどろみの中このアフロディーテの放ったブラッディローズによって更に思考と体力を奪われる」

 

「……馬鹿な、一体、何時の間に? その様な物は……まさかッ!!」

 

 そこでプロクスは思い出した。

 目の前の聖闘士が現れた時の事を。アフロディーテが薔薇の花弁に包まれて現れた事を。

 

「あの宙を舞っていた花弁がそうだったと言うのか!?」

 

「フッ、気付いた時にはもう遅い。このアフロディーテと対峙した時には既に、そうギガスよ――お前は既に敗北していたのだ」

 

「お、おのれぇええええええッ!! 認めぬ! 神が人間如きに屈するなどあってはならぬ!! うオォオオオオオオオ!!」

 

 プロクスの身体から吹き荒れる小宇宙が炎となって、周囲の色を紅蓮に染め上げる。

 爆炎と化した炎が巻き起こす風がアフロディーテのその身を震わせた。

 

「神を前にしてのその傲慢、許すまじ! 神に逆らう人間よ! 貴様は邪悪だ!! 私の手によって神罰を与えられなければならない!!」

 

 身に纏った炎が四肢に突き刺さったブラッディローズを焼き払い、自由を取り戻したプロクスが怒りの咆哮を上げてアフロディーテへと迫る。

 

「愚かな。美しい薔薇には棘があるのだ。無碍に手折れると思っているのならば、それこそが傲慢であると言わざるをえない」

 

 アフロディーテの手にした薔薇の色が変わる。赤から黒へ。

 

「実に醜悪。だからこそ、せめて散り際だけはこのアフロディーテが美しく飾ってやろう」

 

「花弁如きでこの焔爪鞭は止められん! 燃やし尽くして――な、何だとぉお!?」

 

「舞えよ黒薔薇! “ピラニアンローズ”!!」

 

 目前の光景に驚愕するプロクス。

 アフロディーテの放った無数の黒薔薇は焔爪鞭に触れて燃え尽きるどころか、逆に焔爪鞭の炎が掻き消されていく。

 それは、触れる者に死を与える毒を秘めた黒薔薇。

 それは、触れる者全てを破壊する棘を持った黒薔薇。

 そして、遂に放たれた内の幾つかの黒薔薇がプロクスに触れた。

 亀裂を奔らせ金剛衣が、プロクスが崩壊する。

 

「こんな事が……こんな事が……」

 

 それが、プロクスが残した最期の言葉であった。

 

 

 

 

 

 白い巨人アネモスと黒い巨人ブロンテーの戦いは、正しくギガスの在り方そのものであった。

 行く手を阻む兵士達を歯牙にもかけず吹き飛ばし、立ちはだかる青銅聖闘士や白銀聖闘士達はその巨躯を持って象が蟻を踏み潰すが如く粉砕した。

 その行いは千年の時を経ても変わらない。

 母なるガイアより託されし憎悪を持ってゼウス率いるオリンポスの神々を打ち倒す。

 侵略して勝利する。

 蹂躙して支配する。

 それが暴力の権化であるギガスにとっての全て。

 

 しかし――

 

「ば、馬鹿な! 身動きがとれぬ!? それに……何だ、この巨大な小宇宙は!?」

 

「人間が……人間如きの小宇宙が我等に匹敵するなど――ありえん!!」

 

 全身の感覚を麻痺させて、拳を振り上げた体勢のまま動きを止めたアネモス。その前に現れたのは蠍座(スコーピオン)の黄金聖闘士ミロ。

 

「“リストリクション”。この指先から放つ光速の刺突を敵の中枢神経に打ち込み身体を麻痺させる技よ。ヒトのカタチをしているからと、小宇宙を込めて試してみたが……蠍の一指、効果はあったようだな」

 

 ゆっくりと、ミロが右手の人差し指をアネモスに突き付ける。その爪は紅く鋭い。

 

「これ以上、お前達の好き勝手に出来る等と思うな」

 

 片膝をつき腹部を抑えて蹲るブロンテー。その前に立つのは獅子座(レオ)の黄金聖闘士アイオリア。

 静かな口調とは裏腹に、その身から迸る小宇宙は熱く激しく、どこまでも猛々しく。

 ギシリと音が鳴る程に力強く握り締めた右拳を、ブロンテーの眉間へと突き付ける。

 

 暴力の権化が今、明らかな怯えを見せて恐怖に揺らいでいた。

 目の前に立つ二人の若き黄金聖闘士を前に。

 

 力無き人々の嘆きの声を聞き、アイオリアにその“拳”を止める理由は無い。

 戦士達の血に濡れた巨人を前にして、ミロには“慈悲”を与える理由が無い。

 

 ブロンテーはアイオリアの背後に吠え猛る黄金の獅子の姿を見た。

 アネモスはミロの背後にその毒針を今まさに自分へと向ける巨大な黄金の蠍の姿を見た。

 

「もはや――」

 

「貴様ら相手に――」

 

 その言葉に込められた思いに違いはあれども、この時、この瞬間、奇しくもアイオリアとミロの啖呵は一致していた。

 

「問答無用!」

 

 アイオリアの右拳が輝きを放つ。

 

「“ライトニングボルト”!!」

 

 それは雷を纏ったアイオリアの必殺の拳。

 光の一撃。全てを破壊する光速の拳。

 撃ち込まれた拳が空を引き裂き“神鳴り”の如き轟音を響かせる。

 

「このミロが今から放つこの技は……蠍座の星の数、すなわち十五発を撃ち込む事で完成する。降伏か死か、その十五発の間にそれを考えるゆとりを与える慈悲深い技ではあるが――お前達には必要あるまい」

 

 針よりも細く、髪の毛よりも細く。

 ミロの右手から次々と放たれる赤い閃光。

 

「“スカーレットニードル”。これが蠍の真紅の針よ」

 

 相手の中枢神経へと直接撃ち込まれるその一撃は、蠍の毒のような激痛を相手に与える。激痛は身体を麻痺させ思考能力を奪う。

 

「むぅおッ!? な、何だこの傷跡は! まるで針に刺されたこの傷は――ぐぅああああああっ! あ、熱い!! 何だこの痛みは!?」

 

「常人であれば一針、いかに鍛えた者であろうと五、六発も受ければ激痛に耐えきれずに絶命するか、命乞いをするか、発狂する。人を見下し、自ら神を名乗るならば耐えてみせろよ」

 

 アネモスの身体をキャンバスに見立て、金剛衣を打ち貫き刻まれた刻印は、蠍座の軌跡を描くように正確無比に撃ち込まれたその数は十四。

 

「がぁあああああああああああッ!!」

 

「残る一点は蠍座の心臓部に位置する赤い巨星。スカーレットニードル最大の致命点」

 

 アネモスの肉体に刻まれた蠍座の刻印。

 

「スカーレットニードル――“アンタレス”!」

 

 蠍の心臓を狙った致命の一撃。

 それは、アネモスの心臓の位置と一致していた。

 

 光。それが、ブロンテーの脳裏に焼き付いた最期の光景。

 熱。それが、アネモスが感じ取った最期の感覚。

 

「――――――――!!」

 

 大気すら震わせる絶叫。

 それはもはや声ではなく、音として周囲へと響き渡る。

 砕け散る金剛衣。破片を撒き散らしながら衝撃に吹き飛ばされる白と黒の巨人。

 それは互いにぶつかり合い、灰色となって大地へと崩れ落ちた。

 

 

 

 

 

「おかしな事だ。ゼウスすら封じたと豪語しておきながら、たかが一聖闘士の生死すら判断する事が出来ないとは。これではシュラを倒したとの言葉もどれ程信憑性のある物か」

 

 デルピュネはそれ以上を言う事が出来なかった。シャカの言う通り、結界越しにでもデルピュネには感じ取る事が出来たのだ。

 ジャミールで遭遇し、拳を交わしたのはつい先程の事なのだ。忘れられるはずが無い。

 

「もう一度言おう。聖闘士を甘く見るな――と」

 

 対峙したシャカの言葉に嘘はない。

 感じ取れる小宇宙は確かにエクレウスのもの。

 しかし、だからこそデルピュネは困惑していた。ジャミールで対峙した時とは明らかに小宇宙の高まりが違う。

 

 そして――

 

(馬鹿な、聖域に侵攻した者達の小宇宙が感じ取れぬ)

 

 十将だけではなく、王に黙って兵神すらも動かした。

 必勝を期しての侵攻であった。

 勝てると、そうヤツは言っていたのだ。

 今の聖域にアテナはなく、兵も無いと。

 

「ク、ククク、クハハハハハハッ! そうか、そう言う事か!! 口惜しい! 口惜しいぞ!! アハハハハハハハハ!!」

 

 そう叫ぶや否や、デルピュネは仮面を抑えながら、まるで気が触れたかの様に哄笑を始めた。

 その異様な光景に、サガもカミュも、目の前で対峙するシャカでさえ何事かと訝しみ動きを止める。

 

「王は知っていたのか? 所詮我等は贄だとでも!? そんな事が認められる筈があろうものかッ!!」

 

 気鬼迫る、そう形容するに相応しいデルピュネの変貌。

 そして、振り上げた右腕から迸る炎が無差別に撒き散らされる。

 

「ムッ、見境なしか? お下がりください教皇。この程度の炎はこの“ダイヤモンドダスト”で」

 

 カミュの放つ凍気の拳がデルピュネの撒き散らす炎を凍結させる。

 

「……これは」

 

 シャカもまた迫り来る炎を相殺していたが、勢いこそ激しいが先程までと比べてあまりにも威力が低い。その事にシャカは疑念を抱く。

 

「何かの策か?」

 

 シャカの考えを肯定する様に、その答えは即座に明らかとなった。

 

「最早貴様等の相手をしている暇などはないわ」

 

 天高く舞い上がったデルピュネが、その身体を何もない空間へと溶け込まそうとしていた。

 アンブロシアと言う物にあれほどの執着を見せておきながら、突然の逃げの一手。

 

「転移するつもりか? だが、逃がさん」

 

 その動きに反応したのはカミュ。

 転移される前に仕留めると拳を向けたが、突如左右から襲い掛かって来た炎の蛇にその動きを止められてしまう。

 

「炎蛇だと!? そうか、先程の炎に紛れて!」

 

 無差別に放たれたかに見えた炎は、一カ所に集まると巨大な炎の蛇の姿となってこの場にいる者達全てを焼き尽くそうと動き出す。

 カミュが見上げた先では既にデルピュネの半身は空間に溶け込んでいた。

 

(くっ、これでは間に合わん)

 

 そのカミュの目がデルピュネへと向かう一筋の光を捉えた。

 それは純白の聖衣を纏った聖闘士の姿であった。

 

「海斗か!」

 

 教皇の言葉に、この者が、とカミュが注目する。

 青銅聖闘士と聞いてはいたが、纏う聖衣の質は、その小宇宙は青銅のそれではない。

 

「キ、キサマ――」

 

 デルピュネも自身に迫る海斗の存在に気付いていたが、既に転移に入っていてはどうする事も出来ない。

 伸ばされた海斗の手がデルピュネの肩を、その身に纏っていた金剛衣を掴む。

 

「セラフィナは返してもらう。聞けないと言うのなら――」

 

 ぞくり、と。静かに告げる海斗の様子にデルピュネの身体が震える。

 

「テメエら全員、残らず――」

 

 デルピュネの耳にビシリと、掴まれた肩から金剛衣の砕ける音が聞こえた。

 

「叩き潰す」

 

 その言葉だけを残し、海斗とデルピュネは聖域の空からその姿を消した。



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第17話 交差する道!の巻

「ふむ。驕りや増長――と笑う事は出来んな。お前の強さにはこれだけの大言を吐くだけの資格がある」

 

 アルキュオネウスがシュラへと向かい歩を進める。

 

「このアルキュオネウスと戦う資格も、な。お前の言う聖剣程ではないが、私もこの右拳には少々自信があってな」

 

 一歩一歩、その歩みが進む毎にアルキュオネウスからの威圧感が増大する。

 それは意識や感覚を超えて、物理的な圧となってシュラに重く圧し掛かる。

 

「……どうやら、貴様はこれまでに見たギガス達とは違う様だな」

 

 そう、このギガスは違う。その身から感じる小宇宙は自分と同等か――それ以上。

 理屈ではなく己の感覚に従いシュラが身構える。

 

 じりじりと狭まる互いの距離。あと一歩、もう半歩で互いの間合いに入る。

 そんな場所でアルキュオネウスがその歩みを止めた。

 

「我が名はアルキュオネウス、我らが王ポルピュリオン様に仕える三神将が一神アルキュオネウス」

 

 先程放った拳撃の様に、アルキュオネウスが右拳を腰だめに構える。

 

「黄金聖闘士、山羊座(カプリコーン)のシュラ」

 

 対するシュラもまた右腕を掲げ、その手は手刀の型に。

 

「いざ――」

 

「――参る」

 

 互いの間合いへと踏み込み、両者は同時に必殺の拳を放った。

 

「エクス――カリバーー!!」

 

「“神屠槍(カタストロフ)”!!」

 

 研ぎ澄まされた刃と鍛え抜かれた穂先。

 剣撃と拳撃。

 打ち合わされる剣と拳。

 互いの視線は相手を射抜かんとばかりに交差する。

 

 まるでそこだけ時間が停まってしまったかの様に、両者は互いの拳を打ち合せたまま微動だにしない。

 

 ブン、と空気を震わせるような音を――シュラの感覚がそれを捉えた。

 

「――くっ!?」

 

 静寂を苦悶の声が破った。

 声の主は――シュラ。

 振り下ろした右手――聖剣に、最強の黄金聖衣に亀裂が生じていた。

 破損した右腕の聖衣、その亀裂から鮮血が滴り落ちる。

 

「どうやら私の拳の方が上であったようだな」

 

 拮抗が崩れる。

 アルキュオネウスの右腕が霞んだ。

 肥大し、輝きを放っていた。それは、まるで光の繭に包まれている様であった。

 再びブンッと音が鳴る。

 

「がはっ!?」

 

 光の繭が弾けた。

 打ち合わされた互いの拳を伝わり、波動がシュラの肉体の奥深くにまで浸透する。

 抵抗する間もなく、それはまるで撃鉄に撃ち出された弾丸の如く。シュラはその場から文字通り弾き飛ばされていた。

 洞窟の壁面へと叩きつけられるシュラ。その身体を覆い尽くすように砕かれた壁面が土砂となって降り注ぐ。

 

「ぐっ……むぅ……ッ!?」

 

「さすがは黄金聖衣。エクスカリバー(聖剣)の一撃によって私のカタストロフ(神屠槍)の威力が削がれていたとは言え、完全に破砕する迄には至らぬか。しかし――」

 

 土砂を払いのけて立ち上がろうとしたシュラが、膝を地につけたままその動きを止めた。

 

「――ヒトの身体であの衝撃を耐え切れはすまい」

 

 その直後、“肉体の内側から爆ぜる様な”衝撃を受けたシュラは、その口から、全身から鮮血を撒き散らす。

 

「がぁはあッ!?」

 

「それが神ならぬ脆弱なヒトの器の限界。カタストロフの波動の前では、最硬の黄金聖衣であろうが青銅聖衣であろうが、等しく意味を失うのだ」

 

 そう呟いてアルキュオネウスは踵を返した。

 

「一度目の波動は聖衣を砕いた。しかし、二度目の波動は違う。聖衣を伝わりお前を内側から破壊したのだ」

 

 背後では、黄金聖衣を自らの血で赤く染めその場に崩れるシュラの姿があるのだろう。それは予測ではなく確信であった。

 必殺の拳――神屠槍(カタストロフ)を受けて立ち上がって来た者はいないのだから。

 

「……?」

 

 数歩進んだところで、アルキュオネウスはその足を止めた。

 

「何だ?」

 

 違和感があった。

 右腕に感じる微かな何か。

 

「痺れ……か? いや、これは……!?」

 

 カタストロフを放った右腕。エクスカリバーと打ち合った金剛衣の拳に一筋の亀裂が奔っていた。

 

「私の金剛衣に亀裂が……」

 

 つうと、その亀裂から紅い雫が零れ落ちる。

 

「あの一撃が、聖剣が私に届いていたと言うのか」

 

 その事実に至った瞬間、アルキュオネウスは背後から巨大な小宇宙が立ち昇る。

 アルキュオネウスが振り返れば、そこには全身を赤く染めたシュラの姿。

 その身の傷など意に介した様子もなく。瞳に映る闘志には欠片の翳りもなく。全身から立ち昇る小宇宙はただ鮮烈。

 両の脚でしっかりと大地を踏み締め、シュラは亀裂の入った聖剣を掲げる。

 

「……この傷は戒めだ。アルキュオネウス、お前の力を見誤った……このシュラの迂闊、傲慢の、だ」

 

「……立ち上がった事は賞賛しよう。だが……」

 

 半死半生、手にするのは罅割れた剣。

 馬鹿な、と。アルキュオネウスは内心で浮かんだ愚考を振り払う。

 目の前の敵から感じる小宇宙は、傷を負って衰えるどころか、むしろより苛烈に熱く燃え上がっている。

 

「く、くくくっ。ハハハハハ!!  そうか、そうであったな! お前たち聖闘士は“そう”だった!! 千年前も、今も、そうして命を賭して神の領域へ踏み込んで来る!!」

 

 右拳を腰だめに構えながら、面白い、とアルキュオネウスは己が高揚している事を感じていた。

 

「立ち上がってきた以上は無策ではあるまい? ……ならば来いッ! このアルキュオネウスに三度拳を抜かせた事を誉として散るが良いカプリコーンッ!!」

 

 アルキュオネウスの右腕が空を震わせる音と共に光の繭に包まれる。

 

「“神屠槍(カタストロフ)”!!」

 

「“エクスカリバー”!」

 

 神速の踏み込みが互いの距離を零にする。

 再びぶつかり合う剣と拳。

 

 決着は一瞬。

 

 砕け散る“聖剣(エクスカリバー)”。黄金聖衣の右腕部が弾け飛ぶ。

 両断される“神屠槍(カタストロフ)”。金剛衣ごとアルキュオネウスの右拳が切り裂かれる。

 

「相――」

 

 相打ち。互いの拳が砕けた眼前の光景にそう結論付けようとしたアルキュオネウス。

 しかし、まだ終わってはいなかった。

 結論に至るにはまだ早かった。

 

 アルキュオネウスの視界に一筋の閃光が奔った。

 

「な――に!?」

 

 力を見誤った、とシュラは言った。

 同じだ。

 

「聖剣は――折れぬ」

 

 自分もまたこの男を見誤っていたと。“それ”を見てアルキュオネウスは思う。

 この男は使い手ではない。この男そのものが――

 

「このシュラの小宇宙が燃え続ける限り!」

 

 振り上げられたのはカプリコーンの“左腕”。

 それはもう一振りの――聖剣。

 

「エクス……カリバーーーー!!」

 

 振り下ろされた一撃は空を断ち、大地を断ち、金剛衣を断ち。

 

「聖剣――か。ふ……ふは、ははは……。見、事だシュ……ラ。……お前は……神に勝……」

 

 アルキュオネウスの意識共々その肉体を両断した。

 

 

 

 塵と化して崩れていくアルキュオネウス。

 その光景を視界の隅に映しながら、シュラが一歩を踏み出し……その場に崩れ落ちる。

 

「ハァ……ハァ……」

 

 カタストロフによる肉体的なダメージ。それに伴った夥しい出血。

 己の全身全霊を込めて放った必殺の剣撃“エクスカリバー”。一撃必殺のそれを連続した事はシュラの小宇宙に著しい消耗を強いていた。

 生命の、意思の、全ての根源であり源でもある小宇宙。

 それを消耗すると言う事は、己という存在そのものを消耗するに等しい。

 

「まだ……立ち止まる……訳には……」

 

 朦朧とする意識の中で、どうにかして立ち上がるべく前へと手を伸ばそうとしたシュラであったが、右腕は意に反して動こうとはしない。

 

(――この程度の事で――)

 

 蝋燭の炎が燃え尽きる様に、シュラの意識は瞬く間に闇の中へと沈んで行った。

 

 

 

 

 

 第17話

 

 

 

 

 

 違和感は一瞬であった。

 身体にかかる重力と、高熱、そして充満する硫黄の臭い。周囲の景色が一変した事で、海斗は転移を終えた事を理解した。

 しかし――

 

「チッ!」

 

 デルピュネの転移に強引に割り込んだ為か、海斗は自分の身体が猛烈な倦怠感に包まれている事に苛立ちを覚え舌打ちをした。

 意識に対して肉体の反応が鈍い。

 

「小僧ッ!!」

 

 デルピュネのヒステリックな甲高い声が海斗の耳に響く。

 肩を掴んでいたはずの手は容易に振りほどかれ、僅かに開いた間合いから鋭い蹴りが繰り出された。

 目は、意識はそれを易々と捉えているのに身体が動かない。反応に――追い付かない。

 ガッ、と胸部に強い衝撃が響き、海斗の身体は速度を増して落下する。

 

「ぐっ!?」

 

 蹴り穿たれた聖衣の胸部には亀裂が奔り、海斗はそのまま眼下に映るゴツゴツとした岩肌――洞窟の底へと叩き落とされた。

 

「あああああああああっ!!」

 

 デルピュネが獣の咆哮の様な叫びを上げて両手を頭上に掲げた。そこから生じた炎が渦を巻いて球状となる。一つ、二つ、三つと大きさの異なる炎球が、更に五つ、六つと数を増し続けてデルピュネの周囲を覆う様に回転を始めた。

 炎球はたちまちの内にデルピュネの身体を覆い隠す程の数となり、洞窟を赤々と照らすその姿はまるで小さな太陽であった。

 

「消え去れ!! 塵一つ残さず燃え尽きよぉおおおおお!!」

 

 冷静さなどどこにもない。半ば錯乱にも近いデルピュネの叫び。自身を太陽と化して眼下の海斗へと迫る。

 

「――なめるなぁあぁあああああッ!!」

 

 海斗の身体を覆い尽くした土砂から白と青の光が迸る。

 咆哮と共に己の小宇宙によって土砂を吹き飛ばした海斗が姿を現し、目前に迫る太陽に対して構えをとった。

 両手でエクレウスの四つの星を描くのはエンドセンテンスと同じ。しかし、最後に海斗はその軌跡を崩す様に両の拳を腰だめに構える。

 ここに黄金聖闘士がいれば、大地を踏みしめて立つ海斗の姿にアルデバランを見たであろう。

 立ち昇る白と青の小宇宙が螺旋を描き一つの色へと変化する。純白のエクレウスの聖衣が黄金の輝きを放つ。

 

「偽りの太陽如きでエクレウスの翼を――」

 

 風を纏い吹き荒れる小宇宙は海斗の意思に従い流水へと変質し、

 

「――海龍の身を焼けると思うな」

 

 天駆ける天馬の姿を経て大海の魔獣、幻想の王――海龍の姿となる。

 突き出された海斗の両手から、溜め込まれた力が一気に解き放たれた。海龍の咆哮が木霊する。

 瀑布の如き爆発的な勢いを持って、大地から天へと向かい起立する水の柱。圧倒的な質量を持った水がデルピュネへと襲い掛かる。

 広域へと拡散する“ダイダルウェイブ”をただ一点にのみ集束させる。一点集中。

 

「“ハイドロプレッシャー”!!」

 

 圧壊する金剛衣。ひしゃげ、砕け散る仮面。

 

「……永遠が……我の……。あの娘の力と――」

 

 破壊の意思に満たされた小宇宙によって生み出された水。それは規模こそ違えども、神話の時代に神々が地上を破壊するために起こした大洪水のそれであった。

 

 

 

「――う……ぁ……」

 

 ハイドロプレッシャーを消し去った海斗の耳に、か細い声が、呻きが聞こえたのはそのすぐ後の事である。聖衣から黄金の輝きは失われていた。

 声の下へと向かえば、そこには無残に横たわるデルピュネであった者の姿。

 仮面を失い露わになったのは窪んだ眼窩に剥き出しの歯茎。ひしゃげた鼻に骨と皮。

 例えるならば老婆のミイラ。

 妖艶な色気も艶に満ちた声も全てが偽り。

 

「……エキドナ、だったか。あいつとは気配が違い過ぎるからもしや、とは思っていた。神の意志(ビッグウィル)を宿した人間かとも思っていたが、本物の神様――いや、化物だった、って事か」

 

 これが、神話の時代より現代まで封じられていたデルピュネの真の姿であった。

 

「まだ息があるな。ここがどこか、お前の正体は、何て事はどうでもいい。答えろ。セラフィナはどこにいる? 随分と広く大きな洞窟だ、先が見通せない程に深いが……ここから更に奥か?」

 

 膝をつきデルピュネの肩に手を伸ばす。

 まるで枯れ枝のようなその軽さに、これが本当に先程まであれ程荒々しい姿を見せていた者かと、海斗はその不気味さに息を飲む。

 

「……お……れ、ゆ……るさ……」

 

「……何?」

 

「……若……を……」

 

 海斗の事を認識しているのか、それとも既に正気を失っているのか。

 デルピュネの口から洩れる言葉は酷く断片的で一向に要領を得ない。

 時間の無駄か、と海斗が諦めて立ち上がろうとしたその時、死に体であった筈のデルピュネの身体が大きく動いた。何かを掴もうとする様にその手を伸ばす。

 

「――ッ!?」

 

 半ば反射的に拳を握った海斗であったが、デルピュネの目は海斗の姿を映してはいない。伸ばされた手も何もない宙へと向けられていた。

 

「口惜しや――」

 

 口から血を吐き出しながら、怨嗟に、呪いに満ちた声でデルピュネが叫んだ。

 

「――ドルバルッ!!」

 

 そして――

 

「ガハッ!」

 

 大きく咳込み吐しゃ物を巻き散らすと、伸ばした腕を地に落とし、その動きを止めた。

 程なくしてその身体が灰と化して崩れていく。

 

「……ドルバル? 何の事だ?」

 

 意味は分らなかったが、少なくとも自分に向けられた言葉ではなかった。

 呪いの言葉を向けられる、であるならばまだ分るのだが。

 

「何かの合図か? それにしては何の変化も……」

 

 気にはなったが、その事を海斗がこれ以上考える事はなかった。

 

「――!? この感じは……あの奥からかすかに……小宇宙を感じた」

 

 海斗の視線の先には先程の戦闘の影響か岩肌が崩れた場所があり、そこからも奥へと続く通路の様な物が見える。

 

「坑道か? 隠し通路ってわけでもなさそうだな。それなりにでかい洞穴だが、あの巨人どもが複数で動くには狭すぎて廃れた道、ってところか」

 

 岩肌が淡く発光している事もあり、視界に関しての問題はなさそうだった。

 

 

 

 

 

 どれ程の距離を進んだのか。

 数キロか、それとも数十キロか。

 どれ程の時間を歩いたのか。

 数時間か、それとも数分でしかないのか。

 流れる汗をぬぐいながら、代わり映えのしない洞窟内を延々と歩き続ける。

 進む程に増す暑さと、奥から感じ取れる小宇宙だけが海斗に前に進めている事を実感させていた。

 

「この臭いは……やはり硫黄か。それにこの暑さ……。探索中に噴火、って事だけは勘弁してもらいたい……っと!」

 

 時折、洞窟内が震えては天井からパラパラと石片が降り注ぐ。欠片の様な物から人一人分はあろうかという大きさの物まで様々だ。

 邪魔になる大きさの物は打ち砕き、周囲の様子に気を配りながら歩みを進める。そうして、やがて大きく開けた場所へと辿り着く。

 

「……火山洞に地底湖かよ」

 

 周囲の熱気とは正反対の涼を感じさせる巨大な地底湖がそこにあった。

 ザバンと大きな音が鳴り響き、湖面に巨大な波紋が浮かぶ。

 天井から崩れ落ちた破片が大小様々な波紋を生みだしている。

 

「……あれは“門”か?」

 

 舞い散る水飛沫の向こうにぽっかりと空いた黒い穴。

 丸みを帯びた洞窟の中で、その穴の周囲だけが“切り取られたかの様に”四角い形状をしていた。

 小宇宙はその闇の奥から感じ取れる。

 

「あの奥か」

 

『――そうだ、あの奥に我らが王のおわすパレスがある』

 

 歩みを進めた海斗の脳裏に響く声。

 ぞくりと、背筋に冷たいものを感じて海斗はその場から跳んだ。

 

「“アクスクラックス”!!」

 

 熱波が海斗の背中に纏わり付き、次いで圧しかかるような圧力が加わった。

 

「ッ……!!」

 

 ビュオウと風を切り裂く音が聞こえた時には、海斗の身体は衝撃と共に地底湖へと叩き付けられていた。

 

「~~ッブ――ハッ! ゲホッ、ぐっ……!?」

 

 幸いにも地底湖の水深はそれほど深くなく、腰まで水に浸かりながらも海斗は敵の姿を探す。

 すると、先程まで立っていた場所に奇妙な影があった。

 それは、蝙蝠の様な翼を広げたギガスであった。

 灼熱の炎を纏った大蛇にも似た剣を右手に、悪魔の頭部を思わせる山羊の顔を模した盾を左手に持ち、赤黒い輝きを放つ金剛衣を纏っている。

 

「オレの名はキマイラ。“合成獣”のキマイラ」

 

「キマイラ、だと? 神話の化物か。……づぅ!?」

 

 背中から感じる灼熱の痛みに思わず苦痛の声を上げる。

 水面には背中の方から赤い色が広がっていた。

 振り切られたように構えられたキマイラの右手、そこに握られた剣から滴る赤い雫。海斗は聖衣が切り裂かれた事を、その剣による斬撃を受けたのだと理解する。

 

『――だが、それを知ったところで無駄な事』

 

 地底湖にキマイラとは違う声が響いた。

 

「コイツだけじゃない!? どこに――ぐあっ!!」

 

 それまで一切の音も気配も感じさせず。

 意識の外から叩きつけられた衝撃に、成す術もなく海斗の身体が吹き飛ばされる。

 完全なる不可視の一撃。

 重圧により聖衣が軋みを上げ、衝撃に耐え切れずに聖衣のヘッドギアが額から弾け飛ぶ。

 海斗の身体は再び地底湖へと叩き付けられていた。

 

「がはっ!! ――ッ、だが、この程度」

 

 気管に入った水を吐き出しつつも、追撃に備えて直ぐさま身構える。

 キマイラの対面、海斗からすれば正面にそのギガスは立っていた。

 頭部、胸部、両手足。その全てが魔竜の頭部を模した漆黒の金剛衣を身に纏っている。

 その輝きは闇夜に流れる雲のように黒と白が流動していた。

 

「吾は“百頭龍”のラドン」

 

「……キマイラにラドンだと? また神話の化物か。それも龍、だと……」

 

『――あの娘と共に、お前はここで王の贄となる』

 

 新たな声が響く。この声もまた、キマイラともラドンとも違う。

 

「何度も、何度も……いい加減に――」

 

 身構える海斗の頭上から闇が落ちた。

 

「ッ!? 上か!!」

 

 闇の正体は巨大な影。

 天井から、巨大な顎を開いた三つ首の魔獣が海斗目掛けて迫る。

 地底湖に凄まじい水飛沫が上がり、まるで爆発でも起こったかのような轟音が鳴り響き、洞窟内が振動する。

 天井からは大小無数の欠片が地底湖へと降り注ぎ、音と飛沫が地底湖を蹂躙する。

 

「オレの名はオルトロス。“魔双犬”のオルトロスよ!」

 

 地底湖から飛沫を撒き散らしながら魔獣が飛び出す。

 魔獣が名乗りを上げる。両肩に獰猛な魔犬の頭部を模した金剛衣を纏ったギガスであった。青い輝きは暗く濁っている。

 

「忌々しい封印の地なれども、もはやここは我らギガスの領域! 気配を消し去る事など造作もない!!」

 

 顎を開き獲物を睨み付ける。魔獣の顔を思わせるその兜の存在もあって、オルトロスの姿は三つ首の魔獣にしか見えない。

 

「そして! 我らがいる限り、お前のような虫けらがあの門をくぐる事など叶わぬと思い知れ!」

 

『――上等だ』

 

「ぬぅッ!」

 

 オルトロスが天井へと視線を向ければ、そこには一瞬の内に跳躍していた海斗がいた。

 

「――全員纏めて叩き潰す」

 

 先程とは真逆の状況。

 仕掛けるのは海斗、迎え撃つのはオルトロス。

 オルトロスは両手を広げ、海斗は空中にあって器用に体勢を変えると右脚に小宇宙を集中する。

 互いの視線が真っ向からぶつかり、その刹那、互いに必殺の技を解き放った。

 

「“レイジングブースト”!!」

 

 放たれた蹴りは、夜空に流れる流星のように光の尾を引いてオルトロスへと。

 オルトロスの交差された両手から獰猛な唸りを上げた二頭の魔犬が現れる。

 

「“サフィロス・エネドラー”!」

 

 魔獣は巨大な顎を開き、涎にまみれた鋭い牙と口腔を剥き出しにして、左右から海斗の身体を喰い千切ろうと襲い掛かる。

 

 交差は一瞬。

 

「ぐうっ!」

 

「むおおおおお!?」

 

 弾かれるように吹き飛ぶ海斗とオルトロス。

 再び地底湖に轟音と巨大な水飛沫が巻き上がる。

 しかし、先に体勢を立て直したのは――オルトロス。

 

「く、くくっ。多少はやるようだが、非力だな? オレを後退させるのが精一杯か」

 

 オルトロスの視線の先では、海斗がゆっくりと立ち上がろうとしていた。聖衣の左肩と右脚には亀裂が走り、右脚からは少なくない血が流れている。

 無傷の己と負傷した海斗。自然とオルトロスの言葉には嘲りが、眼差しには侮蔑が込められていた。

 

「……そうかな?」

 

「虚勢を張るな。お前がデルピュネと戦った事は知っているぞ? 小宇宙を消耗し、今またこうして手傷を負ったその身で、オレたち三獣将を相手に出来ると本気で思っているのか?」

 

 そう言ってキマイラがオルトロスの横に立つ。

 ラドンもまた無言のままに並び立つ。

 

「思う? 思っちゃいないさ。思うなんて思考は、意識はいらない。決定事項なんだよ」

 

 額から流れ落ちる血を拭いながら、しかし、海斗の闘志に一切の衰えはない。

 ダメージはある。想像していたよりも右脚の裂傷が酷い。

 背中の傷も無視出来ない。

 長期戦は無理だろうと判断するが、問題はない。元より長期戦などするつもりはないのだから。

 

 海斗の身体から立ち昇る小宇宙に衰えがない事を感じ取り、ラドンがオルトロスの一歩前に進んだ。

 キマイラもまた剣と楯を構える。

 

 まさに一色即発。

 僅かな動きも見逃すまいと、対峙する者達の間の空気が張り詰める。

 

 

 

――手負いの相手が不満であると言うのならば、わたし達が相手をしよう

 

 

 

 洞窟内に響き渡るフルートの音色。

 澄んだ音色と共に、力ある声が、ギガスの動きを止める。

 

「何者だ!」

 

「お前も――聖闘士か?」

 

 キマイラとラドンの問いに応えるように、洞窟の奥から人影が二つ現れる。

 

「違う。わたし達は――聖闘士ではない」

 

 それは黄金聖衣とは質の異なる黄金の輝きを放つ鎧を身に纏った闘士であった。

 

「―――海闘士(マリーナ)だ。海闘士の海将軍(ジェネラル)セイレーン(海魔女)”のソレント」

 

 口元から金色のフルートを離し、ソレントが名乗る。

 地中海に於いて、その美しい歌声で船人たちを誘い喰らったとされる神話の魔物セイレーン。

 

「同じく、海将軍“クリュサオル”のクリシュナ」

 

 海皇ポセイドンの子であるクリュサオル。その名には、黄金の槍を持つ者という意味を持つ。

 ソレントに続いて名乗ったのは黄金の鎧を身に纏い、黄金の槍を持った浅黒い肌の男であった。

 

 

 

「……海闘士、それも海将軍が二人だと……」

 

 海斗の驚愕は、新たなる侵入者に驚きを隠せないキマイラ達ギガスの比ではない。

 キマイラ達へと向けた構えを崩す事なく、海斗はちらりと背後に現れた海将軍たちの様子を窺った。

 先の言葉を額面通りに受け取るならば援軍と呼べる。しかし、本来聖闘士と海闘士は敵同士であり、自分はシードラゴン――カノンと一戦を交えた身。

 真意を計りかねない以上、油断など出来るはずもない。

 ソレントとクリシュナが一歩一歩近付いて来る。

 背後に感じる二人の巨大な小宇宙に海斗の緊張がいやにも高まる。

 

(――来るか?)

 

 海斗が意識を切り替えようとしたその時、スッと二人は海斗の横を通り過ぎた。

 

「行きたまえエクレウス」

 

 そして、次いでソレントの口から出た言葉に、海斗は一瞬ここが戦場である事も忘れて呆けてしまう。

 

「……な、に?」

 

「ギガスは――」

 

 そんな海斗の様子を気に留める事なく、手にした黄金の槍を振りかざしてクリシュナが口を開く。その切っ先はギガス達へと向けられている。

 

「ギガスは我らが神ポセイドン様にとっても討ち滅ぼさねばならぬ敵。アテナの聖闘士、邪魔をすると言うのならばお前が手負いの身であってもこのクリシュナ容赦はせん」

 

「……いや、お前たち、自分の言っている事が分っているのか?」

 

「心配せずとも……時が来れば我々海闘士と聖闘士は戦う事になる。アテナとポセイドンの意志が相容れぬ以上、それは決定された事。しかし、今はまだその時ではない。それに、私自身無益な戦いは望まない」

 

 そう言ってソレントは手にしたフルートをギガス達へと突き付ける。

 

「シードラゴンは手出し無用と言ったが、捨て置くわけにはいかない。今、我々が優先すべきは――ギガスの排除と認識している」

 

 海闘士の真意を測りかねる海斗であったが、時間が惜しいのは事実。

 

「……ソレントにクリシュナと言ったか。借りができたな。お互いの立場上、返せるとは確約しかねるが……覚えておくさ。俺の名は海斗だ」

 

 そう言って自ら名乗り――

 

「行かせてもらう」

 

 海斗は門へと向かい駆け出した。

 

「むぅ!? 行かせんぞ!」

 

 その動きを察知したキマイラが飛び出そうとするが、その前にクリシュナが立ち塞がる。

 ラドンの前にはソレントが立ち、その行く手を阻む。

 海斗の姿が門の奥へと消えた事を確認すると、キマイラがチッと舌打ちをして標的を目の前の海闘士へと切り替えた。

 

「吾の邪魔をするか。よかろう。聖闘士も海闘士もこの大地に生きる人間。我らの敵である事に変わりない。しかし、この状況、三対二という事を理解しているのか?」

 

「三体二? フフッ、違うな」

 

「何だと?」

 

 ソレントの言葉に訝しむラドン。

 

「~~ッ!? ――オルトロスッ!!」

 

 その耳に、キマイラの驚愕に満ちた声が聞こえた。

 

「二対二だ。どうやら気付いてはいなかったか。エクレウスとあのギガスが繰り出した技は相打ちではない」

 

 ソレントが告げる言葉の正しさを証明するように、ラドンの向けた視線の先ではオルトロスの纏った金剛衣に無数の亀裂が奔り――瞬く間に四散する。

 悲鳴すら上げる事なく、全身から血を吹き出してオルトロスは地底湖へとその身を沈めた。

 

「鋭過ぎる一撃は、斬られた事すら気付かせぬと言うが。あのギガスは既に破壊されていたのだ」

 

(なるほど。こうして実際に見た事で理解出来た。シードラゴンがあれ程までに危険視した理由が分る。恐るべき聖闘士。だからこそ、次に会う時は同胞として会いたいものだが……)

 

 内心に浮かぶその想いを押し止め、ソレントはラドンへと向き直った。

 クリシュナも手にした黄金の槍を構え直してキマイラと対峙する。

 

「さあ、始めよう。そして終わらせよう。ギガスよ、お前達のその魂、再び冥府の底へと送り返そう。この一時を魂に刻み込み――永劫に眠れ」

 

 

 

 

 

 太陽の、光が届かぬ地の底にあって、妖しい光に灯されたパレスの最深部。

 円形に形取られたその広間はまるで古代の闘技場を思わせる。

 その闘技場の、例えるならば支配者の座す場所。

 全てが見渡せるその場所に――王がいた。

 巨大な岩石をそのまま加工して創り上げた玉座。形容するならばそうなる。

 そこに腰掛けるのは煌びやかな装飾が施された外套を纏ったギガスの王ポルピュリオン。

 外套越しにも分る屈強な体躯。ぎょろりと見開かれた瞳、炎のように逆立った髪、無造作に蓄えられた髭。

 その容貌は、伝承に伝えられる巨人族そのものであった。

 

「ふむ。アルキュオネウスが敗れデルピュネも逝ったか。僅かの間に随分と多くの鼠が紛れ込んだものよ」

 

 そう言って、ポルピュリオンは手にしたグラスを傾ける。

 透き通る程に磨かれたグラスにはポルピュリオンの側に立つ人影が映り込んでいた。

 

「これはまた異な事を仰られたものだ。紛れ込むもなにも、元より迎え入れるつもりであったのでしょうに」

 

 ポルピュリオンの横に控えていた純白の外套を身に纏った男が、グラスに紅い液体を注ぎ入れる。

 それは穏やかな物腰と、僅かな動きにすら優雅さを感じさせる美しい男であった。

 細身の身体、真っ直ぐで長い黒髪、色白にも見える肌は隣に座るポルピュリオンとの対比もあり、あまりにもギガスらしからぬ存在である。

 

「フッ。聡いな、お前は」

 

「――では、そろそろわたしが出向きましょう」

 

「随分と楽しそうではないかトアス」

 

「……分りますか?」

 

「分らいでか。だが、どうやら相手は黄金聖闘士ではないぞ」

 

「構いませんよ。『聖衣の優劣が強さの全てではない』と、かつて我等と戦ったアテナの聖闘士がそう言っていたではありませんか」

 

「そうか。そうであったな」

 

「何を身に纏おうとも強者は強者。それに、この千年、わたしが焦がれた相手でもあります」

 

 トアスは手にした水差しをテーブルに置き、柔らかな笑みを浮かべながらそう言うと、ポルピュリオンの前へと進む。

 その場に片膝をつき、頭を下げて告げた。

 

「全ては――我らが“王”の御心のままに」

 

「期待しているぞ“迅雷”のトアス。我が右手。最強の神将よ」

 

「ハッ」

 

 外套を翻して立ち上がるトアス。

 その身に纏われた金剛衣が露わになる。まるで孔雀の羽根を思わせる様な優雅な装飾が施され、曲線を多用されたそのフォルムは聖衣に近い。

 ポルピュリオンに恭しく一礼したトアスは踵を返して歩き始める。

 己が待ち焦がれた戦場へと。

 

 

 

 頬杖をつきながら、去り行くトアスをしばし眺めていたポルピュリオン。

 そうして暫く、その背中が見えなくなったところでゆっくりと口を開いた。

 

「そう、実に多くの鼠が紛れ込んだ。それは聖闘士や海闘士の事だけではない。お前の事でもある。なあ――ドルバルよ」

 

「……これはこれは」

 

 玉座の背後からゆらりと影が蠢き実体を伴う闇となった。

 闇は、ぼろ布の様なローブで全身を包み込んだ男であった。

 目深にかぶったフードによってその容貌を窺い知る事は出来ない。

 ただ、僅かに窺える口元には笑みを浮かべている。

 ドルバル――それがこの男の名であった。

 

「上手くデルピュネを唆したものだ」

 

「肉体と魂を切り離されて冥府へと封じられた貴方がたとは違ったのです。デルピュネが封じられたのは魂のみであり、その肉体は時の流れと共に無残にも老いていた。女としては……耐えられなかったのでしょうな」

 

「老い、か。若さに執着する、その感覚は我には分らんな。それにしてもソーマにアンブロジア等と、よくも言ったものだ」

 

 クククッと喉を鳴らして笑うポルピュリオン。

 

「目論見通りか? おかげで我らギガスと聖闘士は消耗したぞ? 我らを討つなら今が好機だ」

 

 可笑しそうに、愉しそうに笑う。

 

「喰えん男よな。フッ、アスガルドだけでは満足出来ぬか」

 

「……さて」

 

 ドルバルはそれ以上を語らない。

 口元に笑みを浮かべたまま、じっとその場に立つのみ。

 

「アテナに施された我らの封印。時を経て効力が弱まっていたとはいえ、それを解いた事には感謝しよう。その礼に戦えと望むのであれば言われずとも戦おう。

 だが、覚えておくがよい。我らギガスにとってこの地上の我ら以外の全ては討ち滅ぼすべき敵よ。その事を、ゆめゆめ忘れるなドルバル」

 

「結構。その時には……“我ら”アスガルドの神闘士(ゴッドウォリアー)が存分にお相手致しましょう」

 

 その言葉を最後に、ポルピュリオンの背後から、この間からドルバルの気配が消えた。

 

「フン。我ら、か。我が、の間違いであろうに」

 

 そう呟いたポルピュリオンは、グラスに残った紅い雫を飲み干して玉座から立ち上がる。

 投げ捨てられたグラスが音を立てて砕け散ったが、それを気にした様子もなく、ポルピュリオンが闘技場の中央――広間へと向かいゆっくりと歩を進める。

 そこには岩で造られた祭壇があり、まるで咎人の様に手足を漆黒の鎖によって拘束されたセラフィナが、一糸纏わぬ姿で括り付けられていた。

 意識はない。しかし、微かに上下する胸がセラフィナの生を伝えている。

 それを一瞥すると、ポルピュリオンはその視線を祭壇の下の血溜まりに、そこに倒れる少女――エキドナへと向けた。

 金剛衣は無残に砕け、仮面は真っ二つに割れて転がっていた。

 海斗の想像していた通り、デルピュネとは異なりエキドナは人間であった。仮面の下にあった素顔は東洋人風の少女のもの。

 しかし、美しいと形容出来たその素顔も今は血に赤く染まっている。

 ポルピュリオンは無言のままエキドナの左腕を掴み上げると、真紅のルビーが填められた腕輪を力任せに引き剥がした。

 

「う……あっ……」

 

 その痛みで意識が戻ったのか、エキドナの口から苦悶の声が上がったがポルピュリオンは意に介さず、そのままエキドナであった少女の身体を投げ捨てる。

 

「あ、がっ」

 

 祭壇に叩き付けられた少女は、セラフィナの身体に覆い被さるようにして力無く崩れ落ちた。

 

「聖闘士の資質を持った者をエキドナの器とした。それは良い。しかし、その者にこのルビーを与えていたとは。ドルバルめ、下らぬ事を考える」

 

 エキドナは――その名を与えられたのは人間の少女であった。

 ドルバルによって偽りの記憶を与えられた少女は己をギガスと信じて行動していた。

 綻びはジャミールの地で生じ、そして、幸か不幸かこの場で少女はアテナの聖闘士として覚醒を果たした。

 聖闘士とギガス。両者が対峙して行われる事は一つしかない。

 

「……無謀にも我に挑んで見せた蛮勇は好ましいが、如何せん実力が伴わぬ。聖衣の無い聖闘士に何が出来るものか。いや、コレすらもドルバルの仕込みか」

 

 そこでふと、ポルピュリオンは彼らしからぬ愚にもつかぬ事を考えた。

 

「神話の時代、我と対峙した聖闘士が言っていたな。聖闘士はその魂に星座の定めを刻み込んでいる、と。セイカと言ったか。この娘の定めがこうして傀儡と化した果てで朽ちる事であるならば――哀れよな」

 

 手にした腕輪から真紅のルビーを外したポルピュリオンは、それをセラフィナの胸へと押し当てた。

 途端にルビーから赤い闇――そうとしか形容の出来ない何かが溢れ出し、セラフィナの周囲を覆い尽くすように広がり始める。

 

「ク、クククッ。フハハハハハハハハ――」

 

 赤い闇が、セラフィナだけではなく、倒れた少女や哄笑を上げるポルピュリオンにも迫る。

 

「いま暫くの御辛抱を。間もなく全ての準備が整います」

 

 全てが赤い闇に呑み込まれる中、ポルピュリオンの声だけが広間に響き渡った。

 

 

 

「全ては我らが――“王”のために!」



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第18話 望むはただ千年の決着を!の巻

 洞内を照らしていた淡い光が失われ、しばらく続いた闇が、やがて赤みを帯び始める。

 それは赤黒く煮え滾る熔岩の色。洞窟内がその炎によって照らされ、染められた色だ。

 地下深く、火口をぐるりと囲むように螺旋を描いた――通路と呼ぶのも躊躇われるような道を抜ける。

 行く手を阻むのは、百の蛇の頭と何本もの手足を持った魔獣、そうとしか形容のできない意匠を施された巨大な青銅の扉。

 そこから先は彼らの王――ギガスの神の意志が支配する聖域。

 

 

 

 現世と神域、その狭間である扉の前で激しくぶつかり合う二つの小宇宙。

 人の目では捉えきれない速度で交差する二つの輝き。

 輝きは幾重にも重なり合った光の軌跡となる。

 軌跡の中で踊るのは二つの人影。

 

「……これで三度目。私の“スティグマ”が君を捉えた回数だ」

 

 呟かれる声の主は神将“迅雷の”トアス。彼は穏やかさを秘めた眼差しのまま、落ち着いた様子で続ける。

 

「これで分ったかな? 君は確かに速い、まさしく神速だ。それでも……私の方が速い。私の二つ名を教えよう、“迅雷”だ」

 

 トアスの右手が掻き消え、彼と対峙していた影がその場から姿を消した。

 洞内にゴッという音が響き、天井が崩れ落ちる。

 大小無数、大量の岩盤によってうず高く積み上げられたその場所に、遅れて一つの岩が突き刺さった。長方形のそれはまるで墓標であった。

 

「確かに速い――だが、軽い。その程度の重さじゃあ……」

 

 声と共に、墓標の下から黄金の輝きが溢れ出す。溢れ出た光が集束し、洞内を貫く柱となって起立した。

 光に押し上げられる様にして岩が、土砂が舞い上がる。

 

「――俺の命には届かない」

 

 光の中から現れたのは海斗。その身に纏うエクレウスの聖衣は白ではなく、今は黄金の輝きを放っている。

 

「ようやく実感できた、これがムウの仕込みか。新生したこの聖衣は、俺の小宇宙の高まりに応じて強度を遥かに高めている。お前の拳――“スティグマ”だったか? 確かに速く鋭い一撃だった。以前のままの聖衣では、いや、新生した聖衣であっても“黄金化(この状態)”でなければ一撃ですら耐え切れなかった。俺の意思が、小宇宙の炎が消えない限り、今のこの聖衣を貫く事は出来ん」

 

 海斗の言葉を証明するように、黄金の輝きを放つ聖衣には胸部と左肩、右脚に破損こそ有ったが、トアスによって与えられた傷は無い。

 

「そして――」

 

 海斗が僅かに腰を落とし、左右へと広げた両手がゆっくりとエクレウスの星座の軌跡を描く。

 アルファからベータ、ガンマ、そしてイオタ。四つの星からなる縦に長い台形。それがエクレウスの軌跡。

 それを見て、トアスの表情が変化した。

 一瞬であったが、そこに浮かんだのは驚愕と歓喜。

 

「そして、お前の速度にも慣れてきた。“スティグマ”の正体は拳大の無数の拳撃の中に紛れ込んだ針の様なか細い一撃だ。小宇宙を針のように細く鋭く集束したもの。似た様な技を使う聖闘士の話を聞いた事がある。確かに速いが――次は捉える」

 

 高まり続ける海斗の小宇宙は天駆けるエクレウスの姿を浮かび上がらせる。

 

「……君の容姿と纏うその聖衣。わたしの記憶とは異なっていたのでね、こうして目の当たりにするまで半信半疑だった。だが、その構え、その眼差し、その小宇宙が生み出したオーラをわたしは――知っている。やはり、君は“そう”だったのだな。これから君が繰り出す技を当てて見せよう。その体勢から放たれる技は“エクレウス”の必殺拳、小宇宙の生み出す流星“エンドセンテンス”だ!」

 

 一分の隙も見逃すまいと、目の前の敵に意識を集中していた海斗であったが、初見の相手にこの地ではまだ見せた事のない技を言い当てられた事は少なくはない動揺となり、僅かな焦りをトアスに伝える。

 

「フフフッ。まさか、な。千年の時を経て、こうして再び相見える事ができようとは! 久しいな、とでも言うべきかなエクレウス――いやキタルファ!! 決着を! 運命がわたし達にあの時の決着を着けろと言っているのだ!!」

 

 トアスの言葉には闘争心を剥き出しにした激しさが、熱があった。

 穏やかな雰囲気を一変させ、今のトアスが纏うのは修羅の如き闘志。トアスのこれまでが、例えるならば陽光であったとしよう。ならば、今のトアスは業火であった。

 

「そんな都合は――知った事かッ!!」

 

「君にとってはそうだろうさ! だが、わたしにとっては“そうだ”という事なのだ!!」

 

 自身に迫る光弾を前にしてトアスは構える。奇しくも、その構えは海斗と同じものであった。

 その事実に、今度は海斗の表情が変わる。

 

「ッ、だが! 構えが同じだろうと――“エンドセンテンス”!」

 

「これが我が迅雷のトアス最大の拳――“アヴェンジャー・ショット”!」

 

 お互いの突き出した拳から放たれる光弾がぶつかり合い、閃光が交差する。

 せめぎ合うのは打倒の、破壊の意思。

 

「これはッ、こいつは同質の――いや、同じ技だと!?」

 

「言ったはずだ、わたしはその技を“知っている”と!」

 

 海斗とトアスの横を、互いに相殺しきれなかった光弾が、閃光が奔る。

 

「そう、今の君には分らない事だ! ならば教えてあげよう。千年前、わたしは、いやわたし達ギガスは目覚めたのだ。今、この時の様に!」

 

 閃光の生み出す光の軌跡の中を駆け抜ける海斗とトアス。

 

「そして王の、ギガスの神復活の目前まで事を進めたわたし達を阻んだのは二人の聖闘士だったッ!!」

 

 光の乱舞は二人が互いの拳をぶつけ合い、額を突き合わせられる程までに接近した事で終わりを見せる。

 

「今でもあの時の事を覚えている。そう、一人はエクレウスの聖闘士だ。今の君よりもう少し年を経ていた。髪の色も瞳の色も違っていたが、しかし、身に纏った聖衣は今の君と同じく黄金の輝きを放っていたよ。そして、もう一人。その師と名乗ったジェミニの黄金聖闘士だった」

 

 記憶を語るトアスの表情は一変して穏やかであった。

 しかし、痩身の優男のように見えてもその本質はギガスという事か。

 その外見からは信じられない程の圧力が、拳を伝わり海斗へと圧しかかる。

 

「これは運命だとわたしは感じている。あの時、ジェミニによって邪魔をされたわたし達の戦い。迎える事のなかった決着を! こうして再びエクレウス――君と相見える事ができたのだから!!」

 

「……お前が、俺を通して何を、誰を見ているのかは分るが――」

 

 知った事か、と。呟いた海斗の身体からストンと力が抜かれ、拳にかかった抵抗を失った事でトアスの身体がずいと前方へと沈み込む。

 崩れた体勢を立て直す間も無く、真下から突き上げる様に繰り出される海斗の蹴り。

 回避すべく腰をひねり、上半身を逸らせたトアスの頬に一筋の赤い線を刻みつける。

 それは力の流れに逆らわず、その勢いに自身の力を加えて相手に返すカウンター――“ジャンピングストーン”の変形であった。

 とはいえ、所詮は一度見ただけ、見様見真似の言わば紛い物であり、本家の技に及ぶはずもない。

 しかし、状況を変化させるだけの効果はあった。

 その場から身を翻したトアスと、蹴りの勢いのまま空中で身体を反転させて着地した海斗との間には僅かな距離が生まれていた。

 近過ぎず、遠過ぎず。

 それは互いの必殺拳の間合い。

 

「たまらないな。君には自覚があるのだな、かつてそうだったという自覚が。ならばこそ! だからこそ!! さあ、あの時の決着を着けようエクレウス。千年前の君は強かった。そして今の君も強い。ならば、わたしにとっては何の問題もないッ!!」

 

「……余計な雑音はいらない。俺が誰であり、何か、なんて事もどうでもいい。セラフィナを連れて帰る。今の俺にはそれだけだ、それだけでいい。邪魔をする奴は倒すだけだ」

 

 “千日戦争(ワンサウザンドウォーズ)”という言葉がある。

 実力の伯仲した黄金聖闘士同士が戦った際、互いに一歩も動けず、膠着したまま千日経っても決着が着かない状況に陥る事を表した言葉である。

 この時の海斗とトアスの状況はまさにそれであった。

 

 閃光の中で繰り広げられるのは無数の拳撃の応酬であった。

 拳が、肘が、膝が、爪先が。

 手刀が、貫手が、蹴りが。

 威力は互角、精度も互角、速度も互角、放たれる拳の数も全てが互角。

 

 光に弾かれた両者が身構え――放つ。

 

「“エンドセンテンス”!!」

 

「“アヴェンジャー・ショット”!!」

 

 同質の技であるエンドセンテンスとアヴェンジャー・ショット。

 今度はお互いに万全の体勢から全力で放たれた。

 

「うぅおおおおおおおおおおっ!!」

 

「あぁああああああああああっ!!」

 

 変化はその直後に起きた。

 繰り出される拳撃のあまりの数に、行き場をなくした力の余波が、二人の間に小さな渦を生み出したのだ。

 雫の一つ、その程度の大きさであった渦は、周囲に溢れた力を貪欲に取り込み続ける。雫は瞬く間に巨大な渦となり、渦はやがて破壊の力に満ちた巨大な繭となって具現化する。

 それは言わば爆弾であった。互いの力を集束し、生成された爆弾である。

 成長を続ける爆弾は、両者の拮抗が崩れた時、つまりは敗者に対してその全てを解き放つ事となる-。

 

「フ、フフフ。ハハハハハッ! 全てにおいて互角か!! それでこそエクレウス、私が認めた――人間だ」

 

 そう告げるトアスの表情が、口調が、穏やかなものになっていた。

 その眼差しは慈愛に満ちてさえいた。

 この瞬間、焦がれた千年の空虚が満たされるのをトアスは感じていた。

 

「だが……全てにおいて互角であるならば、それは、すなわち――」

 

 私の勝ちだ。その言葉をトアスは胸の内に秘めた。

 二人の周囲に満ちていた光は既にその色を失っていた。

 憂いさえ帯びたトアスの視線の先。光の繭の向うからは赤い色が散っている。

 二人の間に生じた光の繭により、こうして向かい合っていながらもトアスには海斗の表情を窺い知る事は出来ない。

 

「ここに来るまでに万全の態勢であったならば、そうは言うまい」

 

 光の繭の向こうで何が起こっているのか。トアスはそれを知っている。

 それは生命の色。鮮血の赤。

 海斗の背中から、左肩から、右足から。ここに来るまでに受けた傷口の全てが開き、血を流していた。

 

「既に君の肉体にはわたしの与えた聖痕が刻み込まれていたのだ」

 

 海斗の身体に聖衣を越して淡い光点が浮かび上がる。その数は三つ。

 

「君の言った通りだ。わたしの拳は確かに君の聖衣を貫く事は出来なかった。しかし、私の“スティグマ”は身に纏う物の有無を問題としないのだ。だからこそ――」

 

 海斗の聖衣から黄金の輝きが消えた。

 

「“聖痕(スティグマ)”なのだよ」

 

 そして、三つの光点から鮮血が噴き出した。

 

「元を辿れば、この技は生贄となった者の血を我らが神に捧げる為のものであった。繰り返されるその行為の中で、わたしは生物の気脈、血脈の急所を知り、やがて“スティグマ”とした。君に打ち込んだ“聖痕”は君の血を奪い、五感を奪い、緩やかに君の命を奪う」

 

 事ここに至り、両者の拮抗は完全に崩れた。

 天秤の傾きに従って、光の繭がその力の全てを解き放とうと、敗者へと向かいゆっくりと進む。

 

「しかし、この状況ではそれもかなうまい。五感が衰えた事で己の死を、死の間際の苦痛を感じぬ事がせめてもの救いか」

 

 ぷつりと、糸の切れた人形の様に赤に染まった海斗の身体が膝から崩れる。

 だが、完全にではない。肩膝をつきながらも拳を突き出し、堪えていた。

 

「その身体で……よく持たせるものだ。しかし、その光球はもはや私の力でもどうする事も出来はしない」

 

 光の繭が迫る。

 突き出された海斗の両手からピシリと音が鳴った。亀裂の音だ。

 

「君はよくやった。間違いなく強者であったよ。静かに敗北を、死を受け入れたまえ」

 

 聖衣の腕部に無数の亀裂が生じていた。

 それは腕から始まり肩、胸、腰、脚部と全身へと広がっていく。

 海斗の身体は光球に触れてはいない。

 余波だ。

 炎に手を近付ければ熱を感じる様に。

 光の繭が放つ破壊の力、その余波ですらが、身に纏う聖衣の耐久値を超えていた。

 

 光が海斗の身体を包み込む。

 その瞬間、海斗がどのような表情を浮かべていたのかをトアスは知らない。

 トアスは背を向けていた。

 それが情と言わんばかりに。

 

「千年の決着だ。さらばエクレウス」

 

 閃光がトアスの背を照らし、洞内に長い影を落とした。

 

 

 

 

 

 第18話

 

 

 

 

 

 少し昔話をしようじゃあないか。

 これは、俺が先代から、いや先々代だったか? まあどうでもいいやな、兎にも角にも聞いた話さ。伝聞ってやつだな。

 実際に俺が見聞きした訳じゃないからホントかどうかは知らないよ?

 

 それは今より千年の昔。

 って、ぴったり千年ってわけじゃないんだぜ? 数十年ぐらいの誤差はあるだろうねェ。

 まあ、キリが良いから千年って事にしとこうや。お高くとまったカミサマ方々からすればな? 人の暦の十年なんてクソみたいなモンだろうしなァ。

 んで、これから話すのは聖域においてその将来を有望視されていたとある聖闘士の兄弟、その弟クンの話だ。

 お兄ちゃんの話はアレだ、機会があればまた今度じっくりとしてやるよ。

 

 さて、仁智勇を兼ね備えた兄はペガサスの聖闘士として常に女神アテナの傍らに。

 才能においてはその兄に勝るとも劣らないと言われた弟は、エクレウスの聖衣を身に纏い、誰よりも速く戦場へと駆けていた。

 兄弟は互いに切磋琢磨し、お互いを高め合いながら来るべき聖戦に備えていた。ま、仲は悪かったみたいだがな。

 

 そして、遂に訪れた冥王との聖戦だ。

 その戦いに名を連ねた聖闘士は六十八、いや六十九人? 何にせよ、それだけいた聖闘士も戦い終わって数えてみればたったの七人だ。これが多いのか、少ないのか。

 その内の何人が五体満足でいられたのかはご想像にお任せだ。

 で、生き残った聖闘士だ。そこにお兄ちゃんの、ペガサスの名は無かった。

 ペガサスは最期の時までアテナの為に戦い、アテナの為に死んだそうだ。

 では、弟クンはどうなったのか?

 お兄ちゃんと同じく聖戦を戦ったワケだが……その名は無かった。聖域の史書にも正史にも――後世伝えられるべき歴史のどこにも記されてはいなかった。

 名前だけじゃないんだな、これが。

 “その時代のエクレウスの聖闘士”の存在自体が、後世に伝えられた歴史書には記されてはいなかったのさ。

 

 

 

「それは何故かって? それはな、エクレウス――弟クンがその存在すら赦されぬ程の大罪を犯したからさ。その切欠となったのが“ギガントマキア”なワケだが」

 

 暗闇の中、どこからか現れたのは古びた一つのスポットライト。

 光が灯り、照らされたその中に古びた安楽椅子の姿が浮かび上がる。

 

「知ってたかい? ギガスとの戦いをこう呼ぶのさ。ハハハッ、皮肉だねえ。そう、つまり今やってる戦いは、紛れもなく“ギガントマキア”なのさ」

 

 背もたれに手を掛け、ひらりとその椅子に腰掛けたのは黒いタキシードに身を包んだメフィストフェレス。

 彼は椅子に深く腰掛け脚を組む。勢いが強過ぎたのか、被っていたシルクハットが闇の中に落ちそうになったが、それを指先で捕えるとそのまま器用にくるくると回し始めた。

 

「ペガサスとエクレウスの二人は兄弟だったんだが、実はその下には妹が一人いたんだよ。フェリエって名前のな。三人兄弟だったわけだな。年の離れたお兄ちゃんとは違い、弟クンとは歳も近く過ごした時間多かったせいかね、妹ちゃんは弟クンによく懐いていたそうだ。とても仲の良い兄妹だったらしいねぇ」

 

 麗しの兄妹愛ってやつか、俺そーゆーの好きよ?

 そう言って歯を見せて屈託なく笑うメフィストフェレス。

 その表情はまるで幼い子供が見せる無邪気なもの。

 そう、子供は無邪気だ。善悪を知らず、何色にも染まってはいない。何者でもないが故に、禁忌に、悪意というものへの枷もない。

 ならば、このメフィストフェレスは何者なのか。

 聖人か、それとも――

 

「そう、らしい、さ。詳しい事を知る者はお兄ちゃんか、弟クンの師匠であったジェミニ黄金聖闘士――カストルしかいなかった。その二人が口を閉ざしていた以上、他人が知れた事など微々たるモンだな。

 さてさて、いよいよ激化する聖戦の中で誰もが予期せぬ事態が起こった。オリンポスの神々にとって忌むべき存在、そうギガスの復活だ。当然、アテナにとっては冥王もギガスもどちらも放ってはおけぬ大事。すぐにでも戦力を割く必要があった。

 しかし、ギガスとの戦い――ギガントマキアは、聖域にとっては聖戦ではない“歴史にさえ残す意義の無い”戦いとされていたのよね、これがさ。大義なんてありゃあしない。人とギガス、種族としての生存を駆けた殺し合いにすぎないんだからなァ。

 言ってしまえば害虫駆除ってヤツかね? そんな戦いで命を落としても名が残る事はない、いや誰にも知らされる事がないんだから最悪野垂れ死にと同程度の扱いになるかもしれない。ヒドイ話だよ、と、とととっと」

 

 指先から落ちそうになったシルクハットを足の爪先で拾い上げ、軽く蹴り上げる。

 ふわりと舞い上がったシルクハットはそこにあるのが当然の様に、メフィストフェレスの頭に覆い被さっていた。

 

「勝って当然、負ければ犬死、聖闘士の恥晒しってか? その戦いに自ら名乗り出たのは、破損した聖衣の修復の為に一時的に聖戦から離れていた弟クンだった。ハハッ、まるでどこかの誰かさんのようじゃないか?

 だが、その弟クンの申し出を止めた者がいた。女神アテナとお兄ちゃんさ。止めただけじゃあない。弟クンを拘束さえもした。その時にはギガスの神の復活が目前まで迫っている事が分っていた。一刻の猶予も無かった。なのに、だ」

 

 メフィストフェレスがパチンと指を鳴らした。

 

「なぜだか――分るかい?」

 

 すると、彼の周りに何体もの西洋人形が現れた。それらは、まるで生きた人間であるかの様にお互いの手と手を取り合うと、拙いダンスを披露し始めた。

 バラバラに踊る人形たち。その性別も種類も様々であったが、共通している点が一つだけあった。

 どの人形にも――顔が無い。

 

「くるくるくるくる。廻り回るロンドの様に。歴史は繰り返す、人の営みが、流れとなってくるくると。そう、終わりのない輪舞さ。これがまた意外とね? いくら見ていても飽きないんだよなァ。むしろ好きだね」

 

 メフィストのフェレスの鳴らす口笛のリズムに乗って、人形たちは回る。まわる。周る回る廻る。

 拙いダンスが規則正しく、スポットの光の中でくるくるくるくる。

 

「そう、歴史は繰り返している。役者は違えど、舞台で繰り広げられている演目は同じ。ギガスの神の復活を阻むべく突き進む弟クン、エクレウスこそが――」

 

 安楽椅子を蹴り飛ばし、メフィストフェレスが暗闇へと飛び込んだ。

 スポットライトが消え、安楽椅子が消え、そして人形達たちの姿も消える。

 

「――お前さんだよ、今生のエクレウスの海斗クン」

 

 ずいっと、メフィストフェレスが顔を近付け覗き込んだ暗闇の中に、ぼうと浮かび上がる光があった。

 その光は弱々しく、息を吹きかけるだけで消えてしまいそうに淡く儚い。

 その光源は、膝をつき力無く項垂れた人影――海斗であった。

 その身体は身じろぎ一つせず、純白であった聖衣は、無数の亀裂と海斗の血によってその輝きを失っていた。

 

「セラフィナ――あのお嬢ちゃんがなぜ攫われたのか? それはな、現代においてギガスの神復活の為の贄として、聖母として選ばれたのがあのお嬢ちゃんだったのさ。

 言ったよなァ、歴史は繰り返すと。ならば、今まさに危機にあるであろうあのお嬢ちゃんだが、千年前はその役は誰が演じていたのかな?

 ここまで言えば分るだろう? お約束だもんなァ。だからこそ、千年前のアテナとペガサスは止めたのさ。最悪の事態を想定した上で、ね。

 そう、ギガスの神の聖母として選ばれたのは故郷に残していた最愛の妹だったのさ。拘束を破り、制止する聖闘士すら打ち倒し、エクレウスはギガス達の下へと向かい――そこで業を背負った」

 

 メフィストフェレスが海斗に、その耳元に顔を近付けて呟いた。

 

「間に合わなかった。伸ばした手は届かなかった。結果として、エクレウスは、その手で、妹を、その身に宿した、ギガスの神ごと――」

 

 しっかりと聞こえるように、一語一語を理解できる様に。

 

「――殺したのさ」

 

 そう言うと、メフィストフェレスは立ち上がり、頭上のシルクハットに手を伸ばす。

 

「その後、エクレウスは聖域から姿を消したそうだ。さて、その辺を踏まえた上で! 満身創痍で聖衣もボロボロ、そんなお前さんにビッグなプレゼントをあげようじゃないかァ!」

 

 ステージを終えたマジシャンが観客へ向けて行う様に、シルクハットを手に取ったメフィストフェレスは海斗へと深々と頭を下げる。

 

「じゃじゃじゃ~~ん! こちらに取り出しました商品は冥王軍自慢の一品!」

 

 一転して勢いよく頭を上げるメフィストフェレス。

 海斗に向けて差し出されたその手の上にあったのは先程手にしたシルクハットではなかった。

 

 そこにあったのは大の大人程はあろうかという巨大な彫像。冥界の宝石、見る者にそう思わせるかの様に、それは深い夜の闇を落とし込んだ黒で出来ていた。黒く輝く彫像であった。

 人に似た姿をしながら、角を生やした鳥の頭を持ち、背には巨大な羽を持った、人と鳥を掛け合わせた様な、言うなれば鳥人の姿をしていた。

 

 女神アテナの聖闘士に聖衣が、海皇ポセイドンの海闘士に鱗衣があるように。

 

「何と“冥衣(サープリス)”にございます!!」

 

 冥界の王、冥王ハーデスに従う冥闘士(スペクター)がその身に纏う戦いの衣。それが冥衣。

 

「ただ一言、来い、とお求めになるだけで、この最高位の冥衣がアナタの物に!! な~に、御心配は無用です。この冥衣は聖闘士でも問題なく身に纏っていただけますよぉ。実績がありますからねェ!」

 

 海斗の肩に手を回したメフィストフェレスは、さも旧年来の友人にそうするかの様に気安く、気さくに語り続ける。

 

「さあ、ここに力があるぞ? 手を伸ばす、それだけでいいんだ。なぁ、助けるんだろう? あのお嬢ちゃんを。助けたいんだろう? このままじゃあ間に合わないぞ?

 認めたらどうだい? 受け入れればどうだい? 分っただろう? 今のままのお前さんじゃあ無理なんだ。でも、コイツがあれば助けられる! 勝てる!! 何者にも負けやしないさァ!!」

 

 ピクリと、これまでメフィストフェレスが何を語っても反応を見せなかった海斗の身体が、指が動いた。

 

「我々は君の選択を歓迎しよう。そして、ようこそ冥王軍へエクレウス。いや――」

 

 それを見て、とても、とても楽しそうに、愉しそうに、メフィストフェレスは笑みを浮かべ――嗤った。

 

 

 

「新たなる天雄星――ガルーダよ」



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第19話 Never~魂の記憶~!の巻

 ポルピュリオンは無言のままエキドナの左腕を掴み上げると、真紅のルビーが填められた腕輪を力任せに引き剥がした。

 

「う……あっ……」

 

 その痛みで意識が戻ったのか、エキドナの口から苦悶の声が上がったがポルピュリオンは意に介さず、そのままエキドナであった少女の身体を投げ捨てる。

 

「あ、がっ」

 

 祭壇に叩き付けられた少女は、セラフィナの身体に覆い被さるようにして力無く崩れ落ちた。

 

「聖闘士の資質を持った者をエキドナの器とした。それは良い。しかし、その者にこのルビーを与えていたとは。ドルバルめ、下らぬ事を考える」

 

 手にした腕輪から真紅のルビーを外したポルピュリオンは、それをセラフィナの胸へと押し当てた。

 途端にルビーから赤い闇――そうとしか形容の出来ない何かが溢れ出し、セラフィナの周囲を覆い尽くすように広がり始める。

 

「ク、クククッ。フハハハハハハハハ――」

 

 赤い闇が、セラフィナだけではなく、倒れた少女や哄笑を上げるポルピュリオンにも迫る。

 

「いま暫くの御辛抱を。間もなく全ての準備が整います」

 

 全てが赤い闇に呑み込まれる中、ポルピュリオンの声だけが広間に響き渡った。

 

「全ては我らが――“王”のために!」

 

 セラフィナの身体に押し当てたルビーを、胸元から下腹部へゆっくりと引き下げる。

 すうっと、まるで刃物に当てられたかの様に、セラフィナの白い肌に一条の赤い線が浮かび上がる。

 つうと流れる赤い血と、ルビーの中から湧き上がる熱に、その時、ピクリと、セラフィナの瞼が、身体が動いた。

 

「……目覚めたか娘よ」

 

「……うっ……く、あ、あなたは……?」

 

 セラフィナの霞がかった思考、ぼやけた視界が徐々に鮮明になり、その瞳に目の前に立つギガスの姿がはっきりと映る。

 

「――ッ!? あの人は?」

 

 それによって瞬時に覚醒する意識。ここがどこなのか、自分に何があったのかをセラフィナは思い出す。

 

「くっ!」

 

 鎖に絡め捕られ身動きが取れない事は分っていたが、それでも、と身を乗り出してある人物の姿を探す。

 それは、自分をこの場所に連れてきた敵――仮面を着けた少女であり、仮面を捨て、自分を守るために戦ったエキドナの姿を。

 直ぐに見つかった。自分の足下に。血にまみれた姿で。

 

「~~ッ!! ギガスッ!!」

 

 その無残な姿にセラフィナが激昂した。

 自分を戒める鎖を振り解こうと激しく身体を動かすが、黒い鎖はその戒めを緩める事は無く、むしろセラフィナが動けば動くだけ、高めた小宇宙に応じる様にその身をきつく縛りつける。

 拘束された手足――鎖の触れた個所から血が流れて出してもセラフィナは抵抗を止めなかった。

 

「解せんな。アレはお前の敵であり、今やただの“物”だ。人の言う繋がりとやらがある相手でもあるまい。お前がそこまで激昂する意味が解からぬ」

 

 人間の機微とやらは理解出来ん。ポルピュリオンはそう呟くと、セラフィナの下腹部に押し当てた手に、そこにある真紅のルビーに力を込める。

 

「あッ――ぐうッ!」

 

 押し当てられたルビーが、まるで心臓の鼓動を思わせる様に、妖しい明滅を繰り返す。

 下腹部から浸透する様に熱が全身の隅々にまで広がり、セラフィナの全身から夥しい汗が噴き出していた。

 肌は紅潮し、乱れた鼓動が呼吸を狂わせ荒い息を吐かせている。

 

「だが、お前は違う。偉大なる神の、王の母となる身だ。アレの様には無碍にはせん」

 

「あ――ハァ、は――ッ、ハァ……う……っぅ」

 

 裸身のまま磔にされた自分、母という言葉。

 これから自分の身に何をされるのかは分らずとも、その果てに何が起こるのかは想像出来る。

 それが、とてもおぞましい事だと。

 自分は、きっとその現実に耐える事ができないだろうという事も。

 

「――っ、グッ、あ……くうッ……ッ!!」

 

 泣き叫び許しを請えればどれだけ楽か。

 助けてと、叫ぶ事が出来たなら。

 しかし、セラフィナは、口から漏れ出そうになった悲鳴を懸命に堪えていた。

 それは意地だった。

 聖闘士としての意地であり、女としての意地であり、セラフィナという少女の十六年の生に対する意地だ。

 

(わたしを母とすると言った。だったら……)

 

 少なくとも、目の前のギガスの目的の為には自分が必要であるという事。目的を果たすまでは命を奪うつもりは無いという事。

 つまり、自分に居なくなられては、死なれては困るという事だ。

 どのような仕組みなのかは分らないが、聖闘士としての力を持ってしても己の身を戒めるこの黒い鎖から逃れる事が出来ない。

 少なくともここから自力で逃れる事は無理だろう。

 ならば、助けを待つのか? どことも分らぬこの場所で? 誰が? どうやって?

 こうして考えている間にも時間は刻一刻と過ぎている。押し当てられたルビーから感じる熱が増している。その明滅も間を置かずに激しいものへ変化し始めていた。

 おそらく、残された時間も僅かしかないはずだ。

 

 つまり、ここから逃れる事は不可能。

 選択肢が無くなったという事。

 ならば、残る手立ては一つだけ。それだけしかセラフィナの取れる手は無かった。

 

(……ありがとう)

 

 セラフィナは瞳を閉じ、瞼に浮かぶ親しき人たちへ、届かないとは分っていても、心からの感謝を想った。

 

(怒るかな?)

 

 いつも澄ました表情で、滅多な事でもない限り感情を乱す事のないムウ。

 

(泣いちゃうのかな)

 

 お姉ちゃん、と。小さなころから自分を慕ってくれた可愛い弟。

 そして、

 

(……あ……)

 

 伸ばされた手と手が触れ合った瞬間を、セラフィナは覚えている。

 つい先程の事だったのだ。忘れるはずが、忘れられるはずがない。

 自分を守る為に戦ってくれた海斗の事を。

 あの後にどうなったのかは分らないが、せめて無事であればと願う。

 話したい事も、聞きたい事もたくさんあった。

 それでも――

 

「――ごめんなさい」

 

 思考を打ち切り、想いを、言葉を口に出す。決別の言葉だった。

 これ以上は決意が、覚悟が鈍りそうだったから。

 

 泣いてしまいそうだったから。

 

 命を断つ。

 

 自分にできる事はもう――これしかないのだから。

 

 

 

 

 

 ~聖闘士星矢~ANOTHER DIMENSION海龍戦記~

 

 

 

 

 

 海斗と呼ぶ声があった。キタルファと呼ぶ声があった。

 エクレウスと呼ばれて振り返る。シードラゴンと呼ばれて振り返る。

 男がいた、女がいだ。子供がいた、老人がいた。

 聖闘士がいた、海闘士がいた。

 友がいた。敵がいた。親がいた、兄妹がいた。

 知らない顔だ。だが、自分はその名を知っている。その名を知っている。だが、自分はその顔を知らない。

 踵を返して東京の街中を歩く自分がいた。聖域を歩く自分がいた。

 太陽が昇り朝を迎え、月が昇り夜を迎える。

 朝が来れば目を覚まし、夜が来れば眠りにつく。

 何度も何度も目を覚まし、何度も何度も眠りにつく。

 

 どれ程それを繰り返したのか。

 次に“海斗”が目を覚ました時には、その身は石造りの簡素な一室の中にあった。

 年季の入った木の机とベッドがあるが、部屋の中にはそれぐらいの物しか無かった。この部屋は寝床でしかないのであろう。

 ベッドから起き上がった海斗は何も身に纏ってはいなかったが、その手には一冊の古びた書物が握られていた。

 擦り切れ、色褪せたその本には多くの破れがあり、欠落した様にページが抜けている場所もある。

 文章は検閲でもされた様に黒塗りの箇所が多く、内容を完全に理解しようとするのならば多大な労力が必要となるだろう。

 そこに記されているのは、名も無き一人の男の生涯――その十七年間の記録であった。

 男の喜びと悲しみ、平穏と闘争、想いと怒りが綴られた物語であった。

 

「……細部は違えども、大まかな流れは同じ。だから、か?」

 

 海斗は開いていた本を閉じると溜息を吐く。

 圧し掛かる様な倦怠感に眉を顰めて頭を振った。

 理解が出来た。共感が出来た。

 男の心情がまさしく手に取る様に。

 だからこそ、それが尚更腹立たしく、どうしようもなく海斗を苛立たせる。

 同情も出来た。しかし、納得は出来ない。納得する事が出来ない。

 

 本はその役目を終えたのか、形を崩しながら海斗の手からずるりと滑り落ちた。そのまま崩れ去り、灰と化した。

 

「……」

 

 握り締められた海斗の拳。

 ゆっくりと広げられたそこから零れ落ちた灰がふわりと舞い上がり、周囲へと広がる。

 

「こんなモンを見せたのは、俺には無理だから、と? だから……諦めろ、って事か?」

 

 呟く海斗の目の前で、舞い上がった灰が一カ所に集まり男の姿となった。

 

「……そうだ。あるいは、とも思いはした。だが、駄目だ。お前は――弱い。オレよりも弱いお前が、オレに出来なかった事を出来る訳が無い」

 

 それは、海斗の知らない形状をした、しかし紛れも無くエクレウスの聖衣を身に纏ったキタルファであった。

 向かい合った海斗の身にも、ムウの手によって新生されたエクレウスの聖衣が傷一つ無い状態で纏われている。

 

「知識、経験、技量、覚悟。何かを成そうとする強靭な意志。揺るがぬモノがお前には――」

 

「――黙れよ」

 

 キタルファの言葉を遮ったのは海斗の拳。

 突き出されたその拳がキタルファの顔面を捉える。

 キタルファの頭部を覆っていた聖衣のヘッドギアが弾け飛び、甲高い音を立てて床に落ちる。

 

「お前と比べりゃ、俺に足りないモノが多い事ぐらい分っているさ。だがな、意志や覚悟の強さなんてモノを――お前が語るな」

 

「確かに……お前の言う通りだ。全てを諦めたオレの言えた事ではないな。だが、ならばこそ、どうするのだ? 強い想いは揺るがぬ意志となって熱く小宇宙を燃やす。想いが力となる。それは事実だ」

 

 キタルファの手が突き出された海斗の拳を掴み、ゆっくりと引き離しながら言葉を続ける。

 

「しかし、それも土台となる力があってこそだ。極限まで高められた小宇宙は奇跡を起こすと言うが、容易く起こらぬから奇跡なのだ。起こるか起こらぬか分らぬ奇跡に縋れる余裕は無いぞ? 今、お前にとって必要なのは障害を吹き飛ばせるだけの、目の前の敵を打ち倒せる確実な力なのだ」

 

 キタルファの諦観に満ちた瞳が項垂れた海斗を映す。

 キタルファが掴んだ海斗の拳からは力が抜けていた。

 

「それが、お前には――足りていない。だから、諦めろと言ったのだ」

 

 それに対してキタルファが思う事は少ない。ただ、やはり自分は自分であったかと思っただけだ。

 いつしか、二人のいた部屋の中から机が消え、ベッドが消えていた。

 天井が消え、壁が消え、床が消え、部屋そのものが消えていた。

 何もない白の世界に二人の姿だけがあった。

 やがて、二人の輪郭が白の中に溶け込み始め、自分と言う輪郭が消えて行くのをキタルファは感じていた。

 おそらくは死へと向かっているのだとキタルファは認識した。世界が白だけに染められた時に、この生も終わるのだと。

 

「――足りないのならば、補えばいい」

 

 そのキタルファの意識に熱い何かが触れた。

 海斗だった。

 白に溶け込んだはずの海斗が、ハッキリとした輪郭を持ってそこに在った。

 

「――力なら、在る。分らないか? 直ぐ側に在る事が」

 

「……お前は……」

 

 ニヤリと口元を歪めて笑う海斗の眼差しを見て、キタルファは同じだと思った。

 その笑みは、自分が海闘士として、シードラゴンとしての生きる事を受け入れた時に時に浮かべた笑みと同じだと。

 来い、と呟かれた海斗の声を最期に、キタルファの意識が、意思が、自分を自分とする要素の全てが、白の中へと消えた。

 

 

 

 

 

 第19話

 

 

 

 

 

 海斗の肩に手を回したメフィストフェレスは、さも旧年来の友人にそうするかの様に気安く、気さくに語り続ける。

 

「さあ、ここに力があるぞ? 手を伸ばす、それだけでいいんだ。なぁ、助けるんだろう? あのお嬢ちゃんを。助けたいんだろう? このままじゃあ間に合わないぞ?

 認めたらどうだい? 受け入れればどうだい? 分っただろう? 今のままのお前さんじゃあ無理なんだ。でも、コイツがあれば助けられる! 勝てる!! 何者にも負けやしないさァ!!」

 

 ピクリと、これまでメフィストフェレスが何を語っても反応を見せなかった海斗の身体が、指が動いた。

 

「我々は君の選択を歓迎しよう。そして、ようこそ冥王軍へエクレウス。いや――」

 

 それを見て、とても、とても楽しそうに、愉しそうに、メフィストフェレスは笑みを浮かべ――嗤った。

 

「我々は君の選択を歓迎しよう。そして、ようこそ冥王軍へエクレウス。いや――新たなる天雄星ガルーダよ」

 

 ゆっくりと伸ばされる海斗の手。

 その動きに呼応するかの様に、ガルーダの冥衣が震えた。胎動を始めた。

 二百数十年の時を経て、再び依り代を得る事への歓喜によって。

 

 冥衣は聖衣とも鱗衣とも、その在り方が根本的に違う。

 冥衣を得るのではない。

 冥衣が得るのだ。

 

 冥衣――ガルーダの瞳が妖しく輝く。

 

 ――さあ、早く手にしろと。

 ――その身を委ねろ、と。

 

 そして、ついに海斗の手が冥衣に触れる。

 ガルーダの冥衣が一際大きく震えた。

 魔鳥が羽ばたき、その身体を人の身に纏わせるための鎧へと変化させて、新たな器の――海斗の身体を覆い尽くす。

 

「お一人様ご案内~~っと」

 

 ここから先は全て冥衣が済ませる事。自分に出来る事は、する事は何も無い。

 

「ほい、お仕事終了。いや~、イイコトをした後は気分が良いねぇ」

 

 メフィストフェレス自身、海斗に対して興味と期待は確かにあったが、それだけだ。

 

「もしかしたら、とは思ったんだがな。やはり本命はペガサスか」

 

 その関心は既に海斗には向けられてはいなかった。

 

「期待していた流れにゃあならなかったが、暇潰しとしてはそれなりに楽しめたよ少年」

 

 そう呟き、メフィストフェレスが海斗に背を向け――

 

「!? な、何ぃッ!?」

 

 その瞳が驚愕によって大きく見開かれた。

 

「おいおいおいおいおいおいおいぃっ!? 冗談じゃないっての!」

 

 メフィストフェレスの足下から、眼前から、背後から。

 四方八方から次々と撃ち込まれる光弾がこの“留まった空間”に、モノクロームの世界に無数の亀裂を生じさせる。

 

『こそこそと見ているだけなら見逃しもしてやろう。――だが!』

 

 閉ざされた空間に響き渡る第三者の意思。

 強大な攻撃的小宇宙が空間を満たし、メフィストフェレスの生み出したこの世界を内側から破壊した。

 異界の扉が開き、メフィストフェレスと海斗の姿が赤みを帯びた洞内に現れる。

 

「うおっとお!? バレてたとは思わなかったよ、さっすがカミサマってか! 怖い怖い!!」

 

「貴様は瀕死のエクレウスを異界へと隠し、あの破壊の光から逃がした。わたしとエクレウスの戦いに水を差したのだ。その罪は――その命で償ってもらうぞ!!」

 

 メフィストフェレスの眼前に現れたのは、憤怒の表情を浮かべ攻撃的小宇宙を燃やしたトアス。

 トアスの眼前に現れたのは、笑みを浮かべたメフィストフェレス。

 

「“アヴェンジャー・ショット”!」

 

 メフィストフェレスへと迫る無数の光弾。

 触れる物全てを破壊するその光を前にして、メフィストフェレスの笑みが深まった。

 

「んはっ! いいねぇ、でも――さぁッ!!」

 

「何!? まさか! アヴェンジャー・ショットが“止まった”だと!?」

 

 あり得ない、と。その事実に驚愕するトアス。

 目の前の敵がした事は、ただ右手を振り上げただけ。

 放たれた光弾の、その全てが、メフィストフェレスの身体に触れる事無くその場に留まっていたのだ。

 トアスの驚愕はそれだけでは終わらない。

 メフィストフェレスがパチンと指を鳴らしただけでアヴェンジャー・ショットの光弾が掻き消され――

 

「ほ~ら、お返しだ。受け取りな」

 

 メフィストフェレスの手から放たれる“アヴェンジャー・ショット”。

 それは、自分が放ったものよりも速く、重い。

 

「……流星拳、なんちゃってな」

 

 そう言ってシルクハットのつばを抑えながら、メフィストフェレスが笑う。

 

「がはあっ!!」

 

 洞窟内にドゴンと、大きく重い音が響いた。トアスは背後にあった青銅の扉へとその身を叩き付けられていた。

 衝撃により洞内が大きく揺れ、壁の、天井の崩落が加速する。

 

「き、貴様あッ……」

 

 落ちてきた岩盤を押し退けて立ち上がるトアス。その両目が大きく見開かれた。

 

「全く、そちらさんに関わる気は無かったって~のにさ」

 

 メフィストフェレスは追撃する事よりもタキシードに降りかかる粉塵を払い落す事を優先し、やれやれと、大げさに肩を竦めて見せた。

 演技であった。

 関わる気が無かった事は事実であったが、こうして直接的に関わってしまった以上は楽しまなければと考えていた。

 先の戦いを見ていた事で、トアスの性質は把握している。

 目の前でこのような態度を取られればどう動くのかも。

 

(さあ、どうするね?)

 

 純粋な好奇心であった。

 果たして、目の前のギガスは自分の思い通りに動くのか。それとも、と。

 

「……おんや?」

 

 しかし、どれだけ待っていてもトアスは動かない。

 

「何だ? 動こうともしていない? 動けない程のダメージでも無かろうに」

 

 よく見れば、トアスのその視線は自分を見ていない事に気付く。もっと遠くの何かを見ていた。

 

「後ろか? 後ろに何が――」

 

 メフィストフェレスがトアスの視線を追う為に振り向いた、その瞬間であった。

 目の前を黒い弾丸が通過した。

 ガシャンと、洞窟内に甲高い音が響き渡る。

 一度だけではない。

 二度三度と、続けてである。

 

「――こいつぁ!?」

 

 漠然とではあったが、確かに感じた不安。己の直感を信じてメフィストフェレスはその場から飛び退いた。

 トアスに背を向ける形となるが気にしてはいられない。

 そんな事よりも、もっと重大な事が目の前で起きていたのだから。

 

 音の正体は、海斗の身体から弾き飛ばされた冥衣のパーツが洞内にぶつかる音であった。

 それは、海斗の“意思”が“冥衣の意思”を拒絶した――凌駕した証。

 

 もしかしたら、とは考えていた。

 

 五感を失い、血を失い、肉体は生命の危機に陥った。

 あの少女を使い、そこからさらに精神を追い詰めた。

 素養はあったのだ。

 幾度となく黄金化を果たした聖衣がそれを証明している。

 想定通り、海斗は五感を超えた第六感、そのさらに先にある超感覚である第七感――すなわちセブンセンシズ、小宇宙の真髄に辿り着いたのであろう。

 

 それは良い。

 それは良いのだ。

 メフィストフェレスにとって、新たなる天雄星の誕生など、どうでも良い事であったのだから。

 冥衣を受け入れればそれで良し。

 この先の聖戦で、きっと良い駒となるであろうから。

 拒むのならばそれも良し。

 エクレウスという役者が繰り広げるであろう舞台を、こうして特等席で見続けられるという事なのだから。

 

 しかし、これは違う。

 こんな事は想定すらしていなかった。

 

「……アドリブにだって限度ってものがあるでしょうが」

 

 メフィストフェレスの目の前で、トアスの視線の先で海斗が“変わる”。

 黒い髪はブロンドに染まり、色彩を失っていた瞳は本来の濃褐色から澄んだ青色へと。

 額に、腕に、胸に、足に。

 破壊されたエクレウスの聖衣から発せられる純白の輝きが、まるで光の衣を纏わせるかの様に海斗の身体を覆っていく。

 ムウの手によって新生された聖衣が重厚な防御性能を重視した“鎧”であったとするならば。

 曲線を多用し、身体に密着する様に、全身を覆う様に纏われたそれは、まさしく“聖なる衣”。

 海斗の身体から立ち昇った白と青の小宇宙が、螺旋を描き巨大な光の柱へとその姿を変える。

 青と白が交じり合い、混じり合う。

 二つの色が一つになる。

 それは空の青。スカイブルーのようであり。

 それは海の青。アクアブルーのようでもある。

 血を奪われ、五感を奪われ。

 碌に身動きの一つも取れなかったはずの海斗が、迸る自身の小宇宙が生み出した光の中でゆっくりと立ち上がった。

 

「ふ、ふふふ、ふは、ふははははははははっ!! やはり、やはり運命だったのだ!!」

 

 メフィストフェレスの背後から、狂ったかの様な笑い声が聞こえる。

 背後へとちらりと視線を向ければ、そこには“狂喜”としか形容出来ない表情を浮かべたトアスが全身に小宇宙を滾らせて立ち上がっていた。

 

「覚えているぞ、その聖衣だ! その髪だ! その瞳だ!! なぜ、も。どうして、も。そんな言葉は、理由は重要ではないッ! 君が目の前にいる、それが全てだ!! 逢いたかったぞ――キタルファアッ!」

 

 言うが早いか。トアスはメフィストフェレスの存在など知らぬとばかりに飛び出していた。

 事実、この時のトアスには立ち上がった海斗の、キタルファの姿以外は何も見えてはいなかった。

 

「今こそ、千年の決着だキタルファ!!」

 

「なッ、速えっ!」

 

 その速度は、メフィストフェレスの目をして速いと呼ばせる程。

 

「そして、わたしが勝つ! “アヴェンジャー・バースト”!!」

 

 放たれるのはトアスの真の必殺拳。

 その勢いは、これまでのアヴェンジャー・ショットとは比べ物にならない程に凄まじく。

 トアスの千年の執念、妄執とも言えるその全てが、この拳に込められていた。

 

 しかし――

 

「な!?」

 

 その閃光の全てが、海斗の身体を――すり抜けていた。

 

「マジか!?」

 

 トアスの驚きとメフィストフェレスの驚きは異なる。

 両者から間合いを離し、全体を見渡せていたメフィストフェレスだから分った事。

 海斗の姿は既にその場所には無い事を。

 

「トアスッ! お前の妄執に付き合っている暇は無いッ!!」

 

「――妄執だと? 違うッ、これは愛だッ!! 狂おしいまでのッ!!」

 

 海斗の姿はトアスとメフィストフェレス、二人を直線に並べる位置にあった。

 海斗が両手を左右に大きく広げて円を描く。

 それは、これまで一度たりとも海斗が見せた事のない構えであった。

 それを見て、メフィストフェレスの表情から、その目から笑みが消えた。

 

「ッ!? あの構えは!!」

 

 果たしてそれは幻であったのか。

 二人を見据える海斗の瞳は濃褐色に、ブロンドに染まっていた髪の色は黒に戻り。

 五体を覆っていたはずの純白の聖衣は、亀裂と破損にまみれた、破壊された聖衣へとその姿を変えていた。

 

「力なら在った。手を伸ばせば届く程近くにな。知識、経験、技量。俺に力が足りないのであれば、補えばいい。拒絶では無く、受け入れる。それだけでよかった」

 

 ただ一つ。

 それが幻でなかった事の証があった。

 

「千年前の因縁か。悪いが、そんな事は後回しだ。そしてメフィストフェレス、礼を言うぜ。お前が何を企んでいたのかは分らんが、おかげで自分を見つめ直す機会を得られたよ」

 

 海斗から立ち昇る、混じり合い一つの色となった強大な小宇宙である。

 

「受け入れてしまえば、一つになれば自分が自分でなくなる。そう思っていたからこそ拒んでいたし反発もしていたが、意外としっくりくるのが笑えるな」

 

 エクレウスの聖衣が黄金の輝きを放つ。

 まるでこれが最期の輝きだとでも言わんばかりに。

 

(海斗)オレ(キタルファ)だってな」

 

 海斗の両手に膨大な小宇宙が集束する。

 それは、まるで銀河に浮かぶ星々のように光り輝いていた。

 腰だめに構えた両の拳を丹田から正中線を沿う様に胸元へ。

 右手は天を、左手は地を指し示すかのように大きく広げ、そこから互いの天地を入れ替えるように回された軌跡は真円を描く。

 意識して行っている訳ではなかった。

 ただ、身体が動くままに任せているだけであった。

 それでも、海斗自身にはこれから何が起こるのか、その結果ははっきりと分っていた。

 

 なぜなら、自分はその技の威力は身をもって知っている。

 

 なぜなら、自分はその技を誰よりも間近で見続けていた。

 

 なぜなら、自分はその技を同胞へと――己の師へと向けて放っていた。

 

(……記憶に引き摺られ過ぎるな。罪の意識も後悔も、今は、必要ない。想うのは過去ではなく未来だ)

 

 聖域での生活は、なかなか胃に来るモノが多くはあったが――悪くはなかった。そう思う。

 この数週間、ジャミールでの生活は退屈ではあったが――悪くはなかった。そう思う。

 セラフィナがいなくなれば、ジャミールでのあの生活は失われる。

 澄ました顔のムウとだけの生活では貴鬼は寂しがるだろう。

 救えなかった事を責められるのは構わないが、泣かれるのは面倒だ。

 シャイナの時もそうだったが泣かれては困る。どうすればいいのかが分らない。

 

「フッ」

 

 堪え切れずに笑みがこぼれた。

 こんな状況にあって自分は一体何を馬鹿な事を考えているのか、と。

 

 ああ、そうだと海斗は思い出す。

 

『思いましたよ、わたしはボロボロの海斗さんしか見てませんから!』

 

 セラフィナがギガス達に襲われた時だ。

 助けてやったのにあの感想はない。

 あれでは、まるで自分が負けっぱなしのようではないか。

 自分が最強だ、などと言うつもりはないが、誤った認識は正さなければならない。

 

(――そのためにも!)

 

 ――今、何よりも優先すべき事だけを考えろ。

 

 ――あの扉の向こうから感じるのは紛れも無くセラフィナの小宇宙。

 

 ――そこに居る。

 

「セラフィナは返してもらう」

 

 

 

「チイッ! なんてモンを隠し玉にしてやがったんだ!!」

 

 メフィストフェレスは思わぬ因縁に舌打ちした。

 ブラフかとも思ったが、海斗の視線がどこを見ているのかを悟り確信した。間違いなく“使える”のだ、と。

 

「そうだったよなぁ! 千年前のエクレウスの師はジェミニのカストル。あの大甘な兄ちゃんなら、己の奥義を可愛い弟子に伝えないワケがない!!」

 

 肉体に宿る“魂の記憶”、聖衣に宿る“魂の記憶”。

 あり得ない話ではない。

 事実、二百数十年前の聖戦に於いて、メフィストフェレスは“魂の記憶”が引き起こした奇蹟を目の当たりにしていたのだから。

 

「しかも、さっき見せたあの変化は……気付ける訳が、想像できるはずか無いだろうが! ははっ、……少~しばかり、追い詰め過ぎったって事か。笑うっきゃね~よな、オイ」

 

 海斗の視線の先にあるのは王の間への道を閉ざす青銅の扉だ。

 自分とギガス、そしてあの扉。全てをまとめて吹き飛ばす気なのだと、メフィストフェレスは理解した。

 なるほど、確かにあの技をもってすれば可能であろう。

 ジェミニの黄金聖闘士に伝えられる最大の拳。銀河を砕くとまで言われたあの技ならば。

 その威力は自分自身が骨身に染みて知っているのだから。

 

 

 

 トアスは見た。

 軌跡の中から迫り来る銀河の姿を。無数の星々の煌めきを。

 

 メフィストフェレスは――笑っていた。

 堪らない、と。

 どこまで楽しませてくれる気かと。

 

「前の聖戦にエクレウスの姿は無かった。そうだ、この千年、エクレウスの魂は冥界のどこにも存在してはいなかった。その痕跡すら。てっきりお花ちゃんの仕掛けかとも思ったが……」

 

 海斗が天地を宿した両の手を打ち合わせた。

 メフィストフェレスの目の前で、煌めく星々が、銀河が――爆砕する。

 

「んははっ! 千年前のはノータッチだったってえのにさァ!! ナルホド! お前が跳ばしたんだな!? ハハハハッ!! とんだ意趣返しだ! コイツァ確かに因縁だよ! 確かに、二百年前の聖戦では色々とやらしてもらいはしたがなァ……。 図らずも、先にちょっかいを掛けてくれたのはジェミニの方だったってワケかい!!」

 

 洞内を埋め尽くす破壊の光。

 それは宇宙の始まり――ビッグバンの輝きにも、星の終焉――超新星の輝きにも似て。

 

 ――“ギャラクシアンエクスプロージョン”!!

 

 トアスを、メフィストフェレスを、そして行く手を阻む青銅の扉を。

 海斗の前に立ち塞がる障害の全てを光が呑み込んで行く。

 

 

 

 そして――

 

「ぬぅ!? 何だこの光は! この小宇宙は!?

 

 赤い闇を吹き飛ばし、光が王の間を埋め尽くす。

 背後から迫る破壊の、衝撃の波にポルピュリオンが動きを止めた。セラフィナの身体に押し付けられていた真紅のルビーが光を失い零れ落ちる。

 

「聖闘士か。まさかトアスを打ち倒しこの場に現れるとはな」

 

 ポルピュリオンが振り返る。

 そこにあったはずの青銅の扉は周囲の岩肌ごと消滅しており、ぽっかりと大きな口を開けていた。

 そこから姿を現したのは、見るも無残に破壊された聖衣を纏った男。

 その身は血と砂塵にまみれながらも、瞳の輝きは、小宇宙は、僅かの陰りさえ見せてはいない。

 

「……え……あ……」

 

 これは一体何の冗談なのだろうかと。

 セラフィナは目の前の光景に言葉を失っていた。

 

「……海斗……さん?」

 

「おう、海斗さんだ。迎えに来たぞ」

 

 気負った様子も無く、こちらへ歩み寄って来る海斗は、まるでお伽噺の主人公。

 しかし、その姿はどう見てもお伽噺の主人公ではあり得ない。

 ボロボロだった。

 ムウの手によって新生されたはずの聖衣は見る影もなく破壊されており、身体はまるで初めて会った時の様に傷だらけとなっていた。

 ジャミールからこれまでにそれほど時間は経ってはいないと思うが、その姿を見ればここに来るまでにどれ程の事があったのかは想像に難くない。

 

 無茶をするなと怒りたい。

 大丈夫なのかと確かめたい。

 ごめんなさいと謝りたい。

 ありがとうと感謝したい。

 

「待たせたか? それ程時間は経ってないと思うんだがな」

 

 それなのに、目の前でひらひらと手を振って見せる海斗の姿は、見慣れた飄々としたままで。

 

「~~ッツ!!」

 

「って、なぜ泣く!?」

 

 その事が滑稽で、おかしくて。

 直前まで死を意識していながら、いつの間にか、こんな事を思えるだけの余裕が生まれている。

 喜怒哀楽がごちゃ混ぜになり、声にならない。言葉にならない。もう、何を言っていいのかが分らない。

 嬉しくて悲しくて。

 感情が溢れ出し、涙が出る。

 

「知りませんっ!」

 

 そんな自分を見て慌て始めた海斗の姿に胸が少しスッとして。

 後でもう少し意地悪をしてやろうと思い始めていた。

 状況は決して楽観出来るものではない。それでも、何故か今のセラフィナには不安が無かった。

 あれ程までの焦燥感も、絶望も今は――無い。



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第20話 運命(さだめ)の波を打ち砕け!の巻

 世界の始まりは、色も形もはっきりとしないどろどろとした塊であった。

 天も地も、火も水も、全てが一つに混ざり合った――混沌(カオス)であった。

 この混沌から最初に生まれたのが大地を司る女神――ガイアである。

 ガイアは天の神ウラノス、海の神ポントス、愛の神エロス、暗黒の神エレボスなどを一人で生んだ。

 その後、ガイアはエロスのはたらきによりウラノスとの間に子をもうける。

 男児が六人、女児が六人。愛の神の手引きによって天と地の間に生まれしこの十二人の子供こそが、後にティターン(巨神)神族と呼ばれる神々である。

 ガイアを娶ったウラノスは神々の王となり世界を支配する。

 しかし、ガイアは子らを愛したが、ウラノスは違った。ウラノスは己の子らを厭う。その事が、やがて大きな不和となり、父と子の争いの切欠となる。

 この間も新たな子を生み続けていたガイアは、その度にウラノスが子らを大地の穴へと落として行く姿に悲しみ、やがて、耐え切れずにティターン神族に加護を与えた。

 ティターン神族の末子クロノスはガイアより与えられた大鎌を手に、その期待に応えて父であるウラノスを討ち、神々の新たな王となった。

 しかし、ウラノスはその最期にクロノスに一つの預言を残していた。「お前も自らの子に王位を奪われるのだ」と。

 言葉は呪詛となり、ゆっくりと、しかし確実に、クロノスの精神を蝕み、やがて、狂気に堕ちたクロノスは自らの子をその手で次々と封じていく。

 その事に悲しんだクロノスの妻レアは、打倒クロノスのために六人目の子であったゼウスを母であるガイアの元へと送る。

 ガイアもまた、レアの求めに応じてゼウスに自らの生んだ新たな子らの力を貸し与え協力を示した。

 クロノス率いるティターン神族と、ゼウス率いるオリンポスの神々との戦い――後世に“ティタノマキア”と呼ばれる争いの始まりである。

 結果はウラノスの預言の通り、クロノスは自らの子であるゼウスらに破れ、ゼウスが新たなる王となり、オリンポスの神々による統治の時代が始まった。

 ゼウスは二人の兄弟と世界を分け合い、ポセイドンが海を、ハーデスが地下(冥界)を、ゼウスが天を治め、地上は皆の共有とする事とした。

 

 しかし、ティタノマキアは古き神々と新しい神々の間に大きな禍根を残していた。

 その中でも最も大きなものが、クロノスの死によるガイアの嘆きと怒りであった。

 ゼウスは、オリンポスの神々はガイアの想定を超えてやり過ぎたのだ。ガイアはゼウスに味方したとはいえ、同じ自らの子であるクロノスの死までは望んでいなかったのだから。

 

 流れたクロノスの血とガイアの慟哭から新たな神が生まれる。

 オリンポスの神々への慟哭より生れし存在。ガイアの加護により不死身の肉体を得た存在。

 それが、神々の力に抗する者、との神託を受けた神々の敵対者――ギガス。

 そして、ガイアの憎悪によって、憤怒によって、神々を滅ぼす者としての神託を受けた存在。

 炎と嵐を司る最大最強の魔獣。

 百の蛇の頭と凶鳥の翼を持ち、何本もの怪力の手足持つ。

 神の言葉を語り、獣の咆哮を轟かせた。その身は炎を纏い、嵐を生んだ。

 

 その名は――

 

 

 

 

 

~聖闘士星矢~ANOTHER DIMENSION海龍戦記~

 

 

 

 

 

「……ほう、随分と“変わった”ものだ」

 

 ポルピュリオンの口から感嘆の声が漏れていた。

 飄々とした態度とは裏腹に、セラフィナへと歩み寄る海斗の足取りは決して軽いものではない。

 身に纏うのは破壊された聖衣。傷付いた身体からは、一滴、また一滴と、紅い雫が流れ落ち、大地に赤い染みを残している。

 そんな状況でありながら、海斗の瞳の輝きは、その身から発する闘志は、その小宇宙は熱く燃え滾っていた。

 

「ふふふっ。その小宇宙、この地に現れた時とはまるで質が異なっている。面白い。デルピュネを討ち、獣将を退け、トアスを破っただけの事はある。しかし――」

 

 扉を吹き飛ばし、広間を破壊し、この神域に土足で踏み込むその振る舞い。

 それは赦そう。

 血と泥に穢れた身体でこの場に踏み入る。

 それも赦そう。

 

「お前は我らが王、神への聖なる儀式の邪魔をした。それを――赦す事は出来ん」

 

 外套を翻し、セラフィナの前に立ち塞がったポルピュリオンが海斗へと歩を進める。

 一歩、一歩と進む度に、ポルピュリオンの周囲の空間がぐにゃりと揺らぐ。

 闘衣の隙間から覗く肉体が、ぎちりぎちりと音を立てて密度を増し、肥大する。

 言葉とは裏腹に、ポルピュリオンの口元には笑みが浮かんでいた。嗜虐的な笑みが。

 

「……だったら、どうする?」

 

 視線をセラフィナからポルピュリオンへと移し、海斗が問う。

 気負いのない自然体であった。

 友人に明日の予定を聞く様な、そんな気安さがあった。

 

「どうする、か。神が、自らを仇なす存在に対して行う事など決まっていよう?」

 

 神たる自分と対峙してなお微塵の畏れすら見せぬその姿勢。

 その全てがポルピュリオンにとって許し難く、度し難く、しかし、どうしようもなく――好ましい。

 

 真(神)なるギガスであるポルピュリオンとトアス、アルキュオネウスの精神構造は他のギガス達とは一線を画する。

 ガイアの慟哭により戦う事を定めとして生まれた彼らはガイアすら予期せぬ歪みを宿していた。恐れを知らず、戦いに、闘争に飢えていた。

 全力を出す事を、出せる相手を求めていた。

 強者でさえあれば、それが神であるのか、人間であるのか等は些細な事であった。

 勝利して支配する。それはある。だが、支配は勝利に付属する要素でしかない。

 ガイアの意志は、復讐の念はその内に確かにある。だが、それは戦う理由でしかなく、己を突き動かす衝動とはなり得ない。

 

 ポルピュリオンは自らの外套を力任せに剥ぎ取ると、無造作に放り捨てた。

 そのまま右腕を、その掌を海斗へと向ける。

 

「人の子よ、心せよ」

 

 それは、文字通り、正しく“威圧”であった。

 質量すら感じさせる圧倒的なまでの意思の力。指向性を持って放たれたそれは、巨大な渦巻く塊となって空間を歪めながら海斗の身体を押し潰そうと迫る。

 波動が聖衣の崩壊を進め、剥がれ落ちた聖衣の欠片は、まるで陶器の様な音を立て粉微塵となって散る。

 

 ポルピュリオンがかざした掌に力を込めて拳とした。

 

「――神罰である」

 

 その動きに合わせるように“力”が圧縮され――限界を超えて爆発する。

 

「四散せよ」

 

「~~っ!! 海斗っ!」

 

 ビシリ、グシャリ、と。

 聖衣が、大地が、粉砕されて粉塵と化す。その音は、セラフィナの声を掻き消してもなお止む事はない。

 ポルピュリオンの宣言の通り、爆発に巻き込まれた海斗の身体が四散した。

 

 光り輝く飛沫となって。

 

「えっ!?」

 

「……む!?」

 

 その光景を目の当たりにしたセラフィナとポルピュリオンの口から驚愕の声が漏れた。

 だが、そこに含まれたものは違う。

 現状を把握出来なかったセラフィナと、理解出来たポルピュリオンとでは。

 セラフィナが息を飲み、ポルピュリオンが気勢を吐く。

 

「まさかな! 今生のエクレウスは――水気を操るか!!」

 

 ざあっと、宙を舞うのは聖衣の破片と水の飛沫。その雫の一つ一つに映り込む己の姿を眺めながら、ポルピュリオンは記憶の中にある千年前のエクレウスと、海斗のイメージを切り離す。

 

「小宇宙によって生じさせた水で作った鏡――水鏡か。小賢しい真似をする」

 

 砕いたのは水鏡に映った虚像であったのだと理解する。

 いつの間に、どうやって、と。疑問はあったが、状況がそれを考察する暇を与えない。それよりも気にするべき事が生じていた。

 

「これは……霧、いや蒸気か? クッ、濃過ぎるぞこの靄は!! これでは視界が……どこだ? どこに隠れた?」

 

 ポルピュリオンが周囲を見渡すが、その全てが靄に包まれ、海斗の姿が見付けられない。

 ならばと、小宇宙を探ろうにも、周囲の靄のどこからでも海斗の小宇宙を感じてしまう。

 

「くっ、くははははっ!! 面白い! 器用な奴よ……。さあ、これからどうするアテナの聖闘士? 見事な隠行だが、隠れるだけでは何も変わらんぞ?」

 

 姿は見えず、しかし、その存在は周囲のどこからも感じ取れる。

 時間稼ぎとも取れるこの状況に、ポルピュリオンは戦いを焦らされている事に僅かな苛立ち覚えていたが、それ以上に楽しんでもいた。

 次は何を見せてくれるのかと。いつ、この全力の拳を振るわせてくれるのかと。

 

『――そうかいッ!』

 

 前方から聞こえた声にポルピュリオンが反応する。見開かれた目がぎょろりと動いた。

 靄の中で、人の形をした光が動く。

 

「ぬぅうぅぁあああああああッ!!」

 

 ポルピュリオンが前方の光に左拳を撃ち込む。

 拳に触れたエクレウスの聖衣、その胸部が砕け散り、弾け飛ぶ。

 飛散した水の塊がポルピュリオンの拳を、顔を濡らす。

 

「胸部だけを纏わせた人形か!? だがッ――見えたぞ!!」

 

 それに構わず、ポルピュリオンが右の拳を握り込み、己の“背後”へと全力で振り抜く。バックブローだ。

 飛び散る水滴には己の姿だけではなく、背後で拳を構えた海斗の姿が映り込んでいたのだ。ポルピュリオンはそれを見ていた。

 ポルピュリオンの拳に、先程とは異なる確かな手応えが伝わる。

 顔を向ければ振り抜いた右拳を、右腕を盾にして防ぐ海斗の姿があった。

 加えられた衝撃により、踏みしめられた足下――大地に亀裂が生じていた。

 

 手甲が砕け散り四散する。

 

 骨が折れ、肉が裂け、鮮血を撒き散らす。

 

 海斗の右腕と――ポルピュリオンの右肘から。

 

 伸びきっていた右肘に、海斗の左拳が突き刺さっていた。

 へし折れ、あらぬ方向へと曲がった己の腕を見て、ポルピュリオンの動きが止まる。

 痛みで、ではない。

 バックブローを繰り出したその瞬間、ポルピュリオンは海斗の企みを粉砕したと確信していた。

 しかし、ならばこの結果は何だ。

 してやられた、そういう事なのか。

 

 秒にも満たぬ僅かな逡巡、思考の空隙。ポルピュリオンに生じたその瞬間を海斗は逃さなかった。

 

「――ッ!?」

 

 異変がポルピュリオンを襲う。

 顎先から頸椎へと凄まじい衝撃が走り、視界が跳ね上がる。

 光が失われ、暗闇が周囲を埋め尽くし、ポルピュリオンの足下から大地の感触が消失した。

 一体何が起こったのか。ポルピュリオンがそれを思考する余裕は無かった。

 ドゴン、と大地を砕く轟音が広間に響き渡る。

 後頭部への衝撃と、耳鼻に響き渡る轟音と震動がその暇を与えない。

 黒から赤に染まる視界。崩れる天井とパラパラと舞う飛礫が、その中で自分を見下している海斗の姿に、ポルピュリオンは自分が大地に叩きつけられた事を知る。

 

 見えないまでも、どうにか海斗の姿を感じ取ろうとしていたセラフィナは、薄れゆく靄の中から偶然にもその瞬間を捉えていた。

 ポルピュリオンの真下から飛翔する天馬。天を突く様に繰り出された海斗の蹴り上げがポルピュリオンの顎先を捉え、その巨体を宙へと浮かせる。

 その頭部を跳躍した海斗が左の掌底で打ち抜き、その勢いのまま大地へと叩き付けた事を。

 

 

 

「悪いな、最初(ハナ)っからまともにやり合う気は無かったのさ。勝ち方は二の次、目的はあくまでもセラフィナを連れ戻す事なんでな」

 

 海斗の左手を中心として、高められた小宇宙が螺旋の渦を描き始める。

 周囲を巻き込みながら徐々に勢いを増していくそれがポルピュリオンの全身を包み込む。

 

「……タルタロスの深淵で、永遠に寝てろ」

 

 それは破壊の尖塔。

 混ざり合う青と白によって作り出された天を貫く巨大な柱。

 全てを飲み込む破壊の渦。

 シードラゴン最大の拳――

 

「“ホーリーピラー”」

 

 嵐が過ぎ去り洞内に静寂が訪れる。

 残されたのは、天井を穿つ大穴と、螺旋状に抉られた大地だけであった。

 

 

 

 

 

 第20話

 

 

 

 

 

「こ、こっちを見ちゃダメですからね!!」

 

 顔を羞恥で真っ赤に染め、涙目になりながら睨んでくるセラフィナに対し、海斗は今更だよなぁと思いはしたが、それを口に出す事はしなかった。

 

「……ハイハイ」

 

 気の無い返事をしながら、海斗が磔にされたセラフィナの足下に屈みこむ。

 上からうーうー唸り声が聞こえるが、どうしたって面倒臭い事になりそうだったので、海斗は無視する事にした。

 左手でセラフィナの足首を拘束していた黒い鎖に触れる。

 すうっと、鎖に触れた指先から力が抜ける様な感覚に「鎖の分際で」と、本気を出した。

 パキン、パキンと軽い音を響かせながら、次々に鎖を砕いていく。

 

「あっ……」

 

 戒めを解かれたセラフィナの身体が宙を舞う。

 長い銀色の髪がふわりと広がり――

 

「よっと」

 

 待ち構えていた海斗の元へ、その腕の中に抱き止められていた。

 

「……ふぅ……」

 

 腕の中に柔らかく、そして確かな温もりがあった。セラフィナの鼓動を感じた事で、ようやく海斗が安堵の息を吐く。

 

「さて、と。あ~、帰りは……どうするかねぇ」

 

 おぼろげではあったが、この洞窟がどの辺りにあるのかは覚えている。

 覚えているが、それは言わば千年前の地図であり、比較に必要となる現在の地図が海斗の知識には無い。

 

「……地理の勉強をしておくべきだったか」

 

 そんな事を考えていると、海斗の胸元でじっとしていたセラフィナが動いた。

 セラフィナの手が海斗の右手に、背中に触れる。

 

「痛っ!? おい、セラフィナ?」

 

 そこは、傷だらけの海斗の身体の中でも、特に傷の酷い個所である。

 修行を積んだ聖闘士であっても、小宇宙を燃やさぬ日常の中であれば、それは普通の鍛えた人間と変わりはない。

 痛いモノは痛いのだ。

 焼け付く様な、じくじくと痺れる様な鈍痛に海斗は眉を顰めたが、セラフィナの手が傷をなぞる様に動くと、すうっと、冷たい何かが沁み込む、そんな感覚と共に痛みが薄れていく。

 

「……これぐらいの事しか、出来ませんけど……」

 

 癒しの力。本来は“杯座の聖衣に備えられた”能力である。

 しかし、セラフィナはそれを行使する事に“聖衣を”必要としない。

 

「……ぁ……ぅ……」

 

 海斗の胸元に顔をうずめたまま、セラフィナがぼそぼそと何やら呟いている。

 

「ありがとう、……海斗。……さん」

 

「……いや、別に、呼び捨てでも構いはしないぞ、俺は。一応、お前の方が年も上だしな。……上だったよな?」

 

「え、いえ、あの……その……」

 

 身体にかかる重さと、胸元に感じる確かな温かさ。

 間に合った。

 届いた。

 それを実感した海斗の内から、様々な感情が湧き上がる。

 知らず、セラフィナを抱きしめる手に力が籠っていた。

 記憶の残滓に感情が引きずられている。セラフィナにフェリエの姿を重ねている。その事は分っていた。

 

(……まあ、今ぐらいはな)

 

 それを、この時だけは海斗は気にしない事にした。

 自然に、お互いに抱きしめ合う形となっている事を意識してしまったセラフィナは、首筋までも赤く染めていた。

 

 そのまま千日戦争に突入する事になるかと思われた二人。

 それを防いだのは、

 

「ん、もういいのか? オレの事は……気にするな、続けてくれ」

 

 腕を組み、今にも崩れそうな壁に背をもたれ掛かせていたシュラであった。

 

 

 

 

 

 

 二度、三度、シュラは感触を確かめる様に、アルキュオネウスとの戦いで砕けた右拳を握っては開くを繰り返す。

 

「ふむ。少し、引っ張られる様な感じは残っているが……構うまい。しかし、たいしたものだ。正直これ程効果のあるものとは思ってはいなかった」

 

「出来ればあまり使わせたくはないんだけどな。ムウが言っていたよ、セラフィナのあの力は自身に掛かる負担が大き過ぎると。まあ、その力を一番使わせた俺が言えた事じゃないんだが」

 

 手頃な大きさの瓦礫に腰を下ろし、そう話す海斗とシュラの視線の先では、セラフィナがエキドナの傷を癒しているところであった。

 先程までは一糸纏わぬ姿のセラフィナであったが、今は玉座の周囲にあった布を使い、それを即席の貫頭衣として加工して身に纏っている。

 シュラの外套は先の戦いで失われており、ポルピュリオンが投げ捨てた外套はホーリーピラーに巻き込まれて塵と化していた。

 男二人の上着は貸し出そうにも血で汚れ、戦いで破れ、とても他人に着せられる様な物ではなかったという事もある。

 磔にされていたセラフィナのすぐ近く、血溜まりの中に倒れていたエキドナの事は海斗も気が付いていたが、正直言って既に息絶えているものだと思っていた。

 セラフィナは「せめて傷だけでも」とエキドナの元へ向かい、そこで彼女の命の炎がまだ消えていない事に気が付けた。

 その後、セラフィナどのような行動を取ったのかは語るまでもない。

 

「そう思うなら、その力を使わせぬよう、お前が上手く立ち回れ」

 

「……無茶振り過ぎるわ」

 

「フッ」

 

「……そこで笑うか。意外と性格が悪いんだな」

 

「なに、微笑ましいものだ、と思ってな」

 

「~~ああッ、ったく!」

 

 シュラのからかいに、海斗は苦虫を噛み潰したような表情をしたが、その後がしがしと頭を掻きながら、セラフィナの元へと向かった。

 その後ろ姿を暫く眺めていたシュラであったが、やがて、その視線を螺旋状に抉られた大地へ、大穴の空いた天井へ、消し飛ばされた“門であった”場所へと向けた。

 

「話に聞いていた海斗の師はアルデバラン。だが、幾つかの技の性質がアルデバランのそれとは大きく事なる。才能か? それとも……」

 

 シュラの視線が再び海斗の元へ。

 先程の海斗の言葉の通り、力を酷使し過ぎた為か、ふらりとセラフィナが倒れそうになる。その身体を海斗が抱き止めていた。

 そのまましばらく動きを止めていた二人であったが、やがて顔を赤くしたセラフィナと触れただの何だの、見ただの見ていないと、何やら言い争いを始め出す。

 とはいえ、二人の様子からたいした事ではないとシュラは判断した。

 

「……オレが気にする事ではないな。ん? ほう、なかなか鋭い平手打ちだ」

 

 やるな、と。どこかズレた感想を抱きながら、二人の元へと向かうシュラ。

 その口元が僅かに笑みを浮かべていた事に、彼が気付く事は無かった。

 

 

 

「エリカ?」

 

「いえ、レイカ? セア、セーラ……だったのかも……」

 

「どう見ても日本人、いや、少なくとも東洋人だろうからセーラは無いと思うが。いや、……聖良ってのもある、か。あるのか?」

 

 やらないよりはマシかと、海斗が着ていた服を破り、“水”で濡らすとエキドナの汚れた手足や顔を拭いてやる。

 エキドナの青白かった肌には血色が戻り、今は静かに寝息を立てていた。

 

「何の話だ?」

 

 エキドナの頭を膝の上に乗せたセラフィナと、身を乗り出してまじまじとエキドナの素顔を見ている海斗。

 顔を突き合わせてああでもない、こうでもないと何やら熱心に話し合っている。

 そんな二人にシュラは声をかけていた。

 

「ああ、この娘の名前だよ。ギガスとは関係なく、どうやら操られていただけらしい、って事でな。名前を言っていたそうなんだが、セラフィナはハッキリとは覚えていない。だとしても、さすがにそんな相手をエキドナと呼び続けるのもどうか、ってな」

 

「直接対峙したのはお前だ。そうだったのか?」

 

「……少なくとも、倒す気でエンドセンテンスをぶっ放したな」

 

「ちょっと、海斗さん!?」

 

「あの時点では――今もどうかは知らんが、敵だったからな。時効だ、時効」

 

「つまり、気付かなかったという事だな。ならば、セラフィナの言う事を信じるか、信じないか、だ。それも全てはその娘が目を覚ませばハッキリする」

 

 三人の視線が眠り続けるエキドナ――少女へと注がれる。

 

「目を覚ませば、か」

 

「……見える範囲での傷は癒しました。でも……」

 

 少しばかり騒がしかった海斗とセラフィナのやり取りの最中にも、この少女が目覚める気配は無い。

 

「操られていた、と言ったな。意識に、精神に何かしら仕掛けられてた可能性が高い。お前が気に病む必要はない」

 

「……はい」

 

 セラフィナも理屈では分っていた。しかし、感情は別だ。

 自分を攫った相手ではあったが、自分をその身を呈して護ろうとしてくれた相手でもある。

 自分の力は、こんな時にこそ役に立てなければならない力ではないのか。その思いがセラフィナを責めた。

 

「何にせよ――」

 

 それを見かねたのかどうなのか。

 意気消沈したセラフィナの肩に、そっと海斗の手が置かれた。

 

「俺の目的は達したからな。これ以上この場所に留まる意味も無い。とっとと地上に戻って、病院なり何なり、然るべき場所にその娘を――」

 

 気を使ってくれているのかと、海斗を見上げたセラフィナであったが、海斗はそこで一度言葉を切ると、鋭い視線を広間の入口へと向けていた。

 一瞬、その表情がどこか安堵した様な緩みを見せたが、直ぐに困惑したものへと変化する。右手で額を抑え、天を仰いだその仕草は、傍目にも、悩んでいる、というのがよく分る。

 

「……まさか、そっちから接触をしてくるとは。ここに居るのは俺一人だけじゃないんだぜ?」

 

 

 

 破壊された、口を開けたままの入り口に、並び立つ二つの人影があった。

 

「そこに居るのは……その聖衣、見たところカプリコーンの黄金聖闘士か。まさかこの場所で、かの聖剣の使い手と出会えるとは」

 

「抑えろクリシュナ。今、我らが戦うべき相手は彼らではない」

 

 黄金の槍を持った海将軍クリュサオルのクリシュナと、金色のフルートを手にした海将軍セイレーンのソレントである。

 

「……シュラも抑えてくれるとありがたい」

 

「ふむ。……説明は?」

 

「後でするよ」

 

 そう言って海斗が前に出た。

 成り行きを見守る事にしたのか、シュラはそれ以上何も言わずにセラフィナと眠る少女の傍へと下がる。

 

「お互いの無事を喜びたいところだが、場合によっては素直に喜べなくなりそうなんだが……」

 

 口調こそ何気ないものであったが、その視線は鋭くソレントを射抜いていた。

 

「どういうつもりだ?」

 

 地底湖での別れ際のやり取りにより、この場においては互いに不干渉とする。それが暗黙の了解であったはず、と。

 その事はソレントも分っていたのだろう。

 敵意が無い事を示す様に、クリシュナを一歩下がらせる。ソレント自身も手にしていたフルートを鱗衣にしまってみせた。

 

「目的は果たせた様だな。先ずは、おめでとうと言っておこう。何、たいした手間は取らせない」

 

 ソレントの視線がセラフィナと目を覚まさぬ少女へと向けられた。

 

「きみの想い人に少々確認せねばならない事がある」

 

「え? 想い……人? え? え、えぇえええ!?」

 

「誰が想い人だ、誰が。そこ、勘違いするな、聞き流せ」

 

「違うのかな? それは失礼。では単刀直入に聞こう。きみは宿したのか? ギガスの王、ギガスの神。大地母神ガイアの産んだギリシア最大の魔獣――」

 

 ――Typhonを、と。

 

 その名を、ソレントが口にした瞬間であった。

 余震も何も、一切の前触れも無く、この場に居る誰もがまともに立ってはいられない程の凄まじい振動が広間を襲う。

 

「!? この揺れは!」

 

「地震か!?」

 

「伏せてろ!」

 

 いたる所で天井が、壁面が崩れ落ち、大小問わず無数の岩石が広間へと降り注ぐ。

 海斗の声に従い、セラフィナが少女の身体を抱き寄せて身を伏せる。

 二人の頭上から一際大きな岩盤が落下するが、空を引き裂く海斗の拳によって粉塵と化す。

 

「海斗! 跳べ!!」

 

 シュラが叫んだ。

 二人へと注意を向けていた海斗は、何が起きたのか分らぬままに声に従い跳躍する。

 

「!? くっ!」

 

 地面が裂け、それまで海斗が立っていた場所が雪崩の様に崩れ落ちた。その亀裂から、巨大な火柱が噴出する。

 大地が隆起と陥没を繰り返し、刻々とその姿を変えていく。拡大し、拡散していく大地の亀裂から、鉄を溶かした溶鉱炉の中身の様な、灼熱した溶岩までもが溢れ始めていた。

 

「このタイミングで噴火か!?」

 

「いや、これは……」

 

 退避した先で、偶然にも背中合わせとなった海斗とソレント。

 その場所に、噴き上がった溶岩が、まるで意思を持っているかの様に弧を描き、二人へと襲い掛かる。

 

「チッ!」

 

 舌打ちをして海斗が両手を腰だめに構える。一拍を置いて突き出される両の掌。

 初動と威力こそ違うが、それはアルデバランのグレートホーンであった。

 

「吹き飛ばすだけなら――コイツで」

 

 放たれた衝撃波が、二人に覆い被さろうとする溶岩を――突き抜けた。

 溶岩がリングの様に中央に穴を開け、衝撃波を抜けさせたのだ。

 

「何ッ!?」

 

「ただの熔岩じゃない!」

 

「この動き、不自然だ! 明らかに、何者かの意思が介入しているッ!!」

 

 肩を並べたのは一瞬。

 お互いに逆方向へと跳びこれを避ける。

 

「ッ!! ――海斗さん!」

 

 悲鳴じみたセラフィナの声に海斗が視線を動かす。

 偶然か、それとも。

 海斗の周囲は炎と熔岩によって囲まれ、ただ一人孤立する形となっていた。

 

「まさかな、狙いは俺か? セラフィナ! シュラ! そっちはどうだ!」

 

「あの娘とセラフィナは無事だ!」

 

 シュラの言葉の通り、炎によって遮られた視界、炎の壁の向こう側にはセラフィナ達のものと思われる影が見えていた。

 少女はシュラの腕の中にあるのだろう。この騒ぎでも目を覚ましていないとすれば、少々面倒な事になるのかもしれない。

 

「……他人の心配をしている余裕は無いか。そっちは外に出れそうか?」

 

「――大丈夫です! シュラ様が! 海斗さんは大丈夫なんですか!?」

 

 周囲を見渡す。

 揺れや落石は大分マシにはなっていたが、目に映る光景は変わらない。

 これがただの噴火、ただの炎であるならば、何の問題も無いのだが。

 

(そんなワケはないよなぁ……)

 

 奇妙な事に、海斗を囲む炎はある一定距離からはそれ以上内側へと迫って来る事がない。

 拳圧で吹き飛ばしても、瞬く間に新たな炎が更なる勢いを持って壁となる。

 明らかに、不自然であり作為的であった。

 恐らく、いや、確実に二人の海将軍も“この場”から排除されているだろう。

 事実、先程まで確かに感じていた小宇宙が急速に遠退いていた。

 セラフィナが狙いから外れた事は喜ばしいが、今度は自分が目を付けられたなと。

 厄日かと、海斗は頭を抱えたくなっていた。

 

 心当たりは――ある。

 

「こっちの事は気にするな! ただ、コイツを吹っ飛ばすにはちいとばかし派手な事になるな!」

 

 嘘は言っていない。穏便には済まないだろう。

 

「シュラ! 巻き込まれない内に早く脱出してくれ!!」

 

 海斗としては、正直に言ってしまえば、手を貸して貰えると助かったのだが、そうするとセラフィナ達の安全が保障出来なくなる。

 自分の事だけならまだしも、他人を守れるだけの余裕は今の海斗には無かった。

 元々、シュラはムウがジャミールを留守にする間、セラフィナの護衛をするためにやって来たと言っていた。

 ならば、この状況で何を優先するのかは考えるまでもない。

 

「分った」

 

 短く、はっきりとシュラが答えた。

 優先順位として正しく、そして期待通りの言葉を受け、海斗は安堵の溜息を吐いた。

 

(とりあえず、これで心配事が一つ減ったな)

 

 次は自分の事だと海斗が意識を切り替えようとしたその時であった。

 シュラ達と海斗を遮っていた炎の壁が“斬り”開かれたのは。

 

(――エクスカリバー!? 何を?)

 

 そんな事をしても、この炎は瞬く間に元の姿に、壁となるだけだ。

 疑問を抱いた海斗であったが、開かれた視界からこちらに背を向けたシュラとその手に抱きかかえられた少女が、真っ直ぐな視線を向けて来るセラフィナの姿が見えた。

 セラフィナと海斗の視線が交差する。

 

 

 

 そして、炎の壁がその勢いを増して再び壁となって立ち塞がった。

 海斗はセラフィナ達の小宇宙が遠ざかって行くのを感じ取りながら、事が済んだら御祓いにでも行くかと、半ば本気で考えていた。

 

「――別れの挨拶は済んだか?」

 

「……縁起でもない事を」

 

 もしかしたらと予想はしていた。

 呆気なさ過ぎたが故に。

 自分の小宇宙が増大していたとはいえ、仮にもトアスを従えた男があの程度で終わるのかと。

 

 振り返った海斗の前に、赤い闇が蠢いていた。

 そこから最初に具現したのは百の蛇の頭。

 次いで、鳥の翼と何本もの巨大な手足。

 蛇の眼窩から炎が吹き荒れ、暴風とともに大蛇の胴が這いずり出す。

 

「これは……コイツはッ!!」

 

 周囲には腐臭が立ち込め、目に見えぬ力が海斗の身体へと圧し掛かり、それに弾かれる様にして海斗は飛び退く。

 膝を着いた海斗の目の前で赤い闇が――魔獣が爆ぜた。

 熱気と重圧を、瘴気と狂気を撒き散らし、現れたのは赤と青、炎と風、二つの色を宿した左右非対称の金剛衣。

 胸元に込み上げる不快感を押し殺し、海斗はそれの前に立つ男を見た。

 

「これが、我が金剛衣。我らが神Typhonの力を宿した最強の金剛衣よ」

 

 男の名は――ポルピュリオン。

 その肉体には、掠り傷一つ見付ける事が出来なかった。

 

「……予感はあったが、そう来るか……」

 

 対するのは頭部と胸部を失くした、全壊した聖衣を身に纏い、続いた戦いで消耗した自分。

 思い浮かべた予測を振り払うように、即座に海斗が仕掛けた。

 後手に回るのは拙い。一度守勢に回ってしまえば、二度と立て直す事は出来ないとの確信があった。

 

「“エンドセンテンス”!!」

 

 放たれた無数の光弾が、次々とポルピュリオンの身体を撃ち貫く。

 鮮血が舞い散り、ポルピュリオンの身体がぐらりと揺れた。

 

 それだけであった。

 

「全てが思惑通りとはいかなかったが、結果だけで言えば概ね順調ではあるのだ。我が神の復活までは行かずとも、こうして我は力に満ちている」

 

 口元を歪めてポルピュリオンが笑う。

 

「あの娘を母体と出来ればそれで良し。それが叶わねば、新たな母体を探すだけよ。あの娘程の者が居るかは分らぬが、我にとってはその程度の事に過ぎん」

 

 海斗の目の前で、穿たれた肉体が、鮮血を噴き出していた傷口が、瞬く間に治癒し、欠損した肉体が再生される。

 

「デルピュネが聖域を落とせればそれで良し。仮に返り討ちにあったところで、その血肉と魂は我が神の供物となり――力となる」

 

 そう語るポルピュリオンの手には、真紅のルビーが握られていた。失われた輝きが戻り、赤い光を灯していた。

 

「我は貴様らに、その健闘を賞賛しているのだ。結果として、多くの力ある魂が我が神に捧げられたのだからな」

 

 Typhonの金剛衣が、瞬く間にポルピュリオンの身に纏われる。

 

「おかげで、こうして我は神代の力を、ガイアの加護を取り戻す事が出来たのだ。礼を言うぞ、エクレウスの聖闘士よ」

 

「……そういう事か。つまり、お前は、仲間の、配下の命すら贄としていたんだな? 自分以外のギガスが勝とうが負けようが、どうでもよかったワケだ」

 

 返答はなかった。

 ただ、浮かべられた笑みが、それが真実であると雄弁に物語っていた。

 

 ポルピュリオンが一歩進む。

 風を纏った右半身により踏み込まれた一歩である。

 

「くっ、これは!?」

 

 歩みだけで嵐の如き暴風が巻き起こり、風が刃となって海斗の身に迫る。

 もはやプロテクターとしての機能を失っている聖衣ではその全てを防ぐ事は出来なかった。海斗の身に、浅くはない傷が次々と刻まれていく。

 

 ポルピュリオンが一歩進む。

 炎を纏った左半身により踏み込まれた一歩である。

 

「クッ、ならば!」

 

 デルピュネの炎を打ち消した時の様に、海斗は目の前に水の障壁を展開する。

 果たして、予想通りに風の勢いを受けた炎が、熱波が、海斗へと迫り――

 

「――やっぱりかよ、くそっ!!」

 

 跳び退いていた海斗の目の前では、易々と障壁が削り、消し飛ばされていた。

 

(肉体を破壊できない訳じゃない。なら、ギャラクシアンエクスプロージョンで吹き飛ばせば……いや、多分それだけじゃあ――一手が足りない)

 

 事実、一度はホーリーピラーによってその肉体を消し飛ばしていたはずであった。しかし、こうして目の前にポルピュリオンは存在している。

 ガイアの加護による不死の肉体。厄介な、と海斗が呻く。

 ギャラクシアンエクスプロージョンで破壊するだけでは、時間稼ぎにしかならないとの確信があった。

 海斗はポルピュリオンの動きを観察する。

 決して戦えない相手ではない。それも自分が万全の状態であるならば、だが。

 

(せめて、聖衣だけでもまともな状態なら……)

 

 聖衣はただ身を守るためのプロテクターではない。

 むしろ装着者の小宇宙を高め、その力を十二分に発揮させるための増幅器的な役割の方が大きい。

 その効果は、白銀、黄金と、上位の聖衣であるほど顕著であった。聖衣自体に宿る力の桁が異なるのだ。

 無論、それを発揮させるためには天才的なセンスと確たる実力が必要であり、資格の伴わない者が黄金聖衣を身に纏ったところで青銅聖闘士はおろか下手をすれば雑兵にすら勝利を得る事は出来ない。

 

 そこでふと、ガルーダの冥衣はどうなった、と海斗は僅かに視線を動かした。

 すると、炎と熔岩の向こう側に、魔鳥へとその姿を戻したガルーダの冥衣があった。

 

「死んだ方がマシだなんて言う気は無いが、それも俺が俺であるならば、だ。……やれるか?」

 

 受け入れた上で、制御しなければならない。失敗すれば己を失い、冥衣の操り人形と化すのだろう。

 ポルピュリオンの醸し出す力の余波ですらダメージを負ってしまうこの状況では、身を守る鎧の有無は大きい。時間は無い。四の五の言っていられる状況でもない。

 

「……節操無しもここに極まる、か」

 

 メフィストフェレスは海斗に囁いた。歴史は繰り返す、と。

 その言葉に、海斗は自身の行動によって否を突き付けた。

 しかし、細部を変えども、再び繰り返そうとしている。

 こちらの意志を感じ取ったのか、海斗はガルーダの冥衣が鳴動するのを感じていた。

 

 命を掛ける理由が出来た。そのためにも、命を失う訳にはいかないのだ。

 シュラによって炎が切り裂かれたあの時、セラフィナが言った。

 ジャミールで待っている、と。

 

「来い――」

 

 座して死を待つつもりはない。

 

 

 

 どこかで、カチリと、運命の歯車が“回る”音が響いた。

 

 

 

 灼熱の赤に染まった世界を、一条の閃光が貫いた。

 そのあまりの眩さに、ポルピュリオンが眉を顰める。

 そして、その光が治まる事で顕わとなったソレを見て、ポピュリオンが驚愕する。

 

「何だ、この黄金の光は? 何なのだ、あの輝きは!! な、なにい!? あれは、あの聖衣は!?」

 

「……そんな、これは……」

 

 光の中から姿を現したのは、一つの身体でありながら互いに向き合う事のない双子を象った黄金の聖衣。

 

「……ジェミニの黄金聖衣」

 

 目の前の光景に、海斗もまたどこか呆然とした様子で呟いた。

 対峙する二人の前に、この大地の底に、ジェミニの黄金聖衣が天を貫き出現していた。

 

「そうか、これは……貴方の遺志か、カストル」

 

 それが、キタルファの願望が生み出した幻影であったのかは海斗には分らない。

 しかし、海斗の目には、ジェミニの黄金聖衣の前に立つカストルの姿が映っていた。

 

「は、ははは。はははははっ! 師弟揃って過保護過ぎるだろう? こうも、こうまでお膳立てされては! やるしかないだろう、やってやるさ!! 力を貸せ――」

 

 カストルが頷き、その姿が聖衣へと消える。

 

「来い――ジェミニ!!」

 

 海斗の声に応え、ジェミニの黄金聖衣がその姿を変える。

 エクレウスの聖衣が海斗の身体から分離し、ジェミニの聖衣が次々とその身に纏われていく。

 キタルファの記憶とジェミニの聖衣が、海斗の求めた一手を、成す為の力を与える。

 ガイアの加護がポルピュリオンを不死とするのならば、その加護を絶ち切ればよいだけの事。

 それを成すための力を、今ここに得た。

 

 黄金聖衣。その聖衣が放つ黄金の輝きは、決して用いられた素材の材質だけが理由ではない。

 “光を吸収し構造内に封じ込めエネルギーに変換する”という、下位の聖衣にはないその特性故に、である。

 そして、黄道十二星座を司るという事は、神話の時代より常に太陽の影響下にあったという事であり、その内には膨大なまでの太陽の、光のエネルギーが蓄積され続けている。

 つまり、黄金聖衣とは太陽の鎧であり、光の鎧であるとも言えよう。

 無論、それ程の光の力を制御するには相応の高い小宇宙が必要とされ、それを実行できるだけの力を持った者が黄金聖衣に認められ、身に纏うのだ。

 それが、一体どれ程の相乗効果を生むのか。

 

 ジェミニの聖衣を纏った海斗と、ポルピュリオンが対峙する。

 吹き荒れる風も、炎も。すでに余波程度の力では、海斗の身に何ら影響を与える事はできない。

 

「まさしく、まさしく因縁よな。千年前、我らの神の復活を邪魔したのがエクレウス。そして、この我と対峙した聖闘士が――ジェミニであったわ」

 

「らしいな。まったく、下らない因縁だ。だがな、それもここまでだ」

 

 風と炎が吹き荒れる赤に染まった空間に、眩いばかりの黄金の輝きが一際異彩を放つ。

 むしろ、周囲の炎がその勢いを増す程に、黄金の輝きもまたその勢いを増しているかの様であった。

 

 

 

「――ここで俺が終わらせる」



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第21話 閃光の果てに!の巻

 崩落により刻々と姿を変えて行く洞内が、絶え間なく続く振動、噴き上げる炎が、地上へと駆けるセラフィナ達の行く手を幾度となく阻む。

 その度に、シュラの聖剣が障害を、駆け抜けるべき道を斬り開く。

 ただ、ひたすらに前へと。

 繰り返し、繰り返し。それを数えるのに片手だけでは足りず、両の手が必要となる。そんな折であった、セラフィナが足を止めたのは。

 偶然であった。

 シュラとセラフィナの間に噴き上げた炎、そこに光る何かを見付けたのだ。

 先を行くシュラでは気付かなかった。その光る何かは聖衣であった。

 地底湖での戦いによって弾き飛ばされたエクレウスのヘッドギアである。

 それを取ろうと足を止め、手を伸ばした。

 

 その行為がセラフィナの命を救った。

 

 洞内が縦にずれる。

 シュラの立つ場所が上昇し、セラフィナの立つ場所が下降した。

 あのままであれば、セラフィナが駆けて抜けていたであろう場所が、灰色の光によって斬り裂かれていた。

 

「セラフィナ!」

 

「大丈夫です! でも、これって、この攻撃的な小宇宙は――ギガス!?」

 

 斬り裂かれた壁面からは一体のギガスが姿を現していた。

 それは、研ぎ澄まされた刃の様な両手を持ったギガスであった。全身を黒の鎧が覆い、鉄仮面から覗くその眼光は鋭い。

 

「我が名は灰色(パイオス)(スパテー)。我が両腕は全てを切り裂く刃なり」

 

 再び、灰色の光が洞内を斬り裂く。

 その光の数は八つ。全てが同時に現れていた。

 

「“エクスカリバー”!」

 

 シュラの聖剣の一振りが七つの光を捉え、その全てを斬り飛ばす。

 そう――七つを。

 

「な――!?」

 

 シュラの目が見開かれた。

 想定外の出来事に。

 シュラの意識は八つ全ての光を捉えていた。しかし、その腕で抱き抱えていた少女の存在が、アルキュオネウスとの戦いによる消耗が、ほんの僅かな狂いとなって聖剣の刃筋を乱していたのだ。

 残る一つの光がセラフィナに迫る。その瞳に灰色の閃光が映る。セラフィナの意識は光を捉えていたが、それだけだ。

 

(――させん)

 

 シュラが振り切っていた右腕を強引に引き戻して再び刃とする。

 急制動による猛烈な負荷が、完治していない右腕を襲うが、シュラはそれに構わない。任された以上は果たさなければならない、と。

 

 光と光がぶつかり合う。

 セラフィナの目前で、灰色の光が黄金の輝きによって弾き飛ばされた。

 

 シュラの放った光に、ではない。

 

「ふむ、あの場からこの様に繋がっていたか。しかし、この再会は、奇遇、と言うべきかな」

 

「あなたは……セイレーン、海闘士のソレント……さん? あ、ありがとうございます」

 

「無理に敬称を付ける必要は無い。そして感謝の言葉も必要無い」

 

 それは、セラフィナをかばう様に立ったソレントの身に纏う鱗衣の輝きであり――

 

「戦いに疲労し、足手まといを抱えた身でありながら見事な剣閃。お前ほどの戦士を目の前にしながら、この場で刃を交えられぬ事が残念でならん」

 

海将軍(ジェネラル)。確か、クリュサオルのクリシュナと言ったな」

 

「あらためて名乗ろうか、カプリコーンの黄金聖闘士よ。そう、オレは七つの海を守護する海将軍の一人、クリュサオルのクリシュナ」

 

 それはクリシュナの持つ黄金の槍の輝きであった。

 

「フッ。どうやら、この地にはまだこの黄金の槍を振るわねばならぬ邪悪が残っていたらしい」

 

 黄金の槍(ゴールデンランス)の一撃がセラフィナを救ったのだ。

 

「今は行くが良い、アテナの聖闘士。お前もだ、ソレントよ。偉大なるポセイドン様の敵、邪悪なるギガスは、このクリシュナの黄金の槍が貫く」

 

「クククッ、面白い。お前の持つその槍、あの名高い黄金の槍か!」

 

 クリシュナが黄金の槍の切っ先をパテーに向ける。

 対峙するパテーもまた、己の両腕を、その切っ先をクリシュナへと向ける。

 

「ならば、我が灰色(パイオス)(パテー)とどちらが上か、試し、分らせるのも一興か」

 

「試し、か。よかろう。だが、心せよ。試しで終わる、二度目は――無い」

 

 両者の意識が既に自分達に向けられていない事を悟ったシュラは、セラフィナに「行くぞ」と声を掛ける。

 逡巡を見せたセラフィナであったが、手にしたエクレウスのヘッドギアと、シュラに抱えられた少女の存在を思い出し「はい」と頷く。

 

「待ちたまえ」

 

 そうして駆け出そうとしたセラフィナをソレントが引き止めた。

 何か、と振り返ったセラフィナの目が、ソレントの手の中でまるで大海の青を思わせる様な美しい光を放つ宝石に惹き付けられる。

 その輝きは、ポルピュリオンによって押し当てられていた真紅のルビーにも似た妖しさがあり、美しさがあり、存在感があった。

 あれと同種の物だと、直に触れたからこそ瞬時に理解したセラフィナであったが、同時に全く異なる物だとも感じていた。

 澄んでいた。澄み渡り、清浄であった。神々しさがあった。

 

「君は、彼と……エクレウスとは親しいのだろう? ならば、これを彼に渡してもらいたい。なに、害のあるモノではない」

 

 ソレントの手から投げ渡されたそれをセラフィナが受け取る。

 

「えっ? あ、あれ?」

 

 すると、まるで波が引く様に先程までソレントの手の中で見せていた輝きが失われ、ただ青く輝く宝石でしかなくなっていた。

 

「その宝石はアクアドロップ。我らにとってはお守りの様な物だ。君の知らない事だろうが、彼とは妙な縁があってね、友好の証とでも伝えてくれればいい」

 

「あなたは――」

 

 一体何を、そう続けようとしたセラフィナであったが、その言葉が出る事は無かった。

 

「時間を取らせたな。それでは、急ごうか」

 

 するりと、抵抗する意思を見せる間も無く、ソレントに横にして抱き抱えられていた為だ。

 そして、気付けば先に行ったはずのシュラの背が目前の位置にまで迫っていた。

 

「な、なななな!?」

 

「いかに鍛えられた聖闘士とは言え、生身の限界というものがある。見たまえ、君の足は血塗れだ。君では素足のままこの洞窟を抜ける事は無理だ」

 

 淡々と事実だけをソレントが述べる。

 

「……ッ……」

 

 セラフィナにはそれに対して言い返せる言葉が無い。事実、足の指の爪はめくれ、剥がれており、血に濡れた足の裏は更に酷い事になっているのだろう。

 

「いざとなればカプリコーンが何とかするつもりであったのだろうが、道中何が起こるかは分らん」

 

 君に何かあれば彼に嫌われてしまいそうなのでな。呟かれたソレントの言葉は誰の耳にも届く事は無かった。

 

(そうだ、今はまだその時ではない。見極めなければならない)

 

 

 

 

 

 第21話

 

 

 

 

 

 ムウの手によって新生されたエクレウスの聖衣。

 それを身に纏った時、海斗は聖衣に満ちた、修復前の聖衣からは感じ取れなかった命の息吹に、迸る“生命の躍動感”に感動していた。これ程のモノか、と。

 そして、今。

 アテナの聖闘士にとって最高にして至高の聖衣とされる黄金聖衣(ゴールドクロス)を身に纏い、海斗は己を包む“躍動感”を超えた“飛翔感”に、“万能感”を超えた“全能感”に、思わず口元を歪めていた。

 

(……これは、拙いな。ああ、これは拙い)

 

 セラフィナの力によって僅かながらも傷を癒す事が出来ていたとはいえ、海斗自身が満身創痍の身であった事に変わりはない。

 対する敵は、配下であり同胞であったギガス達を生贄としてかつての力を、オリンポスの神々と戦った当時の、古の巨人族の力を完全に取り戻しつつある。

 不死性を取り戻し、その肉体にギガスにとって最高位の金剛衣を纏った真なるギガス――ポルピュリオン。

 存在の格で言うならば、人と神。どちらが上か、など比べるまでもなく。

 力にしても同様。相手は神でありながらTyphonとガイアという更なる上位にある二神の加護を受けている。

 対する自分には何がある? ご大層な加護など受けた覚えは無い。

 あるのは己の意志と、託された人の遺志。

 

「ク、ククッ」

 

 油断も慢心も、そんなモノを抱けるような相手では無い。

 それが分っていても、なお、海斗は口元に浮かぶ笑みを抑える事が出来なかった。聖衣から与えられる力と、聖衣から引き出した力、己の内から湧き上がる高揚感に呑み込まれそうになっている。

 

(落ち着け、抑えろ。しかし、本当に拙いぞこの感覚は。これが黄金聖衣。まるで……負ける気がしない)

 

 ポルピュリオンが右腕を振り上げた。吹き荒ぶ大風を纏った右腕を。

 

「“ストームスラッシャー”!!」

 

 ――大地母神ガイアと苦界タルタロス(冥府)の息子であるギガスの神Typhon。

 ――背に生やした巨大な翼は、羽ばたき一つで吹き荒ぶ嵐を巻き起こす。

 

 腕を振る。ただそれだけの動きで大地がめくれ上がる。

 嵐は周囲で噴き上がる熔岩や熱波を巻き込ながら、炎を纏った無数の風の刃と化して、四方八方、縦横無尽に海斗へと襲い掛かる。

 頭部全体を覆うヘルメット型のジェミニのマスクに隠れて分り辛かったが、それを見て海斗が僅かに眉を顰めた事がポルピュリオンには分った。

 

「さあどうする?」

 

 ポルピュリオンが期待を込めた眼差しを海斗に送る。この程度で終わってくれるな、と。

 果たして、海斗は無造作に右腕を振り上げ指を伸ばして手刀を作ると、気合いの声とともに一気に振り下ろした。

 

「フッ!!」

 

 一閃。

 振り下ろされた手刀に宿された光の軌跡に沿って、海斗へと向かっていた風の刃の尽くが打ち砕かれる。

 しかし、刃を砕かれた風は、ならばと、炎を纏った衝撃の飛礫と化して、次々と海斗の身体を打ち据えていた。

 そんな中で、一際高い音が響き渡る。ジェミニのマスクが弾き飛ばされ宙を舞っていた。

 衝撃によるものか、それとも他の要因か。マスクを飛ばされ仰け反った海斗の額からつうと血が流れる。

 

「……チッ、やっぱり見様見真似じゃこんなものか。分っちゃいたが」

 

 ふらついたのは一瞬。そう呟く海斗の目にはまだまだ確かな力がある。

 

「線や点では無理だ、ってんなら!!」

 

 打ち砕いた刃が無数の飛礫になるのなら、その全てを打ち砕く。

 暴論であったが間違ってもいない。それができるのであれば、だ。

 そして、今の海斗にはそれが出来るだけの力がある。

 

「ぅおおおおおッ!! “エンドセンテンス”!!」

 

 破壊の光弾が、閃光が、嵐を貫きポルピュリオンへと届く。

 金剛衣に傷を与え、鋼の肉体に確かなダメージを与える。

 絶え間無い衝撃がポルピュリオンの巨体を後退させる。大地には後退させた分だけ深い溝が刻み込まれていた。

 

「ぐっ、むうぅっ! まさか、この、最強の金剛衣に傷を付けるか!!」

 

 エンドセンテンスによって与えられた衝撃に巨躯を揺らしながらも、気迫に満ちた叫びを上げて仁王立ちするポルピュリオン。

 

「だが、言ったはずだ……我は力を取り戻したと!! ガイアの加護をッ!!」

 

 金剛衣にこそ傷が残ってはいたが、その内にある肉体は瞬く間に再生を果たしていた。

 ポルピュリオンの上げた気勢が物理的な圧力を伴って海斗の全身を叩く。

 

「う、ぬッ!? くっ、速いな。あの速度で回復するのか……」

 

 ポルピュリオンが左腕を振るう。

 灼熱の業火を纏った腕を。

 

「嵐は凌いだか! ならば、これを受けてみよ、大いなる大地の怒りを!! “フレグラスボルゲイン”!!」

 

 ――其は百の蛇の頭を持ち、その眼窩からは炎を放つ。

 

 振るわれた左腕の軌跡に沿って大地が煮沸し、瞬く間に炎の海と化す。その炎の海から巨大な炎蛇が姿を現す。荒れ狂う勢いのままに、その巨大な顎を開き海斗へと襲い掛かる。

 その密度、その大きさ、その異様。デルピュネの生み出した炎蛇とは比べようもない。

 

「その手の攻撃は散々見てきたんだよ! “ハイドロプレッシャー”!!」

 

 海斗の突き出した両手から、巨大な槍とでも形容出来そうな水流が放たれる。巨大な水槍がまるで杭の様に炎蛇の口腔に突き刺さり、瞬く間にその頭部を四散させた。

 

「何? 手応えが無さ過ぎる……っく、そういう事か!」

 

 海斗はその光景にどういう事かと訝しんだが、その答えは直ぐ目の前で示される。

 炎蛇は頭部を破壊され四散した――のではなかった。

 

「……自ら分れた、か。まるでヤマタノオロチだな」

 

 一つの胴体に複数の頭部。

 四散したはずの炎はそれぞれが頭となり、それぞれの顎を開いて海斗に迫る。

 それはまるで炎の壁であった。

 

(迷っている暇は――)

 

 多少のダメージは覚悟の上と、迫る炎の壁を前に海斗は決断した。

 

「“レイジングブースト”!」

 

 水流を身に纏い、炎の壁を蹴り穿つ。貫いて飛翔する。

 眼下では炎がまるで津波のように押し寄せ、先程まで自分の立っていた場所を炎の海へと変えていた。

 

「……おいおい」

 

 もはや、この戦場に足場と呼べそうな場所は多くは無い。ほとんどが炎の海の中へと消えてしまっていた。

 第六感、いわゆる超能力を超えた第七感“セブンセンシズ”に目覚めた黄金聖闘士にとっては些細な事であったが、今の海斗にとってはそうではない。

 聖闘士は一般人の常識を超えた存在ではあるが、その聖闘士にも常識は存在する。

 少なくとも“足場のない炎の海で戦う”事は、海斗の常識ではない。

 どうするかと僅かに逡巡する。

 

 それが隙となった。

 

「呆けている場合か?」

 

 ぞくり、と。

 背後から感じるプレッシャー。しかし、空中にいる海斗に取れる手は多くはない。

 海斗が振り返るよりも速く、ポルピュリオンの手が頭部を鷲掴みにしていた。

 

 ――其の咆哮は大地を揺るがし、何本もある手足は容易く大地を打ち砕く。

 

 その手から逃れようとした海斗であったが、何一つ身動きが取れない。

 

「よくぞTyphonの力に抗った。最後は我の力で仕留めてやろう」

 

 風が、全身を拘束している事に気が付いた。

 獰猛な笑みを浮かべたポルピュリオンの手に、一層の力が込められる。

 グンッと、海斗は全身に重圧が掛かるのを感じていた。

 風の拘束を打ち破り、海斗がポルピュリオンのその手を掴んだ時にはもう遅い。

 

「打ち砕く――“ギガントクラッシャー”!!」

 

 空気を貫き、風を貫き、炎の海を貫き、大地を貫き。

 夜空から地上へと落ちる流星の様に。

 二つの小宇宙が大地の底へと突き進み。

 

 やがて、大きく弾け。

 

 忽然と――消えた。

 

 

 

 

 

「おおっ!!」

 

 刃を振るうパテーの気勢が大地を揺らし、

 

「フンッ!!」

 

 クリシュナの気迫が大気を振るわせる。

 火花を散らし、刃を鳴らし。二合、三合と打ち合わされる致死の一撃。交されるその質は実に対照的であった。

 二刀を振るうパテーの刃は重い。ただひたすらに重かった。速度を捨てた重さであった。捨てた速度を二刀流の技量が補っていた。

 対するクリシュナの槍は早く、速く、疾い。

 剣の間合いでありながら、いなし、捌き、打ち払い、隙あらば連撃を繰り出せる程に、巧みであった。

 

「クははッははは!! やるではないか人間!」

 

 一際大きな音を残し、両者が弾ける様にして間合いを広げる。

 熱を増すパテーに対して、クリシュナは手にした黄金の槍を一瞥すると、その石突きを地面に突き立てる。

 そして、こう言った。

 

「分った。もういい。十分だ」

 

「何?」

 

「試しは終わりだと言っているのだ。確かにやるようだが、それでも先に戦った獣将とやら程ではない。底があるなら早く見せる事だ。でなければ――終わらせるのみ」

 

「貴――キサマッツ!! この我を、神を愚弄するかァあああああッ!!」

 

「愚弄などでは無い。事実よ」

 

 パテーが両の剣を振りかぶり、左右と続けて振り下ろす。

 灰色の閃光がクリシュナに迫る。だが、横薙ぎに振るわれた黄金の槍の一閃がその閃光を絶ち斬り、パテーの左腕を斬り飛ばし、その身を覆う黒の鎧を斬り裂いた。

 

「がぁ!? ぐぅああああああああっ!? こ、これしきの、これしきの事でェえッ!!」

 

 パテーが残る右腕を振り上げる。

 一本の剣であった腕が、八つの刃を持った剣へとその姿を変えていた。

 

「この刃は全て! 我が小宇宙によって意のままに動く!! 逃げ場は無いッ!! 捉えきれるものか!! “八陣爪ォオオオオ”!!」

 

「ほう、これが最初に見せたハつの斬撃の正体か。だが、たかが八つ。捉える必要すらありはせん、そう――この黄金の輝きの前には無意味! くらえ“フラッシングランサー”!!」

 

 クリシュナの手によって繰り出される黄金の槍による連続突き。

 あまりの速度とその回数に、点であるはずの穂先の輝きが一面を埋め尽くす程の光と化してパテーの身体を埋め尽くす。

 

「言ったな、二度は無いと」

 

 光がパテーの八つの刃を、黒の鎧を、その肉体を、全てを打ち貫いていた。

 

 

 

 

 

 聖域。

 アテナ神殿へと繋がる十二宮、その第三の宮である双児宮に教皇――サガの姿があった。

 今は純白の法衣に身を包み、首には――装飾過多であるとしてサガはあまり好んではいない――ロザリオをかけている。

 教皇に代々受け継がれている翼竜を模した兜を被り、顔を覆い隠すマスクによってその感情の色を知り得る者はいない。

 聖域を統べる教皇、その様な立場にある者が、こうして素顔を隠しているという事は一見おかしな話であるが「己という個を捨てて地上の平和のた為に、アテナの為に尽くす」という題目によって、千年ほど前からの慣例となっていた。

 それだけでは無いのだろうとは薄々感づいてはいたが、故あって正体を隠さねばならないサガにとっては好都合であった。

 

「……いや。むしろ、だからこそこの現状がある、とも言えるか」

 

 素顔の分らない存在。だからこそ入れ替わりという事が出来た。

 そう一人ごちながら、サガはかつて己が暮らしていた双児宮の奥へと足を踏み入れる。

 

 それは海斗がデルピュネと共に聖域から姿を消して暫く、襲撃してきたギガス達のほぼ全てを打ち倒し、少なくとも目先の脅威は払拭されたかと、皆が僅かに緊張を、警戒を緩めた時の事であった。

 落雷かと誰もが思う様な轟音が鳴り響き、無人の双児宮から眩いばかりの輝きを放つ光の柱が立ち昇ったのだ。

 教皇の間の前からその光景を見下していたカミュやサガ、シャカが一体何事かと反応する間もなく、そこから流星が飛び立って行った。

 

 その流星の正体に、それがジェミニの黄金聖衣であると真っ先に気付いたのは、当然の事であるが本来のジェミニの黄金聖闘士であったサガである。

 とはいえ、それが千年前のジェミニの黄金聖闘士カストルの遺志による奇跡であったなどと、その光景を目にしても理解出来た者はいない。いるはずが無い。

 故に、その奇跡は知らぬ者からすれば紛う事無き異変以外の何者でもない。

 十二宮を守護する黄金聖闘士とはいえ、他の宮の内情までをも把握している訳ではない。例外があるとすれば、それは彼らを統べる教皇かアテナか、である。

 ジェミニ不在としている以上、教皇の立場を利用してサガ自身が確認の為に双児宮へと向かったのだ。

 

 サガが足を踏み入れたのは居住区の、その先にある小さな一室であった。

 扉の鍵を開け、およそ十年ぶりに踏み込んだその室内は、サガが予想していたよりも荒れ果ててはいなかった。

 天井を見上げれば、開いた穴から陽の光が差し込まれ、降り注ぐ光の元には石造りの台座が、その上には開かれたパンドラボックスがあった。

 薄暗い室内にあって、陽の光に照らされ黄金の輝きを放つパンドラボックスには神々しささえ感じられる。

 

「カノンでは……ないな。もっとも、あれが今更聖衣を求めるとは思えんが」

 

 サガに弟がいた。その事実は聖域ではほとんど知られていない。

 幼き頃から心優しき誠実な男、神の様な清き男として育ち、育てられ、称えられてきたサガ。

 そんな兄とは異なり、カノンはサガに匹敵する力を持ちながら己を悪だと言い切り、悪事にも手を染めていた。双子の兄弟でありながら、その生き様は正反対であった。

 それでも、と。サガはいつかカノンが正義に目覚める事を期待していた。血を分けた兄弟を信じていた、とも言える。

 しかし、それが誤りであったとサガが痛感した出来事が起こる。

 

 それは、今からおよそ十一年前の事であった。

 聖域に赤子としてアテナが降臨してから、当時の教皇が次期教皇にサガではなくアイオロスを指名してから僅か数日後の事であった。

 

『馬鹿な!? カノン! お前は一体自分が何を言っているのかを分っているのか!? アテナを、聖域に降臨された幼きアテナを――』

 

『力のある者が欲しい物を手に入れようとする、それだけの事だ。幸いにしてオレ達が双子である事を知る者はいない。オレが手伝ってもいい。そうすればこの地上はオレ達兄弟の物になるんだ。そうさ、アイオロスを次期教皇に選んだマヌケな老人共々――アテナなぞ殺してしまえ』

 

 自分の心を偽る必要はない。兄さんの本質もオレと同じ悪なのだから。

 そう言ったカノンの視線を、表情をサガは忘れる事ができない。

 サガとカノンは瓜二つ。従って、悪に堕ちたカノンの顔は、悪に堕ちたサガが見せるであろう顔なのだ。

 自身の内面すら見透かそうとするカノンの視線が、悪こそが本質だと言い切る、その事がおぞましく、サガには許せなかった。

 

『出せ!! サガ! オレをここから出してくれーーッ!! 弟のオレを殺す気かーーッ!!』

 

『お前の心から悪魔が消えてなくなるまで入っているのだ。アテナの許しが得られるまでな』

 

『サガ! お前のような男こそ偽善者というのだぞ! 力のある者が欲しい物を手に入れようとして何が悪い! 神の与えてくれた力を自分のために使って何故いけないというのだ!』

 

 だからこそ、神の力を持ってしか出る事がかなわないとされるスニオン岬の岩牢に、サガは人知れずカノンを幽閉した。

 

『オレには分るぞサガよ! お前の正体こそ悪なのだーーッ!!』

 

 その後、どうやってかは分らないがカノンは脱出不可能とされた岩牢から姿を消し、海闘士として再びその姿を現した。

 何を目論んでいるのか。サガにはおおよその見当はついていた。地上支配、おそらくはこれだろう。

 アテナを、神すらを害しようとしたカノンだ。おそらく海皇ポセイドンに対しても何らかの企みを持っているはず。

 

 ふうっ、と溜息をつきサガは頭を振った。

 今はカノンの事を考えている時ではない。

 

「五老峰の老師か? それともムウか?」

 

 聖域から黄金聖衣を持ち出す事の出来る、そうしてもおかしくない人物をサガは思い浮かべる。

 

「いや、それはない。あの二人がその様な軽率な行動を取るはずがない。ならば……まさか、いや、あり得なくは、ない。聖衣が自らの意思で動いたとするならば、あのタイミングで向かったとするならば、それはおそらく――戦いの場だ。ふっ、くくく。はははははははっ!!」

 

 そして、とある可能性に至り、サガは笑った。

 

「そうか、海斗の元へ向かったか!」

 

 この度のギガスの襲撃もそうであるならば、ジェミニの聖衣が本来の所有者たる自分の元を離れた事も想定外。

 カノンが海闘士として現れた事もそうであるならば、海斗という力のある聖闘士が現れた事も想定外。

 

「はははははははははっ!!」

 

 笑い、嗤い、哂う。

 最高だ、と。“自分達”の想定を超えた出来事がこうも立て続けに起こるとは、と。

 今の自分が“サガ”の主導権を握れる期間は、もうさほど残されていない事は自覚している。

 幸いにして、今は己の中の“もう一人の自分”は眠っている。

 いずれは今日の事も感付かれるであろうが、もう暫くは耐えてみせよう。

 

「全ては、試練だ。アテナへの試練であり、聖域への試練であり、聖闘士への試練であり、私という存在への試練」

 

 サガの視線が、パンドラボックスの影に向けられた。

 石造りの台座、そこに僅かな歪があった。

 サガの指がその歪に触れると、隠されていた引き出しが露わとなる。そこには一振りの黄金の短剣が収められていた。

 それは、サガが幼きアテナの命を奪うべく振り下ろした短剣であった。

 

「……我らの敵は、ハーデスだけでは無いのだ。やがて、この地上を襲うであろう厄災は数多の神々の物。それはアテナを中心として引き起こされる神々の争い。ならば、我らアテナの聖闘士は、地上の平和の為に――神を打ち倒す事の出来る力を手にしなければならない」

 

 サガの手が、黄金の短剣に触れる。柄を手に取り、輝く刃を天へとかざす。

 

「幼きアテナはこのサガの死の試練を乗り越えた。ならば、我らは強くならねばならない。聖域は揺るがぬ盾となり、聖闘士は決して折れぬ剣とならねばならない、全てを打ち破れる剣でなければならない。そう、私は最強の聖域を創り上げよう。そして――アテナよ」

 

 そして、サガが手にした短剣を逆手に握り、台座へと突き立てる。

 

「あなたには、このサガが創り上げる最強の聖域を超えて頂かなければならない。強大なる力を宿した神々と戦い、勝利を得ようとするならば、地上の平和を守ろうとするのであれば――その程度の事は乗り越えて頂かなくては困るのだ」

 

 台座にサガの影が落ちる。

 突き立てられた刃は、その影の心臓を貫いていた。

 

 

 

 

 

 不意に、腕に伝わる抵抗が無くなった事にポルピュリオンが違和感を覚え、しかし、構うものかと再び力を込めた――その時であった。

 周囲から一切の音が消えていた。色が消え、熱が消える。

 大地が消え、重力が消え、その身を包むガイアの加護が――消えた。

 

「な、何ッ!? 馬鹿な、ガイアの加護が感じられ――!?」

 

 ポルピュリオンの言葉が止まる。

 後を次いで出たのは、信じられぬとばかりの、呆然とした呟きであった。

 

「……何だ、ここは? 空、か? いや、星空にいるのか我は!?」

 

 見渡す限りの宇宙、そう言うべきか。

 暗闇の中に輝く星々の輝きは、まさしく宇宙のそれであった。

 しかし、よく見れば宙に浮かんだままの岩石や、形を変える事なくその場で燃え上がる炎、上下には天地の境を示すかの様に光の網目の様なものが広がっている。

 ポルピュリオンをして、異界、そうとしか表現が出来ない。

 

「何なのだ、この場所は!!」

 

 その問いに答える事が出来たのは、ただ一人。

 

「成したのは“アナザーディメンション”。ここは、次元と次元の狭間。未来も過去も、現在もが同一の中に存在する止まった世界、世界から切り離された場所だ」

 

 その声は、ポルピュリオンの“下”から聞こえていた。

 

「やり方は知っていたが、完全に制御しきる自信が無くてな。精々が自分の周囲に異界の入り口を開くだけで精一杯だ。後は、どうやって放り込むかが問題だったんだが……誘いに乗ってくれて助かった」

 

 指先で自分のこめかみをトントンと軽く叩きながら語る海斗の姿に、ポルピュリオンは何とも言えぬ不気味さを感じていた。

 

「きさま……いつの間に!? 今の今まで、確かにこの手で、その頭部を掴んでいたはずだ!!」

 

「ここは異界。圧し付ける為の大地は無い。“後ろに下がれば”抜けるのは簡単だった――さ!」

 

 言うや否や、繰り出された海斗の蹴り――レイジングブーストが、ポルピュリオンの身体を突き上げる。

 

「ぐぅおおッ!?」

 

 海斗のその蹴りを、咄嗟に両手を突き出す事で受け止めたものの、金剛衣が軋みを上げて亀裂を奔らせる。

 力の余波が金剛衣を通り抜けて、ポルピュリオンの掌からは血が噴き出していた。

 それを確認した海斗は、牽制を込めた拳撃を放つと、ポルピュリオンとの距離を取る。

 追撃を警戒したポルピュリオンであったが、海斗はじっと見つめるだけで動こうとはしていない。

 ならばと、先に動きを見せようとしたポルピュリオンを制するように、海斗が口を開く。

 

「思った通りだ。その程度の傷が“まだ”治らない。やはり、世界から切り離されたこの場所ならガイアの加護ってやつも届かない、か。ならば――」

 

 両手を左右に大きく広げ、円を描くように動かす。

 その動きに合わせるかのように、周囲に輝く星々が動いた。

 海斗の身体を中心として、幾多の星々が凄まじい速さで引き寄せられ、次々とその動きを加速させる。

 

「その肉体を破壊して消滅させる。肉体を失えば、お前の魂はこの次元の狭間に取り残される事になる。座標が頭に無くてな、この空間を開いた俺自身が二度と辿り着けない場所さ、ここはな」

 

 腰だめに構えた両の拳を丹田から正中線を沿う様に胸元へ。

 

「つまり、誰もここへ辿り着く事は出来ない」

 

 右手は天を、左手は地を指し示すかのように大きく広げ、そこから互いの天地を入れ替えるように回された軌跡が再び円を描く。

 

「肉体と共に粉砕される魂は、この空間にあっては再生する事もかなわない。永遠に――眠れ」

 

 立ち昇る小宇宙は黄金の輝きを放ち、天地を宿した両手が打ち合わされたその瞬間――

 

「う、うおおおおおおおおおおーーッ!!」

 

 不死の身でありながら、いや、だからこそか。

 目前に迫る死の気配に、ポルピュリオンの本能が恐慌した。しかし、王としての誇りが、神としての意地が、恐れを知らぬが故か、それを認めまいと肉体を突き動かした。

 神が人に恐怖するなどあってはならぬ、と。

 

「我はポルピュリオン! ギガスの――」

 

 視界を埋め尽くす光の奔流。

 それは、集束し凝縮された、極限まで高められた小宇宙が内包する力に耐え切れずに一気に拡散する事で生じる光。

 無限に崩壊し爆発する、それは銀河の終焉の光景。

 光の海の中で、ポルピュリオンはその最期の瞬間、ある事を思い出していた。

 千年前、己を討ち倒した相手が誰であったのかを。

 

「“ギャラクシアンエクスプロージョン”!!」

 

 ――銀河が爆砕した。



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第22話 CHAPTER 1エピローグ ~シードラゴン(仮)の憂鬱2~

 北極海に臨む極寒の国アスガルド。

 聖域と同じく、神の結界によって護られたこの地は俗世から隔絶されており、近代科学の結晶である人工衛星であってもその所在の片鱗すら掴む事はかなわない。

 ギリシア神話に連なる神々とは異なる、北欧神話に連なる神々によって興され、今もなおその神の意志(ビッグウィル)を受け継ぎし者により統べられている国である。

 

「ふぅむ、やはり感じられぬ。巨神の小宇宙が――消えたなぁ」

 

 そのアスガルドの中枢、ワルハラ宮と呼ばれる中世ヨーロッパの古城にも似た建物の最上階。

 華美な装飾の施された椅子に腰かけた、紫を主体とした祭服を身に纏った男――ドルバルが、手にしたグラスを傾けながら呟いた。

 ドルバルのいるテラスからはアスガルドの大森林と、氷に覆われた湖、そしてアスガルドの民が崇める神――オーディーンの巨像を一望する事が出来る。

 

「余はな、この光景が好きなのだよ。静寂に満ちたこの地のなんと素晴らしい事か……」

 

 沈みゆく夕日を眺めながらドルバルが思いを馳せる。それは、眼下に映るこの国の事か、この地に生きる民の事か。

 

「煩わしい騒音など、必要あるまいて」

 

 そのどちらでもあり、ドルバルは更なる先を――国だけではなく、この世界を思っていた。

 暫く、そのままグラスを何度か口にしていたドルバルであったが、やがてグラスを持たぬ空いた手をゆっくりと宙に伸ばす。

 伸ばした手を開き――

 

「余は……そういうものは好かぬよ」

 

 呟く。

 そこにあるであろう何かを掴み取る様に、掌を握り締める。

 握り締めたドルバルの手から紅い輝きが漏れ出していた。

 輝きは、ドクンドクンと、まるで心臓の鼓動を思わせるような、不気味な明滅を繰り返している。

 

「いやはや、全くもって……素晴らしい事だよ。アテナの聖闘士は実に優秀ではないか」

 

 ゆっくりと開かれたその掌から零れ落ちたのは真紅のルビー。それは、ギガスの神、ギリシア神話最大の魔獣――Typhonの魂が封じられた魔石であった。

 クククと、ドルバルの口から抑えきれぬ声が漏れていた。

 暗く、深く、ドルバルは――嗤っていた。

 

「異郷の愚かなる神々など、互いに喰らい合い殺し合えば良いのだよ。何も、我らが直接手を出す必要などありはせん。そうは思わぬか? なぁロキよ」

 

「……教主様の御心のままに」

 

 背後へと振り返ったドルバル。その言葉に答えたのは、彼の後ろで片膝をつき、頭を垂れていた青年であった。

 赤を主体とした、ドルバルの物とよく似た衣服を身に纏ったアスガルドの若き闘士である。

 端正な顔立ちをしているが、その目に宿った光は氷の様に冷たく、鋭い。

 

「ふふふっ、口ではそう言っておるがロキよ、お前としては、一戦交えてみたい、というのが本音であろう?」

 

「……お許し頂けるのであれば。我ら神闘士(ゴッドウォリアー)は教主様の命に従うのみでございます故に」

 

 ロキと呼ばれた青年の言葉と、その身から立ち昇る攻撃的な小宇宙に「頼もしいな」とドルバルは笑みを浮かべ、再び視線をアスガルドの地へと戻した。

 

「ならん。それはならんよロキ。放っておけば良い、我らはただ観ているだけで良いのだよ。少なくとも今はまだ、なぁ」

 

「我々だけでは力不足、そうなのでしょうか?」

 

「ロキ、お前達の力はギガスやアテナの聖闘士に劣らぬ。しかしな、神代と七星、十二人の神闘士を揃えずして勝利は……無い。余はそう考えておる。我らの敵はアテナだけではない」

 

 そう言って椅子から立ち上がったドルバルは、手にしたグラスをテーブルに静かに置くと、祭服の裾を翻してテラスを後にする。

 

「フレイもそうであるが、七星、あ奴らが真に忠誠を向けているのはこのドルバルではない、ヒルダよ。事を起こすにせよ、まずはあの娘を押さえねばならぬ。可能であるのならばあれの妹のフレアも押さえて置きたいが、あまり多くを望んでも良い結果にはならぬであろう?」

 

「確かに。ヒルダを押さえるだけでもジークフリートとトール、そしてフェンリルが邪魔をするでしょう。そこにフレアを加えれば更にフレイとハーゲンへの備えも必要となりますか。では……七星の掌握には今暫くの時間が必要と?」

 

 その後ろを、付かず離れずといった微妙な距離を維持してロキが続く。

 

「まあ、そう長い時は必要とはせんだろうて。アルベリッヒは余につくと申しておるしのぉ。それに、心身掌握の秘術、あの実験は結果からすれば失敗であったが、それなりの成果は見せておる。やはり楔となる物が必要なのだよ。仮面や首飾り、いや、指輪など良いかも知れんなぁ」

 

 二人が進む通路の先では三人の闘士がその行く手を護る様に立っている。

 ドルバルの姿に気付いた三人が床に膝を付けて首を垂れる。

 

「ウルよ」

 

「ハッ」

 

 逆立った白い髪が特徴的な青年であった。

 聖衣にも似た紺色の鎧を身に纏い、その腰には一振りの剣を差している。

 

「ルング」

 

「……は」

 

 猛牛の様な二本の角を持った兜、全身を覆い尽くす薄紫色の鎧に包んだ巨大な男であった。

 ドルバル自身も二メートル近い巨体であったが、この男はそれをゆうに超えている。

 足も、腕も、胸部も、両の拳も、そのどれもが太く、大きい。

 

「ミッドガルド」

 

「……はい」

 

 赤色の鎧を身に纏った男であったが、鎧の色に反して、その男自身の気配は希薄であった。

 鎧を纏った男の存在は認識していても、誰であるのか、そこに意識が向かない。実に奇妙な存在感を持った男であった。

 

「そして――ロキ」

 

「何なりと」

 

「そなたらの、変わらぬ働きに期待する」

 

 四人の闘士を引き連れて歩くドルバルが目指すのは、アスガルドの南東部、海に面した場所にある“祈場”と呼ばれる祭壇であった。

 そこでは、オーディーンの地上代行者であり巫女であるヒルダが昼夜欠かさずに祈りを捧げている。

 アスガルドでは、巫女の祈りが途絶えた時、地上の極点――南極と北極の氷は解け、地上は大洪水に見舞われると伝えられていた。

 それ故に、この巫女の祈りは神聖な儀式とされ、アスガルドの政務の中枢を統べているドルバルですらこの時のヒルダに近付く事は許されない。

 

「今は、静かに祈りを捧げるが良いヒルダ。その時が訪れるまでは護ってやろうぞ」

 

 やがて訪れるであろう時。地上を覆い尽くす厄災の時。その時を思い浮かべたドルバルの口元に笑みが浮かぶ。

 

「そう――余の地上のために」

 

 

 

 

 

 第22話

 

 

 

 

 

 ギガス達の襲撃――現代におけるギガントマキアの終結より二週間の時が流れていた。

 多くの人的、物的被害を受けた聖域であったが、当初懸念されていた一般人への混乱も少なく、この頃には――少なくとも居住区に住まう人々は普段通りの日常を取り戻しつつあった。

 

 聖闘士の活躍も要因の一つではあったが、人々にとっては教皇の存在によるものが大きい。

 

 教皇――サガは、襲撃の中で家族を失った者や傷を負った者、恐怖に怯える人々の元へ足しげく通い、その不安を取り除くべく献身的に動いていた。

 昼夜を問わず、である。

 己の職務を疎かにしていた訳ではない。己の成すべき事を成したうえで、であった。

 死者を蘇らせたわけではない。傷を癒せたわけではない。完全に恐怖を取り除けたわけではない。

 それでも、サガの行為は、人々に手を差し伸べる教皇という存在は、本来手の届かない場所にいる存在が自分のために何かを成そうとしてくれている事実が、救いを求める人々の心に安らぎを与えていたのだ。

 

「教皇様!」

 

「あ、教皇様だ」

 

「教皇様」

 

「おお、教皇様!」

 

 今も、こうして道を歩いているだけで老若男女問わず市中の者が教皇に声をかけてくる。彼らのその表情は皆明るく、視線には敬意があった。親しみに満ちていた。

 そこには畏怖といった恐れに繋がる色は一切混じってはいなかった。

 サガの立ち寄る場所にはどこでも人の輪が出来ていた。

 

「きょうこうさま! きのうはおかあさんの――」

 

「それは良かった。それならば――」

 

 そんなサガの周りには、市民に混じって本来いるべきはずの護衛や付き人の姿はない。

 ただ一人、サガの生み出した人の輪から離れた場所で、まるで眩しい物を見る様に目を細めた包帯だらけの少年の姿があるだけであった。

 

(……人々に愛と安らぎを与え、その徳は全ての人に崇め慕われている、か)

 

 海斗である。

 話しかけてくる人々一人一人に穏やかに接している教皇の背中を眺めながら、アルデバランから聞かされていた教皇の人柄を思い出していた。

 アルデバランが向けた教皇への評価は高過ぎた。それはいくらなんでも過大評価だろうと、どんな聖人だと話半分に聞いていた。聞いていたのだが。

 実際、エクレウスの聖衣を与えられた時の印象が強過ぎ、正直に言ってあまり良い印象を持ってはいなかった。敵視していた、とも言える。

 ムウの言葉もある。

 しかし――

 

(……認識を改める必要があるか? ムウの言葉も気にはなるが、別人だとしても、それで問題が起きているわけでもないし、な。むしろ、以前の教皇を知らない俺が、良いの悪いのと比較できるか!)

 

 生い立ちやら立場やら何やらによって、自分が年齢の割に捻くれた物の見方をしているという自覚はあったが、少なくともここ数日の間、間近で見てきた教皇の人物像はアルデバランの評価そのままであった。

 

(だいたい、探られて痛い腹を持っているのは俺の方な気がする)

 

 そんな取りとめのない思考にふけっていたせいか、気付けば教皇が仮面越しにその視線を自分へと向けていた。

 

「ふむ、どうした海斗? 傷がまだ痛むのか?」

 

 さすがに、本人を前に「貴方を疑っていました」と言える程図太い神経はしていない。

 

「あ、いえ。少し考え事を……」

 

 そう言う海斗はありふれた白地のシャツと紺のズボンといった簡素な服装であったが、身体中の至る所に包帯を巻いている。

 見るからに痛々しい姿であり、普通の感性を持つ者ならばまず心配をする。そのぐらい酷いレベルであった。

 

「それに、見た目ほど酷い怪我をしているわけではありませんので」

 

 これは咄嗟に出た嘘ではない。

 実際、海斗としてはこの姿は大袈裟すぎると思っている。ならば何故、となるのだが。

 

「そうか。あまり無理をする必要はないぞ? 無理を言って供をさせたのはこちらだ。お前に何かあれば私は皆に叱られてしまうのでな」

 

「は、はぁ……」

 

 

 

 ポルピュリオンを倒した後、海斗は度重なる激しい小宇宙の消耗によって意識を失っていた。

 崩壊する異空間に取り残され、そのまま次元の彼方へと投げ出されつつあった海斗を救ったのはシャカとムウであった。

 教皇の命により海斗の捜索に来たシャカは、先に脱出していたシュラやセラフィナと合流し、地下へと海斗の小宇宙を辿る。その道中で、それが忽然と途絶えている事に気が付いた。

 その時のセラフィナの様子についてはシュラは黙秘を貫いていたが、海斗の行方を探るシャカに遥か遠方からテレパスを送る者があった。それがムウである。

 ジャミールから海斗やセラフィナの小宇宙を探り続けていたムウが、海斗の開いた異界への座標をシャカに伝えた事で、海斗はシャカの手によって無事に異次元空間からの脱出を果たした。

 その後、意識を取り戻した海斗を待っていたのはセラフィナによる説教であった。

 また大怪我をしている、無茶をするな、心配させるな、命を大切にしろ等々。

 海斗自身は蓄積されたダメージや疲労、ようやく終わった、という安堵から、目覚めて早々に気を失っておりその話しの殆どを聞いてはいなかったのだが。

 その剣幕は凄まじいものがあり、海斗がジェミニの黄金聖衣を纏っている事について問おうとしたシュラが一歩引いたのを感じた、とはシャカの弁である。

 

 そして、聖域に戻れば――負傷したシュラと半裸の少女、意識を失くした少女に、ジェミニの黄金聖衣を身に纏った、誰がどう見ても重傷な海斗の姿を見たアルデバランが「これは一体どういう事だ!」と、遂に――爆発した。

 色々と溜まっていたストレスが心の防波堤を突き破り決壊してしまったのだろう。

 シャカとシュラを除く黄金聖闘士達は、皆心当たりがあるためか早々にその場を立ち去ったらしい。後に海斗はミロからそう聞かされた。

 

 そんな心温まるやり取りの果て、処々諸々あってが……今の海斗のこの過剰ともいえる包帯姿である。

 

 道行く人々からの、ちらちらとこちらを窺う視線が微妙に痛い。

 大人しく寝とけ、と無言で責め立てられている様な、自分は悪くはないのに謝らなければならない様な、そんな居心地の悪さに海斗は泣きたくなった。

 

(心配してくれるのはありがたい。本当にありがたいんだが……)

 

 心配をかけた、無茶をしたという自覚があるので文句も言えない。アルデバランとセラフィナ(あの鬼二人)を前に反論する勇気が無かっただけだが。

 

 アルデバランからリハビリを兼ねた軽い運動だと勧められれば、何故かこうして教皇の付き人の様な事をしている。

 女神アテナの代行者とも言える教皇と、片や一介の聖闘士に過ぎない自分。接点などロクに無かったはずが。

 ハハハッ、と楽しそうに笑いながら先へと進む教皇の後を、海斗は誰にも悟られぬ様に小さく溜息を吐き、その後を追って行く。

 

(……どうしてこうなった?)

 

 見上げた空は、海斗の胸中に反し、雲一つない澄み渡った青空であった。

 

 

 

 

 

 聖域十二宮、白羊宮内の広間。

 散策を終えた教皇の元を離れ、暇を持て余していた海斗の姿がそこにあった。

 

「いや~。ムウ様のところでさ、色々と壊れた聖衣を見てきたけど……これは……スゴイね。ヒドイ意味で!」

 

 白羊宮内にあって比較的日当たりの良いその場所で、パンドラボックスを開きオブジェ形態のエクレウスの聖衣を取り出して見せた海斗に向けての貴鬼の第一声である。

 

「……だな。あらためて見ると……。うん。これは……。セラフィナ、俺はムウに殺されるかも知れん」

 

 シャカによって回収されていた聖衣は、ハッキリ言って、これでどうやってオブジェ形態を維持できているのかが不思議に思える程の破損状況である。

 なまじマスクのパーツに目立った傷が無い分、それ以外の破損個所が余計に目立っている。

 

「そんな事は……ないと――」

 

「思うか?」

 

「あ、あはははは……」

 

 海斗曰く“過剰過ぎる”包帯を取り変えながら、どこか困った様子で、否定したくても否定しきれない、そんな苦笑を浮かべたセラフィナが答える。

 ギガントマキアの事後処理が終わるまで、セラフィナと貴鬼の二人は聖域に留まる事を命じられていた。ムウの縁者である事もあり、主の不在により無人と化していた白羊宮にあと数日は留まる事になっている。

 

「……精神的にな。こうネチネチと、胃が、キリキリする様な、そんな感じだ。延々と責め立てられそうな気がする」

 

 セラフィナと貴鬼は顔を見合し、海斗の言葉で薄暗い闇の中、無数の破損した聖衣に囲まれて、ただ一人、何やらブツブツと呟きながらカツンカツンと槌を振るうムウの姿を思い浮かべていた。

 

「……ああ……」

 

「……かもねー……。昔ムウ様よく夜中に呟いていたもん。終わらない、終わらない、って」

 

「怖いな、ソレ。……いや、冗談で言ったんだが。お前ら否定しろよ! え、マジなの!?」

 

 さっと目を逸らす二人の様子から海斗は“マジ”であると判断。

 

「ヤバいぞ。こうなりゃ、少しでも被害を散らす方向に動かないと……」

 

 海斗はムウの怒りの矛先をかわすため、この際黄金聖衣を破損させていたシュラも一緒に連れて行こうと、生贄の羊、もとい山羊をどうやって捕まえるかと思案する。

 戦場でなければ、気が抜けてしまえば、この男――最低であった。

 

「ああ、そうだ。ねえお姉ちゃん、あのお姉ちゃんは元気?」

 

「え? ああ、聖良さんね。うん、まだ歩き回ったりは出来ないみたいだけれど、話したり、身体を起こすぐらいは」

 

 聖良とは、エキドナと呼ばれた少女の事である。

 いつまでも名無しでは、と言う事で、セラフィナが聞いたらしい名前を海斗がそれっぽく日本人風に修正して名付けたのだ。

 

 肉体的なダメージはともかく、想定していた様に精神的なダメージが酷かったらしく、彼女は自分の名だけでは無く、自分に関する過去の記憶を全て失っていた。

 現代医療での治療が疑問視された事もあって、今はアイオリアの勧めもあり獅子宮にて療養をしている。

 

「そう、か。まあ、会話ができる状態である事を考えれば、それほど深刻になる必要はない、と思いたいが……」

 

 今、獅子宮にはアイオリアの従者であるガランという青年とリトスという少女がいるため、しばらくは聖良の身の安全や世話に関してさほど気にする必要がない事は海斗にとって幸いであった。

 

「気になります?」

 

「……多少は、な」

 

 

 

「……あの……」

 

 そんな何とも微妙な空気を纏った三人に、おずおずと声をかける者がいた。

 

「ん? ああ、ユーリか。どうした?」

 

 海斗が振り返ると、そこには銀のマスクによって素顔を隠した銀色の髪の少女、六分儀座(セクスタンス)の青銅聖闘士ユーリが立っていた。

 助祭を務める目の前の彼女は白い貫頭衣に緋色の外套という、聖域の女性の普段着とも言える服装をしている。

 

「普通だよな。……やっぱりシャイナや魔鈴のセンスがおかしいのか?」

 

 ちらとセラフィナを見てユーリを見て。そうして呟かれた海斗の声は幸いにして誰にも気に留められる事はなかった。

 ちなみにセラフィナもユーリと同じ服装だがマスクはしていない。

 これは彼女が聖闘士として秘匿された存在である事も理由であったが、今のセラフィナはジャミールでの戦いに巻き込まれた才能ある少女であり、それを居合わせた海斗が保護した、という設定で通している。

 また、立場的にもムウはともかくとしてその場に居合わせたシュラが保護役を担うべきだという海斗の言葉を、シュラは「フッ」と鼻で笑って一蹴し面倒事の全てを海斗に押し付け返した結果でもあった。

 

 教皇の間、居並ぶ黄金聖闘士達に見守られ、おそらくは史上最も情けない理由で聖闘士同士の戦いが勃発した。

 

 一体どこから嗅ぎつけたのか、やんややんやと囃し立てるデスマスク、本を片手に観戦モードに入るカミュ、興味深そうに眺めるだけで止めようとしないミロ、口では止めろと言いつつも血が騒ぐのかうずうずとしているアイオリア、我関せずのシャカ。

 アフロディーテは「美しくない、馬鹿馬鹿しい」と溜息を吐きその場から離れたが、ちらちらと二人の戦いを気にしていた事をシャカだけは気付いていた。

 結局、あまりの騒ぎ――おふざけとはいえ黄金聖闘士クラスの戦いである――に、「何をやっておるか! この馬鹿者共が!!」と怒鳴り込んできたアルデバランにより戦いは治められたが、結果として海斗の黒星で終戦。

 この戦いで海斗の力を目の当たりにしたアイオリア達は、先に教皇が語った“ジェミニの海斗”を好意的に受け止める事となる。

 それがシュラの狙いであったのか、この騒ぎを黙認していた教皇の狙いであったのかは、当人たち以外は知る由もなかった。

 海斗を残し、皆がその場から姿を消していたのだから。

 

 

 

「あ、あの、海斗様? カミュ様とニコル様が図書館でお待ちですが……」

 

 まさかあの恰好が自発的なものだと、などとブツブツと呟き始めた海斗に遠慮がちに声をかけるユーリ。

 ニコルとは教皇を補佐する助祭長を務める若き白銀聖闘士である。祭壇星座(アルター)のニコル。ブルネットの髪の穏やかな眼差しをした、海斗と同年代の知性的な若者であった。

 

「ああ、そう言えば……そうだった。忘れてたな、助かったユーリ。カミュはともかく、ニコルはそういう所がうるさいからな」

 

 二人の用とは海斗の持つ千年前の記憶にある。

 聖域の史書や文献を統括するカミュやニコルにとって、海斗の記憶とは――例えその多くが薄れ、思い起こす事が出来なくなっていても――途方もない価値があったのだ。

 

 事の発端は、海斗が聖域に帰還して数日が過ぎた時の事である。

 

 一通りの治療を終えた海斗は、教皇や他の黄金聖闘士達が集められた中で、これまでの行動とそれに至る経緯の説明を求められ、所々――自分の魂が海将軍に関わる事等をぼかしながらも、答えて行く。

 なぜジェミニの黄金聖衣が海斗の元へ向かったのか。どうしてジェミニの奥義を放てたのか。

 二人の海将軍と冥王軍と名乗ったタキシードの男との接触についても。

 黄金聖衣については、戦いの中、死の淵にあって極限にまで高められた小宇宙が起こした奇跡、それで納得された。

 魂の記憶や、聖衣に過去の聖闘士の記憶が蓄積される事は聖域では実証されている事実であり、海斗の説明に異を唱える者はいなかった。

 海将軍との接触については、この時代に海闘士が覚醒していた事にこそ僅かに驚愕の声が上がったものの、聖闘士と海闘士共通の敵であるギガスの本拠地での遭遇であった事で、今回の接触には何ら意図するものはない偶然であると認められた。

 一時的とはいえ、協力体勢を取った事についても同様であった。

 

 現代においては聖闘士と海闘士はまだ敵対してはおらず、彼らも地上に対して特に何か動きを見せたわけでもない。今はまだ、来るべき冥王との聖戦を前に避けられるべき戦いは避けるべきである、というのが教皇の――サガの結論であった。無論、警戒はすると含めたが。

 海闘士を後回しにするとも取れるこの決定には、自らを冥王軍であると名乗った男の存在が大きい。

 その男はギガス共々海斗によって倒されたとシュラが証言したが、サガが問題としたのはそこではなく、あと数年は封じられているはずの冥王軍が、既に動き出している可能性にあった。

 アテナの、神の施した封印とはいえ、それは未来永劫に続く様な完璧なものではない。

 そうであるのならば、五老峰の老師が二百数十年もの長きにわたり大滝の前に坐したまま冥王軍の封印を監視する必要などないのだから。

 自分の件、カノンの件、聖域の件、冥王軍に海闘士と問題が山積みである。

 次々に起こる想定外の出来事にサガは人知れず溜息を吐いていた。

 

『老師に連絡を取らねばらんな。皆、状況が分るまではしばし聖域に留まって貰う』

 

 結局は、新たに生じた大き過ぎる問題への対応こそが優先される事となり、海斗への細々な追求といったものは行われる事は無かった。

 

 その場では。

 

『ん? て事は、だ。アルデバランの弟子、お前さんの魂の記憶……ああ面倒だな、名前で呼ぶぜ。海斗よ、お前は当時の事を“知って”いるんだな? ならば、当時の他の聖闘士の事も知っているんだろう?どんな戦い方をしていたか、どんな技を使っていたか、等な。その中には……今は失われた秘拳なんかもあるんじゃないのか? 例えば当時の蟹座の黄金聖闘士が用いていたであろう積尸気の奥義、とかな』

 

 このデスマスクの言葉が、その場にいた皆の関心を集めたのは言うまでもない。特に、カミュの熱の入れようは尋常ではなかった。言い出したデスマスクが思わず引いてしまう程に。

 

 

 

 これからの事を思い、やれやれと海斗が首に手を当てて動かすとコキコキと音が鳴る。

 椅子に座って質問に答えるだけ。それだけなのだが、ハッキリ言って海斗にとっては苦行であった。

 一時間程度であればまだいい。しかし、本の虫、知識の虫であるあの二人は、誰かが止めねば延々と続けるのだ。終わらないのだ。

 クールであれと言っているカミュが一番熱く話に喰いついてくるのは心の底から勘弁してもらいたい。寒いのだ、冷えるのだ。

 カミュがアルデバランのように弟子を取っていると聞いていた海斗は、一度その事をネタにして「弟子の事を放っておいて良いのか?」と、弟子への修行を持ち出して、この苦行を打ち切ろうとしてみせたが「水晶(クリスタル)聖闘士に任せているから大丈夫だ」とシレっと答えられ、それで終わりであった。

 カミュの弟子は三人おり、その一人は既に聖衣を与えられた正規の聖闘士であり、基本的な指導は十分に任せられるらしい。

 

 そんな万策尽きた海斗の頼みの綱は、今は蠍座の黄金聖闘士ミロである。

 自他共に認めるカミュの親友である彼は、連日憔悴した様子で解放される海斗をさすがに不憫に思ったのか、それともカミュの“悪癖”の被害者同士としての奇妙な連帯感が芽生えたのか。

 ここ数回は切りの良い所を見計らい、何のかんのと理由を付けては海斗を救出してくれていた。その度に図書館に舌打ちの音が聞こえるのはどうかと思わなくもない。

 

「はぁ~~。まあ、ここでグダグダしていても仕方がないか」

 

 流れに任せる、と言えば聞こえは良いが、なるようになれと開き直っている最近の海斗は、これまでの張り詰めていた糸がぷっつりと切れたのか……駄目人間街道を順調に邁進していた。

 ルーズになったと言うか、ハッキリ言えばだらしがない。根が真面目なニコルからすれば、今の気の抜けた海斗は次期黄金聖闘士にあるまじき、との事。顔を合わせれば必ず一言二言は小言が飛んで来る。

 

「……海斗さんってそういう所だらしないですからね~」

 

「……なあ貴鬼よ。気のせいか、最近セラフィナの俺に対しての当たりがキツくないか? 最初に会った頃に感じられた敬意というか尊敬的なモノが……」

 

「兄ちゃんが悪いんじゃないの? 多分。うん、絶対」

 

 絶対は多分とは言わんだろ、とぼやきながら「で、あの二人は怒っていたか?」と海斗は藁にも縋る思いでユーリに問い掛ける。

 面倒臭いのだ。ただひたすらに。

 

「はい!」

 

 ユーリはハッキリと言い切った。一縷の望みが打ち砕かれた瞬間であった。縋った藁は腐っていたのだ。

 仮面越しではあったが、きっといい笑顔をしているのだろうと察し、海斗はげんなりとした。

 本人は隠しているつもりなのであろうが、ユーリがニコルにどのような感情を持っているのかは、そういう事に疎い海斗にも分る。あえて言うつもりもないが。

 おそらくは「ニコル様に迷惑をかけるんじゃねえよこのダメ人間が」ぐらいは思われている様な気がする。

 張り切って歩き始めるユーリとは対照的に、肩を落としてその後に続く海斗。

 その姿を笑って見送るセラフィナと貴鬼。

 

(まあ、平和なのは……良い事だ)

 

 まるで枯れた爺さんだ、と。若者の抱く感慨ではないなこれは、と。苦笑しながら海斗は空を見上げた。

 今日も、雲一つない澄み渡った青空。

 

「手のひらを太陽に、ってか」

 

 日差しを遮る為に翳した掌を見ながら、いつか聞いた事のある歌を思い出す。

 

「何の因果か……。死んだはずの人間が、さ」

 

 それは、生命を謳った歌だった。

 

「海斗様! 急ぎますよ!」

 

「はいはい、そんなに急がんでも。逃げはしないだろ、あの二人は。むしろ追って来るわ」

 

 急かすユーリ手を振りつつ、きっとニコルは尻に敷かれるぞ、と。愉快な未来図を思い浮かべて苦笑する。

 

ケ・セラ・セラ(なるようになる)ってな。せっかく拾った二度目の命だ。思うがままに――好きにするさ」

 

 日差しの中、海斗はゆっくりと歩き出した。

 

 

 

 

 

 CHAPTER 1 ~GIGANTOMACHIA~ The End

 

 To Be Continued……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 無人となったワルハラ宮のテラスに、一陣の風が流れた。

 ビュウと音を立て、雪と氷を抱いた白い風が。

 テーブルに置かれたグラスが白く染まり、傾き、テーブルから離れ――砕けた。

 飛散した破片が、じわりと広がる紅い液体と共に床に広がる。

 

 広がる紅が鮮やかさを失い赤となり、赤が艶を失い、深き海の底を思わせる――黒となる。

 いつしかテラスは黒い水を湛えた湖と化し――そこに、一人の男の姿を浮かび上がらせていた。

 

 黒い襤褸に身を包んだ男であった。青年の様でもあり、老人の様でもあった。

 

『地上を覆い尽くす厄災、それは神の意志によるものだけに非ず。しかし、この流れも我が謀を満たす支流にはなろう』

 

 男の一挙一動に応じて黒き湖面に波紋が広がる。

 

『十四年前、古き時の神の気紛れによってこの世界に落とされた神力(デュナミス)の一滴』

 

 その波紋が、新たに生じた波紋によって形を崩され、それがまた波紋にぶつかり刻一刻と姿を変える。

 

『その雫によって生じた波紋がアベルの目覚めを促し、アベルの目覚めが冥府に施された枷を緩ませ、そこに眠る神々を地上へ喚んだ。神の力はそれに魅せられた人間の闇を増幅し、世界に争いを撒き散らす』

 

 湖面が爆ぜた。

 黒い水が飛沫となって男の周囲を覆い、瞬く間にテラスが黒い霧に包まれる。

 

『平穏など戦いの前の休息にしか過ぎぬ。それで良い、人も、神も、戦わねばならぬ。全ては試練。ヒトよ、神を屠れ。神よ、ヒトを跪かせよ。小宇宙を高め、ぶつけ合え。その果てにこそ――この黒海(ポントス)の願う世界がある』

 

 ――ポントス。大地母神ガイアが生んだ最初の神。(ウラノス)暗黒(エレボス)(エロス)と並び、海を司る四大神の一柱。最古の神。

 

『幾千万の時を経て、終に訪れるやもしれぬその時を。水は既に流れたのだ。ならば、我は、ただ、静かに、眠りにつき、待とう。待つ事、それだけだ。それだけで良い』

 

 黒い霧が晴れたテラスには、椅子と、テーブルと、砕けたグラスだけがあった。

 雪の舞い散る床には、グラスから零れ落ちたワインがその紅い色を広げていた。



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間章1話 少年と少女の巻

 春が過ぎ、夏が終わり、そして秋が訪れる。

 移ろい行く季節に変わるものと変わらぬものがある中、聖域では大きな変化が起こっていた。

 

 教皇が自らをアーレス――ゼウスとヘラの間に生まれた軍神の名を名乗り、聖域の内務を取り仕切る者達の人事を一新したのである。

 女神アテナとは対極の位置にある戦神の名を教皇自らが名乗る事は、聖闘士の存在をアテナに代わり“戦う者”であるとより意識させる為であり、戦士たちへの“恐怖”と“敗走”、“戦死”と“混乱”の全てを教皇自らが背負う、との意志の表れであると。

 旧来から続く人事の一新は、半年前に起こったギガス達による聖域への襲撃事件を教訓として、また迫りつつある聖戦への備えとして、何者にも脅かされぬ強固な聖域を構築するためのものであると、関係者には説明されていた。

 地上の平和を護るアテナの聖闘士。その姿勢もあって、どちらかと言えば守勢よりであった聖域の方針から一転しての攻勢に重きを置いた、アテナの意志とは思えぬこの流れに異を唱える者は少なくはなかったが、ギガントマキアの脅威が残した目に見えぬ傷跡は深く、これまでの教皇への絶対的な信頼感も相まって、結果としてより多くの賛同を持って受け入れられる事となった。

 この流れに異を唱えた者の中には人知れず聖域から姿を消した者もいれば、口を閉ざした者もいた。聖域から距離を置く者もいれば、教皇に対して反意を抱く者も出始める。

 

 教皇アーレスの下、聖域は新たな歴史を、道を歩み始めようとしていた。その内に、澱みを抱えたままに。

 

 

 

 

 

 聖闘士星矢~ANOTHER DIMENSION海龍戦記~

 

 

 

 

 

 聖域十二宮。

 その第十一番目の宮である宝瓶宮。その離れに、現在に至るまで代々の水瓶座の黄金聖闘士に受け継がれている書庫が存在している。

 そこに収められている蔵書の多くは、代々の水瓶座の私的な、言わば趣味によって集められた物が大半を占めていた。

 従って、そこに訪れる者があるとするのならば、それは現代の書庫の主であるカミュか、彼に用のある者か、はたまた彼の同好の士であるか、である。

 

「人として降臨したアテナの世話をするのは同じである女性でなければ、とかなんとか。簡単に言えばアテナの護衛兼側仕え。専属の侍女って事だ」

 

「ふむ。役目は理解できる。が、わざわざ名を付けて区別する必要があるとも思えないのだが?」

 

聖闘少女(セインティア)な。俺に言うなよ」

 

 例外としては、こうしてカミュによって呼び出された海斗の様な者が挙げられる。

 カンテラのガラスの中で小さく揺れる炎に照らされた薄暗い室内には、隅にある机に腰掛けながら手にした本をパラパラと捲っている海斗と、脚立に乗り蔵書の整理をしているカミュの姿があった。

 海斗は紺のジャケットのジーンズといったラフな格好をしており、カミュは黒のスーツに身を包んでいる。

 当然ながら、二人のこの姿は聖域の、少なくとも十二宮にあって相応しい姿では無い。これは、カミュが“外”から聖域に戻って来たばかりであった事と、これから海斗が“外”へと出る為である。

 

「昔にも、確かにそういう立場の女性聖闘士は居たけどな。今の女性聖闘士みたいに、素顔を隠すマスクは必ずしも着けてはいなかったよ。確か、アレは元を辿れば双魚宮周辺の香気対策だったはずだしな」

 

 十二宮最後の宮である双魚宮。その周辺には魔宮薔薇(デモンローズ)と呼ばれる薔薇が敷き詰められている。花粉や棘に五感を麻痺させ、最悪死に至らしめる強力な毒を秘めた薔薇である。

 

「ま、それはともかく。助祭連中の言い分は、女神とはいえ血肉を持った一人の女性、子供だからと言ってその身の回りの世話を男がするのはどうか、ってさ。そのセインティアを見出してアテナの御側に、って声が高まって来ているらしい」

 

「十年近く経ってから論ずる事でもあるまい」

 

「この時代は女性聖闘士やその候補生が多いからな。そっちに回せる余裕があると思っているんだろう? 根っこにあるのは、連中のイオニア爺さんへの当て付けだろうが」

 

「老か。確かにアテナは我々聖闘士にとって何者にも代え難い尊ぶべき存在ではあるが、あの御仁は少々それが過ぎるきらいがあるからな。先日は修練に熱が入り過ぎ、命を落とし掛けた者がいるとも聞いた」

 

「珍しい事じゃないはずなんだが。過剰にな、やり過ぎだって事で謹慎扱いになった。これで政務において旧来の、古参の人間は居なくなった。でも、今朝方に戻ったばかりなのによく知っていたな? 表沙汰にはしないように、ってな流れになっていたはずなんだが。これが意図的なモノだとすれば……ああ、それでニコルの機嫌が悪かったのか」

 

「アレの機嫌が悪いのはそれだけではなかろうに」

 

「さてね。それで、本題は? まさか世間話をするためだけに呼んだわけじゃないんだろう?」

 

 そう言って、海斗は腰掛けていた机から立ち上がる。

 手にした本を閉じると、カミュへと向けて放り投げた。

 丁寧に扱え、と言ってカミュがそれを受け取り、そのまま書庫へと収めると脚立を下りて海斗へと向かい合う。

 

「……ここ最近の聖域の変化をお前はどう思う?」

 

「それを俺に聞くのか?」

 

「教皇のなされている事に異を唱えるつもりは無い。あの方がアテナの、聖域の、この地上の平和を常々考えておられる事は十二分に承知している。しかし、どうにも違和感がある。上手く表現は出来ないが、焦りの様な、そんな何かを感じるのだ」

 

 淡々と紡がれる言葉に対し、カミュの目は鋭い。

 その問い掛けに適当に答えようとしていた海斗であったが、その雰囲気に姿勢を正す。

 

「政治の事は分らない、それを前提にしてだぞ? 俺は今の流れを否定はしない。戦力の底上げは必要だ。一から十まで黄金聖闘士が対応すりゃあ良いってもんでもない。同時多発的に問題が起きたら、それで詰みだ。ギガスの一件にしたって、あれはある意味運が良かった。ここに黄金聖闘士の半数が揃っていたんだからな。冥闘士の動きもハッキリしない現状では、護るにしても、攻めるにしても――力は必要だ」

 

「……そうか。ならばこそ、一刻も早くお探しせねばならんな」

 

 目を伏してカミュが呟く。その言葉には力が込められていた。

 

「十一年前、この地から勾引され姿を消した――」

 

 それは、自らをアーレスと名乗った教皇より、ごく一部の人間にのみ告げられた事実。

 

「――女神アテナを」

 

 この聖域に“アテナは存在していなかった”という真実であった。

 

 

 

 

 

 間章1話

 

 

 

 

 

 沈みゆく夕日が東京の街を赤く染める。

 日に日に早くなる日没が、この国の人々に冬の到来が近付いている事を教えている。

 乱立するビルの隙間を埋め尽す様に流れる人の波は、夜の闇が迫ろうともその勢いを衰えさせる事は無い。

 むしろ、闇こそが街から放たれる光をより鮮明なものとしており、空へ空へと押し返されていた。

 そして、闇を寄せられた空は、夜空に浮かぶべき星々の輝きは、眩し過ぎる地上の灯りと人の営みが生み出した科学の霧によるカーテン(大気汚染)によって掻き消され、その輝きの残滓を僅かに地上に落とすのみであった。

 

 そんな僅かな輝きが、ビルとビルの隙間をぬって、光の中にあって闇に閉ざされた場所――路地裏の一角を照らしていた。

 その光に照らされて浮かび上がる人影がある。それは少年の影であった。

 

「あの時までは何とも思わなかった光景。今では、それがこうもおかしいと感じる。あっちの生活に染まり切っちまったんだな」

 

 星の見えない夜空を眺めながら少年が呟いた。

 染めているのであろう。星の輝きに照らされた所々黒色の見える紫がかった銀色の髪は後ろへと伸ばされ、羽織られたカーディガンの内から覗く大きく胸元を開いたシャツや、黒いズボン、身に着けられた幾つものシルバーアクセサリーの存在が、少年にどこか近寄りがたい、有体に言えば悪ガキ的な印象を与えている。

 

「で、お前らさ~~、随分と手慣れた様子だったよな? いっつもやってんのか、こんな事?」

 

 これ見よがしに、やれやれと肩を竦める少年の足下から呻き声を上げる者たちがいた。

 皆、銀色の髪の少年よりも幾つか年上に見える。黒色の学生服を思い思いに着崩した十代後半の少年たちである。

 

「う、うう……な、何なんだよテメエは……」

 

「……こっちは七人だったんだぞッ!? つ、強過ぎる……」

 

「ば、バケモノかよ……ッ」

 

 学生服の少年たちにとって、切欠は些細な、いつも通りの事であった。

 金を持ってそうな相手を見つくろい、肩がぶつかったと難癖を付け、街角の人目のつかぬ場所に連れて行き恐喝する。

 抵抗すれば、いや、抵抗しなくても暴力を振るい、許しを請う姿を見て悦に浸る。相手が女性であれば、彼らが主催する“パーティ”へと連れて行き楽しむのだ。

 これまでもそうしてきた。だから、彼らはこれからもそうするつもりであった。

 この時までは。

 

「ま、お前らから見たらそうなんだろうな。正直な、やり過ぎたかとも思ったが、どーにも、そーゆーコトは気にしなくてもいいみたいだな。知ってるか? 因果応報ってな」

 

 涼やかな視線のままに、銀髪の少年がそう言って一歩前へと進む。すると、それを見た学生服の少年たちが必死の形相を浮かべて後ずさる。

 その中でただ一人、体格のいい深く剃り込みを入れたリーゼントの少年を除いて。

 

「で、そこのこっちに尻を向けてるトサカちゃん? ポケットから出そうとしている、その光ってるモンはそのまま仕舞っときな。喧嘩じゃ済まなくなるぜ?」

 

「う、うるせエーんだヨ!! こ、これ以上ヨソモンにコケにされたままで、この秋田集英高の藻部がイモ引けるわけねーだろーがッ!!」

 

 倒れていた少年達のリーダ格であろう藻部と名乗った少年が立ち上がる。

 その手には刃渡り十センチ程の折り畳たたみ式のナイフが握られていた。

 

「やってやる! やってやるよ、舐めやがって……ッ!!」

 

 ギラリと冷たい輝きを放つナイフに反して、それを手にした少年は顔色を紅潮させ、荒く吐かれる吐息からもかなりの興奮上状態である事が窺える。

 

「ちょ、も、藻部さん! や、ヤバいよ……」

 

「そ、そうだぜ! こんなところ、もしもサツに見られたら……」

 

 銀色の髪の少年は知らない事であったが、“秋田集英高校の藻部”と言えば、この界隈では知らぬ者がいないワルとされ、同年代の少年少女たちから恐れられている。

 気にくわない者は暴力で黙らせ、自分のやりたい事をやりたいように好き勝手やってきた。そんな少年であったからこそ、自分を圧倒し、今目の前で取り出したナイフを見せてもなお怯まぬ、いや、憐れみにも似た視線を向ける相手の存在が認められず、許せず。

 

「うるせぇーーんだよ! この役立たず共がッ!!」

 

 恐怖と屈辱、羞恥と怒りを全て攻撃する意思へと転化させた。己のちっぽけな矜持を護る為に。

 片手で持っていたナイフを両手で握りしめ、相撲で言うところのぶちかましの様に突進した。

 相手が怪我をする、下手をすれば死ぬかもしれない。そんな考慮は一切無い。

 

「野郎、ぶっ殺してやるぜぇーーッ!!」

 

「ヒッ!? やべぇよ藻部さんキレちまってる!!」

 

「止めろ藻部さん! オレらは年少なんかにゃ行きたくねーんだ!! おい銀髪! 早く逃げろッ!!」

 

 路地裏に叫びが響く。

 ナイフを握り締めた藻部の巨体が銀髪の少年と重なり、この後に訪れる光景に、未来を想像し、学生服の少年たちが絶望した。

 声の無い路地裏に静寂が訪れる。

 それは一分か、十分か、それとも数秒であったのか。

 

 力を失くした様に、ずるりと、藻部の身体が地に倒れる。

 

「……阿呆が」

 

 それを見下す銀髪の少年。その右手、その指先――人差し指と中指に間には藻部が握っていたはずのナイフが挟まれていた。

 一体いつ、どうやって?

 何が起きたのか理解出来ぬままに呆然とする学生服の少年たち。

 その刃が、パキンと音を立てて砕ける。

 砕け散った破片はキラキラと輝きながら、口から泡を吹き、白目をむいている藻部の身体に降り注がれていた。

 

「オイ、お前ら。とっととコイツを――」

 

「……う……」

 

「ば、化物だぁああーーッ!!」

 

 蜘蛛の子を散らすと言う言葉がある。

 銀髪の少年が言葉を終えるよりも早く、学生服の少年たちは――逃げ出していた。

 狭い路地を押し退け合い、我先にと進む彼らには周りなど見えてはいない。あるのはただ恐怖のみ。

 

「――連れて行ってやれ、って。オイオイ、薄情な奴ら」

 

 そうして、薄暗い路地裏に残されたのは銀髪の少年と倒れた藻部のみとなった。

 

「キミ人望無いのな」

 

 空を流れる雲によって星の輝きが覆われる。

 空を見上げ、そこで伸びてきた前髪に染め残しを見付けながら、ふと、この街で、こうして星の見えにくい夜空を眺める奴がどれほどいるのかと、少年は思う。

 

「いや、アイツなら見ているか。星座やそれにまつわる話が好きだったからな」

 

 少年が思い浮かべたのは一人の少女の面影であった。

 短い期間ではあったが、共に過ごした妹の様な存在を。

 

 

 

 そんな風に少年が懐かしい過去へ想いを馳せていた為であったのか。

 その時、彼にしてみれば失態とも言えるミスを犯していた事に気付けなかった。

 

「あ、あの!」

 

 セーラー服を着た少女が接近していた事を。

 

「ッ!?」

 

 自分に向けて掛けられた声で、少年はそれに気付く。

 気配に気付けなかったという驚愕と、四年に渡る過酷な訓練により培われた技術が、無意識の内に少年の在り方を攻性なものへと変化させ――

 

(いかん! 待て!! 違う、彼女は――)

 

 初めに藻部たちに因縁を付けられたのはこの少年ではなく、二人組の少女であった。

 嫌がる彼女らに難癖を付けていたところにたまたま少年が遭遇し、藻部たちの標的を少女たちから自分へと向けさせたのだ。

 

(さっきの子らの方割れか! オレは早く家に帰れと言ったぞ!!)

 

 振り向いた少年が少女の存在を認識したその瞬間、既に握られた拳は打ち出される寸前であり――

 

「~~ッッ!?」

 

 少年は全身全霊、全力で肉体の動きを制止するも、拳は放たれ――

 

「ありがとうございました!」

 

 九十度近いお辞儀を見せた少女の頭上を素通りした。

 

「警察の人を呼ぼうって探していても見つからないし周りの人に声をかけても誰も聞いてくれないしどうしようと思っていいたらさっきの人達が路地裏から走って行くのを見てもしかしたらって――って、あの、大丈夫ですか?」

 

 肩の高さで切り揃えられた黒髪、くりっとした大きな瞳の、どこか幼さを残したそばかすのある少女であった。

 彼女に上目遣いで見つめられた少年は、誰がどうみてもおかしいと思える程に息を乱し、額に汗を浮かべている。

 

「は、ははっ、ハハハハ。いや、何でもない、何でもない。大丈夫ダイジョーブ!」

 

 それは少年をして近年稀にみる全力を発揮した結果であった。

 仮に、あのまま突き出された拳が少女に当たっていても軽く小突く程度の衝撃で済んだであろうとは分っていたが、心配し、お礼を言いに来た相手に対してするべき行動では決してない。

 

「そ、そんな事より。君は大丈夫か? 怪我は無いか? 痛い所は?」

 

 人間心にやましい事があると饒舌になると言うが、この時の少年はまさにそれであった。

 もっとも、少年の内情など知り得ない少女に分るはずもなく。

 

(見た目は怖い感じなのにやっぱりいい人なんだな)

 

 という感情を抱かれていた事を少年は知らない。

 

「ま、ともかくだ。さっきも言ったが早く帰った方がいい。また変な奴等に絡まれるのもイヤだろう? それに――」

 

 少年が親指を立てて路地の向こう、通りへと指を向ける。

 

「お迎えが来たみたいだぜ」

 

 少女がそちらを向けば、こちらへと向かい駆けて来る人影が見える。

 

「瑠衣~ッ!」

 

 ポニーテールを揺らしながら自分の名を呼び向かって来る親友の姿に「あ、明菜の事忘れてた」と少女が呟いた。

 少年は聞こえないふりをして未だ意識を失ったままの藻部へと手を伸ばす。

 

「交番の前に放り出しとくのさ。叩けばボロボロと、余罪もあるだろうしな」

 

 瑠衣と呼ばれた少女が向けた、問い掛ける様な視線に少年が答えると、彼よりも一回り大きな藻部の身体を軽々と担いで見せる。

 その光景をぽかんとして眺める少女に笑みを返し「じゃあな」と言って少年が踵を返す。

 

「あの! 待って下さい!!」

 

 足早に立ち去ろうとする少年の背に少女の声が届いたのであろう。少年が足を止めた。

 

「本当にありがとうございました。わたしは秋田集英高校一年の火場瑠衣(ひばるい)と言います」

 

 足を止めるんじゃなかった。少女の期待に満ちた目を見て少年が後悔する。

 そもそも呼び止めたのが男であれば、足を止める事すら無かったと言い切る自信が少年にはある。

 

「……あ~」

 

 名乗り返す必要は無いが、ここで名乗らない理由も無い。

 このまま名乗らずに早々に立ち去る。それがベストだとは分っている。

 

(……そんな餌を与えられた子犬の様な目でオレを見ないでくれッ!)

 

 しかし、そうすればこの少女はおそらく悲しむのであろう。

 僅かなやり取りではあったが、少年はこの少女が自分のこれまでの生活の中で縁の無かった“良い子”であると理解出来ただけに心苦しく感じてしまう。

 少年が少女の肩越しに視線を奥へと向ける。彼女の友人は間もなくここに到着する。

 

「……ハァ……」

 

 少年は溜息を吐くと、藻部を抱えたままその空いた手でがしがしと頭を掻き、短く、しかしはっきりと名乗った。

 

(メイ)だ。苗字は無い。ただの――盟だ」

 

 

 

 

 

 歩行者用の信号が赤から青に代わり、僅かに途切れていた人の波が一斉に動き出す。

 秋の夜風は肌寒さを感じる程に冷たい。しかし、人混みが生み出す熱気と喧騒に巻き込まれた盟は眉を顰めて不快感を露わにしていた。

 その雰囲気に当てられたのか、自然と盟の周りから人が離れる。誰もが無意識に盟を避けていたのだが、本人はさほども気にはしていない。

 今の盟は袖口を折り返した黒い学生服を羽織っていた。

 丈が合っていないのはこれが藻部の着ていた学生服であった為だ。本来の持主は駅前の交差点近くにあった交番の前に置いて来ている。

 

「しっかし、相変わらず師匠の手紙はワケが分らん」

 

 ズボンのポケットから取り出した一通の便箋。折れてくしゃくしゃになったそれに盟は何度となく目を通す。

 

「女神を探せってなどーゆーこった? しかも日本で? 女神ってなアテナの事か? 聖域に居るんだから違うよな。だったら何だ? 誰の事だ? 代名詞じゃなくて名詞をくれ、名詞を!!」

 

 自分で考えろ馬鹿が。盟の脳裏にゴミを見る様な目でそう言い切る師の姿が思い浮かぶ。

 四年間師事を受けた相手だ。盟は自分の想像に確信にも似た思いを持っていた。蟹座(キャンサー)のデスマスク。それが盟の師の名前である。

 盟は、この少年も海斗たちと同じく城戸光政によって集められ、聖闘士となるべく送り出された百人の孤児の一人であった。

 

「それでコイツはコイツで……ッ」

 

 盟がポケットからもう一通の便箋を取り出し広げて見た。

 

「手伝え、ってなんじゃそりゃ!! これだけか!? 何がだ! 何をだ!! 人とまともにやり取りをする気はあるのかあの野郎は!!」

 

 盟の言う通り、そこにはただ一言、日本語でそう書かれていた。余白をたっぷりと残した便箋のど真ん中に。ミミズが這った様な字で。

 そのくせに、差出人の名前だけは達筆なところに悪意を感じる。

 

「海斗め。幼馴染みだろうが四年振りだろうが知った事か。会ったら一発殴ってやる」

 

 そう呟く盟の表情には、しかし、笑みが浮かんでいた。

 横断歩道を歩く盟の周りには、いつしか何事も無かったかの様に人が集まる。

 やがて、盟の姿は道行く人々の流れの中に消えて行った。



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間章2話 CHAPTER1.5~エリスの影~パイロット版

 お久しぶりです。
 7年ぶりの投稿です。
 御大並みの更新速度になるかもしれませんがボチボチと。


 聖闘士候補生の少年――(メイ)

 彼はアジア最大規模の大財閥であるグラード財団を一代で築いた男、城戸光政の手によって聖闘士となるべく世界中から集められた百人の孤児たちの一人である。

 繰り返される修練の日々。死と隣り合わせの日常。一人、また一人と姿を消していく候補生たち。

 盟は抗い続けた。己を襲う理不尽に、迫りくる死に。

 季節が廻り、四年が過ぎ、そうして五年目を迎えようとする頃、盟は己の内に確かに存在する小宇宙(コスモ)を感じ取れるまでに成長していた。

 

 イタリア半島の南西、地中海に位置するシチリア島にて黄金聖闘士の一人、蟹座(キャンサー)デスマスクの指導を受けていた彼のもとに聖域(サンクチュアリ)から一通の手紙が届けられた。

 半ば強制的に外界からの接触を断ち、修行に専念させられていた盟には手紙を送り送られるような相手はいない。

 あるとすれば、彼を送り出したグラード財団か、もしくは目の前に立つデスマスクぐらいであったが、この手紙を聖域から持って来たのはデスマスクである。

 ならばグラード財団かと差出人を見れば、そこにはこう書かれていた――Equuleus(エクレウス)海斗と。

 海斗は盟と同じ百人の孤児の一人。

 数少ない年長同士、それなりにウマが合ったのかよくつるんでいたことを思い出す。

 聖闘士としての修行に足を踏み入れた者の運命は大きく三つに分かれる。

 聖闘士として認められて名を残すか。志半ばで命を落とすか。名もなき雑兵の一人と して生きながらえるか。

 聖闘士候補生として集められた孤児たちの多くがその消息を絶っていると聞いていた盟は、その懐かしい名前を見て思わず安堵の息を吐いていた。

 

「エクレウス……そうか、お前は聖闘士として認められたのか。まあ、今はいいか。それにしても……なんだこりゃ? 暗号か?」

 

 手紙に書かれた内容はただ一言――女神を探せ。

 

「……コレ、あぶり出しとか、透かしとか――ねえわな。封筒の裏とかも……何もねえ」

 

 ならばと、盟はデスマスクを見る。

 

「お前だけじゃない。他にも似たような指示を受けた奴らはいるのは知っている。だが、どうしてそれが殻も取れていないヒヨコのお前なのか、そこまでは知らん。ヤツの意思では……無いな。おそらくは星観の小娘から祭壇星座(アルター)の小僧へと話が流れて、だろうが……」

 

 僅かに考えるそぶりを見せると、デスマスクは盟に暫く好きにしていろ、と言った。そして――

 

「丁度良い、卒業試験だ」

 

 追って指示を出す。そう言い残してデスマスクは聖域(サンクチュアリ)へと向かった。

 デスマスクにはあの一文で理解できる何かがあったのだろう。ただ、それを盟に対して説明する気が全く無い。それだけの事だ。

 放任主義はいつもの事かと、盟は日課となった鍛錬を開始した。

 

 そうして一週間が経ち、盟のもとに聖域(サンクチュアリ)から二通の手紙が届く。

 一通は師であるデスマスクから。

 

『日本へ行け。結果を出せばお前の欲しがっていた聖衣(ご褒美)をくれてやる』

 

 もう一通の差出人の名は海斗。

 

『追伸――ついでに俺の用事も手伝え』

 

 盟は無言で手紙を握りつぶした。

 

 

 

 日本にいる女神とは?

 なぜ自分が選ばれたのか?

 海斗が自分に手伝わせようとする用事とは?

 盟の脳裏に次々と浮かぶ疑問。しかし、それに答えを返してくれる者はいない。

 盟はイタリアを離れ日本へと渡る。

 

「日本――か。こんな形で戻ることになるとはな」

 

 その胸中に複雑な思いを抱いたまま。

 

 

 

 

 

 聖闘士星矢~ANOTHER DIMENSION海龍戦記~

 

 

 

 

 

 2学期も残すところあと2週間となったその日、東京の郊外にある秋田集英高校に一人の転校生の姿があった。

 学年は1年、クラスはB組。紫がかった銀色の髪、学校指定の詰襟の学生服は胸元を開く様にして着崩され、シルバーのネックレスやチェーンを身に着けたその姿は明らかに浮いている。

 担任である初老の男性教師からクラスメイトへの自己紹介を進められた彼は、鼻歌交じりに黒板へと向かう。

 

木戸盟(きどめい)だ。気軽に盟って呼んでくれ。ま、短い間になるとは思うが――ヨロシクな」

 

 

 

 三日も過ぎたころには盟の周りには多くのクラスメイトが集まる様になっていた。

 季節外れの転校生自体が珍しかった事もあるが、一見すると粗暴な印象を与える盟の、その実気さくな性格や人当たりの良さが知れた結果だ。昔から自然とこうして人が集まる。

 そんな中、その輪に加わろうとしない生徒の姿もあった。火場瑠衣と月代明菜である。

 

「えらい人気ね~。ねえ瑠衣、こりゃ、もう少し時間を置いたほうが良くない?」

 

「……うん。本当は早くお礼を言いたいんだけど……さすがにあの人垣には入れないかな?」

 

 集団から少し離れたところで瑠衣は肩を落とし、それを見て明菜はやれやれと首を振る。

 

「それにしたって……マンガじゃあるまいし。何? ピンチのところを助けてくれた気になる彼は転校生? しかも同じクラスって……」

 

「アハハ……。こんな偶然ってあるんだねぇ。わたしもビックリだよ?」

 

「あの格好で学校に通い続けているのもビックリよ? 内申点いらないのかしら?」

 

 そうこう話をしているうちにチャイムが鳴った。

 話をするのは次の休憩の時間にしよう。そう結論を出した二人は、この後の授業に備えるために自分たちの机に戻ろうとして――

 

 ――人影が二人の行く手を遮った。

 瑠衣たちの前に立ち塞がったのは、先日二人に絡んできた男子生徒たちである。

 周囲を威嚇し、睨み付けながら瑠衣のもとへと詰め寄る彼らには、皆どこか切羽詰まった焦りと怯えがあった。

 瑠衣の手を掴み、強引に外へと連れ出そうとする彼らに対し、その様子を怪訝に思いながらも仕置きが足りなかったかと立ち上がる盟。

 だが、それよりも早く明菜が動いた。

 打ち、捻り、投げる。盟をして見事と思わせる動きで明菜が彼らを叩き伏せ瑠衣を救い出す。

 その光景にわっと歓声が上がる教室。

 

 しかし、異変はその直後に起きた。

 

 苦痛に呻き蹲った彼らの口から人とは思えぬ、まるで獣のような叫びが発せられたのだ。

 声だけではない。その姿も、まるでホラー映画の狼男のように異形のものへと変化する。

 その光景を目の当たりにした明菜の口から零れ出たのは獣鎧士(ビースト)という言葉。

 異形の鎧を身に纏い変貌した男子生徒たち。彼らは人を超えた、聖闘士に匹敵する力を見せて瑠衣と明菜に襲い掛かる。

 二人を守るために立ち向かう盟。

 どうにか彼らを校庭へと叩き出す事に成功したが、生身の、今の盟には決定打に足るものが無い。

 誰かを守りながら戦う。

 盟が初めて体験する実戦。

 ダメージは無い。しかし、打ち倒す事も出来ない。その精神的な疲労が、積み重なる不安と焦りが徐々に盟を窮地へと追いやっていく。

 そんな盟の窮地を救ったのは、銀色の輝きであった。校舎の屋上から放たれた一本の矢だ。

 銀色に輝く聖衣にも似た鎧を身に纏った少女――明菜の放った矢であった。

 盟は、自らを月衛士(サテライト)と称した明菜と力を合わせ、獣鎧士(ビースト)と化した彼らを撃退する事に成功する。

 

 

 

 獣鎧士とは何か、一般人であったはずの彼らの身に何が起こったのか。

 なぜ瑠衣が狙われたのか、明菜の口から語られる瑠衣の秘密とは。

 

 邪神復活を目論む悪しき者たちに、新たなる若き聖闘士――盟が立ち向かう。



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CHAPTER2 ~氷原の戦士たち~
第23話 CHAPTER2~プロローグ~


 1986年8月30日――ギリシア。

 エーゲ地方――古代神殿跡地。

 

 

 

「あっ、ながれた。ほら、あそこにもまた流れ星が!」

 

 なんて素敵なのと、女性は興奮冷めやらぬ様子で満天の夜空に浮かぶ星々の輝きを眺めていた。

 

「ああ! エーゲ海の夜空ってなんて素敵なの! 怖いくらいに流れ星がいっぱい!」

 

「エーゲ地方は古代より群星の地といってね」

 

 見たとおり流れ星が多いだろ、と。女性の後ろをカメラ片手に歩いていた男性が続ける。

 高度経済成長の波に乗り、ここ数年はこうして日本人旅行者が訪れる事が増えていた。

 さすがに星空が見えるような時間に出歩く人影はまばらではあるがゼロでは無い。その多くが日本人というのは平和ボケかはたまた。

 

「その流れ星が時々地上にまで落ちてくる事もあるんだってよ!」

 

 上機嫌な彼女の様子につられて、男性の口もついつい軽くなってしまう。

 手にしたカメラはこの日のために、この夜空のために新調されたはずの物。しかし、目の前の彼女に熱中している今の彼では――残念な事に出番はなさそうだ。

 

「もう、何言ってるのよ。ソレ、みんなホテルの神父さんの受け売りじゃない」

 

「あ、あれ? なんだ、君も聞いていたのか?」

 

 しまったな、と。どこかばつの悪そうなその男性の姿を見て、女性は思わず笑ってしまう。

 

「あははっ、もう、な~にカッコつけようとしてるのよ」

 

「そりゃあ……そうさ……」

 

「もう、拗ねなくてもいいじゃない」

 

 ほら、と。渋る男性の手を掴み、女性は「あ、ほら。また流れた」と夜空に流れる光の帯を指差していた。つられる様に男性も夜空を見上げて感嘆の声を上げる。

 そうしてしばらく、二人は幸運にも巡り合えたこの夜空が織り成す一大スペクタクルを堪能した。

 

 そして、男性が「さあ、ホテルに戻ろうか」と。

手を繋いだ彼女にそう伝えようとした、その瞬間――

 

 ドーーーーン、と重く響く大きな音が大気を震わせ、二人の身体に確かな衝撃を与えていた。

 

「な、何なんだ!? 何の音だ?」

 

「エッ? まさか、本当に星が落ちてきたの?」

 

 星が落ちた。二人が耳にした音は、そう思わせるだけの響きがあり衝撃があった。

 そんなはずは、と。雷じゃないのか、と。

 男性は自分に言い聞かせるように何度も呟いていたが「あっちのほうから」と、その音が聞こえた場所へと足を進める彼女に気が付き、慌ててその後を追った。

 

 この後、二人はこれまでの人生の中で築き上げてきた“常識”の一切を覆す光景と出会う事となる。

 空から落ちてきた少年と、それを追って現れたもう一つの存在によって。

 

 

 

 

 

 第23話 聖闘士星矢~海龍戦記~CHAPTER 2 ~GODDESS~ プロローグ

 

 

 

 

 

 同日、同時刻――聖域。

 修練場の外れ。

 

 

 

「ほう、あれが新しく聖闘士(セイント)になるかもしれないって日本人の小僧か」

 

「……ああ、そうだ。星矢かカシオス、明日の戦いで勝った方が新たなる天馬星座(ペガサス)の聖闘士に選ばれる」

 

 明日は次期ペガサスの聖闘士を決める最後の試合の日であり、有資格者として対峙するのは星矢とカシオスである。

 カシオス側は、既に勝利を確信しているのか、それとも当日を万全の態勢で迎えるためか、今日は早々に修練を切り上げており今頃は夢の中であろう。

 対しての星矢側である。

 聖域での六年間に渡る修行は星矢の力を大きく成長させていたが、それでもこの日までに幾度となく行われたカシオスとの模擬戦に星矢が勝利をした事は一度もない。

 その事もあってか、魔鈴は夜中になり日付が変わろうとしてもなお星矢の修練を終えようとはしなかった。

 とはいえ、基本的な事はこの六年の間に全て教えてあるので、この時点でやれる事と言えば魔鈴を相手にひたすら戦闘訓練を繰り返すのみである。

 

「あの程度で、か?」

 

 向かって行く星矢、それを返り討ちにする魔鈴。その光景を延々と繰り返した後、ついに星矢は力尽きたのか魔鈴の繰り出した拳をまともに受けてしまう。

 どうにか防御こそ間に合ったものの、その身体は遥か彼方へと吹き飛ばされていた。おそらくは聖域の結界を越えてしまっているだろう。「馬鹿が」と、悪態を吐いて魔鈴はその後を追って行った。

 その光景を見た上でのデスマスクの言葉である。

 

「盟を基準にするなよ? アイツはアイツでおかしいからな。それに、男子三日会わざれば刮目してみよ、ってのがあってな。どこでどう化けるか――」

 

「知っている。三国志の演義だな。だが、それでもだ。あの様子では間に合わん」

 

 皮肉気な笑みを浮かべながら、デスマスクは傍に立つ青年――海斗へと振り向いた。

 初めて会ってから二年程になるが、随分とデカくなったもんだと、成長期と言う言葉を思い浮かべながら海斗を見やる。

 背丈は百七十センチ後半、無造作に伸ばされた黒髪の癖の強さと若干睨み付けているようにも見える眼つきの悪さは変わらない。

 デスマスクは聖闘士の正装として純白のマントを羽織り、その内には黄金聖衣を纏っていたが、海斗は薄手のジャケットにジーンズ、そしてスニーカーといったごく普通の、しかしここ聖域では異質な服装をしている。

 

「フンッ、まあどっちがなろうが“使える”なら構わん。まあ、お前としては同郷の小僧に勝ってもらいたい、ってところか?」

 

 海斗はデスマスクの言葉を受け、僅かに思案するような仕草を見せると「さて、ね」と、肩を竦めた。

 

「無事であればそれでいい。とは言え、あのカシオスの気性だ。負ければ星矢は五体満足とはいかず、無事じゃあ済まないだろう。となると、勝って欲しい所だが……俺たちは一方のみに肩入れできる立場じゃないだろ?」

 

 成り行きに任せる、と苦笑気味に続けた海斗は星矢が飛ばされた方向へと向かい歩き出した。

 

「何だ、結局手を出すのか?」

 

「違う。事故であろうと――まぁ、事故だが。とにかく結界の外に出た、ってのが拙い。カシオスの取り巻き連中が騒ぎ立てる格好の材料になる」

 

「過保護な奴だ」

 

 知らない仲でもないんでな。そう言って進む海斗の背中を眺めながら、「ああ、そうだった。伝えるのを忘れていた」とデスマスク。

 

「教皇の仰る通り、冥王軍に施されたアテナの封印が綻び始めている。大物はまだ身動きが取れないらしいが、な。小物は隙間から這い出し始めていたぞ」

 

「……出会ったのか?」

 

 海斗は足を止めるとデスマスクへと振り返った。それを確認してデスマスクは続ける。

 

「三匹だ。叩きのめしてから“冥界波”であの世に送り返してやったがな」

 

「冥界波? 焼かなかったのか? ああ、変わられるよりはマシか。それで、いつの話だ?」

 

「四日前だ。まあ、そんなに気にするな。少なくともあの程度の相手に“オレたち”が動く必要はない。準備運動にもならん。青銅(ブロンズ)白銀(シルバー)どもにやらせればいい」

 

 とんだ期待外れだった。そう言ってデスマスクは肩を竦めた。

 

「それを決めるのは教皇だろうに」

 

 そう返した海斗が踵を返そうとしたその時であった。

 

「そう、決めるのは教皇だ。アテナじゃあ――ない」

 

 呟かれた言葉は独り言にしてはあまりに大きく、その意図は――深い。

 しばし無言のまま対峙する二人。

 

「……当たり前だろう?」

 

 その沈黙を先に破ったのは海斗であった。

 

「いかにアテナとはいえ、未だ覚醒を果たしていない少女なんだろう? なら、教皇による補佐と判断は必要だよ」

 

 それで話は終わりかと、海斗が今度こそ踵を返して歩き出す。

 デスマスクは「そうだな」とだけ返してその背中を見送る。その姿が、気配がその場から完全に消え去ると、ニヤリと口元を歪めて――呟いた。

 

「お前の言うとおりだ。女神(アテナ)は未だ覚醒せず。故にこの聖域の全てを教皇が取り仕切られている。そうだ、全ては――」

 

 ――教皇の思惑のままに、な。

 

 

 

 

 

 1986年9月6日――日本。

 東京――城戸邸。

 

 

 

 城戸光政が百人の孤児たちを聖闘士とするべく各地に送り出してから六年。

 彼の傍で、いつも無邪気な笑みを浮かべ、幼さ故の高慢ささえ与えていた娘は、今は純白のドレスを淑やかに身に纏った美しき少女へと成長をしていた。

 そんな少女――沙織は手にした書類を眺めながら、計画が概ね順調に進行している事を確認すると「ふぅ」と小さく息を吐いた。

 彼女の目の前、敬愛する祖父――城戸光政が使用していた、彼女にとっては大き過ぎる机の上には所狭しと書類の山が築かれている。

 計画の実行まで残り数週間と迫っており、もう暫くはこの書類の山と顔をつき合わせる事となる。

 

「問題があるとすれば、未だ連絡を寄こさない彼ら……」

 

 城戸光政より引き継いだ計画。これを成すには、彼が“死地”へと送り出した孤児たちの存在が必要不可欠であった。

 ある者は極寒の地へ、ある者は灼熱の大地へ、ある者は獰猛な獣の蔓延る未開の地へと送り込まれ。

そうして送り込まれたその先に、そこに待つのは凄絶を極める修行の日々。

 小宇宙に目覚め、聖闘士となる事ができなければ死が待つのみ。

 現時点で生存を確認できているのは僅か七名のみ。

 中には修行より逃げ延びた者も、聖闘士となれずとも生き延びた者もいたかもしれないが、沙織の知る限り八十人以上の子供が既に死亡したと聞かされている。

 

「……お爺様……」

 

 祖父が何を考えてあのような行為を行ったのか。その真意を知れば、知らされれば、何も知らされずに死地へと送り出された彼らはどう思うのだろうか。

 憎むのか、怒るのか、悲しむのか、嘆くのか。

おそらくは――その全て。そして、その強大な負の感情が自分にも向けられるであろう事は想像に難くない。

 知らなかった、等とは口が裂けても言う事はできない。言ってはならない。それが沙織にとっての事実であっても、だ。

 

 

 

 手にした書類を置き、引き出しから一冊の本を取り出す。ギリシア神話が綴られた本である。

 その装丁には所々痛みが見受けられるが、それは決して乱雑に扱われていたためではない。

 光政が何度も何度も沙織に聞かせ、沙織もまた何度も何度も目を通したお気に入りの、それは今や数少ない祖父との思い出の品の一つであった。

 

 手にした思い出を開こうとしたところで、コンコンコンと、控えめなノックの後「失礼しますと」声が掛かる。

 

「……辰巳ですか?」

 

「はい」

 

 椅子に深く腰掛けた沙織は、辰巳の返答に振り返る事なく「そう」とだけ呟いた。

 手にした本を閉じ、腰まで伸ばされた長い髪を掻き上げる。

 

「それで?」

 

 入口に背を向けたまま、振り向く事もなく、何が、とも聞かない。

 世間では、マスコミには、年齢に似つかわしくないこの沙織の姿に“女帝”などと揶揄する者が大勢いる。

 その横柄とも言える態度に辰巳は、しかし特に気にした様子もなく、もう一度「失礼しますと」頭を下げて室内に入った。

 

 それが、沙織にとって精一杯とも言える虚勢である事を知っているからである。

 今年でようやく十三歳となる少女に背負わされた重圧を知るからこそである。

 アジア圏最大の財団であるグラード財団の実質的な代表であるという責務。

 そして、沙織と辰巳だけが知る、少女が背負うにはあまりにも重すぎる――運命を。

 

 それを知った時より沙織は変わった。

 年相応の無邪気さ、幼さが消え去り、その表情から――笑顔が消えた。

 沙織は理解してしまったのだ、己の使命を、運命を。

 それを知るには幼すぎ、しかし聡明過ぎたが故の悲劇。他人に弱さを見せてはならない、と。常に毅然とした態度であらねばならないと思い詰めてしまっていたのだ。

 辰巳がその事に気が付いた時にはもう遅かった。

 

(……お嬢様……。旦那様、辰巳は貴方様を尊敬しております。しかし、しかしこの事だけは……)

 

 諌める事ができる者が傍にいれば、諭す事ができる者が傍にいれば、叱る事ができる者が傍にいれば。

 沙織が己の弱さを曝け出せる、頼れる相手が傍にいれば、と。

 知らず、辰巳は己が拳を握り締めていた事に気が付き、沙織に気取られぬようにその手を開く。そこには一枚のメモがある。

 

 沙織の背中に向けて姿勢を正すと、辰巳は手にしたメモを確認してこう言った。

 

「先ほど、ギリシアの財団支部より連絡がありました。……“海斗”から接触があった、と」

 

「――ッ!?」

 

 辰巳の言葉に、沙織は手にした本をその場に落とす。ガタンと大きな音を立て、それに構わず、沙織は驚愕の表情を浮かべて椅子から立ち上がっていた。

 

「……生きて……無事であったのですか!?」

 

 祖父である城戸光政が集めたとされる百人の孤児、その中でもいわゆる数少ない年長組の一人であった少年。

 海斗本人すら知らぬ、それが意味する事を知る者は今や辰巳のみ。

 

「支部からは近日中に日本に向かわせるための手筈を整える、との事です。そして、同じくギリシアに送られていた星矢、シベリアの氷河の生存も確認致しました」

 

「そう……ですか……」

 

 そう小さく呟くと、沙織は張り詰めていた糸が切れたようにストンと椅子に腰を落とした。

 これで、送り出された孤児たち、少なくとも十人の生存は確認された。

 どこかほっとした様子で、僅かながらも笑みを浮かべたその表情は、辰巳がここ数年見た事が無い年相応の少女が浮かべるものであった。

 その事に内心安堵しつつも、決して表情に出さずに辰巳が続ける。

 

「ですが、お嬢様。一つ問題があります。海斗が帰国のために条件を出しております」

 

「条件、ですか?」

 

 沙織の表情が変わる。既に先程垣間見せた少女の面影はない。

 

「はい。ある物を探し出す手伝いを、との事です」

 

「探し物、ですか?」

 

 どこか歯切れの悪い辰巳の様子に沙織は首を傾げる。

 もっと俗な要求でもしてきたのかと構えていただけに、沙織は少し拍子抜けしていた。

 情報網において世界一を誇る財団の力をもってすれば、探し物の一つや二つ大した問題でもない。

 手伝いを、と言っている以上、その探し物についての全てを財団に任せる気はないのだろうが。

 ならば、この辰巳の様子は……。

 

「……聖衣なのです。海斗の探している物は」

 

「は? 待ちなさい辰巳。海斗は聖衣を得て聖闘士となったのではないのですか?」

 

「はい。ギリシアにて聖衣を、エクレウスの青銅聖衣を得た事は支部の者が確認しております」

 

 ならば――と、続けようとした沙織はそこで言葉を止めた。

 海斗が送り出された地はギリシア。

 聖闘士の総本山である聖域。

 聖衣を得た海斗が、聖域の聖闘士が探している聖衣とは。

 

「まさか!? ……そう……なのですか……。辰巳?」

 

「……はい」

 

 沙織には、辰巳には心当たりがある。それが何であるのかを知っている。

 

「海斗の探している聖衣は十三年前、聖域より失われた――黄金聖衣(ゴールドクロス)

 

 だからこその、不可解な辰巳の様子であったのだと沙織は思い至り、同時にこれは非常に拙い展開になったと考えていた。

 

 

 

「――射手座(サジタリアス)の黄金聖衣です」

 




2021/01/31 誤字修正。ご指摘ありがとうございました。


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第24話 その背に浮かぶはペガサス!の巻

 1986年8月31日――ギリシア。

 現地時間09:30――アテネ市内シンタグマ広場。

 

 

 

 シンタグマ広場に面した小さなカフェ。

 多少古びた感じはあるものの、多彩なメニューと他と比べてリーズナブルな値段から地元の人々や観光客によってそれなりに繁盛している店である。

 これからの予定を話し合っている観光客や、地元の常連客の何気ない雑談の声もあって、こんな時間であっても中々に騒がしい。

 そんな中、カメラを首に下げた日本人男性と眼鏡をかけた女性、そして地元の客からは馴染みである初老の神父。この三人が、テーブルを挟んで何やら話をしている。

 

「……アテナの聖闘士(セイント)、ですか?」

 

「そう、聖闘士じゃよ。しかし、ここに住む人々でも彼らに出会う事などまれじゃというのに。……おまえさんらは運が良い観光客じゃのォ」

 

「運が良いって! 冗談じゃ――」

 

 神父の言葉に対して思わず出た大声に、しまったと男性が周囲を見れば、何事かと店内の視線が集まっている。

 昨晩見た光景を思い出し、いささか興奮気味であった彼ではあったが、やがて気まずそうに立ち上がると周りの客たちに「何でもないですから」とペコペコと頭を下げる。

 隣に座る彼女が「何やってるのよ」と溜息交じりに呟いた言葉を聞き、それなりに恰幅のある身体を一回り小さくして椅子に座り直した。

 

(しょぼくれたクマ、いや、パンダかしらね?)

 

 そんな男性の姿を見ての女性の内心など彼は知らず。

 

「ホッホッホ。まぁ落ち着きなさい」

 

 年の功か性格か、気にした様子もなく笑いかける初老の神父に毒気を抜かれたのだろう。

 

「……はぁ。……もう、笑い事じゃないですよ、神父さん。驚くやら怖いやらで……こっちは死ぬかと思ったんですから」

 

「それで、えっと、そのセイントって、いったい何なんですか?」

 

 内心そのような事を考えている等おくびにも出さず、彼の脇腹をつつきながら女性が神父へと尋ねた。

 

「――ふむ。その前に、もう一度よいかのう? おまえさんらが昨晩見たという光景を、その話しを、の」

 

 好々爺とした雰囲気はそのままに、しかし、まっすぐと姿勢を正した老神父の様子に二人は思わず互いに顔を見合わせた。

 

「あ、はい。あれは、私たちが凄い音を聞いて、これまで聞いたことが無いような大きな音だったので、流星が落ちたんだと思って。そんなワケない、とは思いましたが、何なんだろうって。気になって気になって、そうしたら彼女がその音がした方へ向かって――」

 

 言葉に詰まった男性の後に続き、少しばかり逡巡を見せたものの、女性が口を開く。

 

「気を失った中学生ぐらいの男の子がいたんです。多分……私たちと同じ日本人だと思います。全身傷だらけで、酷い怪我で。痣とか擦り傷とかがいっぱいで……」

 

 そうして二人で昨晩見た事をポツリポツリと語り始めた。

 

「大丈夫かって、声をかけたんですよ? そうしたら、その子は目を覚ましたんですけど。混乱してるのか、こっちの質問には何も答えてくれなくて――」

 

「あいつはどこだ、って。あいつが来る、って。すごく怯えた様子で。だから、聞いたんですよ、あいつって誰なのかって。その直後です。今度は落雷みたいな大きな音がして。何なんだって振り向いたら、こっちに近付いてくる人影が見えて。誰もいなかったのに。そこには私たちしかいなかったはずなのに、いつの間にか――」

 

 

 

 

 

 1986年8月30日――ギリシア。

 02:18――エーゲ地方古代神殿跡地。

 

 

 

 衝撃で飛びかけた星矢の意識が全身に奔る激痛によって覚醒する。

 

「くっ、そっ!」

 

 血反吐を吐き、震える膝を抑える。痛む体を気力で奮い立たせると、必ず来る追撃を警戒して即座に構えを取った。

 大量のアドレナリンが星矢に痛みを忘れさせ、しかしその五感を鋭敏にしていく。

 すると、強化された聴覚がこれ見よがし――姿は見えずとも――に、カシャンカシャンと、聞きなれた聖衣のすり合わせる音が聞こえて来る。

 

(……意味もなく敵に接近を知らせる事は愚行、だったっけ?)

 

 星矢が思い浮かべたのは師匠である魔鈴の教えであった。

 ならば、これは、どういう事か。

 油断か、ミスか?

 

「……ンなワケないよな~」

 

 地獄の六年間の付き合いは伊達ではない。つまりはメッセージだろう。『時間をやるから抵抗して見せろ』と、余裕を見せ付けているのだ、あの鬼軍曹(魔鈴)は。

 その事が解り過ぎるだけに、バカにして、と。星矢の苛立ちは収まらない。

 とはいえ、実際に手加減をされている身である。本気の一撃であれば自分はとうに死んでいる。ここで迂闊に文句の一つも言おうものなら、ただでは済まなくなるのは身をもって知っていた。

 

「さっきの、あの人たちは……離れたのか?」

 

 先程まで自分の近くにいた男女の姿はない。

 意識を広げてみれば、走り去る気配が二つ。気持ちは分るので非難するつもりもない。

 おそらく、ではあるが、気絶した自分を心配してくれていたのであろう。薄っすらとではあるが呼び掛ける声は聞こえていた。

 そんな二人を巻き込まずに済んだ事は、星矢にとっては数少ない僥倖であった。

 

「……魔鈴さんも気付いてるな。なら、この隙に少しでも回復しないと」

 

 だからと言って、自分の置かれた状況が好転したわけでもないのが頭の痛いところ。

 目前に迫ったカシオスとの聖衣を賭けた決戦を前に、未だ結果を出せていない自分に対しての最後の追い込み。

 

「無茶苦茶だ! 聖衣を纏った聖闘士相手にだぞ!? ったく、どんだけ性格が悪いんだよ、魔鈴さんは……」

 

 その事は理解できるが、この最終試験の合格条件は魔鈴に確かな一撃を与える事。

 出来るわけないだろう、と。そう愚痴をこぼしつつも「どうにか」と、星矢が策を弄する前にソレが現れた。

 

「ハンッ、まだそれだけ軽口を叩ける元気があるんなら――」

 

「!? クッ、魔鈴さん!!」

 

 目の前には魔鈴の姿。

 気付いた時には――もう遅い。

 

「聖域に戻ってあと百回はシミュレーションだ」

 

 魔鈴が構えを取った。星矢がそう認識した時には――

 

「げ、げふ……」

 

 その身は既に天高く殴り飛ばされており、受け身を取る間もなく星矢は額から大地に叩き落とされていた。

 

 

 

「やれやれ……カッコ悪いね、星矢。今の一撃程度をかわせない。そんなザマでどうやってカシオスに勝つつもりなの?」

 

「い、いっつぅう~~。生身の魔鈴さんに勝てないのに! 聖衣を纏うって、なんだよそれ!! 心配しなくてもオレはカシオスなんかには負けないよ! それに、試合は今日だってのに、これ以上シゴかれたらカシオスと戦う前にあんたに殺されちゃうよ!!」

 

 頭を押さえ、多少ふらつきながらでもあったが、即座に起き上がって文句を言い始めた星矢のタフさには、さすがの魔鈴も呆れ半分感心半分。

 

「……相変わらず頑丈な奴ね」

 

 その姿に、思わずこの頑丈さだけは評価してやっても良いか、と魔鈴は考えてしまう。

 とはいえ――

 

「どの道、頑丈なだけならカシオスとやり合ったところで殺されるだけさ。いや、なまじタフな分、より凄惨な殺され方をするだろうね。じわじわとさ。耳を落とし、鼻を削ぎ落し、そして最後にはその首を……」

 

「ちょっ!? お、おどかさないでよ魔鈴さん!!」

 

「……だから、さ。そうならないように、せめて相打ち程度には持って行けるようにしてやろう、ってのさ。ほら、聖域に戻ってあと百五十回だよ」

 

「増えてるよ! だから! オレは魔鈴さんには勝ててないけど、だからってカシオスには負けないって言ってるだろ!!」

 

「……ふぅん」

 

 これまでも魔鈴の言葉に星矢が逆らう事は多々あった。初めて会った時からこの気の強さ、向こう見ずなところは変わっていない。

 それでも一撃くれてやると納得して静かになったものだが、今日の星矢は違った。

 真っ直ぐに自分を見つめて来るその視線に、その眼差しには、確かな自信が、力があった。

 

「そうね、そこまで言うなら証拠を見せてよ。お前はこの六年間、カシオスに勝てた事は一度もない。そんなお前が明日は勝てると言っている。納得出来ると思う? ムリね。お前が死のうがどうなろうが、私にはどうでもいい。でもね、お前に付き合った六年が無駄になるのはシャクなのよ。だからさ、私が安心して眠れるように――」

 

 ――証拠を見せて。

 

 その魔鈴の言葉に星矢の顔つきが変わった。

 悪く言えば、年相応のおちゃらけた悪ガキのような雰囲気が――戦士のそれへと。

 

「へ、ヘヘッ! よぉ~し!! よっく見ろよ魔鈴さん! これがオレの力のすべて……」

 

 深く息を吸い、静かに吐く。

 二度、三度と繰り返し、星矢は拳を振り上げる。

 狙うのは己の足下。

 

 星矢は大地に刻み込もうとしていた。自分がカシオスに勝てるという証拠を。

 魔鈴は何も言わない。

 静かに腕を組み、星矢がこれから行おうとする事を見逃すまいと、その動きをじっと見つめていた。

 

「これがオレの中の――」

 

 

 

 だから気が付かなかったのか。

 第三者の接近を。

 

「フンッ、証拠なぞ必要あるまい」

 

 星矢が自らの拳を大きく振り上げたその時、巨大な影が星矢の身体を覆った。

 身長二メートル以上はあろうかという巨漢の男がこの場に姿を現していた。

 ファンタジー風に言い表すならば、“火竜”のようにも見える意匠を施された真っ赤な鎧――頭部と両肩、両膝、そして胸部。合わせて六つの魔獣の顔が存在する、異形の聖衣を身に纏った男であった。

 

「お前は……ドクラテス」

 

 魔鈴の言葉に星矢が首を傾げる。

 

「ドクラテス?」

 

「……お前の相手、カシオスの兄貴さ」

 

 魔鈴の言葉に「兄貴って、兄弟!? アイツに兄弟がいたのか?」と、星矢が近付いて来るドクラテスと呼ばれた男を見た。

 

(カシオスの兄貴、ていっても……似ていないな。デカイってことぐらいだぞ。それに、アイツの後から出てきたこいつらも……一体何者なんだ?)

 

 ドクラテスの後から、その配下と思われる男たちも現れていた。皆が同種の赤い聖衣らしき物を纏っている。違うのは魔獣の顔が頭部の、ヘルメット型のマスクの一つだけである事か。

 

 そうして星矢と対峙したドクラテスが無言のまま腕を動かす。

 それを合図として、配下の男たちが星矢と魔鈴を囲い込むように動いた。

 

「なんだ!? くっ、こいつら!? やる気か!!」

 

「落ち着きなよ、星矢。さて……これは何のつもりだいドクラテス?」

 

 逸る星矢を抑え、自分たちを囲い込む男たちを見渡しながら魔鈴が静かに問いかける。

 

「フッ、何のつもりか、だと? お前こそ何を言っているのだ魔鈴よ。ここはどこだ? 聖域の結界の外だ。聖域の掟を破った者には罰を与えねばなるまい?」

 

「無用だよ。見ての通りシゴキに力が入り過ぎただけさ。心配しなくても――」

 

「な、何だと! 誰が逃げたりなんかするもんか!!」

 

「!? 待て星矢!!」

 

 逃げ出した、と。そう言われた事で星矢がいきり立った。

 魔鈴の手を払い除け星矢がドクラテスへとその拳を向けた。

 

 しかし――

 

「口では何とでも言えるぞ」

 

「現に、お前は結界の外にいる」

 

「フフフッ」

 

「一候補生でしかない、しかも日本人のお前の言う事と、聖闘士であるドクラテス様の言う事。さて、聖域はどちらを信じるかな」

 

 ドクラテスの部下たちが立ち塞がり、星矢の行く手を阻む。

 

「躾がなっていないようだな魔鈴。聖闘士でもない候補生如きがとっていい態度ではないぞ? これは教育が必要だ。ああ、礼はいらんぞ魔鈴。聖闘士として、聖域の掟を破った者には罰を与えんといかんからな」

 

 部下を下がらせてドクラテスが前へと踏み出した。

 見上げる星矢と見下すドクラテス。知らず、星矢の足が一歩下がる。

 

「もっとも、多少熱が入ってやりすぎてしまうかもしれんが、な」

 

 体格差だけではない“存在感”そのものの差に、星矢は背中に冷たい汗が流れるのを感じ取っていた。

 

 

 

 

 

 第24話

 

 

 

 

 

 星矢の眼前に“赤”が迫る。

 視界を埋め尽くす赤色はドクラテスの拳だ。それが瞬く間に星矢の視界を覆いつくした。

 パンチは見えていた。しかし、身体が動かない。

 意識と肉体のズレ。反応が追い付かない。

 

「ぼさっと――」

 

 そんな星矢の身体に衝撃が走る。

 ドクラテスの拳ではない。側面からだった。

 

「――してんじゃないよ星矢!!」

 

「がぁッ!!」

 

 吹き飛ばされた星矢の身体が遺跡の――瓦礫の山へと叩き込まれる。

 石材が音を立てて砕けるのと同じく、先程まで星矢が立っていた場所からも爆音が鳴り響く。

 

 瓦礫を振り払い、腹を押さえて立ち上がる星矢。

 

「う……ぐぅ……。ま、魔鈴さん?」

 

 巻き上げられた砂塵が風に吹かれ、星矢の視界をクリアにしていく。

 すると、星矢の目に大きく抉れた大地が、両の拳()を大地へと突き立てた巨大な影――ドクラテスの姿が映った。

 そこに魔鈴の姿は――見当たらない。

 

「ま、魔鈴さん? 魔鈴さーーん!!」

 

 星矢の声が辺りに響く。

 返事は、ない。

 

「……う、嘘だろ?」

 

 脳裏によぎるのは最悪の光景。

 

 ――ドクラテスの巨体がゆっくりと立ち上がり、大地に突き立てた拳をゆっくりと引き抜く。

 ――その手に掴まれたのは赤く染められた――魔鈴。

 

「う、うおおおおおおおおおおおおっ!!」

 

 全身に受けた打撲の、裂傷の痛みも忘れて星矢が吼えた。

 視界には何も映っていない。拳をふるう。感情のまま、激情のままに。

 

「ドクラテスッ!」

 

 

 

 突き立てた両の拳に伝わる感触にドクラテスは眉を顰めた。

 星矢に向けて振り下ろした“一撃”は咄嗟に割り込んできた魔鈴によって逸らされた。

 それはいい。

 仮にも白銀の聖闘士であれば“そのくらい”はやって見せるだろう。

 だが、しかし――

 

(あの体勢から左拳の“二撃目”をかわした、だと?)

 

 確証はなかった。ドクラテス自身、魔鈴に当てた瞬間も、避けられた瞬間も見ていないのだから。

 ハッキリとしている事はただ一つ。拳に伝わる感触は、それが伝える事は、ただ大地を穿っただけなのだと。

 その通り、砂塵の晴れた視界にはクレーターと化した大地が映るのみ。

 どういう事だと、ドクラテスが僅かに思考しかけたその時――

 

「う、うおおおおおおおおおおおおっ!!」

 

 咆哮と共に立ち昇った小宇宙(コスモ)を感じ、ドクラテスは即座に思考を打ち切った。

 視線を向ければ、瓦礫の中から立ち上がった星矢の姿。

 

「な、何だと!? まさか、何故お前のような、候補生にすぎんお前からこれ程の小宇宙を感じるのだ!? それに、その背に浮かび上がるのは!?」

 

 全身に打撲と裂傷を負った傷だらけの姿。しかし、その身から立ち昇る小宇宙にドクラテスは動揺を隠せなかった。

 星矢の小宇宙の強さに、だけではない。

 

「ドクラテスッ!」

 

 拳を振りかざして迫る星矢。

 その背に浮かぶ――立ち昇る小宇宙がオーラとなって映し出したビジョンに、である。

 

「馬鹿な……。何故だ!? 何故お前の背に――ペガサスが見えるッ!!」

 

 天駆けるペガサスの如く。

 青白いオーラを纏った星矢の拳がドクラテスへと迫る。

 

「おおおおおおっ!!」

 

 

 

 ドガッ!!

 

 

 

 その光景に、ドクラテス配下の兵達がざわめき立つ。

 彼らからすれば、ドクラテスが大地に拳を突き立ててから今までの間は僅か数瞬の出来事に過ぎなかったのだ。

 

「ドクラテス様ッ!?」

 

「馬鹿な!?」

 

「お、おのれ星矢ッ!!」

 

 砂塵が薄れ、視界が晴れた先に目にした光景は彼らにとっても理解の範疇を超えていたのだ。

 

 気合いの声とともに振り抜かれた星矢のパンチがドクラテスの胸元へと突き立てられていた。

 赤い血が聖衣を伝い流れ落ちる。

 

「……う、ううっ……」

 

 だが、苦悶の声を上げているのはドクラテスではなかった。

 

「ぐぅううっ」

 

 右手を押さえてよろめく星矢。

 拳から流れる血が、ポタリポタリと地面に落ちる。

 

「フンッ、馬鹿め。小宇宙に目覚めていた事には驚かされたが……未熟者の拳程度でこの聖衣を砕けるとでも思ったのか」

 

「う、ううっ、な、なんて硬さ――がっ!?」

 

 振り下ろされたドクラテスの手刀が星矢の身体を打ちのめす。

 

「ドクラテス様!」

 

「おおっ!」

 

 ドクラテスの無事を確認して安堵する部下達を片手で制する。

 

「フンッ、静まれ。さあ星矢、聖域から逃亡を図ったお前には罰を与える。それが掟だ」

 

 そう言って、ドクラテスは蹲る星矢へ再び拳を振り上げる。

 しかし、その拳が振り下ろされることはなかった。

 

 

 

「そこまでだ」

 

 何者かによって掴み取られたドクラテスの拳。

 振りほどこうと力を込めてもピクリとも動かない。

 ギシリ、と。聖衣を通して感じる圧力が伝えていた。ここまでだ、と。

 

「お前は……」

 

 己の手を掴んだ人物――海斗の姿と、その傍に立つ魔鈴の姿を見て、ドクラテスが苦虫を嚙み潰したような顔で呟いた。

 

「……エクレウスッ!」

 

「そこまでだドクラテス。落ち着けよ、少しばかり“早とちり”が過ぎるぞ?」

 

「……魔鈴を助けたのはお前か」

 

「さて、な。いいから聞け、星矢が結界を出たのは修練中の事故だ。証人もいる。逃亡云々はお前の誤解だよ、それで納得しろ。これ以上騒ぎを大きくするな」

 

 ドクラテスは忌々しそうにその手を振り払うと、星矢の事など最早眼中にないとばかりに海斗を睨む。

 

「……不問にしろと言うのか?」

 

「お前がカシオスを溺愛している事は皆が知っている。そんなお前がこのタイミングで星矢に手を出す。邪推されるだけだ。カシオスでは星矢に勝てないからお前が手をまわしたのではないか、ってな」

 

 海斗がそう言い終わったのと同時であった。

 

「黙れっ!!」

 

 轟、と。

 ドクラテスの剛腕が唸りを上げて突き上げられたのは。

 大地がその勢いに巻き込まれるようにめくれ上がり、遥か上空へと吹き上げられる。

 

「チッ」

 

 跳躍しその拳を避けた海斗であったが、周囲に広がる惨状に思わず舌打ちをしてしまう。

 

「派手にやり過ぎだ! 観光地だぞ!?」

 

「なっ!? ガッ!!」

 

 その瞬間、ドクラテスの表情が驚愕と苦痛に歪む。

 飛び上がった海斗が振るった腕の一振りによって生じた圧力が、めくれ上がった大地を押し込み、ドクラテスの巨体を跪かせていた。

 

「俺の力が抑え込まれて……いや、打ち消されただと!! 聖衣もない生身の相手にぃいっ!?」

 

 ドクラテスの驚愕はそれで終わらない。

 降り注ぐ閃光によって周囲にいたドクラテスの部下たちが次々と倒されていく。

 

「……化物か……」

 

 そう呟く事しかドクラテスにはできなかった。

 

「……頭は冷えたか? 確かに、今の聖域の連中なら星矢たちの言葉より参謀の覚えが良いお前の言う事を信用するだろうな。事実がどうであれ、だ」

 

 背後から聞こえる海斗の声、そして背中に当てられた拳から伝わる攻撃的小宇宙に。

 

「……」

 

「今なら穏便に済ませるさ。もう一度言うぞ、何もなかった、だ。このまま聖域に戻れ。カシオスのやってきたことを無駄にする気か?」

 

 カシオスの名を出され、ドクラテスの口元からギリッと噛み締めた音が鳴る。このような状況でなければ激昂していた事であろう。

 

「それに、気付いていないのか? 自分の胸元を見てみろ」

 

「!? ……こ、これは……。馬鹿な!? 聖衣に亀裂が! お前の仕業か!?」

 

「違う。星矢だ。星矢の放ったあの一撃だ」

 

 聖衣の中でも強固であるはずの胸部。そこに刻まれた深い亀裂。そこは、星矢が突き立てた拳の位置に合致していた。

 

「届いていたんだよ、あの一撃は確かに、な。少なくとも、それだけの力はあると証明して見せたぞ?」

 

「……」

 

「言っておくが、お前がどうなろうが知った事じゃない。だが、まあカシオスとは知らない仲でもない。シャイナの事もある。二人の六年間が無駄にされるのはさすがに、な」

 

「……四年だ。この二年間、カシオスを育てたのは俺だ」

 

「だったら自分の弟子を信じろよ。こんな周りくどい事をせずとも、正々堂々正面からやり合っても勝てる、と」

 

 会話が止まる。

 しばし、無言のままの睨み合いが続く。

 

「……当然だ」

 

「そうかい」

 

 先に視線を、動きを見せたのはドクラテスであった。

 周囲に倒れた部下達も、呻きを上げながらも次々と立ち上がり始めていた。

 

 

 

「この場は退いてやる。そうだ、俺が手を出さずともカシオスが負けるはずがない」

 

 そう言い捨てるとドクラテスは踵を返し、部下達を引き連れて聖域へと戻って行った。

 去り際に見せたその視線から若干嫌なモノを感じた海斗ではあったが、嫌悪の矛先が自分に向けられたのならば特に問題はないな、と気にする事を止めた。

 閉鎖的になりがちな聖域では、いわゆる東洋人が聖衣を得る事を良しとしない考えを持つ者がある程度はいる事を知っている。

 多少は行き過ぎな気もするが、ドクラテスの場合はそれに加えて兄弟愛が強すぎるのだろうと結論付けた。過保護なのだろう、と。

 

「そんな事よりも。そう、そんな事よりも、だ」

 

 差し迫った問題がある。

 目の前の惨状の隠蔽だった。

 周囲の遺跡はその原型を失い、地面には大きなクレーター。

 深夜とはいえ、幸いにして市外からは離れているとはいえ、人気が全くないわけではない。これはさすがに一般人にも気付かれた可能性が高い。

 

「しまったな。不問にするって事は、この始末を俺一人でやるしかないって事か? いや、見なかった事にするか?」

 

 こういった隠蔽工作に対応する部門が聖域には存在するが、そこに手伝いを頼むとすると、当然何かしらの理由をつける必要がある。

 適当に誤魔化せば、とも思ったが――

 

「アイオリアに下手な嘘は通用しないからな。こういう時に頼りになるアルデバラン(師匠)は聖域にはいないし……」

 

 全てを話せば理解してもらえるとも思うが、今の海斗には可能な限りアイオリアと会う事を避けたい事情があった。

 

「……後でシャイナに、いや駄目だな。デスマスクに口裏を合わせて――合わせるわけがないな。しょうがないニコルを引っ張って来るか」

 

 また嫌味を言われるな、と深く溜息を吐く。

 悪い奴ではないのだが、海斗にとってニコルは正直言って余り関わりたくない相手であった。

 厳密にいえば、ニコルの側にいるユーリに関わりたくない。

 敬愛するニコルに面倒事を持ち込む人物として嫌われているのだ。

 

「面倒事を持ってくるのはニコルだぞ?」

 

 とはいえ、部下を持たず、知人も少ない海斗にこういった事を頼れる相手など数える程度しかいない。

 友人や知人の少ない人生だったな、と。

 どこかの誰かのいつぞやのあやふやな記憶を思い起こし、今もそうだな、と。その事に思い至り頭を抱えたくなった。

 

「ま、魔鈴さ~~ん! 良かった! 無事だったんだ!!」

 

「……人の事より自分の心配をしな。何で怪我人に心配されなきゃならないんだ」

 

 

 

 背中越しに聞こえる星矢と魔鈴のやり取りに「ま、仕方ないか」と、海斗は時間外労働の覚悟を決めた。

 



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第25話 そして舞台の幕は開かれる!の巻

 1986年8月31日――ギリシア。

 04:20――聖域教皇の間。

 

 

 

 宮を支える円柱の配列に沿って並べられた燭台。

 そこに灯されたほのかな明りが陽の光に遮られた教皇の間を淡く照らす。

 中央に敷かれた紅の絨毯は、数段の段差を経てその先にある教皇の椅子の元まで真っ直ぐに伸びている。

 不意に、燭台に灯された炎がゆらりと揺れた。

 ジッ、と。灯りに吸い寄せられた小さな羽虫が炎に焼かれる。

 周囲に他者の気配はなく、しんと、静寂が支配する教皇の間。

そこには、ただ静かに椅子に座り瞑目する教皇の存在だけがある。

 ゆらりゆらりと揺れ動く炎が、教皇のマスクに陰影を与え、あるはずのない幾つもの表情を浮かび上がらせていた。

 それは慈愛であり、憤怒であり、歓喜であり、諦観であり、悔恨であり、焦燥のようにも見える。

 

 どれほどの時が経ったのか。

 

「……戻ったか」

 

 教皇――サガの声だけが静かに響く。反応はない。

 

「――ああ、些事に過ぎん。やらせておけば良い」

 

 そう言って椅子から立ち上がったサガは、身に纏った法衣を翻すと教皇の間の奥、アテナ神殿へと歩みを進める。

 

「最早猶予は無い。おそらく、これがお前に伝えられる最後の言葉となるだろう」

 

 カチャリ、と。留め具の外れる音が響く。

 サガは歩みを止めぬまま、ゆっくりとした動作で教皇のマスクに手をかける。

 まるで、そこにいるであろう何者かに見せ付けるかのようにその素顔を晒した。

 閉じられていたサガの目が開かれる。

 

「地上を、アテナを――」

 

 ゆらりと、灯火が揺れる。

 

 青い目が闇を映し、炎を映し――

 

 

 

 ――赤く染まっていた。

 

 

 

 

 

 第25話

 

 

 

 

 

 1986年8月31日――ギリシア。

 09:37――聖域第三闘技場。

 

 

 

 ペガサスの青銅聖闘士を決めるべく行われた候補生同士の戦い。

 この日、長年にわたる因縁の決着を、勝者を決めるべく行われた星矢とカシオスの決戦。それは、その場に居合わせた誰もが予想だにしなかった展開を迎えていた。

 

「ぬぅおおおっ!」

 

 気迫の声とともに放たれるカシオスの拳が空を引き裂き。

 

「おおおおおおおっ!!」

 

 繰り出された星矢の蹴りが大地を割る。

 互いに決定的な一撃を与えられぬまま繰り広げられる拳と拳、蹴りと蹴りの交差。

 カシオス有利と思われていた戦いは五分と五分。

 星矢の惨敗とされていた下馬評を覆す健闘であった。

 

「……す、すごいな」

 

「ああ。二人とも、繰り出す拳にも蹴りにも見事なほどに気と力が集中している」

 

「カシオスもセイヤも正しく聖闘士の闘法を会得しているという事か!!」

 

 観戦していた兵たちの、候補生たちの口から洩れる感嘆の声。

 東洋人、日本人であるが故に付き纏っていた星矢への蔑視も、その成長を、資質を疑問視していた声も、この結果を前に完全になりを潜めていた。

 

「ぐむぅぅうう。まさか、星矢がこれ程の成長を果たしていたとは。ヤツの言う通り、あの時の一撃は……偶然ではなかったと言うのか?」

 

 胸元を押さえて呟かれたドクラテスの言葉も、試合に集中していた周囲の者たちの耳には届いてはいなかった。

 

 

 

 聖闘士の闘法、その神髄とは、突き詰めれば“いかに小宇宙を高めることが出来るか”に収束する。

 その境地に至れば体格差や肉体的なパワーなど意味を成さない。

 とはいえ、あくまでもそれは真髄を極めた者、いわゆる黄金聖闘士級の者たちにとっての事である。

 現時点での星矢とカシオスには当てはまらない。故に、二人には戦闘のスタイルとしてその差が大きく表れていた。

 身長二百センチを超える巨漢であるカシオスは耐久力と一撃の重さで星矢に勝り、同年代の少年よりも若干小柄な星矢はそのスピードでカシオスに勝る。

 

「やるな星矢ぁああ!」

 

 カシオスが吼え――

 

「言っただろ? 他人の心配よりも自分の心配をしろってな! これまでの六年間の借りをここで返すぜカシオス!!」

 

 ――負けじと星矢が叫ぶ。

 

「そうだ、全力だ! 全力で来い星矢! お前を倒し、オレはオレの強さを証明する! そして! オレはあの人の――」

 

 ――シャイナさんの隣に立つ権利を手に入れる!!

 

「オレは勝つ! 勝って聖衣を手に入れる!!」

 

 ――そして日本へ戻り姉さんに会うんだ!!

 

 二人の声なき叫びが、思いが込められた拳がお互いを打つ。

 戦いはまだ始まったばかりであった。

 

 

 

 強いて理由を挙げるならば“何となく”であった。なんとなく、そこに行った方が良い気がした。勘だ。

 後始末をニコルに丸投げし、怒るユーリから逃げるため、という理由もなくはない。

 とにかく、海斗が闘技場に向かった理由と言えばその程度のことであった。

 確かに、星矢とカシオスという数少ない知人同士の試合であるから興味がない訳でもなかったが、何か些細な用事でもあればそちらを優先していた事だろう。

 勝敗はともかく、海斗にはペガサスの聖衣が誰を選ぶのかはもう分っていたからだ。

 

 しかし、勘が外れたか、と。

 闘技場の隅から共に試合を見ている相手――シャイナを横目に、気付かれないように溜息を一つ。

 

「あの時、星矢の小宇宙にペガサスを見た。おそらくは対峙していたドクラテスにも、だ。カシオスには悪いが、結果がどうあれ聖衣は――星矢を選ぶ」

 

「そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。勝負はまだ着いちゃいないんだ。そうやって、悟ったような事を言うから嫌いなんだよアンタの事が」

 

「お前がこの勝負をどう見る、って……しつこく聞くから答えたんだろうが。だから言いたくなかったってのに」

 

「ハン、言い訳とは男らしくないね海斗」

 

「……この女は……。ああ言えばこう言う……」

 

 がりがりと頭を掻く海斗の姿を見て、シャイナは内心でほくそ笑んでいた。

 

 白銀(シルバー)である自分の力を大きく超える男。

 その力を侮っていたわけではなかったが、それでも同期ともいえる存在が自分よりも強いという事実を認めるには抵抗があった。

 思い起こすのも恥ずかしが、一度感情を爆発させて憤りをそのままぶつけた事がある。

 シャイナにとって海斗はそんな複雑な感情を抱く相手であったのだが、この二年間で最も良好な関係を築いている相手でもあった。

 昔ならばともかく、今では聖域でこうして軽口を叩ける相手はそうはいない。

 

「お、客席にニコル発見。サボり――げ、ユーリもいる? 仕事しろよ」

 

 そう言うと、海斗はシャイナの背に隠れるようにして場内で戦っている星矢たちへと目を向けた。

 ちなみに全く隠せていない。

 海斗がユーリを苦手にしていることは、当人同士は気付いていないようだが、知っている人間は知っている。

 ここでコイツを捕まえてユーリに突き出したら、とシャイナに悪戯心が沸き上がる。

 

「それで、何でこんなところで観戦しているんだ? カシオスを応援するならもっと前に出ればいいだろうに」

 

 しかし、海斗の言葉で急速に心が冷えていくのを感じた。

 

「応援、ね。どの面下げてさ。アイツは……自らわたしの元を去りドクラテスの元へ行った」

 

 二年前、聖域にギガスが現れたあの日。

 戦いを終えたシャイナのもとに現れたカシオスが告げたのは別れの言葉であった。

 

「そして、わたしの所にいた時よりも明らかに強くなった姿を見せている」

 

 分るだろう、とはシャイナは言わない。海斗には言わずとも分る、という確信があった。

 師としての役割を失ったシャイナが得た空白の時間。それを埋めた幾つものピース、その内の一つであったのだから。

 

「だからさ、ここからでも十分……海斗?」

 

 気付けば後ろにいたはずの海斗の姿が消えている。

 

「……まあ、いいか。わたしらしくない事を言っていたしね」

 

 そう呟いてシャイナもまた戦いを繰り広げている二人へと視線を向けた。

 どうやら徐々に均衡が破れつつあるらしい。

 

「……頑張りなカシオス」

 

 呟かれたその言葉がカシオスに届いたのかどうかは分らない。

 シャイナは踵を返すとゆっくりとした足取りで闘技場から離れて行った。

 

 その途中、アイオリアに首根っこを掴まれた海斗の姿を見たような気がしたが……忘れる事にした。

 

 

 

「見事だな魔鈴」

 

 腕を組み、ただじっと試合を観ていた魔鈴に呼びかける声。

 

「……アイオリア」

 

 魔鈴はその聞き覚えのある声に僅かに意識を向けた。

 

「今まで感じる事が出来なかった小宇宙を星矢の周りから強く感じる」

 

 そう言って、アイオリアが魔鈴の隣に立った。

 飾り気のない質素な衣服、雑兵たちが身に纏う物よりもさらに簡素な革製のプロテクターを付けたその姿を見て、彼こそが聖域最強の黄金聖闘士(ゴールドセイント)の一人である、などとは思いもしないだろう。

 アイオリアとしては堅苦しい正装よりも明らかに好ましい服装であったので変えるつもりはないのだが、同格たる黄金聖闘士のミロからは威厳も自覚も無いのかと事ある毎に責められ、従者であるガランとリトスからは無言の圧力を受けているような気はしている。

 しかし、長年続けて今更、との思いが無い訳でもない。

 閑話休題。

 

「成程な、これならば“昨夜感じた”あの小宇宙にも頷ける」

 

 アイオリアが告げたその言葉に魔鈴はようやく意識だけではなく視線も向けた。

 

「……アンタも居たのかい?」

 

「フッ、居ずとも気付くさ。どこかの誰かは隠し通せるとでも思っていたようだが?」

 

 そこには、口元に笑みを浮かべたアイオリアと――

 

「……被告人は無罪を主張する。弁護士を呼べ」

 

 ――首根っこを掴まれてばつの悪そうな表情をした海斗の姿があった。

 

「任務の事は知っている。確かに、思うところがない訳ではないが、自由に動けるお前が適任だという事も理解しているつもりだ。全く、そういう気の遣い方だけはそっくりだな、お前達師弟は」

 

「……」

 

 魔鈴には二人の交わす言葉が断片的すぎて何の事を言っているのかは分らない。

 

「……気を遣わせたか……悪かったよ」

 

「フッ」

 

 魔鈴は海斗の謝罪をアイオリアが笑って流した様子から、大した事でもあるまいと、再びその意識と視線を試合へと戻した。

 

 

 

 このままでは埒が明かないと考えたのか、互いに決定打を与えられない膠着した状況を打破するためか、申し合わせたかのように星矢とカシオスは距離を取る。

 

「二人とも、次で決める気だな」

 

 海斗の呟きにアイオリアが頷く。

 星矢たちは身構えたまま動かない。しかし、明らかに両者の小宇宙は高まり始めていた。

 

「ああ。しかし、少し拙いかも知れん」

 

 海斗の呟きに答えたアイオリアはその視線を魔鈴に向け、そして観客席の中央部で、複数の側近に囲まれて試合を観戦している教皇へと向けた。

 海斗が聖衣を得た時と同じく、この戦いもまた教皇の元で行われる。その全てを見届けるべく教皇自身がこの場に足を運んでいた。

 

「あの二人の力は想像以上だった。見事と、本来ならば喜ぶべき事だ。聖闘士としての力量は十分にある。それこそどちらも認めても良い程に」

 

 試合を見つめる教皇に動きはない。仮面に隠された表情を、感情を読み取る事はできない。

 

「そんな二人が今、決着を付けるべく最大の攻撃を繰り出そうとしている。聖衣のない生身に向けてだ。これまでの牽制の一撃とは違う。下手をすればどちらかが死ぬ。最悪――」

 

「――二人とも、か。どうする?」

 

 やるのか、と。言葉の内にそう含ませる海斗に、アイオリアは小さく頭を振った。

 

「いや、教皇程のお方がそれに気付いていないとは思えん。言い出しておいてとは思うが……このまま静観すべきなのだろうな」

 

 そう言って視線を試合へと向けたアイオリアに対して、海斗がその視線を教皇へと向ける。

 気のせいか、一瞬ではあったが、教皇の視線が自分に向いたと海斗は感じていた。

 

「……いや、最悪の事態は想定すべきかもな。教皇が何を考えているかなど、誰にも分りはしない」

 

 感情のない平坦な声がアイオリアの耳に届く。

 表情を消し、冷徹な視線を教皇へと向ける海斗の、その初めて見せた表情にアイオリアは思わず息を呑んだ。

 

(これは――誰だ? これが海斗か?)

 

 だが、それも僅かの事。

 瞬きにも満たぬ間に、アイオリアの知る海斗へと戻っていたからだ。

 

「ん、動くぞ。二人とも、覚悟を決めたな」

 

 視線を試合へと戻した海斗がそう続ける。

 腰溜めにした両の拳に力を籠めるカシオスと、スタンスを広げ両手を大きく開く星矢。

 星矢の腕が振るわれる度に、その身から発せられる小宇宙が高まり続ける。

 

「あれは……!? 星矢の拳が描くあの軌跡は!」

 

 アイオリアが初めて見た星矢の動きにまさかと驚愕の声を上げた。

 

「そう、あの軌跡は――ペガサスの十三の星の軌跡だよアイオリア。そう、星矢の守護星座はペガサス。六年掛かってようやく目覚めたね。さあ、わたしに見せておくれよ星矢。あんたに付き合ったこの六年間が無駄じゃなかった事を」

 

 魔鈴の言葉に海斗も、アイオリアも黙って試合へと意識を集中する。

 闘技場からは音が消えていた。

 あれだけ騒がしかった歓声が、嘘のように静まり返っている。

 皆固唾を飲んで見守っていた。気付いているのだ。決着の時が訪れたのだと。

 

 

 

「来い星矢ァ!!」

 

 己の拳に全てを込めて、カシオスが星矢に向けて拳を突き出す。

 

「行くぞカシオス!! これが――俺の!!」

 

 そして、星矢の拳の軌跡が描くその先をカシオスは見た。

 青白きオーラとなって星矢の背後から立ち昇るペガサスのビジョンを。

 

「ペガサス――流星拳!!」

 

 舞い上がったペガサスは天空へと駆け上がり――カシオスへと目掛けて駆け抜ける。

 

「星矢ァああああああ!!」

 

 それはまさしく流星であった。

 一秒間に八十五発。

 その全てを受けて耐えられるはずも無く。

 

 

 

「勝者――セイヤ! 女神はセイヤを新たなる聖闘士と認めた! アテナに代りこの教皇が聖闘士の証である聖衣を与える!! 今日この場よりセイヤよ、お前はペガサスの聖闘士。ペガサスセイヤとなったのだ!」

 

 この教皇の宣言によって戦いは終わった。

 

 

 

 二百四十三年の時を経て、新たなるペガサスの聖闘士が誕生した。

 

 そして、それは新たなる戦いが幕を開けた瞬間でもあった。

 

 

 

 

 

 1986年×月×日

 ×××――×××

 

 

 

 ここは寂れた山村であった。

 時代に取り残された、その表現が最もしっくりくる、そんな村であった。

 若者たちは皆村を捨て町に出た。村に残されたのは、残ったのは老人たちだけであった。

 

 そこに居たのは年若い神父である。

 ブロンドの髪と瞳の、物腰は丁寧で穏やかな性質の青年であった。

 彼は人の話をよく聞き、その一つ一つに丁寧に、慈愛を持ってそれに応えていた。

 

「……それが、あなたが最期に望む光景ですか」

 

 望まれれば、彼は、いつも、そこに、いた。

 

 人々は彼を好いていたし、彼もまたそうであったのだろう。

 

「ならば祈り、願いなさい……その夢を。その祈りを聞きましょう、その願いを叶えましょう」

 

 このまま時の流れに従い、人知れず静かに朽ちて行く。誰もがそう思い、静かな、穏やかな終わりの時を待っていた。

 

「眠りなさい、心安らかに。眠りは何も傷つけない。何も壊しはしないのです」

 

 ベッドに横たわる老人へ、彼は瞳を閉じて手をかざす。

 彼の額にぼうっと、六芒星の紋様が浮かび上がる。

 

 そうして、この日もまた一人、穏やかに、眠るように、静かにその生を終えた。

 

 彼がいつからこの村にいるのか。

 それを知る者はいない。

 彼は神父であった。しかし、誰も彼の名を知らない。

 彼は神父であった。しかし、この村に教会は無い。

 その事に疑問を持つ者は――いない。

 

 

 

 この男を除いて。

 

 

 

「んははっ。いったいどこで暇を潰しているのかと思ったら。こりゃまた随分と“らしい”事をしていらっしゃるようで」

 

 枯葉色の混じり始めた木々の中、その光景を眺めながら、何が楽しいのか男は喉を鳴らして笑っていた。

 黒いシルクハットとスーツに身を包んだ男である。

 その手には、はち切れんばかりに張った紙袋を持っており、そこから一つ、まだ青みの勝った林檎を取り出す。

 スーツの袖口でそれを拭うと口に含み――

 

「――ッ、ペペッ。こりゃ酢っぺーな、オイ。まだちょいと早かったか」

 

 咀嚼した林檎を吐き出すと、紙袋から新たな林檎を取り出して口に含む。今度は青味の勝っていない、真っ赤に熟れた林檎であった。

 

「さ~てと、そろそろ役者も揃い始めそうだな。時期としては頃合いかねぇ」

 

 残った芯を捨て、指先に付いた果汁を舐ながら、そう呟く男の眼には暗い光が宿っていた。

 

「傷つけてくれなきゃあ困る。壊してくれなきゃあ困る。さあ、憎い憎い同胞よ。眠りを司るお前さんなら出来るだろう?」

 

 そう言って、男は紙袋から新たな林檎を取り出す。

 

「起こしてやって頂戴よ、この眠り姫を、な。文字無きシナリオの、第二幕の開演と行こうじゃねえかよ」

 

 黄金の輝きを放つ禍々しき林檎を。

 

「アドリブ、乱入、大いに結構! コイツが開幕のベルの代りだ。神も人も、全てを巻き込んだ乱痴気騒ぎを始めようぜぇ!! どいつも、こいつも、せいぜい派手に――」

 

 

 

――踊ってくれや。

 



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第26話 氷原の戦士たち!の巻

誤字修正。ご指摘ありがとうございます。


 1986年9月2日――ギリシア、アテネ市内。

 20:45――アクロポリスの丘、イロド・アティコス音楽堂。

 

 

 

 ここは、アテネの政治家であり大富豪でもあった人物の名を関した音楽堂である。

 すり鉢状の円形劇場であり、扇状に広がる32段の客席の収容人数は6,000人。亡き妻との思い出として紀元161年にアテネ市に寄付された建造物とされている古代遺跡だ。

 屋根のない屋外劇場であるが、悪天候が少ないギリシアではさほど問題にはなっていない。

 改修こそされてはいるが現在でも現役の劇場であり、様々な演劇やオペラ、コンサートなどが開かれている。

 今も、とある世界的な楽団によるコンサートが行われており、客席はほぼ満席に近い。

 荒々しくも、時には繊細に、強弱、硬軟入り混ぜて振るわれる初老の指揮者の指揮棒(タクト)が生み出すリズムに従い、演奏者が奏で、そうして生み出される一つの世界。

 最上段席から舞台を見下ろしていた海斗からは、観客たち皆がその世界に浸り陶然としていることがよく分かる。

 そうして、生み出された世界ではあったが、やがては終わりを迎えた。

 客席からの大きな拍手に包まれながら、演奏者たちが舞台を降りる。これから休憩をはさみ、第二部が始まる予定となっている。

 観客たちはこの間に感想を語り合い、次の演奏への期待を語り合うのだ。

 

「彼の指揮で演奏してみたい。この道に進む者なら誰もがそう思う」

 

 だから、であったのか。

 海斗の横で、これまで一言も発さなかったソレントが口を開いたのは。

 今日は一介の音楽生さ、と言っていたように深い橙色のジャケット姿であり、果たして誰が彼を戦う者だと認識できるのだろうか。

 

「芸術的なことはよく判らんし、上手くは言えないが……。そうだな、引き込まれる力、って言うのかな? そんな力は感じる」

 

「……それで十分さ。ああ、もうそろそろ始まるようだ」

 

 海斗の言葉に笑みを浮かべると、ソレントはその視線を舞台へと向けた。

 

 

 

 1986年9月2日――ギリシア、アテネ市内。

 22:40――アクロポリスの丘、エウメネス柱廊。

 

 

 

 アクロポリスの丘には南西麓にあるイロド・アティコス音楽堂の他にも様々な遺跡が存在する。

 音楽堂とデュオニソス劇場を繋ぐここエウメネスの柱廊もその一つである。

 そこに、丘の中央にあるパルテノン神殿を眺めながら並び立つ海斗とソレントの姿があった。

 

「誘っておいてなんだが、よくも付き合ってくれたものだと感心するよ。退屈ではなかったかい?」

 

「そうでもない。意外と楽しめたよ。それに、お前には前の時の借りがあるからな」

 

「ハハハッ。君は想像していたよりも義理堅い人物のようだ」

 

「どうかね? 借りを作ったままってのはどうにも、な」

 

 そうして、申し合わせたように二人の視線がお互いを捉え合う。

 

「で、本題は? わざわざ海将軍(ジェネラル)がアテナのお膝元までやってきて、やった事がクラッシックの鑑賞だと?」

 

「意外かな? 私にも表の生活というものがある。それに、君と出会ったのは本当に偶然だ。私としては君の人となりが分かっただけでも成果はあったさ」

 

「……本気か? いや、確かに言わんとすることは分かるが……。お前は海闘士(マリーナ)で俺は聖闘士(セイント)だ。お互い立場がある」

 

「フッ、思ってもいないことは言うべきではないな。その気であれば、君と私がこうして話をする事さえなかった」

 

 そう言ってソレントが懐から取り出したのは、青く輝く宝石をあしらったペンダント。

 まるで意思を持つかのように、青い宝石が淡く明滅を繰り返している。

 

「この宝石はアクアドロップ。我ら海闘士(マリーナ)の秘宝とも呼べる、七人の海将軍(ジェネラル)に託された秘石」

 

 その輝きに、海斗はハッとした様子で自分の胸元を見た。

 そこにはセラフィナから渡された青い宝石を加えたペンダントがあり、ソレントの持つ宝石に呼応するように輝きを増している。

 

「本当に、再び君とこうして出会えたことは僥倖だった」

 

 ソレントはアクアドロップを懐に戻すと、黄金色に輝くフルートを取り出した。静かに構える、そっと唇を歌口に当てる。

 そうして奏でられる旋律はどこまでも穏やかで、その音色はどこまでも澄んでいた。

 

「……これは」

 

 海斗が辺りを見渡せば、道行く人が足を止め、惚けたようにしてその足を止めていく。

 そしてソレントを見れば、その姿がまるで蜃気楼のように揺らめき消えようとしていた。

 

 

 

 ――いずれ、また会おう。同胞よ。

 

 

 

 

 

 第26話

 

 

 

 

 

 1986年9月3日――聖域。

 10:18――黄道十二宮第一宮、白羊宮。

 

 

 

 白羊宮内の広間。

 主である牡羊座(アリエス)黄金聖闘士(ゴールドセイント)であるムウがジャミールの結界から動かない現在、本来は無人であるこの場所に今は四つの人影があった。

 海斗とジャミールからやって来た貴鬼とセラフィナ、本来は十二宮五番目の宮――獅子宮を守護する獅子座の黄金聖闘士であるアイオリアである。

 

「ぶっちゃけると、次に壊したら――殺す、って感じ?」

 

「……ぶっちゃけたな、オイ」

 

子馬座(エクレウス)の聖衣が納められた聖衣箱(パンドラボックス)に腰掛けた貴鬼が、お手上げとジェスチャーを加えて海斗に伝える。

 

「いやー、あの時のムウ様、目が笑ってなかったもん。あれは――ヤバいね」

 

「……ヤバいのか?」

 

「……」

 

 両手で身体を抱きしめてブルブルと震える貴鬼の姿を見て、そっと目をそらすセラフィナの姿を見て、海斗は冗談ではなく本当の事だと戦慄する。

 

「まあ、そんなことはどうでもいいが、使えるのか? かなりの破損状態だと聞いていたが」

 

 どうでもよくない、と愚痴る海斗を黙殺してアイオリアが貴鬼に問う。

 

「うん。色々あって時間がかかっちゃったんだけど、か~な~り~大変だったね~。ほとんど一から作り直したようなもんだよ? 聖衣はこの中でしばらくは絶対安静、ってやつかな」

 

「絶対安静? 治ってないのか?」

 

「うんにゃ、そこは大丈夫。でも聖衣は生きているんだ。それを無理やり形を変えて、継ぎ足して、ってしてるからね。聖衣自身に新しい姿を馴染ませなきゃならないんだって」

 

「普通は、って言っても、普通の壊れた形って言うのもおかしいですけど。そういう聖衣とは違って、今回はかなり特殊なやり方で修復をされているようですから」

 

「何? セラフィナも手伝ってたのか?」

 

「はい。と言っても、ほんの少しですけど……」

 

「意外だな、どんくさいイメージだった」

 

「……兄ちゃん、兄ちゃん、ダメダメだよ。なんでそこでそんなこと言うの」

 

 アイオリアはそんなやり取りをしている三人から目を離すと、第三宮である双児宮の方を見ながら「そういえば」と、少し気になっていたことを聞くことにした。

 

「しかし、海斗よ。なぜ今更エクレウスの聖衣を必要とする? 教皇から双子座(ジェミニ)黄金聖衣(ゴールドクロス)を授けられていただろう?」

 

 今から二年前に起こったギガントマキア。そこでの活躍を認められた海斗は、教皇直々にジェミニの黄金聖闘士の資格者という立場を得ていた。

 しかし、この二年間に海斗がジェミニの黄金聖闘士として活動した記録はない。

 

「ああ、何と言うか、しっくりこない。あの時に感じた一体感が感じられないというか、どうにもズレてる感じがしてな……。上手く言えないが、今の俺にはエクレウス(コイツ)の方が合っている。そんな気がするんだよ」

 

 そう言って海斗がエクレウスの聖衣箱に触れる。

 ドクン、と。

 聖衣の鼓動が聞こえたような気がした。

 

 

 

 

 

 1986年9月3日――聖域。

 同時刻――教皇の間。

 

 

 

 教皇の前で片膝をつき首を垂れる青年。

 その後ろには水瓶座(アクエリアス)の黄金聖闘士であるカミュの姿がある。

 静まり返った教皇の間。

 その光景を遠巻きに眺める祭司たちの中には祭壇座(アルター)白銀聖闘士(シルバーセイント)でもあるニコルの姿もあった。

 

聖域(サンクチュアリ)の存在、いえ女神アテナの存在と申しましょう」

 

 恭しく頭を下げながらも、そう発する青年の言葉には確かな力が込められている。

 

「人類の平和のために不可欠であります」

 

「フム。顔を上げられよ、アスガルドの使者殿」

 

「ハッ」

 

 アスガルド。

 それは、オリンポスの神々とは異なる神話「北欧神話」における神々の王オーディンによって統べられた極寒の地である。

 

 教皇の言葉に青年が顔を上げる。

 青い真っすぐな眼差しを持って教皇を見つめていた。

 

「その様子、どうやら北欧の地にも?」

 

「人類の敵――ギガスが現れたのは、聖域だけではありませんでしたので。幸いにして、我らには戦う力がありましたが、そうでない者たちの事を思えば――」

 

 しかし、神話の時代よりオーディンは地上に降臨していない。

 現在では“オーディンの地上代行者”と呼ばれる者がアスガルドを統べていた。

 ここ数百年は代々の地上代行者が“アスガルドの平穏”を重視していた事もあり、地上世界との間に大きな戦乱などは起ってはいなかった。

 

「今、再び神々の戦いが起こるような事になれば、人類の絶滅は必至。避けなければなりません。なにがなんでも!」

 

 青年の拳が僅かに震えていた。

 それは義憤か、それとも悔恨か。

 

(少なくとも……、彼は善性の人なのだろうな。しかし……)

 

 青年の姿を見ながらニコルが思うのはアスガルドの伝承と、この謁見が意図するものだ。

 

「故に、教主ドルバルは私――フレイに命じられました」

 

 聖域とは年に数回、互いに使者を送る程度の関係はあるが、基本的に“互いに不干渉”であったのだ。

 

「この地上を脅かす邪悪に対し、アスガルドは――」

 

 アテナに聖闘士(セイント)があるように、オーディンにも神闘士(ゴッドウォリアー)と呼ばれる戦士がいる。

 神闘士は神闘衣(ゴッドローブ)と呼ばれる聖衣に似た鎧を身に纏い――

 

「――聖域と手を取り合い、共に戦う事をお約束します」

 

 ――“アスガルドの平和のために”戦うのだという。

 

 

 

 

 

『夏が来ることなく、三度の冬が続き――』

 

『世界は、恐怖の戦争に突入する――』

 

『その時、人々は――』

 

『兄弟といえども殺し合い――』

 

『世界は、もがき苦しみ――』

 

『他人を思いやる者など、誰もいない――』

 

『狼の世となる――』

 

 

 

 

 

 1986年9月3日――東シベリア

 12:08――東シベリア海沿岸地域

 

 

 

 北極海の縁海の一部であり、一年の大部分が氷に覆われた極寒の地。

 風雪が途絶えるわずかな時間。

 そこに、厚い氷に覆われた大地の上に立つ少年の姿があった。

 ブロンドの髪と青い瞳の少年である。

 名は氷河(ヒョウガ)

 日本人の父とロシア人の母の間に生まれ、城戸光政の命によって集められた百人の孤児の一人。

 

 氷河は懐から取り出した一輪の花を咥えると、じっと氷の大地を見つめる。

 五分か、十分か、あるいは、もっと短かったのかもしれない。

 おもむろに、氷河は握りしめた拳を氷の大地へと叩き付けた。

 轟音とともに砕け散る氷の大地。

 そこに作り出されたのは、深さ数メートルはあろうかというクレーター。

 そこから覗くシベリアの海へ、氷河は迷うことなく飛び込んだ。

 普通の人間であれば、15分もあれば死んでしまう極寒の海に、氷河は毎日こうして氷の大地を砕き、1時間近くを海底で過ごしていた。

 

 普通の人間に出来る事ではない。

 厚い氷の海に沈む船の中、幼き頃に見た姿のまま、変わることなく眠る母親の側にいるために。

 その力を得るために、氷河は聖闘士となったのだった。

 

 

 

「お~い、ヒョウガ!」

 

 日課を済ませ、海底から氷原へと戻った氷河の耳に聞きなれた声が届く。

 

「ヤコフか。ここには来るなと何度も言ったろう」

 

 やってきたのは氷河の見知った子供だ。

 名はヤコフ。氷河が世話になっているコホーテク村で暮らす7歳の少年であった。

 

「わかってるよ。ヒョウガのママがねむる聖なる場所だというんだろ? また二ホンから手紙が来てたから、持ってきてやったんだ」

 

 そう言ってヤコフが手紙を差し出すが、氷河はそれを一瞥するだけで受け取ろうとはしない。

 

「それはグラード財団からの手紙だ。前にも言ったが、財団からの手紙は放っておけ」

 

「ダメだぞ。手紙はちゃんと読まなくちゃ」

 

 ほら、とヤコフから手紙が押し付けられる。ここで「いらん」と言えれば、とは思うが……。

 

「……まったく」

 

 こうして受け取ってしまうからダメなんだろうとは、氷河自身も分かっている。

 

「よし。ちゃんと読むんだぞ?」

 

「分かった、分かった。後で読む」

 

 どうせ中身は変わり映えのしない文章だろうがな、と。

 さっさと聖衣を持って日本へ来い。要約すればこうだ。

 どうやって自分が聖闘士の資格を得たことを知ったのかは分からないが、それでも財団にも分からなかったことがあるらしい。

 

(ご苦労なことだ。しかし、残念だがな、聖闘士の資格は得たが、オレはまだ聖衣を与えられてはいない。これでは日本には行けないだろう?)

 

 そう思いながら手紙をポケットに仕舞おうとして、氷河は自分に向けられる幾つもの視線に気が付いた。

 周囲を見渡すが、視界に入るのは一面の氷の世界。

 

「……ヤコフ、悪いが今日は先に帰っていろ」

 

「ヒョウガ? う、うん。わかったよ」

 

 何もない。何も見えないが――確実に、何かがある。

その予感を氷河は信じた。

 そんな氷河の緊張を感じ取ったのか、ヤコフは何度か氷河へと振り返りながらも村へと帰って行った。

 

 

 

「これでいい。後は、三、いや、この視線は……四人、か。しかし、どこから――」

 

 その瞬間、氷河の足元に亀裂が奔った。

 

「!? 下かッ!!」

 

 ――フハハハハッ、その通り!

 

 その場から咄嗟に飛び退いた氷河が見たものは、氷の大地を噴き上げて飛び出してくる四つの影。

 それぞれが、聖衣にも似た青く輝く鎧を身に纏った男たち。

 

「貴様ら、何者だ!」

 

 身構え、誰何する氷河に対し、男たちが答える。

 

「オレたちは永久凍土の地」

 

「ブルーグラードの民よ」

 

「そして、オレたちはそのブルーグラード伝説の戦士――」

 

 

 

 ――氷戦士(ブルーウォリアーズ)なのだ!!

 

 



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第27話 伝説の戦士!その名はブルーウォリアーズ!の巻

脱字修正です。ご指摘ありがとうございます。


 しんと静まり返った氷原に風が吹いた。

 空気中に漂う水分が結晶化し、キラキラと輝くその様はまさしくダイヤモンド。

 

「昔――我が兄弟子である水晶聖闘士(クリスタルセイント)から聞いたことがある」

 

 対峙する氷河と氷戦士たちを包み込むように舞い上がる。

 

「神話の時代、北極を中心に君臨した最強の軍団だと。その拳は空を裂き、蹴りは大地を割る、アテナの聖闘士にも劣らない、それ以上の存在だった、と。しかし、ブルーグラードの民はその極寒的気象条件のために数世紀前に絶滅したと聞いている……」

 

「極寒的気象条件だと? フフフッ、おかしなことを言う」

 

「我らは永久凍土に生きるブルーグラードの民」

 

「伝説の戦士氷戦士(ブルーウォリアーズ)よ」

 

「滅びてなどいない。現に、我らはこうしてここにいる」

 

 そう言って不敵に笑う氷戦士たち。

 こちらを明らかに見下している。そのあからさまに侮蔑の込められた視線に対し、しかし氷河は激昂するでもなく、淡々と問い返す。

 

「それで、その伝説の戦士サマが、一体オレに何の用があるというのだ?」

 

「……貴様ッ!」

 

 言葉の内に馬鹿にされたと感じ取ったか。一歩踏み出した男を「よせ」と、止めた者がいた。

 背後から聞こえた声に、氷河が僅かに視線を向ける。

 

「アレクサー様!」

 

「な、なぜ、あなた様がここに!?」

 

 アレクサーと呼ばれた青年は、その視線を男たちへと向け、そして氷河を見た。

 氷河もまた青年を見る。

 額には黄金に輝くサークレット。身に纏う青く輝く鎧には細やかな装飾がなされ、男たちの纏う鎧とは明らかに格が違う。

 その身に纏う雰囲気にも、どこか優雅さが、気品が感じられた。

 なによりも、特徴的なのはその鋭い視線であった。決して揺るがぬ力強さ、絶対の自信が込められた、言うなれば王者の目だ。

 

「氷河よ、お前のことは調べさせてもらった。オレたちは力ある者を求めている。お前の力が必要だ、同志になってくれるか?」

 

 そう言って、アレクサーの手が氷河に差し出された。

 

「同志……だと?」

 

 しかし、氷河がその手を取ることはない。

 

「オレのことを調べたと言ったな。ならば、答えは聞かずとも分かり切っているはず。オレは、アテナの聖闘士だ」

 

「そうか……。嫌なら、死んでもらわねばならんのだがな。もう一度聞くぞ、氷河――」

 

 ――お待ちを! アレクサー様!!

 

 その時、この場にいた四人の氷戦士たちが氷河とアレクサーの間に割って入る。

 

「アレクサー様のお誘いを断るとは、何たる無礼者!!」

 

「この男、未だ聖衣を与えられてすらおらぬ半人前!」

 

「このような者の手など借りずとも、我らが力があれば!!」

 

「身の程を分からせねばなりません!」

 

 氷戦士たちから青白く立ち上る小宇宙。

 その様子にアレクサーは「仕方あるまい」と、小さく頭を振った。

 

「すまんが氷河よ、オレの言葉だけでは納得できぬらしい」

 

 身構える氷闘士たちを前にして、氷河は一言「構わん」と告げた。

 

「カビの生えたお前らのような戦士に……それができるのなら、な」

 

 その言葉が合図となり、氷戦士たちが次々と氷河に襲い掛かる。

 ある者は拳で、ある者は蹴りで、ある者は凍気を纏い、ある者は組技を狙い。

 各々が繰り出す技の全てに氷河は応じて見せた。

 

「ほう」

 

 アレクサーが感嘆の声を漏らす。

 

「まるで――白鳥の舞ではないか」

 

 受け、いなし、捌き、躱す。無駄のないその流麗な動きには、思わず目を見張る美しさがあった。

 

「馬鹿な!?」

 

「くッ、貴様ッ!!」

 

 予想だにしなかった状況にたじろぐ氷戦士たち。もはやその目には氷河を見下していた侮蔑の色はない。

 そこにあるのは――敵意。

 追撃を仕掛けるでもなく、ただじっと自分たちを見つめる氷河に対し、このままで終わらせられるかと、各々が渾身の一撃を繰り出そうと身構える。

 

 雪が降っていた。

 降り注ぐ氷の結晶がその数を増し、足元から這い上がる耐え難い冷気に氷戦士たちがその動きを止めた。

 氷河の右手が動き、その人差し指が氷戦士たちに向けられる。

 気付けば、氷戦士たちは氷の結晶が生み出す光のリングにその身を拘束されていた。

 

「この氷河の修める闘法の神髄は拳や蹴りにあるのではない、凍気よ。そして、お前たちの身体を拘束するそれは“氷の輪(カリツオー)”。もはや、指一本動かすことは出来ん」

 

「くッ、くく……」

 

「ぐ、ぐむぅううう」

 

「あ、アレクサー様……」

 

 狼狽し、呻き声を上げる氷戦士たち。

 それに対してアレクサーが行ったことは、氷河への拍手であった。

 

「見事だ氷河。それでこそオレが目を付けただけのことはある」

 

「……アレクサーとやら、お前の魂胆は分かっている」

 

 氷戦士たちからアレクサーへと、視線を向けた氷河が続ける。

 

「南下して他の土地を侵略するのが目的だな? そうすれば、アテナの聖闘士とぶつかり合うのは必至。その前に一人でも多くの聖闘士を始末するつもりなのだろう。さしずめ、オレはその為の撒き餌だ」

 

「フッ、そこまで見抜いているのならば、もはや説明は不要だな。しかし、一つだけ訂正しておく。お前を同志に加えたいという言葉に嘘はない。未だ未熟ではあるが……その才能、消すには惜しい」

 

「抜かせ、アレクサー! 未熟かどうか、受けてみろ! この氷河の拳を!!」

 

 氷河の身体から白銀の小宇宙が立ち上り、氷原に大小無数の氷の結晶が舞い踊る。

 

「“ダイヤモンドダスト”!!」

 

 突き出された拳からアレクサーに向かって白銀の世界が迫る。

 それは、眠りと死を運ぶ氷原の風(ダイヤモンドダスト)。全てを凍らせ打ち砕く必殺の拳。

 

「氷河よ、言ったはずだ。我らは神話の時代よりこの永久凍土の地で生きてきた民。この程度の凍気では、オレを倒すことなど不可能」

 

 その白銀の世界を、アレクサーは何の障害もないとばかりに歩みを進める。

 ここで、初めて氷河がその表情に動揺の色を見せた。

 

「な、なにい……。ダイヤモンドダストをまともに浴びて微動だにもしないとは……」

 

「言ったはずだ、未熟、とな。しかし、オレ以外の者であれば倒されていただろう。やはり、消すには惜しい才能よ」

 

 アレクサーから立ち上る小宇宙が、再び氷原にダイヤモンドダストを巻き起こす。

 

「よく見るがいい氷河よ。凍気とはこう扱うのだ。吹き荒べ氷原の風よ――“ブルーインパルス”!!」

 

 突き出された拳から氷河に向かって白銀の世界が迫る。

 

 

 

 その日、氷河がコホーテク村に戻ることはなかった。

 

「遅いなヒョウガ。なにしてるんだろ? せっかくのペリメニが冷めちゃうぞ」

 

 ヤコフは氷河を待った。

 次の日も、その次の日も。

 

 

 

 

 

 第27話

 

 

 

 

 

 1986年9月3日――聖域。

 12:08――黄道十二宮第一宮、白羊宮。

 

 

 

 積もる話もあるだろうと、アイオリアが立ち去り三人だけとなった白羊宮。

 腹が減ったと騒ぎ出した貴鬼に、なら外で飯でも食うかと、海斗が思案していた、そんな時であった。

 

「――戻っていたか海斗」

 

「ん? ああ、久しぶりだなカミュ」

 

 海斗に声を掛けたのは、白羊宮の奥、つまりは教皇の間から降りてきたカミュであった。

 その隣にはアスガルドの使者であるフレイの姿もある。

 海斗の訝しげな視線に気が付いたのか、口を開こうとしたカミュより早く、フレイが一歩前へと進み海斗に向かって軽く頭を下げた。

 

「フレイと申します」

 

 穏やかに微笑みを浮かべるその姿は、聖域ではあまり見られない珍しいものだ。

 

「フレイ殿はアスガルドからの客人でな。フレイ殿、彼が……」

 

 一瞬、どう紹介するべきか迷ったカミュであったが、海斗の側にエクレウスの聖衣箱があるのを確認すると――

 

「――エクレウスの海斗」

 

 そう呼ぶことにした。

 カミュの紹介に会釈で返そうとした海斗であったが、そこでカミュの様子がおかしい事に気が付いた。

 幾人からは「冷静沈着が服を着て歩くのがカミュ」と、陰で呼ばれているカミュが珍しく驚きの様子を浮かべていたからだ。

 その視線を追えば、そこには目を輝かせて自分を見るフレイの姿。

 

「おお! あなたがあのエクレウス!!」

 

 興奮気味に海斗の手を取るその姿は、まるで憧れのアイドルに街中で出会った熱狂的なファンである。

 

「いや、何が“あの”なのかは分からんが……エクレウス違いじゃないか?」

 

「ギガスの本拠地に単身乗り込み、囚われの巫女を救い出し、あの悪神たちの野望を打ち砕いた――真の聖闘士!!」

 

「……真の聖闘士? 待って、“あの”エクレウスさんって、貴方の中で今そんなことになってるの?」

 

 ぐいぐいと迫ってきて、やれ勇気だの愛だの正義の戦士だのと持ち上げられる。

 嫌味か何かとも思ったが、信じられないことにフレイの目はマジだ。

 100パーセントの善意による発言。それが分かるだけに無碍にもできず、助けを求めて周りを見れば、三人ともが距離を取り、誰一人目を合わそうともしない。

 100パーセントの私情による行動だっただけに、こうも手放しで褒め称えられては、居た堪れなさが半端ない。

 

「なるほど、あれが正しく“褒め殺し”というものか」

 

 やかましいぞカミュ、と。聞こえてきた呟きに内心で怒鳴り返した海斗は、今日の昼飯は何にするかと現実逃避をすることに決めた。

 

 

 

「すみません、昔から興奮すると周りが見えなくなってしまいまして……」

 

「……ああ、そう」

 

 海斗が現実に戻ったのは五分ほどが過ぎた頃であった。

 これを長いとみるか、短いとみるかの判断は人それぞれであろう。

 少なくとも、ぐったりとした様子を隠そうともしない海斗にとっては、永遠とも思える長さであったことに間違いはない。

 そんな海斗に、話は終わったなと、涼しい顔でカミュが話し掛ける。

 

「少し頼まれて欲しいことがある。東シベリアに行ってもらいたいのだ。私は暫く聖域から離れる事が出来なくなるのでな」

 

「……お前、人を見捨てておいて、よくそんなことが言えるな。で、いつだ? まさか、今すぐ行け、ってことはないよな? ……ないよな?」

 

「早いに越したことはないが、今すぐとは言わん。実は、私の弟子である氷河についてだ」

 

「氷河? 日本から送り込まれた、あの氷河のことか?」

 

「お前と氷河の縁については知っている。それも踏まえての話でもある。氷河は聖闘士の資格こそ得ていたが、未だ聖衣は与えられてはいなかった。それが、先ほど教皇からお許しを頂けたのだ」

 

「そうか、これで氷河も聖闘士か。オレと星矢と氷河とアイツで四人は聖闘士になった。少なくとも百分の四は確定か。ああ、悪いな独り言だ。それで、その聖衣を届けるんだな? どこにあるんだ?」

 

「東シベリアにある、とある永久氷壁の中だ。場所は氷河も知っているが、念のためだ。詳しくはこれを見てくれ」

 

「分かった。おい、貴鬼?」

 

 海斗はカミュから渡された地図をしまい、了承を返すとどこでも行ける扉(貴鬼)の姿を探す。

 白羊宮内を見渡すが、それらしい人影は見えない。

 セラフィナを見れば、白羊宮の外を指差していた。

 そこには、いつの間にやら白羊宮から下の広場へ向かって駆け下りて行く貴鬼の姿があった。

 振り返った貴鬼と海斗の視線が合ったのも一瞬の事、べー、と舌を出して貴鬼がその姿を消した。貴鬼の特種能力の一つ、瞬間移動(テレポーテーション)である。

 

「チッ、逃げたか。勘のいい奴め」

 

 小宇宙を燃やし、超常の力をふるう聖闘士であるが、こういったいわゆる超能力と称される力を扱えるものは少ない。

 変則的なものなら海斗も扱えなくもないが、行先は異次元でどこに出口があるかなど本人にも分からない代物だ。そんなもので移動しようなど正しく狂気の沙汰である。

 閑話休題。

 

 さて、今の海斗に与えられている使命は、十数年前に聖域から持ち去られたとされる射手座の黄金聖衣の捜索である。

 その事もあり、海斗はこの聖域の中である程度自由に動く事が出来る、数少ない聖闘士の一人であった。

 

「用意して明日には出ることにする。そうか、氷河に会うのは六年振りになるか」

 

「東シベリアに行かれるのですか?」

 

 すると、これまで黙って成り行きを見ていたフレイがこう言った。

 

「実は私も東シベリアに用があったのです。よろしければ、途中まで同行させて頂けませんか?」

 

「ん? 俺は別に構わないが。一応、用件を聞いても?」

 

「ありがとうございます。実は、東シベリアのさらに奥にあるというブルーグラードの地に行かなければならないのです」

 

 えっ、と。

 ブルーグラード。その言葉を聞いて、これまで話に加わらなかったセラフィナが反応を示した。

 

「既にご存じかもしれませんが、近年彼の地にて伝説の氷戦士(ブルーウォリアーズ)が復活したと聞きます。出来れば彼らにも来るべき邪悪との戦いに備えて協力をお願いしたいのです。それがかなわずとも、ブルーグラードはかつて知の宝庫と称された場所。何かしら、有意義な文献でも残っていれば、とも思っていますが……」

 

 フレイの言葉に、後半が本当の目的なんじゃないのかと、海斗はちらとカミュを見た。

 

「フレイ殿の言われることは正しい。ブルーグラードは、確かにそう言った面も持った地であると言われている。これは、イオニア老の受け売りだが」

 

「そういえば、ここ数年あの爺さんを見てないが……。まさか、まだ謹慎してるのか?」

 

「ああ、本人が一向に出て来ようとはしないらしい」

 

 困ったものだ、と。

 海斗とカミュが本題とは外れた会話に進み始めたが、そこに「あ、あの!」と、割って入る声があった。

 何事かと海斗が見れば、普段控えめなセラフィナらしからぬ、どこか切羽詰まった様子である。

 

 

 

「私も――ブルーグラードへ連れて行って頂けませんか?」

 



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第28話 氷原に降り注ぐ流星!の巻

 1986年9月6日――東シベリア

 10:38――コホーツク村より南東10キロ付近

 

 

 

「我々はここまでとなります。二日後の現地時間ヒトヨンマルマルに――」

 

「ああ、万一合流できなかったら――」

 

 シートから腰を上げたセラフィナが、膝をつき合わせそうな狭い機内を移動してドアを開けた。すると、びゅうと、冷たい風が一気に機内に吹き込んでくる。

 慌てて扉を閉めなおすと、彼女は防寒着のフードの位置を確認しながら同乗者たちの様子を見る。

 ちらりとこちらを一瞥した海斗は、大したことではないと分かると運転席のパイロットとの打ち合わせを再開した。

 向かい合うように座っていたフレイは、気付いていないのか、出発してから今までの間じっと目をつむったまま、身体を覆うローブの裾をつまみ、ブツブツと何かよく分からない言葉を呟き続けている。

 この高さで堕ちれば、とか。人には空を飛ぶ翼はない、とか。

 搭乗した時からそうではないかと思っていたが、飛行機がダメなようだ。

 

「あの、フレイさん? 到着しましたけど、本当に大丈夫ですか?」

 

「……ええ、大丈夫ですが? ええ、何も問題ありませんが?」

 

 そう答えるフレイの顔色は真っ青で、表情は死んでいる。

 問題しかない。

 出会って数日ではあるが、初対面の凛々しい印象は最早無く、セラフィナの中でフレイは“なんとなく残念な人”とカテゴライズされている。

 

「――何をやってんだ? ほら、降りるぞ」

 

 海斗はそう言って防寒着を羽織ると、手慣れた様子で扉を開く。吹き込む風に僅かに眉を顰めたが、特に何も言うでもなく外へ出た。

 

 

 

 けたたましいエンジン音と風を切るプロペラの音を聞きながら、両翼の変向プロペラを稼働させて上昇していく機体を眺めていたセラフィナであったが、「行くぞ」と掛けられた声に振り返ると杯座(クラテリス)の聖衣箱を背負い直して先を行く二人の後を追った。

 

「それにしても、聖域は随分と、その、近代化が進んでいるのですね?」

 

アレ(VTOL機)のことか? 出所は聖域の支援組織である、とある財団の所有物らしいな。俺たちみたいな存在は一般には秘匿されている、とは言っても、人がロケットで月へ行くような、科学技術の発達したこのご時世だ。神話の時代じゃあるまいし、一般社会に関りを持たない、ってのは無理な話だ。だったら使える物は使うさ。楽ができるに越したことはない」

 

「聖域関係者で科学技術に対してそこまで割り切って考えている人は、海斗さんぐらいしかいないと思いますけど?」

 

「そう……ですね。アスガルドも似たようなものですよ。人の生み出した叡智、科学技術そのものを否定するつもりはありませんが……」

 

「ま、この辺の感覚は生まれ育った環境の違いだろうな。俺と同郷の奴らなら、だいたい似たようなことを言うと思うぞ?」

 

「二ホンでしたか。世界的にもかなり裕福な国でしたね。冬に凍える者もなく、飢えに苦しむ者もない、と聞きます」

 

 アスガルドはあまり裕福な地ではありませんから、と。フレイが苦笑交じりに呟いた。

 

「大多数は、な」

 

 海斗はそう返しながら、その大多数に入れなかったのが城戸光政に集められた俺たちだけどな、とは続けなかった。

 今更な事でもあるし、聞かされて楽しい話でもない。

 海斗自身が一度は死んだ人間である。ある種の開き直りではあるが、今の生を、過去も含めて特に不幸だとは思ってはいない。

 

(……そういう点では、俺はあいつら(百人の孤児たち)の思いに、本当の意味で共感することはできないんだろうな)

 

 さすがに話が変な、重い方向に行ったな、と。話題を変えるかと考えるが、特に面白いネタもない。

 微妙な居心地の悪さを残しながら、それでも足を止めることなく針葉樹林の森の中を歩き続けることしばらく。

 

 冷たく澄んだ水の流れる川を超え、森を抜け、小高い丘を越えた先、切り開かれた白銀の中に目的地であったコホーツク村が見えた。

 

 昼食の用意をしているのか、暖を取るためか、多くの家々から白い煙が立ち昇っている。

 

 村の中心、広場と思われるそこには、老若男女問わず多くの村人たちが集められ、彼らを取り囲むように青い鎧を身に纏った男たち――氷戦士の姿があった。

 

 抵抗したのであろう。氷戦士たちの前には、呻き声を上げて蹲り、倒れ伏す村の男たちの姿があり、女子供は肩を寄せ合い、老人たちがその前に立つ。

 

 氷戦士の一人が、前に出た村の代表らしき老人の胸ぐらを掴み上げると、村人たちに見せつけるように吊るし上げ、声高に叫んだ。

 

 ――氷の聖衣はどこだ、と。

 

 

 

 

 

 第28話

 

 

 

 

 

 ヤコフという少年は、このコホーツク村にあって特別何かに優れた少年というわけではない。

 どこにでもいる7歳の子供だ。

 強いて言うならば、過酷な生活環境と限られたコミュニティの中にあって、数少ない子供であるヤコフは村の皆から愛されて育った、というところか。

 そしてもう一つ、少年は、少年が憧れる正義の味方(ヒョウガ)の側で、その成長を、強さを常に見続けていた。

 しかし、頼りにすべきヒョウガはいない。ならばどうする。

 村の皆を守りたい。ヒョウガならどうする。

 

「見ての通りだ、この村には何もない! 氷の聖衣など知らん!! 食料でもなんでもくれてやる、これ以上村の者に手を出すでない!!」

 

「クククッ、そうか知らんか。これは困ったなぁ、老人は物忘れが激しいからなぁ?」

 

「な、何を……!? ぐぅあああああ!!」

 

「ああ、村長!!」

 

「こうすれば思い出すか? フハハハハッ。どうした、思い出せんのならば他の奴に聞くだけだぞ?」

 

「……お、お前たち……いったい、何が、もくてき――」

 

「――(ひかり)よ。我らはこの力によって陽の当たる場所を手に入れるのだ! それこそが我らが悲願! 古の盟約? 祖先の罪? そんな下らぬモノのために、今を生きる我らがなぜ!? この永久凍土の地で、誰に知られるでもなく、影のようにひっそりと暮らさねばならんのだ!!」

 

 今、まさに目の前で悪者に祖父が苦しめられている。

 胸ぐらを掴まれて、吊るし上げられている。

 

「やめろーッ! じいちゃんを放せ!!」

 

 無我夢中だった。

 勝てるとか勝てないではなく、ただ祖父を助けたい。その思いのまま、少年は目の前の悪者へと挑みかかった。

 パチンパチンと、ヤコフの手が氷戦士の男の足を叩く。

 子供のヤコフの手では、どんなに頑張っても男の足を覆う鎧の部分を叩く事しかできない。通じるはずもなく、叩き続けるヤコフの手の方が赤く腫れあがる。

 

「何だ、この小僧は?」

 

 男は村長を物のように放り捨てると、冷たい視線でヤコフを見た。

 

「そうか、お前はあのジジィの孫か? ちょうどいい。おい、ジジィ! この小僧を殺されたくなければ、聖衣の在りかを話せ! 正直に、だ!!」

 

 男がヤコフを掴み上げ、空へと向かって放り投げた。その光景に村人たちは悲鳴を上げる。

 

「うわぁああああああああ――」

 

「おい小僧、大人に逆らうとどうなるのか――教育してやろう!!」

 

 

 

 ――お前を、な。

 

「――!?」

 

 身体が破裂した。

 意識を失う瞬間、男が感じた衝撃がそれだった。

 

 海斗の一撃によって身に纏われた鎧が砕け散り、破片をまき散らしながら男の身体が吹き飛ばされた。

 宙に放り投げられたヤコフは杯座(クラテリス)白銀聖衣(シルバークロス)を身に纏ったセラフィナによってそっと受け止められ、その手がヤコフの赤く腫れあがった手に触れると、まるで時を巻き戻すかのように癒やしていく。

 そして、村人たちを守るように、フレイが氷戦士たちの前に立ち塞がった。

 

「実際に見てみないと分からないものだ。伝説にあるブルーグラードの氷戦士(ブルーウォリアーズ)は、この氷原を守る誇り高き戦士の一族とも聞いていた。しかし、どうやら伝説は誤りだったようだな。力なき民をいたぶるその所業、醜悪すぎて――見るに堪えん」

 

「貴様ら、何者だ!?」

 

「我ら氷戦士を愚弄するかッ!!」

 

「いや、あの女の身に纏っている鎧――あれは聖衣だ! 聖闘士だ!! ならば貴様ら、聖域の者かッ!?」

 

 突如現れた乱入者に、村人たちを囲っていた他の氷戦士たちが集まってくる。村の外にも居たのだろう。その数は二十人近い。

 

「なあ? 一人か二人、口が利ければ十分か?」

 

「そうですね。どう見ても彼らは“使われる側”です。大した情報は持っていないでしょうから。それで十分かと」

 

 しかし、それを前にしても海斗とフレイに動揺した様子は微塵もない。

 二人がするのは相談ではない。確認だ。

 

「聖衣もない生身の分際で!」

 

「我らをなめるな!! ひねりつぶしてくれるわ!!」

 

 海斗とフレイ、二人のやり取り。その意図を理解し、憤慨した氷戦士たちの目には、もはやヤコフや村人たちは映っていない。

 

(――釣れた)

 

 この状況で海斗たちが最も恐れたのは、村人たちを人質に取られることにあった。

 即席ではあったが、よくもフレイが乗ってくれたと海斗は内心安堵する。

 これで、後は叩きのめすだけ。

 そう考えていた海斗の横を通り過ぎる影があった。セラフィナだ。

 普段のおっとりとした様子はなりを潜め、今は厳しい表情で氷戦士たちを見つめていた。

 

「……貴方たちが、どのような思いでこの地で暮らしてきたのか。それは、私には分かりません。でも、それでも、何かを奪い、力無き者を踏みにじってまで進もうとする、貴方たちのやり方は――間違っています!」

 

 怒りだけでもなく、悲しみだけでもない。セラフィナ自身が湧き上がるこの感情を、思いを理解できていない。ただ、心の内から出た言葉を叫んでいるだけだ。

 そう、間違っているのだ。太陽はどんな地にだって光を落とそうとしている。その光りある場所へ出ていくのは、ブルーグラードに春を呼ぶためだ。

 痛みを、悲しみを広げるためであってはならない。

 

 それは、我らの苦しみを知らぬ、温い世界に生きてきた者の語る――綺麗ごとだ。

 この場にいる氷戦士たちの誰しもが思い、しかし、誰しもがその言葉を口にすることはなかった。

 

 セラフィナが――涙を流していたからだ。

 それは、悲嘆の涙であった。

 

「……最早、最早止められんのだ! 我らはあのお方と共に、力によってこの道を行くと決めたのだ!!」

 

「我らは言葉では止まらぬ!! 間違っていると言うのならば、力でもって証明して見せろ!!」

 

「止めて見せます――この光で!!」

 

 天に向かって掲げられたセラフィナの両手に、高められた小宇宙が光の粒子となって集まる。

 それは、まるで夜空に浮かぶ星々の煌めき。

 

「――“スターダスト・レイン”!!」

 

 振り下ろされるセラフィナの両手と共に、星々の煌めきが流星と化して、この地に立つ全ての氷戦士たちに降り注いだ。

 

 

 

 

 

「正直に言えば、儂らもあの者たちの気持ちが……分からないわけではないのだ」

 

 氷戦士たちとの戦いが終わり、村人たちの手当ても終わった。

 幸いにして、彼らの中には重症と言えるものはおらず、治療を終えると各々が日常の生活へと戻って行く。

 セラフィナによって倒された氷闘士たちは、今は村から少し離れた所に集められていた。そこで彼女によって手当てを受けている。そこにはヤコフの姿もあり、セラフィナを手伝っていた。

 海斗に殴り倒された男だけは未だ目を覚ましていないが、それを除けば誰もが皆、まるで憑き物が落ちたかの様に大人しく従っていた。

 

 あの様子なら問題はないかと、海斗とフレイは村長から詳しい経緯を聞いているところであった。

 

「理由を聞いても?」

 

「古の盟約に縛られているのは我らも同じなのだ、若き聖闘士。この村に住むほとんどの者は知らぬことよ」

 

「察するに、貴方がたはブルーグラードの監視役、と言ったところですか?」

 

 フレイの言葉に村長が頷く。

 

「その使命を知る者は儂を含めてごく一部しかおらぬ。そして、もう一つが――」

 

「……氷の聖衣。永久氷壁に眠る白鳥座(キグナス)の聖衣」

 

「そこまで知っておるか。そう、あの氷の聖衣を真に相応しき者に託すことこそが聖域と交わした、もう一つの使命」

 

 そう言うと、村長は上着を脱ぎ、上半身裸になると海斗に背中を向けた。

 

「これが代々伝えられてきたモノよ」

 

 その背中には何かの所在を示す――地図が彫られていた。

 

「それで、あの氷の聖衣を与えられることとなったのは、お主か?」

 

「いや、俺じゃない。多分知っているだろうが――氷河だ。俺はあいつに聖衣を授けるように頼まれただけだ」

 

 海斗は懐からカミュから渡された手紙を取り出すと、上着を着なおした村長に手渡す。

 村長は、その内容を一瞥すると「氷河か」と、納得した様子で海斗へと返した。

 

「それで、今更なんだが。村長は氷河がどこにいるか知らないか? ブルーグラードがおかしな動きをしている以上、早いとこアイツに聖衣を渡したいんだが」

 

「うむ、それが儂にも分からんでな」

 

「ヒョウガを探してるのか? ヒョウガはこの三日間、村に帰ってきていないんだ。マーマのところにも姿を見せてない」

 

 氷河という言葉が聞こえたのだろう。

 海斗たちのもとにヤコフがやってきてそう言った。

 

「マーマ? よく分からんが、少なくともこの三日間は姿を見ていない、と?」

 

 うんと頷くヤコフ。

 少し、まずいかもしれませんね、と。ヤコフに聞こえないようにフレイが海斗に対して呟いた。

 かもな、と。海斗は頷くと氷戦士たちのもとへ向かう。

 

 手当てが一段落ついたのか、海斗に気が付いたセラフィナが駆け寄ろうと一歩を踏み出したところで――よろめいた。

 咄嗟にその肩を掴んで身体を支えた海斗であったが、「セラフィナ」と、声を掛けても反応がない。

 そういえば、癒しの力はかなりの消耗を強いたはずと、「大丈夫か」と、彼女の顔色をうかがおうと顔を近づけた海斗だったが――

 

「だ、だいじょう――あ痛ッ!?」

 

「んガッ!?」

 

 急に頭を跳ね上げたセラフィナの、意図せぬ頭突きをまともに喰らい、鼻を抑えて蹲る。

 超常の力を振う聖闘士とはいえ、油断したところに良い一発をもらえば……痛いものは痛い。

 

「あ、あ、あああ、ごめんなさい、ごめんなさい!」

 

「……いや、いい。元気なら良いんだ、うん」

 

 あたふたと取り乱すセラフィナの姿を見て、海斗は内心ほっとしていることに気が付いた。

 氷闘士たちに見せた、あの時のあの様子。セラフィナであってセラフィナではなかった様なあの感覚。

 あれではまるで、ギガスと戦っていた時の、もう一人の自分の意識が浮かんだ時の己自身の様ではなかったのか、と。

 

(とりあえず、今は、そのことはいい。それよりも――)

 

 海斗は側にいた一人の氷闘士の前に立つ。

 

「聞きたいことがある。お前は、氷河という聖闘士の行方を知っているか?」

 

(こっちについては、状況はおそらく黒。最悪に近い)

 

「……知っている。ブルーグラードの地下牢に捕らえられていた。しかし、あの男は今頃――」

 

 

 

 ――処刑されているだろう。

 



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第29話 氷河を救え!潜入ブルーグラードの巻

 夢を夢だと認識できる。それを明晰夢と言ったか。

 東シベリアの凍り付いた海を、自分と共に眺めている少年の姿を見て、氷河は「ああ、そうか」と、これがそうかと理解した。

 

「ん、どうした氷河?」

 

「……いや、何でもない」

 

「そうか?」

 

 そう言うと、少年はその眼差しを再び海へと向ける。

 

 黄金聖闘士、水瓶座のカミュには氷河を含めて三人の弟子がいた。

 その高い実力と高潔な精神を認められ、八十八の星座を守護にこそ持たぬものの、エレメントという自然現象から抽出された特殊な聖衣を与えられた水晶(クリスタル)聖闘士。

 氷河より一年早くカミュのもとで学んでいた、いわば兄弟子にあたる少年――アイザック。

 氷河とアイザックは育った環境こそ違うが、年齢も近く、師のように清く正しく真の強さを持った聖闘士になりたいと、同じ志を持ち切磋琢磨し合ったライバルであり親友であった。

 

 だが、その二人の姿は今、この東シベリアの地にはない。

 水晶聖闘士は今から二年ほど前に突如としてその消息を絶ち、アイザックは命の危機に瀕した氷河を救うべく、その身代わりとなってこの東シベリアの海に消えていったのだから。

 だから、氷河とアイザックがこうして並び立つことはもう二度となく、だからこそ、これが夢だと氷河は気が付けた。

 忘れられるはずがない。今目にしている光景も、親友と別れる前に見た光景なのだから。

 

「なあ、氷河。師のもとで、こうしてお前と共に過ごして何年になる?」

 

「五年だな。それがどうしたんだアイザック?」

 

「そうか。いや、お前とも、思えば色々とあったものだと思ってな。氷河よ、昔にも言ったが、母親のことは今も諦めてはいないのか?」

 

「――アイザック、オレは……」

 

「いや、今更詮無きことか。その熱い思いを正義のために向けていれば、お前は今頃オレよりもはるかに強い聖闘士となっていたのだろうがな。だが、お前が自らの努力によって手にした力を何のために振うのか、それを決めるのはオレではない」

 

「アイザック……」

 

「お前も師より教えられたな。敵を前にしたら常にクールでいろと。オレは、神話のクラーケンのように罪なき人を救い、悪に対しては完璧なまでの非情さと強大さを身につける。悪に対しては微塵も情け容赦はしない。それが地上の平和のためであり、それをなすのが聖闘士だからだ。仮に、お前がオレの目の前に悪として、敵として現れたのならば、オレは一切の私情を挟まずお前を討つ。だから、氷河よ――」

 

 ああ、夢が終わるのだなと。

 視界の隅から色を失い消えていく海と、徐々に輪郭を失っていく親友の姿に、知らず氷河は涙を流していた。

 

「――お前の手にしたその力、決して悪しきことのために振うんじゃないぞ」

 

 そう言って氷河へと振り向いたアイザックがどのような表情を浮かべているのか。

 

「そうだ。オレたちのこの力は、この地上の平和を守るためにあるのだから」

 

 

 

 氷河には分からなかった。

 

 

 

 

 

 第29話

 

 

 

 

 

「……う。う、ぐぅう……」

 

「――さん、氷河さん!」

 

 肩に感じる温かさと自分を呼ぶ声。

 誰かが自分を揺さぶっているのだと理解した氷河は、呼び掛けに応えるようにゆっくりと目を開く。

 そこには目を覚ましたことに安堵した様子の少女の姿があった。

 

「ナターシャ、君か……」

 

「よかった。ひどくうなされていたから。傷、まだ痛みますか?」

 

「いや、大丈夫だ。それよりも、良いのか?」

 

 開け放たれた扉から差し込む僅かな明かりが、無機質な石室内をぼんやりと照らす。

 両手足に感じる重さに視線を向ければ、頑丈さだけを重視したような、無骨で大きな鎖によって拘束されている。

 空を引き裂き大地を割る力を持った聖闘士とはいえ、生身の状態でこの拘束を解くのは容易ではない。

 

「良いのです。兄が何を言おうとも構いません」

 

 手慣れた様子で氷河の傷の手当てを始めるナターシャに「ありがとう」と返し、氷河はここに来てからのことを思い出す。

 

 アレクサーに敗れた氷河が目を覚ましたのは、ブルーグラードの領主の館の外れにあるこの場所――牢獄であった。

 そこで、傷付いた氷河を介抱していたのが目の前の少女――ナターシャである。

 彼女はこのブルーグラードの統治者の娘、つまりアレクサーの妹であり、氷河が目を覚ますまでの監視役でもあった。

 しかし、氷河が目覚めて三日目になるが、未だ彼女は兄に対して氷河が目覚めたことを伝えていないという。

 

『父も、私も、ブルーグラードの民の多くは、争いなど望んではいません。しかし、兄はそんな父の、ブルーグラードの生き方を嫌い、父に対して陽の当たる場所へ出るべきだと主張し続けました』

 

『幼い頃より神童と呼ばれた兄は、十にも満たない年齢で氷戦士最強と呼ばれていた父を超え、その成長と共に力と野心を増していき、ついには今から五年前に父から追放処分を受けたのです』

 

『その兄が、多くの氷戦士たちを従えてこの地へと戻ってきました。己の野心を満たすために、まずはこの地の支配から始めると、逆らうのであれば父すらも殺すと、そう宣言したと聞きます』

 

『昔の兄は、確かに粗野で粗暴なところはありました。それでも、実の父親に対して殺意を向けるような人ではなかった。でも。今の兄は、どこか違うのです。そうやりかねない、何か、怖いものを感じる時があるのです』

 

『お願いします。兄を止めて下さい。父を守って下さい。この地で兄たち氷戦士にかなう者はあなたしかいません。私に出来ることなら何だってします。だから、どうか……』

 

 そう言って泣き崩れたナターシャの姿に嘘はないと氷河は信じた。

 目覚めた時にこの場から逃げ出すことはできたが、そうせずに今もこうしてこの地に留まり、少しでも力を回復させようと大人しくしているのもそのためだ。

 それに、ナターシャの話を聞いた氷河にはどうしても納得できない点があったのも理由の一つであった。

 

(あの時、オレと対峙したあの男からは、自分の行動に対する揺るぎない自信と意志の強さを感じた。一切の負い目のない、気高さと、真っすぐさ。そんな男が実の父を手にかけると?)

 

 だからであろうか。手当てを終え、「また来ます」と、言い残して立ち去るナターシャに声を掛けたのは。

 

「ナターシャ、大丈夫だ。いくら己の野望の実現のためとはいえ、自分の父親を平気で殺せる男などいやしない。たとえ、それがアレクサーであっても」

 

 

 

 自室で配下の男からその報告を聞いたアレクサーはただ一言、「好きにさせておけ」とだけ返答した。

 

「宜しいのですか? あの男――氷河はすでに目覚めております。それを知りながら、ナターシャ様は報告を行わなかった。むしろ、その手当てをするなど、これではまるで――」

 

「構わん。情の一つでも湧いて氷河がこちらに加わるならそれで良し。そうでなくとも、既に力の差は分かったはずだ。今度はあの時とは違う答えを返すやもしれん」

 

「僭越ながら、アレクサー様はどうしてあの男に、聖闘士とはいえ聖衣もないあの男に、ここまで拘られるのでしょうか……」

 

「フッ。そう見えるか? 大したことではない、今は力ある者の手が一つでも欲しい、それだけよ。そんな事よりも、氷の聖衣の捜索に向かわせた者たちがそろそろ戻るはずだ。出迎えの用意でもしておいてやれ。オレは父のもとへ向かう」

 

「ハッ!」

 

 配下の者が下がり、一人きりとなった部屋でアレクサーは先ほどの質問の答えを思い浮かべる。それは、誰も知らぬ氷河との邂逅の時だ。

 

 五年前、父――ピョートルから追放処分を受け、氷の大地をさまよっていたアレクサーが見た光景。それは、幼い子供――氷河が凍り付いた大地に向かって何度も何度も拳を振り下ろす姿だ。

 既に氷河の拳は血にまみれ、氷河自身も苦痛に顔を歪ませている。しかし、この氷の大地は子供の拳一つでどうこうできるような生易しい存在ではない。

 氷河自身は覚えていないようだったが、この時、アレクサーは「何をしているのだ」と、氷河に話しかけていた。

 マーマを迎えに行くんだ。そう答える氷河の足元には分厚い氷に覆われたシベリアの海がある。よく見れば、その海の底に沈んだ一隻の船の姿が見えた。

 アレクサーはその氷河の姿に無駄なことをしている、と、愚かなことをしていると思うと同時に、哀れな、とも思った。

 この氷の大地のように、絶対的なモノの前には力無き者の思いなど意味がないのだ、と。

 緩やかに滅びへと向かう故郷の姿が氷河と重なる。

 だから、この時の、この言葉は、アレクサーにとってほんの気まぐれでしかなかった。

 

『オレが、この氷の大地を砕いてやろう』

 

 この申し出に、しかし氷河は首を振った。

 

『マーマと約束したんだ、必ず迎えに行くって。だから、これはオレがやらなくちゃダメなんだ』

 

 結局、幼い氷河に氷の大地を砕くことなどできるはずもなく。

 無言で立ち去る氷河の姿をアレクサーは静かに見つめていた。

 

 その日から、アレクサーは時折この場所へ訪れるようになった。

 氷河の姿がある時もあればない時もあった。だが、その事については、アレクサーにとってはどうでもよいことであった。

 ただこの哀れな行為の、その結末が見たいと、そう思っただけだ。

 

 そうして四年の時が過ぎた頃――アレクサーは見たのだ。

 氷河の拳が氷の大地を打ち砕いた瞬間を。

 

 

 

「何度言えば分かるのだ、アレクサーよ。この地が世界の英知が集まる都と呼ばれたのも遥か昔のこと。我らの使命も既に果たされた。ただ静かに暮らしていくだけよ。お前が望むような力など、この地のどこを探しても見つからん」

 

「昔から何度も言ったな。ならばなぜ、我らブルーグラードの民は、こんな僻地で細々と暮らしていかねばならんのだ、と」

 

 領主の部屋――父親の部屋で、アレクサーは父と最早何度目かも分からぬ程に繰り返されるやり取りに、辟易とした様子も隠さない。

 

「二百数十年前の先祖の犯した罪のため? 贖罪のため? 馬鹿馬鹿しい。外の世界を見て改めて確信を得た。そんなお題目程度のことで、この死と隣り合わせの永久凍土の地で暮らし続けられるものか。真に領民のことを思うマトモな領主であればなおのことよ。あなたのやり方では、いずれブルーグラードの民は絶滅するしかないのだ」

 

 窓の外から見える一面の銀世界は、その美しさに反して己以外の輝きを、生命の輝きを認めない。

 この地は、人が生きるにはあまりに過酷すぎた。

 窓から目を離したアレクサーは、こちらに背を向け続ける父へと苛立ちも隠さずに続ける。

 

「あなたが、これまでこの地を纏めてきたことは評価している。しかし、だからこそ許せんのだ。あなたも理解しているはずだ、このままでは緩慢な滅びを迎えるだけだと! 人は希望なく生きていけるほど強くはないのだ!! ならばこそ示さねばならんのだ――希望を!!」

 

「外の世界に対しての暴力による侵略行為――それが、お前の言う希望だと? 希望という言葉でお前の野心を覆っているだけではないのか?」

 

「だからどうした。民に対して何も示さなかったあなたがそれを言うのか? オレを否定したければ、オレとは異なる希望を示して見せろ」

 

「……アレクサーよ。かつて我らが祖先は、今のお前と同じことを考え、禁忌の力を用いてそれを行おうとしたのだ。その結果、このブルーグラードだけではなく、世界をも滅ぼしかけた罪深き一族なのだ。なあ、息子よ。民に他者と争い傷付け合うこともなく、慎ましくも友や家族と過ごす事ができるこの暮らしを捨て去せてまで、お前の言う希望とやらは、本当に必要なのか?」

 

「愚問だな――父よ」

 

 そう言って、アレクサーは領主の部屋から立ち去って行く。

 

「――愚か者は、私かお前か。いや、息子を信じれぬ私こそが愚か者なのだろう。しかし、だからこそ、今のお前に話すことはできんのだ。この地に秘された悲劇を――海皇の力の事を」

 

 そこに居たのは、ブルーグラードの民を統べる領主ではなく、全てに疲れ果てた、ただ一人の老人の姿がそこにあった。

 

 

 

 しばらく誰も寄せるなと厳命し、配下の者を全て下がらせたアレクサーは、自室の扉の鍵を閉めると――

 

「ええいっ! あれほど言ってもなぜ分からんのだ、父は!!」

 

 苛立たし気に振われた拳が机を叩いた。

 一体いつからか。いつから自分と父は、こうまで分かり合えなくなったのか。

 五年前に追放された時か?

 違う。あの時はあれが最善であるとお互いに納得していた。

 ブルーグラードの民全てが父のやり方に賛同していたわけではない。中には父を排除し、伝説の頃の栄華をもう一度、と。そう考える者もいたのだ。

 そんな者たちにとって、父と互角以上の力を持ち、なおかつ外に目を向けていたアレクサーは格好の神輿であったのだ。

 その動きを察し、父に自分を含めての追放処分を持ち掛けたのがアレクサーだ。

 この地で民同士が争うようなことになれば、ブルーグラードは持たない。それが分かっていたからこそだった。

 

「そうだ、この地に民同士が争いを起こせるほどの余裕などない。だからこそ、オレは――」

 

 ――本当に、そうか?

 

 不意に、アレクサーの背後から声が聞こえた。

 

「民のため? 違うだろう? お前自身が常々思っていたはずだ、世界を知りたいと、陽の当たる世界を見てみたいと」

 

 外の世界に関心があったのは事実だ。

 

「窮屈だったんだろう? この地でお前の力を生かす事のできる場などない。退屈だったんだろう? ただただ、同じことを繰り返すだけの日々が」

 

 目指していた父よりも自分が強くなったと知ったあの日。感じたことは、歓喜ではなく困惑だった。

 追い駆けていたものが目の前から消えたあの時、手にした力に意味を求めた。

 

「お前は外の世界を知ってしまった。風邪一つで死に至りかねないほどに厳しいこの世界に比べてどうだった? 遥かに豊かだったろう? 助け合う必要なんてない。誰もが己の欲を満たすために生きている。それが許されるほどに満たされた世界が広がっていた」

 

 アレクサーの瞳に、窓から見える銀色に輝く死の世界が映り込む。

 そして、窓にはアレクサーの背後に立った白いローブに身を包んだ何者かの姿も映っていた。

 

「悔しかっただろう? なぜ自分たちだけが、と。怒りを感じただろう? 何の苦労も知らず、ただただ与えられた平和を当たり前のものと享受し、享楽にふけるその様が」

 

 ボウ、と。アレクサーの額にある金色のサークレットの輝きが増した。

 

「お前のその怒りは間違ってはいない。我慢する必要などないのだ。お前にはそれを行う権利があり、それを行えるだけの力があるのだから」

 

 ローブの人物の手がアレクサーの肩に触れる。

 

「迷う必要はない。良心の呵責など感じる必要はない。肉親の情など幻よ。お前が正しいのだ。正しいお前が成すことに間違いはない」

 

 氷原を映していたアレクサーの瞳が――血のように赤く染まった。

 

 

 

 

 

 ブルーグラードを目指し、銀色の世界を進む海斗たち。

 先導するのはセラフィナだ。

 迷うことなく進むその姿に、案内を申し出た氷戦士の男も、フレイも戸惑いを隠せない。

 

「こっちの様な気がして」

 

 そう言って先へと進むセラフィナが正しいルートを進んでいることは、同行している氷戦士の男が証明していた。

 セラフィナ自身もなぜ、と戸惑っていたが、「ま、そういうこともあるだろう」と、海斗だけは気にした様子もなくセラフィナの後ろを歩いている。

 その海斗の背には聖衣箱があった。刻まれているのは白鳥のレリーフ。氷の聖衣――白鳥座(キグナス)の聖衣だ。

 やがて、建造物らしきものが視界に入ると、氷戦士の男が「あれがブルーグラードだ」と告げた。

 

「ドンピシャだったな」

 

「……ええ。あの、本当にセラフィナさんはここに来たのは初めてなんですよね?」

 

「そのはず……です。でも――」

 

 なぜか、懐かしい気がするんです。

 フレイの問いかけに、ブルーグラードを見つめながらどこか切なげに答えるセラフィナ。

 その様子を横目に見ながら、海斗は氷戦士の男を呼ぶ。

 

「何だ?」

 

「ここから先はオレたちだけで行く。アンタはその辺にでも隠れとけ。氷戦士つーぐらいなんだから、カマクラでも作っとけばしばらくは持つだろ?」

 

「……どういうつもりだ?」

 

「別に。ここまでアンタを連れてきといて疑ってる、ってことは無いさ。わざわざ身内同士で殴り合う必要もないってことだ」

 

「お前……」

 

「ま、正直言えば足手まといだってのもある。9割ぐらい?」

 

「……お前……」

 

「見張りもいるみたいです。我々の目的が攫われた聖闘士の救出である以上、一戦は避けれらそうにもありませんから」

 

 フレイがすっと指差す方向には、確かに数人の氷戦士らしい人影が建物から出てくる姿が見える。

 

「さて、フレイ、セラフィナ。二人とも準備は良いか?」

 

「いつでも」

 

「――はい。行きましょう、海斗さん!」

 



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最終話 動乱終結!決着、氷河対アレクサーの巻

「もう一度、兄と話をしてみようと思います」

 

 そう言って立ち去ったナターシャの背中を思い出しながら、氷河はこれからどう動くべきか、と思案する。

 彼女の手当ての甲斐もあり、万全とはいえないまでもアレクサーと一戦交えられる程度には回復している。

 勝ち筋は見えてはいない。だが、だからといってこのまま何もしないという選択はあり得ない。

 冷たい石壁にもたれかかり瞼を閉じる。

 脳裏に浮かぶのはアレクサーの放ったブルーインパルス。その軌跡。

 奴と自分の凍気。何が違う、何が足りない。

 

「……あと一手、だ。あと一手欲しい。せめて、オレに聖衣があれば――」

 

 氷河が呟いたその時であった。

 ズズッ、と頭上から物音がしたのは。

 

「何だ?」

 

 目を開き頭上を見る。

 隙間なく敷き詰められた石の壁。その壁面の一部が、まるで外側から押し込まれたようにせり出していた。

 氷河は拘束された身とは思えぬ動きで素早く立ち上がると、壁面から距離を取った。

 四肢を拘束する鎖がジャラジャラと音を立てる。

 押し出された石材がゴトリと音を立てて崩れ落ち、壁面に穴が開く。

 吹き込む風に目を細めた。

 人影があった。壁面の穴から覗き見えた人影に、氷河は一瞬、自分はまだ夢でも見ているのかと思ってしまった。

 

「セラフィナの言った通りだったな。当たりだ」

 

「……お、お前は」

 

 短い間ではあったが、幼き日を共に過ごした仲間の面影を残した少年の姿に。

 

「よう、久しぶりだな氷河」

 

 あの頃よりも成長した、しかし変わらぬ笑みを浮かべた海斗の姿に。

 

 

 

「つまり、そのアレクサーって奴が元凶だと?」

 

「ああ。ナターシャが言っていたが、彼女の父親に領土的な野心はない。各地で動いている氷戦士たちもアレクサーを抑えれば止まるはずだ」

 

 再会の挨拶もそこそこに、海斗はまず氷河との情報共有を優先した。

 元々、海斗はカミュから頼まれた届け物を氷河に渡せば、後はフレイを見送って軽く観光でもして帰るつもりだったのだ。

 

「それで、お前はどうするんだ?」

 

「あの男には借りがある。そして、ナターシャとも約束した。だから、オレがアレクサーを止める」

 

 そういって氷河は白鳥の飾りがついた羽根兜を被り――白鳥座(キグナス)の青銅聖衣の装着を完了した。

 冷たいクールホワイトの光沢を放つ、翼のレリーフの施された曲面を多用した聖衣である。

 

「――キグナスの聖闘士として」

 

 

 

 

 

 第30話

 

 

 

 

 

「ここを真っすぐ。二つ目の階段を」

 

 セラフィナの先導で進む海斗たち。

 アレクサーはおそらく領主の部屋に居るだろう、と。

 なら、しらみつぶしになるか、と話していたところで、セラフィナの様子が変わった。

 まるで、何かに突き動かされるように進むその様子に氷河は疑問を抱く。

 それは、フレイと名乗った青年も氷河と同じようであったが、海斗が何も言わないこともあり言葉にはしなかった。

 

 そうしてしばらく進んだのだが――

 

「ま、さすがに気付かれるか」

 

 足を止めた海斗が呟く。

 通路を、行く手を阻むようにして氷戦士たちが集まってくる。

 

「いたぞ! 何者だ貴様ら!!」

 

「氷河だ! 気を付けろ、奴め、聖衣を纏っている!」

 

「くっ、見張りをやったのはこいつらか!?」

 

 セラフィナが足を止め、氷河が身構える。

 そんな二人の横をフレイが進み出た。

 

「貴方たちは先へ。ここは私が」

 

「俺も別にアレクサーとやらに言いたいことはないからな」

 

 そして海斗も。

 

 聖衣を纏った二人ではなく、生身の二人。

 足止めをしようということは分かる。だが、しかし、と。氷闘士たちの表情が歪んだ。

 なめるな、と。

 

「……どうやら、お前たちから殺されたいらしいな?」

 

「生身であろうと容赦せんぞ!!」

 

 前後から襲い来る氷闘士たち。

 前方を海斗が、後方をフレイが迎え撃つ。

 拳を振りかざし飛び込んできた氷戦士を海斗がカウンターで叩き落せば、神速の踏み込みによって相手が身構える前に意識を刈り取るフレイの拳。

 一瞬の内に倒された仲間の姿に、氷戦士たちに緊張が走る

 

「ほら、行けよ」

 

「頼む」

 

 海斗とフレイ、二人の姿に心配は無用だと確信した氷河は、セラフィナと共にアレクサーのもとへと辿り着くべく駆け出した。

 

 

 

 チリチリと、薄暗い部屋の中を揺らめく炎が、相対する二人の姿を照らしている。

 ピョートルとアレクサーであった。

 

「……もう、お前には私の言葉は通じぬか」

 

「言葉が通じぬのはあなたの方だ。それに、何か勘違いしているようだが、同意など求めてはいない。これは決定事項だ」

 

 決定的に、何かを違えてしまった。

 もはや興味なしと、立ち去ろうとするアレクサーにピョートルは――

 

「アレクサー!」

 

 その拳を向けた。

 

「ぬぅ!?」

 

 放出された凍気がアレクサーを包み込み、瞬く間にその身が氷によって覆われる。

 

「過ちを繰り返させるわけにはいかんのだ! この5年の間にお前に何があったのかは分からん。しかし、私がお前を追放したことがこの状況を生み出したのならば、領主として、父親として、責任を果たさねばならん!!」

 

 凍気の余波が室内までも凍り付かせる。

 アレクサーは驚愕の表情を浮かべたまま動かない。

 

「許せ、アレクサー。我が息子よ……」

 

 ピョートルが拳を下ろす。

 静まり返った室内には、巨大な氷柱にその身を封じられたアレクサーの姿があった。

 

「この氷の棺(フリージングコフィン)は誰にも砕けぬ。お前はそこで静かにこのブルーグラードを――」

 

 ――そうか、これがキサマの答えか。

 

「な、何ッ!?」

 

 ピョートルの目が驚愕に見開かれた。

 アレクサーを包み込んだ氷の棺に亀裂が奔る。それは瞬く間に全体へと広がり――ガシャンと、音を立てて砕け散る。

 

「――老いぼれめ。とうの昔に、オレがキサマの力を超えていたことを忘れていたのか? 父親と思い情けを掛けてやったが――」

 

 砕け散った氷の粒子が舞い散る光の中を、その目に狂気をたたえたアレクサーが進む。

 

「ア、アレクサーよ。お、お前は……!?」

 

「オレには向かうものは誰であろうと容赦せん」

 

 ピョートルに向かい、アレクサーが一歩踏み出すたびに、カシャン、カシャンと氷が踏み砕かれる音と、ピョートルの荒い呼吸の音だけが室内に響く。

 アレクサーの振り上げた右手が手刀の形となる。

 

「オレにその拳を向けた以上、キサマは、ここで、死ね」

 

 そうして、アレクサーの刃が振り下ろされた。

 

 

 

 ピョートルを庇った、ナターシャの身体へと。

 右肩から背中にかけて、切り裂かれたナターシャの身体から鮮血が舞った。

 

「……にい、さ……」

 

「――ナ、ターシャ……?」

 

 その右手に、顔に付いた妹の血に、アレクサーが動きを止めた。

 崩れ落ちるナターシャの身体を抱き抱えたピョートルが叫ぶ。

 

「何故だ!?」

 

 何故だ、アレクサー。何故だ、ナターシャと。

 

「ナターシャ……オレは……何故……!? ぐっ、うおぉおおおおああああああああああ!?」

 

 始めて見せたアレクサーの動揺と、その叫びに、ピョートルは自分が何を間違っていたのかを察した。

 赤く染まったアレクサーの瞳、その額にはめられた輝きを増す黄金のサークレット。何よりも――

 

「ア、 アレクサー。おまえ、その目は、いや、なぜ気付かなかったのだ!? なんだ、その――邪悪な小宇宙は!!」

 

「うるさいぞ、この老いぼれがッ!!」

 

「ぐはぁあ――」

 

 アレクサーによって撃ち込まれた一撃に、ピョードルの身体が宙を舞い壁面へと叩きつけられる。

 血を吐き出し、徐々に狭まる視界、薄れゆく意識の中、「オレが救うのだ」と呟き続ける息子の姿と動かぬ娘の姿に、ピョートルは涙を流した。

 

 

 

 しんと静まり返った室内に、その声が響いたのは、まさにこの時であった。

 

「アレクサー!!」

 

 咆哮を挙げた氷河の右拳がアレクサーの頬を殴りつけたのは。

 

 

 

 倒れ伏したナターシャの元へセラフィナが向かったのを確認すると、氷河は改めてアレクサーと対峙した。

 

「氷河か。どうやったかは知らんが、聖衣を得たのだな。これで、条件だけでいえば五分となったか」

 

 口元から僅かに血を流してはいたが、アレクサーには大したダメージは与えられてはいない。

 殴りつけた瞬間、凍気が壁となってアレクサーを守ったことを氷河は理解していた。

 やはり、単純な凍気を扱う技量という点においては、今の自分が劣っていることを認めなければならない。

 しかし、こうして冷静に状況を判断する自分の中に、言い様のない熱が、抑えきれぬ怒りが湧いていた。

 

「アレクサー、貴様、自分が何をしたか理解しているのか?」

 

「理解……だと?」

 

アレクサーは血に濡れた手を見て、倒れた父と妹の姿を一瞥した。

 

「ああ、全て理解している。そう、全てはブルーグラードのためよ。場所を変えるか、ここではお前はやりにくかろう? そこの広間ならちょうどいいか」

 

 ああ、そうだ。

 氷河の横を通り過ぎたアレクサーが、何かを思い出したかのように問う。

 

「氷河よ、お前はクールになれるか? 人を倒すために、クールになり切れるか?」

 

「……愚問だな。なれるさ。アレクサー、お前を倒す為ならば」

 

 

 

 おかしい、と。

 回廊を駆けながら、海斗は自分を包み込むような違和感に、焦りのようなものを感じ始めていた。

 道を塞ぐ氷闘士たちを打ち倒し、フレイと共に氷河たちの後を追って駆け出してからどれほどの時間が経ったのか。

 十分か、一時間か、それとも数分も経っていないのか。

 

「何がどうなっている? くそっ、アイツらは大丈夫だろうな?」

 

 海斗に背後にフレイの姿はない。

 同じ方向へ駆け出したはずが、気付けば道を行くのは自分一人。

 それに加えて――

 

「またか」

 

 まるで自分を誘い込むように、目の前に現れる幻影の姿が、言い様のない焦りを生じさせる。

 

「いい加減、何か喋ったらどうだ? 海龍(シードラゴン)!!」

 

 海龍(シードラゴン)鱗衣(スケイル)を身に纏った人物が、すっと右手を差し出すと、ここへ行けとばかりに海斗に対して道を示す。

 指差された場所は、全て壁であった場所だ。それが、まるで初めからそうであったように、道となるのだ。

 海斗が何度呼び掛けても幻影は何も答えない。ただ、道を示しては消え、現れては道を示すのだ。

 

「チッ……」

 

 舌打ちをしつつも走り続ける。

 距離や時間の感覚がおかしくなっている。どれほど走ったのかも分からない。

 石造りの回廊は、いつしか壁面を無数の本棚で埋め尽くされたものへと姿を変え、螺旋を描くように下へ、下へと続いていく。

 そんな狂った時空間の中で、ようやく海斗はゴールと思われる場所に辿り着く。

 そこは書庫であった。

 奥には古びた木製の扉がある。何気なく、その下を見れば、護符らしきものが落ちていた。

 

「これは、アテナの――封印の護符か? しかし、こいつからはもう何の力も感じられない。だが、なら、この先には……」

 

 意を決し、扉を開いた海斗は、奥へと進む。

 

(セラフィナたちのことは気になるが、仕方がない、か)

 

 おそらくは、歴史的価値のあるであろう大量の書物にも目はくれず。

 進むその先には、無数のアテナの護符が貼りつけられた壁画があった。

 海皇ポセイドンの象徴たる三叉の槍のレリーフが施された壁画が。

 

「こうまであからさまだと、もう、笑うしかないな」

 

 海斗の目の前に、再び海龍の鱗衣を纏った幻影が現れ、その手が壁画を指し示す。

 

「ったく、こんなまどろっこしいことをしなくても、一言、お願いしますと言えばいいんだ。知らない相手でもないんだ、そこまで邪険にはしない」

 

 海斗が壁画へ近づくにつれて、幻影がその姿を歪ませていく。

 糸がほつれるように、幻影の身体から海龍の鱗衣が消えていく。

 そこに立つのは、紫がかった銀色の髪と大海の青を瞳に宿した青年であった。

 穏やかに笑みを見せるその姿は一見すると学者の様でもあった。

 かつて、海斗が現実と虚構の狭間で出会った青年――ユニティがそこにいた。

 

 海斗がユニティの前を通り過ぎる。

 ユニティは何も語らない。

 海斗の手が、壁面に触れる。その手が、アテナの、封印の護符に触れ――引き剥がす。

 眩いばかりの閃光が、三叉の槍のレリーフから放たれる。

 光に包まれた海斗の身体が、その輪郭を失っていき、その意識もまた、白濁の中に消えようとしている。

 無数の蔵書が、アテナの護符が、机が、壁が、ユニティの姿すらも。

 この場の全てが光の中へと消えゆく刹那――

 

『君に、未来を託す』

 

 ――海斗は、確かにその言葉を聞いた。

 

 

 

 おかしい、この気配は何だ。

 氷闘士を倒し、海斗と共に駆け出したフレイもまた、氷河たちのもとに辿り着けずにいた。

 目の前を走っていた海斗が突如としてその姿を消し、その直後、自分を観察するような、無数の視線に晒されているという確信を得て、フレイはその足を止めていた。

 

「この感覚は、明らかに氷戦士たちのそれとは違う。まさか、氷戦士たちの動きには、何か別の――」

 

 ――相変わらず聡い奴よ。

 

「ッ!? 誰だ!」

 

 身構えたフレイの前に、全身を白いローブで覆った人物が現れた。

 目深に被られたフードにより、その表情はうかがえない。

 

 ――気付かねば見逃してやりもしたが、こうなってしまっては、消えてもらうしかあるまい。

 

 ローブの人物から立ち上る攻撃的小宇宙。それは先ほど戦った氷闘士たちの比ではない。

 しかし、フレイが何よりも気になったのは、この小宇宙の強大さではなく、小宇宙から感じる気配に対してだった。

 

「この感じは、まさか――お前は!? くッ、問答無用か!」

 

 ローブの人物から矢継ぎ早に繰り出される連撃に、生身の不利を感じつつも、フレイはこのまま戦うことを選択した。

 

「オーディンよ! 我に力を!!」

 

 疑問は多いが、全てはこの戦いを制してからだ、と。

 

 

 

 ナターシャを抱き抱えたセラフィナの目の前で、光り輝くダイヤモンドダストが舞っていた。

 氷河とアレクサー、二人のぶつけ合う凍気が広間を銀色の世界に染め上げる。

 その中心では、氷河が放つ“ダイヤモンドダスト”とアレクサーの“ブルーインパルス”がせめぎ合っている。

 

「アレクサー! 己の野望のために、家族すらも手にかけたお前を――オレは許さん!!」

 

「許さなければどうする! 力無き者が吠えたところで何が変わるものかッ!!」

 

 膠着したかと思われた状況が動いたのは、このすぐ後であった。

 勢いを増す“ブルーインパルス”に対し、氷河が膝をついたのだ。

 

「ぐぅ、うぅううう……」

 

「フフフッ、ククククッ……。どうした氷河! この程度か!? この程度でこのオレを倒せると思っていたのか!! 答えてみせろッ!!」

 

「だ、黙れッ、アレクサー!!」

 

 怒りのままに表情を歪ませる氷河と、そんな氷河に対して哄笑するアレクサー。

 そんなアレクサーの姿を見て、セラフィナは「あの人は泣いている」と、そう感じていた。

 セラフィナがそう思ったのは倒れたナターシャに駆け寄った時だ。彼女は、重症ではあったが一命は取り留めていた。

 切り裂かれた傷口は凍結しており、それ以上の出血を止めていたのだ。

 もちろん、手当てをしなければ彼女はそのまま死んでいたことに間違いはない。しかし、傷を癒せる自分という存在があったにせよ、彼女は、今こうして生きている。

 願わくば、この少女が悲しみの中で過ごすことがないように。

 

 

 

 キグナスの聖衣の力もあり、アレクサーに対して対等に渡り合う事が出来ていた。

 一時は、勝てると確信すらした。

 しかし、現実はこうだ。地力の違いか、修練に費やした年月か、それとも野望に対する執念なのか。

 アレクサーを打倒すべく全力で放った“ダイヤモンドダスト”を押し込まれ、今まさに敗北しようとしている。

 眼前に迫る白銀の世界。あれが自分を覆いつくしたとき――死ぬのだ、と。

 それを事実として受け入れた時、氷河の怒りに燃えていた心が、敗北と、死という現実を前に急速に冷めていく。

 すると、脳裏にふとアイザックの言葉が思い浮かんだ。

 東シベリアの海を眺めながら、お互いが語りあった記憶だ。

 アイザックはクラーケンの伝説を語り、その精神性を、その強大さを目指すのだと、そう語って見せた。

 

『師カミュからも教わったはずだ。敵を前にしたら、常にクールでいろと』

 

「ああ、そうだったな、アイザック。だが、やはりオレはお前の様には……」

 

 ――激情に駆られるな。静かに、周りを見てみろ。

 

「なッ!? アイザック!?」

 

 思い出の声ではない。親友(とも)の確かな声が、氷河の脳裏に響いた。

 それは幻聴だったのかもしれない。しかし、氷河はその声に従い、意識を周囲へと向ける。

 そうして――見た。

 アレクサーに向かって、その手を伸ばそうとするナターシャの姿を。「兄さん」と呼ぶその声を聴いた。

 

「……そうだ、オレの成すべきことは――」

 

 膝をつき、今まさに敗北しようとしていた氷河が、両の足で大地を踏みしめ立ち上がる。

 

「止めだ氷河!! 受けろ、我が渾身の“ブルーインパルス”を!!」

 

「ぬぅおおおおおおおおッ!!」

 

 そして、両の手で“ブルーインパルス”を受け止めた。

 

「な、何ぃーーーーっ!? 馬鹿な、オレの全力で放ったブルーインパルスを――」

 

 それだけではない。

 

「はぁあああああああああああっ!!」

 

「――弾き返しただとぉ!?」

 

 己の小宇宙を爆発させ、アレクサーに撃ち放つ。

 

「アレクサー、お前のその野望! 今こそ、俺が止める!!」

 

 限界まで高められた氷河の小宇宙が、純白の白鳥のオーラとなって解き放たれたのをアレクサーは見た。

 

「“KHOLODNYI SMERCH(ホーロドニースメルチ)”!!」

 

 振り上げられた氷河の拳から放たれた凍気は、冷たい竜巻を意味する名の如く、屋敷の天井を吹き飛ばし、アレクサーの身体を飲み込んでいった。

 やがて、身に纏った氷戦士の鎧を粉砕され、意識を失ったアレクサーの身体が大地へと落ちてくる。

 このまま大地に叩き付けられればアレクサーは死ぬ。

 果たして、そうはならなかった。

 その身体を、氷河が受け止めていた。

 

「う、うう……。ヒ、氷河よ、なぜ、手加減をした。お、俺は――」

 

「お前が死ねばナターシャが悲しむだろう」

 

 それに、と氷河は続ける。

 

「お前を止める、と。そう約束したからな」

 

 

 

 その光景に、セラフィナがほっと息をつく。

 抱き抱えたナターシャは、今は静かに眠っていた。彼女の父親も、ふらつきながらではあったが、一人で立ち上がろうとしている。

 この戦いを見ていた氷戦士たちは、この決着に異を唱えることなく受け入れていた。

 色々とあったが、とにかくこれで一連の騒動も収まるのだろうと、安心した。

 

 異変は、その時に起きた。

 ピキリと音を立て、アレクサーの額の黄金のサークレットが砕け散った瞬間、彼の身体から“邪悪なナニか”としか形容のできない、どす黒い塊が飛び出したのだ。

 異常に気付いた氷河であったが、アレクサーを抱えていた為に反応が遅れてしまった。

 

「いかん!? クッ、避けろ!!」

 

 それは、ナターシャを抱えて動けないセラフィナ目がけて飛んでくる。

 

 ――オ、怨ぉオ惜おおおおッ!!

 

「させません! 結晶障壁(クリスタルウォール)!!」

 

 かざされたセラフィナの手から、小宇宙によって生み出された幾つもの結晶が集まり、壁となって黒い塊の進行を食い止める。

 しかし、それも一瞬だった。

 

「そんな!?」

 

 人の形となった黒い塊が拳を振うと、瞬く間に障壁には無数の亀裂が奔り、ガラスが割れるような音を立てて砕け散る。

 セラフィナを飲み込むように広がる影は、さながら両手を広げた魔王。

 

 その影が、セラフィナの眼前で弾け飛んだ。

 

 影の中心を貫くように突き出された――フレイの拳によって。

 

「我が拳は“勝利の剣”。邪悪よ、消え去れ」

 

 弾け飛んだ影が、炎に包まれて消えていく。

 まるで、初めからそこには何もなかったかのように。

 

 

 

「あ、ありがとうございます、フレイさん」

 

「良かった、間に合ったようですね。それに、どうやら、彼らの問題も片付いたようですし。一応は、これで一件落着でしょうか」

 

 そう言って微笑むフレイであったが、その身には至る所に切り裂かれたような傷がある。

 

「フレイさん! その傷は――」

 

「ああ、これですか。いえ、見た目ほど大したことはありませんよ? ところで、海斗さんの姿が見えませんが? てっきり、先に来ているものとばかり思っていたのですが……」

 

「え?」

 

 フレイの言葉に、セラフィナが思わず呆けたような声を出した。

 セラフィナが氷河を見た。氷河もまた首を振る。

 氷河に肩を借りてアレクサーが、周囲の氷闘士たちに視線を向けた。

 氷闘士たちの多くが首を振る。

 

「え?」

 

 風の音だけが鳴り響くこの場所に、セラフィナの呟きが消える。

 

「なら、海斗はどこに?」

 

 氷河の問いかけに、答えられる者はいなかった。

 

 

 

 

 

 the next……

 

『聖闘士星矢 海龍戦記~ANOTHER DIMENSION 冥王神話~』

 

 

 



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聖衣の墓場~あり得たかもしれない世界線~
第31話 想いを繋げ未来のために! 激突!! 海龍対翼竜!の巻 加筆修正版


2021/2/21・27 誤字、脱字修正。ご指摘ありがとうございます。
2021/03/20 加筆修正


 遥か神話の時代。

 海皇ポセイドンの統治のもと、栄華を極めた海底都市アトランティス。

 しかし、それも今や遠い過去。

 深い海の底で朽ちた建物が並ぶだけの滅びた都。かつての栄華は既に無く、人の営みもありはしない。

 静寂だけが支配するがらんどう。

 

 その永きにわたる静寂を打ち破る存在があった。

 冥王ハーデスの居城、空に浮かぶロストキャンバスへと向かうため、海皇ポセイドンの助力を求めてこの地に訪れたアテナの聖闘士(セイント)蠍座(スコーピオン)黄金聖闘士(ゴールドセイント)カルディアと水瓶座(アクエリアス)の黄金聖闘士デジェル。

 聖闘士の目論見を阻止すべく、そして海皇の遺産を手にすべく、冥王ハーデスの側近たる女帝パンドラと冥界三巨頭の一人、天猛星ワイバーンのラダマンティスが。

 そして、海皇の力によって世界の支配を企むブルーグラードの後継者にして、海闘士(マリーナ)としての力を得た海龍(シードラゴン)のユニティ。

 三者三様の思惑が混じり合う中、カルディアとラダマンティスが、デジェルとユニティがお互いの全てをかけてぶつかり合う。

 そうして混迷を極めた争いは、カルディアがラダマンティスを倒し、デジェルがユニティと和解したことで終わるかに見えたが、パンドラが海皇の遺産を破壊すべく放った一撃により、そこに込められた神の力が暴走したことで、誰もが意図しなかった終わりを迎えた。

 神の怒りを鎮めるため、神の力の器とされた女性と親友(ユニティ)を救うためにその身を犠牲にしたデジェル。

 希望を託されたユニティを、己の最期の力を振り絞って崩壊する海底都市から救い出したカルディア。

 

 残されたのは、神の怒りによって崩壊し、氷によって覆われた、静寂が支配する滅びた都。

 見上げる空に浮かぶ水の天蓋だけが、主なき都に未だ遺された神の力の威容を示していた。

 

 これは、今から二百数十年前の出来事である。

 

 

 

 

 

 己の内、心臓から感じる激しい熱と、指先から感じるほのかな温かさに、ラダマンティスはその閉じていた目をゆっくりと開けた。

 その視界に映るのは崩壊した海底都市と、それを覆い尽くした一面の氷によって生じた冷たい白銀の輝きである。

 神の怒りによって引き起こされた大洪水。その全てを凍結させるほどの圧倒的なまでの凍気。これを成したのが誰であるのかは考えるまでもない。

 

「……これ程とは、な。あの男(アクエリアス)も、ただの小虫ではなかった、ということか……」

 

 大洪水による破壊と、それを食い止めるために放たれた凍気の余波から身を守るため、自身を覆っていた冥衣(サープリス)の翼を開く。

 広げられた漆黒の翼からは氷の粒子が舞い散り、輝きに包まれて立ち上がったラダマンティスにはある種の幻想的な美しさがある。

 その彼の両手には、意識を失ったパンドラが抱きかかえられていた。

 

「パンドラ様は――ご無事か」

 

 胸元から確かに聞こえる呼吸の音に、そっと安堵の息を吐くと、ラダマンティスは油断なく周囲を見渡す。しかし、ここにはもう何者の気配も感じることは出来なかった。

 ギリ、と。

ラダマンティスが噛み締めた口元から音が鳴る。

 

あの男(スコーピオン)の熱に敗れ、あの男の熱によって命を拾う、か。なんと――」

 

 ――無様かッ!

 

 その手にパンドラを抱いていなければ、叫び狂っていたであろう。

 それほどの怒りが、屈辱が、ラダマンティスの身体中を駆け巡っていた。

 凍土と化したこの場から生じる冷気も、今の彼の内から生じる激しい熱を抑えることなど出来はしない。

 

 しかし――

 

「ご無事ですか、ラダマンティス様!」

 

「……バレンタインか」

 

 その自分を呼ぶ声に、振り向いたラダマンティスからは一切の激情が消え去っていた。そこあるのは冷徹な将としての姿であった。

 天哭星ハーピーのバレンタイン。冥王軍にあって数少ないラダマンティス直属の冥闘士(スペクター)

 この場に現れた彼の存在が、ラダマンティスの冥王軍としての、三巨頭としての矜持が、部下の前で己の無様を曝すことを許さない。

 

「パンドラ様は……お気を失っておいでですか。それに、ラダマンティス様もお怪我を――」

 

「俺の傷など、どうでもよい。そんな事よりも、お前はパンドラ様を連れてロストキャンバスへと戻れ」

 

「それでは――ラダマンティス様は、どうされるのですか?」

 

「俺には、まだこの場でやらねばならんことが残っている」

 

 ラダマンティスはバレンタインにそう告げると、この崩壊の中心地である海底神殿へとその視線を向けた。

 そこには、氷壁の中で互いに手を取り合う様にして眠る女性――海皇の力の器として死した身体を捧げられたユニティの姉であるセラフィナとデジェルの姿があり、その氷壁を護るかのように鎮座する水瓶座の黄金聖衣があった。

 

「聖闘士どもの目論見も阻止できず、パンドラ様にも傷を負わせ、黄金聖闘士の首の一つも取れなかった。ならば、せめて――」

 

 ――あの黄金聖衣だけでも、この手で砕いておかねばなるまい。

 

 それが戦士として恥ずべき行いであったとしても、ラダマンティスがその手を止める理由にはならない。

 

「そうだ、全ては冥王軍の……ハーデス様のために!!」

 

 その為ならば、いくらでも自分を殺す事ができ、どこまでも残虐に強くもなれる。

 それこそが、天猛星ワイバーンのラダマンティスであった。

 

 

 

 

 

 第31話

 

 

 

 

 

 パンドラを連れてバレンタインが去ったことで、この地に立つ者はラダマンティスただ一人。

 足元の凍土を踏み砕きながら、一歩、また一歩と、二人の眠る氷壁へと近づいていく。

 

「貴様らを小虫と侮っていたことは、詫びよう。認めよう、貴様らは冥王軍の脅威足り得た、と。だからこそ、次代への禍根はこの場で絶つ。聖闘士共にその黄金聖衣を遺してやるわけにはいかん」

 

 大洪水により海底神殿が崩壊する最中、意識を失ったパンドラの身を守ることを優先したラダマンティスは、その激流の中でデジェルがユニティに後を託し、己の全てを賭して神の力の暴走を抑えて見せたことを知っている。

 冥王軍の勝利のために、冥王ハーデスのために己の全てを捧げる。それを行動原理とするラダマンティスには、己よりも劣る者のためにその身を犠牲としたデジェルの行動が理解出来ない。

 

「封ぜられし海皇の力、その依り代となった娘、か。その娘に殉じたのか、水瓶座(アクエリアス)。しかし、それは戦士としては惰弱。貴様だけならば、あの状況でも生き残る術はあった」

 

 氷壁に近付くにつれ、そこで眠る二人の様子がよく分かる。

 

「我らと戦えるだけの力がありながら、貴様は――降りたのだ、この聖戦の舞台から。あのような男を生かして何になる? あの男の存在が、この聖戦に何を成すというのだ? 貴様のその命と釣り合うだけの価値があるのか?」

 

 目前に死が迫っていたにもかかわらず、どちらもが、心配することなど何もないと。そう受け取れる、そんな微笑みを浮かべていた。

 

「貴様も、その娘も、何を満足したような顔をしているのか。それは誤りよ。現に、今――こうしてアテナの聖闘士の最大戦力である黄金聖闘士が命を落とし、聖衣もまた失われようとしている」

 

 ラダマンティスが拳を構える。

 狙うは、水瓶座の黄金聖衣。

 

「せめてもの手向けだ。この“グレイテストコーション”を受けて――砕け散れ」

 

 腰だめに構えた右拳に漆黒の粒子が集まる。

 それは漆黒の翼竜の咆哮。それが解き放たれた時、全ては撃ち貫かれ、灰燼と化す。

 

「“グレイテストコーション”!!」

 

 その威力は黄金聖衣だけではなく、その背後の氷壁ごと消し飛ばすのだろう。

 

 果たして、その漆黒の散弾、黒い流星雨は――光り輝く障壁によって食い止められていた。

 それは、水の流れによって生み出された、水の天蓋に届かんとする程の巨大な壁であった。

 その壁が、ラダマンティスと黄金聖衣との間にそびえ立っていたのだ。

 

「……ほう、足掻くだけの力は残していたか」

 

 ラダマンティスは視線の先に光りを放つ小さな結晶の姿を捉えていた。パンドラによって砕かれたオリハルコンの僅かな欠片。それが光を放ち水の障壁を生み出していたのだ。

 

「曲がりなりにも神の器であったか。聖闘士共々お前の肉体は氷壁の中にある。ならば――」

 

 そして、その輝きを生み出したのは、海皇の鱗衣を身に纏ったセラフィナであった。彼女は苦悶の表情を浮かべながら、己の力をオリハルコンの欠片へと注いでいる。

 欠片の輝きが増すたびに障壁はその強度を増し、グレイテストコーションの威力を消し去っていく。

 

「なるほど。死してもなお、か。驚嘆すべきは神の力かその執念か。しかし、無駄なことよ。一撃を防いで見せたことは褒めてやるが」

 

 拳を解いたラダマンティスがそう告げる。

 セラフィナがグレイテストコーションの猛威を防ぎ切った時には、その姿は蜃気楼の様に揺らぎ、身体の末端からまるで糸が解きほぐされていく様に光の粒子と化していく。

 

「消えゆくその身でこれ以上何が出来る?」

 

「……あなたの言う通り、今の私は肉体に残されたほんの僅かな神の力によって生じた思いの残滓。それでも、だからこそ、私はこの聖衣を守ります。例え、ここで消え去ろうとも。この聖衣はデジェルの、地上に生きる人々の思いが詰まった希望なのです」

 

「そうか。ならば――その希望とやらと共に消え去るがいい、亡霊よ」

 

 ラダマンティスが拳を振い、セラフィナが防ぐ。

 水の障壁に叩き付けられたラダマンティスの拳から生じた力の余波が、大気を震わせ海底神殿を揺らす。

 水面に落とした雫が飛沫を上げて波紋を広げる様に、二度、三度と繰り返される度に、障壁は歪み、たわませ、飛沫を上げて削られていく。

 

「くっ、う、ううう……」

 

 ラダマンティスが言った「何が出来る」という言葉は正しい。

 いかに神の力を宿そうとも、彼女は心優しき娘でしかない。知識としての闘争は知っているが、それだけであった。

 障壁が、自身の存在が削り取られていこうとも、彼女に出来ることは、ただ耐えることのみ。

 それは、ただ結末を引き延ばすだけの無駄な行為なのかもしれない。

 

「――それでも!」

 

 それでも、と。

 何もしなければ、何も変わらないことを彼女は知っていた。

 たとえ耐えることだけしか出来なくとも、ではない。

 耐えることが出来るのだ、と。

 その先に何かがあることを信じて、彼女は己を盾とする。

 

 

 

 そうして、終わりの時は訪れた。

 

 パァン、と。

 風船が割れるような音が辺りに響き、水の障壁が弾け飛ぶ。

 拳を突き出したラダマンティスと、それを、膝をつき力無く見上げるセラフィナ。

 彼女の身に纏っていたはずの鱗衣は、その力の喪失と共に失われている。

 二人の頭上からは、飛散した水の障壁がまるで雨のように降り注いでいた。

 

「……終わりだ」

 

 力を失くした彼女は最早障害にならないと判断し、ラダマンティスがセラフィナの横を通りすぎ、水瓶座の黄金聖衣の前に立つ。

 己の必殺の拳にて完全なる破壊を。聖衣に向けて翳された手に漆黒の粒子が集まる。

 セラフィナがその間に両手を広げて立ち塞がったが、一瞥しただけでラダマンティスがその意に返すことはない。

 

 そのラダマンティスの目が驚愕に開かれた。

 

「グレイテスト――何ッ!?」

 

 自らと聖衣の前に立ち塞がったセラフィナの身体を、主なき水瓶座の黄金聖衣が覆ったことに。

 

「そんなっ、デジェルッ!!」

 

 驚愕したのはセラフィナもであった。

 聖衣からはセラフィナを守ろうとするデジェルの遺志を感じる。

 それは本来であれば喜ぶべきことであっても、今、この場においては――

 

「つくづく――惰弱!! 情のままに、大局を見誤るかアクエリアスッ!!」

 

 ラダマンティスの激情を駆り立てる結果となった。

 セラフィナには見せなかった憤怒の表情と、大気を震わせる咆哮を上げてラダマンティスがその力を解き放つ。

 

「“グレイテストコーション”!!」

 

 その瞬間、セラフィナの眼前に浮かび上がったオリハルコンの欠片から眩いばかりの光が発せられた。

 閃光が黒弾を光の中へと消し去っていく。

 ならば、と。閃光に怯むことなく、突き出されたラダマンティスの拳が、水瓶座の聖衣とは異なる黄金の輝きによって食い止められた。

 

「今度は何だ! 何ッ!? くッ、まさか――」

 

 それは鱗衣(スケイル)であった。黄金に輝く海龍を模した鱗衣。

 オブジェの形を成していた鱗衣が弾け飛び、瞬く間に人の形へとその姿を変える。

 

「こんなことがッ!? まさか、神の奇跡が起きたとでもいうのか!!」

 

 ラダマンティスの記憶にある限り、この地で聖闘士(アクエリアス)と戦っていた海闘士(シードラゴン)は、銀色の髪と青い瞳の青年――ユニティであった。

 しかし、今目の前で海龍の鱗衣を身に纏い立ち塞がった人物のマスクから覗く髪は黒く、開かれた瞼から覗くのは濃褐色の瞳。

 その視線の鋭さも、身に纏う小宇宙も、明らかに戦う者のソレ。

 

「――貴様、何者だ?」

 

「人に名前を尋ねる前に、自分から名乗ったらどうだ冥闘士(スペクター)? さて、まあ、でも……鱗衣(コイツ)を身に纏っているなら、こう名乗ろうか――」

 

 そして、その人物は――

 

「――海龍(シードラゴン)。海龍の海斗」

 

 ――ラダマンティスに対して、あんたの敵だ、と。そう告げた。

 

 

 

 海斗自身、この状況に戸惑いがなかったわけではない。

 むしろ、戸惑いしかなかった。

 ユニティの姿を見たことで思い出された過去の邂逅。そこで彼が語った過去と、未来を託す、と遺された言葉。

 どこかに飛ばされるのだろうと予想はしていたが、ホワイトアウトした視界に色が戻ったかと思えば、目の前にはまさに絶体絶命の窮地にあった水瓶座黄金聖闘士の姿。

 咄嗟に放ったエンドセンテンスで相手の技を相殺したかと思えば、全身が引っ張られるような感覚と共に視界には様々なモノが映り込む。

 

 それは氷に覆われたアトランティスであり、氷壁の中で眠るセラフィナに酷似した女性と、どこかカミュに似た青年。

 書庫の様な場所で語り合うユニティと二人の黄金聖闘士。

 冥闘士と対峙する水瓶座と蠍座の黄金聖闘士。

 

(これは――一体? 俺は何を見せられている?)

 

 海斗の戸惑いもよそに、次々と場面が移り変わっていく。

 水瓶座の黄金聖衣を纏った青年と、海龍の鱗衣を身に纏ったユニティとの戦い。

 星空を眺めながら語りあう二人の少年。

 水の障壁によって冥闘士から黄金聖衣を守る女性。

 

(記憶、か? それも、一人じゃない、これは――)

 

 二人の少年の手を取る笑顔の少女。

 震える女性の手を掴み、涙を浮かべるユニティ。

 神の力の暴走させた女性と、それを抑える水瓶座の黄金聖闘士。

 冥闘士の前に、その身を挺して立ち塞がった女性の身を覆う水瓶座の黄金聖衣。

 

 その、黄金の輝きに包まれた女性と海斗の目が合った。それは、海斗の気のせいであったのかもしれない。

 力を使い果たしたのか、光の粒子と化して消えゆく彼女が浮かべていたのは、驚愕と、安堵と、そして――慙愧の念。

 ここで何が起こり、そして自分が何を求められているのか。

 推察するに、彼女は責任を感じ、心配をしているということだ。

 選択したのは自分であり、そこに彼女が責任を感じることなど何一つない。そう言ってやろうかとも思った海斗であったが、それも違うかと考え直す。

 考え直したところで、気の利いた言葉など出るはずもなく。

 らしくはないとは思いながらも、旅の恥は掻き捨てだ、と開き直り、彼女に向けてハッキリと言った。

 

 ――あとは任せろ、と。

 

 その言葉に、セラフィナは儚くも笑みを浮かべると、ありがとうと言い残し、光の中へと消えていった。

 

 

 

「シードラゴン、だと? 海皇の兵たる海闘士(マリーナ)、その海将軍(ジェネラル)が、なぜ聖闘士の味方を、いや、俺の邪魔をする」

 

 突如として目の前に現れた存在に、ラダマンティスは警戒を引き上げた。

 自らを海龍(シードラゴン)と名乗った男は、周囲を見渡した後、背後の氷壁の中で眠る二人と水瓶座の黄金聖衣をじっと見つめている。

 いつの間にか、そう、この男が自分の前に姿を現したその時には、立ち塞がっていたセラフィナの姿は既に無く、聖衣も元のオブジェの形態に戻っていた。

 多少気にはなったがそれだけである。

 一見すると隙だらけであったが、男から立ち上る小宇宙には一切の揺らぎはない。

 ラダマンティスの戦士としての直感が、迂闊に動くなと警鐘を鳴らしている。

 

「……そこを退けシードラゴン。今は貴様ら海闘士に用はない」

 

「意外だな、問答無用で仕掛けてくるかと思ったんだが」

 

 苦笑をしつつ、振り返る海斗。その視線には油断なく、ラダマンティスの一挙一動をまるで観察している様でもあった。

 

「それで? 俺がここから退いたらお前はどうするんだ?」

 

 大げさに肩を竦めて見せるのは侮りか、誘いか。

 

「貴様には関係の無いことだ。もう一度だけ、言う。そこを退けシードラゴン。退かぬなら――」

 

 

 

 自身の身に纏われた海龍の鱗衣。

 目の前には傷付きながらも、闘志の衰えぬ冥闘士。

 

(やはり、この水瓶座(アクエリアス)はカミュじゃない。サダルスード(千年前の水瓶座)でもない。俺の知るセラフィナは、もっと子供っぽい。現代(いま)じゃないことは確かだが――)

 

「……そこを退け海龍。今は、貴様ら海闘士の相手をしている暇はない」

 

「意外だな、問答無用で仕掛けてくるかと思ったんだが……」

 

(どこかの地に飛ばされる、とは想像していた。しかし、時間軸を飛び越えた? あり得なくもない、か。俺がそうだしな。だが、最悪、世界線すらも超えたことを想定する必要があるか?)

 

「それで? 俺がここから退いたらお前はどうするんだ?」

 

 そこまで考えて、海斗は苦笑した。

 

「貴様には関係の無いことだ。もう一度だけ、言う。そこを退けシードラゴン。退かぬなら――」

 

 そんなことよりも、今は、目の前のこの状況を切り抜ける方が先だ、と。

任せろと言った以上、発言には責任を持たなければならない。

 

「退かせてみせる、か? 上等だ――」

 

 振りぬかれたラダマンティスの拳と、海斗の拳がぶつかり合う。

 

「――やってみろ!」

 

 ここに、二百数十年の時を超えた海龍と翼竜との戦いが始まった。

 

 

 

 

 

 ぶつかり合った海斗とラダマンティスの拳。

 無人の廃都に、ゴッ、と轟音が鳴り響き、衝撃の余波が氷原と化した周囲を砕き破壊する。

 鱗衣(スケイル)冥衣(サープリス)。ぶつけ合ったお互いの拳に亀裂を奔らせ、打ち負けたのは――

 

「ぬっ、ぐぅ!?」

 

 ――ラダマンティスであった。

 

「どうした? 膝に力が入ってないな、冥闘士!」

 

 拳を弾かれ、ラダマンティスの上体が開く。

 追撃の一撃に、腰を落とし、手を地に着いたラダマンティス。その崩れた体勢に好機と見た海斗が迫る。

 冥衣に刻まれた、無数の細かな鋭いナニかを撃ち込まれた様な痕。恐らくは、蠍座の黄金聖闘士と戦った痕跡だと海斗は見ていた。

 かつて、自身もギガスとの戦いで同様の攻撃を受けたことがあり、その小さな傷がどの様な影響を与えるのかを知っている。

 既に敵は満身創痍。ならば、一気に仕留める、と。

 

 その判断は、誤りではない。

 誤りがあったとするならば――

 

「冥界三巨頭……この天猛星ワイバーンのラダマンティスを――見縊るなッ! 聞くがいい、この翼竜の轟を!!」

 

「なッ!? しまった! コイツ――体勢を崩したんじゃない!! これは、構えかッ!?」

 

 ――目の前の敵が、ラダマンティスであったこと。

 

「ちぃッ!!」

 

 己の失策、判断の甘さに海斗が舌を打つ。

 回避は――出来ない。

 自分の背後には託された聖衣がある。

 

 迎撃するか?

 

 間に合わない。

 

 ならば――受け止める。

 海斗の脳裏にイメージするのは決して揺らがぬ黄金の猛牛の姿。

 

 覚悟を決めた海斗に対して、己自身を漆黒の弾丸と化したラダマンティスが咆哮した。

 

「串刺しにしてやろう! 受けろ――“グリーディングロア”!!」

 

「ぐっは――!?」

 

 ドゴォン!!

 

 翼竜が海斗を捉え、その一撃が直撃する。

 余りの衝撃に海龍のマスクが吹き飛び、鱗衣の胸部には亀裂が奔る。

 そのまま勢いを殺すことなく、冥衣の兜にある二本の角が鱗衣を貫き、海斗の口から、傷口から鮮血が飛び散った。

 

「その背の黄金聖衣ごと、諸共に砕け散るがいい!!」

 

 海斗の身体ごと、凍土を破壊しながら黄金聖衣と二人の眠る氷壁へと翼竜が突き進む。

 凍土が砕け、むき出しとなった海底神殿の石畳に、踏みしめた海斗の両足によって刻まれた二本の線が刻み付けられていく。

 氷壁の、黄金聖衣の破壊は目前。

 

 そうして、目標まであと僅かといったところで、翼竜の突進が、ラダマンティスの勢いが止まった。

 ビシリ、と。

 海斗に抑えられた冥衣の両肩から小さな音が鳴ったかと思えば――バゴッと音を立てて、黒い輝きを撒き散らしながら冥衣の肩当てが圧壊する。

 砕かれた冥衣の隙間から、生身を曝したラダマンティスの両肩を海斗が掴んだ。

 

「何っ!? 貴様……」

 

「――お前こそ、舐めるなよ?」

 

 口元から血を流しながらも、そう微笑みかけてくる海斗の姿に、ゾクリ、と、ラダマンティスの背筋に冷たいものが走った。

 刹那、下から加えられた衝撃にラダマンティスの視界が揺れ、次いで、その身が天高く打ち上げられていた。

 

「“レイジングブースト”」

 

 一撃目は、頭部を狙った膝蹴り。

 二撃目により、蹴り飛ばされた。

 天翔ける天馬の蹴撃。

 視界に映る海の底、海底都市の水の天蓋を眺めながら、ラダマンティスは己の状況を把握する。

 先の一撃で兜は弾き飛ばされ、両肩は破壊された。

 蠍座によって撃ち込まれた熱は、今も全身を駆け巡り、この身を焼き尽くそうとしている。

 ラダマンティスは冥衣の翼を翻し着地した。

 それだけの事で全身に激痛が走る。

 しかし――

 

「問題は、ない」

 

 自分を見据える目の前の男に向け、己の意思に従ってこの足は動く。

 

「何の問題も、ない」

 

 右手も、左手も、動く。

 猛る闘志に一切の衰えはない。

 

「――ならば! 何の問題もないということだ!!」

 

 咆哮するラダマンティス。

 その漆黒の小宇宙に陰りは見えず、むしろ、勢いを増すかのように燃え上がる。

猛る小宇宙は両翼を広げたワイバーンの姿をその背に浮かび上がらせていた。

 

「来るか、シードラゴン!!」

 

 ラダマンティスの目が、海斗から立ち上る激流の様な小宇宙に大海の魔獣――海龍の姿を見た。

 海龍の周囲に浮かび上がる水が大海の如く広がり、風を纏って荒れ狂い、嵐と化して吹き荒れる。

 流水へと変質した小宇宙が、海斗の突き出された両手の前に渦となって収束していく。

 

 ラダマンティスの両手の前に、漆黒の粒子が集まり、収束されたそれは、まるで臨界を迎えたかのように膨張し、抑えきれない漆黒の粒子が荒れ狂う。

 漆黒の翼竜が大きく羽ばたき、その口腔から破壊の力が解き放たれる。

 

「塵一つ残さず全てを吹き飛ばせ! この翼竜の咆哮と共に!! “グレイテストコーション”!!」

 

「受けろ! 大海の魔獣、幻想の王の咆哮を!! “ハイドロプレッシャー”!!」

 

 黒と青。ぶつかり合う二つの力を前に、海底都市が揺れた。

 

「ぬぅおおおおおおお――オオォオオオオオオオオ!!」

 

「くぅうううっ――が、あ、アアアアアアアアアッ!!」

 

 拮抗し、互いを食らい合い、せめぎ合う力の余波が、嵐を伴って海底都市を蹂躙する。

 神の力によって施された結界に綻びが生じ、穴の開いた天蓋からは大海の水が滝となって降り注ぎ、海底都市を濡らしていく。

 

 

 

 

 

 そんな光景も、今の二人には目に入らない。

 ただ、打ち倒すべき敵として、お互いの姿しか見えていない。

 

 だからこそ、二人はこの第三者の登場に気付く事が出来なかった。

 海底都市の高みから二人の戦いを眺めていた存在に。

 

「フン、ラダマンティスめ。随分と楽しそうではないか? なあ、お前もそうは思わないかバイオレート(我が片翼)よ」

 

「……ですが、アイアコス様。今優先すべきは――」

 

「フフッ、まあそう言ってやるな。我らにとっては久しぶりの闘争だ。はしゃぐ気持ちも分からんでもない」

 

 一人は、その背に、天に向かって広げられた翼をもった冥闘士――冥界三巨頭が一人、天雄星ガルーダのアイアコス。

 そして、その横に傅くのは、左肩に巨獣の顔を模した冥衣を纏う女――天弧星ベヒーモスのバイオレート。

 

「だが、お前の言う通りでもある。ならば、そろそろ終わらせてやるか」

 

 アイアコスが差し出した左腕にバイオレートがその身を委ねた。

 一度、彼女の身体を強く抱きしめたアイアコスは、バイオレートの身体を抱いたまま、その左腕をゆっくりと振りかぶる。

 

 コクリと、うなずくバイオレートの姿に笑みを見せ、アイアコスがバイオレートを――投げ放った。

 

「“ガルーダフラップ”!!」

 

 大地の魔獣(ベヒーモス)が、空を飛翔する。

 

 

 

「さあ、行け、我が片翼よ。奴らに、お遊びの時間は終わりだと伝えてやれ」

 



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第32話 小宇宙よ、奇跡を起こせ!の巻 改題 加筆修正版

2021/3/22 誤字修正。ご指摘ありがとうございました。


 この世に邪悪がはびこる時に現れるという希望の闘士――聖闘士。

 神話の時代より彼ら聖闘士は女神アテナを守り、そしてアテナと共に地上の平和を脅かそうとする神々や邪悪な存在と人知れず戦い続けていた。

 彼らは、人の内に眠る小宇宙という核を燃やし爆発させることで、原子を砕く人知を超えた破壊の力を生みだすのだ。

 その拳は空を裂き、大地を砕く。まさに一撃必殺の力。

 それ程の超常の力を持った存在が聖闘士であるが、逆に言えば聖闘士の戦うべき敵は、それ程の力を持たなければ立ち向かえない存在であるとも言えるだろう。

 

 それ程の力を持った存在――海斗とラダマンティスが繰り広げる戦いは、驚く程にシンプルなモノとなっていた。

 ハイドロプレッシャーとグレイテストコーションの激突によって生じたクレーターをリングとしての、お互いが手を伸ばせば届く、そんな距離でのまるでボクシングの様な殴り合いであった。

 無論、お互いの拳は一撃必殺。先に当てた方が勝ちとも言える状況に、お互いが紙一重の回避を見せ、隙あらば致命の一撃を狙い合う。

 そうして、先に崩れたのはラダマンティスであった。

 元々、蠍座の黄金聖闘士カルディアとの戦いで消耗していたラダマンティスである。また、全身に撃ち込まれたスカーレット・ニードルの影響も大きかった。

 

「ぐッ!?」

 

「もらっ――!?」

 

 しかし、海斗もそこで攻め切る事が出来なかった。

 ラダマンティスによって貫かれた胸の傷の影響である。

 結果として、お互いが隙を曝すも攻めきれず、海斗の右拳をラダマンティスの左手が、ラダマンティスの右拳を海斗の左手が受け止める形で膠着することとなった。

 だが、それも一瞬。

 ゴッ、という鈍い音が周囲に響くと、両者の足元がクレーターを穿ち、そこにさらなる陥没を生み出していた。

 

「ぬ、ぐぅううううううううう!!」

 

「ぐ、あぁあああああああああ!!」

 

 二人が選択したのは奇しくも同じ――頭突きである。

 マスクも兜もない、むき出しの生身の箇所。

 額から血が流れるのも構わず、文字通り、額を突き合わせて睨み合う二人。

 

 再び膠着した状況を動かしたのは――

 

 

 

「天孤星ベヒーモスのバイオレート――参る!」

 

 轟音と共に突如として現れた大地の魔獣(バイオレート)の存在によって、勝利の天秤は冥闘士有利へと大きく振れることとなる。

 

 

 

 

 

 西暦1743年。

 同時刻、聖域――慰霊地の丘。

 

 藍色の空が闇色を伴って広がりを見せ、沈みゆく陽の光は、空に浮かび上がるロストキャンバスの雲海をまるで燃え上がるかの様に照らしている。

 冥王ハーデスとの決戦を前に厳戒態勢となった聖域にあって、十二宮の最奥にあるアテナ像を臨めるこの場所だけは、まるで世界から切り離されたかの様な静寂に満ちていた。

 

「昼と夜の狭間――逢魔が時、か」

 

 迫りくる闇の中にあっても、決してその輝きを失わぬ黄金の鎧――黄金聖衣(ゴールドクロス)を身に纏った青年の呟きが、静寂の中に消えていく。

 牡羊座(アリエス)の黄金聖闘士、名はシオン。

 やがてはこの聖域を治める教皇となる人物であるが、その運命は今ここで述べるべきことではない。

 

 さて、彼は今、アテナの聖闘士としてではなく、この時代ただ一人の聖衣の修復士としてこの場所にあった。

 彼の周りには無数の傷付いた聖衣があり、その多くは大破と言える状態である。良くても中破、そこに軽微な傷等と言える様な状態の物は一つとして無い。

 全ては、この聖戦で倒れていった聖闘士たちと、その最期まで共に在ったことの証であり、次代へと、未来へと紡がれる絆の印。

 シオンの手が、傷付いた聖衣にそっと触れる。

 

 ――ドクン、と。

 

 シオンには聞こえていた。

 聖衣たちの鼓動が。

 主を失くしてもなお戦い続けようとする声が。

 今までの主のため、次の主のために生き抜こうとする声が。

 そして、聖衣に託された聖闘士たちの想いの声が。

 

 だからこそ、シオンは彼らの願いに応えると決めていた。

 決戦のその時が来るまで、この場所で彼らの傷を癒し、向き合うのだ、と。

 

 そんなシオンが、ふと、何かに気付いたかの様に、聖衣たちに向けていたその視線をゆっくりと上げた。

 足音もなく、気配もなく。

 闇夜に浮かび始めた星々の輝きをその背に受け、ただ、彼は――そこにいた。

 

「魔に逢うと呼ばれるこの時に、まさか貴方に出逢うことになるとは――乙女座(バルゴ)のアスミタ」

 

『フッ、私は既にこの世ならざる場所に在る者。であれば、この時に迷い出たとして、何もおかしなことなどあるまいよ』

 

 黄金に輝く聖衣を纏った、盲目の黄金聖闘士。

 乙女座(バルゴ)のアスミタ。

 冥王の加護ある限り不死となる冥闘士と有限の命の聖闘士が対等に戦うために、彼は己の全ての小宇宙と引き換えにして冥闘士の魂を封じる108つの珠からなる数珠を完成させる。

 そして、今生の天馬座(ペガサス)にアテナのことを託し、この世から消滅した。

 その彼が、今こうして目の前にいることにシオンは驚きを隠せない。

 

『とはいえ、所詮この身は一時の幻に過ぎん。あの空に浮かぶロストキャンバスが示す様に、冥王の力がこの地上に色濃く表れ、生と死の境界が歪んだが故の、言わば泡沫の夢の様なモノ』

 

「……アスミタ?」

 

 生来盲目であり、常にその目を閉じていたアスミタがその両目を開き、険しい表情を浮かべてロストキャンバスを見つめている。

 彼は、他者との関りを殆ど持つことなく、常に超然とした態度を崩さなかったがゆえに、同じ黄金聖闘士からも何を考えているのか分からない男、敵か味方か分からない男とまで言われていた。

 その彼が今、シオンの前で表情を変えている。そのことに、シオンは何と――人間らしいことか、と。場違いなことを考えた。

 

『シオンよ、君は聖衣の声が聞こえるのだったな?』

 

 視線をシオンへと向けたアスミタが振り上げた右手が天を指し示す。

 指先から淡い輝きが光輪となって放たれ、その輪が波紋の様に周囲へと広がる。その光の中心から現れたのは、最早死んでいるとしか思えない程に破壊された聖衣であった。

 

『全ての小宇宙を昇華させ、ジャミールの地で消えゆく筈であった私の意識に呼びかける者があった』

 

「それは!? その聖衣は……まさか!」

 

『不思議なことにな、この身となって、より鮮明に聞こえるようになったのだ』

 

 それは、脚を失い翼も折れ、その身を地に臥した歴史の闇に消えたもう一つの天馬。

 今より七百年以上も昔、アテナの聖闘士でありながら、海皇ポセイドンの海将軍(ジェネラル)の一人となって反旗を翻した男が纏っていたとされる聖衣。

 シオンがいくら触れようとも、語り掛けようとも、何一つ語ることのなかった青銅(ブロンズ)聖衣。

 

子馬座(エクレウス)の聖衣!!」

 

『シオンよ、この聖衣の声、君にはどう聞こえる? 私には、こう聞こえるのだ――今再び戦う時が来たのだ、と』

 

 その聖衣が、今、シオンの目の前で青白い小宇宙を纏わせて立ち上がる。

 その小宇宙に、青い瞳の青年の姿をシオンは見た。

 青年が子馬座の聖衣を身に纏い、シオンの知らぬ双子座の黄金聖闘士と共に戦う姿を。

 そこには、隻腕の牡牛座と、天秤座の黄金聖闘士の姿もあった。

 そして、彼らが対峙する敵の姿も。

 

「な、何だ――この聖衣の記憶は!? 彼らは、一体何と戦っているのだ!」

 

 黒い水が広がり、水はやがて海となる。

 海はさざ波を広げ、大きく波打ち――形を成す。

 成されたのは、黒き衣に身を包み、光輝の鎧を纏いし人の形。

 それは、最古の神。

 大地母神より生まれし原初の神々。その一柱。

 

『この聖衣の由来に興味はない。しかし、この聖衣の語る言葉は興味深い。このまま捨て置けば、この聖戦、どのような結末になるのか想像もつかん』

 

「アスミタ……貴方は……」

 

『シオンよ、やがてある男が動く。彼は銀河の星々をも砕く程の力を持つ。この聖戦の、アテナの力となってくれるだろう。何、多少口が悪いところがあるが、あれで人見知りなのだ』

 

 フッ、と、アスミタが微笑んだ。

 それは、シオンが初めて見るアスミタの笑みであった。

 

『為すべきを成した。そう思っていたのだがな。しかし、今の我が身は泡沫の夢。夢ならば、ただ我の想うがままに振舞うのも一興よ』

 

 ――この子馬座(エクレウス)の聖衣と共に、な。

 

 

 

 

 

 第32話

 

 

 

 

 

 腰まで伸ばされた黒髪を振りかざし、轟音と共に自らが降り立った――海斗とラダマンティスが組み合っていた――場所に、十字の傷跡を刻み付けたバイオレートが海斗に向かって疾走する。

 

「チィッ!」

 

 ラダマンティスを追い詰めていた海斗にとって、招かざる第三者の登場である。

 あと一歩のところで、と。思わず出た舌打ちと共に、海斗が二人から距離を取ろうとした瞬間、ラダマンティスともバイオレートとも異なる、新たな――巨大な攻撃的小宇宙を感じ取った。

 

「何だ、この小宇宙は!? ぐぁあああああああああ!!」

 

 それが何かを確認する間もなく、本能のままに従って両腕を交差させ防御の態勢となり――海斗が熱を認識した時には、既にその身は地獄の業火に包まれていた。

 

「名乗ってやろう。冥界三巨頭が一人、天雄星ガルーダのアイアコス」

 

 上空から、その背に炎の翼を広げたアイアコスが笑みを浮かべながら舞い降りた。

 

「貴様の身を包むのは“スレーンドラジット”。全てを焼き尽くす迦楼羅(カルラ)の炎よ」

 

 迦楼羅とはインド神話における神鳥ガルーダが仏教に取り込まれた際の名であり、口からは金の火を吹き、赤い翼を広げるとされる。

 

 燃え盛る火柱の中の海斗にバイオレートが迫る。

彼女は自分自身にも炎が移ることを一切構わず、炎の中へとその拳を突き立てた。

 

「これで終わりか。呆気ないものよ」

 

 もはや興味なしと、アイアコスがラダマンティスへと視線を向ける。

 果たして、ラダマンティスの表情に変化はない。依然として――変わらぬ闘志の炎を宿らせたまま、その視線は燃え上がる炎の柱から外れてはいない。

 

「……来るぞ」

 

 ラダマンティスのその呟きに、アイアコスは何が、と問い返すことはなかった。

 背後から感じる異様な小宇宙の高まりに振り返れば、海斗とバイオレートがいた場所に巨大な水の柱としか形容できない何かが螺旋を描き立ち昇っていたのだ。

 

 ――“ホーリーピラー”!!

 

「ッ――小癪な!」

 

 その光景に、アイアコスの表情から笑みが消えた。

 水の螺旋は海斗の身を包み込んでいた迦楼羅の炎すら消し飛ばし、大海の大渦に飲み込まれた小舟の様に、渦に巻き込まれたバイオレートの身体を蹂躙する。

 

「それは隙だ、シードラゴン!!」

 

 そこに、ラダマンティスが好機とばかりに仕掛けた。

 

「ガァアアアアアアッ!!」

 

 グリーディングロアの加速をもって、ホーリーピラーの破壊の渦へと突撃したのだ。

 皮膚が切り裂かれ、冥衣が砕けるのも構わず、渦を突き破って海斗に迫り――ラダマンティスが吼えた。

 

「吹き飛ぶがいい! 受けろ!! “グレイテストコーション”!!」

 

 ホーリーピラーが水の飛沫となって弾け飛び、砕け散った鱗衣の金色と、鮮血の赤が舞い散りラダマンティスに降り注ぐ。

 至近距離からの直撃を受けた海斗の身体が黒い散弾と共に吹き飛ばされ、セラフィナとデジェルの眠る氷壁へと叩き付けられた。

 

「ぬッ……ぐぅっ……」

 

 だが、呻き声を上げ、ラダマンティスもまた膝をついていた。

 戦う意思はあれども、肉体に刻まれた深いダメージが、海斗への追撃を許さなかったのだ。

 ラダマンティスの手が胸元を抑えており、冥衣が脇腹から袈裟掛けに砕かれていた。それは、ホーリーピラーによって負った傷ではない。

 

「――シードラゴンッ!!」

 

 ラダマンティスの放ったグレイテストコーションが海斗の身体を捉えたように、ホーリーピラーを崩された海斗が咄嗟に放った一撃――レイジングブーストがラダマンティスを捉えていたのだ。

 ギリ、と、ラダマンティスの噛み締めた口元から血が流れる。

 憤怒に燃える瞳に映るのは、氷壁に手をつき、ふらつきながらも立ち上がる海斗の姿。

 

「……そのまま倒れていればいいものを……」

 

 不意に、ラダンマンティスの視界が赤色に染まった。

 見れば、迦楼羅の炎を背に広げたアイアコスがそこにいた。そして、その前には決して軽くはない傷を負ったバイオレートが、主を守るためと気炎を吐いて立つ姿も。

 

「なるほど。いや、実に大したものだ。海闘士の力、どうやら見くびっていたらしい。だが、それもここ迄よ」

 

 アイアコスはバイオレートの肩に触れると、その右手を海斗へと差し向けた。

 視線は定まっておらず、自力では身体を支えることも出来ないのか、海斗は両手で己の身体を抱きしめながら、その背を氷壁へと預けている状態であった。

 その身を守るべき鱗衣の多くが砕け、もはや鎧としての用を成してはいない。

 

「事ここに至っては、もはや貴様に打つ手はあるまい。黄金聖衣とその背の躯ごと、砕け散るがいい」

 

 行け、と。

 アイアコスが右手を下ろす。それを合図にバイオレートが突撃した。

 

 突撃した――はずであった。

 大気が震え、ドン、という音が鳴り響き、気付けばバイオレートが後方へと弾き飛ばされていた。

 咄嗟に両手両足を地面に着き、亀裂を走らせながらもどうにか体勢を立て直したバイオレートであったが、その表情からは困惑が見て取れる。

 

「これは……まさか……」

 

 氷壁にもたれ掛かる海斗の姿に変わりはない。

 立ち上がったラダマンティスが海斗へと迫り――再びドン、という音が鳴り響くと、今度はラダマンティスが弾き飛ばされていた。

 海斗の姿に変わりはない。

 瞼は閉じられ、両腕を組んで立っているだけだ。

 翼を広げ、身を翻して着地したラダマンティスがアイアコスへと視線を向ける。

 アイアコスもまた頷くと、バイオレートに視線を向けラダマンティスと共に海斗へと攻撃を仕掛け――全身を襲う衝撃に弾き飛ばされながら、何が起こったのかを理解した。

 

「奴は、死に体などではない。あれは構えだ! 東洋の術理――居合か!!」

 

「やはり! これは牡牛座(タウラス)のグレートホーン!! なぜ海闘士が聖闘士の技を!?」

 

「……まだ、こんな隠し玉を持っていたか! だが――」

 

 先に仕掛けたラダマンティスとバイオレートの陰に隠れる形となったアイアコスは、故に、二人よりもダメージは小さく、素早く体勢を立て直すことに成功する。そして、勝利を確信した。

 

「底が見えたな! 所詮、毒蛇()はこの迦楼羅の餌に過ぎんということよ!!」

 

 

 

 アイアコスのその声を、どこか遠くに感じながら海斗はただ己の小宇宙を高めていた。

 ラダマンティスだけならば何とかなった。バイオレートが加わっただけならば、恐らくは何とか出来ただろうとは思っている。

 しかし、アイアコスも相手に、三対一をどうにか出来たと思えるほど自惚れてはいない。

 事実、こうして敗北寸前にまで追い詰められている。

 

(そうだ、それでいい。俺を警戒し、俺に集中すればいい。三対一だ。悪いが、勝利条件を変えさせてもらう)

 

 ここで、三人を倒す事ができれば良かったのだが、この状況では奇跡でも起きなければ無理だろうとも理解している。

 ならば、次善を狙うだけ。

 そのための準備は既に終えている。後はタイミングだ。奴らが気を抜くであろう、その瞬間を待つだけでいい。

 例えここで自分が倒れたとしても、背後の黄金聖衣を守り切れればある意味で勝ちだ。

 

(だからって、すんなりと死んでやるつもりもない。やれるとこまでは――やってやるさ。徹底的に、だ)

 

 海斗がそう思考した、その時であった。

 すさまじい揺れが襲い掛かり、天地の感覚が喪失したのは。

 

 

 

 光速拳による居合。

 それは、使い方を変えれば後の先を取る圧倒的な拳速が生み出す鉄壁の防御陣と化す。

 間合いに踏み込んだものは、なす術もなく打ち砕かれる。

 

「だが、それも担い手が万全であればこそ。牡牛座の拳に比べれば――軽い!」

 

 そう叫び、バイオレートが先陣を切った。

 襲い来る衝撃によって冥衣が軋みを上げる。

 頭部や胸部を覆う装甲は既に砕け散っており、鍛え上げられた肉体と、刻まれた無数の傷跡が晒されていた。

 それを意に介すことなく、彼女は衝撃の猛威の中を突き進む。

 彼女にとっては、アイアコスに尽くす事こそが全てであり、そのためならばその身を砕かれることも厭わない。

 

 爛々と目を光らせたバイオレートが海斗に迫る。

 

 迫り、迫り、迫り――

 

 ―――捉えた、と。襲い来る衝撃の中で、バイオレートが獰猛な笑みを浮かべた。

 

 振り上げた左足を振り下ろすと、まるで、巨大な杭で打ち込まれたかのように地面が砕け――

 

「“ブルータルリアル”!!」

 

 バイオレートを中心として、巨大な地震が発生した。

 踏み砕かれた地面がめくれ上がり、次々と吹き上げられていく。それは大地の魔獣の咆哮であった。

 

 

 

 瞼を開いた海斗の瞳に映ったのは、大地を踏み砕いたバイオレートの姿と、ガルーダの冥闘士の背に浮かぶ巨大な三つの瞳。

 その瞳が自分を捉えたと認識した瞬間、放たれた強烈な眼光が海斗の目から脳へと伝わり、全身を焼き尽くす様に駆け巡る。

 

「――“ギャラクティカデスブリング”。この銀河の巨眼の前には、いかなる力も無力よ」

 

 アイアコスがそう語るが、膝から崩れ落ちる海斗には聞こえてはいなかった。

 

「決して逃れられぬ眼光に、貴様の神経は焼き尽くされた。ボロボロに、な」

 

 海斗の身体から、五感が急速に失われていく。

 高められた小宇宙が霧散し、意識と共に周囲へ溶け込むように消えていく。

 認識すべき全ての境界が曖昧になり、薄れゆく自我はその形を失い、自分が何者であるのかでさえ分からなくなる。

 

「我ら三人を相手によく持った、と褒めてやろう。だが、いささか荷が勝ちすぎた様だな」

 

 消えていく。

 音も光も、何もかもが消えていく。

 やがては、この内に感じる命の熱も消えていくのだろう。

 

(駄目だ、それは――駄目だ)

 

 ――どこかで誰かが呼んでいる。

 

(この熱は、この熱だけは消すわけにはいかない)

 

 ――ダレかがダレかを呼んでいる。

 

(ああ、これは……。そうか、そこにもあったのか――)

 

 今にも消え入りそうなソレは、ほんの僅かな金色の灯火。

 だが、その僅かな灯火は確かな熱を伝えてくる。

 まだだ、まだ消えるなと。

 熱く燃え上がれ、と。

 

 

 

 

 

「そうだ、まだ燃やせるモノがあるなら――燃やさねぇとな」

 

 その言葉は唐突だった。

 もはやこの地で動くものはこの三人しかいないと、そう認識していた冥闘士たちにとって。

 彼らが振り返れば、海底神殿の柱にもたれ掛かる様にして立っている黄金の輝きを身に纏った人物の姿がそこにあった。

 そして、その声に、その姿に最も大きな反応を示したのがラダマンティスである。

その目が驚愕に見開かれていた。

 

「貴様ッ!! 蠍座(スコーピオン)!!」

 

「よう翼竜(ワイバーン)。てっきり死んだかと思ってたんだが、大概しぶとい野郎だな?」

 

 砕かれた右腕は力なく垂れ下がり、今にも崩れ落ちるのではないか、そう思わせるほどに衰弱した姿を見せる蠍座の黄金聖闘士カルディア。

 しかし、その身から立ち上る小宇宙は、先に相対した時と同じか、それ以上のものをラダマンティスに感じさせる。

 

 そして――

 

『三人相手では荷が勝つと……ならば、三対三ではどうかね?』

 

 静かな、しかし、明確な圧を持ったその声と共に、海底神殿を光輪が照らした。

 その光の中央から、新たなる黄金の輝きが現れる。

 それは、質量すら感じさせる程の圧倒的な小宇宙を放ち、冥闘士たちの動きを止めた。

 

「……チェシャからは貴様は死んだと聞いていたのだがな。化けて出たか乙女座(バルゴ)よ」

 

『化けて出るとは、おかしなことを言う。それは君らのことであろうよ、冥闘士』

 

 忌々し気に、吐き捨てる様なアイアコスの言葉にそう返すと、アスミタが倒れ伏した海斗の側へと降り立った。

 右の掌を握り、ゆっくりと開けば、そこから無数の花びらが舞い散り、それらが集まって一つの形を成す。

 一陣の風によって花弁が舞い上がり、大気へと溶けて消えた。

そこに現れたのは、エクレウスのレリーフが刻まれた聖衣箱であった。

 

『君も、そうやっていつまで寝ているつもりかね? 君の半身はまだ欠片も諦めてはいないというのに』

 

 

 

 狭まった視界に映る聖衣の箱。

 海斗の伸ばされた手が、聖衣箱に触れる。

 舞い上がる天馬のオーラが青白い炎となって海斗の身体を包み込む。

 

 黒い髪はブロンドに染まり、色彩を失っていた瞳は本来の濃褐色から澄んだ青色へと。

 額に、腕に、胸に、足に。

 エクレウスの聖衣から発せられる純白の輝きが、まるで光の衣を纏わせるかの様に海斗の身体を覆っていく。

 海斗の身体から立ち昇った白と青の小宇宙が、螺旋を描き巨大な光の柱へとその姿を変える。

 青と白が交じり合い、混じり合う。

 二つの色が一つになる。

 それは空の青。スカイブルーのようであり。

 それは海の青。アクアブルーのようでもある。

 五感を喪失したはずの海斗が、迸る自身の小宇宙が生み出した光の中でゆっくりと立ち上がった。

 

 

 

 それは、かつてギガスとの戦いの中で起きた奇跡の再現であった。



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第33話 エクレウスの海斗!の巻

 暗闇の中、チクタク、チクタクと時計の針が規則正しく時を刻む。

 幾重にも重なり合った大小様々な歯車が回り、カチリ、カチリと規則正しく音を刻む。

 

 チクタク、チクタク、カチリ、カチリ――と。

 

 その中で時折り、空気を震わせてゴォンという音が鳴り響く。

 それは、巨大な歯車同士が噛み合い回る音だ。その歯の一つが大人の身の丈程もある巨大な歯車。

 

 その歯の上を飛び跳ねるのは黒い衣服に身を包んだメフィストフェレス。

 左手は目深に被ったシルクハットが落ちないように、右手には蓋の付いた懐中時計を握り締め。

 シニカルな笑みを浮かべながら、鼻歌交じりに飛び跳ねる。

 

 歯を踏み跳ねる。

 

 チクタク、チクタク、カチリ、カチリ――。

 

 歯車が回り、歯を踏み跳ねる。

 

 チクタク、チクタク、カチリ、カチリ――。

 

 歯車が回り、歯を踏み跳ねる。

 

 チクタク、チクタク、チクタク、カチン――。

 

 歯車が止まり、歯を踏み外す。

 

「ンおぉおおッと!?」

 

 オーバーに手を振り回して落下する様は、まるで出来の悪いパントマイム。

 見えない床に尻を打ちつけ、痛がるそぶりを見せてはいるが、止まった歯車を見つめるその眼には暗い光が宿っていた。

 

「歯車が止まった……どこの時代――あンのクソ野郎が! 選りによって――」

 

 シニカルな笑みを浮かべていた表情から一変。

 湧き上がる怒りと憎悪のままに、目は見開かれ、噛み締めた口元からは血が流れ。

 

「この時間軸に干渉しやがった!!」

 

 握り締められた懐中時計が砕け散る。

 飛び散った破片の一つ一つが燃え上がり、炎の中に様々な情景を浮かび上がらせた。

 そこに浮かび上がるのは過去であり現在であり――無数の未来。

 

「何処だ! どうなる? 何が変わった!? 何を変える気だ!!」

 

 血走ったメフィストの瞳がその一つ一つを決して見逃すまいと、追う。

 メフィストフェレスが望む未来はただ一つ。そこに向かう過程こそ複数あれど、要となるのはこの時代。

 未来とは言わば大樹から伸びる枝であり、メフィストが望む枝葉は、未来はこの時代から伸びる枝の先にしかないのだ。

 

「何を企んでやがる――クロノスッ!!」

 

 

 

 

 

 聖闘士星矢~ANOTHER DIMENSION 海龍戦記~

 

 

 

 

 

 海斗のその変貌、変質は、三巨頭たるアイアコスをして驚愕させるものであった。

 

 五感を失った人間が立ち上がる。

 それだけであれば、過去の聖戦においても決して無かった事ではない。

 地上の平和のために、友のために、愛する者のために、女神(アテナ)のためにと、決して勝てぬ相手に対しても綺麗事を並べ立て、見苦しい程に足掻き続けるのが聖闘士(セイント)

 それを知っているだけに、ギャラクティカデスブリングを受けながらも立ち上がられた事は、アイアコスにしては屈辱であり不快ではあったが。

 

「……ならば、今度は神経と言わず肉体を、いや、魂そのものを燃やし尽くすだけの事よ」

 

 アイアコスにしてみれば、海斗が何度立ち上がったところで既に自分の勝利は決定事項であり、始末するのに余計な手間が掛かる、という認識でしかなかった。

 そう、ただ立ち上がっただけであるならば、だ。

 

 しかし、今、彼らの目の前で起こっている光景は、聖闘士であるアスミタやカルディアからしても異常な光景であった。

 

 聖衣箱(クロスボックス)より出現し、光と共に海斗の身体に纏われたのは破損した子馬座(エクレウス)の聖衣。

 確かに、軽微な、ある程度までの損傷であれば、時間を掛ける事によって聖衣は自己修復能力によりその傷を直す事が出来る。

 その聖衣が、まるで時を巻き戻すかのように修復され、それどころか新たなる姿へと変貌を遂げたのだ。

 

 青銅聖衣(ブロンズクロス)の特徴に、黄金聖衣(ゴールドクロス)白銀聖衣(シルバークロス)に比べて装飾が抑えられており、その身を覆う防御面積も必要最低限にとどめられている点がある。

 具体的に言うならば、主に頭部、胸部、腰部、肩、前腕部、膝である。

 しかし、海斗の身に纏われた聖衣は上腕や腹部、大腿部からつま先までをも覆っており、各所にはまるで波を思わせるような金色の刻印が施されている。

 天馬の象徴であるその背の翼は、一回りも二回りも大きなものへと変化していた。

 海斗の身体から立ち上る小宇宙の増大に呼応するように輝きを増すこの聖衣は、もはや青銅聖衣のそれではない。

 

 間近で海斗の変貌を感じ取っていたアスミタの脳裏に、かつて教皇セージより聞かされたある言葉が浮かんだ。

 

(子馬座の聖衣から感じられるこの気高さは……この身に纏う黄金聖衣に匹敵するモノがある。聖闘士が己の小宇宙を極限まで高めることで、ある種の奇跡とも呼べる現象を引き起こす。

その事は、この身が証明している。しかし――)

 

「……まさか、(オーセンティック)聖衣(クロス)だというのか?」

 

 それは、極限まで高められた聖闘士の小宇宙と聖衣が起こす奇跡の形。

 異なる二つの力が交じり合い生まれる聖衣の進化の完成形。

 

(この男から感じられる小宇宙は、我々黄金聖闘士と比べても何等見劣りのするものではない。青銅の枠に収まらぬこの小宇宙に、聖衣が自らの格を上げることで応じたとでも? 海闘士の鱗衣を纏い、こうして聖闘士としての聖衣も身に纏う。小宇宙も、気配も、先ほどまでとはまるで違う。異なる二つの力が混じり合う奇跡、それを体現していると言えよう。だが、これは――)

 

 しかし、この現象は違う、と。

 確かに、一人の聖闘士が己の小宇宙を極限まで高めたことによって起こされた奇跡であることに違いはない。

 だが、アスミタはそこに海皇ポセイドンと、更なる第三者の――遥か高みにある何者かの――意思を感じ取っていた。

 それは、聖域(サンクチュアリ)に居る女神アテナでも、ましてや冥王ハーデスのものでもない。

 異なる神を識るアスミタだからこそ感じ取れる意思。オリンポス十二神をも超える何者か。

 

 聖域(サンクチュアリ)でシオンが視たエクレウスの聖衣の記憶。

 大地母神の生み出した原初の神々、その一柱と戦う聖闘士たちの姿。

 それらを思い浮かべ、この聖戦に突如として現れたエクレウスの主――変貌した海斗の姿を視て、アスミタはこの第三者が何者であるのかを察するに至った。

 

(まさか……!? いや、そうだとするのであれば――エクレウスの聖衣がこの時代に目覚めた事も理解出来る。この男は、まさに、突如現れたのだ。この場所に、いや、この――時代に。伝え聞いた前聖戦での牡羊座(アリエス)の様に――)

 

 

 

 カルディアにとっては、その光景に驚きこそあったが、アスミタほどに海斗が何者であるのかには興味はなく、その変貌についても同様であった。

 

(まあ、デジェル(ダチ)の最期の頼みだ。それが、他人のためだってのが……アイツらしいっちゃらしいんだが、な)

 

 カルディアの視線が、氷壁の中で眠る二人の姿に向けられる。

 

(お前は、夢があるって言ってたよなぁ。友との約束だと。なのに、こんなところで死んじまって――なんで、お前はそうやって……笑っていられるんだ?)

 

 黄金聖衣同士の共鳴現象によって、水瓶座(アクエリアス)の黄金聖衣に遺されたデジェルの小宇宙が、カルディアに海斗が敵ではないと教えていた。

 まだこの場でやるべき事があると、カルディアにしか出来ない事があると。

 それに気が付いたからこそ、死の間際にあってカルディアは再び立ち上がり、消えゆく海斗の命の炎――小宇宙――に、己の熱を与えることで救ったのだ。

 

(助けてやったユニティ、か? それとも、そこの男か? 夢を、未来を、お前は託したんだな? だから、そうやって笑っていられる。だが――)

 

「――俺に、その考えは無い。誰かに託すような夢も、願いもありゃしねぇのさ」

 

(ワイバーンの野郎も言っていたが――俺はどこまでも自分本位なんだ)

 

 自身に残された時間は既に無く、いつ消えてもおかしくないこの命の炎。それを、一切の遠慮なくぶつけられる相手がまだ目の前にいる。

 カルディアにとってはそれで十分だった。その事実だけがあれば良い。

 

(俺の命のリミットは――まだ尽きちゃいねえ。ならば、真っ白に、灰すらも残さない程に燃やし尽くすだけだ)

 

 きっとその時にこそ、俺は笑って――死ねるのさ。

 

 

 

海闘士(マリーナ)が、聖闘士の証である聖衣(クロス)を纏った。それは、この際どうでもいい」

 

 誰に聞かせるでもなく、ラダマンティスが呟いた。

 

「ぼろ屑の様な聖衣が再生し、あまつさえその姿を大きく変えた。それも、この際どうでもいい」

 

 ラダマンティスが歩を進め、うつむいていた海斗がゆっくりと顔を上げる。

 ブロンドの髪から覗く、ラダマンティスを見据えるその瞳は――青い。

 

「その髪と瞳の色、その気配も、小宇宙も、先程までとは明らかに違う。まるで――別人と入れ替わった様に、だ」

 

 何者だ、貴様は。

 そう誰何するラダマンティスに対し、海斗はその視線を氷壁に眠る二人から、水瓶座の黄金聖衣へと移し、そしてカルディアとアスミタへと向けた。

 それに気付いたカルディアは口元に笑みを浮かべたが、アスミタは気にした様子もなく冥闘士の方へと注意を向けている。

 つまりは――そういう事なのだろうと考え、海斗は我ながら節操のないことだと思いながらも、ならばと答えることにした。

 

子馬座(エクレウス)、エクレウスの海斗だ。何も変わらず――お前たちの敵だ」

 

 

 

 

 

 第33話

 

 

 

 

 

「フッ、この期に及んで――貴様が何者であろうと最早関係はない。下がれよラダマンティス」

 

 そう言ってラダマンティスの肩を掴み、押しのけたアイアコスの身体から闇色の小宇宙が立ち昇る。

 

「黄金聖闘士の援軍に、御大層な聖衣を身に纏う。フッ、それで優位に立ったつもりか? 確かに、その聖衣からは黄金聖衣に近い気高さを感じる。だが、それがどうした? そこのスコーピオン(死にぞこない)を見てみろ。我ら三巨頭の力の前では、貴様ら聖闘士が最強の聖衣と呼ぶ黄金聖衣ですら打ち砕かれるのだ。死人(乙女座)死に損ない(貴様ら)が何人揃ったところで、この銀河の巨眼の前には無力であると――」

 

 ガルーダの冥衣(サープリス)の頭部の装飾――三つの眼が怪しく輝き、アイアコスの頭上の空間にじわりと巨大な眼が染み出す様に現れる。

 

「――再びその身に刻み付けるがいい!!」

 

 変質した闇の小宇宙が、アイアコスが天に向けて翳した両手の先に、再び銀河の巨眼を浮かび上がらせた。

 

「チッ! コイツは!?」

 

「む、これは……!」

 

 何をするつもりかと、アイアコスの異様な小宇宙の高まりとその挙動に注意を払っていたが故に、海斗とアスミタの意識は宙に浮かぶ巨眼を捉えてしまう。

 咄嗟に視線を逸らし、その手で目を覆い、巨眼から意識を外した二人であったが、その脳裏には自身を捉える巨眼のイメージがはっきりと浮かび上がっていた。

 

「目を瞑ろうが、視線を逸らそうが無駄なことよ! このギャラクティカデスブリングの衝撃は、この巨眼が捉えた全ての者、その脳に直接叩き込まれるのだ!!」

 

 巨瞳の瞳孔が今まさに開かれる!

 

「“ギャラティカデスブリング”!!!」

 

 アイアコスの宣言と共に振り下ろされる両手。

 そして――海底都市に衝撃が走る!!

 

 

 

 そこにいた誰もが、言葉を発することなく宙を見ていた。

 

 水の天蓋に穴が開き、そこから大量の海水が滝のように流れ落ちてくる。

 

 宙に浮かぶ巨眼はその瞳孔から炎を噴き上げ、瞬く間に燃え上がると爆発し霧散した。

 

 一条の輝き――真紅の閃光(スカーレットニードル)が巨眼を貫いたのだ。

 

「ハッ、的がでかいと当てやすくて助かるぜ。どんな理屈かは分からんが、まあ事が起きる前に潰せば問題はないわな」

 

 爪の剥がれた左手を宙へと突き出したカルディアが、してやったりとばかりに皮肉気な笑みを浮かべていた。

 

「注意深く観察するってーのは戦いの基本だが、あんな不気味なモンが宙に浮かび上がりゃあ誰だって見ちまうわな。エグイ技だぜ? 初見殺しも極まれりだ。真面目な奴ほど嵌っちまう」

 

「貴様ッ……蠍座(スコーピオン)!!」

 

 怒りの表情を浮かべるアイアコスに対し、カルディアは肩を竦めて返して見せる。

 

「悪いがな、俺は昔から口よりも先に手が出るタイプでな? デジェルからはもっと思慮深く行動しろと口煩く言われていたんだが……何が幸いするか分からねえな。ま、あの世での土産話の一つにははなるか」

 

 その人を小馬鹿にした態度に、主への不敬に、バイオレートが反応した。

 踏み込んだ地面を陥没させる勢いで飛び出し、カルディアに迫る。

 

「目玉焼きにしてやろうかと思ったのによ、俺の熱に耐えきれずに爆発しちまうとは――温いぜ冥闘士!」

 

 満身創痍のカルディアから放たれる、燃え上がる様な小宇宙。

 その熱量を感じ、アイアコスが負けじと己の小宇宙を燃え上がらせる。

 

「クッククク……フハハハハーーッ!! 死に損ないがよくも吼えた!! よかろう、ならばッ!!」

 

 その身に炎を纏い、カルディアへと目掛けて飛翔するアイアコス。

 

「アイアコス様!」

 

「手出しは無用だバイオレート!」

 

「何ッ、ガルーダッ! 行かせるか!」

 

 そうはさせじと踏み出した海斗の目の前に漆黒の砲弾(グレイテストコーション)が放たれた。

 

「貴様の相手はこの俺だ!!」

 

「クッ――邪魔をッ!」

 

 漆黒の散弾をエンドセンテンスで相殺した海斗の眼前にラダマンティスが迫る。

 いや、相殺したと言うには語弊がある。

 海斗の放ったエンドセンテンスはグレイテストコーションを打ち抜き、ラダマンティスに確かなダメージを与えていた。

 砕かれた冥衣の欠片を撒き散らしながら、それでも、ラダマンティスは止まらない。

 海斗には避けられたが、その振りぬかれた拳が石畳を打ち砕き、新たなクレーターを生み出す。

 

「不死身かッ!!」

 

「貴様が言えた事か! 俺は三巨頭として、ハーデス様に使える戦士として――例えこの身が滅ぼうとも! 誰が相手であろうとも! ニ度と不覚を取るわけにはいかんのだ!!」

 

 

 

「やはり、時空間に歪みが生じている。これでは、迂闊に転移させることは出来ん。さて、この状況……どう動くべきか」

 

 二人が眠る氷壁と水瓶座の黄金聖衣を護る為の結界を施したアスミタは戦場へと意識を向ける。

 ワイバーンはエクレウスが、ガルーダはカルディアが抑えている。

 

「となれば、私の相手は君ということになる」

 

 だが、と。アスミタは目に前に立つバイオレートへと言葉を続ける。

 

「そこを退きたまえベヒーモス。気丈に振舞ってはいるが、エクレウスとの戦いで受けた傷は生易しいものではあるまい」

 

「……フッ、傷、傷か。確かに、奴には随分とやられたな。冥衣も破壊され、この身の外も内も傷だらけよ」

 

 そう言うと、バイオレートは両足に力を入れ、背筋を伸ばす。両の拳を胸元で打ち合わせ、未だ衰えぬ闘志を示し――

 

「――だからどうした」

 

 不敵に笑って見せた。

 

 

 

 振り払われたアイアコスの右腕から放たれた迦楼羅の炎が巨大な壁となって燃え上がる。

 紅蓮の炎が大地を走り円を成す。

 その中心で対峙するカルディアとアイアコス。

 

「さあ、来るがいいスコーピオン!  貴様の望み通り、命と言わず、その全てを!! この迦楼羅の炎で焼き尽くしてくれる!!」

 

「上等だ、そんな手品如きで……この俺の命の炎――消し去れると思うな!!」

 

 

 

 To Be Continued……

 



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